芭蕉  その人生と芸術 井本農一    まえがき  芭蕉の人生と文学とについての私の考えを、ざっとまとめて置きたいという気持ちは、大分前からあったが、なかなかその暇を得なかった。一昨年(一九六六)の秋、角川書店版『芭蕉全集』の「評伝篇」をどうしても私が書かなければならなくなり、慌てて筆を執って、三十代までの芭蕉についてはどうやら私の考えを述べ得たが、それ以後は締め切りに追われて極めて簡単な素描になってしまった。  私の考えによれば、芭蕉の大きな転回は二度ある。第一回は三十代の後半であり、第二回は四十代の後半である。第一回の転回については、前記「評伝篇」の中でほぼ述べたので、本書に於いてもほとんどそのままの考えを述べた。文章も重複するところがある。第二回の転回は、『おくのほそ道』の旅を契機とするもので、本書では前著に書き切れなかったところを、かなり書き得たと思っている。  もっとも、平易に書かなければならない本書の制約のため、考証を省いたり、突っこむべき問題を十分突き得なかった点はあるが、これは他日を期すより仕方がない。それでもこの新書の性格からいうと難解に過ぎたのではないかと恐れている。本当は新書版などの形にしない方がよかったかもしれないのだが、講談社の天野敬子さんがうまく私をリードしてくれたので、ようやく一本にまとまったのであるから、今さら何もいえた義理ではない。長い間忍耐強く待ってくれた天野さんにお礼をいいたい。  なお、芭蕉の作品など、古典の原文の引用は、なるべく原文通りとしたが、読みやすいように振り仮名をつけた。原文には送り仮名を省いてある場合が多いので、その場合にも振り仮名をつけて補った。巻末年表には渡辺扶桑子さんの協力を得た。また本書執筆に当たり、多くの先学の研究成果によったことはいうまでもないことで、改めて万謝を捧げる。新書版の性質上、一々注記できなかった非礼についても寛恕を乞う次第である。   一九六八年四月 井本農一  目 次   まえがき 1 生い立ち  〈1〉伊賀の上野  〈2〉松尾家とその家族  〈3〉生い立ち 2 俳諧を学ぶ  〈1〉季吟の門で学んだか  〈2〉初期の作品  〈3〉良忠の死と致仕  〈4〉最初の著述『貝おほひ』 3 新風うずまく江戸で  〈1〉江戸俳壇と芭蕉  〈2〉談林俳諧に進む 4 宗匠となる  〈1〉めざましい作句活動  〈2〉明るい日々 5 転機に立つ  〈1〉新進の俳諧宗匠  〈2〉模索と反省  〈3〉深川退隠 6 新しい出発  〈1〉一切を俳諧にささげる  〈2〉『野ざらし紀行』の旅  〈3〉異体変調からの脱皮  〈4〉風流自足  〈5〉『笈の小文』の旅 7 『おくのほそ道』の旅  〈1〉新しい脱皮へ  〈2〉足跡 8 不易流行の論  〈1〉不易流行論の工夫  〈2〉長旅のあと  〈3〉関西漂泊の日々 9 みのり  〈1〉新しい俳風  〈2〉『猿蓑』と新風  〈3〉『笈の小文』の芸術論 10 『おくのほそ道』成る  〈1〉江戸の新草庵で  〈2〉五十歳にして  〈3〉『おくのほそ道』の完成 11 最後の年  〈1〉軽み  〈2〉最後の旅へ  〈3〉旅に病む   芭蕉略年譜 1 生い立ち  〈1〉伊賀の上野 その故郷・伊賀上野  東京を夜行列車で立つと、朝方、国鉄関西線の「伊賀上野」の駅に着く。汽車が駅を出ると間もなく、左手の丘陵の上に上野城の天守閣が遠く見える。天守閣は再建されたものだが、城址は今でも残っている。城址の石垣は、慶長十六年(一六一一)ごろ、藤堂高虎が築造したものである。  藤堂高虎は、これより先、伊予国(今の愛媛県)今治にいて二十二万石を領していたが、慶長十三年(一六〇八)八月、伊賀・伊勢に移り、二十二万石を領した。その後、慶長十九年、二十(元和元)年の大坂城攻略には徳川方に属して奮戦し、世が徳川方に移るや、伊賀一国十万石余の外、伊勢の安濃・一志を中心に十七万石、山城大和に五万石、別に下総《しもうさ》に三千石、合わせて三十二万石余を領する国持ち大名の雄藩となった。津と上野にはそれぞれ城代家老が置かれ、伊勢と伊賀の領地を治めた。上野の城代家老は、始めは藤堂出雲守高清であったが、寛永十七年(一六四〇)からは藤堂|采女《うねめ》家が代々その職に着くこととなった(『上野市史』)。  その上野が芭蕉の郷里である。  上野の町のことをもう少し書いて置こう。  上野は伊賀の国全体からいうと、北寄りに位置している、伊賀盆地(今は上野盆地という)の中心の城下町であった。  伊賀の国は全体として山地である。従って地味|肥沃《ひよく》とはいえない。伊賀一国で十万石であるから、農耕に恵まれた土地ではない。山に囲まれた地方で、中央に対し、いわば僻地《へきち》であるから、交通の要衝というわけでもなく、また農業に代わる他の産業の著しいものもない。伊賀は、どちらかといえば、恵まれない土地である。  気候の上からいっても、内陸性盆地特有の寒暖の差が大きい。『上野市史』によれば、過去における上野市の最高気温は三八・八度であり、最低気温は零下九・三度であるという。三重県下の他の測候所のどれよりも最高であり、最低である。海岸地帯に比して、きびしい気候であるといわねばならない。また、県下でも最も雨の少ない土地である。  伊賀一国の人口は、万治三年(一六六〇)の調査では、七万五千八百五十人で、それから六十七年後の享保十二年(一七二七)には、八万九千四百七十五人、家数で一万九千百四十四軒である(『上野市史』)。芭蕉の頃はその中間をとって、約八万人余ぐらいであったか。もっともこの調査には武士の人口は含まれていない。  伊賀盆地の中心である上野の人口は、享保十二年の調査では、家数二千百七十九軒、人口一万一千百九十五人である(『上野市史』)。芭蕉の頃はこれより少なかったから、一万人ぐらいのものであったろうか。もっとも、この数にも武士は含まれていない。 柘植《つげ》で生まれて上野で育ったか  先に上野を芭蕉の郷里だと記した。しかし、芭蕉が今の上野市で生まれたかどうかには疑問がある。芭蕉の生地は、上野ではなく、上野の東北約十五キロメートルの柘植《つげ》だという説が、古くからある。  元来芭蕉の父親の松尾|与左衛門《よざえもん》は柘植にいた。松尾氏が柘植に入ったのは戦国時代末期で、それ以後江戸時代を通じて、松尾六家があったという。今日も同地には松尾氏を名乗るものが少なくない。この松尾家の家柄は、無足人級であった。無足人は、いわば一種の郷士で、俸禄は与えられなかったが、士分に準じて扱われ、人足に出ることを免ぜられていたのでその名があるという。一般農民の上に位置していたといってよいであろう。もっともその地位は時代によって変遷があり、また個々の家によっても違っていたと考えるべきである。  芭蕉の父松尾与左衛門が柘植の出身であることは定説である。しかし、また彼が柘植から上野へ出て住んだことも定説である。そこで、松尾与左衛門が、いつ柘植から城下町の上野へ出て来たかによって、芭蕉の生地が、柘植か、上野かに決まることになる。つまり、芭蕉の生年である正保元年(一六四四)に、父母は柘植にいたか、上野にいたかである。  ところが、それがわからない。口碑や伝説や傍証を頼りにして、いろいろな説があるが、それも決定的とはいえない。従って芭蕉の生地が、柘植であるか、上野であるかも、決定的には不明である。ただし、私の感想をいえば、芭蕉は柘植で生まれ、幼少の時に父に連れられて上野に出たのではあるまいか、という気がする。  しかし、柘植で生まれたか、上野で生まれたかは、大して重要な問題ではない。重要なことは、長じて郷関を出た芭蕉が、上野を自分の郷里と考えていることである。芭蕉が、故郷といい、旧里という時、それは上野を指している。芭蕉がふるさととして懐しい感情をもって思い浮かべるのは、上野である。だから、もし、柘植で生まれたとしても、物心つくかつかないうちに、芭蕉は上野に出たものではあるまいか、という気がするのである。人は、どこで生まれたかよりも、どこで少年時代を過ごしたかが、故郷の感情に密接につながるのである。  後年(貞享四年十二月、芭蕉四十四歳)の文章に、次のような一文がある。   歳 暮 代々《よよ》の賢き人々も、古郷《ふるさと》は忘れがたきものに思ほへ侍るよし。我、今ははじめの老も四とせ過て、何事につけても昔のなつかしきまゝに、はらからのあまたよはひかたぶきて侍るも見捨がたくて、初冬の空のうちしぐるゝ比《ころ》より、雪を重ね、霜を経《へ》て、師走《しはす》の末、伊陽《いやう》の山中に至る。猶《なほ》、父母のいまそかりせばと、慈愛のむかしも悲しく、おもふ事のみあまたありて、 古郷《ふるさと》や臍《へそ》の緒《を》に泣《なく》歳のくれ   芭蕉 (『千鳥掛』)  ここで芭蕉が「古郷《ふるさと》」といっているのは、上野である。また、 長月の初、古郷に帰りて、北堂の萱草《けんさう》も霜枯|果《はて》て、今は跡だになし。何事も昔に替りて、はらからの鬢《びん》白く、眉皺《まゆしは》寄て、只《たゞ》命有りてとのみ云《いひ》て言葉はなきに、このかみの守袋をほどきて、母の白髪《しらが》おがめよ、浦島の子が玉手箱、汝がまゆもやゝ老たりと、しばらくなきて、 手にとらば消《きえ》んなみだぞあつき秋の霜 (『野ざらし紀行』) とある故郷も上野である。上野の赤坂の兄の家でのことである。  〈2〉松尾家とその家族 今も上野赤坂町に芭蕉の家  芭蕉の父松尾与左衛門は、柘植から上野へ出て今の赤坂町に住みついたらしい。赤坂町に今も芭蕉の家の跡が残っている。現在の家が、そのまま芭蕉当時の家であったとは思われないが、建て直されたとしても、何程か昔の面影を残していると考えてよいであろう。明治十八年(一八八五)まで、松尾家の子孫が住んでいたというのだから、古い建築であることは確かである。間口四間半(約八・一メートル)、奥行き二十一間(約三七・八メートル)ばかりの細長い敷地で、土地の面積は約百坪(三三〇平方メートル)ばかりである。  湯殿の奥の狭い部屋に次男の芭蕉が青年時代を過ごしたということになっている。芭蕉は二十代の頃、自分の部屋を「釣月軒《ちようげつけん》」と称していた。  赤坂町は当時の上野の市街の東外れにあった。赤坂町の東隣が農人町で、名前の示す通り、農家が多かったものであろう。それから東はもう町ではなかった。  芭蕉の父がなぜ上野へ出て来たかは明らかでないが、あるいは嗣子《しし》でなかったからかもしれない。無足人級の家は、農村では家柄としては中流以上の家である。その家を嗣いだ上は、そう簡単に上野へ出られるはずもない。出る理由もない。あるいは、次男以下の身の上で、多少の財産を分けて貰って上野へ出た、というようなことはないだろうか。何の証拠もないことであるから、強くいうつもりはないが、そんなことも考えられるというだけである。 中流の市民・父与左衛門  芭蕉の父は、農村の無足人級の家に育った人であるが、上野の松尾家が多くの財産を持って裕福な生活を営んでいたとは思われない。しかし、前述の通りの家を持ち、現在の建築が当時のままではないとしても、次男の芭蕉がともかくも自分の部屋を持ち得る程度であり、父の没後、芭蕉の妹たちが、それぞれ中流程度の町家に嫁しているらしいし、芭蕉の兄も、また芭蕉自身も、下級ながら仕官ができたのであるから、極端に貧しい家であったとは思われない。  上野の安屋甚右衛門光箴(俳号冬季)の書いた『蕉翁略伝』(天明元年以前成る)に、芭蕉の父は「手跡の師範」をしていた旨の記載があり(同書一本には「商家となる」とある)、竹二坊の『芭蕉翁正伝』にも「上野赤坂町に手跡師範を以家業とす」とある。共に時代の下った書であるから俄かに信ずることはできないが、「手跡の師範」だけで生計を営んでいたとは思われないとしても、多少の農地を小地主として持つかたわら、生計の資の一端として「手跡の師範」をしたことがあったとしても、おかしくはない。  一方、余り大した財産がなかったことは、家を継いだ芭蕉の兄の半左衛門が、下級武士として俸禄を得ながら、一生乏しい生活をしていたことから推察される。後年宗匠となった芭蕉は、兄のために経済的援助をしていた形跡があるし(去来宛て書簡・半左衛門宛て書簡など)、二十代の芭蕉が、分家もできず、妻帯もできないで、部屋住みの身の上であったことを考えてみても、松尾家が富裕な家でなかったことは明らかである。かれこれ考え合わせると、上野の松尾家は中流ぐらいの市民であったと見て置いてよいであろう。 伊予宇和島生まれの母  芭蕉の母、即ち松尾与左衛門の妻については、封建時代のことであるから資料が乏しく、十分なことはわからない。上野の人で、芭蕉の直接の門人である服部土芳の『蕉翁全伝』に「伊予宇和島産、桃地氏女」とあるのに素直に従うべきであろう。慶長十三年(一六〇八)にこのあたりの領主となった藤堂高虎は、四国の伊予から伊勢・伊賀に転封されたものであるから、転封につれて伊予から移って来た家のあることは不思議でない。芭蕉の母は、その家の一つである桃地氏の出であると考えても差し支えはない。  これには諸論があるが、芭蕉の故郷である上野の人で、芭蕉より十三歳年少ではあるが、すでに少年の頃から芭蕉を知っていた土芳(芭蕉の『野ざらし紀行』の中に「水口にて二十年を経て故人(土芳)に逢ふ 命二ッの中に生たる桜哉」とあり、その時芭蕉は四十二歳、土芳は二十九歳。以来土芳は芭蕉の忠実な門人として生涯を過ごした)が、全くの出鱈目を書くとも思われない。しばらくこれに従って置く。今日伊予から移って来た桃地家の証跡が、伊賀に伝わらないというが、伊予から移って来たのだから、親戚などが少なく、一代か二代で絶えてしまうこともあり得ることである。わざわざ伊予から移って来たのだから、藤堂藩と何等かの関係があったものであろうが、証跡の残らないところを見るとそれほど高い家柄ではなく、まず中流程度の家と見て置いてよいのではあるまいか。  芭蕉の母が死んだのは、天和三年(一六八三)六月二十日で、時に芭蕉は四十歳であった。松尾家の菩提寺上野愛染院の過去帳に「梅月妙松信女 天和三年六月二十日 松尾半左衛門母儀」とある。 兄半左衛門と四人の姉妹  芭蕉の兄は、松尾半左衛門命清と称し、芭蕉の死後もなお七年生きて、元禄十四年三月|晦日《つごもり》に没した。享年は未詳だが、一つ違いとか、二つ違いというのではなく、芭蕉より何歳か年長だった。後に記すように芭蕉が十三歳の時、父与左衛門が死んだが、そのあとこの兄が家督を相続し、ともかくも松尾家を経営して行ったのだから、その時十四、五歳だったとは考えにくいし、兄宛ての芭蕉の書簡の書きぶりその他からいっても、父親代わりになった節も見え、数歳は年上だったろうと想像するのである。  はじめ藤堂内|匠《たくみ》家に仕え、後に藤堂修理長定に仕えたというのが通説で、いずれも下級武士だったと思われる。仕官については積極的な証拠はないが、否定する理由もないので通説に従っておきたい。商業をしていた形跡はないし、弟の芭蕉が藤堂新七郎家に仕えるぐらいの伝手《つて》があったのだから、兄が仕える伝手があっても不思議はない。前掲松尾家の菩提寺愛染院の過去帳に「月峯不残信士 元禄十四年三月晦日 松尾半左衛門事」とある。  姉が一人いたらしいが、土芳の『全伝』(曰人写)の系図に「早世」とあるのに従っておく。山岸重左衛門(俳号半残)に嫁したとする旧説は、年齢的に半残が芭蕉より十歳も年下なので、その父の重左衛門(俳号陽和)に嫁したのであろうとの説が出ているが(菊山当年男『ばせを』)、確証はない。岡村健三氏のいわれるように、かなり身分の高い山岸家と松尾家との縁組みは、当時として不自然である(『芭蕉伝記考』)。また最近、この姉は「早世」でなく、柘植の竹島家に嫁し、元禄十年まで存命したとする説もあるが、確証はない(村松友次「芭蕉の姉について」)。  すぐ下の妹は、土芳の『全伝』や竹人の『全伝』で、上野の片野氏に嫁したというのがよいであろう。従来、蕉門の俳人望翠(片野新蔵)をその夫とする説が行われていたが、山本茂貴氏の墓碑調査から、望翠は芭蕉より十三歳の年下であることが解ったので、芭蕉のすぐ下の妹が嫁ぐはずはなく、望翠説は否定された。  上野市の「芭蕉翁記念館」には「闇の夜をしらます梅の夜明かな 芭蕉肉親 片野甚五郎桃五」の句を含む、上野町連中の懐紙があるが、この片野甚五郎を妹の夫と考える説は、傍証を得れば有力であると思う。この片野甚五郎と考えれば、上野町連中と俳諧をやるくらいだから、中流程度の身分ではあったであろう。  その次の妹は、土芳の『全伝』に「女子堀内氏ヘ嫁ス」とある。ただし堀内氏がどんな家だったかはわからない。伊予から名張郡宇山村に移り、更に上野へ移住して、蝋燭屋と蔵屋とを営んでいた堀内氏(屋号は丸屋)があることを、菊山当年男著『ばせを』は報ずるが、その家に芭蕉の妹が嫁したという証拠は何もない。強いていえば、芭蕉の母の実家が伊予から移って来た家であることを考え合わせると、右の堀内氏ではないとしても、これと多少の関係があるかもしれない、とは考えられる。  三番目の妹は、土芳の『全伝』に「女子 およし 後命清が養女ト成」とある。命清とはすなわち半左衛門で、つまり松尾家の長兄の養女になったという意味である。土芳の『全伝』によれば、半左衛門には又右衛門という実子があったらしいが、これは実子ではなく、およしの婿だという説が最近有力である。そうなると、夫婦養子ということになる。また又右衛門は元禄十二年(一六九九)十月十七日に没しているから、あるいは又右衛門の没後に、およしを養女にしたものとも考えられる。  土芳の『全伝』によれば、およしは儀左衛門という婿を迎えているが、右の説に従うと又右衛門は結婚後儀左衛門と改名したことになる。はっきりしたことはわからない。  〈3〉生い立ち 名前と俳号  芭蕉の系累について長々と述べたが、芭蕉自身に筆を戻して述べよう。土芳の『全伝』によれば、芭蕉は「金作・半七・藤七郎・忠右衛門ト云、後に甚七郎(ト)変名ス」とあり、ほかに宗房《むねふさ》とも名乗ったが、これは藤堂新七郎家へ出仕後の名乗りか。同家には、代々宗房を名乗る近侍がいたという説もある。後年宗房の名で句集に作品が載るようになるが、それは宗房《そうぼう》と音読して俳号に用いたのであろうといわれている。  俳号については、三十二歳頃から桃青の号を用い始め、これは芭蕉の号と共に長く用いられた。芭蕉の俳号を用い始めたのは、三十八、九歳頃からと思われ、俳書に芭蕉号が出て来るのは、天和二年(三十九歳)三月刊の『武蔵《むさし》曲《ぶり》』が初見である。  その外、二十歳代で「釣月軒《ちようげつけん》」の庵号を用い、三十五歳十月の『十八番発句合』跋文に「坐興庵《ざきようあん》桃青」と署して「素宣《そせん》」の印を用い、三十七歳九月の『常盤《ときわ》屋《やの》句合《くあわせ》』の跋文には「華桃園《かとうえん》」を用い、同年冬に移った深川の草庵は「泊船《はくせん》堂」と自称した。またこの頃(延宝末年頃)、「栩々《くく》斎花桃夭《とうよう》」と署したこともある。その外、夭々軒・芭蕉洞・風羅坊・土糞・杖銭・鳳尾・羊角・羽扇などが、庵号・別号または印記として用いられた。こんなことは一般の読者には余り興味もないことであろうが、念の為書き添えておく。  芭蕉の幼少の頃のことは解らない。十四歳で「いぬとさる世の中よかれ酉《とり》の年」と詠んだなどの伝説(『奥の細道菅菰抄』)は、阿部喜三男氏ならずとも、固く否定すべきである(人物叢書『松尾芭蕉』)。 蝉吟・藤堂良忠に仕える  芭蕉は長じて藤堂新七郎家に仕えた。当時藤堂藩三十二万石の本拠は津にあった。少し後の著作だが『国華万葉記』という一種の旅行案内記の伊賀の部に「当国は勢州|藤堂《トウダウ》家御領分」とある通りである。伊賀には城代として藤堂|采女《うねめ》元住(貞享四年没)が居り、食禄七千石を食《は》んでいた。藤堂新七郎家はその下の伊賀付き士《さむらい》大将の家で、五千石を食み、当時は二代目の藤堂新七郎|良精《よしきよ》(延宝二年没)の代であった。元来は藤堂家の出ではなく、多賀氏の出で、藩祖藤堂高虎の母方の叔父新助良政に出るという(岡村健三『芭蕉伝記考』など)。  良精は、良政の子藤堂新七郎良勝のあとを継いだ。芭蕉は、その良精の嗣子《しし》主計《かずえ》良忠《よしただ》に仕えた。良忠は良精の三男であったが、兄二人が早世したので嗣子《しし》に定められていた。良忠の弟で四男の五良左衛門良重は、万治元年十歳の時、藩主から別知三百石を賜わって別家していた。良忠は寛永十九年(一六四二)の生まれで、父良精四十二歳の時の子であり、芭蕉より二歳の年長になる。  良忠は蝉吟《せんぎん》と号して貞門派の俳諧に遊んだ。俳諧の師は北村|季吟《きぎん》である。季吟は古典の注釈書を多く著わして有名だが、和歌をよくする傍ら、若い頃から貞門派の俳諧を学び、貞門派の俳諧師としても名を知られていて、多くの門人があった。寛永元年の生まれであるから、良忠より十九歳の年長である。良忠すなわち俳号蝉吟の句が俳書に初めて見られるのは、寛文四年(一六六四)十月頃刊の松江|重頼《しげより》編『佐夜中山集』である。  北村季吟はそれより四年前(万治三年)に、『新続犬筑波集』という俳諧集を編集しているが(刊行は寛文七年)、その書は作者七百二十七人、句数は付け句千百三十九句、発句三千百三十句に及ぶ大著であるのに、蝉吟の名は見えないから、その時は蝉吟はまだ季吟に入門していなかったのであろう。もし入門していたら、五千石の大身の子息の句を一句も入集させないはずがない。芭蕉の句ももちろん入集していない。『佐夜中山集』の出版された寛文四年は、蝉吟二十三歳、芭蕉二十一歳である。『新続犬筑波集』の編集の成った万治三年は、それより四年前になる。蝉吟が季吟に入門して俳諧を学び出したのは、その間であろう。 『佐夜中山集』は、横本六冊の大きな撰集であり、刊行は寛文四年十月頃だが編集にはかなりの時日を要したと思われ、また季吟が入門早々の蝉吟や芭蕉の句をすぐ採録するとも思われないので、蝉吟の季吟入門はおそらく寛文元年(万治四年)か、二年の頃と見てよいであろう。 十九歳出仕説が妥当か  芭蕉がいつ頃から藤堂新七郎家に仕えるようになったかについては、従来諸説がある。芭蕉の直門である各務支考は「承応の比《ころ》」(『本朝文鑑』所収「芭蕉翁石碑ノ銘並序」)だというが、そうなると十歳前後から仕え始めたことになる。竹人の『全伝』には「幼弱の頃より藤堂主計良忠蝉吟子につかへ、愛寵《あいちよう》頗《すこぶる》他に異なり」とあり、「幼弱の頃」が何歳かは解らないが、十歳前後とも考えられる。これに対し土芳の『全伝』(曰人写)の「家系図」のところには、「明暦ニ仕ウ」(十三歳前後になる)とし、また一方「十九歳召出サレ」ともあり矛盾がある。  この「家系図」は元来土芳の記したものではなく、曰人が書き添えたもののように思われる節もあるので、俄かに従うことはできない。やや時代の下る竹二坊の『芭蕉翁正伝』や、去留の『芭蕉翁全集』、大蟲の『芭蕉年譜』、湖中の『芭蕉翁略伝』等は、いずれも寛文二年十九歳出仕説である。冬季の『蕉翁略伝』は寛文年中とする。その外、蝶夢の『芭蕉翁絵詞伝』は明暦説である。確証はないが、寛文二年十九歳出仕説に従いたい気がする。 2 俳諧を学ぶ  〈1〉季吟の門で学んだか 勤めは御台所御用人や良忠の近侍役  十九歳で藤堂新七郎の嗣子主計良忠に出仕した芭蕉は、そこでどんな仕事をしていたか。曰人の『芭蕉伝』(『芭蕉翁系譜』ともいう)に、 一、藤堂家の一門藤堂新七郎、其家臣也。御台所御用人を勤めたりと云。其帳面今に有て、けしたう菜を印たる篤実今にありとぞ。諸人見るゆゑ、其所|斗《ばかり》よごれたりとぞ。 とある。御台所御用人ばかりしていたと考える必要もないが、出仕中のある時期に御台所御用人をしたことがあったとしても不思議ではない。芭蕉の実家の身分からいっても、そのくらいのところが、ありそうな役目である。  芭蕉が料理人だったという説を伝えるのは、柏筵《はくえん》の『老の楽』という本である。柏筵はそのことを、自分の師匠の破笠《はりう》から聞いたこととして書きとめている。破笠は、芭蕉の晩年に僅かに芭蕉に接した門人であるから、余り確実な話とはいえないし、その話を書きとめた柏筵にしても、昔聞いた話を回想して書いているのであるから、記憶違いということもあるし、料理人説を文字通りに解することはできないが、しかし「御台所御用人」と「料理人」とには多少共通点がある。「御台所御用人」というのが、破笠の話か、柏筵の書きとめの間に、間違って伝えられたものではあるまいか。 「御台所御用人」説を信ずるとしても、時に近侍役をしたこともあるかもしれない。良忠のところで俳諧の会がある時は、その一座に加わりもした。良忠の「愛寵《あいちよう》」が「頗《すこぶる》他に異なり」(竹人『全伝』)で、芭蕉を特に寵愛したという記事は額面通りには受けとれないとしても、良忠(俳号蝉吟)が俳諧好きの青年であったことを思うと、ある程度は信じてよいことであろう。 俳諧が出仕の機縁に?  従来の通説では、芭蕉は良忠(蝉吟)に仕えて始めて貞門俳諧を学び、季吟を師としたことになっているが、十九歳出仕説を前提とすれば、あるいは出仕前にすでに貞門俳諧を学んでいたのではないかと思われる。それは菊岡|沾涼《せんりよう》がその著『綾錦』に、自分の祖父の菊岡随性軒如幻が「導いて季吟の門に入る」(原漢文)と書いているからである。  菊岡随性軒如幻は、伊賀の上野で質商を営む裕福な商家の主人で「学問を好んで洛の季吟に師事し、特に和歌をよくした」(前掲書)人である。商人ではあるが学者でもあって、多くの著述があった。その子の行尚も、和歌や俳諧を好んで居り、その養子が沾涼《せんりよう》である。沾涼は後に江戸に出て、俳人として活躍し、また『江戸|砂子《すなご》』など学問的著述も知られている。それだけの人物が書き遺していることばだけに無下にしりぞける訳にも行かない。如幻のような学問好きの商家の主人が、これも学問好きの若い青年である芭蕉を、自分の師匠の季吟に引き合わせようとしたことぐらい、あっても差し支えないことである。  ただし如幻は俳諧より和歌の方に興味があったようだから(季吟は俳諧師であると共に歌人としても知られていた)、芭蕉が如幻の紹介で季吟にこの時入門し、すぐ俳諧に深入りするようになったかどうかは、少し疑問を残して置いた方が無難であろう。芭蕉が如幻の紹介で季吟に会ったのを、十七、八歳頃と仮に考えれば、父を失ってから五、六年後のことで、兄が家督を継いでいたとはいえ、次男の若い芭蕉が俳諧に熱中できるほど生活に余裕があったとも思われない。季吟に会ったことがあるとしても、正式入門という程のものでなく、和歌、俳諧に興味を持つ若い芭蕉を、如幻が季吟に引き合わせたというぐらいに考えた方がよいかもしれない。  だが、芭蕉が良忠に仕えるようになった機縁に俳諧が何程かの役割を果たしていると考えることは、必ずしも不当ではない。学問好き、俳諧好きの青年を、同じ俳諧好きの良忠が、自分の身辺に使ってみようと考えることは極めて自然であり、良忠が上野の商家の主人で俳諧好きの人たちと交際があったことは後述する通りである。それらの町人の誰かが芭蕉を推挙したと想像することも強《あなが》ち有り得ないことではあるまい。  良忠(蝉吟)が、上野の町人や芭蕉たちを交じえて巻いた俳諧の連句(百|韻《いん》)がのこっている。それは寛文五年(一六六五)の冬、十一月十三日に巻かれた百韻で、松永貞徳の十三回忌を追善して行なわれた俳諧である。 貞徳翁十三回追善俳諧 野は雪にかるれどかれぬ紫苑《しをん》哉《かな》   蝉吟公 鷹の餌《え》ごひと音をばなき跡     季吟 飼狗《かひいぬ》のごとく手馴《てなれ》し年を経て     正好 兀《はげ》たはりこも捨《すて》ぬわらはべ     一笑 けふあるともてはやしけり雛《ひいな》迄    一以 月のくれまで汲むもゝの酒     宗房 長閑《のどか》なる仙の遊にしくはあらじ    執筆 (以下略)  発句は貞門俳諧の祖である貞徳追善の意を籠めたもので、秋草の紫苑《しおん》に師恩をかけてある。季吟の脇句は、発句を予め作り京の季吟のところへ送って、脇句を請い受けたもので、この時の会合に季吟が来て作ったのではない。第三句目の作者正好は、窪田六兵衛政好かと考えられ、上野の裕福な町人で、後の蕉門の猿雖《えんすい》はその甥だといわれる。第四句目の一笑は、保川弥右衛門、一以は松木氏で、共に町家の主人と考えられる。宗房は即ち後の芭蕉である。  一以は貞室系の『玉海集』に「伊賀上野松木氏」として句が収録されて居り、重頼編の『佐夜中山集』(寛文四年九月廿六日の奥書き)には正好が七句、一笑が六句、宗房が二句、蝉吟が一句入集している。正好、一笑等は俳諧作者としては蝉吟や宗房等より先輩であることが察せられる。この寛文五年は芭蕉が二十二歳で、蝉吟は二十四歳であった。  〈2〉初期の作品 十九歳の冬つくった発句  今日年代の知られる芭蕉の最古の作品は、 廿九日立春ナレバ 春やこし年や行けん小《こ》晦日《つごもり》   宗房 (『千宜理記』) という発句である。寛文二年芭蕉十九歳の冬の作である。一句の意味は、今年は十二月二十九日が立春だが、これは春が早く来たのか、年が早く去ったのか、どちらというべきなのだろう、というようなことで、「小晦日」は、季吟編の『増《ぞう》山の井』(寛文三年刊)の冬の部に「小つもごり 俳晦日の前日也」とある通り、十二月二十九日を指す。寛文二年(一六六二)は、十二月が小の月で、二十九日は小晦日であり、また大晦日でもあり、また立春でもあった。またこの句は『伊勢物語』の「君や来し我や行きけむおもほへず夢かうつゝか寝てかさめてか」を踏んでいる。  一方、「年内立春」という素材は、『古今集』巻頭の「年の内に春は来にけりひととせを去年とやいはむ今年とやいはむ 在原元方」の有名な歌以来、和歌や連歌では何度も何度も取り上げられている素材で、その和歌的伝統は、俳諧の中にも継承され、すでに貞門派の俳諧でも多くの作品が見られる。 立春旧年なりければ ゑいやっと越《こえ》ぬる年や二またげ   重方 年内立春 年の内は片足で立《たつ》春日哉      光有 来る春は年の内へやとまりがけ   元弘 年の内の春は陰陽和合《いんやうわがふ》かな     永治 としのうちへ年の矢入の春日哉   成政 立春のとなりへ来るや門たがへ   宗房   (芭蕉の宗房とは別人) 年の内の霞の袖やひゐなだち    政公 (明暦元年板『毛吹草』) 古典への優越意識と解放感  芭蕉もまたこれらの和歌、連歌、俳諧の伝統に素直に従ったまでであって、ちょうど寛文二年の歳の暮れに立春が来たので、これを素材として取り上げたのである。当時の貞門俳諧の作風と特に異なる点はないといわなければならないが、それは漸く俳諧の道に入り初めた頃の作品として考えれば、また当然のことである。ただし、前掲貞門派の諸作を含めていえることだが、「年内立春」という和歌以来の古典的素材を、俳諧に於いては一種のパロディとして扱い、言語遊戯を楽しんでいる。そこには、古典に対する一種の優越意識と解放感がある。それが近世人の魅力となって、貞門俳諧を広く流行させたものであろう。貞門俳諧には、古典的素材をもじって使う言語遊戯的手法が非常に多いが、それは今までは厳粛な権威だった古典を、いわば戯画化することによって生ずるおかしみがねらいである。そこには権威から解放される快感が伴っていた。  若い芭蕉がまず俳諧に引きつけられたのも、上野の町人たちが俳諧を愛好したのも、また若い武士である蝉吟が俳諧を好んだのも、その辺に魅力を感じたからであろう。芭蕉の十九歳の作品が、単純な言語遊戯的作品だったとしても、そこには今日の読者の評価とは異なる、当時としての感じ方の新しさ、おもしろさがあったに相違ない。なおまた、この句が良忠に出仕した十九歳の年の歳末の吟であることは、すでに芭蕉が出仕前に多少の俳諧的素養があったことを思わせる証跡の一つであろう。十九歳の何月に出仕したかは明らかでないが、出仕以前に全然俳諧をしていなかったとすれば、出仕と同時に主君の俳諧の相手をすることは不自然であるから、出仕後程経て何かの折りに俳諧の手ほどきを受けたことになるが、それにしてはこの年内立春の句はかなりの練達ぶりと見られるからである。 ことばの遊戯に一種のおかしみ 月ぞしるべこなたへ入《いら》せ旅の宿 松尾宗房 (『佐夜中山集』)  この句は寛文四年(一六六四)六月上旬以前の秋の句であるから、芭蕉が二十歳かまたはそれ以前の作ということになる。謡曲「鞍馬天狗《くらまてんぐ》」の中に「奥は鞍馬の山道の花ぞしるべなる。此方へ入らせ給へや」という文句があるが、その文句をほとんどそのまま取り入れて句に仕立てたところが、この句のねらいである。月がよい道案内をしてくれます、さあどうかこちらへおはいりになって旅の宿としてください、というくらいの単純な意味で、取り立てていうほどの情趣もないが、ねらいは謡曲の文句を巧みに使ったところにあり、その言語遊戯に一種のおかしみがある。  謡曲の文句を俳諧に取り入れ、もじって使う手法は、後に談林派の総帥《そうすい》となった西山|宗因《そういん》(当時はまだ大坂天満宮連歌所宗匠で、談林派樹立以前)によって刺激されたもので、宗因流の俳諧として、貞門派の内部ではやや尖端的な傾向に属していた。しかし、この手法は貞門派でもおもしろい手法として歓迎され、次第に流行を見るようになる。芭蕉のこの句を採録した『佐夜中山集』の編者松江重頼は、貞門派の中でも謡《うたい》俳諧を好んでいた人物である。 京は九万九千くんじゅの花見|哉《かな》  宗房   (伊州上野松尾氏) (『詞林金玉集』)  寛文六年芭蕉二十三歳の春以前の作である。「くんじゅ」というのは「群衆」のことで、群衆と花見とを結びつけて詠むのは当時の慣例である。 吉野たばこきせるくんじゅの花見哉 尼ケ崎野天 (『桜川』) 花はくんじ人はくんじゅの木陰哉 宗除 (『新版増補毛吹草』寛文十二年版) など同種の用例は多い。念のためいえば、前者はたばこの煙管《キセル》で吉野たばこを燻《くん》ずる意味と吉野の花見に人々が群衆して来ている意味との掛け詞《ことば》である。後者は花は薫《くん》じ(香り)、人は群衆《くんじゆ》すると語呂《ごろ》を合わせたところにねらいがある。  さてこの芭蕉の句は、花見と群衆との結びつきの慣例に従うと共に、一方で京都の人口が九万八千家といわれていることを用いている。それは例えば『日本略記』や『本朝二十不孝』その他に見えるし、俳諧でも「京や九万八千年のかどの松 常倫」(『山の井』)というように用いられている。その「九万八千」を「九万九千」と変えたのは「九千くんじゅ」(貴賤群衆《きせんくんじゆ》)と用いたかったからで、その言語遊戯に一種のおかしみがある。  〈3〉良忠の死と致仕 風雅の友・主君良忠の愛護を失う  日常生活としては、御台所御用人をしたり、近侍役をしたりしながら、一方では良忠の俳諧の相手としてこのような句を作っていたのが、芭蕉が十九歳から二十三歳の春までの生活である。  当時の俳書に、良忠(蝉吟)と並んで宗房の句が見られるから、蝉吟は俳諧の相手として宗房(芭蕉)を寵愛したに相違ない。竹人の『全伝』に「愛寵頗他と異なり」とあることは前にも引用したが、それは俳諧に関する限り正に当たっていたといってよいであろう。蝉吟にしても朝から晩まで俳諧を作っていた訳ではないから、芭蕉は御台所の帳面付けをしたり、近侍役をしたりしていたが、蝉吟は句ができれば芭蕉を呼んで見せ、新しい俳書が届けば芭蕉を呼んで読み合うという調子だったろうと想像される。だから若い二人は、主従ではあるが、また風雅の友でもあった。  もちろん封建制の確固たる時代のことだから、主従の別は厳たるものがあったし、蝉吟は二歳の年長でもあったから、芭蕉は常に下風についていたには相違ないが、それでも若い二人だけにおのずから親しみ合う気持ちはあったであろう。  ところが、その良忠が、芭蕉二十三歳の寛文六年(一六六六)四月二十五日に、二十五歳を以て病没してしまった。俳諧好きの良忠があってこそ、芭蕉の藤堂新七郎家に於ける地位は安泰であったのである。突然良忠になくなられて、芭蕉は悲歎の涙にくれた。それは寵愛を受けた主君を失った悲しみであるが、また自己の前途が俄かにまっ暗になった悲観の気持ちもあったに相違ない。  良忠にはすでに二人の女の子があったが、同年出生の長男はおそらくまだ母の胎内にいたことと思われる。父の良精《よしきよ》は時に六十六歳であった。封建制下の武家の家としては一日も早く嗣子《しし》を定める必要があった。そこで良忠の弟で当時十八歳の四男五良左衛門良重が嗣子に定められた。四男といっても兄が三人とも死んだのであるから、外に求めるべき嗣子はなかった。前述した通り、良重はこれより先、万治元年(一六五八)十歳で別家し、藩主から別知三百石を賜わっていたが、ここに父命に従って本家に復し、二歳年長の小鍋(良忠の未亡人)と結婚することになった。家を大事にする当時の武家社会としては、常識的な措置《そち》ともいえよう。  念のためいえば、この良重も、父良精の存命中、二十四歳でなくなり、結局良精の跡を継いで藤堂新七郎家の三代目となったのは、良忠の没後生まれた良忠の子の新之助|良長《よしなが》である。後年のことだが、芭蕉は成人したこの良長に会い、「さまざまのこと思ひ出す桜かな」と詠んだ。その時は良長も父にならって俳諧をたしなむ青年になっていた。  藤堂新七郎家の過去帳には、寛文六年六月二十四日の条に「六月廿四日、良精公ヨリ高野山報恩院ヘ位牌・日牌寄付ス」とある由だが、使者の一人として芭蕉も高野山へ行き、主君の菩提《ぼだい》をねんごろに弔《とむら》った。 願い出て藤堂家の勤めをやめる  主君の死にあった芭蕉は、やがて主家を辞去することになった。旧説では、芭蕉は退官を願ったが許されず、無断で出奔亡命して京都へ出たとする。しかし、近年の研究は亡命説には批判的である。私も亡命説は取らない。簡単にいえば、亡命すべき理由がなく、亡命した証拠がなく、亡命したとは思われない反証が挙げられるからである。  芭蕉は藤堂新七郎家の当主良精に仕えていたのではなく、子の良忠に仕えていたのであり、しかも出仕して四、五年の新参者である。俳諧を以て特に良忠の寵愛があったが、良忠が没して、特に俳諧好きでもない弟の良重が嗣子に定められた時、致仕を願い出て許されないはずがない。退官が許されれば、もちろん出奔亡命はない。良忠のあと嗣子に据えられて本家に戻って来た良重は、すでに別居して三百石を賜わっていたのだから、当然自分の家来を持っていた。その家来を連れて本家に復帰したのだから、人は余って来る。それに、藤堂新七郎家も経済状態は決してらくではなかった。殊に寛文六年はこの地方は飢饉《ききん》だった。芭蕉一人養えないことはないとしても、あえて余分なものを置く必要もない。  したがって、芭蕉は、やめろとはいわれなかったとしても、何となく居心地が悪くなり、やめざるをえないような立場になったのではあるまいか。それはまた、兄や親戚の者たちの眼から見ても、やむをえないと思われるような成り行きだったであろう。それでなければ、芭蕉一人がやめるといい出しても、兄や親戚の者たちがとめないはずがない。 兄の家の食客となって俳諧づくり  芭蕉は藤堂新七郎家を辞して、兄の家の食客となって日を過ごした。前途の方策について心を労したであろうが、格別名案があったとも思われない。結局は次第に俳諧に深入りをして行くことになった。 霰まじる帷子《かたびら》雪はこもんかな 伊賀上野宗房 (『続山の井』)  芭蕉二十三、四歳の頃の作と推定される。「かたびら雪」は、雪片の薄く平たいものと辞書にある。地面にかたびら雪が降り積もってその上に霰が散っているさまを、衣服の帷子の縁語で、小紋(こまかい模様の織物、また織物のこまかい模様)のようだといったものである。もっとも帷子雪(片平雪・かたびら雪)をこのように詠むこともすでに貞門俳諧の常套的手段であって、特に珍しいことではない。 踏跡はかたびら雪の縫目哉     重方 (『毛吹草』) 辻風はかたびら雪のもやう哉    信徳 (『口真似草』)  ならへまかりし時 佐保路なるかたびら雪やならざらし 良徳 (『犬子集』) 山姫はかたびら雪をかつぎかな   貞徳 (『同右』) たち縫はぬ帷子雪やひとへ物 (『小町踊』) 二日ふるかたびら雪やひとかさね 中嶋内蔵亟貞義 (『鷹筑波』)  などといった調子である。芭蕉の独創的な点はまだ出ていないというべきであろう。 初瀬にて人々花を見けるに うかれける人やはつ瀬の山桜   松尾宗房 (『続山の井』)  この句は『千載集』の源俊頼の歌「うかりける人をはつせの山おろしはげしかれとは祈らぬものを」に拠ったもので、句意としては、初瀬の山桜を見に多くの人々が浮かれ出て来ている、というだけのことであるが、俊頼の和歌を巧みにもじったところが、ねらいである。ただし、この俊頼の和歌もすでに貞門派に於いてはしばしばパロディの材料に使われて来ているもので、芭蕉によって始めて使われたものではない。例えば、 初瀬の寺にいのりそこなふ うかりける人にはげしくしかられて (『毛吹草』) はげしかれとやほゆる声々 うかりける人を初瀬の山の犬   改明 (『鷹筑波』) などの如くである。 大して認められないままに五、六年  こんな貞門派としては普通の作品を作りながら、芭蕉は少しずつ京都の俳壇に名を知られ始めた。また芭蕉自身も上野から折り折りに京へ出かけて行った。上野から京へは大した旅ではない。朝早く立って、舟や馬の便を使えば一日で京へ着いた。途中一泊すれば楽に出られる。  京では北村季吟の許を訪ね、また季吟の門人たちにも紹介されたと思われる。季吟の門人を介して更に他門の貞門俳人たちと交じわることもあったであろう。それは、後に芭蕉が江戸へ下った時、京の季吟門だった似春《じしゆん》等のグループと交際が親密で、また京から江戸へ下って来た貞門系の人々とも交際があることから推測される。  芭蕉が致仕した寛文六年には、季吟の長子季長が元服して湖春となり、宗匠として独立している。季吟門の高弟山岡元隣が、宗匠披露の興行をしたのもこの年である。翌寛文七年七月刊の湖春編(表向きは季吟編)『続山の井』に、宗房の発句二十八句と付け句三句の多数を収録していることは、寛文七年前半期までに、芭蕉が京へ出て、季吟や湖春に接近したことを示すものであろう。  それでは、その後芭蕉の名が俳壇に急速に擡頭したかといえば、その形跡はない。寛文九年安静編の『如意宝珠《によいほうしゆ》』(刊行は延宝二年)に「伊賀松尾氏宗房」として発句六句、寛文十年刊、正辰編の『大和巡礼』に「伊賀上野住宗房」として発句二句、寛文十一年刊、友次編の『藪香物《やぶのこうのもの》』に「伊賀上野宗房」として発句一句などが見られるが、五、六年間の活動の成果としては、極めて乏しいものといわざるを得ない。芭蕉は、季吟についたものの、京都の俳壇では余り認められなかった。  季吟について俳諧を学んだ外に、芭蕉が、書を北向雲竹に、詩を伊藤坦庵に、儒学を田中桐江に学んだとする旧説は、近年の研究により全く否定された。  〈4〉最初の著述『貝おほひ』 俳諧一途のほかに道はなかった  芭蕉は、上野の兄の家の部屋住みの身の上で、時折り京に出て、しばらくは滞在したこともあるかもしれないが、結局は上野が本拠であった。京へ出て都会の華やかな空気に触れ、多少の遊蕩もしたらしいが、まえに述べたように、あまり裕福でない下級武士の家の食客の身で、大した遊びができるはずもない。後年のことだが、兄半左衛門は、俳諧隠者となった芭蕉に家計の合力を頼まなければならない位の状態である(書簡)。もし富裕な家なら、次男でも分家をして多少の財産が分け与えられたであろう。しかしそんな余裕がある家ではなかった。  芭蕉は二十八歳になっても、まだ部屋住みの生活を碌《ろく》々として過ごしていた。それが中流以下の家の次男・三男に共通の運命であった。芭蕉だってもちろん結婚したかったであろう。結婚して暖かい家庭を持ち、充実した仕事をしたかったであろう。しかし前途は暗澹としていた。すでに慶安四年(一六五一)の由井正雪の乱が示しているように、牢人対策が社会問題になっていた時代である。失業武士の道はふさがれていたのだ。  芭蕉が始めから俳諧を以て世に立とうとしていたとは信じられない。後年「幻住庵記」に「いとわかき時より、よこざまにすける事侍りて、しばらく生涯のはかりごととさへなれば、終に此一すぢにつながれて、無能無才を恥るのみ」(米沢家蔵真蹟)とあるのは、文飾はあるとしても、実感に基づいていよう。できるならば公に仕え、俳諧は趣味として楽しみに作りたかった。同じ「幻住庵記」に、「ある時は仕官懸命の地をうらやみ、一たびは仏籬《ぶつり》祖室の扉《とぼそ》に入らむとせしも」(『猿蓑』)とある通りである。  しかし、仕官を退き、前途についてあれやこれやと試行錯誤をくり返しているうちに、時は空しく過ぎ去り、三十も眼の前に迫って来た。芭蕉はこの五、六年の暗中模索の間に、次第に俳諧を以て世に立とうと考えるに至ったのではないか。他の道が閉塞されているだけに、十代の時から好んで来たこの道を、自分の生涯の道に選ぶ決意が、ようやく心中に固まって来たのだと見たい。 ここに現状打破への衝動  寛文十二年(一六七二、二十九歳)の正月二十五日、芭蕉は、最初の著述『貝おほひ』を、折りから例祭の行なわれている上野の天満宮に奉納した。菅原道真を祭る天満宮に奉納したのは、天満宮が古来文運の神で、和歌・連歌以来、作品を奉納する慣習があったからである。恰《あたか》もこの年は、菅原道真の七百七十年忌に当たってもいた。『貝おほひ』は三十番の発句|合《あわせ》である。しかしただの発句合ではない。当時の流行歌謡や俗謡や一癖《ひとくせ》ある流行語などを「種として」(序文)作られた発句ばかりを六十句集め、これを左右二組に分けて、一番ずつ勝負をさせた三十番の発句合である。しかも、芭蕉はその勝負の判をするのに、判詞を書いているが、これも当時の流行歌謡や流行語を盛んに取り入れて、自由奔放、機智縦横に、おもしろおかしく書いている。才気煥発、青年らしい客気に溢れた文章である。中にはかなりの遊蕩的・享楽的な傾向もある。一例を以て示そう。 廿三番 左勝     余淋 しつぽとやぬれかけ道者《だうじや》北時雨 右      政当 しぐる音《おと》やさつさやりたし蓑《みの》と笠《かさ》 左の。ぬれかけ道者は。ぼつとりものゝ。しなものゝ。袖に時雨の。通りものとや申さん。右の句。さつさ。やりたし。なんしゆんさまと。うたへば。あつた物じや。ないはさあといはまほしけれど。とても。ぬりよ。なら。なま中しぐれは。いやよ。君がなみだの。雨に。しつぽりと。ぬれかけ道者を。例のかちとや定めん  作品にも判詞にも、浮き浮きとした、享楽的な調子がある。この外にも「今こそあれ。われもむかしは衆道ずきの。ひが耳にや」(二番)とか、「伊勢《いせ》のお玉は。あぶみかくらかと。いへる小哥なればたれも乗たがるは。断《ことはり》なるべし」(十七番)とかいうような判詞の書きぶりには、元禄という時代の刹那的・遊蕩的世相の一端を反映しているように見える。また例えば「されど判者も。ひとつ過《すぎ》て。耳熱し。目も。ちろりの。みぞれ酒。のみこみちがへも有やせむ。……」(廿五番)などという判詞の書きぶりは、従来の発句会の判詞とは全く性質を異にするもので、芭蕉の中に、何か現状を打破したい衝動があって、この書をなさしめたのではないかと思わせるものがある。 俳諧に運命をかけた背水の陣  流行歌謡や流行語を句中に詠みこんだ作風は、当時としては珍しいものではない。しかし、それらを詠みこんだ作品だけを集めて、発句合を作り、その判詞を、また流行歌謡や流行語をふんだんに駆使して、洒落のめして書くという構想は、若い芭蕉によって始めて試みられたものである。無名の若い芭蕉があえてこの種の著述をしたことは、芭蕉の胸中に、微温的な貞門俳諧に満足できない気分が、鬱然と高まって来たことを示すものではないか。まだ談林派ははっきりとした形では起こっていない。宗因は前年の寛文十一年十月に九州各地遊歴の長い旅から大坂へ帰って来たばかりで、俳諧的活動を始めるのは、寛文十二年以後である。  しかし貞門派の現状にあきたりない空気はすでに貞門派の内部に萌《きざ》していた。宗因の活動は、その現状打破に火をつける役割を果たしたものである。寛文十二年正月のこの著述は、これから起こる談林派の俳諧革新の動きを予見したものと見ることもできよう。遊蕩的・享楽的だといっても、芭蕉はそういう方法で、貞門俳諧の微温的風潮に反発しているのだ。自由と現実性の要求が、都会的|放恣《ほうし》の形をとったのだ。因襲的・保守的な空気のみなぎっている上野の盆地の中で、自由の空気を吸いたい、もっと時代の現実に触れたいという青年の野心が、このような形をとって顕現したのだと見てよいであろう。部屋住みに閉じこめられた、不遇な青年が、ようやく見出した詩の活路である。  しかし、こういう著述を公にし、天満宮に奉納する以上、武家奉公の道は諦めたと見ざるを得ない。また、師であった北村季吟の道とも別れることを意味する。季吟は歌人でもあり、学者でもあり、伝統的・保守的であって、革新の気風には乏しい。季吟の門にあって、季吟の膝下の京都で、新しい俳諧に志を伸ばすことは不可能である。芭蕉は、すでに何年かの経験で、季吟門にあって、これ以上自分を俳諧師として伸ばすことは困難だと見ていた。『貝おほひ』一巻の著述、それは所詮青年客気の著であり、高い文学的価値を持つものではないとしても、芭蕉にとっては、いわば背水の陣を敷いたものだといえよう。武家奉公も断念し、季吟門で認められることも放擲し、新しい俳諧の道に於いて自分の運命を開拓しようという覚悟が、この著述の背景にあったと見てよいのではないか。  そう考えると、芭蕉の江戸出府は、最早必然の道である。江戸は、京・大坂に比べれば新興都市である。新興都市には伝統や門閥《もんばつ》の桎梏《しつこく》がない。無名の青年が志を立てる上で、京・大坂に勝ること万々である。殊に季吟と気拙《まず》くならないためには、季吟から遠い方がよい。もっとも、江戸もまた「空手《くうしゆ》にして金《こがね》なきものは行路難し、といひけむ人の、かしこく覚え」(『柴の戸』)られるような土地ではあった。しかし、政治・経済についで、文運|東漸《とうぜん》の萌《きざ》し始めた江戸を芭蕉が選んだことは、さすがに青年芭蕉らしい着眼であったといえよう。 3 新風うずまく江戸で  〈1〉江戸俳壇と芭蕉 「三十にして立つ」の決意  芭蕉が江戸へ出た時期については従来諸説がある。しかし上来述べて来たところによって、「寛文十二子の春東武ニ下リ、名ヲ桃青トス」という土芳の『全伝』の説に従いたい。それがまた通説でもある。「雲とへだつ友かや雁の生キ別れ」(『冬扇一路』)は、志田義秀博士の考証(『問題の点を主としたる芭蕉の伝記の研究』)のとおり、この時の留別の吟であろう。とすれば、「雁の別れ」は春の季題だから、芭蕉の出立は、『貝おほひ』を天満宮に奉納した寛文十二年の正月二十五日から、一、二ヵ月のうちに行なわれたことになる。  二十九歳にもなって、兄に寄食して口惜しい毎日を送っている青年が、而立《じりつ》の齢を前にして、志を立てて江戸へ出るのである。その胸中に「三十而立《さんじゆうにしてたつ》」の著名な語が浮かばなかったはずはない。郷関を出る以上、何とかして俳諧の道で自己の将来を切り開こうという夢と野心があったに相違ない。出世はあえて俳諧に限ったことではないが、『貝おほひ』の原稿を携えて江戸へ出ていることを以てしても、俳諧師としての道が芭蕉の脳裡にあったことは明らかであろう。  二十代の暗中模索の間に、最早他の道が閉塞されていることを、芭蕉はいやというほど知らされていたはずである。江戸への出発は、兄や親戚や、友人知己の激励の下に行なわれたと見てよい。準備もなく、血気にはやって飛び出したのではなく、然るべき紹介状を貰うなどの用意はしていたらしく思われる。江戸へ出てから、日本橋本船町の名主小沢太郎兵衛、俳号|卜尺《ぼくせき》の許に世話になったり、杉山|杉風《さんぷう》を知ったりしたのも、在郷中に伝手《つて》が求めてあったからである。 談林化へ動く貞門の宗匠たち  当時の江戸俳壇を概観すると、大体三つの系統を考えることができる。私がそう考えるばかりでなく、江戸の貞門(松永貞徳を師とする一派)を研究している学者たちの見解も大体そのようである。  一つは、従来から江戸に俳諧師として門戸を張り、門流を持っていた人々である。江戸の貞門としては、俗に江戸五哲と呼ばれる人々、即ち斎藤徳元・石田|未得《みとく》・荒木加友・高島玄札・半井卜養《なからいぼくよう》等やまた神野|忠知《ただとも》なども、これらに肩を並べる存在であったが、芭蕉が江戸へ出て来た寛文末年から延宝へかけては、もう五哲は没したり、高齢だったり、間もなく没したりして、むしろ五哲の次の世代の人々が世に出ていた。  中では、岸本調和・神田|蝶々子《ちようちようし》・岡村|不卜《ふぼく》などが著名であった。調和は始め安静門で後に未得に師事した。寛文中期頃江戸に出て居り、芭蕉が江戸に出た当時は三十五、六歳で、脂の乗った働き盛りであった。蝶々子は貞室門で、芭蕉出府当時はやはり三十代であったと思われる。不卜《ふぼく》は未得門で、後の立羽|不角《ふかく》の師であり、元禄四年に没している。  これらの宗匠は、元来はもちろん貞門系であるが、延宝年間に入ると、一様に談林化の方向に動き出す。古い貞門風を墨守していては門人が離れて行き、宗匠としての地位を守り切れないからである。そのことは、例えば延宝四年の自序のある蝶々子編『誹諧|当世《いまよう》男《おとこ》』の序文の一節に、「此比《このごろ》の句は一ぷうおかしくいひかまひたりと見ゆるはあれど、ふるき句どものやうに、いかにぞやことばの外に景気おぼゆるはなし」といいながら、しかし「若手の衆にまじはりて、点をかけんもおとなげなけれど、又ふるくさきとて人々にあなづられんも口惜かるべしなれば、老後のおもひ出是に過じ、御免あれと……」とあるのを以ても察せられる。  つまり江戸の俳壇も、大坂の宗因等の動きに刺激されて、正に動こうとしていたのが、この寛文十二、三年の状態であった。芭蕉は江戸俳壇が談林の激しい潮流に巻きこまれる寸前に江戸に出て来たことになる。 どのグループにも出入り  寛文十三年(この年延宝に改元)の春頃、田代松意《たしろしようい》は、神田|鍛冶《かじ》町の自宅に誹諧談林の結社を開き、同好の士を集め、世間からは飛体《とびてい》と呼ばれるような、自由奔放な作品を作って楽しんでいた。これも、貞門派の保守|退嬰《たいえい》にあきたりない空気が、貞門派の内部に鬱積していたことを示すものである。この結社に拠った人々は、田代松意・野口在色等を中心にして、池村雪柴・遠藤正知や、雅芸(後に雅計)・卜尺(後に離れる)等であるが、元来俳諧宗匠ではなく、いわば素人の町人たちである。江戸俳壇ではほとんど大した勢力もなかった人々である。  それが、芭蕉が江戸へ出て来た翌年、まず結社を作り、ついで二年後の延宝三年(一六七五)には、『談林十百韻《だんりんとつぴやくいん》』を世に問うて、花々しく俳壇に登場し、一挙に全国俳壇の耳目を驚かすに至ったのである。関係者の一人に、芭蕉が生活上の頼りにしていた小沢卜尺がいたことを注意して置く必要があろう。  更に第三の人々としては、上方、特に京都から江戸へ移って来た俳諧師たちがある。これらの人々の移住は、それぞれ個人的な理由もあるが、やはり新興都市の江戸に活躍の新天地を求めて来たと見るのが穏当である。ただしこれらの連中の江戸出府は、芭蕉の江戸出府とほぼ同時か、またはむしろその後と見るべきで、例えば重頼門の高野幽山などは、寛文末年から奥州|磐城平《いわきだいら》七万石の大名俳人内藤風虎に接近していたが、江戸定住は延宝二、三年以後と見られている。芭蕉が江戸出府後、幽山の執筆を勤めたことがあると伝えられるが、勤めたとしても極めて短期間のことであろう。その外、似春《じしゆん》(季吟門)・信章(後の山口素堂。季吟門)の出府も芭蕉と相前後している。  これらの人々は前記内藤家の俳席に出入りし、その庇護を受けていた。延宝五年に成った風虎編『六百番発句合』の発句の作者は、この系統の人たちが中心であるが、元来貞門系の俳諧師であって、談林時代に入っても、田代松意等のような奇警な傾向は示していない。  芭蕉が最も親しくしていたのは、この上方くだりの人々で、それは自分も上方くだりであり、また季吟系であったからであろう。内藤家へもこれらの人々と共に出入りしていた。しかし、江戸本来の俳諧師である不卜等とも親しく交際し、蝶々子・調和等とも相応の交際はしている。新興グループの人々とも、卜尺等を介して交際はあり、後に芭蕉が宗匠披露の立机興行を行なった際には、この派の野口在色等も後援をしたという(野口在色著『俳諧|解脱抄《げだつしよう》』)。  江戸は新興都市であるだけに、京などに比べて在来の宗匠の数も少なく、従って談林派が大坂から捲き起こって来れば、素直にその影響を受けて、江戸俳壇全体が新風化して行った。だから、京・大坂に於けるような古風(貞門)、新風(談林)の激しい対立はなかったと見てよい。結社間の多少の対立はあったとしても、それは人間のいるところどこにでも起こる対立で、芭蕉は余り広くもない江戸俳壇の中で、まず頭角をあらわそうとして一所懸命であったと見てよかろう。 期待に反した『貝おほひ』の出版  芭蕉が江戸へ出た寛文十二年の動静ははっきりしない。翌寛文十三年(延宝元年)の動静も不明である。ただし、上野から携えて来た『貝おほひ』の原稿が出版されたのは、出府後一、二年のうちと見たい。地方から出て来た無名の青年の本を出版してくれる本屋はいないから、自費出版であろう。しかし、上野に於ける『貝おほひ』の著述は、江戸出府の志とつながるものである以上、芭蕉としては是非ともこれを出版して世に問いたかったに相違ない。それが自分を江戸俳壇に登場させる機縁になると期待するところもあった。  現存する『貝おほひ』の板本は「中野半兵衛開板」とあるが、外に「芝三田二丁目 中野半兵衛・同庄次郎開板」と奥付けのある板本のあったことが知られて居り、後者はおそらく後摺本であろうから、二度にわたって印行されたわけである。ということは、この書の出版が多少の反響を見たということを意味しようが、しかし当時の文献に『貝おほひ』に言及するものは皆無である。若い芭蕉が期待していた程の成功は得られなかったと見る外はない。  寛文の末年から延宝の初年にかけて、俳壇は非常な速度で流動しつつあった。昨日新しかったものも、今日は古びてしまう。伊賀の上野で新機軸だと思った『貝おほひ』の内容も、都会の新しい風潮の中では、意外に垢《あか》抜けしていなかったという事情もあるのではないか。三、四年前に上方ではやった流行歌謡や流行語を種にした本を、江戸で出版しても、江戸の読者には大した感興を引き起こさないのも無理はない。今日私どもが『貝おほひ』を読んでも、ちっともおもしろくないといわざるをえない。  芭蕉は地道に少しずつ俳壇に地歩を築くより外仕方がなかった。生活の道は、江戸へ出て八年目の延宝八年(三十七歳)、まだ上水道工事に関係していたことによってもわかる通り、江戸へ出ての数年は、俳諧以外の収入によったものであろう。水道工事の仕事は延宝五年頃から折り折り工事のある度に関係していたものであろう。後の本だが喜多村|信節《のぶよ》の『|〓庭《きんてい》雑録』という本には「桃青江戸に来りて、本船町の名主小沢太郎兵衛(卜尺と号す)が許にしばらく居しかば、日記など記させたるが多くありしとなり。其頃の事にてもあるにや、水道|普請《ふしん》にかゝれる事見えたり」と記し、延宝八年の「役所日記」の一節を引いている。  〈2〉談林俳諧に進む 西山宗因を迎えた俳席へ  生活のことは兎も角、芭蕉は少しずつではあるが、江戸の俳壇で名を知られるに至った。また、作品の傾向は、貞門派から談林派に移って行った。 町医者や屋敷がたより駒迎《こまむかへ》 (延宝三年『五十番句合』・『句解参考』所引)  この句は多分延宝二年、すなわち芭蕉三十一歳秋の句と考えてよいであろう。「駒迎」は元来宮中に献納される馬を、逢坂《おうさか》の関まで出迎えることで、古来和歌などによく詠まれている素材である。ただし江戸時代にはすでに廃絶していたが、俳諧でも、和歌・連歌の伝統を受け継いで、秋の季題として時折り詠まれていた。いわば現実感のない、古典的な季題である。その伝統的・古典的な季題を用いて、町医者のところへ武家屋敷から馬でお迎えが来た、と換骨奪胎したところに、俳諧らしい戯画化とおかしみがある。形式的な季語である「駒迎」を、本当に馬の迎えが来たとしたところには、なお言語遊戯的なものがあるが、しかしよい患家から馬の迎えが来て、いそいそとしている医者の様子を戯画化している点に、詞のおかしみよりも内容的なおかしみを主にしている点がうかがわれ、そこに談林的方向への移行を看取し得よう。  翌延宝三年(三十二歳)になると、今や談林派の総帥として全国俳壇の注目を浴びている西山宗因が、大名俳人内藤風虎の招きを受けて江戸へ下って来た。芭蕉がこの宗因を迎えての連句百韻の俳席に連なることができたのは、彼が江戸の俳壇でようやく認められかけていたことを示すものである。もちろん宗因の東下が内藤家の招きによるもので、一座した人たちが、内藤家に出入りする人たちであったという理由もあろう。かの『談林十百韻《だんりんとつぴやくいん》』の松意・在色の連中などは、宗因と一座を希望したが容《い》れられず、僅かに宗因から発句を請い受けて「十百韻」を巻いたのである。  延宝三卯五月東武にて いと涼しき大徳《だいとく》也けり法の水   宗因 軒《のきば》を宗《むね》と因《ちな》む蓮池       画《しようかく》 反橋《そりはし》のけしきに扉ひらき来て   幽山 石壇よりも夕日こぼるる    桃青 領境《りやうさかひ》松に残して一《ひと》時雨《しぐれ》      信章 雲路をわけし跡の山公事《くじ》    木也 或は曰《いはく》月は海から出《いづ》るとも    吟市 よみくせいかに渡る鴈《かり》がね   少才 四季もはや漸く早田《わさだ》刈ほして   似春 あの間この間に秋風ぞふく   筆 (以下略)  江戸本所大徳院(真言宗)で行なわれた百韻興行であった。発句に「大徳」と詠み込んであるのは、大徳院と高僧の意とを懸け、亭主である画《しようかく》に挨拶の意を籠めたもの。脇句の画は大徳院主で、「宗と因む」に客として宗因を迎えた亭主の挨拶の返しがある。幽山は前出した通り、内藤家出入りの重頼門の宗匠で、芭蕉の先輩。桃青は即ち芭蕉で、桃青という俳号が文献に出て来る最初である。信章は後の山口素堂で季吟門から出て江戸へ移った武士。吟市は画の弟子で、安住院の住職。似春も前出の通り、季吟門で江戸へ出て来た俳諧師。  全体の付け運びは、例えば同じ時期に行なわれた『談林十百韻』などに比べれば、はるかに穏やかで、芭蕉の付け句も他と特に変わるところはない。句数は宗因十五・画十・幽山十三・桃青七・信章九・木也九・吟市十二・少才八・似春十五・執筆一・又吟三というところで、桃青の付け句の少ないことはやはりまだ若輩だったからであろう。 談林の傾向をさらに進めた『江戸両吟集』  この連句は宗因を迎え、大徳院で住職を亭主にしての連句であるから、比較的穏やかな付け運びであるが、翌延宝四年(一六七六・三十三歳)の春、信章と両吟の百韻連句などになると、談林的傾向は一層顕著である。この連句は、天満宮奉納の二百韻で、三月には『江戸両吟集』と題して出版された。 (前略) 台所より下女のよびごゑ   桃青 通路《かよひぢ》の二階は少し遠けれど   信章 かしこは揚屋高砂《あげやたかさご》の松    桃青 とりなりを長柄《ながら》の橋もつくる也 信章 能因法師|若衆《わかしゆう》のとき     桃青 照《てり》つけて色の黒きや侘《わび》つらん  信章 (下略) 「通路」の句は、謡曲「松風」に「心づくしの秋風に海はすこし遠けれど……里離れたる通路の月より外は友もなし」を使ってもじったおかしみ。次の「かしこ」の句は謡曲「高砂」に「たがひに通ふ心づかひの妹背の道は遠からず、かしこは住吉《すみのえ》、ここは高砂」とあるのをもじったもの。揚屋はもちろん遊女を揚げて遊ぶ家。次の「とりなりを」の句は、容儀をつくろうことを「とりなりをつくる」というので、それに古今集の序文の「高砂すみの江の松もあひおひのやうにおぼえ……ながらのはしもつくるなりときく人は、うたにのみぞ心をなぐさめける」(謡曲「難波」にも「長柄の橋もつくるなり」の語がある)とあるのをもじったもの。長柄《ながら》の橋は摂津国長柄川(今の中津川)の橋。  次の句で能因法師が出て来るのは、能因法師が長柄の橋の鉋屑《かんなくず》を持っていた話(『袋草紙』)からで、それが「照つけて」となるのは、能因法師が「都をば霞と共に立ちしかど秋風ぞ吹く白川の関」の歌を京都で作り、旅行して作ったように見せかけるため、顔を日に焼いて披露したという話(『古今著聞集』)によったもの。謡曲や古典を踏んで、そこから普通にはとうてい想像されない卑俗なものを付け、読者の意表をつくおかしみが談林独特の手法であるとすれば、この両吟百韻には、正しく談林的傾向が顕著だといってよいであろう。 新しさでは江戸談林派に劣る  ただしこれを延宝三年の『江戸俳諧談林|十百韻《とつぴやくいん》』によって一挙に名声を博し、「西は長崎、東は仙台」(在色『暁眠記』)まで喧伝された、あの松意等のグループの作品と比べる時、芭蕉等の作はその斬新《ざんしん》さにおいて劣る点があることを否定できない。即ち右の桃青、信章両吟百韻の成った同年四月刊の『江戸談林三百韻』の一節を引いて比較してみよう。 高き屋にのぼりてみればつばきはき 正友 猫が何やらむさい事して     松意 雑巾《ざふきん》と女三《によさん》の宮の召《めさ》せられ     同 にえ湯となるはおほん涙か    正友 あゝこれは仏のときしふのり也   同 「高き屋」の句は、仁徳天皇の御製と伝える「高き屋にのぼりて見れば煙立つ民のかまどはにぎはひにけり」(『新古今集』)を踏んで、それを意表をついて「つばきはき」と落としたもの。「雑巾」の句は、源氏物語の高貴にして薄倖な女性である女三の宮に雑巾を持って来いといわせる滑稽で、これも全く読者の意表をつくもの。「あゝこれは」の句は煮て糊をつくる海藻の「布《ふ》海苔《のり》」と仏教の教理である「不如理」をかけたもの。いずれも厳粛なもの、まじめなものをまず持って来て、これに対して全く読者の想像外の卑俗なものを結び合わせて、読者に心理的落差を生ぜしめようとする。  その素材と感覚は生活に密着して居り、用語表現は自由奔放で、着想は極めて斬新《ざんしん》である。談林的方向としてこれを見るならば、芭蕉らを凌ぐこと数等といわねばなるまい。 4 宗匠となる  〈1〉めざましい作句活動 初の帰郷と翌年の俳壇進出  この延宝四年(一六七六・三十三歳)の夏、芭蕉は久しぶりで帰郷した。  六月二十日頃帰郷して七月二日には帰府の途についたのだから僅かな滞在だったが、その間、京都へ出たり、故郷の人々との俳席にも出たりしている(土芳『全伝』)。  芭蕉がここで一旦帰郷したのは、俳諧師として成功し、錦を着て帰ったものではないが、しかしまた失意落胆の帰郷でもなさそうである。江戸に於ける生活に、ある程度の見通しが立ったので、甥の桃印《とういん》を引き取りかたがた帰省したものと見てよいであろう。  甥の桃印は寛文元年に生まれ、五、六歳で父と死別し、母の手で育てられていた。この年延宝四年には十六歳である。詳しい事情は解らないが、芭蕉はこの不幸な少年を引き取り、江戸へ連れて行こうとして帰郷したもののようである。後に桃印は三十三歳で結核のため江戸で病死する。しかし、桃印を連れに戻ったということは、芭蕉の江戸での生活に、ある程度将来の見通しがついたことを意味する。  即ち、翌延宝五年(一六七七・三十四歳)になると、芭蕉の俳壇的地位は、もうかなり安定したものとなって来たようである(春には宗匠として立机したかとも思われるが、翌延宝六年とする方が無難であろう)。そして、その年京都から江戸へ下って来た信徳を迎え、信章と三人で三吟百韻を巻いている(この百韻は、翌春作った百韻二巻と合わせ『江戸三吟』と題して、翌延宝六年三月中旬京都で出版された)。信徳は、京都の梅盛門で、芭蕉より十一歳の年長であり、すでに延宝三年に『信徳十百韻』を著わし、談林派の雄であった。この百韻の芭蕉の発句は「あら何ともなやきのふは過《すぎ》て河豚《フクト》汁 桃青」で、謡曲のきまり文句を踏んで、談林らしい奇抜さがある。  またこの年閏十二月五日に成った内藤風虎編(任口・季吟判)の『六百番俳諧発句合』にも、「猫の妻へつゐの崩《くづれ》よりかよひけり」以下二十句が収録されている。「猫の妻」の句は伊勢物語第五段にある、男が「築地《ついぢ》のくづれより通ひけり」という文句を取って、猫の妻に置き換えたところが、談林らしい手法で、伊勢物語によった点は貞門派同様古典のもじりだが、それを猫の妻が通ったとしたところに、人の意表をつく、いわゆる無心所著《むしんしよじやく》のおかしみがある。 俳諧宗匠となる  こうして次第に江戸俳壇に地歩を占めた芭蕉は、翌延宝六年春三十五歳で、俳諧宗匠として立机し、万句の興行を行なった。すでにこの年の正月には、歳旦帳を著わして門人たちに配っている(梅人『桃青伝』)。また其角は延宝初年に入門しているし、杉風、嵐蘭、嵐雪等有力な門人がいる以上、仮に宗匠の披露目がすんでいないとしても、宗匠並みの扱いを受けていたと見てよい。  この年江戸で刊行された主要俳書には、すべて相当数の芭蕉の句が収録されている。二葉子《じようし》編『江戸|通町《とおりちよう》』(七月下旬刊)・言水《ごんすい》編『江戸|新道《しんみち》』(八月上旬刊)・不卜《ふぼく》編『江戸|広小路《ひろこうじ》』(九月?)等である。京都から出府して来た青木|春澄《はるずみ》を迎えて、似春《じしゆん》と三吟歌仙三巻を巻いたり、これも京都から来ていた信徳《しんとく》に千春《ちはる》を加えて三吟歌仙を巻く(十二月)。七月には蝶々子に招かれて、芭蕉の発句で四吟歌仙を巻き、秋にも杉風と両吟歌仙を巻くなど、作句活動は極めて活発である。  その上、冬十月には岸本調和系の人たちの「十八番発句合」に、頼まれて判詞を書き、跋文を添えて、「坐興庵桃青」と署名し、「素宣《そせん》」の印を押している。他派の人々から発句合わせの判者を頼まれる程に芭蕉の俳壇的地位は安定して来たのである。  〈2〉明るい日々 明るい日々・明るい作品  その作品傾向も、談林派の新進宗匠にふさわしい、明るく、才気の溢れたもので、この年の春の作と考えられる次の句などは、待望の宗匠立机前後の明るい心境を想像させるものがある。   か|び《〈濁ママ〉》たんもつく|ば《〈濁ママ〉》ゝせけり君が春  桃青 (『江戸通町』) 「かびたん」は当時の半濁音記号の不完全さによるもので、おそらくカピタンと発音したものであろう。カピタン(甲比丹・甲泌丹)は、長崎のオランダ商館長で、毎年正月に江戸へ出府し、献上品を持って幕府に挨拶した。カピタンという異国人を素材にし、カピタンまでも平伏させた君が春よと、泰平の春を謳歌したところに、談林俳諧らしい着想の新奇さがあり、また作者の心境の一端もうかがわれるというものである。 雨の日や世間の秋を堺町《さかひちやう》      桃青 (『江戸広小路』)  堺町は当時の江戸の芝届町である。雨の降る日、殊に秋雨のそぼ降る日は淋しいものだが、そういう世間の秋とは正反対に、芝居小屋や芝居茶屋の続くあたりは、明るく賑やかで、人の心を惹きつける零囲気がある。おそらくは芭蕉も、時に堺町のあたりを歩いたり、芝居小屋をのぞいたりしたことであろう(芭蕉が芝居見物をしていることは、元禄元年、元禄四年などが知られている)。若い新進の俳諧宗匠として、当然あってよいことである。  連句を見ても、「実《げ》にや月間口千金の通り町」の桃青の発句による同年七月の歌仙から一節を引けば、 又|孕《はら》ませて蛙子《かへるご》ぞなく    紀子 鶯《うぐひす》の宿《やど》が金子《きんす》をねだるらむ   桃青 という調子で、前句の「蛙子」はお玉|杓子《じやくし》である。お玉杓子のように子供がいっぱいいて泣いているという前句に対し、芭蕉の付け句は、鶯のような娘が妊娠させられ、お玉杓子(子供)を生んだので、それを種に娘の請人宿《うけにんやど》の親方が金を無心に来るという意である。 恋|訴詔《そしよう》(訟)ふしんながらも指金《さしあぐ》ル 春澄 告《つげ》にまかせて口説《クドキ》申候《もしそろ》      桃青  似春・春澄・桃青の三吟歌仙の一節である。前句は謡曲「鸚鵡小町《おうむこまち》」に「ふしんながらもさしあげて」という文句があるのを踏んだもので、「ふしん」を「無心」に利かせ、無心のことながら、わが恋の願いを聞き届けてくれよと相手に訴え出たというのである。芭蕉の付け句の「告《つげ》にまかせて」というのは裁判の折りの慣用語で、訴状に従っての意である。前句の訴訟に対して、「告にまかせて」と応じ、恋の句であるので「口説申候」と訴状の文句のように応じたところ、誠に巧みな応接というべきである。  長い部屋住みの境遇から、俳諧宗匠の道を求めて江戸へ出たのが、二十九歳の春であった。それから六年、その間の道は決して平坦ではなかった。「空手にして金《こがね》なき」青年、それも伊賀の山の中から出て来た、大した伝手《つて》も後援者もない青年が、いきなり都会へ出て来て、自分の力で運命を切り開いて、漸くここまで来たのである。芭蕉の胸中には、胸ふくらむ思いがあったことだろう。苦労して目的を遂げた者のみが知る、深い喜びがあったに相違ない。もちろん生活が急に楽《らく》になったわけではない。まだ小沢卜尺の世話で水道工事の帳面付けを手伝ったりしている。しかしこうやって行けば、次第に道が開けるだろうという未来がある。しばらくは芭蕉の毎日は明るい日々であったといってよいであろう。 若い日の寿貞との関係  もし想像を許されるなら、芭蕉の晩年になって、寿貞《じゆてい》という尼号で芭蕉の身辺に登場して来る女性との関係は、この前後の二、三年にあったと見るのはどうであろうか。この私の想像は、すでに説かれている大内初夫氏などの説(「芭蕉と寿貞・次郎兵衛」『語文研究』四・五)にも近いようだが、私は、延宝四年の夏、芭蕉がその甥桃印を故郷から連れ帰った時頃から、寿貞は芭蕉の内妻として同居していてもよいような気がする。これは証拠のないことだから、想像以上のものではないが、もう少し譲歩しても、芭蕉が宗匠として立机し、貧しいながら多少の生活の見込みが立った延宝五、六年の頃には、家内に家事を助ける婦人がいたと見る方が自然ではあるまいか。  芭蕉の直門であり、高弟の一人でもあった野坡《やば》が「寿貞は翁の若き時の妾にて、とく尼になりしなり」と、門人の風律《ふうりつ》に語ったことが、風律の『小ばなし』に載っている。それは、著名な話で、この記事の信憑《しんぴよう》性をめぐって幾多の議論が出ているが、野坡の談の「翁の若き時」をいつかと考えてみると、江戸に出て宗匠になり、気持ちも安定し、生活の見込みもついたこの前後が最もふさわしいような気がする。  ただし、そうなると、寿貞の子の次郎兵衛が、誰の子で、いつ頃生まれたか、という問題が出て来る。ここでは、その議論を展開する適当な場ではないから略説にとどめるが、まず次郎兵衛は芭蕉の子ではなく、寿貞が他の男との間に設けた子であろうということ。外に、まさ・ふうの女の子も同様。そして、次郎兵衛の生年については次のことを考える必要がある。元禄七年、芭蕉が最後の西上の旅に彼を少年としていたわりつつ伴い、しかし芭蕉が京都にいる頃に江戸の寿貞の死のしらせがあると、芭蕉は少年の次郎兵衛をひとりで江戸に帰らせ、更にまた西上させている。  してみると、この時の次郎兵衛の年齢は、まず十三歳以下ということはあるまい。といって、十八歳なら当時としては結婚してもおかしくない大人の年である。私は後述するように、芭蕉が深川の草庵に入った延宝八年(芭蕉三十七歳)の冬までには、寿貞は芭蕉の許を去ったと考える。もし寿貞が延宝八年に芭蕉の許を去り、翌年に他の男との間に次郎兵衛を生んだとすれば、次郎兵衛は十五歳で芭蕉の最後の旅の供に出たことになる。 5 転機に立つ  〈1〉新進の俳諧宗匠 漢詩文をもじり、新進宗匠の面目躍如  明けて延宝七年、三十六歳の春には、 阿蘭陀《おらんだ》も花に来にけり馬に鞍《くら》   桃青 (『江戸蛇之鮓』) などと、前年の「かびたん」の句同様、明るい春を謳歌し、芭蕉は新進の俳諧宗匠として、江戸俳壇の注目を浴びていた。この年刊行された(または編集された)俳書の多くに、桃青(芭蕉)の名が見られることを以てしても、そのことは察せられよう。即ち、千春編『かり舞台』・言水編『江戸蛇之鮓』・宗臣編『詞林金玉集』(未刊)・蝶々子編『玉手箱』・西治編『二葉《じよう》集』・才丸編『坂東《ばんどう》太郎』等には、それぞれ芭蕉の作品を請い受けて収録しているのである。  連句の会もしばしば行なわれたことであろう。ここには、まず似春との両吟百韻(脇句のみ四友)から一節を引いてみよう。 御供にはなまぐさものゝ小殿原《ことのばら》  似春 つゞく兵《つはもの》鱠《なます》大根       桃青  前句の「小殿原」は、お供に続く若い家来たちの意に、正月のお節《せち》料理につかう「ごまめ」の異名を「小殿原」というので、掛け詞に使ったもの。芭蕉の付け句は、同じく正月の料理を並べて付けた。  また似春・四友の上方行きを送る両吟百韻(四友は脇句のみ)の一節を引けば、 又や来る酒屋門前の物もらひ   似春 南朝四百八十|目米《めまい》       桃青  芭蕉の付け句は、前句の「物もらい」を乞食と眼病の麦粒腫《ばくりゆうしゆ》とに掛けて取り、それに杜牧の「江南春」の詩の一節「水村山郭酒旗風、南朝四百八十寺」をもじったもの。米一石は当時銀で四十匁位だが、飢饉でその米が四百八十匁もして、酒屋の門前に乞食が次々と来るさまに取ったもの。「匁」を「目」としたのは、「物もらひ」(麦粒腫)の縁語。 冷食《ひやめし》を鬼|一口《ひとくち》に喰《くひ》てげり     似春 是生滅法生姜梅漬《ぜしやうめつぽふしやうがうめづけ》       桃青  前句は、伊勢物語の芥川《あくたがわ》の段の「鬼はや一口にくひてけり」をもじったもの。芭蕉の付け句は、鬼に喰われたので仏語の「諸行無常、寂滅為楽、是生滅法、生滅々已」を持ち出し、「冷食を」「喰てげり」だから「生姜梅漬」と対させたもの。  いずれも談林俳諧らしい奇想天外の趣があり、新進俳諧宗匠の面目|躍如《やくじよ》たるものがある。殊に、漢詩・漢語のもじりが多くなり、いわゆる漢詩漢語調の徴候が見えることを注意して置く必要があろう。 地位確立して転機に立つ  翌延宝八年には、芭蕉は三十七歳になった。春には、 於《アヽ》春《はるはる》大ナル哉《カナ》春と云々《うんぬん》   桃青 (『向の岡』) というような、相変わらず談林派らしい明るい句を詠んだ。この句は、|米〓《べいふつ》の「孔子賛」のもじりで、「孔子、孔子、大哉孔子、孔子以前既無二孔子一、孔子以後更無二孔子一、孔子、孔子、大哉孔子」を踏んだものであり、「云々」は、漢文注釈によく用いられる慣用句である。前年にすでに見られた漢詩漢語調が引き続き踏襲されていることがわかるが、これは芭蕉のみならず、談林派の一部で、延宝末年頃から天和にかけて、かなり流行した手法である。日本の古典のもじりが使い古されて、新鮮さを失って来たところから工夫された新手法といってもよいであろう。  またこの年四月には、芭蕉の門人たちの連句集『桃青門弟独吟二十歌仙』が出版された。標題に、「桃青門弟」と角書《つのがき》をつけ、二十一人(追加一人を含めて)の門人の連句を集めて、あえて世に問うというところに、蕉門の人々の意気込みがうかがわれる。四月の出版であるから、おそらく、前年の延宝七年から準備が進められていたものであろう。ここにも、宗匠としての芭蕉の俳壇的地位の確立を見ることができる。  八月には芭蕉の評語を添えた、其角の自句合『俳諧合田舎』(いわゆる「田舎《いなかの》句合《くあわせ》」)が刊行され、九月には、これも芭蕉の判詞を得た、杉風の自句合『俳諧合常盤屋』(いわゆる「常盤《ときわ》屋《やの》句合《くあわせ》」)が刊行されるなど、蕉門の活躍は目ざましいものがあり、それは即ちまた芭蕉の俳壇的地位の確立につながって行くものであった。「田舎句合」の嵐亭治助《らんていじすけ》(後の嵐雪)の序文に「桃翁(芭蕉のこと。すでに翁と呼ばれる位、老成の風があった)栩々斎《くくさい》にゐまして、為に俳諧無尽経を説く。東坡《とうば》が風情、杜子《とし》がしゃれ、山谷《さんこく》が気色より初めて、その体幽になどらか也」とあるのは、芭蕉が荘子や、蘇東坡・杜甫・黄山谷等に関心を持ち始めていることを示している。  ところがしかし、この年の後半から、芭蕉の作品には微妙な変化が現われて来る。 蜘《くも》何と音《ね》をなにと鳴《なく》秋の風桃青 (『向の岡』) 夜ル竊《ひそか》ニ虫は月下の栗を穿ッ     桃青 (『東日記』) 枯枝に烏のとまりたるや秋の暮   桃青 (『東日記』) 愚《ぐ》案ずるに冥途《めいど》もかくや秋の暮   桃青 (『向の岡』) いづく霽傘《しぐれカサ》を手にさげて帰る僧   桃青 (『東日記』)  談林調ではあるが、従来の明るい、洒落れたおかしみはかげを潜めて、秘かな暗中模索の行なわれていることが解るであろう。  実は談林俳諧全体が、延宝の末年から天和初年にかけて、転機に立たされていたのである。  〈2〉模索と反省 談林俳諧の急速な凋落  貞門俳諧の陳腐さに対し、清新な着想と自由奔放な表現によって、談林派は俳壇を席巻《せつけん》した。正に文字通り席巻であった。貞門派からさまざまの抵抗はあったが、結局俳壇全体が新風の勢いに呑まれたといっても過言ではない。だがそれだけに談林派は、宿命的に常に新味を求めなければならない性格を内在させていた。常に読者の意表をつく新奇さに談林の存在理由がある。無心所著《むしんしよじやく》のおかしみは、同じ趣向では読者を満足させない。常に意表をつき続けるためには、新しい趣向が次々と考案されなければならない。しかし古典・故事のもじりもだんだん種が尽きて来る。謡曲を盛んに使ってみたが、それも頻繁になれば、やはりまたかということになる。中国の古典のもじりも乱用されれば、倦きが来る。こうして談林俳諧は十年足らずでマンネリズムに陥ってしまった。  延宝末年から天和初年へかけて談林俳諧は急速に凋落《ちようらく》する。それは実は俳壇全体の危機であった。芭蕉もまた例外ではない。このように談林俳諧全体の行きづまりの問題もあったが、一方また、芭蕉自身の内面の問題も考えないわけには行かない。  粒々辛苦して、芭蕉は俳諧の宗匠の地位を得た。門人もでき、どうやら生活のめどもついた。目的を達して、しばらくは明るい歳月が続いた。しかし、浮き浮きとした宗匠生活の興奮がやがて醒めると、自己の芸術や人生について、静かに考えてみないわけには行かなかったであろう。三十五歳の春に宗匠の披露目をしてから二年有余、俳壇的地位の確立と比例して、芭蕉の心中に、沈静と反省とが、一種の失意と、失意の中からの新たな模索とが始まった。 宗匠の地位・ことばの遊戯への反省  談林派一方の旗頭である岡西|惟中《いちゆう》門で、関西から江戸へ出て来た脩竹堂《しゆうちくどう》が、延宝六年八月に『俳諧|或問《わくもん》』という書を著わしている。書中、惟中の俳諧|寓言《ぐうげん》説を祖述するところが多いが、その序文に「予《わ》れもと草莽《さうまう》の家に長《ひととな》って、詩歌の奥深き林に游《あそ》ばず。唯俳諧を好んで群《ぐん》を郷里の小児と共にす」と述べ、さらに「扨《さて》、俳諧の二字は、たはぶれかたるとよみたれば、月をうらやみ、花にめで、折ふしの興にまかせて、ひゃうふっと云ひ出す言葉の、みづからも腹をかゝへ、人の耳目をよろこばしめて、衆と共に楽むを俳諧の骨子とす」と述べている。それは当時の談林俳人たちの俳諧観を示して余りがある。  芭蕉もまた、そのような談林俳諧を作り、そのような談林俳人たちと交わりを共にして、「衆と共に楽」しんでいた。蕉門の門人たちの作品にしても、その点は同様である。『桃青門弟二十歌仙』の巻頭の杉風の連句の冒頭数句を引いてみよう。 誰かは待《まつ》蠅は来《きた》りて郭公《ほととぎす》 あほう有《あり》ける世中《よのなか》の夏 夕涼金ひろはんと立|出《いで》て 牛|尿《クソ》つかむ月の下道 秋の空西も東もしらぬ子が (下略)  談林的遊びの俳諧であることは明瞭である。脩竹堂のことばを借りれば「詩歌の奥深き林に游」ぶのではなく、「群《ぐん》を郷里の小児と共にす」る程の遊戯であり、それも「折ふしの興にまかせて、ひゃうふっと云ひ出す言葉」である。宗匠稼業というのは、平生実業に従う人々が、実業の余暇に「たはぶれかたる」相手をする職業でしかない。だから「みづからも腹をかゝへ、人の耳目をよろこばしめ」るものでなければならないのだ。俳諧は、士大夫の文学ではなく、小児の玩弄でしかない。それを弄《もてあそ》ぶ旦那衆のお相手をするのが俳諧宗匠である。  経済的にも生活はらくではない。門人といったところで、ご機嫌を損えば明日にも離れてしまうであろう。その門人たちの合力がなければ生活は成り立たない。憧れた宗匠の地位について、気がついてみたら、それは根の無い浮き草のような、はかない地位だった。芭蕉は宗匠生活のむなしさを今更ながら感じた。その苦渋が心にしみる。夢は破れた。  しかも、談林俳諧そのものも行きづまり、今までおもしろいと考えて苦心していた作品も、吹けば飛ぶようなことばの遊びでしかないことに気がついて来た。それが、延宝八年、芭蕉三十七歳後半の心境ではなかったか。  〈3〉深川退隠 実利を捨て人間性の純粋に従う  新しい出発を考えなければならない。芭蕉は、荘子や杜甫や蘇東坡や黄山谷や、その外中国の詩人・文人たちの作品を読んだ。もちろん、今始めて読むわけではないが、改めて読めばまた心に泌みるものがある。それは、ことばの遊戯ではなく、作者の実感を詠んでいる。貞門俳諧も、談林俳諧も、人間不在の文学だった。自分の心を詠まなければならない。中国の詩人たちによって芭蕉はこのことを学んだ。更にまた、荘子を読むことによって、芭蕉は、実利を去って人間性の純粋に従うことを学んだ。富や栄誉を求める現実世界の確執から引退を考えるに至った背景には、このような荘子の影響を無視できないであろう。  こうして芭蕉はこの年の冬、隅田川の向こう側の深川の地に居を移したのである。それまで芭蕉は日本橋の本船町に住んでいた。深川は、当時、市中を去った辺鄙の地で、水が悪いので飲料水を買い求めなければならないような土地であった。宗匠として活発な活動をするためには、従来通り日本橋のような便利な地に住むべきである。その方が自分も出やすいし、門人たちの出入りにも便利である。便利な日本橋本船町の住居から、あえて隅田川の向こうに移り住もうと決心した胸中には、いわゆる宗匠生活を断念する決意があったと見なければならない。  門人をふやし、多くの俳席を持ち、「みづからも腹をかゝへ、人の耳目をよろこばしめて、衆と共に楽」しみ、一門の句集を刊行し、人気を得て華やかに門戸を張ることが宗匠生活の目標であろうが、芭蕉はここにそういう目標を捨てたのだ。  だから、深川への転居は、生活の安定を意味するものではなく、むしろ生活の危険を覚悟して、宗匠生活から「退隠」したのである。といっても、実際には一挙に宗匠的生活を捨て切れたわけではないであろう。しかし覚悟はそこにあったと見てもよい。芭蕉自身がそのことを次のように書いている。 こゝのとせの春秋、市中に住侘《すみわび》て、居を深川のほとりに移す。長安は古来名利の地、空手《くうしゆ》にして金《こがね》なきものは行路難し、と云《いひ》けむ人の、かしこく覚へ侍るは、この身のとぼしき故にや。 しばの戸にちやをこの葉かくあらし哉 ばせを (『続深川集』) 人間不在から人間のいる文学へ  市中に住みわびたから、深川に退隠したのである。隠者になろうと決意したのだ。だから、 富家ハ喰ラヒ二肌肉ヲ一、丈夫ハ喫ス二菜根ヲ一、予ハ乏し 雪の朝独り干鮭《からさけ》を噛《カミ》得タリ    桃青 (『東日記』) とも詠む。この句は深川移転当時の作と考えられる。金持ちたちはうまい肉を食い、将来を夢みている野心多き青年たちは菜根を食べて意気|軒昂《けんこう》たるものがあるが、自分は金もなく野心もなくただ乏しいだけで、寒い雪の朝、固い鮭の干物を囓るのみだというのだが、そこには暗澹たる心境を隠者的ダンディズムによって支えようとする、いわば一種の気負いがある。自分は、いわば第三の道を行くのだという、壮志がある。  深川へ移るとなれば、寿貞とも別れたであろう。甥の桃印はもう二十歳だからどこかへ勤めに出したのであろう。延宝九年・三十八歳の正月を、ひとり草庵に迎えた芭蕉は、次の句を短冊に書いた 元朝心感有 餅を夢に折結《おりむすぶ》歯朶《しだ》の草枕    華桃青 (真蹟短冊)  句の大意は、どこの家も元旦は鏡餅を床の間に飾り、家族ともども正月を祝うのだろうが、自分は草庵にひとり旅寝同然の生活であるから、鏡餅の下に敷く羊歯《しだ》の葉を折って旅寝の枕とし、餅を夢に見るのみである——というようなところであろう。露骨に自分の境涯を歎いていて、発句としては佳句ではないが、前年の春の吟「於《アヽ》春々大ナル哉《カナ》春と云々」などに比べて明らかに一線を劃するものがある。古人の作品に頼る言語遊戯ではなく、自分の胸中のものを作品に盛り込もうとしている。  ここには、はっきり作者が居り、作者の思いが述べられている。人間不在の文学から、人間の居る文学へ移ろうとしている。この句の別の真蹟に「思ひ立つ事有る年」と前書したものがあった由だが(『句選年考』)、この年の正月は芭蕉にとって万感こもごも至る思いであったに相違ない。世間通俗の宗匠生活を続けようとすれば道は安易である。やさしい妻、暖かい家庭、小市民的幸福。掴もうとすれば、それは掴めるのだ。しかしそれでは真の芸術は得られない。宗匠生活を捨てて、純粋に生きようとすれば、きびしい人生を覚悟しなければならない。どちらを選ぶのも芭蕉の自由であった。だが両方を取ることは不可能である。両方は取れないところに人生の厳粛さがある。芭蕉はあえて後者の道を選んだ。元旦にあたって感慨があるのはまた当然である。  ただし作者が自分の胸中のものを俳句作品に詠みこむ手法が、まだ確立されていないこの時期のことであるから、この作品も結局は未完成の感を免れない。  当分の間、芭蕉は中国詩人のパターンに習うことによって、その方法の確立を探り求めるのである。 宗匠生活への興味をはっきり失う  深川大工町臨川庵に仏頂和尚を訪い、禅を修したのも、深川移転後間もないことと考えられるが、一介の俳諧師の身で禅に志すなどは異例のことである。芭蕉が新しい転機を求めて暗中模索している様は、ここにもうかがわれる。  この年の夏から冬にかけての句文を二、三掲げてみる。 夕《ゆふがほ》の白ク夜ルの後架《こうか》に帋燭《しそく》とりて  芭蕉 (『武蔵曲』) 茅舎ノ感 芭蕉|野分《のわき》して盥《たらひ》に雨を聞夜哉《きくよかな》     同 (同右)         泊船堂主華桃青《はくせんだうしゆくわたうせい》 窓含西嶺千秋雪 門泊東海万里船 我其句を職《しつ》(識)て、其心を見ず。その侘《わび》をはかりて、其楽をしらず。唯、老杜《らうと》にまされる物は、独《ひとり》、多病のみ。閑素茅舎《かんそばうしや》の芭蕉にかくれて、自《みづから》、乞食《こつじき》の翁《おきな》とよぶ。 櫓声波を打てはらわた氷る夜や涙 貧山の釜霜に鳴声寒シ 買水 氷にがく偃鼠《えんそ》が咽《のど》をうるほせり 歳暮 暮々《くれくれ》てもちを木玉《こだま》の侘寝哉 (小林氏蔵真蹟懐紙) 寒夜辞 深川三またのほとりに草庵を侘《わび》て、遠くは士峯の雪をのぞみ、ちかくは万里の船をうかぶ。あさぼらけ漕行《こぎゆく》船のあとのしら浪《なみ》に、芦《あし》の枯葉の夢とふく風もやゝ暮過《くれすぐ》るほど、月に坐しては空《むなし》き樽をかこち、枕によりては薄きふすまを愁《うれ》ふ。 艪《ろ》の声波を打て腸《はらわた》氷る夜や涙 (『夢三年』)  これらの句文を読めば、芭蕉がもう談林的宗匠の生活に興味を失っていることは瞭然《りようぜん》であろう。 みずから進んで世間的敗北の道へ  深川の草庵を、芭蕉ははじめ「泊船堂」と号した。杜甫が成都で詠んだ「絶句四首」の中の「門ニハ泊ス東呉万里ノ船」から取ったもので、そこは隅田川の三つ股の近くで、夜になると川船の櫓の音がはっきりと聞こえて来た。独り物思いに耽っていると孤独悲愁の念が胸に満ち、寒気は腸も氷るばかりである。内心の思いをこのような表現で詠むことを、芭蕉は中国の詩人たちに学んだと思われる。だから多少そこに借り着の感がないとはいえない。身ぶりがないとはいえない。しかし、そういう隠者的、文人的ダンディズムをとることによって、必死になって世の俗流に抵抗しているのであり、現実生活の挫折を支えているのである。  世間からの退隠は、世間的にいえば現実生活に敗北したことである。だが、みずから進んで 敗北の道を選んだのは、敗北に代わる代償を得ようとしたからに相違ない。代償とは何か。世俗を去ることによって、精神の文学を樹立することである。通俗的宗匠生活を捨てることによって、真の隠者となり、そのことによって純粋な人間性を回復することである。そこに文学と人間との一体化が可能になり、高雅な文学が生まれる。そのことを芭蕉はまだはっきりとは自覚していない。しかし、中国の詩人たちのパターンに習うことによって、世俗的希望の崩壊に耐え、現実厭離の支えにしようとしたのである。現実世界からは退隠するが、そのことによって純粋な芸術家になり、芸術だけに身を献げようとする。従って名利は遠ざけるが、文学に対してはかえって積極的になり、かえって高いものを求める。  それが、これから後半生の芭蕉の人生信条である。その人生に対する信条が、文学の上でいかに具体化されて行くか。文学は理論ではないから、いかに理想を掲げ、信条を訴えても、それが作品として具象化されるには、おのずから水の低きにつくが如き熟成の経過を要する。われわれも、ゆっくりと芭蕉の変化熟成を見守ることにしよう。 6 新しい出発  〈1〉一切を俳諧にささげる 漢詩の手法に学んで新生面を工夫  延宝末年から天和初年へかけての談林俳諧の行きづまりが背景にあったとはいえ、芭蕉の転回は、芭蕉個人の意志と努力と天才によってなされた。転回が進行するにつれて、世間はこの独自の天才に驚異と讃仰の目を向け始めた。しかしまた、去って行く門人もいた。先に述べた『桃青門弟二十歌仙』の二十一人の門人中、後年迄芭蕉と歩みを共にするものは半数に満たない。その代わり、一方では質のよい門人が集まって来た。甲州の秋元但馬守喬朝の国家老で、千二百石を食《は》む高山|麋塒《びじ》なども、その一人であった。  麋塒は天和二年(一六八二)(芭蕉が深川の草庵へ入庵した翌々年)八月十四日に、芭蕉庵へ来て月見の俳諧興行をしている。芭蕉の草庵は、前記の通り、始め「泊船堂」と呼ばれていたが、後に門人|李下《りか》によって芭蕉が植えられてから、やがて自他ともに芭蕉庵と呼ぶようになっていた。  これより先、芭蕉は、麋塒宛ての手紙の中で、京・大坂・江戸共に俳諧が古くなって、みんな同じような句ばかり作っていると指摘し、宗匠たちも三、四年以前の談林風の俳諧をまだ作っていて古臭いと批判している。そうして、五・七・五の定型の外に出る「字余り」の形でも「句のひゞき」がよければよいのだと、教えている。延宝末年から天和初年にかけて、芭蕉の発句に「字余り」の句の多いことは、前に引いた例でもわかるであろうが、更に一例を挙げれば、 憶フ二老杜ヲ一 髭《ひげ》風ヲ吹《ふい》て暮秋歎ズルハ誰ガ子ゾ   芭蕉 (『虚栗《みなしぐり》』) などの如きである。老杜は杜甫のことで、杜甫の詩に「ツキレ藜ヲ嘆ズルレ世ヲ者ハ誰ガ子ゾ、泣血迸レシメテ空ニ回ラス二白頭ヲ一(あかざを杖つき世を嘆ずる者は誰が子ぞ、泣血《きうけつ》空にほとばらしめて白頭をめぐらす)」とあるのを念頭に置き、「風髭を吹いて」というべきところを、わざと逆置して「髭風ヲ吹て」といったもの。この逆置の手法は漢詩の倒装法という手法で、天和二年頃の芭蕉が、漢詩の手法によって新生面を打開しようと工夫しているさまがわかる。 夜着は重し呉天《ごてん》に雪を見るあらん  芭蕉 (『虚栗』) なども同年頃の漢詩調の字余り句である。字余りの句ではないが、 椹《クハノミ》や花なき蝶《てふ》の世すて酒      芭蕉 (『虚栗』)  も、天和二年の作と見て置きたい。春の花の盛りを過ぎた初夏の頃、花がないので桑の実にとまって汁を吸っている蝶のさまを、いわば世捨て人が世を侘《わ》びて酒を飲んでいるようなものだと、たとえて詠んだのである。このたとえ方には、まだ談林時代の余臭が残っているが、どこかに世に背《そむ》いた自分を蝶に擬して省《かえり》みているところがある。後年のような円熟した隠者の心境ではないが、そこがかえって天和二年らしいところである。  なおつけ加えていうと、「芭蕉」という号が文献に出て来るのは、この年三月上旬刊の『武蔵《むさし》曲《ぶり》』という本が最初である。おそらく前年(延宝九年九月二十九日に天和と改元)の天和元年の秋のころからであろうか。その外、初期の庵号には夭々軒《ようようけん》・坐興庵・栩々斎《くくさい》・華桃園などが用いられたことをいい添えて置こう。  ところで、この天和二年十二月二十八日に、駒込の大円寺から出火して江戸に大火が起こり、芭蕉庵も類焼した。年があけてから、芭蕉は甲州(山梨県)へ赴《おもむ》いた。前述の高山|麋塒《びじ》を頼っていったものと思われる。 甲州からの帰京と芭蕉庵の再建  天和三年(一六八三・四十歳)の正月吟はない。焼け出されてそれどころではなかった。本郷・下谷・神田・日本橋・浅草・本所・深川と広範囲に及ぶ大火であったから、芭蕉の門人で火災にあったものも多かったであろうし、焼けなかった人々も、親戚・知人の救難が先で、俳諧どころではなかったに相違ない。俳諧は、世間の人にとっては、現実生活が安穏無事の時に楽しむもので、一朝有事の際には、二の次にされるのが当然である。芭蕉が「甲斐の山ざとにひきうつり、さま苦労」(書簡)したと、後に書いているのも、またやむをえないことであった。 夏馬《かば》の遅行《ちかう》我を絵に見る心かな(初案) (『一葉集』連句篇) は、この甲州|流寓《るぐう》の間の作である。後にこの句は、「馬ぼく我をゑに見る夏野哉 芭蕉翁」(『水の友』)と直された。  甲州から、五月に江戸に帰り、其角《きかく》編『虚栗《みなしぐり》』の跋文を書いた。李白・杜甫・寒山・西行・白楽天など、和漢の古人の名を挙げて、古人にならう気持ちを述べたもので、なお中国の詩人の強い影響下にあることが知られる。  六月二十日に母が郷里で没したが、芭蕉は葬儀に戻らなかった。戻れなかったというべきか。火災の後、なお生活が安定していなかったせいであろう。  九月になってようやく芭蕉庵再興の話が出、友人の素堂が「芭蕉庵再|建勧進簿《くわんじんぼ》」を書いて門人間に廻し、五十二人(杉風・卜尺等の名前は見えない)の知友・門人等によって、総計百四十匁(銀)あまりが集まり(もちろん当時といえどもそんな金額で家の建つはずはないから、外に杉風・卜尺等の援助があったものであろう)、冬新築の芭蕉庵に入った。新庵は旧庵と程遠からぬあたり、深川元番所、森田惣左衛門屋敷の一角であった。 ふたゝび芭蕉庵を造りいとなみて あられきくやこの身はもとのふる柏《かしは》 (『続深川集』) すでに俳諧に没入する自信と覚悟  年があけて天和四年(二月二十一日に貞享と改元・四十一歳)の正月は、 春立《はるたつ》や新年ふるき米五升 (『三冊子』) 注 初案は「我富り新年古き米五升」 (真蹟短冊) と詠み、隠者としての自足の情を示した。前年の天和三年は甲州|流寓《るぐう》の事などがあって、俳諧活動は必ずしも活発でなかった。しかし、この間に芭蕉の隠者的心境が円熟したことに注目したい。肩を怒らせて隠者的ポーズを取っていた二、三年前の姿勢はもう見られない。中国の詩人にならった気取りも、次第にかげを潜めて来る。漢語調や字余りの句も少なくなる。  数年前深川へ退隠した時は、通俗的な宗匠生活を断念し、真の隠者になるのだと、一所懸命自分にいい聞かせているようなところがあった。それは、現実生活からの退隠が、一種の失意だったからである。失意ではないといい聞かせながら、やはり悲哀感傷の気を覆《おお》い得なかった。だから、杜甫《とほ》もそうだ、李白《りはく》もそうだ、淵明《えんめい》もそうだ、と、中国の文人たちを挙げ、その列に自分も加わるのだと自分にいい聞かせて、挫折《ざせつ》を支えようとした。だがようやく今は一種自得の境地に近づきつつある。それは隠者ではあるが、消極的な無為の隠者ではなく、世俗からの引退という意味では消極的隠者だとしても、そのことが芸術・文学へ積極的に貢献するという意味では前進的意義を持つという、秘かな自負《じふ》が胸中にあるからである。  世俗から引退したのも、芸術へ献身する為には、それより外に道がなかったからであり、俳諧に没頭し、文学に人生を捧げることが有意義な人生だという自信が出て来たからである。富貴や栄華を諦めるだけなら消極的隠者である。芭蕉の場合、芸術に、文学に、俳諧に総てを捧げよう、純粋に風雅のためだけに生きようと決意した結果、富貴や栄華が眼に入らなくなって来たのである。そこに、おのずから世俗を等閑視するようになったのであって、それが即ち風狂である。  ここまで来るには、しかし、一朝一夕ではなかった。深川退隠以来、数年の間に少しずつ円熟して来たのである。だから芭蕉は、世間を殊更憎悪したり、軽蔑したりはしていない。ただ世間を顧みている暇がないから、世俗人からは世間を蔑視しているように見えたのであって、それが世間にとって風狂に当たるのである。世間から、尋常でなく、気違いじみて見られるとしても、それは仕方がない。それは覚悟の上だ。その覚悟が自然にでき上がったので、真の隠者らしく見え出したということである。  〈2〉『野ざらし紀行』の旅 故郷へ飾る“風狂”という錦  この年(貞享元年・四十一歳)の秋八月江戸を立って、翌年の二月まで、芭蕉は長い旅に出た。いわゆる『野ざらし紀行』(甲子吟行)の旅であるが、この旅行が行なわれたのは、芭蕉が、心境的にも俳諧隠者として風狂の境地を会得したと自覚したからであろう。もう故郷へ帰ってもよいと考えたからである。今や自分が、俳壇から、純粋な、芸術としての俳諧の推進者として評価され、自分の気持ちとしても、風狂の体現者として一応自得の境地を得たと考えたから、故郷への旅を実行したのであろう。もちろん、昨年没した母の墓参の気持ちもあった。だが、もうここで、一度故郷へ帰ってもよいと、みずから許すところがあっての旅行である。 「錦を着て故郷へ帰る」という言葉がある。芭蕉のこの帰郷は、錦を着た帰郷とはいえそうもない。しかし、こういう人間になりましたと、自分なりに納得のいった気持ちで故郷へ帰るのではある。肥馬に乗り好裘《こうきゆう》を着て、得々として郷関に入るわけではないが、風狂の人となったことをみずからよしとして帰郷する意味では、秘かに識者の共感を得られる自信もあったのではないか。児童や老婆の賞讃を期し得ないとしても、何人かの心ある人々の同感を期待する意味で、一種の錦を着た帰郷といえないこともない。風狂という一種の錦を着た帰郷である。 野ざらしを心に風のしむ身哉 秋|十《と》とせ却《かへつ》て江戸を指《さす》故郷  これは、紀行の巻頭句だが、野ざらしのしゃれ頭《こうべ》になることを覚悟して旅に出ることは、世間尋常の眼から見れば風狂である。世間の人たちは、そんな覚悟で旅に出ることはない。それをあえて「野ざらし」になろうとして旅に出ると決意するところに、風狂の宣言がある。「秋十とせ」の句には、二十九歳で江戸へ出て来て以来の数々の辛苦や、現在の、ともかくも達し得たある自得の心境を顧みての感慨が滲《にじ》み出ている。延宝四年三十三歳の夏にも桃印をつれにちょっと帰ったことがある。その時の帰郷と今度の帰郷とには大きな差異がある。あの時はまだ若く、青雲の志に燃えていた。今は青雲の志は消えて、しかし純粋に芸術に徹する気持ちだけが残っている。乞食《こつじき》の僧の形をとる点では、青雲の志は脆くも破れたといわなければならない。その代わり現実を捨てて芸術に献身する覚悟だけはできた。その覚悟を持って、大手を振って芭蕉は郷関をくぐろうとしているのである。 捨て子を見捨てねばならない芭蕉 『野ざらし紀行』の中で、富士川のほとりで捨て子を見かける一節がある。 富士川のほとりを行《ゆく》に、三つ計《ばかり》なる捨子《すてご》の哀げに泣有《なくあり》。この川の早瀬にかけて、うき世の波をしのぐにたえ(へ)ず、露|計《ばかり》の命待つまと捨置《すておき》けむ。小萩がもとの秋の風、こよひやちるらん、あすやしほれんと、袂《たもと》より喰物《くひもの》なげてとを(ほ)るに、 猿を聞《きく》人捨子に秋の風いかに いかにぞや、汝、ちゝに悪《にく》まれたるか、母にうとまれたるか。ちゝは汝を悪《にくむ》にあらじ、母は汝をうとむにあらじ。唯、これ天にして、汝が性《さが》のつたなき(を)なけ。  よく引用される著名な一節である。この一条を虚構だという人があるが、私はとらない。そのことについては、別に小論を草したので(「成蹊国文」創刊号)ここでは触れないが、旅中の詠草を記した左記の真蹟草稿のあることを以てしても明らかであろう。 旅立 野晒《のざらし》を心に風のしむ身哉 秋ととせ却而《かへつて》江戸を指《さす》故郷 夜更《よふけ》に宿を出《いで》て/明んとせし程に 杜牧《とぼく》が/馬鞍《ばあん》の吟をおもふ 馬上落ンとして残夢残月茶の烟 途中捨子を憐 猿を(啼《泣》)旅人捨子に秋の風いかに 伊勢山田西行谷ニ/あそふ途中の即事 芋洗フ女西行ならば歌よまん  この真蹟草稿中に収められている句は、すべて『野ざらし紀行』中の発句であって、「猿を泣旅人」以外の発句も、いずれも虚構とは考えられない句である。句の前書きも『野ざらし紀行』に比べて素朴ではあるが、それだけにかえって実感がある。句形も初案形で、句の巧拙は別として実感の裏付けのあったことを思わせるものがある。  概していって、『野ざらし紀行』には、後に『笈《おい》の小文《こぶみ》』や『おくのほそ道』の条で述べるような大きな虚構は見られないといってよいであろう。  それはともかく、捨て子を見ても芭蕉はわずかに袂から食い物を投げ与えて去るのみだった。当時の農村は、耕地面積の不足から、人口増は極端に抑えられていた。妊娠中絶も多かったが、捨て子も多かった。捨て子を収容する施設も無きに等しい。まして、実事を捨てた芭蕉に何ができよう。芭蕉は、食い物を与えて去るより外仕方がなかったのである。だが、仕方がないといって平気でいられるなら、事は簡単である。仕方がないことは解っていても、芭蕉は「猿を聞人捨子に秋の風いかに」と詠まずにはいられなかった。 それが世捨て人の純粋な人生態度だった  猿の鳴き声を聞くと断腸の思いがすることを、中国の詩人たちは詩文の中で書き続けて来た。その文学伝統は、わが国の文学の中にも継承され、猿の鳴く声を聞いて悲しく涙を流さないものは詩人ではないとされる。だからこの句は、猿の鳴き声を悲しいと聞く文人たちよ、と呼びかけて、そういう虚事の悲しみもさることながら、この眼前の捨て子に吹く秋風の現実の悲しみを、君たちはどう受けとるかと問いを出している。虚事の悲しさは現実の悲しさに対して、空しい気がしないかと、尋ねているのである。  もちろん、その問いは、文人としての自分自身に対する切実な問いかけでもある。現実を捨てて芸術に専念する決心をしたのだが、捨て子を眼前に見て、自分の現実的無力に対する痛切な反省が、その決心を動揺させるのである。しかし結局、芭蕉は現実を捨てるより外はない。しかし、ただ安易に現実を無視するのでなく、この痛切な反省の上に立って芸術に献身しようとするところに、強く、激しく、純粋なものがあるといってよいであろう。  もう一つ『野ざらし紀行』から引用してみよう。 廿日|余《あまり》の月かすかに見えて、山の根際いとくらきに、馬上に鞭《むち》をたれて、数里《すり》いまだ鶏鳴《けいめい》ならず、杜牧《とぼく》が早行《さうかう》の残夢《ざんむ》、小夜《さよ》の中山に至りて、忽《たちまち》、驚《おどろく》。 馬に寝て残夢月遠し茶のけぶり  この句文が杜牧の「早行」の詩を踏んでいることは周知のところで、即ち「鞭ヲ垂レテ馬ニ信《マカ》セテ行ク、数里《スリ》未ダ鶏明《ケイメイ》ナラズ、林下残夢ヲ帯《オ》ビ、葉飛ンデ時ニ忽チ驚ク、霜凝ツテ孤鶴《コカク》|〓《ハルカ》ニ、月暁ニシテ遠山横タハル、僮僕《ドウボク》険ヲ辞スルヲ休《ヤ》メヨ、何ノ時カ世路平カナラン」(原漢文)で、この漢詩の結びの二句は、漢詩らしい結び方である。こういう時勢に対する慷慨を述べて結句とするのが、漢詩の常套手段といってもよい。  しかるに芭蕉は、この詩を、前掲した句文の中に、たくさん引きながら、この詩の結句である、時世に対する慷慨の部分は全く無視している。つまり、私の悲憤は述べても、現実に対する公の慷慨は決して述べないのが、芭蕉の態度である。それは上来述べて来た芭蕉の新しい決意、現実を捨てて芸術に献身しようという覚悟につながるものである。現実とのかかわり合い、即ち実事を捨てる立場を取った以上、時世に対する慷慨はあるべきはずでない。時世を慨し、政治を論ずることは、虚事に専念する立場を取った以上は、不純のことである。その姿勢は、このあとずっと、芭蕉の後半生につながって行く。もう一度改めて論ずることもあるであろう。  〈3〉異体変調からの脱皮 自分を滑稽小説の主人公に擬して  こうして芭蕉は故郷に帰った。旧暦九月八日のことである。延宝四年の帰省以後からでも七年|経《た》っている。故郷に今は母はなく、風物も変わりはてていた。 何事も昔に替《かは》りて、はらからの鬢《びん》白く、眉皺寄《まゆしわより》て、只《ただ》、命|有《あり》てとのみ云《いひ》て言葉はなきに、このかみの守袋《まもりぶくろ》をほどきて、母の白髪《しらが》おがめよ、浦島の子が玉手箱、汝がまゆもやゝ老《おい》たりと、しばらくなきて、 手にとらば消《きえ》んなみだぞあつき秋の霜 (『野ざらし紀行』) という次第であった。 芭蕉はしばらく故郷に滞在の後、大和の竹内村の門人|千里《ちり》の実家を訪れ、当麻《たえま》寺に詣《もう》で、吉野山に登って西行の旧跡を見た。大和から山城・近江路を辿《たど》り、今須・山中・常盤《ときわ》塚《づか》・不破関址《ふわのせきし》を経て、美濃国大垣に出る。ここにはかねて文通のあった木因《ぼくいん》等の知友・門人もいて、俳席が持たれた。それから桑名・熱田・名古屋でも、招かれて多くの俳席に出た。風狂の隠者としての名望が地方にも知られて来ていたのである。  名古屋では、次の句を発句にして、連句の会が行なわれたが、その発句にも、この頃の芭蕉の心境の一端は示されている。 笠は長途の雨にほころび、帋衣《かみこ》はとまりのあらしにもめたり。侘《わび》つくしたるわび人、我さへあはれにおぼえける。むかし狂歌の才子、此国にたどりし事を不図《ふと》おもひ出て、申侍る。 狂句 こがらしの身は竹斎《ちくさい》に似たる哉 芭蕉 (『冬の日』)  竹斎は実在の人物ではなく、仮名草子『竹斎』の主人公である。山城の藪医者で、食いつめて江戸へ下る途中、名護屋に入り、狂歌を詠みちらす。つまり滑稽小説の主人公である。  この句は、名古屋の俳諧作者たちと連句を作る会で披露され、これを発句にして連句が巻かれたのだが、まだ馴染《なじみ》のうすいこの人々に対して、自分は滑稽小説の主人公のようなものなのですよ、と宣言しているわけである。地方俳壇の人々に対して、自分は他の宗匠と違って、俳諧を「狂句」だと思いながら、しかもその狂句に献身している人間だ、世間からなぶり者にされ、戯画化されている竹斎同然なのだ、ということによって、自分を無用者だと宣言する。しかしまた、単なる無用者ではない、世間的な無用者であることによって、かえって純粋に芸術に献身するものだ、と自負を語っていることでもある。  この時の連衆は、野水(呉服商)・荷兮《かけい》(医師)・重五(材木商)・杜国《とこく》(米穀商)・正平・羽笠等で、この連句を中心に編まれた『冬の日』(貞享元年刊)は、後にいわゆる『俳諧七部集』の第一集となった。始めのところを引用して置く。 狂句 こがらしの身は竹斎に似たる哉 芭蕉 たそやとばしるかさの山茶花《さざんくわ》  野水 有明《ありあけ》の主水《もんど》に酒屋つくらせて   荷兮 かしらの露をふるふあかむま  重五 朝鮮のほそりすゝきのにほひなき 杜国 日のちりに野に米を苅《かる》   正平 (下略) ひたすらに風狂の中に沈潜  歳末に郷里に戻って越年したが、一月二十八日付けの同郷山岸半残宛ての書簡の中で、江戸で出版された俳書の中に、「なまきたへなる句、或は云《いひ》たらぬ句」などがたくさんあるから、もしそんな句を手本と考えたらよくない、前々年の六月に刊行された『虚栗《みなしぐり》』(其角編)の中にも、「さた(沙汰)のかぎりなる句」などがたくさんあるといって、自派の句集である『虚栗』に対しても、批判的態度を示している。 『虚栗』には、漢詩漢語調や字余りの句が多く、奇矯な句や、わざとらしい句が少なくない。芭蕉自身の作品にも、そのような傾向の見られた時期の句集である。芭蕉は、一、二年のうちに、そこを通り抜けてしまった。もう今の芭蕉には、そのような異体変調は「さたのかぎり」となった。問題外である。世間の栄華に抵抗するために、肩を怒らせて、隠者を気取る必要はなくなった。今は、風狂の人という声望を得た芭蕉である。風狂の中に沈潜することが芭蕉の志す方向である。だからこの時期の発句は、 尾張の国あつたにまかりける比《ころ》、人|師走《しはす》の海みんとて、舟さしけるに、 海くれて鴨の声ほのかに白し翁 (『皺筥物語』) 爰《ここ》に草鞋《わらぢ》をとき、かしこに杖《つゑ》を捨て旅寝ながらに年の暮《くれ》ければ、 年|暮《くれ》ぬ笠《かさ》きて草鞋はきながら (『野ざらし紀行』) 大津に至る道、山路をこえて、 山路来て何やらゆかしすみれ草 (『皺筥物語』) 湖水の眺望 辛崎《からさき》の松は花より朧《おぼろ》にて (同右) というような自然調詠や風狂的姿勢が見られるのである。  この年(貞享二年・一六八五)四月の末に、木曾路・甲州路を経て、芭蕉は江戸に戻った。そして、芭蕉庵にあって『野ざらし紀行』の草稿を書いたり、江戸の門人・知友等と、風雅の交わりを深めたりして、その年は暮れ、 もらふてくらひ、こふてくらひ、やをらかつゑもしなず、としのくれければ、 めでたき人のかずにも入《いら》む老のくれ (『栞集《しおりしゆう》』) と詠んだ。隠者としての心境が、ようやく安定して来たさまを見られよう。  〈4〉風流自足 高雅隠逸の詩境に新しい安定 「古池や蛙飛《かはづとび》こむ水の音」(『春の日』)は、有名な句である。この句の初案は「古池や蛙飛ンだる水の音」(『庵桜』)であって、この形を所収する『庵桜』成立が、貞享三年三月下旬(奥書き)頃と考えられるところから、志田義秀博士は、この句の成ったのは、天和二年(一六八二)か、天和元年であろうとされた(『芭蕉俳句の解釈と鑑賞』)。  それはともかく、「古池や蛙飛こむ水の音」の形になったのは、前章に引き続いて、江戸へ戻った年の翌年の貞享三年春(芭蕉四十三歳)と思われる。竹人の『芭蕉翁全伝』には「右、江戸本町六間堀鯉屋藤右衛門|〓《いけす》やしきの所、其世あれはて、藻草に埋みたる時の偶感とかや。……」とあるが、門人の支考は、始めに下の七・五ができ、上五字について、傍にいた其角が「山吹や」と置いてみたが、芭蕉は気に入らず、結局「古池や」の形になったと述べている(『葛の松原』)。そうして支考はこの句を天和のはじめごろの句とし、「天和のはじめならん、武江の深川に隠頓して、古池や蛙飛込む水の音、と云へる幽玄の一句に自己の眼を開きて、是より俳諧の一道は弘まりけるとぞ」(『俳諧十論』)という。  しかし、支考の入門は元禄三年で、この時はまだ入門していない頃のことであるから、この説を全面的に受け容れることはできない。支考と仲の悪かった越人などは、支考のこの説を痛烈に批判している(『不猫蛇』)。芭蕉生前も著名な句であったことは、今日も多くの真蹟が残っていることによって推測できるが、芭蕉といえば「古池や」の句を連想するほど著名になったのは、むしろ芭蕉死後のことである。  この句を中心にして、衆議判(判者を特にきめないで、一座の衆議によって勝負をきめること)による蛙の句の二十番|句合《くあわせ》が、芭蕉庵で行なわれ、同年閏三月に『蛙合』(仙化撰)と題して出版された。  また秋には、其角・仙化等と隅田川に船を浮かべて中秋の名月を賞した。船中に仙化の従者がいて、酒の燗《かん》をしていたが、「名月は汐《しほ》にながるゝ小舟哉」と詠んだので、人々は「かつ感じ、かつ恥」じたと、其角は記している(『雑談集』)。夜半十二時頃に船を上がって、芭蕉は草庵に帰ったが、その夜、 名月や池をめぐりて夜もすがら桃青 (『孤松』) の吟を得た。風雅に遊び、自適している芭蕉の様子がうかがわれる。 用事も捨てる風雅本位の生活  門人も陸続とふえ、世間の評判も高く、三十五、六歳頃の安定とはまた違った意味で、芭蕉の身辺は安定しつつあったと見てよい。世間通常の俳諧師とは違った、高雅隠逸の詩人としての、新しい評価を世間から受けるようになったのである。  例えば、この年(貞享三年)閏三月十六日付けの、鳴海の知足宛ての書簡を見ると、芭蕉は知足から短冊の揮毫《きごう》を依頼され、それは芭蕉ばかりでなく、門人や、他門の宗匠たちの染筆の斡旋《あつせん》まで頼まれていることが解る。同じく十二月一日にも、人々に短冊を十三枚揮毫させて送った手紙がある。その中には「猶、追々、力次第に頼候|而上《のぼ》せ可レ申候間、老養御楽ミ可レ被レ成候」というようなことばも見える。  この年か、あるいは前年(貞享二年)かと考えられる、次のような句文もある。 我くさのとのはつゆき見むと、よ所《そ》に有《あり》ても、空だにくもり侍れば、いそぎかへること、 あまたゝびなりけるに、師走《しはす》中《なか》の八日、はじめて雪降《ふり》けるよろこび、 はつゆきや幸《さいはひ》庵にまかりある (『栞集』)  自分の草庵に初雪の降るさまを見たいものだと、外出していても、空が曇って雪|催《もよ》いになると、用事を抛《ほう》り出して、急いで草庵に帰って来ていた。何度もそんなことがあったが、ちょうど草庵にいる十二月十八日に初雪が降り出したよろこびを書いている。雪・月・花は、風雅の三つの大きな景物である。ひたすら風雅に心を打ちこみ、生活が風雅本位になっていることがわかるであろう。外出するのは用事があるからである。しかし、空が曇って来ると用事を抛《ほう》り出して、草庵の初雪を見ようと、飛んで帰って来るという姿勢に、用事本位の生活でなく、風雅本位の生活のさまがうかがわれる。風流三昧である。生活が芸術化され、生活と芸術が一体化されている。  だからこの年の歳暮吟には、 月雪とのさばりけらしとしの昏《くれ》   芭蕉 (『続虚栗』) と詠んだ。正に、月よ、雪よ、花よと、ほしいままに振舞った一年であった。 生活がそのまま俳諧と一体に  翌貞享四年(四十三歳)も、前年の延長として風流に自足の生活が続く。 物皆自得 花にあそぶ虻《あぶ》なくらひそ友雀《ともすずめ》   芭蕉 (『続の原』)  花も、虻も、雀も、それぞれに自得して、安んじ楽しむべしの意であろうが、それはまた芭蕉自身の心境でもあったであろう。 草庵 花の雲鐘は上野か浅草|歟《か》   芭蕉 (『続虚栗』)  この句を揮毫した真蹟が少なくなかったようであるから、当時としては芭蕉の気に入った句だった。また世間受けのよかった句でもあったろう。これまた草庵自足のさまであり、風流に遊ぶ閑雅自適の状と見られる。 露沾《ろせん》公に申侍る 五月雨《さみだれ》に鳰《にほ》の浮巣を見に行《ゆか》む  翁 (『笈日記』)  十年前から出入りしていた内藤家の露沾公に送った夏の句である。この前年頃から、また上方の旅に出る心づもりがあったので、琶琵湖(鳰の海)の鳰の浮き巣を見に行こうと思っていますよと、留別の意を籠めたと解釈できないこともないが、この句については、『三冊子』に次のような芭蕉の言葉が伝えられているので、仮に表向きは留別の形を取っているとしても、この句の真意はもっと別のところにあったと見たい。 春雨の柳は全体連歌也。田にし取《とる》烏《からす》は全く俳諧也。五月雨に鳰の浮巣を見に行く、といふ句は、詞《ことば》にはいかいなし。浮巣を見に行《ゆか》んと云《いふ》所、俳也。 (『三冊子』) 「鳰の浮巣」というのは、「かいつぶり」とも呼ぶ水鳥が、夏季、芦や荻などの水辺の草の根元に作る巣で、水量が増しても水中に没しないように水に浮くしかけになっている。この文章の大意は、春雨が降って、その春雨に柳がぬれて芽ぶいているというような情趣は、和歌・連歌的な情趣である。これに対して、烏が田にしをとっている情景は、連歌には見られない、俳諧的な情景だ。ところで、五月雨《さみだれ》のおりから、鳰の浮き巣を見に行くというのは、五月雨も、鳰の浮き巣も、古来の和歌・連歌にしばしば詠まれている素材で、素材自体には俳諧としての独自性はないが、五月雨の降っている中を、わざわざ浮き巣を見に行こうという心境・姿勢に、従来の和歌・連歌に見られないものがあり、それが俳諧だ——というようなことである。つまり、素材がすでに俳諧的なものもあるが、素材は和歌・連歌を出なくとも、作者の姿勢に俳諧的なものがあれば、俳諧性を持ち得るのだということである。  どんな姿勢、どんな心境かと言えば、それは、五月雨が大分降りつづく、きっと水かさが増して、鳰の浮き巣が水に浮かんでいるところが見られるだろう、一つ出かけて見て来よう、というような風狂閑雅な精神である。家にいて、鳰の浮き巣を空想して歌を詠むような、生《なま》ぬるい傍観的な姿勢でなく、五月雨に濡れて雨の中を出かけて行くところにこそ、風狂の心があり、それが俳諧だというのである。  前に掲げた「初雪」の句と同様な姿勢であって、前年以来芭蕉の生活が、風雅と一体化し、生活即俳諧になっていることがわかるであろう。  この年の秋に、江戸から利根川下流の向こう側の鹿島まで、中秋名月を賞しに出かけて行ったのも、右のような風流三昧の生活の姿勢からである。鹿島の根本《こんぽん》寺には、禅の師である仏頂《ぶつちよう》和尚がいた。あいにく昼間から雨が降り出したが、夜明け方に雨が上がり、「月のひかり、雨の音、たゞあはれなるけしきのみ、むねにみちて、いふべきことの葉もなし」(『鹿島紀行』)であった。  〈5〉『笈《おい》の小文《こぶみ》』の旅 旅を興じ旅をたのしむ  この年の初冬十月二十五日に、江戸から上方方面の旅に出立したのも、安定した風雅本位の生活の延長としてである。だからこの時の門出には、前回の上方旅行の『野ざらし紀行』の時のような緊張感はない。『野ざらし紀行』の門出の句は、「野ざらしを心に風のしむ身哉」であり、「秋十とせ却《かへつ》て江戸を指《さす》故郷」であったが、今回の門出の句は、 旅人と我名よばれむ初しぐれ であって、初しぐれの降る折りからの旅を興じたのしむ心境が示されている。  江戸の俳壇に於ける地位が、最早揺るぎないものであったことは、出立に際しての壮行が盛大であったことにも示されている。その盛大なさまは、知友・門人の餞別の詩文を中心に編集した『句餞別《くせんべつ》』に明らかであるが、芭蕉自身が『笈《おい》の小文《こぶみ》』のはじめに、内藤|露沾《ろせん》公からの餞別句を始めとして、 ……旧友・親疎《しんそ》・門人等、あるは詩歌文章をもて訪《とぶら》ひ、或は草鞋《わらぢ》の料《れう》を包《つつみ》て志を見《あらは》す。かの三月の糧《かて》を集《あつむる》に力を入《いれ》ず。紙布《かみこ》・綿小《わたこ》などいふもの、帽子・したうづやうのもの、心々に送りつどひて、霜雪の寒苦をいとふに心なし。あるは小舟をうかべ、草庵に酒肴《さけさかな》携《たづさへ》来りて行衛《ゆきえ》を祝し、名残をおしみなどするこそ、ゆへある人の首途《かどで》するにも似たりと、いと物めかしく覚えられけれ。 と記していることによっても十分察せられる。  従ってこの旅は、各地に俳席を持って多くの連句を巻き、また雅遊を重ねる旅であった。それはまた、東海・関西の各地に蕉風を拡大するもといとなった。  東海道の鳴海から引き返して、渥美《あつみ》半島の伊良湖岬へ杜国《とこく》を訪れたのは、かつて『冬の日』の連衆の一人であった名護屋の杜国が、罪を得て屏息《へいそく》しているのを慰める意図であった。芭蕉はこの門人に単なる俳諧の門人として以上の愛情を抱いていたように思われる。杜国は御領分追放の身の上であったから、翌年春、海路を伊勢に出て上野に芭蕉を訪ね、吉野・高野山・和歌の浦・奈良・大坂・須磨・明石と芭蕉の旅に随伴している。この杜国を伴っての旅は、芭蕉にとって楽しい遊歴の旅であった。  話を元に戻して、東海各地で俳席の多かったことは、「此間《このかん》、美濃《みの》・大垣・岐阜《ぎふ》のすきものどもとぶらひ来りて、歌仙あるは一折など度々に及《およぶ》」(『笈の小文』)と芭蕉自身が書いている通りで、芭蕉翁が来たというので、俳諧好きの人々が、この名士をこぞって迎え喜んでいるのである。芭蕉も、桑名から故郷へ帰る道の杖つき坂では、 歩行《かち》ならば杖つき坂を落馬哉 などと、呑気な句を作って興じている。  歳末、故郷に帰り、亡母の展墓をしたのち越年したが、大晦日に年忘れの酒を飲み過ぎて、元日はひる迄朝寝をする始末であった。それから伊勢に出て多くの俳席をつとめ、一旦上野へ戻ったが、やがて三月十九日杜国を伴って前記の旅に出た。江戸から明石迄の旅の記が後に『笈の小文』として執筆される。 名声上がり、句作は安易に  杜国とは五月初旬京都で別れ、京・大津・岐阜・名護屋方面に漂泊しながら、各地に俳席を持って八月上旬に及んだ。  八月十一日に岐阜を立ち、越人を供に、信州更科の中秋の名月を賞し、長野・碓氷《うすい》峠を経て、江戸に戻ったのは八月下旬であった。この旅の記が『更科紀行』として執筆された。 『笈の小文』の草稿が執筆されたのは、この旅のあと二、三年後の元禄三、四年頃であり、『おくのほそ道』旅行のすんだ翌年か、翌々年であるから、そこには『おくのほそ道』旅行後の、芭蕉の新たな脱皮と工夫とが書きこまれ、この時の旅行のありのままの気分が流露していると見ることはできない。また、挿入されている発句も、元禄三、四年頃に旅を回想して作った句や、改作した句が多いから、『笈の小文』を以て直ちにこの時の旅を推し計ることは軽率であるが、それらの点を慎重に割引しながら、この旅を考えてみると、岐阜から木曾路を経て信州更科へ廻る帰路の旅は別として、その前までのこの旅は、杜国を伴っての遊歴の旅と、知友・門人に招かれて俳事をつとめる旅とである。東海地方・故郷・伊勢・京・湖南地方などに、非常にたくさんの句会が芭蕉を待ち受けていた。また芭蕉はよろこんでそれらの句会に出席した。それは自分の考えている俳風を世に拡めることであり、自分の俳風の共鳴者、同行者を得ることであったから、芭蕉にとって必ずしも楽しくないことではなかった。  すでに述べたように、芭蕉は、自分の道が世間の俳諧宗匠の道と異なることに自負を抱いていたし、芭蕉を招く人々も、名利を去った隠逸詩人として、尊敬の念を以て迎えた。芭蕉は句会に出て人々を指導し、自己の俳風の宣揚《せんよう》につとめた。門人はふえ、名声は上がる。作品の量もこの年は多い。しかし、作品の質を見ると、その量の多い割に傑作に乏しい。もちろん傑作が全くないわけではないが、緊迫感の薄い句が多い。発句について例を挙げてみると、 ゆきや砂馬より落《おち》て酒の酔 梅つばき早咲ほめむ保美《ほび》の里 梅の木に猶やどり木や梅の花 はだかにはまだ衣更着《きさらぎ》のあらし哉 初桜折しもけふは能《よき》日なり 桜がりきどくや日々に五里六里 此ほたる田毎《たごと》の月とくらべみん 等々であって、悪い句を余りたくさん挙げる必要もないからこのくらいにとどめるが、やや安易な句が多いことは確かである。もっとも、これらの作の多くは連句の会席に於ける発句——いわゆる立句《たてく》であるから、いわゆる地《ぢ》発句よりも軽いのは、立句の性質上、当然のことであるが、それにしても、数年前の、あの談林派の行きづまりの中から新しい俳風を樹立しようと必死の努力を傾けた時期の作品と比べて、安きについている感じを否定できない。 ここに第二の転機  芭蕉が、この旅行の前あたりから一種の自足感を持ち、この旅行に風流に遊ぶ気分を持っていたことについてはすでに述べた。また、この旅行が、蕉風の宣揚と拡大の意味を持っていることについても述べた。そこに、芸術家にとって最も大敵である一種のゆるみが生じたといっては、いい過ぎだろうか。この旅行が、蕉風の拡大、門人の増加を招来した意義は大きい。しかし、そのために芭蕉の活動は、どちらかというと、純粋な詩人的活動よりも、指導者・教育者としての活動に比重がかかった。芸術家が後進の指導に熱心になれば、必ずその作家的前進は停滞する。  芭蕉はこの旅の終わり頃から、自己の詩人的活動の停滞を秘かに自覚し始めたのではあるまいか。門人のいない地方を歩き、自己の俳風の更に新たな飛躍を計りたいと考え出したのではあるまいか。岐阜から信州更科へ月見を志したのは、その第一歩であろう。すでに大津にいた時から、芭蕉の胸中に更科の月見が志されていた。辺鄙な木曾路を歩いているうちに、こういう旅こそが詩人の魂を養うものであることに気がついた。そんな気持ちが、翌年(元禄二年・一六八九)の『おくのほそ道』の旅となっていったと考えたい。  だから、辺鄙な東北・北陸への旅は、『笈の小文』の旅の単なる延長とは思われない。むしろ『笈の小文』の旅の脱皮であり、数年来の安定をみずから破って、更に新たな開拓を志し、自己試練に身を置こうとしたものと考えたい。  もし延宝の末年の、談林からの脱皮の時期を、芭蕉の第一の転回期と見るならば、ここに第二の転回期が正に来ようとしているのである。 7 『おくのほそ道』の旅  〈1〉新しい脱皮へ 身は乞食の境遇に落ちようとも  元禄元年八月下旬、久しぶりに江戸に戻って来た芭蕉を、知友・門人たちは次々に訪れた。 「毎日客もてあつかひ」(元禄二年正月十七日付け半左衛門宛て書簡)と芭蕉自身書いている通りで、俳席は多かったが、「此冬は物むつかしく句も不出候」(十二月五日付け尚白宛て書簡)という状況であった。もっとも、この表現には謙退の意味があることはもちろんで、九月中旬頃の越人との両吟歌仙「厂《かり》がねも」の巻などは出色のものというべきであろうが、しかしまた全くの謙退ともいえないであろう。 「愚句何事も無二御坐一、人|出合《であひ》もむつかしと、近辺|子共《こども》のやうなる俳諧折々いはせてなぐさみ申候」(十二月三日付け益光宛て書簡)とか、「去年の秋より心にかゝりておもふ事のみ多ゆゑ」(翌年の猿雖〈推定〉宛て書簡)とかいうようなことばも符節を合わせて考えられる。  そして、元禄二年(一六八九・四十六歳)の正月には、もう確実に『おくのほそ道』旅行が企図されている。正月十七日付け兄半左衛門宛て書簡に「何とぞ北国下向之節立寄候而、関あたりより成とも通路いたし、しみ可二申上一候」とあり、前掲の猿雖(推定)宛て書簡(元禄二年閏正月乃至二月初旬筆)に、 去秋は越人《ゑつじん》といふしれもの木曾路を伴ひ、桟《かけはし》のあやうきいのち、姨捨《をばすて》のなぐさみがたき折、きぬた・引板の音、しゝを追《おふ》すたか(姿カ)、あはれも見つくして、御事のみ心におもひ出候。とし明《あけ》ても猶旅の心《ここ》ちやまず、 元日は田毎の日こそ恋しけれ  ばせを 弥生に至り、待侘《まちわび》候|塩竈《しほがま》の桜、松島の朧月、あさかの沼のかつみふくころより、北の国にめぐり、秋の初、冬までには、みの・おはりへ出候。(中略)去年(の)たびより魚類|肴味《かうみ》口に払捨《はらひすて》、一鉢境界乞食《いつぱつきやうかいこつじき》の身こそたうとけれと、うたひに侘し貴僧の跡もなつかしく、猶ことしのたびはやつしてこもかぶるべき心がけにて御坐候。(下略) とある。「こもかぶるべき心がけにて御坐候」というのは、乞食の境涯になることを辞さないということで、従来の門人の間を泊まり歩く旅や、小旅行にはあり得ない覚悟である。 『笈の小文』旅行には、乞食になる覚悟もないし、その不安もなかった。今回の旅行は違う。 「こもかぶるべき心がけ」とは、実事を放下し、虚事に専念する覚悟である。現実的関心事を捨て切って、一切を芸術に献身しようという決意である。蕉風の宣揚や自派の拡大も考えない。詩人に徹することによって、新たな詩的飛躍を計ろうとする決心である。  だから芭蕉は、深川の草庵を売って旅費にあてた。後に帰るべき家がないとしても、後事を考える余裕がないのだ。事実、旅がおわって上方地方漂泊ののち、江戸に戻ろうとした際、帰るべき家がなくて芭蕉は困っている。そのために江戸に戻ることが遅れたと見られる節《ふし》もある。だが、今はそんなことは構っていられない。虚事に専念する以上、そんな実事を省みてはいられないのである。  では芭蕉は『おくのほそ道』の旅を、具体的にどういう態度で歩こうとしたか。 陸奥へ旅立つ心構え  この旅に随伴した門人の曾良は、出発前にかなり念入りに、名所、歌枕、旧蹟を調べて備忘録をととのえ、「延喜式神名帳」の抄録を作っている。芭蕉と旅程を相談した上のことであろう。陸奥には古来の歌枕が多い。名所、旧蹟も少なくない。殊に東日本側に多い。歌枕、名所、旧蹟をじっくり見て来ようという気持ちが、まず芭蕉の脳裡にあったと見ることは、不当でない。試みに、奥羽山脈を越えるまでの『おくのほそ道』旅行で歴訪され、紀行に名前の出て来る歌枕、名所、旧蹟の類を列挙してみよう。それは、 室の八嶋・黒髪山(男体山)・日光・那須野・黒羽(犬追う物の跡・那須の篠原・玉藻の前の古墳・那須八幡)・殺生石・遊行柳・白川の関・影沼・浅香山・黒塚・しのぶもじずり石・佐藤庄司の旧蹟・蓑輪・笠嶋(以上二つは遠望)・武隈の松・名取川・宮城野の萩・玉田・横野・つゝじが岡・木の下・十符の菅・壺碑・野田の玉川・沖の石・末の松山・塩竈の浦・籬が島・塩竈明神・松島・雄島・瑞岩寺・(姉歯の松・緒絶の橋)・石の巻・金華山(遠望)・袖のわたり・尾ぶちの牧・真野の萱原・平泉の旧蹟・岩手の里・小黒崎・美豆の小嶋 などであって、細かくいえば、もう少し数は増すであろう。大部分が歌枕である。これらの歌枕は、今日のわれわれの常識からいうと、つまらないとしか思われないものが多いのだが、芭蕉と曾良は、それらの歌枕をせっせと精を出して歴訪し、敬虔な態度でこれに対している。  例えば遊行柳にしても、本当に西行が立ち寄った柳かどうか疑問だし、もしそうだとしても、どうせ西行から何代目かの柳である。あたりの風景といっても田圃の中で、さして好風光といえるような環境ではない。しかし、そこで芭蕉は往事を思い、古人を偲び、感慨に耽っている。武隈の松にしても、根元から二股に分かれている松はそんなに珍しいものではない。しかも、能因法師以来何代目かの松である。だが芭蕉は、『おくのほそ道』によれば、「武隈の松にこそ、め覚《さむ》る心地はすれ」と書き、「先《まづ》、能因《のういん》法師思ひ出《いづ》」と書いている。そうして、代々、あるいは伐《き》り、あるいは植え継いだ松だが、今また千年も前の形がそっくり残っていて、まことによい松のさまだと感歎している。  壺碑《つぼのいしぶみ》にしても同様である。今日見れば、何ということもない石碑で、しかも後年の偽造である。しかし芭蕉はこの石碑に「古人の心を閲《けみ》」して、「泪《なみだ》も落《おつ》るばかり也」と書く。  もっとも、後述するように、『おくのほそ道』の執筆は元禄五、六年頃であろうから、旅行中の事実や感慨が、そのまま書かれていると見ることはできない。その点は、先述した『笈の小文』と似た関係があるが、この壺碑の一条が全くの虚構とは信じられない。全然感動しなかったことを「泪《なみだ》も落《おつ》るばかり也」と書くとは思われない。この一条の書きぶりについては、後に重ねて引用しようと思う。  そのほか、『おくのほそ道』旅行の前半における、歌枕、旧蹟への傾倒ぶりは、一読すれば余りにも明らかなことであるから、ここではこれ以上記さない。それは従来の旅行には見られない熱中ぶりである。 伝統への無条件の没入  ではなぜそんなに、歌枕のような文学伝統に傾倒したか。結論を先にいえば、芭蕉は『おくのほそ道』旅行に出かけるに際して、日本の文学伝統の中に自己を沈潜させようと決意したのではないか。日本の文学伝統の中に自己を浸らせることによって、新たな創造と飛躍の土台にしようとしたのではないか。  すでに述べたように、自己の俳風の停滞を芭蕉は自覚した。「去年の秋より心にかゝりておもふ事のみ多」く(猿雖宛て元禄二年初春書簡)、「此冬は物むつかしく句も不レ出候」(尚白宛て元禄元年十二月五日書簡)という状態は、この自覚と無関係ではあるまい。その停滞からの脱皮を、芭蕉は『おくのほそ道』旅行に求め、脱皮の方法を伝統への沈潜に求めた。丹念な歌枕、旧蹟の探訪は、古典的世界に身を投げかけ、心を委《ゆだ》ねる態度である。  近代人の伝統に対する態度は、これに批判的に対する態度である。伝統のよいところはこれを取り、悪いところは捨てるという態度である。近代というある立場があって、それを尺度にして適宜取捨選択する態度である。賢明といえば、賢明、常識的といえば、常識的である。だが、芭蕉はそんな態度は取らない。無条件に伝統を受け容《い》れようとした。まずともかくも古典的伝統に身を任せようとした。心を潜ませようとした。いわば絶対的随順の態度である。そうすることが伝統を継承する道だと考えた。  始めからある立場をとって、批判的に伝統に対するのは、伝統の受容の仕方ではない。それは伝統の「つまみ喰い」である。うまそうに見えるところだけ食べて、まずそうに見えるところは始めからはしをつけても見ないという態度では、伝統はわからない。伝統の継承はできない。芭蕉は、卑しいつまみ喰いを避けて、ともかくもまず伝統の中に埋没してみようとした。それが『おくのほそ道』旅行の前半における、歌枕、旧蹟の丹念な探訪となってあらわれたものと考えたい。  〈2〉足 跡 白河の関まできて旅心定まる 『おくのほそ道』旅行については、詳説する必要はないようなものであるが、本書の性質上、やや解説的に、大体の旅程をまとめてみよう。  芭蕉は、今まで住んでいた芭蕉庵を売り払い、後援者の杉風《さんぷう》の別荘から出発した。元禄二年(一六八九)晩春の頃で、数え年四十六歳である。隅田川を船でさかのぼり、千住《せんじゆ》で上陸して、そこで見送りの人々と別れた。 行春《ゆくはる》や鳥|啼魚《なきうを》の目は泪《なみだ》  この句は、「行く春」が季題である。春がもう去って行こうとしているが、去り行く春の愁いは、人間ばかりでなく、無心な鳥や魚までも感ずると見え、鳥は悲しげになき、魚の眼には涙があふれているようだ、という意味で、去り行く季節のあわれと同時に、人々との離別の悲しみが籠められている。  こうして芭蕉と曾良は「前途三千里」の旅に出たのだが、それから今の栃木県の大神《おおみわ》神社すなわち「室の八嶋」の明神に参詣したり、日光を見物したり、那須野ケ原を横切ったりして、大関藩の城下黒羽に着き、ここに十数日滞在した。大関藩の城代家老と知り合いだったからである。その間に雲巌《うんがん》寺にも参詣した。大きな、奥深い閑静な寺であった。黒羽を立って、今の那須温泉にある殺生石を見物し、ついで、西行が「道のべに清水流るる柳かげしばしとてこそ立ちどまりつれ」と歌に詠んだという遊行柳を見物した。遊行柳から白川の関まではすぐである。  白川の関から向こうは陸奥《みちのく》である。江戸を立ってから、この白川の関まで二十四日かかっている。芭蕉は「心もとなき日数重なるままに、白川の関にかかりて、旅心定りぬ」と書いている。 阿武隈川の流れに沿って仙台・松島へ  それから先は、今の福島県を、東北の方へと歩みを進めたのであって、大体の行程は、阿武隈《あぶくま》川に沿って行くようになる。須賀《すか》川では豪家の主人で、俳人でもある等躬《とうきゆう》(すでに芭蕉が宗匠になる前からの知人で、芭蕉の宗匠立机の興行に際しては「三吉野や世上の花を目|八分《はちふん》」と詠んでいる)を訪ね、七日ばかり滞在し、俳諧の連句を巻いたり、近所へ出かけたりした。  日和田《ひわた》の宿《しゆく》では、浅香山《あさかやま》を眺め、花がつみをさがし、丹波《にわ》氏の城下町である二本松の町はずれにある「黒塚の岩屋」を一見した。昔、鬼が住んでいたという伝説のある岩屋だが、阿武隈川の氾濫《はんらん》の時運ばれて来た巨岩にちなむ巨岩伝説である。黒塚というのは、その鬼を埋めたと伝えるところで、今も塚の上に杉の木が生えている。  福島市の郊外にも「しのぶもじずり石」という巨岩があって、伝説が伝わっている。また飯坂温泉の近くの丸山には、源義経に従って討死した佐藤継信・忠信兄弟の住んでいた屋敷跡がある。芭蕉は兄弟の墓のある医王《いおう》寺にも参詣した。飯坂の宿はひどい宿で、芭蕉はよく眠れなかった。  武隈の松は、今の岩沼の竹駒《たけこま》明神の近くにあって、根元から二本に分かれていた。岩沼から仙台までは近い。名取川《なとりがわ》を渡って仙台に入ったのは、旧暦五月四日の夕方であった。太陽暦に換算すると六月二十日に当たる。白川の関からここまで十二日かかっている。  仙台では「画工加右衛門」(俳号|加之《かし》)という人を訪ね、この人の案内で方々の名所を見て廻った。仙台から先の名所も、加右衛門が画図を書いて教えてくれた。芭蕉が特に感動したのは「壺碑《つぼのいしぶみ》」という古い石碑が、昔のままの姿で残っていたことである。そのことについては先に述べた。  野田の玉川・沖の石・末の松山などは、壺碑から塩釜《しおがま》へ行く途中で見た古い歌枕である。  松島では、ほとんど俳句ができなかった。その代わり、かなり長い文章を書いて、松島の絶景を描写している。苦心の跡のよく解る凝《こ》った文章である。「白川の関」「塩竈」「松島」「象潟《きさがた》」などは、旅行の出発前から、芭蕉が見たいと思っていた名所である。 平泉から奥羽山脈を越えて  松島から石の巻へ廻った。『おくのほそ道』の本文では、平泉へ行くところを、道を間違えて石の巻へ出てしまったように書かれてあるが、お供の曾良の旅日記によると、間違って行ったのではなく、芭蕉は始めから石の巻へ行くつもりだったようである。途中のどが乾いて方々の家で湯をくれと頼んだが、どこでもくれない。困っていると、刀をさした五十七、八歳ばかりの通行人が、気の毒がって知人の家に連れて行ってくれた。  石の巻から、北上川の河跡湖のほとりの、さびしい道を通り、登米《といま》を経て、一の関に着き、翌日平泉の中尊寺に参詣した。その日はよい天気だったが、前日の、一の関までの道中は「合羽《カツパ》モトオル」程の豪雨だった。 「夏草や兵《つはもの》どもが夢の跡」は、高館《たかだち》から平泉の旧蹟を眺望しての吟である。  平泉から道を西南にとって引き返し、岩手山に一泊、小黒崎・みづの小島などを見ながら、今の鳴子温泉のそばを通って尿前《しとまえ》の関に出た。きびしい関所をようやく通して貰い、奥羽山脈を越えて裏日本へ出ようとした。山越えの途中では堺田《さかいだ》の農家に泊まったが、あいにく大雨に降りこめられて二晩を過ごすことになった。その時の体験が「蚤虱《のみしらみ》馬の尿《しと》する枕もと」である。その日は旧暦の六月十六日、太陽暦に直すと七月二日であった。  翌日は快晴になったので、案内人をやとって荷物を持たせ、今の山伐《なた》切《ぎり》峠を越して尾花沢へ出た。尾花沢には島田屋八右衛門という豪家の主人が居り、清風と号して談林時代からの俳人であった。ここに十日ばかり滞在して旅の疲れを休めたり、土地の人々と俳諧を巻いたりしたが、勧められて山形に近い立石寺《りゆうしやくじ》を訪れた。閑静な山寺であった。  日いまだ暮《くれ》ず。麓の坊に宿かり置《おき》て、山上の堂にのぼる。岩に巌《いはほ》を重《かさね》て山とし、松柏《はく》年|舊《ふり》、土石老て苔|滑《なめらか》に、岩上の院々扉を閉《とぢ》て、物の音きこえず。岸をめぐり、岩を這《はひ》て、仏閣を拝し、佳景寂寞《かけいじやくまく》として心すみ行のみおぼゆ。 閑《しづか》さや岩にしみ入《いる》蝉の声 と『おくのほそ道』には書かれている。ついで引き返して、最上川の川船の船付き場、大石田に至り、新庄を経て、元合海《もとあいかい》より乗船、最上川を下って狩川《かりかわ》で上陸し、陸路羽黒山に着き、南谷《みなみだに》の別院に泊まった。羽黒山には八日間滞在し、この間、月山《がつさん》、湯殿山にも登り、また俳席もつとめた。この地の呂丸《ろまる》に俳諧の教えを説いたことは後述の通りである。羽黒山から鶴岡を経て、酒田におもむき、二泊の後、象潟《きさがた》見物に出かけた。 羽越の海岸を通って金沢へ  象潟は、昔は文字通りの潟湖で、東西一キロ余り、南北三キロ余り、塩越《しおごし》のあたりで海に通じ、湖中には多数の小島が点在する景勝の地であった。「松島は笑ふが如く、象潟はうらむがごとし。寂しさに悲しみをくはえて、地勢魂をなやますに似たり」と『おくのほそ道』には書かれている。象潟を見物したのは旧暦六月十六日(太陽暦八月一日)で、翌日酒田に帰り、二十五日まで滞在して俳事があった。酒田は日本海航路の要港であり、庄内平野を控え、物資の集散地として繁栄していたので、有力な町人が多く、俳諧も盛んであった。  六月二十五日(太陽暦八月十一日)、酒田の人々に見送られて出立、大山・温海《あつみ》・中村を経て葡萄峠を越え、村上着。この地の藩主榊原家十五万石は曾良と縁があり、城中に上がって筆頭家老榊原|帯刀《たてわき》から百|疋《ぴき》を賜わったりした。  二泊の後、築地《ついじ》から船で新潟に出、弥彦《やひこ》神社に参拝し、出雲崎《いずもざき》に泊まったのが旧暦七月四日の夜である。「荒海や佐渡に横ふ天河《あまのがわ》」の吟は、この地で想を得、今町(直江津)で発表されたという。直江津・高田で俳席を持ったのち、親不知の険を通って市振《いちぶり》泊が十二日だが、曾良の旅日記には、『おくのほそ道』本文にあるような、遊女と同宿した記事は全く見られない。『おくのほそ道』のこの一条は虚構であろう。 「一家《ひとつや》に遊女も寝たり萩と月」の句も、旅中の吟ではなく、のちに元禄五・六年頃『おくのほそ道』を執筆する際に作ったものと思われる。  それから「暑気甚シ」い中を、富山県下を歩き、高岡に着いた日は「翁、気色不勝。暑、極テ甚」しい状態であった。しかし翌日|倶利伽羅《くりから》峠を越えて金沢に入った。金沢は北陸随一の城下町で俳諧好きの人も多く、芭蕉の来訪を待っている人々がいた。その一人の一笑《いつしよう》がすでに没していたのは残念なことで、芭蕉は「塚も動け我《わが》泣《なく》声は秋の風」と悼句《とうく》をたむけた。芭蕉は金沢に十日ばかり滞在し、この地の人々の俳諧に加わった。新しく入門する人々も多く、自然、蕉風の指導、蕉門の拡大に及んだ。曾良はこの頃から健康をそこね、療養につとめる毎日だった。 終点大垣の歓迎  旧暦七月二十四日(太陽暦九月七日)金沢を立ち、小松の多田八幡を拝み、山中温泉着が二十七日、この地に八日間滞在し、曾良は療養につとめたが、結局、芭蕉とここで別れることになり、伊勢の長島に一人先行する。  芭蕉は那谷《なた》寺の石山を見たり、小松に戻ったりしたが、やがて北枝を伴って大聖持《だいしようじ》の全昌寺・吉崎の入江・丸岡の天竜寺とたどり、ここで北枝に別れて、永平寺に詣でたのち、福井に入って古い知人の神戸洞哉《かんべとうさい》を訪ねた。洞哉と共に敦賀に着いたのが八月十四日の夕暮れで、その夜|気比《けい》明神に参詣した。月の美しい夜であった。  十六日は海路敦賀湾の北端にある色の浜に遊んだが、この地の廻船問屋、天屋五郎右衛門(俳号玄流子)の世話であった。先行した曾良のしらせによって、やがて大垣から路通が迎えに来たので、共に大垣へ着いたのは旧暦八月下旬、多分二十五日前ぐらい(太陽暦十月初旬)であろう。大垣の人々は心から芭蕉を歓迎した。それは芭蕉が優れた芸術家であったことももとよりであるが、また、芭蕉の高潔な人間性に心ひかれた点も多かったのではあるまいか。  以上が『おくのほそ道』旅行の大体の行程である。それでは、この旅行で芭蕉は何を得たか。この旅行を契機にして芭蕉の文学がどんな新しい展開を示すか。それらの点について考察を進めることにしたい。 8 不易流行の論  〈1〉不易流行論の工夫 歎きつつなお変わらぬものを求めて  先に、『おくのほそ道』旅行の前半、すなわち奥羽山脈を越えて、裏日本の側に出る前までのあたりは、歌枕、名所、旧蹟の丹念な探訪の態度が見られ、伝統的世界に対する絶対随順の態度があると述べた。その態度が、裏日本に入って、急に改まったというわけではないが、旅行の前半の伝統への沈潜の中から、芭蕉は人間の営みの中に、変わるものと変わらないものとがあることに考えをめぐらせて行ったと思われる。  芭蕉が丁寧に訪ね歩いた歌枕、旧蹟の多くは、長い時間の圧迫に抗しかねて、昔日の俤《おもかげ》を十分に存していなかった。芭蕉はそれに対して批判的な言辞は弄《ろう》していない。だが、人間の営みの脆さ、人工的なもののはかなさについて歎かずにはいられなかった。 むかしよりよみ置《おけ》る歌枕、おほく語《かたり》伝ふといへども、山|崩《くづれ》、川|流《ながれ》て、道あらたまり、石は埋《うづもれ》て土にかくれ、木は老《おい》て若木にかはれば、時移り代変じて、其跡たしかならぬ事のみを…… (『おくのほそ道』壺の条) であった。それでも芭蕉は、倦まずたゆまず、僅かに残った遺跡に伝統をさぐろうと努めている。だからこそ、壺碑が千古の形を存しているのを見ては、 (前引に続いて)……爰に至りて疑なき千歳《ちとせ》の記念《かたみ》、今眼前に古人の心を閲《けみ》す。行脚《あんぎや》の一徳、存命の悦《よろこ》び、羇旅《きりよ》の労をわすれて、泪《なみだ》も落《おつ》るばかり也。 (『おくのほそ道』壺碑の条) と感動してしまうのである。  平泉における「夏草や兵《つはもの》どもがゆめの跡」の一条にしても、同じく中尊寺の「五月雨の降《ふり》のこしてや光堂《ひかりだう》」(初案は「五月雨や年々降も五百たび」)の一条にしても、伝統的なものへの深い傾倒を背景にしたもので、ただ、所詮伝統といえども人間の所産であり、人間の営みは長い時間の経過の中で、いつかは傷み、崩れてしまうものであることを歎いているのである。逆にいえば、歎きながらも、人間の力を信じたい、変わらぬものがあることを信じたいという気持ちが、光堂に対する讃歎となっている。 伝統への沈潜を通して不易流行の論  すでに述べたように、芭蕉は多くの歌枕、旧蹟をたどり歩きながら、古人の抱いた文学の心に触れ合おうと努めた。能因を思い、西行を慕い、日本の文学や文化を生んだ人々を懐しみ、伝統について考えながら東日本側を歩いた。そうして奥羽山脈を越え、最上川を下って、羽黒山に着き、ここに八日間滞在している間に、伝統の中に変わるものと変わらないものとがあることを、口に出していうようになった。即ち、不易《ふえき》流行の論である。  芭蕉が羽黒山滞在中、芭蕉の世話をし、また俳諧の指導を受けた人に、呂丸《ろまる》という人物がある。羽黒山下|手向《とうげ》の人で、呂丸は芭蕉から聞いた教えをもとにして『聞書七日草』という本を書き遺した。この書の全部が芭蕉の直接の教示によるものとは思われないし、呂丸が芭蕉の教えを完全に理解し得たかどうかも疑問である(この書の中に支考や支考系の竹童の考えや、また呂丸自身の考えの入っているであろうことについては、諸家の論がある)。だが、この書の中で、芭蕉が呂丸に「天地流行の俳諧あり、風俗流行の俳諧あり」と説き、また「天地固有の俳諧」の語を用いて説いている点は、後に『去来抄』や『俳諧問答』や『三冊子』や、その他の書で述べられる、不易流行論の先駆と考えられる。  去来は「故翁奥羽の行脚より都へ越えたまひける、当門の俳諧すでに一変す」(『贈晋氏其角書』)といい、また「この年(元禄二年)の冬、はじめて不易流行の教を説き給へり」(『去来抄』)という。芭蕉が不易流行論を説き出したのは、『おくのほそ道』の旅を終え、上方地方に漂泊の間のことである。また旅行の後半、金沢で会った北枝に対しても、不易流行論を語った形跡がある。即ち、北枝の『山中問答』に「不易の理を失はずして、流行の変にわたる」などのことばが見られるのは、金沢から福井の近くまで芭蕉に同行した北枝が、芭蕉から聞いた教えに基づくものであろう。  こう考えると、不易流行論は、『おくのほそ道』旅行前半の、伝統への深い傾倒の中で芭蕉の胸中に芽生え、奥羽山脈を越え、羽黒山滞在中に、ようやくまとまり始め、旅の後半から、上方滞在中に熟成したと見ることができよう。そうして、不易流行論をこの旅行で得たことが、この後の芭蕉の作風の展開の上で、大きな役割を果たすのである。もっとも逆にいえば、不易流行論をいうようになった根本精神が大切なので、不易流行論そのものが大切なのではない、といってもよい。一たび伝統の中に深く沈潜し、これに心を委《ゆだ》ねたのち、伝統の本質に従いながら、伝統にとらわれない道を発見したのだといってもよい。 不易は本質、流行は個性の発現  不易とは、広く芸術一般について考えれば、時代を超え、種別を超えて、優れた芸術に共通する、ある本質的なものであり、流行はこれに対し、個々の作品のあり方を示すものと考えられる。即ち、一つ一つの具体的作品、一人一人の作家個人は、それぞれに個性的であり、特殊的であるべきもので、そこに時代に則した「新シミ」も生まれる。それが不易に対する流行の意味であろう。  これを俳諧にあてはめてみても同様であって、時代を超え、作風を超えて、優れた作品にはある共通の本質的なものが顕在する。人が古人の優れた俳諧にも感心し、また現在の優れた作品にも心打たれるのは、そこに何等かの意味に於ける共通のある本質的なものを想定しているからである。それが不易である。しかし、個々の作品が優れた作品であるためには、「古人の糟粕をなめ」(『三冊子』)たり、「貞徳老人の涎をねぶつ」(同上)ていてはだめであって、常に独創的でなければならない。時代と共に動き、「新シミ」を求めなければならない。去来のことばに従えば「此道ハ、心・辞共ニ新味ヲ以テ命トス。是《コレ》、流行ノ句ノ行ルヽ所以《ゆえん》也。能《よく》流行スル時ハ、活々然《くわつくわつぜん》トシテ、万歳ヲ経テ新《あらた》也。久シク留《とどまる》時ハ濁《にごり》テ重シ」(『不玉宛て論書』)ということになる。  不易流行論は、それだけでは格別新味のある芸術論ではないかもしれない。不易・流行の語は、元来中国に於いて用いられていた語であり、それがわが国に入って、俳諧以外でも以前から用いられている。俳諧でも北村湖春が「不易の風体」(『続の原』)などという語を、句合《くあわせ》の評語に用いた例が指摘されている(志田義秀「芭蕉と俳諧の精神」)。したがって、芸術の中に、変わるものと変わらないものがあると考えることは、それ程独創的な考え方ではないかもしれない。だが、不易流行論の価値は、芭蕉がそれを伝統に沈潜した中から体験的思考として会得したところにある。だから、それは精緻な論理として発展はしなかったが、芭蕉自身の作風の転換、更に言えば、数年前来の作風の沈滞からの脱皮に、大きく貢献したといってよいであろう。 『おくのほそ道』以後の上方滞在中に、芭蕉および蕉風作家の作風が大きく発展したことは、前述の去来の言をまつ迄もなく、実作によって明らかである。その成果が最も端的にうかがわれるのは、元禄四年(一六九一・四十八歳)七月三日に出版された撰集『猿蓑』である。だが『猿蓑』について述べる前に、もう少し『おくのほそ道』旅行後の芭蕉の動静を述べて置きたい。  〈2〉長旅のあと 汚れた紙衾にこめる自戒 『おくのほそ道』の旅は、大垣で一応終わりである。大垣は何度も訪れた所で、ここまで来れば門人も多い、故郷へも近い。未知の国への旅は終わった。芭蕉は主に門人の如行《じよこう》の家に泊まり、長旅の疲れを休めたり、門人の誰かれに招かれたりして日を過ごした。しかし、いつまでも大垣に留まっているわけには行かない。漂泊の身にとって長逗留は禁物である。芭蕉は旧暦九月六日、大垣を立って、伊勢へと赴く。  だが、その前に、大垣滞在中の挿話を一つ二つ紹介して置こう。  大垣に竹戸《ちくこ》という門人がいた。鍛冶《かじ》工と伝えるから、身分は低かったに相違ない。芭蕉が如行の家に滞在中、その肩をもんだという。芭蕉はその労に報いて、旅行中使用した紙衾《かみぶすま》(紙製のふとん)を彼に与え、なお「紙衾ノ記」という文を草して添えた。 (前略)越路の浦、山館野亭の枕のうへには、二千里《じせんり》の外《ほか》の月をやどし、蓬もぐらのしきねの下には、霜にさむしろのきりすを聞《きき》て、昼はたゝみて背中に負ひ、三百余里の険難をわたり、終《つひ》に頭《かしら》をしろくして、みのゝ国大垣の府にいたる。なをも、心のわびをつぎて、貧者の情をやぶる事なかれと、我をしとふ者にうちくれぬ。 (『和漢文操』) 「なをも、心のわびをつぎて、貧者の情をやぶる事なかれ」という条に注目したい。如行・路通・越人・曾良等は竹戸の幸運を羨み、かつ祝して、それぞれ一文を草した。越人のごときは「此ふすまとられけむこそ本意なけれ」といい、曾良は「いま竹戸にあたへられし事をそねんで、奪《うばは》んとすれど大石のごとくあがらず」と書き、なお「畳《たたみ》めは我が手のあとぞ其衾」と即興に吟じた(『雪のおきな』)。  竹戸自身も大よろこびで、「翁、行脚のふるき衾を与へらる、首出して初雪見ばや此の衾」(『猿蓑』)と詠み、芭蕉没後の四十九日には、「肩うちし手心に泣く火燵《こたつ》哉」(『後の旅』)と、肩をもんだ折りを想起して悼句をささげている。  にまみれた、使い古しの紙衾を人に贈ることは礼を失したことである。それは竹戸が身分の低い、貧しい鍛冶工であったからではあろうが、それにしても、他の門人たちのことばを考え合わせて、芭蕉の周囲の人々が、芭蕉を真に師として敬慕するようになっているさまがわかるであろう。  大垣の門人には、谷木因のような富裕な船問屋の主人もいる。大垣藩士も多い。如行も元大垣藩士である。宮崎|荊口《けいこう》は御広間番を勤め、百石を給せられていた。その三人の子どもたちも、大垣藩士となり、蕉風を学んでいる。浅井左柳・高岡斜嶺・その三弟の怒風・津田前川等や、その他塔山・残香等も大垣藩士と思われ、延宝三年頃に江戸詰め御留守月番(三百石)を勤め、のち次第に累進して千石を給せられたという中川濁子も大垣藩士である。質のよい門人が芭蕉を敬慕するようになったことが解る。もちろん質のよいということは、ただ身分がよいという意味ではない。芭蕉のよさが解る門人という意味である。もう一つ挿話を紹介する。 千二百石取りの武家と俳諧師芭蕉  大垣を出発する日の迫った九月四日、大垣藩の重役戸田|如水《じよすい》は、芭蕉と路通を自分の下屋《しもや》(表座敷でなく)に招いた。そして、その様子を次のように日記に書きのこしている。 一、桃青事門弟等ハ芭蕉ト呼ブ如行方ニ泊リ、昨日より本腹《ほんぷく》之旨|承《うけたま》ハルニ付、種々申シ、他者《よそもの》故|下屋《しもや》ニ而《て》、自分病中トいへども、忍《しのび》ニ而《て》初而《はじめて》対面。(中略)両人|咄《はな》シ種々|之《これ》を承《うけたま》はる。多くハ風雅の儀ト云云。如行誘引仕り色々申すと云へども、家中士衆ニ先約|有之《これある》故、暮時《くれどき》より帰り申候。(中略)今日芭蕉|躰《てい》ハ、布裏之|木綿《もめん》小袖(帷子ヲ綿入トス、墨染)細帯ニ布之偏(便)服。路通ハ白キ木綿之小袖、数珠を手に掛クル。心底|斗《はか》り難《がた》けれども、浮世を安クみなし、諂《へつら》はず、奢《おご》らざる有様|也《なり》(読みやすいように書き下し文に改めた)  戸田如水は、藩主戸田氏の血筋を引く、大垣藩の千二百石取り家老次席の身分である。この時芭蕉を自邸に呼んで、共に俳諧の連句を作っているから、俳諧をたしなみ、風雅にも関心はあったと見られる。しかし、家中の人々が師事している、近頃評判の芭蕉という男は、どんな男か会ってみたいというぐらいの気持ちで引見したものであろう。芭蕉も、如行やその他の大垣藩士の門人たちの顔を立てて、しぶしぶ出かけて行ったものであろう。そのことは、如行が戸田如水のところへ芭蕉を案内し、二人の間を取りなしている様子からもうかがわれる。  如水は夕飯を共にしたいと考え、いろいろいうのだが、芭蕉は約束があるからといって、夕方に辞去している。如水が芭蕉を批評して「心底|斗《はか》り難《がた》けれども、浮世を安クみなし、諂《へつら》はず、奢らざる有様也」と書いているのは、興味深い。如水は、多少風雅に関心があるとはいえ、芭蕉が他国者だというので表座敷に上げず下屋《しもや》で会うぐらいの、典型的な、世間的常識人である。その常識人の眼に、芭蕉は、浮き世を安く見なしている人間として映った。  常識人は、世間を大事に考え、生活を第一とする。実事を、現実を重く見る。これに対して芭蕉は、いわば反対の極点に立っている。芸術を第一に考え、生活や、世間を、芸術に従属させようとしている。虚事を重く見、実事を軽んずる立場である。虚事のために実事があるので、実事のために虚事があるのではないと考える。芸術的であることが真に充実した人生であるのであって、芸術のない人生は、動物同様の、非人間的人生だと考える。如水の眼に、芭蕉が浮き世を安く見なしている人間として映ったのは、また当然というべきであろう。そこには多少の軽侮と、また無意識的ではあるにせよ、多少の羨望があるように見える。  如水はおそらく、毎日を世間大事と考えて生活している。他国者と会う時は、それが近頃評判の俳諧師であっても、上屋にはあげないで、下屋で会うぐらいの細心の配慮をしながら暮らしている。上役には時に諂《へつら》い、下役には時に威張って生きている。もちろん、そうして世の中を大事にして毎日を過ごすことも、千二百石取りの重役なら重役なりに、気苦労の多いことであろう。芭蕉を見る如水の眼に、軽侮と共に多少の羨望の色があったとしても不思議ではない。芭蕉には如水のもたない自由がある。如水のように始終世間体を気にする必要がない。誰に媚《こ》び、諂《へつら》う必要もない。自分の好む道を、自分の考えた通り歩いて行ける。芭蕉の道は、自由人の道である。  だが、その代わり、芭蕉は自由の代償に、世間的な実利を捨てた。世間的な意味での艱難な道をみずから選んだのである。五十歳も近いというのに、家もなく、財もなく、家庭もない、苦しく、さびしい道をあえて選んだのである。高価な代償を払った芭蕉の態度が、代償を払わない如水の眼に、「浮世を安クみなし」ているように見えたのは、当然のことである。  如水は翌日、芭蕉に南蛮酒一樽・紙子二表を贈った。何となく心|惹《ひ》かれるものがあったのであろう。もっとも一面には、千二百石取りの重役として、俳諧師を招いて、何も取らせずに放って置くわけにもいかないという、常識人としての配慮が働いていたこともあるであろう。  〈3〉関西漂泊の日々 年頭の句に乞食を詠みこむ  九月六日、芭蕉は川船に乗って大垣を立ち、長島を経て、伊勢に出た。伊勢神宮の外宮の遷宮を拝し、折りから来合わせた伊良湖岬の万菊《まんぎく》(杜国)・江戸の李下《りか》・伊賀上野の卓袋《たくたい》・大石田で入門した一栄《いちえい》等の門人に会い、また才丸《さいまろ》や信徳《しんとく》等の他派の俳諧宗匠たちにも会った。北村季吟もこの時伊勢参宮に来ていたが、芭蕉は季吟に会った形跡がない。もうこの十数年の間に、季吟との間柄は疎遠になっていた。浮き世を安く見なさない季吟の道と、浮き世を安く見なす芭蕉の道とは、余りにも隔たり過ぎてしまったというものであろう。  伊勢から久居《ひさい》を経て故郷へ帰る山中で、芭蕉は「初しぐれ猿も小蓑をほしげなり」の句を得た。後に『猿蓑』の巻頭に据えられた句である。故郷の兄の家に入ったのは、旧暦九月下旬(この年は九月二十四日が立冬)で、多分、立冬直後のことであろう。  故郷の人々は芭蕉を争って迎えた。芭蕉はもう風雅の道の有名人である。芭蕉が若かりし頃仕えた藤堂新七郎家の良忠の子良長が、今は家を継いで俳号を探丸といい、滞在中、芭蕉を下屋敷に置いてもよいと申し出たくらいである(探丸は前年の三月にも芭蕉を下屋敷に呼んで花見の句会を催している)。次々と人々が訪れ、俳席も多かった。しかし、余り長く兄の家に厄介になっているわけにもいかない。京都や近江の門人たちにも会いたい。芭蕉は十一月末には故郷を出て、奈良・大津・京都などの門人の家を泊まり歩き、膳所《ぜぜ》で元禄三年の正月を迎えた。四十七歳の正月である。この間、『おくのほそ道』旅行中に工夫した新しい俳諧を説き始めたことはもちろんである。 何に此《この》師走《しはす》の市にゆくからす   翁 (『花摘』) 長嘯《ちやうせう》の墓もめぐるかはち敲《たたき》    翁 (『いつを昔』) 知(智)月という老尼《らうに》のすみかを尋《たづね》て 少将のあまの咄《はなし》や志賀《しが》の雪  ばせを (『奉納集』) などは、十二月歳暮の吟であり、 みやこちかきあたりにとしをむかへて こもをきてたれ人ゐます花の春 (真蹟) は歳旦吟である。歳旦吟に菰冠《こもかぶ》り(乞食)のことを詠むとは、歳旦吟にふさわしくないといって、京都の宗匠の中にはこの句を批難するものがいた(書簡)。世間通俗の宗匠からいえば、おめでたい句を詠むのが歳旦吟の習わしで、それに乞食を詠みこむのは批難すべきことである。だが、芭蕉の胸中には、乞食の境涯が風雅の道の究極として描かれている。実事を捨て切れば乞食になるのである。だから、乞食を歳旦吟に詠むことは一向差し支えないことであった。  この句を詠んだ芭蕉の胸中に、西行のことが念頭にあったことを、芭蕉みずから記している(此筋、千川宛書簡)。また正月二日付けの荷兮《かけい》宛て書簡に「四国の山ぶみ・つくしの旅路、いまだこゝろさだめず候」と、四国・九州旅行について心迷っているさまが報ぜられている。 京と湖南に愛着して丸二年をすごす 望湖水惜春 行《ゆく》春を(初案は「や」)近江の人とおしみける   芭蕉 (『猿蓑』) の句を得たのは三月である。この句については『去来抄』に有名な話がある。門人の尚白が「行春を」を「行歳《ゆくとし》を」に、「近江」を「丹波《たんば》」にしてもよいではないかと、いわゆる「ふる」「ふれぬ」の議論を展開したのである。有名な話だから、ここでは深入りをしないが、去来のことばの一節だけを紹介して置こう。 行歳《ゆくとし》近江にゐ給はゞ、いかでか此感ましまさん、行春《ゆくはる》丹波にゐまさば、本より此情うかぶまじ。風光の人を感動せしむる事、真成哉《まことなるかな》。  この去来のことばに対して、芭蕉は非常によろこんで「去来よ、お前は共に風雅を語るに値する人間だ」といったという。芭蕉が、琵琶湖のほとりの春色を愛したことは疑いない。この外にも同じ頃「四方より花吹入《ふきいれ》てにほの波」(『白馬』)の句を作っているし、春といわず、四季折り折りの近江の風光を愛していたことは、多くの作品に示されている。  元禄二年九月下旬に故郷に帰ってから、元禄四年九月二十八日に帰東の途につくまで、ちょうど二年間、芭蕉は主として上野・京都・湖南(琵琶湖南岸の地方)に滞在している。京都と湖南地方は近いから、行ったり来たりしている。上野は故郷だから当然のこととして、京都・湖南地方に、有力な門人の多かったことが、直接の原因であるに相違ないが、また、この地方を芭蕉が愛していたことも付け加えるべきであろう。 俊秀、幻住庵に陸続と集まる  元禄三年三月の半ば過ぎに上野から湖南の地に出た芭蕉は、四月六日|国分《こくぶ》山麓の幻住庵《げんじゆうあん》に入った。そこは、琵琶湖から流れ出ている瀬田川のほとりの、石山寺よりもっと奥に入ったところである。幻住庵に入ってすぐ書いた如行《じよこう》宛て四月十日付けの手紙の中に、その様子が次のように書かれている。読みやすく書き直すと、 今度住んでいる所は、石山寺のうしろ、長柄《ながら》山の前にある、国分山というところで、幻住庵という破れ小屋です。あんまり静かで、またあたりの風景がおもしろいので、これにだまされて、四月のはじめに入庵しました。しばらくここで残生を養うつもりです。(中略)ここは愚老のような不才の者には、おごり過ぎたところです。けれども(気候がきびしく)、雲霧山気が病身にこたえ、鼻かぜにかかっていますので、とても秋の終わりまではがまんできそうにもありません。からだがひ弱ですので、薪を拾ったり、清水を汲んだりする事が辛くて、残念なことです。  なおこの手紙には、四国・九州旅行を断念したことも書いてある。健康に自信がなかったからであろう(後年に、また四国・九州旅行の希望を述べているところをみると、健康が回復したら行きたいという気持ちはあったらしい)。  芭蕉はこの幻住庵に旧暦七月二十三日まで滞在した。この間、湖南・京都はもとより、各地から俳人が来訪し、芭蕉自身もしばしば山を下りて門人を訪ねている。幻住庵滞在中の訪問者を、「几右日記」等によって挙げてみると、野水《やすい》・凡兆《ぼんちよう》・如行《じよこう》・市穏《しいん》・越人《えつじん》・珍碩《ちんせき》(洒堂《しやどう》)・曲水《きよくすい》・去来《きよらい》・千那《せんな》・野径《やけい》・里東《りとう》・乙州《おとくに》・怒誰《どすい》・探志《たんし》・元志《げんし》・泥土《でいど》・史邦《ふみくに》・正秀《まさひで》・柳陰《りゆういん》・朴水《ぼくすい》・何処《かしよ》・之道《しどう》・及肩《きゆうけん》・尚白《しようはく》・木節《ぼくせつ》・智月《ちげつ》・昌房《しようぼう》・等哉(洞哉)・北枝《ほくし》・秋之坊《あきのぼう》等々であり、もちろんこの外にもあったことと思われる。支考は一時同居していた。  元禄二年末から三年・四年にかけて、芭蕉の高風を慕って入門する門人は陸続とあとを絶たず、それらの人々は芭蕉の直接の教示を得て急速に才能を伸ばした。右の人々の外にも、丈草の入門は元禄二年末か三年と思われ、支考の入門も元禄三年である。ことに、湖南・京都の人々は、乾いた土が水を吸うように芭蕉から学び、蕉風は伸びて行った。それは、芭蕉の側からいえば「近年不覚俗情にしみ申候」(六月十五日付け乙州宛て書簡)であったが、この地方の門人たちにとっては、芭蕉に親しむ絶好の機会であった。芭蕉自身も、才能のある門人たちにとり囲まれて、一層工夫するところがあったに相違ない。 『猿蓑』所収の「幻住庵記」成る 「さび」について芭蕉が説き出したのもこの時期で、京都・湖南・上野の門人たちに示したものであろう。それは「さび」についての説が、江戸の門人たちの口からはほとんど聞かれず、去来や土芳や支考のような、元禄三、四年頃特に芭蕉に親しんだ門人たちによって説かれていることからも推測される。  そんな情勢の中で、まず湖南の人々を中心にした蕉門撰集『ひさご』の編集が、珍碩によって進められた(八月十三日刊行)。『猿蓑』の編集も、去来・凡兆によって企図された。これらの編集には、芭蕉が多くの助言を与え、協力を惜しんでいない。  芭蕉自身も幻住庵を出る直前(七月二十三日出庵)「幻住庵記」の草稿を脱稿した。芭蕉の俳文の代表的な傑作として著名であるから、多くは述べないが、推敲に推敲を重ねた文であることは、去来宛て書簡によっても明らかであり、また今日知られるいくつかの草稿によっても察せられる。『猿蓑』所収の定稿が成ったのは八月であるが、その文末を掲げてみよう。 かくいへばとて、ひたぶるに閑寂を好み、山野に跡をかくさむとにはあらず。やゝ病身人に倦《うん》で、世をいとひし人に似たり。倩《つらつら》、年月の移《うつり》こし拙《つたな》き身の科《とが》をおもふに、ある時は仕官懸命の地をうらやみ、一たびは仏籬祖室《ぶつりそしつ》の扉《とぼそ》に入らむとせしも、たどりなき風雲に身をせめ、花鳥に情《じやう》を労して暫く生涯のはかり事とさへなれば、終《つひ》に無能無才にして此一筋につながる。楽天《らくてん》は五臓の神《しん》をやぶり、老杜《らうと》は痩《やせ》たり。賢愚文質のひとしからざるも、いづれか幻《まぼろし》の栖《すみか》ならずやと、おもひ捨《すて》てふしぬ。 先《まづ》たのむ椎《しひ》の木も有《あり》夏木立 (『猿蓑』) 9 みのり  〈1〉新しい俳風 日常生活の中の詩情を具体的に詠む  ともかく芭蕉は、七月二十三日に幻住庵を出て、やがて大津の義仲寺の草庵を当分の根拠地とするようになった。正秀の世話だろうという。  湖南地方の蕉門は、すでに貞享二年から入門している尚白・千那や、早く江戸で入門した曲水等が古参であるが、あとから入門した珍碩(洒堂)・正秀・乙州等がぐんぐん頭角をあらわし、芭蕉は尚白・千那等の古参門人と、珍碩・正秀・乙州等の新進門人との調整にも心を配らなければならなかった。しかし、前述の通り、芭蕉は常に前進を心掛けている。『おくのほそ道』旅行前と旅行後とでは、俳風におのずから異なったものが出て来ている。その変化発展に十分ついて行けない古参門人よりも、新進の門人の方を、芭蕉はつい身近に考えてしまうのであった(そこに、翌元禄四年に至っての、尚白・千那の芭蕉離反がある。荷兮・越人等名古屋の門人たちが、元禄四、五年頃から離反の姿勢を示すのも、原因の根本はそこにある)。  芭蕉自身は、義理・人情を無視しているわけではない。だが、生活を芸術本位にする以上、つまり芸術あっての生活と考えるからには、自分の芸術の進歩についてくることのできない門人は、置いて行くより外に仕方がない。いや、できるだけ手をさしのべようとはしているのだが、どうしても自分の新しい芸術観(それはまた、直ちに人生観につながるのだが)に共鳴する門人を接近させてしまう。京の凡兆が、元禄三年入門するや、急速に芭蕉に親炙し、たちまち蕉門の中に頭角をあらわし、去来と並んで『猿蓑』の撰者となったのも、右に述べた事情と無関係ではあるまい。芭蕉は前進する自分について来る新しい門人を愛さずにはいられなかったのであろう。  凡兆は、芭蕉に会い、その指導を受けるまでは凡庸《ぼんよう》な句を作っていた。芭蕉に接するや、心から芭蕉に傾倒し、俳諧に没頭し、ぐんぐんと俳境を深めて行った。芭蕉は凡兆のひたむきな俳諧精神を高く評価し、たちまちのうちに心を許し合う師弟となった。凡兆の性格は「剛毅な」(『猪《い》の早太《はやた》』)ところがあり、芭蕉に対しても自分の意見をどんどんと遠慮なくいう。作風からいえば、芭蕉と相|容《い》れない一面もある。それにもかかわらず、芭蕉は凡兆を愛さずにはいられなかった。  凡兆の作風には、従来の和歌・連歌の伝統的情趣を、ずばりと切り捨てたところがある。 「時雨るゝや黒木つむ屋の窓あかり」「門前の小家もあそぶ冬至《たうじ》かな」「すゞしさや朝草門ンに荷《にな》ひ込《こむ》」「市中は物のにほひや夏の月」(『猿蓑』)などを見ても、古い和歌的情趣を全く払い捨てて、日常的生活の中に清新な詩情を発見し、これを具体的・即物的に掴んでいる。芭蕉が『おくのほそ道』旅行の後に向かおうとしたのは、正にそのような道であった。 『猿蓑』の撰者になぜ去来・凡兆を選んだか 川かぜや薄《うす》がききたる夕すゞみ    翁 (『己が光』) 桐《きり》の木にうづら鳴《なく》なる塀《へい》の内    芭蕉 (『猿蓑』) 海士《あま》の屋は小《こ》海老《えび》にまじるいとゞ哉 芭蕉 (『猿蓑』)  これらは元禄三年の芭蕉吟である。凡兆の方向と一脈通うものがあろう。もっとも芭蕉は凡兆よりもっと幅が広いから、「海士の屋」の句とほとんど同時に、 病鴈《やむかり》の夜さむに落《おち》て旅ね哉     芭蕉 (『猿蓑』) の句を作っている。芭蕉が、去来・凡兆に対し、この二句のうち、どちらかを『猿蓑』に入れるよう申し入れたところ、凡兆は「病鴈《やむかり》はさる事なれど、小《こ》海老《えび》に雑《まじ》るいとど(えびこおろぎ)は、句のかけり・事あたらしさ、誠に秀逸の句也」として「海士の屋」の句を推した。去来は「小海老の句は珍しといへど、其物を案じたる時は、予が口にもいでん。病鴈《やむかり》は、格高く趣かすかにして、いかでか爰《ここ》を案じつけん」(『去来抄』)といって、「病鴈」を推した。  去来・凡兆の、それぞれの傾向がうかがわれておもしろい話だが、芭蕉には、去来・凡兆両方の傾向を包容するものがある。だから芭蕉は、去来に対しては「俳意|慥《たしか》に作すべし」といい、凡兆に対しては「俳諧も流石《さすが》に和歌の一体也。一句にしほりの有様《あるやう》に作すべし」(『去来抄』)と教えた。  芭蕉が凡兆に『猿蓑』の撰者の地位を許したのは、入門日なお浅い門人ではあるが、凡兆的傾向が、蕉門に新しい刺激となることを期待したものであろう。もちろん、凡兆だけでは、たとい芭蕉の後援があっても、撰集を編むことは無理である。京都蕉門の古老であり、篤実な性格を以て人望のある去来を主にし、これに凡兆を配して『猿蓑』の編集に当たらせたことは、芭蕉の意のあるところと見てよい。  こうして『猿蓑』の編集は着々と進んだ。去来と凡兆は頻々と会合し、芭蕉もしばしば同席した。だが、『猿蓑』について述べる前に、元禄三年秋から元禄四年前半の芭蕉の動静について簡単に触れて置こう。 やむをえない帰東延期のうちに  芭蕉はいい加減で関西漂泊の生活を打ち切り、江戸へ戻ろうという気持ちがあった。すでに幻住庵にいた頃からその気持ちはあったもので、七月十七日付け牧童宛て書簡の一節に「東之方ちかくへそろとたどり可レ申かとも存候」とあるし、同年九月二十五日付けの芭蕉宛て杉風書簡には「寒気にむかひ、御下りも嬉しながらも、又気遣にも御座候。とかくよく御養生被レ成、道中別儀無レ之之様にて御下り可レ被レ成候」とあり、またその翌日の芭蕉宛て曾良書簡等によっても、帰東の意を芭蕉が江戸へいってやっていることが察せられる。  しかし、一つには芭蕉の健康がとかくすぐれないことと、もう一つには、江戸の住居の問題があって、芭蕉は帰東に踏み切れないでいた。  江戸の最も有力な後援者である杉風の家の、事業上の金融がかなり逼迫《ひつぱく》していて、芭蕉庵の再入手が円滑に進まないのであった。それらのことは前掲杉風・曾良の書簡によって察せられる。  結局、芭蕉は帰東を延期し、翌年の秋まで上方地方に漂泊の日を送る。義仲寺に草庵を借りて入って間もなく、八月十三日には前述の『ひさご』(珍碩編)が刊行され、八月十五日の中秋名月の夜には、門人たちが集まって月見の宴を催した。九月下旬には堅田に遊び、前掲「病鴈《やむかり》の」の句と「海士《あま》の屋は」の句を得たが、かぜを引いて「さんざん」であった。九月末に上野へ帰ったが、十一月には京都へ出、元禄四年の正月は大津の乙州宅で迎えた。四十八歳である。乙州が江戸へ旅立つのに餞《はなむけ》として、 餞乙州東武行 梅若菜まりこの宿《しゆく》のとろゝ汁   芭蕉 (『猿蓑』) と詠んだが、これも『おくのほそ道』旅行後の新風に属しよう。  正月十日頃に帰郷し、三月下旬まで滞在した。郷里の人々はこの時とばかり芭蕉を取り囲んだ。正月十九日付け正秀宛て書簡に「爰元《ここもと》も人々とり付《つき》候|而《て》、此返事之内も、同名(兄、松尾半左衛門)が茅屋《ぼうおく》の中へ大勢|入込《いりこみ》候|而《て》、……」とあり、二月二十二日付け怒誰《どすい》(曲水の弟)宛て書簡にも「旧友、風情《ふぜい》之輩、せつき申候|而《て》、よほどやかましく御座候間、来月出京可レ致と心掛《こころがけ》申候へども、いろのがれぬ事ども仕出《しで》かし、夏秋までも可《とどむ》レ留《べく》、たくみいたし候」という有り様であった。 『猿蓑』に作品の載る伊賀の作者だけでも、土芳《どほう》・猿雖《えんすい》・半残《はんざん》・車来《しやらい》・卓袋《たくたい》・風麦《ふうばく》・良品《りようぼん》・荻子《てきし》などを始めとして二十八人に及び、中には蝉吟《せんぎん》・探丸《たんがん》父子も入集している。土芳は最も芭蕉に親炙《しんしや》し、芭蕉からも愛されていた。芭蕉没後、元禄十六年頃に、有名な『三冊子《さんぞうし》』を著《あら》わしたが、それは芭蕉の示教をもとにし、なお自己の見解をも付け加えた俳論書である。 『嵯峨日記』・『笈の小文』  さて芭蕉は、三月下旬奈良を経て京都に出、初夏四月十八日に嵯峨の落柿舎《らくししや》に入り、五月四日まで滞在、この間に日記をつけて『嵯峨日記』が成った。落柿舎は、今日の落柿舎とは別で、「芹《せり》川のほとり也。野の宮へ行《ゆく》道の角《すみ》屋敷也」(『岡崎日記』)で、もと富豪の別荘だったのを去来が入手したものである。 『嵯峨日記』は、日記といっても、毎日の事実の記録を旨としたものではない。芸術としての事実の記録であって、したがってそれ自体が文学作品である。文学作品たることを意識してつけられた日記である。芸術的生活こそが真の人間的生活であると考え、それを実践しようとしている芭蕉が、その生活を記録すれば、当然それは芸術的作品になるべきはずのものである。だから、四月十八日の記事は全体の序にあたるように書かれ、五月四日は結びとして序に呼応し、「五月雨《さみだれ》や色帋《しきし》へぎたる壁の跡」の句を以て終わっている。その間、全体として繁簡を適当に配慮し、自他の句を挿入し、生活即風雅の状を記している。  この滞在中に「幻住庵《げんぢゆうあん》にて書捨《かきすて》たる反古《ほんご》を尋出《たづねいだ》して清書」したなどの記事もあるから、人の来ない時は句文の創作に耽ったりもしたであろう。『おくのほそ道』を書かねばならないと思ったり、その前に『笈の小文』を完成させなければとも思ったことであろう。 『笈の小文』を現存の形までまとめたのは、多分このころか、せいぜい五月二日までではあるまいかと想像される(少なくとも、前年の九月以後、今年の九月までの間だが、『三冊子』に「或年の旅行、道の記すこし書るよし物がたり有」と土芳に語ったのは、今年の一月から三月までの上野滞在中かと思われ、するとその時は、『笈の小文』はまだ「すこし」しか書かれていなかったことになり、落柿舎滞在中には、十分書く暇がありそうにもないので、そのあと六月から九月までの間、主として義仲寺の草庵で書いたのではないかと想像してみたが、その後前記のように限定すべきだと考えるに至った。拙稿「笈の小文の執筆と元禄四年四月下旬の芭蕉」〈連歌俳諧研究三十八号〉参照)。  また落柿舎滞在中、去来・凡兆の二人がしばしば訪れていることは、『猿蓑』の編集がようやく熟して来ていることを思わせる。  落柿舎を出てから、芭蕉は凡兆宅へ移り、六月十日頃まで滞在するが、五月二十三日付け正秀宛て書簡に「爰元《ここもと》わりなき集の内相談にて紛《まぎれ》候|而《て》……」とか、五月二十六日の曾良日記に「集ノ義取立、深更ニ及《オヨブ》」などの記事もあることから考えて、五月末頃までに『猿蓑』の大体の原稿はできたと思われる。七月三日『猿蓑』出版。  〈2〉『猿蓑』と新風 旅行後の蕉風の代表的句集  ようやく『猿蓑』について語る順序になった。丈草は『猿蓑』に跋を書いて「猿蓑は芭蕉翁滑稽の首《しゆきやう》なり」(原漢文)といい、去来は「猿蓑は新風の始《はじめ》」(『去来抄』)といい、まだ一句も入集していない支考も、後に「猿蓑集に至りて全く花実を備ふ。是を俳諧の古今集ともいふべし」(『俳諧発願文』)といい、同じく許六も「俳諧の古今集也。初心の人、去来が猿蓑より当流俳諧に入るべし」(『宇陀法師』)といっている。『おくのほそ道』旅行中の芭蕉の工夫をもとにした、旅行後の蕉風の代表的句集といってよいであろう。其角が序文のはじめに「俳諧の集つくる事、古今にわたりて此道のおもて起《おこす》べき時なれや」というのも、正にこの時期に蕉門にあるべき句集が出現したことを意味している。  作者総計百十八人(発句の部に百八人)のうち、蝉吟《せんぎん》(故人)・露沾《ろせん》・等哉《とうさい》(洞哉)等を除けば、ほとんどが蕉門の作家で、当時の蕉門の有力作家は網羅されているといってよい。逆にいえば、百人を少し越すぐらいが当時の蕉門の勢力だったということにもなる。もちろん、入集に至らない初歩的門人が外に相当数いたことはいうまでもない。中で、京・湖南地方や伊賀の門人が多いのは、編集の土地や編者や時期からいっても当然のことであるが、江戸の門人の句も多く、また尾張・美濃・長崎・加賀等や、『おくのほそ道』旅中に入門した酒田の不玉など、作者は全国にわたっている。今、試みに有力作家の例句を一句ずつ挙げてみよう。 初時雨猿も小蓑をほしげなり    芭蕉 はなちるや伽藍《がらん》の枢《くるる》おとし行く   丹兆 鉢たゝき来ぬ夜となれば朧なり   去来 此木戸《このきど》や鎖《ぢやう》のさゝれて冬の月    其角 出替《でかはり》や幼ごゝろに物あはれ     嵐雪《らんせつ》 みちばたに多賀《たが》の鳥井《とりゐ》の寒さ哉   尚白 幾人《いくたり》かしぐれかけぬく勢田《せた》の橋   丈草 鳩ふくや渋柿原の蕎麦《そば》畠《ばたけ》      珍碩《ちんせき》 唇《くちびる》に墨つく児《ちご》のすゞみ哉      千那 鑓持《やりもち》の猶振り立つるしぐれ哉    正秀 鳥共《ども》も寝入ってゐるか余吾《よご》の海   路通 広沢《ひろさは》やひとり時雨《しぐ》るゝ沼太郎    史邦 かげろふやほろ落つる岸の砂  土芳 ひね麦の味なき空や五月《さつき》雨《あめ》     木節 終夜《よもすがら》秋風きくや裏の山       曾良 手を懸《かけ》ておらで過行《すぎゆく》木槿《むくげ》哉     杉風《さんぷう》 塩魚の歯にはさかふや秋の暮    荷兮《かけい》 はつ市や雪に漕《こぎ》来る若菜船     嵐蘭 うらやましおもひ切《きる》時猫の恋    越人 等々である。ただし、其角・嵐雪・杉風・嵐蘭等の江戸作家や、荷兮・越人等の尾張の作家などに比し、湖南・京・伊賀等の門人に佳句が多く、進歩の跡が著しいのは、元禄三、四年の芭蕉の直接の指導を受けた結果であろう。 観念的な句を「重み」として排斥  芭蕉がこの頃、旧套を排し「新意」を志していたことは、例えば元禄四年三月九日付け去来宛て書簡に「独吟新意|明《あきらか》に顕《あらはれ》候。殊の外よろしく候」とか、「惣体《そうたい》新意を心|指所《ざすところ》、ほのぼのと見え候|而《て》、先《まづ》よろしき方に可レ評にや」とかいう評言の一節などによっても明らかで、去来の「不玉宛論書」に、「新シミ」が強調されているのも、去来が、この頃の芭蕉の教えを体して書いたからであろう。『おくのほそ道』旅行中の不易流行論の発明は、おのずから「新シミ」を求めることを要求することにつながり、それはまた大時代的な、風雅ぶった風雅でなく、即物的・生活的・日常的な把握の方向に向かって行く。この頃の芭蕉の作、 桐の木にうづら鳴《なく》なる塀《へい》の内   芭蕉 (『猿蓑』) について、芭蕉自身が「いさゝか思ふ処ありて歩みはじめたる」(『三冊子』)方向である旨を語ったというが、即物的・日常的なもののうちにある閑雅な情を、芭蕉は考えていたように思われる。それは、元禄四年二月二十二日付け珍夕(碩)宛て書簡に、土芳の「庭興 梅が香や砂利|敷《しき》流す谷の奥」の句を掲げ、「今おもふ所に聊《いささか》叶《かなひ》候へば書付|進《しんじ》候」と記していることと符節《ふせつ》を合わせるものがある。  前掲の、元禄四年三月九日付け去来宛て書簡の別のところに、「雛《ひな》扨《さて》感悦申候。五文字も少《すこし》心ゆかぬやうには御座候へ共《ども》、心を付《つけ》、置《おき》候ば、若ゑびす、人の代や、と云《いふ》たぐひに成《なり》候間、気付《きつけ》可被下候。其まゝ御|用《もちひ》可然《しかるべく》候|半歟《はんか》」とあるのは、去来の「振舞《ふるまひ》や下座《しもざ》になほる去年《こぞ》の雛《ひな》」の句に対する批評であって、「振舞や」というはじめの五文字が、すこし不十分だが、それを直そうとして重いことばを置き過ぎると、信徳の「人の代や 懐《ふところ》に在《ます》若ゑびす」(『団袋』)の句のように観念的な、浅い句になってしまう、だから多少不十分だがそのままにしておけ、という注意である。 『去来抄』によると、去来は「古ゑぼし」とか「紙衣《ぎぬ》や」とか、「あさましや」「口をしや」などいろいろと、初めの五文字を置きかえてみたらしい。しかし芭蕉は、去年の雛が今年の新しい雛に座を譲って下座に移るところはよいとしても——そこまでは即物的・日常的である——それを直ちに世の中の新旧勢力の隆替や、人生の相などの比喩とする詠み方に反対しているのであって、この素材はそうなり勝ちな性格を持っているだけに、芭蕉は特に注意を与えているのである。そのような観念的な詠み方を芭蕉は「重み」として非難している。  そのことは、『去来抄』の次のような一節によっても明らかである。 日常性の具象化を通じて人生表出を期待 君が春|蚊屋《かや》はもよぎに極《きはま》りぬ   越人 (前略)越人が句……又おもみ出《いで》来たり。此句、蚊屋《かや》はもよぎに極《きはまり》たるにてたれり。「月影」「朝朗《あさぼらけ》」などと置《おき》て、蚊屋の発句となすべし。其上に、かはらぬ色を君が代に引かけて、歳旦《さいたん》となし侍るゆへ、心おもく句きれいならず。(下略)  越人の句の大意は、蚊帳《かや》の色がいつも萌黄《もえぎ》色に決まっていて変わらぬように、君が代も変わることなく栄えるめでたい新春だと、いうのであるが、芭蕉はそのような観念的な詠み方を「重み」として非難している。蚊帳は萌黄《もえぎ》色にきまっているというだけで十分なので、あとは「月影や」とか「朝ぼらけ」とかいうような五文字を上に置いて、観相的なところのない、日常的・即物的な句とせよという。浅い人生観照の句、露骨な風流ぶった句、それらを芭蕉は重みとして排斥した。凡兆が『猿蓑』に於いて四十一句の多くを収録されたのも、重みを嫌うこの当時の芭蕉の考えに、凡兆の傾向が合致していたからである。  名古屋の荷兮・越人・野水等の一派は重みを脱し切れなかった。そこに彼等の芭蕉離反の原因の根本があることは前にも述べた。  明治の正岡子規は、旧派の月並み調を批判し、月並み調が「往々智識に訴へんと欲す」(『俳句問答』)として、例えば「屋建つる隣へは来ず初《はつ》乙鳥《つばめ》 鶯笠」のごときは、つばめが隣の金持ちの家へは来ないで、貧しいわが家へ来ることを、初つばめは富を喜ばず、貧を愛する、という知的判断によって詠み、一種の観相的なものがあることを非難し、その点が自分たちの新しい俳句との「根底よりの相違」だとしている。子規はまた芭蕉の句に理屈による作為が多いことを批判しているが(『芭蕉雑談』)、しかし、芭蕉がこの元禄三、四年に主張しているところは、子規の旧派月並み調排斥に、一脈相通ずるところのあるものである。子規が凡兆を賞めているように、芭蕉も凡兆を推重している。子規が理屈の句を排斥しているように、芭蕉も浅い観念句を極力排斥している。ただ、芭蕉が子規のような写生に行かなかったのは、即物的・日常的・情景的であることを主張しながら、単にその段階でとどまらず、それがおのずから自己の人生的なものと深い底の方でつながることを期待していたからである。それを「象徴」というなら、そういってもよいであろう。  何度も述べて来たように、芭蕉は生活と芸術とを一体化させようとして来た。生活を芸術に献身して来た。芸術の中に日常性を埋没させている。そういう作者が、即物的・日常的・情景的作品を作れば、表層には作者その人の観相はあらわれないとしても、またあらわすべきでもないが、深層に於いて作者の人生的なものがおのずから滲み出て来るはずである。そのような期待が芭蕉にはあった。これから後、「重み」を排し、従って「軽み」を強調することになる芭蕉ではあるが、晩年の作品は「軽み」であって、しかも一種の人生的なものが根底にある。だが、それを説く前に、この頃書かれた『笈の小文』の芸術論を紹介する必要があろう。  〈3〉『笈の小文』の芸術論 花や月を通じて物を見るこそ真人間 西行《さいぎやう》の和歌における、宗祇《そうぎ》の連歌における、雪舟《せつしう》の絵における、利休《りきう》が茶における、其|貫道《くわんだう》する物は一《いつ》なり。しかも風雅におけるもの、造化《ざうくわ》にしたがひて四時《しいじ》を友とす。見る処花にあらずといふ事なし。おもふ所月にあらずといふ事なし。像《かたち》、花にあらざる時は夷狄《いてき》にひとし。心、花にあらざる時は鳥獣に類ス。夷狄を出《いで》、鳥獣を離れて、造化にしたがひ、造化にかへれとなり。 (『笈の小文』)  有名な一節であるが、元禄三、四年頃にこの一節が書かれたことは意味深いものがある。像《かたち》が花でない人間、心が花でない人間とは、生活が芸術化されていない人間ということである。そのような人間は、人間といっても野蛮人(夷狄)か、鳥獣の類で、真の人間ではない、と芭蕉はいう。見る所、思う所が、花や、月ばかりである人間、花に於いて物を見、月に於いて物を考える人間、花や月を中心にして物を見、物を考える人間、そういう人間であって始めて真の人間である。生活が風雅(芸術)の中に埋没した時、その人は始めて真に人間になる。芭蕉はそう主張する。  近代における文学観の大勢は、文学を現実や社会の方に引き寄せて見る立場であろう。生活のために文学や芸術があるのであり、現実を写すところに文学作品が成り立つという考え方が強い。素朴な芸術至上主義は敗退し、文学を生活や現実の方に近付けることによって、文学を支えようとしている。これに対して芭蕉のとった態度は正反対である。生活や現実を、芸術の中に埋没させることによって、両者の一体化を計ることが、芭蕉の試みた方法である。いわば生活の芸術化によって両者の統一を試みたといってもよい。実事を捨てて虚事に専念することは、生活の事実がないということではなく、現実の生活が虚事本位になるということである。  この考え方については、すでに再三触れて来た。だが元禄四年頃に、この『笈の小文』の文のような形で、芭蕉がはっきりと述べたのは、芭蕉がそのような覚悟をもう一度新たにしたからであろう。 みずから選んだ道の再確認  実事を虚事の中に埋没させ、虚事にのみ生きることになれば、当然のこととして、現実生活は痩せて、不幸になって行く。いや、生活を重んずる人の立場からいえば、痩せて不幸のように見える、というべきかもしれない。その代わりに、芸術が充実し、芸術が肥え、芸術が成長する。芭蕉はその道を自ら選んだのであり、そのことを文に草して、もう一度自分にいい聞かせたのである。元禄二年以後の芭蕉の生活は正しく「見る処花にあらずといふ事なし。おもふ所月にあらずといふ事なし」であった。  その代わりには、財なく、家庭なく、江戸へ戻ろうとしても住むべき家がない現実に甘んじなければならない。「栖去之弁」(元禄五年春)は、そのような辛《つら》い現実に対して、自己の覚悟を述べたものだが、それは次章に掲げることにする。  この年の中秋名月の会を、芭蕉は義仲寺の自分の草庵(無名庵)で催した。先に門人たちによって新しい草庵が作られていた。来会した門人は、乙州・正秀・洒堂(珍碩)・丈草・支考・木節・惟然・智月等の有力門人たちで、芭蕉は「三井寺の門たゝかばや今日の月」と詠んだ。三井寺の門はたたかなかったが、興に乗じて、千那・尚白を訪ね、翌日は船で堅田に渡り、成秀亭に遊んで風雅をほしいままにした。堅田での連句(歌仙)には、十九人もの多数が参加している。芭蕉の風流三昧の生活のさまをうかがうに足りよう。  九月二十八日、義仲寺の無名庵を出立して帰東の旅につくまで、このような風流三昧の生活が続いたが、しかしそのかげには、もう、千那・尚白の離反や、荷兮・越人・野水等の離反が起こり始め、それに凡兆までも同調しようとしていた。芭蕉の心に、少し湖南地方の滞在が長過ぎたとの悔いがあったかもしれない。  九月二十八日の夜は、大津の乙州《おとくに》宅に泊まり、乙州には自画像を、母の智月には自筆「幻住庵記」を形見にのこし、なお未完成の『笈の小文』(草稿)を乙州に預けた。  なぜ『笈の小文』の草稿を未完成のまま乙州のところに残したのであろう。恐らくは、もう芭蕉の胸中に『おくのほそ道』執筆の構想があって(あるいは一部はすでに書き始められていたかもしれない)、なかなかものにならない『笈の小文』よりも、新しい紀行執筆の方に関心が移って来たからであろう。始めは『笈の小文』で述べようとしていたことを、だんだん『おくのほそ道』の中につぎこもうと考えるようになったのではあるまいか。そうなれば、『笈の小文』はもういらない。少なくとも当分取り出す必要はない。芭蕉は道中の荷物になる『笈の小文』の未完成草稿を大津に置いて、帰東の旅に出立した。 10 『おくのほそ道』成る  〈1〉江戸の新草庵で 乞食同然の身の上をみずから肯定  芭蕉が、東海道の各地の門人と俳席を持ちながら、ゆっくりと旅を続けて、江戸へ戻ったのは元禄四年(一六九一)十月二十九日のことである。芭蕉庵はまだできていなかったから、「いまだ居所不定」(十一月十三日付け曲水宛て書簡)であった。しかしそれは、芭蕉としては覚悟の上のことである。毎日のように訪ねて来る旧友・門人たちに、芭蕉は次の一句を示した。 よの中、定《さだめ》がたくて、此《この》むとせ、七とせがほどは、旅寝がちに侍れ共、多病くるしむにたえ、とし比《ごろ》ちなみ置《おき》ける旧友・門人の情わすれがたきまゝに、重《かさね》てむさし野にかへりし比《ころ》、ひと日々|草扉《さうひ》を音づれ侍るにこたへたる一句、 ともかくもならでや雪のかれお花 ばせを (『雪の尾花』)  やがて橘町(「浜町にて越前殿上り屋敷跡新地」)の彦右衛門方の借家に入り、元禄五年の正月を迎えることとなった。深川より少し市中に近い所に住居を定めたのを、世間の人は「不審」がった。芭蕉は「常人の目の付《つけ》所、おかしく、浅ましく候」(五月七日付け去来宛て書簡)と書いている。 栖去之《せいきよの》弁           ばせを こゝかしこうかれありきて、橘《たちばな》町といふところに冬ごもりして、陸(睦《む》)月・きさらぎになりぬ。風雅もよしや是までにして、口をとぢんとすれば、風情胸中をさそひて、物のちらめくや、風雅の魔神なるべし。なを放下《はうか》して栖《すみか》を去《さり》、腰にたゞ百銭をたくはへて、柱(〓《しゆ》)杖一鉢《ぢやういつぱつ》に命を結ぶ。なし得たり、風情|終《つひ》に菰《こも》をかぶらんとは。 (『芭蕉庵小文庫』)  人の喜捨《きしや》によって毎日を送る生活は、乞食の境涯である。風雅に身を献じ、生活を芸術に捧げた結果、現実生活に於いて乞食同然の身の上になったことを、芭蕉は「なし得たり」とみずから肯定しようとしている。五十歳にもなろうというのに、「いまだ居所不定」と書かねばならない現実生活は、痩せて不毛である。しかし、そうしなければ真の文学は得られないのだ。  江戸の俳壇には、点取《てんとり》俳諧が充満していた。「此地点取俳諧、家々町々に満〓《みちみち》〓、点者どもいそがしがる躰に聞え候。其|風躰《ふうてい》は御察し可被成《なさるべく》候《さふらふ》」(同年二月十八日付け珍碩宛て書簡)であり、「屋敷町、裏屋、背戸屋、辻番、寺かたまで、点取はやり候」(五月七日付け去来宛て書簡)であり、「点取ニ昼夜を尽し、勝負をあらそひ、道を見ずして、走り廻るもの」(同日付け曲水宛て書簡)が大半であった。そのまっただ中で「栖去之弁《せいきよのべん》」は書かれている。芭蕉だって小遣い稼ぎをしようとすれば、容易なことである。だが、あえてそれを峻拒《しゆんきよ》するところに、芭蕉の真面目がある。そこに芭蕉の文学の土台がある。またそれ故に芭蕉の声望が高かったのでもある。この年の一月中に刊行された他門の俳諧撰集が、次のように芭蕉の発句を乞い受けていることは、芭蕉の声望が俳壇に於いていかに高かったかを示すものである。  麻野|幸賢《ゆきたか》(談林、西鶴一派)編『河内|羽二重《はぶたえ》』に発句一、和気遠舟《わけえんしゆう》(談林、宗因門、西鶴一派)編『すがた哉』に発句一、双吟堂春色(談林、惟中・西鶴一派)編『移〓抄《わたまししよう》』に発句一、青木|鷺水《ろすい》(立圃《りゆうほ》門・団水《だんすい》系)編『春の物』に発句一。 芭蕉も移植されて新草庵にぎわう  五月中旬に、ようやく、芭蕉庵がまた元の地の近くに成った。部屋数三間ほどの草庵であるが、南に向かい、池に臨《のぞ》み、竹を植え、樹に囲まれ、五本の芭蕉を移植して、遠く富士山を眺め得た。杉風《さんぷう》・濁子・枳風《きふう》・李下その他の人々の出資であった。  秋八月、芭蕉は「芭蕉を移す詞《ことば》」を書き、その末尾に、 名月のよそほひにとて、先《まづ》ばせをを移す。其葉七尺あまり、或《あるひ》は半《なかば》吹|折《をれ》て鳳鳥《ほうてう》の尾をいたましめ、青扇《せいせん》破《やぶれ》て風を悲しむ。適々《たまたま》花さけども、はなやかならず。茎《くき》太けれども、おのに当らず。彼《かの》、山中|不材類木《ふざいのるゐぼく》にたぐへて、其|性《さが》尊し。僧|懐素《くわいそ》はこれに筆をはしらしめ、張横渠《ちやうわうきよ》は新葉をみて修学の力とせしとなり。予、其二つをとらず。唯このかげに遊て、風雨に破れ安きを愛するのみ。 (「真蹟三日月日記」) と書く。中国|唐《とう》代の書家の懐素は芭蕉の葉を紙の代用として手習いをし、同じく中国|宋《そう》代の張横渠は、芭蕉の葉が次々と新葉を出すのを見て、そのように新徳を養い、新知を得ようと、心に期した。だが、と芭蕉はいう、自分はその二人のように、芭蕉を実用の具としては見ない、ただその葉かげに遊んで、その葉が裂けやすく、風雨に破れがちな風情を愛するのみだ、と。芸術本位の生活態度は、ここにも一貫しているといえよう。  右の文を収録する『三日月日記』は、八月三日の三日月の夜から、十五日の満月の夜までの知友・門人の句を集めたもので、この間、芭蕉庵を訪れた人々は三十余名に及ぶ。芭蕉自身の句は、次の二句である。 三日月の地は朧なり蕎麦《そ ば》畠《ばたけ》 名月や門に指しくる潮頭《しほがしら》  なお八月九日には、彦根藩士で江戸在勤中の森川|許六《きよりく》が入門し、翌年五月江戸を去るまでの間、極めて熱心に芭蕉の指導を仰いだ。許六は狩野《かのう》派の画に練達であったので、芭蕉は許六に俳諧の指導をするかたわら、許六から画を習った。  また九月上旬には、膳所《ぜぜ》の洒堂《しやどう》(珍碩《ちんせき》)が、上府して芭蕉庵に滞在することとなった。芭蕉が湖南滞在中に指導を受けたのだが、さらに教示を得ようとして江戸に来たものである。酒堂は翌年一月下旬まで芭蕉庵の客となって、芭蕉に師事するとともに、江戸の蕉門の人々と俳交を深め、『深川』を編んだ(翌元禄六年二月刊行)。 多くの門人にかこまれて新風を促進  許六・洒堂ばかりではない。曲水も折りから上府して来たし、江戸の知友・門人たちも芭蕉を放っては置かない。九月から年末までの間に、今日わかる連句会だけでも十一回に及ぶ。「さても人にまぎらされ、こゝろ隙《ひま》無二御座一候」(十二月三日付け意専宛て書簡)と書かざるを得ないほどの状態である。十二月三日付け許六宛ての書簡によると、許六が芭蕉庵訪問を申し入れたのに対し、八日から十七日までの十日間の中で、在宅が確実なのは十三日だけだと返事している。多忙の状を察すべきである。  多忙ではあったが、しかし芭蕉を理解する熱心な門人に取り巻かれることは、一面、芭蕉にとっても俳諧の上での工夫を進める結果を招来した。芭蕉が元禄三、四年の頃から「重み」を嫌って新しい作風に転じつつあったことは前述した。その後の俳風も大局的に見れば、その延長の上にあるといってよい。 塩鯛《しほだひ》の歯ぐきも寒し魚《うを》の店《たな》   芭蕉 (『薦獅子』) について、其角は「魚の店」とあるところは、普通なら「衰零《すいれい》の形にたとへなして」「老の果《はて》」とか「年のくれ」とか置くところだが、それを「魚の店」と即物的に詠んだところが素晴らしいと感心し、これによって「活語の妙をしれり。其幽深玄遠に達せる所、余はなぞらへてしるべし」(『句兄弟』)と激賞している。「老の果《はて》」とか「年のくれ」では、其角のいう通り、浅い観念句になってしまう。芭蕉は元禄三、四年以来そのような薄っ平い観念的詠みぶりを「重み」として排斥している。「魚の店」によってこの句は俳諧性を得、具象的・日常的・即物的で、しかもそこに一脈作者の心境の気分象徴がある。  支考は、その点を次のようにいう。 (前略)今いふ其角《きかく》も我輩《わがはい》も、たとへ塩鯛の歯ぐきを案ずるとも、魚の棚は行|過《すぎ》て、塩鯛のさびに木具の香をよせ、梅の花の風情をむすびて、甚深微妙の嫁入《よめいり》をたくむべし。祖翁は、其日、其時に、神々の荒《くわう》の吹《ふき》つくして、|さゞゐ《ママ》も見えず、干《ひ》あがりたる魚の棚のさびしさをいへり。誠に其比の作者達の手づまに金玉をならす中より、童部《わらはべ》もすべき魚の棚をいひて、夏炉冬扇《かろとうせん》のさびをたのしめるは、優游自然《いういうじねん》の道人《だうじん》にして、一道|建立《こんりう》の元祖ならざらんや。 (『十論為弁抄』)  支考の文には一種の癖があって、言葉通りには従いがたいとしても、初心者は塩鯛の歯ぐきの寒さをさびとして捉え、これに「木具の香」とか「梅の花」を対さしめて、「甚深微妙の嫁入をたくむ」ことが多い。つまり、ただ「魚の棚」というだけでは物足らないと考えて、風流ぶった趣向をこらしたり、意味ありげにいおうとする。それを子供でも詠む「魚の店」と末句を結んだところが「たとい十知の上手とても及ばぬ所」だと支考はいう。  芭蕉自身も、其角の「声かれて猿の歯白し峯の月」の句について、その句は其角らしい句だが、といって、「塩鯛の歯ぐきは、我《わが》老吟也。下を「魚の店」と、たゞ云《いひ》たるも、自句也」(『三冊子』)と述べている。其角のように趣向を構えないところが自分らしいところなのだ、というのである。  〈2〉五十歳にして 甥桃印の死と三人の子を連れた寿貞  こうして元禄五年は俳事多忙のうちに暮れ、元禄六年五十歳の新年を迎えた。「年々や猿に着セたる猿の面《めん》 狂生芭蕉」(真蹟)が歳旦吟であった。土芳はこの句について「師のいはく、人同じ処に止って同じ処に年々落ち入る事を悔いていひ捨てたるとなり」(『三冊子』)という芭蕉のことばを伝える。同じようなことを繰り返してまた新年を迎えたか、五十歳にもなって、という悔いが芭蕉の胸中にあったのであろう。  芭蕉が父を失った甥の桃印《とういん》を江戸に連れて来たのは、延宝四年のことである。それについては前述した。少年だった桃印も、今は三十三歳であるが、芭蕉は桃印を養子にするつもりだった。そのつもりで多年養育して来たのだが、桃印は結核にかかり、二月二十日頃からはすでに重態であった。  三月二十日付け許六宛て書簡の中で、芭蕉はすでに「十死|之躰《のてい》に」見えるといい、旧里を出て十年余り二十年にもなるが、その間、母親に会うこともなく、父とは、五、六歳で死に別れたままである。その後自分がずっと介抱《かいほう》して今年三十三歳になる。「此|不便《ふびん》はかなき事|共《ども》、おもひ捨《すて》がたく胸をいたましめ」ていると述べている。二月八日には、曲水に内々で金子一両二分の借金を申し入れているが、それは桃印の病気治療のためであろう。  三月下旬に桃印は没した。芭蕉は暗澹たる心境のうちに「花の盛《さかり》、春の行衛《ゆくえ》も夢のようにて暮」(四月二十九日付け荊口《けいこう》宛て書簡)らした。  とはいうものの、四月に入ると芭蕉庵で十吟歌仙興行が行なわれて居り、大垣藩邸の八吟歌仙興行にも出席しているから、俳事を廃することはできなかった。有名な「柴門《さいもん》ノ辞」(「許六離別の詞」)が書かれたのも四月下旬のことである。  芭蕉は「柴門ノ辞」の中で、「予が風雅は夏炉冬扇《かろとうせん》のごとし。衆にさかひて用《もちふ》る所なし」と記した。上来述べて来た芭蕉の文学観から当然の帰結であるが、このような大胆なことばをやすやすと述べ得るところに、芭蕉の心境の深まりを見ることができる。  この頃には、一たび別れた寿貞が、また芭蕉の世話になりに来ていた。まさ・ふう・次郎兵衛と三人の子供まで連れてであった。芭蕉は彼等を近所に住まわせ、まだ少年の次郎兵衛を使い走りに使った。 初秋の一ヵ月、門をとざしてこもる  元禄六年の夏は酷しい暑さだった。芭蕉は俳事を勤めてはいたが、健康が勝れず、初秋、盆過ぎから約一ヵ月間、門を閉じて客を謝した。「閉関之説《へいくわんのせつ》」はこの間の作である。閉関は健康上の理由もあったであろう。閉関を解いてからの書簡には、「夏中甚暑ニ痛候|而《て》、頃日《けいじつ》まで絶《たち》二諸縁一、初秋より閉関、病閑保養にかゝづらひ筆をもとらず候故、心外に打|過《すぎ》候」(荊口《けいこう》宛て)などとあって、暑さまけのための保養が主な理由のように一見受けとれるけれども、それは表面的な理由であって、むしろ主たる理由は精神的なものであったと考えたい。  健康が勝れなかったこともあるであろうが、七月初中旬には「弔《とむらふ》二初秋七日|雨星《あまぼしを》一」の文を草し、杉風と往来し、外に歌仙興行を三つもしている。京都からは史邦《ふみくに》も上府して来ている。閉関は、病気だけではなく、むしろ人を避けたのだと考えたい。 「閉関之説」の書き出しから半分までが、女色のことにふれ、女色の失敗より「老の身の行末をむさぼり、米銭の中に魂をくるしめて、物の情をわきまへ」ないことの方が「はるかにまして」罪深いと述べているのは、この閉関が、あるいは寿貞と関係があるのではないかと思わせられる。寿貞が前から泣きこんで来ていて、子の次郎兵衛は使い走りなどに使っていたが、盆前後から寿貞を、とうとう芭蕉庵に引き取ることになったのではあるまいか。そうして、一ヵ月ばかりかかって、近所に住まわせることにして閉関を解いたのだと考えるのは、どうであろう。このあと翌年芭蕉が最後の旅に出立するまで寿貞等が近所に住んでいたことは、七年五月十六日の曾良宛て書簡その他によって知られる。  寿貞等がしばらく転がりこんでいることは、江戸の近しい門人にはいいえても、地方の門人にまではいいにくいことであったろう。主として健康上のことを閉関の理由にした所以《ゆえん》ではあるまいか。だが、これは何の証拠もないことであるから、単なる想像の域を出るものではない。  しかし、寿貞のことがあると否とに関わらず、芭蕉の心境の中に、人に倦んだ気持ちがあったことは、「閉関之説」の末尾に、 (前略)人来れば無用の弁|有《あり》。出《いで》ては他の家業をさまたぐるもうし。尊(孫)敬が戸を閉ぢ、杜《と》五郎が門を鎖《とざさ》むには。友なきを友とし、貧を富《とめ》りとして、五十年の頑夫《ぐわんぷ》、自《みづから》書《しよし》、自《みづから》禁戒となす。 あさがほや昼は鎖《ぢやう》おろす門の垣  ばせを とあるあたりを読めば明らかではあるまいか。多少の文飾はあるとしても、この時の閉関の理由を病気だけに帰することはできないような口調が、この一文にはある。  〈3〉『おくのほそ道』の完成 長い歳月をかけて推敲また推敲 『おくのほそ道』をいつ執筆したかは正確にはわからないが、草稿を曾良が筆写した曾良本『おくのほそ道』の成ったのが元禄五年六月以後であることは明らかであり、恐らく元禄六年の後半に、ある程度までの推敲が進められたと思われる(拙稿「曾良本おくのほそ道による奥の細道の研究」)。この夏から秋への閉関の間にも『おくのほそ道』の執筆と推敲は進められたと見てよいのではないか。  大体芭蕉は、自分の作品に何度も何度も手を入れる型の作家である。発句もそうだが、文章もそうである。『幻住庵記』にしても、何度も何度も書き直し、去来や凡兆等の意見を聞いては取り入れている。紀行の執筆態度も同様に推敲に推敲を重ねている。紀行の場合には、旅中ところどころの短文をまず執筆し、それがある程度たまったところで、それらの短文を基礎にして執筆を進めた形跡がある。  だから、『おくのほそ道』のような長文の紀行は、かなり長い歳月をかけて書いたものと考えられる。おそらくは、江戸へ戻って来て、ようやく生活が落ち着いた、元禄五年頃から、折り折りに筆を進め、元禄六年の後半に一まずまとめ、更に七年のはじめまで推敲を続けたとみてよいのではあるまいか。  曾良が特に許されて『おくのほそ道』を筆写したのは、彼がその旅の同行者だったからに相違ないが、曾良が写したあとも、芭蕉は更に推敲を加えている。芭蕉が曾良に筆写を許したのは、一応完成したと思ったからであろう。未完成のものを写させるはずがない。従ってその筆写の時期は、素竜筆写本のできる元禄七年初夏以前であることは確かだが、またそれより余り遠くさかのぼるとは思われない。せいぜい数ヵ月であろう。曾良は元禄六年秋から翌年まで江戸にいて、芭蕉の身辺に近かったと思われるから、おそらくその頃に筆写を許されたのであろう。  いずれにしても『おくのほそ道』が、旅行直後の執筆ではなく、旅行後数年たってからの執筆であり、しかもその間に、作風の上で大きな転回があったことは記憶すべきである。元禄三、四年の時期に、芭蕉が新風を志したことについてはすでに述べた。また、『笈の小文』の未定稿が、元禄四年頃に執筆されたことについても述べた。それらを踏まえて『おくのほそ道』が執筆されたことに留意しなければならない。 紀行を文学として創造  すなわち、芭蕉は『笈の小文』の完成を断念してしまったが、それは『笈の小文』をいじり廻すことよりも、『おくのほそ道』の執筆の方に気持ちが動いて行ったからであり、『笈の小文』で書こうと思ったことを、『おくのほそ道』の中に注ぎこんだと思われるのである。そのようないい方をすると、現代人には奇異な感じを与えるかもしれない。現代人にとっては、紀行を書くことは旅の事実を書くことであるから、『笈の小文』で書こうとしたことを、別の旅行記である『おくのほそ道』の中で書くことは不可能のように感じられるであろう。  しかし、芭蕉にとっては、紀行は旅の事実を書くことでなく、旅を通して文学作品を書くことであるから、『笈の小文』で書こうとして書き得なかったことを、『おくのほそ道』の方で書くことは決して不可能ではないのである。殊に元禄四年の『笈の小文』執筆の頃から、この文学としての紀行観が芭蕉の内部で確立されて来たように思われる。文学としての紀行観というのは、『笈の小文』の、次のような一節に端的に示されている。 抑《そもそも》道の日記といふものは、紀氏《きし》・長明《ちやうめい》・阿仏《あぶつ》の尼《あま》の、文をふるひ情を尽《つく》してより、余は皆俤《おもかげ》似かよひて、其|糟粕《そうはく》を改《あらたむ》る事あたはず。まして浅智短才の筆に及《およぶ》べくもあらず。其日は雨|降《ふり》、昼より晴《はれ》て、そこに松|有《あり》、かしこに何と云《いふ》川流れたり、などいふ事、たれもいふべく覚《おぼえ》侍れども、黄奇蘇新《くわうきそしん》のたぐひにあらずば云《いふ》事なかれ。されども其所の風景心に残り、山館野亭のくるしき愁も且《かつ》ははなしの種となり、風雲の便りともおもひなして、わすれぬ所、跡や先やと書集《かきあつめ》侍るぞ、猶酔ル者の妄《まう》語《ご》にひとしく、いねる人の譫言《うはごと》するたぐひに見なして、人又|亡《ぼう》(妄)聴《ちやう》せよ。  芭蕉はここで何を語ろうとしているのか。それは、事実としての旅の記は、旅の記録ではあっても文学ではない、という簡明なことである。その日は朝から雨が降ったが昼頃から晴れたとか、何々という所に大きな松があったとか、その先に何々という川が流れていたとかいう事実の記録は、文学ではない。文学とは、黄山谷や蘇東坡の作品に見られるような、珍しいこと、不思議なこと、人の心を惹きつけるようなことを書くものであり、常識人の記録ではなく、酔っぱらいの妄語《もうご》か、眠った人のうわ言の類だという。世間常識の人の文とは次元の違ったところに成立するとの主張である。  この文学としての紀行論は、元禄四年に書かれた(殊にこの部分はそうである)『笈の小文』の序論のようなものであったが、『笈の小文』が未完稿のまま断念された後では、元禄五年頃から書き始められた『おくのほそ道』の、いわば序論として理解してもよいような地位に置かれる。 そこにあるのはただ虚構の事実  このような、文学としての紀行を書くのだから、必ずしも、旅行直後、記憶の薄れないうちに大急ぎで書く必要はなかった。旅行中の気持ちをそのままに書きこむのではなく、紀行執筆時の作者の胸中のものが盛りこまれる。旅の事実通りである必要はなく、旅の事実を素材にした創作になって行く。 『おくのほそ道』の旅の事実と、『おくのほそ道』の本文との相違については、従来しばしば論ぜられ、それは虚構として考察された。なるほど、世間常識の紀行観からいえば虚構かもしれないが、芭蕉の心中には、虚構の意識はなかったのではあるまいか。  虚構とは、事実があっての虚構である。旅の事実があって、その事実を書く代わりに、事実になかったことを書くのが虚構だが、芭蕉にとっては旅の事実はないのである。すでに述べて来たように、芭蕉は現実生活を芸術に献身した。したがって事実としての生活は、ないも同然である。あるものは芸術であり、俳諧であり、風雅的生活である。だから、曾良は克明な旅日記をつけたが、芭蕉は事実としての日記をつけようとはしない。芸術・風雅に一体となるところに芭蕉の生活がある。芭蕉といえども、飲んだり食べたりはするが、それは人間の生活ではない。それは動物的な未開人もやるし、鳥や獣もする営みである。  人間の生活とは、人間だけが営む生活でなければならない。日常の行為と精神とが芸術と一体になった時、そこに始めて人間の生活がある。これについては前述した通りである。  とすれば、旅の事実とそれに対する虚構とがあるのではなく、虚構だけが真にあるのだということになる。芸術化された事実だけが真にあるのである。文学になったものだけが意味ある事実であって、非文学的な事は事実以前のものである。人間の営み以前のことである。事実が真に事実になるのは、文学的事実になる時である。もし虚構ということばをあえて使うなら、事実が虚構と一体になった時、事実が真の事実となる。意味ある事実となる。 『おくのほそ道』を芭蕉はそのような姿勢で書き進めて行った。だから、旅の事実との喰い違いはあえて意としなかった。市振《いちぶり》での、遊女と同宿の一条が創作であり、「一家に遊女も寝たり萩と月」の句も、『おくのほそ道』執筆時の作であることは先に述べた。そういう箇所を指摘すればいくらでもあるが、ここでは余り深入りは避ける。ただ、そのような箇所がどうしてできたかを考えることが、芭蕉の文学的姿勢をうかがうよすがとなるであろうことを記して置こう。  紀行中の発句にしても、例えば「五月雨《さみだれ》の降《ふり》のこしてや光堂《ひかりだう》」の句ができたのは、旅行中ではなく、『おくのほそ道』執筆時で、しかも、曾良に筆写を許した後に「五月雨や年降も五百たび」の句を直して、前掲の形に改めたのである。だから、「光堂」の形の句ができたのは、元禄六年末か元禄七年になってからであろう。このような例はまだ外にいくつか考えられる。例えば、私は「行春や鳥|啼魚《なきうを》の目は泪《なみだ》」とか、「田一枚|植《うゑ》て立去る柳かな」なども、旅行中の作ではなく、執筆時の作ではないかと考えるものだが、今は考証を省略する。 11 最後の年  〈1〉軽 み 「軽み」への俳風をさらに推進  旧暦八月の中旬に閉関を解いた芭蕉の身辺は、閉関前と同様に、俳事に多忙であった。八月中旬以後、歳末までの間に行なわれた連句の会席は、今日わかるだけでも十六回に及ぶ。今日わからない会席もかなりあったに相違ない。しかし、当時の江戸俳壇は数年前から引き続いて、前句付けの点取俳諧が横行していた。芭蕉は十月九日付け許六宛て書簡の中で「当冬は相手に可レ為《なるべき》物《もの》(者)無二御座一候へば、俳諧も成申まじく候。広き江戸ニ相手のなきも気の毒ニ存候。当方無レ恙《つつがなく》、五句|付《づけ》点取、脾《ひ》の臓を捫《もむ》程(に)候」と歎いている。  その中で芭蕉は、元禄三、四年来押し進めて来た軽みの方向を、更に進めようとしている。前述したように、軽みは、それ自体美的理念ではない。それは重みに対する反対概念であり、重みとは、これも前述した通り、観念的・因襲的風流に捉われることである。観念的・因襲的風流を排し、作意の露骨な風流ぶった作風を斥《しりぞ》けて、物に即して新しい詩情の発掘に努めることが、不易流行の流行に当たる。それが即ち、また軽みでもある。だから、それは発句にも連句にも共通する問題である。作品の二、三を挙げてみよう。 寒菊や粉糠《こぬか》のかゝる臼《うす》の端《はた》   芭蕉 (『炭俵』) 大根引といふ事を 鞍壺《くらつぼ》に小坊主乗るや大根引《だいこひき》   芭蕉 (同右) 神無月廿日ふか川にて即興 振売《ふりうり》の鴈《がん》あはれ也ゑびす講   芭蕉 (同右) 煤《すす》はきは己が棚つる大工かな  芭蕉 (同右)  いずれも解説を要さない平明な句であるが、それは芭蕉が、殊更に奇警をねらった作を「手帳俳諧」(書簡)としてしりぞけ、またわざとらしい作意のある句を「拵《こしらえ》の俳諧」(書簡)として排したことと符節《ふせつ》を合わせるものがある。 旅心ようやく動く  こうして芭蕉は元禄七年の春を迎えた。正月二十日付け意専(猿雖)宛て書簡に、「漸々《やうやう》旅心もうかれ初候。され共いまだしかと心もさだまらず候へ共、都の空も何となくなつかしく候間、しばしのほど成共《なりとも》上《のぼり》候|而《て》、可レ懸《かかる》二御目一と存候」とあり、二月二十三日付け曲水宛て書簡には、年内に西上の予定を述べているから、年があけると、今年は西上の旅に出ようかと考え出したものであろう。  実際の出発が五月十一日になったのは、持病のため多少発足が遅れたこともあるが、一つには『おくのほそ道』を仕上げてからという気持ちがあったからではあるまいか。素竜が芭蕉の原稿を清書して届けに来たのは四月中のことであった。  五月上旬、子珊《しさん》の家の別座敷で、芭蕉を送る餞別の句会が開かれた。その席で芭蕉は「今思ふ体《てい》は、浅き砂川を見るごとく、句の形・付心ともに軽きなり。其所に至りて意味あり」(『別座舗《べつざしき》』序)と語った。  また、五月十一日の出発に際しては、見送りの素竜の手を握って「再会の期《ご》を契《ちぎ》り」、なお六月刊行予定の『炭俵』の序文について指示した(『炭俵』序)。『炭俵』は、芭蕉晩年の作風をよく示した撰集といわれる。  〈2〉最後の旅へ 少年次郎兵衛を労わり、旧門人らを訪ね……  今度の旅行には寿貞の子の次郎兵衛を供に連れて行き、曾良が小田原まで見送った。次郎兵衛は十五歳ぐらいの少年だった。少年ではあり旅馴れていないので、戻り馬の安いのがある時は、一里半か二里ぐらいずつ乗せるなど、芭蕉は非常に気を使っている。  名古屋では、離反の態度を見せる荷兮《かけい》を訪ねて「三夜二日」逗留《とうりゆう》し、『冬の日』以来の門人で、同じく反芭蕉的な態度を示す野水・越人等とも旧情を暖めようとつとめた。荷兮たちの反芭蕉的態度の原因には、自分たち古い門人をさし置いて、新しい門人を引き立てる師の態度への不満が多分にあった。それは、すでに述べたように、常に新しみを求め、軽みの方向に前進する芭蕉としては、やむをえないところであったが、芭蕉は新しみについて行けないこれら古い門人たちにも、ここで手をさしのべたのである。  荷兮たちは大よろこびで芭蕉を歓待し、出発に際しては「町はづれ一里余まで、荷兮・越人大将ニ而、若きもの共不レ残送りて出、餞別の句など道々申候」(閏五月二十一日付け曾良宛て書簡)という状態であった。この荷兮の仲間とは派の違う露川《ろせん》たちは、道を先行して、荷兮等が引き返したあと、芭蕉を道に待ち受け、佐屋《さや》まで同行し、佐屋に芭蕉と同宿して俳諧の指導を受けた。  またこれより先、鳴海の豪家の主人|知足《ちそく》はいつもは泊まって行く芭蕉がちょっと挨拶に立ち寄っただけで名古屋に直行してしまったので、わざわざ主人みずから名古屋に出て来て、鳴海へ引き返すよう強いて頼むようなこともあった。結局芭蕉は「いろ挨拶」して帰って貰ったのだが、芭蕉の声望が高く、引っ張り凧である様子がわかるであろう。 落柿舎で寿貞死去の報をきく  それから芭蕉は、五月二十八日に上野へ帰り、翌月の閏五月半ばまで郷里の人々と会ったり、俳席を勤めたりしたのち、大津へ出、膳所《ぜぜ》へ移り、やがて閏五月二十二日、洛外嵯峨の落柿舎に入って、六月十五日まで滞在した。湖南・京の人々が芭蕉の来訪をよろこんだことはいうまでもなく、俳事もまた活発であった。だが、落柿舎滞在中の六月初旬、江戸の寿貞死去のしらせが届いた。芭蕉は筆をとって「寿貞|無仕合《むしあはせ》もの、まさ・おふう同じく不仕合、とかく難二申尽一候。……何事も夢まぼろしの世界、一言理くつは無レ之候。ともかくも能様《よきやう》ニ御はからひ可レ被レ成候」(六月八日付け猪兵衛宛て書簡)と書き、次郎兵衛を江戸へ帰した。  その後湖南の地へ移り、たまたま七月初めの大津の木節《ぼくせつ》の家で「ひやと壁をふまえて昼寝哉」(『笈日記』)の句を詠んだが、この句に対して支考は次のように記している。 此句はいかにきゝ侍らんと申されしを、是もたゞ残暑とこそ承り候へ。かならず蚊屋《かや》の釣手《つりて》など手にからまきながら、思ふべき事をおもひ居ける人ならんと申侍れば、此|謎《なぞ》は支考にとかれ侍るとて、わらひてのみはてぬるかし。 (『笈日記』)  芭蕉が支考に、この句をどう理解するかと尋ねたので、支考は、部屋の隅に畳んで置いてある蚊屋の釣り手などを手にからまいたりしながら「思うべき事をおもひ居ける人」の有り様であろうと答えたところ、芭蕉はその通りだと答えたというのである。「思ふべき事」の中に、この場合、寿貞の死があったとしても決して不当ではあるまい。  芭蕉は、残暑のけだるい足を壁にもたせかけたりしながら、寿貞との来《こ》し方を思い、また遺児たちの行く末を思い、さらには自分の半生を省みていたのであろう。この機会に元禄七年の作品をつぎに紹介しておく。 「軽み」の代表作・野坡との両吟歌仙 むめがゝにのっと日の出る山路かな 芭蕉 処《ところ》どころに雉子《きじ》の啼《なき》たつ      野坡《やば》 家普請《やふしん》を春のてすきにとり付《つき》て   同 上《かみ》のたよりにあがる米の値    芭蕉 宵の内はらとせし月の     雲同 藪越はなすあきのさびしき    野坡 (下略) (『炭俵』)  元禄七年春の野坡との両吟歌仙の表六句である。和歌・連歌趣味を全く離れて、日常的な対象の中に物に即して新しい詩情を捉えている。軽みの代表作といわれる所以《ゆえん》である。 春雨や蜂の巣つたふ屋根の漏《もり》   芭蕉 (『炭俵』)  この句に対して門人の野坡は次のように述べている。「春雨の蜂の巣、是はまことに世の人さほどに沙汰をせぬ句なりといへども、奇妙天然《きめうてんねん》の作なりと、翁つね吟じ申され候。此の蜂の巣は、去年の巣の草庵の軒に残りたるに、春雨のつたひたる静《しづけ》さ、面白くいひとりたる。深川の菴《いほり》の体《てい》そのまゝにて、幾度も落涙致候。凡俗をはなれ侍る句也」(『許野消息』)  野坡のいう通り、この句は何でもないような情景を詠んでいるようだが、しめやかに降る春雨を見るともなく見ている芭蕉のさびしい心持ちが、どことなく伝わって来るところがある。具象的・即物的・日常的でありながら、底の方から作者の心境がわずかに滲み出て来るところがある。芭蕉の志した軽みの方向であろう。 嵯峨《さが》 六《ロク》月や峰に雲置クあらし山 (杉風宛て書簡) (前書略) 夏の夜や崩《くづれ》て明《あけ》し冷し物   芭蕉 (『続猿蓑』) 元禄七年六月廿一日大津木節菴にて 秋ちかき心の寄《よる》や四畳半   翁 (『鳥の道』) 去年の秋|文月《ふみつき》の始《はじめ》ふたたび旧草(義仲寺の無名庵)に帰りて 道ほそし相撲とり草の花の露 翁 (『笈日記』) ひとも自分もみんな白髪の実家の盆会  芭蕉は七月中旬上野へ戻り、九月八日まで滞在した。七月十五日には実家で盆会《ぼんえ》が行なわれ、芭蕉は、「家はみな杖にしら髪《が》の墓参」(『続猿蓑』)と詠み、さらに「尼寿貞が身まかりけるときゝて 数ならぬ身となおもひそ玉祭り」(『有磯海《ありそうみ》』)と詠んで、寿貞の冥福を祈った。  伊賀でも人々は芭蕉を取り囲んで離さなかった。十五日の盆会以後、九月八日の出立までの間に、上野で行なわれた連句の席は十三に及ぶ。今日解らないものも他にあったことであろう。五十三日の間に十三回以上といえば、少なくとも四日に一回は連句の席に引っ張り出されていることである。その間に来客も多かった。別に発句も作った。門人の指導にも当たった。八月九日付け去来宛て書簡によれば、「爰元《ここもと》、度《たび》会御座候へ共《ども》、いまだかるみニ移り兼《かね》、しぶの俳諧、散々《さんざん》の句のみ出《いで》候|而《て》致二迷惑一候」とある。  それでも、八月十五夜の名月には、兄半左衛門宅の裏庭に新築された新庵に、人々を招いて月見の宴を催し、その献立は自身で書いた。多分新庵の建築に協力した人々への感謝の気持ちもあったことであろう。当夜の句は次の三句である。 名月に麓の霧や田のくもり   ばせを (『続猿蓑』) 名月の花かと見へて棉畠 (同右) 八月十五日 今宵誰よし野の月も十六里 (『笈日記』)  〈3〉旅に病む 日夜、疲労と病患をおして俳事  九月八日、芭蕉は、支考・素牛・次郎兵衛(江戸からまた戻って来ていた)・又右衛門等を供に上野を出て、大坂に向かった。すでに夏頃から、大坂へ来て欲しいという門人たちの依頼が、再三来ていたので、それに応えるべく出立したのだが、実は出立前から芭蕉の健康は勝れなかった。途中、十余丁(一キロ余)も歩くと、「殊の外つかれて青芝の上」で休まなければならない程であった(支考『追善之日記』)。それでも、奈良では、 びいと啼く尻声悲し夜の鹿 (杉風宛て書簡) 菊の香やならには古き仏達 (同右) などと詠み、九月九日夕大坂着、洒堂の家を宿とした。  しかし、翌十日の晩から発熱し、寒けや頭痛に悩んだ。兄半左衛門宛て九月二十三日付け書簡の一節に「大坂へ参《まゐり》候|而《て》、十日|之《の》晩よりふるひ付申《つきまうし》、毎晩七ッ時(午後四時頃)より夜五ッ(八時頃)まで、さむけ・熱・頭痛|参《まゐり》候而、もしはおこりニ成《なり》可レ申かと薬|給《たべ》候へば、廿日|比《ごろ》よりすきとやみ申候」とあるから、それから十日ばかりは毎晩悩んだらしい。だが、大坂へ来たのは、大坂の門人たちの招請によるもので、日程はずっと組まれていた。芭蕉先生に来て貰って、自分の門人たちを紹介し、自分の家や有力門人の家で句会を開いて指導を受け、また自派の確立と拡張を計ることが、計算されていた。洒堂の家へ泊まった晩からもう洒堂の門人が押しかけて来ている(去来宛て書簡)。  十三日は後の月で、月見の句会が畦止《けいし》亭で予定されていたが、病気不快のため一日延期して、翌十四日に七吟歌仙が興行された。芭蕉の発句「升《ます》かふて分別|替《かは》る月見哉」(正秀宛て書簡)。「升《ます》買うて」と詠んだのは、前日住吉神社に参詣し、宝の市(升市ともいい、升を売る)を見物したので、昨夜十三夜の月見に来るべきところを、升市を見て、升などを買ったため、風流心がなくなり、不参したと弁解したもの。  十九日には其柳亭で夜会、芭蕉以下八吟歌仙興行。二十一日には車庸亭夜会、「秋の夜を打崩《うちくづ》したる咄《はなし》かな」の芭蕉の句を発句にして七吟半歌仙興行。だが、二十三日付けの兄半左衛門宛て書簡によれば「いまだ逗留もしれ不申候へ共《ども》、長逗留は無益|之《の》様ニ奉レ存候」とあり、健康上の理由もあったが、大坂の空気は芭蕉にとって余り快適ではなかったようである。 秋深き隣は何を……  二十六日には、大坂新清水の料亭|浮瀬《うかむせ》によばれ、折りから来坂していた江戸の門人|泥足《でいそく》の請《こ》いに応じて十吟半歌仙が興行された。奈良からずっと随伴していた支考の記すところによれば、芭蕉はこの時の連句の発句として、 人声や此道帰る秋の暮 此道や行人《ゆくひと》なしに秋の暮 の二句を示し、「此二句の間いづれか」と門人たちに尋ねた。支考は「此道や行人なしにと独歩し給へる所、誰か其しりへにしたがひ候半《はん》」と「此道や」の方を推した。芭蕉も「吾心にもさる事侍り」と答え、これに「所思」という題をつけた(『追善之日記』)。この句はすでに九月二十三日付けの意専(猿雖)・土芳宛て書簡にも見えているから、数日前から芭蕉の胸中にあったのを、この席で披露したものである。支考の『追善之日記』には、続いて、 旅懐 此秋は何《なん》で年よる雲に鳥 此句は、其朝(二十六日)より心に籠《こめ》てねんじ申されしに、下の五文字(「雲に鳥」)にて寸々の腸《はらわた》をさかれけるにや。是はやむごとなき世に「何をして身のいたづらに老ぬらむ年のおもはん事ぞやさしき」を切に思はれけるか。されば此秋はいかなる事の心に叶《かな》はざるにかあらん。伊賀を出《いで》て後は、心ちすこやかならず、明暮《あけくれ》になやみ申されしが、……(下略) とある。  二十七日、園女《そのめ》亭で「白菊の目にたてゝ見る塵もなし」の芭蕉の発句で九吟歌仙興行。二十八日夜、畦止亭に洒堂以下七人の門人と会し、七種の恋を結題《むすびだい》にして各々即興の発句を詠む。芭蕉の句は「月下送レ児《ちご》 月|澄《すむ》や狐こはがる児《ちご》の供」(『其便』)であった。その日はまた、 秋深き隣は何をする人ぞ   翁 (『笈日記』) の句を詠み、翌日に予定されていた芝柏《しはく》亭興行の発句にしようと、芝柏の許へ届けた。発句を届けたのは、健康が勝れないので、不参を慮《おもんばか》ってのことである。 孤独感ににじむ懐しさと暖かさ  この句の句意は、一読して明快である。平安な句勢と表現とによって、日常の茶飯事を詠んでいる。隣家の人はどういう人だろうという疑問は、私ども庶民の日常生活の中で、しばしば持ち出される話題である。「隣は何をする人ぞ」は、身辺卑近な人間への興味であり、関心であって、日常的・即物的なところに、晩年の主張である「軽み」が指向されている。だが同時に、芭蕉はそれを蕭条として暮れて行く晩秋の自然の哀感の中にとらえた。鈍い日のさす暮秋の季節的寂蓼感の中に把握した。去り行く季節の哀愁を身にひしと感じ、衰え行く自然の嘆きを諦観《ていかん》する時、人間の塵事は遠ざかって行く。芭蕉は「高く心を悟りて俗に帰るべし」(『三冊子』)と語ったが、その「高く心を悟る」に当たるであろう。  だが、「高く心を悟り」ながら、「俗に帰る」ところに俳諧が成立する。晩秋のあわれを実感としてつかみながら、そのまま日常卑近の世界へ下りて行くのが俳諧であり、また「軽み」の指向につながるところである。「隣は何をする人ぞ」は「俗に帰る」ことである。だがその両者は平面的な取り合わせではない。この二つが離れ離れに並存するのではなく、「秋深き」と「隣は何をする人ぞ」は、内面的に深く混融し、相互に映発しつつ、遂に一つのものになり切っている。この句を読むものは誰も二つの異質を意識しないであろう。便宜上二つに分けて説明したが、句としては二つに分かれているのではない。こういう手法によって、一面具象的でありながら、しかも象徴的に人生の深淵をのぞかせてくれるところが、この句の奥深さであり、高さだといえよう。  この句には説教はない。人生のあわれや人間のさびしさを説明しているところはない。ただ、隣り合って住んでいても、人間は結局ひとりひとりであり、名も知らず、顔も知らず(また仮に知っていても)、それぞれ別々に、めいめいの営みをするだけだという、人間の孤独感が、滲み出ているだけである。しかも、孤独の中にどこか暖かい、人を懐しがっているような心持ちもある。それは「隣は何をする人ぞ」という句調の中にひそかに籠められている。  だから、人生はただ寂しいと割り切っているのではない。人生は寂しく、また懐しく、暖かいものでもあろう。その複雑な人生を、芭蕉は複雑なままに詠もうとしている。どちらかに割り切ってしまった時には、作者の薄っぺらな観念だけが露呈する。それは芭蕉が「重み」として極力排斥したところである。「軽み」の主張は、また割り切るなという主張でもある。観念の先行を厭い、作者の大上段の身構えを嫌う主張である。最後の病床につく直前にこの句が成ったのは決して偶然ではあるまい。有名な「旅に病んで」の句も悪くはないが、この句こそ最後の光芒を示すものではあるまいか。  芥川龍之介がこの句を挙げて、「かう云ふ荘重の『調べ』を捉え得たものは茫々たる三百年間にたった芭蕉一人である」(『芭蕉雑記』)といったのは、この句の「調べ」のよさに気づいた人が少ないだけに注目される。 永 眠  翌二十九日の夜から「泄痢《せつり》」(下痢)を催して、芭蕉はどっと病に臥し、二度と起たなかった。十月五日の朝、南御堂前の花屋仁右衛門の貸し座敷に病床が移され、各地の門人に重態が報ぜられた。十月八日の深更、病床に侍していた呑舟《どんしゆう》を呼び、 病中吟 旅に病《やん》で夢は枯野をかけ廻《めぐ》る (『笈日記』) と書き取らせた。そのあとで、支考を呼んで「なをかけ廻る夢心」という形も考えたが、どちらがよいと思うかと尋ねた。支考は「なをかけ廻る夢心」では季語が入っていないから、上五文字は「旅に病で」ではあるまいと思い、上五文字はどういうのですかと聞こうと思ったが、それを聞き始めると長くなって、病気に障るかと考え「此句なににかおとり候はむ」と答えた。すると芭蕉は、また次のように語ったという。 みづから申されけるは、「はた生死の転変を前にをきながら、ほっ句すべきわざにもあらねど、よのつね此道を心に籠《こめ》て、年もやゝ半百《はんばく》に過《すぎ》たれば、いねては朝雲暮烟の間をかけり、さめては山水野鳥の声におどろく。是を仏の妄執《まうしう》といましめ給へる、たゞちに今の身の上におぼえ侍る也。此後はたゞ生前の俳諧をわすれむとのみおもふは」と、かへすがへすくやみ申されし也。さばかりの叟の、辞世はなどなかりけると、思ふ人も世にはあるべし。 (『笈日記』)  十月十日の暮れ方から高熱を発し、病状は急変した。夜に入ってから、支考に遺書三通を認《したた》めさせ、兄半左衛門には自筆の遺書を書いた。十一日には、たまたま上方行脚中の其角が馳せつけて来た。江戸出府後間もない芭蕉に、年少で師事し、二十年に近い教導を受けて来た其角であった。  十月十二日、申《さる》の刻(午後四時頃)永眠。享年五十一。その夜、遺骸を淀川の川船で伏見に送り、十三日、近江の義仲寺に運んだ。十四日の夜、子《ね》の刻(午後十二時)義仲寺境内に埋葬。門人の焼香者八十人、「まねかざるに」来った「余哀の」会葬者三百余人であった。 芭蕉略年譜   年次         年齢 寛永二一年(一六四四)   一 ○伊賀の国、柘植または上野に出生。○十二月十六日、正保に改元。 明暦 二年(一六五六)  一三 ○二月、父没す。 寛文 二年(一六六二)  一九 ○藤堂新七郎家へ出仕。嗣子良忠(俳号蝉吟)に仕う。歳末の吟「春やこし年や行けん小晦日」が現在作年次の判明する最古の作。 寛文 四年(一六六四)  二一 ○『佐夜中山集』に「伊賀上野松尾宗房」として二句入集(句集初見)。 寛文 五年(一六六五)  二二 ○十一月蝉吟主催の貞徳翁十三回忌追善百韻俳諧に一座。 寛文 六年(一六六六)  二三 ○蝉吟没(享年二十五)。程なく致仕し、兄の許に身を寄せて、時折り上京。○以後寛文十二年までの動静は不詳であるが、この間に刊行または編集の成った『夜の錦』・『続山井』・『如意宝珠』・『大和順礼』・『藪香物』の各集に、伊賀上野在と記して合計四十六句の発句・付け句が入集。 寛文一二年(一六七二)  二九 ○一月、三十番発句合『貝おほひ』を編む(江戸出府後刊行)。○春江戸へ下る。江戸下向後は談林風に転向。 延宝 三年(一六七五)  三二 ○五月宗因歓迎の百韻興行に一座(桃青の号の初出)。この頃、上方くだりの俳人達との交際が多い。 延宝 四年(一六七六)  三三 ○春、山口信章(素堂)と天満宮奉納二百韻を興行し、『江戸両吟集』として出版。○夏、帰郷。猶子桃印を伴って帰府。 延宝 五年(一六七七)  三四 ○内藤風虎主催「六百番俳諧発句合」に入句。○この頃から時折り、水道工事関係の仕事に携わる。 延宝 六年(一六七八)  三五 ○一月歳旦帳を上梓。春、宗匠立机。○三月『江戸三吟』を出版。○十月調和門の「十八番発句合」の判者となる。○この年江戸で刊行の主要俳書のすべてに相当句数、入集。また多くの連句の興行に他門の宗匠達と一座。 延宝 八年(一六八〇)  三七 ○四月『桃青門弟独吟二十歌仙』刊。○九月芭蕉判の『俳諧合田舎』(其角自句合)・『俳諧合常盤屋』(杉風自句合)刊。判詞に荘子的言辞が多い。○冬、深川の草庵に退隠。また、この頃仏頂につき禅を修む。 天和 元年(一六八一)  三八 ○春、門人李下から芭蕉の株を贈られる。○三月、菅野谷高政撰『ほのぼの立』に「枯枝に烏とまりたりや秋の暮」の句が当風の範として掲げられる。○七月、『俳諧次韻』刊。 天和 二年(一六八二)  三九 ○一月茅屋子撰『俳諧関相撲』に芭蕉批点の歌仙一巻所収。○三月、千春撰『武蔵曲』に芭蕉号初見。○十二月、芭蕉庵類焼。その後高山麋塒を頼って甲州谷村に逗留。 天和 三年(一六八三)  四〇 ○五月、江戸へもどる。○同月、其角撰『虚栗《みなしぐり》』に「芭蕉洞桃青皷舞書」として跋文を書く。○六月、母没。○冬、門人知友の勧進によって再建された芭蕉庵に入る。 貞享 元年(一六八四)  四一 ○八月中旬、帰郷の旅に立つ(いわゆる『野ざらし紀行』の旅)。九月八日、伊賀上野着。その後、大和・山城・近江・大垣・桑名・熱田・名古屋などに漂泊、俳席を重ね、歳末伊賀にもどって越年。○冬、『冬の日』刊。 貞享 二年(一六八五)  四二 ○春、奈良を経て、出京。一ヵ月余、京・湖南漂泊の後、桑名・熱田・鳴海などに俳席を重ねながら東下、名古屋から木曾路・甲州路を経て四月末江戸に帰着。○秋までに『野ざらし紀行』の草稿成るか。 貞享 三年(一六八六)  四三 ○春、芭蕉庵で衆議判による蛙の句の二十番句合わせを興行。「古池や」の句披露さる。○中秋の名月を隅田川に賞する。その外俳事ようやく多忙。○八月、『春の日』刊。 貞享 四年(一六八七)  四四 ○八月、鹿島に月見の旅をし、『鹿島紀行』(『鹿島詣』とも)成る。○秋、『貞享丁卯詠草』成る。○十月、盛んな壮行会の後、帰郷の旅に立つ(いわゆる『笈の小文』の旅)。各地で俳席を重ねながら歳末に伊賀に着いて越年。 元禄 元年(一六八八)  四五 ○二月、伊勢神宮に参拝し、同地門人等と俳事。○二月十八日、実家にて亡父の十三回忌を営む。○三月、杜国を伴い吉野・高野山・和歌浦・奈良・大阪・須磨・明石と巡遊する。四月二十三日、京に入り、五月上旬頃まで滞在。その後大津に移る。○六月上旬大津を立ち、岐阜・名古屋・熱田・鳴海等を漂泊、八月上旬に及ぶ。○八月十一日、岐阜を立って信州更科に向かい、十五日の名月を姨捨に見る。以後長野・碓氷峠を経て江戸帰着。この月見の旅を後に『更科紀行』として執筆。○江戸の生活は来訪者多く、文事また多忙。有名人の生活のごとし。 元禄 二年(一六八九)  四六 ○一月、『おくのほそ道』旅行の予定を書簡にもらす。○閏一月末頃迄に『更科紀行』の草稿成る。○三月上旬、芭蕉庵を譲渡し杉風の別荘に移る。○この頃、荷兮撰『曠野』の為に序文を書く。○三月下旬、『おくのほそ道』の旅に立つ。約五ヵ月の間、奥羽・北陸を旅行し、八月二十一日頃大垣着。○九月六日、川船に乗って大垣発伊勢に向かう。○九月末、伊賀に帰郷。俳事多し。○十一月末、奈良へ出、後湖南に在ったか。○十二月下旬、京都去来宅に滞在して「鉢たたき」を聞く。また「不易流行説」を説く。○膳所に移って越年。 元禄 三年(一六九〇)  四七 ○一月三日伊賀に帰る。○三月中下旬膳所へ出る。○四月六日から七月二十三日まで国分山の幻住庵に滞留。訪客多し。またこの間「幻住庵記」の稿を練り、出庵直前に初稿成る。○出庵後大津に移り、九月末まで義仲寺境内の草庵を居所とする。○九月末、伊賀へ帰郷。○冬、京都・湖南に出、大津の乙州宅に越年。 元禄 四年(一六九一)  四八 ○一月上旬、伊賀へ帰る。○四月十八日、洛北嵯峨の落柿舎に入り五月四日まで滞在。『嵯峨日記』成る。○五月五日以降主として京都凡兆宅に在り、『猿蓑』の編集会議など。○六月二十五日、大津に移り、義仲寺草庵を居所とする。○七月三日、『猿蓑』刊行。○八月、義仲寺草庵に月見の会。翌日堅田に遊ぶ。○九月二十八日、江戸をさして出発。この時までに『笈の小文』の草稿執筆。途中彦根・大垣・熱田などに立ち寄りながら、東海道を下る。○十月二十九日、江戸帰着。橘町の借家に越年。 元禄 五年(一六九二)  四九 ○二月十八日、曲水宛て「風雅三等之文」を記す。○同月中に「栖去之弁」が成る。○五月中旬、芭蕉庵の再興成って移る。○八月、「芭蕉を移す詞」・「芭蕉庵三日月日記」成る。 元禄 六年(一六九三)  五〇 ○四月下旬、「柴門の辞」成る。○七月中旬から約一ヵ月閉関(「閉関之説」)。この間『おくのほそ道』の執筆のことなどがあったか。 元禄 七年(一六九四)  五一 ○四月、「おくのほそ道」素竜清書本成る。○五月十一日、次郎兵衛を伴い帰郷の旅に立ち、二十八日伊賀着。○閏五月中旬伊賀より大津・膳所に出る。二十二日より京都落柿舎に逗留。○六月二日ごろ寿貞没。○六月十五日、湖南に出で、義仲寺草庵(無名庵)を居所とする。○六月二十八日、野坡等撰『炭俵』刊。○七月五日、無名庵より京、去来宅に移る。七月中旬伊賀上野に帰り盆会。八月十五日、実家の裏庭に建てられた新庵で月見。○九月上旬、支考と共に『続猿蓑』の撰をほぼ成す。○九月八日、大坂へ向かい、九日着。九月十日夜から発病、旬日にしてやや軽快せるも、衰弱を押して俳事を勧める。九月二十九日の夜から臥床し、容態日毎に悪化。○十月十二日、申の刻(午後四時頃)永眠。十月十四日、遺言に従って義仲寺埋葬。 本書は、講談社現代新書151として一九六八年六月に出版されたものです。 芭蕉《ばしよう》  その人生《じんせい》と芸術《げいじゆつ》