TITLE : 多甚古村 多甚古村   井伏鱒二 多甚古村 多甚古村 某氏の句に「干潟《ひがた》にはさざら波、梅の村に入る」というのがある。無論、まだ梅は咲かないが、やがて咲けば、その句は多甚古村の一部の景色にそっくりあてはまるだろう。多甚古村には切通しの下に梅林が見え、その近くに駐在所がある。今度その駐在所に、年のころ三十前後の巡査が赴任して来た。左の文章はその巡査の駐在日記である。    歳末非常警戒  十二月八日  出征兵に対する見送人雑沓《ざつとう》取締りのため「朝六時までに、ゲートルを巻いて沖津駐在に集合の事」と電話があり、急ぎ帯剣して未明に走る。身を切るような寒風が吹いていた。見送人や家族や団体が旗を巻いて沖津の町へ集まって行くのを追い越した。  六時ではまだ暗い。消防夫は集合配置の命令を受け勇ましく走りまわっていた。再三のことでその立ち働きは馴《な》れたものである。綱を張って駅には人を入れないようにする。乗馬の憲兵が「御苦労さんです」と私に挨拶《あいさつ》した。私も「御苦労さんです」と挙手で答礼した。本署の古参伴野さんが来て「寒いですね」と憲兵に話しかけた。「この寒さもさることながら、戦地では零下十度だというからこたえられぬでしょう」と伴野さんが云った。  山奥から出て来た見送人が私の前に来て「通してくれませんか」と云った。「駄目です。雑沓するから、駅には汽車通学の学生以外、入れぬことになっています。それに怪我人《けがにん》が出来たり、兵隊の邪魔になったりしますから」と断わると「そうでしょうなあ、では」と云って立ち去った。寒いので私は腕を交互に胸にたたきつけたり足ぶみしたりした。  来た来た、ラッパの音、靴音。しかし私の立っていたところは石段の下で、兵隊の姿がよく見えなかった。兵隊はしばらく休息した。すると見送人が、なだれを打って来た。「通して下され。これ渡したい」「駄目です。駄目です」おそろしい人波で、たいへんな騒ぎであった。私は押しつぶされそうになって、ちょっと危険であった。しかし綱張のなかにあの人波を通したら、それこそ、えらい怪我人を出したろう。絶対に通すわけに行かなかった。ぶつぶつ不平を云うものや怒っているものがあった。なかには泣いているものがあった。幾ら亭主を見送るとはいえ、泣くとは不都合だと、その親父《おやじ》さんらしいのが叱《しか》っていた。  元気な兵隊は「行って来ます、行って来ます」と、子供が遠足に行くときのようにみんな手をあげた。見送りに来た士官が兵隊に向い、力をこめて挙手の礼をした。胸がときめくような一瞬であった。私も挙手の礼をした。しかし私はどうもまだ挙手の礼がへたくそで、てきぱきとした恰好《かつこう》に出来ないのである。汽車が出て群衆が散ってから、私たちも散った。  十二月九日  このごろ心安くなった近所の人が「鮒《ふな》が獲《と》れたから、これあげようか」と、一尺もある鮒を三びき笊《ざる》に入れて持って来てくれた。小川の葦《あし》の下にいるのを網ですくって来たそうだ。鉛色の鱗《うろこ》、銀色の腹、生きのよい泳ぎ方。バケツに入れて、その鱗の手ざわりを楽しんだ。ついでに残酷な気を起し、庖丁《ほうちよう》を持って来て料理した。今年《ことし》の夏、帰休の傷病兵といっしょに釣をして、私は大きな鮒を釣りあげた。その鮒よりも今度の三びきはまだ大きい。いま、その釣場は飛行場の埋立地に指定され、大きな石や盛り上げた土の山で埋められている。トロのレールが敷かれている。以前たくさんいた鮒は、いまどうなったか、鮒を持って来てくれた人にその話をしたが、鮒は土のなかに埋まっても土がしめっていさえすれば、一と冬くらい生きているそうである。  この駐在所は低地にある上に、バラックだから午後と朝はたいへん冷える。だから私は朝早く家を出て田舎《いなか》道《みち》を巡回し、日が暮れてから帰って来る。しかし朝と夜の寒さには変りがなく、まるでこの家は寒帯の住居のように寒いのである。  駐在所が寒帯で、お隣の役場が温帯だ。同じ場所で同じ気候のところにありながら、どうしてこうも寒さが違うのだろう。せんだって私が役場の人にその話をすると、とうとう私は寒帯さんになった。夜が更《ふ》けると隣の小使さんが「寒帯さん、茶が入りました」と迎えに来る。それで私は「温帯さん、お菓子を持って来ました」と、十銭がとこ買って来た煎餅《せんべい》持参で行く。温帯さんと寒帯さんは、温帯地の部屋で戦争の話をする。中国はいつまで戦いますか。英国、ロシヤ、フランスは戦いますか。伊太利《イタリヤ》と独逸《ドイツ》は、欧洲の平和を維持させますか。いつも、そういう話をするのがおきまりで、その日その日の新聞にある通りのことをお互に云うだけである。私たちには定見があるわけでなし、新聞に書いてない話になると双方とも意見はない。そのうちに煎餅がなくなって帰って来る。  十二月十五日  朝起きて表に出ると、役場の掲示板に温帯さんが労働者募集のビラをたくさん貼《は》っていた。何何鉱山、何々製鋼所、何々工場と、お話にならないほどたくさんある。こんなにたくさん一度に掲示すると、見る方でも目うつりして、どれにしたらいいか分らなくなるだろう。「しかし、給料を高く書いてありますね。村にはたくさん人が余っているようですが、応募する人はないのですかい」「ええ、みんな懲りとるから行かんのでしょう。遊んでいる人はみんな利口やから、銭を只《ただ》でくれるとも思わぬし、夢のような話には吊《つ》られぬでしょうな」「われわれ仲間では、部長が蒙古《もうこ》へ行きましたし、その他いろいろ大陸へ行きました。しかし欠員の募集難で、もしかしたら質が低下するおそれがあるのです。この不安があるにもかかわらず、若い人は直《す》ぐ条件のよいところへ行こうとします。辞職禁止令は、当を得た処置ですな」「そうですか、若い人は出征するし、軍需方面も手不足でしょうけんなあ」と温帯さんと寒帯さんは立ち話をした。「そうですな、温帯さんも一つ工場へ進出したらどうですか」「いや、寒帯さん、もう私は駄目です。寒帯さんこそいかがですな」「いや、この寒帯さんも、もう少し健康で才能があると大陸行を思いますが、何の取りえもないのでこの道で終ろうと思います。それに寒帯さんは田舎に引籠《ひきこも》ってしまったので、田舎の景色のようにのんびりとして覇気《はき》をなくしました」と私が云うと「この節は時局柄、酒のみがすくなくて乱暴者もなく、違反者もすくないので、お暇で困るでしょう」と温帯さんが云った。「私は何よりも、この退屈な心持が身にしみこむことを怖《おそ》れます」と云って家のなかにはいった。閑居して不善をなすようになっても困りものだと考えるが、いまは悠々《ゆうゆう》と英気を養っているという逃げ口上もある。英気というよりも、志を養っているといった方が大人らしいようだ。  十二月二十五日  この多甚古村の一里ほど南、鵜川町六千本山越えの麓《ふもと》に、浜口トノエ(五二)という者がいる。これは出征兵の留守宅で、祖母イト(七五)と二人暮しである。この家で宵寝していると「電報、電報」と大声でトノエを起す者がいた。戸を明けると黒装束の賊が出刃を突きつけて「二十円貸せ」と云った。何か大見得《おおみえ》を切るような風をして、その不逞《ふてい》らしい面《つら》にくさは定九郎《さだくろう》そっくりであったという。トノエは初めは驚いたが五十女の図々しさで正気を取りかえし、「この不景気に二十円もあるものか。おかどが違いはせぬか。一円五十銭くらいならあるけんど」と財布《さいふ》を出し「ぜっぴ二十円いるんなら、信用組合で借りて来ましょうか」と云った。ところが今度は賊の方で驚いて「一円五十銭くらいならいらんけに、ほかで借りる」と賊はそれでも虚勢をはり、悠々と去り行くと見せかけて、山の中に雲をかすみと逃げて行った。  そんな事件があったので街へ潜入しては大変と、私たちは電話でしめしあわせて非常警戒につき、明神《みようじん》様の前に張番することになった。トノエさんも加勢に来た。賊などにおどかされては、出征兵の息子《むすこ》に相すまぬと度胸を出し、太い棒を持ちだして来た。トノエさんのその勇気には感心した。しかしそれには及ばぬ、風邪《か ぜ》でもひくと困るから、と云って帰ってもらった。私の張番の相棒は古参の有賀巡査。二人ともオーバーを着て、中折帽、マスク、棒、懐中電燈と、全く賊のような支度《したく》であった。  深夜の明神様の境内は凍えるように寒かった。午前二時頃、遊廓《ゆうかく》帰りの若者が四人まで網にかかったきり、人通りがなくて淋《さび》しいので、ぽつぽつ退屈して来て二人は無駄話をした。有賀さんは山の方へ勤めていたことがあるそうだ。 「なにしろ山奥の淋しい村なのです。巡回に出るのも泊りがけです。訓辞を受けに行くにも二日がかりだし、山路ですから里に出るとき草鞋《わらじ》をはきました。谷川では、アユ、アメゴ、ハヤなどがとれます。松茸《まつたけ》の新しいのを酒の肴《さかな》に用います。猪《いのしし》もとれました。酒は役場の小使や学校の先生とよく飲み明かし、一家族のように仲よくしていました」と有賀さんは古いそういう話をして、それから今日自殺した隣村の若い女の話をした。戦死した婚約者の後《あと》を追い、若い女が薬品自殺を遂げたのである。その女なら私も一度か二度くらい顔を見たことがあるような気がするが、幼な顔の残っているまだ二十《はたち》にもならない女である。「この場合、自殺の可否など問題ではありません。彼女が未来の夫の傍《そば》に行けると信じ、それを楽みに死んだ気持に美を感じます。たぶん喜んで死んだのでしょうね」と私が云うと、有賀さんは「でも、若い身でよく思いつめたものですね。何か他に、別の縁談ばなしでもあったのと違いますか」と云った。  賊はとうとう来なかった。夜明け前、私たちは右と左にわかれて来た。  十二月二十九日  今朝《け さ》、ユキヒラに飯を仕掛け、それから味噌汁《みそしる》に入れる大根を刻んでいたところ、裏の消防署のおかみさんが来て「お手伝いしましょう」と云った。私より一つ年上だが、可愛らしい顔のおかみさんである。「いや、僕は自炊は慣れていますから」と辞退したが、おかみさんは「大根を刻むのは私の自慢です」と私の持っていた庖丁を取りあげて、その言にたがわず器用にコチコチコチコチと大根を切り、それから、事務所の火鉢《ひばち》の火をおこした上に掃除までしてくれた。その間に私はゲートルと靴下の洗濯にとりかかったが、消防署のおかみさんは「お洗濯ですか。大変ですな、私が手伝ってあげましょう」と云った。それで私が事務所に行って胯火鉢《またひばち》をしていると、野田君という古い知合いが自転車に乗って硝子《ガラス》戸《ど》の外を通るのを見かけたので、外にとび出して「野田君、野田君」と呼びとめた。野田君は二十間も行きすぎてから自転車を降り「やあ、甲田さん。ここに転勤されたのですか。私はちっとも知りませんでした」と云って驚いた。私は「栄転ではなかったのです。しかし久しぶりですね、なかにはいって火鉢にあたって行きませんか」と野田君を板土間に連れて来た。  野田君は私と差向いで胯火鉢をして「貴方といっしょに胯火鉢をするのも久しぶりですね」と云いながら、メリヤスの股引《ももひき》をはいた胯ぐらを出し「この火鉢の炭は官費でしょうな。よい炭ですな」と云った。  野田君は私が町の警察にいたときの知合いで、そのころは腕のよい料理人だと云われていた。この人は、事業癖があるために、大きな料理屋の支配人になったり、宣伝員になったり、喫茶店の番頭になったり、保険屋になったりして、昨年ころは鉄工場のマネージャーなんかしていたようであった。はしっこくて弁が立つし、有名な人とも心安かったので、そんなことから料理のことを忘れ転々しているうちに、だんだん拙《まず》いことになったのである。「いま君は何の御商売ですか」とたずねると、野田君は「いやもう、からッけつです」と云った。「宿屋の支払が出来ずに、オーバーも洋服も指環《ゆびわ》も曲げた始末です。こちらの村の木山さんという製材所長に、金を借りに来たのです。原因は、私が飛行機興行のマネージャーをしていたとき、三百円の手金を飛行機の購入係のものに渡したのに、そいつが履行しなかったので期日になっても現品が来なかったんです。で、その男のところへ談判に行くと、その男は責任を感じて猫をのみました。ごった返しになって、私はその土地の刑事に調べられました」と野田君は云った。「その男は死にましたが、私はつくづく人間というものは、どたん場になると、えらい勇気が出るものと思いました」と云った。野田君は自殺するのが勇気のあることだと思っているのかも知らないが、或は野田君も切羽詰《せつぱつま》って、死のうか死ぬまいか、いやいや死ねない、死ぬ勇気がない、と考えていたところかもわからない。  野田君は話題を変え、野田君の行っていた土地の自慢話をした。小さな県だのに、その土地では消防なんか完備していると云う。四階建コンクリートの消防署が、県内に二十以上もあって、みな自動車ポンプをつかっているそうだ。消防員は砂を敷いた上に鉄棒を立て、その滑棒《すべりぼう》を滑り降りるようになっているし、まるで警視庁のように、出動の合図から出発まで五分もかからぬと云った。小頭《こがしら》は全員みな資本家出身で、自分で消防自動車を運転する。それに防火宣伝には巡査の声のよいのを選抜し、消防自動車の上で防火の唄というのをうたわせる。その演習ぶりといい設備といい日本一だと、野田君は自慢して、「では、これで失礼します。金策を急ぎますから」と云い残して帰った。  私はこの村の手押ポンプと比較して、嘘《うそ》の世界の話のようだと思い、半ば憤慨して私自身の足を爪《つめ》で掻《か》き散らした。それというのも私は数日間の夜間非常警戒のため、両足が霜腫《しもば》れして人蔘《にんじん》のように赤くなって痒《かゆ》くてたまらなかったからである。胯火鉢をしていると、足の霜焼が余計に痒くなる。非常警戒にはゲートルをつける規則になっているのだが、お宮の華表《とりい》のかげにしゃがんで見張るような警戒にはゲートルをはかない方が都合がいいのである。第一、霜焼の心配がなく、足のしびれるのが少しは救われる。ゲートルの下に布でも巻けば幾らか助かるが、それでは足があまりに太く見えて恰好が悪くなる。  朝飯を食べて服を着ていたら、受持区内に住んでる元巡査をしていた人の奥さんが、泣きながら駈込《かけこ》んで来た。見れば足から血を吹かせ、犬に噛《か》まれたと云って、子供のように「ああん、ああん」と泣きながら「出征兵士のため、朝詣《あさまいり》をしておったら、あしこの、田圃《たんぼ》の路《みち》で噛まれたのです。噛みついた犬は赤犬です」と切れ切れに云うのである。「そうですか。痛いでしょう」と私が聞きおく程度にしていると、奥さんは不服そうな脹面《ふくれつら》で帰って行った。  村にはたくさん野犬がいる。私は盗難予防のため夜間巡回する場合、いつも外套《がいとう》の襟《えり》を立てマスクをかけ自転車のランプで農家の裏口を一軒ずつ見てまわるが、不意に野犬が吠《ほ》えついて来るには閉口させられる。町の人が仔犬《こいぬ》を棄《す》てに来て、それがみな野良犬《のらいぬ》になって行くのである。なかには拾い犬にしたいような小型の可愛らしいのもいるが、たいていは大めし食いに違いない図体の大きな犬である。  服を着て巡回に出かけようとしていると、今度は元巡査がやって来て、大きな声で「君、君。あんな野良犬を放っとくとはけしからん。早く殺してくれ。現に僕の家内が噛まれたでしゃないか。第一、女子供が危険でしゃないか」と云った。謂《い》わば彼は、呶鳴《どな》り込んで来たのである。「何とか始末をしてくれないと困るでしゃないか。君の責任問題ともなることだ」と家の前で大きな声をあげて仕方がない。それで私は「私の手にはいればいつでも殺すのだけれど、なかなか掴《つか》まらんで困りますよ(それに私は犬殺しではありませんよ、と云いたいのを控え)相手が四足獣でありますからね、何しろ」と答えると、「四つ足でも五つ足でも危険なものは殺さねばならんのだ。君が殺さねば本署へ行くぞ」と敦圉《いきま》いた。「どうぞ御随意に」と私が引下ると、彼は意気揚々として帰って行った。  本署にだって野犬撲殺係はいないのだが、危険な犬を棄ておくわけには行かないので、私は村の青年訓練所の生徒に頼みに行った。  お昼すぎ、青年訓練所の生徒たちが、がやがやと騒ぎながら犯人たる赤犬を捉《とら》えて来てくれた。横柄にのっそり立っている小牛ほどもある大きな赤い犬である。私はストリキニーネを芋の焼いたのに入れ、それを喰《た》べさせようとしたが横着な犬は喰《く》わなかった。青訓生の一人は「えい、面倒なり。ついに一ぱい盛ろうとの悪だくみ」と浪曲調の声で云い、竹筒を捜し出して、ストリキニーネを水にとかしその筒に入れて持って来た。青訓生が犬の口を開けたなかに私がその水を流しこむと、近所の人たちが「赤犬を殺すのか。見せてくれ見せてくれ」と口々に云って集まって来た。みんな犬をとりまいて、輪になって見物した。「何と、旦那《だんな》さん、犬も殺したりしなさるか。お世話なこってすな」と余計な口をきくものもあった。  私は腕時計でタイムをとった。犬は初めのうち、ゆっくりゆっくり眠りこんで行くようにしていたが、五分たってからカッと目を見開いて口を喰いしばり四足を突っぱって、痙攣《けいれん》を起したと思うと伸びてしまった。見物していた人たちは興ざめを催して、何も云わずに帰って行った。私は犬を殺すのだって面白くないとつくづくそう思い、その場をはずして手を洗った。そして犬の死骸《しがい》の処置について思案していると、さっき怒って帰った元巡査が来て、今度はにこにこと「家内の仇《かたき》を討ってもらって有難う」と礼を云い、大喜びで帰って行った。  青年訓練所の生徒たちは、私が何も云わないのに気をきかして、梅林の隅《すみ》に深い穴を掘り、犬の死骸を引きずってその穴に入れた。私が「深い穴だなあ」と驚くと、青訓生の一人は「深い穴やけに、化けては出られぬやろうに」と云って土をかぶせて、みんなで「成仏、成仏」と云いながら土をかけ、化けて出ないように土を固く踏みつけて、平たい石をその上に置いた。  夜、盗難予防の巡回に出かけようとしていると、上官から電話がかかって来て、昨日と同じ場所に張ってくれという命令であった。さっそく白金懐炉《はつきんかいろ》を入れて行ってみると、同じ相棒の有賀巡査が華表《とりい》のかげに立っていた。夜明けまで警戒していたが、網にかかったのは廓《くるわ》帰りの男三人と、町の映画を見に行って自転車を盗まれて歩いて帰って来たという青年一人であった。    狂人と狸《たぬき》と家計簿  十二月三十日  ぐっすり寝ていると、戸の外から声をかけ、「旦那《だんな》さん、おいでになりますか、旦那さん」という女の声で目をさました。今朝、朝飯を食べてから寝たわけだが、もう十一時ちかくなっていた。  昨夜、有賀巡査が云ったのを私は思い出して、戸の外で「旦那さん」と呼ぶ女の声を聞きわけようとした。古参の有賀巡査の説によれば、いきなり「旦那さん」と云って駐在所に訪《たず》ねて来る人は、たいてい何かの事件を持って来る。その声で、大体の事件の内容もわかるという。子供だと遺失物拾得だし、若い女だと営業願だし、中年の紳士だと道を尋ねに来るのである。老人だと、たいてい縁談のきき合せで、有志だと陳情であったりする。中年の婦人だと家のなかのもめごとで、飲食屋のおかみだと泥酔者の不始末だし、凡《およ》そあたらずとも遠からずだというのである。  私は戸をあける前に、もう一度その声に注意して、これは中年の女の夫婦喧嘩《げんか》だろうと推定した。戸を明けると、中年の婦人がしょんぼり立っていた。聞くと「私の伜《せがれ》が気が狂うておるのですが、私やお父さんを打つし、刃物は持つし、御近所へ迷惑かけて困るけに、病院へ入れようと思うとりますけんど、なかなか利口で手に入りませんけに、旦那さんに捉《とら》えてもらいたいんですけんど」と云い、「何度も、この前もその前も、旦那さんのお世話になったんですけんど、つい可愛《か わ》ゆうて連戻すと、するとまた暴《あば》れまんので」と云う。夫婦の間の一人子だということで、わけを聞けば気の毒なので「よっしゃ、じき行くけに、家で待っとれや」とその女を返し、私が用意して出かけようとしていると、そこへ来合せた消防の一人が手を貸してやろうと云った。いっしょに出かけることにした。消防の話では、その狂人は三十歳、もとは温和な青年で真面目《ま じ め》に百姓をしていたというが、町のカフエの女に惚《ほ》れ田を売って四百円を貢《みつ》いだ。夫婦約束までしたのに女に袖《そで》にされ、おまけに女は他の男と逐電《ちくてん》した。「ぼやん、となってしもうたんや」と消防は云った。「気の弱いやっちゃなあ」と云うと「狂ったとて七分は正気や。変装するのが好きで、逃げるのが上手《じようず》や。軍服を着て中尉の風をしたり、背広を着たり、商人風になったりして、一日に三度も四度も着換えをするんや」と云った。「若い女を見ると、竹竿《たけざお》をもって飛んで行ってお尻《しり》を突く。よっぽど困った気ちがいや。座敷牢《ざしきろう》に入れても、じきに破ってしまう。柱に鋸《のこぎり》を入れて、いつでも牢がひっくりかえるようにしとるんや。この前いた駐在は、あのキ印を捉えるのに一週間かかった」と云う。それに父母をなぐり、近所の老人を突きとばし、どこでも勝手放題に焚火《たきび》をして、よその品物を掠《かす》め傍若無人な振舞だと云う。  狂人の家の門口まで行ったとき、私は「お前、裏口を頼む。俺《おれ》は表口より行くけに」と消防と二手に分れた。そして門口にはいりかけたとき、その家の窓に、冬だというのに白い浴衣《ゆかた》を着た者がちょっと顔を出し、すぐにまた顔を引込めた。「ああいかん。見つかった」と消防はその家の裏の方に駈《か》けだして行き、私は表口に殺到した。すると白いものが風のように私の目の前をかすめ去り、小川をとび越えて田圃《たんぼ》の小路へ逃げて行った。その逃げ足の早いことは、まるで人間業《にんげんわざ》とは見えなかった。「それ、あしこを逃げる。それ、あしこだ」と云ううちに、ひきがえるのように麦畑のなかへ飛びこんで、麦畑を横切り石崖《いしがけ》を攀《よ》じ登り木立のなかに姿をくらました。私と消防は懸命に走ったが、とうてい彼の逃げ足にはかなわなかった。私たちはうまくあしらわれたようなものである。「足の早いやっちゃなあ。俺はあいつが、見張をしておるものとは思わなかった」と云うと、「魔物のように早いやっちゃ」と云い「神通力のようなやっちゃ」と云った。  私たちは夜になってからまた出なおして来ることにして、狂人の家人と打合せをして帰って来た。なにぶん刃物を持っているそうで、近所の人を傷つけてはいけないという心配があったので、夜になるまでに三度行ってみた。しかし帰っている様子は見えなかった。それで村会議員で村の氏子《うじこ》総代の家へ相談に行くと、折りから年末懇親会の最中で、出征兵も混ってにぎやかに酒を飲んでいた。「まあ、あがって飲んでくれ」と云うのだが、そういうわけにも行かないので私は土間に立っていた。  出征兵代表は立って双手を袴《はかま》の脇《わき》に入れ、挨拶《あいさつ》の言葉を述べていた。 「ながらくお世話になりましたが、いよいよ私たちは戦争に行けるようになりました。寒い折りですから皆々様には御自愛をお願いいたします。参戦の希望がかないましたら、男子一生の面目であり大いに頑張《がんば》ります。銃後の皆様の御期待にそむかないように、精励の覚悟で一貫したいと思います」  すると「勘ちゃん、勇ましいぞ」と飲助が云った。今度は、氏子総代の村会議員が立ちあがり「戦勝の春近き本日、若い勇士を送ることは私どもの光栄であり、当村の名誉であります。勇士諸君、わが民族のため飽くまでも奮闘努力をお願いします」と演説した。  みんな酒がまわり万歳万歳のなかなので、私が出なおして来ようと思って土間口を出かけると、主人が立って来て「甲田さん、御用件でおいでになったのですか。どんなお話ですか」と云ったので、私は事情を話して加勢を頼みに来たと云った。村会議員は即座に、酒席にいた若連中四五名を指ざして、「あれらの若連中に助勢させましょう」と云った。  私は予《あらかじ》め作戦計画をして同勢を二手にわけ、表側と裏側を取巻くことにした。そして若連中の一人に偵察《ていさつ》を頼み、狂人が帰っているかどうか確めて来てもらった。「もう帰って来とります」という報告である。私は先頭に立って駈けだして行き、表口を目がけてその家の門口に駈けこむと、裏口の方で「やった、やった」と云う声がした。「そうか、逃がすな」と裏口に駈けつけると、若連中が五人で一人に取組んでいた。さっそく捕縄《ほじよう》をかけて起き上らせると、狂人はどんぐりまなこの目をむいて「ウ——ウ——」と呻《うな》った。その場へ狂人の父母が現われて、落涙しながら「皆様、まことにお世話さんで」と挨拶した。  まだ宵の口なのでタクシーを呼び、狂人と母親と私と議員と飲助が乗り、毛布やトランクも載せて病院に向った。  この村から病院までの道は五里である。タクシーのなかで、狂人は初めのうち興奮のあまり口もきけなかったが、次第に落ちついて来て飲助と口をききだした。飲助が「君、病気じゃけん、早うなおさんといかんじゃ」と云うと、狂人は「病院は嫌《い》やじゃ」と云った。「無茶いうな。早うなおって、お母さんに喜んでもらうんや」となだめると「ほんなら、一度だけ行く」と云ったが、「頭のなかで汽車が走るけに、自動車は嫌やじゃ」と云った。飲助は私の方を見て、「どうです、旦那。こんな利口なことを云うて逃げようとするんじゃ、ははあ」と笑った。しかし狂人は、とうとう飲助のことを狂人だと定めてしまって「飲助さん、早う、ようなって下され、神様に祈りますわ」と云い「私が迎えに行くまで、飲助さん、おとなしくしてね」と云った。  日が暮れてから病院に着いた。病棟《びようとう》の鉄格子《てつごうし》のなかの廊下には、この寒いのに裸で走りまわっている狂人がいた。廊下の曲り角に、物憂げな家鴨《あひる》のように一本足で立ちつくしている狂人がいた。病室のなかで、雉《きじ》の鳴くような声を発しているものがあった。どの病室からも、何か一風変った声か物音か、泣声かがきこえていた。  入院の手続は簡単であった。母親と議員が証文を書き、書類に書いてある狂人の名前の下に本人が爪印《つめいん》を捺《お》しさえすればよいのであった。私は議員や飲助といっしょに帰ったが、病院の病棟全体から、何かわけのわからない無言の呟《つぶや》きが湧《わ》き上っていたようだと不図《ふと》そう思った。  タクシーで帰って来た。狂人の家の前で私はタクシーを降り、留守番をしていた狂人の父に、ちょっと挨拶して帰って来た。その途中、自転車に乗った通りすがりの男が、わざわざ自転車を降りて「旦那さん、私は昨日、あすこの官有林で狸を見ました」と云った。「野良犬《のらいぬ》の間違いだろう」と云うと「いや、狸です」という。「それなら君は、これまでに狸を見たことがあるのか」ときくと「養狸《ようり》場で見ました」と云う。「それなら、養狸場のが逃げ出したんやろな」という話に帰結した。  帰って来て、お湯からあがると裏の消防署へ話しに行った。小頭《こがしら》のうちの御隠居も話しに来ていたが、私が狸の話をすると「狸なら、この村にはなんぼでもおるんや。だが、狸のおるような深い官有林へいまごろ行くやつは、お正月のウラジロや榊《さかき》をとりに行ったんや。やっぱり盗伐や」と隠居が云った。それではこの村の人は、狸がいるのに何故それを捕獲しないのかと私がたずねると、「旦那は、きのう赤犬を殺したで、今度は山狩がしたいのやろう」と云い、「野犬狩は人のためになるやろうが、役人の山狩は嫌味《いやみ》なものや」と苦い顔をして「いったい、狸というものは国粋保存の上からして、天然のものは保存しなくてはならんものやろう」と云った。幾ら狸の毛皮の値がよいからといって、餓《ひも》じくて肉を食うためにとるのならともかくも、毛皮を首に巻くためにとるのは無惨《むざん》だと云うのである。「とらぬ狸の皮算用」とは、毛皮をとることを戒めた格言だと云うのである。  この隠居の気難しいのは、肝臓の悪いせいだと自分でも云うのだが、今日《きよう》は機嫌《きげん》をなおして狸狩の経験談をしてくれた。ずいぶん昔の話であるらしい。昔の狸の棲家《すみか》には、穴が入口と抜口と二つあった。抜口の方をつぶし、入口から青松葉をくすべて穴のなかに煙を流し込む。狸は苦しまぎれに穴の外にとび出すが、暫《しばら》くは目が見えないできょろきょろしているところを、人間が棒で打ち殺す。一つ穴から何匹も出て来るのがおきまりで、出て来るやつを棒で打ち据える。これは肉を食べるつもりでとるのだから、皮を剥《は》ぐためにとるのと趣旨が違い、悪事かもしれないが非道ではない。肉はあまりうまいとはいえないが、味噌汁にはもってこいである。  隠居がそういう話をしていると、忠魂碑のことで隠居を捜しに来た元村長が「狸のうちでも、なかんずく千枚座蒲団《ざぶとん》という狸は、往来にどこまでも座蒲団を敷きつめるけん、凄《すご》い」と云った。私が「狸は化けるかどうかしらんが、野の獣はすべて文化施設を嫌がるものらしい」と口を出すと、元村長は「あ、そうやろう」と同感して「以前、この村に郵便局が出来て、電信柱が立ったころ、郵便屋がよくだまされよった。狸が郵便局や電信柱の文化施設を憎んだのやろう。郵便屋が戸をたたくつもりで、電信柱をたたいておったのを儂《わし》もよく見たことがあるけん」と云った。「ラジオはどうやろう。狸は嫌《きら》うやろうか」と云うと、「それゃ、大嫌いやろう」と元村長が云った。  十二月三十一日  今年の最終の巡回を終り、町の年越詣《としこしまい》り雑沓《ざつとう》取締りの応援に出張する。私たちはみな帽子の顎紐《あごひも》をかけて手に提灯《ちようちん》を持ち、左右の通行人に「せいてはいけませんよ、押しては子供が危い」などと叫ぶのである。戦時中のため、参詣人は特に雑沓する。大道商人や屋台店や見世物やバナナ屋なども、今年《ことし》は例年の五倍もたくさんいた。しかし例年と違い今年は喧嘩が一つもなくて、その代り、地味でみな理由の通る密会が四組ほど挙げられた。  帰って来てから私は私の家計簿を調べ、購入品の消費額と日割の対照に自分ながら興味を持った。左のような入費の割合であった。  米二升(十日分)七十四銭。醤油《しようゆ》一升(二十日分)四十銭。酢《す》五合(二十日分)十三銭。砂糖(十日分)五十銭。味噌百目(五日分)七銭。大根一本(二日分)五銭。炭一俵(二十日分)一円三十銭。煉炭十二箇(十二日分)五十銭。炬燵《こたつ》と火鉢《ひばち》の炭団《たどん》三箇(一日分)一銭。コーヒー(一箇月分)九十銭。めざし(二日分)三銭。バット二箇(一日分)十六銭。電気代九十銭。新聞代一円。散髪代三十銭(月一回)。  他に必需品と関係のないものは、十二月分はコサック従軍記(古本)五十銭、レ・ミゼラブル(古本)二十銭、蠣《かき》(一回)十一銭、小魚(五回)五十銭、うどん(二回)十銭、慰問袋(二箇)一円、管内貧困者へ寄付(一回)七十銭、菓子(七回)七十銭。靴墨、紙、葉書、インキ等、四円也。以上のような割である。  私は自分のこの物品消費の状況を見て、国家から金銭をもらっている私は、これだけの物品を消費して果してそれに値するだけの人間奉仕をしているだろうかと熟考した。それに値する代物《しろもの》かどうかとつくづく考えたが、自分で軽々に判定を下すことは差しひかえることにした。それでも私は月四十三円のほかに手当をもらい、年末のボーナスをもらうので、実家に毎月十五円ずつ仕送りをして母と弟にも小遣《こづかい》をすこし送れるというものだ。    新年早々の捕物《とりもの》  一月一日  早朝に起きて切通しの上に行き、東天に昇《のぼ》る太陽を見た。何の理由もなく私は落涙した。帰って来て、きのう消防がくれた餅《もち》で雑煮をして食べた。  戦時中のため、年賀郵便も年始廻礼も取止《とりや》めである。有志一同、小学校で拝賀式を行い、面接互礼をなすとの前ぶれがあったので、消防の小頭といっしょに小学校へ行った。青年団長、土井さんの御隠居、在郷軍人分会長、防空班長の地主さん、衛生班長の薬剤師、元村長、元巡査、学校職員等が参会した。生徒は三百二十人。式から帰って来ると戸をしめて、夕方までぐっすり寝た。  一月二日  正月早々、よからぬことをするものがいる。隣村の駐在から、正月賭博《とばく》をあげるから手伝ってくれと通電があった。強い西風を突いて自転車を走らせて行くと、隣村の駐在には、応援に来た仲間五六人が集まっていた。柔道四段二十貫の猛者《も さ》刈込君、若くて敏腕の定評ある飛島君、握力の非常に強いという中岡刑事、その他の顔ぶれであった。みんな慎重な顔で車座になって打合せをしていたが、その様子で見ると、賭博は相当に大きなもので、手ごわい相手らしい。 「君、すまんな、正月早々お使いして」と隣村がカイゼル髭《ひげ》をひねりながら云った。「いや、結構です」と私も車座の仲間入りをした。すると「シャモでね、二十名近くは寄っとりますよ」と隣村が云った。「そうですか、大いにやりましょう」と私は勇み立った。「腹が空《す》いては仕事は出来ぬ。どっさり食べて下さい」ということで、餅の御馳走《ごちそう》で腹をつくることになった。  私は餅を食べながらみんなの話すのをきいていたが、かつて教習生だったころ強盗殺人犯の逮捕応援に行ったときのことを思い出した。その強盗殺人犯は山奥の山のなかに逃げこんで、鋭利な刃物を持ってなかなか人を寄せつけないということであった。教官は私たちの出発に際し「若い諸君の生命を自分にあずけてもらいたい。犯人に出会ったとき、決して卑怯《ひきよう》な真似《まね》をしないように。人間は生きたいと思えば際限がない。死ぬときを得たら、すなわち死を生かすことだ」と訓辞を述べた。そのとき私は何だか物悲しい気持に近い興奮を覚え、思わず武者振いをしたものだが、もう今ではそういう興奮を覚えなくなっている。むしろ大手柄を立て、新聞にでも書きたててもらったら、お袋が喜んでくれるだろうなどと、不図そんなことを考えたりする。  仲間が十名そろったので、表五、裏五と二手に別れ、表組が踏みこんでから、裏組は逃げるやつを捕える手筈《てはず》がきまった。私は裏組であった。  出発。目的の場所は、田圃のなかの土塀《どべい》で囲まれた農家。私たちはじりじりと迫って行った。その家の裏手の竹藪《たけやぶ》が、お昼すぎの西風にあおられてざわざわと音をたてていた。  私たちは敵に発見されなかった。正月だから敵は安心して、見張を置いていなかったのである。裏組の五名が藪ぎわに伏せをしていると、表組が踏みこんだらしく、ばたばたと響く格闘の音、わッと叫ぶ人声、つづいて裏口に駈けだして来る足音がした。「やったな」と私たちが起きあがると、黒い敵四五名が塀の上に出てこちら側へ飛び降りて逃げだして来た。その後からまた、黒い敵が塀の上に顔を出した。「それ行け」と私たちは駈けつけたが、双方が鉢合《はちあわ》せするまで向うは逃げるのに夢中で気がつかぬ。一間ほどの間近になって漸《ようや》く敵は気が付いて、その逃げ足の方向を変えたときには、すでに私は飛びかかっていた。背を見せてばたばた走る一人を私が「えイ」と突きとばすと、麦畑にばったり倒れて起きなかった。それを抑《おさ》えつけていると、目の前をかすめ去る一人がいるので、帯をとってねじ倒し、私はなんなく二人を捉《とら》えた。あまり見事に行きすぎたので、ひとりでに苦笑が込みあげて来た。「旦那、手むかいしまへんけに、お手やわらかに」と一人の方はおとなしく泣きごとを云い、もう一人の方は初犯と見え、捕縄をかけようとするとやにわに武者ぶりついて来た。それを外《はず》して、私は得意な外掛でふんわりと投げとばし、起きあがろうと両手をついたところへ捕縄をかけた。傍《かたわ》らでは仲間の一人が、敵の肥大漢と上になり下になり土まみれになって格闘していたが、漸く相手を組みしいて捉えた。もう一人は遠くへ走って行く黒い背広を追い、これはもはや脚力の競争に墜《お》ちていた。藪ぎわで格闘している一組もあった。私は捉えた二人を連れて麦畑の外に出た。二三寸に芽を出している麦の畦《あぜ》が踏みにじられ、その麦畑は一畝《せ》分がところ台なしになっていた。  私は二人の捕虜を連れて表組のいる方へ行った。すでに大半は捉《つか》まって縛られていた。シャモを囲っていたと見える筵《むしろ》には血糊《ちのり》がつき、二羽のシャモもそれぞれ脚《あし》を縛られて物におびえたようにクヮックヮッと鳴いていた。リヤカアに積んだ伏籠《ふせご》にも土間のなかの伏籠にも、たくましそうなシャモがいた。部屋の戸や障子は押し倒され、火鉢がひっくりかえり、灰が畳の上に踏み散らされていた。炭籠《すみかご》が床の間に放り出され、酒徳利が柱の根元のところに砕けていた。  この賭博の胴元は表組で捉まった大男で、彼は縛られたまま同じく縛られている仲間を見渡して「どいつが裏切った」と呶鳴《どな》り散らし「裏切ったやつは云え。いまにどうするか覚えておれ」と敦圉《いきま》いた。「お前か」「おら知らぬ」と鳥屋が云い「お前にちがいあるまい。どうも臭いと思っとった」「難題を云うな、おら知らぬ。うまく逃げたやつが裏切ったのかもしれん」「こいつ、覚えておれ。自分のことを棚《たな》にあげて、人に濡衣《ぬれぎぬ》をきせようとする」と云い、仲間喧嘩をやりだした。鼻血を流しているものもあり、歯齦《はぐき》から出る血を舌で拭《ふ》き、赤い唾《つば》を吐き散らしているものもあった。私たちの仲間にも、服が裂けたり土まみれになったりしたものもいて、なかには生爪《なまづめ》をはがされた人もいた。私は何の怪我《けが》もなく、ただ咽喉《の ど》が乾《かわ》いただけにすぎなかった。  勘定すると十四人の犯人のうち、一人だけ逃げて十三人捉まっていた。  柔道家の刈込君は、私たちの期待していた通り大いに奮闘して、一人で四名も捉《とら》えた。しかも服のボタン一つはずさないで、彼は庭の松の下に立って静かに煙草をすっていた。私が「樹下将軍のようだなあ」と云って近寄ると、刈込君が「樹下将軍とは何のことや」と云った。「勲功があっても、謙遜《けんそん》して木の下に引きさがっている偉い将軍のことやないか」と私は答えたが、或《あるい》は私の記憶ちがいで樹下将軍という熟語ではなかったかも知れない。  刈込君は表組であった。同勢五人で踏みこむと、敵はまだ気がつかないで「こら、邪魔すな」と刈込君を突きのけた。漸くこちらの顔を見て「あッ」と周章《あ わ》てて一同が逃げ出そうとするところを、刈込君は胴元に飛びついて場銭と胴巻を抑えた。そして胴元を味方の他の者に渡し、逃げ出す一名を投げ、他の二名を一度に掴《つか》みとったということである。若くて敏腕の飛島君は、屋根の上に逃げた者を追いかけて行き、とっ組んで転《ころ》げ落ちた。しかし運よく微傷だにしないで相手を捉えた。私は裏組なので場面を瞥見《べつけん》することも出来なかったが、たぶん壮快なる捕物風景であったろう。  私に「旦那、煙草を下さい」と犯人の一人が云ったので、バットを口にくわえさして火をつけてやった。「うまいうまい」と云って喫《す》っていたが「賭博で捉まると、どうしてやたらに煙草が喫いたくなるんやろう」と云った。「お前が煙草喫いだからだ」と答えると「旦那、私は初めバットの銀紙をためるために煙草を喫い始めました」と云った。まるで銀紙を献納するのだと云わんばかりであったので、「余計な口をきかないで、黙って喫え」と注意した。  犯人を連行するには一列に歩かせた。沿道の子供たちが後からついて来て「バクチだ、バクチだ」「やあい、やあい」と嘲笑《ちようしよう》し、大人たちまで往来に駈けだして来て、なかには分別ありそうなのが「敗残兵のようだなあ」などと云っていた。隣村の駐在に連行し、カイゼル髭の隣村が主任になって取調べた。彼等は源平にわかれて賭勝負していたと造作なく白状した。取調べが終ってから、シャモは競売に附した。犯人のシャモ屋がシャモを川端《かわばた》へ抱いて行き、その首を切ると血が赤く川に流れた。シャモ屋は赤く染まった水を見て「正月早々、殺生《せつしよう》やなあ」と独《ひと》りごとを云った。隣村はシャモ屋に肉をすこしわけてもらい、私たち仲間にそれを御馳走してくれた。かたくて歯がたたなかったが、仲間はうまいうまいと讃《ほ》めていた。    喧嘩《けんか》三件  一月五日  うどん屋のおばさんとこから「酔っぱらいが乱暴して困るけに、直《す》ぐ来てくだされ」と云って来た。佩剣《はいけん》をわざとがちゃがちゃさせて行くと、まだ宵の口だというのにべろべろに酔った男がいた。  ハッピを着て地下《じか》足袋《た び》をはき、土間のすみに放尿しているのである。コップがこなごなに毀《こわ》れ、器物はひっくりかえり、焼酎《しようちゆう》の徳利が毀れていた。「おいこら、小便してはいかん」と注意を与えると、酔っぱらいは私の方を振向いて「なんでい、矢でも鉄砲でも持って来う」と喚《わめ》いた。何だか顔見知りのような気がしたので「お前は、また暴《あば》れたのか」と云うと、急に改まって「へい、旦那《だんな》」と云ってお辞儀をした。その顔が曲るほど酔っているので私は漸《ようや》くのこと思い出した。この男は私が市内在勤のとき、管内の工場街で日稼《ひかせ》ぎをしていた者で、酒癖が悪くて幾度も連れて行ったことがある。「なんだ、石井か。お前まだ止《や》まんのか」と云うと「へい、旦那はこっちへ来ていなさったのかね。酒癖は、どうもなおりゃしねえ」と頭をかいた。うんと泥酔しているようであった。彼はこのごろ飛行場の埋立作業に雇われていて、勘定をもらってちょっと飲んだのがいけなかったと云った。「お前の伜《せがれ》はどうしたか」ときくと、また盗みをして、刑務所へ行ったとのことである。かつて私はその伜というのを連行したことがあるが、若いのに前科八犯で殆《ほとん》ど刑務所にばかりいた男であった。しかし、「と云うて、こう乱暴されちゃ帰らせぬが、埋立工事の事務所の方へは特別で内証にしてやろう」と云うと「へい、済みません」と云った。彼の無茶酒には寒心させられるものがある。  うどん屋のおばさんは亭主に死なれ、娘と小さな子供二人を抱《かか》えて店をしているが、埋立工事の人夫等《ら》が酒を飲みに来てよく問題を起すのである。おばさんが器量よしだから人夫等は飲まなくてもいい酒を飲み、飲んでもつまらないのでお客同士で喧嘩を始めたり暴れたりする。  いま埋立てている飛行場は、航空機の発着場になるということで、公私共同資本である。サンドポンプで川から水と土を混ぜ合わしたのを動力で吸いあげて砂を選《よ》りとっている。人夫は毎日百人くらいずつ来て、一日二百坪ぐらい埋立てるということだから、人夫は当分まだ仕事がある。一日九十銭で朝八時から六時まで働くことになっており、土地の百姓のほか、よそから流れ込んで来たもの数十名に朝鮮人が四人いる。朝鮮人はみな妻を連れていて、それぞれ掛小屋のなかに世帯《しよたい》を持っている。  よそから流れ込んでいる人夫のなかに、双木《ふたき》といって顔に刃物傷のある乱暴な男がいる。身元を照会してみると傷害前科三犯あって、この男も矢張り酒乱である。うどん屋で朝鮮人にさんざん飲ましてもらった上、その挙句は朝鮮人を擲《なぐ》りつけたりする。しかし朝鮮人も負けてばかりはいないのである。今日《きよう》、石井を本署に連れて行き、帰って来てからお風呂の下を焚《た》いていると、双木が血まみれになって駈《か》けこんで来た。「旦那、泥酔してやられました」と云う。現場に行ってみると、朝鮮人も血まみれになったまま酔いつぶれになっていた。調べると、双木が「チョボ、なんだい」と云ったことから擲り合いになったもので、双木が仕掛けて双木がたくさん擲られていた。「朝鮮人にやられるなんて、旦那、情けねえ」と双木はこぼしたが、もともと双木が悪いのである。  双木と朝鮮人の傷を消毒し繃帯《ほうたい》して、彼等二人を仲なおりさしてから私は帰って来た。ところが夜なかに戸の外で、朝鮮人が「痛い痛い」と云って戸をたたいた。起きて見ると朝鮮人の妻が傷ついた亭主をリヤカアに乗せ、泣きながら「フタキにオトトが行かれました。かたきをとって下さい」と云った。たいした傷でもなさそうなのに大形《おおぎよう》に布で包み、手を触れると「痛い痛い」と云った。「我慢せえ」と云って布をとると、いくらか皮下出血しているだけだが「痛い痛い」と云い、どうしても医者に診察さしてくれと云う。止《や》むなく、医者の難波さんへ連れて行くと、別に打撲傷というほどのものではないとの診断であった。朝鮮人が帰ってから、難波さんは「どうも困ったものですな、あんな嘘《うそ》を云う」と云った。  一月八日  海辺警備の予行演習に出た。  場所は堤防の松原で、この松原は潮害保安林になっていて伐木禁止の立札がある。  地主の防空班長の話では、明治二十五年に山のような浪《なみ》がこの堤防を越え、村に流れ込んだということである。昼間、風もないとき突如として浪が山のように盛りあがって押しよせたという。南の嘉平さんの門の上で、西と東の堤を破った浪が衝突して、五間も六間も高いところで渦巻いたそうだ。もちろん田畑も牛馬もすっかり流された。  地主の防空班長の云うことには、このあたりは毎年のように潮害がある。班長のうちでは潮害のあるたびに小作人に三年免租にしているので、このあたりの田で反九斗の年貢《ねんぐ》を貰《もら》う年は殆どないそうである。  演習は飛行学校の生徒が爆弾投下をして、班長の指揮でみな駈けつけて行く演習であった。  夜の一時ころ「ごめんなして、ごめんなして」と表に声がするので起きて出た。見ると飲んべえの作さんところのおかみさんが——この女は栄養不良で青んぶくれの三十七八の女だが、六つくらいの目の大きな女の子の手をひいて乳呑児《ちのみご》を負ぶり「うちの飲んべえが、また酔うて、海苔《の り》で五円儲《もう》けた金で遊廓《ゆうかく》へ行くと云うて、いま隣の役場の電話を借りとりますけん、旦那はん叱《しか》って下され。あの五円つかわれたら、みんな食わんとおらにゃなりませんのや」と云う。「よし、行ったろう」と寝間着のまま隣の役場へ行ってみると、はたして飲んべえの作さんが土間に立っていて、宿直の温帯さんが電話をかけようとして帳面をくっていた。「温帯さん、電話をかけるの待った。これが、いまから遊びに行こうとするのやから、やってはいかんのじゃ」と云うと、温帯さんは「そうですか、飲んべえさんは子供が病気で医者むかえに行くと云うたが、嘘ですかい。飲んべえさん、またかいな、あきまへんな」と云うと、酔って真赤になっていた飲んべえは、私の方を見て目を見張った。「飲んべえ君、家内や子供のことを考えなあかんよ。それに、もうおそいんだし、帰って寝なさい」と云うと「へい、こいつ旦那に頼みに行きましたかい。困るなあ」と云って頭をかいた。「おかみさんは、一家のため君の身のためを思うとるのや。深酒は毒ですけんなあ」と云うと「そんなら、もう寝ます」と云ったが、おかみさんを睨《にら》みつけ「お前、つまらんこと云うて、旦那に迷惑かけるもんじゃない」と云った。おかみさんは「私が云うたとて、お前はん、すこしもきかんじゃもん」と云った。「まあ、ええ。もう往《い》んで寝なはれ」と温帯さんが云ったので、飲んべえ夫婦は帰って行った。  飲んべえは実に小心な男だが、酒が好きで女が好きで仕事が嫌《きら》いなのである。家には何の家具もなく、商売は魚屋をしているが穢《きたな》いのでちっとも売れず、このごろでは仲仕をしたり海苔の運搬人をしたりして酒手を稼いでいる。  一月九日  今日は妙な喧嘩があった。床屋の前に人だかりがしているので行って見ると、青物の運搬人と年とった百姓が争っていた。  運搬人は片目で、片足も不自由な男である。半纏《はんてん》に股引《ももひき》をはいた背のひくい三十くらいの年恰好《としかつこう》で、きたない手拭《てぬぐい》で頬《ほお》かむりをしていたが、この男は青物仲買人の手下で町の市場へ青果を運ぶのが商売である。大八車に大根が山と積んであった。  年よりの百姓は野良着《のらぎ》で、車の手木を掴《つか》んで争っていた。事情をたずねると「この片輪に籠《かご》を貸したが返さんので、いまこの車にあるのがそうだけん、返してくれと云うたが返さんのじゃもん。儂《わし》も明日は市場に行くのに籠がいるけんど、このやつに貸したが最後のすけ、戻りがないんで」と云う。運搬人にきくと「返さんとは云わんが、いま大根を積んどるけに、後《あと》から持ってくと云うたとて、きかんのじゃ」と云う。百姓は「じゃから畚《ふご》を持って来るけん、積みかえたると云うてもきかんのじゃ」と云った。片意地同士の喧嘩である。  百姓は一歩も車を動かさぬと云い、片輪は動かすと云う。 「君、借りたものは返したらええじゃないか」「いいえ、返せませんわい」「そりゃ無茶じゃ、返したれ」「返さぬ」と云う。  そこへ床屋の小万さんが割りこんで「君も身体が不自由だし、駐在が、あないに云いなるけん、返してやったらどうや」と云った。片輪は威張り出して「身体と籠と、何の関係があるか」と云って梃子《てこ》でも動かない。人だかりはますます増《ふ》えて来る。それで私が「返してやりたまえ」と強く云うと「なにを」と云って、いきなり天びんで私に打ってかかった。油断していたので、一つ肩を行かれた。小万さんが「この野郎、駐在に何すんのじゃ」と天びんを取りあげると、片輪は狂乱して石を持ったので、とりおさえてバスで本署へ連れて行った。  帰って来てから一時間ほどして、運搬人の親方が来て「さきほどは、野郎がとんだことをしました」と謝《あやま》り「このごろ野郎は神経痛で、手、足、目がひきつり、この寒さで頭がのぼしとるのですけん」と云った。「何じゃあ、気違い組か。そんなら、連れて行くんじゃなかったわい」と私は頭をかいた。それに小万さんも百姓も来て「まあ親方に、あずからしてあげて下され」と云うので「そんならよかろう。さっそく手続をしよう」と私は承諾した。  今日は非常に寒かった。  麦の二寸ばかり伸びた畝《うね》に、藁《わら》をかけている百姓があった。私の足の霜焼はだんだんひろがって来る一方だ。西の山の峰は雪で白くなっている。  役場の庭は日当りがいい。女の子が集まって遊戯をしていたが、ちょっと古風なものであった。二人が手をのばして門をつくり「通れ通れ山ぶし、お通りなされ山ぶし」と云うと、四人の女の子が手をつないで、手の門をくぐって周《まわ》って行く。四人組は口をそろえて、「ここ何本目」ときく。二人組は「十三本目」と答える。そのとき四人組は立ちどまって、二人組と問答を開始する。  四人——ここはどこらの細道じゃ。  二人——天神様の細道じゃ。  四人——ちょっと通して下さんせ。  二人——御用のないもの通しゃせぬ。  四人——この子の七つのお祝いに、お札を納めに参ります。  二人——行きはよいよい、帰りは怖《こわ》い。  そして二人組が手を開いて対面して立つと、その間を四人組が一人ずつ走りぬけ、二人組の手で背中をたたかれたものが鬼になる遊びである。  今日は片輪と百姓の争いで私は気色を悪くしていたが、子供の遊戯を見て何となくほのぼのしたものを感じ得た。    学生決闘の件と祝出征軍人の件  一月十八日  送り正月が終ってまだ間もないのに、一昨日、町では中学生同士の決闘騒ぎがあった。原因は昨年の秋季対校野球試合にその端《たん》を発し、西海中学の生徒が盈進《えいしん》中学の生徒を生意気だといい、盈進中学生は西海中学生を生意気だというにあった。  昨年の十一月以来この二つの学校の生徒たちは、相手の帽子のマークさえ見れば互に撲《なぐ》りあっていた。学校の行き帰りでも、日曜に法事へ行った帰りに姉さんといっしょに歩いていても相手のマークを見れば撲りあう。下級生は相手校の大きい凄《すご》い生徒に撲られるのが怖いので、登校するにも、同じ学校の大きい生徒と団体になっていた。今度の決闘は、西海中学の下級生が盈進中学の上級生に撲られることがあまり度重《たびかさ》なり、西海中学の上級生のグループが盈進中学生に挑戦したのである。 (場所は西芝居裏の河原、時間は午後九時を期して)  双方が出会うと、何の挨拶《あいさつ》もなくやにわに撲りあいになった。盈進校の主将は柔道二段で、西海校の主将は初段である。双方とも大将と副将を置き、陣立を、先陣、中堅、次陣と設け、互に押しよせてラグビーのように入り乱れて組打ちになった。河原だから人が来る心配がない。みんな力のかぎり、へとへとになるまで闘った。初め西海校の側が有利に思われたが、盈進校に応援の新手が加わったので、西海校の者は主将をすてぽかぽか撲られながら逃げ去った。主将はもはやこれまでと断念して、やはり敵の主将や副将に撲られながら逃げだしたが、あまり追及が急なため、ついポケットのジャックナイフを掴んだのがいけなかった。彼は組みしかれながら敵の副将の腕を刺したので、きゃッと叫んで手負《ておい》が身を引いた。血糊の感触は人間の判断力を麻痺《まひ》させる。彼は何の考えもなく、暗くて相手方が気のつかないのを幸いに敵の主将の胸を深く刺し上げて、ひるむ隙《すき》に一散に逃げ出した。家に帰ると、ナイフや手が血まみれで上着に血糊がついていた。彼は自分のやった罪が大きすぎたのを自覚して、不安になって泣きだした。  やられた方は河原にへたばって呻《うめ》いていたが、傷は案外に深く致命傷となっていた。それを子分の学生が附近の医者へ担《かつ》ぎ込んで医者の騒ぎとなり、当局の騒ぎとなり、町じゅうセンセイションをまき起してしまった。  殺意があったとは思われぬが、相手が致命傷であってみれば中学生といえども放置できないのである。学校当局は勿論《もちろん》のこと警察当局でも由々《ゆゆ》しき問題として、本署の命令で私は町へ不良中学生狩に出張した。元来、私は学生狩という言葉を好かないが、謂《い》わゆる不良中学生は東京の大学生の真似《まね》をして喫茶店に出入し、飲酒喫煙し、女学生と随意の場所で愚行を演じている。それを咎《とが》めるのは野蛮だと、本署へ横槍《よこやり》を入れて来た帰省中の某大学生があったという。万一、こういう大学生や中学生ばかりが田舎《いなか》にいたら、一箇年で野も山も枯死してしまうだろう。  私は同僚の警官十名と刑事四名と協力し、一晩のうちに実に三十九名の不良学生を狩りだした。そのうち数箇所のカフエで飲酒していた中学生の合計十七名と、女学生三名、公園で喫煙していた中学生二名と女学生二名、理由なく旅館に投宿中の中学生一名と女学生一名、その他である。学校当局たちにこの統計を示したが、彼等は口をそろえて全国にも珍しい不祥事だと嘆いていた。  学務課ならびに学校当局は、決闘事件に関して世間に声明書を発表した。決闘に関係した学生や、喫煙、飲酒、投宿等の中学生は、みな成績劣等で良家の子弟のものが多かった。それは良家の主婦が絶えず家を明け、裁縫学校の視察や子供教育の座談会や社交のため、殆ど自宅の子女を善導する余裕がないためだという。退校するもの転校するものの数は、四十名に達する見込だということである。  町の学生にくらべると、この村から通学している中学生たちは割合まだ子供っぽい。西海校と盈進校がいっしょに空気銃で小鳥を撃ちに出かけたり、いっしょに出征兵を見送ったり、出征兵の留守宅の野良を手伝ったり、なかには心を緊張させたあまり、急に冷水浴を始めて風邪《か ぜ》をひいたりしているものもある。  一月十九日  朝から雨であった。トタン屋根だから雨の音がぱらぱらと頭にひびく。  私は服を着て眼光寺の眼界師を訪《たず》ねた。この村にはお寺はこの寺一つしかない。眼光寺の由来たるや、元亀天正の乱世のころ眼光という偉いお坊さんが、土民を慈悲の心に導くため建立《こんりゆう》したという。現住職の眼界師は十七代目だということで、年は四十くらいだが頭がすっぽり禿《は》げて鶴《つる》のごとき痩躯《そうく》である。  眼界師は禅の塾を開き新しく修養道場を建築しているが、弟子《でし》はまだ一人もない。今日《きよう》、私が眼界師に「中学生を大勢検挙したわしは、罪が深いのやろうな」とたずねると、眼界師は言下に「そりゃ、罪が深いなあ」とおどかした。「職務とはいえ、大勢の若うどを検挙して、後口が悪いのや」と打ちあけると「若うど。けったいな言葉をつかうなあ」と眼界師は一笑に附した。それで「一つ禅に入門して、わしもじっくり落ちついたろか」と云うと「禅の入門者は、五百人のうち一人くらいしか完成せぬ。先《ま》ず止《や》めたがよかろう」と云う。中途半端《はんぱ》で止《よ》したら人間が強情になるだけで、強情なのもわるくはないが、自分で気難《きむずか》し屋《や》なのは損だろうと云う。毎朝二時に起きて座禅を組み、朝夕お経をとなえ、メリヤスのズボンなど絶対にはかせぬと云う。食事は麦二斗に米一升の割合で、おかずは大根葉の漬物《つけもの》だけ食わせ、問答が駄目なときは棒でなぐると云う。「そりゃいかん、わしは入門せぬ」と云うと「そうか、よく悟った」と讃《ほ》めてくれ「それでこそ、どこか見込がありそうじゃ。では、恰好《かつこう》だけ手ほどきしてやろうか」と眼界師は座禅の組みかたを伝授してくれた。「座禅は、初め静坐して、吸う息、吐く息が合致せぬといかぬ。目は三尺の前方を見て、足をこうして組み、手はこうして組み……」と型を示して説明してくれたが、何ごとにつけても劣等生で甘んじる私は、その初歩さえも真似《まね》るのが困難で、いかにも禅というものは面倒だと思った。  眼光寺の隣に、平本平太先生が住んでいる。平太先生は柔道家で、その祖先もやはりこの土地の水手《か こ》たちに柔《やわら》を教えていた先生で、殿の御師範役をつとめて知行《ちぎよう》百石を賜わっていたそうである。  平太先生の柔道は古雅な御家流で、先生はたいへん強い。最近まで東京の中学校の柔道の先生をしていたが、今ではそれを止して、謂《い》わば帰山して祖先からの門構えの屋敷内に柔道場を建て、傍《かたわ》ら骨つぎを開業している。初めは村の青年少年が柔道を習いにたくさん入門していたが、先生の教えかたがはげしいので一人も来なくなった。柔道場には蜘蛛《く も》が巣を張り窓は埃《ほこり》だらけになっているが、先生は一向に平気である。私はときどきその蜘蛛の巣だらけの道場で、先生に一と揉《も》み揉んでいただくが、なかなか立っている間もないほど矢つぎばやに投げとばされ、いつも先生のすばらしい術には驚嘆させられる。  先生は稽古《けいこ》熱心で「今日はきついぞ」と云われるときには、私は目もあてられない。「どうぞお手柔らかに」と頼まざるを得ないのだが、先生は笑いながら私を投げとばし、私がくたくたに疲れて気絶する一歩手前まで行かないと許してくれないのである。稽古がすむと先生は私と共に井戸端《いどばた》で汗を拭《ぬぐ》い、見はらしのよい離れに私を導いて玉露を御馳走してくれる。なんともいえぬ爽《さわ》やかな味と香のお茶である。いつも私は、しみじみと目を閉じてそれを飲み、目をあけて美しいお茶の色を見て楽しむ。  今日は、先生の長男の出征を送る会が柔道場で開かれた。私も案内を受けていたので眼界師といっしょに出席した。眼界師は平太先生と竹馬の友で、碁仇《ごがたき》である。  平太先生の長男は軍服をつけていた。出席者は村会議員、分会長、村内会長、校長、地主、防護団長、眼界師、それから私を加えて二十人あまりの顔ぶれであった。道場の片隅《かたすみ》に四斗樽《だる》の薦被《こもかぶ》りが置いてあった。宴会が始まると有志の型通りの挨拶《あいさつ》があった後、みんな膝《ひざ》をくずして大いに飲み大いに談じ、徳利を運ぶのが間にあわないほど賑《にぎ》やかに飲んだ。平太先生は日ごろ二升や三升は冷やで飲めるので、そんなに酔ってもいなかったが、眼界師はすでに酩酊《めいてい》して主賓の長男君に酒をつぎ、低声に漢詩を口ずさんだ。私はその詩を初めて聞いたので、「珍しい詩やなあ、覚えさして下され」と私の帳面へ眼界師に鉛筆で書いてもらった。 絶域 陽関の道 胡煙《こえん》と塞塵《さいじん》と 三春 時に雁《がん》あり 万里 行人《こうじん》まれなり 苜蓿《もくしゆく》 天馬に随《したが》い 葡萄《ぶどう》 漢臣を逐《お》う まさに外国をして懼《おそ》れしむべく 敢《あえ》て和親をもとめざれ  何だか新しい詩のように思われたので「誰が作ったのや、眼界さんの作ったのやろう」とたずねると、眼界師は目をまるくして「わあ違う。昔、唐の王維という人が作ったのや。王維、字《あざな》は摩詰《まきつ》、太原《たいげん》の人。いま日本軍が入城して、日本人の工場もあるそうな太原の人じゃ。この人は、詩を賦して楽みとなし、孤居三十年に及んだといわれ、人を送別する詩をたくさんつくっとる。秘書晁監《ちようかん》、阿倍仲麿《あべのなかまろ》が日本に還《かえ》るを送るという詩もつくっとる」と眼界師は説明し「そうじゃ、この絶域陽関の詩も、劉司直《りゆうしちよく》が安西《あんせい》に赴《おもむ》くを送った詩じゃ。西のかた陽関を出ずれば故人なからん。あの陽関の道、絶域に赴く人を送る詩じゃ。いま長男君を送る儂《わし》の心そっくり、云うてあるようじゃ」と云った。  防護団長は眼界師に「一つ詩を歌って下され、いや、どうか舞って下され」と頼み、平太先生は伝来の宝刀だという日本刀を持って来て、眼界師の前に置き「眼界さん、伜《せがれ》のためにどうか一つ願います」と云った。「じゃ、一つやろう」と眼界師は刀をさして、自分で歌い自分で舞いはじめた。甚《はなは》だ酔ってはいたが「丁男意気大軒昂《けんこう》」と力こぶを入れ姿を正して立ち、左右の足を二歩ずつ進め、意気のあがったごとく右手の拳骨《げんこつ》で「えいッ」と左の腕を打ち「応召欣然《きんぜん》出家郷」と歌い、ちょっと頭を下げて後を振向き、小手をかざして村に名残《な ご》りをつげる恰好をした。このときちょっと拍手があったので、眼界師は気をよくして声を張りあげた。「臨別不為児女泣」と歌い、後向きの恰好から徐々に前向きの姿に変えて行き、左右に婦女子の近寄るのを払いのける仕種《しぐさ》を見せ「笑云一死報吾皇」と破顔一笑して、そのとき初めて腰の刀をぬき、腰を卸し右手を高く差上げて、頭を下げて倒れてしまった。見物していた一同は「御苦労さん、御苦労さん」と手をたたいて喜んだ。  宴会は賑やかに夕方まで続いた。  会が終ると一同は、長男君万歳万歳と云いながら長男君を門口に送り出した。それから町へ行く村境の駅まで一同見送ったが、私は可《か》なり酔っていたので家へ帰って寝た。ところが夜半になって平太先生の奥さんが駈《か》けつけて来て「おっとが、いけません」と云うので私はとび起きた。聞くと「おっとが、門のところの路《みち》に倒れました。早く来て下さい」と云うのである。「そりゃ、大変です」と私は駈けだしたが、私が駈けつけたとき、平太先生は寒いのに門前の路にうつむいて呻《うめ》いていた。「どうしたんですか」ときくと「うむ、うむ」と呻き、抱きあげようとすると頭を横に振り、抱きあげないでくれという素振を見せた。奥さんも後《あと》から駈けつけて来て「おっとは、今日の酒で心臓麻痺を起しかけて、路へ出て寝ると云うて出て来ました」と云う。「路に寝てはいけないでしょう」と近所の人を起し、大急ぎで医者に来てもらった。  医者は聴診器で胸を見ると注射をして「やっぱり路に寝とってはいけないですなあ」と云ったので、私たちは平太先生を家のなかへ運び込んだ。医者の診断では「よく、こいで助かったもんですなあ。すでに心臓がとまりかけとったですよ。やっぱり気が丈夫やけん、だいたい助かるやろう」ということで、もう一度聴診器で胸を見てから医者は帰った。  間もなく先生は目を開き、私たちの顔を珍しそうに見て「伜を送ってから冷酒を飲んだ。それが、いけなかったなあ」と云った。暫《しばら》く間を置いて「冷酒を飲みすぎたけに、心臓に来て、膝《ひざ》から下が無感覚になった。舌がしびれて、目が見えなくなった。こいじゃいかん、と往来に出て寝たのがよかったのだ。あとはわからん」と云った。どうも剛気な先生である。  平太先生はもすこし節酒なされば長命されるだろう。長命されなくてはいけない人物である。平太先生の骨つぎはすこし手荒らだという評判だが、なかなか上手《じようず》で患者の恢復《かいふく》が早いのである。いつか沖仲仕が積荷の力くらべをしていて重い荷物の下敷きになり、首を折ったとき私は立ちあったが、平太先生は仔細《しさい》に診察した後で「これゃ駄目じゃ」と云った。「首から下の神経が、すっかり死んでいる」と云った。そのとき首から上だけ生きていた沖仲仕は、彼の女房や私たちに「このたびは、いろいろお世話になりました」と礼を云いながら死んでしまった。平太先生はその患者を死なせただけで、他は重傷のものでもみな恢復させている。学校の寒稽古で腕をはずした学生や、木から落ちて足を折った少年や、腰の抜けた沖仲仕や、ずいぶん怪我人《けがにん》も多いものだと呆《あき》れるが、たいてい先生は日に平均一人か二人の割合で怪我人を助けている。先生は怪我人が担《かつ》ぎ込まれて来ると一応診察して、繃帯《ほうたい》巻きの小車をがらがら廻《まわ》して繃帯のしわを伸ばし、酸《す》のなかに青いどろどろの液体の薬を調合してかきまわす。そうすると奥さんが助手になって湿布の湯を沸し、タオルをしぼったり繃帯巻きを手伝ったり、怪我人に衣類を着せかけたりする。このごろ先生は、繃帯がスフ入りで弱くて困るとこぼしていた。    大田黒氏、失態の件  一月二十八日  晩の食事にとりかかろうとしていると、隣の役場へ呼出し電話がかかって来た。何か重大事件が起ったらしいので、直ぐに私服で来いということであった。とにかく夕飯だけは腹いっぱいに食べ、懐中電燈、捕縄《ほじよう》、棒、その他を用意して、マスク、軍帽、オーバーを身につけて自転車で隣村の駐在所へ駈けつけると、早くも仲間が三人そろって私を待っていた。命令をきくと、隣の区内に殺人未遂があり、犯人は大工の弟子二十一歳、ジャンパーを着て茶色のズボンにズックの靴、丸顔、五尺三寸ぐらい、兇器《きようき》は町の金物屋で求めた刺身庖丁《ぼうちよう》、主人の大工夫婦が食事中のところへ闖入《ちんにゆう》して、妻女を背後から一と刺しにして、驚いて立ちあがった主人を滅多斬《めつたぎ》りにして逃げたという。主人夫婦は重傷だが生命に別条はないそうだ。逃げた犯人を捕えるため直ちに街道に張れ、という命令であった。「はい」と答えて現場の役場前十字路に駈けつけると、そこに相棒の山本君がマントを頭からかぶって電柱の根にしゃがんでいた。  山本君は柔道二段の腕前で、五尺七寸、十九貫、口髭《くちひげ》をはやしている。私より二つ年上だが、血気さかんで頼もしい相棒である。「おい頼むぞ」「よし来た、しっかりやろうぜ」「兇器を持ってるちゅうぞ」「ええとも、来たらええのになあ」と話しながら、私も電柱のかげに身をひそめた。「君は、夕飯を食って来たか」とたずねると、山本君は「ここにパンを持っとる、君も食わんか」と云ってポケットからパンをとり出した。私は鱈腹《たらふく》たべて来たからパンの必要がなかった。いったい非常警戒の場合には、私たちは漫《みだ》りに雑談してはいけないことになっている。犯罪捜査規定第三章、警戒第十五条によると、警戒はこれを二種となし、犯罪発生の場合に犯人逮捕の目的をもって行うを非常警戒となし、その他の目的をもって随時行うを臨時警戒となす。前項の警戒は検索張込密行の方法によりこれを行うものとす、という規定である。その第二十五条には警戒従事者の注意事項が種々あって、その注意にもとづいて、私たちは喫煙をせず、談話を漫りにせず、粉骨砕身、職務に奮闘しなければならないのである。物を食べるのもよくないだろう。そのためか、山本君は出したパンをまたポケットに引っこめた。  まだ宵の口で人通りが多かった。たいていは日稼人《ひかせぎにん》の帰路につくもので、こうやって一人ずつ通行人を見ていると、あまり遊んでいるものはないらしい。怠け者のようにぶらぶら歩く胡乱《うろん》な者を呼びとめたら、一人は鉄道員で、もう一人は月給をもらいたての工場の事務員であった。寒い風が吹きぬけて、バスが走り、自転車、荷車が通り、通行の男女の容貌《ようぼう》服装もさまざまで、私たちの仕事は困難であった。  山本君の駐在は直ぐ近くにある。山本君はマントの下に寝んねこを着て角力《すもう》のように着ぶくれになっていた。彼には六つになる男の子と、三つになる女の子がいる。つまり女の子の寝んねこを着て来たのだ。  三時間あまりたったころ山本君の奥さんが駈けつけて来た。いま電話で犯人が他の場所でつかまった、と本署から知らせて来たそうである。「駄目だなあ。他の連中にいかれてしもうた。まず一服するか」山本君は私を促して駐在へ帰って行き、電話で本署の交換に問いあわせた。犯人は、あれから二里も三里もある実家に帰って叔父を斬《き》りつけたが、叔父を桑畑に追い込んでいるところへ通りかかった追跡隊の刑事や巡査に包囲され、可なり格闘した末に捕《つか》まったという。兇行《きようこう》の原因は、犯人は大工の弟子で年季が明けているにもかかわらず、大工夫婦は道具もまだ買ってくれないし、妻女の素行が常にだらしないところから、大工夫婦と犯人の間には喧嘩《けんか》が絶えなかった。それを恨みに思って兇行を演じたものらしい。犯人の叔父は、職がなくて犯人の実家にころげ込み、犯人が母親に送る月々の金を横取りしていたので、その恨みで前々からやるつもりでいたということである。怨恨《えんこん》による計画的犯行に属し、可なり重罪の犯行である。「惜しいことをしたなあ、こっちへ来ぬなんて」と山本君は口惜しそうに云った。山本君の奥さんは山本君の脱いだ寝んねこで女の子を負ぶり「寒いのにお疲れでしょう、お茶でも入れますけに」と台所へ立って、用意してあったお茶とお菓子を持って来た。熱いお茶が喉《のど》に焦げつくようで甚だ美味であった。私と山本君が何ばいも何ばいもお代りをしているうちに、女の子が睡《ねむ》いと云って泣き出したので私は帰って来た。  私は豆タンを炬燵《こたつ》に入れて手足を暖めた。腹の底まで冷えきっていたようだが、だんだんに暖まって来るうちに睡くなった。お茶を一ぱい飲んで寝たいと思ったが、わざわざ自分でお茶の支度《したく》にとりかかるのと、このまま眠るのといずれが本懐だろうと妙に贅沢《ぜいたく》なことを考えているうちに、そのまま炬燵にもたれて眠ってしまった。  厳《きび》しい寒さというものは、厳しい暑さと同じように、人間を疲れさしてしまう。私はぐっすり眠った。午前二時頃だったと思う。「甲田さん、起きて下さい」と呼ぶ声に目をさまし「誰だな」ときくと「私です」と返事をした。豆タンの炬燵からとび出して行くと、顔見知りの町の運転手さんがさんざんな姿で立っていた。オーバーは片方の袖《そで》をもぎとられ、眼鏡は硝子《ガラス》が二つともなくなって、顔は血をにじませて腫《は》れあがっている。泣きそうな顔で気息奄々《えんえん》としていたので「どうした、さんざんな姿じゃないか」と云うと「全く、さんざんです。私はこんなに敗北したことおまへんよ」と云った。  事情をきくと「今夜、町のお茶屋からこの村の大田黒さんを送って来たのですが、大田黒さんは酔っておって金を払わんのです。家まで来うと云いますけに、行くと、奥さんが戸をあけて、大田黒さんと奥さんは私を家のなかに入れて戸をしめた上、お前なんかに金が払えるかと云うのです。私は大田黒さんに胸をとられ、二階から雇人が二人おりて来て三人になぐられよったけに、なぐられながら手を後へまわし、硝子戸の錠を外《はず》して逃げて来たんや」と云う。「そりゃいけんな、じゃあ行ったろう」と運ちゃんの自動車に乗せてもらい大田黒さんの家に駈けつけた。表には硝子のかけらが散らばって、硝子戸の錠はしまっていたが、家のなかで人の話し声がした。それで「今晩は今晩は」と戸をたたくと、まず酔っている大田黒さんが戸をあけて、私を見るやいなや「この夜更《よふ》けに何ごとだ。馬鹿にするねえ、駐在がなんだ」と敦圉《いきま》いて、私の胸ぐらをとろうとした。私が身をかわすと、大田黒さんは私に向って飛びかかった。明らかに不法である。私は身をかわそうとしたが、間に合わなかった。大田黒さんはまた飛びかかって来た。今度はうまく外し、庭鳥《にわとり》のようにばたばたするのを手錠を入れ、二人の雇人も呼び起していっしょに自動車に乗せた。大田黒さんの奥さんは「何で宅が連れて行かれにゃならんのです」とえらい剣幕で喰《く》ってかかった。阿呆《あほ》らしいので「今夜の責任は奥さんですぞ。奥さんが旦那さんの乱暴をとめて賃金を払いさえすりゃ、問題はなかったのですぞ。それを内側から戸をしめて旦那さんに擲《なぐ》らすとは、もっての外《ほか》です。だから、旦那さんが深酒を飲むのです」と注意を与えると、奥さんは横車を押しとおせないと観念して黙ってしまった。「いずれ明日解決します」と乱暴者を本署へ連れて行くことにした。この非常時にガソリンを濫用《らんよう》し、無辜《むこ》の同胞や警官を打擲《ちようちやく》した罪は決して軽くないのである。  運転手は眼鏡のたまを毀《こわ》されて、どうも見通しがきかなくてハンドルが危ないと云った。「近眼は何度や」ときくと「六度ですわ」と答えるので、本署に行くまで私の七度の眼鏡で間に合わしてもらった。大田黒さんは本署に行くと忽《たちま》ち手の平をかえしたようにおとなしくなって「乱酔して、わからなかったのやけに……」と頭をかいた。「しかし運ちゃんが可哀想ですけに、大勢でやったとなると、暴力行為になりますけになあ」と云うと「どうも、どうも」と云った。運ちゃんにきくと「眼鏡代と運賃をもらえばよいですけに」と折れたので、加害者に支弁さすことにした。  大田黒さんは職人も相当につかって平素は仕事に精を出す温和な人物だが、同僚の話では、この人は酔うと全く手に負えぬ乱暴者になって、酒癖の悪い人として町の花柳界でもよく知られているそうである。「こんな時節だけに、十分しまってもらわぬと困りますね」と云うと「へい」と答えて青菜に塩のように悄気《しよげ》てしまった。わずか二時間がこんなに作用するとは意外であった。腑《ふ》に落ちないのは雇人で、主人がやられていると感ちがいして、主人の危急を助けるために運転手をぽかぽか擲ったという。しかし運ちゃんは、大田黒さんの拳骨はあまり痛くなかったが、雇人のぽかぽかは一撃ごとに脳天までこたえたと恨めしそうな顔をした。雇人はまだ悪いことをしたという自覚を持てなくて、あくまで主人の危急を助けたつもりか意気揚々としていた。それは彼等《ら》の主人に対する無条件な服従心も手伝っているだろうが、心の底に何となく抱《いだ》いている警官に対する反抗の気持も手伝っていたのにちがいない。上司に伺うと「初めてだけに、たいていにしとけ」と云われたので、たいていにして済ますことにした。  大田黒さんは私の同僚たちの見ている前で始末書を書いた。「国家非常時の際、同国人を打擲し、酒の上とは申せ警官に楯《たて》ついた罪は軽からず、今後は一家団欒《だんらん》いたしたく……」という詫証文《わびじようもん》である。  ——私は夜明け近くなって家に帰って来た。    松原の捕物《とりもの》の件  一月二十九日  悪いことは重なって起るものである。或《あるい》は人心が荒《すさ》んで来ているのではないかと、憂慮されるふしがある。私は昨日の夜ふかしでまだ睡《ねむ》かったが戸籍調べの整理をして、このごろ入りこんで来た飛行場埋立の人夫の身許調《みもとしら》べを照会し、それから統計物に線を入れていると午後の二時になった。ところが、これから昼食を炊《た》こうと思っていると、切通しの向うの松原の次蔵さんのおかみさんが血相かえてとびこんで来た。「どうしたんか、きっそう変えて……」と私が驚くと、おかみさんは一と息に「へい、わたしんとこは親類に不幸があってからに、町の方へ行っとったんですが、いま帰って来たら、戸を締めた家のなかで大鼾《おおいびき》の声がしますけに、きっと泥てきやろうと思いますけに、早う来て下され」と云った。「いま時分、泥てきやと。そりゃ、よっぽど周章《あ わ》てた奴《やつ》じゃな。行ったるけに待っとれ」と私は書類の山を片づけて、腰に剣をつけた。いつの間に聞き知ったのか、青年訓練生が十人あまり一隊をなして駈《か》けつけて来て「手伝いますけに」と云った。「いや、青訓生に怪我《けが》があってはすまん」と断ったが、元気いっぱいの若い衆のことで、いっかな後《あと》へ退《ひ》かないので、消防の一人を控えに連れて行くことにした。その後から青年訓練生がぞろぞろとついて来た。野良《のら》で肥料をほどこしていた人たちも、仕事をうっちゃらかしにしてついて来た。  次蔵さんの家は海岸の人通りのすくない松原のなかにある。半農半漁を家業としている貧しそうな平屋の家で、どう見ても金のありそうな家には見えないので、たぶんコソ泥だろうと見当つけた。松原は海を背景にして長くつづいている。切通しをおりて行くと松籟《しようらい》がきこえ、磯《いそ》のかおりが立ちこめている。私は元気を出して次蔵さんの家の戸口に近づいたが、ついて来た人たちは、いざとなると余り近寄らないで遠まきに家をとりまいた。「逃げだしたら、頼むぞ」と私は青年訓練生に後事を依頼して、消防と二人で戸口から家のなかを窺《うかが》った。耳をすますと、なかで呑気《のんき》そうな鼾声がする。消防は六尺棒を持ちなおし、緊張した顔に血走ったまなこを見せていた。  消防は裏口にまわり、青年訓練生と農夫と漁師は、完全に家をとりまいていた。私は胸のときめきを禁じ得なかった。静かに静かに戸をあけた。私は土間に足を踏み入れると、目が暗がりに馴《な》れるのを待った。表四畳に荷物の包みが見え、賊の鼾は奥の茶の間からきこえて来た。のぞくと頬《ほお》かむりをした顔が畳の上に見え、もすこしのぞくとハッピを着て大の字になっている胴体が見え、股引《ももひき》をはき地下足袋《た び》をはいている足が見えた。労働者風の年のころ三十五六と思われる大男で、左手を枕《まくら》にして、その枕元に一升瓶《びん》の酒が殆《ほとん》どなくなったのを置いている。この野郎、酒に目のない意地きたない奴で、おきまり通り寝すごしたものに違いないが、何と泰平な奴だろうと呆《あき》れ返った。私は賊にそっと近寄って、がちゃりとその右手首に手錠をはめた。その途端《とたん》、賊は目をさまして私の顔を見ていたが、いきなり猛然と立ちあがって私に組みついて来た。しかし、もう遅い。私の背負い投げが十分に物を云って、賊は仰向けざまにひっくりかえった。私の背負い投げは、平太先生も折紙をつけているのである。私は賊を四回か五回か投げつけた。賊はもうかなわぬと思ったか、私の向臑《むこうずね》に噛《か》みついて来た。その背筋を掴《つか》み上げ、思いきってアッパーカットを喰《く》らわした。賊はへろへろと崩《くず》れ、私の術中に陥ち入ってしまった。  消防は表口にまわって見物していたが、安心して「やった、やった」と青年訓練生たちを呼び集めた。私は賊を高手小手にしばり上げ、意気揚々と家の外に出た。  漁師や農夫は見世物を見るように喜んで、わいわいと騒ぎながら後からついて来た。賊は「酒を飲んだのが不覚やった」と口惜しがって、後からぞろぞろついて来る人たちを睨《にら》みつけ「そんなに俺《おれ》を見て騒ぐなら、いまに村全体に赤馬を放つぞ」とおどかした。みんな薄気味悪がって口をつぐんだが、こんな横着者に勝手な口をきかす法はない。「へらず口を云うな、黙っておれ」と私がたしなめると「へい」と答え「しかし殺生《せつしよう》や、極楽浄土にいた奴をつかまえるのは一ばん罪や」と私を恨むので「お前なんかに極楽浄土はわからん」と云うと「それもそうやなあ」と素直に受け答えた。  本署に連行して柔道場でしらべると、案外はっきりと所業を白状し「土地不案内なところで、仕事をしたのが間違いや」と云った。前科四犯もある男で、他にも余罪が可なりあった。私たちが一ぷくしていると、そこへ古賀刑事がはいって来て「おや、また来たのか」と犯人の顔を見て「今度は大分くらうぞ」と云った。  古賀刑事はこの犯人を二度も取調べたことがあるそうだ。「この犯人は、とても浪花《なにわ》節《ぶし》がうまかったよ」と古賀刑事が私たちに云うと、犯人は「よく覚えておられますなあ、では一つやりますさ」と坐りなおし、目を閉じて咳《せき》ばらいをした。そして声だめしの唸《うな》り声を徐々に高くして「さすが清水の次郎長は……」とやりだした。いったい私は、音曲のうちで浪花節が一ばん嫌《きら》いだが、この犯人にとっては浪花節も芸術なのだろう。大声を出すなと叱《しか》りたいのを我慢していると、犯人はいい気持そうに歌いつづけた。それは「急ぎも周章《あ わ》てもするじゃない、持ったさかずき、そっと置き、小膝《こひざ》たたいてにっこと笑うて、馬鹿は死ななきゃなおるまい……」と、そういう文句の浪花節であった。  古賀刑事は犯人に「みんな顔まけだ。お前の声はよい声かどうか知らんが、そんな大きな声が出せるのに、なぜ堅気にならんか」と云った。犯人は「へい、あっしはあまり上等でないので」と頭をかき「今度ばかりは酒がたたったのやけに、酒は止《や》めました。いつまでも若いときはないけんなあ、生れかわってみまひょう」と云った。「そうせいよ、それに限る」と私たちは口ぐちに云って柔道場を出た。  外勤の人たちが控室に七人も八人も来ていたので何ごとかと思って行ってみると、外勤から看守に来ているのであった。このごろ本署では悪徳政治家の大物を収容しているので、刑事がそれを調べている間、同僚たちは控室で待っていたわけである。元老と仇名《あだな》のある古参の柿崎《かきざき》君は「なぜ苦労して政治家になって、悪いことをするのやろう」と云った。それで私が「どうせ苦労する忍耐があるなら、埋立地の手伝いでもせんかなあ」と云っているところへ、交換君がやって来た。交換君はなかなかの流行歌手で、いつか流行歌を現地放送したこともあった。本格的に音楽の練習をしているので、この人なら出鱈目《でたらめ》を歌う心配はない。それで控室にいた仲間は余暇を利用して、われわれ警官の歌や軍隊の歌を交換君にコーチされていたのである。  柿崎君は譜の本をひろげ、交換君が黒板に譜を書くのを写しながら「どうも交換君のは本譜でよくわからん」と云った。柿崎君は家作持ちで、長男を大学に通わしている。もう一人白髪の上野山君は、地主で子供がたくさんある。この二人は普通ならもはや老人の部に入れられるが、若い仲間に打ちまじって行進歌を習得しようと大元気である。若い連中も譜を筆記して低い声で予習していたが、ただ彼等《ら》は和《なご》やかな一座に見えるだけで、ちっともうまく歌えない。一ばん年の若い池辺《いけべ》君が、筆記した歌詞を私のところに持って来て「学者君、この意味、何かね」とたずねたので、私は歌詞を見て「さあね、華北では三月に雪がとける。いろいろな春の花も咲く、平和が来たら楽しい家庭をつくろう、戦禍から救われる日が来るだろう、花が咲き幸福の日が来ます、という歌のようだ」と訳した。やがて交換君のタクトで、老人、鬚面《ひげづら》、太ったの、痩《や》せたの、いろいろの風采《ふうさい》の人が仲よく歌いだした。  帰りに書類を受取るため受附へ行くと、人事係の主任さんのところに三十前後の婦人が来て泣いていた。泣きながら云うので詳しくはわからなかったが、彼女の亭主を学問のある女が奪いとって返してくれないという訴えであった。営業係のところには、顔を真白に塗った若い女が鑑札を貰《もら》いに来て、係から種々の注意を受けていた。その傍にいた番頭は女にいろいろ助言して「よいか、よう聞いとくのやぞ」と力こぶを入れていた。    私娼《ししよう》と女給の件  二月十五日  一昨日あたりから往還の交通が急に頻繁《ひんぱん》になったように思われる。米や薪《まき》や野菜の運搬に活気を呈して来たのかもしれない。馬、荷馬車、リヤカア、トラックなど、数においては先月下旬から今月上旬ころまでの倍くらいも通行し、人通りも可なり多くなったように見受けられる。往還沿いに飲食店が多いのは、お金を受取った馬車輓《ひ》きとかトラックの運転手など、一ぱい飲みに立ち寄って金を落して行くためにちがいない。これらの飲食店は、たいてい家のなかにコンクリートの土間を設けて腰掛とがたがたするテーブルを置き、壁に貼《は》りつけた紙にウドン五銭、サケ十銭、ツキダシ三銭などと下手《へ た》くそに書き出している。サケといっても焼酎《しようちゆう》だが、それを飲む人は勝手にコップ一杯に手酌《てじやく》で注《つ》いで一といきに飲み、受皿にあふれた余滴をコップに注いで飲みほしている。  飲食店はたいてい女主人が経営しているが、彼女たちはおきまりのように誰かの情婦である。初めどこからか流れて来て、行きあたりばったり飲食店の仲居に住込んで、そのうち金使いの派手な男を金主にして新しく店を持ったという経歴のものばかりである。白粉《おしろい》をこてこてに塗り、スフの着物の下前を上げて着用し、安香水をにおわせ髪をちぢらせ、大きな足によごれた白足袋をはき、いつも口のなかに何かもぐもぐさせ、酔っぱらったり消毒液の臭気をぷんぷんさせたりしている手合である。いわゆるダルマである。椅子《いす》に腰をかけるにも男のように膝を重ね、或は首に黒い薄絹のショールを巻いて、バットをふかし、馬車輓きにしなだれかかって酒を飲んでいる。ときに流行歌をうたっているのは上機嫌《じようきげん》な証拠だが、あまり儲《もう》けはなさそうである。馬車輓きはそんな女にでも騙《だま》されて月末の勘定をみんな飲食や遊興に費《つか》いはたし、その挙句、女房とダルマとの間に胸ぐらを掴《つか》みあう喧嘩《けんか》騒ぎもある。  狂言に猫をちょっと嚥《の》んで騒がせるダルマもある。彼女等はみんな遊び好きで、男好きで、酒好きで、まるで火の玉のような女たちである。だからお遊びは着物の約束とか、おごってもらうくらいのところで手を打つようである。二日や三日の拘留をくらうことなど余興ほどにも思わない。科料をとられると、ネグラをかえる。たまに世帯《しよたい》を持っても、直《す》ぐ逆もどりである。  吉岡屋にはそういう女が四人も五人もいる。今日、その店のフーチンという女がショールとスフの新しい着物で盛装し、髪をきれいに撫《な》でつけた男といっしょに駐在へ来た。初め、入口を行ったり来たりして這入《はい》りにくそうにしていたが、こちらも知らん顔していると、とうとう思いきってフーチンの方が先に立ってはいって来た。「何しに来た」とたずねると、フーチンは「わて、この青年の人と結婚したいさかい、旦那《だんな》はん証人になってんか」と云った。「証人というのは、何のことや」ときくと「何のことか、そんな難《むずか》しいことは知らんけんど、わて、この青年の人と結婚するさかい、旦那はん証人になってんか」という。「青年の人ちゅうのは誰や」とたずねると「この人のことやけんど、わて、この人と結婚するさかい、証人になってんか」と云う。連れの青年は女の後に立って絶えずきょろきょろしていたが、こちらが「君の住所姓名は」とたずねると「私は、某市某町、何々謙一」と云って、そのまま興ざめしたように外の方に顔を向けてしまった。それで「謙一君、君はこの女と結婚するのか」とたずねると、青年は外を向いたまま「結婚します」と云った。「いつ結婚するのか」とたずねると、やはり青年は外を向いたまま「僕が成功してからです」と云う。「それなら結婚ではない許婚《いいなずけ》だ。年齢は何歳か」「二十一です」「早熟やなあ」と私は驚いて、今度は女に「お前の年は、なんぼや」ときくと「二十」と云った。「嘘《うそ》、いうな、二十五になったのやろう」と持ちかけると、女は洒々《しやあしやあ》として「そやそや」と云った。私は女に「ふざけるな」と云った。それから青年に「親父《おやじ》さんと相談して来たまえ」と云った。彼等はダルマ屋の居つづけ日和《びより》に退屈して、結婚願の口実で連れ立って散歩に出たものにちがいない。ダルマとお客の二人連れの散歩は堅く禁じられていて、もし見つかったらそのダルマ屋の経営者は拘留になる。  私は二人に「帰りたまえ」と云った。二人とも無表情の顔で出て行こうとしたが「ぶらぶらせずに帰れ」と云うと一礼して出て行った。どうも規則の裏をかかれては不愉快である。  午後から巡回に出て吉岡屋の前を通ったが、フーチンが雑巾《ぞうきん》で入口の硝子戸を拭《ふ》いていた。神奈川屋の入口では神奈川屋の亭主が大盥《おおだらい》に寒鮒《かんぶな》を入れ、それにバケツの水を何ばいもうつし込んでいた。「大きな鮒ですなあ」と立ちどまると「埋立地の地さきで捕えました。尺一寸はありますさかい」と鼻を高くした。私が暫《しばら》く立ちどまって鮒を見ていると、神奈川屋の亭主は愛想よく私に話しかけ、鮒の話から鯛《たい》の話に移り、鯛の話から鰻《うなぎ》の話に移り、それから鮒の話に戻った。「やあ、お邪魔しました」と云うと、亭主は「たしか、この鮒は尺一寸はありますさかいなあ」と云った。この神奈川屋のおやじは禿《は》げ頭で年は五十ぐらいだが、いつか風呂で見ると全身に大蛇《おろち》の入墨をして、その大蛇はとぐろを巻き鎌首《かまくび》をぐっと下に向けていた。「痛かったでしょう」とたずねると「若いとき、元気にまかせてやりましたわ」と背中にお湯をかけて「ちょっと熱を出したぐらいでしたけんど、このごろではときどきいたみますわ」と云った。極彩色の立派な入墨である。おやじは「わたいが大阪に出たときは十八であったさかいに、ずいぶん親を泣かせ、大阪のゴクドウにはいりましたけんど、実際、白刃の下を何度もこぐりましてん。ここは出入り中、竹槍《たけやり》でやられましてん」と太股《ふともも》の禿げた傷痕《きずあと》を見せ「それでも、しまいには親が泣きますので、惜しいところを帰りましたよ」と云った。割合、じっくりした感じの男である。  巡回の帰りに雪が降りだした。しまいには顔もあげられないほどの吹雪《ふぶき》になった。夕食後、事務所で胯火鉢《またひばち》をしながら雑誌を読んでいると、「今晩は、今晩は……」と慌《あわただ》しく表で連呼するものがあった。ただならぬぞ、この吹雪に。「何じゃね、いま時分に」と胯火鉢のまま大きな声を出すと「九平でごわす。戸をあけてっか」と云うので出て行くと、頬かむりをした九平さんが立っていた。彼は手拭《てぬぐい》をとり、袖口の雪をばたばたとはたいてから提灯《ちようちん》の火を吹き消し、息をはずませて「あのな旦那さん、地蔵堂の住持さんのとこへ来ておった女給さんな、あの子が毒を嚥《の》んだというて大騒ぎや、早う行ったげてっか。おら、戻り道、たのまれたんや、地蔵堂へ提灯の火かりに行って」と云うのである。「そりゃ大変じゃ、まあ直ぐ行くけに」と官服を着け剣を吊《つる》し、外套《がいとう》の頭巾《ずきん》をかぶり自転車に乗って村道に出た。ひどい吹雪で一寸さきも見えないが、自転車の電池の前だけが薄ら明りになっているのをたよりにして、勝手知った道を走った。しかし橋を渡るときと坂のところと、曲り角のところだけ自転車から降り、結局は殆ど自転車を押して行ったことになった。顔にあたる雪は痛かった。  町で女給をしていた地蔵堂の養女が腹ぼてになって、この間から帰って来ているのを私は知っていた。断髪をちぢらせ、赤い羽織に青いぼかしの着物をきて、地蔵堂の庭のお地蔵様の供物台《くもつだい》を水で洗っていたのを、二度か三度か見かけたことがある。せんだっても村議の谷岡さんが「あんな軽薄なモダンゲールが村に入りよって、若い衆が大騒ぎするのは心外じゃよ。全く現代のパーマネントや人絹は、ペンキ画よりもまだ現代の人心を安手にしちょるのや」とこぼしていた。しかし私は、パーマネント人絹の女給さんが、養家の庭のお地蔵様を水で洗い清めているのを見て、それは一概に無風流な風情《ふぜい》とはいえないと思った。村の評判では、彼女は町のカフエにいたところお客と深くなり、腹ぼてになったのでふらふらと戻って来たらしいということであった。  地蔵堂に行くと住持が出て「どうも、お騒がせして済まんこって」と低頭平身して、養女の寝ている部屋に私を案内した。部屋にはいって行くと、燐《りん》のにおいが鼻を衝《つ》き、猫を嚥んだなと私は直ぐ感じた。女は蒲団《ふとん》のなかで呻《うめ》いていた。枕もとに血が飛んで、女のパーマネントをかけた頭髪が縄屑《なわくず》のようにもつれ、首の白い繃帯《ほうたい》がひどく白く見えた。「どうしたんじゃ、早まったことをしたもんじゃなあ」と云うと、女は割合元気に顔を振向けた。蝋燭《ろうそく》のような白い顔色で、口紅をつけた唇《くちびる》が耳まで裂けているように思われて凄惨《せいさん》であった。女は苦しそうに「エンエン」と噎《む》せ、乗り出して洗面器に黄色い唾《つば》を吐いた。「苦しいか」とたずねても、女は何も云わないで「エンエン」と噎せ、洗面器に黄色い唾を嘔吐《おうと》した。  住持に「医者は、まだなんか」とたずねると「もう、おっつけ来るとこですわ。近所の人が走ってくれました」と云った。表に自転車のとまる音がして、近所の人が私の顔見知りの桑野医師を案内してはいって来た。桑野さんは金ぶち眼鏡をかけ、片手を洋服のズボンに入れ片手に折鞄《おりかばん》を提《さ》げ、私の顔を見ると「やあ御苦労さん、患者はどうですか」と云った。「なんだか、唾ばかり吐いて苦しがっています。ものは云わぬですが、たぶん猫でしょう」と云うと、桑野さんは落ちついて「そうですかね、ともかく……」と云って診察にとりかかった。女の口をあけたり脈をとったり聴診器をあてたり、首をかしげたりして、桑野さんは折鞄から注射器をとり出した。桑野さんと一緒に来た近所の人は、いつの間にか姿を消していた。  注射がすんでから、桑野さんは女の繃帯をとき、薄く斬《き》っていた傷の手当をして繃帯を巻いた。傷はともかくも、毒物の手当の方が困難らしく思われた。桑野さんは女に吐瀉剤《としやざい》を嚥ませたが、黄色い唾ばかり吐いて効果が見えなかった。  桑野さんを促し隣の部屋に行ってたずねると、ひそひそ声で「だいぶこれは重態ですね。猫イラズを、十グラム嚥んどりますな。それに、だいぶ時間が経過しとりますけに、二十四時間とは保《も》つまいですよ」と桑野さんが云った。傍《そば》できいていた住持は、つらそうな顔をして涙ばかりこぼしていた。桑野さんは「まあ応急手当がしてありますが」と気の毒そうに住持に云って「私の力ではどうなりますか、受けあえぬのですが……ともかく薬をとりに来て下さい」と帰りかけた。「診断書を頼みますよ」と追いかけて行って云うと「はい承知しました、お先へ」と帰って行った。急に屋内が森閑《しんかん》として来た。調書をとる必要上、住持に「原因は何ですか」ときくと「振られた男のことが……」と云いかけて、わッと泣きだした。それで追及せぬことにした。  女が蚊の泣くような声で私を呼ぶので枕元に引返して行くと「みんな私が悪いのです。お父さんを叱らんで下さい」と虫の息で云った。そして涙をぽろぽろとこぼした。「実に早まったことをしたなあ、方法は幾らでもあんのになあ。しかし大丈夫です、しっかりしなさい」と力づけてみたが、女はすでに覚悟しているものと見え、苦しそうにしながらもちょっと笑顔《えがお》をして、またもや黄色い唾を洗面器に嘔吐した。幾らあせっても私には手がつけられない管轄である。住持に「一応、署に報告せなけりゃならんので帰るが、男に知らしたんか」ときくと「へえ、電話かけてもらいましたけん、来ると思います」と云ったので「来たら、わしのところへ来るようにしてくれ」と云い置いて来た。  帰って来て、二時間ぐらいたってから若い男がやって来た。頭髪をてかてかにポマードで光らせ赤ネクタイにダブル服というのを着用し、剃《そ》りたての顔にクリームを匂《にお》わせていた。こういういでたちの青年を村の人たちはモダンボーイと云うのだが、きょう午前中ダルマ女といっしょに来た青年とよく似た感じの男であった。これは何も不思議な暗合というわけではなく、これと同じような型の青年は町に行くと幾らでも歩いている。しかし私の目に、彼等がたいてい同じようにこの型に填《はま》っていると見えるのは不思議な現象である。  若い男はおどおどして私の事務室にはいって来た。こいつが相手かと思って「まあ掛けや」と云うと「まことにとんだことで、申しわけないです」と云った。住所姓名をきくと、この若い男は町の伊丹屋米店の長男だと云う。「それで、出来たのはいつごろだ」ときくと「去年の春です」と云う。「私がカフエに行っとるうちに、懇意になりましたんですが、だんだんに深い仲になったのです。母に云うと、母は不承知だったのです。家を出て二人で愛の巣を持ちましたですが、私に能がなくて食えぬので、私は母のところに帰ったのです。女には、君が子を産んでから母に許してもらうつもりだとなだめ、地蔵堂に帰しましたですが、それが去年の暮でした。女は初め不承知で、嫌《い》やだ嫌やだ、ボク絶対に嫌やだと云ったですが、食えぬので住持のところへ帰ったです」と、彼は新様式の生活者が使うという言葉を用いた。「しかし、別居しただけで、自殺をはかるのは何故《な ぜ》じゃね」と咎《とが》めると「今度、私の母が無理やりに、私に他の縁談を持って来たです。私は反対しましたが、どうにもならぬので結納をかわしたので、女は恨んでおったです。私のうちへ三度も呶鳴《どな》り込んで、昨夜も私のうちへ来て喉《のど》を斬る真似《まね》をしたです。母は青くなって逃げ出しましたが、結局は私がだましたと思うて死にましたんや」とさすがに彼は興奮してさめざめと泣いた。  いったいに近時の青年は、食えぬということを前置きにして、しかも食えるのに意気地がない。「全くだらしない奴じゃなあ。この非常時に何じゃね。くだらぬ手ぎわで、女を困らせたり毒を嚥ませたり、世間を騒がして済むと思うか」と叱りつけてやると、「済みません、済みません」と云って泣いてばかしいた。性根を入れかえてやろうと思ったが、糠《ぬか》に釘《くぎ》だと諦《あきら》めて「もう帰れ」と云って返してやった。  朝がたになって住持が来て「とうとう駄目でしたわ」と云ったので、地蔵堂へ出かけて行くと、女の顔に白い布をかけ、その部屋に近所の人たちが集まって念仏をとなえていた。住持は部屋から出たりはいったりしていたが、隣の部屋で私をつかまえて「気の強い娘でしたけになあ。それでも、死ななくてもよかりそうに……」と手放しで泣き出して「生れる子が可愛ゆうなかったか。可愛ゆいから死んだんじゃ。それにしても……」と同じことを繰返して泣いた。    東西屋夫婦喧嘩《げんか》の件  二月十八日  牛乳屋の茂吉さんが、白い大きな牛をひいて前の道路を通るのを見た。牛があまり善良そうな顔をしていたので、「えらい、きれいな牛やなあ」と讃美《さんび》すると「へい、きょう市場で買うて来ましたけに」と嬉《うれ》しそうに云った。「一体、幾らぐらいの値や」ときくと「四百五十両だす」と云った。ずいぶん高い。  今日はよい天気であった。裏の畑で温帯さん(役場の小使)の声がきこえるのでのぞいて見ると、温帯さんが尻端折《しりはしよ》りで、消防署のおかみさんに「桜、貰《もら》いに来ましたよ」「どうぞ」「株が大きいけに、根が深いだろうなあ」なんて云っていた。何でも、以前から地主に頼まれていたのを遅くなって貰いに来たそうで、その桜は消防署の裏畑の隅《すみ》にある。暫《しばら》くたって、どしんという音がしたので出て見ると、温帯さんの長男が青年訓練生の服の上にオーバーを着て、横倒しになった桜の株のところに立っていた。温帯さんと軍帽をかぶった消防夫が、邪魔になる桜の小枝を鎌《かま》で打ちおろしていた。遠くから私が声をかけて「温帯さん、今ごろ植えかえても大丈夫ですかな」と大きな声を出すと「まだ芽が出とらぬけに、大丈夫やと思うとんのやあ」と返事をした。「その桜の花は見事な花なんですかなあ」と大きな声を出すと「いんや、一重の貧乏くさい花やけんど、枯木も山の賑《にぎ》わいと云いますけんなあ」と大きな声で返事をした。その声は地主の分家にきこえたかもわからないが、分家は本家と仲が悪いので、分家の方ではべつに気にかけまい。本家は五町も距《へだた》ったところにある。  事務室に引返すと、長田さんが来て待っていた。私が「よい天気ですなあ、桜の木でさえお引越ですわい」と云うと、長田さんは屈託顔で「実は、くだらぬ願いにあがったのやけんど、お願いがありましてなあ」と前置きして「わたしんとこの、東隣の丹波さんのとこが、二年前から人糞《じんぷん》をわたしんとこの下水に流しとりましてな。それがために、雨が降ったら下水が抜けぬけに、土間が汚物で水びたしになりますけん。直接抗議しようとしたけんど、そいじゃ、あんまりやけに家主とこに云ったのやが、いつまでたっても除《の》けようとせんのや。公徳を知らぬ奴《やつ》ちゅうものは困ったものでして、辛抱できまへんので訴え出ましたんや。どうか旦那《だんな》から云っとくなはれや、頼みますけに。あいつは少しも公共心がないのや」と憤慨した。喰《く》ってかかるような剣幕である。「その剣幕で向うに掛合ったら、喧嘩になるやろう。下水は、君んところ一軒の下水か」ときくと、「そうや」と云う。「そんなら、君んところで、勝手に畑の隅へでも流し込んだらいいやないか、後《あと》は引受けたるけに」となだめると「そう思ったんですけんど、どうも一ぱいつまって、一人では手にあまるし困っとるのや」と云う。「そんなら先方だって流れないから困るではないか。大体、そんなにお互に困るのを、二年間という年月ほったらかしにして置くなんて、衛生上にもよろしくないし、下水にそんなものを流してもいいことを、君んとこで暗黙のうちに承認したことになるんだ」と云うと「そうなりますかな」と云う。「じゃ一応、行って見てやろうか」と云うと「どうぞお願いします」と云うので行ってみると、麦畑の北隅にある長田さんの家は、下水口にコンクリートの水だまりがある。その水だまりへ丹波さんのうちの肥壺《こえつぼ》から汚水が流れ込み一ぱいたまっている。これじゃ泣くのも無理はないと丹波を呼びにやると、間もなく丹波が下水のところへやって来た。丹波は五十ぐらいの年配である。「丹波君、こりゃ一寸《ちよつと》ひどいやなあ。この汚物で水が堰《せ》きとめられて、雨が降ると長田君の庭が水びたしになるそうじゃ。何か仲たがいがあったにせよ、こいつだけは何処《ど こ》かに移転せにゃいかんよ。第一、路傍やし、空地《あきち》は東だって南だって幾らでもあるやないか」と云うと、「どうも済みやせん。旦那にわざわざ来て頂かぬとも、直接、自分で来てくれりゃ話になったのですが……」と長田を睨《にら》みつけた。長田は「わしは、公徳心に訴えたまでやが、こたえぬからや」と嘯《うそぶ》いた。「まあ、ええや、旧怨《きゆうえん》を持ち出すのは保留にして、この汚水の始末をつけんけりゃいかんな。長田君は、汚水のことで僕をここまで案内したんやろう」とたしなめると「へい」と云った。「それから丹波君は、この汚水をみっともないと思うだろう」ときくと「へい」と云った。「どちらも早速この汚水を流したまえ」と云いつけると、二人とも「へい」と云った。長田と丹波は隣同士で古くから含むところがあるらしい。よくあることだが、その原因を洗いだすとお互に曽祖父の代からの行きがかりだというようなことになるかもわからない。  今日《きよう》は夜も風が出なくて温かであった。切通しのあちら側の海も大凪《おおなぎ》だと思われて、磯釣《いそづり》に出かける素人《しろうと》がカンテラを持って幾人となく家の前を通りすぎた。こんな日には早く寝て、休養しようと思っていたところ、広め屋の万ヤンがやって来た。万ヤンというのは背のひくい四十男の広告屋で、今日もお宮の前でベルを振り鳴らして口上を述べていた。「ええイ、今度からこのお宮の横に夜店が御座ァい。どなたもこなたもひなたも、ギザギザ持って、午後の六時に御座れ御座れ」という芸のない口上である。最近、春日《かすが》野《の》のダルマ女と出来ていると云われていた。  万ヤンは額に怪我《けが》をしている上に、手にベルを持っていた。「さては、自分でお広めした夜店で、喧嘩して来たのか」ときくと「いや、違います。実は嬶《かかあ》とやりました。あいつ、男が出来くさって、わしと別れんかねと吐《ぬ》かしますけに、つい腹が立ってやりましたんじゃ。わしもやられましたんじゃ」と云う。救急箱からアルコールを出して血を拭《ふ》きとってみると、一センチ位の傷でたいしたことはない。とにかく手当をして繃帯《ほうたい》しながら聞いてみると「わしが打とうとすると、嬶が先に打ってかかったのやけに、わしは打ちかえしたんや。打ちどころでも悪かったのやろ、ばったり嬶は倒れたのや。それで自首して来たんや」と云う。「では、嬶を殺してしもうたんか」と驚くと「たぶん、やったと思いますが、どうかわかりゃへんわ」と云う。「それゃ大変や、どえらい事やりおったなあ、馬鹿め。大それた真似《まね》をしやがって、どうなるのや結局」と叱《しか》りつけると「済んまへん」と云って涙をぽろぽろこぼして泣きだした。  それで万ヤンを先に立てて行くと、ここが万ヤンの家だという軒の低い家の奥の方で人の呻《うめ》き声がきこえた。先《ま》ず「大丈夫や、死んどらんぞ」と、私は安心して家のなかにはいったが、電気が砕けて真の闇《やみ》であった。懐中電燈で照して見ると、畳の上に血が飛んで障子にも血しぶきが散っていた。私は懐中電燈の明りで、火鉢《ひばち》の横に髪を振り乱した女が俯伏《うつぶ》しになっているのを捜しあて「こりゃ、どんなんじゃ、怪我は」ときくと、割合元気に顔をあげ「へい、旦那はんですかいな」と懐中電燈の明りをまぶしそうにした。果してダルマ女であった。傷を照して見ると、左の頬《ほお》が膨《ふく》れあがって額と口のはたの裂傷から血が流れ出ていた。「ちょっと待てよ」と手当をしながらよく見ると、たいした傷ではない。「何んじゃい、ベルで擲《なぐ》ったと云うけに重傷やと思ったが、存外、臆病《おくびよう》に叩《たた》いたのやなあ」と云うと、女は「こんな万公ぐらいには、まだやられへんわいなあ」と力んだ。だだっぴろい顔が膨れあがったのは二た目と見られなかった。「で、どうしたのじゃな、何が原因じゃ」ときくと「わたいは、この男があまり悋気《りんき》しくさるので、嫌《い》やになったんやから別れようねと云うと、この始末や」と云う。万ヤンは躍起となって「こいつ間男していて、こんなに洒々《しやあしやあ》してんねや」と手を振り上げようとしたが、女が「何すんのや、こいつ」と喚《わめ》くと、万ヤンは尻込《しりご》みした。「こんな派手な夫婦喧嘩を見たのは、わしゃ初めてや。お前たち同士は得心の上の喧嘩かもしらんが、この流儀で殺人をやられたら困るけにな。とにかく難波さんにみてもらってから、二人で気を休めるために一応わかれて住めや。そのうちまた、よいと思ったらいっしょになったらええ」と云うと、女は「わたいも、こんな怖《こわ》い男とは一時も嫌《い》ややから、そうしまっさ」と云った。万ヤンも「わしもそうじゃよ。お前とやりあって、どっちがどうなってもいかぬし、まだ徒刑には行きとうないでなあ。もうお前には、懲り懲りしたんじゃ」と云った。すると女が「云わずとも、行きまっさ」と敦圉《いきま》くので「もうよい、よい」と仲裁していると、そこへ家主が来たので後を任して帰って来た。  二月二十二日  朝早く、満開の梅林のなかを歩きまわって来ると、役場の温帯さんが事務所の入口に来て私を待っていた。温帯さんは私のドテラ姿を見て「うん、朝帰りでもなさそうなが、その姿で何処をほっつき歩いとったんやろうなあ」と呆《あき》れ、「いま、本署から電話が来たんや。呼びに来ても留守やさかい、いま駐在は留守ですけんと云うといた。嘘《うそ》を云うても、あかんわと思うてなあ」と云った。急いで役場へ駈けて行って電話で本署に問いあわせると、交換君が「強盗犯の手配だ」と云った。先日のトノエさんところの強盗は村の前科者で、それが捉《つか》まったと思ったらまた強盗である。場所は隣村の金物外交員の家で、金のありそうな家ではないと云う。時刻は午前一時半頃で、賊は横手の潜戸《くぐりど》をあけて侵入し、奥に寝ていた妻女のタマノさん(五十歳)の枕《まくら》を蹴《け》って、タマノさんが目をさますと覆面の賊は洋服のポケットからナイフをとり出して「声を出すんでねえぞ。金はあるか、騒ぐと危ねえぞ」とタマノさんを威《おど》かして、どっかと胡坐《あぐら》をかいた。タマノさんが蒲団《ふとん》の下から財布《さいふ》を出すと、賊はそれを引ったくって忍術使のように消え去ったという。先日のトノエさんのところの強盗と同じような手口である。あの強盗がまた出て来たのではないかという錯覚を起しそうな気持がした。私は電話で聞いた手配により、いつもの枢要《すうよう》箇所である明神《みようじん》前に向ったが、あいにく雨が降り出した。横なぐりに吹きつける雨である。  私は明神前の老人床の軒下に陣を張り、バスを停めたり通行人を停めたりして服装を点検したが、どうも人通りが多すぎるので顔見知りだけは省くことにした。それでも目がまわるほど忙しくて、夢中になってやっていると「やあ、済まぬ済まぬ。一人でやってるね」と相棒の百田君が濡鼠《ぬれねずみ》になってやって来た。老人床のおやじさんは親切もので「濡《ぬ》れて風邪《か ぜ》をひくといけませんけに」と、店の戸口に七輪の炭火をかんかんにおこし「どうです、交替で服を温めたら」と勧めてくれた。おやじさんは隣の井筒屋《いづつや》の後家さんに好意をよせているようで、井筒屋の店にあるものを何かと買ってくれてお茶を出してくれた。私も相棒も、初めのうちは辞退していたが、寒くてかなわぬので、交替で服を温めたりお茶や菓子の馳走になったりした。通行人は士農工商の別どころでなく、それ以上に種々雑多な職業に分れている。それが後から後から何人もやって来る。とうとう不審者はかからずに昼飯をすませ、その状態のまま夜になった。それでも雨は止《や》まなかった。  物見高い人たちは、井筒屋とか吉田屋とか大黒屋などの店先に集まって来て、いまに強盗が捉まるのを待受けていた。客商売屋のおかみたちは井筒屋の土間に集まっておしゃべりして、「この事件で、毎日のように夜の警戒が厳重になれば、客商売はあがったりや」と聞えよがしに云うおかみもあった。それでも私たちが聞えぬふりをしていると、井筒屋のダルマが図に乗って「お役目、御苦労なこっちゃな。代ったげようか」とふざけた。百田君も憤然としたが、お互に「黙っとろう」と自重して聞えぬふりをした。  夜が更《ふ》けると人通りはなくなったが、その代りに雨がひどくなって寒さが増して来た。たまたま大急ぎで駈けぬけて行く人力車をとめてみると、医者の難波さんが乗っていて「御苦労さんですね」と云った。その他は遊びの帰りの客やお講の戻りや残業の戻りで、不審者は一人も来なかった。午前二時頃、仲間の八木君がレインコートを着て自転車に乗って来て「伝令。引きあげじゃ」と云った。「どうして」ときくと「やっこさん、借金で苦しまぎれに狂言したそうじゃ。報告、終り」と云い残し、後をも見ずに自転車をとばして行ってしまった。  百田君と私は、狐《きつね》につままれたように暫く雨のなかに立っていた。つまらぬ人騒がせをするものである。どうもトノエさんところの強盗に似すぎるので、初め変だと思っていたが、非常警戒にあたっている間じゅう私はすっかりそのことを意識の外に忘れていた。    オキヌ婆さんの件  三月十日  今日は事件の多い日であった。牛馬商の栗山が鑑札を紛失さしたと届出があったので、事実調査の書類を作製していたら「御免なして」と、数人連れの一団がやって来た。見ると、南分《みなみぶん》の自作農で村の世話係をしている利吉さんが、私の顔馴染《かおなじみ》の人たちを五人も連れて入口に立っていた。みんな絹の着物に袴《はかま》をはき紋附の羽織をきて、中折帽またはハンチングをかぶっていた。  みな真剣な顔色であった。「何ごとやなあ、こんなに朝っぱらから。まさか婚礼でもあるまいやろう」とたずねると、利吉さんが「旦那、今日はちょっと、その陳情で来ましたんや」と云った。おだやかならんと、先ず書類を片づけて「じゃ先ず、なかにはいって掛けなはれ」とすすめると、利吉さんの同勢はなかにはいって来て二人だけ椅子に腰をかけた。残りの人たちは椅子がないので立っていた。利吉さんは無教育の百姓だが酒も煙草もすわないし勤勉実直で、十三の年から六十九歳の今日までに一万円の資産をつくったといわれている。世話ごとが好きで、いつも何かというと一番に走りまわる老人である。「みんな、煙草をすうてもよいで」と、私が灰皿とマッチを出してすすめると、利吉さんが「私はあきまへん」と云った。他のものは申し合せたようにみな袂《たもと》から朝日をとり出した。  私もバットに火をつけて「では聞こう、何ですか」と云うと、「実は、いま南分の入口にある立寄場を、もそっと南の端の種造さんのところに変えてもらいたいのや。このごろ工場や飛行場埋立の人夫のバラックが出来たし、飲食店も出来たし、風紀上から云うても、盗人の方から云うても、ぜっぴ変えてもらいたいのや」と利吉さんが云った。「何だ、そんなことか。そんなことに、みな仕事を休んで、朝から紋附を着て駐在所を襲ったのか」と私は利吉さんたちの田舎《いなか》気質《かたぎ》に感心した。「そうですかい、よくわかりましたけに、私もその旨を上官に相談してみて、なにぶんみなさんの御希望に副《そ》うように努力しましょう」と返答したら「どうかよろしく頼みます。そう簡単にできましょうか」と云ったので「先ず、そうやなあ」と云うと、一同は安心してどやどや帰って行った。  本署に電話したら、書類を出しておけという返答で、その通りにしておいた。ところがそれから三十分もたったと思われるころ、当の立寄場の森野さんが駈込んで来て「旦那、いま利吉さんに聞きやしたが、何でも私とこの立寄場を、とり止《や》めるそうですな」と云った。「そうや」と云うと「そんな無茶な。今まで十年以上も歴史のある私とこの名誉を、人にとられてたまりますかい、そうけんど安う」と云うので、私は意外に思い「何じゃ、利吉さんは君のとこに相談せざったんか」ときくと「いや、ありましたけんど、うちの嬶が承知しまへんのや」と云った。森野さんは養子の身で、お神さんに威張られているという専《もつぱ》らの評判である。よく聞いてみると、初め利吉さんの提唱に賛成しておいたのに、後で手ごわくお神さんに尻を押されて飛び出して来たことが判明した。森野さんのお神さん中心主義は悪いことだとは云えないが「と云って、利吉さんらは町の発展策やと云うし、云いぶんもあるし、ところがお前のとこは何年来の家やし、さあ困った」と云うと、森野さんは私の躊躇《ちゆうちよ》する手もとにつけ込んで「旦那、助けると思うて、いままで通りにしといて下され、家庭平和のためや。嬶めがやかましいよってになあ」と訴えごとを云い出した。「よしよし、そんなら西分に立寄場が二つある。一つは辺鄙《へんぴ》なところで空屋《あきや》になっとるけに、お前はんのところに繰りかえとこうか」と云うと「どうか、そう頼みますわ」と喜色を見せた。  私の計らいをそんなに喜んでくれる人があるのは心強いことである。何となく気が浮き浮きして、巡回に出ようと思って暦を見ると大凶とあった。てきめんに「寒帯さん、大変やぞ。おきぬ婆さんが首くくったそうだよ」と温帯さんが使丁《してい》服でとび込んで来て「全く、気の毒なことになった」と云った。私は、しまったと思ったが、もう遅い。「そんなことなら、無理にも養老院の方へ手続しとくのやった」と愚痴が出た。  おきぬ婆さんは村の北分の貧民長屋に、一人で侘住《わびずま》いしていた婆さんである。お上からの情けのあてがいを貰い、私も内々お米や味噌《みそ》などをすこしずつ送っていたが、何しろ、もう髪が真白になって干からびていた。以前、若いころは大阪の第一流の花柳界で芸者をしていたと云い、旦那が何人もかわって最後には誰にも相手にされなくなり、いつの頃にかこの村に流れて来たものだそうである。蠣《かき》や雑魚《ざ こ》を漁《あさ》ったりして細々と暮していたが、身寄は一人もなく、しかも、この頃は心臓がいけなくて臥《ね》ていたので、せんだっても私が貧民慰問に出かけ「お婆さん。どうや、老先の寂しい一人暮しなら、何かと不自由であろうけに、俺が養老院の院長と心安いけに入院さしたろうか」と云うと、婆さんは毛布みたいに薄い蒲団から皺《しわ》だらけの手を出して、手を合せるのかと思ったらその手を振って「旦那はんが、そう云っとくれはるのは有難いけんど、わたしゃもう年寄やけに、誰の世話にもなりとうない。この家で極楽すれば有難いことですけん」と頑強《がんきよう》に云うのである。「しかし婆さん、なぜ誰の世話にもなりとうないのや」とたずねると「あたしゃ年寄やけになあ」と云った。「阿呆《あほ》いうな。年寄やけに、養老院の世話になるのやないか」と説得に努めると、おきぬ婆さんは顔をしかめ「わたしの云うのが、何で阿呆や。こんな年寄を世話するのが阿呆や」と云う。婆さんは養老院で世話になることと、若いときのように旦那の世話になることを、平気で混同しているのであった。臆面《おくめん》もなく「わたしゃ、もう身が利《き》かんのでなあ。それに永いこと、もうそのような気はないのや。世話になっても、院長はんが味気ないばっかりやろう」と云った。私はその頑迷《がんめい》な誤謬《ごびゆう》に腹が立って、思いちがいしてはいかんぞと叱りつけようと思ったが、婆さんの思いちがいを是正するのは至難でもあり、嫌《いや》らしい気持がするのに気がついて、そのまま帰って来たのであった。  温帯さんは私が外套《がいとう》を着たり剣をつけたりするのを傍から手伝いながら「何でも、今朝《け さ》から表戸が明かぬよって、どうしたんじゃろうと米屋の小僧が戸を明けようとしても、錠がしまっとる。それで家主の浄海さんとこへ知らせたので、浄海さんが行って明けてみたら、天井からぶらさがっていたちゅうわ。私はそこへ通りかかって、あんたに知らせてくれと浄海さんに頼まれたんや」と温帯さんは説明した。  私は自転車で駈けつけた。近道をしてお宮の境内を通りぬけ防風林をぬけて行くと、おきぬ婆さんの長屋の前にたくさんの人が立っていた。「どいた、どいた」と人混みをわけて行くと、土間の入口で見張番をしていた家主の浄海さんが真青な顔で「御苦労さま」と私に挨拶《あいさつ》して「困ったことになりました。かねがね案じていたのですが」と云って「ともかく、どうぞお調べを願います」と私を家のなかに案内した。ほの暗い土間にはいってみると、土間の壁に貼《は》りついたように婆さんが壁を背にして宙に浮かんでいた。近寄って見ると、汚れてない絣《かすり》の着物をきて膝《ひざ》を細紐《ほそひも》でくくり、手をだらりと垂《た》れて顔を横に向け、首がすこし長くなっていた。  婆さんはまさか死化粧はしていなかったが、白木綿《もめん》の下着をきて白髪をきれいに撫《な》でつけていた。  浄海さんは「あんな細い釘《くぎ》なのになあ。あんなものにぶらさがるとは、人間とはいえ、いかにも軽いと思われますなあ」と感慨をもらした。婆さんは骨と皮ばかりに瘠《や》せていた。傍《かたわ》らに梯子《はしご》が倒れそうに立てかけてあった。おそらく婆さんは、それに登ってから膝をくくり、それから柱の五寸釘に紐を巻きつけたものだろう。  部屋のなかもきれいに片づいて、蒲団はきちんとたたんで重ねてあった。箪笥《たんす》の引出しに巻紙が挟《はさ》んであったので、出して見るとそれが書置であった。片仮名と平仮名を混合して、ところどころ字が涙でにじんでいた。 「村のみなさんにいろいろメイワクをかけてすみません。ワタシは行きますけに、どうかおユルシ下サレ。家のしなものをウッテそうしきのヒヨウにして下され。ジョウカイさん、チュウザイさん、みなさんにすみませぬ」と書いてあった。しっかりした書置である。  私はまだこのままにして誰にも触《さわ》らせぬようにと浄海さんに頼み、近所の網元の家で電話を借りて本署の部長さんに報告した。直ぐ行くという返事であった。私は婆さんの長屋の入口に引返し、死と永生ということについて浄海さんと立ち話をした。間もなく、サイドカアのがたがたいう音がきこえ、本署の小使さんがハンドルを持ち、米田部長が顎紐《あごひも》をかけ颯爽《さつそう》として見えられたのであった。  米田部長は「やあ甲田君、御苦労」とサイドカアから出て来られた。私が挙手の礼をして「遠路すみませぬ。私が迂濶《うかつ》でありました」と謝《あやま》ると、「いや、まあ出来たことは仕方がない。他殺の疑いはないかね」と云われたので「はい、書置もありますし、死に方も、室内も、その他も、べつに異状ありませぬ」と報告した。「そうかね、まあ見せて貰うよ」と部長さんは家のなかにはいって、一ばんに書置を見て、それから婆さんを見て、室内を見て、最後に、入口の前後左右を見て「うむ、先ず自殺らしいな」と頷《うなず》き「関係者はあるかね」と云われたので「いや、誰もないです。この家主の浄海さんが、役場の方へ報告されました」と云った。ちょうどそこへ村会議員が駈けつけて来て「遅くなりました。後始末は、私が引受けます」と云った。部長さんは私に「君、おろしたまえ」と云われたので、私が婆さんをおろす役になった。背伸びをして婆さんを抱き、固くなった身体を差上げて紐からはずし、そうして村会議員が北枕にのべた蒲団の上に婆さんを寝かせると、村議は部長さんにきこえないように「死人をいらうのは、あまりよい気持でないやろう」と同情してくれた。返辞をそらして「医者は」とたずねると「直ぐ来ますけに」と村議が云った。  やがて人力車で難波さんが駈けつけて来た。難波さんは婆さんの目をあけたり、身体を詳細にわたって点検したりした後で、部長さんに向い「溢血点《いつけつてん》といい、首の縊孔《いこう》といい、縊死《いし》に間違いないです」と云った。「じゃ君」と部長さんは私を見て「診断書の方は頼むよ。それから死体受書は、村長の方でよいぞ」と云い「じゃ帰るからね」と云われ、サイドカアに打ち乗って引きあげて行かれた。  難波さんが帰ってから、私はその場で報告書と検屍《けんし》調書を作った。私の手帖《てちよう》はオキヌ婆さんの記事で三頁《ページ》も費された。やがて近所の人たちが念仏をとなえに集まったので、私は後を浄海さんと村議に頼んで引きあげた。    恋愛・人事問題の件  三月二十日  事件というものは何だか癖を持っているような気持がする。ぱったりと事件が起らなくなったと思うと、また続々と発生して、それも同じ系統の事件が続発することがある。かつて私は町の交番で往還の人通りを見ながら気がついたが、人の出盛りに人通りがぱったり止まってしまう瞬間と、妙に若い女ばかり通る瞬間があった。これと同じように、何の事件も起らない日が二日も三日も続くかと思うと、とるに足りない小さい事件が重なりあって発生することがある。  今日は、小さな事件が幾つも発生した。隣村のバッチアミの網元、軍平さんがこの村に縄《なわ》ない工場を建てたいと届けに来て帰って行くと、入れちがいに背の低い労働者のお神さん風の女がはいって来た。「何じゃね」ときくと「あんた、警察の旦那《だんな》はんですかい」と云うので「そうじゃ」と云うと「わたしゃ、南の太七のところに、ちかぢか縁あって世話になったのやけんど、わたしが来る前に、わたしゃ高松の親戚《しんせき》のところに金を四十円あずけたんやけど、その金とってもらえんだすか」と云う。「そうやなあ、だけんどお前、なんでその金いるのや」ときくと「太七さんが、金いると云うのだす」と云う。「そりゃ考えもんじゃ。何か知らぬが、お前は五十にもなって嫁に来たのやけに、また不縁にでもなったときの用意に預けといたのやろう。それと違うか」「そうだす。そやけんど、わたしゃまだ五十にはならんのや、今年《ことし》四十三になりますのや」「そりゃ失敬したわ。そやけんど、その金、親戚に置いとき。でないと、またお前が不縁になったとき、預けにくいやないか。太七さんはまだ三十ぐらいだし、大酒のみだし、四十円ぐらい直きになくするぜ。そりゃお金を預けといた方が、太七さんはお前に親切にしてくれるやろう。まあ預けとき」「へえ、そうだすなあ、そうしますわ」と、女は顔に決意の色をうかべ「いろいろ御後見してくだはって有難うおます」と感謝して出て行った。この女はまるで世間知らずの女のように思われたが、警察は人民のため何でもしてくれると思っているらしいところが嬉《うれ》しかった。  女が帰ってから、何だか今日《きよう》は小さな事件がいろいろ発生しそうだと予想していると、果して大黒屋の使いを頼まれたという一人の青年訓練生が自転車で駈《か》けつけて来た。青訓生は「甲田さん、いま大黒屋で、デレ助がまた騒いどりますけに、お頼みしますわと云うとります。私は大黒屋へ行かんのですが、前を通りすがりにお神さんに伝令を頼まれました」と云い、彼は自転車にとび乗って行ってしまった。  デレ助というのは西分《にしぶん》の腕力の強い男で、酒乱家として有名である。先日も、通りすがりの他国者を擲《なぐ》ったとか突いたとかいう話だが、とにかく私は佩剣《はいけん》をつけ自転車に乗って大黒屋へ駈けつけた。  デレ助は尻《しり》まくりをして土間の椅子に大あぐらをかき、きたない褌《ふんどし》や股間《こかん》をわざと露出させ大きな声を張りあげていた。私はどうも酒のみの焦げつくような吐息を好かないが、傍に行って「やあ、デレ助君、また酒か。酒の騒ぎというと必ずお前や」と咎《とが》めると、彼は目を半眼に開いて私の顔を睨《にら》みつけ、「旦那ですかい、まあ聞いてくだはれ。一体ここのお神は生意気や。酒代は後から払うと云うと、いま払えとぬかしよる。それで、どうでもさらせえと云うたら、旦那を呼んだのや」と云う。机の上には徳利が十何本も転《ころ》がったり立ったり雑然として、そのうちの一つは割れていた。肴《さかな》は焼豆腐をつついてある。「ようけ飲ましたもんやなあ」とお神に云うと「へい、一升の上もあけて金を払わぬのやけに頼みますわ」と云う。「あまり飲ますと、駄目やないか。デレ助君の文無しは、わかっとる筈《はず》やないか、それに酒癖が悪いのやから、気をつけえ」と云って、それから「ヨッコラサ」とデレ助の腕をとると「旦那、また豚箱ゆきか」と確かな口をきいた。「そうだ、とにかくこの店を出るのだ」と連れ出すと、彼はふらふらついて来た。  私は彼を本署に連行しようかと思ったが、国家非常時の際に小さな事にこだわると却《かえ》って民心を萎縮《いしゆく》さすものと考えて、私の事務所へ連れて来た。その途中、彼は幾度となく路傍に放尿して私の気を損じたが、また一方、彼が確かに悪い病気を出しているらしく私は寒心させられた。  デレ助を事務所の裏の井戸端《いどばた》へ連れて行って頭に水をかけていると、デレ助の嬶《かかあ》がやって来て私を物かげに連れて行き「あのな、旦那はん。私は飛行場の地搗《じづき》に行っとったんやけど、青年訓練生が知らしてくれはったので仕事場を抜出して来ましたのや。あのな旦那はん、いま大黒屋の方は私が払いましたのやけど、あの大酒飲みは二日か三日、豚箱へ頼みますわ。いま帰らして貰《もら》うと、またやりますので、今度はちょっと懲りさしてくだはれ」と気丈なことを云いだした。「そうかい、それじゃあそういうことにしとこう。花見どきは、とかく地金も病気も出るによってなあ」と私はまたデレ助をバスで本署に送り届けた。  後で大黒屋に行ってみると、勘定は確かにデレ助の嬶が払ったと大黒屋の十五になる女の子が云った。この女の子と六つと五つになるのが行儀よく坐り、子供同士で飯をくっていた。目ざしを焼いて饂飩《うどん》といっしょにつるつると呑《の》みこんでいる。べつに咀嚼《そしやく》する様子も見えないが、咽喉《の ど》を怪我《けが》しそうな風もないのが不思議であった。  お神はまだ宵の口だというのに蒲団《ふとん》をかぶって寝ていたので「どうしたんじゃ」ときくと「ちょっと心配ごとで、頭が痛むのや」と云った。「デレ助のことなら心配ないで。今度は、おとなしくなるやろう」と云うと「うん、違うんや」と云う。「では何の心配じゃ」ときくと「実は」と云いかけて、子供がそこにいるのに気がついて口をつぐんだ。間もなく子供たちが飯を終ったので、お神は十五になる女の子に云いつけてみんな外出させ「ぜひ、旦那にきいてもらいたいのや」と云う。「改まって、何じゃ」ときくと「ちょっと恥かしいけんど、思案にあまったけに」と蒲団のなかから起き上って、頭の鉢巻《はちまき》をとって坐りなおした。蒼《あお》い顔をして髪を乱し、熱のためむんとするようであった。「なんじゃ、蒼い顔をして」いつも自転車に饂飩を積んで走る男まさりのお神とは思われぬなあと思っていると、お神は云いにくそうにしていたが漸《ようや》く口をきいた。「あのな、旦那はん。実は、わたしは亭主に死なれてからというもの、商売の醤油《しようゆ》屋が駄目になって、それで世話してくれる人があって、馴染《なじ》んだ男から三百円かりてこの商売を始めたのや」と云う。亭主の死んだ後、鑵詰《かんづめ》工場の女工に行ったが僅《わず》かの賃銀で暮しが立たないので、商売の資本を借りるため世話になったもので、今年じゅうに借りを返す約束で三百円かりたという。ところが先月の末に二百円だけ返し、いずれ十二月までには全部返済するつもりでいたところ、今日、その男の細君が五里の道を山奥からやって来て「この家は、私のうちの金で出来たのやけに、明け渡せ」と云った。それで「わたしには子がありますけ、明け渡すと生きる目あてないのや。一家心中せにゃならんのやけに待ってくだはれ、金は払います」と頭を下げて頼むのに、先方は「いや待てぬ。金を貰うたとて、亭主の浮気がなおるものでもなし、お前がここにおるのがいけないのや」と云って大変な剣幕であった。  お神はつくづく途方に暮れ「あのな、旦那はん。そういう心配で、わたしゃ病気になったのや」と云う。「男はどうしているのじゃ」ときくと「はじめのとき、三百円かしてもらう約束で、利子はいらんと云いましたのや。今では手をきって、ここには来やせんのやけんど細君が悋気《りんき》しよって、店を出しとるときっと来ると思うのやもの、阿呆《あほ》らしい」と云った。「どうもその道は、儂《わし》にはややこしゅうてわからん。しかし、お神が心配しとることはよくわかる。お神、心臓が弱いのやなあ」と私は苦労人らしく笑ってみせ「金を借りたのは男からで、女からではないのや。金の催促は男に来てもろうたらええやないか。筋合が違う」と云うと「そりゃ、わたしもそう云うたのやけんど、男は来ささぬと女が云ったのや」と云う。「それなら、もう手は切っとるし金は払いつつあるのだし、普通の貸借でもなし、裁判に任せたらよいやろう。家の名儀はお神の名になっとるし、お神の家を勝手に女が乗っ取ることも出来ぬことや。金の借りは借り、店は店や。裁判でも人事相談にでも持ちだせと、先方の女に強く出たらどうじゃ。それ以上の立ち入ったことは儂は云わぬが、女が人夫を連れて勝手に乗っ取るとするなら、儂が黙っておれぬことになる。明らかにそれは不法行為じゃと思う故《ゆえ》になあ」と智慧《ちえ》をつけると、お神は見る見る元気づいて「ほんに旦那はん、どうやらそれで元気がつきましたわ。店を取られたら、子供かかえて遍路《へんろ》でもせなならぬし、心配でしたけに」と今更のように前後左右を見まわして「こんな商売、女手ひとつでしとると、えらい心配や。いろんな男がいろんなわるさしたり威《おど》したり煩《うるさ》いもんや。それに、子供がそろそろ大きくなるし、義理の悪い男を入れると子供等《ら》に恥かしんでなあ」と顔を伏せた。「そりゃ、そうやろうなあ。とにかく、気をつけるこっちゃなあ」と同感した。私はお神に軽く挙手のお辞儀をして表に出た。  路《みち》ばたの家にはもう電気がついていた。私は今晩の夕飯に目ざしを食ってやろうと思って自転車を走らせた。すると向うから温帯さんが自転車を走らせて来て、私の自転車とすれちがいに「やあ寒帯さん、ちょうどよかった」と自転車の方向を急廻転させて私の後について来た。「温帯さん、何じゃ」ときくと「きっと大黒屋じゃろうと、いま迎えに来たところや。山田さんの奥さんが、事務所の入口にしょんぼり立って、待っとられるわ。いつまでも立っとられるけに、あんたを迎えに来たのや」「御苦労さん、何の用じゃろうな」「儂は知らん。しょんぼり立っとるけに、まさか急用ではなさそうな」「しかし、急ごう」と私たちは速力を出して帰って来た。  なるほど山田さんの奥さんは、家を追い出された子供のように、事務所の入口にしょんぼり立っていた。私が自転車から降りて「こんばんは奥さん、何やね」とたずねると、奥さんは可《か》なり悄気込《しよげこ》んで「こんばんは、旦那はん。ちょっとお願いがあって参りましたのや」と云った。山田さんの家は小地主で当主は元教員である。暮しも安楽で、外に出るにも奥さんはいつも派手な風をしているが、今日は地味な着物に前垂《まえだれ》をして、手拭《てぬぐい》を前垂の横に垂らしていた。「どうしたんです」ときくと「へえ、困っとりますのや。長男が、このごろ休暇で帰っていますのや。それが町の妙な女と、一しょになる云うてきけへんし、うちではあの通り頑固《がんこ》だし、長男は家を出るちゅう。うちでは勘当やと云う。わたしは、どないもならぬけに、旦那はんに仲にはいって貰おうと思うて来たんやけど」と云う。「さよか、しかしなあ」と私は、じっくり考えてみた。  いったい駐在巡査というものは、人事主任も司法主任も行政主任も特高主任も何でも一人で兼ね小使も兼ねている。しかし山田さんの長男は東京の帝国大学を優等で今度卒業したとかいうことで、町の女と一しょになるには別段さしつかえない身分である。それに私は、いつか地主の近藤さんのうちの伜《せがれ》が東京から帰っているときも、親子喧嘩《げんか》の仲裁に行ったが、某大学生というその伜は、私が一言半句も口がきけなくなるほど私を云い負かした。その大学生は「家庭争議というものは、或る段階に至るまでは一種の快楽に属する。いま、われわれは他人を介在にする必要はない」と云った。法律的でなく心理学的に私はやりこめられ、爾来《じらい》、インテリの親子喧嘩の仲裁は私には苦手だと思っていた。 「お宅のは帝大ちゅうことやから、特に面倒やろうなあ。私の手には負えぬやろ」と私が云うと、山田さんの奥さんは「そう云わんで、どうかお願いや。どっちも目の色を変え、いまに何をしでかすかわからんのや。どうか来てくだはれ」と云う。私は「あたって砕けろ」と云って出かけることにした。  山田さんのうちは、納屋と厩《うまや》と倉は瓦葺《かわらぶき》で母屋《おもや》は藁葺《わらぶき》である。門をくぐると、母屋から父と子の大きな声がきこえていた。「何のためお前は大学に行ったのじゃ。親に反《そむ》くためか、カフエの女に迷うためか、出て行け」「出て行く」というような言論戦で、さすがは大学の卒業生で暴力に訴える喧嘩ではなかった。私は幾らか胸を撫《な》でおろし、さりげないようにゆっくりと家のなかにはいって行き、「まあまあ、親父さん」と二人の間に割りこんで行った。  室内には囲炉裡《いろり》があって、自在鉤《じざいかぎ》の薬鑵《やかん》が湯気をふいていた。父と子はその囲炉裡を隔てて争っていたのである。伜は仕立おろしの背広を着て胡坐《あぐら》をかいていたが、私の顔を見ると坐りなおして黙りこんだ。親父さんも胡坐をかいていたが、坐りなおして「これはどうも御苦労さまです」と云った。奥さんは座蒲団《ざぶとん》を私にすすめ、目くばせで「どうか、お願いします」と云うように会釈した。そして室内が急にしんとしたところで私は云った。「何かしらぬが、そのように両方が火になったら、云わいでもよいことを云うて角が立つのや。私に任してんか」と切りだすと、伜の方が「しかし僕は」と云いかけたので、私は急いでそれを遮《さえぎ》って「いや、貴方のお気持は、私にもわかると思います。尤《もつと》も、すべて家庭争議というものは、或る段階に至るまでは、一種の快楽に属しましょうな。いま貴方は、他人を介在とする必要はないかもしれませぬが、ここは一つ私に任してんか」と用心深く口をきくと、伜は怪訝《けげん》そうな顔をして黙っていた。彼は神経質らしい蒼白《そうはく》な顔だが恰好《かつこう》のよい目鼻をして、女の子が好きになるのも無理からぬと思われた。  親父さんはすこし落ちつきを取戻し「甲田さん、ほんによく云うて下されました。こいつが、妙な女と一しょにしてくれと云いよって、父を貶《けな》しくさる。今まで儂《わし》が苦労して来たことは、よく知っとる筈なのに、忘れとるのや」と云った。「儂はこいつに、ちゃんとした堅気の娘を見つけようと思うとるし、また、こいつの無理なら他のことなら何でもきくのやが、このことだけは先祖にすまぬでなあ」と大きな溜息《ためいき》をついた。だいぶ白髪も見え、すこし喘息《ぜんそく》気味のように見受けられた。灰吹に大きな啖《たん》を吐き「こいつが勤口を見つけて洋服がほしいと云いよるので、町で洋服をつくらすと型が気に入らんとぬかす。それでも洋服を着て町のカフエに出かけたのや」とこきおろした。それで私が「いや、ちょっと待って下さい。御子息君に事情をきかしてもらいます」と云うと「どうか魂を入れかえてやって下され」と云った。「では御子息、ちょっと別室で」と私は若い学士と一しょに彼の勉強室へ行った。机の上には金文字入りの表紙の書物がたくさん置いてあって、とうてい私にはわからぬものばかりであった。私は学士と向いあって坐り「今日、私は警官として来たのではなくて、村の若者として来たのですが、何かと話してくれませんか。都合によれば相談に乗ります。親の意見をきくときには、頭を下げろ、意見が頭の上を越すと昔風にはそう云いますが、貴方は昔風ではないですね」と云うと、若い学士は何だか反抗的に見え、すこしまた興奮して来た様子で青くなって返事をしなかった。私は彼自身の気持になって「つまり私は、一人のポリスだ。このポリスの洋服の色はあまり派手ではない。このポリスは美貌《びぼう》ではない。学問もあまりないようだ。情操は貧弱なようだ。若い女の気持や知識人の気持などわからぬだろう。無論、学問の誇りという点では、貴方がたと比べものにならないでしょう。しかし私は貧乏人の子に生れたおかげで、世の中の辛酸をなめました。九つのとき親父に死なれ、親子喧嘩をしたいにも相手がないですわ」と溜息をつくと、若い学士はすこし感じた風で「いろいろと御心配して下さって有難いです」と云った。「では、貴方のおのろけでもききましょうか」と云うと、彼はちょっと苦笑して「実際、変な行きがかりでした」と云う前置きで打ち明けた。  彼の話は一つの恋物語として、たいして目新しいものとも思えなかった。彼はこのたび帰省中、高等学校時代の友人と町のカフエに行き、そこの女にたいへん款待された。初めのうちはあまり熱心にもなれなかったが、酔ったまぎれについ不覚なことに立ち至った。女はどうでもいっしょになりたいと云い出して、彼も責任を感じて両親に話を持ち出すと、この始末だという。  私はこの若い学士が擦《す》れっからしでないことに気がついた。カフエの女に強要され、或《あるい》はちょっと牽制《けんせい》され、余り好きでもないのに結婚しようとする。そして親父と大喧嘩である。「その女は、町の何というカフエの女ですか」とたずねると、カフエ・ルルのハルミという女給だと云った。「ハルミですか、これは驚いた」と私がびっくりすると、相手は目をまるくして不安そうな表情で私を見た。その目を私は美しいと思った。その口もとにも頬《ほお》にも、まだ少年の感じが残っていた。おそらく彼は東京で悪ずれの生活に感染しなかったものと思われる。  私はハルミの亭主を知っている。「で、貴方はハルミの情夫を知っていますか」ときくと、相手はまたもや不安そうな顔で「知りません。そんなものあったのですか。もう離婚したのですか……死んだのですか」と云った。「そいつは、ハンニャの鉄という前科者で、いま刑務所に行っています。ハンニャの鉄は、ハルミと内縁かどうかわからぬが、ハルミが貴方と結婚すると二重結婚のようなものです」と云うと、相手は寒そうにして息を吸い込んだ。  以前、私が町の警察に勤務していたとき、ハルミは或る良家の子弟を誘惑して、ハンニャの鉄の子分にその良家から金円を巻きあげさしたことがある。その後、ハンニャの鉄は暴力団狩で恐喝《きようかつ》罪によって検挙され、一年の刑で現在服役中のものである。額に刀疵《かたなきず》があるのを自慢にしている人間で、その手下の暗闇《くらやみ》の福というのが現在ハルミの用心棒をしているが、福はいつも学生服にハンチングをかぶって街をのし歩いている。「たぶん暗闇の福の差金《さしがね》で、ハルミに貴方を誘惑さしたのかもしれませんな。これは親御さんの云われる通り、止《よ》した方がよいでしょう。一つ、考えてみてくれませんか」と懇談的に云うと、若い学士は「すみません」と云って涙をぽろりとこぼし「私もあの女のこと、大体は不良なのを知っていました。それが変なことになったので、まともな女にするのが私の義務だと思いました。もし先方が承知してくれるなら、父の云う通りになります。どうかよろしく」と云って泣きだした。「では、親御さんに報告して来ます」と私は座を立って、囲炉裡のある部屋に引返した。暗い部屋を通るとき、私は懐中電燈の光で鴨居《かもい》に古びた薙刀《なぎなた》や槍《やり》が掛けてあるのを見た。  囲炉裡のそばには父と母が黙然として坐っていた。「や、親御さん、心配いりまへん。どうにか納得してくれました。私が先方へ行って話はつけて来ますによって、あんまり若いものをがみがみ叱《しか》るのはいきまへん。却《かえ》って火に油や」と云うと「そうですか、どうも何から何まで、済まぬこっちゃ」と漸く微笑した。「なあに大丈夫です。一時の迷いでしてなあ。向うの女がちょっといけぬから、私がはいらぬと面倒や。まあ心配せんときなはれや。あとは、うまくやっておきますわ」と慰めて、一日も早く若い学士を任地へ送り出すように忠告した。父親は「私が一徹でして、あまり云いすぎましたんや。済まぬこっちゃ」と云ったので、安心して帰って来た。  私は一時も早くハルミを取締まらねばならぬと考えて、その足でバスに乗って町に出た。ハルミのいるカフエ・ルルは、町の大通りから入り込むカフエ横町にある。いかがわしい店で、当局でもかねて注意の目を光らせていたものである。階下が撞球場《どうきゆうじよう》になって階上が酒場になり、断髪の女が頬紅や口紅を濃くつけ眉《まゆ》を描き、なかには入れ黒子《ぼくろ》などつけ、うようよしている。ハルミもその一人である。こんな女たちには軟派硬派の不良がついていて、女たちに食わせてもらっている不良仲間も、ときどき屯《たむろ》していることがある。常客は、中年、老年、若い職工たちで、彼等の景気よく散材しに来るところで大学生の来るべきところではない。なぜ山田の息子《むすこ》がここに足を踏みいれたか疑問である。  私は夕飯をたべていなかったので、カフエ横町の入口の饂飩《うどん》屋で素饂飩を二はい註文した。二はい目を食べていると、もと私の同僚で現在は特高になっている森山君がはいって来て、私に気がつくと「大ものかい。手ごわいやつなら手伝ってやろう」と笑った。「有難う、僕ひとりでよいのだ」と私は饂飩を急いで食べた。森山君は天ぷら饂飩を註文したが、この店の天ぷらはちっともうまくないのである。  カフエ・ルルには幸いお客が一人もいなかった。ハルミは派手な着物をきて入口に背中を見せ、卓上に置いた四角い鏡に向って頬紅やら口紅やらつけていた。「ハルミ君、ちょっとそこまでつきあってくれよ」と、いきなり呼ぶと、ハルミは後を向かないで鏡をあげて私の顔をうつした。瞬間、彼女は向うむきのまま、どきっとした風だがゆっくりと向きなおり、しなをつくって「まあ甲田さん、おどかしっこなしよ。いまお店の最中、何なの」と気障《きざ》な口をきいた。「いや、たいしたことではないが、ちょっとしたことだ。直《す》ぐ片づく」と云うと「ぜひ行かにゃならんの」と、しぶしぶ立って来た。  私が階段を降りて行くと、別室から「何だ何だ。誰だ、姐《ねえ》さんに変な真似《まね》をするのは」と呶鳴《どな》って「ただでは置かんぞ」と学生服の暗闇の福が顔を出した。「福か、儂《わし》だよ」と云うと「いけねえ。お見それしやした」と別室にかくれようとした。「おい、福」と後から呼びとめて「君も一しょに来てくれ」と云うと「あれ、わっしもですかい。困っちゃったなあ、いま友達を待っとるんですわ、悪いなあ」と頭をかき、それでもおとなしくハルミといっしょに私の後について来た。  二人を近くの交番に連れて行くと、二人とも妙におとなしくして小さくなった。私は交番の前田巡査に立会ってもらい、先《ま》ずハルミに「どうだい、単刀直入に行くが、君に頼みたいことがあるよ」と云った。「儂の村の、山田の息子から手を引いてくれぬか。どんな事情かしらんが、山田の親御さんが心配しておるので、儂は気の毒だと思った。それとも、手を引かぬと云うなら、こっちも考えがある」と云うと、ハルミは恨めしそうに私を見て「山田さんに頼まれたんですか」と云った。「いや、そうじゃない。あんまり親御さんが気の毒なんで、儂が勝手にこの役を買って出たんだ。君たち、べつに今のところ、どうのこうのということはなし、ただハルミ君が駈落ちでもすると面倒だからな。そうなると、山田の親子は三人暮しだから、一層のこと気の毒だ。変な真似をするもんじゃない。君だってお父さんお母さんがあるだろう」と云うと、横合から暗闇の福が「そうか、姐さんがそんな真似を」と云って、ぽろぽろと涙をこぼした。「わっしは兄貴に頼まれて、ハルミさんをあずかっているのに、それじゃあ情けねえ」と口惜《く や》しがった。「なあんだ、お前まだ知らぬのか」と私が呆《あき》れると「へい」と云ってハンカチを出して涙を拭《ふ》いた。ハルミは青くなってしまったが「旦那にそれまで云われたら云いますけんど、わたしゃ、ハンニャだの暗闇だのという世界が嫌《い》やになったんです。山田さんと一しょに東京に出て足を洗おうと思ったんですが、そんなに云われりゃ、わたしゃまあ山田さんはやめます」と云って、今度はハルミが啜泣《すすりな》きを始めた。どうも二人ともに泣かれると困ったので「大体わかったから、今日のところは儂に任しといてくれよ。ハルミ君もハンニャと別れると云うんなら、ハンニャが出て来てから、はっきりと話しあった上で別れた方がよかろう。それでも、どうしてもと云うんなら、警察の人事に相談に出るなり、ハンニャを改良さすなり、他に方法があるだろう。まあ、よく考えとくさ」とハルミに言い渡した。    休日を持つ  三月二十二日  今日《きよう》は天気もよし応召兵の祈願式で村は休日同様なので、かねて待望していた隣村の城址《しろあと》見物を断行した。  いつものように官服をつけ自転車で村道を走ったが、いつも通る道であるのに何度も自転車をおりて眺《なが》めたほど、今日この村は美しい風景に見えた。澄みきった小川の水、麦畑、どっしりとした石橋、屏風《びようぶ》のように聳《そび》える山、峰の上にある青い空、みんな美しく静かであった。私は幾度も自転車をおりてゆっくり景色を眺めたので、荷車やリヤカアに追い越され、それをまた私が追い越してまた追い越された。甚平さんのうちの畠《はたけ》では、甚平さんとその娘の年ごろになるのが二人で土を掘返していた。馬を徴発されたので鍬《くわ》でいちいち耕すのだが、その隣の畠を耕していた作二郎という青年は馬をつかって耕していた。甚平さんの畠と作二郎の畠は一本の細い畦路《あぜみち》で仕切られていて、作二郎は自分のうちの畠を耕して行くついでに馬といっしょに畦路を越えて甚平さんのうちの畠も耕していた。こういう隣人愛的農耕法は、銃後に於《お》ける隣組推進体制のもとでなくては見ることが出来ないが、これがもし戦時中でなかったら、他人は作二郎の行動を見て彼を誤解するにきまっている。  目的の城址のある山の麓《ふもと》には、六の丸神社というお宮がある。私は神主に面会を求めて古戦談をきかしてもらおうと思ったが、今日はこの村でも応召兵の祈願式で神主は村民にかこまれ忙しそうにしていたので、その隣のお寺に行ってみた。境内に巨大な柏槙《びやくしん》の木が生《は》えて、その木の下で顔見知りの達磨《だるま》さんのように太った住職が、軍歌の「邪はそれ正に勝ちがたく……」というのをうたいながら、草とり鎌《がま》で雑草をけずっていた。「やあ和尚《おしよう》さん」と声をかけると、和尚はびっくりして軍歌をうたい止め「やあ甲田さん、あんたはきょう祈願式に参会だっか」と云った。「いや、今日はぶらぶらと城址見物に来ました」と云うと「さよか、それならまあ寄って、お茶でも飲んで行きなはれ」と私を庫裏《くり》の奥の間に案内してお茶やお菓子を出してくれた。私はこの和尚に古城址の話をききたいと思ったが、和尚はあまり詳しくなさそうであった。彼は話題を変えてお寺の自慢をした。  この寺は弘法大師が如来像を刻んで納めた古刹《こさつ》であるという。天正時代の戦禍に焼け、徳川時代に焼け、御維新のとき新建築したものであるそうだ。それで私は寺を辞して小学校に行ってみた。その学校はなかなかよく整頓《せいとん》されていた。廊下に鞄《かばん》を入れる箱があり、不時の用にそなえて壁に児童の傘《かさ》が吊《つる》されてあった。柱に「慰問文を出しましょう」「慰問袋を送りましょう」などの標語があって、黒板の横には実習訓の「一、汗の出るまで一心に働きましょう。二、作物や家畜を可愛がりましょう。三、農具は丁寧に扱いましょう。四、収穫の立派な人は自然の恩を感謝している人です。五、日誌を怠《おこた》らぬようにつけましょう。六、共同一致の実をあげましょう……」などと書かれた紙が貼《は》ってあった。職員室の隣の部屋には購買所が設けてあった。校舎と校舎の間の中庭には、兎《うさぎ》や山羊《や ぎ》や牛や馬が板で区切られた囲いのなかに飼われていた。一年生の教室を硝子《ガラス》越しに見ると、女の先生が鞭《むち》で黒板の字を指《さ》して児童たちに音読合唱させていた。  サイレンが鳴り、児童たちが学校を出て行ってから私は校長室を訪問した。校長先生は四十すぎの瘠《や》せてもいないし太ってもいない人で、しかし病人のように顔色がたいへん悪かった。  校長先生は私の訪《たず》ねた理由を知ると、私のためにお茶を入れ「古戦場の調査なら前の校長がよく調べていたのですが、何も残してくれないのでして、私がちょっと調べたのを見せましょう」と机の引出しから大学ノートをとり出した。表紙に「備忘録」と書いてあった。校長先生はそのノートブックの「六の丸城址の記」という部分をひろげて見せ「これが私の調査記です」と云った。私はその文章を帳面に筆記した。左のような文章であった。  ——吾人はこの古城の戦史を調べる暇があったら書きとめておきたいと思ったけれど、時代考証の参考書や歴史をくりひろげる暇もなしまた史実を知る人はみんな死んでしまい、確実に勇士の名や挿話《そうわ》が忘られてしまったので調べる頼《たよ》りも見つからぬが、想像上ではこの山城《やまじろ》における昔の戦争談は勇壮無比な物語である。  ——六の丸城は、本丸、明神《みようじん》の丸、御蔵の丸、水の手丸、椎《しい》の丸、小倉の丸の六塁より成り山城に属していた。山城とは山頂を平坦《へいたん》にして城を築き、尾根につづくところどころに塹壕《ざんごう》すなわち空壕《からぼり》をつくる。平坦部の城は里城という。口碑には十三の丸または七つの丸があったともいい、いま残るは北城の牙城《がじよう》であるといわれている。城下に、本町、西町、横町、北町、船戸、下町などの地名があるのは昔を物語っている。  ——その昔、六の丸神社は城山の明神の丸に鎮座していたのを現在の山麓《さんろく》に移した郷社である。平安朝初期の御神像が祠《まつ》られてある。  ——六の丸城主は初代の城主長房より吉野朝廷に純忠を捧《ささ》げた謂《い》わゆる山岳武士で勤王方を誇りとしておった。七代の城主成祐は天正十年十一月七日、夷山《えびすやま》に於《おい》て討死した。天正三年の秋、土佐の長曽我部元親《ちようそかべもとちか》はK方面より侵入、城主東条関久を結婚政策で自党に入れ、七千の大兵を率いて六の丸城を攻撃した。しかしながら城兵よく戦い、天正十年の秋、元親は城主成祐に和を乞《こ》い成祐を夷山に誘導した。元親は鎗《やり》をもって成祐を突いた。成祐の家臣は城山に立籠《たてこも》ったが、元親のため城を焼打ちにされ、城兵は一兵も残さず討死した。  以上のような甚《はなは》だ簡単な記録である。しかし私は「一兵も残さず討死した」というような表現に満足し、校長さんに見送られて学校を出た。  城山の麓には、山つづきの段々畑がある。私がその段々畑の間の坂路にさしかかると、後から六の丸神社の社主の母親が来て「もう直きに祈願式がすみますけ、お茶でも飲みながら待っとって下さい。息子《むすこ》が御案内しますけん」と云った。それで再び神主のところに引返し、神主が村の人たちと酒を飲んでいる隣の部屋でお茶の御馳走《ごちそう》になった。  神主の母親は至って話好きの人で「わたくしの夫が生きていたら、城址のことはよく知っとるのですけんど、息子はあきまへん」と残念そうに云った。「わたくしの夫は日露戦争の勇士でして、わたくしところの鎗や刀を前の聯隊長《れんたいちよう》に差上げました。わたくしところは六の丸城主の家臣の末裔《まつえい》でして、城が焼け落ちたとき、逃げ出した乳母《めのと》の子がわたくしのうちの先祖だと云います。何でも城が陥ちたとき、女子供は山の上の池に身を投げたと云いますが、わたくしの夫が生きていたころは、秋になるとその池で女子供の泣声がしてました。息子の代になってからは、そんな阿呆《あほ》なことはないと云うようになりまして、もう泣声はきこえなくなりました。こんな工合に昔の歴史がだんだんになくなって行きますけん」と神主の母親は慨嘆した。  やがて神主が来て「お待たせしました、御案内します」と城址見物の案内に立ってくれた。神主は白い衣服の下に長バッチを見せ、白足袋《た び》に草履《ぞうり》をはき中折をかぶり、ステッキをついていた。城址に登る裏路は胸をつく険しい山路である。神主は「これが昔の街道でがんした」と云い「この城山のお城は、お米蔵が表口にあったのが欠点でした。そこに火がかかり、城兵はどうも出来ませなんだ。それに城主が元親のために暗殺され、あとは家臣だけで駄目でがんした」と云った。山上に近くなった坂路の途中、青麦の山畑のなかに大きな石がころがっていた。附近に矢竹の藪《やぶ》や、石だたみや、壇になっている地面や、窪《くぼ》みになっている地面があった。神主はステッキでそれ等《ら》をいちいち差示して「あしこの麦畑のなかの石は、城の礎石でがんした。あしこのタタキの上は水だめでして、この山合に貯水池をつくっておったのです。この池に女子供が身を投じたのでした。あしこの竹林の竹は、矢につかっておったそうです。この山の頂上は全く平坦でして、あれが椎の丸、あの尾根が小倉の丸、あの尾根が本丸、この池のうえが水の手丸で水番所でした。あれが家老の御蔵の丸でした」と神主は尾根のそこかしこを差示した。実際、小高い山がみんな砦《とりで》になっていた形跡があった。本丸の跡という尾根は一ばん高く、その背後は尾根が沈んでまた高くなっていた。神主はステッキで一望の風景を差示し「この城は千早城にも勝《まさ》るもので、要塞《ようさい》の人や軍人がたくさん研究に来ましたし、また歴史家も二三来たでがんすよ」と云った。いろんな鳥がたくさん飛んだり鳴いたりして、松茸山《まつたけやま》なので囲いがところどころにしてあった。神主は「古城址というより、近時は松茸狩で女子供の遊び場所になりました」と云い「昔のままだと、ここは大きな城下町でしたのに、もうあきまへんよ」と云った。  山上には、昔のままに石崖《いしがけ》が残っていた。見晴しが無類に上等で、遠く西の方の平野に大きな川が流れ、街道には荷馬車やバスが通っていた。東の方は海である。  神主は山麓に見えるこんもり茂った森を指差して「あしこの、田の中に森が見えるでがしょう。森のなかに赤い華表《とりい》が見えるでがしょう」と云い「あしこの森が、この山城に対し本城の里城でがした。あのお社《やしろ》の横にまわっている用水堀が、昔の内堀だったそうです。お社の東にある小川の橋のところが舟戸でがして、舟着場の石段が川に残っています。この山の麓には、西町、北町という地名もありまして、しかし今は田畑のなかにあります。実に、国破れて山河ありでがすな」と神主は咏嘆《えいたん》した。  微風が神主の白衣をなぶり、彼は私のために親切に説明したが私は次第に退屈になって来た。明神の丸にあがると山上は平坦になって、昔はここにも城砦《じようさい》があったということである。すでに神主は感傷的になっており「ここに沢山の戦国武士が立ち、それから坐り、話をしたり笛を吹いたりしたのかと思うと、まるで夢のようだすな」と云い、そうして彼はお蔵跡の小石の散らばっている地面をステッキで掘り起し、黒くなった一粒の麦を拾って見せた。麦のくびれたところがはっきりと見え、それは土に埋まったまま何百年後の今日まで一粒の炭となって残っていたものである。私も感慨無量であった。  夕方ころ事務所に帰ると、大阪の大地恵巡査という人から復命書が届いていた。この復命書はたいへん私の気に入った。これは先日、村山千吉さんが私気附によこした問合せの手紙に対する返事である。  先日、私が巡回から帰って来て、たくさんの身許《みもと》調査や事変関係の書類を見ていると、その書類のなかから難波医院の炊事をしている千吉さんのよこした往復葉書が現われた。多甚古村、難波医院内、炊事係主任、村山千吉拝と署名して、宛名《あてな》は私気附で大阪某々署人事相談部様としてあった。左のような文面であった。 拝啓、早速乍《なが》ら御多忙中の処《ところ》甚だ申兼ね候えども、小生儀、左記に勤務中の者に有之《これあり》候が、同封の大阪某区某町何番地、金田組本店金田金助様は真面目《ま じ め》な職業の人に候や、また紹介業に候や、御尋ね申上候。紹介業に無之《これなく》候際は、小生こと金田様の店にて働く心算《つもり》に御座候故《ゆえ》、御手数乍ら御内密に御調査の上、御一報賜り度《た》く此《この》段御願い奉り候。敬具。  千吉さんは用心深い人だから、自分の行く就職先が不正なところかどうか、あらかじめ大阪の人事相談係に問い合せておこうというのであった。私はその往復葉書を封筒に入れ四銭切手一枚を添加して大阪へ郵送した。たぶん大阪の人事相談係も多忙中のところ、こんな願書を持ちこまれて困ったことだろうと思われるが、署長さんは部下の外勤巡査に命じて調査させている。外勤巡査の大地恵という巡査に宛てた隠密裡《おんみつり》に調査すべしとの別紙の書類が封入され、更に当人の大地恵巡査の丁寧懇切な復命書が封入されてあった。この復命書が大へん私の気に入ったのである。さすが大阪は大都会で、なかなか話せる巡査がいるものだと頼もしく思った。  その復命書は文字も感じよくこなれていて、文章も男性的で含蓄ある風趣を存していた。 依命、別紙照会方の件に付ては、部内金田組本店金田金助氏は別添封筒表面の肩書に相違なきも、元来大変なインチキ組であって、肩書に土木建築、海陸運搬、塗料製造、鉱産物請負販売、本店支店工場と区別あるも、事実そんなものではなく裏長屋の土方人夫供給所と思えば間違いないのである。バラック小屋に人相の悪い土方人夫がごろごろしている。肩書には三つも電話があるけれど、電話なんか一つもないのである。本職に於ては嘗《かつ》て金田金助氏なるものを詐欺容疑で取調べた事実あり、同人は前科ある男にて要注意の中心人物である。同人は人夫供給等を為《な》し居る模様なるも、主として土木建築等の雑役夫を供給し居り、これら人夫は金田組の合宿所に宿泊し、失業者並びに地方出の就職先の無き者も不時に相集まり、労務に得たる給金は其《そ》の殆《ほとん》どを女郎買いに飲食費に部屋代に支払いて、止宿人中には前科者あり、悪病保菌者あり、泥酔常習者あり、素行悪《あ》しき者の合宿せる所にして、不潔不正、言語道断である。本職等の視察するところにては、人間たるもの斯《か》かる組合に加入すること不可なりと考える。況《いわん》や地方にありて確実なる職業にある者、敢《あえ》て上阪を求め斯かる曖昧《あいまい》なる労役に従事すべき迄《まで》も無之、平和なる農村にて悠々《ゆうゆう》その生活を続けると共に志を養い、ときたま花鳥風月に心を寄せられること幸甚《こうじん》と思料せられ候条、御参考迄に御容子《ようす》御報知申上候。右、復命候也《なり》。  私はこの復命書を一読し、これを書いた大地恵という巡査は愉快な人で親切で、やや老境に近い人で、勤務に誠実勉励される人であろうと想像した。そしてこの人はいつか退職されたら平和な故郷の農村で花鳥風月を楽しみたい希望を持っていなさるのでないかと想像した。文中「敢て上阪を求め」とあるのが特に私の気に入ったが、この人は農村の青年が都会に出るのを喰《く》い止めたいと思っている人にちがいない。  私は復命書を伝達するために難波医院の千吉さんを訪問した。  千吉さんは大釜《おおがま》に明日の朝の飯を仕掛けていた。三十歳前後のおとなしそうな人相の人だ。私が復命書を読み終ると、彼は「そうですか」と云って考え込んだ。「行くかね」とたずねると「滅相もない。ここで働きますけに、先方へお礼の葉書を頼みますわ」と云った。これで大地恵巡査の文章は効果があったわけで、多忙中よく書いて来て下された甲斐《かい》があった。私など忙しいときは、この種の調査は一行か二行で片づける。大地恵さんのように小さな仕事にも熱情を傾け丹念《たんねん》に御調査なさるのは、立派なことであると私はまだ見ぬ大地恵さんを尊敬した。  千吉さんのところから帰りに私は役場に立ち寄って、大阪には大地恵巡査という現代の真の英雄があると温帯さんに吹聴《ふいちよう》した。すると温帯さんは「そりゃ署長さんの命令やさかい、丁寧に調べたんやろ。町の巡査は、いろいろさまざまやけになあ」と云った。  今日は温帯さんはぐったり疲れていた。村には公衆電話がなく、その上に電話を引いている人がすくないので、近所近辺から役場へ電話を借りに来る。まだそれはよいとしても、どこからか電話がかかって来た用件を、温帯さんは何度でも自転車に乗って通達に行く。  温帯さんが「今日は、もう十二回も通達に行ったのや。相当くたぶれるわ」と云っていると、岡部さんの女房が来て「牛乳が一本いるけに、直《す》ぐ送って下されと牛乳屋へ云うて下され」と云った。「よッしゃ、牛乳屋へ牛乳」と温帯さんは潔《いさぎよ》く電話をかけた。暫《しばら》くすると、渡辺さんのおかみさんが駈けこんで来て「子供が急にいけぬけに、難波さんへかけて下され」と云った。「よッしゃ、難波さんへ至急」と温帯さんは潔く電話をかけた。暫くすると今度は電話がかかって来て、工場成金の浮田家へ法事の時間を伝えてくれという通達の電話がかかって来た。温帯さんは「儂《わし》ゃ一文にもならんのになあ、呆《あき》れるわ」と云いながら、それでも嫌《い》やな顔もしないで土間から自転車を引きだして行った。  温帯さんが浮田家から帰って来ると、それを待ちうけていたようにまた電話がかかって来た。松本さんの息子に町の親戚《しんせき》の叔母から直ぐ来てくれという電話であった。温帯さんは「はい、かしこまりましたよ」と云って電話をきると「松本の息子に、町のカフエの女からかけたのや。松本のうちは町に親類なんかないのじゃわい。怪《け》ったいなこと吐《ぬ》かしよる」と云って坐り込んだ。松本の息子というのは東京の大学高等学院の文科の学生で、春休みで帰省中の者である。思想的には無難らしいと思われるが、毎日のようにバスで町へ出かけて行き、たいてい終バスで村に帰って来る。温帯さんは煙管《きせる》で一ぷくして「どれ、伝達に行ったろう」と云ってしぶしぶ立ちあがり「儂は交換手と同じやけになあ。しかし、警察官たる寒帯さんがとめるなら儂は行かんつもりじゃ」と云った。咄嗟《とつさ》に私は「もし温帯さんが交換手なら、儂は引きとめるわけには行かんやろう」と云った。「では、一ぷくしながら考えまひょう」と温帯さんはまた坐りこんで煙草をすい「松本のうちは、儂のお袋の義妹の叔母がお嫁に行った家やけに、親戚や。だから親戚の災難を防ぐため、儂は伝達に行かんことにする」と云った。そして「この理由なら、儂は罪ではないやろう。こんなとき警察官は、儂をどう扱うのや」と云った。「大学生と女給の情事の取次は大問題だが、温帯さんは何だか伝達に行きたいのやろう。そりゃ寧《むし》ろ悋気《りんき》やなあ」と混ぜかえすと「そんな、ばかなことあらへん」と打ち消した。「しかし女給に呼び出される大学生は、温帯さん羨《うらや》ましいこっちゃと思うやろう」と云うと「寒帯さん自身が、そう思うのやろ」と云った。私たちは声を合せてげらげらと笑ったが、今日は休日気分で気が堕していたように思われる。    多忙多端な日  四月二日  表で「お早うぐわすけに」と声がした。「旦那《だんな》、まだおやすみですかい。お早うぐわすけに」としきりに私を呼び起す声がした。「春眠暁を覚えず」とは、このことだろうと目をこすりながら出てみると、しかし太陽はまだのぼっていなかった。濃い朝霧を背に、下駄小工場の浜田さんが洋服下駄ばきでしかつめらしい顔をして立っていた。「何やなあ、こんなに早く」とたずねると、「おやすみのところ、すまんこっちゃけんど、ちょっとお頼みにあがったんでぐわすわ」と云う。「いま何時や」ときくと「へい、五時少々だすけに」と云う。「何ごとやなあ」と重ねてたずねると「へい、実は私の留守に三四日前のことだすが、私とこの飼犬のクロのやつが、野菜売りの婆さんにくらいつきよったのや」と云う。「狂犬か」と意気込むと「いや狂犬やないけんど、その婆さんが初めに、速成のサンド(豆)いりまへんか云うのを家内がいらぬと云いよると、サンド婆さんが買《こ》うてくれ買うてくれと云いかけよったのや。すると婆さんの恰好《かつこう》がきたないので、クロが吠《ほ》えよったんやが、家内が婆さん走らんといてや、走ると追いかけて噛《か》みつくよってにと頼むのに、婆さんが走ったのでクロが追いかけたのや。ちょっと足に噛みついて、ちょっと歯型がついて、血は出ぬのに婆さんはへたりよってからに、わあもう動けぬ、もうサンド売れぬ、みな買うてくれと云うよってみな買わされてしもたのや。その代金三円余でぐわして、おまけに医者に連れてってと云うので医者にみせたるところ、医者がたいしたことないというのに、見舞をよこせと云いよるし、見舞よこさにゃ動けぬのやと云いよるのや。他《ほか》でも犬に噛まれたときは、何円か貰《もろ》うたと呶鳴《どな》るのや。それでサンド代しらべたら、一貫四十銭のものを二円も出さされとる。あまりにも嫌《いや》らしゅうて、その上ケントが悪うて仕様《し や》ないけに、旦那に話して貰うたれと家内が云いよんのやけにな、どうかお願いしたいのや」と頭を下げた。  私は返事に困った。これはサンド婆さんの恐喝《きようかつ》にもなりそうでもあり、そうかといって被害を肉体的に蒙《こうむ》ったのは婆さんである。犯人が犬だとすると、自然その責任は飼主に問わねばならなくなるし、犬は鎖につないでおけという規則がある以上、放っておいたのはよくないことだし、といって大した傷でもないのにつけこむのは面白くない。困った問題なので私は暫《しばら》く放置しておくに限ると思い「婆さんが金をよこせと云ったのか」とたずねると「それは云わぬのや、見舞をよこせと云うたのや」と云う。「では、金をよこせと云うて来たら、駐在のところに行こうと云えばよい。そうしたら、あまり無茶も云わぬやろう。腫《は》れものにさわるようにすると、却《かえ》ってつけ上るのが人情らしいけんなあ」と云うと「へい、左様で御座いましょうけんなあ。じゃ、そんなにしておきまひょう。有難うぐわすけに」と頭を下げ、浜田さんは手に持っていた中折帽をかぶって帰って行った。たぶん浜田さんは昨夜おかみさんに、明朝は起きぬけに駐在に行って来いと云いつかったに相違ない。  もう寝るわけにも行かないので、寝床をくるくる巻いて押入に入れ、室内を掃き、水を打ち、雑巾《ぞうきん》がけをして、顔を洗い、七輪で飯をたき、同じその七輪に味噌汁《みそしる》の鍋《なべ》をかけた。それから朝の第一番目のバットをふかしていると「旦那はん、おるかね」と女の声がした。出て見ると、ちょっと頭の狂っているオシチさんが、髪を乱し紺絣《こんがすり》の着物をだらしなく着て立っていた。顔の青くむくんだ四十余りの女である。「オシチさん、どうした」ときくと「旦那はん、じじいがまたわたいを締め出すのや」と云った。じじいというのはオシチさんと最近いっしょになった独身ものの七十の老人で、気の狂っていない百姓である。「じじいが、どうしたんや」ときくと「じじいが、わたいの臍《へそ》くり十円とって、わたいに出て行けと云うんや。いつでも出て行ったるけど、さんざんわたいを慰みもんにして、金をとって出て行けと云うのはあんまりやもん」と云う。「じゃ、追い出されたのか」ときくと「へい、じじいがわたいを追い出したのや」と云う。これはうっちゃっておくわけにも行かなかったので「ともかく、そこで待っとれ。急いで飯をくってから、話をつけに行ったろう」と私は急いで朝飯をたべた。御飯に味噌汁をかけ、茶筅《ちやせん》をつかうように箸《はし》で忙しく飯を口中に掻《か》き込むのである。  オシチさんの家は、ぽつんと田圃《たんぼ》のなかに建っている藁葺《わらぶき》の一軒屋である。じじいは縁側に腰をおろし、火の消えた太い煙管《きせる》をくわえて苦りきっていた。「おい、じいさん。女房の臍くりを巻きあげて、女房を追い出すのはいかんやなあ」と私が咎《とが》めると、じじいは目をまるくして「や、そりゃ何のことだす。オシチ女郎のことだすか。そんなら話が大違いや。儂の臍くり十円を、今朝《け さ》オシチ女郎が儂にくれ云うたのだすが、儂はまあ考えてみると云うたのや。話がまるで大違いだす」と云い、「おい、オシチ女郎、われは何をぬかしたのや」と煙管で縁框《えんがまち》を打った。オシチさんは私のかげに身をかくして「それでも、じじいはわたいを追い出したやろう。わたいを家のなかに入れてくれぬやろう」とじじいに云い返した。じじいは立って来て「こら、何をぬかす。家をとび出しちゃいかんと云うに、自分で家をとび出して、人に罪をなすりつけるわ。もう容赦ならんのや」と敦圉《いきま》いた。  私は「やあ待て、じいさん、大体、儂にも話がわかったわ。お前はオシチさんに家を出るなと云う、またオシチさんは家のなかにはいりたいと云う。それで万事円満だ。何で騒ぎたてる必要があるのやろう」と、じじいを押しとめてオシチさんに「お前、家のなかにはいったらどうや」と云うと、オシチさんは「それでも、入口の戸が締っとるんだもん」と云った。しかし入口の戸は錠がかかっていなかったので、私が戸をあけて「さあ、はいるのや」と促すと、オシチさんは「いやあ、じじいが追い出すんだもん、駄目や」と駄々こねた。じじいは「こらオシチ女郎、はいらんか」と云い、私も「おい、無茶を云わずにはいらんか」と叱《しか》ったが、オシチさんは「追い出すんだもん。追い出すなら追い出せ、出てったるけに」と云って逃げ出そうとした。私は彼女を逃がさぬように手をひろげ、じじいも手をひろげて、私とじじいは協力で彼女を戸口のなかに追い込もうとした。それはあたかも逃げる〓《にわとり》を〓小屋のなかに追い込むのにそっくりで、私とじじいが追いかけると彼女は私の手をすりぬけて、じじいの手首に噛みついた。「痛い、何するのや。そんなに出て行きたくば、出て行け、戸を締めたるけに」とじじいは腹を立て、彼は土間のなかに駈《か》けこむと戸をしめて錠をかけた。オシチさんは「わあ、じじいめが、わたいを追い出したあ」と喚《わめ》いて戸をたたき、今度はじじいが縁側の雨戸を入れると、彼女は土足で縁に駈けあがって雨戸をどんどん擲《なぐ》りつけ「わあ、追い出したあ。わたいをさんざん慰みもんにしてからに、じじいがわたいを追い出したあ」と泣き喚いた。全く困った代物《しろもの》である。田圃のなかの一軒屋だからよいものの、これが往還沿いの家並ならたちまち人だかりがする。  私が手のつけられない思いで成行きを見ていると、田圃の細道から自転車で役場の温帯さんが駈けつけて来て、「大変や、どえらいこっちゃ」と云いながら自転車からおりた。「何ごとやね」と傍《そば》へ駈け寄ると、温帯さんは息をはずませて「本署の外勤監督主任ちゅうのから電話で、隣村へ直《す》ぐ急行せえと云うことや。いま心中者があったそうで、その非国民の片割れの一人は助かるかも知れんちゅうこった。あんた、この自転車で直ぐ行きなはれ」と云い「場所は、石橋の手前の二階屋だそうな」と云うので「有難う。では自転車を借りた」と私は温帯さんの自転車にとび乗った。後から温帯さんが「今日《きよう》は事件が夜に入るかもしれんそうだけんど、財布《さいふ》は持ってなさるか」と注意してくれた。私は「財布は持っとる」と云い残し、自転車を走らせて田圃の細道を駈けぬけて往還に出た。  走る走る。調子の悪い自転車はがたがたと鳴り、私は体じゅうが汗ばんだ。先《ま》ず、役目が私を走らせるのか、私が役目を追うのかどちらかであるが、私は全力のフルスピードを出して自転車を走らせた。近道をして往還から南に折れ曲ると、私の追い越した自転車の一つが私を追いかけて来て「甲田さん、きっそう変えてどこに行く。何かありましたか」と云うものがあった。見れば多甚古村の村議大岡さんである。「南の隣村へ行きます。心中です」と答えると、大岡さんは「隣村だと、先ず安心」と云って速力を落した。しかし後を振りかえると、物好きな人が四人も五人も私の後を追いかけていた。  夜、下駄小工場の浜田さんとサンド売りの婆さんが、この原告被告が打ちつれて私に裁判を願いに来た。婆さんは年のころ六十前後で強情な人間らしい最初の印象であった。ところが婆さんの住所姓名をきき、年齢をきき、それを手帳に書きとめていると、婆さんはしくしく嘘泣《うそな》きをやり出した。「婆さん、何で泣くのや、わしゃ叱っとるのやないで」とたずねると、サンド婆さんは「へい、何やらもうあかんわ。こりゃ取下げにしてもらいまひょう。大きにお邪魔しましたわ」とお辞儀をして出て行った。私と浜田さんは顔を見合せたが、或《あるい》は婆さんには恐喝の前科があるのではないかと思われた。それとも各所の駐在に呼びだされた経験で、駐在は苦手だと諦《あきら》めたものかもわからない。浜田さんに「妙な婆さんやなあ」と云うと「へい、妙な婆さんでぐわすなあ」と云った。「あんたは、あの婆さんを無理やりここに連れて来たんやろう」とたずねると「へい、あまり執拗《しゆうね》く、見舞金をくれと云うもんやでなあ」と云った。  浜田さんが帰ってから統計表に記号を入れていると「駐在さん、駐在さん」と云う声がした。入口の戸をあけると、黒い作業服をきた請負師の黒田が立っていた。この男は賭博《とばく》の前科もあり、詐欺横領の前科もあって人々の爪《つま》はじきにされていて、不正な利得による収入で今では土地も金も少しは持っている。私たちの注意を要する人物である。「何じゃね、夜分に」とたずねると「へ、実は私とこの所有地の用水に、土を入れて困るものがありますけに、説諭をして貰《もら》いたいのや」と私の顔色を見て「畠のなかに鑵詰《かんづめ》工場を建てると云いよって、その敷地へ行く通り道にすると云うて、私ところの用水を埋めとるのや」と云う。「土地の境界争いなら、儂には面倒で手はつけられぬけど、裁判沙汰《ざた》にならぬものやったら見たるよ」と云うと「どうか頼みます。今夜も、夜業で埋めとりますきに、一つ見て下はれ」と云うので、私は懐中電燈を持って黒田の後について行った。  鑵詰工場の敷地は野良《のら》のはずれにあった。溝《みぞ》を越える木橋を幾つも渡って現場に行って見ると、麦畑のなかで地盛りの夜業が行われており、十人あまりの土工がいた。その敷地の南から東にかけて幅六尺ばかりの小川が流れ、大体この小川は水田の用水となって大川に流れ込んでいるため、土地の動脈の一つのようなものである。それが見るも無慙《むざん》に埋められて黒土の道が作りあげてあった。懐中電燈で仔細《しさい》に点検して「こりゃ、ひどいやないか。そこにおる連中のうち誰か頭《かしら》だった者、ちょっとここに来う」と土工たちに呼びかけると、空色の作業服をきた三十五六の精悍《せいかん》な顔をした土工がやって来て「や、旦那ですか」と云った。「こりゃ、いかにもひどいやなあ。埋めなくとも橋をかけるという法があるやないか」と咎めると、その土工は「ところが旦那、重い木材を積んで車を曳《ひ》くけに、橋ではたよりないのや。そのくらいのことは、土木に関係のあるものはたいてい知っとる筈《はず》や」と云って、傍にいた黒田の方に向きなおった。黒田は「しかし、儂は埋めるなと云うて置いたやないか」と土工の方に向きなおった。それで土工が「なに、生意気な」と肩をいからして「同じ建築仲間でわからぬことを云うな。ちゃんと初め手筈《てはず》をお前の方に案内してあるし、お前はこの仕事をお前に請負わされぬけに、横槍《よこやり》を入れるのやろう。けち臭い根性は止《や》めにせえ」と大きな声を出すと「誰がこの仕事を請負おうとも、儂は賛成やが、用水を埋めることだけは賛成でけぬわ」と黒田も大きな声を出した。「まあよい、喧嘩《けんか》は後にしてくれ。とにかく用水埋めは穏やかでないぞ」と土工に云うと「へい、後で橋をつくるのですが、僅《わず》かの間やけに」と云う。「いや、いけぬ。橋にしなさい」と云うと「ですが、私は主人の云いつけによってしているので困ります」と云う。「では、お前の主人に、黒田が掛合えばよいやろう。そうすれば方法は幾らでもある」と云うと、黒田は「へい」と云って、どこかへ駈けだして行った。  土工はちょっと気まずそうにしていたが「旦那、すみませぬが、いろいろ他に事情もぐわしてなあ。黒田などにしてやられる建築屋は、いまどき一人もおりませんのでなあ」と云った。私はこの土工を強く咎める必要を感じたが「とにかく、この用水を埋めると、迷惑するのは村の人やからなあ。黄河の決潰《けつかい》作業と同じことやろう」と云い置いて引返して来た。  四月五日  耳鳴りがして耳のなかが痛いので、難波さんに診察して貰うと中耳炎だということであった。  難波さんは私に絶対安静を要すると云い渡した。  平太先生と眼界師が、難波さんからきいたと云って私の病気見舞に見えた。平太先生は「この俺《おれ》が、駐在君の病気がなおるまで村の盗難を未然に防いでやる。夜更《よふ》けて、村をぶらぶら歩いておればよいわけじゃ」と云った。眼界師は上司への書類を代筆してくれ、ついでに「勿叱雨罵風」という格言を書いてくれた。  温帯さんは本署へ電話をかけてくれた。  四月六日  午後、本署から同僚の杉野巡査がやって来た。私の耳がなおるまで、私の事務代理を勤めてくれるのである。    水喧嘩の件  六月七日  今日は私の病気恢復《かいふく》後における仕事始めの日であった。午後、杉野君が引きあげて行ってから、私はよごれめのない白ズボンをはき、杉野君が磨《みが》いておいてくれたサーベルをさげて徒歩で村内の巡回に出た。学校前で近藤さんに出会すと「旦那、もう病気はよいのでぐわすか」と私を慰問してくれたので、私が「もう、すっかりよいのや」と答えると「それにしても、今日このごろのお天とうさんには困ったもんや」と慨嘆して「梅雨《つ ゆ》になっても、さっぱり雨がないけに、北分《きたぶん》の私んとこでは田植が出来まへんわ」と云った。  北分では、いたるところ田植前の稲苗が黄色く枯れかけて、往還沿いの一つの苗代《なわしろ》は水が乾《かわ》いて土が白くなっていた。しかも空には一片の雲もなく、じりじりと陽《ひ》が照りつけるのである。この状態が一箇月も継続すると、この辺の稲作は全滅してしまう。  南分の山際《やまぎわ》の方に行ってみると、田に水がまわっていて稲苗も青々と伸び、ところどころに農婦たちが紺の股引《ももひき》に紺の脚絆《きやはん》をはいた田植姿で苗を植えていた。しかし水が一般に不自由であるということでは、どうも田植気分になれないと見え、誰もみなしんねりむっつりと苗を植えていた。田植唄の声など薬にしたくもきこえなかった。  いったい南分の山際の土地は地味が肥え、大木の茂っている山から水が潤沢に湧《わ》き出ている。山畑の葉煙草もよく成育し、百合《ゆ り》や、トマトや、胡瓜《きゆうり》や桃も上出来のように思われた。  私はゆっくり歩いて村内を一巡し、夜の八時ごろ事務所に帰って来た。帰途、水神様の社前に火の手が見えるので行って見ると、社前に大勢の人が集まって、そこに積みあげた薪《まき》に油をかけて燃やしていた。その薪の四方には竹矢来をめぐらして四隅《よすみ》に青笹《あおざさ》を立て、行者が法螺貝《ほらがい》をぶうぶう吹き鳴らし、狂的に身を振り動かしていた。それに和して大勢の人が数珠《じゆず》をもんだり或は手を合したりして焚火《たきび》に向って礼拝を行っていた。この雨乞《あまご》いも一向に利目《ききめ》がなさそうで、海からも陸からも風がなくて満天の星であった。  帰って来て遅い夕飯を食べていると、役場の温帯さんがのっそりはいって来て「気分はどのようだすか。無理しちゃあかんな」と云った。「いや、もうすっかりよくなった。温帯さん、あがってお茶でも飲んで行き」と云うと「さよか、ではちょっと、お邪魔しまひょう」と茶の間にあがって来て「ところが寒帯さん、今晩もまた小ぜりあいがあったっちゅうわ。何たら仕様ないこっちゃろう」と顔をしかめて腕をこまぬいた。今晩もまた水喧嘩があったというのである。  私は昨日まで病気休養して、ながいあいだ事務を杉野巡査に代行してもらっていたが、その期間すでに五件の水喧嘩があった。怪我《けが》はみな掠《かす》り傷くらいで大きなのはなかったが、杉野巡査も仲裁に行って帰って来るたびごとに「この村は難しい村やなあ」と云っていた。こちらが仲裁に立つと、双方ともお上の沙汰《さた》にしたくないので表面は仲なおりをしてみせる。こちらが引きあげると直ぐに掴《つか》み合う。警察はただ表向きの存在だと考えている傾向がある。そうかといって、警察としては棄《す》て置くわけに行かないのである。彼等は水不足で西分の山際の方の用水の堰《せき》を切って川下の方に流すのだが、山際の方では堰を切られると田が涸上《ひあが》るので夜昼となく見張の番人を交代で出している。それを川下の方の若者たちが闇《やみ》にまぎれて水泥棒に来て、身を地面に伏せて堰のところへ這《は》い寄って行く。その若者たちは堰が切れると再び匍匐《ほふく》して逃げ去るが、番人たちの方では水の動きでそれと気がついて、人影を見つけ出して殺到する。そうして格闘になる。このままうっちゃって置くと由々《ゆゆ》しき大事件が起るにちがいない。  私は勇を鼓して大々的に仲裁に立つ決心をした。国家総動員のこの非常時に、もし村が乱れたらそれこそ一村だけの問題ではない。私は温帯さんといろいろ相談して明日の手筈をきめ、明日は昼間のうちに村内の有志に廻状をまわすように温帯さんに依頼した。温帯さんは「よろしい、村の安寧秩序のため大いにやりまひょう。村長さんや地主さんは、人に憎まれるのを怖《おそ》れとるから駄目や。われわれの独力で大いにやりまひょう」と颯爽《さつそう》として帰って行った。  六月八日  昨夜、温帯さんが帰ってから私は廻状を書き、七通ほどそれをガリ版に刷った。温帯さんは朝早く来て、そのガリ版の廻状を村内の有志の面々に配布してまわった。左のごとき文面の廻状である。 謹啓、時下益々《ますます》御多勝の段、賀し奉り候。然《しか》るところ昨今は旱魃猖獗《かんばつしようけつ》を極《きわ》め用水決潰《けつかい》の暴挙しばしばくりかえされるは至極残念に存ぜられ候。そもそも用水なるものは村の所有物にて、その運用は一警官の容喙《ようかい》すべきことにはこれなく候えども、用水決潰のため発生する傷害事件は警官の取締るべきところに御座候。依《よ》って村内有志諸賢と一応談合つかまつりたく、何卒《なにとぞ》お誘い合せの上、今晩七時を期して当駐在に御足労ねがいたく、右、此《この》段御申入れ仕《つかまつ》り候。以上。   六月八日 甲田雅一郎    有 志 各 位  夕刻、定刻の七時になると、利吉、九平、茂十、種吉等七人の有志のほか、これ等の老人は一族一党の若者たちを連れて続々と詰めかけて来た。私は漸《ようや》く駐在の事務室では狭すぎることに気がついて、お宮の社務所に会場を変更させて貰うことにした。お茶の給仕は温帯さんに依頼して、茶菓子の煎餅《せんべい》を一円ほど私が奮発した。  来会者は緊張して誰一人として無駄口をきくものがなかった。たいていの人は外出用の着物に夏羽織をきて袴《はかま》をはき、みんな静かにしていたが扇子をぱちりぱちりと云わせる音だけがきこえていた。やがて村会議員や警防団長もやって来て、つづいて村長もやって来た。来会者が五十人を越えたので「じゃ、ぼつぼつ始めます」と私は会場の一隅《いちぐう》に机を据え「皆さん、どうかお平らに頼みまっさ」と前置きして懇談的に私の胸中を披露《ひろう》した。 「本日は、御多忙中のところ、わざわざ御苦労でありました。廻状にも書いて置きましたが、今夜、ここに来て貰ったのはほかでもないのやが、用水の件について皆さんに相談もしたり話合いもしたくなったので来てもらいました。私が云うまでもなく、農耕者に水が生命と同じこと大切なのはわかりきっている。このごろのように毎晩の雨乞いを見ても、どんなにか熱心に雨を求めていることがわかる。結構な田を持っていたとて、水がなければ田植も出来ぬ。また出来たところで枯れてしもうて何にもならん。これは私が申すまでもないことでありますが、ところが肝腎《かんじん》な雨が一滴も降らぬ。隣村にも、またその隣村にも水争いが起っている。貝田村など瀕死《ひんし》の重傷者が二名、死者が一名あったということで、いま貝田村では大騒ぎをしているというではないか。この国家総動員の非常時に、このような不祥事がこの村にもあったとしたら、それこそ由緒《ゆいしよ》ある村の歴史に傷がつき、祖先のためにも申しわけない。その上に、国家に対して相すまぬ。また出征している息子さんや兄弟たちに対しても何と云うてお詫《わ》びしてよいか。また私も村の警察をあずかっている以上、職を賭《と》して申し開きせにゃならんと思う。皆さんにお願いしたいのはここだ。せんだってから六件も小さい水争いがあり、些細《ささい》の怪我人もあったということです。いまに貝田村の二の舞が起らぬとも限らぬではないか。今度お集まりの人々は、村の中心勢力であり、熱心に村のためを思う人たちばかりだと思う。微力な私の招きにお集まり下さったのは、たしかに村のためを思っていなさるからだと思う。私は堅くそう信ずるが、どうかお願いしますから、用水をどうしたらよいかという問題と、如何《い か》にすれば水喧嘩をなくすることが出来るかということについて、皆さんの忌憚《きたん》のない意見をきかして下され」  私が云い終ると、みんな拍手をした。私は村会議員の宮田氏に「どうか宮田さん、議長になって下され」と頼んで議長になってもらった。  宮田さんが立って来て机につくと、いきなり利吉さんが「議長」と云って立ちあがった。「利吉さん、どうか発言しなされ」と議長がいうと「はい、お許しを得まして僭越《せんえつ》ながら申し上げます」と利吉さんは一座の人に敬礼して「いま甲田はんの云わるる通り刻下の急務は用水のことだす。(このとき私が「皆はん、煙草をのみなはれ」というと、たいていの人が煙草をとり出して喫《す》いはじめた)実に急務は用水のことだすが、甲田さんが村を思い国を思うの気持はよくわかりましたので、老人はどうも涙もろいものだして、よい駐在が来たものや、これならまだ村は安泰やろうちゅう気もしましたけに、もともと資源愛護ちゅうことが喧《やかま》しいときに、一軒の不作はそれだけ国が衰えるちゅうこってに、助けたい助かりたいというのが本当やが、理窟《りくつ》と実際は違うのでがしてからに、おのれの田を不入りにしてまで他人を助けたいと云う者は一人もないのでがして、困ったものでぐわす。対策として、私の田の方は水が充分にあるし、村には発動機が二台あるのでぐわして、私の田の水溜《みずだめ》用水から二台の発動機で村の人が共同で、いま水のない東分の方に水を送ってあげたいと思いまん」と言葉を切った。東分の人たちは口ぐちに「利吉はん、すまんこっちゃ、すまんこっちゃ、そいで助かりまん」とざわめいて、なかには利吉さんに向って手を合せ「すまんこっちゃ、すまんこっちゃ」というものもあった。利吉さんは得意そうな顔で座についた。  私は「議長」と云った。議長が「はい、甲田はん」と発言を許したので、私は立って「いまの利吉さんの義侠《ぎきよう》に、私は衷心から感謝します。利吉さんの英断によって海辺《うみべ》ちかくの東分一帯の地は雨が来るまで助かったのやけんど、山際の南分の方は水があるからよいとして、水のない北分の方がまだ解決していないと思いますけに、どうか利吉さんのように自己を空《むな》しゅうして、その対策を考えて下され」といって座についた。  西分の山際の連中は互に左右の人と相談を始め、青年が老人のそばに立って行ったり別の老人のそばに話を伝えに行ったりした。彼等は暫く真剣に内輪同士の打ちあわせをしていたが、やがて話がまとまったのか西分の長老格である九平老人が「議長」と云った。「はい、九平さん」と議長が発言を許可すると、九平さんは少し中風のように頭を絶えず微動させながら「只今《ただいま》の利吉さんの決断は、わたいも気に入りましたけに、西分の人等と相談して、わたいが代りに云いますけんど、だいたい甲田はんがよう云うて下はりましたもんやと感心しとりまん。甲田はんが云うたので喧嘩にならんのやけんど、もし今晩のような話が北分からじかにあったら喧嘩や。こないだ、わたい等の西分の若い者が、北分の者に擲《なぐ》られて寝込んでおる手前があんのやが、やっぱり正々堂々と話すのがよいのやと思う。困ったときはお互やから、喧嘩を買うのでも売るのでもないが、わたいも西分の総代として喧嘩はしとうない。そもそも西分の用水の件では、弘化二年の夏から北分とは流血の騒ぎがあったちゅうもんやで、わたいの祖父の時代に竹槍《たけやり》をもって突きあったこともあるのやし、近年も年ごとに北分と水喧嘩をやりあっとりまんのも、そのためやが、国家非常時に喧嘩は嫌《い》ややから、わたいの方から譲りまんが、こないだの喧嘩の若い衆の傷の手当は治療代を北分に頼みまん。用水の水は桶《おけ》に入れて水車で北分に入れたげまひょう。北分が水に困っとるのは西分かて察しまん、水の辛《つら》さはお互や。しかし、わたいのところの方にも四分は要《い》りまんよって、六分は北分にあげまひょう」と云って座についた。北分の水のない人たちは「すんまへん、恩にきるわ」などと口ぐちに云って拍手した。みな同じ部落の者同士、一つところに区分けして集まっていた。  北分の茂十老人は「議長」と云って立ちあがり「西分の九平さん、有難いこってす、助かりました。お礼を申します。それから甲田はん、利吉さん、すみまへん。私も若い者に喧嘩はすなちゅうてとめておりますが、若い者というものは、老人のする世話を煩《うる》さがって今度の喧嘩になりました。幸い、甲田はんの代理の杉野巡査はんが、喧嘩両成敗で軽くしてくれてすみまへん。西分の怪我人の手当は私の方が負担しますけに、それと水車を動かすには、私の方より若い者を出しますけに、それともう一つ、水のお礼金は村の共有財産の方にまわしますけに」といって座についた。  今度は議長が立って「皆さん有難う。これで解決がつきましたが、雨のあるまでの喧嘩でして、北分の茂十さんの方の寄附金は有用に使い、発動機を購入し、稲の脱穀機にも幾分まわしますけに」と述べて座についた。  私は一同の拍手に促されて立ちあがり「皆さん、難事件を一瀉《いつしや》千里に解決して下さって感謝します。幸いこれを機会に、多年の水喧嘩の習慣が改まれば何よりと思います」と謝辞を述べて座についた。  一ばん上席にいた村長が「みなさん、お手を拝借」と云ったので一同は坐りなおし、シャン、シャン、シャンと手を拍《う》って、みんな「どうも有難う」と口々にいって解散した。  一と仕事すんだ後の爽《さわ》やかな気持は格別であった。私が後片づけにとりかかると、温帯さんが「一時は、どうなるもんかと心配したけんど、先ず上出来や」といって後片づけを手伝ってくれた。そして温帯さんは、がらんとした広い部屋を見まわして「議長」と南分の利吉さんの声色を使い「もともと、資源愛護ちゅうことが喧《やかま》しいときに、一軒の不作もそれだけ国が衰えるちゅうこってに、助けたい助かりたいちゅうのが本当やが……」と口真似《くちまね》をした。温帯さんは機嫌《きげん》のいい子供のようにはしゃいでいた。 多甚古村補遺  多甚古村駐在の甲田巡査は多忙である。村の人たちは、甲田巡査のことを「駐在はん」または「旦那《だんな》はん」と呼んでいる。すこし理窟《りくつ》っぽいところが村の人たちには苦手だともいわれるが、しかし気受けの悪い巡査というわけではない。  甲田巡査は毎日、殆《ほとん》ど欠かさず日記をつけている。ことに多忙であった夜などは、却《かえ》って夜ふかしをして長い日記を書く。彼はそれをもって、疲労に対する抵抗療法だといっている。  左の文章は、甲田巡査の書いたその日記の一部である。    人命救助の件  十月三十一日  先日、村長が東分の海岸寄りの部落十軒に十円二十二銭を寄附したが、それが原因で不快な事件が持ち上った。東分には海岸に堅牢《けんろう》な堤防が出来ていない。先々月、海水が堤防を越え、畑の芋や大根やトマトが駄目になったので、村長は見舞金として村費の残りを寄附したのである。  ところが十円二十二銭を十軒で一円二銭あてに分け、残った二銭で喧嘩《けんか》になり、松さんが春さんに治療一カ月の見込の傷をつけた。すばしっこいが貧乏な春さんが二銭を素早く隠したので、大力だが貧乏な松さんが「二銭は村にかえすのや」というと「何を、二銭はこの辺の者へくれたのや。俺《おれ》があずかって、後でこの辺の出来事のときの費用にする」と春さんがいい返した。「お前、横取りするんやろう」といい「何を、二銭ぐらい横取りするもんか」といい「いや、春公はこすいから、何をするやらわからん」といって掴《つか》み合いになり、春公は九人の人たちから袋たたきにされた。  春公は這々《ほうほう》のていでその場を逃げだしたが、それを遺恨に思い棒を持って松公の戻路《もどりみち》を待ち伏せした。大力の松公は春公など問題ではなく、反対に春公を投げつけ棒を奪って春の腕の骨を打ち砕いた。もちろん私は松を本署に連行したが、それが先週の月曜日の出来事であった。  なぜ村長は二銭の半端《はんぱ》などをつけたのだろう。「総じて、二銭でこんな罪つくりをしでかしたのは、村長の責任や。初めから、二十円も出しゃよかったのや」と十軒のものが、一円二銭ずつ突っ返しに役場へ押しかけて行った。  もともと、この東分の人たちの多くは、反村長派の吉野さんという網元の地所を借りている人たちである。  村長は痛く困惑して、私のところへ松公のもらい下げに来た。ないない春に手をまわしたと見え「傷を受けた春の方がこらえるけに」といったので本署に問い合せると、本署でも許さぬわけにも行かなくて松を連れ戻した。村長は私財で治療費を松に渡し、松から春に渡して万事解決した。ところが反村長派の吉野さんや村の老人連が怒り出して、その人たち七人が打ちそろって私のところに訴えて来た。「つまり村長は、次期の改選のとき自己に有利なように、今からポケットマネーちゅうのを出したのや。村長を取締ってもらいまひょう」というのである。だが私の考えでは、いかに村長でもそんなたくらみではないように思われるので、それで私が「いや、村長が松に渡した金は僅《わず》かだし、松は村長からあずかった金をそっくり春に渡したのや。その間に何等《なんら》のやましいところはないようで、おまけに、改選はいつのことやらわからぬし、村長自身は二銭のことから喧嘩になった責任を痛感して、松の救済に乗り出したのやろう。それに春公には、女房子供もあることや」と吉野さんにいうと、吉野さんは「そうかなあ、そんなもんかなあ」と連れの老人連と顔を見合せて、彼等は出入口の硝子《ガラス》戸《ど》のところに行って何やらひそひそ声で鳩首《きゆうしゆ》協議した。私は手持ち無沙汰《ぶさた》を感じ机上の書類の整理にとりかかったが、よほど暫《しばら》くたってから吉野さんは私の前に引返して来て「では駐在はんがそういうお考えですけん、まあ私らも一応そういうつもりになりまひょう。どうも村長は臭いように思いますけんど、今度だけは許してやりますわ」といい、連れの人たちも「今度だけは許したる」といった。彼等はまだ村長を疑っている様子で、みんな不満そうな顔で帰って行った。全く気難《きむずか》しい人の多い村である。  春さんは難波医院に入院して、経過は悪くないとのことであった。ところが今日、春さんの留守宅の女房オテツの自殺未遂事件があった。入院中の春さんが、見舞に来た女房オテツに八つあたりにあたり散らしたのが原因で、納屋で首をくくったが、折りよく魚釣に来た町の刑務所の看守が救助した。  春さんの家の近くには、海岸に船着場所があって、一本の突堤がある。この突堤が甚《はなは》だ良好な釣場所になっており、自転車で町から釣に来る人たちが附近の松原のなかに自転車を乗りすてる。天気のいい日曜などには、何十台の自転車が並んでいることもある。以前は自転車の盗難は滅多《めつた》になかったということだが、戦争のため一台が百円ちかくにもなってから盗まれるものが多くなった。私も取締りに困って、日曜日には青年訓練生に頼んで見張をつけたりしていたが、それでも事故はまぬかれなかった。青年団は注意の立札をたててくれた。次のような文句の大きな立札で、これは文章の草稿を私が書き、字は青年団長が書いた。 「注意。釣天狗《てんぐ》の諸氏に告ぐ。此所《このところ》に自転車を放置し、半日一日も釣場に行くときには、盗まるることあるべし。よろしく近所の農家にあずけ置くが第一等の策である。チヌの数尾にて高価な自転車を失うは算盤《そろばん》に合わぬ事也。以上、多甚古村青年団」  しかし釣天狗たちは矢張り盗まれてもよいのか松林のなかに自転車を乗りすてる。盗難が止《や》まないばかりでなく、ときには持主のない立派な新しい自転車がとり残されていることもある。これがもし古い錆《さ》びた自転車なら、新しいのとすりかえて乗り逃げした者があったとも推定されるだろう。しかし主のないのはたいてい新しい自転車であった。  先月、青年団が犯人を一人つかまえたが、それは町の古物屋の朝鮮人で、年は十八九の若者であった。それでも取調べると十五台ほどやっていて、みんな売りとばして解体された後なので一台も手に入らなかった。  盗人がつかまっても自転車がまだなくなるので、用心深い人たちは近くの漁師の家にあずけるようになった。春さんの家は「自転車あずかり升《ます》」という札をかけ、一台一回五銭であずかり、バラック建の納屋に保管していた。一日二十台あずかると一円になり、これは左《ひだり》団扇《うちわ》というものだと春さんは女房オテツを激励して、納屋の見張を厳重にさせていた。このオテツは長男(十五年)長女(七年)次女(四年)三女(二年)の四人の子を持っている。長男と長女は連れ子で、末の二人の女の子は六年前に春さんと連添ってから出来たのである。女房オテツは連れ子があるのでことごとく春さんに遠慮して、春さんが幾ら辛《つら》くしても亭主本位に自転車の番を勤めていた。春さんは色が黒く、よく肥えているが気が弱く、酒をのむと狂ったようになって女房をよく擲《なぐ》っていた。女房オテツは日かげの花のようにいつもくよくよして、そのくせ丸々と肥え血色のいい顔である。人間の性質というものは必ずしも外見と正比例するとは限らぬ、という実験台みたいな女である。  春さんは難波医院で手厚く看護されて村長にも頭を下げさせたので、英雄のように偉くなったつもりだったろう。見舞に来た女房オテツに酒を買って来いと命じ、オテツが「酒は止《よ》しなはれ」と反対すると「こらオテツめ。貴様、亭主に盾《たて》つく気か。二人も連れ子をしやがって、薄ぎたねえお多福野郎。俺にこんなぼろを着せ、俺は病院の先生や看護婦に恥かしい」と難波先生や看護婦の見ている前で、春公はオテツを罵《ののし》ったそうだ。オテツは身にしみて辛かったものにちがいない。その翌日、自転車をあずかる納屋で首をくくった。それが昨日の出来事である。  昨日は日曜日で、町から釣天狗がたくさん村に入り込んで来た。もと町の本署で私の同僚であった崎山君も、釣天狗の一人としてやって来た。彼はいま小さな鉄工場主になっているので金まわりがいいのである。ハイヤーでやって来て、通りすがりに私の事務所に立ち寄った。「結構な身分になったなあ」と私が崎山君の釣の身支度《みじたく》や立派な釣竿に感歎していると、これも同じく釣天狗の町の刑務所の看守が駈《か》けこんで来て「大変ですぞ、自殺未遂がありました」と報告してくれた。わけを聞くと、この看守は例によって春さんの家に自転車をあずけに行ったところ、納屋で子供がギャアギャア泣き騒ぐので納屋のなかをのぞいてみると、顔馴染《かおなじみ》のオテツが宙にぶらさがり、子供たちがその足にすがって泣いていたという。オテツはもう鼻汁を出して目は白目になって舌を出していたが、看守は刑務所においてたびたびこんなのに出会った経験で、これは決行後二十分ぐらい経過したものだと半ば断念した。しかし体にさわってみるとまだ温か味があったので、オテツを地面におろして人工呼吸をしていたら息を吹きかえしたという。  私は崎山君に失敬して、看守と打ち連れ自転車で現場に急行した。春さんの家は汚《きたな》らしい家で、土間に煮たきの道具が雑然とならび、女房オテツは裸になった幼い子供と共に汚い蒲団《ふとん》のなかにはいっていた。オテツの首には赤く擦《す》りむけた傷がつき、私たちを見ても寝たままで疲れ果てた人のように口をあけ、やがて目を閉じた。  私は看守さんの人命救助の報告を県に出すために、両者の住所姓名、現場の見取図、原因、救助方法など詳しく手帖《てちよう》に書きとめた。そして女房オテツには「看守さんの恩を忘れるな。いかに辛いことがあったからといって、不心得なことをして何になる。先《ま》ず、この件は近所の人も知らぬのだし、気を大きく持つこっちゃなあ」と注意して帰って来た。看守さんは深く考え込み「亭主がいけないのですなあ。私は、今日は殺生《せつしよう》は止めにしまひょう」といって町の方へ帰って行った。入院中の春さんには大体の内容を伝えたが、この事件は人にしゃべらない方がいいだろうと云い含めておいた。或《あるい》はこの事件は、村のいざこざに結びつけて問題にされそうなおそれがある。  夕方、町から滝下という地方新聞の記者が来た。例によって彼は黒無地縫紋の羽織をつけ、フェルト裏の草履《ぞうり》をはき紫檀《したん》のステッキを持っていた。事務所の戸をあけると、いきなり「甲田はん、よい事件があったんやろう」といって薄ら笑いをした。「何もない」というと「かくしてもあかん、海の件」と手帖をとり出した。しかし私が頑《がん》として「今度の事件に関しては、当人の本名はいえぬのや」と答えると、滝下記者は困ったような顔をして「本名は書かぬけに、筋書だけ知らせてくれ。でないと、僕が村長から金を貰《もろ》うて偽名を書いた、と社長に思われるけに」といった。「では、ちょっとだけ知らしてやるが、筋をかえて老夫婦間の件にして、老婆の厭世《えんせい》自殺未遂にしたらよいやろう。余計なことは書くな」というと「では、そうするつもりや。男同士の約束やけに、約束は固く守る」といったので、私は事件の表面だけを話し、人命救助の看守の名前だけ本名を打ち明けた。  十一月二日  新聞記事には春さんの名前を春木秋太郎(七十五年)女房オテツの名前を春木オカネ(七十年)と変えてあった。滝下記者は大体において私との口約を守った記事にしていたが、春木オカネは貧苦と老齢のため世をはかなみ、しかしながら明けゆく東亜の平和を祈りながら静かに合掌し、やがて涙ながらに首を吊《つ》ったものであると、現場を見ていたように描写してあった。  この新聞記事は村内にセンセイションを呼び起した。私のおそれていた通り、反村長派の吉野さんと七人の老人が私のところにやって来て、西野の栄助さんという老人が「私らは、新聞を見て来たけんど、あれは春の嬶《かかあ》のことですやろう。村長に責任がある。春に見舞金などやるけに、嬶も自分がこれまで貧乏であったことを痛感したのや。あいつらの貧乏は、今さらのことではなかったのやけん」とえらい剣幕を見せるので「まあそういうな」と私は栄助老をなだめ、吉野さんたち一同に「これは誰の責任でもない、自然だ。自然がそこまで進行して行ったのや。真の理由は天才でないかぎり誰も説明できぬのや。何が原因か、或は本人にもわからぬかもしれぬ」といった。吉野さんは苦虫を噛《か》みつぶしたような顔で「とにかく、金で恰好《かつこう》をつけようとする村長は、その心情がよろしくない」といい、東分の兆一老は「駐在はんのいうように、自然だ自然だといえば、村長が人を買収しようというのも、みな自然や」といった。「まあ、そういうな。みなさんは春公に同情するあまり、そんなことをいうのやと思う。そのお気持は、私にもよくわかりますけんなあ」と私はなだめ役になって、老人連を戸口まで送り出した。  お昼ころ東分の昇平さんの後家《ごけ》女房が、ヘンリーさんを連れて来て「今日これから、ヘンリーさんが高松へ帰られるといいますけに、旦那はんにおわかれをいいに来られました」といった。ヘンリーさんというのは先月の終りごろ松原の貸家に来たアメリカ人で、そこの風景が気に入ったといって今日まで保養していたものである。背が高くて赭《あか》ら顔の鉤鼻《かぎばな》で、本人はもと日本で教育にたずさわっていたと身分を語っていたが、メリーさんという十二歳の孫娘とマンナーさんという九つの孫娘といっしょに住んでいた。  初め私は、これこそ外国のスパイだと思い込み、周到な注意をはらって監視を怠らなかったものである。しかしヘンリーさんは庭の草原に籐椅子《とういす》を持ち出して、終日うつらうつらしているようなこともあり、または室内に閉じこもって読書に耽《ふけ》っているようなこともあり、決して外出しなかった。飛行場予定地の海岸の埋立地など観測する様子は見えなかった。町の本署にも照会してみたが、本署から更に高松署へ照会したところによると「ヘンリー氏は二十数年前まで、高松市ならびに東京において語学教師を勤めたる経歴を有し、後、アメリカに帰り各所を遍歴し、妻を失い、日本の風光を忘れかねて最近渡航して来た者である。故国アメリカより通信を受ける様子もなく、ただ老後を日本で静かに養うもののごとく、多額の現金を所持する親日的外人と思われる。二人の娘はヘンリー氏の孫娘たること実証である」という通知があった。  初めメリーとマンナーさんは、朝早く自転車に乗って村を走りまわっていた。メリーさんは真赤な服、マンナーさんは真青な服を着て「オーイエス」とか「ノーノー、サンキュウ」とか、鳥のように高声に呼びかわしながら傍若無人に往還を走っていた。この外人娘たちは皮膚が白く、目が青く、金髪のちぢれ毛が朝日に照らされている風情《ふぜい》は美しく見えた。ところが、村の子供たちがこの外人娘に石を投げるようになったので、ぱったりと外出しなくなった。  私が戸籍調べに出かけたとき、ヘンリーさんは「コドモイシナゲマス。コノイエニマデオイカケテキテイシナゲマス」といった。村の子供が石を投げたのは実際で、これは村の反村長派の人たちが子供たちに寧《むし》ろそうするように奨励したのである。進取的な村長はヘンリーさんをわざわざ訪問して、英語の会話を教わったりトマトを持って行ったりしていたので、反村長派の人たちは村長への面《つら》あてのためにヘンリーさんを排斥したものと思われる。  一度、私はマンナーさんが松原で困っているのを助けたことがあったので、ヘンリーさんは私にお別れの挨拶《あいさつ》を述べに来たのである。マンナーさんが松原の横倒しになっている松の木の枝に乗っかって、降りることができなくなっていたのを私が助けおろし、そこへヘンリーさんとメリーさんが駈けつけて来たのであった。  ヘンリーさんはロイド眼鏡をかけ、東分の昇平さんの後家女房に案内されて私の事務所にはいって来て「オイソガシイデショウ。オジャマシテスミマセン。ワタクシタチ、キョウ、コレカラシュッパツデス。アリガトウゴザイマシタ」と日本流に頭をさげて挨拶した。それは片ことの日本語とはいえ、通訳する必要はなかったのに、昇平の後家女房は「あのな旦那はん、お忙しいところへお邪魔してすんまへん。今日、ヘンリーはんが高松へ帰られますけんど、いつかマンナーはんが松の木から助けて貰われたちゅうこって、いろいろ有難う御座いました、ちゅうこってすわ」と汗をかき真顔になって通訳した。私はヘンリーさんの義理堅さに面くらい「いよいよ御出発ですか、わざわざ御挨拶にお立ち寄り下さって恐縮です」といった。確かにヘンリーさんが気まぐれで挨拶に来たものでなかった証拠には、この老外人は窪《くぼ》みの底にある目に涙をため「マンナー、カゲンヨクナイデス。ビョウインニイレマス。イッショニオレイヲイイタイノデス。オユルシクダサイ」といって、太い手の指をひろげてロイド眼鏡の掛け工合を加減した。私も何か感動的な心持になり「どうかマンナーさんをお大事になさい」というと、通訳をもって任じている昇平の後家女房が「あのな旦那はん。マンナーはんが肺炎を起されましたけん、いっしょにお礼いいに来られまへんのや。どうもすんまへん、許してくだはれ、ちゅうこってすわ」と通訳した。  ヘンリーさんは日本風のお辞儀では感じが出なかったと見え、毛の生《は》えた大きな手を私の前にさし出した。私がその手を握って「グッドバイ」というと、ヘンリーさんは太い指で私の手を痛く締めつけ「サンキュサア、グッドバイ」といって、締めつけていた指をゆるめてくれた。どうも西洋流のお辞儀作法というものは、日本人には抑揚がありすぎるように思われる。  私はヘンリーさんを扉の外まで見送った。ヘンリーさんは私に名刺をくれそうにして上着の内ポケットから名刺入れをとり出したが、どういうものか躊躇《ちゆうちよ》して「サヨウナラ」といい残して帰って行った。昇平さんの後家女房も「さようなら」といってヘンリーさんの後について帰ったが、彼女の体格はヘンリーさんの三分の一にも及ばなかった。彼女は以前、神戸で西洋料理屋の下働きをしていたということで、それでヘンリーさんの寓居《ぐうきよ》の炊事女として村長が推薦紹介したものである。彼女は先年後家になってからというものは、町から肺病療養に来る学生や保養に来る隠居などのため、貸別荘の炊事女を自ら好んで引受けているということである。もっとも貸別荘とは名前だけで、村長や村長派の金まわりのいい人たちが建てた長屋である。松原のつづく岡の根に、そういう長屋がところどころに建っている。夏になるとこの長屋が海水浴客でみんな塞《ふさ》がってしまう。  私はヘンリーさんが帰ってから、私の発音した「グッドバイ」とヘンリーさんの発音したグッドバイの発音の相違を比較対照してみた。そしてヘンリーさんの発音したように「グーバアイ」ときこえるように舌をまいていってみたが、自分ながらてれくさくて実際には声に出していってみるわけには行かなかった。私は中学のとき英語がたいへんへたくそで、一年から二年まで教えてもらった牛原先生は、たぶんおなさけで私に及第点をくれていたのではないかと考える。だから私は今でも牛原先生を懐《なつか》しい人だと思っている。牛原先生は帝国大学の工科を出た秀才であるということだが、感ずるところがあって中学の英語教師を志願して、卒業すると直《す》ぐ私たちの中学に赴任したものであった。先生はひどい近眼で前歯が欠け、発音するときには前歯から声がぬけて英語の発音がはっきりしなかった。私たちは先生に入歯の代金を寄贈したいと申し出たが、先生は「いや、諸君の気持は有難いが、この前歯の失せているについては、僕にとって懐しい思い出がある。僕の発音がはっきりしなくて諸君にすまないが、どうか僕を懐しい追憶に生かしてくれるため、我慢してはくれないか」と先生は思いつめたような顔をした。先生は私たちが三年生のとき教師を止《よ》して東京の会社に行ってしまったが、去って行く最後の日のレッスンで「ラスト・クラス」という英文の一部を飜訳《ほんやく》してくれた。私はそのときの感動的な情景を今でも忘れない。  先生はいった。「私は皆さんと永いあいだのつきあいでした。皆さんは私のよき生徒であり、友人でありました。柔道部の選手、野球部の選手、応援団長、そのほか水泳部の選手諸君など、いたずらをした人たちは特に忘れられないでしょう。私は明日、東京に向って出発し、今後は会社員としての生活を続けるつもりです。では、私の最後の贈りものとして、最後のレッスンにとりかかりましょう」と先生は、すでに泣き出しそうな声で英文を読み、泣声でそれを訳した。「アルサスの一少年の目に写った祖国の姿、祖国は今やプロシャ兵のために蹂躙《じゆうりん》された。言葉すら奪われた。アメル先生は、村民に最後の祖国の授業をした。村民は、老いも若きも男も女も小学校に集まって来た。先生は悲痛な声で、最後の稽古《けいこ》をした。フランス語のラスト・レッスンをした。皆さん、と彼はいった。皆さん、私は私は。しかし彼は黒板の方に向きなおると、チョウクを一つ手にとって、ありったけの力でしっかりと、出来るだけ大きな字で祖国万歳と書いた。そして頭を黒板に押しあてたまま、そこから動こうとしなかった。しかし手で合図した。(もうおしまいだ、お帰り)」というような文章で、牛原先生も飜訳しながら泣いていた。私たちも泣いていた。全く若き日の感激の瞬間であった。しかし私は、今は一個の平凡なポリスになっている。ヘンリーさんがお別れに来て涙を目にためても、もはや私は真底から感動する人間ではなくなってしまった。  今日は割合に閑《のど》かな日であった。  夜、役場の温帯さん(小使)がやって来て、今晩はえらい群の水鳥が渡って来て、舞い降りる場所を捜しながら空を舞っていると報告した。そして「今年は猟の鑑札を受けに来る人がないやろうな。でも、あの水鳥の大群を、あのままにしとくのは惜しいもんやなあ」といった。「雁《がん》が来たのか」とたずねると「鴨《かも》やないかと思う」といった。  十一月五日  今日の昼間は妙に蒸暑く、海岸に打ち寄せる波が不断の二倍も大きかった。先月の颱風《たいふう》の前々日と同様な徴候で、おそらく南方海上の波のうねりの余波が打ち寄せていたのにちがいない。朝、私が裏口で靴を磨《みが》いていると岡屋の次男が駈《か》けつけて来て「旦那《だんな》、大変やけに」といった。「何じゃな、また水死人か」と思わず意気込むと「そうだす、私んちの直《す》ぐ前の浜だす」という。「男か女か」ときくと「女だすけ。まだ生きてますけんど、死なしておくれ、死なしておくれ、というてきかぬのやけに、事情はわからぬが、海に入ったのを助け上げたのやが、どないもこないも仕様がないのや。行ってあげてっか、みな困っているのやけに」という。「では、若い女やろう。町の女給やろうな」というと「婆さんだす。六十ぐらいの、たぶん良い家の婦人ちゅうらしいんや。何としても死なにゃならんことがあるのや、というのや。よほどの決心らしいんや」という。「そうか、じきに行ったげる」と私は岡屋の次男を待たして支度《したく》をした。その間に、岡屋の次男は私の磨きかけていた靴を手早く磨いてくれ、私たちは共に自転車で海岸に駈けつけた。  岡屋というのは浜の売店で、水泳客たちの休憩する見晴台を設けてラムネやサイダーなどを売っている。この売店の主人は以前には町の大きな料亭の旦那であったといい、六十あまりの年で図体の大きな偏骨親父《おやじ》である。女房は玄人《くろうと》あがりだということで、まるまると食い太りのしたお婆さんである。浜の売店は岡屋のほかに、藤屋、高島屋と都合三軒あって、売店同士はお互に仲が悪い。夏、水泳客の盛りどき私が巡回に出かけて行き、うっかり一軒だけに寄ると、他の二軒は機嫌《きげん》を悪くして、何で寄ってくれぬのかと抗議を持ち出すのである。売店としては巡査が視察に立ち寄る方が景気がいいように見えるので、お互に見えを張りたいのが見えすいている。  岡屋の次男は物もいわずに自転車を走らせて、用水沿いの近路を遮二無二《しやにむに》と突き進んで行った。私もその後から自転車を走らせた。海岸地区のバスの終点に出て行くと、ゴム長靴をはいた藤屋のおやじが私を待ち受けて「旦那、御苦労はんで」と挨拶《あいさつ》した。私は自転車をおりると、おやじにあずけ「先《ま》ず、どんなんや」ときくと「へい、今日は珍しく大きな波でぐわしてから、私が窓から沖を見ていると、黒い丸太みたいのが浮き沈みしているのでぐわして、何やろうなあ、人じゃないんかいなと家内に見せにやると、どうも人らしいというので、そりゃ大変やと岡屋に知らすと、岡屋の長男が飛び込んで行って岡に上げたんやが、何としても死なしてくれというてきかぬ。よくきくと町の博士なる人のお袋さんということだして、梨《なし》を一つとったと人にいわれたんで、嫁取り前の博士なる子にきずがついてはというて、いっそ死のうとしたらしいのや。全く、近頃まれな心のきれいな人やなあと、感心しとるのでぐわすけん」と藤屋のおやじは思慮ありげに腕組をした。「で、どこに」ときくと「あっこや」と指さす方角には、荒れ狂う波が牙《きば》を出して打ち寄せている砂浜に、人が五六人あつまっていた。  藤屋のおやじと岡屋の次男をつれ突堤を這《は》い降りて行くと、わずかに石のほてりが感じられ、午前十時ころだったがまだ朝の匂《におい》が漂っていた。砂浜には黒い蝙蝠《こうもり》傘《がさ》が一つ遠くの方に投げすてられ、すこし手前に濡《ぬ》れた着物が丸められてあった。現場には漁師の刺子《さしこ》を羽織ったざんばら髪の老女がうつむいて、まるで非人のような姿になっていた。しかし刺子の下に見える下着や湯巻は、贅沢《ぜいたく》な白縮緬《ちりめん》であった。岡屋の太ったおかみと岡屋のおやじと、青年訓練生の長男と高島屋の姪《めい》が、その老女を介抱していたが、私が行くと老女は「ヒイ」という声で泣き、身も世もあらずに泣いてしまった。こりゃ、だいぶん興奮していると思ったので「どうも困ったな」と手を控えると、岡屋のおやじが「やっぱり、博士の息子《むすこ》にすまぬけに、死なしてくれというのですけん」と私に囁《ささや》いた。  顔を覆《おお》って泣いている隙《すき》からその顔を見ると、青ざめた顔色だが老女ながら相当な容貌《ようぼう》で、手足が病気あがりの人のように細かった。先ず六十歳前後であろうと推定された。しかしいつまでも手を控えているわけには行かんので「ともかく、この砂浜ではいけない。岡屋か高島屋へ一応案内しましょう」と老女に促すと「どうか、新聞にだけは出さんで」とまた激しく泣き出すので、私は「警察は困っておる人をいじめるのが本意ではないのですけん、上司に話して絶対秘密にしてあげます」といった。それでも相手はなかなか信用してくれなくて「そないにいうても、ほんとかどうかわかりまへん」と堅くなってしまった。つい私もむかむかと来て「わしも男だ」と大きな声を出し「いったことに、二言はない。発表せぬといったら、せぬから安心しとき」と強くいいきったが、相手はまだ半分も信じないらしかった。それでも、泣き悶《もだ》えることだけはすこしおさまったので、だんだん聞いてみると、この人の息子は、たいそう孝行者で、たった一人の母親によく尽してくれる。近々、町の資産家の令嬢で東京の女学校を出た才媛《さいえん》が嫁に来ることになっており、結納も入れ婚礼の日取も定っている。ところが昨日、市場へ青物を買いに行って梨を五つ買い、間違って六つ風呂敷に入れたので、青物屋が「梨一つ六銭いただきますけに」といった。それで大変まごついて六銭を渡したが、近所のおかみさん連がひそひそと悪口をいった。「万引したのや」という声も明らかにきこえ、決して悪心があったのではないとはいえ、もしこんなことが嫁の耳に入ったら縁談も駄目になる。たとい縁談がまとまっても、自分は嫁の母親として生涯つめたい目で見られ、ひいては息子までつまらない人間と思われる。息子に汚点をつけるのは、何としても忍びないから死ぬ気になったのだという。  この老女の一家は、もと田舎《いなか》の相当な酒造家であったが、主人が放蕩《ほうとう》して家をとび出し破産したそうである。子供は三人あって、長男は医学博士、次男は東京の某大学に在学中、三男は出征中であるという。みんなよく出来た子で、長男の博士は弟たちの面倒をよく見てくれ、次男の大学生もなかなかの優等生である。親戚《しんせき》の冷淡な素振に対抗し、一家を再興するときが近づいている際に、梨一つ六銭のために一家奈落《ならく》のどん底に堕《お》ちてしまう。「私だけが悪い母や」と老母はまたもや泣き悶えた。  これで大体の事情がわかったので、海水に濡れた帯の間から財布《さいふ》を出してあけてみると名刺があった。息子の博士の勤先もわかった。この博士は、私の知っている町の公立病院に勤めている先生で、いつか私は村のダルマ屋の女が塩酸を嚥《の》んだのをその病院に連れて行ったことがある。そのとき当直であったその博士は大変よく世話をしてくれ、ダルマ女の頤《あご》が塩酸で焼けていた部分まで痕跡がないように治療してくれた。脊《せ》のすらりとした美男で、年のころ三十あまりの学者然とした先生である。真面目《ま じ め》な研究家で腕もよく気性の立派な人だという評判で、たまには地方新聞などにも衛生講座の文章を発表し、俳句も上手《じようず》で自作を雑誌に掲載しているということである。  世間は広いようでせまいものだと私はつくづく思った。すでに岡屋のおやじは老女に傾倒して「梨一つで死のうなんて、全く義理堅い人や、感心や。だが、死んではあかんのや」といった。藤屋のおやじは「心が綺麗《きれい》すぎるんやろう」といった。私は「けれど奥さん、考えもんやなあ。あんたが死んで先生が喜びますか、縁談も駄目になるやないか。死ねば却《かえ》って変なものになるのやないかなあ」となだめたが、老女は「死ねば、心の潔白が立ちますけん」といった。「奥さん、近所のおかみさんが、あんたの悪口をいったんで、それで逆上してしもうたんやないやろうかなあ」というと「近所のおかみさんは、私の心を疑ぐるけん、悪口をいうたのや。疑いを晴らすには、死んで自分の潔白を明かさんならんのや」という。女ひとりの手で、三人の子供を立派に育てただけあって、なかなか勝ち気な老婦人である。  岡屋の主人にこの老婦人救助の模様をたずねると、「そりゃ長男の美挙でぐわした」といった。岡屋の長男は赤くなって、「わしは何も美挙なんかしないのや。今日は波が荒いけん、この奥さんは波のため、岸に二度も打ちあげられたのだすわ。それなのに、この奥さんはまた沖に逃げて行こうとしたのやけんど、大きな波がまた奥さんを岸に打ちあげたのだして、波が命の恩人や。でも、もう一度沖に入ったらあかん、危機一髪のところやった。運があったんやなあ。わしは、ただ奥さんが、浜に倒れておるのを掴《つか》まえただけのことだす」と自分の手柄を否定した。  老女は泣き止《や》むと寒さで震え出したので、「奥さん、寒いでしょうけに、一と先《ま》ず岡屋さんへ行って着物をきかえて下さい」と頼んだが、老女は「寒くないのや」といった。「では、無理にも着物をきかえさしますが、いったい博士はこのこと知っとるんですか」ときくと「昨晩、私ひとりで思案したことやけに、何も知らぬのや」という。「困ったこっちゃなあ」というと「家に書置おいて来たし、どうにも家には帰れんのや。死なして下され」という。私は思案にあまったが、とにかく岡屋に連れて行くことにして「水は」と岡屋のおやじにきくと「だいぶ吐かしました」という。「じゃ、庭に火をたけ」と岡屋の長男を走らせて、私は嫌《いや》がる老女を背負って岡屋に連れて行き、庭の焚火《たきび》で温めながら背中をさすった。そうしてお茶の熱いのを飲ませ、女たちにいいつけて着物をきかえさせた。  私はじっくり考えてから、やっぱり博士をここへ呼ぶことにきめた。村の人たちには秘密にしておかないといけないし、医者を迎えると騒ぎが大きくなるおそれがあると考えたからである。私はバッチ網の網元へ行き、電話を借りて博士に長距離電話をかけた。看護婦が出たので博士を呼び、網元の家人たちに何のことやら知らせないために英語で通話しようとした。ところが、私は英語の会話ができないので「ちょっと、あなたにプライベートの用件がありますけん」と前おきして「お宅に一度お帰りになって、それも、ビー・クイックリにお帰りになって、部屋のデスクの上の、小さなボックスのなかのレターを見てから来て下さい」というと「何か母が」というので「いや、あとで。但《ただし》、ビー・クイックリに」と電話を切った。網元の家人たちは怪訝《けげん》そうな顔で私を見ていたが、主人が「駐在はん、何か事件ですかい」といった。「いや薬を注文したのや」と、私は急いでとび出して岡屋に引返した。老女は私のいない間に、水を五六合も吐いたとかで可《か》なり弱っていたが、岡屋のおかみの着物を着て、おかみに髪を撫《な》でつけてもらっていた。  私は岡屋、藤屋、高島屋の人たちを、岡屋の土間に集めて懇談的に云った。「今回の事件では、ここにおる一同みんなが偉い働きをした。だが、この事件が人に知れ渡ると、せっかく助けた人を殺すことになるのやけん、みんなに口外しないように口を堅くしてもらいたいのや。あの老婦人は梨一箇のために死を企てたのではない。本人にとっては梨一箇ぐらいは問題でない。名誉を傷つけられた恥辱感と、世評に対する反抗と、子供に及ぼす過失の罪をおそれて、死を選んだのである。われわれはその心情を察しなくてはいけない。みんな一つ義侠心《ぎきようしん》を出して、口外しないと約束してもらいたいのや」と私の持前で演説風に注文を出すと、みんな快く口外しないと約束してくれた。岡屋の長男は若き日の感激を眉宇《びう》に現わして「駐在はん、わしは人命救助の功は遠慮したいのや」と申し出たが、私は「いや、君は遠慮しなくてもいいよ」と答えた。私の考えでは、上司に報告して許可を得てから、人命救助の礼は博士から出してもらうつもりであった。  私は事務所に帰ると、役場の人たちがみんな防空練習をしている隙《すき》を見て、本署に電話をかけた。司法主任の話では「よろしい、君のよいと思うようにしとけ。未遂ならそれでよかろう。こちらは発表せぬから、片づくまで君に任す」という返事なので私は安心した。  午後四時ごろ岡屋に出かけると、おやじとおかみが納戸の襖《ふすま》を背にして、汚《きたな》い雛様《ひなさま》のように二人並んで坐っていた。「どんな工合やろう」とたずねると、おやじが「静かに」というように手を振って「幸い眠っとる」と囁《ささや》いて襖を指さした。この岡屋老夫婦は、万一のことがあってはいけないと襖の外に頑張《がんば》って、忠実に内側の気配に気をくばっていたものである。  博士は午後四時半ごろ自転車で駈けつけて来た。紺の服の色合と対照して特に顔色が青ざめて見えた。「もう、あきまへんか」と博士は、おそるおそる私の顔を窺《うかが》った。「いや、大丈夫です。いま眠っておられるようです。興奮させてはいけません」と私は医者に向い医者みたいなことをいった。そして原因をありのままに説明したところ、博士は次第に頭を垂《た》れ「すまんこってす。母はすこし気疲れの上に、胃弱で衰弱していました。私が梨が好きなものですから、母は自分で買いに行ったのですやろ。女中に買いにやらしたらよかったですのに」といって鼻をすすり「でも、先ず安心しました。引きとってもよろしいでしょうか」といった。「結構です」と答えると、博士は岡屋のおやじ夫妻に案内されて納戸にはいった。そして母と子の対面になったのだが、私はその劇的情景を見ている気になれなくて帰って来た。    寄附金持逃げの件  十一月十日  今日は大地主の村田さんのお宅で異変があった。今年《ことし》の春に山奥の金生村字沓掛《くつかけ》というところから村田さんのお宅へ年季奉公に来た長造という若い衆が、村田さんの留守に大金を盗んで今日のお昼すぎに逐電《ちくてん》したと知らされた。今朝、村田さんが町へ用足しに出かけるとき、村の消防に寄附する金を封筒に入れて金庫の上に載せ「消防の隠居が来たら渡してくれ」と御新造《ごしんぞ》さんに云い置いて出かけると、その金がいつの間にかなくなっていた。御新造さんが消防の隠居にお茶を出してから金庫の上を見ると、さっき確かにあった筈《はず》の封筒がなくなって、裏縁に汚い足で歩いた跡が一つ残っていた。それはいつも下男部屋の廊下に見かけるのと同じ扁平足《へんぺいそく》の足跡で、まぎれもなく長造の足跡であるという。  御新造さんは気だてのやさしい老婦人である。長造が不憫《ふびん》だからそれを内証にしてくれと消防の隠居に口どめしたというのだが、消防の隠居は私のところに駈けつけて来てすっかり顛末《てんまつ》を報告した。それで私が村田さんの宅に駈けつけると、御新造さんは迷惑そうな顔をして「わたしが、うっかりしていたからです。あの寄附金は、明日、わたしが立てかえて消防の隠居に渡しますけん、どうか内済にしてもらえますまいか」といった。「しかし失礼ですが、金は幾らぐらいだったのですか」とたずねると、御新造さんは「さあ、幾らぐらいでしょうか、わたしにはわかりません」といった。そこへ消防の隠居がせかせかとやって来て「いま、町の会議所へ電話をかけましたら、御当家の旦那さんが長造をつかまえろと申されましたけん」といった。私が「金は幾らぐらいやろう」とたずねると「金は三百円の筈ですわ」といった。「そら大金やなあ」と私が驚くと、御新造さんが「三百円ぐらいなら、わたしが払います。長造を見逃してやって下はれ」と手を合わさんばかりにした。しかし消防の隠居は、御新造さんに「それでも御当家の旦那さんが、直ぐ長造をつかまえろといわれましたけん。それで、青訓生を総動員して、松原を取囲ませて長造を山狩することにしましたでぐわす。何でも、徳田屋のダルマの話では、松原の方に急いで行ったちゅう話ですわ」と意気込んで云った。たぶん長造は徳田屋のダルマ女に興味を持っていたにちがいない。その女が店の土間を掃除していると、長造がやって来て「おいどうだ、俺について来ぬか」といって懐《ふところ》から紙幣の束を出して見せた。それでダルマが「その金、わたいにくれるのか」と、その金を引ったくろうとすると、長造は「俺について来れば半分やる」といって土間から出て行ったそうだ。消防の隠居は、自分の伜《せがれ》の担当する消防署の寄附金が盗まれたので、自分の金がなくなったように殺気だっていた。これは無理からぬことである。ともかく私は御新造さんの許可を得て電話を借り、町の会議所にいる村田さんに電話をかけた。「犯人は長造と推定確実と思いますが、御新造さんは内済にしたいといわれます」と私がいいかけると、みなまで云わないのに村田さんは「いや、内済にはできん。オウメを電話口に出してもらいたい」といった。オウメとは御新造さんのことである。御新造さんは電話口に出て、「は、そうです」とか「いえ、わたしは別に」とか「すみません」というように、受身になって答えながら閉口しているように見えた。今度は消防の隠居が電話口に出て、いきなり「旦那さん、いま山狩をさせております」といった。そうして隠居は「へい、へい」と返事をしていたが、「では、駐在さん」といって受話器を私に渡した。村田さんの声は威《いか》めしく私の耳に響き渡り「あんたは多甚古村の甲田巡査ですな。では、改めてお願いしますが、犯人を捕縛して下さい。私は直ぐ帰ります」といって電話が切れた。  このように被害者の依頼があった以上、私は一刻も猶予していられないので松原へ駈けつけることにした。御新造さんは縁側に腰かけ、つまらなそうに前掛の端を手で揉《も》みくしゃにして目に涙をためていた。この婦人は、もともとおとなしい上に、子供さんが戦争で亡《な》くなってからは無闇《むやみ》に心が弱くなっている。  しかし村田さんはその反対で、子供さんが亡くなってからはますます意気壮快になったように思われる。元来この人は意気壮快な人物で、私はこの土地に赴任して来た当初、村田さんにやりこめられた。そのころ、私はこの土地の事情もよくわかっていなかったので、町の警察にいたときと同じように自由な気持で村の会合の席で演説めいた話を一席のべた。そのとき私に第一矢《いつし》を酬《むく》いたのがこの村田さんであった。「駐在はん、君はどうも若すぎていかん。君が沈着寡黙《かもく》という美徳に欠けていることは、現代とはいいながらどうも苦々しい。いったい警官たるものは、昔を今に武士的面影を伝え残している唯一の社会的存在である。その警官が、村の道路の上に馬糞《ばふん》があるのはきたないとか、陽《ひ》に乾《かわ》いた馬糞は粉になって空中に散乱して不衛生だとか、裸で昼寝をしたら頽廃《たいはい》的であるとか、そんなこまごましたことを一国の大事変のように絶叫するのは笑止千万だ。儂《わし》はこの年になっても、村道の馬糞で衛生を損《そこ》ねたことはないからなあ」と村田さんは出征軍人家族待遇の会合の席で私を咎《とが》めた。つまり私は満座のなかでやりこめられたわけで、初めのうち憤然としたが次第に冷静になった。よく考えてみると、非は私にあるようであり、町の警察官より田舎の警察官の方が遥《はる》かに窮屈なものだということが漸《ようや》くわかった。それに、村の長老たる人を明朗にさせておくことは村のためだと思ったので「どうもすみませぬこって」と私は村田さんに謝《あやま》って「まだ村に慣れまへんよってになあ、気にせいで下され。そのうちに私も一生懸命にして、御満足の行くようにしますけになあ」というと、今度は村田さんの方で恐縮して「なにも儂は、あんたを非難するつもりはないのやが、ことのついでの話なんや。一般の警官たるものの本質をいったまでのことや。老人というものは頑固《がんこ》なものやからなあ、まあ気にしないで下され」と和議を持ちかけて来た。  そんなことがきっかけになって、私はこの硬骨老人とお互に気の置けない仲になった。爾来《じらい》、私は巡回のときたま村田さんの宅に寄って、村の動向をきくように心がけていた。老人の枯淡な談話をきくのもまた楽しいものである。いつも私は縁側に腰をかけてその談話をきくことにしているが、縁側から見る庭の眺《なが》めがまた格別である。庭石、大きな五葉松、石燈籠《いしどうろう》や茶室や、飛石づたいに行く茶色の壁の便所や、白い壁の風呂場など、みんな物静かで豊かな感情をそそってくれる。庭のつくばいでは、ふと野鳥が行水をつかっていることもあった。或るとき私は老人の談話をきく際に羊羹《ようかん》のお茶うけを出され、それを一つ口に入れてみると酸《す》っぱかったが、老人にうまいかときかれ、うまくないともいわれないのでうまいといった。しかし嚥《の》みこむ勇気がなくて口に頬張《ほおば》ったままお辞儀をして帰って来た。私はその羊羹を途中で吐き出すのも卑怯《ひきよう》なような気がしたので、自分の胃腸に対しては気の毒だと詫《わ》びながら、小学校の横手を通りすぎるとき秘《ひそ》かに嚥み下した。そして帰って来て胃散を飲んで事務をとっていると、村田さんが血相かえてやって来て「やあ、さっきの羊羹が、腐ってたのを後《あと》で知った。どうもすまんじゃった」と顔の汗を拭《ぬぐ》い「あんたは遠慮ぶかくて困る。なにも、そう他人行儀にせんかってよい。念のため予防剤を持って来た」といって、梅エキスと葡萄酒《ぶどうしゆ》を風呂敷包みから取出した。「ああ、これを飲みなされ、是非とも飲まんければいかん」とすすめるので、目の前で飲まぬと承知しないので私は梅エキスを飲み葡萄酒を飲んだ。  私は、老人の義理堅いのに感激して、私の先祖から伝わっている田能村竹田《たのむらちくでん》の掛軸を進呈した。老人は「これは見事な竹田じゃ。感謝至極」と喜んでその掛軸を巻いて持って帰った。すると後で村田さんの御新造さんが「さっきのお礼やけに」と刀を一振、持って来てくれたのには降参した。どうも義理堅い老人である。  松原ではもう山狩が始まっていた。松原といっても海岸につづく岡を利用して風よけの松の大木を茂らせ、いろんな灌木《かんぼく》が生《は》えている林である。その岡の登りくちの一本道には、ところどころに青訓生が棒を持って、犯人の出て来るのを待ち伏せていた。私はそのつど「やあ御苦労さん」といってそばを通りぬけ、一本道から横にそれて灌木の茂みのなかに分けて行った。岡のてっぺんに出てみると、茂みのなかや山路にも、棒を持って犯人を捜しまわっている青訓生たちが見えた。私は大きな石のかげに腰をおろし、一ぷく莨《たばこ》をすいながら林のなかの気配に耳を傾けた。枯枝を折って分けて行く物音がきこえたが、みんな沈黙して、捜査をつづけていたので、人声はちっともきこえなかった。私はもし犯人にきこえるなら彼を牽制《けんせい》するために、大きな声で「諸君、犯人をつかまえても、手荒らなことをしてはいけないぞ」と声をかけた。  そうすると、みんなも私の意中が読めたのか「おおい、犯人に手荒らなことをしてはいけないぞ」と方々で呼ばわった。私は岡の尾根づたいに切通しの方に歩いて行き、正面の黒い大きな岩かげに人声がしているのを聞きつけた。何やら冗談半分に押問答しているようにも思われたが、ともかく私はその場にとび出して行った。見ると、一人の青訓生と勘三という村内の荷車曳《にぐるまひき》が岩の根方にうずくまり、その傍に勘三の隣の家のオイトという女が青い顔をして立っていた。「いったいどうしたのや、これは」と私がたずねると、勘三は頭をかき、オイトはやにわに袖《そで》で顔を覆《おお》って泣きだした。青訓生に「藤田君、いったい何事や」とたずねると、藤田も頭をかいて云いにくそうに苦笑するだけであった。「おい勘三君、さては何だろう、つまりあれだろう」と私が苦笑すると、勘三もしきりに頭をかいて「すみません」といった。青訓生の藤田は「しかし私は、ただ勘三さんとオイトが二人で歩いているところを見ただけです」といって勘三を弁護しようとした。私は勘三がまだ独身の四十男であることも知っているし、オイトが出戻りのふしあわせな女であることも知っている。却って二人があまり近所住《ずま》いでありすぎるため、人目を避けて今後のことを相談する場所に窮した結果だと見なしてもさしつかえない。「これは勘三君、君たち結婚の相談していたのやろう」と私が遠まわしに持ちかけると、勘三は急に晴れ晴れした顔で「それに違いないのや。全くそうだす」と頷《うなず》いて「なあオイト女郎、それに違いないのやな」といった。オイトは顔を覆ったまま合点した。もしこの話が真正なら、彼等はこの真っ昼間に仕事を怠《なま》けることで却って冒険心を満足さしていたことだろう。私は自分の不粋を謝ると共に彼等の前途を祝福するために「要するに、オイトを玩具《おもちや》にしちゃいかんぞ」と勘三をたしなめて、なお「この忙しい山狩の最中、ここでうろうろしておってはいかん」と注意してその場を立ち去った。念のため後をふりむいて見ると、青訓生の藤田がにこにこしながら勘三の肩をどやしつけていた。勘三が四十男のあつかましさで、何か仕様のないことをしゃべったにちがいない。  犯人は出て来なかったが、山狩は約三時間で切りあげた。  村田さんの宅では、炊出しをして青訓生たちの引揚げて来るのを待っていた。私は村田さんに会って山狩の模様を手短かに報告し、電話を借りて本署に報告した。その上で書類をつくるために急いで帰って来てみると、私の事務室に真犯人が退屈そうな顔で、私の帰るのを待っていた。「お前、どうしたのや」と私が驚くと、犯人は「自首しに来ております」といった。「よほど待ったか」ときくと、「二時間ぐらい待ったですけん」と割合てきぱきと答えた。盗んだ金には一銭も手をつけていなかった。    都会の女の件  十一月十四日  松原の貸別荘に住んでいるマサコさんという一女性が、洋風の白粉《おしろい》をつけて濃い口紅をつけ、朱色のオーバースエッターを着て訪《たず》ねて来た。真っ昼間、まるで派手な寝間着を着ているのではないかと思われた。それで私が「真っ昼間、そんな派手な風をして何の用件やなあ」とたずねると、マサコさんは西洋映画に出る女のように肩をゆすり上げ「あら嫌《い》やですわ、真っ昼間だなんて荒っぽい表現ですのね。でも、あたくし今日はお礼をいいに来ましたの」と割合まじめな顔でいった。「はて、何のお礼やろうなあ。先《ま》ずお掛け下さい」と椅子をすすめると、彼女はまた西洋映画の女優のように膝《ひざ》を重ねて椅子に腰をかけた。しかし村のダルマ女などとはまるで別人種の感で、彼女はなかなか垢《あか》ぬけのした口をきくのである。「あたくし、とても感謝していますの」という前置きで、過日、彼女がこの駐在に訴えに来て以来というものは、別荘の窓の外で悪口雑言するものが一人もいなくなったからお礼をいいに来たというのであった。  先日、彼女は可《か》なり興奮した顔でこの事務室にやって来て「毎晩のように村の青年が、あたくしのうちの窓の下に来て、悪口をいって困ります。取締って下さいませんか」と訴えるので「悪口といってもどういう悪口をいうのですか」とたずねると「まるで悪口雑言ですのよ。私のことを売笑婦のようにいいますの。それで窓をあけると、げらげら笑いながら逃げて行きますの。病気静養に来てるあたくしに、この村の人とは何の関係もないあたくしに、村の青年たちは何の恨みがあるというのでしょう。取締っていただきたいと思いますわ」と謂《い》わゆる柳眉《りゆうび》を逆立《さかだ》てた。私は村の人たちが他国ものを毛嫌《けぎら》いする習慣を一応説明して「もし青年が悪口をいいに来たら、お菓子でも御馳走《ごちそう》してやりなはれ、青年は割合素直ですけん」と助言して彼女を返したのであった。それで彼女は私のいった通り、悪口をいいに来た三人の青年に、窓からお菓子をたくさん御馳走した。三人の青年は何か感激した様子で、彼女が窓を閉じても窓の下に立っていた。そして後からやって来た数人の青年が彼女の悪口をいうと、三人の青年は数人の青年を追い散らした。彼女の垢ぬけした表現によると「村の青年って案外義侠《ぎきよう》的ですわね。その翌日からは、悪口をいいに来るもの一人もいなくなりましたの。その点、あたくし貴方《あなた》に感謝いたしますわ」と彼女は両足の膝を重ねて椅子に腰をかけたまま私に礼をいった。そうして彼女はいうだけのことをいうと「では、左様なら」と元気よく帰って行った。  いま彼女のいる貸別荘には、先々月はヘンリーさんというアメリカ生れの老人が二人の孫娘をつれてやって来た。やはりヘンリーさんも村の人たちと折合が悪く、孫娘たちが村童に石を投げられたりして、彼等《ら》は這々《ほうほう》のていで村を引きあげてしまった。私は村の安寧のため、貸別荘が無住のままであるように念じていた次第だが、空家《あきや》になって三日もたたない間に独身の妙齢の婦人が移住して来たのである。  私が戸籍調査に行った結果によると、彼女は太田マサコといい、原籍は大阪市某区某通何番地、年齢二十五歳、父は鉄工場主で資産家である。東京の音楽学校を軽度の呼吸器病のため中途退学して、貸別荘の前住者ヘンリーさんから、この海岸の話をきいて静養のために来たものである。 「あんたは、始終洋装しておられるのですか」と彼女にたずねると、彼女はこの数年来、和服を着るのは新しい着物が仕立て上ったときだけで、それも直《す》ぐにぬいで洋装になるということであった。「水仕事や洗濯は、おつらいでしょうなあ」とたずねると、ヘンリーさんの使っていた婆やを雇っているということであった。  彼女の住んでいる別荘は松原の難波医院の隣にある。私は巡回に出るときには松原のところまで行って難波医院の入口から引返すが、松原の入口のところまで行くと、きっとレコードの西洋の唄か肉声のソプラノがきこえて来る。時たまにダンスをしているような気配も感じられ、難波医院長の話では、入院患者の無聊《ぶりよう》で困る人たちが、彼女のところへ遊びに行ってダンスの相手をつとめているということである。一見して、彼女は都会の健康な令嬢たちとすこしも変りないのである。  村の人たちは何の根拠があるのか知らないが、彼女を売笑婦のようにいっている。たぶんヘンリーさんの第二号はんだろうというものもあり、もと大阪の赤玉のダンサーだというものもあり、心中未遂者だというものもあった。村の過半数の人たちは、どこか大阪あたりの鉄工場主の思いもので淫売《いんばい》あがりだろうといっている。私の知り得た範囲では彼女はヘンリーさんとはキリスト教でのお友達で、実家は大阪の第二流の上席に入れられる鉄工所で可なりの資産がある。思想的にも怪しいと思われるところはない。ただ不当なのは、この非常時に村じゅうセンセイションを起すような派手な扮装《ふんそう》をして、病気のため静養すると称しながら病院の患者を呼出してダンスなどしている行為である。しかし一警官たる私の立場では、華美な服装と優雅な生活を競《きそ》う都会人の私行に容喙《ようかい》すべき権利がない。  彼女がこの村に来てから五日目に、彼女のお父さんという人が私の事務所に来て「娘を迎えに来たが、大阪では息がでけぬと云うて帰ろうとせん。あんたに何とか娘にいいきかせてもらいたいのや」といった。私は出かけて行き「まあお父さんの云われる通り、素直に往《い》んであげなはれ」といったことである。しかし私は自分の職務の範囲を考慮して、彼女のお父さんに、資産家の子女教育と醇風《じゆんぷう》美俗の関係という私の得意の持論を述べたいのを極力我慢した。彼女のお父さんという人は、頭が半白な長身の紳士然とした人で、彼女が幾ら我儘《わがまま》をいっても強く叱《しか》るようなことはしなかった。なかなか温和な人物であった。  ところが松原の附近の人たちは、彼女のお父さんのことを彼女の旦那《だんな》だといい出した。はじめその流言を放ったのは、松原に茶店を出している高島屋のおかみだということである。現に、そのおかみは先日も私に向い「えたいの知れぬ、東京かぶれのした混血児だ。何やらわからん」と力説したものである。  大阪や東京のような大都会には、彼女のような自由奔放な女が大勢いるのだろう。さもなければ彼女がこの田舎《いなか》に来て、自信ありげに自由奔放な振舞をするわけがない。都会から田舎に来た妙齢の子女というものは、都会で流行《は や》らないことを田舎で実践しようとするものではない。松原附近の人たちは、すでにソプラノや洋楽のダンスで気を悪くしていたが、当人は田舎者の云うことなど眼中に置かなかった。花束を持って堂々と隣の病院を訪ね「あたくし、患者さんのお見舞に来ましたの」と受附にいい残して二階にあがって行くこともあった。ところが美しい若い娘は却《かえ》って損なものである。花束をもらわなかった患者たちが「あの娘は色きちがいみたいや、けったいな奴《やつ》や」といいだした。花束はもらっても一度きりしかもらわない患者たちも、やはり彼女のことを色きちがいだといいだした。  村の顔役たちの間でも、総じて彼女の評判は芳《かんば》しくなくなった。手に負えぬ色情狂で、男に近づいて関係が出来たら直ぐ厭《あ》きて、また次に移る女だという定評になった。「こつこつとたたいて次に移る。まるでキツツキみたいや」というものもあり「いやセキレイみたいや」というものもあった。ところがその割合に、私の観察したところでは彼女はただ騒々しく目ざわりな振舞をするだけで、決して色情などに徹している女性とは見えなかった。ただその素質があるだけだと思われる。一昨日も松原の逸見《へんみ》さんという年若い網元が来て「あんな女を村に住ませとくのは、つまり村の破滅やないか。甲田さん、あんたはこの村の駐在として、なぜあの女を追放せんのや。言語道断でしゃないか」と私に迫って来た。「あんな女というけんど、何か悪事を犯した確証でもあがったやろうか」とたずねると「確証があがったも同然や。病院患者の学生風の美男子など連れ出してから、ダンスを踊る、ターキーの真似《まね》をする。たしかに風儀を乱したというべきやろ。レコードを鳴らし、カーテンを締めて踊るちゅうことは、こりゃよくせきのことでぐわんすけんなあ」と逸見さんは、苦虫を噛《か》みつぶしたような顔をした。私は「それ相当の事実を突きとめんのに、いきなり追放することは出来んのや。想像だけで相手を誹謗《ひぼう》するのはいけんぞ。しかし、あんたが事実を見たのなら、話はまた別やなあ」と言外に意を含めていった。逸見さんは「いや、事実はまだ見とらんのや」と狼狽《ろうばい》して頭をかきながら帰った。逸見さんが頭をかくのは当然のことである。  この逸見さんという若い網元はたいへんな道楽者で、町のカフエの女給たちと従来いろいろのいざこざをつくって来た。よく乗馬服に身をかため鹿毛《かげ》の馬に乗って村道を駆けまわり、町へ出かけるときはニッカボッカなどはいてバスに乗っていることがある。彼も病院の患者と同様に別荘のマサコを訪問していたが、数日前に彼女に云い寄ろうとして手厳《てきび》しく拒絶されたという確証があがっている。これは婆やの目撃談で十中の八九は実説であろう。たぶん逸見さんはそれを恨みにして、彼女をこの村から追い出そうと企てたものにちがいない。どうも男らしくない卑怯《ひきよう》な行為である。いつか地主の息子の大学中途退学生が、バスのなかで「もし私があの別荘の女に参っていたら、イエスかノーかきくだけだ」といっていた。そのとき隣の席にいた逸見さんが「私はあんな女、大嫌《だいきら》いだす。あんな女は、イエスのときでもイエスといわないのや。それを自慢の種にしとるのやろう」といっていた。おそらく逸見さんは、イエスとノーを混同して深入りしようとしたのだろう。ところが人の噂《うわさ》では、地主の息子《むすこ》の大学中途退学生も彼女の崇拝者だという。彼女が村に印して行く波紋はなかなか小さくないのである。  十一月十五日  今日お昼すぎに巡回に出かけようとしていると、反村長派の元締といわれている老人がやって来て「旦那、寒くなりましたでぐわすけに」と挨拶《あいさつ》した。「寒くなりましたなあ」と答えると、老人は声をひそめ「ときに旦那、あの松原に村長の建てておる別荘へ、ちかごろ変な女が来ておるちゅう噂でしゃないか。何でも村の若い者の噂では、先に住んでおったヘンリーさんの廻《まわ》し者《もの》ちゅうことだすが、この非常時の際とて、儂《わし》は一応旦那にお伝えしときますけに」といった。この前ヘンリーさんが住んでいたときにも、この老人はヘンリーさんを外国の廻し者だろうと云って神経をとがらせていた。何しろこの老人は反村長派の巨頭である。村長の所有する別荘に住む外来者は、どことなく怪しげな人間に見えてくるらしい。村の子供たちを唆《そそのか》して、ヘンリーさんの孫娘に石を投げさせたのも反対派のこの老人たちの仕業《しわざ》である。  一たん注進があった以上、棄《す》ておくわけにも行かないので私は別荘の彼女を訪問した。しかし正面からスパイ容疑者として訪ねては意味をなさないので、新来の移住民といえども防護団員の演習作業には便宜をはかるように努めてもらいたいと、一石二鳥の通告をするつもりで出かけて行った。幸い彼女は洋室の窓をあけて退屈そうに庭を眺《なが》めていた。その傍には、難波医院の患者で高等学校の生徒が立っていた。「おや、来客ですか。今日は、防護団の演習に対する、一般人の心得をお伝えにあがりましたけん」と挨拶すると「昨日は失礼いたしました。さあどうぞ」と白ペンキ塗りの手すりのあるテラスから私を洋室に案内した。患者の高校生は早くも姿を消して、裏口からでも帰って行ったと思われた。  私は防護団員の演習の場合における一般人の心得について一言し、その間に室内の飾りつけや卓上の書物に目をくばった。壁の硝子《ガラス》張りの額に原色版の絵が入れてあった。野原に一つ赤い罌粟《け し》が狂おしく咲き、子供が椅子に坐っている洋画である。卓上には講談雑誌の新刊と仮綴《かりと》じの二冊の洋書が置いてあった。彼女は私が云い終るのを待って「わざわざ、どうも御苦労さまでした」といって一つ頷《うなず》いた。そして暫《しばら》く黙っていたが、松原の向うの海を見渡して「今日はとても静かな日ですわね、帆が見えて」と独《ひと》りごとのようにいった。私は無意識に「はい」と答えたが、自分のぎごちない防護演習に関する訓辞にくらべ、彼女のいう言葉は何ともいえない優雅なもののような気持がした。彼女は庭に目を移し「今日は白っぽい日ですわね」といって私をまごつかせ、しなやかな白い手を伸ばして卓上の講談雑誌をとりあげて「この雑誌、さっきの学生さんが持って来てくれましたの」といった。そして何と思ったかその雑誌を持って扉のところに立って行き「婆やさん、この雑誌、病院の篠原さんに返して来ておくれ。直ぐにね」といった。それにはわざとらしいようなところが見え、警察官たる私の推定では、彼女が篠原という患者に好意を持っていないと私に見せかける行為ではなかろうかと思われた。  彼女は引返して来ると窓の傍に椅子を寄せ、今度はわざとらしくでなく「ほんとに今日は、白っぽい日ですわね」といった。彼女の小さな耳朶《みみたぶ》は太陽に透かされて美しく見えた。室内には大きな蓄音器やフランス人形を載せた用箪笥《ようだんす》があり、ハマオモトの鉢《はち》が台の上に置いてあった。私は卓上の洋書を見て「あの洋書はトルストイの小説ですか」とたずねてみた。彼女は目をまるくして私の顔をじいっと見て「いいえ、プルーストですわ」といった。私は再びまごついたが、その気持を消すために壁の硝子張りの額に目を移し「あの絵は有名でしょうな」といった。今度は、彼女は答えるのが照れくさいかのようにうつむいて、しょうことなさそうに「あれはアンリ・ルソーの複製ですわ」と呟《つぶや》いた。即座に、私が「あの絵も、病院の患者が持って来たんでしょうな」とたずねると、彼女は安心したように笑いだして、ただ一言「いいえ」と答えただけであった。私は一度や二度では彼女の正体がつかめないと諦《あきら》めて「いや、大いにお邪魔しました」とお辞儀をして席を立った。彼女は私をテラスまで見送って来て「どうも御苦労さまでした」とお辞儀をした。私は念のため「では、防護団の演習のときには、御注意を願います。自粛して下さい。何しろ、村じゅうが緊張している際ですけん」と云って帰って来た。  私は事務所に帰って来る途中、彼女の云ったアンリ・ルソーという名前とプルーストという名前を手帳に書きとめた。そして役場に寄って電話を借り、本署の庶務課にいる木崎君にアンリ・ルソーならびにプルーストなる者の素姓を問い合せた。木崎君は独学の人で年配も四十を超《こ》え、妻子があるのに各方面の書物を怠らず読んでいる研究家で、また君子人である。幸い木崎君は直ぐ電話に出て「何やなあ」といった。「ちょっとおききするが、アンリ・ルソーというのはどういう方面の画家なのや」とたずねると「儂はよく知らんが、その画家はフランスの偉い画家ちゅうこっちゃ。一時、美術雑誌なんかによく紹介されておったが、今はあんまり云わない名前だ」と教えてくれた。「危険思想の画家やないやろうな」ときくと「そんなことはあるまい」という返事であった。なおプルーストについて木崎君は詳しいことを知っていて、その小説家は句切りの極《きわ》めて長い文章によって現わして行く小説を書き、その筆法は最近日本の小説界で大いに採用され、思想的には無害無益な小説であると教えてくれた。  私は事務所に帰って来て熟考した末に、反村長派の元締である老人を訪問した。私の考えでは、別荘の彼女は大人でありながら気持は少女に近い我儘な女と思うのが妥当であろうというところに落着いた。それで老人に「まだ現在のところ、ヘンリーさんの廻し者であるかどうか私にはわかりまへん。しかし、いろいろの意味で、村民にとっては或《あるい》は有害無益な女でありましょうな」と真剣に所感を述べておいた。老人は別荘の彼女のことは別として、村長の資本主義的傾向の悪口をいい出したが、私は応答に窮して早く切りあげて来た。夜、温帯さんが遊びに来て、つい話は村じゅう評判の別荘の女の噂ばなしになって行った。温帯さんの話では、彼女の評判がますます悪くなったのは、吸田さんの宣伝によるということである。吸田さんは厚かまし屋の四十女で、でっぷりと肥えてロイド眼鏡をかけ、「海岸のヌシ」といわれている。女学校を卒業し、里も悪くはないというが、海運業の亭主が女狂いから発狂したので亭主と別居している女である。酒は一升以上も飲み、えたいの知れぬ若い男を常に家に置いている。つまり若い燕《つばめ》を入れかわり立ちかわり設けているわけで、最近の若い燕が別荘の彼女に艶書《えんしよ》を郵送したのが吸田さんに知れた。それで若い燕は吸田さんの手前が悪くなって家を出て行った。吸田さんはその恨みで、別荘の彼女をヘンリーさんの廻し者であるといいふらして歩いたとのことである。いまに何か不吉なことが起りそうな気がするが、その不吉なことを予想さすように誘うものは何だろう。あながち別荘の女の行為だけとは思われない。    村娘有閑  七月十日  今日、裏の井戸端《いどばた》で顔を洗っていると、表で「お早うぐわすけに」という声がした。「旦那はん、まだお休みですかい、お早うぐわすけに」と頻《しき》りに私を呼ぶ声がした。  いい加減に顔を洗って表に出てみると、理髪屋の老人床のおやじさんが立っていた。「や、おやじさん、こんな朝っぱらから、何ごとや」ときくと、おやじさんは声を落し「あの、旦那はん。こりゃ秘密やけど、煙草屋が何やら今朝《け さ》くらいうちから、騒々しいのや。何ごとや知らんけど、裏口から駈け出して行く足音がして、それからまた裏口から駈け込む足音がして、儂《わし》が耳をすましてきいているちゅうと、煙草屋のお袋が、これオヨネ、お前は何故わたいに黙って眠り薬なんか飲んだのや、この毒消しを飲め、と云いよるのがきこえたけに」といった。  つまり、おやじさんは私に密告してくれたのである。  老人床と煙草屋は、往還沿いの同じ長屋の隣同士で、お互に隣の話し声が筒抜けである。老人床のおやじさんは「あのな旦那はん。それで棄ておいてもいかんと思うたので、ごく内々で儂ゃ訴えに来ましたけに」と云った。「そうか、どうも御苦労やったなあ。あんたは帰ってくれ、官服を着てから出かけるけに」というと、おやじさんは「じゃ、儂ゃそうしまひょう。万一のことがあったら大変やけに、程よくお願いしときますわ」と云って帰って行った。  私はお湯をわかす暇もなかったので、冷たい飯をかき込んで水をのみ、官服にサーベルをつけ自転車に乗ってとび出した。往還を走って行くと老人床のおやじさんがのろのろ歩いて行く後姿が見えたので、その後から「おッさん、まるで亀《かめ》の歩みやな。儂は兎《うさぎ》や」といいながら追い越した。後を振りかえると、老人床のおやじが「旦那はん兎かいな。ありゃりゃ旦那はん、帯の紐《ひも》がぶらさがっていますけに」と注意してくれた。私はバンドの代りにいつも細い青い色の紐を用いるが、今朝はあまりにも急いで紐をしめたので、紐の先が尻尾《しつぽ》のようにぶらさがっていた。  老人床の隣の煙草屋はもう店をあけていた。覗《のぞ》いて見ても誰もいないので「お早う、お早う」と声をかけると二階から娘のお袋さんがおりて来た。そして別段変った様子も見せないで「お早う御座いますけに」と私に挨拶して「旦那はん、バットは品切れですけに」といった。  私は探りを入れる手掛りを失って「バットがなければ、チェリーを下され」とポケットから白銅をとり出して「今日もまた、この分では暑いのやろうなあ」と大儀そうに上り框《がまち》に腰をかけてお袋さんの顔を見た。それでもお袋さんは顔色ひとつかえないで「ほんまになあ、こう暑いと、旦那はんの巡回もたいていでは御座いまへんやろう。まあお茶でも入れますけに」と店の売物台のラムネを一本とり上げて「このラムネ、きのう届いた新しい品やけに、旦那はん一つ飲んでみて下され」とラムネの栓《せん》を抜きそうにした。私は周章《あ わ》てて「や、待った待った。そりゃいかん、儂ゃ飲むわけにはいかんのや」と逃げるようにして店を出た。どうも年とった女というものは、何くわぬ顔をするのが上手《じようず》で嫌《いや》らしい。  私はいつも巡回するときのように、ゆっくり自転車を操縦して、やがて太陽堂薬局の前まで行くと、薬局の主人が店に坐っていたので自転車をとめた。「お早う」というと、相手は「や、お早うぐわすけに。今日はまた、ばかに早くから巡回だすなあ」といった。  この太陽堂薬局の主人は日ごろ私と懇意である上に、村の防護団の衛生班長という名誉職を持っている器量人である。私は彼のその器量と私たちの親交に訴えて、単刀直入に「太陽堂さん、ちょっと訊《たず》ねたいことがあるのやが、今朝ほど、この店で解毒剤のようなものを売らなかったやろうか。もし売ったら、売ったと正直にいってもらいたいのや」とたずねた。太陽堂主人は目をまるくしていたが「何ごとやと思ったら、そのことだすか。さっき煙草屋さんが来て、娘が食あたりしたから解毒剤くれちゅうたので、清丹錠を売りましたのや」という。「清丹錠というのは禁止薬ではないやろうな」ときくと「なあに、宝丹みたいな万人向きの通常の薬だすわ」という。それで「煙草屋の娘は、眠り薬を買いに来なかったやろうか」とたずねると「来ませんわ、一向に」といって、頭をひねり「何か変ったことでもあったのでぐわすか。そういえば、煙草屋のおかみさんが、きっそう変えておったようだす」といった。「いや、何でもないんや。煙草屋のおかみさんが、朝っぱらから薬屋へ駈けつけるから、儂ゃ何ごとかと思ったのや」と答えると「ほうですかい、ほれならまあよいが、儂ゃびっくりしましたわ」といったので「儂の思いすごしや。どうもお邪魔してすまなかったが、気にしないで下され」といって外に出た。  自転車でまっすぐに医者の難波さんに駈けつけて、瓦葺《かわらぶき》の門を潜《くぐ》って行くと難波さんが玄関に腰をかけて靴をはいていた。「難波さん、お早うぐわすけに。おでかけですか」というと「やあ、お早うぐわすけに。駐在さん、あんたは炯眼《けいがん》やなあ、たぶん煙草屋のことでおいでになったのやろう」とにこにこ笑いながら「しかし、煙草屋のことなら、大したことではないやろう。私はこれから煙草屋へ出かけて行くところだす」と泰然としていうのである。「じゃ、こちらさんへ誰がお迎えに来ましたやろう。おかみさんは家にいたし、他に人手はない筈《はず》やろうに」とたずねると「さっき、誰か知らん学校の子供が、おかみさんに頼まれて私ところへ手紙を持って来たちゅうわ。私はまだ寝ていたのやが、たたき起されて漸《ようや》くいま出かけようとしているところだすわ。寝起きに直ぐ飯をたべて外に出ると、どうも私は消化が悪くて困りまん。はて、その手紙というのは、これでぐわすわ」と難波さんは洋服のポケットから手紙をとり出して見せた。  達者な筆蹟《ひつせき》で書いた女文字の手紙であった。 拝啓、時下酷暑の候と相成りましたが先生様には御丈夫で毎日御回診をなされお目出度《めでと》う御座います。つきましては娘が隣村の岡崎さんの次男と相談して、カルモチン錠というのを嚥《の》み、もう目はさめておりますが、今朝がた漸く私は気がつき薬局で毒けし薬を買って来て口に入れてやりますと、機嫌《きげん》よく嚥みましたが、青い顔をしておって心配なので先生様に直ぐお願い申します。人手がないので手紙でことづけを頼みます。 春日屋より    難波先生様  難波さんは私の手からその手紙を受取ると「たぶん、七粒か八粒ぐらい嚥んだのやろう。血を吐いたともいうてないし、もう目がさめて青い顔をしておるちゅうのやけに」といった。「原因は何ですやろう」と失礼ながら追求すると、「何か心配ごとがあったのやろう。女の心配は、男のことか金のことか、この二つのいずれかでぐわすけに。ともかく、私は急ぎますけに」と難波さんは鞄《かばん》を持ちなおし、そのとき病棟《びようとう》の横手から車夫が挽《ひ》き出して来た人力に乗った。そして「いずれまた、ゆっくり話しまひょう。この問題は、警察問題にならずにすむと思いますけになあ。七粒か八粒ぐらい嚥んだのやろうと思いますけに」と俥上《しやじよう》でゆられながら門の外に出て行った。  私は難波さんの奥さんに挨拶して難波医院を出て来たが、確かに自分は出すぎたことをしたと反省され、何だか割りきれない気持であった。老人床のおやじさんは駐在巡査としての私のファンであるが、隣の春日屋煙草店と仲が悪いので早まって私のところに駈けつけたわけだろう。  私は村の西分の下駄小工場まで巡回すると今日の巡回は中止して、ちょうど髪も伸びていたので老人床へ引返した。煙草屋の前にはもう難波さんの俥《くるま》はなくて、野菜を山と積んだ荷車がとまっていた。店には荷車挽きが土間の椅子に腰をかけ、コップへ泡立《あわだ》つラムネをおかみさんについでもらっていた。病人は無事と確定したらしい。  七月十一日  すこし早めに夕食をたべ、シャツ一枚になって届書や最近この村に入り込んで来た土工たちの身元調査の整理をしていると、温帯さんが慌《あわただ》しくやって来た。「何ごとやなあ」とたずねると「電話で、煙草屋の娘がまた毒を嚥《の》んだけに、直《す》ぐここに来てくれちゅう伝言だすわ」といった。「ここに来てくれいうて、どこへ行くのや」ときくと、「はて、どこやろう。こら、しもたことした。どこやろうなあ、たぶん難波さんのとこやろうと思いますけに」といった。「誰が電話をかけたのや」ときくと「煙草屋のおかみさんだす。本署からではない筈や」といった。  急いで官服を着てサーベルをさげ自転車を走らせた。ところが難波医院に行ってみると、受附の看護婦が「先生はお出かけになりましたけに」という。「どこへお出かけですか」ときくと「回診にお出かけになって、まだお帰りにならんのですけに」という。「じゃ、先生が帰られたら、私がここに来たちゅうことを、先生に伝言して下され」と頼んで帰って来た。  私は春日屋煙草店へ急行したが、まだ宵の口だというのに表の戸を固く締め、裏口に廻ってみても戸が締まっていた。隣の老人床をのぞいて見ると、おやじさんが衛生班長の薬局の主人に新聞を読んでもらっていた。衛生班長は私の顔を見て「きっそう変えて何事やね」といった。「隣の煙草屋はどこへ行ったのや」とたずねると、床屋のおやじが「隣は、昼ごろから留守やけに」といった。「留守ちゅうのはわかっとるが、どこへ行ったのや」ときくと、衛生班長が「たぶん全快祝いに町へ映画でも見に行ったのやろう」といい、おやじさんは「娘の方は朝早くから出かけよって、おかみさんの方はお昼ごろ出かけよったけに、映画ではないやろう。けんど折角や、まあお茶でも飲んで行きなはれ。儂ゃ昨日は、旦那《だんな》はんに早まったことを密告してからに、つくづく後悔しとりまん」と云った。  私は尻餅《しりもち》をつくように腰掛場へ腰をかけた。「実は、隣の娘がまた毒を嚥んだのや。いま取次の電話がかかって来たのやけんど、云う方でも娘のいどころを云い忘れたのや。ずいぶん周章《あ わ》てておったのやろう」というと、おやじさんが「難波医院やろう」と云う。「あしこには、いないのや」というと、衛生班長が突如として膝《ひざ》を打ち「わかった、橋本屋旅館やろう。いつか煙草屋の娘が、あの旅館で男といっしょに大きな声で泣いたちゅう話や。二人で抱きあって泣いたちゅうことやけに」といった。  橋本屋旅館というのは隣村の旅館兼料理屋で、ぼろい儲《もう》けのあった機械ブローカーや成金《なりきん》の旦那衆が散財に行く家である。私は老人床をとび出して、お宮の社務所の電話を借りて隣村の橋本屋に電話をかけ、年のころ二十一二歳、身長五尺一寸、髪を縮らせ、頬《ほお》に笑靨《えくぼ》の出る目のぱっちりした可愛らしい女で、何か人騒がせをしたお客はいないかと問い合せた。電話口の相手は「そりゃ、多甚古村の春日屋さんの娘さんのことやろう。今日、中学生のような人といっしょに来なされて、いま二人とも大騒ぎの最中だすけに。それでも、二人とも助かるちゅうことで、もう二人とも目をあけておりますけに」といった。  私は社務所をとび出して自転車を走らせた。月が漸《ようや》く山の切れ目にのぞいていた。切通しを越えると、月は海原の上に光って道をほの明るく照してくれた。私は全力をあげ急速力で自転車を走らせたが、橋本屋旅館に駈《か》けつけたときには患者が自動車でそれぞれ家に引揚げた後であった。  煙草屋の娘の未遂心中は狂言であろうと推定される。原因は、負けず嫌《ぎら》いの強気から商売がたきに見せつけるためであったと思われる。その商売がたきは最近この村に出来た美人床で、一方、これは老人床の商売がたきでもあり、老人床はまた隣の煙草屋とも仲が悪い。  老人床は美人床が出来てからというもの、客がすくなくなったといって先日も愚痴をこぼしていた。「若い美しい女の子には勝てまへんわ。村の若い者は、ごつごつしたオッサンの手の平より、柔《やわ》い女子の手の平を好きよるけに」と一応は兜《かぶと》をぬぎ「しかし、あの女床は男不明の私生子を生んどるそうやなあ」といってコップ酒を飲んでいた。  美人床の理容術営業の許可は私が手交したのだが、提出願書には二十一歳と書いてあったと記憶する。丸顔の美人で、その女の姪《めい》というのが十八歳でまた明るい感じの娘である。二十一歳の方も十八歳の方も、ときどき村の大工や職工たちと映画を見に町へ行き、どうも素行のよい女とは思われない。一般の噂《うわさ》では、村の若い衆をいい加減にあしらって、実は二十一歳の方も十八歳の方も、中学を来年卒業する隣村の不良学生に熱中しているということである。しかし村の若い衆たちは、美人床には蚊がすくないという理由をつけ、或《あるい》は美人床に行くと気分のいいレコードがきけるという理由から、彼等はそこに詰めかけて行ってチックを塗ってもらうのである。美人床では毎晩のようにレコードが鳴り、若い衆の吹きならすハーモニカがきこえ、店先にはいつも煙草の吸殻が散らばっている。  美人床が出来てから、老人床の隣の煙草屋も急に客足が減り、看板娘は以前のような愛嬌《あいきよう》を失《う》せさしていた。この娘は独身論者であるという噂で、お袋の方は「えげつない」という一般の評判である。娘は学生党を標榜《ひようぼう》し、自転車通学の中学生等がこの店の土間に詰めかけてラムネを飲んだり、駄菓子の買食いをしているのをよく見かける。以前は中学生がずいぶん夜ふけまで娘と話しこんでいるのを見かけたが、このごろではその大部分の常連が美人床に転向してしまった。  なかには中学生たちのうち、美人床でも煙草屋でも一さい問題にされない学生は、ちょっとひねって老人床に顔を剃《そ》ってもらいに来るものがある。しかしそれも永つづきするわけではなく、また美人床の常連になったりする。  老人床のいつも変らない常連はたった一人、衛生班長の太陽堂薬局の主人である。この班長は新しい薬の見本が来ると、老人床にそれを持参して説明するのがおきまりである。私が当村駐在に勤務してから約半年間に、老人床でこの班長に説明してきかされた売薬は、目薬、リュウマチの薬、神経痛の薬、歯痛の薬、下痢止めの薬、胃腸薬、そのほか数種である。班長は説明した挙句、人が病気でもないのにその薬を服用させ、その薬を見本として進呈しようという癖がある。  この衛生班長は新しい薬と政府の新しい指令以外には、世の中の新しいものは一さい否定するといっている。美人床の女の断髪も嫌《い》やだし、新しいレコードも嫌や、煙草屋の娘の手製の電髪まがいも嫌や、若い衆や中学生たちの好む長めの揉《も》みあげも嫌やだという。しかし近頃いちばん面白いのは、美人床の断髪と煙草屋の電髪との、隣村の不良中学生を相手にした争奪戦であるというのである。  かねがね煙草屋の電髪は、美人床の二人の断髪に鼻をあかしてやろうと思っていたのにちがいない。私が隣村の橋本屋旅館から引返して煙草屋に駈けつけると、電髪娘のお袋が「旦那はん、この度《たび》はわたい等《ら》のうちのことで、行ったり来たりして貰《もろ》うてすみまへんけに」と謝《あやま》って「でもなあ旦那はん、うちの家の娘が今度のようなことをしなければ、美人床の女があの学生さんと今度のようなことをした筈やけん、所詮《しよせん》、因果なことやと思いますけになあ、あんた」といった。「相手の中学生ちゅうのは、何ものやね」ときくと、娘のお袋は「町の盈進《えいしん》中学の五年生で、第一投手とかいっとりましたけに」といい「隣村の岡崎医院の次男坊やけに、岡崎はんが程よく二人の薬を吐かして下はりましてなあ」といった。「儂《わし》に呼出しの電話かけたのは誰やね」ときくと「あのな旦那はん、あれはわたいでしたけんど、もう治りましたによってなあ旦那はん、どうもすんまへん」といった。それで「病人を大事にしなはれ」と云い残して帰って見ると、村の青年訓練生が五六人も来て私の帰るのを待っていた。この人たちは美人床や煙草屋へ遊びに行かない連中で、衛生班長の太陽堂薬局主人を精神的に主班とする硬派の人たちである。 「大勢で押しかけて来よったあ、いったい何ごとや」ときくと、浅黒い顔の青年が代表で「私等は釣鐘のことで来ましたのや」といい、「お寺の釣鐘は、あれを鋳るとき金の簪《かんざし》や銀の簪を百本も二百本も鋳込んだと、婆さん爺さんがいいますけに、あれを政府の手で熔《と》かして分析したらどんなものやろうと思いますのや」といった。私は即座に「それゃ結構な思いつきやと思うけに」と答えたが「その話は儂に相談しても、あかんやろうな。村長さんや住職さんに相談することや」とつけ加えた。  青年たちは、せんだって私の依頼した自転車の標板を九十三箇も集めたといっていた。それは自転車の標板が従来のアルミ製であった規律が改正されたので、アルミ板を銃後後援会に寄附するために青年たちの手で先日から集めていたのである。釣鐘を政府に渡そうという話も、たぶんアルミ板のことから思いついたものにちがいない。 本作品中、今日の観点からみると差別的ととられかねない表現が散見しますが、作品自体のもつ文学性ならびに芸術性、また著者がすでに故人であるという事情に鑑み、原文どおりとしました。(編集部) この作品は昭和二十五年一月新潮文庫版が刊行された。 Shincho Online Books for T-Time    多甚古村 発行  2002年9月6日 著者  井伏 鱒二 発行者 佐藤隆信 発行所 株式会社新潮社     〒162-8711 東京都新宿区矢来町71     e-mail: old-info@shinchosha.co.jp     URL: http://www.webshincho.com ISBN4-10-861215-9 C0893 (C)Setsuyo Ibuse 1939, Coded in Japan