TITLE : 私の西域紀行(下) 〈底 本〉文春文庫 昭和六十二年六月十日刊 (C) Fumi Inoue 2001  〈お断り〉 本作品を「文春ウェブ文庫」に収録するにあたり、一部の漢字が簡略体で表記されている場合があります。 また、差別的表現と受け取られかねない表現が使用されている場合もありますが、作品の書かれた当時の事情を考慮し、できる限り原文の通りにしてあります。差別的意図がないことをご理解下さいますようお願い申し上げます。 〈ご注意〉 本作品の全部または一部を著作権者ならびに(株)文藝春秋に無断で複製(コピー)、転載、改ざん、公衆送信(ホームページなどに掲載することを含む)することを禁じます。万一このような行為をすると著作権法違反で処罰されます。 目  次 口絵写真 撮影 井上 靖 二十六 酒泉の月 二十七 疏勒河を追って 二十八 飛天と千仏 二十九 弥勒大仏 三十  蔵経洞の謎 三十一 得故城の静寂 三十二 張掖から武威へ 三十三 沙棗の匂い 三十四 ニヤ——精絶国の故地 三十五 大馬扎 三十六 ニヤの娘たち 三十七 褐色の死の原 三十八 崑崙山中一泊 三十九 風の鳴る廃墟 四十  ロブ沙漠をめぐる興亡 四十一 ミーラン遺址 四十二 柳絮舞う旅の終り 章名をクリックするとその文章が表示されます。 私の西域紀行(下) 敦煌。無数の塑像と壁画で埋められた莫高窟千仏洞。4世紀から14世紀にかけ千年に亘って開削され荘厳された。 ミーラン遺址は、ゴビ灘のただ中にある。大小の土塊が点々としているのみ。 322窟(初唐)の仏七尊像。仏像は鼻下に髭をたくわえ、少数民族の相貌をもつ。 二十六 酒泉の月  これまで五十四年の八月、カシュガル(喀什)、ヤルカンド(莎車鎮)、アクス(阿克蘇)、クチャ(庫車)などを訪ねた、その時の紀行を綴って来たが、この旅から二カ月を置いた十月、敦煌《とんこう》を再訪する機会に恵まれた。NHKと中国のシルクロード共同取材班に同行し、敦煌文物研究所長の常書鴻氏と短い対談をするのが、私に与えられた役目であった。  敦煌には先きに記しているように五十三年に一度足を踏み入れてはいるが、見たと言えるような見方はしていない。短い滞在期間中に玉門関、陽関行きに一日をさいており、常書鴻氏御夫妻の案内で、五十六の窟を駈け廻ったに過ぎない。見なければならぬ窟も割愛しているし、それにどの窟も、小さい懐中電燈の光で、まるで手探りでもしているような、そんな捉え方をしただけのことである。  こんどの日中共同取材班の仕事では、主要な窟の幾つかにライトが入るという。NHKから声をかけられた時、二つ返事で敦煌行きを承諾した次第である。  それからもう一つ、この機会に河西回廊をジープで走ることができたらと思った。既にこの地区は取材班がカメラに収めているので、交渉次第で、そこに入れて貰えないものでもなかった。小説「敦煌」で主要舞台として取り上げている涼州、甘州、粛州といった往古の大集落が、現在は武威《ぶい》、張掖《ちようえき》、酒泉《しゆせん》といった名で散らばっている。  河西回廊は往復二回、列車で走ってはいるが、列車の窓からではいかなるところか、いっこうに見当がつかない。やはりジープで走らせて貰って、武威にも泊り、張掖の夜の眠りも経験したいと思う。そしてでき得るなら連《きれん》山脈の烏鞘嶺《うしようれい》もジープで越えてみたい気持である。この方は確実にこちらの望みが適《かな》えられるかどうかは判らないが、現地に行ってみた上でのことにする。  十月五日(五十四年)、北京を飛び立ったのは午後三時半、蘭州空港に着いたのは七時、空港で夕食を摂ってから町に向う。町までは七四キロ、すっかり暮れてしまった夜のドライブになる。このところ昼間は二十度から十五、六度の間だが、朝夕は大分冷えるという。  雲の間から満月が顔を出している。陰暦十月の満月である。幾つかの小さい集落を通過するが、街路樹が見えるだけで、周囲には真暗い夜が拡がっており、人の子ひとり見えない。日本では考えられない漆黒の闇の中のドライブである。  鉄橋で黄河を渡って、工場地帯に入るが、鉄橋の上で停車、満月の夜の黄河を見させて貰う。上流の方は石油コンビナートの燈火で、流れは赤くただれており、下流の方は月光に青く照し出されている。川幅は二〇〇メートルぐらいであろうか。流れはかなり速い。  八時に蘭州迎賓飯店に入る。すぐ飯店の広間で、蘭州の放映機関の人たちによって観月の宴が開かれる。月餅が出る。十一時に部屋に引き取って、すぐ眠る。夜、一、二度、寒さで目覚める。  十月六日、今日は一日休養、明日は朝の列車で酒泉に向うことになる。午後、常書鴻氏夫妻のマンションを訪ね、お茶のご馳走になる。氏の書斎も見せて貰う。窓から一キロほどのところを流れている黄河の水の面が望める。なかなか贅沢な書斎である。氏の敦煌の、千仏洞のすぐ傍のお住居も訪ねたことがあり、一三〇窟の風鐸《ふうたく》の音の聞えるという書斎にも感心したが、こちらはこちらで羨しく思う。机に対《むか》って、煙草でものみながら、ぼんやりと黄河の流れに眼を当てていられるということは、やはり贅沢と言う他はない。  氏のお宅を辞して、白塔山公園に向う。氏のお宅を出たところにある黄河大橋を渡る。十月一日に開通した許《ばか》りの新しい橋で、今日は開通六日目ということである。この橋の上手に、これまでよく写真で紹介されている鉄橋があるが、この方は新しい橋ができたために黄河古橋という名に変ったそうである。どちらも蘭州の町中の橋である。  この二つの橋の他に、昨夜空港から来る途中に満月を眺めた鉄橋がある。この方は西固大橋、西固というのは地域の名で、西固地区の橋ということになる。黄河大橋、黄河古橋、西固大橋、——この三つのほかに三〇キロほどの上流に、もう一つ橋があるそうである。蘭州は黄河とは切っても切れぬ関係を持つ黄河の町と言う他ない。  蘭州は北の白塔山続きの山々と、南の五泉山続きの山々に挟まれ、白塔山麓を流れる黄河に沿って営まれているたいへん長い町である。  昨年蘭州を訪ねた時は五泉山に登っているので、こんどは白塔山に登ることにしたのである。黄河大橋を渡って、対岸の白塔山の裾《すそ》の雑然とした地帯に入る。回族の住居地区だそうだが、なるほどひと目でそれと判る白い帽子をかむった男たちが多い。  くるまを降りて白塔山公園に入る。ここも山の斜面に造られた公園であるが、五泉山公園より斜面は急で、樹木も少い。回廊を通り、途中から石段で登るようになっている。黄河を俯瞰《ふかん》できるところまで登って、塔のところまで行くのは諦めて、そこから引き返す。  公園を出て、黄河古橋の袂《たもと》に立つ。この辺りではここが川幅の一番狭いところだそうである。川幅は一〇〇—一五〇メートルぐらい。水深は十五、六メートル、しかも水がつめたいので、この橋の附近の水泳は禁止されているそうである。流れは速く、ために冬でも凍らぬという。  町を歩く。市街だけで人口一〇〇万の町である。郊外の工場地帯を入れると二一三万にふくれ上がる。中国西北地区の大工業都市であるが、しかし町中には古い町の名残りが到るところに遺っている。町中の丘にはぎっしりと壊れかかったような白壁の土屋がつまっている。  町はもう灰色の冬の町の感じである。街路樹の葉が落ちてしまうと、全くの冬の町になるだろう。どことなくしっとりとしていい。昨年八月の蘭州には感じられなかったものである。今から五十年前の蘭州は四方を城壁で包まれた人口一〇万の町だったという。甘粛省一の都会ではあっても、黄河に沿ったさぞ静かな、殊に冬などは淋しいくらい静かな地方都市であったろうと思う。  町にはアカシヤ、槐《えんじゆ》、枝垂柳《しだれやなぎ》の類が目立つ。一番多いのはやはりポプラである。  十月七日、六時起床、七時四十分、宿舎を出る。八時十九分発の列車に乗る予定である。駅は大きい。昨年の時は、深夜の出発になり、辺境地帯へ向う列車の駅の暗さがあったが、今日は明るい。ホームには大勢の乗客が溢《あふ》れていて、賑やかである。  結局列車は一時間おくれ、九時十五分、蘭州駅を離れる。今日は烏鞘嶺をゆっくり見物させて貰うつもりである。昨年は往きも帰りも、二回共、暁方の烏鞘嶺越えになり、峠も峠附近も殆ど眼に収めていない。  郊外の土屋の集落地帯を過ぎると、樹木の多い大耕地が拡がり、遠くに黄河の流れの帯が見えてくる。線路に沿って、舗装された甘新公路が走っている。酒泉を経て、ウルムチ(烏魯木斉)まで、遠くなったり、近くなったりしながら、線路に平行して走る道である。途中にゴビ(戈壁)もあれば、沙漠もある。なかなか大変な街道である。  蘭州から三十分ほどで、左公車を配した黄河が見えてくる。左公車というのは、春秋時代に左公という人が造った水車だと言われ、水車の直径は一〇メートルほど、それに水を汲み上げる桶が三十幾つかついている。水量が多い時は水車の廻転が早くなり、その廻転の速さによって、流れの速度や水量が判るという。いずれにしても二千年ぐらい前から使われている、高い崖の上の耕地に水を送るための水車である。以前はこの辺りの黄河にたくさん見られたが、今は用水路の整備によって少くなったそうである。  発案者の左公なる人は、一説に少数民族の人だとも言われている。それはともかく、大きな水車を岸に配したこの辺りの黄河は、何とも言えずのびやかでいいが、残念なことに今は算《かぞ》えるほどしかない。一つ、二つ、それからまた二つ、そんな現れ方である。  十時、河口南駅。それから暫くして東流している黄河の黄濁した流れを渡る。そして次第に黄河の奔流とは隔たり、その間に岩山地帯が置かれる。こうして黄河とは別れる。 白草原頭 京師を望めば 黄河 水流れて尽きる時なし  これは唐詩選に載っている王昌齢《おうしようれい》の七言絶句の前半であるが、何となくこの辺りの黄河にぴったりするように思う。もともと辺境の将兵に代って、その心情を歌った詩であるから、その場所がどこであるか詮索しても始まらないが、この詩には、この辺の黄河がぴったりするようだ。これからなお黄河に付合うとなると、青海省まで分け入って行かねばならない。まあ、この辺で別れるのが無難というものであろう。この辺りに立って京師を望めば、確かに、黄河の水は流れ、流れて、尽きる時はない、そんな感懐に打たれるに違いない。  黄河と別れて、列車は連山脈へと入って行く。左手にも右手にも、一木一草ない低い岩山が連なっており、それに挟まれた地帯を列車は走っている。土地は荒れているが、その大部分が耕されており、農村地帯が続いている。  やがて右手の山の連なりはなくなり、左手は大きな断層をなし、視野は大きく開ける。この辺りから列車は上りづめに上る。不毛の土地が拡がり、ところどころに羊群が置かれている。明らかに連山脈に分け入りつつあるのであるが、耕地もあれば、不毛地もある。十一時四十分、永登駅。駅は高台にあり、集落は低地にある。地盤は高低、段落があるが、それでも一面耕されており、樹木も点々と配されている。ここは連山脈への登り口の駅で、ここから烏鞘嶺を越えて河西回廊に入ってゆくのである。  三十分程すると、急に両側の山が迫って来て、渓谷は狭くなり、山間部に入ってゆく。それでも所々に小さい集落がある。屋根の低い土屋が身を寄せ合っており、楊樹は黄ばんでいる。  渓谷は広くなったり、狭くなったりし、列車は右手の岩山の裾を走っているが、その岩山を脱けると、他の渓谷に入り、そしてまた他の渓谷に入って行く。幾つかの渓谷を縫って、山脈を越えてゆくのであろう。時には水の美しい小川が顔を覗かせ、その向うに一面に紅葉した楊樹の林があったりする。  十二時五十分、打柴溝という駅、ここで機関車を替える。冬は二輛の機関車をつけるが、現在は一輛で間に合うそうである。  やがて無数の糸屑を束ねたような川が見えてくる。山脈の頂き近いところの川らしい。列車の線路のすぐ傍に、万里の長城の欠片《かけら》が置かれているのを見る。  金強河という駅がある。この辺は烏鞘嶺の裾に当る地帯、二〇〇〇メートルの高地であるが、チベット族が住み、短期間で収穫できる雁麦を栽培しているという。同名の河があるが、その河畔の台地の上にも、長城の欠片が幾つか置かれている。以前はこの地区は定羌河《ていきようが》と呼ばれていたが、羌族を平定するという意味なので、革命後に金強河という名に改められたという。  山に挟まれた平坦地がずっと続き、その間川の流れは平坦に置かれていたが、やがて道は上りになり、雪の山がすぐそこに現れてくる。羊の大群の放牧、このようなところも放牧地になっているのであろうか。  一時五十分、川の畔《ほと》りの淋しい土屋の集落が眼を惹《ひ》く。その集落の辺りから、列車はぐんぐん登って行き、烏鞘嶺駅を通過する。そしてトンネルをくぐったところから道は降りになる。この地帯もチベット族の住居地帯で、丘と丘との間や、丘の裾に小集落が点々と配されている。どの集落にも、低い屋根の家が寄り添うようにして固まっており、一晩の雪で埋まりそうに危く見える。丘の頂きや斜面には、あちこちに、放牧の牛の群れが配されている。三八〇〇メートルの烏鞘嶺の向う側にも、こちら側にも、人々は住んでいるのである。  やがて道は大きく曲って、前方に見えている山と山との間に入って行く。こんどの渓谷にも同じように小集落があり、猫のひたいほどの耕地には小麦や粟の栽培が見られる。レストランとも、劇場とも、繁華街とも全く無関係な生活が、ここでは営まれている。  三時四十分、十八里堡。渓谷の駅である。流れ降っている小川に沿って小さい集落が造られている。  やがて右手の山は次第に遠くなり、一望の原野が拡がってくる。そして原野のところどころに耕地が点綴《てんてい》され、羊群が置かれ始める。全く山脈を降りきったのである。  古浪、双塔といったしゃれた名前の駅を素通りして、黄羊鎮駅で停車。かなり大きいオアシスで、駅から遠く離れたところに集落がある。ここで、その一つの尾根を越えて来た連山脈の山なみを左手に見る。  五時三十分、武威駅。武威を過ぎてから、列車はずっと半ゴビ地帯を走り続ける。武威を過ぎてから連山脈の一峯である焉支《えんし》山なる山を眼にしたく思って、列車の何人かの乗務員に訊ねてみるが、誰も知らない。もし焉支山という山が見えるなら武威と張掖の間の筈であるが、今回は諦める以外仕方ないと思う。この敦煌行きの帰途、河西回廊をジープで走ることができるようだったら、その時改めてお目にかからせて貰おうと思う。 「史記」の“匈奴《きようど》列伝”に、  ——漢、驃騎《ひようき》将軍去病《きよへい》をして万騎をひきいて隴西《ろうせい》より出でしむ。焉支山を過ぐること千余里、匈奴を撃つ。  という記述がある。年若き将軍霍去病《かくきよへい》の匈奴討伐の赫々《かくかく》たる武勲を述べるに当って、最初に焉支山の名が取り上げられているのである。  それからまた、去病の大遠征によって、長く根拠地としていた連、焉支の二山を失った匈奴が、その悲しみを歌ったという歌がある。「国訳漢文大成」の訳を借りると、  ——匈奴、連、焉支の二山を失い、乃《すなわ》ち歌って曰く、我が連山を亡《うしな》う、我が六畜をして蕃息せざらしむ、我が焉支山を失う、我が婦女をして顔色なからしむと。其の悲惜すること乃ち此の如し。  この匈奴が歌ったという歌を、私流に訳させて貰うと、  ——われ、連山をうしなう。大切な放牧地はなくなった。これからどうして、羊や、馬や、牛や、駱駝《らくだ》たちを生かして行ったらいいであろうか。  ——われ、焉支山をうしなう。女たちにとって大切な臙脂《えんじ》は手に入れることができなくなった。わが可愛い女たちは、これからどうして化粧するであろうか。  私の場合、匈奴という剽悍《ひようかん》極まりない北方の遊牧民族が、ふいに生きた人間の集団として受け取られたのは、匈奴が歌ったというこの歌を知ってからである。  それはさておき、河西堡駅に入ったのは七時五分である。すでに漆黒の闇が大原野を包んでいる。連も闇に包まれ、焉支もまた闇に包まれている。  午前二時半、酒泉着。寒いというので羽毛服を纒うが、ホームに降り立ってみると、それほどでもない。月が美しい。甘粛、新疆《しんきよう》、それも辺境地区だけで見られるつめたい月の輝きである。また縁あって、この月を仰ぐことができた、そんな思いである。  駅附近にも人家というものはない。町まで一四キロ、真暗い道が続いている。くるまのライトでポプラの街路樹が次々に現れてくる。駅からまっすぐにのびている道が、町に入る手前で、僅かにカーブする。やがて南門をくぐると、すぐ鼓楼《ころう》に突き当り、右に曲ると、左側に地区招待所がある。人口五万の町であるが、夜半の今の時刻は、息を引きとったように静かである。招待所に入ると、すぐ寝台にもぐり込む。三時半である。 二十七 疏勒河を追って  十月八日、快晴、九時に目覚める。招待所の庭を同行の常書鴻氏(敦煌文物研究所長)夫妻と歩く。空気は爽やかである。酒泉は人口五万の町、十一月初めに降雪があり、年に五、六回の雪、十月初めの今は多少ひんやりとして、爽やかである。昨日列車で通過して来た武威も、張掖も、大体同じ気温のようである。  午後二時に招待所を出て、夜光杯工場を訪ね、そのあと町中の鼓楼に赴く。鼓楼は招待所から歩いて五分ほどの所、ほぼ町の中心部の十字路のまん中にでんと収っている。昨年もこの町に来ているが、鼓楼を訪ねる暇はなかった。その前を素通りしただけで、くるまは停めていない。酒泉の町の紹介にはよくこの鼓楼の写真が取り上げられているが、確かにこの小さい形のいい建物は、酒泉という河西回廊の古い町を特別なものに見せている。  酒泉の町ができたのは紀元三四六年であるが、勿論鼓楼はそれほど古いものではない。明代にここから三十数キロの地点に嘉峪関《かよくかん》建造の大工事が行われたが、鼓楼が造られたのはそのあとのようである。いずれにしても六百年ほどの歴史を持つ建物ということになる。記録によると、町の城壁と東門の壊れたのが材料として使われているという。言うまでもないことだが、鼓楼と呼ばれていることからでも判るように、時刻を報ずるための太鼓が打ち鳴らされた建物で、その太鼓は何層か知らないが、北面正面に置かれたということである。  鼓楼は高さ三三メートル、大きな四角な石門の上に載っている三層の楼閣である。石門の高さは五、六メートル、東西南北、四方からの道がこの鼓楼の建物に集っている。石門四面の上部中央には、それぞれ次のような文句を記した額が嵌《は》め込まれている。東面には“東迎華嶽”、西面には“西達伊吾”、南面には“南望連”、北面には“北通沙漠”と記されている。まさにその通りである。東は遠くに中華の山々が聳《そび》えており、西は天山東部南麓のオアシス、伊吾(現在の哈密《ハミ》)に通じている。そして南ははるかに連山脈を望むことができ、北はいわゆるゴビの大沙漠に通じている。  石門の内側に壊れかかった階段があり、それによって一層に登ってみる。二層に上がったような錯覚を覚える。一層の床はコンクリートで固められてあるが、これは最近の補修によるものであろう。もともと土と煉瓦で造られている建物である。  一層の回廊をぐるりと廻る。酒泉の町の俯瞰場所として、これ以上の場所はないだろう。高い建物のない白い土屋の町が、秋の陽を浴びて静かに拡がっており、鼓楼に突き当る四本の街路は、それぞれポプラの緑に縁どられて、まばらに人影を載せている。南に向って立つ。町の拡がりの向うに、雪を戴いた連の山なみが重なって、大きい屏風《びようぶ》となって置かれている。前山も雪、その向うの大きい連なりの山脈も雪である。山は既に冬の装いを見せているのである。  このゴビのただ中の小さい町は、昔はぐるりと城壁で囲まれていたというが、その頃はどんなによかったであろうと思う。蘭州の町もしっとりしていていいが、ここまで来ると最果ての町の静けさ、淋しさが、それに加わってくる。確かにここは“古来征戦幾人ぞ帰る”の涼州詩の町であり、夜光杯の町なのである。  鼓楼を辞して、東の郊外にある酒泉公園を訪ねることにする。昨年は五月の酒泉公園を歩いて、何とも言えず楽しかったので、こんどは秋のそれを覗いてみることにする。町が小さいので、東の郊外といっても、五、六分のドライブで着いてしまう。昨年はライラックの紫の花が真盛りだったが、こんどは公園全体が紅葉で燃えている。ポプラの大樹も、何種類かの楊樹も、みな燃えている。葡萄棚の下の道を歩いて行くが、葡萄の葉もまた紅葉している。  この前も野趣があっていいと思ったが、その印象は少しも改める必要はなかった。道の両側は雑草の中に花が咲いている自然の花壇になっていて、日本の田舎の背戸の叢《くさむら》の感じである。きれいな水を湛《たた》えていた大きい池は清掃、修理中だが、どこに眼を遣っても、公園の持つ取りすましたところはなくて、のびやかでいい。駱駝が池の修理の石材を運んでいる。ここばかりでなく、酒泉の町中でも、よく駱駝が大きな車を曳いているのを見掛ける。酒泉は驢馬《ろば》の町というより、駱駝の町と言った方がよさそうである。  酒泉は駱駝の町、ポプラの町、鼓楼の町、夜光杯の町、そして白壁の町である。町を歩いていて路地を覗くと、白壁の塀がずっと続いている。  十月九日、快晴、七時四十分、招待所を出て、敦煌に向う。敦煌まで四五〇キロ。NHKの撮影班と一緒なので、ジープ四台、マイクロバス二台の陣容である。  私にとっては、酒泉から敦煌に向うジープの旅は二回目である。昨年は途中玉門鎮という小集落で昼食を摂り、充分休養して、安西に向い、安西に一泊、翌日敦煌に入ったが、こんどはそんなのんびりしたスケジュウルは組まれていない。途中仕事をしながら、夜少し遅くなるが、いっ気に敦煌に入ってしまうという。その方が私にとっても有難い。一度ドライブしたことのある単調なゴビ地帯なので、半分は夜になってもいっこうに構わない。深夜、敦煌莫高窟《ばくこうくつ》の小さい集落に入るのも悪くないと思う。  それから同じ地帯のドライブではあるが、この前見落したところもたくさんあるので、そうしたところを拾って見て行こうと思う。そうしたものの中で一番大きいものは疏勒河《そろくが》である。この前はどれが疏勒河か見当がつかず、うやむやにたくさんの河を渡った記憶を持っている。  こんどは一応その川筋を調べてあるし、NHKも疏勒河を一、二カ所で撮影するという。たいへん有難いことである。大体、疏勒河というのは「西域水道記」に出て来る河西回廊の代表的な大河である。連山脈より発し、安西附近で消えるが、往古からこの地帯の旅行者はこの川筋を辿《たど》ったり、目印にしたりして、安西への旅を続けたようである。大きさからいうと、河西回廊で、黒河に次ぐ第二の川であろうか。安西附近で消えると記したが、もちろん、その辺りで伏流して、そのあとは地表に出たり、地下にくぐったりしながら、遠くタクラマカン沙漠のロブ・ノール方面を目指しているのである。  町を出て、五分ほどで甘新公路(甘粛省と新疆地区を結んでいる道)は問題の疏勒河を渡る。川幅は一〇メートルほどで、水は殆どない。主な流れは伏流しているのであろうか。すでにこの辺りはゴビであり、左手遠くに雪の連山脈が見えている。どこまでも長く稜線を見せた雪の山脈である。その雪の山脈の頂きが陽に当って美しい。山脈の前に前山が置かれてあるが、ここからではこの方の雪は見えない。  甘新鉄道(甘粛省と新疆地区を結んでいる鉄道)の線路の下をくぐり、最初の集落を過ぎると、前方に嘉峪関址が見えてくる。関址には立ち寄らず、その附近の丘陵地帯を通過して行く。黒い山が嘉峪関の背景となっている。黒山子という山である。実際に黒い山で、往古、月氏《げつし》族の馬の訓練場所だった所と言われている。黒山子の稜線は烈しく、神経質に波打っていて、馬の《たてがみ》のように見えている。いわゆる馬《ばそう》山山系の一つの山なのである。  連山脈と黒山子の間には本格的なゴビが拡がっていて、電柱以外は一物もない。甘新鉄道の線路を何回も越える。道はそれほど折れ曲っているのである。  やがて地盤は断層によって低くなり、小さいオアシスに入る。黄色のポプラに包まれた集落である。右手の黒山子は近くなり、前方にも同じような岩の丘陵が幾つも重なっている。左手は依然として雪の連山脈がどこまでも続いている。  八時四十分、ゴビ全部に陽が当って明るくなる。そのうちに地盤が荒れ出し、小丘陵が点々と置かれてある地帯を道は一本の黒い帯となって走っている。右手路傍に烽火台《ほうかだい》址が置かれているのを見る。暫くすると、また小さいオアシスに入る。土屋の小集落で、家は二、三十軒か。樹木はみな黄葉している。  依然として地盤は荒れ続けている。路傍にまた烽火台址。左手、高いところに昼の白い月が浮かんでいる。初めて駱駝が曳いている車に出会う。  疏勒河にぶつかる。橋が壊れているので、道から逸れて河床を渡る。いつかゴビは原野に変り、右手に新しい山が現れてくる。左手には相変らず連山脈が置かれている。やがてまた小集落に入る。この頃からアルカリの白い地帯が遠く、近く拡がり始める。左手遠くに列車の走っているのが見えてくる。  九時十分、アルカリ地帯が道の両側に拡がって来、一面に霜を置いたように地面は白くなる。これまで原野のあちこちに駱駝草が見られたが、やがて駱駝草はなくなり、々《ちいちい》草地帯になるが、次第に土包(土の固まり)の上に々草を載せた団子草地帯に変って行く。左手、連山脈との間の原野には丘が島のように幾つか置かれている。道は再び丘陵地帯に入って行く。  九時三十分、三度目に疏勒河を渡る。川幅はかなり広くなっているが、砂洲が多く、水は少い。両岸は左右共、断崖をなしている。つまり、断崖と断崖とに挟まれた流れである。川を渡って、半ゴビの小丘陵地帯を走り続ける。また線路を越える。地面、うっすらと赤くなる。  九時五十分、本格的なゴビになり、遠くに蜃気楼《しんきろう》の湖が見えている。やがて前方にオアシスの帯が置かれ始める。本来なら緑の帯であるが、黄葉しているので甚だ色が冴《さ》えない。大乾河を渡る。疏勒河らしいが、はっきりしない。  赤と黄に燃えた大街路樹に導かれて、大きい集落の中に入って行く。黄色のトウモロコシ畑があちこちに配されている。集落を出ると、またゴビ。が、程なくまた、緑と黄が入り混じっているオアシスの中に入って行く。路上に、ポプラの葉が金粉のように舞っている。  十時十分、左手に疏勒河の流れの面を見る。川幅は狭くなったり、広くなったりしている。が、また道は疏勒河から離れて行く。  道はゴビの中に点々と置かれている農村地帯を縫って行く。ゴビと、黄葉のオアシスが、交互に現れて来る。なかなか贅沢なドライブである。ゴビの中に黄色の島が置かれている。小さい丘全体が黄葉し、それが黄色の島のように見える。  そうしたゴビのただ中で休憩。  ——蘇々、紅柳、々草、この三つを沙漠の三宝と言います。蘇々は駱駝草のことです。駱駝草は俗称、本当の名は蘇々です。紅柳はタマリスク。この三つの草は沙漠の草ですが、それぞれに人類に貢献しています。蘇々は薬草、々草は、これを焼いた灰をに入れると、がのびます。タマリスクはこの根に寄生する植物が、やはり貴重な薬草です。  常書鴻氏が足許に生えている沙漠の草を取り上げて、説明して下さる。  十一時十分、左手遠くに橋湾城が見えてくる。例の誰も住んだことのない清時代の奇妙な城である。後車を待つために停車、休憩する。どうもこの城址の背後に疏勒河が流れていそうな気がするので、そこへ行ってみることにする。果して城の背後は深く抉《えぐ》られて、渓谷をなしており、そこを疏勒河が流れている。流れは大きく折れ曲っており、そのためか、今まで見て来た疏勒何とは異って、水はゆたかである。  台地から降りて、河岸に立ってみる。まるでダムででもあるかのように、水はどんよりと、そこに溜っている感じである。  十二時、橋湾城を出発。すぐ左手にヤルダン(白龍堆)地帯が拡がって来る。その地帯を過ぎた頃、出水のために、道が水の中に没してしまっているところにぶつかる。協議の結果、水を突切って渡ったが、一体、この水はどこから流れて来たのであろうかと思った。犯人は疏勒河であるかも知れないが、ところどころで、疏勒河の切れはししか見ていないので、何とも言えない。  左手の低い丘の連なりに沿って、道は走っている。その丘がなくなると、大きくゴビが拡がり、その中に入って行く。左手遠くにまた、疏勒河の流れの細い帯が見えてくる。  左手に再びヤルダン地帯が拡がってくる。停車、ヤルダン地帯の中に入ってみる。足許の砂は石のように固まっている。コンクリートのように固まっていると言った方がいいかも知れない。そのコンクリートの板を、力をいれて引張ると、一枚一枚はがれて来る。  周囲を見渡すと、大小のコンクリート作品が無数に置かれている。 “考える人”もあれば、かがめるライオンもある。ワニも居れば、サメも居る。烽台(烽火台)もあれば、城壁の欠片もある。寺院の基壇のようなものも置かれていれば、巨大な椅子も置かれている。  昨年はこの地帯に足を踏み入れていないので、この不思議な大ミューゼアムの中の散策は初めてである。言うまでもなく、こうした芸術作品の制作者は風と、歳月である。この砂と土の波濤は、強風が永年にわたって造り上げたもので、“風蝕によって造られた硬い粘上の波立っている地帯”とでも言う他ない。  このヤルダン地帯の近くを、疏勒河が流れている筈なので、先導車が、それを探しに行く。その報告があるまで、この大自然のミューゼアムで、ゆっくり休憩をとらせて貰う。時々、道路の上で砂が舞い上がっている。竜巻ではなく、ただ砂が勢よく天に向って舞い上がって行くのである。  ——ああいうのを沙龍と言います。  常書鴻氏が教えて下さる。なるほど沙龍とは、よくぞ名付けたものだと思う。沙の龍が天に舞い上がって行くのである。  やがて疏勒河を探しに行ったジープが戻って来、それに導かれてヤルダン地帯の周辺のゴビの一隅を突切って行く。道がないので、くるまの動揺は烈しい。やがて疏勒河岸の断崖の上に出る。眼下に大きい流れが見えており、流れには橋までかかっている。  こんど見る疏勒河は大河である。断崖を降りて橋のところまで行く。橋の上に立って上流を見る。左岸は大きな断崖、右岸は原野の拡がり、それに挟まれて二〇〇メートル程の大きな川床が拡がっており、その中に大きな洲が二つ三つ置かれて、それを縫うようにして、二〇メートル程の水の流れが見られる。次に下流に向って立ってみる。こんどは左岸は原野、右岸は大きな断崖によって縁どられ、こちらもまた、大きな中洲が幾つか置かれ、その周りを白濁した流れが埋めている。中洲の一つには牧童の鞭《むち》で動いている三〇頭余りの羊群が見られる。今しも浅瀬を横切って、他の中洲へ渡ろうとしているところである。  先刻、橋湾城の裏手で見た疏勒河の水はきれいに澄んでいたが、こんどは白く濁っている。ふしぎな川である。大体、沙漠やゴビの川はみなふしぎであるが、この疏勒河はその代表のようなものである。たくさんの支流を持っているらしいが、どれが本流やら支流やら判らない。そして思いがけないところに、突然姿を現し、その流れは澱《よど》んでいたり、流れていたり、川幅は大きかったり、小さかったり、——まあ、こういうのをひと筋縄ではゆかない川というのであろう。大体、どうして疏勒河などという名がついているのであろうか。疏勒というのは、現在のカシュガル(喀什)の古代の名前である。タリム盆地でも、最も西にあった往古の西域の国の名前である。地域的にみると、この都邑《とゆう》とこの川はかなり隔たっている。  四時半、疏勒河に別れを告げて、出発。ここから安西までは六〇キロ。ずっとゴビのドライブが続く。ゴビのただ中を、三頭の駱駝が竝んで歩いているが、どこを見ても人の姿はない。いかなる駱駝なのであろうか。  左手遠くに蜃気楼の湖が見えている。連山脈の裾のあたりである。右手にも水面が見えているが、この方は真《ほん》もののダムらしい。また駱駝が現れる。こんどは大群である。ゴビ、どこまでも続いている。  五時、左手に低い岩山が長く続いている。前山と後山が二つ重なって、非常に長い稜線を見せている。  五時二十分、乾河道の橋が流されているところに出る。連山脈より出た水のためであるが、これも結局は疏勒河の仕業なのであろう。貧弱な街路樹が現れ出す。ポプラらしい。何となく安西に近い感じである。安西で大休止をとり、それから敦煌に向うことになっているが、安西からあとは夜のドライブになるだろう。 二十八 飛天と千仏  十月九日(前章の続き)、朝七時四十分、酒泉招待所を出発、半沙漠、半ゴビ地帯を二八〇キロドライブした果てに、安西に着いたのは午後六時である。安西で大休止をとり、七時二十分、安西を出発、敦煌まで一四〇キロの最後のドライブに移る。  安西の閑散とした集落には燈火が二つ、三つ瞬き始めている。集落を出ると、すぐゴビが拡がってくる。まだ空は残照で赤く彩られている。しかし、やがて地上は次第に暗くなり、空のみが薄明るいが、暫くすると、その夕映えの空もなくなり、夜の帳《とばり》がすっぽりとゴビ全体を包み始める。時計を見ると、八時である。  その頃からジープのライトのいたずらか、道が雪を置いたように白く見えてくる。そして道の両側のゴビもうっすらと雪をかぶっているようである。そうした雪のドライブが長く続く。  路傍に、敦煌まで六〇キロの標識を見る。雪の道を二人の男が歩いている。野兎が雪の道を横切る。ふしぎなドライブである。時折、砂烟りが上がっているに違いないのであるが、そうしたことは、いっさい感じられず、ただ静かな雪原のドライブが続く。  敦煌まで一六キロの標識のある地点で、ふいに雪が消える。どうして消えたか判らないが、道の両側が原野になったためであろうか。  敦煌まであと一〇キロというところで、純白の驢馬が路傍に立っているのを見る。白いのはライトの加減であろう。くるまは敦煌の町には入らないで、直接、町から二五キロの地点にある敦煌莫高窟に向う。敦煌文物研究所の招待所に着いたのは九時三十五分。  くるまを降りると、みんないっせいに夜空を仰ぐ。つめたい光の星が満天にかかっている。昨年(五十三年)五月、ここを訪ねているので、一年五カ月ぶりの敦煌である。  部屋の割り当てが行われ、私は奥の一部屋を頂戴する。昨年は五日間の滞在中、毎日のように、宿舎である敦煌の町中の招待所から、この莫高窟に通ったものであるが、こんどは莫高窟千仏洞の裾に眠らせて貰うことになる。たいへん贅沢なことである。  招待所の広い応接室で遅い夕食を摂る。部屋を出て、応接室に向う時も、食事を終って、部屋に戻る時も、みんな申し合せでもしたように、中庭に出て空を仰ぐ。降るような星が瞬いている。まさに“星闌干《らんかん》”である。河西回廊西端の星であり、敦煌の星であり、そのかみの沙州の星である。夜気はつめたい。既にこの地帯は秋が終ろうとして、すぐそこに冬がしのび寄りつつある。  部屋の寝台に横たわる。“秋風・慈眼・星闌干”、そんな文字を瞼の上に載せて、眼をつむる。三千の慈眼に見守られての、贅沢極まりない敦煌の眠りである。  十月十日、八時起床、晴天、千仏洞の裾を走っている道を散歩する。一年ぶりで鬼柏掌と呼ばれている大樹を見上げる。風が吹くと鬼が柏手でも打っているような音をたてるということから、この名があり、ポプラの一種ではあるが、この千仏洞前の道を特殊なものにしている。  九時食事、すぐ招待所を出る。今日は午前中に莫高窟の入口で、敦煌文物研究所長の常書鴻氏、ならびに夫人に出迎えられるところをNHK・中国撮影班両方のカメラに収められるというので、多少緊張していたが、仕事は三十分ほどで簡単にすんでしまう。  そのあと常氏の案内で、大泉河の河原に出て、莫高窟北区域の未整理の窟がたくさんあるところを見せて頂くことにする。大泉河は往時は千仏洞が営まれている鳴沙《めいさ》山の断崖の裾を洗って流れていたが、現在は少し離れて、そこを迂回するような恰好で流れており、莫高窟と流れとの間の平地に敦煌文物研究所関係の建物や畑などが収められており、それを樹木の茂みが包んでいる。長さ一〇〇〇メートルに及ぶ莫高窟南区域のたくさんの石窟も、みなこの地帯に収められている。  しかし、大泉河の流れはそのまま鳴沙山の断崖から離れてしまうのではなく、間もなく莫高窟の北区域に於て断崖に寄り添ってくる。従って莫高窟北区域の六〇〇メートルに亘る地域の石窟はいずれも、大泉河の広い河原に向って、その黒い眼窩《がんか》を開けている。  河原を歩いて行くと、多少寒くはあるが、秋の陽がたいへん気持いい。河原は石は僅かで、大部分が砂、細かい粒子の砂である。そしてそこに点々と枯草がばら撒かれている。河原は到るところにアルカリを噴き出して、白い地帯を造っている。川幅は広いところで二〇〇メートルぐらいであろうか。流れの水はほんの少々、涸れた川と言っていい。河畔のポプラの林が黄葉して美しい。  やがて河岸に莫高窟の北区域が現れてくる。断崖にたくさんの石窟が彫られている。河原を斜めに横切って、その方に近付いて行く。河原に沿い始めた最初の岩面《フエース》だけでも、石窟の数は三十ぐらいあろうか。そしてそれに続くフェースはすっぽりと削り落されている。  ——このフェースには二十年前には五つの石窟がありました。それがいつか岩壁ごと落ちてしまった。いつ落ちたか判りません。  常書鴻氏はおっしゃる。こうした削り落されたフェースはここばかりではない。少し離れたところで、十ほどの石窟があったフェースも、いつか消えてしまっているという。  こうした莫高窟北区域の岸壁を左手に見ながら、河原の上を歩いて行く。現在遺っている窟は百五十ぐらいであろうか。いずれも未整理、未発掘であり、その大部分は空洞であるが、中には入口にウイグル文字や、満州文字の記されている窟もある。  こうした小空洞の一つに梯子をかけて登って、内部を覗いてみる。洞内は砂で埋まっているが、それでも三メートル四方ぐらいの広さ、床から天井までは二メートルぐらい、狭い部屋であるが、暖炉、煙突、寝台などの設備の跡が認められる。僧侶の宿坊であったかも知れないし、或いは画家や工人たちの宿舎、または仕事部屋であったかも知れない。現在整理されている石窟は莫高窟全体で四百九十二(一九七八年調べ)、その中に収められている塑像《そぞう》は三千点、壁画で埋められている全壁面を横に竝べると四五キロに及ぶという。四世紀から十四世紀にかけて、千年に亘って開鑿《かいさく》され、荘厳《しようごん》されたものであるが、その時代時代で、大勢の彫刻家や画家が敦煌の町に工房や画室を構えたり、この莫高窟にも仕事場を持ったりしていた筈である。古い記述には千の石窟があったと記されているが、画家や工人たちの宿坊、仕事場にまで思いを致せば、千という数は必ずしも大袈裟なものではないであろう。  午後は北魏《ほくぎ》の幾つかの古い窟をゆっくりと覗かせて貰う。北魏の窟だけにある交脚弥勒《みろく》に一年ぶりにお目にかかりたかったからである。二七五、二五九、二五四、二五七といった窟が交脚弥勒のお住居である。  まず二七五窟。正面は大きい交脚弥勒像が、左右に小さいユーモラスなライオンを随《したが》えて、ゆったりとこちらをお向きになっていらっしゃる。敦煌関係の書物の多くが、最初の口絵に収めている交脚さまである。敦煌の交脚弥勒で一点を選ぶとなると、この交脚さまということになるだろう。どっしりと構えたお姿は、いつまで眺めていても倦《あ》きない。上半身は裸身、そこを二本の頸飾りで飾ったおしゃれな北魏の弥勒さまである。両腕とも損傷甚しいが、そんなことは少しも気にならない。  なおこの窟には奥の南北両壁の龕《がん》に、それぞれ二体ずつの交脚像が置かれている。この四体の交脚像も両腕の満足なのはないが、それぞれにいい。顔も体も共にふくよかで、人間的ではあるが、ひたすらに清らかで、静かである。この二七五窟はまさしく交脚の弥勒さまたちのお住居である。昨年の時もそうであったが、こんどもまた滞在中、毎日一度、時には何度も、この窟を訪ねさせて頂くことになるだろう。  二五九窟。ここには南北両壁の上段の龕に、小さい交脚さまが二体ずつ竝んでいらっしゃる。三〇センチぐらいか。顔は黒くなって傷んでいるが、完全な時はきりっとした美しいお姿だったと思う。  二五四窟。左右の、入口に近い上部の龕に、対い合って二体の交脚像が置かれている。眼はぱっちりとしており、細面《ほそおもて》のお顔は白く塗られている。そして髪は高々と結い上げられて兜か冠でも戴いているかのように見える。古様、古代の交脚さまである。  二五七窟。中央の龕の右壁に、七五センチぐらいの小さい交脚さまがいらっしゃる。正確に記すと“中心龕柱北向龕に交脚像一体あり”とでもいうことになろうか。高所の龕の中に坐っていらっしゃるので、下から仰ぐことになるが、お顔はなかなかいい。二五四窟の交脚さまと同じ古様、古式、兜でもかむったような感じであるが、こちらは端麗、いつまでも仰いでいたい弥勒さまである。  北魏の窟はなお六つあり、交脚弥勒像もそこに何体か収められているかも知れないが、こんどの敦煌訪問に於ての交脚さまとのお付合いは、このくらいのところで停めさせて頂くことにする。主な交脚像にはみな一応久濶《きゆうかつ》を叙した筈である。  十月十一日、快晴、多少寒い。今日は千仏と飛天だけを拾って見て行くことにする。常書鴻氏に代表的な千仏と飛天の窟を挙げて頂く。氏はこの私の依頼に応えて、ノートにいくつかの窟を記したり、それを消したり、また加えたりなさる。どうやら私の質問は難問のようである。あるいは愚問かも知れない。  千仏、——一六、五七、二四八、二五四、二五七、二六三、二七二、三二一、三二九、三三五、三六一の十一窟。  飛天、——五七、三〇五、三二一、三二〇、二八五、二九〇、二五七、一七二、二七五の九窟。  こうなると大変である。しかし、午前を千仏に、午後を飛天に当て、一日を千仏と飛天で過してしまおうと思う。  大体、千仏なるものは大抵の窟に描かれてあり、どれがいいとか悪いとかいうようなものではないが、ぎっしりと小さい仏さまが印刷でもされたように竝んでいる壁面の前に立ったり、それが描かれている天井を仰いだりすると、近代的とさえ言っていい美しさを感ずる。いずれにしても、窟内の壁面や天井のあいている所を、ぎっしりと千仏で埋めてしまおうという発想は、なかなかすばらしいものだと思う。窟内は一つ一つの千仏の持つ色彩や、地の色によって、厳粛にもなり、華やかにも、暗くもなるのである。手の込んだ小さい仏さま模様の絨毯《じゆうたん》である。  描かれてある千仏の大きさは時代によって異り、窟によっても異るが、一つの窟内では、同じ大きさ、同じ形で統一されている。小さいものでは、一二センチほどのものもある。概して隋、唐時代の千仏は小ぶりである。  昨年の敦煌訪問の折に、特に美しいと思ったのは金箔を使ってある四二七窟(隋)、三二一窟(初唐)などであった。  まず最初に二五七窟。ここは中心龕柱北向龕に小さく美しい交脚像が安置されている窟で、昨日交脚さまの時入っているので二度目の訪問である。改めてここに入ってみると、なるほど中央の龕をめぐって三方の壁面の大部分は、ぎっしりと千仏で埋められている。ざっと算えてみると、一つの壁面に二百四十の千仏が描かれてある。三つの壁面で七百二十、それに天井、その他の千仏を加えると、八百ぐらいになるであろうか。小さい交脚弥勒像の魅力も、窟内を埋めつくしている千仏群、それが醸《かも》し出している雰囲気、そうしたものと決して無関係ではないと思われる。  次は五七窟(初唐)。この窟は左右の壁面、天井、みな千仏で埋められている。左右の壁面のまん中に四角に区切って説法図が描かれているが、それをぎっしりと千仏が取り巻いている。この部屋の千仏をざっと算えると、三千ぐらいになろうか。壮観である。  三二九窟(初唐)。この窟は天井をぎっしりと千仏が埋めている。藻井《そうせい》(天井の中心部)を別にして、天井は全部千仏で埋まっていて、なかなか美しい。  次々に常書鴻氏推奨の千仏の窟を覗いてゆく。千仏そのものは窟によって千差万別、どの千仏が特にいいとは言えない。千仏の大群の持っている力強さ、静けさ、威圧感、そういったものが、窟それぞれによって、いろいろな形でこちらに迫って来るのである。  午後は飛天の窟を次々に訪ねて行く。千仏の方は印刷された図案みたいなもので、動きというものは全くないが、飛天の方は、まさに飛び舞う天女である。静かな流れるような飛翔《ひしよう》もあれば、力強い飛翔もある。天井を舞っているのもあれば、壁面と天井との間のところに、そのかろやかな姿態を舞わせているのもあり、須弥壇《しゆみだん》のうしろの壁を游泳しているのもある。  大体、飛天というものは瓔珞《ようらく》で裸身を飾り、天衣《あまごろも》をひるがえし、裳裾《もすそ》をなびかせながら、天空を飛行《ひぎよう》して天楽を奏するとされているが、どうも楽の音は聞えて来ない。飛行のリズムというか、動きのリズムの方が勝っているのである。飛天の魅力は、飛行し、飛翔する姿態の美しさである。それも集団の飛行、飛翔の美しさである。  昨年の敦煌訪問に於て記憶に遺っているのは二四八(北魏)、三〇五(隋)、四一九(隋)、三二九(初唐)、三九〇(隋)の諸窟であるが、こんど常書鴻氏が挙げて下さった十窟の中には、僅かに三〇五窟一つが入っているだけである。しかし、これは少しもふしぎではない。私の場合は昨年見ることができた七十ほどの窟の中から選んでおり、氏の方は氏が四十年もの歳月をかけて見廻っておられる四百九十二の窟の中から選んでいるのである。  大体、飛天というものはどの窟にも描かれてあって、その数はたいへんなものである。千あるかも知れないし、千五百あるかも知れない。描き方は時代によって異るが、北魏のものは体の描き方が簡単で、すべてが大まかな動態で捉えられている。隋、唐時代になると、精密な描法が用いられ、気韻生動というか、身体は流動的で、色彩も豊麗、二八五窟の飛天などはその代表的なもの、一七二窟に於ては次々に水から飛び出してゆくスポーティーな飛天が描かれている。  二七二窟は小さい窟であるが、左右の壁面全部を、飛天と千仏が埋めていて美しい。飛天と千仏の協力は、いろいろな窟で見られる。三二一窟(盛唐)なども、飛天と千仏。三二〇窟(盛唐)も、入って左側の壁面には飛天が描かれ、天井には千仏が描かれている。  三〇五窟(隋)。ここの飛天は非常に美しい。天井の飛天など、その動きはすばらしく、その動きの音が聞えてきそうである。ここの窟は、奥の龕、中央の須弥壇以外の三つの壁面は、全部千仏で埋められているが、残念なことに、この方は色が変ってしまっている。  二八五窟(西魏)。この窟は、天井の大ぶりの飛天が美しく、いつまでも立ち去り難いものを覚える。  こうして次々に飛天の窟を経廻《へめぐ》って行ったが、報告はこのへんで打ち切らせて頂く。昨年の敦煌訪問の帰りに、千仏と飛天について、一篇の詩を創っている。 ——二十年程前に、一度飛天の夢を見たことがあります。深夜でした。何百かの天女が衣の袖をひるがえして、天の一角に上がって行きました。最後の天女が消えるまで、遠くから微かに風鐸の音と、駱駝の鈴の音が聞えていました。 莫高窟の疎林の中に三十数年住んでいる敦煌文物研究所のX氏は語った。更に氏は、続けて言った。 ——千仏の夢も見たことがあります。六年程前、真冬の明け方でした。石窟からすべての千仏が出て、半分は沙漠の上に、半分は三危山の裾に竝びました。何万という千仏でした。静かでした。 私は息をのんだ。天女の飛翔と、千仏の出動。長い人生に生起する出来事で、このように重厚、且厳粛に語られた例を知らない。  飛天訪問を終ったあと、一一二窟に出掛ける。胡旋舞を踊っている胡族の踊り子に、久濶を叙するためである。胡旋舞という異民族の踊りは他の窟にも描かれていないわけではないが、壁面が損傷したり、絵具がはげ落ちてしまったりして、はっきりと図柄を眼に収めることは難しい。やはり、一一二窟でお目にかかるのが、一番いいようである。他にもう一つ訪ねるとすると、二二〇窟ということになろうか。全体に色彩ははげ落ちてしまっているが、踊りそのものの烈しい動きはその画面から受け取ることができる。一一二窟の方は背に琴を負うて、それを両手で弾きながら旋回している。  この胡旋舞についても二篇の詩を書いているが、その一篇は既に昨年の敦煌紀行に於て発表させて頂いている。他の一篇は次のようなものである。 中国の古書に見る胡旋舞なる胡族の踊りに対する讃辞は凄まじい。“心は絃に応じ、手は鼓に応ず”、“左旋、右転、疲れるを知らず”、“廻雪飄々、転蓬の如く舞う”、“疾きことつむじ風の如く、燿《かがや》くこと火輪の如し”、まあ、このくらいまではいいとして、“飛星を逐い、流電を掣《せい》す”、“回転乱舞、空に当って散る”、こうなると、もはや讃辞の域を超えている。天山を越えて来た胡族の踊り子の転変哀切な運命の旋回が、長安人士の心に錐《きり》の如く突き刺さったのだ。敦煌千仏洞の壁画の胡旋舞の前に立つと、それがよく判る。鋭い爪先立ち以外、己が体内に蔵する哀切極まりなきものの旋回を支える法はないのだ。  唐代・長安に於て、この胡旋舞なる胡人の踊りは大いに迎えられたらしく、白楽天《はくらくてん》、元《げんしん》などの詩からも、そうした流行の一端が窺《うかが》える。しかし、実際にそれがいかなる踊りであったか、それを知る具体的資料となると、敦煌石窟の中に描かれているもの以外にはないそうである。そういう意味では、一一二窟、二二〇窟の壁画・胡旋舞は、唐代風俗資料として貴重なものなのである。 二十九 弥勒大仏  十月十二日、八時起床、昨夜は十時間近い睡眠をとっているので気分は爽快である。五日に北京を出発してから、ずっと寝不足が続いていたが、それを一気に取り戻した恰好である。  今日は午前中に常書鴻氏によって一三〇窟前の広場の発掘に関する特別の発表が行われるという。一三〇窟というのは二六メートルの倚坐《いざ》の弥勒大仏が収められている大きな窟である。敦煌の彫刻はどれも塑像であるが、この大仏だけが岩を削って造った唯一の石像である。岩を削って祖型を造り、その上に粘泥を塗り上げて形を調えているという。細く長い眼、強い唇のしまり、豊満な顔立ち、何よりも長い歴史を見ているお顔である。その眼は閉じられている。その森厳《しんげん》な表情といい、その静まり返った大きな体躯といい、盛唐のゆたかさを代表する傑作である。開元年間(七一三—七四一年)の造像である。敦煌の現在整頓されている石窟の中に収められている塑像は三千点に及ぶと言われているが、その全彫刻の中で一つ選ぶとすると、やはりこの大きな弥勒大仏像ということになるのではないかと思われる。  昨年の敦煌訪問の折は、何回かこの像の前に立っている。何しろ大きな仏像なので、これを収めている窟は、断崖に三層にわたって造られているが、その一層に入って行く時の気持は特別なものである。道から三、四段の階段を降りて、薄暗い窟内に立つ。そして首を直角に折り曲げて、真上にある大仏の顔を仰ぐ。多少ふらふらする。ひどく大きな森厳なものを、ひどく小さいものが仰いでいる、そんな思いである。窟外に出ると、陽光が眩《まぶ》しく感じられて、もう一度ふらふらする。一三〇窟というのはこういう窟であるが、今年はその窟の前の広場が掘られていて、いかにも工事中といった恰好で、残念ながら一三〇窟には入れない。常書鴻氏によって特別の発表があるというのは、その広場の発掘に関することである。約束の時間に、その場所に出掛けてゆく。発掘現場はきれいに片付けられてあった。一五メートル四方の地域が、三メートルの深さで掘られている。  常書鴻氏とその現場に降り立つ。  ——この発掘には二カ月余の日子をかけました。その結果について御報告しましょう。今日が最初の発表です。  いつか、常氏と私は、中国・NHK両方の撮影班のカメラの中に入っている。常氏は語り手、私は聞き役、常氏の発表がテレビを通して行われるというわけである。  ——ここには唐時代に観楼(大仏を仰ぐための建物)あるいは寺院が建てられてありました。ここを掘ってゆくと、初めに清代の瓦、次に宋代の瓦、最後に唐代の瓦が出ました。ということは、ここには初め唐代の建物が建てられてあったが、それが壊れて宋代のものができ、それがまた壊れて清代のものが建てられたということになります。礎石も出ています。  足許に眼を落す。なるほど私たちが立っている発掘現場には、十二個の礎石が、三個ずつ四列、等間隔に竝んでいる。  ——石窟にくっつくようにして、入口の両側に仁王像が立っていました。高さ六メートル、大きい仁王ですが、その像は観楼、あるいは寺院の建物の屋根の下にありました。その仁王に踏まえられていた動物も掘り出されています。  なるほど発掘現場の一隅に、為体《えたい》の知れぬ動物らしいものの焼け残りが積まれてある。  それから常氏に促されて、一三〇窟の入口に移動する。発掘現場はそのまま窟につながっているので、去年までのように窟内に降りてゆく必要はない。窟の入口はずっと広く、明るくなっており、奥へ入らないでも、入口から大仏を仰ぐことができる。唐時代の人が仰いだであろうように、私もまた大仏を仰ぐ。  発掘現場から出て、常書鴻氏と別れるとき、暫く附近の疎林の中を歩く。こもれ陽も美しく、ポプラの落葉も美しい。この莫高窟(一三〇窟)前の疎林の美しさは格別である。  今日、常氏によって説明された一三〇窟前の広場の発掘は、単に一三〇窟の問題だけに留まるものではなさそうに思われる。唐代の人たちが歩いた莫高窟前の路面全体もまた、現在のそれより三メートル低かったという想定も成立ちそうである。もしそうであったとすると、莫高窟全体の結構はずっと大きいものになってくる。現在石窟は三層に竝んでいるが、路面を全体に亘って三メートル下げると、もう一層出て来そうな気がする。しかし、こうしたことは今後の専門家の発掘調査に俟《ま》つほかなく、今は想像の範囲を出ない。  ただそうした想像を許して貰った上で、唐代の史書に出てくる「前流長河波映重閣」という文章を思い出すと、いま自分が散歩している辺りの情景はずっと変ったものに、つまりずっと華やかなものになってくる。今とは異って大泉河はゆたかな水を湛えて、莫高窟の裾のあたりを流れている。水勢滔々《とうとう》たる流れである。そして莫高窟のたくさんの石窟や建物は何層かに重なって、その影を川波の上に落している。そうした壮んな情景を瞼に浮かべてみると、一三〇窟の弥勒大仏像のたたずまいもまた、少し異ったものになってくる。金箔に塗られた顔容体躯は大きく、力強く、そして何よりも壮麗極まりないものとして迫ってくる。  午後は昨年見た幾つかの窟の中で、特に印象に残っている窟を廻らせて貰う。ノートを取らないでのんびりした気持で、次々に美しい菩薩《ぼさつ》像に再会する。昨年特に注意しなかったが、盛唐の四五窟を丁寧に見る。正面に大きな龕が開かれ、そこの中央に説法印の釈迦、左右に阿難《あなん》、迦葉《かしよう》、それに続いて菩薩、四天王と、いわゆる七尊形式がとられている。七体、どれもいい。脇侍菩薩は共に豊満な顔を内側に、つまり釈迦の方にかしげており、腰を軽くくねらせたところは官能的でさえある。眉は長く、切れながの眼は半ば閉じられていて美しい。それから左右二体の四天王像は少数民族の表情、服装である。  南壁には観音経変相が、北壁には観無量寿経変相が描かれている。特に南壁は面白い。観音経を唱えると、何でも諾《き》いて下さる観音さまが中央に描かれ、その周囲には、そのご利益が絵解き風に展開している。一つ一つ見てゆくと面白い。難船しても救われるし、強盗に遇っても、鬼に遇っても、その危害は身に及ばない。鎖で手を縛られていても、手はすぐ自由になるし、獄舎からも脱け出せる。刑場で今や斬られようとしている罪人さえも救われる。刑吏の振り上げた刀はぼろぼろになり使いものにならなくなる。ノイローゼは癒《なお》り、聡明になる。確かに何でも諾いて下さる観音さまである。この観音さまを信仰する限り、シルクロードの旅でさえ、陸路、空路を問わず、あらゆる災厄から免れて安全だというわけである。  私もまた観音さまの前に立つ。天蓋の下にすっくりと立たれた観音さまは、薄く鼻下に髭を蓄えて多少少数民族的な顔をしていらっしゃる。服装もまた少数民族的である。いずれにせよ、このような善人、悪人の別なく、何でも諾き届けて下さる観音さまに護って頂かない限りは、ここから西方に拡がっているタクラマカン沙漠の中へ足を踏み入れることはできないに違いないのである。  北壁の方は中央に楽団が描かれ、そのまん中で踊り子が踊っている。これはこれで楽しそうである。たくさんの楽器が使われているので、音楽に関心を持つ人には興味ある壁面かも知れない。  次に五七窟、昨日千仏を見るために入った窟であるが、今日は壁画の、ちょっと他に類のない美しい菩薩に改めてお目にかかろうと思う。この窟は左右の壁面、天井、みな千仏で埋められ、その数はざっと算えて三千、南壁のまん中に四角に区切って説法図が描かれているが、その中で菩提樹の下で説法している釈迦の右脇侍として、美しい菩薩は立っていらっしゃる。首をかしげ、腰をまげ、豪華な宝冠を戴き、胸には金の瓔珞、頬と唇には紅《べに》をさしたおしゃれな菩薩である。おしゃれである許りでなく、何とも言えず優しく、あでやかである。法隆寺金堂第六号壁「阿弥陀浄土変」の脇侍の菩薩(火災前)などと相通ずるものがあるかも知れない。また菩薩を取り巻く一群の聖衆たちもいい。美少女のような阿難など堪らなくいい。  五七窟を最後に、美しい菩薩たちとの再会を打ち切ると、これまた昨日入った三二九窟にもう一度入ってみる。美しい天井と、それを取り巻く千仏を見るためである。ここは北壁「西方浄土変」の供養女人の二体が剥ぎとられている問題の窟である。この窟の後壁龕の一群の塑像も、後世の補修によってすっかり別物になっており、その点から言えばたいへん不幸な窟である。しかし、宝石箱のような美しい藻井《そうせい》を取り巻くように、天井はぎっしりと小さい仏さまで埋まっていて、何度見ても美しい。それから龕頂に描かれている仏伝図もいいものである。この窟が造られた当初は、莫高窟でも屈指のすばらしい窟ではなかったかと思われる。  夜はノートを整理し、ブランデーを飲み、十時頃寝台に入る。もう何年もこのように静かな自分一人の夜の過し方をしたことはない。部屋の外は漆黒の闇である。昼間その前に立った美しい菩薩たちも、それぞれ窟の闇の中で、もっと楽な姿勢になって、眼を閉じているのではないか。深夜の窟の内部を想像すると、異様な思いに打たれる。この辺り、莫高窟周辺の闇がいかに深くても、少しも不思議はないのである。三千の塑像群、四五キロに及ぶ壁画絵巻を取り巻き、埋めている闇なのである。  夜半、NHKの人たちに起される。NHKと中国撮影班の二つのライトが、一三〇窟に入ったという報せを受ける。テレビの強いライトを入れるべきか、入れるべきでないかは大きい問題であって、論議に論議を重ねた上のことであったと思われるが、とにかく一三〇窟の千年以上続いた闇の中に、ライトが入ったというのである。  羽毛服を纒い、帽子をかむり、懐中電燈を持って宿舎を出る。星は満天に散らばっているが、地上の闇は濃い。懐中電燈の光を足許に当てながら、一歩一歩、莫高窟の裾の道を拾ってゆく。例の鬼柏掌を初めとし、ポプラ、楡、白楊、くるみなどの大樹が竝んでいる散歩道である。風がないので、怖いほど静かである。  いつかこのような夜道を歩いたような気がするが、いつのことか思い出せない。その夜も特別な夜であったに違いないが、今夜もまた特別な夜なのである。昼間発掘現場に降り、一三〇窟の入口に立って、あの大きな弥勒菩薩像を下から仰いだが、いまあの大きな窟にライトが入っているのである。ライトが入っていると言っても、どのようなことになっているか、全く見当はつかない。  一三〇窟に近付くと、暗い中に人の動きが感じられる。昼間と同じように足場を探して発掘現場に降りる。誰かが懐中電燈の光で窟の入口の方に案内してくれる。  窟内は真暗であったが、やがて窟内の幾つかのライトがいっせいに灯り、窟内は隅々まで明るい光線の下に照し出される。恐らく何回目かにライトが入ったのであろうと思われるが、いずれにしても大仏の大きな体躯は隈なく煌々《こうこう》たるライトに照し出されている。  私はライトを当てられた場合、あの弥勒大仏の厳しい顔の面がいかに変るか、多少の不安がないわけではなかったが、そうしたことは全くの杞憂《きゆう》に過ぎなかった。大仏はライトなどにはびくともしない大きく逞《たくま》しいものを持っていた。光線は大仏の顔の面からも、体躯からも撥《は》ね返され、依然としてその面は厳しく、堂々たる体躯は静まり返っていた。私は暗い足場を辿って、窟の二層に上り、三層に上り、大仏の面を正面から拝んだ。確かに一生にそうざらにはない特別の夜であった。三層から下を覗くと、大仏の足許に立ったまま動かないでいる常書鴻氏の姿が見られた。ライトは何回か消され、何回か点《つ》いた。何回目かにライトが消えた時、私は外に出た。暗い闇の中に常書鴻氏が立っておられた。三十余年石窟の研究に取りくんで来られた氏にとっても、今夜は特別の夜であるに違いなかった。  ——寒いですね、風邪をひかないように。  氏は注意して下さった。  ——きれいな星ですね。  私は言って、それから二人で空を仰いだあと、短い挨拶をして、私は氏から離れた。どこかに、氏を一人にしておいて上げなければならないような思いがあった。  十月十三日、快晴、午前中鳴沙山の上に登る。莫高窟は鳴沙山の断崖に一六〇〇メートルの長さに亘って営まれてあるが、断崖の上がどのようになっているか知らない。昨年も鳴沙山の上に立ってみたいと思ったが、その時間を捻出《ねんしゆつ》することはできなかった。  莫高窟の南区域の外れから細い斜面の道が鳴沙山の上にのびている。旧道である。昔、といっても、いつ頃までのことか判らないが、とにかく敦煌と莫高窟を結んでいた古い道である。  その道を登って行く。道は靴が埋まるほど粒子の細かい砂で覆われている。登り口に北大門と呼ばれている門がある。名前は北大門であるが、門とは名ばかりの小さなものである。それをくぐって振り返ると、その門に“北大門”という扁額《へんがく》がかかっている。ここから先きは莫高窟であるという意味なのであろう。実際にまたその通りである。すぐそこに莫高窟の北の外れが見えている。  十分程で鳴沙山の上に出る。凡そ山というようなものではなく、大きい台地が見霽《みはる》かす限りどこまでも拡がっている。南の方には低い砂丘が波立ち、連なっているが、西及び北の方は眼を遮るものは一物もない平坦な漠地の拡がりである。砂の地帯もあれば、小石に覆われた地帯もある。つまり沙漠の欠片とゴビの欠片で織りなされている荒蕪地《こうぶち》の拡がりで、所々に青く見える地帯もあるが、そこには駱駝草や甘草がばら撒かれているのである。こうした大きい台地の断崖に莫高窟は営まれ、そしてその裾を大泉河が流れているのである。  台地へ上がった許りのところと、少し離れたところに、古い塔(煉瓦塔)の壊れた欠片というか、土台の一部というか、そういうものが二つ遺っているが、共に元時代のものだという。いまはすっかり姿を消してしまっている古道に沿って、それらの塔は建てられてあったのであろうか。古道は莫高窟から北大門を経て、台地の上がり口までは、何となくその跡を辿れるが、台地の上に出てしまうと、どこに道があったのか、すっかり判らなくなってしまっている。しかし、いずれにせよ、この広い台地を突切って道は走っていたのである。台地は東西三五キロに亘っているというから、かなり長い道になる。人々は駱駝の背に乗って、敦煌の町を出、鳴沙山の台地に上り、そして広い台地を突切り、そして断崖の道によって莫高窟へと降りて行ったのである。  言うまでもないことだが、現在使われている道は鳴沙山を大きく迂回して、莫高窟の西側に出、大泉河を橋で渡り、莫高窟正面入口である牌楼《はいろう》に達する。こうした現在の道がいつできたか知らないが、これと同じように鳴沙山を大きく迂回する道は昔からあったに違いなく、北大門をくぐる古道と共に使われていたと思われる。  それにしても風の日は、台地を覆っている砂がいっせいに舞い上がって、さぞ凄いことであろう。毎年冬になると、砂が滝のように莫高窟に落ちるというが、さもあろうと肯《うなず》かされる。長い歳月の間によく莫高窟は埋まってしまわなかったものである! おそらく莫高窟は、ここを聖地と崇める人たちの力で守られて、今日に到ったと考える他はない。この台地に登ってみて、そうしたことが初めて実感として理解できる。台地の端に立つ。足許の砂の上には風紋が描かれている。眼下に木々の緑の茂みが、そしてその間から大泉河の河原が見えている。そして断崖に沿って眼を移してゆくと、遠くに莫高窟南地区の端《はず》れが、これまた木々の茂みの間から顔を覗かせている。  大泉河をその一部に置いている低地を隔てて、真向いに三危山の山なみを望む。三危山の方は緑に包まれているので、確かにその名の通り山なのであろう。しかし、その裾一帯はこちらと同じように広い台地が波立ち、拡がっている。風が出たので、台地を降りることにする。先刻登って来た断崖の細い道を降り、北大門をくぐって、莫高窟南地区の端に出る。道に降りたところに問題の蔵経洞を内部に収めた窟がある。他の言い方をすると、蔵経洞のある窟の横手から、鳴沙山の台地に登る古道はついているのである。  午後、常書鴻氏と一緒に、この蔵経洞のある窟でNHK・中国両方のカメラに収まることになっているので、その窟には入らないで、大泉河の河原に出る。のんびりと日光浴でもしながら、午前の時間を過そうと思う。  河原に出て、細い流れのあるところに腰を降ろす。この大泉河は鳴沙山の台地の西側を流れ、台地をぐるりと廻って党河に入る。党河というのは敦煌の町の西側を流れているが、昨年その洪水で敦煌の町は水浸しになっている。そのお蔭で、という言い方はおかしいが、しかし実際にそのお蔭で、私たちは莫高窟の招待所に泊めて貰うことになったのである。  それはともかく、敦煌から莫高窟を目指すには、鳴沙山の台地を通る古道と、そのほかに鳴沙山の台地を迂回する道があったと先に記したが、その道はおそらく党河の岸に沿って進み、大泉河が党河に入る辺りから、こんどは大泉河の流れに沿って溯《さかのぼ》り、自然に莫高窟に達したのではないかと思われる。私の小説「敦煌」では、小説の最後の部分でそうした道に登場願っている。そして蔵経洞に経巻、古文書類を運ぶ駱駝の群れには、そうした川沿いの夜の道を通らせている。 三十 蔵経洞の謎  十月十三日(前章の続き)、午後は常書鴻氏と二人で、一七窟蔵経洞に於て中国・NHK両方のテレビ・カメラに収まることがスケジュウルに組まれているが、撮影の準備が調わないのか、予定の二時が大分遅れる。  現場から連絡があって、宿舎を出たのは四時近い時刻であった。莫高窟の裾の道を、莫高窟に沿って北の方へ歩いて行く。今日は午前中に鳴沙山の上に向う時、同じこの道を通っているので、この静かな贅沢な道を歩くのは二度目である。  やがて行手に三層の楼閣が現れてくる。目指す一七窟蔵経洞が仕舞われてある楼閣である。窟が楼閣で覆われているのは、このほかには九六窟北大仏殿があるだけなので、その点、一七窟蔵経洞の所在は遠くからでもすぐ判る。  楼閣の前に立つ。内部に上中下三層にわたって石窟が穿《うが》たれており、最上層は三六六、中層が三六五、最下層が一六窟となっている。そして下の一六窟の内部に例の古文書、経典類が蔵されていた耳洞があり、それが現在一七窟蔵経洞と名付けられているのである。現在の窟番号は解放後敦煌文物研究所によって付けられたものであり、これ以前にペリオが付けたペリオ番号、張大千が付けた張大千番号もある。現在の敦煌では窟の入口に窟番号を記しており、同時にペリオ番号も張大千番号も併記している。  三層楼最下楼の一六窟の前に立つ。この楼閣の横手から北大門に通ずる旧道が斜面を這《は》い上がっている。北大門までは一五〇メートルほどで、従って北大門をくぐって旧道を降りて来て最初にぶつかるのは、莫高窟の北端、この一六窟なのである。経巻類を埋めるのにこうした最初の窟の耳洞が選ばれたということは、それはそれなりに意味があるように思われる。  三層の楼閣であるが、中層、上層に登るには、建物の外側にそのための階段が設けられてある。一六窟の方は最下層だから、正面入口から入るようになっている。入口を入ると、間口一〇メートル、奥行三メートルほどの前室があり、その正面に間口三メートルほどの甬道《ようどう》が設けられている。そこを五メートルほど辿って、一六窟に導き入れられる。一〇メートル四方の大きな窟である。勿論内部は暗い筈であるが、今は甬道に設置されている撮影班のライトのお蔭で、正面の須弥壇も、その上の大きな塑像の本尊も、部屋の壁面をぎっしり埋めている千仏群も眼に収めることができる。千仏は大振りで、あまりいいものとは言えない。  私たちが目指しているのは、もちろん、この一六窟の内部ではない。ここに入るためにくぐった甬道の方である。間口三メートル、奥行五メートルのこの通路は、今は明るいライトで照し出されている。両側の壁面には西夏の菩薩たちの壁画が見られ、なかなか魅力あるものだが、剥落は甚しい。しかも北側の壁の方は、半分ほど削りとられて、大きな口をあけている。内部を覗くと真暗である。言うまでもなく、この空洞が四万点の古文書、経典類が入れられてあった一七窟蔵経洞なるものである。空洞の横に一七窟の表示が掲げられてある。  やがてライトがこの窟に入る。昨年は小さい携帯燈の光をあちこちに当てて内部を覗いたが、今日はその必要はない。真昼のような光線で、入口から窟内全部を見渡すことができる。三メートル四方ぐらいであろうか。一六窟という大きな窟に到る途中の通路に穿たれた小さな窟である。まさに耳洞と言う他はない。正面の壁画に眼を当てる。例の杖を持った美しい侍女と、大きな扇を持った比丘《びく》の二人が、それぞれ樹下に対い合って立っている。樹は菩提樹と言われたり、沙漠の木である胡楊の一種であるといわれたりしている。その正面の壁画の前に、僧の像が置かれている。近年研究所の手でここに移された洪《こうべん》像(塑像)である。  丁度、この時常書鴻氏が入って来られる。氏の説明を聞く。  ——私がここに来た時、この像は一六窟の隅の方に置かれてありました。が、もとはこの一七窟に入っていたものではないかと思われますので、近年、このように一七窟に移しました。つまりもとに戻したということになります。洪の経歴を刻んだ石碑もまた一六窟にありましたが、像と共にここに戻しました。  なるほど、その石碑なるものも左手の壁面に嵌め込まれている。さて、それなら洪というのはいかなる人物なのであろうか。  そもそも敦煌が初めて西域経営の大拠点として史上に登場してくるのは、漢の武帝の時であるが、その後、北魏、西魏、北周、隋、唐と時代は変ってゆき、唐代には敦煌は東西文化交流の、あるいは東西貿易の一大中継地として曾てない大きい繁栄を見せている。しかし、この大きく盛んなる敦煌も、唐末には安史《あんし》の乱の影響を受けて衰退を余儀なくされ、漢威は全く行われなくなり、八世紀には隴右《ろうゆう》、河西一帯の地は、南から侵入してきた吐蕃《とばん》の支配下に置かれてしまう。こうした情勢を一変させ、吐蕃からその支配権を奪い返したのは張議潮《ちようぎちよう》である。張議潮はこの功によって唐朝から帰義軍節度使に任ぜられるに到る。一五六窟南壁の「張議潮出行図」は、節度使時代の張議潮の軍容、勢威の程を示すものである。  このように張議潮が唐朝から重く遇されるに到った蔭には洪の尽力があった。洪は敦煌の高僧であったが、張議潮の依頼を受けて、数名の弟子を長安に派して、その戦捷《せんしよう》を唐朝に上奏している。派せられた使者のうち幾人かは途中で斃《たお》れたが、悟真らが辛うじて任務を果して、長安から帰っている。  ——このようなことがあって、張議潮は洪への感謝の気持の表明として、自分がスポンサーになって、洪のために一窟を穿ってやったのではないかと思いますね。そしてそれがこの一七窟だというわけです。そう考えれば、ここに洪の像があっても、その経歴を刻んだ石碑があっても、いっこうに不思議はありません。  張議潮の敦煌収復(吐蕃より権力を奪い返したこと)は大中二年(八四八年)のことであるので、この窟が穿たれたのはそのあとということになる。それから今日まで、この窟も、この窟の主人、洪像も、千余年に亘る静かな長い時間を過すべきであったのであるが、十一世紀のある時、突如、ここに驚くべき量の古文書、経巻類が運び込まれる事件が起った。そして古文書類がこの窟を満たした時、窟の入口は塞がれてしまったのである。  そしてそのまま千年近い長い歳月が流れ、一九〇〇年代の初め、突如としてこの窟は開かれる。開いたのは王円《おうえんろく》という道士であった。それから一九〇七年にスタインによって、一九〇八年にペリオによって、ここから大部分の古文書、経巻類は運び去られる。そうしたことがあったが、この窟を埋めていた経巻類の価値が、従来の東洋学を大きく変えるばかりでなく、世界文化史上のあらゆる分野の研究を改変するものであることが判るまでには、更に何年かを要したのである。  常書鴻氏と私は、いつかテレビ・カメラのライトを浴びている。  ——問題は、古文書、経巻類がいつこの窟に封じ込められたかということですが、それには二つの見方が行われている。一つは従来から行われている西夏が敦煌を攻めてくる時、漢人の手によって埋められたとするもの、他の一つは最近のもので、この地区を統治していた西夏がイスラム教徒の侵入に備えて、ここを封じたという見方である。あとの説については、これからも研究、検討してゆかねばなりません。  常書鴻氏はおっしゃる。先きの見方はペリオ、スタイン等の見方であり、私の小説「教煌」も、この見方によって書かれている。  ——あとの説も、一つの推理としては面白いですね。いずれにしても、実証できない事件ですから、いろいろな推理が可能です。  そう私は答える。実際にいろいろな推理は可能なのである。しかし、発見された書画、経巻類の中に十一世紀以降の題記を記したものがないということは、第一説を支える大きな根拠になっていて、ちょっと動かし難いのではないかと思われる。それはともかく、この一七窟をめぐる謎は実証資料がないだけに、推理を働かせる他なく、その点興趣つきないものがある。たとえば洪の像はいつ窟から出されたのであるか。古文書類を詰め込む時出されたか、あるいは十九世紀になって初めて王道士によって窟から出されたのであるか。もし後者とすれば、それまで長い間、像は古文書類の中に埋まっていたことになる。このことはとりもなおさず古文書類が詰め込まれる時、像が取り出されなかったことを物語るものであり、その作業は匆々《そうそう》の間に行われたと見なければならなくなる。こうしたこともまた、一七窟の謎を考える上の一つの資料たり得るかと思う。  撮影を終って、一六窟の対い側にある王道士の寺へ行ってみる。南の表門から入ると、中庭を隔てて突当りに寺があるが、内部に入ってみると、寺らしくなく、普通の人家とあまり変っていない。王道士なる人物は多くの場合否定的に取り扱われており、実際にまたそのような人物であったらしいが、敦煌の名を世界的にするためには、甚だ重要な一役を受持っていると言わなければならぬ。歴史は重要な場面によくこのような人物を登場させるが、王道士はうまく、ユーモラスにその役をこなし、みごとな歴史の落し子たり得ている。  夜、中国・NHK両撮影班の人たちと会食する。常書鴻氏夫妻も、同じ卓を囲む。明日、常書鴻氏夫妻と私が敦煌を離れるので、その送別の宴を兼ねての会食である。漸く寒さきびしくなりつつあるので、両撮影班諸氏の、今後のここに於ける明け暮れは大変だろうと思う。求められて短い挨拶をする。  ——多少うしろ髪をひかれるような思いの別離である。  そんなことを喋る。実際にそうした思いである。唐詩選の一連の涼州詩に、よく辺境に於ける別離が取り扱われているが、十月も半ばともなれば私たちの敦煌莫高窟に於ける今の別離にも、多少それに似たものがある。  十月十四日、七時起床、寒し。八時食事、日中両撮影班スタッフで記念撮影。九時出発。北京まで同行して下さる中国中央電視台の敦宝祥、NHKの和崎信哉両氏と私はジープ、常書鴻氏夫妻と中国工作員の人たちはバス、一〇名ほどの陣容である。  こんどの旅ではまだ敦煌の町に入っていないので、私たちのくるまだけ町を通過して貰うことにする。多少廻り道になるが、昨年何日か滞在した町に久濶を叙するためである。  懐しい道をドライブしていく。街路樹の紅葉が美しい。町に入る。噂に聞いていた洪水のためにすっかり別の町になっている。洪水が運んで来た砂で町はひどく埃《ほこ》りっぽく、砂烟りの中から人が出て来、驢馬が出てくる。相変らず驢馬の曳く荷車は多く、それに駱駝の曳く車も混じっている。埃りっぽい町ではあるが、そうした中でバザールは開かれていて、人で賑わっている。  昨年厄介になった招待所の門の前でくるまを降り、内部に入る。門のところでコックさんたち三人に会う。何となく見覚えのある顔である。お互いに笑顔で近寄って、握手して別れる。  内部の建物は半分ほどなくなっている。敷地内に少し入って行って、すぐ引き返す。出水の跡が門の受付の建物の壁に記されている。その水の跡は肩より高い。なるほどたいへんな洪水だったと思う。しかし、道を隔てた向う側に土屋が遺っているところから見ると、洪水といっても、水は川のような流れとなって押し寄せ、その道に当るものだけを呑み込んだのであろう。  町を出て、さっき来た道を引き返す。埃りっぽい町を見て来た眼には、美しい田園風景が眼にしみる。郊外は洪水の災禍から逃れて、田園の美しさの方は少しも害されていないのだ。  莫高窟への曲り角まで来て、その方へは曲らないで真直ぐに行く。曲り角を過ぎると、とたんにゴビが拡がって来る。これから一路酒泉を目指す。敦煌—酒泉は四五〇キロ。同じ道を今度で三回目のドライブをすることになる。しかし、やはり一応ノートをとることにする。その度に印象も違えば、新しい発見もあるからである。敦煌莫高窟は海抜一三〇〇メートル、酒泉は一六〇〇メートル。従ってドライブは多少上りになる筈である。  ゴビはどこまでも続いている。道は大体右手の三危山の長い稜線に平行して走っている。時には三危山に向って進むこともあるが、まず大体平行して走っている。  十時三十分、全く同じような地帯のドライブである。こんどの旅で莫高窟に向う時は夜になっていた地帯である。見るものは全くない。三危山は右手いっぱいに坐っており、その先きの方はゆるやかに前方に廻っている。実に長い黒い山で、延々と続いている。左手路傍に烽火台址一つ。  が、そのうちに三危山の先端は次第に低くなり、丘になってしまう。もう山とはいえぬごつごつした岩の丘の連なりが、次第に近寄って来、やがて右手すぐそこに来る。稜線は鋸《のこぎり》の刃のようだ。敦煌の町を出て一時間経っているのに、その尻尾はまだ続いている。  全くのゴビの不毛地帯のドライブである。三危山、くるまの道、ゴビ、このほかには何もない。烽火台の跡、右手遠くに一つ。  十一時、左手遠くに初めてオアシスが現れ、緑の帯が長く続いて見える。安西のオアシスである。そのオアシスの南の外れに瓜州城址の城壁が白く小さく見えている。右手には相変らず三危山続きの丘の連なりが走っている。  十一時十五分、道は大きく曲って安西の町の方へ向う。すばらしい楊の街路樹の中を走る。しかし、安西の町には入らず、安敦道路から甘新公路に入り、一路酒泉に向う。  安西オアシスを脱けると、再びゴビの拡がりとなる。三危山はいつか終り、それに替って連《きれん》山脈の前山の低い山脈の連なりが眼に入ってくる。左手ゴビの果てに蜃気楼の湖が見えている。大きな湖である。  右手の連山脈の前山、次第に近付いて来る。一望のゴビの中のドライブが続く。所々に駱駝草と甘草が点々。  十二時、そろそろ地盤荒れて来る。安西から六〇キロほど来たであろうか、間もなくヤルダン地帯に入る筈である。  十二時二十分、線路の踏切りを越え、水溜りを渡り、ヤルダン地帯に入る。例の大小の黄色の土塊が海のように拡がっている荒涼たる地帯である。土地の人々は布隆吉《ふりゆうきつ》と呼んでいる。布隆吉はチベット語。ヤルダン地帯を過ぎると、再び駱駝草が点々と置かれているゴビヘ入って行く。路上から沙が渦を巻いて舞い上がって行く。沙龍である。沙龍とはよく名付けたと思う。確かに沙の龍である。その沙龍が一つ、また一つ。十二時四十分、長いゴビの不毛地帯から脱け出し、オアシス地帯に入ったり、そこから出たり、そんなことを繰り返す。オアシスはいずれも人民公社の農場である。樹木はみな紅葉しており、耕地は殆どトウモロコシ畑である。  一時十分、玉門鎮招待所に入る。昨年、部屋から椅子を出して、ひなたぼっこしたが、その時の部屋と同じ部屋で休憩する。二時四十分、出発。招待所を出て本道に入ると、すぐ左手遠くに連山脈の長い稜線が眼に入って来る。連山脈は本来なら安西辺りから見える筈であるが、今日は曇っていてここまで待たなければならなかった。すぐまたゴビ灘《たん》、一望何もなし。段落あるゴビの丘陵地帯を行く。  三時、行手に丘陵群が見えて来る。道は次第にそれを左手に見るように曲って行く。右手には雪の連山、雄大な姿を現している。手前には低い山や丘が重なっており、その向うに望むこの辺りの連山脈が一番美しいかも知れぬ。  三時十分、丘陵地帯に入る。丘の波立ちを、道は突切って走っている。やがて丘陵地帯を越すと、道は平原へと降りてゆく。小集落を過ぎると、再び赤い色の荒蕪地が拡がってくる。しかし、連山脈の眺望は依然としてすばらしい。やがて前方に小山脈が見えてくる。道はまたその小山脈を左に見るように廻ってゆく。  三時四十五分、再び丘陵地帯に入る。右手には連山脈、左手には黒い山が次々に重なって置かれている。馬《ばそう》山山系が置かれ始めたのである。左手に烽火台址一つ。  ずっと段落ある丘陵地帯が続く。土、赤し。前方に文殊山が見えてくる。この方はおだやかな山である。黒い山の尻尾は長く長く延びている。実に異様な山である。無数の黒い土の固まりを、何百も何千もぶつけて造ったような山である。  集落に入る。集落はポプラの黄葉で、黄色に燃えている。眼のさめるような美しさだ。すぐまたゴビ。文殊山近付いて来る。雪の連山脈はいつか背後遠くに廻っている。  四時十分、一望のゴビ。文殊山も長く尾を曳いている。黒い山、背後になる。左手に嘉峪関《かよくかん》址が見えてくる。二つの望楼と城壁が薄赤く見えている。酒泉まで三〇キロ。  嘉峪関を出ると、すぐ街路樹が現れ、自転車も眼に入ってくる。集落の中を行き、再びゴビに入る。右手に文殊山が長い稜線を見せている。一四〇〇メートルの山である。いつか連山脈はその背後に置かれている。この連山脈には、これからの河西回廊のドライブで、毎日のようにお目にかからねばならぬ筈である。この方は五〇〇〇メートル、最高峯は五九六〇メートルである。  やがて、長い長い黄色のポプラの街路樹によって、酒泉の町へと導かれてゆく。凄い数の羊群が道を横切る。疏勒河(北大河)を渡って、町へ入って行く。 三十一 得故城の静寂  十月十五日、酒泉招待所の三階の部屋にての目覚め気持よし。窓から覗くと、灰色の空も、裸木も全くの冬の朝の感じだ。防寒衣を着て散歩に出る。果して日本の真冬の寒さである。招待所の前の広場には大きな枝垂柳が数本あるが、この柳だけは青々としている。  今日から張掖、武威を目指す河西回廊の旅が始まる。河西回廊は三回列車で通過しているが、こんどはジープによっての縦断である。列車の窓から大体どのような地帯であるかは知っているが、その中に散らばっている集落ということになると、それがいかなるところか全く判っていない。こんどはそうした集落を一つ一つジープで縫って行く。張掖、武威といった歴史の町にも自分の足で立ち、そこの夜の闇の中に身を横たえることができる。張掖は甘州として、武威は涼州として小説「敦煌」で書いたところである。実際に行ってみないと判らないが、どこかに曾遊の地を訪ねるといった思いがないわけではない。  八時三十分、出発。夜光杯工場に立ち寄り、九時十五分、そこを出発、一路張掖を目指す。張掖まで二二〇キロ。道は甘新公路。気温十度、天気予報によると、午後は強い風が吹くという。  白壁の町、着ぶくれた男たちの歩いている町、驢馬の町、鼓楼の町。——いつもの酒泉の印象だが、今朝はそれをすっぽりと灰色の空が包んで、何よりも辺境の冬の町の貌《かお》になっている。広場の傍の野菜市もひどく静かで、街路樹のポプラは上の方だけに葉を着けている。  くるまは黄と代赭《たいしや》色の鼓楼から、その扁額が“南望連”と記している、その連山の方に向う。すぐ郊外に出る。町中のポプラは貧しいが、郊外のポプラは大きい。間もなく、耕地、不毛地がだんだらに入っているゴビ(戈壁)に出る。くるまは土屋の小集落を縫って行く。この頃から陽が当って暖かくなる。道幅は広いが、工事中の箇所が多く、そうしたところでは砂埃りがもうもうと立ちのぼる。  青い小麦畑、茶色のトウモロコシ畑、不毛地、小さい村々の茂り、黄色のポプラ竝木。——昨日までのドライブと異って、大体に於てオアシス地帯のドライブで、その中を小砂利を敷いた広い道が走っている。羊群。やがて大きな乾河道を渡る。運転手君の話では、この辺りは上《じようは》人民公社地域で、土地の人はいまの川を野猪溝と呼んでいるという。  九時五十分、大不毛地帯に入る。が、やがてまたオアシス。黄色のポプラ竝木が美しいと思っていると、また不毛地。要するに大不毛地帯の中にできた小集落を通過したのである。駱駝草点々、羊群。  オアシスと不毛地を交互に縫って行く。オアシスに入ると、みごとに黄葉した長いポプラ竝木が置かれている。が、時折、その街路樹が片側だけになることがある。片方にオアシス、片方に不毛地が拡がっている場合である。概して不毛地は道の右側に拡がっており、その不毛地の拡がりの向うに連山脈が見える筈であるが、今日はあいにく霞んでいて、雪の大山脈の雄姿を眼にすることはできない。時々、路傍に駱駝が材木を運んでいるのを見る。  十時、左右共に大不毛地の拡がりとなる。この辺りは全くのゴビで、それが長く長く続く。オアシスの緑はどこにも見えない。酒泉—張掖間の大ゴビである。時々、乾河道を渡る。  ゴビの中を、道はゆるく、大きく曲る。行き交うくるまは殆どない。遠くに大羊群。乾河道、また乾河道。この大ゴビを徒歩で突切るのはさぞ大変だろうと思う。往古、何回も戦場になった所である。  二十分程のドライブの果てに小さいオアシスに入る。漸くにしてゴビから闘いとったといった、苦しそうなオアシスである。が、次第に耕地が拡がって来て、大オアシスに変って行く。土屋の農家がところどころに見える。やがて閑散とした集落に入る。清水人民公社である。列車の駅に清水駅というのがあったことを憶い出す。停車、後続のくるまを待つ。  十時三十分出発。農家がまばらに置かれている地帯を行く。畑は小麦とトウモロコシ。相変らず耕地、不毛地、乾河道がだんだらに織りなされている。清水は不毛地の中にできたかなり大きい集落である。  列車の踏切りを渡り、暫くして集落を脱けて大きいゴビの中に入って行く。左手遠くを列車が走っている。その手前に大羊群が二つ、三つ。  やがて行手に断層が長く走っているのを見る。近付いてみると、それに沿って大乾河道が横たわっている。道はその乾河道の小石の河原に降り、そこを突切って対岸を形成している断層の上に登って行く。川幅は一キロ、断崖の高さは三メートル。断崖を登ると馬営村というのがあるが、そこには入らず、それを左に見てゴビの中に入って行く。馬営村は昔から馬をたくさん飼育している所として知られており、いま渡った乾河は馬営川である。  十一時、ゴビのただ中のドライブが続いている。霞んでいるので山影は全く見えない。晴れた日だと、左手に元山、右手に連山脈が見える筈だという。ゴビのまん中であるが、ここから張掖地区に入るという標示がある。  こんどのゴビも、先刻に劣らぬ大ゴビである。遠くに一軒の農家が数本の樹木を背にして置かれている。たいへんな所に人は住んでいるものだと思う。路傍左手に羊の大群。この辺りのゴビは甘草に埋められており、薄赤く、あるいは薄黄色に彩られている。  十一時十分、小オアシスに入る。元山人民公社である。しかし、あっという間にそこを過ぎて、再びゴビに入って行く。左手から前方にかけて低い山の連なりが見え出す。元山である。道はその一角を越えるようにして丘陵地帯に入って行く。元山は山の重なりであるが、そこを越えて、再びゴビヘ。  右手に連山脈が見えて来る。元山の方は長く長く右手に延びて、連山脈の方に走り、しまいにはその前山のように見えてくる。  いつまでもゴビのドライブ。こうなると、先刻より大きいゴビと言わなければならない。右手には前山が幾つも重なっている連山脈が見えている。ゴビはこの辺りも甘草で赤く染まっている。線路の踏切りを渡る。道は折れ曲りながら走っており、地盤は絶えず多少アップ・ダウンしている。羊群、二つ、三つ。  十一時三十分、長いゴビは漸く終り、道は高台県のオアシスに入る。全くゴビに取り巻かれているオアシスである。南貨人民公社の集落を通過する。かなり大きい集落で、ここもまた街路樹のポプラが美しい。耕地を隔てて向うに竜巻が見えている。  十一時四十分、再び不毛地帯に入る。ゴビの拡がりの中に、アルカリの白い地帯が点々と置かれている。道の両側だけに貧しいポプラが植っている。左手やや離れて、小オアシスが見えている。  停車。いつかゴビは沙漠に変り、辺りには細かい粒子の砂がたっぷりとばら撒かれている。北方の大沙漠の端がこの地帯に入り込んで来ているのである。遠くには小砂丘の連なりも見えている。つめたい風が強くなっていて、路傍の貧しいポプラが風に揺れている。天気予報の通りである。  十二時、出発。やがて沙漠地帯を脱けてオアシスに入る。ここからは臨沢県。土屋の農家は少いが、耕地は大きく拡がっている。  道はゆるやかに折れ曲り、折れ曲りながら走っている。目の覚めるような黄葉のポプラの林がある。大きなオアシス地帯である。道はまた線路の踏切りを越え、そのあと農村地帯を縫って行くが、所々に不毛地も置かれている。  十二時十五分、臨沢の町に入る。大通りに昼休みの人たちが溢れている。道をまん中に挟んだひとかわ町ではあるが、久しぶりで大きい集落に入った感じである。  町を脱けるとゴビが拡がっているが、間もなく耕地に変り、集落に入る。そしてまたゴビ。不毛地を抱きながらも耕地帯は長く続いている。帯のように長いオアシスである。ここのポプラの黄葉は明るい黄色で、くるまがその色に染まってしまいそうだ。  小乾河を幾つか渡る。羊の群れ。牛の群れ。また風が強くなり、黄色のポプラ、一方に靡《なび》いている。農村地帯のドライブ、長く続いた果てに、漸くにして張掖の町に入る。  張掖は全くの田園都市である。町に入っても、畑が多く、馬三頭の荷車や驢馬に乗った人たちが、白壁の土屋の町に溢れている。野菜市の傍を通る。トマト、白菜、トウガラシ、ニンニク、林檎《りんご》、そうしたものが露天に竝んでいる。白壁の土屋だが、扉や窓枠は赤や青に塗られている。さすがに街路樹は立派であるが、町といった感じはなく、埃りっぽい河西回廊の大集落である。人口は都市部で八万。  十二時五十分、張掖地区招待所に入る。白煉瓦造り、赤茶色の屋根を持った一階建てのしゃれた建物である。  昼食を摂って休憩したあと、漢代の張掖郡の郡城の跡であり、得《らくとく》県の県城の跡である得故城に出掛ける。遺跡は張掖の町から一八キロ、沙漠の中に埋まっているという。  町を横切って郊外に出、先刻通った道を、反対に酒泉の方に向う。二、三時間前に通過したところであるが、全く初めての地域をドライブしているような思いになる。埃りっぽい道を行く。小麦畑とトウモロコシ畑。ポプラというポプラはいっせいに北に靡いている。道は大オアシス地帯を大きくカーブし、カーブしながら走っている。ゆたかな田園風景の中のドライブである。原野のあちこちに、ポプラの林が置かれている。  やがて橋を渡る。道は大きくカーブしている。また橋を渡る。畑、不毛地帯、乾河道。乾河道はやたらに多い。  そのうちに土屋が点々と現れ、農村地帯になり、みごとなポプラの街路樹の竝木を走る。そこを過ぎると、こんどは道の両側に沙漠が拡がってくる。  ここで、ジープは道から逸れて、左手の沙漠の中に入って行く。小さい砂丘があり、その傍を走る。風が強いので砂塵が舞い上がっている。若いポプラがたくさん植っているところがある。防風林でも造ろうとしているのかも知れない。  やがて前方に城壁らしいものが見えて来る。そこへ近付いて行く。沙棗《すななつめ》の林を脱けると、城壁の傍に出る。道から一キロ、あるいは二キロの地点であろうか。くるまから降りる。城門がある。そこから入って行く。城門のところの域壁の厚さは、私の足で十一歩、三、四メートルぐらいか。  内部に入ってみると、大きな遺跡であることに驚かされる。大小の城壁の欠片が沙漠の中に四角な区域を造っており、周囲何キロか、ちょっと見当がつかない。案内してくれている地区革命委員会の人の話では、四角形の一辺の長さは五〇〇メートル、周囲二キロの由。しかし、もっと大きそうに見える。  城壁に囲まれている内部は、瓦礫と砂の拡がりである。ひどく歩きにくい。城壁の裾は砂が溜って傾斜面を造っている。半ば靴を埋めながらそこを登って行って、城壁の上に立ってみる。現在遺っている城壁の一番高いところは三メートルぐらいか。城壁はもちろん土煉瓦で造られてあり、煉瓦と煉瓦の間には芦のような植物が嵌め込まれていると思われる。西南の一画には城楼の跡らしいものが遺っている。  城壁の上から見渡すと、全くの沙漠の中の遺跡である。遺跡を取り巻いている沙漠には、あちこちに植林のポプラが林を造っており、城壁の外側には点々と沙棗が植っている。沙棗の方は野生である。  城壁の上に腰を降ろして、煙草を喫ませて貰う。河西回廊に遺っているただ一つの漢代の、二千年前の城址である。発掘してみないと判らないが、往古の城市が一つすっぽりと埋まっていそうな気がする。それにしても城壁がこれだけ遺っているということは、信じられぬことである。  一体、この城はいつ亡んだのであろうか。漢民族と少数民族によって織りなされた河西回廊の歴史はひどく複雑である。漢のこの地区への進出によって、初めて郡県が設置されたのは紀元前一一一年のことである。それから曲りなりにも中国の西域経営は三百年程続くが、この時期に得城は河西回廊の鎮《しず》めとしての大きい役割と、城市としての繁栄の日々を持っていたのである。それから三世紀末から始まる五胡十六国時代には、この地帯は五つの涼王国の興亡の舞台となる。八世紀の初めに到って再び中国の勢力はこの地区に及ぶが、唐末からは吐蕃の進出がある。そして張議潮による一時的な河西収復、続いてウイグル(回)の甘州(張掖)占拠、それから舞台は約二百年に亘る西夏時代に移って行くが、十三世紀初めのモンゴルによる西夏の滅亡と、時代はめまぐるしく変って行く。  変転極まりない歴史の大きい波の中に、得城が持った運命とその末路を見届けることは難しい。五世紀の動乱期に法顕《ほつけん》は印度に向う途中、この地区に足を踏み入れている。張掖が大いに乱れ、道路は不通になっており、ために北涼国王の庇護を受けたことを、法顕はその紀行(法顕伝)に記しているが、その頃の北涼の都城が得城であったかどうかは判らない。当時既に得城は廃墟になっていたかも知れないし、あるいは主を替えて、北涼の都城として存続していたかも知れない。  が、得城を廃墟にするのは歴史の力だけではない。河西回廊の第一の大河・黒河の狂奔する川波の力もまた無視することはできない。黒河は昔は現在の流れよりずっと西を流れており、その西側に得城は位置していたと言われている。従って私たちが訪ねた得故城の東側を黒河は流れていたのである。現在は黒河から遺跡まで、道伝いに行くと一二キロ、直線距離は五キロだという。  遺跡は黙して何も語らない。十月半ばの真昼の故城は、ただひたすらに静かである。  遺跡からの帰途、黒河の主流と思われるところで、くるまを停めて、その流れをカメラに収める。この黒河は弱水、黒水、張掖水、居延水、いろいろな呼び方で呼ばれている。連山脈から発し、張掖附近で山丹川、梨園川を合せ、酒泉附近で北上して遠く居延海を目指し、居延海の近くで沙漠に消える川である。全長八〇〇キロ、河西回廊第一の大河であり、二番目が疏勒河ということになる。  張掖の町から遺跡に行くまでの間に、ずいぶんたくさんの乾河道を渡ったが、運転手君に訊いてみると、どれも黒河だという。確かにどれも黒河なのである。一本の黒河が張掖附近で何本かに分れ、そしてまたそれが集って一本になるが、その分流地帯を道は走っているのである。従ってたくさんの黒河を渡ることになる。  そうしたたくさんの黒河の中で、その本流と思われる最も大きい橋の袂で、くるまを停める。橋のところでは川幅は一〇〇メートルぐらいであるが、上流も、下流も、橋から隔たると何倍かの川幅に拡がっている。上流の方はさして遠くないところで、流れは大きく二つに分れている。  歴史は河西回廊の地図を何回か塗り替えているが、また別の見方をすれば、黒河もまたこの地帯の地図を何回も塗り替えていると言っていいだろう。黒河がその流れの道を変える度に、城市は棄てられ、人々はその住居を他に移さなければならなかったのである。  張掖の町に戻り、招待所に入る前に、臥仏《がぶつ》で有名な大仏寺を訪ねる。招待所の隣接地区にある寺である。  この寺も、臥仏も一〇九八年、西夏時代に造られており、目下大修理中であるが、内部に入らせて貰う。この寺は仏教寺院として建てられたものであるが、後世道教の寺に改められている。だからすばらしい臥仏と共に、清代の道教の壁画などもある。  臥仏は中国西北地区に於けるただ一つのもので、釈迦牟尼が朱色の布を巻きつけて、横向きに臥《ふ》しているところは壮観である。長さは三四・五メートル、肩幅八メートル、凄いボリュームである。足を重ねて横たわっているので、足の指が十本重なっており、その一本の指の厚さは半メートルぐらい、やたらに大きい塑像の臥仏である。  十三世紀、つまり元の時代に、この町に入ったマルコ・ポーロは、甘州(張掖)が大きな立派な町であり、町には仏教徒の他にキリスト教徒、イスラム教徒も住んでいることを記しており、仏教寺院の臥像についても触れている。おそらく彼はこの寺を訪ねているであろうと思われる。  この寺の他には、張掖の町には古い物は殆ど遺っていない。明、清時代の城壁の残骸があるぐらいのものである。この町にも鼓楼はあるが明代のものである。今日漢代の得故城を訪ねたが、唐代の張掖の城市はどこにあったのであろうか。  招待所に向う。町は暮方の人出で賑わっている。それぞれ各自の村へ帰って行くのであろうか。驢馬の荷車とやたらに行き交う。路傍のバザールは店仕舞でごった返している。六時十五分である。人も多く、自転車も多い。大きなレストラン、百貨店など町らしいものはあるが、やはり町というより大集落の感じである。  夜は早く寝台に入る。さすがに疲れている。小説「敦煌」では、甘州から粛州まで、つまり張掖から酒泉までの、西夏軍の行軍に十日間を当てている。馬は沙中に脚を埋めないように蹄《ひづめ》に木履《きぐつ》を履かされ、駱駝は蹄を牛《ヤク》の皮で包んでの行軍である。そこを今日、私たちはジープで四時間ほどで走っている。多少の疲労は仕方ないかも知れない。 三十二 張掖から武威へ  十月十六日、快晴、八時三十分、張掖招待所を出発、武威に向う。武威まで二四〇キロ。  再び訪ねることはあるまいと思われる張掖の町に眼を当て続ける。荷車を驢馬が曳いているが、驢馬の数は二頭、四頭、時には五頭。驢馬五頭曳きの荷車はこの町で初めて見るものである。白壁の土屋の窓枠や木の扉が赤や青で塗られているのも、やはりこの町で初めて見るものである。  みごとなポプラ竝木によって郊外に送り出される。小麦とトウモロコシ畑の農村地帯を行く。肥沃《ひよく》な耕地である。左手から前方にかけて山影が見えている。合黎《ごうれい》山山系なのであろう。それに相対して見える筈の連《きれん》山脈の方は霞んでいて見えない。  くるまは時折、みごとなポプラ竝木に入る。沙棗の林もある。小さい集落を縫って行く。合黎山山系、完全に左手になる。堂々たる山脈の連なりである。原野のあちこちに羊群、馬群、そしてポプラ竝木。  ずっと田園地帯を走り続ける。青い野菜畑も美しく、鮮黄のポプラの黄葉も美しい。快適なドライブである。  三十五分にして、漸くにして荒蕪地が挟まれ始め、やがて大不毛地帯に入って行く。荒れたゴビの拡がりの中に、羊群が点々と置かれている。合黎山山系は依然として左手に長く続いているが、その山系の裾までゴビは拡がっている。貧しいポプラに縁どられている道は絶えずゆるやかにカーブして走っている。曲りなりにも舗装されているので、くるまの動揺は少い。原野の中に烽火台の欠片が右手に一つ、左手に一つ。依然としてまだ連は見えない。  九時十五分、左手すぐそこに長城の欠片が土塀の如く見え始める。この辺りは道と平行して線路が走っているが、その線路のすぐ向うに、長城の欠片が断続して連なっている。が、そのうちに長城の欠片は線路のこちらになったり、また向うになったりして、その欠片と欠片の間からゴビが見えている。長城の欠片は、欠片とも言えないほど長く続くこともある。それに混じって、大きな烽火台の欠片もある。  連は見えないが、合黎山の方は高くなったり、低くなったり、どこまでも長く続いており、その手前に時折、低い丘が現れている。  九時三十分、地盤の荒れた地帯を通過して、山丹地区に入る。合黎山続きの山、次第に前方に廻ってくる。山が幾つか重なっている。  山丹のオアシスに入る。ゴビの中に次第に耕地が見えてくるが、しかし、依然として不毛地の拡がりである。時折、踏切りを渡る。  九時三十五分、山丹の郊外の集落に入る。連山脈の前山が見え始める。暫く見えなかった長城の欠片が、また道の傍に姿を現してくる。  やがて山丹の町に入る。長城の欠片のある町である。が、町の中心部には入らず、町の端れを通って郊外に出る。この地域は漢時代から良馬・山丹馬を産することで知られたところである。漢の若い将軍霍去病《かくきよへい》が活躍したのも、この地帯であろう。  ゴビのただ中にできている小オアシスを行く。踏切りを度々渡る。ゴビと耕地が交互に置かれている。合黎山山系は近くなったり、遠くなったり。ゴビに眼を遣ると、いつも遠くに長城の欠片が数個置かれているのを見る。  九時四十五分、黄葉のポプラの道によって、また不毛地に送り出される。右手に長城の欠片が長く連なって見えている。何キロか、原野の中に長い城壁を造っている。そしてそこに配されている烽火台も見えている。長城の裾をゆっくりと大羊群が移動している。  道が長城の遺構と交叉しているところで停車。運転手君の話では、この辺りが長城の最もよく遺っている所だという。なるほど田野の中に、長城の欠片がどこまでも真直ぐに竝んで置かれている。遠くからでは大きな土塀にしか見えないが、近寄ってみると、大城壁である。往時、この長城がいかなる役割を果したか、ちょっと見当はつかないが、完全な姿の時、ここに兵を配したら、やはり外部からの侵入を防ぐ強固な壁であったろうと思う。ただ漢民族、少数民族入り乱れて織りなされている河西回廊の歴史を思うと、この地帯の長城は漢民族ばかりでなく、時代時代で、いろいろな民族に使われ、奉仕を余儀なくされたことであろうと思われる。  出発、すぐ道は丘陵地帯に入って行く。全くの不毛地である。右手正面に、雪を戴いた連山脈の一部が現れて来る。前山の背後に顔を覗かせている。丘陵地帯はすぐ終り、またまた不毛の大原野が拡がってくる。左手の低い山脈と右手の連の前山は、それぞれその先端部を前に延ばして、やがて重なってしまう。道はその二つの山脈の間を分け入って行く感じで、その方に大きくカーブしながら走っている。  十時五十分、南の山脈と北の山脈が近寄って狭くなった地帯を通過して行く。南の山脈に重なって、連の主峯が、雪をかぶって美しく見えている。この辺りが河西回廊で一番狭い地帯かも知れない。不毛地ではあるが、一面に小さい草が生えていて薄野《すすきの》といった感じのところである。停車して、そこらを歩く。殆どゴビの拡がりである河西回廊にも、このようなところがあるのである。南の山脈の裾には長城の欠片が点々と見えており、北の山脈の手前には低い丘が二つ三つ、なだらかな線を見せている。  出発。薄野を脱ける頃から、これまで対い合っていた二つの山脈は、まるで申し合せでもしたように次第に小さくなって行き、しまいには丘の連なりになってしまう。その替り、その背後に新しい大山脈が顔を出してくる。従って視野は大きくひらけ、新しい両山脈の間は一望のゴビの拡がりとなる。南の山脈は言うまでもなく連の主峯、堂々たる山容である。ゴビには羊群があちこちに配されている。  十一時二十分、久しぶりで土屋の集落に入る。山丹を過ぎてから全く人家、人煙を見なかったが、ここで人間のにおいを嗅ぐ。が、すぐその小集落を脱けて、再び丘陵が波立っている大原野に入って行く。大ゴビのドライブが続くが、ところどころに人民公社の小オアシスがあり、人々の働いている姿を見る。  十一時五十分、永昌県のオアシスに入る。鐘楼のある土屋の集落を通過して行く。土屋や土塀を見ると、長城の欠片ではないかと思う。が、すぐその集落を脱けて、黄葉したポプラの竝木によって再びゴビに送り出される。また長城の欠片が左手に見え始める。執拗な現れ方である。  ゴビと耕地のだんだら地帯を行き、やがて本格的なゴビに入って行く。路傍、所々に植林のポプラがある。育つか、育たないか、ゴビとの闘いである。連山脈、長い稜線を見せて続いている。北の方は低い丘の連なりになっていて、しかも遠い。  小集落通過、夥《おびただ》しい白と黒の羊群が道を塞いでいる。停車、外は風が寒い。  十二時十分、依然としてゴビ、土屋の小集落を通過する。ゴビの中の島である。女の子が手を振っている。こちらも手を振ってやる。ゴビの島の礼儀である。大乾河道を渡る。連山脈は続いているが、北には山影全くなし。次々に乾河道が現れてくる。  十二時二十分、みごとなゴビ、小石以外何もなく、遠く行手に低い丘が横たわっているだけである。  十二時三十分、豊楽人民公社通過、小さい土屋の集落である。ゴビと耕地が交互に配されている。また大乾河道を渡る。  やがて両方ゴビに包まれた道を通って、目指す武威のオアシスに入って行く。ポプラ竝木が立派になり、それが黄色に燃えている。やがて永豊人民公社、その集落を脱けると、またゴビ。踏切りで停車。羊群が道に溢れている。  また踏切り。半ゴビ、半耕地帯の長いドライブの果てに、みごとなポプラ竝木によって武威の町に導かれて行く。さすがに大きなオアシスである。  一時十五分、武威の町に入る。酒泉、張掖より大きい町である。町中にはたいへんな人が出盛っている。全くの土屋の町で、土屋の屋根は板を載せたように扁平である。  砂埃りはひどいが、町に妙に活気のようなものがあって、いかにも河西回廊の町といった感じである。張掖、酒泉、敦煌、どこよりもシルクロードの町としての雰囲気を持っている。そういう点から見れば、カシュガル(喀什)、ホータン(和田)と竝ぶだろう。  路地は細く、長い。覗いてみると人一人か二人しか通れそうもない狭い路地が、どこまでも長く続いている。  野菜の市が方々に立っている。着ぶくれた人たちが、そこに群がっている。河西回廊に於ける最大の物資の集散地である。“金の張掖、銀の武威”という言葉があるが、今はどうやら、張掖とその立場を替えていそうである。  宿舎である地区招待所に入って、休息。四時に招待所を出て、鐘楼と博物館に向う。町中の路地に入って行く。何とも言えずいい路地であるが、忽ちにして人が集って来、身動きがとれなくなってしまう。  博物館はもとは孔子廟だったところで、幾棟かの建物を陳列室にしている。ここで有名な「飛燕を踏む奔馬」と呼ばれている漢代の青銅製奔馬像の模型を見る。本物には蘭州の甘粛省博物館でもお目にかかっているし、日本で開かれた“中華人民共和国・古代青銅器展”でもお目にかかっているが、この奔馬が出土したのは、この武威の郊外の雷台というところ、そこの寺の境内にある後漢墓から出たものだという。出土したといっても、地下壕の工事か何かでたまたま陽の目を見るに到ったものらしい。一九六九年のことである。  もちろん、この「飛燕を踏む奔馬」像が一点だけ出て来たわけではなく、一緒に青銅で鋳造された騎兵、馬車の大部隊が発見されている。十四輛の車と、十七騎の騎士俑《よう》と、三十九頭の馬など二百三十余点の文物が二千年の長い眠りを破られて、地上に姿を現すに到ったのである。  その中で最高の逸品とされているのは、燕を踏んで天空を駈けている奔馬像である。高さ三四・五センチ、長さ四五センチ、二世紀の制作とされている。雷台という所も、そこの後漢墓も、この小さい奔馬像で有名になったと言ってもいいかも知れぬ。一本の脚は空飛ぶ燕を踏んでおり、他の三本の脚は宙を駈けている。疾走する馬の瞬間の姿態を見事に捉えた傑作である。日本に於ても、この奔馬像は絶讃を博し、雑誌や新聞で度々紹介されている。  その雷台なるところに案内して貰うことにする。郊外ののびやかな農村地帯を一キロほど行って、小さい集落に入り、清朝時代の寺のある丘に登って行く。この寺の境内に奔馬像の出た漢代の墓があり、地下道がその墓室まで通じているということであるが、あいにく修理中で、今日はそこに入ることができないという。「馬踏飛燕」像が二千年の眠りを眠っていた場所がいかなるところか覗いてみたかったが、その方は諦めて、寺の境内から下の集落を見降ろす。ここも小さい土屋の竝んでいる路地がいい。その路地に、子供も大人も、大勢集っている。この小さい部落はただひたすらのびやかで、奔馬像の持つ烈しさはなかった。  雷台から武威の町に帰る。ぼろぼろにこぼれそうな土屋の町を、ゆっくりドライブして貰う。人の溢れた、それでいて静かな、しんとした町である。堪らなくいい。二、三日、ここに滞在できたらどのようにいいかと思うが、そういうわけにはゆかない。一泊の余裕もない。今夜、夕食後、九時三分発の列車で蘭州に向うことになっている。  招待所で夕食までの時間を、ブランデーを飲みながら、地区委員会の人から話を聞く。漢時代、唐時代の涼州がどこにあったか、まだ発掘調査をしていないので判らないが、この町から一五キロ隔たったところと、三キロ隔たったところに遺跡が埋まっているという。武威は漢代の武威郡治の地であり、唐の涼州、元の西涼州、明の涼州衛、清の涼州府の治所である。中国は時代時代で、この要衝の確保に努めたが、屡々遊牧民の侵すところとなり、五胡十六国時代には五つの涼国王はみなここに都している。ここもまた張掖に劣らず、それ以上に大きい転変の歴史の波をかぶっている。ただ一つの飛燕を踏む馬の、あのすばらしい躍動感から、往古のこの大都城のたたずまいを思い描いてみるしか仕方なさそうである。  それにしても、私は今日ドライブした張掖—武威間を、小説「敦煌」で書いている。「敦煌」に於ては、小説の登場人物たちは、今日のドライブとは逆に武威から張掖に向っている。  ——涼州(武威)から甘州(張掖)までは五百支里の道程である。その間に何十本かの連山より流れ出す川が乾燥地帯に流れ込んでオアシスを造っている。部隊は最初の日は江《こうは》河畔に、二日目は炭山河畔に、三日目には山が近く見える無名の河の磧に露営した。……四日目の朝は水磨河畔に出、五日目は南北に山が迫っている山峡へはいった。……ここから先き甘州までは概《おおむ》ね平坦である。部隊は戦闘隊形を取って再び進発した。樹木一本もない漠地の行軍である。  こうした記述が続いている。甘州を目指しているのは西夏の第一線部隊であり、甘州に拠って、これを迎え撃とうとしているのは回鶻《ウイグル》隊である。ここに記されている江河、炭山河、水磨河などという川は、今日のドライブで渡っている筈であるが、どれがどの川か、確かめることはできなかった。小説「敦煌」では革命以前に使われていた川の名を使っているが、現在は川の名も変っているし、その川の流れの位置も変っている。またそればかりでなく、水がなくなって乾河道になっているのもあるであろうし、反対に新しい川も生れているであろうと思われる。天山《てんざん》、崑崙《こんろん》から流れ出す川がひとすじ縄ではゆかない川であるように、連から流れ出す川も同じことであろうと思われる。  小説「敦煌」の涼州(武威)、甘州(張掖)の十一世紀の城市が現在どこに埋まっているか判らないように、その間を流れる河川も、河川が作っていたオアシスも、またオアシスとオアシスを繋いでいた道も、みな砂に埋まってしまっているであろうと思われる。  夕食後、九時三分発の列車に乗る。和崎氏と二人で一室占領、食堂からブランデーの瓶を買って来て、それを飲んで眠る。  十月十七日、五時三十分、蘭州着、ひどく寒い。ホテルで入浴。お湯が出たのが何よりも有難い。この前蘭州で入浴していないので、北京以来十三日目の入浴である。朝食は久しぶりで麭《パン》とコーヒー。  こんどの旅で今朝が一番寒い。入浴して漸く人心地がつく。十二、三日前に来た時も、これから先きどうなるかと思ったが、結局一番寒いのは蘭州であった。しかも部屋が広いので一層寒く感ずる。  一日、ホテルでノートの整理。  十月十八日、五時、ホテル出発。空港まで七四キロ、一時間。真暗い道のドライブ。行き交うのはこの時刻から働いている驢馬だけである。去る五日、ここを通った時は満月だったが、今は明け方の月が利鎌《とがま》のように鋭い。  蘭州空港に着く。丁度どこからか飛行機が着いて、着ぶくれた乗客が降りてくる。みんな夜具をかぶったような恰好である。  今朝はホテルでは余り寒さを感じなかったが、戸外に出ると、やはり寒さはきびしく、こんどの旅で持ち歩いた防寒服が役に立つ。  七時三十分、離陸。滑走路の向うから陽が上ってくる。機内もひどく寒く、冷蔵庫の中にでも居るようだ。飛び立つと、機はすぐ無数の丘の波立ちの上に出る。異様な風景である。やはり蘭州はたいへんな所に位置していると思う。  八時三十五分、西安着。ここは余り寒くない。九時三十分、離陸。  十一時三十分、北京空港着。北京では少しも寒さは感じない。空が青く澄みきったきれいな秋である。 三十三 沙棗の匂い  昨五十五年五月、新疆ウイグル自治区のタクラマカン沙漠の南辺の幾つかの都市を訪ねた。ヘディン、スタィン以来外人は足を踏み入れていない地域で、本来ならそう簡単に入れるところではないが、これまた中国とNHKのシルクロードの共同取材という、まあ画期的と言っていい事件に便乗して、この幸運を己がものとすることができたのである。  四月三十日、東京を発つ。成田空港を十時五十分離陸。三時半北京空港に着く。快晴、爽風、三十二、三度、東京よりずっと暑い。宿舎は民族飯店。メーデーの前日なので、夜になると、天安門附近の電飾が美しい。  五月一日、琉璃廠でメーデーの一日を過す。古書店にはこれまで見なかった書物がたくさん出ている。  五月二日、暁方から雷雨。六時起床、七時にホテル出発、空港にて朝食。寒し。トライデント一〇〇人乗り。九時四十分離陸。離陸時にはすっかり晴れている。ウルムチ(烏魯木斉)直行、二七〇〇キロを三時間十五分の予定。  十一時十分、甘粛省の沙漠の上、十二時、酒泉上空。雪山が見えているが、連《きれん》山脈の西端の尻尾であろうか。一時、天山山脈の無数の雪の稜角の上を飛んでいる。五月初めの天山は全部雪に覆われている。まだ雪どけの水が流れ出していない時期なのであろう。やがてボグド峯が見えて来る。雪の稜角が波のように寄り集って、白い城砦《じようさい》を造り上げている。  予定通り一時にウルムチ空港に着く。出迎えの人の話では、ウルムチは先月半ばまで雪があったという。ということは、今日は五月二日なので、半月ほど前の四月半ばまで雪があったということになる。中国もここまで来ると、まだ春先なのである。日本の早春の感じで、たいへん気持がいい。が、ポプラは既に芽吹いている。  ウルムチは三度目の訪問である。一昨年は九月中旬、昨年は八月初め。八カ月ぶりで迎賓館(賓館飯店)に入る。広い敷地の中に、宿舎の棟が幾つか散らばって置かれてあるが、こんどは奥まったところにある第六棟に入る。  二階の部屋に入って、すぐ冬シャツに着替える。入浴。散歩。何棟かの建物と建物の間はもちろん、空地全部をポプラが埋めている。ポプラの林もあれば、ポプラの竝木もある。その中を広い道があちこちに走っている。東京では散歩らしい散歩をしたことはないが、ウルムチのこのホテルに入ると、いつも否応なしに散歩させられてしまう。三十分ほど歩き廻るが、ホテルの従業員らしい女性一人に会っただけである。日光浴しながらの散歩。遠くに白い天山が見えている。  タ食八時、別棟の食堂へ行く。北京との時差二時間、ここではまだ陽が当っている。  十時十五分、日本の新聞社の北京支局から電話がかかってくる。チョモランマ登山隊が頂きを極めたら、ひと言祝いの言葉を言う約束になっていたが、登頂成功の報せではなくて、雪のために引き返したという報せであった。  夕食後、部屋で中国側の人と雑談。ウルムチは冬からすぐ夏になるので、春は短い。そして夏からすぐ冬になって、秋も短いという。雪は十一月から三月まで。今年、四月半ばまで雪が消えなかったのは異例の由。  夜、NHK班から羽毛服を支給される。  五月三日、六時起床、快晴、散歩三十分。ポプラの緑はまだうすい。九時朝食。  十時三十分、ホテルを出て、博物館へ向う。旧市街から新市街へ入って行く。町へ出ると、どこも埃りっぽい。この町は漢民族とウイグル族が大体半々、従ってくるまの窓から見る町の表情は漢民族の町とも言えないし、ウイグル人の町とも言えない。  相変らず町では土屋を壊している。昨年も一昨年も、土屋を壊していたが、こんどもまた同じ光景が眼に入ってくる。もともと土屋だけの町だったので、いくら土屋を壊しても、壊しきれないのであろう。いつ来ても埃りっぽいのは、こうした町造りの工事のためである。  新しい建物は、みな申し合せたように黄色に塗っている。この町の人たちには黄色が美しく見えるのであろうか。オールド・タウンは埃りっぽく、ニュー・タウンは清潔すぎる。しかし、いずれにしても早春の町である。大通りの正面に丘があって、その上に紅山塔という塔が見えている。いつも気になっている塔なので、午後、塔のある丘に登ってみようと思う。  町中のバザールで停車。路傍の小さな店では山羊の肉、葱《ねぎ》、菜、そんなものを売っている。羊肉の串焼きもある。  一時間ほど、博物館でノートをとる。ここには何回か足を運んでいるので、大体のものは旧知の間柄である。  午後はホテルで休息。四時半、紅山塔見物に出掛ける。丘は町のまん中にあるように見えるが、運転手君に訊いてみると、町の西北部に位置しているという。  その丘の上にくるまで上ってゆく。丘の上から見ると、ウルムチの町は雑然としている。郊外には工場が多い。この町も、蘭州のような工業都市になろうとしているのかも知れない。宿舎の賓館飯店のあるところは町の東南部の端になっている。  塔は九層の塔《せんとう》で、岩が露出している丘の崖っぷちに建っている。足場が悪いので、塔に近付くのは容易なことではない。  夜、これからの沙漠の旅に同行してくれるというウルムチの病院のお医者さんが、挨拶がてら診察に来て下さる。三十分ほど雑談。お医者さん自身、長年ウルムチに居るが、天山を越えて沙漠地帯に足を踏み入れるのは、こんどが初めてだと言う。  五月四日、八時起床、散歩三十分。十時半より書店と百貨店に行く。町は日曜なので、人が出盛って、ごった返している。路傍のバザールにも人が群がっている。  百貨店で毛糸のスウェーターと毛糸のズボンを購入。両方で五十元(日本円で六千五百円)。日本に較べると、大分廉《やす》い。他に茶とロイヤルゼリー。どれもこれから行く沙漠の旅のための物である。東京で一応寒さに対する支度もして来たが、ウルムチに来てから、大分予想して来た旅とは異ったものになりそうな気配を感じる。既にタクラマカン沙漠の南側、つまり西域南道地区に行っている中国撮影班から、ウルムチのNHK撮影班に入ってくる電話によると、ホータン(和田)の昼は四十度だが、沙漠に入ると、夜は零下になるという。四十度に対する用意と、零下に対する用意をするとなると、どのようにしたらいいか、ちょっと見当がつかない。  夜、これからの日程が発表される。明日は荷造り、明後日五月六日、行動開始、南道のホータンに飛ぶ。ホータンには一泊するだけで、翌日、ジープでニヤ(民豊)に向う。そしてニヤを根拠地として、翌日すぐニヤ遺跡のある沙漠の中に入って行くという。  ——まさに疾風迅雷というところですね。  私が言うと、  ——そうなんですが、現地からの連絡によると、沙漠は日一日暑くなり、やがて間もなく人間は入れなくなるらしいんです。  NHK班の田川純三氏はおっしゃる。  ——それにしても、大丈夫ですか。  大丈夫かというのは、私の健康のことであるらしい。  ——多分、大丈夫でしょう。  笑って、そう答える以外仕方がない。実際に多分大丈夫だろうと思うだけである。ちょっと見当がつかない沙漠の旅が、これから始まろうとしている。  五月五日、七時起床、散歩三十分。いつものことながらポプラの芽吹きが美しい。梅に似た小さい花を着けた灌木も眼につく。  いよいよ明日出発するので、午後は荷造り。東京から履いて来た靴と、予備のもう一足はここに置いてゆくことにする。バッグの詰め替えがたいへん。NHKの撮影班からいろいろな情報と意見が流れてくる。その度にバッグを詰め替える。  夜は世話になった中国側の人たちを招いてのNHK主催の夕食会。同時にNHKの吉川研氏と私の誕生日の祝宴をも兼ねる。吉川氏の誕生日は五月五日であるが、私の方は六日である。しかし、南道へ飛んだら誕生祝いどころではなくなりそうなので、私の方は一日早めて、一緒にやって貰うことになったのである。二人の前に“寿”と書いたケーキが出る。宴後、吉川氏と二時半まで西域談義。  五月六日、快晴、八時半、賓館出発。アントノフ二四人乗りのチャーター機。NHK撮影班の主な荷物は昨日のうちにトラックに積み込んで、陸路ホータンヘ向けて出発したという。ホータンまでは二〇〇〇キロ、五日かかるそうである。日時に余裕があるなら、そのトラックに便乗させて貰いたいところであるが、今の場合はそうもゆかない。  十時、離陸。機は一片の雲もなく青く澄み渡った空に飛び立ってゆく。機内で同行のNHKの諸君からおめでとうを言われる。今日は七十三回目の誕生日である。このところ三年続けて誕生日は中国で迎えている。昨年は蘇州、一昨年は蘭州、今年は往古の于の故地、ホータンに於てである。  機はすぐみごとな耕地の上に出る。茶色と青の短冊がばら撒かれており、その中ところどころに土屋の集落が置かれている。集落は周囲の土の色と同じなので、よく見ない限り、集落と原野を区別することは難しい。  機は私にとって五回目の天山を越えてゆく。大天山の稜線は尽《ことごと》く雪に覆われている。離陸十分にして、雪の山脈の上に出る。手の届きそうなところに雪山がある。  機は無数の雪山の波濤を越えて、十時四十分、耕地のある大沙漠の上に出る。やがてコルラ上空。これから雪の天山を右手に見ながらの飛行になる。白と褐色の入り混じった大アルカリ地帯が拡がってくる。無数に罅《ひび》割れている。この地帯は絵が描けるなら描きたいだろうと思う。白と褐色の入り混じった落着いた色調である。その中に折れ曲った抽象画の黒い川の流れが置かれている。地盤は波立っていて、平坦なところはないらしい。  十一時二十分、クチャ(庫車)上空。クチャからアクス(阿克蘇)に通じている道を探すが、なかなか見付からない。昨年ジープで走った道である。クチャからかなり長いオアシスの帯が続いており、青い耕地と集落が見えている。が、やがて漠地が拡がってくる。機上から見ると沙漠に見えるが、実際はゴビ(戈壁)の筈である。  機内放送によると、アクスは二十一度だという。漠地の中に、曾てわれ通りし道を探す。やがて道見えてくる。天山の前山に沿って、ただ一本の道が走っている。ウルムチ—ホータン間の幹線道路である。NHK取材班の荷物を積んだトラックも、この道を通るのである。  十一時五十分、アクス着。十二時十五分離陸。ガス深くなり、タリム(塔里木)河らしきものを見るが、正確には判らない。ホータンまで一時間十五分、深いガスの中を飛ぶ。  一時三十分、ホータン空港着。出迎えの人の話だと、ホータンは日中二十七、八度、夜には七、八度の由。ホータン・オアシスは沙漠の中に作られたオアシスである。周囲は凄い沙漠に取り巻かれている。昼と夜の二十度の気温差は、こうした土地柄のためである。  空港から町へ向う。土屋はどれも高い土塀を廻らせてあって、土屋の屋根は少ししか見えていない。土塀は風をよけるためのものである。ポプラはウルムチのポプラと異って、既に葉が大きく繁っている。  門をくぐって町に入ると、間もなく大きな、多少化けものじみたポプラ竝木に入ってゆく。やがて古い城壁の欠片にぶつかり、そこを右に入ると、そこに今夜の宿舎になる地区革命委員会の第一招待所がある。立派な招待所である。  このホータンの町も、この招待所も、私には二回目である。五十二年八月にここを訪ねている。その時の一行は中島健蔵夫妻、宮川寅雄、東山魁夷、司馬太郎、藤堂明保、團伊玖磨、日中文化交流協会の白土吾夫、佐藤純子、横川健の諸氏、それに私。新疆族の集りとでも言いたい顔触れである。この時の旅の紀行は、前巻に収めている。  同じ招待所であるが、この前の時とは異って、見違えるほど立派になっている。水道もあれば、風呂もできている。あとで聞いたことであるが、これは今度の撮影班受入れのために造ったものであるという。  昼食後、黒玉河(墨玉河)を見にゆく。この前に白玉河の岸には立っているが、黒玉河の方は見ていないので、それを見にゆくことにする。ホータンは今夜だけで、明日はニヤに向う予定になっているので、黒玉河見物はこの機会をおいてはなさそうである。土地の人の話では、今年は雪が降らなかったので、水量は少いという。  くるまはウルムチ—ホータン街道を西へ、つまりカシュガル(喀什)の方向に向う。河岸まで二〇キロ。町を出ると、すぐ緑の耕地が拡がってくる。馬三頭の馬車。青い畑は春まきの小麦。ゆたかな農村地帯のドライブである。路傍には水路が走っているが、水は少い。ポプラの植林も見られるが、ポプラはみな貧弱である。  土屋の集落の小さいバザールを通過。十五分ほどで道の周囲は漠地になり、砂丘が見えてくる。が、また耕地になり、路傍に沙棗の林を見る。耕地は拡がっているが、人家は全くない。舗装は時々切れる。その度に砂塵もうもうと上がる。衛星人民公社地区を行く。大きな胡桃《くるみ》の木が多い。  やがて黒玉河の岸に出る。この河を挟んで、こちら側は和田県、向う側は墨玉県。川幅は二〇〇メートルぐらいか。水少く、砂洲が多い。黒玉河と呼ばれているが、黒い石は全くない。洪水でもないと、石は見られないという。  橋の上に立つ。上流、下流とも、二、三十メートル先きから、川幅は三倍ぐらいになるが、やたらに大きな砂洲が横たわっていて、川筋といったものには見えない。そしてその果ては、縹 渺《ひようびよう》として空に溶け込んでしまっている。  橋は石造り、一二〇メートルの長さ。以前は木の橋で、洪水の度に流れるので、石の橋に替えたという。水の量は、白玉河に較べると、こちらの方がずっと多い。洪水の時は水は橋桁まで来るという。上流に発電所があるが、そこから上流には石がごろごろしており、石は黒玉が多く、白玉は少いそうである。  この黒玉河は、ホータンから一二〇キロの沙漠の中の一地点で白玉河と合流し、ホータン河と名を改めて、アクス方面へ流れてゆく。そしてその果てにタリム河に併《あわ》さるとされている。昔は確かにタリム河に流れ込んでいたが、現在は途中で水を農地に奪《と》られてしまうので、流れが果してそこまで届いているかどうか判らないという。合流点に立てば、合流しているかどうか、すぐはっきりするわけであるが、伏流という厄介な性格を持っているタクラマカン沙漠の川なので、必ずしも地上で合流しているわけのものでもない。地下で合流している場合は、それを確かめることはできない。  それから白玉河、黒玉河の合流点は紅白峠と呼ばれているという。“紅白二山があり、紅白二水がそこで合流する”という古い地理書の記述があるそうである。紅白二山というのは、砂丘であろうかと思うが、案内役のウイグル人は、  ——砂丘より少し粘っこい山のようです。  と、おっしゃる。どのような山か見当がつかない。土地の人は今でもアクス方面に行くには驢馬、駱駝を使って川沿いに進み、アクスまでは十五日の行程だそうである。  帰途、案内の人が、黒玉河畔の沙棗の小さい枝を折って、くるまの中に入れてくれる。黄色の小さい花をつけている。直径一・五センチぐらいのごく小さい花である。葉の長さは二センチか、三センチぐらい。なるほど甘い匂いである。くるまの中がすぐその匂いでみたされてしまう。花は漢方薬として咳《せき》どめの薬に使われているそうである。  帰途に就く。この辺りの耕地という耕地は、みな漠地を開墾して造っている。暮方のホータンの町に入る。ホータンはポプラと沙棗の町である。ポプラは大きいのも小さいのもある。大きいのは化けものじみた図体をしている。ホータンの町でも、新しい建物は黄色に塗られている。窓枠は代赭《たいしゃ》色か青。土屋の方はみな粗末で、扁平な屋根を持っている。  宿舎に帰って、部屋の机の上に沙棗の枝を置く。なるほど部屋の前の廊下までが甘い匂いでみたされてしまう。  招待所の庭を歩く。大きな沙棗の木が十本ほど、裏手の塀際に竝んでいる。このために裏庭もまた甘い匂いに充たされている。香妃の体臭は沙棗の匂いだったと言われているが、五月にこの地区に入ったお蔭で、沙棗の匂いがいかなるものか知る。  時計を見ると、九時、そとはまだ明るい。 三十四 ニヤ——精絶国の故地  五月七日、八時五十分、出発。今日はケリヤ(于田)を経て、ニヤ(民豊)に向う。ホータン(和田)からケリヤまで一八〇キロ、ケリヤからニヤまで一三〇キロ、併せて三一〇キロのドライブになる。  最初のくるまに乗る。あとにジープ四台が続く。沙棗の竝木の下を通って、招待所を出る。ポプラの街路樹の美しい、砂埃りの町を行く。早朝なのに街には人が出盛っている。男たちは各人各様、勝手な帽子をかぶっており、女たちも思い思いの布を頭に巻きつけている。既に路傍には店が開かれている。大きな風呂敷のような布を帽子から背に垂らしている男たちの一団もあれば、きれいな三様の布で頭を巻いて、竝んで道を横切ってゆく三人の娘たちもいる。  あっという間に町を脱けて、くるまは郊外へ出て行く。土屋の集落が続いている。全くの土の家で、殆ど窓もなく、屋根は扁平。土屋と土屋の間から小麦の畑が覗いている。  招待所を出て十分程で白玉河、橋の袂で停車。川幅は五〇〇メートル、川床は全くの小石の原で、流れは殆どない。昨日その岸に立った黒玉河の方は川床を砂が埋めていたが、こちらは小石が埋めている。この白玉河の上流部には、五十二年八月、セスビル(什斯比爾)の遺跡を訪ねた時お目にかかっている。  橋を渡って間もなく、ニロンカシ人民公社を通過、近くを同名の川が流れているそうだが、幾つか乾河道が横たわっているので、どれがニロンカシ河か判らない。  小麦畑、桑畑、菜畑が続いている。桑畑の桑は小さく、菜畑の方は黄色の花が美しい。  やがて街路樹のポプラはなくなる。舗装してない砂利道がまっすぐに延びており、時折、砂塵が舞い上がる。この砂利道の街道は最近できたもので、南道をぐるっと廻って、コルラ(庫爾勒)まで一二〇〇キロ。南道では大切な道路であるが、途中壊れたり、消えたりしている箇処があるという。ホータンから西はヤルカンド(莎車鎮)、カシュガル(喀什)それから北道のアクス(阿克蘇)、クチャ(庫車)を経て、ウルムチ(烏魯木斉)まで続く幹線道路が走っているが、ホータンから東のこちら側は、そういうわけにはゆかない。しかし、この道ができたお蔭で、われわれもこの地帯に足を踏み入れることができるのである。  ホータン以東の、これから先きの地帯の住民は殆どがウイグル族である。従って多少、農村の雰囲気も異ってくる。土屋の農家の前には、申し合せでもしたように子供たちが立っている。子供たちはみな裸足。靴は大人になってから履くものなのであろう。  道は坦々と真直ぐに走っている。曇っているので、崑崙山脈は全く見えない。  大耕地地帯を行く。トラックとすれ違うと、砂塵が凄い。羊群、馬群が時折、遠くに見えている。  九時三十分、道は直角に右に曲り、ロブ(洛浦)県の集落に入って行く。土屋点々。水路や、水溜りがあちこちにある。右手にロブ県のセメント工場が見えるが、その他には建物らしいものは何もない。  やがて、今まで続いて来た耕地はなくなり、次第に漠地に変ってくる。これから次の集落・チラ(策勒)県までは七六キロ、それまでこの漠地が続くという。見渡す限り一木一草ない、真平らな不毛地。小石すらもなく、地面は薄く黒ずんでいる。  そのうちに多少地盤の荒れた地帯に入る。砂利採取の労務者が二〇人ほど働いているのを見る。太陽は照っているが、何となく曇っていて、余り暑くはない。太陽は右手前。時々、小石の散らばっているゴビ風のところがないでもないが、概して平坦な、一木一草ない不毛地の拡がりである。崑崙山脈は依然として見えない。  坦々たる西域南道のドライブ、どこまでも続く。ロブ県とチラ県の間の大不毛地のドライブである。時々、幅一間か二間の小さい乾河道を渡る。山地に雨が降ると、忽ちにしてここが川になるのであろうと思う。時にまるで天から降りでもしたように、小石がごろごろ散らばっているところがある。それもそこだけ。  十時五分、多少地盤が波立ち、小石が覆い始める。が、概して平坦。全く草というものはない。時折、乾河道を渡る。遠く行手に蜃気楼の海が見えている。  十時十五分、路傍左手の漠地の中に廃屋一つあって、その近くでウイグル人の男二人が弁当を食べているのを見る。傍に井戸があり、一人が水を汲んでいる。その横に駱駝が二頭。  停車、小休止。くるまを降りて、二人のウイグル人のところへ行ってみる。井戸様のものがあって、そこから水を汲んでいるが、本当の井戸でも、泉でもなく、二、三年前の道路工事の時造ったという水の貯蔵庫であった。誰が水を補給するのか知らないが、とにかくここに水を貯蔵しておいて、この地帯を駱駝や馬で往来する人たちのために便宜をはかってやっているのである。ずいぶん漠地のドライブが続いたように思うが、まだケリヤまで、半分も来ていないそうである  休憩十分、出発。やがて右手に丘が現れ、それが長く堤のように続く。が、それがなくなると、こんどは左手に大きな丘の連なりが現れ始める。その丘の向うには、何となく海でもありそうな感じだが、海ではなく、タクラマカン沙漠が拡がっているのである。  左手前方に緑の線が見えてくる。近付いてみると、かなり大きな川が流れていて、その川筋に沿って緑の帯が造られているのである。そこを通過すると、すぐまた漠地が拡がってくる。その漠地の遠くにも小さい島のように、点々と緑の固まりが置かれている。おそらく今の川の川筋に当っているところなのであろう。  遠くに放牧の山羊の一団。やがてまた左手遠くに大きな緑の帯が見えてくる。が、次第にそれはオアシス地帯を示す大きな緑の固まりになってくる。果してチラ県である。  十時五十分、その長い長い帯の中に入って行く。久しぶりの耕地地帯が始まる。胡桃の木が多く、路傍ばかりでなく、田圃の中にもあちこちに立っている。泥土で造ったような農家が点々。おそらく日乾《ひぼし》煉瓦の上に泥を塗っているのであろうが、泥をこねて造った家のように見える。  農村地帯に入る。耕地の青さが眼にしみる。ここにも多少町らしいところはあるであろうが、そこには入らないで、農村地帯を通過してゆく。畑の間に漠地が挟まっている。ホータンからここまでは一〇〇キロ。  耕地、次第に原野に変ってゆく。雑草で覆われた原野が波立ち拡がってくる。これはこれでいかんともなし難い地帯であるが、それにしてもオアシスであることだけは間違いない。驢馬にまたがった女、ただ一人向うからやって来る。暫くすると、こんどは老人、これも驢馬にまたがって、ただ一人。  十一時五分。原野は耕地に変り、やがて農村地帯に入る。チラ県の人民公社である。粗末な土屋点々。農家の造りから判断する限りでは、新疆地区のどこよりも、この地帯が貧しそうである。しかし、耕地はよく整理されてある。  十一時二十分、長く続いた耕地地帯が、地盤の荒れた不毛地帯に変る。小丘陵の波立つ全くの原野である。先きの七〇キロに及んだ一木一草なき不毛地帯のあとは、耕地と不毛の原野がだんだらに織りなされている。  荒れた大小の丘が見渡す限り遠くまでばら撒かれている。地面は白い粘土で、めくれそうに罅《ひび》割れている。丘と丘との間には、小さい土の固まりが無数に置かれ、その一つ一つに雑草が載っている。土饅頭地帯である。中国の言い方では土包子地帯、——雑草の根もとに土や砂が吹き寄せられ、それが雑草を載せたまま団子型に固まるのである。小さいのもあれば大きいのもある。大きなのになると、たくさんの雑草や灌木を載せて丘を造っている。荒涼とした異様な風景である。  十一時三十分、漸くにして土包子地帯は終り、原野の拡がりとなり、遠くに放牧の馬の群れが見える。やがて耕地が現れて来るも、すぐまた原野となる。見渡す限り黄色の雑草に覆われた原野で、あちこちで牛の放牧が行われている。道に近い地帯には水溜りが多い。湿地帯であろうか。突然、また耕地に変り、暫く農村地帯を行く。粗末な農家が点々としているが、やがてまた原野となり、雑草の原がどこまでも続く。羊群、あちこちに見える。すると耕地、また原野。耕地と原野が交替で現れてくる。  漸く陽ざしが強くなり、農村地帯に入ると、ポプラの葉が陽に輝いて美しい。時折、農家の傍に草で囲んだ四角な箱様なものが見える。運転手君の話だと、その中には山羊が飼われていると言う。農家もまた四角な土屋、その前に真紅の布を頭にかぶった娘さんが立っていたり、裸足の子供たちが集っていたりする。  この地帯の原野は例外なく丈高い雑草で覆われており、低い丘が現れたり、消えたりしている。やがて大きな羊の放牧場が右手遠くに見えて来、前方に大きなオアシスの緑の帯が置かれているのを見る。道は何度目かの農村地帯に入って行く。羊の群れ、牛の群れ。青い耕地。窓のない土屋。すっかり芦で覆われている土屋もある。家はその大部分が土塀を廻らしている。風の強い地帯なのであろう。  十二時五分、左右共、真平らな青い美しい放牧地の拡がりとなり、羊群、馬群があちこちに配されている。が、依然として不毛地帯も現れて来、耕地、不毛地がだんだらに織りなされている。そしてその間に農家が現れたり、羊群が現れたりしては、うしろに飛んで行く。  道、ゆっくりと降りになり、また上る。驢馬がひく荷車と行き交うことが繁くなる。驢馬に乗った女もやって来る。女はみな着飾っているように見える。男も女も、着ぶくれている。  土、白くなり、道も白くなる。やがて道はケリヤ(于田)県のオアシスの中に入って行く。大きなポプラの竝木、広い道、白壁の店。久しぶりの集落らしい集落である。やがて町の招待所に入る。十二時四十分である。  これまで通過して来た地帯は耕地、不毛地が入り混じっていたが、それにしても水に恵まれ、地下水は一応豊富といってよく、点々と配されていた小オアシスの緑の帯は白楊樹、桃、沙棗、ポプラなどによって造られているという。  招待所の人の話では以前はニヤまで、馬で四、五日、ホータンまでは六、七日を要したという。道には四〇キロ毎に駅亭があったが、駅亭から駅亭までを、一日の行程には組めなかったそうである。もちろん、今日走った道ではない。以前の道は時折、車道の横に現れるので、注意していたら以前の駱駝や驢馬が歩いた道の欠片にお目にかかれるという。  招待所で昼食、そしてたっぷりと休憩。その間、招待所の入口を大人や子供たちが埋めている。外国人を見ようというわけであるが、それにしても大変な騒ぎで、お巡りさんが内部になだれ込もうとする人たちを阻止している。  四時、出発。二時間以上待っている人たちの間を脱けて、くるまは招待所の門を出る。道は道で大変である。子供たちがあちこちから駈け寄ってくる。町の中心部で停車、大急ぎでカメラのシャッターをおす。  やがてくるまは町を脱けて、耕地に入ってゆく。ケリヤ河の橋の袂で、もう一度、停車。こんどは川を撮すためである。流れは少いが、川幅は広く、やはり大河の貫禄を持っている。ケリヤ・オアシスを造っている川である。ケリヤ河を渡ると、すぐ不毛の丘陵地帯が拡がってくる。  くるまの前に竜巻が立っている。丘陵と丘陵の間を、水が流れている。左手の丘の波立っているところは牛の大放牧場になっている。  道は折れ曲り、折れ曲りながら走っている。時折、道の近くに、先刻ケリヤの招待所で聞いた旧道が現れてくる。幅二メートル程の細い道であるが、今でも驢馬や駱駝の道として使われているのであろうと思う。  竜巻、また一つ。女二人、それぞれ驢馬に乗って向うからやってくる。相変らず着ぶくれた恰好をしている。  左右共に、本格的沙漠の拡がりとなる。こんどの旅で、初めての沙漠の出現である。道の附近は胡桐地帯、胡桐は名前は堂々としているが、駱駝草に似た草である。左手に大竜巻が見える。続いて右手にも竜巻。竜巻地帯なのであろう。  そのうちに胡桐は姿を消す。依然として大沙漠の海。沙棗の生えた一画を通過、やがて何もなくなる。かなり長く沙漠のドライブが続くが、次第に道に近いところはゴビに変ってゆく。遠いところは沙漠、近いところはゴビ、左手遠くに緑の帯が見えてくる。  突然、右手に小さいオアシスが現れる。農家二、三軒と僅かな耕地、たいへんなところに人は住んでいるものだと思う。  次第に左手のオアシスの緑の帯が近付いてくる。やがて、その中へ入って行く。沙棗の林。右手も大不毛地に囲まれてはいるが、耕地が現れて来る。苜蓿《うまごやし》の畑、葉は濃い青。  オアシスの帯を行く。桑の木が多い。緑の帯の外側には沙漠が拡がっているが、沙漠は砂で烟っている。農家点々、路傍に人が立っている。沙漠の中の島の住人である。が、やがてこのオアシスの帯も、漠地に呑み込まれてしまう。  四時三十分、大ゴビのドライブとなる。駱駝草も、胡桐もない。ゴビの中の小川の畔りに、二、三十頭の駱駝が見える。その小川の川筋に当っているのであろうか、ゴビの中に樹木二、三本ずつ持った小さいオアシスが、島のように点々と配されている。  やがてまた、所々に駱駝草が置かれ始める。が、それにしても小石のごろごろしている荒いゴビである。先刻の七〇キロに亘ったゴビより、この方が荒々しい。もはや青い島もなくなり、見渡す限りゴビの拡がりとなる。竜巻、また竜巻。竜巻、道を横切ってゆく。くるまを停めて、どうぞ、お先きに! 竜巻を遣り過す。  大乾河道の橋を渡る。左手に大きな沙棗地帯が現れる。どこかに泉でもあるのであろう。  四時四十五分、ゴビ、全く沙漠に変る。右手に大きな断層を見る。まさに大沙漠のドライブである。砂が舞い上がっているのか、視界利かず、前方ぼんやりしている。  満載のバスとすれ違う。一日一回のニヤからホータンへ向うバスの由。そのうちに九八八キロの標識を通過する。この砂利道の終点であるコルラまでの距離を示しているものだという。こんどはトラックとすれ違う。やがて荒れた大乾河道を渡る。  五時、依然として沙漠のドライブが続いている。右手に細い道の走っているのを見る。旧道の欠片なのである。停車、沙漠の中の休憩。くるまから降りて、砂の上に仰向けにひっくり返る。見渡す限りの砂の海の上に大きな空がかぶさっている。遠く竜巻が立っている。竜巻が多いのは、去年雪が少かったためだという。  五時十分、出発。九八一キロの標識を通過する。左手遙か遠くにただ一本の木が立っている。人間もなかなかあれほど孤独にはなれぬだろうと思う。あそこだけに水があるのであろうか。  やがて、沙漠は次第にゴビに変ってゆき、枯れたタマリスク(紅柳)の原が拡がり始める。小石のごろごろした原に、タマリスクの死骸が無数に置かれてあって、見渡す限り茶色の原に見える。全くの死のゴビである。河畔のタマリスクは大きい灌木になるが、こうした沙漠やゴビのタマリスクは駱駝草ぐらいの大きさである。一望の枯れたタマリスクの原、これはこれで見事と言う他ない。  五時二十分、枯れたタマリスクの株、少くなり、小石のごろごろしたゴビの地肌が現れ出す。ところどころに青い駱駝草も置かれ始める。旧道の欠片、左手すぐそこに見える。四本の竜巻、くるまと平行して走っている。  五時二十五分、ゴビから沙漠に変る。一望、限を遮るものなき砂の海。沙漠のまん中で、ニヤ(民豊)県に入る標識がある。時折、乾河道を渡る。乾河道には大小の石がごろごろしている。崑崙山脈に大雨でもあると、これらの乾河道という乾河道はすべて濁流の道となり、これら大小の石を運んでくるのであろう。その時は凄い光景であろうと思う。この辺りの沙漠はたっぷりと砂が埋まっている感じで、小さい草はあるが、みな枯れている。地盤下がって、大乾河道を渡り、また上がる。  五時三十五分、依然として沙漠のドライブが続いている。地盤、多少波立ってくる。時折、小石のばら撒かれている地帯がある。黒、赤、茶、白、いろいろな色の小石である。道はゆるく上がったり、下がったり。明るい沙漠である。南道でもこの辺りには、タクラマカン沙漠が入り込んで来ているので、大沙漠の波打際といった感じである。  五時四十五分、沙漠はゴビに変り、再びタマリスクの死の原が始まる。土包子地帯、土団子の固まりの上に枯れたタマリスクの株が載っている。  くるまは時速八〇キロ。それにしてもオアシス地帯を見ざること久し。ケリヤを発ってからは、ずっとゴビと沙漠が交互に現れている。空には雲一つないが、イランの空のような濃い青さはない。一度も崑崙山脈が姿を見せないくらいだから、どこもかしこも砂で烟っているのであろう。  ケリヤから二時間、ゴビと砂漠ばかりに付合って来て、集落らしい集落には全くお目にかかっていない。  突如、ニヤ河の橋の袂に出る。停車。川幅は五、六百メートル。川床をすっかり河原が埋め、青い流れは細い帯になって、河原の隅の方に横たわっている。川の両岸は断層をなしており、ホータン側では一丈ぐらいの低い崖であるが、対岸のニヤ側は、橋の上手も、下手も大断崖で縁どられている。  ニヤ河はこの地帯随一の歴史の川であり、大河であるが、ここで見る限りでは、大乾河道の中に、細い流れがひとすじ置かれているだけである。おそらく本流は地下にくぐっていて、一朝事ある時でない限り、ここには姿を現さないのではないかと思われる。  このニヤ河の橋からニヤまでは一五キロ。出発。いよいよ最後のコースである。依然としてゴビのドライブが続く。左手遠くにオアシスの緑の帯が見える。が、やがて、それとは別に行手に緑の長い帯が現れてくる。ニヤのオアシスである。  が、なかなかそのオアシスに近付いてゆかぬ。しかし、緑の帯は少しずつ濃くなってゆく。久しぶりに耕地の欠片、胡桃畑。胡桃畑の傍には竜巻が立っている。路傍に花をつけたタマリスク。例の桃色の花が美しく咲いている。枯死したタマリスクの原を見てきた眼には、このタマリスクの花がひどく可憐なものに感じられる。  六時二十分、遂にニヤのオアシスの緑の中に入って行く。ゴビのドライブは全く終り、いきなりくるまは緑に包まれてしまう。両側の樹木は胡桃、沙棗、杏、ポプラ。麦畑も眼に入ってくる。土屋、派手な原色の衣類を纒った娘たち。頭に巻いているスカーフの色も鮮やかである。農村地帯を脱けて、こんどは紛れもないニヤの町に入って行く。そして町の入口で、宿舎の県庁招待所に入る。  ニヤは正しくは新疆ウイグル自治区ホータン地区ニヤ県。  ニヤが外国人を迎えるのは三回目。一九五〇年代にソヴィエト農業専門家を、一九七六年にスウェーデン中国友好協会副会長を、そしてこんど私たちが三回目だそうである。  ホータン地区には七つの県があるが、このニヤ県が一番小さい。現在この県の人口は二万四〇〇〇、このうち四〇〇〇人ほどが漢民族、他はウイグル族。解放前は漢民族はごく僅かで、何百という程度だったという。  いずれにしても、文字通りの僻遠《へきえん》の地。最近、今日私たちがドライブして来た道ができたからまだいいようなものの、それまでは今日何回か眼にした細い道が沙漠やゴビのただ中を走っていたのである。容易なことではお隣りのケリヤまでは行けなかった筈である。ましてホータンとなると、大変な旅になる。  現在でも、依然として不便なことには変りはない。人民日報は半月遅れ、ホータンの新聞も三、四日遅れになるという。中国放送はなかなか入らず、ロシヤの中国向け放送が入って来る。世界に何事が起ろうと、ここに居る限りは無関係である。  五月の今、日中は三十五、六度、夕方は十五、六度。温度差が烈しいので、夕方気温が落ちると、ひどく寒く感じる。一番暑いのは七月中旬、昼は三十八度から四十度、夜は二十度、あるいはそれ以下。一番寒いのは一、二月、大体零下十五、六度。時には零下二十度になるという。  雨は全く降らないといっていい。一年の降雨量は二九ミリ。この土地の人は雪と雨が降ると大悦び、今年は雪は一度も降らず、雨も四月にちょっと降っただけ。しかし、山間部に雨が降るので、そのお蔭で水を得ることができる。物資には甚だ恵まれていない。野菜も少い。が、今年初めて温室栽培を始め、その野菜が招待所の食卓にのるようになったという。  南道の町がみなそうであるように、ニヤもまた砂の町である。招待所の庭へ一歩踏み出すと、靴は砂で白くなる。砂は招待所の広い庭をたっぷり覆っている。町中の道も全く同じである。  ニヤは漢代の精絶《せいぜつ》国の故地である。その遺跡は北方一二〇キロの沙漠の中にあり、スタインによって掘られて、ニヤ遺跡として有名になっている。  往古の精絶国が初めて紹介されたのは「漢書・西域伝」に於てである。  ——王は精絶城に治し、戸数四百八十、人口三千三百六十、勝兵五百人。  こういったことが記されている。ともかくこのような国が営まれていたということは、そこがオアシスであったということであるが、そのオアシスを造っていたのはニヤ河以外には考えられない。  しかし、そのニヤ河の水が、何らかの理由でそこまで届かなくなり、精絶城は沙漠の中に廃棄されるに到ったのである。ここから発見された木簡の銘によって、大体三世紀頃までは存続していたと見られている。  七世紀の玄奘《げんじよう》の「大唐西域記」には、  ——ニヤ城は周囲三、四里、大沢地の中にあって、渡渉は困難、芦が生い茂って道さえない。  おそらくこのニヤ城は、漢代の精絶城の廃棄されたあとに、もう少し南の方に営まれた城ではないかと思われる。もちろん、これは私の推定であって、何の学的根拠もない。が、この推定が当っているとすると、この方は反対に湿地に悩まされている。大沢中に城を営むことはあり得ないから、城を造ったあと、ニヤ河の伏流して来た水が、大沢を作ってしまったのであろう。こうなると、またここも棄てて、人々は他のもっと住みよいところに移転しなければならない。といって、ニヤ河からすっかり離れてしまうわけにはゆかず、その流域に候補地を探さなければならない。  現在のニヤの町が、その何回目の移転先きか知らないが、往古の精絶国の二千年後の姿であると言っていいかと思う。今のニヤの町は大体に於て七百年位の歴史を持っていると見られているようである。この町の郊外に“モンゴル井戸”と呼ばれている井戸があるので、十三世紀のモンゴル兵団の通過の折は、すでにこの集落は営まれていたに違いない。こういう推定から七百年という数字が引き出されているという。かなり荒い推論で、この見方が正しいか、正しくないか知らぬ。しかし、このタクラマカン沙漠南辺の波打際の町まで来てしまうと、何を信じても、何を信じなくても、どちらでもいいような気持になってしまう。  古いことについては一行の記述も遺っていないというから、すべては空白である。もし往事を語るものがあるとすれば、それはすべて沙漠かゴビの中に埋まってしまっているのである。今日通過してきたチラ県の北方の沙漠の中にも「漢書・西域伝」の彌《ウビ》国、玄奘の「大唐西域記」では摩《ビーマ》城とされている遺跡が埋まっているのではないかと思われるが、さしてそれを確かめたいとも思わない。 三十五 大馬扎  五月九日、快晴、昨日一日休養しているので、ホータン(和田)—ニヤ(民豊)間の荒いドライブの疲れも癒って気分爽快である。今日はNHK、中国の二つの取材班が、この町から北方一二〇キロの沙漠の中にあるニヤ遺跡に向って行動を開始する日である。  ニヤ遺跡までは一二〇キロであるが、約九〇キロのところに大馬扎《だいばさつ》という集落がある、他の言い方をすれば、大馬扎生産大隊の所在地である。そこまでジープとトラックで行って、あとの三〇キロは駱駝六〇頭のキャラバンを組むという。  いずれにしても今日は大馬扎まで九〇キロの行程。大体、大馬扎までの九〇キロは、タクラマカン沙漠に突き出している細い半島と考えればいいらしい。往古からニヤ河が流れている地帯で、ニヤ河の水によって、その流域に細長いオアシスが形成され、それが沙漠の中に半島のように突き出しているのである。今日はその半島の突端部の大馬扎の集落まで、ジープとトラックで行き、そこで宿営する予定。  大馬扎から先きはタクラマカン沙漠の砂の海が拡がっているので、大馬扎という集落が生きている人間の最後の住居地ということになる。それにしても大馬扎という集落名は多少奇異である。大馬扎は大マザール、大きな墓所という意味である。  しかし、実際にこの地区は“大きな墓所”とされているところなのである。正しい呼び方で言えば、イマム・ジャハァル・サディクの大マザール。“イマム”は回教のアーホンという最高の位を示す称号、“ジャハァル”は人名、“サディク”は宗教に非常に忠誠であるという意味の形容詞。従って、“イマム・ジャハァル・サディクの大マザール”は、“回教の聖者ジャハァルの大いなる墓所”ということになる。実際に現在でもこの地区はそう呼ばれているが、生産大隊の所在地である集落の方は、簡略化してマザールという名だけで通用するようになってしまっているのである。  一九〇〇年代の初めにこの地を訪ねているスタインも、  ——イマム・ジャハァル・サディクの人里離れた霊地。  とか、  ——イマム・ジャハァル・サディクを出発して、  とか、そのような使い方をしており、更にこの霊地について、簡単に説明している。  ——イマム・ジャハァル・サディクのマザールというのは、有名な巡礼地で、一般に伝わる伝説によれば、同名の聖なる回教指導者が、コータンの異教徒らを相手に戦って、何百人もの信者たちと共に斃れた地点とされている。(スタイン「中央アジア踏査記」、沢崎順之助氏訳)  しかし、ここが霊地と見られていることは、その頃も今も変りはない。大馬扎の集落の附近に、聖者とその妻の墓があり、毎年八月、多くの信者が祖先の霊を祀《まつ》るために、ナン(パン)を入れた袋と、水を入れた瓢箪《ひようたん》を持って、徒歩で、この聖地参拝の旅に出る。男の信者は聖者の墓に詣で、女の信者は妻の墓の方に詣でることになっているそうである。  しかし、ニヤの古代文物を調査している人たちの話では、最近この伝承を各方面から調査したが、伝説が伝えるような聖者戦死の結論は出なかったという。大体この聖者ジャハァルはアラブでは大変有名な人で、イスラムの歴史では、彼がこの新疆地区に来たことはなく、聖者は彼地に父親と一緒に埋葬されている。従って、彼を崇拝している回教徒たちが、彼の名を冠した聖地を、ここ、タクラマカン沙漠に突き出ている半島の突端に造ったものと思われる。  八時三十分、出発。ジープ七台、トラック二台。撮影班以外では早稲田大学教授の長沢和俊氏と私。いよいよまっすぐに沙漠をめざしてのドライブである。大馬扎まで何時間かかるかと、運転手君に訊いてみるが、見当がつかないという。運転手君も、大馬扎行きは初めてなのである。  招待所を出て、暫く閑散とした朝の街を走る。ポプラと沙棗の混じった街路樹。街路樹の根もとには水路が置かれている。  町を脱けると、すぐ大原野の拡がりとなり、そこを東に向う。崑崙山脈は今日も見えない。羊群点々。水溜りが多い。七、八分で、道は北をめざす。  左右に低い丘の連なりが置かれてあるが、道は右手の丘の末端部を通過して行く。左右共に放牧地が拡がって来、羊群、馬群、あちこちに置かれている。また前方に丘の連なりが重なって見えて来る。道はそれに近付いて行くが、それにぶつからないで、それを右手に見るように大きくカーブし、丘の連なりに沿って行く。左手は一望の放牧地、一面に草の生えた青い原野である。相変らず羊群、あちこちに見える。水溜りも多い。  右手の丘は次第になくなり、一望の大原野の拡がりとなり、遠くに羊群が米粒のように小さく見えている。一群三〇〇というが、それ以上の数だろうと思う。  八時五十五分、くるまは今まで走って来た本道から離れ、直角に曲って北に向う。道は狭くなり、とたんに荒れてくる。しかも道の両側に水溜り地帯が続く。道、いつか西に向っている。もう一度、どこかで右折するのであろう。  やがて道は放牧地のまん中に入って行く。放牧地のまっただ中ではあるが、草はなく、一面に灌木がばら撒かれている。そうしたところを五分ほど走って、道は直角に右折、こんどこそ本当に北に向う。既にニヤ河の流域地帯、つまりタクラマカン沙漠に突き出している細長いオアシスの半島に入っている筈なので、これからは一路北を目指すことになる。見渡す限りの枯草の原が拡がって来、土は白い。右手遠くに丘の連なり。原野のただ中の一軒家が眼に入って来る。その前に女と子供二人が立っている。  やがて枯草の原は泥土地帯に変る。白い泥土はどこまでも拡がっていて、土は到るところめくれ上がっている。そして小さい灌木を載せた泥土の固まりが現れ始める。大きいのも、小さいのもある。大きいのは二、三尺の高さ、小さいのは一尺ぐらい。いわゆる土包子地帯である。土包子(土饅頭)の上に載っている灌木の葉は青い。  そのうちに土包子地帯は引込んで、こんどは大小の丘が現れ、草が地面を覆い始めるが、それは長くは続かず、やがて茶褐色の枯芦地帯が拡がって来る。見渡す限り枯れた芦で埋められている。芦という芦はみんな枯れている。みごとな死の風景である。  そのうちにその死の風景のところどころに大きな逞しい木が姿を現し始める。沙漠の木として知られている胡楊である。太い幹が一本、その上に大きな濃い緑の固まりを載せているが、その緑の固まりは勝手な恰好をしていて、横に拡がったり、斜めに伸びたり、天を衝いたりしている。精悍《せいかん》にも、自暴自棄にも、居坐ったようにも見える。沙漠地帯の木としては一番強いらしいが、それぞれ自分勝手な生き方をしている感じである。  その胡楊がやたらに現れてくる。行手にも、左右にも胡楊ばかり。何百本あるか判らない。そして胡楊と胡楊の間を枯芦が埋めている。  が、やがて枯芦に替って、タマリスクが登場して来て、タマリスク地帯が始まる。胡楊と胡楊の間を埋めているのはタマリスクばかりになる。枯芦と異って、この方は生きている。葉は浅い緑で、桃色の花を持っている。すっかり桃色になっているのもあれば、桃色になりかかっているのもある。葉も美しいし、花も美しい。何とも言えない美しさである。  胡楊は群落をなしているのか、現れ出すと集団で現れ、そしてまた集団で消えてゆく。群れから外れて、あちこちにぽつんと立っている胡楊もあるが、そうした胡楊は、その逞しい姿に似ず、孤愁といったものを身に着けている。淋しそうな化物である。  道はいつか、道と言えるようなものではなくなっている。トラクターの轍《わだち》の跡があって、それを伝わって行くのであるが、路面は到るところ抉りとられてあって、くるまは跳ね上がりづめである。  ひと抱えもある太い幹の胡楊の群落の中に入る。そこを出ると、また枯芦地帯が拡がってくるが、こんどはその中にタマリスクがばら撒かれている。芦の方は枯れており、タマリスクの方は生きて花を着けている。  九時二十五分、道から少し離れたところに山羊の飼育場のあるのを見る。丸太で四角に囲まれ、その中に山羊が入っている。人の姿は見えず、逞しそうな番犬が一匹、その廻りをうろついている。  依然として枯芦、タマリスク、胡楊の大原野が続いている。いつか遠くの丘もなくなっている。初めて驢馬に乗った親子らしい三人と擦れ違う。父親が先頭、次は女の子、そして母親。女の子はこちらを向いて、笑っている。  道はニヤ河の左岸を、ニヤ河に沿って走っているらしいが、川の流れは見えない。原野はタマリスクで埋まっているが、このあたりのタマリスクはまだ花を持っていない。しかし、葉の浅い緑は、それだけでも美しい。道はいつか全くの沙漠となり、くるまは砂の上をよたよた走っている。  九時三十五分、道の傍に水渠《すいきよ》が現れてくる。ニヤ河の水であろうか。辺りは一面の枯草地帯で、火でもついたら大変だろうと思う。  また胡楊の群れが現れてくる。化物の登場である。大体風景そのものが化物めいて来ている。いつまでも、いやに乾燥した白い風景が続いている。枯芦、枯タマリスク、生きたタマリスク、無数の胡楊。こうして沙漠に入って行くのであろうか。が、そのうちに枯れた芦は青い葉を持ち出し、枯れたタマリスクも、その株の中に青いのが見え出す。  九時五十分、左右遠くに低い丘の連なり、どちらの丘も長く稜線を曳いている。暫く大土包子地帯が続く。胡楊は全くなくなり、大小の泥土の丘の上には枯れたタマリスクや、生きたタマリスクが載っている。  十時、左手の丘が近寄ってくる。青黒いものに点々と覆われている生きた丘である。突然、道の左手に水路が現れる。二間ぐらいの川幅で、かなりの量の水がゆったりと流れている。ニヤ河の水の一部が造っている水路なのであろうか。そのうちに川幅は拡がったり、狭くなったりする。  前のくるまの運転手君が、ニヤ河だと教えに来てくれる。停車、撮影。崑崙山脈から流れ出し、一二キロの地点で地下に入るニヤ河は、この辺りで、あちこちから地上に姿を現して来るのである。陽も空気も爽やかで、いっこうに暑さは感じられない。暫くそこらを歩き廻る。原野も、河畔も、地面はどこも白いアルカリを噴き出している。  十時三十分、出発。ニヤ河の流れに沿って行く。河畔に放牧の羊群が現れる。依然として芦とタマリスクの地帯。共に枯れたのが芽吹こうとしていたり、既に芽吹いてしまっていたりする。死の原野が必死に生きようとしている感じである。ニヤ河の流れが応援しているのである。  道は河畔から離れて、原野に入って行く。タマリスクも、芦も、枯れたのも、生きているのも、何もかも白っぽく砂をかぶっている。  大原野のドライブが続く。前のジープが砂塵をもうもうとあげている。道は原野の中を、折れ曲り、折れ曲りながら走っている。左手に低い丘が現れるが、もはや完全な砂丘である。  十時四十五分、道は再びニヤ河の流れに沿う。川は川幅を何倍かにし、くろずんだ洲を幾つも持っており、流れは、そのたくさんの洲の間を、幾つにも割れて流れている。  河畔に放牧の羊群、点々。また胡楊が現れてくる。ニヤ河のオアシスの細い帯を走っているのであるが、メリケン粉の上をドライブしているようなもので、砂塵と、くるまの烈しい動揺には閉口する。  川幅は広くなったり、狭くなったり。河畔のタマリスクは大きな灌木となり、どれも薄桃色の花がまっ盛りである。いつまでも川に沿って行く。川の両側には大原野が拡がっており、左岸には砂丘が姿を見せている。  十一時、今までの死の原野が、徐々に生きた青々とした草原に変ってゆく。タマリスクは枯れた株はなくなって、みな青くなる。道はやがて胡楊の大きな林に入って行く。するとたくさんの駱駝が、林の中を移動しつつあるのを見る。停車、撮影。  十一時三十分、出発。風が出て、砂塵が凄い。一面のタマリスク、みな風で揺れている。この辺のタマリスクの株は三メートル以上、大タマリスク地帯である。撮影班は砂塵撮影。  再び出発するが、前のジープ、すぐ動かなくなる。砂の中に埋まってしまったのである。トラックが綱をつけて、それを引張り出すのに三十分かかる。  その間、辺りを歩く。原野には駱駝草もあれば、牧草もある。牧草は大部分が枯れているが、中には若芽を出しているのもあれば、完全に青くなっているのもある。  十二時四十分、出発。タマリスク、駱駝草、牧草、芦、そうした原野を行く。風は地面を這うように吹いていて、何となく砂を捲き上げてくる。天地はすっかり曇っている。タマリスクも、芦も、駱駝草も、甘草も、みな風で動いている。  三メートルほどの水渠を渡る。一度失敗して、二度目にうまく対岸に這い上がる。そして少し行くと、突如、広場に出る。向うから十頭ほど駱駝が、こちらへ広場を突切ってやってくる。それを遣り過して、くるまは広場の向うの大集落に入って行く。必ずしも大集落ではないが、まさにそういった感じである。ニヤより六五キロの地点にあるアクシドン生産大隊の所在地である。大勢の男女が迎えてくれる。砂の中で生き、砂の中で働いている人たちである。ニヤ河が造っている小さいオアシスの中に、集落は営まれており、広い道を挟んで、対い合うように、タマリスクの枝で覆われた土屋が、たっぷり距離をとって竝んでいる。三、四十戸の集落であろうか。そこらを少し歩き廻る。胡楊の群落にすっぽり包まれた集落で、長くいると淋しくなりそうである。風のほかには、何の物音も聞えて来ない。  一時出発。広場を出、小川を渡り、沙棗の長い竝木に沿って走り、風よけのある田圃で大休止。くるまは道に置いて、風よけの塀の内側に入って昼食を摂る。ナンと罐詰。  ここで今までのジープを棄てて、待機していてくれた解放軍の大きなトラックに乗り替えることになる。ここからはジープの走れる道ではないというが、いかなる道か、見当がつかない。  二時三十分、休憩地出発。兵隊さんの運転になる。運転台の兵隊さんの横に坐らせて貰う。休憩後は全くのタマリスクと胡楊の死の原のドライブとなる。タマリスクも胡楊もすっかり茶褐色になってしまっている。先刻まで濃い緑の固まりを戴いていた胡楊も、こんどはすっかり枯れてしまった茶色の固まりを戴いている。やがて葉が落ちてしまうと、太く逞しい幹だけになってしまうのだろう。全くの死の風景である。しかし、こうした凄まじい死の風景の中にも、まだ闘いは続けられている。時に下半分枯れ、上半分は枯れ切らないで、少しではあるが、青い葉を着けている胡楊もある。そうした胡楊は下半分に枯れた枝を蔓《つる》のように巻きつけている。これはこれでまた凄まじい。生と死が必死に争っている不気味な眺めである。  そうした死の風景の中に、たまに沙棗の木が黄色の小さい花を咲かせているのを見る。沙漠では沙棗が一番強いと聞いていたが、なるほどこの木は強いと思う。この木だけは生きて、花を咲かせている。  そうした風景の中を白い砂の道が一本、絶えず折れ曲り、折れ曲りながら、しかも上ったり、降ったりしながら走っている。前のハンドルにしがみついて、ノートの方は諦める以外仕方ない。白い細い道は時々広くなるが、広くなると何本かの割目ができており、ドライブは一段と凄くなる。まさに難行苦行と言う他ない。  三時三十分、突然タマリスクの繁みの向うに、ニヤ河の流れを見る。そして道はその流れに近付き、流れに沿って走る。両岸は完全なタマリスクの密林である。  ニヤ河はゆっくり折れ曲りながら流れており、道はそれに沿っているが、時折岸に出、くるまはその岸辺を走って行く。依然としてタマリスクが両岸の原野を埋めており、時折、胡楊の群れも見られる。  両側をタマリスクの株に挟まれた道を走る。タマリスクも、この辺りのは二抱えも三抱えもありそうな大きな株になっており、先刻の死の原のタマリスクとは違って逞しく生きている。薄桃色の花を着け始めているが、満開はあと十日ほど経ってからだという。兵隊さんの話である。  くるまは道を走っていると言いたいが、大馬扎の生産大隊のトラクターがつけたであろう轍の跡を走っている。ラジエーターの水は百度、時々、それをひやすために停車。停車すると、どこかでごうごうと風の鳴っているのが聞えてくる。  胡楊の群落地帯に入る。川の向う側は胡楊の林に埋められ、こちらはタマリスク地帯、しかも花盛り。胡楊もこの地帯に入ると、みな逞しく生きている。  突然、川縁《かわべり》に、白い布きれをいっぱい着けた木の枝のようなものが立っているのが、眼に入ってくる。霊地巡礼の信者たちが、参詣したしるしに白い布片を着ける札の木であるという。これも兵隊さんの話。多少不気味である。一体、巡礼する人たちは何日かかって、この辺りまで来るのであろうか。  タマリスクの株、やたらに大きくなる。荷を背負った駱駝の一隊とすれ違う。くるま、何度目かの停車。くるまから降りると、風で揺れている胡楊の小さい葉が、眼にしみ入るように美しい。  やがて沙漠に入って行く。満開のタマリスクの群落。胡楊は少くなり、沙棗点々。枯れた牧草地帯、土包子地帯、小さいタマリスクの地帯、枯れたタマリスクの地帯、次々に沙漠の様相は変って行く。そして突然、緑の耕地帯が拡がって来、行手に胡楊の群落が置かれているのを見る。  五時三十分、右手に用水路。砂塵甚し。タマリスク地帯を走っているが、タマリスクの株は多少間隔を置くようになり、その間から沙漠の拡がっているのが見えてくる。  五時五十分、大きな用水路にぶつかる。滔々たる濁流が流れている。その中に入って行くが、途中から引き返し、次の渡河で成功。うしろのトラックは流れの中で動けなくなる。それをまた綱でひっぱる。  六時三十五分、大耕地地帯に入る。一望の畑の拡がり。田圃に男たち、犬、山羊、子供、巡礼の男女。巡礼の女は白布で顔を覆っている。  が、間もなく地盤が荒れ、不毛地が交替する。驢馬にまたがった男二人。やがて行手に人家が見えてくる。大馬扎の集落である。その中に入って行く。集落に入ると道は広くなり、その道を挟んで同じような四角なタマリスクの枝で覆った家が、対い合って竝んでいる。ふしぎな表情のタクラマカン沙漠入口の集落である。家と家との間隔はゆったりととってあって、のびやかである。が、ここもまた、静かというよりも淋しい。家々の戸口には子供たちが立っている。  道の右手に水路が走っているが、道の一部は、その水路から溢れている水で水びたしになっており、何カ所か水溜りを作っている。  くるまは幾つかの水溜りを渡って、長い集落を通過して行く。右はタマリスクの原野、左は青い畑、そうしたところを通って、道は再び不毛の丘陵地帯に入って行く。タマリスク以外はみな枯れて、その枯れた茶褐色の草が原野全体を覆っている。  七時半、不毛地帯の一画にある幕営地に到着。九〇キロ、十一時間の荒いドライブ、漸くにして終る。白い幾つかの幕舎が張られている。幕舎の周囲にはタマリスクとベスリアークの原が拡がっている。ベスリアークというのは牧草で、駱駝の食料のほかに肥料にもなるという。ベスリアークは枯れて茶色になっており、タマリスクの方は青い。が、ここのタマリスクは小さい。  幕舎で一休みしていると、新疆人民病院内科主任の呉宗舜氏が診察に来て下さる。血圧は今朝が一三〇—八〇、今は一三八—八〇、大体同じである。  煙草をくわえて幕舎から出て、タマリスクとベスリアークの野をぶらぶらしていると、この二つの撮影班を取りしきっている中国中央電視台の郭宝祥氏がやって来て、  ——ちょっと、相談したいことがあります。  と言う。  ——まさか、ここから帰れ、ということではないでしょうね。  と笑いながら言うと、郭氏も笑って、  ——どこかへ腰をおろしましょう。  と、おっしゃる。タマリスクの株の傍に竝んで腰をおろす。  ——これはNHKの人たちも一緒になって、みなで相談したことですが。  と前置きして、ニヤ遺跡へは行かないで、ここから引き返し、あとはずっと単独行動をとって、チェルチェン(且末)、チャルクリク(若羌)、ミーラン(米蘭)と、南道を経廻ったらどうですか。撮影班と一緒だと行動をしばられ、行きたいところへも行けなくなる。めったに足を踏み入れることのできないところに入ったのだから、この機会を生かして、充分に一人で歩き廻った方がいい。自分もあなたと同一行動をとる。NHKからも一人、あなたにつく。  予想もしていなかった提案である。有難いと言えば、これほど有難い話はない。しかし、私としては折角ここまで来たのだから、あと三〇キロのニヤ遺跡の方にも未練がないわけではない。一九〇二年以来、前後三回に亘ってスタインによって発掘、調査されて有名になった古代精絶国の跡にも立ってみたい。七百点に及ぶカロシュティー文字の木簡が出たところである。  ——ニヤ遺跡行きはやめにするんですか。  ——ニヤ遺跡の方は棄てないと、あとのスケジュウルは組めなくなる。どうします?  二者択一である。  ——では、残念ですが、ニヤ遺跡の方は諦めましょう。  私は言った。話が唐突過ぎるし、多少腑におちないところがないでもない。ニヤ出発間際になって、なるべくなら井上の沙漠入りはやめて貰うように、そんな電報でも北京から入っているかも知れない。七十三という年齢は、そういうことがあっても、いっこうに不思議ではない年齢なのである。と言って、こちら側としては、今更そんなことは切り出せないというところがあって、あれこれ協議した末、私にとってはたいへん有難い提案が浮かび上がってきたのではないか。これは全くの私の臆測である。  そこへ田川純三氏(NHKチーフ・プロデューサー)もやって来て、  ——どうなりました?  と、訊く  ——ニヤ遺跡は、残念だが諦めて、あすの朝、あなた方駱駝隊を見送って、それから帰ることにしましょう。  ——ところが、それができないんです。軍のトラックは、あと一時間程で引き返すことになっているらしい。帰るのなら、それに乗せて貰わないと。——でも、それもたいへんですがね。  これから引き返すとなると、確かにたいへんである。しかし、すべては瞬間に決まる。多くの人の好意によって、旅のスケジュウルは大きく変ってしまったのである。一時間休憩、その間に食事をし、再びニヤに向って出発することにする。多少疲れるだろうが、昼間のドライブ・コースを夜をこめて走るのも、またいいかと思う。兵隊さんがついていてくれない限りは望めないことである。  再びタマリスクとベスリアークの野を歩く。漸く暮色、迫ろうとしている。ここはタクラマカン沙漠の波打際である。ここで人間が住み得る地帯は終る。今日ずっと付合って来たニヤ河の流れも、この辺で消えてしまうのである。いかなる消え方をするか見当はつかないが、幾つかに分れでもして、地下に入ってしまうのであろうか。  NHKの吉川研氏が土地の老人を連れて来る。白い顎鬚、真黒い顔、年齢は九十二歳。名前はモハメッド・ニアーズ。一九〇六年、十八歳の時、スタインのガイドとして、ニヤ遺跡の発掘に同行したという人物である。こちらの出発が迫っているので、ゆっくり話を聞けないのは残念である。  テントの中で食事。あわただしい別離の宴である。NHKの諸氏とも、長沢和俊氏とも、ここでお別れである。  ——イマム・ジャハァル・サディクの大マザールに於ける別れですね。  私が言うと、  ——どちらが送り、どちらが送られるのか、ちょっと判りませんね。  誰かが言う。まさにその通りである。あわただしくウィスキーで乾盃して立ち上がる。  十時、大勢の人たちの見送りを受けて、郭宝祥氏、李一錫氏(新疆ウイグル自治区外事弁公室)、NHKの吉川研氏、それに私と、四人が二台のトラックに乗る。吉川氏と私が先行トラック。私は運転台の助手席。  昼間は十一時間かかっているが、夜は休みなしで走るので、七時間ぐらいが予定されているという。しかし夜道ではあるし、道とは言えない道なので、どのようなことになるか、誰にも見当はつかない。  大馬扎の集落を過ぎる。十時半である。が、まだ暮れきらず、薄明が漂っている。方々の家から大人や子供たちが飛び出して来て、家の前で手を振ってくれる。自動車の音で飛び出して来たのであろう。トラックが走るだけでも、この集落では事件なのだ。特に子供たちにとっては、トラックの走るのを見ないより、見た方がいいに違いないのである。タマリスクの枝で包んだ四角な家のうしろの方で、火を焚いているのを見る。何軒か、同じように火を焚いている。この集落の人たちの生活が純粋にも、淋しくも感じられる。  この“イマム・ジャハァル・サディクの大マザール”なる集落を過ぎる頃から、いきなり夜がやってくる。北京と二時間の時差があるので、ここの十時半は北京の八時半であるが、この時刻にタクラマカン沙漠の入口の村には、夜がやってくるのである。  暗くなって初めて、ヘッドライトが点かないことを知る。うしろのトラックが、それをカバーして、横からライトを照してくれているが、たいして役に立とうとは思われぬ。どこが道かいっこうに判らないところを、若い兵隊さんはかん《ヽヽ》で走らせている。アップ・ダウンも多いし、河岸のところも多い。崖っぷちのところもある。もともとアクシドン生産大隊の集落で、そこに待っているジープと乗り替えることになっているので、それまでのお付合いだが、あまりいい気持ではない。吉川氏が傍から右とか、左とか、助言してやっている。  こうしたドライブが二時間程続いて、どうにか無事でアクシドン生産大隊に到着。ジープに乗り替える。先行車に李さん、次のジープに吉川さん、郭宝祥氏、私。そして二台のトラックがあとに続く。こんども私は運転助手席から前方を睨んでいる。ジープの動揺がはげしいので、両手でどこかにつかまっていなければならない。道の両側はタマリスクの林で埋まっているが、その株がジープのライトによって青さを失って、白い固まりに見える。その白い固まりが変なものに見えてくる。雛人形に見えたり、五百羅漢に見えたり、四天王、阿修羅、人形芝居の人形の頭《かしら》、しかもそれが時には幾つか固まってしまう。まるで冥界の道でも走っているかのようだ。たくさんの鬼、たくさんの精霊。そうした不気味なドライブが、いつ果てるともなく続いている。  時にくるまが徐行することがある。すると、くるまのライトに驚いた山羊の集団が前を横切って行く。山羊の眼はみんな青く光っている。無数の小さい青い光! これはこれで不気味である。  一時間ほど冥界のドライブが続いた頃、私たちのジープのタイヤが泥土の中に入って、動けなくなる。トラックが引綱をつけて、引張って、どうにか泥土の中から出してくれたが、そうしているうちに、こんどはそのトラックの方が動けなくなる。それをもう一台のトラックが救援しようとして、これまた動けなくなる。こうなると、大きなトラックほど始末の悪いものはないと思う。こんどは救け出された私たちのジープが、及ばずながら救援に向おうとして、これまた立ち往生。辺りが暗いので次々に受難。もう一台のジープは先きに行ってしまって、この事件はご存じないというわけである。  仕方ないので車外に出る。お手上げである。泥に深くはまっている二台のトラックには大勢のウイグル人が乗っている。男、女、それから何人かの子供たちも居る。おそらくアクシドン生産大隊の集落から乗り込んだものと見える。彼等も無償《ただ》で乗せて貰っているのであろうが、こうなると、とんだ災難というものである。みんなトラックから降りて、真暗い河畔らしいところに突立っている。寒い。  ——多少、この事件には変なところがある。  私が言うと、  ——いや、驚きましたね。多少どころか、大いに変です。  笑いながら吉川さんも言う。郭氏は黙って煙草をのんでいる。誰もその場に立ったままである。うっかり歩くと、泥の中にはまりかねない。大マザールの聖地をトラックやジープで荒し廻ったので、このくらいの災難は致し方ないかも知れない。  一時間程して、いい加減うんざりした頃、先行ジープが引き返して来てくれる。こんどは大勢に手伝って貰って、そのジープによって私たちのジープの引出し作業が行われ、どうにか、それに成功する。そしてその上でみんなが協議した結果、私たちのジープだけがこの場所を離れて、ニヤに向うことになる。もう一台のジープの方は、動けなくなっている二台の大きなトラックの救援策を講じなければならないので、あとに残ることになる。  二台のトラックと、一台のジープと、大勢の人たちとをそこに残して、私たちのジープだけが走り出す。申し訳ない気持だが、仕方ない。こんどは一台だけのドライブなので、運転は慎重を要する。変なことになっても、救援車はない。  真暗い中のドライブは続く。胡楊の林も、タマリスクの野も、みんな闇に包まれている。  四時頃、道が判らなくなる。もともと道はないようなもので、判らなくなっても不思議ではないが、ぐるぐる三十分程、同じようなところを廻る。そして最後に農場らしいところに出、番小屋の人を起して、道を訊く。それからも不安なドライブが続く。  ——変だな、ただではないな。  郭氏がそんな言葉を口から出したのは、くるまが同じ農場に入ったのに気付いた時である。どうしてこういうことになったか判らないが、先刻道を訊いた農場にまた舞い戻ってしまったのである。多少吹雪の中の輪状徘徊(リンク・ワンデリング)に似ているようなところがある。  そうしたことはあったが、どうにか昼間走った記憶のある場所に出て、ほっとする。奇妙なことはあったが、誰も彼も、みんな疲れていたのである。  招待所に着いたのは、それでも早朝の五時半、北京時間では深夜である。ウイグルの娘さんと、漢族の娘さんの二人が出迎えてくれる。二人共、私たち三人が帰ったので、ひどく驚いている。二十時間ほど走りづめに走ったので、体はくたくたになっている。すぐ眠る。十一時半に目覚め、昼食をとり、すぐまた眠る。四時半に目覚めて、湯を浴びる。頭はさっぱりするが、体の方は到るところ痛い。 三十六 ニヤの娘たち  五月十一日、快晴、昨日一日、殆ど寝台で過したので、今日はすっかり疲労がとれている。一昨日の大馬扎《だいばさつ》行きのことが、夢の中の出来事のように思われる。昨日の夕刻、NHK撮影班から電報を受け取ったが、それには“ニヤ遺跡へ三時間半ノ地点ニ幕営”とあった。六〇頭の駱駝隊は、今日の午前中に目指すニヤ遺跡に着くことだろうと思う。  こちらは、——といっても、中国中央電視台の郭宝祥氏、NHKの吉川研氏、それに私と、僅か三人の一団であるが、こちらはこちらで、これから三日程、ここに滞在、沙漠の中の撮影班の仕事が順調に進行しているという報告を受けてから、その帰りを待たないで、十四日頃、ここを発って、東方三一五キロの古い集落・漢代の且末《しよまつ》国の故地であるチェルチェン(且末)に向うことにする。  午後、吉川氏と町を散歩する。気温は三十五、六度ぐらいか。夕方になると十五、六度ぐらいになり、ひどく寒く感じるが、日中は快適、空気が乾燥しているので、からりとして、さして暑さは感じられない。土地の人は日中でも夕方でも、同じように着ぶくれている。どうもその方がよさそうである。暑いと薄着になりたいが、そうするとかぜをひき易い。  招待所の前の表通りを、町の中心部の方へ歩いて行く。ニヤ(民豊)県の人口は二万三〇〇〇(一九八〇年調査)、そのうち四〇〇〇が漢族、あとはみなウイグル族。もちろん沙漠から崑崙山脈の麓にかけて散在する幾つかの集落(人民公社)をも含めての人口なので、この町だけの住民は、その半分ぐらいであろうか。  招待所のある附近は人通りも少く閑散としているが、十分ほど歩くと十字路に突き当り、その辺りから町らしい多少の賑わいを持ってくる。更にそこを真直ぐに歩いて行く。  路傍で一〇人程の男や女たちが店を拡げている。路上に小さい絨毯を敷き、その上に商品を竝べている。種子、硝子玉の頸飾り、帽子、菓子、それもほんの少々。可愛いバザールである。一つ一つ店を覗いて行くが、五分とはかからない。多少人は群がっているが、めったに商品は動かないのではないかと思われる。一日に一個も売れないかも知れない。  が、小さい店の主人たちは、そんなことにはお構いなしに路上に胡坐《あぐら》をかいて、雑談したり、胡弓を弾いたり、瞑想したりしている。彼等をめぐって、悠遠な時間が流れている。  帰途に就く。途中で背後を振り返ってみると、たいへんなことになっている。広い道いっぱいに男も、女も、子供も、私たち二人のあとについて移動しつつある。いつこのようなことになったか知らないが、これでは先刻のバザール附近はからっぽになってしまうと思う。しかし、秩序整然たる移動である。決して私たちの前には出ない。うしろにくっついているだけである。たまに子供が前に出ようとすると、私たちの警備を受持っているらしい大男に追い返されてしまう。  女は大抵子供を抱えており、更にその上に子供を一人か二人連れている。中国政府も少数民族には産児制限をすすめていないそうだが、そのためかどうか知らぬが、若い女がやたらに子供を連れている。若い母親の一人に、吉川氏が年齢を訊いてみると、十八歳だという。十六歳で結婚し、現在は二人の子持ち、可愛らしい母親である。この母親に限らず、町で会う若い女たちは顔立ちもいいし、きれいな恰好をしている。頭を包んでいる布、上着、スウェーター、スカート、それぞれ赤、青、白といった原色で調え、耳飾りをつけている。連れている幼児にもきれいな恰好をさせている。  しかし、五、六歳から上になると、子供たちは男女共、殆どが裸足で、細かい砂に覆われた道を、砂埃りを立てながら歩いている。少女の方はまだましだが、男の子の方は半裸、これ以上汚れようのないシャツを着ており、ズボンも同様、なかにはずたずたに裂けたズボンを穿いているのもある。だが、子供たちはみな平気な顔をして歩いており、視線を当ててやると、悦んでどこまでもついて来そうである。  大体に於て、この町のウイグル人はみな愛想がいい。視線を向けると、すぐ笑顔を見せ、カメラを向けると、女たちはスカーフを結び直したりする。広い表通りから路地を見ると、細い道の両側に泥で固めた土屋が竝んでいる。  招待所に帰る。勤務人はみないい。親切で、愛想がよく、献身的である。食堂には二人の娘さんがいるが、一人は漢族で十八歳、一人はウイグル族で十九歳、ウイグル娘の方はいつもスカーフで頭髪を縛るか、でなければスカーフを頸に巻きつけている。今朝、珍しくスカーフをどこにも巻きつけていないので、そのことを指摘すると、余り暑いので、今日は特別だと答えた。そしてこんなことを家ですると、両親から叱られると言う。  もう一人の漢族の娘さんの方は、決してスカーフは用いない。スカーフを身に着けると、ウイグル娘になってしまうと言う。  この食堂係の二人の娘さんは、どちらも同じ高校を出ている。漢族の高校には、ウイグル人は何かの手蔓がないと入れないというから、何かそうした特殊な家庭の娘さんらしい。  食堂に出るのは、吉川氏と私の二人だけ。何しろ一年の降雨量は二九ミリ、雨は殆ど降らないと言っていい。世界でも海から最も遠い地帯の一つであり、最も雨の少い地帯の一つなのであろう。が、山間部に雨が降るので、それによって水が得られ、そのお蔭で人間は生きていられるのである。  従って物資には甚だ恵まれていない。野菜も少く、食卓には罐詰の野菜が出ている。そうした中で食堂の料理係の人は、私たちのために東奔西走、少い材料でいろいろ工夫してくれる。すまない気持である。  しかし、料理は野菜であれ、肉であれ、砂糖をふりかけた甘いものばかりで、それを平らげることは大変である。吉川氏が砂糖をふりかけないように交渉に行くが、それでもなかなか改まらない。皿の料理がへらないと、二人の娘さんが悲しそうな顔をするので、少しでも食べようと思うが、ナン(麭)以外は、なかなか口に入らない。  朝の食卓には砂糖まぶしの菓子が何種類か出る。料理の半分以上が菓子である。この土地の人は甘いものが好きか、でなければ甘いものが必要なのであろう。部屋の小卓の上には大きな角砂糖が山盛りに皿にのせられて出ており、それと竝んで、キャンディーと乾葡萄が、これまた山盛りに出ている。たいへんなサービスなのであろうが、これまた手が出ない。  雨が降らないので、この地方の人は全く雨に対する観念を持っていない。だから家を造っても、例外なく屋根は扁平、芦を編んで、その上を泥で覆っている。少し大雨に見舞われると、ひとたまりもない。大体、家を造るといっても、極めて簡単である。先ずタマリスクの枯れたので四角な箱を造る。柱は木を使うが、あとはみなタマリスク。そのタマリスクの箱を内側から泥でかためて壁を造る。壁はかなり厚い。日乾煉瓦は使わない。日乾煉瓦を造るのには水が要るから、この地方では煉瓦は造らないという。  夕刻、沙漠の撮影班から電報が届く。——一日沙漠ヲ歩キ廻ルガ、遺跡発見デキズ。ドコカ不明ノ場所ニ幕営、目下遺跡発見ノタメニ小分隊ヲ派遣中。なるほど沙漠は大変なところだと思う。大馬扎から僅か三〇キロの地点であるのに、まる二日かかって、未だにそこに到達していないのである。夕食後、郭、吉川両氏と共に、多少不安な思いで、招待所の広い庭を歩く。  五月十二日、快晴、今日はニヤ河に沿って五〇キロ遡り、ニヤ河の上流地帯に足を踏み入れてみようと思う。先日の大馬扎とは反対の方向に向うことになる。こんどの旅ではずっと崑崙山脈にお目にかかっていないが、今日は多少砂で烟っていても、ニヤ河の上流地域から崑崙山脈を眼間《まなかい》に望むことができるだろう。ジープ二台、土地の人三人が案内役についてくれる。  九時三十分、出発。すぐ郊外へ出る。土屋の農家点々。  五分で、ゴビ灘《たん》の中に入る。見渡す限り何もない大ゴビの拡がりである。先日、ニヤの町に入る時に通過して来た道を、今日は逆に西に、つまりホータン(和田)の方に向っている。一台のくるまとも擦れ違わぬ。駱駝草に似た草だけが、見渡す限り点々とばら撒かれている。麻黄という草である。案内のウイグル人の話では、駱駝草は沙漠には生えるが、ゴビには生えないという。  蒲団を背に積んだ駱駝とすれ違う。道、大きく曲りながら降って行く。すると、いきなりニヤ河の橋の袂に出る。ニヤ河の東岸は大きな断層で縁どられているので、今まで走って来たゴビ灘は、ニヤ河以西のゴビ灘より一段高くなっている。ここまでニヤの町から五・三キロ。  橋を渡って、暫く河岸というか、河畔というか、そうした地帯を走り、やがて南へ、崑崙山脈の方へ曲って行く。ゴビには大きな石がごろごろしている。  方向を南にとってからも、二、三回折れ曲るが、そのあとは真直ぐに崑崙山脈の方へ向う。用水路が現れる。それに沿ったり、離れたりしながら、一路南を目指す。  ゴビのドライブが続く。時折アップ・ダウン。そのうちに遠く、近く左手に、ニヤ河の流れを収めている断崖が望まれる。断崖の裾に青い流れが見える。向う側の断崖は先刻の橋のところから続いている断層であるが、いつかこちら側も断崖をなしている。水は少いが、青い。  ゴビには相変らず大きな石がごろごろしている。さすがに崑崙山脈の裾一帯に拡がっているゴビ灘だと思う。石はみな崑崙から流れ出して来たものなのであろう。崑崙は砂に烟っていて、まだ見えない。いつかニヤ河の川筋も遠くなっている。時折、乾河道を渡る。このゴビもまた、一人の通行人もない。  十時四十分、つまりニヤの招待所を出て一時間ほどして、多少ぼんやりしているが、初めて行手に崑崙山脈が見えてくる。左手に雪山が一つ、この方ははっきり見えている。六〇〇〇メートル級の山であろう。頂き近くからすっぽりと雪をかぶっている。この雪山には名はないが、ウイグル人たちはチェックル峯と呼んでいるという。  チェックルはウイグル語で高い峯の意、なるほどこの辺りで見る崑崙山脈では、この雪山がひときわ目立って高く聳《そび》えている。同じ南道でも、ヤルカンド(莎車鎮)附近からは崑崙がはっきり見えるが、こちらはそうはゆかないらしい。ここまで近寄らないと、崑崙にはお目にかかれないのである。  ジープから降りて、ゆっくり崑崙山脈を眺めさせて貰う。前山は幾重にも重なり、波状をなして拡がっていて、なかなか雄大な景観である。そしてその無数の前山の波の向うに、崑崙山脈は長い稜線を見せて、堂々たる貫禄で置かれている。  いま立っているゴビ一帯は海抜二四〇〇メートルの由、ニヤは一〇〇〇メートルなので、いつか知らないうちに大分登っている。  再びジープに乗り、ゴビのドライブが続く。そして橋から三六キロの地点で大休止、昼食を摂る。ゴビ灘のただ中である。崑崙山脈は予想したように眼間《まなかい》に見えている。漸くにして崑崙の裾に辿り着いた思いであるが、しかし、ここから本当の崑崙の裾に辿り着くには、徒歩か、馬でなお一日行程を要するという。そしてその間に、遊牧民の小さい集落が幾つかあるそうである。  ——行きますか。  郭さんがおっしゃる。  ——結構ですな。どうせ行くなら馬がいい。そして遊牧民の集落に泊めて貰う。  半ば冗談、半ば本気である。  ——高い、寒い、だめです。  案内役のウイグル人の方は本気である。真顔で“だめ、だめ”を連発する。  休憩地附近のゴビにも、拳大の石がごろごろしている。竹踏み替りになりそうな石を探す。石以外に持ち帰れるものはない。  昼食をすませてから、程遠からぬところにあるニヤ河の渓谷を見に行く。断崖の上に立って、下を覗く。前山の亀裂とでも言うべき渓谷の底にニヤ河の青い流れが置かれている。断崖の高さは、最近の調査によると、対岸も、こちら側も、一二八メートルあるという。一二八メートルの底を、ニヤ河は川波をきらめかせて流れているのである。ここで見るニヤ河は伏流する前のニヤ河なので、豊かな水が滔々と流れており、そのきらめきは宝石のように美しい。  断崖は岩石ではなくてゴビ層、つまりゴビの泥土の堆積である。但し下の方はやはり岩質になっているという。対岸の台地の傾斜面に小さい穴が点々と見えている。砂金を獲った穴である。  渓谷の上手に眼を向けると、遠くにニヤ河の流れの欠片と、その一部を引いた用水路の流れの欠片が見えている。その辺りは、いま私たちが立っている所より、大分高くなっているので、そうした二つの流れの欠片を眼に収めることができるのである。用水路の方はその辺りで暗渠に収められるが、ニヤ河の方は渓谷を流れ降って、源から一二キロの地点で、——ということは、いま私たちが立っているところから数キロ下流ということになるが、そこで地下にもぐってしまう。そして再び地上に出るのは大馬扎附近であるという。そう言えば先日の大馬扎行きの時、ふいにニヤ河の流れが出現し、その出現の仕方が多少唐突に思われたが、それはあの地帯で、ニヤ河が長い伏流を打ち切って、地上に姿を現したからなのであろう。  従って、ここに来るまでに渡った橋のところのニヤ河は、流れのほんの一部で、流れの大部分は地下を流れているのである。しかし、洪水の時は水の全部が地下にもぐり切れず、地上をも流れるので、それを収容するために大きな川幅が用意されているのであろう。  帰途、用水路の水を飲みに来たロク(黄羊)が、ゴビ灘を駈けているのを見る。ロクは山羊の一種だが、この辺りには野生のロクが多いという。  招待所に帰ると、沙漠の撮影班からの電報が届いている。——正午、遺跡ニ到着、旅ノ一路平安ヲ祈ル。  撮影班も遺跡に着くのは、予定より一日遅れたが、まあ、これでひと安心というものである。明るい電文である。旅の一路平安を祈るというのは、私たち三人の旅に対する挨拶である。夕方、入浴、さっぱりする。  夜、ブランデーを飲みながら、昼にニヤ河上流でウイグルの人から聞いた伏流伝説をノートする。  ——昔、崑崙山地にも雨が降らず、ためにニヤ河も乾上がり、ニヤの町には一滴の水もなくなったことがあった。町の人一人残らず渇きに苦しんだ。一人の若者はふらふらになりながら、崑崙の山に水をもとめに行った。あちこち水を探している時、山中で、杖を持った仙人に会った。仙人は言った。水がほしいなら、この杖を上げよう。この杖をついて山を降りて行きなさい。但し、何事があっても、背後を振り向いてはいけない。それだけまもれば、お前も、町の人たちも、水のない苦しみから救われる。そして仙人は若者に杖を与えた。若者は仙人から言われたようにした。杖をついて山を降った。山を降ったところに、一滴の水もないニヤ河の河原が、むざんな姿を横たえていた。若者は杖をついて、その河原を降って行った。すると突然、背後で猛獣の咆哮《ほうこう》が聞えた。が、若者は振り返らなかった。そして杖をつきながら、なおも乾いた河床を降った。暫くすると、こんどは背後で、水の流れ降るごうごうたる音が聞えた。水だ! 思わず、若者は背後を振り返った。とたんに、そこまで流れ降って来ていたニヤ河の流れは姿を消した。伏流してしまったのである。  ニヤ河は、このようにして伏流するようになってしまったというのである。このような土地に生れそうな、悲しく、きびしい伝説である。  五月十三日、七時起床。漸くここの気候にも慣れたらしくかぜ《ヽヽ》をひかなくなる。このところ日中は三十度ぐらい、乾燥しているので過し易い。かぜを用心して、ずっと一日中厚着していたが、昨日から初めて夏衣裳になる。夜は長袖シャツ、毛糸のスウェーター、上着。  今日、昼の散歩の時、初めて半袖シャツ一枚になってみる。ウルムチ(烏魯木斉)では戸外も、部屋も寒くてかぜをひき、こちらに来てからは昼の暑さと、夜の寒さに対応できなくて、かぜをひいたり、癒ったり、そんなことをくり返している。漢族も、ウイグル族も、みんな厚着で、誰も腕など出していない。七、八月頃、時には四十度近くになるという所では、それへの対応策も、住んでみないと判らないだろうと思う。  物資の乏しいことは知っているが、その実状はなかなか掴めない。今朝、郭氏がやがて帰って来る撮影班の人たちのために、一人当り二個の鶏卵を用意するよう賄 方《まかないかた》に交渉したが、そんなことはとんでもないということであった。この町全部探し廻っても、六十個の鶏卵は集らぬという。そう言われてみて、初めてそうであろうと思う。  午刻頃、撮影班から四度目の電報、——暑サ五十度、今日夜半、脱出。  この電報によって、明朝、チェルチェンに向けて出発するのを見合せることにする。短い電文であるが、それだけに何か必死なものが感じられる。急に不安になる。不安に思えば、不安に思う材料はいくらでもある。大体ニヤ遺跡のある地帯は竝み大抵のところではないのである。玄奘は「大唐西域記」に記している。  ——これ(ニヤ城)より東行して大流沙に入る。砂は流れただよい、集るも散るも風のままで、人は通っても足跡は残らず、そのまま道に迷ってしまうものが多い。四方見渡す限り茫々として、目指す方を知るよしもない。かくて往来するには、遺骸を集めて目印とするのである。水草は乏しく熱風は頻繁に起る。風が吹き始めると人畜共に目がくらみ迷い病気となり、時には歌声を聞いたり或いは泣き叫ぶ声を聞き、聴きとれている間に何所に来たのかも分らなくなる。このようにしてしばしば命をなくしてしまうものがあるのも、つまりは化物の仕業である。  午後は招待所の庭を歩く。庭に一歩踏み出すと、靴に砂がつく。ホータンも砂の町であるが、こちらの方がひどいようである。かなり広い敷地であるが、敷地全体にたっぷりと砂が置かれ、靴も、ズボンの裾も、敷地の隅のトイレに行く度に白くなる。正確な言い方をすれば、砂が置かれてあるのでなくて、全部が砂なのである。何尺掘っても砂、砂が堆積しているのである。だから招待所の敷地にも、町の道路にも、小さい砂利がばら撒かれてあって、多少でも砂埃りの立つのを防いでいるが、ひと度風が吹くと、全く効果はない。  この地方の一番いい季節は十月で、果物も多く、崑崙も見えるという。土地の人は十月を黄金の季節と呼んでいる。こんど訪ねるチェルチェンも、大体ここと同じ気候だが、ただ春の風はチェルチェンの方が強いそうである。  夕方まで撮影班からの電報を待つが、何の連絡もない。先きの電報によると、今夜半遺跡を脱出するとあったので、順調にゆけば明日午刻頃、大馬扎に到着することになる。予定より早い帰還なので、現地でもそれに対する準備は何もできていないだろうと思う。それに疲労者や病人が出ていないものでもない。  とたんに郭氏一人が忙しくなる。地区委員会の人たちと相談したり、どこかへ出て行ったり、電話をかけたり、——そしてその結果、トラック二台、ジープ四台、一一人編成で、明朝四時、大馬扎に向けて出発することになる。  ——縁がありますな、大馬扎には。  郭氏は笑っておっしゃるが、たいへんな縁である。  ——ぐるぐる同じところを廻らないように。  ——こんどは大丈夫でしょう。あの辺りで夜が明ける。  ——沈まないように。  ——その方は、何とも。  ——一緒に行きましょう。  ——めっそうな!  そんな対話があって、吉川氏と私はここで待機することにする。  五月十四日、四時に起きて、大馬扎に向う郭氏一行を送り出し、再び寝台に入る。そして七時に目覚める。今日は曇っている。実際は曇っているのではなくて、砂塵で烟っているのである。部屋係の娘さんが部屋の前の廊下を掃くが、たくさんの砂が溜る。やはり、それとは判らぬが、絶えず細かい砂が降っているのである。  部屋の窓から見える背の高いポプラが、絶えず風で揺れている。部屋では聞えないが、部屋から一歩出ると、ポプラの葉が風にそよぐ音が聞える。さらさらと、何とも言えず爽やかな音である。  シャツを部屋に置くと、娘さんがすぐ洗濯してくれる。洗濯ものは大体一、二時間で乾いてしまうが、砂埃りがつくので、果してきれいになるか、どうか。  午前も午後も、庭を歩く。いつも背戸の杏の木の下で五、六歳の男の子、三、四歳の女の子が遊んでいる。男の子は裸足、半裸体で、頭に小さいハンティングを横っちょにかぶっている。二人は時々、杏の実の方を見上げる。杏の実は穫れなくても、時々見上げるだけで、けっこうそれで満足しているらしい。なかなかいい。  午後、一時間、午睡をとる。目を覚ますと、鶏と郭公の声が聞えている。  寝台から離れると、また庭を歩く。庭でも歩く以外、いかなる過し方もない。招待所の正面入口の横手に大きな畑が作られているが、全くの砂の畑で、水は与えられていない。野菜瓜なるものが植えられてあるそうだが、見るからに不毛な畑である。水に恵まれない点ではポプラも同じであるが、ポプラの方は亭々と育ち、伸びている。水がなくても平気な木なのである。沙棗も、杏も、砂の中に生えて、青々と葉を茂らせている。  今日はニヤに来てから七日目。手がざらざらして、すっかり脂っ気がなくなっている。乾燥のためか、砂埃りのためか、やたらに洗いたくなる。  タ方、庭の一隅で、食堂係の娘さん二人、部屋係の娘さん二人と、みなで吉川氏のカメラに入る。四人共、県の文化局勤務、こんど私たちの接待のために、こちらに廻されて来ているのだという。なるほど、そう言われてみれば、そういう感じである。みな、なかなかいい。いつもどこからか、こちらを見張っている感じで、洗面器を持って外に出ると、必ず誰かが駈けてくる。まさに誠意、誠実である。というのも、彼女らにとっては、私たちが初めての日本人であるからである。彼女たちの日本についての知識は、たまに来る日本映画から得たものである。が、殆ど何も知っていない。確実な知識は、東京が世界的な大都会であるということぐらいであろうか。  一日中、撮影班、あるいは郭宝祥氏からの電報を待つが、何の連絡もない。こちらの郵便局では、いつでも受信できるようにしているが、連絡は入って来ないという。  今夜半か、あるいは明朝、帰って来ないものでもないので、夜になると早く寝台に入る。  五月十五日、六時起床。今日は朝から寒く、風が強い。どこもかしこも、砂塵のために烟っている。昨日早暁四時に、大馬扎に向った郭氏一行一一名が、昨日一日分の食糧しか携行していないので、その補給にジープを差し向けることにする。こんどは吉川氏がそうしたことの手配で、たいへん忙しい。  十一時に、撮影班や郭氏のジープや、トラックが招待所の門を入って来る。とたんに招待所は全く異ったものになる。忽ちにして人で溢れる。みんな疲れてはいるが、元気である。大馬扎からここまでの九〇キロを走るのに、十七時間を要したという。途中でジープも、トラックも、みんな沈んでしまって、動けなくなったらしい。  夜、久しぶりで会食。賑やかな夕食である。中国撮影班も一緒になる。郭氏、吉川氏、私の三人は、いよいよ明日、チェルチェンに向けて出発することになる。郭氏が疲れているに違いないので、もう一日出発を延ばしてもいいと思うが、郭氏は、  ——そんなことをしていると、また何か支障が起ってここから動けなくなりますよ。私のことは心配要りません。明日もまたジープやトラックが、どこかで沈むかも知れない。沈んだら、そこで休みますよ。  大馬扎まで二往復しているので、郭氏は見違えるほど荒っぽいものを身に着けている。が、確かに、そのくらいの覚悟がないと、この地帯の旅はできないに違いない。ともあれ、チェルチェン、チャルクリク(若羌)、ミーラン(米蘭)を結ぶ南道の旅は明日から始まるのである。  明日に備えて、早く眠らなければと思いながら、結局田川純三氏に部屋に来て貰って、ニヤ遺跡の話を聞いて、深更に及ぶ。そして田川氏は引き揚げる時、  ——それでは、旅の一路平安を祈りますよ。  と、おっしゃる。旅の平安を祈られるのは、電文についで二回目である。 三十七 褐色の死の原  五月十六日、快晴、十時、ニヤ招待所を出発、チェルチェン(且末)に向う。NHK・中国両撮影班の大勢の見送りを受ける。一行は中国中央電視台の郭宝祥氏、NHKの吉川研氏、それに私の三人。ジープ一台、運転手君はこんどのシルクロード撮影で、昨年から新疆地区を飛び廻っている北京の青年、沙漠、ゴビ(戈壁)のドライブでは、目下のところこれ以上のベテランはないそうである。他に事故に備えて、トラックが一台、あとについてくれる。  一週間の滞在中、毎日のように世話になった食堂係の娘さん二人、部屋係の二人、それに招待所の勤務人大勢、漢族、ウイグル族、入り混じっているが、みんないっせいに手を振ってくれる。娘さんたちの手が最後まで上がっている。この風の強い砂埃りの町で、この娘さんたちはいかなる人生を持つようになるのであろうか。別離多感、“ニヤの別れ”というところ。  招待所を出て、二、三回散歩した表通りを、中心地区の十字路とは反対の方へ向う。人通りの全くないポプラ竝木を走る。今日が一番ひどい砂烟りで、視界五〇〇メートル。  あっという間に郊外に出る。羊群、馬群。すぐ漠地に入る。一望の枯芦の原、その中に湿地帯が挟まれている。人家の全くない大原野のドライブが始まる。郭宝祥氏には、昨年の河西回廊の時も同行して貰い、こんどは二度目である。荒っぽい旅ばかりに付合って頂いて申し訳ないと思うが、何かのめぐり合せであろう。  十時十五分、依然として湿地帯多く、左右には土包子(土饅頭)地帯が拡がっている。そうしたところを道は折れ曲り、折れ曲りながら走っている。原野、荒れて来る。やがて砂烟りの中から胡楊の群落が現れて来る。霧の中から物が現れて来るに似ている。胡楊は群落をなしており、その地帯を過ぎると、胡楊はなくなる。そのなくなり方は鮮やかである。  十時二十分、出発以来、全く同じ風景の中を走っている。枯芦とタマリスクと胡楊が、入れ替り立ち替り登場して来る。人家もなく、人にも会わぬ。相変らず湿地帯が多く、水溜りが方々に散らばっている。アルカリの白い地帯も多く、土包子地帯も多い。土包子にはタマリスクの株がのっている。  砂烟りの中から胡楊の群れが薄ぼんやりと現れて来るところは不気味である。樹木は胡楊以外にはない。胡楊とは大馬扎《だいばさつ》行きの時、倦きるほど付合っているが、今日もまた一日付合うことになりそうである。沙漠の波打際というか、入口というか、そういう地帯に登場して来る化物のような木である。胡楊の出て来るところは硝土地帯で、地盤は荒れ、土包子の波が拡がっていたり、枯芦が地平線までを埋めていたりする。枯芦の代りにタマリスクの茶褐色の株が見晴かす限りの野を埋めている場合もある。  兎に角、そうした地帯に胡楊の群れは姿を現して来る。幹の太いずんぐりした木で、幹が根もとから二本に分れているのが多い。姿勢は甚だよくない。真直ぐに突立っているのもたまにはあるが、その多くは上を目指さないで、斜めに伸びて行ったり、奇妙に折れ曲ったりしている。幹の下半分には枯れた枝が蔦《つた》のように搦《から》みついており、葉が茂っているのは上半分か、あるいは頂きの辺りで、それが濃い緑色を呈していて、葉の茂りというより緑の固まりに見える。  そうした化物のような木が大群落をなして登場して来るのである。たまに一本だけ立っているのもあるが、そんなのは仲間はずれにされた孤独な親分、孤猿と言った感じである。みな群落をなして生きているが、二本が身を寄せ合うように近くに突立っていることはない。それぞれがほどほどの間隔をあけているところは見事である。地下から吸い上げる水の分け前の関係からであろうか。犯さず、犯されずといった群落の掟《おきて》が守られている。  十時三十分、くるまは大胡楊群の中を走っている。左右共、見晴かす胡楊の群れ。そうした中で驢馬に乗った老人とすれ違う。  十時四十分、突如、辺りは全くの沙漠になる。左手、そう遠くないところに拡がっているタクラマカン沙漠の砂が入り込んでいる地帯なのであろう。小さい砂丘が波立っているところを、道はゆるく折れ曲りながら走っている。しかし、沙漠地帯は長くは続かず、やがて硝土地帯に置き替えられる。地面は波立って来、一面に白い土が置かれ、それが到るところめくれ上がり、あちこちに土包子が現れて来る。  十時五十分、ニヤ(民豊)から四〇キロ、左手にかなり大きい湖を見る。魚湖という淡水湖で、魚の養殖が行われているそうだが、一体誰が養殖するのであろうか。人家もなければ人影もない。荒涼たる風景の中に湖が置かれているだけである。魚が棲息できる湖というので、その名があるのであろう。  十一時、ヤトンクスヤーガ(ヤトンクス河)の橋を渡る。川幅五〇メートル、滔々たる濁水の流れである。砂で烟っているので、上流も下流も共に視界利かず、川の両岸は芦の地帯で埋められている。ここの芦は流れのお蔭で生き生きと生い茂っている。  橋を渡ると、すぐ沙漠が拡がって来、くるまの走る路面を砂が流れ始める。かなりの速さである。流れているというより走っていると言った方がいい。沙漠は一面に枯芦で覆われている。この枯芦の沙漠地帯のドライブは三十分ほど続く。ニヤ—チェルチェン間には所々に沙漠が入り込んでいるが、この辺りの沙漠が一番大きいそうである。  長い沙漠のドライブが続いた果てに、やがて辺りは土包子地帯に変り、地盤は荒れ、土包子という土包子には枯芦やタマリスクが載っている荒涼たる風景に変る。それにしてもニヤ出発後、一軒の農家も見ていない。ニヤからほど遠からぬ地点で見た驢馬の老人以外、一人の人間にも会っていない。  十一時三十分、見渡す限りのタマリスクの原野が拡がり、そこを胡楊の大群落が占拠している。凄い眺めである。そうした地帯のドライブが続いている。が、その凄い眺めも、そう長くは続かない。地盤は荒れたり、平らになったり、そうしたことを繰り返しており、そこを埋めるタマリスクも、頃合を見はからって持場を枯芦と交替している。そして胡楊は胡楊で、大集団で登場して来たり、退場して行ったりしている。それぞれが己が占拠地を持ち、厳しくその持場が守られているかのようである。  十二時、初めてトラック一台とすれ違う。  十二時二十分、休憩。くるまから降りて、タマリスク、胡楊、土包子、それに砂塵の舞い上がっている荒涼たる風景の中で、煙草を喫む。ごうごうたる風の音が聞えている。風景は砂で烟っている。  辺りを歩く。見渡す限りの硝土地帯で、地面はところどころ石のように固くなっている。土包子にはタマリスクが載っているが、中には芦とタマリスクと一緒に載っているのもある。  十二時三十分、出発。洗濯板のような路面は一層凄くなる。くるまは一時間二〇キロの速度。過日の大馬扎行きの時は一〇キロだったので、それに較べれば多少ましであるが、大揺れに揺れて、体は跳ね上がりづめである。ノートは暫く諦める。  一時、大土包子地帯、大きな土包子の上に大きなタマリスクの株が幾つも載っている。  一時二十分、大土包子地帯の中で再び休憩。相変らず風の音が聞えている。  休憩十分、出発。大土包子地帯は続くが、その中にタマリスク地帯と胡楊地帯がばらばらに置かれている。ここでもまた、互いに相手の領域を犯すことがないように協定が結ばれているかのようである。白い風景である。が、そのうちに白い砂の拡がりの中に、麻黄の枯れたのが割り込み始める。やがてタマリスクも芦も土包子の上に避難し、平坦部はすっかり麻黄の占むるところとなる。  一時三十分、辺りは沼沢地に変り、遠くに羊の大群と、駱駝の群れを見る。二台目のトラックとすれ違う。やがて三台目、四台目。トラックも何台か固まって走っている。沼沢地を過ぎると、今まで見倦きるほど見て来た同じ風景が、ゆっくりと走馬燈のように繰り返される。枯芦地帯、白い硝土地帯、荒れた土包子地帯、沙漠地帯、タマリスク地帯、大胡楊地帯。  朝から同じところをぐるぐる廻っているのではないか、そんな錯覚を起しかねない。ただこの頃になって初めて、枯芦で埋められた褐色の野の中に、若い芦の緑が点々とばらまかれているのを見る。  一時四十分、チェルチェン放牧場なるところで停車。道から少し離れたところに材木を積み上げた一画があり、そこで何人かの人が立ち働いている。四辺は一面のゴビの海で、どこを見渡しても、放牧場らしいところがありそうな気配はない。これからこの辺りに放牧場を造ろうというのであろうか。  ここでチェルチェンの人たちの出迎えを受ける。朝八時三十分にチェルチェンを出発して、ここまで出向いて来てくれたという。恐縮する。ここからチェルチェンまで一五〇キロ、五時間のドライブの由。これまでうしろについていてくれたニヤのトラックは、ここから引き返し、チェルチェンからのジープがそれに替る。  すぐ出発する。硝土の白い地帯のドライブが続く。白い地面は到るところめくれ上がり、見渡す限りの土包子の海である。そしてその土包子という土包子には、大きなタマリスクの株が載っている。  タマリスクの大群落地帯のただ中で、停車、くるまの中で昼食。そのあと車外に出るが、砂で烟っているのでカメラは使えない。路傍に立って周囲を見廻すと、暴風雨のあとの波打際のように、タマリスクの枯枝や折れた枝が散乱している。  二時二十分、出発。間もなく初めての集落が眼に入ってくる。道から二、三百メートルのところに、十軒程の農家が身を寄せ合って置かれている。先刻の放牧場に関係のある集落であるかも知れない。人間の営みがこれほど小さく、無力に見えたことはない。  暫くすると、突如、胡楊の立枯れたのが竝び始める。どこを見ても、胡楊が突立ったまま死んでいる。チェルチェンまで一四〇キロの地点である。見渡す限り胡楊の大群落、それがみんな死んでいる。壮絶とでも言う他はない。大馬扎行きの時も胡楊が枯死した地帯を通過したが、こちらの方が規模壮大である。胡楊の大兵団が、一兵残らず刀折れ矢尽きて、幹だけになって、立ったまま死んでいるのである。夜、月光でも配したら、さぞ凄絶な眺めになるだろうと思う。  こうした地帯が終ると、こんどは枯れた麻黄の原が続く。麻黄という麻黄はみな枯死しており、その死体が大原野を埋めている。褐色の死の原である。  三時十五分、右手遠くに大塩沢が見えて来る。それが背後に消えると、タマリスクと枯芦の原野の中に農家が数軒、点々と置かれているのを見る。一番近い農家から裸足の子供たちが駈けて来るのが見える。  突如、烈しいバウンドで、くるまが動かなくなる。運転手君、車体の下にはいる。スプリングが二本折れたという。後続のくるまからも運転手君が降りて来て、一緒に車体の下に入ってくれる。どうにか動き出すようになるまでに二十分ほどかかる。  三時五十分、依然としてタマリスクと芦と土包子地帯が続いている。ここにも胡楊の枯れたのが、あちこちに眼につく。ニヤを出発してから既に六時間経過しているが、いっさい耕地というものは見ていない。ずっと、死と生が、入り混じっている原野のドライブが続いている。  四時三十分、遠くに大塩沢を見る。その附近到るところに小塩沢が散らばっている。  四時四十分、チェルチェンまであと八〇キロだと、運転手君が知らせてくれる。くるまの故障のためか、彼自身、距離が気になっているようである。  五時、長く続いた白い泥土地帯が、乾いた砂の地帯に変る。土包子はなくなり、平坦な枯芦の原が拡がってくる。道にはタマリスクや芦の枯枝が散らばっている。先刻までと風景全く一変、左右見渡す限りの枯芦の世界、多少波立ってはいるが褐色の大平原である。その中に若い芦が点々と青さをちりばめている。左手遠くに胡楊の群落を見るが、やがてそれもなくなる。  そのうちに枯芦の中に、大きいタマリスクの株が、無数に置かれ始め、その頃からまたもとの硝土地帯に変る。タマリスクの原になったり、芦の原になったり、今日一日中繰り返されたことが繰り返されてゆく。胡楊もまた登場して来る。生きているのもあれば、枯れたのもある。  枯れたのは新しい現代彫刻の作品に似ている。  五時五十分。枯芦の平坦な大原野の中のドライブ。見渡す限りの枯芦の原のただ中に、一本だけ緑の固まりを戴いている生きた胡楊が突立っている。よおっと声援を送ってやりたくなる。  六時、何回目かの沙漠地帯のドライブになる。タクラマカンの砂が入り込んで来ているのである。この地帯、長く続く。あと六〇キロと、運転手君が知らせてくれる。  道路修理のトラックが砂を積んだまま、路傍で動けなくなっている。車輪はすっかり砂に埋まっている。二人の男がその傍に腰を降ろしている。まさにお手上げである。そしてその一画を取り巻くようにして、枯れた麻黄とタマリスクの原が拡がっている。茶褐色の株だけ天地を埋めていて、緑というものは全くない。絶望的な情景である。カメラに収めたい構図であるが、遠慮する。  次第にまた沙漠地帯は泥土地帯に変っていく。土包子が波立っている荒涼たる風景になり、またまた胡楊の群れが登場してくる。しかも大軍団である。  六時四十分、再び砂の地帯になり、そこを枯芦が埋めている。  六時五十分、あっという間に硝土地帯に変り、荒れた地盤を、枯芦が覆いつくしている。ここで後続ジープを待つ。いつまで待っても来ないので故障したとしか思われない。  今日初めてタクラマカン沙漠の波打際の道をドライブしたが、なるほど南道というところは、このようなところかと思う。荒れた硝土地帯と、砂の地帯が交互に配されており、そこにタマリスク、芦、麻黄、そして胡楊が大群落をなして、必死に生きようとしている。生の風景と死の風景が三〇〇キロに及ぶ大絨毯を織りなしている。トラックとは五台すれ違っているが、一台は動けなくなっている。人家は全くないと言っていい。枯芦の原の中に十軒ほどの小集落二つを見ただけである。終日、崑崙にはお目にかかっていない。  三十分ほどで、後続のジープがやってくる。この方はぬかるんでいる硝土の中にのめり込んでしまったという。  七時半、出発。あと二〇キロ、三十分の最後のコースに入る、白い硝土地帯は、やがて湿地帯に変って行き、水溜りがやたらに多くなる。枯芦地帯は続いているが、その中にポプラが現れ、小集落が現れて来る。乾河道を渡る。路傍に久しぶりに青い草を見る。人間が生きている地帯に、次第に入って行く感じである。  依然として大原野のドライブは続いているが、やたらに水溜りが多く、その周辺は白い硝土で覆われている。砂烟りのために、当然行手にあるべきオアシスの緑は見えない。  褐色の原野、少しずつ緑に変って行く。沙棗の竝木が左手に見えている。と、やがて路傍右手にも沙棗の竝木が出てくる。あとは一瀉千里《いつしやせんり》に人間の生活の匂いの中に入って行く。道の両側にポプラが現れ、耕地、小麦畑、葡萄畑が次々に眼に入って来、くるまは集落の中に入って行く。しかし砂塵は到るところに立ち上がっている。ともあれ、チェルチェン・オアシスに入ったのである。農家はみな泥で造られてあり、泥の塀を廻している。煉瓦は見られない。  集落(人民公社)を出る。小麦畑の青が眼にしみる。ポプラ竝木を行く。みごとな葡萄園。やがて道は再び大原野の中に入って行く。水溜りが多い。しかし、先刻までの大原野とは異って、枯芦地帯にも耕地は取り入れられ、ポプラの木も散らばっており、次第に原野は青くなって行く。行手には緑の地帯が置かれている。  再びポプラの竝木道に入る。馬に乗った少女とすれ違う。集落に入り、集落を出る。青い耕地が左右に拡がっている。  またポプラ竝木に入る。そしてこんどはそのまま目指すチェルチェンの町に入って行く。大通りを行く。砂の町、砂塵の町ではあるが、なんと人間がたくさん居ることか。  町に入ったとたん、くるまのガソリンがなくなる。解放軍の駐屯所でガソリンを貰うために、大通りで停車。大人も子供も、大勢集ってくる。子供たちはみな裸足、女の子はみなきれいな色の衣類で身を包んでいる。眼だけ出した白いチャドルの女が三人、人だかりの向うから、じっとこちらを見詰めている。いかなる思いでこちらを見詰めているのか、これだけは見当がつかない。  八時二十分、県の招待所に入る。一日中続いた荒いドライブの果てに、漸くにしてオアシスの町に入って来たのである。湯で体を拭き、あとは暫く寝台の上に倒れている。  九時、食堂へ行く。小さい皿が十枚ほど竝べられ、それに少量ずつ料理がつけられている。なかなかしゃれた料理の出し方である。料理も、ニヤよりここの方が口に合っている。  夜半、一回目を覚ます。風の音が聞こえている。三一五キロの荒いドライブのため、体中が痛い。が、体中が痛いのは南道の旅の間ずっと続くだろうと思う。眼を瞑ると、すっかり枯死した胡楊の群落が瞼に浮かんでくる。何と言っても、今日のドライブで一番大きい跳めだったと思う。大軍団、全員の死といった迫力を持っている。  五月十七日、朝食ぬきで十一時まで眠る。昼食後、広い招待所の庭を歩いたり、部屋でノートの整理をしたりする。吉川さん、発熱。通訳から現地側との交渉まで、万事ひとりで取り仕切っているので、疲労が重なったのである。  夕刻になって漸く、「漢書・西域伝」の且末国の故地に来たという思いがやって来る。  ——戸数二百三十、人口千六百十、葡萄などの果物を産し、西は精絶国(ニヤ遺跡)に通ず。二千里。  こういった短い記述で、紀元一世紀頃の且末国は紹介されている。  それから五百年程経って、北魏の宋雲《そううん》は、  ——善《ぜんぜん》から西行一千六百四十里、左末(且末)城に到る。城中の住民は百戸ばかり、土地は雨降らず、崑崙山脈から流れ出す水を引いて、麦を植えている。  と記している。  更に下って七世紀に、玄奘三蔵はこの地に足を印し、  ——折摩駄那故国に到る。即ち且末国の故地である。城廓は昔のままの大きさであるが、人煙は断絶、無人の城になっている。  と、その紀行「大唐西域記」に報じている。無人の城廓は半ば砂に埋まっていたのであろう。  更に下って十三世紀になると、マルコ・ポーロはその紀行に、この地方で一番大きい集落として、この町を紹介している。この辺りは沙漠に取り巻かれているが、何本かの河が流れており、それらの河から良質の碧玉を得ることができ、商人たちはそれで儲けている。外敵に襲われると、住民たちは家畜を連れて沙漠に避難する。——こういったことが書かれている。  これらの幾つかの“且末”が、同じ且末であろうとは思われぬ。漢時代の且末が沙漠の中に埋まっていることは疑えないが、それが玄奘が見た“人煙断絶”の且末であるかどうかは判らない。十三世紀のマルコ・ポーロの且末は、明らかに往古の且末国の移転先きであろうが、何回目の移転先きであるかということになると、これまた判らない。まして現在のチェルチェンの町となると、往古の且末国の故地という言い方はできるが、果して何回目の移転先きであろうか。現在、この町の西南と東北に二つの遺跡があり、そのいずれかが漢時代の且末国の跡であろうとされているが、正確なことは判っていない。  現在のチェルチェンは正確な言い方をすると、新疆ウイグル自治区、巴音郭楞《バインゴル》盟、蒙古族自治州且末県。盟は地域という意味。蒙古族自治州に包含されてはいるが、この町の住民は殆どウイグル人である。  且末県の人口は三万五七〇〇人(一九八〇年調査)。但し、県はかなり広い地域を含んでいるので、いま私が居るチェルチェンの町の人口となると、せいぜい一万そこそこではないかと思われる。現在ここに住んでいるウイグルの老人たちは、現在のチェルチェンの町の歴史はせいぜい二百年か三百年といったところであろうと言っている。中には五十年か六十年ではないかと言っている者もある。往古の且末国はイラン系民族の定着地であったが、九世紀頃を境にしてトルコ系民族がそれに替って、今日に到っているのである。  言うまでもないことだが、この地帯のオアシスを造っているのは、崑崙山脈から流れ出すチェルチェン河である。その河道の変遷によって、且末という定着地は転々として移動していると見ていいだろう。民族と民族との争いによって廃墟になったところもあるかも知れないが、まあ定着地の移動はチェルチェン河がその責任の大部分を負うべきであろうと思われる。  そのチェルチェン河は、この町の東方三〇キロの地点を流れており、ここからチャルクリク(若羌)に向う時、その河を渡ることになる。ニヤ河がニヤ遺跡を初めとして幾つかの廃墟を造っているように、このチェルチェン河もまた、漢代且末国の遺跡を初めとして、その時代時代の幾つかの定着地を砂の中に埋めているのであろうと思われる。  暮方の町に出る。招待所の門の附近を歩く。砂埃りの町である。道にも砂が積っている。人通りはまばらであるが、娘さんたちの原色のマフラーやズボン、スカートなどが眼につく。中年女は白いマフラーで顔を包み、眼だけ出している。回教徒の定着地なのである。砂埃りの町の中でも、信心深い女たちは顔をひと目に曝さないように努めているのである  夕闇が迫ってくるにつれて、言い知れぬ淋しさが心に立ちこめて来る。いかなる淋しさか、その淋しさの正体は判らないが、やはり旅情というものであろうか。  招待所に戻り、広い敷地を歩く。ここは且未だ、ここはチェルチェンだ、そんなことを自分に言いきかせながら歩く。且未という二字を地図に書き込んだのは学生時代であるが、それから四十年程の歳月が経っている。  夜、郭宝祥氏がやって来て、明日の打合せをする。崑崙山脈の三〇〇〇メートルのところに遊牧場があるというので、一泊でそこへ行くことにする。この町から西南一〇〇キロ、アチャン(阿羌)という崑崙山中の集落である。そこまで行くと雪鶏なるものが食べられるという。この鳥は三〇〇〇メートルから四〇〇〇メートルの高地で、雪蓮を食べている鳥だそうである。この機会に、その雪鶏なるもののご馳走になっておこうと思う。 三十八 崑崙山中一泊  五月十八日、昨日吉川さんが発熱したので、今日は通訳なしのアチャン(阿羌)行きになる。郭宝祥氏と且 末《チエルチエン》県党委員会の人たち三人がついて下さる。アチャンというのはこのチェルチェンの町から西南一〇〇キロ、崑崙山中の集落である。  九時二十分、出発。町を出ると、すぐ両側に耕地が拡がって来、路傍には水路が走っている。水はゆたかである。暫く農村地帯を縫ってゆく。この辺りの耕地はオリーブの木で囲まれているところが多い。おそらく風よけのためであろう。チェルチェン郊外は何となくきちんと整理されている感じである。  道に沿って、幾らか赤味を帯びた土屋の農家が、それぞれ同じような土塀に包まれて竝んでいるが、二列、あるいは三列のポプラ竝木に半ば匿されていて、なかなかいい感じである。家の前に水路が置かれてあるところは、四列、五列のポプラに匿されている。白壁の農家は殆ど見ない。農村地帯には水溜りが多い。  九時三十分、早くも硝土不毛地帯に出る。一望の不毛地で、道は小砂利道、路傍には小さいポプラが竝んでいる。が、次第にあたりはゴビ(戈壁)に変って行く。やがて崑崙より引いてある滔々たる用水路を渡る。黄色の濁流である。左手遠くに低い山脈がどこまでも続いている。  九時四十分、今まで走って来た道から逸れて、ゴビに入って行く。道はない。多少轍《わだち》の跡があるだけである。先導車のあとに随って行く。行手に断層があり、そこを上ると、やはり同じゴビの拡がり、そのまっただ中を走って行く。多少三台のくるまはばらばらになって走り出す。ゴビの中には同じ方向に向って、轍の跡が何本かついており、そのどれを選ぼうと自由であるが、多少運不運はあるようである。悪路を避けるには、運転手君の勘がものを言ってくる。一木一草なきゴビのドライブは続く。  十時十分、ゴビの乾河道に突き当る。他の二台は乾河道を突切って渡ってゆくが、私のジープは乾河道の中を、上手に向って走って行く。流れの跡なので折れ曲っているが、却ってこの方が動揺が少く、早く走れるようである。五分ほどで乾河道を出て、断層を上る。上もまた同じゴビの拡がりである。やがてまた行手の断層を上る。こうして地盤は次第次第に高くなって行くのである。  また一つ、断層を上る。こんどは沙漠の様相を呈しているゴビが拡がっている。砂丘としか思えぬものが無数に波立ち拡がっている。先導車は忽ちにして砂に埋まる。ジープ三台、それぞれ難行苦行である。どうにかしてその地帯を脱けると、あとは砂と小石ばかり、一木一草なく、地面は絶えず大きく、或いは小さくアップ・ダウンしている。  十時三十分、大きく降りる。川へでも降りて行く感じであるが、降り切ると、一面に白いものが噴き出している硝土地面が拡がっている。くるまは硝土が固くなっている白い乾河道を走り始める。乾河道は折れ曲り、折れ曲っているが、なかなかしゃれたハイ・ウェイでもある。ゴビと沙漠が入り混じっている地帯で、右にも左にも砂丘が現れており、その砂丘地帯と砂丘地帯の間がゴビになっている。くるまは乾河道のドライブを打ち切って、そうしたゴビの中を走り始める。なかなか豪快なドライブである。もはや轍の跡といったものもなくなっているので、どこを走ってもいい。あちこちにアルカリの乾河道が横たわっている。その中の大きな乾河道に沿って、わがジープは走っている。乾河道を右に渡ったり、左に渡ったり、時には乾河道の中を走ったりしている。  砂丘はいつか黒っぽくなっている。また乾河道を走る。三台のジープは思い思いのところを走っている。わがジープの運転手君は北京からこんどのシルクロード・中国取材班について来ている青年で、多少荒っぽいが、実に勘がよく、腕も確かである。敦煌から楼蘭へとヤルダン(白龍堆)をドライブしているというから、経歴も立派である。しかし、それにしてもジープ顛倒の危険は屡々である。大きく跳ね上がり、車体が斜めになることがあるが、うまく持ちこたえており、その度に異様な声を上げている。激励の言葉をかけてやりたいが、言葉が通じない。シンクーラ(ご苦労さん)と言ってやるだけである。衝突の怖れはないが、顛倒の怖れは常につき纒っている。  十時五十分、視界は大きく開け、大ゴビの拡がりとなる。次第に地盤は荒れ、沙包子が波立ってくる。そうした中に依然として、乾河道はあちこちに白い腹を見せている。  やがて、ゴビの上に無数の麻黄が置かれ始める。濃い緑の固まりである。大きいのもあれば、小さいのもある。駱駝草によく似た草で、箒《ほうき》のように、細い緑の葉を素直に伸ばしている。見渡す限りの麻黄の原である。  十一時、沙包子の上に麻黄が載り始める。ということは、風の強い地帯で、風によって運ばれた砂が麻黄の根もとに吹き寄せられ、次第に団子型に固まって、その上に麻黄を載せてしまうのである。土包子は土団子、沙包子というのは沙《すな》団子である。  十一時三十分、何回目かの断層面を上って行く。見渡す限りの麻黄地帯。地面全部を麻黄が覆っている。沙包子という沙包子は麻黄を載せ、その間の地面も麻黄、見事という他はない。天涯まで全部麻黄である。こうした麻黄地帯が三十分ほど続く。が、こうした麻黄地帯にも白いところが点々と置かれている。水の流れの跡である。水の道の跡はたくさんある。この麻黄の野を、幾すじもの水が流れている時を想像すると、壮観である。二、三日前のニヤ—チェルチェン間のタマリスクも群落、胡楊も群落、ここの麻黄も群落をなしている。  十二時、漸くにして麻黄地帯を脱ける。麻黄がなくなると、巨石がごろごろし、黄色に枯れた駱駝草が原野を埋め始める。青い駱駝草はない。また断層を上る。巨石地帯で、巨石と巨石の間を駱駝草が埋めている。しかし、先刻のあの大地を埋めていた麻黄の怖さはない。  また断層を上る。一望の駱駝草の原が拡がってくる。駱駝草は土の色と同じで区別できないくらいである。道は常にアップ・ダウンが烈しく、その度に車体は大きく跳ね上がる。  やがて、大きく降って、大乾河道にはいる。駱駝草はまだ、ここをも埋めている。生物の生きる執念を眼のあたりにしている思いである。これほどの高処にも、まだ生きようとしているのである。しかし、極めて当然なことではあるが、駱駝草の株は次第に小さくなってゆく。  十二時三十分、依然として小さい駱駝草と小石の地帯である。くるまのタイヤがパンクしたので休憩、あたりを歩く。駱駝草以外に僅かではあるが、野高士という匂いのいい草も生えている。  一時十分、出発。やがて地盤は荒れて来、大小の石がごろごろし、沙包子がその中に散らばっている地帯に入る。パンク、顛倒、何事があっても不思議ではない。巨石、沙包子、断層、乾河道、そうした地帯のドライブが続く。やがて駱駝草の株はすっかりなくなり、白い砂と石ばかりの白い風景に変る。前方にぼんやりと小さい丘が見えてくる。賽《さい》の河原というのはこういうところではないかと思う。  一時二十五分、前方の丘の端を越えて、いきなり大荒れに荒れた大乾河道の中に降りて行く。到るところ大小の石がごろごろしている荒涼たる河原の風景である。その大乾河道を渡って、対岸の断層を轍の跡に随って、攀《よ》じ登って行って、台地の上に出る。するとすぐ耕地の拡がりが眼に入って来る。道があり、ポプラ竝木があり、土屋が散らばっている。まさに別天地である。アチャンの集落に入ったのである。チェルチェンの招待所を出てから四時間かかっている。集落の招待所に入る。広い前庭を持ち、それがぐるりと土塁のような高い土塀に囲まれている。城塞の跡とでも言いたいような一画である。  アチャンは海抜二九〇〇メートル、崑崙山脈の麓の集落である。チェルチェンから断層を次々に階段のように上って来たが、漸くにして崑崙の麓というか、崑崙の前山の中というか、そうした地帯に入り込むことができたのである。この辺りの崑崙は四〇〇〇メートル、集落のすぐそこに立ちはだかっているのが、崑崙山脈の前山の一つなのであろう。  アチャンはモンゴル語で“物資が集る”という意味だという。現在、この集落を中心に国営牧場が営まれ、主に山羊が飼われているが、その他に牛や馬の放牧も行われている。チェルチェンの人が食べる肉は、みなここで供給しているそうである。この集落の人口は四〇〇〇、戸数九〇〇、ウイグル人の崑崙山脈の裾における最も大きい定着地である。  招待所の一室に入って休憩、寝具類は既にチェルチェン招待所から運んで来てあり、羽蒲団まで用意されている。夜になると寒さが厳しいのであろうが、崑崙山脈の麓となると、ちょっと見当がつかない。  集落の通りを少しだけ歩く。土屋が道の両側に竝んでいるが、無人の集落ででもあるかのように、ただ静かである。セットの町を歩いているような、そんな思いになる。人口四〇〇〇というが、もちろんその大部分は崑崙山脈の裾一帯の放牧地に散らばっていて、このアチャンはその留守部隊の集落といったところであろうかと思う。  四時、二七キロ隔たっているハルメラン(哈拉米藍)河畔の引水洞なるものを見に出発する。牧場に引いている水の引き入れ口で、長いトンネルを造っているという。そうしたものの見学もさることながら、崑崙山脈の中に分け入ってゆくということに大きい魅力を覚える。大体五、六百メートル登りになるというから、引水洞附近は海抜三五〇〇メートル。  アチャンは全くの土屋の集落である。招待所の門に突き当っている沙棗の竝木の通りが、メイン・ストリートであろうか。先刻まではセットの静かな淋しい村であったが、こんどは招待所の門の前はたいへんな人だかりである。門の一部が壊れて大騒ぎしている。大人も、子供も、初めての外国人を見ようとしているのである。が、期待に応える何ものも持っていないのが残念である。たいして変った顔もしていないし、大入道でもなければ、侏儒《こびと》でもない。  漸くにしてジープのところに辿りつき、ジープの中に収まる、ジープは走り出す。集落の中で一〇頭ほどの駱駝にぶつかり、更に十数頭の駱駝にぶつかる。  メイン・ストリートを通って、右に曲り、耕地地帯を少し行ってから、すぐ崑崙山脈の前山が作っている渓谷の中に入って行く。泥土の渓谷である。白い土、白い河原、全くの白い風景である。磊々《らいらい》たる石の河原、ここもまた、ちょっとした冥界の風景である。  渓谷に沿った細い道を行く。ジープ一台が漸くにして通れる道である。ところどころ桟道になっている。渓谷の斜面にはところどころに羊群が置かれているが、周囲の土の色と全く同じなので、遠くからでは判別できない。時々、はっとするような、ゆるやかな山の斜面が現れ、そこに羊の大群が放牧されているのを見る。谷底では馬の放牧が行われている。  途中、中年の女が一人、喚《わめ》き叫びながら崖っぷちの道を駈けて行くのを見る。何事が彼女に起ったのであろうか。更に十分程して、騎馬の老人一人と擦れ違う。崑崙の麓の、この渓谷のどこかに住んでいる人であろうか。崖っぷちに紫色の花を着けた馬藍花《ばらか》という花を見る。この花の他には枯れて茶色になっている々草《ちいちいそう》しかない。馬藍花の方は小さい可憐な紫の花を着けている。くるまを停めて、その花をとって貰う。実に美しい。崑崙の花である。  そのうちに道は荒れに荒れた山峡地帯に入って行く。そしてやたらにアップ・ダウンを繰り返しながら、次から次へと現れる山の中腹を巻いて行く。崖っぷちの細い道を、谷に降りたり、また上ったり、まさに命がけである。断崖のドライブが長く続く。満開の馬藍花、枯れた々草。  やがて無数の土包子が現れて来、荒涼地帯というか、荒涼渓谷というか、そうしたところのドライブになる。そして全く同じような地帯のドライブが約二時間。そしてその果てに漸くにしてハルメラン集落に到着する。  ここもまたハルメラン河をまん中に挟んだ崑崙山中の渓谷であるが、河の左岸が多少開けていて、引水洞の工事に携っている人たちの家が十軒ほど建っている。どの家からも女たちが飛び出して来る。子供もいれば、母親に抱かれた嬰児もいる。みんな小屋のような家から出て来て、何とも言えない懐しそうな顔をして近寄ってくる。確かに懐しいに違いないのである。そうした女たちの顔に眼を当てながら、ここ崑崙山中の明け暮れはいかなるものであろうかと思う。  小さい集落の傍を流れているハルメラン河をカメラに収める。河原伝いに引水洞まで歩いて行く。大勢の人が大人も、子供も、みんなついて来る。ハルメラン河の水の一部を引いた水の取入口で、真暗いトンネルの内部を覗く。内部に入らないかと言われるが、辞退する。水は七〇〇メートルのトンネルによって山の向う側に出て、そこから何本かの用水路となって放牧地に引かれているという。  ハルメラン河は、ニヤとチェルチェンの間に流れて行くべきであるが、途中で地下に潜ってしまって、そこまで達していないという。崑崙山脈の中で生れ、その大渓谷の中を流れ、そしてやがて地下に潜って消えてしまう河である。  河原の集落で三十分ほど休憩して、すぐ帰途に就く。アチャンまで二時間半かかる。往路も帰路も同じ時間である。  夜は牧場の人たちが、接待所で歓迎の宴を張ってくれる。雪鶏なるものも御馳走になる。宴会が終ると、間もなく電燈が消える。ランプを持って来てくれたが、いかなる過し方もないので、ランプを消して、すぐ寝台に入る。戸外はさすがに深い闇である。 三十九 風の鳴る廃墟  五月十九日、八時起床、集落の中を歩きたいが、早朝から門前に人がむらがっているので諦める。九時二十分、アチャン(阿羌)を出発、大ゴビの沙灘《さたん》地帯のドライブを続け、一時にチェルチェン招待所に入る。夕方まで休憩。  現在のチェルチェン(且末)の集落附近に二つの故城址がある。一つは町の西南六キロの山地の城址、一つは北方六〇キロの沙漠の中の城址である。沙漠の中の城址にはタトランという人民公社までジープで行き、そこから一〇キロ沙漠の中に入らなければならぬ。この方には城壁もあり、玄奘三蔵の“城廓は然《きぜん》たれども人煙は断絶せり”の七世紀の且末城の遺跡ではないかと見られているところであるが、沙漠の中に一〇キロ入るとなると、駱駝のキャラバンを組まなければならず、今のところ残念ながら諦める他はない。沙漠の中の一〇キロの旅がいかなるものであるかは、ニヤ遺跡を訪ねた日中撮影隊の場合で既に経験ずみである。  そこで、タ方、西南六キロの山地の城址というのに出かけてみることにする。風強く、招待所の丈高いタマリスクはいっせいに靡《なび》き揺れている。小さい沙棗《すななつめ》も揺れている。  町に出、幹の細いタマリスク、胡楊の竝木を行く。砂埃りの道である。大勢の人が出盛っている。女たちの原色のスカーフも、スカートもみな風に揺れている。スカートは長く、だぶだぶしている。民族帽をかぶった少女が馬に乗っている。砂塵もうもうたる中から驢馬のひく荷車が出てくる。車の上には少女と黒い犬が乗っている。  やがて町を抜けて耕地地帯に出る。左右にはみごとな青い耕地が拡がっており、たくさんの水路が置かれている。道の両側にも水路が走っている。水は豊かである。しかし、ジープの走っている路は全くの砂の道で、砂塵もうもう。道ばかりでなく、左右どこへ眼を当てても、全耕地、砂で烟っている。やはり風の烈しい地帯なのである。そうしたところを、ジープは右折したり、左折したりして走って行く。やがて沙漠の中のドライブに変る。依然として水路は多く、大きな水路は池のようである。  集落に入る、相変らず砂塵もうもう、視界一〇メートル、砂烟りの中から次々に池が現れ、ポプラの竝木が現れ、それから子供たち、娘たち、白布で顔を包んだ女、驢馬の老人、民族帽の少女などが入れ替り立ち替り現れて来る。  やがて大きな池に沿って右折、見事な小麦畑が拡がっている地帯を行く。すると前方正面に一段高い台地が現れて来、ジープはそれにぶつかると、その台地の上へと一〇メートル程の坂を上って行く。坂を上り切ると、思わずあっと声を上げたい程の、見渡す限りのゴビの拡がりである。くるまはそのゴビの中に入って行く。道というものはないので、三台のジープはそれぞれ勝手なところを走っている。小さい川を渡る。川の縁に沙棗の木が竝んでいる。やがていつかゴビは沙漠に変り、砂丘が波立っている地帯を行く。幾つかの砂丘を越える。前後左右見渡す限りの砂の海である。  かなり長い沙漠のドライブが続いた果てに、故城址なるところに着く。くるまの停まったところから一段低くなっている低地一帯が遺跡だという。大沙漠のただ中に長さ七、八キロ、幅三キロぐらいの地域が抉りとられたように落ち込んで、低地を形成している。もちろんそこも砂で埋まっていて、沙漠の一画であるに過ぎない。遺跡らしいものは何もない。すべては砂の中に埋まっているのであろうか。その低地を次々に風の波が襲っている。荒涼たる白い地域、白い廃墟である。曾てこの低地をチェルチェン河が流れており、そこに城市が営まれていたと見られているのであるが、信じられぬような話である。その頃はこのあたりは緑に包まれた山地であったのであろう。それがいつか今見るような沙漠に変ってしまったのである。  現在、この遺跡を取り入れて拡がっている沙漠は、タクラマカン沙漠に続いているという。他の言い方をすると、タクラマカン沙漠の一部がここまで入り込んでいるのである。  暫く、遺跡を見降ろしながら大沙漠の一画に立っている。風の音がひょうひょうと聞えている。遺跡の低地は一日中風の音が鳴っているのであろうか。もちろん、この遺跡がいつの時代の且末城の址であるかは判っていない。発掘によって、それを確かめる以外ないが、まだ鍬《くわ》は入れられていない。掘ってくれ、掘ってくれ、往古の且末人の声が風の音の中から聞えて来るような気がする。  五月二十日、七時起床。快晴。今日は五日間滞在したチェルチェンをあとにして、東方三六〇キロのチャルクリク(若羌)に向う日である。九時間乃至十時間のドライブを予定する。解放当初、つまり一九五〇年代初めまでは驢馬で七日を要したという。途中一日の休養を入れると八日間。一人で驢馬二頭が必要だった。一頭は飲料水と、驢馬自身の食糧、もう一頭には自分の食糧と荷物を積む。なかなか大変だった。  今日のチャルクリク行きはジープ二台。一台は途中まで送ってくれ、そしてチャルクリク側からの出迎えのジープと交替する。ジープの場合も一台は危険なのである。  九時二十分、出発。先の一台に吉川研氏と私、あとの一台には郭宝祥氏と見送りの人。通りには人は群がっていず、この時刻のチェルチェンの町は閑散としている。町を出る。すぐ青い耕地、水路がたくさん造られている。農村地帯を行く。柳の列、ポプラの列、街路樹は二重、三重になっている。  七分にして、完全なゴビ灘になる。これまでのゴビより本格的なゴビの様相を呈している。依然として水溜りも多く、水路も多い。ゴビの中を東南方に向う。白い乾河道もたくさん現れて来る。やがて麻黄点々、道は東へと方向を変える。忽ちにして一望の麻黄の原となる。  道は土を固めただけであるが、今のところは、まあまあの状態、くるまの動揺も少い。風は右より左に吹いており、路上を砂が流れている。  やがて麻黄もなくなり、まっ平らな大ゴビ沙灘となる。今まで見たゴビの中で一番大きいゴビである。一木一草、何もなく、まっ平らである。まっ平らな薄黒いゴビの拡がりである。  チェルチェンより三〇キロの地点でチェルチェン河の橋を渡る。一五〇〇メートルほどの川幅で、その大部分を河原が埋め、流れは対岸近いところ、つまりチャルクリク側の岸に近いところに置かれている。水声滔々、灰色の濁流がたくさんの洲を抱えて流れている。上流の方は何倍にも川幅をひろげていて、流れの中に大きな洲が点々と置かれている。チャルクリク側の岸は堤、チェルチェン側の岸は断層によって縁どられている。やはり堂々たる大河である。この河によって、この地方の歴史は造られているのである。  チェルチェン河を渡ったとたんから、今までのゴビは沙漠に変って行く。路面は全くの砂の堆積である。沙漠の砂が道路をのみ込んでしまっているのである。路上を右から左へと、絶えず砂が流れている。流沙なるものである。砂が流れているのは路面ばかりではなく、沙漠の大きい拡がりの到るところで、いまこのように砂は流れているのである。  路傍で、トラックが一台、砂にタイヤを取られて動けなくなっている。大馬扎《だいばさつ》行きの時は、タイヤが泥土に取られて動けなくなったが、こんどは砂である。左手に低い砂丘が波のように現れて来る。砂丘群の向うにはタクラマカン沙漠が海のように拡がっているのである。  十時二十分、依然として沙漠の中を走り続けている。沙漠の面が黄色のところと、薄鼠色のところとある。  十時二十五分、六〇キロ走っている。チェルチェンの町からチェルチェン河までが三〇キロなので、そのあとの沙漠のドライブは三〇キロに及んでいるのである。一面の砂の拡がりで、麻黄がまばらに点々としているだけである。  十時三十分、遠く左手に何回目かの砂丘の波立ちが見えてくる。太陽は前方。麻黄地帯は現れたり、消えたり、単調といえば、この上なく単調であるが、これが一日続くことであろうと思う。やがて左手の砂丘の波立ちは、大きな砂丘の連なりに変って来る。それと呼応するように、前方にも砂丘の連なりが見えてくる。くるまはいつか洗濯板のようになっている道を、八〇キロで走っている。速度を落すと、車体の揺れが烈しくなる。  十時四十五分、道は砂丘地帯を割っており、辺りは一面の麻黄の原になっている。やがて左に折れて、大乾河道を渡る。この砂丘地帯は地盤の高低が烈しく、道は絶えず上ったり、降ったりしている。砂丘地帯を過ぎると、周囲の様相は一変して、麻黄とタマリスクが全沙漠を埋め始める。褐色の原である。そうした中を、道は右折したり、左折したりしながら走っている。地盤の波立っている地域には、タマリスクが多い。  十一時、平坦、褐色の沙漠となり、そこを小さい麻黄が一面に埋めている。  十一時十分、今までの沙漠は一変して、磊々《らいらい》たる小石の原に変る。一面に小石がばらまかれ、荒れに荒れた地帯になる。乾河道を幾つか渡る。その度にくるまは大きく上ったり、下ったりする。  十一時十五分、小石の原のただ中で小休止。ここまでに一〇〇キロ走っている。これまではずっとゴビと沙漠が織りなされていたが、ゴビ沙灘の代表的な地域なのであろう。  十一時二十分、出発。石の原は一層凄くなる。磊々たる石の河原、まさに地獄の風景である。大小の石がごろごろしており、その中に乾河道が何本も置かれている。山地が豪雨に見舞われると、これらの乾河道という乾河道はすべて奔騰《ほんとう》する激流となる筈である。その時はさぞ凄い眺めであろうと思う。この地帯を埋めている大小の石は、みなその流れが崑崙山脈やアルキン山脈から運んで来たものなのである。  十五分程で石は少くなり、次第に麻黄の原に変って行く。突然、車体が飛び上がり、背後の荷置台の水を入れてあった壜が割れる。やがて無数の麻黄は無数の沙包子(沙饅頭)の上に載り始める。  十一時四十分、同じような小石と麻黄の原が続いている。ただこの辺りになると、白い流れの跡が、方々に置かれ始める。アルカリの水が流れた跡なのである。チャルクリク、チャルクリクヘと、くるまは走り続けているが、まだ三分の一にも達していないのではないかと思う。  十一時五十分、大アルカリ地帯に入る。見晴かす限りの真平らな石の原のあちこちに、白い地帯が置かれている。そのためか、どうか知らないが、多少おとなしいゴビになる。眼の届く限りの小砂利の原の上に、麻黄の小さいのが、点々とばら撒かれている。くるまは八〇キロの速度で、洗濯板のような路面の上を突走っている。この洗濯板状の路面も風が造ったもので、定規を当てたように等間隔に、高いところと低いところを刻んでいるが、実に丹念な細工をしているという他ない。  十一時五十五分、麻黄がなくなり、一面の白いゴビになるが、十分ほどすると、再び麻黄が力を盛り返して、ゴビを占領する。しかし、また麻黄はゴビから追放され、今度こそ本当に麻黄はすっかり姿を消す。三十二、三度の暑さであるが、いっこう汗もかかず、暑さも感じない。これからこの地方は夏になるというから、この程度の暑さで収まる筈はないが、現在のところは至って快適である。ジープの窓から外を眺めていて、“何もなきゴビはよきかな”と思う。麻黄もなく、小石もないゴビ沙灘の単調な拡がりが、今は堪らなく美しく見える。  道は丘を割って大きく降り、二〇メートル程の川幅の川を渡る。濁流が流れている。河畔の標識によると、チャルクリクまで二〇二キロ。川を渡ると、また麻黄と小石の地帯になる。断層を上る。同じような地帯のドライブが、いつまでも続く。  十二時十分、チェルチェン出発以来、一台のくるまともすれ違わず、人も見掛けていない。もちろん一軒の人家にもお目にかからない。石と、麻黄と、砂と、乾河道と、白いアルカリ地帯とのお付合いである。  このところ道はほぼ良好。小砂利道をジープは八〇キロで突走っているが、洗濯板道の時のような烈しい揺れはなく、ドライブは一応快適である。ただ、いつ大きく跳ね上がるか判らないので、そのための身構えだけはしておかねばならない。  突然、路傍に数本の木が現れ、その傍に小さい池があるのを見る。息をのむような美しさである。右手に山脈が薄ぼんやりと見え始める。アルキン山脈か、その前山なのであろう。  十二時二十分、麻黄、小石共になくなりまっ平らな砂の拡がりとなる。初めて二台のジープを追い越す。労務者が詰まっている。左右共に眼を遮るものなし。右手遠くに山脈を見るだけである。  やがてまた白いアルカリ地帯になり、まばらに麻黄が置かれるが、すぐまたなくなって、砂だけの拡がりになる。  十二時三十分、何回目かの麻黄地帯になる。こんどの麻黄の株は大きい。小断層を上る。また砂だけの拡がり。前方に蜃気楼の湖が見えている。細く長い湖である。砂の原は薄い褐色。何もない薄褐色のゴビが、いつまでも続く。  吉川さんが遠くに樹木の列が見えると言う。その方に眼を当てると、私には建物に見える。どちらも幻覚である。暫くすると樹木も建物も消え、二人共、眠くなる。人間、見るものがなくなると、眠くなるのである。  十二時四十分、三台のトラックとすれ違う。いずれも工事関係のトラックらしい。こんどは左手から前方にかけて、砂丘の連なりが見えてくる。これは幻覚ではなくて真物である。右手にも低い砂丘の連なりが現れてくる。左手の砂丘は次第に近寄って来る。  やがて道路修理の人たちのテントが数個あり、その前を通過して行く。その附近に麻黄が少々、それをきっかけにまたもや麻黄群が現れ始めるが、こんどはすぐ消え、次第に辺りは沙漠化して来る。運転手君がチャルクリク着は六時を過ぎるだろうと言う。まだ大分走らなければならぬが、それも仕方ないと思う。二十年前に小説「楼蘭」で書いた集落に向っているのである。 四十 ロブ沙漠をめぐる興亡  五月二十日(前章の続き)、一時、チャルクリク(若羌)まで一三七キロの地点で小休止。出発、再び沙漠の中のドライブが始まる。ジープは小砂利の敷いてある一応道と言えるようなところを走っている。左右は大沙漠の拡がりである。沙漠の中のところどころに白いアルカリ地帯が置かれている。暫くすると、大沙包子が現れ出す。沙包子はいずれも麻黄、あるいはタマリスク(紅柳)の株を載せている。沙包子が連なって丘になっているところもある。  そのうちに右手に胡楊の群れが現れてくる。この日初めての胡楊の登場である。朝から四時間ほどドライブしているが、胡楊を見るのは初めてである。胡楊の他に芦と駱駝草も現れ出す。これも今日初めてである。沙包子地帯ではあるが、芦や駱駝草の緑が点々としており、胡楊も緑の固まりを戴いている。久しぶりに緑のある地帯のドライブになる。一時二十五分である。地面はアルカリで白くなっている。  大沙包子地帯のドライブは続く。どこを見ても沙包子の連なった丘が点々としている。丘はどれもタマリスクと芦の株を載せているが、次第に芦は枯れたのが混じり始める。  十分ほどで沙包子に載っているタマリスクも、芦もみな枯れてしまい、緑というものは全くなくなる。次から次へと、枯れたタマリスクや芦を載せた大沙包子群が押し寄せて来る。丘状のものもあれば、塔状のものもある。宛《さなが》ら回廊としか思われぬようなものもある。大沙包子は波のように押し寄せてくる。沙包子と沙包子との間にはめくれ上がった白いアルカリの地面が置かれている。夜になって月光が当ったら、この地帯はさぞ悽愴《せいそう》な眺めになるであろうと思われる。往古の大塔院の内部でもさまよっているような、そんな思いになるかも知れない。  やがて行手に緑の帯が見えて来る。くるまは大沙包子地帯を突切って、その沙漠の島の中に入ってゆく。青い草、胡楊、タマリスク、沙棗。水のある地帯なのであろう。こんどの島はなかなか大きい。左手一帯は遠くまで胡楊の大群落で埋められている。しかし、道の附近の芦、麻黄、タマリスク、駱駝草はみな枯れている。オアシス地帯であるには違いないが、水が届かなくなると、みな枯れてしまうのだ。  漸く左手遠くの緑の帯を背後にし、こんどは小さい沙包子の海の中に入って行く。小さい白い土塊、その中に点々としている褐色の枯れた株、ここはここで、また異様な風景である。タマリスクも、芦も、みな討死している。大会戦のあったあとの戦場のようである。無慚《むざん》というか、収拾し難い感じである。  二時、一面の枯芦の野をドライブしている。地面は白く、荒れている。白いアルカリ土壌はひび割れ、抉られ、その上に枯芦が突立っていて、それが地平線まで拡がっている。  やがてまた、左手遠くと、前面に長く胡楊の緑の帯が見えて来る。ジープは結局前方の胡楊群のまん中を突切って行く。胡楊以外はみな枯れており、胡楊もまた枯れたのが混じっている。胡楊がなくなると、タマリスクの青い株が現れて来る。タマリスクもまた何と強い木であろうかと思う。それにしても、胡楊、芦、タマリスク、麻黄、駱駝草などの登場、退場は儼然《げんぜん》と何ものかの統制下に置かれているかのようである。一糸乱れぬ自然の法則のもとに出たり、引込んだり、枯れたり、生きたりしているのである。  またまた、前方に濃い緑の帯。こんどのは瓦石峡人民公社のオアシスである。やがてその本格的なオアシスの中に入って行く。左右に青い耕地が拡がって来る。鮮烈な緑である。水田には水が満たされ、小麦、沙棗、タマリスクなどが二重に植っている竝木の中に、ジープは入って行く。ゆたかな水路があちこちに見られる。  停車。路傍にチャルクリク県から迎えに来たジープ二台が停まっている。ここで今まで送って来てくれたチェルチェン県のジープは引き返すことになる。見送りの人たちと握手。  再びドライブ始まる。こんどはチャルクリク県から来た迎えのジープが先導してくれる。耕地地帯のドライブが長く続いたあと、半ば乾いた川を渡って、集落に入る。きちんとした土屋の家々が現れて来る。  やがて、集落の奥にある人民公社の招待所に入る。ここで昼食と休憩。チャルクリクまであと八〇キロ。  ここはチャルクリク県・瓦石峡人民公社。一九五八年設立の人民公社で、人口三八〇〇、小麦、トウモロコシ、水稲を主とした農業を営むが、今は田植を始めた許りだという。住民は漢族、ウイグル族半々。ここがチェルチェンから初めての集落で、チャルクリクまでの間にも集落はない。  海抜九〇〇メートル。現在、日中は三十度ほど、夏の最も暑い時は四十度。夜は大体二十度の差があるという。ここはアルキン山脈から流れてくる瓦石峡ダリヤが造るオアシスで、この川はこの地区では一番大きい川である。この人民公社が造られる以前は、瓦石峡ダリヤは山から三〇キロの地点で伏流して、沙漠に消えていたが、現在はその水を水渠にとって農業に使っている許りでなく、治水工事によって、その流れもこの集落まで来させている。もちろん下流は、この集落から二〇キロのところから海のように拡がっているタクラマカン沙漠の中に消えている。  往古はこの地区に大きな集落があったらしく、附近の沙漠の中に遺跡が遺っているという。数年前にその一部を発掘したら、唐から宋にかけての古銭、硝子、陶器等が出たというが、詳しいことは何も判っていない。  四時四十分、出発。集落を出ると、すぐタマリスク地帯になる。が、間もなくそこを出て、一木一草なきゴビに入って行く。左手遠くに沙包子地帯が見えている。  五時、依然としてまっ平らなゴビのドライブが続いている。左手遠くの沙包子地帯も続いており、タマリスクの緑も見えている。ずいぶん広いゴビである。人民公社出発以来、ずっと同じようなゴビが続いている。  五時五分、漸くにして沙包子が置かれ始め、アルカリ性白土が拡がってくるが、すぐまたゴビになり、沙包子は姿を消し、白土を敷いた白いゴビになる。  道が去年の洪水で方々壊れている。道が壊れているところに来ると、先導車は道から逸れて、ゴビの白土の上を走り、やがてまた道に戻る。そんなことを繰り返している。  五分ほどで、今度は本格的な沙包子地帯に入る。青いのはタマリスク、黄色なのは駱駝草。  五時十五分、再びもとの大ゴビになる。左手遠くに沙包子地帯、右手遠くにはたくさんの砂丘。砂丘地帯は無数のピラミッドが置かれているように見える。いまジープはそうした沙包子地帯と砂丘地帯に挟まれた広いゴビの帯を走っているのである。  五時二十分、ほんの僅かの間沙漠になり、左右に砂丘が置かれるが、しかし、その地帯をあっという間に通過し、またまた大ゴビのドライブに戻る。  五時四十分、相変らず大ゴビのドライブが続いている。左右、どこを見ても、ゴビの果てしない拡がりである。一木一草なし。瓦石峡人民公社のオアシスを出てから、ずっとゴビが続いていると言っていい。  六時、前方遠くに薄い緑の帯が見えて来る。チャルクリクまであと一七キロである。緑の帯を目指して、まっしぐらに走りに走る。去年の洪水によって道路が寸断されている地帯に入る。ジープは何回か、道路からゴビのアルカリ白土地帯に降りて、そこを走る。時にはかなり長い間、ゴビの中を走り続け、その果てに道路に戻る。なるほど先導車なしでは、この地帯のドライブは難しいと思う。  六時十分、道は大きく曲って、大オアシスを右手にして走り始める。やがて、突然緑が取り囲んで来る。辺りはタマリスクの原である。しかし、ここでも道があちこち壊れているので、その度に道から逸れて沙包子地帯に入り、また道に戻る。久しぶりで緑の原野のドライブである。  やがてまた、道は大きく右に曲り、結局前方に廻って来た大オアシスの緑を目指す。道の行手、路上に竜巻が一本立っている。暫くすると、辺りは泥土地帯になり、そこを埋めているタマリスクと芦の中を行く。そうした地帯をぬけると、辺りは次第にオアシスの生き生きした様相を呈し始める。  六時二十分、耕地が現れてくる。原野に馬数頭、田圃には畑仕事の男女、牛。久しぶりで人間の、生活の匂いを嗅ぐ。次第に農村地帯に入って行く。土屋が竝んでいる。泥を塗りたくったような家である。小麦畑、水田。鍬やスコップを持った少年、少女たちの一団が向うからやって来る。畑仕事の手伝いでもしているのであろうか。やがて葡萄園が眼に入って来る。  左手に烽火台址と覚しきものを見る。土の基壇だけが遺っている。大乾河道を渡る。チャルクリク河である。間もなく右に折れて、チャルクリクの町に入って行く。女たちの衣服の原色が眼にしみる。胡楊の竝木の中を走る。胡楊の竝木を見るのは初めてである。ポプラの竝木もあるが、ポプラの方は小さくて貧相である。葉裏の白いポプラである。道を歩いている女たちはみな厚着している。ここもチェルチェンに似て、閑散とした町である。人の群がりは見られない。  町の入口の招待所に入る。地区革命委員会、竝びに県の招待所である。六時二十五分、チェルチェンから九時間かかっている。  招待所で割り当てられた部屋はかなり広い。三つの壁面に沿って、甚だ粗末な低い寝台が三つ置かれている。床はもちろん土間で、入口に洗面の湯を入れたバケツと、洗面器が置かれている。  招待所の敷地は広く、そこを大勢の人がぶらぶらしている。招待所となんらかの関係を持っている人たちらしいが、やたらにそこらを歩き廻っている。これまで各地で招待所なるところに厄介になっているが、ここの招待所だけが異った雰囲気を持っている。南道の東端に位置しているので、多少宿場的様相を帯びているようである。  実際に現在、西寧(青海省)、敦煌、コルラ(庫爾勒)からの三本の道が、ここに集っている。西寧からのトラックは月に三、四十台、この町に入ってくるという。敦煌へも直接通ずる道があるが、青海省廻りになるので四〇〇キロの道程。そういう意味では南道の入口であり、交通の要衝である。  チャルクリク県の面積は二〇万平方キロで、中国最大の県であるが、大部分がゴビと沙漠である。県の人口は二万五〇〇〇。このうち第三六農場をのぞくと一万五〇〇〇。日本の半分以上あるところに一万五〇〇〇の人間が散らばっているので、人間にはなかなかお目にかかれぬ閑散たる地帯である。住民はウイグル族、漢族、六と四の比率で、小麦、トウモロコシの農業県である。  このオアシスは、言うまでもなく、アルキン山脈から流れ出す河が造っている。チャルクリク河そのものは用水路に水をとられて、現在は乾河道になっている。この地区の風の強いのは、三月から六月まで、暑さの烈しいのは七月と八月、四十度から五十度。雨量は南道でも一番少く、年間二〇ミリ足らず、蒸発量は三〇〇〇ミリ以上、全く雨は降らないと言っていい。住民は常に水不足で悩んでいる。  招待所の人々は親切である。この地区に入った最初の外国人ということで、至れり尽くせりのサービスである。  夕食後、散歩する。風は収まって、いい夕暮である。招待所の前の通りが官庁街であると聞いたが、招待所の他に役所の建物らしいものが一つあるだけである。が、ここがメイン・ストリートなのである。この集落には商店が竝んでいる町らしいところはないという。このメイン・ストリートが、すぐ農村地帯につながっているのである。  従って、このメイン・ストリートにも人は群がっていない。夕涼みに出たらしい男女が一〇人ほど、路傍や、街路樹の下に立っているだけである。カシュガル(喀什)、ホータン(和田)、アクス(阿克蘇)、クチャ(庫車)などの他の少数民族の町々とはまるで違っている。結局は人が少いのである。  この集落への入口に胡楊の竝木があったので、その近くまで歩いて行くが、誰もついて来ない。遠くから見ているだけである。静かな沙漠の町の薄暮である。沙棗、楊《やなぎ》、小さいポプラなどが、道の両側に植っている。  九時半であるが、戸外はまだ明るい。二本の道が丁字型にぶつかっているところに、一〇人ほどの男女が固まって、立ち話をしている。砂埃りの一日、暑い一日は終ったのである。彼等にとっては、今が一日中で一番いい休息の時刻なのであろう。女たちはみな子供を抱いている。  そのうちに、散歩している私の方に、何となく人が集って来る気配を感ずるが、しかし、決して近寄っては来ない。  招待所に戻って、早く寝台に入る。三つの寝台のうち、入口に近い寝台に身を横たえる。この夜の眠りはいい。部屋の隅の天井に、オンドルの煙突の穴があいていて、その覆いが一晩中、風でばたばたしている。風が吹き込んでいるのである。が、こんどの南道の旅では一番いい眠りである。  深夜、窓から外を覗いてみると、ポプラも、胡楊も、沙棗も、ごうごうと吹き荒れている風の中で、いっせいに靡き伏している。寝台に戻ると、子供の頃のあらしの夜の風の音を思い出す。そうした幼時の眠りがやって来る。風が吹いている、そう思って眠る。ふしぎな安堵感に支えられた眠りである。三月から六月まで風が吹くというが、丁度今はその風の季節なのである。  今日は日中は三十五、六度だったが、夜は十五、六度であろうか。気温差が二十度あるので、風邪をひき易い。  明け方、部屋を出て、招待所の前の通りに立ってみる。昨夕散歩した同じ通りとは思えない。砂烟りが舞い上がっていて、何も見えない。五分程、門の前に立っている。砂烟りの中から驢馬と駱駝が現れてくる。駱駝には、老人が乗っている。暫くすると、男の子が二人、出てくる。どこへ行くのか、二人共ぼろぼろのシャツを着て、裸足で歩いている。こちらへ何とも言えぬ美しい笑顔を向ける。再び部屋に戻って眠る。  このチャルクリクという集落は西域南道の東端に位置し、ここから先きにはロブ沙漠の海が拡がっている。ロブ沙漠というのはタクラマカン沙漠東部に与えられた特殊の呼称で、ロブ・ノール(ロブ瑚)周辺の沙漠という謂《いい》であろう。そしてそのロブ沙漠の中に、ヘディンやスタインによって発掘された楼蘭遺址、ミーラン(米蘭)遺址が置かれている。チャルクリクから東北方八五キロの地点にミーラン遺址が、更にそこから東北方一七〇キロのところに楼蘭遺址が、たっぷりと砂をかぶって埋まっている。  こんどのこの南道の旅では、チャルクリクに一泊後、すぐミーラン遺址を訪ねるスケジュウルを組んでいる。楼蘭遺址の方は、残念ながら外国人は入れない。入れないことになっているばかりでなく、大体入ることができない。大々的な駱駝のキャラバンを編成して、何日かを予定しなければならぬからである。今のところミーランに入ることで満足しなければならぬ。ヘディン、スタイン以後、最初の外国人の訪問である。  このロブ沙漠一帯の歴史は複雑である。この地帯の最初の紹介は「漢書・西域伝」に於てであり、紀元前から栄えたオアシス商業都市楼蘭について、そしてその後身としての善国について語っている。しかし、ロブ・ノール北辺の楼蘭と、南辺の善国の中心都邑とは同じ文化圏にあって、同時代に栄え、ロブ沙漠の乾燥化によって、同じ四世紀に廃墟になったという見方が一般に行われている。いずれにせよ、善国は漢の勢力がこの地帯に及んだ時期で、漢の市場として、その前線基地として利用され、またそのために繁栄した国であった。 「漢書」によると、善国の都は泥《うでい》城、漢の屯田地は伊循《いじゆん》城とされており、一般には泥城はミーラン、伊循城はチャルクリクと見られている。が、泥城をチャルクリク、伊循城をミーランとする見方も、一方で行われている。また都泥城はミーランにあったが、ミーランが四世紀に廃絶されるに到ったあと、善の都はチャルクリクに移されたという見方もできる。何しろ往古、しかもタクラマカン沙漠の中のことなので、正確なことは誰にも判らない。  楼蘭は四世紀に廃墟になると、そのまま砂の中に打ち棄てられてしまったが、ミーランの方はもう一度復活し、チベット勢力の、つまり吐蕃の屯城として活用された時期があったことが、スタインの発掘によって明らかにされている。また発掘されたチベット文書にはミーランは“小ノブ”、チャルクリクは“大ノブ”と呼ばれている。また唐の記録にはミーランは“小善”、チャルクリクは“大善”と表示されている。こうしたことから推して考えると、善は“ノブ”と呼ばれていたのである。  五世紀に法顕は敦煌を出て、上に飛鳥なく下に走獣なしと謂《い》われる地帯に入り、悪鬼、熱風に悩まされながら、死人の枯骨を標識として、流沙を渡り、ついにこのチャルクリク・オアシス地帯に足を踏み入れている。  ——行くこと十七日、計るに凡そ千五百里、善国に到る。この地は痩せており、俗人の衣服はほぼ中国と同じだが、毛織物であることだけが異っている。国王は仏法を奉じ、凡そ四千余僧が悉《ことごと》く小乗を学んでいる。  と、その紀行「法顕伝」には記されている。そしてここから法顕は北上して焉耆《えんき》国に向っている。この当時、楼蘭もミーランも沙漠の砂の中に埋まっていたのである。  更に下って七世紀になると、玄奘がインドからの帰途、この地帯に足を踏み入れている。彼はニヤ城から東行して大流沙に入っているが、この辺りの記述は「大唐西域記」中の圧巻である。足立喜六「大唐西域記の研究」の訳をお借りする。  ——此れより東行すれば大流沙に入る。沙は則ち流漫聚散して風に随う。人は行くに迹なくして遂に路に迷うもの多し。四遠は茫々として指す所を知るなし。是れを以って往来するものは遺骸を聚めて以って之れを記す。水草に乏しくして熱風は多し。風起れば則ち人畜は迷し、因って以って病を成す。時に歌嘯を聞き或は号哭を聞くことあり。視聴の間に然《こうぜん》として至る所を知らず。此れに由って屡喪亡するものあり。蓋し鬼魅の致す所なり。行くこと四百余里にして覩邏故国に至る。国は久しく空曠にして城は皆荒蕪せり。此れより東行六百余里にして折摩駄那故国に至る。即ち沮末の地なり。城廓は然たれども人煙は断絶せり。復《また》此の東北に千余里を行いて納縛波故国に至る。即ち楼蘭の地なり。 「大唐西域記」の一番最後の部分で、長く続いた玄奘の大紀行はここで終っている。玄奘の記している“納縛波国”は、おそらくノブ国であり、“楼蘭の地”というのはチャルクリク・オアシスであろうと思われる。  更に下って十三世紀にこの地帯を通過したマルコ・ポーロは「東方見聞録」の中で、チャルクリク・オアシスの町を“ロプ市”と呼んでいる。  ——ロプ市はロブ沙漠の縁辺にある大都市で、…………この大沙漠を横断しようとする人々は、この町で一週間の逗留をなし、家畜並びに自身の英気を養う。この休養期間が終ると、彼らは人畜の食糧一カ月分を携帯して、初めて沙漠の中に進発するのである。(「東方見聞録」愛宕松男氏訳)  そして旅人たちは一カ月かかって、怪奇と精霊の地帯を横切って、中国領・沙州に達するということを記している。“ロプ”は“ノブ”の転訛であろう。チャルクリク・オアシスの中心都邑“大ノブ”は、この頃ロプ市と呼ばれていたのである。  これ以後、この地帯の記録は、ヘディン、スタインの頃まで、何も見ることはできない。そして二人の紀行に於て初めて、チャルクリクという集落が登場する。ヘディンは“戸数およそ一〇〇の小さい集落”と記しており、スタインは一九〇六年十二月の楼蘭遺址調査の折、この集落を基地としたが、  ——チャルクリクは、県城とはいっても、ほとんど沙漠だらけといっていい地域に似つかわしい一村落にすぎなかったので、ここのごく限られた資源でもって準備を整えようとするのは、たいへんな難事業だった。(「中央アジア踏査記」沢崎順之助氏訳)  と記している。ヘディン、スタインの時から八十年ほど経っているが、現在のチャルクリクもあまり変っていない。町といっても、商店街があるわけではなく、閑散とした小集落であるに過ぎない。  以上述べてきたように、チャルクリク・オアシスに造られた善国の中心都邑は、往古は善国、あるいは納縛波国の名で、中世はロプ市、大ノブ、大善など、いろいろな呼び方をされているが、下ってヘディン、スタインの頃になると、チャルクリクという小集落が県城の所在地になっている。現在のチャルクリクである。大体この町ができたのは十九世紀とされているが、それまでになかった全く新しい集落が造られたのか、以前からあった集落に改めてその名が冠せられたのか、その点は判らない。  タクラマカン沙漠の多くの都邑は、河川の変動のために転々と異動しているが、善国の都の場合も、それから例外であろうとは思われぬ。おそらくチャルクリク河が造っているチャルクリク・オアシスの中を転々としているに違いないのである。そしてヘディン、スタインの頃からあとは、現在のチャルクリクの集落が、チャルクリク・オアシスの中心都邑としての座を保っているのである。  チャルクリクは中国語で若羌と呼ばれているが、これは全く新しい呼称ではない。「漢書・西域伝」に於て、まっ先きに紹介されているのは羌《じきよう》国なる国であるが、その古い国の名が、チャルクリク・オアシスの中心都邑の名として活かされているのである。  ——陽関を出て、一番近いところにある国は羌国である。西南に位置していて、大道には沿っていず、戸数四五〇、人口一七五〇、農業を営まず、牧畜に従事し、水や草を追って移動し、武器は弓、矛、剣、甲冑。 「漢書・西域伝」には、大体、こういったことが記されている。西域の片隅に位置しているが、当時の三十六国の中には組入れられず、特殊な待遇を受けている。往古のこの羌国がどこに位置していたかは判らないが、羌の“”は反抗を意味しており、“羌”は中国西方の未開遊牧民の称で、チベット系民族を指している。義理にもいい名前とは言えない。“羌”という字がついているので、往古の羌の集落はアルキン山脈の中に営まれていたのではないかと見られている。  今日、チャルクリクには“若羌”という字が当てられている。明らかに往古の“羌”という名の“”を“若”に改めたものである。この“”を“若”に改めたことによって、羌という呼称の持った否定的な意味はなくなっている。解放中国になってからの措置ではないかと思われる。  それはともかくとして、現在のチャルクリク(若羌)は、往古の羌国とは何の関係もないと見るべきである。その古い名を貰っただけである。ただ、この地帯はチベット系民族の居住地帯であったかも知れない。もしそうであるとするなら、多少の意味はなくはない。  それから今日のチャルクリクの集落が往古の善国の都であったとは断定できない。先述したようにそうであったかも知れないし、そうでなかったかも知れないのである。間違いなく言うなら、往古の善国の故地とでも言うべきであろう。 四十一 ミーラン遺址  五月二十一日、今日は一日休息をとりたいところであるが、スケジュウル通り東北八五キロのミーラン(米蘭)の遺跡に向うことにする。  風のしずまった時、招待所の広い敷地を歩く。敷地の隅に胡楊の枯れたのが積み上げられている。みな燃料である。タマリスクの根も積み上げられている。ひと抱えもあるその根の大きさに驚く。まるで赤松の幹みたいな根である。これも燃料にするらしい。  招待所の裏手にものほし場が造られているが、そこに使われている材木も胡楊であれば、敷地内に何本か立っている電柱も、みな胡楊である。みんな多少折れ曲っていて、真直ぐなのはない。  乾燥が烈しいのか、掌の皮膚のかさかさしたのが、一層ひどくなる。入浴できないことは、南道の町、どこへ行っても同じであるが、そのためではなく、やはり異常な乾燥度のためらしい。  九時出発、ジープ二台、招待所前の大通りは明け方と同じようにもうもうと砂埃りが立ちこめている。楡と胡楊の竝本を通って、すぐ耕地地帯に入って行く。チャルクリク(若羌)の集落そのものが農村なのである。  やがて耕地地帯にゴビが割り込んで来る。ゴビも砂埃りで烟っている。幾つかの十字路を通るが、どの辻も砂埃りが舞い上がっている。道の左右には一応緑の耕地が置かれ、泥土で固めた土屋が竝んでいる。老婆と幼児、娘たち二人、それぞれ家の前でジープを見守っている。風の中で生きる人たちである。その周囲で草木という草木は、みな揺れ動いている。  十分で、集落の竝木は切れ、完全にオアシスは終り、白いゴビの不毛地に入って行く。車をひいて行く驢馬の一団を追い越す。驢馬は朝から働いている。見晴かすアルカリ地帯に小さい沙包子、タマリスクが点々としている。そうしたところのドライブが続くが、やがて一木一草なきゴビ(戈壁)が拡がって来る。九時十五分である。  壮大なゴビを十分ほど走り続けると、また点々と沙包子が現れ出す。どの沙包子にもタマリスクが載っている。辺りはアルカリ性の白土地帯である。  が、すぐまたそうしたところを脱けて、何もないゴビに、また沙包子地帯に、そうしたことの繰り返しである。地面はずっと平坦、沙包子地帯にしても、沙包子と沙包子とはあまり密集していず、ゴビの装飾ででもあるかのように、ほどほどにおっとりと置かれている。密集している沙包子地帯の威圧感はない。  しかし、その密集している沙包子地帯が、左手遠くには続いているらしく、濃い緑が帯のように置かれている。砂が路上を走っている。ジープのフロント・グラスを通して、それが見えている。  三十五分、これまで真東に走って来た道は大きく左に折れ、先刻から見えている左手遠くの沙包子地帯に近づいてゆき、やがてそのただ中に入って行く。タマリスクの多くは枯れている。遠くから緑に見えたのは麻黄の株であったらしい。  沙包子地帯を脱けて再びゴビの中へ。動揺烈しく、車体はやたらに跳び上がる。どこかにしがみついていないと、頭が天井にぶつかる。砂は次々に路上を、右から左へと走っている。  いつかまた左手遠くに沙包子地帯が現れており、それが次第にこちらに近寄ってくる。反対側の右手の方は沙漠で、砂が風でもうもうと舞い上がっている。九時四十五分である。  やがて再び左右、ゴビになり、こんどは右手遠くの方に沙包子地帯が現れるが、やがてそれが背後に行ってしまうと、左右一望、何もない大ゴビの拡がりとなる。大ゴビのドライブ、いつまでも続く。ゴビに入ってからは、路上を砂が走ることはなくなる。  十時、ゴビ、小石多くなる。左右眼を遮るものなく、大ゴビのまっただ中を、ジープは五〇キロの速度で走り続ける。  十時二十分、路面に砂が舞い出す。ゴビも砂に烟っている。長い長いゴビのドライブが続く。空々漠々の疾走である。左手遠くにボーリングの塔らしいものが一つ見える。  十時三十分、ゴビのあちこちに巨石が置かれ始める。  十時四十分、道路工事の労務者のテントが幾つか左手に張られているのを見る。行手にオアシスの緑の帯、この頃からゴビには麻黄が、あちこちに顔を出し始める。やがてジープは前のオアシスの中に入って行く。チャルクリク県でただ一つの大きな農場のオアシスで、目指すミーランの遺址は、この農場から五キロの地点にあるという。きれいな集落が現れる。あちこちに建物が見え始め、みごとなポプラ竝木はどこまでも続いている。大きな農場である。通りには驢馬四頭の荷車、トラック、そして人間。  農場の招待所に入り、休憩。新疆維吾爾《ウイグル》自治区巴音郭楞《パインゴル》盟蒙古族自治州農墾局三十六団というたいへん長い名の農場である。人口八〇〇〇、農地二三万五〇〇〇華畝。この農場は一九六五年に造られたが、それまでここはミーランという人家数十戸の小さい集落であった。現在は大きな農場になっているが、土地の人の中には、依然として今もここをミーランと呼んでいる人があるそうである。“ミーラン”はウイグル語で、水草繁茂の意。とにかく曾てミーランと呼ばれていた小集落に、今は清潔で明るい農業大集落が営まれているのである。ここで昼食。  この農場から五キロのところに、スタインが発見し、羽根のある天使像が出てきたことで、世界的に有名になったミーラン遺址がある。今日はそこを訪ねるのが目的であるが、その前に農場幹部諸氏の説明を聞く。  ——私たちの知っている限りでは三つのミーランがある。これから訪ねるミーランは古い時代のミーランである。この農場は新しいミーラン、この方は五、六十年、長くても八十年ぐらいの歴史しか持っていない。最近まで百二十歳の老人が生きていたが、その人の話では、子供の時はもう一つのミーランに住んでいたが、河道の変遷と洪水のために住民はそこを棄て、方々に散った。が、その何分の一かの者が、今のこのミーランに移った。——その洪水のために棄てられたというミーランは、ここから三五キロ、タリム河の下流にあった。今もその跡は沙包子群の中に見られ、土煉瓦で造った余り高くない土屋や土塀などの欠片が点々と遺っている。タリム河の岸に位置しているところからみて、住民は農業ではなく、放牧によって生計をたてていたと思われる。私たちはこのミーランを第二のミーランと呼び、今住んでいるこのミーランを新しいミーランと呼んでいる。  ——第二のミーランが何年ぐらいの歴史を持っていたかは判らない。伝説では、往時はそこに非常にたくさんの人が住んでいたが、天然痘が流行して、ためにみなそこを棄てて、ホータン(和田)方面やイリ(伊犂)地方に移った。それで住民は少くなった。そうした不運な集落であったが、八十年ほど前に、こんどはタリム河の水がなくなって、一人も住めなくなってしまったのである。  ——古いミーランと第二のミーランの間に、なお幾つかのミーランがあったかも知れない。しかし、今のところでは、そうしたことは一切不明である。  農場を出て、ミーラン遺址に向う。土地の人が古いミーランと呼んでいるスタイン発見の遺跡である。特にここの仏寺の廃墟から出た有翼天使像はヘレニズムの東方における極限を示すものとして、この遺跡を世界的に有名なものにしている。悪路五キロ。殆ど道はなく、ジープは砂の堆積したところや、沙包子地帯の一隅を、大揺れに揺れてゆく。砂埃りの中のドライブである。二度、水をはじいて川を渡る。  やがて、ゴビ灘のただ中の遺址に入る。別に仕切りがあるわけではないので、気がつかないうちに、ジープはいつか遺跡の中に入ってしまっている。長さ八キロ、幅五キロ、かなり大きい都城址で、前に訪ねたホータン地区のセスビルの遺跡より大きい。大小の土の固まりが点々と置かれている。何の跡か判らないが、小山のような土塊もあれば、ストウパ(塔)の欠片のようなものもある。  遺跡の中心部に一段と高くなっているところがある。見張台とか望楼とか、そういったものの跡らしい。そこに登ってみる。風が強いので、帽子が何回も吹き飛ばされる。そこからの眺めは大きい。一望のゴビの拡がりのただ中に置かれている都城址で、右手にも、左手にも、遠くに建物の跡らしい土塊が点々と竝んでいる。有翼天使像の壁画の出た仏教寺院址も、どこかにある筈であるが、いずれにしても、みな砂の中に埋まってしまっているので見当がつかない。  遺跡地帯に隣り合せるようにして、大沙包子地帯が押し寄せて来ている。遠くからでは遺跡の欠片と沙包子との区別はつかない。  天気がよければ、この遺址からアルキン山脈がすぐそこに美しく見えるというが、今日はどこもかしこも砂で烟っているので諦める他はない。アルキンという山は一木一草ない岩山らしいが、まだ一度も、その山容に接したことはない。足もとの砂を手ですくってみる。白くきらきら光っている。石英が入っているのである。  北方に眼を向ける。東北方一七〇キロのところに楼蘭遺址は置かれてある筈である。楼蘭はロブ湖北辺、こちらはロブ湖南辺、二つの都城がいかなる関係にあったか正確には判らないが、同じ一連の古い西域文化が花咲いていたことだけは確かであろう。  東方に眼を向ける。見晴かすゴビの拡がりであるが、やがてそれは流沙地帯に変ってゆく筈である。法顕が敦煌を出て善国に向う途中、“上に飛鳥なく、下に走獣なし。……死人の枯骨を以て標識となすのみ”と記している地帯である。  スタインの発掘によれば、このミーランの都城は五—六世紀にいったん廃棄され、その後吐蕃の基地として再生、それからまたいつか砂の中に埋まってしまったのである。この城址の持つ歴史もまた容易ならぬものである。  再び農場の招待所に戻って休憩。農場の人たちと、いま見て来たミーラン遺址について話す。  ——歴史にでて来る善という国の都泥城がミーラン遺址であるという見方が一般に行われている。烽火台もあれば穀倉も発見されており、大きな屯田の跡も、遺跡の周辺から見付けられている。発掘遺跡から見ると、二万人の人が住んでいたと推定される。しかし、瓦石峡農場(昨日、昼食を摂った若羌西方の農場)から一五キロほどの地点に大きな遺跡が発見されており、この方を善国の都と見ている人もある。善国の都がいずれにあったか、両説があって、度々論争が行われている。  丁度この時、この地に来ていた新疆日報の記者・李簫連女史が姿を見せて、自分の考えを述べて下さる。  ——私の考えではミーラン遺址は当時の善国の都ではなかったと思う。遺址から判断する限りでは、城廓はそう大きくはない。都としては小さすぎる。寧ろ駐屯地伊循と見るべきではないか。都はチャルクリクの地あたりを想定すべきだと思う。「沙洲図経」という書物に“善の東百八十里に屯城あり、即ち漢の伊循なり”という文章がある。この文章から推定すれば、現在のチャルクリクの地が都、今日見るミーラン遺址が屯城ということになる。またいろいろな古書に、敦煌から善に向うに密蘭というところを通過せねばならなかったと記されている。その密蘭はミーラン遺址のことではないか。それからまたミーラン遺址の周辺に屯所の遺跡がある。これはミーラン遺址即伊循城の有力な根拠であると思う。それから善の都の方は、チャルクリクの地であれ、その他であれ、いずれにせよ、考古学的発掘によらねばならぬことである。当時の善国の規模は八〇〇〇戸、四万人である。善国は前七八年から五世紀中葉まで栄え、そのあと丁零《ていれい》という民族に亡ぼされているが、丁零がいかなる民族か、これまた不明である。それから唐の末期に、ウイグルがこの地に入って来、新疆地区はウイグル化して行くが、この期間のことは、中国の史書に記述はない。  この他、二、三の農場の人たちが発言したが、ここではそうした幾つかの見解の紹介を割愛する。往古の善国の都がどこであるか、その問題も大切であるが、それより一体当時の善人たちはどうなったか、その子孫はいないのか、そうした質問をしたい気持がこみ上げて来る。しかし、質問しても無駄である。誰にも判らないからである。  チャルクリクの招待所に引き返し、夜、“ミーラン遺址”という詩の草稿をノートに書きつける。この頃になって、ミーラン遺址の明るかったことを憶い出す。遺址というものは大体において、ある暗さを持つものであるが、その点、ミーランは例外であったと思う。たくさんの木乃伊《ミイラ》があの城址には埋まっていることだろうと思うが、そうしたことから来る特別な感慨はない。無常観などというものは、いささかもあの遺跡では成立しないようである。  ミーランが往古の善国の都・泥城であったか、その屯田地・伊循城であったか、いろいろな見方があるようだが、実際のところは誰にも判らない。それはともかくとして、カロシュティー文字やプラーフミー文字を用いた文書が出ており、仏寺の残骸からはガンダーラ式塑像や有翼天使を描いた壁画が出ている。高い文化を持ったしゃれた住民たちが、少くとも四世紀頃までは住んでいたのである。  五月二十二日、九時三十分出発、今日はチェルチェン(且末)に帰る。一昨日走った同じ道を、今日は逆に引き返すだけのことなので、見送りのジープを断り、ジープ一台にする。途中までチャルクリク側の人たちに送って貰い、途中までチェルチェン側に出迎えて貰うことは、実際に容易なことではないので、その申し出を断ったのである。郭さん、吉川さん、私の三人が同じジープに乗る。  招待所を出る。大勢の招待所の人たちに送って貰う。再会——また会いましょうという言葉を口から出すが、まあ、再び会うことはないだろうと思う。そんなことを思いながら次々に握手する。洗面器の水を何回も運んで来てくれたウイグルの娘さんたちに、心から感謝して、“再会”という言葉を口にする。  表通りは、朝のためか多少人通りが多い。驢馬の荷車、少女たちの原色の衣服。漢族の女の子はワンピースにズボン、ウイグルの少女の方はスカートが多い。自転車は少く、みんな歩いている。風が吹くと、メイン・ストリートの上を砂が流れている。驢馬の荷車の上には野菜、それが二、三台、路傍に竝んでいる。小さいバザールである。  町を出ると、すぐチャルクリク河、大乾河である。上流の方を見ると、薄い山容ではあるが、アルキン山脈が見えている。たいへん近い。チェルチェンでもアルキン山脈が見える筈である。ニヤ(民豊)では崑崙山脈になる。  ゴビのドライブが始まる。アルキン山脈、折重なって見えている。その前に低い丘がどこまでも長く連なって置かれている。  一時三十分、沙漠のまっただ中で、ジープ、砂に埋まる。折よく向うからトラックが来たので、車体に鎖をつけて引き上げて貰う。  一時五十分、チャルクリクから一五〇キロの地点で、大ゴビに入る。左右、見渡す限りのゴビの拡がりである。とたんにジープ動かなくなる。スプリングが折れたのである。この前にも、このジープはスプリングが折れたことがあり、それでも走ったので、たいしたことはないと思う。  そのうちに車体の下にもぐっていた運転手君の話では潤滑オイルがなくなっているという。自動車に関する知識の絶無の私には、何のことかよく判らない。  二時、うしろから道路工事のトラックが来る。新疆公路局のトラックである。チェルチェンに行くというので、郭氏、手紙を託す。しかしここからチェルチェンまで二〇〇キロ以上あるので、トラックがチェルチェンに着くのは五時間先きになる。それから迎えのくるまが来るのに、また五時間、従って早く見積っても、救援車が来るのは十時間先き、夜半になってしまう。腹をきめる。ジープの中で眠ったり、ゴビの中を散歩したりする。  二時間ほどして、チェルチェンの方から二台のトラックがやって来る。その一台にチャルクリク県宛ての手紙を託す。チェルチェンに連絡し、チェルチェンから救援車を派するように依頼して貰う文面である。  それにしても朝から小用にゆかぬことに気付く。水分は全部皮膚から蒸発しているのであろうか。  五時、大ゴビを見渡すと、その度にどこかに竜巻が立っている。多少不気味である。そのうちに風が烈しくなり、砂が舞い出す。立ち往生、すでに三時間。しかし、救援車を待っている以外、術はなさそうである。出発の時、見送りのジープを断ったことがいけなかったと思うが、すべてはあとの祭りである。一日五〇キロとして、歩いて帰るとチャルクリクまで三日、チェルチェンまでは四日かかる。こんどの南道の旅で、今日初めてジープ一台にしたら、早速この災難である。やはりこの地帯の一台のドライブは無理である。  運転手君、車体の下にもぐったり出たりして、一人で奮闘しているが、どうにも手の打ちようがないらしい。車体は到るところ壊れており、動かないのは一つの原因ではないようである。  五時四十分、道路工事のトラックがやって来る。運転手と若者たちがくるまから降りて、修理を手伝ってくれる。到るところがたが来て、ねじがゆるんでいるらしい。まあ、当然だと思う。みなでタイヤを外して、大修理をやっているが、多少心配にならぬでもない。みんなくるまを壊してしまうのではないかと思う。  八時二十分、まだ陽がある。早い夕食を摂る。パインアップルの大きな罐詰を一人で全部食べてしまう。パンと羊の白い脂、たいへん美味しい。夜半、大風にでも吹かれると、どんなことにならぬとも判らないので、腹ごしらえだけはしておかねばならぬと思う。  食後、ゴビを歩いて、いろいろな色の小さい石を拾う。どれもなめらかな表面を持っていて、たいへん美しい。結局は無駄だった長い車体の修繕を打ち切り、手伝ってくれたトラックの若者たちは、みんな自分のくるまに乗り、何か叫びながら手を振って出発して行く。  ゴビを歩いていると、ひえびえとしてくる。九時十分、落日。美しい落日を見ながら、ゴビに腰を降ろして、ブランデーを飲む。  九時二十分、昼間手紙を託した公路局のトラックがやって来る。このトラックは結局はチェルチェンには行かず、途中の道路工事の事務所から、チェルチェン県の事務所に電話をかけたが、どうしても通じなかったという。  トラックの男たちは受信機を持って来ており、ここで電話線に電話を結びつけるから、直接話すようにと言う。そしてゴビの中の電信柱に一人が攀じ登る。しかし、結局はこれもだめ。軍の電話を使っているが、なかなか通じないという。そうした作業を遠くから見ている。妙に虚しい風景である。いずれにしても、今日昼間の二時に起った事故が、未だにチェルチェンに通じていないのである。奇妙なことだと思う。チャルクリクヘの手紙もトラックに託しているが、この方も当てにはならぬという気がする。本来、事故というものはこのようなものなのである。結局のところ、今夜はゴビで一夜を明かすことになりそうである。大ゴビの夜がいかなるものか、多少の興味はなくはない。  十時、ライトをつけたジープがチェルチェンの方からやって来る。チェルチェン県のジープである。チェルチェンから八〇キロの地点で、われわれのジープを迎えるために待機していたが、いつまで経っても来ないので、しびれを切らして、到頭ここまで出向いて来てしまったのだという。公路局の人たちを混じえて、数人であれこれ相談の結果、動かないジープと運転手君を公路局の措置に任せ、郭、吉川両氏と私の三人は、迎えのジープに乗り込んでチェルチェンに向うことにする。  八時間ぶりで、ゴビを走る。猛スピード、十一時四十五分にゴビのただ中で休憩、北斗七星が美しい。白い半月が美しい。チェルチェンまであと一〇〇キロの地点である。虫の声のようなものを聞く。そのことを誰かに言うと、そんな生きものの声は一切聞えない筈だと言う。そう言われてみれば、そうかも知れないと思う。  十二時三十分、こんどこそ本当のチェルチェンからの迎えのくるまがやって来て、それとぶつかる。チャルクリクからの電話で事故を知って、救援のために急行して来てくれたのである。中国撮影班の若者三人、くるまには防寒具と、水と、食物が積み込まれている。  ゴビでまた休憩。ビールを飲んで、月を眺める。月が暈《かさ》をかぶっているので、明日は風が強いという。ジープを乗り替える。車体は、こんどのジープの方がいいそうである。再び出発。  一時三十分、沙漠の上で立ち往生、タイヤが砂に埋まってしまったのである。まただめかと思ったが、どうにか自力で、強引に砂の中から飛び出す。  夜半、寒さが加わり、足許が寒くなる。暖房を入れて貰う。日本のくるまの有難さである。ゴビで、あの故障ジープの中で過すとなると、さぞ寒かったろうと思う。動揺の烈しいくるまの中で眠る。  二時十五分、チェルチェン招待所に入る。NHKの田川氏、和崎氏、共に起きてくれる。洗顔、四時までブランデー。なかなか充実した一日であったと思う。 四十二 柳絮舞う旅の終り  五月二十三日、七時起床、昨夜はNHKの田川純三、吉川研両氏と四時まで駄弁っていたので睡眠は三時間程しかとっていないが、ふしぎに疲労感はない。招待所の庭を歩く。快晴、無風。昨夜ゴビで暈をかぶっている月を見ているが、にも拘らず珍しく無風である。日本では月が暈をかぶると、雨が降ると言われるが、沙漠地帯では風が出るということになっている。  今日は十一時発の飛行機でウルムチ(烏魯木斉)に向う。十時に朝食、そのあと招待所の全員とカメラに収まる。チャルクリク(若羌)の招待所はどこか旅籠《はたご》の感じがあって、敷地内を旅行者らしい人たちがぶらぶらしていたが、ここチェルチェン(且末)の招待所の方は清潔で、さっぱりしている。宿泊者は私たちだけである。結局ここには前後五泊したことになる。毎朝たっぷりと牛乳を飲ませて貰ったと思う。  十一時少し前に招待所を出る。大勢の人たちの見送りを受ける。辺境で生きる人たちとの別離、本当の別離である。どうぞ一生お仕合せに、そういった気持である。再び相会うことがあろうとは思われぬ。  空港はくるまで招待所から三分ほどのところにある。集落続きの耕地の一隅にある小さい飛行機乗り場である。広場に飛行機が一台置かれてあり、その前でジープを停める。大勢の大人や子供たちが、機を囲むようにして群がっている。飛行機が珍しいのである。チェルチェン—コルラ(庫爾勒)間は、先月開通した許りの航空路で、週に二回就航することになっており、私たちは外国人としては最初の搭乗である。あとに残るNHK撮影班の人たちはジープでコルラに向う予定なので、当分この機の御厄介になる外国人はないだろうと思う。  乗り場の傍に“且末航站”なる建物が一つある。待合室兼事務所なのであろうが、そこに入る必要はない。ジープを降りたら、すぐ機のタラップを踏めばいい。  田川氏や中国側の人たちが見送りに来てくれたので、タラップの上から手を挙げる。群がっている大人や子供たちも、それに応えてくれる。なかなか明るい別れである。  コルラまで四〇〇キロ、ウルムチまでは七五〇キロ。イリューシン14、三〇人乗り。三十年ほど前の、あの昔の型の飛行機である。いよいよ二週間滞在した西域南道とのお別れである。  離陸、あっという間に簡単に上がる。高度三〇〇〇メートルぐらいか。機内は満席である。初めから多少揺れる。気持の悪くなる乗客が多い。郭さんも吉川さんも気持が悪くなる。  十一時四十五分、コルラ着。五十分休憩。“コルラ”は、ウイグル語で“緑の地”という意味である。数百年の歴史を持つ集落であろうか。空は紺碧の青さ、陽の輝きも盛夏である。暑い。空港はとめどなく広く、非常に大きい敷地をぐるりとポプラが取り巻いており、遠く東に低い山脈、北に大きい山脈が見えている。おそらく天山の支脈であろう。沙漠のただ中の多少とりとめない感じの空港である。  二時三十分、離陸。ウルムチまで三五〇キロ、一時間五分の予定。すぐ沙漠の上に出る。大きい川と大きい池が見える。真直ぐに天山に向う。やがて小さい前山の背を越して、平地の上に出る。耕地、そして漠地、次に再び大耕地地帯が拡がって来、機はずっとオアシス地帯の上を飛ぶ。前にまた天山の一支脈が現れてくる。天山は幅四〇〇キロに亘る山脈の束である。稜線が描いている幾つかの頂きに、雪が僅か置かれている。機は少しずつそれに近付いてゆく。  やがて動揺がひどくなり、突然、降下、ベルトがないので、椅子のどこかにしがみつく。また落ちる。どこまでも落ちてゆく感じである。乗客、顔色なし。しかし、機はそのまま真直ぐに天山に向い、天山の雪の山稜群の上に出る。尾根、尾根の上の白い雪と青い空が眼に入って来るが、機は何となく低いところを徘徊している感じで、余り気持はよくない。すぐそこに見えている山塊群の稜角という稜角にはすべて雪が置かれ、その上を雲が流れている。  三時、機は山脈の一つを越えつつある。雪の稜線は次第に遠くなり、下には雪のない山塊群が拡がっている。雲が流れている。また落ちる。そして落ちたまま新しく現れてきた大山塊群の上に出る。山稜すべて雪に包まれていて壮絶である。  三時三十五分、雪山がすぐ下に見えているその上を飛んでいる。何となく雪の山塊群の上をふらふら散歩している感じである。悪気流を避けての飛翔《ひしよう》であろうか。  四十分、漸くにして天山山脈を全く越え終り、盆地の上に出る。天山を越えた以上、一気にウルムチ空港を目指す筈であるが、ウルムチ空港への入り方はいつもとは異っている。天山を右に見たり、左に見たりしながら、いつまでも盆地の上を飛んでいる。五十分、まだ耕地の上を飛んでいる。よほど西の方で天山を越えたものと見える。  四時、ウルムチ空港着。三十分の延着である。乗客はみんなほっとしている。郭宝祥氏は機が落ちた時、天井に頭をぶつけたという。  久々でウルムチ招待所に入る。夕食後、すぐ寝台に身を横たえる。さすがに南道の旅と疲れと、夜の寒さで、寝苦しい一夜である。  五月二十四日、八時起床、目覚めた瞬間、ここは南道ではないのだと思う。窓を開けると快晴、風も吹いていなければ、砂も舞っていない。ひどく贅沢な、安穏な世界に身を置いている思いである。  午前中はベランダに洗濯ものを干す。柳絮《りゆうじよ》が舞っている。吉川さんと広い敷地を散歩する。ポプラの竝木が美しい。楡の大樹の種子が雨のように落ち、地面に落ちてからも、さらさらと音をたてて走っている。どこを歩いても、それが舞っている。この招待所のポプラは勿論、楡の木の数も大変なものである。ライラックは薄紫の花を着けている。もうとうに盛りは過ぎているが、それでもまだ匂っている。  午後、ロイヤルゼリーを買いに町に出る。十字路から雪のボゴダ峯を望む。いつか行った天池は、ボゴダの麓にあるので、今はさぞすっかり雪山に包まれた池になっていることであろうと思う。町の中心部に入ると、例の丘の上の塔《せんとう》が見える。小さい塔であるが、ああ、ここはウルムチだという感を深くする。  招待所に帰って、日向ぼっこをする。日中は暑いくらいであるが、夜は冷える。今夜は寝台の毛布を二枚にして貰うように交渉する。  夜は日記の整理。風の吹き荒れているチャルクリクの夜とは異って、ただひたすらに静かである。詩をノートに書きつける。  五月二十五日、六時起床、入浴。朝食前、吉川さんと広い敷地を散歩する。今日は二時五十分ウルムチ発の北京行列車に乗ることになっている。三泊四日の列車の旅である。新疆地区から甘粛省に入り、それから陝西、河南、河北の三省を経て、北京まで三七七四キロ、通過駅七四、所要時間は七十六時間十七分である。料金は三百二元、飛行機の四百八十元より、大分廉くなる。  荒い西域の旅のあと、三泊四日の列車の旅となると、更に疲労が重なるかと思われるが、敢て列車の旅を選んだのは、西安から天水を経て、蘭州へ入る往古の往還を眼に収めておきたかったからである。列車が走る渓谷を、往古のシルクロードは走っていた筈である。この際思いきって、たとえ列車の窓からでも、そこを見させて貰おうと思う。これで何年かに亘ったシルクロードの旅も、完全に終りになる筈である。わが儘ではあるが、郭、吉川両氏につき合って頂くことにしたのである。  二時に招待所を発って、駅に向う。駅は高台にあって、正面にボゴダ峯が見える。なかなかいい場所を占めている。広い待合室も、プラットホームも、大勢の乗客でごった返している。ウイグル族、漢族、その他の少数民族が入り混じっている。  列車に乗り込む。列車は新しく、車室もきれいである。四つの寝台の個室を、吉川さんと二人で占領、郭さんは隣室。  定刻に発車。一時間程して気付くと、列車は雪の天山を左手に見ながら走っている。天山が左手に見えているのであるから、いつか列車はウルムチ盆地から天山の南側に出たのであろう。  最初の停車駅・塩湖站(駅)を過ぎると、間もなく右手に塩湖が現れる。大きい湖である。  四時三十分、左に天山、右手は岩山の連なり。岩山の方は近く、その裾がいい遊牧地になっていて、羊の大群がばら撒かれている。この地帯には胡楊が多く、どれも不気味な恰好をしており、中にはいもり《ヽヽヽ》のような形をしたのもある。  やがて両側とも岩山となり、岩山と岩山との間の渓谷を、列車は走り始める。渓谷の底には小川。トンネルが多く、長いトンネルもある。そのうちに渓谷が少し開け、両側の岩山は遠くなり、列車は高原風のゴビを走り始める。  五時、天山駅。塩湖に次ぐ二回目の停車駅である。列車内は二十八度。夕食は六時とのこと。これまで夕食は八時か九時だったので、暫く切り替えに戸惑うことだろうと思う。時差のため明日あたりまでは、ひどく明るい夕食になる。  次の停車駅トルファン(吐魯番)に近付いて行くためか、やたらに暑くなる。列車は大丘陵地帯を割っていたが、やがて大ゴビ灘《たん》に出る。  六時、トルファン駅。駅は町より四〇キロ離れているので、火焔山は見えない。四囲をすっかりゴビに取り巻かれている駅である。ここからコルラまで南疆鉄道が通じているが、まだ正式には開通していない。  トルファン駅より一時間程の間、左側、つまり天山側は重畳たる山の重なりで、高処にはそれぞれ雪が置かれている。右側の山は遠く、低い。二つの山系の間を大ゴビが埋め、そのただ中を、列車はひた走りに走っている。列車の食堂に於て、列車の旅の贅沢さと有難さを、身に沁みて感ずる。  七時十分、七泉湖駅。八時二十分、善駅。善駅は大きく、その構内には町の人たちが溢れている。町の人たちの夜の集り場所にでもなっているのかも知れない。プラットホームをぶらぶらしている町の娘さんたちは、なかなかおしゃれで、パーマにハイヒールといったのも居る。  善はトルファンの東一四〇キロの地点にある大きな集落である。火焔山の麓の真珠と呼ばれたり、果物の故里と言われたりしているが、まさにそのような集落らしい。小麦、白い実の高梁《こうりやん》、ハミ瓜などの産地として知られており、ポプラ竝木も多く、果樹園も多い。  もちろん善という名は清朝時代につけられたもので、漢書に登場する往古の善国とは全く無関係である。善と命名される以前、この集落がいかなる名で呼ばれていたか知らない。ここ百年ぐらいの間に生れたウイグル族の大定着地なのであろう。  この善あたりから、天山山脈は次第に遠く、低くなって行く。東西二〇〇〇キロに亘る大天山も、この辺りになると東端部の尻尾とでも言う他はない。しかし、その尻尾はまだ蜒々《えんえん》と続いている。  やがて日没、依然として列車は大ゴビの中を走り続けている。八時頃、寝台を作って、身を横たえる。すぐ深い眠りに入る。  五月二十六日、七時半、目覚める。昨夜は完全に熟睡し一度も目を覚ましていない。依然として列車は、ゴビの中を走り続けている。それにしても深夜三時八分のハミ(哈密)駅を全然知らなかったのは残念である。深夜のことなので集落のたたずまいは知るべくもないが、せめて駅の構内だけでも歩いておきたかったと思う。  八時、柳園駅。一昨年の五月、最初の敦煌訪問からの帰途、この駅から蘭州行の列車に乗っている。  九時四十分、布隆吉駅を通過。布隆吉は酒泉—安西間にある有名な強風地帯で、この辺りはジープで四回走っているので、まさに曾遊の地に他ならない。ここ許りでなく、この辺りからは、昨年十月と一昨年五月と、二回に亘って往復した地帯になる。こんどはゆっくりと車窓から見物させて貰うことにする。雪の連《きれん》山脈が美しく見え始める。  十時十分、オアシスに入る。前山の背越しになった雪の連を倦かず眺める。  十時二十五分、疏勒河駅。昨年、神出鬼没の疏勒河の川筋をあちこち追い掛け廻したことを思い出す。駅から一キロぐらいで鉄橋を渡る。  十二時三十分、依然として雪の連山脈の連なりが美しい。玉門鎮を過ぎ、嘉峪関《かよくかん》近くなると、ずっと続いていた連山脈は一層美しくなり、その反対側に、馬《ばそう》山山系の例の黒い化物のような岩山が現れ出す。  二時、嘉峪関、二時三十分、酒泉。酒泉からあとは、昨年常書鴻氏(敦煌文物研究所長)やNHKの和崎信哉氏等と一緒に、張掖を経て、武威までジープで走らせたコースである。  三時四十分、清水駅。連山脈は、手にとるようにすぐそこに見えている。列車は相変らずゴビのただ中を走り続けているが、河西回廊を埋めているのは黄土なので、この地帯のゴビは大体薄黄色を呈している。中国の人は河西回廊のゴビを偽ゴビと呼び、本当のゴビは新疆地区に入らないと見られないとしている。確かにタクラマカン沙漠周辺のゴビの土壌は泥でなくて砂である。それにしても、この河西回廊の偽ゴビには、なんとたくさんの小さい麻黄がばら撒かれていることか。麻黄ばかりである。タマリスク、芦、胡楊などは殆ど見掛けない。  依然として雪の連は続いている。いつか前山に下半分匿されているが、おそらく全山雪に覆われていることであろうと思う。  四時四十分、高台駅。右手の連山脈は大きな黒い前山のために全く見えなくなり、左手にはゴビを隔てて遠くにオアシスの緑の帯が見えている。その緑の帯の中に高台の集落も匿されており、昨年ドライブした道も匿されているのであろう。  五時十分、長く続いた黒い前山の稜線は漸く低くなり、その向うに再び雪の連山脈が姿を現す。依然として連は雪に覆われて、真白である。前山も遠く、従って連も遠くなる。  五時十五分、臨沢駅。駅の附近は大オアシスで、その中に土屋の大きい集落が置かれ、沙棗の木が多い。ここも昨年通過している。  五時四十分、平原堡駅。集落はなく、駅だけである。駅のポプラが大きく風に揺れている。張掖まであと二十分。連は遠く、反対側の馬山山系の連なりが近くなる。水田が多く、水田がなくなると、一面の小麦畑。見るからに肥沃な地帯、張掖の大オアシスである。この地帯で見る馬山山系は、なかなか美しい岩山の連なりである。たくさんの襞《ひだ》を持った岩山が、陽の加減か薄紫色に見えている。一望の緑の野、あちこちに桑の木。  六時、張掖駅。プラットホームを歩く。大勢の女性駅員が大きなブラシで、列車の車体や窓硝子を洗っている。長い沙漠、ゴビの旅で、車体全部が砂埃りをかぶっているのである。駅の近くに多少の農家は散らばっているが、昨年一夜を過した張掖の町は、この駅より五・五キロ隔たっている。  六時四十分、西屯車駅。馬山山系は近く、すぐそこに見え、山頂には僅かな雪。連は遠いが、連側にはオアシスが拡がっており、馬山側の方は不毛地である。  張掖を過ぎると、馬山山系を背景にして、長城の欠片が続く。去年ジープで走った竝木道を車窓から探す。連は遠いが、依然として雪の山脈である。雪の面が夕陽に輝いて美しい。  七時二十分、山丹駅。小さい駅である。この辺りで、往古匈奴の根拠地であった焉支山と思われる孤立した山を、カメラに収める。  武威は十一時半。いつか眠っていて、武威駅についたことは知っていたが、そのまま眠ってしまう。  五月二十七日、五時に目覚める。列車は天水駅に入っている。ここはまだ甘粛省、ここを最後に列車は陝西省に入って行く。眠っているうちに蘭州は通過してしまっているのである。  天水は今は全くの山間の集落であるが、古来東西交通の要地、中原防衛の要衝として、歴代の王朝によって重要視されて来たところである。  町を出るとすぐ、おっとりした渭水《いすい》の流れが眼に入って来る。両岸には樹木はなく、大きな中洲を抱えた赤味を帯びた流れは、堂々たる大河の貫禄を持っている。川幅は三〇メートルぐらいであろうか。西安郊外で見る渭水より大きい感じである。この渭水なる川は甘粛省東南部の山地より発して東流、陝西省に入り西安の北を経て、潼関《どうかん》に於いて黄河に合流する。全長八六〇キロ、古来度々、長安(現在の西安)と潼関方面を結ぶ運河として利用されている。  天水駅より機関車が二台になる。山岳地帯を越えるのであろう。果してトンネルが多くなり、トンネルを出たり、入ったりする。  天水の次は小さい駅。土屋の小さい集落の向う側に、渭水の黄色の流れが置かれている。見ている限りでは、土屋が寄り添っている集落のたたずまいもいいし、渭水もいい。土屋も渭水も同じ色で、区別がつかぬくらいである。  渭水は限を当てる度に折れ曲っていて、真直ぐに流れていることはない。折れ曲り折れ曲っている渓谷の底を、渭水は流れ、流れているのである。  次は伯陽車駅。ここも両側を山に挟まれた渓谷の集落。山の崖下に駅があって、駅から渭水の岸に拡がっている集落を見降ろすことができる。流れの向う側の山の斜面には段々畑が作られてあって、春先きなどは堪らなくのどかな、いい集落であろうと思う。しかし、この集落の夜を想像してみると、山峡の小集落であるだけに、これはこれで堪らなく淋しい。ここの渭水は、天水の渭水より川幅は狭くなっている。  が、集落を出ると、渭水はまた大きい川幅を持つ。中洲の河原が流れの何倍かの大きさになっており、流れは相変らずゆったりと、折れ曲り折れ曲っている。川幅は三〇メートルぐらいであろうか。しかし、大部分が洲になっていて、流れはその何分の一かである。  ここに限らず、この辺りの集落の土屋は少し赤味を帯びており、黒い瓦の屋根を持っている。瓦の屋根を持つということは、雨が多い地帯なのであろうか。いずれにしても、土屋が瓦屋根を持ち出すのはこの辺りからである。  赤土の大きな禿げ山に挟まれた渓谷は続き、その底を渭水は流れている。従って山の土をとって造る土屋も赤く、その土の流れ込む渭水の流れも赤いのである。渭水は青味などはみじんもない薄赤い流れになっており、蜒々と西安を目指して流れて行くのである。  またこの辺りの渓谷の駅は、構内に白い石と細い木材を積み上げており、いかにも渓谷の小駅といったたたずまいである。渭水に沿って、河原の集落は次から次へと現れて来るが、いずれも洪水の時流されそうに危く見える。トンネル、またトンネル。トンネルを出ては渭水を見、渭水を見てはまたトンネルに入る。  七時頃から、同じような渓谷ではあるが、赤い色の山に次第に樹木が生え出し、少しずつ青い山に変ってゆく。下流に向って左手の山の裾を鉄道は走っており、それに対い合っている岩山の裾を、次から次へと渭水は洗って流れているのである。そして渭水の広い河原に集落は営まれている。これほど河原の集落がたくさんあるところを知らない。どの集落も河原の集落独特の表情を持っている。そして渭水はそれらの集落を抱くようにして、赤い流れを帯のように置いている。  七時二十分、相変らず赤い岩山に挟まれた渓谷を、渭水は折れ曲りながら流れている。いつ見ても折れ曲っている。これほど折れ曲って流れている川は少いのではないか。河原に集落があるのは、他に集落を営む場所がないということであろうか。やはり渭水の流れの水が必要なのであろう。それにしても洪水の時はいかなることになるであろうかと思う。  豊《ほうち》駅。ここは大きな町。この駅で列車がからっぽになるのではないかと思うほど、沢山の乗客が降りてしまう。  この辺りから体が熱っぽくなる。ノートをとるのをやめて、寝台に横たわっている。絶えず睡気が襲っている。南道疲れなのである。この日一日、そうした状態が続く。  五月二十八日、列車に乗ってから四日目である。西安は昨夜半、洛陽は今朝通過した筈であるが、すっかり眠り込んでいて知らない。九時、列車は大沃野を走っている。眼を遮るもののない一望の大オアシスである。九時二十五分、列車は鄭州駅に入る。大きな駅である。列車は鄭州駅から暫く逆の方向に走り、間もなく黄河南岸駅を通過して、すぐ大黄河の鉄橋を渡る。川幅は何キロか、見当がつかないほど大きい。カメラを構えて、次々に南岸からシャッターを切ってゆくが、数枚では収め切れない。大部分が薄赤い洲になっており、ところどころに青い流れを見る。両岸は両岸で、のびのびと展《ひら》けた大沃野である。  車掌さんに求められて、ノートに短い文章を書く。  ——ウルムチから北京までの三泊四日の列車の旅は、私の生涯での楽しい思い出になるでしょう。雪の天山、雪の連山、河西回廊の大ゴビ灘、渭水の上流の渓谷、そして古い都の西安、洛陽。鄭州附近の一望の沃野、そこを流れる大黄河、——この楽しい旅を支えて下さったのは、従業員諸氏のあたたかいサービスであることは言うまでもありません。車室もきれいで、洗面所も常に清潔でした。食堂のごちそうも、たいへん美味しかった。何もかも満点です。有難う、有難う。  強《あなが》ちお世辞ではない。このような列車の旅をして、四日目の最後のコースに入ったのである。河南省の安陽を十二時過ぎに通過して、河北省に入り、邯鄲《かんたん》、一時十六分、一路河北平野を北上する。一望の小麦畑が拡がり、左右共、全く山影はない。沿線にはポプラが多く、枝垂柳もたくさんある。土屋の集落点々、樹木の緑と土の赤。  鉄道に平行して、京漢公路が走っている。河北省を縦に割っている大街道である。車窓からその街道に眼を当てると、いつも車を引張っている馬、驢馬、駱駝などが見られる。さすがに賑やかな街道である。街道はアスファルト舗装のところが多く、青い畑の中を一本の黒い帯となって走っている。小学校の生徒、女学生、荷車、赤いバス、駱駝、郵便自動車、自転車、いろいろなものが通っている。  三時四十五分、石家荘駅。この町は七十年の歴史の新興都市である。石家荘の町の手前で、それまで平行していた京漢公路から離れて、線路は大きく曲って行く。駅のための迂回である。駅では太原、済南行の列車と竝んで停車。駅を過ぎて暫くすると、また前の街道と平行する。  河北平野も北になると、楊柳が多くなる。この平野はさすがに広大な大沃野で、ずっと見ていて、少しも倦きない。点々と配されている村々の茂りの美しさ。  街道のところどころで駱駝を見掛けたが、一体駱駝などは、鄭州から北京まで何日を要するのであろうかと思う。  河北平野のところどころに、地下水を汲み上げている小さい四角な建物が見られる。用水ポンプのステーションなのであろう。殆ど川らしい川を見ないので、灌漑は地下水に頼るしか仕方ないのである。平野は概して赤味がかった黄土である。  定県、四時五十三分。下車客が多い。ここは大きな都市で、遠く町の方に高い仏塔らしいものが見える。  保定、五時四十一分、良郷、七時三十六分、豊台、八時、——一日中、豊饒な河北平野と付合い、夜の八時半に北京に到着して、ここに三泊四日の長い列車の旅を終る。  五月二十八日、北京の民族飯店で久しぶりの入浴。この旅での最初の休養らしい休養をとる。二十九、三十、三十一の三日間は、それぞれ夜は招宴でふさがっているが、昼は外出しないで、専ら日記の整理。動揺の烈しいジープの中でとったノートの文字を判読しながら、それを別のノートにうつし替える。  六月一日、北京を発って、帰国、丁度一カ月に亘った旅を終る。深夜、東京の自宅の書斎でブランデーを飲みながら、これで五十二年からずっと毎年のように続いて来た中国辺境の旅を終りにしようと思う。玉門関、陽関の址にも自分の足で立ち、河西回廊もジープで走っている。敦煌も二回訪ねている。新疆地区には三回入り、天山も飛行機で六回越えている。タリム河にも船で浮かんでいるし、こんどはこんどで西域南道の流沙に埋もれた古い町々を訪ねている。  もうこれでいいと思う。曲りなりにも若い日の夢は一応果したことになる。こうしたことができたのは、すべて中国側の考えられぬほど大きい好意に支えられてのことであった。考えてみると、日本、中国を問わず、実に大勢の人の世話になっている。申し訳ない気持である。この辺で引きさがらないと罰があたるだろうと思う。  もうこれでいい! チャルクリクの終夜吹き荒れる風の音を思い出しながら、静かな東京の夜の書斎で、そんな思いを持つ。 単行本 昭和五十八年十月文藝春秋刊 文春ウェブ文庫版 私の西域紀行(下) 二〇〇一年九月二十日 第一版 著 者 井上 靖 発行人 堀江礼一 発行所 株式会社文藝春秋 東京都千代田区紀尾井町三─二三 郵便番号 一〇二─八〇〇八 電話 03─3265─1211 http://www.bunshunplaza.com (C) Fumi Inoue 2001 bb010903