TITLE : 私の西域紀行(上) 〈底 本〉文春文庫 昭和六十二年六月十日刊 (C) Fumi Inoue 2001  〈お断り〉 本作品を「文春ウェブ文庫」に収録するにあたり、一部の漢字が簡略体で表記されている場合があります。 また、差別的表現と受け取られかねない表現が使用されている場合もありますが、作品の書かれた当時の事情を考慮し、できる限り原文の通りにしてあります。差別的意図がないことをご理解下さいますようお願い申し上げます。 〈ご注意〉 本作品の全部または一部を著作権者ならびに(株)文藝春秋に無断で複製(コピー)、転載、改ざん、公衆送信(ホームページなどに掲載することを含む)することを禁じます。万一このような行為をすると著作権法違反で処罰されます。 目  次 口絵写真 撮影 井上 靖 一   ウルムチへ 二   木乃伊と木簡 三   セリム湖の輝き 四   イリ河 五   トルファン街道 六   交河故城の落日 七   ベゼクリク千仏洞 八   崑崙の玉 九   セスビル遺跡 十   于国はどこか 十一  敦煌への思い 十二  河西回廊 十三  葡萄の美酒、夜光の杯 十四  幻の海 十五  大きく盛んな町──敦煌 十六  玉門関址に立つ 十七  陽関への道 十八  莫高窟 十九  火焔山ふたたび 二十  カシュガル入り 二十一 ゴビの中の町々 二十二 崑崙の川、パミールの川 二十三 タリム河に遊ぶ 二十四 亀国の故地 二十五 アクスにて 章名をクリックするとその文章が表示されます。 私の西域紀行(上) トルファン県に残る高昌故城。土の城市は千数百年の歴史を伝える。 美しいセリム湖畔の放牧場で、カザフ族による歓迎の馬術競技が開かれた。 天山北路でいちばん大きな町・ウルムチに残る古い家並。 一 ウルムチヘ  八月十五日(昭和五十二年)、五時三十分起床、大型鞄二個、部屋の外に出す。新疆《しんきよう》滞在が半月ほどになるので、荷物は全部携行することにする。洗顔して窓を開ける。快晴、太陽昇りつつある。  六時四十分、北京飯店を出発、勤めに出る自転車の洪水の中を行く。街路樹のポプラの葉が陽にきらめいて美しい。日中は暑くなるであろうが、今は二十七度。北京秋天という言葉を思い出す。それほど天は高く、澄んでいる。  自動車には、私の他に日中文化交流協会の白土吾夫、佐藤純子両氏が乗っている。佐藤さんは最近相続いて喪《うしな》った御両親に、こんど行く新疆ウイグル自治区のことを度々話していたので、お二人を同行させるような気持で、小さい遺品を二つ携行して来たという。どこかで月を観たい、そんな話が出る。トルファン観月か、ホータン観月か、まだみない“異域”の月光が、瞬間、思いをよぎる。  今日は八月十五日、敗戦の日である。白土氏は東京に居り、佐藤さんは山形で小学校五年生だった由。私は私で毎日新聞社大阪本社の社会部の席で、「終戦の詔 勅《しようちよく》を拝して」という文章を書いたことを思い出す。それからいつか三十二年の歳月が経過している。それにしても西トルキスタンのサマルカンドに初めて自分の足で立ったのは六十歳の時、こんどの新疆入りは七十歳、若き日の夢を果す、なんと難きことか。  言うまでもないことだが、招かれての中国の旅である。中国に招かれるのは七度目で、最初の中国訪問は二十年前である。その間、新疆地方のことを度々口にしていたので、そんなに関心を持つところならばと、中国側みんなの好意で、こんどの旅が実現したようなものである。  自分ひとりのこと許《ばか》り言ったが、一行十一人、みな同じような立場で、同じような思いであるに違いない。一行は中島健蔵夫妻、宮川寅雄、東山魁夷《かいい》、司馬太郎、藤堂明保、團伊玖磨、日中文化交流協会の白土吾夫、佐藤純子、横川健の諸氏、それに私。新疆族の集りとでも言いたい顔触れである。  空港の食堂で朝食、朝のひえびえとした空気が気持よい。北京から同行して下さる孫平化氏が、 「北京はもう秋ですが、これから行くところは夏も夏、夏の真盛りのようですね。トルファン(吐魯番)の四十五度というのは、見当つきませんな」  そんなことをおっしゃる。多少、みんなその暑さが心配でないことはない。  八時四十分、離陸。機はイリューシン62の大型ジェット。新疆ウイグル自治区の首府ウルムチ(烏魯木斉)まで二八〇〇キロ、飛行時間は三時間半。白い機体は、東京では見られぬ怖ろしいほど高い秋の空に翔《と》び立って行く。北京からウルムチ行の列車が出ているが、三日四晩、あるいは四日三晩かかるという。  すぐ機は山岳地帯の上に出る。山岳が波立っている上に、真綿をちぎったような白い雲がばら撒かれている。  スチュアデス嬢に飛行機が通過して行く地点と、時刻について、予め大体の予定を教えて貰う。──八時四十分、北京離陸。九時三十分、包頭《パオトウ》の上空。それから黄河に沿って飛び、やがて黄河を越え、寧夏《ねいか》回族自治区を通り、甘粛省の民勤《みんきん》を十時十八分、酒泉《しゆせん》を十時五十一分、新疆ウイグル自治区に入り、ハミ(哈密)を十一時二十九分、ウルムチ到着が十二時十分。  予定通り、離陸後一時間ほどで包頭上空を翔んでいる。この辺りは全くの沙漠地帯で、その中に、黄河が赤褐色の長い帯として見えている。赤褐色と言うよりチョコレート色と言った方がいいかも知れない。それがいかにもどんよりと澱んで流れている感じである。所々に、さっと鮮やかな朱の色が掃かれたりしている。その掃かれ方は、茶碗で言えば光悦《こうえつ》である。やがて行手に陰山《いんざん》山脈が見えて来、機はそれに近寄って行く。黄河の流れのこちらは沙漠、向うは陰山山脈。  陰山山脈は高所から見降ろしている限りでは、それほど大きいボリュウムでは感じられず、長い堤でも置かれているように見える。その長い堤の向うにも沙漠が見えている。機は陰山山脈を次第に背後にし、黄河とも離れ、やがて黄河は全く見えなくなる。下は依然として大沙漠の拡がりである。大乾河道が何本も置かれている。糸のような細さで道が走っているところもある。全く集落は見られず、まさに死の砂の海である。  暫くすると、また黄河が見えて来る。機はその上を突切って行く。陰山山脈と賀蘭《がらん》山脈の間を抜けて、寧夏回族自治区の上空に出ようとしているのである。こんどの黄河もまた赤褐色。岸にひと握りほどの緑の地帯があって、そこに小さい集落のあるのが見える。一生赤い黄河の流れを見て暮す人たちが住んでいるのである。赤褐色の黄河、その岸の一点に置かれた小さい緑の地域、その中の小さい集落、そしてそれらすべてを大きく取り巻いている灰黄色の沙漠の拡がり、──いろいろなところに人間は住んでいるものだと思う。  黄河を越えると、沙漠の風紋がくっきりと見え、その辺りには大小の塩湖が点々と置かれている。塩湖は白の絵具をブラシで掃いたように見える。やがて反対側の窓から賀蘭山脈の長い稜線が見えて来る。機は完全にテングリ沙漠の上に出て、賀蘭山脈を左にして、民勤を目指しているのである。賀蘭山脈も機上から見る限りでは、先刻の陰山山脈と同じように、大沙漠の拡がりの中に置かれた長い堤でしかない。  十時十分頃、大沙漠の海の中に耕地地帯が割り込んで来る。耕地はそれぞれ多少色の異った小さい短冊でも竝《なら》べて置いたように見え、人間の営みが必死に沙漠を蚕食《さんしよく》している感じである。道が一本、真直ぐに走っているのも見える。耕地の緑の中に白い塩の地帯が置かれているところもある。また耕地の中に沙漠のかけらがそのまま置かれてあるようなところもある。明らかに民勤附近ではあるが、民勤の集落は眼に入って来ない。  やがて左手の窓から雪を頂いた山脈が遠くに見えて来る。連《きれん》山脈である。機は相変らず大沙漠の上を翔んでいる。沙漠はテングリ沙漠に続いて拡がっているバタンジリン沙漠であろう。砂の海の中に、時々盆石のように岩山地帯が置かれている。やがて大沙漠は何となく騒がしくなって来る。大砂丘が現れたり、丘が大きく波立ったり、大断層が横たわっていたりする。塩湖も多くなる。白い波の花を散らせたようにも、無造作に白の絵具をなすりつけたようにも見える。  久しぶりに沙漠の中に大河が見えて来る。河の両岸だけ緑で、そこが耕地になっている。その緑の帯の中に小集落が見え、やがてやや大きい集落も見える。青い湖もある。機はおそらく東西四〇〇キロの長さを持つ連山脈の北側、河西回廊地帯の上空を翔んでいるのであろう。河西回廊というのは、往古から中国本土と西域を結んでいる重要な歴史的交通路が走っているところで、まさに回廊というにふさわしい半オアシス、半沙漠の長い帯である。  雲の影が沙漠に捺されている。無数の雲の影である。陽光の加減か、緑に見える。恰《あたか》も小さい緑地が無数にばら撒かれてあるようだ。  十時五十分、予定通り機は酒泉上空を通過する。段落のある地帯に大きな集落が営まれている。この辺りから沙漠は波立ち、騒がしくなってくる感じで、波立っているところは岩山の重なりである。岩山という岩山の斜面は一面に砂に覆われ、その上にたくさんの流線模様の置かれているのを見る。あるところは、たくさんの木の枝が捺されているように見え、あるところはたくさんの熊手で掃いた跡のように見える。またまるでスキーの跡のように、何本かのなだらかな曲線がどこまでも平行して続いているところもある。風のいたずらであろうが、なかなかしゃれた自然の遊びという他はない。また抽象絵画の曲線のようにも、抽象の文字のようにも見える。  そうした岩山と岩山との間に沙漠のかけらが置かれてあるが、その沙漠のかけらは冷凍でもされたような固さを持っていて、大きく罅《ひび》割れている。岩山、岩山の斜面の風紋、罅割れた沙漠のかけら、そうしたものででき上がっている地帯が続いている。私の知る限りでは、奇巌で埋められているトルコのカッパドキヤ高原と竝ぶ不思議な地殻の一画ではある。こういうところには人間が居よう筈はないが、もし紛れ込んで入ったら、さぞ荒涼たる思いに立ち竦《すく》むことだろうと思う。人間の臭いというより、生きものの臭いが全くない。  やがて遠く前方に、雪を頂いた山脈が見えて来る。天山《てんざん》である。正確な言い方をすれば天山山脈を造り上げている支脈の一つである。  こんどは地殻は大きくえぐられ始め、その泥土の大きな丘の上に、網でも拡げたような模様が捺されているのを見る。風紋とは思えないので、この方は水の道であるかも知れない。こうした地帯が暫く続く。これはこれでまた、雄大、荒涼たる景観と言う他はない。  やがて天山山脈は左手に廻って来て、間近に見え始める。さすがに雪を頂いた峯々が重畳と重なっていて、規模壮大である。下を見ると、相変らずえぐられたり罅割れたりしている荒蕪地《こうぶち》の様相である。  そのうちにそうした地帯に耕地の短冊が、一枚二枚と置かれ始め、次第にその数を増し、短冊地帯は四方に、八方に拡がってゆく。人間が沙漠と闘い、それを征服してゆく段階がはっきりと示されている。機は下降し始める。耕地は一枚、一枚、防風の樹木で囲まれている。樹木はポプラであろうか。  やがて、機はウルムチ空港に降りる。降り立つと、陽光は強く、暑い。三十度。遠くに低い山を繞《めぐ》らせた大沙漠の中の空港である。  空港は町の西北部に位置しているという。新疆ウイグル自治区革命委員会の人たちを初め大勢の人の出迎えを受け、差し廻しの自動車で、すぐ今日からの宿舎であるというウルムチ迎賓館に向う。  街路樹のポプラは驚くほど高く伸びてみごとである。瓜《うり》を満載したトラックと、次々に行き交う。道の左右には耕地が拡がっているが、ところどころに小さい砂の丘がある。砂丘の名残りとでも言うか、とにかく砂丘のかけらが、そこここに置かれてあるのである。  町に入ると、白い土屋が道の両側に竝んでいる。町の中心地区に入ると、家は白壁でなく、黄色の壁になる。突然、くるまは小学校、中学校の男女の生徒が道の両側を埋めている地区に入る。生徒たちはみな手に手に小旗を持ち、中には造花の花束をかざしているのもある。楽隊も配されている。それがずいぶん長く続いている。天山山脈の最高峯・トムール山に登った登山隊員たちが、この町に入って来るので、その成功を祝って歓迎の陣を布いているのだという。盛んな歓迎で、町は明るく沸き立っている。  町の中心地区を抜けて、町外れに出、美しく調《ととの》えられた広い庭を持つウルムチ迎賓館に入る。門にも、建物の入口にも兵隊が立っている。  部屋でひと休みしてから、広間で革命委員会の人たちと、こんどの旅行のスケジュウルの打合せを行ったあと、新疆ウイグル自治区の概況についての説明を聞く。卓の上に西瓜《すいか》と甘瓜が出る。北京との時差は二時間であるが、新疆地区の旅行中はずっと北京時間で押し通すことを打ち合せる。  七時半、迎賓館内で、新疆ウイグル自治区革命委員会副主任の宋致和氏主催の歓迎宴会が開かれる。そのあと町中の人民劇場に於て、新疆歌舞団による民族歌舞を見せて貰う。  劇場に向ったのは九時半であるが、この町の時刻では七時半である。夕暮の街を行きながら、確かに七時半の明るさだと思う。燈火は白壁や黄色の壁の土屋にともり、夕食後涼みに出たウイグルの大人や子供たちで、路地、路地は賑わっているが、騒がしくはない。しっとりとした夏の宵である。久しぶりで幼時に経験したいい夏の夕暮を、中国のこの辺境の町で味わわせて貰う。  劇場はモスクを模して造ってあり、内部に入ると、控え室に行く廊下にも、控え室にも絨毯《じゆうたん》が敷きつめられてあった。  十二時に迎賓館に戻る。静かな闇が部屋の外を埋めている。  ──とうとう新疆ウイグル自治区に入った。ウルムチに入った。  そんな思いが、寝台に入った私を、多少寝苦しくさせていた。往古の西域、今日の新疆ウイグル自治区がいかなるところか。これから訪ねるイリ(伊犁)、トルファン、ホータン(和田)といった歴史の町々がいかなる表情を持っているか、それぞれの持つ古い歴史はどのような遺跡として遺っているか、現在この地区に生活している十三の少数民族は、いかなる風貌と、いかなる習俗を持って生きているか。また日本の四倍半の広さを持つ新疆ウイグル自治区が、天山山脈とタクラマカン沙漠の地帯が、いかに古い歴史の翳《かげ》りを持ち、いかに現代の呼吸をしているか。それからまたその首府であるこのウルムチが、いかに近代化され、国境に近い町としていかなる性格を持っているか、──すべては明日からのことである。 二 木乃伊と木簡  八月十六日、六時にウルムチ迎賓館に於ける第一夜の眠りより覚める。覚めた瞬間、ここは新疆ウイグル自治区、往古の西域だと思った。思うと言うより、そう自分に言い聞かせた。  西域というところに初めて関心を持ったのは京都大学の学生の頃である。専攻は美学だったが、学校には出ないで、下宿でごろごろしながら、西域関係の書物を読み漁った。どうしてそういうことになったか判らないが、何か一冊読んで興味を惹《ひ》かれ、あとは暇に任せて同種類の本を、次から次へと漁るようになったのであろう。西域の洗礼を受けた最初の書物が何であったか憶い出すことができたら面白いだろうと思うが、全く記憶にない。  今振り返ってみると、当時は学界に於ても一種の西域ブームと言えるような時代ではなかったかと思う。大勢の西域学者が居た。西域学者という言い方が失礼なら西域の問題に論及する東洋史学者と言い直していい。学生の私には眩《まぶ》しい名前ばかりであった。  大正から昭和にかけてたくさんの西域関係の論文を収めている書物が出ている。羽渓了諦《はたにりようたい》「西域の仏教」、桑原隲蔵《じつぞう》「東西交渉史叢」、善之助「海外交通史話」、足立喜六「大唐西域記の研究」、藤田豊八「東西交渉史の研究」、白鳥庫吉「西域史研究」、石田幹之助「長安の春」、羽田亨「西域文明史概論」、その他拾っていったら切りがない。「大唐西域求法高僧伝」、「法顕伝」が足立喜六訳で出たのも同じ頃である。スウェン・ヘディンの「彷徨《さまよ》える湖」、オゥエン・ラティモアの「農業支那と遊牧民族」などが訳されたのもこの時期である。  こうした西域研究の学者たちは誰も西域の地には足を踏み入れていない。容易に行けるところでもなかったが、別に行きたくもなかったかも知れない。何かそのようなことを思わせる独特の熱っぽいものが、そういう学者たちの研究や論文の中にはある。行けないところであったればこそ、あのような読む者を惹きつけるものが、その難しい論攷《ろんこう》の中に自然に醸成されたのかも知れない。  そうした学者たちの書物によって西域熱をかき立てられた私にとっても、西域というところは所詮“行けないところ”であった。容易に手を触れることのできない聖域であった。西域という二字には、立入り禁止の、それだけに秘密めいた妖《あや》しい魅力があったのである。  日本人は西域に弱いと言われる。それは戦後も、戦前も変りはない。戦前の東西交渉路とか、東西文化交渉路とかいった呼び方が、戦後はシルクロード(絹の道)という多少甘い呼び方に置き替えられただけのことである。シルクロードの最も重要な部分が仕舞われている地域として、依然として新疆ウイグル自治区は、今日に於ても大きい魅力を持っているのである。この場合も、目下のところ容易に踏み込めない地域ということで、それは西域であり、シルクロードであるようである。  戦後、小説を書くようになってから、学生時代に西域の洗礼を受けたお蔭で、西域史に取材し、西域を舞台にした幾つかの小説を書いている。「敦煌《とんこう》」、「楼蘭《ろうらん》」、「洪水」、「崑崙《こんろん》の玉《ぎよく》」、「異域の人」等々、天山の向う側の西トルキスタンに取材したものまで入れると、もう少し多くなる。こうした小説を書いている時も、小説の舞台である新疆ウイグル自治区に入ろうとも思っていなかったし、入り得ようとも思っていなかった。立入り禁止の、この世ならぬ聖域であったればこそ、小説の発想は生れたかも知れないのである。  もし行けるものなら行ってみたいと思い出したのは、ここ十年来のことである。招かれて屡々中国を訪れるようになってから、自分が小説として取り扱っている舞台に、できるなら足を踏み入れてみたい誘惑を感じた。と同時に、多少の躊躇も覚えないではなかった。天山も、崑崙山脈も、タリム盆地も、タクラマカン沙漠も、学生時代から算《かぞ》えると、四十余年に亘っての馴染み深い名であった。それらのものに対して、私は私なりのイメージを持っていた。そのイメージに依って小説を書いていた。書物や紀行によってごく自然に私の中に生れたイメージであったが、それはそれなりにあるリアリティを持っていた。そうした私自身が持ち続けているイメージに義理を立て、それを変えないでおく方がいいといった思いもあった。  しかし、こんど新疆ウイグル自治区に来てしまったのである。ウルムチ(烏魯木斉)の迎賓館で新疆第一夜の眠りから覚めた時、私は少し疲れていた。手足の節々が痛かった。しかし、考えてみれば、四十余年、やはり来ることができるなら来たいと、そう思い思いして来たところであった。四十年がかりで、ここまで歩いて来た、そう思えば、多少の疲れは仕方ないだろうという気持だった。  洗顔して、すぐ庭に出る。空は気持よく晴れ渡っている。公園の一部ででもあるような明るい、ヨーロッパ風の庭の造りである。門と迎賓館の建物の入口には、昨日と同じように兵士が立っている。庭には樹木が多いが、丈高いのはみなポプラである。同じポプラではあるが、日本で見るポプラとは異って、やたらに高く育って、天を衝いている感じである。何本かが一列に竝ぶと、大きな緑の壁ができ上がる。新疆特産のポプラで、漢字では新疆楊と書くそうである。そうしたポプラに匿《かく》されるようにして、広い敷地内には幾棟かの宿舎が配されている。  それにしても、新疆地区のことはずいぶん読んだり、書いたりして来たが、このポプラのことには思い及ばなかったと思う。ポプラに限らず、思い及ばなかったことが、これからたくさん出て来るのではないかと思う。  朝の散歩から帰って、朝食まで多少時間があるので、窓際の大きな机に対《むか》って、昨日新疆ウイグル自治区の概況について、革命委員会の人が話してくれたその説明の要点を整理する。ここ暫く、少くともこの二、三日は、見せてくれるものを見、話してくれることを聞いていようと思う。多少の質問もあり、見たいところで多少の希望もあるが、それはあとのことにする。日本の四倍半の広さを持つこの少数民族地帯の一点に舞い降りてから、まだ何時間も経っていないのである。  この辺境の一自治区は日本の四倍半、中国全土の六分の一を占めている。人口は一一〇〇万、広いところにばらばらと人間が散らばっていそうであるが、必ずしもそうではない。大体新疆ウイグル自治区というところを地勢的に見ると、三つの大山脈と二つの大盆地から成っている。三つの大山脈というのはアルタイ(阿勒泰)、天山、崑崙の三つで、いずれもほぼ東西に走っており、アルタイ、天山の間にジュンガル盆地が、天山、崑崙の間にタリム盆地が拡がっている。  山脈はどれも大きい。天山の如きは東西の長さは二〇〇〇キロ、南北の幅は四〇〇キロ、たくさんの山脈が寄り集ってできている山脈の束である。崑崙山脈は平均標高が六〇〇〇メートルというから、これまた万年雪と永久氷河の連なりである。ジュンガル盆地は沙漠性の草原地帯で、無木の草原と砂礫《されき》のちらばっている、いわゆるゴビ(戈壁)の不毛地によって織りなされている。もう一つのタリム盆地の方は、九一万キロ平方という広大な盆地がたっぷりと砂で埋められ、いわゆるタクラマカン沙漠を形成している。ここには殆ど人は居住していない。タクラマカンはウイグル語であるが、正確にはタッキリ・マカン、タッキリは“死滅 ”を意味し、マカンは“広袤《こうぼう》”を意味するという。死の沙漠である。人が住めない筈である。  こう見て来ると、新疆ウイグル自治区というところは、大山脈と、草原と、沙漠と、ゴビの不毛地からでき上がっている。人間が住める地域は限られてしまう。北部草原を別にすれば、あとは山脈の雪溶けの水が作っている天山山脈の南北両麓のオアシス地帯か、崑崙山脈北麓のオアシス地帯しかない。この三つのオアシス地帯に於ける人間の定着地を、それぞれ線で繋いでみると、往古の天山北路、天山南路ができ上がり、崑崙山脈の北麓に西域南道ができ上がる。西域南道という呼称があるくらいだから、当然西域北道という往還があって然るべきであるが、これは天山南路と合致する。  天山を中心に考えると、天山北路、天山南路という呼び方が使われ、タリム盆地を中心にした場合は西域北道、西域南道という呼び方が使われる。天山南路と言っても、西域北道と言っても、同じ一本の往古からの往還を指す。いずれにしても、これら三本の道は、歴史の道である。東西交渉路でもあり、シルクロードでもあり、当然文化東漸《とうぜん》の道でもある。  往古、“五胡十六国”という言い方で呼ばれた西域の少数民族たちの定着地も、三本の道のどこかに沿っていたし、それから今日の新疆ウイグル自治区の一一〇〇万の人たちも、その大部分は、この三本のオアシス地帯に位置する都邑《とゆう》で生活を営んでいるのである。  こんどの旅で、私たちがこれから訪れることになっている伊寧(イーニン)は、ウルムチと共に天山北路に沿った都邑であり、トルファン(吐魯番)は天山南路の起点に位置している。それから最後の訪問地ホータン(和田)は、崑崙山脈の北麓、タリム盆地の南辺に位置しているので、西域南道の都邑ということになる。  昔の西域は西域として、一応今日の新疆ウイグル自治区について、必要なことを頭に入れておこう。  現在、この地区に住んでいる民族はウイグル、カザフ、回族、キルギス、漢族、モース、シボ、タジク、ウズベク、カタハラ、満州族、ダホール、ロシアの十三民族である。一一〇〇万の人口の四〇パーセントを漢族が占め、六〇パーセントを少数民族が占めている。少数民族では圧倒的にウイグル族が多く、カザフがそれに次いでいる。ウイグル、カザフの二つの文字を使った印刷物はたくさん出ているという。  少数民族はその名の如く、少数の民族である。中国は漢民族一般には避妊をすすめているが、新疆ウイグル自治区の少数民族には出産を奨励しているという。  新疆ウイグル自治区は、西南に於てアフガニスタン、パキスタン、インドと境を接し、北および西北部に於て、ソ連の三つの共和国と相接している。全国境線は五〇〇〇キロ、そのうちソ連との国境線は三〇〇〇キロに及んでいる。  大学は八、中等専門学校は七八、中学校はおよそ一四〇〇、小学校はおよそ一万、病院の数はおよそ七〇〇。解放前の大学一、中等専門学校八、中学校九といった数字に較べると、ここ三十年の違い方がはっきりする。  飛行機はウルムチから北京に週三回飛んでいる。そのうちの一回は蘭州廻りである。またウルムチから北京行の急行列車は毎日出ている。上海、天津には週二回、飛行機の便がある。辺境であるには違いないが、昔の西域とは大分違う。  いま一夜を過したウルムチは、言うまでもなく新疆ウイグル自治区の首都であるが、もとは化《てきか》と呼ばれていた町である。“”は導き教えるという意味で、解放後、この化という大漢民族主義的な呼称は廃され、ウルムチという名に変えられたのである。新疆少数民族地帯、東北、雲南、チベット(西蔵)などに於ては、解放後、少数民族に対する侮蔑的な名称はすべて変えられている。安東は丹東になり、鎮南関は睦南関になっている。ウルムチもその一つで、ウイグル語で果物の国を意味するという。  十時に迎賓館を出て、新疆ウイグル自治区博物館に向う。昨日より少し涼しい、二十七、八度であろうか。自動車の前を蜻蛉《とんぼ》が群がって飛んでいる。空には一点の雲もない。蜻蛉の飛んでいるところは日本の秋の感じである。  迎賓館は郊外地区の一画にあるので、町に入るまでに五分ほどかかる。その間に右手にも、左手にも低い砂の丘が現れてくる。九州北部でボタ山が現れて来るのに似ている。  街路樹のポプラの竝木はどこまでも真直ぐに続いている。驚くべき高さである。道の両側の青々とした畑は馬鈴薯。  五分ほどで、白壁一階の土屋が竝んでいる古い地区に入る。表通りの家だけが黄色の壁になっている。路地を覗くと、路地には白壁の家が竝んでいる。昨夜、美しい夕暮の町と感心した通りである。それにしても表通りに黄色の壁の家が多いということは、従来の白壁を黄色の壁にすることが奨励されているということであろうか。しかし、旅行者の私たちには黄色の壁は濁って野暮ったく見え、白壁の方が美しく冴《さ》えて見える。  時々、路地の突当りに砂の丘が置かれてあるのが見える。砂丘の欠片《かけら》が町の周辺部にたくさん遺されているのである。街路樹はポプラの他に、葉の生い茂ったベラという木がある。ウイグルの運転手君はベラと言い、北京から同行している若い工作員氏は“槭《せき》”という木であるという。  古い町の中心地区に入る。一階あるいは二階の土屋が竝んでいるが、ここも壁は黄色に塗られている。人道にはやたらに人が群がっている。雑然としているところはイランやトルコで見るアラブの町に似ているが、到るところ掘り起されたり、家が壊されたりしているところから推すと、おそらく町造りの最中なのであろう。十字路でくるまが停まると、右にも、左にも、遠くに砂の丘が見えている。自動車は時々徐行させられる。野菜満載のくるまを、小さい馬三頭がひいて、ゆっくり道を横切って行く。  新市街地区に入る。ここもまた道路工事の最中であるが、まん中に街路樹を挟んで車道が二本走り、それぞれの車道の外側に、これまた街路樹を挟んで、人道が配されている。でき上がったら二本の車道、二本の人道、そして五列の街路樹がまっすぐに走っているすばらしい道になるだろうと思う。東京などでは考えられぬ明るく、清潔で、整然とした近代街路である。街路樹はポプラとベラである。  この新市街にも同じような小さい土屋が竝んでいるが、古い地区に較べると、さすがに清潔で、明るい。ところどころに官庁のビルと思われるものが建っている。  二十五分のドライブで博物館に着く。堂々たる近代建築である。正面から入ると、右手に第一室がある。広い陳列場である。そこの入口に近い窓際のところに椅子やソファが置いてあって、休憩コーナーといった感じの一画が造られている。そこでお茶をご馳走になる。  この博物館は一九五三年に建てられ、展示ホールの完成したのは一九五八年、現在一〇〇〇点の展示品を持っているという。大部分が発掘品であるが、アスタナ古墳群から出たもの以外は、曾て永年に亘って発掘されたものを集めて展示してあるのだという。いずれにしても、西域関係の出土品の展示博物館として大きい特色を持っている。新疆ウイグル自治区は長い歴史を持ち、その長い歴史を通じて多民族の住居地帯でもあり、東西文化の交渉路でもあったところである。本格的な発掘が行われるようになったら、この博物館の受持つ役割は、ちょっと想像できぬほど大きいものになるだろうと思う。  館内を一巡する。そして私の場合は、特に興味を覚えた二つのものについて、博物館側の説明を聞いたり、写真を撮らせて貰ったりする。  一つは、一九五九年に新疆ウイグル自治区博物館の調査班によって、ニヤ(民豊)遺跡附近で発見された、夫婦合葬の墓から出てきた何点かの死者の身の廻りの品である。夫人の絹の靴下、粉袋(おしろい袋)、小さい宝石をつないだ頸飾り、小さい金製の耳飾り、靴下の紐《ひも》、それから棺の覆い、夫の死体を包んでいた着物、枕、小型の弓。  ニヤ遺跡は漢時代の精絶《せいぜつ》という国のあったところである。記載された史料(漢書・西域伝)によると、当時の世帯数は四八〇、人口は三三六〇という。国というより、有力な少数民族が定着していた大集落と見ていいだろう。紀元三世紀頃まで存続していたらしいが、その後タクラマカン沙漠に埋没してしまい、千七、八百年の間、砂の中に眠っていたが、今から七、八十年前にスタインに依ってその住居跡が確認されたところで、タリム盆地南縁の遺跡である。  このニヤ遺跡の附近に於て、夫婦合葬の墓は発見されたのである。一木で造られた棺を開けた時、二体の木乃伊《ミイラ》があった。もちろん人工的に処理された木乃伊ではなくて、自然の木乃伊であった。木乃伊は二つとも、顔は真綿で覆われ、絹の着物を纒っていた。当時、絹の着物はたいへん高価なもので、“錦袍《きんぽう》の価値は粮《ろう》二四八〇斤に相当し、あるいはまた馬一匹に相当する”と古書には記されている。従って被葬者は富裕な階級に属した少数民族と見ていい。  男の死体を包んでいた着物はそう大きくはない。私が両手をひろげたより一尺ほど短い背丈である。小柄な被葬者ということになる。枕は着物に取り付けられてあった。おそらく着物は死体を包む目的で造られたものであろう。枕には「大宜子孫」、「延年益寿」の文字が織り込まれており、着物の方には「萬世如意」という文字がたくさん模様のように織り込まれている。どれも死者の冥福を祈る言葉である。  棺が開かれた時、男の表情は静かで、両手を自然にのばして、眼は瞑《つむ》られていたという。しかし、女の方は不自然で、一本の手は強く衣服を掴み、他の手は棺を押しのけるように、棺の内面に当てられていた。それで死体を取り出す時、木乃伊の手を切る以外仕方なかったそうである。また女はたくさんの紅いルビーを身に着けていたという。  夫婦合葬の木乃伊であるが、女が男に殉じて死んでいることは明らかである。殉死の習慣が中国から入ったものであるか、少数民族が本来持っていたものであるか、いろいろな問題をこの二個の木乃伊は持っているが、面白いことは女の頭部近くに置かれてあった小さい籐《とう》の化粧箱の中に、男が死体に纒っていた着物の小さい欠片が収められていたことである。  女は殉死という残酷な習慣の犠牲になっている。男が亡くなったあと、女は自分で毒を飲んだか、他の人の力を借りて殺して貰うことにしたか、その点は判らないが、とにかく男の死体の横に仰臥《ぎようが》したのである。その時はまだ呼吸していた。だから苦しんでいるのである。死ぬのは厭《いや》だったに違いない。しかし、死ななければならなかったのである。  それにしても、化粧箱の中に、男の死体を包んでいる着物の切れはしを入れてあるということはどういうことであろうか。殉死に関しての形式的なことであったかも知れないし、もしそうでないとしたら、殉死することを厭がったに違いない女ではあったが、しかし、そういう立場にあってもなお持たざるを得なかった男への愛情の顕《あか》しとして、それを見ることはできないであろうか。これは私の勝手な想像である。  もう一つは、ニヤ遺跡附近の集落を掘った時、やはり支配階級らしい者の家の中から出て来た木簡である。文字を綴った木片を二つ合せて綴じ、紐でくくり、泥で封をし、封の上に二つ印が捺してある。表には宛名の名前が認《したた》められてある。  この木簡は客間と思われるところから出ている。この手紙の筆者は、この手紙を認めただけで、そこを去っていると見なければならない。何事が起ったのであろうか。  タクラマカン沙漠から出た木簡について語っている羅振玉《らしんぎよく》の「流沙墜簡」という書物があるが、沙漠の中から出る手紙は、殆ど手紙の欠片である。しかし、このウルムチ博物館に収められてある木簡は完全な形の手紙である。開いたら面白いと思うのであるが、博物館では開かないで保存している。おそらく、それを開いても壊れることのない技術の研究がなされるまで、そのままにしておくのであろうと思われる。  二千年近く砂の中に埋まっていた手紙は、今はそこから出て、博物館の中に眠っているのである。二千年前に、ある人がある人に送ろうとした手紙である。ある人の心が封泥されたまま、二千年を経過しているのである。西域というところにうつつを抜かしたくなるのは、こういうことがあるからである。 三 セリム湖の輝き  ウルムチ(烏魯木斉)について記さなければならぬことはたくさんあるが、こんどの新疆ウイグル自治区の旅では、ウルムチが拠点になっており、伊寧(イーニン)、トルファン(吐魯番)、ホータン(和田)、どこを訪ねても、その都度ウルムチに帰って来ることになっているので、ウルムチに関する報告は急がないで後廻しにしておく方がよさそうである。  八月十七日、イリ(伊犁)地区の中心都邑で、国境の町である伊寧に向う日である。鞄は一個、身軽な旅装にする。迎賓館の部屋は、こんどの旅行中借り放しにできるということなので、他の荷物は全部部屋に遺しておくことにする。  七時五十分に迎賓館を出て、空港に向う。太陽がのぼりかけている。ウルムチ時間では五時五十分であるから、陽ののぼる時刻なのである。昨夜半、小雨があったためか、多少涼しくなっている。しかし、訊いてみると、早朝なのに二十七度、空気が乾燥しているので涼しく感じられるのであろう。  九時離陸。予定飛行時間は一時間十五分。ウルムチから伊寧にバスで行くと二日かかり、自動車を使っても一日では行けないそうである。どこかで天山の支脈を越えなければならないが、その点、飛行機は有難い。  離陸と同時に、機は大耕地の上に出る。ポプラに囲まれた田圃《たんぼ》が何十枚も竝んでおり、ポプラの列は、耕地を縫っている刺繍糸のように見える。やがて、そのみごとな大耕地の向うに漠地が次第に拡がって来る。暫くの間、半沙漠半耕地地帯が続く。集落点々、かなり大きな集落も見えている。耕地が荒蕪地にばら撒かれているのを機上から見ると、緑の短冊が褐色の渋紙の上に、べたべた貼りつけられているかのように見える。やがて、そうした地帯を大きく取り巻くように砂丘があちこちに現れて来、本格的な沙漠地帯になる。しかし、その沙漠地帯にも、ところどころに緑の短冊が見える。ああ、沙漠に緑の短冊を貼る人たちよ、そんな感慨を持つ。沙漠と人間が死闘を繰り返しているのが、上から見ると、はっきり判る。  今日は、この前の北京─ウルムチ間とは異って、機は大体、半沙漠半耕地の上を飛んでいる。九時三十分、かなり大きい湖が現れて来るが、ガスのために景観は不分明、白い雲がしきりに流れている。九時五十分、いつか大沙漠となるが、水溜りの大きいようなのが幾つかあり、その縁には必ず緑の小集落が見えている。自然と人間との闘いは到るところに行われているのである。  十時に、左手の窓から、すぐそこに雪を頂いた山脈の連なりが見えてくる。天山山脈指呼のうちにある感じで、壮大な景観と言う他ない。この辺りの沙漠は大きく罅《ひび》割れていて、いろいろな模様を見せている。蹄《ひづめ》型の紋様もあれば、樹枝状の紋様もある。  やがて反対側の窓からも、前方遠くに雪の山脈が見えてくる。天山の支脈なのであろう。機は次第にその山脈に近付いて行き、その前山の一つを越え始める。赤褐色の岩山で、同じような山が幾つも重なり合っている。山肌には多少樹木が生えており、渓谷となると、すっかり樹木で埋まっている。雨に恵まれているイリ地区に入ったのであろう。山野は多少その趣を変えている。  こうした山塊地帯の上を、機は飛び続ける。渓谷に点々と集落のあるのが見える。遊牧民の定着地であろうか。そしてその附近に放牧地らしいところも見えている。そのうちに山塊は次第に低くなり、漸くにして、長く続いた山塊地帯が終ると、イリ大平野が現れてくる。集落はたっぷりと緑に包まれ、見渡す限りの大耕地が拡がっている。  十時二十五分、夏草の茂っている伊寧空港に着陸。空港の出迎えには漢族、回族、ウイグル、カザフ、いろいろな民族の人が混じっている。すぐイリ地区革命委員会の招待所に向う。カナセという青い花、林檎《りんご》の実、涼しい風、白壁の土屋、ポプラの竝木、そうした郊外を走って、すぐ町中に入る。伊寧は静かで、のびやかな町である。空港から十分ほどで招待所に着く。  招待所の一室で、革命委員会の人たちとスケジュウルの打合せ。卓の上には葡萄、蟠桃《ばんとう》、水蜜、小さい林檎、それに紙タバコが出されている。夏の軽井沢の爽やかさである。十七度。  この町は海抜八〇〇メートル、年間降雨量三五〇─五〇〇ミリ、人口は都市周辺部をも併せて一八万。  伊寧はイリ地区の中心都邑であるが、イリ地区は北、東、南の三方を天山山脈に囲まれて、大きな盆地を形成しており、イリ河が盆地を流れ、その灌漑によって、土地は農業、牧畜に適しているが、未開墾地が多い。  イリ地区はソ連国境まで八〇─九〇キロ、一番近いところは十何キロ、従って伊寧は文字通りの中国の西辺、国境の町である。  イリ地区の人口は一三〇万、ウイグル、カザフが多く、この地域ではウイグル、カザフ、漢族の言葉が使われ、宗教は回教のほかに、仏教、ラマ教、ギリシャ正教も行われている。  この地帯は天山山脈の北麓に拡がっている盆地なので、歴史的に見ると、時代、時代によって、匈奴《きようど》、烏孫《うそん》、悦般《えつぱん》など北方遊牧民の根拠地になっており、突厥《とつけつ》時代、モンゴル帝国時代、共に都城が築かれていた。唐朝の弓月城、モンゴル時代のアルマリクなどは、現在の伊寧の前身ではないかと見られている。いずれにせよ、伊寧は天山北路の大集落であり、曾てはジュンガル盆地と西トルキスタン方面とを結ぶ軍事上の要地でもあり、商業都市でもあったのである。  招待所に於て与えられた部屋は、宮川寅雄氏と同室であるが、内部は三室に分れていて、なかなか贅沢に造られている。まん中の一室を挟んで、それぞれ一室ずつ使わせて貰うことにする。打合せのあと昼食、料理はどれにも羊の肉が入っているが、少しも苦にならない。  四時三十分、招待所を出て、製靴工場と絨毯工場の参観に出掛ける。伊寧の町はウルムチの町よりずっと小さいが、しかし近代的な感じである。おそらく最近一応町の近代化ができたのであろうと思われる。表通りは清潔できれいである。裏町に入ると、やはり白壁の土屋が竝んで、雑然としているが、ウルムチと異るところは、くるまを停めると、路傍の大人も、子供も、みな拍手してくれることである。歓迎の仕方はごく自然である。それだけ外国人を見る機会が少いのであろう。  ウルムチの街路樹は殆どポプラだけと言ってよく、たまにベラという木が混じっているが、伊寧に於てはポプラと、楡《にれ》に似た木が半々である。楡に似た木は、楡ではなくて、桑と楡の合の子だという。だからこの木は楊観楡と名付けられているそうである。楡に似た楊というわけである。ポプラの方は、ウルムチで見た例の上にどこまでも真直ぐにのびる新疆特産のポプラ、新疆楊である。  朝は爽やかであったが、日中はかなり暑い。やはり三十度前後になっているだろうと思われる。  製靴工場は主任、副主任共にウイグル族、働いている人は三二一人、そのうち二六四人をウイグル、ウズベク等五少数民族が占めている。言うまでもないが、少数民族に必要な靴の製造に当っており、製品はなかなかしゃれたものである。  絨毯工場の方は、一五〇人ほど、ここは全員を五つの少数民族に属する人たちが占めており、スカーフ、絨毯などが造られ、模様の美しさにも眼を見張るが、値段の廉《やす》さに驚く。大きな絨毯が日本の金に換算すると一万円ほどである。  夜、宿舎の招待所の広間で、革命委員会主任の謝高忠氏主催の歓迎宴会が開かれ、それに出席、宴会終了後、イリ劇院に於けるイリ地区文工団の公演に招かれたが、私と宮川氏は欠席して、その時間を、やがて数日後に訪れることになっているトルファン地区のいくつかの遺跡の下調べに当てることにする。  一時、就寝。夜は涼しいので眠りは安らかである。  八月十八日、今日は中ソ国境近くの山中にあるセリム湖行きの日である。湖畔の遊牧民の生活を参観するのが目的であるが、北京で何回もセリム湖という湖の美しさについて聞かされているので、どのようなところか関心がないわけではない。  九時、招待所を出発。町の街路樹の根もとには水路が造られてあり、たっぷりと水が流されている。イリ河の支流のハシ河のダムから引いている水であるという。イリ河の方は盆地の低地を流れているので、このような水の使い方はできないそうである。  気持よく空は晴れ渡っている。町の一画を横切って、すぐ郊外に出る。セリム湖は海抜二二〇〇メートル、伊寧は六四二メートル、多少寒くなるかも知れないので、スウェーターを用意してある。伊寧から西北へ一二〇キロ、四時間ほどのドライブになる。  相変らずポプラの竝木、驢馬《ろば》の荷車、労務者を満載したトラック、牧草を満載した牛車、──そうした道を行く。初め前方に見えていた低い丘の連なりは、やがて右手に廻り、更に背後になる。その頃から大平原のドライブになる。一望のトウモロコシ畑が拡がっている。路傍には時折羊の群れ、豊かそうな人民公社、用水路、低い煉瓦の家。──中国とは思われぬ北欧風の風景である。  九時四十分、右手遠くに丘の連なりが見え、丘の肌は銀灰色、その裾に同色の集落が置かれている。丘はおそらく牧草地で、今は陽光の加減で銀灰色に見えているが、牧草地独特のやわらかい象の肌のような色を呈していることであろうと思う。丘も、それを載せている平原も牧草地なのであろう。実際に平原のその辺りには、羊の群れがあちこちに見えている。  九時五十分、国境の境界地帯に入る。多少高低ある地盤になり、駱駝草《らくだそう》が生え始める。境界地帯といった緊張したものは感じられず、ただひたすらのびやかな、荒蕪地の拡がりである。  やがて、くるまは舗装道路から逸れて、直角に左手に曲る。つまり今まで見て来た左手の大平原の中に入って行く。イリ将軍府の遺跡を見るためである。イリ将軍府というのは、清朝がこの地帯のジュンガル部の勢力を掃蕩《そうとう》したあと、天山南北両路に分駐する軍営を統轄するために置いた新疆の最高軍政長官の居た役所である。間もなく前方に門のような奇妙な建物が道を塞《ふさ》いでいるのを見る。近寄ってみると鼓楼《ころう》で、道はこの建物の両側を廻って、先きに延びている。  この建物はイリ条約のあと、一八九七年に建てられたもので、県城の中心部に位置し、イリ将軍が来た時、それをいち早く城内に報せる役割を持っていたという。ここが県城の中心部ということになると、この鼓楼の周辺一帯は城内ということになるが、城の建物は何もなくなっており、遠くに城壁の欠片が一つ、二つ、遺っているのを見るだけである。その城壁の欠片から推してみると、かなり大きい城の構えである。ここから南五キロのところをイリ河が流れているという。  鼓楼には四方に入口があり、その一つから入ると、隅の方に上に登る階段がついている。階段は旋回式につけられてあって、暗い中を注意して二十一段上ると、鼓楼の外側につけられてある回廊風のテラスに出られるようになっている。テラスには一面に石が敷きつめられているが、半分ほどは失くなっている。柱ももとは朱色に塗られてあって美しかったろうと思われるが、今は殆ど剥《は》げ落ちてしまっている。テラスから見ると、周囲は大平原である。東側に低い丘があるだけで、あとは一望の大平原の拡がりである。  写真は道路から撮すのは構わないが、鼓楼の建物に入ってからは禁止されている。国境地帯であるからであろう。清時代に四人の将軍がここに配されている。当時はウルムチまで将軍の管轄下にあったのであるから、将軍はたいへんな勢力を持っていたわけである。清末の政治家で対外強硬主義者であった林則徐《りんそくじよ》の左遷の地でもある。  自動車は再び舗装道路に戻って、一路セリム湖を目指す。右手遠くに天山支脈の雪の山が見え出す。大平原は殆どトウモロコシ畑で埋められている。麦畑もあるが、麦は七月中旬の刈入れの由。正面の雪の山脈を眺めながらのドライブは快適である。時々、路傍に現れてくる農家の庭のひまわりの黄が眼にしみるように美しく感じられる。  突然、道は降りとなり、やがてまた上るが、その瞬間に通り過ぎた低地に、天山を背景にした美しい村があった。ポプラ、ひまわり、静かな土屋のたたずまい、一瞬眼に入り、忽ちにして消えたが、その明け暮れが羨しく思われるような小集落であった。  雪の天山支脈は前方をすっかり塞ぐほど長く連なっている。頂きは全部雪で覆われている。ところどころにホップの畑がある。濃い緑の畑である。国境に近いためか、軍のトラックの往来頻りである。  清河人民公社という大きな集落で、道は直角に右に曲る。ここからソ連国境まで十何キロの由。道はやたらに折れ曲り始める。いつか雪の天山支脈はすっかり左手に廻っている。  十一時、前方から左手にかけて、ぐるりと天山山脈に取り囲まれている。ここまで来ると、ひと口に天山山脈と言っても、幾つかの山系の重なり合いであるのが判る。依然として大平原は美しく、ゆるやかな地盤の波立ち、トウモロコシ畑、集落点々、ポプラの葉のきらめき、駱駝草、白い土屋。前の山脈が近付いてくる。左手の雪をかぶった一番遠い山はソ連領。  十一時十分、周辺は牧草地帯になってくる。やがてくるまは前の山に突き当り、その渓谷に入って行く。この渓谷は果子溝と称《よ》ばれているという。自然の果物がみのる渓谷という意味らしい。この谷間《たにあい》に入ると、周囲の様相は一変する。くるまは渓流に沿った山裾の道を走って行く。前方には岩山が幾つも重なっている。落石の多い地帯が続く。やがて谷は広くなり、流れは美しく陽に輝いている。河原には大きな落石がごろごろしている。  時々、流れの近くに小集落があるのが見える。道はアップ・ダウン烈しくなり、岩山の岩は赤くなる。  十一時三十分、道は流れの右になる。谷は広くなったり、狭くなったり、ずっと落石地帯が続いている。果子溝に入ってから一木なき岩山が多いが、しかし、山全体が樹木で覆われている山もないわけではない。樹木は申し合せたように雲杉と呼ばれている木ばかりである。雲杉の山、雲杉の谷が岩山地帯のところどころに置かれている。雲杉は新疆松とも言われるという。  道は曲りくねっている。流れの岸には楊樹、雲杉、白樺などがあり、時々、路傍に包《パオ》を見掛ける。テント型の包であるところから、そこに定住しているものでないことが判る。どこかへの移動の途中、一夜を明かすために包を張ったのであろう。包の廻りには必ず二、三人の子供が立っている。  くるまは相変らず岩山の裾を折れ曲りながら走り続けている。白い土屋と馬二頭、包と犬、大落石、驢馬と子供二人、そんな点景を背後に飛ばしながら走り続ける。  十一時五十分、四辺の岩山は次第に草を着け始める。草は青さを失っていて、象の肌のような色をしている。十二時、道は少し上りになる。川を右手にしたり、左手にしたりしながら、次第に流れより高くなって行く。この頃から、道は山を巻き出す。谷は次第に深くなり、流れはずっと下の方になる、そのうちに道は、いつか対岸の岩山の頂きの高さになっている。やがて、道は隣りの山に移り、こんどはその中腹を巻き始め、ぐんぐん高処に上って行く。海抜一七〇〇メートルのところで休憩。  再びくるまは山の中腹を巻いて上って行く。高処へ、高処へと攀《よ》じ登って行く感じである。そして峠らしいところに達すると同時に、向う側に置かれてあるセリム湖の大きい湖面の一部が眼に人って来る。あっと声をたてたいほどの突然の出現の仕方である。  くるまは峠を降り始める。峠を降りて行くというより、湖畔の大放牧地に吸い込まれて行く感じである。包、点々、放牧の馬の群れも、遠く、近くに置かれている。方々に牧場の人たちが二、三十人ずつ集まっていて、拍手でくるまを迎えてくれる。そうした牧場地帯を過ぎて、くるまはなお暫く湖畔を走り続けて、湖畔の牧場としては一番奥にあるという果子溝牧場に向う。  何とも言えず気持のいい湖畔のドライブである。湖は周囲七〇キロ、深いところは八〇メートル、アルカリ性が強いため、魚は棲まず、飲料にもならぬが、湖面の美しさは格別である。広い湖面には濃紺の線条が何本も走っている。この線条は、時刻によって消えたり、現れたりするという。  対岸には頂きに雪を載せた幾つかの山が重なって見えており、その上に純白の雲が浮かんでいる。くるまの走っているところは、ゆるやかな斜面をなしていて、大放牧地を造っている。牧草は七月が一番青いそうであるが、八月の今は枯れかかって、青さを失っており、ここでは既に霜が降り始めているという。  セリム湖畔は四月から九月までの夏の放牧場で、十三の少数民族のすべてがここを使っている。私たちが訪ねようとしている果子溝牧場はカザフ族の牧場であるが、そこに着くまでに、充分湖畔の風光に堪能《たんのう》する。私の場合は、今までにこのように明るく爽やかな風光の中に身を置いたことはないと思う。何日も居たら倦《あ》きるかも知れないが、今ここを訪ねた許りの私には、放牧の馬の群れ、羊の群れ、湖畔を埋める大放牧場、点々と小さく見えている白い包、青い湖面、湖面の濃紺の線条、湖岸の雲杉の林、対岸の雪の山、白い雲、すべてが八月の陽光の下に光り輝いて見えた。  湖畔の広大な放牧地には、いろいろな名前を持った牧場が散らばっている筈であるが、別に境界の柵も見られないので、旅行者の私たちの眼には、単なる大放牧地の拡がりとしか見えぬ。  私たちは湖畔をドライブして、放牧地の一番奥にあるカザフ族の果子溝牧場を訪ね、そこに張ってある五つの包の中の一つに迎え入れられた。農工の場合は人民公社という称び方が使われているが、牧畜の場合は公社とは言わず、牧場という言葉が使われている。果子溝公社とは言わず、果子溝牧場と言っている。  ここは集団所有制の牧場で、カザフ、モンゴル、ウイグル、回族、キルギス、漢族の六民族、三八〇〇の人が働いていて、四万頭の羊、馬、牛を放牧しているというが、私たちが迎え入れられた包のある地点からは、さぞ壮《さか》んな眺めであろうと思われるその放牧の実況は眼にすることができない。遠く左手の湖畔に夥《おびただ》しい数の羊の群れが、小さい石でもばら撒いたように見えているだけである。羊の群れは、遠くからでは、その動きが判らないので、小さい石がばら撒かれているように固定して見える。  四万頭の羊、馬、牛の他に、この牧場は八〇〇〇畝の農地を持っていて、そこで飼料を作っているという。  包は、外観はさほど大きくはないが、内部はらくに二〇人の人を収められる広さを持っている。一面に絨毯が敷きつめられてあり、その上に布を敷いて食卓替りにし、料理や食器が竝べられ、客はそれを取り巻いて座を占めるようになっている。この包はこの牧場の接待所であるという。磚茶《たんちや》、何種類かのナン(麭)、バター、蜂蜜、西瓜、ハミ瓜、葡萄、そんなものが出されている。  霍城《かくじよう》県の革命委員会主任、牧場副主任といった人々が接待に当ってくれる。お茶をご馳走になったあと、大がかりな歓迎の催しものを見物するために、包を出て、くるまで、かなり離れた湖畔の一画に案内される。草原の上に敷物を敷いて、見物席が作られてある。私たちはそこに腰を降ろす。  とたんに警報が鳴り響き、それと同時に砂丘の蔭から民兵が出動してくるのが見える。その時はもう空にも異変が起っている。信号弾が打ち上げられ、空のあちこちに風船がばら撒かれている。どこかにひそんでいる射撃部隊によって、風船は一つ一つ撃ち落されてゆく。あちこちで地雷が爆発し、湖の中でも水雷の爆発によって、水煙りが高く上がっている。砲声が殷々《いんいん》ととどろく中を、風船は何回も空にばら撒かれ、それが一つ一つ撃ち落されてゆく。落下傘部隊を撃滅する訓練が行われているのである。のびやかな戦闘訓練でもあり、戦闘訓練ショーでもある。煙草を喫みながら、のんびりと湖畔に展開されているひどく明るいドラマを見物させて貰う。  これが終ると、こんどは、これもどこからともなく少年少女兵が現れて来て、私たちの前に一列に竝び、草原の中に伏し、射撃の手竝みを見せてくれる。あっという間に、遠いところに設けられてある標的のすべてが倒されてしまう。少年少女の中で、一番幼いのは六、七歳であろうか。私たちには区別できないが、カザフ、ウイグル、漢、回の四民族の子供たちであるという。  次はカザフ族の競馬。湖畔の平坦なところに一一〇〇メートルの円形馬場が造られてあり、二〇頭の出走馬が、それを五周する。馬場はもちろん仮に造ったもので、出走馬には老人も乗っていれば、娘さんも、内儀さんも乗っている。まさに湖畔の草競馬である。私たちを歓迎する催物ではあるが、それはそれとして、彼等は彼等で、底抜けに騒ぎ、楽しんでいる恰好である。  最後に、娘が若者を追い駈ける馬術競技が抜露される。一組の男女がスタート・ラインに竝ぶ。合図によって、男が先きに駈け出す。すると、すぐ女がそれを追う。女は片手で手綱をとり、片手で大きく頭上に鞭《むち》を振り廻している。男の方は相手を振りきって逃げればいいが、そうでないと女に追いつかれ、背後から鞭打たれ、帽子を飛ばされる破目になる。  これも見ていて楽しい。大抵女に追いつかれ、男の帽子は宙に舞い上がる。若い男女の求愛の馬術競技であろうが、これもまたセリム湖の広い湖面を背景にして見ていると、底抜けに明るくて、のびやかである。東山魁夷氏と私は、馬に乗せて貰う。大勢の男女がたかってくる。そうした男女の頭越しに、湖面が一層青く、一層広く見えている  歓迎競技を見終って、先刻の包に帰って、昼食をご馳走になる。最初に馬乳酒(カミイス)が出る。少々酸っぱいが、肉の脂肪を消すというので、ビール替りに飲む。酸っぱいビールと思えばいい。器は茶碗である。次にシャシリク(カワップ)が出る。この方はさすがに美味い。ピラフは人参が少し入っているだけで、肉は入っていない。他の料理の肉を自分で散らして、それを手で撮《つま》んで食べる。  カザフ族では、大切な客を迎えた時は、三、四カ月の羊を一匹殺して、まる焼にする。そしてその首の部分を客のところに持ってくる。客は耳のところを少々食べる。私たちの場合も、まさにそのようにしてくれたが、耳を撮むのだけは許して貰った。この儀式が終ると、ナレン(うどん)が出る。このうどんは、一匹の羊を煮たスープで味付けしたもので、これもまた手で撮んで食べる。  料理は大体に於て、手で撮んで食べる場合が多いが、しかし、現在は必ずしも手で撮まなければならないことはない。主人側も、客が箸を使えば、自分たちも箸を使い、客が手で撮めば、自分たちも手で撮むことにしているという。こうした宴席に出るのは男だけで、女は専ら料理方である。  料理をご馳走になりながら、いろいろな話を聞く。  この果子溝牧場は春夏秋冬で移動する。春と秋は山を降り、セリム湖畔を離れ、伊寧附近に包を張る。冬は伊寧附近が雪が深くなるので、いったんここに来て、その上で対岸の山の向うの雪の少いところに移動する。この場合、家族の者はトラックを使うので、一日か二日で移動できるが、家畜の方は大体十五日を必要とする。移動の場合の包の取り片付けも、反対に建てる時も、大体二時間ぐらい見ておけばいい。  包の壁の役目をしている羊毛布(キギズイ)は大体百年ぐらい保《も》つが、包の外側をすっぽり覆っているテントの方は五十年の生命である。羊毛布の造り方は、羊毛を敷いておいて、熱湯をかけ、その上にローラーをかける。すると、羊毛は固くなって、羊毛布ができ上がるという。  このセリム湖畔に包を張っている夏の間は、子供たちは峠附近にある小学校に通う。  勝手もとで料理方を受持っている一人の女性の家の収入を訊いてみる。七十歳の老母、夫、妻、十四歳を頭に五人の子供、──八人家族であるが、この家の一カ月の収入は九十五元、日本の金で一万三千五百円程である。三六〇頭の羊を受持っているが、別に個人の財産として羊六頭、乳牛四頭を持っている。  この美しいセリム湖を取り巻く山には、熊、豹、狼、鹿、羚羊《かもしか》などが棲んでいる。  こうした話を聞いているうちに三時半になる。湖面一面、青いインキで掃いたようになっており、対岸の山脈は薄藍色、こちら側の草地は薄緑、雲は依然として真綿の白さである。そのうちに包の外が騒がしくなる。包から出てみると、湖畔の一画で、音楽会と舞踊会が開かれている。私たちを歓迎する意味で開かれたものと思われるが、牧場の若い男女はすっかり夢中になって、歌ったり、踊ったりしている。それを、いつ集って来たのか、子供や大人たちが取り巻いて、これもまた歌ったり、手拍子をとったりしている。どうやら果子溝牧場はこの日、牧場を挙げて仕事を休んで、“音楽と体育の日”に切り替えてしまったようである。  包の中では、夕食の支度が始まっている。時計を見ると、いつか六時半になっている。ここの時計では四時半、漸くにして陽が西に傾いた感じである。湖面には青い線条が一本だけになって対岸に沿って奔《はし》っている。陽光はまだ強い。包から陽が輝いている湖面が見えている。落日と共に気温は落ちて、ひえるというが、それにはまだ多少の時間がある。今日の暖かさは特別で、昨日も一昨日も、日中でも寒かったそうである。私たちはそれぞれ寒さに対する備えをして来たが、それは全く不用だったということになる。  夕食が調えられたが、誰も料理の方に手を出す者はない。みんな一日の歓をつくした思いで、黙々として、西瓜の種を絨毯の上に落している。  七時半、包を出て、出発。帰途は三時間。その夜、伊寧の宿所に於て、寝台に入ると、セリム湖の湖面が瞼に浮かんで来、そしてあの湖面も、湖畔も、今頃はすっかり夜の闇に包まれているのかと思うと、異様な気がする。地球上で最も静かな一画は、セリム湖畔ではないかといった思いに打たれる。羊も眠り、馬も、牛も眠り、湖を取り巻く山々の熊も、狼も、鹿も、羚羊もみな眠っていることであろうと思う。 四 イリ河  八月十九日、午前中は休養。午後三時に招待所を出て、伊寧紡績工場を参観する。この工場の労務者の三六パーセントが少数民族、工場の主任が詳しく説明してくれるが、漢訳の通訳を挟んで、その上で日本語に移されるので、三倍の時間がかかる。  紡績工場を出て、郊外にイリ河を見に行く。天山山脈から流れ出し、イリ(伊犁)盆地を西に向って流れ、国境を越えて、ソ連領のバルハシ湖に入る川である。伊寧(イーニン)が歴史の街であるように、イリ河もまた歴史の川である。時代の民族興亡の歴史の中を流れている。トルキスタンの川では、カラクム沙漠を流れて、アラル海に入るアム・ダリヤ、キジルクム沙漠を流れ、同じようにアラル海に入るシル・ダリヤ、それからイシク・クル湖畔を源にし、チュー渓谷を流れて、沙漠の中に消えるチュー河、──この三本の歴史の川と竝んで、イリ河もまた東西交渉の歴史の中に登場して来る。  くるまをイリ大橋の袂《たもと》で棄てて、橋の上からイリ河の流れを眺める。橋は非常に長く、橋を渡り切ったところに検問所があり、通行の許可証がないと、対岸地区に入ることはできない。この辺はソ連との境界地帯に入っているので、すべてがやかましくなっている。  橋上から眺めると、イリ河は川幅の広い大きい川であるが、川筋の半分は砂洲に、半分は流れになっている。流れは小波《さざなみ》一つ立てず、静かに置かれてあって、どちらが上流か、下流か判らない。橋をまん中にして、上流も、下流も、共に大きな砂洲を抱えて、川幅は拡がっており、しかも折れ曲っているので、遠くまで眺め渡すことはできない。しかし、川の水は澄んでいる。上流右手の河畔に集落があるが、いかにも河畔の集落といったたたずまいで、美しい。  イリ河を対岸に渡って、パンジン人民公社に向う。この集落は人口一万六〇〇〇、八少数民族でできている。静かな農村で、ウイグル族の一軒の家に入ると、陽気なウイグル娘たちが、葡萄棚の下で歓待してくれる。踊ったり、歌ったりする。見ていると、実に楽しそうだ。歌は歌うもの、踊りは踊るもの、そういう考え方に徹している感じで、はにかみというものは、いささかも持ち合せていない。  何軒かの農家の庭先きを覗かせて貰う。どこにも葡萄棚ができており、その下に椅子、卓が配されてあったり、絨毯が敷かれてあったりする。  パンジン人民公社を辞して、町中に入り、古いイスラム寺院を訪ねる。これは私の希望によって、スケジュウルに組み込まれたものである。寺院へ入ってゆく路地にも、表通りにも、たいへんな人が群がっている。みな外国人である私たちを見物に来ている人たちで、老人も居れば、娘も居り、よちよち歩きの子供までいる。  表通りから楼門までは人で埋まり、右手に一間ほどの小川が流れているが、その小川にまで人が入っている。これほど物見高い人たちはないだろうと思う。  山門楼をくぐると、広場があり、その向うに本堂と覚しき大きな建物が建っている。そこが礼拝堂で、その中に入れて貰う。内部は何百人でも坐れそうな広さである。住職が出て来る。馬文炳という回族の人。小柄で、信心深そうな五十歳ぐらいの人物である。体格は貧弱で、絶えず笑顔を見せ、突然の珍客の来訪に対して、どうしていいか判らぬといった面持ちである。回教の洗礼名(?)を訊くと、モハメド・フルサインというと答える。そのうちに少し慣れたのか、いろいろ説明してくれる。  この建物は伊寧では一番古く、清の乾隆《けんりゆう》時代のもの、もとはひどく荒れていたが、一九五八年に国の費用で修復している。現在のけばけばしい塗装はその折のものである。外観は仏教寺院に似ているが、初めからモスクとして建てられたもので、内部は完全にモスクの体裁を調えている。ただイランやトルコのモスクと異るところは内部装飾が全くなく、一枚のタイルも使われていないことである。がらんとした大広間で、柱だけが赤く塗られている。  この教会は現在生きて活動しており、毎日五回、決まった時刻に礼拝が行われている。礼拝時刻が来ると、山門楼の三階に人が登り、そこからアラブの言葉で、“礼拝の時刻が来た、礼拝の時刻が来た”と、大声で呼ばわる。  この地方には、このほかにも幾つかの回教寺院があるが、その大部分がこの寺院と同じように、外観は仏教寺院、内部はモスクといった体裁の建物である。アラブ式のモスクもないわけではないが、アラブ式のものはみな小さい構えであるという。  回教寺院を引き揚げると、次は国境に非常に近いところにある金泉人民公社を訪ねる。シボ族、カザフ、ウイグル、漢族、モンゴルの五つの少数民族九〇〇〇の人たちで構成されている公社である。この村の人たちは生産の任務と国境守備の任務を持っている。従って公社の人たちは仕事のほかに歩哨に立ったり、巡邏《じゆんら》活動に服したりしなければならない。  しかし、公社の招待所で話している限りに於ては、他の公社と少しも変りはない。明るく、のびやかで、労武結合が、いかに特務に対して効力があるかといった例を、世間話でもするような調子で、口々に話してくれる。正規軍と民兵と農民の協力、そんな言葉も度々飛び出す。  八月二十日、招待所を十時に出発する。今日はウルムチ(烏魯木斉)に帰る日である。空港に向う途中、公園に立ち寄る。町中の公園ではあるが、樹木がたくさんあって、陽の光が樹間からこぼれていて美しい。  空港への道は、どこまでも真直ぐに走っているポプラの竝木道である。ポプラはウルムチのポプラと同種類であるが、天に向っての伸び方は、どうもこちらの方が一層輪をかけているような気がする。そのことを同行の土地の人に話すと、紙片に“穿天楊”と書いてくれる。名前であるか、形容であるかちょっと見当がつかないが、天をうがつ楊とは適確な言い方だと思う。  空港へ行くと、草地の中に一本滑走路が走っている。滑走路以外は一望の草の原である。機はここに来る時と同じアントノフ24、四六人乗りである。この機種は翼が高いのでどの席の窓からも下を見ることができるので、有難い。  十一時四十分離陸、すぐみごとな大耕地の上に出る。きのう見たイリ河の流れが見えている。褐色、黄、緑、茶、色とりどりの短冊が竝んでいる。やがて耕地地帯を離れて、一木一草ない丘陵地帯の上に飛び出す。無数の黄褐色の粘土の固まりを、そこに置いたようである。ところどころに草付きの薄緑の斜面があり、谷間《たにあい》の川は白い糸屑のように見えている。  やがて山塊は大きくなり、谷は深くなる。どの谷間にも糸屑の川がある。山塊の斜面を例の雲杉らしいものが埋め出す。この方は濃い緑である。セリム湖行きの時は、こうした谷間の一つを登って行ったのであろうと思う。  この黄褐色の山岳地帯の最も高いところを越す。右手に大山脈が見えてくる。この大山脈のつらなりは、どこまでも続いている。やがて真下に山塊現れ、機はそれを越えてゆく。こんどの山塊は大きい。樹木というものは殆どなく、無数の稜角を持っている。前方を見ると、こうした山脈が幾つも重なっており、その果てに大山脈が置かれている。先刻の大山脈の続きであろうか。  機はやがて沙漠地帯に出る。右手は丘陵地帯の向うに大きい山脈の連なり、雪が見えてくる。天山である。  離陸してから三十分、全く地殻の模型を見ているようである。機は次から次に現れてくる天山の支脈というか、前山というか、そうしたものを越えている。やがて天山はその姿をむき出しにしてくる。すべての稜角が真白になり、それに陽が当っている。山肌は黒褐色。まさに大天山である。その雪の大天山はどこまでも際限なく続いている。幾つもの支脈によって隔てられてはいるが、機と天山は近くなり、指呼のうちにある感じである。が、やがて天山山脈は遠くなってゆく。そして十二時二十分、大沙漠の向うに天山が置かれてある景観に変る。  天山北路の空の旅である。機は大平原の上に出ている。雪の大天山は依然として右手に見えている。全くの屏風《びようぶ》である。その屏風の向うに、タクラマカン沙漠が拡がっているのである。  十二時四十分、無数の短冊の大耕地の上に出る。天山は依然として、雪を頂いた姿で続いている。大河が見えてくる。いかにも天山から流れ出して、まっすぐに北を目指している川の感じである。砂洲もある。ゆったりと身をくねらせている川であるが、あるいは乾河道であるかも知れない。長い橋がかかっているが、川筋もまた漠地の様相を呈している。依然として大耕地は続いている。天山の前山が雪をかぶって現れ出す。すると、もうこれで自分の役目は終ったとでもいった風に、次第に天山は遠くなってゆく。  やがて機は、ウルムチ空港に降りるために高度を下げ始める。雪の前山も次第に遠くなってゆく。十二時五十五分、沙漠の中のオアシス、その中のウルムチ空港に着陸する。  四日目のウルムチである。陽光は烈しく、三十五度。空港よりの道は、さすがに伊寧より立派であるが、街路樹のポプラは、伊寧の方がひと廻り立派である。水が多いためであろうか。  新市街に入る。街から天山の前山の雪が見える。くるまはそれに向って走ってゆく。やがて旧市内。沙漠の欠片の丘、瓜を食べている男たち、葉の茂りの美しいベラの竝木、馬に乗っている男、驢馬の荷車、──この地区の雑然さはたまらなくいい。四日目のウルムチは、私の眼には、前より落着いた街に見えている。 五 トルファン街道  八月二十一日、午前九時にウルムチ迎賓館を出発、トルファン(吐魯番)に向う。トルファンまでは一八〇キロ、三時間のドライブ。トルファンには一泊、明日夕刻、再びウルムチ(烏魯木斉)に帰って来る予定である。  ウルムチは天山北麓のオアシス地帯の町であるが、トルファンは天山の東部褶 曲《しゆうきよく》地帯にできている盆地の町で、地図で見ただけでははっきりしないが、ともかくも天山の南麓に位置しており、天山南麓を走っている天山南路(西域北道)の起点として知られている。  従って、ウルムチからトルファンに向うには、どこかで天山山脈を越えなければならない。と言っても、天山もここまで来ると、明らかに東の末端部で、道は皺《しわ》寄せしている山塊群の低部を縫って、北疆(天山北部の新疆ウイグル自治区)から南疆へ抜けることになる。  大体ウルムチは海抜八〇〇メートル、それに対してトルファンは海面とほぼ同じ高さの低地である。トルファンをその一部に収めているトルファン盆地は南に傾斜しており、南部低地のアイディン・クルという塩湖は海面下一四七メートルである。従ってトルファンは中国で一番低い盆地の都邑でもあり、また一番暑いところともされている。毎年四十度以上の暑さが三カ月以上続き、これまでの最高気温は五十三度を記録している。そして年間降雨量は一六・六ミリ、年間水分蒸発量は三〇〇〇ミリという。こんどの旅のスケジュウルの中で、多少二の足を踏まざるを得なかったところは、この訪問地であった。  しかし、暑いということを除けば、最後の訪問地であるホータン(和田)と竝んで最も魅力ある歴史の町であることは言うまでもない。ホータンは往古の于《うてん》国の王城の地として、西域史の最も派手な舞台ではあるが、その遺跡の全部が沙漠の中に埋まってしまっている。これに反して、トルファンの方は曲りなりにも、その異常な乾燥度のお蔭で、たくさんの西域古代史の欠片を、今に地上に留めている。  トルファンが史上に名を出したのは紀元前からで、その後北方の強力な遊牧国家と、西域経略をめざす中国の歴代王朝とが、死闘を繰り返した争奪の地である。交河《こうか》城、高昌《こうしよう》城といった往古の都城の遺跡もあれば、近年出土品で有名になったアスタナ古墳群、ベゼクリク千仏洞といったところもある。  今日、これから私たちがドライブするウルムチからトルファンヘ向う一八〇キロの道は、さしずめトルファン街道とでも言うべき道であるが、当然なことながら、これまた歴史の道である。北方遊牧民のタリム盆地への遠征路でもあり、侵入路でもあった。匈奴も、突厥もこの道を使っているし、言うまでもないことであるが、東西文化交渉路でもあり、シルクロードでもある。  私は「異域の人」という小説で、この地帯を取り扱っているが、その時トルファン街道について少しでも知っていたら、小説は当然異ったふくらみ方をした筈であった。しかし残念ながらこの街道については何も知ることができず、いかなるイメージをも持つことはできなかった。ヘディン、スタイン、ル・コック、日本の大谷探検隊などの紀行を読むと、彼等もまた、この道を通っている。しかし、この道がいかなる道であるか、一人の作家がそこからイメージを拾い得るような書き方はしていない。  探検家たちは目的地に到達して、そこに立つことが大切なのであって、その途中がいかなるところであるかといったようなことには、全く関心を払っていない。そういう点は、至極さっぱりしたものである。そうでなければ探検などはできはしないのだ。  が、しかし、探検家でない作家の私の方は、再びいつかこの街道を作品に使わせて貰わないものでもないので、くるまの窓から眼に入って来るものを、できるだけ丹念にメモすることにする。自動車には孫平化氏に同乗して頂き、この地方に詳しい運転手君の助力を仰ぐことにする。  九時出発、二十四度、爽やかな涼しさである。ウルムチの市街地区を出ると、すぐ小さい砂山が点々としている荒蕪地に入って行く。生えているのは野生のひまわりだけ、その黄色の花が眼にしみるように美しい。  やがて道は街路樹に縁どられ、道の両側は緑の田園地帯となり、暫く気持よいドライブが続くが、それも五分ほどのことで、再びすっかり荒蕪地に占領されてしまう。そして左手には大きな砂山が点々と現れ、右手から前方にかけては、たくさんの山が重なって見え始める。無数の山が重なっている中に分け入って行く感じである。  そのうちに右にも、左にも、次から次へと丘が現れて来る。砂丘とは言えない。小石に覆われた不毛の丘である。道は上ったり、下ったりしながら、そして絶えずゆるく折れ曲りながら、丘と丘との間を縫って行く。無数の丘の波立ちの中のドライブになる。アップ・ダウンが烈しいので、殆ど前方も、左右も見渡すことはできない。もちろん一木も一草もない。左手に陽が昇っている。迎賓館を出て二十分足らずで、この不思議な、絶望的な風景の中に入る。ここに一人降ろされたら、狂うより仕方がないだろうと思う。太陽は昇っているが、それがこの地帯のあらゆるものとは無関係に見える。  この不毛の丘陵地帯のドライブは十分ほどで終り、くるまは見はるかす荒蕪の大平原に入って行く。砂礫が一面にばら撒かれ、点々と駱駝草だけが生えている。道は平坦で、まっすぐに延びて、この砂礫と、駱駝草の不毛の大原野を二つに割っている。ここはここで、また絶望的な風景である。見通しが利くだけ、先刻の丘陵地帯のような閉塞的な圧迫感はないが、こちらは“狂”には結びつかないで、いきなり“死”に結びつきそうだ。こんなところに一人遺されたら、黙って歩き出す以外仕方ないだろうが、どの方向に歩き出しても、そこには死が待っている。誰が思うのでもなく、当の本人が思うだろう。すでにくるまは正真正銘のゴビ(戈壁)の中に入っているのである。  一望の砂礫の原であり、一望の駱駝草の原である。駱駝草は塩分を含んでいるので駱駝以外の動物は食べないと言われる。駱駝が好きで食べているか、仕方なく食べているか知らないが、沙漠で駱駝が大きい体を前に折って食べている草を見ると、みな駱駝草である。葉は茨のような形をして、刺《とげ》を持ち、人間は靴のまま踏んでも、大抵チクリとやられてしまう。凡そ可愛げのない草ではあるが、私は先年、アフガニスタン南部のマルゴ沙漠で、見渡す限りの原野を埋めている駱駝草が、今を盛りと小さい紅色の美しい花を着けているのを見たことがあり、その時言い知れぬ感動を覚えたことを記憶している。  そうしたことを話題にすると、  ──駱駝草は駱駝の食料だけでなく、ハミ瓜の肥料として大きい役割を持っています。これを畑に埋めると、甘いハミ瓜ができる。  そう運転手君は教えてくれる。ハミ瓜というのは同じ新疆ウイグル自治区の東北部の都邑であるハミ(哈密)の特産の瓜で、こんどの旅で、各地でふんだんにお目にかかったものである。マクワ瓜に似て、もっと水っぽくて美味い。  駱駝草の草原の一角で、くるまを停めて、休憩。このゴビの大平原のどこかを、北京─蘭州─酒泉─トルファン─ウルムチの鉄道が走っている筈であるが、もちろん、どの辺りか見当はつかない。いま私たちが走っているトルファン街道は、ほぼそれに平行しているという。  ドライブ再開、やがて二十分ほどで、ゴビに入ってから初めての集落が右手に見えてくる。二、三十戸の土屋の村である。運転手君に村の名を訊くと、々草《ちいちいそう》村であると言う。々草というのは駱駝草がばら撒かれている地帯に、駱駝草と一緒に生えている草であるが、駱駝草とは異って、箒《ほうき》はこの草で造られると言う。私たちには今ドライブしている地帯が一望の駱駝草原としか見られないが、同時にまた々草原でもあるのであろう。々草村とはよくぞ名付けたものだと思う。まさしく々草原の中の小集落なのである。  それでも集落の周辺には、刈ったばかりの小麦の畑が拡がっている。この辺りは山から遠いので、天山の雪どけの水の恩恵に浴することは少いであろうと思う。あとで調べて貰ったことであるが、この々草村は昔からある古い集落であると言うから、おそらくトルファン街道の駅亭として、隊商華やかなりし頃は、旅人や駱駝で賑わったところであろうと思う。  々草村を過ぎると、再びもとの大荒蕪地に変る。ひと抱えもあるような大きな駱駝草が眼につく。そのうちに右手遠くに、大塩湖が現れてくる。名前を訊くと、ただ塩湖と呼んでいると言う。この場合もまた、直截《ちよくせつ》でいいと思う。湖面には青さというものはない。脱色でもしたような灰色の水面が、多少波立っているように見えている。細長い湖である。近くに塩湖製塩工場というのがあって、その建物が見えている。塩湖が浅いので、トラックはそのまま湖中に入り、塩をかき集めて運んで来るそうである。塩湖は際限なく続いており、水域は帯のように見えている。  出発より丁度一時間、十時であるが、依然として大荒蕪地の拡がりである。塩湖と対い合うように、道の左手遠くに、低い丘陵が点々と置かれてあるのが見え出す。丘はかなり大きく、それが重なり合ったり、幾つかの丘が断層面を見せたりしている。この辺りの眺めは、トルコのカッパドキヤ高原に似て、暗く、重く、荒涼としている。  塩湖が漸く終ったと思うと、また新しいと思われるものが見え出す。はっきりとは判らないが、幾つかの塩湖が固まって置かれてあるのかも知れない。再び左手の丘は消え、一望の大原野になる。  十時十分、小さいオアシス地帯に入り、達板城人民公社を過ぎる。丈の低い楡が点々と生え、それが風に重い枝葉を一方に靡《なび》かせている。この辺は風の強いところとして知られているという。  達板城人民公社を過ぎると、右手から前方にかけて、大きな山が塞がり始める。突然の山々の現れ方である。道はいつか方向を変えて、天山の支脈に向って走っているのである。清時代の望楼の跡が左手に見える。  やがて、くるまは重なり合っている山と山の間に入って行く。大平原のドライブは終って、いきなりくるまは、谷間《たにあい》の中に引き入れられてしまった恰好である。小さい川を橋で渡り、あとはその川に沿って走ってゆく。全くの岩山地帯で、谷間の清流に沿ってのドライブが始まる。岩山は次から次に重なっており、流れは次から次に現れる岩山の裾を洗っている。そして道はその流れに沿って、岩山の裾や断崖の下を走っている。  前方に視線を投げると、いつも黒々とした岩山が重なっている。この渓谷は白楊溝という名で呼ばれている。野生の白楊が多いので、この名ができたのだという。白楊の枝葉や、他の灌木が、風で身をくねらせている。  十時三十分、車から降りて、休憩。トルファン街道に秋風が立っている感じで、今のところでは少しも暑くなく、風は涼しい。白楊は大きい木で、それがたくさん眼につくが、流れの縁には柳もあれば、タマリスク(紅柳)の低い株も見える。タマリスクは造花のような桃色の花を着けている。  十時四十分、出発。相変らず同じような岩山と岩山とに挟まれた渓谷のドライブ。渓谷は広くなったり、狭くなったりする。渓谷が広くなると、川の流れの両岸の河原もかなり広くなり、そこを柳、タマリスク、白楊などがぎっしり埋めている。流れは白濁し、ところどころに、思い出したように河原を持ち、河原は小石をばら撒いたり、灌木に占領されたりしている。渓谷は時に石炭山地帯でもドライブしているような重く黒っぽい風景になったり、反対に代赭《たいしや》色の風景に変ったりする。岩山の肌の色のためである。ところどころに落石地帯が置かれている。同じようなドライブが果てしなく続く。山という山には一樹もない。  十一時、急に渓谷を抜ける。とたんに渓谷は大きく拡がり、もう前方には山はなくなる。右手には大きな岩山が長い胴体を置いており、左手には低い丘が長く続いているが、前方には山というものは全くなくなり、大荒蕪地が拡がっている。々草原と、小石の原が入り混じって置かれている感じである。いずれにせよ、くるまは今や白楊溝を抜け出したのである。  この白楊溝の出口は老風口と呼ばれ、風が吹くと、人間も動物もみな吹き上げられて、何もかもなくなってしまう悪所とされている。老風口の“老”は“常に”とか、“始終”とかいう意味であるというから、老風口というのは常に強風が吹く難所なのであろう。  幸い、今日の老風口は、風も吹き上げて来ず、至極静穏であったということになる。老風口の烙印《らくいん》を捺されているところは、この白楊溝の出口ばかりでなく、天山山麓地帯のあちこちにあるということである。  ──暑くなったでしょう。  運転手君は言う。そう言われてみると車窓から吹き込んで来る風も熱気を帯びている。  再びゴビのドライブは始まる。恐らく白楊溝を通過したということは、天山東端の褶 曲《しゆうきよく》部を北から南へ越えたということであろうが、天山の北側がゴビであったように、天山の南側もまたゴビである。  見渡す限りの小石の原が続いている。ここにはもはや々草も、駱駝草も生えていない。一切の植物が生きられぬ地帯なのであろうか。左右遠くに山の連なりが見えるが、その山の向うもゴビであろうと思う。山はゴビの中の島であると考えてよさそうだ。  ゴビのドライブは続く。右手に巨大な丘、幾つか現れては、消える。そして更に遠くに大きい丘の連なりが置かれているのを見る。また左手にも大きい山影を見る。この方は山脈である。  十一時三十分、依然としてゴビのドライブは続いている。左手の山脈は次第にはっきりして来る。美しい山脈である。雪も見える。大山脈の連なりである。  十一時五十分、長いゴビのドライブは漸く終り、道はオアシス地帯に入ろうとしている。ゴビの終り頃、カールジン(坎児井)の井戸が点々と置かれているのを見る。年間降雨量の少い乾燥地帯に貴重な水をもたらしているのは、天山山脈である。天山の雪どけの水は沙漠、ゴビ地帯にしみ込んで、地下に水脈をつくるが、その水を汲み上げた井戸を暗渠でつなぎ、農地を灌漑しているのがカールジンである。カールジンは、またカーレーズとも言われる。イランの沙漠地帯に点々と見えているカナートなるものも同じものである。カナートの場合は、井戸と井戸との距離は一〇〇メートルぐらいはあるが、トルファン盆地のカールジンの方は二〇メートルおきぐらいであろうか。  やがて道は突然、オアシス地帯に入ってゆく。急に緑が氾濫する。路傍には水が流れている。何と緑の地帯の美しいことか。どこを見ても緑である。その緑の中に古い歴史の町トルファンは匿されているのである。  ウルムチとトルファンを結ぶトルファン街道のドライブは全く終ったが、匈奴、突厥などの北方遊牧民のタリム盆地への遠征路として考えると、やはり困難の多い大遠征路と言う他はない。駱駝にしろ、馬にしろ、このゴビの大平原の横断は、暑熱と水で、さぞ難渋を極めたことであろうと思われる。徒歩部隊となると、想像はつかない。時代が下ってヘディン、スタイン時代になると、トルファンを発して、何日目かに馬車で、吹雪のウルムチに入っている探検家たちの紀行に二、三お目にかかっているが、あるいは冬の方がゴビの横断は多少でも難少いものであったかも知れない。いずれにせよ、幻覚と幻聴に悩まされての旅であったに違いない。  町には入らないで、郊外にある葡萄人民公社の葡萄溝(棚)を訪ねることにする。閑散とした農村地帯を行く。土屋も、土塀も、微かに赤味を帯びた灰色である。ために暑熱に灼けただれているかのような印象を受ける。あとで、ここが火焔山麓であると聞いて、なるほどと思う。行手に天山が、──と言っても、天山を構成している支脈の一つであるに違いないが、──山巓《さんてん》に雪を頂いて、すぐそこに美しい姿を見せている。  公社の入口にすごくきれいな水が流れている。天山の雪どけの水である。葡萄棚の下で、西瓜と葡萄のご馳走になる。この葡萄溝が属している葡萄人民公社の組織は大きく、所属人員一万六〇〇〇名、病院も、中学校も、高等学校も持っており、他に農機具修理工場、トラクター・ステーション、園芸実験ステーション、小型水力発電所等も、この公社に所属している。ダムも造り、天山の水を引いた用水路も造り、そうした体制のもとに、葡萄の他に綿、瓜、野菜、その他の食糧を生産している。今年一年の葡萄の生産高は一二〇〇万斤(六〇〇〇トン)というが、ちょっと見当がつかない。  一時間ほどで葡萄溝を辞去し、今夜の宿舎であるトルファン県招待所へ向う。暫く舗装してない道を行く。砂塵濛々としている。舗装道路に出ても、状態はさして変らぬ。どこかでごうごうと風が鳴っている。  道の両側は葡萄畑、ポプラ、綿畑、高梁《こうりやん》畑、それに砂塵が降っている。古い土屋地帯に入る。西トルキスタンのブハラの町に似ている。路傍には大人も、子供もやたらに群がっている。自転車も多い。ここでも、また、どこかで風の音が聞えている。土屋も、人も、道路も、砂塵をかぶっている。  女性の服装は大人も、子供も色とりどり、頭に巻いているスカーフも色とりどりである。女だけが色彩を持っていて、それが砂埃《ぼこ》りの風の中でひらひらしている。女の服装は、いま眼に入っているものだけを拾っても、赤、白、紫、黒、桃色、それからそうした色による縦縞《たてじま》、矢絣《やがすり》風の模様。驢馬がひく荷車の上には、赤い服の老婆、青い服の母親、紫と白の服の娘たち、といった具合である。  女という女はみなスカーフで頭を巻いている。髪が風に舞うからだ。そして、みな短いスカート。男の方はズボンに白の半袖シャツ、そして靴か、スリッパ様の履物、それに申し合せたようにハンティングをかぶっている。女の子供たちはみな着飾っている感じで、可愛らしいが、これに引きかえ、男の子の方は、まず例外なく裸体裸足である。  こうした老若男女の群がっている十字路の向うで、街路樹が風に靡いている。戸外は四十四度。風の音、砂埃り、そして向うに雪を頂いた天山が見えている。  やがて、宿舎のトルファン県招待所に入る。石畳の床の上に、二つの寝台が対い合って置かれている。その部屋を一人で使わせて貰う。部屋の隅に洗面器が二つ置かれてあって、それに水がみたされている。この水は部屋の床に撒くためのものであるという。砂埃りをおさえるための撒水なのであろうか。水がなくなると、建物の出入口近くにある洗場の水道から汲んでくるようになっている。  砂塵のことはともかくとして、部屋の内部は三十三度、室内に居ても汗がにじみ出すが、しかし、湿気というものが全くないので不快ではない。  招待所は広い敷地を持った大きい構えで、たくさんの樹木が建物を囲んでいるので、公園の一部ででもあるような雰囲気を作っている。  建物の傍にすばらしい葡萄棚がある。その下が休憩所になっているが、今夜、そこで舞踊や歌の会が開かれるという。充分そうしたことができる広さである。 六 交河故城の落日  八月二十一日(前章の続き)、昼食後、葡萄棚の下でアプリーズ(阿不力孜)・トルファン県革命委員会副主任から、トルファン(吐魯番)県の概況について説明を聞く。卓の上には西瓜、葡萄、ハミ瓜などが出る。やたらに渇きを覚えるので、どれにも手が出る。葡萄と瓜を食べたあと、すぐ熱いお茶を飲むと下痢するからと、注意される。  前回で記したように、トルファン盆地は四方山に囲まれ、南に傾き、南部低地は海面下一四七メートル、盆地の高処に位置するトルファンの町でも、海面とほぼ同じ高さである。トルファン県の年間降雨量は一六・六ミリ、年間水分蒸発量三〇〇〇ミリという異常な乾燥地帯で、中国で最も暑いところとされている。火州の異名も、こうしたところから生れている。午後二時の現在、戸外は四十四度、室内は三十三度である。どこを訪ねるにしても、今日は多少暑さの衰える四時頃から、行動を開始することにする。  トルファン地区は気温高く、降雨量は少いが、その気温は農作物、園芸物の生長に適している。問題は水であるが、幸いに天山の雪解けの水のしみ込んだ地下水量は豊富で、カールジン(坎児井)の水は絶えることなく、年中湧いているし、この他に天山の雪解けの水を、直接、運河、用水路によって引いて使うこともできる。革命前は乾燥と水不足で苦しんでいたが、解放後は水利工事が重視され、七つの用水路、六〇〇余りのポンプ井戸、八つのダムが造られている。そのために灌漑面積は倍になっているという。水が農業の命脈であることを、トルファン県はよく証明していると言える。  この地区には、もう一つ厄介なことがある。台風なみの大風が、毎年三十数回、吹き荒れるというから、これまた相当なものである。特に風の強い、この盆地のトッスン県は風庫と呼ばれているくらいである。この大風による被害を防ぐには、防風林を造ることしかない。現在トルファン県の防風林の長さは一三〇〇キロに達している。こうした地区に、人間が生きるということは、なかなかたいへんである。風雨時順の日本では想像できないことである。  しかし、このトルファン盆地にも紀元前から人間が住みついている。天山東部のオアシス地帯であるということと、交通の要衝であるということで、往古から少数民族の定着地帯として知られていたのである。  トルファン地区が、中国の史書(漢書・西域伝)に現れるのは、この地区を支配していた車師《しやし》前部という国としてである。当時、漢の初期には天山南部、タクラマカン周辺の地にはいわゆる“西域三十六国”があり、車師前部はその一つであり、交河城を都としていた。国と言っても、ごく初期段階のものであったに違いなく、少数民族の、多少まとまった定着地として考えた方がよさそうである。  それはともかくとして、車師前部の地は、当時強大な勢力を持っていた北方の遊牧民匈奴が西域に南下する門戸に当っており、漢が西域経営に乗り出すや、当然なこととして、ここは両勢力争奪の地とならざるを得なかった。漢の西域経営が進むと、車師国はその勢力下に置かれ、西域都護府が設けられ、戊己校尉《ぼきこうい》が高昌壁に置かれた。  しかし、これも短い時期のことで、紀元前後には車師は全く匈奴に制圧され、ために漢は西域を放棄せざるを得なかった。この漢末の頃は、“西域三十六国”は分裂して、五十余国になっている。  その後、後漢は西域に進出し、再び匈奴と車師の地を争っている。班超《はんちよう》、その子班勇《はんゆう》が、その生涯を流沙の中に埋めた時期である。  高昌壁はその後、高昌城と称せられ、以後漢人が多く入り込み、中国の出先機関としての役割を受持つようになる。更に北涼《ほくりよう》滅亡後は、その残党がここに拠り、これと争った車師国は滅亡の悲運に見舞われ、初めてここに、高昌国が史上に登場して、高昌城を都とする。四五〇年のことである。この頃から、曾て西域に散らばっていた五十余国は叙々に合併し、やがて六つの大国となる。高昌、焉耆《えんき》、亀《きじ》、疏勒《そろく》、于《うてん》、善《ぜんぜん》、これである。こうなると、もう単なる定着地とは言えない。立派に国として体制を調えている。  この西域六国の中で、高昌国だけは多少肌合を異にしている。他の五国は少数民族の建てた国であるが、高昌国は漢人が建てた国で、住民はイラン系であったと思われるが、官制、風俗共に中国風で、宛《さなが》ら中国の植民地の観を呈している。出土した人形などから見ると、住民の風俗などなかなかしゃれたものである。が、この植民地は次第に本国と対立するようになり、六四〇年に、ついに唐は高昌国を滅し、西州という名に改め、この地の中国支配は、ウイグルが西遷《せいせん》して、大量流入して来る九世紀中葉まで続く。  以後、この地はウイグリスタンの中心部をなし、十四世紀中期以後は東チャガタイ・ハン(察合台汗)国に属し、元代には和州、火州、喀喇和卓、喀喇火卓(共にカラ・ホージョ)などと呼ばれ、この時期に初めてトルファンという城邑の名が現れてくる。  その後、トルファンの支配者は全ウイグリスタンを統《す》べるに到り、十八世紀に入ると、明との間にハミ(哈密)を争ったり、清とジュンガル部との抗争の場となったりしている。  こうみて来ると、トルファン盆地の歴史は古く、しかも波瀾に富んだものである。西域史の何分の一かは、ここを舞台として展開されている。現在、トルファン県には、交河故城、高昌故城の二つの大遺跡がある。異常な乾燥度のお蔭で、全くの土の城市であった二つの西域史の欠片は、干何百年か前の姿を、今日に伝えているのである。  宿舎であるトルファン県招待所を四時三十分に出発、五星人民公社に立ち寄り、そのあと交河故城を訪ねることにする。  古い土屋地区を行く。簡易舗装なので、砂塵が烈しく舞い上がっている。土屋の壁は切れないで、何軒も続いている。土屋地帯が切れると、綿畑、高梁畑が置かれ、それを風よけのポプラが取り囲んでいる。依然として風は強く、砂埃りが舞い上がっている。  田圃の中に蘇公塔と呼ばれている塔が見えてくる。塔の高さは四四メートル、塔《せんとう》(煉瓦塔)である。二百年前に造られたもので、塔の裾にモスクも建っている。沙漠の中の回教寺院である。塔は周囲の丘の色と全く同じで、塔に刻まれている模様は、ウイグル族伝統のものである。  清朝の初期に、宗教を統一するに当って功績があったイミンという人物を、清朝はトルファン王に据えた。イミンは八十何歳まで生き、王位を子ソレマンに譲った。ソレマンは民族統一に大きい役割を果している人物であるが、この塔はソレマンが、父イミンのために建てたものである。塔の傍の立札では、蘇公塔というもとの名を廃し、額敏塔という新しい名を使っている。  再び土屋地帯を行く。寝台を戸外に出している家が多い。寝台は前庭の木蔭や葡萄棚の下に置かれている。ところどころに小川が流れている。天山の水なので、手でも入れたいほどきれいである。  町中に墓地がある。煉瓦色の墓標や、小さい家型の墓が、多少異様な感じで眼に映る。年々歳々、人々はこの町で生き、そして死んで行くのである。  表通りに出る。道が広く、左右の建物が役所風になっているだけで、相変らず砂埃りの通りであることに変りはない。やがて下町に入る。大人や子供が、やたらに群がっている。例の色とりどりの女のスカーフが、風でひらひらしている。自転車も多く、驢馬も多い。  風の町、埃りの町、ゴビの町、天山の町、沙漠の町、白い土屋の町、裸体、裸足の子供の町、驢馬の町。ビル街も、田圃も入り混じっている町。トルファン県の人口は一四万八〇〇〇と言うが、トルファンの町の人口はその何分の一ぐらいであろうか。  やがて見渡す限り青々とした畑の中に入って行く。畑の青さは、トルファンで見た一番美しい色である。そうした田圃地帯を、やはり今までと同じように埃りを浴びて行く。風がごうごうと鳴っている。畑を囲んでいる防風林はポプラである。  点々と農家が散らばっている。煉瓦建ての家であるが、それを白く塗っているのもあれば、煉瓦をむき出しにしているのもある。農家周辺の畑の農作物の緑だけが美しく眼にしみるが、ただこれだけのことで、この地域では、農業に従事している人たちが、一番仕合せそうに思われる。  やがて、五星人民公社の一画に入ってゆく。防風林の中に絨毯を敷いて、わたしたちを迎える席が造られてある,席の傍を水が流れている。ここでも、ごうごうと風が鳴り、防風林のポプラがざわざわと揺れ動いている。西瓜が次々に運ばれて来る。大体一人一個ぐらいの割合である。公社の人が話しているが、その大部分は風に攫《さらわ》われてゆく。  ──この五星人民公社は二三大隊、一〇三の生産隊、所属人員は三万三〇〇〇、主な生産物は小麦、高梁、綿、葡萄。  ──以前はこの地区には砂丘が何百とあった。風が吹く度に砂が飛んで来た。七つの村が砂のために壊滅したこともあった。風と砂の被害を受けて、作物は一年間に三回も、四回も植え直さなければならなかった。  ──現在は、二〇〇の砂丘をなくして、植林している。運河も造り、もともとあったカールジンも整備し、新たにポンプ井戸も掘った。  公社の人は大きな声で話しているが、相変らずその声を、風がどこかに運んで行ってしまう。あまり西瓜には馴染みない私であるが、いくらでも食べられるから不思議である。誰も、彼も、水でも飲むようなつもりで、西瓜を食べているのである。  五星人民公社を辞し、トルファンの町から一一キロの地点にある交河故城遺跡に向う。  街路樹の背の低いポプラの白い葉裏が、風にゆらいで、花のように見える。こうしたポプラに気付いたのは、この時が初めてである。案内してくれる土地の人の話では、新疆楊と言って、新疆本来のものであるそうである。ウルムチ(烏魯木斉)、イリ(伊犁)地区でさんざんお目にかかった、あのどこまでも高く伸びるポプラは、穿天楊と言って、外来種であると言う。穿天楊のあのすくすくした姿もいいが、新疆楊もまた、何とも言えず美しい。花が揺れ動いている感じである。土屋の集落に入ると、土屋と土屋の間の路地で、埃りを浴びながら、子供たちが手を振っている。女の子は着飾っている感じであるのに、男の子の方は例外なく、裸体、裸足である。女の子と、男の子が竝んで、手を振っているのを見ると、奇異な思いに打たれる。  路傍の溝には、きれいな水がふんだんに流れ、ところどころ道路上に溢《あふ》れたりしているが、砂埃りの方は、自分は自分だというように、あちこちで舞い上がっている。  いつか、一望の青の耕地に入る。段落のある地盤で、点々と砂丘が置かれている。暫くすると、耕地のすべてが荒蕪地に変り、まるで砂嵐のように、風があちこちで砂を巻き上げている。  くるまは大きな砂丘の裾《すそ》に沿って行く。砂丘の傍に水が流れている。不整形な流れで、水がどこからか湧き出しているらしいが、ちょっと見当がつかない。  砂丘の裾をはなれると、くるまは水溜りのような川に沿って、よちよち進んで行く。川の中と、その周辺に、タマリスクの株が多い。右手には大きい砂丘の連なりが見えている。  やがて、また前方に荒蕪地が拡がって来る。落日近い太陽が真赤に見えている。くるまは右手に廻り、大砂丘と大砂丘の間に入って行く。この辺りから道はなくなる。磧《かわら》でくるまを棄て、いっしょについて来たジープに乗り替え、二つの砂丘の間に入って行く。砂丘は、近づいてみると、ところどころに岩の肌を露出している。  正面遠くに、遺跡様のものが見えて来る。荒涼とした地帯である。城砦《じようさい》と見えたが、近寄って行くと、そうではなく、岩山の自然の制作である。大揺れに揺れる凄いドライブになり、とうとう川の流れの中に入って行く。暫くすると、同じ流れの中で、子供をのせた驢馬がやって来て、それと擦れ違う。どうやら流れは、この地域の人たちが使う道になっているらしく思われる。  難行十分、こんどは本当の遺跡が眼に入って来る。交河故城である。予想していたより大きな城市の遺跡である。南門より入り、ジープは大通りらしいところを走って行く。文字通り死の町のドライブである。バビロンなみの大きさで、何の跡か、大小の土の欠片が柱の如く、壁の如く、竝び立っている。  大きな寺院跡だと言われているところに到って、ジープより降りる。かなり大きい寺院跡である。一応整備、復原しかけてあるらしく、台地が低くなったり、高くなったりしている。そこを二段ほど登って、奥に行くと、拝殿址らしい壁面が立っており、その龕跡《がんせき》と思われる高処に、壊れた仏像が載っている。首を欠いた坐像である。  そこから出て、附近の大塹壕地帯を歩き廻る。裏通りの跡らしいところも歩く。同じような通りが、何本も交叉している。  最後に、川が下を流れている断崖を覗く。交河故城という名が示しているように、この城はもともと、二本の川に挟まれた中洲に造られた城である。中洲ではあるが、地盤は高くなって丘状を為している。従って、城壁を持たない城として知られ、城門も、南北二門を持つのみとされている。崖下の川はすでに涸れていると言われているので、現在そこを満たしている水は、どこからか湧き出しているものと思われる。  広い遺跡の中の、奥まった一隅に立っているだけに過ぎないが、土塁、土柱、土壁が、累々と屍をさらしている。ここに住んだ人たちは、時代時代で変っていた筈である。イラン系の少数民族の時も、漢族の時も、そしてまたウイグル族の時もあった。あるいは一時的ではあるが、匈奴、突厥などの、北方の遊牧民の時代もあったに違いない。ここを本格的に掘ったら何が出て来るであろうか、と思う。紀元前一世紀から十四世紀まで生き続け、そして廃城になって、今日に到った城市である。  帰途に着く。同じ道を、同じジープで帰る。大きな砂丘が落日で、赤く染まっている。振り返ってみると、遺跡もまた赤い。川の流れの中を降り、その他に三回、小川を渡る。  ジープを棄て、くるまに乗り替える地点まで来て、後の組を待って、そこらをぶらぶらしている。時計を見ると、九時十五分。現地時刻では七時十五分である。暮色蒼然として、半月が平原の上に出ている。乾河道に立って、平原の方、つまり城址と反対の方を見ると、平原は海のように見える。陽はすでに落ちているが、点在する大小の砂丘、岩山の肌は、まだほんのりと赤い。風は涼しい。  招待所に戻り、夕食をすませたあと、葡萄棚の下で開かれる民族舞踊と歌の会に招かれる。私たちの他に一〇〇人ぐらいのウイグルの男女が席を占めている。県の文芸工作隊の人たちの出演、三〇人のうち二人が漢族、他はみなウイグルの男女である。演しものは政治色の濃いものばかりであるが、それを達者に、しかし厭味なくやっている。團伊玖磨氏の話では、楽器も少数民族らしい面白いものであるし、その演奏もなかなか垢ぬけたものだということである。  演芸が終って、部屋に引き揚げる。多少疲れたのか、眠くならないので、夜半まで起きている。暑熱の国であるが、夜は気持よい。  ベッドに入っても、今日見た交河城址が眼に浮かんで来る。一九二八年にこの地を調査した中国の考古学者黄文弼の手記に依ると、彼がこの遺跡を訪ねた時は、遺跡の中に多くの人たちが住んでいたという。おそらく長い歳月に亘って、附近の農民たちの住居になっていたのであろうと思われる。それにしても、あの荒涼たる遺跡に於ける明け暮れはどのようなものであったろうか、と思う。  それからまた、同じ黄文弼の手記に依ると、住民たちは交河城址を「雅爾和図」と呼んでおり、「雅爾」は突厥語で“崖岸”「和図」は蒙古語で“城”を意味するそうである。二つを合せると崖城となる。まさに崖城であると言う他ない。それにしても、突厥語と蒙古語を併せた呼称が、周辺の農民たちの間で用いられていたということは面白いと思う。この城址の持った複雑な歴史が生み出したものと言っていいであろう。 七 ベゼクリク千仏洞  八月二十二日、ゆうべは深夜まで起きていたが、それから熟睡し、気分爽快。何年か前、カスピ海の海辺にあるラームサルのホテルで泊った夜の眠りの安らかさを思い出す。カスピ海の南部沿岸は海面より低いので、眠りの安らかさは、そのためであろうと、ホテルの事務員は言ったが、或いはそうしたことのために、トルファン(吐魯番)の眠りもまた、安らかであったのかも知れない。  今日のスケジュウルはぎっしり詰まっている。高昌故城、アスタナ古墳群、ベゼクリク千仏洞、そういったところを廻り、タ方ウルムチ(烏魯木斉)への帰途に就く予定である。  九時十五分、招待所を出る。街路樹のポプラの白い葉裏の美しく見える通りを行く。曇っているためか、くるまの窓から入る風が、昨日よりずっと涼しく感じられる。道の両側には、高梁畑が拡がっている。町に入り、すぐ町を抜けて、郊外に出る。驢馬に乗っている老人、一人、二人、三人、悠々たるものである。前方に低い山の連なりが見えて来る。火焔山続きの山脈であると言う。  道、直角に右に曲る。前方の山系は、従って左手になり、その山脈のこちら側に、だんご型の異様な姿の山が、幾つも現れ出す。  漠地に入る。左手の山脈を遠く見ながら、一望の漠地のドライブは続く。右手には山影全くなくなり、一木一草ないゴビ(戈壁)が拡がっている。そのうちに所々に青い灌木の株が置かれ、点々とカールジンの井戸が見え始める。  左手遠くにはまだ山脈が続いているが、果てしないゴビの拡がりとなり、荒涼たる小石の原が続く。あるものはカールジンの井戸ばかりである。右手遠くに低い丘の波立ちが見られる頃から、前方に山が重なって見え始め、それが次第に左手に廻って行く。前方に、また大きい山が重なって現れ、くるまはその山と山との間に入って行こうとしているかのようである。そのためか、くるまは左手に廻った山に近づき、その裾に沿って行く。  停車。火焔山の前だという。なるほど、赤い焔のような山が、すぐそこに置かれている。火焔山山系のなかで、最も火焔山らしく見える山塊の前で、くるまは停車したのであろう。  火焔山はトルファン盆地を、東西に奔っている九〇キロほどの小山系、山系とは言っても、幾つかの山のつながりである。南北は一〇キロ、高さは海抜五〇〇メートル、一木一草ない赤い砂岩の山である。「西遊記」に出て来るので有名であるが、山肌が赤くて、焔を思わせるので、火焔山の名があるのであろう。それに火焔山のあるトルファン盆地は、実際に火焔の中に居るような暑さなのである。  再び出発、前の山に突き当ると、予想に反して右手に曲る。くるまは、二つの山の間には入って行かないで右手に折れたのである。折れたところから、道の両側には樹木が植り始める。緑があるところから見ると、オアシスに入ったのであろう。  果して、すぐ集落に入る。全くの農村、火焔山人民公社である。集落には人が多く、籠を持った内儀さんの目鼻立ちの美しいヨーロッパ系の面輪が、眼を惹く。その向うで、老人二人、路傍の石に腰を降ろしている。のびやかな集落であるが、砂塵が、そうした人々の上に降っている。  集落を抜けると、すぐ城壁に突き当る。目指す高昌故城である。遺跡の中をドライブする。この城址もまた、ひどく広い。交河故城と、どちらが広いか、見渡している限りでは判らない。城址もまた、砂塵濛々。ところどころに半ば土に化した煉瓦の欠片が山積している。  城址の奥まったところにある寺院址で、くるまを降りる。北方に天山を望む大きな土の城市である。火焔山人民公社の土屋の集落を、すっぽりと、この城址の一隅に収め、樹木を配すと、高昌城華やかなりし頃の下町の一部ができ上がりそうに思われる。それにしても、往時の樹木に埋まっていた城市を瞼《まぶた》に描くことは難しい。  高昌城は今から千三百年、乃至千四百年前に造られている。ほぼ正方形で、東西一六〇〇メートル、南北一五〇〇メートル、周囲五キロ、面積は二〇〇万平方メートル。皇城、内城、外城の三つの部分によって構成され、城の北の部分は居住地、南の部分は手工業の作房であった。東南、西南の角に寺院があり、寺院は唐時代の長安の様式をとっている。──ざっと、このようなことが、今日判っている。交河城には城壁はないが、高昌城の方は、ぐるりと城壁によって囲まれ、城壁の幅の一番広いところは、一二メートルに及んでいる。  この城市もまた交河城と同じ時期に廃城になっている。合戦による破壊のためか、河道の変遷のためか、一切は不明である。  高昌という名は、先述したように、「前・後漢書、西域伝」に初めて、“高昌壁”として出てくる。そして後に高昌城となり、次いで国号として用いられるようになるが、その高昌国が亡んだあとも、またウイグルの支配下に置かれる時代になっても、高昌という古い呼称は、一方でそのまま使われていた。このことから推して、高昌城は少くとも、元の末期までは廃棄されていなかったのである。  高昌が、その本来の名を失ったのは元末、十四世紀以降である。高昌という呼称は消え、喀喇和卓、喀喇火卓(共にカラ・ホージョの漢訳)、または略して、単に和州、火州と呼ばれるようになる。「アジア歴史事典」によると、火卓、和卓、すなわちホージョは、高昌の転訛に他ならなく、カラ・ホージョは“荒れ果てた高昌”を意味するという。元末以降、高昌国の都・高昌城は廃城となり、荒れに荒れ、カラ・ホージョと呼ぶ以外仕方なかったのであろう。  一九二八年、中国の考古学者・黄文弼は、この遺跡を訪れたが、その調査報告である「吐魯番考古記」には、  ──城中の大半はすでに開墾され、耕地となっている。城中の古代建造物は農民によって取り壊され、その土を肥料として使用されたため、その大半は消失してしまっている。現在残っている大きな建物の多くは、子城内の西北区にあり、住民からは学堂と称せられており、多くは古代廟宇建築で、アーチ型をしており、土煉瓦造りで、さらに土を塗り、色彩を施してあった。  ──城の東南は地勢が低く、現在は既に畑となっているが、当時の子城の城隍《じようこう》であったかも知れない。  ──城址の東北、西北はすべてゴビで、このゴビ灘《たん》上には古墳が非常に多く、みな土をもって墳とし、周囲を土の垣で囲んでいる。  といったことが記されている。今から五十年前のカラ・ホージョの姿である。そして今、新中国に依って、この大廃墟は、同じ廃墟ながら、往古の漢人植民地の跡として、また高昌国の都跡として、新しい歴史の照明を当てられつつあるのである。  高昌故城を辞して、そこから指呼の距離にあるアスタナ古墳地区に行く。高昌故城の西北二キロ、北東方に天山の連山が見えるいい場所であるが、特に手を加えられてないので、磧のような殺風景な地区に、土饅頭があちこちに散らばっているのを見る。ここは、一九五九年を初めとする、何回かの新疆ウイグル自治区博物館の発掘によって、夥しい数の古文書、壁画、絹織物、絹絵、副葬品等が出土、世に紹介され、一躍有名になったところである。さきに、私はウルムチの同博物館に於て、ここから出た絹絵を数枚見ており、また「絲綢之路」、「新疆出土文物」などの図録によって、ここからの出土品に関して、多少の知識を持っていたので、何となくもっと別の墓葬地域を頭に描いていたのであったが、来てみると、石炭のガラ棄場にでも連れて来られたような感じであった。  しかし、考えてみれば、いかに考古学上貴重な史料が埋められてあろうと、墓場は墓場であった。しかも、千数百年前の墓所であった。発掘によって判ったことは、ここの墓は三世紀から九世紀に到っており、その間の古代高昌の歴史が、死者と共に土中深く仕舞われてあったのである。なおこの遺跡の範囲は非常に広く、約八万平方メートル余りの土地に、墓は断続的に分布している。  私たちが訪ねた時は、壁画のある墓が二つあって、そこだけが内部に入れる通路を持っていた。他の墓の入口は閉ざされてあって、内部に入ることはできなかった。開放されてある二つの墓は、出土品から見ると中唐の墓と見られ、墓誌はなかったという。  墓の一つに入る。こぢんまりとした方形の墓室で、正面の壁に絵が描かれてある。孔子の思想、つまり処世術を宣伝している鑑戒《かんかい》画なるもので、四人の人物が、四角な敷物の上に坐っている。中に“金”と書かれたプラカードを背にかけている人物がある。これは金人であることを示しており、金人とは、言葉を慎む慎言人であるという。他に品行正しい玉人、鈍感な石人が描かれている。もう一人頭の悪い木人が描かれてあるのが普通だが、ここには取り扱われていない。いずれにせよ、死者は教訓画を枕頭に掲げて眠っていたわけで、これでは眠りはさぞ窮屈であったろうと思われる。  もう一つの墓室も、正面の壁に花鳥画が描かれてあった。雉《きじ》と鵞鳥《がちよう》である。  アスタナ古墳地区を辞して、トルファン東方五〇キロの地点にあるベゼクリク千仏洞に向う。  トルファンから高昌故城に向う時、ドライブした同じ道を、こんどは反対にトルファンの方に向う。そしてほぼその中間と思われるゴビのまん中で、くるまは直角に右に折れる。真直ぐに行くとトルファンの方に行くが、方向転換したわけである。この辺りで後続のくるま四台が見えなくなる。  ゴビのドライブは続き、火焔山続きの山に突き当り、その裾に沿って走る。やがて両側とも山になり、山と山とに挟まれた大きな乾河道らしいところを走る。しかし、やがて、そこを抜けてゴビの平原に出る。火焔山山系の裏側へと廻りつつある感じである。道らしい道はなく、何となく車の轍《わだち》の跡らしく思われるところを走って行く。  ゴビのただ中で停車。小石の原に腰を降ろして、西瓜を食べる。後続のくるまを待つが、いっこうに姿を現さないので、休憩を打ちきる。  暫く行くと、こんどははっきりと川の跡と思われるものの中を走る。中洲も持っており、川幅は広くなったり、狭くなったりしている。水さえあれば、堂々たる大河だ。  乾河道の中を走り、やがて乾河道から出て、一台だけ、あとに続いて来たジープに乗り替える。依然として後続のくるまは見えない。  こんどは段落あるゴビのドライブとなる。また、大乾河道が現れる。それを斜めに横ぎると、思いがけず、緑の地帯に出る。思うにゴビの大平原の中にある小さいオアシスなのであろう。村落らしいところがあり、土屋数軒固まっているが、人影は全くなく、驢馬一頭、土屋の横に立っている。しかし、人間も住んでいるに違いないと思う。小さいトウモロコシ畑、綿畑が附近に散らばっている。綿は黄色の花を着けている。  再び荒蕪地に出て、荒いドライブが果てしなく続く。やがて右手の山系、近づいてくる。地盤は到るところ抉《えぐ》り取られている。地盤、大きく傾斜し始める。墓があちこちにある。昔の墓か、現代の墓か判らない。が、こうした漠地の中に、墓地らしい形を保っているところを見ると、そう古いものであろう筈はないと思う。  山系、次第に近づいてくる。アップ・ダウン烈しい丘陵地帯に入る。殆ど道らしい道はない。  暫くすると、前方に山が現れ、右手の山系とぶつかる。くるまはその間に入って行く。二つの山の間に入って行くと、突然、前方に大きい眺望が置かれる。雄大な眺めである。大きい山と、大渓谷と、大断崖が、一つの画枠の中に収められている。あっと声を立てたいようだ。壮観の一語に尽きる。運転手氏の言葉で、大断崖が目指す千仏洞の舞台であることを知る。なるほど大断崖にはたくさんの石窟が彫られている。それが、はっきりと見える。千仏洞のある渓谷は、トルコのカッパドキヤ高原にあるような地殻の割目に似ている。そしてその大きな割目の一方の断崖に、千仏洞は彫られているのである。  くるまは、その大渓谷を左手に見るようにして、台地の上を少し走って、千仏洞への降り口のところで停まる。何段かの滑りやすい降り口を降りて、千仏洞の掘られてあるテラスに達する。テラスは広いところもあれば、うっかりすると崖下に落ちそうな狭いところもある。下を覗くと、いま自分が立っているところが、大断崖の中層に造られたテラスであることを知る。このテラスに沿って、たくさんの窟洞が掘られている。足許の砂の粒子は細かく、靴は砂をかぶって白くなっている。  大きな岩山と岩山に挟まれた渓谷の景観は烈しい。両岸の岩山は共に薄い赤味を帯びている。テラスから下を覗くと、磧に畑が造られてあって、ひまわり、トウモロコシなどが植っており、畑のあちこちに西瓜の転がっているのが見える。  ここはトルファン盆地の北東部、下を流れている川はムトウク川。従って千仏洞はムトウク川の地溝右岸に造建されていると言える。更に詳しく言えば、川は大きく湾曲しているので、その湾曲部に造られているということになる。“ベゼクリク”は突厥語で、“絵で飾られた場所”という意味だそうである。八、九世紀にこの盆地に流入して来たウイグル人に依って造建されたとされているが、実際はもう少し古いと言う。  このベゼクリク千仏洞は全部で五十七窟あるが、その造建時期は大体、四つに分けられる。一番古いのは南北朝、唐初期のものであるが、今はこの期のものは一つしか遺っていない。一八洞が、それである。第二期は盛唐、中唐で、一四、一五、一七、二八、二九の五窟である。第四期は元時代のもので、一六、三九、四〇、四一、四二の五窟である。第三期は唐の末期、五代、宋の時期で、これまでにあげた洞窟以外のものは全部、この三期のものである。五十七ある石窟の半分は、完全に壁画を失っており、遺っているものも、尽《ことごと》く傷つけられている。  洞窟を次々に覗いて行く。内部は日乾《ひぼし》煉瓦で畳まれてあり、どの石窟の壁画も傷つけられていて、満足なものは一つもない。自然に壊れたものもあれば、外国の考古学者たちによって、四角に切りとられているものもある。残っている仏画の菩薩、供養者の眼はくり抜かれ、顔は塗り潰されたり、剥がされたりしている。これは回教徒によっての災難であろう。いずれにせよ、惨澹《さんたん》たるものである。  一八、一九、三八、三九、四〇、四一の諸洞をカメラに収める。そして一番古い一八洞の内部に入って、そこで西瓜を食べさせて貰う。ベゼクリク千仏洞を見た印象は痛ましいという一語に尽きる。曾て絵で美しく飾られていた信仰の聖堂は、今や、目も当てられぬむざんな遺跡になっているのである。  いくら待っても、後続部隊がやって来ないので、帰途に就く。先刻は気付かなかったが、白いだんごに胡麻を振りかけたような丘が何十となく並んでいる地帯を走る。無人の集落は依然として無人、綿畑の黄色の花の品のいい美しさ。何本かの乾河道、カールジン。  自動車への乗替え地点に戻るが、他のくるまの姿は見えない。ゴビに入り、東からトルファンのオアシス地帯に入って行く。遠くゴビの果てに、緑が一本の直線となって見えている。くるまは、それを目がけて、走りに走る。やがて、そこに入ると、ポプラの竝木、畑。そして町。  招待所に帰って、食堂を覗くと、道に迷った他の四台のくるまの人たちが食事をしている。何回も行ったことのある道案内人がついていたのに、道に迷ってしまって、行き着けなかったという。沙漠とか、ゴビとかいうところは、やはり怖いと思う。  五時四十分、ウルムチヘの帰途に就く。昨日ドライブして来た道を、逆に走る。  日乾煉瓦そのままの家。驢馬が引く荷車多し。子供一人乗っているのも、一家全員乗っているのもある。ふしぎな団欒《だんらん》を驢馬は引いている。耳輪が、娘の耳で光っている。  町を抜けて、ゴビに入る。ゴビはカールジンだらけ。粘土と石を練り固めたような丘、山。トルファンより五十分で、ゴビの小石は黒くなり、一時間で老風口に達す。風の感じ変る。両方から大きな山が迫り、左手を川が流れている。前方に山脈が折重なって見えている。雄大な眺め。  山峡地帯の長いドライブ、川に沿って走る。川は時にタマリスクで埋まり、その向うに羊群が居たりする。夕暮の川は美しい。山はみな岩山。  六時五十分、休憩、また西瓜を食べる。附近の岩山の肌は石炭のように黒い。  出発、やがて前方に山はなくなり、平原見え出す。山峡地帯のドライブ終り、オアシス地帯に入る。七時二十分なり。一望の耕地、緑の絨毯、低い陽、右手に見える。  大耕地、突如終って、大荒蕪地となる。やがて、々草地帯。山峡を出てから、右手に大きい山脈続いている。七時三十五分、左手に塩湖の細い帯、その向うは山の連なり。塩湖は大きく拡がったり、細い帯のようになったりする。大塩湖なくなると、また小塩湖。依然として々草の原。右手遠くに大山脈現れる。陽は前方、左手は依然として山脈、右手のゴビの中を列車が走っているのを見る。北京─蘭州─トルファン─ウルムチの列車である。塩湖の大きいのが、また現れる。  々草村、通過。二、三十戸の小さい集落の薄暮。左手の山脈は大きく、右手の遠い山脈は重なり合っている。右手から前方にかけて延々たる山脈がのびて、頂きに雪を置いている。大平原を幾重にも、山脈は囲んでいる。平原を二重に、三重に、時には四重に、山脈が縫いとりしている。いずれも天山山系の山たち。高いところは雪。稜線は遠いのも、近いのも、烈しい。なだらかな稜線など一本もない。  陽は左手に廻る。落日近し。丘陵地帯に入る。丘の右傾斜は暗く、左傾斜は明るい。いつか、陽は右手前方に廻っている。右に行ったり、左に行ったり、道はそれほど折れ曲っているのである。陽はまた左になる。アップ・ダウンの烈しい丘陵地帯を行く。  やがて、そこを抜けると、緑と荒蕪地、半々に置かれている。陽は前方、左手に沈もうとしている。八時四十分、陽が落ちたばかりのウルムチの町に入る。 八 崑崙の玉  八月二十三日、快晴、いくらか肌寒い。七時三十分、迎賓館を出発、ウルムチ(烏魯木斉)空港に向う。今日は飛行機で天山を越え、さらにタクラマカン沙漠のどこかを横切って、崑崙山脈北麓のホータン(和田)に飛ぶ日である。  こんどの旅行では、ホータンが一番興味ある場所である。新疆ウイグル自治区で、最も関心を持つ都邑を一つ挙げるとなると、私の場合はこのホータンということになる。ホータン周辺の地帯が、漢や唐の史書に、西域南道の強国として登場する于《うてん》国の所在地に他ならないからである。  今日、たくさん出版されている専門家諸氏の研究書に依ると、于という国は、前二世紀頃、すでに東西貿易の中継市場として繁栄しており、イラン系、インド系の多彩な文化が花咲いていた国際都市で、拝火教も行われ、独自な言葉も持っていたようである。時代が下ると、仏教が盛行し、仏寺も多く、すぐれた仏教美術も生み出され、西域南道に特殊な大文化圏を打ち樹《た》て、それは十一世紀頃まで続いている。こうした往古の于国の繁栄を支えた最も大きいものとしては、この国を流れる白玉河、黒玉河から採取される軟玉が挙げられるのが普通である。謂《い》うところの崑崙の玉である。  それならば一体、往古のこの優秀な于国人はいかなる民族であったろうか。詳しいことは判らぬにしても、間違いない言い方をするとなると、インド・ヨーロッパ語族ということになろう。ひとり于人ばかりでなく、西域の諸オアシスに定着し、それぞれ小さい国を樹て、独自の文化を生み出していた諸民族が、やはり、同じこの大まかな呼称に包括される。  こうした西域の事情は十一世紀に於て一変する。怒濤のようにトルコ系の遊牧民・ウイグル族の大集団がこの地域に流れ込み、インド・ヨーロッパ語族の政治的、経済的、文化的活躍は、ここに全く終止符を打たざるを得なくなり、以後、この地帯はウイグル人の居住圏となる。斯《か》くして西域の時代は終り、この地帯は東トルキスタンと呼ばれるようになって、今日に到っているのである。  言うまでもないことであるが、往古の于国の王城も、またこの優秀な民族が造った寺院も、城砦も、大小の集落も、すばらしい文化遺産も、現在は何一つ遺っていない。その尽《ことごと》くがタクラマカン沙漠の砂の中に埋まってしまっているのである。  何もかもが沙漠の中に埋まっているにせよ、一番知りたいことは、于国盛時の王都がどこにあったかということである。現在のホータンはもとイリチと呼ばれていた集落であって、いまのようにこの地区の中心都邑になったのは、正確にはいつからのことか判っていない。清時代にホータンと呼ばれていたということが確かめられるぐらいである。  それにしても、于国の王都はいつ、いかにして廃墟になったのであろうか。史書は、それについて何も語っていない。臆測の範囲を出ないが、于の王都の亡びる理由は二つしか考えられない。一つは自然環境の変化、つまり、白玉、黒玉両河の河道の変遷である。この崑崙山脈に源を発する両河は、往古から屡々河道を変えている。  もう一つは人為的なことである。史書に見る仏教盛行の于国の、回教国への切り替えは、十世紀末から十一世紀にかけて為されている。言うまでもなくこの時期に、于の仏教徒たちは、新しく侵入して来た回教徒たちと闘い、そして敗れているのである。于の王都が廃墟となり、砂の中に打ち棄てられる運命を持ったのは、河道変遷によるものでない限り、この時を措いては考えられない。  スタインは于国の王城を、現在のホータン西方一一キロの地点にあるヨートカンの廃墟に当てており、それが一般に認容されて、今日に到っている。このヨートカンの廃墟の他に、この地区には同じスタインに依って掘られた于国時代の寺院遺跡もある。ダンダーン・ウイリックと呼ばれている沙漠の中から出てきた遺跡である。これなども、同じ時期に廃墟となってしまったのであろう。  私のホータン行きには、いろいろなものが詰まっていた。ヨートカンの廃墟には是非立たなければならないし、ダンダーン・ウイリックなるところも見たかった。“月光盛んなる夜々、玉《ぎよく》を産す”と、史書に記されてある白玉河、黒玉河の岸にも立ちたかった。「崑崙の玉」という小説も書いているので、作者として、その川筋ぐらい眼に収めておく必要があった。また「異域の人」という小説で、主人公の後漢の将軍・班超に、生涯を西域で終ろうという決意をなさしめたのは、于の王城の前であった。せめてその地帯に揚がるタクラマカン沙漠特有の砂塵ぐらい、自分の肌で感じておきたかった。  それからまた、于国人の後裔《こうえい》たちが、どんな容貌を持ち、どんな習俗の中に生きているかも知りたかった。イラン系、インド系、漢族系、それからウイグルと、二千余年にわたっての複雑な血の処方箋を持っている人たちと、葡萄棚の下でお茶でも飲んでみたかった。  もちろん、タクラマカン沙漠の一画にも足を踏み入れなければならない。ウイグル語ではタッキリ・マカン。タッキリは“死滅”を、マカンは“広袤《こうぼう》”を意味するという。タクラマカン沙漠は、“死の沙漠”、“不帰の沙漠”なのである。この沙漠も、ずいぶん書かせて貰ってあるので、義理にもそこに立たなければならなかった。  ホータンというところは、私にとって、ざっと、まあ、このようなところであった。  八時四十五分、ウルムチ空港離陸。アントノフ24、四六人乗り。ホータンまで三時間半の予定、途中、天山南路のアクス(阿克蘇)に降りるという。  飛び立つと、すぐ大耕地。いろとりどりの短冊型の耕地が現れ、その地帯が切れると、いきなり大丘陵地帯の上に出る。丘陵というより、大小の山が竝び重なっているのである。赤い山、灰色の山。一木一草ないところをみると、岩山なのであろう。そのうちに薄く緑を塗られた山も見える。山は次第に大きくなって来る。  今日は天山山脈のどこかを、北から南へと越えなければならぬ。ウルムチから伊寧(イーニン)に向う時も、ふんだんに天山山脈に付合ったが、その時は天山山脈の北側に於ての、天山山脈に沿っての飛行であった。一つ二つ、山脈も越えたが、それは天山の支脈の一つであるに過ぎなかった。今日は、天山山脈という山脈の全部を、北から南へと越えさせて貰うことになる。こうなると、小型の飛行機であることが有難い。余り高く飛べないので、天山を間近に見物することができる。  山、波立って来る、次から次へ、あちらからも、こちらからも、山は波のように押し寄せて来る。その幾つかの山は、頂きに雪を白く置いている。山は褐色、雪はそこに白い布でも掛けたように見える。  山肌、赤味を帯びてくる。陽が当って来たためであろうか。蔭になっている部分は黒っぽい。やがて、雪をかぶっているたくさんの山が、波のように拡がって来る。無数の雪山の集団である。白い波頭を立てて、波が押し寄せて来るのに似ている。巨大な山の背である。何十本の竜骨! 一番遠いところは、雲でも湧いているように、雪が湧いている。  漸くにして山脈の背を越して、漠地の上に出る。九時三十分である。次第に雪の山脈、遠くなる。下には赤味を帯びた灰色の漠地が置かれている。が、再びまた、山の波立ちが近付いて来る。しかし、こんどは先刻ほどの凄さはない。頂きの雪も少く、無数の山の刻み方も、先刻ほど荒くない。  やがて、山脈群を越して、再び機は平坦な地帯の上に出る。が、すぐまた雪の山脈、近付いて来る。しかし、これも先刻ほどの凄さはない。それだけに視界はひらけて、景観は雄大である。東西二〇〇〇キロ、南北四〇〇キロの山脈の束である。機がこの巨大な山脈群を、どのようにして越えているか見当がつかない。  再び山脈群を背にして、平坦な地帯に出る。十時である。機は大地の無数の皺の上を飛んでいる。ガス、深くなる。  十時十五分、一木一草なき丘陵地帯の上を飛んでいる。タクラマカン沙漠の上であろうか。丘という丘の、それぞれが浮き彫りでもされてあるように見える。観音が刻まれてあったり、魚の骨や葉脈が捺されてあったりする。  やがて、丘陵地帯を脱けて、全くの沙漠の上に出る。長く細い糸のような川筋が走っている。しかし、また丘陵地帯、たくさんの浮き彫り。  三度、そこを離れて、沙漠の上に出る。チョコレート色の川、用水路、短冊型の耕地、そのうちに大河が現れてくる。これもチョコレート色である。やがて、次第に大オアシス地帯が大きい貫禄で拡がってくる。たくさんの用水路、たくさんの川。水は赤く濁っている。  十時三十五分、機はアクスに着く。気温二十一度。休憩三十分。空港の待合室で、西瓜、ハミ瓜をご馳走になる。  十一時離陸。すぐ大耕地の上に出るが、こんどはガス深く、何も見えない。  十二時二十分、機は高度を下げる。漠地が見えてくる。大河も流れており、耕地も挟まれている。やがて、たくさんの川が網の目のように入り混じっている地帯が見えて来る。川というより水域というべきかも知れない。本流も、支流もなく、流れはそれぞれに無数の洲を持っており、洲はどれも白く見えている。  その奇妙な水域地帯を脱けると、大耕地が拡がってくる。十二時二十五分、機はホータン空港に着陸。  全くの沙漠の空港である。飛行機は他に一機も見えない。空港の敷地はメリケン粉のような細かい粒子の砂に覆われている。空港は仕切りといったものはなく、そのまま沙漠につながり、また町につながっている。陽光は明るく、風は強い。気温は二十七度。  空港には王彬氏とアティク・クルバン氏が出迎えて下さる。共にホータン地区革命委員会副主任で、アティク・クルバン氏はウイグル族である。出迎えのくるまで、町に向う。高梁畑、白い花の綿畑、ポプラの竝木、みんな砂埃りをかぶって白くなっている。  路傍の男女の服装は、これまでのところとは少し異っている。何となく西域の本場に来た感じである。大人も、子供も、こちらを見守っているだけで、歓迎の意は表さない。笑いもしなければ、手も振らない。外国人に馴れていないのである。尤も解放後、この町を訪れた日本人はなく、私たちが初めてだという。明治時代には大谷探検隊の橘、渡辺、堀の三隊員が、ここに滞在している。  簡易舗装のポプラ竝木の道が、どこまでも真直ぐに続いている。驢馬に乗った老人、驢馬に乗った子供、ここも驢馬が交通機関になっている。女の服装はまちまちだが、派手な色と模様のせいか、何となく着飾っている感じである。しかし、みんな埃りを浴びて、白くなっている。  町に入る。閑散としていて、いかにも沙漠の中の町の感じである。ふと、夕暮時は淋しいだろうと思う。一台の自動車も走っていない。車道の両側は舗装されていないので、そこから埃りが舞い上がっている。建物は白、黄、青、思い思いの色で塗られている。家も、店舗も、道も、通行人も、みな砂埃りを浴びている。タクラマカン沙漠の町なのである。  くるまは大通りを折れて、古い城壁様のものに沿って、ホータン地区革命委員会第一招待所に入る。空港から三十分。  部屋はトルファン(吐魯番)の招待所と同様、粗末な造りであるが、寝台は二つ、床には絨毯が敷かれてある。なかなかきれいな絨毯である。それに部屋には洗面所もついている。  鞄を置くと、靴だけ脱いで、すぐ寝台の上に横たわった。とうとう于の故地にやって来た、そんな気持で、仰向けに倒れたのである。倒れると同時に眠った。三十分の午睡であったが、目覚めると、ひどく体も気持も軽くなっている。  昼食後、招待所の一室で、革命委員会の人たちと滞在中のスケジュウルの打合せをする。卓の上には林檎、梨、葡萄、西瓜が出ている。それから灰皿には赤い色の細い線香が立てられている。まさしく線香以外の何ものでもないが、同じ線香の匂いが、ここでは何とも言えず爽やかに感じられる。  スケジュウルの打合せの前に、アティク・クルバン氏からホータン地区の概況について説明を聞く。氏が隣席に坐ったので、話を聞く前に、ノートに名前を書いて貰う。──阿提・庫爾班。なるほどと思う。  ──ホータン地区には七つの県がある。皮山県、和田県、墨玉県、洛浦県、策勒県、于田県、民豊県。  ──ホータン地区の人口は一〇五万。住民は漢族、ウイグル、回族、ウズベク、ハザック、モンゴル、チベット、キリギス等。このうち九五パーセントを、ウイグルが占めている。  ──和田県、つまり私たちが入ったホータンの町は、人口四万。  ──ホータン地区には大小二十三の川が流れている。いずれも崑崙山脈から流れ出し、大オアシスを作っている。白玉、黒玉の二大河は、この地区の両側を、この地区を抱くようにして流れている。  ──この地区から生み出されるもの   (鉱 物)石炭、鉄鉱石、銅、金、鉛、雲母   (農作物)トウモロコシ、小麦、水稲、大麦、綿、豆類   (牧 畜)牛、羊、馬、驢馬、駱駝、豚、鶏、あひる   (果 物)葡萄、林檎、桃、李《すもも》、杏《あんず》、ざくろ、無花果《いちじく》、くるみ、瓜類   (特産品)絹織物、玉石、絨毯、桑の木の皮で作った玩具  ──解放前の、この地区の住民の生活はひどかった。砂嵐と、春秋二回の旱魃《かんばつ》の被害、交通不便の僻地《へきち》であるための孤立、工業はなく、経済的には貧しく、半年は桑の実と、杏を食して過す者が多かった。着衣は羊の皮(これは昔からの作り方で作って着物にしたもの)、照明は木の皮を燃した。もちろん、自動車は一台もなかった。  ──解放前には小学校は一〇〇しかなかった、いまは一四二六になっている。中学校は全然なかったが、いまは七〇、病院も一つしかなかったが、現在は九つに殖えている。学齢期に達した児童の九五パーセントは就学している。  ──養蚕業は、解放後大きく発達し、生糸の生産量は二十一倍になり、手工業だった絨毯、手織絹製品は工業化されて、大きい収益を上げている。  説明を聞きながら、まことにその通りであろうと思われた。この町に入って、まだ二時間ほどしかならないのに、ふしぎに気持は素直になっている。確かに、生きることが容易ではない地帯に、いま自分たちは入っている、そんな気持である。  そしてこの地区の人たちは新しい時代を迎え、必死に自然の条件と闘って、それを乗り越えて、よりよい生活を自分たちのものとしようとしているのである。  が、それはそれとして、短い滞在に於てのスケジュウルが、玉《ぎよく》の採購站参観と、絹織物工場見学と、黒玉河の水力発電所訪問の三つにしぼられてしまうと、わざわざホータンまでやって来た意味がなくなってしまう。  ──ヨートカンに行けますか。  ──砂に埋まってしまって、何もありません。  ──何もなくてもいいから、その地点に立たして貰いたい。僅か一〇キロでしょう。  ──一〇キロですが、沙漠で道はありません。ジープを使っても、たいへんです。  ──ダンダーン・ウイリックは?  ──これも砂に埋まってしまって、どこにあるか判りません。一九二八年に、中国の考古学者黄文弼が何日かかけて探しましたが、ついに判りませんでした。そのあと五九年に、ウルムチの博物館編成の調査隊も、于田県から策勒県まで、難渋の旅を続けたが、ついにそれらしいところは発見できませんでした。  ──他に、この近くに于国の遺跡と思われるところはありませんか。  ──黄文弼の「塔里木《タリム》盆地考古記」に記されたところが、一、二カ所ありますが、その後誰も訪ねた人はありません。いずれにしても、駱駝で二、三日を要するでしょうし、本格的な装備なしでは行けません。  こうなると、どうすることもできない。私の質問に対しては、アティク・クルバン氏に替って、古文物関係のポストにある若い人が答えてくれたのであるが、納得できるような、できないような複雑な気持であった。  この打合せが終ると、今日は玉の採購站と、絹の手織工場を見学し、夜は王彬氏の招宴があることになっている。その夜の宴席に古いことにも詳しい人たちが出席するということなので、改めて于関係の遺跡を訪ねることの交渉をし直すことにする。  玉の採購站に行く。ここは玉の陣列場でもあり、玉を買いとる機関でもあり、ここに集った玉を全国の加工工場に分配する役所でもある。ここで主任さんが説明してくれたことを、一応ノートする。  ──ホータンの玉は国の内外でよく売れる。白玉河、黒玉河の二つの川が玉を産す。白玉河は白玉、黒玉河は黒玉と緑玉を出す。特徴は清潔で潤いがあり、固くて粘りがある。詳しく分けると、白玉、碧玉、青花玉、黒玉、黄玉、緑玉の六種になる。一番品質の上等なのは白玉で、上質で、傷のないものが貴ばれる。  ──採集法は、秋の洪水の季節に川で拾う。春、陽気が暖かくなると、崑崙の雪が融けて、川は氾濫する。その時川に流れてくるのを拾う。川に玉があるのではなく、川に打たれ、滑らかになって、流れてくるのを拾うのである。陣列場にひと抱えほどの大きい玉があるが、これも川から拾ったものである。  ──川で拾う以外は、山にある玉鉱山で採掘する。玉の鉱山といっても、鉱脈をなしているわけではない。玉の固まりが砂利の中に埋まっているのである。  ──ホータンに於て、山で掘ったり、川で得たりした玉は、全国五十幾つかの加工工場に分配される。飛行機でトルファンまで送り、そこから各地の加工工場に列車で運ばれる。  ──ここ玉の採購站は、一般の人から玉を買い入れる場所でもある。現在は誰でも、川に行って、玉を拾うことができる。そうしてここに集った玉は、秋に全国各地の加工工場の人が集って来るので、その時分配する。  ──最近、ある人が一五〇キロの大きなのを見付けて、ここまで運んできた。相当の金額のものである。個人の収入にはならないが、その人の属する生産大隊の収入になる。これほど大きいものになると、加工工場には渡さないで、何か特別な記念物を造る時のものとして保存しておく。  ──玉についてはウイグル族の人が、鋭い鑑定眼を持っている。  ──現在、採掘を主にして、一年に二〇トン乃至五〇トン。川で拾うものは二、三百斤ぐらいである。  それにしても崑崙という山はふしぎな山だと思う。二千年以上に亘って、玉を産し続けているのである。高居晦が于に使したのは五代時代、十世紀の前半であるが、その時の旅の記録である「于行記」に依ると、当時は崑崙山より流れる一本の川は、于に到って三つに分れ、それらは、白玉、緑玉、烏玉と名付けられていた。毎年秋、河水の涸れる時を待って、国王が先ず玉を獲り、然る後に、国人もまた河に入って玉を獲ることができた。  王が玉を獲る時は、玉の採集人である回子(土着ウイグル人)たちは河中に一列に並び、素足で河床の石を踏みながら上流へ、上流へと進んでゆく。回子たちは己が脚で玉を踏むと、水中に身を屈めて、それを拾い上げる。すると船に乗って監視している兵たちによって銅鑼《どら》が鳴らされ、それを合図に、吏員によって、玉の数が帳簿に書き込まれる。  そして回子たちの列が上流に去って、岸に上がると、新しい回子の列が下流に現れ、これも上流に向って進んでゆく。こうしたことが繰り返されるのである。おそらく何夜か、国王は川を独占し、そのあとで国人に川を開放したのであろう。  高居晦が于に使したのは十世紀前半であるが、おそらくそれより千年前から、いかなる獲り方をされていたかは判らないが、玉は于国の大きい繁栄を支えていたに違いないのである。  その于国は亡び、その曾ての栄光も、王城も、王都も尽くタクラマカン砂漠の砂の中に埋まってしまって跡形ないが、ただ一つ玉だけが、いまも崑崙山によって生み続けられているのである。 九 セスビル遺跡  八月二十四日、今日は朝食が十時ということになっているので、ゆっくり眠っていていいのだが、八時に床をはなれる。寝足りている。このところ少しも疲れはないが 、睡眠は六時間とっていない。多少昂奮しているのかも知れない。  招待所の広い庭を歩く。民兵の腕章をつけた兵隊二人、一人は門のところに立っており、一人は庭を歩いている。花壇があちこちにあって、いろいろな花が咲いているが、みな砂埃りをかぶっている。ダリアも砂で白くなっている。庭にはポプラの木が多いが、これも全身埃りをかぶって、白っぽくなっている。細かい砂の埃りである。庭を少し歩くと、靴もまた砂で真白になる。  部屋に戻って、机の上に置いてある線香を立てる。線香の匂いがこの土地ではたまらなくいい。ここまで来ると、何もかも多少調子が変ってしまう。  午前中は絹織物工場、午後は水力発電所と黒玉河、夜は民族舞踊、明日は午前中に白玉河、──これでホータン(和田)の見学も終り、正午、空路ウルムチ(烏魯木斉)に向う。これが昨夜、本決まりになったスケジュウルである。遺跡一つ見られないのは残念であるが、遺跡という遺跡は全部砂に埋まってしまって、何もないというし、大体その場所に行くのも容易なことではないという。昨夜の地区革命委員会副主任王彬氏の招宴に於ても、話はそこから一歩も出なかったので、諦める以外仕方がない。  朝食後、絹織物工場の参観に出掛ける。孫平化、團伊玖磨、白土吾夫氏等の顔は見えるが、他の諸氏は欠席。みな疲れているのである。町に出ると、砂塵はもうもう。砂利の道であるが、その上に置かれてある砂が舞い上がるのである。道の両側は麻畑、麻は楓《かえで》に似た葉を持っているが、それが砂に塗《まみ》れている。  町のあちこちに工事場のように土が積み上げられてあるが、どれも大風で壊れた土塀の残骸だという。やがて、道は乾河道に沿って走る。乾河道は、全くの川の屍の感じである。くるまの走っている道も、いつか砂の道になっている。その砂の道の中央に砂利が敷かれてあって、くるまはその部分を走っているのである。  くるまは、そんな道を通って、絹織物工場へ入って行く。たいへんな出迎えである。工場全員と、その家族が歓迎してくれる。広い工場の敷地内は、どこへ行っても、人垣が造られている。  接待室は美しく作られてあった。そこで林檎、葡萄、桃、西瓜、マクワ瓜、白蘭果(ハミ瓜に似ている)、さくらんぼなどが、卓を埋めている。  ここの工場の従業員は一四〇〇名、そのうちの六〇パーセントが少数民族である。昔のシルクロードの町が、今は絹の産地になっている。  午後の水力発電所と黒玉河行きは欠席にする。おそらく黒玉河はダムになっているのではないかと思うので、その方は割愛することにし、部屋で日記の整理をする。昨夜の招宴に於て、同じ卓子に就いた人たちから聞いた話をノートする。  ──この地区は、強風のため、一夜で砂丘が引越すのも稀でない。そのくらいであるから人の住む所も、南へ南へと、風や砂に追われ来た。しかし、現在は人間が寧ろ沙漠を追っていると言える。新疆地区では実に一〇〇万町歩の沙漠を耕地に変えている。  ──砂嵐は春から初夏にかけて、特に五月が一番多い。天の一画に黒雲が現れたと見るや、それがあっという間に拡がって、押し寄せて来る。そのとたんに風が吹き出し、長い時は二日も三日も風はやまず、天地は真暗である。昼間でも電燈をともすが、家の内部にも砂が入って来ていて、ために電燈が見えない時もある。  ──暑さは七月から八月にかけて厳しい。最高は四十一度ぐらい、トルファン(吐魯番)ほどではない。大体三十一度から三十五度ぐらい。寒さは一月が烈しく、零下二十度ぐらいにはなる。雪はめったに降らない。降っても積ることはない。  ──木の芽がふき出し、桃の花が咲き出すのは三月。  ──この地区にはひまわりが多い。到るところにひまわりが植っている。気候風土の関係か、ひまわりの花の黄が美しく見える。周囲の灰色の山や、灰色の土屋を背景にして、ひまわりの黄が鮮やかに目立っている。栽培している畑も多く、食用油をとる。ナン(麭)を作る時、このひまわりの油を塗って焼く。ピラフをいためる時も、この油。また関節炎を癒す時にも、この油を使う。実は撮《つま》みものにする。  ──この地区には沙棗《すななつめ》が多い。沙漠の木である。招待所の庭の塀際は、この沙棗の木で埋められている。花の頃は匂いがいい。ために別名を“香妃”という。  ──ウイグル族を見分けるのには、纒っている衣服に依るのがいい。ウイグル族の男女は、共に必ず何かをかぶっている。老人は昔通り家の中でもかぶっているが、現在は若い者は家にはいると脱ぐ。子供の帽子はブック、女の帽子はトッパという。形は同じであるが、ブックの方は赤い色が多く、トッパの方は緑色が多い。女の着物はアキレス。アキレスの生地は新疆地区の全ウイグル族が生産するもの。中国で色模様の服を着るのは、ウイグル族だけである。  ──現在の于田は昔の沙《ひさ》である。これは漢名であるが、ウイグル語ではケリヤ。今でもウイグル族の人は于田とは呼ばないで、ケリヤと呼んでいる。もちろん今の“于田”は往古の“于”の名残りではない。現在の于田の人とホータンの人の生活様式はひどく異っている。同じウイグル語ではあるが、訛《なま》りが違う。于田の女性の帽子は、ホータンのそれに較べて非常に小さく、それをスカーフに縫いつけている。こういう帽子は于田だけである。帽子の小さいところはカシュガル(喀什)地方に似ており、言葉の訛りもカシュガルに似ている。于田の人たちは、自分たちの祖先はカシュガルから来た、と言っている。衣類も多少異る。ホータンは縦縞であるが、于田の方は、衣類の上に羽織るものに横縞が入る。下の服装は同じだが、外套様に羽織るものに横縞が入るのである。  ──ウイグル族の埋葬。死体を布で巻き、それをかついで洞窟に入れ、入口を土で塗りつぶす。民豊県附近のウイグルだけは棺を造り、鄭重に埋葬する。民豊県は漢代の精絶で、今は土地の人からニヤと呼ばれているところであるが、往時仏教が栄えたところであるので、死人の埋葬も鄭重なのであろう。そう言えば、私自身、この町で、自動車から葬式を見ている。一団二〇人ほどの男たちが固まって、互いに腕を組み合うようにして口々に何か叫びながら行った。スクラムを組みながら号泣しているに似ていた。そしてそのスクラムを組んだ一団の最後の方で、四人の男が長方形の箱か包みのようなものを担いでいた。葬式だったのである。  ──客のもてなしには、羊のまる焼に勝るものはないが、特に羊のまる焼を多く造るのはホータンが一、ヤルカンドが二である。  ──長安からホータンまで、昔は片道一年かかったのではないか。往復二年ということになるが、途中事故にでも遇うと、三年も、四年もかかったことだろう。十世紀前半の高居晦の場合は、その往復に五年かかっている。  ──タクラマカン沙漠は、漢語では塔克拉瑪干沙漠、ウイグル語ではタッキリ・マカン。タッキリは滅亡、壊滅、死亡を意味し、マカンは広袤《こうぼう》、果てしなく広い地域を意味している。従って、タクラマカン沙漠は、死の沙漠であり、不帰の沙漠である。一度入ったら帰ることのできない場所である。タクラマカン沙漠に対するこうした見方は、今でも土地の人の心の中に生きている。特別な用事でもない限り、一人であろうと、集団であろうと、タクラマカン沙漠の中に入って行くような者はない。  ──タクラマカンの中には原始林もある。ウルムチの新疆ウイグル自治区博物館の現副館長李遇春氏がニヤ遺跡を調査した時の話である。猟師を道案内として、ニヤ遺跡から更に北方に、砂丘を越え、砂丘を越えて行ったところ、沙漠の中に紅楊と胡楊の原始林があった。そこには動物も居れば、鳥も居た。林は紅楊と胡楊の二つだけだった。この植物は沙漠の中でも生きられるのである。  ──タリム河はカシュガル・ダリヤ、ヤルカンド・ダリヤ、ホータン・ダリヤの水を集め、沙漠の北辺を東流して、盆地東部に内陸湖ロブ・ノールを造っている。このタリム河は流れては沙漠の中にもぐり、また地上に出て、再びもぐるという、もぐったり、出たりしている河である。  ──白玉河、黒玉河の合流点は紅白峠と呼ばれているところで、ホータンより北方一〇〇キロの沙漠の中である。峠という名がついたのは、おそらく砂丘を越え、砂丘を越えて行くからであろう。白、黒両河は合流して、ホータン・ダリヤとなるが、ホータン・ダリヤも合流してからもぐったり、出たりしながらアクス(阿克蘇)の方に流れて行き、やがてタリム河に収められる。  ──今のホータンは曾てイリチと呼ばれたところで、いつここがホータンと呼ばれるようになったかは不明。昔のホータン、つまり于の王城の地はどこへ行ったか。今のホータンの北方の沙漠の中に、スタインによって、それと目された遺跡ヨートカンがあるが、現在中国ではそれに対して、未発表の形ではあるが否定的見方をしている。こんなところに于の本城があろう筈はないという結論。またスタインの掘った寺院遺址ダンダーン・ウイリックの方は、現在その位置不明、すべては沙漠にのみ込まれてしまっている。  部屋でノートを整理していると、白土吾夫氏がやって来て、ホータン南方二五キロのところに古代遺跡があるらしく、そこへ案内してくれるというが、行ってみるかという。もちろん行くと答える。すると暫くして、再び白土氏はやって来て、カメラを持たぬことが条件になっている。それでもいいかという。 「カメラなんか、持とうが、持つまいが、いっこうに何でもない。タクラマカン沙漠の中に入れて貰えれば、それで満足する。ましてその中にある遺跡の一つに立たせて貰えるというのであれば、他の誰にでもない、自分自身に申し訳が立つ。西域南道のホータンまでやって来て、絹織物工場を見ただけだとあっては、白玉河にでも身を投げる以外仕方がないではないか」  私は言った。半ば冗談、半ば本気だった。私も笑い、白土氏も笑った。それにしても、どうしてこういうことになったのか見当がつかない。  四時四十五分出発。孫平化、白土吾夫両氏と私。それに現地の人たちが加わり、かなりの数になる。ジープ五台に分乗。  空港の方角、つまり南に向う。すぐ沙漠地帯に出る。タクラマカン沙漠がホータンを包んでいるというか、ホータン・オアシスがタクラマカン沙漠に抱きとられているというか、いずれにせよ、ホータンと沙漠はそういう関係にある。  驢馬に乗っている人が多い。ここでは驢馬は交通機関である。ホータン県紅旗人民公社の前で停車。道案内の人が出て来て、うしろのジープに乗る。行先はこの公社の管轄下にあるという。  きのう来た空港からの例の長い一本道を逆に、ジープは走っている。やがてジープは空港の中に入るが、すぐ左に折れ、沙漠の中に入って行く。あす自分たちが乗る飛行機が一機、広い空港内に見えている。町から空港までは九キロの由。  東に向う。一木一草ない荒蕪地が拡がっている。全くの小石の原で、駱駝草が少々生えている。やがて方向を東南にとり、何となく道と思われるところを走っている。左手に沙棗の群落が見えている。前のジープの上げるもうもうたる砂塵の中のドライブとなる。  男一人歩いている。この地帯も駱駝草が少々、遠くに沙棗の群落、白い袋を背にした驢馬一〇頭。ジープは方向を南にとる。やがて、道はなくなり、先導のジープのあとについて走る。左手遠くに低い砂丘の帯が見えて来、前方を竜巻が走っている。  沙漠の中を、どこへ行くのか、男一人歩いている。右手に低い砂丘が竝んでいる。  一面、黒い小石の地帯になる。ジープは方向を変え、右手の砂丘の突端部を目指す。美しい砂丘である。そして傾斜している砂丘の裾の方へ降りて行く。突然、大きい川の流れが視界に入って来る。白玉河であるという。広く大きい眺めである。  停車。五時二十分である。ジープから降りて、白玉河の河原に出る。方々に瀬を持ち、淙々《そうそう》と川瀬の音を立てている流れである。流れの中に岩もあり、洲もあり、洲には雑草が生えている。流れの左手には大砂丘が連なっている。  出発。間もなく小さなオアシスの集落に入る。紅旗人民公社の第二農場である。このオアシスを突き抜けて二キロの地点に、目指す遺跡があるという。全くの土塀の集落である。どの家も土塀を廻らしている。  集落には五人五様の帽子をかぶっている男たちが居る。路傍に立って、ジープを迎え、見送っている。方々に沙棗の木が植っている。土屋と土屋の間には高梁畑が置かれたり、ひまわりの畑が置かれたりしている。それにしても集落の中の道はひどい。アップ・ダウンが烈しく、しかも石ころが多く、ジープは難行苦行である。畑も土屋も土塀に囲まれており、土塀と土塀に狭まれた道を、ジープは大揺れに揺れて行く。  漸くにして小さい集落を出て、沙漠の中に入って行く。いかにも沙漠と闘っている人民公社の感じである。大砂丘、限りなく続いている。駱駝草、点々。  やがて行手に、巨石のようなものがあちこちに散らばっている地帯が見えて来る。駱駝草の原を大廻りに廻って行く。前方の眺めは、次第に遺跡らしくなって来る。土壇か、城壁の基底部か、そんなものが、見晴かす遠方まで、広い範囲に散らばっている。大きな遺跡である。  ジープは遺跡に入り、一番奥の城壁の基壇が点々と置かれている地帯に行く。そこでジープから降りる。来る途中、案内人としてうしろのジープに乗り込んだ人がやって来て、 「ここは、黄文弼が“塔里木《タリム》盆地考古記”に書いているセスビル(什斯比爾)という遺跡です。セスビルは漢字にすると“三道墻”つまり三重の壁という意味です。三重の城壁を廻らしていた城市とでもいうのでしょうか。黄文弼の調査では南北一〇キロ、東西、つまり砂丘と白玉河の間は二キロ、細長い大遺跡です。さっき通った集落の入口に大きな土塀がありましたが、あの辺りも遺跡の中に取り入れられてしまいます。ここがいかなる遺跡であるか国家文物局の結論はまだ出ていません。ごらんになって判るように、ちょっと比肩するもののないような大遺跡です」  そう説明してくれた。いずれにしても、ぐるりと沙漠に取り巻かれた白玉河西岸の遺跡であって、遺跡も、白玉河も、遠く、近く周囲に砂丘を配している。城壁の基壇と思われるものは、もちろん巨大な土の固まりであるが、傍に近寄らない限り石のように見え、その数は何十か、ちょっと見当がつかない。  土塁様のところに登ってみる。東西南北、どこへ限を遣っても、城壁の土壇が眼に入って来る。広い遺跡内には駱駝草が少々生えているだけで、一面に陶片と、石片が散乱している。同行の誰かが何個かの古銭を拾う。その一個は開元通宝である。また誰かが古い石臼を見付ける。  そのうちに北の方から砂塵が立ちのぼってくる。砂嵐である。忽ちにして、白玉河の上流の方は砂塵に覆われてしまった。砂嵐は十分ほど続いて、北と東の方は全く砂塵に塗り込められて、見えなくなってしまったが、そのうちに薄紙をはぐように、明るさを取り戻して行った。 「黄文弼がこの遺跡に来た時は、ホータンを駱駝で発って、二日目に着いています。ここにジープで入ったのは、こんどが初めてです。先刻の集落ができているのでジープで入れましたが、それ以前は、ここに来るには駱駝の世話になる以外仕方ありませんでした。尤も、わざわざここにやって来る人はありませんがね。昔もありませんし、今もありません」  案内してくれている人は言った。 十 于国はどこか  八月二十四日(前章の続き)。 「どうやら砂嵐は収まったようですね」  と、同行者の一人は言った。私たちは十分ほど大きな遺跡を歩き廻った。カメラを持って来ていなかったので、中国側のカメラマンに、遺跡の全貌が窺える角度からの撮影を依頼した。城壁の土壇のようなものも、そこらに散らばっている陶片も、カメラに収めて貰った。  案内してくれている人が、また古銭をひろった。古いものかと訊くと、 「唐の粛宗の頃のものですね」  と、おっしゃる。于《うてん》独特の模様を持った土器の欠片もあると言って、それを私のために探してくれようとしたが、この方は、そう簡単には出て来なかった。  ジープで広い遺跡内を走る。遺跡の入口に近いところに、やや形を遺している建物の残骸があった。と言っても、大きな土の固まりにすぎないが、ジープから降り、そこに上り、部屋らしいものの中に入ってみる。煙突の穴と思われるものがある。 「明らかに後世のものですね。城壁の崩れたものなどを使っています」  案内してくれている人は言う。 「家ですか」 「さあ、家かどうか判りませんが、人は住んでいたようですね」  それから、 「帰りますか、また砂嵐です」  なるほど遠くの、白玉河の上流の方に、煙幕でも張ったように、再び砂が巻き上がり始めている。  帰路に就く。さっきの小さい集落の中の一軒の土屋の前でジープを停める。前庭様のところに絨毯が敷かれ、お茶の支度がしてある。ナン(麭)をちぎって食べ、西瓜のご馳走になる。そのうちに大勢の人が集って来る。老いも若きも、邪気のない、何とも言えずいい顔をしている。みんな、わたしたちを取り巻いて坐る。地面に腰を降ろして、立て膝をしているのもあれば、両脚を抱えているのもいる。何を話すのでもないが、みんなにこにこしている。  遺跡を案内してくれた人が、ここで自分の身分と姓名を、私のノートに記してくれる。名前は殷盛、和田《ホータン》師範学校の先生である。四十歳ぐらいであろうか。傍から、同行者の一人が説明してくれる。 「この人以外に、この遺跡を案内できる人は居ません。あいにくよそに行っていたんですが、今日、帰って来てくれましてね」  通訳を通しての話なので、はっきりしないが、殷盛氏は、私たちを案内するために、どこからか呼び返されたものらしい。  殷盛氏に、二、三質問する。いま見て来たところがいかなる遺跡か、私見でもいいから聞かせてくれと言う。 「スタインは于の故城をヨートカンとしていますが、黄文弼は于の故城の可能性は、ここの方が強いとしています。もう一つ、ホータン(和田)から四二キロの地点に、アクスビル(阿克蘇匹勒)という遺跡がありますが、ここは城壁の一部しか遺っていませんし、ここより大分小さくなります。黄文弼は一九二八年と、一九五八年の二回に亘ってここを調査し、その時の見解は彼の“塔里木《タリム》盆地考古記”に収められています。またウルムチの博物館で編成した調査隊も、一応ここを調査しています。その調査隊には、現在ウルムチ(烏魯木斉)の博物館副館長のポストにある李遇春氏も加わっております。李氏にお会いになったら、参考になることをお聞きになれるのではないですか」  殷盛氏の答は慎重である。国家文物管理局の結論が出るまでは、何もはっきりしたことは言えないといった態度である。が、これは殷盛氏ばかりでなく、この地区の古いものに関係している人たち全部の態度であると思われた。 「これから南方数キロの地点に大きな寺の遺址があります。玄奘 三蔵《げんじようさんぞう》の“大唐西域記”に記されている賛摩寺とよく符合しています。また“漢書・西域伝”に、于国には西城と東城があると記されています。西城はこのセスビル(什斯比爾)、東城はアクスビルかも知れませんね。唐書には西山城というのが出て来ますが、それはこのセスビルと見るとぴったりするようですね」  これが殷盛氏の、現在発表できる“私見”のぎりぎりのところであるかのように思われた。  私たちが休憩した集落、赤旗人民公社の第二農場は、沙漠を開墾して造ったところで、現在インアワティ村と名付けられているという。インアワティというのは“新しく繁栄している村”という意味だそうである。  そのインアワティ村を辞して、沙漠の中に入って行く。沙漠のテラスから、砂丘の裾に当る上のテラスヘと、ジープは上って行く。砂丘の大斜面には定規を当てて引いたような直線が、大きな碁盤の目を造り上げている。風のいたずらだという。信じられぬ気持である。  宿舎に帰って、夕食の卓で、みなから、“おめでとう”を浴びせられる。未公開、未発掘の古于国遺跡に立つことができたのだから、乾盃してもいいことかも知れないと思う。 「それにしても、われわれは心掛けが悪かった。揃いも揃って、他ならぬホータンに来て、寝込むというてはありませんよ」  司馬太郎氏は、いかにもおかしそうに笑っている。 「井上氏が帰って来たら、癒っちゃったんだから、これまた奇妙なことだ」  そんな声も聞える。と言って、みながみな寝込んでしまったわけではなかった。中島健蔵、團伊玖磨両氏は黒玉河と水力発電所参観に出掛けている。その参観を休んで宿舎に居たら、セスビルが舞い込んで来たというわけである。  夜、宿舎の庭で民族舞踊を見せて貰う。それが終ってから、部屋に帰って、ひとりでウィスキーを飲む。窓外の闇に眼を当てながら、どうにかタクラマカン沙漠の一画に入り、于故城の一つに立つことができたという思いを持つ。  八月二十五日、八時、招待所を出る。昨夜の予定が変更になり、九時発の機でウルムチに向うことになったためである。  空港はひえびえとしている。空港には「深掲狼批“四人組”簒党奪権的滔天罪行」と染めぬいた大きな布が掲げられてある。アントノフ24、四六人乗り。離陸して二十分ほどすると、白黒両玉河の合流したホータン河が見えてくる。もつれにもつれた白い糸の束のようである。  十時二十分、アクス(阿克蘇)着、待合室にて休憩。山影全くなく、羊の群れが動いている空港には、静かな初秋の陽が散っている。機は一機も見えない。接待の白瓜美味し。ここは新疆の江南と言われているところで、水に恵まれ、農作物も豊穣《ほうじよう》である。その替り、古い遺跡はない。  東山魁夷氏と待合室の前を歩く。ひまわりの畑が美しい。その向う遠くに見えている小さいモスクのような建物、その傍の土塀様なものの欠片、──なかなかのびやかな空港周辺の風景である。ホータンから来た者の眼には、植物や農作物の緑が、水にでも洗われたように鮮やかに、美しく見える。待合室で私たちの接待に当っているウイグル娘は、もう日本では見られぬはにかみと可憐さを持っている。  三十分の休憩終って、十時五十分、離陸。すぐタクラマカン沙漠の上に出る。植物のあらゆる葉の葉脈が捺されているようでもあり、世界中のあらゆるモスクの柱頭の紋様が捺されているようでもある。そんな砂の拡がりの上を、機は飛んで行く。ところどころに、乾河道が置かれている。大きな糸束がもつれているように見える。そうした地帯を、道が一本まっすぐに、長く走っている。道としか思えない。  機は大断崖をなしている山岳の裾を飛んでいる感じである。この前のウルムチ─アクスの時とは異って、いつまでも天山は現れて来ない。天山山系に沿って、タクラマカン沙漠の北辺を、西から東へと飛んでいるのである。  オアシスの上に出る。大耕地が拡がり、集落が点々と見えている。大河が見えて来る。一集落全部すっぽりと収められてしまいそうな川幅である。おそらくタリム河であろう。この地帯、大きな用水池が多く、どれも湖のように見えている。  やがて、大集落が現れて来る。クチャ(庫車)である。クチャの集落を過ぎると、大沙漠となり、その上に、たくさんの乾河道が縞模様を作っている。席を左側に移すが、こちらも大漠地、いっこうに天山は見えない。機はいつ、どこで天山を越えるのであろうか。  が、やがて、機が天山山系に沿って飛んでいるのが判る。左手遠くに、天山の二つの前山らしいものの連なりが真赤に見えて来る。血のような赤さである。そのうちに徐々に、天山はその巨大な姿を現し始める。十一時四十五分である。いよう! と声をかけてやりたいようである。機はゆっくりと、しかし確実に、その上に入って行く。いよいよ天山越えである。  雪の稜角、あちらからも、こちらからも現れて来る。無数の岩の固まりは、それぞれに不機嫌である。二つの大きな谷を隔てて、その向うから新しい雪の山脈が現れて来る。美しい。まさに世界の屋根である。世界の屋根と言う他はない。何百何干という山塊と、その稜角。その上を雲が流れている。  山塊群、少しずつ低くなって来る。やがて、パインプルック草原が見えて来る。工作員の誰かが教えてくれる。天山の山懐ろの中にある草原である。無数の岩の稜角に縁どられている泥沼のように見える。泥沼と見えているところが草原なのであろうか。また新しい雪の山系が現れて来る。結局のところ、山脈と山脈との間に仕舞われている草原なのである。  機はまた、雪の山脈の上を飛び始める。前の烈しさはなくなるが、暫く雪の山脈の上を飛び、やがて新しい漠地の上に出、そしてまた新しい雪の山脈を迎える。次々に新しい雪山が現れて来る。そうした上を、悠々と白い雲が流れている。雪か、雲か、ちょっと判別に苦しむ場合もある。山塊群の中に、まんまるい翡翠《ひすい》の湖がはめ込まれている。おそらく誰もその岸に立つことのない湖であろう。雲はしきりに湧き、しきりに流れている。  十二時三十分、漸く山脈を越えたらしく、山岳の大斜面が見え始めたと思うと、機は着陸の態勢をとり、大耕地の短冊地帯に入って行く。短冊は茶、緑、黄、灰色、薄紫、白、黒、色とりどりである。いずれも人間が沙漠から闘い取ったものである。  ウルムチの町、見えて来る。ウルムチは全くの天山山系の裾の町なのである。  やがて、着陸、何回目かのウルムチ入りである。  午後、こちらの希望で李遇春、郭平梁両氏に宿舎のウルムチ迎賓館までご足労願って、ホータン地区を中心とした南疆における考古発掘・調査の状況について説明を聞く。主として李遇春氏が話され、側面から郭平梁氏がそれを補った。  ──解放前のホータン地区の考古学調査は殆ど外国人の手で行われた。特にヘディンとスタインの名があらわれている。日本人も、橘、渡辺、堀などの大谷探検隊のメンバーが来た。ロシアからも大勢来ている。中国では黄文弼一人である。清朝時代は、中国人があの地方で調査することは難しかった。政府は外国人には便宜を与えたが、中国人の場合は無視した。黄文弼は調査の結果を発表できなかった。発表したのは新中国になってからで、「塔里木《タリム》盆地考古記」がそれであり、別に彼は「吐魯番《トルフアン》考古記」をも持っている。  ──新中国になってから事情は変った。新疆ホータン地区を含む考古学調査も行われ、考古学関係の工作員、少数民族の研究員も養成され、ホータン地区各県に、そういう人たちが配されている。殆どウイグル人で、古文物、遺跡の保護、管理に当っている。平生は農地整理、工場建設と竝行して、その保護、管理を行っている。  ──往古からホータンはシルクロード、西域南道の中心地区である。東の民豊県(ニヤ)から西の皮山県まで、シルクロードに沿っている。このホータン地区全部に亘って、五三年、五八年、五九年の三回、考古学調査は行われている。五八年の時は、中国考古学のエキスパート史樹青がニヤを発掘した。この調査報告は六〇年と六二年の「文物」に発表されている。  ──五九年の時は私(李遇春氏)も参加した。新疆ウイグル自治区博物館で編成した博物館主催の調査であった。まず民豊県から北へ一五〇キロの地点にある古城を調べた。漢時代の精絶、今から二千年前の遺跡ということになる。今は沙漠のただ中にあるが、往古はオアシスに位置していた筈で、沙漠の中にはなかった。四キロと五キロの大きい遺跡で、断続的に居住区があった。人家の木の柱、壁もあった。家には庭があり、垣根のあともあった。葡萄棚もあり、葡萄の根も発見された。家屋を十戸発掘、整理した。この遺跡には城壁はなく、居住点の集っているところもあれば、疎らなところもあった。発掘は人家集中地区を選んで行われた。これに関する報告は「考古」六一年・第三号に、中間報告の形でなされてある。  ──その中の大きい家は貴族の家で、住居の他に客間もあり、客間からは木簡(手紙)が発見された。木簡を二つ併せて、綴じて、紐でくくり、泥で封をし、封の上に印が二つ捺してあった。表には宛名の名前が認められてあった。ということは、主人はこの手紙を認めただけで、ここを去っているのである。木簡は保護するために開けないで、ウルムチの博物館に保存されている。この家には壁ぬけ煙突(壁炉)もあった。これとは反対に、貧乏人の家もあった。ひと部屋しかなく、その半分には牛糞が詰まっており、奥の半分に人は住んでいたのである。貧富の差は甚しかった。  ──城の中には仏塔があった。また城外二キロの地点に古墳地区があった。そこで夫婦合葬の墓を発見した。タテ穴はなく、ただ土中に木の柩《ひつぎ》が埋められてあった。死者はミイラになっていた。女は二重の服を着ており、一つは袍で、袖口は小さかった。その上にガウンを纒い、その袖は短かった。いずれも絹織物である。そして下はスカート、スカートの下にズボンを穿いていた。男は錦織の上衣を纒い、下は綿布のズボンであるが、膝から下の部分は絹で刺繍があった。発見された時は、すべてが真新しかった。  ──女の方は頭の部分に、籐で作られた化粧箱が置かれてあった。その中には、鏡、白粉、糸、絹織物の生地などが入っていた。また足許には木製の茶椀、盆、陶器の甕《かめ》などが置かれてあった。  ──男の死体は棺の大部分を占めており、男女共顔は真綿で処理されてあったが、女の方の顔の部分は四重の真綿で包まれていた。男の死体を包んでいた布と同じ布の欠片が化粧箱の中に入っていた。これから推して、男が先きに死に、女は夫の死体を始末し、その上で死んだのであろう。それからまた男の顔は安らかであるのに、女の顔には不自然さが感じられた。女は自ら進んで夫に殉じたか、あるいは殉じさせられたか、それはともかくとして、漢族の当時の風習は少数民族の中にも入っていたのである。これについては六〇年の「文物」に発表してある。  ──民豊県では、更に二つの古城が発見された。一つはまるい城砦で、門は一つ。これは完全な形で遺っており、屋根まで砂に埋もれていた。その屋根に上ると、城内を見渡すことができた。唐時代の城砦のようであるが、確かなことは判らない。アントクエツ(安得悦)と命名している。  ──更にこのまるい城砦から四〇キロの地点に、もう一つの城砦があった。城砦の一部が遺っているだけであるが、その城内には高い仏塔があった。土台だけでも一〇メートル、その上の部分は失われていた。漢、魏《ぎ》の頃のものか。シャーエンタク(夏言塔克)と名付けている。  ──于田県(ケリヤ)の北の沙漠の中にも古城がある。四角で二、三キロ四方。城壁はないが、住居の木の柱と壁が遺っている。ここのことは「塔里木盆地考古記」にも記されている。  ──于田県の西の策勒県(チラ)の県境の沙漠の中にも古城がある。スタインのダンダーン・ウイリックなるところであるらしいが、調査してみても、それらしいものは発見できなかった。ダンダーン・ウイリックを探すために、于田県から策勒県まで行ったが、砂嵐が強く、駱駝の足あとはすぐ消え、特に帰途は難渋した。黄文弼も一九二七年に調査したが、ついに発見できなかった。一体、スタインのダンダーン・ウイリックはどこに埋まっているのであろうか。ウイリックはウイグル語で、家のたくさんあるところという意味であるが、“ダンダーン”の方は意味不明。  ──策勒県には、大城がなく、大寺があった。ウイグル語ではダムコ、漢語では達磨溝と書く。  ──ホータン地区には、以上のほかに二つの古城がある。一つは洛浦県の県城から一〇キロ、白玉河の東南岸、アクスビル(阿克蘇匹勒)と呼ばれている遺跡である。城壁の一部は遺っているが、その他は全部砂の中に埋まっている。そこで蒐《あつ》めたものは漢代の古銭、唐時代の金製品、陶器、石器。未発掘なので、すべて砂の中に埋まっているわけだが、この城は相当長い間、生き続けていたものと推定される。アクスビルはウイグル語で、“白い壁”を意味している。  ──今のホータン県から東南二五キロの地点にセスビル(什斯比爾)という大遺跡がある。セスビルは三重の壁の意。白玉河の西岸にある大遺跡で、未公開、未発掘遺跡であるが、漢代の于城の可能性は、非常に高い。  ──ホータン県には、もう一つ遺跡がある。ヨートカという。ウイグル語ではヨートカン。ホータン県の西方、北寄り、二〇キロ足らずのところ。そこから西へ行くと皮山県になるが、そこにザンクェイというところがあって、古城遺跡が一つある。スタインが于国の城としたところである。  李遇春氏の話は、私にはたいへん面白かったが、氏もまたセスビルという大きな遺跡については、その発言は非常に慎重で、于国王城の遺跡である可能性が極めて高いと言うのに留まった。いずれにせよ、近い将来、中国考古学界、史学界の総力を結集しての発掘調査が行われるであろうが、その日が早く来ることが待たれる。  八月二十六日、十時に迎賓館を出発、海抜二〇〇〇メートルの山懐ろに匿されている美しい湖・天池に向う。  すっかり馴染み深くなっているウルムチの町を横切る。路地、路地の間から砂丘の欠片のようなものが望まれる。イリ(伊犁)、トルファン(吐魯番)、ホータンに較べると、さすがに人が多く、服装も都会的である。ホータンで見たようなウイグル本来の服装は殆ど見られない。トラック、自転車、共に多く、人々の動きも烈しい。回教都市独特の雑踏の町ではあるが、その中に都会的なものが感じられる。初めてここに来た時は、沙漠に取り巻かれた土屋の、回教徒の町としての雑踏だけが眼についたが、よくしたもので、トルファン、ホータンを経巡ってきた眼には、少からず都会的なものが感じられる。  新市街の十字路で停車。町をカメラに収める。人道、車道、整然と作られてあって、道幅も広い。みごとなポプラの街路樹の根もとには、ゆたかな水量の水路が奔っている。ポプラの葉は黄ばみ始め、新疆地区には早い秋が来ようとしている。  再びくるまに乗る。市街地を少し走ると、やがて道は、ポプラに縁どられた一本道になり、それによって漠地に送り出されて行く。トラックの往来が烈しい。沙漠への入口が工場地帯になっているためである。  工場地帯を過ぎると、大荒蕪地が拡がってくる。段落のある地盤で、それが丘陵地帯に変ってくる。道は次々に現れてくる丘を割って行く。漸くトラック少く、快適なドライブとなる。十時である。  暫くすると再び大丘陵地帯になり、前方、左右に無数の丘陵が置かれている。この旅では、方々でこの世ならぬ風景にお目にかかっているが、ここもまた異様な丘で埋められた奇妙な地帯である。  長い丘陵地帯が終ると、こんどは大原野、駱駝草点々。右手には長い山の稜線が続いている。道路工事のため道から逸れて漠地に入る。砂塵舞い上がり、砂が滝のように降って来る。やはり紛れもなく沙漠なのである。  十一時二十分、漸くにして大オアシス耕地地帯に入る。右手遠くに山影重なっている。高梁畑は黄ばみ、ここにもまた秋は来ようとしている。くるま、右手の山脈を目指す。前方に山が重なって見えている。その山のどれか一つに登って行くのであろう。やがて、山に突き当り、道は山と山の間に分け入って行く、十一時三十分である。  山間部に入る。前方の山の頂きに雪が見えている。のどかな農村地帯のドライブとなり、やがてくるまは渓谷に入って行く。前方には雪の山、右手には渓流、磧《かわら》には楡。谷は深く水は美しい。  十二時、流れ左手になり、道は上りになる。流れは次第に細くなる。前のくるまの砂塵烈しい中を、道は山の斜面を巻き始める。  やがて、登りつめたところで、目指す天池が眼に入って来る。四方を山に包まれた湖で、しんとしたたたずまいである。湖畔を少し走って行って、湖岸の休憩場に入る。湖畔には樅《もみ》の大樹多く、周囲の岩山の斜面を埋めている木も樅である。  美しいと言えば美しいが、三時間の時間を持て余す。ひどく寒いと聞いて、その準備をして来たが、少しも寒くない。天池は西王母《せいおうぼ》の風呂場、ここから少し降ったところにある小天池は足の洗い場であると言われているという。  ひどく疲れて、夕方、ウルムチに帰る。夜は、孫平化氏から中国共産党第十一次全国大会について話を聞く。  八月二十七日、午前はウルムチ市紅山商場を参観し、午後は二時四十分に、長くお世話になった迎賓館を出発。新疆地区のスケジュウル全く終って、今日は北京に帰る日である。  風があるので、街路樹のポプラが揺れている。ウルムチは昨日は三十三度、今日は三十二度、この数日は三十二、三度、多少異常な暑さだという。町に出ると、体は汗ばんでくる。それにしても、トルファンはやはり暑かったと思う。トルファンは平均四十四度、最高五十三度というが、その平均の四十四度を経験したのである。  嬰児《えいじ》を抱いている女のなんと多いことか。耳輪も、大抵の娘の耳にぶら下がっている。沙漠の国に来て、なるほど耳輪というものは美しいものだと思う。女はここでは大抵白いシャツ、純潔な感じである。髪は断髪が多く、少女は二つ分けのお下げにし、リボンをつけている。服装はスカートか、ズボン、簡素でいい。民族服は殆ど見られない。  商店街(回城)に入ると、老人が多くなる。みな髯を生やしている。それにしても、買物を網の中に入れて、それをぶら下げて歩いている女の多いのが眼につく。流行かも知れない。そうした中を驢馬のひく荷車がゆっくり動いている。  漢城に入る。ポプラ、楡の竝木が美しい。いよいよウルムチともお別れである。砂丘の欠片よ、ひまわりよ、驢馬よ、丘の色と同じ色の土屋よ、白壁よ、子供を大勢くるまに乗せた母親よ、瓜を抱えた男よ、フェルトの靴よ、荒壁の崩れた家よ、白壁のはげ落ちた家よ、戸口に腰かけている老人たちよ、街路樹の下にくるま座になって憩っている一家よ、ポプラの黄ばみよ。  空港に着く。トライデント、一一二人乗り。蘭州を経て、北京へ。蘭州まで一七二五キロ、二時間五分の予定。  四時半離陸。すぐ左手に雪の天山。大沙漠の波立ち、宛《さなが》らひだの多いスカートを何百枚もひろげ竝べたようである。  すぐ天山に平行して飛びながら、その支脈の一つを越える。離陸してから、まだ五分とは経っていない。機内の座席の下に、ハミ瓜がごろごろしている。乗客が持ち込んだものである。  五時四十五分、依然として左に雪の天山を見ながら、天山北路の上を飛んでいる。  六時十五分、大沙漠の上。沙灘《さたん》とでもいうのか、沙漠には無数の砂の波が置かれている。波が寄せているに似ている。右手の山脈、次第に低く、遠くなって行く。ここで天山と別れる。やがて丘陵地帯になり、そこを越えると、大オアシス地帯、また山岳地帯、山脈の尾根を二つか三つ越すと、やがて大耕地、蘭州である。  六時三十分、蘭州着。大沙漠の一隅の空港である。三方は全く山影なし。休憩一時間、食堂にて夕飯、窓から見える月は十四日。明日が満月である。  七時四十五分、離陸、舞い上がると、すぐ丘陵地帯。こんどは岩の波である。同じような形の岩山が、無数に押し寄せている。ここもまた、ちょっとしたカッパドキヤ高原である。その上に十四日の月が出ている。大断層も横たわっている。どこまでも異様な丘陵地帯は続く。敦煌もまた、このようなところにあるのであろうか。  刻一刻、地殻の上は暗くなりつつある。夜が来たのである。地殻を休ませるために、夜はやって来たのだ。空は清く、明るいが、それに反して、地上はすべての形を失って、黒一色になろうとしている。  十分後に、空もまた、暗くなる。烈しい雷光がひらめく、雷光は短い間隔で、機外の闇を引き裂いている。  九時二十分、北京着。二十七度。 十一  敦煌への思い  五十二年八月訪ねた新疆ウイグル自治区の紀行を、前回まで、十回にわたって綴って来たが、この旅のあと、五十三年五月から六月にかけて、思いがけず敦煌の地に足を踏み入れる好機が到来した。こんどもまた招かれての中国の旅であった。  松岡譲の「敦煌物語」が一冊の形をとって出版されたのは、昭和十八年の初めであった。それまでに、敦煌に関する研究書や翻訳、紀行の類は、ある程度読んでいたが、敦煌というところに、実際に足を踏み入れてみたいと思ったのは、「敦煌物語」によってであったかも知れない。 「敦煌物語」を読んで十四、五年経って、私は「敦煌」という小説を書いている。松岡譲が「敦煌物語」を書いたのは、おそらく、そこに惹かれながら、結局のところはそこに行くことができないという想いからではなかったかと思うが、私の場合も、全く同じことである。先ずめったなことでは、敦煌などというところには、足を踏み入れることはできない、そんな諦めの気持と、次第に強くなっている敦煌への関心が、私に小説「敦煌」の筆を執らせたのである。  それから、いつか二十年の歳月が経過している。この二十年の間も、敦煌というところに行けるものなら行ってみたいと思い、思いして来たのであるが、その念願を思いがけず、こんど果すことになったのである。  東京を発ったのは五月二日、一行は私と妻。それに日中文化交流協会の横川健氏に同行して頂いた。北京で三泊、その間に、若干の敦煌行きの準備を調えた。北京で、やはり敦煌を訪ねられる清水正夫氏御夫妻、福沢賢一氏等とお会いし、こんどの旅をごいっしょにすることになった。  また昨年、新疆ウイグル自治区の旅で案内役を受持って頂いた孫平化氏が、こんどの旅にも同行して下さることになり、中国人民対外友好協会の工作員で、以前から親しい呉従勇氏も付添って下さることに決定。楽しい敦煌行きになりそうである。  五月五日(五十三年)、快晴。十二時二十分に北京飯店を出、アカシヤ、ポプラ、楊樹などの街路樹の緑が美しい中を空港に向う。  一時三十分、離陸、イリューシン18型、七〇人乗り。蘭州まで一三七一キロ、予定飛行時間は二時間四十分。  三時、太原上空。ずっと沙漠か荒蕪地が続き、その中に時折、砂丘か砂の山が見えている。蘭州が近くなると、灰色の丘陵地帯が拡がり、丘の段々畑も深々と砂をかぶっている。  四時、蘭州空港に着く。この空港は初めてではない。昨年八月、新疆ウイグル自治区の旅を終って北京へ帰る途中、機が蘭州廻りだったので、この空港で一時間ほど過している。広い空港で、空港の建物の背後に、小さい砂の団子山が幾つか置かれてあるが、他の三方には全く山影を見ない。空港には、省革命委員会外事処責任者、煥三氏等三氏が出迎えて下さっている。  二十度。町まで七四キロ、一時間半のドライブである。時差一時間、しかし、甘粛省の旅の間、ずっと北京時間を採用するというので、時計はそのままにしておく。  くるまに乗ると、煥三氏は、 「蘭州の一番いい季節は七月から九月まで、果物が多いです。今は風の強い時期で、今日は珍しく風がなくて、静かですが、いつもはたいへんです」  とおっしゃる。いかにたいへんか見当つかないが、昨年の新疆地区の旅で、トルファン(吐魯番)、ホータン(和田)といったところで、風の洗礼を受けているので、たいして驚かないだろうと思う。  空港を出ると、すぐ荒蕪地のドライブになる。ところどころに耕地が挟まれていて、小麦の青い色が眼にしみる。やがて低い丘陵地帯が拡がって来、その中を割って、舗装道路が走っている。 「この地帯は水がないので、灌漑できません。目下、用水路を作ることは作っていますが」  と、氏。蘭州は甘粛省の中でも一番の旱魃地区であるが、現在は特に旱魃がひどい由。  樹木の一本もない丘陵地帯が続く。ところどころに貧弱なポプラの街路樹があるが、すぐなくなる。人家というものは全くない。 「植林は難しいです。一本植え、枯れ、また植えるということの繰り返しです。大体、この辺はアルカリ性土壌で、土を運んで来ては土質を改良しています。土を運び、水を運び、なかなかたいへんです。水は五〇キロ離れたところから持って来ています。僅かでも耕地があるのは、その努力の結晶です」  くるまの窓から見る限りでは、その努力の結晶もごく僅かである。大部分が荒蕪地のまま放置されている。  やがて、赤味を帯びた丘陵の裾のドライブとなる。農家もあるが、土塀の囲いだけ見えて、家はその中に匿れている。風のためなのであろう。アルカリ性土壌は白く見えている。丘の土は紅土《こうど》といって、ひどく堅いという。赤い丘陵は、そう言われてみると、ひどく堅そうに見える。  そのうちに、異様な大浸蝕地帯が拡がって来る。到るところ、地殻は割れ、大塹壕でも張り廻らしたように、割目は、縦横にどこまでも続いている。ヤルダンというのは、こういう地帯なのであろうか。この世ならぬ眺めであるが、その地殻の割目のような中に、人家が見えていたりする。こういうところに住んでいたら、さぞ荒涼たる明け暮れであろうと思う。  ふいに、くるまは黄河を渡る。黄河を渡ったとたん、様相は一変して、こんどは大工業地帯が拡がって来る。くるまは、いきなり町に入る。道は広くなり、トラック、バス、自動車の往来も多く、自転車も多い。立派とは言えないが、街路樹も竝んでいる。  大ヤルダン地帯から、工業地区への変り方は鮮やかとでも言う他はない。大工業地区に続いて、労務者の住宅地区が続き、それから再び、くるまは町を脱け、大きな丘の連なりに沿って、その裾を走り出す。  そのうちに、また丘陵地帯が拡がってくる。しかし、ところどころに挟まっている耕地も広くなって来、そのうちに、何となく町らしいところに入る。しかし、一軒の商店もなく、両側には工場か、倉庫様の建物が竝んでいて、全く人通りはない。  こうしたドライブが暫く続いて、漸くにして、くるまは、こんどこそ間違いなく蘭州の町に入り、町中の革命委員会の招待所でもあり、ホテル(友誼飯店)でもある建物の中に入ってゆく。堂々たる構えのホテルである。  蘭州の町は白塔山の裾を流れている黄河に沿った細長い町である。海抜一四七〇メートル、泰山と同じくらいの高さだそうである。気候は河北省とほぼ同じで、夏は北京ほど暑くなく、冬は北京ほど寒くない。ただ乾燥は強い。  甘粛省は、大体日本と同じ広さ。そこに一八〇〇万の人間が住んでいる。蘭州の人口は一〇〇万、工場地帯の郊外を併せると、二一三万にふくれ上がる。中国西北地区の大工業都市である。一九四九年に解放され、第一次五カ年計画によって、つまり五三年から大工場が建てられ、精油化学工場、石油機械工場が、新しい国造りの上に大きい役割を持っている。  そうしたことは充分承知した上でのことだが、私などが長く持っていた蘭州という町のイメージは、現在の蘭州とは、かなり大きく違っている。ここは漢時代に金城県として現れ、武帝時代には霍去病《かくきよへい》もこの地に駐屯している。隋《ずい》の時代に蘭州と改められ、唐の時代も蘭州と呼ばれ、シルクロードの要衝であった。シルクロードは長安(今の西安)から、天水を経て、この蘭州に入り、連《きれん》山脈を烏鞘嶺《うしようれい》で越えて、河西回廊の武威《ぶい》、張掖《ちようえき》、酒泉、安西、敦煌へと繋がって行く。中国からの絹も蘭州を経由しており、七世紀の玄奘三蔵もまた、蘭州を通過している。  が、こうした歴史の町としての蘭州のイメージを、現在の大工業都市蘭州のどこからか貰おうとすることは無理なようである。金城時代の蘭州は、一説には現在の化学工場地帯に位置していたとされているが、確かなことは判っていない。もしそうであったとしても、それはそれで、さっぱりしたものである。霍去病とて、不快には思わないだろう。  夜は、甘粛省革命委員会の招宴。  五月六日、市内見物のために、九時三十分に友誼飯店を出る。門を出ると、トラックの往来、騒然たるものがある。まさに工業都市である。土屋の町に、大小のビルが竝んでいる。路地を覗くと、古い土屋の家竝みが見える。  町中には大きな丘がある。壊しかけているのか、自然に壊れたのか判らないが、半ば崩れていて、そこに人家が危っかしく建っていたりする。町の近代化が行われている最中らしく、到るところ工事場の感じである。日本より春は遅いらしく、街路樹の緑はまだ浅い。  五泉山に向う。蘭州は五泉山と白塔山という二つの山に挟まれた町で、黄河が市のまん中より少し北を流れている。五泉山に行く途中、市内西関(旧西門地域)に古い蘭州の城壁の欠片があるというので、それを見せて貰う。張掖路の十字路のところに、なるほど城壁様のものが遺っている。もう一つ、南関にもあるというので、そこへも行く。こちらは酒泉路というのに沿っている。が、いずれも、いつの時代のものかは判らないという。ただ、こうしたもののある地域が、蘭州のオールド・タウンであることだけは判る。  目指す五泉山は灰色の山の重なりとして、町の中心地区から、すぐ、そこに見えている。白壁の土屋の通りを山に向って行く。山に近寄ると、麓の坂道を上ったり、下ったりして、やがて五泉山公園に着く。ここが蘭州の町のただ一つの観光、散策の場所であるらしい。背後の山には一木一草もないが、麓の公園には楡と楊樹が多く、辺りには柳絮《りゆうじよ》が雪のように飛んでいる。  山の斜面に道教、仏教、儒教の廟《びよう》がたくさん建てられている。十数群の建物があるという。言い伝えでは、漢の時代に最初の仏教寺院が建てられ、その後歴代にわたって、いろいろな寺院が建てられたという。もちろん、そうした古いものは今はなくなっており、現在遺っているのは明・清時代のものばかりである。  山をじぐざぐに登って行く。高処に明後期の三教祠というのがある。仏、道、儒、三教の祠《ほこら》である。二、三の明時代の寺を見る。他に金時代、千二百年前のものだという鐘がある。高さ三メートル、直径二メートル、重さ五トン。合金。銘文に“仏神悦び、鬼が愁う”とある。  他に泉を見る。そもそも五泉山という名は五つの泉があるところから来ているという。甘露泉、掬月泉、模子泉、蒙泉、恵泉。いろいろな名の泉がある。公園の事務所の人に訊いてみる。恵泉は人民に恩恵を施す泉。蒙泉は、お茶のうまいことで知られている四川省蒙山の泉。模子泉は子供をさぐる泉。“模”は触れるという意味で、泉の中に手を入れ、石に触ったら男子が生れ、瓦に触ったら女子が生れるという。  五泉山から、蘭州市を俯瞰《ふかん》する。町を挟んで、向うに白塔山の山脈が見えている。白塔山は連山脈の支脈である。五泉山は麓は別にして、全山殆ど樹木のない山である。建物で飾る以外仕方なく、次々に廟が建てられて行ったのであろう。  五泉山公園を辞し、白塔山の下を流れている黄河を見に行く。蘭州市を横切る。蘭州の町は、どこへ行っても、古いものと、新しいものが入り混じっている。古い蘭州に、工業都市の蘭州が入っている。ビルと白壁の土屋が、雑然として同居している。  新しくできた大通りを行く。自動車通り、自転車通り、人道と、それぞれ街路樹で区切られた整然とした美しい道路であるが、しかし、路傍のところどころには、まだ土屋が嵌《は》め込まれている。  浜河路を行く。黄河の畔《ほと》りなので、浜河路の名がつけられているのであろう。五泉山から望んだ白塔山下の黄河河畔で、くるまを降りる。  黄河は黄濁し、水は多少渦巻いている。風が吹くと、流れはもっと濁るという。風が土を運んで来るからであろう。最近上流に大きいダムができたので、流れはこれでもきれいになったそうである。  対岸の白塔山は、砂と土をかぶっている岩山で、一木一草のない山の連なりである。一番手前に見えている山の頂きに、白い塔が一つ見えている。慈恩寺白塔と呼ばれ、明末一四五〇年の建立《こんりゆう》。七層八面、高さ二一メートル。  市内見物から帰ると、革命委員会の人たちによって、私の誕生日の祝宴が張られる。宴席はホテルの食堂。外国で五月六日の誕生日を迎えたのは初めてではないが、お祝いして貰うのは初めてである。  普通の料理のほかに、長寿と、長寿ギョウザ、“寿”と書かれたデコレーション・ケーキ。  三時から博物館参観、武威出土のものの多いのが眼につく。  この日夜半、ホテルを出て、停車場に向う。上海発、ウルムチ(烏魯木斉)行の列車で、酒泉に向うためである。列車は上海を五日午前七時五十五分発、蘭州には七日午前一時着。二時間延着である。終点のウルムチまでは、上海を出てから四日三晩、八十数時間かかる。昨年の新疆地区の旅の折、トルファン─ウルムチの広いゴビのただ中で、この列車をカメラに収めている。  蘭州から煥三氏、甘粛省人民医院の医師、田兆英女史等四氏が一行に加わって下さる。  酒泉までは十八時間、三八〇〇メートルの烏鞘嶺を越えて、河西回廊に入ってゆく。こんどの旅に於て、私にとっては大切なコースである。烏鞘嶺あたりで夜が明けると思うので、それまで熟睡しておきたいと思う。 十二 河西回廊  五月七日、夜半一時に、上海発、ウルムチ行の列車に、蘭州駅にて乗車して、すぐ眠り、明け方目覚める。時計を見ると、烏鞘嶺通過の時刻、六時である。  すぐ窓のカーテンを開けて、窓外を覗く。暁闇の中に雪山が重なって見えている。時計は北京時間にしてあるので、六時ではあるが、夜はまだ明けきっていない。雪に覆われた嶺が次々に現れて来る。列車はいま三八〇〇メートルの連山脈の一つの嶺を越えているのである。連山脈の一番高いところは五〇〇〇メートル以上あるので、烏鞘嶺は連山脈東端の一鞍部と考えていいかも知れぬ。  荒涼たる風景である。雪をふかぶかとかぶっている山もあれば、雪を掃いたように薄く置いている山もある。いずれにしても、今眼に入っているのは、どれも山の背である。たくさんの山の背が重なり合って置かれてあり、その中を、列車は喘《あえ》ぎ喘ぎながら、ゆっくりと通過して行きつつある。  窓外を眺めていると、寒さが身にしみてくるので、窓から顔をはなして、寝台の上に横たわる。私と妻、同行の横川健氏三人でコンパートメント一室を占めている。広軌なので、部屋はゆっくりしており、窓際には小さい卓が置かれ、その上に布片れのかさをかぶった電気スタンドが置かれてある。しかし、連山脈の中を列車が走っていると思うと、寝台に横たわっていても落着かぬ。再び窓に顔を近付ける。  六時半、清河站(駅)、この辺りよりはっきりと下りになる。六時四十分、天祝站、この駅を過ぎると、同じような山の背地帯ではあるが、少々青い草が見え始める。牧草地らしいところもあれば、僅かながら耕してあるところもある。人一人、山の背に立っている。何をしているのであろうか。  七時、砂河台站。山の斜面に設けられている駅である。附近の山の地肌は少し青味を帯びており、山の背にも耕したところがある。一樹もなく、依然として荒涼たる風景である。列車はずっと山の背を走り続けている。  八時四十分、黄羊鎮、列車はいつか連山脈を越えてしまったのであろうか。ここは全くの平原の駅である。  九時に食堂に行き、朝食。九時五分、南武威。それから間もなく列車は武威の駅に入る。西域史に屡々登場してくる涼州である。  武威の駅で列車から降りて、プラットホームを歩く。河西回廊の一地点に、今自分は立っているという思いを深くする。小説「敦煌」の中で屡々涼州を登場させているので、全く無縁のところではないが、町のたたずまいに直接触れることができないのは残念である。大平原の町だということだけが判る。唐代、元代の城市涼州と、現在の武威の町がいかなる関係にあるか知らないが、いずれにしても、この平原に営まれた大集落であるということに於ては変りはない。シルクロードの大交易都市であり、漢族と遊牧民族がとったり、とられたりして、死闘を繰り返した場所である。  列車が武威駅を出ると、あとはずっと車窓から大平原を眺める。列車が越えて来た連山脈は、いつか左手遠くになっており、右手には全く山影はない。武威周辺には大乾河道が多い。乾河道は耕されて畑になっていたり、小さいのはそのまま道になっていたりする。見晴かす大平原は大体耕地になっており、ところどころに羊群が点々と置かれている。それにしても乾河道の何と多いことであろうか。次々に、いくらでも出て来る。  いま列車は河西回廊を西に向ってひた走りに走っているが、一体河西回廊とはいかなるところであるか。正確には烏鞘嶺から、新疆ウイグル自治区との境の猩々峡(現在の星々峡)まで、南は連山脈、北は馬《ばそう》山山系、二つの山脈に挟まれた、長さ一〇〇〇キロにわたる回廊地帯である。幅は二つの山脈の間が遠ざかったり、近寄ったりすることで異るが、一番広いところは一〇〇キロである。  南の連山脈は延々と山脈の連なりを見せているが、北の馬山山系の方は、単独の山が点々と置かれている。従って、山と山との間から、北方のバタンジリン沙漠がはいり込んで来る。時には、その沙漠は連山脈の麓まで侵入して来ている。  そういうわけで、河西回廊は、南と北の両山脈の雪溶けの水で造られたオアシスと、北方からの沙漠とが入り混じり、なかなか手のこんだ一枚の織物を作り上げている。オアシスもあれば沙漠もあり、ゴビ(戈壁、小石のばら撒かれている荒蕪地)もある。  河西回廊の南側の屏風である連山脈は、西域史の上には屡々登場する歴史の山である。「敦煌襍鈔」という本によると、“天山高さ十五里、広さ六十里、冬夏雪消えることなく、一名天山、又の名を連山、匈奴天を称えてとなす”とある。匈奴語によると、連山は天山ということになる。その天山である連山に、匈奴は紀元前から強大な遊牧民として根拠地をつくっており、中国歴代王朝の脅威となっていたのである。  この地帯から、匈奴を追い、更に西のタクラマカン沙漠一帯にかけての、いわゆる五胡十六国の経営を意図したのは漢の武帝である。その武帝の命を受けて、弱冠の勇将、驃騎《ひようき》将軍霍去病《かくきよへい》が、匈奴と転戦し、匈奴を北方に奔らせ、漠南に王庭(匈奴の王都)無からしめた輝かしい歴史の一頁を書いたのはこの山岳地帯である。  先刻列車が越えて来た烏鞘嶺を、霍去病もまた南に、北に、度々越えたことであろうと思う。この地帯で転戦したのは霍去病だけではない。衛青《えいせい》、李広利《りこうり》といった将軍たちも、この地帯で匈奴と闘っている。また名将耿忠《こうちゆう》が二千騎を率いて、匈奴の呼衍《こえん》王を討って、斬首千余級を得たというのも、この連山に於ける戦闘である。こうして漢威は、次第に連山を越えて、河西回廊地帯に入ってゆくのである。西域史の黎明期は連山脈から始まって行く。  先年西安(昔の長安)に行った時、郊外に武帝の墓である茂陵《もりよう》を訪ねた。その時、その陪塚《ばいちよう》の一つに霍去病の墓があった。霍去病は二十四歳の若さで病歿しているが、その時武帝は、霍去病が漢の属国とした五郡(河西回廊一帯)から、鉄の甲冑で武装した兵団を出発させ、それを儀仗兵として、都長安まで連ねさせた、と古書は伝えている。そして武帝は茂陵に霍去病の墓を彼が度々戦果をあげた戦場連山に象《かたど》らしめて造らせている。しかも石は連山から運んで来たものだと言われる。  史記によると、上述のように、霍去病の墓はその死と共に建てられたことになっているが、私の独断的な推定を許して貰えば、若き日の武帝が最も愛した若き将軍の墓を造ったのは、武帝の晩年ではなかったかと思う。晩年の武帝が己が墓の場所を定めた時、先ず第一に陪塚として選んだのは霍去病ではなかったかと思うのである。  列車は西域史の黎明期の舞台を過ぎて行く。十時よりゴビ灘《たん》となる。一面に砂利の敷かれたゴビの荒蕪地が拡がっている。鉄道の沿線にポプラ、楊少々、線路の横の道を、ジープが一台、砂塵をもうもうとあげて走っている。  左手は連山脈であるが、遙か右手に低い山脈が見えている。広いゴビの中に、ところどころに小さい集落も置かれている。おそらくそこには地下水が湧き出ており、そのお蔭で、半農半牧のささやかな生活が営まれているのであろう。  十時二十分、依然としてゴビの拡がりである。やはり、ところどころに集落が見えている。この辺は遠い連山脈から水を引いているか、でなければ地下水に頼るほかはない。地下水を汲み上げるための井戸を掘っている男たちの姿が見えている。生きることは大変だと思う。駱駝数頭、車をひいて、ゴビのただ中の道を、ゆっくりと西に向っている。  十時五十分、河西堡站に停車。ここはニッケル、鉄鉱石などの産地だという。その関係の工場が多い。久しぶりのオアシス地帯で、駅の附近にも耕地が拡がっている。駅の左手に小さい山が迫っているが、その山の裾にもニッケル工場の建物が見え、火が燃えている。駅の附近の農家は全部、土の塀で囲まれている。塀の方が高いので、農家の屋根は見えない。風を防ぐために、家はこのような造り方をされているのであろう。  十一時、河西堡站を発車。窓から眺めていると、かなり大きい集落である。白壁土屋の町である。木はポプラ許り、その上に曇天が拡がっている。  が、間もなくオアシスはなくなり、列車は再びゴビに入って行く。次第に右手の山脈が近づいて来、それと同時に左手の山脈も次第に前方に廻って来る。列車はその前方に廻って来た山脈の裾に沿って走って行く。それと同時に、右手の山脈の方も左に廻って来る。はっきりとは判らないが、南と北の山脈は互いに近づいて来、その間に挟まれた挟い地帯を、列車は走っているように見受けられる。河西回廊は、この地帯で、細い帯のようになっているのかも知れない。暫く、列車はそういうところを走り、再び視界のひらけたゴビの中に出る。  十一時十二分、東大山站を通過。小さい駅で、附近に集落は見えない。ゴビのただ中の駅で、右も、左も、一望のゴビである。そのゴビの中を、驢馬二頭、車をひいて、どこへ行くのか、北に向っている。右手から前方にかけて、幾つか稜線の重なっている本格的な山脈が見えて来る。  十一時二十三分、平口峡站に臨時停車。ここも附近に集落のないゴビの中の駅である。駅の左手には低い山が迫っている。この辺りは私たちが目指している酒泉までの約半分であるという。  駅を出ると、すぐゴビ灘の丘陵地帯に入る。砂と、泥と、小石に覆われた丘が、次々に波立つように現れ来る。大きい丘、小さい丘、落石が丘と丘との間を埋めている。異様な荒涼たる風景である。丘と丘との間には駱駝草が点々と置かれている。十分ほどでこの異様な丘陵地帯を脱ける。ゴビが大きく拡がって来る。左右いずれも、遠くに山影が望まれる。  玉白站を過ぎる。次は露泉站。名前は美しく優しいが、いずれも駱駝草に覆われた原野の中にぽつんと置かれた、集落を持たぬ駅である。鉄道線路の工事用の駅とでもいった恰好である。  やがて、左右の山脈近くなる。列車は大きく左に廻って行き、山と山との間に入って行く。まさに河西回廊に他ならなく、回廊は広くなったり、せまくなったりしているのである,右手の山脈、近くなる。馬山山系である。稜線は鋭く刻まれてあって、なるほど馬の《たてがみ》に似ている。  十二時十分、笈嶺站《きゆうれいたん》、ここも集落のない駅である。列車は河西回廊を走り続けている。左手の山影は連山脈の、おそらくは前支脈であろう。それを遠くに見たり、近く見たりしながら列車は走っている。右手の北側も同様、馬山山系を遠く、近く望みながら、列車は走っているのである。  十二時四十五分、白水泉站。この附近は丘陵地帯で、ひらたい団子型の丘が無数に置かれている。  それを過ぎると、一望のゴビの拡がりとなる。馬山山系の山なみは切れたり、続いたりしており、時々堂々たる山塊が現れる。左手の連山脈の方は低い山脈が幾つも重なって見えている。依然としてゴビ灘はつづいている。丘という丘は、大きかれ、小さかれ、尽《ことごと》く小さい駱駝草に覆われている。  一時四十分、大橋站。駅の横に沙棗《すななつめ》の木が植っている。沙棗の葉は葉裏が白く、毛が生えている。水分の蒸発を防ぐためだという。この植物はアルカリ性の土地にも、乾いた土地にも強い。  一時五十分、山旦站、ここで初めて生きのいいポプラが駅のまわりに植っているのを見る。ここは海抜二〇〇〇メートル。左手遠くにダムの水面が見えている。小さい集落である。ここはどういうものか、常に西北の風が吹いているということで、集落の木という木の向きが、逆の方向を向いている。いろいろな集落があるものだと思う。  二時十五分、張掖。すばらしいオアシス地帯である。町は駅から離れており、そのたたずまいを眼にすることのできないのは残念である。ここは西域史に屡々登場する甘州である。ここもまた、私は小説「敦煌」で取り扱っている。武威と竝ぶ河西回廊地区の要衝である。駅の近くに沙棗の林がある。防風林であるらしい。ポプラの林も多い。  発車すると、車窓から張掖のオアシスを眺めさせて貰う。沙棗の林、ポプラの林、みごとな小麦畑。青い水の流れている川。今日一日、乾河道とばかり付合ってきたので、しみじみとした思いで、青い川の流れを見る。  十五分ほどで徐々に沙漠化してゆくが、それでも杏、梨、桃、林檎、棗の木などが、眼に入って来る。小麦畑も多い。河西回廊の穀倉地帯である。特に杏の木は多く、その果実は輸出しているという。今は李の花は過ぎ、桃の花が咲いている。ちょっと季節の感覚が判らなくなる。  この辺りから万里長城の欠片が山の斜面に見えたり、平原の中に見えたりする。右の窓から山の上の烽火台《ほうかだい》らしいものの残骸も見える。  三時、臨沢站。駅の近くには杏の木が多い。やがて次第に、辺りは本格的に沙漠化してくる。張掖までは主としてゴビであったが、張掖からはゴビがなくなり、替って沙漠が現れてくる。が、駅の附近には桃の花が咲いており、その向う遠くに湖が見えている。  四時、左右全く山影なく、大沙漠になっている。大乾河道が多い。  四時四十分、清水車站、大オアシス地帯の駅。丈高いポプラが駅の建物を包んでいる。駅の附近には、土屋の集落が二つ、三つ見える。  再び沙漠、また緑の地帯、また沙漠、やがて本格的な大沙漠が拡がってくる。左手の連山脈の頂きには雪が置かれてある。  沙漠、次第に耕地に変ってくる。オアシスが拡がってくる。大乾河道がある。それを渡って、酒泉の町に入って行く。敦煌へ行くために酒泉で下車するので、私の河西回廊の列車の旅は、いまやあと幾許《いくばく》もなくして終ろうとしている。 十三 葡萄の美酒、夜光の杯  五月七日、午後五時四十分、列車は酒泉駅に到着、昨夜半来、十八時間に亘って河西回廊地帯を走り続けて来た蘭新(蘭州─新疆地区・ウルムチ)鉄道と別れて、酒泉駅に下車する。これで河西回廊の列車の旅は、全く終わったわけである。  しかし連《きれん》山脈と馬《ばそう》山山系(龍首山、合黎山、馬山等の山々)の間に挟まれた甘粛省の細長い盆地が、これで終ってしまったというわけではない。河西回廊は更に西方に延び、安西、敦煌というオアシス都市を営んでいるのである。列車による河西回廊の旅は終って、酒泉からはジープの旅になる。  酒泉駅附近には人家はなく、町に向う舗装道路が一本真直ぐに、田野の中を走っているだけである。駅から県城までは一二キロ。  快晴、陽はまだ高い。街路樹のポプラはさほど大きくはないが、緑が鮮やかで美しい。道の両側には半沙漠、半耕地の地帯が拡がり、路傍に羊群が次々に現れる。時折、四頭の驢馬がひいている荷車を追い越したり、それと擦れ違ったりする。この地方は驢馬四頭が車をひくことになっているのかも知れない。  町に近づくにつれ、街路樹は大きくなり、左右に耕地が拡がり、あちこちに農家が見えて来る。やがて町に入る。閑散とした集落である。今夜の泊りである酒泉地区招待所に入る前に、酒泉工芸美術廠というところを参観する。酒泉の古い工芸品として知られている夜光杯を造っている工場である。二階建ての民家の階上階下が工場になっていて、そこらにざらにある町工場の感じである。小さい構えで、何となくほっとする。大きい工場であったら、夜光杯のイメージは壊れてしまう。夜光杯については何の知識も持っていないが、「唐詩選」に収められている夜光杯の詩は有名で、いつかそれの、“葡萄の美酒 夜光の杯”とか、“古来征戦 幾人かかえる”とかいった詩句が心に刻まれている。別離と、征戦と、それから異郷の酒宴にふさわしい葡萄酒と、それを満たす夜光の杯。  こんどこの旅に出る前に、東京で二、三の人から“酒泉に行くと夜光杯で酒がのめますね”と、そんな言葉をかけられている。この稿を綴るに当って、「唐詩選」をひもといてみると、作者は王翰《おうかん》、題は“涼州詞”、「国訳漢文大成」の訳を借りると、次のようになる。 葡萄の美酒 夜光の杯 飲まんと欲すれば琵琶 馬上に催す 酔うて沙場に臥す 君笑うこと莫《な》かれ 古来征戦 幾人か回《かえ》る  葡萄酒を夜光杯で飲もうとしたら、馬上で誰かが弾く琵琶の音が聞えて来た。興にのって杯を傾けるほどに、酩酊《めいてい》して、沙漠の上に臥してしまった。この酔態を笑うことなかれ。古来征戦の人、幾人本国に生還しているであろうか。わが身のまだ恙《つつが》なきを思えば、どうして酒を飲まずにいられようか。──異域に於ける出征武将の心情が、哀切な調子で歌い上げられている。  工場を参観したあとで、工場の責任者が夜光杯について説明してくれる。──伝承によると、夜光杯は西周時代より造られ、二千年の歴史を持っている。西周時代は玉石杯と呼ばれていたが、王翰が詩で夜光杯という呼び方をし、それが有名になって以来、夜光杯という名が一般に行われるようになった。現在、材料の石は、一部を連山脈から、他の一部を四川省の北部寧省、新疆ウイグル自治区のホータン(和田)地区などから採っている。  夜光杯を見せて貰う。本来は白、黄、黒、の三種の玉杯があるが、あいにく目下、黒いのしかないという。古書に“盃はこれ白玉の精、光明夜照す”という讃辞があるそうであるが、どうみてもそれほど大袈裟なものではない。いくら美しいと言っても、要するに石の盃であるに過ぎない。しかし異域趣味が一世を風靡した唐代には、この盃も充分妖しく、美しく、これを満たす、この地方で産する葡萄酒もまた、異国の酒として充分妖しく、美しく見えたことであろうと思われる。 「唐詩選」には辺境における酒宴を歌った詩が多いが、そこに葡萄酒と夜光杯を配してみると、詩の心は生き生きとして来る。たとえば“酒泉大守席上酔後作”というのがある。 酒泉大守能《よ》く剣舞す 高堂酒を設けて 夜鼓を撃つ 胡茄《こか》一曲 人の腸を断つ 坐客相看て 涙雨の如し  酒泉の長官として辺境に配せられている人が、同じように辺境に過している客を迎えての宴席の歌なのである。胡人の芦の笛は哀しく響き、主人も客も心打たれて、涙は雨のようであったというが、これは必ずしも大袈裟な表現とは言えないであろう。当時の辺境の酒宴に於ては、客であれ、主人であれ、遠い家郷を偲《しの》ぶ思いは、自然に涙となって、頬を伝い流れて已《や》まなかったことであろう。そして、こうした宴席の雰囲気を造り上げる上に、葡萄酒と夜光杯も大きい役割を占めていたに違いないと思うのである。  夜光杯の工場を出ると、工場の前はたいへんな人だかりである。道いっぱいに、ぎっしり人が詰まっている。私たちを見ようとする人たちである。それもその筈、酒泉の町に足を踏み入れた日本人は、かぞえるほどしかないに違いないのである。  群集に包まれた中で、くるまに乗る。時計を見ると、北京時間の七時。一時間半の時差があるので、ここはまだ陽が当っている。暗くなるのは、おそらく九時頃であろう。  ビルが少い静かな町である。ゴビ(戈壁)の中にできた古い歴史の町で、高い建物がないので、何とも言えずのびやかでいい。くるまの窓から、路地、路地を覗いてゆく。どの路地にも白壁の土屋が、しっとりとした感触で竝んでいる。以前は、この町を城壁が取り巻いていたというが、その頃はどんなに落着いたいい町であったろうと思う。中国には、私が知っているだけでも、古い歴史の翳りをもった、落着いた町が幾つかあるが、酒泉の町は、それにゴビの町、河西回廊の町としての特殊な性格を加えている。現在は辺境の町とは言えないが、西域史に登場する辺境の町としての翳りは、やはり現在も、他の形で持っているようである。  やがて行手に三層の鼓楼が見えて来る。鼓楼は十字街のまん中に設けられてあるので、くるまはそれに向って近づいて行く。そして鼓楼をぐるりと廻って、そこから程遠からぬ招待所に向う。くるまは間もなく、両側を白壁の塀で包まれた静かな路地を通って、招待所の門に突き当り、その中に入って行く。幾棟かの二階建ての建物が、広い敷地の中に置かれてある。宿舎、食堂、それぞれ別棟である。  部屋に落着くと、すぐ係の人が洗面器にお湯を汲んで来てくれる。それで顔を洗い、手足を洗う。そしてそのお湯は、庭の埃り押えに、戸外に撤きに行く。今日からは風呂も、シャワーもない。それほど水の貴重な地帯に入ったのである。  部屋で休憩をとったあと、別棟の広間で、地区革命委員会の人から、酒泉地区の概要について話を聞く。  ──酒泉地区は八つの県よりなっており、人口は七〇万、八県のうち五県は農業県、三県は牧畜県。牧畜県の一つはカザフ族、他の二つの県は蒙古族が大部分を占めている。  ──少数民族は蒙古族、カザフ族、回族、併せて約三万。  ──この地区の冬の気温は、平均零下二十八度。最も寒い時は、零下三十五度になる。  ──いま私たちが居る酒泉県は人口二五万。酒泉の町は五万。もとはこの町は鼓楼を中心に城壁が囲んでいたが、現在は全部なくなっている。明日行く酒泉公園への途中に西門があり、その附近は回族の居住地区であったが、現在はその西門もなくなっている。  やがて、宿舎のまわりに、夕闇が立ちこめて来る。別棟の宴会場で、地区革命委員会主催の、私たちの歓迎の宴が開かれる。地区革命委員会副主任・李棟氏、県革命委員会副主任・劉延緒氏等が出席、なかなか和やかな宴席の空気である。葡萄酒を、夜光杯でご馳走になる。  宴がはねて、宿舎にかえる時、夜空にちりばめられている星の高さに驚く。ひどく高いところで、星が光っている感じである。夜光杯で酌んだ葡萄酒には、西域の町・酒泉は感じなかったが、夜空を仰いでいると、何がなし、ああここは粛州であり、酒泉であると思う。小説「敦煌」で取り扱っている舞台に、今初めて自分の足で立っているという思いを持つ。  五月八日、八時に朝食、粟粥《あわがゆ》が出る。朝食後、招待所の広い庭を歩く。裏庭に大きな沙棗の木がある。河西回廊の列車の旅で、沙棗の木をたくさん見ているが、近寄って見るのは初めてである。宿舎の人の話では、春に黄色の小さい花をつけるが、家中が薫ると言われるほど、匂いが高いそうである。招待所には枝の垂れている楊が多い。正面玄関前の庭にも、何本か固まって植っている。日本の柳に似ている。  八時半に招待所を出発。ジープ五台、マイクロバス一台。中国側の大勢の人に付合って頂いて、申しわけない気持である。今日は安西に向うが、その前に酒泉公園に立ち寄り、それから酒泉を隔たる三五キロの嘉峪関《かよくかん》を訪ね、そのあと玉門鎮で昼食を摂る予定だという。  鼓楼のある十字路で停車、鼓楼をカメラに収める。いつ頃のものか知らないが、この鼓楼が酒泉を特殊な美しい町にしていることは否めないと思う。案内の人の説明によると、この鼓楼の基礎は、千五百年前の東晋の頃築かれているというから、それから推すと、現在の酒泉の町は、千五百年前の古い町とほぼ同じ地域に造られていると見ていいのかも知れない。  いずれにせよ、漢の武帝によって、この地区が対匈奴戦の前進基地として営まれてから、酒泉は敦煌や安西と竝んで、河西回廊西部の要衝として、西域史の重要な舞台となっている。この町の独特な静かなたたずまいは、そうした大きい歴史の翳りと無縁ではないであろう。  鼓楼をぐるりと廻って、十字路を左の方にとる。ポプラの竝木のある静かな通りで、道に沿って、所々に土屋が竝んでいる。  五、六分のドライブで、東の城外に位置する酒泉公園に入る。あまり人工の手の加わっていないさっぱりした公園である。大きな葡萄棚の下が道になっており、そこを脱けると、今を盛りと咲いているライラックの紫の花が、美しく眼に入って来る。ここでは桃の花が散ったところだというから、北京や東京より一カ月ほどおくれていることになる。  この公園のある場所は、すばらしい泉があるという意味で、昔は金泉と呼ばれていたという。現在でも、ここには実際に美しい水を湛《たた》えた池があり、湧口は石で方形に畳まれてあって、それを見物できるようになっている。  酒泉というこの古い歴史の町の名は、一説では、この泉の水が酒のように美味いので、そうしたところから名付けられたものだとされている。更にまた、その昔、この地区を転戦した漢の武将・霍去病《かくきよへい》の労をねぎらって、武帝は酒を贈ったが、若い武将はその酒を泉の水で割って、部下の兵たちと分けて飲んだという故事があり、酒泉という名は、そこから生れているとも言われている。  それはさて措き、昔からずっと続いて、今も、ここに豊かな水が湧き出しているということは、酒泉がすばらしいオアシスに営まれた町であることを、何よりも雄弁に物語っているものだと言えよう。  酒泉の町を外れると、すぐ北大河が横たわっている。連山脈より流れ出す大河であるが、今は水が涸れて、大乾河道になっている。夏、冬は水が溢れ、春はなくなるというから、上流に造られているダムのためであろうと思われる。  嘉峪関をめざして、三十分ほどのドライブが始まる。ポプラの街路樹を持った舗装道路が、坦々と走っている。間もなく、道の両側はゴビになる。今更に酒泉が全くのゴビの中の町以外の何ものでもないことを思い知らされる。  やがて街路樹のポプラもなくなり、道は正真正銘のゴビの海の道となる。が、暫くすると、右側のゴビの中に鉄工場の建物が見えてくる。と、こんどは左側のゴビの中にも、セメント工場が現れる。五八年以前は、この辺は一望のゴビの拡がりで、工場などは思いも寄らなかったという。セメント工場の煉瓦の住宅も竝んでいる。  やがて十字路。右に行くと嘉峪関市に到るが、くるまは真直ぐに進む。小さいオアシスがあり、そこに工場地帯が置かれ、労務者の住宅が建ち竝んでいる。ゴビの海の中の住宅群である。工場地区を、駱駝が荷車をひいて通っている。  行手、右の方に嘉峪関の城楼が見えてくる。くるまはそれに吸い込まれるように近付いて行く。やがて舗装道路を右に折れ、城楼を目指す。道はその方に折れ曲って行く。  嘉峪関址は想像していたより何倍も大きい大遺構であった。復原工事が行われたためか、真新しい巨大な城廓に近付いて行く思いである。くるまを城楼の前で停めて、そこの入口から、大城壁で囲まれた、その内部に入って行く。  嘉峪関は明の洪武五年(一三七二年)に、西北辺境の軍事基地として《せき》が造られたのが始まりで、その後一五三九年に城壁、羅城《らじよう》、烽火台が造られ、一五六六年には二つの城楼、四つの角楼、二つの敵楼(歩哨楼)が完成し、今日見る嘉峪関の結構はでき上がっている。明代の万里の長城の最西端として知られ、長くシルクロードの要衝として栄えたことは、ここからの出土品の数々が明らかにしている。  遺跡のあるところは海抜一七〇〇メートル。城壁の高さは一一・七メートル。城楼の一周は七三三メートル、城楼の面積は三万三五〇〇平方メートル。建造物は驚くべきほど細かい計算に基づいて造られているという。  敵楼に登って、関外に長く延びている長城の城壁をカメラに収める。それにしても、この関所がいかなる形で、いかなる活動をしていたか、無人の関址に立っている限りでは、その盛時を瞼に描くことは難しい。静かな陽光が降っている歩廊を、ゆっくりと歩いて行く。耳をすませても、何の物音も聞えない。気の遠くなるような静けさである。  嘉峪関を出て、再びゴビのドライブが始まる。右手に蘭新鉄道の線路が見えてくる。道はそれに平行して走り、やがて線路を横切って線路の右手に出、またそれに平行して走る。左手に連山脈が見えている。山容雄大である。連山脈の最も美しく見えるところかも知れぬ。それに対い合うようにして、右手にも山脈が現れている。この方もかなり大きい山脈で、二つの山脈の間にゴビの海が拡がっているのである。まさに河西回廊である。  道は降りになり、かなり長い坂を降り切ったところに農場がある。そこを通過して、くるまは新しいゴビの中に入って行く。道は、またゆるい降りになる。右手の山脈は山塊を重ねたような異様な山容を見せ、山塊は煙草のヤニのような黒さで覆われている。  やがてくるまは、突然赤土地帯に入る。道の両側も赤い。そこを過ぎると、駱駝草地帯になる。やがて、右手路傍の低い丘に烽火台の址が置かれているのを見る。何個かの土塊が、かなりの範囲に点々と散らばっている。停車して、その一画に立ってみる。つわもの共の夢の跡であるが、いかなる感懐も湧き起って来ない。歴史も、歳月もすっかり風化して、ゴビの海の中に呑み込まれようとしている。  再びドライブ始まる。清泉人民公社を通過する。小さいオアシスに営まれているごく小さい集落である。附近に白く塩の噴き出している地帯が拡がっている。  地盤は多少波立って来、道は丘陵地帯を上ったり、降ったり、折れ曲ったりする。また蘭新線の鉄道線路が近くに見えて来る。よくしたもので、そこをいつか列車が通るということで、多少の親近感を覚える。  道はまた大きく降り、大きく曲る。ゴビのただ中に、農家が一軒建っている。人が住んでいるか、住んでいないか判らない。左手遠くには、依然として大きい山容を見せて、連山脈が置かれてあり、右手にも次々に山塊が重なって現れ、それぞれの稜線が長く続いている。  大駱駝草地帯に入る。路傍には白く塩が噴き出している。久々で道にポプラの街路樹が置かれ始める。ポプラは大きく、みごとであるが、種類が違うのか、風に揺れ靡いているところは、幾らか妖怪めいて異様である。いつか、車外は風が強くなっている。  妖怪めいたポプラの竝木に導かれるようにして、道は玉門鎮のオアシスの中に入って行く。緑地帯に入っても、異様なポプラだけが繁っており、その中にひっそりと、土屋の集落が匿されている。化物ポプラの集落である。くるまはその集落の中に入って行き、傍に古い城壁の欠片のある静かな招待所に入る。二時である。  昼食を摂り、あとはそれぞれ割り当てられた部屋に入って、休息することにする。戸外の方が気持がいいので、椅子を中庭に出して、ひなたぼっこする。同行者の誰も同じようなことをしている。  ここ玉門鎮は蘭州から敦煌までの間では一番高く、従って大体涼しいところとされ、盛夏の一番暑い時でも三十一度ぐらい。しかし、冬の寒さは厳しく、零下三十度に達することは珍しくないという。冬は降雪があるが、風が強いので、一寸以上積ることはなく、住民は石炭を焚いて暖をとる。  この玉門鎮というところは人口六〇〇〇の古い小集落。ここから七〇キロほど離れたところに玉門市というのがあるが、この方は油田のある工業都市で、人口二〇万の新興の町である。  化物ポプラの集落での休憩は、何とも言えずのんびりしていて楽しい。どこかで、ごうごうと音がしている。風の音かも知れないが、集落の中は、ポプラに守られて静かである。殊に招待所の中庭は静かだ。煙草をくわえて、椅子にもたれ、河西回廊西部の、雲ひとつない青い空を眺めている。 十四 幻の海  五月八日(前章の続き)、酒泉から安西に向う途中、玉門鎮という古い小集落でゆっくり休憩、四時十分、玉門鎮を出発する。集落の入口にある化物のような大きなポプラの竝木を脱ける。ポプラの枝も、葉も一方に靡いている。風のためにこうなったのだという。  道はすぐゴビに入る。安西まで一五〇キロ、二時間半のドライブの予定。ゴビに出ても暫くはポプラ竝木が続くが、やがてポプラは姿を消す。  五時、一望ゴビの海の中を走っている。左右共に全く山影はない。もちろん一本の木もなく、僅かに駱駝草が生えているだけである。遠くに竜巻が見えている。  玉門鎮より五〇キロの地に橋湾城という城の址がある。道から四、五百メートル入ったところに、半分砂に埋まった城壁のみ見えている。城壁を遠望している限りでは、なかなか恰好のいい城である。造られただけで使われたことのない城で、清の幻の城と言われている。これを造った人物は、これを造ることによって私腹を肥やしたとかで、死罪に問われ、城はゴビの中に放置されて、今は城壁だけになってしまっているのである。  くるまを降りて、休憩、遠くから幻の城を眺めている。無用の長物には違いないが、一つぐらいこのような城址があってもいいと思う。人が住んだこともなく、いかなる歴史も持たない城址である。  再び出発、幻の城をあとにする。ゴビは次第に沙漠化してくる。間もなく土壌は大きく波立ち始める。まるで沙漠の波濤である。見渡す限り、土と砂の波が沙漠を埋めている。ヤルダン地帯である。  沙漠のただ中に置かれてある線路を越す。線路に沿って、線路を風から守るための木柵が続いている。中国では、風の強いところを老風口と言うが、この地帯は特に安西の老風口として知られているという。沙漠を埋める土と砂の波濤は、風が永年にわたって造り上げたもので、“風蝕によって造られた硬い粘土の波立っている地帯”とでも言う他はない。ヤルダン地帯のことを、往古の西域紀行では“龍堆”とか“白龍堆”とか記している。土龍地帯とでもいう意味であろうか。これは専らロブ湖周辺の沙漠の様相を説明する時使われており、敦煌以東に、このような地帯があろうとは思われなかった。いずれにしても、このふしぎな風景は、風の制作である。  辺塞詩人、岑参《しんしん》の詩の一節に“兵を魚海に洗えば、雲、陣を迎え、馬を龍堆に秣《まぐさか》えば、月、営を照らす”(高木正一氏「唐詩選」)というのがある。一日の戦闘が終って、兵器を湖で洗っていると、兵団を迎えるように雲が湧き起り、ヤルダン地帯で馬にまぐさを与えていると、月が軍営を照している。──悽愴《せいそう》な第一線の出征部隊の情景を謳った詩である。この詩の舞台がどこか知らないが、ヤルダン地帯の荒涼さを、これほどよく生かした詩は他にないだろうと思う。  道は右手にゆるく曲ってゆく。しかし、右に曲ろうと、左に曲ろうと、たいしたことはない。沙漠のまっただ中である。老風口地帯はいったんなくなるが、やがてまた再びこの世ならぬ風景は展開し、そして消える。  六時、辺りは全くの沙漠である。陽はまだ高い。沙漠の果てに海面のようなものが、細長い帯として見えている。蜃気楼《しんきろう》である。中国では海市蜃楼とか、麦気とか言っている。工作員のGさんは“日本で言う逃げ水です”と説明してくれる。  そう言われてみると、先刻から度々、幻の遠い海面を見ている。  左手には遠い山なみが続いているが、右手には山影全くなく、ここにも幻の海が見えている。正面行手の幻の海の方は、対岸に山を持っている。山の緑が帯のように置かれている。運転手君の話では、その幻の海の対岸の緑の中に、幻でない、本ものの安西の町は匿されているという。  しかし、その緑はなかなか近寄って来ない。二十分ぐらいかかったであろうか。緑に向ってのドライブの果てに、漸く道に街路樹が現れ始める。初めは見るからに繊弱なポプラであるが、次第に逞《たくま》しくなってゆく。しかし、それも切れたり、続いたり、そうしたことの果てに、もの凄いポプラ竝木に変ってゆく。玉門鎮の集落の入口でお目にかかった、あの化物のようなポプラである。  安西の町に近い所で、道は二つにわかれる。まっすぐに行くと、新疆地区のハミ(哈密)に向う。ハミまでは三六〇キロ。左に曲ると、安西、敦煌に向う。敦煌までは一二二キロである。私たちはここで蘭新自動車道路と別れて、敦煌への道をとる。これからは安敦道路のドライブとなる。  正面遠くに緑がある。そこに安西の町が匿されている。いつか幻の海はなくなり、くるまはそのほん物の緑の中に入って行く。  やがて左手に、古い城壁の欠片が見えてくる。今の安西の町に移る前の、古い安西の町の城壁だという。古い町は水が深くて、人が住みにくくなったので、製粉工場だけを残し、それ以外は全部引越してしまった。東と北の城壁の一部はそのままになっているが、他はみな壊してしまったという。従って、町の引越しは、そう遠い昔のことではない。  その城壁から一キロのところに、今の安西の町は営まれている。先刻から続いている凄いポプラの竝木を通って、清潔な新開地といった感じの安西の町に入って行く。町の入口に招待所がある。今夜の宿泊所である。  ここも幾つかの別棟の平屋が、広い敷地内に竝んでいて、食堂も別棟になっている。便所は敷地の一番隅に設けられてあり、ひどく遠い。ここでも洗面器に入れられたお湯が運ばれて来、それで顔と手足を洗う。  夕食の時の同席者の話では、今日は午後風が強かったが、四時頃ぴたりとやんだという。丁度風の収まった頃、私たちは老風口に入ったことになる。風が強いと、あのヤルダン地帯では、くるまは走ることができないということであった。  その同じ夕食の卓で、ここに移る前の古い安西の町はいつ頃造られたものであるかを訊ねてみた。が、正確な答は得られなかった。  ──この地区が瓜州と呼ばれた時代、町がどこにあったか、それを知りたいんです。  すると、同席している一人が、  ──ここから西方一〇キロのところに、瓜州人民公社がありますが、そこは国民党時代には瓜州郷と呼ばれていたところです。そこに古い遺跡があります。遺っているのは城壁だけですが、あるいはそこかも知れませんね。明朝までに調べておきます。  と言った。私にとっては、たいへん有難いことであった。小説「敦煌」で取り扱っている十一世紀の瓜州が、今遺っていよう筈はないが、その位置だけでも、知ることができるなら知りたかった。  五月九日、六時起床。外に出ると風はつめたい。こんどの旅で経験した一番寒い朝である。九時に宿舎を出るという通知があって、瓜州人民公社の遺跡が、昔の瓜州の城址であるかどうか、はっきり判らぬが、とにかく、そこへ案内しようという。  九時出発。ポプラの通りを行く。風が強い。そのためか人一人通っていない。案内役を受持っている人が、  ──西風はさほどでもないが、東風だと一日中吹き荒れます。今日はあいにく東風ですな。  と、おっしゃる。  ──なにしろ、関外の三絶の一つにあげられている安西の風ですからね。  半ば自慢げな言い方である。  間もなく、一望のゴビの原に出る。そのゴビを脱け、ひよひよしたポプラの植っている道を行く。水のきれいな小川を渡ると、やがて小さい集落がある。瓜州人民公社である。左手に、予想していたより大きい遺跡が見えている。安西の招待所より十分か、十五分の距離である。ポプラの間から城壁が見えている。  くるまはその城壁に沿って廻ってゆく。左に折れ、また左に折れ、遺跡に突き当る。くるまを降りたところが、遺跡の内部への入口になっている。もちろん、そこだけ城壁が欠けて、自然の入口になっているのである。  堂々たる大きな遺跡である。周囲三キロ、ほぼ長方形をなしており、それをぐるりと、半壊の城壁が囲んでいる。北側の城壁の一部は上部まで残っている。内部は荒蕪地になっており、土壌が粘土なので草も生えていない。耕地にもならなければ、放牧地にもならない。ところどころ白くなっているが、その辺りはアルカリ地帯なのであろう。  その広い荒蕪地のまん中を、東西に道が一本走っている。くるまや驢馬が通る道なのであろう。遺跡の中に立つと、ごうごうと風が鳴っている。この遺跡がいかなる遺跡か、正確に知ることができなかった。瓜州城の跡であるかも知れなかったし、そうでないかも知れなかった。しかし、今の安西の何代か前の安西の町が営まれたところであるということだけは、先ず間違いないことのように思われた。  ごうごうと風の鳴っている遺跡をあとに、一路敦煌を目指す。敦煌までは一二一キロ。  安敦街道を走り統ける。ゴビの果てに幻の海が見えている。対岸まで見える。次第に、それに近付いて行くと、何となく海に近いところを走っているような感じになるから、ふしぎである。道がゆるくカーブし、幻の海を左手にして走るようになると、海沿いの低い丘でも走っている気持になる。遠い山は藍色、海は青、丘は茶色、陽は真上である。現実と幻の入り混じったいいドライブである。  前方に山脈が現れて来る。その山沿いに走る。前方の山は連《きれん》山脈の支脈であるという。一木一草のない山である。右手には山影なく、ゴビが拡がっている。  連山脈の支脈は、いつか丘の連なりになってしまう。そしてそれが消えると、新しい山の連なりが登場して来る。陽の光のためか、今日のゴビは白く見えている。緑というもののない地帯が続く。人間の生活の臭いは全くない。  白いゴビ、左手の岩山の連なり、他に何もない安敦街道である。いかんともなし難い、全く同じ風景が続く。道、ゆるく曲り、また曲る。岩山が近付いてくる。路傍に烽火台がある。  道、岩山の裾を走る。一見すると、粘土とコンクリートをこね合せたような異様な山である。安西の人たちは、この山を南魔山と呼んでいるという。なるほど、ほかに呼びようはないと思う。魔ものの山である。  右手には依然としてゴビが拡がっている。しかし、南魔山のあたりから、ゴビというより沙漠に近いものになる。久しぶりで人間に会う。駱駝に乗った老人二人が、右手の沙漠の中を東に向っている。  南魔山の丘の連なりの向うに、もう一つ同じような山の連なりが見えて来る。運転手君に訊くと、二つの山はつながっていて、同じ山であるという。南魔山が二つ重なっているのである。多少奇妙なことであるが、南魔山である以上、そのくらいのことはあって然るべきかも知れない。  沙漠のまっただ中に、烽火台が現れて来る。大きな烽火台で、その附近に、建物の基壇らしいものが散らばっている。  いずれにしても、敦煌というところはたいへんなところにあると思う。いまくるまで走っているところを、駱駝で行くとなると、やはり生命がけの行程であると言わざるを得ない。  やがて、遠くに緑の線が見えて来る。敦煌は、その緑の中に仕舞われてあるという。  右手に三危山、正面に鳴沙山が見えて来る。どちらも敦煌関係の書物には、必ず登場して来る山である。三危山は連山脈の成れの果てというか、その末端部の岩山であり、鳴沙山は、遠望している限りでは、稜線のなだらかな砂の山の連なりである。  三危山と鳴沙山が、互いにその体を近づけた、その谷間《たにあい》に、敦煌千仏洞は営まれてあるのである。その千仏洞のある地帯を遠く左手に見ながら、くるまは緑の地帯に入って行く。急に街路樹のポプラが多くなり、道の両側に耕地が拡がり始める。小麦畑(春蒔)も点々と置かれている。  くるまは農村地帯に入る。ゆたかそうな集落である。緑がふんだんに置かれ始める、大オアシスである。  町に入る。田園都市の感じである。町の中に耕地も取り入れられてあるし、畑も、あちこちにばら撒かれている。  間もなく、宿舎の招待所に入る。ここもまた広い敷地内に、幾棟かの宿舎が竝んでいる。宿舎の前の水道の水で顔を洗う。  割り当てられた部屋に入ると、ここでもまた、寝台の上に仰向けにひっくり返る。そして三十分眠ってから、持参のブランデーを嘗《な》める。漸くにして敦煌に来ることができたということで、多少の感慨がないわけではない。  別棟の会議室で、敦煌県革命委員会主任・文玉西氏から、現在の敦煌県について、その概要を話して頂く。  ──敦煌県は河西回廊の最西端。南は連山脈に囲まれている。他の言い方をすると、砂の山と、ゴビ灘に囲まれている。海抜一一〇〇メートル。  ──乾燥地。雨量は少く、二九・四ミリ。蒸発量二四〇〇ミリ。平均温度一〇・五度。  ──漢族は九万二〇〇〇余、回族は七六〇、他に少数の蒙古族、チベット族。  ──大部分が農業に従事している。連山脈の水の恩恵によって、小麦、綿が生産される。綿の生産量は五一八万斤。  ──解放前には“水が多くなった時はゴビ灘に溢れ、水が少くなると、水は油より貴くなった”という歌が唱われた。全くその通りであったが、今は一滴の水も無駄にしないようにして、水の問題を解決している。 十五 大きく盛んな町──敦煌  五月十日、昨夜は敦煌文物研究所長の常書鴻、李承仙の御夫妻が招待所まで訪ねて来られ、食卓を一緒に囲んだが、そのあと部屋に帰ると、すぐ寝台に入り、朝六時まで熟睡する。さすがに疲れていたのである。  朝食まで、招待所の庭を歩く。今日から四日間、ここに滞在するが、千仏洞通いが主な仕事になる。それにしても、敦煌に来るのは、やはり大変だったと思う。蘭州、酒泉、安西にそれぞれ一泊、別に列車で一夜を過しているので、北京を発ってから五日目に敦煌に入っている。やはり敦煌は都から遠いところだと思う。おまけに酒泉─安西─敦煌はジープの旅で、まる二日間、沙漠とゴビのドライブである。そう簡単には来られないところである。  現在、敦煌は往時のように国境の町でも、辺境の町でもない。甘粛省の西には更に、日本の四倍半の広さを持つ新疆ウイグル自治区(往古の西域)が置かれている。国境までは遙かに遠い。しかし、西域史に出て来る辺境の町という敦煌の印象は、そのまま今でも生きていると言えそうである。  朝食には棗《なつめ》の入った粟粥が出る。中国には八回来ているが、棗の入った粟粥にお目にかかったのは今度の旅が初めてである。  八時、ジープで招待所を出る。千仏洞の窟内の寒さが見当つかないので、私も妻も防寒のための帽子、スウェーター、手袋などを、ジープの中に持ち込む。  招待所を出ると、すぐ閑散とした土屋の町に入る。曇天。駱駝が荷車をひいている。人口九万というが、そういう町には見えない。さわやかな風の通るのびやかな田園都市である。町の中に畑があったり、耕地がはさまっていたりする。町の中心部でも自動車は殆ど見掛けず、自転車もさほど多くない。驢馬がひく車には荷物が載せられてあるより、人が乗っていることの方が多い。  正面に鳴沙山が見えると思っているうちに、すぐそれは右手になる。あっという間に町中を脱けて、田圃に出る。鳴沙山はこの辺りからは、山というより長い丘の連なりに見える。  その鳴沙山を右手に見ながら、田圃の中の道をまっすぐに走って行く。土色の土屋が多く、白壁の家は少い。やがて右に直角に曲って、三危山の方に延びている道に入る。敦煌千仏洞に向う道である。向きは変えたが、こんども鳴沙山は右手に見えている。道は鳴沙山を大きく廻っているのである。その右手の鳴沙山と、正面の三危山の、それぞれの尻尾が相迫っているように見えるところを目指して、くるまは進んで行く。三危山は黒く、鳴沙山は黄色。  道は二つの山の間に入って行く。いつか鳴沙山は低い砂山になっている。前方にひと握りほどのオアシスの緑が見える。濃い緑の絵具を一尺ほど、さっと掃いたようだ。  くるまはやがて、その緑の中に入って行く。左手の三危山も、右手の鳴沙山も、ごく近くなっている。右手に視線を投げると、緑の樹木を透かせて、鳴沙山の断崖に彫られている石窟群が見えている。  オアシスの中を少し走り、直角に右へ曲って千仏洞に通じている道に入る。そして大きい乾河(大泉河)に架かっている橋を渡ると、そこに莫高窟《ばくこうくつ》と書いた額が掲げられてある門がある。それをくぐると、敦煌文物研究所賓館前の広場である。ここでくるまから降りる。その広場から、正面の砂山の断崖に掘られている石窟を、指呼の間に望むことができる。  右手の研究所賓館に入り、当てがわれた部屋に荷物を置き、身支度して、広い応接室に行く。常書鴻御夫妻の姿が見えている。  一休みして、常書鴻氏の案内で千仏洞に向う。 「正しくは敦煌莫高窟千仏洞と呼ぶべきでしょうか。莫高窟の“莫”は、もとは“漠”でした。沙漠の高いところという意味なのでしょう。現在ここは“敦煌県莫高窟”、唐時代には“敦煌県漠高郷”となっています」  常書鴻氏はおっしゃる。 「現在、ここには研究所員と、その家族一〇〇人が住んでいます。そこらに畑がありますが、研究所の家族の者が作っているもので、ここには農家はありません」 「一〇〇人の集落なんですね」  私が言うと、 「そうです。今は賑やかです。私が初めてここに来た時は、──一九四三年のことですが、道士一人、ラマ僧二人、それに私と、全部で四人でした。もちろん電気も水道もなかった」  氏は言って、笑った。きれいな笑いである。その当時の話を聞きたいが、あとのことにする。  千仏洞の前の通りには、大きい白楊の木がたくさん植っている。白楊の大樹である。それ以外に附近にはポプラ、楡、楊などの大木もあり、胡桃《くるみ》の木もある。また林檎畑、葡萄畑などもある。白楊の葉は、白樺の葉に似ていて、葉裏が美しい。大風が吹くと、枝葉がぶつかり合って、大きい音がする。鬼が手を叩く音も、かくあろうかと思われるということで、白楊は鬼搏掌という別名を持っているそうである。  常書鴻氏の案内で二六三窟を皮切りに、二五七、二五九、二五四、二四八、二四九、二八五、二八八、二九〇、四二八の十窟を見せて頂き、研究所賓館で昼食、部屋に戻って二時半まで休憩。  千仏洞見物はなかなか楽しい。常書鴻氏の案内で石窟に入ったり、石窟から出たり、一窟から一窟へと移って行く気持は爽やかで、のびやかである。贅沢なものがいっぱい詰まっている窟から、また別の贅沢なものが詰まっている窟に移ってゆく。楽しい作業である。石窟から歩廊に出ると、陽が当っており、風が渡り、遠くに見えている三危山の眺望も倦きない。  カメラを撮るのが面倒臭くなる。よほどのものにぶつからぬ限り、カメラは構えないことにする。何となく経廻っている方が楽しい。それにメモだけはとらなければならない。  休憩の時間に、千仏洞のある一画を散歩する。ここから一五キロの地点に大泉という泉があり、その水が流れて来て、ここのオアシスを造っているという。特に千仏洞のある一画はいい。千仏洞が造られたのは、ここがのどかで、いい所であるからであろう。白楊などの樹木の他に、散歩している足許には薬草もたくさん生えている。タマリスク(紅柳)の赤い花、馬蘭《ばらん》の小さい紫の花、その他甘草《かんぞう》、苦豆子、々《ちいちい》草などが、足許の叢《くさむら》を作っている。  午後は、やはり常書鴻氏の案内で、四四五、四四四、三三一、四二七、四二四、四二〇、四一九、四〇九、三九〇の九窟を参観する。  千仏洞は、どの窟も、正面奥の須弥壇《しゆみだん》の上に塑像《そぞう》が竝び、四囲の壁面は壁画で埋められている。中には龕《がん》が造られ、そこに塑像が収められたり、須弥壇が中央に置かれてある場合もあるが、ごく稀である。  塑像の方は大体正面に置かれてあるので、入口からの光線に頼ることもできるし、懐中電燈によっても、比較的簡単にその像を捉えることができるが、壁画の方はそうは行かない。壁面という壁面は、ライトなしでは、そこに何が描かれてあるか判らない。従って常書鴻氏が懐中電燈の光を当てて、説明して下さるところを覗き込んだり、カメラに収めたりする以外仕方ない。  五時半に参観を打ち切って、千仏洞の下の道を歩く。道に木の影が映っていて美しい。落日近い陽は千仏洞の上にある。間もなく陽はかげるだろう。静かな、贅沢な、いい疲れと歩行である。  敦煌の町に帰り、招待所に入る。ここもまた洗面器いっぱいのお湯が運ばれてくる。水が貴重なのである。顔を洗い、手足を洗う。宿舎の前に水道があるが、時間給水で、いつでも水が出るとは限らない。蘭州に帰るまでは、バスとも、シャワーとも無縁な生活である。  夕食後、昼間のメモの整理をし、あとはマオタイを飲みながら、窓外の暗い闇に視線を投げている。妻が、敦煌に来て、敦煌の土を踏み、千仏洞に行って、石窟に入り、塑像の仏さまと壁画の前に立ったのだから、さぞ満足でしょうと言う。確かに満足であるに違いない。いま、確かに自分は敦煌に居ると、そういう思いを確かめてみる。  漢の武帝が河西四郡(武威、張掖、酒泉、敦煌)を設けたのは、紀元前一一一年のことである。敦煌という名が史上に出るのは、この時が初めてだ。それ以前の河西の地、つまりこんど私が列車とジープで通過して来た河西回廊一帯の地は、漠族の他に大月氏《だいげつし》、小月氏《しようげつし》、羌《きよう》族、匈奴なぞが入り混じって住んでいた地帯であったが、次第に匈奴が強勢になり、他の少数民族を追って、この地帯を制圧し、漢の王朝に対する一大敵対勢力になっていた。  この河西の地の情勢を一変させたのは漢の武帝である。武帝は衛青、霍去病《かくきよへい》の名将をして匈奴を討たしめ、それを遠く西北方に奔らせるや、この地帯を漢の勢力下に置いたのである。そして西域経営と対匈奴作戦の前線基地として、河西四郡を設けた。河西四郡の中では、敦煌が一番西端に位置しているので、文字通りの最前線基地なのである。  敦煌という名は立派である。敦は“大きい”、煌は“盛ん”という意味で、敦煌は大きく盛んな町ということになる。匈奴の根拠地であった集落が、もともとこのような立派な名前を持っていよう筈はない。武帝はここを最前線基地とするに当って、その名を卜《ぼく》して、大きく盛んな町・敦煌と名付けたのであろう。  二千年前の敦煌は純然たる軍事基地であった。大兵団が駐留し、そのために新たに商店も立ち竝んで、殷賑《いんしん》を極めたことであろう。西北の沙漠の中に玉門関、陽関という国境の関門が造られたのもこの時期で、国境線は敦煌から西方、八、九十キロの地点に引かれ、それに烽燧台《ほうすいだい》が五キロ、一〇キロの間隔で竝んで、一旦緩急の時のために備えられた。  が、時が移って、漢の西域経営が進み、西域に都護府が置かれるようになると、敦煌は軍事基地である許りでなく、東西交渉の基地として新たな性格を帯びて来る。東に、あるいは西に向う旅行者はみなここを通過し、町には店舗と旅宿が軒を竝べ、バザールも賑わい、駱駝のパーク場もあちこちに設けられていたことであろう。あらゆる西方の文化が、ここから入っている。仏教も例外ではない。  この漢代の大きく盛んな町・敦煌は、その後決して平穏な道を歩いたわけではなかった。変転する歴史の波は容赦《ようしや》なく覆いかぶさり、この地から漢の勢力は追われ、漢時代の敦煌の町は地上から姿を消している。五世紀の西涼と北涼との合戦の時、敦煌の町は完全に破壊され、廃墟となり、やがて地下に埋まったと推定されている。  が、時代が下ると、再び新しい敦煌は生れている。北魏、西魏、北周、隋、唐と、時代は変って行くが、唐代には漢代に劣らぬ大きく盛んな町・敦煌が殷盛を極めている。もはや単なる軍事基地ではない。東西文化交流の、あるいは東西貿易の一大中継地として繁栄している。おそらく敦煌の最全盛時代であり、朝、昼、夜と、一日に三回市が立ったのも、この頃のことであろう。  それからまたこの時期に、敦煌は新たに仏教都市としての性格を併せ持つようになる。敦煌の郊外の沙漠の中に初めて石窟が掘られたのは四世紀の中頃のこととされているが、時代が下って唐代になると、莫高窟は有名になっている。石窟の開鑿《かいさく》も最も盛んな時期を迎え、参拝者、巡礼者はあとを絶たなかった筈である。町には寺院も多く、この地に留まる僧侶も多かったであろう。仏師も、画師も多く、そしてその工房も、町のあちこちに設けられていたことであろう。  しかし、この唐代を中心とする大きく盛んな町・敦煌もまた、その後変転する歴史の波をかぶり、この地帯の支配者も、吐蕃、漢の地方豪族、西夏、元、明、清と変わって行く。そしていつかこの敦煌の町は消え、土に埋まり、清代、一八世紀初めに、こんど私たちの入った今日の敦煌の町は造られている。いつ、いかなる理由で、それまでの長い歴史を持った敦煌は棄てられ、新しい今の敦煌が造られたのであろうか。  今の敦煌はもはや大きく盛んな町とは言えない。軍事都市でも、貿易の中継地でも、宗教都市でもない。と言って、辺境の町でもない。爽やかな風の通る、沙漠に囲まれたのびやかな田園都市である。  すべてが変った中で、ただ一つ変らないものがあるとすれば、それは莫高窟千仏洞であろうか。史書によれば、盛時は一千の石窟を算えたというが、常書鴻氏の話では、現在は四百九十二窟が整理されているという。まだたくさんの石窟が砂の中に埋まっているのかも知れない。そういう変化はあるが、莫高窟は美術の宝庫として今や世界的に有名である。整理された石窟の中に収められている塑像は三千点、全壁画を横に竝べると、四五キロに及ぶという。いずれも、四世紀から十四世紀まで、約一千年に亘って開鑿されたもので、自然の乾燥度がこれを守って、今日に到っているのである。  マオタイを飲みながら、視線を投げている窓外の闇は深いが、いくら深くても、不思議はない思いである。往古の敦煌の町はなくなり、曾てこの地区に住んでいた多くの民族も、今は影も形もなくなっている。匈奴、羌族、ウイグル、鮮卑《せんぴ》、モンゴル、西夏、みなその時期、時期の歴史の波と共に、すっかり姿を消してしまっている。歴史というもの、歳月というものは怖ろしい力を持っているものだと思う。  五月十一日、七時起床。食堂で、同行の孫平化氏に、漢代、唐代の二つの敦煌の址に立たせて貰うことと、それから若し出来るなら、玉門関、陽関の址に立たせて貰いたいということを申し出る。できるだけご希望にそうように取りはからってみましょうと、氏は言われる。 「でも、そうなると、そのために一日をさかなければならない。千仏洞の参観が、一日少なくなりますね」  と、氏は、おっしゃる。 「千仏洞の方は千仏洞の方で、これから三日で廻るところを二日で廻ってしまいましょう」  私が言うと、 「超スピードになりますね。歩廊から落ちないようにしないと」と、氏。 「大丈夫です。あれだけの仏さまが、みな守って下さるでしょう」と、私。  玉門関、陽関行きの希望が容れられるかどうか判らないが、容れられるものとして、千仏洞の方は、今日一日で、二十窟から三十窟ほど見せて貰おうと思う。しかし、これもそれが、可能であるかどうか、判らない。  八時半、招待所を出発。快晴。きのうと同じように、千仏洞まで二五キロ、三十分の気持よいドライブである。  今日もまた、常書鴻氏に案内して頂く。  二九六、三〇二、三〇五、三一九、三二〇、三二一、三二二、三二三、三二八、三二九、三三二、三三五、十二、九、三、四五、四八一の十七窟で、昼食の休憩。  午後は、十六、十七、五七、六一、七九、八五、九六、九八、二二〇、二一七、一〇三、一九四、一九六の十三窟。  今日は全部で三十窟を見たことになる。カメラは妻に任せ、専らメモに専念する。五時に莫高窟を出、賓館の応接室で、常書鴻氏が入れて下さるコーヒーを戴く。さすがに疲れているので、東京以来初めてのむコーヒーの味が胃の腑にしみ渡って行く。 「今日は石窟から石窟への強行軍でしたから、他のものは何も眼に入らなかったでしょう」  と、常書鴻氏。 「それでも、千仏洞の歩廊の砂の上に小さい虫がたくさん居るのを見ましたよ」  と、私が言うと、 「ああ、あの小さい黒い虫ですか、あれは水がなくても生きられる虫で、ゴビ灘の虫です。難しい名ですが──」  と言って、ノートに“屎爬牛”と書いて下さる。意味はわからないが、小さい体に似合わない大きな名前である。  賓館を辞して賓館前の広場に出る。今日一日大活躍した石窟が掘り込まれてある鳴沙山の断崖の方に眼を向ける。石窟の上部はすっかり砂で覆われている。 「あの千仏洞の上の砂は全部吹き上げられたものです。二月頃は、あの砂が滝のように落ちて来ます」  誰かが説明してくれる。さもあろうと思う。細かい粒子の、メリケン粉のような砂が、千仏洞の前の道を埋めている。石窟前の歩廊にも、その砂が敷かれている。 「毎年、四月八日には千仏洞前の水路の走っている疎林のところに、大勢の人が集って、歌を歌ったり、胡弓を弾いたりして大騒ぎです。屋台の店もたくさん出ます」  こんどは常書鴻氏がおっしゃる。お釈迦さんの日に市が立つのである。おそらく昔から続いて、今日に到っているのであろう。その日のことを想像すると、莫高窟は多少異ったものとして、眼に浮かんで来る。世界的な美術の宝庫とは別に、生きた信仰の場として、全く別の息づき方をしている。  六時に莫高窟を出発、帰途に就く。常書鴻氏も同車される。行手に海を見る。波しぶきも見える。もちろん蜃気楼の海である。海に突き刺さるように、どこまでも真直ぐに、くるまは走って行く。海は近づいて来る。波立ち、騒いでいるのが見える。と、一瞬、それはオアシスの緑に変る。ポプラに、畑に変る。  オアシス直前で左に曲る。駱駝二頭の荷車、驢馬四頭の、驢馬三頭の荷車が動いている。主なき驢馬も車をひいている。  落日近い陽は、前面右手の耕地の上にある。左手の鳴沙山は、陽の当っている面と、陽の当らぬ面と、すっかり色彩を変えている。薄墨色と、淡い黄色のだんだらの砂の山である。  ドライブ三十分、敦煌の町に入る。  夜、孫平化氏来室。明日一日を、玉門関行きにさくという。陽関は無理であるが、玉門関一つなら行けるという。すぐには言葉は出ない。急に辺りが明るくふくらんで来る思いである。 十六 玉門関址に立つ  五月十二日、今日は玉門関址へ行く日である。敦煌千仏洞参観を一日さいての玉門関行きである。一昨夜、同行の孫平化氏に、玉門関、陽関行きの希望をのべておいたが、それが容れられて、今日の玉門関行きとなったのである。玉門関、陽関二つとなると、一日の行程では無理であるが、どちらか一つなら行けるということだったので、玉門関の方を選んだのである。  玉門関、陽関は漢代西域史には必ず登場して来る派手な歴史的舞台である。共に敦煌より更に西に置かれた前線拠点で、西域に通ずる重要な関門である。玉門関は西域北道の、陽関は西域南道の、それぞれの起点をなしていた。時代が下って唐代になると、玉門関はずっと後退して、敦煌より東に移っているが、これは軍事的要請によるものか、そうでなければ新しい西域への道が開かれたためであろう。陽関の方は、唐代に於ては東西貿易の玄関口の役割をひと手に引き受けて、寧ろ殷盛を招いている。  八時、敦煌招待所を出て、敦煌西北八五キロの玉門関址に向う。ジープ六台、中国側は文玉西氏(敦煌県革命委員会主任)を初めとする二一名、蘭州から付添って下さっている女医の田兆英女史も、敦煌文物研究所長の常書鴻氏も、この行に参加して下さる。日本側は清水正夫氏、私、一行六名。  快晴。一片の雲もない。莫高窟への道を、莫高窟とは反対の方へ向う。朝の町は人通りが少いので、それでなくても爽やかな田園都市が、一層清潔な感じを持つ。町をぬけると、両側に耕地が拡がってくる。何とも言えずしっとりしたいい農村地帯である。  舗装道路を直角に曲って、集落に入って行く。また左へ、道悪くなる。やがて集落をぬけ、埃りの多いゴビ(戈壁)に入って行く。初めは砂利道であったが、いつか道はなくなり、ジープは轍の跡を辿って行く。くるまの動揺烈しくなり、これで八五キロは大変だと思う。  ゴビの海の中で演習している兵隊たちの姿が見える。低い丘が点々としている地帯、それをぬけると、見晴かす砂の海になる。山影全くなく、地盤は軽く波立って来る。  私のジープには、孫平化氏と常書鴻氏が同乗して下さっているが、常書鴻氏は七十五歳、しかも風邪気味らしいので、これから長く続く荒いドライブが気になる。  八時三十分、烽火台の欠片が二つ、三つ、ゴビの中に置かれている。小さい石のほか、一木一草のない地帯である。そこを轍の跡を固めたような道が走っている。やはり道と言っていいものであろうが、土質のためか、凹凸のある路面が白くなっている。その白い道が絶えずゆるく折れ曲っている。いつか四辺は本格的なゴビになっており、草一つ生えていない。その中に白い一本の帯がゆるく折れ曲りながら置かれてあり、ジープはその上を走っている。白い道の先きの方に眼を当てると、川のように、光って見えている。  運転手君が、午後になると蜃気楼と竜巻が出るだろうと言う。蜃気楼が出ようと、竜巻が出ようと、いささかも不思議のない地帯である。東西南北、何もなく、漠地の拡がりばかりである。“空に一飛鳥なく、地に一走獣なし”とか、“人骨を以て行路の標識とするのみ”とかいう中国の古い紀行に見る表現も、そう大袈裟には感じられない。確かにその通りであろう。山も、川も、村もなく、空の雲さえもない。人間のにおいというものは全くない。どこに置かれても、死しかなさそうだ。  常書鴻氏は、敦煌に来て三十五年になるが、玉門関に行くのは六回目だとおっしゃる。ジープで行くのは、こんどが初めてで、前の五回はいつも駱駝で、まる一日かかった。夜は北斗七星で方向を見た。一九四三年の時は、五時頃、落日前に月を見た。──そんなことを話して下さる。 「このゴビは名前がついていますか」  私が訊くと、 「別に名前はついていませんが、中国では、こうした地帯を戈壁《かへき》とか、瀚海《かんかい》と呼んでいます」  とおっしゃる。どちらも、ゴビ地帯の中国的表現で、なかなか感じが出ていると思う。運転手君は三回目の玉門関行きだそうである。  九時二十分、多少地盤が波立って来て、四辺には小さい丘が点々とするが、やがてまた大草原となり、左方遠くに低い山脈が見え始める。  が、暫くすると、突然また地盤が荒れ始め、あちこちに小砂丘が現れ、そこらに麻黄(薬草)、枯れた芦などが散らばり始める。々草《ちいちいそう》もある。  そうした地帯の一画、芦草井子というところで停車、休憩、九時三十分である。“井子”というのは井戸のこと。実際にこの附近に井戸があり、昔から旅行者の休憩場所になっているところだという。芦の生えている地帯で、井戸があるのであれば、なるほど芦草井子と呼ぶしかなさそうである。  九時五十分出発。先導車の砂塵もうもうとあがり、それに五台のジープが続いて行く。暫くすると、到るところに土のまるい固まりが置かれた奇妙な地帯に入る。その土の固まりには、どれも草が生えている。団子草地帯とでも呼ぶしかなさそうである。  運転手君の説明によると、土の固まりに草が生えたのではなく、草の生えているところに、風に飛ばされて来た砂が溜って、土の固まりを作ったのだという。  休憩後はずっと、この大小の団子草がばら撤かれている地帯を行く。異様な風景である。地盤は荒れていて、くるまの動揺は烈しく、うっかりすると、カメラが高く跳び上がる。  前方一面に、低い山脈がどこまでも長く続いて置かれている。 「山脈ではないかも知れない」  孫平化氏がおっしゃる。なるほど山脈ではないかも知れない。時には海にも見える。正体を見極めようと、山とも、海とも見えるものを見据えている。山には山らしいが、ひどく低い山の連なりである。  やがて、前方遙か遠くに、目指す玉門関址の建物が見えてくる。マッチ箱でも置かれてあるように、それ一つが平原の上に四角な姿を見せている。  依然として団子草地帯のドライブは続いており、砂塵はもうもう、なかなか関址には近寄らぬ。そのうちに道は遠い関址を大きく廻って行く。依然として前方には低い低い丘の連なりが見えている。  漸くのことで関址に近付き、その前でジープから降りる。四辺はゴビというより沙漠である。  誰もすぐには関址には入らないで、そこらに腰を降ろす。荒いドライブで、体中が痛くなっているのである。  腰を降ろしたまま、少し離れたところにある関址を見上げる。大きな土の箱である。いかなる建物であったか、これだけでは見当がつかない。  一休みしてから、その大きな土の箱に近付いて行く。もちろん上層部が壊れているので天井はなく、西と北の壁に入口が設けられている。壁は煉瓦と粘土で固められてあり、基底部で四メートルほどの厚さがある。頑丈な壁である。もとはどのくらいの高さであるか判らないが、現在遺っている壁の高さでも、充分一〇メートルはあるだろうと思われる。あるいはもっと高いかも知れぬ。  関址、つまり四角な土の箱の中に入ってみる。西の入口から入る。方形の内部の一辺の長さは一五メートルぐらいあろうか。つまり現在の関址は、一五メートル四方の方形の土の箱として遺されている。東南隅には階段の跡が遺っている。  この沙漠の中の廃墟は、初めから玉門関址と見做されていたわけではない。清代には小方盤城と呼ばれていたが、一九〇七年に、スタインによって漢代の玉門関址であるという推定がなされた。スタインはこの附近一帯から漢代の玉門関関係のたくさんの木簡類を発見している。今日の中国史学界もまた、ここを漢代玉門関址と見做している。  この関址から東方一五キロの地点に、清代に大方盤城と呼ばれていた遺址がある。一時期、この大方盤城の方が玉門関址と見做されたことがあったが、現在はその見方は改められている。小方盤城は前衛、大方盤城は後衛、前者は玉門関、後者はその軍の屯営、それぞれ異った役割を持っていた土の建物だったのである。  玉門関の廃墟の外に立ってみると、関址を取り巻いているのは一望の砂の海である。西方五キロの地点に烽火台の遺址が小さく見えている。  ゆっくりと巨大な土の箱を廻ってみる。ひと口に玉門関址と言っても、ここが国境警備軍の司令部があったところか、あるいは異域の旅行に関するすべてを管理していた役所であったか、そういうことになると、ちょっと見当はつかない。  玉門関址に立って、漢代における盛時を想像することは難しい。ここから東方五キロの大方盤城あたりまでの地帯には、たくさんの守備隊も駐屯していたことであろうし、玉門関址附近には、西に、東に、ここを通過して行く旅行者たちのための旅宿も建ち竝び、商舗も軒を竝べていたかも知れない。  この玉門関址は、烽火台(烽台)、烽燧台(燧台)が五キロ間隔で点々と竝んでいた往時の国境線から少し内部に入っている。そうなると、旅行者たちはどこで国境線を越え、そしていかにして、この玉門関に導かれて来たのであろうか。そしてまた、ここを出て、どのようにして敦煌に向ったのであろうか。そういうことになると、全く見当はつかない。  まあ、折角、玉門関まで辿り着いたのであるから、ゆっくりさせて貰おう、そんな気特になって、砂の上に腰を降ろす。「玉関、西望すれば腸《はらわた》断つに堪えたり。況んやまた明朝はこれ歳除なるをや」という岑参の詩の一節を思い出す。玉関というのは玉門関のこと、歳除は大晦日。岑参は唐の詩人で、実際にこの地帯に従軍し、この玉門関に登って、明日は大晦日だという感懐を、一篇の詩に詠《うた》っているのである。まさに断腸の思いであったろうと思う。  孫平化氏が近寄って来る。時計を見ると、まだ正午になっていない。 「まだ早いですね」と、私。 「これから向うに見えてる烽台のところに行って、ゆっくりと昼食をとりましょう」と、孫平化氏。 「それにしても、暮れるまでには時間がたくさんありますね。玉門関だけでは、陽関が可哀そうです」 すると、孫平化氏は驚いたような顔をなさったが、 「このジープ隊の隊長でもあり、責任者である文玉西先生にでも伺いを立ててみますか」  そう笑いながらおっしゃる。 「結構ですね」と私。  孫平化氏は立ち上がって行かれたが、暫くして帰って来ると、 「陽関まではたいへんな道らしいですね。運転手君に一人、ここから陽関に行ったのが居るそうです。──まあ、隊長がいかなる決断を下すか、結論は昼食後に発表するそうです」 「もう、行くことに決まったのではないですか」 「いや、そういうわけには行きませんよ」  孫平化氏はおっしゃる。真顔なので、陽関行きは本当にまだ決まっていないのであろう。  西方五キロの烽台に向う。近付いてみると、これも大きな烽台址で、南にも、北にも、往古の国境線が長くどこまでも延びている。万里の長城の小型のようなものが、国境線として敷かれていたのであろうが、現在ははっきりとそうしたものの跡と見えるところもあれば、すっかり壊れてしまって、小さい土堤としか見られないところもある。遠く東方の国境線上に配されている烽台址が二つか三つ見えている。  まず関外、西の方に眼を当てる。国境線の近くには小丘が波立っており、その向うに沙漠の草が点々とばら撒かれた原が拡がっている。そしてその地帯に一線を劃するように断層が南北に走り、その向うは平坦なゴビ地帯が拡がり、そしてその果てに低い丘の連なりが望まれる。  次に反対の国境線の内部を振り返ってみる。こちらも大体同じように、沙漠の草が一面にばら撒かれている地帯と、平坦なゴビ地帯の二つに分れているが、こちらには全く山影というものは見られない。  国境線の内外共に見られる草の生えているところは、先刻通過して来た団子草地帯と同じようなところではないかと思われる。麻黄、枯芦、駱駝草、そうしたものが生えているのであろう。いずれにせよ荒涼たる風景である。  烽台は上部がすっかり崩れて、基壇だけになっているが、それでもかなり大きいものである。太陽は真上にあり、蔭になっているところを探すのは無理であるが、どうにか少し陰影のできているところを見付けて、そこに昼食の席をつくる。五、六人しか入れないので、他の人たちは炎天下に立ったり、坐ったり。酒泉からついて来てくれているコックさんたちが、ゆうべ徹夜で作ったというお弁当、それに常書鴻氏持参の葡萄酒とお菓子、──信じられないような玉門関址訪問の祝宴が開かれる。  同行の清水さんが持って来られたお茶で、妻がお薄を点《た》てる。烽台の根もとに於ての野点《のだて》である。  昼食が終った頃、文玉西氏がやって来られ、 「これから玉門関址に帰り、一時二十分に、陽関に向けて出発!」  と、大きな声でおっしゃる。孫平化氏が笑顔で、私に、 「おめでとう」 「すみませんでしたね」  心からお礼を述べると、 「僕だって行きたいんですよ。でも難行軍らしいですな」  と、氏は笑っておっしゃる。この陽関行きは敦煌帰省が夜の八時過ぎになるという文字通りの難行軍になったのであるが、この時はまだ誰もそうしたことは予想していなかった。  玉門関址に戻り、運転手さんたちがジープの整備に当っている間、関址の附近をぶらつく。いつか白い雲が関址の肩の上に浮かんでいる。美しい。三十二度。  後漢の将軍で、西域都護の班超が半生を流沙の中で送り、晩年上書して、  ──沙漠に命を延ぶるを得て、今に至って三十余年、骨肉生離して復た相識らず、ともに相随う所の人みなすでに物故せり。超最もながらえて今七十に到らんとし、衰老病を蒙りて、頭髪黒きなし。  そして、こうした帰国嘆願の上書文の中に、次のような言葉をはめ込んでいる。  ──臣敢て酒泉郡に到るを望まず、願わくば、生きながらにして玉門関に入らんことを。  この玉門関が、いま白雲の一片を肩の上に浮かべている玉門関である。私は「異域の人」という小説で班超を書いているので、班超のことを思うと、多少の感慨なきを得なかった。私が数日前に一夜を送ったあの酒泉まで帰して貰うなどということは望まない。せめて玉門関の中に入りたいというのである。煙草をのみながらぶらぶらしていると、二千年前の漢の武将に申し訳ない気持になってくる。  この「異域の人」以外に、私は何回か、この玉門関を使わせて貰っている。その一つ、「西域物語」というのに、漢の武将、貳師将軍李広利を取り扱っている。李広利は天山の向うの大宛(ソ連ウズベク共和国のフェルガナ盆地)に遠征し、汗血馬という名馬を持って来たことで史上に名を留めているが、成功したのは二回目の時で、最初の時は失敗している。最初の時は数万の兵団を率いての遠征であったが、二年の後に玉門関に帰着した時は、兵の数は数千に減っていた。  李広利は玉門関に於て、敗戦を奏し、再挙の許可を願った。すると何十日かして都から使者が派せられて来て、生き残りの李広利の兵団を一人残らず関外に追出し、関を守備兵で固め、そしてその上で使者は叫んだ。  ──軍、敢て入る者あらば、すなわちこれを斬らん。  一歩でも入ってみろ、みんな斬ってしまうぞ、というわけである。李広利は仕方ないので一年後に再挙を期するまで、関外に留まっていなければならなかったのである。関外と言っても、どの辺りに居たのであろうか。昼食をとった烽台の辺りから見た西方のあの漠地のどこかにテントでも張っていたのかも知れない。  それにしても、その頃のここ玉門関址附近は、どのようなところになっていたのであろうか。駐留軍隊のための、かなり賑やかな町が営まれていたのではなかったか。  しかし、国境線の外から異民族の侵入があると、ぴたりと玉門関は閉ざされ、とたんに町は死の静けさを持つ。国境線上に配されている烽台、燧台には火が入れられる。昼は燧台で狼煙《のろし》が焚かれ、夜は烽台に赤々と火が入れられる。そして、急は後方の軍事基地・敦煌に伝えられて行く。このゴビと沙漠の入り混じっている夜の大原野は、ぐるりと烽台の火で囲まれる。関外からは異民族の打ち鳴らす青銅製の大兵鼓の音が聞えている。一旦緩急の夜の玉門関地帯を眼に浮かべると、なかなか美しい。戦争というものは、この二千年前あたりで、この地球上からなくすべきであったのである。  いずれにしても、この玉門関は時に開かれ、時に閉じられている。開かれていれば賑わい、閉じられれば寂《さ》びれた集落は、この大平原の中に幾つかあったであろう。そしてそこに生きていた人々もあったのである。  往古のことは往古のこととして、今は玉門関址附近は一望の砂の拡がりである。しかし、全くの無人地帯であるかというと、そうでもない。少くとも一人、この関址の近くに住んでいる。関址からそう遠くない所に硝石を採りに来ている人が住んでいる家があるという。ある期間、交替ででも来ているのであろうが、それにしても、夜はさぞ淋しいことであろうと思う。その家の裏に小さい池があり、そこに鴨が降りるという。孫平化氏は、そこへ行って鴨を貰って来、それをジープに積み込む。 十七 陽関への道  五月十二日(前章の続き)、一時二十分、玉門関址をあとに、陽関に向って出発する。陽関までは六二キロ。殆ど道らしい道はないので、ゴビと沙漠のドライブになるという。一人だけ玉門関から陽関に行った経験を持っている運転手君がおり、その運転手君のジープが先頭に立ち、五台のジープがそれに続く。  玉門関に向う時通った道を、先刻休憩した芦草井子まで引き返す。芦草井子までの一八キロは、殆ど大小の団子草が散らばっている地帯である。ひどいところは団子草が密集し、それが見晴かす大平原全部を埋めている。先きに記したように、団子草というのは一見土塊に草が生えているように見えるが、正確な言い方をすると、草の根もとに風が運んできた砂が溜って土塊を形成したのである。土塊といっても、草が密集している地帯では、幾つかの土塊が集って丘を造っている。たくさんの草を、その上に載せた丘である。団子草というのは、私が便宜上そういう称《よ》び方をしたまでのことで、正確な称び方は知らない。運転手君の話によると、この地帯の団子草は秧刺《たおうし》、麻黄、駱駝刺(駱駝草)の三種であるという。々草《ちいちいそう》も当然土塊の上に載りそうであるが、どういうものか、この地帯には々草はないという。  団子草地帯が切れるとゴビになり、そのゴビのただ中にタマリスク(紅柳)の株が一つあって、それが目立っている。その他に点々と青い葉の木が置かれている。常書鴻氏が“胡楊”と書いて下さる。この地帯の木は、なべて“胡”をつけるべきであるかも知れない。同じ楊にしても、沙漠の楊として、生態の上に多少異った性格を持っているに違いない。  ゴビの次は枯れた芦の地帯が拡がって来る。一望の枯芦地帯は見事である。詩人の小野十三郎氏の作品で“死はまさにかくあるべきだ”という言葉が使われてあったのを記憶しているが、その言葉をそっくり借りたいようなものである。みごとな芦の死の地帯である。これも運転手君の説明では、枯れた芦は昨年のもので、今年のはまだ芽生えたばかりだという。  芦草井子で休憩。ここは三叉路になっており、真直ぐに行くと敦煌へ、右手の道をとると陽関へ通ずる。  休憩が終ると、六台のジープは陽関路に入る。この三叉路から陽関までは四五キロ。ここからは三年前に一度行ったことがあるという先導車の運転手君一人が頼りである。  くるまは暫く一望のゴビの海を走り続ける。山影全くなく、もちろん団子草一つない地帯である。  が、やがて再び大団子草地帯に入る。こんどは枯れた芦の団子草ばかりである。芦の場合は株が大きいので、土塊というより丘と言った方がいい。点々と丘が配され、その丘という丘の上には枯れた芦が載っている。  そのうちに、こんどは本当の小砂丘が現れてくる。三十二度。白い雲が薄絹を掃いたように置かれていて、美しい。遠くに水域が見える。蜃気楼の湖である。常書鴻氏は私のノートに“海市蜃楼”と書いて下さる。なかなかいい言葉である。この地方のお百姓たちは“麦気”と言っているらしいが、これはこれで感じがある。日本では蜃気楼とか、“逃げ水”とか言うが、“逃げ水”も、これはこれで直截でいい。いくら近付いて行っても、次々に遠くに逃げて行ってしまうので、まさに逃げ水以外の何ものでもない。  その前方の幻の水域を見守ってのドライブが続く。湖の中に島まで見えている。やがてくるまは、その遠い水域を左手に見るようにして、大きく曲って行く。宛《さなが》ら大きな海辺の砂浜をドライブしている感じである。やがて前方遠くに敦煌市経営の林場の緑が、小さく短い緑の線となって見えて来る。敦煌市が沙漠のただ中に造った植林場である。  しかし、長い時間をかけても、なかなかそれに近付かぬ。漸くにしてその緑の線に近付いたと思うと、くるまは方向を変え、その緑の線は左手に廻り、やがて背後遠くになって行く。  この頃から六台のジープは、それぞれ轍の跡の道を離れて、広いゴビの中を勝手に走り始める。軍事演習でもしているかのようである。そしてそれぞれ思い思いのところに停車してはエンジンをひやす。  これからこうしたことが度々行われる。くるまは南湖農場を目指しているという。どのくらいのドライブが続いたであろうか。三時四十五分、漸く南湖農場の手前まで行ったが、用水路にひっかかり、先頭車の車体が半分水路に落ちて上がらなくなる。綱をつけて、他のジープがその綱を引張って、車体を前方に上げる。県長の文玉西氏が大声で叫んだので、何と叫んだか通訳氏に訊いてみると、前進と叫んだという。若い日にゲリラ隊の隊長であったというが、その面目躍如たるものがある。芦草井子から陽関路を選ばせたのも、この県長さんである。  漸く南湖人民公社の農場のオアシス地帯に入る。青い麦畑が眼にしみる。細かい砂の道ではあるが、両側にポプラも植っている。義理にも大きいポプラとは言えないが、昨年から造り出した農場であるというから、このポプラも苦心の末の獲得品なのであろう。  三度目に用水路を越す。かなり深い水路であるが、運転手君たち、大分うまくなっている。乗っている者を降ろし、からの車体にして、もの凄い勢で用水路を飛びこえる。  南湖人民公社の農場に入り、ジープの水を貰う。農場の人たちが手伝ってくれる。再び農場のオアシスを離れ、ゴビ灘に入って行く。ゴビに入ると、また、くるまは各自勝手に広いゴビの中に散開する。砂に埋まらないためには、ある速度を保たねばならず、ある速度を保つには、そのような走り方をしなければならないのだそうだ。  そのうちに全く方角判らなくなる。道のないゴビの中をあっちに行ったり、こっちに行ったりする。  常書鴻氏が私のノートに書いて下さる。  ──走的陽関道    我走我的独木橋  君が陽関道を行くなら、俺はむしろ丸太の一本橋の道を選ばせて貰うよ。──こういった意味であろうと思う。誰の詩であるか知らないが、この場合、常書鴻氏はまことにふさわしい詩を示して下さったわけである。まさにこの通りである。昔から陽関行きは、なべてひとすじ縄ではゆかぬ行路とされていたのであろう。  遠く前方の丘のてっぺんに烽台(烽火台)が見えて来たところで停車、休憩。この時初めて右手遠くに山影を見る。  くるま出発。ジープは前方の二つの丘の間を目指している。二つの丘のうち右手の方の丘の上にはっきりと烽台が置かれてあるのが見えている。そこに向う途中に運河があると、ジープはそこで停車。停車する度に、運転手君は水を汲みに行く。  漸くにして、その二つの丘に近付いたが、どうしたのかジープはその二つの丘の間には入って行かないで、右の方に、つまり丘を左手に見るように廻って行く。そして烽台のある丘に登って行こうとしているらしいが、なかなか登って行くことはできない。もともと道はないので、登り易そうに見える斜面にくるまの頭を向け、そこに攀《よ》じ登って行くほかないが、必ず途中で動けなくなる。  そんなことを三、四回繰り返した果てに、全ジープは丘に登って行くことを諦め、すぐ近くに見えている小さいオアシスの中にあるという南湖人民公社の林場を目指す。そして林場に行って陽関への道を訊き、改めて、陽関を目指す。今までとは異って、こんどはくるまは砂丘地帯に入って行き、大きな砂丘の背を登って行く。すると、前方の高処に烽台が見えて来る。先刻の烽台である。その周辺の砂が赤いのか、烽台は赤い砂丘の上に載っているように見える。併し、砂丘というよりゴビの丘と言った方がいいかも知れぬ。いつか丘は小石のごろごろした丘に変っている。  そのためか、ジープは速く走ることができる。運転手君たちは探しに探した烽台への道を漸くにして探し当てた恰好で、烽台に近付いて行く昂奮か、運転が荒くなる。  丘を登りつめると、丘の向うの低地に拡がっている緑の地帯が眼に入って来る。その一望のオアシスの中に陽関の遺址は匿されているのである。  先刻から目標としてきた烽台は丘の背の一番高いところにあり、ジープはその高処の裾に行って停まる。烽台までさしたる距離はないが、誰もそこまで登って行く者はない。さすがにみんな疲れている。陽関址が匿されているという眼下に拡がっている平原を見降ろしながら、煙草を喫んだり、お茶を飲んだりしている。辺りは一面に赤い砂である。  陽関は玉門関と竝んで漢代に造られた国境の関門。玉門関の南側に位置しているので陽関と呼ばれたのである。共に西域に通ずる重要な関門で、玉門関は西域北道の、陽関は西域南道の起点をなしていた。時代が下って唐代になると、玉門関の方は敦煌より東に移っているが、陽関の方は唐代に於ては、東西交通の玄関口の役割をひと手に引き受けて、非常な繁栄を見せている。その後時代、時代によって盛衰があり、この国境の門は閉じられたり、開かれたりし、いつか沙漠の中に埋まってしまったのである。沙州史には“敦煌の西南百四十華里”の記載がある。百四十華里は敦煌からの実際の距離六三キロに当て嵌まる。それから玉門関と異って陽関の方は、土地の農民たちからもずっと昔から陽関の名で称ばれて来ている。  一休みしたあと、烽台のある高処に登ってみる。この烽台のある丘をまん中にして、周囲の平原には小丘陵が波立っている。烽台の東の方は大断崖をなして谷に落ち込んでいる。ここへ来る途中、ゴビ灘から前方に望んだ丘と丘との間(切目)には、この断崖が置かれていたのであろう。  陽関址のある大平原に対って立つ。この烽台のある丘陵をまん中にして周囲には小丘陵が波立っていると記したが、陽間址地帯は、その小丘陵の波立ちを隔てて、その向うに見降ろすことができる。丘陵の波立っている地域は砂が赤く、それが切れると黄色になる。その黄色を呈している地帯が陽関址であるという。関址といっても、玉門関の場合とは異って、現在は何も遺されてはいない。しかし、そこが“西のかた陽関を出づれば故人なからん”の陽関なのである。そしてその陽関址の左手には、オアシスの緑の地帯が拡がっている。  時計を見ると、六時十五分、右手、西の方に陽はまだ高い。烽台の高処から降りて、休憩している人たちの中に入っていたが、そのうちに眼下に見降ろしている陽関址まで行って、その一画に立ってみたくなる。思い切って立ち上がる。  丘を降り、細かい灰のような砂の敷かれた大乾河を渡り、それから陽関址まで歩く。たいへんである。孫平化、文玉西、横川健の三氏、ついて来て下さる。陽関址と思われる地帯に辿り着いて、そこらを歩き廻る。足許の砂には動物の足跡が点々と付いている。黄羊の足跡だという。黄羊というのは野生の山羊らしい。枯れた黄色の駱駝草の中に、その根から青い若い駱駝草が出ている。棘もまだやわらかである。そういう駱駝草が、辺り一面に散らばっている。蜥蜴《とかげ》も走っている。陽関址はいま春なのである。  陶片の散らばっているところで煙草を喫み、帰路に就く。長い斜面を登り、二三人の同行者たちが休憩している場所に戻る。一時間近くかかっている。  七時十分、敦煌に向って出発。日程、ここに全く終る。玉門関、陽関の二つの関址に立つことができたのである。  帰途、南湖人民公社の林場のあるオアシス地帯に入る。林場の子供たちが手を振っている。ゴビの中に生きている子供たちである。そのオアシスを出て、もと来た道に戻り、再びドライブが始まる。ここから敦煌までは八〇キロ、一時間半の予定であるという。  三十分ほどゴビを走る。道はいい。路傍に烽台の遺址がある。烽台の基底部だけしか遺っていないが、大きなものである。やがてチベット、西海に向う道に直角にぶつかり、左に曲る。上等な道である。動揺というものがないということは、何と有難いことであろうか。左手にはずっと鳴沙山が続いている。鳴沙山は三〇キロほどの山系である。  敦煌へ三〇キロの地点で、右手に西千仏洞が匿されているオアシスの緑を見る。くるまの窓から見ると、小さい緑のかたまりである。西千仏洞から莫高窟までは三五キロ、ここには漢から唐、宋までの窟三十五洞があるという。莫高窟が手狭になったので、こちらが掘られたのであろうが、莫高窟に較べると、塑像も壁画も多少見劣りするという。  また路傍に烽台が現れる。大体、陽関から五キロずつの地点に烽台が造られていたらしく、その幾つかが今に遺っているのである。先刻のもその一つである。今日一日でかなりの数の烽台にお目にかかっているので、大分烽台ずれがして来ている。それにしても、これに火を点じてみたいと思う。狼煙《のろし》を上げてみたいと思う。大沙漠地帯を火焔や狼煙でぐるりと囲んだら、さぞ壮観なことであろう。  敦煌が近くなる。漢代の敦煌の城壁の欠片と言われているものが、右手に現れて来る。続いて唐代の敦煌の土塁というものも現れて来る。小説「敦煌」で取り扱っている沙州である。この古い城市が埋まっている地帯から、現在の敦煌までは七キロ。  敦煌の招待所に帰着したのは、八時である。すぐ食事。妻は食堂から戻ると、いきなり寝台に入る。疲れているらしい。私の方はブランデーを夜半まで飲む。疲れているが、睡気はいっこうにやって来ない。やはり玉門関、陽関に立ったことで気持が昂っているのである。 十八 莫高窟  五月十三日、今日は敦煌滞在の最後の日である。午前中は月牙泉と呼ばれている鳴沙山の麓の泉を見物し、午後は莫高窟に行って、見遺してある千仏洞のすべてを見る予定。  九時に招待所を出発。昨日の玉門関、陽関行きのお蔭で、さすがに躰全体に疲労が感じられる。  町を出ると、鳴沙山に向ってのびているポプラの竝木道をドライブする。ぐんぐん鳴沙山に近付いて行く。初めのうちは鳴沙山が前方に見えていたが、やがて右手になり、再び前方になる。近寄って見る鳴沙山は幾つかの砂山の重なりである。たくさんの砂山が重なり合って、三〇キロの長い台地を造っているのである。運転手君の話だと、月牙泉はすぐ前に見えている砂山の背後に位置しているという。  やがて、鳴沙山の麓の楊家橋人民公社鳴沙山生産大隊地区に入る。招待所を出てから十五分しか経っていない。全くの砂の地帯である。砂を治める仕事で大きな効果をあげている大隊だというが、閑散とした小さい集落である。  ジープから降りて、折重なっている砂山の一つの裾を廻って行く。砂山と砂山の間に緑の小麦畑があり、その畦道《あぜみち》を歩いて行く。路傍に沙棗《すななつめ》の木が多く、黄色の小さい花を咲かせている。香の強い花である。  風が寒い。昨夜招待所の庭で見た半月が暈《かさ》をかぶっていたが、この辺では月が暈をかぶると、風が強いというそうである。今日一日、風が吹くのかも知れない。  一キロほど歩いて、一つの砂山の背後に出る。美しい水を湛えた池があった。月牙泉の“月牙”は三日月の意味だそうだが、なるほどその名の如く三日月形の池である。三千年来、水の涸れたことのない泉と言われているのは、まあいいとして、周囲の砂山や砂丘の砂で埋まってしまわないのが不思議である。  ──この辺りの砂は、風が吹くと、下から上へと、つまり高処へ高処へと移動します。そのために砂丘もなくならないし、また砂丘に包まれた月牙泉のような泉も、砂に埋まることはありません。  案内役の公社の青年は言う。足もとの砂を手にすくってみる。細かい粒子の砂である。  ──強い風が吹くと、この砂が鳴るんです。だから鳴沙山という名がついています。  その風に鳴る砂の音を聞いてみたいと思う。鳴沙山を構成している砂山や砂丘が、あちこちで鳴り出したら、さぞ凄いことだろう。  泉を廻って行く。西側の奥に湧口がある。ほんのひと握りほどの小さい池である。ぐるりと廻っても十分とはかからないだろう。  泉の畔りに廟の跡がある。文革前は娘々神の廟が十幾つあったが、文革の時、妖教《ようきよう》のレッテルを貼られ、ために建物は焼かれ、僧の一人は投身して自殺したという。そうした悲劇の場所でもあるが、昔からここには毎年四月八日のお釈迦さまの日に市が立ち、今日に及んでいるという。つまりこの地方では、莫高窟の千仏洞前と、ここの二カ所に、四月八日の市が立つのである。莫高窟の市もすばらしいと思うが、砂丘に包まれたこの小さい三日月形の泉の畔りの市の賑わいも、想像すると、目の覚めるような思いを持つ。  月牙泉を辞し、敦煌の町に戻り、町から南西三キロの敦煌故城に向う。宿舎の招待所からそう遠くない地点である。故城といっても、城壁の崩れた欠片が南北に竝んでいる田野の大きい拡がりであるに過ぎない。  この田野の拡がりの下に二つの敦煌の城市が眠っている。一つは漢の武帝が紀元前一一一年に、対匈奴戦の最前線基地として営んだ二千年前の敦煌であり、もう一つはその武帝の敦煌が五世紀の初めの西涼と北涼との合戦に於ける水攻作戦のために完全に壊されたあと、次期に営まれた敦煌である。この方の敦煌は北魏、西魏、北周、隋、唐と続いて行き、東西文化交流の、あるいは東西貿易の一大中継地として異常な繁栄を見せた敦煌である。  二つの敦煌がどのような重なり方をして眠っているか知らないが、とにかくこの地帯に二つの敦煌は眠っているのである。  現在田野の一画に竝んでいる城壁の欠片は、唐を中心にして繁栄した二期の敦煌のものである。私は小説「敦煌」で、この二期の敦煌、十一世紀の敦煌を書いている。私が書いた寺院も、官庁街も、下町も、往来も、路地も、その歴史と共に、みな田野の下に眠っているのである。  それにしても、この二期の長く繁栄した敦煌は、いついかなる理由で廃墟になってしまったのであろうか。正確なこの城市の滅亡の記述は遺されていない。  二つの古い敦煌が眠っている田野を、三十分程歩き、いったん招待所に帰って休憩、二時二十分に、再び莫高窟に向って出発。  この日も常書鴻氏を煩《わずら》わして、一一二、一三〇、一五八、一五九、一五六、一七二の諸窟を見せて頂く。これで予定していた千仏洞の参観は全く終る。  すぐ常書鴻氏のお宅に、一昨日足を捻挫された夫人のお見舞に伺う。質素ないいお住居である。夫人とお二人の合作である「胡旋舞」の模写を頂戴する。  胡旋舞というのは胡族(少数民族)の踊り子が楽器を背に負い、それを弾きながら踊る舞踊で、唐代には都長安で、この踊りが非常に流行したらしく、白居易《はくきよい》によって、 ──胡旋女 胡旋女 心は絃に応じ手は鼓に応ず 絃鼓一声 雙袖挙り 廻雪飄々 転蓬のごとく舞う 左旋右転 疲るるを知らず ………  と詠われている。楽器を弾きながらよほど早く旋回する踊りのようである。しかし、胡旋舞なる踊りがいかなるものか、その具体的資料となるものは、敦煌千仏洞の壁画以外にはないそうである。私は「楊貴妃伝」という小説で、安禄山《あんろくざん》にこの踊りを踊らせているので、幾つかの窟で、胡旋舞なるものを眼に収めることができたのは、たいへん有難かった。  常書鴻御夫妻から頂いたものは、中唐の一一二窟のもので、伎楽《ぎがく》の一団の中から胡旋女だけが取り出されて写されている。有難い頂きものである。  常書鴻氏邸を辞して、研究所に赴き、そこで古文書類を見せて貰い、七時半に研究所を辞す。明早朝、敦煌を発って帰路に就く私たちの見送りのため、常書鴻氏も今夜招待所に泊られるという。氏と同じジープで招待所に向う。美しい夕暮である。  招待所に帰り、少量の湯で、顔と手足を洗う。夕食後、常書鴻氏に部屋に来て頂き、千仏洞の塑像、壁画について、いろいろのことを質問する。その間に、氏は淡々とご自分のことも話される。  ──一九二七年から一九三六年まで油彩画家としてフランスに留学していました。一九三五年に、ギメ博物館で、ペリオが敦煌から持ち帰ってきたものの展示を見た時は驚きました。こんなすばらしいものが自分の国にあるとは、初めは信じられませんでした。敦煌については全く無知だった。殊に唐のものに打たれた。人物、馬など生き生きとしていた。東洋の絵は西洋の絵より、すばらしいと思った。これが、私の敦煌への病みつきの始まりでした。  ──一九三六年、北京に戻りました。妻はフランス人で、彫刻の研究家でした。私は敦煌行きの決心をし、妻を説得しようとしましたが、妻はパリに帰りたがり、敦煌行きに応じませんでした。  ──一九四三年、妻子を北京に遺し、一人で敦煌を訪れました。蘭州から安西まで、トラックで一カ月かかり、安西から駱駝で、敦煌まで、三日二晩を要しました。  ──当時、莫高窟は生活するのにたいへんなところでした。道教の道士一人、ラマ教の僧二人、それに私と、全部で四人でした。もちろん電気も水道もなかった。タマリスク(紅柳)の枝を箸にして使いました。最初の一年は大変でした。新聞広告で使用人を求めたが、だれも来なかった。しかし、敦煌研究の重要性は全身で感じていました。外国でたくさんの博物館を見ましたが、ここの千仏洞という博物館が、一番すばらしく思われました。  ──生活の準備を調え、妻子を迎えました。男の子は十三歳、女の子は八歳でした。妻は初めは悦んでいたようでしたが、突然、子供たちを置いて出て行き、再び帰って来ませんでした。  ──女の子は教育ができなかったので、十四歳から十六歳まで、石窟で絵を描かせました。男の子の方は縁あって、アメリカ人が預ってくれました。  ──現在の妻の李承仙は、私が教えた学生でした。私の立場に同情し、私の仕事を手伝ってくれました。  ──一九六二年から一九六六年まで、周総理の支持で、千仏洞の修復が行われました。四人組の時代は、養豚をやらせられていました。現在でも、莫高窟の生活は便利とは言えません。それでも自家用発電をしており、研究所には一〇〇人もの所員がおり、昔のことを考えれば、我慢しなければならぬでしょう。  ──いつか七十五歳になりました。深夜目覚めると、風に乗って、鳴沙山の向う側の麓を夜通し旅して行く駱駝の首の鈴の音が聞えて来、九六窟の九層の風鐸《ふうたく》の鳴るのに耳をすませます。  常書鴻氏がご自分の部屋に引き揚げて行かれてから、今日のメモの整理をし、あとはぼんやりしている。全く慌しい敦煌見学だったと思う。現在整理されている四百九十二の窟のうち、五十六の窟を参観したことになる。五日間滞在のうち、一日を玉門関、陽関にさいているので、四日間で五十六の窟を見たことになる。平均一日に十四窟、──慌しい見方であるし、窟内が暗いので、見たと言えるような見方はしていない。窟から窟へと経廻って行っただけのことであるが、それでもやはり楽しかったと思う。  四日間、千仏洞通いした感想は、非常にたくさんある窟の一部を、しかもどの窟に於ても、そのごく一部の壁画を、何となく眼に収めたといったものである。塑像の方は多少見易いが、それにしても大差はない。各時代のすばらしい塑像群の前を、足早やに素通りして来たといった印象である。  塑像でいいと思ったのはどれも唐の窟のものであった。本尊であれ、菩薩であれ、いずれも豊満、表情はふくよかで美しく、どれも人間的であった。彫刻でただ一つ選ぶとなると、やはり一三〇窟の大仏ということになろうか。これはただ一つの石の彫刻である。この二六メートルの倚座《いざ》の弥勒大仏だけは森厳《しんげん》なものを持っており、盛唐のゆたかさを代表する堂々としたものであった。  特殊なものとして記憶に残ったのは、少数民族の顔を持ち、少数民族の服装を纒った菩薩や四天王たち。  それから一番古い北魏の窟にあった三体の交脚の弥勒菩薩。いずれも上半身は裸で、下半身だけを薄い布で覆い、肉体の線も、それをすかして見えている。どれも可憐で、愛くるしく、親しい感じを持たせられる。やはり開放的な沙漠の国の弥勒さんであると思った。私はノートに次のような、詩とも散文ともつかぬ文章を綴っている。  北魏という北方からやって来た民族の正体はよく判っていない。四世紀に国を樹てて、大同に都し、あの大きな雲崗石窟を鑿《うが》っている。百年にして洛陽に遷都し、ここでは龍門石窟を営み、そして六世紀頃消えている。本当に消えて跡形ないのだ。そうした北魏の形見を一つ選ぶとなると、それはおしゃれな交脚の弥勒さまということになるだろう。脚を十字に交叉した殆ど信じられぬような近代的姿態は、ふしぎに雷鳴、碧落、隕石、そんな天体に関するものを連想させる。星座にでも坐っている姿かも知れぬ。当然なことながらその民族と運命を共にし、星の如く飛んで、散乱し、また消えている。消える他なかったのだ。だから日本にも伝って来ていない。  実際にこのなかなかすばらしい交脚型の弥勒さんは、北魏時代だけのものであって、他の時代には見られない。  それから、どの窟をも埋めている壁画であるが、壁画は、その多くが仏教思想を取り扱ったものであり、経典の内容を絵画で現したようなものが多い。なにしろ四世紀から十四世紀まで、千年間にわたって描かれているので、画風の上で時代、時代の特色を持っている許りでなく、その時代、時代の風俗や生活が写されていて、丹念に見て行ったら、さぞ面白いだろうと思う。戦闘の模様も描かれていれば、農耕、漁撈《ぎよろう》の状況も描かれている。結婚式、医者の往診といった具合に、社会風俗百般が取り扱われている。  壁画の中から楽器だけ拾って行っても、音楽の東西交流の貴重な資料になるだろうし、服装だけを拾って行っても、千年に亘っての風俗史が具体的に展開してゆくだろう。言うまでもないことであるが、少数民族関係の資料もたくさん詰まっている。  それから多くの窟をぎっしり埋めている飛天と千仏。飛天は天井ばかりでなく、天井と壁面の間にも描かれてあり、どれも天衣をひるがえし、軽やかな姿態で舞っている。中には水面からいま飛び出したといったようなのもあれば、舞いながら楽器を奏しているのもある。  一体、四百九十二の窟の中に、どのくらいの飛天が舞っているであろうか。いつか常書鴻氏に質問してみたら、  ──千ぐらいでしょうか、千五百ぐらいでしょうか。  そういう言い方をなさった。  千仏の方は、どの窟をも埋めているわけではないが、ぎっしりと小さい仏さまが、まるで印刷でもされたように描かれてある壁面の前に立ったり、天井を仰いだりすると、圧倒される思いを持つ。無数の仏さまに取り巻かれてしまった感じである。  それから先きに記した胡旋舞。これについても、ノートに感想が書きつけられてある。 ──その前に立っていると、大きな琴を背にしている踊り子の姿は消え、どこからともなく軍鼓の響きが聞えてくる。そしてその軍鼓の響きの先頭に立って一本の竜巻の如きものが近寄ってくるのを覚える。胡族の可憐な踊り子の持った運命の旋回なのだ。  四日間で経廻った五十六の窟の中では、やはり今日蔵経洞の名で呼ばれている第一七窟が、私には関心深かった。ここに蔵されていた夥しい数の古文書、古経巻の類が、スタイン、ペリオの手に渡り、敦煌の名を、一躍世界の敦煌にした、そうした由緒ある窟である。  私は小説「敦煌」で、この窟にそうした古文書、経巻類を詰め込むところを書いている。小説の中でせっせと運び込んだものは、当然なことながら、すっかりなくなって、ひどくさっぱりしたものになっている。運び込んだのは小説の中に於てのことであり、それがなくなったのは、物語ではなくて、スタインやペリオが登場する厳とした歴史的事実である。小説の世界と、現実とが、私の心の中で入り混じり、錯綜し、それを整理するのに、多少の時間を要した。  私は小説の中で、この窟の前で落雷のために死んだ何人かの男たちを描いている。この窟を出た時、  ──この辺は、落雷の時は凄いでしょうね。  私は常書鴻氏にお訊きしてみた。すると、氏は、  ──雷光があたると、窟内の仏像たちが、一瞬、明るく照し出されるでしょうね。  と言われた。まさにそうであろうと思われた。しかし、私はそれを小説の中では書いていない。  五月十四日、快晴、六時五十分、招待所を出発、柳園に向う。柳園までは一二八キロ。敦煌に来る時は、列車を酒泉で降りたが、こんどは更に省境に近い柳園まで行き、そこで列車に乗り込もうというわけである。この方が列車の乗車時間は長くなるが、ジープの旅の方は短くなる。ジープの旅が続いているので、疲れを少しでも軽くしようという県長さんたちの配慮から出たことである。  敦煌の町に別れを告げる。静かな土屋の町、爽やかな風の渡っている田園の町、さよなら、さよならといった気持である。  町を出ると、すぐアルカリ性土壌地帯に入る。茶褐色の泥が波立って拡がっている。この土壌の下には硝石が埋まっているというが、それにしても荒涼たる風景である。  いまジープはチベット、青海に通じている幹線道路を走っているという。そう言えば時折、チベット行きのトラックとすれ違う。所々に沼があり、沼の周辺だけに赤土が置かれてある。  太陽は前方、やや右手、すでに高くなっている。道路だけが黒く、黒い道路が、どこまでもまっすぐに走っている。  山影全くない大平原のドライブが続く。いつか団子型の土の固まりが、見渡す限りの平原を埋め始める。そしてその土の固まりの上にタマリスク(紅柳)が載っている。載っていないのは、タマリスクが切られたあとだという。いずれにしても泥土の拡がりで、タマリスク以外のいかなる植物もない。アルカリ性土壌でも、タマリスクだけは生きられるのである。これでは蜃気楼も出ようがないと思う。  しかし、この泥土の拡がりの中にも人家がある。一軒家もあれば、数軒固まっているところもある。夜毎の眠りはいかなるものであろうかと思う。玉門関では月光が皎々《こうこう》と感じられると思うが、こちらはただ凄惨というか、悽愴《せいそう》というか、死の世界とでも言う他ない。  西湖人民公社を過ぎる。ここだけに緑の畑がある。泥土との闘いに於て、僅かに人間が闘いとったものである。が、やがてまた、不毛地帯が拡がり始める。  八時十分、泥土地帯がゴビに変る。タマリスクも少くなり、一望の小石の原が拡がっている。左手前方に低い山の連なりが、薄青く美しく見える。泥土地帯に較べれば、ゴビは平坦で、明るい。左手から左手手前にかけて、低い山脈、くっきりとして来る。  八時五十分、左手前方の山脈大きくなり、陽の加減か、藍色に見え、実に美しい。前方右手にも低い山脈現れてくる。この方は低い稜線がどこまでものびている。  やがて左右の山脈、一つに繋がる。この頃から地盤の高低烈しくなり、一望の丘陵地帯が拡がって来、山も、原野も黒くなる。黒い丘陵地帯のドライブが続く。  安西と新疆地区のハミ(哈密)を結んでいる道とぶつかり、それを横切る。安西からずっと運転してくれている私のジープの運転手君は、私たちを柳園に送ったあと、この道を通って、安西に引き返すという。たいへんすまないと思う。丁度一週間ほど付合って貰ったことになるが、その間、風呂にも入らず、毎日のように運転して貰い、そのうちの一日は玉門関、陽関行きで、たいへんな疲労だったろうと思う。  いつか左手も、右手も、黒い団子山に包まれた地帯に入る。その団子山の外側を、遠く山脈が包んでいる。  停車、休憩。四方黒い山脈に囲まれた凄い風景である。美しいとか、美しくないというようなものではない。左右前後、幾重にも、黒い山脈に囲まれている。  九時二十分、柳園着。ここからトルファン(吐魯番)までは七〇〇キロ、ハミまでは二四〇キロ、新疆ウイグル自治区との境の星々峡までは一〇〇キロ。  一時間ほど駅で休憩して、十時二十四分発の列車に乗る。この列車は咋十三日午後五時五十分のウルムチ(烏魯木斉)発。終着駅である北京着は十六日午後九時五十五分、全走行距離は三七七四キロというから、全部乗ったら大変である。そのうちの一部である柳園─蘭州間を使わせて貰うというわけである。  ここで、ここまで見送って下さった常書鴻、文玉西氏等、敦煌の五氏、ならびに秦積王氏をはじめとする酒泉の九氏と別れる。一週間、毎日のように行を共にして下さった人たちである。柳園駅に於ける別れは、何とも言えず胸に迫るものがある。  列車が動き出す時、十四氏がみんな手を振ってくれる。長身の酒泉招待所のコック長さん、ずんぐりした安西の運転手君、最後まで手を振っている。一体、この人情は何であろうと思う。中国訪問は八回目であるが、このようなことは初めてである。玉門関、陽関行きの、あの二一一キロ、十二時間四十五分の大津波に揺られたような烈しいドライブが、互いの心を結びつけたものであろうか。  列車は駅を出ると、すぐ黒い山塊群の中に入って行く。馬《ばそう》山続きの山なみなのであろう。やがて、そこを出ると、ゴビ地帯が拡がり始める。  十一時四十分、龍岡駅、人家全くなく、ゴビの中にあるただ一つの駅。五分ほどすると、ゴビは黒色に塗られ始める。  十二時十分、列車は黒ゴビの丘陵地帯を走っている。  三時間ほど眠る。すでに嘉峪関《かよくかん》、酒泉を過ぎている。列車は嘉峪関のすぐ傍を走るので、嘉峪関を列車の窓から見ようと思っていたのであるが、それを果せないで残念である。  五時十分、金川駅、ゴビの中の駅である。駅のポプラが烈しく揺れている。風が強いのであろう。駅の近くに人家少々。この辺は白いゴビである。寝台の蒲団が重いのか、体が痛い。ブランデーを飲む。  六時、清水駅。駅の近くから水を汲んで、集落に運んでいる女や子供たちの姿が見える。かなり大きいオアシスで、集落は駅の近くにも、かなり離れたところにもある。大ゴビの中のオアシスで、そこに夕暮が来ようとしている。近くに大乾河がある。何という名の川であるか、知らず。 車室で、蘭州から付添って下さっている甘粛省人民病院の女医さんの田兆英女史と話す。この地方の無医村を廻った時のことを聞かせて下さる。  五月十五日、八時に目覚める。車窓からの眺めは一変している。菜の花が咲いており、緑が美しく眼に沁みる。何時間か、死んだように眠ったので、頭は軽くなっているが、体の方は相変らず痛い。妻の方は全然起き上がれなくなっているらしい。既に連山脈を越え、大分蘭州に近くなっている。  右手は明るい茶褐色の団子山の重なり、左手は連山脈。線路から程遠くないところに、黄河の茶褐色の流れが置かれてあり、畑には大根の白い花、まさに黄河の春である。  列車は黄河の流れに沿って走っている。黄河はゆるくカーブして、川幅を広くしたり、狭くしたりしている。が、狭いところでも一〇〇メートルぐらいはあろうか。蘭州の町中の、例の白塔山の下の架橋地区は、黄河の川幅の一番狭いところが選ばれているという。それでもやはり一〇〇メートルぐらいはあるだろう。大体に於て、黄河という川は、余り川幅を変えないで、悠々と流れているらしい。  黄河の向う側には、黄河の色と同じ山が重なっている。そしてその山の裾を、桃、梨、杏の木の緑が埋めている。そしてその間に、黄河と同じ色の土屋が点々と配されている。眼に入る風景は何とも言えず落着いているが、それは同色で統一されているからであろう。黄河、土屋、背後の山、みな同じ色である。  河岸を蘭州街道らしいものが走っており、所々に灌漑用の水を汲み上げている大きな水車が見える。何とも言えず軽やかに廻っている。  十時二十分、蘭州着。曇り、少々寒い。ホテルに入り、すぐ入浴。入浴は六日ぶりである。昼食、休憩。四時より街に買いものに出る。夜、民族芸能に誘われるが、中止。疲労が甚しい。  五月十六日、夜半から喉が痛んでいる。今日の予定の黄河ダム参観は中止。今日も曇り日である。妻も同様な状態。  甘粛省人民病院の院長さん、内科部長、田兆英女史、揃って診察に来て下さる。部屋の窓からポプラの梢《こずえ》と、白塔山続きの山を見ながら、寝台に横たわって、お尻に注射二本。ぽんと針をぶつける感じで、痛みは全くなく、いつ注射されたか判らない。  小用近くなる。空気が湿っているためであろうか。窓から見る町は、灰色に曇っている。しかし、単に曇っている許りでなく、砂埃りが飛んでいるのである。  五月十七日、昼、蘭州の諸氏とお別れの会食。午後四時十五分、ホテルを出て、空港に。一時間ほどで、空港着。空港で夕食。  七時四十分離陸のトライデント機に乗る。ここでもまた大勢の人が送って下さる。田兆英女史が、何回も、何回も、妻と握手している。離陸すると、すぐ眠る。  九時三十分、北京空港着、北京は九度、雨が降っている。敦煌帰りには、北京はひどく寒く感じられる。厳寒の寒さである。 十九 火焔山ふたたび  これまで記してきたように私は去る五十二年八月に新疆ウイグル自治区を訪ね、五十三年五月に敦煌を訪ねている。この二回の旅は私にとっては生涯での事件と言えるような旅であった。若い学生時代からいろいろな書物で読み漁り、馴染みになっている地帯であり、小説家になってからは何篇かの作品の舞台として取り扱っているところである。そういう場所に七十代になってから足を踏み入れることができたのである。  しかし、中国側の好意に支えられた招かれての旅であるにしても、限られた日数であったので、行きたいと思うところのすべてに足を印するというわけには行かなかった。が、歴史家でも、美術史家でもない私としては、それで充分満足すべきであったし、事実満足していたのであるが、五十四年になってまたまた思いがけないことが降って湧いたように起った。八月に新疆地区を再訪し、十月に敦煌をこれまた再訪するという好運に恵まれ、それで前回に行くことができなかった幾つかの都邑《とゆう》や遺跡に自分の脚で立つことができた。タクラマカン沙漠の川・タリム河にも船で浮かぶことができたし、甘粛省の河西回廊の古い歴史の町の幾つかをも、ジープで経廻ることができたのである。私にとっては、五十四年という年はちょっと信じられぬような恵まれた年であった。  事の起りは五十四年の春であった。中国社会科学院院長の胡喬木氏が日本に来られたが、その折お会いして、新疆地区のまだ見ていない幾つかの都邑や遺跡のことを話題に取り上げたことがあった。  胡喬木氏が帰国されて間もなく、社会科学院からの招待状が届き、改めて新疆地区で希望するところを申し送ってくれるようにということであった。早速日中文化交流協会の白土吾夫氏に謀《はか》って、同協会を通じて、こちらの希望する都邑や遺跡の幾つかを挙げた。  それに対して中国社会科学院外事局長孫亜明氏から、楼蘭、若 羌《チヤルクリク》、且 末《チエルチエン》などは交通不便のため案内できないが、その他のところはできるだけ希望にそうようにするという好意に満ちた返事があった。このような簡単な経緯で、八月初旬の新疆ウイグル自治区再訪の旅は実現したのである。  一行は宮川寅雄、円城寺次郎、口隆康氏等、それに日中文化交流協会の佐藤純子、横川健の両氏。八月六日に東京を発って、北京に二泊、八月八日に新疆ウイグル自治区の都、ウルムチ(烏魯木斉)に向った。  この旅に中国側からは詩人の李季氏、社会科学院外事局の張国維氏、それに女性通訳の解莉莉さんが同行の労をとって下さった。それからこんどの旅のすべてにわたって、社会科学院の副院長である周揚氏のお世話になった。氏は私たちに同行するつもりであったらしかったが、日本の旅を終えて、帰国されてから何程も経っていず、それに秋の中国文学芸術工作者代表大会という大きな行事が控えていた。新疆の旅は、氏にとっては無理なことであった。  ウルムチを起点として、新疆ウイグル自治区のカシュガル(喀什)、タシュクルガン(塔什庫爾干)、ヤルカンド(莎車鎮)、ホータン(和田)、アクス(阿克蘇)、クチャ(庫車)、およびその周辺の集落や遺跡を経廻らせて貰うつもりであったが、現地に行ってみないと、正確なスケジュウルは立たなかった。  八月八日(五十四年)、北京を発ってウルムチに向う。今日は立秋である。北京は三十度。  午後三時十五分、離陸。イリューシン18、九二人乗り。この前はイリューシン62の大型ジェットで、ウルムチまで二八〇〇キロを三時間半で翔んだが、今度はそういうわけにはゆかない。途中蘭州空港に降りる。蘭州までは一三〇〇キロ、二時間半、蘭州からウルムチまでは一七〇〇キロ、三時間十分の予定である。  曇天で、窓からの眺望は全く利かない。五時四十五分、そろそろ蘭州に着く頃になって、漠地の中に短冊を張りつめたように、耕地が現れて来るのが見えた。蘭州オアシスに入りつつあるのである。六時、蘭州着。二十五度、まだ陽は高い。この空港にはこの前の新疆地区の旅からの帰りと、敦煌の旅の往復と、三回立ち寄っており、今度は四度目である。  空港の別棟の建物の二階で夕食を摂り、落日近い七時十分に離陸、ウルムチに向う。  十時二十分、ウルムチ空港着。二十三度。空港から町までは三〇キロ。この前に泊ったウルムチ迎賓館に入り、部屋に落着くと、結局十二時になっている。  八月九日、午前七時半起床、八時半に別棟の食堂で朝食、この前もそうであったが、ここの朝食はパン、ミルク、卵、珈琲《コーヒー》、中国では珍しくさっぱりしたものである。ポプラの林に包まれた贅沢な迎賓館の建物も、広い敷地も、何となく欧風で、ここではこうした朝食の方がぴったりする。  九時半、一泊の予定でトルファン(吐魯番)に向けて出発する。宮川寅雄氏も、円城寺次郎氏も、私も、それぞれトルファンには行っているが、口隆康氏が初めてなので、みな氏に付合うことにする。が、もちろんそれ許りではない。いずれにせよ、慌しい旅なので、見落したところもあれば、印象の不鮮明なところもある。二度行けるなら、行った方がいいに決まっている。円城寺氏はどうしてももう一度、アスタナの壁画を見たいとかねがね思っておられたらしく、その点、トルファン行きには積極的であった。  久しぶりのウルムチの町である。迎賓館は町の端《はず》れにあるが、敷地を出ると、すぐみごとなポプラ竝木が走っている。二頭の驢馬が曳いている荷車、土屋、路地という路地から見える砂丘の欠片、イアリングを着けているウイグルの娘たち。延安路を行って、解放路に突き当り、左に折れると、徐々に繁華地区に入って行く。白壁の家が竝んでいる通りである。しかし、あっという間にそこを脱けて、郊外の丘陵地帯に入って行く。道は高低ある地盤の上、次々と現れる丘を二つに割って、南に向って走っている。  四十分ほどのドライブのあと、十時十分、遠くに塩湖を望む地帯に出る。辺りは一望のゴビ(戈壁)であるが、そのゴビのただ中に々草《ちいちいそう》村という集落がある。この集落については前にも記したが、往時の駅亭といった集落で、辺りは一面に駱駝草と々草で埋められている。  十時三十分、ゴビの中を蘭新鉄道が道と平行して走っている。左右に山脈が置かれているが、左手の山脈の方が遠く、やがて道は大きくカーブして、右手の近い山脈の方に近付いて行く。  十一時、達板城という集落を過ぎる。ウルムチを出てから初めての集落らしい集落である。路傍のポプラが風に大きく動いている。この村を過ぎてすぐ蘭新鉄道の線路を越え、前方の山の重なりの間に入って行く。先刻右手に見えた山脈の中に入って行くのである。これから、この前の紀行で詳しく綴っている白楊溝という渓谷のドライブになる。白楊溝というのは天山の一支脈を割って、北疆地区から南疆地区に通ずる通路である。白楊溝というのは、白楊が埋めている渓谷という意味なのであろう。  渓谷に入ると、すぐ川が現れ、道はそれに沿って、岩山の裾を走ってゆく。川は白楊河、流れは白濁している。磧《かわら》は一面にタマリスク(紅柳)で埋められている。そしてそのまるい株がざわざわと風に揺れ騒いでいる。砂岩の山とタマリスク、全くその間のドライブとなる。  数日前、この地帯は珍しく大雨に見舞われたということで、道はひどく荒れている。白楊溝をどれだけドライブした頃であろうか、前方の橋が流れているということで、くるまは白楊河と別れて、左手の山間部に入って行く。白楊溝の渓谷を出て、別に山中を走っている道によって、トルファン盆地を目指すというわけである。  白楊溝と別れると、すぐ一木一草なき丘陵地帯の殺風景なドライブとなる。初め乾河道に沿って走っていたが、次第に丘か山か判らぬところに上って行き、やがてゴビのただ中の道となる。全く一木一草ない地帯で、駱駝草も生えていず、見渡す限り小石のばら撒かれている荒野の拡がりである。  ──ここが昔からの道だそうです。  案内の青年が教えてくれる。そう言われてみれば、白楊溝を走っている道は新しい道であるに違いないと思う。こちらは道とは言えない道であるが、古道である以上、タリム盆地に侵入してくる匈奴を初めとする北方の遊牧民族たちは、他ならぬこの道を使ったことであろう。  くるまは丘陵の背を上ったり下ったり、折れ曲ったり、砂塵はもうもうと上がっている。やがて降りになるが、依然として荒涼たる地帯が続いている。  午後零時半、白楊溝の出口とは異った出口から、トルファン盆地に出る。ウルムチの迎賓館を出てから三時間余りかかっている。白楊溝からの出口は老風口と言って、この地帯で最も風が強いところとされているが、こちらもまた風が強い。盆地に出たとたん、車内も暑くなる。  やがてカシュガルヘ向う道の分岐点を通過する。真直ぐに行くとトルファン、右に折れるとカシュガル。それにしてもカシュガルまでは、いわゆる西域北道(天山南路)を経廻ることになり、たいへんな道のりであると思う。  左手は遠くに山脈を配したゴビの拡がり。山脈は幾重にも重なっており、言うまでもなく天山である。前方にも山の連なりがあるが、低い。東南に向って、道は真直ぐにゴビの中を走っている。  零時四十五分、ゴビと沙漠がだんだらに織りなされている地帯を行く。左手遠くに天山が見えるだけで、あとは眼に入るもの一物もない。  いつか天山、背後になる。うんざりするゴビのドライブ、限りなく続く。そのうちに砂嵐で山影全く見えなくなる。ひどく暑い。  一時十五分、トルファンのオアシス地帯に入る。ポプラの竝木、アカシヤ、驢馬の曳く荷車、赤煉瓦の農家、まだ小さいが、青いトウモロコシ畑、綿畑。トルファンの綿は繊維が長いそうである。  やがて町に入る。トルファン地区の人口は三〇万、トルファン県は一七万、トルファンの町は四万。なるほど人口四万ほどの町であろうと思う。町の中心地区には農産物の市が立っている。それにしても暑い。三十二度。  トルファン県招待所に入る。大勢の人たちが迎えてくれる。葡萄棚のあるのびのびとした敷地には記憶がある。従業員の男女の中にも、見覚えのある顔がある。通訳氏を介して、その見覚えのある顔の一つに、この前はここでたくさん果物を食べたということを話すと、  ──今年は四月の寒波のため、果樹全部が被害を受け、葡萄も、瓜も、例年に較べて味は劣ります。また来年、改めて来て下さい。  とおっしゃる。そう度々は来れないだろうと、笑いながら答える。  二時に昼食。四時に高昌故城、アスタナ古墳に出発する。どちらもこの前に行っているが、もう一度行くべきであろうと思う。白楊溝に対する印象が、この前とは大分異っていたので、妙に自信を失って、そんな気持になる。  町を脱けると、すぐ大ゴビが拡がっている。風が出て砂を舞い上げているので、どこを向いても山影は見えず、やたらに暑さが甚しくなる。くるまの窓枠も熱くなっている。カーレーズが点々としている地帯を、東北に向って走る。高昌故城までは四〇キロ。  四時、左手に火焔山、前方にも、同じような山が、幾つか重なっている。宿舎を出てから、これまでに一台のトラックともすれ違っていない。楡の街路樹のある集落に入って行く。楡は水がなくても育つ強い木だと聞いていたが、なるほどと思う。トルファンの、火焔山附近の集落に生い茂っているのである。  集落を出ると、高昌城の遺跡が拡がっている。周囲五キロの遺跡であるが、塹壕様の土塁の拡がりの中に、青いトウモロコシ畑が点々と置かれている。もちろんトウモロコシ畑もみな遺跡で、掘れば何が出てくるか判らない。地区政府では、三十万元で、これらのトウモロコシ畑のすべてをなくそうと計画中であるという。  この遺跡の中で最も大きい寺院建築の跡だというところで、くるまを降りる。その寺院跡の周辺は目下修復中である。近年、雨が降るようになったので、遺跡の傷みがひどいという。  晴天の日、ここから火焔山を望むと、まさに炎が燃えているように見えると、誰かが言っている。まことに、そうであろうと思う。戸外は四十一度。  遺跡見物を打ち切って、遺跡の前の休憩所に飛び込む。この前も、今日と同じようなことをしていたのではないかと思う。しかし、この前はもっと遅い時刻で、薄暮の垂れこめた遺跡の中をぶらついていたことを思い出す。  六時二十分、出発。風、やや涼しくなる。遺跡の周辺の部落が、遺跡の一部であるかのように見える。部落の中の黄色のひまわりが、目のさめるように美しい。そのひまわり畑の傍に、裸の子供たちが立っている。遺跡の埃りの中で、炎のような火焔山を見たり、西瓜を食べたりしながらここで生い育ってきた子供たちである。  五分ほどで、アスタナの古墳群のあるところに行く。この前と同じ土饅頭の拡がりである。この前に入った同じ墓の中に入る。唐代の墓であるが、この中の壁面に描かれている花鳥画の花は、中国のものではなく、南方のものであるという。当時、南方の人たちがここに来て、ここに住み、そして死んだのである。  八時二十分、葡萄溝人民公社に立ち寄る。さすがに、ここだけはひんやりしている。陽はまだ高い。落日は九時頃であろうか。北京とは二時間の差がある。 二十 カシュガル入り  八月十日、七時起床、快晴、昨夜は宿舎のトルファン県招待所の葡萄棚の下で、県文工団の歌や踊りをたのしませて貰って、トルファン(吐魯番)らしい夏の一夜を過したが、今朝はその葡萄棚の下の椅子に腰を降ろして煙草をのむ。昨夜は歌舞演技に見入る土地の人たちで埋まった同じ場所であるが、今は誰の姿も見えず、爽やかな朝の陽が足許に散っている。さぞ日中は暑くなるだろうと思われるが、今は乾燥している朝の空気がただ爽やかである。  朝食後、円城寺次郎、口隆康両氏はベゼクリク千仏洞を見るために宿舎を出て行くが、私は宮川寅雄、李季両氏と共にベゼクリク千仏洞の方は割愛して、午前の時間をトルファン博物館の参観に当てる。  館の入口に、この地帯の地勢が模型によって現されており、それをカメラに収めたり、ノートしたりする。沙漠とゴビでだんだらに織りなされているトルファン盆地が大きく拡がっている。東西に長く延びている天山山脈が、この盆地の北の屏風となっており、その天山にほぼ平行して、数個の山塊が東西九〇キロに亘って配されている。これが火焔山である。従って火焔山というのは単独の山ではなくて、盆地の中にほぼ一列に竝んでいる山塊群である。その山塊群の一つにベゼクリク千仏洞も配されていれば、葡萄溝なるところも配されている。そしてベゼクリク千仏洞を載せている山塊の南の裾に、アスタナの古墳群は散らばっているのである。火焔山の山塊と山塊との間は渓谷になっていたり、沙漠が埋めていたりする。  タリム盆地を砂の海とすれば、火焔山はその海の中にほぼ一列に竝んでいる数個の島である。しかし、島はこればかりではない。火焔山とは別に南の方にもう一つある。交河故城を載せている島である。その島から少し離れて東方にトルファン市は位置しており、高昌故城はトルファンの東北方、火焔山の一つの山塊の南に位置している。  この模型地勢図の前に立っているうちに、暑さが烈しくなって来る。地図を見て、なるほど暑い筈だと思う。砂の海のただ中に位置している町なのである。  館内を一巡する。アスタナ古墳群から出て来たものが多い。たくさんの古文書類が竝んでおり、論語、孝経の残欠もある。かなり大きい彩絵木椀が眼を惹《ひ》くが、他は小さいものばかりである。木尺、先きのすり切れた毛筆、木櫛、鳩の形の枕、その他に一五─三〇センチぐらいの俑《よう》がたくさんある。木芯或いは紙芯の泥像である。米を搗《つ》いている女、跪坐《きざ》している女、立っているの、坐っているの、明らかに侍女と思われるもの、さまざまである。木椀、木盃、種子(梨、杏、葡萄、桃、黒豆、麦等々)、点心(菓子)、麻布、麻布靴、赤、黄に染められた絹、紋絹、鎮墓の怪獣像、怪獣は竜か獅子かよく判らないが、羽を生やしており、木芯漆喰《しつくい》、その上に彩色したものである。  高昌故城から出土したものでは、直径三〇センチぐらいの青磁碗が眼をひく。その他はやはり小さいものばかり、銅の観音菩薩(八センチ)と、その台座、首の欠けている天王銅像(十五、六センチ)、小銅馬(四〇センチ)、小銅人(二センチ)、押印。  言うまでもないが高昌国は五世紀の半ばから、六世紀の半ばにかけて繁栄した漢人系の国である。中国風の元号を立て、中国風の官制を採用し、土民はイラン系のものが多かったと思われるが、中国の風俗が行われていたに違いない。アスタナや高昌故城の土から出て来るものは、みなこの時代にここに住んでいた人たちの生活の中に入っていたものである。トルファン地区から漢民族ともイラン系の民族とも区別のつかぬ、実にしゃれた化粧、しゃれた服装の女性像が幾つか出土しているが、博物館に竝べられてあるこまごましたものは、そうした女性たちが身辺に置いたものであろうと思われる。  博物館の参観を終ると、いったん招待所に帰り、直ちにウルムチ(烏魯木斉)に向って出発する。十時である。  すぐゴビのドライブが始まる。右手の天山山脈は霞んでいて見えない。無人のゴビを四十分ほど走って、カシュガル(喀什)方面へ行く道の分岐点を過ぎる。  十一時、前方は幾重にも重なっている山で塞がれる。白楊溝への入口は近いが、くるまはそこには人らず、舗装道路を棄てて、一木一草のない丘陵に登って行く。昨日通った道である。丘陵地帯のドライブが始まる。全く緑というものはない。こんどは完全には通過できないが、北疆から南疆への天山越えでは、ただ一本、白楊河に沿って緑の帯が置かれているのである。  廻り道二十分、乾河道に入り、そこを降って壊れた橋のところに出、そこから白楊溝に入る。 これからは道が舗装してあるので、快適なドライブになる。  前方には巨大な岩石が屏風をなして、立ちはだかっている。芦の束を積んだトラックと、度々すれ違う。川筋はすっかりタマリスク(紅柳)に埋められているが、時折流れが眼に入ってくる。流れは今日も濁っている。向うから来る驢馬三頭がひいている荷車には三人の男が乗っている。  休憩。秋風が立ち、磧には羊の群れ。磧を埋めているタマリスクは、幹や枝は見えず、緑のまるい固まりとなっていて、それが風が吹くと大きく揺れている。  出発。岩山は黒く銹《さ》びたものもあれば、赤褐色を帯びたものもあり、落石地帯を裾に造っているぼろぼろに壊れかかっている山もある。  橋を渡る。突然、視界拡がる。ウルムチ平野に出たのである。一望の緑のオアシスである。やがて遠くに例の塩湖が見えてくる。白い帯と青い帯、白いのは塩、青いのは水域である。塩湖は水際が白く見えている。  ゴビの向うに塩湖の長い帯、駱駝草の向うに不整形な塩の湖。道は一本の黒い帯となって、ゴビの中を走っている。路傍に子供が居る。家を探すと、遠くに土屋が二、三軒見えている。  ウルムチに着くと、夕方までの時間を、これから訪ねる南疆のカシュガル地区の下調べに当てる。明日はカシュガルの町で眠れると思うと、多少心の騒ぎを覚える。十何年か前に「異域の人」という小説でカシュガルを主要な舞台にしているが、この西域最西端の大集落は、それらしいイメージを瞼《まぶた》の上に置くことはできなかった。沙漠の町であるというだけで、手がかりというものが全くなかった。同じ小説で于《うてん》(現在のホータン)を書いているが、この方には白玉河、黒玉河という玉を産することで有名な川も配されてあり、十世紀前半の高居晦の「于行記」という有難い資料もあった。カシュガルは往古の疏勒《そろく》国である。この方には何もなかった。判っているのは、西域の一番奥地の大集落であるということだけである。従って「異域の人」では、主人公班超を十数年疏勒に留まらせているが、ただ一行もその集落のたたずまいを描くことはできなかった。当時疏勒は戸数二万一〇〇〇の城邑であり、兵三万余を持っていたが、これだけの記述では手が出なかった。  その往古の疏勒国、今日のカシュガルに、明日は自分の足で立つことができ、班超が十数年間眠ったその集落の眠りを、自分もまた自分のものとすることができるのである。  夜は賓館に於ての区革命委員会主任汪鋒氏主催の歓迎宴。同副主任チムール・ダワマイティ氏、歴史研究所の責任者谷苞氏、言語学者のアブド・サラム氏等が同席して下さる。汪鋒氏から少数民族、特に回族についての話を聞く。私の場合は、少数民族の中で回族なるものが一番判らないが、氏の話によって多少、正体がおぼろげながらはっきりしたような気がする。もう一度南疆の旅から帰ってから、氏のお話を聞くことにする。  八月十一日、五時三十分起床、六時朝食、六時半出発。今日は天山を越えて、カシュガルに向う日である。  早朝のウルムチの町を突切って行く。町は一昨年来た時より美しく、明るくなっている。蘇州のような古びたところはなくなり、新疆ウイグル自治区の都らしい近代的なものを身につけ始めている。しかし、四辻を通過する時は、どこかに砂丘の欠片である砂山が見えている。それにしてもこの町のポプラ竝木はみごとである。どこまでも、どこまでも伸びて、天を衝いている。  空港着。九時十分離陸。アントノフ24、四六人乗り。カシュガルまで一二〇〇キロ、飛行時間は三時間十分の予定。  上昇すると、すぐ青い短冊型の緑を貼りつめた大耕地の上に出る。集落が点々と見えている。機首を天山に向ける。山塊群がぐんぐん近付いて来る。が、そのうちに何となく、機は天山に平行するように飛び、十五分ほどで漸くにして天山の上に出る。が、曇っているので視界全く利かず、例の波濤のように押し寄せて来る雪の稜角の壮《さか》んな眺めを眼にすることはできない。  十一時十分、アクス空港に着陸、空港の待合室で休憩。ここからカシュガルまでは四〇〇キロ。飛行時間は一時間十分。二十度。  十一時四十分、離陸、すぐ漠地、やがて緑の耕地に変る。間もなく、タリム河を越える。朝鮮人参の根のような、複雑な形の流れである。太い幹からたくさんの根が出ており、幹は幹で、たくさんの中洲を抱いている。  タリム河はタリム盆地の北辺を伏流しては地表に出、伏流しては地表に出ながら、西から東へと流れて行って、ロブ湖に収められる大河である。こんどの旅で、この川の岸に立つつもりであるが、今のところでは、それが可能であるかどうか判らない。伏流するのはタリム河ばかりではない。ホータン河も、カシュガル河も、ヤルカンド河も伏流して身を匿す特技を具えている。タリム盆地の、つまりタクラマカン沙漠の川の特殊なところである。しかし、機上からでは、その伏流地点を眼に収めることはできない。そううまく機は飛んでくれない。  タリム河を越えると、大沙漠が拡がって来、機は沙漠の丘陵地帯の上を飛ぶ。沙漠は平坦ではなく、無数の丘が波立っている。まさにタクラマカン沙漠上空の飛行である。  赤い丘陵がある。無数の雲の影が漠地に捺されている。小山脈を越える。こんどは赤い沙漠。大断層が沙漠を割っている。小山脈の波立ち、次々に小山脈が現れて来る。が、やがてすべては雲に覆われて、視界全く利かなくなる。  十二時二十五分、再び沙漠が見え始める。こんどは所々に短冊型の耕地が貼りついている。集落もある。依然として漠地の拡がりであるが、何となくオアシス地帯に近い感じである。果して緑が多くなり、漠地と緑の地帯が入り混じってくる。  黄褐色の大河が見えてくる。めちゃくちゃに折れ曲り、身をくねらせ、時に渦巻き模様を作ってみせたりしている川である。オアシス地帯が大きく拡がって来る。  十二時四十五分、カシュガル空港着。明るい沙漠の中の空港である。樹木は少い。地区革命委員会の数氏の出迎えを受ける。  すぐ町に向う。くるまはトウモロコシ畑に挟まれた道を行く。埃りがもうもうと舞い上がっている,路傍に一尺ほどの高さの紅花。紅花は薬草で、油もとれるという。ひまわりの花の黄が眼にしみる。  町に入る。驢馬のひく荷車がやたらに多い。行手にかすかに天山らしい山が見えている。  ──天山には天山ですが、この辺りで遠望できる天山山系には、高い山はありません。晴れた日にはパミールの最高峯・ムスタク峯がよく見えます。ムスタクは“父なる氷の山”という意味です。この方はさすがに立派です。  カシュガル行政公署のイミンノフ氏はおっしゃる。  くるまは解放後作られた地区を行く。ウルムチから来た者の眼には、街路樹が何となく貧相に見える。雑然たる町である。町を歩いている男も女も、みな厚着をしている。  町の中心地区で眼に入ってくるものを拾ってみる。驢馬、馬、羊、土屋、それぞれ勝手な民族帽をかぶっている男たち、これまた思い思いの布で頭を巻いている女たち。それにしても、なんと驢馬の多いことか。人間の数と、驢馬の数と、どちらが多いか判らない。  町の中心地区を脱けて、再び郊外へ出る。  ──紅花の花は黄色ですね。  ──いまは黄色ですが、やがて赤くなりますよ。  こんな会話を交しているうちに、くるまは宿舎の賓館の広い前庭に入って行く。庭にはあちこちに花壇が造られてある。  それぞれの部屋で休憩した後、別室に集って、イミンノフ氏からこの地区についての説明を聞く。  ──ここでも北京時間を使っているが、北京とは三時間のずれがある。現在日の出時刻は七時、陽が落ちて、すっかり暗くなるのは十時頃。町の人の仕事始めは十時から。  ──二、三日前に雨が降ったので今日は涼しい。五、六日前までは平均気温三十七、八度。今日は室内で三十二、三度。気温の最高は四十度、最低は零下二十度。乾燥は烈しい。  ──この地帯は海抜一三〇〇メートル。この地区の人口は二〇〇万、十一県一市。カシュガル市の人口は一〇万。  ──民族はウイグル、タジク、キルギス、ウズベク、漢族、回族。カシュガル市の人口一〇万のうちの七〇パーセントはウイグル人。公用語は漢語とウイグル語。新聞、公文書は二種類、それぞれの機関に専門の通訳が配されている。  ──カシュガルはウイグルの原語。突厥《とつけつ》語ではカシュは玉、ガルは集めるの意。現在はカシュガルを略して“カシュ”と呼んでいる。正式の文書でも“カシュ(喀什)”を使っている。ただし、カシュガルはペルシャ語であるという説もあり、清時代にはカシュガルを“最初にできた町”とする解釈も行われていた。  ──市民は農民、工員(セメント、農作機械、製糸、紡績、綿紡績等の工場、発電所)、手工業者(ウイグル帽、楽器、小刀、絨毯、陶瓷器《とうじき》)。工場はみな地元の人の生活のための工場である。  ──農作物は小麦、トウモロコシ、綿、少量ではあるが米。牧畜は羊、牛。果物は杏、桃、サクランボ、葡萄、ザクロ、林檎。果物の季節は七月から九月まで。  ──新疆の有名な毛の長い綿はここが産地。日照時間が長いことが、綿の生産に適している。灌漑は用水路。  ──師範学校一、中等学校六、病院二。  ──この地区には三本の川が流れている。一本は天山から、二本はパミールから流れ出している。張騫《ちようけん》が紀元前一〇〇年代にこの地帯を通過した頃、既にこの町があったことは前漢書に記されている。それより古くからあったかも知れない。往古から商業の栄えた所であったという推定は成り立つ。ウイグル族の人は商人が多く、上海、ブハラ、サマルカンドまで行っている。  ──現在のカシュガルが、紀元前二世紀から千年に亘って続いた往古の疏勒《そろく》国であるかどうかは、正確には言えない。専門家の研究を俟《ま》つ以外ない。現在のこの町の北部のオールド・タウンは、清の乾隆帝の時、繁昌し始めたところとされている。またこの町の南部、現在の紡績工場地区は明の時代に栄えたところと言われているが、それらしい遺跡はない。  ──この町に耿恭台《こうきようだい》という丘があって、そこに塔があったが、今はなくなっている。耿恭は後漢の班超の頃、同じように新疆で活躍した将軍であるが、彼はこの地には来ていない。土地の人がその人の徳を偲んで造ったものであろう。  ──スリタンの墓がある。スリタンは回教を初めて新疆に伝えた九─十世紀の人である。カラハン王国の王を説得して、回教を布教したと伝えられている。  ──古い町であり、長い西域史に登場する町であるが、遺跡と言えるものはない。この町に関する歴史は、みな沙漠やゴビの中に埋まっているのであろう。 二十一  ゴビの中の町々  八月十二日、八時起床、九時朝食、今日は北方五〇キロの地点にあるアトシ(阿図什)という町を訪ねることになっている。アトシは海抜一四〇〇メートル、カシュガル(喀什)より一〇〇メートルほど高い。コスロス・キルギス自治州の州都で、古いアトシの町は一九四六年のボゴズ河の大洪水で全部流されて跡形もなくなってしまい、そのあと五三年にゴビ灘《たん》のまん中に造られたのが現在のアトシの町である。人口二万ほどの小さい町らしいが、新しく造られて二十五、六年経つと、どのような町になっているか、そういう点に興味がそそられる。  しかし、ウルムチ(烏魯木斉)─カシュガルを結んでいる幹線道路に沿っているので、時代に取り残された山奥の町というのではない。  十時出発。迎賓館の庭には花壇が多く、どの花壇にもひまわりの花が咲き盛っている。ポプラの竝木を通って、町に入って行く。この辺のポプラには穿天楊という字を当てるらしいが、なるほど天を穿つという言い方がぴったりする丈高いポプラである。ウルムチのポプラも同じようにやたらに天に向って伸びているが、多少種類は違うらしい。  今日は市の日とかで町はたいへんな混雑である。驢馬に乗った農民が市場へ、市場へと集ってくる。バザール地区の正面にパミールが見えているが、残念なことに曇天で霞んでいる。  土屋の町に人と驢馬が溢れている。まん中だけが舗装されている道を、驢馬二頭曳き、三頭曳き、あるいは一頭曳きのくるまが切れることなく続いている。きのうも町の中心地区で感じたことであるが、人間の数と驢馬の数と、どちらが多いか判らぬと思う。  間もなくバザール地区を脱け、土屋を取り払ってしまった新市街に入る。道幅広く、何となく近代的ではあるが、ここもまた日曜日の混雑を呈しており、やたらに人と驢馬が多い。驢馬の多い新疆地区でも、ここほど驢馬が溢れているところはない。大人も、子供も、老人も、女も、みんな驢馬のひく車に乗ったり、驢馬の背にまたがったりしている。町中を川が流れているが、流れは茶褐色に染まっている。  郊外に出る。畑のトウモロコシの緑が陽光に光って美しい。道は昨日空港から来た道で、それを逆に北に向っている。前方に低い丘の連なりが見えて来るが、アトシにはそこを越えて行かねばならない。  集落を通過するが、ここも市で賑わっている。やがて空港を過ぎる。町から七キロほどのところ、この辺りは全くの沙漠地帯で、道だけが一本の黒い帯となって、前方の段丘に向って真直ぐに延びている。段丘は昨日機上から見ている。  やがて道はその丘に突き当るが、間もなく道から逸れて、三仙洞と呼ばれている洞窟を望める地点へ通じている間道に入る。砂岩の丘陵地帯をがたぴし揺られながら行くと、程なく大渓谷の縁に出る。そこで下車、カシュガルの町から一〇キロのところである。  口隆康氏の説明によると、ペリオの報告書に載っている洞窟で、氏は氏持参の地図で、そこがアトシに行く途中にあることを知って、土地の人に案内して貰って来たのである。  くるまが停まったところは、荒れに荒れたチャクマク河の渓谷を俯瞰できる場所で、なるほど遠い対岸の断崖に小さい三つの洞窟らしいものが見えている。双眼鏡で覗くと、多少洞窟の入口と内部の一部を眼に収め得るが、まあ、その程度である。曾てはそこに壁画も描かれ、仏像も安置されてあったのであるが、今はどの程度遺っているのであろうか。それにしても、三つの洞窟までの高さは四〇メートルほどあるという。ぺリオはよくあのようなところに登って行ったものだと思う。  チャクマク河の川床は大きく抉りとられたようになっているが、いつか大洪水の時にでも現在見る姿になったのであろう。荒涼たる眺めである。肝心の流れは広い川床を隔てて、向うの断崖の裾に、一本の細い青い線として置かれている。遠いので川幅のほどは判らないが、その流れのこちら側に緑の地帯が見えている。カゴット村という集落だそうであるが、全くの広い川床の片隅に営まれている集落である。洪水の危険もさることながら、そこに住む人の明け暮れはいかなるものであろうかと思う。  出発、先刻来た道を逆戻りして、砂岩の丘陵地帯を行く。そして本道に入ると、段丘に沿って、その裾を廻って行き、やがて丘の向う側に出る。小さいオアシスの村がある。そこを脱けると、一望の漠地が拡がって来、前方に天山の支脈が霞んで見えている。それに向って、いま迂回して来た丘の連なりを右手に見てのドライブになる。左手にも低い丘が立っている。二つの丘の連なりの間には漠地が拡がっており、ところどころに水溜りが置かれてある。昨夜雨が降ったためであるというが、そう言われてみれば、昨夜ホテルで雷鳴を聞いたように思う。ウルムチに通じている幹線道路のドライブなので、一応快適である。自治州の州長さん差し廻しの出迎えのくるまが先頭を走っている。  次第に右手の丘の連なりは遠くなり、前方に緑の大平原が拡がって来、その向うに山が置かれてあるが、その山の麓にアトシの町は位置しているという。  そうしたオアシス地帯のドライブがかなり長く続き、やがて橋を渡って集落に入って行く。アトシの町である。橋で渡った川は、二十数年前に氾濫して古いアトシの町を呑み込んでしまったボゴズという川である。  カシュガル市から五〇キロ、ここもまた驢馬の町である。町にはキルギス帽の男が多い。キルギスは唐の時代に黠嗄斯《ジカズ》と呼ばれていた民族で、新疆地区ではこの辺りに多く住んでいる。州人口は三六万、そのうちウイグルが三一万、キルギスが五・六万。北と西に山を廻らせたゴビ(戈壁)の町である。  キルギス族の州長さん、漢族の副州長さん、ウイグル族の県長さん、それぞれ顔の少しずつ異った人たちの歓迎を受け、州商業局招待所に入る。  ハミ瓜をご馳走になりながら、この地方の説明を聞く。洪水のために生れた町なので、すべての話が洪水から始まり、洪水に戻ってゆく。  洪水は一九四六年六月二十四日夜。水の量は一〇〇〇流量。溺死者は判明しただけで三六四人、流失家屋は四〇二五戸。人口一万の町だったので、まず全部の家が流れてしまったと言っていい。一〇〇〇流量というのがいかなることを現しているか、こうした方面に無知な私には判らないが、一夜にして人口一万の町が流されて跡形もなくなってしまったというから、たいへんな氾濫であったに違いない。  私は中国の地理書「水経註」の小さな記述をもとにして、神話的な「洪水」という短篇を綴っているが、現実の事件となると、その惨状を眼に浮かべることは難しい。  ──この町は全くのゴビの上に造った町です。今年は二十六年目、人口は古いアトシの二倍、二万です。この町で日本のお客さまを迎えるのは初めて、町中が鳴動しています。  県長さんはおっしゃる。  一休みしてから、スリタン・ハドク・ボグラハンの墓に出掛ける。スリタンは九─十世紀の人、カラハン朝の王を説得して、イスラム教を最初に新疆地区に伝えた人物で、町の西南の端れにその墓とモスクがあるという。  招待所を出ると、なるほどたいへんな人が招待所の前を埋めている。漸くにしてくるまに乗る。町に出ると、町は町で日曜日の市が立っていて大混雑、郊外に出ても、バザールを目指す人々の列が続いている。一〇キロ、二〇キロという遠い所から夜をこめて歩いて来た人も居るという。  暫く郊外をドライブして集落に入る。街路樹の楊の葉が、屋根となって路上を覆っている。やがて周辺がポプラで埋められた寺院に到着。なかなか立派なモスクである。六十八年前に、洪水で流されたアトシの町に造られたが、洪水の時、このモスクだけが難を免れ、今日に到っているそうである。ここはスリタンが亡くなったところで、そのために墓と、礼拝するためのモスクが造られているのである。  いったん招待所に帰って昼食、午後は対外貿易局、コスロス商場、毛製品工場、果樹園などを参観、どこへ行っても、くるまの乗り降りが大変なほど人が集っている。州長さんの言葉通り、町中が数人の日本人のために、まさに鳴動しているのである。  夜は招待所に於て、ダイール州長によって設けられた歓迎宴。  宴後、州文工団の歌舞を見るために、町の中心地区にある工農兵文化館に赴く。この場合も招待所を出ると、くるまのところまで行くのが大変である。大人も子供も、招待所の前を埋めている。さすがに大人たちは背後の方に居るが、子供たちは一間ほどの通路をあけただけで、その通路の両側に立ち塞がっている。四、五歳の小さいのも居る。顔に視線を当てると、どの子供も身をくねらせて、何とも言えない純真なはにかみ方をする。次々に眼を当てる。次々にはにかんでゆく。まるで花でも開いて行くようだ。一人が転んだので起してやると、それだけで歓声がわく。  その夜、文工団の歌舞が終って、招待所に帰ったのは、大分遅い時刻である。さすがにもう招待所の前は静かになっていたが、それでも二、三十人の子供たちが集っていた。  五、六歳の女の子が入口の扉のところに立っていた。先刻転んだのを起してやった女の子である。その背後でその女の子の肩に手をかけて立っているのは、祖母らしい女性である。  女の子は真剣な顔を私の方に向けている。その時の印象では、自分が転んだのを起してくれた外国人をもう一度見たくてやって来たとしか思えない。祖母はそうした彼女に付合って、一緒について来てやったのであろう。アトシというゴビのただ中の町では、このような幼い子供たちが育っているのである。  十時に、接待所を辞してカシュガルヘの帰途に就く。燈火一つない真暗い原野のドライブは異様であった。集落も一つか二つ通過する筈であったが、どこにも燈火は見えなかった。パミール高原の方角で雷鳴が聞えていた。確かにここには夜がある! 正真正銘の夜というものがある! そんな思いに揺られてのドライブであった。  迎賓館に戻り、十二時就寝。深夜まで遠い雷鳴が聞えていた。  十三日、十時十分、ヤルカンド(莎車鎮)に向けて出発する。昨夜充分睡眠をとっているので、気分は爽快である。  ジープ四台、昨日行ったアトシとは逆の方向に向う。これからは舗装がなくなるというので、当然荒いドライブになる。が、まあ仕方ないと思う。ヤルカンドは西域史に度々登場してくる往古の莎車《さしや》国である。  カシユガル河を渡って郊外に出、みごとなポプラ竝木の道を行く。トラックの往来が頻繁である。ホータン・ウルムチ長距離自動車道路のドライブなので、当然なこととしてくるまは多い。今日行くヤルカンドも、昨日行ったアトシも、みなこの幹線道路に沿っている。  二十分ほどで疏勒県を通過、カシュガルの漢城、つまり漢族の居住地区として造られたところである。ここから街路樹がなくなる。道は大耕地の中を突切って延びており、両側の畑には貧しいポプラが点々と散らばっている。時折ひまわり畑が現れる。ひまわりの花の黄だけが鮮やかである。曇っているので、右手に当然見えるべき崑崙の山影は見えない。時折、集落を過ぎる。トウモロコシ畑、ひまわり畑、木はポプラばかり。人を乗せた驢馬を追い越したり、それとすれ違ったり。遠くに羊の放牧風景。  十二時、小集落を通過、村の引越しでも行われているかのように、路上に驢馬の荷車隊が溢れている。  大耕地は続いているが、時には漠地の挟まっているのを見る。漠地ばかりでなく、砂丘の欠片も挟まっている。また草も育たぬアルカリ性土壌の不毛地も挟まっていて、それが背後に飛んでゆく。  十二時二十分、漸く晴れ始め、右手遠くに山影が現れ、それが次第に前方に廻ってゆく。崑崙山脈の支脈なのであろう。誰かが蜃気楼を見付ける。なるほど遠くの平原の果てに、幻の湖が置かれている。  やがて小砂丘が散らばっている地帯に入る。この辺りの砂丘は移動するので、一晩で道路が砂に埋まってしまうことがあるという。前方の山脈、雄大になる。相変らずトウモロコシ畑とひまわり畑、濃い緑色と黄色。  十二時三十分、辺りは一望の大オアシス地帯となり、やがて大きい集落、インギシャ(英吉沙)県に入る。県の招待所で休憩、昼食。ここも明るいポプラの町である。県の人口は一四五万、県城、つまりこの町の人口は一万。八〇パーセントはウイグル人である。もちろん農業県で、小麦、トウモロコシが主要産物、牧畜を営む者もあるが少く、工業も小規模。  この町はタリム盆地の西南に位置し、カシュガル・オアシスの西南の端れ、ここを出ると、本格的なゴビ地帯に入って行く。この県はまだタクラマカン沙漠の中には入っていない。タクラマカン沙漠の方は、ここから二〇〇キロほどの地点から、海のように拡がり始める。  この町は漢書に載っている依耐《いたい》国の故地とされている。往古の西域南道の国で、西域三十六国の一つである。  漢書の依耐国はそう大きい国とは言えない。“戸一百二十五、口六百七十、勝兵三百五十人”と記されている。国の形はなしていたのであろうが、まあ、少数民族の比較的大きな定着地だったのであろう。  このインギシャは清の時代にはインギシャハル(英吉沙爾)と呼ばれていた。これはウイグル語で、“新しい城”という意味、それが省略されて、現在のインギシャになった。清以前はいかなる状態にあったか判らない。さしずめ古代の依耐国の故地とでも言う他ない。もちろん依耐国の都城がどこであったかは判らない。  この町にも日本人は来ていないらしく、町に出ると、たいへんな人だかりである。町の刃物工場を参観する。少数民族の人たちが腰に吊り下げている小刀を造っているところである。大抵の人たちがこれを手ばなさないで持っており、瓜などを切るにも、これを使っている。いかにも西域南道の町の工場といった感じの工場。  招待所で二時に昼食。三時に出発。明るいポプラの町を出ると、いきなり右手には漠地が拡がり、左手はオアシス、道は前方の泥の丘の波立ちの中に入って行く。大丘陵地帯がかなり長く続く。  数人の男が柩《ひつぎ》をかついで行くのに会う。葬式である。このゴビ地帯で生きた人が死んだのである。どのような一生であったか知らないが、一人の人間の生涯は終ったのである。  やがて左手のオアシスもなくなり、大漠地の拡がりとなる。右手にダムの大きな貯水池が現れてくる。灌漑用のダムなのであろう。地盤は波立っており、左手の波立ちは宛《さなが》ら海のようである。右手の方は遠くに細く緑の地帯が見えている。相変らず行き交うのは驢馬である。道は丘を割り、丘を割って走っている。  三時半、トプロック人民公社、四時、キジル人民公社。キジルは全くのキジル・ゴビの村である。ポプラの発育は悪く、時々砂塵が舞い上がっている。ここで休憩、埃りの村を歩く。  ここを出ると、キジル・ゴビのドライブになる。大きなゴビである。四十五分、走りづめに走ったが、依然としてゴビである。ずっと右手には低い丘が連なっている。大きなゴビではあるが、しかし南疆では大きな方ではなく、カシュガル、アクス(阿克蘇)の間に横たわっているゴビなどはもっとずっと大きいそうである。  空にはところどころ青い所があるが、大部分曇っており、ゴビ一帯がぼんやり霞んでいて、その中に何本か竜巻が立っている。  五時四十五分、久しぶりに道の両側に青いものを見る。ポプラの苗木である。やがてそれがひよひよではあるが、とにかく一本立ちのポプラに変ってゆく。ヤルカンド・オアシスに入ったのである。  やがて両側に畑、次第に緑が溢れ出し、人間、驢馬、集落、トウモロコシ、ひまわり、──ゴビの裾に、生活は営まれているのである。  しかし、まだヤルカンドには四〇キロある。沙棗《すななつめ》が街路樹として道の両側に植っているところを通過する。田野のまん中を走っているためか、道が壊れ、路面に水溜りのできているところが多く、ためにドライブは難行苦行。  やがて綿畑、みごとなポプラ竝木、そういった美しい農村地帯に入り、集落を縫って、ヤルカンドに近付いて行く。そしてみごとな長いポプラ竝木の道に従って、ヤルカンドの町に入って行く。粒子の細かい砂の町である。ここも驢馬の町。路傍には西瓜や瓜の店が竝び、人が溢れている。どこか、昨年訪ねたもっと東方のホータン(和田)の町に似ている。やがて、くるまは今夜の宿舎であるヤルカンド県委員会招待所の広い敷地の中に入って行く。  夕食はマイホマイティ・マイマイティ副県長、徐效成辨公室主任氏等が宴席を設けて下さる。いろいろこの地区の話を聞く。  ──ヤルカンドはカシュガルより一九六キロ。  ──ヤルカンド河が県を流れていて、地味は肥沃《ひよく》。農作物は穀物、綿花、ゴム。牧畜は牛、羊。羊は五八万頭。  ──県の人口は三六万、ヤルカンドの町は四・五万。  ──民族はウイグル、漢、回、キルギス、タジク、ウズベク、蒙古、カザフ、オロシヤ、タタル、満族、──まさに少数民族の雑居地帯である。この県は十八の人民公社と一つの鎮から成っている。  ──この町は前漢時代の莎車国。  ──養蚕事業は二千年前から行われている。前二世紀に伝わり、六世紀になると、非常に発達した。ここの絹はインド、ヨーロッパにも運ばれた。  ──往古の莎車国の城市はヤルカンド河の洪水で壊れ、三〇キロ離れたゴビの乾河道になっていると見られている。記録がないので正確なことは判らない。河道の変遷、洪水は歴史の上には何回も起っている。  ──十八世紀の中頃、乾隆帝の時、非常に小さい町を大きくしたという記録がある。その後変遷があって、十九世紀の光緒《こうちよ》帝の時造られたのが、現在の町である。  夕食後、町に出る。ゴビの海に取り巻かれている町にはいま夕暮が来ようとしている。オールド・タウンに入る。人は出盛っており、新疆地区の少数民族の町特有の騒がしさが辺りを占めているが、それでいてどこかにしんとしたものが感じられる。  ここを前漢時代の莎車国の故地とすれば、たいへん古い歴史の町である。二千年の歴史が流れているが、しかし、その大部分は判っていない。莎車国の名は前漢時代で消え、あとに続く時代の史書に、莎車国の後身と目されるいろいろの国名が登場するが、正確なことは何も判っていない。疏勒国(カシュガル)と于国(ホータン)の二つの大国に挟まれ、その歴史も、当然、波瀾興亡に富んだものであったろうと思われる。  玄奘三蔵の「大唐西域記」に“烏国”という国のことが載っており、この国の南はヤルカンド河に臨んでいると記されている。このことからこの国をヤルカンドとする説も行われている。  仮りにこの国をヤルカンドと仮定すると、  ──土地は肥沃で、農業は盛大である。林樹は欝蒼とし、花、果は繁茂している。さまざまの玉を多く産出する。  ──気候は温和で、風雨は順調である。人々の間には礼儀は少く、性質は荒々しい。  ──文字・言語はカシュガルと少しく同じ点がある。容貌は醜悪で、衣服は皮や毛織である。  ──しかし、信仰はわきまえ、仏法を信奉している。伽藍《がらん》は十余カ所、僧都《そうず》は千人足らず。  ──数百年この方、王族は跡絶《とだ》え、自らの君主はなく盤陀国(タシュクルガン)に隷属している。(水谷真成氏訳「大唐西域記」より)  以上が七世紀の玄奘三蔵が見たヤルカンドということになる。タシュクルガンは現在、パキスタンとの国境に近いパミール山中の大きい集落である。いずれにしても、ヤルカンドは他国に隷属しなければやって行けない国であったのであろう。  こうしたヤルカンドの町に刻一刻、夕闇は深くなりつつあった。多少他の集落が持たぬしんとしたものが、表通りや路地に立ちこめていても、さして不思議はないかも知れない。 二十二  崑崙の川、パミールの川  八月十四日、ヤルカンド県委員会招待所の一室で、八時に目覚める。朝食後、ジープでヤルカンド河を見に行く。ポプラ竝木の道を通って、郊外に向う。午前中のヤルカンド(莎車鎮)の町は人が少く、静かで、いやに清潔である。昨日のあの夕闇の中に人が渦巻いていた同じ町とは思えない。  ヤルカンド河大橋の橋畔で下車。川幅は一キロ、濁流が幾つもの川洲を抱えて、かなりのスピードで流れている。上流も下流も、水域が広くなっていて、川筋が幾つかに分れているように見えるが、はっきりしたことは判らない。天涯から流れ来たり、天涯へ流れ去っているとでも言う他ない。言うまでもなくホータン河と竝んで、崑崙山脈から発している代表的な川であるが、茫洋《ぼうよう》たる川筋と言い、黄濁した流れと言い、タクラマカン沙漠の川としての貫禄は充分である。  川の両岸にはゴビ(戈壁)と田圃が拡がっているが、そうした地帯にも川の水が溢れて、川の一部のように見えているところもある。上流にも、下流にもそういうところが見えているので、川筋というものをはっきりと掴みにくいのである。しかし、八月の今は水の多い時期ではない。昨夜、山地が豪雨に見舞われ、そのために多少、水嵩が増しているという。最も水量の多いのは六、七月頃で、その時期は流れが橋桁いっぱいになり、橋の上から覗くと、ただ怖いだけだという。さもあるであろうと思う。  ヤルカンド河も初めから黄濁しているわけではない。崑崙から流れ出す時は澄んできれいな川であるが、流れ下るにつれて土砂が入って黄濁した流れになってしまうという。だから流れの水をコップですくうと、砂は底に溜って、水はきれいになる。しかもウイグル人に言わせると、たいへんうまい水だそうである。  再び町に戻る。僅かな時間の間に、町は本来の西域南道の集落としての面目を取り戻している。着ぶくれた男女の町であり、驢馬の町であり、二頭曳き、三頭曳きの荷車の町であり、みごとなポプラの町である。真夏だというのに、軽装の男女は見掛けない。ただ男たちは夏用の白いウズベク帽をかむっている。  新市街と旧市街は隣り合っている。新市街の方は多少明るく近代化されかかっているが、オールド・タウンの方は、全くの砂埃りの町であり、町のたたずまいはホータン(和田)に似ている。  アチラース織の工場を参観したあと、招待所に帰る。招待所の庭も細かい粒子の白砂に覆われており、一歩踏み出すと靴は砂をかぶって白くなる。こういうところもホータンと同じである。そのホータンまでは三二〇キロ。強行すれば一日の行程である。ホータンには五十二年に空から入っているが、半ゴビ、半沙漠に取り巻かれているこの集落には、南道伝いに入るに越したことはない。しかし、こんどの旅では日程の関係で諦める以外仕方がない。  十一時四十五分、ヤルカンドの町を発ってカシュガル(喀什)に向う。昨日ドライブした同じ道をカシュガルに引き返すわけである。  キジル・ゴビに入るまでのヤルカンド・オアシスのドライブは、昨日と同じように快適である。トウモロコシ畑、ひまわり畑、綿畑、その間に水田が挟まっている。胡麻畑もある。胡麻畑は小さい薄紫の花が美しい。  昨日素通りした沙棗の竝木で停車、みごとな沙棗の大樹をカメラに収める。沙棗の木は方々で見掛けるが、これだけ大きいのは初めて、しかもそれが道の両側に竝んでいる。三、四十本はあろうか。ヤルカンドから四〇キロの地点、そろそろヤルカンドのオアシスと別れて、キジル・ゴビに入ろうとする地帯である。時計を覗くと十二時半。  この辺りから昨夜の雨のための水溜りがちらばり始め、大きな池があちこちにできている。ジープは到るところで渡河を敢行、荒いドライブが始まる。  十二時五十分、ゴビに入り、四、五十分続く単調なゴビのドライブが始まる。しかし、今日は道がひどく荒れていて、単調どころではない。まるで洗濯板の上のドライブである。昨夜の雨で、乾河道という乾河道には赤い水が流れており、そこを直接渡河したり、遠廻りして渡れそうなところを探したりしなければならぬ。赤い流れのただ中に身動きとれなくなっているトラックもある。  赤い流れは無数に現れて来る。ゴビの中に、いかに乾河道というものが多いかに驚く。ジープの運転手君の話だと、現在の時刻では山からの水の全部はまだ到着していないそうである。夕方になると水量は増し、赤い流れは、赤いままで激流に変ると言う。  途中、ゴビのただ中で休憩。全くの休憩である。小石の原の上に腰を降ろすと、崑崙が眼に入って来る。崑崙の遠望はすばらしい。低い丘の波立ちの向うに、長い稜線の山脈が幾重にも重なって見えている。  二時五分、キジル・ゴビの島のようなひと握りほどの小さいオアシスに入る。キジル人民公社が闘いとったオアシスで、そこで休憩。キジル・ゴビのただ中の村である。昨日もここで休憩したが、昨日と同じように、今日もこの村ただ一本の往還には砂塵が舞い上がっている。子供が一〇人ほど集って来て、私たちを遠巻きにしている。みんな怜悧《れいり》そうな顔をし、眼を輝かしているが、殆どが跣《はだし》である。いかなる血を持っている子供たちであろうか。ここの古い地名はチャメロン。  出発、小さい村を出て、再びゴビの中へ入って行く。インギシャ(英吉沙)まで二〇キロ、一時間のドライブ。この地帯もまた新しくできた赤い流れのために、道は大きく抉りとられて、昨日と同じ道とは思われぬ。まさに難行苦行である。  四時、インギシャの町に入り、県の招待所で遅い昼食。五時十分、出発。カシュガルまで二時間半のドライブ。  カシュガルの町へ入る竝木道は素晴しい。アカシヤを内側にポプラを外側にした二重竝木のところもあれば、片側アカシヤ、片側ポプラのところもある。そうした長い竝木道によって、カシュガルの町へ導かれて行く。  招待所に入り、八時、夕食。食欲全くなし。食後、明日の打合せ。明日は五時起床、六時にカシュガルの南一〇〇キロの地点にあるサンガイズ(上蓋孜)に向けて出発、日帰りの予定である。サンガイズはパミール高原に入って行くその途中にある集落で、古いキャラバン・サラエ(隊商宿)があるというので、それを見るのが目的である。  古い記録によると、旅行者はカシュガルからサンガイズまで徒歩で八日、サンガイズからパキスタン国境に近いタシュクルガン(塔什庫爾干)まで十二日を要している。カシュガル─タシュクルガンは二八〇キロ、タシュクルガンから国境までは一五〇キロ。そして明日ドライブするカシュガル─サンガイズの道は、パミール山中で、中国とパキスタンを結ぶカラコルム・ハイウェイに繋がっている。  こんどの私たちの新疆地区の旅行では、このサンガイズ行きは最も重要なスケジュウルの一つになっている。ただ問題は、この二、三日、パミールが豪雨に見舞われ、途中の道が荒れていることで、果してサンガイズまで行き着けるかどうか。しかし、折角計画をたてたので行けるところまで行ってみることにする。万一の場合を考えて一泊どまりの用意もしなければならぬし、寒さや、雨に対する用意も必要である。  部屋に引き揚げて、明日の用意にかかるが、私の場合、この頃から自分で何をしているか判らなくなる。が、ともかく荷造りして寝台に入る。  八月十五日、目覚時計で目覚めるが、全身が痛くて、寝台の上に起き上がることもできない。サンガイズ行きは諦める以外仕方がない。そのことを中国側の人たちに報せて、そのまま眠る。そして夕方目覚めるまで、眠りづめに眠る。夜もまた眠る。その間に点滴や注射の治療を受けていたのであるが、殆ど記憶はない。三十九度以上の熱に浮かされていたのである。佐藤純子さん、解莉莉さんのお二人には、付きっきりで看病して貰ったらしいが、何も知らない。  八月十六日、一夜明けると、すっかり気分はよくなり、熱も平熱、血圧、脈搏共に正常。カシュガル第一人民病院の内科医長さん、女医さんの二人が昨夜から泊り込んでいて下さるという。恐縮の他はない。サンガイズ行きは私のために取りやめになり、これまた同行の諸氏に対して申し訳ないと思う。先月、今月と二度中国旅行が続き、しかもその間に休息期間がなかったので、結局旅の疲労が重なっていて、それが突発的な発熱という形で現れたのであろう。しかし、このお蔭で思いがけず贅沢な休養がとれて、すっかり元気になる。  八月十七日、半日休養、午後四時半に外出、香妃墓というのを参観に出掛ける。戸外は三十一度。秋が立ってすでに何日か経っているので、暑さの峠は越した感じである。時刻は四時半であるが、まだ陽は高い。北京とは時差三時間、ウルムチ(烏魯木斉)とは二時間。日本とでは四時間。従って日の出は七時、暗くなるのは十時頃。  ポプラと、驢馬と、土塀の町を歩く。発熱休養のお蔭で、のびやかな散歩に恵まれている恰好である。  香妃の墓は招待所からくるまで五分ほどのところにあった。町の東の端れに当っている。墓の建物は高さは二五メートル、左右三六メートル、全面タイルで覆われている。タイルは北京から持ってきたもの、この土地のもの、いろいろ混じっていて余り上等ではないそうであるが、建物の形はなかなか堂々としており、ドームのタイルで包まれた塔もいい。  この建物の中に香妃と呼ばれている女性の一族、五代七二人の墓が収められている。香妃の墓もあれば、両親の墓もある。建物の中に七、八十センチの高さの広い壇があり、その上に七二人の墓石が竝べられてある。棺は墓石の下、床から二メートルのところに収められてあるという。薄暗い中を一巡する。まさに一族の墓であり、一族の墓も、これだけ集ると壮観である。  香妃についての伝説はいろいろあり、どれが真実に近いものか、或いは全くの架空の物語か、よくは判らないそうである。  とにかく香妃はこのカシュガルの地から召されて、乾隆帝の後宮に入った女性で、天成の美貌のほかに、体から芳香が漂っていたと言われている。伝説ではこういうことになっており、悲劇の主人公にされたり、幸運の女性にされたり、中国と少数民族の親善のために役立たされたり、いろいろな物語が香妃をめぐって生れている。  それはともかくとして、香妃の体が持っていた芳香なるものが、いろいろと問題になってくる。伝説では沙棗の花の匂いを持っていたということになっているが、私たちも沙棗はこんどの旅行で多少馴染みになっているので、この物語を支持したいが、肝心の沙棗の匂いそのものについては、残念ながら発言権を持っていない。  沙棗は四、五月頃木犀《もくせい》のような小さい黄色の花を持ち、その花のひと房を部屋に置いても、部屋中が匂うという。いかなる匂いであろうか。  香妃の墓を辞して、町に引き返す。新市街の端れにエィティカール・モスクがあり、その背後一帯がオールド・タウンになっている。このモスクが最初に造られたのは四百四十九年前であるが、百五年前に建て直されているというから、さほど古いものではない。それはともかく、この地区では一番大きい生きたイスラム寺院である。朝七時半から夜の十一時半までの間に、五回の礼拝時間が設けられてあり、五、六千人の礼拝者が集るという。新疆地区で幾つかの回教寺院を見て来ているが、カシュガルに来て初めてイスラム教の本場に来たという感慨を持つ。  エィティカール・モスクを出て、その傍の市場に入る。忽ちにして大勢の人に取り巻かれて動きがとれなくなり、這々《ほうほう》の体で引き揚げる。バザールもまた、ここが本場という思いを持つ。バザールを一巡できなかったことが残念である。  この町の家は日乾《ひぼし》煉瓦を積み上げて造ってあり、それに赤い泥か白い石灰が塗られている。もともと土が赤いので、煉瓦そのものも赤い。町中を三本の川が流れているが、三本の川もまた赤い。  八月十八日、女医さんの張可真女史から全快を申し渡される。それで明日は空路アクス(阿克蘇)に向うことにする。カシュガルの滞在が長くなったので、その間にカシュガルに関する話をいろいろな人から聞いている。話してくれた人はお医者さん、看護婦さん、通訳さん、コックさん、運転手さん、それから地区革命委員会の人たち。  ──三月から五月までの間に、何回か大風が吹く。最初、沙漠から吹いて来る風のため遠くに黄塵が上がるのが見える。それから二時間ほどすると、町は黄塵のために視野全くなくなり、家の内部もまた暗くなる。  ──雨は少い。たまに雨が降ると、道はすっかり荒れてしまう。冬は雪が降る。その雪を灌漑用水に使っているので、農作物のためには雨を必要としない。  ──こちらで雨は降らなくても、パミールの方で雨が降ると、その水が流れて来る。そのために道は荒れてしまうのである。  ──カシュガルには天山の西部から発するトマン・ダリヤ、クズル・ダリヤ(別名カシュガル・ダリヤ)の二本の川がある。町はこの二つの川に挟まれている。クズル・ダリヤはカシュガルでは最大の川で、川幅は五〇〇メートル。カシュガルからヤルカンドヘ行く途中を流れている。  ──ヤルカンド、ホータンの二川は崑崙から発し、ガイズ・ダリヤ、クサン・ダリヤの二川はパミールから発する。ガイズ・ダリヤは黄色の川で、カシュガルとインギシャの間を流れているが、いつか消えてしまう。  ──天山とパミール、パミールと崑崙は繋がっていて、繋がるところは必ずしも低くなっていず、特に境はない。  ──天山の西端はカシュガルの真西に当っており、土地の人の中にはパミールと呼んでいる人もある。  ──カシュガルからは天山も、崑崙も見えない。西端にパミールの雪山が見えるだけである。ムスタク峯、コンゴル峯である。崑崙はヤルカンドヘ行く途中から見えてくる。 二十三  タリム河に遊ぶ  八月十八日(前章の続き)、午後七時、カシュガル(喀什)より空路アクス(阿克蘇)に向う。アクスまで四〇〇キロ、約一時間。  八時にアクス空港着。空港から町まで黍《きび》、トウモロコシ、玉葱、ピーマンなどの畑が続いている。カシュガルに較べると野菜畑が多い。  町に入ると、道に埃りが立っている。この町の最初の印象は砂塵の町ということになる。町中のアクス第一招待所に入る。大きな招待所である。奥の方の部屋に案内される。静かでいいが、他に泊り客がないので少々淋しいくらいである。  夜はアクス行政公署専員のトフティ・アブラ氏主催の招宴、同公署の郭堅氏、イルワス氏等が卓を囲んで下さる。  アクス行政公署の人口は一四六万、アクス県域の人口は八万八〇〇〇。アクスは漢書に出てくる姑墨《こぼく》国である。漢書には、  ──戸数三千五百、人口二万四千五百、勝兵四千五百、南は于《うてん》(現在のホータン)まで馬で十五日の行程。銅、鉄、紫黄(鉄鉱の一種)を産す。  こういったことが記されている。于への道というのは、おそらくはホータン河に沿ってタクラマカン沙漠を突切って行ったもので、往古にはこうした南道と北道とを沙漠を突切って結ぶ道が使われていたのであろう。  七世紀の玄奘三蔵もインドに向う往路に於て、アクスを通過しており、その紀行「大唐西域記」には、アクスは“跋禄迦《パールカー》国”として紹介されている。伽藍数十カ所、僧都千余人といった小乗仏教の大集落である。下って唐代には撥換《はつかん》城として知られ、十三世紀以降はイスラム教の大拠点として、次々に歴史の大きい波をかぶっている。  この天山南麓の小オアシスが国として、あるいは大きい集落として、その存在を失わないで来られたのは、ここが天山山中の鉱物資源に恵まれていたことと、そしてまた交通上の要衝を占めていたことに依るかと思われる。西域北道は東にも、西にものびており、先述したように于への道もここを起点としている。更に大きいことは天山越えの要地であったということである。  玄奘はアクスで西域北道から離れ、道を西北にとって天山を越え、イシク・クルの湖畔に出てキルギス共和国に入っている。玄奘のみならず、たくさんの人が、あるいはたくさんの集団がこの道を通って西域から出て行ったり、逆に西域に入って来たりしている。西トルキスタンと東トルキスタンを結ぶ極く少い道の一つであり、重要な東西交渉路である。しかし、決して安易な往還ではない。少し長くなるが、足立喜六著「大唐西域記の研究」の訳文を借りて、玄奘の天山越えがいかなるものであったかを紹介してみよう。  ──国(跋禄迦国、つまりアクス)の西北より行くこと三百余里にして、石磧(ゴビ)をわたって凌山(氷山)に至る。此れ則ち葱嶺(パミール)の北原(源)にして水は多く東に流る。山谷の積雪は春夏も合凍す。時に消《しようはん》することありと雖《いえど》も、ついでまた結氷す。道は険阻にして寒風は惨烈なり。暴龍の難多くして行人を陵犯す。この路によるものは衣を赭《あか》くし、瓠《ひさご》を持ち、大声に叫ぶことを得ず。すこしく違犯するものあれば災禍を目のあたりにみる。暴風は奮いおこって沙を飛ばし石をふらす。遇う者は喪没して以て生を全うすること難し。  ──山行四百余里にして大清池(イシク・クル湖)に至る。大清池は熱海と名づけ、また鹹海ともいう。周は干余里ありて、東西は長く南北は狭し。西面は山を負うて衆流は交湊す。色は青黒を帯びて味は鹹苦を兼ねたり。……龍魚雑処して霊怪はまま起る。ゆえに往来する行旅は祀って以て福を祈る。水族は多しと雖も敢て漁捕するものなし。  ──清池の西北に行くこと五百余里にして素葉水城に至る。城の周は六七里ありて商胡は雑居せり。  玄奘が越えた氷山なるものが天山山脈のどの峯であるかは判らない。玄奘は天山という言葉は使わないで、パミールの北源、つまり北の始まりとしている。とにかくそういうところを越えて、イシク・クル湖畔に出、それからキルギス共和国のチュー盆地に入って、当時遊牧民突厥の根拠地であった素葉水城なるところで、天山越えの疲れを休めているのである。素葉水城がチュー盆地のどこにあったかは判らないが、大体トクマク附近ではないかという見方が一般に行われている。  筆者は先年チュー盆地を訪ね、トクマク、更に北のアク・ベシムの遺跡に立ったが、附近一帯は盆地というより天山の前山が平原に入るために造っている大斜面といった感じのところで、ドライブしていると高原の爽やかさが感じられた。  このイシク・クル湖からチュー盆地にかけては烏孫の赤谷城、突厥の素葉水城、唐の砕葉鎮、カラハン朝のバラサグン城といった時代時代の歴史の欠片が散らばっており、今はそのすべてが土の中に入って、その所在をくらませている。  ただ一つ判っていることは、時代時代によって盛衰はあるにしても、長い歴史を通じてこの地域が東西交渉の幹線として、頗る重要な位置を占めていたということである。ある時は国際都市と呼び得るような性格の大都市も生れていれば、ある時は沿道一帯が諸国からの隊商によって頗る殷盛を極めていたであろうということである。しかし、今日すべては消え、高原風の原野が拡がっているだけである。  筆者はチュー盆地の旅で、イシク・クル湖の湖畔にも立ちたかったが、この方は飛行機の都合がつかず果せなかった。この湖には龍と魚が雑居していて時に変異を起すと、玄奘は記しているが、現代の知識はもう少しはっきりした形で、この湖の変異を捉えている。もともと湖底に集落が呑み込まれているという伝承があったが、一九五八年、ソ連科学アカデミー考古学研究所によって湖底の調査が行われ、伝承が単なる伝承でなく、一つの歴とした事実であることが判明した。確かに集落の一つ、あるいは時代を異にした集落の幾つかが湖底に埋まっているのである。この伝承でもあり、歴とした事実でもあるこのイシク・クル湖の不思議を、私は「聖者」という短篇で取り扱っている。  それはさておき、十九世紀の中頃からロシアの探検家たちが、この地方に足を踏み入れ始めるが、その一人ブルジェワリスキーの墓はイシク・クル湖畔に造られている。彼は何回もイシク・クル湖畔の道を通って新疆地区に入っているが、第五回目のチベット探検の途次、イシク・クル湖畔の町で歿し、その遺言によって湖岸に葬られたのである。スウェン・ヘディンもこの湖畔に足を印しており、彼がブルジェワリスキーの湖岸の墓に詣でたことが、その著「彷徨《さまよ》える湖」の中に記されている。  天山に関する地理学研究で不朽の業績を遺しているセミョノフ・チャンシャンスキーも、度々イシク・クル湖畔を通過したことであろうと思われる。セミョノフにとっても、ブルジェワリスキーにとっても、ヘディンにとっても、イシク・クル湖は、どうしてもそこを通過しなければならぬ東トルキスタンヘの、新疆地区への足がかりであり、大遠征旅行の重要な一基地であったのである。そしてその最初の記述者は七世紀の玄奘ということになる。  イシク・クル湖について、日本人が初めて筆を執ったのは西徳二郎であろうか。西は明治三年、日本を離れ、ペテルブルグ大学で学び、外交官となり、帰朝後外務大臣になった人物であるが、彼の名を不朽にしているのはその著「中央亜細亜紀事」である。  彼は母国からの帰朝命令に接すると、中央アジアの旅を試み、サマルカンド、ブハラを訪れ、フェルガナ盆地にも、今のキルギス共和国にも入っている。  キルギス共和国地帯に入ったのは明治十三年のことである。イシク・クル湖畔には立たなかったが、イシク・クル湖について、湖底に一大都市が沈んでいるという伝説を記している。  話が大分横道に逸れたので、西域北道の要衝、往古の姑墨国の故地であるアクスの第一夜に戻すことにする。トフティ・アブラ氏の招宴が終ったあと、明日からのスケジュウルについて、中国側ともう一度最終的打合せをする。既に決まっているスケジュウルでは、明朝クチャ(庫車)に自動車で向い、明日、明後日とクチャに二泊、その間にこんど私たちのために公開してくれるというキジル千仏洞を見て、明々後日、再びアクスに戻り、その翌日にウルムチ(烏魯木斉)に飛ぶことになっている。初めから決まっているスケジュウルである。  ところが、厄介なことに私は明日のクチャ行きをとりやめて、もう一日アクスに留まり、一二五キロ隔たっているタリム(塔里木)河の岸に立ちたくなっている。そうなると、クチャが一泊になるのでキジル千仏洞の方は割愛しなければならない。キジル千仏洞とタリム河の二つを計量器にかけたら、どちらが重いか、なかなか難しい問題である。アクスに来てそういう気持になったのではなく、カシュガルの時から、これが頭にひっかかっていて、中国側ともいろいろ相談し、自分が単独行動をとる場合の諒解をも得てきているが、いよいよクチャヘの出発を明日に控えて、自分の態度をはっきりしなければならなかった。  同行の宮川、円城寺、口諸氏には、もともとこうした問題は起らなかった。こんどの旅ではキジル千仏洞を見ることが、一番大きい目的であるに違いなかった。ただ私の場合は幾つかのこの地区を舞台にした小説を書いており、当然タリム河に登場して貰わねばならぬ時でも、それを避けて通って来ている。タクラマカン沙漠を伏流し、伏流して流れているタリムという川がいかなるものか、全く見当がつかなかったからである。  そういうわけで、タリム河まで一二五キロのアクスに来ていながら、タリム河の岸に立たないということは、どうも気持にひっかかるものがあった。結局のところキジル千仏洞を棄て、タリム河に義理を立てることにする。  ──では、これで本極り!  私たちの旅行の全部を取りしきって下さっている社会科学院外事局張国維氏の一言ですべては決まる。  私以外の人は予定通り明朝クチャに向って出発、私の方はクチャ行きを一日延ばして、明日はタリム河の岸に立たせて貰うことになる。私には佐藤純子さんと女性通訳の解莉莉さんの二人が付添って下さるという。気の毒であるが、まあこうなった以上、二人にもタリム河に付合って頂くほかはない。  部屋に戻ってノートの整理、一時に寝台に入る。窓外には物音一つしない夜の闇が拡がっている。玄奘が、ブルジェワリスキーが、ヘディンが眠ったであろうアクスの夜の眠りを、私もまた眠らせて貰う。  八月十九日、九時に宮川、円城寺、口、横川の諸氏、クチャに向って出発。中国側の人も居るので、くるま四台、賑やかな出発である。キジル千仏洞組と、タリム河組のしばしの別れである。  一同を見送ったあと、案内役のウルムチ市革命委員会李殿英氏、佐藤さん、解さん、私の四人が二台のジープに分乗して、タリム河の岸のアラル(阿拉爾)という集落に向って出発する。  ──凄い道ですよ。距離は一二五キロですが往復十時間とみておいて下さい。  運転手氏の言葉を解莉莉さんが通訳してくれる。いかに悪路であるか、さんざん聞かされているので、さして驚かない。覚悟の前である。  アクスの招待所を出て、東の方へ(クチャに向う通路)二十分ほど走り、直角に右に(南に)折れて漠地に入ってゆく。それでも二〇キロほどの間は、漠地の中に小集落点々、天山の雪溶けの水を引いた水路があちこちに見られ、水郷と呼びたいような地帯が続く。日曜なので、アクスのバザールに行くのではないかと思われる農民たちに会う。乗りものは鈴をつけた驢馬である。  しかし、その地帯を過ぎると、あとは沙漠、ゴビ、アルカリ性不毛地帯、泥土の固まりが波立つように置かれている地帯、黒い不毛地、白い不毛地、次々に押し寄せてくる。アルカリ性不毛地は、塩でもふき出したように白いものが一面に敷かれ、それが罅《ひび》割れて、土ごとめくれて来そうになっている。  道はそうした地帯を、どこまでも真直ぐにのびているが、ひどく荒れていて、路面は洗濯板のようになっている。ノートどころではなく、体を支えているのがやっとである。そうした荒いドライブであるが、眼を休めるものが全くないというわけではない。時折、沙棗《すななつめ》の林が現れたり、路傍の漠地に小さいタマリスクの株が群がっていたりする。タマリスクは紫がかった赤い花をつけている。一時間ほどの地点で、右手の小道に入り、沙棗の木蔭で持参の西瓜を食べる。  駱駝草地帯、芦の地帯、甘草の地帯、こうしたところは同じ漠地ながら、まだいいとして、泥土の小さい固まりや丘がどこまでも波立ち、拡がっているところには救いがない。ジープをとめて、道に降り立ってみると、路面は一面に粒子の細かい砂で覆われており、どこにも蔭になるものがないので休みようがない。路上に立ったままで、煙草をのみながら、単調で、絶望的な泥土の大きい拡がりを眺めている以外仕方がない。  荒いドライブはいつまでも続く。時に遠くに羊の群れを見ることがある。石の置きもののように見える。  アラル街道のドライブが三時間以上続いた果てに、小さいオアシスに入る。綿、トウモロコシ、大豆、小麦、米、そうした耕地が拡がり、漸くタリム河に近い感じである。芦の地帯に入る。三頭の駱駝が曳いている大きな荷車、沙棗のみごとな隊列、ボプラの苗木の白い葉裏。  しかし、道は再び漠地に入る。砂塵もうもうたる悪路が続く。ただ右手遠くにオアシスの緑が見えていることだけが、これまでの漠地とは異っている。そのうちに小さいポプラが道の両側に現れ始め、漠地の中に発電所の建物も見えてくる。ひまわり、沙棗、水牛のひく車。まだタリム河は見えずや、渇した者が水を求めるように、そんな思いを持つ。  さらに暫く行くと、右手に小川があって、男の子が五、六人素っ裸で泳いでいるのを見る。道路を右に曲って、その小川を渡る。この辺りから多少緑が多くなってくる。いつかオアシスに入っているのである。  そうした地帯を三十分ほどドライブして、ポプラ竝木に導かれて、アラルの集落へ入って行く。家と家とが離れていて、その間を砂が埋めている。閑散とした村である。小さな工場、郵便局、農業試験場、そうした建物の前を通って、やがて左に折れ、海岸でも思わせるような白砂地区のアラル農場事務所の門をくぐる。正面の建物の前でジープから降りる。  アラル農場事務所の招待所である。時計を見ると二時三十分、アクスの招待所を出てから五時間半かかっている。事務所責任者の黄生氏が出迎えて下さる。  招待所の広い敷地にはポプラが多い。事務所の人が、ポプラの種類を説明してくれる。葉裏の白いのは銀白楊、普通のポプラは新疆楊、やたらに背の高いのは天楊《せんてんよう》、他にフランス楊というのがあるが、ここの気候に合わないので育ちが悪く、数も少いと言う。ポプラについては方々で説明を聞くが、その呼び方は必ずしも一致していない。  招待所で休憩、部屋の床は木で、歩いていてたいへん気持がいい。部屋も清潔で、明るく、荒いドライブのあとなので、ここに何日も滞在していたいような気持になる。接待員の女性はウイグル族と漢族の二人、たいへん親切である。  暫く休憩してから黄生氏等と一緒に昼食、久しぶりの北京風の料理。豚肉も使われている。黄生氏から、この農場の話を聞く。  ──アラルは行政的にはアクス地区に所属している村で、アラル農場という一つの農場が集落になっている。アラル農場事務所はアクス地区革命委員会の支所であり、アラル農場の行政の中心である。従って黄生氏はアラルの村長さんといったような立場にある。  ──黄生氏は漢族で、一九五八年に解放軍の開墾兵団(生産建設兵団)の一兵士としてこの地に入り、以来アラルに住んでいる。中国は一九四九年の解放と同時に、各地に開墾兵団を派遣したが、新疆ウイグル自治区に入った兵団は王震副総理を長とする兵団であった。  ──アラルは人口約八〇〇〇、小学校、中学校、農業試験場、病院、各種小工場、日用品の商店などを持っている。黄生氏が一九五八年、この地に来た時は小屋のような家が三軒あるだけで、地名は判らなかった。羊飼いのウイグル人に、ここは何という所かと訊ねたら、アラルと答えた。それで農場に“阿拉爾”という名をつけたという。  ──アクスからアラルにかけて十三の農場があって、それぞれがアクス地区に所属する行政単位になっている。十三の農場は、タリム河の北岸に九つ、南岸に四つある。アラルは北岸にあって、タリム河に最も近い農場である。開墾兵団が定着したので、このアラルには漢族がわりあい多く居住している。  ──ヤルカンド河、ホータン河、アクス河、カシュガル河などが合流してタリム河を造るが、その合流地域は、アラルから六〇キロ上流である。  ──タリム河は中国第一の内陸河川で、全長二一七九キロ、川幅は約一キロ。この川はロブ・ノール地区に辿り着くまでに何回も伏流する。ロブ・ノールはアラルから六〇〇キロの下流。  ──タリム河の水量は、最大が毎秒一八〇〇立方メートル、最小が毎秒三立方メートルである。水量が多く、伏流しきれぬ時期もある。水量が少いのは五月頃。  ──支流の中で一番重要なのはアクス河、これは天山の最高峯ハンテングリから発している。ホータン河は夏の水量の多い時はタリム河に注ぐが、他の季節は農地に使われ、その流れは細くなっている。ヤルカンド河も農地に使われ、ダムに使われ、これまた流れは細くなっている。  ──ロブ・ノールは中国最大の塩水遷移湖。ロブ・ノールに最も多く注ぐのはクンチェ・ダリヤ、カイドウ・ダリヤ。タリムはロブ・ノールに届くまでに細くなっている。タクラマカン沙漠の川のことは、実際はよく判っていない。多くの川が伏流を繰り返していて、誰もその川筋を辿れないからである。黄生氏も、まだタリムの川筋を辿ったことはないという。  四時に招待所を出て、タリム河の岸に向う。招待所からジープで十五分の距離、黄生氏が案内して下さる。  招待所から道路に出て、方向を左にとり、約五分ほど行って、右に曲る。すると、小さい土屋の民家がある。それに沿って、更に左に曲って行くと、タリム河と平行して走っている感じになる。実際にすぐ右手にタリム河が見えてくる。  前方に対岸に渡る渡船場がある。丁度南岸からの船が着いた時らしく、大勢の人がそこに群がっている。男、女、子供、併せて百五十人ぐらいか。  その近くでジープを降り、まずタリム河なる川をとくと眺めさせて貰う。河岸は一面に芦で埋まり、川幅は二キロぐらいであろうか。流れは速く、上流、下流共に縹 渺《ひようびよう》たる眺めである。対岸の緑が細い帯となって見えている。八月の今は天山の雪溶けの水で水量の多い時である。  特に私たちのために手配してあったらしい小船がやって来る。それに乗せて貰って、十五分ほど流れのまん中ほどのところに浮かぶ。淙々《そうそう》と音を立てて流れている大河である。  流れの上から遠い岸辺の渡船場の方に眼を遣ると、人の群がっているのがひどく小さく淋しいものに見える。背景になるものは何もなく、上に大きな空が拡がっているだけである。まさに沙漠を流れている大河の渡船場であり、船着場であるといった感じで、人の群れは妙にしんとした淋しいものに見える。一体どこから来て、どこへ行く人たちであろうか。  下船すると五時になっている。招待所には戻らないで、そこで黄生氏等と別れて、一路アクスへの帰路に就く。  ジープに乗ると、大人も子供も、みんなジープの周りに集って来る。にこにこしながらその整理に当っている黄生氏の姿が好もしく眼に入ってくる。  ジープが動き出すと、子供たちはみんな真剣な顔をして手を振ってくれる。何人かが追いかけてくる。タリム河畔の別れである。  帰路、大漠地の落日を美しく見る。陽は金色、その周辺の白い雲は銀色にくまどられて、まるで絵のようである。陽は沈むにつれて真赤な酸漿《ほおずき》になってゆく。そしてそのまわりの雲は大きな燭台の形をとり、まるで何ものかを祝福しているかのようであった。  九時半、アクス招待所に帰着。往復十一時間のドライブである。運転手さんに心から礼を言って、部屋に引き揚げ、寝台に仰向けになる。体がまだジープに乗っているように揺れている。佐藤さんも解さんもさぞ疲れたことだろうと思う。が、ともかくタリム河を見た! タリムの流れの上に浮かんだ! ただそれだけのことで、別にどうということはないが、まあ、こういうのを満足感というのかも知れないと思う。 二十四  亀国の故地  八月二十日、九時にアクス招待所を出て、クチャ(庫車)に向う。クチャまで二八〇キロ、四時間のドライブを予定する。昨日のアラル街道と異って、殆どが舗装されている筈である。ただたまたま昨夜、クチャ方面が大雨に見舞われたというニュースが入っているので、必ずしも楽観はできない。雨がいかに怖ろしいかはヤルカンド(莎車鎮)─カシュガル(喀什)間のドライブで経験ずみである。乾河道という乾河道が崑崙、パミールから流れ下る水で真赤な流れとなり、道は到るところで壊されていた。こんどのクチャ行きの場合も、怖いのは天山から流れ出す水である。どうかそうしたことのないように──。  アクス(阿克蘇)の町には朝から埃りがたっている。砂に烟《けむ》って前方の見通しは利かない。ここも日乾煉瓦の町であり、雑然としたゴビの町である。薄明の中から次々に驢馬が現れてくる。驢馬は朝から働いている。驢馬ばかりでなく、女も現れてくる。スカーフ、スカート共に青か赤が多い。  いつか沙漠性大荒蕪地の荒涼たる地帯になり、駱駝草だけがばら撒かれ、ところどころを黄土の川が流れている。遠くに小集落が見えている。  やはり昨夜の雨のためか、方々に洪水の川ができている。中には大河の貫禄を以て流れているのもあれば、やたらに拡がって、湖のようになっているのもある。もちろん名前は持っていない。  温宿県を通過する。小さい集落である。長い橋で大河を渡る。今は濁流がたぎり流れているが、もちろん平常は水のない大乾河道である。  温宿を過ぎると一面に駱駝草が置かれている大広野が拡がってくるが、やがてそれが不毛の大丘陵地帯に変って行く。平野になったり、丘陵地帯になったり、道は上ったり、下ったり、見渡す限りの大不毛地帯はいつまでも続いている。  やがてまた大きなオアシスに入る。みごとなポプラがどこまでも続く。農場の集落である。十分ほどで大オアシスを抜けるが、オアシスの終ったところに、また大きな川ができていて、河中に電柱が何本か立っている。その辺りから大沙漠が拡がって来る。地盤は初めは平坦であったが、やがて大きく波立ち、沙漠性の丘陵地帯に変ってゆく。無数のだんご山が現れてくる。そうした中を、道は折れ曲り、折れ曲り走っている。  そのうちに地盤は平らかになり、それと同時に沙漠はゴビに変ってゆく。左方には天山の山なみが長い稜線で見えている。ゴビのドライブはいつまでも続く。  左右共、近くに丘が長く続くが、右手の丘がなくなる頃から、ゴビの上に駱駝草が置かれ始め、やがて一望の駱駝草の原となる。今までに随分駱駝草の原とは付合って来ているが、これほどみごとな駱駝草の原は初めてである。見渡す限りの駱駝草の絨毯である。こうなると壮観でもあり、不気味でもある。  左手はずっと丘の連なりである。単独の小山が重なったり、丘が重なったりして続いている。いずれにしてもゴビ灘のドライブは、いつ果てるともなく続いている。このアクスとクチャの間のゴビ灘は新和ゴビと呼ばれ、一二〇キロに亘っている。しかし、アクスとカシュガルの間のゴビ灘はもっと大きく、四〇〇キロに亘る新疆最大のものであるという。  時折、乾河道が現れるが、この辺りの乾河道は真白である。天山には塩があるというが、まるでその塩が流れ出して来ているような感じである。  十一時三十分、依然として駱駝草の原は続いているが、その駱駝草が団子型の砂の固まりの上に載り始める。風の強い地帯なのであろう。風によって砂が駱駝草の根もとに吹き寄せられ、小さい砂の固まりを作って、駱駝草は自然にその砂の固まりの上に載ってしまうのである。中には砂が小さい丘を作り、たくさんの駱駝草がその丘の上に載っているのもある。  ヤンダクト(羊大古斗克)というところで休憩。別に集落があるわけではなく、ゴビのただ中で、巨石が二つ三つ転がっている。丁度ここが新和ゴビのまん中頃に当る地点らしく、何となくこのゴビを旅する人たちの休憩所になっているところのようである。クチャにはまだ三時間かかるという。煙草をのみながら、やはりここを徒歩や駱駝で旅するとなると大変だと思う。  しかし、この道はタクラマカン沙漠の北辺を、天山の南麓沿いに走っているただ一本の道、西域北道である。まさに歴史の道である。文化東漸の道でもあり、時代時代によっていろいろな民族の遠征路にもなり、敗走路にもなっている。大小無数の人間のドラマの欠片は、この帯のように長く続くゴビの中に埋まっているのである。  出発、再び単調なゴビのドライブは始まる。駱駝草の原、駱駝草さえない小石だけの地帯、白いアルカリ地帯、大小の丘の散らばっている地帯、団子草地帯。  道は一応幹線舗装道路としての体裁は調えているが、ところどころ壊れたり、舗装がはげたりしている。地盤の崩れているところもあれば、罅《ひび》割れているところもある。そうしたところでは砂塵がもうもうと舞い上がる。  アルカリ性の不毛地帯が多くなる。乾河道はどれも真白。白い帯が広くなったり狭くなったりしながら流れ下っているところは、悽愴な感じである。  ゴビの様相は次々に変る。変らないのはゴビの中に竝んで立っている電柱の列だけで、それがいやに端然として見える。泥土地帯もあれば、見渡す限り砂が波立っている地帯もある。泥土地帯には風に依って描かれたさまざまな文様が捺されている。湖のような大きな白の地帯もある。  左手には、それほど遠くないところに、時々赤味を帯びた皺《しわ》だらけの小山が現れる。異様な山である。時には大きなのもある。砂山か、岩山か、皺だらけで赤い。  十二時三十分、ゴビ灘、何となく弱々しくなり、雑草が生え出す。そうした地帯が少し続くと、あっという間にオアシス地帯に入って行く。トウモロコシ畑、農家二、三軒、それに続いて大耕地が拡がってくる。長く続いた新和ゴビは、ここに全く終ったのである。天気も漸く晴れて、左手の天山山系の連なりが美しい。クチャまではあと七〇キロ。  小集落に入る。新和県の人民公社、美しい天山を背景に、田園では稲の脱穀作業、遠くには羊群点々、──秋である。  クチャに近付くにつれて、路傍に大小の水溜りが置かれ始める。昨夜の大雨のためである。  一時十五分、新和に入る。なかなか大きな集落で、集落の中の広場ではバザールが開かれ、人が群がっている。すぐ集落を出る。みごとな耕地、畑、ポプラ。川が多い。道は銀白楊の竝木を走っている。  一時三十分、大きな川の橋を渡って、再びゴビに入って行く。川を境に、こちらはクチャ県。川は拝城方面から流れて来た川である。昨夜の雨で橋の壊れているところが多く、その度に、くるまは渡河点を求めて、ゴビの中に入って行く。砂塵が舞い上がる。  やがて右手に大きなダムの水面が見えてくる。左手は丘陵が連なっていて、道はその丘陵の斜面を走っている。やがて道は上りになり、上り詰めると、右手にオアシスの緑の地帯が見えてくる。しかし、道はそれを右に見て通過して行き、前方に拡がる大ゴビの中に入って行く。道はゆるやかにアップ・ダウンしている。こんどは新和ゴビと異って、明るいゴビであり、明るいゴビのドライブである。ところどころ道は砂に覆われており、そこを通過する度に砂塵が舞い上がる。風があるのか、道を歩いている二人の男が肩にかけている上衣が風にばたばたしている。前方も砂で烟って見通しは利かない。  やがて前方遠くに緑の帯が見えてくる。クチャである。それに向ってのドライブが長く続く。そしてゴビからオアシスに、そしてクチャの町へと、くるまは導かれて行く。  二時二十分、クチャの町に入る。クチャは開放的な田園都市の印象で、どことなくのびやかである。白壁の家は少く、薄赤い日乾煉瓦の生地の色をむき出しにしている家が多い。塀もまた同じである。日乾煉瓦の生地が赤いのは、この地帯の土の色が薄赤いためである。その点、なんとなく薄赤い土の上に営まれた集落といった感じである。町で見掛ける女たちのスカート、スカーフは殆どが原色である。  クチャはこれまで経廻って来た新疆地区のどの町よりも、少数民族的ではない印象である。  町のたたずまいの持つ明るさのためであろうか。漢代の遺跡とされているクチャ故城の前を通る。町中の遺跡なので、すっかり跡形なくなって、ひと握りの土塊になってしまっている。長い歳月にわたってこの集落に住む人々は遺跡の土で煉瓦を造り、そしてその煉瓦で家を建てていたのであろう。  招待所に入り、夕刻まで休息する。  クチャは西域史の亀《きじ》国の故地である。亀国はいろいろな書き方をされている。屈支、屈茨、邱、丘慈等々。亀国は漢時代から六世紀頃までは、西域北道の代表国として知られ、住民はアーリヤ系、言語も亀語なる言葉を使い、白という姓を持つ王家を戴いていた。天山の鉱物資源を背景に貿易の国として栄え、そしてその繁栄は、この国を西域に於ける学術、文化の中心地たらしめた。仏教の国であり、キジル石窟の壁画類もこの国によって生み出され、鳩摩羅什《くまらじゆう》のような訳経の高僧もここから出ている。 「漢書」の“西域伝”には、  ──戸数六千九百七十、人口八万一千三百十七、勝兵二万一千七十六。……鋳金、冶金の術をよくし、鉛を産する。  とある。アーリヤ系の亀人の大定着地であったのである。  七世紀の玄奘の「大唐西域記」には、  ──管絃伎楽は特に諸国に名高い。……僧都五千人、小乗教の説一切有部を学習、教義の基準は印度にとり、その読み習うものは印度文である。  といったことが紹介されている。  しかし、玄奘のこの報告は白王家のもとに繁栄していた古代亀国の最後の姿であったと言っていい。なぜなら、玄奘が通過した前後から、この国は次第に独立国としての体面を保つことができなくなって行く。西突厥の勢力に脅かされたり、唐朝の進出によって安西都護府の所在地にさせられたり、吐蕃の脅威に曝されたりする。そして九世紀になると、高昌に拠ったウイグル人の支配下に置かれ、以後はいわゆるウイグリスタンの一翼としての歴史を持つようになる。そして長い歳月の間に住民のトルコ化も行われ、今日見るウイグル人の大定着地としての姿に変って行くのである。  夕方六時に招待所を出て、北方二〇キロのソバシ(蘇巴什)故城に向う。ウイグル語で“ソ”は水、“バシ”は頭、つまりソバシは水源の意味で、今でもその地点は北山龍口と呼ばれているという。クチャ河の水源地である。ここに魏、晋時代に繁栄した亀国の大寺院の遺跡がある。ソバシ河はクチャ河に他ならないが、土地の人は遺跡附近のクチャ河に対しては、ソバシ河という呼び方をしているのである。  くるまで新開地を通って、すぐ郊外に出る。先述したように、今のクチャは田園都市としてののびやかさを持っている赤い煉瓦の町である。  郊外に出ると、ポプラ、トウモロコシ畑、沙棗の木が眼に入ってくる。茄子、トウガラシ、ササゲなどの畑もある。郊外の土屋もまた赤い。北に天山の支脈の長い稜線が大きいボリュームで見えている。支脈と言っても、天山ともなればさすがに大きい。  道の両側に水路が走っているが、ソバシ故城から流れて来るクチャ河の水だという。くるまは白ゴビの中を折れ曲りながら、天山の方に向ってゆく。途中から土は赤くなり、白ゴビはいつか赤ゴビに変る。駱駝草少々。  そのうちに赤ゴビは灰色のゴビに変る。この頃から天山も灰色、ゴビも灰色、どこに視線を投げても、色彩というものの全くない灰色の風景である。そうした中を、道は折れ曲りながら、前の丘の裾へ向ってゆく。その丘の背後には天山の前山が大きい姿を見せている。  前の丘と丘との間に入って行って、台地の上でくるまを降りる。そこが目指すソバシの遺跡であった。南天山の山々を背景にした大きな遺跡で、ソバシ河を挟んで東西二つの城壁を持った寺院であったというが、その二つの寺院を併せると、ちょっと見当がつかない大きさである。東西併せて四五〇ムーと説明されるが、この方面のことにうとい私には、その大きさがよく飲み込めぬ。すると、川をのぞいて東西の遺跡の直径一七〇〇メートルだと、改めて説明される。こんどは、それでは小さすぎるような思いを持つ。  二つの遺跡の間を流れているソバシ河の川床は大きく荒々しい。堂々たる大河の荒れた姿である。しかし、この川の川幅はもっと狭かった筈で、それが遺跡を食って、今見るような大きい川幅を持ってしまったのだと説明される。この方は、そうであろうと思う。それはともかくとして、ソバシ河はこの遺跡を外れたところで、クチャ河と名を改めて三本の流れに分れる。いずれもクチャ河である。往古からクチャ・オアシスを支えて来た大変な川たちである。  遺跡の塹壕地帯を歩く。塹壕地帯と言っても、きちんと整理されている。仏塔、寺院、住居跡、そうしたところを歩く。礼拝堂、小会議室、城壁。小会議室には木の柱の跡が見えており、木材の一部も遺っている。城は日乾煉瓦、石の層、日乾磚《ひぼしせん》、石の層、と四層になっていて、日乾磚の底には藁《わら》が入っている。  龕《がん》の跡がある。上部が欠けているが、龕と言われてみると、なるほど龕である。広場を隔てて、もう一つ向うの壁面にも龕は設けられていただろうと思う。  仏塔跡に上る。上部の壁の中に木材が顔を出し、壁画が少し遺っている。最近の発掘で出てきたという階段もある。その階段を上って行き、上り詰めると、その下に墓室のあるのが見られた。狭い墓室である。一体この墓室には誰が眠ったのであろうか。  高処に立て俯瞰する。大天山を背景にした雄大な遺跡である。この魏、晋時代に繁栄した大仏教寺院は、唐末あたりから衰えてゆくが、いついかなる時廃墟になったかは判らない。この遺跡よりも昼間その前を通った亀故城の方が古い。ただ亀故城の方はすっかり跡形がなくなってしまっている。ソバシ故城がこれだけ遺っているのは全く風と砂のお蔭だと言える。風が運んで来た砂で、この遺跡は埋まり、護られていたのである。  七時四十分、ソバシ故城を辞して、前漢時代のものだという烽火台に向う。クチャ県城から拝城へ向って約一・五キロ、クチャ川の畔《ほと》りにある高さ十七、八メートルの烽火台で、自治区重要文物保護単位になっているという。こちらも背景は南天山。  郊外を走る。郊外の家も塀も煉瓦で造られてあり、共に上部を塗っていないので煉瓦はまる見えである。  烽火台へ向って少しずつ上って行く。そしてクチャ河の橋を渡ってから、真直ぐに天山を目指す。例の煉瓦積みの農村地帯を行く。天山の長い山なみ、ますます雄大である。この頃から広いゴビに入る。  八時現在、陽はまだ高いが、雲のために曇っている。大きなゴビの断層地帯に入る頃から、前方に烽火台が見えてくる。烽火台そのものは特にどうということはないが、しかしそれを置いている周囲の大きな風景には息をのむ思いである。  烽火台の前に立つ。階段、見張人の宿舎などは崩れて遺っていない。この烽火台は日乾煉瓦と砂とを重ねて造ってあって、ソバシ故城の造り方とは違っているという。形は甘粛省のものより完全である。甘粛のものは大体上半分は崩れているが、こちらは一応原形を留めている。一木一草ない烽火台の周辺を歩く。実に静かである。  帰途、クチャ河、その周辺をカメラに収める。この川は英遠河に注いで、草湖に入ってから沙漠に消えるという。草湖というのは胡楊林のことである。  招待所に帰って、夕食をすますと、早く寝台に入る。十一時頃より雨が降り出す。あまり大雨にならないで貰いたいと思う。こんどの新疆地区の旅で得た知識である。一晩の雨で崑崙、パミールからは赤い流れが、天山からは白い流れが流れ出し、それがいかにドライブを困難にするか、多少でも経験させて貰っている。 二十五  アクスにて  八月二十一日、今日は昨日来た同じ道をアクス(阿克蘇)に引き返す。九時三十分、招待所を出発。ここクチャ(庫車)は海抜一一〇〇メートルの町。県の人口は三〇万一〇〇〇。  町は朝から埃りっぽい。牛、驢馬、原色のスカーフ、スカートの女たち。路傍で子供たちが手を振っている。その傍を驢馬に乗った白い上着、黒いガウンの老夫婦が通り過ぎて行く。  ポプラの竝木、赤土の煉瓦の壁、道はすぐ大きい空の拡がっている郊外に出る。五分ほどでクチャ河を渡る。三本に分れたクチャ河のうち、一番西の流れである。赤い河床に何本かの流れが見えるが、水は少い。農村地帯に入る。ポプラの白い幹があちこちで美しく光っている。路傍を牛車がのんびりと動いている。  ──今日は昨日と同じ道を帰りますが、多分昨夜の雨で、まるで異った道になっていると思いますよ。  運転手君は言ったが、まさにその通りであった。道ばかりでなくゴビ(戈壁)も、オアシスも、昨日通過したところなのに、全く異った地帯のドライブのように思えた。雨を浴びると、ゴビの色も、オアシスの色もすっかり異ってしまうからである。  九時四十五分、いきなり見渡す限り一木一草ないゴビ地帯に入って行く。右手に低い丘が連なり始める。真直ぐにどこまでも延びている道だけが黒い帯のように見えている。その黒いベルトの上を、適当な間隔をあけて、いろいろなものがやって来る。驢馬に乗った男二人、馬二頭に曳かせた野菜車、驢馬の荷車、──牛や馬や驢馬はいろいろな使われ方をしている。  九時五十分、左手遠くに緑の地帯を見て走り続ける。昨日クチャのオアシスかと思ったところである。が、再び一望のゴビの拡がりとなる。すると、また左手遠くにオアシスが見えて来るが、やがてまた何もないゴビの拡がりに戻る。  十一時、ゴビ地帯は終り、一応緑の地帯となり、ポプラ竝木を通って集落に入って行く。広い耕地、煉瓦積みの農家、沙棗。この集落には水路が多く、トウモロコシ畑、黄色の甘草畑など見事に繁茂し、沙棗も堂々たる隊列を作っている。  大河を渡る頃から人家少くなり、水溜りがあちこちにできていて、そのためにくるまは難渋する。二度目に大河の畔りに出るが、橋が壊れていて、渡河点を探すのに三十分ほどかかる。漸くにして流れを渡るが、驢馬の方は、車をつけ、その上に人を乗せたまま、どこでも平気で渡って行く。もちろんこの大河も平常は水のない乾河道で、名前は持っていない。昨夜半の雨がこの大河を造ったのである。  このようなゴビの旅では、自動車は到底驢馬には及ばない。時速五キロのこの交通機関は、どこでも平気で、それが自分に与えられた運命ででもあるかのように、車を曳いたり、人間を乗せたりして、ただひたすら歩きに歩いている。働き盛りの驢馬の値段はこの地区では四十元(約六千円)、自転車一台の四分の一だという。  河を渡って、集落に入るが、また橋の壊れている河にぶつかる。こんどはさして困難なしに、流れの浅いところを渡って行く。  大農村地帯を通過する。ここもまた天山の水をひいた水路がたくさん造られており、水辺に白い幹のポプラが竝んでいる。  長く長くオアシス地帯は続くが、十一時十五分、何となくオアシスの勢は弱くなり、木も少くなって、次第に不毛地帯に変って行く。そして十一時二十分、完全にゴビに入る。二時間に亘る新和ゴビのドライブは始まるのである。天山は右手に大きい山なみを見せているが、残念なことに今日も曇っていて、山容はぼんやりしている。  駱駝草地帯、団子草地帯がゴビを織りなしている。団子草地帯というのは筆者が勝手につけた名前で、大小の団子型の土塊が散らばっている地帯で、土塊の上に駱駝草が載っている地帯もあれば、何も載せていない土塊だけの地帯もある。いずれにせよ、そうした地帯を見渡すと、土塊の拡がりは宛《さなが》ら波濤のように見える。  そのうちに大天山のこちら側に、異形《いぎよう》の丘が長く続く。が、やがてそれもなくなり、薄茶色の不毛地帯の拡がりとなる。天山の支脈の方はいつまでも続いている。  十一時四十分、辺りは一面の赤ゴビとなり、水溜りがあちこちに置かれている。ゴビも昨夜の雨のために、昨日とはすっかり様相を変えている。一木一草のない赤いゴビの中を、子供が二人歩いている。  そうした赤いゴビが長く続いた果てに、赤ゴビの上に駱駝草が現れ始め、それは次第に団子草地帯に変って行く。が、それは更にもう一度変って無草の白ゴビ地帯となる。  十二時十五分、再び駱駝草地帯に入り、間もなく、この新和ゴビのまん中の休憩地であるヤンダクト(羊大古斗克)という地点に達する。が、今日は休憩しないで通過する。間もなく団子草地帯に入る。小さい土塊に載っているのは駱駝草であるが、丘のような大きなのに載っているのは全部タマリスク(紅柳)である。タマリスクは細い枝と細い葉の植物であるが、八、九月頃に薄桃色の雛菓子のような花を着ける。見晴かす限りの団子草地帯に於て、土塊という土塊の上にタマリスクの花が咲いているところを想像すると、気の遠くなるような美しさである。駱駝草の方は、先年、アフガニスタンの南部の沙漠で、その花盛りの時に出会っている。こちらはよほど注意しないと、それと判らぬように、ひっそりと小さい花を着けていて、これはこれで可憐であった。  土塊地帯が終ると、昨日思わず息をのんだ一望の駱駝草地帯になる。ここで停車、休憩。  十二時五十分、出発。駱駝草地帯が終ると、白ゴビ地帯になり、それがやがて波立って来て、白い団子型の丘が重なり始める。たくさんの白い椀を伏せたようである。右手の天山の上には白い真綿のような雲が置かれている。道は時折上ったり、下ったりしている。  一時十五分、一望の平坦な白ゴビ地帯、そこを駱駝草とタマリスクが埋めている。単調な風景であるが、ふしぎに倦きない。いつか左手遠くに山脈が現れている。  一時三十分、久しぶりに右手に数軒の人家を見る。オアシスに近い感じである。大乾河道の赤い泥濘地区を渡り、再びゴビのドライブとなる。駱駝草の原野を行く。左手の山脈はやや前に廻り、その裾を廻って行く感じである。大河を渡る。もちろん大乾河道に水が溢れているのである。  一時四十五分、長い新和ゴビのドライブは終り、オアシスに入り、新和集落で休憩した後、久しぶりで緑の中のドライブになる。無名の大河を渡る。また無名の大河。日乾煉瓦の農家、また大河。余り大きくないポプラ竝木。オアシスではあるが、漠地もたくさん挟まっている。  アクスまではあと一時間ほど。ゆうべの雨の影響地帯を過ぎたので、ノートを閉じて、ぼんやりと次々に現れて来る大乾河道に眼を当てている。三時、前方遠くにアクスのオアシスが見えて来る。  八月二十二日、八時起床。今日はアクスを発って、ウルムチ(烏魯木斉)に向う日である。昨夜、八時間の睡眠をとっているので、心身共に爽やかである。夜は多少寒さを感ずるので、眠る時は薄い掛蒲団を掛けて丁度いい。招待所の庭を歩く。大きな楊樹や柳がたくさん植っている。月のような白い陽が出ている。二十五度。この頃の最低気温は十六度の由。ウルムチも大体同じである。  朝食、出発。アクス河まで一〇キロ、三十分の予定。くるまに乗る時、五、六歳の子供が近寄って来る。首に二つの鍵をかけている。招待所の子供らしい。両親が働きに行っているので、その間、鍵といっしょに留守番をしているというのであろうか。先刻見た白い陽は、多少太陽らしく輝き出している。  招待所を出たところにある通りは活気を帯びている。朝からたくさんの露店が出ている。籠の店、皿の店、果物の店、野菜の店、食べもの屋も店を張っている。朝食なのであろうか、路傍の店で、大勢の人たちが箸を動かしている。埃りの中でお茶を飲んでいる老人たちの一団もある。その横を天秤棒でトマトの籠をかついで行く子供もいる。  ここもポプラと土屋の町である。家はみな赤い日乾煉瓦で造ってあり、その上を白く塗ってあるのもあれば、赤い煉瓦むき出しのもある。クチャには白く塗った家はごく少いが、こちらは白い家と赤い家が半々ぐらいである。  すぐ郊外に出る。街路樹のポプラはなくなり、大耕地が拡がって来る。白濁した川を渡る。アクスは“白い川”という意味らしいが、なるほどこの地区の川は白い流れを見せている。  トウモロコシ畑、綿畑、ひまわり畑、次々に現れてくる。トウモロコシの穂は黄色を呈しており、それがその畑を黄色に見せている。トウモロコシの苗木畑もあるが、この方は鮮やかな青色である。  広い水田が拡がってくる。そうした地帯を、道は西南に向って走っている。まっすぐ西に向う道もあるが、それはカシュガル(喀什)を目指す幹線道路である。やがてアクス河の橋畔に出る。下車して河岸に立つ。西北から東南へ流れている堂々たる大河である。上流、下流共に縹渺たるたたずまいである。  橋の上に立つ。橋の長さは三二五メートル。川はたくさんの黒ずんでみえる洲を抱えている。上流にはたくさんの洲が置かれ、下流には大きいのが二つ三つ置かれている。流れはかなり速い。殊に川の中ほどは滔々《とうとう》たる流れとなっていて、濃い灰色の濁流が渦巻き流れ下っている。上流、下流共に拡がっていて、流れの行方を捉えにくい。新疆地区の大河の多くが天涯から来、天涯に去って行くといった感じであるが、アクス河もまた例外ではない。  橋の上に立っていると、絶えず流れの音が聞えている。川波のぶつかり合っている音である。アルカリをたっぷり含んだ水が、ぶさぶさとぶつかり合っているのである。  陽の加減か、上流の中洲は明るく、下流の中洲は暗く見えている。陽は、下流に向って左前方にある。従って、下流に向ってカメラを向けると逆光になる。水が多い時は、流れはコンクリートの橋桁近くまで来るという。川の両岸には耕地が拡がっている。洪水の時は、流れは耕地をも呑み込んでしまうだろうと思う。  アクス河を倦きるほど眺めて、町中のアクス地区第一託児所に向う。託児所の参観は楽しい。大きな二本の杏の木の下で、子供たちが“好きな新疆”という踊りを見せてくれる。小さい太鼓を持っての踊りである。ここには二歳から六歳までの子供たちが預けられているが、大部分が漢族の子供たちのようである。  託児所を辞して、招待所に帰る。午後ウルムチに向けて発つ予定であったが、昨夜ホータン(和田)地方が荒れたので、ホータン発、ウルムチ行の飛行機が飛ばなくなったという。否応なしに、ウルムチ行きを一日延ばすことになる。お蔭でのんびりと町を歩き、百貨店を見せて貰ったり、書店を覗かせて貰ったりする。町ではアイスキャンデーが大流行。それを売る店の前に、大人も子供もたかっている。  夜はのんびりして過す。九時、庭を歩くと、落日近い太陽が、また白く見えている。砂埃りのためであるという。カシュガル地方は私たちの出発後風が吹いたそうで、幸運か、不運か、この旅では、いつも強い風から見放されている。カシュガルでは風が強い日には、机の上に指で字が書けるという。それほど室内に砂塵が舞い込むのである。  アクス地区は秋が天候が悪く、風が吹いたり、雨が降ったりする。こんどの旅で多少山岳地帯の雨に崇《たた》られたが、すでに秋が立っているためであるかも知れない。暑いのは七月、この方は暑さの峠を越してからのアクス訪問になり、お蔭で夜毎の眠りは快適である。  八月二十三日、十一時三十分に招待所を出て、空港に向う。町は人が出盛っている。天を衝く白い幹のポプラ、白壁の土屋、驢馬、民族服の女たち、──そうしたものに別れを告げて郊外に出る。いきなり漠地が拡がって来る。くるまは初め舗装のない道路を走って行くが、そのうちに半舗装になる。赤土の大きな土塊のような丘に沿って行き、途中から丘の上に上って行く。山影全くない、見渡す限りのゴビの拡がりで、農場員の宿舎だという建物群があるだけである。  くるまはその建物群を廻るようにして漠地を進んで行く。町から空港までは八キロ。畑というものが全くないわけではない。例によってトウモロコシ畑、ひまわり畑が点々と置かれてある。  道、二、三回、直角に曲ってポプラの長い竝木道によって空港に導かれて行く。飛行場は一面に細かい粒子の砂に覆われ、その上に駱駝草が点々と配されている。仕切りというものは全くなく、漠地の一画が飛行場になっているのである。  アクス行政公署の人たちの見送りを受け、十二時四十分、離陸、機はアントノフ24。  二時四十分、ウルムチ空港着。ウルムチは二十五度、多少暖かさが感じられる程度で、気分爽やかである。  ウルムチ迎賓館に入る。ポプラの林に包まれた贅沢な建物、広い敷地、久しぶりで全く異った雰囲気の中で休ませて貰う。新疆地区の沙漠やゴビの旅への出発点としても、またその帰着点としても、ちょっとこれ以上のところは考えられないだろうと思う。  午後、新疆ウイグル自治区博物館を訪ねる。李遇春、サビティ(沙比提)両副館長等の歓迎を受ける。ここは昨年二回参観しているので、多少館内の事情に通じている。新しい陳列品を選んで見てゆく。  夜は自治区革命委員会外事局責任者の冠東振氏、同外事局の李殿英氏等と懇談、北京大学教授(歴史、考古)の宿白氏、新疆社会科学院考古研究所の穆舜英氏等の顔も見える。  席上、新疆社会科学院副院長の谷苞氏の話を興味深く聞く。氏の父君は湖南人、母堂は蒙古族、夫人はホータンの尉遅《ウイツチ》家の人、お嫁さんは回族。  ──たいへん賑やかです。  氏は笑っておっしゃる。正体は不明であるが、ある感動的なものを覚える。  八月二十四日、八時三十分、別棟の食堂で洋風の食事。朝は全く秋の気が漂い、ポプラに包まれた庭はただ爽やかである。  九時三十分から二時間、迎賓館の一室で座談会。谷苞、李遇春、サビティ、穆舜英氏等の他に、新疆社会科学院副院長のアブト・サラム(阿不都・沙拉木)氏、民族研究所古代史研究室の郭、王、両氏等も出席して下さる。こちら側は宮川寅雄、円城寺次郎、口隆康、佐藤純子、横川健の諸氏と私。この席で話題になったことを、二つ三つ挙げておく。  ──楼蘭の遺跡。ヘディン、スタイン、大谷探検隊は楼蘭の故地に向うのにミーランから入った。ローランの遺跡は孔雀ダリヤの南の岸にある。七二年までは、孔雀ダリヤは水が豊かだったが、現在は上流のダムのために乾河になっており、遺跡は水のあるところから一〇〇キロ離れている。  ──古墳群。アスタナ古墳の発掘は五九年から十年続けて行われた。その結果は簡単ではあるが、既に発表されている。トルファン(吐魯番)の古墳群については未発表。トルファン地区の古墳の総数は不明。非常に広い地域に亘っており、高昌故城附近の墓はアスタナより多い。これとは別に柳中(現在のルクシイ)に集中した古墳群もある。こうした古墳群の一部は高昌国時代のものである。高昌城地域の人口は、唐の時代で五万人と見られており、その時代の墓がいくらたくさんあっても不思議はない。  ──于《うてん》の都城について。スタインはヨートカンを于の城と見做しているが、その規模から言っても、出土品が浅いところから出ていることから言っても、その可能性は現在のホータン南方の遺跡・セスビル(什斯比爾)に及ばないのではないか。セスビルはこれまでに数回の初歩的調査を行っただけで、正式に発表する段階にはなっていない。しかし、その大きさ、出土文物などから見て、漢時代の于国の西城ではないかと見られている。  ──タクラマカン沙漠の遺跡について。漢や唐時代の遺跡はすべて、現在の居住地域よりずっと北にある。沙漠は当時よりずっと南に移動し、拡大している。そのために漢、魏、晋の時代に栄えた都城も、みな四世紀の後半期に棄てられている。タリム河は往古は水量豊かで、ロブ・ノールに注いでいたが、現在はロブ・ノールまで達していず、その間に沙漠があって、そこにたくさんの往古の都城が砂の中に埋まっている。  十一時四十五分、迎賓館を出発。いよいよウルムチとも、新疆ウイグル自治区ともお別れである。  ウルムチの町の特別なところは、町の周辺を埋めている沙漠の欠片が、町のどの四辻からも眺められることである。四辻でくるまをとめると、必ずどこからか砂丘の欠片が眼に入ってくる。  しかし、何と言っても、他の新疆の町と較べると清潔であり、都会的である。この町の土は白い。従って土屋もまた白い。クチャの町を赤い町とすれば、こちらは白い町である。驢馬はこの町にも多いが、驢馬に乗っている人は殆ど見掛けず、これまで経廻って来た南疆の町々の持つ雑然さはない。長い間付合って来たポプラともお別れである。ポプラは八月下旬の今は黄ばみ始めている。  機はイリューシン62、一六八人乗り。一時四十五分、離陸。四時四十分、北京空港に着く。北京はこのところ二十─二十九度の由。気温は大体同じであるが、しかし、空気が乾燥している新疆地区のあの爽やかさはない。 (以下下巻) 文春ウェブ文庫版 私の西域紀行(上) 二〇〇一年九月二十日 第一版 著 者 井上 靖 発行人 堀江礼一 発行所 株式会社文藝春秋 東京都千代田区紀尾井町三─二三 郵便番号 一〇二─八〇〇八 電話 03─3265─1211 http://www.bunshunplaza.com (C) Fumi Inoue 2001 bb010902