TITLE : 丸山蘭水楼の遊女たち 丸山蘭水楼の遊女たち   井上光晴   目次 一八六三年夏 一八六三年秋  後記 丸山蘭水楼の遊女たち    一八六三年夏    1  その夜、寄合町通りの石段を飛び飛びに映しだす遊女屋の明かりは何時《い つ》もより生々しく感じられた。花街の入り口に向かって傾斜する坂の中央に、幅三尺程も敷石をつめた歩道を降りて行きながら、卯八《うはち》は幾度か後を振り向いた。  門屋をでた直後から、背後に揺れ動く影を察していたが、尾行の真意をはかろうとすると、彼の思いは錯綜《さくそう》した。井吹重平の制作した版画とそれを大浦居留地に運ぶ自分の関係を探索し、或いは密告を受けた奉行所の手先か。それとも他の理由で井吹重平の動静を窺《うかが》う者かもしれぬ。とすれば、誰がどのような目的を持っているのか。  今、所有する物が物だけに、卯八は体をかたくして紙挟《かみばさ》みを被《おお》う風呂敷包みをしっかりと小脇に抱え込んだ。  半刻《とき》程前、彼は眼の前にひろげられた一枚の版画に思わず固唾《かたず》を飲んだ。十字架の火刑に処せられている切支丹伴天連《きりしたんばてれん》を背景にして、肉の交わりを重ねる三組の信徒たち。漁師の風態《ふうてい》をした男の下であえぐ女房のはだけた胸元には金色のクルスが輝いており、恍惚《こうこつ》の表情を浮かべる娘の両股《もも》を肩まで持ち上げた若者の懐中には祈祷《きとう》書らしい書物がのぞいている。しかもあろうことかもう一組の姿態は、絵踏みの銅版に口を寄せる遊女のむきだした尻に、紅毛の宣教師が巨根をあてがっているのである。並の春画ではなかった。 「これは……」  卯八の咽喉《の ど》にかかった声をきいて、井吹重平は口許《もと》の辺りを親指の腹でなぞった。 「変わった図柄じゃろうが」 「変わっとるというても……」 「あんまりだといいたいか」井吹重平はいった。「これでも相当に手加減しとる。初手はもちっとたまがる図柄を考えとったとぞ」  その時、相方付きの禿《かむろ》(遊女小使)が部屋の敷居に両手をついた。 「もうちょっとな。話はすぐすむ」  井吹重平は禿の方に一旦向けた顔を元に戻すと、青銅の絵踏みを指差した。 「これはうまくち(接吻)になっとるが、初めは女の尻に敷かせるつもりだったとよ。相当の日和《ひより》見《み》になってしもうた」  どっちみちおなじでっしょ。卯八はその言葉を口にださなかった。 「おとろしか(恐ろしい)顔ばして、どうした」 「そんげん、顔のおかしかですか」 「おかしか、おかしか。肝の坐っとる卯八さんらしゅうなかね」井吹重平はいった。「どっちみち番《つが》い絵たい。いくらハンタマルヤにすがって、オラショ(祈祷)を唱えとる人間というても、やっとることはひとつ。それをいいあらわしとるとやから、文句をつけられる筋合いはなかとよ。誰からも……。ひょっとしたら、これまで考えもせんことによう気づいたというて、褒美《ほうび》の沙汰んなるかもしれん。そうするとさしずめぬしはコンプラ仲間(長崎出島居住のオランダ人に諸色《しよしき》を売る人たち)やな」 「冗談ばっかり」 「冗談じゃなかぞ。ぬしがコンプラの株を狙《ねろ》うとることは誰でも知っとることさ。狙うてわるかはずもなか」井吹重平はいった。「そのためには銭。銭になるぞ、これは」 「そりゃ、銭にはなりまっしょうが……」卯八の眼は朱と濃淡の紺に彩られた切支丹信者を絡ませた秘戯画を離れなかった。「こりゃあぶな絵ちゅうのあぶな絵ということになりますたい。よっぽど覚悟してかからんと」 「伴天連のすらごと(嘘)を、あばきたかったとですといえば、それですむ。デウス(天主)とか、聖霊とかいうても、みんな行きつく先はこれよりほかにはない。一体煩悩の底に何か見えるか。パライゾ(天国)なんというても、五十歩百歩よ」 「デウスとかパライゾとかの言葉は、何時もきこえんことにしとります」卯八はいった。「わざとふざけていうとりなさるとでしょうが、ああたもあんまりそげんことを簡単に口にしなはらん方がよかとですよ」  井吹重平は煙管《きせる》の煙草をつめかえると鼻を鳴らした。 「隠れの詮議《せんぎ》がどがんふうにきびしかか、井吹さんはあんまりご存じなかとでっしょ。そげん言葉を知っとるだけでも、怪しまれるとですよ」 「そうかな、隠れの願うとるパライゾは元々こんなものだと知ったら、奉行所は飛び上がってよろこぶと思うがね。いや、奉行所だけじゃなか、徳川も玉《ぎよく》さん方も手を叩いて安堵《あんど》するぞ」 「玉さんちゅうのは誰のこつですか」 「玉さんは菊の字さ。ぬしはまだ知らんのか。玉さん方やから柔らこう扱うてと、その辺の遣手婆《やりてばば》あまでそういうとるたい」 「尊皇攘夷《じようい》が玉さん方か」 「尊皇攘夷も勤皇開国も、徳川に楯《たて》つく連中はみんな玉さんさ」 「ところで井吹さんは玉さんですか、それとも……」 「おれか、おれはさしずめ桂馬《けいま》さん方辺りかな。桂馬の高飛び歩のえじき。どっちみち将棋の駒に違いはなかとよ」 「ああたのいうことは何時も捉《つか》まえどころがのうてわからん」卯八はいった。「右かと思うとると何時の間にか左になっとる」 「ぬしはつべこべいうとるが、ほんとはピストルでも撃たれはせんかと思うて、びくついとるとじゃないか」 「居留地のイギリスやフランス・オランダがよう買う気になるか、それを考えとるとですよ」 「みろ、矢張りおとろしゅうなっとる。……持って行きとうなかならなかでかまわんぞ。いくらでもほかに手はある」 「冷たかことをあっさりいわすとね。これだけの物をどんげんすればよか値で売れるか、その算段もあって迷うとるとですよ」  先程の禿を連れてあらわれた見せ女郎を迎えて、卯八は慌てて版画を紙挟みのなかに仕舞い込んだ。 「隠しなはらんでもよかとよ。うちはもうせんに見とるとだから」小萩は口を抑えた。 「なんや、もう見とんなはったとね」  卯八は紙挟みをふたたび自分の膝許《ひざもと》においたが、禿がいるので開けようもない。そのもじもじした手つきがおかしいといって小萩がまた笑い、井吹重平も顎《あご》をなでた。 「じゃあ、あたしはこれで……」 「まあよかじゃないか」 「今日の商いは今日。イギリス・オランダさんはあんまり遅う行くと、タモローきなさいになりますけんね」 「これからまっすぐ行くつもりか。それはまた気の早い」井吹重平はからかった。「どんげんすれば高値で売れるか、算段を考えにゃいかんのと違うか」 「覚悟を決めたとですよ。決めたとなら早い方がよか」 「屁《へ》理屈をひとついうとくばってんね。屁理屈でもないか。……イギリス人はイギリス人、オランダ人はオランダ人、イギリス・オランダじゃなかとぞ」 「フランス人はフランス人というわけたいね」 「そうそう、さすがは卯八さんだ。呑み込みの早か」 「まあお茶一杯。それから行きなはっても転びはしなさらんでっしょ」  小萩は禿にいいつけて茶の仕度をさせた。太夫《たゆう》を張ってもおかしくないといわれる下ぶくれの格子であったが、客を選《よ》り好みするのが難だと噂《うわさ》されていた。 「一昨日の晩、蘭水《らんすい》で騒ぎのあったことを知っとるね。それはもう大事《おおごと》になるかもしれんような、えらい騒動だったらしかよ」 「ロシヤの水兵でも上がり込んだとか」 「さむらいか町方の者かわけのわからん身なりの客が、すうっと入ってきたというとんなさった。ちょうどああたみたいじゃなかね」小萩は少ししなを作るような口調でつづけた。「ぬしさんと違うところは銭を仰山持っとるところ。懐からばさっと投げだすと、染田屋の尾崎を呼んでくれと、少ししゃがれた声でいうたそうな」 「見てきたごというじゃないか」 「染田屋の尾崎。いきなり太夫とはそりゃ大した鼠のごたるね」と卯八。 「いくら銭を積んでも初手から尾崎さんは無理な話。それで店の者がなだめにかかると、無理を承知でいうのだと開き直ったので、もつれよったと……」 「この頃は初手も返しもなかとじゃないか、銭さえ積めば」 「それにはそれで、そういうやり方があるとでっしょ。店の面目も立ち、手前の顔も立つような。手続きも何も踏まずに、いきなり尾崎を呼べじゃ、後に引きようもなか。……」 「それで騒動か。猿芝居もよかとこじゃなかか」 「それから先のこつがちょっと、気色のわるうなってくるとですと。そのさむらいか町方の者か曖昧《あいまい》な客は、蘭水の座敷できちんと居ずまいを正しなはると、真っ青な顔ばして、この銭は三年かかって貯《た》めたと、そがんふうに切りだしなはった。……」 「語り口のこまかね」井吹重平は茶々を入れた。 「この銭の一枚一枚には人にはいえん苦労がこもっとる。ただ尾崎に会いたか一心に今日まで貯めてきたとだけん、この気持ちを伝えてくれと、それはもう泣かんばかりに頼みなはったとよ。太夫と首尾を遂ぐるために三年も苦労したといわれてみれば、分限者でもなし、蘭水さんの方でも哀れなごつ、怪しかような気色になって、一体どんげんこつばして三年も苦労しなはったのかときくと、それはいいとうなかという返事。……」 「びんびん、びんびん、びんびん」 「黙ってききなはるとよか。お客からそんげんした返事があったので、とにかく話を通じるだけは通じてみまっしょということになって、店の者が取りあえず尾崎さんに伺いをたてたそうな」 「尾崎太夫へご注進か。きくも涙の物語、汗にまみれたみとせの月日、今こそ晴れて今宵《こよい》の首尾を……で、でん」 「太夫は嫌だというたとね」と、卯八。 「尾崎さんが何と答えたか、それもはっきりせんうちに騒動は起きたとよ。蘭水の客が厠《かわや》に立ったのをふらっと見た者が首かしげていうには、どうもあの客の顔に見覚えがあるといいだして、あれこれと考えとるうちにはたと膝ぼんさん打ちなはった。あれは戸町の船乞食《こじき》だ、それに違いなかとおらんで、それから大事になってしもうたと。……」 「すらごとじゃなかろうな」 「すらごとじゃなかとよ。染田屋のたよし(女郎衆)からちゃんとこの耳できいたこつだから」 「こりゃ赤飯でも炊かにゃいかんぞ。こりゃおもしろか。そんげんひょうげもん(剽軽者《ひようきんもの》)がまだ生きとったか」 「ひょうげもんじゃなか。戸町の船乞食というとるでしょ」 「いや、ありきたりのぜんもん(乞食)じゃなかぞ。そりゃ長崎一の大ひょうげもんじゃ。今年のひょうげ一番はそれに決まった」 「ああたのまたわるか癖のはじまった」 「それで、その船乞食は叩きにでもなったとね」卯八はきいた。「蘭水楼も染田屋も後の損代が大変じゃろう」 「叩きになるかどうか、これから評定のあるとでしょ。船乞食はひとまず番所預けになったそうですけん」 「番所預け。そいじゃその一番のひょうげもんはまだ丸山におるとたいね」 「ああたのごと話をまぜこぜにしてうれしがる人もおらんとよ」小萩は禿の用意した茶を二人にすすめた。  ひとつには尾行を確かめるため、さらに船乞食の一件もあって、卯八は何気なく足を止めた。染田屋の角を右手に狭い路地を曲がると附属する茶屋の蘭水楼に通じるのだ。しかし、ことさら変わった気配もなく、背後の影も動かない。  大浦居留地への近道なら大徳寺下の道に向かわねばならぬが、卯八はわざと二重門をくぐり抜けて思案橋の方向へ急いだ。  それにしても、異人たちの住む大浦居留地に幾度か赤絵の陶器や和紙に刷った春画を持ち込んだことが、わざわざ奉行所から尾行者を差し向けられる程の犯罪であろうか。井吹重平との関係は、それ以上のものではないのである。卯八は弁解でもするように、これまでの経過を考えたが、水を撒《ま》きすぎてできたらしい溜《たま》りを避けて草履の爪先《つまさき》に弾みをくれた途端、ふっと、ひょうげ一番という声が脳裡《のうり》をよぎった。  そうか、矢張り誰かが井吹重平の所業振る舞いを差したに違いない。博多の辺りからきた、というだけで素姓も曖昧なら生活の基盤も定かでない男の、自由奔放な悪たれ振りをねたむ者がいたのだ。金品の出所も自分こそ知ってはいるが、他の者には皆目見当もつかぬはずである。  卯八は小さい溝《みぞ》を飛び越え、反物屋の店先で危うく通行人にぶつかりそうになった。金品の出所を知っているといっても、限られた部分にしか過ぎず、考えてみれば、井吹重平が現在何処《ど こ》に住んでいるのかさえつかんではいない。何時も連絡先は門屋か行きつけの小料理屋であり、自宅の方角さえ見当もつかなかった。  彼はちょいと振り向くと、さっと横手に身を翻した。消えかかった蝋燭《ろうそく》の赤い提灯《ちようちん》。  出会ってから数えてみると、まだ一年余にしかならないのに、まるっきり操り人形と化した自分に、黒子は決して本態を見せないのである。  井吹重平。卯八がその男を最初に知ったのは、文久二壬戌《じんじゆつ》年(一八六二年)の五月、船大工町の空き地で行われた馬場芝居(街上演劇)の観客席であった。  それは変哲もない廓《くるわ》の人情を物語にした演《だ》し物で、役者が台詞《せりふ》を吐くたびに、げらげらと大口をあけて無遠慮に笑う男がおり、その者こそ井吹重平だったのだ。  博多からきたというのは嘘で、実際は有田の出らしい。茶碗や皿の売り買いが本職、とまことしやかにいいふらす者がいるかと思えば、事情あって筑前藩を追われた医者らしいぞ、と遊女屋の主人に耳打ちする地役人もいた。噂にまた尾ひれがつく。  あのひとの本業はおいしか知らん、と思いながら、卯八はさっきから気にかかっていることにこだわった。誰にも金輪際明かすな、という約束を、井吹重平はなぜ自分から破ったのか。見せてはならぬ絵を小萩はすでに知っていた。  そこからしばらく暗い軒並みがつづき、質屋の灯に照らしだされた用水桶《おけ》の前を過ぎると、ふたたび浜風で残暑をしのごうとするそぞろ歩きが目立つ。このまま大浦まで突っ走るか、それとも家に引き返して明日にするか、ようやく迷いはじめていたが、踏ん切りのつかぬまま、卯八はさらに橋を渡った。  絵柄が絵柄だけに、これまで取引している相手の反応をはかりかねたし、いきなりひろげて見せた後では、何かしら思うような商いができぬ気もしたのである。  尾行は撒いたはずだが、要心のために卯八は堀脇に身をかがめた。居留地のマックスウエルを訪ねるためには、もう一軒寄り道しての段取りを必要としたが、それも今となっては少し気鬱であった。 「ひゃぁはち(平八、安女郎)もひゃぁはちなら、それを真にうける惣さんも惣さんさ。……本気で大村行きの銭作って渡したというから、ざまあなかとよ」 「その何とかいうひゃぁはちは、それで大村に行ったとね」 「行くはずなかとよ。一体大村に家があるというのも眉唾に決まっとるさ。おっかさんが病気なんちゅうて、今時そがん手口を使うひゃぁはちが何処におる。それにまんまと引っかかりよって……」 「相当のっぽす(背ばかり高い実の入らぬ人間)とはきいとったがね」 「引っかかっとるひゃぁはちがまたどてかぼちゃのごとしとるとよ。……」 「やっぱりあれかな。年とってから覚えた遊びはなんとのう落ち着かんね」  声高な二人連れの足音をやり過ごして、卯八は立ち上がった。居留地行きは明日。    2  戌《いぬ》の刻(午後八時)を半刻近く廻っていたろうか。染田屋の太夫尾崎を揚げようとして身許の露見した船乞食の預けられているという自身番所に、井吹重平は立ち寄ってみた。立ち寄ったというより、目的はそこにあったが、番屋爺の唯助は頭を振ってそこにもう船乞食のいないことを告げた。一昨日の夜、連行されてはきたが、およそ一刻も経たぬうちに、連れ去られたというのだ。 「何処に連れて行かれたか、わからんとね」 「そりゃ大方、溜り場でっしょ。乙名《おとな》さん(町役人の代表)や組頭のきて連れて行きなはったとですよ」 「溜り場か……」井吹重平はいった。「戸町の船乞食ちゅう話やが、名前は知らんやろうな」 「確か、又次とかいいよりましたよ。……戸町だけじゃのうして、大浦辺りでも稼《かせ》ぎよったという話ですたい」 「又次ね。……三年も日銭を貯めるのはきつかぞ。染田屋の尾崎にはよっぽど惚《ほ》れとったらしいな」 「尾崎じゃのうしてもかまわんという話だったらしかとですよ。最初は……」 「尾崎に限らんというのはどういうわけね」 「いやあ、あたしもひとからきいた話だけんようとは知らんが、あの又次という船乞食は部屋に入るとすぐ、ああこれで念願かのうた、蘭水で太夫をあげて遊ぶことができれば本望とか、そんげんことをいうたそうです」 「太夫というのが尾崎のことじゃろう」 「いや、尾崎というのは後からでてきた名前じゃなかとですか。とにかく又次は蘭水楼で太夫をあげるのが本望で、太夫なら誰でもよかったとでしょ。尾崎さんになったのは、遣手の方でそれなら尾崎さんに頼んで貰いましょということじゃなかとやろか」 「尾崎を名差しできたと、おいはそんなふうにきいとるよ」 「名差しかどうかはわからんと。それでも遣手が尾崎というたら、船乞食はほんなことうれしかふうだったらしか。そいけん尾崎さんの名前も顔も見覚えがあったとでっしょ。なにせ、絵踏み衣裳《いしよう》を着た丸山の女をみて念願を立てたというとだけん、何年越しの思いになろうかね」 「絵踏み衣裳というたら、もう六、七年の前やろう」 「へえ、絵踏みがのうなったとは、安政の午年《うまどし》だったけんね。宗旨改めはその年から確か絵踏み抜きになったとだから。絵踏み衣裳を見たというならそれより前ということになるたい」 「そうだったかな」井吹重平はいった。「絵踏み衣裳を見て念願を立てたちゅうとは、又次がそういうたとね」 「又次がいうたとでっしょ。あたしは組頭さんの話しなさっとるのをきいたとばってん、本人がいいもせんことを、ほかのもんが知っとるはずもなかですけんね」 「どっちみち哀れな話たいな」 「哀れといいなはるとですか」  唯助はちらっと表情を動かして彼を見た。行灯《あんどん》の薄い明かりに照らされて浅黒い顔は一層隈取《くまど》って映る。 「ああたがいわれたけんいうとばってん、あたしも哀れな話だと思うとります。たったひと晩本望遂げることば思いにして何年がかりで銭作ってきたというとに、笑い者にしてよかとでっしょか。あたしはそうは思わん、たとえ船乞食ちゅうことが知れとっても、見ぬ振りをするというとが花街の人情というものじゃなかとね。……丸山にはさばけしや(融通の利く人)のいっぱいおんなさるごたるが、なんのさばけしやなもんか。又次の一件じゃみんな地金まるだし。ただの錆《さび》くれ釜《がま》ですたい。あたしゃそう思うとります」  彼が頷《うなず》くと、番屋爺はつもった口調でなおもつづけた。 「船乞食というても、身なりをしゃんとすればおなじ人間じゃなかとですか。……もし船乞食がいかんとなら、稲佐のマタロス休息所にくるロシヤ人はどうなるとか、あたしゃそれをききたかとよ。……」  身なりをしゃんとせずとも人間は人間ぞ。しかし井吹重平はそれを口にせず、又次を哀れむあまり突然筋道の通らぬ理屈をひろげる唯助のいい分をきいた。 「マタロス休息所にくるロシヤ人を相手にしてよかとなら、どうして船乞食がいかんとね。それもひゃぁはち相手の居続けをやらかそうというとじゃなか。ちゃんとした太夫を相手に一夜限り、持っとる金を全部注ぎ込んで遊ぼうというとに、何で叩きださにゃいかんとか。さばけしやとは名ばかり、よかけん、精一杯本望を遂げろというもんはおらんやったとか、あたしはそれが口惜《く や》しかとよ」 「さばけしやはおるさ」 「おるもんか、丸山にはおらんよ」 「目の前におるたい」井吹重平はいった。「ぬしがさばけしやたい。そうじゃろが、ぬしにそがんふうに思わせただけでも又次のやったこつには錘《おもり》がこもる。……まあ見とりんしゃい、今時蘭水で懐全部の銭投げだして、太夫を呼べなんちゅうたりするとは並の人間にできることじゃなか。そりゃただの船乞食じゃなかぞ、おいはそう睨《にら》んどる。……」  唯助はこういわれて、小鬢《こびん》の辺りを指で掻《か》いた。 「さばけしやになるとはなかなか難しかとよ。誰でもみんな自分のことをさばけしやと思うとるが、肝心要《かなめ》の時になると、ぬしがいうたように、地金がでてしまう」彼はいった。 「それにしても惜しかことしたな。その又次とかいうひとに会いたかったとばってん……どんげん顔ばしとったね」 「そりゃもう、カピタン(船長)のごたる顔ばしとったとですよ。南蛮船か八幡《ばはん》船かしらんが、とにかくそんげん顔ばしとった。番所に引っぱられても、しおれた顔ひとつするじゃなし、ぐっと顎あげて、何ちゅうてもこりゃカピタンのごたるなと、そう思うとりました」 「年は」 「さあ、もう四十は過ぎとりましたか。ああたよりはもちっと老けとったかもしれまっせん」 「こりゃいっぱつやられたな」 「そがん気持ちでいうたとじゃなかとですよ。ああたはまだ若うあんなさるけん」 「お世辞ばいわれるようになっちゃお仕舞いたい、おいも。……」 「すみまっせん、つい口からでてしもうて」  大口を開けて笑い合う、番屋爺の手に酒手を握らせて、井吹重平は自身番所をでた。片手町筋の方からかなりの急ぎ足でやってきた侍がひとり、胡散《うさん》臭そうな視線を彼に投ずると、きこえよがしの舌打ちをして行き違った。  船乞食の名は又次。絵踏み衣裳の遊女を見染めて念願を立てたという筋書きは少し出来過ぎるような気もしたが、忽《たちま》ちそのような話が仕立てられたところからみても、かなりの衝撃を誰彼が受けているのだ。  安政三丙辰《へいしん》年(一八五六年)五月、彼は長崎にでてきたのだが、翌年一月初めに目撃した絵踏みこそ、始めの終わりであった。番屋爺のいう通り、その年極月二十五日、長崎奉行所は新年度よりの宗門改めを、絵踏み抜きだとするふれを廻したのである。  評判にきいていた丸山遊女の絵踏みを、井吹重平は丸山の後方にある梅園天満宮の境内で見た。その日のために特に念入りな化粧をし、装いを凝らした遊女たちの白い右足が、マリヤの絵像を彫った金属牌《はい》を踏むたびに、見物衆の間から溜息に似た声があがり、裾模様の趣向と裏地の綾《あや》なす色彩の鮮やかさに、もう一度歓声を重ねた。  馴染《なじ》みの旦那が、負けじと贅《ぜい》をつくした衣裳を、夫々《それぞれ》の太夫や店女郎が此処《こ こ》ぞとばかり翻すのである。 「筑後屋吉兵衛抱え、雲井」  町役人が源氏名を読むと、呼ばれた遊女は立ち上がって地面におかれた絵像に向かう。するともう素足の艶《なま》めかしさを期待する見物人たちの囁《ささや》きは一瞬跡絶《とだ》え、つづいてほうっという熱い吐息が洩れるのだ。  新春の草花をさりげなくあしらう、そのさりげなさに意気が生まれ、かえって遊女の洗練された趣向を窺えるかと思えば、大胆に阿蘭陀《オランダ》船を模様としたビロウド地の黒々とした滑らかさに引き立つ太夫の美貌。絵踏みはすでに、禁制の宗門を改めるために行われるのではなく、丸山の遊女を最も美しく飾るための行事と化していた。 「次、同じく筑後屋吉兵衛抱え、小式部」  町役人の声が上がった途端、井吹重平は右脇から押されてよろめいた。後方の人々が、目差す太夫をより近く眺めようとして体を割り込ませたのだ。 「まばいかごつきれかぞ(目の眩《くら》むほど美しいぞ)、こりゃ」 「きれか、きれか。……おい、押すな」 「へえ、あいが小式部か。ちょっと異人さんのごたる顔ばしとるじゃなかね。あいの子じゃなかとか」 「あいの子が太夫になるっか。でまかせいいよって」 「黙って見とれ、ほら。今からいちばんよかとこぞ」 「押すな、だい(誰)が押しよっとか」 「ふるいつきたかごたるね」 「ふるいつけばよかじゃなかか」 「ふるいつかせてくるるならね」 「黙って見とれというとるとに」  絵踏みを見て願を立てたという番屋爺の筋書きに多少眉唾なところがあるにしても、あり得ない話ではない。染田屋の尾崎を名差したのではないところに多少の弱さは絡まるが、三年がかりに尾崎を揚げようとしたという噂は早くもひろまりつつあるのだ。  ふたたび門屋に引き返すか、それともいっそ蘭水楼に行き、尾崎を呼んで又次の恋情を肴《さかな》に葡萄酒としゃれるか。井吹重平は自分の思いつきにまかせるような足どりで、下駄を鳴らした。  この時刻に、まさか尾崎の体があいているはずもなく、たとえ先約がなくとも今夜応ずる見込みもないと考えながら、溜り場につながれたという船乞食の一件からどうしても離れられないのである。とにかくちゃけなしじゃ踏ん切りもつかぬ。  彼は大崎神社の方角に戻って、わざと馴染みのない居酒屋に入った。なるべく客のたて込んでいる店を探して。店構えにしては若過ぎるような主人は、怪訝《けげん》な面持ちを素早く隠すと、わざわざ客を入れ替えて落ち着く場所に席を作った。 「すまんな」 「お客さんの顔は、何べんか見たことのあるとですよ」主人はいった。「製鉄所のえらか人かなあと思うとりました」 「見込み違いでわるかったね」 「失礼なことばいうてしもうて。……何でも珍しかもんを見ればすぐちょっかいばだしとうなる性分ですたい」 「珍しかもんか……」 「ありゃまたいわんでよかことをいうてしもうた」  そんなやりとりが流儀のお世辞らしく、主人が去ると入れ替わりに小綺麗《こぎれい》な女が銚子《ちようし》を運んできて酌をした。すると近辺にいた客のひとりが中指を唇にあてて、奇妙に音程のついた口笛を吹いた。  あわびの酢とねぎぬたを肴に井吹重平は酒を飲みはじめた。店の客は殆ど常連らしく、他愛もない無駄口のかわされるなかで、彼がきき耳を立てたいと思う噂はなかなか話題にならなかった。船乞食のふの字もでてこないのである。 「黒革縅《くろかわおどし》とはまた、よういうたもんたいね。雨もよう降っとらんとにわざと合羽着て揚げ代取りに攻めたてられよったら、近所近辺見っとものうして、暮れまで待ちんしゃいなんてよういわれんとよ。ありゃほんなこつ考えた取り立ての道具ばい」 「油屋のきん婆あか」 「婆あでもなかとよ、あれで。寺町の坊主をちゃんとくわえ込んどるというとだから」 「蓮生寺の生臭じゃろう。知っとるよ」 「ほら、おんたち(俺達)が去年泳ぎに行ったろう。あん時の帰りに会うたじゃなかね」 「誰と会うたとか」 「油屋の遣手婆あがしな作って蓮生寺の坊主と歩いとったじゃなかか。覚えとらんかな。おんたちを見とるくせに見んふりしてすうっと消えてしまいよった」 「覚えとらんな」 「ともかく、きん婆あの黒革縅は堂にはまっとるとぞ。カルメイラ(砂糖菓子)抱えて、盆の十四日に差しだされたらほんなこつ逃げようはなかとよ。おやじの方がたまげて、乙名さんでも迎えたごたる言葉遣いしよるとやからこりゃもうどうにもならんと」 「猫なで声だして、ほんなこつ合羽着た猫たいね。油屋のお使いでまいったとです。ようあげん声ばだせるたい」 「油屋の遣手もひどかが、津ノ国屋もちょいとしたもんぞ。わざと雨の日を選んでくるとだから。黒革縅どころか、赤革縅たいね。金平糖さげて鯛《たい》釣りにきよる」 「瓢箪《ひようたん》のついた傘でも差して一丁出迎えにゃいかんな」 「千成瓢箪でいざいざ見参か。汝《なんじ》の黒合羽は油屋のおきんと見覚えたり。敵に背を見せるは卑怯《ひきよう》なれども、今は合戦の機にあらず、年の瀬にても相まみえん。……」  蘭水楼で起きた先夜の一件に興味はないのか。それともまつわる話は最早《もはや》でつくしてしまったのだろうか。主人からだといって女の運んできたからすみに井吹重平が礼を返していると、見るからに留学生然とした若い侍が二人、のれんをくぐってきた。  恐らく英語所か医学所の伝習生であろう。注がれる視線を意識した態度で、酒肴《しゆこう》を注文すると、ひとりは手拭いをだしてしきりに首筋を拭いた。まだ長崎にきて間もないのだ。風態《ふうてい》からみると薩摩《さつま》や長州ではなく、幕府方旗本の次・三男辺りか。  大浦という言葉がでてきたので、耳をそばだてたが、船乞食ではなく惣嫁《そうか》(碇泊《ていはく》する船で売色する女)の話らしい。やりとりするのは職人風の三人連れである。 「……そりゃもう蚤《のみ》といっちょん変わらんごたるというとらした。頭隠して尻隠さずというとはこのこつで、手入れだと知ってひゃぁはちというひゃぁはちが艫綱《ともづな》やら帆蔭《かげ》の間にぱっと一斉に潜り込んだらしか。ところが尻は丸見え、荷物棚の脇から赤か蹴出《けだ》しののぞいとるちゅうふうで、役人の手前笑うわけにもいかんし、見んごと見んごとと思うてずっとうつむいとったげな」 「尻ひっぱいでというとはこのことたい」 「なかにはおもしろか役人のおって、その辺においてある釣り竿《ざお》か何かの先でちょんと突つくとげな。そしたらぴくっと尻をひっこめはするが、身動きできんような場所に隠れとるから、結局どうにもならずに、けつばかりぴくぴくさせとるちゅうて、そりゃもうあんげん腹抱えるこつはなからしか」 「誰の話ね、そりゃ」 「よう親方のところにくる船頭たい。知らんかな、天草通いの三栄丸」 「きいたこつなかな」 「荷物廻船《かいせん》じゃけんね」 「戸町浦のひゃぁはち大工か」 「かんな屑《くず》、かんな屑……」  自分たちだけに共通する話題らしく、三人はそこで声を立てて笑った。  二合はたっぷり入る徳利を殆ど空にしかけていたが、井吹重平の気分はなぜか落ち着かない。額を寄せるようにして語りあう留学生たちの声はそこまで届かず、かなり気を遣っているらしい主人の眼とふたたびぶつかった。 「代わりを貰おうかな」 「へい、お銚子のお代わり」主人は応じた。  蘭水に剽軽《ひようげ》た客の上がったそうたいね。彼は口まででかかった言葉を抑えた。話をかわすには少し離れ過ぎていたし、大勢の中でそれを切りだすのが少し億劫《おつくう》にも思えたのだ。 「お客さん、蘭水楼の話はきいとんなさるでしょう」  彼の心を見すかしたように主人が声をかけてきた。 「又次のことならきいとるよ」 「あれっ、お客さん詳しかとですね。又次というとですか、太夫にくろか墨をなすくりつけようとしたとっぽ烏賊《い か》は」 「誰もなすくりつけようとはしとらんやろう。ちゃんと遊ぶ金は持ってきとるとだけん」 「そいでも……」主人はいいかけて、彼の口調に気付いたのか、言葉の方向を転じた。「何ちゅうても胆の太かこつをやったもんですたい、身なりさえ変えて行けば、それで通るとでも思うとったとでっしょか」 「蘭水に上がっちゃいかんという法もなかやろう」井吹重平はいった。船乞食が、と前におきたかったが、それではきつくなりそうな気がしたのだ。  それっきり黙ってしまった客の機嫌をとるように主人はひとりで合点した。 「又次とはまた、らしか名前を持っとるもんたいね」    3  太鼓持ちの巳之助《みのすけ》が手妻を上手に操れば操るほど、染田屋の遊女くら橋の胸は重く沈んだ。元々大坂下りの旅芸子一座に付き従ってきた幇間《ほうかん》の巳之助は、先年、娘のえつともども長崎寄合町の人別に加わることを許された芸達者な男であったが、器用にこなす長崎弁の抑揚さえも、心のそこにない女にとっては、わずらわしかったのである。  今宵の客は三人、堺からきた商人と手代を網屋友太郎が招待した席であった。大砲や鉄砲を売っとらすとげな、という噂や、ほんとは幕府の商いをつかさどっとる人などとまことしやかな話がささやかれていたが、網屋友太郎の素姓については、その実染田屋の主人でさえも知らなかったのだ。半年程前から突然蘭水楼にあがり始め、盆暮れではなく時々に精算する払いのよさで、今では上客のひとりとなっていた。 「さあ今度はオランダはフランス渡りの奇妙奇天烈《きてれつ》玉手箱っていう手妻。はい、あんじょう見といて下はりませ。蓋を取りまして中を改めます。はい、よかですか、中はすっからかん。何にも入っとりませんよ。さてこれからが大事件、これまで天下様でもご覧になったことがないという、からくり。……」  巳之助は五寸真四角箱の木箱の上蓋を抜くと、空の中身を皆の前にさらして見せた。 「さて、勿体《もつたい》なくもここで尾崎太夫へお願い言上。お櫛《くし》を一枚、どうかお下げ渡し下さいませ。……いえいえ、そう申しましても手前が着服する所存ではありません。いや、これは見事な亀の甲。剥《は》ぎ取られる時はさぞや痛かったでありんしょう。……何度も恩を着せるようで申し訳なかとですが、江戸の大奥でもおためしになったことがないという、さらもん、さらわり(水揚げ)の芸でありんすよ。……はい、太夫が肌身離さぬ秘蔵のお櫛をこの玉手箱の中に投じます。はい、間違っても傷つけたりせんように、そっとそっと、殿方がどこぞにお触りになるようにお入れ致します。はい、見事に納まりました。そこで両手で抑えます。あらそがんこつしなさると恥ずかしかとですよ。……」  太鼓持ちは尾崎太夫から借り受けた鼈甲《べつこう》の櫛を鄙猥《ひわい》な手つきで木箱に納めると、上蓋を横から差し込んだ。三味線を膝においた芸子が二人、調子を合わせるように、しのび笑いを洩らし、巳之助は軽く咳《せき》払いをした。 「はい、ただ今お入れ致しました見事な一物がどのような次第に相成りますか。へびがでるかじゃがでるか。それとも高啼《な》きのよがり声か。……はい、此処は特別、オランダ・フランス語で気合をかけます。ワンとチイとトリー。……」  太鼓持ちは恐る恐るという風情で、木箱の蓋を抜くと、中から鎖のついた黄金色の十字架を取りだした。そして、わざとらしく大仰に驚く真似をしてみせた。 「これはこれは何としたことか。尾崎太夫の秘蔵の一品が、天下のご禁制品に化けてしもうた。これはならぬ。これはならぬぞ。……あろうことか、切支丹伴天連の抜きさしならぬ証拠をひろげてしもうた。ああ、すべては手遅れ、取り返しのつかん事件を引き起こした。ああ、さらわりの芸とは何とふとかごつ犠牲を払わんならんものか。……」  巳之助は片方の手でつかんだ鎖を振ると、行灯の明かりを映してクルスはきらきら光った。 「きれか」芸子が声を上げた。 「そげんこついうたら召し捕られるよ」  太鼓持ちはそれを枕にして、さらに口上を続けた。 「さて、みなみなさま。これではわたしめが疑われます。こんげんおとろしかものをだしよったら、ひょっとしたら巳之助は幇間を隠れみのにした伴天連じゃなかとやろうか。万一噂でも立ちよったらそれこそ西山の刑場行き、磔《はりつけ》にでもなりかねまっせん。そこでもう一度、ひとつはこの身の潔白をあかすために、ふたたびこれをこうして仕舞い込みます。……」  巳之助は鎖を巻きつかせた十字架を木箱に入れると忍者まがいの手つきで二本の指を眉間《みけん》にあてた。今度は恐らくクルスが消えて、鼈甲櫛があらわれるのであろう。くら橋はそう思ったが予測は外れた。十字架は確かに失せたが、なんと櫛と一緒に一両小判がでてきたのだ。  やんやの喝采《かつさい》のなかで、巳之助が櫛の上に小判を重ね、おしいただくようにしながら尾崎に渡すと、太夫は櫛だけを髪にさして小判はそのまま掌の上に残した。 「旦那さまにお礼をいいんしゃい。さらもんの手妻を見せてもろうたお祝儀たいね」 「いえいえ、これは尊いお櫛の拝借料でございますよ」 「太夫からの祝儀だ、とっておけ」  網屋友太郎が口を添えると、巳之助は平伏するような恰好をして、小判を額に押しつけたまま、自分の席に戻った。 「珍しい手妻ですね。初めてみましたよ」堺の商人はいった。「オランダというたが、ほんまにそうですか」 「はいはい、オランダはフランス渡り。ほんまにほんまの玉手箱ですと」 「何処から手に入れなさった」 「よくぞきいてくんなました。これにはふかーい事情の絡まっとっとですよ」巳之助は早くも次の芸を始めていた。「いうてよかかどうか迷いますばってん、お大尽の勿体なかお言葉に、矢張りそむくわけにもいきまっせんし、ああ、胸の裂けるごと苦しか」 「話すな、話すな。そんなに苦しいものをきいてはよくない」と、網屋友太郎。 「いえいえ、もう手遅れですたい。でかかった言葉を引っ込めるのはなお苦しかとです」  皆の笑いに合わせる気もなく、くら橋は興に乗った顔を作らねばならなかった。巳之助のわざとまぜこぜにした長崎弁はつづく。 「申すもはばかる物語ですが、この巳之助にはいいかわしたるアンニョ(唐人の遊女に対する呼称)がおったとです。……太夫やくら橋さんには及びもつきませんが、それはもうあたし好みのすんなりした気持ちの優しかおなごでした。おや、何を笑うておいでるとですか。このおなごのためなら身代もいらん、名誉もいらん、丸山に骨を埋めてもよかと決心して、人別帳まで移したとですよ。……あたしは身を粉にして働いて、かなわぬまでも身請銀をこしらえようと覚悟だけはしとりました。  ところがあなた、美人薄命とはよういうたもんです。末は夫婦の誓紙もあらばこそ、心の臓の病でぽっくりあの世行きとは情けなかじゃありまっせんか。医者にかかった時は最早手遅れ、唐人から譲り受けて貰うた高貴薬を十日分も飲まんうちに果ててしもうたとです。  虫が知らせたのか、亡くなる三日前の晩、おなごがあたしの手をとっていうことには、うちの命ももう長くはない、いやいや慰めては下さるな。ぬしさんの気持ちはわかり過ぎるほどわかれども、今となってはせんかたなし。そこで取りいだしたるのがこの木箱。……これを形見に差し上げるゆえ、これからはうちと思うて、いちばん大事なものを納めておくんなまし。  そうかわかった。これから先はお前と思うて大事にしよう。……ああよかった、これでここにある荷がおりました、とおなごは手を取って胸にあてる。互いに見かわす目と目に光るひと筋の、哀れも深きいまわの情け。おなごはさらに喘《あえ》ぐ息の下からその由来を……で、でん、でんでん。  今を去る六十年の昔、出島の蘭館《らんかん》にヘルマアス・レッケというオランダのドクトルがおられたとです。ドクトル・レッケは勝山というたよしと好いた仲になんなさって、間にやや児までできたそうな。確かおれんという名前のつけられたとよ。この箱はそのおれんさんの持ち物だったと。それがどんげんしてうちの手に渡ったか、このわけは堪忍してくださりませ。……思わず寄する頬ずりの、おなごは耐え切れずがばと打ち伏し、背にあてた男の指先に伝わるあやしき顫《ふる》え。……ででん、でんでん、でんでん」 「おれんさんを生んだたよしの話はきいたことがあっとよ」尾崎はいった。「すらごとと思うとったら、ほんなことの話やったとたいね」 「こりゃひどかこつをいわれた」巳之助は声をあげた。「人からはいくらとんぴんかん(剽軽者)といわれても、太夫にだけは信じられとると思い込んで、ただそれを頼りに今日まで心の支えとしてきたものを、あまりといえば情けないお言葉。とほ、とほ、とほほほ……」 「そいでも巳之助さんにそんげんたよしのおんなさったことは知らんやった」年かさの芸子が口をだした。「そんげんきれかひとだったとなら、さぞや名の通ったたよしさんじゃったとやろね」 「それは秘密。いわれんと」 「いわれんことはなかとでしょ。形見まで貰うとるたよしさんのことを、なんで隠しなはっとですか」 「こればかりは口が裂けても……どうぞ堪忍してくだはりませ」 「怪しか、怪しか」尾崎は囃《はや》し立てるような口調でいった。「名前をいえんというのは矢張りすらごと。巳之助さん、それでも隠そうといいなさるとね」 「ああ、これは進退きわまった。秘密を守ればすらごとといわれ、さりとて名前をあかすわけにもいかず……こりゃどう仕様もないわいなあ」 「怪しか怪しか。ほんなこつをいうと、いま誰にしようかと、考えとらすとよ」よね、という名前の若い芸子がいう。「さあ誰にしようか、誰にしようか」 「この頃のおなごしは激しかことをいわす」太鼓持ちはいった。「旦那様、どうぞお助け下さい。何かよか思案はなかとでしょうか。伴天連の秘密が絡まっとるけん、いいとうてもいえんとですよ」 「心の臓の病で死んだというのなら、調べさえすれば忽ちわかるはずだな」網屋友太郎はいった。「何年に死んだのかしれんが、年寄りにでもきけば、名前なんか簡単にでてくるだろうさ」 「これはよか盗賊方のでてきなはった」尾崎は手を叩いた。「巳之助さん、きりきり白状しなはらんと、旦那さまのいわれる通り、調べて貰うてからじゃ、穴埋めの刑を受くるとですよ」 「穴埋めの刑か。どういう仕置きかしらんが、都合によっちゃ身替わりにでもなりとうおますな」 「知らんのやからそんなことをいう」堺の商人が手代の言葉を引き取った。「丸山の穴埋めは、とてもとても、松島なんぞとは違うんや。なあ、太夫はん」 「何の話かわかりませんと」尾崎は答えた。「あんまり意味の深うすぎて、旦那さまたちのいわるることはこちらによう通じんとです」 「ほれみろ、お前が助平なこというからや。太夫さんのご機嫌損じてしもうたわ」 「これはまあ、気のつかんことをいうてしもうて、堪忍して下さいませ」 「とんだところに話がそれたようですな」網屋友太郎は太鼓持ちの方を見た。「さて、白州は巳之助が誓約をかわしたという女の名前だったな」 「お白州へ引き立てられちゃもうお仕舞いだ。覚悟はできておりやすぜ」 「白状せい」 「お奉行様、これには深い事情が絡まっておるのでございます。へい……いまからそのわけを……きいて下さいましな」 「その手には乗らんぞ。まず女の名前だ」 「あまりといえば短兵急な……」  くら橋は厠に立つ風をして席を外した。頃合いからいっても目立ち過ぎたが、気持ちの上でひと呼吸入れなければ、どうにも辛抱できなかったのである。彼女の胸につかえているものは、ひとつに男の足がばったり遠のいたことであり、それに今日の昼下がり、染田屋主人から持ち出された稲佐の魯西亜《ロ シ ヤ》士官止宿所行きの件であった。そしてそれは互いに連関してもいた。  椛島《かばしま》町の廻船問屋増屋の番頭七十郎とくら橋の仲は、客と遊女の関係をとうに越えていた。すでに四十を越えた七十郎には永年連れ添った女房と娘がいて、身請銀はおろか染田屋に通うことさえままならなかったが、奉公の年季があき次第、男につくす身の振り方を考えてもいた。  ここに突然女房の死。他人の不幸をよろこべるはずもないが、くら橋がひそかに七十郎との間の新しい進展を願ったとしても無理はなかろう。増屋の主人は番頭と遊女の仲を以前から知悉《ちしつ》しており、染田屋にかけ合う算段もできなくはないと思われたのだ。  それというのに何としたことか。女房の死を境に七十郎の足も心も跡絶えてしまったのである。四十九日どころか、三カ月過ぎた頃、くら橋のかさなる文に対して、仕事がせわしく、博多や大坂に行く用向きもあって、ままならぬという、通りいっぺんの返事をくれただけであった。  しかも、それを見越したような稲佐行きの話。染田屋太兵衛の口調は露骨に押しつけがましかった。 「稲佐は稲佐でも、マタロス休息所に行けというとるじゃなかとよ。相手はれっきとした魯西亜の士官さんばい。その辺の不景気か顔ばしとる客よりなんぼいいかしれん。……マタロスの水兵相手とじゃ土台話が違うとじゃけんな。相手の士官はひとり、見境なか遊びじゃなか。去年の正月に入港したヤポネーツ号の話は知っとるやろうが。あん時の士官たちには桔梗《ききよう》屋と大黒屋さんからだしたとやったが、そりゃもうオランダやイギリスとはくらべもんにならんごと、よか待遇ばして貰うたというぞ。桔梗屋の桟《かけはし》がシコート提督からどんげんことをしてもろうたか、話にはきいとるやろう。士官のミールレルから銀の匙《さじ》をおくりもんされた玉川もそうたい。行きたかと思うても誰も彼もやるわけにもいかん。これはわるか話じゃなかとぞ。……」  そんげんよか話なら、誰かほかの者に頼んでくれなっせ。胸のうちの言葉を返せばどんな始末になるか、くら橋はただ「少し加減のわるかとですよ」と答えた。 「加減のわるかとなら、なおさらよかじゃなかか。赤い酒精一杯飲まして貰うて、ぶらぶらしとれば、それがいちばんの養生たい」太兵衛はこともなげにいった。「何でもおなごのいうこつをきくとやけんな。オランダも魯西亜士官も同じたい、その辺は。……相手はワシリエフという人じゃけん、ほんとに養生するつもりで行ってきたらよか」  七十郎は本当にそれだけの男であったのか。これまで幾度かいいかわした言葉はそれ程他愛なく崩れ去るものか。それっきりじかに話す機会を持っていないだけ、余計に真意をはかりかねるのだ。くら橋は中庭を望む二階の廊下の手摺《てすり》に体を預けるようにしてしばらく佇《たたず》んでいた。  主人のいい付けに従って稲佐の止宿所に行けば、七十郎との間はそれこそ終わりになるかもしれぬし、さりとて拒絶する手だてもないように思われる。  士官のミールレルから銀の匙を贈られたという大黒屋抱えの玉川は、くら橋と同郷の出身であった。大村領道尾村百姓千助の娘そめ。玉川は十歳の時、そこから遊女奉公にだされ、十四歳まで禿の役を勤め、大黒屋の阿蘭陀行遊女として、一時はカピタンの仕切遊女(名義だけ遊女屋に籍をおき、相手に買い切られる遊女)となっていた格子女郎である。  自分より二歳年下のはずだから、いまは二十二。玉川の妹も唐館に囲われているはずだ。  士官ワシリエフといいなさったな……。八方に飛び交う悶《もだ》えから逃れるようにくら橋がふっと息を吐くと、そこに遣手のさくがいた。 「どうしんさったとね。こんげんところで油ば売っとって、見つかっていかんおひとにでも見つかったら、それこそ大事になりますばい」 「加減のようなかとよ、少し……」 「そりゃいかんな。今夜ははなからどうも顔色のようなかなと、思うとったとよ。どんげんあるとね、具合は……」 「眠れん晩の大分続いたけんね」くら橋はいった。「心配かけてすみまっせん」 「あちらのお客の気にしとんなさるようだから」さくはいった。「いっとき辛抱せんと仕様なかとよ」  くら橋は席に戻った。堺の商人がちらと一瞥《べつ》したが、別に何ともいわず、恐縮しきった態の巳之助が、手酌で飲んでいた。 「肝心な話をきき損なったな」 「それで、巳之助さんはきりきり白状しなはったとですか」  くら橋は網屋友太郎の声にきき返した。 「みんなすらごとだったとよ」尾崎はいった。「心の臓で死んだたよしもおんなさらんし、おれんさんから貰うたという話も眉唾。何処かできいた話をみんな都合のよかごと作り変えとらすと」 「そんげんことまで太夫にいわれて、もう生きとる甲斐《かい》はなか」 「巳之助さん、ほんまのこといいなはれ」 「針の蓆《むしろ》とはこのこと。ああ、何としよう」 「すらごと、すらごと。もうみんな、巳之助さんの話は耳に栓するごとしまっしょ」  巳之助は居ずまいをただして深々とおじぎをした。 「おわびのあかしに一首言上致します。……さらわりの手妻こそなれ股《また》の血のすらごとばかり声あぐるらん。……」 「いやらしか」そういうと、尾崎は匂いでも払うように顔の前で手を振った。    4  風通しのために少し開けてある表戸を引いた途端、卯八の耳は女房の立ち上がる気配を捉《とら》えた。めずらしいこともあるものだと、草履を揃《そろ》えかかったところに、わきが手招きでもするような恰好であらわれた。 「夕方、峰吉さんの見えなはったとですよ。何か用事のあるとかいうとらした」 「峰吉さん……探り番のか」彼は呟《つぶや》くようにつけ足した。「おかしかな……」  卯八は狭い裏土間で顔を洗うと、首筋の汗を拭きながら居間に戻った。 「なんね、包みは」 「こりゃ大事なもんたい。きちんとしもうとかんか」  仕度されている夕餉《ゆうげ》の菜も不断より品数が多い。高菜の油いために、烏賊《い か》の煮付け、もうひとつ別に小鉢。 「その百尋《ひやくひろ》(鯨の腸《はらわた》)は峰吉さんの持ってこらしたと」わきはいった。「こんげん高かものば下げてきなはるとだから、よっぽどああたに頼みたかことのあるとでっしょ」 「頼みたかことのあると、そがんいうとらしたとか」 「言葉じゃなかばってん、そう見えたと。百尋なんか持ってこらすとがよか証拠ですたい」 「探り番か……」  虫の好かぬ男といいたかったが、それは止《や》めた。卯八は百尋のひと切れを酢醤油の小皿に移した。飲める口なら何よりの肴《さかな》であろうが、飯の菜としては少し生臭い。 「今夜行きなはっとでしょう」 「何処《ど こ》に」 「何処にって、決まっとるじゃなかね。峰吉さんのうち」 「こっちからわざわざ行くこともなかやろう」  どうかしたのか、というふうにわきは卯八を見た。 「ぜひとも耳に入れときたかことのある。そんげんいうとんなはったとよ」  耳に入れたいこと。気持ちは動いたが、卯八は黙って高菜に箸《はし》をつけた。ことさら理由もないのに峰吉を嫌いなのは、何時《い つ》もすべてを見通したような面構えと口振りに反発するのだ。たかが出島蘭館の見張り役を勤める小者のくせに、態度が太すぎる。 「親父《おやじ》は」彼は思いと違うことをきいた。 「何時もの通りでっしゅ。まだ帰っとんなさらんようだから」わきは隣家に接する壁に顔を向けた。「毎日毎晩、あれでよう体のつづきなはっとですね」 「自分の金で飲むとだけんな」卯八はいった。 「この頃はあんまりご飯もたべなはらんし、ものもいいなさらんと。洗濯物はなかですかときいても、じいっとしてきこえんごとしとんなはるとだから」 「偏くつの相手にはならん方がよか。ものいうと余計につけ上がりよる」 「これは人からきいた話で、いうてよかかどうかわからんとばってん、おとしゃま(父)はフランス寺を建てる仕事ば手伝うとんなさるらしかですよ」 「そんげんこつ……」卯八の声は詰まった。「誰がそんげん妙なこつばいいよるとか」 「誰でも噂《うわさ》しとるらしか。直接きいたとは喜助さんからですばってん」 「喜助が何をいうた」 「そいけんそういうたでっしょ。大浦のフランス寺を建てる工事についとんなさるから、金廻りがよかとじゃろうって」 「親父は何というた」 「おとしゃまには何にもいうとりまっせん。そんげんこときいたらそれこそ、何というて腹かかる(怒る)っか、わかりまっせんもん」 「喜助にきいてやる」 「喜助さんより、おとしゃまに確かめるとが先じゃなかとね。……それに喜助さんはおんなはらんと」 「喜助がおらんと、どうして知っとる」 「今頃の時刻におんなはるもんか。その辺はおとしゃまと同じことたいね」  卯八は一膳の飯を食べ終わると、茶をくれといった。百尋はひと切れしか口にせず、碗に注がれた茶にも顔をしかめた。 「新しゅう入れたとですよ」 「ぬるか」  そういうと彼は立ち上がった。 「峰吉さんの家に行きなはるとね」 「風呂」 「湯屋は休みですよ。釜《かま》にひびの入ったとかいうとらした」  卯八は舌打ちしたが、そのまま草履を突っかけた。 「矢張り顔だしなはった方がよかとじゃなかね。峰吉さんのとこ」  彼はものもいわず外に出た。峰吉、峰吉というから逆に気持ちが動くのだ。しかし、蘭館の探り番がどんな用件でわざわざ出向いてきたのか。百尋の手土産まで持参して。  本大工町から今魚町へ通じる道路を折れようとして、卯八はしゃれた身形《みなり》の女とすれ違った。三年程前、夫婦共々上方から移り住んでいる板前の女房で、土地の風習になじまず、眉毛を剃《そ》り落とした細面の色っぽさを、何かというと人々は取り沙汰していた。  亭主の板前が見るからに風采《ふうさい》の上がらぬ男であるだけに、なおさら話の種になり易く、わざと家の周辺をぶらつく好き者もいるという話であった。  蔦《つた》の絡む低い石垣を横手に、なだらかな坂道を上がって行くと、やがて軒先のぎっしり並んだ通りにでる。気に染まぬうちに何時しか卯八の足は峰吉の家に向けられているのだ。  それにしても出がけにきいたフランス寺の話は事実か。父の兼七がまさかという思いの反面、そこに落ち着けない疑いも湧《わ》くのであった。と、同時に、あの年あの事件で被った屈辱をよもや忘れたわけではあるまいという、覗《のぞ》きからくりに似た情景が走る。  安政三丙辰《へいしん》年の秋、腕の立つ指物師として名の通っていた兼七は、あろうことか切支丹信徒の疑いを受けて捕手《とりて》に踏み込まれたのだ。  その年の九月、異教者佐城《さじろ》の利吉の訴人によって端を発した浦上在住の隠れの一斉検挙事件による取り調べの途中、兼七の作製した手箱の中から赤銅の十字架がでてきたというのであった。しかも手箱は仕掛けのついた二重底になっており、逃れようのない証拠物件として、進退きわまったかに見えた。  助かったのは手箱の所有者だった肥前国彼杵《そのぎ》郡浦上村山里の百姓有次郎が、どんなわけか入牢《にゆうろう》中突如放免となり、それに連れて兼七もまた釈放されたのである。  所謂《いわゆる》、浦上三番崩れという事件だが、白々とした世間の目の注がれるなかで、翌安政四丁巳《ていし》年、指物師兼七と息子卯八に下命された長崎奉行所の通達は西坂刑場で獄門台に使用する磔木《はりつけぎ》の製作提供であった。  当時十九歳の卯八にとって、あちこちから降りかかる声はまさしく火の粉に似ていた。 「なんのかのいうても、矢張り兼七つぁは伴天連《ばてれん》やったとじゃなかか。もしなんにもなかったとならはりつけ台を作れなんていわれんやろう。獄門台に限らず、今までの杖竹《つえだけ》も材木《ざいぎ》もみんな丸山からだしとったとだけんね。おしてしるべし、磔木を作れというとはなかなかのことよ」 「ひょっとしたら、兼七つぁも犬じゃったとと違うか。決まっとるこつ、伴天連の犬さ。伴天連の犬ちゅうとなんかわけのわからんごとなるが、奉行所の犬といえば通りが早かろう。いくらおてんと様が傾いとるというても、伴天連は伴天連じゃけんね。……兼七つぁの作った手箱にクルスの入ったというのが意味のあり過ぎっとよ。おいはずっと前からそう思うとった」 「卯八つぁ、ああたも災難たいね。……磔の木作らされたらもう嫁のきてはなかよ」 「土台、並みの人間のやることじゃない。丸山の連中はそんたびに加勢にだされよるが、内心は煮えたぎっとるとだけんね」 「しかしまあ選《よ》りにも選って兼七さんになあ。伴天連が無罪放免なら、何もそこまで嫌がらせすることはなか。おんだち(俺達)はみんなそういうとるとよ。お寺さんの経机まで作っとった指物師に磔台にあぐる木を作れということは、どげんした皮肉のつもりたいね」  おためごかしにいう者もあれば、奉行所の指示で借り受けた寄合町の小屋までわざわざ覗きにきて悪態を放つ仲間連れの男もいた。  それっきり兼七への注文はぷっつりと跡絶《とだ》え、卯八もまた修業中の手職を投げだしてしまったのだ。  フランス寺か……。柳の葉を頬にかすめながら、彼はそこから左手に入る。今年の二月、南山手に司祭館と称するフランス・オランダ人の家ができたことは承知しており、寺を建てるための地ならしが行われたこともきいている。その寺のために兼七は、どんな手伝いをしようというのか。  いや、それはまだわきの耳に入ったにすぎぬ。手箱ひとつで、いわば一生をねじ曲げられたといってもいい親父が、この上フランス寺などに手をだすはずはない。喜助さんより、おとしゃまに確かめることが先じゃなかとね。……  探り番なんぞを訪ねるより、親父に問いただす方が先決だという苛《いら》だたしさを、無理にも押しつぶして卯八は峰吉の住居に近づいた。どっちみち、兼七は酔いつぶれるまで戻ってこないし、何処で飲むのかさえ奇妙に判然としていなかった。  峰吉は彼を見ると、手を取らんばかりにして六畳の居間に招じた。稲荷《いなり》大明神でも信仰しているのか、神棚には麗々しく真新しい神札が祭られ、後添いの律義者だと噂される福々しい顔の女房が丁寧に挨拶した。 「こっちの方はあんまりいけん口ときいとるが、そいでもちょっと位ならよかとじゃなかと」  卯八が固辞すると、あらかじめそれをはかっていたかのように、女房が茶と茶請けを運ぶ。地役人にしては裕福な暮らし向きだと話はきいていたが、妻女の着ている物にもそれはあらわれていた。  出島蘭館の探り番としての余得ならおおよその見当はつく。それにしても見渡す部屋の恰好と備えつけられた家具の夫々《それぞれ》は分を過ぎている。しばらく雑談をかわした後、頃合いをみて峰吉は切りだした。 「まどろしか話はやめて、いっぺんにいうとばってん、ああた、わたしの仕事を加勢する気はなかね」 「加勢といいなさると……」 「そんげん難しゅう考えんでもよかとよ。というても誰にでもでくる仕事じゃなかとばってんね。ああたも知っとる通り、みることきくこと昨日と今日じゃ大違いの世の中で、あっちからもこっちからも、長崎にゃどんどんひとが集まってきよる。それもみんながみんな腹の中には色合いの違うこつを考えとる。なんちゅうことはなか、伴天連の坊主まで大手を振って歩きよるさまたい。……」  峰吉の喋《しやべ》っていることと自分への尾行とつながりでもあるのか。卯八は茶を啜《すす》った。 「いくら長崎というても、大目にみてよかものと、絶対に気持ちを許してはならんものがある。そいでも、そうはいうても今の奉行所じゃどうにも手の廻らん。こりゃあんまり大きな声じゃいえんことだが、これから先どんげんなって行くか自分でもようわからんもんけん、半分は投げてしもうとるとたい。……しかし何べんもいうとばってん、そいでよかはずはなか。どんげん世の中に変わっても、人殺しは人殺し。盗人《ぬすつと》は盗人じゃけんね。お寺をつぶして伴天連の十字架ばっかりおったてるわけにもいかんやろう。……」  きたぞ、と卯八は思った。だが峰吉の言葉は別の方向に進展した。 「鉄砲の売り買いをいうても、ほんなこつはみんなご禁制のことやけんね。それをみんなこの頃は、あたり前のごたる顔ばして、誰様にいくら売りなはったとか、長州の何様がどれしこ(どれだけ)買いなはったとか、色町にまで喋りよっとだから、もうどうにもならんとよ。……卯八さんは国友屋の話を知っとんなはるね」 「いいえ」 「きいとんなはらんかな。……上方からきたという触れ込みで、そりゃもうたまがるごたる商売ばして帰った男。ああた、どんげん商売ばして行ったと思うね。……」  低いがよく通る声で峰吉はつづけた。その間をとって女房が茶を入れ替える。 「鉄砲二十丁に遠眼鏡六個。そん男から佐賀藩と松浦藩が買うた品物の数がそいしこ(それだけ)。ちょっときけばまあ、何処にでも転がっとる話たいね。ところがどうしてどうして、裏返してみるとたまがるばっかり。よう調べてみると、ほんのふた月ばかり前にその男が長崎に持ってきた荷物は行李《こうり》三杯のまるめ(丸薬)だけということがわかったとよ。早い話が行李三杯の万金丹が鉄砲二十丁と遠眼鏡六個に化けたという話たい。国友屋というそん男は、二十丁分の手形を遠眼鏡の分も合わせて、がぼっと懐に入れて帰ったとだけんね。……何処でどんなからくりを使うたかしらんが、事実は事実。こりゃもうどんげんしようもなか。上方か富山か、大方富山辺りから潜り込んだ者じゃろうというとるが、あん時つかまえてしまえばよかったというて、地団太踏んでみても、これはもう後の祭り。見逃したというか泳がしとった罪はみんな奉行所がかぶらにゃならん。鉄砲二十丁といえば、ああた銀何貫になると思うとるね」  卯八は頷《うなず》くしかない。相手の言葉がどちらの方角に転ぶかわからないのだ。 「かというて、たった今、長崎の商人をしらみつぶしに調べて、誰それが鉄砲を何丁持って、それを何処そこに売ろうとしとるか、探索するわけにもいかん。手間もかかるし、第一そげんことしてみても誰もほんなこつはいわんやろう。博多や堺からきた商人ならいくらか手だてもあろうが、大浦や出島におるイギリス・オランダじゃ手も足もでよらんけんね。……たまたま国友屋の一件が明るみにでたので、余計に何かせにゃいかんということになったとだが、鉄砲に限らず、始末におえん事件の次から次にでてきよると。……」  峰吉はそこで茶碗を手にした。部屋の構え同様、まるで与力のような口をきくと、卯八はひそかに思う。 「まあ喋ってしもうたから終《しま》いまでいわにゃならんが、奉行所じゃ今度から本腰を入れて探索するこつは探索すると覚悟ば固めなさったとよ。そんために新しか役付も決めなはった。……これはまあああたを見込んでそこまで打ち明けるとばってん、出島の仕事は仕事として、そっちの方面でも手助けしてくれんかというふうになって、そんためには必要なだけの銭を使うてもよか。これと思う人にも加勢を頼め、というこつになって、しょっぱなに卯八さんを思いだしたというわけたいね。……」  卯八は黙っていた。つまりは探り番を兼ねた岡っ引の手下になって働けということか。 「いきなりで面くろうたかもしれんが、そんげんわるか話でもなかとよ。いまもいうたごと、探索にかかる銭はいくらでもだしてよかといわれとるし、成績によっちゃ番株のひとつも世話してよかと、これは向こうからの話じゃけんね。……そこまでいうてよかかどうかしれんが、通詞《つうじ》見習いが所望ならそれも考えてみるというとらした。……」 「わたしにゃ過ぎた仕事ですたい。とてもできまっせん」卯八は取り敢えずそう答えた。 「できんこつのあるもんね」峰吉はいった。「ああたに打ってつけと思うたからこそ、いの一番に、こうして話しとるとだけん」 「もういっちょ、何かこうぴーんとせんごたる」 「何がぴーんとせんね」 「探索というても、中身はどんげんこつをするとか。たとえば何処の誰を調べろといいなはるとか……」 「たとえば、大浦居留地のマックスウエルたい」  卯八の面を思わず熱い息がよぎる。茶請けをつまむ峰吉のそしらぬ手つき。    5  内からの声はかすかに、井吹重平の胸を打ち寄せる波のごとく嬲《なぶ》った。 五島へ 五島へ皆行きたがる 五島はやさしや 土地までも  隠れ切支丹の絶望的な営みを歌ったものであることを百も承知の上で、中徳利二本の酒は無性にそれを口ずさませる。遊びと捨てばちを兼ねたような気分に浸りながら彼は平たい石段を踏んだ。  歌は唐津にいた頃、川岸の鰻《うなぎ》屋で夫婦連れの流しからきいた。同じ窯場で働く同席者の細工人が「いうちゃわるかが、気の滅入《めい》る歌じゃな、オランダか何処かのお経のごたる」というと、三味線を弾く男は視線をそらして答えた。 「そういわるっとそがんふうですね。あたしたちゃ平戸で覚えたとですよ」 「五島ちゅうと平戸から行くんか。おりゃ長崎辺りから行くと思うとったぞ」細工人は言葉の方向をずらした。その男も何かを感じ取ったのだ。 「平戸の峠にあがると、晴れた日にゃ五島が見えますけん」三味線弾きはいった。「そん時々の天気で、霞《かすみ》のごと見えたり、風のごと見えたりします」 「霞のごと、風のごとか。そりゃなんともいえん見晴らしやね」彼はいった。「そがんよかところならみんな行きとうなるはずたい」 「そうか、平戸から五島が見えるとか」と、もうひとりの男。 「景気直しにおもしろかとを歌いまっしょ」  話題を避けようとする女の口調で、井吹重平はふっと気が変わった。 「もういっちょ、おなじものをやってくれんね。今の歌をききたか。五島はやさしやとかいいよったな」 「陰気臭かぞ」  細工人が口を挟《はさ》んだが、彼は再度の所望を押した。するとばちを持ち直した男は、自分で先程の歌ばかりか、それにつづく節をも加えたのである。 五島へ 五島へ皆行きたがる 五島はやさしや 土地までも 風か霞か 川内《かわち》から漕《こ》げば 五里も十里も船次第 「心のこもっとるね、その歌にゃ」彼はいった。「行ったことはなかが、五島はよっぽどよかところじゃろう」  伴天連の信仰が思わずあらわれたというより、隠れることに飽きたような風情とも見えた夫婦者の流しは、その後どういう行く末を辿《たど》ったろうか。井吹重平は誰もいない溝端《みぞばた》の縁台に坐って、心持ち涼しくなった風を懐に入れた。  唐津といえば、女房と名のつく女と世帯を持った町である。弘化四丁未《ていび》年から嘉永と改元された年までほぼ一年余り、彼は民窯の工人として轆轤《ろくろ》を廻しながらそこでくらしていたのだが、素姓が露見すると忽《たちま》ち追われるように去らねばならなかった。そして同棲《どうせい》していたむらは京都に着いた途端、風邪をこじらせて死んだ。 「鍋島《なべしま》藩の御道具山で御細工人だったひとの一統を働かせたとあっちゃ、申しわけなかし、こっちに意図でもあったと考えられちゃそれこそ大事になりますけんね」  唐津で三指に入る窯元の主人はそういういい方をした。 「いろいろ事情がありまして……現在ではもう大川内とは切れとります。わけというのは……」 「それはいいなさらんがよかでしょう。きいてしまうと、いまもそういうたように、こっちまで妙なことになりかねんし……」  井吹重平が十五歳を迎えた天保十二辛丑《しんちゆう》年の正月、肥前鍋島藩の藩窯として栄える大川内山に発生した事件によって、それまでの生涯は根底よりゆさぶられることになったのである。  伊万里《いまり》からほぼ一里半、峻険《しゆんけん》な山塊を背にした皿山の部落は、代々御道具山として、御細工場で働く三十一名の直属陶工を中心に、細工方、画工、捻細工、下働、さらには御手伝窯焼、本手伝、助手伝等々、厳然とした職制によって支えられており、夫々与えられた住居を一帯に構えていた。その中に御細工人として押しも押されもせぬ腕を誇る井吹養之助こそ彼の父親であった。  そしてまだ松の内の飾りも取れぬ日の早朝、御道具山詰所役人のもたらした有田皿山代官(皿山番所)の召喚状こそ、彼の一家を逆巻く闇の波浪に沈めたのである。  父親井吹養之助にかけられた嫌疑は伊万里津で漆器と陶器の定期的な交易をしていた紀州商人を仲立ちにして、九谷焼の細工人に藩窯の技法を通じたといわれ、さらには親の代から潜入した御道具山の秘法窃取を目的とする幕府の隠密ではないかとの疑いも添えられていた。  それより数年前、和蔵という二十二歳の画工が許嫁《いいなずけ》と世帯を持つばかりになって心中し果てた事件もそれには絡まっていたのだ。二人の相対死《あいたいじに》は上方からきた行商人によって代々の隠密であることを知らされたのを苦にした結果であり、それだけに皿山番所の父親に対する追及は余計にきびしかったのである。  百日余りに及ぶ取り調べの間、ついに罪状を認めなかったと伝えられた井吹養之助の獄死が伝えられると、さながらそれを待っていたかのように母親のさよは息を引き取った。皿山から追放されて伊万里津河口近辺の借家に身を寄せてからおよそ二カ月、これという具体的な病因をつかめぬまま。  井吹養之助に真実藩窯に対する罪科があったかどうか、彼は知らぬ。年間の禄米三百六十石と金壱千両。苗字帯刀はもとより一切の課税を免ぜられた御細工人が、すべてを賭《か》けて購《あがな》おうとしたものの是非について、黒白もつけず論じることの不毛をなぞりながら、彼はどうしてももう一枚納得できないのだ。 「凪《な》ぎ凪ぎの晩だけん、涼しゅうもなかでっしょ」 「あ」  井吹重平は声の方に顔を向けた。暗がりの中からぬっと姿をあらわすようにして、見知らぬ女が縁台の端に腰を掛ける。 「みしまじょろしという魚ば知っとるね、おうちは」 「みしまじょろし……」 「三島女郎衆はのうえ、という歌ですたい」 「ああその歌か。いまは魚というとったじゃなかか」 「おうちは地のもんじゃなかとですね。みしまじょろしという魚ば知らんとなら。……頭の太か魚のおるとでっしょが。煮ても焼いてもあんまりうもうなかとよ。……」  いきなり魚の話をはじめた女の顔を彼はしげしげと見た。近所に住む女房でもあろうか。別に派手だというふうでもない身なりと口調が妙にそぐわない。 「こんげん時刻に、みしまじょろしを二匹ぶら下げてきて、今から料れといわれたら誰でも腹かく(怒る)とでしょう。昨日ん晩から帰ってもきよらんで、みしまじょろし持って帰んなさったとは、うちにあてつけよるとですか、というてやったと。……ほんなこつうろたえもん(女道楽者)もよかとこだけん。……」 「ごてさん(夫)のことですか」 「もう二年ごし、ぶっつづけにうろたえとっとですよ。……見ず知らずのおうちにしょうもなか話ばして笑われるかもしれまっせんが、ほんなこつ世の中にはびっき(蛙《かえる》)のごたる人間のおっとですね。いくらなじっても水をかけられたごとけろっとして、あげくにみしまじょろしをぶら下げてきよるとだから」  井吹重平は口許《もと》をゆるめた。 「かいしょのある人間ならうちもいわんとですよ。仕事はそっちのけ、うろたゆることは十人前。そいじゃどうにもならんけんね」  相槌《あいづち》の打ちようもなく、彼は溝《どぶ》川に映る窓明かりに目を移した。 「みっともなか話ばきかせてすみまっせん」  自分の上ずった声に気付いたらしく、女はちょっと頭を下げた。 「おうちは何処からこらしたとね」  それには答えず、彼は別のことをいった。そしてそれをしおに縁台を離れた。 「ああたのごたるきれかおかっつぁんを持っといて、ごてさんもぜいたっかね」  歩きながら井吹重平はふふっと笑った。びっきのごたる人間のおっとですね、という女の悪態を反芻《はんすう》したからである。蛙の面に水か、なるほど。  明かりの灯《とも》らぬ提灯《ちようちん》を手にした二本差しの老人が前かがみになって行く手を横切る。結局門屋に戻るほかはあるまいと、そちらの方角に体を向けようとした時、彼のなかに突然思いがけぬ顔が湧いた。  井吹重平はかなり急ぎ足で本石灰《もとしつくい》町から出来鍛冶屋《できかじや》町へ抜け、さらに万屋《よろずや》町に通じる橋を渡った。そこに目差す古書店があるのだ。確か唐人の混血児だとかいう顔かたちのはっきりした色艶《いろつや》のよくない娘であった。  古書店はすでに閉じられており、彼が声をかけると、戸を開けるより先に主人の左内が応答した。 「丸山に火事でも起きよったとですか」 「憎まれ口を叩くな」  戸を開けると、左内は奥の行灯《あんどん》を店の方に寄せ、家人に茶を用意させた。老けた面態《めんてい》をしていたが、彼よりひと廻りも若く、親の代からの書籍屋だという話であった。 「この間から、待っとったとですよ。ああたの欲しゅうてたまらんものの入ったもんですけん、店にもださんと。……」 「対話集の入ったとか」  古書店の主人はにやりとしながら、わざと手間をかけるような身振りをして、仕舞棚から取り出した一冊の本を彼の前においた。 『和英商売対話集初編』と上段中央に活字が押され、下段に英語の横文字が並んでいる。 A New Familiar Phrases of the English and Japanese Languages General Use for the Merchants of the Both Countries First Parts Nagasaky Sixth Year of Ansey December 1859  発行元は長崎下筑後町塩田幸八、年月日は「安政六己未《きび》年十二月」とある。井吹重平は自分のそこにきた目的を忘れて、むさぼるように和英両様の活字の詰まった版本の頁をめくった。  書かれている通り、四年前に、同じこの長崎で印刷、発行されながら、なかなか入手し難く、存在が知れ渡っているにもかかわらず、実際目にすることのできぬ、いわば幻の対話集であった。  阿蘭陀《オランダ》通詞として一等の地位にあり、また出島印刷所の監査官として知られている本木昌造の主編集とは知っていたが、「凡例」に記されている注意書きが井吹重平の目を奪う。 「此《コノ》書ハ、英語ヲ習フ者ノ為《タメ》ニ著スニ非《アラ》ス、只和英両国ノ商売使用ノ為ニ編ム所ニシテ、英文モ、雅ヲ用ヒス、簡単ニシテ解シ易キヲ旨トス、其《ソノ》釈文ノ如キハ、俗中ノ俗ヲ採ル、是《コレ》我日用ノ俗語ヲシテ解シ易カラシメンカ為ナリ、其仮名付ノ若干ニ至テハ、実ニ笑ニ堪ヘ難キモノアリ、仮令《タトヘ》ハ、私ハト書クヘキヲ、私ワトスルカ如シ、是専ラ彼商売ノ為ニ設ル所ニシテ、我邦俗ノ為ニスルニ非ス」 「これは願ってもなか本の手に入った。礼ばいうぞ」 「そんげんよろこんで貰えば、甲斐《かい》のあったとですたい。……まあお茶でも飲みなはらんですか」 「おおきに。……いやこれはよかぞ。言葉の通じらん時は、これこれだというて、和文の方を指差せばよか。ちゃんとそうなっとる。これさえあればどがん入り組んだ話も通じるたい。評判通りのものやったな、こりゃ……」 「あたしもこいば見た時、溜息《ためいき》のでるごたったですよ。井吹さんのよろこびなさる顔がすうっと目の前に浮かびよりました」 「上手なこというて。……まあよか。今夜は祝い酒と行こう。ぬしの飲みたかしこご馳走するたい」 「大分もう入っとるとじゃなかですか」 「なんの、まだいくらも入っとらんとよ。……ごてさんをちょっと借りますばい」  彼は茶を運んできた妻女に声をかけた。 「しょっちゅうお世話になって」 「そいじゃ行こか。今夜はほかにちょっと頼みたかこともあっと」 「話ですか、改まって……」 「まあ、あとの話たい。この本は預かっといて貰わんといかんな」 「よかとですよ。持って行きなはっても」 「汚れでもしたら、それこそ大事になるけんね」 「そんげんこつなら預かっときまっしょ」 「金は明日にでも届ける。吹っかけてもよかぞ、今持っとるけんな」 「これじゃけん、何もいわれんと……」  そういい残して左内は着替えるために女房ともども奥に去った。井吹重平は対話集の凡例をふたたび繰った。 「仮名付ノ中、ーアルハ、呼音ヲ永ク引ク徴《シルシ》トス、仮令ハ、正ノ字ニ、ショート附ルカ如シ」、「片倚《ヨ》リタルモノハ、呼音ヲ縮テ言フ徴ト知ルヘシ、仮令ハ、貫ノ字ニ、クワント附ルカ如シ」、「・ハ弱クシテ、有カ如ク無カ如シ、▲ハ強ク高ク高調ニ言フ徴トス、此余ノ口調ニ至テハ、紙上ニ述難シ、因《ヨリ》テ之《コレ》ヲ除ク」  この他、同じ本木昌造編集出島印刷所版のもので、『蕃語《ばんご》小引』と題する本が発行されているらしいが、恐らく似たりよったりのものであろう。ようし、これさえあれば、と彼は閉じた対話集の表紙をなでた。  待たせてしもうて、といいながらでてきた左内と連れだって、井吹重平は外の空気に触れると、両腕を思い切り天に伸ばした。 「よっぽどうれしかことのあるとですな」 「うれしかとは、今の本たい」彼はいった。 「そいでも、えろう張り切っとるごと見ゆるですばい。本も本でっしょが、ほかにも何かあるとじゃなかですか。さっきも何かいいかけなさったとでしょうが」 「さて、何処にしけこむか」 「勿体《もつたい》ぶらんと、いわんですか。あたしにできるこつなら、どんげん頼みでも引き受けますばい」 「そんげん難しか話じゃなかと」井吹重平は顔をなでた。「ありゃ正月頃じゃったかな、ぬしの店で会うた娘がおったろう。ほら、おいに世話する気はないかとききよったじゃなかか。……」 「ああ、あいの子のきわ。あの娘ばどんげんしなさったとね」 「思いだしたとたい、ふっと。ありゃまだそのまんまになっとるとね」 「たまげたね、こりゃ。何ばいいださすかと思うとったら。……」  擦れ違う者の挨拶があって、左内の言葉は跡切れた。二人は東浜町へ折れる狭い川岸を歩いていたが、夜更けとも思えぬ位、明かりの濃い家々であった。 「あたしゃまた、何処かの太夫《たゆう》でも呼び出してくれんかと、いわるっと思うとったですよ。……なしてまた今頃、物好きのごたるこつを思いだしなはったとね」 「確か、唐人の間にできた娘やったな」 「そうですたい。あん時ああたは、にべもなかごつ断わりなはったとですよ。自分の趣味にはあわんちゅうて」 「そうやったかね」井吹重平はいった。「なんで今頃気になったとか、おいにもわからん」 「あん娘でよかとなら今からでも会えますばい。丸山で働きよりますけんね」 「年季ば入れたとか」 「年季じゃありまっせんと。土台体の弱かとですけん、じょろし(女郎衆)にはむかんとですよ。居酒屋の下働きですたい」 「そりゃよかった。よし、そこに行くか」 「そいでも下働きですけんね」 「かまわんじゃろう。主人に頼めば娘の顔も少しはひろうなる。なんちゅう店ね、そこは」 「いうときますばってん、子供の時分から血の気のなかごとしとっとですよ」 「わるか病気さえ持っとらんなら、そいでもよかたい。つまらんとなら、また席を変えればよか。どっちみち朝までのつもりで覚悟してきんしゃい」  暗がりの中の肩が離れるのを遠目に見ながら井吹重平はいう。    6  堺の商人、辻野屋嘉右衛門の盃《さかずき》を傾ける手の甲に、青い血筋がくっきりと浮かび上がる。三十代後半の色艶と船乗りに似た精悍《せいかん》な顔つきは、寝所をともにする客としてむしろ好ましい部類に属したが、尾崎太夫の気持ちはもうひとつ屈折していた。  一昨日の晩、自分を名差してこの家に上がったという船乞食《こじき》の正体と真意をつかめないのも落ちつかぬなら、網屋友太郎がこれまで決して自分を相方に選ぼうとしない素振りも胸のおりとなっている。相方というより、そもそも蘭水に泊まろうとしないのだ。それでいて、登楼する場合はかなり以前から尾崎を指定しておき、ひとりと客を連れた時とを問わず、精一杯心をつくした遊び方をするのであった。 「さぁて、今度は鶴吉さん。得意の唐人歌ばきかせんね。……旦那さま方、こう耳の穴ほじってきいとって下さいませ。いっぺんに意味のわかれば、この巳之助が莫大な褒美《ほうび》を差し上ぐるごとなっとります」 「巳之助さんの褒美は大方、ちゅうちゅう蛸《たこ》かいなでっしょ」 「またいらんことをいう」巳之助は若い芸子に目を剥《む》いた。「さあさあ。鶴吉あね。巳之助に腹切らせんごと、用意、用意。……」 「月琴のあればよかとですけどね」 「月琴、月琴ならすぐ持ってこさせるたい。小太夫さん、使いに行ってやらんね」巳之助は尾崎の後にひかえる禿《かむろ》に声をかけた。「そいじゃその前にひとつ、旦那さま方を退屈させちゃいかんけん、長崎弁になおしたとばやらんね」  年かさの芸子は居ずまいをただしておじぎをすると、「節は唐人の歌ですけん」といった。  三味線とも思えぬ抑揚のこもった絃《げん》を鳴らして鶴吉は前奏を弾き、一瞬呼吸をおいて歌いだした。 たいしゅうん ひやざけ のんでみや ながざけのみじらけ もひとつのんでみや たんたらふく 二日えい こうかい 金たらい 「何や、二日酔いになって顎《あご》だしたみたいな歌やな」 「ほうら一発でわかんなさっとよ。巳之助さん、褒美はどんげんすっと」よねは素早く相槌を打つ。ちゅうちゅう蛸といった芸子だ。 「顎だしたとはこりゃまたいい得て妙。ああこっちも顎ださにゃいかんごつなってきた」 「あては何やようむずかしゅうてわかりゃしませんでしたわ。……ながざけのみじらけ、もひとつのんでみやというてはったな」手代が主人を立てた。 「ながざけのみじらけ、もひとつのんでみや。鶴吉さん、どうぞあんたからあんじょう説明しておくれやす」巳之助は奇妙な上方弁で促す。 「ながざけは腰のおもか酒のことをいうとでっしょ。そいけん、ああたは深酒のはずじゃろけん、もう一杯飲めというてすすめよるとですよ。……」 「かえってわからんごとなったとじゃなかろか」太鼓持ちはわざとらしく辺りを見廻した。 「わからんことはなかよ。酒の強か人に、飲め飲めというてすすめよるとよ。鶴吉あねはそういいよらすとじゃなかね」 「さすがあねさん思いのことはあるたい。泣かす、泣かす」  嘉右衛門が盃を干したので、尾崎は銚子《ちようし》の柄を手にした。 「これは、これは。お手ずから」 「何ばいいなはるとね。旦那さまあってのおなごですけん」 「松蔵、今の言葉をききなはったか」嘉右衛門が手代の方を向く。 「はい。確かに長崎の太夫はんは噂通りでおましたな」 「噂といいなはると、どんげんことをいいなさっとったとね」 「みめかたちの美しさもさることながら、長崎の太夫にはもう一匹、肩に蝶が舞いよる。きいたことあんなさるやろ」 「いいえ」  尾崎が頭を振ると、すかさず巳之助がやりとりのなかに割り込む。 「丸山の太夫には肩に蝶が舞う。これはまたたまらんごつきれか話ですたい。それはよかこときいた」 「早速、自分の作ったごついいふらしなはっとでしょ」と、よね。 「何ばいうとるか」と、巳之助はいう。 「あたしにそんげんうつくしかお世辞を作れる頭があれば、何も苦労して太鼓持ちにはならんばい」 「お世辞なんかじゃない。ほんまの噂でおます」 「こりゃまたしくじった。あんまりきれか文句をひとにいわるっと、もうかっとして、見境のつかんごとなりますけん、どうぞ堪忍どっせ。何時も、ああたは太鼓持ちより悋気《りんき》持ちというた方がよか、といわるっとですよ」巳之助は掌で自分の首筋をぴしゃぴしゃと叩いた。「ところでその、尾崎太夫の肩に一匹、蝶が舞うとるという心を教えてくんしゃらんね」 「そりゃ、あんさんの方が専門でっしゃろ」 「これはまたにくいことを。その手で何時も上方のおなごしを手玉にとっておいでやすのやろう」 「肩に蝶がとまるか。うまいことをいうな」網屋友太郎が口を入れた。「巳之助さん、松蔵さんのいわれる通り、解釈、解釈。……」 「さあ困ったぞ。その心はなんと、いらんこといわん方がよかった。……」巳之助は額を抑えた。「そんげん解釈はできまっせんと頭を下げれば、それこそ尾崎太夫に申し訳もなし、引いては丸山に傷がつこうというもの。これはまたどう仕様。……こと此処《こ こ》に至ればない知恵をしぼって、何とのうつじつまをあわせるより詮方《せんかた》なし。……恐れ入りますが、さっきのきれか言葉を、もう一度いうてくだはりませ」 「みめかたちの美しさもさりながら、長崎の太夫にはもう一匹、肩に蝶が舞いよる。……これでよろしいか」と、松蔵。 「さて、その心は。……」と巳之助はいった。「肩には蝶、胸には蘭、想い想われる男の盃のうちに舞う。あわせて唐紅毛人も賞めそやす蝶蘭山館のごとし」 「できたな」網屋友太郎が巳之助の語呂合わせに似た解釈を引き立てるようにいった。 「蝶蘭山館とは蘭水楼のことを唐人がそんなふうに呼ぶんですよ。いやあ、できた、できた。……」 「長崎の太夫にして、丸山の幇間《ほうかん》ありでおますな。いやあお見事。……肩には蝶の謎《なぞ》掛けに、胸には蘭とでやはったところが、何ともいえん呼吸や。巳之助さん、どうぞ受けてくんなはれ」  辻野屋嘉右衛門が調子を合わせて盃を差し出すと、巳之助は額を畳にすりつけんばかりにしていざり寄った。傍《そば》のくら橋がそれに酒を注ぐ。ぐいとあおる太鼓持ちが直接返盃《へんぱい》できぬ盃を膳の隅におくと、くら橋はそれを杯洗でゆすいだ。 「何とまあ心の優しか旦那さま方でありんすか。でまかせの思いつきにおとがめを受けるどころか、こんげん盃まで頂いて、ほんなこつこれは末代までのほまれ。……さあこれ以上難題ば吹っかけられて化けの皮のはげんごと、鶴吉さん、歌うた、歌うた。……」 「月琴のまだ届かんとですよ」 「月琴なんかどうでもよか。早う三味線ば弾いて、あたしの立場を助けてくれんね」 「そいじゃ、少し賑《にぎ》やかに長崎名物ばやりまっしょ」 「ちょっと待ってくれ」網屋友太郎が制して席を立った。「折角の歌だ、安心したところでききたいからな」 「旅は道連れ……」  腰に両手をあてて嘉右衛門が立ち上がると、手代もそれに従った。皆は挨拶のように声を立てて笑い、それが止むと、巳之助は「あちきもこの際別口で心おきなく……」といいおいて部屋をでた。  又次という名の船乞食は溜牢《ためろう》につながれたというが、結局どういう仕置きを受けるのであろうか。三年もの間貯《た》めた日銭を銀札に替えて登楼した客が、ただ賤《いや》しい稼業《かぎよう》についていたというだけで、なぜ処罰をされなければならないのか。  懐紙をだして口許を拭うくら橋を目の隅におきながら、尾崎は思った。芸子の鶴吉は連れのよねを相手に、招き猫のような手つきで何やらふざけている。  尾崎も小さい頃、遊び友達もなく、用事があって親子で町にでると、何時も後ろ指を差されていた。四歳の時に病死したという母についての記憶はまったくないが、自分を九つまで育ててくれた庫太《くらた》はずっと松浦藩の平戸でわずかの田畑を耕すかたわら隠亡をしていた。海辺から山手にかけてせりあがる丘陵を開いた墓地の奥にその焼き場はあり、竹藪《たけやぶ》を背にした住居に親子二人はくらしていたのだが、近在の村落から知るべや友達はおろか、棺を運ぶ人々以外にかつて一度も訪ねてくる人さえなかったのである。  手足や体いっぱいに紫蘇《しそ》色の斑点ができる熱病に喘《あえ》ぐ最中《さなか》、父親の庫太は枕元の水を息を切らしながら半分ばかり飲むと、痩《や》せた手をのばして彼女の膝《ひざ》頭をつかんだ。 「お美代、ようととのいうことをきいとけよ。ととが死んだらお前はすぐ田平《たびら》の助佐のところに行け。助佐の家は知っとるな。ととの死骸はほったらかしとってよかぞ。誰にも知らせるな。知らせるのは助佐ひとりでよかと。お美代、ととのいうとることがわかるか。……」  庫太が息を引き取ると尾崎は、いやお美代はいわれる通りにした。父と助佐がどんな関係にあったのか曖昧《あいまい》なまま、彼女はそこで自分より年下の子供たちにまじって一年余りくらすと長崎に連れてこられたのであった。それっきり助佐とは会っていない。  彼女の家から浜辺に下りるなだらかな道があって、それを一丁程歩いて行くと左手に段々墓地と小川に挟まれた細長い野原にでた。美代はそこで初めて自分に口をきいてくれた同年輩の童に出会ったのだ。ひび割れる位頬の赤い女の子は虫籠にいっぱい草花を摘んでいた。 「何処に行きよるとね」 「あたいのこと」美代はどぎまぎして答えた。「あたいは浜に行きよっと」 「浜に何しに行きんしゃると」 「何もせんとよ。ただ浜に行って歩くだけ。……たまに、貝を拾うたりすることもあるばってん」 「魚は捕らんとね」 「魚を捕ることもあるよ、たまにはね。そいでも網も竿《さお》も持たんとやから……」  自分が本当に相手と言葉をかわしているのか、信じ難い昂《たか》ぶりにゆすぶられながら、美代の足はふるえた。 「網を持たんとなら魚は捕れんやろう。浜に行ってもおもしろうなかよ」 「ととにきけば網を持っとるかもしれん。探せばみつかるかもしれんよ」 「あんたの家は何処」  それを教えた途端、逃げだすかもしれない。美代はなかばあきらめた気持ちで下りてきた道の方角を指差した。しかし、童は親から何もきいていないのか、眉ひとつ動かさなかった。 「そう、浜に近うしてよかとね」 「あんたの家は浜から離れとると」 「すぐ下は海。そいでも浜にはずっと遠廻りして行くとよ。崖《がけ》の上を通って、それから畔道《あぜみち》を下りて行くとだから」 「今は何をしよっと。此処にはあんたひとりできんしゃったとね」  女の子は虫籠を上げて見せた。 「ほんとは蝶々を取りにきたとよ。此処の墓場には紫揚羽とか帆掛け揚羽とかいっぱいめずらしか蝶のおるときいたけんきてみたと。そいでも、きてみたら普通の紋白ばっかりで黒もおらんとじゃけんね。もう帰ろうかと思うとった。……」 「黒なら何時もいっぱい舞うとるとにね。あたいは捕ったこともなか」 「あんたは蝶々は好かんと」 「好かんことはなかばってん、黒を捕ったら縁起のわるうなるというとでしょう。飛んどる時の黒は黒か羽のきらきらしてほんとにきれいかごと見えるとに、ほかの蝶と違うて、つかまえるとすぐぱたっと動かんようになるけんね。それに墓地にばっかりでよるし、何かしら可哀相なごとしてつかまえとうなかとよ」 「黒は隠れの生まれかわりという者もおるけど、ほんとじゃろうか。そいけん普通の野っぱらにはあんまりおらんといいよらした。……」  美代はその童の顔をふたたび見なかった。明日の今頃此処にくれば帆掛けのいっぱいおるところに連れて行くと約束したのだが、女の子はあらわれず、矢張りそうかと思いながら、浜にでたのである。 「旦那さまのお帰り」  遣手《やりて》の小声で尾崎太夫はわれに返った。巳之助はとうに戻っていて、嘉右衛門が席に着くと、うやうやしく平伏した。次いで網屋友太郎、やや遅れて手代。  思いだしたくもない平戸で、明日帆掛けを捕ろうと約束した童との出会いにふっと気を奪われたのは、矢張り肩には蝶という先程の文句が心の奥底に蹲《うずくま》る情景を引き出したのであろうか。尾崎は作法通り、客に向かって丁寧に会釈をした。 「さあ、旦那さま方のご安心のいったところで、鶴吉さん、長崎名物をお願いしますよ」と、巳之助。  何かいいたげに嘉右衛門が太夫を見る。それを受けて尾崎がまた銚子の柄を持つと、見せつけられています、というふうに太鼓持ちが顔を上げて天井を向いた。  鶴吉と若い芸子のあわせる三味線が小気味よく弾む。 紺屋町の花屋は上野の向うかど、弥生《やよい》花三十二文で高いもんだいチュー。 紺屋町の橋の上で子供の紙鳶《は た》喧嘩《げんか》、世話町が五六町ばかりで三日もぶうらぶら、ぶらりぶらりというたもんだいチュー。 遊びに行くなら蘭水か中の茶屋、梅園裏門叩いて丸山ぶうらぶら、ぶらりぶらりというたもんだいチュー。 沖の台場は伊王と四郎が島、入り来る異船はすっぽんすっぽん大筒小筒を鳴らしたもんだいチュー。 嘉永七年、きのえの寅《とら》の年、四郎が島見物がちらに、おろしゃがぶうらぶら、ぶらりぶらりというたもんだいチュー。 長崎の、沖の方に、唐人船が入ってきた。そら唐人と、めいんと、馬と牛と、犬と狐と、猫と鼠の、声聞かしゃんしたか。ヒーヒ、モーモ、ピョーピョー、クワイクワイ、チュウに、ヒーモ、ピョーピョーピョークワイ、ニャア。    7  二人の寄ろうとする居酒屋の手前で古書店の左内は念を押した。 「こいから行く娘は、あくまで表向きは地生まれの者ですけんな。間違うてもあいの子扱いしちゃなりまっせんばい」 「わかっとるさ」井吹重平はいった。 「唐人の娘じゃからというて、特に何しとるんじゃなか。さっきもいうたが、そん時の顔ば思いだして、ふっと気んなったとだけじゃから……」 「大方、丸山のきれかたよしを喰い飽いて、そいでちょっと梅干かつけもんをつまみとうなったとでっしょ」 「喰いあきるごと食べちゃおらんばい。何時《い つ》もお膳にでてくるとは皮はぎの刺し身にかぶと牛蒡《ごぼう》の煮付けばかり。よっぽど腹でもすいとらんとそう食べられるもんじゃなかよ」 「そんげんこついいなはってよかとですか。小萩さんにいいつけますばい」 「ああ、いいつけろ、いいつけろ。ついでのことにもう一品、ぼらの洗いでもつけてやろうか」 「ほんなこていわすこつ。……そいでも、皮はぎの刺し身にぼらの洗いとはまあ、どんぴしゃりのいい方ですたい。小萩さんが鯛《たい》の刺し身というこつはみんな知っとりますばってんね」 「鯛か皮はぎか、疑いしゃんすなら味みておくれか。あたしゃ荒磯岩育ち、釣ったお方の腕次第。……」 「そんげん歌があるとですか。初めてきいたな」 「そりゃそうじゃろう。口からでまかせに作ったとじゃけんな」 「よう、すらっとそがん文句の浮かぶとですね。……」  擦れ違う二人連れの提灯《ちようちん》を振り返ると、しばらく歩いた後で左内はいった。 「梶《かじ》屋かと思うたら、どうも違うとった。……」 「梶屋。知り合いか」 「梶屋で起こったこつ、知んなはらんとですか」 「知らんな。梶屋というのは、あの薬種問屋の梶屋ね」 「そうですたい。脚気《かつけ》の薬ば売り出して、えろうあたっとる最中に、嫁御が自殺してしもうたとですけんね。飲んだ薬がエゲレス渡りのものだというて、煙草一服吸わんうちに息を引き取るおとろしか毒だというて、評判になっとるとですよ」 「イギリス渡りの毒薬か。この頃は大分、長崎も芝居がかってきたごたるな」彼はいった。「しかしまた、なんでそんげん大店《おおだな》の女房が自殺したとかね」 「ああた、また何か魂胆のあって知らん振りをしとるとじゃなかですか。梶屋の事件をきいとらんことはなかでっしょ」 「ぬしも疑い深か人間やな。……知らんちゅうたら知らんよ」 「梶屋の当主は正輔といいますと。まあだ三十そこそこの男ですばってん、こりゃ手代の時分からあん人ねといわれる位の男で、自分で作りだした効き薬の歩合をお店から貰うとったという話も残っとるとですけんね」 「手代というと、養子にでも入ったとか」 「そうそう、後先になりますばってん、婿養子に入ったとですたい。毒飲みなはったとは、元々梶屋のひとり娘で、名前はゆうといいなさったと。姿恰好はあんまり目立たんひとやったが、頭のまわり具合はそりゃもう、剃刀《かみそり》みたいなひとでしたと。そいけん、格違いの正輔さんを相手に選びなはった時も、何ひとつ文句もでんとすんなり決まったといいますけんね。反対しようにもゆうさんがあんまり頭のよかけん、文句もいえんだったとじゃなかですか。……そりゃもう似合いの夫婦だというて、誰もが噂《うわさ》しよりました」 「そいで女でもできたとか」 「それが反対のこつですたい。……噂ですけんどこまでほんなこつかそりゃわかりまっせんが、ゆうさんに好きな男ができなはった。その相手というのが、長州からきとる小島医学所の学生で、さすがの婿養子も医学所の秀才にゃかなわんやったとやろうと、みんなそういいよりますと。……」 「死なんでもよかったろうにな」 「そこんところですたいね。何も嫁にきとるわけでもなし、あれだけ大店を張っとる家つきの娘が、考えようによっちゃいくらでも手はみつかるとに、なんでそんげん追いつめられにゃいかんやったとか。……こいもみんなの話ですばってん、大方濡れ手拭いで首締められるごと、頭のよか養子にやられたとじゃなかか、というとるとですよ」 「濡れ手拭いで締められちゃかなわんな」 「頭のよかならよかで、なかなか世の中、ままならんとですね。……」  いいかけて左内は顎をしゃくった。 「あそこですばい。ああたのお目当てのおるところは」 「きちんとした店たい、こりゃ」  確かに居酒屋というより、身綺麗《みぎれい》な構えの小料理屋であった。かといって取りすますというふうでもなく、縞竹の衝立《ついたて》で仕切った細長い大部屋のほかに、いくつか小部屋も用意されていた。左内と顔見知りの女は、耳打ちされてちらと井吹重平を見た。  二人の通された四畳半の障子をあけると低い板塀《いたべい》の向こう正面に遊廓《ゆうかく》の灯が点々と見え、左手の二階屋に赤いぼんぼりの明かりが薄っすらとひろがっている。 「ぬしはよか店ば知っとるな。こんげん巣のあるなら早う連れてくれればよかったとに」 「巣なんちゃいわれるもんですか。二月に一度か三月に一度ですたい。いくらきとうてもしがない書籍屋じゃ破産しますけんな」 「目当てはさっきの女か」 「冗談のごと。ありゃ此処のおかみですたい。あたしゃああたと違うて、酒ん時は酒ひと筋ですけん」  女将《おかみ》が挨拶にきて、きわでよければすぐよこすが、お酌の仕方も知らないような娘だから、といい、最近でるようになった「おもしろか芸子」を熱心にすすめた。 「歌も三味線も下手くそで、きかれたもんじゃなかですばってん、遊び事ならなんでもできるとですよ。オランダの士官さんと酒飲み競争ばやって降参させたという変わり者ですけん、並のひとにはすすめられまっせんばってん、お客さんとはうまの合うかもわからんと」 「二人呼べばよかじゃなかか。こっちも二人じゃけんな」 「芸子ば二人ですか」 「此処におる娘と芸子と、それで二人たい」井吹重平はいった。「心配せんでもよかと。おかみの顔ばつぶすような真似はせんよ」 「そんげんことば気にしとるとじゃなかと」女将はいった。「うちはみんなお客さん次第ですけん、お客さんにいちばんおもしろか酒ば飲みなはるごと、そいばいうとったとですよ」 「おかみがおってくれるなら、誰もいらんぞ」 「上手ばかりいいんさって」女将は受けた。「旦那さんの気持ちはちゃんとわかっとりますばい。遊び飽きてもう、並のお膳じゃ箸《はし》もつけとうなかとでっしょ」 「ありゃ、おるとおなじことばいいよる」左内は声を上げた。「さすがに目の早か」 「目の早かちゅうとは、男が女ば見染める時の文句ですばい」 「見染めたとじゃなかか」 「お門違いというとんなはると、旦那さんの目は……」  女将が去るとすぐ、井吹重平は小用に立った。厠《かわや》からも暗い波間に漁船のように浮かぶ灯が眺められ、赤いぼんぼりは少し黒ずんで見える。  女将の口ぶりから察すると、あいの子のきわをあんまり客の前にはだしたくないのだ。下働きのけじめをつけるという単純な理由か、それともほかにわけがあるのか、それはしれぬが、やりとりのなかのぎごちなさはきっとそのせいだろう。  小部屋に戻ると間もなく銚子と付き出しを運ぶ掛りの女中があらわれ、予期したよりも早く、きわは女将に連れ添われてきた。  着物でも着替えさせられたのか、身につかぬたたずまいのうちに、きわは堅い口調で席に招かれた礼をのべ、しばらく相手をした後、女将はみつくろった料理を急がすという口実で消えた。 「この旦那はおるのよう知っとるひとじゃけん、楽にしとってよかとよ」左内はいった。「ただ何とのうきわさんを見たかというてきたとじゃけんな」 「左内さんの店で会うたことがあるが、おぼえとるね」井吹重平はいった。「正月じゃった。ああたは確か袖に菱《ひし》模様のついた羽織を着とんなさったろう」 「こりゃたまげた。目の早かというとは、こんげんことばいうとたいね」左内は大仰な声をだした。 「おぼえとります。名前も……」 「名前も。……どんげんしてまた名前まで……」 「左内のおっちゃまからきいとったとです。あん時もそれで行ったとですけん」  きわは目も伏せずに答えた。あん時もそれでというと、正月のことか。娘の正面からの言葉に井吹重平はたじろぐように左内の方を向いた。 「そんげんこつならそうと、きちんというて貰えばよかったとに」 「そいけん、いうたでしょうが」 「いや話は後からじゃった。あん時会うたとは、ほんなこつ偶然と思うとったとだから」 「こりゃたまげたもよかとこ。さっきからたまげ通したい。井吹さんが柄にものう照れとらすとだけんね。……」左内は囃立《はやした》てた。 「羽織の柄までおぼえとって、今更きちんというて貰うたらもなかとでっしょが」  女中が皿に盛ったおこぜのふぐ作りと味噌椀を運んできた。腹はそうすいていないので、なるべくくちくならないものという注文に応じたのだ。 「きわさんというたな。ああた、いくつになんなさるね」 「はたちになります」 「はたちか。……若かね。この店には何時から働きよっと」 「三月からですけん、かれこれ、半年ばかりになりますと」  初めての印象とおなじく、明かりの傍でもきわの色艶《いろつや》はあまりよくない。目鼻立ちと額の恰好は、如何《い か》にも唐人のものであり、身許《もと》をいくら日本の籍に直しても、これではごま化しがきくまいという容貌をしていた。 「さあ、そんげんおみくじみたいな顔ばしとらんと、お互い気持ちは通じとるとだけん、もちっと膝でもくずして行こうじゃなかね。ほら、きわさんにも一杯すすめなはらんですか」 「そうそう、こりゃすまんことばした」井吹重平が盃を渡すと、きわはためらいもせず素直に受けた。 「よかよか、これでおるも気を入れた甲斐《かい》のあるとたい。きわさん、前にも話しとったが、旦那さんのごとよか男はなかぞ。どうね、あれから気持ちの変わっとらんとなら、今日からでもあたしにひと肌ぬがせんね」  左内はあたしとおるをまぜこぜにしながら、短兵急なことを口にした。芸子や女将があらわれては面倒になると思ったのか、それともかつてきわとの話し合いでそこまでの自信を持っているのか。 「そんげん無理いうちゃいかんばい。きわさんの方の事情も確かめんと」 「おっちゃまはうちのことをきちんと伝えとんなはるとですか」きわははっきりした口調できいた。 「そりゃ、伝えてあるさ」と、左内。 「正月から変わっとる事情のひとつできとりますばってん、そればいうてよかとへ」 「なんね、それは。……」  娘の態度があんまりきちんとしているので幾分しらけでもしたのか、左内の口ぶりにさっき迄《まで》の勢いはない。 「事情というのはどがんこつね」井吹重平はいった。 「このお店に、二両借金のありますと。そいけん、もしうちがやめんならんとなら……」 「そんげん話は何時でもでくるたい」左内が口を挟《はさ》んだ。「今此処でどうのこうのと決めんでもよかじゃなかね」 「いや、わかった」井吹重平はいった。「借金をそのままにしちゃおけんやろう。世話する以上、することはきちんとするけん、何も心配はいらんとよ」  おおきに、というきわの声と、あきれたという左内の言葉は折り重なってでた。今宵《こよい》だけの遊びとは限らずとも、娘を囲うことまでは考えてもいなかった成り行きを、それでもかまわぬと井吹重平は思った。たとえ正月にそのような話があったとはいえ、それまでまるで音沙汰のなかった男の不意の出現に際して、一瞬のうちに自分の運命を定めたきわの堅い口調に、いいようもなく心をそそられたのである。 「よかぞ、そうと決まれば今夜は鯛々ぞ。こりゃよか晩になった。……女将もいっちょ呼ぶか」 「女将にゃ改めて、明日にでも話した方がよかでしょう。今夜は二人で、何処《ど こ》にでも行きなさるとよか。そのことはちゃんと女将に話しときますけん」 「ぬしの徳利の空かんうちにそんげんことができるか。芸子もきとらんじゃなかか。二人のことはもう決まったとじゃけん余計な心配をすることはなかぞ」 「しょっぱなからこれじゃけんな。あきれついでにいうときますばってん、きわさんを大事に可愛がってやんなさいまっせ。さっきからたまがり通しやけど、きわさんがこんげんふうにああたのことを心にかけとったとは、思いもせんことですばい。いくら何でも今の今できあがるとは……ああまだ、この辺のどきどきしよる」  左内は胸を押さえたが、満更嘘の所作とも見えなかった。 「みんなおっちゃまのおかげですけん」きわはいった。「うちはうれしか」 「そうか、うれしかとか。……井吹さん、きいたとでっしょ。もうこんげんかわいらしかことをいいよんなさるばい」 「対話集と、こんげんきれか娘ば手に入れて、昨日ん晩はよっぽど夢見のよかったとじゃな。何かすらごとのごたる……」  井吹重平はそういう言葉を並べることで自分の胸を煽《あお》った。盃を重ねる間にすすめても、きわはこばまず、差されるたびにそれを干した。そして「さかなの鮒《ふな》」だと名乗る芸子がきた。 「いっそのこと、鮒より鯉とつければよかった」 「恋になるとはあきらめたけん、ふなで辛抱しとっと」  芸子は左内の言葉をすらりと受けると、井吹重平ににじり寄るようにして酌をした。 「こんげんきれかひとのおんなさっとに、呼んで貰うておおきに」 「今夜はうれしかことのつづいとる晩だけんな。そのつもりで相手ばするとよか」 「羨《うらや》ましか」芸子はいった。「そいじゃいっちょやっかみ半分に、できたてのほやほやを歌うてみまっしょ」  芸子は三味線の調子を合わせて、歌いはじめた。 櫓《ろ》を漕《こ》いで 銭ためて みとせがかりの危な絵の 朱色の主は蘭水の尾崎 濡れる間もなく溜《たま》り場に ひかれる又次の繰りごとは せめて色香の袖なりと 哀れもおかし船乞食《こじき》 哀れもかなし船乞食 「めずらしか歌じゃな。蘭水とか船乞食とかいうたが、そんげんこつのあったとね」井吹重平は知らない振りをした。 「きいとんなさらんですか」芸子はいった。「丸山辺りじゃえらい評判になっとるとですよ」 「船乞食が尾崎に惚《ほ》れたとでもいうとか」 「惚れたばかりじゃなかとよ。ちゃんと三年がかりの銭ば貯めて、蘭水に上がったとですけん」 「ほんなこつか、そりゃ……」 「すらごとじゃなかとですよ。溜り場におる船乞食をどんげん処分にするか、奉行所じゃ頭ば痛めとんなさるらしかですけんね」    8  冷ました茶を入れたびいどろ徳利を隣室の寝間において禿《かむろ》が去ると、替わりに遣手のさくが顔をだした。辻野屋嘉右衛門が体を拭くために湯殿にいることを承知の上なのだ。 「網屋の旦那さんのことで、ちょっときいとることのあるとですと」  尾崎の気を引くようにいうと、さくはちらと廊下の方に目をやった。いわば遣手の特技のひとつで、丸山界隈《かいわい》を流れるあれこれの風聞を、いち早くきき込んでは水増ししたり削ったりして、それをまた適当に自分の利益と結びつけるのであった。 「網屋の旦那さまの……」尾崎は声を詰まらせて、後の言葉を待った。 「古《ふる》町に宿をとっとんなさるこつはご存じでっしょが、ほんなこつは近所のお寺さんにも部屋ば借りとんなさって、そっちの方でも寝起きをしとんなさるらしかとですと。……どんげんしてそう離れておらん場所に、別々の宿がいるとでっしょかね」 「それは矢張り都合都合のあるとでっしょ。うちたちにはわからんようなふとかご商売をなさっとるとだけん。……その話、おうちは何処から耳に入れなはったとね」 「最初の口はどうも菊あねのごたるといいよりました。うちは門屋の使い走りからききましたと。大方、網屋の旦那さんが寺からでられるところでも見たとじゃなかでっしょか」 「菊あねも口の軽かおひとたいね」 「網屋の旦那さんのこつは、大分評判の立っとりますけんね。太夫《たゆう》のことば大層気にいんなさっとるから、いまに新しか家でも建っとじゃなかかと、みんな羨ましがっとりますと。そんげんこつを知っとるから、菊あねもやっかみ半分にいいふらしとるとじゃなかでっしょか」 「新しか家の建つとは、どんげんことね」 「太夫と旦那さんの二人きりで、くらしなさる家ですたい」 「滅多なことをいうもんじゃなかとよ。おうちもよう知っとってでしょう。網屋の旦那さまは蘭水にゃまだいっぺんもお泊まりになったことはない。そんげんことを口にしてさくさんらしゅうもなか」 「いいえ、うちはよう知っとりますと。口の過ぎたこつは謝りますばってん、網屋の旦那さんが、太夫のことをどんげん思われとるのか、誰がみてもちゃんとわかりますもん。蘭水にお泊まりにならんのは、ちゃんとわけのあるとですよ」 「わけとは何ね」 「自分の気持ちば大事にされとっとじゃなかですか。太夫のことばあんまり好きになられたけん、そこにけじめをつけられとっとでしょ。その晩ごとの遊び相手じゃのうして、本気で何かを考えとんなさるごたる。うちたちにはそれがかえってありありと見えるとですよ」  さくの追従はかなりこじつけを含んでいるが、別に嫌味はない。しかし尾崎は、遣手にまで網屋友太郎と寝所をともにしない不自然さをなじられている気がした。 「蘭水はただお仕事の上で使うておられるだけ。網屋さまの胸のうちは難しゅうて、うちたちにははかりようもなか。女のひとりやふたり、あんかたには金魚とおなじ。えさ撒《ま》いたり手を叩いたりして、遊んどんなはるとたいね」 「さっきいわれた文句を返しますけん。尾崎さんらしゅうもなか。……太夫を見られる旦那さんの目はごまかしようもなかと。うちが何年遣手ばやっとると思いなはるね。ほかに能はなかばってん、そいしこはちゃんと自信のありますと。……」  主人の太兵衛が探していると告げた禿と一緒にさくが去っても、嘉右衛門はなかなか部屋に戻ってこず、尾崎は遣手のきき込んできたという言葉を反芻《はんすう》した。  古町の宿のほかに、近所の寺を借りている話は、誰かに身の廻りの世話をさせているという謎《なぞ》か。もしかするとさくはそれを伝えにきて、尾崎の口ぶりの重さを感じとり、急いで裏返したのかもしれない。  寺にそのような女が待っているとすれば、蘭水に泊まらぬわけはすべて合点が行く。  しかし、あの遣手がそれを知っていて、それらしきことを洩らさぬという器用な真似ができるはずもない。するとやはりそれだけの事実に過ぎないのか。丸山ではかなり古株でもある芸子の菊は、果たして何を見、何を喋《しやべ》ったのであろうか。  網屋友太郎が二度目に登楼した時、尾崎は蘭水で初めて接したのだ。が、その時のやりとりをなぜか生々しく思い浮かべる。連れの客は確か阿蘭陀《オランダ》通詞《つうじ》であった。 「太夫の生まれは長崎ですか」 「いいえ、生まれは平戸、それもお船のなかで生まれましたと」 「ほう、船のなかで……。それじゃ親御さんは船頭でもあんなさったのかね」 「漁師だったらしかとです。両親とも小さい時分になくなって、親類の者に後でそうききました。お船のなかで生まれたことも……」 「平戸か。楢林《ならばやし》さんは平戸をご存じでしょう」 「はい。二年前に、五十日ばかり滞在したことがございます」 「此処から近いし、一度是非見ておきたいと思っているんですよ。何でも珍しい橋があるとかききましたが、町の様子は矢張り長崎に似ていますか」 「はい、長崎よりよっぽどこぢんまりとしておりますが、住む人間が長崎とは較べものにならんごと、親切かように思いました」 「ほう、長崎親切と較べて一層親切だというと、一体どういうふうになりますかな」 「こういっちゃ何ですが、長崎親切のなかには、矢張り何処かに利害の匂いが絡んどります。誰も彼もというのではございませんが、何といいますか相手によっちゃ、何とのう最初に見分けてしまうというふうでございますね。そこに行くと、平戸は違う。ほんとにまるごと、道を行く人のひとりひとりが懐をあけとるみたいな感じで、事実付き合ってみればその通りです。そうだね、尾崎さん」 「うちはようわかりまっせん。石橋のあったことはぼんやり覚えよりますばってん……」 「長崎親切よりも懐が暖かいのですか。それは是非直接味わいたいもんだな」 「旦那さまはもう、長崎のおなごに飽きなさったとですか」 「どうして、どうして。しかと見定めもしないうちにどうして飽きたりしますか。丸山ではもうたじたじの仕放し。大分度胸はつけてきたつもりだが、手もだせんような始末で……」 「手もだせんのは、きっとお口にあわんとでしょう。花のお江戸で散々ご馳走を食べてきた方には、丸山の卓袱《しつぽく》はちっと油のきつかとですよ」 「これは手厳しい」と通詞。 「食べたくとも食べさせてくれんのだから、何をかいわんや。卓袱が天下の滋味だということは先刻存じていますよ。長崎の海に泳ぐいちばん美しい魚を集めて、しかもそれを南蛮流と唐《から》流の味つけで煮込む。それだけきいてもよだれがでようってものさ」 「蘭水でだす卓袱はそんげん、よだれのでるごたる味はついとらんとですよ。折角楽しみにしとんなさるとに、がっかりしなはると」  足音がしたので、尾崎はそれが近づくのを待った。だが嘉右衛門はあらわれず、彼女はふたたび想いを追う。  当然、尾崎を相方に一夜を過ごすと思われ、それだけの金を積みながら、ごく自然な振る舞いで網屋友太郎が通詞ともどもそう更けてもいない時刻に帰った後、主人の太兵衛はわけ知り顔にいった。 「江戸の辺りじゃ、あんげんふうにするとが遊び上手で粋《いき》じゃといわれとるとじゃろう。何でも初手はさらりとしたふうにみせるとたい。今度の時ゃけつの穴までしゃぶられるかもしれんぞ」  しかし、今度の時どころか、蘭水楼にあがる回数が如何に重なっても、網屋友太郎の尾崎に対する態度は変わらない。  堺の商人は濡れた手拭いで首筋を拭きながら部屋に戻ってきた。尾崎はその手拭いを取ると鏡台の脇の衣桁《いこう》に干した。 「湯殿の模様があんまり変わっとるさかい、たまげてしもうた。何や、竜宮の風呂にでも入っとるような気色や」 「冷たか茶のあるとですよ。飲みなはりますか」 「ああ、ちょうど咽喉《の ど》がかわいとるところや」  寝所からびいどろ徳利とこっぷを盆に載せて尾崎が運ぶと、嘉右衛門は思いついたように浴衣の膝を叩いた。 「初めての客に、嫌な顔ひとつせんとよろしゅうしていただくお礼や、取っておくんなはれ」  嘉右衛門は違い棚に納められた所持品のうちから、皮細工の巾着を手に持つと、口を開けて青い天鵞絨《びろうど》の小箱を取り出した。 「あけてみなはれ」 「わあ、きれか。……こんげんびいどろのいびがね(指輪)は初めて見ましたと」  朱というよりも、明るい空にも似た赤を土台にして、緑と黄を交錯させたびいどろの指輪は、尾崎の眼を奪う。それはまるで夕焼けの海に浮かぶ魔法の鏡だ。 「はめてみなはらんか。あんたはんの指にはきっとよう似合いますやろ」  尾崎はそれをいったん小指にはめ、それを抜いて左手の薬指に替えた。 「たまぐるごときれか。……さっき旦那さまは竜宮といいなさったばってん、ほんなこつ、乙姫《おとひめ》さんのしとるいびがねのごたる」 「気に入って貰うてよろしゅうおました」 「これば、ほんなこつうちにくださるっとですか」 「指輪もよろこんでますやろ。きれいな指にさして貰うて。ほんまにきれいやなあ」 「これまで、阿茶《あちや》さん(唐人)からなんぼか見せて貰うたいびがねもありますばってん、こんげんきれかとはなかったと。わあ、夕焼けのごと光って、きらきらしとる。……」  嘉右衛門は冷茶をこっぷに注いで飲み、大きな息を吐いた。尾崎はなおも指輪をいろんな角度から眺めすかしていたが、客の様子に気付くと、それを元の小箱にしまい込んだ。 「ちんだ(赤葡萄酒)のありますばってん、飲みなはりますか。おやすみになる前に飲むと、体によかといいよんなさると」 「ちんだ。……たしか葡萄酒でおましたな」 「旦那さまは何でん知っとんなさっとですね」尾崎は立って瓶《びん》詰めの葡萄酒とぎやまんの盃を用意した。どちらも染田屋主人の購入したもので、当時丸山では太夫部屋必携の備品であった。 「こんげんもん、珍しゅうもなかとでしょうが……」 「いやいや、さすがに長崎の太夫はんやと、ずっともうたまげ通し。ほんまのこというと、びいどろの指輪なんぞ百も持ってはるのやおまへんか」 「旦那さまのおひとのわるか」尾崎は葡萄酒の瓶を盃に傾けた。「うちがどんげんうれしかか知っとんなさるとに……」  堺の商人は物慣れた素振りでぎやまんの盃に口を寄せ、二度の呼吸で飲み干すと、尾崎に返盃《へんぱい》した。 「なんともいえんほど、おいしおますな。こんなうまいお酒、毎日飲んではったら、体がほてって仕様おまへんやろ」 「うちはあんまり好かんとですよ」尾崎はさらりと受けた。「そいけん、いくらも減りまっせん」 「太夫はんは、梶屋という薬種問屋を知ってなはるか」嘉右衛門は意外なことを口にした。 「薬種問屋の梶屋。……ああ、この前おかっつぁま(奥様)の亡くなんなさったお店。ようとは知りまっせんが、そんげん話をきいとります」 「あてもちらと耳に挟みました。何や可哀相な死に方をされたらしいなあ」 「おとろしか毒薬を飲みなさったという話でっしょ、そいでもわからんとですよ。噂はいくらでも変えられますけん。特に丸山でひろがる話は眉唾ですと」 「まあ、薬ならなんぼでも、それこそ勝手知ったる道やさかい、いちばん楽な死に方できますやろうけど、それにしても哀れな話や。……主人の女道楽でもよっぽど過ぎていたんかいな」 「道楽が原因じゃなかとでっしょ。浮いた話もきかんし、梶屋さんの顔は丸山でもあんまり知らんとじゃなかですか」 「そうですか。あてはまた蘭水には顔なじみかと思うてましたが」 「二度か三度、見えられたとでっしょ。そいでもうちは知りまっせん」 「梶屋さんでいま売り出し中の薬、知っておますやろ」 「いいえ」 「そうか、知りまへんか。脚気と心の臓の特効薬。これがいま上方じゃえろう評判でしてな。あては心の臓も脚気も患うていませんよって、そんな薬必要ないけど、そんなんよう効く薬作りなはるのやったら、ほかの薬かてできますやろ。あてはいまそれを考えていますのや」 「旦那さまは、何処か加減のわるうあんなさるとですか」 「いや、あてのことじゃおまへん。……此処までの話やが、これからは何処もかしこも戦争になりよる。ひょっとしたらイギリスやフランスとも戦争するはめになりかねまへんな。とすると怪我人がでる。手術をせにゃあかん。なんぼでも薬がいりまっしゃろ。そのへんのことをな……」 「ほんなこつ、イギリスやフランスと戦争になるとですか」 「いやいや、たとえばの話ですねん。どちらにしろ両方を相手にすることはおまへんのやから、そのへんは何とかなりますやろ。……そんなことよりなあ、何といいよったかな、梶屋の主人、そうそう正輔さんや。その正輔さんにこっそりあてと二人だけで会う手筈はおまへんやろかなあ」  そうか、目的はそこにあったのか、と尾崎は思う。それにしてもなぜそのように廻りくどいやり方をするのか。堺で名のある商人なら、直接梶屋を訪ねて行けば何でもなかろうに。彼女は首をかしげるようにして、葡萄酒の瓶をふたたび手にした。二人だけというと、網屋友太郎にも隠そうというのか。 「そんげん手筈ならいくらでもつけられるとでっしょ。丸山にできんことはなんにもなかとですよ」 「それそれ、そこを見込んでのことやさかい……」嘉右衛門はいった。「あんじょう手筈を頼まれてくれはりゃしまへんか」 「蘭水じゃわけもなかでっしょが、ほかの手筈というても……」 「いや、蘭水ならなおさら結構。二人きりで半刻《とき》ばかり話し合いをして、後はまたぱっと巳之助はんにでも加勢して貰います。……いや、矢張り巳之助はんは遠慮しといた方がよろしゅうおますな」 「明日、主人に話ば通じときますけん」尾崎はいった。「きっと旦那さまのよろこびなさるごと、梶屋さんのお都合を伺いなさいますでっしょ」 「さすがに太夫はんや、話が早うおますな。……そうと決まれば、こりゃ竜宮に使いをださにゃあかん。ぎょうさん土産を持ってきなはれというてな」 「うちはもう何もいりまっせん。びいどろのいびがねがもう宝物になっとりますけん」 「太夫はんは平戸のことよう知っておますか」 「うちはそこで生まれたとです。お船の中で……」  かつて、網屋友太郎に答えたのと同じことを尾崎は口にした。 「一度、平戸を見物しようと思うてますのや。どや、一緒に行きなはらんか」 「蘭水を離れることはできまっせん。それに平戸はあんまり好かんとです」尾崎はきっぱりした口調でいった。 「こりゃみごとに振られた」 「そんげんことじゃありませんと。平戸にはあまり行きとうなかし、もし行きたかというても、お店がいうことをきくはずもなか。それでいうとっとですよ」 「わかりました。太夫はんにどうも正面から申し開きされると、何もいえまへん」 「気持ちをこわされたとじゃなかですか」 「なんの。太夫の生一本の心はしかとわかり申した。……いやあ、ほんまに兜《かぶと》を脱ぎますわ」 「平戸には何しに行きなさると」 「別に、何をしにというんじゃおまへん。ただ昔からあれこれきいていましたさかい、なんとのうあこがれていますのや」 「行きなさるとはよかが、玄海灘《なだ》の鱶《ふか》に食べられんごとしときなっせ」 「玄海の鱶。……」  尾崎は口をすぼめて、ふふと笑い、隣の商人は、あ、そうかという顔をつくる。    9  明け方から前触れもなく降りだした雨は、四ツ刻(午前十時)近くになって、ようやく小止《こや》みになった。昨夜までの蒸し暑さは見掛けだけでも吹っ切れたように感じられ、道を行く人々の挨拶は大方それに尽きた。  出がけに着替えた着物の裾にはね返る泥水を気にしながら卯八は高下駄をちょっと小石に躓《つまず》かせた。前を行く商家の番頭らしい男はまだ開いたままの番傘を担ぐような形で差している。柳の葉先に光る白い玉を次々に指先で弾《はじ》く子守りの娘。  峰吉から誘われた下っ引まがいの手下になれという話もさることながら、つい先程までやりあっていた父親の強情な反発を一体どんなふうに考えればよいのか。二日酔いの匂いを振り撒きながら、珍しく朝の茶漬けを食べにあらわれた兼七に、フランス寺の一件を持ち出すと、思いがけぬ激しい態度を示したのだ。 「フランス寺の仕事ば手伝うとるという話ばきいたが、まさかほんなこつじゃなかろうな」ときいた卯八に対して、ろくに返事もせず、重ねて問いただすのに、「わるかとか」という言葉を返したのである。 「何ばいうとるとか、おととは。そいじゃ、喜助が話したことは、ほんなこつだというとね。……返事をされんとか」 「喜助にゃかかりあいのなかことたい」 「そんげん話じゃなかろうもん。フランス寺の仕事をしよるというたら大層なことばい。おととはそいばわるかことでもなかというとね」彼はいった。「よもや浦上の事件を忘れたとじゃなかでっしょ」 「天主堂ば建てることがわるかとなら、奉行所が許さんとじゃなかか。奉行所が黙っとる仕事を加勢して何も文句をいわれる筋合いはなかと」 「天主堂ちゃ何ね。……」卯八はひきつる声をだした。「天主堂といえばおとと……」 「フランス寺のことたい。みんなそういうとるじゃろうが」兼七は平然とした口調でいう。 「寺というても並の寺じゃなかとぞ。おととはそれをわかっといて、切支丹の加勢ばすっとか。……おるがどがん気持ちで今日までくらしてきたか。それを知っといて、そんげん口ばきくとね」 「知っとるけんこそ、天主堂の仕事ばしとるとたい。いくら奉行所でも今度ばかりは、牢《ろう》に叩き込むちゅうわけにもいかんやろうけんな。……何も気のひくることをしとるつもりはなか。わっつ(私)は何もこそこそ隠し立てしてやっとるわけじゃなかぞ」 「切支丹のためにどがん目におうたとか。おとともおるも一生うだつの上がらんことになって、その上磔《はりつけ》の木まで作らされた。覚えとらんとはいわさんよ」 「よう覚えとるたい。そいでもありゃ奉行所からいいつけられたこと。切支丹の人たちからやらせられたわけじゃなかばい」兼七はいった。「何もしとらんとに、切支丹はわっつたちと一緒に死ぬ目におうただけじゃろう。違うか」 「よう、そんげん口をしゃあしゃあと。……わきはどう思うか、おるのいうとること」 「うちにはようわかりまっせん」 「ようわからんとは何や。おるがぬしと一緒になった時、人から何といわれた。誰も彼も、おるたちの背中から指差して、獄門台ば作った男とよう所帯ば持たれる。ひょっとしたら出が出じゃなかとか。……ぬしもきいとるじゃろうが」 「お前はなんか勘違いしとりゃせんか」 「勘違い」 「今もいうたが、わっつたちゃひどか目におうたとは、奉行所からやられたとぞ。切支丹のせいじゃなか。……」 「切支丹のせいたい。せいじゃなかとどんげんしていえる」 「わっつのいうとるこつは違う。切支丹はわっつ達と同じ目におうた口。手箱ひとつのこつで牢屋に叩き込んで、あげくに獄門台を作れというたとはみんな奉行所たい。そこんところを間違うな」 「そいじゃなんで切支丹が御禁制になっとる。伴天連《ばてれん》の信者は何でつかまるとか」 「そんげんいうなら、御禁制の天主堂をなんで許可するとか。伴天連のひとりや二人とは違うとぞ。大根《おおね》大元の切支丹寺を建てようというとに、なんで打ち毀《こわ》しもせんとか」兼七は強い声ではね返した。「そりゃ何より奉行所が、自分たちの非を認めた証拠たい」 「そりゃ向き向きのことよ。お上の考えとることがそんげん変わるはずもなか」卯八はいった。「どんげん理屈ばこねても、切支丹は切支丹。おととひとりのことだけじゃなかけんな。おるは承知せんぞ」 「頭ば冷やさんか。もうぬしのいうとるごたる時勢じゃなかとぞ」 「番小屋で磔を作っとった時、どんげん悪口ばいわれたか、耳に残っとらんとね。いくら奉行所が見て見んふりをしとるからというて、フランス寺から手間賃貰うて、そいで世間に通るとでも思うとるとか」 「居留地のエゲレスに品物を世話するのはかまわずに、天主堂の手間賃貰うのがどんげんしてわるかとや」  卯八は詰まった瞬間を、茶碗を手にしてのばした。 「そりゃ……商売と切支丹は違う」彼はいった。「おととは卑怯《ひきよう》かぞ。おるたちにことわりもせんで、フランス寺に通うたりして……もう一回おるたちを谷底に突き落とすつもりか」  武家屋敷の土塀に止まっている雀が一斉に飛び立ち、卯八の傍を擦り抜けるようにして若い侍が横手の路地を入って行く。  それにしても父親のああいう居直った素振りは何処からきているのか。確かに兼七の理屈には前々からまがりくねったものがこびりついていて、付き合いのある人々によく、また始まったという顔をされたものだが、こともあろうにフランス寺の仕事でそれを持ち出すとは。考えてみると、朝飯に殊更顔を見せたのも、或いは噂の先手を打つつもりだったかもしれないのだ。  大浦居留地のマックスウエルに会う段取りをつけるため、目差した阿媽《あま》(外国人の傭女)の家はなぜか閉まっており、隣家にきくと何も言伝《ことづ》てはないので今に戻るでしょうという返事であった。そして事実、四半刻も待たぬうちに咲は帰ってきた。阿媽といっても米人チャァルス・ハゲルトンの情婦であり、この一年ばかり染田屋抱えの若き遊女高鶴との三角関係に悩む余り、自宅に引きこもっていたのである。卯八も大体の様子をきいてはいたが、高鶴はいまハゲルトンの子を身ごもっているはずだ。  彼が用件を話すと、簡単に承知した咲は、今度はどういう図柄かとたずねた。 「それが……」  口ごもりながら卯八が所持するものを開くと、予期に反して咲は顔色ひとつ変えなかった。 「どんげんでしょうかね。こがん絵ば持って行って」 「どんげんといわるっと……」 「いきなり怒鳴りつけられはせんかと思うたりしとるとですよ」 「なして怒鳴りつけられるとね。マックスウエルなら飛び上がってよろこぶとじゃなかですか、これなら」 「それならよかですばってん」 「あん人たちもほんなこつはこんげん絵を欲しがっとるとよ。並の春画ならもう飽き飽きしとる位見とるとだけんね」  井吹重平と似たようなことをいう咲の目付きには今になって一瞬うごめくものが走る。卯八は感じない振りをした。  マックスウエルは異人のなかでも日本語の達者な男として知られていたが、ひどく神経質な要心深い商人で、咲を仲立ちにして同行しなければ、直接には決して会おうとしないのであった。  麻仕立ての着物を少し居留地風に装い、やや斜め前方を歩く咲の横顔には、そう思うせいか沈んだ影が浮かぶ。昨夜峰吉は、たとえばという枕をつけながら、探索の目的としてマックスウエルの名前を挙げたが、気持ちの底にはそれもなくはない。しかしまだおれは峰吉の誘いをはっきり引き受けたわけじゃないのだ、と卯八は自分に念を押す。居留地に通う彼のことを峰吉は何処まで調べているのか。  方々に水溜りのできている濡れた土地に、六つの輪を描いた童たちが順番を決めるちょいやげん(唐屋拳、ジャンケンポン)をしており、最初に負けたひとりが体をくねらせるようにして石を蹴《け》る仕種《しぐさ》をした。 「卯八さんはガラバという異人を知っとんなさるね」  それまで黙っていた咲が、橋の手前でふっと振り向いた。 「ガラバ……。きいたことのなか」 「そうね、そいじゃ菊園さんのことも知らんとでっしょ。筑後屋のたよしさんたい」 「知りまっせん」  筑後屋の菊園。そういえば何やら小耳に挟んだような気もするが、しかとは覚えていない。 「ガラバさんの子供ば生みなさったとよ。一昨年の春、梅吉という名前ばつけんさったと。きいたことはなかね」 「菊園という筑後屋のたよしが生みなはったとですか」 「そうたい」 「梅吉といえば、男の子やったとたいね」 「菊園さんの実家でずっと育てよんなさったと。それはよかったとばってん、去年の春、麻疹《はしか》にかかって、亡《の》うなってしもうたとよ。わざわざ小川仲亭さんの診察まで受けなはったという話やったが、矢張りあいの子は体の芯《しん》の弱かけん、ようといかんとかもしれんね」 「矢張りそげんもんでっしょか」卯八は相槌《あいづち》を打った。そうか、この女はハゲルトンの子を妊《はら》んでいる高鶴の明日にとげを含ませようとしているのだ。 「そいでも菊園さんの身になってみれば、かえってよかったとかもしれんとよね。運よう育っとったとしても、どっちみちあいの子はあいの子でっしょ。名前はいくら梅吉でも、顔の造作までは梅吉というわけにはいかんけんね」 「あたしはあんまりようと見たことはなかとばってん、異人さんのあいの子は矢張り異人さんのごとしとるとでっしょか」 「そりゃそうたいね。向こうの人たちの血は強かけん、まるっきり異人の顔に似るとじゃなかね。いま話した梅吉という子供はそりゃ色の白うして、雪の中からでも生まれてきたごとしとったというけんね。その上、目玉は青か。子供のうちは愛らしゅうても、年とって行けばどんげんして暮らしたらよかか。自分でもわからんごとなるとじゃなかやろか」  雨がまたさっと横なぐりにばらつき、番傘を差す間もなくやむ。咲が煮え湯を飲まされている高鶴は今年十八歳。生み月まであと三、四カ月という噂をきいているが、果たして如何なる顛末《てんまつ》になるのか。 「マックスウエルさんは、あんまりもう長うは長崎におんなさらんはずよ」  橋を渡って川を下る荷船と平行しながらしばらく歩くと、咲はそんなことを口にした。 「それはほんなこつね」 「本人からきいた話じゃなかけど、確かな筋よ」 「そいがほんなこつなら、きちんとした取引ばしとかにゃならんな」 「目の玉から火のでるごつ、吹っかけてやればよか。どっちみちいくらで売れとはいわれとらんのでしょ。居留地におる異人はみんなやりたか放題のことをしとるとだけん、何も遠慮することはなかとよ」  女はそれまできいたこともないようなきついいい方をした。 「マックスウエルさんはなして長崎をでんさるとね。本国から知らせでも受けて、戻んなさるとやろか」 「行き先は堺か江戸。あん人たちの目当ては決まっとるとよ」 「堺に江戸か。やっぱ鉄砲や火薬の売り買いで忙しかとやろうね」  知らず知らず下っ引に似た口調を卯八はわれながらいまいましく思う。必要もないのに番傘を振って雫《しずく》を落とすと、咲がちらりと流し目で見た。 「鉄砲や火薬じゃなかと……」  女はなぜか、そういいかけて後の言葉を濁した。  鉄砲や火薬ではなく、ほかの何を売るのか。しかしそれを押してきくのはためらわれる。卯八は高下駄の歯にくっついた泥を落として、相手の言葉がつながるのを待つ。しかしそれっきり咲は何も語らず、大浦海岸からせり上がる丘はすでに前方に見えていた。  いま外出の準備をしていたところだというマックスウエルは、二人を板敷きの応接間に案内した。桜材の丸卓と椅子は何時もの通りであったが、壁に飾られた長剣に卯八は目を奪われた。 「ツルギトイイマスカ、フルイトイイマスカ、ソレデモイマハ、ソレヲハナシデキマセン」マックスウエルはそういうと咲の方を向いた。「アナタハ、ぐらばーサンノツクッタ牛ノマキバヲ知ッテイマスカ」 「牛のまきば。……ガラバさんの去年作りなはった解牛場のことですか」 「ソウ、古河海岸ニぐらばーサンノ作リマシタネ。ソコニタクサンオイシイ牛ノ乳アリマス。飲ミマスカ」 「牛の乳は駄目。そればっかりはどうも飲みきりまっせんと。……すみまっせん」 「卯八サンハ」 「あたしもどうも。飲んだこつはなかとですばってん」  マックスウエルは肩をすくめるような所作をして、顔をだした阿媽に支那茶を持ってくるように命じた。 「ぐらばーサントハナカナカ会イマセン。アナタ会イマスカ」 「いいえ、ガラバさんとはもう……」咲は言葉短く答えた。 「卯八サン、アナタハ今日、何ヲ持ッテキナサイマシタネ」  卯八は風呂敷包みを解いて、紙挟みの中から切支丹伴天連の火刑を背景にした春画を取り出した。マックスウエルは交錯させた腕で自分の胸を抱くような恰好をしながら、呻《うめ》きに似た声をあげる。 「コレハ、マエノヒトノカイタモノデスカ」 「はい」 「コレヲ、ナンマイノコト作リマシタカ」  卯八は言葉の意味をききとれずにマックスウエルを見返した。 「コレハ一枚デハアリマセン。コレハ色ヲタクサンノコト、ナントイイマスカ、印刷トイイマスカ、タクサン作リマシタトデスネ。……ワカリマセンカ」 「木版じゃから、ほかにも何枚かこしらえたものがあるとか、そんげんことをききよらすとよ」 「ソウ、咲サンノ言葉、ソノ通リデス。コレハモクハンデスネ。ソイケン一枚デハアリマセン」  なるほど、そこまで考えてもみなかったが、指摘されてみれば版画である以上、その通りだ。だが井吹重平は、ほかに何枚も刷っているのか。これだけのことを咄嗟《とつさ》に思いめぐらしながら卯八は返事に詰まった。 「卯八サン、アナタワカリマセンカ。コレハモクハンデスネ。ソイケン一枚デハナイ。タクサン作リマシタトデスヨ。ソレヲキイトルト」 「一枚きりだと思うとったが、あたしにゃわかりまっせんと。ほかにも刷ったものがあるかどうか、それはきいてみまっしょ」 「ほかに何枚か刷ってあるとして、あなたはそれをどんげんしなはるとですか」咲が代わってきき返した。 「全部デスネ、作ッタモノヲミンナデスネ。……ワタシガ買イマス。モクハンデスカ。コノ絵ハ誰ニモミセマセン、ミンナノコトワタシガ買イタカト」  マックスウエルの眼はなおも十字架の下で喘《あえ》ぐ恍惚《こうこつ》の図柄を離れなかった。    10  以前は糸荷廻船《かいせん》に関係する商人や船頭たちの常宿でもあったという茂木屋の二階で、手摺《てすり》に寄りかかるようにして井吹重平は対岸を往復する渡し船の二丁櫓《ろ》の音をぼんやりときいていた。常宿をやめた理由について、抜荷にまつわるいざこざがあったという噂《うわさ》をきかぬでもなかったが、それにしては居酒屋兼用の宿屋を営めるのもおかしく、すべてにからっとした主人の気性にひかれて、時々そこを利用していたのである。  階下の大部屋で船乗りたちのざっくばらんなやりとりをきけるのもこの家に足を向ける気持ちの一部に含まれており、何よりも海岸に張りだした浴場の潮風呂が彼の気に入っていた。  しかし今は違う。昨夜、というより今暁、寅《とら》の刻に近い時刻からきわを連れてこの宿に泊まったのだ。正味にはおよそ二刻《ふたとき》程も眠ったろうか。井吹重平の脳裡《のうり》にはこれまで無垢《むく》であったというきわとひとつ床で過ごした情愛の名残と、もう後には退《ひ》けぬのだという思いが、微妙に屈折した影となって蹲《うずくま》る。  彼のすすめもあって、きわは入れ替わりに朝風呂を使っていた。朝風呂など正月にも入ったことがないといいながら、男の言葉には決して逆らうまいと決めたかのような足どりで浴場に去った女の風情もいじらしく、海からの水分を含んだ重い風が湯上がりの体を小気味よく打つ。  この宿にきて二人切りになると、きわは改めて挨拶したが、それはまるで嫁にきた女が、床入りの前、良人《おつと》に対する態度と同じものであった。それでいて特に杓子《しやくし》定規という風でもなく、永年待ち望んでいた言葉を口にするようなよろこびと恥じらいが、身振りにもあらわれていた。  宿の主人が手早く用意した酒肴《しゆこう》の膳を間に挟《はさ》んで、二十歳の娘は彼のいうことにいちいち頷《うなず》き返した。 「くたびれたとじゃなかか」 「いいえ、うちにとっちゃいちばん大事な日ですけん、くたびれようもなかとですよ。旦那《だんなん》さんこそ……」 「旦那さんと呼ぶことはなか。ああたでよかぞ」 「旦那さんのいいつけ通り……すみまっせん。ああたのいうことはなんでんききますけん、どんげんことでもいいつけて下さりまっせ」 「あんまり急なことになってしもうて、何から話してよいかわからんごたる。……ぬしの住む家ばまず探さにゃならんな。おかさまに挨拶もせにゃいかんし、……そうそう、ぬしの家族はいまどんげんふうになっとるとね」 「おかかはもう先に亡うなったとです。おととのことは知っとってでっしょ。今は新大工町の方に叔父の家がありますと、おかかが亡うなった後はそこでくらしとったとです」 「叔父しゃまは何ばしよらすと」 「元々は屋根葺《ふき》の職人だったとですばってん、あんまり体の強うなかけん、いまは寺の雑用ばやったりしてすごしとりますと」 「どっちみちきちんと挨拶しとかんといかんな」 「旦那さんの気の向かれた時でよかとですよ。……矢張りうちは旦那さんの方がいいやすか」 「なんでんおれのいうことをきくというたばっかりじゃなかか」 「すみまっせん。そいでも慣れるまでは恥ずかしか。……」  井吹重平は徳利の酒を二つの盃《さかずき》に注ぐと、「ほら、これが固めの盃たい。何かおれにして貰いたいことのあるならいうてみたらよか」といった。  彼が盃を傾けると、つづいてきわも飲んだ。 「何時《い つ》までもうちを捨てんで下さいまっせ。頼みはそいしこです。旦那さんに捨てられたらうちはもうどうにもなりまっせんけん」 「捨てるはずもなか」井吹重平はいった。「おれの正体もよう知らんとに、そんげん自分の一生ば預くるごたることばいうて、後で困ることになっても知らんぞ」 「うちは旦那さんの顔を最初に見た時から、この人ならと思うとりました」きわはいった。「あん時からうちはもう決めとったとです」 「左内さんはよっぽど上手におれのこつを売り込んだとじゃな」彼はいった。「仲人口の何とかというて、今に化けの皮のはぐることやろう」 「旦那さんにきいてもよかと」 「ああ、何でも」 「旦那さんはどんげんして、うちのごたる女を世話してもよかと思いなさったとですか」 「そりゃ……ぬしの器量と気性がおれの気に入ったからたい。正月の時はまあだそこまでの気持ちはなかったとに、直接会うてみて、いっぺんに惚《ほ》れてしもうた」 「おかみさんからいわれて、うちもいっぺんにわかりましたと。左内のおっちゃまと一緒にこらした初めてのお客さんときいたからすぐ、……」きわはいった。「そいでも突然うちと会うてもよかと思いなさったとはなしてですか」 「なしてかな、おれにもようわからん。道を歩いとる時にふっと、そんげん気持ちが動いたとやからね。ひょっとすると正月からたまっとった水が、堰《せき》の切れていっぺんに流れだしたとかもしれん。そこで左内さんのところに駈け込んだとたい」 「うちはふ(運)のよか。……」きわの語尾は少しふるえた。「これまでふのよかと思うたことは一度もなかったばってん、じっと辛抱しとった甲斐《かい》のあったとよ。ふのわるかことを全部集めて火つけたら、今のうちの気持ちとおんなじになるやろか。……うちはもう半分以上あきらめよりましたと。……」 「何をあきらめとったとね」 「すらごとでもよかけん、うちを好いとるというてくれる人、そんげん人は死ぬまであらわれんやろうと思うとりました」 「おれはすらごとをいうとりゃせんとよ」 「わかっとります。そいけんうれしか」 「はっきりいうてしまうばってん、唐人の子じゃからというて何も卑屈になるこつはなか。唐人もオランダ人もみんな同じ人間たい。せせこましか日本とくらべてみりゃ、何もかもよっぽどすすんどる。黒船ひとつ取ってみてもとても太刀打ちゃできんじゃろう。機械だけじゃなか、人間の生きて行く上の考え方が土台ひろかとじゃけんな。きわさんのなかにはそんげん血の流れとるとやから、胸張って生きとってよかとよ」 「うちが旦那さんならと思うたとはそんげんところです。言葉はいまはじめてききましたばってん、うちは最初からそうだと信じとりました。左内のおっちゃまから正月に話のあった時、うちがすすんでのったのも、普通世間のくらしより、何かほかのことば考えとる人ときいたからです。……」 「何かほかのことば考えとる人か。……」 「日本をあんまり好いとんなさらんごたる、ともいうとられました」 「日本をあんまり好いとらんか……そうかもしれんな」井吹重平は盃を手にしたまま首をかしげるような所作をした。「うまいことをいうが、ちょっと違う。日本を好いとらんとじゃのうして、日本のなかにあるせせこましさに嫌気がさしとるとじゃけんね。自分の家とか自分の藩のことだけしか考えられんそんげん頭の中身が好かんとよ」 「うちも勉強したか」きわは酌をしながらいった。「勉強して南蛮やオランダのことば何でも知りたかと。異国では長崎や日本とは時間まで違うというのはほんなこつですか」 「時間だけじゃのうして、世の中の仕組みの全体がまるっきり違うごたるね。おれもようとは知らんが、イギリスやオランダは、男と女が対等の力ば持っとるというけん、その辺から考えても日本とはくらべものにならん。……まあそのうち日本もひっくり返るかもしれんけどな」 「日本がひっくり返るというと、どんげんふうになるとへ」 「さし当たって、ぬしが働いて、おれを食わせることになるかもしれんな」  井吹重平の冗談に笑いもせず、きわは強い反応を示した。 「そんげん世の中になったら、どいしこ(どれだけ)うれしかかしれん。女が自分の頭で精一杯働くるような仕事場のあっとなら、どんげんよかやろうか。……旦那さん、何でんよかけんうちに教えて下はりまっせ。難しか本は読めんばってん、旦那さんに教えて貰えば、うちは日に一枚ずつでも読んでみたか」 「本を好いとるとやな。左内さんからもちょっときいちゃおったが……。これまでどういう本を読みなはったとね」 「どんげん本というても、うちの読みきる本ばっかりですと。左内のおっちゃまのところから借りてきて、旅日記や芝居の台本みたいなものや……物語本なんかも少し」 「そりゃえらか。よし、そいならおれが持っとる本をみんなでもあげるけん、それを読んだらよか。わからんところはいくらでも教えてやる」 「矢張りうちの思うとった通りやった。そんげん旦那さんが好き。いちばん。……」 「こりゃ、おれより本の方が大事なごたる話になってきたな。うかうかしとると、おいの持っとる本に焼き餅ば焼かんといかんようになるかもしれんぞ」 「旦那さんはなんでん知っとんなさるとでしょう。この前読んだ本のなかに、腑《ふ》分けの話のでとりましたばってん、人間の体がどんげんふうにして病気になるのか、それも勉強したかとです」 「おれは医者じゃなかけんな」彼はいった。「そいでも、そがんことを勉強したかとなら塾に行けばよか。まだ若かとじゃけん、今からなら充分間に合うじゃろう」 「塾……」きわはかすかに頭を振った。 「うちにはとても、かないまっせん」 「かなわんことはなかぞ。行く気さえあるならおれがだしてやる。ぬしはまだこれからだし、自分のやりたかと思うことばやればよか。いくらでも応援するけんな」 「そいでもうちは旦那さんのお世話になるとですけん。……うちは旦那さんのよろこばれるようにしたかとです」 「塾に行くとが、おれのよろこぶことたい。……こりゃよかことば思いついた。おれがくるとを毎日待っとっても、そりゃそれだけのくらしじゃけんね。それより塾に行って、医学でも英語でも習うたらよか。そうそう、これからはなんでん英語が土台になるとじゃけん、そいば勉強したらよかぞ。おれもやらにゃいかんと思いながらあんまり長続きもせんやったが、ぬしが習うてきた分だけおれにも教えてくれたらよか。そしたら一挙両得たい」 「うちは旦那さんの女になったとですよ」女はいった。「塾やなんか、そんげんことしたら、旦那さんの女じゃなかごとなってしまう。……」 「塾に行くとがどんげんして女じゃなかごとなってしまうとね。おれが自分の女ば塾にやるとたい。じっとひとつことばっかり考えとる女より、毎日毎日利口になる女を見とる方がよっぽどおもしろかろう。そうじゃなかか」 「そいじゃ旦那さんの女はそのままにしといて、塾に行ってもよかといわるっとですか」 「そうたい。おれの女じゃから塾に行くとたい」  井吹重平は腕をのばしてきわの額をちょんと突ついた。すると女の表情にぱっと恥じらいの表情が浮かび、目を伏せたまま膳の箸《はし》に手を触れた。 「ところてんを食うとよか。ほんなこつここの亭主は気のきいとる。夜中の客にちゃんとだすものを知っとるけんね」彼はいった。「しかし、こりゃ忙しゅうなるな。ぬしの住む家と塾と、二つみつけてこにゃいかんたい」 「家はうちも探します。今のところはもう居辛うなりますけん」きわはいった。「そいでもなんか夢のごたる。何もかもいっぺんに叶《かの》うてしもうて、ほんなこつ自分のことじゃろうかと思いますと」 「ぬしはよか女ばい、ほんなこつ」  帆掛船を操る船頭の手つきは、何だか凧《たこ》を揚げるさまに似ている。舳先《へさき》で乳飲児を抱く女は女房か。と、階段の音がして宿の主人が顔を見せた。 「もう起きなさっとるときいたもんですけん」竹蔵は挨拶した。 「あんげん時刻にきて、迷惑ばかけたな」 「あれっ、そんげんことばいわすとですか」竹蔵はいった。「そんじゃゆうべは大分よかこつのあったごたるですね」 「見た通りのことたい」 「宗旨変えばなさって、呂宋《ルソン》からでも攫《さろ》うてきなさったとですか」 「矢張りそう見えるか」 「あんげんはっきりしとれば、誰でちゃわかりますけん」竹蔵はいった。「そいでも初々しかじゃなかですか」 「これからもちょくちょく連れてくるけんな。よろしゅう頼むばい」 「そんげんこつならこっちもその気で応待せにゃなりまっせんね」竹蔵はいった。「ところで朝飯はどげんしなはりますか。なんなら昼飯と一緒にして、少し早うしたらと思うとりますばってん」 「それでよか」井吹重平はいった。「昼過ぎまで少しゆっくりして行くけんな」 「ええ、昼過ぎでも晩過ぎまででも、うちは一向構いまっせんけん。……それはそうとして、高杉晋作という人ば知っとんなさるとでっしゅ」 「長州の人やろう。丸山じゃ大分派手な噂の立っとったから、名前だけは知っとるよ」 「此処《こ こ》に大分長う逗留《とうりゆう》されたことのあるとですよ。……いまちょうど博多から商人《あきんど》のきてうちにおんなはるとばってん、その人から高杉さんのことをきいてびっくりしましたと。オランダとイギリス、それにアメリカとフランス、四カ国の軍艦を相手にして長州じゃ片っぱしから大砲をぶっ放しよって、なんとその隊長が高杉さんらしかとですよ。侍だけじゃなしに、百姓も町人もみんなちゃんぽんにした奇兵隊というとを作りなはって、そこで指揮ば取っとんなさるという話ですたい」 「フランスとオランダの軍艦を砲撃したという話はきいとるが、アメリカとイギリスまで相手にしとるというのは初耳やな」 「下関はそのうち、幕府方じゃのうしてイギリスやフランスから占領されるかもしれんというとんなさるとですよ。そいけん、そがんふうな情勢ば見越して商売ばせにゃならん。そんげんこともいいよらす。ききよってもどうもすらごとじゃなかごたるし、下関がそうなれば長崎だけ無傷というわけにもいかんでっしゅ。そしたらどうなるとか。いっぺんああたにききたかと思うとりました」 「そりゃおれより竹蔵さんの方が詳しかやろう。第一長州がアメリカやイギリスまで相手にしとるというと、今ああたからきいたとやからね。……四カ国も相手にして、勝ち目のなか戦争をどんげんふうにして戦うつもりか、現にどんげん戦い方をしとっとか、もう少し詳しゅうきいてみんと、何ともいえんな。その博多からきとるという人は、今も此処に泊まっとらすとね」 「ええ、今日はちょっと朝早うから出とんなさるとばってん、長州にも何度も往復しなさったらしくて、自分の目で確かめたごと話ばしなさると。何なら引き合わせますけん、晩にでも話をきいてみなさるとよか」竹蔵はいった。「上方、堺で起きとることは大体知っとるつもりですばってんね。長州や薩摩のことは何が何やらさっぱり要領を得んとですよ。……こりゃまだ此処までの話ですばってん、荷船ば一艘《そう》手に入れようかと考えとる話のあっとです。そいでも、これから先世の中がどんげんふうになるとか。今手を打つのがいちばんの時機とも思うし、万一戦争にでもなったら、荷船なんか持っとったらかえって妙なことにでもならんと限りまっせんけんね。かというて、今のごたる商売ばつづけとっても、なんとのう気合の入らんし、あれやこれや迷うとっとです」 「荷船か。……茂木屋竹蔵ついに立つ、というわけやな」 「おちょくっちゃいかんですばい。……ほんなこつ晩にでもきなはらんですか。ああたに相談したかこつのいっぱいあると。時にゃ真面目か話ばしてもよかとでっしゅが」 「大分、うろたえもんにされとるごたるな」 「ああたのうろたえとるとは少しばかり道の外れとるけん、つかまえようのなかと。みんなからもそんげんいわるっとでしょうが。……」  言葉の途中で足音がきこえ、上気した顔のきわが、竹蔵を見ると意味もなく、「あっ」という声を発した。    11  ようやく朝の化粧をくら橋は終えた。本来なら茶屋で朝粥《あさがゆ》をとる辻野屋嘉右衛門と松蔵の相手をしなければならぬのだが、尾崎にまかせて免じて貰ったのである。昨夜、寝所に入ってからの松蔵は思いの外しつこく、宴席での振る舞いとは別人のような喋《しやべ》り方をした。 「矢張り何でおますやろな。間夫《まぶ》というか旦那というか、みんなには夫々《それぞれ》、決まってはる人がおますのでっしゃろ。違いますか」 「ようわかりまっせんと。どんげんことへ」 「好きな人がいるやろときいてんのや。……やぼなことききよってからにと思われるかもしれまへんけどな。くら橋さんにはなんとのう確かめとうなりましてな」 「うちには誰もおりまっせんと」 「ほんまですかいな。とても信用できやしまへんな。……まあ客にいろがいるかときかれて、はいおますと答えるお女郎さんもおいでやしませんやろうけど。なんでやぼなこと切りだしたんやろ。……」 「すらごというても仕様のなかでっしょ。丸山に勤めとって、そんげん決まった人のおらすと辛うてたまらんごとなりますけんね。悲しかめには会わんごと会わんごとくらすとが、うちたちのさだめですたい」 「さすがに丸山の口舌は一風変わってますな。……ほんまにそんないい方されると、ふっとその気になりますわ」 「上方にはどんげん口舌のあるとへ」 「ほら、ま。そういういい方でんがな。一をきいて十を切り返しはるような、すらりとしたところ。さすがに長崎やと思いますわ」 「からかわんで下はりまっせ」 「なんの、からこうたりするものか。感心しておりますのや。何いうてもすらりと受け流されて、こっちはじれる一方。ほんまに身にしみてるんでっせ」 「なんでじれたりしなはるとですか。うちにはようわかりまっせんと、旦那さまの言葉は何でん、はいはいときいとりますとに。……」 「そういうさらっとしたところでおますがな。あてがじれるのは、あんたさんのそういうすらりとした受け答え。のれんに腕おし……とも違うな。そんなんじゃのうして、なんというたらようおますやろなあ。……そうそう、オランダ人形ですわ。これはうまいこと思いつきました。あんたさん、オランダの人形見たことおますか」 「ええ一度。居留地の阿媽《あま》さんの持っとらした小さか人形ば。……目ん玉の太うしてあいらしかったとですよ」 「あいらしゅうて、何処《ど こ》か冷とうおませなんだか」松蔵は腹匍《ば》いになって両肘《ひじ》を立てた。「博多や江戸の人形と違うのは、なんとのうよそ行きの感じでっしゃろ。今はあんたはんの持ち物やけど、いまにそうではなくなるでえという顔つきや。かというて特に愛想のわるいこともない。……あてにしてはまたえらいぴったりしたことを思いついたわ」 「うちの仕打ちがオランダ人形のごたるといいなさるとへ」 「仕打ちやおまへん。仕打ちなんていわはるとえろう角が立ってしまいますがな。……仕打ちやおまへんで。ほんまのこというと、あては半分半分のことをいうとりますのや。何いうたかてさらりと受け流す優しさが半分、あと半分は、此処から先覗《のぞ》いてはいけまへんという高札みたいなところ。……」 「高札とは、あの役所の立てなさる高札のことですか」 「そうや、奉行所の立てなさるあの高札や。……あんたはんの体には、目に見えん高札が立っておます。此処から先、足を踏み入れてはならんという御禁制の文句がな」 「上方のおひとは、そんげんふうに手綱をのばしたり縮めたりして、おもしろがんなさるとへ」 「あてはな、あんたがほんまのこと気に入りましたんや。それでついいらんことまで口にだしよる。あての悪い病や。いかんな、これでは反対のこと口にだしてしまう、右廻りやのうして左やと思いながら、気づいた時はもう手遅れ。何時もそうだす。……高札立てなはっとるなんやいうてしもうて、気分毀《こわ》しなはったと違いますか。……」  寝間での遊びを二重三重に楽しもうとでもいうつもりか、床急ぎなど下司《げす》のやることという身振りをあらわにしながら、松蔵はひとしきり自身で巧者と思い込んでいるような台詞《せりふ》を並べたてた。その癖、いざくら橋の体に触れる段になると、たまに与えられた餌《えさ》を存分にしゃぶりつくすという様子がありありと窺《うかが》え、その上あくの強さを芝居がかったふうに演ずるので、一層やり切れなかった。  もうすぐ朝飯を呼びにくる時刻だが、そうすると嫌でも主人と顔を合わさなければならぬ。無論、食事する場所は別だが、決まってそこに顔をだす太兵衛が、示しとも通達ともつかぬ話をするのが常であった。  もしも今度、稲佐行きの話がでればそれこそいい抜ける道はない。その前に七十郎と会って、心底を確かめることはできないものか。遣手《やりて》のさくに頼めば、一応手紙だけは届けられようが、それで男の気持ちが動くかどうか。  いずれにせよ、このまま黙っておればにっちもさっちもいかなくなる。ワシリエフという魯西亜《ロ シ ヤ》士官が何時まで滞在するかしれぬとしても、稲佐行きの烙印《らくいん》を押された後では、七十郎にそれを楯《たて》に取られても仕方はないのだ。  仕事向きが忙しいという七十郎のいい分を仮にそのまま信じたとして、それなら何時まで待てばよいのか。少なくともこれまで自分とのつながりからすれば、それ位は明らかにしておく義務があろう。それにしてもなぜ七十郎は、はっきりこれこれだと、納得できる便りでもくれないのか。  女房の死を境に、新しい連れ合いの話でも持ち込まれたのかもしれぬ。もしかして増屋の主人が仲に入り、そういうことになれば、丸山の遊女よりやっぱりどうしても、という段取りにでも。……くら橋のこともあるしな、しばらくはまあ模様見に時間をおいた方がよかろう、と誰かがいう。  くら橋の胸には、椛島町の廻船問屋で七十郎に相対するわけしりの言葉さえ、間近にきこえてでもくるようだ。  こいから先、大坂や博多で店の代理まで勤めにゃならん者が、丸山の格子を後添いにしたとあっちゃ、方々のきこえもなんだしな。そりゃ、長崎じゃそんげんこつはなかかもしれんばってん、よその土地じゃ女郎は女郎。どっちみちよか噂は立たんよ。……  よその土地と違うて長崎じゃまあ、丸山のたよしを女房にしたというても、後ろ指差す者はなか。そいでもちゃんとしたところの娘の話がでとる時に、わざわざ格子を選ぶ者はおらんやろう。娘さんでもおらんのならともかく、あとからきたおかしゃまは丸山からこらしたというても、なんとのうすっきりせんもんな。……  まあくら橋のことはなんとかなるとじゃなかか。なんというたっちゃ、丸山に勤めとる身じゃけんね。いくら義理のわるかというても相手は相手。そのうち居留地か稲佐の仕切りにでもなれば、その辺のところは自然と立ち消えにならんとも限らんよ。とにかく、今はじっとしておくこったい。顔を合わせればやっぱりそれはそれで情のうつるけんな。……  くら橋は片方の手を帯と着物の間に差し込んで、七十郎にだす手紙のことを思案した。切羽詰まっている今の事情を、それだけの文句にすれば、七十郎の腹もいずれかには決まるはずだ。それでもなお上っ面だけの返事しかくれないとすれば、その時はそれで考えようもある。  行儀のわるい足音を立てて禿《かむろ》が顔をだし、朝食のできたことを告げた後で、首をすくめるような恰好をした。 「ぺたんぺたん歩くなって、あんげんいわれとるでっしょが。また意地のわるかことをいわれても知らんよ」 「すみまっせん」禿は別段気にもとめぬふうにいい添えた。「お膳にめずらしかもんのっとるとですよ。何かわかりますか」 「めずらしかもん。……何かの日ね、今日は」 「いいえ。そいけんみんな、何事なといいよりますと。……ひょっとしたら大風でも吹くとかもしれんと、みんないうとります」 「阿茶《あちや》さんから貰うた菓子でもでたとじゃなかね」 「お菓子じゃありまっせんと。そいも朝からですけんね。何時もと同じ御飯と汁に、まじないのごたるとのつけられとるとですよ」 「何じゃろうか。……」くら橋は立ち上がった。「お菓子でもなかとすると……まさか牛の乳じゃなかとでっしょね」 「だんだん近うなってきた」 「何ね。勿体《もつたい》ばつけんといいなさらんね」 「阿茶さんの酒が盃一杯と、それにあみ漬け。これも盃一杯。おもしろかでっしょ」 「阿茶さんの酒とあみ漬け。妙な取り合わせたいね」 「阿茶さんの酒は一昨日の貰い物。いっぺん栓をあけたら早う飲まんと気の抜けてしまうといわれて、慌ててだしよらしたというとらした。あみ漬けも大方その口じゃなかとでっしょか。塩の塩梅《あんばい》で腐れかかっとるのかもしれんと。……」 「生意気ばいいなはんな」階段の手前でくら橋はいう。「そいでも阿茶さんの酒とは珍しかとたいね」 「ちんだよりもずっと、人参《にんじん》のごたる精のつくとらしかですよ」禿はいった。「さくさんのきいてきなはったことですけん、少しきらず(おから)のまじっとるという話ですばってん」 「ふとか声ばだしなさんな」  くら橋は禿と連れ立って階段を降り、膳の並ぶ定められた部屋にでた。一段と下がった場所には並女郎たちの幾人かがすでにきていて、彼女を見ると夫々膳の前に坐った。格子女郎は他に二人。蘭水で客に相伴するか、自分の部屋で食事をとる太夫《たゆう》は別格として、遅れる者は客がまだ残っているのだ。  褐色の色をたたえた盃は確かに膳の片隅におかれており、たまげることにそれは並の女郎にまで夫々つけられているのであった。それにあみの塩辛。普段の定められた昼食兼用の朝餉《あさげ》は一汁一菜と決まっており、その菜も大方ひじきと油揚げの煮しめか、汁で煮た大根や牛蒡《ごぼう》などであったのだ。たまに豆腐でもつけられておれば、天気がわるうなると互いに軽口を叩き合うものである。  それをどんな風の吹きまわしか、薬草の匂いのする珍酒とあみ漬けまで添えられていようとは。格子と並を問わず、遊女たちの口数はそれで弾む。 「あみ漬けなんちゅうとがあったとよね。思いだした」と、並女郎のつねよ。 「大層なことをいいなさんな」と、格子のいそ川がいう。「あみ漬け位、ああたはしょっちゅう戸町のひとに運んで貰いよるとじゃなかと」 「あらあ、戸町のひとがどんげんこつになったか、あねさんは知っとるでしょうが。……数えて二年はもう帰ってこんとですよ」反発するつねよの声も踊る。「行ってしもうた男を待っとっても仕様のなかとでっしゅ。……」 「あみ漬けを熱かご飯にのせて、ふうふういいながらぱきゃっと咽喉《の ど》に入れる味がたまらんとよね。……折角なら炊きたてのご飯ばだして貰いたかったと」と、下手から化粧を落とした色浅黒の小浦。 「そんげん気のきいたことばする筈もなかとよ。炊きたてのご飯なんぞ、もう何年越しに食べてはおらんとよ。みんなもそうでっしゅ」と、つねよはいう。 「そいでも、なして今日は、しょっぱなから凧揚げみたいなことばさすとやろか。……自分の金だして食べた覚えはあるが、あみ漬けの膳にのっとることはこれまで見たこともなか。もしかしたら、明日辺り、みんなして船に乗れといわれるかもしれんとよ」 「船に乗れ。そいはどんげんことね」 「船に乗れは船に乗れたい。エゲレスかフランスか、ひょっとすると近かうちに何艘も入ってくるとじゃなかね。そいば見越さんことには、とてもこんげんあみの塩辛というふうにはいかんとよ。此処のあんじゃえもんしゃん(兄左衛門・戯語、主人のこと)もちゃんとそこば勘定しとらすとたい」格子のいそ川はいう。 「それは誰にきいたとね。エゲレスやフランスが何艘も入ってくるというのはほんなこつやろか」 「みんなのお膳ば見てみんしゃい。人参より高か酒ば酔興でだしなはることはなかとよ。わけもなかとになんでだしなさるもんか。みんな、こん次にどんげんしろといわるることが問題たいね」  くら橋は小皿のあみ漬けを箸でつまみ、それを冷えたご飯の上にのせた。自分の金で購《あがな》えば、そう値も張らぬ塩辛に、これほどみんなが昂《たか》ぶるのは、矢張りこれから起こるかもしれぬ何事かに期待しているのかもしれぬ。 「ひょっとしたら、誰か名付にでもなったとじゃなかね。このお酒はその辺からでたとかもしれんよ」小浦はいう。 「誰かというて、誰が名付になったとね」と、いそ川。 「じゃなかでっしょか、というとると。そんげんこつでもなければ、何かしらん落ちつかんもんね。名付じゃなかったら、唐館行きの誰ぞ新しゅう決まったとじゃなかろうか」小浦はいう。 「唐館じゃのうして稲佐かもしれんよ」つねよは、ちらとくら橋の方を窺う。「あんじゃえもんしゃんの機嫌のよか時は、とにかく危なかとじゃけんね」 「稲佐かもしれんというとはどんげんことね」  いそ川がききただしても、つねよは返答をしない。その辺で何かひと口挟めばよいのだが、くら橋の気分は動かなかった。 「ほんなこつ、この酒は人参よりも効くとやろうか」もうひとりの格子女郎がとりなすようにいう。「すらごとじゃなかとなら、うちはあげたかひとのおらすとばってんね」 「朝っぱらからようぬけぬけと」小浦がそれに応ずる。「ぎやまんにでも入れて、そんひとのこらす時までとっときなはるとよか」 「しっかり蓋閉めて、それまでは誰にも触らせず、開かんと」 「ああたはすぐに話ばそこに持って行くとだけん、好かんと」格子女郎が声の方を向いてぶつ仕種《しぐさ》をする。 「あんじゃえもんしゃんはおいでにならんが、こりゃいよいよ今日は竜でも舞うとばい」 「竜ならよかばってん、雹《ひよう》でも落ちるとじゃなかね」 「竜か雹か。どっちみちこっちには俎《まないた》の上たい。人参でも飲んで覚悟ば決めときまっしょ」  稲佐行きのことにつねよが口を滑らせた以上、ワシリエフの話は皆に知れ渡っていると考えねばならぬ。だからこそ小浦もいそ川も、重ねてそれを追おうとしなかったのだ。くら橋は千切り大根を実にした味噌汁の椀を取って啜《すす》る。と、そこに主人の太兵衛がきた。 「今日ん晩は、鹿島のお客さんが五人ばかりあがらすけんな。みんな連れじゃけん、そんつもりで扱わにゃいかんぞ。庄屋さんたちの長崎見物たい。向こうからいいだすまで、ああた鹿島のひとじゃなかと、なんてきいちゃならん。割り振りはちゃんとはなから決めとくけん、ぬしたちゃ何も考えんちゃよか。ええと、……そうか、こんことはあとでよかったとじゃな。そいからもうひとつ、誰か椛島町の江津屋のことを詳しゅう知っとる者はおらんか」  今に部屋にこいといわれはせぬかと案じながら、七十郎の勤める増屋と同じ廻船問屋の名を挙げられて、くら橋は一瞬息を飲んだ。 「詳しゅうは知らんばってん、少し位なら……」と、いそ川。 「少しでもよかけん、後であたしのとこにきて、知っとることを話してくれんね」太兵衛はいった。「休まにゃいかん者はみんな早目にいうとかにゃいかんばい」  太兵衛はくら橋の名前を呼ばず、代わりにちらっと一瞥《べつ》した。    12  堺の商人と手代が帰った後、尾崎は主人太兵衛の部屋にいた。嘉右衛門から依頼された梶屋の一件のこともあって話を持ち出そうとする矢先に、向こうから呼ばれたのである。一見して、太兵衛の機嫌はあまりかんばしくなく、それでも顔付きだけは柔和に運ばれた茶をすすめると、昨夜からの客扱いをねぎらった。 「ちょっと話ばしておきたかことのできてな」太兵衛はいった。「そいできてもろうたと」 「うちも旦那さんに伝えたかことのありましたと」 「わたしにいいたかこととは何ね。そいから先にきこうか」 「よんべ(昨夜)、堺のお客からしっかい頼まれましたと。旦那さんは薬種問屋の梶屋ば知っとんなさるでっしょ。その梶屋のご主人に引き合わせる手筈ばしてくれんかといいなはったとですよ」 「引き合わせる手筈。……」染田屋の主人は首をかしげた。「こっそり会いたかとでもいいなさるとね」 「そんげんこつかもしれまっせんと。二人きりで半刻ばかり話し合いをする段取りば作ってくれんかという話でした」 「何か口実ば作って梶屋さんを呼び出して自分と会わせるようにしてくれ。つまりそういう話やな」 「はい」 「蘭水で会うといいなさったとじゃな」 「ええ」 「よかと。……その手筈は考えるとして、少しばかり面倒なことの起きよったとよ」太兵衛はいった。「ぬしは何もきいとらんね」 「どんげんこつですか」 「船乞食《こじき》の一件たい。さっき組頭さんのきて事情ば知らせてくれなさったけんわかったと。……あの又次とかいう男が溜《たま》り場にしょっぴかれたことは知っとるやろうが、そのことが元で考えようによっちゃちょっと気色のわるか騒動の起きよると。……騒動というにはまだ当たらんかもしれんが、黙って見過ごしとってよかかどうか、判断のつきかねるようなことが次々にでてきよるとよ」  又次という名も、溜り小屋行きも初めて耳にした事柄であったが、尾崎は黙って太兵衛の言葉のつづきを待った。 「昨日の明け方、浦上にある溜り場の土塀《どべい》に、狂歌めいた文句がひとつ貼《は》りだされとったそうな。かと思えばそれとおんなじ文句が立山御役所の近辺にも貼られとったというし……それにこれはまだ内々のことにして誰にも知らせちゃおらんが、梅園の天満宮の本堂にもそれらしきもんが、こりゃ直接墨汁で書かれとった。それがみんな、船乞食にかかわっとることばかり。……」染田屋主人はいった。「天満宮の文句はちっとばかり違うとるとかいうとったが、幸い見つけた者が早う組頭のところへ届けたので、今はもう跡形なしになったそうやが、どっちみち口に戸は立てられんやろうというとらした。……」 「どんげん文句の記してあったとですか」 「ええと、此処に書いてきたものを持っとるけん」  太兵衛は戸棚の引き出しから組頭の持参したという紙片を手にした。 「気に障る文句ばってん、きいてみたらよか。……」 蘭水にあがったら 臭かといわれたばい 又次はどぎゃんしゅ どがんもされんたい 又次は船乞食 手鎖じゃ櫓もこげんじゃろ 「馬込郷の百姓が手に持ってひらひらさせとるとを、溜り場の役人が見つけてどんげんしたとかということになったらしか。そこん土塀に貼ってありましたとそん男が馬鹿正直にいうたもんだけん、かえって騒ぎがふとうなったとよ。こりゃみんなきいた話ばってんね。……それだけならまあ特別どうちゅうこつはなかったかもしれんが、その何というとったかひらひらさせとった男が、何かこう自分の方が責められとるごたる気持ちになったとみえて、あらんことを口走りよった。その百姓がいうには、昨日の晩に……ちゅうことは一昨日の晩になるばってん、得体のしれん男が何人も、溜牢《ためろう》のある馬込の在をうろちょろしとったとそんげんふうにいうたそうな。附近の者を調べてみると、確かにそんげん事実はあった。得体の知れん者たちというより、ありゃ船乞食の一統じゃなかか。誰かがそういうと、そうじゃそうじゃ、おるもそう思うとったと、相槌《あいづち》を打つ者もでてきて、矢張りそうか、このわけのわからん紙切れはその連中が貼り出したとかというこつになったと。……」  左肩に止まった小さい羽虫を尾崎は振り払う。 「狂歌かざれ言か知らんが、文句だけならまだよか。そいでも実際にそんげん文句を貼った者が何人もたむろしとるとなると、これはもうそいだけの話じゃなかごとなるけんねえ。蘭水という名前まではっきりでとるし、黙ってうっちゃっとくというふうにもいかんやろう」 「天満宮に書いてあったとはどんげんこつですか」 「そうそう、それをいわんといかんじゃった。……あてつけがましか文句ばってんね」  染田屋主人は眉をひそめた。年齢にしては若く見える丸顎《あご》の分厚な咽喉首に深い皺《しわ》が刻まれている。 焼き場がなかと死人は焼けん 船乞食がおらんと船のごみはだいが焼く 惣嫁《そうか》も太夫も股《また》ぐらはおなじ 又次ばい、又次ばい 「うちにはようわからん」尾崎はいった。「なしてこんげん憎まれ口ば叩かれにゃならんとですか」 「組頭もいいよらしたばってん、こりゃありふれた落書きとは違う。又次という男をだしにして、何か仕掛けとるのかもしれん。船乞食のくせに、ひとりが蘭水にあらわれて、ぬしを名差しにしたことも、ほかに目的のあったことじゃなかか。もしかすると、蘭水に対して何か思いもつかんことをもくろんどるような気もするとたい。組頭のいうとることをきいとるうちに、何かこうそんげんことを考えるようになってきたと。あん連中の仲間は、なかなか一筋縄ではいかんとじゃけんね」 「船乞食というのは、そんげん仲間の多かとですか」尾崎はいった。「櫓を漕《こ》いで廻るというとも、うちにはようふに落ちまっせんと」 「昔はただのほいと(乞食)やったとたい。おかで銭にならん時は泊まり船目当てに小舟ば漕いで、波の上から銭ばせびっとったと。客が銭ばほいとに投ぐると、そいばまたきれいに受けたりして、そいが珍しかちゅうて、まあそん時々の稼《かせ》ぎになっとったと。そのうち、何時頃からか客の投銭じゃのうなって、船の掃除や汚れ物の始末を引き受くることになりよった。時にゃ船乗りの身代わりになって、あれこれの雑用をやるし、船底の掃除や荷倉の整理まで加勢する者もでてきた。ひょっとしたことがひょっとすると、抜け荷の運び屋までやりよる。船の汚物桶《おけ》に仕込んどけば何ちゅうこつはなかけんな。……そいけん、船乞食というてもただの鼠じゃなかと」 「いま旦那さんは、そん人たちが思いもかけんことをもくろんどるかもしれんといいなさったとでっしょ。そのもくろみというとはどんげんこつか。そいば話してやんなっせ」 「そいはわたしにもわからん。組頭も頭を抱えとんなはった。ただ考えられるとはひとつ。一日んうちに浦上の溜り場と、そいから立山御役所の近辺に同じ貼り紙がでたというとは相当容易ならざる事件で、船乞食の中に、長州か薩摩の息のかかっとる者がおるかもしれんこと。もういっちょは、又次という男ば何とか溜り場からだそうとして、あれこれ騒動ば起こそうとしとるのか。馬鹿共が、騒げば騒ぐほど又次の赦免が難しゅうなるのにそれをわからんと、組頭さんもいうとらした。ほんなこつそうなら、それで心配もなかとやが、そうやろうか、そんげんこと位を考えとってよかとやろうかという気がわたしにはするとよ」 「船乞食の人たちに、ほかにもくろみがあるといわれるっとですね」 「そうたい。又次の赦免を望むならほかに道はいくらでもある。黙っとっても精々手鎖預かり位じゃろうけんねえ」太兵衛はそういうと咽喉にかかる痰《たん》を切った。「奉行所じゃいま、そのことで大分考えとらすふうで、大浦と戸町に屯《たむろ》しとる船乞食を徹底的に手入れしたらよかというお役人と、いやそんげんこつをしたらかえって騒ぎがひどうなって、かえって相手の壺にはまる。此処はひとつ穏便に又次を解き放つ方がよか、と二つの意見に分かれとっとげな。組頭の口裏にははっきりそれが見えたとよ。……そこで、こいから先が問題やが、ひょっとして又次が赦免になると、もう一度この蘭水にあがろうとするかもしれん。たとえいますぐ赦免にならんでも、何というか別の又次が乗り込んでこんとも限らん。そん時にどうするか。浦上の辺りをうろついとるように、ひとりや二人じゃのうして、五人も六人もおし寄せてくるかもわからんと。いきなり、店先にはあらわれんかもしれんが、天満宮にでも集まってじとっとがんばりでもされちゃ、どうにも仕様のなかごとなるけんねえ。……」  尾崎は冷えた茶をひと口飲む。組頭のきき込んできた知らせで、恐らく太兵衛は動転しているのだ。しかし、それよりもむしろ先程主人の口からでた梅園天満宮本堂に落書きされたという文句に彼女はこだわっていた。焼き場がなかと死人は焼けん。…… 「ちょっとおききしてもよかとでっしょか」 「なんね」 「その又次とかいうひとが、うちを名差したちゅうこつは、後でききましたが……うちを名差したかどうか、そんげんことはどうでもよかとばってん、丸山にそんひとたちを遊ばせちゃならんというきまりでもあるとでっしょか」 「そりゃ決まっとるたい」染田屋主人は何をいうのかという顔をした。「並の客じゃなか。相手は船乞食じゃけんな」 「名前はそうでも、今じゃちゃんとした仕事ばしよんなさるとでっしょ。さっき旦那さんからきいたばかりのことをいうとは何ですばってん、船の掃除や雑用をして銭を稼いどるなら立派な仕事と思いますと。そいがなして目の敵にされんといかんのか、そいがわからんとです」 「ぬしは何にも知らんとたい」太兵衛はいった。「表向きに理屈をいえばそんげんこつになるかもしれんが、船乞食は船乞食じゃけんな。いまはいくら船乗りとかわらん仕事ばしとるというても以前は以前。すぱっと割り切るわけにはいかんとよ。……考えてみたらよか。以前、西山の刑場で囚人の胸を槍で刺し貫いとったもんが、魚屋になったからというて、はい、この鰯《いわし》はなんぼちゅうて買う者が何処《ど こ》におる。そうと違うか」  太兵衛の言葉は突然飛躍した。いや飛躍するというより、船乞食に対して最初からそんなふうに考えていたのかもしれない。西山の刑場で処刑が行われる時、丸山からつねに人夫が加勢に差し出されており、牢屋敷内の掃除も大方、丸山・寄合町の賦役だときいているが、その関係はどうなるのか。それよりも何も、以前隠亡の娘であった太夫が、此処に坐っているのだ。 「又次とかいうひとが溜り小屋につながれたとは、蘭水にあがんなさったというそれだけのためですと」 「そりゃそうたい。船乞食が身分を隠してあがろうとしたとだけんな。露見したからよかったようなものの、すんなりそのまま客扱いでもしておろうものなら、それこそ長崎中の物笑いたい。銭は大概分に持っとったというけんな。初手からそげんこつもなかろうが、万一ぬしが相方にでもなっとったらと考えると、今でも動悸《どうき》の打つごたる。そんげんふうにでもなっとったら、ほんなこつ火事よりもひどか仕打ちに会うとると」  太兵衛のいい分はあまりにも身勝手で偏り過ぎていると思いながら、又次の件に触れることが尾崎にはためらわれた。 「そいで、うちに何か用事のあったとでっしょか」 「用事はそれたい。今にも騒動の起ころうとしとるけん、しっかり気持ちば締めとかにゃ、どんげん難題の持ち上がらんとも限らんけんな。なんというても、又次という男は蘭水にきて、一度はぬしを名差したとじゃから、ちょっとでも揚げ足をとられんように、当分は外出もひかえた方がよか。そいばいいたかったと」 「気をつけますと」 「念のためにきいとくとばってん、ぬしは以前に何か、又次という男とかかわりを持っとるようなことはなかやろうな」 「どんげんことですと」 「いや、ただ念のためにきいとるとだけんな。通りすがりに怪しか男に声でもかけられたりしたかもしれんし、そんげんことでもあったら確かめとこうと思うたと」 「又次というひととは会うたこともありまっせん。そいでも、何もせんとに溜り小屋につながれて、哀れかと思うとります。……そいじゃこれで退《さが》らせていただきますけん」  立ち上がる尾崎を見て、太兵衛は何もいわず、ぷいと横を向いた。  尾崎は自分の部屋に戻ると、あまり好きでもないちんだをぎやまんの盃に注いで飲んだ。焼き場がなかと死人は焼けん、船乞食がおらんと船のごみはだいが焼く、という文句はそのまま、浜辺で黒い蝶と遊んだ童の自分と結びつく。  鼻の辺りに蕎麦《そ ば》滓《かす》を浮かせたいそ川があらわれたのはその時である。 「入りますけん」 「どうぞ」 「あ、矢張りくら橋さんはおんなさらんと」いそ川はうろたえるような声をだした。 「くら橋さんがどうかしんさったとね」 「何処に行ったとか姿の見えんとよ。さっきまでは手水《ちようず》かと思うとったばってん、何時まで待っても戻りなさらんと。そいでこうして、もしかすると此処にきとらすかと思うて……」 「何時から姿の見えんと。……ご飯の時はおんなさったとね」 「ええ、ご飯の時はちゃんと。……まさかとも思うけど、さくさんにでも知れたらそれこそ大事になりますけんね」 「さくさんより旦那さんでっしょ」尾崎はいった。「そんげんこつより、くら橋さんの出先が問題たい。何処そこに出掛けると、誰もくら橋さんからきいちゃおらんとね」 「大方察しはついとりますとばってんね、そこに行きなさったかどうか。……椛島町に行きなさったとならただではすまんごとなりますばい。まさかとは思いますばってん、そいば心配しとっとですよ」 「椛島町というと、増屋ね」 「そうですたい。あんじゃえもんしゃんにでも見付かれば、有無をいわさんごと稲佐行きになりますけんね。もしかすると見せしめにマタロスにやられんなるかもしれん。どんげんしたらよかもんでしょうかね」 「くら橋さんは無鉄砲なひとじゃなかよ。すぐその辺から戻ってきなさるかもしれんけん、あんまり騒ぎたてん方がよかと」 「そいでもさっき……」 「そいでも何ね」 「ご飯の時の顔付きがただごとじゃなかったとですよ。うちはそいば知っとるから……」  遣手の禿を呼ぶ声に交錯して、何処かで気怠《けだる》い笑い声があがる。くら橋は真に廻船問屋の番頭と直接会うために無断で外出したのか。尾崎の耳をかすかに捉《とら》えるほおずき売りの声。    13  降るとも降らずともつかぬ底の重い空気の漂う海辺を、くら橋は椛島町の廻船《かいせん》問屋を目差して歩いた。むろん増屋の七十郎に直接会って真意をただす目的だが、朝餉の膳に向かう時まで考えもせぬことであった。外出するならするでそのような手続きを踏まねばならなかったし、以前と違ってかなりの自由を許されているとはいえ、無断で丸山を出るには後に起こる事態を見越して、相当の覚悟を必要としたのだ。  いまなら引き返せると思わぬでもなかったが、くら橋の足は綱でもつけられたように前に進む。帆を下ろした荷船の乗り手たちが威勢のよい身振りで艫綱《ともづな》を繰り、岸壁に近づくもう一艘《そう》の荷船から船着き場に立つ男に、渋い張りのある声がかかってきた。 「おーい、島原の三栄丸たい」 「わかっとるぞお。早う着いて何より」 「潮も風もなあ、加減のよすぎて、暗かうちに着くとじゃなかかと案じとった」 「そりゃまあ、馬並み。……みんな待っとりますばい」  自分を見て七十郎はどんな顔付きをするか。まさか会わぬとはいうまいが、増屋への距離が縮まるにつれて、くら橋の胸は次第に動悸を高めた。幼い娘を間にした夫婦のかわす言葉が妙に耳をつき、さらにまた南瓜《かぼちや》を売る頬かむりした女の呼び声の口調まで気にかかる。 「南瓜はいらんとですか。餅のごたる味ですばい。……買うてくんなんせ、こんぶだしはいらんとですよ。煮干しででん煮るならもういっちょでん買うとればよかったと思いなるけん。……」  声は二人連れのひやかし客らしい男に向けられていたが、思いもかけずくら橋の目の前で、ひとりがいい値で買った。それにはむしろ連れの方が唖然《あぜん》としたらしく、ふっとそこに立ったくら橋を見ると、合点のいったように相手の肩をぽんと叩いた。 「あねさんもひとつ買うてくれまっせ。きれかほっぺたの落ちるごとうまかとですよ」  南瓜売りはすかさず声をかけてきた。 「いまはいらんと」くら橋はいった。 「わが、こんげん南瓜買うてどんげんするつもりか」  男の口調は明らかにくら橋を意識している。 「きれかひとば見ると、すぐふらぁとなって見境のなかごとなるとだけん」 「そんげん男こそ頼みがいのあっとよ」南瓜売りはいった。「きれかおひとばみて心を動かさんようじゃ男といわれんもんね」 「やられたじゃなかか」南瓜を手に持たぬ男がいう。「あきれたばい、ほんなこつ。わがのよか恰好しいには……あねさん、よかとならこの南瓜、貰うてくんなはらんね」 「おおきに」くら橋はいった。そこまでいわれては応待しないわけにもいかなかったのだ。「折角ですばってん、いま用事のあって行きよりますけん、いただけまっせんと。ご免してくださいまっせ」  ありゃ丸山のおなごたい。……くら橋は十数歩も歩いてからその声をきいた。増屋はすでに前方に見えており、心を決めるためと背後の目を逃れるために右側の道に折れた。迂回《うかい》して増屋に向かうためには船具屋や倉庫の並ぶ通りを一町程も廻り道しなければならぬ。  咄嗟《とつさ》のこととて、地味なつくりをする間もなく出てきたので、恐らく一見して丸山の女だと判明したのであろう。くら橋は絽《ろ》の胸元を掻《か》き寄せながらなるべく目立つまいとするかのような足どりで、束にした漁網の積んである店先にさしかかった。 「ふえっ、見ろ見ろ、しゃんす(情婦、転じて美婦)の通りよんなさるとばい。そんげんせいて(急いで)、何処に行きよんなさるとね」  無遠慮な声は暗い店奥から届いた。 「ありゃ丸山のじょろしたい。矢張り違うね、歩きぶりまであかぬけとる」 「怪しかぞ、ぬしゃなしていっぺんに丸山とわかったとか」 「そりゃああた、わからにゃして……」  くら橋は耳に栓をするようにややうつむき加減のまま歩調を早めた。折悪しく下駄の鼻緒までがゆるみかかっている。果たしてこのまま増屋の店先に立ってよいものかどうか。しかし七十郎に会う手だてはそれしかない、という混乱する気持ちを整理する間もなく、彼女はふたたびさっきと違う方角から増屋に近寄った。  店ではなく、横手の路地からでてきた年増《としま》に、くら橋はきく。 「増屋のおひとじゃなかとへ」  かぶりを振った女が不審な面持ちを露骨にあらわしながら顎をしゃくった。 「増屋はそこですたい」 「どうもすみまっせん」  くら橋は頭を下げたが、女が去ろうとしないので、思いを決して店の中に足を踏み入れた。広い土間の向こうに一段高い板敷きがあり、帳場らしい机の前に坐っていた二人の男と、左手で何やら箱の品物を扱っていた小僧が、一斉に顔を向けた。壁際に積み上げてある薦《こも》包みの荷にももうひとり年かさの男がいる。 「いきなり訪ねてきたりして、礼儀知らずばかんにんしてやんなんせ」くら橋はいった。「あの、番頭さんに用事のあってきたとですが、七十郎さんはおってでっしょか」 「番頭さん……」  いいかけた声に、傍らの男が制するようにかぶせた。 「番頭さんはおんなさらんとですよ。……ああたは何処からきなさったと」 「うちは染田屋のくら橋というもんです。それで、番頭さんは何時《い つ》戻ってきなさるとへ」  帳場の男はまたも目顔で相棒の口を封じた。 「旦那さんもおいでにならんけん、わたし達にはようとわからんとですよ」応待する男はいった。「もしよかったら言伝《ことづ》てでもきいときまっしょか」 「そいじゃ、旅にでなさったとかいうことじゃのうして、今日んうちに戻ってきなさることはきなさっとですね」 「主人にきかんとわからんとですよ、そいも。……」  薦包みの蔭《かげ》からでてきた男がしげしげとくら橋を窺《うかが》い、小僧が両の手を投げだすような恰好のまま、坐りざまの姿勢を変えた。 「ご主人は何時頃帰りなさるとでっしょか」 「わたし達にはどうも。……」男はいう。「染田屋のくら橋さんとききましたが、おいでになったこつはきちんと伝えときまっしょ」 「昼過ぎにでもまたきますけん、番頭さんに言伝てをよろしゅうお願いします」  おじぎをした体の向きを変えた途端、小僧が立ち上がるのを気配で彼女は感じた。とすると、奥に主人か七十郎のどちらかでもいるのか。染田屋のくら橋だと名乗る前に、帳場の男は忽《たちま》ちすべてを察する態度をつくったが、それ程、番頭七十郎と自分の関係を、あらかじめ警戒でもしていたのだろうか。  くら橋は店の外にでた。そうするより仕様がなかったのである。応待した男の物腰は明らかに自分を七十郎と会わせぬと思い決めた処し方であり、とすれば、増屋主人或いは七十郎を通じて、そうなった場合のことをかねて申し渡してあったと考えるよりほかにはない。  何かしら取り返しのつかぬことを仕出かした気もするし、それまでもしやと頼みにしていた壁が崩れる一瞬をこの目で確かめたような火花も散乱する。  そうか、矢張り七十郎は増屋の主人とぐるになって自分を裏切ったのか。傍らを通り過ぎる男の怪訝《けげん》な表情を見返すと、相手は慌てて視線をそらした。 「あんげなおうどうもん(横道者)はおらんとばい、ほんなこつ。何べんいうたっちゃ、いうたごとしよらん。あげくにゃあんた、おるの注文の仕方のわるかちゅうて、因縁つくるとだけん」 「おうどうもんというよりやだもん(強情者)たい。昔からそうじゃけん。ああた、多吉のおととが死んだ時のそうれん(葬式)ば知っとっとでっしゅが。あん時の多吉がどんげんことばしでかしたか覚えとるね。おととはだいの世話にもなっとらん。なっとらんどころか親戚《しんせき》中ば恨んで狂い死によった。そいけん、こがんそうれんばだしよったら草葉の蔭で眠るにも眠れんやろ。多吉はそんげん台詞《せりふ》ば吐きよったとよ」 「そりゃきいとるとたい。あん時、おるは用のあってちっとばかし早う帰ったけんな。そいでも、あとではっきりきいたと。恨みどころか、だいが薬代ば持って行ったか、米や野菜ば運んだか、そいも忘れていいたか放題のことをいう。おるはあん時そがんいうたとたい」  姿の見えぬやりとりは岸壁の下から、はっきりした声音となってくら橋の耳に入る。恐らく波止めに腰かけて小魚でも釣っているのであろうか。彼女は力の抜けた全身をたたみ込むようにして、修繕中の待合小屋にたてかけられた材木の蔭にしゃがんだ。すぐ鼻先に放《ほう》りだされた錨《いかり》にこびりつく海草の饐《す》えた匂い。 「選《よ》りも選って、そん多吉に惚《ほ》れたとじゃけんな。藤兵衛さんも頭の痛かこったい」 「惚れたというよりひっかけられたとじゃろ。お糸はそんげん芯《しん》の強か娘じゃなかし、ありゃどう考えても多吉が仕組んでお糸にいわせよるとばい。そうに違いなかとおるは睨《にら》んどる」 「そうかもしれんね」 「そうに決まっとるたい。……藤兵衛さんの方からいうと、何ちゅうても多吉のおととにゃ世話になっとるけんな。当たり前にいえば断わりきれん。どんげんしたもんか、次作さんのところに相談にきたというけんね」 「そりゃいかん。次作さんだけが多吉の味方たい。そいば知っとって……」 「そこたい、どうもわからん具合になっとるとは。藤兵衛さんがなして次作さんのところに相談しに行ったとか。もしかするとあきらめて多吉とのことばよろしゅうお願いしますと頼んだとやろうという者もおるし、その逆かもしれんという者もおる。……」 「多吉はあれで腕の方は立つ方じゃけんな。藤兵衛さんも案外まるめ込まれたのと違うか。……」 「どっちにしてもひと騒動起こるばい、こりゃ……」  くら橋は波止めの声に気取られぬように待合小屋の中に入って、古樽《ふるだる》に渡された板に腰をおろした。誰の目も届かぬところにひとりいたかったのである。どう考えてもさっきの応待のあれこれから推測して、七十郎と自分の間を裂きたがっているとしか思えぬ様子。しかし、これまでの関係からおして、一体そんなことができるものだろうか。一方的にただ会いさえしなければ消え去ってしまうという間柄なのか。  そういえば、今のこの場所でわずかの逢瀬《おうせ》を持つために待っていたこともあったのだ。もう何年も前の冬、体の加減がわるく二日続きの暇を貰い、その一夜を薬を取りに行くという口実で、七十郎を呼び出したのであった。 「危なかことばしよって、店に知れでもしたら大事になるぞ」 「よかとですよ、こんげんして、ちゃんと薬袋ば持っとるでっしょが。暇を貰うた時はかえって店におらん方がよかと」 「そいで加減はよかとか。そいが心配で仕事も手につかんごとしとったとたい。ちょうど堺の荷船の入っとったけんな。どうにもならんやったと」 「案じることはなかと。何時もの通りですけんね。病気にでもならんと、体も休まらんとでっしょが。……手の冷たか。今ん時刻まで仕事ばしよんなはったとですか」 「今頃ん時刻まではしょっちゅうたい。そいでも、ぬしの方が熱のあっとじゃなかか。少しの間でも会われて、おるの方はうれしかばってん、こんげん冷たか晩に歩き廻りよったら、それこそ具合のひどうなろうもん」 「なんとしてん顔ば見たかったとよ。ああたの顔の遠ざかると、うちはもうぼんやりなって何をしよるとかわからんごとなるとだけん。うちはああたのことばっかり思うて、そいだけを頼りにして勤めとっとよ」 「そりゃおるも同じたい。ちょっと一杯付き合わんかといわれても気の重うして行こうごともなか。あんまり付き合いのわるかとそれはそれでまたぬしとのことで何いわれるかわからんけん、三度に一度は飲みもするが、うまか酒じゃなかと。……そいでももうちょっとの辛抱たい。ぬしが年季の明けて、おるが博多の店でも預かることになれば、誰にはばかることもなか。ずっと一緒にくらすっとだけんな」 「博多に店ばだすというとはほんなこつね」 「そいば今旦那さんの考えとらすと。今のごと博多に行ったりきたりする位なら、どっちみちきちんと支店ばだした方が得策じゃけんね」 「そんげんことになったら、どがんうれしかかしれんね。博多の町には行ったこともなかばってん、ああたと一緒なら、掘っ立て小屋でもよかと。お菜を作るとはあんまり上手じゃなかけど、一生懸命習うて気に入るようにするけん」  七十郎はくら橋の肩を引き寄せ、痛い程の力をこめて抱きしめた。その折、提灯《ちようちん》の淡い明かりが海岸を通り過ぎたが、腕の力をゆるめようともしなかったのだ。……  いくら考えても埒《らち》はあかぬ。とにかく七十郎に会って心の証《あかし》を確かめなければならぬ、という幾十百遍も胸をつかむ言葉がまたしても頭をもたげる。待合小屋を覗《のぞ》いたひとつの顔がくら橋を見てぎくっとしたように一旦引っ込めた姿をふたたびあらわした。 「水ノ浦には此処《こ こ》の船着き場から乗るとでっしょか」 「ようと知りまっせんと」くら橋は答えた。「うちはちょっと休ませて貰うとるだけですけん」 「具合でもわるうあんなさるとね」  片方の目に眼帯をかけた男は、雨模様の天候だというのに草履をはき、股引《ももひき》に似たものを身につけていた。 「大方、歩き疲れでもしたとでっしょが、これば飲みんさい。気付け薬じゃけん唾で飲み込むとよか」  何時の間に取り出したのか、男の掌には数粒の丸薬がおかれている。船乗りとも町家の者とも見えぬ風態《ふうてい》に絡む有無をいわせぬ押しの強さと奇妙な優しさ。くら橋はいわれる通り、掌の丸薬を受け取って口に含んだ。 「そいでよかよか。じきに気分の直るとたい」  股引に似たものをつけた男はそういうと、すっと腰掛けの上に飛び上がり、意外なことを口にした。 「何かおもしろかこつの書いてあるが、こんげん紙ば誰が貼《は》ったとやろうか」  そういいながら、男は自分の懐からだした紙片を、くら橋の見ている前で貼りつけているのだ。ご飯粒を噛《か》み、それを糊《のり》にして。 「歌のつもりじゃろうかね、こりゃ。それにしちゃあんまり上手じゃなかごとあるが、文句はおもしろかと。こんげん場所に貼り出して、そいでもまあ物好きのもんもおるとたいね」  眼帯をした男はしゃあしゃあというと、自分の貼った紙片に書かれた文句を声をだして読んだ。 磔《はりつけ》台は丸山作り 土左衛門があがれば 船乞食《こじき》の面倒 さあさ、又次ばい 又次が太夫《たゆう》に惚れたとばい 「あねさんは尾崎太夫の噂《うわさ》ばきいとんなさるね」 「いいえ」 「又次という男が染田屋に上がって、追っ払われたとげな。銭はちゃんと人一倍持っとったというとに、妙ちくりんの話たいね」  男はそれだけをいい置くようにいうと、消えた。    14  大浦居留地にあるマックスウエルの館《やかた》を去った後、卯八は誘われるまま咲の家に寄って茶を馳走になった。近所の目もあるので長居はできなかったが、どっちみち今の時刻から井吹重平を探しても無理だと考えたからである。門屋に泊まったにしても、昼近くまでいることはまずあり得ない。 「茶漬けでも食べなさるね。碌《ろく》なお菜はなかばってん、ちくわでも買うてきまっしょか」 「いやいや、お茶だけでもう充分ですばい。朝の遅かったけん、まあだ腹も空いとらんし、遠慮はしまっせんと」 「そうね、そいなら……」  それでも咲は立ち上がると、次の間から芋餅の皿を運んできた。 「珍しゅうもなかとばってんね。ただこれにはちょこっと出島白の入っとっと」 「砂糖入りの芋餅ちゃ勿体《もつたい》なか」卯八はいった。「折角ですけん、ひとつだけいただきまっしゅ」 「そんげんこついわんと、いくらでも食べてくんなんせ。出島白というても匂い位のもんだけんね」  咲は卯八の碗に注ぎ足した。 「あのマックスウエルはゴロウルさんに憎まれとっと。最初のうちはゴロウルさんの尻尾《しつぽ》でも握っとるつもりで、何かしらんわるかことばちょこちょこ奉行所の誰かと蝙蝠《こうもり》みたいなこつをやりよって、それがゴロウルさんに知れたもんだから、にっちもさっちもいかんごとなったとよ。同じ居留地じゃけん、表向きは挨拶位しとっても、裏に廻ると、あんひとたちの間じゃそりゃかえって激しか火花の散っとると」 「ゴロウルさんちゃ誰ですか」 「あ、そう。ゴロウルさんはガラバさんのこと。前にそんげんいいよったもんだけん、いい方を間違えてしもうた。マックスウエルはガラバさんに憎まれとっと」 「そいでもガラバさんに会うたかとか、そんげんことばききよったじゃなかね」 「そいがあんひとたちの手たい。腹ん中ではどんげん煮えくり返っとっても、やあやあというて握手ばするとじゃけんね。マックスウエルはマックスウエルで、ガラバさんにつかまれとることのあるもんだから、どうしようもなかと。まあいうてみればなめくじを中においた大蛇とびっき(蛙《かえる》)たい。お互いどうにもならんと。人間も役者もガラバさんの方が一枚上手ばってんね」 「なめくじを間においた蛇とびっきか。遥々《はるばる》、海を渡ってきとっても、矢張り仲のわるかとはわるかとたいね。……」卯八は当たり障りのない相槌《あいづち》を打つ。「こりゃうまか。さすがに出島の砂糖ばい」 「気に入ったとなら、よかだけ食べなっせ」咲はいった。 「ほんなこつ珍しかもんばご馳走になった」 「遠慮はいらんとですばい。気に入ったとならみんなでん食べなはるとよか」  固辞する卯八に向かって、咲はなおもすすめる。卯八は蒲鉾《かまぼこ》風の形をしたひと切れを手にした。 「居留地におる異人も居留地におらん異人も、あんひとたちのすることにはみんな駈け引きのあると。駈け引きというより二重底というた方がよかかもしれんね。そこでお仕舞と思うとると、まあだその裏に仕掛けのしてあるとだから、なかなか一筋縄ではいかんとよ。そいばよう知っとらんと、どんでん返しば食うけん、卯八さんも気ばつけとった方がよか」咲はつづけた。「今日んことでもそうたい。マックスウエルは持って行った絵が一枚じゃなかことばすぐ見抜いたでっしょが。それで、あるだけみんな持ってこいというくせに、肝心の値段のことには何にも触れん。一枚いくらで何枚ならいくらで買うと、そいばはっきりさせとかんと、みんな持って行ったが最後、いい値に叩かれてしまうとよ。ひょっとすると威《おど》しにかけるかもしれん。おうちはまだあんまりひどかことに会うとらんからまさかと思うかもしれんばってん、マックスウエルはそんげん男よ。そいばいうとかんといかんけん、おうちに寄って貰うたと」 「親切かことばいうて貰うて」卯八は頭を下げた。「値段のことも決めずに、ほんなこつあたしもぼうっとしとったけんね。……ああたからそんげんふうにいわれると、しゃんとせにゃいかんと思いますばい」 「マックスウエルがもうすぐ長崎ば出て行くとは話したでっしょ。そいけん余計気ばつけとらんと……戻ってから払うなんちゅうてもその手に乗っちゃならんとよ。そりゃいずれ長崎に戻ってはくるかもしれんが、何時頃戻ってくるとか、そんげんことは本人しかわからんとじゃけんね。それっきりぴゅっと上海《シヤンハイ》ににでも行かれたらそれこそ手の打ちようもなかと」 「あんひとは上海に行きなはるとね」 「たとえばの話たい。堺か江戸か、それともいうたごと上海か、誰にもわからん。うちが知っとるとは、もうすぐ長崎からおらんようになるちゅうこと。そいしこ」 「あたしにゃ考えも及ばんが、そんげん、上海とか江戸とか隣ん町でん行くごと飛び廻って、よっぽど太か商売ばしよんなさるとでっしょね」  なぜか咲はその問いに答えなかった。いわずと知れたことというつもりなのか、しばらくして女は別のことを口にした。 「卯八さんに頼みたかことのあっとですよ」  何を、というふうに卯八は相手を見た。 「うちを井吹さんに会わせて貰いたかと。……いきなりこんげんことをいうても、どうかと思われるかもしれんばってん、うちの考えとることをできるかどうか、井吹というおひとにきいてみたかことのあるとよ。勿論《もちろん》会う時はおうちと三人で話し合いするとだけど、卯八さんにとってもわるか話じゃなかと思うとる」 「そんげんことなら今日のうちにでもよかですばい」  卯八は取りあえずそう返事した。居留地へ付き添いするのに単なる手間賃では不足になったのか、という思いがちらと横切る。そしてそれを見越したような女の言葉。 「おうちは何か妙に思いなさるかしれんばってん、ほんなこつのことをいえば、居留地の異人たちをうちはきりきり舞いさせてみたかとよ。向こうが向こうならこっちもこっちたいね。卯八さんにも今の何層倍も儲《もう》けて貰うごと、その手だては考えようじゃなかと。うちには前から思うとることのあって、そのためにはおうちだけじゃのうして井吹さんの力添えがいるとよ。卯八さんを通じてしかうちは井吹さんを知らんばってん、何かそんげん気がするとたいね」 「三人で組んで、もう少し太か商売ばやろうといいなさるとですか」 「そんげんいうてもよか。井吹さんというおひとが嫌といいなさるなら仕方のなかばってん、これから先、居留地相手の商売ばするつもりなら、いまもいうたごとうちには前々から考えとることのあるとだけん、そいば話し合うつもり。……居留地の異人たちが何ば考えとって、どんげん品物ば欲しがっとるか、うちだけしか知らんことのいっぱいあるとだけんね。品物だけじゃなか、居留地の抜け穴は大方知っとるつもりやけん、それを役立たせるとよか。……こりゃおうちにきくとばってん、井吹というおひとは頭のめぐりの早かとでっしょ」 「そりゃ、もう……」  卯八は押されるようにいった。 「今までの絵ば見てそんげん思うとった。こりゃただの絵描きじゃなかごたる。……うちはそんげんおひとば今迄《まで》探しとったと。その上、卯八さんまで組になるとけん、こりゃもう何とかに金棒になるもんね」 「わっつは……」卯八はいい直した。「あたしは付け足しばってん、井吹さんはただの絵描きじゃなかと見たとはよう当たっとりますばい。あんひとは並の者じゃなか。ああたとならよう気のあいまっしょ」 「もしうちの考えとるごとなるなら、卯八さんにも精一杯働いて貰わにゃならんとよ。そん代わり、働いた分以上のことは入ってくるとだけんね」  この女は本気で何かを仕出かすかもしれぬ。そういうことなら話は別だ。卯八はそう思った。 「そいで、井吹さんと会う段取りは、今日でもよかとですか」 「ええ、うちは何時でもよかとですよ。井吹さんの都合に合わせますけん」 「そいじゃあたしはこれで。……善は急げといいますけんね」  卯八は立ち上がって高下駄を履いた。 「井吹さんの都合ばきいたらすぐ知らせます。ひょっとしたら晩になるかも知れんとばってん」 「うちはかまわんとよ。晩でん朝でん……」  卯八は咲の家を出た。さてこれからどうするか。取りあえず門屋への道順に足を向けながら、彼は女の口からでた言葉の勢いに飲まれた自身を感じる。確かに咲の胸内にはただならぬものが含まれており、手間賃をどうのという了見ではない。  問題は井吹重平の態度だが、相手が阿媽《あま》上がりということで案外乗る気になるかもしれぬ。  と、横手の角に何やら身を潜める者の気配がして、卯八は番傘を振り変えた。昨夜と同様、もし尾行だとすると、今朝方からそれはもうなされていたのか。咲の家と大浦居留地、それにマックスウエル。それらしき影をまったく感じぬままの動きであるだけに、卯八は愕然《がくぜん》とした。  しかしまだそれと決まったわけではない。卯八は物忘れでもしたような素振りをして、いきなり今きた道を引き返してみた。すると案の定、不自然な足音がきこえた。  峰吉の手下にしては少ししつこすぎるが、何となくそれとは違う慄《おのの》きが背筋を走る。昨夜の今日、峰吉がそういう手段にでるはずもなく、マックスウエルという名前も恐らく上の方からきいたのだ。とすれば奉行所の探索方ということになるが、先程咲の口からでた言葉と合わせて、マックスウエルの館に乞われるまま版画を置いてきたことを、卯八は無性に後悔した。  朝からの尾行に気付かぬというのは、相手を相当の練達者だとみなければならぬし、それだけ執拗《しつよう》に彼の行動に目をつける以上、奉行所はきっと大きな的を狙っているのだろう。井吹重平か、それともマックスウエルの何かを。  卯八はわざと海辺の方に歩きだすと、船小屋の蔭にしばらくしゃがんだ。むろん、そこに彼がいることを尾行者は知っているはずだが、どういう撒《ま》き方をすればよいのか、それを考えたかったのである。どの道、向こうは咲と同道して居留地に行ったことも、帰りに立ち寄ったのも承知している。ただし、女とかわした話まではきかれていないはずだ。……  いずれにせよ、ありのままを井吹重平に伝える外はあるまい。卯八が心を決めた途端、天秤《てんびん》棒を担いだ男が通りかかった。 「塩辛ば買うてくれまっせんか。安う負けとくけん」  卯八が頭を振ると、今度は耳打ちするような声が届く。 「珍しかもんば持っとりますばい。ああた、煙草ば買いなはらんね」 「いらんと」 「普通の煙草じゃなかとですばい。ひと口吸うたら世の中のことがみんな極楽に見ゆっとですけんね」 「何ちゅう煙草な」 「何ちゅう煙草か、吸うてみたらすぐわかりますたい。そりゃもうわずらわしかことはいっぺんに吹っ飛びますと」 「そんげんいうなら吸うてみゅうか」  卯八はからかい半分にいった。窺う尾行者の前でじっとしゃがんでいるのも、見すかされるような気もしたのだ。 「此処には持っとりまっせんと」天秤棒を担ぐ男は意外なことをいう。「店先で売る煙草じゃなかとですけん、要心しとかんばいかんとですよ。塩辛売るついでにこれと見込んだひとの注文ば取っとりますとばってん、明日の昼、今ん時刻に此処にきなはるとよか。わかっとるでっしゅが、ひとにはいわんごと頼みますばい」 「値段は高かとじゃろな」 「値段のことなんかいうちゃおれまっせんばい。そんげん味のよか煙草ですけんな。なるべく余計に銀ば持ってきなはるとよか。それに見合うだけの分量ば分けますけん」 「明日の九ツ(正午)か」卯八は空に目をやった。「都合のつかんかもしらんけんな。四半刻《とき》も待っておるがあらわれん時は、銭のできんやったと思うたらよか」 「そんげんしますけん。わっつはああたを見込んで声をかけたとですけんね。これから先のこともありますけん、ひとには黙っとってくんなはいよ」 「わかっとる」卯八はいった。「そいでも銭のできん時は仕様のなかけんな」  塩辛売りが去ると、卯八は反対の方向に歩きだした。ああまで用心深く売ろうとする煙草というと、話にきく阿片でも混入しているのか。それにしても万一自分が奉行所の下働きでもしていたならどうなるのだろうか。ああたを見込んでと、天秤棒の男はいったが、綱渡りのような商いもあるものだと、卯八は首をすくめた。  ゆっくりと動きだした三十石船の傍《そば》に、ぴったりとくっつくようにして伝馬船を漕《こ》ぐ男がしきりに手を振っている。  尾行者が自分の名前も家も知っているのなら、今更慌てる必要はない。峰吉の下っ引になれば難を逃れられるという思いと、咲の提案した井吹重平と組になる仕事についての思案が入りまじりながら卯八の胸に迫る。  空の荷車を引く男たちが三台も続いて彼を追い越し、道路脇に瓦を積み上げた店から、背をかごめた年寄りの男がひょっこりとあらわれた。尾行者はまだ気配を示していないが、彼が岸壁の道を折れた瞬間、きっと姿を見せるはずだ。  荷上げ場に近い海岸を素早く右に曲がると、突き当たりは諸式屋になっており、卯八はさらにそこから右手に急いだ。つまり迂回して歩いてきた方向に戻ったのである。狭い路地に向き合わせにしゃがんでいた女たちが慌てて立ち上がる前を突っ切り、旅籠《はたご》屋の裏手にでると、今度は駈け足で木橋を渡る。  寄合町通りにある門屋までの道程を、殆ど路地や抜け道を屈折しながら、卯八はかなりの時間を使って行きついた。それでも撒けなかったとすれば仕方がないし、或いはあらかじめ門屋だと推量して先廻りしているかもしれない。  小萩はちょうど自分の部屋にいた。片側の窓を開け放つと禿《かむろ》にいいつけて冷やした茶を運ばせた。 「どんげんしなはったと、息ば切らして。あんおひとに何か変わったことでも起きたとじゃなかと。ひと晩中心配しとったとよ」 「そうするとよんべは此処じゃなかったとですか」 「何もいわずに出て行ったなり戻ってきなはらんやったと。ようべ(昨夜)卯八さんとは会いなはらんやったとね」 「よんべはあれっきりですたい。……そうか、よんべ此処におんなさらんやったというと、面倒なこつになるな。いま何処におんなさるか、わからんとでっしょね」 「それはうちの方がききたかと」小萩の口調は普段と少し違っていた。「あんおひとが戻るとも戻らんともいわずに黙って出なさったり、それこそ梨の礫《つぶて》ん時にゃ、決まって妙ちきりんの騒動に巻き込まれとるか、おかしか女に引っかかんなさっとるとよ。うちの胸には見らんでもわかっとるごとぴーんと響くとだけんね。……」  卯八はそれに直接応じなかった。 「卯八さん、ほんなこつああたはようべ、旦那さんと一緒じゃなかったとですね」 「すらごとばいうてどんげんしますか」卯八はいう。「井吹さんにゃ戻れん都合のあったとでっしょ」 「そりゃそうたいね。戻ってこれんわけのあんなさったからこそ、帰ってきなはらんやったとやから」 「そげん意味でいうたとじゃなかとですよ。だいか古か知り合いにでも会いなさったかもしれんし、そん位のことはわかってあげなはらんと」 「あんおひとのわるか癖はうちがいちばんよう知っとると」 「ああ、あたしも一遍でよかけん、丸山のきれかひとからそんげんふうに思われてみたかな」  卯八の冗談にも切り返さず、下ぶくれの白い面から愁いの消えぬ小萩。    15  三宝寺の境内から山手の墓地に向けてせりあがる木蔭のそこだけ乾いた石段に息を休ませながら、きわは弾む胸を抑えかねた。昨夜からのことが夢か幻でも見ているように感じられ、体の強張《こわば》った個所を意識しながら、いやこれは実際に起こったことなのだと、幾度も自分にいいきかせた。井吹重平の所作を考えただけで、頬が火照る。  朝餉を兼ねた昼食をとった後、しばらくしてから茂木屋をでた井吹重平は、きわを同道して古書店を訪ねると、小料理屋のおかみに話をつける筋道の一切を、左内に依頼したのであった。借金は二両というが、都合によってはましをつけてもかまわぬし、現に働いている者を勝手に引っこ抜くのだから、相手のいい分をなるべく通すように、といういい方をした。  まだ充分得心のいかぬ顔つきで、言葉だけはまかせておきなっせという左内に、井吹重平はさらにいい添えた。 「そいからな、これもぬしに頼むのがいちばん手っ取り早かけん、頼むとばってん、英語と医学ば初手から教えてくれる塾ば探しとるとたい。ぬしに何か心当たりはなかね」 「英語と医学ばですか」左内は頭をかしげる仕種《しぐさ》をして井吹重平を見た。「ようべから大分風向きの変わっとることばかり考えなさったとですね」 「おれじゃなかとぞ」彼はいった。「間違わんごとしとらんと。習うとはこんひとじゃけんな」 「そりゃまた……」古書店の主人は語尾を上げた。「きわさんが習いなはっと。……どんげんしてそがんこつに」 「おれの女というとは変わらんとたい。こんげん世の中の動いとる時に、男でん女でんじっとしとくわけにもいかんやろう」 「耳の痛かことばいわす」 「おれがいいだしたことじゃなか。医学ば習いたかというとはこんひとの望みたい。医学をやるなら英語もやった方がよか。おれがそういうたと」 「そんげん話なら、それもいっちょう頼まれてみまっしゅか。医学なら何ちゅうても小島の医学所ですばってん、ただそこに女が入るわけにもいかんし、とするとどんげんこつになるか、その辺のところを調べてみまっしょ。……オランダ語だけでよかとならいくらでん知っとりますばってんね」 「医学はまあオランダ語ちゅうことになろうが、こいから先は矢張り英語じゃけんな。両方やるっとならなおよかたい」 「小島養生所に寄宿(入院)しとる患者さんのいっぱいおんなさるとでっしょ。そん人たちば治療なさる実地ば見たかとですけん、薬ば作るところの見習いでも生徒さんたちの手伝いでんよかとですよ。勉強の見習いができればいちばんよかばってん、そいができんとなら……」  きわが言葉を挟《はさ》むと井吹重平は膝《ひざ》を打った。 「そういう手があっとばい。このひとはほんなこつ回転の早かけんね」 「わかりましたと。どんげん方法のあるか、英語の方も当たってみまっしょ」 「うちはうれしかと。昨日から何もかんも……」 「手放しじゃけんな。……目のまわるごたる話ば持ち込まれた上に、熱々の空気まで吹っかけられちゃたまらんですばい」  きわは傍においた色とりどりの夏菊と傘を手にして立ち上がると、石段を踏んで行った。丘の頂に向けてかなり急勾配《こうばい》に上がる狭い坂道の両脇には、夫々《それぞれ》の段ごとに石や土塀《どべい》に囲われた墓が無数に建っており、母親の墓は中腹よりやや上段の大樹の枝葉に被《おお》われた薄暗い奥手にあった。  やきものの花立ての中でしおれた百日草を、持参した花束に取り替えると、おかしゃま、今日は何時ものうちと違うとよと、心の中で呼びかけながら合掌した。  ずっと前からうちの考えとった通りのひとから女にして貰うたと。おかしゃまもよろこんでくれなはるとよか。そんひとというのはただの旦那さんじゃなかと。本ばいっぱい持っとんなさって、うちにもどんげん勉強ばしてもよかといいなさると。……おかしゃま、おかしゃまのおかげでうちはふのよかことにめぐり会うたのかもしれんね。たったひと晩のうちに、まわりのものがみんな変わったごと、うちにはそんおひとを好きでならんごとなってしもうた。おかしゃまならうちがどんげん位うれしかか、隅の隅までわかるとでっしょ。……  膝を折ったまま、巡ってきた幸せにひたるように、きわは目を閉じていたが、糸浦という遊女名を持つ母の声は、生きているかのごとく彼女の胸奥に届く。  十歳の正月を迎えたばかりの頃、母親はひと言ひと言噛んで含めるような言葉で、こういったのである。  よかね、今いうた通り、あんたのおとしゃまの名前は楊達新といいなさって、唐船の帳面方ばしとんなはったと。そりゃ心のひろかひとで、料理するとのひどう上手だったとよ。  帳面方のひとが料理ばつくんなはったとね。  そうたい。唐船に乗っとったひとは、大概料理ばつくんなはった。玉子でも蟹《かに》でも、珍しか料理ばこしらえなはったと。そん中でも特別、あんたのおとしゃまは上手じゃった。……砂糖ばいっぱい使うて、色のついた飴《あめ》まで作りなはったとだけんね。  そんおとしゃまは今何処におらすと。  唐の国に帰らしたなり音沙汰の跡絶《とだ》えたとたい。唐館の誰にきいてもはっきりしたこつはわからん。何か遠か国に行ったのかもしれんという者もおれば、病気しとるという者もおる。そいかというてどっちにも証拠はなかとよ。うちが思うには、達者であればきっと長崎に戻ってきなさる。今まで戻ってきなさらんとは、何か起こったに決まっとる、時化《し け》のために船がどうにかなったか、それとも南蛮辺りの港ではやり病にでもかかりんさったか。どっちにしろ、難儀なことになったとに違いなかと。  長崎には何時までおりんさったとね。  だいのこと。  おとしゃまのことたい。長崎におらした時のことをきいとると。  お前が二つになる時までおらしたと。そいまで二度も唐の間を行き来して、夏に長崎を出て行ったきり、そいからぱたっと便りもなかごとなってしもうたとよ。  おとしゃまはもう帰ってきなさらんとやろか。  それは誰にもわからんと。そいでも、戻ってきなさらんと考えとった方が気持ちだけでも落ち着くかもしれんね。何時戻ってきなさるとか、今か今かと考えとったら、それだけでも気持ちのもたんようになるとじゃけん。  もしも帰ってきなはったらどんげんするとね。  何のことばいいよると。  もしも帰ってきなはったら、矢張りうちのおとしゃまになるとでっしょ。  そりゃ決まっとるたい。あんたのおとしゃまはひとりしかおらんとだけんね。ほかに誰があんたのおとしゃまになると。  おとしゃまが帰ってこらしたら、あいの子といわれずにすむとやろか。  そりゃ違う。あんたのおとしゃまは唐のひとやから、戻ってきてもきなはらんでもあいの子といわるっとは仕様のなかたい。そいでもあいの子がわるかわけはなか。これは初めからそんげん星の下に生まれとるとだけん、今更逃れようもなかとよ。……きわのおとしゃまはうちを心の底から好いとんなさった。そいけんうちも好いて返した。人間ちゅうとは長崎でん唐でん、そいでよかとよ。初めからそいだけの中でしか生きとらんとだけんね。  足音のようなものがきこえてきわは振り向いた。しかし空耳だったのか人影は見えず、尾の長い鳥が一羽、卒塔婆《そとば》の蔭から飛び立った。  きわが十一歳になった秋、それまで寝たり起きたりしていた母親は死んだ。近所の子供から労咳《ろうがい》だといわれて叔父にきくと、恐ろしい見幕で「そがんこつはなかと」と怒鳴られたが、もしかするとそうであったのかもしれなかった。  以前母親と一緒に寄合町の肥前屋に奉公していたという、きわも顔知りのみねが焼き場まで付き添ってきて、仕度された酒に酔いでもしたのか、糸浦と同様唐人の子を生んだ花の井の話を語った。 「きわさんより半年ばかり後じゃったかね、花の井さんは女の子を生みんさったとよ。相手のひとは唐船の総代で林友春というと。もう何年も前から唐館に住んどらしたけん、花の井さんも大方そこでくらしとんなさったとたい。……そいでん、出来事は何もかもいっぺんに起こるもんで、花の井さんがその時くまという女の子ば生みんさった年の九月に、林友春というひとも亡くなんなさったと。……そう、女の子の名前がくまというとたい。確か花の井さんの弟の貰い切りにしなさったとよ。そういうても、生まれた年の翌年にその娘も死んでしもうたとやから、矢張り運のわるかったとかもしれんねえ。疱瘡《ほうそう》にかかったというとんなさった。……」  みねはきっとより不幸な話をして、残されたきわを慰めるつもりだったに違いない。唐船の総代であった者に囲われてさえ、そういう難儀がつきまとう、と。……それから二年ばかり経って、みねもまた死に、人々はそれもまた労咳だと噂した。  きわの血管にすっと黒い雲が走る。労咳のことを考えるたびに何時も不安な感じがつきまとうのだが、今は一層波立つ。  おかしゃま、ときわは祈る。  うちが労咳にならんごと、守っとってくんしゃい、ずっと前、労咳にでんかかっても早くおかしゃまのところに行きたかというたとは、取り消しますけんね。うちの勝手我儘《わがまま》な頼みば許してくれまっせ。うちはいま病気になりとうなか。もしどんげんしても労咳にかかるごとなっとるのなら、あと五年でよかけん、今のままでおりたかと。……  気配を感じてそちらを向くと、つい間近に女が立っているので、きわはびっくりした。矢張り先程の足音は事実だったのか、女も手に桃色と薄紫の夏菊を持っている。それに傘。 「雨の上がってちょうどよか塩梅《あんばい》になりました。そいでんまた降りますばい、こりゃ。……」 「はい」きわは受けた。 「おまいりなさって、仏さんもさぞよろこんどんなさるでっしょ」 「おおきに」 「ようべ、枕もとにあんしゃま(兄)の立ったとですよ。頭の痛うして眠れんといいなはるけん、どんげんしたらようなりますかってきいたら、すうっと消えて行きよらした。……海の底でも眠れんことのあっとかと思うてきましたと」 「海の底といいなはったとですか」 「そう、海の底ですたい。すぐ目と鼻の先に雪ノ浦の見ゆるという時に、船もろとものまれてしもうたと一緒に乗っとったひとのいいよらした。今更いうても取り返しのつかんことですばってんね」 「達者な時に亡くなられると、余計にこたえるとでっしょね」 「おうちにいちばん近かおひとは誰ね」 「此処にはおかかのおるとです」きわはいった。「もう大分以前に亡くなったとですばってん」 「おかしゃまのおってね」  女は花と番傘を小脇に抱えて掌を合わせた。 「お礼をいいますけん」  女はその時、きわの容貌に気づいたらしく、一瞬見返すような表情を浮かべた。 「花のきれか」女はいった。「こんげんして何時までも慕うて貰うて、おかしゃまはさぞよろこんどんなさるやろ。……ああたのいくつの年に亡くなりなさったとね」 「十一の時です」 「十一」女はいった。「そりゃまあ、よっほど心残りやったろうね」  女がさらに上段の道に去った後、きわはしばらくぼんやりとそこに佇《たたず》んだ。古書店の主人は今頃小料理屋のおかみとどんな話をつけているだろうか。いずれにせよ申《さる》の刻(午後四時)、もう一度左内に会い、連れ立って挨拶し、おかみとの間に成立した手筈と条件をきくことになっているが、理由もなく動悸がするのは、昨日と今日の間にあんまり違う灯籠《とうろう》が廻っているせいだ。  女の上がってきた反対側の道まででると、竹藪《たけやぶ》と楠《くすのき》の枝葉を前景にして、連なる屋根の向こうに白く帯のような海が横たわっている。今宵《こよい》ふたたび茂木屋で井吹重平と会う約束も胸騒ぎのひとつなら、その裏に母の死因も重なるのだ。  母の死ぬ間際、何とかボートル(バター)を求めたことをきわは知っている。突然母がそういいだして、それまで手放さなかった袋の銀を叔父に差し出したのである。しかしコンプラ仲間の手代を通じてわずかばかりのボートルが手に入った時、すでに母はこの世にいなかった。  叔父と叔母がそのボートルをどんなふうに始末したかは知らぬが、労咳の妙薬であったらしいことは当時のきわでもおぼろげながら了解できた。  牛の乳を固めて作るというボートル。いざとなれば何としてでもそれを購《あがな》うのだ。大浦にできたという牛肉と牛乳を扱う店に頼んでおけば、或いは蘭館出入りの商人よりも値段も手間も少なくてすむかもしれない。  それこそ牛の乳のように漂う海を望みながら、きわの脳裡《のうり》にはあらゆる思いが次々にあらわれては錯綜《さくそう》する。  小島養生所に寄宿するためには、金持ちが一日に銀六匁、普通は二匁五分。通う場合は診察と薬料のみを払えばすむ。そして大抵の難病は薄紙をはぐように治るのだ。昨日まで働いていた小料理屋にくる客の話すのをきいて、きわはそれを知っていたが、すると労咳も養生所に行けば治すことができるのだろうか。 「そりゃもう押すな押すなの盛況たい。長州や四国の高松からまできとるというけんな。ポンペという蘭方医のおった時はああた、そんひとがさらさらっと紙に書いたもんば渡しただけで、そいまで七転八倒だった病人がけろっとしたごとなるというとだけん、銭金にゃ替えられんとよ」 「そいでも今は、そのポンとかいう蘭方はおらんというじゃなかね」 「ポンペはおらんでも、ポンペから習うた者がおるたい。押すな押すなしとるとは今のことだけんな。ポンペの時からいっちょも養生所にくる者の減らんということは、病気の治し方も変わらんということやろう。一カ月ばかり前じゃったかな。生まれてすぐ死にかかっとる赤子まで助かったというばい」 「ぬしは、養生所から一杯飲ませられたのと違うね」 「ほんなこつのことやけん仕様のなかと。まあ見物するだけでもよかけん、いっぺん行ってみるとよか。そこにきとる病人がみんな診ても貰わんうちから助かったという顔ばしとるけんな」 「診ても貰わんうちに助かるとならそんげんよかことはなかたい。ぬしは話のうまかばい」 「高松くんだりから遥々訪ねてきて、あん建物ばみたら、そいだけでほっとするとよ。おるたちは土地におるけんかえってありがたみのわからんと」 「ぬしは矢張り怪しかぞ。ポンさんからぽんと肩ば叩かれとる」  板場まで筒抜けに入ってくる客のやりとりをきわは身を固くしてきいたのだが、その時の緊張が今も続いているようだ。  茂木屋の夜。きわは再度墓の前に戻って自分の差した夏菊をじっと見つめた。おかしゃま、うちに力ば貸してくんしゃい。うちはどんげんしてでも旦那さんのよか女になりたかとだけん。おかしゃま、うちはいちばんあのおひとの好いとらす女になりたかとよ。……    16  くら橋の無断外出はすでに染田屋の隅々まで知れ渡っていた。それ程波風立つ気配が表にあらわれぬのは主人太兵衛の言い付けによるものであった。使い番の男と遣手《やりて》のさくが探しに行ったという話が囁《ささや》かれており、七十郎の名前もむろんそこに絡まっている。阿茶《あちや》さんの酒とあみ漬けのために起こったみんなの昂《たか》ぶりも宙ぶらりんになっていて、女たちの顔には今ひとつの物足りなさと落ち着かぬものが漂う。  遣手上がりのしげが、忍び足で尾崎の部屋に入ってきた。賄方と時々の雑用を勤める五十過ぎの女で、不意の金でも必要な折、しげに頼むと金貸しへの橋渡しを引き受け、必ず都合をつけてくれた。何のことはない自分の銭を貸し付けているのだという者もいたが、普段のくらし振りからみてそれも信じかねる。 「太夫《たゆう》さんにこんげんものば預かってきましたと」しげは小さく折り畳んだ文を帯の間から取り出した。 「誰から頼まれたとね」 「名前はわからんとですよ。うちが通りよったらすっと寄ってきて、こいば太夫さんに届けてくんなはらんかと渡されたと。いやも応もなかとですよ」 「どんげんひと」 「ようとわからんやったとばってん、普通の町方のひとのごたる恰好ばしとらした。うちにこれば渡すとあっという間に向こうの方に行きなさったから、うちはぽかんとしとったと。……そいじゃきちんと届けましたばい」  しげの足音が消えても、奇妙に言葉だけは尾崎の胸に残った。普通の町方のひとのごたる恰好ばしとらした、というのはしげ自身そこにこだわっている証拠になろう。町方の者ではないと思っていたか、あらかじめ考えていたからこそそういう言葉を口にしたのだ。もしかすると、この文を預ける時、船乞食《こじき》の何とかからと、或いはそれに類することを伝えたのかもしれぬ。それに添えてしげの手にはきっと銀粒でも握らされたに違いない。  尾崎は膝の前の文を手にして開いた。 七ツ、大音寺裏の墓地に待つ。又次ゆかりの者 手間は取らせぬゆえ、きっと。  太兵衛が難題の持ち上がるかもしれんといったのはこのことか。尾崎は筆太の字をもう一度辿《たど》りながら、締めつけられるものを感じた。恐れではなく、何かしら待っていたものがあらわれるような気がしたのである。  主人に知らせる気持ちはなぜかない。こっそり自分に運んだ手前、しげは大丈夫。七ツ(午後四時)、大音寺裏までどのようにして足を運ぶか。そう遠くない場所とはいえ、そこに行く口実とみなりをどうつくろうか。難題といえばそれだが、なんとかなろうという心は別に動く。  二つ折りにした文を手箱にしまい込むと、尾崎は窓辺にでてどんよりとした空を見上げた。今のまま小雨が降りつづいてくれれば、傘の蔭《かげ》に何とか身を隠すこともできよう。着る物は用意するとして、外出するためのいいわけがむずかしい。 「又次とかいうひとが溜《たま》り小屋につながれたとは、蘭水にあがんなさったというそれだけのためですと」 「そりゃそうたい。船乞食が身分を隠してあがろうとしたとだけんな。露見したからよかったようなものの、すんなりそのまま客扱いでもしておろうものなら、それこそ長崎中の物笑いたい。銭は大概分に持っとったというけんな。初手からそげんこつもなかろうが、万一ぬしが相方にでもなっとったらと考えると、今でも動悸《どうき》の打つごたる。そんげんふうにでもなっとったら、ほんなこつ火事よりひどか仕打ちに会うとると」  主人の部屋でかわした言葉が冷んやりと背筋をよぎる。そこに行くと決めた自分を試すように、尾崎は太兵衛の「あてつけがましか文句」といった紙片の文字を反芻《はんすう》してみた。 焼き場がなかと死人は焼けん 船乞食がおらんと船のごみはだいが焼く 惣嫁《そうか》も太夫も股《また》ぐらはおなじ 又次ばい、又次ばい 「その又次とかいうひとが、うちを名差したちゅうこつは、後でききましたが……うちを名差したかどうか、そんげんことはどうでもよかとばってん、丸山にそんひとたちを遊ばせちゃならんというきまりでもあるとでっしょか」 「そりゃ決まっとるたい。……並の客じゃなか。相手は船乞食じゃけんな」  船乞食を相方にするのは、火事よりもひどい仕打ちに会うことになるといえば、隠亡や墓守はどうなるのか。自分の仕事や商売を隠して遊ぶ客についての小噺《こばなし》が必ずどの宴席にもついてまわるのだが、尾崎はそれをきくたびに、白い歯をむきだしにしながら手を叩きあう男たちの無神経な笑い声から顔をそむけた。  いかけやと地金屋が遊びにきたとたい。どっちもしがない商売じゃけん、丸山じゃ何ばしとるとはいわんという約束ばして揚屋にあがった。店の一軒も構えとる振りして二人ともよか気色になって遊んだと。  そいから幾日か経って、地金買いが商売にでとったら何時《い つ》の間にか足が丸山の方に向いとった。じがねえ、じがねえと呼び声をかけながらふっと気がつくと、この前遊んだ揚屋の近くにおる。こりゃいかん、先夜の相方にでもみつかったら尻が割れてしまう。  そこで地金買いは頭からすっぽり手拭いで頬かぶりして、黙って通り過ぎようとすると、 「地金屋さん、地金屋さん」という声がかかってきた。 「地金屋さん、ちょっとあがって行きまっせ。地金屋さん」  地金買いはどきっとして見るともなくその方を見てしもうた。なんとそこにいかけ屋の相方になった女が手招きしとる。女としちゃ何のことはなか、地金を入れた籠を肩にしとる男をみて「地金屋さん」と声をかけたとばってん、脛《すね》に傷持つ男の地金買いは、あん畜生がばらしたかと考えてかっとなったと。 「おいが地金買いだと教えたとは、あのいかけやじゃろ、ちゃんと知っとるぞ」  地金買いはそんげんふうに怒鳴ると、一目散に逃げて行きよったと。……  地金屋といえば、何時もぼろ買いの蔵多を尾崎は思い起こす。田平から長崎にきたばかりの頃、筋を切ったという足を引きずりながらぼろや地金を買うおもしろい男。字は違っても父親の庫太と同じ音なのですぐ覚えられた名前であったが、人々はその男がくるたびに「火の玉のおとろしゅうなかね」とからかった。  嘘か真《まこと》か、蔵多というぼろ買いは、崇福寺裏手の山腹に段を作る墓地奥の掘っ立て小屋に住んでいるという話だったのである。男は別に否定もせず、ただにやりとするだけであったが、ある日、如意輪寺近くの町角で、加代はばったり出喰わしたのだ。加代とは尾崎の禿《かむろ》時代の呼び名だ。 「たまげた。そんげん鉄砲ん玉のごと当たってきよったら、わっつはひっくり返るばい」 「なして鉄砲ん玉ね。普通のごと歩いとったとに」 「よかとこで会うたけん、いっちょう珍しかもんばあぎゅうかね。……」  蔵多はそういうと、肩に担ぐずだ袋の中から布財布を取り出した。珊瑚《さんご》細工の小さい珠。 「ああたにあぐるけん、しまっとくとよか。簪《かんざし》にしてもよかし、オランダのごつ胸に下げてもよかと」 「きれか」加代は押しつけられた珊瑚の珠を掌の中においた。「そいでもなして、こんげん大切なもんばうちにくれなはっと」 「早う仕舞《しも》うとくとよか」蔵多はいった。 「前からああたにやろうと思うとったとたい。珊瑚ん珠は縁起ものじゃけんな。何でも辛うしてたまらん時に、何とかしてくんしゃいと祈れば辛かことも何もすうっと消えて行くと」 「そいでもなして……」 「わっつにかんどうぐち(暴言、憎まれ口)ば叩かんとはああたばかりたい」蔵多はちょっと額を掻《か》く仕種《しぐさ》をした。「それに、そんげん珠はええらしか(可愛らしい)ひとが持っとる方がよかと」 「そんげんこつはなか。……」加代はいった。「そいでもこんげんものをうちは貰われんとよ」 「わっつの持っとる物は矢張りよそわしか(汚い)ね」  加代は大きくかぶりを振った。 「そんならしまっときんしゃい。わっつは汚れとってもそん珠は汚れちゃおらんとじゃけん、気に入ったとなら貰うてやんしゃい」  加代は珊瑚の珠を握りしめて、「うれしか」といった。「大事にしてのうなさんごと(失くさないように)しますけん」 「よかった」蔵多はずだ袋を担ぐと白い歯を見せた。「だいにもいうたらいかんとよ。この辺にゃ黒鳶《とんび》の多かけん、何ばいうてみても信用せんじゃろ」 「うちのおととの名前も庫太といいよんしゃったと」加代はそういった。 「そうか、おととの名前がおなじじゃったとね。そいでよう合点が行くたい」  加代は慌てて「違うと」といった。どんなふうに説明してよいかわからず、ただ今にも去って行くぼろ買いに向かって気持ちの底をはっきりわかって貰いたかったのだ。 「何が違うとね」 「そいばってん、おととと名前のおなじだからというて、にくたれ(憎まれ口)をいわんやったのじゃなかと。おっちゃんがほかの名前でも、うちは……」  声を詰まらせた加代を慈しむような眼で蔵多は見た。 「わかっとるたい。心の優しか人間はいつでんようわかっとると」男はいった。「名前のこつじゃなか。そんげん親のことばよう思うとるけん、他人にもやさしか。わっつはそればいうたとよ。……おとしゃまはいま何ばしよらすとね」 「おととは死んだと」 「そうか、もうおんなさらんとか」蔵多はいった。「そりゃわるかことばきいてしもうたな」  珊瑚珠をくれた蔵多のことを思い浮かべながら、尾崎は奇妙な符牒《ふちよう》でもあわせられたような気がした。しげのことづかってきた文にある大音寺裏の墓地と、男の住んでいると噂《うわさ》された崇福寺裏の山手は、そのままつながっているのだ。  七ツ、大音寺裏の墓地に待つ、又次ゆかりの者とは、或いは蔵多に似た男ではないのか。あれだけ大事にすると約束した珊瑚珠は間もなく誰かに盗まれてしまい、そのことの激しい悔いと蔵多にすまぬという気持ちを早く形にしようとして、尾崎は一本立ちになるとすぐ覚えている感触になるべく近い珠を買い求めて簪にしたのである。これこそが蔵多から貰ったものだと自分にいいきかせながら。  禿の小藤がそこにきた。近く店にでる手筈になっている十四歳のこましゃくれた娘であった。 「ところてんを食べなはりますか。食べるなら運んできますけん」 「欲しゅうなか」尾崎は答えた。 「黒崎の土産だそうですけん、磯の匂いのぷーんとすっとですよ」小藤はいった。「胡麻《ごま》と酢と両方ありますばってん、どっちば持ってきまっしょか」 「いらんというとると」 「そいでも太夫に食べて貰わんと、がっかりしなさるかもしれんと。折角おれぼし(流れ星)のじいさんの腕をふるうて海ん草から作らしたとですけんね」  おれぼしとは渾名《あだな》で、二年ばかり前、何処《ど こ》からか流れてきて蘭水の板場に居ついた老人である。 「あとでご馳走になります。そういうときんしゃい」 「ほかのもんはつけたり。おれぼしのじいさんは太夫のためにこしらえなさったとだけん、少しでん食べなさるとよかとですよ」 「天こぶ(蜘蛛《く も》)みたいなこつばいいなさんな。なして、ほかのもんはつけたりとなるとね」 「なしてというても、おれぼしのじいさんは滅多なことでそんげん海の草なんかいじられんちゅうて、あねさんたちはみんなそういいよりますと。太夫のおかげでところてんの皿まで食えるとだから、早う知らせてきんさいと、そういわれてきたとですよ」 「あんたは矢張り天こぶたいね」尾崎はいった。「物事は何でん自分の頭で考えてから口にした方がよかと。いくらひとがそういうたからちゅうて、気儘《きまま》なことを軽はずみに喋《しやべ》っちゃならんと。……折角手間かけてこしなえなさったというとに、おれぼしさんにきかれたら、何と思いなはるね」 「すみまっせん」 「わかったらそいでよかと。……ちゃんとそういいなさいよ。今は欲しゅうなかばってん……そうたいね、あんたが折角きてくれたとだけん、胡麻醤油の方ば少し持ってきて貰いまっしょか」  小藤が去るとかえって苛立《いらだ》つ気分に尾崎はさいなまれた。あの禿と接すると何時もそうなのだ。かといって腹黒いわけではなく、取捨選択がきかないために起こる、それだけのことなので、余計に舌打ちしたくなるのである。  雨に濡れた庭石に貼《は》りつく落ち葉の色が水々しく、白い岩に匍《は》う躑躅《つつじ》の下を流れる清流は普段よりわずかばかり耳に響くようだ。  七ツまで、ほぼ一刻《とき》。尾崎の心と体にそれまで味わったことのない緊張した顫《ふる》えがようやく頭をもたげる。  小藤は胡麻と酢と、夫々《それぞれ》二つの小鉢に入れたところてんを持ってきた。 「二つもね」尾崎はいった。「どっちか、あんた食べんしゃい」 「うちはもうぐっというとるとだけん」禿はいった。「太夫にはわるかとばってん、もう先にいただきましたと」  尾崎は口許《もと》をゆるめて箸《はし》を手にした。すると小藤が一段口調を低めて、注ぎ込むような声をだした。 「さくさんはもう先に、戻ってきなさっとると」  どういう意味か。いわずと知れた、くら橋の探索にまつわる話なのだ。尾崎は応じぬまま、胡麻醤油をかけた小鉢をつかむ。 「あんじゃえもんしゃんはもう、ぴいぴいいうとらすとだけん。みんな首ばすくめて、鍋《なべ》になる前の鶏のごとしとるとですよ」 「そいじゃまだ、くら橋さんの行方は知れんとね」 「増屋を訪ねなさったとははっきりしとるとばってん、そいから先がようとわからん。なんか、ところてんば飲み込んどるみたいな気色じゃちゅうて……とろっとしてなんかようつかめんといいよんしゃった」 「さくさんがそんげんいいよんなはると」 「ええ」 「男衆《おとこし》も帰んなさったとね」 「男衆はまだ……」 「くら橋さんが増屋を訪ねなさったとははっきりしとる。あんたは今、そんげんいうたとでっしょ」 「はい」 「さくさんがいわしたとね、それは」 「うちは、小浦あねからきいたとです。さくさんがあんじゃえもんしゃんにいうとんなさったとば、小浦あねがきいて、そしてうちが……」 「あんた、もうちょっと位、いけんことはなかとでっしょ」  小藤はすすめられた小鉢にちらと目をやり、それからまた尾崎を窺《うかが》うように見た。 「そんげん、いわるっとなら……」    17  中二階に通じる階段を上がり、短い廊下を右手に折れた場所に、井吹重平の部屋はあった。障子を開けると右手に土塀《どべい》を伝う坂道が見え、左に眼を転ずると寺の裏庭越しに、こんもりと林に包まれる墓地が眺められた。  今は亡き僧侶の住んでいた家の中二階二部屋を借りて、彼はそこに寝起きしているのだが、仕事場は別に階下の離れと土間を改造して使用し、そこに白土を焼く小規模の窯を設けてもいた。  下着の着替えをすませると、身軽な姿になって井吹重平は古書店から持参した『和英商売対話集初編』の頁を改めてめくった。きわの面倒を頼みに寄った時、左内が持って行けといってきかなかったのである。  英語の初歩的な読み方や綴りはどうやらこなせたが、話す段取りになるとさっぱり要領を得ず、通詞《つうじ》に習うという手はあっても、虫が好かなかったのだ。  これさえあれば、と井吹重平は思う。話し方と同時に口調の高低、呼び音の強弱の基礎さえしっかりと身につけておけば、後は直接、アメリカやイギリス人に教えて貰うという道もある。  彼はまた、昨夜茂木屋できわとの間にかわしたやりとりを頭に浮かべた。……こりゃよかことば思いついた。おれがくるとを毎日待っとっても、そりゃそれだけのくらしじゃけんね。それより塾に行って、医学でも英語でも習うたらよか。そうそう、これからはなんでん英語が土台になるとじゃけん、それば勉強したらよかぞ。おれもやらにゃいかんと思いながらあんまり長続きもせんやったが、ぬしが習うてきた分だけおれにも教えてくれたらよか。そしたら一挙両得たい。……  一挙両得か、もしかすると本当にそうなるかもしれんな。井吹重平はふっとひとりで笑う。 「帰ってきなさったとですね」  気配より先に寺男の声がした。 「旅にでもでとったごたるな」 「ほんなこつ、しょっちゅう極楽の旅にでとんなさるとだけんね」  寺男の市松はにたりとした。二年前、後添いを貰ってから、何かと若作りをするようになった五十近い住職の遠縁に当たるという剽軽《ひようきん》な男であった。 「腹の加減はどんげんですか。食べごろの生干しのありますばってんね」 「昼飯はすんどる」井吹重平はいった。「晩にまた約束のあるけんな。どっちみち何もいらんと」 「よう体のもちますたい」市松はいった。「飯代の浮いてこっちは助かりますばってん、たまにゃ食べて貰わんと張り合いのなかと、よめご(女房)もいうとりますばい」 「おいがおらん方がよっぽどよかとじゃなかか。水入らずで」 「そがん気分じゃなかとですけん。……ああたがおらんと、かえって気の抜けたごとなって具合のわるかとですよ」 「見せつける者のおらんと張り合いのなかとじゃろう」 「考えもせんことばいわすとだけんね」市松はいう。「そうそう、こんげんことをいうちゃおられんとじゃった。東海さんの呼んどらしたと。手のすいとったらきて貰いたかちゅうて」 「東海さん」とは、住職につけた寺男だけの渾名で、「東海さんの墓普請」からきていた。物事すべて手間ばかりかかって埒《らち》のあかぬ意味をそれは含んでいる。 「東海さんのお召しなら、早速参上せにゃならんな」井吹重平はいった。「あっちの方は少し目鼻のついたごたるね」 「それが前よりわけのわからんごとなっとりますと」  市松は片方の手をひらくと、中指と薬指の先を突ついてみせた。妾《めかけ》と情婦にまつわる出入りを示したのだ。住職の有馬永章は元々肥前有田の武士で、学識の広い旧来の陋習《ろうしゆう》を叩きつぶすことを目的にするような生き方をする人であったが、反面女好きで、何かとそういう噂が絶えなかった。寺男より少し年下で、矛盾した性格と行動をそのままあらわしているような面相をしていた。  井吹重平は身繕いをすると、有馬永章の待つ寺の部屋へ出向いた。 「さっき、ああたの戻りなさるとを見たもんですけんな。お呼びたてしてすまんことばしました」 「何ばいわるっとですか」彼は受けた。「朝帰りじゃのうして、昼帰りになっとりますけんな。顔でも洗うておわびにあがらにゃいかんと思うとりました」 「こりゃ皮肉のきつか」住職は頭の後ろをぽんと叩いた。「そんげんこついわるっと、挨拶の仕様のなかですばい」  住職は膝を折った寺男の女房に茶を命じた。 「そいとも迎えの般若湯《はんにやとう》で行きますか。冷やしてあるけん、飲み頃になっとりますばい」 「ほう、般若湯ば冷やしとんなさるとですか」  住職は今の言葉通り、持ってくるよう合図をした。 「この頃はよう、あっちこっち冷たか茶ば呼ばれますが、冷たか般若湯はまあだ呼ばれたことはありまっせんと」 「まあ試してみなさるとよか。体にようなかちゅうて、市松なんか何時もそういうて顔をしかめよりますばってんね。そんげんこつは迷信たい。茶を冷やして飲むとはようして、般若湯ばかり、なしてままこ扱いされにゃならんとか。わたしは何時もそういい返してやりますと。……ちょうど井吹さんのお留守やった晩ですたい。あんまり暑かけん、一丁徳利ば西瓜《すいか》と一緒にいがわ(井戸)ん中にぶら下げてみんかといいましてな。市松は初め剽げとると思うてなかなかいうことをきかんやったとですが、ようやっという通りにしましたと。……そいば引き揚げて飲んだ時のうまかったこと。フランスかエゲレスの酒ば飲んだごたる気色のして、そりゃもうたまぐるごたる味でした。まあそういうてもフランスの酒は飲んだこともありまっせんばってんね」 「大浦の異人たちゃ、白か葡萄酒は冷やして飲むといいますけんね」 「ほんなこつですか。こりゃ初耳。……矢張り冷やして飲む酒もあったとですか。こりゃよかことをきいた。そうすっとわたしのいがわ湯《とう》も満更捨てたもんじゃなかですな」 「いがわ湯ちゃよか名前ですたい。そりゃよか」 「論より証拠ですばい。ああたが何といわるっか、そいばききたかったと」  市松がちらっと顔をだし、また引っ込んだ間を利用して井吹重平はきいた。 「何か急ぐ用事のあんなさったとじゃなかですか」 「そうたい、そいがあったと」  有馬永章はそういうと、体をのばすようにして後方におかれた箪笥《たんす》の引き出しから布切れに包んだものを取り出した。白布を開くと、中に一枚の黒い紙片が納まっている。 「何ですか、こりゃ」 「ようと、手にとって見なはりまっせ」  井吹重平はそれを手にした瞬間、絶句したまま住職の顔と紙片を、しげしげと見較べた。そこに間違いもなく、住職とそっくりの顔と姿がありありと写っているのだ。 「こいが写真というとですか」 「井吹さんはさすがに違いますばい」住職は大袈裟《おおげさ》に頷《うなず》く。「たまがんなさるかと思うとったら、写真という言葉まで知っとんなさるとだけんな。かえってこっちの方がたまぐるたい」 「なんの、話だけしか知りまっせんと。それよりも和尚《おしよう》はどんげんして、こげな珍しかことのできなさったと」 「ああたもいうたごと、写真ばとる箱の前に立たせて貰うたとですたい」住職は答えた。「もう何日か前の出来事ですと。井吹さんはオランダ通詞の楢林栄叔というひとを知っとんなはりますか」 「楢林栄叔。知りまっせんが、楢林といえば矢張りオランダ通詞の系統でっしょ」 「まだ若かとばってん、なかなか頭の切れなはるひとで、蘭学《らんがく》だけじゃのうして医学もやらにゃいかんというて、やっとんなさるとらしか。ひょっとしたことでわたしはそんひとと近づきになったとばってん、半月ばっかり前に、そんひとの友達とかいうひとに引き合わせて貰うたとですたい。ところがああた、そん友達がなかなかのひとで、始めから終わりまで上海《シヤンハイ》という町の話ばっかい。何のことかわけもわからんのに、きかずにゃおられんというふうな話しぶりで、そりゃもうたまげどおし。そのうち、話の中にでてきた写真術というとば見せてあげまっしょということになって、わたしに試してみろとしきりにいいなさるものですけん、ええも、どうでもなればよかという気持ちになって、箱の前に立ったとですたい。……ところがああた、ぱちっと音がした時は、きゅっと胸の締めつけられて、後から溜息のでましたと……」 「こいが写真ですか」井吹重平は息を詰めるようにいった。「話にはきいとったが、こりゃたまげた。まるっきり鏡に写っとるのと同じですたい。ありのまま抜き取るごと見える」 「わたしもたまげましたと。……上海じゃあんた、この写真術を商売にしとる店が何軒もあって、そこに行きさえすれば、何枚でもこしらえてくれる。……今ああたがいわれたごつ、そうそう、何枚でも写してくれるという話ですたい」  寺男の女房が、井戸水に冷やした徳利を桶《おけ》に入れて運んできた。それも住職の案らしく、桶には水が張ってある。長与三彩の深い盃《さかずき》とそれに梅干し、味噌漬けの茗荷《みようが》は何時もの肴《さかな》だ。有馬永章は素早く酒を注いで彼に渡す。 「どんげんですか」 「こりゃうまか。和尚のいわれたごつ、こりゃ浮世離れのしとりますたい。……そうか、浮世離れというより、日本離れといわにゃいかんな」 「いがわ般若湯の欠点は飲み過ぎることですたい。口当たりのよかけんいくらでもいくる。気のついた時はふらっとなっとりますけんな。……いや、こりゃつまらんことをいうてしもうた。そんげん意味じゃなかとですけん、どんどんやってくれまっせ」 「和尚も弁解さるっときがあっとですね」  井吹重平がそういうと、住職は口を大きく開いて笑った。呼んだのは単に写真を見せるためであったのか、いまひとつ裏にあるものを感じながら、彼は注がれるまま、二杯目を受けた。仁昌寺の一隅を借りてすでに三年近く、窯を作ってから早くも一年余になるが、用件のある場合は大体、住職自身が出向いてきているし、今日の様子にも何かしら落ち着きがない。 「この頃何か珍しか仏像でん見つかりましたか」  井吹重平は探りを入れてみた。得体の知れない仏像を収集する住職の秘密を彼だけが承知しているのだ。大村湾を望む部落や外海地方の村落には、明らかに切支丹の面貌《めんぼう》を宿したさまざまの観音像が残されていて、それを運んでくる者に有馬永章は一定の銭を支払っていた。反面、白い土で彼の製作する仏像や香炉を捌《さば》く仕事も引き受けてくれており、それに関係する協約のようなものが二人の間には自然に成立していたのである。  井吹重平は陶工としての自分の存在を世間に知られるのを好まず、それらはすべて住職自身の窯ということになっていた。利益は殆ど折半、その代わり、仕事場で別にどんな仕事をしようと、有馬永章は触れさえしなかった。 「碌《ろく》なものは持ってきませんと」  住職は立ち上がると、隣の部屋から反物の包みに似たものを持ってきた。そして、紙の被《おお》いを開いて中からかなり幅広い布に描かれた一枚の地図を取り出した。右側に長崎を中心にした肥前国の図絵。五島を挟《はさ》んで左方に展開する大陸は清《シン》の国か。地名はすべて英語で記入されている。 「大したもんですたい、こりゃ」井吹重平は呻《うめ》くような声をだした。 「そこば見らんですか。上海と書いてあるらしかですよ」  有馬永章は地図の一点を指差した。確かにそこにはShang-haiという字がありNagasakiと書かれた一帯の海岸線もこれまで見たこともないように、精緻《せいち》に描かれている。 「何処で手に入れなはったとですか。こんげん見事なもんば……」彼はいう。「こりゃ色の具合からして日本人の描いたものじゃなか」 「長崎と上海の辺りの地図で、いまいちばん正確なもんがこいらしかですたい」有馬永章はいった。「奉行所にでん知れると、それこそ大事になるといいよらしたが、わたしのごと英語の読めん者にでん、なかなかのもんだとわかりますけんね。なんかこう目の中の広うなったごたる気色になりましたと」 「IsahayaにShiotaか。……諫早《いさはや》や塩田のことまででとりますたい、ほら、此処《こ こ》には神浦《こうのうら》のありますと」 「神浦までついとるとですか。やっぱし向こうの者たちゃ目の肥えとるとですたい」 「奉行所にでんなかですばい、こんげん地図は……」 「そこで相談のあっとですと」  有馬永章は辺りを窺うような口調でいった。 「こいと同じものば作ってみる気はなかですか」 「同じものば……」井吹重平は声を詰まらせながら、相手の顔から地図に目を移した。 「こいならだいでん欲しがるとでっしょ。……上海からでんでたことにして何処の藩にでん持ち込めば、それこそ飛んで行きますばい。井吹さんの腕ならできると思いますばってんね」 「そりゃできまっしょが、一枚一枚描くとなりゃよっぽど骨の折れますけん」 「一枚一枚描くとじゃのうして、版画でならどがんでっしょか。こんげん詳しか絵図は難しかでしょうが、神浦までも描かんごとすればできるとじゃなかですか。海岸の輪郭だけでん正確なら、そいでもう用は足りると思いますと。薩摩でん長州でん、いまいちばん咽喉《の ど》から手のでるごたるとは、海岸のことですけんな。海岸の線とそこに通じる道や越えにゃならん山さえはっきりしとれば、ほかのこつはあんまり必要なかとでっしょ。そりゃあったにこしたことはなかでしょうが、そこんところは省略してもどうちゅうことはなか。必要な個所だけこれを丸写しにして、そいで版に刷ったら、そいこそよかとのできますばい」  切実な口調には、よっぽど金の必要な心底が見えている。それだけになおむげに拒《しりぞ》けられない理屈と力を含んでいた。確かにいま、ひたすら軍備を貯えつつある諸雄藩に、この地図は何より重要なものとなろう。それにまた、彼が版画でひそかに何を刷っているか、百も承知の上での相談なのだ。 「そいでも覚悟してやらんと危なかことになりますばい」 「絶対にそんげんことにはしまっせん。万一、そんげんことになっても、ああたを危なか目にあわせるようなことはなか。これは約束しますと」彼の言葉に可能性を得て、有馬永章の表情は一瞬のうちに変わった。 「どいだけのもんができるか、それはわかりまっせんが、やってみまっしょ、そいじゃ……」 「よかった、甲斐《かい》のあった。……」  徳利を持つ住職の手は心持ち顫え、その時、かすれた山鳥の啼《な》き声が墓地の方角から伝わる。    18  くら橋がふたたび増屋の店先に立ったのは、未《ひつじ》の刻(午後二時)を少し廻った時分であった。もっと早くそうしたかったのだが、相手の思惑も考えて懸命に辛抱していたのである。昼前に訪ねた通り、帳場には二人の男が坐っていて、そのうちのひとりがまるで定められた文句を告げるような応待をした。冷たい茶を運ばせたその後に。 「先程はどうもすまんことばしました。そん時確かめとけばよかったとですばってん、番頭さんは店の用事で、今朝方、早かうちから伊万里まで出かけなさったそうです。気のつかんことで申し訳のありまっせん。……」 「そんげんですか。……」そういうことかと思いながら、くら橋はいう。「そいで、伊万里からは何時頃戻りなさっとでっしょか」 「仕事ん都合ではっきりしたことはいわれませんばってん、十日ばかりかかんなさるそうですと。博多の方に廻れば半月にもなりまっしょか。その辺のところはどうにもわかりまっせん」 「だんなさんのおらるっとなら、染田屋のくら橋が会いたかと伝えてくれまっせ」 「そんがいま、寄り合いのあって、主人もおらんとですよ」  お仕舞いだという瞬間が、たった今ではなく、もうとうの以前からつづいているような気持ちのまま、くら橋は帰りの挨拶さえ忘れた。何が伊万里なものか、七十郎も主人も店の奥にいて、自分のきたことを知ると、慌てて見えすいた対策を講じたのだ。  岸壁の繋柱《けいちゆう》に艫綱《ともづな》を舫《もや》っている男が、体を起こして放心したような足どりで歩くくら橋を目で追い、竹竿《たけざお》を担ぐ法被を着た老人は、足を止めてまで同じ素振りをした。  そうか、そういうことだったのか。今こそ七十郎の心底を疑いもなく見届けることができた。ぬしが年季の明けて、博多の店でも預かることになれば、という約束も嘘なら、旦那《だんなん》さまも大方は承知の上だけん、いまは辛抱さえしとけばよかと、の文句もでまかせだったのだ。  飯屋の前におかれた坐り台に腰かけた船乗りたちの鄙猥《ひわい》な声と、荷車を引く男の薄汚れた笑い。花を売る女の髪を被う白い布。煮豆屋の壺。何処に向かっているのか、目差す道順さえ曖昧《あいまい》に、くら橋はただ海沿いの道を急いだ。  そしておよそ小半刻も歩いた頃、彼女は行き止まりの岸壁にでた。低い軒先の家々が海に張りだすような恰好で並んでおり、右側には廃船を利用する小さい船着き場も見えた。附近に人影はなく、かといって戸口におかれた水瓶《みずがめ》や橙《だいだい》色の百合《ゆ り》を箱一杯に咲かせた植木棚にはくらし方の色濃いしみがまといついている。長崎の町中ではなく、見知らぬ島の部落にでも迷い込んだようだ。  できれば水を所望しようと思いながら、くら橋はいちばん手前の家の前にしばらく佇《たたず》んだ。しかし居住者のでてくる気配はなく、つい水瓶の蓋を取ろうとした時、背後に人の近寄る足音がした。くら橋はぎくっとして振り向く。 「そん水は飲まれんと」 「すみまっせん、勝手なことばして」 「飲まれんことはなかが、潮臭うてかなわんじゃろう」  不意にあらわれた男は深編笠よりもやや平たい布と藁《わら》をよりあわせたようなものをかぶっていて、それを取ると、声よりも若い三十近くの顔をみせた。 「中にうまか水のある。いま持ってくるけん待っとるとよか」 「おおきに」 「中に入れといいたかばってん、そうもいかんしな」  男は水瓶をおいた家の隣に入ると、間もなく大きめの茶碗を運んできた。 「冷めとうはなかが、飲み水のいがわから汲《く》んできたとじゃけんね」  くら橋はそれを一気に飲んだ。 「その分じゃもう一杯欲しかとやろう」 「もうよかとです。大切なもんですけん」 「水ぐらい、あんた……」  男はそういうと、茶碗を受け取って再度家に入った。  二杯目の水も殆ど息をつかずくら橋は飲み干した。 「もう一杯、どげんね」 「いえ、もうよかと」 「よっぽど渇いとったとみゆるね」男はそこでくら橋の顔を正面から見た。「だいか、訪ねる者でもあってきなさったとね」 「いいえ」と、くら橋はいう。「椛島町からただこっちの方に歩いてきただけですけん」 「そりゃ、また……」空の茶碗を手にして男はいう。「椛島町からじゃ、口ん中も渇くはずたい」 「此処から先はもう行けんとですね」  男はしばらく答えず、それから首をのばすようにして港の方を見ながら「行けんことはなかよ」という。 「もっとこいから先まで行きたかとなら、船に乗らにゃならん。そんげん気持ちなら何時でも船ば漕《こ》いであぐるばい」 「船ば漕いでたいね。……」くら橋は受けたが、口から単にそういう言葉を吐いたに過ぎなかった。 「こんげんことをきいてよかとかどうかしれんが、ひょっとしてあねさんは丸山のひとじゃなかと」  そうか、誰かに似ていると思う印象は、待合小屋の中で紙片を貼った男の股引《ももひき》だったのだ。木棉《もめん》地の擦り切れた紺をこの男も身にまとっている。  くら橋が頷くと、男は大仰な声をあげた。 「丸山の太夫がどんげんしてまた、こげな場所に……」 「太夫じゃなかと」 「太夫じゃなかとなら何ね」 「太夫には誰でもなれるとは限らんとよ。うちはただの格子ですけん」 「ようとはわからんばってん、丸山のおなごに間違いなかとたいね。こりゃたまげた。又次の騒動がありよると思うとったら、先方から鶴が舞い降りてきよった」  又次の騒動というのは、待合小屋で紙片を貼りつけた男からきいた尾崎にまつわる一件か。船乞食が太夫を名差して蘭水にあがった話を知らぬでもなかったが、くら橋の心はすでにそこから随分と離れていたのである。  彼女は男の言葉から遠ざかるように、船着き場の方に歩いた。男は何を考えたか家の中に引っ込むと、間をおかず飛びだしてきた。皮袋を手に握りしめている。 「丸山のおなごしなら頼みのあっと」男は皮袋を突き出しながら、唾のたまった声でいった。「持っとるだけの金ばあぐるけん、おるの相手をしてくれんね。……あねさんがこんげん場所にきとらんのなら、思いもせんことばってん、丸山のおなごしがいま目の前に立っとるのを見て、そんげん気になったとたい」 「おうちは丸山で遊びなはったことがあるとへ」 「冗談のごつ。丸山で遊ばれる位なら苦労はなかと。そりゃ行こうと思えば行かれんこともなかろうが、そんげん細工までしてあがろうとも思わんけんね。……」  丸山で遊ぶのにどんな細工がいるのか。くら橋ははっと思い当たった。もしかするとこの男も船乞食の一統ではないのか。 「無理ちゅうことはわかっとると。そいでもこんげんことは滅多になかとじゃけんね。ああたを鶴と思うて頼むとたい」  鶴。くら橋は陽にやけた黒い顔と、緊張して顫えるような男の唇を見た。 「おうちの頼みばききまっしょ」 「そうね、きいてくるっとね。……」男はかすれた声をだした。「そんかわりだいにもいうたりはせんけんな。ああたの困ることはせんと、こいだけは約束するばい」 「そんげんこつはどうでもよかと」くら橋はいう。七十郎は伊万里に行ったという嘘にさえならぬ嘘。 「こいばみんなあぐるけんな。いくらも入っとらんばってん、入っとるだけでかんべんしてくんなっせ」  皮袋の銭をあけようとする男の手をくら橋は押し留《とど》めた。 「銭はいらんとよ」 「そいでも……そいじゃおるの方が畜生になってしまう」 「おうちが頼みなさったけん、うちがきいてあげた。そいでよかとでっしょ。……代わりというちゃ何ばってん、おうちの相手ば勤めたら、うちを船に乗せてやんしゃい。何処でんよかけん、海の深かところに行ってみたかと」 「海の深かところ。そんげんところに行って何するつもりな」男は眉をひそめた。「そんげんおるの相手ばするとが嫌なら、このまま黙って帰ればよか。無理矢理何も通せんぼしとるわけじゃなかとよ」 「何を怒んなさっとるね」くら橋はいう。「おうちば嫌うていうたとじゃなかとよ。海の深かところに行きたかとは、どんげん仕様もなか自分の心を鏡のごとそこにうつしてみたかと。そいもおうちのせいじゃなか」 「わかったばい。おるのひねくれば許してやんしゃい」男は素直に謝った。「そいでも、おるのせいじゃなかというても、ひどう気にかかるとたいね。第一、こがん場所にああたが迷い込んどることがおかしか。……船に乗りたかちゅうならそりゃもうよろこんで連れて行きもするが、あねさんにとっちゃよっぽどのことのあるとじゃろうな」  それに応ぜず、くら橋は男の家に足を向けた。恐らく今頃はひと騒動になっているに違いない染田屋と、増屋を楯《たて》にして逃れようとする卑怯《ひきよう》な七十郎を秤《はかり》に載せ、鶴だと思って頼むという男に埒をあけさせる時間を錘《おもり》にするような気持ちであった。  先程そこから飲み水を汲んでくれた飯銅《はんど》(炊事場の水瓶)をおいた板の間と、奥の六畳位の間取りが男の部屋のすべてだ。畳はなく、目の荒い茣蓙《ござ》が二枚、部屋のほぼ真ん中に敷かれている。垂れ下がった布を男がたくし上げると、そこから港が見え、対岸の山並みにかかる薄い靄《もや》の中に、焚火《たきび》に似た明かりがしきりに明滅した。 「汚なか家じゃけんな。掃除もされんごつしとる」 「おうちひとりで住んどんなはるとね」 「一昨年までは妹も一緒におったばってんな。……」  何を暮らしの糧にしているのか。男は語らず、くら橋もきかなかった。海際に寄り合う家々のたたずまいは漁師のそれとも異なっていたし、男の口からさらりと、又次の騒動という言葉がでたのも、船乞食と結びついて感じられたのである。 「見晴らしのよか」くら橋はたくし上げられた布の下に坐った。「稲佐はあの辺りでっしょ」 「稲佐はずっとまだ向こうの方たい」 「おうちは稲佐のロシヤ水兵の休息所というとば知っとんなさるね」 「知らん。稲佐の休息所ちゅうたっちゃ、何のことか知らん」  驚くほど強い口調でかぶりを振る男に、おやと思いながら、くら橋はまた水を所望した。男は飛びはねるような様子で立ちあがり、それを運ぶと、小さい目を見開くようにしていった。 「おるはいがわで体ば拭うてくるけん、何処にも行かずに待っといてやらんね」 「はい」くら橋は頷く。 「そんげんいうてもいがわは大分遠か所にあっとたい。おるがおらんうちに、ああたに行かれてしもうたら、こりゃもう糸の切れたはた(紙鳶《た こ》)のごとなりよるけんな」 「おうちの戻りなさるまでは、何処にも行きまっせんと」 「ほんなこつ約束したばい」男はいう。「飯銅の水で体ば拭いちゃ、釘《くぎ》ば踏むというけん、いがわまで行くとよ。こんままじゃいくら何でもああたにすまんとだけん」 「待っとりますけん、なるべく早う戻りなはりまっせ」 「よかと。……なんか食べたか物でもあれば買うてくるばい」 「何にもいりまっせんと」 「よーし、そいじゃ走って行ってくるけん」  下着の着替えでもあろうか、小脇に抱えた風呂敷包みを持って男が出て行った後、くら橋はふっと濡れた袖口に気づいた。降りみ降らずみの糠雨《ぬかあめ》とはいえ、着物は全体にじっとりと湿っており、首筋に触れると、水滴さえも手につく。手拭いでもないかと探しても見つからず、押し入れを開けるわけにもいかぬまま、くら橋は袖口を絞っただけで、再度海に面して坐った。  七十郎のことはもう一切考えたくない。虫けら同然の変心者はきっぱりと心から捨て去るのだ。魯西亜《ロ シ ヤ》でも阿蘭陀《オランダ》でも、いっそ唐館か出島に住みついて、思う存分の振る舞いをしてみようか。主人太兵衛の前に坐らされる前にそういえばよい。  いわるる通り、ワシリエフというひとのところに行きます。ワシリエフの船が出て行った後は、出島にでん行きますけん、誰かよかおひとばみつけとってくれまっせ。  しかし、それさえもどうでもいいような気がする。太兵衛に引きずられてどんな仕打ちを受けようと、相手は抜け殻を打ち据えるだけだ。  馬関《ばかん》か上方にでも向かうのか。かなり大きな荷船がゆっくりと出港して行く。前の帆はまだ上げておらず、舵《かじ》を取る船頭が片方の腕をのばして何やら指図しているが、声は届いてこない。  七十郎にはきっと、増屋主人の世話できまった後添いでもできたのだろう。丸山の女郎をしゃんすにしているという話がきこえては、折角の段取りが毀《こわ》れてしまうという、廻船《かいせん》問屋のずる賢い性根と世間体。それとも何か、こんげんよか話ば袖にして、染田屋の女郎に心中立てするつもりか。一体あのおなごに何ができる。博多に店を持って、切り廻しひとつできるというとか。  でもそれならそれと、七十郎はなぜそれを、あからさまな事実をひと言でも弁明しようとしないのか。くら橋は帯の上を押さえながら、増屋の奥に息を潜める顔を今度こそ抹殺《まつさつ》しようとした。  すぐ間近に櫓音《ろおと》がきこえたので、くら橋は身を引いた。 「おーい、かへえじは帰っとるとか」  声は確かにこの家にかけられている。くら橋はさらに体を隅に寄せた。 「かへえじ、かへえじ、おるとなら顔ばださんや」  何やらぶつぶつひとり言を繰り返して、櫓音が去ると、みるみるうちに薄暗くなった。と、まるっきり動かぬ海面から立ちのぼる雨が辺りを被う。  この雨中に、遠ざかる船は前帆をあげ始めた。あの船に乗って上方にでも逃れてしまえばどうなるか。それとも博多の遊廓《ゆうかく》にまぎれ込んで、七十郎の明日に、目にものみせるか。  砂のような考えを交錯させながら、そういう考えを持つこと自体を嘲笑《ちようしよう》するかのように、くら橋は口許を歪《ゆが》めた。  海面から立ちのぼる雨は一層激しくなり、番傘を差して櫓を漕ぐ男が懸命に舟を岸壁に近づけようとしている。 「傘ば持ちなはらんと思うて、心配しとったとですよ」 「そんげんこつはちゃんと用意のよかとじゃけん」 「もうせんから房吉さんのきとんなさると。……」  そこから姿は見えぬが、多分船着き場にでも女房が傘を持って迎えにでているのであろう。女房か。くら橋は後のやりとりをきくまいとして板の間に立つ。    19  霧雨に濡れる墓地の合間に咲きこぼれる百日紅《さるすべり》の花はまるで遊廓の軒に下がるぼんぼりのように浮かぶ。大音寺横手の塀からやや上がった場所に尾崎はしばらく立っていたが、誰もあらわれる気配がないので、なお石段を五つ六つ踏んでみた。  気晴らしに小半刻ほど外を歩きますといういいわけを主人太兵衛は胡散《うさん》臭い顔をしながら承知し、できる限り地味な身形《みなり》をしてきめられた時刻には少し早目にでてきたのである。雨を除《よ》ける傘は姿を隠す恰好のおおいともなった。二重門をでる時、もしやと気にかけた馬(主人言い付けの尾行者)も見当たらぬ様子で、あまり通行人の目を引くこともなくやってこられたのだ。  長崎のうちでは最も広い境内を持つ大音寺なので、裏の墓地といわれても俄《にわ》かに定め難いのだが、往来から山手に通じる道といえばそこしかなく、尾崎はさらに歩をすすめて、周辺を見渡せる地点に立った。  生まれてから九つの年まで、いわば墓地の中で育ったといってもいい彼女にとって、花瓶《かびん》にたまる水と線香灰の匂いは両様の意味を持っている。父親の懐にでも帰るような親しさと、他に語るもののなかった限りない淋しさと。  笠松家先祖代々之墓と書かれた墓石の蔭にうごめくものは鼠か。禿の頃、染田屋にいた伝助という男衆と遣手に連れられて、墓掃除に行き、手鞠《てまり》程もある鼠に飛びだされて尻餅をついたことがあった。  足音がしたので尾崎は傘を倒してそちらの方を見る。勾配《こうばい》のきつい坂道を、ゆっくりした足どりで踏みしめるように下りてくる男が、手紙に記された「又次ゆかりの者」か、相手は尾崎に近寄ると、傘の柄を持ち直すような素振りをして、丁寧におじぎをした。 「難しかことば頼んだとに、ようきて貰いました」 「そしたら、おうちが……」 「はい、いきなり手紙ばつけたりして、失礼かと思いましたばってん、あんげんことでもせんと、あねさんに話を通じることはできんし、ほんなこつ、すまんことばしましたと」  年頃はもう四十近くなろうか。しげのいう通り、確かに「普通の町方のひとのごたる」様子であったが、広い額と輪郭の強い顎《あご》から発する面相は、武芸者のものといってもよかった。 「そいでうちに、どんげん用事のあんなさるとへ」 「又次ちゅう船乞食が、いま溜り場につながれとるのは知っとんなさるね」 「はい、主人からききました」 「そうね、知っとんなさるなら話ばしやすか」男はちらと坂下の、大音寺の南寄りにある大光寺の方角に目を走らせた。そして「もうちょっと蔭に寄った方がよかごたるな」といいながら、石垣と墓地の間にすっと体を移した。尾崎もそれにつれて歩む。「話はすぐすみますけん、きいとってやんなっせ。……又次というもんはあたしの甥《おい》ですたい。申し遅れましたばってん、あたしの名前は日蔵。日に蔵と書きますと。だいでん(誰でも)おかしな名前といいよりますと。……筋道ば急がにゃなりまっせんが、又次が染田屋にあがって、ああたば名差したことは、からかいよったとでも、わるくろ(悪太郎、いたずら)のことでもなかったと。ありゃみんな底の底から思い込んどったほんなこつの気持ちですたい。わたしはよう知っとりますと。……又次は早うからあたしの家で育てとりますけん、甥じゃというても子供と変わりまっせん。そいけん、又次の胸のうちは隅々まで何でん初手からまる見えですたいね。……そりゃ、船乞食という身分ば隠して染田屋の太夫ば名差しよったちゅうとは無茶です。遊び方も知らずにようそんげんことができたと、あたしもたまげました。そいでん、丸山のしきたりも遊び方も知らんやったけん、あげな無茶をやれたのかもしれん。そんげんふうに考えると、又次の仕出かしたこともいくらかわからんわけでもなか。……常日頃夜遊びもせんと又次が銭貯《た》めよるとは知っとりましたが、まさか太夫を目当てにしとるとは思いもかけまっせんもんね。そんならそうと、ひと言いうてくれれば、思い留まらせることもできたし、何かほかに気持ちば移させることもできたとにと思いますたい。……そいでも又次が何年も前からああたのことば思いつめとったことはようと身に沁《し》みたごとわかりましたと。今もいいましたごと、夜遊びひとつするじゃなし、娘ひとり相手も作らんやったとは、みんなそこに望みばかけとったとですたい。望みばかけとったというても、丸山の太夫ばどげんもできるわけじゃなか。いくらあいつがものを知らんというても、そん位はわきまえとったでっしょが、ひと晩でんよかけん、思いば通じることをたったひとつ願うとったとに違いなかとですたい。……叔父甥の口からいうちゃ何ですばってん、又次はそりゃ、気性のさっぱりした、朋輩《ほうばい》からも年頃の娘も、みんなから好かれとったとですよ。そん又次が誰にもあかさずに、ただひと筋に自分の胸のうちだけにしもうとった思いを、何年がかりで遂げようとした。あたしはそいが不憫《ふびん》でならんとです。……」  日蔵と名乗る男は一気に喋ったが、尾崎は答えようもなかった。雨の中を大きな輪を描きながら飛び去る鳶《とんび》。 「こりゃつい、勝手なことばかり喋ってしもうて。……又次は何も騒動を起こすためにああたを名差したとじゃなか。あいつは心の底からああたを思うて、それであげな身形まで作って染田屋にあがった。そんことだけ、ああたに知っといて貰いたかったと。……」 「ようわかりました」尾崎はいった。 「念のためにいうときますばってん、今あっちこっち騒動を起こそうとしとるもんたちは又次の気持ちとはかかわりあいのなかとですたい。関係のなかといっちゃ何ですが、あんもの達は又次のやったことば自分ら一統の面汚しみたいに考えとるとです。その辺のことは詳しゅう話さんとわからんでっしょが、はっきりいうてしまうと、丸山からまでつまはじきされとる人間が、何も手前の方から尻尾《しつぽ》を振ることはなか。まして何年越しの金ば洗いざらい持って、太夫ば名差すとは何事か。……まあそげんふうな理屈で、いうてみればそれもまた筋道は通っとりますと。こりゃああたにいうとじゃなかとですばってん、世間の冷たか仕打ちにこっちからじゃれることもなかですけんね。……そいでも、それはそれとして、又次の心まで面汚しというふうにいいとうなか。あたしはそう思うとります。……好いた惚《ほ》れたにゃ理屈はなかですもんね」 「そいでも、そんげん騒動のひどうなったら、溜り小屋に入っとんなさるおひとはいよいよでられんごとなりまっしょ」 「そうですたい。そいば心配しとっとですが、今となっちゃどうにもならんかもしれん。事の成り行きがちょっと後ずさりできんごとなっとりますけんね。……」  船乞食といいかけて、尾崎は別のことを口にした。 「あんひと達は、今度のことばよっぽど恨んどんなさっとですね」 「今度のことというわけじゃなかと。……胸んうちにずっとくすぶり続けとった無念さが、又次んやったことでいっぺんに燃えさかったとかもしれん。溜り場におる又次が、こん二、三日のことを何処まで知っとるか、そりゃわからんばってん、伝わっとれば案外覚悟を決めとるかもわからんと」 「覚悟ちゃどんげん覚悟ですか」 「いや、自分の溜り場におるとが長うなっても、ひょっとして騒動の広がるとをよろこんどるかもしれん。そんげんふうにふっと思いましたと」 「騒動のことは又次というおひととかかわりあいのなかこと。そんげんいわれたとじゃなかとへ」 「何ばいいよっとか、あたしは自分でもこんがらがっとりますと。何でもいっぺんにいうてしまおうとするけん、そん辺がわけのわからんごとなるとですたい。又次の現にやったことはわかっても、考えとることはまた違うとですけんな。……又次が染田屋に行った時、船乞食の一統がこんげんことをしでかすとは思いもかけんやったとでっしょ。それが自分のやったことば口火にして、妙な文句の歌まで貼りだされるようになった。こりゃもう又次にしても考えてもみんやったことですたい。そうと知ったらあいつはどんげん考えを持つか。そこんところはあたしと一緒じゃなかですけんね。……いまいうた、妙な歌をどうこうして貼っとるちゅうことは、この場だけの話にしといてくれまっせよ」 「わかっとりますけん」 「船乞食の一統というても、全部というわけじゃのうして、やっとる者はほんの何人かですたい。そいでもほかのもんがそれにきつう反対しとるかといえばそうでもなか。まあ自分に災いさえかからんとなら、やるだけやって、騒動はなるだけふとうなる方がよか。みんなそんげんふうに思うとりますけんね」 「ただ蘭水にあがんなさったというだけで、なして溜り小屋にまで入らにゃいかんとか。うちはそいがわからんとですよ」 「そりゃあたしたちにもわからんと。そんげん極《き》まりになっとるというても、誰が何時丸山で遊んじゃならんと極めたとか、はっきりしたものは何にもなかとですけんね。そんくせ、丸山に遊びに行っちゃならんと、自分たちで極めてしもうとる。……」  気のせいか、葉擦れの風まで足音にきこえる。小半刻が半刻でも、特にどうということはなかろうが、それにしてもそう余裕のある刻限ではない。まして、墓地での出会いを見られたりすれば、内実はどうあれ弁解しようのない噂になるのは目に見えている。 「さし当たってうちにできることばいうてくんなっせ」尾崎はいった。「せんじつめていえば、みんなうちからでたことですけん、お詫《わ》びせにゃいかんと思うとりました」 「ああたに詫びて貰うことはなか」  気色ばんだ日蔵の声はすぐ平静に戻った。 「あたしはもういうこつはみんないうてしもうたと。用事はそれだけですたい。こんげん場所に呼びだしたりして、とてもかなえちゃ下さらんと思うとったのに、わざわざ足ば運んで貰うて、そいだけでもう何もいうことはなかとです。こんことばきいたら、又次もさぞ胸のしこりのおりることでっしょ」 「おうちにひとつ頼みたかことのありますと」尾崎はいう。 「何ね、頼みたかこっちゃ……」 「又次というおひとは、そのうち遅かれ早かれ溜り小屋からでなはるとでっしょ。そん時、うちに一度会わせて貰いたかと」 「又次に会うてもよか。ああたは今そんげんいいなさったとね」 「はい、うちの直接知らんやったことでも、あげな仕打ちばして、ほんなこつすまんやったと思うとります。そいけん……」 「いやいや、そん言葉だけで充分ですたい。おおきに、蘭水の太夫からそんげん言葉までいうて貰うて、又次のきいたらどげんよろこぶか。ほんなこつお礼ばいいます」 「挨拶だけでいうたとじゃなかとです。そりゃ詫びもせにゃなりまっせんが、うちのごたるとば相手にするために、何年も働いて銭ば貯めなはった。その心根にお礼をいいたかとです。……というても、何日と日は極められませんばってん、都合ばみて必ず暇ば作りますけん、溜り小屋からでられたら、どうぞ知らせてくれまっせ。手紙をことづかってきたとは、しげさんという賄方のおなごしですけん、そん名前ばいうて呼び出して貰えば、用向きの受け渡しはできますけん」 「ああたはほんなこつ、よかおなごばい」日蔵は語尾を詰まらせた。「思うてもみらんことばいうて貰うて、言葉もなかと。又次の飛び上がるさまが見えるようですたい」 「そいじゃ、うちはこれで帰りますけん。又次さんによろしゅう……」  立ちつくす日蔵を背中に感じながら石段を降りる時、尾崎は平戸の墓に飛び交う黒(蝶)を胸中に放つような気持ちであった。手紙を受け取る以前から又次という男に会ってみたいと、きっとそう考えていたに違いない。平べったくなった石段に立ち止まって会釈をすると、日蔵は傘ともども深いおじぎをしてそれに応えた。大音寺の門脇から大光寺の下、そして南光寺の角を折れると、俄かに人影が多くなる。尾崎は傘を半ばすぼめるようにして帰途を急いだが、それでも人々の目からすべてを逃れることはできなかった。 「あれっ、あそこに行きよらすとは蘭水の太夫じゃなかな」 「ほんなこつ、行きよらす、行きよらす。こんげん時刻に、一体何事のあったと」 「へえ、てんとさんの下でみると、一段とまばゆかねえ」 「おてんとさんなんかでとらんばい。雨降りじゃけんな」 「雨だけじゃのうして嵐になるかもしれんぞ。尾崎太夫がひとりで歩いとんなさるとだけんな」 「あんげんおなごば嬶《かかあ》にしよったら飯のお菜なんかいらんじゃろうね」 「お菜どころか、ぬしなら飯もいらんとじゃなかか」 「飯なしの嬶か、そいじゃ永うは生きらんばい」 「十日でんよかばってんな」 「何が」 「飯なしで一緒におっとたい」 「飯なしで十日も寝たきりに寝とったら、それこそ骸骨になってしまうばい」 「骸骨になったっちゃよかと。蘭水の太夫なら死んでもよかとじゃけん」 「ほら、ぬしがあんまり妙ちきりんのことばいうけん、曲がらんちゃよかとこば曲がらしたたい。……」  見世物でも見るように、間近にくっついて離れなかった二人連れがやっと去ったかと思うと、今度は醤油と味噌を売る店から小僧や番頭までが飛びだす。それから通せんぼするような恰好で傘をのぞき込む女房や娘たち。こんなことなら廻り道に踏み込んだりせず、真っ直ぐ行けばよかったと悔みながら、尾崎は耳に栓をした。そしてやっと本石灰町に通じる橋を渡り終えた時、「盗《ぬす》っ人《と》だ、つかまえてくれっ」という声がきこえた。  人影がひとつ脱兎のごとく川沿いの道を油屋町の路地に逃げ込むのが見え、その後を両手を振り上げるようにして手代風の男がそれを追いかけて行く。 「早か早か。一方は牢《ろう》屋のかかっとるとだけん、あれじゃとてもつかまらんな」  尾崎が声の方を向くと僧衣をまとった三十歳ばかりの男がにたりとした。 「何ば泥棒したとですか」尾崎はついそうきいた。 「それはわからん。あんたと同じ、おれもいま見たばかりだけんな。盗っ人の現場には初めてお目にかかったけん、たまげとるとたい」  尾崎はなぜかおかしくなって、口許をゆるめた。 「あんたは丸山のひとか」 「はい」 「名前は何というとね」 「蘭水の尾崎といいますと」 「蘭水の尾崎か。さすがによか名前ばつけとるたい。何かしらん、愁いば含んどる響きば持っとる」 「さすがといわにゃならんとはおうちでっしょ。上手かことばすらっといいなさるとだけん」  思わず口からでてしまう言葉に、尾崎は自分でもあきれる。路傍だというのに、易々と相手の台詞《せりふ》に乗ってしまうとは。 「高かとやろうな。あんたをひと晩しゃんすにするためにはいくらばかりかかるか、大体のところば教えてくれんか」  長崎弁らしきものを使っているが、相手の口調はまるで違う。尾崎は黙って頭を振った。 「そうか、乞食坊主には手もだせん位にかかるか」 「坊さんのくせに、わるのことは考えなはらん方がよか」 「何の、遊ぶ時はどっかの殿様のごたる素振りばして行くとだけんな。ぱりっとして」 「すぐばれると。尻は隠しても頭隠さずになるとでっしょ」 「尻隠して頭隠さずか。やられたな、こいつは一本」  坊主は大袈裟にぽんぽんと自分のぼそぼそとした不精な頭を叩いた。    20  卯八は新蔵地を望む海辺の飯屋にいた。問屋筋の仲仕を主な客とする酒抜きの味つけ飯屋で、赤飯や炊き込み、それに鯨肉入りの味噌汁や菜など、安価な値段と味で、界隈《かいわい》だけでなく評判をとる店であった。  今し方、七ツ半(午後五時)を廻ったばかりだというのに、たてこむ客のうちに大小の刀を帯びた十二、三歳になる侍の子と連れの老人がいて、お膳を前にしての場違いな雰囲気《ふんいき》が、皆の眼を奪っており、それを意識してか主従の箸《はし》を取る様子は一段と折り目正しいものとなった。  門屋を出た後、念のために小料理屋の中津にも寄ってみたが、昨夜から井吹重平はそこにもあらわれておらず、日暮れを待つより手のないあれこれの思惑に卯八はさいなまれていた。なぜか家に戻る気分になれず、ともすれば頭をもたげそうになる父親の仕事に対する苛《いら》だちを、その都度振り払いながら。彼に撒《ま》かれた尾行者が或いはまだ家の近辺にへばりついているかもしれないのだ。  上がり口に近い食台の前に坐ると、印ばんてんを脱ぐ間も惜しむかのように、早口で喋《しやべ》りだした二人連れの男に、女中が注文をとる。 「今日の炊き込みは何ね」 「牛蒡《ごぼう》に油揚げ、ほかに浅蜊《あさり》もできますと」 「浅蜊か。そりゃ珍しかたい。そいじゃそいば貰うか。味噌汁は普通のもんばな。鯨はいかんとばい」  小娘が去ると、男たちは前の話をつづけ、背中合わせにいた卯八はきくともなくきいた。 「いくら内証はいかんというても、縮緬《ちりめん》ひときれで手鎖三十日はひどか。これまできいたこともなか話たい。なしてまたぼけっとしとったとかね。そうと極《き》まるまで、いくらでん手の打ちようのあったとじゃなかか」 「そいには伊王島のばはん(抜荷買・密貿易)のいっちょ絡んどると。ふとか声じゃいえんばってん、そいで今、唐館じゃちょっとした騒動になっとるとげな」 「唐館の騒動ちゃ何のこつね」  そこで跡切《とぎ》れた男たちの声は、女中が膳を運んでくると、ふたたび息を吹き返した。 「縮緬ば腰巻きにしたというてとがむるとなら、丸山のおなごはみんなとがめにゃいかんごとなるたい。違うな」ひとりはいう。「唐館ばでる時、探り番にでん見つかったというならまだわかるばってん、腰巻きに作ってしもうてからいかんというとは、一体どげんしたことやろか。吉乃ば相方にした男が奉行所に差しでもせんことには誰にもわからんことたい」 「そいけん、そこに伊王島のばはんの絡まっとるというたじゃろうが。ほんなことをいえば、吉乃の腰巻きなんかどうでもよかとたい。問題はその緋《ひ》縮緬がどげな経路で唐館に入ってきたか、それば突き止めるとが目的じゃけんな」 「どうもようわからんことのあると」 「何が」 「縮緬か緋縮緬か知らんばってん、吉乃のつけとった腰巻きはどっちみち唐館の阿茶《あちや》さんからでてきたとじゃろう。唐館にあったとなら、とにかく筋道のちゃんとついとる品物たいね。そいがどんげんして伊王島のばはんと結びつくとか、そこのところがどうもわからんと」 「この頃のばはんはそいだけ手の込んどるとたい。どんげん仕掛けになっとるか、おいもようは知らんが、唐船に乗せてきた品物がすんなり唐館の蔵に入らずに、伊王島か野母崎《のもざき》辺りでひと息もふた息もついてから運んでくると、大分甘か汁のでかたの違うとじゃなかろか。志々伎《ししき》の山蔭《かげ》までばはんしに行くという話もでとる位じゃけんね」 「志々伎ちゅうたら、平戸の志々伎ね」 「そうたい、平戸の志々伎たい。そこまでは番所ん船も目の届かんけん、肝心の品物はさっさと和船に積み変えて、そいから知らん顔して長崎に入ってくるとげな。そのまたこぼれば狙うて、むらがっとる奴のおるけん、奉行所でも手を焼いとるとよ。縮緬の一件もみせしめのとばっちりと、いうとる者はいうとると」 「緋縮緬というとったな」 「そうたい」 「緋縮緬の腰巻きばあからさまにちらつかされたら、誰でもかっとなるとじゃなかか」 「ぬしはすぐ話ばそこに持ってくるとじゃけんな。……」  卯八は茶瓶《ちやびん》のでがらしを飲みつつ、背後のやりとりをきくともなくききながら、何となくそこに塩辛売りの煙草を結びつけていた。普通の煙草じゃなかとですばい。ひと口吸うたら世の中のことがみんな極楽に見ゆっとですけんね。  ばはんにまつわる噂《うわさ》と実際、さして珍しくもない話題だが、往来で声をかけてくる煙草売りは初めての経験であった。  そういえば、井吹重平と付き合うようになって間もなく、似たようなことを話した記憶がある。  最初の出会いと同様、馬場芝居に毛の生えたような小屋掛けの興行を連れ立って見ての帰り、井吹重平がさりげなくいいだしたのだ。 「なんとのう、熱の入らん芝居じゃったな」 「あんげんぱらぱらの客じゃ、やっとる方もつまらんとじゃなかですか。それに、何ばやっとるとか、筋書きの難しゅうて、台詞ばいうとがやっとのごとしとりましたけんね」 「本物の役者はひとりか二人。あとはみんな素人の一夜仕込みたい。そいけんあげな間のびした芝居になったとよ」井吹重平は考え込むような口ぶりでつけ足した。「そいにしてもひどか芝居じゃったが、まさかばはんの見せ掛け興行じゃなかろうな」 「何ですか、そのばはんの見せ掛けちゅうとは」 「芝居はただ見せ掛けの看板ということたい。大層な儲《もう》け口はほかにあって、なんでそげなくらしのできるとかといわれんごと、幟《のぼり》ば立てとると。わたしたちゃ、これで食うとりますという証《あかし》にな」 「そうすると、その大層な儲け口というとが、ばはんちゅうわけですたいね」 「そんげんこと」 「話にゃききますばってん、ばはんは、そんげん儲かるとですか」 「そりゃ儲かるさ。ぬしは末次平蔵の騒動ば知っとるじゃろうが」 「抜荷買ばしとった長崎代官でっしょ」 「そうたい。自分で船ば持って、唐人相手に大がかりなばはんば何年がかりでやりよった、代官にしちゃ勿体《もつたい》なかごと度胸のある男たい。そのばはんが発覚して子息の平兵衛ともども隠岐《おき》に流刑された時、闕所《けつしよ》目録に記されとった金銀にゃ、幕府の方がたまげたというけんな」 「末次平蔵の騒動は確か芝居になっとるとじゃなかですか」 「〈博多小女郎浪《なみ》枕〉なら、けづり八右衛門のことたい。近松の芝居じゃ、毛剃《けぞり》九右衛門になっとるが、こん男もまた五島ん沖のばはんでしこたま儲けよったと。大坂の海部《かいぶ》屋半兵衛の家に泊まっとったところをつかまって、こいもまた島流しになったとばってん、堺や博多のあっちこっちにおいとったしゃんすの家の床下にゃ、千両箱のごろごろしとったという話ばい」 「話半分にきいても、大分儲かるごたるですね」 「話半分じゃなかと。さっきいうた末次平蔵の闕所目録は千両箱どころじゃなかったとよ。八千七百貫の銀と三千両入りが三十、黄金千枚で十箱、正宗の銘刀その他が二百腰、それに伽羅《きやら》の下駄、珊瑚《さんご》、瑪瑙《めのう》の硯《すずり》など、ありとあらゆる宝物がしめて六十万両にのぼるというとだけんな。……芝居の千両箱どころじゃなかとよ」 「そのうちの一枚でんよかですばってんね」卯八はいった。「そいでも、ああたは闕所目録とか何とかいうて、そんげんことばいちいちよう覚えとんなさるたい」 「その昔、ばはんの一味じゃったと」 「高か声ばだしたらきこえますばい。いくら冗談でも……」  井吹重平はわざと声をひそめて、「ばはんはばはんでも、もうひとつのばはんたい」といった。 「もうひとつのばはんちゃ何ですな」 「新地の荷物蔵に穴ばあけとったと。ちゅうちゅう鼠になって、朝鮮人参《にんじん》ば一本ずつかじってきよった」 「何処《ど こ》まで本気でいいよらすとかわからんけん」 「すらごと三分、本気三分、あとの四分は金次第、か」井吹重平はいった。「景気直しにこれから一丁、毛ずねばはん組の旗上げば祝うて、丸山小女郎浪枕といくか」 「そりゃよかですばってん、この前からしょっちゅう、おごっつお(ご馳走)になりっ放しですけんね」 「ばはんで稼《かせ》いだ残り金たい。遠慮することはなかと。……今夜はひとつ趣向ば変えて、ターフル(蘭語《らんご》の食事、転じて洋食の意)から出発するか」 「ターフルちゃなんですな」 「迎陽《こうよう》亭の南蛮料理たい。きいたことはあるじゃろうが」 「迎陽亭の名前は知っとりますばってん、食べたことはありまっせんと。……そいでも矢張りそんげんところはおとろしかごたる」 「行ってみれば何ちゅうことはなか。おれも二、三度しか試したことはなかが、まあちょっと目先の変わっとる卓袱《しつぽく》と思えばよかと。……とても全部は食べられんとだけん、好いとる料理ば二品か三品注文すればよか」 「目の保養に、いっぺん食べてはみたかとですばってん、ハアカ(蘭語のナイフ)やホコ(蘭語のフォーク)はとてもよう使いきりまっせんばい」 「しゃれたことば知っとるたい。そいだけ知っとれば上等上等。……」 「吉田屋で食べたちゅう者から、この前習うたばかりですたい。馬鹿が矛で突きよると覚えとけばよかと、きいとりましたと」 「ばあかが矛で突く。うまいこといいよるな」  卯八は茶瓶のでがらしをもう一杯湯呑みに注ぎ、額の汗をしきりに拭く侍の子を見た。しかと判断することは難しいが、話の種に評判の店を訪ねたというより、安価な飯屋を探してきたという恥ずかしさが、主従の面態《めんてい》には隠しようもなくあらわれている。  迎陽亭のターフルは想像以上に卯八の舌を困惑させた。上方商人らしい客の一組が和食を食べているだけで、閑散とした食卓についた二人に、女中の差し出す菜帖《さいちよう》(こんだて)から井吹重平の選んだ数品は、どれもこれも油臭い匂いがした。  バステイソップにブラートボツリ、それにスパナーンと名付けられた料理、ハアカとホコを用いて食べ、レイベル(食匙)で汁を掬《すく》うのであった。  バステイソップとは、鶏とかき玉子を塩仕立てにしたすまし汁のようなもので、特にどうということはないのだが、野牛の焼肉には辟易《へきえき》した。血の匂いがこびりついているようで、どうにも口に持っていきかねたのである。それでも思い切ってホコの先で突き刺すと、薬臭い油がじゅっと立ちのぼるのだ。  スパナーンという料理も同様、いわば野菜の油いためなのだが、ボートルの味が強すぎて、何口か吐きださずに飲み込むのが精一杯であった。 「いきなりじゃ矢張り無理じゃったかな」赤い葡萄酒を飲みながら、井吹重平はいった。「慣れてくると、ボートルの匂いがなんともいえんらしかが、ほんなこつをいえば、おれもあんまり好きじゃなかとたい。ただ、牛の肉だけはほかのところじゃ食べられんけんな」 「こんげん、血のしたたるごたっとば、よう食べなはるとですね」 「オランダやイギリス人の食べる一番の好物ときいとったけんね。そんげんもんかと思うて、おれは最初からかぶりついたとよ。そしたら猪《しし》の肉よりよっぽどうまか。……余分のことば考えるけん、妙な気持ちになるとばってん、何も考えずに味おうてみたらよか。もうひときれ、目ばつぶって食べてみらんね」 「ご免してくれまっせ。ほかのことは何でもききますばってん、さっきのひと口でんもう目ば白黒させたとですけんね。……」 「酒でも飲むと、少しは違うとばってんな。ぬしはこれもやらんし……」井吹重平はハアカとホコを稽古でもしたように上手に操りながら野牛の股《もも》を削っては口に入れた。「そいじゃ口直しに鯛《たい》でも焼いて貰うか」 「いやいや、もうよかとです。今のソップで腹ん中の塩辛うなっとりますけん……あとで胡麻《ごま》豆腐でも食べときまっしょ」 「あとでといわずに、いま食べといたらよか」  しかし迎陽亭に胡麻豆腐はなかった。井吹重平に呼ばれた中年の女中は、生憎《あいにく》それはできぬ、と丁寧な口調で答えたあと、大半を残した卯八の皿を屈折した視線で一瞥《べつ》した。  侍の子と従う老人が腰を上げたのをしおに、卯八は勘定をすませた。折から一団となって飛び込んできた仲仕の連中に危うくぶつかりそうになるのを避けて外にでると、またしても小雨がぱらつく。 「今日はまたどがんしたあんべえ(塩梅《あんばい》)じゃろうか。よんべのうちに、誰かよっぽど丸山でじょろしば泣かせたとばい」  卯八と前後してでた男が空を見上げながら眉をひそめる。そのくせそう舌打ちする気色でもないのだ。他の者がいないので、卯八はさした傘を男の方に向けていう。 「途中まで入って行きなさらんね」 「おおきに」男は甲高い声でそういうと手を振りかざした。「どっちみち濡れとりますけん、お仕舞いまでたたられときまっしょ」  背中の法被をくるりと顔にかぶった職人が急ぎ足で石灯の蔭に消え、内儀のさすしゃれた蛇の目が気を引く。 「この分じゃあと二、三日はちょっと乾きそうもなかばい」 「棟梁《とうりよう》の頭ん中に虫でも起きとるんじゃないか。雨の降るとはおるのせいじゃなかと、よっぽど怒鳴り返してやろうかと思うたと」 「ぼた餅、ぼた餅……」 「そんげん、甘かことばいうとるかね、おるは……」  それは卯八の前を行く二人連れのやりとりだ。ぼた餅といった男のそれから先の言葉はききとれないが、もうひとりの男は傘をくっつけ合うようにしてうなずく。  小料理屋中津と、再度の門屋。井吹重平に会う手がかりはもう一軒、摂津町にある行きつけの髪床を覗《のぞ》いてみるよりない。卯八の胸を突然わけのわからぬ不安がかすめる。    21  茂木屋の潮風呂から対岸の明かりは漁火《いさりび》のように見えた。稲佐に点在する民家の灯にまじって、時折火花を散らすのは大方飽《あく》ノ浦の製鉄所か。湯槽《ゆぶね》を離れた場所に坐って、半ば乾きかけた裸身を窓の桟から入ってくる潮風にさらしながら、井吹重平の脳裡《のうり》は、半刻《とき》程前博多商人の口からでた長州騒動の火の粉をもろにかぶっていた。  主人の仲立ちで、宵の酒席をともにした彼杵《そのぎ》屋番作と名乗る男の言葉は、旅行者の見聞を遥《はる》かに越えた、馬関の砲撃戦に関する通りいっぺんの知識を焼きつくすような内容を持っていたのである。  長崎来訪は三度目だという彼杵屋番作自身、ただものとは思われず、話しぶりのひとつひとつに、並の常識や見通しを拒否する強靱《きようじん》な判断力を備えていた。年の頃は四十七、八。これまで話をかわした何人よりも、刺激的なもののいい方をする商人であった。 「……奇兵隊だけじゃなかとですよ。とにかくペムブローク号というアメリカの蒸気船に砲撃をしかけてからこっち、長州の人間はもう戦争一本に固まっとりますと。敵はアメリカとフランス、それにオランダとイギリス。異国の黒船という黒船が相手ですけん、まあいうてみれば日本にきとる異国全部を敵にまわして戦うとることになります。そういう状態ですけん、さっきもいうたように侍や士卒だけじゃとても間に合いまっせん。間に合わんだけじゃのうして、アメリカやフランス艦隊の仕返しで木端微塵《こつぱみじん》にやられて手も足もでんやったことを、その眼で、目《ま》の当たりに見とりますけんな。武士だ何だちゅうても何ひとつものの役に立たんし、信用もできん。みんなそう考えとるから、みかたによっちゃ無茶苦茶な有り様になっとりますと。そいでも無茶苦茶というのは、これまで百石とか二百石とか、身分のある人間からみればの話で、下の方に行けば行く程、その無茶苦茶のところがかえって当たり前というふうにもなっとりますけん、まあいうてみれば気風の一揆《いつき》というか家柄や身分より小銃一丁の方が大事というか、下手にお役所風吹かさるっと忽《たちま》ち食いついてしっぺ返しをしてしまう、そういう風潮ですたい。……  現にあなた、ついひと月前の六月二十一日にゃ、〈草莽《そうもう》間の者にて苦しからざるに付〉という藩令のおりとりますと。算盤《そろばん》でん猟銃でんよか、腕に覚えのある者は支配支配に申しでろという触れまででとっとですけんな。こりゃもう下の方からだけじゃのうして、上の方でも才腕だけが大事だというふうになっとるとでっしょ。家柄だけようして能もなかくせにただ家禄だけを後生大事にしとる者からみれば、それこそ気違い沙汰でっしょが、塾にでも通うとって、海の向こうはどげなふうになっとるか、少しでも考えてみたことのある者にとっちゃ、何処でもよかけん火ばつけろというてけしかけられとるようなもんですと。……  実際に猟銃を抱えて集まった者に撃ちくらべをやらせて褒美《ほうび》ばだしとるかと思えば、能役者に洋式軍楽の演習までさせとるとですけんね。よその藩じゃちょっと考えられんことでっしょ。お台場作りでもそうですたい。お寺さんから百姓町人まで、一切合財、金をだす者は金、手足のある者は手足、その者たちがわっと集まって土塁ば築きよっとだから、そりゃもう忽ちのうちにでき上がってしまう。誰かが人夫の賃銀を百人分だすかと思えば満願寺は砂糖三百斤という具合で畳から縄までそりゃもう山のごと集まっとりますと。そのうち何とかの婆さんが鏡を一面持ってきたのが伝わると、誰かはまた膏薬《こうやく》をわざわざ作ってくる。こいじゃ幕府と戦争しても勝ちますばいと、けろっとしてそげな話を口にする者もおるとですけんな。……  そいでも、ほんなことをいえば、そげな能役者の軍楽なんかみせかけのものはどうでもよかとかもしれん。問題はいまさっきいうたように、侍がもう侍だけじゃ通らんごとなったことでっしょ。奇兵隊もほかの百姓町人を集めた何々隊も、さあ戦争は終わって落ち着いたけん、元の仕事に戻れというても、そうは問屋が卸しまっせんけんな。いっぺん崩された土台はとても元通りにはなりまっせん。景気不景気で物の値段がどうなるちゅうことじゃのうして、人間の値打ちは、一旦秤《はかり》にかけられると、それでもう極まってしまう。金か銀か、それともただの泥瓦か知ってしもうてから、あん時のことはあん時で、といくら昔に戻そうとしてもどうにもなるもんじゃなか。あたしらからみると、そこんところがとてものごと、大胆に激しゅうみえますと。……」 「各地に自発的な農兵隊のできとるという話ですばってん、そんひとたちの武器はどんげんこつになっとるとですか」井吹重平はきいた。 「大方、鉄砲の行き渡っとりますと」彼杵屋番作はこともなげに答えた。「自前で鉄砲を購《こ》うとる豪商もおるし、献金を集めて、それで藩から下げ渡して貰うた者もあるという具合です。……その辺が幕府やよその藩と違うところで、町人や百姓に勝手に武器を持たせたら反乱や一揆の原因になるという、そこのところを取っ払ってしもうとるとですたい。初めに土台ば崩してしもうとるから、何でも思うごとできるとじゃなかですか。何というても目の前で、アメリカの黒船にやられて沈没したり火の海になったりしとるさまを見せつけられとるから、武士の面目がどうとか、百姓に鉄砲持たせたらどっちを撃ちよるかわからんというような文句は吹っ飛んでしまう。高杉さんの話じゃなかばってん、異人の領地になっちゃ元も子もなかとだけん、何のかんのいうちゃおられんとでっしょ」 「彼杵屋さんは高杉さんと会いなさって、大分昵懇《じつこん》にしとんなさるとですよ」主人の竹蔵が井吹重平の盃《さかずき》に銚子《ちようし》を傾けながら口を添える。 「昵懇というわけじゃなかとですが、馬関の商人であの方をよう知っとんなさる白石正一郎というひとがおんなさって、そのひとと行き来のありますけん、そのつながりで何度か話ばきいたことがありますと。……そういえば、上海《シヤンハイ》かから帰ってすぐ茂木屋で食べたきびなごの刺し身は忘れられんと話のたびにでとりましたたい」 「きびなごの刺し身じゃのうして、東明屋の刺し身じゃなかとですか」竹蔵は小鬢《こびん》を掻《か》いた。「今でん、浦里さんは何かといえば、晋作さんのどうしたこうしたというとらすそうですけんね」 「上海に行かるる便のあるとなら、おれも行きたか」井吹重平はいった。「アメリカやオランダがどんげんふうに考えとるか、上海にはみんな、それば証拠だてるものが並んどるとでっしょ」 「証拠じゃのうして、実際そげなふうになっとるそうですたい」彼杵屋番作はいった。「ああたは租界という言葉ば知っとんなさいますか」 「いいえ」 「何でも、自分たちの思う通りに法を定むるとが租界といいますと。よその国ん中で、もうひとつ新しか藩ば作ったと考えればよか。藩の中の藩ですけんね。どっちみち、後からできた藩の方が力の強かとでっしょう。そんげんふうに力の及ぶ区域ば名付けて租界というとですたい。その中に入れば、鑑札を下げとる犬の方が、清《シン》国の人間よりかえって大手をふって歩いとるらしかですばい」 「馬関がそんげんふうになるかもしれんといわるっとですね」 「馬関だけじゃなか。長崎も薩摩もことと次第によっては上方一円に江戸、横浜までそうなるかもしれんと、それを高杉さんは心配しとんなさるとですよ。……」 「出島とか大浦居留地のごたるとば作っちゃいかんといわるっとですか」彼杵屋番作に酌をしながら竹蔵はいう。 「出島と租界はまるっきり逆さまたい」博多の商人はいった。「出島とか居留地は自分勝手に出歩いちゃいかんというて、こっちの方で指定した区域。租界はちょうどその逆ですたい。長崎でいえば丸山や寄合町は自分たちが住んだり遊んだりする場所やけん、お前たちは勝手に入っちゃならんと、向こうがきめてしまうとですけんな。こりゃ高杉さんの請け売りですばってん、上海じゃ、イギリス人やフランス人が旦那で清国の人間はみんな下男か下女と思うとけばよからしか。もののたとえじゃのうして実際、その国の人間が土下座せんばかりにして歩きよるし、アメリカ人から犬にでもいいつけるごと命令されても、言葉ひとつ返されん。威《おど》しじゃのうしてそれが事実だというとんなさった。長崎や博多でもそうですたい。大体、海ば渡ってきとる人間の腹ん中は、口先とは大分違いますけんな。商売しとってもわかるが、犬にしちゃちょっとしゃれたことばいいよるみたいな、そげな目付きをすることのありますもんね」 「菊の葵《あおい》のというとる時代じゃなかとですね」井吹重平はいった。「長州の空気ば直接自分で吸うてみとうなりました」 「何なら手づるのありますけん、お世話させてもよかとですよ」彼杵屋番作はいった。 「おおきに」 「井吹さんの行かるっとなら、あたしもお供ばしますばい」竹蔵は身をのりだした。「長崎辺りでやきもきしとってもどんげん仕様もなかとでっしょが。いっちょう天下の形勢ば眺めてこようじゃなかですか」  住職の持ちだした地図の件もあるしな、と井吹重平は思う。長州に連れて行くといえば、きわはどれだけよろこぶかしれぬが、竹蔵と同行する旅に矢張りそれは無理だろう。  脱衣所からの戸が開いて、竹蔵が顔をみせた。 「まあだ入っとんなさったとですか。きわさんも気ばもんどんなさるごたるし、海にでん飛び込んどらすかと思うとりましたばい」 「凡人は考えにゃならんことの多かけんな」 「あんまりよか掘り出し物ばして、ぽうっとなっとられたとでっしょ」竹蔵はいった。 「そりゃそうと、いま、卯八さんというひとの訪ねてみえられとるとばってん、どんげんしますか。まだおられるともおられんともいうとりまっせんが」 「此処《こ こ》におるのがようわかったな」彼は首をかしげた。「何か用事のできたとやろう。とにかく通して貰おうか。……あ、別の部屋がよかばい」 「わかっとりますたい」  井吹重平は急いで体を拭きながら、妙に胸騒ぎがした。茂木屋を探し当てたのは、何か方途があったとして、この時刻にわざわざ訪れる卯八の用件は……。  きわにその旨を告げて、階下の小部屋に行くと、卯八が居ずまいを正した。そこに女中が銚子や肴《さかな》をのせた膳を運ぶ。竹蔵が気をきかせたのだ。 「ようわかったな、此処が」 「小萩さんにききましたと。ひょっとしたらあそこかもしれんちゅうて」 「勘のよかおなごじゃな」井吹重平はいった。 「よんべはずっと待っとんなさったごたるですよ」 「まあ飲まんか。あ、そうか、ぬしはいけん口じゃったね。こりゃ気のつかんことをした。そいじゃなんか冷たかもんでも持ってこさせるけん。……何なら飯ば運ばせようか」 「いやもう飯はすんどりますけん。何もかまわんどいてくんなっせ」  井吹重平は席を外して小女に西瓜《すいか》でもあればと頼み、部屋に戻った。 「そいで、ぬしがきたことは小萩の言伝《ことづ》てでも持ってきよったとか」 「あんげん井吹さんのことばっかり想うとるおなごしば夜通し待たせちゃいかんですばい。そいでん、あたしがきたとは別の用事のありましたと。明日でもよかったとかもしれんばってん、どうも気持ちの落ち着かんことの起きとるとですよ」 「気持ちの落ち着かんこと、何ね、そりゃ……」  卯八は昨夜からの出来事を有り体に話した。相当の練達者と考えられる尾行のこと、マックスウエルとの取引と持ち込んだ絵だけではなく、版画を全部購入したいという主張。そして、井吹重平になるべく早く会いたいという咲の希望と、それに関する彼自身の推測。峰吉に誘われた話だけを抜いて。 「わかった。そのお咲さんには明日の昼でん会う手筈にして、問題は尾行されとる狙いが何かということやな。……ぬしには何も心当たりはなかとか」 「まああるとすれば、大浦居留地に出入りしとるこつでっしょが、ほかに思い当たることはなかですもんね」 「そうするとおれの方にも紐《ひも》のついとるのかもしれんな」井吹重平は考え込むようにいった。「さあ、冷えとるうちに食べんね」  卯八は黙っていわれた通りにする。 「それならそれで対策ば講ぜにゃならんが、なんにしても明日のこったな。相手の狙いのわからんけん、何ともいえんが、どんげんしたらよかか、とにかく手口ば考えとくけん、ぬしは心配せんでよか。ひとつだけきめとくことは、万一手入れを受けても、マックスウエルに頼まれたことのあって出入りしとったというとけばよか。こんことは向こうとも口裏を合わせとかにゃならんが、珍しか陶器ば世話しろといわれとるが、なかなか見つからんとでもしとくたい。おれとは以前からの友達で、やきもののことば相談しとったことにでもするか。……とにかく明日詳しかことば全部きめとくことにするけん。……まさか今夜しょっぴかれることはなかじゃろう」 「明日は何処に行けばよかですか」 「九ツ、中津で一緒に飯でも食うたい」 「ああたに会えたけんよかったですばい。今夜も行方知れずならどがんしゅうかと思うとったとですよ」 「いうとくばってん、此処におったこつは、小萩にゃ内緒じゃけんね。ふらっと魚釣りにでん行かしたとじゃなかか位にいうとけばよか」 「そいじゃ、今夜も門屋には行きなさらんとですか」 「博多のひとと約束のあっとたい」 「博多のきれかひとでっしょ」 「そんげん浮いた話じゃなか。明日はぬしにも話すばってん、ひょっとしたら長州に行かにゃならんかもしれんから、そいで相談のあっと」 「長州に行きなさるとですか。そりゃまた大事ですたい」 「大事じゃなか、ただ行って帰るだけたい。……おれがついとるとだけん、ぬしは大船にでん乗った気持ちでおればよか」 「そりゃもう、あたしの運は井吹さん次第ですけんね。……」  卯八の言葉に日頃の余裕がないのは、矢張り狙いの不明な尾行におびえているのだ。寺の住居もすでに探知されているのかもしれず、すぐにでも帰宅して住職に知らせておいた方が賢明であろうという思いを一方に引きずりながら、決してそうしない自分を、井吹重平は知っていた。今宵《こよい》はきっと、きわと二人の夜を過ごさなければならないのである。 「案ずることはなか。いくら後をつけても手も足もでんごと、明日までにゃちゃんと策ば立てとくけんな」彼は自分にいいきかせるようにいう。 「そいじゃあたしはこれでおいとましますばい」卯八は頭を下げた。「明日は気ばつけて、つけられんごと中津に行きますけん」  きわの待つ部屋に井吹重平が戻ると、酒の仕度をした膳と水差しの盆がきちんと並べられていた。隣室にはすでに夜具も用意されているはずだ。 「待ちくたびれたじゃろう」 「はい」きわは素直に返事をした。「なんか急に用事でも起こったかと思うて、心配しとりました。……それで、こいから何処にも行きなさらんでよかとへ」 「ああ、何処にも行かん。用向きはみんなすんだ。こいからは明日まで二人きりたい」  何を思ったかきわは俯《うつむ》き、手酌で盃に注ごうとする彼を見ると、慌てて膳の方に擦り寄った。 「ぬしも飲むとよか」 「あ、そいから……」  二人の声は絡み合うようにでた。 「なに」 「さっき、此処のご主人のきていうとられましたと。こいから先はもうお邪魔ばしまっせんけん、酒の足りん時は下にきて代わりば持って行かれるとよかし、肴でも何でんあるものば食べなはるとよか。そんげん言伝てのあって……」  消えた語尾を恥じるように、きわはまた白い項《うなじ》を見せる。    22  奇妙に静まり返っていて、しかも落ち着きのない空気が染田屋の夜を被《おお》っていた。宵の口にあがった鹿島の庄屋たちの宴席はおよそ野卑をきわめており、呼子《よぶこ》の網元衆だというもうひとつの酒盛りもまたそれに劣らぬ程のものであったらしく、宴がはねた後、夫々《それぞれ》の相方を勤めねばならぬ女たちは皆、うんざりした顔をしていた。酔い振りのあれこれで、大体寝間のさまも見当がつくのだ。勘定はあらかじめこみで仕切ってあるので、分以上に楽しまねば損だという様子がありありと窺《うかが》え、その癖けちな祝儀で自分だけ特別扱いになったつもりの客は、眠る間も惜しんで手をのばしてくる。  太夫《たゆう》の尾崎はむろん、それらの成り行きとは無縁なのだが、木原昇と名乗る初会の男の振る舞いも変わっていて、半刻もすれば戻るというなり、亥《い》の刻(午後十時)を過ぎても姿を見せぬのであった。  それにもまして尾崎の心をそこに向けさせるのは、屋根裏部屋へ監禁されたというくら橋のことである。日暮れて間もなく椛島町の界隈をうろうろしていた朋輩《ほうばい》をつかまえた遣手《やりて》のいきさつを、尾崎は賄方のしげからきいていた。 「……雨ん中ば、傘も差さんと、濡れ鼠のごとなってよたよた歩いとんなさったそうですばい。こりゃさくさんの話ばってん、何か海岸の方を白かもんの通って行くなと思うとったら、それがくら橋さんじゃったそうですと。……そん時の足どりがあんまりふわふわしとるので、声もかけられんごたる気色で黙ってみとったら、すうっと増屋の方へ近づいて行くので、こりゃいかんと思うて慌てて呼び止めたら、くら橋さんは黙ってさくさんの方をみなさって、そん姿がなんか生きとる人間じゃなかごたったというとんなさった。……」 「そいじゃまだ、くら橋さんは増屋を訪ねる前に、さくさんに見つけられたとへ」 「そん時はさくさんに見つかったとだけん駄目でしたろうが、その前に二度か三度か増屋には訪ねて行っとんなさるらしかですよ」 「二度か三度。……それでくら橋さんは相手に会いなさったとやろうか」 「そのことばってん、番頭さんは仕事の旅にでとんなさるそうですたい」 「旅にでとんなさるとに、どんげんしてくら橋さんは二度も三度も増屋を訪ねなさったとね」尾崎はいう。 「その辺はようとわからんとですばってん、さくさんがそんげんこつをいうとんなはったと。増屋に行ったら、店の者がそういいなさったげな。そういう話ですたい」 「増屋に行ったというのはさくさんのこと」 「そがんです。さくさんが何度も近所を行ったり来たりした末に、直接増屋を訪ねなさった時は、もう先にくら橋さんはそこに二度か三度は行っとんなさって、店の人からはさんざん嫌味をいわれたらしかとですよ。旅にでとる者を訪ねてきて、いくら留守だというてもどうとか、染田屋は店の女をどんなふうにしつけとるのかとか、大分毒づかれたというとられたけんね」 「そいじゃ、くら橋さんが何度も増屋に行かれたのを知っていて、さくさんは近辺に待ち伏せしとんなさったとへ」 「大方そうですたい。番頭さんが旅にでとんなさると知って、三度も訪ねなさったとだから、もう一回位はきなさるかもしれんと、思われたとじゃなかでっしょか。……さくさんが声をかけたのに、返事もせんと、振り返るなりじっとしとんなさるから、何かぞっとするような塩梅だったらしかとですよ」 「相手の七十郎さんは、ほんなこつ旅にでとんなさったとね」 「それはそうでっしょ。店でそんげんふうに答えたといいますけんね。……」しげはそこまでいうと、ふっと気づいたように言葉を裏返した。「ひょっとすると、旅にでとるというのはすらごとで、そいば知っとんなさったけん、くら橋さんは何度も増屋に行きなさったとかもしれんですたい。ほんなこつ番頭さんが留守だとわかっとるのなら、そんげんふうに、濡れ鼠のごとなってまで、くら橋さんが増屋の近辺をうろつくはずもなかですもんね」 「そいで、いまはどんげんふうね」 「どんげんといいますと」 「屋根裏に閉じこめられとんなさっとでしょ。そいからこっち、あんじゃえもんしゃんの仕打ちたい」 「仕打ちも何も、あんじゃえもんしゃんはくら橋さんに会いもしなはらんと、じっと自分の部屋においでなさっと。……店のもんの手前もあるし、あんお方のことだけん、どんげん処置ばとったらよかか、次ん次のことまで考えとんなさっとでっしょ。どっちみち、マタロス行きはきまっとるとでっしょが、今日んことは目ばつぶってそのままというわけにもいかんと思いますたい。増屋さんに迷惑ばかけたこともあるし、椛島町界隈ば気違いか幽霊のごとうろついて、染田屋の名ば傷つけた咎《とが》もある。明日になればまたどんげんした噂を立てられとるか知れまっせんけんね。ひょっとするとひょっとで、思い切った仕打ちば考えとらすかもわからんとですよ」 「思い切った仕打ちちゃ何ね」 「丸山から追い出して、何処かほかの遊廓《ゆうかく》にやって仕舞われることですたい。此処のあんじゃえもんしゃんはそん位のことはやりかねなさらんとだから、そんげんことにでもなったらくら橋さんもよっぽどふのわるかとですよ」 「いくら何でもそんげんこつ……」尾崎はいう。「あんじゃえもんしゃんにうちがとりなしてみまっしょか」  きいた途端、それだけは止《や》めろというふうにしげは大きく頭を振った。いくら太夫でも朋輩女郎の処遇に口だしはできない極まりなのだ。  尾崎は床の間の脇に掛けられた砂時計を見た。江戸弁の客が外出してからすでにひと刻近い時刻が経過している。初会だというのにいきなり太夫を相方にできるのはよほどの客か、主人太兵衛に通じた者であろうが、蘭水にあがるのはむしろみせかけで、目的は案外不在の間に果たされているのかもしれぬ。  又聞きではなく、遣手のさくからじかに、増屋を訪ねてきいたというその辺のいきさつを確かめたいのだが、気儘《きまま》な行いをするわけにもいかず、尾崎はひとつところにない気持ちを繋《つな》ごうとして三味線を手にした。外海の角力《すもう》灘《なだ》に面する黒崎や神浦で歌われる子どものあそびうた。 隠せ、隠せ、だいが顔隠す いうならなんとしょ 桃ん木の蔭に 茶碗がひとつ 隠せ、隠せ、だいが尻隠す お前ならなんとしょ パッパの帆舟 丸にヤの字  それは一年程前、年季奉公にくると間もなく病気になり、親元に引き取られた童に習い覚えたうたである。丸にヤの字を印にしたパッパの帆舟とは、宣教師の到来を待ち望む切支丹信徒の心情をあらわすことを後で知ったが、旋律だけでも三味線で弾くと、何ともいえず物悲しい想いがこもるのだ。 ととう(父さん)、かっつう(鰹節《かつおぶし》)かあむ ととう、かっつうかあむ 隠れろ隠れろ山ん目から隠れろ 逃れろ逃れろ海ん目から逃れろ  鰹節を食べると咳《せき》をしないということから、隠れの子供たちが父親に鰹節をねだる。役人がきたので早く食べさせろという本来の意味がそこに重なり合う。そのわけもまた町役人の年寄からきいたものだが、三本の絃《げん》を爪弾《つまび》きながら、濁り酒で酔うと時偶《ときたま》よほど機嫌のよい晩に口ずさむ父親庫太のうたを思い浮かべた。 坊《ぼん》さん坊さんなぜ泣くの、親もおらずに子もおらず、たったひとりの坊さんが、山からこっそりおりてきて、四十九日がきたならば、信玄袋に重みがござる、人がちょいと見てちょいとかくす。…… 白い蝶々は地蔵の鼻に、黒か蝶々は地蔵の耳に、きなか蝶々は地蔵のよだれ掛け とまったとまった、三羽の蝶がとまった 三羽とまったら地蔵も地獄 蛇《じや》に化けた 「ととのうたはようとわけのわからんごたる。蝶々が三羽、お地蔵さんにとまると、なして地獄になるとね」 「地蔵さんの立っとらす場所をお美代は知っとるやろうが」 「お地蔵は大抵、分かれ道の傍《そば》か太か木の蔭に立っとらすと。何処じゃったか、堤の近くでも見たことがあっとよ」 「左の道へ行けば地獄、右の坂を上がれば極楽。地蔵さんは大概、そげんふうな分かれ道のところに立っとんなさる。お美代のいう通りたい。……人の歩いて行く時は、そいけん地蔵さんにようきいて、どっちの道ば歩いて行ったらよかとか、念には念を入れて確かむるとたい」 「あたいのききよるとは、お地蔵さんがなして地獄になったり蛇に化けたりするとか、そのわけばききよると」 「地蔵さんがおらすけんちゅうて安心しとったらいかん。こん世の中は何時《い つ》、どげな時分に災いが降りかかるとも限らん。仏のごたる人間じゃと思うとったら、腹ん中で包丁砥《と》いどったという話もあるとじゃけんな。きっとそいば歌うとっとよ」 「腹ん中で包丁砥ぐとは、どがんこと。一層わからんごとなってしもうた」 「子どものうちはわからんでも、だんだん大人になるうちにわかってくることたい。ひとの心は何時も他人のよかべべ(着物)をねたんどる。そがんふうに考えればよっぽどあさましかとよ」 「お地蔵さんはひょっとしたら蝶々ばあんまり好かれんとかもしれんね。黙って立っとるとに、耳やら鼻やら勝手に飛びまわられたら、こん畜生と思わすとかもしれん。……」 「そうたい、そうたい。あんまり蝶々がわがもん顔に飛びよるから、地蔵さんの怒らしたとたい。お美代はほんなこつ利口かな」  爪弾きの手を休めると、遠くの方からさびた歌声が屋根を伝ってくる。耳をすますと新内でもあろうか、それはかすかに銅吹屋の石垣を洗う波にさえ似てきこえ、坂道の段を踏む下駄音がひとつふたつ、からんとそれにまじる。  珍しく足音をたてず、小藤の声がした。 「太夫に、旦那さまの言伝てば持ってきましたと」  誰かに言葉遣いをたしなめられでもしたのか、禿《かむろ》の口調は固い。 「入っとくるとよか」  小藤は柄にもなく両膝《ひざ》を揃《そろ》え、仕込まれている通りの作法をした。 「言伝てばききまっしょか」 「今でのうしてもよかばってん、手のあいた時にちょっと部屋まできてくれんかというとんなはった」 「いうとられました。……」  尾崎は禿の言葉遣いを修正した。すると小藤の後に今度は遣手のさくが顔をみせたのだ。 「あんじゃえもんしゃんの呼んどんなはりますよ」 「いま、うちがそういうとりましたと」 「なんな、その口は……」  去って行く小藤の背中に向けてさくは宙に拳《こぶし》を振った。 「何時もいらん口の多かと」さくは禿を難ずる言葉を前おきにして、部屋の中を一瞥した。 「こん頃は風の変わっとるお客ばっかり」  それには応ぜず尾崎はいちばん気にかかることをただした。 「くら橋さんはずっと屋根裏におらすとね」 「あんじゃえもんしゃんは日頃になかごと腹ばかいとんなさるけん」さくはいう。「あれだけ、丁寧にことわりばいわんねというとるとに、ただ、すんまっせんだけで、口ばつぐんどれば、腹の抑えようもなかとでっしょ」 「くら橋さんは増屋を何度も訪ねらしたというけど、ほんなことね」 「ほんなこつもほんなこつ」さくはいう。「七十郎さんは伊万里行きでおらんというのに、三度も訪ねて見えた。二度目ん時まではまだなんかそれなりに普通の喋り方やったが、三度目はもう身振りももののいい方も気違いのごとなっとって、七十郎が奥に隠れとることは見通しだとか、そんげんことまで口走ったそうで、うちまでが散々二の句のつげんごと怒られましたと」 「そいじゃさくさんが見つけたというのは、三度目の時ね」 「うちがつかまえたとは、まあだ後ですたい。あの分ならまたくるかもしれんな、と増屋のひとにいわれて、そんげんことにでもなったら恥の上塗りだと思いましたけんね。雨の降る中をじっと待っとったら、案の定、くら橋さんの暗闇ん中からすっとあらわれらしたとですよ。傘も差さずに、肩袖から裾までびしょ濡れで、うちが声をかけても、じっとそこに突っ立ったまま、返事もなかとだから、うちはもうほんなこつ、いっぺんどうにかなったひとの浮かび上がらしたかもしれんと思うた位、ぞっとしたとです」 「よっぽど思いつめとんなさったとたいね、そりゃ、そいでも七十郎さんはどんげんして、くら橋さんに会わんごとしなさったとやろか」 「あんひとは、伊万里に旅しとんなさるとですよ」 「そりゃ店の者のいうたことでっしょ」 「そいじゃ太夫は、七十郎さんは今日でも増屋におんなさるといわれるとですか」 「そうはいいまっせん。……そいでもくら橋さんが可哀相でならんと。ああたもそがんふうに思われるとでっしょ」 「うちは別のことを考えとりますと」さくははっきりした口調で尾崎の言葉を押し返した。「何ちゅうても、くら橋さんは丸山のおなごですけんね。親がかりの小娘とは違うとですばい。いくら好いていいかわした男というても、どっちみち相手は寝床ひとつにいくらと銭ば払うお客ですけんね。そこんところの分別ば見極めずに、足の遠うならしたとはどんげんしたわけかと、いちいち押し掛けて行きよったら、こりゃもう染田屋も格子もなかごとなってしまう。この前ぬしさんはどんげん誓文ばかわしたとへ、なんちゅう責め方は、寝間の所作には通用しても、天道さんのでとるうちにゃ、もぐらになっとらにゃいかん文句ですたい。……」 「くら橋さんと七十郎さんの仲は、もぐらじゃなかったとよ」尾崎はいう。「そりゃああたのいう通り、丸山のおなごは寝床ひとついくらと銭で売り買いしとるかもしれんけど、そいだけに大事にしとるものがあるとじゃなかとへ。好いとる好かれとるがうわべだけのきまり文句なら、裸のまんまの気持ちはなおさら変えられんとよ。……」 「太夫と並は違いますけんね。格子でもおんなじですたい」さくはこともなげにいい放つ。「尾崎さんのことをかれこれいうたとじゃなかとですよ」 「体の売り買いは、それこそ太夫も並もおんなじでっしょ。うちがいうとるのは、銭金とは別のこと。……増屋を訪ねなはったくら橋さんの気持ちを汲《く》んであげなんせというとると」 「あのお客はかんにんというて、太夫ならいえますばってん、格子や並にゃそうはいきまっせんけんね。そんげん素振りでもみせようもんなら、それこそお仕舞いですたい」 「話の筋道が違うとよ。……」  尾崎はなおもいいかけようとして止めた。それ以上さくと言い争っても仕方がないのだ。おためごかしはいうなというふうに、遣手はぷいと横を向く。    一八六三年秋    1  この年殊更喧騒《けんそう》を極めた諏訪《すわ》神事の後、十日ばかり経った頃、季節風を利用する蘭船《らんせん》出帆の定日、丸山寄合町の楼家はかすかに前ぶれの街灯をふるわせていた。替わりの銚子《ちようし》と小ねぎを添えた冷《ひ》や奴《やつこ》を盆に載せ、てずから運ぶつねよ。階段を踏み終えた途端、危うく禿《かむろ》の小藤とぶつかりそうになって思わず吐息を洩らす並女郎の目と耳に、廊下を斜交《はすかい》に区切る光と影は、淡く名残の囃子《はやし》と重なる。  万屋町の魚問屋で働く男で、裏を返しにきたばかりの客は、泊まりとも遊びともまだ腰を構えておらず、もうひとりまわしを取ってもおり、なんとしても朝まで引っ張っていたい。ちょうど戌《いぬ》の刻(午後八時)になったばかり、今度くる日の口約束を守った男に、つねよは何時《い つ》になく引かれるものを感じていた。  部屋に戻ると、窓際に寄りかかって、ぼんやりと思案気な様子をしていた客が、浅黒い顔をつねよの方に向けて、拍子を打つようにパンと掌を鳴らした。 「大分待ちながかったとでっしゅ。豆腐ばこしらえて貰おうと思うてあれこれしとったら遅うなってしもうたと。ご免ね」 「まあ慣れとるけんな、何時でん」客は答えた。名前を和助《わすけ》といい、二十七歳だと自分でいう年よりは老けて見える。 「憎まれ口ばっかり叩きなはるとだけん」つねよは客の方に膳を寄せて、新しく運んだ銚子を傾けた。「あんしゃまに食べさせたか一心に、おがむごとして冷たか豆腐ば貰うてきたとよ。ひどう気ば入れとるじゃなかね、と板場のあんね(下女)にまでからかわれてきたとだから」 「そんげんいえば、丸山で豆腐ばだされたことは、これまでなかったな。珍しか」 「お客にだすとじゃなかったと。……そいでも、煮魚のごたるとよりましでっしょうが。何時でんぴんしゃんしとるとば食べるひとに、しょんだれたとはだされんもんね」 「ぬしゃ気のつくおなごたい。この前からそう思うとった」 「昔からだいでも、うちは好いとるひとに豆腐ば食べさせとうなると。どんげんしてかわからんばってん、自分で豆腐好きやからそがんふうな気持ちになるとかもしれんね」  和助はひょっとこの面相を作って盃《さかずき》を口にした。 「ひゃぁはちが何ば喋《しやべ》りよるかと、心の中では思うとんなさっとでしゅ。大方そうにきまっとる。そいでもうちは口先だけのことはいうとらんと。……何ばいうてみても、あんしゃまには通用せんかもしれんばってんね」 「まあだ酔いも廻っとらんとに、あんまり真正面からうまか文句ばきかされると、答えようもなかけんな。……かあっと頭の熱うなって、何ばいおうとしとったか、考えとったことまで忘れてしもうたたい」 「あんしゃまの考えとんなはることは、うちには丸見えじゃけん」 「そりゃ千里眼の易者たい」 「当ててみまっしょか」つねよはいう。「あんしゃまのいま、いちばん気にかかっとること」 「気にかかっとるもの。そんげんこつのあったろうか」 「当たったら、褒美《ほうび》にうちのいうことばきいてくれにゃいかんよ」 「まさか鯨だんじり(祭礼の山車《だ し》)ば買うてくれというとじゃなかろうな」 「あんしゃまと一緒に朝までおりたかと。ほかには何もいらんけん、もしうちのいうことの当たったら、頼みばきいてくれるね」 「難しかな、そりゃ……」 「どんげんしても晩のうちに帰らにゃいかんとへ」 「心のうちばあてるとが難しかとたい。ほんなこついい当てたら、泊まって行ってもよかぞ」 「わあうれしか。そいじゃちゃんと約束するね」 「約束する。そいでもちゃんと当てにゃならんばい。易者のごとてれんぱれんいい抜けようとしても、そりゃ駄目じゃけんな」 「あんしゃまの方こそ、ぴしゃっと当てられて、そんげんこつは思うとらんやったというちゃいかんとよ」 「よかよか。そんならいっちょきいてみようか」  つねよは片方の手で胸元をおさえると、男のおいた盃を持った。 「一杯飲ませてくださりまっせ、なんか胸のどきどきしてきよると」  和助の注いだ酒をひと息で飲むと、つねよは「当たるとよかばってんね」と呟《つぶや》く。廊下を伝わる小節は船方会所衆の宴席からのものだ。 「そいじゃ、染田屋平八の易ばいまから披露しますけんね。万屋町魚文の働き者、和助さんのいまいちばん気にかかっとることは……蘭水の格子、くら橋さんの行方。見事にいい当たりましたところで拍手ご喝采《かつさい》。……」 「違うというてもよかが……たまげたな」和助は咽喉《の ど》につまる声をだした。「いわれてみればそうかもしれん。なしてそれがわかった」 「種ばあかすと、去年うちはあんしゃまとこん二階で擦れ違うたことのあったとですよ。そん時くら橋さんも一緒やった。この前ん時は思いだしもせんやったのに、さっき豆腐のでくるとを待っとった時、ふっとそれを思いだしましたと。ああ矢張りそうか、何処《ど こ》かで見たことのある顔ばってんね、と考えとったことのすっとでてきよりました」 「たった一度きり、こん家で擦れ違うたとを思い出したというとか」和助はいう。「そいがほんなこつなら、ぬしはよっぽど頭のよかおなごたい。くら橋とは格別馴染《なじ》みじゃったわけでもなかとに、ちゃんと覚えとるとだけんな」 「こんげん家に住んどると、なんか口ではいえんごたる間《ま》のあっとですよ。なんというてよかかしれんばってん、自分の前を通り過ぎるお客が間を抱えとったり、そいば見とる自分の方に間が生まれたり、そんひとと自分と何のかかわりあいもなかとに、ああこんげんひとのおらすとたいね、と思うたりしますと。……」 「馴染みになろうと思うたらいくらでもなれたとに、何時でんあんひととは遠慮の挟《はさ》まっとるごたった。どがんしたわけかわからんやったが、おいは何時もそいば気にしとったとたい。それでこん家にきて、しょっちゅうあんひとにあがるかというと、そうでもなかったとだけん、おかしな気持ちやった」和助はいった。「そいでも妙なことのあるもんやね。くら橋のおらんようになってから、以前よりちょくちょく染田屋に通うごとなって、今んようなことまでぬしにいわれるとだけんな。なんかよう、自分でも気持ちば勘定することのできん」 「あんしゃまは正直かね。あんまり正直すぎて、今度はうちの胸まで動悸《どうき》の打ってきよる。あんしゃまからそんげんふうに好かれとる位なら、くら橋さんもあんげんふうにうろたゆることはなかったとにね。うちはもうなんかあじけのうなってきた」 「うろたえたというと、くら橋はどんげんふうにうろたえたと」 「目の前に、自分ば好きで好きでたまらんおなごのおるというのに、心は全部違う場所に飛んでしもうとるとだけんね。うちはもう知らん。……」 「くら橋のことをいいだしたとはぬしばい。見事に当てられて、たまげとるとじゃなかね」 「褒美の約束は約束ですけんね。たがえさせちゃなりまっせんばい」 「わかっとると」 「よかった。……そんならあんしゃまにとっておきのことば教えてあげますけん、ほら、こんげんいうたらもう顔の赤うなっとらすと。……」 「だいも顔なんか赤うなっとらんよ」 「ほら、いっちょん酒は減っとらんじゃなか。……くら橋さんのことはみんな、何から何まで朝までかかって教えてあげるけん、楽しみにしとんしゃい」 「稲佐にやられたというとはほんなこつな」 「ちゃあんと知っとらすとだけんね」 「そいでも、もうロシヤの士官とは別れたとか、そこにはおらんとかきいとると。それは最初からすらごとで、ほんなことは博多に逃げたという者もおるし、肝心要《かなめ》のことは何もわかっとらんとたい」 「そんげん好いとるとに、あんしゃまはなしてくら橋さんと馴染みにもならんやったとね」 「そいけん、それはもういうたろう。くら橋が蘭水にでとった時分は、なんかようわからんやった。そいでも三度か四度、おれはくら橋のところにあがっとるのに、ようとそん時そん時に気持ちがつかめんやったとやろう。折角染田屋にきとるのに、くら橋とは別のおなごん部屋に泊まったこともあるとだけんな。……」 「ちょうど今んごとね」つねよは男の盃に注ぐ。「こんげんなったらもう構わんとだから、なんでもいうたらよか」 「くら橋というおなごは、会うとる時は何時でん紙のごとしとったと。格別おかしかこというではなし、何時でんしんから笑うとらんごたる顔ばしとったしね。こんげんおなごに何もせっつくことはなか。いくら口先だけと思うとっても、丸山にくるうちの半分はその口先に迷わして貰うためにくるとだけん、その口先もよう使わんおなごに入れあげることはなかろう。そう思うとるくせに、何かしらんしょっちゅう気にかかっとる。……」 「ほんなこつ浮世はままならんとよね」つねよはいう。「針と糸一本の違いで笑うたり泣いたりしてしまう。……そんげん自分を好いてくれる客のことは気もつかずに、くら橋さんはひとつのことしか考える暇もなかったとでっしゅ」 「いいかわした男のあったというとはほんなこつね」 「それはうちの口からいえまっせんと。たったひとついえるとは、くら橋さんの懐の中に何年も仕舞い込んどったいちばん大事か包みが、あけてみたら藁《わら》半紙になっとったとよ。誰でもそげな目におうたら、泣くにも泣けんとでっしゅ」  和助は手酌で盃を干し、それから豆腐に箸《はし》をつけた。 「すみまっせん」と、つねよは詫《わ》びる。 「それでいま、くら橋はどんげんしとるとな」 「ロシヤの士官のところにはほんのちょっとしかおんなさらんやったとよ。どんげんしたわけかお面ばかぶったごたる顔ばして戻ってきなさって、ワシリエフさんには代わりに若松さんの行きなさったと。そうそう、相手の名前は確かワシリエフというとった。それも、くら橋さんが別れたかといいなさったとじゃのうして、ワシリエフの方から引き取るように申しでてきて、それで旦那さんもそんげんこつなら仕方のなかと思いなさったと、そん時はあれこれ噂《うわさ》もでよりました。……それから何日位経ったとやろうかね。その間くら橋さんは店にもでずに、屋根裏の部屋に押し込められたごとしてくらしとんなさったが、ふっとおらんようになってしもうたとよ。さっきもいうたごと、稲佐から戻ってきなさった時は、他人のごたる顔ばしとって、たまに口をきいてもよそよそしゅうて、以前のくら橋さんじゃなかったし、あれじゃ店にでても仕様のなかったとでっしゅ。……その辺のいきさつはあんじゃえもんしゃんしか知んなさらんとばってん、道尾《みちのお》の家に戻されたという者もおるし、そがんことはなか、道尾にはもう身寄りもおらんとだから帰っても仕様のなかろうと、自分のごといきまく者もおったと。大きな声じゃいわれんばってん、此処《こ こ》のあんじゃえもんしゃんがみすみすたよしひとり分を損するようなこともなかろうし、大方何処ぞに売り飛ばされてしもうたとじゃろうと、蔭《かげ》ではみんなそんげん思うとるのかもしれんね。……」 「何処ぞにというとを、もうちょっと詳しゅういうと、どっちの方角ね」 「そりゃ誰にもわからんと。何処か見知らぬよその町にやられなさったか、ひょっとして、浪《なみ》ノ平《ひら》か戸町にでもおんなさるかもしれんしね。まさかとは思うばってん、身請けでも年季あけでもなかとに、丸山におられんごとなるとだから、どんげん仕打ちば受けても仕様のなかとでっしょ」 「浪ノ平というたら和船相手の惣嫁《そうか》(泊まり船の客を相手にする女)でもしよるというとね。いくら何でも染田屋の格子にそれじゃあんまりの仕打ちじゃろう」  つねよは何故《な ぜ》かその言葉を直接には受けず、盃を重ねるよう和助にすすめた。戸町を口にしたので、ふっと桜町の牢《ろう》にいる男を思い浮かべたのだ。何の取り柄もない、ただ気持ちだけ優しかった小悪党。 「藁半紙か。……丸山の格子にもそんげんことのあっとばいね」 「男とおなごが生きとるとですけんね。ひゃぁはちにでん格子にでも、大事かものはあるとですよ」 「自分のことばあんまり、ひゃぁはち、ひゃぁはちといわん方がよかぞ」 「すみまっせん。別にそがん気もなかとばってん、矢張り何処かいじけとっとでっしょね。さあ、機嫌ば直してやらんね」 「ぬしのごたるよかおなごば、なして並のままにしとくとやろうな」 「うちは掘り出し物ですけん」 「掘り出し物。……」 「店女郎はいくら、並はいくらと、初手から揚げ代のきまっといて、お面もからだもそいしこのたよししかでてきよらんと何かしら味気なかもんでっしょが。並の分ば払うて、でてきたとをみれば誰にも真似のできんごと客扱いのよかった。そんげんふうになると店の評判もあがるし、遊ぶ方も儲《もう》かったと思う。いわば掘り出し物ですたい。そいけんうちは太夫《たゆう》にもならずに、何時までも泣く泣く、並の看板ばかけさせられとっとですよ」 「おもしろかことばいうな。ほんなこと、ぬしは掘り出し物かもしれんばい」 「うちばあんしゃまの馴染みにしてくれまっせ。くら橋さんとはくらべものにならんかもしれんばってん、気持ちは倍もつくすとよ。うちは藁半紙なんか懐に入れとらんけん、あんしゃまの思い通り、どんげんことでもいいつけばききますと」 「ほんなこつ、どんげんいいつけでもきくとな」 「申しつけてやんしゃい。何でん全部、あんしゃまのいいなさる通りにしますけん」 「やめとこ」 「なしてやめるとですか。うちはうわべだけのことはいうとらんとですよ」つねよはいう。「うちは見掛け通りのおなごで、そんげん押しかけるとは好かんといわれればそれまでばってん、あんしゃまには手くだや上手はいいまっせん」 「わかっとるたい。わかっとるけん、思いつきをいうとはやめとこといいよると。ぬしとはこいからも、駈け引きなしで付き合いたかけんな」 「思いつきでん何でんいうてみまっせ。うちはそればきいてみたか」  和助は付き出しの煮こぶをつまみかけた箸を途中でおいて、ちらっと相手をみた。幾分厚目のまくれあがった唇は小娘のような愛敬《あいきよう》を含んでいて、刷《は》かれた口紅が妙に浮き上がっている。 「早ういいなさらんね。うちは待っとるとよ」 「そればいうてしもうたら、ぬしはいっぺんにおるを嫌になるとたい」和助はいう。 「そんげんことならなおききたかと」  和助は盃を口に含み、そのまま真っ直ぐ試すような視線を走らせた。 「おるは今夜此処に泊まる。そこでの頼みばってん、これから朝までずっとおると一緒におって貰いたかと。小半時も離れずにな。ぬしがまわしを取っとる分の銭は払う。……まあききんさい。ぬしがいいわけすることはなかと。そんげんことは当たり前のことだけんな。そればどうのこうのいう方がおかしか。そいけん思いつきでいいよっとたい。しょっちゅうじゃなか、今晩だけたい。いうことをきかれるならきかれる、きかれんならきかれん。そいだけはっきり返事ばして貰えばよか」 「今晩だけじゃのうして、あんしゃまがきなさることがわかっとる日は、こいから必ずまわしは取りまっせん」つねよははっきりした口調で答えた。「あんしゃまのいわれる通り、ちゃんと断わりますけん、今晩のことはご免して下さりまっせ」 「そいだけきけばよかと」和助はいう。「ぬしの困ることはしとうなかけん、まわしばすませてくればよかたい。おるは此処で待っとる」  つねよは黙ってすっと立ち上がった。 「何としてでん、向こうのお客に今日は帰って貰いますけん。……」    2  川岸には珍しいざくろの枝葉を指先で弾《はじ》くと、卯八は何時も唾を流れ淀《よど》む水面に吐く。橋ひとつ渡った場所に峰吉の待つ家の明かりが見え、そこを通るたび鳩尾《みぞおち》の辺りに気泡でもたまるような心持ちになるのであった。  戸を開けると、顔を見せた女はものもいわずに引っ込む。土間から真っ直ぐ二階に上がる階段を踏んで卯八は半ば開いた障子の手前で膝《ひざ》をついた。六畳の部屋には峰吉の他《ほか》にもうひとり侍がいる。 「あ、これは」 「奉行所からおいでになったとたい、わざわざ」  峰吉がそういうと、侍は自分の方から名乗った。 「目安方の清瀬内記と申す。今日は直接おぬしの話をきこうと思うてな」 「卯八といいますと。よろしゅうお願い致します」  挨拶を終わると峰吉は階下に行き、自分で盆に乗せた茶碗を運んできた。卯八は礼をいって、ただ前に坐る男の言葉に備える。 「塩辛売りの探索で、何か目ぼしい当たりでもついたかな」 「この前、峰吉さんに伝えた後のことは、まだそのままになっとります。マックスウエルのことのありましたけん」卯八は答えた。「塩辛の方はどうも、もうちょっと日日《ひにち》をかけんと、かえって怪しまれますけん、懐に入るとは難しかごたると思います」 「マックスウエルは矢張り一昨日の晩金ケ江屋境平と会うたとね」と、峰吉がきく。 「そいが、相手は金ケ江屋ときいとりましたけん、そのつもりで見張っとりましたばってん、どうも様子が違うとったとです。あたしは金ケ江屋の顔を知らんし、初手のうちはそんなつもりで考えとって、マックスウエルと別れた男の後ばつけとるうちに、そん男が金ケ江屋じゃなかことのわかったとです」 「体のよう、たぶらかされたとじゃなかね」峰吉はいう。「マックスウエルが舟津町にある金ケ江屋の別宅で主人と会うという知らせは、そいこそ間違いのない筋からでとるとだけんね」 「マックスウエルは金ケ江屋の別宅には行かなかったというのか」清瀬内記はいった。 「いえ、それは間違いありまっせんと。舟津町の別宅は変わらんとです」 「まどろしかことばいわずに、要点ばいわんね。別宅ばでた男が金ケ江屋境平じゃなかったというても、これでマックスウエルの相手がそうじゃないとはいえんやろう。金ケ江屋境平ひとりだけじゃのうして、マックスウエルの相手にはもうひとりほかの誰かがおったのかもしれん」 「それはそうかもしれまっせん。そいでもわたしの勘じゃ、一昨日の晩、別宅の主人はあそこにおらんやったとじゃなかか。あそこにマックスウエルと会うたとは矢張り別人で、わたしが後ばつけた男に違いなか。そんげんふうに考えましたと」卯八はいった。「金ケ江屋境平は別宅をただ貸しただけで、実際にそこに行ったのはマックスウエルと別の男。あたしにはどうもそんげんふうに思われるとですよ」 「勘だけじゃ何の証拠にもならんけんな。部屋の中まで覗《のぞ》いて見たとならそういうことにもなろうが、出て行った男が違うたからといって、金ケ江屋境平じゃなかったという裏付けにはならんやろう、……」 「それで、別人だという者の身許《もと》は確かめたのか」目安方だという役人はたずねた。 「はい、そいがいちばん難儀しましたが、やっとのことに確かめました。薬種問屋の梶屋正輔。そんひとに間違いありまっせん」 「なに、梶屋正輔。……」 「薬種問屋の梶屋か。なしてそいば早ういわんとね」峰吉はいう。「そりゃ、ほんなこつやろうな」 「ほんなこつです。金ケ江屋の別宅をでて、そいからそん男は五島町の小料理屋にあがりましたけん、その辺の調べはついとります」 「そうすると、舟津町の別宅でマックスウエルと会うたとは薬種問屋の梶屋か。それに金ケ江屋境平が一枚噛《か》んどるわけたい。こりゃ思いがけぬ人間のあらわれよったと。……卯八さん、手柄ばい」  清瀬内記はそれにも応ぜぬまま、卯八の口にした名前にこだわっている様子で、殆ど空の茶碗を手にした。 「これでなおさらマックスウエルの動き方がはっきりしましたとたい。金ケ江屋だけじゃのうして梶屋まで絡んどるとなれば、これはもう疑う余地もなか。阿片にきまっとりますばい」  阿片。するとマックスウエルも、と卯八は思う。 「此処でとやかく詮議《せんぎ》するわけにもいくまい」清瀬内記の口調は明らかにそれまでのものではない。「金ケ江屋境平と梶屋のつながりがどの程度のものか、それを探った上でなくては軽々しく踏み込むこともできぬからな」 「金ケ江屋の別宅で、マックスウエルと薬種問屋が会うとるというだけで充分じゃなかとですか」峰吉はいう。「前々からおかしかと思うとったこともあったとですよ。卯八さんの持ってきた塩辛売りの一件も、案外そんげんところが大根かもしれまっせんと」 「奉行所はおぬし達だけを使うているのではないからな」 「そりゃもう……」改めて何をいうかというふうな面持ちを峰吉は浮かべた。 「奉行所には夫々《それぞれ》の目的と思惑があってな。大きな輪、小さな輪と、それらが互いに噛み合いながらひとつの車を動かしておる。わしはそれをいうておるのだ。小さな節穴から遠くを見透すことはできまい。梶屋の探索は奉行所でじかに行うことになろうな。……」 「梶屋のことはわかりましたが、マックスウエルも打ち切れといわるっとですか」 「打ち切れというたか、わしが。マックスウエルの行き先は、今後とも厳重に見張っておけ」  もしマックスウエルが再度梶屋正輔と会えばどうするのか。しかし、卯八は別のことを口にした。 「マックスウエルの見張りと、塩辛売りば洗うことの、どっちば主にしたらよかとでっしょか」 「どちらも、重要だな」清瀬内記は瞬くようにしていった。「どっちにしても目を放すわけにはいかない。……実はそれで思案しているのだ」 「思案といいなさると……」峰吉が促す。 「実はな、おぬし達の手をどうしても借りねばならん仕事が、新しくできてな」清瀬内記はそういうと卯八の方に顔を向けた。「その方、井吹重平にかなり昵懇《じつこん》の間柄ときいたがまことか」 「はい、それは以前に……」咄嗟《とつさ》のことに卯八は返答に詰まった。「昵懇というのではなかとですが、顔見知りは見知りでございますと。……」 「以前でも昨今でも、それは構わぬのだが、井吹重平に顔見知りならば都合がよい。おぬし、早速その男の身辺を洗え」目安方の役人はつづけた。「近頃、長崎の港を中心にして肥前の国の詳細な絵図がオランダ、イギリス人などとの間に取引されているという知らせがある。それも一枚二枚ではないのだ。話だけではなく、実際にそれを見た異人から、なんとか同じ絵図を世話してくれないかと、持ちかけられた者もおる。その絵図に仁昌寺の住職が何らかの形でかかわっているのではないか、というきき込みがあってな。住職の名は有馬永章。存じておるか」 「仁昌寺の住職ですか。さて……」  首をかしげる峰吉には目もやらず、清瀬内記は卯八に問うた。 「その方はどうだ」 「いいえ」卯八は答えた。 「そうか知らぬのか。大体坊主の顔は、一度位、土地の者に見られておるものだがな。……」清瀬内記はいう。「顔も見られていないとすると、案外その辺のところがかえって臭いのかもしれんな」 「お寺さんの住職がその怪しか絵図を、なして……」 「異人たちの手に入れたがっている絵図は、日本で作られたものだ。……だからこそ連中も欲しがっているのさ」目安方の役人は間をのばすようにしていった。「出所はどうやら肥前の有田らしい。有馬永章という名前が浮かんできて、これが判明した。住職の前身が元鍋島藩の武士であったこともそこに絡んでおる。絵図には克明に肥前の海岸が小さな入り江までひとつひとつ書き込まれていて、異人に限らず、誰がみても咽喉から手のでる代物らしいぞ」 「そいで、さっき名前のでたひととはどんげんかかわりが……」  峰吉は卯八の確かめたいことをきいた。 「井吹重平か。その男も仁昌寺に住んでいるのだ。しかも身許は住職と同じ鍋島藩の者らしい。そうだな」 「いえ、わたしは……」思いがけぬことをきかされて、卯八は慌てた。井吹重平は仁昌寺に住んでいたのか。「井吹さんのお住居が何処にあっとか、これは知りまっせんでした」 「住居を知らんのなら、暮らし向きもようとはわかるまいな」  清瀬内記の言葉は皮肉たっぷりに響く。この目安方は自分と井吹重平の関係を何処まで知悉《ちしつ》しているのか、と卯八は思う。 「居候にしては大層懐があったけえそうだ」 「卯八さんが顔見知りというならなんのことはなか」峰吉はまるでさくらのような口をきいた。「仁昌寺の件は造作もなかごと片付くでっしょ」 「井吹さんのことはどうも……」卯八はいった。「顔見知りじゃけんかえってやりにくうはなかでっしょか」 「お前はいま、井吹という男が何処に住んでいたか存じていない。そういったな」清瀬内記はおぬしをお前にいい変えた。 「はい」 「ならば当然、お前は仁昌寺を訪ねたことはないのだな」 「ありまっせん」 「井吹重平との付き合いがどの程度の年月かは知らぬが、その間、お前に住居を明かさないのはどういうわけだ。その点だけでもかえって不審が生ずるのではないか」 「それ程、特にどうという付き合いでもなかったとです」卯八はさりげなくいってみる。  清瀬内記の視線が一瞬峰吉のそれと絡まるのを卯八は感じる。 「とにかくこの件はおぬし達にまかせたぞ。仁昌寺の住職と井吹という男の身辺を隈《くま》なく洗うのだ。できる限り早い方がよいぞ、よいか」  峰吉が黙って頭を下げ、卯八もそれに倣った。 「マックスウエルと金ケ江屋の探索はわしの方で引き継ぐ。当面は絵図の件に集中するのが奉行所の方針でな」目安方の役人はなぜか梶屋正輔の名を口にしなかった。  それからしばらく世間話がつづき、合間に階下の女が酒と肴《さかな》の膳を運んできた。それをしおに去ろうとする卯八を深くは留《とど》めず、目安方の役人は思いついたようにいった。 「そうだ、丸山のことはおぬしにきけばわかるな」 「いえ、あたしはただ……」 「染田屋の太夫のことは存じておろう」 「はい、名前だけは」 「尾崎というのだな、確か。……近頃その尾崎と船乞食《こじき》にまつわる話が、かなりのところまで伝わっているそうだが、事実か」 「くわしゅうは知りまっせんばってん。……そんげんことをちょっと耳にしとります」 「耳にしたことがある。それはどういう話かな」 「はい……あたしのきいたとは、又次という船乞食が、身形《みなり》をかえて蘭水にあがったのが露見してしもうたという話だったとです。こともあろうに太夫の尾崎を名差して、銭はいくらでもだすというのがかえって化けの皮を剥《は》がれるもとになったと、いいよりました」 「わしがきくのはそれから先のことさ」 「それから先といいますと……」 「又次という船乞食が身分を偽って蘭水にあがり、そこの太夫を名差した。それまでのことは評判にもなっているし、誰もが知っておろう。わしがいうのは別口だ。溜牢《ためろう》からだされた男と、尾崎が寺町の何処かで密会しているとか、そういう話をきいたことはないのか」 「さあ……」  卯八は首をかしげてみせた。何処まで真実かそれは不明だとしても、船乞食と逢瀬《おうせ》を重ねる尾崎の苦労は、今や丸山でいちばんの内緒話になっているのだが、それを喋る気もしなかったのである。  卯八は二人と別れて川端の家をでると、懐中の紙包みをいまいましい手つきで取り出した。峰吉の手渡した銀はこの前より余計に入っていて、そのことがかえって彼の心を刺す。  とどのつまり、追い込まれる道に追い込まれたのだ。峰吉の手下になることをやむなく承知した瞬間から蹲《うずくま》っていた火種がようやく燃えひろがり、避けられぬ場所まで迫ってきたのである。今更フランス寺の仕事から頑として手を引かぬ父親をなじっても取り返しはつかぬというやるせない憤怒《ふんぬ》が焦げ臭い煙を発して卯八の脳裡《のうり》を逆巻く。  兼七さえフューレやプティジャンなどというフランスの宣教師に近づかず、浦上三番崩れに巻き添えになった屈辱を忘れなければ、峰吉などにつけ入られることもなかったのだ。いくら何ちゅうても、卯八さんのおとさまが隠れじゃったということはなか。あれはただ指物師の腕ば見込まれて、ただそいだけのことで加勢しとんなさるとだけん、そんげん疑いばかけちゃならんばい、とわたしは何べんもそういうとったと。すらごとでも隠れに肩入れしとるなんていわれちゃそいこそ大事《おおごと》になってしまうけんな。そいでのうしてもフランス寺のことは奉行所のにらんどるとだけんね。……峰吉は結局、それを卯八に突き付けたのである。  左手の二階屋から高笑いの声がきこえるのは、きっと近頃噂のひろがっている時雨茶屋のものだ。何処に向かえばよいのか行き先を定めぬまま、卯八の足は何時の間にか本石灰町に通じる橋を渡っていたが、井吹重平の顔を見た途端、自分の口からどのような言葉がでるのか、わけのわからぬ影を、歩くたびに引きずるような気持ちであった。  小料理屋の中津。卯八の姿を見ると、女中のお富が太《ふと》り肉《じし》の体をゆするようにして近寄ってきた。 「よんべも噂ばしとったとよ。卯八さんもひょっとしたら勤皇方になって、薩摩にでん行っとんなさるとじゃなかろうかって」 「大方、井吹さん辺りの文句じゃろう……」  女中の言葉にも引っかかりながら、卯八は辛うじて応じた。 「ほんなこつ、どんげんしとんなさったとですか」 「ちょっと質《たち》のわるか風邪ばひいてな。家にごろごろしとったとたい」  奥から手招きするような仕種《しぐさ》であらわれた女将《おかみ》も、女中とまるっきり同じことをいう。 「卯八さんは先の見えるひとじゃけん、長州か薩摩にでん行かしたとじゃなかか。よんべまでそんげん話のでよりましたとですばい」    3  英語で記入された地図を下敷きにした版画製作のための隠れ家をでると、井吹重平は左手の土塀《どべい》に沿って歩きながら、仁昌寺に寄っても恐らく住職は不在であろうと思った。寺の離れを引き払ったというより、部屋の調度はそのままにして、仕事場と寝所を夫々別に設けたのは、卯八についたという尾行を警戒しての上である。仕事は有馬永章ゆかりの者の蔵で、寝起きは殆どきわの借りて住む墓地下の平家であった。  このところ卯八との連絡の跡絶《とだ》えていることに、何かしら気がかりなものを感じていたが、奉行所の探索をくらますために、心得てそうしているのかもしれないのだ。咲と出会う日時はきまっているのでさして不便はなく、いまだに長州へ旅立てぬ苛《いら》だちを除けば、むしろ順調すぎるような地下の作業に、かえって不安な昂《たか》ぶりさえおぼえる。  奇妙な一致というべきか。一緒に組んでやらないかと、阿媽《あま》上がりの女の持ちだした仕事の中身も、日本周辺の海域やオランダ医学書から抜いた人体解剖図の複写で、何時の間にどのような手段で入手したのか、驚く程の資料を彼の前に並べて見せたのである。  月はでていたが、何処となくぼんやりした薄い闇に被《おお》われた夜の道を行く井吹重平の耳に、かすかに届く按摩《あんま》の流す笛。十間余りの石畳を踏み終えた場所に扇の形に似た広がりがあり、突き当たりの番所にはなぜか明かりが灯《とも》っていない。  そこから一旦せり上がる坂を越えると、平たい家並みがつづき、燈明の鐘にまじわる念仏をきくともなくきいているうちに、やがてうどんの字を提灯《ちようちん》に浮かせた屋台の傍《そば》を通る。磨屋《とぎや》町、銀屋町の掘割にでると、遊び人らしい男が背をかがめるような恰好で駈け去るのが見え、橋際の人だかりはきっと、近頃流行の大波戸《おはと》新報と称する瓦版屋の口上だ。 「さあかれこれもう五ツ(午後八時)ですけんな。こいでも家にはちゃんとお膳ばこしらえて待っとるおかっつぁんのおるとだけん、話はもうこれっきりにしますばい。……よかですか、五年前のコロリ騒動をおぼえておられるひとはまあだいっぱいおらすとでっしょが。ちょうど五年前ですたい。安政五年(一八五八年)の夏、海の向こうの上海《シヤンハイ》でコロリのはやっとるそうな、という噂のでよったと思うたら、あっという間にこん長崎でもあっちでばたん、こっちできゅうという騒動になってしもうた。とにかく朝方までぴんぴんしとった左官が、昼過ぎには、ぐにゃっとなって、夕方にはころりと行くとじゃけん、手の打ちようのなかごたる、おとろしか病気ですたい。去年もちょうど今頃、五年前程じゃなかったが、子供たちが大分腹下しで死んだ。  コロリの本名はコレラといいますと。ご存じの方もおいででっしょが、こん病気にかかったが最後、百両、千両積もうとまず見込みはなか、これという薬のなかとですけん、黙って見とるより仕様のなかとですばい。そのうち看病しとる者がばたっと倒れてしまう。あんひとにはかかってこんひとにはかからんというけじめもなか、勤皇も佐幕も見境なかごととりつくとがこのコレラですたい。あんた薩摩のひとな、そいじゃやめとこという具合にゃいかんとよ。いくらお蔵ん中に千両箱ば積んどっても、口からあぶくばだして、よろよろと柱にすがりつくごとなれば、もうこの世の見納め。早う朝鮮人参《にんじん》ばというても小島養生所のボードウイン先生にきて貰えとおらんでもおしまい。いかなボードウイン先生でも、去年までおらしたポンペ先生でも、首を横に振るしかなかとがコロリのコレラ。……  何でそんげん五年も前の話ばすっとか。そがんふうに思いなさる方もおらるっとでっしょ。そうですたい。何も好きこのんでおとろしか話ば流して歩くことはないかと。ところがどっこい、昔話じゃのうなってしもうたとです。おとろしか話ばこしらえて何の魂胆あってかと考えんごとしとってくれなっせ。……  よかですか、こんげん話はすらごとやただのおつべ(饒舌《じようぜつ》)ではいわれんとですばい。そんげんことでもいうたらたった今、あたしの手は後ろに廻ってしまう。奉行所のお役人が引っ張って行きなさる。その辺のことばようとわかって、こいからいうことをきいときなっせよ。……安政五年の夏、あん時のおとろしかコロリがもういっぺん長崎に近づいとる。こんげんいうたらどがんしますか。すらごとじゃありまっせんと。これはちゃんとした奉行所が今年の六月十三日の日付でだした支配向きへの通達の写しですけんな。読みますばい。……  上海辺りにこの節、コレラ病流行。殊に当節は勢い甚《はなは》だしき由、オランダ書記官上海にて見聞致し候おもむき申し立て候。昨年も同所に流行の沙汰あり候後、三十日を経て当地に流行候由承り……面倒臭かけん後ははしょりますばってん、わかり易ういいますと、上海でコレラのはやっとるのをオランダの書記官がみたというとるけん、要心せにゃいかんというわけですたい。上海というたら唐天竺《からてんじく》のごと思いなさるかもしれんばってん、ようと調べてみたら、何のことはなか。五島の先ですけんな。上方と同じ位しか離れとらんとですばい。オランダでもエゲレスでも、遠かところからきた船はその上海に寄って、そいから一直線にこん長崎に向かってくる。船に乗っとる者はどっちみち上陸して飲んだり食うたりしとるけん、コレラも一緒にそん男たちの体にとりついてしまう。こりゃもう防ぎようもなかとですと。……  さあ、どんげんしたらよかか。コレラは明日にでん長崎にやってくるかわからん。ひょっとしたら今頃はもう大波戸辺りをうろついとるかもしれん。笑いごとじゃなかとですよ。さあ、そこで取り出したのがこの大波戸新報第三集だ。コレラにとりつかれんためには、何を食べてはいけないか。こと細かにはっきりと書いてある。それでも万一、とりつかれた時はどんげん養生をすればよかか。軽かうちなら、療治だけでなんとか撃退することもできる。そのやり方まで一切合財記されとる。いうなればコレラ養生法。さあ、一家に一枚、手遅れせんうちに備えておく。わずか五文でぐにゃりの泣く目にあわずにすむとよ。はい、ああたが一番乗り。仏さんの前にぴしゃっと貼《は》っとけば忽《たちま》ちコレラは退散。ただし、黙って拝んどればよかというもんじゃなか。此処に記されとることを実行せにゃならんよ。……」  井吹重平は四人目の客としてそれを求めた。大波戸新報の第一集は大浦居留地における異人たちの日常生活、第二集は諏訪神事を控えて各町の夫々の趣向を確か瓦版にしたものであった。どちらもきわが購ってきたものである。新報が発行されると、五、六人の売り手が夫々の盛り場で売り捌《さば》く達者な文句はたった今きいた。  そのまま真っ直ぐきわの待つ家に帰るか、それとも寄合町の門屋で夜を明かして、小萩との間に生じかかっている隙間を埋めておくか、踏ん切りのつかぬ足を万屋町の古書店に向けると、店を仕舞いかけようとする左内がそこにいた。 「よかったとですばい。ああたのきなさらんかなあと思うとりましたと」 「珍しかものでん入ったとな」 「本のことじゃなかとですよ」左内はそういうとちらっと奥の方に首を動かした。 「久し振りじゃけん、きわのおった店にでん行こうか」 「いや、それはこん次にしまっしょ」左内はいった。「昨日の昼過ぎ、八ツ半(午後三時)頃でしたがね、小萩さんの見えなさったとですよ」  井吹重平は相手の言葉のつづきを待つ。 「お茶もださずに、言伝《ことづ》てだけ先にいうてしまいますばってん、大事な話のありますけん、なるべく早う、ちょっとでも顔ばだしてくれ。ほかの客についとる時でんかまわんけん、とにかく門屋に寄って貰いたか。少しでも早う伝えたかことのできとると、そんげんことづけでしたと。……」 「この頃大分すっぽかしとるけんな」 「それだけじゃなかごたったですよ」左内はいう。「これまで使いは何べんか貰うたことのありますばってん、直接本人がこらしたとは初めてですけんね。それに何かこう無駄口ひとつ叩かんような顔ばしとんなさって、よっぽど急いで知らせたかことのできとるとかもしれん」 「そいじゃこいから寄ってみるたい」 「よかった。ちょうどよか時あらわれなさったとは矢張り虫の知らせたとですばい」 「どうも勝手の違うてな。そんげんはずじゃなかったが、毎晩待っとる者のおると思うと、時刻の配分のなんとのううまい具合にいかんとたい」 「まあいうてみれば新世帯と同じことですけんね。気のきいた娘とは思うとったが、ああたのおなごになったらそいこそさなぎから蝶になってしもうて、たまげとるとですよ」左内はいう。「一方が殻から抜けでたばっかりの白糸蝶々なら、門屋の方はそいこそびいどろで作ったごたる何もかも透きとおった朱門揚羽ですけんね。そん朱門ば気儘《きまま》にうっちゃっとらすとだけんほんなこつ冥利《みようり》のつきますばい」 「ぬしの口にかかっちゃ片なしやな」 「何ですか、そん手にひらひらさせとんなさっとは」 「ああこいか」井吹重平は手の中の瓦版を差し出した。「あっちこっち噂になっとる大波戸新報たい。上海からコレラの上陸してくるそうだけん、どんげんしたらそれを防ぐことができるか。それの書いてあるとらしか」 「らしかというて、まだ読んどんなさらんとですか」 〈これら養生法〉と見出しのついた瓦版にさらっと目を通すと、井吹重平はそれを古書店の主人に渡した。 〈これら流行のときといへとも直様《すぐさま》うろたへさわきてそのつねのならひをかふべからす 只よく養生をおこたらぬやうにおたやかにやしなひをせんことを肝要とす  家屋しきおこたらすそふじしてしやう〓〓ニなしきよらかなる気のかよふやうにしてきたなくけからわしき事をいむへし尤《もつとも》油こくしてこなれがたきもの油あけ餅たんごの類とよくうまざる木のみ草のみを食すべからす 凡《およそ》しよくしてあしきものを左ニしるす  一 すべてたまごある魚 色青き魚  一 いわし さば たこ いか しび かつを  一 くしら このしろ かに はまぐり ゑひ 凡しほつけの肴類  一 すいくわ きうり まくわ かき なし  凡右にしるすものハいまよりあつき間ハわすれても食すべからす  凡ことしこれらの気味ある時はすぐにはらあしをあたゝめきやく湯——足を湯に入れてあたゝめる事——又ハ風呂にて惣身をよくあたゝめ又ハ腰湯をしてそふしてあつき夜具をかけ十分にあせをとるへしその後に猶《なほ》ひへぬやうに心付へし 又ハ日にてらされあつきにあわぬよふにしてこゝろはへをやすくしてなにことにもおもひこらさす惣身をやすらかにすべし 男女の交りをつゝしみ多く人のあつまりたる所にゆくへからす 酒食事すぎさるよふにすへし 養生にハ一日ちよく一ツくらいしやうちうを乃《の》むこと大きによし しかれ共多分に乃むとわざと其《その》身をほろほすにいたるへし慎むべし〉 「おもしろかもんの商売になっとですね」左内は読みながらいった。「オランダ通詞《つうじ》の本木先生について、横浜からきた男の始めたという話ですばってん、目から鼻に抜けとるとはこんことですたい」 「本木先生というと、あの、本木昌造というひとのことな」井吹重平は左内から返された瓦版をふたたび手にした。「そんげんいえば、並の刷り方じゃなかね。こいじゃまるっきり活版の印刷と同じたい」 「出島印刷所のことはようと知っとってですか」 「なんの、話にきいとるだけたい。オランダの活字のいっぱい並んどって、木版ば彫るかわりに、ただ活字ば拾うて行けばよかとだけん、手間のかかり方が違う。とにかく活字さえ拾うて並べればそれで印刷のでくるというとだけんな。いっぺん実物ば見せて貰いたかと思うとる」 「あたしもまだ見たことはありまっせんばってんね」  そこに茶を運んできた妻女と入れ替わるようにして、左内は奥の棚から一冊の本を取り出してきた。 「オランダ語じゃな、これは……」 「ドクトル・ポンペが小島の伝習生のために書いた薬学指南ということですたい。これも出島で印刷したとですよ」 「ポンペの薬学指南か。……こんげん本が出島じゃもう印刷できるとばいね」井吹重平は感に耐えぬような声をだした。実際、自分の作製する木版の地図や文字と比較して西洋活字の鮮烈さに撃たれたのである。 「こげな本がすらすら読めたら、どいしこ助かるかもしれんな」井吹重平は気持ちとは別のことを口にした。「きわもいま、何かといえば医学や薬のことば帳面につけとるが、ポンペの薬学指南が一本にまとまっとるとなら、これに越したことはなか。……それはもう誰か買い手のきまっとるとね」 「いえ、それはまだきまっとりまっせんばってん、そいでも……」 「まだ英語のエイ、ビー、シー位しか読めんとだけんな。無理なことは百も承知しとるたい。そいでもこの本ば傍においとるだけでどいしこ励みになるかわからん。これば読み通すという目標のできれば、あんおなごならやってみせるかもしれんばい。あれから日にちも経っとらんとに、英語にかけちゃ、もうおれん方がたじたじになっとると」  井吹重平の矛盾する言葉をきいて古書店の主人は口許をゆるめた。 「並の値段じゃなかことはわかっとるたい。どうや売ってくれんな。……あんおなごは本ば買うてやるとがいちばんよろこぶとじゃけん」 「よっぽど相性のよかったとばいね」左内は手許の蘭書をいじりながらいう。「そいでもこん書物はかけ値なしに高かとですよ」 「いくらな」 「十両。ほんなこつは十五両か六両で売りたかとばってん、ああたから儲けるわけにもいかんとですけんね」左内はいった。 「十五両でもよかたい」 「いえ、それは十両でよかとです。もう少しなんとかできればあたしもいいやすかとばってん、仕入れた値段がそれに近うして、どうにもならんとですよ」 「ぬしに損させちゃならんけんな。それならそれに二両つけるけん」 「そんげんことはいりまっせん」古書店の主人は『薬学指南』の本を井吹重平に差し出した。「きわさんもきわさんばってん、ああたもああたですたいね」 「何のことな。……」  肩をすくめる左内を後にして、彼はそこをでた。行く先は門屋にきまったが、昨日、八ツ半に自ら古書店に訪れたという小萩の行為はただごとではない。自身の気持ちだけで、勝手な振る舞いをする女ではないのだ。  門屋に行くと、折悪しく小萩は客をとったばかりであり、遣手《やりて》の手引きで二人は階下の小部屋で会った。 「早ういうとけばよかったがすまんことばした。そのかわり、明日はきっと宵の口からくるけん」  それはもうどうでもいいという素振りを小萩はみせた。 「手の放せんことばっかりでな。あとひと月もしたら落ち着くけん……」 「卯八さんのことでちょっときいたことのありますと」 「卯八のことで……」 「卯八さんは奉行所の仕事の手伝いばしとんなさる。出所の確かな話ですけん、疑いようもなかとですよ。ああたにもしものことのあれば、生きちゃおられまっせんけんね」 「そうか」彼はいった。「そん話もあるけん、何とかならんかな、一刻《とき》位ならその辺ばまわってくるばってんね」  小萩は黙ってかぶりを振った。 「そいじゃ仕様のなかな」彼はいう。「明日はなんか、うまかもんでも下げてくるたい」    4  ようやく終わりに近づく宴の中で、太鼓持ちの声だけが妙に空々しくきこえた。体の具合がわるく、かれこれ十日余りも伏せっているという巳之助の代わりにきた捨丸とその相棒のわざとらしい二番煎《せん》じの未熟な掛け合いが、まるっきり場の空気とあわず、芸子たちの調子も一向に弾みのつかぬまま、上辺を繕うばかりのような時が流れて行く。  客の顔ぶれは網屋友太郎とつい先頃堺を往来してきた辻野屋嘉右衛門、それに廻船《かいせん》問屋と雑貨商を営む金ケ江屋境平。その間のやりとりにいまひとつしっくり行かぬものが挟《はさ》まるのも、宴席の盛り上がりを欠く原因と思えた。あまり質のよくない噂《うわさ》のある当事者について尾崎はすでに遣手からきき、主人の太兵衛にもそれとなく暗示されている。 「今日のお客には金ケ江屋さんのまじっとらすとききましたばってん、何かもういっちょ腑《ふ》に落ちんとですよ。なして網屋や辻野屋の旦那さんがあんげんおひとを呼びなさるとでっしょかね。煙のでる塩辛売りの元締めちゅうことを、知らん者はなかとに……」さくはそういったのだ。  網屋友太郎の日頃にない不機嫌もそこに由来するらしく、自分の方から金ケ江屋には決して口をきかない。とすれば辻野屋嘉右衛門の一存で、両者を引き合わせるために金ケ江屋は招かれたのかもしれぬ。それとも他《ほか》にどんな三様の思惑が絡んでいるのか、それを見極めることは尾崎にもなかなか難しかった。 「はい、これから取り行いますは悲恋座頭の透視術。生まれながらに会得した忍法に年期修業を加えること三十余年に及ぶ秘術でござります。……そこんところのいわればようとわかるごとあんた話しんしゃい」 「はいはい、いまは昔、西坂にあがる本蓮寺裏の掘っ立て小屋に捨市という座頭の住んどらした。その男は生まれた時からめくらで、鐘撞《かねつき》堂の下に捨てられとった赤子を不憫《ふびん》に思うた寺男が、とにかく拾い上げることはあげたが、自分で養うわけにも行かず、寺に入れるにはきついご法度。思い余ってもう一度地蔵堂に捨て、時折、食べ物やなんかを運んどるうちに、不思議に生きながらえたという因縁つきの人間でござんしたと」 「何がござんしたや。ぬしの口上はまどろしゅうていかんばい」 「はいはい、そのめくらさんの捨市が年頃になってものを思うようになった。というより、こまか頃から自分の住む掘っ立て小屋にしょっちゅう食い物を運んでくる寺男の娘の顔ば、一度でよかけん見とうなった。そいでも生まれつきの不自由はどんげん仕様もなか。そいで西坂の刑場で露と消えた人に願をかけた。あんた方のうちには無実の罪で胸ば突かれたひともおんなさるとでっしょ。そんひとたちの冥福《めいふく》ばあたしは一生かかって祈りますけん、どうかこの目ん中の闇に、月のごと娘の顔ば浮かびあがらしてくださんせ。娘の方でも日頃憎からず思うとった男が、自分の顔ばみたか一心に願をかけとることを知ると、それほど迄《まで》にと思う心のいじらしさ。……はい、これが額、これが眉、これが目と鼻、唇でござんすと、男の指先で自分の顔をなぞらせているうちに、何時《い つ》しか触れてはならぬ花の蕾《つぼみ》をはたとつまむあやしき手つき。……」 「いやらしか。ぬしの話は何時もそこに行くとだけんな」 「そんげん腹かくとなら、ああたがやればよかたい」 「慕い慕われた二人の仲が行きつくところまで行くとは自然のなりゆき。月ははらみやがて生まれでたややがひとり。何を隠しまっしょう、その名こそ捨丸なのでございます」  芸子たちが挨拶のような笑い声をあげ、それを間にして相棒の藤丸は掛け合いを継いだ。 「何か肝心のところば抜かしとりますが、大事な娘を傷物にして、恩を仇《あだ》で返したと怒り狂った寺男が座頭を刺そうとしてそのあげく足を滑らせて、われとわが身を傷つけてしもうたとです。必死に看病する甲斐《かい》もなく、寺男はやがて息を引き取りますが、いまわの際に娘の手を取ってひと言。丈夫なややを生めよ。ああ、ととさんはややのできたことを知っとんなさったのかと……この辺が捨丸誕生のいちばんのさわりになっとりますと。……」 「栴檀《せんだん》は双葉よりかんばし。それはそれは捨丸は、利発なお子でござりました」 「親の因果が子に報い。よたよた歩きの頃から、何かしらん暗闇の好きな餓鬼でございました。月のでとらん晩になると、何時も機嫌のようなってはしゃぎだす。気色のわるか餓鬼じゃなあと思うとるうちに、今度は真っ暗闇の中でものが見えるといいだした。坂をあがってくる人間の姿恰好が見える。畑ん脇にしおれとる花や、道端に捨てられとる犬の死骸まで見える。おかしかとは、昼間のうちは、何かこうぼうっとしとって、夜になると生き生きしてくる。こりゃもう大泥棒になる前兆じゃなかろうか。昼間の仕事が駄目なら、行灯《あんどん》代わりに晩専門の船頭にでもなるよりほかあるまいと思案しとるうちに、やっとの思いで見つけだしたとがこの太鼓持ちという闇の仕事でございました。……」 「はい、かくもあからさまに、親の代から因果につもる身の上話を前口上としての秘伝座頭術でございます。はい、これからあたしが目隠しをします。かねて用意したる黒手拭い。はい、これでもうあたしの目は闇になってしまいました。はい、どがん品物でも結構でございますよ。藤丸の差し出す盆の上に乗せて下さい。ことわっときますばってん、小判や銀はやめといてくんなまし。ちゃりんという音はいけまっせん。邪念が走りますけんな。それ以外の品物なら何でもよかとです。はい、藤丸さん、旦那さま方や芸子さんにしっかりお願いして下さいよ。……」  金ケ江屋境平がわざと興に乗る手つきをして、煙草入れからキセルを取り出す。それも並のものではなく、自慢の逸品らしい吸い口から棹《さお》、雁首《がんくび》までがすべて陶製のキセルである。 「はい、秘伝座頭術の旦那。でましたよ、でましたよ。はい、盆の上にきちんと預かりました。はい、今更、見えんとは口が裂けてもいわんとですよ。まさか、勘の狂うたとはいわんとでっしょね」 「がちゃがちゃ何ばいうとるとか。折角の闇夜に心の乱れてしまうじゃなかか」捨丸は思い入れたっぷりな様子で中空を凝視する。 「はい、闇夜を飛ぶキセルが見えます。それもその辺に転がっとる雁首さまじゃない。金、銀、銅、いやそれよりもっと上等かもしれん。白地に輝くオランダキセル。……」  芸子たちも女郎衆もわっと囃《はや》し立てる。藤丸の文句と相の手のなかに品物の符帳が示されている種明かしを知っていながら、熱心に手を叩く年季あけを勤める女。それから恐らく一挙に白けるに違いない座の空気をいくらかでも救おうとして、尾崎は三味線を借りた。 「捨丸さんの見事にあてなさったけん、景品にキセルにちなんだ弄斎節《ろうさいぶし》ば歌いまっしょ」 「こりゃ願うてもなか花ば添えて貰うた」 「闇の捨丸もこいで箔《はく》のつくばい。何ちゅうても蘭水の太夫《たゆう》の歌ば引きだしたとじゃけんな」  二人の幇間《ほうかん》は尾崎の気持ちを知ってか本気で追従をいい、網屋友太郎の表情もやっとゆるむ。それを察して辻野屋嘉右衛門の口も軽くなった。 「おおきに。蝶蘭山館で尾崎太夫の歌をきいたといえば、何よりの土産になります。みんなよだれ流して羨《うらや》ましがりよりますわ」 「そげんこといいなさると、恥ずかしゅうして声のでまっせんけん……」  それでも尾崎は三味線を引き寄せて調子を整えた。籠斎《ろうさい》と呼ぶ僧の作った音曲で、今はあまり歌う者もいなくなったが、しめやかな低い響きから乗せて行く歌の哀切さには独特の味わいがあった。 いらぬ煙草の 羅宇が長うて 様と寝た夜の 短さよ 月と闇との 交わる夜を 羅宇が長うて 寝もやらぬ  静まり返る人々の耳に、沁《し》み入るように尾崎の愁いのこもる深い呉須《ごす》のような声は届いた。芸子のひとりが思わず叩こうとした手を止め、金ケ江屋境平がしなのつく身振りをしながら盆のキセルを握った。 「いやあ、あたしのキセルに情のこもった歌ばつけて貰うて、何というてよかか、お礼の言葉もなかですばい。弄斎節も久方振りなら、羅宇の長さというとがまたたまらん。雪の降る晩に船出ばするごたる気色でしたと。……そいでこんげん申し出をしちゃ何ですばってん、うれしゅうてならん記念に、こんキセルば尾崎太夫に差しあげとうなったとですよ。自分勝手のわがままと思われちゃいかんとですが、どうでっしょか、みなさん」  捨丸と藤丸の強い手拍子にひきずられるように、女たちはうなずく。 「気儘な申し出ばってん、受けてくれんね」  断わりようもない陶製のキセルを尾崎が受け取ると、皆はやんやと囃し立てる。両手を重ね合わせる網屋友太郎の盃《さかずき》に注ぐ、金ケ江屋の図太い銚子《ちようし》を持つ腕。 「大切なキセルばいただきましたと。こいからは勝手な仕打ちで汚さんごと、大事にしますけん」  型通りの礼を尾崎が述べると、辻野屋嘉右衛門がちらっと隣席の方に目を走らせる。いまはもう網屋の機嫌こそが重要なのであろう。 「様と寝た夜の 短さよ、か。折角の座頭忍法も、太夫の歌にかかっちゃ手も足もでまっせんたい。なんかこう神通力ののうなりましたと」 「鳶《とんび》に油揚げさらわれるごとさらわれましたもんね。やり辛か、もう……」 「そいじゃもう、透視術は止《や》めて、弄斎節だらけといきまっしょか。あねさんたちも並んどられるし、こりゃおもしろか趣向ですばい。そり節にれんぼ節、何でんよかけん、さあ次々によかところばださんね」 「太夫のごとはとてもゆきまっせんばってんね」  芸子の小福は思いがけぬ受け方をした。普通ならまずひと呼吸もふた呼吸も間をおく場合なのだ。太夫のごとはといういい方に、尾崎はふっと引っかかる。  朋輩《ほうばい》たちの仲間意識をむきだしにしたような喝采《かつさい》。小福の歌うれんぼ節をきいた尾崎は身を強張《こわば》らせた。 恋は異なもの気づいたときは 引きも返せぬ浪《なみ》枕 浪枕漕《こ》ぎ手の肌に緋文字《ひもんじ》  それはまさに昨日、主人太兵衛の口からでた乞食《こじき》三蔵と遊女吉井の一件を文句にしたものである。町人と偽ってしげしげと枡屋《ますや》に通ううち、身もとが判明してもすでにどうすることもできなかった二人の仲。誰が作ったのか、緋文字とは恐らくそれをあてこすったのであろう。そして小福は明らかにそれを自分に突きつけたのだ。しんとした気配のなかに、太鼓持ちのうろたえたような取りなしがかえってきき苦しい。 「恋は異なもの味なもの。これはまた粋《いき》な文句たいね」 「味をみてから買いなされ、姿形じゃ中身は見えぬ、ほれ、朝方水ノ浦でとれた赤貝じゃ」 「そんげん歌、初めてきいたばい。意味のわからんけん、ようと説明ばしてくれんね」 「ぬしはしっかい(すべて)天《あま》の邪鬼《じやく》じゃけんね。わかっとることばわざとききよらすと」 「おるはああたのごと助平じゃなかとよ」 「そん言葉が何よりの証拠たい。言葉のわからんとになして助平というとね」 「赤貝のところがどうもようとわからんとたい。味ばみてから買えというとるが、売り物ばあんたいちいち食べてしもうたら、魚屋の取り分はのうなってしまうとじゃろうが」 「ほんなこつもう。自分だけ聖人のごたる顔ばして。魚屋がどうしたとか、あきれてしまうばい。……」  網屋友太郎が盃を手にしながら幇間の声を制止するようにいう。 「れんぼ節というのはそれだけか」 「わけのわからんいい廻しは止めて、もうちょっと気のきいた歌はなかとか」金ケ江屋境平がそれに合わせる。 「そいじゃ今度はあたしがいっちょ赤貝節ば歌いますけん。一昨日のとれとれで、味の大分落ちますばってんね」年輩の芸子が剽軽《ひようきん》な声をだした。名は松子。 蛸《たこ》と鰯《いわし》はどっちがよかね 床の肴《さかな》はぬし次第……  昨日、夕飯をすませた後、尾崎を自分の部屋に呼ぶと、主人の太兵衛はいきなり丸山に伝わる吉井の話を知っているかと、きいてきたのである。文化元甲子《かつし》年(一八〇四年)二月十一日入牢《にゆうろう》を申し付けられた丸山町枡屋抱えの遊女吉井にまつわる事件だ。知らぬと彼女が答えると、太兵衛はこういういい方をした。 「丸山にゃぜんもんがあがっちゃならんということはぬしも知っとるやろう。そん掟《おきて》ば破って町はずれのぜんもんと仲のようなったけん牢屋に入らにゃいかんようになったとたい。牢屋だけじゃなかぞ。とどのつまり枡屋の吉井はぜんもんの身内におとされてしもうた。世間じゃ粋な裁きというもんもおったそうな。ぜんもんにおとされた女はぜんもんの男と一緒になっても構わんとだから、まあそんげん理屈もなりたつとたい。……  そいでもな、そこんところばようと考えにゃいかんばい。身分ば隠して吉井に通うとった男はそいでもまだぜんもんの親方じゃったけん、身請け銀も持っとったし、そいだけの金ば使うて吉井と添いとげようとした。まわりの者にも大分金ば撒《ま》いたらしか。そこまでしとって矢張り、二人の仲ば世話した者は全部罪人になったと。……  入牢に追放、手鎖、町払い、男と吉井の仲をとりもった者はみんながみんな、そんげん目に会うたとよ。ぬしは利口かけん、その辺のわきまえはついとると思うとるばってん、何ちゅうても掟は掟じゃけんね。自分ひとり火の粉をかぶればよかというふうにはいかんとよ。……  丸山に質のわるか噂はつきものだけん、知らん顔をしとればよかとじゃろうが、噂には黙っとればすむ中身と、取り返しのつかん中身と二通りあっとたい。今もいうた通り、吉井ば身請けしようとして、八百五十目という銀までだした。その上かかわりを知っとる者みんなに何貫目かの銭ばばら撒いて、あげくの果てに訴人されたという話じゃけんな。……」 固い蓋ほど 吸物茶碗 中身に熱い湯気の立つ  小福のあてつけた皮肉をとりなそうとして、松子の鄙猥《ひわい》な取り廻しはつづいたが、尾崎の脳裡《のうり》は「漕ぎ手の肌に緋文字」という文句をなおも離さなかった。いっそ何処《ど こ》そこではやっているという又次の繰りごとでもうたえばいいのだ。 櫓《ろ》を漕いで 銭ためて みとせがかりの危な絵の 朱色の主は蘭水の尾崎 濡れる間もなく溜《たま》り場に ひかれる又次の繰りごとは せめて色香の袖なりと 哀れもおかし船乞食 哀れもかなし船乞食    5  宵の口から半刻の客を立て続けに二人とらされた後、露地は白湯《さゆ》を貰おうとして板場に行った。その帰途、階段の上り口で遣手のあいが袖を引く。 「ああたを訪ねてきとらすひとのおんなさるとよ」 「訪ねてきとらすひと。だいね」 「そいが、何か様子のおかしかと。名前をいうてもわからんやろうというたり、ふねのもんといえばわかるというてみたり……普通のお客じゃなかごたる」あいは喋《しやべ》る間も肘《ひじ》の辺りをしきりになでさすった。持病の神経病が高じたのだ。「こりゃ太か声じゃいわれんとばってん、くら橋という名のでたけん、たまがってうちはそんひとの口ば抑えたとよ」  遣手は暗に染田屋での前身を自分だけは知っているぞと告げているのだ。しかし、そんなことはもうどうでもよい。 「うちを訪ねてきたとなら会いまっしょか」露地はいう。「そんひとは何処におんしゃるとへ」 「そいでもああた……」 「よかとよ。あいさんには難儀のかからんごとしますけん」  普段は病人などの寝起きに使う裏口に近い小部屋の手前で遣手は顎《あご》をしゃくった。 「お客でもなかごたる塩梅《あんばい》でしたけんね」 「おおきに」  お返しはあとでと、目顔で示して露地は薄暗い部屋に入った。何処となくぎごちなく着物を着た男が行灯の傍《そば》で身顫《みぶる》いするような面持ちをした。 「やっぱくら橋さんじゃったとたいね」男は声をだした。 「おうちは、あん時の……」 「そうたい。あん時のおるたい。覚えて貰うとってよかった。そんげん男は知らんとでんいわれたら、どがんしたらよかか。今の今まで心配でたまらんやったと。……」  増屋の店先に幾度か立った日、行き場もなくただ歩き着いた場所で出会った男だ。ああたを鶴と思うて頼むとたいという言葉を受け入れると、いがわまで体を拭きに走り、それから息急《いきせ》き切って戻ってきた。…… 「ああようやっと探し当てた。……あん時はほんなこつ、お礼のいいようもなかと。……そいであれから染田屋にはもうおんなさらんということのわかって、どう仕様もなかごと案じとったと。何から話してよかかわからんばってん、もう一度あねさんに会いたかと思うて、あっちこっち大分探しましたとばい。……行っちゃならん、探しちゃならんと思うとるとに、じっとしておられんもんだけん……そいでもこうして会えたとだから甲斐のあった。……」  言葉の先を整えぬまま、男は上気した口調でいった。名前をきいたかもしれぬが、露地の脳裡には浮かんでこない。 「そいで、うちになんか用事のあんなさったとですか」  そういういい方しかできぬものを繕うのがかえって面倒なような気もするのだ。 「いえ、用事とかそんげんことじゃなかったとばってん、あん時は銭を取って貰えずに、かえってすまんことばしたと思うて、もう一度会うたらようと頭ば下げて詫《わ》びにゃいかんと、思うとったと。あねさんが稲佐の方に行っとんなさることも知っとったし、丸山に戻んなさったことも知っとりました。そいでも、どげんしてよかかわからずに、そのうち、あそこばでなさったときいたもんだけん、もうやもたてもたまらんごとなって、小耳に挟んだことだけを頼りに探して廻ったとです。戸町と浪ノ平と、こいまで何軒訪ねたかしれん。……」  染田屋から追いだされたくら橋を知らんかと、太か声でおらべば、すぐ見付かったとですよ。露地はさすがにそれは口にできなかった。 「おうちはいま、いくらか銭ば持っとんなさるね」 「銭。……銭はこいだけしか持っとらんと」男は財布ごと懐から取り出した。「こいで足りんなら明日にでんきっと都合つけてくるばい。おるの家にもう一度きて貰えるとなら、いくらでもできるだけのことはするつもりじゃけんな」  これも新しく購うたらしい縞模様の財布を開けると、一夜のためには充分過ぎる程の銀粒が入っていて、そのことと一緒に、おるの家にもう一度きて貰えるとなら、という相手の言葉に露地はひっかかった。 「おうちは此処《こ こ》じゃ遊べんとへ」 「あねさんを咎人《とがにん》にしちゃならんと」男はいった。「隠しようもなかけんはっきりいうとばってん、おるは船乞食の一統たい。いくら浪ノ平というてもご法度はご法度。この前ん時薄々は感じとったでっしょが、おるたちにゃ何時でん越えちゃならん敷居のおかれとるとですよ」  いくら浪ノ平というても、とが男の口からすらっとでる。だが露地はそんなことにいちいち構ってもいられなかった。 「おうちに相談のあっと」彼女はいう。「よかけん黙ってうちの客になってくんしゃらんね。店には何とでんいうとくけん、うちの部屋にくればよかとよ。染田屋ん時の馴染《なじ》みで商売は大工ということにしとけばよか。いちいち調べる者もおらんばってん、遣手にはそれなりの気ば使うとかにゃいかんけんね。祝儀の銭ば少し貰うときますよ」 「財布ごと取っとけばよか。そんげんこつまでして貰うと、ほんなこと恩に着るばい」  露地は小粒をひとつ手にすると、財布を相手の胸に押し込んだ。 「泊まりにしときますけんね。その分の銭はあとで貰いますと。今夜うちはああたの買い切りですけん、威張って遊びなさるとよか。遣手が何かお愛想をいうても、殊更らしゅう返事することはなかとですよ」  宙に浮いたような足どりの男を、自分の部屋に案内すると、露地は遣手を見つけて祝儀には多過ぎる小粒を握らせた。ほかの者は知らないので、染田屋のことはおくびにもだしてはならぬ、とあいは思わず相好を崩したのを裏返すような素振りをし、さらにいい添えた。 「今夜辺りは太古丸の舵《かじ》取りさんも見えられるとでっしょばってんね、うちが都合のよういうときますたい」  女中の手を借りず、自分で酒肴《しゆこう》を運ぶと、露地は次第に強くなる動悸《どうき》に耐えながら、相手の盃に酒を注いだ。あの時の男だと知った途端、胸をつかむ刃先に似た思いを磨《と》ぎすますような内の吐息。 「おうちの名前をまだきいとらんやった」 「おるの名は嘉平次。子供ん時は笛吉と呼ばれたとばってん、おるが勝手につけ変えたと。おるが生まれた時、笛の音のきこえとったと、そんげんふうにきいとったが、後になって親類の笑うとったけん、そん話もあんまり信用できんと」 「笛吉、よか名前たい」 「ほんなこつは冬吉のはずじゃったとに、おかかと喧嘩《けんか》したおととが腹立ちまぎれに笛吉につけ変えたという者もおったと。どっちみちよか加減につけられとったとじゃろう。仲間からはぴゅうぴゅうと渾名《あだな》ばつけられとったし、おるは嫌で嫌でならんやった」  露地は嘉平次の飲み干す盃を間をおかず満たした。頼みごとの刃先を抑えるようでもあり、逆に砥石《といし》に水をそそぐ気もして、ただ手数だけを重ねた。 「うれしか。今日のことは死んでも忘れんばい」嘉平次はいった。「あん時からこっち、おるはあねさんのことば忘れたことはなかった。稲佐に行かしたときいた時は、何べんそん岸辺まで船ば漕いで行ったかしれんし、染田屋に戻んなさったときも、あん家の附近ばずっとうろついとったと。すらごとじゃなかとよ。あん日からずっと、おるはあねさんよりほかのことは考えもせんやったと。……」  酒はあまりいけぬ質らしく、それでも差される銚子を拒もうとしない嘉平次の面は見る間に赤味を差した。苦労して探し当てた女の親身の扱いと、生まれてはじめてあがった遊女屋の昂奮《こうふん》に、何を喋ってよいのかわからぬまま、言葉の方が先にでてしまうというふうであった。 「ぬしは芯《しん》の抜けたごとなって、どがんしたとやと何べんいわれたかしれん。芯の抜けようとくたばってしまおうと、くら橋さんに会えるとならそいでもよか。そんげんことばっかり考えて、稲佐じゃまる一日、海岸に船ば舫《もや》っとったこともあったと」 「そん名前ばだしちゃならんとよ」 「そうたい。そりゃすまんことばした。ご免してくれんね」  窓下でかわされる突然の喧騒は船中の酔いで弾みをつけた船乗りが連れ立って、きっと陸《おか》に上がってきたのだ。先程、遣手の口からでた太古丸の舵取りをちらと何処かに走らせながら、露地は伏せてある盃を手にした。 「こりゃ気のつかずに……」  慌てて銚子の柄を握る嘉平次。 「染田屋になしてうちがおらんごとなったか、嘉平次さんは知っとんなさるとへ」 「いや、それは……」 「稲佐行きのことはきかれたでっしょ。……うちが丸山から追い出されたとは、稲佐におっても戻っても、心のそこになかったからよ」 「心のそこになかった。……」 「だいでん抜け殻のごたる女子《おなご》ば抱いてもおもしろうもおかしゅうもなか。折角、高か銭ばだしてあがってくんなさったおひとの腹かかすとは当たり前のことでっしょ」露地はいう。 「あん日のこともあるし、何かわけのあるとは思うとったたい」 「そう、あの日のことよ。うちの心はあん時から別のもんになってしもうた。みんなあん時に起こったと。……」  露地はふたたび、自分の手で盃を満たす。さっきの船乗りたちはこの家の玄関に繰り込んできたらしく、ききとれぬ声高なやりとりが潮騒《しおさい》のように伝わってくる。 「そいでも、あん日のあったけん、おるはあねさんに会うこともできたと。ふのよかとかわるかとか、おるにとっちゃ何ともいえんばい」 「丸山の女はみんながみんな、廻り灯籠に照らされてくらしとるくせに、ひとりだけは違うとると思うとると。そいでん矢張りそん時になりゃ、騙《だま》されとったということがわかって、廻り灯籠どころか、流し灯籠じゃったと気づく。そうなってからでさえまだ、糸でもつながっとるようにじっと川べりに突っ立っとる。どっちみち、自分は波の上でしか生きて行かれんのにね。……」 「あねさんをそがん目にあわせたひとはだいね。きっとそんひとは江戸もんじゃろう」 「江戸もん。なして……」 「あねさんのごたる女ば打っちゃっとる(打ち捨てる)とのわからんと。江戸もんならきまった日のくれば去らにゃならんけんな。いくら後追いしてもどがんしゅうもなか。そいけん……」 「そうね、江戸からきとらしたおひとなら、よかったかもしれんね。……」  露地がそこまでいいかけた時、戸を叩く合図がして、遣手が少しあけた隙間から手招きした。瞬間、身を固くする男に安堵《あんど》させるような仕種《しぐさ》をして、露地は立ち上がる。廊下にでたところで、あいは思った通りのことをいう。 「少しでんよかけん顔ばみせてくれんかというとらすとよ。ひとりは見慣れん顔ばってん、太古丸のひとの三人もきとらすと。露地、露地とおらんで、このままじゃ片のつかんけん、頼んできてみんかと、そいがだんなんさんの言伝《ことづ》てですたい」 「堪忍してくれまっせ、だんなんさんにはそんげんいうてやんしゃい。暮れから廻しば二人も取って体のきつかし、今も泊まりば取っとるとだけん、すみまっせんばってん、今晩だけわが儘ば通させて貰えるごと、ああたからもよろしゅう……」  露地は両手をあわせて、興味を持たせるように後ろをちらと振り向いた。それには気儘代と見合う後の祝儀も含まれている。 「難しかばってん、何とか繕うてみまっしゅ。そいでも、あんまりきこえるごたる話ばせん方がよかですばい。いいようのなかごとなりますけんね」  主人のいいつけをこともなくはねつけた露地に驚きながら、恐らく部屋の戸を叩いても返事はなかったとでもいうつもりだろうか。  部屋に戻ると、まだ緊張の解けていない嘉平次に、ゆったりとした手つきで露地は酌をした。 「なんか、都合のわるかことのできたとじゃなかとね」 「おうちは先客の泊まりじゃけんね。あとの客に気がねすることはなかと」 「おるは……」嘉平次はいいかけた声を飲む。 「さあ、こん部屋はもうひと晩中おうちのものだけん、何も遠慮はいらんとよ」露地はいう。「食べるとでん何でも好きなものをいわれるとよか」  嘉平次は「何もいらん」と、かすれた声をだす。  彼女は行灯の芯を調節した。特に明かりが薄くなったというのでもないが、それをいいだそうとする気持ちが落ちつかぬのである。「嘉平次さん、おうちは船ば持っとってでっしょ」 「船か。船は持っとるばい。商売道具じゃけんね」 「そん船んことで、おうちに頼みたかことのあっとよ」 「おるに頼みたかこと。……なんね、そいは」 「今からいうひとば、そん船の上に連れだして貰いたかと」露地は一気にいった。「明日か明後日か、何か上手な手筈ば作って、おうちの船まで連れてきてくれんね。うちはそんひとに誰もおらん誰も見とらんところで結着ばつけたか話のあっとよ」 「そんひとがあねさんば抜け殻にしたとたいね」 「嘉平次さん、どうぞうちの頼みばきいてくれまっせ。そん代わりというちゃいかんけど、おうちにはきっと精ば込めて、抜け殻とは違うた扱いばしますけん。……折角心ばつくしてきていただいとるおひとに勝手なお願いばしちゃいかんことは重々承知しとりますばってん、うちのいうことばきいてくんなはらんね」 「あねさんのいうことならきかんことはなか」嘉平次はいう。「おるは何でん、あねさんのためならするつもりたい。……一体誰ばおるの船に連れてくればよかとへ」 「廻船問屋の増屋。そこの番頭ばしとる七十郎という男ば連れてきて貰いたかと」 「増屋というと、椛島町の増屋たいね」 「そん増屋ですと。そこにおる七十郎という番頭」露地は強い口調ではっきりと繰り返した。「なんとしても結着をつけんならん話のありますけん、そん手伝いばおうちに頼みたかとです」 「わかったばい」  露地の思いつめた顔に応えるように、嘉平次はしっかり答える。 「明日の昼、何としてでん、おるが連れてくるたい。あねさんはおるの家に待っとればよか。どんげん手だてばこしらえても、必ずそんひとに会わせてあぐるけんな」  露地はうつむき加減に頷《うなず》いて唇を噛《か》む。    6  石段を踏む足音が今にもきこえはせぬかと気遣いながら、きわは酒の肴に添える鰺《あじ》の糸切りを和《あ》えた胡瓜《きゆうり》の酢のものをこしらえていた。所帯とはいえぬまでも、井吹重平と同棲《どうせい》するようになってから一カ月余、それまでとはまるっきり質の違う暮らしのなかで、ただひとつの不安は彼の身辺に異状が起こることと、亡くなった母の血筋を引く、体の変調であった。  いまのところ、多少疲れは残っても体の具合にこれという黒い兆しは見えぬ。ただ、井吹重平の隠された仕事を推測するにつれて、何も告げずいきなり自分の前から姿をくらます際のことを思うにつけ、そういう不意の事態に対する恐れと戦《おのの》きは日を追うごとに増していた。  今日も昼食《ひるげ》をとった後、しばらくの休憩時刻の合間に、医学所の伝習生が近寄ってくると、さりげなくこういったのだ。 「ぬしは薬師寺近くの英語塾に通うとるときいたが、ほんなこつね」 「はい。まあだ、何もわからんとですばってん」 「大層羽振りのよかひとの後についとらすげなな。そんげんひとのしゃんすになっとって、なしてわざわざ付き添いばせんならんとか、養生所の七不思議とみんないうとるばい」 「夢でんみなさったとですか」きわは応じた。「そんげんよかひとのおらすとなら、うちは付き添いじゃのうして、医学所の方に入れて貰いますと」 「いやいや、そのうち案外そうなるかもしれんぞ。どうしてどうして、ぬしは利口者じゃけんな」  医学所の伝習生には珍しく、地元出身の若者で、町医者の次男ということである。名は平井進吾。きくところによると、去年の暮れ、諸藩の役医師に限らず町医師の子弟も医学伝習を受けられるという、奉行所の市中及び郷中の布告に応じた伝習生のひとりだ。文久二年(一八六二年)帰国したポンペと交替に来朝したオランダ陸軍一等軍医ア・エフ・ボードウインの医学教育奨励を願う上申によって、医学所はそれまでになく門戸を開いたのであった。  根は人がいいのだが、平井進吾は妙にひがみっぽく、同輩や先輩を殊更芸子や遊女の誰彼と結びつけては、噂を煽《あお》り立てていた。 「今に、こんオランダ語はどんげんふうに訳したらよかかちゅうて、ぬしに教えば乞わにゃいかんことになるかもしれんぞ。皆川塾じゃ大層秀才で鳴らしとるというじゃなかね」 「そんげんこと……」きわはいった。「まだ碌《ろく》に英語の文字も読めまっせんとに」 「いや、そげな話でもなかったばい。おいの耳ん中には帆の張っとるけん、なんでんきこえてくると。ガランドファーザルの間違いば指摘して、代行先生のお面ば一本とったというじゃなかね」 「とんでもなか。……あれはただ、発音の仕方ばたずねただけですけん。そげんお面とかいうことじゃありまっせんと」 「何にしても大したもんたい。居留地にえらい顔のきくひとの後ろ楯になっとらすそうだけん、並の先生じゃ勤まらんやろうと、みんな羨ましがっとるとよ」  胡瓜をおさえた指に危うく包丁をひっかけそうになって、きわは首をのばした。赤子をあやす声にまじって、ふっと誰か近づいてくるような気配を感じたのである。しかし、それっきり石段は鳴らず、赤子の泣き声もやがて消えた。  身を開いた鰯の生干しと、焼き茄子《な す》の準備、それに呉汁《ごじる》(磨《す》り大豆の味噌汁)を鍋《なべ》にかける用意はすでに一刻も前からできている。五ツ(午後八時)以後は待たずともよいといわれていても、自分ひとりでものを食べる気持ちになれないのだ。  酢のものを入れた小鉢を布をかぶせた膳に並べると、きわは一旦戸口に立って外を窺《うかが》ったが、ふたたび部屋に戻って塾の教本を写した筆記帳を開いた。医学所の学生にからかわれたGrand-father, Grandmotherという単語もそこに記されている。  阿蘭陀《オランダ》小通詞《つうじ》並だという皆川塾の代稽古をする梅塚左兵衛が、オランダ風にそれをガランドファーザル、ガランドモーザルと発音したので、きわはグランドファーザーとの比較をただしたのだ。むろんそれは井吹重平の所持する『和英商売対話集初編』から得た知識であった。 「おぬしのいうそのグランドファーザーと発音する根拠は何処からきとるとね」  きわは和英の対話集をみせて貰ったことがあると答え、あえて具体的に本の名前と所在を明らかにしなかった。それを持ち出すと見せろといわれた時に断われなくなるし、自分ひとりの虎の巻にしておきたいという、利己的な思いもそこに含まれていた。 「そりゃ地方によっちゃそんげん発音をするところもあるかもしれんな。何ちゅうてもイギリスは世界にまたがっとる国じゃけんね。日本のごたる国でも薩摩と長州じゃまるっきり言葉も違う。あれでよう通じ合うと思うぐらいじゃけんね。……ガランドファーザルとグランドファーザーと、肝心の相手にどっちが通じやすかか、今度いっぺん試しておこう。グランドファーザーというても、恐らく相手はぽかんとしとるんじゃないかな」  話はそれだけのことである。平井進吾がそれをいうのは、皆川塾に通う医学所の学生にきいたに違いないにしても、大層羽振りのよかひとのしゃんすだといい、居留地に顔のきくひとの後ろ楯になっとらすという情報は何処からでているのか。そんな口のきき方をする以上、医学所のなかにその手の噂が流れていると考えねばならぬが、井吹重平と住むこの家の有り様を、誰かに見られでもしたのだろうか。  きわはさらに別の筆記帳に挟んだ日記の写しを取り出した。ポンペから直接解剖学を学んだのをことごとに自慢する養生所の見習い医師、棚橋源一郎から借用した、友人関寛斎の医学雑記の写しである。何よりも井吹重平にそれを読ませたかったし、医学伝習生の大胆な実験と熱心な勉学の態度を、自分もしっかりと心に刻んでおきたかったのだ。  文久元年二月十一日、晴。  三日前より眼解剖書を読む、牛眼に於《おい》て検すること恰好せりと、由《よつ》て暁課を終りて大浦英館の牛商に行くに、二戸あり一は英人に売り一は日本人に売る、由て肉を請ひ且眼を乞ふ、然るに明午後三牛を屠《ほふ》る故に来れと、英国人に売る商戸にて懇望せしも許さず、皈《かへりし》後《のち》牛肉を喫す極めて美。  同十五日、曇、課業平日の如し。  午後八つ時より大浦の英商牛肉店に至り牛眼を乞ふ、許す、予自ら両眼を剔出《てきしゆつ》す、今日四つ時屠る物と、牛肉と牛眼にて五百文遣す、皈らんとする時英人三人食に初らんとする様子にて、我に牛肉を食するやを問ふ、答へて大に好むと、英人来り食せと云ふ、由て英人と円座して牛肉の炙《あぶり》一皿、芋一皿、生葱《なまねぎ》一皿、ソイケル一皿、牛脂一皿各個に一枚づゝ皿を持し、我にハーカと食物を与へて食はしむ、然れども事初めてハーカを用ふる故甚《はなは》だ不都合なり。英人予に教へて便利ならしむ、食後茶に白糖を和し或はホードルを和し与ふ、何《いず》れも佳味にて且つ胃部を助く。  同十七日、課業同前、晴。  一牛眼を解く、先に一眼(註《ちゆう》、教師)解く、次に予一眼を解く、初に鞏膜《きようまく》を横断して液虹体を見る、午後硝子《ガラス》体と水晶体の間際にベッチー管を見る、大さ人毛の上湿紙を掩《おほ》ふの大さなり、二日間火酒に浸して凝固を見るに便なり。  同二十四日、晴、課同前。  午後より英商牛肉舗に行く、但し先日の礼として蜜柑《みかん》十五、錦絵を贈る。  牛頭を乞ふ事を約して帰る、心臓を求めて帰り、後喫す、食前剖《さき》て三弁膜を見る、メース不快、レス(課業)を欠く、故に司馬氏に訳を乞、予筆記す。  同二十五日、晴、課同前。  メース、レスを欠く故に昨日の如く司馬凌海氏に乞ふ。  牛頭を乞ふが為《ため》に大浦に行く、不都合にて不得、明日を期す。  同二十八日、ゾンタク。  牛頭を剖て脳を観る、然れども死に当つて脳を打つに由て、頭蓋骨《ずがいこつ》破れ脳中に血液溢出す故に其《その》大体を見るのみ、故に一眼を解き六筋を見る、一眼は只眼嚢《がんのう》を見るのみ、且つ両耳を剔出し置く。  三月二日、晴、同前。  午前牛耳を解く、一耳は画餅《がべい》となる、由て又困苦して且八木氏の助に由て鼓膜、四小骨〓手殻《しよくしゆかく》を出す事を得たり。  同九日。晴、午前課を欠く。  昨夕長野君、佐々木君牛頭を齎《もたら》して来り由て頭を解て脳を観る、然れども血浸出して密なる事能《あた》はず、眼球を解く、後部より始め鞏膜を開き角膜を去り虹彩を各個に取り明らかに観る、八ツ時に終る、松メース(註、松本良順教師)橋本氏に往《ゆ》く復課休す。  三月十三日、曇、課同前。  午後より吉雄氏(註、圭斎)にて猫を殺す、中患(註、中途患者来)に至り体を乞ひ解いて脳を観る。  今度こそはっきり石段の音がしたので、きわは日記を膝《ひざ》においた。それでも戸口は開かず、胸苦しいまでの心を静めようとして、急須の冷めた茶を湯呑みに注ぐ。もうとうに五ツ半(午後九時)は過ぎていように、帰ってこぬ井吹重平の身を案じながら、わるい方へわるい方へと傾く推測から逃れようとして、一昨日の昼下がりに起きた養生所の騒動に気持ちを向けた。  最初年輩の夫婦者が患者受付に立ち、間もなくもうひとりの若い男があらわれたというのだが、二日前からの下痢で苦しんでいる訴えにもかかわらず、養生所の方でその診療を拒否したため、騒ぎが持ち上がったのである。  きわ自身、直接見聞きしたのは、小競《こぜ》り合いの後、さらに押し掛けてきた幾人かの男たちとのやりとりであったが、養生所側のいい分はどう考えてみても筋道を外れていた。  何も無料でみてくれというのではない、必要な銭はだすといっているのだといきまく男たちに対して、応待する役人は受付の時間は終わったの一点張りなのだ。 「時刻が過ぎたというのなら、なして前にきた時、受け付けてくれんやったとですか。こんひとたちが初めて此処にきた時は、まだ八ツ(午後二時)にもなっとらんというね。あとのもんがきたときもまだ八ツ半(午後三時)には大分間のあったというとる。それを断わっといて、今頃じゃ遅すぎるというのは、一体どんげんしたわけですか」 「養生所には養生所の規則やしきたりというものがあるんだ。それをわきまえぬ者があれこれいっても始まるまい。あれこれ横車を押すと、ためにならんぞ」 「だいも横車を押す者なぞおらんばい。おるたちはただ下痢の止まらんからみてくれんか、とそう頼んどるだけですけんね」 「養生所の規則やしきたりといわれましたばってん、そのしきたりちゃ何か、そいばきかせてくれまっせんか」 「お前ら、へぐら(釜黒、かまどに着く煙の煤《すす》、転じて町中のごみや汚物を扱う人々)のくせに、身分をわきまえろ。養生所はまともな生業《なりわい》を営んでおる者の治療でも手いっぱいなのだ。お前たちを受け付ける余裕も場所もない。……」  奉行所から出張している赤ら顔の役人は、圧し殺したような声でそういうと、そこに集まる人々は口々に喚き立てた。 「へぐらが養生所にきちゃならんという規則があるとならみせてくれんね」 「おるたちゃ、下痢もしちゃならんというとか」 「医者でもなかおうちが、奥に通じもせんで、なしてはなから断わるとですか。おるたちは今のことをいうとるとばい。明日や明後日のことじゃなかと。今の今、下痢で動くこともならん者を連れてきとるとに、そいば断わるという法はなかやろう。病気にゃへぐらも船乞食もなかとだけんね……」 「下痢をして加減のわるか時ははやり病かもしれんからすぐ届けでろと触ればだしたとは一体誰ね。うちたちゃ、そん下痢にかかったけん、こうやってきとるとですよ」 「いくらいえばわかるのか。養生所は番所じゃないぞ。……お前たち、これ以上勝手なことを申すと、奉行所をそしった咎でみんな引っくくるぞ。よいのか。……」  後からきたもうひとりの役人が叫ぶと、いい返そうとした男が身を折るようにして蹲《うずくま》った。「芝居がかった真似をしおって」と、喚く声がきわの耳を捉《とら》える。その時、日本人の医師や学生を従えて、ボードウインがあらわれたのだ。そしてそれまでの経緯を通詞を通して役人からきくと、てきぱきとした態度で、下痢患者全員を否応なく即刻、診療室に運ぶように命じた。 「さすがにオランダの医者は見所が違うな。ポンペでも同じ処置をとったろう。身分格式より、病気の種類や原因を重んずるやり方だ」  棚橋源一郎はそのようないい方をしたが、ボードウインがでてくるまで、諍《あらそ》いを制止するのはおろか、むしろ役人の側に身をおいていたのである。世の中も随分変わったものだぜ。へぐらが下痢をしたからどうにかしてくれとさ、というひとり言めいたいい草が何よりの証拠であった。  江戸に一年ばかり遊学していたといい、松浦藩出入りの商人を縁戚《えんせき》に持つ財力を背景に、藩医の養子に入ったとか侍の株を買ったという噂のでている男だ。  少しばかり揺れだした行灯の芯を整えると、きわは障子を開けて隣家の裏屋根越しに、二階家の端に鮮やかな明かりを灯《とも》す丸窓の部屋を眺めた。他の家と明かりの白さが違うのは、特別の菜種でも使っているのか、大抵の夜はそこに操り人形に似た踊りを復習《さ ら》う影が映る。平家とはいえ、片方を斜面の石垣に張りだした住居から見ると、ちょうど黒い海に浮かぶオランダかイギリス船を連想させた。  おかしゃま、旦那《だんなん》さんに何の難儀も降りかからんごと、助けてくんしゃい。きわは靄《もや》のかかった夜空に願いを掛ける。  おかしゃま、うちはこのままで充分過ぎるとだけんな。何にも変えんちゃよかと。しゃんすといわれようと何と噂されようと、一生しゃんすならそいだけでうれしか。ただ旦那さんばうちから取り上げんごとしとってくれなっせ。どんげん理屈をつけてもそいだけはききまっせんけんね。  旦那さんがどんげん生き方をされようと、うちは何処まででんついて行くとですよ。ほかにきれかひとのできなはっても、うちは黙って辛抱するつもり。……おかしゃま、井吹重平というおひとの危なか仕事ば守っとってやんしゃい。  白い丸窓からすうっとひとつの影が走り、それが消えると、すぐ先程とおなじ泣き声が上がる。冷んやりと湿った風は籠にでも運ばれるように、ひとかたまりになって、居ても立ってもおれぬきわの体を包む。    7  李朝《りちよう》には珍しい六角の花瓶《かびん》に挿《さ》した紫苑《しおん》がごくかすかに匂う。辻野屋嘉右衛門が戻ってくるという予定の四ツ半(午後十一時)迄《まで》の間、尾崎は小福のれんぼ節から掻《か》きたてられた胸を落ちつかせようとして、薄茶をたてて飲む。網屋友太郎を見送り方々一旦宿所に立ち寄り、小用をすませて引き返す嘉右衛門の段取りだときいたが、その実ひと足先に帰った金ケ江屋と何処《ど こ》かで秘密に落ち合っている場合も考えられ、四ツ半の区切りはいわば一応のものであるのかも知れなかった。 恋は異なもの気づいたときは 引きも返せぬ浪《なみ》枕 浪枕漕《こ》ぎ手の肌に緋文字《ひもんじ》  それまであれほど気にかかった網屋友太郎の動静や存念を追い求めることさえしないのは、矢張り心がひとつの場所から離れぬ故なのであろう。  大音寺裏手のせり上がる墓地をのぼりつめ、さらに椿《つばき》と竹藪《たけやぶ》に被《おお》われた抜け道を過ぎた奥まったところに墓守の小屋があり、何時《い つ》ものように、明日未《ひつじ》の刻(午後二時)又次と会う手筈になっている。  最初、日蔵に手引きされるまま、あそこだと告げられた時、思わず蔵多の名を口にしかけたのは、連想したものと昔の噂《うわさ》が何時の間にか交じりあっていたのかもしれぬ。  竹を編んで作った戸を開けると、小屋の中はきちんと片付けられており、土間より一段と高い板の間に敷かれた真新しい茣蓙《ござ》の端に、賓客でも迎えるように膝を揃《そろ》えていた男が深々と御辞儀をした。 「こいが又次ですたい。最前いうた通り、溜《たま》り場からやっと四、五日前にでてきましたと」  日蔵がいうと、男はまた頭を下げた。 「うちが尾崎です。折角名差していただいたとに勝手なことばしてしもうてすまんと思うとります」 「なんの。……そんげん言葉ば太夫《たゆう》にいわれちゃ、答えようもありまっせんばい」日蔵はいった。「又次、早うお礼ばいわんか。こんげんして、わざわざおいでて貰うたとは、並のことじゃできんとぞ」 「無理ばいうて、ほんなこと、すまんと思うとります」  黒地に細い矢印の模様をかすらせた薩摩絣《がすり》は、恐らく仕立て卸したものであろうか。折り目の浮く袷《あわせ》を身につけた又次の固い口許《もと》にひと筋、短い傷痕《きずあと》がえくぼに似ている。 「そいじゃおるは外におって、上がり道んところで見張りばしとくけんな。……又次、そいまで胸ん中に溜めてきたことばようと話したらよかと。ぬしのことじゃけん、ようとわかっとるじゃろうが、決して太夫の気持ちにはずれた振る舞いをしちゃならんぞ」日蔵はいう。「あと半刻《とき》、八ツ半(午後三時)になったら迎えにくるばい」  日蔵が去っても、内心の緊張を解き放てぬような素振りで、又次はしばらくじっとしていた。茶瓶と碗はあらかじめきちんと盆の上に揃えてある。尾崎が手をのばそうとすると、男は慌てて盆を自分の方に寄せた。 「溜り場じゃ、大分きつうあんなさったとでっしょ」 「いえ、それは何でんなかった」  又次は目を伏せて、茶の仕度をしながらそう答え、さらに改まった口調でいい添えた。 「無理な頼みばきき入れて貰うて、ほんなこつすみまっせん」 「お詫《わ》びせにゃならんのはうちの方ですけん」尾崎はいった。「折角蘭水にあがって貰うて、あろうことかいちばんひどか仕打ちばしてしまいましたと。知らんというてはすまされんことです。溜り小屋に入んなさったときいた時は、もうどんげんしたらよかろうかと思うとりました」 「あねさんのそれ以上なかごたる言葉は、叔父からみんなききました。あねさんと会うたと溜り場で伝えられた日は、ひと晩中眠れんやったとです」  又次の注いだ茶は色がつきすぎて渋く、湯も冷めていた。だがそれにも気付かぬらしく、根太い声はそれまでの思いをこめた心情にゆさぶられてかえってぎごちなかった。 「あん時は会うて話のできればよか、ただそんげんつもりでした。……そいでも蘭水でおるの仕出かしたことは丸山じゃいちばん許されんことで、それはもう先に承知しとって……いくら一統の面汚しといわれても、それはもうかまわん気持ちだったとですけん……」  話の後先を整えられず、又次はさらに言葉の接ぎ穂を変えた。 「何を話してよかかわからんばってん、あねさんは申《さる》年の祇園《ぎおん》さんの祭りば覚えとんなさりますか」 「申年、そいじゃ三年前のお祭りさんですとへ」 「はい、そん年におるは太夫ば初めて見たとです。軒灯籠《のきどうろう》の下にずらっとおなごしの並んどんなさって、奥の辺にあねさんの坐っとらした。格子の前にみんなが群がっとって、染田屋にゃこれみよがしの客が肩ゆさぶって入って行きよった。そん時、おるは……そう酔うてもおらんのに酔うたごとなって、思いもせんような言葉が口からでてしもうたとです。そん時、おるは格子を両手でつかんでこんげんふうにいうた。いちばんきれかひと、尾崎太夫、ああたばい。三年は五年かかっても銭ば貯《た》めて、おるは必ず太夫ば相方にしてみせるけんな。……その辺の者はみんなおるの声ばきいて囃立《はやした》てた。いうてしもうてからありゃ困ったことばいうた、そっぽでん向かれたら大恥ばかくたいと思うた途端に、あねさんは口許ばゆるめて二、三度こっくり頷いとらした。みんなはまたわっと声ばあげながらおるの背中ばぽんぽん叩きよる。ぬしは度胸のあるとか、尾崎太夫ば相手に何貫銭ば貯めるつもりやとかいう者もおったし、ばはんでもせにゃ無理だというたりされて、そん時おるはほんなこと、こんひとのために銭ば作ろうと心ばきめたとです。……」  三年前、万延元年(一八六〇年)の六月。確か例年になく蒸し暑い夏祭りで、丸山の遊女による十四、十五両日の祇園詣《もう》での道中には雲集した見物人の中から押し倒されて怪我人まででる騒ぎであった。あの年、染田屋の格子に群がる人々の内に、この又次がいたというのか。思い思いの声が掛けられる中で、むろんひとつの言葉だけを覚えていようはずもないが、太夫を張るようになった最初の年である。 「太夫のことば忘れきらんようになったとは、そいから先。……ひと目でん、ひと言でよかけん、太夫と二人でじかに話すことのできたらどんげんよかろうかと思うた。たったそいだけのことでなして大それた望みば抱くようになったとか、おるは自分でもわかりまっせん。……そいからもう、ひとつの名前しか胸にはしまい切らんごとなってしもうたとです。……」  男の膝に匍《は》う朱色の羽虫に尾崎はふっと眼をやる。季節に置き去りにされたような羽虫は一旦ひろげかかった玉虫色の羽を中途で止めると、それっきり身動きもしない。 「何を喋《しやべ》っとるとか、自分でもようわからんとじゃけん」又次はいった。「おるじゃのうして、だいか別の口の話しとるごたる。……」 「おうちにひとつ、ききたかことのありますと」 「何ね、ききたかことちゅうとは」 「さっきもそんげんいわれたでっしょ。……蘭水にあがって、うちを名差しするとが、なして一統の面汚しになるとへ」尾崎はきく。日蔵からすでに筋道はきいているが、又次のはっきりした気持ちが確かめたかったのだ。 「おるたちは世間に媚《こ》びちゃならんとですけん」又次は響くような口調で答えた。「丸山じゃろうと何処じゃろうと、入っちゃならんという場所には意地にでん入っちゃならんとですよ。きまった仕事んほかはついちゃならん、住居も勝手に引っ越しちゃいけんという垣根でぐるっと囲まれとる者たちにとっては、逆にその垣根にゃ手も触れとうはなかというとが、おるたちの性根ですたい。……そん垣根ば二つも越えてしもうたとですけん、見るもんから見れば吐き気のしよるとでっしょ」 「二つの垣根。……」 「蘭水にあがったとが一つの垣根なら、その上並の人間でも手の届かんところに坐っとんなさる太夫に心ば傾けてしもうた。そいが二つ。……」 「丸山にきちゃいかんと誰がきめたとですか」 「きめようときめまいと、そいはもう以前からの仕打ちになっとりますと、船乞食《こじき》は船乞食。並のくらしを望んじゃならん。顔をあげたままじゃ芝居の木戸も通られんとですけんね」 「どう考えてもうちには合点の行きまっせんと」尾崎はいう。「阿茶《あちや》さんは駄目、異人さんは丸山にきちゃならんというなら、話はまだ通りますばってんね。おなじ長崎に住んどって、仕事の違うというだけで、なしてそんげん垣根ば作らにゃいけんとか。……仕事や商売のあれこればいうとなら、そいこそ丸山がいちばん谷底になるとでっしょ」 「太夫はほんなこつ、そんげんふうに思うとね」 「はい」 「今の言葉ばだいにでんきかせてやりたか」又次はいった。「そんことだけで、おるが蘭水にあがった甲斐《かい》のありましたばい。おるはもう何もいうことはなか。……」  膝の間でふたたびもぞもぞと動き始めた羽虫は足を滑らせたのかころっと茣蓙の上に落ちる。しばらくものいわぬ時刻が過ぎ、ひょうという鳶《とんび》の啼《な》き声をきっかけにして、流れるしじまに耐えかねたように、又次は無花果《いちじく》の木に面した障子を開けた。 「笛吹きの上手か」尾崎はいう。 「え」 「とんびのこと」 「ああ、とんび」又次の面にかすかに柔らぎの表情がよぎる。「大方何処かに新しか仏の埋められたとでっしょ。ひょうひょろうじゃのうして、あんげんふうに前の節だけ、ひょうひょう啼きよると、きまってそうれんの人の石段ばのぼってきなさるとですよ。ご馳走のえさにありつける日は、とんびもちゃんと知っとっとだけん。……」  又次の声が届いたかのように、鳶はまたも竹笛に似た声を発し、尾崎は口をすぼめてそれを真似した。 「今度、鶏ん肉ば買うてきて、今のとんびに食べさせますけん」  尾崎は怪訝《けげん》な顔をして相手を見る。言葉の意味がよくつかめなかったのだ。しかし、又次はあえて説明しようとせず、首をのばして無花果の葉越しに上空を通過するかも知れぬ鳶の影をひたすら捉えようとする。  禿《かむろ》の呼ぶ声で、尾崎はわれに返った。今頃、どんな用件で自分を呼びつけようというのか。小藤には碌に返事をせず、尾崎は主人の部屋に向かう。 「ぬしに断わりばいわにゃならんことのできたと」太兵衛はあらぬ方に顔を向けていう。「こいから辻野屋さんの代わりに金ケ江屋さんのきなさるとたい。四ツ半にはおいでになるじゃろうけん、そんつもりでな」 「ようとわかりまっせんと」尾崎は小鬢《こびん》の辺りに手をやる。辻野屋嘉右衛門の代わりに、帰宅したはずの金ケ江屋境平がやってきて自分を相方にしようというのを、わからぬはずはないが、あまりに露骨で見えすいた蔭《かげ》の手口が腹にすえかねたのである。 「何がわからんとな」太兵衛は尾崎の気持ちを見越したようにいう。 「丸山の遊女はしょせん一夜妻ですばってん、そいけんなおさら一夜妻の心根ば守らにゃならんと思うとります。こんことは旦那さんから呉々《くれぐれ》も教えて貰いましたと。……そこんところがようとわかりまっせんと」 「話の行き違うただけたい」太兵衛はあっさりと受けた。「辻野屋さんの方じゃ最初からそのつもりだったとらしか。上方のおひとじゃけん、その辺のしきたりばようと飲み込んでおられんのかもしれんが、それはもう今更こっちで困るというても仕様のなかことたい。何ちゅうても今日ん席の客は網屋さんに金ケ江屋さん。辻野屋さんは招きなさった側のおひとじゃけん、まあそんげんいわれてみれば、そうなるのかもしれん。あたしが早飲み込みしとったとがいかんやったと」 「上方のご商売は手のこんだことをなさるとですね」尾崎は精一杯の皮肉をいう。いかに太夫を張っていても、主人の言い付けに否やはないのだ。 「珍しかキセルば貰うたというじゃなかね。向こうは初めからそんげん気持ちだったとやろう」  ききわけて貰うて助かったばい、と口先だけの挨拶を背にそこをでると、尾崎は鳶、と嫌な匂いでも振り払うように、胸の中で呟《つぶや》く。自分自身が太夫という名の道具なら、入れ替わる男も道具だと考えればよい。そうれんを目差して鳶の舞う、墓守小屋こそが人間の場所なのだ。  部屋に戻ると、尾崎は戸棚に仕舞い込んでいた陶製のキセルを取り出し、別の茶器から剥《は》いだ紫の袱紗《ふくさ》で包んで目に留まる台に置いた。それもまた見せかけの心情を芝居するための小道具である。  禿に案内されて、金ケ江屋境平は間もなくきた。煙のでる塩辛売りの元締めちゅうことを知らん者はなかとに、という遣手《やりて》の謗《そし》りはまだ耳に残っている。金ケ江屋ではなく、代わりの客が網屋友太郎だとすればどうするか、とふっとそんな思いが湧《わ》く。 「今夜はほんなこつ気持ちよう遊ばせて貰いましたばい、そのうちきっと太夫の気に入るお礼ばしますけんな」 「お礼はもう先にいただきましたと」  尾崎は袱紗包みのキセルを手にすると、膝の上でこれを開いてみせた。 「これはまあ、あたしよりよっぽどよか待遇ば受けとるたい。こんげん格のある品物は矢張り持つひとを選ぶとでっしょ。太夫の歌ばきいとる時、あんまり情のこもっとって、キセルの方でもぞもぞ身もだえしとりましたもんな。ああこりゃもうあたしの手ば離れたかとじゃなと思うとったら、案の定そんげんふうになりましたと」 「ちんだば飲みなはりますか。そいともお茶に」 「そうそう、ちんだで思いだしたばってん、太夫に試して貰いたかわたり酒(渡来酒)ば持ってきましたと」  金ケ江屋境平は手提げ袋から、口の細長いぎやまん製の小瓶を取り出した。 「はあさ(passa)といいますと。ちんだばもうひとつ焼いて作るとらしかですばってん、強か割にはからっとして、アメリカやイギリスさんたちゃ、お棺に入れて墓ん中にまで持って行くといわれるごと、うまか酒ですばい」  曲がりくねったあてこすりとも思えぬが、墓の中という言葉を尾崎は素通りできぬ。 「そんげん珍しかお酒なら、少しいただきまっしょか」 「そうか、飲んでくれるか。こりゃうれしか。もし気に入るなら、どいしこでん運んであぐるたい」  茶色の光を湛《たた》えたはあさ酒を、これまで知らぬというわけではない。しかし、尾崎は初めて見る手つきで、ぎやまんの盃《さかずき》に注ぐと、一気にぐいとあおった。覚えのある強烈な芳香が胸いっぱいにひろがる。 「これはお見事」  金ケ江屋境平は手を叩き、尾崎は切なく明日の鳶に酔いを託す。    8  明け方、集中した雨に濡れた道路と晴れ上がった空の、何かしらちぐはぐな狭間《はざま》を歩くような気分で、卯八は仁昌寺に向かっていた。探索の方向が変わったからには、一応峰吉の家に顔をだすのが筋だと知っていても、そこを素通りしてきたのだ。昨夜来親父《おやじ》は帰宅しておらず、それの憤懣《ふんまん》もあって女房に当たり散らし、早いうちに仕度された茶漬けも碌に食べていない。 「よか身分たいね。そんために息子がどげな目に会うとるかも考えんと、したい放題の朝帰りか。フランス寺の仕事じゃよっぽど儲《もう》かるごたるな」 「そんげん浮いた話じゃなかごたるとですよ。一昨昨日《さきおととい》帰んなさった時もそうやった。そう二日酔いの顔もしとんなさらんやったし、朝帰りというても難しか様子でしたと」わきはいった。 「そんならなおさらわるかとたい。酒も飲まずに朝帰りするとなら、ひと晩中何をしとったとか。え、酒も飲まずに朝まで何ばしとったというとか」 「うちにきいても知りまっせんと。おとしゃまは何もいいなはらんし、うちば責めても仕様のなかとでっしょが」 「誰も責めとりゃせんよ。そいでも、わけのわからん朝帰りを黙ってみとるわけにもいかんやろう。身内の者がみすみす伴天連《ばてれん》の黒か罠《わな》にはまっとるというのに、見逃しとったら、こっちまで火の粉ばかぶらにゃならんとぞ。その辺のところがぬしはまだようと納得しとらんけん、おととのことも平気で眺めとらるっとたい」 「どんげんすればよかといわるっとですか、うちに。……ああたのいう通り、危なか仕事ばしよんなさるとなら、じかにいいなさったらよかと。ああたがいえんことばなしてうちがいわるっとね」 「フランス寺の仕事は止《や》めろ、手を引いてくれと、おるが何べんも頼んだこつはぬしも知っとるじゃなかとか」 「ああたの頼みもきかれんとに、うちの言葉はなおさらでっしょ。そんげんいうとりますと。……」 「今度こそはっきり話ばつけるけんな。そんげんいうとくとよか。この上フランス寺に深入りするなら、親子の縁ば切って貰う。いくら親子というても、崖縁《がけつぷち》にぶら下がっとる人間に手を貸しとったら、そいこそともども真っ逆さまに墜落せにゃあならん。飽くまでプティジャンとかいう伴天連坊主にしがみついとるなら、こっちから手を切るほかはなか。ぬしもそう思うやろうが」 「うちには何もいえまっせんと」 「なしてや。なして何もいえんとか」 「おとしゃまの立っとんなさる場所が、いくら断崖《だんがい》じゃというても、後ろからそいば突き落とすごたる真似ばしてよかとでっしょか。うちにはそいが……」 「ぬしはまだそんげんことばいうとる。後ろから突き落とすというなら、突き落とさるっとはむしろおるたちの方たい。断崖に立っとるとは、おととじゃのうしておるたちじゃけんな。おるとぬしの足首に縄を結びつけられて、今にも谷底に引っ張り込もうとしとるとはおととの方ばい。そいけんおるはそん足首の縄ば切ろう、切ってしまおうというとるとよ」 「フランス寺の仕事ばしとんなさるとは、おとしゃまひとりじゃなかとですよ」 「それがどうした」 「もしお上のお咎《とが》めば受けんならんとなら、おとしゃまひとりじゃのうして、みんながそうなるはずでっしょ。ああたのごと、そんげんわるか方にばっかりとらんでもよかとじゃなかとですか」  卯八はいきなり箸《はし》を膳に投げて立ち上がった。そういう積もりもなかったがその拍子に足を膳にひっかけて、茶漬けの碗と漬け物の鉢は散乱した。 「どげなふうにいいくるめられとるのか知らんが、おととの口裏によう似とるたい。ぬしもおととと一緒に土でんこねに加勢に行くとよか」  そのまま家を飛び出したのだが、やり切れぬ苛《いら》だちはいまだに納まっていない。天秤《てんびん》を担ぐ豆腐売りのぬるっとした声まで癇《かん》に障り、卯八は裾をまくりながら目差すところへ急ぐ。  およそ五ツ半(午前九時)にもなろうか。仁昌寺の門を望む界隈《かいわい》はひっそりと静まり返り、椿を塀《へい》代わりにした家の庭先で、井戸水を汲《く》む女の目とぶつかって、卯八は何気なくさらに坂道を進んだ。  寺に住むという井吹重平の身辺を洗えという指図に対する自分の態度はまだきめかねている。いっそ何もかも打ち明けてしまうか、という思いのなかで、奉行所にあそこまで目をつけられている以上、すでに取り返しはつくまいと、犯そうとする裏切りをあらかじめ釈明しておくような理屈も一方に湧く。海岸の絵図面を異人相手に取引しているという仁昌寺住職にかかわる嫌疑には、当然井吹重平と咲が噛《か》んでいようが、一体どのような報告をあげればよいのか。  マックスウエルを間に、自分と井吹重平の関係を知悉《ちしつ》していることを匂わせた上で、目安方の役人は新しい仕事を命じたのだ。その方、井吹重平にかなり昵懇《じつこん》の間柄ときいたがまことか。……  卯八も談合に加わった咲と井吹重平のやりとりを注進しただけでも、捕手がそこに殺到するのは目に見えている。  左官か大工の風態《ふうてい》をした二人連れの男が通りかかったので、卯八は植え込みの蔭に身を隠した。 「……血肉になるもんを食べちゃいかんといわれちゃ、もうどんげん仕様もなかもんな。今でん骨皮筋右衛門のごとしとるのに、滋養つけられんとなら死ぬほかなかですもんねというて、おかっつぁまも泣きよらすとたい」 「気性の勝っとらすひとばってんね。そりゃよくよくのことばい」 「滋養のあるもんば食べれば食べる程、病気ん瘤《こぶ》の肥え太るとげな。切るには切られず、なんとか瘤の方ばなだめて枯れさせるより手のなからしかが、そいまで体の方がもつるかどうか。毒と薬の両方ば加減して飲まにゃならんけん、看病する者がどいしこか辛うなってしまうというとらした。……」  おっ、という声がしたので卯八が振り向くと、何時の間にきたのか峰吉がにこりともせず顎《あご》をしゃくる。折しも仁昌寺からでてきた男がいたのだ。井吹重平ではない。とすればあれが有馬永章か。僧衣もまとわず、白い襟《えり》元に釣り合う意気な作りのやや丈の短い羽織。 「あいが住職ばい。わたしはこのまま井吹の方ば見張っとるけん、ああた後ばつけてくれんね。そん方が仕易かじゃろう」  口早にいう峰吉に頷いて、卯八はそのような姿勢をとった。そん方が仕易かとは、むろん井吹重平との関係を差しているのだが、自分と前後してそこにあらわれた峰吉の先廻りする行動に圧迫されるものを感じながら。  削り節と昆布《こんぶ》売りが、仏具店の前で荷を下ろしている。前を行く男は滑るような足どりで歩き、行き交う人に挨拶をかわす時も殆ど止まろうとしない。鋳掛《いか》け屋と薬草売りの並ぶ露店の前に、しゃがみ込む童達《わつぱ》の恰好はまるっきり落とし話だ。  遅かれ早かれ、井吹重平の肩と腕に縄がかかるとして、彼自身の罪科は許されるのかどうか。そう考えるうち、思いもかけず菓子屋に立ち寄った有馬永章を待とうとして、炒豆《いりまめ》屋の割箱を覗《のぞ》く。 「そこにあっとはみんな今朝方炒ったとですよ」 「一合くれんね」 「荷口(今日の初売り)ですけん、負けときますたい。三合も買うてやんしゃい」 「おるが自分で食べるとだけん、一合でよかと」 「あんしゃんは今日、縁起のよかことのありますばい」 「なしてな」 「うちの炒豆はそんげんいわれになっとっとですたい。荷口ば食べたもんは、四十後家でん嫁に行かるっといいますけんな」  炒豆屋の男はまだ三十そこそこの面体をしながら、大層年寄りじみた口をきく。  炒豆屋は土台後家の口たい。声にださぬまま飲み込んだ文句が咽喉《の ど》につかえる。渡された紙袋と引き換えに代を払うと、卯八はつっと向かい合わせのやきもの店に入った。相手が菓子屋からなかなかでてこないのである。  雇われ者らしい小娘が首をのばすような恰好で奥からあらわれると、卯八をしげしげと見た。 「何ば探しとんなさるとですか」 「湯呑みばちょっと見せて貰おうかと思うてね」 「湯呑みならちょうどよかとの入っとりますと。有田から荷の着いたばっかりですけんね」  小娘はませた口をきく。途端に卯八は店先を離れた。有馬永章が菓子屋を後にしたのだ。炒豆の袋が懐中でぎっぎっときしみ、遠くの方で鶏の啼き声がきこえる。打ち合わせもなく峰吉が仁昌寺にきたのは、昨夜あれから目安方に余程のことをいわれたに違いない。  菓子折りを下げた男は傘屋の前でふっと歩調をゆるめ、それからふたたび急ぎ足になると、道路の曲がりばなでちらと振り向く。尾行に気付いたのかどうか、しかとはわからぬが、卯八はそう感じた。歩き方こそ目立たぬが、実際に後を追うと、前方の足どりは異常な位早く、卯八は合間に小走りさえまじえた。  それにしても何処に行くのか。方向からいうと西浜か東浜町辺りだと思われたが、川沿いの道の途中で、先方からきた荷車と擦れ違うと、いきなり左折したのである。慌てて卯八も路地に飛び込んだが、すでに男の姿はなかった。  菓子屋の時にはもう気付いていたのだ。卯八は近辺の路地や往来をあちこちと駈け抜けながら、なぜかあまり口惜しい気にもなれない。したたかな相手だと判明したので、かえってほっとするような感じが何処かにある。  一旦仁昌寺に戻るべきか否かを思案しながら、卯八の足は咲の家に向いた。もしかすると、最初からそれを目論《もくろ》んでいたのかもしれないのだ。咲と会えば井吹重平の近況も知れようし、いずれにせよ、その辺の判断がつくと考えたのである。かなりの期間無沙汰していたことに対する相手の思惑もはかれよう。  阿媽《あま》上がりの女は彼を見ると、驚いた表情をあらわに浮かべて家の中に招じ入れた。 「一体どんげんしとんなさったとね。井吹さんにきいてもさっぱり要領を得なさらんし、海にでんはまらしたとかと思うとったとよ」 「親戚《しんせき》に不幸のあって、後のごたごたで島原に行っとったとですよ」卯八はでまかせをいった。「十日もすれば戻るつもりが、後から後から用事のできて。……ひとには風邪ひいて寝とることにしとりますが、ほんなこつはそんげんことやったと」 「とにかくまあ変わったことの起こっとらんでよかった。ぱたっと音沙汰ののうなったけん、本気で心配しとったとよ」 「井吹さんにでん言い付けしとけばよかったとばってん、いまもいうごとすぐにでん帰ってくるつもりで出掛けたもんで、どうしようもなかったとですたい。心配かけてすみまっせん」 「謝ることはなかばってん、おうちがおらんとほんなこつ不自由しますばい。何かあってもしょっちゅう井吹さんに会うというわけにはいかんし、やきもきしとりましたと」 「そいで、井吹さんの方の仕事はうまく行きよっとですか」 「そいが……」  咲はみなまで答えず、鉄瓶の湯を急須に移した。茶托《ちやたく》にのせた小作りの伊万里。 「嬉野《うれしの》ですけん、ちょっと味の濃過ぎるかもしれまっせん」 「おおきに」卯八はいう。「マックスウエルの方のつなぎはああたのおらすけん安心しとったばってん、後の仕事はきちんと行きよっとでっしょね」 「今んことで手一杯になっとらすけん、うちの考えとったことまでなかなか廻らんとよ」咲はいった。「以前のごと大浦にも気儘《きまま》に出入りできんし、何かしらん窮屈になってきたと。そうそう、あん時そんげん話のでたとでっしょが。おうちに尾行のついて、要心せにゃならんというて……」 「マックスウエルはなんかよっぽどわるかことばしとるとかもしれんね」卯八はいった。「奉行所は大方そいに目ばつけとるとやろう」 「異人たちのやっとるとはみんなわるかことだらけばってんね。居留地に手をつけるわけにはいかんけん、出入りの日本人ば狙うことにしたのかもしれんよ。少し奉行所の動きの落ちつくまで模様見とった方がよかかもしれんと、井吹さんもいうとんなさったと」 「井吹さんとはあいからずっと、きまった日に会いよっとね」  咲は首を縦に振ると、「おうちの戻ってきなさったけん、あん方もまた気強うなんなさるでっしょ」という。 「よんべ、あんひとと会いたかと思うて、行きつけの小料理屋に行ってみたばってんおんなさらんやったと。何処に住んどんなさるかわからんし、ほんなこつ忍者みたいなくらしばしとんなさるおひとじゃけんね」 「おうちも住居を知んなさらんとね」 「前々からたい」 「卯八さんも知らんことをうちに教えて貰えるはずもなかったとたいね、そいじゃ……」 「井吹さんとは今度、何時会う手筈になっとっとですか」 「明日」 「明日」卯八は鸚鵡《おうむ》返しに呟く。 「明日の昼前、此処《こ こ》にきなさるとよか。一緒に行けばどんげんかよろこびなさるとでっしょ」 「今夜もう一度、丸山辺りば探してみまっしょ。井吹さんの根城は何ちゅうても丸山じゃけんな」 「丸山といえば、ようべ心中のあったらしかばってん、何もきいとんなさらんね」 「心中。……丸山の何処ね、それは」卯八は息を飲むような口調できいた。染田屋の尾崎が遂にやったのか。 「確か門屋とかいうとらした。二人とも血まみれになっとるのを明け方早う見つかって、客の方はもう息の絶えとったが、女郎は助かるかもしれんというとらした。助かったところでどっちみち落とされるところに落とされるとばってんね」 「そん女郎の名前はだいね。まさか小萩とはいうとらんやったろうな」 「小萩。……そんげん名前じゃなかったとよ。そん小萩というひとに何かかかわりでもあるとね」 「井吹さんのしゃんすですたい」 「丸山にもそんげんひとのおらすと……」咲の声はなぜか乱れた。「門屋の小萩といわるっとね」 「しっかい惚《ほ》れられとんなさっと。あんひとは遊び上手じゃけん」 「うちはまた井吹さんのしゃんすはひとりかと思うとった」 「そいが小萩さんじゃろう」 「うちがきいとるとは、阿茶さんとのあいの子たい。なんでも英語の塾に通うとる娘さんらしかとよ」 「阿茶さんのあいの子。……」卯八はいう。「だいの話ね、そいは」 「井吹さんは黙っとんなさるばってん、だいでも知っとる話よ」 「そん娘は何処に住んどらすと」 「何処かは知らんばってん、井吹さんは今そんひとと一緒に住んどらすとじゃなかと」咲の声は唾でも絡んだようにきこえる。    9  嘉平次はおよそどのような口実で、七十郎を連れだすというのか。垂れ下がる布地の隙間から差す海の光を肩に、茣蓙を外して坐りながら、露地は両手を膝におき、かすかな櫓《ろ》音に耳をすませていた。真昼時、嘉平次としめし合わせた海辺へでられたのも他人事のように思われ、出掛けに握らせた再度の銀粒を懐に、ようやく慌てふためいているに違いない遣手に対する気持ちさえ遠くの方に流れて行く。  気がかりは七十郎の旅立ちだが、そうでなければどうぞと、露地は信心もしていない金谷山菩提寺《ぼだいじ》の諸仏に祈った。この家のあんしゃまがどうぞ七十郎と会えますように。ただ一度、七十郎とひと晩泊まりの遠出を許されて深堀村まで足をのばした際、立ち寄った寺である。石作りの山門をくぐると両脇を松枝に被われたさして広くもない境内がひろがり、正面に建長年間に慈覚大師の彫刻になる薬師仏と脇侍《きようじ》十二神将を本尊として建立されたという本堂が年代そのままの重い構えを示していた。  往復とも船便を利用して、深堀村の磯遊びをした日のどれ程楽しかったことか。あらかじめ通達してあったらしく、岩場に突きだされた離れの部屋に調度も夜具も二人のためにきっちりと整えられ、半ば釣られた蚊帳《かや》を背に、寝もやらぬまま更けゆく夜を縁側で過ごした刻々。 「もうぬるうなったとでっしょ。熱かとば貰うてきまっしょか」 「いや、こん位でやめとこう。まあだこっちの徳利にまるまる残っとると」 「珍しか」 「珍しか。何が……」 「あんまり酔うとんなさらんし、何時もと勝手の違うとるごたる」 「海のせいじゃろう、大方。こんげん気持ちのよか風に吹かれて飲んだこつは、こいまでなかもんな。ひと晩きりじゃのうして、せめて三日でんよかけん、此処におりたかとたい」 「うちから先にいわれると困るとでっしょ。ほんなこつ先走りの早かと」 「ぬしこそ先走りたい。……まあだ明日になっとらんとだけん、そんげん文句は少し早うはなかとか」 「淋しか性分ですと。いちばんうれしか時に、もう夢から醒《さ》めた時のことばっかり思うとる。堪忍してやんしゃい」 「明日、右左に別るっとじゃなかとよ。同じ船で同じ波止場に戻るとばい。そいから先んことも、年季明けまでぬしさえ辛抱しとれば、二人でどんげんことでもできる。何べんもいうとることばってん、どうもおるの言葉を信用しとらんごたるな」 「怒りんさったとね、すらごとでっしょ」 「おるはほんなこつぬしば好いとるとばい。何が起ころうとぬしを離すもんじゃなか」  七十郎はすっと膝を寄せると、懐のなかに手を差し入れてきた。 「こいはしんからおるのもんじゃけんな。言い交わした通り、違《たが》えちゃならんばい」 「ああたのほかには誰も……」くら橋は思わず吐息を洩らす。「ああもう辛うなってきますけん、離して……」  七十郎は顔を胸に押しつけて乳首を吸い、それから唇と歯を耳たぶに移すと、のけ反らせた首筋に頬擦りした。 「ぬしの乳は愛らしかけんな。だいもかいも(誰も彼も)どまぐれよる(錯乱する)に極《き》まっとる。そいば考えただけでん、おるはこの辺の熱うなってくると」 「ひとの手は藁《わら》すぼ。ああたのぬくもりだけがうちの血にも体にも伝わるとですけんね。ああたのほかには誰も情をゆるした者はおらんとよ」  七十郎は黙って盃を口に持って行き、それを啜《すす》ると、「増屋の支店の、早う埒《らち》のあけばよかばってんね」といった。 「難しゅうなったとですか」 「博多より堺という話のあっとたい。時勢が時勢じゃけん、どんげんふうに転ぶかわからんと」 「堺でん何でん、こいといわれるところにうちはついて行きますけん」 「ぬしももうちっとあけんか」 「はい」  七十郎の注ぐ酒を受けてくら橋は口に含む。月の姿は見えぬが、岩場に踊る白い波しぶきは夜目にもくっきりと捉えられ、軒下の虫はまるで潮騒《しおさい》を恋うるように啼きつづけた。 「世界という言葉ばぬしは知っとるとや」 「いいえ」 「世界というとは、この世の中すべて、日本だけじゃのうして、オランダとアメリカ、それに清《シン》国まで、果ての果てまで全部のことたい」 「果ての果てまで……」 「そんげんこつ、そいが世界。そん世界の中でおるのおなごはぬしひとりと思うとると。おいは今、そいば誓うばい」 「そん言葉だけでよか。ああもう何にもいらんと。うちはもう死ぬまでああたから離れまっせん」 「旦那《だんなん》さんに頼めば何とかなるかもしれん。一年でも半年でん早う染田屋にかけ合うようにするけんね」 「どいだけでもうちは辛抱しますと」くら橋はそういうと股《もも》の辺りを指先で触れた。「そいでも年季の明けたら此処に朱ば入れたか。何ちゅう文字かわかんなさっとでっしょ」  七十郎の返事も待たず、くら橋はいう。 「世界。……そん文字ば彫ってくれというたら新橋町のとうらご(海鼠《なまこ》、刺青《いれずみ》師の渾名《あだな》)しゃんはどんげん顔ばさすやろか。ああ、うれしか」  世界の果てまで。露地は櫓音の行方を追いながら口許を指の裏で押す。言葉や口先のなんと虚《むな》しいことか。今年の二月、宵の口に前触れもなくあらわれた七十郎は、部屋に通るといきなり性急な所作にでた。禿がすぐきますばい、とその手を制して、「何かあったとですか」ときくくら橋に、七十郎はうっすらと涙さえ浮かべながら答えたのである。 「よんべからずっとぬしに会いとうしてたまらんやったと。なしてかおるにもようとわからんとばってん、そんげん気持ちになったとたい。……」 「うちも会いたかったと。……この前、増屋さんの接待の嬉野屋であるときいたけん、心待ちにしとったとですよ」 「あん時は旦那さんと一緒じゃったけん、それに船頭や舵《かじ》取りとの付き合いでどうにもならんやったと」 「今日は朝までよかとでっしょ」 「それが具合のわるかとたい。泊まりにつけるとはかまわんばってん、明日ん朝、出船のあっとたい。そいで六ツ(午前六時)までに店に入らにゃならんと。此処からまっすぐ店に行くわけにもいかんけんな」 「そんなら七ツ半(午前五時)まで」 「眠っとかにゃ仕事のできんばい」 「ちゃんと寝せてあげますけん。……しょうろうへんぶ(精霊とんぼ)のごとすうっときただけで消えなはると、うちの心がどんげん仕様もなか。ああたの顔ば見とる時だけうちは生きとるとよ」 「朝から晩まで、明日も明後日もずっと一緒におりたかな」 「そいはうちの言葉ですたい」 「ああ、ほんなこつぬしと一緒に博多にでん上方にでもでて、精一杯生きてみたかな。もう若うはなかばってん、ぬしとならまだひと働きもふた働きもできるばい。……」 「うちのことなら心配いらんとですよ。年季さえ明ければ、何処にでんこいといわれるところに飛んで行きますけん。どげん遠か国にでも、ああたとくらさるっとなら船底でんかまいまっせん」  その後、わずかひと月も経たぬうちに豹変《ひようへん》した七十郎とのやりとりがそうだったのだ。表の人声は嘉平次が戻ってきたのか。居ずまいを正そうとする露地の足首をちくりととげとも虫ともつかぬものが突き刺す。  開いた戸口の向こう側に立った人影は覗くような身振りで男か女か判別のつかぬ声をかけてきた。 「嘉平次の言伝《ことづ》てばい。早う船着き場まできなさるとよか」 「おおきに」  矢張り嘉平次は戻ってきたのだ。露地はつっと立ち上がると土間の履物を突っ掛けて表にでた。しかしそこにはもう誰も見当たらず、手桶《おけ》の前にしゃがんでいる幼女がぼんやりと顔を向けた。  海際に杭《くい》を並べた岸壁に艫《とも》の部分を縛りつけた廃船を小さな桟橋にした船着き場で、こちらを向いているのが嘉平次なら、横着けした船に坐っている者は誰か。七十郎という名前をそこにおくのをためらうような足どりで、露地は前に進んだ。瞬間、火矢にでも撃たれたような白い面。まぎれもなく七十郎。船の上に立つ男を抑えるべく交錯する嘉平次を目掛けて、露地はまっしぐらに走る。ぐらりとゆらぐ桟橋。 「離さんか。何の真似をすっとか」と、七十郎はかすれた声でおらぶ。  露地は船に乗り移ると、嘉平次に促されて、あらん限りの力を腕にこめて廃船の縁を押した。ゆっくりと扇状に船着き場との間隙《かんげき》をひろげて行く女と二人の男。 「手のこんだ真似をせんでも、話なら落ちついた場所で、いくらでもできるたい。早う船ば戻さんか」七十郎は露地の顔に眼を合わせようとせぬ。 「じっとしとかんと、船諸共《もろとも》になりますけんな」昨夜と同じ着物をまくって嘉平次は櫓を操る。「騙《だま》したことはわるかったばってん、ばはん(抜荷)の話でもせんと、とてもきちゃ貰えんと思うたと」 「伊万里に行っとんなさったときいとったばってん、今日はふのよかったでっしょ」露地の口から思いがけぬ言葉がすらりとでた。 「とにかくこんげんところじゃ何も話せんばい。ようとわかるごと話せば、何のこつはなかとだけん。……こんげんぬしにも似合わん真似ばして、一体何処に行くつもりな。……話しあえば、何でもみんなはっきりすることたい」  何のはっきりするとね。露地は胸の中でそういう。 「ずっと伊万里から博多に行っとって碌に話もできんやったけん、そりゃ誤解しとるのも無理のなかかもしれん。……旦那さんが勝手に断わりなさったという話もきいとるし、伊万里から文一本ださずにわるかったとも思うとる。そいでも、おるの方にしてみれば、おるの方でいい分もあると。……」  居留守を使い通したあげくに、稲佐行きも戻ったことも百も承知していながら、何ひとつ別れる話のいいわけからさえも逃れようとした男に、どんないい分があるというのか。露地は船縁《ふなべり》に添えた方の手で、胸元の襟を合わせた。 「おい、そんげん荒か漕ぎ方ばして、一体何処に船を向けるつもりや」七十郎は声を高めた。「通りがかりの船に助けでん呼べば忽《たちま》ち罪咎《つみとが》になるとぞ。わかってやっとるとじゃろうな」  助けば呼びなさるとよか。露地は心のうちで呟く。 「ぬしから早う船ば戻すごというてくれんか。ぬしの気のすむごと何でんするし、染田屋にでん話ばするつもりたい。すらごとじゃなか。染田屋には年季明けば早めてくれるごと、ちゃんと話ばつけるつもりやったとよ。さあ、こんげん海の上で、人の目にでん触れたらそいこそ取り返しのつかんごとなってしまうけんな。噂にでんなったらできる話もできんごとなってしまう。……ぬしの気性はわかっとるつもりだけん、いくらでも気のすむようにするたい。ほんなことをいえばみんな旦那さんの差し金やったと。……どう仕様もなかった。……おい、ぬしはきいとるとか」  港に寄せ引きする潮の流れに乗って、嘉平次の船は帆をはらませたように滑りながら戸町の外れにでる。それまで見たこともない形をした小型の唐人船の舷側《げんそく》を幾人かの水夫が洗っており、行き違いの二丁櫓が、何を勘違いしたのか、さかんに手を振ってからかう。 「旦那さんの差し金ちゅうてもそんげん難しかことじゃなかったと。一周忌の終わるまで辛抱してくれんか。世間体の何のと面倒なことをいうつもりはなかばってん、そいだけの喪には服さにゃならんばい。そいまではきっぱり文一本やりとりすることはならんぞ。……旦那さんからそいしこの念ば押されて、できまっせんとはいえんやろう。……」  やめときなはりまっせ、と露地は声を出さずにいう。 「そんげん身勝手なこつか、おれのいうとることが。いいわけもきかれん、きく耳も持たんというなら、そん間にぬしは何ばしとった。稲佐の、確かワシリエフとかいう魯西亜《ロ シ ヤ》の士官じゃったな」 「矢張り知っとんなさったとね」露地はしっかりと相手を見つめた。 「知っとったといわれちゃ何ばってん、伊万里から戻った時分、誰かそんげんこつを教えてくれた者のおったとたい。もう、かっと血の上ったごとなってな。折角おるが辛抱しとっとに……」 「世界という言葉ば覚えとんなはりますか」  いいかける男の声にかまわず露地は問うた。その辺り、波に逆らうのか嘉平次の漕ぐ櫓はひとしきりぎいぎいと鳴る。 「世界。……」それがどうしたというふうに、七十郎は怪訝な口ぶりで反復した。 「果ての果てまで。そん中でうちをいちばん好いとるといいなはった。あいはすらごとやったとですか」 「すらごとなもんか。そんことならようと覚えとるたい。深堀に遠出した時のことやろう。蚊帳にひっかかって転んだことでん何でん、ようと覚えとるばい」 「今も変わらんとへ」 「変わるもんか。……変わるはずもなかろう。……さあ、ぬしの気のすむごと、何でも約束するけん、機嫌ば直すとよか」  露地が躙《にじ》り寄ると船は大きく傾く。その拍子に切迫するものを感じたのか七十郎は声にならぬ悲鳴をあげた。露地はさらに被いかぶさるように男の体にぶつかって行く。 「何ばするとか、やめんか、おい。……おるには娘もおっとぞ」 「嘉平次さん、堪忍してくんしゃい、助けちゃならんとよ。……」  露地は咽喉を切るような声でそれだけ叫ぶと、七十郎にしがみついたまま、船端を波間に向かって崩れた。    10  揚屋の女将《おかみ》は井吹重平の待つ部屋に小萩を案内すると、会釈をして去った。門屋に心中騒動があって役人や町方の者が大勢出向いており、そのために小萩を呼び出して貰ったのである。二本の銚子《ちようし》と塩雲丹《うに》はすでに運ばれていて、ほかに食べるものは不要だといってあるので、気をきかせたのか店の者の気配も離れまでは届いてこない。こんな八ツ半(午後三時)にもならぬ早い時刻にどうしたのか、というふうな面持ちをして小萩は彼の傍《そば》に坐った。 「騒動のあったそうじゃな」 「惨めな話ですと」小萩は嘆息をつくようにいった。「さっき初めてきいて、大きか声ではいえんとですばってん、ようと身許《もと》を調べてみたら、二人は腹違いの兄妹だとわかったそうな。……」 「腹違いの兄妹」井吹重平はいう。「それじゃ色恋沙汰の心中じゃなかったとか」 「いえ、そいが……」小萩は声を詰まらせた。「そん人はこの半年ばかり、ずっと宮乃さんの馴染《なじ》みだったとですよ。自分の妹に通う客もおらんし、そんげん間柄なんて考えもしまっせんもんね。……知らされた者はみんなどういうてよかかわからんごとなっとりますと」 「本人同士ははなから腹違いの兄妹だと知っとって、睦《むつ》み合うとったというとね」 「そんげんことになりますね。うちはさっき、下働きのおっちゃまからきいたばかりだけん、ようとした事情は知りまっせんばってん、果てなさった久吉といわるるおひとが、宮乃さんのあんしゃまだったことはまぎれもなかといいよんなさった。……二人ともこまか時は外海《そとめ》の出津《しつつ》に育って、もしかすると隠れの子じゃなかかと、奉行所からきたひとのいうとんなさったらしかとですよ」  女中が小萩の茶を運んできたので、それがちょうど話の切れ目になった。井吹重平は手酌で盃《さかずき》を満たす。 「まあ、他人のことはそれとして、ぬしを呼び出したとはほかでもなかと。……」 「今夜、きなさっとじゃなかったとですか。あげな騒動のあっても、店を閉めんでもよかと、そいもさっきそう決まったというとんなさったけん」 「ぬしがよんべ教えてくれた、卯八のことにもかかわりのあるとたい」井吹重平はそういうと、袂《たもと》から紙包みをだして、小萩の前においた。「詳しかいきさつば話す暇もなかばってん、ぬしのいうごと、卯八が奉行所の手先になっとるとなら、おいも安閑とはしておられんけんな。……卯八のことだけじゃのうして、奉行所が目をつけてきたことの、だんだんはっきりしてきたけん、この際思い切って長崎を離れようと考えたとよ。……」  小萩は何かいい掛けようとしたが、口にはださず運ばれてきた茶を啜った。 「何のかのいうても、奉行所の手が入れば面倒なことになってしまう。それで、そうならんうちに先に手ば打ってしまおうというとたい。長崎にさえおらんとなら、つかまえようもなかし、そのうち熱《ほとぼり》も冷めてくるにきまっとる。……卯八が手先になっとるということでもようわかるやろうが、奉行所はかなり躍起になっとるふうじゃけんな。ぶっつかっても得にはならんけん、すうっと身ばかわそうと考えたと。……ぐずぐずしとっちゃ、そいこそ手遅れになってしまうし、そいでぬしに相談しにきたとたい」 「相談というても、もう決めなはったとでっしょ」小萩はいった。「そいじゃもう、今夜きなさる暇もなかとですか」 「明日の朝、早う立ってしまおうと思うとる。それまでに始末しておかにゃならんことのいっぱいたまっとると。仕事部屋ん方も片付けとかにゃならんし、出立の仕度もせにゃならん。とにかくそいでぬしに会いにきたとたい」 「長崎ば離れて、何処《ど こ》に行きなはるとですか」 「長州に行こうと思うとる。いくさ騒ぎで落ちつかんならいっとき上方におってもよかし、いずれにしても、ぬしにはそん都度飛脚もだすし、居場所もはっきりさせとくつもりじゃけんな。……おいが戻ってくるまで、辛抱しとかにゃいかんばい」 「ひとりで行きなはっとね」 「当たり前の話たい」 「そいじゃ、これっきり一年も二年も会えんごとなるとですか」 「そんげんかかる筈もなかと。長うして半年たい。……おいはきっと戻ってくるとよ。ちょうど長州には行ってみたかと考えとったし、なんちゅうても時勢の移り目に、もう少しひろか場所にでとらにゃ、吹いとる風の見当もようつきよらん。……」  井吹重平は盃を受けとると、小萩に差した。 「何というても、ぬしはおいのおなごじゃけんな。今度戻ってきたら、必ず気のすむごたる扱いばするばい……」  小萩は黙って、彼の傾ける銚子を受ける。 「そこに五両入っとると。何かの足しにすればよか」  小萩はちょっと頭を下げた。内にこもるものが今にもあふれそうになり、それに耐えて唇を噛《か》みしめる様子がありありと窺《うかが》えた。 「もう少し何とかできればよかったとばってんね」 「うちの頼みばひとつだけきいてくれまっせ」小萩はうつむいたままいう。「ああたのいわれることはようとわかりましたけん……」 「頼みちゃ何ね」 「このまんま右左じゃ心の隙間ば埋めようのなかとですよ」小萩はいう。「明日の朝、早か出立なら無理はいえまっせんばってん、九ツ(深夜零時)まででもよかけん、一緒におりたかと。……どんげんしても駄目ならひと時でんうちの部屋にきてくんしゃらんね」 「よかと」井吹重平は答えた。「さっきもいうたごと、いろいろ始末せにゃならん用事のあるけん、そいば片付けて、五ツ(午後八時)にまた門屋にくる。そいから明け方の六ツ(午前六時)までぬしの部屋で過ごすごとするたい」 「我儘《わがまま》いうてすみまっせん」小萩はいった。「そいでも、こいから半年も別れるかもしれんという前の晩に、ほかん客の相手ばしとるとはたまらんですもんね。……でくっとなら、一緒にでんついて行きたかと」 「戻ってくるまでの辛抱たい。さっきもいうたごと、何とかぬしば身請けして、家ば持たせてやるけんな。長州におろうと上方に行こうと、遊んじゃおらんと。しっかい稼《かせ》いでくるつもりじゃけん、楽しみにしとるとよか」 「いうて貰うだけでもうれしか。……ああたと朝から晩まで月んうちに二日でも三日でん一緒にくらさるっとなら、うちはもう何にもいいまっせんと」小萩はいう。「そいでも、銭のことなんか考えずに、早う戻ってきんしゃらんと、うちはどうにかなってしまいますけんね。ああたのおらんごとなったら、うちは張りの抜けて、きっとぼんやりしとっとでっしょ。戻ってきなさる日ばかり数えてくらさにゃならんとですけん、一日んでん早う、何時《い つ》何時の日に戻るとか、そいば知らせてくれまっせ」 「立ちもせんうちに、戻る日ば勘定せにゃいかんごたるな」  小萩は紙包みを持つと井吹重平の手に押しつけた。 「うちに置いとくことはなかとですよ。旅先じゃ思いもかけんような銭のかかるときいとりますけんね」 「心配はいらん。こりゃぬしんために、そう思うて仕度してきたとよ」 「そりゃわかっとりますばってん、そいけんなおさらああたの足しにして貰いたかとですよ。そん金で船でん駕籠《か ご》でんなるべく早う戻ってくるとに乗って、元気な顔ば見せてくださりまっせ。あと半年とか一年とか、そんげん便りはほんなこつ要りまっせんけんね」  井吹重平が言葉を尽くしても、小萩はどうしても紙包みを受け取ろうとせず、そんなに金を置こうとするのは、長い期間戻ってこないつもりかと、仕舞いには顔さえ強張《こわば》らせたのである。五ツ前に必ず行くからと念を押して、彼は小萩よりも先に揚屋をでたが、いわばきわにとっても別れの晩になる今宵《こよい》を、どんな口実で留守にすればよいのか。  明朝、きわを同道して出立し、近くの宿場か温泉で二泊か三泊、別れを惜しんで長崎に戻せば何とか納得してくれようと、彼は門屋に泊まると承知した時から心に浮かんでいたかのように、それを反芻《はんすう》する。  長崎の町から慌しく逃げようと決めたのは、卯八に対する要心もさることながら、使いがきて、昼前有馬永章と茂木屋で落ち合い、打ち合わせた結果、目下のところそうするよりほかに手はあるまい、となったのである。仁昌寺をでた途端についた尾行からも窺われるように、思いのほか奉行所の手が深くのびているのを互いに確認した上での結論であった。  仁昌寺の部屋を片付けるのは住職に頼んで、仕事場の始末と咲への連絡、それに養生所に出勤したきわの帰りを待って、いい含める手立てが残っている。これから後きわの生活は、金銭的に充分補えるものを置いて行くとしても、それでききわけてくれるかどうか。寄合町の裏道を梅園天満宮から如意輪寺の方へ抜けながら、いっそ連れて行くかとも思ったりした。  しかし、折角英語塾にも通い、養生所で働くことをどれ程かよろこんでいるきわを中途で放棄させるのはしのびないし、此処《こ こ》はなんとか説得しなければならぬと、自分にいいきかせた。  前方の路地からすっと人影があらわれたので、ぎくっとして立ち止まると、小腰をかがめるようにして、商家勤めの風態《ふうてい》をした男が擦れ違う。そんなに手廻しよくはあるまいと考えながら、それでも気になって二度ばかり後ろを振り向く。すると二度目の時に、後ろから石段を上がってきた別の男が、「旦那さん」と呼びかけたのだ。 「何ね」彼は身を引くようにして答えた。  木棉の絣《かすり》を着た眉毛の濃い男は、手に大きな弁当箱に似た蓋付きの籠を下げている。 「何か用のあるとな、おいに」  男は近寄ると、挨拶でもするようにいった。 「おもしろかもんば持っとるばってん、試してみなはらんね」 「先ば急いどるけんな」井吹重平はいう。 「まあ、見るだけ見なさればよか。きっと気に入りますばい」  男は籠の蓋を取ると、中にしまってあるぎやまんの瓶《びん》を爪の先でぱちんと弾《はじ》いた。 「フランス伝来の精のつくちんだ酒ですたい。だいもかいもには飲ませられんと」  井吹重平は手を振って男から去ろうとした。それでも男は離れようとせず、「ちんだ酒じゃのうしても、ほかのもので、欲しかと思われるとなら、何でん役に立ちますばい。大浦の居留地とは通々ですけんな」といったり、「極楽ばさまよう煙草もあっとですよ」と、殊更耳打ちする様子をみせたりした。  それをも振り切って、彼は早足でとんとんと急坂の石段を下りる。なだらかになった往来では童たちが幾人か輪を作って遊んでおり、彼が傍を通ろうとした時、わっと喚声をあげて集まりを崩した。見るとひとりの女が道の真ん中でゆらゆらとした手付きで踊っているのだ。彼も一、二度見かけたことのある狂女で、握り飯さえ食べさせれば、いいつけられた通りの仕事をするし、どんな汚い場所であろうと、嫌がりもせずきれいに拭き掃除をするというので重宝がられていた、三十過ぎの女であった。  しかし、どういうわけか、近頃になって、掃除を頼む者も殆どいなくなり、それを得ようとして踊るのだという噂《うわさ》をきいていたが、実際に接するのは初めてだ。井吹重平は童たちについて、眉をひそめながらもけらけらと笑い合う人々の背後に立った。  文句ははっきりときこえぬが、狂女は何かを歌いながら、神楽《かぐら》でも舞うような手つきで、両手を高く差し上げながら、そのまま上体をゆっくりと倒して、口紅を赤く引いた顔いっぱいにしなを作る。 「元は戸町のひゃぁはちというがほんなこつやろか」 「戸町のひゃぁはち、それは初耳。うちはお寺さんのあんねどんときいとったよ。そんお寺から火のでたとば、自分のせいにされて、そいで狂うてしもうたときいとると」 「ひゃぁはちかあんねどんか知らんばってん、ほんなこつをいえば、そんげん狂うてもおらんとらしかよ。気違いの振りばしとるだけで、頭ん中は並の人間とそう違うとらんと、いうとらしたけん……」 「そいでも、狂うてもおらんおなごが、なしてあげん真似ばせんならんとね。握り飯とたくわん一皿にありつくために、蛆虫《うじむし》まで箸《はし》でつまんで、汚か所ば掃除せんでもよかとやろう」 「身形《みなり》や素振りのごとは狂うとらんという話よ。……戸町は戸町でもひゃぁはちじゃのうして、船乞食《こじき》の一統だときいとるばってんね、うちは」 「そいはほんなこつね、船乞食の一統というなら……」  ひとりの女が声を途切らせて、傍の女たちと肩を寄せ合うのを、井吹重平は見た。もうひとりが大きく頷《うなず》きながら、ちらっと彼の方を窺う。 「すらごとじゃなかとなら、そりゃ大事たい。そいでも、いくらなんでも蘭水の……でっしょ」 「そいばいうちゃならんとよ」 「後ろに手の廻るとじゃけんね。滅多なことはいうちゃならんと。……」  狂女は水平にひろげた両腕を、ふたたび上に立て、それからなだらかに上半身を屈折させる動作を飽きもせず繰り返し、「可哀相たい、だいも握り飯ばやらんとね」と、のっぽの童が呟《つぶや》く。  井吹重平は人囲いを背にして、煙草屋という名の遊女屋を角にする道を曲がった。今すぐにでもきわに会いたい気持ちが湧《わ》いたのは、狂女の踊りを見ているうち、ふっと昨夜、帰宅した時の様子を思いだしたせいかもしれぬ。  ゆうべ、戸口を入るといきなりきわが体ごと飛びついてきたのだ。しかも眼には涙さえ溜《た》めて、彼の懐にいきなり顔をうずめていた。 「どんげんしたとや。何ぞひとからいわれたとか」  きわは懐の中でかぶりを振る。 「そうか、帰りが遅うなったけん、今夜は戻ってこんと思うとったとじゃな」 「そいもすこうし入っとりますと」  きわは彼の胸を離れると、泣き笑いのような顔をしながらそういった。 「こんげん可愛かひとの待っとるとに、帰らんちゅうことのあるもんか」 「うちは知っとると」 「何ば知っとるとね」井吹重平は思わずきき返した。 「うちのことを旦那さんがどんげんふうに考えとんなさるか、ちゃんと鏡ば見るごとわかっとるとですけん。……」 「そんならわかっとる筈たい。ぬしんことをたまらんごと好いとるとは」 「旦那さんはうちんことを何か、食べもんか料理のごと好いとんなさるとだけん、同じもんばかり食べなさっとったら、そのうち飽きなさるとでっしょ。うちはそいが心配でなりまっせんと」 「大分雲行きのわるかとばいね」彼は持っている本の包みを開いた。「ほら、機嫌ば直してこん本ばみてみんか。ぬしんために買うてきたとばい。ドクトル・ポンペの書いた薬学指南たい。こいば読み切るごとなったら、そいこそ本物になっとるとぞ」  きわは息を吸うような声をあげて、それを手にした。 「オランダ語たいね。ポンペ先生の……わあ、うれしか」 「食べ物んごと好いとるともういっぺんいうてみんか」 「食べ物でん何でんよかと。うちば何時でも全部、残らんごと食べてくだはりまっせ。……もう何でもよかごとうれしか」    11  思うひとに飲ませようと抱えてきた、ちんだ酒入りの小瓶から放たれる甘酸っぱい芳香にかえって胸を締め付けられながら、尾崎は小鳥の啼《な》き声にさえ耳をすました。約束の八ツ(午後二時)はとうに過ぎているのに、又次の姿はまだあらわれぬのだ。  これまで遅刻したことは一度もなく、何時も自分より先に待っていた又次の身に、何か異変でも起きたのか。尾崎は気を静めようとして瞼《まぶた》を閉じ、それでも落ちつかぬ心を、しばらくでも他の事にそらそうと、門屋の心中騒動を胸でなぞってみた。遣手《やりて》のさくが、此処ぞとばかり注進にきた事件である。 「……そいがあなた、こともあろうに、果てた客と、宮乃さんは血の通う実の兄妹だったということですよ。今も、旦那《だんなん》さんにそんことをほかの者に教えちゃならんちゅうて、きつう口留めされましたとばってん、太夫《たゆう》に頬被《ほおかぶ》りしとくというわけにもいきまっせんもんね。……実の妹ば相方にして通う男は、いくら丸山の話というても初めてでっしょ。一体、そんげんことのできるとかどうか、兄妹同士睦み合うて、どげな気持ちで夜明けば迎ゆっとか、さすがのあんじゃえもんしゃんも、じっとしとんなさったとですよ」 「兄妹同士、よっぽど好いとんなさったとでっしょ」 「いくら好いとるというても、兄妹は兄妹ですけんね。そいもほかに誰も人のおらん山里か島での出来事とでもいうならとにかく、丸山で起こったとですばい。実の妹に金払うて……金払いもそうわるいというわけでもなかった。他人さまの客と客の間に、実の兄が入り込んで寝間を共にする。考えてみただけでも身顫《みぶる》いするごたる話じゃなかですか」 「仕様のなかとでっしょ。二人してそこまで思いつめとんなはったら。……いっぺんそんげん始末になったら、そいから先はもう後に戻らんごとなんしゃったとに違いなかと」 「実の兄妹でも、いっぺん深間に入れば仕様のなかといいなさるとへ」 「他人の口出しすることとは、遠かところにおんなさったとかもしれん。そんげんふうにふっと考えたとよ。……そんひと達は、夫々《それぞれ》長崎のお方じゃったとやろか」 「九つか十の頃までは、二人とも大浦辺りに住んどったらしかと、いうとんなさった。両親が死んでしもうてから、兄妹で食うや食わずのくらしばして、何年か一緒に住んどったらしかけん、そん時に妙なことになったとじゃないかって、事情ば知っとんなさるひとからきいたという話でしたと」 「可哀相か話たいね。どっちにしろ……」尾崎はいった。「そいでも、兄妹だというのが、どがんしてわかったとへ」 「持ち物の中から、いくつかの文が見付かったというとりました。詳しかことはききませんでしたばってん、大方、久吉というひとから届いた文ん中に、そんげんことの書いてあったとじゃなかとでっしょか」  目を開けても墓守の小屋に、外からの気配は伝ってこない。ぎやまんに形だけを似せて作った陶製の小瓶を手にして、尾崎はそれを胸の辺りにおく。もしかすると、尾崎との仲を心良く思わぬ仲間うちに今日のことを覚《さと》られて、難癖でもつけられているのかもしれないのだ。ちょうど十日前、次に会う今日の日日《ひにち》を確かめた後、又次はふっとこんな口をきいた。 「太夫んとこに文でも届けた者はおらんやろうな」 「太夫ちゃいわんごと……」 「あねさんのところに、まさか誰もいうていった者はおらんやろう」 「誰がいうてきなさっとへ」 「何もなかとなら、かまわんと。……近頃、一統んうちでもあれこれ陰口叩きよるとをきいとるし、もしやと思うたとたい。まさかこんげん場所で会うとるとは思わんじゃろうが、おるとあねさんのことは、大方の者が勘づいとるふうじゃけんな」又次はいった。「中には裏切りもんじゃと、本気でそう考えとる者もおるとよ。起こしかけた騒動も思うたごと運ばんやったし、そいもこいも、みんなおるの所為《せい》じゃと思うとる。……」 「面汚しがずっと続いとるとでっしょ」尾崎はいう。「初めて会うた時もそういいましたばってん。又次さんとうちが仲良うなると、どんげんして面汚しになるとか、何べん考えてもうちにはようとわかりまっせんと。……人間同士ならどんげんひとと好きおうてもかまわんとよ。あんひとは駄目、こんひとはよかと、そげな物差しがあるはずもなか」 「おるたちのことをまだようと知らんけん……」又次は苦渋にみちた声をだした。「なしておるが裏切りもんといわるっとか、理屈じゃのうして、世間から今まで蔑《さげす》まれ通してきた年月がいうとだけん、答えようもなかと」 「うちはお姫さまでも分限者の娘でもなかとよ」尾崎はいう。「太夫という飾りもんの位を張っとっても、しょせんは丸山のお女郎。……そいでもうちは、又次さんば好きになった想いだけは誰にも負けんし、世間からどんげんことをいわれようと、恥ずかしゅうもなか。裏切りもんとか、年月とか、今日はどうかしとんなさる」 「ほんなこつ、わるかことばいうてしもうた。何時もこんげん会い方ばせにゃならんし、あねさんにすまんと思うとるけん、つい口からでたとたい。詫《わ》びるけん堪忍してくれんね。そんかわり、こいから先はいじけたこつは絶対にいわんけんな」 「生意気かことばいうて、詫びにゃいけんとはうちですと。……又次さんの胸ん内をわからんこともなかとに」  明らかに足音がきこえたので、尾崎はわが身を抱きしめるような気持ちで坐り直した。しかし、墓守小屋にあらわれたのは、見知らぬ小柄な年輩の男であった。戸口を入った場所で、それから前には一歩も進まぬ身構えを示しながら、男はせかせかとした口調で、言付かってきたことだけを伝えるというふうにいった。 「日蔵さんから頼まれてきたとです。……又次が奉行所のもんに引っ張られてしもうた。又次は朝方にも怪しか者たちに襲われて、そん時の怪我は軽うしてすんだとばってん、そいにもつながりのあっとかどうか、とにかく有無をいわさず、しょっぴかれたけん、今は成り行きを見守るほかはなか。……そいで、太夫に伝えたかことは、どんげんことになっても又次とのことをいうちゃならん。こん小屋のことも。……又次は決して喋《しやべ》らんけん、かまば掛けられんごとして、じっと辛抱しとんなさるとよか。そんうちきっと、日蔵が手だてばこうじて、何とかするつもり。……そうそう、もうひとつあったと。特に染田屋の主人には気ばつけなはるごとしんさい。奉行所に通じとるふしがみえるし、蔭《かげ》で糸引いとるかもしれん。そこんところばよう気いつけなさるごと。……こいで日蔵さんから言付かったことはみんな伝えましたばい」 「又次さんがだいかに襲われて怪我した。いまそんげんいいなさったとですね」  男は黙って頷く。一時でも早くこの場を去りたいという面持ちをあらわにして。 「そいで、何処ば怪我して、怪我はひどかとへ」 「肩のところばちょっと痛めただけで、大したことはなかというとった。おるが直接見たわけじゃなかばってん、怪我んことは心配せんでもよかとじゃなかね」 「奉行所の者がつかまえにきて、そいで又次さんに乱暴ば働いたとですか」 「いや、そいは別々に起こったとよ。朝方又次ば怪我させたもんたちと奉行所が結託しとったのかどうか、調べてみにゃわからんと、日蔵さんもいうとらした。……とにかく、用事は果たしましたけん、おるはこいで帰りますばい」 「待ってくんしゃい」尾崎は追いすがった。「そいだけでは何のことかわかりまっせんと。又次さんはなして奉行所のもんに引っ張られて行きなさったとへ」 「そりゃ、あんたの胸に、自分にきいてみなさるとよか」 「うちの胸に、なして……」 「太夫か何か知らんばってん、あんたにまるめ込まれたせいで、又次はしょっぴかれたとたい」男は尖《とが》った目を真っ直ぐ向け、それまで積もっている憤懣《ふんまん》を投げつけるようにいい放つ。「又次は船乞食の一統じゃけんな。そいでも自分を忘れてしもうた。そんげんふうに仕向けたとはあんたたい。……」  言葉も終えぬうちに背中を見せた男に、「もうちょっと」と尾崎が戸口を出た時、すでに男は藪《やぶ》の道に消えようとしていた。半ばうつろな足どりで、尾崎は茣蓙《ござ》にがっくりと両腕をつく。太夫か何か知らんばってん、あんたにまるめ込まれたせいで、又次はしょっぴかれたとたい。……  一瞬のうちに逆転した心中《しんちゆう》の情景をなお信じかねるように、尾崎は声をださずに呟いてみた。船乞食と太夫の密会を許さぬというなら、又次だけではなく、なぜ自分も一緒に連行しないのか。  染田屋の主人、太兵衛。奉行所に通じとるふしがみえるし、蔭で糸引いとるかもしれん。そこんところばよう気いつけなさるごと。……  すると、太兵衛が一枚噛んでおり、それで抱え太夫への目こぼしと引き離しを企み、又次だけを捕えたというのか。  今すぐ日蔵の許へ駈けつけて、ことの真相を知りたい衝動を抑えるべく、尾崎は小瓶のちんだ酒をひと口飲む。人目にさらされながら戸浦の外れだときいている家に行くのはしょせんできぬことであったし、又次を何とか罪咎《つみとが》から免れさせるためにも、軽はずみの動きをしてはならないと、自分にいいきかせながら。  日蔵の言伝《ことづ》てにも、それは充分含まれていた。又次を拘引した者、させた者に対するどうしようもない怒りの渦に身をおく尾崎の、殆ど戦《おのの》きに似た不安。  彼女は皮底のついた高台の草履を履くと、ちんだ酒の小瓶をそのままにして一旦戸口をでた。しかし、後日何かの証拠になることに気付いて引き返す。もし、丸山の女と情を通じたことで、奉行所の手がのびたのなら、何ひとつそれを残してはなるまい。  大音寺裏の石段を降り切った場所で、誰かに声をかけられたが、尾崎は振り向きもしなかった。蔭で糸を引いとるかもしれんと日蔵がそういう以上、はっきりした裏付けがあるのかもしれぬ。尾崎は染田屋主人太兵衛の脂ぎった顔と唇を、改めて奉行所に通じとるふしがみえるという伝言に重ね合わせてみた。  入牢《にゆうろう》に追放、手鎖、町払い、男と吉井の仲をとりもった者はみんながみんな、そんげん目に会うたとよ。ぬしは利口かけん、その辺のわきまえはついとると思うとるばってん、何ちゅうても掟《おきて》は掟じゃけんね。自分ひとり火の粉をかぶればよかというふうにはいかんとよ。……  豆腐屋の角からくっついてきた二人連れの与太者が小銭にでもありつこうと思うのか、かなり質《たち》のわるい文句を交々《こもごも》あびせかけてくる。 「……何ばいうても音無しの構えたい。おい粂《くめ》の字。太夫の黙っちゃおられんごたるこつばいっちょいうてみんか」 「そりゃご免ばい、兄貴。おいはこいでも尾崎太夫に岡惚《おかぼ》れしちょるとじゃけんね、耳障りなことはいわれんとよ」 「耳障りなこつとはなんな。初耳ばい、そりゃ。太夫にそんげん耳障りになるようなことば、ぬしは知っとるとでもいうとか」 「兄貴もひとのわるか。いくら何でも、おいの口からそげなことをいえますもんか」 「ひょっとしたら、そんことは緋文字《ひもんじ》にかかわりあっとじゃなかか」 「いくら兄貴でも、そいだけは口の割れまっせんばい。ああ、恐《おと》ろしか」 「ぬしが恐ろしがることはなかろう。恐ろしがらにゃならんとは、そん緋文字ば背中に彫った男たい」  尾崎は足を止めると、間近の男たちに向かい合った。 「緋文字んことがそんげん気になっとなら、奉行所でん何処でん、訴人さるっとよかでっしょ。うちはちゃんと、でるところにでて、申し開きをしますけん」  通りすがりの男が、首をかしげるようにして、往来に突っ立つ男女を窺う。尾崎はそれだけいうとすたすたと歩き出した。 「たまがったね、こりゃ」兄貴分の男は照れ隠しのような口調でいう。「太夫からじかに口ばきいて貰ゆっとは、果報もんばい、おるたちゃ……。こりゃよか語り草になったと」 「訴人でん何でんすればよかといわしたとね、今は」 「緋文字んことは、でるところにでて申し開きばするといわしたとよ。こりゃもう余計に恐ろしゅうなってきたばいね。……」  尾崎の見幕に金にならずと考えてか、それとも丸山界隈《かいわい》の間を流れる川までいくらもない距離で、危ない橋を渡らぬ方がよいと分別したのか、追尾する与太者たちは二つの鍛冶屋町の並びが終わりに近づくと、あまり意味の通じぬ捨て台詞《ぜりふ》を吐いて遠ざかった。  こりゃ夢のごたる話ばってん、蘭水の太夫ば身請けするためにゃ、いくら銭を積んだらよかとね。  あれは幾度目の逢引だったか。又次が突然そう尋ねたことがあった。こんな場合になぜ、そういう言葉を思い浮かべるのか。道端の飴《あめ》売りが深々とお辞儀するのに、尾崎は心のそこにない会釈を返す。  又次さんなら大負けに負けて二百両にしときますけん。もう二度とこんげん値段では手に入らん、安か買い物ですばい。早いもんが勝ち。  二百両という額は事実であったが、尾崎はそれを冗談にして返事した。二重門をくぐると、擦れ違う人の誰彼が殊更の素振りもなく、尾崎におやという視線を送る。立ち話をする遣手同士が慌てて腰をかがめ、供を連れた町家の老人が珍しい品物でも見るように指差す。  染田屋の部屋に戻ると、尾崎は禿《かむろ》を使いに、話があるのでこれから出向いていいかどうか、主人太兵衛の都合をきかせた。どのような話をするのか、自分でもよくわかっていないが、そうせずにはいられなかったのだ。小藤はすぐ立ち帰っていう。 「旦那さんはおんなさらんとですよ。用事のあって、昼前から稲佐に出掛けたというとんなさった」 「だいの話ね、それは。……」 「おかっつぁまのいいなさったとです」 「おかっつぁまのきとんなさるとへ」 「はい。大分加減のよかといいなさって、半刻《とき》ばかり前から、板場におんなさるとです」 「今朝早うから、稲佐に……」 「マタロス休息所の打ち合わせにでん、行きなさったとじゃなかですか」  大人びた口をきいて小藤が去ると、尾崎は肩で息をしながら、土瓶に冷めた湯でも残っていないか、それを確かめようとした。するとそこに遣手のさくが入ってきたのだ。 「おかっつぁまからひどうおこられましたと。外出《そとで》なら外出と、きちんというて行きなさらんと、しめしのつかんというて」 「おうちにいうとったでっしょが」 「うちの耳だけじゃどんげん仕様もありまっせんたい。今日んごとおかっつぁまのきとんなさる日にゃ、いい抜けもできまっせんけんね」  この女も実は太兵衛の内意をひそませているのではないのか。何となくそう感じながら、尾崎は土瓶の蓋をかぶせた。 「小藤にそういうて、お茶ば頼んでくれまっせ」 「はい、はい」  遣手は二つ返事をすると、両手を腰にあてがったまま立ち上がる。    12  頬や下顎《あご》の辺りにくっついていた飯粒を、踊りながら指の先で口に入れる狂女を半囲いにして集い合う人々にまじって、卯八はつい今し方しかと見定めてきた司祭館で働く父親の姿をのみ、念頭においていた。あれは何を相談していたのか、フランス寺敷地だという地面に張りめぐらされた黒糸の傍で、図面をひろげる異人宣教師を中心に、首を突っ込まんばかりにして、数人の職人たちと談合していたのだ。  しかも彼がそこにいることがわかっても、他の大工たちと同様、兼七は振り向きもせず気にする素振りさえ見せなかったのである。地ならしを終えた囲いの四方には、赤・黄・紺などの紙きれをつけた棒杭《ぼうくい》が立てられており、縦横に掘鑿《くつさく》した溝《みぞ》のあちこちに埋められた土台石の、骨太い橋桁《はしげた》に似た構え。見詰める彼の存在を歯牙《しが》にもかけぬごとく、彼等は異人の指差すままに頷き、かつ動いた。 「稲佐で魯西亜《ロ シ ヤ》人の相手ばしとって、あげんなったとげな。魯西亜人の水兵は二人にひとりはあげな病気ば持ってるちゅうけん、おとろしかよ」 「そいじゃぬしは、魯西亜人の半分は狂うとるというとな」 「そいが相手ばしたおなごにしかでんちゅう話たい。そいで文句のつけようもなかと」 「ぬしは何時でも見てきたごというけんな。あの女、昔は戸町のひゃぁはちやったとおるはきいとるばい」 「ひゃぁはちはひゃぁはちたい。そいから稲佐のマタロス休息所に行ったと。こりゃでどころのはっきりしとる話じゃけんね」 「あんまりつじつまの合う話じゃなかごたるね。ぬしのいうとがほんなこつなら、稲佐行きの女郎はみんなそんひとのごとならにゃいけんじゃなかか。二人にひとり病気ば持っとるとなら、そんげん理屈になるやろう」 「そいけん今じゃ、女郎のひとりひとりにちゃんと消毒ばさせとるとたい」 「何処まで信用でくるか。ぬしの話はようとわからんばい」  周囲の耳を意識して軽口をかわす、片方の男に見覚えがあるような気もするがはっきりとは思いだせない。卯八が人ごみを離れようとしたちょうどその途端に、「おーい、戸浦の浜に土左衛門があがったぞお」という声がきこえた。 「土左衛門。男か女か」 「男たい。何でも廻船《かいせん》問屋の番頭らしかぞ」 「そりゃあまた大事《おおごと》たい」  それまで狂女を囲んでいた人々は、なだれるように声の方に移動する。卯八もそこに行くと、身ぶり手ぶりで喋っているのは、遊び人風の若造だ。 「廻船問屋の番頭ちゅうことがどんげんしてわかったとね」 「なんかそんげん目印のあったとやろう。役人がそういうとばきいた者のおるとよ。土左衛門になってからまだそう時刻も経っとらんちゅう話やった」 「身投げにしちゃ、妙な場所でやったもんやね」 「身投げかどうかわからんらしかと。身投げなら身形の何処かにそんげん覚悟のあらわれとるとに、そういうものが見えんというとらした。どっちにしろ、廻船問屋の方にあたれば事情のつかめるやろう」 「番頭というなら、大方店の金でも使い込んだとと違うか。そいとも商売のいざこざで、相手方から突き落とされたか……」  そこからあまり遠くない距離なので、卯八は海沿いを小走りに駈けて大浦居留地から戸浦に通じる道にでた。水死人の死骸を見てもどうということはなかろうが、廻船問屋の番頭ということに、引っかかるものを感じたのである。今朝方、仁昌寺住職の尾行に失敗している後ろめたさも、何処かに絡んでいた。  波止めの杭を横手に、潟《かた》とも砂地ともつかぬ小さい河口に近い現場には、先程の男がいったように、すでに数人の役人が出向いており、莚《むしろ》をかぶせた死体を遠巻きにした野次馬たちの人数は予想外に多い。そして卯八がその間にまぎれ込もうとした時、肩に触れる手があった。目顔でついてこいという峰吉に従って、人気のない窪《くぼ》地にしゃがむ。 「さすがに早かな」 「大浦の方ばちょうど当たっとりましたけん」 「仁昌寺の見当はついたごたるね」 「そいが……」  尾行に失敗した一部始終を、卯八は伝えた。峰吉はそれをきくと、「どっちみち動きのとれん相手じゃけん」と、一旦は慰めるようにいった。 「そいでも相手に勘づかれたのはまずかったな。相手の方で要心するけんな」 「すみまっせん」 「それより、大事なことのわかったとたい。井吹重平はもう仁昌寺におらんとよ」峰吉はいった。「何処かに隠れて住んどる。ひょっとすると、あん住職は今朝、そこば訪ねようとしたのかもしれん。……ああたは何もきいとらんね」  卯八はそれに答えなかった。知っておれば真っ先に伝えるはずではないか、という思いをあらわにするかのように。うちはまた井吹さんのしゃんすはひとりかと思うとった、という咲の言葉が胸の内を走る。うちがきいとるとは阿茶《あちや》さんとのあいの子たい。なんでも英語の塾に通うとる娘さんらしかとよ。……何処かは知らんばってん、井吹さんは今そん人と一緒に住んどらすとじゃなかと。 「清瀬さんは絵図の出所を有田らしかというとらしたが、おいの推量じゃどうもその井吹重平が直接一枚噛んどるとじゃなかかと思うとたい。仁昌寺の中じゃやきもんだけじゃのうして、ほかにも何か作っとった具合にみゆるし、誰にも居場所を明かさんごとしとるとが、どうもきな臭か匂いのすると。……」 「そいでも、仁昌寺にゃずっと今まで住んどったとでっしょ」 「隠れてな。誰にも知らせんごとして……卯八さんまでが知んなさらんやったとじゃなかね」 「そりゃ、そうですばってんね」 「仁昌寺の坊主を締めあげれば簡単じゃろうが、それじゃ肝心の魚ば逃がしてしまう恐れもあるけん、その辺のところは心してかからにゃいかんと思うとる」峰吉はそういういい方をしたが、卯八に念を押しているのかもしれなかった。「ひょっとすると、奉行所で考えとる以上にふとか魚かも知れんばい。こいはおいの勘ばってんな」 「そんげんふうには見えませんでしたばってんね」卯八はいった。「そいで今、井吹さんは何処に住んどらすとですか」 「さっきもいうたごと、そいがつかめんとたい。そいでも今日明日の問題たい。仁昌寺は動かんし、どっちみちあの坊主と結びついとるとだけんな」  新しい女を咲にさえ知られているとすれば、確かに時刻の問題かも知れぬ。第一、阿媽《あま》上がりの女は明日、井吹重平と会う手筈になっているのだ。昼前、此処にきなさるとよか。一緒に行けばどんげんかよろこびなさるとでっしょ。…… 「ああたは、これからどんげんするつもりな」 「どんげんといいますと」 「真っ直ぐ家に戻りんさっとじゃろ」 「朝からしくじっとりますけん、ほんなこつは仁昌寺を張っとらにゃいかんですばってんね」 「まあ仁昌寺は明日からのことにすったい。一緒にちょっとお茶でもどうな」 「今は遠慮しときまっしょ。少し頭ば冷やしとかにゃ、自分で何ばしとるとかわからんごとなりますもんね」 「今日はいろいろ騒動の多か日ばい。又次の一件がようよう落ち着いたかと思うと、増屋の番頭じゃけんな。こいでまた奉行所はきりきり舞いたい」  増屋というと、椛島町の増屋か。二つのことをいっぺんにいわれて、卯八は取りあえず又次の一件についてきいた。 「又次といえば、あの噂のでとった……」 「そうたい。船乞食の又次たい。そいがつかまったとよ」 「つかまった。そしたら染田屋の太夫も。……」 「そんげんことになったら大事じゃろう。噂はあくまで噂じゃけんな」  それならなぜ、又次ひとり捕らえたのか。卯八の不審を外すかのような口調で峰吉はさらりという。 「又次はほかの事件にかかわりのあってしょっぴかれたとたい。こんげん時勢じゃけん、火種ひとつでどげな騒動でも起きる。連中にとっちゃそこが付け目たい。どげな騒ぎでもよか、長崎中ひっくり返っても、船乞食の一統はかえってよろこびよるじゃろう。世間が逆さまになれば、自分たちも逆さまになるとでも考えとっとじゃなかか」  奉行所の目安方か盗賊方のような口を峰吉はきく。 「増屋の番頭といいなさったが、椛島町の増屋ですか」 「主人もきとるばい。何か要領のつかめん話ばしとるそうな」 「薬種問屋に今度は廻船問屋か。塩辛売りも絡んどるし、底の方に大分わけのわからんもんの流れとるごたる」  井吹重平などを追うより、もっと大きな鼠がいると卯八はいいたいのだ。金ケ江屋の別宅で行われた会合さえ突き止めているのに、梶屋正輔の名前がでた途端、探索を打ち切らせた目安方の謎《なぞ》。  峰吉と別れて、土手を越えると、卯八は波止めの杭に寄りかかって、暮れなずむ港の海面に千鳥のようにおどる光と影を眺めた。いちばんいいのは井吹重平が行方をくらましてしまうことだ、という思いが波間をすうっとひろがって行く。フランス寺で働く父親のことから、峰吉の下っ引になった事情まで、何もかもありのままを話してしまえば、井吹重平自身は少なくとも奉行所の手を逃れ得る。五年か十年か、或いは断罪の恐れさえ生じるかもしれぬ井吹重平を救う手だてはそれしかあるまい。とすれば、どんな方法で。そうか、小萩か。卯八は足許の石を握りしめ、自分の心に踏んぎりをつけるように、力一杯海に向けて投げた。  実行するなら早い方がよい。今すぐにでも門屋に直行したい気持ちの背後にゆらめくのは、むろん異人の宣教師と談合する兼七の姿だ。かまわぬ、と卯八は思う。小萩を通じてありのままの事情を話せば、井吹さんならわかるに違いない。  そこから近道しようとして、卯八は土手の間を仕切る竹の柵《さく》をまたいだ。石垣を右手に少し歩くと、海に迫る岩場に行き当たり、そこを迂回《うかい》してふたたび土手と潟に挟《はさ》まれる道にでた。すると思いがけぬところに掘りの深い溝川が流れており、渡るべき場所を探そうとしてうろつく卯八の前に、漁師のような風態をした二人連れの男が立ちふさがった。 「わりゃそこで何ばしとっとな。猫のごとうろちょろして」 「大浦ん方にでる道ば見つけよっとたい」 「道はなかぞ、此処には。でまかせいうたっちゃすぐわかっとじゃけんな。大方、わりゃ探索方の手先じゃろう」 「戸浦に土左衛門のあがったというけん、そいば見に行ったとたい。その帰りに近道ばしようと思うて迷い込んだと。こんげん川のあっとは知らんやったもんな」卯八は筋道を立てるようにいった。きっと近くに船乞食の集落があるのかもしれぬ。 「その手にゃ乗らんたい。戸浦から大浦にでるのに、だいが選《よ》りにも選って、道もなかところに迷い込むもんか。わるの見当はちゃんとわかっとるぞ。泥棒猫のごとこそこそ辺りば窺うて、今度はだいばつかまえるつもりや」 「そうですか、道に迷いなさったとですか、というて貰うつもりじゃなかろうな」もうひとりの男が言葉を重ねた。「とにかくついてきて貰おうか」 「おるがああた達に何ばしたというとな」 「何ばしたか、そいばこれからじっくりきかせて貰うとたい。さあいうごとせんか。この場になってごまかそうと思うても、そうはいかんばい。又次のことでみんな気の立っとるとだけんな。わるの出方次第でどんげんこつになるか。しっかい覚悟を決めとくとよか」  駈け出したとしても、恐らく逃げおおせることはできなかろう。見えない影からじっと覗《のぞ》かれてでもいるような感じで、卯八は男たちの後に従う。峰吉と組みになっていると知る筈もない相手に、又次の名前はおろか、船乞食の騒動は知らぬ存ぜぬで押し通せばよいのだ。  二人連れの男は卯八の前後に、ものもいわず一町程も川溝伝いに歩いて、低い櫓《やぐら》の半鐘と狭い石段の坂を挟んで向かい合う家々を望む台地の手前にでた。少なくとも目に入る限り人影はなく、童の姿さえ見えぬ貧寒とした場景の中に、ただひとつ二階家の桟に干されている丹前がかえって不気味である。  二人連れは地蔵堂の傍から奥に折れる路地を通って暗いまるっきり陽の差さぬ家の中に、卯八を連行した。土間からじかにあがる六畳敷きには家具さえ殆どおかれていない。 「さっきもいうたごと、わるの出方次第で決まるとだけんな。手間ばかりかけんごと、はっきり返事ばして貰おうか」  卯八が坐ると、いきなりひとりがいう。 「こん次、奉行所が狙うとるとはなんな。……おい、誰ば狙うとるとかときいとるとぞ」 「何のことかようわからんと。奉行所にかかわりでん持っとっとなら何か返事の仕様もあろうばってん、おるには何のことかようわからん」 「わりゃ、そいじゃ奉行所には何のかかわりもなかというとか」 「おるは八幡町に住んどる指物の職人ですばい。名前は卯八。調べて貰えばすぐわかることですたい」 「そん指物職人がなして探り番の峰吉と通じとるとな」 「そりゃ……あんひととは以前からの知り合いですけん」卯八はいった。戸浦で話しているのを見られたのか。それとも何処か別の場所で……。「そいでも峰吉さんの仕事とは何のかかわりもなかとですよ」 「八幡町に住んどる指物師が、わざわざ戸浦まで水死人ば見物にきて、それもろくに眺めもせずに戻って、道でもなか場所にまぎれ込むというとか」  きっと峰吉と話しているのを見られたのだ。そしてそこからつけられていたに違いない。卯八は咄嗟《とつさ》のいい抜けを口にした。 「大浦の居留地に用事のあって、そん帰りに水死人のことばきいたとですよ。そいで見に行ったら、峰吉さんに声ば掛けられて、ちょっと急用ば頼まれてくれんかといわれて、そいで、なるべく早う戻ろうとして……」 「急用ちゃなんな」 「椛島町の増屋に行って、死んだ番頭の身内ば呼んできて貰うごと言伝てば頼まれたと」 「たったそいだけんことに、頭ば突き合わせるごとして長話ばしたとな」男がいう。「そんげんこつならまあ、此処にいっときおって貰わにゃいかんたい。ひとりで考えるとまたよか了見の浮かぶかもしれん。……いうとくばってん、逃げ道はいくら見つけようとしてもそいは無理じゃけんな」  男たちは去り、ようやく慣れた卯八の目に、土間の壁に立てかけられた鍬《くわ》と笊《ざる》がまるで判じ物のように映る。偶然のことにせよ、奉行所の手先だと知っていて監禁した以上、尋常に放免されるはずはないのだと思いながら、卯八の気持ちにはまだ幾分余裕があった。笊の傍に蹲《うずくま》っている手鞠《てまり》に似た塊はまさか鼠ではあるまい。    13  あろうことか、今宵《こよい》の客は昨夜につづいて金ケ江屋境平であった。主人からではなく、遣手《やりて》にそう告げられた時、尾崎は頷《うなず》きもせず相手を見返すと、さくは慌てて目をそらした。夜になっても太兵衛は戻っていない様子で、奉行所に通じとるふうが見える、という日蔵の言伝てが、跡絶《とだ》えようもなく胸を引きずる。  刻はちょうど五ツ(午後八時)。尾崎は居ても立ってもおれぬ気持ちで、かすかにきこえる絃《げん》の調べさえうとましく感じられた。厠《かわや》にしては少し長すぎるようにも思われるが、客の振る舞いに気を配る余裕さえもなく、心はひたすらひとつの面貌《めんぼう》を追い求めた。  ……太夫《たゆう》か何か知らんばってん、あんたにまるめ込まれたせいで、又次はしょっぴかれたとたい。又次は船乞食《こじき》の一統じゃけんな。そいでも自分を忘れてしもうた。そんげんふうに仕向けたとはあんたたい。  金ケ江屋境平は包み物を抱えて部屋に戻ると、押し出すような手つきで尾崎の膝許《ひざもと》においた。 「待っとった物の、今届いたとたい。まあ開けてみるとよか」  得意満面の上機嫌な声に逆らうすべもなく、薄い萌葱《もえぎ》色の綿布をひらくと、朱と緑を基調にした色柄の、目を奪う織物がでてきた。 「阿蘭陀《オランダ》更紗《さらさ》ですね。模様の珍しか」  尾崎は心のそこにない言葉を並べた。 「印度の更紗たい。帯にでん仕立てるとよか。太夫にならぴったりあうとじゃろう」 「いけまっせん」尾崎は首を振った。「こんげんぎっぱか(美しい)ものを、うちにはいただくいわれがありまっせんと」 「これはまたきつかことばいわれたな。……」金ケ江屋境平はむっとした口調でそういい、しばらく間をおいて思い直したようにつづけた。「客と太夫のあいだに、いわれもなかとなら、これはもう天を仰ぐか、うなだれるより仕方のなかたい。……」 「すみまっせん。そがんつもりでいうたとじゃなかですばってん、お気に障ったら謝まりますと。ほんなこつ、つまらんことばいうてしまいました」 「よかよか。太夫の方こそ機嫌ば直してくれんね。あたしも少しいい過ぎたごたる」 「あんまりきれか更紗ば見せられて、きっと気持ちまで動転したとでっしょ。旦那《だんなん》さんを旦那さんと思わん仕打ちばしてしもうて、どうぞ堪忍してくれまっせ」 「そいじゃ機嫌よう、こいば貰うてくれるか。いや、これで甲斐《かい》もあった。太夫ならきっとよう似合うばい」  その上辞退できるはずもなく、尾崎は綿布ごと両手でいただいて深くお辞儀をし、改めて中身を取り出すと右肩に掛けてみた。 「帯じゃと思うとったが、そんげんふうにしてみると、裲襠《うちかけ》にしてもよう似合う。何なら帯は帯で別に見立ててもよかとだけんな」 「ようと考えて、折角の模様がいちばん映えるものを作らせて貰いますけん。……ほんなこと、おおきに」  金ケ江屋境平の面から甲走った影がようやく消え、太夫さえよければ席を変えて芸子の二、三人も呼ぼうかといったりした。尾崎は首を振って、それより今夜はゆっくり阿蘭陀か唐の話でもききたいと頼む。二人だけの酒肴《しゆこう》はすでに整えられており、好みだという日本酒をぎやまんのグラスに注いで、男の口は次第に弁解がましくなった。 「……煙のでる塩辛売り。そんげん話をきいたことがあんなさるでっしょ。……いやいやこれはその辺じゅう飛びこうとる噂《うわさ》ですたい。何もかも都合のわるかことをひとりのせいにしてしまう。これはもう長崎名物ですけん半分おもしろがってきいとりますと。こん次はどげな火の粉の振りかかるか、そいを考えるのも一興。……どんげん塩辛か知らんが、あたしもひとつそれを食べてみたかと思うとるのに、いざとなればなかなか手に入らんし、家の者にも酔興が過ぎると怒られたりする始末でね。……」 「何のことか、うちにはようとわかりまっせんと。煙のでる塩辛とは一体、なんのことですへ」 「止《や》めまっしょ。太夫が知っとるとなら、ひとつもふたつも輪をかけた話をしてもよかと思うたばってん、だいもかれもおもしろがる噂じゃなかごたる。……そんげんことより、太夫は増屋の番頭のことを知っとんなさるね」 「増屋の番頭。……椛島町の増屋さんですか」 「そう、廻船問屋の増屋たい。そん番頭の七十郎。染田屋の馴染《なじ》みじゃったというけん、太夫も見覚え位あんなさるじゃろう」 「はい、それはもう……そん人がどうかなさったとへ」 「土左衛門になって、戸浦の浜に打ち上げられよったとたい。心中かもしれんという話にもなっとるらしかが、女の方はまだようとわからんごたる」  増屋の七十郎が心中。すると相手はくら橋か。咄嗟に浮かぶ思いに、癖のついた声はなおもかぶさる。 「わざわざ船をだして自殺するとも考えられんし、心中でなければ何か裏に事件の絡まっとるのかもしれん。その辺の調べがどうなっとるか。奉行所の方じゃもう、大方のことをつかんどるかもしれんけどな」 「心中というなら、だいか相手の人のおったとでっしょ。そん人の名前はわからんとへ」 「心中かどうか。そうかもしれんという匂いがするだけで、詳しかことはまだ調べのついとらんとじゃなかかな。……そうそう、そういえば増屋の番頭が馴染んどったというたよしはくら橋ちゅう名前ときいたが、ほんなこつね」 「はい、そん人が七十郎さんなら……」 「くら橋とかいうたよしは、もう此処《こ こ》にはおらんそうやな」  尾崎は黙って頷く。 「戸町か浪ノ平なら辻褄《つじつま》はあうとたいね」金ケ江屋境平はわけ知りのような声をだす。「土左衛門の上がった場所からして、大方見当もつこうというもんやろう。心中の相手が、そんくら橋なら筋道は通ってくるたい」 「相手の死体も上がったとへ」 「いや、それはまだらしか。そいけん肝心のところがぼやけてしもうとるとたい」金ケ江屋境平はいう。「そうはいうてもまあ、今頃はあらかた片付いてしもうとるかもしれん。浪ノ平のひゃぁはちがひとり行方知れずになっとるそうじゃけんな。そのひゃぁはちと番頭とのつながりがわかれば、一切がはっきりするとたい」  薄々はきいていたが、くら橋は確か戸町か浪ノ平にやられたはずだ。それでは矢張り七十郎は……。尾崎は酒を入れた銚子《ちようし》を手にして客のグラスを満たす。 「旦那さんは何でん、目の中に入っとるごと知っとんなさるとですねえ。……」尾崎はいいかけて身を固くした。それなら、奉行所の者に引っ張られた又次のことも、という思いに打たれたのである。「そんげんふうに何でん見通しのできると、裏も表もぎやまんのごと透き通って、ひとつひとつの出来事がおもしろうあんなさるでっしょ」 「世間には見ゆるものと見えんもののあるけんな。見ゆるものは見えるが、見えんものはどうあがいても見えよらん。……いちばん見通しのきかんのは人の心。太夫はそうは思わんね」 「人の心でん何でん、旦那さんには大凡《おおよそ》のものは見えらるっとじゃなかですか」 「いやいや。銭で動く心ならそれこそ掌の中じゃろうが、世の中にゃ銭でも動かん心もある。そうなったらもうどんげん仕様もなかと」 「銭で動かん心はなかと、ほんなことはそんげん思うとられるとじゃなかとへ」 「手きびしかと、こりゃ。……こりゃよっぽどわるか噂の耳に入っとるごたるな」 「冗談ごとばいうてみたとですよ。どんげんふうに答えなさるかと思うて」 「もうこいじゃけんな。太夫にかかっちゃ、帆綱は思うままじゃけん、とてもかなわんばい」  金ケ江屋境平の浮わついた口調には、わざとらしい芯《しん》が残っている。 「旦那さんの方こそ、うちを帆綱のごと考えとんなさっとでっしょ。……そん証拠に、自分たち同士で勝手に船頭を乗り換えて、辻野屋の旦那さんからうちを掠《かす》め取んなしゃったとじゃけんね」 「いい返す言葉ののうなったばい、こりゃ。……」金ケ江屋境平は片手を後頭部に廻す。「太夫の頭ん中には銀の鯱《しやち》の跳びはねよるときいたが、ほんなこつだった」 「言葉のなかというて、ちゃんと十倍にもしてお返しなさっとだけん、人のわるか」尾崎はいう。  階下から流れてくる騒々しい気配に立ち上がって部屋の戸を開けた尾崎の前に、息を荒げた小藤がすっと近寄ってきた。 「旦那さんの怪我して、そいで……」 「はっきりいわんと。旦那さんが怪我ばなされたというとへ」  小藤は口を開いたままこっくりと頷く。 「太兵衛さんが怪我ばさしたてな」  尾崎の背後に立つ金ケ江屋境平の声に、禿《かむろ》は息を飲み込むと、やっとまともな声をだした。 「いま、抱えられて、倒れるごと戻ってきなさったとですよ。だいかにやられたというて、着物は血だらけ。おかっつぁまもたまがられてもう、騒動になっとりますと」 「医者は呼んだとやろうな」 「はい。それはさっきもう」 「だいかにやられたというて、いったいだいにやられたとか。まさか船乞食の一統じゃなかろうな」 「ようとはわかりまっせんばってん、だいか逃げだした者のおって、そんことにもかかわりのあっとじゃなかかと、下では話しとりますと」  金ケ江屋境平は廊下にでると、尾崎を制するような身振りをはっきりとみせた。 「太夫はじっとして動きなさらん方がよか。事情はあたしがきいてきまっしょ」  駈け去ろうとする禿の腕をつかんで尾崎は顫《ふる》える声できく。 「逃げだした者のおったというたが、それはだいのことね。旦那さんはそん人にやられて怪我ばなさったとへ」 「ようとは知りまっせんと。ただ下でそんげん話のでとるから」小藤はいう。 「逃げだした者のことをききよると。はっきりいいんしゃい。その人は奉行所から……番屋からでも逃げよらしたとね」 「うちにはわかりまっせん」禿はかぶりを振る。「男衆《おとこし》たちの喋《しやべ》りよんなさるとを、ちょっと小耳に挟んだだけですけん」  小藤を放すと、尾崎は戸口の傍《そば》に両手を支えにしながら、崩れるような姿勢で坐った。捕縛の手を逃れた又次が、染田屋の主人太兵衛を襲ったというのか。まさか、という炎に似た感情が目まぐるしく脳裡《のうり》を走る。階下に行って確かめたい気持ちを抑えて、卓ににじり寄ると、自身のぎやまんにゆっくりと酒を注いだ。  一体だいにやられたとか。まさか船乞食の一統じゃなかろうな。さっきの言葉はそうであったのだ。飲みかけのグラスを置き、心を鎮めて尾崎は立ち上がろうとした。するとそこに並女郎のつねよがいた。 「すみまっせん。……いま金ケ江屋の旦那さんを下で見ましたと。そいでその隙にと思うてきたとです。太夫に言伝てば頼まれて……」 「言伝てば……」 「かかわりのなかとなら堪忍してくれまっせ。ただ、うちは太夫の味方のつもりですけん」 「早ういいんしゃい。その言伝てはどんげんことへ」 「又次は逃げた。きっと逃げおおせる。言伝てはそいしこです」  待て、という間もなく、つねよは足早に去った。すると太兵衛に手傷を負わせた下手人は矢張り又次なのか。ふたたび廊下にでようとする尾崎の前に、今度は金ケ江屋の姿が立ちはだかるようにあらわれた。 「怪我の様子はどんげんでっしょか」 「心配することはなか。血のりばみてみんなたまげとるが、かすり傷たい。腕の付根ばちょこっと突かれただけのごたる」 「どっちにしても見舞いに行ってきまっしょ」 「いやいや、そんことはあたしからよういうとった。太夫が顔をだすとかえって仰々しくなるけん、あたしが抑えたというてな。店のたよしたちにもそん旨をいい含めて、みだりに部屋から動くなというとったばい。家の中じゃけん、見舞うことは何時《い つ》でもできるし、もう少し落ち着くとを待つとよか。第一、今は手当の最中じゃけんな」 「そいで、旦那さんはだいにやられなさったとへ」 「ようとはわからん。暗がりからいきなり二人して飛びかかってきたというとった」 「二人。……そん人たちは矢張り……」 「矢張り、なんな」 「さいぜん、旦那さんは船乞食の一統かもしれんというとんなさったでっしょ」 「又次とかいう者のことば案じとるとな」  金ケ江屋境平の口からすらりとでた言葉を受け止めかねて、尾崎は胸の内でよろめく。 「奉行所も大分ぼけなすになっとるけんね。大方何かつかまされたとじゃろうが、つかまえた者を逃がすようじゃ、相当たがのゆるんどるごたる。……いっぺん逃げられちゃもうお仕舞いたい。あん連中は隠れと同じで、地にでん潜りよるけん。……まあ此処の主人もとんだ災難たい」 「そん逃げた船乞食のひとが手傷を負わせたといいなさるとですか」 「そうはいうとらん。いくらなんでもそこまで手廻しはようとできんじゃろうからな。逃げた又次と主人を襲うた者は別人だとあたしは推測しとる。そいでもそこに船乞食の絡んどることは確かじゃろう。今時、染田屋に楯《たて》つくとはその辺しか考えられんもんな」  身動きできぬ場所に追いつめられたことで、尾崎の気持ちはかえってすわった。 「潜られる地面のあるとなら、うちも潜りたか。きっとそこは深かいがわのごとなっとって、夏は涼しゅう、冬はぬっかとでっしょ」 「こりゃよかこときいたぞ。ひょっとすると梅園天満宮のいがわと、こん部屋の掛軸の裏は通じおうとるかもしれんね」  落ち着け、と自分にいいきかせて、尾崎は銚子を手にした。金ケ江屋のぎやまんがそれを受ける。つねよに言伝てした男がもしや又次ではなかったのか。きっと逃げおおせるという言葉の裏には或いは別のことが隠されているのかもしれぬ。たとえば大音寺裏手の墓地にて待つ、とか。 「どんげんしたとな、太夫。主人にはちゃんというてあるけん、気にすることはなかよ」 「矢張り顔だけはだしとかんと、心のせきます。旦那さんの怪我に船乞食の一統が絡んどるとなら、なおのこと詫《わ》びばせにゃなりまっせんと」 「太夫が詫びることはなかと思うばってん、そんげんいうならまあ、顔をみせてきなさるとよか。念のためにいうとくが、余計な言葉はひかえた方がよかよ」 「はい。そんならすぐ戻ってきますけん」  尾崎は階段を下りると、主人太兵衛の居間に足を向けた。いっそこのまま日蔵の家に走って、あれこれを確かめたいという衝動に耐えながら。つねよはもう客を取ってしまっているのだろうか。どんな口実をつけて、禿に呼びださせようか。  医者はまだきていなかったが、太兵衛はわざとらしい程、気丈な素振りで、尾崎の見舞いを受けると、止血した傷口の辺りを指先で示したりした。 「又次ちゅう船乞食が逃げだしたこと、太夫は知っとんなはるとへ」 「やめんか」太兵衛は傍の女房を制した。「太夫にかかわりもなか話ばなしてするとか。……」 「すみまっせん」 「此処はもうよかけん、早う戻るとよか。金ケ江屋さんを粗末にしちゃいかんばい」  太兵衛の女房の刺すような視線を背に尾崎は板張りの廊下にでた。横合いからあらわれた遣手のさくが、早速まといつく。 「最前まで、そりゃひどか見幕だったとですよ」 「旦那さんね」 「おかっつぁまのことですたい。旦那さんがこんげんこつになったとは、みんなひとつの根からでとるというて。……」 「ひとつの根。……」 「又次とかいうひとのことばあてこすんなさったとでっしょ。……旦那さんの方がかえってしっかいしとんなさると」  さくから離れようとして、厠の方に折れる尾崎に、さくはさらに追打ちをかけてきた。 「つねよさんを呼びなさっとなら、そがんいうてきまっしょか」 「つねよさんを……なしてうちが呼ばにゃならんとね」 「つねよさんに、何か確かめたかことのあっとじゃなかとですか」  さくは目をそらさず、真っ直ぐ尾崎のひきつった顔を見返した。    14  染田屋の主人太兵衛が船乞食の一統に襲われて手傷を負ったという事件は、五ツ半(午後九時)頃にはもう丸山、寄合町一帯に知れ渡っていた。溜牢《ためろう》に引っ張られる途中で逃げ出した又次がやったという者もおれば、狙った者の数は五人余りで、中には女もまじっていたと見てきたように話する人もいて、尾鰭《おひれ》のついた噂はまたたくうちに口から口に伝わったのである。  一方、戸浦の浜に土左衛門となって打ち上げられた廻船問屋の番頭についてのあれこれも、負けず劣らず口の端にのぼり、どのやりとりに首を突っ込めばよいのか、色街の人々は舌なめずりをしながら、まつわる話のひとつひとつを選《よ》り分けたり、穿鑿《せんさく》したりした。  井吹重平は門屋でそれをきいたが、小萩はわずかの間さえ惜しむかの口調で、「もう止めまっしょ」といった。 「うちたちには、もうあんまり人のことを話す時刻はなかとだけんね」 「軍《いくさ》にでも行くごというとじゃな」井吹重平は胡麻《ごま》和《あ》えの菜をつまもうとする箸《はし》を止めたままいう。「半年か一年位、すぐ経ってしまうばい」 「一年……」小萩は声を詰まらせる。「長うして半年といいなさったとじゃなかとへ」 「そりゃそうたい。ひょっとしたら三カ月もせんで戻ってくるごとなるかもしれんと」井吹重平はいう。「今の世の中じゃ、どっちに風の吹くかそれもようわからんとじゃけんな。風向き次第で素っ飛んで帰るかもしれん。明日と明後日でがらりと変ってしまう。今はもう誰も彼も自分の乗っとる船の行先さえわからんとよ」 「風向き次第といいなさるばってん、もしもその風向きのわるうなったらどんげんしなさるとへ」小萩は身をもむようにしていう。「待てといわるるなら待ちますばってん、何時までも戻れんごとなったら、考えただけでも目の前の暗うなってきますと」 「そんげんこともなかろうが、風向きのわるうなって、何時までも続くごたるなら、ぬしをおいのおるところに呼ぶたい。約束するばい、そりゃ……」 「そんげんこと……」  できるはずもなか、という思いを胸の内に、小萩の語尾は顫えた。 「どっちみちぬしを身請けするつもりじゃけんな。金さえおくれば長崎におろうと上方におろうと同じことたい。……遊びに行くとじゃなか。そん金ば稼《かせ》ぎに行くとよ」  小萩は激しくかぶりを振った。 「何か気に障ることでもいうたか」 「身請けのことより、一日でも早う戻ってきなさるとがうちはうれしかと。……一年も二年も会われんごとなったら、生きて行く甲斐もなかとですよ」 「心配することはなか」井吹重平は盃《さかずき》を口に持って行く。「風向きのことをいうたけん、もしやという気になったとかしれんが、世の中はちゃんと、おいの思惑通りに動いとるとじゃけんな。万にひとつの間違いもなかとよ。長崎を出んならんとは、ちょっと時化《し け》になったけん、そいばやり過ぐるまでじっとしとるまでのこと。動きだして弾みのついとる時勢はもう後には戻らんとよ。……半年というたら半年、きっと戻ってくるたい」 「長うして半年ですよ」 「そうそう長うして半年。……」井吹重平は盃と一緒に頷く。「それより長うなったら、おいの方が辛抱できんごとなってしまう」 「そいばってん……」 「そいばってん、どうした。先ばいわんとわからんたい」 「先々で遊ばれるとは仕方のなかと思うとりますと。そいでもうちは……」 「大分、信用のなかごたるな」 「数の多か相手より、ひとりだけのひとが気になりますと」 「なんのことね」彼はぎくりとした。 「行く先々で、きれかひとのたくさんおんなさるでっしょが、ひとりだけのおなごしば作りなさらんごと、頼んどりますと」 「作るはずもなか。おれにゃぬしだけがおなごじゃけんな」井吹重平は隠れた吐息を洩らした。きわのことをいいだしたのではなかったのだ。  手招きでもするような遣手の声がして、小萩は応じた。何やら小声でのやりとりがあって、ふたたび座に戻る。 「都合のわるかことでもできたとじゃなかね」 「何でんなかと」  小萩の手にしようとした銚子を逆にとって、彼は自分の盃を渡した。 「何処《ど こ》におっても、ぬしのことだけ考えとくけんな」 「早う帰ってきてくれまっせ……」  小萩は返盃《へんぱい》して酌をすると、うつむき加減に手の甲を口許にあてた。井吹重平は盃をおくと、その手を引き寄せ、ゆらいだ肩と腕を抱き込みながら、頬擦りした。普段より薄目に刷《は》いた白粉《おしろい》と紅の上を、ひと筋、きらりとしたものが伝う。 「どがんことになってもぬしを離しはせんと。……おいが危なか橋ば渡ったとは、一日でん早うぬしば此処からだしたかと思うての上だけんな」井吹重平は抱きすくめた手をゆるめずにいう。「おいが戻ってくるまで、しっかい体に気つけて辛抱しとかにゃいかんぞ」 「辛抱ならいくらでもしますけん」小萩は喘《あえ》ぐような声をだす。「身請けのことばどうするというより、今のままでもよかけん、離ればなれにおりとうはなかとですよ。うちには旦那さんひとりがいのちですけんね。ほかのことはみんな殻とおなじ。実もなかと。……」  井吹重平は小萩の口を吸い、一旦放した上で、さらに深く相手がもだえる程深く、舌を差し入れた。閉じた瞼《まぶた》に薄っすらとした光が流れ、長い睫《まつげ》に濡れた粒が宿る。 「お銚子の代わりを貰うてきまっしょ」  彼のゆるめた手を抜けるようにして、小萩は立ち上がった。先程顔をだした遣手の様子をちらと気にしながら、井吹重平は黙って見送る。  胡麻和えとともに膳に付けられた皮剥《かわはぎ》の刺身は今日の昼前、朝餉《あさげ》を兼ねた食事にもでてきたものだ。彼の好物を覚えたきわが朝市まで出かけて買い出してきたのである。  今度の出立に、どうしても自分も一緒に行くといい張ってきかず、ひと晩がかりでようやく説得した朝、きわは殆ど眠りをとっていない眼をこすりこすりして、そっと二人の床を脱けだしたのであろう。  目を覚ました途端、傍にいないきわを不審がり、一瞬昨夜からの口説を反芻《はんすう》しながら、よもやと思いかけて、しばらく経った頃、きわは籠を片手に戻ってきた。 「起きとんなさったとですか」見るからに腫《は》れぼったい瞼を浮きだすような笑みを、きわは作った。「早かうちにと思うて海岸迄《まで》行ってきましたと」 「何時《なんどき》な、いま」 「もうすぐ六ツ半(午前七時)になりよりますと」 「六ツ半か。そんならもうちょっとの間でも寝らるったい。ぬしも此処にくるとよか」  きわは戸締りをすると、帯を解いて下着のまま彼の腕の中に入った。  養生所の仕事と英語の伝習を中途で放棄してもよいのか、という唯その一点できわの気持ちを抑えることができたのだ。旦那さんと別れ別れになってくらす位なら、勉強してもしよんなか、というのをなだめたり叱ったりして、やっと納得させたのである。期間は半年、万一それを過ぎた場合、長州か上方かは知らねど自分の居場所に呼ぶという約束は、小萩に対するのと同様であった。 「おいが帰るまでしっかい勉強しとかんといかんぞ。基礎のなけりゃ医学所の方に移るわけにもいかんけんな。……医学の勉強にゃこん長崎がいちばん便利になっとるし、そのうちきっとおいが話ばつけて、伝習生になるごとして貰うてやるけん」  きわは黙ったまま、彼の懐に顔を埋めてしがみついた。 「世の中にゃどがんしても二つにひとつ、どっちかを選ぶか、自分を殺さにゃならん時があるとよ。もう一段上に飛び上がるためには、矢張りそのままの姿勢じゃならんと。じっと身ばかごめてその時のくるのを待っとかにゃならんと。……」 「旦那さん」きわは胸に顔を寄せたままでいう。「旦那さんに心配ばかけんごと、しっかいして待っとりますけん、安心してよかとですよ」  井吹重平はきわの体をさらに強く抱きしめ、相手の顔と入れ替わるようにして、両の乳首に交互に唇を接した。 「旦那さんのややば生みたか……」 「え」井吹重平は思わずきき返した。きわの口からそういう類の言葉がでようなどとは考えたこともなかったのだ。 「もしもそうなったら、旦那さんのややば生んでもよかとでっしょ」 「ぬしは、まさか……」彼は慌てた。「もしそうなったらというて、そんげん兆候のあるとじゃなかろうな」 「そいばってん」ときわはいった。「旦那さんのおられん間にしるしの見えたらどうすっとか。そんことばきいておきたかとです」 「おいの留守にか」井吹重平は口ごもる。「何かそういう具合もあっていうとるとなら、今のうちにはっきりしておいた方がよかぞ。隠すことはなかけんな」 「今は何でもありまっせんと。……ただ旦那さんのややを生んだらどんげんうれしかかしれんと思うていうてみたとですけん」 「そいでも今そんげんことになったら身動きできんじゃろう。赤子ば連れて養生所で働くわけにもいかんけんね。どうしてまた急にそがん気になったとかな」 「よんべ、旦那さんの寝顔ば見とる時に、ふっとそん気持ちの湧《わ》いたとです。旦那さんのややと二人なら、いくら辛かことの重なっても辛抱できる。半年が一年のお留守でも、じっとそのややば抱いて待っとらるっとでしょう」 「ややは何時でも生めるとだけん、あんまり早う考えん方がよか」彼はいう。「きわにはまだ、勉強せんならんことや、仕事を覚えんならんことが山ほどあるとじゃけんな。……世の中がいっぺんも二遍もひっくり返って、そいから先はもう動きようもなかという時分に生んでも遅うはなか。おいと二人でまあだこれからという時に、後退《あとじさ》りしてみてもつまらん話たい」 「乳でん何処でん思いっきり消えんごたる傷ばつけてくれまっせ。旦那さんの帰ってきんしゃるまで消えんごたる歯型ば……」  戻ってきた小萩の表情にありありと緊張した気配が見え、井吹重平は盃をおいた。 「何か起きたとか」 「今し方、下に探り番のきたというとですよ。旦那さんが会いなさったらしかとばってん……」 「探り番がおいのことでもききだしにきたとか」 「最初卯八さんのことを、近頃顔ば見せたかどうかきいたあとで、ああたの名前ばだしたというとんなさった。……」 「おいの名前ばだした。そいでどうしたと」 「どうもしまっせんたい。お客のことをきかれてべらべら喋るあんじゃえもんもおらんですもんね。いくら何でもその位の了見は持っとんなさるとでっしょ。なにがしかの銭ば包んで帰ってもろうたというとんなさった」 「卯八か……」彼はいった。「どうせその辺の差し金じゃろうが、卯八をだしにして、門屋にまで目をつけてきたとなら、連中も相当あせっとるとたい」 「卯八さんが向こうの手先になっとるとなら、此処に目をつけるとは当たり前ですもんね」小萩はいう。「そいにしても、あんひとを見損うとった」 「それにしてもよう帰ったな」 「何がですと」 「此処の主人ば訪ねたという探り番たい。素直に帰ったことがかえって怪しゅうはなかか」 「その辺にまだ隠れとるといいなさるとですか」 「おらんといわれて、簡単に引き退《さが》る相手じゃなかけんな。向こう側に卯八がついとればなおさらのことじゃろう」  小萩はじっと彼の顔を見つめた。 「まさかとは思うとったが、卯八がそこまでやるとすれば、安閑とはしちゃおれんな。ぬしとおいのことはみんな知っとるわけやからね」 「選りに選って、こんげん時に……」小萩は呻《うめ》きに似た声をだしたが、すぐさま心を決めるようにつづけた。 「このまま門屋におっちゃ危なか。……明け六ツ(午前六時)まで折角一緒におられると思うたとに、仕方のなかですもんね」 「おいがおらんというて帰ったとなら、踏み込んでくることもなかろう」 「そいでも見張りまで解いたというわけでもなかとでっしょ。探り番の代わりに卯八さんでん何処かに潜んどるかもしれんとですよ。おとろしか……」 「卯八が見張っとるとしても、今すぐはかえって危なか。連中の手口は丸見えだけんな」 「手口といいなさると……」 「初め、探り番にゆさぶらせといて、でてきた獲物の後をつけさせるという手口たい。びくついて逃げだしたら、それこそ思う壺にはまるとよ」 「おとろしか」 「案じることはなか。向こうの手口ははっきりしとるとだけん、そん裏をかけばよかと」 「どんげんしなさるとへ」 「明け六ツじゃ手の内じゃろうけん、時刻ばずらして寅《とら》の刻(午前四時)にでん、裏口から出て行くたい」 「すみまっせん」 「何を、ぬしがあやまることがあろうか」 「うれしかとですよ。ほんなこつは、今すぐにでん裏口から出なさった方がよかとでっしょ」 「いや、今すぐはかえって危なか。裏口ちゅうとも手の内じゃけんな。向こうも半信半疑じゃろうから、下手に動きださんとがかえって得策じゃろう」 「いざということもあるけん、寝間にはおらん方がよかとでっしょね」 「まあ、そんげんこともなかろうが、念のために着物はこのままの方がよかかもしれんな」  小萩は彼の盃に銚子を傾け、返盃されるとものもいわずそれを一気に飲み干した。きわとくらしている家もまた探知されているかもしれぬ、という不安がしきりに胸をかすめる。しかしそれなら今夜といわず周辺にそういう気配があったはずだ。 「うちは辛抱しますけん、矢張り此処にはおらん方が……」  井吹重平は手をのばして小萩の首筋をなでた。 「ぬしば抱きもせずに別れらるっか。……」 「そいでも……」 「七ツ(午前四時)か七ツ半(午前五時)頃、こっそり脱けだせばよか」 「気ばかりせいて」小萩は胸に手をあてた。「早う抱いてくれまっせ」 「寝間に行くか」 「このままでもよかとですよ」 「此処じゃ情《じよう》もなか。折角の晩じゃけんな」 「もしやの時に、寝間では間に合わんけん……」 「いや、寝間でちゃんと着物ば脱ぐたい。おいとしたことがさっきは妙なことをいうてしもうて……」井吹重平はいう。「ぬしと抱き合うとる時に踏み込まるっとなら、そいも本望たい」 「うちはああたをどんげんしようもなかごと好いとっとですよ。そいだけ忘れんごとしとってくれまっせ」 「ぬしよりおいの方が余分に好いとるかもしれん」 「すらごと」 「すらごとなもんか」  小萩は両の掌を重ねるように井吹重平の手をとり、衝立《ついたて》の向こうに敷かれた夜具へと導く。    15  外に面した障子戸を開け放つと、湿った海風の舞い込んでくる遅い朝。時折雲の切れ間から差す薄陽にしばらく体をさらしていたいような肌寒さに戸惑いながら、人々はちぐはぐな季候の挨拶をかわした。  使いの者がきて、金ケ江屋境平が殊更取り繕った恰好をして帰った後、どうやって外出の口実を作るか、尾崎はそれだけを思いつめていた。言伝てのことをつねよにききただしても、恐らく返ってくる言葉は同じであろう。それならばいっそ日蔵の家に走って、又次の消息と今後を確かめた方がいちばんはっきりするのだ。  昨夜の怪我があっての今日、断わりもなく身勝手な行動にでれば、後の始末がきついものとなろうし、船乞食の集落を訪ねたことが発覚すると、それこそ太兵衛は黙っていまい。  茶と梅干を運んできて、なぜか目を避けようとする禿に尾崎はきいた。 「何かあったとね」  小藤はもじもじと頷く。 「いいんしゃい。何の起きたと」 「つねよあねが折檻《せつかん》されとんなさる。……」 「折檻。……なして、つねよさんが」 「うちにはわかりまっせんと」  逃げるようにして去る禿の様子には、明らかにわけを知る者の素振りがあらわれていた。すると、自分への言伝てを遣手のさくがきっと太兵衛に通じたのだ。しかし何故に、受けた者をそのままにしておいて、つねよだけを責めるのか。尾崎は落ち着かぬ気持ちを抱きながら、意を決して部屋をでた。いずれにせよ主人太兵衛とは、又次とのかかわりで決着をつけねばならないのだ。階段にさしかかろうとする行手に、まるで通せんぼでもするようにさくが待ちかまえる。 「太夫に知らせておきたかことのあっとですよ」 「つねよさんが折檻されとるらしかね」 「折檻。……ありゃ折檻じゃなかでっしょ。事情ばききたかというて、旦那さんの呼びなさっただけですけん」遣手はこともなげにいう。「いうときますばってん、うちが告げ口したとじゃなかですよ。あんひとがこそこそやっとったことは、だいでん知っとりますもんね」 「どうせならうちを責めなさるとよかと」 「そんげんことより、七十郎さんの相手は矢張りくら橋さんだったとですよ」 「くら橋さん。……心中の相手はくら橋さんだったというんね」 「ただの心中かどうかそれはわかりまっせんと。そいでも浪ノ平のたよしがひとり消えて、そんたよしがくら橋さんちゅうことは、はっきりしとるらしかとですよ」さくはいった。「みんなにゃまあだ内緒ですばい」 「そいで、つねよさんはまだ旦那さんのところにおらすと」 「今頃はもう自分の部屋でっしょ。そいでも今はまだそっとしときなさる方がよか。いずれ機ばみて、太夫の気持ちのすむごとしてあげますけん」  尾崎は引き返そうとして、遣手の方に向き直った。 「薄々はきいとったばってん、くら橋さんは浪ノ平におんなさったとへ」 「そんげん話でした」 「ただの心中かどうかといいなさったが、なんのこと」 「相手は死んどんなさるとだけん、ただの心中じゃなければ無理か殺すか、どっちかでっしょ」 「無理心中か、殺しか。……」 「ほかには考えようもなかですもんね」  尾崎は畳に膝を崩しながら、浪ノ平かと胸の中で呟《つぶや》く。くら橋の行為を哀れと思う反面、そこまでの覚悟にあおられるものを感じたのだ。くら橋の死を口実にすれば、という気持ちがどうしようもなく前にでてしまう。たとえ無断にしろ、かつて朋輩《ほうばい》だった者の死を悼んで浪ノ平まで往《ゆ》き帰りしたという理由なら、何とかこじつけられよう。  尾崎は急いで身につける物を着替える。するとそれを見すかしたようにまたしても遣手があらわれたのである。 「何処に行きなさるかしれんが、大事《おおごと》になりますばい。普通の日じゃなかとですけんね」  今朝方の祝儀にと貰った紙包みをそのまま尾崎はものもいわずさくに握らせた。多分一分銀が二枚。 「何処に行きなさるとですか、ほんなこつ」 「浪ノ平に行ってみたかとよ。くら橋さんの事情もききたかし、それとなく合掌だけでもしてきたかと。……」 「旦那さんから何といわれようと知りまっせんばい、うちは」 「おうちの知らん間に出たことにしてくんしゃるとよか」 「そいでもどっちみちうちの落度になるとですよ。旦那さんはひどう気の立っとらすけん、普段とは違いますばい」  尾崎はさらに手持ちの銀粒を渡した。さくの面にやっと険しいものが消えるが、それでもなお念を押す口調はきつい。 「浪ノ平に行きなさったことも何も、とにかくうちは何にも見らんことにしときまっしょ。目ば離しとったちょっとの隙に太夫は出て行きんしゃった。……そんかわり、後でどんな騒動になっても、うちはそっぽを向いとりますけんね。……」  尾崎は言葉ひとつ応えず、ひたすら外出するための身仕度を整えた。 「どうしようもなか。うちはもう姿を隠しますばい」  尾崎はひとりになると、懐中にありったけの銀粒を仕舞い込んだ。あわせて三両幾許《いくばく》かの銭をなぜそうするのか、先走った心の後から手先だけ単独について行くようであった。  染田屋の勝手口をでる時、不意に出会った賄方のしげは何を考えたのか、ぷいと横を向いて素知らぬ顔をした。下駄の鼻緒が意地悪に固く、坂道の脇で尾崎は二度もかがみ込まねばならなかった。  なるべく人目に立たぬように、それでも精一杯の足どりで、尾崎は大徳寺下に軒先を並べる家々の前を、綱渡りでもするような気持ちで通った。  船乞食の集落は一体戸浦のどの辺りにあるのか。とにかく何が何でも日蔵の家を探しださねばならないのだ。無理心中か殺しか。増屋の番頭との真実を貫きたい一心で、浪ノ平にまで追いやられたくら橋が死を賭《か》けて問うたものは何だったのか。  しかし今それを解く余裕はない。野菜を売る店の小娘が尾崎を指差しながら、甲高い声で叫ぶ。又次は逃げた、きっと逃げおおせる、言伝てはそいしこです、とつねよはいった。日蔵に会い、できることなら又次の顔をみたい。そして又次が一緒にこいというなら……。  荷車の並ぶ海沿いの道で尾崎は彼方《かなた》のそこだけ青みがかった空を見た。もし又次が一緒に逃げようといえばどうなるのか。一瞬、心の中の壁を断ち割って生まれでた言葉を、しっかり握りしめるように彼女は自分にいいきかせる。  その時は海底でもついて行くのだ。又次は逃げた、きっと逃げおおせる。それなら自分も一緒に逃げおおせたい。 白い蝶々は地蔵の鼻に 黒か蝶々は地蔵の耳に きなか蝶々は地蔵のよだれ掛け とまったとまった、三羽の蝶がとまった 三羽とまったら地蔵も地獄 蛇《じや》に化けた  脈絡もなく、酔うた時にうたう父親庫太の文句がすうと胸内をよぎる。地獄でもかまわぬ、又次について行けばそれでよい。空の荷車を引く男が声を掛けてくるのに、応じたいような気分に浸りながら、尾崎は潮臭い風にも顔をそむけなかった。たとえ日蔵が何といおうと、もう染田屋へは戻らぬ。  峠から眺望する千々石《ちぢわ》湾は、白濁のぎやまんに似て、海底からでも放つような光沢を一面に漂わせていた。 「きれか」旅仕度の身につかぬきわは、やっとわれに返るような声を上げた。「ひろか海は矢張りきれか」  茂木屋を通じて急遽《きゆうきよ》用意した手形のことや、後に残る有馬永章と別れ際にかわした言葉を思い返していた井吹重平は、きわの声をきくと、茶店から立ち上がった。茂木の船宿に二泊。そこから長崎に引き返すきわと別れて、矢上宿近くまで小船を利用するという段取りも、茂木屋主人の立てたものである。茂木ならきわの手形も不要だし、道中筋の宿場ではないので奉行所の手も廻るまいというのであった。まあ、寺に踏み込むことはようできんじゃろうが、危のうなったら何時でん隠れるたい。隠れるところはこいでもいっぱい持っとるけんな。仁昌寺の住職はそういったのだ。 「あん帆船は何処に行きよっとでっしょか。ひょっとすると天草かもしらんね」 「方角が違うじゃろう、天草とは」 「あっちの方に天草のあっとじゃなかとへ」 「あれは小浜か千々石の方角たい。天草は外側のもう少し右手」 「あてずっぽうにいうて恥ずかしか」 「天草に行きたかとなら、今度ゆっくり連れて行ってやるたい。茂木から口ノ津行きの船に乗って行けば、そこからはもう目と鼻の先じゃけんな」 「ほんなこつ天草に行かれるとなら、うれしか」きわはいう。「天草や島原には長崎とは違う隠れの大勢住んどらすというとはほんなこつですか」 「違うというこつはなかろう。切支丹の宗門がひとつなら隠れもひとつ。そりゃ言葉や風習は違うかもしれんが、十字架《く る す》はくるすたい」 「旦那さんにいっぺんききたかことのありますと」 「何を」 「こん国に住んどる者が、なしてよその国の神様ば信仰するごとなるとでっしょか。そいも危なか目に会いながら、こっそり隠れてまで……」 「信仰に国の区別も人間の区別もあっちゃならんというとが、切支丹の教えたい。表向きの通りやすか理屈ばってんな」 「表向きといいなさると、裏に何か隠れたことでもあっとですか」 「朱もあれば紫もある。商売も信仰もそうなかなか白一色のものはなかということじゃろう。人間に区別はなかという道理ばひっくり返してみると、西洋も日本も坊主はしょせん同じ人間ということになる。そうじゃなかか」 「切支丹ばあんまり信用しとんなさらんとですね」 「おいが信用しとるとは、こんひとだけ」  井吹重平に突つかれた額をきわは指先でなぞった。 「写真というとは、人の顔ばそのまま鏡のごと紙にうつすとでっしょ」 「写真か。……あっちこっち飛ぶ話ばするけん、たまぐるたい」 「旦那さんの写真ば一枚、欲しゅうなってきましたと。そんげん便利か機械のあるとなら……」きわはいう。「そしたら、会いたかと思うたら何時でん好きな時に旦那さんと会えますもんね」 「そういえば、イギリスやオランダ人の中には、家族の写真ば肌身離さず持っとる者があるらしか。きいた話ばってんね」 「よかことば思いつきましたと」きわはいきなりぱちぱちと手を叩いた。「なして今まで、そんことを気づかんやったとやろうか」 「今度は何ね。写真機でも土産に買うてきてくれというとじゃなかろうな」 「旦那さんに自分の似顔絵ば描いて貰いたかと。茂木の宿には紙も筆もあっとでっしょ。……ああよかった。写真の話ばしたけん、思いつきましたと」 「そいじゃ、きわの似顔も描かにゃならんな」 「無理して描かんでもよかとですよ」 「ふくれっ面のところば描いとくたい」 「意地悪いうとなら、折角あげようと思うとるとを止めにしますばい」 「まあだなんか隠しとることのあるとか」 「いや。そんげんこといわるっとなら、もうだしまっせんと。……ほんなこつ、ださんとですよ」 「わるかった、わるかった。さあ機嫌ば直してその大事かものば見せてくれんか」  その時、商人の風態《ふうてい》をした男が茶店の親父《おやじ》と何やら一言二言言葉をかわすと、二人の方に真っ直ぐ近づいてきた。 「つかぬことば伺いますばってん、富岡屋のお方じゃなかでっしょか」  井吹重平は早鐘を打つような心を抑えて、口をつぐんだまま首を振る。 「違うとりましたか。これはどうも失礼ばしました。もしやと思うて尋ねてみたとですが、どうぞご免してくだはりまっせ」  商人風の男は茶店に引き返し、きわは顔をひきつらせて「早う行きまっしょ」といった。 「案ずることはなか」 「そいでも……」 「そいじゃぼつぼつ行こうか」  井吹重平は殊更、茶店を無視する素振りをした。そして海原を右手に山腹の蛇行《だこう》する道をほぼ一丁程も下ったところで、きわは「今の人はそうじゃなかったとでっしょか」といった。 「大丈夫。奉行所の手先ならそんげん手間暇かけるはずもなか。泳がせとくわけもなかけんな。今頃はもう逆の道を行きよらにゃならんたい」 「まあだ動悸《どうき》の打ちよるとですよ」  きわは胸に手をあてた。小さな柳行李《やなぎごうり》を背負った男が、擦違いながら、何やらものいいたげな顔を向ける。雑木と段々畑に囲まれて、こぢんまりした村落が見え、きわだつような寺の屋根が黒い瓦を反りかえらせている。 「さあ、もうよかろう。大事かものば見せてくれんね」 「宿についてから」きわはいった。「旦那さんの似顔絵ばちゃんと描いて貰うたら、褒美《ほうび》にあげますけん」 「わかったぞ」 「何がわかんなはったと」 「ぬしの隠しとるものの正体たい」 「あててみんしゃるとよか」 「矢張りやめとこう」 「あてずっぽうのことば考えとんなさったとでっしょ」 「ぬしの乳首に生えとる長か宝物たい」  ぶつ真似をするきわの手を逃れて、井吹重平はふふと笑った。 「ほんなこつはまあだよかことをいおうとしたとばってんね」 「旦那さんの思うとんなさることはみんな見えとりますもんね」 「見えとるならいうてみるとよか。おいが何をいうつもりだったとか。……」 「恥ずかしかことはいえまっせんと」 「そいじゃ、きわもおなじことば思うとったらしかな」 「旦那さんは人のわるか。……」  柿と夏蜜柑《みかん》の木を交互に植えた畑地がしばらくつづき、それまで歩いてきた峠の裾に遮《さえぎ》られて、白い海原が消えると、なぜかそこだけ起伏の激しい道がふたたびなだらかさを取り戻す。二人の目を奪う墓地はそれから間もなく忽然《こつぜん》として行手にあらわれたのである。低い木塀《きべい》に囲まれた石塔が珍しかったのではなく、三十余の墓石の前におかれた花瓶《かびん》に、ひとつひとつそれこそあますところなく挿《さ》された彼岸花の赤に、わが目を疑ったのだ。  長崎ではすでにひと月前に咲き終えた花がなぜ今頃乱れるまでの匂いを漂わせているのか。田畔《たあぜ》や草地ではなく、墓地であるだけに一層それは艶《なま》めかしく、奇異な気色に包まれる。 「何処の堤から採ってきたとやろか」 「堤。……」井吹重平はいう。「なして堤というとね」 「彼岸花がほかの花になろうとすっと、何時も堤の傍に咲くとよ」 「なしてほかの花にならにゃいかんとね」 「人間でも誰でもそんげん時のあっとでっしょ。自分のくらしや顔付きまでたまらんごとなってくる。花でもおんなじ。……」  かよの墓と書かれた墓石の半分地中に埋められた細い花瓶に、一旦のばしかけた手を中途でやめると、きわは呟くように胸の内で祈る。  おかしゃま、見ちゃならん花ば見たとなら、助けてくれまっせ。三十日も遅咲きの彼岸花がどうか旦那さんの凶事にならんごと、天から守ってくんしゃい。    後記  私は以前から嘘のない歴史小説を書きたいと考えていた。その時代における正確な慣習や言葉までを綜合《そうごう》した考証と、それに支えられた民衆の生活と心情の揺れを、祖父や曾祖父の姿を写すがごとく描きたかったのである。  そういう意味で、幕末の長崎は恰好の舞台となった。文明というものの実態と、やむなくそれを受け入れながら明治への新しい権力制度を準備して行く過程こそ、私の選ぼうとする主題に最もふさわしい状況でもあったのだ。  しかもあえて主題を丸山と寄合町の遊廓《ゆうかく》に限定したのは、そういう時代の変遷にかかわることなく、表面の華やかさの奥に二重にも三重にも差別されながら生きねばならぬ、女たちの真底の心がそこにうごめいているからである。  一夜の相方を求めて石段を上がって行く男たちには、つねに苛立《いらだ》ちと生々しい渇望に似た欲情が入りくんでおり、遊女たちとの葛藤《かつとう》も表現したい感情のひとつであった。  重なるわずらわしさにも耐えながら、時代の言葉を忠実に再現したつもりだが、読み手の限界だと思われる場合、幾分妥協した個所もある。やりとりの語尾に使われる「でっしょ」と「でっしゅ」は夫々《それぞれ》の出身地の違いであり、そのことを一例として会話には可能な限りの神経を使った。 『週刊朝日』一九七五年四月十一日号より一九七五年十一月二十八日号までに連載されたものに新しく〈一八六三年秋〉十三章以下十五章までを書き足したのがこの創作である。 (昭和五十一年十月八日)   この作品は昭和五十一年十二月新潮社より刊行され、昭和五十七年十月新潮文庫版が刊行された。 Shincho Online Books for T-Time    丸山蘭水楼の遊女たち 発行  2003年2月7日 著者  井上光晴 発行者 佐藤隆信 発行所 株式会社新潮社     〒162-8711 東京都新宿区矢来町71     e-mail: old-info@shinchosha.co.jp     URL: http://www.webshincho.com ISBN4-10-861250-7 C0893 (C)Ikuko Inoue 1976, Coded in Japan