TITLE : 雨 雨   井上ひさし 雨 壱 瓜《うり》ふたつ どこかで遠雷。やがてぽつぽつと雨の降り出す気配。これをきっかけに場内が暗くなる。雨足は次第に激しくなり、あっという間に沛然《はいぜん》覆盆の豪雨。 上手から、また下手から、願人坊主、井戸浚《さら》え、男娼、花売、太鼓叩き、桶直《おけなお》し、腕香者《うでごうもの》などが雨宿りに駆け込んでくる。これら雨宿りの浮浪者たちは誰から誘うともなく互いに、取って置きの食物や濁酒を持ち寄り、雨景を肴《さかな》に酒盛の真似事。 すこし遅れて、金物拾いの浮浪者が大笊《おおざる》を抱えて入ってくる。金物拾いは二十代後半。金物拾いは「どうだ、仲間に入らねぇか」と湯呑や徳利や食物を掲げてみせる浮浪者たちの誘いを断わって、ちょっと離れたところに腰をおろし、笊の中身を大きく拡げた両足の間にぶちまける。笊の中身は、たとえば古釘《ふるくぎ》、古かすがい、煙管の雁首《がんくび》。金物拾いは金物を撰《え》り別《わ》け、撰り別けたものを紐《ひも》でくくる。 酒盛の一座に、早くも酔いの廻ったのがいて、立ち上って歌い、そして踊り出す。他の浮浪者たちもそれに唱和。これを潮時《し お》にふっと雨足が遠のく。 笠をやりたや 手前《てまえ》の娘に 娘 いまでは 越後の女郎 馴れぬ勤めの なみだ雨 せめて凌《しの》げる 古笠を 雨が降るたび 思い出す 越後女郎衆の 手前の娘を 笠をやりたや 手前の嬶《かか》に 嬶 いまでは 飯炊《ままた》き女中 煙 目に染《し》む なみだ雨 せめて凌げる 古笠を 雨が降るたび 思い出す 飯炊き女中の 手前の嬶を 笠をやりたや 手前の倅《せがれ》に 倅 いまでは 炭屋の小僧 父母恋しの なみだ雨 せめて凌げる 古笠を 雨が降るたび 思い出す 炭屋の小僧の 手前の倅を 笠をやりたや 在所《ざいしよ》の案山子《か か し》に 田《た》ん圃《ぼ》 いまでは 他人《ひ と》の所領《も の》 主人 懐し なみだ雨 せめて凌げる 古笠を 雨が降るたび 思い出す 他人《ひ と》の田ん圃の あの案山子 笠をやりたや 手前のために 手前 いまでは 江戸乞食 運命《さだめ》 恨めし なみだ雨 せめて凌げる 古笠を 雨が降るたび 思い出す 根なし浮草 手前のことを 歌の途中で親孝行屋が登場。かなりの年輩。己れの躰《からだ》の前部に若者の人形を付けており、そのために若者が老人を背負っているように見える。 親孝行屋は隅っこで、濡れた躰を拭きながら、小さくなって歌を聞いているが、そのうちに金物の仕分けをしている例の浮浪者にふと目が行って「おや?」という表情になる。親孝行屋は何度も眼を擦《こす》って金物拾いを見、やがて或《あ》る確信をもって金物拾いにじりじりと近づく。 歌が終る頃、雨はすっかりあがっている。上手と下手に一組ずつ、橋の支柱が見えている。すなわちここは橋の下。 親孝行屋 (かすかな訛《なまり》)肝を潰《つぶ》しましたよ、まったく。はじめのうちは「まさか」「こりゃあてっきり他人の空似《そらに》」「さてさて世界は広いものだ。これほど似たお人がいるとは」と半信半疑でしたがね、見れば見るほど生き写し。「ぜったいに間違いない」と見究めがついたときは、脳天にがんと一発びっくり仰天の拳固を喰らわされたような気分。頭の毛はぴんと逆立つ、口の中はからからに乾く、歯はがちがちと鳴る、肌にはぷつぷつ粟《あわ》が立つ、目の玉はでんぐり返る、胸はどきどきする、背筋はぞくぞくする、腰の蝶番《ちようつがい》はばらばらになる、膝《ひざ》はがくつく、脇の下は冷汗でじとつく、額は脂汗でべとつく、躰中の力はどっと抜けるで、びっくり仰天が躰ンなかの名所旧蹟《きゆうせき》をあちこちひとまわりいたしました。(改まって)旦那様おひさしぶりでございます。(しみじみと)それにしてもお窶《やつ》れになりましたねぇ。 金物拾いはここではじめて、自分が話しかけられているらしいと気付いて顔をあげる。 親孝行屋 おっとっとその目付き。かしげた首の傾き加減、物問いたげに突き出した唇の形恰好その塩梅《あんばい》、旦那様とそっくり。……といっても旦那様は旦那様なんだから、旦那様が旦那様にそっくりなのは当り前ですがね。 金物拾い、親孝行屋を黙殺。金物の撰別《せんべつ》を続ける。 親孝行屋 いつもは千住界隈《かいわい》があたしの稼《かせ》ぎ場。あのへんで(若者の人形を操作しつつ)一文恵んでくだされ。親父どのに孝行したや。親孝行の金を恵んでくだされ。と袖乞いして廻っているんですが、今日は御存知のようなぽかぽか陽気。その陽気につい誘われて遠出をしたら今しがたの雨です。春には珍しい雷と激しい通り雨、あれじゃあせっかく咲きかけた桜も散々だ。まったく近頃の天候ときたら、春にゃ夕立ち、真夏には火鉢がいるという具合で、春夏秋冬の見分けがつきません。こりゃなにかとんでもない天変地異の起る前兆、なんて噂《うわさ》もありますが、旦那様、どんなものでしょうねぇ。 徳 おれの名前は徳だ。拾い屋の徳。 親孝行屋 とは世を忍ぶ仮りの名、じつは羽前国平畠《ひらはた》藩の紅花問屋「紅屋《べにや》」の御当主喜左衛門様で。えへへ。 徳 おれは徳。これまで旦那様だったこともなければ、この先、旦那様になるあてもつもりもない。それに問屋の旦那にも知り合いはなし、親戚《しんせき》もない。人違いだよ。何の魂胆があっておれを旦那旦那とおだてているのかは知らないが、いくらおだてたところで鐚銭《びたせん》一枚にもありつけやしないよ。 親孝行屋 その、ずけずけもの言うおっしゃり方、ちっともお変りになっていらっしゃらないなぁ。お声も前と同《おんな》じで。 徳 しまいにゃ殴るぜ。 親孝行屋 その台詞《せりふ》も旦那様の十八番《お は こ》でした。 徳 勝手にしろ! 親孝行屋 と、すぐそっぽを向くところも昔のまま。 徳と名乗った男、親孝行屋に背を向け撰別を続ける。親孝行屋は傍《そば》から仕事を手伝いつつ、 親孝行屋 ときに喜左衛門様、去年の秋九月の末ツ方、紅屋の裏手の住吉大明神の境内に、ずたずたに破れた茶小紋の羽織を残して行方不明になられてから今日まで、どこでどうお暮しだったんでございます? 平畠では、羽前笹谷峠の先の仙人沢か有耶無耶《うやむや》ヶ関あたりで仙人の修業かなんかなさっているんじゃないかという噂で持ち切りでしたが、なかには陸前早池峰《はやちね》山の山男のだいだら坊に攫《さら》われなすったのだとか、いや羽前羽黒山の天狗《てんぐ》の許《もと》に弟子入りなすったのだとか、訳知り顔に言い立てる奴もおりましてね。むろんそんな噂、あたしゃ爪の垢《あか》ほども信じてやしませんでしたが。……ま、お答えをいただかなくともよろしゅうございますよ。いまや事情は明明白、紅屋の旦那様は江戸両国橋の橋下でそうやって屑《くず》金物を撰り別けておいでだ。ということは、紅屋の旦那様は平畠から真ッ直ぐこの江戸へ、天下の掃溜《はきだめ》へ出ておいでになっていたんだ。ねぇ、そうなんでございましょう。(徳の肩の藁屑《わらくず》などを撮《つま》み)このお召物、憶《おぼ》えておりますよ。だいぶ草臥《くたび》れてはおりますが、これは旦那のお気に入りの米沢の太織。秋から冬にかけて、あなたはいつもこいつをお召しになっていた。 徳 この正月の或る寒い朝のこと、ここからそう遠くない柳橋で行き倒れがあった。そこへちょうど、屑金物が落っこってやしないかと鵜《う》の目鷹《めたか》の目《め》で通りかかったのがこの徳さ。この着物はその行き倒れ者から引っ剥《ぱ》いだ代物だぜ。早起きは三文の徳ってやつだ。 親孝行屋 旦那様は、夏は、麻の単衣《ひとえ》でお通しになっていましたね。 徳 いったい全体、手前、何者だい。いやにひつっこく絡んでくるじゃねぇか。おれは拾い屋の徳だぜ。この橋の下に捨てられていた赤ん坊のおれを屑拾いの乞食が拾ってくれた。それからその乞食を親代りに育ち、物心ついたときは門前の小僧習わぬ経をなんとやらの譬《たとえ》どおり、いっぱしの屑拾いになっていた。以来ずうっと盆の休みも正月休みもなく、おれはお拾いの徳よ。これ以上おまえの寝言の相手になっているとこっちの顎《あご》が干上っちまわ。人違いはどこか別のところでやってくんな。 親孝行屋 (すこし気色ばみ)杢兵衛《もくべえ》ですよ、紅屋の旦那。あたしはあなたの、紅屋の小作人、羽前国平畠は新田の杢兵衛でございます。サイコロ博奕《ばくち》が飯より女より好きで、それで旦那様にはずいぶんとご迷惑をおかけした、あの杢兵衛で。 徳 (ぶつくさ)江戸の拾い屋のこのおれに、在郷の田吾作や杢兵衛や案山子に知り合いがあってたまるか。 親孝行屋 (さらに気色ばみ)あたしども紅花小作人にとっちゃあ紅花問屋は実の親も同然。その親のあなたが実の子も同じのこのあたしにあくまで知らぬと白《しら》をお切りになる。あんまりだ。惨《むご》いはなしだ。旦那が行方知れずにおなりになったすぐ後で、あたし、イカサマの四文字の付く怪し気なサイコロに嵌《は》められて小屋も娘も女房も持ってるものはひとつ残らず取り上げられてしまいました。こんな情けない恰好で他人様のお情けに縋《すが》って暮す破目になったのもそれが因《もと》、身から出た錆《さび》とは言いながら、あの時はずいぶん口惜《く や》しい思いをしました。でもねぇ、紅屋の旦那様、あのときより今の方がずっと口惜しい…… 徳 泣くことはないだろう、なにも。へっ、気味の悪い野郎だ。 親孝行屋 むかしの旦那とばったり出逢ってこりゃしめた、ひとつ金でもねだってやれ。とそういう性悪な根性で声を掛けたんじゃないんだ。ただただ懐しい。平畠の話に花を咲かせて一時《いつとき》この心細い江戸暮しの憂さを忘れよう、ただそれだけのことで。ですからねぇ、喜左衛門様、どうかひとつ前のようにおやさしい言葉を掛けてやってくださいまし。 徳 掛けたくとも掛けようがないだろ。おれは徳、なんとか屋の喜左衛門じゃねぇんだから。 親孝行屋 (掴《つか》みかからんばかりの権幕で)ああ、情けない! そこまで白をお切りになるとは……。そりゃわからないじゃありませんよ。あの大身代を捨て、その上あのお美しいおたか様をあとに残して平畠を出奔なさり、爪の間に泥や馬糞《まぐそ》をためて江戸で金物拾いをしておいでなんだ。これは余程の訳が、深い仔細《しさい》がおありになったにちがいない。「そうですよ、杢兵衛、わたしは紅屋の五代目喜左衛門ですよ」と大声じゃ名乗れない御事情が、事のわけがきっとおありでしょう。でもそれにしてもあんまりひどすぎる。あなたはそんなに冷たいお方だったんですか? 徳 ちょっ、ちょっ、ちょっと待った。 親孝行屋 (ぱっと喜色漲《みなぎ》らせ)やはり旦那様はお心の暖いお方だ。 徳 いま、おまえさん、たしか、おたか様とか言っていたが、そりゃ何者だい? 親孝行屋 (思わず怒鳴る)あなたのお方《かた》様じゃありませんか! 徳 というと、つまり女房か。 親孝行屋 また知らん振《ぷ》りをなさる。二年前の春弥生、あなたは紅屋の家付き娘のおたか様と祝言をあげなさった。まったくあの祝言は出来事でしたねぇ。 徳は依然として撰別の手を休めてはいない。が、しかし、小狡《こずる》く目を光らせて親孝行屋の言うことに耳を貸している。浮浪者たちも親孝行屋に聞き耳を立てている。 親孝行屋 平畠のご城下が、盆と正月と紅花の収穫《とりいれ》が一度に来たようにわっと浮き立って、まるまる三日も祭礼のような騒ぎだったじゃございませんか。紅屋の店の前には大きな酒樽《さかだる》が三つも四つも並び、だれでも飲み放題。そのなかを御領主様のおつかい役の御家老の浜島庄兵衛様が紅屋へお見えになる…… 徳 ほう、何の為にだい? 親孝行屋 (徳を睨《にら》みつけ)おたか様の婿取りを言祝《ことほ》ぐためで。 徳 その紅屋、いくら大身上《しんしよう》か知らないが、たかが町人じゃないか。その「たかが町人」の祝言にお殿様からお祝いの御使者が立つなんて、へん(唾で濡らした指で眉毛を撫《な》でて)これものだわ。 親孝行屋 あなたの婿入りなさった紅屋は、代々、平畠の紅花問屋の集りの紅花会所の頭取役をお勤めになるお家柄なんでございますよ。そして平畠藩のお台所は九割方《がた》紅花で保《も》っている。大きな声では申されないが、紅花会所あっての平畠藩なんで。それはそうとあの三日間、平畠の若い男はひとり残らず寝込んじまいました。そのこと、御存知でございましょ? 徳 (ちょっと考えて)そのおたかという家付き娘に、若い男ども、みんな岡惚《おかぼ》れしてたんだろ? 親孝行屋 (満足そうに頷《うなず》き)なにしろおたか様の異名は「平畠小町」、歌にうたわれたほどの器量よし。 徳 歌にうたわれた……? 親孝行屋 まだ白を切ってらっしゃる。あなただって、紅屋の番頭をなさっていた頃、一度や二度は、こっそり布団の中で熱っぽい溜息をつきながらあの戯《ざ》れ唄をお歌いになったことがおありになるはずでございますよ。 徳 (調子を合せて)忘れちまったね。 親孝行屋 それじゃ思い出させてあげましょか。 親孝行屋はそれらしく人形を扱いながら歌う。浮浪者たち、囃《はや》し、合いの手を入れる。徳は喰いつくような目付きで親孝行屋を見ている。 羽前平畠紅屋の娘 朝日さす様《よ》な器量よし お針持たせりゃ器用でござる 男の目付きば縫い付ける 蔵王曇って平畠降って 紅屋の娘が島田を結って 人は振り向く犬振り返る 道の小草《こぐさ》もお辞儀する 羽前平畠紅屋の娘 夕日さす様《よ》な眉目《みめ》のよさ 包丁持たせりゃ見事でござる 男心ば腑分《ふわ》けする 蔵王しぐれて平畠晴れて 紅屋の娘の島田が揺れて 種子《た ね》は芽を出す若芽は伸びる 男、男根《へのこ》を持ちあげる……  どうです、喜左衛門様、すこしはお思い出しになりましたか? 徳は必死で考えている。浮浪者たちの方が気を揉《も》み、徳を隅へ引き立てて、 願人坊主 別嬪《べつぴん》の女房に大身代。徳、棚から牡丹餅《ぼたもち》とはこのことだろうよ。 井戸浚え おまえとおれはよ、餓鬼の時分からこの橋下暮し、おまえがその喜左衛門とかいう御大尽じゃねぇってこと、このおれがようく知ってら。けどよ、この話を聞き逃す手はねぇぜ。一丁、化けてみたらどうなんだ? 花売 この幸運《つ き》を、拾い屋のおまえが拾わないって法はないよ。 太鼓叩き 額に皺《しわ》をこしらえて考えることはねぇや。案ずるより生むがなんとやらってやつさ。 桶直し 気楽に行きなよ、徳。 腕香者 そうそう、暴露《ば れ》てもともと、ばれもとばれもと。 男娼 そのうちあたいもその平畠へ行ってあげるわよ。あんたの幸運《つ き》にお相伴させておくれ。 徳 (きっぱりと)よし、決めた。 男娼 じゃあ行くのね? 徳 だれが行くものか。顔形に背丈、目つき口つきものの言い方《よう》、おれとその紅屋の旦那、たしかに生き写しの瓜ふたつで、そっくりかも知れねぇ。だけどよ、ほかのことはどうだ? 喜左衛門という男はどういう仕事をいったいどんな風にやってのけていたんだ、うん? その男の仲間にゃどんな野郎が居る? 仲間の名前は? そいつ等の癖は? 喜左衛門の好物は? やつの持病は癪《しやく》か、痔《じ》か、水虫か? その果報者はおたかという別嬪の女房を可愛がるときはどういう具合にしていた? 足の指から舐《な》めてやるのか、それともいきなり口吸いからはじめるのか?……おれはなんにも知っちゃあいねぇ。一日でボロが出る、尻尾《しつぽ》を出す、化けの皮が剥がれる、まかり間違えば首と胴体が生き別れだ。おれの一生はオギャアと生れたときからお拾い屋と決まっているんだよ。いまさら己が運命《さだめ》に逆らってじたばたしたってはじまらねぇ。剣呑剣呑、ああ、悪い夢を見ちまった……。(と、親孝行屋の傍へ引き返しつつ)おれは徳、死ぬまでずっと拾い屋の徳よ。仕事の邪魔だ、さ、どいた。 親孝行屋 (氷のように冷たく)喜左衛門様、あたしの目は節穴じゃございませんよ。 徳 お、おい、いい加減にしろよ、もう。 親孝行屋 あなたこそいい加減になさいまし。 親孝行屋、徳の襟元《えりもと》を掴んで左右にぐいとひろげる。徳の右の首の付け根から肩、そして胸にかけて赤黒い一本の打疵《うちきず》の跡。 親孝行屋 この打疵が動かぬ証拠…… 徳 (気圧《けお》されてぶつぶつと)こ、これは火事場で焼け釘を拾っていたときにいきなり梁《はり》が落っこってきやがって…… 親孝行屋 去年の夏、紅花会所の御蔵《おくら》が不審火で焼け落ちました。そのとき、あなたは梁に打たれて大怪我をなさった。ちがいますか? 徳 ち、ちがう…… 親孝行屋、しばらくの間、躰をぶるぶる震わせて徳を睨みつけているが、やがてふっと肩を落し、 親孝行屋 ……よほどの御事情がおありになるようでございますね。わかりましたよ、喜左衛門様、あなたがおっしゃるように人違いだということにしておきます。(涙声になって)喜左……、いや徳さん、ご安心なさいまし。この次からは、この大江戸の空の下のどこであなたにばったり出っ喰わしましても、あたくし、決して声を掛けたりいたしません。(魂を抜かれたような声で)一文恵んでくだされ。親父どのに孝行したや。親孝行の金を恵んでくだされ…… 親孝行屋、のろのろと退場。浮浪者たちも、徳に向って「なんというばかなやつだ」というような目を向けながら、ある者は仕事へ出かけて行き、ある者は徳に背を向け寝そべって肘枕《ひじまくら》。 徳はゆっくりと己が打疵を撫でつつ、宙の一点にじっと目を据え、何か考えている。 長い時間かかって暗くなる。 弐 変化 暗いうちに、舞台では、平畠方言が、屋根瓦を霰《あられ》が打つように、あるいは豆幹《まめがら》を焚《た》くように、せわしなく応酬される。 婆 ああぇ、ぞうぞと雨降ってっからし、休んでござれ。こっちさ寄らっしゃえ。 娘 茶ばあがえ。この雨、この降り方《がだ》だば通り雨、茶っこばあがってる内にすぐに熄《や》むべがらし。 飛脚 そうしてらえね。明日《あした》朝《あさ》げまで仙台の御城下さ書状ば届けねば。 娘 あれま、精の出っこど。 婆 せへ、事無《ことな》ぐ帰ってござい。 飛脚 ほんじゃ。 娘 あらら、すっぴらこえ人だごだ。踵《あぐど》さ泥っぱね跳ねあげで、はぁがら見えねぐなっちまったは。 婆 そらおめぇ、あん人は飛脚だもの、すっぴらこがねば勤まらねぇべ。 娘 あ、ほだ、ほだな。 明るくなると、下手に古い祠《ほこら》と桜の木が一本。上手の袖近くに「右・米沢へ三里仙台へ二十五里」「左・平畠御領内」という道しるべ。上手の袖から舞台へ小さな幟《のぼり》が一本、突き出している。幟には『茶』の一字。すなわち上手の袖のすぐのところが峠の茶店というこころ。 祠では徳が、草鞋《わらじ》擦れでも出来たのか、指先につけた唾を足の踵《かかと》になすりつけている。 雨の夕景—— 徳 (ぼそぼそと)桜が南から北へ順番に咲くのを追いかけて、江戸から宇都宮、宇都宮から白河、白河から福島、福島から米沢、そして米沢からこの平畠へ花見と洒落《しやれ》込んだが、ついてねぇなあ、行く先々雨ばかりだ。雨をたっぷり吸い込んだ草鞋は重い。おかげで踵の草鞋擦れが一向に塞《ふさ》がらねぇ。(ふと思い当って)踵か。このへんじゃ「あぐど」だったな。どこへ行っても満開の桜と雨、このふたつは変らねぇが、忌々しいことに言葉だけは百面相の芸人の顔みてえにくるくるくるくる変りやがる。江戸で踵と言ってるものが、宇都宮では「かがと」、白河では「あくつ」、福島で「あぐと」、此処《こ こ》では「あぐど」と五変化にも化けるんだからまったく手がつけられねぇ。その言葉の化け方にしても宇都宮あたりまではこっちにもおおよその見当がつくが、奥へ入るにつれて胆ッ玉がでんぐりかえりをするような変化ぶりだから人騒がせなはなしよ。小皿がコジャラで痣《あざ》がアジャ、膝がヒジャで蓙《ござ》がゴジャ、で、笊がジャル、簪《かんざし》がカンジャシ、数えるがカジョエル、混ざるがマジャル……。だから江戸の「サ」はここらじゃ「シャ」になるんだなと憶えるとどっこいそうは問屋がおろさない。在郷太郎はジャエゴタロじゃない、これはなぜか訛らねぇでザイゴタロなんだ。なんだっけ、ほかにもあったな。えーと、笹ッ葉もシャシャッパじゃなくてお江戸並みにササッパ、薩摩藷《さつまいも》もシャヅマエモではなくサヅマエモだ。(思わず怒鳴って)シャと訛るサと、シャと訛らねぇサといったいどこで区別をすりゃあいいんだ。どうしてくれる、これじゃ一生かかったって紅屋の喜左衛門様になれやしねぇ。(としばらく両手で頭を抱え込み、やがてふと顔をあげて)帰ろ、帰ろ、明日の朝、江戸へ帰ろ。他人《ひ と》様《さま》に成り澄まそうなんてあんまり虫がよすぎたのだ。顔や容姿《かたち》は似せられても、とても内容《なかみ》は似せられねぇ。草鞋擦れを拵《こさ》えただけ損、天罰覿面《てきめん》…… 目の前の地面になにか見つけた徳、祠を出てそれを拾い、 徳 ありがてぇ、馬に穿《は》かせる鉄の蹄《ひづめ》だ。 推し戴いて懐中におさめながら祠の中に戻って、 徳 ……よく考えてみれば、おれはどうしても紅屋喜左衛門に化けようと思って、江戸を出たわけじゃねぇんだよな。北へ北へと咲きのぼって行く桜の花を追って来ただけさ。神様に仏様、そこんとこを間違えないでおくんなさいまし。他人に成り替ろうとはけしからぬ、なんて言われて死後のお裁きで地獄に送り込まれちゃかないませんからね。 徳が蹄鉄《ていてつ》を拾いに外へ出たのを見ていたのだろう、徳が祠の中に引っ込むのと入れちがいに、上手からそっと茶屋の娘が出てくる。娘は桜の木の蔭から徳の様子を窺《うかが》う。 徳 ま、正直に言えば、おたかという女を一目見たかった。ただそれだけのこと。おたか。佳い名前だ。おたか…… 呟《つぶや》きつつ両手を伸して祠の扉を閉めようとするが、そのとき、娘とばったり顔が合った。 娘 喜、喜、喜左衛門の旦那様《さ》ァ…… 徳 (どきり。声が出ない) 娘 喜左衛門の旦那様だね? 紅屋の旦那様だね? 徳 あ、ああああ(舌が縺《もつ》れる) 娘 今、今まで何処《ど こ》さ居《え》やったの、そんじぇ何時《え づ》から此処さ居やったのし? 徳 あ、あの…… 娘 (上手へ叫ぶ)婆様《ばつちや》、大変《と ん》な事《ごん》だ! 紅屋の旦那様が祠の中さ御座《ござ》った! 喜左衛門様が此処さ御座る! 上手から、火吹竹を掴んだ婆が駆け出して来る。 婆 何《なえ》だど〓 娘 紅屋の旦那様が天狗隠しから戻って御座った! 徳 て、天狗隠し? 娘 やっぱし天狗さ攫われて居《え》やったんだなし。(婆に)今、旦那様、天狗隠しって言《ゆ》ってだけ。 婆 (ぱっと徳を見て)……喜左衛門様ァ! (と縋り付き)よくまぁ事無しで。そんじぇも、何《なん》だじ、ぱっぺぇ恰好《な り》して。ほうしたり、もごさえごど! 徳 ……わからねぇ。 娘 婆様《ばつちや》。旦那様ァ、婆様《ばつちや》の事《ごと》、判《わが》んねて言《ゆ》ってる。 婆 情無《なさけね》ぇ。旦那様、おら、あんだの乳母《ちちばつぱ》だっし。(乳房を抜き出し、徳の顔に押しつけ)ほれ、この乳房《ち ち》、憶えあっぺ? 乳母のおかねだっし。 徳 こいつら何を言ってるんだ、言葉がわからない。 娘 旦那様は婆様《ばつちや》のぺらつぇで居《え》る言葉が判《わが》んねて言《ゆ》ってる。てっちり天狗さ言葉抜がれだんだべ。 婆 まごどおやげなぇ。(と、徳を抱きよせて背中をなでさすり)おーわいやァれ、おーおわいやーれ、おわいやれ、おわいやれ……(子守唄を口遊《くちずさ》みながらあやす) 徳 知らねぇ。おれはおまえさんなんか知らねぇぜ! 徳は思わず婆を突き飛ばす。 娘 婆様《ばつちや》……(と、抱き起し)大丈夫《だえじようぶ》ん? 婆 旦那様は頭の中身まで天狗さ抜がれでしまったんだじど。お絹、おらのごどは屈託しねで、紅屋さ、おたか様の処《どご》さ、ひとっ走り突っ走れ。 娘 は、はぇ。 婆 天狗さ攫われで居《え》だ旦那様が事無しで戻らえだど言《ゆ》うのだぞ。 娘 はぇ。 婆 ちゃっちゃど走れ。ぐっぐどすっ飛んでけ。せへ、早《はえ》ぐ。 娘 はぇ。 娘、下手へ駆け込む。 婆 旦那様ァ、今に紅屋の者《もん》が迎えさ来《く》っごっだ。それまで、店でお茶っこでもあがっていやれ。せへ、此処《こつち》さ御座申《ござも》せ。そんなどごさ突っ立ってえだば風邪《かじえ》っこば引くでは。あ、お茶っこより甘酒の方が良《え》がも知らねな。甘酒、沸さねば。せへ、此処さ御座申せ。 と、婆はばたばたと上手に入る。徳はゆっくりとそのあとに続きながら、 徳 天狗隠しで言葉も脳味噌も抜かれたか……。ふうん、ちょいと風向きが変ってきた。話の辻褄《つじつま》が合わなくなったら天狗隠しを持ち出す、平畠弁が喋《しやべ》れないでぐっと詰まったときは天狗隠しを持ち出す……、その手でなんとかなりそうだ。おっと神様仏様、申しあげておきますが、おれは一言も「紅屋の喜左衛門だ」とは言っておりませんよ。これからも口がたとえ裂けようと言うつもりはありません。神様仏様、御照覧あれ。この先どうなろうとこのおれが悪いんじゃない。連中が勝手に間違えたんだ。だいたいおれは明日の朝、江戸へ帰ろうと…… また、婆が顔を出し、 婆 雨の中さ突っ立って、風邪っこ引いたらなじょすんの。そこらでごとらごとらしてねぇで、早《はえ》ぐ中さ御座れ申せ! 旦那様ァ、早よ! 徳はいまや、はっきりと紅屋喜左衛門を演じようと決意し、いかにも天狗に魂を抜かれましたというような表情と動作で、ゆっくりと下手へ入る、ところで暗くなる。 参 花餅 夜。紅屋の見世。畳と土間。下手奥の畳の部分に帳場格子。土間の、上手袖近くに紅花袋が二十ばかり積みあげてある。油引きのその袋には『最上《もがみ》平畠産紅花』と黒い刷り文字。紅花袋とは、花餅(摘み取った紅花を水に漬け足でよく踏みつけたものを、直径一寸、厚さ二、三分の、平べったい餅状の塊にして、天日で干し固めて製する)を、正五百個納めた袋。 さて、ゆっくりと照明《あかり》が入ると、土間を、おたかがそわそわ行きつ戻りつしている。そのうち、おたかははっとなって腰をかがめ、暖簾《のれん》の向う、表通り(下手袖に想定)を透し見る。入って来たのは、住吉大明神の宮司。四十五、六歳。おたかはかすかに肩を落す。 宮司 おたか様《さ》、お宅の小作人の誰だかが知らせで呉《け》だんだども、喜左衛門様《さ》がおかね婆《ばつぱ》の茶店さ現われだどな? おたか ほだ。今、うちの番頭の金七が駕籠ば一梃連《ちようつ》えで迎えさ行《え》ってるどごだし。住吉大明神様《さ》、ありがど。七十七日間、塩断ぢばしてお百度踏んだ甲斐《かい》あったし。 宮司 (草履を脱ぎ、帳場格子の横に坐りながら)おかね婆の茶店さなぁ、ふうん…… 女中のとめというのが出て、宮司のために茶を淹《い》れる。 おたか 風呂は? とめ はぇ、沸いでるし。 おたか 着物は? とめ 出でるし。 おたか 酒も? とめ はぇ。 おたか 樽平だよ。 とめ (胸を叩いて請け合って)すぐ燗《かん》ばつけられるようになってるし。ほで、奥様《あねさま》、布団も敷いどいだ。枕ば二つ並べで。ひとつは奥様《あねさま》、もうひとつは御亭主《ご  て》様《さま》…… おたか まあ、がってもねぇ世話ば焼ぐ女中《ままたき》だごど。 おたかは軽い狼狽《ろうばい》。とめはくすくす笑って退場。宮司はお茶を一口啜って苦い顔で、 宮司 こげなごど言《ゆ》ったら、おたか様《さ》は気分《あんべえ》悪くすっかも知らねども、あんまり張り切るつうど後で落胆《がつかり》こぐでば。 おたか 落胆こぐ……? 宮司 ほだ。今度もまた偽者《にしえもの》がも。糠喜《ぬかよろこ》びで終っちまうがもわがらねよ。おら、おたか様《さ》の落胆こぐどごもう見たくねぇ。なあ、おたか様、この紅屋は平畠一の大身代、おまげに、おたか様《さ》は平畠一の別嬪奥様《あねさま》だ。そこさ目ぇ付けて、「おらが紅屋の身上《しんしよ》ば乗っ取ってやる」「おらこそ御亭主《ご  て》さ納って別嬪奥様ば抱えでやる」と、欲深《よくたかり》野郎やら助平野郎めらが、今まで何人、そこささがってる暖簾ばくぐったこったべが。少《すぐな》ぐ見積っても十人は居《え》だったよ。 おたか はぇ、んだったなし。 宮司 んでみな偽者、如何《え が》様《さま》ものだった。それさ加えで、おたか様はこの春、平畠の御領内は勿論《もぢろん》、米沢、上山《かみのやま》、それがら仙台の御城下さまで、喜左衛門様《さ》の人相書ば配った。それば見て、きっとこれまで以上にわんさと不心得者が押し掛けでくるこったごで。「おら、この喜左衛門つう行方知れずの分限者さ似でる。そっくりだ、生き写しだ。見破られでもどもど、一発、勝負ばぶっかげでみっか」なん言《つ》ってな。 おたか あの人相書はこのおたかひとりの考えではながんした。ここの御城《おしろ》の御重役、御家老の浜島庄兵衛様《さま》や御勘定役の長谷川又十郎様《さま》がこのおたかより人相書配りに熱ば入れなすってなし。 宮司 んだ。御家老様の屋敷さ、おれも呼ばれて相談さ預ったもんだった。んでもそん時《どぎ》、おら、こう申し上げだもんだったよ。「もうこれ以上、どげな手ば打っても、あの喜左衛門様《さ》は見つからねぇのではながんべか。ここらでなにか他の遣り方ば考えることにしたらなじょなものでござんしょか」とな。 おたか 他の遣り方なぞねぇなっし。住吉大明神様《さ》、このおたかは喜左衛門様《さ》を待つほかはねぇっし。塩断ぢが利き目がなければ茶断ぢして、それでもだめなら米断ぢして…… 宮司 米ば断ったら死にやすべ。 おたか たとえ死んでも仕方《すつかた》ねぇ。あの人が見つからねばこの紅屋の身代が立ち行がね。こげな事言《ゆ》ったらなんだども、この平畠の御領所の政事《まつりごと》も立ち行がね。おら、あの人を待って待って待ち抜くど。住吉大明神様《さ》、あんだは、いま、「他の遣り方で」と言われだけっと、待つよりほかにどげな手がある言《つ》うのすか? 宮司 ………… おたか やっぱりほかに手はながすぺ。大明神様《さ》、おら、今度はなんだか良《え》え予感してっこった。おかね婆《ばつぱ》の茶店さ現われだのは間違え無《ね》ぐあの人だ言《つ》う気がする…… 宮司 言《つ》うど、はて。 おたか そう思う理由《わ げ》は三つあるし。ひとつ、今度、見付けだのがあのおかね婆《ばつぱ》だ言《つ》うごど。婆《ばつぱ》はあの人の育ての親、我が子も同然のあの人を、百にひとつも、いや千にひとつ、万にひとつも見まちがうはずはねぇものなっし。ふたつ、おらの住吉大明神様《さま》への七十七夜の夜参り、昨夜《ゆんべ》が満願だった。満願のあくる日にこの嬉《うれ》すい知らせ、おらの願い事ば住吉大明神様《さま》ぁきっとお聞き届けくださったにちがいねぇ。おら、そう思ってんこんだ。 宮司 んで、三つ目は? おたか 明日《あした》か明後日《あさつて》にゃ桜の花も散り始めっこった。そうすっと、いよいよこの平畠も、紅花の種子の蒔《ま》き時。あの人、この五年間、死に物狂いで、冷害さも旱《ひでり》さも強《つえ》え新《あだら》すい性質《た ち》の紅花ば育でで居《え》る。今年はその六年目、新すい紅花が成るか成らねか決める大事な年。紅花畠さ撒《ま》ぐ肥料《こやし》の混ぜ具合も、今日明日中には決めねばなんねぇ。種子ば蒔いだあどは紅花さ水ばどれだけやればええのがも考えねばなんねぇ。んでまだすぐに、こんどはどの雄蕊《おしべ》の粉《こな》をどの雌蕊さくっつけるが、その組合せも勘定せねばなんねぇ。言《つ》うごどは、この平畠の御領所さとっても、平畠の千五百人の紅花百姓さとっても、紅屋さとっても、それがら新すい紅花ば育てようってして居《え》るあの人自身さとっても、今が一番大事な時。帰ってくるなら今、今しかねぇ。 宮司 ほんだ、ほんだ。たしかにそりゃ道理だ。 おたか あの人は自分の手掛けて居《え》だ仕事がどげに大事か、よぐ知って居《え》だのだっし。んだがら、今日、おかね婆の茶店さ姿ば現わしたのし。 男がひとり駆け込んでくる。この男は金七。紅屋の番頭。三十五、六歳。 金七 奥様《あねさま》っ、喜んでおごやえ! 旦那様《さ》のお帰りだっし。 おたか んで、金七、真《まごど》が。真《まごど》にあの人だが〓 金七 はい。口はまんだすべらすべらとおききになれねぇようだったども、あどは昔の儘《まんま》の旦那様《さ》で。 おたか (思わず土間に膝《ひざ》をつき、両手を胸の前に握り合わせ)住吉大明神様《さま》、おしょうしな! 宮司 金七様《さ》、口ばきけねぇってどういうこんだ? 金七 へ。どうやら天狗に言葉ば抜がれなさった様《よ》で。それに物憶えも悪くて、おらを見ても金七のきの字もおっしゃらねぇ。旦那様《さ》も奥様と祝言ば挙げで紅屋五代目の喜左衛門様《さま》におなりになる前は此処の番頭、たがいに「金七」「清三《せいざ》」と呼び捨てで名前ば呼び合って、おらと箱膳ば並べて飯喰った仲だ言《つ》うのに、おらの顔ば見ても瞬きひとつなさらねぇのだ。悲しがったなぁし。旦那様は、たんだ、どほーんてぼんやりなすって、んで口の中でぶつぶつひと言《ごど》ふた言《ごど》…… おたか な、なん言《つ》って居《え》だ? 金七 天狗。それがら、おたか、と。 おたか ああ、やっぱし。 金七 奥様の名前だげは憶えでられるようで。えがったなし。 宮司 えがった。 おたか えがったっし。 表に駕籠の止まる気配。 金七 奥様、旦那様《さ》のお着きだっし。 金七は表へ飛び出す。おたかも、二、三歩、金七の後に続こうとするが、暖簾の手前で立ち止まり、かえって胸を抱きしめ土間上手際に積んである紅花袋のあたりまで後退し、なにか怖いものでも見るように表の様子を窺う。 座敷の襖《ふすま》の合せ目に細い隙間が空き、そこから女中の顔がふたつみつ。上手の袖からも丁稚《でつち》たちの目が六つ八つ。 下手から、金七の先導で徳が入ってくる。徳、腰を引き、宙を踏むように覚束《おぼつか》ない足の運び。 金七 まんず、なに遠慮なすって居《え》んだべがなし。旦那様《さ》、此処《こ ご》はお前様《めさま》の家《え》だこった。さ、さ、さ。……奥様、旦那様《さ》のお戻りだっし。 おたかは刺すような目付きで凝《じつ》と徳を観察しているが、やがてみるみるうちに顔中に喜色溢《あふ》れ、ふらりとひとつの足を前へ泳がせ、 おたか ……あんだ。よ、よく戻ってござった。お変りなしでえがったなし。 徳 後光がさすような女だ。 おたか (また一歩)は、はぇ? 徳 眩《まぶ》しくて目が潰《つぶ》れそうだ。 おたか あんだ、なに言《ゆ》ってんのし? 徳 こいつは。おれの手に余るかもしれねぇ。 おたか (鋭く)あんだ〓 徳 (気圧されてたじろぐ。が、辛くも立ち直り、低い声で)羽前平畠 紅屋の娘、夕日さすよな 眉目《みめ》のよさ、包丁持たせりゃ 見事でござる、男心ば腑分けする…… 襖の隙間の女中たち、土間の奥の丁稚たち、さてこそと、たがいに目配せをし合い、頷き交わす。 その反応にすこし力を得て、徳はゆっくりとおたかに近づいて行く。 徳 (声もすこし高くなり)蔵王しぐれて、平畠晴れて、紅屋の娘の島田が揺れて…… と、徳、土間になにかを見付けて思わず屈《かが》み込み、 徳 新品の五寸釘《くぎ》じゃねぇか。 拾い上げるが、途端に躰《からだ》が凍り付く。 徳 (低い声)いけねぇ、いつもの癖が大事なところで出ちまった。(いつでも逃げ出せるように腰を引き、大きな声で)種子は芽を出す……(低い声)ちくしょう、どうしたらいい? (大きな声)若芽はのびる…… おたか ……あんだ! (と、駆け寄り徳の手を取って)まんず風呂さ行《え》ご。垢《あか》ばこすり落して、それがら酒っこにすべね。背中ばお流さししんべ、ね。 おたかに導かれた徳、ほっとしながら上手に入ろうとしたとき、上手から数人の紅花百姓が登場。なかの一人は炊いた餅米を入れた大臼を担いでいる。そして他の者は杵《きね》。 百姓い 旦那様《さ》が帰ってござったってなっし? 金七 ああ。ほれさ、あそごさ、奥様《あねさま》と並んで立ってござっと。 百姓い おおや、こりゃ真《まごど》だ! 百姓たちは土間に坐って徳を拝む。 百姓い 旦那様《さ》がござればおらだぢ紅花百姓には百万の味方。今年の紅花の出来は上々と決まり申《も》した。ところで種子蒔ぎの前祝に紅餅ば搗《つ》くべと思《も》って夕方がら餅米ば蒸《ふ》かして居《え》だんだども、それば此処《こ ご》で搗かせで貰ってええべがなし。旦那様《さ》の帰ってござったお祝に、なじょでがす? 住吉大明神様《さ》、番頭様《さ》さ、どんなもんだべなし? 宮司 はーてなぁ。 金七 それは…… 宮司と金七、徳を窺う。徳はあらぬ方へ目を据えて、 徳 (おっとりと)えがす。 百姓い ありがてぇごった。 百姓たちは再び徳を拝み、それから立って餅を搗きはじめる。百姓いは紅花袋から紅餅をひとつ取って、それを解《ほぐ》して臼の中に撒きながら『紅花口説《べにはなくどき》』を歌う。その調子に合せてひとりは餅とり、残りはかわるがわる杵で搗く。 『紅花口説』が始まるとすぐ、徳はおたかに手を引かれ、上手へ退場。入れ替って女中たちや丁稚たちが出て、囃子《はやし》に加わる。 さあて、東西、皆様方よ 平畠名物 紅花口説 清三おたかの物語 悪声ながらも読みあげまする 時に、皆様、お願い申す 一節《ひとふし》毎に 囃子を頼む アリャサコリャサとお声を下され 囃子がなければ口説かれませぬ 以下一同、四行毎に、 「アリャサコリャサノ、ベニハナクドキ、ソレソレ」 と、合いの手を入れる。 羽前平畠で その名も高い 紅屋喜左衛門 有徳《うとく》な暮し 紅花一手に 扱いまして 店も賑《にぎ》やか 暮しも繁昌 ひとり娘は おたかと言《ゆ》うて 年は十六 花なら蕾《つぼみ》 目許《めもと》涼しく 母様《かかさま》ゆずり 声のよいのは 父様《ととさま》ゆずり 店の番頭も 数ある内《うち》に 二番番頭に 清三《せいざ》と言うて 年は二十二で 男の盛り 利口で気の利く 働き者よ 清三もともと 良家の生れ 平畠一の 呉服屋の倅《せがれ》 五つのときに 不審火起り 店と両親《ふたおや》 灰となる 以来清三は 紅屋で育ち 丁稚十年 番頭七年 仕事熱心 見込まれまして 紅花畠を 委《まか》せられたよ 元来 平畠と申すところは 水捌《みずは》け悪くて 寒い処《ところ》で 五年に一度は 凶作ござって 紅花栽培 危いとこだよ ところが清三は 苦心工夫し 寒さに強い 種子ば拵《こさ》えだ 紅屋の旦那様《さ》は 大いに喜び 清三招いて かよう申さる これよ清三よ 遠慮はいらぬ おまえは紅屋の 恩人じゃから たいていの事なら 聞いてやりたい 望みがあらば 言《ゆ》ってみなさい そこで清三は さっそく切り出す 旦那様《さ》の娘の おたか様《さ》くだされ かねてふたりは 好き好かれ 人目を忍ぶ 熱い仲だっし 聞いた旦那様《さ》 目ン玉引ん剥《む》く それもそのはず じつはそのとき 平畠御領主の 次男坊様《さま》を 紅屋の婿にと 内約これあり 旦那様《さ》 清三に申さるるには おまえとおたかは 似合いなれども おたかにはすでに 先約あるなり いまの望みは 無理な難題 その夜 清三は 紅花畠に おたか呼び出し その手ばとって おらだ この世じゃ 添われぬ仲じゃ あの世とやらで 添いとげるべし おたか にっこり 頷《うなず》き返し おらの未来の 御亭主《ご  て》様《さま》は あんだのほかには だれもなし どうぞ一緒に 死んでくだされ 調子が変って、 ゆうべあしたの鐘の声 寂滅為楽と響けども 聞いて驚く人もなし 花は散りても春は咲く 鳥は古巣へ帰れども 行きて帰らぬ死出の旅 野辺より二人の友とては 金剛界の曼荼羅《まんだら》と 胎蔵界の曼荼羅に 血脈ひとつに数珠一連 これが冥途《めいど》の友となる これが冥途の連れとなる…… すこし前より、正面の襖が静かに、しかし大きく開く。垢を落し、髭《ひげ》と月代《さかやき》を剃《そ》り、仕立ておろしの上物の着物を着た徳が奥からゆっくりと出てくる。傍《かたわ》らにおたか。 『紅花口説』は自然《ひとりで》に立ち消え。 おたか 思《も》った通り間違いねがった。着物は躰さぴったりと適《あ》ったもんだっけもなし。 全員 (声を揃《そろ》えて)えがった! 徳 (ぽつん)ほんと。 百姓い 旦那様《さ》、この紅餅はお前様《めさま》の帰ってござったのば祝うために搗いて居《え》んだ。旦那様《さ》もひと搗き、搗がねがなし? 徳、びくりとするが曖昧《あいまい》に頷いて土間をおりようとする。それを宮司が制し、 宮司 (百姓いに)、気の利かね事《ごど》、言《ゆ》うもんでねぇ。喜左衛門様《さ》が今夜搗くのは別の餅だべちぇ。 百姓い へ? 宮司 この家《や》の奥様《あねさま》の餅肌《もぢはんだ》よ。 百姓い ああや、なるほど! 温かい笑い。 金七 まんずそげな訳《わけ》だがら、旦那様《さ》は寝間さござって、奥様は風呂さござれ。 おたか んじゃそういうごどに。あんだ、一時《えつとぎ》ちぇっと待ってで呉《け》でね? おたかは徳を半ば押し込むように奥の座敷へ誘《いざな》い、こちら側へ戻って後手《うしろで》に襖を閉める。そして一同をひと渡り見、赤くした顔を袖で覆って、上手へ小走りに駆け込む。一同の、おたかをいとおしむような笑い。再び餅を搗きはじめるところで暗くなる。 四 鈴口《すずぐち》の疣《いぼ》 暗いなかで杵の音と『紅花口説』の後半。 ……おたか 胸許 押し拡げれば 清三 脇差 抜き振りかざし たがいの首へ 手と手をまわし この世の名残りの 激しき一儀《いちぎ》 と 天の助けか 仏の慈悲か この時 俄《にわか》に 空かき曇り 清三かざせる その脇差に 走る稲妻 落ちる雷 気を失いし 二人の傍を 折しも通りし 紅花百姓 見付けて驚き 助け起して 肩に担いで 紅屋に運ぶ 人の口には 戸は立てられず 清三おたかの 恋物語 その日のうちに 御濠《おほり》を越えて 平畠城主の お耳に入る 明けて朝《あした》の 紅屋の見世へ 城より御使番《おつかい》 見えられまして 重罰覚悟の 喜左衛門に 音吐朗々 斯《か》く申さるる 「いかに紅屋が 物持ちなれど そなた町人 こなた城持ち 元来《もともと》 釣り合う 縁にはあらじ 此度《こたび》の話 なかったと思え」 声と杵の音、やや遠退《の》く。音たちにかわって照明《あかり》が舞台中央に満ちはじめる。 紅屋のお庭の 三蓋松《さんがいまつ》に 鶴が黄金《こがね》の 巣をかけまわし 十二の玉子を 生み育《はぐく》んで 母鶴《は は》もろともに 立つ吉日に 長柄の銚子に 酒くみあげて 倶《とも》に嬉しく 三三の九度 二人めでたく 添いとげて 清三は 五代目 喜左衛門 夜具。枕がふたつ。枕許に黒塗りの箱膳ひとつ。その上に酒肴《しゆこう》の支度。盃《さかずき》を舐《な》めていた徳、舌鼓を打ち、 徳 ……絹布団、鯉濃《こいこく》、こってりと濃い地元の銘酒、それも女を待ちながら……。ありがてぇ、こたえられねぇ、まるで夢でも見ているようだ。ありがてぇといえば今の歌も相当にありがたかったねぇ。……(情報のひとつひとつを心に刻みつけるつもりの、噛《か》みしめるような口調で)身無し子で係累なし。丁稚十年番頭七年。二十二歳のときに家付き娘と恋仲になる。死ぬの生きるのと大騒ぎの末、紅屋に婿に入って五代目喜左衛門……。おれの半生が手際よく今の歌にすっぽりと収っていた。おかげでおれの素姓はどうやら掴《つか》めた。おれの身の上、輪郭だけだがなんとか見当がついた。(ふと表情と躰を硬くして)だが、おれは紅花のことなぞ兎《う》の毛で突いたほども知らねぇ。どうする? ひと月やふた月は「天狗《てんぐ》様に脳味噌を抜かれましたので、一切記憶しておりません」という顔をしていれば通るだろう。しかしその先は……? 果していつまで「天狗に脳味噌を抜かれた馬鹿」で突っ張っていられるか。此処《こ こ》の連中がいかにお人善しの鈍間《のろま》揃いでも、やがてそのうち、眉に唾をなすりつけだすに決まっている。(頷いて)……ひと月だ。ひと月だけ天狗に攫《さら》われた喜左衛門で通してやろう。そのあいだに、あのおたかを抱きづめにし、金目のものに当りをつけておく。で、梅雨の前に、金目のものを掻《か》っ浚《さら》って雲を霞《かすみ》と……(ぐいと盃を空にして)弱虫め! 宝の山の登り口に立ったばかりだというのにもう顫《ぶる》ってやがる。たったひと月でこの肌ざわりのいい絹布団とさよならかい。わずかのひと月で、この舌ざわりのいい鯉濃や、咽喉《の ど》ざわりのいい酒とアバヨかい。此処の連中はたれもかれもおれに会ったとたん、これはこれは喜左衛門様と丁寧に腰をふたつに折る。おれはよほどその喜左衛門という男と似ているにちがいねぇ。だからなにもそうびくびくすることはねぇんだ。此処の鈍間連中が眉に唾を付けておれを疑い出す前に、こっちが喜左衛門になり切ってしまえばいいんだ。智恵のありったけを総揚げして喜左衛門のことを調べあげ、調べあげたことを肌に擦《なす》り込む。そうしておれは喜左衛門そのものになる……(と、化石のようになって)し、しかし、調べのつかねぇこともあるぜ、たとえば、喜左衛門はおたかをどういう風に抱いていたんだ、え? 夫婦の間にはいつのまにかそう決まってそうなった閨《ねや》の作法みたいなものがあるはずだが、喜左衛門はいきなりおたかの口を吸っていたのか、それとも足の拇指《おやゆび》からじっくりと舐めて行くことにしていたのか。(ぱっと股間《こかん》を掴んで坐り直し)まてよ、こいつだけはどう逆立ちしても喜左衛門にはなりきることができねぇ。こいつの寸法、反り具合に垂れ具合、色合い、それだけはどっちからも歩み寄る手立ては……、ちぇっ、今ごろばたついたってはじまらねぇや。こうなりゃ一気に攻め込む一手だ…… 白っぽい浴衣のおたかが白手拭をさげ白い影のように現われる。 おたか お湯もいいげんども上気《のぼせ》性だもんで、ながなが汗が引っ込まねで困るっす。(徳の横に足を崩して坐って)あんだ、この浴衣さ憶《おぼ》えあっぺが? ほら、あんどぎ。盆踊の夜、紅花畠の中で、あんだとはじめて肌ば合せだどぎ、おら、この浴衣ば着て居《え》だもんだった。なす? 徳 (曖昧に頷いて)う、うう…… おたか あれがら何年になっぺがなす? 徳 (指折りかぞえておずおずと)四、五、六…… おたか んね、七年。 徳 (すばやく頷いて)んだったな、七年だったな。早えもんだ。 おたか んでねぇ。もう八年になっこったよ。 徳、どきりとなる。が、ぐずぐずと何度も指を折って数えたりして誤魔化す。その指へおたかは手拭を引っ掛け、 おたか だば、あんだ、えづものようにすて。えづものようにおらば喜ばせでくだい。 おたか、浴衣の襟《えり》をぐっと緩め、立膝になる。徳は困り果て、「えづものよう、えづものよう」と呟《つぶや》きながら、手拭で額の汗を拭う。 おたか あんだ、おらさ触んの、そげに嫌《や》んだの? (鋭く)あんだ、嘘ば吐《つ》えで居《え》だんだべしゃら? 天狗さ攫われだ言《つ》うの、真赤な赤嘘でねぇの。 徳 (びくり) おたか おらの眼は節穴じゃねっし。あんだ、おらのごどが鼻さつきだしたんでねぇの。おらがら逃げだのはおらのごど嫌《や》になったがら…… 徳 ち、ちがうって。(決心しておたかに抱きついて行き)おれ、好ぎだよ。 おたか (躱《かわ》して)んね! えづものようにすて! 徳 (胸許へ右手を抉《こ》じ入れ)えづものようってこうだったっけ? おたか んね! そげな擽《こちよ》びってぇごど、おら嫌《や》んだ。 徳 (口へ吸いつこうとしつつ)こ、こうだったけか。 おたか んねてば! 徳 (足の拇指を咥《くわ》え)こ、こうか。 おたか んねぇ! 徳 (腰のあたりへ手を滑り込ませ)じゃあ、きっとこうだ…… おたか んね、んね、んね! (激しく首を振って坐り直し)清三様、あんだ、この半年間、他《ほが》の女子《おなご》と寝で居《え》だね? いきなり胸さ触ったり、口ば吸ったり、足の拇指ばしゃぶったり、股倉《またぐら》さ手ば突っ込んだり、その女子、そうされるどてっちり喜んだんだね? 徳 頭、痛《い》で! 天狗が脳味噌ば持ってっちまった。ああ、痛《い》で。頭、痛《い》で! おたか また天狗すか。なにか言《つ》うどすぐに天狗ば持ぢ出して、いきすかね人だごど。富山の万金丹じゃあんめぇし、テ・ン・グの三言《みごど》、そうなにさも効《き》く言《つ》う訳には行がねぇべなし! (と、金切声になりかかるが、辛うじて自制して)……ああ、このおたかは住吉大明神様《さま》さ願ば掛けだんだった。清三様が事なしでおらのどごさ、この紅屋さ戻ってきてけだら、なにも文句は言《ゆ》わねってなし。たとえこの半年間、清三様がどごで誰となにをしてござったとしても、それはおらの知った事《ごど》ではね。(優しく)清三様、思い出すておごやえ。清三様はえづもおらの首ば手拭でやんわりど絞めで居《え》でけだもんだったよ。 徳 手拭で……〓 (と、すこし呆《あき》れながらも、おたかの首を手拭で軽く絞めあげる)こ、こうだったっけな? おたか ああ、いいごだ。そうされっつど、紅花畠の中であんだど一緒に死ぬべどした時《どぎ》の事《ごど》ば思い出して、おら、おら……ああ、いいごでし。清三様、あんだの握らせで。 徳 (仰天)……! おたか あんだはおらの首ば絞める、おらはあんだのば触る。これがおらだぢのえづものやり方……。(のけ反《ぞ》りながら徳の股間に右手を差し入れ)おお、生ぎで居《え》る蝦《えび》みてぇにぴんぴん跳ねで。ああ…… 徳 おたか。 おたか あ! (不意に目が光って)大《お》っけえ。大《お》っけすぎる! (徳の股間へ素早く視線を這《は》わせ)それに、鈴口の処《とこ》さ大《お》っきな疣ふだつ! 徳 天狗が呉《け》だんだ。 徳は構わずおたかに抱きつき押し倒す。 おたか (どこかへ向って祈るように)清三様《さ》、堪忍《かに》しておごやえ…… 暗くなる。杵の音が再び聞えて来、さらにその上に瓦屋根を激しく叩く雨の音が加わる。 五 天狗問答 雨の音のみ残る。その雨の音もすこし弱くなり、明るくなると、旗亭の二階座敷。徳と金七が上座に向って平伏している。上座には平畠藩家老・浜島庄兵衛、勘定役・長谷川又十郎、藩儒・佐藤愕夢《がくむ》。なお、下座に紅花問屋仲間の白石《しろいし》屋と最上屋。それに住吉大明神宮司。 金七 旦那様《さ》、えづまでもそう蟹《かに》みでに畳の上さぴったらこく貼《は》っ付いで居《え》なくてもええんでねがねべす。ここさ居《え》られる皆様はみな旦那様《さ》と懇意な御方《おがだ》ばっかなんだがらねす。 徳、最前線へ斥候に出た臆病な物見《ものみ》のようにおどおど顔をあげる。 浜島 (訛《なま》りは強いが一応は江戸言葉。以下の長谷川と愕夢も同様)喜左衛門、おまえが戻ってきたことを殿様にも申し上げてある。殿様は殊の外お喜びの御様子であったぞ。 金七 旦那様《さ》、平畠藩御家老・浜島庄兵衛様《さま》であんじぇっしゃ。思いだせねぇすか? 徳 ……天狗…… 金七 どうも御家老様、不調法な事《ごつ》で…… 浜島 よいよい。金七がそう気に病むことはない。ときに喜左衛門、その方はこの平畠にとってまことに掛替えのない男だ。知っての通り、わが御領内最大の物産は紅花、平畠二万石の収入の七割までが紅花会所からの上納金によって占められている。別に申せば…… 長谷川 (浜島に)時によってはその八割以上までが、でございます。正鵠《せいこく》を期すために申しあげますと、昨年は藩収入の七割五分八厘、一昨年は八割四分七厘が紅花会所からの上納金で。 金七 (徳に)さすがは御勘定役だなし。長谷川又十郎様の頭《あだま》の中はえづも数で一杯《えつぱい》だわ。なし? 徳 (ぽかんとした表情で左手で左鬢《びん》をのろのろと掻いている)…… 浜島 別に申せば、だ。紅花会所とこの平畠の御領所は一心同体、会所が潰れれば平畠も潰れる、そう言い切っても決して言い過ぎではなかろう。そして喜左衛門、その方はその紅花会所の中心人物、大黒柱、屋台骨、中核、中枢、中軸、枢軸……(白石屋と最上屋にチラと笑いかけ)と申してはそこに控えておる紅花問屋仲間の白石屋と最上屋が気を悪くするかもしれないが、ま、許せよ。 白石屋と最上屋は浜島に愛想笑いでこたえ、徳へも或る親密な微笑を送る。 浜島 この数年、平畠御領内における紅花の収穫高は年々殖えておる。 長谷川 (すかさず注釈)昨年の収穫高は五年前のちょうど二倍に達しております。 浜島 品質も一段と向上した。京都の、百四十七軒の紅花買入問屋たちは、これまで最高とされていた寒河江《さがえ》産の紅花にはもはや見向きもせず、平畠産紅花に目の色を変えている。 長谷川 昨年の寒河江産紅花の相場は一駄、すなわち三十二貫で金百両、平畠産紅花は一駄百二十両で…… 浜島 (苦笑して制し)まあ、細かい数字はとにかく、この収穫量の伸び、品質の向上は正直いって喜左衛門、その方が、紅花に与える水の量や肥料を工夫する一方、新種の紅花をいくつもつくりだしてくれたおかげによる。平畠産紅花の盛衰はその方のその両肩にかかっているといってよい。わしの申しておることがわかるか? 金七 浜島様《さま》、旦那様《さ》はどうもまだそのう、脳味噌の半分が…… 浜島 天狗から返してもらってはおらんか。 金七 は、はぇ。 宮司 (猥《みだ》らな言い方で)天狗から返してもらった方の脳味噌にゃどうやらおたか様《さ》のごどばっか入って居《え》だようだったな、金七。お前様《めさ》の主人は、帰《けえ》ってから今朝までの三日三晩、おたか様《さ》の白《しれ》え腹の上さ乗っかりっぱなしだった言《つ》うではねぇが。もっぱらの評判だぢぇ。 金七 はぁ。乗っかりっぱなし言《つ》うごどはねぇども、まぁ、なにしろ半年ぶりだっちぇ、そこはそれ、だれだって餓《かつ》えで居る言《つ》うもんで……(もごもごと肯定) 長谷川 となると、おたかはこの男を喜左衛門であるとはっきり認めたわけだな。妻にだけしかわからぬ夫であることの刻印《しるし》、それをおたかはこの男の躰のどこかに見付けた…… 金七 だと思うっし。 白石屋 長谷川様《さま》、仲間にだけしかわからねぇ友だちであることの刻印も、おらぁいまはっきり見付けて居《え》るし。(最上屋に)なぁ、最上屋様《さ》? 最上屋 へ。(と立って、徳の左腕を掴み、袖をまくりあげ)さっき、この人、頭ば掻《け》えでっとき左腕のこの傷痕《きずあと》ば見で、こらァ喜左衛門様《さ》に違いねぇわ、と白石屋様《さ》ど小《ち》ちゃこい声で喋《くつちや》べって居《え》だんだっけ。 長谷川 ほう。 最上屋 一昨年《おどどし》の秋の事《こつ》たったども、おらだち三人、この近くの赤湯さ湯治《とうじ》さ行き申してなし。そん時《どぎ》、酒ば飲んだ勢いで湯治場の湯女《ゆな》さちょっかい出して歩いで居《え》だら、喜左衛門様、いぎなり浪人者がら左腕を抜き打ちかけられたもんだったも。 白石屋 んだった、運の悪いごったった。喜左衛門様《さ》の声ば掛げだ女子は湯女ではながったのっし。その浪人者の嬶様《かかさま》でござった。その女子、湯女と紛らわすい恰好ばして居《え》だったから、こら、喜左衛門様《さ》ばっかは責めらんねけんども、どうしても斬る、言《つ》って息巻く浪人者さ、金ば三両押しつけて…… 最上屋 あいや、五両だったべちぇ。 白石屋 だっけ? 最上屋 うん。 白石屋 とにかく金で話ばつけで、外聞悪《わ》りいがら、湯の釜さ腕ば押っ付けで火傷《やけど》ばした言《つ》うごどで口裏ば合せで帰って来たんだっけ。 最上屋 そん時の傷痕がこれっす。 白石屋 これはおらだぢ三人しか知らねぇ事で、(徳に)なっす? 徳、傷痕を撫《な》でつつかすかに頬笑む。 最上屋 あいやァ、喜左衛門様《さ》、思いだしてけだがや! 白石屋 えがったごど。 最上屋 嬉《うる》すえごど。 最上屋は雀躍《こおどり》して席へ戻るが、それまでにやにやして紅花問屋たちの話に耳を傾けていた浜島庄兵衛が急に、刀の切ッ先のような鋭い眼になって、 浜島 喜左衛門。今日のこの集り、じつを言うとその方を査問するためのものじゃ。喜左衛門は平畠の大黒柱。その肩に、三百余名の平畠・織田家家来、千五百余名の紅花百姓、六百の職人、そして四百の商人の福利を担っておる。その責任はたとえようもなく重い。その方が申し立てるように、天狗、あるいは山人《さんじん》に真実攫われたのであれば、これは人力ではどうにも防ぎ得ぬこと故、その方の半年間の不在は不問に付そう。がしかし、もしほかの理由で平畠を離れたのであれば、きわめて無責任。というよりは、平畠のすべての住人に対する裏切りといわなければならない。これより藩儒の佐藤愕夢がその方を査問する。 浜島は愕夢に目配せ。愕夢はひと膝《ひざ》、進み出る。眼光炯炯《けいけい》たる総髪の青年。 浜島 愕夢はこの正月まで、天下に聞えた国学者で、同時に天狗学の権威でもある平田篤胤《ひらたあつたね》の許で勉学していた男だ。佐藤信淵《のぶひろ》と並んでこの佐藤愕夢は、「平田門下の二人佐藤」とまでうたわれた俊足でな、しかも天狗学についての蘊蓄《うんちく》は師の篤胤でさえも舌を巻き三舎を避けるほどだと言われておる。こと天狗に関するかぎり、この男に、いささかの嘘も通じない。……査問の結果、天狗に攫われたという申し立てが嘘言と判明した場合は、その方は即刻、自害しなければならぬ。 徳の顔を、一瞬、恐怖の静電気が走る。 浜島 逐電の理由はどうあれ、無断で、半年間、自分に課せられている重大な責任を投げ捨てかえり見なかったことは許されるものではない。自害の方法だが、特に士分なみに切腹をさし許す。これはその方のこれまでの働きを充分に評価しての措置だ。得難くも有難いことであると思わねばならぬ。 愕夢 (間をおかず、天候の挨拶でもするようにすらっと)ほんとうに天狗に攫われたのですね? 徳 (頷く) 愕夢 では、攫われたときの様子をできるだけ詳しく。 徳 (はじめのうちは無機的に言葉の細片を積み重ねて行く)……境内で、住吉大明神の。新《あだら》すい紅花の種類を、冷害にも旱《ひでり》にも強《つえ》え紅花の種類を、考えつかせてくだせいって、境内で拝んでだ。す、すっと…… 愕夢 (誘って)すると……? 徳 神殿の屋根がら、ふわっ。大っきな布《きれ》、降って来た。布、おらば包んだもね。 愕夢 布の色は? 徳 ……柿色。 愕夢 で? 徳 目の前、頭の中、まっ白。はっと気が付ぐど、山の中。こう木があって、また木があって、またまた木があって、まんなかさ空地。 愕夢 空地の広さは? 徳 百五十……、んでね、二百坪もあったべが。ちょうどお祭で。 愕夢 祭? 徳 だったと思うっし。 愕夢 その祭りかたを憶えていますか? 徳 (しばらく言葉を探しているが)四隅《よすみ》さ垂《しで》ば付けだ竹立てて。んで、まわりさ、しめ縄ば引き廻すて。まんなかさ御幣立でで。その前さ供物《くもつ》置いで……。(もどかしそうに)んと、んと、えーとんーと。 愕夢 供物は何に盛ってありました? 徳 土器。土器さ木の葉敷いで、その上さ盛ってあった。そのうぢに、天狗の頭目が出で来て、んと…… 愕夢 その頭目ですが、名を名乗りましたか? 徳 んと、岩間山の、杉山組正《そしよう》だどが言《ゆ》ってたよだったなし。 愕夢 その頭目、あなたになにか言いましたか? 徳 (度胸がついて調子づき)偉れえ男だって。 愕夢 あなたのことを、ですね? 徳 んだ。朝がら晩まで、晩がら朝まで、紅花のごどばあかし考えで居《え》っとが偉れえって。んで、その熱心さば愛《め》でで褒美《ほうび》ばくれでやる。今までにねぇよな丈夫でいっぱい花ば付ける紅花の新種ばおめえさ思い付かせてやっぺ、それが褒美だ。さ、そういう智恵がこんこん湧《わ》ぐよに供物ばすこし喰って行《え》げ…… 愕夢 たべましたか? 徳 ん。 愕夢 それはどういう供物でした? 徳 山芋ば浅草海苔《の り》の上さ摺《す》りおろし、塩ば振って、山椒《さんしよう》一粒のっけで、くるくる包いで、両端《りようはし》ば、菜ッ葉が紐《ひも》がわりにしてくくってあったようだったねし。 愕夢 ほかには? 徳 そんだげ。んで、おら、仕事があっからもう帰《けー》る、言ったら、またふわっと大きな布《きれ》ばかけられで、また、目の前、頭の中、まっ白。はっと気が付えだら、おかね婆《ばつぱ》の茶店の近くの祠《ほこら》の中さ居《え》だんだもんだったっけ。攫われでがら帰ってくるまで、ほんの一刻《えつとぎ》か一刻半ぐれぇの感じ…… 愕夢 天狗の御褒美の、紅花の新種ですが、もう思いつきましたか? 徳 (頭を拳でゴツンゴツンと打ち)まだだ。それどころか紅花のごどは、すぽっと頭の中がら抜げでしまって居《え》るっちぇ。ああ、このドジアダマ…… 愕夢 ご心配なく。間もなくすべての記憶を取り戻されることでしょうから。そして、喜左衛門殿、あなたがいっときも早く紅花の、よりよい、よりすぐれた新種を創り出されるよう祈っております。 徳 出来っぺが? 愕夢 (限りなくやさしい口調で)出来ますよ、あなたなら。それに天狗がついているじゃあありませんか。天狗は約束を守りますよ、かならず。そうだ、紅花の取り入れが終って秋になりお暇ができたら、一日、わたしのためにさいてくださいませんか。もっと詳細にあなたのお話を伺いたいのです。そして伺ったことを細大洩らさず平田篤胤先生の許へ書き送ろうと思うのですが……、それについてはまた後日改めてお願いに参上いたします。 愕夢はもとの位置へ戻る。平和な沈黙とたしかに天狗に逢ってきたらしい人間への畏敬《いけい》の念、このふたつの濃い液が座敷中を充たす。折から雨の音が激しくなり、なったかと思うとぴたりとやむ。障子(正面奥のかなりの部分を占めている)が明るく輝きはじめた。 浜島 (念押し)愕夢、喜左衛門の話に嘘はなかったのだな? 愕夢 いささかも。喜左衛門殿の申されたことすべて、古来からの天狗に関する諸資料と完璧《かんぺき》なまでに符合し、一致しておりました。 浜島 そうか! ご苦労だった。 金七、徳の手をとって、ただしきりに頷いている。金七は泣いているようだ。白石屋、最上屋、宮司の三人は、徳にかけ寄り、自分たちの席へ誘って行こうとする。徳、手拭を出し、額や襟許を拭きながら、 徳 ちょっこら、廊下の窓がら外さ顔ば出して、風ッこさ当りでぇんだども。 白石屋 あ、んだな、それもえがっぺ。 最上屋 んだ。長雨も上ったよだし、こら、万事万々歳だちぇ。 徳は廊下(舞台前面)に出て、懐中に風を入れる。顔に、安堵《あんど》のあまりの一種の脱力感が泛《うか》んでいる。 金七が階下に向って手を鳴らす。 金七 姐《ねえ》ちゃん方、酒っこ運んできておごやいよ! 早《はえ》ぐ酒ぁ来い! 「あーい」という黄色い声が返って来る。 徳 ……あいつ、なんと言っていたっけ? 名前は忘れてしまったが、キ印《じるし》の願人坊主がいたが……。子どもの時分、天狗隠しになったことがある、そのときのはなしを十文できかせてやろう、酒に酔うとそう言って乞食仲間に悪迫《わるぜま》りしていたっけ。情けは施しておくものだ。あるとき可哀相になって五文に値切って、あのじいさんの天狗隠しの話を聞いたことがあったが、それが今日、おれの命を救ってくれるとは…… 芸者や仲居たちが、お膳や酒と共に華やかで艶《つや》っぽい雰囲気《ふんいき》を座敷に運び込む。おしまいに登場したのは凄《すご》い美《い》い女。するすると徳に寄って、低いがよく透る声で、 花虫 喜《きい》さん、どうしたのさ。 徳 ………? 花虫 帰りがちょっと早すぎたじゃないか。おたかさんの躰《からだ》が恋しくなったのかい? 徳 ………! 花虫 天狗に攫われたんだってね。よくもまぁそういう子どもだましを捏ねあげたものだねぇ。 徳 だ、だれだ? 花虫 天狗騒ぎのほとぼりがさめたら、きっと逢ってよ。あなたの方から逢いにこなきゃならない理由があるんだから。 女は浜島や長谷川に商的嬌声《きようせい》をあげて近づき、酒をすすめる。浜島は女の躰を撫でようとし、そのたびに躱されている。 徳 喜左衛門のやつ、おたかという別嬪《べつぴん》の女房がありながらいまの妓《おんな》ともなにか訳があったらしいな。しかし、どんな訳があったんだ? 喜左衛門め、綺麗だが厄介なお土産のこしていきやがったな。 金七、心配顔で近づいてくる。 金七 旦那様《さ》、今日のこの席の主客は旦那様《さ》であんじぇっしゃ。査問が事なぐ済んだところで旦那様《さ》の、つまり凱旋《がいせん》祝賀の宴で……。んだがらそろそろ席さ戻らねぇどその…… 徳 (頷き)金七、あの女子は何者《なにもん》だったべが? おら、どうも思いだしぇね。 金七 花虫のこったべが? 徳 花虫……? 金七 去年の夏ごろだったべが、ん、旦那様《さ》が天狗さ攫われるふた月ばっか前に、江戸がら流れで来た芸者で、一年もしねうちに平畠百人の芸者衆の一番の売れっ子株さ成り上ったみでで。 徳 んで、どげな女子だちぇ? 金七 それが、身持ぢの固《か》でぇ芸者で、客どは枕ば交さねぇ言《つ》うごって。そごがまた人気の因《もと》で…… 徳 身持ぢが固でが。言い交した男でも居るんでねぇの。 金七 さぁ、どうだが。 金七と徳は席へ戻る。なにがおかしいのか花虫が笑い出し、笑い続ける。その花虫にのみ、緩やかに照明《あかり》が絞られて行く。 六 六《ろく》 紅花畠を貫通する灌漑《かんがい》用の掘割の岸。掘割には泥舟が一隻。その艫綱《ともづな》は岸の桜桃の木の幹に結えつけてある。 金七が徳を案内しながら登場。金七は急ぎ足、一方、徳の足はひどく重たげである。 金七 ……旦那様《さ》、此処《こ こ》でございます、その男がおらば呼び止めだなぁ。(見廻して)あいや、居《え》ねぇな。 徳 そえづ、たしかに釜六《かまろく》と名乗った言《つ》うんだな? 金七 んだっし。 徳 どげな風体の男だったべや? 金七 へんちくりんな男でございしたなぁ。赤色《あがえろ》だの、桜色《さぐらえろ》だの、水色だの、派手な布《きれ》ば継ぎ当《あ》でだ紫色の着物ば着た男で、色が白くて、なよなよて、まぁ役者の出来損い言《つ》うどごだったちぇ。気味悪《きびわ》りごどに喋《しやべ》るどぎにはしなしなて愛敬《し な》ば作って、そごらは、まぁ、女子の出来損い言《つ》うどごで。そえづ、旦那様《さ》の知り合いだど言《ぶ》ってだけんど…… 徳 知んねぇなぁ。 金七 だべなぁ。おらの見だどごでは、旦那様にはあげな変哲《へんてこ》な知り合いは居《え》ねがったはずだったもな。……やれやれ、掘割の水っこ、またぐうんと減ったもんだなぁ、こりゃ。 徳 (木の幹に凭《もた》れて陽を避けて)そりゃ、このひと月、お湿《しめ》りなしのお天気つづきだもの、当り前《め》だべちぇ。 金七 そげな呑気なごど言《ゆ》ってござってでええんだべがなす? もう梅雨さ入《へえ》った言《つ》うのに一滴の雨も降らねぇ。あと十日もすっと紅花の若茎ぁからからに干からび、枯れあがって全滅だべなっし。 徳 わがって居《え》るごで。 金七 それはどうだべなぁ。えづもの旦那様《さ》ならば、あそごどあそごさ井戸ば掘って畠さ水掛げろどが、紅花の根元さ撒《ま》えだ肥料《こやし》ばすこし抜いで置げどが、神経痛《しんけや》みみでぇに狂いに狂って、腹ば減らした地鼠よろしぐ、畠の中ばくるくるくるくる駆け廻って居《え》られるはずだちぇ。 徳 んだがら、紅花についてだけは、まだ、何も思い出せねぇのっし。まったく、あの天狗の野郎…… 金七 (また不意の攻勢に転じて)それさしても、おがしなごど言《ゆ》って居《え》だったなぁ。 徳 おがしなごど? 誰がす? 金七 あの釜六言《つ》う江戸者がす。旦那様《さ》は偽者《にせもん》だど、す。偽の喜左衛門だど、す。 徳 おらを蔭で偽者《にせもん》呼ばわりする者《もん》はこの平畠さもごまんと居《え》っこった。べづに珍すい事《ごど》ではね。 金七 まあ、紅花百姓の半分は旦那様《さ》の事《ごど》ば、疑《うだぐ》りの眼《まなご》で見でるごったなっし。言《つ》うのも旦那様《さ》が紅花の事《ごど》についで何もおっしゃんねぇがらだけんど。毎日、紅花畠さ出はってござって、ぽけっと百姓の仕事ば眺めで居《え》るだげで、紅花栽培についでは一言も口ば開がれねぇ。おまげにこの日照りつづき……。百姓は心もとなくなって、そんで、ひょっとすたら、旦那様《さ》がじつは旦那様《さ》でねぇんでねぇが、なんて蔭でくちゃくちゃくっちゃべって居《え》んだはなっし。いくら天狗がら脳味噌ば抜がれだにしても、他の事は日一日と記憶ば取り戻してござる言《つ》うのに紅花の事になる言《つ》うど田螺《たにし》みでぇに口ば固《か》でくなり申すのは奇態な話だっちぇ。百姓どもはそう…… 徳 金七、おめえはどうなんだっちぇ? おらば偽者だど思ってんのが? 金七 まさが! 爪の垢《あか》ほども疑ってなぞ居《え》ねぇって。んだがらこそ、去年、旦那様《さ》がおやんなさった事ば思いだしながら、旦那様《さ》のかわりに、やれ灌漑用水を汲《く》み上げる井戸ば掘れ、それ肥料《こやし》ば抜げ言《つ》って百姓の尻《けつ》ば叩えでまわって居《え》るんだべちぇ。もしも旦那様《さ》が怪《あや》すいと思えば、この金七が百姓の先頭さ立って、とっくに旦那様の化けの皮ば剥《は》いで居《え》だったこった。 徳 おらはべつに焦らねぇよ、金七。時《とぎ》が経《た》でばおらの頭も元《もど》さ戻《もど》るごった。そん時までたんだ黙って待づ外《ほが》ねぇ。んで、そん時になればなにもかもはっきりする。おらが本物かどうか、噂《うわさ》が本当だったかどうか、そん時になれば…… 金七 んだなっし、そういう事《ごつ》たなし。だども旦那様《さ》、出来る事《ごど》なら、紅花の事《ごど》だげは早《は》えぐ思いだしてくださいよ。こん儘《まんま》、十日も日照りが続けば間違えねぐ平畠の紅花は全滅だっちぇ。ここ二、三日のうぢになにが方策ば立でね言《つ》ど百姓がまだ騒ぐ…… 徳 (ほんの思いつきで)んじゃ雨乞いでもすんべがね。 金七 (ひどく感心して)雨乞いがし〓 そら善事《ええごど》! 徳 住吉大明神さでも拝申《おがも》すが。 金七 はぇ。んでもよぐまぁ雨乞いば思い付えでおぐやった! やっぱ旦那様《さ》は本物様《さま》でござ申《も》す。(と思いついて、周囲を見まわし)それにしても、あの男《おどご》、何処《ど ご》さ行《え》ったもんやら…… 徳 ええべ、金七。そげな男のごど、ぶん投げとげや。 金七 そうは行《え》がね。旦那様《さ》ば騙《かた》り者《もん》呼ばわりするよな野郎はぶん投げで置げね。なんせ、あの男、自分は旦那様《さ》が偽者だ言《つ》う証拠ば握ってると語って居《え》だったもんだも。取っ捕《つか》めで詮議すて、嘘は嘘と、きぱっとさせどがねば、百姓がまた一層騒ぎ出すこったがらねし。そごらばひと廻りすて探してくっから。あの野郎《やろ》、まったくごだごだと世話の焼げる男《おどご》だごだ…… 金七、登場の時とは反対の方向へ入る。見送って徳は手拭で顔や首筋を何度も拭い、 徳 本物の喜左衛門と江戸の乞食仲間、このふたつ、そのうち姿をあらわすかもしれねぇと覚悟はしていたが、その一番手があの釜六、男娼《おかま》の六郎だったとは意外だな。糞《くそ》と疥癬《かいせん》と痔《じ》の尻《けつ》まくって四文銭稼《かせ》いでやがったあのどぶ鼠め…… 声 ……疥癬は綺麗に治ってるよ。 泥舟の中で筵《むしろ》を跳ね退けむっくりと躰《からだ》を起した若い男がある。汚らしい風体だが一応は若衆の拵《こしら》え、むろんこれは釜六。 釜六 だから今では六文いただいているんだよ。徳にいさん、おひさしぶり。 徳 お、おら、喜左衛門つう者《もん》だが…… 釜六 白《しら》を切ってもだめよ。いまのひとり言ちゃんと聞いちまったもの。 徳 ひとり言? そら、あんだの空耳だちぇ。おら、ひとり言ば口喋《くつちやべ》って居《え》るほど、暇な躰じゃねぇごんだ。だども、袖ばすり合うのも他生の縁、だれがに見間違えられだのもまだなにがの縁…… 袂《たもと》から銭を掴《つか》み出して泥舟の上に撒き、 徳 掻《か》き集めりゃ百や二百にはなっこった。早えぐ拾ってどごさでも行《え》ぎなえ。 立ち去りかけるのを、釜六、泥舟から岸へ移りながら呼び止める。 釜六 鈴口の疣《いぼ》のことを忘れてるよ、徳にいさん。あんたの股《また》の間のぶらさがりものの雁首《がんくび》にある、暗い紫色の大きな疣が懐しくて、あたいははるばる百里の道をやってきたんじゃないか。邪慳《じやけん》にしちゃ罰が当るよ。 徳 な、なにば言《ゆ》ってんだが、おらにゃさっぱり呑み込《ご》めね…… 釜六 あたい、一度、あんたに可愛がってもらったことがある。一度だけだったけど、あの疣の、色、形、大きさ、ようく覚えているよ。何千人て男を知ってるけど、鈴口に疣のあるものを拝んだのはあんたが最初で最後さ。ってことは、徳にいさん、これは証拠になるんじゃないかしら。なんならここの奉行所へ行ってお伺いを立てましょか、え。 徳 お、おら、紅屋喜左衛門だちぇ。徳にいさんと呼ばれたごどもねば…… 桜桃の木の下になにか見つけ、足が止まる。 徳 ……徳にいさんなんて御仁も知《す》らね。 と、屈《かが》んで拾う。拾い上げたのは錆《さ》びて曲った五寸釘《くぎ》。 徳 まんだ使えっ言《つ》うにこの五寸釘、勿体《もつて》ねぇごだ。 釜六が低い声で笑い出す。徳、すべてを察して、 徳 手前《てめえ》……! 釜六 そう、あたいがたった今、こっそり落っことしといたの。……あたいを恨むのは筋ちがいだよ。恨むんなら、拾い屋っていうあんたの仕事をお恨みよ。物心つく前から釘を拾っておまんまにありついていると、やっぱり、錆びて曲った五寸釘でも、その前を素通りは出来ないものなんだねぇ。平畠一の大商人の紅屋喜左衛門なら見逃していたと思うけど…… 徳 教えられたぜ、六《ろく》。なるほど、他人《ひ と》の癖は盗めるが、手前の癖を躰の外へ弾き出すのは難しいや。これからは気を付けるさ。 と、泥舟に移って腰をおろし、船縁《ふなべり》に釘をのせ、小石でとんとんと叩き出す。 釜六 徳にいさん、どうやらあんた、ここででかい鉱山《や ま》を掘り当てたようね。あたいにも一口…… 徳 それならどうして、おれが偽者だと触れて歩いた? 釜六 逢ってもらいたい一心でね。藻草の奥から魚を追い出すには藻草を棒で叩くのが一等の早道だろう? それよりどういう段取りなの。喜左衛門になりすまして金目のものに当りをつけておき、鳶《とんび》じゃないけど、いい潮時を見計って油揚ごっそり掻っ攫《さら》ってどろん、て手順? そのときは千両箱をひとつふたつ担がせて。もともとは男だから、これで、案外、力はあるんだ。 釜六は泥舟の徳の横に坐り、徳の袖などをいじりながら、 釜六 分け前で上野の仏店《ほとけだな》あたりの露地の奥に「踊指南」の看板出して地道に暮すつもりだよ。むろん、あんたの前は二度とうろつかない。あたいももう数えで三十、他人に菊の花を賃貸しするのは辛い年齢《と し》になっちゃった…… 徳 ひと月、遅かったな。このひと月で、おれはすっぽり填《はま》っちまったんだ。 釜六 填っちまったって、なんにさ。 徳 まず言葉さ。ここんとこ毎晩、二刻《ふたとき》と眠ってやしねぇ。丑満時の八ツにはきっと目が覚めて、それから朝まで、頭の中で平畠言葉の稽古だ。昼間、耳に留めておいた言葉や言い廻し、そいつを何回も口の中で繰返し頭に刻みつける。これが結構おもしろい。 釜六 ふん、こんな在郷《ざいご》の言葉のどこがいいのさ。 徳 おれが店で丁稚《でつち》どもに平畠弁でなにか言う。するとおれの言葉は徹頭徹尾重んじられ実行される。それから、お城の御重役連に、おれがなにか思いつきを言う。すると御重役連は三日も四日もかけて、おれの言葉を検討する。つまり、おれの喋る平畠弁には他人を動かす力があるのだ。そこがおもしろい。そげな訳《わげ》で、おら、今《えま》では、頭ん中でものば考えどぎも平畠弁ば使って居《え》っこった。こうやって江戸弁、使う方がよほど骨が折れら。 釜六の顔を次第に冷笑が大きく占めて行く。 徳 仕事にも填ってしまった。紅花栽培を覚えようと思って、おれはこうやって、毎日、野良通いをしている。それで気の付いたことは、畠全体が、日一日と大きくうねりながら動いてるってことなんだ。一昨日《おととい》の芽が昨日は双葉になり、今日は茎になる。そうして明日は左右に葉をのばす。見渡すかぎりの紅花畠、これがひとつの方角に向って動いている。平畠中の紅花畠がたった一匹の大きな生き物なんだよ。胸の底がじーんとなるような光景だぜ、これは。五寸釘を見付けるときも嬉しいけども、拾ってしまえばおしまいだ。六寸釘、七寸釘、八寸釘と伸びたりはしない。ところが紅花は…… 釜六 百姓の半分があんたを疑ってるっていうじゃない。いまにきっと化けの皮を剥されてしまうよ。だいたい古釘の拾い屋に紅花百姓の差配が勤まるわけないじゃないの。 徳 おれがもし本物の喜左衛門だったとしても、偽者じゃないかと疑われていただろうよ。なにしろ半年ぶりの、突然の御帰還だもの、いろんな噂は飛び交うさ。それに六《ろく》、この日照りつづきだ。いかに喜左衛門が紅花作りの名人でもお天道様の前に雨雲を引っ張り出すわけには行かない。つまり、本物の喜左衛門が帰ってきていたにしろ、噂は立つし日照りは続くし、紅花の収穫高は落ちるのだ。喜左衛門のかわりにおれが帰って来て悪い道理はないだろう? 紅花百姓の差配、今年は勤まらないだろうが、来年はなんとかするつもりだ。喜左衛門の向うをはって、紅花の新種をひとつかふたつ創り出してみせる。 釜六 もうひとつ填っちまったものがあるんじゃないの。喜左衛門の女房の股倉にすぽっと填っちゃったんだろう、え、徳あにい? さっと立って泥舟を出ようとする徳の裾を掴み、 釜六 喜左衛門の女房は身ぶるいの出るような凄い別嬪だそうじゃないか。ずいぶん偉そうな御託を並べていたようだけど、本音は惚《ほ》れたんだろ、喜左衛門の女房に惚れたんだろう。ま、いいや、あたいははるばるこんな田舎まで焼餅を焼きに来たんじゃないんだから。徳あにい、あたいに五百出してくれないかしら。 徳 五百……〓 釜六 文《もん》じゃなくて両《りよう》だよ。そしたら、おとなしく消えてあげる。あんたのぶらさがりものの鈴口の疣のことも忘れてあげる。 徳 強請《ゆ す》る気で居直りやがったな。 釜六 垢抜けない声を出すのはおよしよ。これはただの相談じゃないか。 徳 紅屋の土蔵や金蔵《かねぐら》を逆さにして振ったってそんな大金は出て来やしないぜ。たしかに毎日のように京から去年の紅花代金が紅屋に届く。だが、その金は次の日にはうちの土蔵や金蔵を通り抜けて御城へ運び込まれちまうのさ。紅屋に残るのは紅札《べにさつ》と引き換えに百姓へ渡す小作代とおれたちの生活費ぐらいのものだ。なにしろ紅屋はここの御城の…… 釜六 紅屋に代々伝わる家具、器具、什物《じゆうもつ》、それからあんたの可愛い女房の外出着《よそいき》、そういうのを掻き集めて古物屋に売るんだね。それでも五百にならないようなら土地家屋敷を抵当にお入れな。 徳 そ、そんなことをしてみろ。おれの正体がばれちまう。 釜六 なら、金目のものを引っ攫ってあたいと江戸へ引き揚げてくれる? 徳 ………… 釜六 それもいやなら、徳にいさん、あんた、奉行所のお白洲で褌《ふんどし》を外すことになるけど、承知かい。 徳 江戸の連中はどうしてる。 釜六 ………? 徳 両国橋の橋下の連中のことだよ。 釜六 どうもこうもあるもんか、相変らずだよ。 徳 あの親孝行屋は? 釜六 あのときだけだよ、両国橋の橋下に顔を見せたのは。でもなぜ急にそんなことを…… 徳 あの連中にも分け前をやらなきゃと思ったのさ。 釜六 そんな必要はないよ。だいたいね、あの親孝行屋のはなしとあんたがいなくなったことをつなげて考えたお利口者はひとりもいないんだから。馬鹿は一生、橋の下。 徳 六《ろく》とおれの二人だけが橋の上か。 釜六 そういうこと。 釜六、徳に寄り添う。 徳 六《ろぐ》、五寸釘ばまっ直ぐにしたど。返しとっからねし。 徳、素早い動きで釜六の左胸に五寸釘を突き立てる。 釜六 汚《き》ったねぇ。……こ、この疣野郎…… 釜六、泥舟の中に崩れ落ちる。徳、釜六に筵をかぶせ、岸に上って艫綱を解き、泥舟に乗り移って川に棹《さお》を突く。 七 雨乞い 暗いなかで雨乞い踊。 奥州平畠住吉様《さま》よ 雨乞い祈願が叶うなら 小豆《あずき》の飯《めし》ば一升五合 松茸《まつたけ》飯ば一升五合 紅花飯ば一升五合 合わせて四升五合さしあぐる (繰返しの囃子《はやし》) 雨あめ雨あめ 雨くだい 雨乞いかけたに 雨くだい ざんざざんざの 雨くだい そんでも雨雲叶わねば 銅の燈籠《とうろう》ば七燈籠 真鍮《しんちゆう》の燈籠ば七燈籠 唐金燈籠も七燈籠 銀の燈籠も七燈籠 合わせて四七《ししち》の二十八燈籠 (繰返しの囃子) まだまだ黒雲叶わねば 麻と木綿の幕 進ぜ 金紗《きんしや》と銀紗の幕 進ぜ 綾と錦の幕 進ぜ 金襴緞子《どんす》の幕 加え 合わせて七つの幕あげる (繰返しの囃子) 雨乞い唄の途中で明るくなる。紅屋の土間、踊手たちが歌い踊っている。踊手は全員、女装した紅花百姓たちである。水色の衣裳《いしよう》、紅襷《べにだすき》。頭にのせた花笠のまわりにも雨を擬した水色の布を垂している。畳の部分に坐って踊を見ている宮司。その後に、徳、白石屋、最上屋。すこし離れて上手際におたか。各自、せわしなく扇子や団扇《うちわ》を動かしている。なお、徳は右腕を首から吊《つ》っている。 そんでもまだまだ叶わねば 七里四方の竹藪《たけやぶ》ば 鎌で刈り取りその上に 裸で裸足《はだし》で七転び 八起きに起きても足りねぇば 裏の小川さ身ば投げる (繰返しの囃子) 宮司が立ち、極めておごそかに、 宮司 東西鎮まれ歌おろす、鎮まりくだされ歌おろす、住吉大明神様《さま》の御利生にて、これほど照る日が早や曇り、西から黒雲湧き出して、雨ばお降らし下されよ、夕立ち雨なと地雨なと、三日三夜のそのうちに一日一夜を下されば、氏子どもが喜びて、直ぐに御礼に参ります。末を申さば長けれど、雨乞い踊はまずこれまで。ざんざざんざ。 一同 (唱和して)ざんざざんざ。 宮司 ……ご苦労さん。後《あど》は本殿の前で、雨乞い起請文ば供えながらもう一回踊れば、そんでお仕舞《しめ》。それまでちょっこら休んで居《え》でくだいや。 おたかの指図で、女中たちは土間に直接《じ か》に腰をおろしてひと息入れている百姓連に団扇と茶碗を配り、冷酒を注いで廻る。百姓たちは一斉にぱたぱたと団扇を動かしはじめる。徳も一升徳利を左手で掴み、宮司に酒を注ごうとする。宮司、それを押しとどめ、 宮司 おっとっとっと、一本腕で酒コ注ぐなぁ骨だっちぇ。酌はおらがすっこで。 徳に注ぎ、自分にも注いで、一口、口に含んでから、 宮司 昨日《きんな》、泥舟で最上川まで出で行がれだそうだなし? 徳 んだす。 宮司 そんどぎだ言《つ》うな、その右腕ばぽきりと折っぺしょったなぁ。 徳 はぇ。渦さ巻ぎ込《ご》まれでなす。泥舟もろともでんぐら返《げ》って、そんどぎ、右の肘《ひじ》の外側ばいぎんなり船縁《ふなべり》さぶっけたもんだったも。こげな腕でよぐまぁ岸まで泳えで戻れだもんだ。今《えま》、考えでも冷汗ば掻ぐ…… 宮司 危《おつか》ねどごだったなし。最上川口のあの渦は別名『人喰渦』言《つ》ってねし、あそごで毎年、二、三人は決まったように命ば落す。 徳 それは知って居《え》だども、なにしろこの日照つづきだちぇ、紅花畠さ引ぐ水のごどが心配《しんぺ》で心配で居《え》でも立っても居《え》らんねくて、そんで水嵩《みずかさ》ば見さ行ったのだったし…… 団扇や扇子の動きがぴたりと止まる。 白石屋 そら、おがしぇ。あの紅花畠の掘割の図面引いだなぁ喜左衛門様《さ》だすけ、あんだが一等《えつと》詳しぇはずだども、あれァ蔵王の麓《ふもと》がら流れで来る玉川の水ば塩梅《あんべ》ぇ良《え》ぐ最上川さ引っ張って行《え》ぐために掘ったもんだ。 最上屋 んだんだ。平畠の紅花畠さ引ぐ水が心配《しんぺ》なら、逆の、蔵王側の玉川口さ行《え》ぐのが本当でながんべかねし。最上川口さ行《え》ったって何にもなんねべし。 徳 (不意を衝かれて絶句)う、う、う……、頭痛《え》で。頭の鉢、割れるようだちぇ。う、う、う…… みかねたおたかの助け舟。 おたか 白石屋様《さ》に最上屋様《さ》、あんまりおらどごの御亭主《ご  て》ば苛《しえ》めねでおごやえ。天狗様《てんぐさま》のどっから帰《け》っててきて、まんだやっとひと月だちぇ、あっちこっちさ辻褄《つじつま》の合わねごど一杯《だほだほ》てあっこった。 最上屋 んだったな。いぎなり突っかがるよな物言いして悪《わり》がった。 白石屋 堪忍《かんにん》しておごやえ。 団扇と扇子がまた動き出す。 徳 おら方《ほ》ごそ不調法《ぶぢよほ》してすまねがったす。(話題を転じるつもりで)そんじぇも、今《えま》の雨乞い唄の文句ぁ、えづ聞いでも面白《おもし》えごど。七里四方の竹藪ば、鎌で刈り取りその上に、裸で裸足で七転び、八起きに起きても足りねぇば、裏の小川さ身ば投げる……。はぁ、昔《むがし》の人はうめぇごど言《ゆ》う…… 団扇と扇子、止まる。 宮司 なに言《ゆ》ってごさっと。その文句ァあんだが若げどぎ作った文句でねべが。あんまり面白《おもし》えんで、昔《むがし》の文句と取替《とつか》えだんでねがったが? 徳 ああ、はで、こりゃ…… おたか (二度目の助け舟)あんだ、前と較べっと度忘《どわす》れひどぐなったもんだなし。 徳 うーん、どうもなぁ。(頭をがんがん叩き)あの天狗の野郎め…… 団扇と扇子があっちでひとつ、こっちでふたつと、また動き出す。 宮司 どうも喜左衛門様《さ》の調子っこがあんまり良《え》ぐねぇようだ。ひとつ早えどご、住吉大明神の神前さお供え申《も》す雨乞い起請文ば拵《こしや》えっごどにすんべがなっし。 徳 ほだ、ほだなっす。 何の気なしに相槌《あいづち》を打って肯いた徳の膝《ひざ》の前に、白石屋が大判の奉書紙を拡げ、最上屋が筆と硯《すずり》とを揃《そろ》える。 宮司 (促して)さえさえ。 徳 いやぁ、名前書《なめか》きは年長者がらやっとごやえ。おら、一等の若輩者さから最後《げつち》で良《え》えす。 団扇と扇子、止まる。 宮司 なにお下手《へ た》くせぇごど言《ゆ》ってござっと。喜左衛門様《さ》、雨乞い起請文の文句ば書ぐなぁ、代々、平畠紅花会所取締役の紅屋主人と決まって居《え》んだっけよ。 徳 (思わず)お、おらの書げんなぁ名前《なめ》だげで字は、字は、そのう字は…… 白石屋 ごだごだ言《ゆ》ってねで、さえさえ。 最上屋 あんだはこの平畠でも聞えだ文章の達人で、筆上手だちぇ、今年《こどす》もまた、なにか良《え》え起請の文句ば考え出しておごやえ。 徳 (眼を白黒させているが、自分の右腕を見て或る事に気づき)……皆もお道化《どけ》が上手《じよん》だごど。おらの右腕が怪我で使えねごど知って居《え》るくせに、書け書けって、まあ……。今年《こどし》ぁ、あんだが代って書いでおごやえ、なし、白石屋様《さ》ぁ。 だれかが土間に茶碗を落す。 白石屋 (ゆっくりした口調で探るように)すっと、あんだは、字も書げるし、文章も綴れっけっとも、利き腕さ怪我してっからだめだ言《つ》うのだなし? 徳 そ、そういうごどで…… 白石屋 此処《こ ご》さ居《え》る衆は皆知ってっとも、喜左衛門様《さ》、天狗さ攫われる前のあんだぁ、ぎっちょだったんでござっと。 徳 ぎ、ぎっちょ〓 白石屋 んだ、左ぎっちょす。 最上屋 んだじゅ。あんだは右でも書いだが、左の方が字は上手《う め》がったもな。 徳にはもう答える術《すべ》がない。一座全員のきびしい眼の蝟集《いしゆう》に耐えられず、ゆっくりと顔を伏せて行く。 このとき、表から金七が入ってくる。金七も鋭く徳に眼を据えて、 金七 釜六言《つ》う江戸者《もん》のごったがねし、旦那様《さ》、お前様《めさま》は本当に釜六ば知らねがったんだべが。 徳 (顔はあげる。が、口はきけない)…… 金七 おら、今、奉行所で釜六と対面してきたどごだども、釜六は死んで居《え》だったよ、おっかねぇごどに心の臓ば五寸釘でぶっつらて刺されでな。釜六の死骸《しげえ》は、最上川の川口の、人喰い渦がらちくと下流《し も》の川藻《かわも》さ絡まってぷかぷかて浮んでだ言《つ》うが、お前様《めさま》はまごど釜六の死さ関《かが》わりねぇのだが? 徳 ねぇ、ねぇ、ねぇっ! 金七 ひとづ、釜六ぁお前様のごどば「偽者臭え」と触れで歩いで居《え》だった。その証拠もある、言《つ》って居だった…… 百姓のなかに肯《うなず》くものがある。 金七 ふたづ、昨日《きんの》、お前様《めさ》は最上川の川口さ泥舟ば出して居《え》る。みっつ、その右腕の傷…… 宮司や紅花問屋仲間が金七の傍《そば》に寄り、なにか小声の早口で説明する。金七、肯きつつ指折り数えて、 金七 よっつ、雨乞い唄の文句、自分で拵《こしや》えどいだ癖に、それもわがんねがった。……えづづ、紅花畠さ引ぐ水が玉川口がら来るのだ言《つ》うごども知らねがった。 徳にかすかな動き——じりっじりっと畳の上を後退。がしかし、百姓が二人ばかり素早く廻り込み、徳の退路を断つ。 金七 ……むっつ、雨乞い起請文の文句ば書ぐのは代々の紅屋主人の務めだ言《つ》うごども知らねがった。……ななづ、自分が左利きだ言《つ》うごどもわがってねときた。 百姓い な、なんぼ天狗さかがって脳味噌ば抜がれだっちぇ、今の旦那様《さ》は紅花栽培のごどあんまし知らねすぎっこった。ほんに情げねごどに紅花の「いろは」もごぞんじねぇ! 金七 それでやっつだちぇ。 女中 今の旦那様はおらの尻ば一度も撫《な》でられねぇ。前はよく、うだな、一日に五へんはおらの尻ばすらって…… 金七 撫ででくださった言《つ》うのだな? 女中 んだす。 金七 今のでここのづ。 丁稚 今の旦那様は小遣いくんねぇ。前は十日に四文はおらさ呉《け》だ。 金七 もうえがんべ。これで充分だちぇ。旦那様、こりゃどういうごったべなす? 一同、徳を包囲する輪をじわじわと絞って行く。 おたか ち、ちくと待ってくなえ! 輪の中へ駆け込んだおたか、背中で徳を庇《かば》い、金七はじめ宮司や紅花問屋仲間に屹《きつ》となって正対し、 おたか おらの御亭主《ご  て》様《さ》指一本触れねでおごやえ。何べんもかんべんも言《ゆ》ってる様《よ》に、うぢの人は頭がまだ本調子ではねぇのっし。そこば判ってくだえ。なし。 金七 だっとも、奥様《あねさま》、こげな事《ごど》、言《ゆ》ってはなんだども、これは頭が本調子だどが本調子でねぇどが言《つ》う呑気な話ではねぇんでございすよ。 宮司 んだづ。なんしろ、おたか様《さ》、その男は偽者《にせもん》がも知れねぇのだがらねし。 おたか ……偽者? おたか、きょとんとして一同の顔を眺めまわしているが、やがてくっくっと笑い出し、そしてついに哄笑。 おたか 小馬鹿くせぇ事《ごど》ぁ言《ゆ》わねぇで置っきゃえ。これはおらの御亭主《ご  て》でございす。 金七 ん、んでも奥様《あねさま》、十《とお》の指さ余るほどの証拠が揃った以上は…… おたか 待っておごやえ。お前様《めさま》がたの証拠なぞはおらの証拠さ較べだら塵芥《ごみあくた》みてぇなものす。 金七 ……言《つ》うど? おたか 女房のおらだけが知って居《え》る証拠がある。女房のおらだけが……。(ふと思いついて女中に)お清。 お清 は、はぇ? おたか お前様《めさ》、さっき、おらの御亭主に尻《しり》っぺた撫でられだ言《つ》って居《え》だようだったけんど、枕ば交した事《ごど》あったべがねし? ええが、これは大事中の大事さから性根ば据えで正直に本当《まごど》の事《ごど》ば答えでおごやえ。お前様《めさ》、おらの御亭主と肌ば重ねだ事《ごど》あったべが? お清 あ、あんの…… おたか (抉《えぐ》るように鋭く)ずぐもぐしてねで、ぐっくと、ぱきっと! お清 は、はぇ、一度だけ。 おたか こ、この泥棒《ぬすと》猫! お清 堪忍《かに》して、奥様《あねさま》…… おたか (辛くも抑えて)そ、そんどぎ、なにか気付いた事《ごど》ぁねがったか? お清 あんのう…… おたか ちゃっちゃど答える。 お清 疣《えぼ》がござったっし。 おたか その疣はどごさござった? お清 旦那様の……。(絶え入るように)あそごの鈴口んどごで。 おたか まっと大《おつ》きな声で! お清 あそごの鈴口さ…… おたか 何個《なんぼ》? お清 二個。 おたか (お清をしばらく睨《にら》みつけている。が、やがて金七たちに)聞いで居《え》だ通りでございす。おらの御亭主のあそごの鈴口のどごには疣が二個あっこった。 金七 すっとその男さも疣が……? おたか おらの御亭主の事《ごど》ば「その男」なんて言《ゆ》わねでおごやい。とにかく、おら、昨夜《ゆんべな》もその疣ば弄《いじ》ったばっかりだったっし。なんなら、喜左衛門様《さ》にその鈴口ば拝ませで貰ったらなじょだえ? (徳を促し)あんだ、どうだべ、なし? 徳はのろのろと帯を解きはじめる。一同はおたかの気魄《きはく》に押されて顔を伏せ、ただ団扇や扇子をせわしく動かしている。が、そのとき雷鳴。一同ははっとなって腰を浮かす。表の通りを、だれかが、 「雨だ、雨だっちぇ、ざんざ、ざんざ、ざんざ」 と、叫びながら駆け抜けて行く。その叫び声を追いかけるように雨の音が接近し、あっという間に土砂降りになる。一同は、いきなり猫に襲われた庭先の鶏のように騒ぎ立て、口々に、「ざんざ、ざんざ、ざんざ」と唱えながら戸外へ飛び出して行ってしまう。残ったのは徳ひとり。 徳 (帯を締め直しながら)思わせぶりな空模様め、どうせ降るならもうすこし早く降ってくれりゃあいいんだ。そうすりゃ人助けにもなったのに。(ふと帯を結ぶ手を止めて)それにしてもなんという偶然だろう、喜左衛門の鈴口にも疣があったとは。こいつは、とことんまで喜左衛門に化けおおせろ、という神仏の思召しかもしれねぇ。 おたかが雨で濡れた髪や肩を手拭で拭きながら戸外から戻ってくる。 おたか あんだ、えがったなし、雨になって。これで、あんだが紅花栽培の事《ごど》ば細けぇどごまで思い出して呉《け》だら、なにもかも昔さ戻るんだげどもねし。(不意に徳の腕を抓《つね》って)なにもかも昔さ戻る言《つ》っても、もう二度《にんど》とお清さ手は出さねぇでくだいね。 徳 ああ、わがってる。あんだのような別嬪《べつぴん》の女房《おがだ》様《さま》があるつうのに、あげなへちゃむくれの女中さ手ぇ出すなぞ、喜左衛門が悪《わり》い。どうがしてる。 おたか まぁ、他人《ひ と》事《ごど》みてぇに語《かた》って。(ともうひと抓り)めんこくねぇ人! 徳 いや、おれがどうがして居《え》だんだわ。お清には暇ばやっぺ。 おたか なにもそごまでしなくてもええけんども…… 徳 あんだにおれ、実意のあっとこば見せてぇのだ。(想いをこめて)ありがど、おたか、おしょうしな。 おたか なんだべ、急に水臭ぇごだ。なじょしたの? 徳 べつに。ただ、おしょうしな。 徳はおたかを見つめ、おたかは見つめ返す。雷鳴と、屋根瓦を激しく叩く雨の音と、表通りで「ざんざ、ざんざ、ざんざ」と囃し立てる声のなかで、暗くなる。 八 花虫 旗亭二階の小座敷。徳が座布団を枕に転寝《うたたね》をしている。徳のまわりにはお膳と、そして硯箱や手習本や習字紙などが散らばっている。外に雨の気配。 程なく花虫が三味線を抱えて入ってくる。帯には三味線の撥《ばち》。 花虫 喜《きい》さん、お待たせ。 徳が眠っているのに気付いてあわてて自分の口を抑え、徳のまわりの散乱物をそっと片付ける。それから羽織を脱いで徳にかけ、自分は窓際に坐って、三味線の糸をぽつんぽつんと弾きながら押えた声で以下の歌詞を口遊《くちずさ》むが、歌詞はこれからの徳の運命を暗示しているようでもある。 花虫 たべる苦労はさせないからと 口説かれ嫁にきたけれど 朝夕 炊くのは粟《あわ》の飯《めし》 慥《たし》かに飢えて死にゃしないけど 粟を噛《か》むたび 肌に粟 このあてはずれ くいちがい 着るに苦労はさせないからと 口説かれ嫁にきたけれど 着るは蓑《みの》 笠 藁《わら》の沓《くつ》 慥かに凍えて死にゃしないけど 藁が目を刺す 目にゃ涙 このあてはずれ くいちがい 住むに苦労はさせないからと 口説かれ嫁にきたけれど 住まいは馬小屋 藁布団 たしかに夜露で死にゃしないけど 馬のくしゃみで 目を覚ます このあてはずれ くいちがい…… 不意に徳が唸《うな》り声をあげ輾転《てんてん》反側。魘《うなさ》れているらしい。花虫、躙《にじ》り寄り徳の顔を覗《のぞ》き込もうとするが、そのとき、むっくりと徳が起き上る。額に汗。 徳 ……あ、夢だったか。 花虫、袖で徳の額を拭いてやり、 花虫 喜さんにこんな冷汗をかかせたのはどんな夢? 徳 覚めてみれば他愛《たわい》ねぇ夢す。平畠山の頂上の近くさ、見晴し台言《つ》う絶壁があんざ。 花虫 はなしでは何度も聞いたことがある、まだ一度も登ったことはないけれど。見晴し台からは平畠はもちろん、米沢の御城下まで手にとるように見渡せるんだって? 徳 ん。その見晴し台がら男岩《おどごいわ》と女岩言《おなごいわつ》うのが、こう仲よく並んで前さ突ぎ出で居《え》るんだっけが、おらの乗さって居《え》だ女岩がぽろっと〓《も》げでな、おら、百丈下の谷底さ真《ま》っ逆様《さかしま》、墜《お》ぢで行《ぐ》どごで…… 花虫 ……目が覚めた? 徳 んだ。 花虫 本当に他愛がないわねぇ。でも、喜《きい》さん、あたしを待つ間に手習い習字だなんて、いったいどうしたっていうのさ。(手習本をちらっと見て)実語教《じつごきよう》ねぇ。まるで寺子屋の中等科に通っている子どもみたい。 徳 天狗さ攫われで脳味噌抜がれで字ばすっかど忘れでしまったんだちぇ。んではじめからやり直しっす。 花虫 (ぷっと吹き出し)あ、そうか。そうだったっけね。(急に真顔になって)喜さん、おひさしぶり。逢いたかった。 徳 (調子を合わせるほかはない)ああ、おらだて同《おんな》じ思いだちぇ。 花虫 (徳に躰《からだ》をもたせかけ)なら、どうしてひと月もあたしを放《ほ》ったらかしにしておいたのさ。憎ったらしい…… 徳 そりゃ種々《だんだん》と用事があったもんでなぁ。 花虫 (徳の手を自分の着物の身八つ口へ導き入れて)それにしてもひと月はひどいじゃないか。 徳 堪忍《かに》して呉《け》ろて。 花虫 ……薄情者。 花虫も徳の着物の前合せへ手を滑り込ませる。 花虫 この人非人《ひとでなし》。 徳 そ、そう、息急《えきせき》切るなて。 花虫 ようく憶《おぼ》えておいて。(と、手を探らせながら)喜さんの躰、九分九厘まではおたかさんのものかもしれないけれど、あとの一厘はこのあたしのものだってことを。 徳 わ、わがって居《え》るて。んでな花虫、このあいだ、おめぇおらさ、「帰りがちょっと早すぎたじゃないか」と言《ゆ》って居《え》だったっけな。あれはどげな意味だったのがね? 花虫 知ってるくせに。 徳 ……それがら、「あなたの方から逢いに来なきゃならない理由がある」とも言《ゆ》ってだようだった。その理由ってなんだったっけ? 花虫 そのことも知ってるはずじゃないの。ねぇ、積るはなしは山のようにあるけれど、それは後にまわそうよ。 徳 ちょこっとでええのし、教えで呉《く》ろて。どうもなぁ、天狗さ攫われで脳味噌ァ抜がれで以来《が ら》、思い出せねぇ事《ごど》ばり多くてえらぐ難儀する。ほかの事《ごだ》ァぽつりぽつりて思い出して居《え》っこったども、なんでおらの帰りが早《はえ》すぎだのが、それがさっぱどわがらねぇのだったっけ。 花虫 (かなり憤《む》っとなって)馬鹿のひとつ憶えじゃあるまいし、同じ冗談ばかり言ってちゃいやだよ。 徳 冗談……言《つ》うど? 花虫 喜さん、あんたが天狗に攫われるわけないじゃないか。あんたは自分から出て行ったんだよ、身を隠すために。姿を隠す前の晩、あんたは寝物語にあたしにそう言ったわ。 徳 (思わず花虫の身八つ口から手を抜いてしまう)…… 花虫 (徳の手をまた呼び込んで)どうしたのさ。 徳 その、なん言《つ》ったらええか、自分から出はって行《え》っても、途中で天狗さ攫われるどゆう事《ごど》も…… 花虫 あるもんか。 徳 な、なして? 花虫 あんたの隠れているところへ、あたしがわざわざ訪ねて行ったんだもの。 徳 逢いに来た? (驚きのあまり江戸弁になってしまう)どこへ? 花虫 寒河江《さがえ》の西紅花畠の、そう、弥作という紅花百姓の家へさ。行方を晦《くら》ましているあいだも紅花の新種を創り出す仕事は休みたくない、となると、平畠の紅屋の主人という身分を隠して紅花栽培の本場の寒河江で紅花百姓の作男になるのが一番だ。あんたはそう言ってた。でしょう? 徳 う、うん。 花虫 でも、あんたはあたしの躰が恋しくなった。 徳 そ、そりゃアな。 花虫 それでこっそりあたしに手紙をくれたんだわ。 徳 う、うん。そういえば思い出した。 花虫 ばか。思い出すようじゃだめなのさ。思い出すよじゃ惚れようが薄い、思い出さずに忘れずに、って唄もあるじゃないの。あたしなんか、あの手紙の文句を一字も余さず空《そら》で言えるんだよ。「花虫、おまえに逢いたい。話をしたい。抱きしめたい。それに、わたしが命よりも大事にしている帳面をおまえに預っていてもらいたいので、どうか寒河江まで忍んできておくれ。このことはだれにも口外しちゃいけない……」 徳 帳面ってなんだったっけ。 花虫 あの帳面のことを忘れるなんて、喜さん、あんた本当にどうしちゃったのさ。表紙に『紅花栽培秘法』と書いてある帳面、手紙と一緒に家の天井裏に…… 突然、花虫の表情が硬くなる。そして躰は化石のように固まってしまう。 徳 (花虫のこの突然の変化にはまだ気が付かず、そしてこっちもある思い付きに目を光らせて)そうそう、おら、もうおめぇを担ぐなぁやめたっちぇ。おめぇがこのあいだ、「あなたの方から逢いに来なきゃならない理由がある」と言《ゆ》って居《え》だったのは、帳面ば取りに来いと謎《なぞ》かけたんだべねし。なぁて花虫、帳面ば返《けえ》して呉《け》ねべが。ちょこっと要る用があんだども。 花虫、ぱっと跳び退いて、 花虫 あ、あんた、だれなの〓 徳 だれってこりゃ異な事《ごど》、聞ぐもんだな。おら、喜左衛門さ決まってっぺ。 花虫 あんたは喜さんじゃない。 徳 喜さんだてば。おめぇ、いま、その証拠ば握ったばっかりのはずだけんどな。おめぇさ焼餅やがせるために言《ゆ》うわげではねぇども、おらの御嬶《おがが》のおたかも、おらの倅《せがれ》っこの鈴口のふたつの疣《いぼ》っこば見るまでは…… 花虫 喜さんには疣はなかったんだよっ! 徳 (一瞬、混乱して)な、なに? 花虫 それにあんたのは喜さんのよりずっと大きい。おまえさんはいったいだれなんだい? 徳 だ、だどもおたかは、そのう…… 花虫 いいからもう帰っておくれ。おたかさんは欺《だま》せても、このわたしは欺せないよ。なにしろ、惚れ込み方がちがうんだ。(立って)そっちが帰らないんならこっちで帰らせてもらうよ。 花虫退場。 徳 ……おたかやお清は鈴口に疣があるからおれを喜左衛門だという。いまの女は鈴口に疣があるから喜左衛門ではないという。いったいどっちが……、いや、その思案よりいまは帳面の方が大事だ。(ぽんぽんと手を叩き)おい、おら、帰《けえ》っつォ! 徳はまた手を叩くが、それが切っ掛けで暗くなる。 九 撥 上手に家屋の一部、裏口が見えている。その裏口から淡い黄色の灯りが流れ出て、雨の闇をぼんやりと照らしている。中央から下手にかけては墓地。 淡い、黄色い洩れ灯のなかで、花虫は蛇の目を左肩に担いで濡れるのを防ぎながら、さくさくさくと三味線の撥で墓地の土を掘っている。傍の墓石には油紙に包んだ帳面が置いてある。 と、下手に「紅屋」と書いた傘がひとつ現われる。これはむろん徳のさす傘。 花虫、不意に立って、 花虫 だれ? 徳 さっきのはなしの続きば為《し》ねが? 花虫、油紙包みをすばやく懐にねじ込む。 徳 いぎなり飛び出すもんだがら魂消《たまげ》だわ。検番で聞いで来さんだども妙な処《どご》さ住まって居《え》だもんだなし。 花虫 またひとつボロを出したね。おまえが、真実、喜さんなら、あたしの住まいを人に尋ねる必要はないはずだよ。この家をあたしに世話してくれたのは喜さんなんだから。 徳 よくまあ、墓場の近くさ掘った井戸の水ば飲めっこったごど。仏《ほどげ》の脂、井戸水さ滲《し》み込んで飲めだもんではねぇべした。 花虫 お墓へまいるふりをしてあたしのところへ通おうというのが喜さんのはじいた算盤《そろばん》だったのさ。夜ばかりじゃなくて昼間もあたしと逢いたい、喜さんはそう思ってここに住むようにといってくれたの。 徳 まぁさ…… 花虫 およし、それ以上、喋《しやべ》るのは! 喋るたびに尻尾《しつぽ》を出すばっかりだよ。 徳、傘をつぼめ、しばらく振って水気を切りながら、花虫を見ているが、やがてにやっと笑い、 徳 (江戸弁になって)おれと組まねぇか。 花虫 お帰り。 徳 おれを本物の喜左衛門と思ってくれればそれでいい。で、寒河江とかいうところに居るのを偽者だと…… 花虫 帰って! 徳 一生、安穏に暮せるように手配はする。それは誓ってもいい。(土下座して)たのむ、おれが浮ぶか沈むか、あんたの返事ひとつにかかっている。 花虫 (簡単に)無理な相談さ。 徳 ど、どうして。 花虫 あたしは喜さんに惚《ほ》れて惚れて惚れ抜いてるんだよ。そのあたしと喜さんの仲をたとえ万力で引っ剥《ぱ》がそうたってとても無理…… 徳 おれとやつとは瓜《うり》二つ、いってみればほとんど同一人。どっちに惚れたって同じことだろう。しかも、おれはやつよりも女を悦ばせることができる。なにしろおれには疣が…… 花虫 疣のひとつやふたつで、ぶらさがりものの大小で、女が右から左へ簡単に気を移したりすると思っているのかい。 徳 (のっそりと立ちあがる)…… 花虫 そんなことを言うようじゃ、おまえさん、これまで一度も女に命がけで惚れられたことはなさそうだね。かわいそう…… 徳 だと思うんなら、せめて例の帳面を四、五日、いや今夜一晩だけでいい、おれに貸してくれ。持ち出しがいけねぇなら、あんたの家でぱらぱらっとめくらせてもらうだけでいい。その帳面を拝むことができりゃおれは完璧《かんぺき》に紅屋喜左衛門になれる。 花虫 そう聞いちゃあますますもって断るしかないわねぇ。さぁ、お帰りな、いつまでもそうやって雨の中に突っ立っていると風邪を引くよ。 徳にくるりと背を向けて花虫は裏口へ小走りに駆け出そうとする。徳は追い縋《すが》り、 徳 おっと、おたがいに江戸者同士じゃねぇか。冷たいことは言いっこなしにしようぜ。 花虫 すこししつっこすぎるんじゃないのかい。 振り返った花虫の右手に三味線の撥が構えられている。 花虫 女と侮って怪我をしてもしらないよ。 徳 ちょいと雨宿りをさせてくれるだけでいいんだが。 花虫 それ以上、半歩でもこっちへ寄ってごらん、あたしゃ紅屋へ駆け込むよ。むろんおまえさんの正体をばらしに、さ。 徳 いけねぇな、女の強がりは身を滅ぼす因《もと》だ。 と、構わず手を伸してきた徳めがけて、花虫は撥を振りおろす。徳はそれを手で防ぐが、「ちっ!」と呻《うめ》いて、手の腹を口で舐《な》める。撥が徳の手を切ったのだ。徳の顔に暗い笑いが泛《うか》ぶ。 徳 花虫、おれはここで引きさがるわけには行かねぇんだよ。なにしろ、あと二歩か三歩でホンモノになれるところなのだからな。ここで引き返しゃみすみす地獄落ちよ。 徳が勢いつけて踏み込む。花虫は身を翻して逃げる。徳、追いついて後から羽交い締め。後手《うしろで》に盲滅法、撥を突き出す花虫。徳はその手を抑え、撥を花虫の咽喉《の ど》へ突き入れる。「ひゅーっ!」と咽喉笛を鳴らした花虫、やがて徳の腕の中でぐんなりとなる。徳は撥を放り投げようとするが、ふと気付いて撥を裏口から洩れている灯りにかざす。 徳 ……なにか彫ってある。彫ったところに血が流れ込み、字が浮きあがってきやがった。……『喜の字より花虫へ』。喜の字か。なるほど、喜左衛門の贈物だな。 徳は花虫の懐中から油紙包みを抜き取り、撥ともどもふところに捻《ね》じ込み、花虫を裏口へ運び込む。 間もなく、上手家屋の内部で火の手のあがる気配。裏口から徳が再び姿を現わし、傘を拾うと、墓石を縫って上手へ走り去る。 すばやく暗くなる。 拾 喜左衛門 糠雨《ぬかあめ》。夜。正面に小屋。小屋の入口の柱に、 『寒河江西紅花畠参番小屋』 という木札が打ちつけてある。 小屋の内部《な か》に灯り。正面の入口の、扉のかわりの筵戸《むしろと》が巻き上げてあるので、内部《な か》の一部分だけがぼんやりと見えている。 男がひとり、膝《ひざ》の上に帳面をひろげ、左手でなにか書いている。男の横顔は徳のそれと生き写しである。 男は、 「ここ寒河江では二番除草のあとに、紅花畑に鍬《くわ》を入れるなり。これは紅花の根に風を通いやすくするための作業なるべし」 と、呟《つぶや》きつつ書き、書き終えると、かたわらの湯呑に土瓶の茶を注ぎ、一口、啜ってごろりと横になる。頭部と足の部分は、入口の寸法から食《は》み出し見えなくなる。 と、やがて、下手から汚い扮装《な り》の、ぼろ笠かぶった乞食が風呂敷包を小脇にかかえて現われる。乞食は入口の木札を見て、吻《ほつ》とした表情で笠をとる。徳である。 徳 もうし。弥作様《さま》の処《ところ》で伺ってまいったんでございますが、こちらの番小屋の夜番をなさっておいでのお方は、喜左衛門さんとおっしゃいますんで……? 小屋の内部で男、すなわち紅屋喜左衛門が起きあがるのが見える。 喜左衛門 だ、だれだっちぇ? 徳 喜左衛門さんでございますね? 喜左衛門 ん、んだ。んだが、お前様《めさ》はいってぇ誰だっちぇ? 徳 へぇ。江戸から流れてまいりました乞食でございます。只今、平畠で皆様の御厄介になっております。 小屋の内部で灯りが動き、入口からぬーっと灯皿が突き出される。徳は顔を照らされるままになっているが、ひどく汚く作ってあり、おできなどもこしらえている様子で、内部の喜左衛門は、自分が小屋の入口に立っている乞食と生き写しであることには気づかないようである。 喜左衛門 平畠? 徳 はい。とりわけ花虫さんにはいろいろとご親切なお世話をいただいております。行き倒れ寸前のわたしに温《あ》ったかい食物をくだすったのも花虫さんでございます。また、お客様のお残しになった台物《だいのもの》なぞも、わたしによくお下げくださいます。ありがたいことで…… 喜左衛門 花虫なんて、おら、知《し》ゃねぇな。 喜左衛門は灯皿を引っ込め、筵戸をおろす。 喜左衛門 帰《けえ》れ。おら、朝が早ぇんだ。もはや寝ねばなんねぇ。 徳 へ。この風体ではご信用くださらないのはごもっとも。ですが、わたしが間違いなく花虫さんのお使いの者だということを証拠だてる手形を持ってまいっておりますがね…… 喜左衛門 手形、言《つ》うど? 徳 (懐中から、例の三味線用の象牙《ぞうげ》の撥を出して、筵戸の隙間から小屋の内部へ差し入れる)喜左衛門様にこれをお見せなさい、そうすりゃ、わたしの使いだってことがわかっていただけるだろうから……。花虫さんはそうおっしゃっておいででございました。へぇ。 筵戸が内部からゆっくりと巻き上げられる。 喜左衛門 入《へ》って来《こ》。 徳 へ。 内部に入った徳は喜左衛門と向い合って、土間に額を擦りつける。ただし、入口の幅だけ喜左衛門と間を空けているので、客席からは、喜左衛門と徳の、膝や手ぐらいしか見えない。 徳と入れ替るようにして撥を手にした喜左衛門が小屋の外へ出る。 喜左衛門 んで、花虫が何だ言《つ》ってるのだ? 徳 旦那様のお顔を一目、拝みたい。こう伝えるように言づかりました。いつ、こちらへ逢いに来たらよろしいか、それを聞いてくるように。そう言いつかってまいりました。 喜左衛門 (舌打ちして)まあ、なん言《つ》う聞き分けのねぇ女子《おなご》だちぇ。なぁ、乞食《ほいど》、花虫さこう言《ゆ》って呉《け》ろ。時の来るまで石の地蔵様のよに動がねぇで凝《じつ》としてらいってな。おら達の事《ごだ》ぁ、紅屋さも、平畠藩の重役方さも、それがら百姓どもさも勘づかれちゃなんねぇて。 徳 へい。 喜左衛門 んで、例の帳面の事《ごだ》ァくれぐれも頼む、言《つ》ってだってな。(着物の襟《えり》をほどいて小判を一枚抜き出し、小屋の内部へ投げ込む)駄賃だちぇ。乞食《ほいど》、おめぇも、この寒河江さ使いさ来たごだぁ忘れろ。 徳 へい、おありがとうございます。 喜左衛門 (小屋の内部に入って)早ぇどご、ここば引き揚げろて。誰にも見つかるんじゃね。 徳 承知しております。では。 徳の手が風呂敷包をほどいているのが見える。 徳 ねぇ、旦那様。ひとつおたずねしてもよろしゅうございますか? 喜左衛門 何だじ? 徳 花虫さんのことをおたか様はごぞんじなので。 喜左衛門 知るわけながべ。おたかどころか金七も、他《ほが》のだれも知らね。だから、乞食、お前《め》もそのつもりで頼むじ。 徳 へぇ。で、おたか様と花虫さんとどっちが大事でございます? 喜左衛門 ………… 徳 花虫さんの方が大事なんじゃございませんか? 喜左衛門 な、なんでそげなごどわがる? 徳 命の次に大切な例の帳面を旦那様は花虫さんにお預けになっていますから。 喜左衛門 そ、そげなごどまで花虫は…… 徳 へぇ、話してくださいました。 喜左衛門 口の軽こい女子だちぇ。 徳 わたしにだけでございますがね。旦那様、いかがでしょう、やはり花虫さんの方が……? 喜左衛門 どっちとも言われねな。花虫さ帳面ば預げだなぁ、万一のためす。 徳 万一? 喜左衛門 ああな。例の帳面さ書《か》えである紅花栽培の秘法、あれさえ握ってれば、おれだげにも殺される心配はね。花虫とおれのごどはだれも知らねぇし、それで…… 徳 お預けになった? 喜左衛門 んだ。それだげの事《ごど》す。あ、乞食、お前《め》、まさが…… 徳 心配ありませんよ。あたしは花虫さんの味方ですから。花虫さんのためにならないことは殺されたってしやしません。旦那様、どうぞ召し上ってください。 喜左衛門 何だじ、そりゃ? 徳 旦那様の好物の鮠《はや》の胡桃《くるみ》煮《に》で。花虫さんが、今朝、早起きなすってご自分でお煮付けになりました。それから、この瓢《ふくべ》には平畠の地酒の「樽平《たるへい》」が入っております。それでは…… 徳は小さな重箱と瓢を喜左衛門の前へ押しやって一礼し、小屋を出てくる。そして、下手へ駆け込むと見せて途中で逆戻り、躰を低くして、小屋の内部を窺《うかが》う。 喜左衛門の手が重箱の蓋をとり、瓢の栓を抜く。そして、その手は鮠をつまみあげ、口のあたりへ持って行く。さらに喜左衛門は瓢の中身を口に流し込んだようだ。 と、突然、喜左衛門の呻き声。徳、にやっと笑って、 徳 よし。さすがは石見《いわみ》銀山だ。 呟いて下手へ駆け込む。 小屋の内部の喜左衛門の苦しみようはますますひどくなり、そのうち筵戸を引き千切って、外へ転がり出てくる。そして外でも七転八倒。 暗くなる。 拾壱 総仕上げ 紅屋の座敷。文机の上に例の帳面をひろげ、それを手本がわりに徳が左手で筆を動かしている。湯上りらしく徳は浴衣姿、右手に団扇。 やがて下手の襖《ふすま》が開く。入ってきたのはおたか。おたかはなぜだかにこにこしながら乱れ箱を座敷へ運び込む。 徳、帳面の上に手習紙をのせてさりげなく隠し、 徳 おたか、悪《わ》りげどもす、腰ば揉《も》んで呉《け》ねべが。(横になって)昨日の朝から今朝までたったの一日のうちに夜駆けまでして蔵王さ登って降りだのが、ちょこっと応えだようだっちぇ。腰っこば痛《や》めで仕様《しやあ》ね。 おたか (淡々と)本当に蔵王さ登らえだのがねし。山を登らえだのなら、足の拇指《おやゆび》さ血豆のふたつやみっつ出来てもええと思うんだけんどもねし。米沢どが山形どが天童どが長井どが、んでなぎゃ寒河江どがさ夜駆けなさったんではねぇのすか。 言いながらおたかは徳の腰を揉みはじめる。 徳 (寒河江ときいてちょっとぎくりとなるが)真実《まごど》、蔵王さ登ったのし。血豆、出来でねぇのは、天狗《てんぐ》隠しさあって居《え》だどぎ、山道ば歩ぎ慣れで居《え》だがらでねべがねし。……ああ、極楽だちぇ。なぁ、おたか、紅花百姓がこの二、三日、おらの事《ごど》ば何言《なんつ》って居るが知って居《え》だったが? おたか へぇ。喜左衛門様《さ》は天狗隠しさなられる前の喜左衛門様完全《すつか》と戻られだみてぇだ。百姓はそげな噂《うわさ》ばして居《え》る様《よ》だなし。ほんにえがったごど。 徳 おら、この二、三日でなんでもかんでもしょっこもっこど思い出したもんだ。紅花栽培の事《ごど》もだちぇ。どの紅花さどの紅花ば媾合《かげあわ》せで、来年用の新種の種子《た ね》ばとるが、三番除草の後《あど》に何ば肥料《こやし》に撒《ま》ぐが、なもかも頭さ戻って来たもんだった。 おたか へぇ。そらえがったごど。 徳 でな、なもかも思い出したついでに言《ゆ》うげんども、いつだったけが、おたかはおらば助けで呉《け》だごどあったっけな。ほら、「おらの御亭主《ご  て》の(ポンと股間《こかん》を叩いて)、ここの鈴口さ疣っこがふたつある」ってし。 おたか へぇ。そげなごどもあったっけねし。 徳 あれァ、嘘だったんだべし? おたか、嘘ば語ったんだべし? 天狗隠しさなる前は、たしかおらの鈴口さは疣っこながったはずだっちぇ? おたか (答えない。ただ、微笑) 徳 おたかば責めで居《え》んじゃねぇて。おらば助けるための嘘だ言《つ》うのは判ってっこった。ありがでども思ってっこった。なし、おたか、おめさ、女中のお清と前もって語らって嘘ば吐《つ》えだんだね? (おたかの手を股間に導きながら)ほれ、じっくりと触って思い出して呉《け》ろて。 おたか (軽く笑って徳の手を外し)そのはなしはまたいつか。さ、喜左衛門様、浴衣ば脱《ぬ》えで、新すい肌着襦袢《はだこじばん》ば着て…… 徳 この暑《あづ》いのにがい? おたか へぇ。じづは今日の午《ひる》、江戸がら巡見使がこの平畠さお見えになってっし…… 徳 へぇ、巡見使? おたか 平井外記様《さま》どが言《ゆ》う目付だどし、あんだもこれがらその巡見使さちょこっとお目にかからねばならねぇ事《ごど》になってる言《つ》う。 と、何気ない会話《やりとり》を交しながら、おたかは徳に着物を着せて行く。ただし、おたかが着せるのはすべて白ずくめ。 徳 幕府《こうぎ》の巡見使が何だ言《つ》って平畠さござったんだべちぇ。 おたか それァあの事《ごど》ば調べさ来られだに決まってるす。 徳 あの事《ごど》? (頭を振って)何だったっけか、あの事って? おたか あの事ばまだ思い出して居《え》ねぇみでだねし。ほれ、二年前、一昨年《おどどし》の秋、関東筋の川々の堤防が洪水で破《やぶ》げで、この平畠藩、一万両の御手伝普請ば命ぜられた事があったべし。 徳 お手伝普請? おたか ま、早ぇ話が、幕府《こうぎ》が堤防工事の負担金ば一万両、此処《こ ご》の平畠の殿様さかげてきたわけだねし。平畠は二万石の小《ちちや》こい国、二万石の小国さかかる負担金の相場はまぁ三千両言《つ》うどごでございす。それが、六万石か七万石の国並みに一万両もかかってきたがら、みんな魂消《たまげ》で腰ば抜がしたもんだったっけ。 徳 (調子を合せている)そう言《ゆ》えばそう言《ゆ》う事《ごど》もあった様《よ》な気《きイ》すんなぁ。 おたか ま、喜左衛門様《さ》、あんだはじめ紅花百姓達《だぢ》の丹精でこごんどご平畠紅花の名前《なめ》は天下さ聞えで居《え》る。んで幕府《こうぎ》は、平畠は紅花でよっぽど儲《もう》けでるにちがいね、と踏んだみでぇだったもんね。それで一万両す。幕府《こうぎ》は金持の大名さなんだかんだ言《つ》って金ば使わせる…… 徳 それはなっし、おたか、幕府《こうぎ》は大名が力ば貯めんのば警戒してっからだちぇ。大名の謀叛《むほん》ば恐れで居《え》るんだこった。 おたか その様《よ》だ言《つ》うなぁ。んです、そんどぎ、平畠の御城の御金蔵《おかねぐら》には三千両しか囲金《かこいきん》が無《ね》がった。 徳 残りの七千両は……? おたか この紅屋さかかって来たのす。憶えでねべが? 徳 憶えで居《え》る様《よ》な、居《え》ねぇ様《よ》な…… おたか あんだは紅花会所のお仲間衆と何回も何回も談合して、それがらあれこれやりくりして七千両ば拵《こしや》えで、御城の役所さ差し上げだ。んでも、腹の立つ事《ごど》に、そうやって血《ちイ》出るよな苦労ばして拵えだ負担金一万両、そっくり堤防工事さ使われだが言《つ》うと、それがそうではねぇ様で……。工事さ使われだなぁ二千両か三千両で、あどは幕府《こうぎ》のおえらいさん方の懐中《ぽつぽ》さ納まった言うねし。 徳 そう言《ゆ》うもんだで、世の中は。 おたか と、あんだは澄して居《え》っとも、こら大変《と ん》な事《ごん》だちぇ。紅屋の金蔵は空《から》っぽす。百姓さ払う金が無《ね》ぇ。そんで、あんだはじめ紅花会所のお仲間衆は金のかわりに紅札《べにさつ》ば百姓さ配った。 徳 紅札がぁ。そうだったなぁ。 おたか 京大坂、それがら江戸で紅花が売れで、その代金がこの紅屋さ届くなァ一年後だちぇ、そん時《どぎ》まで紅花の作賃は待て。作賃は紅札と引換えに一年後に払う、言《つ》う約束手形す。 徳 判《わが》って居《え》るて、それ位《ぐれ》ぇ。 おたか 天下の通用金のかわりさ紅札つう約束手形ば発行する、こいづは御法度なんだけんど、あんどぎは他に術《て》がねがったもォん。なじょにも仕方《すつかた》ねがす。ところが、去年の夏、またまた関東筋の川々の堤防が洪水で破れだ。 徳 んだ。一昨年《おどどし》よりも去年の大雨の方がずっとひどがった事《ごつ》た。 おたか おまげにこの平畠さまた御手伝普請の声がかかりそうだ言《つ》う知らせが江戸詰の御家老様がら入《へえ》ってきた。また負担金ばかけられでは前の年に出した、百姓達の紅札ば金さ替えでやっことが出来《でき》ねぐなる。そればかりでねぇ、二年続げで紅札ば配らねばならなぐなる。そうなる言《つ》うど百姓達《だづ》ァ黙ってねっちゃ。こりゃ一揆もんす。 徳 んだ。 おたか んで、喜左衛門様《さ》、あんだは御家老様《さ》や勘定役様《さ》と談合ば打《ぶ》って、偽の損耗届《そんもうとどけ》ば幕府《こうぎ》さ出す事《ごど》にした。 徳 損耗届つうど……、そのう…… おたか 平畠も洪水さやられで、紅花は不作でございす、言《つ》う被害届だちぇ。この偽の損耗届のおがげで、去年、この平畠は御手伝普請は命ぜられねぇで済んだごんだ。ほんにあんだは智恵者《ちえしや》だもなぇ。 徳 そ、それ程でもねぇす。 おたか だども、偽の損耗届ときた日にゃ紅札以上の大御法度す。幕府《こうぎ》さ知れだら、あんだ、この平畠はお取り潰《つぶ》し、間違《まぢげ》なし。ここは幕府《こうぎ》の天領になる。天領になる言《づ》うど紅花年貢の取立てはまっとまっときびしぐなる。んだがら、御城のお役人様方も、紅花会所も、それがら紅花百姓も、平畠の人間は、どげなごどあっても、去年の紅花は不作であった言《つ》うごどで口裏ば合せで居《え》だったんだども…… 徳 (ついに思い当って)それがどっからが洩れた言《づ》うんだな。そんで江戸がら、幕府《こうぎ》がら巡見使が出張《では》って来た言《つ》うんだな? おたか (徳の問いには答えず)へ、身支度《しようぞく》がすかっと出来申した。 徳 な、なんだ、こら。上から下まで真ッ白けだっちぇ。 おたか んだす。幕府《こうぎ》ではあんださ、侍様と同じ待遇ばお許し下さったんだもォんね。 おたか、ぽんと手を叩く。下手の襖が開き、金七と手代が入って来る。二人は座敷の畳をすべて裏返してしまう。二人、文机を運び出し襖を閉めて退場。 徳 なんだ言《づ》う、こりゃ。畳が引っくり返ったなぁどう言《ゆ》う理由《わ げ》だ? おたか 血で汚れっからす。 徳 血……〓 再び下手の襖が開き、金七が短刀をのせた三宝を捧持して入ってくる。金七は三宝を徳の前に置いて去る。 徳 お、おたか、こりゃア…… おたか 喜左衛門様《さ》、どうが立派な御自害を。 徳 自、自害だ言《つ》う……〓 だ、だ、だれが? おたか あんだが、でございす。口惜《く や》しけっとも、おら、あんだのお供ばすっこと出来ねぇす。幕府《こうぎ》からも、平畠の御家老様がらも、お供のお許しが出ねがった。 徳 な、なんで自害なんだ? なんでこのおらが…… おたか あんだが紅屋喜左衛門だがらでございすよ。 正面奥、左右の襖が一斉に取り払われる。左の上座は空席だが、正面には、家老浜島庄兵衛、勘定役長谷川又十郎、下手には、紅花問屋仲間最上屋、白石屋、そして住吉大明神宮司などが威儀を正し、しかし、能面のように無表情に坐っている。下手末座には金七。 浜島 喜左衛門。その方、岩間山の天狗どのから返してもらってはおらぬ脳味噌が、まだ若干あるようだの。己の死ぬべき理由をよく飲み込めずに死ぬるのは、さぞかし心もとないことであろう。おたか殿に続けてわしからも事情をはなしておこう。喜左衛門、例の損耗届は結局は幕府《こうぎ》の見破るところとなった。というのは京大坂の紅花買入問屋仲間が、去年の秋口あたりから「羽前平畠紅花は稀《まれ》にみる大豊作で上々の質、じゃによって価が高いぞ」と、引取り手の紅花商人に触れまわっているのが、まわりまわって幕府《こうぎ》のお耳に入ったからじゃ。平畠紅花が平畠紅花会所がその損耗届で言うように「凶作」であるか、あるいは上方の紅花買入問屋仲間が言うように「空前の豊作」であるか。その探索のために幕府《こうぎ》はこの平畠にひそかに巡察人を放った。この巡察人、つまり一種の隠密だが、これが悪人でのう。塚原小兵衛という小旗本だが、この男がその方の運命を変えた。喜左衛門、この塚原については、いくらなんでも憶えがあるであろう。どうじゃ? いまのところ、徳は呆然自失の態。ただぱくぱくと口を開閉させているだけで、声にはならない。 浜島 やはり憶えてはおらぬか。塚原はな、あちこち嗅《か》ぎまわっているうちに、喜左衛門、その方の妻、おたか殿の容色に魂を奪われ、あり得べからざる邪悪心を起した。すなわち、ある夜、従者をひとり引き連れてこの紅屋に上り込み、大目付へは平畠に損のないよう適当に報告してやるから、そのかわりに、おたか殿を自分に妾《めかけ》として差し出す気はないかと破廉恥なことを持ちかけてきた。そして、おたか殿を江戸へ連れて行くが、その生活費として毎年千両ずつ江戸へ送金せよ、とも言い出した。その方はこの申し出を断った。が、この小悪人はくどい性質《た ち》のようで、それにどこかで酒もたっぷり仕込んで来ていたらしくての、ついにおたか殿の手を握り引き寄せ、一度でいいから思いを遂げさせてくれ、と暴れ出した。そのとき、その方は塚原某の佩刀《はいとう》を奪い、彼を殺害した。 徳 (絶叫)お、おらぁやってねぇ! 長谷川 何人も証人がいるのだよ、喜左衛門。まず、その方の妻おたか殿、塚原某の従者、そして番頭金七、この三人はそのとき現場に居合わせている。 徳 おら知らねぇ? おたか (たしなめて)あんだ! 浜島 塚原の従者は江戸へ逃げ帰り、すべてを大目付の許《もと》へ届け出た。大目付の御裁定はこうであった。「非は巡察人塚原小兵衛にもあれど、大公儀差向けの役人を殺害せしは大罪。よって紅屋喜左衛門には自害を、平畠藩ならびに平畠紅花会所にはそれぞれ一万両の公納金を申し付ける」…… 徳 ち、ちがう! おらぁ喜左衛門じゃねぇ。お、おらぁ…… 宮司 喜左衛門様《さ》、この期《ご》さ及んで見苦《みぐ》せぇ事《ごど》ばしねでおごやえ。平畠の紅屋の五代目どしてここはひとつすっかと性根ば据えで呉《く》なえ。 徳 おらぁ紅屋の五代目なぞじゃねぇ。んだがら性根の据えようもねぇのす。おら、江戸の乞食でござい。拾い屋の徳つう江戸の…… 最上屋 だども、江戸者《もん》にしては平畠弁が上手すぎっこった。 徳 そりゃ命がげで稽古ばしたがら……。江戸弁ば喋れて言《ゆ》われればぺらぺらて、ぺらぺらて……、(ゆっくりと)ぺらぺらと喋ることだって出来らぁ。おいらは江戸の乞食の拾い屋の徳って者さ、紅屋の身上と喜左衛門の女房のおたかの器量にちょいと目がくらみ、喜左衛門と見間違えられたのにつけ込んで、紅屋の五代目になりすましていただけよ。さぁどうだ、ちゃんと江戸弁が喋れるだろう。なし? 一同、淋し気に笑い合う。 最上屋 最後の「なし」でちょろっと尻尾ば出しちまったなし、喜左衛門様《さ》。 徳 (いきり立って畳を叩き)途中で、おらが、おれが偽者の喜左衛門だということにみんな、気付いていたはずだ。そう、雨乞い起請文を書くことが出来ずにおれが立往生していたとき、あのとき、みんなはおれの正体ば、いや、正体を見抜いていたはずだぜ。おれはまず玉川と最上川を取り違えた。雨乞い唄の作者が自分、喜左衛門であることを知らなかった。雨乞い起請文の起草は代々紅屋主人の役目であること、喜左衛門が左利きであることなども知らなかった…… おたか それはあんだ、あんどき天狗隠しがら帰ってきてまだ間がねがったがら、頭が本調子ではねがったのし。 一同、諾《うなず》き交わす。 徳 天狗隠しは嘘なんだ! 出まかせよ。 長谷川 しかし嘘にしては古来からの事例にいちいちぴたりと符合しておった。天狗学の権威である佐藤愕夢が感じ入っていたようにな。 徳 だ、だからそれは…… 浜島 (大喝)見苦しいぞ、喜左衛門! その方の顔、姿、形、声、手の動き、足の捌《さば》き、それがその方が喜左衛門であることのなによりの証拠なのだ。おっつけ巡見使が見えられる。さ、それまでに…… 徳 ま、まってくれ。おれが喜左衛門なら紅花についてもっと詳しくてよかったはずだ。 金七 旦那様はこの四《し》、五日《ごんち》、えらい詳しがったでねぇべがっし。旦那様でねばでぎねような肥料《こやし》の混ぜ具合もちゃんと…… 徳 それは喜左衛門の帳面を手に入れたからだ。帳面に書きつけてあったことをただ諳《そら》んじておいて、それを喋っただけさ。金七、その文机の上を見てくれ。帳面が…… 金七、傍の文机の上を改める。 金七 帳面なんぞねぇべなし。 徳 か、隠したな? 金七に駆け寄り掴《つか》みかかろうとする徳に白石屋が足払いをかける。徳は転倒。 徳 そ、そうだ。おたかとお清は「鈴口に疣《いぼ》があるから喜左衛門様」と言っていたが、おたか、あれは嘘だろう? 本物の喜左衛門には疣はなかったはずだ。平畠芸者の花虫がおれにそう証言している。此処《こ こ》へ花虫を……(ぐっと詰まってしまう) 最上屋 (白石屋に)花虫は四、五日前の雨の晩、不審火ば出して焼け死んだっちぇ。 白石屋 ああ。可哀想《もごさい》ごどしたなし。 最上屋 (諾いて)なし。 徳 あ、おれは口止め料をせびられていたことがある! 江戸乞食仲間の釜六。あいつなら……(また詰まる) 金七 あの男ももはやこの世さ居《え》ねぇて。旦那様《さ》、冥土《めいど》で釜六と話し合われるごどだねし。 徳、泣き出す。 徳 な、なんてことをしてしまったんだ、おれは。撰《よ》りに撰《よ》って証人を二人も……。(突然、喚く)おれが知ってる! すくなくともおれだけは自分が生れたときから拾い屋の徳だってことをはっきりと知ってる…… 浜島 (にやり)さぁ、喜左衛門、それはどうかな? 徳 ………〓 長谷川が立って、徳のすぐそばからぴかぴかの五寸釘《くぎ》を拾い、徳に示す。 浜島 その方が真実、生れつきの拾い屋であるならば、なぜ新品の、その五寸釘を拾い上げぬ? 襖を払うとすぐ、わしがそっとその釘を転がしておいたのだが、その方は喜左衛門だからこそ、拾い屋ではないからこそそれを見逃したのではないか。 徳 喜左衛門になり切るために、おれは自分の拾い癖を一所懸命殺していたんだ。だから、その釘が拾えなかったんだ…… このとき、長谷川がすばやく徳の左胸に五寸釘を突き入れる。 徳 (這《は》いずりまわりながら)ま、待て。待ってくれ。お、おれが偽者だということを、喜左衛門が証明できるはずだ。寒河江というところに本物の喜左衛門が隠れているんだ。も、もっともその本物もこのおれが……、ち、ちくしょう、目の前が暗くなってきやがった。おれはなんだって、なにもかも、自分が自分である証拠をなにもかも、自分で消してしまったんだ…… 徳は畳にうつぶせになって動かなくなってしまう。おたかが寄って膝の上に徳を抱きあげ、やさしく徳の鬢《びん》のほつれを撫《な》でつけながら、 おたか あんだは徳と言《ゆ》って居《え》だったね。……徳様《さ》、もう遅ぇがも知らねども、ひとつあんだの気ば楽にさせであげっぺな。本物の喜左衛門はいまも寒河江さ生きて居っこったよ。番頭の金七があんだば尾行《つ け》て寒河江さ行《え》ったんだちぇ。んで、喜左衛門のノドさ指ば突っ込んで鮠の胡桃煮ばすぐに吐かせ申した。んでも喜左衛門は今日から喜左衛門でねぇ、喜左衛門は、喜左衛門の弟の助左衛門になる。そんで、助左衛門は自害した兄にかわって、このおたかの御亭主《ご  て》さおさまる。徳様《さ》、喜左衛門が死ぬのが本筋だけんと、喜左衛門が死んではこの平畠の紅花栽培が立ち行《え》がね。喜左衛門は、おらにとってはともかくも、平畠のお侍衆、お百姓衆、それがら商人衆さ、なくてはなんねぇ人なんだっちぇ、それであんだを……。その喜左衛門さ似で居《え》だのが災難でございした。徳様《さ》、おら、胸の底の底さ、あんだのごどは一生刻みつけでおぐ。なんつってもあんだは、あんだはおらの御亭主《ご  て》にはちげぇねがったんだもの。喜左衛門様《さ》ぁ…… 下手に藩士がひとり登場するが、この藩士は冒頭の親孝行屋ととてもよく似ている。 藩士 御公儀巡見使平井外記殿、検屍《けんし》役、元御公儀巡察人塚原小兵衛の従者船山吾助殿、只今、御到着でございます。 一同平伏。ただおたかのみはまだゆっくりとやさしく徳の鬢を撫でている。 ——幕——   この作品は昭和五十一年十一月、本作品を含む同タイトルの戯曲集として新潮社より刊行され、昭和五十八年九月同編集で新潮文庫版が刊行された。 Shincho Online Books for T-Time    雨 発行  2002年10月4日 著者  井上 ひさし 発行者 佐藤隆信 発行所 株式会社新潮社     〒162-8711 東京都新宿区矢来町71     e-mail: old-info@shinchosha.co.jp     URL: http://www.webshincho.com ISBN4-10-861221-3 C0893 (C)Hisashi Inoue 1976, Coded in Japan