■ 2  機竜の上昇に伴って幾らかは消費していただろうが、それでも燃素二十個が同時に解放されたその威力は凄まじいものとなった。  通常、素因は指一本につき一つしか制御できないため、どんな高位の術者でも同時生成は十個が限界だ。伝え聞くところでは、かつて神聖教会を牛耳っていた元老の長は足指をも利用することで二十個、そして亡き最高司祭は髪を端末として百個近い素因を操ったそうだが、もちろんロニエはそんなとんでもない場面をじかに見たことはない。  騎士であるロニエでさえそうなのだから、カセドラル外周に詰め掛けていた市民たちの驚きようは大変なものだった。遥か高空で生まれた、第二のソルスとも言うべきオレンジ色の閃光に続いて、天地を揺るがすような轟音が地上まで届いたとき、ほとんどの見物人が頭を覆って悲鳴を上げた。  しかしもちろん、無加工の燃素がただ炸裂しただけなので、現象の派手派手しさに対して、いかなる被害も数百メル離れた地上にまで及ぶことはなかった。  おそるおそる顔を上げた千数百人の視線の先で、濃密な黒煙のかたまりがもくもくと広がり、カセドラルの最上部を覆い隠した。  二ヶ月前にまさにこの広場で焚かれた、新年を祝う大篝火の数倍に及ぶ規模の爆発に、鋼の竜に乗っていた人物はいったいどうなってしまったのだろう——と恐らく全員が思ったに違いない。当然ロニエもそう考え、胸の前で両手を握り締めたまま、両眼を大きく見開いた。 「き…………」  キリト先輩!  と叫ぼうとしたその寸前、隣のアスナがぽん、と肩を叩いて言った。 「だいじょーぶよ」  その、一切の畏れを含まない落ち着いた声が響くと同時に、ずぼっと黒煙の底を突き破って落下してくる小さな影があった。人だ。機竜を構成していたすべての金属が蒸発し、空間力となって拡散してしまったのに、ぐるぐる回りながら落ちてくる人物が着込んだ黒革の服には焼け焦げひとつ見えない。  人影が、不意に両腕を広げた。  袖部分の革が融け崩れるように流れ、薄い翼へと形を変えて肩から伸びた。  黒竜にも似た翼を二度、三度羽ばたかせると、落下の勢いがゆるみ——やがて完全に静止した。  飛行術——、いや、正確には術式ではない。心意によって服を本物の翼へと置換し、自分は空を飛ぶことを許された生物である、と『世の理』に割り込んでいるのだ。  そんなことができる人間は、今のところ彼のほかには存在しない。見上げる見物人たちがいっせいに大きくどよめき、やがてそれは巨大な歓声と拍手へと変わった。  当初の目的だった『機竜飛行実験』は半分以上失敗したはずなのだが、彼——キリトは笑顔で手を振りながらゆるやかな降下へと移った。ロニエも、その姿を見上げながら懸命に両手を打ち合わせた。とんでもない思いつきを実行に移し、たいがい更にとんでもない結果を引き起こすキリトの行状は、何年経ってもまるで変わらない。  口は笑っているのに、両眼に滲むものがあることにロニエは気付いた。  ぎゅっと瞬きしてそれを払い落としながら、胸の奥でひそやかに祈った。  叶うならば、この日々が永遠に続きますように、と。  セントラル・カセドラル五十層、『霊光の大回廊』の名で呼ばれる大広間が、現在の『人界統一会議』議事堂となっている。  かつては磨かれた大理石が敷き詰められていただけの床の中央に、白金樫の古木から切り出した巨大な円卓が置かれ、周囲を二十脚の椅子が取り囲む。  うち一つに腰掛け、背筋を縮めるのはキリトだ。そのすぐ前で仁王立ちになった大柄な騎士が、雷のような大声を放った。 「今日という今日は言わせてもらいますぞ、代表剣士どの!!」 「…………ハイ」 「今回は絶対に何も壊さない! そう剣に誓ったことをよもやお忘れではありませんでしょうな!!」 「………………ハイ」  人界最強の剣士を、まるで教師のように叱り付ける騎士は、どっしりとした赤銅の鎧に身を包んでいる。顔の造作は剛毅そのもの、短く刈り込んだ髪と鋭い瞳は炎の色だ。名をデュソルバート・シンセシス・セブン、最古参の整合騎士のひとりである。 「アスナ様がその神力を顕してくださらなかったら、今頃カセドラルの九十階から上は黒焦げですぞ! いかに無人の層とは言え、歴史と伝統ある『白亜の塔』が『消し炭の塔』になったりしたら、央都の民たちがどれほど嘆き悲しむことか! だいたい、代表どのはご自分がいかに重責ある立場に就いておられるか、自覚というものが足りなすぎる! 術式や道具の工夫は、それを天職とする術師や鍛冶師に任せればよいのです!」  永遠に続きそうなデュソルバートの小言を、少し離れた場所で机に腰を乗せる細身の騎士が遮った。 「そのへんにしてあげなさい、デュソルバート。代表どのがまるで日なたのナメクリ虫のように萎れているわよ」  笑いを含んだ艶やかな声の主は、鏡のように磨かれた鎧をまとい、背に波打つ黒髪を流した女性騎士だった。左腰には白銀の柄をもつ細身の長剣、そして右腕に、珍しい藍色の髪をした二歳ほどの幼子を抱いている。 「は、しかし騎士長……」 「あまり叱り付けて、また代表どのが家出してしまっても困るしね。来月には暗黒界五族との合議も控えていることだし」  大輪の蘭の花のようにあでやかな美貌を薄く綻ばせる、騎士長と呼ばれた女性の名はファナティオ・シンセシス・ツー。二代目整合騎士団長の要職にある、世界最大級の剣力を持つ人物なのだが、眠る幼子をゆっくり揺する様子からはとてもそうは見えない。  しょんぼり項垂れたままのキリトの前まで移動すると、ファナティオは艶然と微笑みながら言った。 「そんなわけだから、しばらく大人しくしていてね、坊や」  すると、ひょいと顔を上げたキリトが、こちらは大きな苦笑を浮かべた。 「『代表どの』よりも『坊や』って呼ばれるほうがよっぽど恐ろしいよ」 「ふふ、恐ろしいと思うのは後ろ暗いところがあるからじゃなくて?」  とファナティオが流し目を送る先には、腕組みをして立つ副代表剣士アスナの姿がある。こちらも笑顔ではあるが、目許がぴくぴくと震えている。  更にファナティオは、離れた円柱の傍に立つロニエにも視線を向けると、どういう意味か一瞬いたずらっぽい笑みを作った。すぐに向き直り、ぽん、とキリトの肩を叩く。 「ま、今回は実害も無かったことだし、これ以上の咎め立ては勘弁してあげましょう。そのかわり、夕食まできっちり執務のほうを行って頂きますからね」 「…………へーい」  かっくりと頷くキリトの椅子をくるりと回し、円卓に向かわせると、ファナティオはもう一度ロニエを見て手招きした。慌てて柱のそばから歩み寄る。 「ロニエ、職責にないお願いで悪いけど、ベルチェの面倒を見ててくれないかしら。この頃、一人遊びをさせておくと色々壊すのよね」 「はっ、はい、喜んで!」  答え、両腕を差し出すと、騎士長は眠る幼子をひょいっと預けてきた。途端、腕に掛かる重さに内心仰天してしまう。ロニエは整合騎士見習いとして、長さ二メルの大剣だろうと片手で振り回すことができるが、子供の重みというのは武器とはまったく別の意味合いを持っているように思えた。  両腕で胸にしっかり抱きなおすと、ベルチェ坊やはふやふやという声を洩らしたが、すぐに再び安らかな眠りに落ちていった。一礼し、壁際まで戻る。そこで待っていた月駆が、鼻面を伸ばして興味深そうにふんふんと匂いをかぐ。  円卓には、キリト、アスナ、ファナティオ、デュソルバートが適当な間を空けて座り、さっそく喧々諤々の議論を始めた。 「まず、先日報告のあった、果ての山脈・南洞窟の再開通について……」 「洞窟を掘り返すのは可能でも、南方の密林地帯に街道を建設するのはかなりの時間が……」  今日は正式な評議ではないので、見習いのロニエはこの場にいる義務は実のところない。実際、相棒のティーゼは術式の勉強をするといって大図書室にこもっている。  だが、ロニエには、どうしてもキリトに内密に訊ねてみたいことがあるのだ。午前中の飛翔実験を見ているときに、ふと思いついた途方もない想像について。キリトはちょっと眼を離すとすぐにカセドラルのどこか——下手をするとセントリアの下町や、ひどい時は果ての山脈の向こうにまで飛んでいってしまうので、この会議が終わったところで素早くつかまえるつもりだった。  心意の修行では、細い鉄柱のてっぺんに片足で何時間も立ち続けることもあるので、背中を柱に預けて会議の終了を待つくらいどうということはない。幼竜の月駆も、ティーゼの霜咲にくらべれば大人しい性質なので、飽きて柱をかじったりはしないだろう。  活発な議論に耳を傾けながらじっと立っていると、不意に腕のなかの幼子がへくちっと可愛らしいくしゃみをした。  眼を醒ます様子はないが、寒いのかしらと慌てて数歩横に移動し、高い窓から差し込むソルスの光を直接受ける。柔らかそうな藍色の髪がきらきらと瞬き、ふっくらした頬にも輝きがすべって、その無垢な美しさにロニエは一瞬息をつめた。  …………赤ちゃん、かぁ……。  微笑みながら胸のなかで呟く。  同時に、意識は、先月央都北部にある生家に里帰りしたときの、あまり楽しいとは言いがたい記憶のなかへとさまよい出ていく。