3  残された四日間で、俺はさらにレベルをひとつ上げ、70の大台に乗せた。  その間、俺は文字通り一睡もしなかった。代償なのか、時折鉄釘を打たれるような頭痛に襲われたが、恐らく寝ようとしても眠れなかっただろう。  クラインの風林火山はあれ以来、アリ谷の狩場に現れることはなかった。他ギルドの大パーティーに混じって列に並び、機械のように単騎ひたすらにアリを狩りつづける俺を見るプレイヤー達の眼は、やがて嘲笑から嫌悪へと変わった。時折何か話し掛けてきた奴もいたようだったが、俺と視線が合うや顔をそむけ、立ち去っていった。  クリスマスプレゼントを狙う多くの者たちの間で最大の懸案だった、"背教者ニコラス"が出現するというモミの巨樹が一体どこにあるのか——という問題については、俺はアリ谷でのレベル上げに勤しむ合間を縫ってほぼ確信を得るに至っていた。  何人もの情報屋から買った幾つもの樹の座標に、俺は全て赴いて確かめてみたが、それらは形こそいかにもクリスマスツリー然としていたものの実際にはモミではなくスギ類だった。針のような葉を持つスギと違い、モミの葉は先が丸まった細長い楕円形なのだ。  数ヶ月前、35層のフィールドにあるランダムテレポート・ダンジョン"迷いの森"の一角で、俺は一本の捻じくれた巨木を見つけていた。いかにも意味ありげな形状だったので、未知クエストの開始点かもしれないと仔細に調べたのだが、その時は何も発見することはできなかった。思い返してみれば、あの巨木こそモミの木なのだった。クリスマス——つまり今夜、あの木の下にフラグMob"背教者ニコラス"が出現するのはほぼ間違いないと思われた。  レベルが70に上昇したことを告げるファンファーレを無感動に聞きながら、俺は周囲のアリを一掃すると、ポーチから転移クリスタルを取り出した。順番を待っているプレイヤー達に一声かけることもせず、宿がある最前線・49層主街区へとひとまず戻る。  転移門広場で時計台を見上げると、零時まであと三時間と迫っていた。広場には、イブを共に過ごそうというたくさんの二人連れのプレイヤー達が、腕を組み、肩を抱きながら、ゆっくりと歩いていた。その間を早足で縫い、俺は宿屋へと急いだ。  長期滞在にしてある部屋に駆け込むと、まず備え付けの収納チェストを開き、出現したアイテムウインドウからありったけの回復・解毒クリスタルとポーション類と自分の所持品ウインドウに移動させる。これだけで一財産だが、もちろんその全てを使い尽くしても惜しくはない。  取って置きのレアな片手剣も取り出し、耐久度を確認したあと、アリ相手にぼろぼろになった背中の剣と交換する。レザーコートを含む防具類も全て新品と換える。  全ての作業が終了し、俺は窓を消そうとしたが、ふと手を止めて自分のアイテム欄の上部を見つめた。  そこには、『Self』、つまり俺自身のアイテム欄を示すタブと並んで、『サチ』の名前が記されたタブが残っていた。  これは、仲はいいが結婚には至らない——というプレイヤー同士で設定する、共通アイテムウインドウというものだ。問答無用ですべてのアイテムと金が共有設定になってしまう結婚と違って、このタブ内のアイテムだけが二人の間で共有されるという仕組みだ。  愛の言葉も、手を繋ぐことさえ求めなかったサチが、死ぬ少し前に作ろう、と言ったのだった。理由を聞くと、ポーション類の受け渡しが楽だから、とやや納得しにくいことを——その目的のためにすでにギルドメンバー共通タブがあったので——言ったが、それでも俺は了承し、サチだけとの共通タブを設定した。  サチが死んでも、その窓は残っていた。無論フレンドリストにもまだサチの名はある。だが、そちらのサチの名は連絡不可のグレーに変わり、この共通アイテム欄に残るいくつかのポーションやクリスタル類も、最早使われることはない。  半年経っても、俺はサチの名がついたタブを消すことはできなかった。ギルド用のタブは無感動に消去したにもかかわらず。彼女の蘇生の可能性を信じているから——というわけではない。ただ、それを消すことで、自分が少しでも楽になってしまうのが許せないだけだ。  十分近くもサチの名を眺めたあと、俺は我にかえってウインドウを消した。零時まであと二時間。  部屋を出て転移門に向かう間じゅう、俺は何度も最後の瞬間のサチの顔を思い出していた。あの時、彼女は何を言おうとしたのか、それだけを考えながら。  35層に転移し、ゲートから出ると、前線とは打って変わって広場は静まりかえっていた。中層プレイヤーの主戦場とは少しずれているし、主街区は取り立てて見所のない農村ふうの造りだからだ。しかしそれでもちらほらと見えるプレイヤーの目を避けるように、俺はコートの襟を引き寄せると、足早に街区から出た。  雑魚モンスターの相手をしている暇も、精神的余裕も無かった。背後を振り返り、尾行者がいないことを確かめるや、全力で走り始める。ここ一ヶ月の無茶なレベル上げで俺の敏捷度パラメータ補正もかなりアップしており、積もった雪を蹴る足は羽のように軽かった。相変わらず鈍痛がこめかみのあたりで疼いていたが、そのお陰で眠気も脳に忍び込めないようだった。  ほんの十分ほどの疾駆で、迷いの森の入り口に到達した。このフィールド・ダンジョンは無数の四角いエリアに区切られ、それぞれを結ぶポイントがランダムに入れ替わるため、地図アイテムを持っていないととても踏破することはできない。  俺は地図を広げると、マーカーを点けてある区画を睨み、そこへ至る経路を逆に辿った。頭の中にルートを刻み付けると、深夜の真っ暗な森のなかに、独り足を踏み入れた。  どうしても避けきれない戦闘を二度ほどこなしただけで、俺はさしたる障害も無く、目標のモミの木があるエリアのひとつ手前まで到達した。時間はあと三十分以上残っている。  これから、自分の命を奪うかもしれない——恐らくはその可能性が非常に高いボスモンスターと単独で闘うというのに、俺の心に恐怖の到来する気配すらもなかった。あるいは、むしろ、俺はそうなることを望んでさえいるのかもしれない、そう思えた。サチの命を呼び戻すための闘いで死ぬのなら、それは唯一俺に許された死に方と言えるのではないか——。  死に場所を探している、などとヒロイックなことを言うつもりはない。己の死に意味を求める資格が、サチを、そして四人の仲間を無為に死なせた俺にあろうはずもないのだ。  こんなことに何の意味があるの、サチは俺にそう問うた。それに対して俺は、意味などない、と答えた。  今こそ、俺はあの言葉を真実にすることができる。茅場晶彦という狂った天才が作り出した、無意味なデスゲームSAOの中でサチは無意味に死んだ。同じように、俺は誰の目にも止まらない場所で、誰の記憶にも残らず、いかなる意味も残さずに死ぬのだ。  もし、仮に俺が生き延び、ボスを倒すことができれば、その時は蘇生アイテムの噂は真実となるに違いない。俺は根拠も無くそう考える。サチの魂は黄泉平坂だかレテ河だかから舞い戻り、その時こそ俺は彼女の最後の言葉を聞くことができる。ようやく——ようやく、その時が来る……。  最後の数十メートルを歩くために、俺が足を踏み出そうとしたそのとき、背後のワープポイントから複数のプレイヤーが出現する気配がした。俺は息を飲んで飛び退り、背中の剣の柄に手をかけた。  現れた集団はおよそ十人。先頭に立つのは、サムライのような軽鎧に身を固め、腰に長刀を差したバンダナの男——クラインだった。  ギルド風林火山の主要メンバーたちは、各々表情に緊張を漲らせながら、最後のワープポイント前に立つ俺に近づいてきた。クラインの顔だけをまっすぐ凝視し、俺はしゃがれた声を絞り出した。 「……尾けてたのか」  クラインは髪を逆立てた頭をがりがり掻きながら頷いた。 「まあな。追跡スキルの達人がいるんでな」 「なぜ俺なんだ」 「お前ェが全部のツリー座標の情報を買ったっつう情報を買った。そしたら、念のため49層の転移門に貼り付けといた奴が、お前ェがどこの情報にも出てないフロアに向かったっつうじゃねェか。オレは、こう言っちゃなんだけどよ、お前ェの戦闘能力とゲーム勘だけはマジですげぇと思ってるんだよ。攻略組の中でも最強……あのヒースクリフ以上だとな。だからこそなぁ……お前ェを、こんなとこで死なすわけにはいかねえんだよ、キリト!」  伸ばした指先で、まっすぐに俺を指差し、クラインは叫んだ。 「ソロ攻略とか無謀なことは諦めろ! オレらと合同パーティーを組むんだ。蘇生アイテムは、ドロップさせた奴の物で恨みっこ無し、それで文句ねえだろう!」 「……それじゃあ……」  クラインの言葉が、俺の身を案じる友情から出ているのだということすら、俺にはもう信じることはできなかった。 「それじゃあ、意味ないんだよ……俺独りでやらなきゃ……」  剣の柄を強く握りながら、俺は狂熱にうかされた頭で考えた。  ——全員斬るか。  ごくごく少ない、友人と呼べるプレイヤーの一人であるクラインを斬り殺し、レッドプレイヤーに墜ちてまで目的を完遂することを、俺はそのとき真剣に考えた。そんなことはまったく無意味だ、とかすかに叫ぶ声に、無意味な死こそ望むところだ、と圧倒的な音量でもうひとつの声が喚きかえす。  わずかでも剣を抜けば、その瞬間からもう俺は自分を止められないだろう。そんな確信があった。右手をぶるぶると震わせ、ぎりぎりの鬩ぎあいを続ける俺を、クラインはどこか悲しそうな眼でじっと見ていた。  エリアに、第三の侵入者が姿を現したのは、まさにその瞬間だった。  しかも今度のパーティーは、十人どころではなかった。ざっと見ただけでその三倍はいるだろうか。俺は愕然とその大集団を眺め、同じように呆気にとられて振り向いているクラインに、ぼそりと声を投げかけた。 「お前らも尾けられたな、クライン」 「……ああ、そうみてェだな……」  五十メートルほど離れたエリアの端から、風林火山と俺を無言で見つめる集団の中には、ここしばらくアリ谷で頻繁に見かけた顔がいくつも混じっていた。クラインの隣に立っていた風林火山の剣士が、リーダーに顔を近づけ、低く囁いた。 「あいつら、聖竜連合っす。モメるとあとが面倒っすよ」  その名前は俺もよく知っていた。血盟騎士団と並ぶ名声を誇る、攻略組中の名門ギルドだ。個々のプレイヤーのレベルは俺より下であろうが、あの人数相手に戦って勝つ自信はさすがに無かった。  だが——それも、結局は同じことなのだろうか?  ボスモンスターに殺されようと、大ギルドに殺されようと、それが犬死にであることに変わりは無いかもしれない。ふと俺はそう思った。少なくとも、クラインと戦うよりはずいぶんマシな選択ではないだろうか?  今度こそ、俺は背中の剣を抜こうとした。もう、あれこれ考えるのは億劫だった。ただの機械になってしまえばいい。ひたすらに剣を振るい、視界に入るものを殺し、そしてそのうちに壊れて止まる。  だが、クラインの叫び声が、俺の手を押しとどめた。 「くそッ! くそったれがッ!!」  刀使いは、俺より先に腰の武器を抜き放つと、背中を向けたまま怒鳴った。 「行けッ、キリト! ここはオレらが食い止める! お前は行ってボスを倒せ! だがなぁ、死ぬなよ手前ェ! オレの前で死んだら許さねェぞ、ぜってえ許さねェぞ!!」 「…………」  もう時間はほとんど残っていなかった。俺は、クラインに背を向けると、礼の言葉ひとつ口にすることなく、最後のワープポイントへと足を踏み入れた。  モミの巨木は、記憶にあるとおりの場所に、記憶にあるとおりの捻じくれた姿で静かに立っていた。他に樹のほとんどない四角いエリアは、積もった雪で真っ白に輝き、全ての生命が死に絶えた平原のように見えた。  視界端の時計が零時になると同時に、どこからともなく鈴の音が響いてきて、俺は梢の天辺を見上げた。  漆黒の夜空、正確には上層の底を背景に、ふた筋の光が延びていた。よくよく凝視すれば、何か奇怪な形のモンスターに引かれた巨大なソリらしい。  モミの木の真上に達すると同時に、ソリから黒い影が飛び降りてきて、俺は数歩後退った。  盛大に雪を蹴散らして着地したのは、背丈が俺の三倍はあろうかという怪物だった。一応人間型だが、腕が異常に長く、前屈みの姿勢ゆえにほとんど地面に擦りそうだ。せり出した額の下の暗闇で、小さな赤い眼が輝き、顔の下半分からは捻じれた灰色のヒゲが長く伸びて下腹部まで届いている。  グロテスクなのは、その怪物が、赤と白の上着に同色の三角帽子をかぶり、右手に斧、左手に大きな頭陀袋をぶら下げていることだった。おそらく、こいつをデザインした開発者の意図したところでは、大勢のプレイヤーがこの、サンタクロースを醜悪にカリカチュアライズしたボスを見て、怖がったり笑ったりするはずだったのだろう。だが、たった一人"背教者ニコラス"と対峙する俺にとって、ボスの意匠などもうどうでもいいことだった。  ニコラスは、クエストに沿ったセリフを口にするつもりなのか、縺れたヒゲを動かそうとした。 「うるせえよ」  俺は呟き、剣を抜くと、右足で思い切り雪を蹴った。   4  一年のSAOプレイを通して、俺のHPは初めて赤の危険域に突入し、そこで止まった。  ボスが倒れ、頭陀袋を残して爆散したとき、俺のアイテム欄にはもうひとつの回復クリスタルも残ってはいなかった。かつてないほど死に近づき、しかしぎりぎりで生き残ったのに、俺の心には歓喜の念も、安堵すら湧いてこなかった。むしろ、生き延びてしまった、という失望に似たものが、そこにはあった。  のろのろと剣を納めると同時に、残された頭陀袋も光芒を散らして消滅した。ボスがドロップしたアイテムは、すべて俺のウインドウに格納されたはずだ。大きくひとつ息を吐いてから、震える手を振り、窓を呼び出す。  新規入手欄には、うんざりするほど多くのアイテム名が並んでいた。武器防具らしきもの、宝石類、クリスタル類、食材に至るまでがごっちゃり列挙されている窓を慎重にスクロールし、ただひとつの物を探す。  数秒後、それは拍子抜けするほどあっさりと、俺の目に飛び込んできた。  『還魂の聖晶石』、それはそういう名前だった。俺の心臓がどくんと跳ね、ここ数日——あるいは数ヶ月に渡って麻痺していた心の一部に、突然血が通ったような気がした。  本当に……本当にサチは生き返るのか? ならば、ケイタも、テツオも、今までSAO内で命を落としたプレイヤー達の魂は、すべて消滅したわけではなかったのか……?  サチ……サチにもう一度会えるかもしれない。そう考えるだけで、俺の心は震えた。どんな言葉で罵られようと、どれだけ嘘を責められようと、今度こそ、俺は彼女をこの腕に抱きしめ、真っ直ぐにあの黒い瞳を見て、心の底から言おう、そう思った。君は死なない、ではなく、俺が君を守ると。そのためだけに、俺はがんばって強くなったのだ、と。  指が震えて、何度も操作をミスりながら、俺はようやく還魂の聖晶石を実体化させた。ウインドウの上に浮かび上がったそれは、卵ほども大きな、そして七色に輝く途方も無く美しい宝石だった。 「サチ……サチ……」  声に出して彼女の名を呼びながら、俺は宝石をワンクリックし、ポップアップメニューからヘルプを選択した。そこには、馴染んだフォントで、簡素な解説が記されていた。  『このアイテムのポップアップメニューから使用を選ぶか、あるいは手に保持して『蘇生 【プレイヤー名】』と発声することで、対象プレイヤーが死亡してからその効果光が完全に消滅するまでの間(およそ十秒間)ならば、対象プレイヤーを蘇生させることができます』  およそ十秒間。  取ってつけたようなその一文が、これ以上ないほど明確に、冷徹に、サチが死にもう二度と戻ってこないことを俺に告げていた。  およそ十秒。それが、プレイヤーのHPがゼロになり、仮想体が四散してから、ナーヴギアがマイクロウェーブを発して生身のプレイヤーの脳を破壊するまでの時間なのだ。  俺は否応なく想像した。サチの体が消え、そのわずか十秒後、彼女のナーヴギアが主を焼き殺す瞬間を。サチは苦しんだのだろうか? 十秒の猶予時間のあいだに、何を考えたのだろうか? 俺に対する百通りの呪詛……? 「うああ……あああああ……」  俺の口から獣のような叫び声が漏れた。  右手で、ウインドウの上に浮く還魂の聖晶石を掴み上げ、俺はそれを力いっぱい雪の上に叩きつけた。 「あああ……ああああああ!!」  絶叫しながらブーツで何度も踏んだ。だが、宝石は無表情に煌めくのみで、割れることも、ヒビが入る気配すらなかった。全身の力を振り絞って咆哮し、俺は地面に両手をつくと、指で雪を掻き毟り、しまいには転げまわって叫びつづけた。  無意味、何もかもが無意味だった。サチが怯えと苦しみの果てに死んだこと、俺がボスに挑んだこと、いや、この世界が生まれ、そこに五万の人間が囚われたということそのものに、意味など何も無かった。それだけが唯一絶対の真実だと、俺は今完全に悟った。  どれだけの時間そうしていただろうか。いくら喚こうと、叫ぼうと、涙が溢れる気配は無かった。この世界にはそんな機能など無いのだろう。やがて、俺はのろのろと立ち上がり、雪に埋まった聖晶石を拾い上げ、元のエリアへと戻るワープポイントへと向かった。  森の中に残っていたのは、クラインと風林火山メンバーだけだった。聖竜連合とやらの姿はなかった。クライン達の人数が減っていないことを機械的に確認しながら、俺は地面に座り込んでいる刀使いに歩み寄った。  クラインは、俺に負けず劣らず消耗しているように見えた。恐らく、聖竜連合との交渉を、一対一のデュエルで決着させたのだと推測されたが、俺の胸中にはどのような感慨も浮かぶことはなかった。  近づく俺を見上げた刀使いは、一瞬ほっとしたように顔を緩めたが、俺の顔にどのような表情を見て取ったのか、すぐに口元を強張らせた。 「……キリト……」  割れた声で囁くクラインの、あぐらをかいた膝に、俺は聖晶石を放った。 「それが蘇生アイテムだ。過去に死んだ奴には使えなかった。次に、お前の目の前で死んだ奴に使ってやってくれ」  それだけ言い、出口に向かおうとした俺のコートを、クラインが掴んだ。 「キリト……キリトよぉ……」  その、無精ひげが生えた頬に、ふた筋の涙が伝うのを、俺は意外なものを見る気持ちで眺めた。 「キリト……お前ェは……お前ェは生きろよ……もしお前ェ以外の全員が死んでも、お前ェは最後まで生きろよぉ……」  泣きながら、何度も生きろと繰り返すクラインの手から、俺はコートの裾を引き抜いた。 「じゃあな」  それだけ言い、俺は迷いの森を出るために歩き去った。  どこをどう歩いたものか、気付くと俺は、49層の宿屋の部屋に戻っていた。  時刻は午前三時を回っていた。  これからどうしようかな、と俺は考えた。この一ヶ月、俺を生かしつづけてきた蘇生アイテムは、実在はしたものの俺が求めたものではなかった。それを手に入れるために、俺は経験値に餓えた愚か者として笑われ、最後には貴重な友情さえも失ってしまった。  しばらく考えつづけてから、俺は、朝になったらこの層のフロアボスと戦いにいくことに決めた。もしそいつに勝ったら、次は足を止めることなく50層のボスと戦う。その次は51層のボスと戦う。  愚かな道化に相応しい末路は、もうそれしか考えつかなかった。一度決めてしまうと気持ちが楽になり、俺は椅子に座ったまま、何も見ず、何も考えずに朝を待った。  窓から差し込む月光がじりじりと位置を変えていき、やがて薄れ、灰色の曙光がそれに取ってかわった。もう何時間眠っていないのか見当もつかなかったが、最悪の夜の次に来た最後の朝にしては、悪くない気分だった。  壁の時計が七時を指し、椅子から立ち上がろうとしたその時、聞き慣れないアラーム音が俺の耳に届いた。  部屋を見回したが、音源らしいものは見つけられなかった。ようやく視界の隅っこに、メインウインドウを開くことを促す紫のマーカーが点滅していることに気づき、俺は手を振った。  光っているのは、アイテムウインドウ中の、サチとの共通タブだった。そこに何か、時限起動アイテムが格納されていたのだ。首を傾げながらわずかな一覧をスクロールし、見つけたのは、タイマー起動のメッセージ録音クリスタルだった。  俺はそれを取り出し、ウインドウを消して、テーブルの上に置いた。  明滅するクリスタルをクリックすると、懐かしい、サチの声が聞こえた。  メリークリスマス、キリト。  君がこれを聞いてるとき、私はもう死んでると思います。もし生きてたら、クリスマスの前の日にこのクリスタルは取り出して、自分の口で言うつもりだからです。  えっと……、最初に、なんでこんなメッセージを録音したのか、説明するね。  私は、たぶん、あんまり長い間生き延びられないと思います。もちろん、キリトを含めた月夜の黒猫団の力が足りないとか、そんなこと考えてるわけじゃないよ。キリトはすごく強いし、ほかの皆もどんどん強くなってるもん。  えっとね、何て説明したらいいかな……。このあいだね、長い間仲良くしてた、ユッチっていう友達が死んじゃったんだ。私と同じくらい怖がりで、ぜんぜん安全なはずの場所でしか狩りをしなかった子なんだけど、それでも運悪く一人のときにモンスターに襲われて、死んじゃった。それから、私すごくいろいろ考えて、それで思ったんです。この世界でずーっと生きてくためには、どんなに回りの仲間が強くても、本人に生きようっていう意志が、ぜったいに生き残るんだって気持ちがなければだめなんだって。  私ね、ほんとのこと言うと、最初にフィールドに出たときからずっと怖かった。はじまりの街から出たくなかった。黒猫団のみんなとは現実でもずっと仲良しだったし、一緒にいるのは楽しかったけど、でも狩りに出るのはいやだった。そんな気持ちで戦ってたら、やっぱりいつか死んじゃうよね。それは、誰のせいでもない、私本人の問題なんです。  キリトは、あの夜からずっと、毎晩、毎晩、私に大丈夫って言ってくれたよね。死なないって。だから、もし私が死んだら、キリトはきっとすごく自分を責めるでしょう。自分が許せないって思うでしょう。だから、これを録音することにしたの。キリトのせいじゃないよって。悪いのは、私なんだって、そう言いたかったから。タイマーを次のクリスマスにしたのは、せめてそれまでは頑張って生きたいなって思ったからです。君と一緒に、雪の街を歩いてみたいから。  あのね……、私、ほんとは、キリトがどれだけ強いか知ってるんです。キリトのベッドで目を覚ましたとき、君が開いてるウインドウ、後ろからのぞいちゃったから。  キリトが、本当のレベルを隠して私達と一緒に戦ってくれるわけは、一生懸命考えたけどよくわかりませんでした。でも、いつか自分から話してくれると思って、ほかの皆には黙ってることにしました。それに、私、君がすっごく強いんだって知って、嬉しかった。それを知ってから、君の隣でなら、怖がらずに眠ることができたよ。それに、もしかしたら、私と一緒にいることが、君にとっても必要なことなのかもって思えたことも、すごく嬉しかった。それなら、私みたいな怖がりが、ムリして上の層に上ってきた意味もあったことになるよね。  えっと……えっとね、私が言いたいのは、もし私が死んでも、キリトはがんばって生きてね、ってことです。生きて、この世界の最後を見届けて、この世界が生まれた意味、私みたいな弱虫がここに来ちゃった意味、そして君と私が出会った意味を見つけてください。それだけが、私の願いです。  えっと……だいぶ時間余っちゃったね。これ、すごい一杯録れるんだね。えっと、じゃあ、せっかくクリスマスだし、歌を歌います。私ちょっと、歌得意なんだよ。『赤鼻のトナカイ』って歌をうたいます。ほんとはもっと、ウィンター・ワンダーランドとか、ホワイト・クリスマスとかかっこいい歌を歌いたいんだけど、歌詞覚えてるのがそれだけなんだ。  なんで『赤鼻のトナカイ』だけは覚えてるかって言うと、こないだの夜、キリトが言ってくれたからです。どんな人でも、きっと誰かの役に立ってる、私みたいな子でもこの場所にいる意味はある、って。それを聞いたとき、私すっごく嬉しくて、それでこの歌を思い出したんです。なんだか、私がトナカイで、君がサンタさんみたいだな、って。……ほんというと、お父さんみたいだな、って思った。私のお父さん、ちっちゃい時に出て行っちゃったから、お父さんってこんな感じかな、って君の隣で寝ながら毎晩思ったよ。えっと、じゃあ、歌います。  真っ赤なお鼻の トナカイさんは  いつもみんなの 笑い者  でも その年の クリスマスの日  サンタのおじさんは 言いました  暗い夜道は ピカピカの お前の鼻が 役に立つのさ  いつも泣いてた トナカイさんは 今宵こそはと 喜びました  ……私にとって、君は、暗い道の向こうでいつも私を照らしてくれた星みたいなものだったよ。じゃあね、キリト。君と会えて、一緒にいられて、ほんとによかった。さよなら。 (ソードアート・オンライン外伝6 『赤鼻のトナカイ』 終)