ソードアート・オンライン外伝6 『赤鼻のトナカイ』   1  闇を貫く『ヴォーパル・ストライク』の血色の閃光が、大型の昆虫モンスター二匹のHPを、同時にゼロにした。  ポリゴンの抜け殻が四散するのを目の端で捉えながら、硬直時間が解けると同時に剣を引き戻し、振り向きざま背中に迫りつつあった鋭い大顎の攻撃を弾き返す。ギイイイと耳障りな哭き声を上げて仰け反る巨大アリを、もう一度同じ技を繰り出し仕留める。  ほんの三日ほど前、片手直剣スキルが熟練度950に達すると同時に剣技リストに出現したこの単発重攻撃技は、その使い勝手の良さで俺を驚かせた。技後の硬直時間はやや長いが、刀身の倍以上のリーチと、両手用の重槍に匹敵する威力はそれを補って余りある。無論、対人戦でこうも使いまくればすぐにタイミングを読まれてしまうだろうが、単純なAIの動かすモンスター相手なら関係ない。遠慮なしに連発し、押し寄せる敵群を真紅のライトエフェクトとともに吹き飛ばしていく。  ——とは言え、わずかな松明の灯りの中一時間近くもぶっとおしで続く戦闘に、さすがに集中力が尽きかけているのを俺は自覚していた。大顎による噛み付きと、そこから吐き出す酸性の粘液だけという単純な攻撃パターンに少し前から即応できなくなりつつある。大アリどもは、数は多いが決して雑魚ではない。現在の最前線フロアである49層からほんの二層下に棲息する、充分に強力なモンスターだ。レベル的には安全マージン内だが、数匹に囲まれて立て続けに攻撃を受ければ、HPバーはたちまち黄色くなるだろう。  そんな危険を冒してまで既攻略層で単身戦闘を続ける理由はただ一つ、この場所が、現在知られているなかで最も効率のよい経験値稼ぎが可能な人気スポットだからだ。周囲のガケにいくつも開いている巣穴からぞろぞろ湧き出す巨大アリは、攻撃力は高いがHP、防御力ともに低いタイプのモンスターで、攻撃さえ避けつづけられれば短時間で大量に倒すことができる。もっとも、前述したとおり四方を囲まれて攻撃を被弾すると、体勢を立て直す間もなく一気に"持っていかれる"ので、とてもソロ向けの狩場とは言えない。人気スポットゆえに一パーティー一時間まで、という協定が張られているが、順番待ちの列に単独で並ぶのは俺だけだ。今も、谷の入り口で顔馴染みのギルドの連中が俺の狩りが終わるのを待っているが、その首の上には判を押したように呆れ面が並んでいるはずだ。いや、呆れられるならまだいい方かもしれない。仲間意識の強い大ギルドのプレイヤー達からは、"最強バカ""はぐれビーター"と笑い者扱いらしい。——だが、もちろん、知ったことではない。  視界左端に表示されたタイマーが五十七分を回るのを見て、俺は次にモンスター湧きの波が切れたタイミングで撤収することを決め、最後の集中力をかき集めるべく大きく息を吸うとぐっと止めた。  左右から同時に接近してきたアリの、右の奴にピックを投げつけて動きを牽制しておいて、左の奴を隙の少ない三連撃技『シャープネイル』で仕留める。振り向くのと同時に『ヴォーパルストライク』を、大きく開いた顎の中央にぶち込む。硬直中に、少し離れたところから発射された緑色の酸を左腕のグローブで振り払い、じゅっという音とともにわずかに減少するHPバーに舌打ちしながら地面を蹴って大きくジャンプ。空中からアリの柔らかい腹を掻っ捌いて息の根を止め、その向こうにいたラスト二匹を、現在マスターしている最長連続技の六連撃を半分ずつ使って屠ると、次の波が巣穴から湧き出す前に猛然とダッシュした。  全長三十メートルほどのアリ谷を五秒足らずで駆け抜け、狭い出口から転がるように脱出したところで、初めて息を吐く。新鮮な空気を求めて激しく喘ぎながら、この苦しさは意識の中だけのことなのか、それとも現実の肉体の呼吸も止まっていたのだろうかと考える。答えが出る間もなく胃が痙攣するような感覚が訪れ、堪えようもなく数回えずいてから襤褸切れのごとく真冬の凍った地面に突っ伏した。  倒れたままの俺の耳に、近づいてくる複数の足音が届いた。顔見知りの奴らだが、今は挨拶するのも億劫だ。行ってくれというふうに右手をのろのろと振ると、ふうっという太い溜息とともに錆びた声が言うのが聞こえた。 「ちょっとお前らとレベル差がついちまったから、オリャあ今日は抜けるわ。いいな、円陣を崩さねえで、両隣の奴のカバーを常に意識するんだぞ。危なくなったら遠慮しねえで大声で呼べ。女王が出たらすぐ逃げろ」  リーダーぶりが板についた指示に、うす、おう、と六、七人の声が答え、ざくざくと下草を鳴らして靴音が遠ざかっていった。俺はようやく整ってきた呼吸をゆっくりと繰り返しながら、右手を突いて上体を起こし、傍らの木の幹にぐったりと寄りかかった。 「ほれ」  飛んできた回復ポーションの小瓶をありがたく受け取り、栓を親指で弾くと、貪るように呷る。苦みのあるレモンジュースといった味が、途方もなく美味く思える。空になった瓶を地面に放り、それが小さな光とともに消滅するのを見てから顔を上げた。  三ヶ月ほど前、最前線の迷宮区で知り合った、ギルド『風林火山』リーダーのクラインは、相も変らぬ趣味の悪いバンダナの下で無精ひげに囲まれた口もとを歪め、言った。 「いくらなんでも無茶しすぎなんじゃねェのか、キリトよ。今日は何時からここでやってんだ?」 「ええと……夜八時くらいか」  俺が掠れた声で答えると、クラインは大袈裟な渋面を作る。 「おいおい、今三時だから、七時間も篭りっ放しかよ。こんな危ねえ狩場、気力が切れたら即死ぬぞ」 「平気さ、待ちがいりゃあ一、二時間休める」 「いなきゃあぶっ通しなんだろうが」 「そのためにわざわざこんな時間に来てるんだ。昼間のここは五、六時間待たされるからな」  このバカったれが、と舌打ち混じりに吐き捨てると、クラインは腰からレア武器の日本刀を外し、俺の前にどかっと座り込んだ。 「……まあ、お前ェが強いのは知ってるけどよ。アリんこ共をソロであのペースだからな……。レベル、どんくれえになった」  レベルを含むステータス情報はプレイヤーの生命線であり、おいそれとは尋ねないのがこのSAOのマナーではあるが、クラインが口は悪いが"いい奴"なのはこの数ヶ月で充分に知っているし、風林火山は攻略組の中でも名の通った存在で、決して陰でPK行為に手を染めるようなギルドではないので、俺は肩をすくめながら正直に答えた。 「今日上がって69だ」  ざらざらとアゴを撫でていた手を止め、クラインはバンダナに半ば隠れた目を丸くした。 「……おい、マジかよ。オレよか10も上か……。——なら、尚のこと解んねぇぜ。ここ最近のお前ェのレベル上げは常軌を逸してるぞ。どうせ昼間も過疎い狩場に篭ってンだろ? 何でそこまでしなきゃならん。ゲームクリアの為……なんてお題目は聞きたかねぇぞ。お前ェ一人がどんだけ強くなったところで、ボス攻略のペースはKoBとかの強力ギルドが決めるんだからな」 「放っとけよ。レベルホリックなんだよ、経験値稼ぎ自体が気持ちいいんだよ」  自虐的な笑みとともに吐き出した俺のセリフを、クラインはふっと真面目な顔になって退けた。 「なわけねえだろうが……そんなボロボロになるまでする狩りがどんだけキツいか、それくれぇオレだって知ってるつもりだ。ソロは神経磨り減らすからな……。いくらレベル70近くても、この狩場で単騎じゃ安全マージンなんてあって無いようなもんだぞ。綱渡りもいいところだ、"向こう側"に転げ落ちるギリギリの線でレベル上げを続ける意味がどこにあるんだって聞いてンだよ」  風林火山は、もともと攻略組の中でもソロ志向のプレイヤーが必要に迫られやむなく作ったギルドだと聞いている。メンバーはどいつも過干渉嫌いの無頼派で、それはリーダーのクラインも例外ではないはずだ。  いい奴ではあるが、そんな男がここまで俺のようなはぐれビーターに気を使って見せるのは、恐らくその振りをせざるを得ない事情があるのだろう。そして、俺はその事情にある程度検討がついているのだった。苦手な言葉の駆け引きを続けるクラインに助け舟を出すつもりで、俺は苦笑しながら口を開いた。 「いいぜ、そんな心配する振りなんかしないで。知りたいんだろ、俺がフラグMobを狙ってるのかどうか」  フラグMob、とはクエスト等の攻略キーとなっているモンスターのことである。大概のものは数日、あるいは数時間に一回というペースで出現するが、中にはたった一度しか倒す機会のない、言わば準ボスモンスターのようなものも存在する。当然強さも半端ではなく、ボス攻略に準じた大パーティー構成を持ってあたるのが常識である。  クラインは、正直に顔を強張らせると、そっぽを向いてアゴをごしごし擦った。 「……オリャぁ別に、そんなつもりじゃあ……」 「ぶっちゃけて話そうぜ。俺がアルゴからクリスマスボスの情報を買った、っていう情報をお前が買った……という情報を俺も買ったのさ」 「ンだと」  クラインはもう一度目を見張り、次いで派手な舌打ちをした。 「アルゴの野郎……鼠の仇名はダテじゃねえな」 「あいつは売れるネタなら自分のステータスだって売るさ。——ともかく、だから俺たちは、互いに相手がクリスマスボスを狙ってることを知ってるわけだ。現段階でNPCから入手できるヒントも全て購入済みだってこともな。なら、俺がこんな無謀な経験値稼ぎをしてる理由、そしてどんなに忠告されても止めない理由もお前には明らかだろう」 「ああ……悪かったよ、カマかけるみてェな言い方してよ」  クラインはアゴから離した手でがりがりと頭を掻き、続けた。 「二十四日夜まであと五日を切ったからな……。ボス出現に備えてちっとでも戦力を上げときたいのは、どこのギルドも一緒だ。さすがにこんなクソ寒ぃ真夜中に狩場に篭るようなバカは少ねぇけどな。だがな……、うちはこれでもギルメンが十人以上いるんだぜ。充分に勝算あってのボス狙いだ。仮にも、"年イチ"なんていう大物のフラグMobが、ソロで狩れるようなモンじゃねえことくらい、お前ェにもわかってるだろうが」 「…………」  反論できず、俺は薄茶色に枯れた下生えに視線を落とす。  SAO開始後一年。二度目のクリスマスを目前に、いまアインクラッドじゅうをある一つの噂話が駆け巡っていた。一ヶ月ほど前から、各層のNPCが、こぞって同じクエストの情報を口にするようになったのだ。  曰く、ヒイラギの月——つまり十二月の二十四日夜二十四時ちょうど、どこかの森にある樅の巨木の下に、"背教者ニコラス"なる伝説の怪物が出現する。もし倒すことができれば、怪物が背中に担いだ大袋の中にたっぷりと詰まった財宝が手に入るだろう——。  いつもは迷宮区の踏破にしか興味を示さない攻略組の有力ギルド連も、今度ばかりは色めき立った。財宝とやらが巨額のコルにせよレアな武器にせよ、フロアボス攻略の大きな助けになるのは明らかだからだ。これまでプレイヤーから奪い取ることしかしなかったSAOシステムからの、気前のよいクリスマス・プレゼントだと言うならば、受け取るに否応のあろうはずもない。  ソロプレイヤーの俺はしかし、当初その噂にはまるで興味を引かれなかった。クラインに言われるまでもなく単独で狩れる相手とは思えなかったし、これまでのソロプレイを通してその気になれば部屋が買えるほどの金も手に入れている。何より、誰もが狙っているフラグMob攻略に名乗りを上げて無用の注目を浴びるのは真っ平だ。  だが——二週間前、そんな俺の心情を、あるNPC情報が百八十度変えた。それ以後、俺はこの人気狩場に日参し、大勢の笑い者になりながら、狂ったようにレベル上げに邁進してきたのだった。  クラインは、押し黙った俺に付き合ってしばらく口を噤んだあと、低くつぶやいた。 「やっぱり、あの話のせいかよ。——"蘇生アイテム"の……」 「……ああ」  ここまで話したのなら今更隠しても仕方ない。俺が素っ気無く肯定すると、刀使いは、何度目かの太い溜息をつきながら、絞り出すように言った。 「気持ちはわかるぜ……まさに夢のアイテムだからな。"ニコラスの大袋の中には、命尽きた者の魂を呼び戻す神器さえもが隠されている"……。でもな……大方の奴らが言ってるとおり、オレもそいつだけはガセネタだと思うぜ。ガセというか、SAOが本来の、普通のVRMMOとして開発されてたときに組み込まれたNPCのセリフが、そのまま残っちまった……。つまり、本来は、経験値のデスペナルティ無しにプレイヤーを蘇生させるアイテムだったんだろうさ。だが、今のSAOじゃ、ンなことは有り得ねえ。ペナルティはすなわち、プレイヤー本人の命なんだからよ。思い出したくもねェけど、あの最初の日、茅場の野郎が言ってたじゃねェかよ」  俺の耳にも、事件初日のチュートリアルで、茅場晶彦のクリスタルマスクが発した言葉が甦った。"HPがゼロになった時点でプレイヤーの意識はこの世界から消え、現実の肉体に戻ることは永遠になくなる"。  その言葉が欺瞞だったとは思えない。だが——だが、しかし。 「しかし、この世界で死んだあと実際にどうなるのか、知ってる奴はここには一人も居ないんだ」  俺は何かに抗うようにそう口にした。途端、クラインが鼻筋に皺を寄せ、吐き捨てるように言う。 「死んだあと向こうに戻ったら実は生きてて、目の前で茅場が"なーんちゃって"とでも言うってか? ふざけんなよ手前ェ、そんなの一年も前に決着がついてる議論だろうが。もしそんな糞みてえなジョークなら、速攻プレイヤー全員のナーヴギアを剥ぎ取りゃあ事件解決だ。それが出来ねェからには、このデスゲームはマジなんだよ。HPがゼロになった瞬間、ナーヴギアが電子レンジに早変わりして、オレらの脳をチンすんだよ。そうでなきゃよ——これまで——これまで糞モンスにやられて、死にたくねえって泣きながら消えてった奴らは——何のためによ——」 「黙れよ」  自分でもぎょっとするほどしわがれた声で、俺はクラインの台詞を遮った。 「そのくらいのことが、俺にわかってないと本気で思ってるなら、もうお前と話すことはない。……確かに、あの日茅場はああ言ったさ。だがな、このあいだのフロアボス合同攻略の時、KoBのヒースクリフが言ってただろうが。"仲間の命が助かる確率が一パーセントでもあるなら全力でその可能性を追え、それができない者にパーティーを組む資格は無い"ってな。あの男は好きになれないが、言ってることは正しい。可能性の話を俺はしてるんだ。例えばこうだ。この世界で死んだ者の意識は、現実に戻りはしないが、しかし消えもしない。言わば保留エリアみたいなとこに移されて、そこで最終的にゲームがどうなるか待っている。それなら、蘇生アイテムが成立する余地は残る」  珍しく長広舌をふるい、ここ最近の俺が縋り付いている頼りない仮説を披露すると、クラインは怒りの色を収め、替わりに憐れみにも似た目でじっと俺を見た。 「……そうか」  やがて発せられたその声は、打って変わって静かだった。 「キリト……お前ェ、まだ忘れらんねえんだな、前のギルドのことが……。もう半年にもなるってのによ……」  俺はそっぽを向き、言い訳のように言葉を吐き出す。 「それを言うなら、まだ半年だ。忘れられるわけがないだろうが……全滅したんだぞ、俺以外……」 「"月夜の黒猫団"だったか? ……攻略ギルドでもねえのに、前線近くまで上ってきた挙句、シーフがアラームトラップ引いたんだろう。お前ェの責任じゃねえよ。生き残ったお前ェを褒めこそすれ、誰も責めたりしねえ」 「そうじゃないんだ……俺の責任だ。前線に上るのを止めることも、宝箱を無視させることも、アラーム鳴った後でさえ全員を脱出させることだって、俺にはできたはずなんだ……」  ——俺が、自分のレベルとスキルを仲間に隠してさえいなければ。クラインにも教えていないその事実を、胸の奥で苦々しく噛み締める。不器用な刀使いが、慣れない慰めを口にしようとする前に、俺は続けて言った。 「確かに、一パーセントもない確率だろうさ。俺がクリスマスボスを見つけられる可能性、そいつをソロで倒せる可能性、蘇生アイテムが実在する可能性、そして死んだ奴の意識が保存されてる可能性……全部合わせたら、砂漠から砂を一粒探し出すようなものかも知れん。だが……だがゼロじゃない。ゼロじゃないなら、俺はそれに向かって最大限の努力をしなきゃいけないんだ。大体な……クライン、お前だって別に金に困ってるわけじゃないだろ。なら、ボスを狙う理由は俺と同じじゃないのか」  俺の問いに、フンを鼻を鳴らすと、クラインは地面に置いてあった刀の鞘を掴みながら答えた。 「オリャあお前ェみたいな夢想家じゃねェよ。ただよ……うちのギルドも、前に一人やられちまってるからな。あいつの為に、やるべきことはやってやんねえと、寝覚めが悪りィからな……」  立ち上がったクラインに向かって、俺は小さく苦笑した。 「同じだよ」 「違うね。あくまでオレたちゃ財宝狙いのついでにやってんだ。……どれ、連中だけだと心配だからな、ちょっくらオレも様子見てくら」 「ああ」  短く頷き、目を閉じて木の幹に深く寄りかかった俺の耳に、遠ざかる刀使いの言葉が小さく届いた。 「それからよ、オレがお前ェの心配したのは、別に情報聞き出すためのカマかけばっかりじゃねえぞこの野郎。無理してこんなとこで死んでも、お前ェの為に蘇生アイテムは使わねえぞ」   2 「心配してくれて、どうもありがとう。それじゃ、お言葉に甘えて、出口まで護衛頼んでもいいですか」  それが、ギルド"月夜の黒猫団"リーダー・ケイタの第一声だった。  SAOという名のデスゲームが始まって五ヶ月ほど経過したある春の夕暮れ、俺は当時の前線から十層以上も下のフロアの迷宮区に、武器の素材となるアイテムの収集を目的に潜っていた。  ビーター、つまりベータプレイヤーとしての知識を活かしたスタートダッシュと、強引なソロプレイによる高経験値効率のせいですでに最前線のモンスターと単独でやりあえるほどのレベルに達していた俺にとって、その場所での狩りは退屈に思えるほど楽な作業だった。他のプレイヤーを避けながらもたった二時間ほどで必要量のアイテムを集め、さて帰ろうと出口に向かったとき、通路を少し大きめのモンスター群に追われながら撤退してくるパーティーと遭遇したのだった。  ソロプレイヤーの俺から見ても、バランスの悪いパーティーだった。五人編成のうち、前衛と言えるのは盾とメイスを装備した男一人で、あとは短剣のみのシーフ型に、クォータースタッフを持った棍使い、長槍使いが二人。メイス使いのHPが減ってもスイッチして盾となる仲間が居らず、ずるずると後退するのは必至の構成である。  全員に視線を合わせてHPバーを確認してみたところ、このまま出口まで逃げ切るほどの余裕はありそうだったが、その途中で他のモンスター群をひっかけてしまえばその限りではない。俺はしばし迷ったあと、隠れていた脇道から飛び出し、リーダー格とおぼしき棍使いに声を掛けた。 「ちょっと前、支えてましょうか?」  棍使いは目を見開いて俺を見ると、一瞬迷ったようだったが、すぐに頷いた。 「すいません、お願いします。やばそうだったらすぐ逃げていいですから」  頷き返し、俺は背中から剣を抜くと、メイス使いに背後からスイッチと叫ぶと同時に、無理矢理モンスターの前に割り込んだ。  敵は、さっきまで俺がソロで散々狩っていた武装ゴブリンの一団だった。ソードスキルを全力で放てば即座に一掃できるし、あるいは無抵抗で撃たれるままになったとしても、バトルヒーリングスキルによるHP回復だけで相当時間耐えることも可能だ。  だが、瞬間、俺は恐れた。ゴブリンをではなく、背後のプレイヤー達の視線をである。  一般的に、ハイレベルのプレイヤーが下層の狩場を我が物顔に荒らしまわるのは、とても褒められた行為ではない。長期間続ければ、上層のギルドに排除依頼が飛んで、散々吊るし上げられた挙句に新聞の非マナープレイヤーリストに載ってしまう、などという目にも合う。勿論この場合は緊急なのだから問題ない、と俺も考えはしたが、しかしそれでも俺は怖かったのだ。恐らく礼を言うだろう彼らの目に、ビーターと俺を嘲る色が浮かぶのを。  俺は、使用するソードスキルをごく初歩的なものに限定し、わざと時間をかけてゴブリン達と戦った。それが、最終的に取り返しのつかない過ちへと繋がることになるとも知らずに。  ポーションでHPを回復させたメイス使いと数回のスイッチを繰り返し、ゴブリン群を全て倒した途端、見知らぬパーティーの五人は俺が驚くほどの盛大な歓声を上げた。次々とハイタッチを交わし、勝利を喜び合う。  内心で戸惑いながらも、俺は慣れない笑顔を浮かべ、差し出された手を次々と握り返した。最後に両手で俺の手を取った、紅一点の黒髪の槍使いは、目に涙を滲ませながら何度も繰り返した。 「ありがとう……ほんとに、ありがとう。凄い、怖かったから……助けにきてくれたとき、ほんとに嬉しかった。ほんとにありがとう」  その言葉を聞き揺れる涙を見たとき、俺の胸に去来した感情に、俺は今でも名前を付けることはできない。ただ、助けに入ってよかった、そして彼らを助けられるくらいに自分が強くてよかった、と思ったことは覚えている。  ゲーム開始以来ソロプレイヤーを通していた俺だったが、前線フロアで他パーティーの助太刀に入ったことが初めてというわけではなかった。しかし、攻略組の間では、フィールドでの助力はお互い様という暗黙の了解がある。自分がいつ助けられる側に回るかわからない訳で、助太刀しても殊更に礼など求めないし、された方も短い挨拶を口にする程度だ。手早く戦闘後処理を済ませ、無言で次の戦闘へと向かう。そこにあるのは、求めうる最大の効率で己を強化し続けるための、単純な合理性だけだ。  だが、彼ら——月夜の黒猫団は違った。たった一つの戦闘に勝利したことを全員で大いに喜び、健闘を称えあっていた。スタンドアロンRPGでは必須の、勝利ファンファーレが聞こえてきそうなその光景が一段落したあと、俺が自分から出口までの同行を提案したのは、彼らのいかにも仲間然とした雰囲気に惹かれたからかもしれなかった。もっと言えば、このSAOという狂ったゲームを本当の意味で攻略しているのは、彼らのほうだと思ったからかもしれなかった。 「俺もちょっと残りのポーションが心許なくて……よかったら、出口まで一緒に行きませんか」  俺の嘘に、ケイタは大きく顔をほころばせ、頷いた。 「心配してくれて、どうもありがとう」  ——いや、黒猫団の潰滅から半年経った今ならわかる。俺は単に気持ちよかったのだ。利己的なソロプレイヤーとして積み上げたステータスで、自分より遥かに弱い彼らを守り、頼られるのが快感だったのだ。ただそれだけのことなのだ。  迷宮区から脱出し、主街区に戻った俺は、酒場で一杯やりましょうというケイタの言葉にすぐに頷いた。彼らにとっては高価であったろうワインで祝杯を上げ、自己紹介も終わって場が落ち着くと、ケイタは小声で、さも言いづらそうに俺のレベルを聞いた。  俺はその質問を半ば予期していた。だから、その時までに、適切と思われる偽の数字の見当をつけていた。俺の口にした数字は、狙い違わず彼らの平均レベルより三ほど上——そして俺の本当のレベルの二十も下だった。 「へえ、そのレベルで、あの場所でソロ狩りができるんですか!」  驚き顔のケイタに、俺は苦笑してみせた。 「敬語はやめにしよう。——ソロって言っても、基本的には隠れ回って、一匹だけの敵を狙うとかそんな狩りなんだ。効率はあんまり良くないよ」 「そう——そうか。じゃあさ……キリト、急にこんなこと言ってなんだけど……君ならすぐにほかのギルドに誘われちゃうと思うからさ……よかったら、うちに入ってくれないか」 「え……?」  白々しく問い返した俺に、丸顔を上気させながらケイタは言い募った。 「ほら、僕ら、レベル的にはさっきのダンジョンくらいなら充分狩れるはずなんだよ。ただ、スキル構成がさ……君ももう分かってると思うけど、前衛できるのはテツオだけでさ。どうしても回復がおっつかなくて、戦ってるうちにジリ貧になっちゃうんだよね。キリトが入ってくれればずいぶん楽になるし、それに……おーい、サチ、ちょっと来てよ」  ケイタが手を上げて呼んだのは、あの黒髪の槍使いだった。ワイングラスを持ったままやってきた、サチいう名らしい小柄な女性は、俺を見ると恥ずかしそうに会釈した。ケイタはぽんとサチの頭に手を置き、言葉を続けた。 「こいつ、見てのとおりメインスキルは両手用長槍なんだけど、もう一人の槍使いに比べてまだスキル値が低いんで、今のうちに盾持ち片手剣士に転向させようと思ってるんだよね。でも、なかなか修行の時間も取れないし、片手剣の勝手がよく分からないみたいでさ。よかったら、ちょっとコーチしてやってくれないかなあ」 「何よ、人をみそっかすみたいに」  サチはぷうっと頬を膨らませて見せると、ちらりと舌を出しながら笑った。 「だってさー、私ずっと遠くから敵をちくちく突っつく役だったじゃん。それが急に前に出て接近戦やれって言われても、おっかないよ」 「盾の陰に隠れてりゃいいんだって何度言えばわかるのかなぁー。まったくお前は昔っから怖がりすぎるんだよ」  これまでずっと殺伐とした最前線でのみ暮らし、SAOを——いやすべてのMMORPGをリソースの奪い合いとしか理解していなかった俺にとって、彼らのやり取りは微笑ましく、そして眩しいものに映った。俺の視線に気付いたケイタは、照れたように笑うと言った。 「いやー、うちのギルド、現実ではみんな同じ高校のパソコン研究会のメンバーなんだよね。特に僕とこいつは家が近所なもんだから……。あ、でも、心配しなくていいよ。みんないい奴だから、キリトもすぐ仲良くなれるよ、絶対」  そういうケイタを含め全員がいい奴なのは、迷宮区からここまでの道行きだけでもう分かっていた。そんな連中を騙していることに、ちくりと罪悪感の疼きを感じながら、俺も笑顔を作り、こくりと頷いた。 「じゃあ……仲間に入れてもらおうかな。改めて、よろしく」  前衛が二枚になっただけで、黒猫団のパーティーバランスは大幅に改善された。  いや、もしも彼らのうち一人でも疑いの気持ちで俺のHPバーを見ていれば、それが不自然に減少しないことにいずれ気が付いたはずだ。しかし、気のいい仲間たちは、コートがレア素材製なんだという——これは嘘ではなかったが——俺の説明を信じ、まったく疑問を持った様子はなかった。  パーティーでの戦闘中、俺はひたすら防御に徹し、背後のメンバーに敵の止めを刺させることによって経験値ボーナスを譲りつづけた。ケイタたちのレベルは快調に上昇し、俺の加入後一週間でメイン狩場を一フロア上にするほどだった。  ダンジョンの安全エリアで車座になって、サチ手作りの弁当を頬張りながら、ケイタは丸い目を輝かせて俺に夢を語った。 「もちろん、仲間の安全が第一だよ。でもさ……安全だけを求めるなら、はじまりの街に篭ってればいいわけでさ。こうして狩りをして、レベルを上げてるからには、いつか僕らも攻略組の仲間入りをしたいって思うんだ。今は、最前線はずっと上で、血盟騎士団とか聖竜連合なんていうトップギルドに攻略を任せっぱなしにしちゃってるけどさ……。ねえキリト、彼らと僕たちは、何が違うんだろうなあ?」 「え……うーん、情報力かな。あいつらは、どこの狩場が効率いいかとか、どうやれば強い武器が手に入るなんて情報を独占してるからさ」  それはまさに俺が攻略組足り得た理由だったが、ケイタはその答えが不満なようだった。 「そりゃ……そういうのもあるだろうけどさ。僕は意思力だと思うんだよ。仲間を守り、そして全プレイヤーを守ろうっていう意思の強さっていうかな。そういう力があるからこそ、彼らは危険なボス戦に勝ちつづけられるんだ。僕らは今はまだ守ってもらう側だけど、気持ちじゃ負けてないつもりだよ。だからさ……このままがんばれば、いつかは彼らに追いつけるって、そう思うんだよ」 「そうか……そうだな」  口ではそう言いながらも、俺は内心で、そんな大層なもんじゃない、と思っていた。攻略組を攻略組たらしめているモチベーションはただ一つ、数万人のプレイヤーの頂点に立つ最強剣士で有り続けたいという執着心それ自体だ。その証拠に、SAO攻略、プレイヤー保護だけが目的なら、トッププレイヤー達は手に入れた情報とアイテムを最大限、中層プレイヤーに提供するべきなのだ。そうすることでプレイヤー全体のレベルが底上げされ、攻略組に加わる者の数も今とは比較にならないほど増加するはずだった。  それをしないのは、自分たちが常に最強でいたいからだ。勿論俺も例外ではなかった。その頃の俺は、深夜になると宿屋を抜け出し、最前線に移動してソロでレベル上げを続けていた。その行為が黒猫団メンバーとのレベル差を拡大させ、結果として彼らを裏切りつづけることになると分かっていたにもかかわらず。  だが、あの頃、俺は少しだけ信じてもいたのだ。もし本当に黒猫団のレベルが急上昇し、最前線で戦うプレイヤー達に加わるようなことがあれば、そのときこそケイタの理想が、閉塞的な攻略組の雰囲気を変えていくということも有り得るかもしれない、と。  実際、黒猫団の戦力強化は特筆すべきスピードだったと言える。当時戦場にしていたフィールドは、俺にとってはずっと以前に攻略を終え、危険なスポットも稼ぎのいいスポットも知り尽くした場所だった。それとなく彼らを誘導し、最大限の効率を叩き出し続けることで、やがて黒猫団の平均レベルは完全にボリュームゾーンから頭ひとつ抜け出した。俺の加入時には十あった前線層との差は、短期間で五にまで縮まった。貯金額も見る見る増加し、ギルドホームの購入さえも現実的な話となりつつあった。  しかし、たった一つ、サチの盾剣士転向計画だけははかばかしくなかった。  それも無理もないと言えた。至近距離で凶悪なモンスターと剣を交えるためには、数値的ステータス以前に、恐怖に耐えて踏みとどまる胆力が必要となる。SAO開始直後には、接近戦でのパニックが原因で多くのプレイヤーが命を落としたのだ。サチはどちらかと言えば大人しい、怖がりな性格で、とても前衛に向いているとは思えなかった。  俺は、自分が盾として充分以上のステータスを持っていると知っていたせいもあってサチの転向を急ぐ必要はないと考えていたが、他のメンバーはそうは思っていないようだった。むしろ、途中加入の俺ひとりに、しんどい前衛を押し付け続けるのは心苦しいと感じていたようで、仲良しグループゆえに言葉には出なかったがサチへのプレッシャーは強くなり続けていた。  そんなある夜、宿屋からサチの姿が消えた。  ギルドメンバーリストから居場所を確認できないのは、単独で迷宮区にいるせいと思われた。ケイタ以下のメンバーは大騒ぎとなり、すぐさま皆で探しに行くことになった。  だが、俺は、一人で迷宮区以外の場所を探すと言い張った。フィールドにもいくつか、追跡不能の場所があるからというのが表向きの理由だったが、本当は、索敵スキルから派生する上位スキルの"追跡"をすでに獲得していたからだった。もちろん、仲間にそれを打ち明けるわけにはいかなかった。  ケイタ達がその層の迷宮区目指して駆け出したあと、俺は宿屋のサチの部屋の前で追跡スキルを発動させ、視界に表示された薄緑色の足跡を追った。  小さい靴跡は、皆と俺の予想に反し、主街区の外れにある水路の中に消えていた。首を捻りながら中に踏み込んだ俺は、水の滴る音だけが響く暗闇のかたすみで、最近手に入れたばかりの隠蔽能力つきのマントを羽織ってうずくまっているサチの姿を見つけた。 「……サチ」  声を掛けると、肩までの黒い髪を揺らして彼女は顔を上げ、びっくりしたように呟いた。 「キリト。……どうしてこんなとこがわかったの?」  俺はどう答えたものか迷った挙句、言った。 「カンかな」 「……そっか」  サチはかすかに笑ったあと、再び抱えた膝の上に顔を伏せた。俺は再度懸命に言葉を捜し、工夫のない台詞を口にした。 「……みんな心配してるよ。迷宮区に探しにいった。早く帰ろう」  今度は、長い間答えはなかった。一分か二分待ったあと、もう一度同じことを言おうとした俺に、俯いたままのサチの囁き声が聞こえた。 「ねえ、キリト。一緒にどっか逃げよ」  反射的に聞き返した。 「逃げるって……何から」 「この街から。黒猫団のみんなから。モンスターから。……SAOから」  その言葉に、即座に答えられるほど、俺は女の子を——人間を知らなかった。再び長い間考えてから、俺は恐る恐る尋ねた。 「それは……心中しようってこと?」  しばらく沈黙したあと、サチは小さく笑い声を漏らした。 「ふふ……そうだね。それもいいかもね。……ううん、ごめん、嘘。死ぬ勇気があるなら、こんな街の圏内に隠れてないよね。……立ってないで、座ったら」  どうすべきなのかまるで分からないまま、俺はサチから少し間を空けて石畳の上に座った。半月形の水路の出口から、街の明かりが星のように小さく見えた。 「……私、死ぬの怖い。怖くて、この頃あんまり眠れないの」  やがて、サチがぽつりと呟いた。 「ねえ、何でこんなことになっちゃったの? なんでゲームから出られないの? なんでゲームなのに、ほんとに死ななきゃならないの? あの茅場って人は、こんなことして、何の得があるの? こんなことに、何の意味があるの……?」  その五つの質問に、個別に回答することは可能だった。しかし、サチがそんな答えを求めているわけではないことくらいは、俺にもわかった。懸命に考え、俺は——嘘を吐いた。 「多分、意味なんてない……誰も得なんてしないんだ。この世界が出来たときにもう、大事なことはみんな終わっちゃったんだ」  涙を流さずに泣いている女の子に、俺は酷い嘘を吐いた。なぜなら、少なくとも俺は自分の強さを隠して黒猫団に潜りこむことで密かな快感を得ていたからだ。その意味で、俺だけは明らかに得をしていたからだ。  俺はこのとき、すべてをサチに打ち明けるべきだった。誠意というものをひとかけらでも持ち合わせていたのなら、己の醜いエゴを包み隠さず話すべきだった。そうすれば少なくとも、サチはある程度プレッシャーから逃れることができたはずだし、ささやかな安心感さえ得られたかもしれなかったのだ。  だが、俺に言えたのは、嘘で塗り固めた一言だけだった。 「……君は死なないよ」 「なんでそんなことが言えるの?」 「……黒猫団は今のままでも充分に強いギルドだ。マージンも必要以上に取っている。あのギルドにいる限り君は安全だ。別に、無理に剣士に転向することなんてないんだ」  サチは顔を上げ、俺にすがるような視線を向けた。俺は、その目をまっすぐ受け止めることができなかった。 「……ほんとに? ほんとに私は死なずに済むの? いつか現実に戻れるの?」 「ああ……君は死なない。……死なない」  説得力など欠片もない、薄っぺらい言葉だった。だが、それでも、サチは俺の近くににじり寄り、俺の左肩に顔を当てて、少しだけ泣いた。  しばらくしてからケイタ達にメッセージを飛ばし、俺とサチは宿屋へと戻った。サチを部屋で休ませ、ケイタ達が帰ってくるのを一階の酒場で待って、俺は彼らに告げた。サチが盾剣士に転向するのには時間がかかること、可能なら今のまま槍戦士を続けたほうがいいこと、俺に前衛の負担がかかることには何ら問題ないということを。  ケイタ達は、俺とサチの間でどのようなやり取りがあったのか気になったようだったが、それでも俺の提案を快く受け入れた。俺はほっと胸を撫で下ろしたが、しかしもちろん、それで本質的な問題まで解決したわけではなかったのだ。  翌日の夜から、サチは夜が更けると俺の部屋にやってきて眠るようになった。俺にくっつき、君は死なない、という言葉を聞くとどうにか眠れるのだ、と彼女は言った。必然的に、俺は深夜の経験値稼ぎに出ることはできなくなったが、だからと言ってサチと他の仲間たちを欺いていることの罪悪感が消えることはなかった。  あの頃の記憶は、何故か押し固めた雪球のように小さく縮こまって、詳細に思い出すのが困難だ。ひとつだけ言えるとすれば、俺とサチは決して恋愛をしていたわけではなかった。同じベッドで眠っても、互いに触れることも、恋の言葉を囁くことも、見詰め合うことすらしなかった。  俺たちは多分、互いの傷を嘗め合う野良猫のようなものだったのだろう。サチは俺の言葉を聞くことで少しだけ恐怖を忘れ、俺は彼女に頼られることで汚いビーターである後ろめたさを少しだけ忘れた。  そう——俺はサチの苦悩をかいま見ることで、初めてこのSAO事件の本質の一部を知ることができたのだと思う。それまで、俺は、デスゲームと化したSAOの恐怖を本当の意味で感じることは一度も無かった。低層フロアの、すでに知り尽くしたモンスターを機械的に倒してレベルを上げ、あとはその安全マージンをたっぷりと維持したまま攻略組に名を連ね続けた。聖騎士ヒースクリフではないが、俺のHPバーが危険域に落ちたことは、考えてみればただの一度も無かったのだ……。  俺が苦労もせずに掻っ攫った膨大なリソースの陰に、こうして死の恐怖に怯える無数のプレイヤーが存在したのだ——と認識することによって、俺はついに自分の罪悪感を正当化する方法を見出したような気がしていた。その方法とは無論、サチを、そして黒猫団のメンバーを守り続けることである。  俺は、自分が快感を得るためにレベルを偽ってギルドに潜り込んだのだという事実を無理やりに忘れ、俺の行為は彼らを守り、一流の攻略ギルドに育て上げるためだったのだ、と都合のいいように記憶を塗り替えた。夜毎、夜毎、ベッドの隣で心細そうに丸くなるサチに向かって、君は死なない、君は死なない、絶対に生き延びる、と呪文のように唱えつづけた。俺がそう言葉を掛けると、サチは毛布の下でちらりと上目遣いに俺を見て、ほんの少し微笑んでから、浅い眠りに落ちていった。  だが、結局、サチは死んだ。  あの地下水路の夜からたった一ヶ月足らず後、俺の目の前でモンスターに斬り倒され、その体と魂を四散させた。  その日、ケイタは、ついに目標額に達したギルド資金の全額を持って、ギルドハウス向けの小さな一軒家を売りに出していた不動産仲介プレイヤーの元に出かけていた。俺とサチ、他の三人の仲間は、ゼロに近くなってしまったギルドメンバー共通アイテム欄のコル残額を眺めては笑いながら宿屋でケイタの帰りを待っていたが、やがてメイサーのテツオが言った。 「ケイタが帰ってくるまでに、迷宮区でちょっと金を稼いで、新しい家用の家具を全部揃えちまって、あいつをびっくりさせてやろうぜ」  俺たち五人は、それまで行ったことのなかった、最前線からわずか三層下の迷宮区に向かうことになった。もちろん俺は以前にそのダンジョンで戦ったことがあり、そこが稼ぎはいいがトラップ多発地帯であることも知っていた。だが、それを告げることはできなかった。  迷宮区では、レベル的には安全圏内だったということもあり、順調な狩りが続いた。一時間ほどで目標額を稼ぎ上げ、さっさと戻って買い物をしよう、という時になって、シーフ役のメンバーが宝箱を見つけた。  俺は、その時ばかりは放置することを主張した。しかし、理由を聞かれたとき、この層からトラップの難易度が一段上がるから、とは言えずに、何となくやばそうだから、と口ごもることしかできなかった。  アラームトラップがけたたましく鳴り響き、三つあった部屋の入り口から怒涛のようにモンスターが押し寄せてきた。これはムリだと瞬間的に判断した俺は、全員に転移クリスタルで緊急脱出しろと叫んだ。しかし、その部屋はクリスタル無効エリアに指定されており——その時点で、俺を含む全員が、程度の軽重はあれパニックに陥った。  最初に死んだのは、アラームを鳴らしたシーフだった。次にメイサーのテツオが死に、槍使いの男が続いた。  俺は完全に恐慌に陥り、それまで制限していた上位ソードスキルを滅茶苦茶に繰り出して、殺到するモンスターを倒しつづけた。だが、その数はあまりに多すぎた。宝箱を破壊すればよかったのだと気づいたのは、全てが終わったはるか後だった。  サチは、モンスターの波に飲み込まれ、HPを全て失うその瞬間、俺に向かって右手を伸ばし、何かを言おうと口を開いた。見開かれたその瞳に浮かんでいたのは、夜ごと俺に向けていたのと同じ、すがり付くような、痛々しいまでの信頼の光だった。  どうやって生き残ったのか、俺はよく憶えていない。ふと気付くとあれほどいたモンスターの姿も、そして四人の仲間の姿も、その部屋にはなかった。しかしそんな状況にあっても、俺のHPバーは半分を割り込んだ程度だった。  俺は、何を考えることもできず、一人呆然と宿屋へ戻った。  新しいギルドハウスの鍵をテーブルに載せ、俺たちの帰りを待っていたケイタは、俺の話を——四人が何故死に、俺が何故生き残ったのか、その全てを聞くと、あらゆる表情を失った眼で俺を見て、ただ一言こう言った。ビーターのお前が、俺たちに関わる資格なんてなかったんだ、と。  彼はその足で街外れのアインクラッド外周部へ向かい、後を追った俺の眼前で、何のためらいもなく柵を乗り越え、無限の虚空へと身を躍らせた。  ケイタの言ったことは、まったくの真実だった。俺が、俺の思い上がりが月夜の黒猫団の四人——いや五人を殺したことには何の疑いもない。俺が関わりさえしなければ、彼らはずっと安全なミドルゾーンに留まり、無茶なトラップ解除に手を出したりすることもなかったろう。SAOで生き残るためにまず必要なのは、反射神経でも、数値的ステータスでもなく、必要充分な情報である。俺は、彼らに高効率のパワーレベリングを施しながら、情報を分けることを怠った。あれは、起こるべくして起きた悲劇だった。守ると誓ったサチを、俺はこの手で殺した。  最後の瞬間、彼女が発しようとした言葉がどれほどの悪罵であろうとも、俺はそれを受け入れなくてはならない。あやふやな噂でしかない蘇生アイテムをひたすらに求めるのは、ただその一言を聞くためでしかない。