Sword Art Online 4 Alicization 九里史生     第八章(前)  超一級の天才たるを自認する比嘉健にとっても、この二時間に発生したさまざまな事象を事前に予測することは出来なかった。  しかし、現在すぐ目の前に存在する状況は、びっくりの中でも極め付き、ぶったまげるとしか形容できない代物だった。  齢十八、九の華奢な少女が、そのなよやかな片腕で、自分より十五センチは背の高い男の襟首を掴み上げている。趣味の悪いアロハシャツが千切れんばかりに張り詰め、サンダルのかかとが僅かに宙に浮く。  燃え上がらんばかりに爛々と光る両の瞳で、二等陸佐・菊岡誠二郎を睨み付けた女子高校生・結城明日奈は、その可憐な唇から刃にも似た言葉を放った。 「このままキリト君が戻らなかったら、あなたを殺すわ、必ず」  比嘉の位置からは、菊岡の黒縁メガネに照明が反射して表情は見えなかった。しかし、柔道剣道空手合わせて何段だか知れぬ幹部自衛官は、明日奈の言葉に気圧されたかのようにぐびりと喉を動かし、両手をそっと体の左右に挙げた。 「分かっているよ。責任は必ず取る。だからその手を離してくれないか」  張り詰めた沈黙が、オーシャンタートル・メインシャフト最上部、サブコントロールルームに重く満ちた。  コンソールに座る比嘉も、隣に立つ神代凜子も、部屋に残った数名のラーススタッフも、誰一人言葉を発することはできなかった。それほど、この場で最も年若い少女の放つ気迫は圧倒的だった。なるほど、確かにあの娘は本物の戦場からの生還者なのだ、と比嘉は意識の片隅で考えた。  やがて、明日奈は無言で右手を開いた。解放された菊岡は、ほとんど落下するようにどすんと踵をつけ、明日奈のほうはふらふらと数歩後ろによろけた。すぐさま凜子が白衣を翻して飛び出し、その背中を支えた。  女性科学者は、学生だった頃から何ら変わらぬ包容力で明日奈を抱きしめ、小さく囁いた。 「大丈夫よ。絶対に大丈夫。彼は帰ってくるわ、あなたの所に」  その声はかすかに濡れていて、明日奈は一瞬はっと眼を見開き、すぐにくしゃりと表情を歪ませた。 「…………はい、そうですよね。すみません……取り乱して」  目尻に浮かび上がった——襲撃の最中ですら一度も見せなかった涙を、凜子の肩に押し当て、明日奈は震える囁きを返した。  ようやく僅かに弛緩した空気を、再び引き締める金属音が部屋の一方から響いた。スライドドアが手動で開かれ、駆け込んできたのは一等海尉の中西だった。  白いワイシャツに汗染みを作り、ショルダーホルスターから大型の拳銃のグリップを覗かせた中西は、ちらりと明日奈と凛子に視線を投げてから、その右奥の菊岡に向けて短く敬礼した。 「報告します! 一七三〇、第一、第二耐圧隔壁の完全閉鎖、および非戦闘員の船首ブロックへの退避を確認しました!」  菊岡は、アロハの襟元を直しながら進み出ると、大きくひとつ頷いた。 「ご苦労。隔壁はどれくらい持ちそうだ?」 「は……連中が持ち込んだ装備によりますが、小火器での破壊は不可能です。カッターでの切断ならば最短でも八時間はかかります。C4やセムテックスにはさすがに耐えられませんが……恐らくそれは無いでしょう。ロウワー・シャフトには……」 「原子炉とプルトニウム電池があるからな」  語尾を引き取り、菊岡はメガネのブリッジを押し上げながらしばし黙考した。  しかしすぐに顔を上げ、腹の前でぐっと右拳を左手に打ちつけると、一際通る声で言った。 「よし、状況を整理する」  薄暗いサブコン中を素早く見回し、続ける。 「中西、人的被害を報告してくれ」 「は。非戦闘員に軽傷三、船首医務室で治療中です。戦闘員、重傷二、軽傷二。同じく治療中ですが生命の危険は無いとのことです。戦闘可能者は、軽傷の二名を含め六名です」 「あれだけ撃ちまくられて、死者が出なかったのは僥倖だな……。次に、船体の被害状況を」 「船底ドックの操作室は穴だらけです。遠隔での開閉は不可能ですね。ドックからメインコントロールへの通路も同様ですが、これはまあ引っかき傷のようなものです。深刻なのは、正電源ラインを切断されたことで……電力自体は副ラインから各所へ安定供給されていますが、一度制御系を再起動しないとスクリューを回せません」 「ヒレを無くした海亀だな。おまけに腹に鮫が食いついたまま、か」 「はい。ロウワー・シャフトの、A1からA12までの区画は完全に占拠されました」  髪を短く刈り込んだ、剛毅そのものといった顔を中西は悔しそうに顰めさせた。対して菊岡は、どこか教師めいた長めの前髪をくしゃりとかき上げ、腰を傍らのコンソールに乗せると下駄をつま先で揺らした。 「アンダーワールドメインフレームから、第一STL室、ライトキューブクラスター、そして主機まで軒並み奴等の手の中か。まあ……幸いなのは、連中の目的が破壊ではない、ってことだ」 「は……そうでしょうか」 「ただ破壊したいなら、何もこんな大層な突入作戦を実行せずとも、巡航ミサイルなり魚雷なり撃ち込めば済むことだ。そこで問題なのは、連中が何者なのか、ってことだが……比嘉君、何か意見はあるかな」  突然話を振られ、比嘉は何度か瞬きしたあと、まだ多少痺れの残る脳味噌を少しばかり動かした。 「あー、そっスね、えー」  意味の無い唸り声を並べながらコンソールに向き直ると、右手でマウスを操作し、正面の大モニタに用意しておいた船内カメラの録画映像を呼び出した。  開いた動画窓は暗く不鮮明だったが、適当なところで一時停止し、補正パネルを操作する。浮き上がったのは、狭い船内通路を前かがみになって走る、複数の黒い人影だった。頭には丸いゴーグルで顔の隠れるヘルメットを被り、手に物々しいライフルを携えている。 「……とまぁ、見てのとおり、アタマにも体にも識別マークの類は一切ありません。装備の色、形も、どっかの正規軍のもんじゃないッスね。持ってる銃はステアーですが、こりゃ大量に出回ってますから……唯一言えるのは、体格の平均値から推測して、恐らくアジア人じゃないな、ってことぐらいスね」 「つまり連中は少なくとも自衛隊員ではないってことだ。そいつは喜ばしいね」  物騒なことをさらりと口にし、菊岡は顎を掻いた。普段から笑ったような眼を、皿に糸のように細めてモニタを見上げる。 「そしてもう一つ、こいつらはプロジェクト・アリシゼーションのことを知っている」 「ま、そうなるッスね。ドックから突入して、迷わずメインコントロールまで登ってきやがりましたからね。目的はズバリ、真正ボトムアップAIの奪取でしょうね」  つまり、深刻なレベルでの情報漏れがあったということだ。しかしそこまでは口に出さず、部屋を見渡して一人ひとりの顔を確認したくなる衝動も抑えつけて、比嘉はあえて楽天的な口調で続けた。 「幸いにも、メインコントロールのロックは間に合いました。物理破壊よりも確実に、メインフレームの直接操作は不可能化してやりましたよ。アンダーワールドに介入することも、“アリス”のフラクトライトを外部に持ち出すことも」 「しかしそれはこちらも同様なわけだろう?」 「同様ッスね。このサブコンからも、管理者権限によるオペレーションはできません。しかし、こうなればもう勝ったも同然でしょう? 護衛のイージス艦からコマンドが突入してくりゃ、あんな連中ジョートーッスよ、ジョートー」 「何が上等なのかわからんが……問題はそこだ」  菊岡は厳しい顔を崩さず、視線を中西に投げた。 「どうだ、“長門”は動くか?」 「は……それですが……」  中西は、ぎりっと音がしそうなほどに顎に力を込め、僅かに顔を伏せた。 「長門への命令は、現状の距離を保って待機、だそうです。どうやら司令部は、我々を人質と見做しているようです」 「んな…………」  比嘉はガクンと顎を開いた。 「……アホな! 乗員は全員隔壁のこっち側に退避してるんスよね!?」  錆びた声で答えたのは菊岡だった。 「つまり、あの黒づくめ連中は、自衛隊の上層部にもチャンネルがあるってことだ。恐らく、長門に突入命令が出るのは、連中が“アリス”のライトキューブを確保した後だろう。無論、時間に上限はあるだろうが……」 「てぇことは……あいつら、ただのテロリストじゃないッスね。やばいな……もし向こうにも専門家がいたら、気付くかもしれないですよ。アリス回収の抜け道に……」 「アンダーワールド内部からのオペレーション……向こうはSTLも押さえてるしな」  比嘉は、菊岡と同時に、サブコントロールの奥の壁に設けられたドアを見やった。  しっかりと閉じられた合金製のドアには、小さなプレートが留められている。書かれている文字は、『第二STL室』。  今は見えないが、ドアの向こうには二機のソウル・トランスレーターが設置されている。その片方には、アリシゼーション計画に当初から大きな役割を果たし、いまやその行方すら左右する、一人の少年が横たわっているはずだ。  菊岡は視線を戻し、腕を組むと、ゆっくりと言葉を発した。 「我々の最後の望みは、またしても彼に託されたというわけだ。比嘉君……どうなんだ、キリト君の状態は」  かすかに鋭い呼吸音が聞こえ、比嘉が顔を上げると、凜子に抱えられながらもまっすぐにこちらを見る明日奈の強い視線と眼が合った。  反射的に顔を伏せ、どう言ったものか迷う。しかしすぐに、掠れてはいるがしっかりとした声が比嘉の耳朶を打った。 「かまいません、言ってください、本当のことを」  深く息をつき、比嘉はちいさく頷いた。もとより、人に気を遣って言を誤魔化すのは決して得意ではない。 「一言で言えば……絶望的、の一歩手前です」  語調を改めてぼそりとそう口にし、比嘉は再びコンソールを操作した。  黒づくめ連中の画像が消え、別の窓が開く。表示されたのは、不規則に明滅する虹色のドットの集合体だ。 「これは、キリト君のフラクトライトの三次元モニタ像です」  部屋中の全員が、声もなくスクリーンを凝視する。 「彼は、先日の事件による心停止の影響で、フラクトライト中の意識野と肉体野の連絡回路に損傷を負っていました。そこで、その部分に新たなチャンネルを開くため、リミッターを解除したSTLによってフラクトライトの賦活を行っていたのです。これ自体はそう複雑な操作ではない……電気的刺激によって、死滅した脳神経細胞に代わる回路の発生を促した、そう理解してもらえばいいです」  一息ついて、傍らからミネラルウォーターのボトルを取り上げて口を湿らせる。 「この治療を行うためには、彼をアンダーワールドにダイブさせることが必須でした。脳の意識野と肉体野が等しく活動しなければ、治療の効果も出ませんから。ゆえに我々は、六本木の支局でダイブして貰ったときと同じく、キリト君の記憶をブロックしてアンダーワールドの辺境へ降ろした。そのはずだったのです。しかし、原因は今もって不明ですが……恐らくは損傷の影響でしょう、記憶はブロックされなかった。キリト君は、現実世界の桐ヶ谷和人君のまま、アンダーワールドに放り出されてしまった。そうとわかったのはついさっき、内部の彼から連絡があったその時なんですが……」 「ちょ……ちょっと待って」  声をはさんだのは神代凜子だった。 「じゃあ、彼は、STRA環境化のアンダーワールドで、桐ヶ谷君としてあの日数を過ごしていたというの? 内部では……何ヶ月……」 「……二年半です」  ぼそりと比嘉は答えた。 「それだけの時間、キリト君はあの世界で人工フラクトライト達と触れ合った。恐らくは、フラクトライト達が、いずれ現実験の終了とともにすべて消去される存在だと知りながら……。だから彼は、アンダーワールドの中心、かつて最初の村に設置されていた現実世界への連絡装置を目指したのでしょう。菊さん、あなたに全フラクトライトの保全を要請するためにね」  ちらりと視線を横に投げたが、菊岡は眼鏡にスクリーンの光を反射させて桐ヶ谷和人のフラクトライトに見入ったままだった。 「……容易なことではなかったはずです。連絡装置はいまや、“神聖教会”と呼ばれる統治組織の本拠地に埋もれていましたから。組織に属するフラクトライト達のシステムアクセス権限は膨大なもので、とうてい一般民に設定されたキリト君が対抗できるレベルじゃなかった。本来なら、組織に楯突いたその瞬間に彼は“死亡”し、アンダーワールドからログアウトしていたはず……しかし、彼はたどり着いた。襲撃中のことで、ログを詳細に確認はできませんでしたが、どうやら彼には何人かの協力者、無論人工フラクトライトのですが……つまり仲間がいたようです。神聖教会での戦いでその仲間はほとんど死亡し、その結果、こちらへの回線を開くことに成功した時彼は激しく自分を責めていた。言い換えれば、自分で自分のフラクトライトを攻撃していたのです。まさにその時、黒づくめ共が電源ラインを切断し、発生したサージスパイクのせいでSTLから限界を超える強度の量子ビームが放たれた。それは、キリト君の自己破壊衝動を現実的なものに強化してしまい……結果、彼の自我を吹き飛ばしてしまった……」  比嘉が口を閉じると、重苦しい沈黙がサブコントロールに降りた。  かすれた声を発したのは、明日奈の両肩を抱いたままの凛子だった。 「自我を……吹き飛ばす? それはどういう意味なの?」 「……これを見てください」  比嘉はコンソールを操作し、桐ヶ谷和人のフラクトライト活性を示すリアルタイム画像を拡大した。  不定形に揺らめく虹色の雲、その中心部ちかくに、暗黒星雲のように虚無的な闇が小さくわだかまっている。 「ライトキューブ中の人工フラクトライトと違い、人間の生体フラクトライトの構造はまだ完全解析には程遠いですが、それでも大まかなマッピングは終了しています。この黒い穴、ここに本来あるべきものは、簡単に言えば“主体”、セルフ・イメージなのです」 「主体……自ら規定した自己像、ってこと?」 「そうです。人間は、あらゆる選択を、“自分はこの状況でそれを行うか否か”というY/N回路を経由して決定します。たとえば凛子先輩は、牛丼の星野屋で二杯目を頼んだことあります?」 「……ないわよ」 「もうちょっと食べたい、と内心で思っても?」 「ええ」 「つまりそれが凜子先輩のセルフ・イメージ回路による処理結果というわけです。同様に、あらゆるアクションはその回路を通過しないと実際の行動にならないのです。キリト君の場合、心、魂そのものは無傷です。しかし、主体が破壊されてしまったために、外部からの入力を処理することも、自発的な行動を出力することもできない。今の彼にできるのは……恐らく、染み付いた記憶による反射的アクションのみでしょう。食べたり、眠ったりといった程度の」  凜子は唇を噛み、しばし考える様子だったが、やがて囁くような声で言った。 「なら……今、彼の意識はどういう状況に置かれているの?」 「恐ろしいことですが……」  比嘉は一瞬言葉を切り、視線を伏せて続けた。 「自分が誰かも、何をすべきなのかも分からず、ただいくつかの経験的欲求にのみ操られる……そんな状態だと……」  再び、静寂のみが場を支配した。 「……Fu……」  続くべき音節を、コンバットブーツのビブラム底が鋼板を蹴り飛ばした大音響がかき消した。  アサルト・チーム副隊長、ヴァサゴ・カザルスは壁を二、三箇所凹ませただけでは満足しなかったようで、なぜか床に落ちていたキャンディーらしきパッケージを勢いよく踏みしだいて破裂させてから、ようやく罵声の奔流を止めた。  ヒスパニック系の血を示してゆるく波打つ長い黒髪を両手でかき上げ、ずかずかとメイン・コンソールの前まで移動すると、そこに立っていた男のボディアーマーの襟首を片手で吊り上げる。 「てめぇ、もう一度言ってみろ」  ムチのようにしなやかな細身のヴァサゴの腕にぶら下げられたのは、輪をかけてガリガリに痩せた若者だった。金髪を三ミリ程度の丸刈りにして、肌は病的なまでに白い。こけた頬の上に、冗談みたいにごつい金属フレームのメガネをかけたその男はクリッターという名の、チームで唯一の非戦闘員だ。  もとは逮捕歴もあるネットワーク犯罪者だという触れ込みで、名前も本名ではなくハンドルネームだろう。しかしそれはヴァサゴも同様だ。よもや地獄の王子の名を息子につける親はいるまい。こっちのほうは、麻薬取引に絡んで地元に居られなくなったのを、今の雇い主に拾われたらしい。  ——と、言うよりも。  オーシャン・タートル急襲チームの隊員十二名は、リーダーであるガブリエル・ミラーを除く全員が、後ろ暗い過去を持ち、新たな身元保証と引き換えに飼われている“犬”なのだ。飼い主である民間警備会社そのものもまた、大企業の暗黒面に繋がって巨額の利益を上げる|地獄の番犬《サーベラス》にも等しい存在である。  そんな犬の一匹たるクリッターは、抜き身のナイフのようなヴァサゴに締め上げられてもさすがに怯える様子もなく、音を立ててガムを噛みながらキンキン響く声で言い返した。 「何度でも言ってやるよー。いいかー、このコンソールには糞みてえなロックが糞みてえにべっとりくっついてて、持ち込んだラップトップマシンじゃーあんたが睾丸癌でくたばるまで計算しても解除できねーっつったんだよ」 「そこじゃねえよこの目ン玉野郎! てめぇ、ロックされたのは俺らがノロクサしてたからだっつたろうが!!」  浅黒い肌を紅潮させてヴァサゴは喚いた。道を間違えなければ俳優でも食えただろうと思えるくらいの野性味溢れるハンサムだが、それだけにキレたときの剣呑さには凄みがある。 「おいおい、事実を言っただけだぜー?」 「そう思うンならてめぇも一発くらい撃ちゃよかったじゃねえかよ!!」  口汚く罵りあう二人を、残る隊員九名はまったく止める様子もなくニヤニヤ顔で眺めている。ガブリエルは、大きくひとつ息を吐き出すと、ぱちんと手を叩いて口げんかに割って入った。 「オーケー、そこまでだ二人とも。責任の所在を追及している時間はないぞ。今はこれからの行動を考えなければならない」  すると、くるりと首を回したヴァサゴが、子供のように口を突き出して言った。 「でもよぉ兄貴《ブロ》、こいつだきゃァ一度シメないと許せないっすよ」  その“兄貴”はやめろ、といいかけた言葉を飲み込む。初顔合わせの戦闘訓練で、ガブリエルがヴァサゴ以下十人の精鋭チームを現実・仮想双方のフィールドであっさり全滅させてから、この若者は『兄貴には一生ついていくっすよ』と言うのをやめようとしない。  無論、ガブリエルには、妙なことを言う奴だという以上の感想はない。あらゆる人間を“光の雲=魂の容れ物”としか認識できないガブリエルにとって、ヴァサゴが向けてくる尊敬や親愛らしき感情は、もっとも理解の難しい代物だからだ。  いずれ、魂の抽出・保存技術を自分だけのものにしたその時には、あらゆる人間の感情を、光の雲の色合いや形といった情報によって整然と分類できるようになるだろう。そう考えながら、ガブリエルはゆっくりした口調で二人に言い含めた。 「いいかヴァサゴ、クリッター。俺はここまで、チームの働きに満足している。こっちの被害はゲイリーがかすり傷を負っただけで、目的であるメインシャフトの占拠を達成できたんだからな」  それを聞いたヴァサゴは、しぶしぶといった様子でクリッターのボディアーマーを離し、両手を腰に当てた。 「でもよぉ兄貴、いくらシャフトを占拠しても、その……なんだっけ、何たらライトって奴を持ち出せなきゃ意味ねーんだろ?」 「だから、その方法をこれから考えようと言ってるのさ」 「ったって、JSDFの奴らもいつまでも引き篭もっちゃいねぇぜ? このドン亀に貼り付いてるイージス艦が突入してくりゃ、さすがに俺ら十一人とオマケ一人じゃ分が悪りぃ」  ガブリエルが副隊長に抜擢しただけあって、ヴァサゴは単なる野良犬にはない状況把握力を持っている。少し考えてから、ガブリエルは軽く肩をすくめるジェスチャーをしてみせた。 「……俺も確信していたわけじゃないから今まで言わなかったが、どうやら俺たちのクライアントとJSDFの上のほうに、ある種の取引があったらしい。イージスは、作戦開始から二十四時間は動かないそうだ」 「……ほぉー」  細く口笛を吹いたのはクリッターだった。ゴーグルのような眼鏡の奥で、薄いグレーの瞳が細められる。 「てことは、このオペレーションはただの……——イヤイヤ、これは言わないほうが賢明ってやつかなー」 「そう思うぞ、俺も」  薄く笑みを浮かべて頷いておいて、ガブリエルは改めて視線をチーム全員にめぐらせた。 「よし、それではまず状況を確認するぞ。ブリッグ、耐圧隔壁のほうはどうだ?」  呼びかけられた巨漢の隊員が、のっそり進み出て答えた。 「よろしくないですな。ありゃあいいカネだ、最新のコンポジット・マテリアルでしょう。持ち込んだポータブルカッターじゃ、二十四時間ではとても無理ですな」 「ジャパンマネー健在なり、か。ハンス、ライトキューブ・クラスターのほうはどうだった」  今度は、口髭を綺麗に整えた痩躯の隊員が、洒脱な仕草で両手を広げた。 「|驚きだわ《アストニッシュ》。この部屋の上にどデカいチャンバーがあって、そこにキラキラすんごく綺麗なこれっくらいの……」  右手の親指を小指で二インチほどの幅を作ってみせる。 「キューブがびっしり積み上がってるの。アレを全部潜水艇に乗せるのはぜぇーったいムリね」 「フムン」  ガブリエルは腕を組むと、一瞬考えてから言葉を続けた。 「……我々に与えられたミッションは、その数十万個に及ぶキューブのなかから、唯ひとつを見つけ出してインタフェースとともに持ち帰ることだ。キューブのID情報はすでに得ている。つまり、メインコンソールさえ操作できれば、そのキューブを検索しクラスターからイジェクトするのは容易かったはずだ。今頃はビール片手に帰りの船旅だったな」 「ったくよぉ、このヒョロメガネが、日ごろは『僕の罪状はペンタゴンの中央サーバーに侵入したことだ』なんつう大法螺吹いてるくせに、ちんけなロックひとつ解除できねぇからよぉ」 「おっとぉー、こりゃびっくりだー。いつも『俺を追ってるのはコロンビアの麻薬王だ』なんつってる奴に言われちゃったなぁ僕ー」  口喧嘩を再燃させようとするヴァサゴとクリッターをひと睨みしておいて、ガブリエルは語気を強めた。 「ここまできて手ぶらで帰ることはできない! お前達は、ステイツに帰って『JSDFのお嬢さんたちにしてやられました』と言いたいか!?」 「ノー!!」  全員が一斉に叫ぶ。 「お前達は、所詮は正規軍の新米訓練生にも勝てない素人どもか!?」 「ノー!!!」 「なら考えろ!! 首に乗っている丸い入れ物に、オートミールではない物が詰まっているところを証明しろ!!」 “タフな指揮官”の役を完璧に演じて鋭く叫びながら、ガブリエルは自分でも密やかな思考を巡らせていた。  魂の探求者たるガブリエルにとっても、人類が初めて創りだした真の魂である“アリス”の入手は、ソウル・トランスレーション・テクノロジーの独占とあわせて最大の目的だ。その二つを入手したあとは、突入潜水艇にひそかに運び込んだ神経ガスでチームの全員を処分し、第三国まで自走航行して行方をくらませる計画をすでに立てている。  しかしその段階に進むまでは、このオペレーションはガブリエルの目的と完全に合致している。管理者権限でのメインフレーム操作を封じられたいま、なんとかしてそれ以外の手段で“アリス”の発見と抽出を達成しなくてはならないのだ。 “アリス”——“A.L.I.C.E.”。  そのコードネームを、ガブリエルの一時的雇用主であるNSAに伝えたのは、自衛隊《JSDF》“K組織”内の情報提供者《ラビット》だ。  ラビットのパーソナルデータまではガブリエルは知らない。しかし、情報を流した動機が、強奪計画の首謀者・ハイテク軍需企業グロージェンMEに約束された多額の報酬であることを思えば、この状況で自らを危険にさらしてまで動こうとはしないだろう。  つまり、耐圧隔壁のむこうにいるラビットの協力はもう期待できない。今ある情報と装備だけで、しかも短時間のうちに、目的を達せねばならない。  時間——すべては時間だ。  生来、焦りという感情を知らぬガブリエルではあるが、二十三時間後に近づきつつあるタイムリミットの存在にはなにがしかの圧迫感を覚えずにはいられない。  NSAのアルトマンらは、オペレーションの開始直前にガブリエルに言った。  K組織の活動は、日本の既存の軍需利権を大きく揺さぶるものだ。ゆえに、自衛隊上層部には、K組織の存在を快く思わない——それどころか、積極的に妨害しようという勢力も少なからず存在する。  K組織の基盤となっているのは陸自・空自の若手将校であり、海自とのパイプは狭い。NSAはそこを狙い、在日本CIAを通して海自のとある将官と密約を取り付けた。K組織の本拠・オーシャンタートルを護衛するイージス艦“長門”は、襲撃開始から二十四時間は“人質の安全を優先する”という名目で動かない、という。  しかし待機時間が終了したあとは、のちのちのマスコミ対策のためにもイージスは動かざるを得ない。その場合、現場の突入要員たちに“手心を加えろ”などという命令ができるはずもない。結果、圧倒的人数・装備差によってガブリエルたち襲撃チームはほぼ殲滅されるだろう。  ——というアルトマンの説明に、ガブリエルは肩をすくめて諒解としておいた。  仮にその最悪の結末となった場合でも、自分だけは潜水艇で脱出する算段ではある。しかしその傍らに、目的のライトキューブとSTLマシンが載っていなければ、人の魂の探求という偉大なる旅は取り返しのつかない後退を強いられる。  ガブリエルは、この強襲が完了した以降の長い人生についても、すでに計画を立て終えていた。  STLテクノロジーとともに東南アジアの第三国に脱出したあとは、自分の容姿や指紋もふくめてあらゆる痕跡を消す。その上でヨーロッパ——南仏かスペインが望ましい——へと渡る。  運用によって膨大な額になっている隠し資産を惜しみなく使い、広く快適な屋敷を手に入れる。その奥まった一室にSTLを設置し、さまざまなヴァリエーションの仮想世界を構築する。  その世界の住人は、当初は“アリス”とガブリエルだけとなろう。しかしそれではあまりに寂しい。魂の研究という目的のためにも、素材は増やさねばならない。  もちろん、地元で狩りをするような愚は冒さない。最低でも国境線をひとつは越えたさきで、若く活力にあふれた魂の持ち主を見つけ、拉致し、STLに掛けて魂を引き抜いたあと不要な殻は処分する。  北東ヨーロッパや中東、アフリカだけでも多くの出会いはあるだろう。しかしそれだけでは寂しい。ほとぼりが冷めたあとは、母国アフリカ——そしてもちろん、VR技術発祥の地である日本にも遠征したい。  日本のVRゲーム・プレイヤーたちの輝くようなヴァイタリティは、昔からガブリエルを深く魅了してきた。無論全員がそうではないが、一部のプレイヤーたちは、まるでそこが現実以上の現実であるかのように振る舞い、リアルな感情を惜しみなく振り撒くのだ。  それはおそらく、かつてあの国に二年間だけ存在したという“リアル・バーチャル・ワールド”というべきものと無関係ではあるまい。開発者によりハッキングされ、真の生と死が付与されたデスゲームを体験した若者たち。かれら“生還者”たちの魂は、それ以外の者にはない仮想世界適合性をそなえている。  可能ならば、一人でも多く彼らを——しかも“攻略組”と呼ばれたという子供たちの魂を手に入れたい。それらを封入したライトキューブは、どんな宝石よりも貴重な輝きを放とう。  全世界のどんな権力者、大富豪が幾ら札束を積もうとも決して手に入れることのできない究極の輝石。それを屋敷の秘密の部屋にたくさん、たくさん並べ、毎日好みの相手を好みの世界にロードして、いかようにも望むままに扱えるのだ。  素晴らしいのは、人間から抜き出しライトキューブに封じた魂は、コピーもセーブも自由自在だということだ。壊れたもの、歪んだものは端から消去し、長い時間をかけて、ガブリエルの好みのかたちへと造り上げられるのだ。まるで原石に、最上の輝きを放つカットを施すかのように。  その段階に至ってはじめて、ガブリエルの長い旅はあの原点と同じレヴェルの至福と歓喜へと還元されるだろう。  幼いころ、森の大きな樹の下で、アリシア・クリンガーマンの魂の美しい輝きを見たあのときへと。  一瞬の想念ではあったが、ガブリエルは瞼を閉じ、かすかに背中を震わせた。  次に目を開けたときには、もう氷のような思考力が戻っていた。  各国の、そして日本の若者たちの魂が、王冠の周囲を取り巻く色とりどりのルビーやサファイアだとすれば、中央に嵌まるべき巨大なダイヤモンドはやはり“アリス”だ。一切の穢れなき究極の魂であるアリスこそ、自分の永遠の伴侶にふさわしい。となれば、何としても彼女のライトキューブを発見、入手せねばならない。  しかし、クラスターに積み上げられた十万以上のキューブは、見た目にはまったく同じものだ。物理的な作業で判別するのは不可能だ。  となれば、やはり情報的オペレーションに頼るしかない。とは言えメインコンソールのロックは一流の電子犯罪者であるクリッターにも手が出せないものらしい。  ガブリエルはブーツを鳴らして移動し、キーボードに突っ伏すようにして両手指を高速運動させているクリッターの背後に立った。 「どうだ」  返事は、両掌を上にして高く持ち上げる仕草だった。 「管理モードへのログインは絶望的ー。できるのは、上のクラスターに収まってる魂ちゃんたちがユカイに暮らすおとぎの国を、指をくわえて覗き見することくれーだなー」  クリッターが指を動かすと、正面モニタのOS画面にひとつ窓が開き、奇妙な光景が表示された。  とても、“おとぎの国”という印象ではない。空は不気味なクリムゾンに染まり、地面は炭ガラのように黒い。  革を張り合わせたとおぼしき、尖ったテントが画面中央にいくつか建っている。そのかたわらに、ずんぐりした体格と禿げ上がった頭を持った奇妙な生き物が十匹ほど集まり、何か騒いでいるようだ。  おおまかには人型だがどう見ても人ではない。ひどい猫背で、腕が地面に擦りそうなほど長く、対照的に折れ曲がった脚は短い。 「ゴブリン?」  ガブリエルが呟くと、クリッターは軽く口笛を吹き、嬉しそうな声を出した。 「オッ、詳しいじゃないの隊長ー。そーだなー、オークやオーガーって感じじゃないから、こりゃゴブリンだろうなー」 「でも、それにしちゃちょっとデッケーぜ。こりゃホブだな、ホブゴブ」  隣にやってきたヴァサゴが、両手を腰に当てて意見を加えた。  なるほど、いくら武器の扱いに精通していようとも、やはり兵士ではなく民間企業の飼い犬なのだな、とガブリエルは思った。もともとの所属である特殊部隊“ヴァリアンス”には、ガブリエルのほかにはVRMMOゲームの知識がある者などひとりもいなかったのだ。  しかし、このチームのメンバーにはその手のゲーム経験がある者が多い。あるいは仮想世界内での作戦行動もあり得るということでピックアップされた人員なのだから、当然と言えば言えるのかもしれないが。  ガブリエルたちが見守る先で、十匹ほどの“ホブゴブリン”の騒ぎはいよいよ過熱していくようだった。ついに二匹が互いの胸倉をつかみ上げ、取っ組み合いの大喧嘩を始めると、それを取り囲む奴らも両手を振り上げてはやし立てる。 「……クリッター」  何か、アイデアのおおもとが形になりかけるのを感じながら、ガブリエルはシートに座る坊主頭に向かって声を掛けた。 「へい?」 「こいつら……この怪物どもは、いわゆるMobAIだのNPCとは違うのか?」 「あーっとぉー、んー、どうやらそうだナー。こいつらはある意味マジモンの“人間”ー。上のライトキューブ・クラスターにロードされてる人造魂……フラクトライトの一部ってわけだなー」 「|なに《ワッ》!? |マジかよ《リアリー》!? |なんてこった《オーマイ・ゴッ》!!」  途端、ヴァサゴが素っ頓狂な叫びとともに身を乗り出した。 「このホブどもが人間!? 俺らと同じレベルの魂を持ってるだって!? フリスコのバァちゃんが聞いたらその場のおっ死んじまわぁ!!」  ぺしぺしとクリッターの坊主頭を叩きながら、更に喚きたてる。 「日本人てのはクリスチャンでブッディストでゼンマスターなんだろう!? よくまあこんな研究ができたモンだな!! あれかよ、上のキラキラに収まってんのはみんなこういうゴブだのオークなのか!? 俺らのアリスちゃんもか!?」 「なワケ無ぇー」  迷惑そうにヴァサゴの手を払いながら、クリッターが訂正した。 「いいかー、ここの連中が作ったVR、アンダーワールドって奴は二つのエリアに分かれてんだよー。真ん中に“ヒューマン・キングダム”があってそこではフツーの人間が暮らしてる。んで、外側に“ダーク・テリトリー”があって、こいつら怪物がうじゃうじゃいやがるってわけだー。アリスが居るのは当然ヒューマン・キングダムのどっかだなー。それを見つける手をいま考えてんだぁー」 「んなの簡単じゃねえか。人間ってからには言葉通じんだろ? ならそのヒューマンキングダムとやらにダイブして、そのへんの連中に、アリスってコ知らねえ? って訊けばいいだろ」 「うわっアホだ。アホがいるぞー」 「んだとてめえ!!」 「あのなー、キングダムはてめーがのたくってたフリスコと同じくらいでっけーんだ。そこに人間が十万からいるんだぞー。それを一人二人でどうやって調べ上げる気だっつうのー」  と、うんざりした口調で発せられた自分の言葉に打たれた、とでもいうかのように——。  クリッターが、がばっと猫背を起こした。坊主頭ががつっとヴァサゴの顎に命中し、ラテン系の喧嘩小僧がまたしても悪態を喚き散らすが、耳も貸さずに大声で叫ぶ。 「待て。待て待て待て待てー。一人二人……じゃ無ぇーぞ」  それを聞いた途端、ガブリエルの中にあった曖昧なアイデアも、さっと大まかな形へと整えられる。 「……そうか。アンダーワールドへのログイン用に用意されているアカウント……その全てが、レベル一の一般市民ということは考えにくい。そうだなクリッター」 「イエス。イエース、ボス!!」  だかだかだかっ!  とキーボードが打楽器のように唸り、大モニターにたちまち幾つものリストがスクロール表示される。 「人間のオペレータがログインして内部を観察、あるいは操作するためのアカウントなら……あらゆる階級の身分が用意されてるはずだぁー。軍隊の士官……いや将軍……。いやいや、貴族、皇族……ことによると皇帝そのものだって……」 「おぉ。おー!! そいつぁイカシてるな!!」  くっきりと割れた顎をこすりながら、ヴァサゴが叫んだ。 「つまり、ジェネラルだのアドミラルだの国防長官だののご身分でアンダーワールドにログインしてよ、好き放題命令すりゃあいいってことか! “全軍整列! 回れ右! アリスを探して連れて来い!!”」 「……なぁーんか、アンタに言われるとせっかくのアイデアがくだらねーものに思えてくるよなぁー」  ぶつぶつ文句を言いながらも、クリッターは物凄いスピードでコンソールを操作し続けた。  しかし。  ほんの数秒後、この男にしては珍しい罵り言葉とともにリストアップが中止された。 「クソッ、だめかぁー。ワールド直接操作だけじゃなく、ハイレヴェル・アカウントでのログインにもがっちりパスがかかってやがる。残念ですが、ボス、ヒューマン・キングダムへのダイブは一般市民アカウントでしかできねぇみたいだー」 「……フム」  クリッターとヴァサゴの顔には明確な落胆の色が浮かんでいるが、ガブリエルは表情筋ひとつ動かさず、軽く首を傾けただけだった。  残された時間的猶予は、決して多いとは言えない。  しかし、それはあくまでこの現実世界において設定されたリミットでしかない。スクリーンの中に広がる異世界“アンダー・ワールド”では、現実比一〇〇〇倍という凄まじい比率で圧縮された時間が流れているのだ。  つまり言い方を変えれば、残された猶予二十三時間は、アンダーワールドでは実に二年半以上もの膨大な年月に相当することになる。  それだけの時間があれば、一般民としてログインし、求める“アリス”を探し出して確保したうえで、世界内部のコンソールから現実側へとイジェクトさせることもあながち不可能ではないかもしれない。  しかし——いかにも冗長な話であるのも確かだ。  そんなことをするくらいなら、むしろ、ヒューマン・キングダムの“外側”からアプローチしたほうが速いのではないか。 「クリッター。ハイレヴェルのアカウントは、目標エリア外……“ダーク・テリトリー”には用意されていないのか?」 「……外? しかし、アリスがそっちに居るってー可能性は限りなく低いのでは?」  疑問を口にしながらも、クリッターの指が軽やかに閃く。  開きなおされるウインドウ群を見上げながら、ガブリエルは答えた。 「ま、そうだろうな。しかし、エリア境界は完全不可侵というわけではなかろう? アカウントに与えられた権限によっては、境界を超える手段があるかもしれない」 「オーッ、さっすがは兄貴! 考えることが違うな! つまりアレだろ……人間の将軍じゃなくて、モンスターどもの大将になって攻めこもうってんだろ!? そっちのほうが燃えるってもんだ!!」  ぴゅう、と口笛を鳴らして喚くヴァサゴに、ほとほとうんざりという口調でクリッターが冷や水を浴びせた。 「燃えるのは勝手だけどなー、ログインするのがおめーなら、向こうじゃクサくてデカい怪物になるんだからな……っと、おっ、あった、ありましたよボス」  たぁん、とキーが弾かれる音とともに表示されたウインドウは二つ。 「えー、人間側と違って、スーパーアカウントはたった二個ですが……やった、パスはかかってませんよ! なになに……まず一つは、“暗黒騎士《ダークナイト》”ってー身分ですな。権限レヴェルは……七〇! こりゃ高いですよ!」 「おお、いいねいいね! そいつはオレがもらうぜ!!」  騒ぐヴァサゴを無視して、クリッターはもう片方のウインドウをアクティブにした。 「で……もう一つは、と。——なんだこりゃ? 身分が空欄だ……レヴェル表示もないぞ。設定されてるのは名前だけです。こいつは……何て読むんだ? ……“ベクタ”?」  サブコントロールを包んだ重苦しい沈黙を、比嘉は遠慮がちに破った。 「ええ……と、ですね。彼の肉体……というか、現実世界での桐ヶ谷君の置かれた状況は、今説明したとおり……楽観を許さないものです」  神代凜子に肩を抱かれた結城明日奈が、びくりとその体を震わせるのを見て、慌てて言い添える。 「で、でも、僅かながら希望もあります!」 「……と言うと?」  鋭い、しかしどこか縋るような響きを帯びた声で凛子が問う。 「アンダーワールドにおけるキリト君は、まだログインを継続している」  比嘉は、メインコントロールルームに比べると随分と小さくなってしまったモニタを見上げた。マウスを動かし数回クリックすると表示が切り替わり、人界とそれを取り囲むダークテリトリーで構成されるアンダーワールドの俯瞰図が出現する。 「つまり、自我が損傷したとは言え、彼のフラクトライトそのものはまだ活動し、様々な刺激を受け取っているわけです。事ここに到ればもう、アンダーワールドにおいて、ある種の……奇跡的癒しが彼に訪れることを祈るしかない……。自分自身を憎み、責めるあまり、自らの魂を損なってしまった彼を、何者かが癒し、赦しを与えてくれることを……」  自分の言葉がとうてい科学的とは言えないものであることを比嘉は自覚していた。  しかしそれはもう、偽らざる本心そのものだった。  比嘉は、他のラース技術者らと力と知恵をあわせ、ナーヴギア、メディキュボイドと続いた脳インターフェースマシンの最終形・ソウル・トランスレーターを生み出した。しかしそのマシンによって見出された人の意識体・フラクトライトに関しては、まだ分からないことのほうが圧倒的に大きい。  フラクトライトは物理的な現象なのか?  それとも——唯物論を超えた観念なのか?  もし後者であるならば。  傷つき、疲れ果てた桐ヶ谷和人の魂を、何か、科学を超えた力が癒すということもあり得るのかもしれない。  たとえば、誰かの愛が。 「……わたし、行きます」  まるで、比嘉の思考と同調したかのように。  小さな、しかし確とした言葉がサブコントロールに響いた。  部屋中の人間が、はっとして声の主——この場における最年少の少女を見つめた。結城明日奈は、肩を抱く凛子の手をそっと外し、こくりと頷きながらもう一度言った。 「わたし、アンダーワールドに行きます。向こうで、キリト君に会って、言ってあげたい。がんばったね、って。悲しいこと、辛いこと……いっぱいあっただろうけど、きみは出来るかぎりのことをしたんだよ、って」  大きなはしばみ色の瞳に涙を溜めながらそう言う明日奈の姿は、一生を学究に捧げる覚悟の比嘉ですら息を飲むほど美しかった。  同じように、何かにうたれたような顔つきで言葉を聞いていた菊岡が、すぐに眼鏡のレンズに表情を隠しながら、隣接するSTLルームを見やった。 「……たしかに、STLはあと一つ空いている」  錆びた声でそう言ったあと、アロハ姿の指揮官は難しい表情を作り、続けた。 「しかし、アンダーワールドは今……とうてい平穏な状況とは言いがたい。スケジュールされていた最終負荷段階に、こちら側の時計であと数時間のうちに突入するからだ」 「最終……負荷? 何がおきるの?」  眉をしかめる凛子に、比嘉は手振りを交えて説明した。 「ええと……簡単に言えば、殻が割れるんス。人界とダークテリトリーを数百年に渡って隔ててきた“東の大門”の耐久値がゼロになって……闇の軍勢が人の世界になだれ込む。人間達が充分な軍事体制を整えていれば、最終的には押し返せる負荷です。しかし、今回の実験では……キリト君が統治組織である“神聖教会”を半ば壊滅させてしまってますから……どうなるか……」 「考えてみれば、どっちにしろ我々の誰かがダイブせねばならん状況かもしれないな」  胸の前で腕を組んだ菊岡が呟いた。 「侵攻がはじまれば、その混乱と虐殺のさなかで、人界にいる“アリス”が殺されてしまうこともあり得る。そうなっては、何のために苦労してメインコンソールをロックし時間を稼いだのか分からないからな。誰かがスーパーアカウントで中に行って、アリスを保護し、内部コンソールである“果ての祭壇”まで連れて行って、そこからこのサブコントロールにイジェクトするべきかもしれん」 「ああ……あなた、キリト君にもそう頼んでいたわね、事故の直前に」 「うむ。彼が無事だったら、きっと遂行してくれたはずだ。あの時、彼はアリスと一緒にいたんだからな……まさに、万にひとつの僥倖だったのだが」 「なら、内部時間で何ヶ月か経っているいまも、二人は一緒にいる可能性が高い……ということ?」  凜子の質問に、菊岡と比嘉はそろって首をかしげた。  答えたのは比嘉だった。 「……そう、考えていいかもしれません。なら、やはりダイブは明日奈さんにお願いするべきかも……。キリト君とのコミュニケーション力はもちろん、アリスの保護には内部での戦闘能力が要求されるでしょうから。ここにいる人間で、もっとも仮想世界での動きに慣れているのは明日奈さんっス、間違いなく」 「なら、スーパーアカウントも、可能な限りハイレヴェルなやつを使ってもらったほうがいいな」  菊岡の声に頷き、比嘉はキーボードに指を走らせた。 「そういうことなら選り取りみどりッスよ。騎士、将軍、貴族……色々あります」 「ねえ、ちょっと待って」  不意に、やや緊張した声で凜子が口を挟んだ。 「なんスか?」 「……それとまったく同じことを、襲撃者連中が考えるってことはないの? さっきあなた言ってたでしょ? アリス確保の抜け道は、内部からのオペレーションだ、って」 「あぁ、はい。確かにあいつらにも可能な手段です。下のメインコントロールにも、STLが二基設置してありますからね。ただ、あいつらにはスーパーアカウントのパスを破る時間はないはずッス。ログインできるのはレベル一の一般民だけっすよ。とても、最終負荷段階の修羅場で活動できるステータスじゃないッス」  早口にそう説明しながらも——。  比嘉はふと、何かを忘れているような、かすかな悪寒が背中を走るのを意識した。  しかし、その思考は、高速でスクロールされるアカウントリストの点滅光に紛れて形になることはなかった。  暗黒騎士リピア・ザンケールは、騎竜の動きが止まるまえにその背から飛び降りると、発着台から城へと続く空中回廊を全力で走りはじめた。  すぐに息苦しさを感じ、右手で大きな黒鋼の兜を引き剥がす。  ばさっ、と広がった灰青色の長い髪を、左手でまとめて背中に戻し、リピアはさらに速度を上げた。重苦しい鎧とマントも脱ぎ捨ててしまいたいが、帝宮にのたくっている気に食わない男どもに、肌の一片たりとも見せてやる気はない。  湾曲する回廊を三分ほども疾走すると、右手の円柱の隙間から屹立する巨城のすがたが、赤い空を背景にあらわれた。  帝宮オブシディア城は、広大無辺な闇の国でもっとも高い峻峰の頂付近をそのまま彫り抜いて築いてある。  最上階の皇帝居室からは、はるか西の彼方にそびえる果ての山脈と、その山肌に繰りぬかれた大門がかすかに望めるという。  しかし、その伝説を確かめたものは、この数百年ひとりもいない。  闇の国の玉座は、初代帝であり堕天の神でもあるベクタそのひとが、太古の昔に地の底の暗闇に去って以来空位なのだ。最上階の大扉は膨大な天命をもつ大鎖にて封印され、永遠に開くことはない。  リピアは、漆黒の城の突端から視線を引き剥がすと、目前に迫った鉄門を守る衛兵に呼びかけた。 「暗黒騎士十一位ザンケールである! 開門せよ!!」  衛兵は人間ではなくオーガ族だ。頑強ではあるものの多少頭の回転が鈍く、リピアが鋳鉄の柵に達する寸前になってようやく巻き上げ機を回しはじめた。  ゴ、ゴン、と重苦しい音を響かせながらわずかに開いた隙間を、小柄なからだを横にしてすり抜ける。  三ヶ月ぶりの城は、相変わらず冷え冷えとした空気でリピアを迎えた。  コボルドどもが毎日愚直に磨き上げる廊下には塵ひとつない。黒曜石の敷板を具足の底でカンカン鳴らして走っていると、前方から肌もあらわなドレスに身をつつんだ妖艶な女ふたりが、こちらは足音ひとつさせず滑るように歩いてくるのが見えた。  きらびやかに波打つ髪に載る、とがった大きな帽子が、彼女らが暗黒術師であることを教えている。眼をあわせないようにしてすれ違おうとしたとき、片方がきんきん声でわざとらしく言った。 「アァラすごい地響き! オークかトロルでも走ってるのかしら!」  すぐさま、もう一方がケタケタ笑いながら言い返す。 「そんなもんじゃないわぁ、この揺れはジャイアントよぉ」  ——刃傷沙汰禁止の城内でなければ舌を切り飛ばしてやるものを。  と思いつつ、リピアは鼻を鳴らしただけで一気に駆け抜けた。  闇の国のヒューマン族の女性は、修練所を卒業したのちはたいていが術師ギルドに入る。ひどく享楽的な組織で、規律のかわりに放埓を学ぶと言われ、出来上がるのはあのような、着飾ることにしか興味のないやつばらばかりだ。  それでいて、術師よりも格の高い騎士に叙任された女にはやたらと対抗心を燃やしてくる。リピアも、修練所同期で仲の悪かった女術師に毒虫の呪いを飛ばされて往生したことがある。飛竜の炎で髪をぜんぶ燃やしてやったら大人しくなったが。  所詮、連中は“先”を見ようとしない馬鹿者どもなのだ。  組織が、そして個人が常にいがみ合い、力で優劣を決めることしか知らないこの国には未来がない。  現在でこそ、十侯会議のもとに危うい均衡で内乱が抑えられているが、それも長続きはしない。目前にせまった“人界”、オークやゴブリンたちの言うところの“イウムの国”との戦争で十侯のだれかが命を落とせば、均衡はくずれ再び血で血を洗う乱世が出来するだろう。  その未来図をリピアに語ったのは、十侯のひとりであり、直属の上官たる暗黒騎士団の長であり、また愛人でもある男だった。  そしていまリピアは、彼が待ち望んだひとつの情報をその胸のうちに携えているのだ。  となれば、女術師どもの戯言にかかずらわっている暇など一秒たりともない。  無人のホールを一直線に横切り、大階段を二段飛ばしでひたすら駆け上る。鍛え上げた躯ではあるが、さすがに息が切れ汗が滲んだころ、ようやく目指すフロアにたどり着いた。  闇の国全土を合議によって支配する十侯は、五人がヒューマン族、二人がゴブリン族、残りをオーク族、オーガ族、ジャイアント族の長が占めている。百年にも渡る内乱を経てようやく条約らしきものが結ばれ、現在ではこの五族のあいだに上下はないという約定が交わされている。  ゆえに、オブシディア城の皇域のすぐ下に、十侯それぞれの私室が均等に並んでいる。リピアは円形の廊下を、さすがに少々足音を殺しながら走り、奥まった一室の黒檀の扉をそっと叩いた。 「——入れ」  すぐに押し殺した声でいらえがある。  廊下の左右に目を走らせ、無人であることを確認してから、リピアは素早くドアを開け中に滑り込んだ。  広大だが、装飾は最低限に抑えられた部屋に漂う男っぽい匂いを吸い込みながら、戸口に肩膝を突く。 「暗黒騎士リピア・ザンケール、ただいま帰参仕りました」 「ご苦労。まあ、座れ」  太い声に、高鳴る胸を押さえつけつつ視線を上げる。  丸テーブルを挟んで置かれた巨大なソファの片方に横すわりになり、両腕を枕にして高々を足を組む男こそが、暗黒騎士長、別名暗黒将軍のビクスル・ウル・シャスターその人だった。  ヒューマン族としては図抜けた体躯だ。さすがに横幅は比べられないが、背丈だけならオーガ族にも引けは取らない。  黒々とした髪を短く刈り込み、対照的に口元と顎の美髭は長く豊かだ。ブロンズ色の肌は、簡素な麻のシャツのボタンを弾き飛ばしそうなほどの筋肉を包んで盛り上がり、しかし腰周りには余計な肉のひとつまみもない。四十を超えたとは思えない完璧な肉体を保つのが、騎士の最高位に上り詰めても欠かすことのない、凄まじいまでの日々の鍛錬であることを知るものは少ない。  久々に目にする愛人の姿に、いますぐその胸に飛び込みたい衝動を抑えながら、リピアは立ち上がりシャスターの向かいのソファに座った。  自分も身体を起こしたシャスターは、卓上の水晶杯のかたほうをリピアに持たせると、年代物らしき火酒の封を指先で切った。 「お前と一緒に飲ろうと思って、昨日宝物庫からくすねておいたんだ」  片目を素早くつぶりながら、薫り高い深紅色の液体をグラスに注ぐ。そういう表情をするとどこか悪戯っ子めくところも、昔とまったく変わらない。 「あ……ありがとうございます、閣下」 「二人きりのときはそれはやめろと何度言わせる?」 「しかし……まだ任務中ですから」  やれやれ、と肩をすくめるシャスターと控えめにグラスを打ちあわせ、高価な酒を一息に呷って、リピアをようやく深く息をついた。 「……それで、だ」  自分も杯を干し、おかわりを注ぎながらも表情を改めた騎士長は、わずかに低めた声で聞いた。 「卿が使い魔で知らせてきた“一大事”とは、一体何なんだ?」 「は……」  リピアはつい視線を左右に走らせながら、身体を乗り出した。シャスターは豪放磊落だが同時に細心でもある。この部屋には防御術が幾重にも張り巡らされ、たとえ術師ギルド総長の魔女であろうとも盗み聞きはできないはずだ、とわかっていても、己の携えた情報の巨大さについ囁き声になる。  シャスターの黒い瞳をじっと見つめ、リピアは短く言葉を発した。 「……神聖教会最高司祭アドミニストレータが死にました」  一瞬、さしもの暗黒将軍もカッとその目を見開いた。  静寂を、ふううーっという太いため息が破る。 「……本当か、それは……などと訊くのは野暮だな、卿の情報を疑いはせんが……しかしな……あの不死者が…………」 「は……お気持ちはわかります。私もどうしても信じられず……確認に一週間を掛けましたが、やはり間違いないかと。神聖教会の修道士団員に“聴耳虫”を忍ばせて裏を取りました」 「ほう……無茶をしたな。もし“逆聴き”されたら、今頃卿は八つ裂きだぞ」 「ええ。しかし、私程度の術式を探知できなかったことからも、情報は真実かと思います」 「……うむ……」  二杯目の火酒をちびりと舐め、シャスターは剛毅に整った貌を僅かに俯かせた。 「——いつのことだ、それは。それに、死因は?」 「およそ半年前と……」 「半年。——そなたの仇敵、あの“五十番”が山脈から消えたのもその頃だったか?」 「よしてください」  リピアは眉をしかめて反駁した。 「きゃつには別に負けてはおりません、私はこうして生きていますから。——そうですね、確かに半年前ですね。そして最高司祭の死因ですが……これはおそらく流言でありましょうが、“剣に斃れた”と……」 「剣に。——あの女を斬ったものがいた、と?」 「ありえませぬ」  絶句したシャスターにむけて、リピアは大きくかぶりを振った。 「おそらくは、かの不死者と言えどもついに天命が尽きたのでしょう。しかし神人を名乗った最高司祭の霊性を保つため、そのような空言を流したのではないかと……」 「うむ……ま、そんなところだろうな。しかし……死んだか、アドミニストレータが……」  シャスターは目を閉じ、両腕を組んで、身体をソファに預けた。  そのまま長いこと黙考していたが、やがて、短い呟きとともに瞼を開いた。 「機だ」  リピアは一瞬息を詰め、掠れた声で訊ねた。 「何の、ですか」  答えは即座に返った。 「無論……和平の、だ」  この城で口に出すには危険すぎる単語は、部屋の冷たい空気に即座に溶け、消えた。  リピアは無論のこと、豪胆で鳴るシャスターの頬にすらもわずかな強張りが見てとれた。 「それが可能だと……お考えですか、閣下」  囁くように問うたリピアに対し、シャスターは視線をグラスの中の赤い液体に据えながら、ゆっくりと、しかし深く頷いた。 「可能であろうとなかろうと、成さねばならぬのだ、何としても」  ぐっ、と火酒を干し、続ける。 「創世の古より世界を分かち続けてきた“大門”の天命が、ついに尽きようとしていることは最早疑いようもない。闇の五種族の軍勢は、ソルスとテラリアの恩寵豊かな人界への大侵攻のときを目前にして焼けた大釜のごとく沸き返っておる。前回の十侯会議では、人界の土地と財宝、そして奴隷をどのように分割するかで大いに紛糾したよ。まったく……度し難い欲深どもだ」  歯に衣着せぬシャスターの物言いに、リピアは首を縮めた。 “禁忌目録”という恐るべき大部の成文法に支配されているという人界とはまったく異なり、闇の国に存在する法はただ一つのみである。すなわち——力で奪え。  その意味では、最高権力の位に智謀と武勇で上りつめ、そして今なお尽きぬ欲望を人界という至高の熟果に向ける九人の諸侯たちにくらべれば、シャスターのほうが異端と言うべきなのだろう。  しかし、リピアがこの男にどうしようもなく惹かれるのも、その異質な思考ゆえだ。何と言っても、他の諸侯にかしずく女たちと違って、リピアは無理やりに奪われてきたのではない。シャスターは花束を差し出し、ひざまずき、リピアただ一人を口説いたのだ。  愛人がそのような思考を彷徨わせているとはつゆ知らぬ様子で、シャスターは更に重々しく続けた。 「しかし、連中は人間たちを甘く見すぎている。人間たちを守る剣……“整合騎士団”を」  数度瞬きして、リピアは意識を引き戻した。 「確かに……。奴らは容易ならざる相手です」 「一騎当千さ、文字通り。暗黒騎士団の長い歴史において、整合騎士に殺されたものは数え切れぬが、その逆は一度として無いのだからな。この俺とても、追い詰めたことは幾たびかあるが、ついに止めまでは刺せなかった。それほど奴らの剣技は研ぎ澄まされ、身に帯びた神器は強力無比だ」 「は……。怪しげな術も使いますし……」 「“武装完全支配”か。騎士団の術理部にずいぶんと研究させたが、結局解明には到らなかったな。あの技ひとつに対抗するにも、ゴブリンの兵士が百では足りぬだろう」 「とは言え……我がほうの軍勢は五万を数えます。翻って、整合騎士団は総勢で五十に満たぬはず。さすがに押し切れるのでは……?」  リピアの言葉に、シャスターは美髯の片端を皮肉げに持ち上げた。 「さっき、一騎当千と言ったろう。計算上は相討ちだな」 「まさか……そこまでは」 「まぁ、な。気にくわん戦法だが、戦線を我ら騎士団とオーガ、ジャイアントあたりが支え、後方から暗黒術師どもの遠距離攻撃を浴びせればいずれは整合騎士どもも力尽きるだろう。だが、最後の一騎が墜ちたとき、こちらにどれほどの損害が出ているか想像もつかん。万か……あるいは二万か」  かちん、と硬い音を立てて水晶杯が卓上に置かれる。  酌をしようとするリピアを片手で制し、シャスターは広い背中をソファにうずめた。 「そしてその結果、当然ながら種族のあいだに力の不均衡が生じる。十侯会議は意味を失い、五族平等の条約も破棄されるだろう。“鉄血の時代”の再来だ。いや、尚悪いな。今度は人界という、飲み干せぬ蜜の大海が目の前に開かれているのだから。かの地の支配権が定まるまでは、百年では足りるまい……」  それは、常々シャスターが危惧していた最悪の未来図だ。  そして更に悪いのは、シャスター以外の九侯は、その未来を最悪と思っていないことだ。  リピアは顔を伏せ、騎士団入団とともに与えられた漆黒の全身鎧の、磨きこまれた艶やかな輝きにじっと見入った。  子供の頃は人一倍小柄で、腕力もなかったリピアは、百年前の“鉄血の時代”ならばとうてい騎士になどなれなかっただろう。食い扶持を減らすために人買いに売られるか、どこぞの路地裏で殺されるかして短い人生を閉じていたはずだ。  しかし、曲がりなりにも平和条約らしきものができたお陰で、奴隷市ではなく修練所に入ることができたし、そこで遅咲きの剣の天稟に恵まれて、ヒューマン族の女としてはほとんど望みうる最高の地位にまで達することができた。  今リピアは、月々の給金のほとんどを投じて、いまだ人買いの横行する僻地から親に捨てられた幼子を集め、修練所に入れる歳になるまで面倒を見る保育所のようなものを運営している。  そのことは、同輩たちはもちろんシャスターにも秘密にしている。自分でも、自分がなぜそんな真似をしているのか説明できないからだ。  ただ——。  この世界、力あるものが全てを奪う“闇の国”はどこかおかしいという感覚は、常にリピアの心の片隅にある。シャスターほど、理念を明確な言葉に変える知恵は自分には無いが、それでも、もっと“あるべき正しい姿”がこの国、いや、人界をも含む世界すべてにあるような気がするのだ。  その、いわば新世界が、シャスターの唱える和平のはるか先に存在するであろうことは、今のリピアにもおぼろげに理解できる。愛する男の力になりたいとも思う。  しかし。 「……しかし、どのようにして他の諸侯を説得するおつもりですか、閣下。それに……そもそも、整合騎士団は和平の交渉を受け入れるでしょうか?」  低い声でリピアは訊ねた。 「……うむ……」  シャスターは目を閉じ、右手で艶やかな髭をしごいた。やがて、苦い響きのある声が、この対話中でもっとも密やかに発せられた。 「整合騎士については……脈有りと見ている。最高司祭が斃れたとあらば、いま総指揮を執っているのはベルクーリの親父だろう。食えん男だが……話はわかる奴だ。問題は、やはり十侯会議よな。こちらは……矛盾するようだが、斬らねばならんかもしれん。最低でも三人を」  持ち上がった瞼の奥の、わずかに赤みを帯びた黒い瞳は、名剣の切っ先よりも剣呑な輝きを帯びていた。  はっ、と息を飲み、リピアは身を乗り出した。 「三人。と仰いますと……やはり山ゴブリン族の長、オーク族の長、それに」 「暗黒術師ギルド総長。とくにあの女は、アドミニストレータの長命の秘儀を手に入れ、いずれ皇帝位に上る野望を滾らせておるからな。和平案など決して受け入れるまい」 「し、しかし!」  絞り出すように、リピアは反駁した。 「あまりにも無謀です、閣下! ゴブリン、オークの長は敵ではないでしょうが……暗黒術師だけはどのような卑劣な手妻を用いるか見当もつきませぬ!」  シャスターはしばらく無言だった。  不意に発せられた言葉は、まったく予想もできないものだった。 「なぁ、リピアよ。俺のところに来てもうどれくらいになる?」 「はっ? は……え、ええと……私が二十一のときでしたから……四年ですか」 「もうそんなに経つか。……長い間、曖昧な身の置き方をさせて悪かったな。どうだ……そろそろ、なんだ、その」  視線をぐるりと回し、頭をがりがりと書いてから、筆頭暗黒騎士は少々ぶっきらぼうに言った。 「……正式に、嫁にならんか。こんなオッサンですまないと思うが」 「か……閣下……」  リピアが唖然と目を見開き——。  胸のおくに、じんわりと熱いものがこみ上げて、たまらずに愛する男の胸に飛び込もうとした、その時。  分厚い扉のおくから、引きつったような甲高い大声が広い部屋を貫いた。 「一大事!! 一大事ですぞ!! ああっ、なんたること!! おいでませ諸侯方、はよう、はよう!!」  かすかに聞き覚えのあるその声は、おそらく十侯のひとり、商工ギルド頭領のものか。  リピアの記憶にある、恰幅のいい大人物然とした姿にそぐわない裏返った悲鳴は、さらに続いた。 「一大事でござる!! ——こっ、皇域のっ!! 神鉄の縛鎖が!! 啼いてござるううううう!!」  ガブリエル・ミラーは、とてつもなく広大な玉座の間にひざまずき頭を垂れる数十の人工フラクトライトを、いくつかの感慨とともに眺めた。  この“存在”たちは、一片二インチのライトキューブに封じ込められた被造物だ。それでいて、この世界では知性と魂を備えた本物の人間なのだ。もっとも、最前列に並ぶ十人のうち半分は、奇怪な容姿を備えたモンスターだが。  彼らと、その背後に従う騎士や術師たち、そして城の外に駐屯する五万の軍勢が、ガブリエルに与えられた戦力、“ユニット”ということになる。これから、この駒たちを適宜動かし、人界の防衛力を殲滅してアリスを確保せねばならない。  しかし、現実世界のリアルタイム・シミュレーションゲームと異なり、このユニットたちはカーソルとコマンドで好き放題動かせるわけではない。言語と態度で統率し、命令しなくてはならないのだ。  ガブリエルは無言で身体を回し、巨大な玉座のうしろの壁に張られた鏡を見やった。  そこに映っているのは、なんとも悪趣味な格好をした己の姿だった。  顔の造作と、白に近いブロンドの髪色だけは現実のガブリエルのままだ。  しかし、額には黒鉄色の金属に深紅の宝石をはめ込んだ宝冠が飾られ、黒いスエード調の革製のシャツとズボンの上に、これも漆黒の豪奢な毛皮のガウンをまとっている。腰からはおぼろな燐光を放つ細身の長剣が下げられ、ブーツと手袋には精緻な銀糸の刺繍が施されている。さらに背中には、血の色に染められた長いマント。  視線を右に振ると、玉座から一段下がった位置に、両手を頭の後ろで組んできょろきょろあたりを見回している騎士の姿があった。  宝石のように輝くディープ・パープルのフルプレートアーマーの中身は、ガブリエルと同時にログインした副隊長ヴァサゴだ。勘がつかめるまでは、調子に乗って余計なことを言うなと釘を刺してあるが、スラングの感嘆詞を連発したくてたまらないという様子でカタカタとつま先を鳴らしている。  ため息を飲み込み、ガブリエルは再び自分の、ロック・スターも顔負けの装束に視線を戻した。  機能性一本やりのファティーグに馴染んだ体には、どうにも居心地が悪い。しかし、この異世界“アンダーワールド”では、ガブリエルは陸軍の一中尉ではない。  広大無辺のダークテリトリーを統べる皇帝。  そして——神なのだ。  ガブリエルはまぶたを閉じ、ゆっくりを息を吸い、吐いた。  演ずるべき役柄を、“タフでクールな隊長”から、“無慈悲な暗黒の神”へと切り替えるスイッチが意識のどこかでカチリと鳴った。  ふたたび眼を開け、艶やかなマントをばさりと翻して振り向いたガブリエル——暗黒神ベクタは、人間味のかけらも残されていない声を玉座の間に響かせた。 「顔を上げ、名乗るがいい。——そちからだ」  巨大なリングが輝く中指にさされたのは、最前列左端にうずくまる恰幅のいい中年男だった。 「は、はっ! 商工ギルド頭領を務めさせていただいております、レンギル・ギラ・スコボと申します」  再び平伏する男の隣には、凄まじく巨大な——立ち上がれば十フィートはあるだろう体躯に、黒光りする鎖を十字に巻きつけ、腰を奇怪な獣の全身皮で覆った亜人種が片膝を突いていた。  人間と比べると異様に長い鼻梁と顎をぐいっと持ち上げ、地響きのような低音で巨人が名乗る。 「ジャイアント族の長、シグロシグ」  この怪物を動かしているのが、自分と同質の魂なのだという事実をガブリエルが咀嚼するあいだに、さらに隣のほっそりした影が密やかに告げた。 「……暗殺者ギルド頭首……フ・ザ……」  ジャイアントに比べるとあまりにも華奢で存在感のないフーデッドローブ姿は、年齢も、性別すら定かでない。  顔を見せろと命令するかと一瞬考えたが、どうせこの手のアサッシンには素顔を晒すのを禁じる掟だのなんだのあるのだろう、と捨て置くことにして、ガブリエルは視線を左に移した。  そして、嫌悪に顔をしかめそうになるのを危うくこらえた。  醜悪、という言葉を見事に具現化した存在がそこにどさりと座り込んでいた。足が短すぎて膝をつけないのだ。でっぷりと丸く膨れた腹は脂ぎってテラテラと光り、肩と一体化した首からは獣の頭骨らしきものがじゃらじゃらと下がっている。  さらに、その上に載った頭は七割が豚、三割が人という代物だ。突き出た平らな鼻と、牙ののぞく巨大な口、しかし細長い眼だけが人の知性をぎらぎらと映していて、それが余計におぞましい。 「オーク族の長ぁ、リルピリンだぁ」  甲高い声を聞いて、ガブリエルは、こいつは果たして男なのか女なのかと一瞬考えたが、すぐにその興味を捨てた。オークと言うからには軍団の下層レベルだろう。どうせ端から使い捨てにするユニットだ。  次に一礼したのは、まだ少年と言ってもいい年頃の、赤金色の巻き毛を垂らした若者だった。銅色に日焼けした上半身は革帯だけ、下半身はぴったりした革ズボンとサンダル、そして両手にはごつごつと金属鋲の打たれたグローブを嵌めている。 「闘技士ギルドチャンピオン、イシュカーンです!!」  右のオークと比較すると、やけにきらきらと輝いて見える少年の瞳を見返しながら、闘技士とはなんだろうとガブリエルは内心首を傾げた。兵士とは別物なのか。いちど、各ユニットのレベルとステータスを検分する必要がありそうだ。  少年の軽やかな声が消えるや否や、ぐるるるっ!! という獣の唸りが鳴り響いた。  ぐいっと頭を持ち上げたのは、ジャイアントには劣るが人間ばなれした体幹から、やけに長い両腕を床に突いた亜人種だった。上半身は、ほとんど全体が長い毛皮に包まれている。衣装ではなく、地毛らしいとわかったのは、その頭部が完璧に獣のものだったからだ。  犬でも、熊のようでもある。長く突き出た鼻筋と、のこぎりのように並んだ牙、そして三角の耳。べろりと舌の垂れた口から、聞き取りにくい言葉が漏れ出した。 「ぐるる……オーガの……長……フルグル……るるる……」  それが名前なのか、ただの唸り声なのか確信は持てなかったが、ガブリエルは軽く頷いて次を見た。  その途端、耳障りな甲高い声がキイキイと喚きたてた。 「山ゴブリンの長ハガシにござりまする! 陛下、ぜひとも一番槍の栄誉は我が種族の勇士にお与えくださりますよう!!」  声の主は、猿に似た禿頭の両脇から細長い耳を突き出させた、小さな亜人種だった。  背丈も筋肉も、これまで名乗ったジャイアント、オーク、オーガどころか人間たちにすら及ばない。  ダイブ前に受けたクリッターのレクチャーによれば、このダークテリトリーに存在する法はたったひとつだという。すなわち、“力ある者が支配する”。ならば、このどう見ても非力なゴブリンを、他の種族と対等の位置につかせている力とは何なのか。  どちらにしてもオーク以下の最下級歩兵ユニットであろうが、僅かな興味をもってゴブリンの顔つきを眺めたガブリエルは、ふむ、と内心で小さく頷いた。  ゴブリンの丸く小さな眼には、これまで名乗ったリーダーたちのなかで最大の欲望と不満が渦巻いていたからだ。  山ゴブリンの長の言葉が終わらぬうちに、その隣に座していた、肌の色合いだけが異なる亜人が同じようにきいきいと喚いた。 「とんでもない! こんな連中よりも十倍陛下のお役に立ちまするぞ! 平地ゴブリンの長クビリにござります!」 「なんだとこのナメクジ喰いめが! 湿気た土地のせいで頭がふやけたか!!」 「そっちこそ頭のミソが天日でカラカラ乾いたか!!」  きいきいきいと言い合う二匹の鼻先で——。  ばちっ。ばちばち!!  と七色の火花が弾け、ゴブリンの長たちは悲鳴を上げて飛び退った。 「——皇帝陛下の御前ですわよ、お二方」  艶やかな声とともに、掲げた右手を戻したのは、肌も露わな衣装に豊満な体を包んだ若い女だった。火花は、女の指先がライターのフリントのように擦りあわされると同時に飛び散ったのだ。  ゆるりと立ち上がった女は、プレイメイトも目ではないほどの体と美貌を誇示するように腰を反らせてから、気取った仕草で一礼した。ガブリエルの左下方で、ヴァサゴが低く口笛を鳴らしたのもやむなしという所だろう。  カフェオレ色の肌は、まるでオイルでも刷り込んでいるかのように輝き、胸と腰まわりだけをわずかに黒いレザーが隠している。膝の上まで伸びるブーツは針のようなピンヒール。背中には黒と銀に輝く毛皮のマントを羽織り、その上に、豪奢なプラチナブロンドのストレートヘアが腰下まで流れている。  アイシャドーとルージュは鮮やかな水色、それに負けぬ同色の瞳をあだっぽく細めながら、女は名乗った。 「暗黒術師ギルド総長、ディー・アイ・エルと申します。我が配下の術師三千、そして私の心と体すべては陛下のものですわ」  もしこの視線を向けられたのがアサルトチームのほかの隊員の誰かなら、この瞬間に飛びついていてもおかしくない、と思えるほどの妖艶さだったが、性的衝動にコントロールされることのないガブリエルは鷹揚に頷いただけだった。  ディーと名乗ったウィッチは一瞬小さくまばたきし、更に何か言うかどうか考えたようだったが、もう一礼しただけで再び跪いた。  賢明なことだ、と思いながらガブリエルは視線を動かし、リーダーユニットの十人目、最後のひとりを見た。  そこに片腕片膝をついて頭を垂れているのは、おそらくは人間であろうが驚くべき体格を備えた中年の男だった。  全身を包む漆黒の鎧は、無数の傷を刻まれて鈍く光っている。俯けた顔にも、額と鼻梁に薄い傷痕が走っているのが見て取れる。  顔を上げぬまま発せられた男の声は、見事に錆びたバリトンだった。 「暗黒騎士団長ビクスル・ウル・シャスター。我が剣を捧げる前に……皇帝に尋ねたい」  ぐっ、と上げられた顔は、ガブリエルが軍役において出会った数少ない“本物”の軍人たちと共通する、研ぎ上げられた風貌を持っていた。  ことにその鋭い両眼の底にあるものは——男の右側にならぶ九人にはわずかにも見出せなかった、ある種の覚悟だった。  シャスターという騎士は、射抜くような視線でガブリエルを凝視しながら、いっそう低い声で続けた。 「いまこの時に玉座に戻った皇帝の望みは……いずくにありや?」  なるほど——確かにこいつらは、単なるユニットではないのだ。  そのことを常に意識しておくべきだな。と内心で思いつつも、ガブリエルが被った“神の仮面”が口と表情を自動的に動かした。 「血と——恐怖。炎と破壊。死と悲鳴」  ガブリエルの、切削された合金のように滑らかではあるがエッジの立った声が広間に流れたとたん、十人の将軍たちの表情がさっと締まった。  その顔を順番に睥睨しながら、ガブリエルは黒毛皮のガウンを翻し、右腕を高く西の空にかざした。 「余を天界より放逐した神どもの恩寵溢れる蜜の地、その護りたる“大門”は今まさに崩れ落ちんとしている。余は戻ってきた……我が霊威をあまねく地上にしろしめすために! 余が欲するはただ一つ、時を同じくして彼の地に現われたる、天の神の巫女を我が掌中に収めることのみ! それ以外の人間どもは望むままに殺し、奪うがいい! すべての闇の民が待ち望んだ——約束の時だ!!」  しん、と静まり返った空気を——。  甲高い野蛮な雄叫びが破った。 「ギィィィィッ!! 殺ス!! 白いイウム共殺スウウウウウ!!」  短い足をジタバタさせながら喚いたのは、小さい眼に欲望と鬱屈を滾らせたオークの長だった。すぐに、二匹のゴブリンが同時に両腕を突き上げ追随する。 「ホオオオオオウッ!! 戦だ!! 戦だ!!」 「ウラ————ッ!! 戦だ戦だ————ッ!!」  鬨の声は、たちまち他の将軍たち、そして彼らの背後の士官らにも伝染した。暗殺ギルドの黒ローブたちは枝のように細い体をゆらゆらと揺らし、暗黒術師ギルドの魔女集団も嬌声とともに色とりどりの火花を散らす。  巨大な広間に満ち満ちた、プリミティヴな大音声のさなかにあって——。  シャスターと言う名の騎士だけが、跪き俯いた姿勢のまま、身動きひとつしないことにガブリエルは気付いた。  それが、軍人らしい抑制のたまものなのか、あるいは何らかの感情に起因するものなのかは、彫像のような鎧姿からは判断できなかった。 「いやぁ、兄貴にあんな才能があったとはね! 役者になったほうがよかったんじゃねーッスか!?」  ニヤニヤ笑いながらワインの瓶を放ってくるヴァサゴに、ガブリエルはフンと鼻を鳴らして応じた。 「必要に応じたまでだ。お前こそ、それっぽい演説の仕方を覚えておいたほうがいいぞ。あの連中より一段上の立場なんだからな」  受け取った瓶の栓を指先で弾き、ルビー色の液体を大きく呷ってから、果たしてこれは任務中の飲酒に該当するのかどうかとふと考える。  ヴァサゴのほうは、呑まなきゃ損と言わんがばかりに上等なヴィンテージ物をビールのように流し込み、ぐいっと口元を拭って答えた。 「俺は命令だの演説だのよか、先頭で斬り込みてえな。せっかくこんなものすげえVRにダイブしてるんすから……この酒も、ボトルも、本物としか思えねえ」 「その代わり、斬られれば痛いし血も出るぞ。ここはペイン・アブソーバが効かないんだからな」 「それがイイんじゃないっすか」  にやっと笑うヴァサゴに肩をすくめ、ガブリエルはボトルをテーブルに戻すとソファから立ち上がった。  オブシディア城の最上階にある、皇帝の私室だ。ホワイトハウスも問題にならないほどの豪華な内装に加え、巨大な窓からは遥か眼下の夜景が一望できる。  将軍たちは開戦準備を整えるために城を去り、都市から物資を運び出す輜重隊列のかがり火が途切れることなく動いている。補給を担う商工ギルドの頭領には、城に備蓄された食糧や装備をすべて使い尽くせと命じたので、兵たちが飢え、凍えることは当分無いはずだ。  無数の光から視線を外し、ガブリエルは部屋の片隅に歩み寄ると、そこに設置された黒曜石の柱——システム・コンソールに手を触れた。  メニューを手早く操作し、外部オブザーバ呼び出しボタンを押す。時間加速倍率が低下し、一:一に戻るときの奇妙な感覚に続いて、クリッターの早口がウインドウから流れ出した。 「隊長ですか!? まだダイブを見届けてメインコントロールに戻ってきたばっかりですよ!!」 「こっちではもう一日目の夜だ。分かっちゃいたが……奇妙なものだな。とりあえず、今のところは予定どおり進行している。ユニットの準備は一両日中に完了し、順次ヒューマン・キングダムへの進軍を開始する予定だ」 「素晴らしいー。いいですか、“アリス”を確保したら、そこまで運んできて、メニューから外部イジェクション操作を行ってください。そのコンソールはメインコントロールルームと直結ですから、それで“アリス”のライトキューブはこっちのもんです。それとー、これはヴァサゴのバカによく言い聞かせておいて欲しいんですが」  クリッターの声が耳に入ったらしく、背後から短い罵り声が聞こえた。 「管理者権限での操作が出来ない現状では、アカウントデータのリセットも不可能です。つまりー、隊長もヴァサゴも、その世界で“死んだ”ら、二度とそのアカは使えません。そしたら今度こそ一兵卒で出直しっすからねー」 「ああ……分かっている。当分は前線には出ないようにしておこう。JSDFの動きは?」 「今のところは無いです。まだ隊長たちのダイブには気付いていないようですねー」 「よし。それでは通信を切る。次の連絡はアリス確保後と行きたいものだな」 「了解ー、期待しております」  通信ウインドウを閉じると、再び僅かな違和感とともに加速倍率が戻った。  ヴァサゴは尚もぶつぶつ毒づきながら鎧の留め金と格闘していたが、やがてすべての装具を床に放り出し、革のシャツとズボン姿になると立ち上がった。 「えーっと兄貴、ちょいとダウンタウンに遊びに行ったら……ダメっすよね、やっぱり」 「暫くはガマンしろ。目標回収後に一晩時間を取ってやる」 「了ー解。あぁあ……殺しも女もお預けか……。そんじゃま、おとなしく寝ます。そっちの部屋使うっすよ」  こきこき関節を鳴らしながら、ヴァサゴが隣接したベッドルームのひとつに消えると、ガブリエルもふうっと息を吐いて額から宝冠を外した。  マントとガウンもソファに掛け、剣をその上に投げる。  これまでプレイしたVRゲームでは、装備は外すはしからアイテムウインドウへと戻ったものだが、どうやらこの世界にはそのような便利な機能は無いようだった。この調子で一ヶ月も暮らすと部屋が酷い有様になりそうだが、どうせ明後日には城を去り、次に戻ってくるのはログアウトのためだ。  上着のボタンを外しながら、ヴァサゴが消えたのと反対側のドアを開けたガブリエルは、ぴくりと手を止めた。  こちらも恐ろしく広大な寝室の、呆れるほどラグジュアリーなベッドの傍らに——平伏する小さな人影があった。  召使を含む何者も、城の玉座の間より上の階には立ち入るなと命じたはずだった。神の命令に背くものがいるとは、どういうことか。  戻って剣を取るべきかと一瞬考えたが、ガブリエルはあえてそのまま寝室に足を踏み入れ、ドアを閉めた。 「……何用か」  短く誰何する。  返ってきたのは、少しハスキーな女の声だった。 「……今宵の伽を務めさせていただきます」 「ほう」  片眉をぴくりと動かし、ガブリエルは薄暗い寝室をゆっくりとベッドへ歩み寄った。  両手を床についているのは、確かに薄ものをまとった若い女だった。アッシュ・ブルーの髪を高く結い上げ、飾り紐で留めている。仄かに透ける体のラインには、ナイフの一本すら帯びている気配はない。 「誰の命令だ」  艶やかなシルクのシーツに腰を下ろしながらそう尋ねると、女は一瞬間を置いたあと、密やかな声で答えた。 「いえ……。これが役目で御座いますゆえ」 「そうか」  ガブリエルは視線を外し、ベッドの中央にどさりと身を横たえた。  数秒後、女が上体を起こし、音もなく右隣に滑り込んできた。 「失礼いたします……」  囁いた女の顔は、ガブリエルですら一瞬ほう、と思うほどエキゾチックな美貌だった。肌の色は濃いが、頬骨のあたりにどこか北欧的な気高さがある。  薄い衣をはらりとほどき、髪を留める飾り紐を外そうとする女を見上げながら、ガブリエルはある種の感動を覚えていた。  人工フラクトライトとは、ここまでのことをするものか。  これですら、AIとしては不完全なのか。ならば、完成形であるというアリスは、どれほどの高みに達しているのか。  ガブリエルが心を動かしたのは、体を差し出す女の行為に対してではなかった。  そうではなく——。  ばさり、と広がった髪の中から女がつかみ出し、高く振り上げた小さなナイフの存在を予測してのことだった。  充分な余裕を持って女の右腕を捕らえたガブリエルは、もう一方の手も素早く閃かせ、華奢な首筋を掴むとベッドへと引き倒した。 「くっ……!!」  女は小さな犬歯をむき出して、なおもナイフを突き出そうと激しく抗った。その膂力は予想以上のものがあったが、ガブリエルを慌てさせるほどではなかった。女の腕を逆に極め、喉笛に軽く親指を沈ませて、動きを封じる。  激痛に顔をゆがめながらも、女は灰色の瞳から決意の色を薄れさせようとしない。隙あらば即座に攻勢に出るという意思に四肢を強張らせたまま、ようやく動きを止めた女を、ガブリエルは上から眺めた。  すぐに、専業の暗殺者ではなかろうと見当をつける。化粧もぎこちないし、身体が鍛えられすぎている。となれば、翻意を抱いたのはフ・ザと名乗ったアサッシンの元締めではなく、他の九将のいずれか——おそらくは、人間の将軍四名のうちの誰か、ということになる。  わずかに顔を近づけ、ガブリエルは先ほどと同じ質問を発した。 「誰の命令だ」  女はぎりっと歯を食いしばり、その隙間からやはり同じ答えを返した。 「私自身の……意思だ」 「ほう。ならば、お前の上官は誰だ」 「…………いない。流浪者だ」 「フムン」  ガブリエルは一切の感情を交えずに、機械のように考えた。 “K組織”がブレイクスルーを目指した、人工フラクトライトの限界点。それは、上位の存在から与えられた規則、法、命令の一切に逆らえない、ということだ。  無数の法に縛られた人界のフラクトライトたちと比べ、ダークテリトリーの住民たちは遥かに自由に振舞っているように見えるが、しかし本質は変わらない。こちら側のフラクトライトに与えられた法はたった一つなので、見かけ上は自由に感じられるというだけなのだ。  その法とは、“力で奪え”。より高い戦闘力を持つものが、下位のものを支配するという弱肉強食の世界だ。K組織の実験が計画どおり進めば、秩序あふれる人界と混沌に満ちた暗黒界はガブリエルの介入なくとも激突し、その戦争状態のなかでブレイクスルーを目指す予定だったらしい。  しかしいかなる理由か、計画がそこまで進むまえに人界において“アリス”なる限界突破フラクトライトが誕生した。ラビットからの暗号文に記されていたのはそこまでで、暗黒界がわにも同様の存在が発生したという情報はない。  つまり、ナイフひとつで皇帝の暗殺を企てたこの女も、絶対の法に縛られる魂には違いないのだ。そして、将軍の列にいなかったということは、あの十人の誰かに従う立場であるわけで、しかし先ほどのガブリエルの質問に対して主人の名を明かさなかったということは——。  つまりこの女は、皇帝にして神たるガブリエルの命令よりも、己の主人への忠誠を優先したのだ。言い換えれば、皇帝よりも主人のほうが“強い”と思っているのだ。  となれば、作戦をスムーズに遂行せしむる上でも、一度きっちり自らの力を将軍たちに示し、ガブリエルがこの世界で最も力あるものなのだと認識させておく必要がある。  しかしまさか、貴重な将軍ユニットを全部破壊するわけにもいかない。どうしたものか——。  いや。  どちらにせよ、将軍のうち一人は処分せねばならないのだ。この女に暗殺の意思を抱かせた、十人のうち誰か。  それをどうやって炙り出すべきか。もう一度クリッターに連絡し、将軍ユニットを外部から監視させるか。いや、それをするためには時間加速倍率を一倍に戻さねばならないし、戻せば貴重な現実世界での持ち時間を消耗してしまう。  さて——。  そこまでを一瞬で思考したガブリエルは、もう一度女の、錬鉄のような色の瞳を覗き込んだ。 「なぜ余の命を狙った。金を積まれたか? 地位を約束されたか?」  さして考えもなく発した質問だった。しかし、即座に返ってきた答えは予想外のものだった。 「大義のためだ!」 「ほう……?」 「いま戦が始まれば、世界は百年、いや二百年後退してしまう! もう、力なき者が虐げられる時代に戻してはいけないのだ!!」  再び、ガブリエルは僅かな驚きに打たれた。この女は、これで本当にブレイクスルー以前の段階なのか。だとすると、いまの台詞を言わせたのはこの女の主人?  ガブリエルはさらに顔を下ろし、間近から灰色の瞳を凝視した。  決意。忠誠。その奥に隠れるこの感情は…………。  ああ、なるほど。  そういうことなら、この女はもう必要ない。正確には、この女のフラクトライトはもう要らない。  ガブリエルは、己の下した判断に従い、もう一切無駄な言葉を発することなく無造作に女の首を掴んだ右手に力を込めた。  みしっ、と骨と気道が拉げる感覚。女の目が大きく見開かれ、口が無音の悲鳴を発する。  暴れる四肢をがっちり押さえ付け、容赦なく首を締め上げながらも、ガブリエルは先ほどとは別種の驚きを味わっていた。  ここはほんとうに仮想世界なのだろうか!? 右手に伝わる、人体組織が破壊されていく感触も、露わな肌から放散される恐怖と苦痛の匂いも、現実世界以上にクリアにガブリエルの五感を刺激する。  無意識のうちに身体が震え、右手が反射的に収縮した。  ごきり。という鈍い音とともに、名も知らぬ女の頚骨が粉砕された。  そして、ガブリエルは見た。  両眼を強くつぶり、歯を食いしばった女の額から——虹色に輝く光が湧き出してくる!  一体なぜ!? これは、間違いなくあの時——幼いアリシアを絶命させたときに見た、“魂の雲”ではないか!!  瞬間、ガブリエルはここ数年来覚えのない挙に出た。自省を完璧に忘れ、口を大きく開いて、女の魂をあまさず吸い込んだのだ。  恐れ。痛み。苦しさ——の苦味。  悔しさ。悲しさ——の酸味。  それらに続いて、ガブリエルの舌を得も言われぬ天上の蜜が浸した。  閉じたまぶたの裏の暗闇に、朧な光景がちかちかとフラッシュした。  古びた二階屋の前庭に遊ぶ、小さな子供たち。人間も、ゴブリンも、オーガもいる。こちらを見ると、大きな笑顔を満面に浮かべて、両手を広げて一斉に駆けてくる。  その映像が消えると、今度は誰か男の裸の上半身が見えた。鍛え抜かれた広い胸板が、温かく、力強く抱擁する。 『愛して……います……閣下…………』  幽かな声が響き、反響し、遠ざかった。  すべてが消え去ってからも、ガブリエルは女の骸を強く抱きしめたまま膝立ちになり、見開いた両眼を真上に向けたまま身動きしなかった。  素晴らしい——何と言う——。  ガブリエルの意識の大部分は法悦に震えていたが、残された理性のかけらが、今の現象に理屈をつけようとした。  絶命した女のフラクトライトを格納するライトキューブと、ガブリエル自身のフラクトライトは、量子通信回線とSTLを介して有線接続されている。ゆえに、“天命”なるヒットポイントがゼロになり、スウィープされた量子データの断片が、回線を通じて逆流してきたのかもしれない。  しかし、そのような理屈はいまのガブリエルにはどうでもいいことだった。  人生すべてを投じて追い求め、あまたの実験を繰り返しては失望させられてきた“現象”を、ついに再体験したのだ。ガブリエルは、死にゆく女が最後に抱いた感情——“愛”を余すことなく摂取し、味わい尽くした。それはまるで、荒涼たる砂漠に落ちた一滴のネクタールにも等しかった。  もっと。  もっとだ。  もっと殺さなければ。  ガブリエルは、鉤爪のように指を曲げた右腕をまっすぐ上に突き出し、無言の絶叫を放った。  羊皮紙にたった一枚分の手紙を丸一日かけてどうにか書き終え、アリスは末尾にゆっくりと署名した。  丁寧に折りたたみ、封筒に入れて、シルカの名前を表書きする。もう一通、ガリッタ老人宛のものと並べてテーブルに置く。  別れと謝罪の手紙だった。整合騎士エルドリエに知られてしまったこの森の家にはもう居られない。次はエルドリエではなく、おそらく騎士長ベルクーリ本人が説得に来るだろう。そのとき、大恩ある剣の師に告げるべき言葉を、今のアリスは持たない。  だから、もういちど逃げ出すのだ。  細く長いため息を漏らしてから、アリスは顔を上げ、テーブルの向かいに座る黒髪の青年を見やった。 「ねえ、キリト。あなたは何処に行きたい? 西域の“竜の巣”はそれは美しいところよ。それとも、南域の密林地帯がいいかしら。そっちは私も行ったことないの」  ことさら明るい声を出してみたものの、もちろんキリトは何の反応も見せなかった。  虚ろな瞳はじっとテーブルの表面に向けられている。この傷ついた若者を、また流浪の生活に連れ出さねばならないことにアリスの胸は痛んだ。しかし、と言って置いていくわけには行かない。シスター見習いの身であるシルカに無理な頼みごとはできないし、またアリス自身もそうしたくない。いまやキリトの面倒を見ることだけが、アリスに残されたただ一つの生きる目的なのだから。 「……そうね、行き先は雨縁に任せるわ。さ……もう遅いわね、そろそろ休みましょう。明日は早く起きて発たないと」  キリトを着替えさせて横にならせ、自分も寝巻き姿になって灯りを消してから、アリスはベッドに潜り込んだ。  暗闇のなかで数分間目を閉じ、隣のキリトの呼吸音が深く、緩いものになるまで待ってから、アリスはもぞもぞと身体を移動させた。  若者の薄い胸に、そっと自分の頭を載せる。密着した耳に、ゆっくりとした、しかし確実な鼓動音が伝わる。  キリトの心はもう、ここには存在しない。この鼓動は、過去からこだまする残響でしかない。  夜毎寄り添って眠りについたこの数ヶ月間、アリスはずっとそう思ってきた。しかし同時に、深い確たる響きのおくに、何か——まだ何かが残されているのではと、そんな気がすることもある。  もし今のキリトが、“心は正常なのにそれを表に出せない”というような状態だったとしたら、自分のこの行為をどう申し開きしたものか。そんな事を考えてかすかに微笑みながら、アリスはいっそうぴたりと全身を触れ合わせ、緩やかに眠りへと落ちていった。  びくり。  突然、触れ合った身体が強く震える感覚に、アリスは暖かな暗闇から呼び起こされた。  瞼を持ち上げようとするが、粘るように重い。どうにか視線を定まらせ、東の窓に向けるが、カーテンの隙間からのぞく空はまだ真っ暗だ。感覚的にも、眠っていたのは二、三時間というものだろう。  もう一度ぴくりと身体を強張らせるキリトに、アリスは掠れた声を掛けた。 「どうしたのキリト……まだ夜中よ……」  再び眼を閉じながら、肩を撫でて寝付かせようとしたが、耳元で小さな声が響くに及んでようやくアリスは半ば以上覚醒した。 「ぁ……あー……」 「キリト……?」  今のキリトに自発的欲求は存在しない。寒いとか、喉が渇いたとか、そんなことでは眼を醒まさないはずなのだ。なのに若者はいっそう強く身体を震わせ、まるでベッドから起きだそうとするかのように足でシーツを掻く。 「どうしたの……?」  これは尋常ではない、まさか本当に意識が戻ったのか、そう思ったアリスは跳ね起きて、ランプを点ける手間も惜しんで光素因を一つ発生させた。  ほのかな白い明かりに照らし出された若者の瞳は、常と変わることなく虚ろな闇に満たされたままで、わずかに落胆する。しかし、となれば一体何が——。  その時、アリスの耳に、今度は窓の外から甲高い鳴き声が届いた。 「クルル、クルルルッ!」  雨縁の——警戒音。  鋭く息を飲み、床に飛び降りると、アリスは寝室から居間を駆け抜けてドアを叩きつけるように開いた。途端、押し寄せてくる真冬の寒気。しかしその中に、異質な匂いが混ざりこんでいる。これは、焦げ臭さ……?  素足のまま、アリスは前庭へと踏み出した。そしてぐるりと空を見渡し、両眼を見張った。  西の空が——燃えている。  赤黒く揺れる光は、間違いなく巨大な炎の照り返しだ。眼を細めると、星空を覆い隠す黒煙の筋も幾つも見て取れる。  火事!?  一瞬そう思ってから、アリスはすぐに打ち消した。焦げた風に乗って、かすかに届いてきたのは、間違いなく金属が打ち鳴らされる音と——そして、悲鳴。  これは敵襲だ。ダークテリトリーの軍勢が、ルーリッドの村を襲っているのだ。 「……シルカ!!」  アリスは掠れた悲鳴を漏らし、家へと駆け戻ろうとした。  そして立ちすくんだ。  妹だけはなんとしても助け出さねばならない。  しかし……ほかの村人はどうする?  全員を可能な限り救おうとしたら、闇の軍勢と正面から戦わねばならない。だが、今の自分にそんな力が残されているだろうか。かつての“整合騎士アリス”の力の源は、狂信的なまでの教会への忠誠だった。その信仰が欠片も残さず崩れ去ってしまった今、自分は果たして剣を振るい、術を行使できるのだろうか。  凍りついたアリスの耳に——。  ガタン、という音が家のなかから届いた。  はっ、と視線を向ける。その先にあったのは、横倒しになった椅子と、その傍らで這いずる若者の姿だった。 「……キリト……」  眼を見開き、アリスは萎えた足を動かして家の中へと駆け戻った。  キリトの瞳には、変わらず意思の光はなかった。しかし、その緩慢な動作の目的は明らかだった。  伸ばされた隻腕は、まっすぐに、壁に掛けられた三本の剣を指していた。 「キリト……あなた……」  アリスの胸から喉を、熱いものが塞いだ。ぼんやりと視界を歪ませたのが涙だと気付くのに、少しかかった。 「……あ……あー……」  しわがれた声を漏らしながら、キリトは身体を一瞬たりとも止めようとせず、ひたすらに剣を目指す。アリスはぐいっと両眼を拭うと、一直線に若者に駆け寄り、その痩せた身体を床から抱き上げた。 「分かったわ……大丈夫、私が行くわ。私が皆を助ける。だから、安心してここで待ってて」  早口でそう囁きかけ、アリスは強くキリトを抱きしめた。  どくん。どくん。密着した胸から、大きな鼓動が伝わる。  その奥には、燃え殻ではない意志が、仄かな熾火ではあっても確かに存在する。いまならそれが分かる。  唇で若者の頬を撫でてから、アリスは軽いからだをそっと壁にもたれさせた。跳ねるように立ち上がり、迷うことなく壁から己が愛剣の鞘を掴み取る。  半年ぶりに握る金木犀の剣は凄まじい重さだったが、アリスはよろめくこともなくその剣帯を寝巻きの上から腰に締めた。ドアの傍から外套だけひったくるとばさっと羽織り、ブーツを右手で掴みあげてふたたび前庭に飛び出す。 「雨縁!!」  一声叫ぶと、即座に家の裏手から巨大な影が飛び出し、低く首を下げた。  軽やかに跳躍し、裸の背に跨ったアリスは、かつてと変わらぬ鋭い声で騎竜に命じた。 「行けッ!!」  ばさっ! と両の銀翼が打ち鳴らされ、短い助走を経て竜は一気に空へと舞い上がった。  少し高度を取っただけで、アリスの視界にはルーリッドの惨状が如実に映し出された。  赤黒い炎を吹き上げているのは、主に村の北側だ。やはり襲撃者は“果ての山脈”からやってきたのだろう。  ベルクーリの指示で完全に崩落させられたはずの洞窟を、闇の民たちがどのようにして復旧したのかは分からない。しかし、二日前に確認に来たエルドリエは異常なかったと言っていたので、わずか数十時間であの大量のガレキを撤去してのけたことになる。となれば、そのために動員された兵もまた膨大であろう。  古来、果ての山脈に穿たれた三箇所の洞窟を、少人数の偵察部隊が守護騎士の目を盗んで往来することはあった。しかしこれほど大規模かつあからさまな行動は聞いたことがない。やはり、闇の国全体に、人界滅すべしの機運が限界まで高まっているのだ……。  掴んできたブーツに脚を通しながら、アリスがそのような思考を巡らせたほんの短い時間に、雨縁は深い森を一息に飛び越えルーリッド外輪の麦畑上空に達した。  手綱は無いが、手で竜の首筋を擦りあげることで滞空の指示を出す。  アリスは身を乗り出し、眼下を凝視した。村の目貫通りに北側から殺到する多数の襲撃者たちの影がくっきりと見て取れる。その先陣を走る小柄な影は、俊敏なゴブリンたちだろう。先頭はすでに家具や木材を積み上げた急拵えの防御線にぶつかり、その周囲では打ち合わされる白刃がちかちかと光っている。  応戦しているのは、村に組織されている衛士隊だ。だが、人数も装備も練度もすべてがゴブリン部隊にすら劣っている。このままでは、後方から地響きを立てて接近しつつある巨大なオークの中核が到着したら、ひとたまりもなく粉砕されてしまう。  歯噛みをしつつ急く気持ちを押さえ付け、さらに周囲の状況を確認する。  東側、西側の大通りにも、すでに大きな群れが流れつつある。しかし南側にはまだ十匹以下のゴブリンと、僅かな火の手しか見えない。  住民はすでに南から森に避難しているだろう、そう思いつつ最後に村の中央広場に眼を凝らしたアリスは——思わず声を漏らした。 「なぜ……!?」  教会前の広い円形広場には、ぎっしりと密集してうずくまる黒い人波があった。あまりにも大人数なので最初には気付けなかったのだ。あれは、おそらくルーリッドの村人のほぼすべてだ。  なぜ南へ逃げないのか!? あれだけの人数がいれば、それがたとえ剣を持たない農民でも、数匹のゴブリンぐらい鋤や天秤棒で撃退できるはずだ。  襲撃者たちの本隊は、すでに東西の大通りの入り口にも達しようとしている。今すぐに南へ移動を始めなければ間に合わない。  アリスは我を忘れ、騎竜を村の広場上空まで突進させると叫んだ。 「雨縁、呼ぶまでここで待機!」  そして、数十メルの高みから、ひといきに身を躍らせた。  羊毛織の灰色の外套と、炎に照らされて赤金色に輝く長い髪をひるがえしながら、冷たい夜気のなかを一直線に滑り降りる。  円形に固まった数百人の村人たちは、いちおうは防御態勢のつもりか外周に農具を携えた男たちを配置していた。その北側の端で、盛んに指示を飛ばしている二人の男のすぐそばに、アリスは大音響とともに着地した。  ブーツの裏で、石畳が放射状にひび割れる。さすがに、超高優先度を備える身体とはいえ天命は微減しただろうが、アリスはそれよりも注目効果のほうを取った。  狙い通り、いきなり頭上から降ってきた人影に度肝を抜かれたようで、二人の男たち——農民を取りまとめるバルボッサと、そしてルーリッド村長ガスフトは目を見開いて口をつぐんだ。  アリスは、かつての父親であるガスフトの顔を見てわずかに息苦しさを感じたものの、生まれた一瞬の沈黙を逃さずに大声で叫んだ。 「ここでは防ぎ切れません! 今すぐ南の通りから全住民を避難させなさい!!」  凜と響いた声に、農民頭と村長はいっそうの驚き顔を浮かべて棒立ちになった。  しかし、数秒後に返ってきたのは、バルボッサの殺気だった怒声だった。 「馬鹿言うな! 南にももう怪物どもが回りこんどるのが見えねえか!!」  青筋を立てて喚く大男に、アリスは語気鋭く反駁した。 「向こうにはまだ僅かなゴブリンしか居ません! 男たちに先頭を行かせれば突破できます、もうすぐ東西からも敵の本隊が押し寄せてきますよ!」  ぐっ、と言葉に詰まったバルボッサに代わって、村長のガスフトが低く張り詰めた声を発した。 「広場で円陣を組んで護れというのが、衛士長ジンクの指示なのだ。この状況では、村長の私とて衛士長の命令には従わなければならない」  今度は、アリスが息を詰める番だった。  襲撃などの有事の際には、衛士長の天職に就く者が一時的に全住民の指揮権を得る、これは禁忌目録に記された条文だ。  しかし、ジンクという名の衛士長は、父親からその職を譲られたばかりの若者なのだ。このような状況で、冷静な指揮判断ができるとは思えない。ガスフトの顔に濃く浮かぶ焦燥が、村長もまたそう考えていることを示している。  とは言え村人たちにとって禁忌目録は絶対だ。今すぐ避難を開始させるには、北側の防御線に居るのだろうジンクを引っ張ってきて命令を変更させるしかないが、そんな時間はどう考えても残されていない。  どうする。どうすれば——。  立ち尽くしたアリスの耳に、幼くも毅然とした叫びが飛び込んだのは、その時だった。 「姉さまの言うとおりにしましょう、お父様!!」  はっ、と視線を向けた先にいたのは、人垣の内側で、火傷を負ったらしい村人に青白く光る手をかざす小柄な修道女だった。 「……シルカ!」  よかった、無事だった。愛する妹に向かってアリスは足を踏み出しかけたが、それより早く治療を終えたシルカが立ち上がり、三人のもとへと駆けてきた。  アリスに向けて一瞬笑みを浮かべてみせたシルカは、さっと顔を引き締めると、続けてガスフトに言った。 「昔から、姉さまが一度でも間違ったことを言ったことがあった? ううん、あたしにだって分かるわ。このままじゃ、みんな殺されちゃう!」 「し……しかし……」  苦渋の表情でガスフトは言い澱んだ。たくわえられた口ひげが細かく震え、視線がうつろに宙を彷徨う。  絶句した村長に代わり、再び怒声を爆発させたのはバルボッサだった。 「子供が出しゃばるな! 村を……家を捨てる気か!!」  禿頭の下の小さな眼がちらりと走ったのは、広場にほど近い場所に建つ自身の屋敷の方向だ。正確には、秋に収獲したばかりの大量の小麦と、長年蓄財した金貨にだろう。  アリスとシルカに視線を戻し、バルボッサは突如、裏返った声で喚きたてた。 「そ……そうか、わかった、わかったぞ! 村に闇の怪物どもを招き入れたのはお前じゃなアリス!! 昔、果ての山脈を越えたときに闇の力に汚されたんじゃ!! 魔女……この娘は魔女じゃ!!」  太い指をつきつけられ、アリスは絶句した。北と、東、西から近づきつつある怪物たちの鬨の声も、すうっと遠ざかった。  村はずれに落ち着いてからの数ヶ月、アリスは何度となくバルボッサのために森の巨木を倒してきた。そのたびにこの男は身を捩らんばかりに感謝したのだ。なのに、自分の財貨を守らんがためだけに、こんな言葉を吐くとは——なんという——  醜悪さ。  なんという愚かさだろう。  アリスの胸中に、ナイフの鋭さで、ひとつの思考が閃いた。  もう、勝手にすればいい。  私も自分の好きにする。シルカとガリッタ老人、それにキリトだけ連れて村を離れ、どこか遠くで新しい住処を見つける。  ぎりっと奥歯を噛み締め、瞼を閉じ。  アリスは、でも、と思考を続けた。  でも、バルボッサや他の村人たちが愚かに見えるとすれば、それは、神聖教会の数百年に渡る治世が作り出したものだ。  禁忌目録以下、無数の法や掟で人々を縛り、ぬるま湯の安寧を与えると同時に大切なものを奪い続けた。  すなわち、考える力、そして戦う力を。  無限にも等しい年月収奪されつづけた、それら人々の見えざる力はどこに集積されたか。  わずか五十人の剣士たちの身体だ。  整合騎士——。  つまり、アリス自身のなかに。  大きく息を吸い、吐いて、アリスはばしっと音がしそうな勢いで両の瞼を開いた。  視線の先で、バルボッサが不意に、何かに怯えるかのように顔色を失い、右手を下ろした。  対照的に、アリスは身体の奥から、何か不思議な力が満ちてくるのを感じていた。静かだが、とても熱い、青白い炎。 「……衛士長ジンクの指示は破棄します。いますぐ陣形を解き、武器を持つ者を先頭にして南へ退避するよう命じます」  穏やかですらある声だったが、バルボッサも、ガスフトも、打たれたように上体を仰け反らせた。それでも、わななく声で農民頭が言い返したのは、いっそ見上げた胆力というべきだった。 「な……なんの権限で、娘っ子が、そんな」 「整合騎士の権限です」 「なっ……なにを、馬鹿な! お前が……闇に染まった魔女が、整合騎士なんぞであるはずがっ……」  裏返った声で喚くバルボッサを一瞥し、アリスはそっと左手で外套の肩部分を掴んだ。 「私は……私の名はアリス。整合騎士第三位、アリス・シンセシス・フィフティ!!」  高らかに叫び、勢いよく外套を身体から引き剥がす。  その下は、質素な綿の寝巻き一枚のはずだった。しかし、分厚い布が翻ると同時に、眩い金色の光がアリスの全身を包み——かつて一度だけ見た、あの現象が発生した。  両の指先から、黄金の装甲が出現し、大型の篭手となって肘までを包む。両足もまた、同色の具足にがっちりと覆われる。  金糸で刺繍をほどこした純白のスカートが閃き、その上に花弁のような装甲板が開く。最後に胸から肩にかけてを眩い鎧が包み、染みひとつない白いマントと、長い金髪が夜闇を切り裂くように舞った。  それだけは最初から腰にあった金木犀の剣が、まるで主との再会を喜ぶかのように、りぃんと刃鳴りした。  ざわめいていた村人たちが、ぴたりと押し黙った。静寂を破ったのは、ひそやかなシルカの囁き声だった。 「姉……さま……?」  妹に視線を落とし——アリスは、優しく微笑んだ。 「今まで黙っててごめんね、シルカ。これが……私に与えられた、ほんとうの罰。そして、ほんとうの責務なの」  シルカの両眼に、ゆっくりと涙の珠が浮かび、揺らめいた。 「姉さま……あたし……あたし、信じてたわ。姉さまは罪人なんかじゃないって。綺麗……すごく……」  次に動いたのは、ガスフトだった。  がしっ、と音を立てて跪いた村長は、表情を隠しながらも太い声で叫んだ。 「御命、確かに承った、騎士殿!!」  素早く立ち上がり、背後の村人たちに向き直ると、びんと張った声で指示する。 「全員立て!! 武器を持つ者を先頭に、南門へと走るのだ!!」  うずくまる人々のあいだに、不安そうなざわめきが走った。しかしそれも一瞬のことだった。整合騎士という最大の武威を背景にした村長の命令に、抗うという思考は村人のなかには無い。  即座に、外周を固めていた屈強な農夫たちが立ち上がり、女子供を内側に守るかたちの縦列を作った。その先頭集団に加わり、自らも無骨な鋤をたずさえるガスフトの眼をじっと見て、アリスは押し殺した声で告げた。 「皆を、シルカを頼みます……お父様」  ガスフトの剛毅な視線が一瞬かすかに揺らぎ、絞るように声が返された。 「騎士殿……も、御身を第一に」  もう二度と、この男がアリスを娘として扱うことはあるまい。それもまた、与えられた力の代償なのだ。そう心に刻みながら、アリスはシルカの背を押し、隊列の中に潜り込ませた。 「姉さま……無理をしないでね」  涙を滲ませたままの妹に微笑みとともに頷き、アリスは身体を回して北を見やった。  同時に、村人たちが一斉に動き出す。 「あ……ああ……ワシの、ワシの屋敷が……」  情けない声で呻いたのは、いまだ立ち尽くしたままのバルボッサだった。整合騎士の命令と、己の財産をここまで天秤に掛けられるというのはいっそ見上げた根性と言うべきか。  もう好きにさせておくことにして、眼を閉じ、耳を澄ませる。  北側の防衛線は後退を続けているし、左右からも敵の分隊が地面を揺るがす地響きが近づいてくる。まだ広場には村人が半分以上残っており、このぶんだと全員が南へ退去する前に敵が突入してくるだろう。  とアリスが判断したとたん、北から若い男の悲鳴にも似た声が響いた。 「もう駄目だ! 退け! 退け——っ!!」  衛士長ジンクの指示だろう。それを聞いた途端、バルボッサが勢いづいたようにアリスに食ってかかった。 「ほれ……ほれ見たことか!! ここに立てこもって防ぐべきだったんじゃ!! 殺されるぞ! 皆殺しにされるぞぉ!!」  アリスは肩をすくめ、ざっと広場を見回してから、優しく反駁した。 「大丈夫ですよ、これだけ空間が開けば範囲攻撃が使えますから。ここは私が防ぎます」 「できるか!! できるわけがあるかそんなこと、娘っ子一人に!! 整合騎士なんちゅう与太話信じんぞ!! その格好も魔女のまやかしじゃろう!!」  もう東西から殺到してくるゴブリンやオークたちの姿が間近に見えるというのに、バルボッサはなおも罵り声を撒き散らし続ける。再びそれを無視し、アリスは恐怖に顔をゆがめる村人たちを限界まで南へ詰めさせると、大きく片手を上げ——叫んだ。 「雨縁!!」  即座に上空から甲高い雄叫びが返る。  唖然と眼を剥き出すバルボッサも左手で背後に押しやり、上げた手を東から西へと振り下ろしながら、短く一声。 「——焼き払って!!」  ごおおおっ!!  という嵐のような羽音が夜空から降り注ぎ、人々と、広場に達しつつあった闇の尖兵たちが一斉に上を振り仰いだ。  炎に赤く染まる空を翼のかたちに黒く切り取り、東から急降下してきた巨大な飛竜が、そのあぎとを大きく開いた。のどの奥に、青白い輝きが一瞬明滅し——。  しゅばっ!!  と、眩い熱線が東の大通りから、広場の中央南寄りに立つアリスとバルボッサの眼前を横切り、西の通りの奥までを薙いだ。  わずかな間を置いて。  凄まじい爆発が東西の目貫通りに膨れ上がり、夜空へと突きぬけた。飲み込まれた敵の分隊が、無数の悲鳴とともに吹き飛ばされ、あるいは地面で焼き尽くされた。  数十匹の襲撃者たちを瞬時に消滅せしめた熱線は、同時に広場中央の噴水も蒸発させ、周囲にもうもうとした白煙を広げた。その上を掠めるように飛び去った雨縁に、アリスは短く再び待機の指示を出し、ちらりと背後の様子をたしかめた。  バルボッサは腰を抜かして石畳に倒れこみ、両眼を剥き出している。 「な……なっ……なん…………」  弛んだ頬を痙攣させる中年男はもう放置して、同じく竦んだ様子の人々に声を掛ける。 「大丈夫です、この場所は必ず死守しますから、皆さんは落ち着いて、素早く移動を続けてください」  村人たちは我に返ったように頷き、南へ向き直ったが、全員が脱出するにはまだ数分かかりそうだ。  そのとき、立ち込める蒸気を割るように、北から数人の男たちが広場へと駆け込んできた。そろいの金属鎧と赤い制服に身を固めた衛士たちだ。  その先頭で必死の走りを見せた若い男、衛士長ジンクは、広場が半ば以上空になっているのに気付くと愕然とした顔を作り、裏返った声で叫んだ。 「おい……男どもはどこへ行った!? ここで守れと言ったじゃないかよ!?」 「私が南から退避させました」  アリスが答えると、はじめて気付いたように瞬きし、全身を上から下へと何度も見回してくる。 「あんた……アリス……? なんであんたが……その格好は……?」 「説明している暇はありません。衛士はこれで全員ですか? 取り残された者はいませんね?」 「あ……ああ、そのはずだ……」 「なら、あなたも皆と一緒に逃げてください。ああ、そこの小父さんもよろしく」 「逃げるって……もう、すぐそこにあいつらが…………」  その言葉が終わらないうちに——。 「ギヒィーッ!!」  粗野な雄叫びが、広場いっぱいに響き渡った。 「どこだぁーっ!! イウムどもどこに逃げたぁーっ!!」  濃霧を突き破って、まっさきに広場に突入してきた数匹のゴブリンの恐ろしい姿に、再び衛士たちと人々の喉から細い悲鳴が漏れた。  アリスはすうっと息を吸い、右手を剣の柄にかけた。  飛竜の熱線は連発できない。あとは、アリスが単身で敵主力の相手をしなくてはならない。  ゴブリンは、アリスの輝くような騎士姿を見つけると、黄色く光る眼にすさまじい殺意と欲望の色を滾らせて乱杭歯を剥き出した。 「ギイッ!! イウムの女ッ!! 殺す!! 殺して喰う!!」  長く太い腕に握った鉄板のような蛮刀を振りかざし、一直線に突っ込んでくるその姿を見て——。  アリスは内心で、畏れとともに呟いた。  ああ……なんと恐ろしい力を与えられているのだろう。存在そのものが罪である、と思いたくなるほどに。  整合騎士なるこの身は。 「ギヒャ————ッ!!」  高い跳躍から振り下ろされた分厚い蛮刀を、アリスは無造作に伸ばした左手で横合いから掴み、薄い氷ででもあるかのように握り潰した。かしゃん、と砕け散った金属片たちが地面に落ちるよりも速く、鞘から抜かれた金木犀の剣がゴブリンの身体を真横に薙いだ。  山吹色の剣風はそれだけに留まらず、さらに迫りつつあった三匹のゴブリンたちをも音もなく巻き込み、分厚い白霧の塊をも残さず吹き散らした。悲鳴すら漏らさず、四匹の敵兵の身体が真横にずれ、どさどさっと地面に崩れ落ちた。  やはり——最高司祭アドミニストレータは間違っていた。  これほどの力をたかが一人の人間の中に集約し、その意志を封じて操り人形に仕立てた。世界に遍く満ちるべき力すべてを掌中に収めようとした。かの神人亡きいま、全整合騎士は巨大な過ちをその身に刻まれた碑でしかない。  過ちを正すことはもうできない。  ならば、せめて——。  この力を、本来持つべきだった人たちのために、最後の一滴まで使いつくさねばならない。  神のため、信仰に殉じるためではなく。  自分で考え、自分で戦うのだ。かつて二人の名も無き剣士がそうしたように。  伏せていた視線を、アリスは鋭く持ち上げた。  広場の北、広い大通りをいっぱいに埋め尽くすように、敵の本隊——オークを主とし、少なからぬ巨大なオーガも混じった百以上の闇の兵たちが突入してきつつあるのが見えた。  彼らと私は、いまや同質の存在。かたや殺戮の欲望のため、かたや贖罪の願望のために、その武器を振るう。  己のなかにしつこくこびり付いていた、神聖教会と最高司祭への依存心が焼き尽くされ、蒸発していくのをアリスはまざまざと感じた。かつて神への盲目的な帰依だけをよりどころとしていた究極奥義を、アリスははじめて自分の力で発動させた。 「リリース……リコレクション!!」  ビシッ!!  金木犀の剣の刀身が、陽光にも似た眩い光りを放った。  切っ先から、無数の鋭い花弁となって吹き流れ、夜闇たかく舞い散る。  敵集団主力は、黒い津波と化して広場と、そこに残る村人たちを飲み込まんと肉薄した。  圧倒的とも思える暴力の壁に向かって、アリスは一歩も退かずに右手に残る柄を高々と掲げ、もう一度叫んだ。 「嵐花——裂天!!」  無数の槌音の合奏が、青く澄んだ冬空へと舞い上がっていく。  アリスは目を細め、遠く麦畑の向こうにこんもりと突き出すルーリッドの姿に最後の一瞥を送った。  大襲撃から今日で一週間。  村は、北側の家々を中心に二割近くが焼け落ちたが、全村民の天職を一時停止して作業に当たらせた村長の決断のせいもあって再建は急速に進んでいる。残念ながら、焼け跡から数十の遺体が発見され、その合同葬儀は昨日教会でしめやかに執り行われた。  アリスは請われて儀式に出席したあと、北の洞窟の確認に赴いた。  ベルクーリの命で崩落させられたはずの長いトンネルは、巨大なオーガですら充分に通れるほどの広さに再び拡大され、その奥、もっともダークテリトリーに近いあたりにアリスは長期間の野営のあとを発見した。  襲撃者たちは、向こうの入り口を掘り返して作業を受け持つ一団を送り込んだあと、再び通路を崩しておいたのだ。整合騎士エルドリエがその入り口を確認した時点ですでに内部深くには作業班が潜んでおり、着々と全通路を再開通させていた。  かつてのゴブリンやオークたちからは考えられない周到さと用心深さだ。その一事を取っても、今回の闇の侵攻が“本気”であることがうかがえる。  アリスは洞窟から出たあと、再び崩すのではなく中央部から湧き出すルール川の源流を一時塞き止め、内部を完全に水没させた。しかるのちに、仕掛けておいた無数の氷素を炸裂させ、岩ではなく氷で洞窟を封印したのだ。  これでもう、アリスと同等の術者がやってこないかぎり再び山脈をくぐることはできない。  彼方に白く浮かぶ果ての山脈から視線を戻し、アリスは最後の荷袋を雨縁の脚帯にくくりつけた。 「あのね……、姉さま」  涙を必死に我慢するような顔で出立の準備を手伝っていたシルカが、俯きながら口を開いた。 「……父さまも、ほんとは見送りに来たがってた。今日は朝から心ここにあらずって感じだったもの。父さま、本心では……姉さんが帰ってきて嬉しかったんだと思う。それだけは、信じてあげてほしいの……」 「わかってるわ、シルカ」  アリスはそっと妹の小さな身体を抱きしめ、囁き返した。 「私は罪人としてこの村を離れ、整合騎士として帰ってきた。でも次は……すべての役目を果たしたら、ただのアリス・ツーベルクとしてここに戻ってくるわ。その時こそ、ちゃんと言えると思うの。お父様、ただいま、って」 「……うん。きっとその日がくるよね」  短い涙声で呟いたあと、シルカは顔をあげ、袖口でぐいっと顔を拭った。  身体の向きを変え、傍らの車椅子に沈み込む黒衣の若者に、精一杯元気な声を掛ける。 「キリトも元気でね。はやく良くなって、お姉さまを助けてあげてね」  項垂れる頭をそっと包み込み、祝福の印を切ってから、歳若い少女は数歩後ろにしりぞいた。  アリスはキリトに近づくと、その腕から二本の剣をそっと抜き取り、雨縁の鞍に留めた。次いで、若者のやせ細った身体も軽々と持ち上げ、鞍の前部に腰掛けさせる。  キリトをシルカに任せ、村に残していくことを考えないでもなかった。最前線、東の大門に赴けばアリスは防衛部隊の主力として忙殺されるだろうし、今までのようにこまめに面倒を見られなくなるのは間違いないからだ。  だが、それでもやはり連れて行くと決めた。  理由はただ一つ、襲撃の夜にキリトが見せた尋常ならぬ反応のせいだ。あのときキリトは間違いなく、剣を取り村に向かおうという意思を示した。誰かのために戦う、それがこの人の本質なのだ。ならば、その心を取り戻す鍵もやはり戦場にあるはずだ。  いざとなれば、背中に括り付けてでも守り抜く。  アリスは、最後にもう一度シルカとしっかり抱き合った。 「……じゃあ、行くわね」 「うん。気をつけて……必ず帰ってきてね、姉さま」 「約束するわ。……ガリッタおじさまにも、よろしく伝えてね。……元気で、しっかり勉強するのよ」 「分かってるわよ。きっと立派な修道女になって……それで、あたしも……」  その先は言葉にせず、シルカはくしゃくしゃと泣き笑いを浮かべた。  妹の頭をゆっくり撫で、身体を離したアリスは、名残惜しさを噛み締めながらゆっくり愛竜に歩み寄り、その背中、キリトの後ろに騎乗した。  地上の妹に、深くいちど頷きかけ、視線を遥か空へと向ける。  軽く手綱を鳴らすと、竜は人間二人と剣三本の重みを感じさせない力強さで麦畑のあいだを助走しはじめた。  必ず、もういちどここに戻ってくる。  たとえこの身が戦場に朽ち果てようとも、心だけは必ず。  アリスは、睫毛に浮かんだひとつぶの涙を払い飛ばし、鋭く掛け声を放った。 「……はぁっ!」  ふわり。  浮遊感とともに、地面が離れる。  上昇気流を掴まえた雨縁は、旋回しながら一気に空へと駆け上った。  広い畑と森、その中央に輝くルーリッドの村、そして両手を振りながら懸命に走るシルカの姿をまぶたに焼付け——。  アリスは東の空へと竜の首を向けた。  再び十人の将軍たちが横一列に並び、うやうやしく平伏している様子を、ガブリエルは満足とともに眺めた。  彼らは命令どおり、二日間で進軍の準備を完了してきたのだ。ことによると、現実世界で軍隊の上層に居座る将軍たちの大部分よりもこのユニットたちは優秀なのかもしれない。  まったく、いっそもうこのまま“完成品”としてもいいと思えるほどだ。申し分ないタスク処理能力にくわえ、この忠誠心。戦争用のロボットに載せるためのAIとして、これ以上のぞむ物などないではないか。  とは言え——。  彼らの忠誠は、K組織が拘り続けた人工フラクトライトの未完成さに由来するものだということを忘れるわけにはいかない。  つまり、“最大の力を持つものが支配する”という絶対原則を魂に焼きこまれているからこそ、この十人は皇帝のアカウントを持つガブリエルに従っているのだ。それは同時に、ガブリエルの力に疑いが生じた瞬間、この中の誰が裏切ってもおかしくないということだ。  その懸念がすでに現実のものとなっていることを、ガブリエルは知っている。  二日前の夜、寝室に忍んできた暗殺者。  あの女は、皇帝を殺そうとした。彼女のなかには、ガブリエルよりも上位の主人が存在していたはずだ。すなわち、いまわの際に“閣下”と呼んだ、この十人のなかの誰かだ。  暗殺者にとっては、皇帝よりも“閣下”のほうが強者だった。となれば、その男自身も、本心からガブリエルに忠誠を誓っていない可能性が高い。そのようなユニットを抱えたまま戦場に赴けば、万が一寝首を掻かれるということもないとは言えない。  よって、眼下に跪く十人のうちから“閣下”をあぶり出し、処分するのが出陣前の最後の一仕事ということになる。  そして同時に、残る九人に皇帝の力のほどを知らしめる。誰が最強者なのかを、彼らのフラクトライトに永遠に刻み込むために。  この時、ガブリエル・ミラーは、自分が眼下の十ユニットのどれかに遅れを取る、つまり一対一の戦闘で破れるという可能性を微塵も考慮していなかった。彼にしても、アンダーワールドはあくまでサーバー内のバーチャル・ワールドであり、そこに存在するユニットはすべて人造物であるという固定概念にいまだ捉われていたのだ——。  暗黒将軍ビクスル・ウル・シャスターは、跪きこうべを垂れた姿勢のまま、脳裏に師の言葉をよみがえらせていた。はるかな昔、騎士団本部の道場においての記憶だった。 『わしの師匠のそのまた師匠は、首を取られて即死した。師匠は胸を抉られ、城に戻る道なかばにして斃れた。しかしわしは、腕一本落とされはしたが、こうして生きて戻った。自慢できることでは到底ないがな』  師はそう言って、肩の下から綺麗に切断された右腕をシャスターに示した。その傷を作ったのは、暗黒騎士の宿敵にして世界最強の剣客、あるいは最悪の怪物——整合騎士長ベルクーリ・シンセシス・ワンその人だ。 『これがどういう意味を持つかわかるか、ビクスル』  当時二十をわずかに出たばかりだったシャスターには首を捻ることしかできなかった。師は隻腕を着流しの下に仕舞うと、眼を閉じ、ぼそりと続けた。 『追いつきつつあるのよ、ようやくな』 『追いつく——、あの者に、ですか』  若いシャスターの声には信じられぬという響きが混ざり込まざるを得なかった。それほどまでに、数日前に目の当たりにしたベルクーリの剣技は圧倒的だった。師の腕が鮮血とともに高く飛んだその瞬間、背骨を貫いた氷柱のような冷気はいっこうに去ろうとしなかった。 『——わしは今年で五十になる。それでもまだ、剣の振りかたはおろか握り方すら極めた気になれん。おそらく、あと五年、十年経ってくたばるその時になっても同じだろう』  師は静かに語った。 『であれば、すでに二百年以上を生きているというあの不老者の境地に、短命な我ら人の子が及ぶべくもない。情けないことだが、剣を交えるその瞬間まで、わしの中にそんな諦めがあった。しかし、無様に敗れ、逃げ帰った今こそ、それが誤りであったことを知った。無駄ではなかったのだ……これまで師匠、そのまた師匠たちがあの男に挑み続けてきたことはな。——ビクスルよ、最高の剣とは何か』  突然の問いに、シャスターは反射的に答えた。 『無想の太刀です』 『そうだ。長年の修行を経て剣と一体となり、斬ろうと思わず、抜こうとも思わず、動こうとすら思わず放たれる一撃こそ究極の剣である。わしは師匠にそう教わり、わしもお前にそう教えた。しかしな……ビクスル、そうではなかった。その先があったのだ。わしはあの怪物に斬られ、それを悟った』  師の面に、かすかな興奮の色が走った。シャスターも正座のまま思わず身を乗り出し、尋ねた。 『その先……と仰いますと』 『無想の対極。断固たる確信だ。意思の力だ、ビクスル』  突然、師は板張りの上に立ち上がり、切断された右腕を大きく振りかぶった。 『見ておったろう。あの時、わしは右の袈裟懸けに斬りつけた。まさに無想の斬撃、生涯最速の剣であった。抜いた時点では、確実に彼奴の先を取っていた』 『は……、私もそう思いました』 『しかし、しかしだ。本来であれば、わしの剣に弾かれていたはずの彼奴の受け太刀は、逆にわしの剣を押しのけ、この腕を斬り飛ばした。……信じられるかビクスル、あの瞬間、わしの刃は奴の剣に触れておらなかったのだ!』  シャスターは絶句し、次いで首をぎこちなく振った。 『そ……そのようなことが……』 『事実だ。まるで……剣の軌道そのものが、奴をはるか逸れる方向へと規定し直されたのようだった。あの現象を説明するには、もうこう言うしかない。わしの無想の太刀は、彼奴が二百年かけて練り上げた意志力に敗れたのだ。彼奴があまりにも強く剣の軌道を断定したために、それが不変の事実となったのだ!』  師の言葉を、シャスターはすぐに信じることはできなかった。意思の力などというかたちのない代物が、確固として存在する重く硬い剣を退けるなどということがどうして有り得よう。  そのシャスターの反応を、師は予期していたようだった。不意に着流しの裾を正すと、黒光りする板の上ですうっと腰を落とした。 『さあ、ビクスルよ。わしがお前に教える最後の剣訣だ。わしを——斬れ』 『な……何を仰います! せっかく……』  生き延びたのに、という言葉をシャスターは飲み込まざるを得なかった。突然、師の双眼が鬼神のごとく光ったのだ。 『命を繋いでしまったがゆえに、わしはお前に斬られねばならぬ。かの者に一撃のもとに敗れたいま、お前のなかでわしは最強者ではなくなってしまった。そのわしが生きておれば、お前はかの者と対等に戦うことはできぬのだ。お前もまたわしを斬り、いや殺し、彼奴……ベルクーリと同じ処に立たねばならぬ!!』  そう言い放ち、師は立ち上がると、僅かに残る右腕を大きく構えた。 『さあ、立て! 抜くのだビクスル!!』  シャスターは師を斬り、その命を絶った。  同時に、師の言葉の意味を身を以って悟った。  斬り飛ばされた師の右腕に握られていた眼に見えぬ刃——“意思”という名の剣は、交錯の瞬間シャスターの剣と激しい火花を散らし、実際に頬を切り裂いて二度と消えぬ傷を残したのだ。  涙と鮮血に顔中を塗れさせながら、若き日のシャスターは“無想の太刀”を超える境地のとば口に立った。  そして月日は流れ——五年前。  シャスターはついに彼の者、整合騎士長ベルクーリに挑んだ。齢三十七にして、己の剣が達しうる限界に達したと感じてのことだ。  師は腕一本と引き換えに生還したが、シャスターは仮に敗れたときは生きて戻らぬつもりだった。なぜなら、シャスターは後継者という意味での弟子は作らなかったからだ。師を斬り、教え子に斬られるような運命を背負わせたくなかった。自分の命と引き換えに、血塗られた連環をここで断ち切ろうと決めていた。  あらん限りの決意と覚悟、すなわち“意思力”すべてを乗せた剣は、ベルクーリの初太刀と真っ向から切り結び、弾かれることはなかった。だがその時点でシャスターは敗北を予感した。もう一度、同じ重さの斬撃を繰り出せるとは思えなかったのだ。  しかし、ベルクーリは剣を交えたまま、太く笑って囁いた。 『いい太刀筋だ。殺意のみに拠るものではないからだ。俺の言葉の意味をよく考えて、五年後にもう一度来い——小僧』  そして整合騎士長は間合いを取り、この立会いは分ける、と宣言して剣を収めた。  ベルクーリの言わんとするところを理解するには、長い時間が必要だった。だが、四十を超え老境に差し掛かった今ならば分かる。あの時、シャスターが殺気と恨みだけを乗せて剣を振っていれば、おそらく迫り負けていただろう。それが、一合とは言え対等に斬り結べたのは、殺意よりもっと重い覚悟を肚に呑んでいたからだ。  つまり——これまで命を落としてきた師匠たちや、自分のあとに続く騎士たちの運命すべてを。  だから、シャスターは、最高司祭死すの報を受けたとき即座に和平交渉を開始すると決断したのだ。自分がダークテリトリーの意思を纏めれば、あのベルクーリならば間違いなく申し出を受けるという確信があった。  同じ理由で——。  突如降臨し、有無を言わせず開戦を決定した皇帝を名乗るこの男を、自分は斬らねばならない。  跪き、頭を垂れながらも、シャスターは必殺の太刀に乗せるべき“意思力”を練っていた。  数百年の不在を経て復活した皇帝ベクタは、白い肌と金色の髪を持つ若い男だ。体躯も容貌も、迫力と言うほどのものはない。  しかし、やけに蒼い二つの眼だけが、皇帝が凡そ人ならぬことを示している。その中にあるのは“虚無”だ。全ての光を吸い込み、何ひとつ漏らさない底なしの深淵。この男、あるいは神は、巨大な飢えを隠し持っている。  練り上げた意思力が、皇帝の虚無に飲み尽くされたならば、剣は届くまい。  そのとき自分は命を落とすだろう。だが、意思は続くものたちに引き継がれるはずだ。  ただひとつ心残りなのは、昨夜はリピアが姿を見せなかったために自分の決意を伝えられなかったことだ。恐らくは出征前の雑務に忙殺されているのだろうが——いや、もし彼女に皇帝を斬ることを話せば、お供しますと言って聞かなかっただろう。これでいいのだ。  シャスターはゆっくりと息を吸い、溜めた。  腰から外し、床に置いた剣に触れる左手に、徐々に、徐々に力を込めていく。  玉座まではおよそ十五メル。二歩の踏み込みで届く距離だ。  初動を悟られてはならない。抜くときは無想たるべし。  限界まで高まった意思の力すべてを、触れる剣へと注ぎ込む。そして身体を空にする。  右脚が床を蹴る——  その寸前。  皇帝が、滑らかではあるが硬質な声で、なにげないように言った。 「ときに——昨夜、余の臥所に忍んできた者が居た。短剣をその身に帯びて」  ざわ、と抑制された驚きが大広間の空気を揺らした。  シャスターの左に並ぶ九人の将軍たちも、ある者はかすかに息を詰め、ある者は喉の奥で低く唸り、またある者は分厚いローブのなかに一層身体を沈めた。  驚きに打たれたのはシャスターも同様だった。斬りつける寸前の体勢、気勢を保持したまま、瞬時に考えを巡らせる。  己のほかにも、皇帝排すべしの結論にたどり着いた者がいたのだ。皇帝がこうして無傷であるところを見ると惜しくも失敗したのだろうが——しかしいったい、刺客を放ったのは十侯のうち誰なのか。  亜人五侯ではあるまい。ジャイアント、オーガはもちろん、比較的小柄なゴブリン族と言えども衛兵の目を盗んで皇域に忍び込むような真似ができるとは思えない。  人族の将軍に目を向ければ、まず闘技士の長である若きイシュカーンと、商工ギルド頭領レンギルは除外できる。イシュカーンは近接闘技を極めることだけが目的の直情径行な少年だし、レンギルは戦がはじまれば大儲けできる立場だ。  寝所に忍び込む、という手口からして暗殺ギルドの長フ・ザはいかにも怪しいし、実際あの男は何を考えているのか掴めないところがあるが、短剣を用いたというのが解せない。暗殺ギルドが暗い穴の底でひたすら研究を重ねてきたのは、暗黒術でも武術でもない第三の力、“毒”だからだ。フ・ザの一族は、術式行使権限にも、武具装備権限にも恵まれなかったものたちが生き延びるために結束した集団なのだ。  同じ理由で、すぐ左にひざまずいている暗黒術師の長ディーも除外せねばならない。権勢欲だけで出来上がっているようなこの女ならば、皇帝の首級を挙げ一気に暗黒界の支配者に上り詰めるくらいのことは考えそうだが、ディーの配下の術師たちは皇帝の玉身を傷つけられるほどの優先度を持つ短剣を装備できるはずがないし、そもそも刃よりもっと剣呑な手妻をいくつも身につけているのだ。  しかしそうなると、刺客を放ったのが九将軍の誰でもなくなってしまう。  残るはただ一人——暗黒騎士長シャスター自身だ。  だが、当然身に覚えなどない。皇帝を排除するときは、命を賭して自ら剣を振るうと決めていたからだ。部下たちに暗殺を命じることはもちろん、秘めたる決意を語ったことすら、一度も——。  いや。  いや……。  まさか。  皇帝が言葉を放ってから、ほんのまばたきほどの時間でここまでを思考したシャスターは、剣の鞘に添えた左手の指先がすうっと冷たくなるのを意識した。  刀身に満ち満ちていたはずの、練り上げた意志力が一瞬で変質する。危惧。不安。恐怖。そして——極低温の確信へと。  ほぼ同時に、皇帝ベクタが二言目を口にした。 「刺客を差し向けた者の名を、余は詮議しようとは思わぬ。持てる力を行使し、更なる力を得ようというその意気や良し。余の首を獲りたくば、いつでも背中から斬りかかるがよい」  ふたたび微かなざわめきに満ちた大広間を睥睨し、皇帝はその白い顔にはじめて表情——ごく薄い笑みを滲ませた。 「もちろん、そのような賭けには相応の代償が要求されると理解した上で、ということだが。たとえば、このような」  漆黒のローブが割れ、露出した手が軽く合図を送る。  と、玉座から見て東側の壁に設けられた小扉が音もなく開き、濃紺のドレスに白いレースのエプロンを重ねた召使の少女がしずしずと歩み入ってきた。両手に大きな銀盆を捧げもち、その上には何か四角いものが載っているが、掛けられた黒布に遮られて中までは見えない。  召使は銀盆を玉座の手前の緋絨毯に降ろすと、十侯、そして皇帝に恭しく頭を下げてふたたび扉の奥へと去った。  しん、と張り詰めた静寂のなか皇帝は、薄く、虚無的で、どこか歪んだ笑みを唇の端に滲ませたまま、黒いトーガの裾からブーツのつま先を伸ばし、銀盆を覆う布を踏みつけるようにして払った。  全身と、思考力までをも凍りつかせたシャスターが両の眼で捉えたのは——。  最上のクリスタルよりも透き通った、氷の正立方体と。  その内側に封じ込められた、一番弟子にして愛人、そしてもうすぐ妻になるはずだった女の、永遠に醒めない眠り顔だった。 「リ……ピ……」  ア。と、唇の動きだけでシャスターは呟いた。  全身を包んでいた冷気すらも消え失せ、どこまでも深く暗い虚ろが胸のうちを満たす。  シャスターは、暗黒騎士リピア・ザンケールがひそかに運営している孤児院のことを知っていた。親兄弟を失い、あとは野たれ死ぬだけの子供たちを、種族の区別なく庇護し育てているリピアの行いに、ダークテリトリーのあるべき未来の姿を見たつもりでいたのだ。  だからこそシャスターは、リピアにだけは自分の理想を語った。人界との慢性化した戦争状態を解消し、奪い合うのではなく、育み分かち合う世界を創りたい、という果てない夢を。  しかし、そのことがリピアを皇帝暗殺へと走らせ、あのような痛ましい姿を晒す結果を導いてしまった。彼女を殺したのは皇帝であるが——同時にシャスター自身でもあるのだ。間違いなく。  瞬時ではあるが、ゆえに途轍もなく巨大な悔恨と自責の嵐が、シャスターの虚ろな胸腔に吹き荒れた。  それが、ひとつの黒い感情へと変質するのに、時間はかからなかった。  殺意。  殺す。玉座で脚を組み、薄笑いを浮かべるあの男だけは何があろうとも殺す。  たとえ、己の命、そしてダークテリトリーの未来すべてと引き換えにしようとも。  さて、どいつが問題の“閣下”だろう。  ガブリエルは、尽きぬ興趣とともに、眼下にひざまずく十人のリーダーユニットたちを眺めた。  刺客の女は、主人を心の底から愛していた。女の死に際に放射された、天界の甘露にも似た感情をあまさず味わい吸い尽くしたガブリエルは、女の思慕だけではなく、“閣下”が女に抱く愛情の質すらも理解——あくまでパターン・データとしてだが——していた。  だからこそ、このように女の首を見せてやれば、必ず動くという確信があった。刃を向けた反逆ユニットを容赦なく処分し、残りの九ユニットの忠誠ステータスを恐怖によって上昇させる。現実世界でプレイするシミュレーション・ゲームと何ら変わらない。  まったく憐れで、愉しい奴らだ。  あのような本物の魂を備えているくせに知性は制限され、その上殺しても殺しても好きなだけ再生産が可能。いずれアンダーワールドを、メインフレームとライトキューブごと我が物とした暁には、幼い頃から苛まれてきた餓えを、ついに飽くるまで満たせるに違いない。  玉座の肘掛に立てた腕に片頬をあてがい、ガブリエルはリラックスして待った。  ユニットたちとの距離は二十メートル強。どんな武器による攻撃でも、左腰に装備した剣で問題なく迎え撃てる余裕の間合いだ。  もちろん、システム・コールから始まるコマンド攻撃に対処するには不十分である。だが、ガブリエルの不安はログイン前に払拭されていた。  スーパーアカウント・“闇神ベクタ”は、K組織のスタッフがダークテリトリーの強制操作のために設定したものだ。ゆえに、天命と呼ぶHPは膨大、装備する剣は最強、何より——ベクタには、あらゆるコマンドの対象にならないという反則じみた特性があるのだ。  これだけの条件に庇護されたガブリエルは、十ユニットの左端に座した漆黒の鎧の騎士が、ぐうっと背中を丸めたときも、  その全身が、薄い影のようなオーラに包まれたときも、  騎士の右手が稲妻のように走って床に置かれた剣の柄を握り、同時にがばっと顔が跳ね上がって、その剛毅な相貌の中央、鋭いふたつの眦から人のものではない深紅の光が放たれているのを見たときすら——  発生しつつある事象を完全には理解できていなかった。  この世界は、半分はサーバー内で演算されるプログラムだが、もう半分は人の魂と同質のエバネッセント・フォトンで構築されていること。  そして、自分の強襲チームが主電源ラインを切断したときに、全STLに設けられていたセーフティ・リミッターが焼き切れてしまっていること。  それゆえに、黒い騎士が発生させた純粋かつ強烈すぎる“殺意”は、死という概念を彼のライトキューブからメイン・ビジュアライザー、そして量子通信回線を経由させてガブリエルが接続するSTLに注ぎ込み得るのだということを。  シャスターは、血の色に染まった視界の中央に、ただ皇帝の姿だけを捉えた。  生涯最速の動きで右腕が疾り、抜剣した。  鞘から解放されたのは、彼が師から受け継いだ神器・『朧霞《オボロガスミ》』の見慣れた灰色の刀身ではなかった。その銘のとおり、夜霧にも似た濃いかすみが長大な刃を取り囲み、渦を巻いてうねっていた。  その現象のロジックが、長年研究しながらもついに解明できなかった整合騎士の究極奥義・武装完全支配と同じものであるとシャスターには気付くすべもなかったが、それはもうどうでもいいことだった。 「殺ッ!!!」  一瞬の気合とともに、シャスターはすべての怒り、憎しみ、そして哀しみを刀に乗せ、大きく振りかぶった。  人界の北端から、遥か東域の果てへ。  四帝国のなかでも、もっとも謎めいた土地であるイスタバリエスに足を踏み入れるのは、整合騎士アリスにとっても、西国生まれの雨縁にも初めてのことだった。  眼下に連なる険峻な奇岩のあいだを、瑠璃のように青い河水が滔々とつないでいる。時折そのほとりに現れる村や街は、北方で見慣れた石造りではなくほとんど木材だけで築かれているようだった。  空を振り仰ぎこちらを指差す人々の髪は、そろって黒い。アリスとはどうも反りが合わなかった騎士団副長ファナティオが、そういえばこっちの出身だったかとふと思い出す。  視線を目の前に戻すと、手綱を握るアリスの腕のなかでぼんやり空を眺めているキリトの髪もまた漆黒で、もしかしたらこの人も東域の生まれなんだろうか、街に降りて人々と触れ合えば、心を取り戻す切っ掛けになるだろうかと考えなくもないが、いまは一日の道草も惜しい。  夜は安全そうな湖の岸辺で野営し、雨縁に獲ってもらった魚と干し果物だけの食事でしのいで旅路を急ぐこと三日——。  ついに、遥か前方に壁のごとく連なる果ての山脈と、その岩肌を神が斧で断ち割ったがごとき垂直の谷間が視界に入った。 「……見えたわよ、雨縁、キリト」  アリスは呟き、重荷を載せての長旅を強いてしまった愛竜の首筋をそっと撫でた。飛竜は、伝説級の魔獣がほとんど姿を消してしまった現在ではほぼ最大級の天命と優先度を備えた生物だが、それでも人間ふたりと神器三振りを荷っての飛行は大ごとだったに違いない。半年間の魚食べ放題生活で蓄積した余力もあらかた使い果たしてしまったようだ。  野営地についたら、何はともあれ新鮮な肉をたっぷり食べさせてあげようと思いながら手綱を控えめに鳴らすと、雨縁は疲れを感じさせない声で高くひと啼きし、飛翔速度を増した。  遠目からは紙一枚ぶんの極細の隙間のようにも見えた谷だったが、近寄るにつれてそんな生易しいものではないことがすぐに明らかになった。  横幅は百メルほどにも達するだろうか。オークやオーガの大軍団が横列を作って突進するにじゅうぶんな広さだ。  山脈を断ち割ってまっすぐ伸びる谷の、手前がわのとば口を包むように広がる草地には、無数のテントが整然と並んで一大野営地を出現させている。そこかしこで煮炊きの煙が立ち上り、周辺の空間では衛士たちの部隊がいくつもの陣形をつくって訓練に余念が無いようだ。ひらめく剣の輝きと、発せられる重い気勢が、アリスたちが飛ぶ高空まで届いてくる。  懸念したよりも士気は低くないようだが——しかし、いかんせん絶対数があまりにも少ない。  ざっと見たところでは、総数は三千に届くまい。翻ってダークテリトリーの侵略軍は五万を下らないだろう。人界において、衛士がごく一部の者に与えられる天職でしかないのに対して、山の向こうでは老若男女を問わず動けるものは皆兵士なのだ。  この状況に、いまさらアリス一人が参じたところで何が変わるというのか。いったい、騎士長ベルクーリは世界をどう護る腹積もりなのだろう……。  沈思しながらアリスは野営地を飛び越え、谷が作り出す薄闇のなかへと雨縁の鼻先を向けた。  ソルスの光が遮られた瞬間、ぞくっとするほどの冷気が身体をつつむ。左右の岩壁は、まさしく神が削ったとしか思えない完璧な垂直平滑面だ。生き物はおろか、草木の一本も見つけられない。  そのまま低速で飛行すること数分——。  たなびく靄のむこうから、ついに姿を現した巨大構造物を眼にとらえ、アリスは思わず息を飲んだ。 「これが…………『東の大門』…………?」  確かに、高さ五百メルを超える神聖教会セントラル・カセドラルの主塔よりは低い。それでも、天辺まで三百メルはあるだろう。何より驚愕させられるのが、左右の門がすべて継ぎ目の無い一枚岩で造られていることだ。これほどの存在物を、人の手で削り出すことはもちろん、術式での生成加工も絶対に不可能だ。世界最強の術者たる最高司祭アドミニストレータがかつて創った最大の構造物は、央都セントリアを四分割する十字の巨壁だが、あれだって連なる岩の一枚一枚はこの門扉よりはるかに小さい。  つまりこの大門は、世界がはじまったその時から、文字通り神の手によってこの地に据えられたものなのだ。ふたつの世界を分かつために——そして、三百数十年後の惨劇を導くために。  雨縁を空中で停止させ、アリスはあらためて間近から門を見上げた。  左右の扉、というより岩板を繋ぐように、一文字が人の体よりも巨大な神聖文字でなにごとか記してある。 「ですとら……くと……あと……ざ……らすと、すてーじ……」  先頭の一文をどうにか音にしてみたが、意味までは解らない。  首をひねったその時、突然、びぎぎっ! という凄まじい軋み音が空気を震わせ、アリスも、雨縁も驚いて頭を仰け反らせた。見れば、さっきまでは滑らかだった扉の一部分に、低速の稲妻のように黒いヒビが入り下へと伸びていく。  数十メルほども続いた罅割れがようやく停止した直後、表面から幾つかの岩の欠片が剥がれ、風きり音とともに落下すると、谷底で再び重々しい衝撃音を響かせた。  ぱちぱちと瞬きしてから、そのつもりで左右を見ると、罅割れや欠落が発生しているのはそこだけではなかった。むしろ、巨大な門のほぼ全体に、網目のように黒い線が這い回っている。  ごくりと喉を鳴らしてから、アリスは手綱を軽く振り、騎竜を門ぎりぎりまで近づけた。  耳には、ごぉん、ごぉんという重苦しい響きが届いてくる。恐らく、内部で岩板の崩壊が進行する音だ。おそるおそる左手を伸ばしたアリスは、空中にステイシアの印を素早く切ってから、そっと門の表面を叩いた。  浮かびあがった紫色の窓に記されている“東の大門”の天命は、アリスの背筋を凍らせるに充分な数値だった。  最大値は、これまで見たあらゆる天命のなかでも最大——三百万以上という膨大なものだ。対するに、現在値は何たることか三千を割り込んでいる。しかも、その右端の数字が、目の前でさらに一つ減少した。  掌に汗を滲ませながら、アリスは口のなかで数を刻み、数字がもういちど減るまでの時間を計った。そして、天命が完全に消滅するまでの猶予を概算する。 「……嘘……」  自分の頭がはじき出した解答を信じられず、アリスは呟いた。 「……五日……あと、たったの五日しか無いの…………?」  そんな馬鹿な——三百年以上も厳然と聳え立ってきた世界の果ての門が、たかが五日を待たずに崩壊する、などということがあり得るはずがない。  大侵攻迫るの報を受けつつも、アリスはぼんやりとそれは一年、二年先のことだろうと思い込んでいたのだ。  頭のなかに、シルカの輝くような笑顔やガリッタ老人の日に焼けたしわ深い顔、そして父ガスフトの気難しいしかめ面が順番に過ぎる。彼らを襲ったゴブリンたちを撃退し、洞窟を氷で封印したのはほんの四日前のことだ。あれでもう、ルーリッドは当分のあいだ平和だと信じていたのに。  もし、五日後に大門が崩れ去り、その何日後になるか解らないが闇の軍勢が押し寄せてきたとき、守備軍がそれを防げなければ人界に血に餓えた怪物たちが洪水のように解き放たれる。その波は時を待たずして北部辺境まで達し、ルーリッドを今度は南から呑み込むだろう。 「何とか……なんとかしないと……」  うわごとのように呟き、アリスは無意識のうちに手綱を引き絞った。崩壊寸前の岩板から距離を取り、雨縁はゆっくりと上昇していく。  三百メルの高みにまで続く大門の最上部に達するのに、数分とはかからなかった。  門の向こうには、同じように山脈を切り裂く谷がまっすぐに続いている。しかし、その彼方に広がるのは青い空と緑の草原ではなく……ダークテリトリーの血の色の空と炭殻を撒いたような不毛の荒野だ。  禍々しい光景からすぐに眼を逸らそうとしたアリスは——ふと眉をしかめ、眼を細めた。  わずかに見通せる黒い大地に、ちらちらと揺れる小さな光を見つけたのだ。  雨縁をさらに上昇させ、じっと視線を凝らす。  光は一つではない。間隔を置いて規則的に並んでいる。その数十か二十——、いや、それどころか、見通せるかぎり地平線まで続いているように見える。あれは——  かがり火だ。  野営地なのだ。闇の軍勢の先鋒が、すぐ目と鼻の先に大挙して待ち構えているのだ。門が崩壊し、獲物がひしめく狩場への道が開かれるその時を。 「あと……五日……」  アリスは掠れた声で、もう一度呟いた。  しかしすぐに、現実から目を逸らすがごとく飛竜の首を回し、谷をもときた方へと後退させる。無数のかがり火を長時間見ていたら、圧迫感の巨大さに飲み込まれて単騎斬り込んでしまいそうな気がしたのだ。  たとえそうしたところで、相手がゴブリンやオークの歩兵だけならば百や二百の首級を獲って戻る自信はある。しかし、敵陣にオーガの弩弓兵、または暗黒術師——魔女の部隊がいれば事はそう単純ではなくなる。  いかに整合騎士が一騎当千と言えども、所詮は文字通りひとりでしかない。剣、術、あるいは記憶解放攻撃の届かない遥か後方から遠隔攻撃を集中して受ければ無傷ではいられないし、軽傷でも蓄積し続ければいずれは天命上限に達し得る。それこそが、騎士長ベルクーリが長年危惧していた整合騎士団の——ひいては人界の守りの、最大の弱点なのだ。  戦力の一極集中に拘った最高司祭アドミニストレータはすでに亡く、カセドラルに死蔵されていた大量の武器防具は急造の守備隊に分配ずみだ。しかし残された時間があまりにも少なすぎた。せめて兵が一万、猶予が一年あれば——。  軽いためいきとともに無為な思考を切り替えて、アリスは雨縁に下降指示を出した。  守備隊の野営地は、中央の草地を広く空けてある。隣接して巨大な天幕が並んでいるのを見ると、あそこが飛竜の発着場に違いない。  弧を描いて舞い降りた雨縁は、鉤爪で下草を舞い散らせながら減速した。停止する寸前から長い首を天幕のほうへ向け、くるるるっと高い喉声を響かせる。  すぐに、少し低い鳴き声で返答があった。兄竜の滝刳だろう。アリスは、竜が止まるやいなやキリトを抱えて草地に飛び降り、両脚から重い荷袋を外してやった。とたんに雨縁はどすどすと天幕に突進し、その下から頭を突き出した兄と互いの首を擦りあわせた。  思わずかすかに微笑んでしまったアリスだが、背後から駆け寄ってくる足音に気付き、あわてて表情を引き締めた。素朴な生成りのスカートの裾を整え、風に乱れた髪を背中に流す。  振り向くよりも早く、聞きなれた軽やかな声が発着場いっぱいに響いた。 「師よ! 我が師アリス様!! 信じておりましたぞ!!」  ずざざざ、と草の上を滑るように目の前に回りこんできたのは、ほんの十日ほど前に永の別れを交わしたばかりの整合騎士、エルドリエ・シンセシス・トゥエニシックスだった。長期の野営中だろうに、藤色の長い巻き毛にも白銀の甲冑にも染みひとつない。 「……元気そうですね」  やや素っ気無いアリスの言葉に、感極まったように長い睫毛を震わせ、更に何か言おうとしたエルドリエの唇が——ぴたりと凍った。  無論、アリスが左腕で抱きとめている黒髪の若者の姿に気付いたせいだ。  左頬をかすかに強張らせ、ぐうっと頭を仰け反らせて、若き騎士は信じられない、というふうに唸った。 「連れて——きたのですか。なぜ。どうしてです」  アリスも、対抗するように胸を反らせて答えた。 「当然です。私が守ると誓ったのですから」 「し、しかし……いざ開戦となれば、我ら整合騎士はつねに最前線に立たねばならぬ身ですぞ。敵兵どもと剣を交えるあいだはどうするのです。よもや背に負うわけにもいきますまい」 「必要があればそうします」  自力では立つこともできないキリトの細い体を、エルドリエの眼から隠すようにアリスは身体を少し回した。しかし、いつの間にか発着場の周囲には、休憩中の衛士たちや下位の整合騎士たちまでが三々五々集まり、アリスには眩しげな、そしてキリトには訝しげな視線を向けてくる。  波音のような低いざわめきに被せるように、エルドリエが鋭い反駁を放った。 「なりませぬ、師よ! そのような……憚りながら言わせて頂きますが、ただの荷物を抱えて戦えば、剣力が半減するどころか師の御身を危険に晒すことにもなりかねませんぞ! アリス様は彼らの——」  一瞬言葉を切り、きらびやかな銀の篭手で周囲の剣士たちをさっと示す。 「——先頭に立ち、率い導くという責務がおありなのです! その貴方が、持てる御力のすべてを出せずして何とします!」  正論である。であるがもちろん、はいそうですねとは言えない。アリスはぎゅっと奥歯を噛み締め、自分にとってはどちらも——人界のために戦うことも、キリトを守ることも同じくらい大切なのだということをどう説明したものか言葉を探した。  と同時に、エルドリエの言い様に、ある種の驚きを覚えもしていた。  かつての、セントラル・カセドラルでアリスに剣技の手ほどきを受けていたころの整合騎士エルドリエとは、明らかな変化がある。あの頃は、まるでアリスを神格化しているが如き崇拝ぶりで、何を言われようとも一度として言い返したりすることは無かった。  そうであって当然なのだ。この世界の人間たちは、謎めいた“外界の神々”によって右眼に封印を施され、法や上位者の命令には絶対に逆らえないようになっている。アリスの知る限り、自ら封印を破ることに成功した者は、アリス自身と、すでに亡き青薔薇の剣士ユージオだけだ。神に等しき権限を誇ったアドミニストレータとカーディナルの二人ですら、その封印にはついに逆らえなかったのだ。  つまりエルドリエは、いまだあの封印の支配下にあるはずだ。それなのに今彼は——、いや別に、あからさまにアリスの言葉に逆らったというわけではない。強く命令すれば従うだろう。だが確実に、かつてのような“盲従状態”ではない。自ら考え、意見を述べている。  その変化を彼にもたらした原因は、もはや明らかだ。  キリトだ。それにユージオ。  世界最大の反逆者であるあの二人と、いっときにせよ触れ合ったことがエルドリエの魂を強く揺らしたのだ。  考えてみれば、ルーリッドに暮らす妹シルカも、村の形骸化した掟や頭の固い有力者たちの言葉には事あるごとに不満を漏らしていた。あるいは——キリトとユージオをセントリアの養成学校から連行したとき、人垣から走り出てきた女子生徒二人。一般民の、しかも年端も行かない少女が、自ら整合騎士に声をかけるなど本来到底有り得ないことだ。  そして、もちろん——アリス自身も、また。  キリトと剣を交え、カセドラルの外壁から落下するまでの自分は、世界の成り立ちにも、教会の支配にも、最高司祭の絶対神性にも、ひとかけらの疑いすら抱いたことは無かった。  しかし、已む無く力を合わせて危機を脱し、休戦を受け入れ、外壁をよじ登るあいだに、キリトはその声と、剣と、そして眸でアリスを激しく揺さぶり続け——ついには、忌まわしい苦痛の封印を破らせしめたのだ……。  そう、キリトはまるで、この偽りの調和に満ちた世界に振り下ろされた鉄槌のようなものだった。あらん限りの肉体と魂の力を振り絞り、世界を揺るがし、震わせ、ついには神聖教会という名の、世の中心に打ち込まれた巨大な古釘をも叩き壊してしまった。  しかしその代償として、彼は友ユージオと導師カーディナルの命、そして己の心を失った。  アリスは、左腕で支えた枯れ枝のような体をぎゅっと強く抱き寄せた。そして、正面からエルドリエの目を見返した。  言いたかった。あなたが今のあなたであるのは、この人と戦ったからなのです、と。しかし勿論理解はしてもらえまい。整合騎士団にとっては、キリトは変わらず忌まわしい反逆者でしかないのだ。  無言で立ち尽くすアリスに、エルドリエはまるで鋭い痛みを堪えるかのような表情で、更に何事か言い募ろうとした。  その時だった。周囲の人垣の一部が、まるで見えない巨人の手で掻き分けられたかのように、さっと割れた。  奥から流れてきたのは、アリスにとっては涙が出るほど懐かしく、同時に痛いほどの緊張を覚えざるを得ないあの声だった。 「まぁ、そうカッカするなよ、エルドリエ」  さっ、と両の踵をつけ背筋を伸ばす若い騎士から視線をはずし、アリスはゆっくりと振り向いた。  東域風の、前で合わせるゆったりとした青灰色の衣。低い位置で結わえた帯は深い藍色。その左腰に、無造作に突っ込まれた無骨な長剣。  あとは両足に、奇妙な木製の履物を突っかけているだけだ。しかし、その鍛え抜かれた巨躯から発せられる威圧感は、まわりの完全武装の騎士たちが目に入らなくなるほどの凄まじい密度だ。  着物とよく似た氷色の、短く刈り込まれた頭髪をごしっと擦り、声の主は厳つい口元ににやりと笑みを刻んだ。 「よう、嬢ちゃん。元気そうだな、ちょっとふっくらしたかい?」 「……小父様。ご無沙汰しておりました」  アリスは、涙が滲み声が震えそうになるのを必死に押さえ付けながら、どうにかかすかな微笑みを作り、世界最強最古の剣士——整合騎士長ベルクーリ・シンセシス・ワンに一礼した。  整合騎士として生きた九年間、アリスがただ一人心を許し、師と仰ぎ、また父と慕った人物だ。そして同時に、この世でただ一人——キリトを除けば——絶対に勝てないと確信する剣士。  だから、今は泣き顔を見せるわけにはいかない。  もしベルクーリが、キリトを置いておけないと言えばその時は従わねばならないのだ。もちろん、今のアリスはたとえベルクーリの命令であっても強制はされない。だが、皆の前で抗えば、騎士団と守備軍の秩序が揺らぐ。いまここに集った人々は、アドミニストレータ崩御というあまりにも巨大な動揺を、ベルクーリの指導力ひとつでどうにか繋ぎとめている状態なのだから。  そんなアリスの内心の葛藤をまるですべて見通すかのような、無骨な優しさに満ちた笑みを口元に刻んだまま、ベルクーリはゆっくりと歩み寄ってきた。  まずアリスの瞳をじっと見つめ、ぐっと力強く頷く。  そして、背後でエルドリエが何か言おうとしたらしいのを一瞥で制し、騎士長は視線をアリスの腕のなかのキリトに落とした。  口元が一瞬で引き締まる。刹那、まるで別人のような青い炎が、その鋭い双眸に宿る。  すうう、とベルクーリが細く、長く息を吸った。  同時に、周囲の空気がちりちりと重く、冷たく爆ぜ始める。 「……小父様……」  何を。  アリスは、音にならない声を絞り出した。  ベルクーリは、間違いなく剣気を練っているのだ。かつてアリスが伝授された、“無想の太刀”を超える究極の剣、“心意の太刀”を放つための。心意とは神威だ。練り上げた意思の力をすべて剣に乗せ、敵の刃を断固として押しのけ、斬る。時としてその太刀は、敵刃に接することなく弾き飛ばすことすらある。騎士長の神器・時穿剣の、“未来すらも斬る”という記憶解放技は、彼の圧倒的意思力があって初めて成立する術式なのだ。  つまり、まさか——ベルクーリは、キリトを斬るつもりなのか。  文字通り一刀両断でこの問題にケリをつけようということなのか。それだけは絶対に受け入れられない。もしその時は、アリスが自分の剣でキリトを守らねばならない。  騎士長の圧倒的すぎる剣気に圧され、周囲の騎士衛士たちも、エルドリエも、天幕の下の飛竜たちすらもしんと黙り込んだ。呼吸もおぼつかないほどの重く圧縮された空気のなかで、アリスは必死に右手の指を動かし、左腰の金木犀の剣に意識を繋ごうとした。ベルクーリの心意の太刀に、同じ技では抗しきれない。その時は記憶解放術でキリトを守るしかない。  だが——。  アリスが実際に腕を動かす寸前、ベルクーリの口がかすかに動き、思念にも似た声が届いた。  大丈夫だ、嬢ちゃん。 「……!?」  アリスが僅かに戸惑った、その刹那。  ベルクーリの全身は微動だにせず、しかし両の眼だけがぎらりと恐ろしいほどの光を放ち。  同時に、アリスの腕のなかで、キリトの体が一瞬激しく震えた。  ビギッ!!  何か巨大なものが軋むような音が鋭く響き、そして、ベルクーリとキリトのちょうど中間の何もない一点に、間違いなく銀色の閃光が小さく弾けた。  ——いまのは!?  アリスは驚愕して、思わず一歩身を引いた。  その時にはもう、ベルクーリはさっきまでの剣気が幻だったかのように全身を緩め、再び笑みを浮かべていた。 「お……小父様……?」  呆然と呟いたアリスに向って、最古の剣士は、まるでかつての稽古のときのように指先で太い顎を擦りながら言った。 「嬢ちゃん、今のが見えたかい?」 「は……はい。一瞬でしたが……たしかに撃剣の光が……?」 「うむ。今オレは、“心意”の刃のみを抜き、その若者を斬ろうとした。当たっていれば、頬の皮一枚くらいは切れていたはずだ」 「当たって……いれば? ということは……」 「そうさ。受けたのだ。若者が、己の“心意”でな」  アリスは鋭く息を吸い込み、あわてて抱きかかえるキリトの顔を覗き込んだ。  しかし、期待はすぐに裏切られた。薄く開かれた黒い瞳には、虚ろな暗がりしか見出せない。あらゆる表情は抜け落ちたままだ。  ううん——でも、さっき、確かに一瞬体が震えた。  アリスは右手でキリトの髪を撫でつけながら、視線をベルクーリに向けた。騎士長は、ゆっくり首を振りながらも、確かな声で断じた。 「若者の心は、今ここには無ぇようだ……。だが、死んじゃいねぇ。いいか、さっきそいつは、自分ではなくお前さんを守ろうとしたんだよ、アリス嬢ちゃん。だから……いつか、戻ってくる。俺はそう思う。たぶん、嬢ちゃんがほんとに危険な目にあった、その時にはな」  アリスは、再び滲みそうになった涙を、先刻の倍ほども苦労して堪えた。  そうよ——きっと、戻ってくる。  だってキリトは、キリトこそは、ほんとうに世界最強の剣士なんだから。二本の剣を振るい、あの半神人ですら斃してみせたんだから。  私のために……とは言わない。この世界に生きる、たくさんの人たちのために、戻ってきて……。  アリスはついに耐え切れなくなって、頭を伏せて両腕でキリトの体をぎゅっと抱きしめ、その肩口に顔をうずめた。頭上を、諭すような調子の騎士長の声が通り過ぎた。 「そんな訳だからよ、エルドリエ。そう細かいこと言わねえで、若者ひとりくらい面倒見てやろうや」 「し……しかし……」  いっそ天晴れというべき気概を見せて、階梯的には中位の整合騎士であるエルドリエは、騎士長ベルクーリにすら意見を述べた。 「たとえ僅かにでも戦力になると言うならまだしもこの状態では……それに、たとえ正気に戻ったところで、一般民の剣使いが何ほどのものなのか……」 「おいおい」  ベルクーリの声は、錆びた微笑と同時に、銘刀のごとき鋭い響きを帯びていた。 「忘れたのかい。その若者の相棒は、このオレに勝ったんだぜ。整合騎士長、ベルクーリ・シンセシス・ワンによ」  瞬時に、しんと草地全体が静まり返る。 「あの坊や……ユージオって言ったかな。強かったぜ、とてつもなく。言ってなかったが、オレは時穿剣の記憶解放までしたんだ。その上で負けた。お前さんや、デュソルバートや、ファナティオと同じようにな」  これには、エルドリエももう返す言葉が無いようだった。当然だろう、一対一でベルクーリに勝ちうる剣士などというものが、整合騎士団にも、そして大門のむこうのダークテリトリーにも存在しようはずがない——とここ百年以上誰もが信じてきたのだから。  しかし、これはある意味では危険すぎる宣言ではないのか。  騎士長ベルクーリは、最強者という権威ひとつでこの寄せ集めの守備軍をまとめてきたのだ。しかし、自分を打ち負かした剣士ユージオの存在を皆に知らしめ——そして、キリトがユージオと同列だと認めたということは……。  アリスがそこまで考え、顔を上げかけたときだった。  ベルクーリが、びくん、とまるで痙攣するような動きで上空を見上げた。 「お……小父様……?」  アリスの掠れた声に、返ってきた騎士長の言葉は、まるで予想外のものだった。 「でかい剣気が……一瞬膨らみ、消えた……。遠くで……誰か死んだ……」  暗黒界十侯会議を構成する十人の将たちは、それぞれ性向も、人品も、裡に隠した野望のほどもまるで似通うところは無かったが、しかしたった一つだけ完全なる共通点を持ち合わせていた。  それは、“力が全てを支配する”という暗黒界唯一の法を、十人以外の何ぴとよりも明瞭に理解している、ということだ。  むしろ、その法を幼少から魂に刻み込み、不断の努力——自己の鍛錬にせよ、邪魔者の排除にせよ——を続けてきたからこそ、血で血を洗うこの世界においてほぼ頂点を極めることが出来たのだ、と言うべきだろう。  それ故に。  暗黒将軍シャスターとともに玉座の間に並んだ九将は、右端に座していた黒騎士が裂帛の気勢とともに皇帝に向って抜剣したときも、心底からの驚愕に打たれることはなかった。  むしろ、『ほう、敢えてここで行くのか、大胆なことだ』という理解を多くのものは感じた。三百年のあいだに言語能力すなわち知能を退化させてしまったオーク族やオーガ族の長ですらも、『これで皇帝とかいう奴の力のほどがわかる』と獣の眼を鋭く光らせた。シャスターに戦士としての敬意を抱いている若き拳闘士に至っては、『抜いたならば皇帝を斬ってしまえ』と内心で応援さえした。  そんな彼らの中にあって、この事態を数秒前から予測していた者が二人いた。  ひとりは、暗黒術師総長ディーだった。シャスターと最も激しく敵対していた彼女は、暗黒将軍の愛人の拉致を計画しており、以前からリピアの顔を知っていたのだ。  だから、むしろ驚きは、氷漬けになったリピアの首級を見たときのほうが大きかった。これはもしや、シャスターが怒りに任せて抜くか、とディーは予測し、その場合どう動くべきかを瞬時に考えた。  シャスターを背後から撃ち、皇帝に恩を売ることも検討したが、最終的にディーは傍観を選択した。力の底が見えない皇帝ベクタにシャスターが敗れればそれでよし、仮にシャスターが勝つことがあれば、その時こそ恐らく深手を負っているであろう仇敵を焼き焦がし、あらためて自らが暗黒界に覇をとなえればよい。内心でほくそ笑みながら、ディーは興奮を押し殺すために小さく唇を舐めた。  そして、暗黒将軍の叛意を察知した者がもうひとり——。  こちらは、即座に動いた。  シャスターは、殺の一文字だけを心に抱き、愛刀を大きく振りかぶった。  太刀に込められた“心意”の強度だけを計れば、かつて整合騎士長ベルクーリと一合撃ちあったときのそれを確実に超えていた。彼の怒りと嘆きの凄まじさは、本来長い術式を必要とする“神器の記憶解放”現象を即時に引き起こしたほどだった。  シャスターの携える長刀オボロガスミは、VRMMOパッケージとしてのアンダーワールドが二百年ほど前に自動生成したオブジェクトである。その属性は“水”であり、いまシャスターの殺意に呼応した刀身は、必殺の威力を内包したまま実体を失って霧状の影へと変化していた。  この記憶解放技の特性は、あらゆる剣が本来的に持つ、“鋭い刃で対象物を切断または貫通しダメージを与える”という攻撃プロセスを完全に省略することだ。柄から長く伸びる霧の帯に触れたものは、その時点で天命に直接斬撃ダメージを被る。すなわち、回避以外のあらゆる防具・防御は意味を成さない。  皇帝ベクタことガブリエル・ミラーは、シャスターが抜剣した時点で、自らの腰の剣を抜き、敵の攻撃を迎え撃つつもりで動いた。  もし事態がそのまま推移すれば、シャスターの霧の刃は、ガブリエルの剣をすり抜けて体に届き、凝縮された殺意を注ぎ込むはずだった。  だが。  だがしかし——刀を大上段に構え床を蹴る、その寸前。  シャスターの動きが減速し、止まった。  いつのまにか、暗黒将軍の重鎧の左脇腹、分厚い装甲のわずかな継ぎ目に、一本の投げ針が深々と突き立っていた。  ゆらり、と音も無く立ち上がったのは、濃い灰色のローブに全身を包んだ痩せ細った姿だった。  暗殺ギルド頭首、フ・ザである。十侯にあってもっとも存在感が薄く、会議でもほとんど発言しなかった日陰者が、おそらくその生涯で最大の注目を浴びながらするりするりと前に進み出た。  フ・ザがシャスターの挙動を事前に察知し得たのは、皮肉なことに、彼が十侯のなかでもっとも臆病かつ神経質であるがゆえだった。  暗殺ギルドは、言わば力無き者たちの寄り合い所帯である。体力、魔力、財力、ありとあらゆる力に恵まれずに生を受け、しかしただ奴隷として搾取されるばかりの生き方を拒んだものたちが、最後の力として“毒による暗殺”の技を磨くために造った集団なのだ。  アンダーワールドにおける一部の虫、蛇、果実といった毒性オブジェクトは、本来、負荷実験の一環として配置されたものである。ゆえにその効果は限定的で、住民が必要な知恵を働かせれば回復可能なレベルに留まっている。逆に言えば、とても術式や刀剣に対抗するための武器として使用できるほどの威力は無いのだ。  だが、暗殺ギルドを作ったものたちは、ラーススタッフもまるで想定していなかった“濃縮”という技法を編み出し、長い年月をかけてひたすら毒性の強化を、言い換えればマテリアル単位量あたりの耐久度損耗力の増加を目指しつづけてきた。オブシディア城敷地内の地下深くに存在する暗殺ギルド総本部には、百年以上にも渡って毒果の汁を煮詰め続けている大釜さえある。  だが、ついに完成した“致死毒”は、暗殺ギルド内において暗殺が横行するという悲劇をも生み出した。術式、あるいは武器と違って、毒攻撃は加害者の特定が非常に困難なのだ。  だから、必然、ギルドを束ねるものは極限まで臆病でなければ生き残れないことになった。周囲の者の視線、いや気配のうちにすら、殺意の存在を感じ取れるほどに。  フ・ザにとっては、シャスターがリピアの首を見た瞬間に撒き散らした殺気は、鮮血の臭いよりも明瞭に嗅ぎ分けられるものだった。  そしてフ・ザにとっては、暗黒将軍シャスターは、この世界で最も憎むべき人間だった。  これまで練っては破棄した毒殺計画は数知れない。殺すまでは達成する自信はある。しかし、毒で死んだということはすなわちそれは暗殺ギルドの仕業であり、明確な宣戦布告に他ならない。シャスターが息絶えたその一時間後には、強力無比な暗黒騎士団が暗殺ギルド本部を襲って皆殺しにするだろう。正面戦闘となれば勝ち目はまるで無い。  しかし、今、この瞬間ならば。  怨敵の体に、研ぎ上げた毒針を突き徹す大義名分がある。抜剣し、皇帝の首を獲るまでの数秒間は、シャスターは暗黒将軍でも十侯でもなくただの反逆者なのだから。  フ・ザがローブの懐から抜き出し投擲したのは、暗殺ギルド頭首に代々受け継がれる暗器だった。“ルベリル毒鋼”と呼ばれる稀少な鉱物から削り出された、掌に包めるほどの極細の鋼針は内側が空洞になっており、毒液を蓄えられるようになっている。  装填されているのは、これも暗殺ギルドの技の精華である致死毒だった。野山から採取した“チグサレ”という蛭の一種を五万匹まとめて磨り潰し、幾度も濾過濃縮してわずか一垂らしの毒液を得る。蛭を繁殖飼育しようという試みはすべて失敗したため、この毒一滴を製造するのにとてつもない労苦が必要なのだ。フ・ザには知りようもないことだが、アンダーワールドのフィールドに存在する動植物は、面積あたりの規定値に従ってシステムが生成するのであり、家畜ユニットに指定された羊や牛などを除けば一切の人為繁殖はもとより不可能なのである。  つまり、フ・ザが放った毒針は、その素材も内部の毒液も、暗殺ギルドの総力を一点に凝集したと言って過言ではない代物だった。それはまた、数百年に渡って虐げられてきた弱き人々の怨念の結晶でもあった。  シャスターは、振りかぶった剣にのみ全意志力を集中していたために、体に鋼針が深々と突き刺さった痛みをまるで意識しなかった。  しかし、玉座に向って高く跳躍しようとしたまさにその瞬間、体全体が鉛と化したかのようなすさまじい重さを感じ、かっと眼を見開いた。  両脚から力が抜け、がしゃりと片膝を突いてしまってから、あらためて左脇腹の異物感に気付く。  ——毒か。  瞬時にそう考え、氷のような痺れが左手にまで広がる前に、素早く針を抜き取る。まるでおもちゃのような小さな武器の、ぬめりのある緑色の光沢に気付いたシャスターは、それが忌まわしき毒鋼製であることを悟り、即座に麻痺対抗術を唱えようした。  しかし、冷気はすさまじい速度で左脇から浸透し、たちまち口にまで達した。システム・コールの起句すらも言い終わらぬうちに舌の感覚が失われ、歯を食いしばることすらもできなくなった。  左手もまた痺れ、零れ落ちた毒針が足元でかすかな音を放った。  最後に、振りかぶったままだった右腕がゆるゆると落下しはじめ、それと同時に長刀の記憶解放状態も解除され、灰色の霧から再び実体へと戻った切っ先ががつんと、ほんのわずかに床を抉った。  抜剣する前とまったく同じ、左の膝を突いて頭を垂れた姿勢で凍りついたシャスターの視界に、音も無く闇色のローブの裾が入り込んだ。  ——フ・ザ。  ——よもや、この男にしてやられるとは。 「……こんな、取るに足りない小物に。……そう思ってますね、ビクスル?」  しゅうしゅうと擦れるような声が頭上から降ってきて、シャスターは唯一わずかに動く目元に険をつくった。——貴様に、馴れ馴れしく呼ばれるいわれは……。 「名前を呼ばれるいわれはない。そう言いたいですか? でもね、あなたをビクスルと呼ぶのはこれが初めてじゃないんですよ?」  ゆるゆるとローブが床にわだかまってゆき、同じ高さにまで身をかがめた暗殺者の顔が、シャスターの視界に半分ほど入った。しかし、深々とかぶったフードが光を遮り、尖った顎先以外は暗闇に沈んでいる。  その顎がかすかに動き、いっそう低まった声が闇から流れ出た。 「あなたは……憶えていないでしょうね。幼年学校で、自分が散々に叩きのめした多くの子供の顔など。そしてそのうちの一人が、屈辱のあまり水路に身を投げ、学校から永久に消えたことも」  ——なんだ。この男は何を言っている? 幼年学校だと?  名も無き一騎士の子として生まれたシャスターは、木剣が握れるようになると否応無く暗黒騎士団付属の養成所に叩き込まれた。以後は、生き抜くためにひたすら修行に明け暮れた記憶しかない。あらゆる選抜試験で常に勝利しつづけ、気付けば騎士団の士官に任ぜられ、師である前騎士長に見出されてからは尚一層、剣のためにのみ生きてきた。  憶えていようはずもない。養成所で並んで木剣を振っていた子供たちの名前など。 「……でもね、私は一日として忘れたことはありませんよ。流れ着いた地の底の暗渠で暗殺ギルドに拾われ、奴隷としてこき使われた長い年月のあいだ、ずっとね。私は知識を蓄え、多くの新しい毒を開発し、ついにはギルド頭首にまで上り詰めた。その代償として様々なものを失いましたが……すべてはあなたに復讐するためです、ビクスル」  歪んだ声が途切れると同時に、ほんのわずかにフードが傾けられ、シャスターの眼にフ・ザの素顔が晒された。  記憶が蘇ることは無かった。いや、もしシャスターが往時の同級生たちを完璧に憶えていたとしても、やはり名は思い出せなかっただろう。なぜなら、フ・ザの顔は、いかなる毒の影響か、酷く溶け崩れてオークも恐れるほどの異相と成り果てていたからだ。  再び深く引き下げられたフードの奥で、二つの眼だけがぎらぎらと強烈な光を放った。 「あなたの体に巡っている毒は、私があなたを殺すためだけに開発し、一滴ひとしずく貯めたものです。実験では、天命が三万を超える岩鱗竜ですら一時間で殺しましたよ。あなたの天命量ならば、おそらくあと二、三分でしょうか。さあ……返してもらいますよ。あなたに預けてあった、私の恨みと屈辱を」  ——恨みか。  シャスターは、フ・ザの眼から視線を外し、目の前の床に転がる毒針を見つめた。  ——俺は怒りと恨みによってのみ皇帝を斬ろうとした。この男もまったく同じ力をこの武器に込めて俺を殺そうとした。だから、俺の太刀は止まったのだ。我執の“心意”は、大義の“心意”には勝てない。昔、あの男……整合騎士長ベルクーリと一合交えたときに掴んだ剣訣を、俺は最後の最後で忘れてしまった……。  もう膝立ちの姿勢すらも支えていられずに、シャスターは左肩からがしゃりと床に崩れ落ちた。  おぼろに薄れた視界の中央に——。  銀盆に載せられた、氷の立方体があった。  フ・ザ、かつての名をフェリウス・ザルガティスは、ついに訪れた歓喜の瞬間をあまさず味わい尽くすべく、呼吸すらも忘れて眼を見開いた。  力と栄誉の象徴とも言うべき暗黒将軍が、いま自分の足元に瀕死の体を晒している。艶やかだった肌は土気色に変じ、鋭い眼光は消えうせて灰色の膜がかかったようだ。  醜く、情けない死に様だった。  そしてシャスターの死はすなわち、毒殺技術の、剣術と暗黒術に対する優位性を正しく証明するものでもあった。この新型複合毒を用いれば、ほんの針の一刺しで、敵を抜剣も詠唱も不可能な状態に追い込み絶息せしめられるのだ。  玉座の皇帝も、この一幕を見れば暗殺ギルドを軍の精鋭と位置づけるはずだった。新型毒の大量生産が完了した暁には、もう騎士や術師の顔色をうかがって隠れ暮らす必要もない。捨てさせられた名前を取り戻し、己を捨てたザルガティス家に、新たな支配者として乗り込むこともできるのだ……。  悦楽の絶頂に身を震わせるフ・ザは、視界の外に転がるシャスターの剣が、その刀身を再び霧に昇華させようとしていることに、まったく気付くことはなかった。  ——リピア。  シャスターは、天命が尽きるその寸前、心の中でただ一人愛した女性の名を呼んだ。  リピアが皇帝の暗殺を決意したのは、ただただ、シャスターが語った新時代の到来を実現させたいと願ったからに違いない。三百年来の戦争が終わり、新たな法と秩序が暗黒界を照らせば、自分ひとり守れないような孤児たちにも幸せに生きていく権利が与えられるようになると、そう信じたからに違いない。  ——フ・ザよ。  ——幼年学校で叩きのめされただと? 敗北に耐えられず身を投げただと?  ——しかし、少なくとも貴様には機会はあったのだ。学費を出してくれる親が、三度三度腹いっぱい食える飯が、そして暖かいベッドと雨を遮る屋根があった。この世界には、生まれたときからそれら最低限の権利すら与えられず、襤褸屑のように扱われ消えていく幼い命がどれほど存在するか。  ——リピアはそんな世を、命を賭して正そうとした。その心意を無に還すわけにはいかない。絶対に。貴様の個人的な怨讐ごときに—— 「……邪魔はさせん!!」  完全に麻痺したはずのシャスターの口から凄まじい怒号がほとばしると同時に、灰色の竜巻のようなものが黒騎士の右手を中心に高く巻き上がった。  それは、神器の“超解放”とでも言うべき現象だった。シャスターの強力無比な心意が愛刀を媒体として、全アンダーワールドの情報を構築演算する光量子集合体を直接書き換えはじめたのだ。  渦巻く竜巻は、いまやあらゆるコマンドやオブジェクトを超越する純粋な“破壊力”と化していた。避ける間もなく、まともに竜巻に包まれたフ・ザの分厚いローブが、ぼしゅっと乾いた音を立てて煙のように散った。  裸形をむき出しにした、痩せ細った中年の男は、溶け崩れた顔を隠すように両腕を持ち上げた。だが、直後、その腕が無数の肉片と化して飛び散り——続いて体全体が濃密な血煙となってばしゃりと宙に舞った。  最強の暗黒術師ディー・アイ・エルは、瀕死の暗黒将軍の体から奇妙な竜巻が巻き上がった瞬間、とてつもなく嫌な予感を感じて大きく飛び退った。  だが、その悪寒は、竜巻に触れた右足が、膝の下から跡形もなく粉砕されるのを見て生涯最大級の驚愕へと変わった。  ディーは、たとえ入浴中や就寝中であっても、数十に及ぶ防御術で身体を保護している。術式による攻撃はもちろん、飛び道具、剣、毒、おおよそありとあらゆる種類のダメージを跳ね返すはずの鉄壁の守りだ。  もちろん、同級の優先度を持つ十侯の全力攻撃ならば、その防壁を貫通し肌に傷をつけることもあるかもしれない。しかし、防壁を破壊することなく、肉体ごと天命を一気に持っていく、などということは不可能だ。絶対に。  しかし、どれほど脳裏で否定しようとも、飛翔退避を上回る速度で迫ってくる死の竜巻に右脚はみるみる削られていく。ディーほどの術者となれば、どれほど肉体が傷つこうとも治癒術で完全再生できるが、それも生きていればこそだ。 「ひっ……ああっ……!!」  ついに、ディーの口から甲高い悲鳴が漏れた。  しかしその響きは、同時に撒き散らされたゴブリンの長二匹の絶叫にかき消された。  ディーのさらに左に並んでいた、山ゴブリンの長ハガシと平地ゴブリンの長クビリが、短い足を懸命に動かして竜巻から逃れようと疾駆している。しかし、全速飛行するディーにすら追いつく竜巻の膨張を回避できようはずもない。 「クギィーッ!!」  醜い叫びとともにハガシが脚を滑らせ、床に転がった。必死に伸ばされた左手が、クビリの足首を万力のように掴んだ。 「ギヒアアアッ!! 離せぇーっ!! はなぁ——っ!!」  ばしゃり。  ゴブリンの支配者二匹が、あっけなく血煙と化して飛散した。  ぞぶっ。  ディーの右脚が、根元から跡形もなく吹き飛んだ。  恐怖と絶望に美貌を極限まで歪めた暗黒術師総長の文字通り眼前で——竜巻の膨張が、奇跡的に停止した。  倒れるシャスターの体はもう見えなかった。そのあたりを中心に屹立する逆円錐型の死の暴風は、すでに直径二十メルほどにまで拡大している。他の十侯は素早く壁際にまで退いているし、広間の南側に並ぶ十軍の幹部たちも危ういところで無事だ。  混乱しきった思考のなかで、それでもディーの傑出した思考力は、竜巻の膨張が停止した理由をおぼろげに悟っていた。  守ったのだ。十数名の暗黒騎士たち——己の腹心を。つまり、やはりあの竜巻は、シャスターの意思が作り出したものなのだ。  その推測を裏付けるように、竜巻の上半分が徐々にその形を変えはじめた。  出現したのは、半透明の霧で形作られた、すさまじく巨大な男の上半身。  鍛え抜かれた筋肉や、鋭く刈り込まれた髭を見ることもなく、それが暗黒将軍シャスターの写し身であることは明らかだった。  皇帝ベクタことガブリエル・ミラー陸軍中尉は、さすがに驚きらしき感情にうたれながら、圧し掛かるように屹立する竜巻の巨人を見上げた。  暗殺者の生首を晒し、それを見た左端の騎士が剣を抜いた——ところまではまったく予想のうちだった。ガブリエルに向って斬りかからんとしたその男を、将軍ユニットの一人が麻痺毒か何かで停止させたのも意外というほどではなかった。  反逆者の首を一撃で刎ね、それを以って残る九ユニットに絶対の忠誠心を植え込むという目論見からは外れたが、しかし自発的に皇帝を守るという行動は恭順のあらわれと判断してよかろう。そう思いながらことの成り行きを見守っていたのだが——。  倒れた反逆ユニットから突如湧き上がった竜巻、そしてそれに包まれた将軍ユニット三個が一瞬で消滅したのには、さしものガブリエルの思考も停止せざるを得なかった。将軍ユニットは、皆同程度のステータスだったはずだ。ならば互いに戦えば、現実世界のVRMMOにおけるデュエルと同じように、HPを削ったり回復したりとだらだらした展開になるはずなのだ。  それが、数秒で三個ものユニットのHPが吹っ飛ぶとはどういうことだ。もしや、この“アンダーワールド”には、自分の知らぬ何らかのシステムやロジックが存在するのだろうか——。  そこまで考えたとき、竜巻の巨人が口を開き、天地を揺るがすような雄叫びを放った。 『オ オ オ オ オ オ !!』  がしゃあーん!! という大音響とともに、玉座の間を飾るすべての壮麗な窓ガラスが外側に飛び散った。  巨人がゆっくりと、フリーザーほどもありそうな右の拳を握り——。  轟、とガブリエルに向って撃ち降ろした。  剣を抜いても、回避しても無駄だと即座にガブリエルは判断した。視界の左端で、副官のヴァサゴが片眉を上げただけの表情で飛びのくのをちらりと確認してから、ガブリエルは玉座のうえで膝を組んだまま、灰色の拳が全身に叩きつけられるのを感じた。  シャスターの、いまわの際の心意が発生させた死の竜巻は、アンダーワールドのシステム演算を超越した現象だった。数値的攻撃力によってフ・ザたちの天命を減少させ、その結果死亡させたわけではなく、おのおののライトキューブに直接“死”のイメージを叩き込むことによってまずフラクトライトを破壊し、そこから逆算するように視覚的肉体を粉砕したのだ。  ゆえに、ガブリエルに対する攻撃も、皇帝ベクタというユニットの天命には影響しなかった。  しかし、シャスターのライトキューブで生成された殺意は、量子通信回線を経由してガブリエルがダイブするSTLにまで到達した。  STLが万全の状態ならば、そこでフラクトライトの感覚野以外へ伝えられる信号はすべてセーフティ・リミッターによって完全遮断されるはずだった。  だが突入チームがオーシャンタートルの主電源ラインを切断した影響で、すべてのSTLにおいてリミッターが機能不全に陥っていたのだ。  暗黒将軍シャスターという、四十数年の人生にわたって剣を練り上げてきた魂が放った必殺の意思は、リミッターを通過してガブリエル・ミラーのフラクトライトの中核、自我と生存本能を司るコアを直撃した。  この時シャスターの主観では、自身もまた己の放った渾身の一撃と完全に同化し、皇帝ベクタの内部へと突入していくように感じられていた。  本来の肉体の天命がすでに尽きているのは明らかだった。文字通り、これがシャスターの生涯最後の剣だった。  整合騎士長ベルクーリと、もう一度まみえることが叶わないのだけが心残りだ。しかし、あの男ならば理解するだろう。暗黒将軍が何を望み、何故皇帝を斬ったのか。  暗殺ギルド頭首フ・ザに加えて、十侯のうちでもっとも好戦的だったゴブリンの長も両方斃した。暗黒術師総長ディーを逃したのは残念だが、あの深手では即時の再生とはいくまい。この上騎士団の長、そして皇帝までもが死ねば、残る将軍たちも整合騎士団との決戦をためらうに違いない。  願わくば、その先に——リピアの望んだ平和な世界の到来があらんことを。  心意と同化したシャスターは、皇帝ベクタの額を貫いて、その内側に満ちる魂の中核に突入した。  そこを破壊すれば、さしもの暗黒神と言えども、フ・ザらと同じように存在の根幹からの消滅を余儀なくされるはずだ。  声無き雄叫びとともにシャスターの意思は皇帝の魂に衝突し——。  そして、生涯最後の驚愕に見舞われた。  無い。  輝く光の雲のような魂の中核、生命力の真髄が満ちているはずのその場所に、濃密な闇が広がっている。  何故だ。世捨て人フ・ザの魂ですらも、貪欲なまでの生命への執着にぎらぎらと光っていたというのに。  シャスターの心意は、皇帝の内部に無限に広がる“闇”に呑まれ、空しく拡散した。  消える。蒸発していく。  こいつは——この男は——  命を知らないのか。  生命の、魂の、そして愛の輝きを知らぬ者。だから餓えている。だから他者の魂を求める。  この男は、どれほど強力な心意であろうとも、“殺意の剣”では斃せない!  なぜなら、この男の魂は、生きながらにして死んでいるからだ!!  伝えなければ。誰かに。近い、あるいは遠い将来、この化け物と戦うさだめの者に。  誰か——誰かに……。  しかし、そこでシャスターの意識は、皇帝の魂の深淵にかけらも余さず飲み込まれた。  ……無念…………。  …………リピア…………。  ふたつの思考がはじけたのを最期に、暗黒将軍ビクスル・ウル・シャスターの全存在はふたつの世界から完全に消滅した。  ガブリエル・ミラーは、あまりにも強烈な魂の輝きが己を貫いた瞬間、恐怖よりも歓喜を感じた。  黒騎士の魂は、数日前に喰らった女暗殺者のそれよりも、一層濃密な感情に満ち満ちていた。あの女への愛——それに、理解しがたいがより広汎な対象への慈しみのようなもの。そしてそれらを動力源とする強烈な殺意。  愛と憎しみ。これ以上美味なものがこの世に存在するだろうか。  この時ガブリエルは、己が生命の危機に晒されたことなどまるで意識していなかった。黒騎士の攻撃によって、三つのユニットが肉片と化して飛び散ったのを見ていてもなお、ガブリエルは自分の安全よりも騎士の魂を喰らうことを望んだのだ。  もしガブリエルが、騎士の攻撃に恐怖し己の生存を望んでいれば、STLを経由したシャスターの殺意はガブリエルの生存本能を破壊し、連鎖的にフラクトライト全体を吹き飛ばしていたはずだ。  しかし、ガブリエル・ミラーは“命を知らない”人間だった。彼にとっては、自分を含むあらゆる生命は、幼いころ大量に殺戮した昆虫と同様の自動機械でしかなかった。その機械の動力源である“魂”、謎めいた輝く雲の秘密を解明することだけがガブリエルの望みだった。  ゆえに、シャスターのフラクトライトが発生させた破壊信号は、ガブリエルのフラクトライトの不活性部分を空しく通過し、何にも衝突することなく消えてしまったのだ。  そのような理屈をガブリエルは知るよしもなかったが、しかし彼は騎士の魂を咀嚼しながら、ふたつのことを記憶にとどめていた。  まず、この世界には、通常のVRMMOゲームのような武器・呪文によるもの以外の攻撃方法が存在すること。  そしてその攻撃方法は、自分には効果がないらしいこと。  先ほどの現象のロジックを、後でクリッターに調査させなくてはな。そう思いながら、ガブリエルはゆっくりと玉座から立ち上がった。  生き残った十侯会議の六人は、あるものは壁に背中をもたれさせ、あるものは尻餅をつき、あるものは深手を治療しながら、ただ呆然と皇帝ベクタの姿を見上げた。  全員の心中にあるのは、もう恐怖のみだった。  暗黒将軍シャスターの、恐るべき超攻撃——一瞬にして三人の将を切り刻み、十侯のなかでも最大の実力者と目されるディー・アイ・エルの右脚を吹き飛ばした凄まじい技を、皇帝は正面からその身に受けて傷一つ負わなかったのだ。  力あるものが支配する。  皇帝ベクタは、六人の将軍と、背後に控える百人以上の士官たちを束ねても及ばぬほどの力を備えているのはもはや誰の目にも明らかだった。  細波が広がるように全員が深々と膝をつき、皇帝に恭順の意を示した。敬愛する騎士長とその副官を殺された暗黒騎士団ですら、それは例外ではなかった。  その頭上を、変わらずに抑揚のとぼしいベクタの声が滔々と響き渡った。 「……将の失われた軍は、直ちに次点の位にあるものが指揮権を引き継げ。一時間ののちに、予定どおり進軍を開始する」  反逆者が出たことを、怒ったり責めたりする言葉ひとつ無かった。それが、将軍たちの心中にいっそうの恐怖を呼び起こした。  ようやく右脚の傷を止血したディーが、指先まで伸ばした右手を高々と掲げ、叫んだ。 「皇帝陛下、万歳!!」  一瞬の間をおいて——。  万歳、の声が城全体を揺るがすような大音声となって幾度も唱和された。  アリスは、ひとつ丸ごと与えられた野営天幕の内側をぐるりと眺め回し、軽くため息をついた。  簡易ベッドはぱりっと整えられて皺ひとつないし、敷かれた起毛革はまったくの新品で、空気も乾いた日向の匂いしかしない。それらは大いに結構だが、同時にこの天幕がアリスのために急遽空けられたものではない事も明らかだ。つまり、騎士長ベルクーリはアリスの参陣を当然のことのように予期し、騎士用天幕をひとつ余計に設営させていたということになる。  それだけ信頼されていると思えばいいことだが、あの人物を知っていると、むしろ思考の中身まで読まれているのではという気にもなってくる。  いや——さすがにそれはないだろう。なぜなら、さしもの騎士長も、アリスがキリトを連れてくるとまでは予想し得なかったようだから。天幕に備えられた簡易ベッドは一つきりだ。  アリスは黒髪の若者の腰をそっとかかえ、ベッドのほうに誘導すると向きを変えて座らせた。とたん、若者は喉のおくから細い声を漏らしながら、左手を伸ばそうとする。 「はいはい、ちょっと待ってね」  入り口脇に置かれた荷袋に駆け寄ると、アリスは黒白二本の長剣を引っ張り出した。ベッドに戻り、それらを膝に載せてやる。するとキリトは一本だけの腕でぎゅっと剣を抱き、静かになった。  項垂れた黒い頭をゆっくり撫でながら、アリスは軽く唇を噛んで考え込んだ。  エルドリエには、必要があれば背負ってでも、等と言ってしまったが実際にはやはり少々難しい。痩せ細ったキリト一人ならともかく、超重量級の夜空の剣と青薔薇の剣までもとなると流石に動きが制限されてしまう。  雨縁の鞍に乗せっぱなしにしておくことも考えたが、敵にも飛行可能な暗黒騎士が居る以上空中戦となる場面もあろう。  結局、守備軍の後衛、輜重部隊あたりの誰かに託して面倒を見てもらうのがもっとも現実的な案だ。しかし問題は、そうそう都合よく心から信頼できる者が見つかるかどうかだ。  旧知の仲である整合騎士たちはもちろん全員が最前線に出ることとなろうし、一般民の衛士は逆に誰ひとり顔も名前も知らない。と言って、今更エルドリエあたりに適任の者を紹介してくれるよう頼むのもまったく気が進まない。 「キリト……」  アリスは腰をかがめて正面から若者の顔を覗き込み、両手でその頬をはさんだ。  キリトのことをお荷物だなどと思うつもりはまったくない。もし心を取り戻せればその瞬間、この若者は守備軍の誰よりも強力な剣士となるのだから。こうして戦場にまで伴ったのは、意識回復の手段を可能な限り模索するためでもあるのだ。  騎士長ベルクーリは、彼の放った心意をキリトが弾いたと言った。そしてそれは、アリスを守ろうとしてのことだと。  信じていいのだろうか。  出会ったときは執行官と罪人、その次は処刑人と反逆者、そしてカセドラル最上階で最後に言葉を交わした瞬間でさえ、二人の関係はどう贔屓目に見ても“休戦協定中”でしかなかった。  ——あの戦いの直後からあなたは心を喪ったままなのに、小父様の並々ならぬ剣気から私を守ろうとしたの?  ——あなたはいったい、私のことをどう思っているの?  その問いは、キリトの光のない瞳にぶつかってアリスに跳ね返る。  自分は、いったいこの若者のことをどう思っているのだろう。  カセドラルでのキリトをひと言で表現すれば、憎たらしい、というのが最も適切だろう。あとにもさきにも、整合騎士アリス・シンセシス・フィフティに向って『バーカ!』などと口走ったのはこの若者だけだ。  しかし、最後の戦いに於いて、最高司祭アドミニストレータに立ち向かったキリトの後姿——。  黒いコートの裾を大きく翻し、左右の手に一本ずつ剣を握ったあの姿を見て、アリスの心は震えた。何て力強く、それでいて突き刺さるほど痛々しいんだろう、と。  あの時の感情が、いまも胸の奥をずきずきと疼かせている。  しかし、その疼きの理由を知るのが怖くて、アリスは心に蓋をし続けてきた。  ——だって私は、造られた意識なのだから。本来の“アリス”の体を奪い占有し続けている、戦うための人形にすぎないのだから。私には、感情を持つなどという贅沢は許されていないのだ。  ——でも。  ——もしかしたら、私が心を抑えつけているから、あなたに声が届かないの?  ——もし今、ありったけの“心意”を放てば、あなたも応えてくれる?  アリスは大きく息を吸い、ぐっと止めた。  両手で挟んだ頬が冷たい。いや、掌のほうが熱を持っているのだ。  その頬を、そっと、そっと引き寄せる。自分も頭を僅かに傾けると、髪が流れて頬にかかる。  ごく至近距離から、黒い瞳をじっと覗きこむ。まるで闇夜——でも、かすかに、ささやかに瞬く小さな星が見える気がする。  睫毛を降ろし、瞼の裏に残るその星に向って、ゆっくり顔を近づけていく——。  不意に、ちりりんという軽やかな鈴の音が響き、アリスはびくんと飛び退った。  心臓が激しく鳴り響いている。焦って見回すが、もちろん天幕には誰もいない。ようやく、音の源は、天幕の入り口にノッカーがわりに取り付けられた紐つきの鈴だと悟る。  来客だ。わけもなく咳払いし、髪を背中に払ってから、アリスは足早に天幕を横切った。  どうせエルドリエがまた苦言を呈しにきたのだろう。何を言われようと説得されるつもりはないと、今度こそはっきり告げておかなければ。  二重になっている垂れ幕の、内側の一枚を右手ではねのけてくぐると、アリスは外側の分厚い毛皮も左手で一気に払った。  そして、開きかけた唇をぴたりと止めた。  目の前の来訪者は、まったく予想もしていなかった相手だった。思わずぱちくりと瞬きする。 「あ……あの」  怯えたような、か細い声とともに、来訪者は両手で捧げ持った小さな蓋付き鍋を差し出した。 「お……御夕食をお持ちしました、騎士様」 「あ……そ、そうですか」  アリスはちらりと空を見上げた。確かに、いつの間にか夕暮れの朱は山脈の向こうへと遠ざかろうとしている。 「ありがとう……ご苦労様」  ねぎらいながら鍋を受け取ったアリスは、改めて相手の小柄な姿を、上から下へと眺めた。  ごく若い——十五、六だろうと思われる少女だ。  肩の下までまっすぐ伸びる髪は見事な赤毛だ。大きな瞳も同系の紅葉色。肌の白さと、すっきり通った鼻筋は北方帝国の血を示している。  身につけているのは下級衛士用の簡素な軽装鎧だが、その下の灰色のチュニックとスカートは、どうやら学校の制服らしい。  こんな子供まで戦場に……、と眉を顰めそうになったアリスは、おや、と思った。  少女の顔立ちと制服には、どこか見覚えがある。しかし、管区を持たないカセドラル直属騎士だったアリスが、一般民と接触した機会などほとんど無いはずだ。  と、その時、まるで赤毛の少女の背後に隠れていたかのように更に小柄な少女がもう一人、おずおずという感じで姿を現した。 「あ……あの…………、お、お飲み物です……」  ほとんど黒に近い焦げ茶色の髪の、こちらは更に緊張の極致という感じだ。思わず苦笑しながら、アリスは差し出されたワインの瓶を受け取った。 「そんなに怯えなくても、取って食べたりしないわよ」  そう言いかけた瞬間、ようやくアリスの記憶が蘇った。  この緊張し切った声——この二人は、あの時の……? 「ね……あなたたち、もしかして……セントリア修剣学院の……」  尋ねると、かちこちになった少女二人の頬が一瞬、ほっとしたように緩んだ。しかしすぐにびしっと姿勢を改め、ブーツの踵を打ちつけながら名乗る。 「は、はい! あた……私は、補給大隊所属、ティーゼ・シュトリーネン初等練士です!」 「あの、お、同じく、ロニエ・アラベル初等練士、です!」  反射的に返礼しながら、アリスはやはりそうか、と内心で頷いた。  キリトとユージオを学院から連行したとき、彼らに別れの挨拶をする許可を求めてきたのがこの二人だ。  いくら守備軍が人員不足に窮していようとも、まさか学生の徴用まではしているまい。となると二人は、自ら志願して住み慣れた央都からこんな東の辺境までやってきたのか。  如何にあのキリトと交流があったとは言え、まだ幼さの抜けきらない少女二人がいったい何故そこまで……。  思わずアリスがまじまじと二人を眺めると、その視線を受けて、黒褐色の髪の少女は、再び赤毛の少女の背中に隠れてしまった。ティーゼと名乗った赤毛の子もぎゅうっと身体を縮こまらせ、逃げ場を探すように眼を伏せたが、やがて決死の覚悟とでも言うべき表情を作って口を開いた。 「あっ……あの……き、き、騎士様……た、大変なご無礼であると、その、じゅ、重々承知しておりますがっ……」  これにはアリスも再び苦笑せざるを得ず、それを可能なかぎりの柔らかい微笑みに変えるよう努力しながら言葉を挟んだ。 「だから、あのね、そんなに畏まる必要はぜんぜんないのよ。この野営地では私も、人界を守るために集まった一人の剣士に過ぎないんだから。私のことはアリスと呼んで頂戴、ティーゼさん、それに……ロニエさん」  すると、ティーゼと、その背中からぴょこっと顔を出したロニエの二人は同時に唖然としたように口を開いた。 「……ど、どうしたの?」 「い、いえ……その……。以前、学院でお見かけしたときと、随分……御印象が、ちがって……」 「そう……かしら」  はて、と首をかしげる。自分ではまったく自覚は無いが、ルーリッドで暮らした半年のあいだに、それなりの変化はあったのだろうか。騎士長は、ふっくらしたなどと事実無根の感想を口にしていたが。  いや、確かに、シルカが作ってきてくれる料理があまりに美味しくてつい食べ過ぎてしまったのは否めないが……まさか外見に出るほどの……。  強張りそうになった頬にもういちど笑みを浮かべ、アリスは「それで」と言葉を繋いだ。 「なにか、ご用でもあるの?」 「あ……は、はい」  ほんの少しだけ緊張の色を薄めたティーゼが、一瞬きゅっと唇を噛んでから言った。 「あの……私たち、騎士さ……アリス様が、飛竜でご到着になられた際に、黒髪の……若い男性をお一人伴っておいでだったと聞き及びまして……それで、もしかしたら、そのお方が、私たちの知っている人ではないかと、そう思って……」 「あ、ああ……そうか、そうよね」  右手に小鍋、左手にワインの瓶を握ったまま、アリスはようやく少女たちの来意を悟り、頷いた。 「あなたたち、学院でキリトと親しかったんですものね」  と、アリスが口にした瞬間、二人の顔がまるで瞬時に蕾が花開いたかのようにさあっと輝いた。ロニエにいたっては、茶色の瞳にうっすらと涙まで滲ませている。 「やっぱり……キリト先輩だった……」  か細い声で呟いたロニエの手を握り、ティーゼも期待に満ちた声で叫んだ。 「じゃあ……ユージオ先輩も……!」  その名前を聞いたとたん、アリスは鋭く息を詰め、眼を見張った。  いけない。この二人はもちろん——知らないのだ。カセドラルで繰り広げられた一昼夜の激闘と、その結末を。  絶句したアリスに気付き、二人は不思議そうな表情を作った。アリスは数秒間、ティーゼとロニエの瞳を交互に見つめたあと、ゆっくり眼を伏せた。  今更、ごまかすことはできない。  それに、この二人にはすべてを知る権利がある。恐らく彼女たちは、キリトと、そしてユージオにもう一度会うためだけに守備軍に志願し、ここまでやってきたのだろうから……。  意を決して顔を上げると、アリスはゆっくりと口を開いた。 「あなたたちには……辛すぎる現実かもしれない。でも、私は信じます。キリトと、そしてユージオの後輩だったあなたたちなら、かならず受け止められると」  アリスの内心の期待に反して、キリトはティーゼとロニエをその視界にとらえても、一切の反応を見せなかった。  落胆しつつも、ほんの少しだけほっとしている自分に気付き、アリスは天幕の隅で強く両手を握りながらじっと悲壮な光景を見つめつづけた。  ベッドに腰掛け項垂れたままのキリトの前に跪いたロニエは、小さな両手でキリトの左手を包み込んで、頬に涙を伝わらせながら小さく何かを話しかけている。  しかし更に痛々しいのは、敷き革にぺたりとしゃがみこんで、折れた青薔薇の剣を見つめつづけるティーゼだった。紙のように白くなった顔には、ユージオの死を伝えられたときから一切の表情がない。  アリス自身は、ユージオという名の若者とは、直接言葉を交わす機会はほとんど無かった。  カセドラルに連行し地下牢に叩き込むまでと、塔の八十階で彼らを迎撃したときの数分間、あとはもう最上階での対アドミニストレータ戦で共闘しただけだ。  あの騎士長ベルクーリに時穿剣を発動させてなお勝利し、また自らの身体を剣に変じて最高司祭の片腕を斬り飛ばした心意力には心底敬意を覚えるが、ユージオのひととなりに関してはもっぱらルーリッドでシルカから聞いた思い出話に依る部分が大きい。  シルカいわく、ユージオはおとなしく物静かな少年で、アリス——当時のアリス・ツーベルクに引っ張られていろいろな冒険に嫌々付き合わされていたらしい。そんな性格ならば、さぞかしキリトともいい相棒同士だったのだろうと思う。  キリトとユージオは、きっと学院でもあれこれ騒ぎを起こしたに違いない。そんな二人に、この少女たちは魅せられ、大きな影響を受けたのだ。  だから——お願い、受け止めて。キリトとユージオは、とても大切なたくさんのものを守るために戦い、傷つき、散ったのよ。  アリスは半ば祈りながら、二人の、ことにティーゼの様子をじっと見守った。  人界に暮らす人々は、あまりにも巨大な恐怖や悲嘆といった精神的衝撃を受けると、耐え切れずに心を病んでしまう場合も多い。先日の闇の軍勢によるルーリッド侵攻でも、体は無傷なのに臥せりきりになってしまった村人が僅かながら出たようだ。  ティーゼは、たぶん、ユージオを愛していたのだろう。  この若さで、愛する人の死という巨大な衝撃を受け入れるのは、生半なことではあるまい。  アリスの視線の先で、座り込んだティーゼの指先がぴくりと動き、少しずつ青薔薇の剣の刀身に近づき始めた。  緊張しながらその様子を見守る。青薔薇の剣は、半分に折れているとはいえ最上位の神器だ。あの少女に扱えるとは思わないが、しかし絶望もまた巨大な心意を導く。何が起きるかは予測できない。  震えながら伸ばされたティーゼの指が、ついに薄青い刀身に触れた。刃ではなく峰を、そっとなぞっていく——。  と、その瞬間。  灯り取り穴から差し込み天幕を満たす赤い光を押しのけ、折れた刀身がかすかに、しかし確かに青く煌いたのを、アリスは見た。  同時にティーゼがびくんと身体を逸らせ、顔を仰向ける。  何かを感じたらしいロニエも振り向き、友達を見つめた。張り詰めた空気のなか、じわり、とティーゼの睫毛に大きな水滴が浮かび上がり、音も無く零れ落ちた。 「……いま…………」  薄い色の唇から、ひそやかな呟きが流れた。 「……聞こえた……ユージオ……せんぱいの、声……。泣かないで、ティーゼ、って……ぼくは、ずっと、ここにいるから……って……」  零れる涙はみるみるその量を増し、突然ティーゼは剣の上に顔を伏せると、幼い子供のように激しい嗚咽を漏らした。ロニエもまた、キリトの膝に伏せてわあわあと号泣する。  その、言葉も出ないほど痛ましくしかし美しい光景につい目頭を熱くしながらも——。  アリスの心の一部は、そんなことがあるだろうか、と考えを巡らせていた。  剣に心意が残る?  確かに、武装完全支配術の発動中は、武器と主の意思は一体となる。ユージオの場合はそれだけではなく、実際に青薔薇の剣とその身体を融合させ、その最中に命を落としたのだ。  だから、残った剣の欠片に、主の意思が残響のように焼きつく——ということもないではないのかもしれない。  しかし。  いまティーゼは、ユージオが自分に呼びかけた、と確かに言った。であるなら、剣に残った心意は、ユージオが落命したときの木霊ではないということになる。  少女の恋心が聞いた幻なのか? それとも……?  ああ——もどかしい。キリトならば、この現象の秘密を即座に看破してくれるだろうに。この世界の外側、謎の神々が住まう場所から落ちてきたという彼なら。  ぐるぐると渦巻くアリスの思考に、まるで小さな気泡のように、ひとつの言葉が浮かび上がった。  ワールド・エンド・オールター。  果ての祭壇。その場所には、この世界の外側へと続く道があるという。  もしそこにたどり着ければ、あらゆる謎が一瞬で氷解するのだろうか? それどころか——喪われたキリトの心も取り戻せるのだろうか……?  しかし、果ての祭壇は人界の外、東の大門を出て真南に進んだ彼方にあるという。つまり、闇の種族が支配するダークテリトリーのそのまた辺境だ。  そんなところに行こうとするなら、まず東の大門の向こうに布陣する大軍を、防ぐどころか突破しなくてはならない。いや、仮に敵陣を突破できたとしても、大門の守りを空にして南へ向うわけにはいかない。闇の軍勢が、そのままアリスたちを追ってくるとは思えないからだ。  彼らにとっての蜜流るる地である人界から目を逸らさせるためには、どうしても追ってこなくてはならない理由を作ってやる必要がある。だが——ダークテリトリーの民にとっては、“人界の蹂躙”は数百年来の悲願だ。それ以上に魅力的なものなど、あるはずがない……。  やはり、いずれ果ての祭壇を目指すとしても、その前に闇の軍勢を完全に殲滅しなくては。  たどり着いた結論に、アリスは思わず瞑目した。  殲滅、などと……敵の先陣を押し返すことすらおそらく至難のこの状況で。  そっと息を吐いてから、アリスは数秒間の黙考を断ち切り、泣きじゃくる少女二人に歩み寄った。  ソルスの残照はずいぶん前に西の彼方に消え去ったのに、東の大門の向こうに細く見えるダークテリトリーの空には、不吉な血の色がしつこく揺らぎ続けている。  まるでその光景を遮断するかのように、人界守備軍野営地の中央、昼間は飛竜発着場に使われる草地には、白い陣幕が南北方向に張られていた。その手前、高々と翻る整合騎士団旗と四帝国旗の下に、整合騎士約二十名に加えてほぼ同数の衛士の隊長格が集まり、三々五々固まっては深刻な顔を突き合わせている。  その幾つかの小集団が、騎士と衛士の区別なく出来上がっていることに気付き、アリスは少し驚いて近づく脚を止めた。  輝くような銀甲の鎧をまとった整合騎士と、美麗さは劣るが優先度は充分に高そうな黒鋼の鎧を着込んだ衛士長が、双方右手に同じシラル水のグラスを持って熱心な議論を交わしているのだ。耳をそばだてれば、衛士の言葉からは迂遠な敬語のたぐいの一切が省かれているようだ。 「急拵えの寄り合い所帯にしてはなかなかのモンだろう、嬢ちゃん」  突然かたわらで低い声が響き、アリスは慌てて向き直った。  着流しの懐に両手をしまった騎士長ベルクーリは、顔の動きだけで敬礼しようとしたアリスを制した。 「そういうしち面倒くさい儀礼だのは全部ナシにしたのさ。少なくとも、俺ら騎士と衛士長同士ではな。幸い、禁忌目録にも『一般民は騎士サマと話す前には十分間ご機嫌伺いをしなくてはならない』なんて項目は無ェからな」 「は、はぁ……。それは大いに結構なことと思いますが……しかし、それはさておいても……」  言葉を切り、再び視線を臨時の軍議場に向ける。 「整合騎士は全員参加と聞きましたが、見たところ二十名ほどしか来ていないようですが」 「だから、これで全部さ」 「え……ええ!?」  思わず高くなりかけた声を掌で押さえ、アリスはやや渋面になった騎士長を見上げた。 「そんな……ばかな。騎士団には私を含め五十名が存在するはずでは」  それは、アリスに与えられたフィフティという神聖語名が示すとおりだ。  ベルクーリは、そりゃそうなんだが、とため息混じりに答えるとひときわ声を低くした。 「嬢ちゃんも知ってるだろう。元老チュデルキンは、記憶制御に齟齬を来たしそうになった騎士に“再調整”という処理を施していた。奴が死んだときその処理中だった十名は……いまだに眼を醒ましていないんだ」 「…………!」  思わず眼を見張る。そんなアリスから視線を外し、ベルクーリはいっそう苦々しい声で続けた。 「再調整用の術式群を知悉していたのは、高い確率でチュデルキンと最高司祭だけだ。その二人が死んだ今となっては、十名の騎士の処理を中断し覚醒させることは不可能かもしれん。——よって、現在動ける整合騎士は四十名。うち五名はカセドラルと央都の指揮管理のために残し、さらに十五名を果ての山脈全体の警護に当たらせている。差し引き二十……それがこの絶対防衛線につぎ込める上限、というわけだ」 「二十人……ですか」  たったの、と付け加えそうになるのをアリスは唇を噛んでこらえた。  しかも、よくよく確かめればその半数以上が神器を——つまり武装完全支配術を持たない下位騎士だ。近間の斬り合いだけならばゴブリンの百は二百は屠ってみせる猛者たちではあるが、戦況全体を動かすほどの爆発力は期待できない。  思わず押し黙ったアリスに、調子を切り替えたベルクーリの声が掛けられた。 「ときに、あの若者の預け先だがな……なんなら、オレから後衛部隊に……」 「あ……いえ、大丈夫です」  騎士長の、ぎこちない気遣いにかすかに微笑みながら、アリスは首を振った。 「偶然、修剣学院で彼の傍付きをしていたという志願兵が居りましたので……開戦後は彼女達に任せることになりました」 「ほう、そりゃ良かった。……で、どうだ? 過去に交流のあった者と接触して、何か反応はあったか?」  無言でちいさくかぶりを振る。  ベルクーリは短く息を吐き出すと、そうか、と唸った。続けて、いっそう潜められた声で、 「……正直、オレにはあの若者こそが、この戦いの帰趨を左右する最後の一要素に思えてならんのだ……」  アリスははっと視線を上げた。 「嬢ちゃんやユージオ青年の助力はあったにせよ、剣でチュデルキンと最高司祭を斃したというのはとてつもない事だぞ。こと心意の強度だけを比べれば、恐らくオレも及ばないだろう」 「……まさか、そのような……」  キリトの強さに今さら疑義を呈するつもりは毛頭ないが、しかし騎士長ベルクーリの心意は二百年以上の悠久の時間を経て研ぎ上げられたものなのだ。対するにキリトはまだ二十歳になるやならず。むしろ、剣技や体術はともかく意思力だけは騎士長に敵わないと見るのが自然なのではないか。  だが、ベルクーリは確信に満ちた仕草でアリスの言葉を否定した。 「先刻、心意を打ち合わせたとき確かに感じた。この若者は、オレなど問題にならぬほどに膨大な実戦の経験がある、とな」 「実戦……? とは、どういう意味です……?」 「文字通りだ。命のやり取りだよ」  それこそまさか、と言うほかない。  人界に暮らす人間たちは、禁忌目録や各帝国の膨大な法に保護、あるいは束縛され、木剣での試技はすれども真剣勝負の機会など生まれてから死ぬまで一度も無いのだ。  唯一の例外が整合騎士で、果ての山脈を侵そうとする闇の怪物や暗黒騎士と規則の無い戦いをすることはある。しかしそれにしても月に一、二度あるかないかで、しかも整合騎士側が戦力に於いて圧倒的に勝っているので正直なところ命の取り合いとは言い難い。  そう考えれば、人界でもっとも実戦の経験が豊富なのは、騎士団がいまより遥かに小規模な頃から闇の軍勢と戦ってきたベルクーリであるのは間違いない。実際、整合騎士になりたての頃は——信じがたいことではあるが——当時の暗黒騎士に手酷くやられ、命からがら逃げ延びたこともあるらしい。  そのベルクーリよりも、キリトが実戦の回数に於いて勝っている?  仮にそんなことが有り得るとすれば——それは、この世界での経験ではない。  彼のほんとうの故郷であるという“外の世界”。しかし、そこは同時に真の創世神たちが住まう神界でもあるはずだ。なのに、実戦? 命の取り合いを……?  もう何をどう考えていいかわからず、アリスは少し迷ったあと意を決した。  かくなるうえは、ベルクーリに全てを話すしかない。“外の世界”、そしてそこに続く回廊があるという“果ての祭壇”のことを。 「……小父様……実は、私……あの戦いのとき……」  考えかんがえ、そこまで口にしたときだった。  突然、金属質の声が鋭く響いた。 「閣下、時間です」  はっ、と声のしたほうに視線を向ける。  立っていたのは、夜空の下でもひときわ麗々しく光る薄紫色の装甲にくまなく全身を包んだ、一人の整合騎士だった。  その、細身の騎士の顔を隠す鋭角な意匠の銀面を見たとたん、アリスの心中に浮かんだ感慨は——端的にあらわせば、うへえ、というものだった。  アリスにとって、恐らくこの世界でもっともウマの合わぬ人物。騎士団副長にして第二位の整合騎士、ファナティオ・シンセシス・ツーだ。  内心を顔に出さないようけっこうな努力をしながら、アリスは右拳を左胸にあてる騎士の礼をした。  相対するファナティオも、かしゃりと装甲を鳴らして同じ動作を行う。しかし、両脚を少し開いてまっすぐ直立するアリスに対して、ファナティオは片脚に体重をあずけて右腰を吊り上げ、上体を横に湾曲させたなよやかな姿勢を取っている。意識してやっている訳ではないのだろうが、胸にあてた手も無骨な拳ではなく、優美に反らせた五指を折りたたんだ形だ。  この人の、こういう所がどうにも……、と腕を下ろしたアリスは内心でひとりごつ。  鎧と兜、それに口調で厳重に隠しているつもりなのだろうが、だからこそ、ファナティオからは“女性”が大輪の花のように匂い立つのだ。そしてそれは、最年少で整合騎士に任ぜられたアリスにはついぞ会得する機会のなかった“技”でもある。  副騎士長ファナティオは、カセドラル五十階においてキリト及びユージオと闘い、キリトの記憶解放技に直撃されて瀕死の重傷を負った。しかしキリトは、苦労して倒したファナティオに治癒術をほどこし、さらに不思議な術式でどこかに転送してまで救ったのだという話を、アリスはその場に居合わせた下位騎士からの伝聞で知った。  いかにもキリトのやりそうな事だとは思うが——しかしやはり心穏やかではいられない。  だいたいこの人は、百年間ずっと騎士長一筋ですというわりには、自分に心酔している騎士を九人も直属部下にしているのだ。憧れるだけで永遠に手も触れさせられない彼らこそいい面の皮だ。せめて、四六時中銀面をかぶっていないで顔くらい見せてやればいいものを。  と、内心でぶつぶつ言ったその瞬間、ファナティオが両手を兜の側面にかけたのでアリスはぎょっとした。  ぱち、ぱちりと留め金が外され、薄紫に輝く装甲が無造作に引き上げられる。大きく広がった艶やかな黒髪が、夜空に流れて絹のように光った。  ファナティオの素顔を見る機会があったのは、カセドラルの大浴場で偶然行き会ってしまったときだけだった。このような衆人環視の場で副騎士長が面を取るのは記憶にあるかぎり初めてのことだ。  美貌にうっすらと白粉を刷き、唇に艶やかな紅を差したファナティオは、アリスににこりと微笑みかけると言った。 「久しぶりね、アリス。元気そうで嬉しいわ」 「…………」 “ね”? “わ”?  つい数秒間も絶句してしまってから、アリスはようやく挨拶を返した。 「お……お久しぶりです、副長」 「ファナティオでいいわよ。それより、アリス。小耳に挟んだんだけど……あの黒髪の坊やも、一緒に連れてきたそうね?」  何気なく発せられた言葉に、アリスは驚きを脇に押しやって、さっと警戒心を漲らせた。キリトとユージオに倒された整合騎士は多いが、そのなかでももっとも恨みを抱いていそうな者を挙げればこのファナティオだろう。アリスがカセドラルから出奔した半年前、もしファナティオが眠りから醒めていたら処刑論はもっとずっと高まっていたはずだ。 「は……、はい」  短く肯定だけしたアリスに、副騎士長は艶然とした微笑を浮かべたまま頷いてみせた。 「そう。なら、軍議のあとで少しだけ会わせてくれないかしら?」 「え……な、何故です、副、いえファナティオ……殿?」 「そんな顔をしないで。別にいまさら斬ろうなんて思ってないわよ」  微笑みに少しだけ苦笑を混ぜ、ファナティオは肩をすくめた。 「ただ、ひと言だけお礼が言いたいの。あの坊やが助けてくれたお陰で、私は今ここに居られるんだから」 「……でしたら、キリトに言う必要はないと思います。あなたを癒したのは、おそらく先の最高司祭、カーディナルという名のお方ですから。そしてあの方はすでに身罷られました」  どうしても疑わしい顔になりかけるのを苦労して抑えながらアリスがそう言うと、ファナティオは視線をすっと宙に向け、軽くうなずいた。 「ええ……おぼろげに憶えているわ。あのように暖かく、力強い治癒術は初めてだった。でも、私をあの方のところに送ってくれたのはやはり坊やなのだし、それに……もう一つ、別のことでも有難うと言いたいのよ」 「別……?」 「そう。私と戦い、倒してくれたことをね」  ……やっぱり斬る気なのでは。  と身構えたアリスに、ファナティオは真面目な顔で、大きくかぶりを振った。 「本心よ。だってあの坊やは、整合騎士として生きたこの百年でたった一人、私を女と知ってなお本気で剣を振るった男なんだもの」 「は……? それは……どういう……」 「私も、昔はこんな分厚い兜を被らずに、あなたのように素顔を晒して戦っていたのよ。でも、ある日気付いてしまったの。模擬戦の相手をする男の整合騎士たち、それどころか命の取り合いをしている最中の暗黒騎士ですら、剣筋にわずかな気後れがあることにね。許せない、と思ったわ。私が女だから、勝てるのに勝たない——なんてことは」  それは——無理もないことだろう。素顔のファナティオから匂い立つこの色香を、無視できる男はそうそういるまい。この世界の男たちにとって、女とは守り愛しむものなのだ。そのように、魂に書き込まれているのである。ダークテリトリーの住民である暗黒騎士も、子を成し育てる以上例外ではあるまい。まるで外見の異なるゴブリンやオークは、もちろんまったく別だろうが。  しかし同じ女騎士であるアリスは、相手の遠慮など一切気にしたことは無かった。敵が気後れしようと全力を振り絞ろうと、自分のほうが遥かに強いという確信があったからだ。  そんなことに拘るのは、やはりあなたがどこまでも“女”である証左なのでは。  とアリスが内心独りごちたのと同時に、ファナティオがまったく同じことを呟いた。 「だから私は顔を隠し声を変え、敵を近間に入れない剣技と術式を身につけた。でも、それは、私もまた自分の性別にとらわれていたってことなのよね。あの坊やはそれを一発で看破したわ。その上で私と全力で斬り結んだ。素晴らしい一瞬だった……詰まらない拘りが全部飛んでいくほど、ね。要は、私が相手に変な遠慮なんかさせないほど強くなれば、それでいい話だったのよ。——その単純な事実に気付かせてくれて、その上私を生かしてくれた坊やに、お礼を言いたいと思うのは不思議ではないでしょう?」  真面目な顔でそう言ってのけたあと、ファナティオは少しだけいたずらっぽく微笑んだ。 「それに……やっぱり、少しだけ癪だしね。坊やが私にまるで“女”を感じなかった、っていうのも。だから、私の魅力で坊やが目を醒まさないか、試してみようと思って」 「な……」  何だと。  もしそれでキリトが覚醒したら今までの努力が空しすぎるではないか。そしてキリトの場合、その可能性が皆無だと言い切れない部分がある。  眉間が険しくなるのをもう隠さずに、アリスは尖った声で言い返した。 「お言葉は有り難いのですが、彼はもう休んでおりますし。ファナティオ殿のお気持ちは、私が明日確かに伝えておきますゆえ」 「あら」  笑みを消し、副騎士長もぴくりと切れ長の目尻を動かした。 「坊やに会うのに、あなたの許可が要るの? 私は、あなたが騎士長閣下に面会を求めてきたとき、私情で拒んだことは無いつもりだけど」 「それこそ、私が小父様……騎士長殿と会うのにファナティオ殿の許可は不要でしょう。だいたい、考えてみれば、男の騎士にコテンパンにして欲しかったのなら騎士長殿に頼めばよかったではないですか」 「あら、閣下はいいのよ。世界最強の剣士なんだから、万人に対して手加減して当然だわ。暗黒将軍にすら情けをおかけになったのよ」 「へえ、そうですか? 私との稽古のときは、小父様は汗だらだらになるほど本気でしたけど?」 「……閣下! いまのは本当ですか!?」 「そもそも小父様がこの人を甘やかすから……」  アリスとファナティオは、同時に横に向き直った。  無人であった。  つい数分前までは確かに騎士長ベルクーリが立っていたはずのその場所を、夜風に乗って枯れ草だけがかさかさと通り過ぎていった。  十分ほど遅れて開始された軍議は、進行を務める副騎士長ファナティオ・シンセシス・ツーと、新たに参陣した整合騎士アリス・シンセシス・フィフティの発する巨大な剣気のせいで、異様なほどに緊張した雰囲気のなか始まった。  手短に自己紹介を終えたアリスは、最前列に用意された携行椅子にどすんと腰を下ろした。 「……アリス様」  隣に座るエルドリエがそっと差し出してきたシラル水のグラスを、ひったくるように受け取って、冷えた甘酸っぱい液体をひといきに流し込む。長々と息をついて、どうにか気分を切り替える。  ——それにしても。  やはり少ない。神器を装備する上位整合騎士は、よく見知った顔ぶれが騎士長たる“時穿剣”ベルクーリ、“天穿剣”ファナティオ、“星霜鞭”エルドリエ、そして“熾焔弓”のデュソルバート・シンセシス・セブン。加えて、名前程度しか知らない騎士が二名、それにアリスで合計わずか七名だ。  残りは、おそろいの白い鎧を着込んだファナティオ直属の“宣死九剣”と、番号の若い——と言ってもアリスよりは古株だが——四名の下位騎士。これが、この最終防衛線に投入できる整合騎士団の全戦力というわけだ。  対するに、一般民で構成される衛士隊の隊長たちは三十名ほどが列席している。危惧したよりも士気は低くないようだが、しかしやはり、一瞥しただけで整合騎士との剣力の差が見えてしまう。アリス自身は無論のこと、もっとも下位の騎士ですら三十人と立て続けに手合っても勝ち残るだろう。 「——四ヶ月に渡って、あらゆる戦法を検討してきましたが……」  いつの間にか話し始めていたファナティオの声が、アリスの意識を引き戻した。 「結局のところ、確実なのは、敵軍に包囲された時点で我が方の勝ち目は消えるということだけです」  天穿剣の細い鞘を指示棒がわりに、ファナティオは陣幕の手前に設えられた巨大な地図を示した。 「見てのとおり、果ての山脈のこちら側は、一万メル四方に渡って広大な草原と岩場しかありません。ここまで押し込まれたら、あとは十倍の敵軍に包囲殲滅されるのみでしょう。ゆえに、頼みの綱はこの、東の大門から続く幅百メル長さ千メルの峡谷しかありません。ここに縦深陣を敷き、敵軍の突撃をひたすら受け止め、削り切る。これを基本方針とします。これについて、何か意見はありますか」  さっ、と手を挙げたのはエルドリエだった。藤色の巻き毛を揺らして立ち上がった若者は、日ごろの洒脱さを抑えた声を宵闇に響かせた。 「仮に敵軍が、ゴブリンやオークからなる歩兵のみで構成されておれば、五万が十万でも斬り倒せましょう。しかし、それは彼奴らとても承知の上。ダークテリトリーには強力な弩弓を装備するオーガの軍団、さらに危険な暗黒術師団も存在します。歩兵の後背から浴びせられるであろうそれら遠距離攻撃にはいかなる対処を?」 「これは……ある程度危険な賭けですが……」  ファナティオは一瞬唇を止め、視線をエルドリエからちらりとアリスに向けてきた。思わず瞬きをしながら、続く言葉を待つ。 「……峡谷は、昼でも陽光が差さず、また植物がほとんど見当たらない。つまり、空間神聖力が薄いのです。開戦前に、それを根こそぎ消費してしまえば、敵軍は強力な術式を撃てなくなる」  ファナティオの大胆な意見に、騎士と衛士長がこぞってざわめいた。 「無論、それは我が方も同じこと。しかしこちらには、そもそも神聖術師は百名ほどしか居りません。術式の撃ち合いとなれば、神聖力の消費量は敵のほうが遥かに多いはず」  確かに、それはその通りだ。だが——ファナティオの作戦には、問題点が二つある。  絶句したエルドリエにかわって起立したのは、彼の遠距離戦の師、デュソルバートだった。赤銅色の鎧に身を包んだ威丈夫が、錆びた声で問いかける。 「成程、副長殿の慧眼には感服する。しかし、神聖術は攻撃のみに用いられるものではなかろう? 神聖力が枯渇してしまえば、傷ついた者の天命の回復すらできなくなるのではないか?」 「ですから——賭けと申しました。この野営地には、教会の宝物庫から聖具・霊薬のたぐいをありったけ運び込んであります。術式を防御や回復に限定すれば、それらだけを供給源としても二日、いや三日は保つはずです」  これには、先ほどを上回る驚きの声が軍議場に満ちた。神聖教会の宝物庫と言えば、数多のおとぎ話の素材になっているほどの厳封、禁足、絶対不可侵の代名詞だ。宝物が運び込まれこそすれ、持ち出されたのは人界史上初めてのことではなかろうか。  さしもの豪傑騎士も、厳つい顔に驚きの色を浮かべて押し黙った。彼が低く唸りながら着座するのを待って、アリスは意を決し立ち上がった。 「問題は……もうひとつあります、ファナティオ殿」  先刻の一幕のことは意識の外に押しやり、冷静な声で続ける。 「いかに供給が薄いとは言え、峡谷はまったき闇でもなく、はるか虚空でもない。あの空間には、すでに膨大な神聖力が満ちているとおもわれます。一体何者が、開戦前の短時間で、その力を根こそぎ使い尽くせましょう?」  短い静寂。  山脈を貫く谷間の広大さは、建物の一室とは比べ物にならない。そこに満ちる力を完全に枯渇させ得る術式の巨大さは想像を絶する。そのような力の持ち主など、それこそ——すでに亡き最高司祭アドミニストレータ以外ありえないのではないか。  しかし副騎士長ファナティオは、先ほどと同じ意味ありげな視線をもう一度アリスに向け、ゆっくり頷いた。 「居ます。たった一人だけ、それが可能な者が」  まさか。誰が——騎士長ベルクーリか?  しかし、続けて発せられたのは、アリスの思いもよらぬ名前だった。 「あなたです、アリス・シンセシス・フィフティ」 「え……!?」 「自分では気付いていないかもしれませんが……現在のあなたの力は、もう整合騎士をも超えています。今のあなたなら、行使できるはず……天を割り地を裂く、まことの神聖術を」 「それほど強力なのか、上位整合騎士とは?」  岩鱗竜二頭が牽く巨大な御座車に揺られながら、ガブリエルは尋ねた。  絹張りの長椅子でも震動は完全には消せないが、イラク戦争で散々味わったブラッドリー歩兵戦闘車の殺人的乗り心地に比べれば何ほどのこともない。傍らの小テーブルに置かれたワイングラスも、規則正しい波紋を生み出しているだけだ。  ガブリエルの足元で、毛足の長い絨毯にしどけなく寝そべる妙齢の美女は、包帯でぐるぐる巻きの右脚をさすりながら頷いた。 「あたくしの乏しい語彙では、とても連中の極悪さを余さず陛下に伝えられませんわ。そうですね……三百年近い戦いの歴史において、我らが闇の騎士や術師が、整合騎士を討ち取った例はただのひとつも無い、と言えばご理解戴けますかしら? もちろん、その逆は星の数ほどありますのよ」 「フムン……」  口を閉じたガブリエルに代わって、壁際であぐらをかき酒をボトルごと抱えたヴァサゴがいぶかしむ声を出した。 「でもよう、ディーのアネさんよ。その整合……騎士とかいう妙な名前の奴ら、そんなに強ぇならなんで逆にこっちに攻め込んでこなかったんだ?」  暗黒術師長ディー・アイ・エルは、皇帝に対するときよりもやや艶然とした笑みをそちらに向け、人差し指を立てた。 「いいご質問ですわ、ヴァサゴさま。彼奴らは確かに一騎当千の猛者ですが、それでもあくまで一騎に過ぎないのです。広大な空間で万軍に囲まれれば、かすり傷でも積もり積もって天命が尽きることも有り得る。ゆえに連中は卑怯にも、その危険が無い果ての山脈上空から決して出てこないのですわよ」 「へーえ、なるほどねえ」  本気で頭を働かせているのか疑わしくなる、好色な視線をディーの肢体に無遠慮に這わせながらヴァサゴが頷いた。 「アレだな、たとえメタルキングでも、こっちがどくばり装備二十人パーティーなら確実に……」 「は……? めた……?」  益体も無い例えを出すヴァサゴにじろりと一瞥を呉れてから、ガブリエルは軽く咳払いをして言った。 「ともかく、だ。要は、その整合騎士どもを、じゅうぶんに広い戦場に引っ張り出すかあるいは押し込めば力押しで殲滅できる、というわけだな?」 「理屈では、そうですわね。雑兵どもの犠牲は甚大でしょうけどね」  ディーはうふふ、と笑うと絨毯上の銀杯から毒々しい色の果実を一つとり、同じくらい真っ赤な唇で舐めるように含んだ。  言われるまでもなく、歩兵ユニットの損耗などガブリエルにはどうでもいいことだ。それどころか、眼下のディーを含めた全軍と引き換えに敵軍を撃破できるなら何の文句もない。これは、ヴァリアンス部隊で頻繁に行われるウォー・シミュレーションではないのだ。  双方の軍勢が一兵残らず相討ったあと、新たな支配者としてゆうゆうとヒューマン・キングダムに君臨し、全土に最初にして最後の命令を発する。すなわち、『アリスという名の少女を探し、連れてこい』。それで、この奇妙な世界におけるミッションは完了だ。  そう思うと、このエキゾチックな風味だが上等なワインの味わいも惜しくなる。ガブリエルはグラスを取り、大きく呷ると、口全体で愉しんでから嚥下した。  この時、ガブリエル・ミラーの脳裏にある“アリス”の姿は、酷似した名前を持つ彼の最初の獲物、アリシア・クリンガーマンの無垢で華奢な容姿と無意識のうちに融合していた。  ゆえに、ガブリエルはあるひとつの可能性に関する検討を怠ってしまった。  まったく想像もしなかったのだ——追い求める“アリス”が、騎士として敵軍を率いていようなどということは。  御座車を中核に据えた長大な軍列は、ゆっくりと、しかし確実に、西の果てを目指して行進を続けた。血の色の空のかなたに、鋸のように黒く聳える山脈の連なりが徐々にその姿を現しつつあった。 「じゃあ……よろしくお願いするわね、キリトのこと」  アリスは、年若い少女ふたりの顔を順に見つめながら言った。  初等練士、いやすでに一人前の剣士であるティーゼとロニエは、ぴんと背筋を伸ばして力強く頷いた。 「はい、お任せくださいアリス様」 「必ず、私たちが先輩を守りとおしてみせます」  さっ、と敬礼してから、ティーゼが左手を、ロニエが右手を、新造された車椅子の握りにかける。  灰白色に輝く細身の椅子は、物資天幕に余っていた全身鎧をアリスの術式で形状変化させたものだ。ルーリッドで使用していた木製車椅子と同程度の強度を持ち、しかし遥かに軽い。  とは言え、そこに座るキリトがしっかりと抱きかかえた二本の剣の重量まではどうしようもない。アリスはやや危ぶんだが、少女たちはさほど困難な様子も見せず、二人呼吸を合わせて椅子をごろごろと、天幕の敷革の上を一メルほども前進させてみせた。  これなら、たとえ全速撤退を命じられても遅れはするまい。——もっとも、峡谷から撤退を余儀なくされた時点で、守備軍はまるごと包囲殲滅されると決まったようなものなのだが。  本心を言えば、戦況に僅かなりとも危うさが見えた瞬間に、この二人にだけは全力で西に逃げるよう指示したい。だが、それは運命を数ヶ月、いや数週間先延ばしにするだけのことだ。東の大門が陥落した瞬間、ここ以外の山脈を護る十五名の騎士も撤退し、各地の村や街から住民を避難させつつ央都セントリアに最後の防衛線を引く手はずになっている。しかしそれも空しい抵抗というものだろう。最終的には侵略軍に蹂躙され、あの美しい都も、白亜のカセドラルも焼け落ちるしかない。果ての山脈という閉じた壁の内側に逃げ場などないのだ……。  アリスは屈みこみ、同じ高さからキリトの瞳を覗き込んだ。  野営地に到着してからの四日間、最後の望みをかけて、時間を見つけてはキリトに語りかけ、手を触れ、抱きしめてきた。しかし、ついに今日まで、反応らしい反応を引き出すことは出来なかった。 「キリト。……もしかしたら、これが最後のお別れになるかもしれないわ」  ごくごくかすかな囁き声で、アリスは黒髪の青年に語りかけた。 「小父様は、あなたがこの戦の行方を決めるような気がする、と言った。私も……そう思うわ。だって、この守備軍はあなたが造ったようなものですもんね」  実際、キリトとユージオが居なければ、今頃東の大門に布陣していたのは最高司祭アドミニストレータと整合騎士団、そしてあの忌まわしい剣骨兵に変身させられた無数の一般民だったろう。  すさまじい威力を発揮した剣骨兵が一万もいれば、たしかにダークテリトリー軍などものの数ではなかったはずだ。しかしそれは人界の滅亡と同義だ。キリトたちは、ひとつの命とひとつの心を犠牲にその悲劇を防いだ。  だが、このまま今の守備軍が敗北すれば、形は違えど巨大な悲劇が降りかかる。それでは、何のためにあの苦しい戦いがあったのか分からない。 「私も頑張る。天命を一滴残らず燃やし尽くしてみせる。だから……もし私が倒れて、最後の声であなたを呼んだら、きっと立ち上がって、その剣を抜いてね。あなたさえ目覚めれば、敵が何千、何万いようと関係ない。片っ端から斬り倒して、世界を守ってくれる。だって、あなたは……」  ——あの最高司祭にすら勝ったんだから。三百年を生きた最強の術者、世の理さえも支配した半神人に。  胸のなかで呟き、アリスは両手を伸ばすと、ぎゅっと強くキリトの痩せ細った身体を抱き締めた。  一瞬とも数分とも思えた抱擁を解き、立ち上がったアリスは、見開いた大きな瞳に様々な感情を揺らして自分を凝視しているロニエに気がついた。なんだろう、と一瞬思ってから、すぐに悟る。 「ロニエさん。あなた……好きなのね、キリトのこと」  微笑みながらそう言うと、焦茶色の髪の少女は左手をさっと口元にあて、頬から耳までを真っ赤に染めた。何度も瞬きしてから視線を伏せ、消え入るような声で呟く。 「い、いえ、そんな……畏れ多い……私なんか、ただの傍付き初等練士ですから……」 「畏れ多くなんかこれっぽっちもないわよ。だって、ロニエさんは爵士家の跡取りなんでしょう? 私なんか辺境のちっちゃい村の生まれだし、キリトは出身地もよくわからない無登録民……」  笑いを含んだ声でそう続けたアリスの言葉を、不意にロニエが激しくかぶりを振って遮った。 「違うんです! 私は……もう……」  長い茶色の睫毛に、大きな水滴を溜めたロニエは、一瞬傍らのティーゼに視線を向けて唇を震わせた。見れば、ティーゼのほうも沈痛な表情を作り、左手でしっかりとロニエの身体を抱いている。  絶句したロニエに代わって、ティーゼが紅葉色の瞳を伏せたまま、掠れた声で話しはじめた。 「アリス様は……キリト先輩とユージオ先輩が犯した禁忌を、ご存知ですよね?」 「え……ええ。学院内での諍いにより……ほかの学生を殺めた、と聞いたわ」  半年前、いまだ疑うことを知らぬ教会の守護者だったアリスのもとに元老院からの捕縛命令が降りてきたときの、小さいとは言えぬ驚きは今も覚えている。一般民がおなじ一般民を殺害したなどという重大な禁忌違反は、史書のなかにすら見出せないものだったからだ。 「では、先輩たちがなぜその禁忌を犯すに到ったか、については……?」 「いえ……そこまで……は……」  首を振りかけたアリスは、不意に耳奥に蘇ったひとつの叫び声に、はっと息を飲んだ。  あれは、キリトとともにカセドラル外壁から放り出され——罪人の助けは要らないと喚くアリスに向って、彼が叫んだ言葉……。 『——禁忌目録の許すところによって、ロニエとティーゼみたいな何の罪もない女の子が、上級貴族にいいように陵辱されるなんてことが……ほ、本当に許されると、あんたはそう言うのかよ!!』  そうだ、私はこの二人の名をあのとき聞いていた。  上級生、とはキリトたちが斬った学生のことだろう。そして、陵辱——とはつまり——。  目を見開いたアリスに対して、ティーゼはきつく唇を噛み締めながら、ゆっくりと頷いた。 「あたしたちは……憤りのあまり我をわすれて、上級修剣士に対する逸礼という学院則違反を犯してしまいました。その結果、貴族間賞罰権規定を適用され……」  思い出すのも苦痛なのだろう。ティーゼの声が詰まり、ロニエは俯いたまま低くしゃくりあげた。もうそれ以上言わなくていい、そう思ってアリスは手を挙げて止めようとしたが、ティーゼは目でいいえと言って再び話し始めた。 「私たちは汚され、キリト先輩とユージオ先輩はそんな私たちのために剣を振るいました。私たちがもう少しだけ賢かったら、あの事件は起きなかった。先輩たちが、法を正すために教会と戦い命を落とすこともなかったんです。私たちは……もう二度とすすげない汚れと罪を背負ってしまった。だから……口が裂けても、先輩たちのこと、好きだなんて言えないんです」  そこまでを吐露し終え、ついにティーゼの目にも涙が溢れた。幼い少女たちは互いに抱き合い、その年齢には重過ぎる悔恨と屈辱の嗚咽を低く漏らした。  アリスはきつく奥歯を噛み締め、天幕の梁材を見上げた。  四帝国上級貴族の腐敗ぶりについては知っているつもりだった。飽食と蓄財、そして邪淫。  だが、かつての整合騎士アリスは、それら行状を詳しく知ることで自分さえも汚されるような嫌悪感を覚え、あえて目を逸らしていたのだ。一般民が何をしようと、それが禁忌に触れぬかぎりは関係ない——神界より召喚された、人の子ならぬ己には。そう信じ続けていた。  しかしそれこそが罪だったのだ。キリトが憎んだ、禁忌目録には触れないがそれゆえに巨大な罪。  アリスは大きく息を吸い、吐いた。今の自分に出せる、もっとも毅然とした声で少女たちに語りかける。 「いいえ、違うわ。あなたたちは汚されてなんかいない」  さっ、と顔を上げたのはロニエだった。いつもティーゼの陰にかくれている印象のある少女が、今だけは道場で対峙する剣士のように瞳を燃やして叫んだ。 「アリス様には……貴い整合騎士のアリス様には分かりません! 私たちの体は……あいつらに……何度も、何度も……」 「体はただの容れ物に過ぎない! いえ、それ以下の、私たちの心が作り出すあいまいな境界でしかない! 大事なのは——」  握った右拳で、強く胸の中央を叩く。 「心です。魂だけが唯一確かに存在するものです。いいですか……見ていなさい。これは術式ではありません」  アリスは眼を閉じ、意識を集中した。  一週間前、ルーリッドが襲撃されたおり、アリスは一時的に整合騎士の鎧を創り出し身にまとった。あまりにも強く、烈しく念じればそのようなことが起きるのは、最早事実として感得している。  だが、いまはそれだけでは足りない。自分の生身の肉体をも、思念によって変化させねばならない。  できるはずだ。かつてキリトが見せてくれたではないか。アドミニストレータの前に、二刀を握って立ったキリトは、確かに彼であって彼でない姿に変じていた。  戻るのだ。九年前の自分に。  見知らぬ巨大な塔のなかで記憶を失って目覚めた不安と寂しさを打ち消すために、ひたすら分厚い氷の鎧で心を覆ってしまうまえのアリスに。  私も、あなたたちと同じなのよ、ロニエ、ティーゼ。人の子として生まれ、多くの誤りを犯し、巨大な罪を背負って、今ここに居る。ユージオが人を殺めたのがあなたたちのせいだと言うなら……それ以前に、九年前の私がささやかな禁忌に触れなければ、そもそもユージオたちが央都を目指すことも無かったのだから。  そう——ほんとは、わたしのせいなの。  アリスは目を開けた。  直立しているのに、目の前にキリトの俯けられた顔があった。  見上げると、呆然と自分を見下ろしているティーゼとロニエがいた。 「……ね? 体は、心の従属物なのよ」  自分の唇から流れた声は、驚くほど高く、幼かった。青いドレスの上に重なる白いエプロンをぽんぽんとはたき、絹糸のような金髪をなびかせながらくるりと一回転して、アリスは続けた。 「そして心は誰にも汚されない。私はこの齢のとき、術式で魂を刻まれ、記憶を操作されて整合騎士になったわ。でも、その心がいまの私なの。私はいまの自分が好きよ」  小さな両手を持ち上げ、アリスはロニエとティーゼの手を同時にきゅっと握った。  ぽたり、ぽたりと頬に落ちてきた少女たちの涙が、先ほどとまったく異なる色をしていることを、アリスは幼子の瞳で見てとった。  どどろん。  どどろん。  地面を揺るがす重低音は、ジャイアント族が打ち鳴らす竜革の太鼓だ。  巨大な心臓の鼓動に圧される無数の血球のように、攻撃部隊が最終陣形を展開させていくさまを、最後方の御座車から皇帝ベクタ=ガブリエルは無言で見守った。  先鋒は、ゴブリンの軽装兵とオークの重装兵が計一万。果ての山脈に穿たれた峡谷の幅にぴったり合わせて縦隊を組ませている。隊列の各所には、まるで攻城塔のごときジャイアントの巨体も配置されており、数はおよそ五百と少ないが、歩兵部隊を援護する主力戦車としての活躍が期待できるだろう。  亜人種混成部隊の後ろには、五千の拳闘士団、同じく五千の暗黒騎士団が第二陣として控える。新たに暗黒将軍を襲名した若い騎士は、先代の汚名を雪ぐつもりか先陣を希望したがガブリエルは退けた。騎士ユニットは全体的な士気の低下が予想されたので、その不確定要素を排するためだ。  第三陣は、オーガの弩弓兵七千と、女性ばかりの暗黒術師団三千。これは、歩兵の後ろから峡谷に突入させ、遠隔攻撃によって敵軍を殲滅するのが役目だ。術師総長ディーによれば、たとえ遠距離からでも、敵の主軸——整合騎士の姿さえ視認できれば、火力を一点集中することで斃し得るという。  正直なところガブリエルは、無敵とすら称されるその騎士たちと直接戦闘してみたい、そしてその魂を喰らってみたいという欲望を感じないでもなかった。しかし、何らかの突発的事態によってこのアカウントを喪っては元も子も無いし、アンダーワールド人、つまり人工フラクトライトは後にいくらでも生産できる。いまは“アリス”を押さえ、オーシャンタートルから脱出するのが先決だ。  内部時間にしてすでに八日、現実世界では十五分近くが過ぎ去っている。今後、ヒューマンキングダムを完全支配し、アリス捜索の命令を世界すみずみにまで伝達するのにさらに十日ほどはかかろう。そう考えれば、この戦争は可能な限り速やかに——最長でも丸一日ほどで片付けたい。 「あーあ、結局オレっちは出番なしっスかねえ、兄貴?」  隣で何本目かのワインボトルを抱えたヴァサゴがぼやいた。ちらりと視線を流し、少しばかり辛らつな口調で指摘する。 「見ていたぞ。お前、あのシャスターという騎士がミューテーションしたとき、オレを放って真っ先に逃げたろう」 「うへ、さすがは兄貴。見てますねぇー」  悪びれる様子もなく、ヴァサゴはにやりと笑った。 「いやぁ、あのオッサン本気すぎてちょっと引いちまったんスよ。ドンビキっすよ」  しばし横目で、ヒスパニックの若者の整った顔貌を眺めたあと、ガブリエルは短く問うた。 「ヴァサゴ、なぜこの任務に志願した?」 「へ? アンダーワールドへのダイブっすか? そりゃ勿論面白そうだから……」 「その前だ。オーシャンタートル襲撃任務……いや、違うな。なぜ今の仕事を選んだ? 警備会社の非合法活動部門などと……リスクばかりが大きい職場だろうに。お前の齢なら、ハンスやブリッグのような中東帰りの“戦争の犬”というわけでもあるまい」  ガブリエルにしては長い質問だったが、もちろん、ヴァサゴ・カザルスという人間に心底からの興味を抱いたわけではない。ただ、この若者の軽薄な態度の下に、何かがあるのか、それとも無いのかとふと思っただけだ。  ヴァサゴはひょいと肩をすくめ、同じっすよ、と答えた。 「そっちもやっぱり、面白そうだから……っス。そんだけっすよ、マジで」 「ほう……」  面白いのは何がだ? 銃が撃てること? それとも人を殺せることか?  そこまで聞くか、それとも会話を打ち切るかガブリエルが少し考えたそのとき、階段からこつこつと杖の音が響き、限界まで浅黒い肌を露出した美女——暗黒術師総長ディーが現れた。  恭しく一礼してから、唇をちろりと舐めて報告する。 「陛下、全軍の配置、完了いたしましたわ」 「うむ」  ガブリエルは組んだ脚を解くと玉座から立ち上がり、ぐるりと眼下を眺めた。  前方に展開する主力三万のほかに、主にゴブリンとオークからなる予備兵力一万七千、それに商工ギルドが受け持つ輜重部隊三千が御座車の左右に待機している。  この、総数五万に及ぶ軍隊が、ダークテリトリーに存在する兵力のすべてだ。その数は実に全人口の半分に及び、銃後に残っているのは女子供と老人だけだ。  だから、仮に五万ユニットを全損してなお敵の守りを破れなかったときは、計画の根本的な修正を余儀なくされる。と言うよりも、アリス確保の可能性はほぼ断たれる。  とは言え敵軍は、偵察の竜騎士によれば多くとも五千の規模だという。つまり整合騎士とやらさえ計画どおり排除できれば、敗北は有り得ない。 「……よし、ご苦労。大門の崩壊まではあとどれくらいだ?」 「おおよそ三時間でございます」 「では、一時間後に第一陣を峡谷に進入させろ。大門の手前ぎりぎりまで展開させて、崩壊と同時に一斉突撃。戦線を押し上げられるようなら、即時弓兵と術師を投入して一気に敵を殲滅するのだ」 「はっ。……一時間とかけずに敵将の首級をお持ちして見せますわ。もっとも、黒焦げになってしまうかもしれませんけど」  うふふ、とディーは微笑んでみせた。背後に控える伝令術師たちに早口で指令を伝え、深く一礼して階段を降りていく。  ガブリエルは巨大四輪車の前部に歩み寄ると、まっすぐ正面に屹立する巨大な石門を眺めた。  まだ二マイルほども先にあるはずだが、すでに頭上に圧し掛かってくるかのような存在感を発揮している。あの質量の塊が丸ごと崩壊するさまはさぞかし見ものだろう。  しかし、真の饗宴はそこから始まる。弾けては消える数千の魂は、きっと途方も無く美しい煌きを放つに違いない。オーシャンタートルのアッパーシャフトに立てこもるK組織のスタッフ連中は、自分たちがスケジュールした最大のスペクタクルを大モニタで見物できないことを悔しがっているだろうか。  どどろん。どどろん。  どん、どっ。どん、どっ。  テンポを速めた戦太鼓が、荒野を濃密に覆う餓えと猛りを、いっそう駆り立てていくようだった。  新たに支給された黄金の胸鎧と篭手を、アリスは入念に革帯を締めながら装着した。 “変身”が短時間で解除されてよかった、と考え、少し可笑しくなる。あの姿のまま前線に現れたら、副騎士長たちはさぞかし慌てただろう。  純白の、艶のある革製長スカートの上にも、黄金の小片をいくつも組み合わせた直垂を着ける。仕上げに金木犀の剣を左腰に吊るすと、カセドラル時代以上にきらびやかな騎士装が出来上がり、アリスはわずかに眉を顰めながら姿見を覗き込んだ。  薄暗い物資天幕に、山吹色の光源を積み上げたかのような有様だ。開戦は日没とほぼ同時の予定なので、宵闇にこの姿はさぞ目立つだろう。だがそれでいい。少しでも敵を引き付け、衛士たちやほかの騎士の損耗を軽くするのがアリスの役目だ。  最後に軽く髪を梳き、整えてから、アリスは涼やかに具足を鳴らして天幕を出た。  待ち構えていたように、エルドリエが駆け寄ってきて感嘆の声を漏らす。 「おお……素晴らしい……ソルスの光輝を凝縮したがごとき……まさにこれこそ我が師アリス様……」 「どうせ一時間も戦えば土埃に塗れます」  素っ気無く言葉を遮り、西空を見上げる。  陽光はすでに朱色へと変じつつある。地平線に消え去るまではあと三時間というところか。それと時を同じくして、ついに東の大門の天命が消滅する。三百年の封印が解けるのだ。  やれるだけのことはした。  この五日間、アリスも衛士隊の訓練に合流したが、彼らの練度はたった半年とは思えないほどの段階に到達していると思えた。驚いたのは、すべての者が、人界には存在しなかったはずの連続剣技を身につけていたことだ。  聞けば、副騎士長ファナティオがひそかに磨いた技を皆に特訓したのだという。最長でも五連撃までらしいが、本能のままに振るわれるゴブリンやオークの蛮刀相手には心強い武器となるだろう。  無論、独自の連続技体系を持つ暗黒騎士が出てくれば衛士には荷が重い。更に高速の連撃を持つらしい拳闘士も含めて、そのときは整合騎士が相手をするしかない。  要は、当初押し寄せるであろう亜人たちの大軍勢を最小の損耗でしのぎ切れるかどうかだ。  そして、それは即ち、弩弓と暗黒術の遠距離攻撃を防ぎきれるかどうかでもある。  その成否は、今やアリスひとりの能力にかかっている——。  視線を空から下ろすと、後方の補給部隊が最後の食事を煮炊きする煙が、幾筋も立ち上っているのが見えた。  あの下に、ロニエとティーゼ、そしてキリトがいる。  護る。なんとしても。 「……アリス様、そろそろ……」  エルドリエの声にうなずき、アリスは片足を引いた。  ふと思いつき、ただ一人の弟子にじっと視線を注ぐ。 「な、何か?」  戸惑ったように瞬きする、薄い色の瞳をじっと見つめ、アリスは引き締めていた唇をわずかに緩めた。 「……これまで、よく尽くしてくれましたね、エルドリエ」 「は……な、なんと!?」  唖然と立ち尽くす白銀の騎士の左手に、そっと自分の右手を添え、続ける。 「そなたが傍に居てくれたことは、私にとっても救いでしたよ。最初の師デュソルバート殿に叩頭してまで私の指導を欲したのは……幼かった私を案じたから、そうなのでしょう?」  整合騎士の老化は、基本的に凍結されている。しかし九年前、わずか十一歳にして騎士になったアリスは、天命が充分に増加するまで凍結処理を受けなかった。  今でこそ外見的にはエルドリエとほぼ同年齢だが、彼がアリスに師事した四年前には、さぞかし心細げな少女に見えたことだろう。まさにその年頃のティーゼたちと触れ合った今なら、それがわかる。 「とっ……とんでもない、そのような不遜なことは断じて! 私はただ、アリス様の剣技の見事さに心底敬服したがゆえにっ……」  白皙に血の色をのぼらせて否定するエルドリエの手を一瞬ぎゅっと握り、離して、アリスは今度こそしっかりと微笑んだ。 「そなたが支えてくれたから、私は倒れることなく今この場所まで歩き続けることができました。有難う、エルドリエ」  数瞬絶句した若き騎士の目に、突然、大きな涙の粒がわきあがった。 「…………アリス様……なぜ……できました、などと」  ごく細く、掠れた声がそう問うてくる。 「なぜ、道がこの地で終わってしまうような言い方を……なさるのです。私は……私はまだ、まるで教わり足りませぬ。まだあなたの足元にも達していない。これからも、ずっと、ずっと私を鍛え導いていただかねばなりませぬ……!」  伸ばされた、震える右手が自分に触れる寸前——。  アリスは、打って変わって厳しい声で叫んだ。 「整合騎士エルドリエ・シンセシス・トゥエニシックス!」 「は……はっ」  ぴたりと手を止め、騎士が直立不動の姿勢を取る。 「師として最後に命じます。……生き抜きなさい。生きて平和の訪れを見届け、そして取り戻しなさい。そなたのまことなる人生と、愛する者を」  カセドラル最上階には、アリス以外のすべての整合騎士の“奪われた記憶”と“愛する者”がいまも封印されている。それらをあるべき場所、かたちに戻すすべはかならずあるはずだ。  直立したまま、滂沱の涙をこぼすエルドリエに強く頷きかけ、アリスはばっと身を翻した。黄金の髪と純白のスカートが、刻一刻色を深める大気を眩く切り裂いた。  まっすぐ目の前に、暗く沈む峡谷と“東の大門”が見える。  これからアリスは、生涯最大最長術式の詠唱に入る。ソルスからの供給が停止した空間神聖力を一滴あまさず凝集し、敵軍に痛撃を加えるために。  もし、わずかにでも意識集中を損なえば、神聖力が暴発しアリスの存在を一片も残さず消し飛ばすだろう。  だが、もう恐怖も心残りもない。整合騎士アリスとして、ベルクーリやエルドリエたちの愛情を受け、またルーリッドのアリスとしても、妹シルカとともに半年も暮らすことができた。  そして何より、ユージオとキリトという奇跡の剣士たちと出会い、戦い、触れ合うことで、人としての感情を——哀しみ、怒り、それに愛を知ったのだ。これ以上何を望もう。  アリスは、音高く装備を鳴らしながら、開戦を待つ守備軍の中央を一歩一歩まっすぐに進んでいった。  三百年の停滞の幕引きであり、同時に剣戟と殺戮の世の幕開けでもあるその現象は、ソルスの朱い輝きが地平に没するのと同時に訪れた。  五千の人界守備軍も、五万の侵略軍も、一様に息を潜めただただ目を見開いた。  創世の時代より地上に屹立しつづけた大門は、無限にも等しかったはずの天命のさいごの一滴が零れ落ちた瞬間、まるで死に抗うように巨獣の雄叫びにも似た地響きを世界中に轟かせた。それは不吉な遠雷となって、西は央都セントリアから、東は帝城オブシディアまでも届き、住民は皆足を止めて空を仰いだ。  数秒後。  二枚の岩板の中央に、天辺から根元まで一直線の亀裂が音高く走った。その内側から白い光がほとばしり、両側に布陣した全兵士は思わず目を瞑った。  亀裂は凄まじい勢いで大門の隅々にまで伸び、それを追って白光も網目のごとく広がった。刻まれた神聖文字が、一瞬炎に包まれて紅く輝き——そして生き物のようにうねって形を変えた。新たに出現した文字列は、“Final Pressure Experiment Stage”というものだったが、その示す意味を理解できたものは戦場にたった二人しか居なかった。  文字が燃え尽きるのとほぼ同時に。  亀裂から天まで届くほどの閃光が立ち上がり、ついに“東の大門”は、上部から崩壊しはじめた。 「うおっ……スゲッ……!」  御座車の手すりから身体を乗り出し、ヴァサゴが興奮した声で叫んだ。 「あーあっ、マジ録画しとくんだったぜ! ハリウッドがものすごいカネ出したろうになあ! つうか、AIだの何だのよりもこの技術を頂くべきっすよ兄貴! VFXスタジオでも作りゃ、あっという間に億万長者だ!」  ガブリエルも、眼前の一大スペクタクルシーンにさすがに目を奪われていたが、ヴァサゴの即物的な喚き声に短く息をつくと、冷静に指摘した。 「録画は出来ん。あれはポリゴンじゃないからな。STLに接続している今しか見られないショウだ」  彼方の大門は、すでに半ばちかくまで、無数の瓦礫となって崩れ落ちつつある。轟音も震動も凄まじいものがあるが、巨大な岩塊たちは皆、地面に墜落する前に光となって宙に溶けていく。あの様子なら、残骸がバリケードとなってしまう気遣いは無さそうだ。  ガブリエルは漆黒の毛皮マントを翻して玉座から身を起こすと、ディーが置いていった大型の髑髏《スカル》に歩み寄った。  脚高の小テーブルに据えられた、艶やかな黒色のそれは、音声伝達能力を持つ神器《アーティファクト》らしい。この親髑髏に向って話せば、たちまち将軍たちに持たせてある子髑髏へと伝わるということだ。ストライカー装甲指揮車のマルチチャンネル通信システムには劣るが、いちいち伝令を走らせるよりは遥かに即時的だ。  髑髏のうつろな眼窩にむかって、ガブリエルは鋼のように引き締まった声を放った。 「貴様らが待ち望んだ“刻”が来た! 殺せるものはすべて殺せ! 奪えるものは余さず奪え! ——蹂躙せよ!!」  軍勢のそこかしこから、大門の崩落音を上回るボリュームで、ウォー、ウォーという鬨の声が沸き起こる。突き上げられた無数の蛮刀や長槍が、かがり火を反射させて血の色に輝く。  右手を高く突き出し、まっすぐ前方に振り下ろしざま、ガブリエルは総司令官としての最初の命令を下した。 「第一陣——突撃開始!!」  侵略軍先陣の主力を構成するゴブリン部隊の右翼をまとめるのは、コソギという名の、山ゴブリン族の新たな長だった。暗黒将軍の叛乱に巻き込まれて死んだ先代の長ハガシの、十七人もいる息子のひとりだ。  ハガシは、歴代の長のなかでも最も残忍で貪欲と称されていた。コソギはその資質を色濃く受け継いだが、それだけではなくゴブリンにあるまじき知性をその醜い外見の下に隠し持っていた。  今年で二十歳になる彼は、もうずいぶん長いこと、なぜゴブリン族が闇の国の五種族のなかでももっとも最下層に位置づけられているのか、と考えてきた。  たしかにゴブリンは、五族にあって最も矮躯であり、力も弱い。しかしかつてはその不利を補うに足るじゅうぶんな頭数があり、事実いにしえの“鉄血の時代”には、オークや黒イウムどもと対等の戦いを繰り広げた。  やがて全種族が疲弊するとともに戦乱は終結し、五族平等条約が結ばれ、ゴブリンの長も十侯会議に席を得た。しかし実情は決して平等などというものではない。山ゴブリンも、平地ゴブリンも、与えられている領土は北方の痩せ細った土地で、子供は常に餓え、年寄りはばたばた死んでいく。  つまりは、他種族の長どもにしてやられたのだ。ゴブリン最大の強みである数を殺ぐため、広大だが地味の乏しい土地にうまいこと封じ込めた。ゆえにゴブリン族は、どれだけ時代が過ぎようとも生きのびることだけに精一杯で、文明を育てることができない。黒イウムのように、整備された養成機関で子供を訓練するどころか、口減らしのためにまとめて川船で流すような有様だ。他種族の領土に流れ着いた子供たちがどのような扱いを受けるか、承知の上で。  肥沃な土地と充分な資源さえあれば、いま兵士たちが握っているような粗悪な鉄を鋳流した蛮刀ではなく、精錬された鋼鉄製の装備を与えることもできる。養成所で剣技と戦術を学ばせ、あるいは黒イウムに独占されている暗黒術すらも習得できるかもしれない。  そうなれば、もうゴブリンを下等種族だなどとは呼ばせない。コソギの父ハガシも、常に黒イウムどもへの妬みと劣等感に苛まれていたが、そのために何をすればよいのか考える頭が無かった。この戦で武功を立て、皇帝の覚えを目出度くする程度の知恵しかなかったのだ。  武功など立てられるものか。この全軍の配置を見ればそれが解る。  おそらく、基本的な作戦を進言したのは暗黒術師総長だろう。あの女は、はなからゴブリン族を使い捨てにするつもりで、“一番槍の栄誉”を押し付けてきたのだ。先陣切って突撃したゴブリンが、伝説の悪魔こと整合騎士にばたばた切り伏せられているところを、安全な後方から暗黒術でまとめて焼き払い、勲功をうまうまと掻っ攫う肚だ。そうはさせるものか。  と言って、もちろん命令に背くわけにはいかない。降臨した皇帝ベクタの力のほどは、ゴブリンの長二人と暗殺ギルドの長を一瞬で絶命させた暗黒将軍の攻撃を受け、毛ほどの傷も負わなかった時点で明らかだ。皇帝は明確な強者であって、強いものには従わなくてはならない。  だが、あの黒イウムの女は違う。いまやコソギも対等な十侯なのだ。腹黒い姦計に諾々と従ってやる義理はない。  与えられている命令は、ただ先陣として突撃し、敵軍を殲滅せよというものだ。脚を止めて、後方から術式が降りそそぐまで戦線を支えろなどとは言われていない。そこに、あの女の裏をかく余地がある。  コソギは、大門が崩壊する直前、腹心の隊長たちにひそかにある指令を下していた。  与えられた黒髑髏がカタカタ顎を鳴らし、皇帝の突撃命令を伝えたとき、彼は革鎧の懐に手をいれ、かねて準備していた小さな球を取り出した。今頃、ほかの隊長も同じことをしているはずだ。  轟音とともに、かつて東の大門だった、最後の岩塊が崩れ落ち、光となって消えた。  眼前にまっすぐ開けた谷の奥に、たくさんのかがり火と、煌びやかな武器防具の照り返しが見えた。  白イウムの守備部隊だ。  奴らの向こうには、山ゴブリン族に栄光の時代を到来させるに充分な、豊かな土地と無限の資源、それに労働力がたっぷり満ち満ちている。  捨石になどなってたまるものか。その役は、哀れにもふたたび愚かな長を戴いてしまった平地ゴブリン族とオークどもに担ってもらおう。  コソギは、左手の球をしっかり握り締め、右手で鈍く光る鋳鉄のだんびらを突き上げて、金属質の声で叫んだ。 「てめえら、固まって俺についてこい!! ——突撃ぃぃぃぃッ!!」 「第一部隊、抜剣! 戦闘用意!! 術師隊、治癒術詠唱用意!!」  副騎士長ファナティオの鋭利な叫びが、宵闇を切り裂いた。  すかさず、じゃりぃぃん!! という鞘走りの重唱がそれに続く。数を抑えられたかがり火の赤い色が、刃に沿って流れた。  前方からは、津波のような轟きが凄まじい高速で迫る。  無数のゴブリンが発する小刻みな足音。オークのものはそれより少し間が広い。さらに、ジャイアントの大槌を打ちつけるような走行音が不規則に混じり、それら震動に甲高い鬨の声が加わる。かつてどのような人間も聞いたことのない、戦争という名の巨獣の咆哮。  大門から二百メル手前の防衛線に並ぶ、三百人の衛士に加えられた心理的重圧は恐るべきものだった。剣を一合も交えぬうちに、隊列が瓦解し散り散りに逃げ惑っても不思議は無かった。すべての衛士にとって、戦争はおろか、命の掛かった実戦すらも初めての経験なのだ。  彼らをその場にとどめ、剣を握らせ続けたのは、防衛線最前列に等間隔に立つ、三人の整合騎士の背中だった。  左翼を受け持つのは、“星霜鞭”エルドリエ。  中央には、指揮官でもある“天穿剣”ファナティオ。  そして右翼を、“熾焔弓”デュソルバートが守る。  闇の底にあってなお眩く煌く全身鎧をまとった三騎士は、両足でしっかと地面を踏みしめ、微動だにせずその時を待った。  騎士たちの心中にも、無論恐れも、怯えもあった。数十年から百年以上もの戦闘経験があると言っても、そのすべては暗黒騎士との一対一の決闘か、せいぜい十、二十の亜人族を相手にしたものでしかないのだ。これほどの圧倒的大軍を眼前にしたことは、第二位のファナティオにも——あるいは後方の第二部隊を指揮する騎士長ベルクーリにすら無かった。  その上、彼らはもう盲目的に従うべき最高司祭アドミニストレータも、教会が象徴していた絶対的正義も失っていた。実際のところ、央都に残った整合騎士の中には、最高司祭の命令なくしては指いっぽん動かせぬと言った者も居たのだ。  この戦場に立つ騎士たちの、最後の拠り所、それは——皮肉にも、かつて“シンセサイズの秘儀”の際に破壊し尽くされたはずの、たった一つの感情だった。  デュソルバート・シンセシス・セブンは、熾焔弓を握る左手の、薬指に嵌まる古ぼけた指輪を右手の指先でそっと撫でた。  最古の整合騎士のひとりである彼は、ほぼ百年という年月を、任ぜられた北方の治安を維持することだけに費やしてきた。  果ての山脈を侵すダークテリトリーの勢力を退け、任地内に発生した大型魔獣を駆除し、まれには禁忌目録を犯した罪人を連行した。それら任務がなぜ与えられているのかを考えることは遠い昔に止めた。己を神界から召喚された騎士なのだと信じて疑わず、地上に暮らす人間たちの営みについて、一抹の興味も抱くことはなかった。  そんなデュソルバートをときおり戸惑わせたのは、目覚めの際に訪れるひとつの夢だった。  艶やかに白い、小さな手。その薬指には、簡素な銀色の指輪が光っている。  手は彼の髪を撫で、頬に触れ、そしてそっと肩を揺する。  囁き声。  起きて、あなた。もう朝よ……。  デュソルバートは、その夢のことを誰にも言わなかった。もし元老院の耳に入れば、不具合として消去されてしまうと思ったからだ。彼はその夢を失いたくなかった。なぜなら、夢に現れる小さな手に嵌まるのと同じ指輪を、彼も騎士となったその時から自分の指に見出していたからだ。  あれは、神界での記憶なのだろうか。もしこの下界で使命を全うし、天上への帰還が許されれば、再びあの誰かとめぐり合えるのだろうか。デュソルバートは、長い間その疑問を胸に秘め、あるいはただ一つの望みとして心の奥底に仕舞い続けてきたのだ。  しかし——半年前、カセドラルを激震させたあの事件に於いて。  デュソルバートは、反逆者たる二名の若者と戦い、武装完全支配術までも用いながら敗北した。未知の剣技で熾焔弓の炎を打ち破った黒髪の若者は、デュソルバートに向って言った。  整合騎士は、神界から召喚されてなんかいない。地上に暮らすふつうの人間が、記憶を消され騎士に仕立てられたに過ぎない。  完全無謬であるはずの最高司祭の言葉が偽りであるなどとは、とても信じがたいことだった。しかし、あの若者たちは最終的に、アドミニストレータその人に挑み、勝利してしまった。いや、それ以前にデュソルバートには解っていたのだ。彼らの剣閃には、偽りの色はひとすじも混じっていなかったと。  となれば——あの手の持ち主もまた、天上ではなく、この地上に生きた人間であるということになる。  その考えを受け入れたとき、デュソルバートは騎士となって以来はじめてすることをした。銀の指輪を胸に抱き、滂沱の涙とともにむせび泣いたのだ。なぜなら、整合騎士と異なり、人間の天命は長くとも七十年で尽きてしまうから。つまりもう、彼を「あなた」と呼んだ誰かには、二度と会えないと解ってしまったから。  それでも彼は、騎士長の求めに応じて人界を守るため、この地に赴いた。  あの手の主が、ほんの短い年月であったにせよ、彼と生き、暮らし、目覚めを共にしたこの世界を守るために。  つまり、騎士デュソルバートをいまこの瞬間、闇の大軍勢の前にしっかりと立たせているのは、消し去られたはずのひとつの感情——“愛”の力だった。  そして彼のあずかり知らぬことではあったが、同一線上に立つファナティオ、またエルドリエも、それぞれの愛する者のために戦おうとしていたのだ。  デュソルバートは指輪から右手を離すと、背後に据えられた巨大な矢筒から、鋼矢を四本同時に掴み出した。  それをまとめて熾焔弓につがえる。  長い術式詠唱はもう済ませてあった。エルドリエらは温存するようだが、彼の奥義は混戦のなかでは力を発揮できない。武器の天命の半ばまでは消費する覚悟で、デュソルバートは大きく息を吸い、最後の一句を放った。 「リリース・リコレクション!!」  灼熱。  吹き上がった巨大な火柱が、二百メル先に迫り来る侵略者たちの獣面をあかあかと照らし出した。  水平に引き絞られた四本の矢もまた、純粋な炎と化して紅く輝いた。 「——整合騎士デュソルバート・シンセシス・セブンである! 我が前に立つもの悉く骨すら残らず燃え尽きると知れッ!!」  名乗りの韻律は、かつて北方辺境のとある小村から——本人の記憶には残らぬことではあるが——ひとりの少女を連行した際のものとまったく同一だった。しかし十字の鉄面を外した今、声は抑揚豊かに、高らかに響いた。  直後、限界まで張り詰めた弦が解放され——。  ズドオオッ!!  放射状に発射された四筋の火線が、この戦いの幕を開ける最初の攻撃となった。  そして、最初の犠牲者となったのは、新たな長シボリに率いられる平地ゴブリンたちだった。シボリは、山ゴブリンの新族長コソギほどの知恵も企みもなく、ただ腕力のみで長の座に就いたがゆえに、圧倒的破壊力を持つと予想される整合騎士の攻撃に対して一切の策を用意せず、ただ愚直な突撃を命じたのみだった。  火焔弾は、密集して突進するゴブリン軍を正面から貫き、最大の効果を上げた。  具体的には、合計で実に四十二人にのぼるゴブリン歩兵を焼き尽くしたのだ。その周囲の集団は浮き足だち、悲鳴が飛び交ったが、しかしもともと平地ゴブリンの突撃には秩序も隊列も意図すらも存在せず、血に餓えた蛮兵たちは斃れた仲間の死体を踏み潰して疾駆を続けた。  デュソルバートは、物も言わずに再び四本の矢を番え、放った。  今度は拡散させず、四弾をひとつにまとめて巨大な火球を作り出す。  グワアアッ!!  という爆発音とともに、敵の戦列に火柱が屹立し、空中に幾つもの矮躯が舞った。その数は五十を超えていたが、しかし、ゴブリンの突進は止まらない。止められるはずもないのだ、背後からはオーク軍がその巨体を揺らしながら追随してきており、後退などしようものなら圧倒的重量にひき潰されてしまう。  平地ゴブリンたちにも、山ゴブリンの長コソギのように具体的な思索には出来ないまでも、最下層種族として矢面を突撃させられていることへの怒りと恨みがあった。そしてその感情は、ただ、いずれ彼らよりも下位の奴隷となるはずの白い人間たちへの殺意へと転換された。  長シボリは、ゴブリンとしては図抜けて逞しい両腕に握った巨大な戦斧を振り上げ、獰猛な絶叫を放った。 「てめェら! まずあの弓使いを殺せ! 囲んで刻んで轢き潰せ!!」  殺せ!! 殺せ!! 殺せ!!  平地ゴブリンたちは一斉に咆哮した。  デュソルバートは、その殺意を一身に受けつつ三度四矢を番え、発射した。またしても五十以上のゴブリンが消し炭へと変わったが、敵部隊の総数はいまだ三千を超える。  彼我の距離が五十メルを切ったところで彼は熾焔弓の炎を収め、通常の射撃へと切り替えた。矢筒から凄まじい速度で鋼矢を掴み出しては目標も定めずに乱射する。  そのデュソルバートの両側に、抜剣した衛士たちがだだっと進み出た。 「騎士殿を守れ!! 奴等の刃を触れさせるなッ!!」  叫んだのは、いまだ二十代の若い隊長だった。見事な体躯に両手用の長剣を携え、ぐうっと大きな構えを取る。  下がれ、無理をするな、とデュソルバートは言いたかった。武技を究めた彼からすれば、半年の猛訓練を経てもなお、衛士たちの剣は実戦には心許ないものだったからだ。  しかし、彼はぐっと息を溜め、低く叫んだ。 「済まん……左右を頼む」 「お任せあれ!!」  隊長が、ニッ、と太く笑った。  直後——。  殺到してきたゴブリン軍と、迎え撃つ衛士隊の剣が、最初の剣戟を音高く響かせた。  それより数瞬前。  峡谷の中央では、副騎士長ファナティオが、この世界の常識に照らせば奇妙としか言いようのない体勢で敵軍を迎え撃とうとしていた。  片膝立ちで、上体をまっすぐに伸ばしている。肩の高さに持ち上げた右手には、神器“天穿剣”の柄がしっかり握られている。しかし拳の向きはいわゆる逆手で、水平に固定された剣の後端を鎧の肩当てで支えている状態だ。  対して左手は前方にぴんと伸ばされ、掌で天穿剣の切っ先やや下を受け止めている。もしこの光景をガブリエル、あるいはヴァサゴが見れば、まったく同じ感想を抱いたことだろう、つまり——まるでライフルを構える狙撃兵のような。  ある意味ではそのものだとも言える。ファナティオは、殺到する敵軍を限界まで引き付けつつ、もっとも効果的な狙点を見定めているのだ。デュソルバートの熾焔弓は、矢の放ち方によって効果範囲を拡散させられるが、天穿剣はあくまで極細の光線を一点凝縮で発射することしかできない。ゆえに、膨大な敵軍に無闇と撃ち込んでも効果は薄い。  狙うべきは、敵軍のどこかにいるはずの指揮官、暗黒界十侯の誰かだ。  ダークテリトリーの軍勢は、完全な力のヒエラルキーによって統率されている。ゆえに兵士たちは上位者の命令には絶対服従し、どんな状況でも命ぜられるまま最後の一兵までが挑みかかってくる。だがそれは、裏を返せば、指揮官が倒されたときに統制が失われるのもまた一瞬だということだ。  ……でも、実は私たちも、かつてはそうだった。  ファナティオは、刹那の感慨を抱く。  最高司祭アドミニストレータ斃るる、の報は整合騎士団を瓦解させかけた。混乱の極みにあった騎士たちを立ち直らせたのは、ベルクーリの言葉だった。  ——オレたちの使命、存在意義は、最高司祭と元老院の命令に従うことか?  ——否。人界を、そこに暮らす人々を護ることだ。  ——さらに否。護りたいという意思を、自ら発し、体現することだ。  現実には、すべての騎士がその言を理解し賛同し得たわけではない。それは、この戦場に集った騎士がわずか二十名しか居ないことが示している。  しかしその全員が、たとえ最後の一人となろうとも戦い抜く意思を秘めているはずだ。おそらくは、死地に馳せ参じてくれた三千の衛士たちもまた。そこがダークテリトリー軍とは決定的に違うところだ。  ファナティオは、百年ぶりに晒した素顔をぴたりと愛剣の柄につけ、両の眼にすべての集中力を注ぎ込んだ。  地響きを立てて突進する敵軍は、すでに百メルの距離まで肉薄している。右翼では、デュソルバートが記憶解放技による攻撃を開始したらしく、赤々とした炎と爆発音が立て続けに響きはじめている。  その、夜闇を染めた一瞬の輝きに——。  ファナティオは、ついに探していた目標を捉えた。  両翼のゴブリン軍を追い立てるように、中央を突き進んでくる巨大な影。恐るべき体格を誇るジャイアント族だ。その先頭に立つ、周囲より頭ひとつ抜きん出た姿は、かつて一度だけ目にしたことのある彼らの長・シグロシグに違いない。  巨人族は凄まじく誇り高い、あるいは高慢な連中だ。体の大きさだけを優劣の尺度とする彼らは、暗黒界の実質的支配階級である闇人族をも内心では見下しているらしい。  となれば、戦端が開かれる前に長を一撃で——しかも人族に——倒されれば、その動揺もまた巨大だろう。  ファナティオは大きく息を吸い、溜め、囁いた。 「リリース……リコレクション」  低く震動するような音を立てて、天穿剣の刀身全体がまばゆい白に発光した。  柄と切っ先が作る直線上に、シグロシグの樽のような胸の中央をぴたりと捉え——短く、鋭く。 「貫け——光ッ!」  ズバァァァッ!!  ソルスの力を凝縮した熱線が、戦場を貫いた。 「……はじまった」  整合騎士レンリ・シンセシス・フォーティナインは、くぐもった爆発音を遠く聞きながらぽつりと呟いた。  レンリは、大門防衛の任をみずから志願した、七名の上位騎士のひとりだ。つまり守備軍の全戦力のうち、少なからぬ割合を個人で担う主力中の主力と言っていい。  しかし今彼が膝をかかえてうずくまっているのは、本来しっかと立っているべき、守備軍第二部隊左翼最前列ではなかった。そのはるか後方、遺棄される予定の物資天幕の薄暗い片隅だった。  逃げ出してしまったのだ。  ほんの十分前、夜闇と開戦直前の熱気にまぎれて遁走し、無人の天幕を見つけて潜り込んだあとは、ただひたすら息を殺し耳をそばだてていたのである。  レンリがそのような挙に出てしまった理由は、彼が守備軍に参じた動機とまったく同一のものだった。  失敗作。  最高司祭にその烙印を押され、レンリは七年間も深凍結されていた。その汚名を返上するべくこの地に身を投じたはずなのに、最後の最後で恐怖に耐えることができなかったのだ。  レンリの記憶からは消去されていることだが、彼はかつて、南方帝国はじまって以来の天才剣士と呼ばれた少年だった。弱冠十三歳にして央都セントリアに上り、その翌年には四帝国統一大会で優勝するという快挙を成し遂げて、整合騎士へと取り立てられ——あるいは改造された。 “シンセサイズ”を経て目覚めてからも、彼は剣に凄まじい天分を示し、たちまち上位騎士に任ぜられ最高司祭から最大の賛辞とともに神器を与えられた。  カセドラルに秘蔵される数多の神器の授受に際しては、アドミニストレータ、あるいは騎士本人が生涯のパートナーとなる相手を選ぶわけではない。実際にはその逆、神器が使い手を選ぶのだ。騎士の魂と神器のリソースとの間に発生する共振現象によって。  レンリと彼の神器、双投刃“比翼《ヒヨク》”はたしかに強く共振した。  しかし——ありうべからざることに、彼は一度として発動できなかったのだ。上位騎士の真価たる、武装完全支配術を。  最高司祭の興味が離れるには半年で充分だった。彼のすぐあとに整合騎士となった“フィフティ”の、圧倒的な武才学才がそれを後押しした。  すべてレンリの責に帰すのは酷というものだろう。|フィフティ《アリス》の才能は、それをもって最高司祭に整合騎士団の完成を決断せしめ、翌年からの大会優勝者をみな素体として凍結保存させてしまったほどだったのだから。  だが現実として、レンリは失敗作の判断を下され、七年もの長い眠りを強制されることとなった。  褐色の氷へと変ずる瞬間、彼が強く意識していたのは、巨大な欠落感だった。  自分には大切な何かが欠けている……だから、“比翼”は共振すれども解放されなかったのだ、という。  そして七年後、レンリは再び目覚めた。  あたかもカセドラルを激震させた反逆事件の真っ只中だった。常駐する騎士たちが次々と敗北し、切り札たるフィフティまでもが生死不明となるに及んで、元老チュデルキンの判断で再起動させられたのだ。  しかし、レンリは今度も責務を果たせなかった。完全な覚醒へといたる前に、チュデルキンも、最高司祭までもが斃れ、ようやく動けるようになった彼が目にしたのは、混乱の極みにある騎士団の姿だった。  ダークテリトリー全軍の一斉侵攻に立ち向かうという絶望的な任務への参加を、七年ぶりに目にする騎士長ベルクーリは求めていた。  それに応じた騎士たちの——なんと雄々しく輝いていたことか。  彼らと共に行けば、分かるかもしれない。自分にいったい何が欠けているのか。なぜ神器は応えてくれないのか。  完全に自信を喪失していたレンリは、おずおずと手を挙げ、前に進み出た。下位騎士たちのあいだから、冷笑を含んだ視線が浴びせられたのは錯覚ではあるまい。しかしベルクーリは力強くうなずき、レンリの肩を掴み、ただひと言を口にした。頼りにしているぞ、と。  ——なのに。  初めての戦場、いやレンリにとっては初めての実戦の重圧は、予想を遥かに超えるものだった。直接視認はできないのに、数百メル前方にひしめく闇の軍勢の殺意が、熱い鉄臭さとなって押し寄せてきて、気付けばレンリは逃げ出してしまっていたのだった。  戻らなければ。立たなければ。いま立ち上がらなければ、ぼくは永遠に失敗作のままだ。  わずかな時間に、何度そう自分を叱咤しただろう。  だが、抱えこんだ両膝から顔すらも上げられないうちに、ついに響き渡った開戦の轟音——。 「はじまって……しまった」  レンリはもう一度呟いた。  両腰に下がる一対の投刃が、彼を責めるようにかすかに哭いた、気がした。  もう戻れない。いまさらどんな顔で、自分を信じてくれた騎士長や衛士たちの前に立てよう。いや——そもそも、ぼくなんか居ても居なくても大差ないんだ。武装完全支配が使えない上位騎士なんて、むしろ邪魔なだけだ。  いっそう深く、両膝のあいだに顔をうずめようとした——その時。  天幕の入り口から、小さな声が届いてきて、レンリはびくっと全身を震わせた。 「ここは……どう?」  まさか探しにきたのか!? とレンリは騎士らしくもなく竦み上がったが、しかし続いて、別の声が聞こえた。どちらも、若い女性らしい。 「うん、ここなら大丈夫そうね。先輩を奥に隠して、私たちは入り口を守りましょう」  ジャイアント族の長シグロシグは、長いあかがね色の顎鬚と細かく編みこんだたてがみ、小山のような体躯、そして数多の傷がきざまれた魁偉な容貌を持つ齢五十七の伝説的闘士だった。 “力で支配する”というダークテリトリー唯一の法を、もっとも純粋に奉じ、実行しているのが彼ら巨人たちだろう。ほんの幼児の頃から、ありとあらゆる種類の力比べ、技比べ、胆比べで無限回の選別にかけられ、暗黒騎士団以上の厳密な序列が決定される。彼らの領地は西方の高原地帯だが、そこに豊富にスパンするはずの巨獣、魔獣のたぐいは常にほぼ枯渇状態にある。巨人たちが、さまざまな通過儀礼のターゲットに指定し、片端から狩り尽くしてしまうからだ。  なぜそこまでして、純粋な強者たらんとするのか。  そうしなければ、フラクトライトが崩壊してしまうのだ。  ダークテリトリーの亜人四種族はすべて、異形の体に人間の思考原体を封じ込めた、ひどく歪な存在だ。ゴブリンたちは、その矮躯から永続的に生じる人間への劣等感を、恨みのエネルギーに転換することで意識崩壊を抑えている。  そしてジャイアントは逆に、人間への強烈なまでの優越感を手に入れることで、“人にして人に非ざる”ゆがみを抑え付けているのだ。  すべての巨人は、少なくとも一対一の戦いでは、人間には絶対に敗れてはならない。それが彼らの精神の拠り所であり、絶対の掟だった。だからこそ過剰なまでのイニシエーションを設定し、種族の総数を削ってまでも、個体の優先度を限界まで引き上げてきたのである。  ゆえに——。  この戦場に召集された五百のジャイアント族戦士は、その寡黙な物腰とは裏腹に、強烈な闘志を腹の底に滾らせていた。いにしえの“鉄血の時代”以降に生まれた世代である彼らにとって、初めての対人間族大規模戦闘という華々しい見せ場なのだ。  長シグロシグに至っては、本気で腹を決めていた。  初回の突進で敵全軍を屠り、戦争を終わらせてやる、と。  どうやら皇帝に主力と位置づけられているらしい暗黒騎士団、暗黒術師団、拳闘士団には、一度の出番も与えない。奴ら抜きで勝利することで、この“十侯時代”にあっても、巨人こそがもっとも優越した種族であることを証明するのだ——と。  与えられた伝声髑髏が、突撃命令をカタカタと発したとき、シグロシグは全身に刻まれた古傷がかあっと熱を帯びるのを感じた。それらはすべて、素手で引き裂いてきた無数の大型魔獣の力が乗り移っている証だった。 「踏 み 潰 せ !!」  発した命令はただそれだけだった。  そしてそれで充分だった。周囲の頼もしい勇士たちと同時に、右手の巨大な戦槌を振り上げ、地響きのごとき雄叫びを放ちながらシグロシグは疾駆を開始した。  前方の闇の底には、麦粒のような人間たちの群れが見える。  身長三メル半に達するジャイアントにとっては、ほとんどゴブリンと変わらないひ弱な姿だ。装備する剣など、岩鱗竜の仔の牙にも及ばない。  かたっぱしから叩き潰し、蹴り飛ばし、引き千切る。  シグロシグの魂に刻まれた、人間への優越回路が加熱し、快感のスパークを散らした。四角い顎が歪み、凶暴な笑みが漏れた。  刹那。  異質な、しかしかすかに憶えのある感覚が、彼の背骨をそっと撫でた。  何だこれは。  冷たい。痺れる。氷の針。  昔——とおい、とおい昔、同じ感覚を。“ひよっこ谷”の奥で。はじめての試練。黒嘴鳥の卵を取りに。あのとき感じた——これは——  シグロシグは疾駆しながら目を見開き、まっすぐ前方を注視した。  谷底にひざまずく、小さな小さな人間が見えた。髪が長く、体が細い。女か。きらきらする鎧を着込んでいる。騎士。  果ての山脈の上を飛ぶ銀色の竜騎士を、かつて一度だけ見たことがあった。降りてきたら首級を取ってやるつもりだったが、シグロシグに山を越える意思無しと判断したのか、そのまま飛び去ってしまった。逃げたか、とその時は思った。  だから、あんな奴ら大したことはないはずだ。  なのに——あの女騎士の黒い目——。  まだ百メル近い距離があるのに、シグロシグは跪く騎士から注がれる視線をまざまざと意識した。そこには、本来あるべき畏れも、怯えも、大釜の湯に落とした塩一粒ぶんほども含まれていなかった。  かわりに、獲物を見定める冷徹さだけが存在した。  狩られる。  巨人族一、つまりあらゆる種族のなかで最強の戦士たるこのシグロシグが。 「ヒゴッ…………」  のどの奥から、厳つい容貌にまったくふさわしくない、裏返った悲鳴が漏れた。  両脚が萎えたように力を失い、右手の戦槌が途方もなく重くなった。結果、シグロシグは体勢を崩し、つんのめった。  直後。  ズバァッ!! という、これまで聞いたどんな音にも似ていない唸りとともに、女騎士の腕からまばゆい光の槍が一直線に発射された。それは、シグロシグのすぐ前を走っていたジャイアントの右胸を呆気なく貫通し、しかもそこで止まらなかった。  もしシグロシグが転ばなければ、槍は正確に彼の心臓を吹き飛ばしていただろう。  その代わりに、白い光は巨人の長の立派なたてがみの右半分と、いくつもの玉環を飾った長い耳をまるごと蒸発させた。  さらに、背後に居た腹心ふたりの頭を貫き、致命傷を与えてからようやく小さな光の粒を散らして消滅した。  一瞬で天命を全損させられた三人が、重い地響きとともに立て続けに倒れるさまを、シグロシグはほとんど意識できなかった。自分の頭の右側を焼き焦がされた猛烈な痛みすらも、彼を襲ったひとつの感情の前には小虫に刺されたようなものだった。  それはつまり——恐怖。  シグロシグは情けなく尻餅をついた格好のまま、がくがくと顎を震わせた。  数日前の、前暗黒将軍の謀反騒ぎを目の当たりにしたときですら、彼は驚きこそすれ恐怖とは無縁だった。あの男が殺したのは、所詮は虚弱な暗殺者やらゴブリンどもでしかないのだ。たしかに皇帝の力のほどは認めざるを得なかったが、あれは人間ではなく古の神なのだから問題はない。  なのになぜ、あんなちっぽけな女騎士ひとりに、これほどまでに恐怖させられるのだ。  たかが人間あいてに。このシグロシグが。怯えて。腰を抜かして。 「う……そだ……嘘だ、嘘だ、うぞだッ」  光に焼かれた側から臭い煙を上げる顎鬚を動かし、巨人の長は呻いた。  有り得ない。受け入れられない。そう念じるほどに、視界のあちこちが白く飛び、ちかちかと火花が瞬く。口と舌が、意思を離れて高速で痙攣し、奇妙な音と化した言葉が途切れることなく漏れる。 「うそだうぞだうぞうぞだ、殺す、こ、殺す殺す、うそだ、うぞでぃ、ころでぃる、でぃ、でぃ、ディディディディ」  この瞬間、シグロシグのフラクトライト中にあまりにも強固に築かれた“主体”と、腰を抜かして立てないという“状況”が迂回不可能なコンフリクションを起こし、ライトキューブ内で量子回路の崩壊が発生しはじめた。  巨人の、鋼色をしているはずの瞳が、白眼ともども真っ赤な光を放った。 「ディッ、ディル、ディ————————」  周囲で立ち尽くすジャイアントたちが呆然と見守るなか、シグロシグは突然がばっと飛び上がり——。  巨大な戦鎚を、まるで小枝のようにぶんぶんと振り回しながら、凄まじい速度で疾走を再開した。  前方にいた同族たちを左右に跳ね除け、敏捷なゴブリン部隊にすら追いつくと、勢いを緩めずなおも突進する。足元で湿った音と甲高い悲鳴が立て続けに放たれたが、意識崩壊過程にある巨人はもうそれを知覚することはなかった。  ただ、あの女騎士を殺せ、という命令だけが頭のなかで割れ鐘のように鳴り響いた。  結局のところ、平地ゴブリンの長シボリも、ジャイアントの長シグロシグも、整合騎士という存在への評価をまったく誤っていたのだ。  しかし、侵略軍先陣三部隊のひとつを率いる山ゴブリンの長コソギだけは違った。彼は、整合騎士が持つ圧倒的破壊力を、大きな犠牲を払って学んだばかりだった。  果ての山脈北方の、一度は封印された洞窟を掘り返しての人界先行侵入を企てたのはコソギなのだ。彼自身は帝城から動けなかったが、血を分けた兄弟の三人に大規模な手勢を与え、オークの一部をも唆して、他の十侯には秘密のうちに作戦を実行させた。  しかし結果は惨憺たるものだった。部隊は全滅、兄弟たちも揃って戦死の報を受け愕然とするコソギに、わずかに生還した兵たちはさらに信じがたいことを口々に告げた。  いわく——二百に上ったゴブリン・オーク連合部隊は、たった一人の騎士に敗北したのだ、と。  騎士が自在に操る無数の小刃が、触れるだけで屈強な戦士たちの首を刎ね、胸を穿ち、悲鳴を上げる暇も与えずに天命を奪い尽くしたのだ——と。  まったく信じられないことだったが、しかしコソギは、多くの同族を失って得た教訓を無駄にするほど愚かではなかった。整合騎士に真っ向正面から挑む愚挙は二度としまい、と彼は決意した。  しかし、山ゴブリンに与えられた役目は、まさにそのものだった。  少なくとも暗黒術師長ディーは、整合騎士の恐怖を熟知していたのだ。だからこそこの作戦を立てた。ゴブリン、オーク、ジャイアントを使い捨てにし、いっときの混戦状態を作り出したところで、整合騎士ともどもまとめて焼き払う、という。  その無慈悲な作戦を皇帝が承認してしまった以上、従わざるを得ない。コソギは三日三晩知恵を絞った。どうすれば愚直な突撃命令を遂行しつつ、前方の整合騎士・後方の暗黒術師という二重の陥穽から逃れられるか。  ようやくひねり出した奇策——それが、隊長たちに配布した、ネズミ色の小球だった。  いち早く侵略軍の先頭を突進したコソギは、たちまち前方に、輝く鎧をまとった長身の騎士の姿を捉えた。  それは、彼の部隊を壊滅させたアリスではなく、その弟子エルドリエだったのだが、無論コソギには区別のしようもない。どちらにせよ、ゴブリンにとっては無慈悲な死をばらまく悪魔であることに違いはなかった。 「よしっ……投げろ!!」  騎士までの距離が五十メルを切った時点で、コソギは次の命令を発した。  同時に、自らの左手に握った小球を強く押しつぶす。  バチッという音が弾け、球に入ったヒビから小さな炎が漏れた。勿論火薬の類ではない。アンダーワールドにその文明レベルのオブジェクトは存在しない。  そして、術式によって生成される熱素でもなかった。球の中央に仕込まれているのは、山ゴブリンの聖地である極北の火山に生息する“燧虫《ヒウチムシ》”という小さな甲虫だ。うっかり潰すと、一瞬ではあるが高温の炎を撒き散らし、手酷い火傷を負わされる。  虫を覆っているのは、これも北方にのみ産するある種のコケを干し、粉にしてから練ったものだった。本来は、狼煙に使用するようデザインされている植物だ。しかしゴブリンたちは、暗殺ギルドと同じくオブジェクト濃縮技術を用いて、効果を数十倍に増強していた。  結果——。  コソギらが一斉に放った小球は、強力なスモーク・グレネードとでも言うべき代物までになっていた。虫の放った火によって着火されたコケ粉は、鼻先も見えなくなるほどの濃密な煙をもうもうと吐き出し、峡谷の北側を完全に覆い尽くした。  いかに夜目の利くゴブリンと言えども、これでは視界は零に等しい。  しかしコソギの策は、煙にまぎれて敵を倒すことではなかった。煙幕に突入する寸前、彼は三つ目の命令を喚いた。 「てめえらぁ、走れェェェェ!!」  言うやいなや、蛮刀を背中に戻し、両手を地面につける。もともと矮躯のゴブリンは、この姿勢を取ると人間の膝上ほどの高さしかない。更に、地面付近は煙が薄く、かすかに敵兵たちの位置が見て取れる。  コソギと三千の山ゴブリンたちは、エルドリエと衛士隊を完全に無視して、四つん這いの姿勢で走り続けた。  皇帝の命令は、ただ敵軍に突撃すること。敵軍のどこを目指して、とは指定されていない。コソギは敵主力、ことに整合騎士とはただすれ違うにとどめ、後方にいるはずの補給部隊を襲う策を立てたのだ。  前線の向こうにもぐりこめば、やがて降り注ぐであろう暗黒術師とオーガ弩弓兵の一斉攻撃は回避できる。それで白イウムどもが全滅すればよし、そうでない場合も、無限に広がる人界の奥深くに逃げ込めばいいだけだ。  こうして、ほぼ同時にひらかれた三つの戦端のうち、北側だけはほぼ血を流さぬまましばし進行することとなった。  そして、コソギにとっては幸運、人間たちにとっては不運なことに——。  エルドリエの背後に展開・待機する守備軍第二部隊左翼の衛士たちは、いつの間にか指揮官たる整合騎士が姿を消していることに、ようやく気付きつつあるところだった。  人界最初の犠牲者は、第一部隊右翼戦線において、デュソルバートのすぐ傍で奮闘していた初老の衛士だった。  ゴブリンが投げた手斧を、盾でぎりぎり弾ききれなかったのだ。  彼は、西方帝国近衛軍で長らく小隊長を勤めた実直な下級貴族だった。剣の腕は確かだったが、天命降下線のかなり先端にあるという事実はいかんともしがたく、首元に食い込んだ粗雑な斧は完全な致命傷を与えた。後方から放たれた修道士隊の治癒術も、そのダメージをカバーすることは出来なかった。  デュソルバートは、咄嗟に弓の乱射を止め、倒れた老人に高位治癒術を施そうとした。しかし衛士は首を振り、激しく吐血しながら叫んだ。 「なりませぬ!! これぞ、この老いぼれの天職であり天命……騎士殿、人の、世を、お任せ……します、ぞ…………」  直後、いくばくかのリソースを空間にほとばしらせながら、老剣士は絶命した。  デュソルバートはぎりりと歯を食いしばり、その命をいちどの火焔矢に変えて、目の前に躍りかかってきたゴブリンを吹き飛ばした。  その後も、ゆっくりと、しかし途切れることなく守備軍の衛士たちは斃れ続けた。その数十倍の亜人たちもまた、無慈悲な突撃命令に諾々と従い、命を散らした。  戦場に放散される、強制中断された天命リソースのほとんどは——。  峡谷のはるか上空。  闇にまぎれてホバリングする一尾の飛竜。  その背中にしっかと立つ、黄金の騎士のもとへと渦巻きながら凝集されていった。  身を隠す暇も、そのための場所も無かった。  レンリは、背中を丸め膝を抱えたおおよそ騎士らしからぬ格好のまま、物資天幕の奥に近づいてくる複数の人影をただ見上げた。  年の頃十五、六とおぼしき少女がふたり。灰色のチュニックとスカートの上から、銀線を編んだ軽そうな防具を身に着けている。腰には、おそろいの細身の直剣。顔に見覚えはなく、また装備の等級からしても、整合騎士ではなく一般民の衛士だろう。  奇妙なのは、片方の少女が押している、金属製の椅子だった。脚のかわりに四つの車輪が取り付けられたそれに、項垂れるように腰掛けている黒髪の若者へとレンリの眼は吸い寄せられた。  二十歳くらいか。恐ろしく痩せているうえに、右腕が肩から欠損している。一見した限りでは、少女らより遥かに弱々しい印象しか受けない。しかし、青年が左腕でしっかりとかき抱いている二本の長剣——納刀されていてなお、鞘を通して圧倒的存在感を放つそれらが、ことによると“比翼”よりも上位の神器であることをレンリは即座に見抜いた。  いったいどういうことだろう。正式な所有権を得ることはもちろん、あのように膝に載せるだけでも、恐ろしく高い優先度が必要となるはずだ。しかし、魂の欠損を如実に示して虚ろに宙を眺める青年には、とてもそのような力があるとは思えない……。  そこまで考えたとき、少女らも暗がりにうずくまるレンリに気付いたらしく、ハッとした表情で脚を止めた。  前に立つ、長い赤毛の少女が、意外なほどの疾さで右手を剣の柄に伸ばす。  抜刀されてしまう前に、レンリは両手を軽く持ち上げ、掠れた声で言った。 「敵じゃないよ。……驚かせて済まない」  卑劣な敵前逃亡の身にしては、案外滑らかに舌が動いた。もうどうなったって知るもんか、という自暴自棄ゆえのことかもしれないが。 「立っていいかな? 手は見せておくから」 「……はい」  警戒の色濃い声で少女が頷くまで待って、レンリはゆっくり腰を上げた。肩をすぼめ、両手を掲げたまま、一歩、二歩前に出ると、天幕入り口からかすかに差し込む篝火の光が最上級の鎧と両腰の神器にまばゆく反射した。少女ふたりが鋭く息を飲み、次いでまっすぐ背筋を伸ばす。剣と車椅子から離れた右手が、左胸の前で礼のかたちを取る。 「き……騎士様! し、失礼致しました!!」  青ざめた顔で謝罪を続けようとする赤毛の少女を、レンリは首を振って制した。 「いや……脅かした僕が悪い。それに、僕はもう……整合騎士じゃぁない……」  後半は、半ば呟き声になってしまったが、少女らはきょとんとした顔で首を傾げた。戸惑うのも無理はない、レンリの背に垂れる豪奢な縁取りつきの白マント、それに胸当ての中央に輝く、十字に円を組み合わせた教会徽章は見違えようのないものだ。  レンリは、降ろした手の指先でその徽をそっと撫で、自虐的な——いっそ、もう墜ちるところまで墜ちてしまえという心境で、呆気なく真実を吐露した。 「持ち場を放り出して、逃げてきたんだよ。もう最前線では戦闘が開始されている。今頃、僕が指揮するはずの部隊は大騒ぎだろう。出なくていい死者だって出てるはずだ。そんな僕が、騎士でなんかあるものか」  唇の端をゆがめて微かに笑いながら、顔を上げた。  少女の大きな紅葉色の瞳に、小さく自分が映っているのが見えた。  額に短く垂れる、灰桃色の髪。丸みを帯びた柔弱な輪郭。そして、剛毅さなど欠片も見出せない、まるで女の子のような薄青の眼——。十五歳の幼さのなかに凍結された、“失敗作”の騎士。  大嫌いな自分の容姿から、素早く眼を逸らす寸前。  赤毛の少女が、何か新たな驚きに打たれたかのように、はっと口元を押さえるのが見えた。 「…………?」  上目づかいに、探るような視線を向けるレンリに、少女は慌てたように首を振った。 「あ……、す、すみません。な、なんでも、ありません……」  俯いてしまった赤毛の少女をかばうように、いままで後ろにいた黒髪の少女が一歩進み出て、細い声で言った。 「申し遅れました……私たちは、補給部隊所属のアラベル練士とシュトリーネン練士、それにこちらがキリト修剣士どのです」  キリト。  その名を聞いて、レンリは鋭く息を吸い込んだ。  知っている。忘れようもない、半年前にセントラル・カセドラルに僅か二人で斬り込んだ反逆者の名前ではないか。レンリが防衛のために再覚醒させられ、しかし持ち前の鈍臭さで戦いそこねた、その当人。  それでは——この青年が、至聖者、最高司祭アドミニストレータを斃したのか。欠損した右腕はその傷痕なのか。  痩せ細り、虚ろな表情を下向けるだけの剣士に、レンリはどうしようもなく気圧されるものを感じて半歩足を引いた。しかし、そんな心情に気付く様子もなく、アラベルという姓らしい小柄な少女は、どこか必死そうな口調で続けた。 「あの……私たち、騎士様の御事情については何を申し上げることもできません。なぜなら、私たちだって、守備軍の一員でありながらこうして前線ではなくはるか後方に身を隠しているのですから……。でも……今は、それが私たちの任務なのです。騎士アリス様から託された、この方を護りぬくこと」  アリス。  シンセシス・フィフティ——あらゆる面でレンリと対照的な、若き天才騎士。いまは最前線に単騎で留まり、乾坤一擲の巨大術式を準備中のはずだ。  一層の心理的圧迫に襲われるレンリを、まるで追い込むように、必死の色を瞳に浮かべたアラベル練士が言葉を連ねた。 「ここでお会いしたのも何かの縁。騎士さま、私たちに手を貸してくださいませんか。正直、私たち二人では、一匹のゴブリンの相手すらも覚束ないのです。なんとしても……なんとしても、私たちはキリト先輩をお護りしなくてはならないのです!」  なんと眩く、なんと強い意思の輝きだろうか。  己の使命をしかと心に刻み、身命を投げ打ってでも遂行しようと決意した人間だけが持つ、貴い光だ。  こんなうら若い一般民の女の子ですら秘めているものを、僕はどこに置き忘れてきてしまったのか。あるいは、整合騎士としてこの人界に落ちてきたその時すでに欠落していたのか。失敗作……。  自分の口から、どこか投げやりな声が流れるのを、レンリは聞いた。 「ここにいれば、大丈夫……だと思うよ。守備軍第二部隊を総指揮するのは騎士長ベルクーリ閣下だし、あの人の護りが抜かれるようなことがあれば、それはもう人界の終わりと同じことだ。どこに逃げても、結末は一緒さ。僕は、すべてが終わるまでここで座ってることにしたんだ。隣にいるって言うなら、邪魔しやしないよ……」  語尾を無音の吐息に溶かし、レンリは再び柱のかげに腰を下ろそうとした。  しかし——まさに、ちょうどその瞬間。  整合騎士エルドリエが護る最前線左翼では、山ゴブリン族長コソギらが投じた煙幕弾が連鎖的に炸裂していた。立ち込めた濃密な煙に乗じて、大量のゴブリンたちが、荒い布目から零れる水のように防衛線をすり抜けはじめた。  彼らの目指す目的が、まさに人界守備軍最後方・補給部隊の殲滅であることに、レンリも、同年の少女ふたりも、気付けようはずもなかった。  ジャイアントの長シグロシグのフラクトライト崩壊は、急速に進行した。  しかし、それは全的なものではなく“主体”の一部を深く冒すものであったがゆえに、存在の完全消滅に至るまでにはしばしの猶予があった。  そしてその現象は、ある副産物を生み出すことになった。  心意である。  副騎士長ファナティオの超攻撃によって惹起・抽出された、“弱い自己”というイメージが一片残らず破壊された結果、シグロシグのフラクトライト中には、これまで数十年間制御されてきた人間への怒りが一気に解き放たれることとなった。  それは、ファナティオへの純粋な殺意となってシグロシグのライトキューブから迸り、メイン・ビジュアライザーを経由して、その先へまでも溢れ出した。  具体的には——。  シグロシグの、赤く輝く双眼に捉えられたファナティオの身体を凍りつかせたのだ。  体高四メル近い巨体を、颶風のような勢いで突進させながら、巨人の長は右腕の大鎚を高々と振り上げた。  なぜ——動けない!!  ファナティオは、言うことを聞かない右脚を叩きつけようとした拳にすらも力が入らないことに激しい驚愕をおぼえた。  自分が、この整合騎士団副長たるファナティオが、たかだか巨人族の長あいてに竦み上がるなどということは有り得ない!  そう胸中で叫ぶものの、体は重く、脚は萎え、跪いた狙撃姿勢から立ち上がることすらできない。  似たような現象が、薄らかな記憶として残っている気はした。  騎士長ベルクーリとの手合いにおいて、どうしても抜きつけられない、右手が動かない、そんな経験だ。しかしその時感じた、重く、稠密で、それでいてどこか柔らかく包み込んでくる気配とはまるで異なる——無数の逆棘が生えた革帯で無慈悲に締め付けられるような痛みが、ファナティオの全身を苛んでいる。  惜しくも狙撃しそこねたシグロシグは、一時倒れこんだようだったが、直後異様な勢いで跳ね上がり、突進を開始した。その距離はもう六十、いや五十メルを切る。  一対一であれば、敵ではない——はずだった。  暗黒界十侯のうちで、ファナティオがその力を認めるのは暗黒将軍シャスターひとりだけだ。数年前に手合わせしたときは、三十分にもわたる撃剣のすえに迂闊にも兜を割られ、ファナティオの素顔を見たシャスターが剣を引くという屈辱を舐めさせられた。  しかし、あの時ですら負けたとは思っていない。ベルクーリの厳命により、暗黒騎士との手合いにおいては武装完全支配術の使用を禁じられていたのだから。  そして、ベルクーリも確かに言っていた。こと剣力に於いては、十侯にあってシャスターは抜きん出ている、と。ならば、それ以外の者に遅れを取るはずはない。ましてや——睨まれただけで竦み上がるなどと!  しかし、ファナティオの理解を超えた現実が、刻一刻と眼前に迫ってくる。  巨大な鉄鎚が振り下ろされるまで、あと五秒、それ以下か。はやく立ち、迎撃の初動を開始せねば。打ち合いさえすれば、世界有数の神器・天穿剣があのような無骨な金属塊を叩き毀せぬ道理はない。  なのに——体が——指先まもでが。氷のように。 「ニンゲンコロディルディルディ——————」  野太い、異様な絶叫がシグロシグの喉から迸った。  眼だけでなく、鉄鎚全体までもが、赤黒い光をどろりと放った。  ああ……閣下。  ファナティオは動かない口で小さく呟いた。  下位整合騎士ダキラ・シンセシス・トゥエニツーは、その長い生涯のすべてを、たった一人に捧げて生きてきた。  支配者たる最高司祭ではない。騎士団の長ベルクーリでもない。  副長ファナティオこそがその相手だ。彼女の苛烈なまでの激しさと、その裏に隠された苦悩に、ダキラは強く惹かれた。  下界の基準に従えば、その感情はまさしく恋慕に他ならない。しかし様々な理由によってダキラは完全なまでに己の感情を封じ込め、ファナティオの直属部隊“宣死九剣”の一員として顔と名前すらも棄て去った。直属となれたことだけで、ダキラにとっては望外の幸福だったのだ。  九剣は、決して下位騎士内の精鋭部隊などではない。ファナティオが、単騎で前線に出すのは不安と判断した実力不足の騎士を集め、連携戦法を叩き込むことで生存率を高めようとした、いわば落ちこぼれ部隊というのが正しい。  ゆえに騎士団内部でも少なからず蔑視されており、事実半年前の動乱では、一般民の反逆者ふたりを相手に全員まとめて重傷を負わされるという失態を演じた。だがそのことよりも、ダキラには、主たるファナティオを護りきれなかったことのほうが何倍も辛かった。いっそ、あの時命を落としているべきだったと、カセドラル医療院のベッドで何度も思った。  しかし、傷癒えたダキラたち九剣に、ファナティオは叱責どころか労いの言葉を掛けたのだ。  公の場では一度も外したことのなかった銀面を外し、怜悧な美貌を優しく微笑ませた副騎士長は、順番に九剣の肩を叩きながら言った。  ——この私も死に掛けたのだ、諸君らが恥じることなど何もない。それどころか、良く戦ったと思うぞ。あのときの“環刃旋舞”の連携技はこれまでで一番見事だった。  その時、九剣揃いの兜の下で、ダキラは涙を滲ませながら決意した。  次こそ——。  今度こそ、二度とこの方を傷つけさせぬ、と。 “次”はまさに今、この時だった。  指示なくして決して動いてはならぬ、と命令されていたにも関わらず、ファナティオの様子がおかしいと見てとるやダキラは地を蹴り、戦列から単身飛び出していた。  本来の戦闘能力から考えれば、届くはずのない間合いだった。しかしダキラは、その体が光の筋となって霞むほどの速度で疾駆し、ファナティオの直前に割り込むと、巨人の長が振り下ろす鉄鎚を横にした両手用大剣で受けた。  ガガァーン!! という轟雷にも似た衝撃音と、赤に白が混じった閃光が激しく散った。  ダキラの剣は、神器などにはほど遠い、せいぜいが業物という程度のものだ。対して、この時シグロシグの得物は、流れ込んだ“殺”の心意によって恐るべき優先度に高められていた。  わずか半秒ののち、大剣の中央に深い罅割れが走り、そこから幾筋もの光条が伸びた。己の愛剣が砕け散ると同時に、ダキラは柄と峰を離し、頭上に圧し掛かる鉄鎚の縁を両手で支えた。  ごき、めきり、という鈍い音がダキラの身体を通して響いた。  手首から二の腕までの骨が一瞬で圧し折れたのだ。  視界が白く飛ぶほどの激痛。鎧の継ぎ目から噴き出した鮮血が、兜の表面に飛び散った。 「ぐ……うぅ……!!」  すべての歯を食いしばり、漏れそうになる悲鳴を気合に変えて、ダキラは更に落下してくる鉄鎚の中心を兜の額で受けた。  鋼鉄の十字面が呆気なく粉砕され、露出した額、首、さらに背骨と両膝からも嫌な音が聞こえた。痛みは灼熱の炎と化して全身を駆け巡り、視界すべてが赤く染まった。  しかし下位騎士ダキラは倒れなかった。  すぐ後ろには、ファナティオがいまだ立てずにいるのだ。この醜い武器を振り下ろさせるわけにはいかない。  守るんだ。今度こそ。 「い……ぃああああああ!!」  高い雄叫びが唇から迸った。  全身から漏れ出ていく天命が、一瞬の青白い燐光と化してダキラを包んだ。  光は砕けた両腕に集まり、眩く炸裂した。同時に、巨大な鉄鎚は上空に弾き返され、シグロシグの巨体を道連れに数メルも後方へと吹き飛んだ。  重い地響きを聞きながら、ダキラもゆっくりと背中から崩れ落ちた。 「……ダキ!!」  すぐ耳元で、悲鳴のような叫びが放たれた。  ああ……ファナティオ様が、名前を呼んでくれた。  いったい、何年ぶりかしら。  兜を失い、麦わら色の短いおさげ髪と、そばかすの残る頬を露出させたダキラは、主の伸ばした腕の中に倒れこみながらかすかに微笑んだ。  南方の小さな漁村に生まれたダキラは、姓を持たない貧しい漁師の娘として育った。  そんな彼女が、十六の齢に犯した禁忌。それは、一つ年上の、同性の親友に恋してしまったこと。  無論告白などできようはずもない。苦しみのあまり、ダキラは深夜、村の教会の祭壇で懺悔し赦しを乞うた。しかしその祭壇は、セントラル・カセドラルの自動化元老機関と直結しており、禁忌違反者として検出されたダキラは教会へと連行され——すべての記憶を奪われた。  もう名前も思い出せない、ダキラの恋した相手は、少しだけ副騎士長に似た面影を持っていた。  おぼろに霞む視界のなかで、ファナティオの美貌が強く歪み、その長い睫毛から涙が滴るのを、ダキラは穏やかな気持ちで見つめた。  あの副騎士長さまが、自分のために泣いてくださっている——。  これ以上の幸福は考えられなかった。無限にも思えた生の果てに、ついに成すべきことを成し、死すべき時宜を得たのだという充足感だけがあった。 「ダキ……なんで……なぜこんな……!」  悲痛な囁きが耳元で零れた。  ダキラは最後の力で砕けた左手を持ち上げ、指先でファナティオの頬を伝う雫をそっと拭った。  にっこりと微笑み、ダキラは、秘め続けてきたひと言を掠れた声で呟いた。 「ファナティオ……さま……、お慕い……もうして、おりま……す…………」  その瞬間、整合騎士ダキラ・シンセシス・トゥエニツーの天命が完全に尽きた。  騎士団最初の犠牲者は、こうしてその瞼を永遠に閉じた。  私は——私は何をしているのだ!!  ファナティオは、自分よりもさらに小柄な、傷だらけの躯を強くかき抱きながら胸中で絶叫した。  涙に歪む視界には、倒れた巨人の長と、その背後から迫るほかの巨人たちに飛びかかっていく残りの“宣死九剣”の姿が映る。  自分が守るために集めた者たちだ。厳しい言葉しかかけなかったが、皆が愛する弟であり、妹だ。なのに——逆に守られ、あまつさえ命を落とさせてしまうなど—— 「……赦さぬ!!」  それは、シグロシグとともに、己にも向けた言葉だった。  これ以上の犠牲者は絶対に、ぜったいに出さない。彼らの誰よりも先に、こんどは私が死ぬ。  その決意は、シグロシグが放射する不正強度の殺意を上回る、“大義”——あるいは“愛”の心意となってファナティオの魂から迸った。  全身を縛っていた氷の棘が消えた。  ダキラの遺骸を横たえ、立ち上がったファナティオの右手に、地面からふわりと浮き上がった天穿剣ががしっと収まった。  前方では、飛びかかった二人の騎士を右腕の一薙ぎで振り払ったシグロシグが立ち上がったところだ。  両眼から屹立する赤い光は、もう爆発寸前の溶鉱炉のごとき眩さに達している。 「ゴロッ……ゴロッ……ゴロオオオオオ!!」  異様な雄叫びは、世界中を震わせるほどの音量だ。  しかしファナティオの心中には、もう一片の怯えも畏れも無かった。  す、と片手上段に構えた天穿剣が——。  ヴォォォン!! という震動とともに白い光をまとった。その眩い輝きは、まっすぐに五メル以上も伸長すると、そこで状態を保った。  シグロシグが、鉄鎚を両手で振りかぶりながらぶわっと高く跳ねた。  一見無造作に、しかし恐るべき速度でまっすぐ振り下ろされた天穿剣が、空中に巨大な光の帯を描いて鉄鎚の打撃面と接し——  ズ、バァッ!!  呆気なく巨大な武器を左右へと分断した。真っ赤に灼けた断面から飛び散る、溶けた金属の雫よりも速く、長大な光の剣はそのまま巨人の長の頭頂に食い込み、勢いを僅かにも衰えさせることなく一気に地面までも斬り下げられた。  世界最大の巨躯を誇る闘士が、空中を飛翔しながら真っ二つに分断される光景に、残りのジャイアント族も、人界の衛士たちも、一様に言葉を失った。  凄まじい衝撃とともに墜落した、かつてシグロシグだったふたつの肉塊の中央で、ファナティオはブンッと小気味よい音を立てて光の刃をふたたび振りかざすと、高らかに叫んだ。 「総員前進!! 敵を殲滅せよ!!」  無尽蔵に湧いて出るとすら思える平地ゴブリン族の波状攻撃に、デュソルバートは焦燥と消耗の色を深めていた。  無論、ゴブリンの兵卒如き何匹連続で相手にしようとも後れを取るものではない。事実彼の視界内には、斬られ、射抜かれ、灼かれた亡骸が山と積み上がっている。  しかし、広く横一線となって押し寄せる敵軍を、独りで同時に迎え撃つのは不可能だ。どうしても大部分は一般民の衛士たちに任さざるを得ない。  個々の練度と装備を比較すれば、ゴブリンよりも衛士のほうがかなり高いだろう。半年間の厳しい訓練によって身に彼らが身につけた“連続剣技”は、ゴブリンが遮二無二振るう蛮刀よりも確実に疾く、鋭い。だが、その実力差は、整合騎士とゴブリン兵の圧倒的乖離と比べればはるかに不確実なものだ。やはり足りない——敵兵が撒き散らす獣の如き殺気と、そして恐るべき多数というふたつの要素をひっくり返すには。  自分の身に備わった、常軌を逸して強大な力を百に分割し、衛士たちに分け与えたい——とデュソルバートは痛切に感じた。そのほうが、この戦場ではどれほど有効に機能するか。  しかし無論、そのような術式は存在しない。  貴重な衛士たちは、ある者は複数のゴブリンに飛びかかられ、ある者は疲労の極に達し、そしてある者は不運にも足を滑らせて、次々と命を落としていった。彼らの悲鳴が戦場に響くたびに、デュソルバートは自らの天命が激しく削られていくような気すらした。  これが、大規模複数戦闘。  これが、戦争というものか。  犠牲者零が当然であり前提条件ですらあった、これまでの闇の勢力との戦いとはまったく異なる。必然的に発生する死者の数を、冷徹に織り込んだうえで展開される醜悪な消耗戦。  この戦場には、誇りも、高潔さも、それどころか“闘い”すらも存在しない。  ここにあるのはただの“殺し合い”だ。  まだか。  まだ後方から部隊交代の命令は出ないのか。  開戦から何分が経過したのかもすでに分からなくなっていた。デュソルバートは闇雲に右手の長剣を斬り払い、少しでも間合いが開くや鋼矢をごっそり掴み出して乱れ撃った。いつしか冷静さも、判断力も失われ、彼は敵兵の一部が奇妙な行動を取り始めているのに気付かなかった。  平地ゴブリンの新族長シボリは、山ゴブリンの長コソギと較べてはるかに愚鈍で、凶暴で、そして残忍だった。  当初シボリは、敵軍を率いるという整合騎士なる存在について、眉唾もののお伽噺に出てくる悪魔くらいにしか認識していなかった。所詮は白イウム一匹、荒地で大型獣を狩るときのように囲んで潰せばそれで終わるとたかをくくっていたのだ。  しかしいざ蓋を開けてみれば、悪魔というだけあって実にタチが悪く、どれだけ手勢を突撃させてもさっぱり近寄れない。大爆発する火矢はもちろん、普通の矢も驚くほど正確かつ強烈に兵たちの脳天や心臓を貫いてくる。  さてどうしたものか。  しばらく考えたあげく、シボリが出した結論は至極単純かつ無慈悲なものだった。  つまり、悪魔の矢が尽きるまで待つことにしたのだ。  ——とは言え、無為に突撃させられる兵たちもまた、当然のように『たまったものじゃない』と考えた。彼らの中には、シボリより知恵の回る者もそれなりに居て、抗命とはいかぬまでも出来るかぎりの工夫はすることにした。  斃れた仲間の死骸を両手で掲げ、自分は頭を縮めて、悪魔からつかず離れず矢を射掛けさせはじめたのである。  デュソルバートも、これが開戦直後であれば、そのような単純な策など即座に見抜いたはずだ。しかし、力尽きていく衛士たちの断末魔が彼の冷静さを、本人も気付かぬうちに削り取っていた。さらに夜戦であることも、ゴブリンらを利した。  ——おかしい。敵が倒れるのが、やけに遅い。  とデュソルバートが気付いたときには、充分すぎるほど用意させたはずの鋼鉄矢が、あろうことか尽きつつあった。 「よーしよし、やっとこ矢ぁが切れやがったな」  シボリは両肩に担いだ蛮刀の峰で、ごりごり首筋を掻きながらほくそ笑んだ。  部族の兵が、前線に文字通り人垣となって骸を晒している光景など、彼の精神には一抹の圧迫も与えなかった。かつての酸鼻極まる“鉄血の時代”を潜り抜けた先祖たちが残した、“戦争への耐性”ゆえの強靭さだった。  兵は三分の一がとこやられたようだが、まだ二千以上残っている。後方には予備戦力も残っているし、白イウムどもの国を滅ぼしてたっぷりの肉と麦を手に入れれば、部族はいくらでも殖やせるのだ。  しかし広い領土を得るためには、それなりの手柄も立てなければならない。悪魔の首を二、三個取ればよかろう。 「うっしゃ、いくぞテメェら。あの悪魔を囲んで掴んで引き倒せ。首はこのシボリ様が落とす」  周囲を固める、いずれも屈強、粗暴な側近たちに顎で指示し、シボリはうっそりと歩を進めた。 「くっ……不覚……」  デュソルバートは低く呻いた。  ようやく、離れた暗がりでひょこひょこ動いていた敵兵が、死骸の案山子であることに気付いたのだ。  頭や心臓ではなく足元を狙ってそれらを操るゴブリンを仕留め、背後の大矢筒を探った手が、空しくなめし皮の底を擦った。  矢が無くては、熾焔弓もただの長弓と何ら変わらない。熱素と鋼素から生成することは可能だが、それは充分な間合いのある、しかも一対一の闘いでのみ有効な技だ。そもそもこの戦場では、余剰な空間神聖力はほぼすべてが上空の整合騎士アリスに吸収されて、大気はからからに渇いているはずなのだ。  歯噛みしながら熾焔弓の弦を左肩に引っ掛け、デュソルバートは再び腰から剣を抜いた。  まさにその時、前方の薄闇から、足音も重苦しく急接近してくる一際逞しい一団が見えた。  これまで相手にしてきた雑兵とは明らかに出で立ちが異なる。胸から腰を、分厚い板金を連ねた鎧で覆い、恐ろしく長く太い上肢は鋲を打った革帯が固く巻かれている。握っているのは、野牛でもまるごと裁けそうな肉厚の大鉈。  その、隊長格と思しき七匹の後ろに、さらに巨躯の——ほとんどオーガにも近い体格を持つ一匹が控えているのをデュソルバートは認めた。  鋳物ではなく鍛鉄の鎧や、両手の大段平、頭に揺れる極彩色の飾り羽を見るまでもなく、それがこの一軍の指揮官であることは即座に知れた。  突き出た額と、ひしゃげた鼻梁の奥に赤く輝くゴブリンの長の両眼と、デュソルバートの鋼色の双眸が見合わされた瞬間、周囲の空間がぎしりと密度を増した。絶え間なく撃ち合わされていた剣と蛮刀が、徐々にその音を間遠にしていき、やがて途絶えた。  衛士たちも、ゴブリンたちも無言で間合いを取り、固唾を呑んで双方の将の対峙を見守った。  デュソルバートは、駆け寄ってこようとする数名の衛士らを左手で制した。右手の剣を油断なく構えながら、低く錆びた、しかしよく通る声で問う。 「貴様が暗黒界十侯の一……ゴブリンの長か」 「おうよ」  巨躯の二丁段平が、ざくっと片足を鳴らして立ち止まり、黄色い牙を剥き出して応えた。 「平地ゴブリン族長、シボリ様だ」  デュソルバートは、荒い息を懸命に静めようとしながら、敵将を真正面から睨み付けた。  こいつだ……こいつを倒せば、敵軍はいっときにせよ瓦解する。その機を逃さず戦線を押し込めば、先陣の役目は果たしおおせる。  たとえ、神器が使えなくとも。  たとえ十侯を含む八対一でも、かくなるうえは必勝あるのみ。整合騎士は一騎当千——ここでその真なるを顕さずして如何せん! 「吾は整合騎士、デュソルバ……」  高らかに名乗りかけた声を、野卑な叫びが断ち切った。 「おおっと、獲物の名前なんざ興味ねえ! おめぇは肉だ、俺様が取る首級にくっついた邪魔っけな肉だ!! おら……てめぇら、かかれ!!」  ウ————ラアアアアアッ!!  凶暴な鬨の声を唱和し、七匹の精鋭ゴブリンが一斉に襲い掛かってくるのを、デュソルバートはすうっと息を吸いながら見つめた。  剣士の誇りを持たぬ奴ばらならば、あのまま“戦争”をしていればよかったものを——このような“決闘”の真似事をしようなどと、 「笑止!!」  あらゆる整合騎士は、鞭使い、槍使い、そして弓使いである以前に剣士である。  デュソルバートが右手の長剣を大上段に構え、一気に振り下ろすその挙動を、しかと視認できた者はその場には一人も居なかった。  仄白い光芒を引く無音の斬撃が完了した数瞬あとに、ぴきん、と微かな音が響き、先頭のゴブリンが頭上に掲げていた蛮刀が真っ二つに分断された。  ぶしゃっ!!  直後、そのゴブリンの背中に赤い筋が出現し、そこから大量の鮮血が迸った。  一匹目が倒れるより、いや己の死に気付くよりも疾く、デュソルバートは次撃を繰り出した。  ファナティオや、かつて戦った反逆者たちが操ったような連続剣技ではない。あくまで伝統的な、構え・斬撃・構えを繰り返す古い流派だ。しかしその技は、無限にも等しい年月の間に磨かれ、練られ、神速の域にまで達していた。これに追随できるのは、一握りの暗黒騎士だけだろう。  事実、ほとんど同時に左側から斬りかかったはずの二匹目も、その獲物をようやく振り下ろしはじめたあたりで板金鎧ごと心臓を断ち割られ絶命した。  圧倒的、としか言えない実力差だ。  しかし、精鋭ゴブリンたちは臆するということを知らなかった。長シボリもまた彼らにとっては恐るべき上位者であり、その命令に抗うという選択肢は存在しないのである。  同族が撒き散らす血煙を浴びながら、デュソルバートの真横に回りこんだ二匹が左右から同時に襲い掛かった。  しかし、歴戦の騎士はいささかも慌てることなく、まず左のゴブリンを真下から一直線に斬り上げ、弦月の弧をなぞるような軌道で滑らかに背後へと撃ち降ろした。右の敵は、逆に額から腹までをすぱっと裂かれる。刹那の一挙動で前後の敵を両断する、まさに神業だ。  残り三、いや将を入れて四。  同時に来るか、それとも連続か。  赤黒い血飛沫を宙に引きながら、デュソルバートは次の構えに入った。  視界左、五匹目が愚直に斬りかかってくる。他方向に刃の光は無い。 「ぬん!」  短い気合とともに、大きく引いた剣を袈裟懸けに払い下ろす。  銀光の弧を描き、剣尖が敵の左肩へ——。  そこで、デュソルバートは信じがたいものを見た。  彼の斬撃とまったく同時に、敵ゴブリンの右肩ごしに出現した蛮刀が、まっすぐ振り下ろされてくる!  その刃は、いまだ息のある仲間の肩から胸を断ち割りつつ、近接するデュソルバートの首筋へと。  回避も、受けも不可能。  咄嗟に判断し、掲げた左腕に、がつっと分厚い大鉈が食い込んだ。  痺れるような衝撃。手甲が砕け、肉が裂かれ、刃が骨にまでも届く。火花のような激痛。 「く……おおッ!!」  驚愕を気合で塗りつぶし、デュソルバートは強引に敵刃を左へ受け流した。ごっき、と鈍い音が響き、左腕の骨が完全に砕かれたことを告げた。  たかが——片腕!!  全精神力を振り絞って、斬撃途中の剣を止めたデュソルバートは、それをそのまままっすぐ突き込んだ。捨石となった五匹目の身体を貫通した剣が、その向こうで仲間ごとデュソルバートを攻撃した六匹目の身体を捉えた。  しかし、手応えが浅い。  早く剣を抜き、距離を取り、次撃の構えに繋げねば。  いつしか額に汗を浮かべながら、デュソルバートは一気に剣を引き戻した。  絶息し、ぐらりと倒れるゴブリンの体の向こうに見えたのは——。  武器を捨て、地を這うように両腕を広げて飛びかかってくる、残る二匹の姿だった。  そして、そのような、まるで土下座するがごとき体勢にある敵を攻撃し得る型は、身につけた流派には存在しなかった。  一瞬の戸惑いは、充分すぎるほど致命的だった。  がっ、がしっ! と両脚が同時に敵に抱え込まれた。凄まじい膂力に、一秒と踏み止まれずデュソルバートは地に引き倒された。  首をもたげ、見開いた両眼の先に、これ以上はないほどの残忍な喜悦を浮かべ、両手の大段平を振りかざし飛びかかってくる敵将シボリの巨体が見えた。  まさか——こんな——ところで。  整合騎士が。このデュソルバートが。有り得ない——。 “有り得ない”。  その思考が、この世界に生きる者にとってとてつもなく危険なものであることを彼が知りようはずもなかった。瞬時に凍りついた意識が、デュソルバートの動きを完全に封じた。  金縛り状態に陥り、ただただ迫り来る死の刃を見つめることしかできない騎士の耳に——。  響いた、雄々しい叫び。 「騎士どのぉぉぉぉっ!!」  敵将に向って右手から突っ込んでいくのは、あの偉躯の衛士長だった。名前すらまだ聞いていない若者は、両手に握った大剣を振りかざし、渾身の、正統的な、それゆえにあからさまな大技を放とうとした。  対して、シボリは小五月蝿そうな渋面を作り、無造作に左手の段平を斬り払った。  ガギン!!  鈍く、けたたましい金属音が響いた。  シボリとほぼ同等の体格を持つ衛士長が、まるで紙人形のように吹き飛ばされ、地面に激突し、二転、三転した。技術、速度、装備の差をいとも容易く覆す、圧倒的な膂力だ。  赤くく光る獣の眼が、すうっと細められた。残忍な喜悦を振りまきながら、空中でひょいっと段平を逆手に持ち替え、いまだ立てない衛士長に止めを刺そうと——。  だめだ。  これ以上の犠牲は、  容認できない!!  その一瞬の思考が、デュソルバートの硬直した魂を、灼けた鉄棒のようにまっすぐ貫いた。  両足を拘束するゴブリンを振りほどき、立ち上がり、移動する時間はもうない。右手の剣を投げつける、いやそれも結果を数秒遅らせるだけだ。  どうすれば、と考えるよりも速く、右手と左手がほとんど自動的に閃き——彼は、百年の生ではじめて行うことを、これまで考えすらもしなかったことをした。  砕けた左手で水平に構えた熾焔弓に、右手の剣をつがえて、強く引き絞ったのだ。  まるで、大地に繋がれた縄を引くような、凄まじい手ごたえ。意識を根こそぎ吹き消すほどの激痛。  しかしデュソルバートは、割れ砕けよと奥歯を食いしばり、一気に発射態勢を取ると、叫んだ。 「焔よ!!!ッ」  ゴアアアッ!!  吹き上がった火柱の凄まじさは、かつて発動した全ての記憶解放術をはるかに凌駕していた。  当然だろう、つがえられた長剣は、神器と呼ばれてもおかしくない古の銘品なのだ。量産される鋼矢とは、けた違いの優先度を持つ。その内包する神聖力を、すべて火焔へと変えたのである。  炎熱に耐性のあるはずの、精銅の全身鎧がたちまち赤熱し、まばゆく輝いた。  脚に取り付く二匹のゴブリンが、悲鳴を上げる暇も与えられずに口から炎を吹き出して燃え始めた。  いぶかしそうに振り向いたシボリが、両眼を丸く剥き出し、右手の段平を投げつけるべく振り上げた。  しかしそれより速く——。 「——灼き尽くせッ!!」  ボアウッ、という轟音とともに、炎と化した長剣の鍔が左右に伸び、翼のように羽ばたいた。  撃ち出された巨大な火焔は、まるで熾焔弓のかつての姿——南方の火山に棲んでいたという不死鳥が甦ったかの如く、両翼を広げ、尾をたなびかせて、一直線にゴブリンの将を呑み込んだ。  火焔を防ごうとしたのか、体の前で十字に組み合わされた段平が、しゅっと音を立てて蒸発した。  そして、その持ち主もまた、燃焼の過程を辿ることすらなく、一瞬で黒い炭と化し——それすらも白く溶け、光の粒となって舞い散った。  ようやく事態を理解し、後ろを向いて逃げ惑いはじめた残りの平地ゴブリン軍も、実に二百名以上が同じ運命を辿った。  中央のファナティオ、右翼のデュソルバートの苦闘。  それにエルドリエの指揮する左翼を見舞った煙幕による混乱を、後方の第二部隊に控える守備軍総指揮官・騎士団長ベルクーリ・シンセシス・ワンは明瞭に察知していた。  しかし、彼は動かなかった。  動けない理由があったのだ。第一に、手塩にかけて育てた部下たちに絶対の信頼を置いていたということもあるし、第二には敵地上部隊の主力——暗黒騎士団と拳闘士団が動かないうちは、予備戦力を投入するわけにはいかないという事情もあった。  しかし、最も大きい第三の理由は、ダークテリトリーについて知悉する彼が懸念せざるを得ない、思わぬ方角からの奇襲の可能性だった。  つまり、飛行戦力である。  空中飛翔術式の存在しない——正確には、故最高司祭の秘匿した術式総覧《インデックス》にのみ記され、彼女の死とともに永遠に喪失した——この世界では、整合、暗黒双方の騎士団にごく少数存在する竜騎士は、言わば規格外の力だ。剣の届かぬ高空を飛翔し、術式や熱線で地上の兵を薙ぎ払う。  だが、貴重すぎるがゆえに、そう容易くは投入できない。敵より先に出撃させて、万が一地上からの術や弓矢で墜とされでもしたら、その瞬間から巨大な不利を背負うことになってしまう。  ゆえにベルクーリは、アリスの騎乗する“雨縁”以外の飛竜を最後方に温存させたし、敵暗黒騎士も同様にするだろうと確信していた。だから、彼が懸念した奇襲は、竜騎士によるものではない。  それ以外に、闇の軍勢には、彼らだけが持つ飛行兵力が存在するのだ。 “飛塑兵”、あるいは“ドローン”と呼ばれる、醜悪な有翼怪物である。暗黒術師によって粘土その他の多様な材料から生成され、知性は持たないが幾つかの簡単な命令だけを解する。つまり、飛べ、進め、殺せ、の言葉のみを。  実はドローンとまったく同じものを、最高司祭も作成・研究していたらしいという話をベルクーリは騎士アリスから聞いていた。しかし、さしもの最高司祭といえども、醜悪な外見をそのままに整合騎士団に導入するのはためらったと見える。ふさわしい姿への改変が間に合わぬうちに彼女が入寂してしまったのは、今となっては惜しいと言わざるを得ないが、無い物ねだりをしても仕方ない。  以上の理由によって、ベルクーリは、上空からのドローンの奇襲に備えておく必要があった。  そして飛竜が出せず、また修道士隊も衛士らの治癒に手一杯の状況では、高空の広範な防衛が可能なのは彼ひとりだった。  正確には、彼の持つ神器“時穿剣”のみが。  第二部隊の中央に仁王立ちになり、納鞘したままの愛剣を両手で地面に突いたベルクーリは、瞑目したままひたすらに意識を集中していた。  部下たる整合騎士、そして勇敢な衛士たちの苦しい戦いぶりは、間断なく彼の知覚に届いてくる。左翼の大混乱とゴブリン部隊の侵入も、手に取るように察知できる。  しかし、彼は一歩も動くわけにはいかない。  なぜなら既に発動しているのである。武装完全支配術、“未来を斬る”という時穿剣の強大な力を。  虚空に描き、保持している斬撃線は、その数実に——三百本以上。  東の大門が崩壊する直前、ベルクーリは独り騎竜・“星咬《ホシガミ》”にまたがり、大門のすぐ手前上空に、幅百メル・奥行二百メル・高さ百五十メルという巨大な“斬撃空間”を作り出しておいたのだ。気合の篭もった一閃を放つたびに、微細な上下動と後退を繰り返し、虚空にびっしりと密な網目を描いたのである。  それだけの数と広がりを持つ心意を、数十分も保持するのは、二百年以上を生きた不死人たるベルクーリにも初めてのことだった。肉体から意識を離し、ただひたすらに精神を集中してどうにか可能となる絶技だ。全軍の指揮をファナティオに任せたのは、ひとえにこのためなのだ。  早く——早く来い。  無為な焦りとは無縁の精神的境地に達している彼にして、ひたすらそう念じずにはいられなかった。自身の消耗はともかくとして、時穿剣の神聖力は半ば以上を消費してしまっている。一度記憶解放を解除し、同じことを繰り返すのは不可能だ。敵ドローンを確実に殲滅できねば——そしてドローンが、斬撃空間のさらに手前に浮遊する整合騎士アリスを襲えば、守備軍唯一の望みが潰える。  ——早く。  この地に集った上位整合騎士七名のうち、もっとも自虐的な心理状態に陥っていたのは持ち場を放棄してしまったレンリ・シンセシス・フォーティナインだったが、彼とは別の意味で大きな脆弱性を秘めていたのが、レンリより遥か長い経験があるはずのエルドリエ・シンセシス・トゥエニシックスだった。  エルドリエは自他共に認める、第三位騎士アリスの崇拝者である。  その感情は、“宣死九剣”のダキラがファナティオに抱いていたような恋慕とはまた異なる。己の全てを捧げて仕えつつ、同時に庇護もしたいという、二律背反性が色濃く存在する。  整合騎士として覚醒したその直後から、アリスは騎士団史上最大の天才と謳われた。修道士や司祭らすらも軽く上回る神聖術行使権限に加え、これまでいかなる騎士とも共鳴することを拒んできた最古の神器、永劫不朽のふたつ名を持つ“金木犀の剣”の主に選ばれ、さらに騎士長ベルクーリの超絶技を若木のように吸収していく武才をも併せ持っていたのだ。  外見こそ幼い少女だったが、アリスは多くの騎士にとって、近寄りがたい北天の孤星のようなものだった。最高司祭アドミニストレータの後継者であるという噂も、それに拍車をかけた。  ゆえに、エルドリエも、五年もの長きに渡ってアリスに話しかけようともしなかった。忌避していた、とすら言っていい。最古騎士の一人であるデュソルバートを師に持ち、早い段階で上位騎士に任ぜられ、それを誇りとしてきた彼にとって、目覚めた直後から上位騎士であり騎士長その人の唯一の弟子であるアリスには、脅威を覚えこそすれ親しみなど抱けようはずもなかったからだ。  しかし——四年前。  幼い子供から、凄絶なまでの美少女へと花開き、ますます孤高の度合いを増していたアリスの、思いもよらぬ姿をエルドリエは偶然目撃してしまったのだ。  深夜。ひそかに剣の修行をしようと足を運んだ薔薇園の奥深く。  簡素な寝巻き姿のアリスが、ひとつの粗雑な墓標の前に身を投げ出し、すすり泣いていた。どう見ても手作りの、白木を剣で斜めに斬っただけの墓標に刻まれていた名は、数日前に天命の尽きた老飛竜——アリスの“雨縁”、そしてエルドリエの“滝刳”の母竜のものだった。  たかが竜。たかが下等な使役獣ではないか。何故墓などつくり、何故泣く必要があるのだ。  と、その時のエルドリエは、理性では考えた。  しかし、鼻で笑って身を翻そうとした彼は、自分の目頭に熱くこみ上げるものに気付き驚愕した。  地上を去った母を悼んで泣く姿——、それが何故、引き裂かんばかりに心を打ったのかは今でも分からない。ただエルドリエは、直感的に、この感情は絶対的に正しく貴いものであり、そして今見た光景こそがアリスの真実の姿なのだと悟った。  その日以降、天才騎士アリスは、エルドリエの眼にはそれまでとはまったく異なるように映りはじめた。天才という望まぬ運命に耐え、甘受し、しかし秘かに誰かの差し伸べる腕を求める、今にも風に折れそうな硝子の花。  守りたい。自分があの少女を苛む寒風を防ぎたい。  その思いは日々強くなるばかりだった。しかし、守るなどという発想はあまりにもおこがましいものであるのもまた事実だった。アリスの才能は、術においても剣においても、エルドリエを遥か凌駕するのだから。  唯一可能だったのは、その時点での師たるデュソルバートへの圧倒的な不敬となると分かりながら、新たな師としてアリスの指導を欲することだけだった。  以来、四年の月日を、エルドリエはただ二つのことを果たすためだけに生きてきた。師アリスを守り、また認められること。  ことに後者は、至難というよりない目標だった。天才騎士アリスの実力は、当時ですら騎士長ベルクーリとほとんど変わらないのではないかと思わせる高みに達しており、エルドリエは追いつくというより愛想を尽かされないために必死になって修練に励んだ。  同時に、日常的にアリスにあれこれ話しかけ、食事を共にし、いつしか身につけた気障かつ軽薄な話術で——と、彼自身は思っていたが、実際には整合騎士となる以前の“地”が戻っていたのだ——少しでも笑顔を引き出そうと努力した。  そのような日々は少しずつ実を結び、剣力も上昇し、またごく稀なことではあるが師の唇に微かな笑みが浮かびはじめたように思えてきた頃。  カセドラルを、あの大事件が襲った。  最初は、ただの通常業務だったはずなのだ。確かに、ふたりの学生が犯した“殺人”という大罪はエルドリエの長い記憶にも無いものだったが、広い人界には諍いと偶発的な不幸が重なって血が流れてしまう事件ならば稀には起こる。実際、北セントリアの学校で捕縛した罪人らは、最初はまるで危険にも凶悪にも見えなかった。むしろ単なる、しょげ返った一般民の若者でしかなかった。  だから、彼らを飛竜で連行し、カセドラルの地下牢に叩き込んだあと、師アリスがしばしの黙考のすえに『念のため、一晩だけ牢の出口を警備しておきなさい』とエルドリエに命じたときは少々驚いた。そして、薔薇園でのワイン片手の夜明かしもたまにはよかろうと任に就き、東の空が白みはじめた頃、ほんとうに罪人らが脱獄してきたときはもっと驚いた。  師の慧眼に感服し、その信頼に応えるべくエルドリエは彼らの前に立ちふさがり——あろうことか、見事なまでに敗れた。武器と言えば千切れた鎖しか持たない一般民相手に、しかも、“星霜鞭”の武装完全支配術まで用いながら。  いや、敗北は受け入れざるを得ない。あの二人は結局、デュソルバートや、ファナティオと宣死九剣、師アリスから騎士長ベルクーリの護りすら突破し、最終的に最高司祭アドミニストレータまでも斬ってのけたのだから。アリスも、あの名も知れぬ北の寒村の庵で、罪人の片割れを前に確かに言っていた。この人は、整合騎士を上回る最強の剣士なのだ、と。  己があの黒髪の若者に、剣力で明白に劣ることが口惜しいのではない。  そうではなく——自分ではなかったのだ、という事実が。  師アリスが自ら作り出した氷の箱庭から、彼女の心を解き放つ者は、自分ではなくあの若者だったのだ、という認識がエルドリエを激しく揺さぶった。  開戦前、師が、これまで一度として見せたことのない慈愛に満ちた微笑みとともに礼の言葉を口にしたとき、彼は感涙とともに決意したのだ。せめて、この戦いにおいて、四年にわたる指導がいかに大きく結実したか、それを師に伝えねば、と。  その強い心意は、エルドリエの実力を引き上げると同時に、追い込みもしていた。  仮に、彼の率いる左翼を襲った山ゴブリン軍が尋常な戦いを仕掛けていれば、エルドリエは右翼デュソルバートをも上回る獅子奮迅の働きを見せただろう。  しかし、実際にはゴブリンらは強烈な煙幕で彼と左翼部隊の視界を完全に奪い、足元を潜り抜けて後背を襲うという予想もしなかった作戦に出た。  ゴブリン如きにしてやられた、空から見守るアリスの目の前で醜態を晒した、という衝撃と焦りがエルドリエから冷静な判断力を奪った。彼は、鼻先も見えない濃密な煙のなかで闇雲に周囲を見回し、衛士らに指示を飛ばそうとした。しかし、どうにか思いついたのは、この状況で攻撃命令を出せば同士討ちになってしまう、ということくらいで、煙をどう除去していいのかまるで思いつかなかった。  藤色の巻き毛を振り乱し、血が滲むほど唇を噛み締めながら、エルドリエはただ立ち尽くした。  再び膝を抱えこんで自分だけの世界に戻ろうと、腰を落としかけた整合騎士レンリは、耳に届いた大勢の叫び声の予想外の近さに、ぴたりと動きを止めた。  まさか、これほど早く敵軍が戦列を突破してくるなどということは有り得ない。まだ、開戦からたかだか十分ほどしか経過していない。  気が高ぶっているせいだ、それで遠くの音が明瞭に聞こえるんだ、とレンリは思い込もうとした。  しかし、迫ってくる鬨の声が自分だけの錯覚ではないことを、同じ天幕に逃げ込んできた二人の少女たちの反応が教えた。 「うそ……、もうこんな後方まで!?」  赤毛の少女、シュトリーネンという姓らしい練士がさっと顔を上げると、素早く天幕の入り口に走った。  僅かに垂れ幕を持ち上げ、外を確認する。即座に、その幼さの残る顔が青ざめた。 「け……煙が……!」  掠れた叫びに、アラベル練士のほうも身体を強張らせる。 「えっ……ティーゼ、火も見えるの!?」 「う、ううん、ただ……変な色の煙だけが……。——いえ、待って、煙の中から……人が、沢山……」  垂れ幕の隙間から外を覗く赤毛の練士の言葉が、分厚い綿に吸い込まれるように、不意に止まった。  嫌な沈黙だった。  レンリは中腰のまま眉をしかめ、耳を澄ませた。  いつの間にか、鬨の声は遠く薄れている。しかし、その静けさの底を、何かが——。  ひたひた。  ひたひた、と。  突然、シュトリーネン練士が、からくり人形のようなぎこちない動きで、一歩、二歩と天幕の中に下がった。右手ががくがくと強く震えている。剣を抜こうとしているのだ、とレンリが気付くのとほぼ同時に。  ばさっ! と乱暴に垂れ幕が引き開けられた。  外はすでに夜闇に包まれて、わずかな篝火の光だけが薄赤くゆれている。それを背景に、のっそりと立つ人影。やや小柄で、妙に猫背、対して腕は異様に長く——握られているのは、ただ板金を切り出したかのような、無骨極まる刀。  入り口から吹き込む空気に混ざる、強烈な異臭がレンリの鼻を刺し。  シュトリーネン練士が、鞘をカタカタ鳴らしながら抜剣し。  アラベル練士が低く、鋭く叫んだのは、ほぼ同時だった。 「——ゴブリン!!」  その声に、しゅうしゅうと擦過音の混ざる、しわがれた囁きが答えた。 「おうおう……白イウムの、娘っこだぁ……おれの……おれの獲物だぁ……」  あまりにも明け透けな、生々しい欲望の響き。  上位整合騎士でありながら、レンリが肉眼で闇の種族を見るのはこれが初めてのことだった。果ての山脈まで飛んでいくための騎竜を与えられる前に、凍結処分されてしまったからだ。  ぜんぜん——ちがう。  レンリは、内心で呆然とそう呟いた。  下位騎士の時分に、古参騎士の講義や、書物類を通してダークテリトリーの亜人四種については知識を得ていた。しかし、まるでお伽話に出てくる悪戯妖精のように想像していたゴブリンと、今目の前に立つ人型の生物との間には、果てしない隔絶があった。  この世界に、これほどまでに濃密な殺気と欲望が存在したなんて。  人間を、壊して喰おうと本気で考える生き物がいるなんて——。  つま先まで完全に痺れ上り、動くことも出来ないレンリの目の前で、うぞり、とゴブリンが一歩前に進んだ。  シュトリーネン練士は、両手で握った長剣を、しっかりと中段に構えようと——したのだろうが、両膝が激しく震えるせいで切っ先が定まらない。小さくかちかちと聞こえるのは、歯が打ち合わされる音か。 「テ……ティー……」  アラベル練士が、細い声を喉から漏らした。右手で剣の柄を握ったものの、どうしても抜けない、というように背中を引き攣らせている。  そしてもう一つ、奇妙な音がレンリの耳に触れた。  ぎし、ぎし、と何かが軋むような。  ちらりと視線をだけを右に動かしたレンリが見たのは——。  すぐ隣の暗がりで、車椅子にぐったりと沈み込み、虚ろな表情で俯く黒髪の若者。その、二本の剣を抱く左手に、血管が浮き、関節が盛り上がり、恐ろしい力が込められていることを示している。  そう、まるで、剣を抜く右手が存在しないことを憤るかのように。 「君は……」  レンリは、音にならない声で囁いた。  君は、あの子たちを助けようというのか。立つことも、抜剣することも、それどころか喋ることさえできないのに。  ああ……。  そうか。  この若者、最高司祭を斃したという反逆者の強さというのは。たぶん、剣技でも、術力でも、神器でも、武装完全支配でもなく。  騎士、一般民の隔てなく皆が生まれながらに持ち、しかし容易く見失ってしまう、ささやかな力。  勇気。  レンリの右腕がかたく強張り、震え、ゆっくりと動き始めた。  ゴブリンが、シュトリーネン練士の頭上に、分厚い蛮刀をずいっと振り上げた。  指先が、右腰の神器“比翼”の片方に触れた。  刹那——。  シュバァッ!!  鋭く空気を斬る音。青白い閃光。それは低い位置から弧を描いて跳ね上がり、シュトリーネン練士の赤毛を掠めて右に曲がり、ゴブリンの立つ位置を通過して急激に角度を変え——まっすぐ伸ばされたレンリの、右手の二本の指のあいだにぴたりと挟まれた。 「……ぐ、ひ……?」  いぶかしむような、ゴブリンの唸り。  その、鼻と顎が垂れた顔面の中央に、斜めの赤い線が走った。  どっ。  まず落ちたのは、肘の上で綺麗に切断された、蛮刀を握った右腕だった。  次いで、ゴブリンの頭がずるりとずれて、上半分だけが蛮刀の上に湿った音をたてて転がった。  双投刃“比翼”は、くの字形をした、ごく薄い鋼の刃二枚が一対を成す神器である。  長さ六十センほどのその刃に、柄は存在しない。両端ともがごく鋭い切っ先となっており、その一方を指先で挟んで投擲する。高速回転しながら飛翔した刃は、鋭角な楕円軌道を描いて主のもとに戻り、それを再び二指で受けとめる。  つまり、通常の使用に際してすらも、剣とは比較にならないほどの集中力を必要とするのだ。少しでも精神を乱せば、戻ってきた刃を受けそこね、容易く手指を落とされる。  そのような武器を軽々と扱えるというだけで、レンリの技量の並々ならぬことは証明されていると言っていい。しかし本人にその自覚はまったく無い。武装完全支配術を発動できない、というたった一つの負い目が、彼の精神を強く萎縮させているからだ。  ゆえに、瞬時の神業でゴブリンを即死させたからと言って、レンリがすぐさま戦意を取り戻せたわけではなかった。  伸ばした右手の先で、りぃぃ……ん、と微かに刃鳴りする青鋼の冷たさを感じながら、レンリは左手で強く鎧の胸を押さえた。縮こまりすぎた心臓が、今にも圧力に耐えかねて破れそうだ。 「……騎士、さま」  一瞬の静寂を破ったのは、振り向いたシュトリーネン練士だった。その深紅色の瞳に浮かぶ涙は、巨大な恐怖の余韻か。 「騎士様……、ありがとう……ございます。助けて……くださったのですね」  囁かれた感謝の言葉に、レンリは思わず顔を背けた。やめてくれ、そんな眼で見ないでくれ。僕の勇気はいまの一投で枯れてしまったよ。——胸のうちでぽつりと呟く。  不意に、投刃の重みが増したような気がして、レンリは右手を下ろした。  今のゴブリンは、夜闇にまぎれて単独で飛び出してきた欲深者だったのだろう。敵本隊は、きちんと前線で迎撃されているはずだ。  半ば願うようにそう予想した、まさにその瞬間。  天幕の外、驚くほど近くで、新たなゴブリンの雄叫びと、人間の悲鳴が響いた。同時に剣戟の金属音。それらは瞬く間に数を増し、全方位から一気に押し寄せてくる。  大きく息を吸い、背筋を伸ばしたシュトリーネン練士が、レンリをまっすぐ見つめて言った。 「騎士様、ゴブリンの集団が、おそらく煙幕のようなものを使用して前線を突破、後方を襲っております! 補給部隊には非武装のものも多く居ります、彼らを守らねば!」 「し……集団……」  あんな奴らが——何十匹、何百匹、いや戦争なのだ、それ以上の規模でもおかしくない。  無理だ。僕にはできない。一匹のゴブリンですら、あれほど恐ろしかったのだ。軍勢の前になんか、絶対に立てない。  呼吸が浅くなる。脚から力が抜ける。  逃げ場所を探して泳いだ瞳が——。  再び、黒髪の若者が隻腕で抱える、二振りの長剣に吸い寄せられた。  いつの間にか、不思議な光景がそこに出現していた。  二振りの片方、精緻な薔薇の象嵌をほどこした白鞘に収められた剣が、薄闇のなかで、仄かに発光している。薄青い、しかしどこか暖かみのある微かな光が、まるで心臓のように——とくん、とくんと脈打つ。  溶ける。全身を包む冷気が、胸中に満ちる恐怖が、ゆるゆると溶かされていく。  先刻、若者が発散していたものが勇気なら——いま、この剣から溢れ、レンリの心に流れ込んでくるものは……。 「……君たちは、ここでこの人を守っていて」  自分の口から、しっかりとした声が流れるのをレンリは聴いた。  顔を上げると、シュトリーネン練士だけでなく、アラベル練士の眼にもいつしか涙が宿っていた。二人に向けて強く頷きかけ、レンリは具足を鳴らしながら、天幕の入り口に歩み寄り、垂れ布を大きく跳ね上げた。  即座に、視線が血塗れた光景を捉えた。  二十メルほど離れた物資天幕に寄りかかるように、一人の傷を負った衛士がかろうじて立ち、右手の小剣をどうにか構えようとしている。その目の前に二匹のゴブリンが迫り、我先にと蛮刀を振り上げる。  しゅっ、とレンリの右手が唸り、風切り音だけが飛んだ。ゴブリンが立つ位置で、一瞬ちかりと反射光が閃き、二匹の動きが止まる。  指先に無音で投刃が戻ってくるのと、二つの首が落ちるのは同時だった。しかしレンリはその結果を確かめることなく、すでに視線を左に向け、新たな目標に向けて左腰の鋼刃を放った。内側からくぐもった悲鳴の漏れる天幕の、頑丈な厚織布を引き裂こうとしていたゴブリンの背中から左肩にかけてがすぱっと裂けた。  今度は背後に気配。  砂利を踏みしだきながら急接近してくる足音に向けて、レンリは右手の刃を後ろ手に投じた。その後に振り向き、敵の顔面を断って戻ってきた武器を受ける。  僅か三秒で四匹のゴブリンを始末したレンリに、周囲の闇から粘つく視線が一斉に注がれた。 「騎士だ……」 「大将首だ!」 「殺せ! 殺せ!!」  軋るような唱和を浴びながら、レンリは敵をこの場所から引き離すべく、東へと走った。そちらには、確かにシュトリーネン練士の言ったとおり奇妙な灰緑色の煙がもうもうと立ち込め、その奥から更に無数のゴブリンたちが湧き出しつつある。  あの視界では、前線は大混乱だろう。主力衛士たちが態勢を立てなおし、ゴブリン部隊を追ってくるには最短でも五分ほどはかかるかもしれない。  その間、自分ひとりで敵を引きつけ、食い止めることができるだろうか。  いや——やるしかないんだ。ここで逃げたら、僕は間違いなく、永遠に失敗作だ。  なぜなら、ようやく分かったような気がするんだ。僕に欠けているもの。“比翼”と共鳴しながら同化を阻んだ、大きな欠落がなんなのか。  その思いを強く噛み締め、レンリは走った。  すぐに、整然と並ぶ天幕の列が切れ、前線とのあいだの空白地帯に達する。すぐ左に垂直に切り立つ崖の岩肌、前方には無数に沸いてくるゴブリンの主力、後方からは引き返して追いかけてくる先鋒部隊。  完全な被包囲状況に自ら飛び込んだレンリは、脚を止めると、二枚の薄刃を挟み持った両手を左右一杯に広げ、叫んだ。 「僕の名はレンリ!! 整合騎士レンリ・シンセシス・フォーティナイン!! この首が欲しければ——悲鳴すら上げられずに死ぬことを覚悟してかかって来い!!」  高らかな名乗りに応えたのは、無数の怒りと欲望の咆哮だった。  一斉に蛮刀を振り上げ、飛びかかってくるゴブリンの群れに向かって、レンリは双刃を同時に放った。  右の刃は左方向へ。左の刃は右へ。包囲突進する敵の最前列を、まるで舐めるようなゆるい円弧を描いて死の閃光が飛翔する。  ばらっ、ばららら……。  腕が、首が、立て続けに胴から離れ、こぼれ落ちた。  しかし一瞬前まで仲間だった残骸を蹴り飛ばし、わずかな逡巡も見せずに新たなゴブリンが迫ってくる。  レンリは、戻ってきた二枚の刃を、指で挟むのではなく、弧の内側に人差し指を引っ掛けるようにして受け止めた。勢いを殺さぬよう、指先で猛烈に回転させながら、一呼吸の間も置かずに再度投擲する。  まったく同じ光景が繰り返された。通常攻撃の威力だけを比較すれば、“熾焔弓”や“天穿剣”をも上回る凄まじい殺戮だ。“比翼”の刃は紙よりも薄く、それが超高速で回転しているため、生半な防具は無いも同然の切れ味を発揮するのだ。  連続同時投擲が、もう一度。  そしてさらにもう一度行われ、さしもの数を誇るゴブリンらも、仲間のあまりにも呆気ない死に様に怯んだか、やや突進の勢いが緩んだように思えた。  いける——。もう少しだけ持ちこたえれば、前線から衛士たちが追いついてきてくれる。  レンリは仄見えた希望とともに、五度目の投擲を行った。  ——しかし。  耳に届いたのは、小枝を鉈で落とすようなそれまでの切断音ではなく。  カァン! キャリイイン!!  という、甲高い反射音だった。  大きく軌道をぶらせて戻ってきた二枚の刃を、レンリは一杯に伸ばした両手で危うく受け止めた。とても指先に引っ掛けるという芸当を見せる余裕はなく、この局面で初めて死の刃が静止した。  さっ、と視線を向けた先、谷の北側から、一匹のゴブリンがうっそりと姿を現した。  大きい。  いや、体格はさほどでもない。肉体年齢十五歳のレンリと較べても、目線の高さはさほど変わらない。  しかし——その全身を包む、鋼のような筋肉の盛り上がりと、何より放射される鍛えられた殺気は、他のゴブリンらとまるで異なるものだった。 「……お前が大将か」  レンリは低い声で問うた。 「いかにも、俺が山ゴブリン族長のコソギだよ、騎士の坊や」  鋭く吊り上がった黄色い瞳で、じろりと周囲を睥睨する。 「あぁあ、随分と殺してくれたなあ。何でこんな後ろに整合騎士が居残ってるのかねえ。まったくアテがはずれちまったよ」  言葉遣いすらも、他のゴブリンとはまったく違う。制御された意思と、知性の響き。  ——関係ない、そんなもの。たった一度、たまたま跳ね返せたからって、そう何度も続くわけはない。  レンリはぐうっと両腕を後ろに引くと、短く叫んだ。 「なら……これでお前らの戦争は終わりだ!!」  シュバッ!!  全力、最速の投射だった。  右の刃は斜め上から、左の刃は地面から跳ね上がるように、正確にコソギの首を狙って飛んだ。だが。  カカァン!!  今度もまた、響いたのは高く澄んだ金属音だった。  敵将コソギは、右手に握った大鉈と、左手の小刀で、二枚の投刃を見事に防いだのだ。  なぜ!?  驚愕し、見開かれたレンリの眼が、コソギの携える武器の輝きをとらえた。  その形こそ無骨な代物だが、色が違う。あれは、他のゴブリンが持っているような粗雑な鋳造品ではない。精錬された鋼を、長い時間かけて鍛え抜いた、高優先度の業物だ。  視線に気付いたか、コソギは一歩距離を詰めながら、にやりと笑った。 「おうよ。ま、あくまで試作品だがね。暗黒騎士どもから製法を盗むために、そりゃあ血が流れたもんさ。だがな……それだけが防がれた理由じゃあないぞ、坊や」 「……舐めるなッ!!」  ふっ、と両手が霞むほどの速度で振り抜かれる。今度は、遥か上方へと舞った薄刃が、レンリと敵の視界から消え、大きな弧を描いて背中を襲う。これは弾けないはず—— 「……!?」  確信は、即座に裏切られた。コソギという名のゴブリンは、あろうことか、両手の得物を背後に回し、見ることもなく超高速の刃を逸らしたのだ。  不規則に揺れながら戻ってきた刃を、レンリはわずかに受け止めそこね、左手の指先に浅い切り傷を負った。しかしその痛みなど、驚愕の前には存在せぬも同然だった。 「軽いんだよ、騎士坊や。それに軌道が素直すぎる」  コソギの短い台詞は、完璧なまでに“比翼”の弱点を言い当てていた。  投刃それぞれの重量は、神器と呼ばれる武器としては、有り得ないほどに軽い。鋭利さと高速回転に性能が突出しているため仕方ないことではあるのだが、それゆえに、速度に反応でき充分な優先度の装備を持つ敵の防御を、強引に押し切るということができないのだ。  また、刃が描く飛翔軌道は、行きと戻りが完全な対称形となる。これは、たとえ背後から襲ってくる場合でも、投擲直後の軌道さえ見逃さなければその攻撃点を正確に予測できるということでもある。  わずか数回の攻撃を見ただけで、そこまでを看破してのけたコソギの知性にレンリは戦慄した。ゴブリンと言えば、粗野で、下等で、卑しいだけの怪物ではなかったのか。 「ゴブリンのくせに……ってツラだな、坊や」  にやりと、しかしどこか凄愴なものを秘めた笑みを浮かべ、コソギが囁いた。 「だが、俺としちゃこう言わせてもらいたいね。お偉い騎士さまのくせに、ってな。整合騎士は一騎当千……そう聞いていたんだが、どうやらお前さんはそうでもないようだな? だからこんな後ろに隠れてた、そうなんだろ?」 「……ああ、そうさ」  目の前の敵を、ゴブリンと侮ったのがそもそもの間違いだった。そう悟ったレンリは、虚勢を捨て、頷いた。 「僕は失敗作だ。だけどね……勘違いするなよ。出来損ないなのは僕だけで、こいつじゃない」  両手の指先に挟んだ薄刃を、ゆっくりと降ろす。 “比翼”の明瞭なる弱点。それを完全に覆しうる、たった一つの方法が、このふたつの武器の記憶を解放することだ。  伝え聞く、比翼の源となった古の神鳥は、それぞれ左と右の翼を喪ったつがいだったのだという。一羽だけでは飛べない彼らは、互いの身体を繋ぎ合わせることで、他の鳥たちには飛べない高みまでも舞い上がり、無限に等しい距離を往くことができた。  その伝説を聞いたがゆえに、レンリは武装完全支配術を発動できなくなってしまったのだ。 “シンセサイズの秘儀”によって記憶から奪われた、“愛する者”。  それは、四帝国統一大会の決勝で戦い、極限の鬩ぎ合いのなかで刃が止まらずに命を奪ってしまった、幼馴染の親友だった。  レンリと親友は、まさしく比翼の鳥だった。物心つくかつかぬ頃から二人で腕を競い合い、故郷を出て央都に上ってからも、互いの存在を心の支えにしてあらゆる試練を突破し——人界最高の舞台にまで同時に達した。  だが、そこで翼は折れてしまった。  記憶を封印され、整合騎士となってからも、レンリの心にぽっかりと開いた巨大な喪失感は埋まることはなかった。剣を取り戦う“勇気”、誰かと心を繋ぐ“情愛”、その二つを見失ったレンリに、一枚ずつの翼を繋いで飛翔する比翼鳥の姿を心象化できるはずもなかったのだ——。  しかし。  つい先刻目にした、傷ついた若者と、腕に抱かれた二本の剣が。  その片方が放った仄かな光が。  レンリに声なき声で語りかけた。この世界には、たとえ命尽きようとも、決して喪われないものがあると。  それは記憶。思い出。  誰かの命は、心繋いだ誰かに受け継がれ——そしてまた、次の命へ連なっていく。  レンリは、勝利を確信した表情で迫ってくるゴブリンの将から視線を外し、そっと瞼を閉じた。  何もかも諦めたがごとき、力ないその姿から、突然、熱風のような剣気が放たれた。かっ、と両眼が見開かれる。二枚の鋼刃を挟み持った両腕が、顔の下半分を隠すように交差される。  ズバアァツ!!  腕が真横に振り抜かれると同時に、舞い上がった二条の光。高い弧を描き、右と左からコソギへと襲い掛かる。 「何度やろうが……無駄だッ!!」  ゴブリンの長は、苛立ちを滲ませた怒号とともに、投刃を受けるのではなく全力で弾き返した。  ガッ、ギャリイインッ!!  眩い火花とともに、薄い翼は呆気なく跳ね返り、再び空高く飛翔した。それらは、まるで螺旋のような曲軌道を引きながら——絡まりあい、寄り添い、一点へと。  瞬間。 「リリース……リコレクション!!」  レンリは、かつて何度も唱え、その度に絶望を味わった聖句を、喉も破けよとばかりに叫んだ。  小さなソルスにも似た眩い光が、谷間後方を照らし出した。  鳥の形をした二枚の鋼刃が、輝きながらその頂点を接合させ、融けあい、完全なる一へと変貌する。  ゆるゆると回転するそれは、十字の刃を、まるで遠い夜空の星のように青く煌かせていた。神器“比翼”、その解放された姿。  遥か高空で光を放つ己の分身に、レンリはそっと右手を差し伸べた。  ——綺麗だ。  ——まるで僕と……——のようだ。  ぐ、と強く手を握り。その拳を、勢いよく振り下ろす。  ギュアアアアッ!!  十字刃が、瞬時に猛烈な勢いで回転しながら、空を舞った。レンリの腕の動きに従い、降下し、舞い上がり、旋回する。 「なに……おぅっ!!」  一声吼えたコソギが、猛禽のように上空から襲い掛かる比翼を、左右の武器で同時に叩き落そうとした。  しかし、双方が触れる直前——それまでの滑らかな軌道を急激に変化させ、十字刃は垂直に跳ねると、再度真下へ向けて加速した。  カッ。  かすかな、乾いた音だった。  が——次の瞬間、コソギの鍛え抜かれた体の正中線に、青白い輝きが走り。  直後、眩い閃光の奔流を振り撒きながら、真っ二つに分断された。  死の瞬間、コソギは、いったい何故自分が敗れたのかをその傑出した知力で考えた。  彼の力学に従えば、己よりも、ひ弱そうな小僧騎士のほうがより強い殺意と欲望を秘めていたのだということになる。しかし、どれほど凝視しようとも、あどけなさの残る白い顔にはいかなる殺気をも見出すことは出来なかった。  ならば、いったい己は何に敗北したのか。  どうしてもそれを知りたかったが、しかし直後、視界がまったき闇に包まれた。  戦線のはるか東、ダークテリトリー軍の第二陣後方。  皇帝の御座竜車には見劣りするが、それでも充分に豪奢な二輪馬車に、浅黒い肌も露わな一人の女が腕組みをして立っている。暗黒術師ギルド総長ディー・アイ・エルである。  その馬車の脇に控える、細い黒衣の人影が、ゆるりと主に身体を向けた。 「シグロシグ殿、シボリ殿、コソギ殿、共に討ち死にとのこと」  顔を薄い紗で覆った伝令術師が低く告げた言葉に、ディーは露骨な舌打ちを漏らした。 「ええい、使えぬ……所詮は亜人か、獣どもめらが」  艶やかな胸元の肌に垂らした、小型の装身具をちらりと一瞥する。銀の円環に十二の貴石を配したそれは、仄かな色合いの変化で時刻を教えるという最高級の神器だ。六時の石は紫に光り、七時の石はいまだ闇色。つまり開戦からわずか十五分ほどしか経過していないことになる。 「整合騎士の座標固定はどうなっている」  苛立った声で尋ねると、伝令は短い術式に続けてぼそぼそ呟き、耳を澄ませる仕草を見せてから答えた。 「最前線に視認できた三名は照準済みです。後方にさらに二名探知していますが、固定にはいましばらく」 「クソ、遅いな。それとも、そもそもの数が少ないのか……しかし、せめてその五人は確実に落とさねば……」  ディーは、皇帝の前に出ているときの媚態が嘘のような冷たい表情でひとりごちると、少し考え、命じた。 「よし、ドローンを出せ。コマンドは……」  眼を細めて、崩壊した大門とその彼方の戦線までの距離を測り、続ける。 「……七百メル飛行、のち降下、無制限殲滅」 「その距離ですと、最前線の亜人部隊を多少巻き込みますが」 「構わん」  無感動に言い捨てる。  伝令の女術師も、一切の感情を見せずに「は」と首肯し、さらに尋ねた。 「数は如何なさいます。現状で孵化済みの八百体すべてを運んできておりますが」 「ふむ、そうだな……」  ディーはさらに数瞬、思考を巡らせた。  作成に多くの資源と時間が必要となるドローンは、彼女にとってはゴブリンなどよりもよほど貴重な戦力だ。出し惜しみしたいのはやまやまだが、『後方からの同時集中斉射による敵主力殲滅』というディーの献策がもし失敗すれば、皇帝の不興を買うことは間違いない。 「……八百全部だ」  命じた唇に、小さく酷薄な笑みが浮かんだ。  ディーの秘めたる野望——この戦が終わり、光の巫女とやらを手に入れれば再び地の底に還るのであろう皇帝ベクタから、摂政の地位を与えられ暗黒界及び人界をあまねく実効支配する。それが叶った暁には、ドローンなど何万体でも作れる。最大の障害だった暗黒将軍シャスターはすでに亡く、残る実力者と言えば単なる金の亡者や格闘にしか興味の無い小僧とくれば、大望成就はもはや目の前と言えよう。  あの半神人、最高司祭アドミニストレータですら成し得なかった、全世界の征服——。  そのうえで、神聖教会の総本山に秘匿されているのであろう無限天命の術式をも手に入れてみせる。  不老不死。永遠の美。  ディーは、背筋を這い登る甘美な戦慄に、ぞくりと身を震わせた。青く塗られた唇を、ちろりと覗いた舌が舐める。  ちょうどその時、伝令術師の指令が前方の術師本隊に行き渡り、まるで闇が翼を得たかのごとき漆黒の人造怪物どもが一斉に飛び立った。  ぬらりとした肌に篝火を照り返させながら、八百ものドローンは命ぜられたままに上昇し、まっすぐに峡谷へと吸い込まれていった。  ——来た。  騎士長ベルクーリは、これまで彫像のように引き結んでいた口元に、はじめて持ち前の太い笑みを浮かべた。  大門手前の上空に描いた心意に、ついに広範かつ多数の反応があったのだ。  暗黒騎士や飛竜の気配ではない。無機質、無感動な、魂を持たぬモノの手応え。  しかしまだ発動はさせない。敵の放ったドローンの全てが“斬撃圏”に呑まれるまで、たっぷりと引き付ける。  ベルクーリの研ぎ澄まされた知覚には、すでにファナティオ、デュソルバートの奮戦と、一時は逃亡してしまった上位騎士レンリの覚醒までもが捉えられていた。  敵先陣の将すべてを討ったとなれば、もうこの局面で戦線を押し込まれることはない。あとは、目論見どおりアリスが空間神聖力を根こそぎ奪うことで敵の遠距離攻撃を無効化してくれれば、無傷の守備軍第二陣でダークテリトリー軍主力たる暗黒騎士団・拳闘士団を迎え撃てる。  己の、真の出番はその先だろう、とベルクーリは推測していた。  長年の好敵手たる暗黒将軍シャスターとの一騎打ち、ではない。  ベルクーリは、すでに、敵本陣にシャスターの気配がないことを察していた。おそらく、数日前に知覚した巨大な剣気の消滅——あれが、かの豪傑の最期だったのだ。  最古の整合騎士として、無限の年月を生きてきたベルクーリにはすでに、寿命ある人間たちの死を嘆き哀しむことはもうできない。それでも、この男ならば、いつか暗黒界と人界の無血融和の可能性を拓いてくれるやもと期待していたシャスターの死は、無念以外のなにものでもなかった。  かくなるうえは、シャスターの命を絶った、あの無限の虚無にも似た気の持ち主——何者かは分からないが、恐らくいまのダークテリトリー軍を率いているのであろう総司令官を、この手で斬ることで弔いに代えるだけだ。  あるいはそこで、ついに自分の命も終わるのかもしれない、とベルクーリは感じている。  しかし、もう生への執着は、彼のなかには欠片も残っていなかった。  死すべき時宜を得て死するのみ。  ファナティオ配下の下位騎士ひとりが、今わの際に放ったその心意に、ベルクーリは見事と感嘆すると同時に——かすかな羨望をも覚えていたのだ。  しかし、無論まだその時ではない。  上空の暗闇を、細波にも似た羽音の重なりとともに侵入してくるドローンの群れが、ついに斬撃圏にまるごと呑み込まれた。  ベルクーリはかっと両眼を見開き、地に突き立てていた愛刀・時穿剣を、ゆるやかな、しかし恐ろしく迅い動作で大上段に振りかぶった。 「————斬ッ!!」  気合一閃、虚空を刃が切り裂いた。  同時に、遥か上空で、無数の白い光条が整然とした格子模様を作ってまばゆく瞬いた。  奇怪な断末魔の大合唱に続いて、どす黒い雨が、亜人混成軍の頭上に滝のように降り注いだ。ドローンの血液は微弱な毒性を持っており、それが将を失った大混乱に更なる拍車をかけた。  これまで、まったくの無感情を貫いていた伝令師の声に、かすかな怯えの響きを聞きつけた時点で、ディーは不吉な予感にとらわれた。それは一秒後、現実へと変わった。 「おそれながら……ドローン八百体、降下前に全滅した模様にございます」 「な…………」  絶句。  続いた破砕音は、馬車の車輪に叩きつけられた高価な水晶杯の悲鳴だ。 「何ゆえだ! 敵にそれほど大規模な術師部隊が居るとは聞いていないぞ!」  それ以前に、術式のみにて八百ものドローンを屠ることは不可能に等しい。素材が粘土であるがゆえに、火炎術も、凍結術も、さしたる効果を持たないのだ。もっとも有効なのは鋭利な武器での攻撃だが、鋼素から生成した低優先度の刃にそこまでの威力があるはずはない。 「……竜騎士はまだ出ていないのだな?」  どうにか怒りを押さえ込み、ディーは尋ねた。伝令師は、低くこうべを垂れたまま肯定した。 「は、大門付近上空には、現時点まで一匹の飛竜も確認しておりません」 「と……なると……アレか。彼奴らの切り札……“武装完全支配術”。しかし……よもやこれほどの……」  語尾を飲み込みながら、剥き出した糸切り歯をきりりと噛み合わせる。  暗黒将軍シャスターと同じように、ディーも整合騎士の隠し持つ超絶技については研究を進めさせていた。しかし、いかんせんこれまでは実物を目撃することすら至難だったのだ。神器と騎士本人の力の相乗効果であろう、ということくらいしか解明できていない。 「だが……武器をそのように使うかぎり、天命は必ず消費されるはずだ。連発はできまい…………」  全力で思考を回転させながら、ディーがそう呟いたとき。  前線からの声に耳を傾けていた伝令師が、さっと顔を上げ、少し張りの戻った声で伝えた。 「総長様、後方の整合騎士二名の座標固定、完了いたしました。あわせて、五の目標を照準中」 「……よし」  頷き、更に考える。  不確定要素たる敵の武装完全支配術を、更に消費させるために地上部隊主力の暗黒騎士団と拳闘士団を投入するか。それとも、こちらの切り札、暗黒術師団をここで動かし、一気にけりをつけるか。  ディーは本来、念入りに策を巡らせ万難を排してから動く用心深い性格だ。  しかし、虎の子のドローンを全て喪失するという予想外の展開が、彼女を自覚なき焦燥に追い込んでいた。  機は熟したのだ。  新たな水晶杯に、黒紫色の酒を満たしながら、ディーは自分に言い聞かせた。  私は冷静だ。今こそ、最初の栄光を掴み取る時。  杯をひといきに干し、それを掲げて、ディー・アイ・エルは高らかに命じた。 「オーガ弩弓兵団、及び暗黒術師団、総員前進! 峡谷に進入後、“広域焼夷矢弾”術詠唱開始せよ!!」  くるるる……。  高く、心細そうな喉声。飛竜“雨縁”が、主を気遣っているのだ。  整合騎士アリスは、どうにか微笑らしきものを唇に浮かべ、囁いた。 「大丈夫よ、心配しないで」  だが、実際のところは、まったく大丈夫ではない。視界はゆらゆらと歪み、呼吸は荒く、手足は氷のように冷たい。次の瞬間に気を失ってもおかしくない。  アリスを消耗させているのは、保持・詠唱中の、今にも暴発しそうなまでに密度を高めている巨大術式ではなかった。  その力の発生源となっている、無数の死そのものだった。  騎士。衛士。修道士。そして敵たるゴブリン、オーク、ジャイアントの、凄まじい勢いで喪われていく命が、アリスを苛む。  かつてのアリスは、一般民の生死や、ましてダークテリトリーの住民の生き死になど、思考に上せる必要すらも感じなかった。  半年間のルーリッドの暮らしを経て、村人たちのささやかな営みの貴さを知り、それは守るべきものだという認識を得たが、しかし暗黒界に暮らす者たちに思いを致すまでにはならなかった。その証左として、ほんの十日ほど前、ルーリッドを襲った亜人の群れをアリスは何の躊躇いもなく殲滅している。  闇の軍勢は血も涙もない侵略者であり、一兵残らず討ち尽くすべきもの。  今の任務に就くその瞬間まで、そう信じて疑うことはなかった。  しかし。  なんということか——。  遥か眼下の戦場から、絶え間なく生み出され、蒸散してくる天命力の感触は、人のものも怪物たちのものも、まったく同一だったのだ。一抹の差異なくすべてが暖かく、柔らかく、元の持ち主がどちらの軍の兵士なのかを感じ分けることは完全に不可能だった。  これはどういうことなの、とアリスは激しく動揺した。仮に、人界の民も、暗黒界の怪物も、本質的に同一の魂を持ち、ただ生まれた場所が山脈のあちらかこちらかだけの違いしかないのだとすれば。  いったい何故彼らは、そして私は戦っているのか。  その疑問に答えの出ようはずはなかった。  アリスは、そこで無理やりに考えるのを止め、ただただ峡谷に放出される神聖力を凝集し、術式に換えることだけに集中した。  おそらく、この世界でただ一人、疑問の答えを知っているのであろう黒髪の若者を守る——そのためだけに。  しかし、無数の悲鳴と断末魔が谷いっぱいに反響し、否応なくアリスの精神を締め付ける。死ぬ。死んでいく。誰かの父が、兄が、姉妹が、そして子が。  ……はやく。  アリスは心の裡で呟く。  いっそ、はやくその“時”が来てほしい。己の力で、巨大な死を生み出すことでこの惨劇を終わらせられる、その時が——。  人界侵略軍先陣を構成する、亜人混成部隊は壊走の一歩手前で踏みとどまっていた。  三人の長はすべて死んだ。殺された。それはつまり、敵を率いる騎士が、彼らの誰よりも強いということだ。そして、力あるものがすべてを支配する。  もしこの戦いが、亜人たちだけのものだったなら、長たちが討たれた直後に残る兵らは全面降伏していただろう。  危うくその事態を食い止めていたのが、彼らのうえに初めて降臨した暗黒の神、皇帝ベクタの存在だった。皇帝は十侯の誰よりも強く、そして今はまだ人界の騎士とどちらが上かは決定されていない。  だから亜人たちは元命令を固守せざるを得ず、勢いに乗る人界守備軍と懸命に刃を打ち合わせた。  その、懸命なる奮闘が稼ぎ出した数分間を利用して、ダークテリトリー軍の切り札である遠距離戦力、つまりオーガ部隊と暗黒術師部隊が大門崩壊跡の線ぎりぎりに密集展開した。  陣形は、七千ものオーガ軍が前方で巨大な弩弓を構え、後方で三千の術師が攻撃術を詠唱するというものだ。指揮を取るのは、オーガ族の長フルグルではなく、術師総長ディーの最側近である練達の高位術師だった。  術師は、後方の伝令師から届いた命令に耳を澄ませ、ひとつ頷くや叫んだ。 「オーガ隊、弩弓発射用——意! 術師隊、“広域焼夷矢弾”術式詠唱開始!! 照準師、敵整合騎士座標への誘導術式詠唱開始!!」  広域焼夷矢弾、とはこの作戦のためにディー・アイ・エルが設計した、大規模殲滅術式である。限りある空間暗黒力を全て炎熱の威力へと換え、それをオーガの矢に乗せることで長距離の射程を実現する。“バードシェイプ”や“アローシェイプ”といった発射、誘導のための変形に術力を消費しないため、爆発、焼却の凄まじさは想像を絶するものになるはずだった。皇帝ベクタの威のもとに十侯軍が共闘するこの戦だからこそ実現できる、“鉄血の時代”にも存在しなかった史上最大の攻撃術だ。  さらにディーは、風素因術に秀でた数名の術師によって、敵の主力である整合騎士に向けて威力を誘導・集中する“風の道”を造らせるという周到な策を用意していた。これは、仮にその誘導を一点に凝らせば、かの最高司祭アドミニストレータですら防げなかったと思われるほどの超高優先度攻撃となるはずだった。まさしく、かつて賢者カーディナルが危惧した、“個の力では対抗しきれない数の威力”そのものだったのだ——。  再び、雨縁が低く啼いた。  しかし今度は、鋭い牙鳴りの混ざる警戒音だった。  アリスは、朦朧とし始めていた意識を、気力を振り絞って立てなおし、じっと遥か彼方の闇の底を見徹した。  ——来た!!  混戦を続ける亜人部隊のむこうに、新たな軍勢が整然と、しかし高速で突き進んでくる。金属鎧の輝きは無い。つまり前衛部隊ではなく、遠距離攻撃部隊だ。  彼らこそ、人界守備軍を一掃し得る、凶悪なる威力を秘めた破壊者たち。  しかしそれは、この私も同じなのだ——。  アリスが設計・駆式している術。それは、伝え聞いたファナティオとキリトの戦いに着想を得た、“反射凝集光線”術とでも言うべきものだった。  峡谷に満ちる空間神聖力と、戦いが生み出した放散天命力という膨大なリソースをもとに、アリスはまず晶素によって差し渡し三メルはあろうかという巨大な硝子球を生成した。  次に、その球を、鋼素によって分厚い銀膜を造り、くまなく覆う。  出来上がったのは、“閉じた鏡”だ。あとはそこに、発生するリソースの全てを光素へと変えて閉じ込めていく。  素因の保持、それは古から、幾多の高位術者たちを悩ませてきた基本かつ究極の技術だった。  生み出した各種の素因は、意識を繋いでおかねば気ままに空中を漂い、やがて消滅なり破裂なりしてしまう。そして、保持し得る素因の上限は、人間が持つ端末——つまり十指の数と一致する。  元老チュデルキンは、その特異な体格を利用して、頭のみで倒立することで両足の指をも端末化し、二十の素因を操った。さらに最高司祭アドミニストレータは、いかなる精神力を用いてか、自身の銀色の髪をも端末とすることで、百近くもの素因を保持した。  しかし、そのどちらもアリスには真似できない技術だ。そもそも、二十が百でもこの状況ではまったく足りない。何せ敵の暗黒術師は三千、全員が中位階梯だとしても最低一万五千を超える素因を発生させ得るのだから。  ゆえに、アリスは、発生させた素因から意識を切っても位置を保てる方法を考えた。しかし、攻撃術として一般的な熱素や凍素は、何に触れてもそれを燃やし、あるいは凍らせて消えてしまう。風素に至っては閉じ込めることがそもそもできない。  だが、カセドラル五十階での戦いに於いて、キリトが“天穿剣”の光を、わずかな鋼素と晶素から生成した鏡で反射してのけた、と聞いて、アリスは考えた。  光は、鏡と接しても跳ね返るだけなのだとしたら——閉じた鏡を造ってやれば。そして、その内側に光素を生成すれば。  理論上、鏡の天命が尽きるまで、無限個の光素を保持しておけるのではないか。  屈強なオーガ兵たちの引き絞った弩弓が、ぎりぎりと軋みながら天を向いた。  無数に煌く凶悪な鏃に、三千の暗黒術師たちは炎熱の力を封じ込めるべく、両手を差し伸べて、一斉に起句を詠唱した。 「「「システム・コール!!」」」  女声のみが幾重にも和するそれは、まさしく死の合唱だった。術師ひとりひとりは、自らが加わり作り出す力場の巨大さに陶酔しながら、次の術式を歌い上げた。 「「「ジェネレート・サーマル・エレメント!!」」」  しなやかな指先に、仄かに赤い輝点が瞬き——  即座にその色をくすませ、ささやかな煙とともに消滅した。  指揮官の高位術師は、いったい何が起きたのか即座に理解することが出来ず、もう一度式を唱えた。しかし結果は一緒だった。  呆然とする彼女に、傍らにいた若い術師が、おそるおそる言葉をかけた。 「ぶ、部隊長さま……これは……空間暗黒力が、枯れ切っているのでは……」 「そ、そんなはずがあるものですか!!」  指揮官は、愕然として叫んだ。幾つもの指輪が嵌まった左手で、前方の戦線を指す。 「あの悲鳴が聞こえないの!? 人も、亜人も、あんなに死んでるじゃないの!! あれだけの命が、一体どこに消えてしまったって言うのよ!!」  それに答えられる者は居なかった。オーガ兵たちも、発射命令が出ないことに苛立ちながらも、ただ弓を絞り続けるしかなかった。  時、来たれり。  アリスは一瞬瞑目し、すぐにきっと眦を決した。  たった一人のために多すぎる命を奪う罪は、己の両肩に背負ってみせる。  直径三メルの銀球は、雨縁の背中と首に保持され、その内圧を限界まで高めている。それにぴったりと合わせた掌に、ぐっと力を込め、アリスは叫んだ。 「雨縁……首を下げて!!」  命令に従い、飛竜が体を前傾させる。ずず、と銀球が転がりはじめ、ちょうど一回転して虚空へと放たれた、その瞬間。 「……バースト・エレメント」  これほどの威力を内包した術式にしては、あまりに短く、単純な一句だった。  銀鏡球は、前方に向いた一箇所をわざと薄く造られていた。  無限個の光素が崩壊する純粋な力は、そこに集中し、銀を真っ赤に溶解させ——。  パウッ。  という、かすかな音とともに外界へと放たれた。  最前線で“それ”を見たファナティオは、呆然と立ち尽くしながら、己の記憶解放攻撃の百倍はある、と考えた。  それ以外の衛士・騎士は、ただ単純に、ソルスの神威だ……と畏怖した。  幅十メルはあろうかという純白の光の柱が、斜め下方に向けて伸び、亜人部隊の中央に突き立った。そのまま峡谷の奥へと、撫でるように向きを変え——。  クアァッ。  甲高い共鳴音とともに、熱と光の波が峡谷の幅一杯に溢れかえり、直後、天地を引き裂く轟音とともに、山脈の稜線までも届く火柱が吹き上がった。  ほとんど手の届きそうな距離に出現した、とてつもない規模の“破壊”を、ディー・アイ・エルは当初みずからの作戦が生み出したものと誤解した。  しかしすぐに、峡谷の東、つまり外側に向けて押し寄せてきた熱気が、彼女を凍りつかせた。  灼けた風が運んできたもの。それは間違いなく、亜人部隊の、そしてディーが手塩にかけた暗黒術師たちの断末魔の悲鳴だった。  立ち尽くすディーに、傍らの伝令師が、掠れたわななき声で告げた。 「……原因不明の空間力枯渇現象により、我が方の“広域焼夷矢弾”術式は不発……直後、敵陣より放たれた未詳の大規模攻撃により、亜人混成部隊の九割、オーガ弩弓兵の七割、さらに暗黒術師隊の……三割が壊滅した模様です……」 「原因不明の枯渇……だと!?」  ディーは、突如噴出した瞋恚のままに叫んだ。 「原因は明らかだ! あの馬鹿でかい術式が、峡谷のあらゆる空間暗黒力を吸い取ったのだ!! しかし……有り得ぬ、あれほどの術はこの私にも……それこそ、死んだ最高司祭にしか行使できないはず!! ならば、何者の仕業だというのだ!?」  怒鳴り散らしてみたものの、何ら建設的な思考は湧いてこない。この局面をどう打開したものか、それ以前に皇帝ベクタになんと報告すればいいのか、十侯最大の智謀を持つと言われたディー・アイ・エルにしてもまったく思いつかなかった。  桁外れに巨大な術式を行使した反動と、何よりもそれが生み出した惨劇そのものに打ちのめされ、アリスは雨縁の背中にくたりと崩れ落ちた。  飛竜は主の体をやさしく受け止めると、緩やかな螺旋を描いて人界守備軍の最前線に降下した。  真っ先に駆け寄ってきたのは、副騎士長ファナティオだった。両腕を伸ばし、滑り落ちかけたアリスを抱きかかえる。 「見事……見事な術式、そして心意だったわ、アリス。御覧なさい、あなたが導いた勝利よ」  囁くような声に薄目を開けると、いまだ赤熱する峡谷の底を、狂乱の体で逃走していく敵生存兵の姿が見えた。死体のほうはほとんど確認できない。最初の超高熱線を受けて瞬時に蒸発してしまったか、その後の爆発で跡形もなく四散したのだ。  あまりにも無慈悲な破壊を、誇る気持ちには到底なれなかった。  しかし、直後、周囲の衛士たちから津波のような歓声が沸き起こった。それはすぐに一つにまとまり、脈打つ勝ち鬨へと変わる。  整合騎士団万歳、四帝国万歳の唱和を聞きながら、アリスは詰めていた息を吐き、ファナティオの腕から立ち上がった。向けられる歓声に、かすかな笑顔と控えめに挙げた右手で応えてから、副騎士長に向けて口を開く。 「ファナティオ殿、戦いはまだ終わったわけではありません。今の術式が新たに発生させた神聖力を敵に再利用されぬよう、治癒術で消費しておかねば」 「そうね……向こうにはまだ主力が健在ですものね」  黒髪の麗人は頷くと、声を張り上げた。 「よし、修道士隊、それに衛士でも治癒術の心得のあるものは、空間力の尽きるまで全力で負傷者の治療に当たれ! 敵陣の動きからも眼を離すなよ!」  鋭い命令が響き渡るや、鬨の声に変わって、システムコールの起句が各所で響き始めた。  アリスは体の向きを変え、愛竜のやわらかい顎裏を掻いてやりながら、優しく囁いた。 「お前も、よく頑張ってくれましたね……ひとところに静止し続けるのは疲れたでしょう。寝床に戻って、食べ物をたっぷり貰いなさい」  竜は一声うれしそうに啼くと、浮き上がり、最後方の仲間たちのもとへと滑空していった。さて、自分も負傷者の救護に当たろう、そう思って一歩足を踏み出した、その時。 「……師よ」  低く響いた声は、騎士エルドリエのものだった。  ただ一人の弟子を労おうと、笑顔とともに視線を動かしたアリスが見たのは——常に洒脱で軽妙だったはずの若者の、凄惨な姿だった。  右手の剣。左手の鞭。ともに、何層にもこびり付いた血で赤黒く染まっている。それだけではない。白銀の鎧も、艶やかだった藤色の巻き毛も、返り血で酷い有様だ。いったい、どのような戦い方をすればこんな姿になるのか。 「え……エルドリエ! 怪我はないのですか!?」  息を飲みながら尋ねると、騎士はどこか虚ろな表情で、ゆっくりと首を振った。 「いえ……。しかし……いっそ、命を落とすべきでした……」 「……何を言っているのです。そなたには、この戦いが終わるまで、衛士たちを率いて戦い抜くという使命が……」 「私はその使命を果たせませんでした」  ひび割れた声で、騎士は呟いた。  アリスには知り得ぬことだったが、エルドリエは山ゴブリン族の奸系で前線突破を許してしまったあと、たっぷり数分間も、術式なしで煙幕を晴らそうと無駄な努力を続けたあと、ようやく手勢を率いて後方を襲ったゴブリンを追ったのだ。  しかしその時にはすでに、山ゴブリン族長コソギは、“失敗騎士”の烙印を押されていたはずの整合騎士レンリに討たれたあとだった。挽回の機会をも奪われたエルドリエは、ほとんど惑乱の体で、長を失い逃げ惑うゴブリンたちを片端から殺戮し——血にそぼ濡れた姿で、師が上空から放った神威の術式を見上げたのだった。 「アリス様の期待を……私は裏切った……」  鞭を腰に戻した左手で、エルドリエは激しく長い巻き毛を引き毟った。 「愚かな……無様な姿を……生き恥を晒し……何が騎士か……!」  そして、何が“師を守りたい”か。  あの凄まじい術式の威力。違いすぎる——何もかも。  所詮、必要なかったのだ。天才騎士である師には、自分のような半端者など。剣技も、術力も、完全支配術にも秀でるものを持たず、その上ゴブリンごときの策にしてやられる愚昧ぶりをも露呈したのだから。  このざまで、守るどころか——師の心を、愛を得ようなどと——滑稽にも程がある。 「私には……アリス様の弟子を名乗る資格など……!」  血を吐くような激しさで、エルドリエは叫んだ。 「そなたは……そなたは、良くやりました!」  呆然としながらも、アリスはどうにかそれだけを口にした。  一体、エルドリエに何が起きたのか、推測することもできなかった。前線に多少の混乱はあったようだが、さしたる被害もなく敵を打ち破っているではないか。 「私にも、守備軍にも、そして人界の民たちにもそなたは必要な者です。何故そのように、己を責めるのです」  最大限穏やかな声でそう言い聞かせたが、エルドリエの眼光の昏さは薄れることはなかった。返り血が点々と跳ねる頬を震わせ、騎士は聞き取りにくい声で呟いた。 「必要……。それは……戦力として、ですか……それとも…………」  言葉は、最後まで言い終えられることはなかった。  不意に空気を震わせた、異質な唸りが、アリスとエルドリエの聴覚を同時に刺激した。 「ふるるるる……」  狼のような、犬のような、湿った喉声。アリスは眼を見開き、峡谷の奥側を見やった。  地面が冷えて再び訪れた夜闇にまぎれるように、巨大な影がうっそりと立っていた。  人のかたちではない。奇妙な角度に折れ曲がった下肢、異様に細い腰周り、前傾する逞しい上体と、そこに乗る頭は——まさしく、狼のものだ。ダークテリトリーの亜人。オーガ族。  神速で右手を剣の柄に掛けたアリスは、しかしすぐに相手が丸腰であることに気付いた。それどころか——体の左半分は醜く焼け焦げ、薄く煙を上げている。熱線に灼かれ、重傷を負ったのだ。しかしなぜ、他の亜人のように撤退しなかったのか。  いつの間にか、周囲からは衛士たちや騎士の姿は消えている。エルドリエと話しているあいだに、治療のために彼らも少し後方に引いたのだ。  オーガの挙動を鋭く警戒しながら、アリスは低く問うた。 「……そなた、見たところもはや瀕死の深手。その上丸腰で敵陣に打ち入るのは何ゆえか」  返ってきた言葉は、まったく予想外のものだった。 「……るる……おれ……は、オーガの長……フルグル…………」  名乗りとともに、突き出た口吻から長い舌が垂れ、ハァハァと激しい呼吸音が響く。  アリスは小さく息を飲んだ。オーガの長、つまり暗黒界十侯の一人であり、敵軍の最高位の将ではないか。となれば、やはり最後の力で斬り込みにきたのか。  しかし、オーガは更に意外な言葉を発した。 「おれ……見た。あの……光の術……放ったの、お前。あの力……その姿……お前、“光の巫女”。るるる……お前、連れていけば……戦争、終わる。草原、帰れる……」  何を——言っているのか。  光の巫女? 戦争が終わる?  まったく意味は分からなかったが、しかし、自分が今何かとてつもなく重要な情報に触れているのだということをアリスは直感した。もっと訊き出さねば。一体、巫女、つまり自分を、どこに“連れていく”というのか。  だが、その瞬間。 「…………おのれ……獣が何を言うかッ!!」  絶叫したのはエルドリエだった。右手の血刀を振りかぶり、一直線にオーガの長に斬りかかる。  だが、その刃は、振り下ろされることはなかった。  凄まじい速度で、ほとんど瞬間移動のように飛び出したアリスが、左手の二本の指だけでぴたりとエルドリエの全力の斬撃を押さえたのだ。 「し……師よ、何故!?」  悲鳴にも似た声を漏らす弟子に、言葉を掛ける余裕もなく、アリスは目の前のオーガに向かって更にもう一歩踏み出した。  間近で見ると、亜人の傷は深手というよりも既に致命傷だった。左腕から胸にかけてはほぼ炭化し、そちらの眼も白く濁っている。意識すらも、半ば混濁状態であることが察せられたが、アリスは尚も問いを続けた。 「——いかにも、私こそが“光の巫女”。さあ、私を連れていくのは何処なのです。私を求めるのは誰なのですか」 「……るるるる……」  オーガの、無事なほうの眼が鈍く光った。長い舌から、血の混じった唾液が垂れる。 「……皇帝……ベクタ、言った。欲しいの、光の巫女だけ。巫女をつかまえ、届けた者の願い、何でも聞く。オーガ……草原帰る……馬飼って……鳥撃って……暮らす…………」  皇帝——ベクタ!!  伝説の暗黒神! そんなものが、ダークテリトリーに降臨したというのか。その神が、この戦を、そして“光の巫女”を欲しているのか。  アリスは、得た情報をしっかりと記憶しながらも、目の前の大きな亜人に憐れのこもった視線を向けた。  この、狼の頭を持つ戦士からは、ゴブリンが放つような生臭い欲望の匂いはまるで漂ってこない。ただ、命ぜられるままに戦場に参じ、命ぜられるままに弓を引き絞り——しかし、それを放つことなく部族の者ほとんどが死に絶えた。 「私を……恨まないのですか。そなたの民を皆殺しにしたのは、この私です」  アリスは、無為と知りながらそう言わずにいられなかった。  オーガの答えは、至極単純であり、それゆえに真理を含んでいた。 「強いもの……強さと同じだけ、背負う。おれも……長の役目、背負っている。だから……お前、捕まえて、連れて……いく…………」  ぐるるるるっ!!  突然、オーガの口から凶暴な咆哮がほとばしった。  逞しい右腕が、凄まじい迅さでアリスに向かって伸びた。  チン。  短く響いたのは、金木犀の剣の鍔鳴りだった。アリスが、オーガの数倍の速度で抜剣し、一閃ののち鞘に収めたのだ。  ぴたりと亜人の巨躯が停まった。  アリスが一歩退くと同時に、ゆっくりとオーガはその身を横たえ、地に沈んだ。逞しい胸に、薄く一直線の傷痕が浮かんだが、あまりの滑らかさゆえか一滴の血も零れなかった。  音も無くまぶたを閉じた、狼頭の戦士のむくろに、アリスは右手をかざした。ふわりと放散されるささやかな神聖力を受け止め、幾つかの風素を生み出す。 「せめてその魂を、草原に飛ばしなさい……」  緑色の光は、一陣のつむじ風となって峡谷の空へと舞い上がっていった。  御座車の床にひざまずき、限界まで平伏しながら、ディーは己を見下ろす皇帝の視線に心底恐怖した。  怒りに、ではない。  氷色の瞳は、ひたすら無感情に、ディーの価値と能力のみを計ろうとしている。己が無能、無用の者であると判断されたとき、はたして皇帝がどのような処分——罰ではなく——を下すのか、それを考えただけで骨の髄まで震えがきた。  やがて、低く滑らかな声が短く問うた。 「ふむ。つまり、お前の策が失敗したのは、敵が先んじて空間……暗黒力を吸収・消費し尽くしたから、というわけだな?」 「は……はっ!」  ディーは額を足元に擦り付けるようにして答えた。 「まさにその通りであります、陛下! 最高司祭無き敵軍に、それほどの術者が残っているという情報は入っておりませなんだゆえ……」 「暗黒力を補充するすべはないのか?」  必死の言い訳には耳も貸さず、皇帝は対応策のみを求めた。しかし、それに対しても、ディーは首を横に振るしかなかった。 「お……おそれながら……敵整合騎士を殲滅し得るほどの高密度暗黒力の補充には、肥沃な地勢、横溢な陽光がともに必要となり……あるいは、オブシディア城の宝物庫になら暗黒力に転用可能な輝石のたぐいが秘蔵されておりましょうが、回収に向かうにも数日の時間が……」 「なるほど」  皇帝は軽く頷くと、鋭利な相貌を西の峡谷へと向けた。 「……しかし、見たところ、この地には草木もなく、またすでに日も沈んでいるようだが。ならば、お前は何を力の源として大規模術式を実行しようとしたのだ?」  ディーは恐怖のあまり、暗黒術体系の開祖たる古神ベクタが、ごく基本的な理屈について問うてくる違和感を意識することはなかった。己の保身のみを懸命に追う女術師は、沈黙を畏れるようにひたすら口を動かした。 「はっ、それは、何と言ってもいくさ場に御座りますゆえ……亜人ども、また敵兵どのも流した血と尽きた命が暗黒力となって大気を満たしておりました」 「ふ……む」  皇帝が玉座から立ち上がる気配がしたが、ディーは顔を上げられなかった。  こつ、こつ、と黒革の長靴が近づいてくる。内臓が絞られるような恐慌。  凍りつくディーのすぐ左脇で立ち止まった皇帝は、毛皮マントの裾を夜風になびかせながら、小さく呟いた。 「血と……命か」 「“光の巫女”……?」  干した果物と木の実を刻んで混ぜた堅焼きパンを大きくかじり取った騎士長ベルクーリは、逞しい顎を動かしながら首を捻った。  いっときの停戦状態を利用して、守備軍の兵たちには補給部隊から大急ぎで戦場食が配布された。負傷者の治療はあらかた終了し、超高位術者でもある整合騎士の活躍もあって、瀕死だった者ですらもすでに起き上がってスープをかき込んでいる。しかし無論、死んだものたちは戻ってこない。千名で構成されていた第一陣のうち、百五十近い衛士と、一人の下位騎士が命を落としていた。  アリスは、小さくちぎったパンを口に運びながら、正面に腰を下ろす騎士長に頷きかけた。 「はい。そのような名称、これまでどんな歴史書にも見出したことはありませんが、しかし敵の総司令官がそれを強く求めているのは確かと思われます」 「司令官……闇の神ベクタ、か」  唸るベルクーリの手中のグラスに冷えたシラル水を注いでから、副長ファナティオが言葉を発した。 「とても信じられません……神の復活、などと……」 「まぁ、な。しかし……得心のゆく部分もある。敵本陣を覆う異質な心意を、お前も感じておらぬわけではあるまい」 「は……確かに、吸い込まれるような冷気を……感じる気も致しますが……」 「何せ、世界が創られて以来はじめて大門が崩れたのだ。もう何が起きても不思議ではない、と考えるべきかもしれん。だがな……嬢ちゃんよ」  勁い眼光がアリスを正面からとらえる。 「ダークテリトリーに暗黒神ベクタが降臨し、そ奴が“光の巫女”を求めており……さらにその巫女が、嬢ちゃんのことだと仮定するとして、それが今の戦況にどう影響する?」  そう。  結局はそういうことになる。ベクタは巫女を手に入れれば満足するのだとしても、残る闇の種族らは、人界を喰らい尽くすまでは決して止まるまい。この峡谷を何が何でも死守せねばならないという状況に変わりはない。  しかし、アリスには、もうひとつだけ脳裏に染み付いて離れない単語があった。 “|世界の果ての祭壇《ワールドエンド・オールター》”。  そこに辿りつけば、半年前のカセドラルでの戦いの最後で、キリトが会話をしていた謎の“外の神々”に呼びかけられるはずだ。  今までは、そこに向かいたくとも、大門の防衛を放棄するわけには絶対に行かないという事情があった。  しかし——追ってくるなら。  光の巫女を求めるベクタとその軍が、山脈から出たアリス一人を追いかけてくるならば。  むしろ、敵軍を人界から引きはなし、更に守備軍の陣容を整える時間を稼げるのではないか——。  あまりにもあやふやな“祭壇”の話は伏せたまま、アリスは毅然とした口調で、守備軍最高指揮官に告げた。 「私が単身、敵陣を破って、ダークテリトリーの辺境へと向かいます。敵の首魁と、少なからぬ手勢は私を追ってくるはず。充分な距離を取って分断したところで、残る敵軍を逆撃、殲滅して頂きたい」  皇帝ベクタは、何の感情も交えぬ乾いた声で言った。 「ディー・アイ・エル。三千も使えば足りるか?」 「……は、は?」  言葉の意味がわからず、ディーはついに顔を持ち上げた。皇帝の横顔は、いっそ穏やかとすら思えるほどに滑らかで、ただその眼だけが、ぞっとするような何かを湛えて眼下の軍勢を睥睨していた。 「敵整合騎士を排除する術式を再度行使するための暗黒力として——」  続いた言葉に、さしもの冷酷なる智将も、愕然と両眼を見開いた。 「あのオーク予備兵力の命を三千も消費すれば足りるか、と聞いている」  両脚から這い登る冷気。深甚なる恐怖。  それらは、背筋に染みとおる過程で——あまりにも甘美な、皇帝への帰依と陶酔へと変わった。 「……充分でございます」  ディーは、意識せぬまま皇帝のブーツにすがり、額を押し付けて囁いた。 「ええ、充分にござりますとも陛下。ご覧に入れてさしあげますわ……我が暗黒術師ギルド史上最大最強、この世の地獄の顕現たる奇跡の術式を……」  人界、暗黒界問わず、アンダーワールドに住まう者の名前は、言語と直結する意味を持たない、“音の羅列”である。  これは、最初の人工フラクトライトを育てたラーススタッフ、“原初の四人”が、名前というものについて深く考えることなく、彼らの認識するファンタジー的なカタカナ名を“子”や“孫”たちに与えたことに端を発する。  原初の四人が死去《ログアウト》したあと、フラクトライトたちは独力で子供を生み、育てていくこととなった。そこで彼らを戸惑わせたのが、確立されぬままの命名法だった。  やむなく、初期の親たちは自分と似たような、意味を持たない音の組み合わせを子に与えていた。しかし時代が下り、世代交代が進むなか、いつしか名付けにも法則が生まれ、それはアンダーワールド独自の“命名術”というようなものにまで進化することとなった。  つまり、アからンまでの音と、濁音、半濁音すべてに意味を与え、その組み合わせによって子供の未来に願いを込める——というものだ。  例を挙げれば、ア行の音は真摯さ。カ行の音は快活さ。サ行は俊敏さ。タ行は、元気で丈夫。ナ行は包容力……等々。よって、“ユージオ”は、優しく、仕事が早く、真面目であるように、という意味になる。“ティーゼ”は、元気で面倒見がよく、武術に才があることを願ってつけられた名前だ。命名術はダークテリトリー五族でも共通のもので——あまりにも繁殖力が強すぎるゴブリン族は、簡便に話し言葉を流用することも多いが——、たとえば“シグロシグ”は、敏捷、勇猛、精悍、また敏捷勇猛たるべし、という欲張りな名前である。  さて——。  亜人五族を率いる五人の将、最後の生き残りであるところのオーク族の長。  彼は、その名を、リルピリンと言った。  リルピリンは、かの暗黒将軍シャスターをして、ディー、コソギと並んで人界との和平を阻む最大の障害であると言わしめたほどの、人族への強烈な敵意の持ち主として知られている。  しかし、それは決して生来の性質ではなかった。  彼は、オークの有力豪族の子として生を受けたとき、種族の歴史上もっとも見目麗しい赤子であると賞された。与えられた名前は、美しさを表すラ行音を三つも含んだ、オークとしては稀有なものだった。  リルピリンは、両親の願いどおり、容姿も、そして心根も美しい若者としてまっすぐ育った。武才にも恵まれ、次代の長として誰からも期待され、そしてある日、先の十侯に付き従って、初めてオーク領である南東の湖沼地帯を出て帝城オブシディアに登った。  きらびやかな鎧と剣で身を飾り、誇らしく背を反らして城下町へと入った彼が目にしたのは——ほっそりとした体、艶やかな髪、そしてくっきりと麗しい目鼻立ちを持つ“人族たち”だった。  リルピリンは、天地が砕けるような衝撃とともに知った。自分の美しさは、あくまで、『オークとしては』という一句が先に付くものであること。そして、オークは、暗黒界五族のなかでもっとも醜い種として嘲笑されていることを。  でっぷりと丸い腹、短い手足、巨大で平らな鼻、小さく潰れた眼、垂れ下がった耳。そのような造作を持つオークにあって、リルピリンが『美しい』と称えられたのは、取りも直さず、顔立ちがかすかに人族に近いから、という理由だったのだ。  それを知ったとき、リルピリンの魂は崩壊寸前にまで追い込まれた。精神を保つため、彼はひとつの激烈な感情にすがるしかなかった。つまり、敵意だ。いつか必ず人族を打ち滅ぼし、全員を奴隷化したあげく、二度とオークを醜いと嗤えないように一人残らず目を潰してやる、という凄まじい決意を秘めたままリルピリンはオークの長となった。  だから、彼は決して、先天的な残虐性を持っているわけではない。それは巨大な劣等感の裏返しというだけであり、一族の者に対しては、変わらず慈悲深き名君だった。 「そ……そではあんまりだ!!」  皇帝の命令が届いたとき、リルピリンは思わず叫んだ。  オーク軍はすでに、先陣の補助兵力として一千名を出し、悉く失っている。自分の指揮の届かないところで、ゴブリンやジャイアントどもに命ぜられるまま戦い、死んでいった彼らのことを考えるだけでも胸がつぶれそうだというのに、新たに下された指示はあまりにも無慈悲なものだった。  暗黒術師の攻撃術の礎となるために、三千の人柱を拠出せよ。  もはや、戦士としての名誉も、それどころか知性あるものの尊厳すら欠片も認められない死に様だ。ただの肉——輜重部隊の竜車に積まれている毛長牛どもと何ら変わりないではないか。 「おで達は、戦うだめにここに来たんだ! お前らの失敗を命で償ってやるだめではない!」  甲高い声を振り絞り、リルピリンは抗弁した。  しかし、腕組みをして立つ暗黒術師総長ディーは、冷たい眼で見下ろしながら、傲然と言い放った。 「これは勅令である!!」  ぐ、とオークの長は喉を詰まらせた。  皇帝ベクタの力のほどは、あの暗黒将軍の叛乱劇のさいに嫌と言うほど目にしている。十侯を遥か超える力を持つ、圧倒的な強者だ。  強者には従わねばならない。それ以外の選択肢は一切ない。  しかし——。しかし。  リルピリンは立ち尽くし、両拳をぶるぶる震わせた。  と、背後から、オークにしては低く滑らかな声がかけられた。 「長よ。皇帝の命には、しだがわねばなりませぬでしょう」  ハッ、と振り向くと、立っていたのはやや細めの体と、薄くながい耳を持つ女オークだった。リルピリンの遠縁にあたる豪族で、子供の頃にはよく一緒に遊んだ幼馴染だ。  穏やかな笑みを口元に滲ませ、彼女は続けた。 「私と、我が隊三千名、喜んで命を捧げまする。皇帝のだめ……そして、一族のだめに」 「…………」  リルピリンは言葉を失い、ただ長い牙を砕けそうなほどに噛み合わせることしかできなかった。女オークは一歩前に出ると、密やかな声で囁いた。 「リル。私は信じでいます。人だけではなく、死んだオークの魂も神界に召されるのだと。いつか……まだ、そこで会いましょう」  お前までもが命を捧げる必要はない、そう言いたかった。しかし、人柱となる三千の兵に運命を受け入れさせるには、彼らがある意味では長よりも崇拝している姫君であるところの彼女が共に逝くことが必要であるのも確かだった。  リルピリンは、強く相手の手を握り、呻くように言った。 「すまん……許しでくれ……すまない……」  そんな二人を厭わしそうに見下ろしながら、ディー・アイ・エルが、無慈悲に言い放った。 「五分以内に三千名を峡谷手前百メルに密集陣形で待機させよ。以上だ!」  身を翻し、去っていく人族の長を、オークの長は燃え上がりそうな視線で凝視した。なぜ、なぜオークだというだけでこんな仕打ちを受けなければならないのか、という叫びが胸中で渦巻いたが、答えはどこからも得られなかった。  整然とした縦列を組み、本陣を出て行進していく三千の兵たちは、いっそ誇らしげですらあった。だが、それを見送る七千の同族からは、すすり泣きと怨嗟の声が低く、深く響いた。  若き姫に率いられた三千のオークは、暗黒騎士団と拳闘士団の陣の中央を、旗指物を翻しながら抜けていき、峡谷の入り口から少し下がったところで方陣を組んだ。  その周囲を、黒い霧が湧くように、二千の暗黒術師たちが取り囲んだ。  開始された詠唱は、術式の呪わしさを映してか、ひどく耳障りな共鳴音を作り出し大気を震わせた。 「あ……ああ…………」  リルピリンは掠れた呻き声を放った。突如、愛する兵たちが、苦悶するように身を捩り、地に崩れたのだ。  のたうつ彼らの体から、白く点滅する光の粒のようなものが、間断なく吸い出されていく。それらは術師のもとへと集まると同時に黒く変色し、わだかまって、次第に奇怪な長虫のような姿へと変わっていく。  三千の兵と、ひとりの姫将軍の悲鳴が、鋭く、鮮やかにリルピリンの耳に響いた。  それに混じって、口々に叫ばれる、甲高い声もまた。  オーク万歳。オークに栄光あれ。  直後、兵たちの体が、立て続けに爆ぜ始めた。血と肉片をばら撒きながら、なおも大量の光を放出し、たちまち術師たちに奪われる。  いつしかリルピリンは両膝を突き、右拳を地に打ち付けていた。あふれ出した涙が、大きな鼻の両側を伝い、音を立てて砂に落ちた。  人め。  人め!  人どもめらが!!  怒りと怨みの絶叫が脳内にはじけるたびに、なぜか右眼が強く痛んだ。  時を遡ること十数分。  人界守備軍本陣では、二分された部隊が、再会を誓い合って握手や抱擁を繰り返していた。  整合騎士アリスの策を容れた騎士長ベルクーリが、もう一つの決断を付け加えたのだ。  それは、囮となって敵軍を引きつける“光の巫女”ことアリスに、部隊の五割を同行させる、というものだった。もちろんアリスは強く反対し、単独行を主張したが、騎士長は聞き入れなかった。  ——囮が嬢ちゃん一人では、敵は大して追っ手を振り分けないだろう。充分な戦力が共に逃げてこそ、分断策も奏功するってもんだ。  そう言われれば、反論はできない。“光の巫女”などというあやふやな話ひとつを根拠に、自分にひとりに敵全軍を引き寄せる価値があると主張するのは強引にすぎるのも確かだからだ。  それに、アリスは、雨縁の背に自分だけでなくキリトをも載せていくつもりでいた。単身囮となりつつ、彼の身を守りつづけられるか、いくばくかの不安もあった。部隊が共に附いてきてくれるなら、その意味では心強い。  守備軍の二分割が決定されたあと、ベルクーリはさらに皆を驚かせた。  総指揮官たる騎士長自身も、囮部隊に加わるというのだ。  これには、居残り部隊の指揮官に命ぜられたファナティオとデュソルバートが大反対した。 「お前らはもう充分働いたじゃねえか」  諭すような口調で言うベルクーリに、ファナティオは眦を吊り上げて抗弁したものだ。 「私がお傍におらねば、着替えも畳めないような人が何を仰いますか!!」  これには、騎士や衛士たちの間から、大いに囃し立てる声が上がった。ベルクーリは苦笑し、ファナティオの耳元に顔を寄せて何か囁き——驚いたことに、副長は俯いて引き下がったのだった。  デュソルバートのほうは、緒戦で鋼矢が尽きてしまったという明快な事実を指摘され、こちらも已む無く受け入れた。現在、後方の街に補給隊員が仕入れに走っているが、一、二時間でどうなるものでもない。  進む部隊、留まる部隊、別れを惜しむどちらの顔も、等しく緊張と気遣いに満ちていた。実際、どちらがより危険なのかは定かでない。敵軍のどれくらいが囮部隊を追い、どれくらいが大門攻撃を続行するかは、神のみぞ——いや、敵総指揮官たる暗黒神ベクタのみが知っているのだ。  やがて、囮部隊を構成する五人の上位騎士とその飛竜、千二百の衛士、更に五十人の補給部隊の準備が整った。  補給隊の輜重段列には、四頭立ての高速馬車十台が仕立てられた。そのうち一つに、キリトの車椅子と、二人の少女練士たちも乗っているはずだ。  アリスは、彼女らが囮部隊に加わることに激しく逡巡した。しかし、ティーゼとロニエの決意は固かった。それに、一体何があったのか、上位騎士の一人であるレンリが命に代えても彼女たちを守ると誓ったのだ。  アリスは、正直なところ、騎士レンリをほとんど記憶に止めていなかった。だが、その幼い顔に満ちた決意と自信、そして両腰に装備された神器がまとう心意は本物だと思えた。  ベルクーリの“星咬”を先頭に、五騎の飛竜が助走を開始したとき、後方に残る部隊からは控えめな歓声が上がった。  アリスは、騎士長の左後方で雨縁の手綱を握りながら、さらに左に付くエルドリエにちらりと視線を送った。  常に饒舌な弟子が、出撃準備のあいだ中やけに寡黙だったことが少し気になった。しかし、何か言葉を掛けようとした寸前、星咬がふわりと離陸し、アリスも慌てて前を向くと雨縁の横腹を軽く蹴った。 「よし——峡谷を出ると同時に、竜の熱線を敵主力に一斉射! 向こうにはもう遠距離攻撃手段はほとんど無いはずだ、敵竜騎士にだけ気をつけろよ!」  ベルクーリの指示に、はいっ、と鋭く応える。  すぐ後ろからは、騎馬と徒歩で突進する衛士たちの足音が重く響く。彼らと輜重馬車が峡谷を出て、南つまり右方向に直角転進し、充分に距離を取るまでは整合騎士だけで戦場をかき回さねばならない。  狭く暗い峡谷の彼方に、たちまち無数の篝火が見えてくる。  やはり——多い。あれだけ倒したのに、敵本隊の規模はいまだ膨大だ。  とは言え、その大部分は暗黒騎士、それに拳闘士であるはず。どちらも近接戦闘に特化した部隊で、飛竜に騎乗した整合騎士に対する有効な攻撃方法は持たない。  いや。  あれは、何だ。  風切り音に混ざって届いてくる、低くうねるような、呪詛じみた唱和。  術式——多重詠唱!?  馬鹿な、この一帯にはもう、大規模攻撃術を行使できるほどの神聖力は残っていないはず!!  アリスは自分の直感を否定しようとした。  しかし同時に、すぐ前を飛ぶベルクーリが、「奴ら……何て真似を!!」と吐き捨てる声が聞こえた。  ああ。  なんと、  いう、  力か!!  暗黒術師総長ディー・アイ・エルは、両手を高く掲げながら、あまりの法悦に全身をわななかせた。  これほど濃密に飽和した空間暗黒力場を体感した術師は、史上ひとりたりとも存在するまい。  知性あるものの天命というのは、この世界で最も優先度の高い、純粋なる力の塊である。たとえそれが、卑しく醜いオークの命であろうとも。この密度を百年もののワインに喩えるならば、陽光や大地から供給される力などただの水だ。  そのうえ、先刻の“広域焼夷矢弾”で用いようとしたのは、あくまで戦闘で消費された命の残りカスである。しかし今は、三千もの命を、術式により直接暗黒力に変換しているのだ。  ディー以下二千名の術師たちが差し伸べる両手には、それぞれ黒いもやが凝集して出来上がったような、無数の足を持つ醜悪かつ巨大な長虫が何匹ものたくっている。これらは闇素因から生成された、いわば“天命喰らい”だ。剣も盾も、あらゆる物質では絶対に防げない。暗黒力の変換効率としては、火炎や凍結攻撃には劣るが、これほど豊富な供給源があれば話は別だ。  貴重な部下を千人も焼き殺してくれた、敵の“光の柱”への意趣返しとしてディーはこの術を選んだ。のた打ち回って死んでいくオーク兵の断末魔すら、彼女には甘美な交響曲でしかなかった。 「よぉし……“死詛蟲”術、発射用意!!」  高らかに叫んだディーの眼に——。  何をとち狂ったか、峡谷の奥から突撃してくる竜騎士どもと、騎兵、歩兵の群れが映りこんだ。  一瞬の驚きは、すぐに歓喜へと変わった。これで、醜い死に様を晒す敵軍の有様すらも、間近で鑑賞できるというものだ。 「焦るな!! 充分引き付けろ!! …………まだ……まだだ…………——今だ、放てぇぇぇッ!!」  ゾワアアアァァァァッ!!  怖気をふるうような唸りとともに、無数の長虫が、敵軍目指してまっすぐに飛びかかっていった。  まるで漆黒の壁のごとく峡谷を埋め尽くし、押し寄せてくる術式を視認して、一般民の衛士のみならず、上位整合騎士たちまでもが言葉を失い思考を凍らせた。  その、有り得ないほどの——恐らく、先にアリスが使った反射凝集光線術を上回る超々高優先度と、さらに術式の属性を瞬時に認識したがゆえのことだった。  闇素因系呪詛攻撃。  物理防御不可能な、直接天命損耗術。  空間力の変換効率が異常に低い呪詛術式を、なぜ敵がこれほど大規模、高密度に行使できたのか——しかも周囲の力場はほぼ枯渇しているのに——、という謎を看破できたのは、騎士長ベルクーリだけだった。  しかし彼とても、対応防御策を即座に指示することまではできなかった。  あらゆる攻撃術には、その源となった素因や、密度、範囲、速度、方向性など、多くの属性が存在する。  ゆえに防御するためには、それら属性のいずれかを相殺、あるいは逆利用する必要がある。火炎術なら凍素で打ち消す、追尾術なら囮を撒く、直進術なら己を高速回避させる、など、適切な対応を瞬時に選択実行できることが高位術者の条件であると言っていい。  だが、この場合だけは。  敵の攻撃が、あまりにも規格外だった。  闇素因術を相殺できるのは光素因のみ。しかし、光素もまた転換効率が低く、とてもあれだけの呪詛を昇華できるほどの量を生成はできない。ファナティオの記憶解放攻撃ならば間違いなく敵術式を撃ち抜けるが、天穿剣の光はあまりにも細すぎるし、そもそもこの場には居ない。 「回避!! 急上昇!!」  ベルクーリにしても、ただそう叫ぶことしかできなかった。  五匹の飛竜が、螺旋を描くように反転し、まっすぐ峡谷の上空を目指す。  ゾッ、ワァッ!!  闇色の奇蟲群も、おぞましい羽音とともに向きを転じる。  しかし。 「——いかん!!」  ベルクーリが叫んだ。  追ってくる蟲たちは、全体の半分にも満たない量だった。  残りはすべて、後方を駆けてくる衛士たちと、補給部隊目掛けて直進した。 「……っ!!」  鋭い呼吸音を漏らし、騎士アリスが飛竜を再び反転させた。下方を這い進む暗黒術の先頭めがけて突っ込んでいく。  シャッ!! と高らかな鞘鳴りとともに金木犀の剣が抜かれた。たちまち、刀身が山吹色の輝きを帯びる。 「嬢ちゃん!! 無理だ、その技では!!」  ベルクーリの叫びが上空から響いた。  そう——、一対多の戦闘に於いても、圧倒的なまでの威力を示す金木犀の剣の武装完全支配術だが、あくまでも物理金属属性なのだ。実体の薄い呪詛を斬ることはできない。  アリスにも、それはいやというほど理解できていた。  しかし、衛士たちが襲われるのをただ見ていることなどできなかった。  そのとき。  更に一頭の竜が、翼を畳み、流星のような勢いでアリスの雨縁を追い抜いた。  滝刳。  騎士エルドリエの竜だった。  師を追随して竜を上昇させる最中、エルドリエの脳裏には、ただひとつの言葉だけが繰り返し鳴り響いていた。  守る。  師を、アリスを、剣を奉げ献身を誓った人を、守らなければ。  だが、同時に、まったく同じ音量で決意を嘲う声も聞こえた。  どうやって守るというのだ。お前ごとき力足らずが。あらゆる能力に於いてはるか劣り、そのくせ師の視線を、気持ちを求めてやまない愚か者が。  これまでの年月、エルドリエの剣力の源となっていたのは、ひとえにアリスに尽くさんという強烈な心意だった。それあってこそ彼は騎士団有数の力を得ることができたのだが——ゆえに、揺らいだときの反動もまた巨大だった。  自分には、師アリスを守る力も、その傍らに立つ資格もない。  そう思いつめた時点で、彼の力は、すでにほぼ喪われつつあったのだ。  すぐ眼前を飛翔するアリスの、金色の髪のきらめきを、エルドリエはただ追った。  かくなる上は、師とともに、同じ地に命を散らすのも——また良し。  そんな諦めとともに、反転するアリスを追随したエルドリエの視界に、地上を突進する衛士隊が捉えられた。  その後方。  土煙を上げて進む高速馬車。  一台の幌を貫いて、ひとつの、ささやかな青い光がちかちかと瞬いた。  脳裏に、不思議な声が聞こえた。  ——あなたの決意に。  ——守りたいという気持ちに。  ——代価は必要ない、そうでしょう?  ——愛は求めるものじゃない。ただ与え、与えつくして、なおも枯れることのないもの。そうでしょう……?  ああ……。  私は、何を、迷っていたのか。  力が足りないから。心を独占できないから。だから守れない。  なんてちっぽけな……。  アリス様は、人界すべてを救おうとしているというのに。  エルドリエは、右手で滝刳の手綱を強く鳴らし、叫んだ。 「行けッ!!」  主の心意を感じ取ったかのように、竜が翼を引きつけ、一気に加速した。たちまちアリスの竜を追い抜き、殺到する死の長虫の群れの直前に達する。  左手がひらめき、腰から白銀の鞭を抜いた。  神器“星霜鞭”は、かつて東方で神蛇と呼ばれた、巨大な蛇を源とする武器である。その記憶を解放することで、射程を五十メルに伸ばし、同時に七の目標を攻撃する。  今の状況では、そのような拡張性能は何の役にも立たない。  しかしエルドリエは、断固たる確信とともに、強く念じた。  蛇よ!!  古の神蛇よ!  貴様もくちなわの王ならば、あれらごとき長虫の群など——喰らい尽くしてみせろッ!! 「リリース・リコレクション!!」  高らかな一声。星霜鞭が、まばゆい銀の光を放った。  迸った光条は、幾百、千をも超える数となり、闇の虫群へと襲い掛かっていく。  いつしか光はすべて、輝く蛇へとその姿を変えていた。エルドリエの左手から放射状に放たれた蛇たちは、鋭い牙の煌くあぎとを大きく開け——死の長虫に喰らい付いた。  ゾワアッ!!  無数の震動音とともに、闇素の粒が舞い散った。衛士たちを襲おうとしていた一群と、上空の騎士に向かっていた一群が、すべて光の蛇を最優先の敵と認識したがごとく、瞬時に向きを変えた。  蛇たちが、たちまち無数の長虫に纏わりつかれる。闇の呪詛は、蛇の身体を覆い、さかのぼり、その源へと殺到していく。  エルドリエは、いまこの状況で唯一干渉可能な、敵術式の属性——。 “自動追尾属性”を逆利用し、己ひとりの身に、全威力を集中させたのだ。  ゾッ。  騎士の全身が、闇に呑まれた。  直前まで、整合騎士エルドリエ・シンセシス・トゥエニシックスの天命は、数値にして五六〇〇を少し超えていた。  その値が、瞬時に、マイナス五〇〇〇〇〇へと変化した。  エルドリエの体が、胸のすぐ下で、爆発するように砕け、飛び散った。 「エルドリエ——————!!!」  アリスは絶叫した。  四年の年月を共に過ごした、ただ一人の弟子が、肉体のなかば以上を失い竜の背から滑り落ちていく。  雨縁を急降下させたアリスは、身体を乗り出し、左手を限界まで伸ばして、エルドリエを掴み止めた。そのあまりの軽さに息が詰まったが、歯を食いしばり、胸に掻き抱いて竜を上昇させる。  主を気遣うように、滝刳もすぐ隣を追ってきた。併進する竜たちの上で、アリスはもう一度叫んだ。 「エルドリエ!! 眼を……眼を開けなさい!! 許しません、このようなところで……私を、一人にするなど!!」  胸から下を失い、蒼白に色を失ったエルドリエの瞼が、わずかに震えた。  うっすらと持ち上がった睫毛の下で、紫がかった瞳が、朧な光を湛えてアリスを見た。 「……師、よ……、ご無事で…………」 「ええ……、ええ、無事ですとも、そなたのお陰で!! 言ったでしょう、私にはそなたが必要なのです!!」  不意に視界が歪んだ。エルドリエの頬に、いくつもの水滴が散った。それが己の涙だと知ることもなく、アリスは弟子の体を強く抱いた。  耳元で響く、声ならぬ声。 「アリス様……あなたは、もっと、ずっと……多くの人々に、必要とされて……おります。私は……なんと小さかったのでしょうな……あなたを……独り占め、しようなどと……」 「そなたが求めるなら何でもあげます!! だから帰ってきなさい!! 私の弟子なのでしょう!!」 「もう、じゅうぶんに頂きました」  満ち足りたような囁きとともに、腕のなかのささやかな重みが、いっそう薄れ、遠ざかっていくのをアリスは感じた。 「エルドリエ!! エルドリエ——!!」  呼びかける声に、最後のつぶやきが、ぽつりと重なった。 「泣かない……で…………かあさ……ん…………」  そして、整合騎士エルドリエ・シンセシス・トゥエニシックス、またの名を二等爵士家嫡子エルドリエ・ウールスブルーグの魂は、永遠にアンダーワールドから去った。  愛する弟子の体が、まるで、数秒間にせよ存在し言葉までも交わしたのが奇跡であったかのように、止めようもなく空気に溶けていくのをアリスは感じた。  鎧の欠片すらも残さずからっぽになったかいなの中に、かすかに漂う温もりを一杯に吸い込んでから、アリスはきっと顔を上げた。  これは戦だ。  だから、敵がどのような攻撃を行おうと、それによってどのような損害を被ろうと、その事自体を恨むのは筋違いだ。事実、ほんの数十分前、アリス自身も無慈悲としか言えぬ巨大術式で、万になんなんとする敵軍の命を奪っているのだから。  なればこそ。  この怒りを。哀しみを。更なる力に変えて、一層の殺戮をもたらしたとしても—— 「……よもや覚悟しておらぬとは言うまい!!」  右手の剣をまっすぐ前方に向け、アリスは叫んだ。 「雨縁! 滝刳! 全速突撃!!」  術式拘束によって使役される飛竜は、本来、決められた主以外の者の戦闘命令は絶対に受け付けない。  しかし、二頭の兄妹竜は、同時に鋭い咆哮を轟かせると、翼を打ち鳴らして突進を開始した。峡谷の外側、炭色の大地がどこまでも連なるダークテリトリーの光景がたちまち近づく。  瞋恚に突き動かされながらも、アリスの蒼い瞳は、敵本陣の隊形をすばやく視認した。  三百メルほど先、左側に、揃いの金属鎧に身を包んだ暗黒騎士団、約五千。右には逞しい裸形を革帯で締め上げた拳闘士団、同じく五千。これらが敵軍の主力だ。  さらに後方には、亜人の残存兵力と思しき一万以上のオーク、ゴブリン歩兵と、大規模な輜重部隊が展開している。あのどこかに、敵の総大将、暗黒神ベクタも居るはずだ。  そして、もっとも手前、騎士と拳闘士の部隊に挟まれるように密集する、黒衣の集団があった。  あれだ。あれが、先刻の大規模暗黒術を行使した術師部隊だ。数は約二千か。  突進する飛竜を見上げ、恐慌に陥ったかのようにばらばらに後退しようとしている。 「逃がさん!!」  低く叫ぶと、アリスは竜たちに命じた。 「彼奴らの後方を狙え!! 熱線……放てッ!!」  即座に首をたわめた兄妹竜の、開かれたあぎとに白い陽炎が宿る。  シュバッ!!  大気を灼いて平行に迅った二条の光線が、後退する暗黒術師たちの行く先へ突き刺さった。  大地を揺るがす爆音。吹き上がる火炎。巻き込まれた人影が、木の葉のように舞う。  炎に退路を塞がれた術師らは、完全に統制を失い、ひとところにわだかまった。  アリスは金木犀の剣を高々と掲げた。刀身が、太陽よりも眩い山吹色の光を放つ。  ジャッ!  歯切れのいい音を立てて、剣が幾百もの小片へと分離した。それら一つひとつは、アリスの心意を映して、かつてないほど鋭利に尖った姿をしていた。  馬鹿な。  有り得ん!!  暗黒術師総長ディー・アイ・エルは、峡谷から一直線に突進してくる竜騎士を見上げながら、胸中で絶叫した。  三千のオークの命を贄とし、二千の術師が詠唱した“死詛蟲”術は想定以上の威力を孕んで敵軍へと襲い掛かった。整合騎士はおろか、地上の兵どもも悉く食い荒らして尚余りある規模だったはずだ。  なのにどうしたことか、あらゆる命を貪ろうとするはずの術式が、たった一人の騎士へと集中し、まったく馬鹿馬鹿しい過剰殺戮のみを行ったあげくに消滅してしまったのだ。  あれほどの規模の術をすべて誘導し得るような、大量の擬似生命を各種素因から合成する時間も空間力もまったく無かったはずなのに。論理的ではない。まったく理屈に合わない。  この私が、世界の叡智の中心たる暗黒術師ギルド総長が知らない力など、存在するものか!!  だが事実として、敵軍はたった一人の犠牲を出したのみで再度の前進を開始し——ああ、何ということか、術師隊目掛けてまっすぐに襲い掛かってくる。 「後退!! 総員後退!!」  ディーは叫び、自ら二輪馬車の手綱を引いて向きを変え、走り出そうとした。  しかし直後、頭上を二筋の白い光が貫き、ほんの数十メル先へと突き刺さった。  轟音とともに爆炎が膨れ上がり、数十人の部下が巻き込まれて悲鳴を上げた。あわてて馬たちを制止させたディーのところまでも熱波が押し寄せ、自慢の髪をちりちりと焦がした。 「ひっ……」  悲鳴を上げ、ディーは馬車から転がるように降りた。こんなものに乗っていては、的にしてくれと言うようなものだ。  部下に紛れて右へと走ろうとしたディーの視界を、眩い黄金の光が照らした。  吸い寄せられるように見上げた先で、一頭の竜の背に跨る整合騎士の剣が、無数の光へと分離した。  その光ひとつひとつが、恐ろしいまでの威力を秘めていることがディーには直感的に察せられた。この場に薄く漂う空間力から、どのような素因を生み出そうと防げるものではないことは明らかだった。  糞ッ、畜生ッ、死んでなるものか!!  こんな下らない場所で!! 世界の王となるべきこの私が!!  鬼神の形相で眦を吊り上げたディーは、かぎづめのように指を曲げた両手を振りかざし——すぐ前を走る二人の術師の背に突き立てた。  ずぶり、と鋭い爪が苦も無く肌を裂き、肉に潜る。握り締めた丸い柱は、背骨に他ならない。 「で、ディー様!?」 「なにを……っ!? お、おやめくださっ……」  引き裂くような悲鳴を上げる部下たちの言葉に耳も貸さず、高位暗黒術師は、凶相に笑みを浮かべながら起句を唱えた。  続く駆式は、まさしく呪詛としか言えぬものだった。  物体形状変化。それも、生きた人間の天命を力源とし、その肉体を変容させる呪わしい秘術だ。  ぶじゅる。  血と組織片を振りまきながら、ふたつの若く美しい躯が、肉色の組織へと溶けた。それらは、地面にうずくまったディーを隙間無く覆い、硬化して、弾力のある生きた防御膜を作り出していく。  直後、地上を、山吹色の死の嵐が覆いつくした。  アリスは、耳に届く悲鳴、断末魔の絶叫を、心を鬼にして完全遮断した。  もう二度とあの術は使わせない。術者も、その記憶すらも地上から抹消する。  右手に残った、光り輝く柄を振りぬくたび、その動きに従って眼下の敵部隊を鋭利な花弁が薙ぎ払っていく。金属鎧を身につけない術師たちは、抗うすべもなくその身を穿たれ、地に臥す。  二千はいたと思われる術師隊の、九割近くを殲滅したと確信するまで、アリスは記憶解放状態を維持し続けた。剣の天命はかなり損耗しただろうが、惜しむつもりはまったく無かった。  折り重なる仲間たちの骸に目もくれず、二百弱の術師たちが火炎を回り込んで後方へと逃げ延びていったが、それらまでは追わず、アリスは視線を空へと引き戻した。  左側奥、暗黒騎士団の後方から、十騎ほどの飛竜が離陸するのが見えたのだ。  空中戦へと移行するかと思ったが、敵の竜騎士はこちらを牽制するように旋回するだけで、距離は詰めてこなかった。理由はすぐにわかった。後方から、ベルクーリらの竜が追いついてきたのだ。 「嬢ちゃん……! 無理すんじゃねえ!」  エルドリエの死を気遣ってか、すぐ隣に滞空し、そう声を掛けてくる騎士長に、アリスは強張った顔を向けて頷いた。 「ええ……大丈夫です、小父様。衛士隊の離脱支援のほう、よろしくお願いします。私は、囮の役目を果たしてきますから」 「おう……だが、あんまり突っ込むなよ!」  ベルクーリは叫び、敵竜騎士に向き直った。アリスは、傍らの滝刳に滞空指示を出し、雨縁を微速で前進させた。  暗黒騎士の、拳闘士の、オーク、ゴブリンの——そして位置まではわからないが、巨大な気配を持つ何者かの意識が己に収束してくるのを、アリスはまざまざと感じた。  後方では、峡谷から出た衛士隊と補給隊が、南へ転進し全速離脱していく震動が低く轟いている。  その足音を覆いつくさんばかりの声で、アリスは高々と叫んだ。肉声は心意に乗り、天地四方に響き渡った。 「——我が名はアリス!! 整合騎士アリス・シンセシス・フィフティ!! 人界を守護する三神の代理者、“光の巫女”である!!」  直後、敵の全軍が重く震えた。無数の渇望が、触手のように伸び上がってきてアリスに触れる。やはり、敵は人界の侵略と同じかそれ以上の重さで、“光の巫女”なるものを求めているのだ。  それが真に己のことなのか、それとも自分はただの僭称者なのか、そんなことはアリスにはどうでもよかった。ただ、敵の半数が自分を追って来さえすれば。敵をこの地から引き離し、時間を稼ぐことで、エルドリエが、ダキラが、そして散った多くの衛士たちが望んだ人界防衛の望みが少しでも繋がるのなら、それでよかったのだ。 「我が前に立つもの、悉く聖なる威光に打ち砕かれると覚悟せよ!!」 「おお……」  皇帝にして暗黒神ベクタ、または魂の狩人ガブリエル・ミラーは、玉座から立ち上がると、低い声を漏らした。 「おお」  三千のオークユニットを消費した攻撃までもがどうやら失敗したこと、術師ユニットの大半が破壊されたらしいことさえも、ガブリエルに一切の動揺は与えなかったが、しかし今この瞬間だけは、彼の冷え切った魂が確かに震えていた。  かすかな、笑みらしき形を作った薄い唇から、さらに密やかな声が放たれた。 「アリス……。——アリシア」  はるか一キロ以上も彼方の空に浮かぶ、黄金に光り輝く一人の騎士の姿を、ガブリエルの両眼は詳細に捉えていた。  まっすぐに流れる金髪。抜けるような白い肌。真冬の空のように澄み切った蒼い瞳。  ガブリエルの意識のなかで、その容姿は、かつて手にかけた少女アリシア・クリンガーマンの、美しく長じたすがたへと完全に重なった。あの時つかまえそこねたアリシアの魂が、いまこの場所に再び現れたのだと、ガブリエルには何の疑いもなく確信できた。  今度こそ。  こんどこそはこの手に捕らえねば。永遠に閉じ込め、保存し、所有し尽くさねば。  竜の首を翻し、南の夜空へと飛び去っていく竜に、青い炎にも似た視線を向けながら、ガブリエルは伝令髑髏に低く、しかし熱く囁きかけた。 「全軍、移動準備。拳闘士団を先頭に、暗黒騎士団、亜人隊、補給隊の順に隊列を組み、南へ向かえ。あの騎士を、光の巫女を無傷で捕らえるのだ。捕らえた軍には、人界全土の支配権を与える」  動き出した闇の軍勢が巻き起こす土埃が、血の色の星ばかり瞬くダークテリトリーの夜空に幾筋もたなびき始めた。  晶素から生成した簡易遠視器を覗いていた騎士長ベルクーリが、顔を上げて低く唸った。 「こりゃ何と……暗黒神とやらは、随分と嬢ちゃんにご執心のようだな。ほぼ全軍で追っかけてくる気らしいぞ」 「喜ぶべき、なのでしょうね。少なくとも無視されるよりは遥かにマシです」  緊張を生ぬるいシラル水で飲み下しながら、アリスは呟いた。  人跡未踏の——あくまで人界人は、という意味だが——ダークテリトリーの荒野を、東の大門跡から真南に五千メルほども直進したところに見出した小さな丘陵で、守備軍囮部隊は最初の小休止を取っている。  衛士たちの士気は高い。  一時は全員を絶望の淵に叩き落した敵の巨大術式を、ひとりの整合騎士が身を挺して防いだことで、その意気に報うべし! という集合心意が彼らを包んでいるのだ。  しかしアリスは、と言えば、いまだにエルドリエの死を受け入れられないでいる。  ルーリッドでの半年を除けば、四年間というもの彼は常にアリスに付き従い、お勧めのワインやらお菓子やらを発掘しては味見させたり、下手かつ気障な冗談を披露したり、とにかく一日として大人しくしていることはなかった。  いったいこの者は、剣と術を学びに来ているのか、それともただ騒ぎにきているのかと首を捻ることもしばしばだった。だが、今にしてようやくわかる。エルドリエの存在が、いかに自分の心を軽くし、風通しを良くしてくれていたか。  ……そこにあるときは、それが当たり前すぎて存在にすら気付けないのに、なくしてはじめてこんなに巨大な喪失を感じるなんて。  アリスは北西の空に鋭く連なる果ての山脈に視線を振りながら、右手でそっと腰の後ろに留めた一巻きの鞭——“星霜鞭”に触れた。  ユージオの剣を決して離そうとしないキリトの気持ちが、今ならばよくわかる。  一瞬瞑目したアリスが、再びまぶたを開くのを待っていたかのように、騎士長が言った。 「今後の方針だが……基本的には、囮部隊の整合騎士五、いや四と千二百の衛士の最後の一人が倒れるまで、ひたすら敵軍を引っ張り、頭数を削いでいく、ということでいいんだな?」  丘陵の突端、一際高い小岩に並んで立つ騎士長に、アリスは深く頷きかけた。 「私はそう考えています。すでに、侵略軍五万のうち半数以上を殲滅し、また最も厄介と思われた暗黒術師隊もほぼ掃討しました。あとは敵主力たる騎士と拳闘士をある程度損耗させ……そして暗黒神ベクタさえ倒せば、残敵が休戦交渉のテーブルに着く可能性は高い、と思いますがいかがでしょう」 「うむ……問題は、その時敵軍のアタマが誰になってるのか、ということだがな……。シャスターの小僧さえ健在ならばな……」 「やはり、暗黒将軍がすでに……というのは確実ですか、小父様」 「先刻、一瞥した限りではあの場には居なかった。シャスターだけでなく、嬢ちゃんと戦ったこともある彼奴の女の気配もしなかったな……」  太いため息。ベルクーリが、暗黒将軍とその弟子である女騎士に、秘かに大きな期待を掛けていたのだということをアリスは知っている。  そっと首を振り、最古の騎士は低く呟いた。 「いまは、彼奴の地位を継いだ暗黒騎士が、魂をも受け継いでいることを祈るのみだ。望み薄……だが」 「薄いですか」 「うむ。この地に生きるものたちは、禁忌目録のような成文法は一切持たない。あるのはただ、“強者に従う”という不文律のみだ。そして……残念ながら、暗黒神ベクタとやらの心意は圧倒的だ……青二才の暗黒騎士なぞでは到底太刀打ちできまい……」  確かに、先刻敵軍の上空で名乗りを上げたときアリスは、恐ろしく冷たく、底なしに暗い気配が敵の後方から伸び上がり自分に迫ってくるのをまざまざと感じた。あんな感覚は、記憶にあるかぎり初めてのものだった。最高司祭アドミニストレータの心意を銀の電光に喩えるならば、あれは永遠の虚無だ。  思い出しただけで軽く粟立った二の腕をそっとさすり、アリスは頷いた。 「そうですね……神に逆らおう、などという愚か者がそうそう居るとも思えませんし」  すると、騎士長はふっと短く笑みを漏らし、アリスの背中をぽんと叩いた。 「とは言え、我らが人界には三人も現れたわけだしな。この地にも気骨のある奴がまだ居ることを願おう」  その時、上空から強い羽ばたき音が響き、二人は顔を上げた。  旋回降下してくるのは、騎士レンリの飛竜、“風縫《カゼヌイ》”だ。竜の爪が地面を捉えるよりはやく、軽快な身のこなしで飛び降りた少年騎士は、一息つくと急き込むように言葉を発した。 「報告します、騎士長どの! この先八百メルほど南下したところに、伏撃に利用可能と思われる潅木地帯が広がっています!」 「よし、偵察ご苦労。全軍をそこまで移動させてくれ、配置は追って指示する。お前さんの竜はそろそろ限界のはずだ、たっぷり餌と水を与えて休ませておけよ」 「はっ!」  素早く騎士礼を行い、走り去っていく小柄な影を見送ってから、アリスはふと騎士長の口元にかすかな笑みが浮かんでいるのに気付いた。 「……小父様?」  問いかけると、ベルクーリは一瞬照れたように顎をかき、いや何、と肩をすくめた。 「記憶を奪い、天命を停止させて整合騎士を造る“シンセサイズの儀式”……とても許されることではないが、しかし、もうああいう若者が騎士団に入ってこないのは残念なことだ、と思ってね」  アリスは少し考え、同じく微笑みながら言った。 「記憶改変、天命凍結処理を経なくては整合騎士にはなれない、なんてことは無いと思いますわ、小父様」  右手でもう一度、星霜鞭をそっと撫でる。 「たとえ我ら悉く地に臥そうとも、魂は、意思はかならず次の誰かに受け継がれると、私はそう信じます」 「よぉし、やっとで出番か!!」  ばしぃっ、と右拳を左掌に打ちつけ、拳闘士ギルド筆頭たる若きイシュカーンは威勢よく叫んだ。  闘いの熱を間近に感じながら、ただ座して待つのみだったこの一時間の何と長かったことか。  亜人部隊を焼き払った眩い光の柱も、暗黒術師らが行使したおぞましい長虫どもも、“光の巫女”を執拗に求める皇帝ベクタの謎めいた命令すらも、イシュカーンの闘志には何らの影響も及ぼしていない。  己の肉体と、それ以外の全て。世界はそのように二分され、そしてイシュカーンの興味は、肉体を高めること以外にはまったく向けられることはないのだ。彼には、たとえ先に見たような巨大術式の標的となろうとも、拳と気合ですべて跳ね返してみせるという断固たる自信があった。  赤銅色に灼けたたくましい裸体に革の腰帯とサンダルのみを身につけた拳闘士は、くるりと振り向くと、自身が率いる屈強の男女五千と、その後ろに続く暗黒騎士団を見やった。ほんの五分ほど駆け足移動しただけなのに、拳闘士団と騎士連中との間には千メル近い距離が開いてしまっている。 「相変わらず動きが遅いな、騎士ってのは!」  毒づくと、すぐ隣に控える、イシュカーンよりも頭一つ以上も背の高い巨漢が巌のような口元に苦笑を浮かべた。 「やむを得ぬでしょう、チャンピオン。彼らは体と同じほどにも重い鎧と剣を身につけているのですから」 「何の役にも立ちゃしないのにな!」  言い切り、イシュカーンは再び前を向くと、軽く足踏みをしながら奇妙な動作を行った。右手の五指で筒をつくると、それをひょいと右眼に当てたのだ。  見開かれた炎の色の虹彩の中央で、瞳孔が拡大する。 「オッ、あいつら動き始めたぞ。こっちに……じゃ、ないな。まだ下がる気かよ」  短い舌打ち。  夜闇に沈む、五千メルも彼方の地平線上にいる敵の動向を正確に見て取ったイシュカーンは、少し考えてから言った。 「なあ、ダンパ。皇帝の命令は、追っかけて掴まえろ、だけだったよな」 「そのようですな」 「うっし……」  右手の親指を軽く噛みながら、にやりと笑う。 「少しつついてみるか。——兎隊百人、前に出ろ!!」  後半を高く張り上げた声に、即座におうっという剽悍な唱和が返った。  部隊から飛び出してきたのは、やや細身の——と言っても鞭のような筋肉をたっぷりと蓄えた——闘士たちだった。額に、揃いの白い飾り革を巻いている。 「整合騎士とやらに軽く挨拶に行くぞ! 気合入れろよ!!」  おうっ。 「十七番武舞踏、開始!!」  イシュカーンは叫ぶと同時に右手を突き上げ、両足を激しく踏み鳴らした。  まったく同じ動作を、側近ダンパと“兎隊”の百人も、一糸乱れぬ完璧な統御で繰り返す。  ズン、ザ、ザザッ。  うっ、らっ、うっらっ。  リズミカルな足踏みと唱和が鳴り響くにつれ、イシュカーンの赤金色の巻き毛から汗が迸り、肌は真っ赤に上気していく。部下らもまったく同様だ。  ほんの三十秒ほどで舞踏は終了し、百と二人の闘士たちは全身から湯気を上げながら動きを止めた。  いや、それだけではない。闇夜の底で、彼らの肌は、ごくかすかだか確かに赤い光を帯びている。  拳闘士。  それは、肉体の何たるかを数百年探求し続けてきた一族である。  騎士も、術師も、最終的には“心意によって外界に干渉する”ことを極意であり到達点と定める。言い換えれば、イマジネーションによる外部対象物の書き換え、ということになる。  しかし拳闘士はまったく逆——心意によって、己の肉体のみをオーバーライドするのだ。本来的な制約を超え、素肌で鋼を超える防御力を、素手で巌を砕く攻撃力を実現する。  そしてまた、素足で馬を追い抜く高速疾走も。 「ううううう、らあああああっ!!」  高らかな喊声とともに、イシュカーンは地を蹴って走りはじめた。ダンパと百人の闘士も続く。  ゴアッ!!  空気が裂け、大地が震えた。 「——!?」  潅木地帯目指して移動を始めた衛士隊を追いかけるべく、数歩足を進めたところで、アリスは異様な熱を感じて振り向いた。  何か——来る。  速い!!  遥か地平線を動いていたはずの敵軍から、少なからぬ一団が突出し、有り得ない速度で距離を詰めてくる。騎馬の突進などというものではない。竜騎士か、と一瞬思ったが、あまりに数が多いし、そもそも地上を移動している。 「……拳闘士か」  隣で騎士長が唸った。 「あれが……」  その名前を知ってはいたが、アリスは実際に目にするのは初めてだった。国境に出没するのは主にゴブリンと黒騎士だけで、拳闘士が人界侵略に興味を示したことはこれまでなかったからだ。  しかし最古騎士だけあってベルクーリはまみえたことがあるらしく、多少の緊張を帯びた声で続けた。 「厄介な奴らだ。生の拳でなら傷を受けるくせに、剣で斬られることは断固拒否しやがる」 「は……? 拒否……?」  鋼の刃で身を裂かれることに、否も応もないだろうに、とアリスは思ったが、ベルクーリは軽く肩をすくめただけだった。 「戦えばわかる。俺と嬢ちゃん二人で当たったほうがよさそうだ」 「…………」  アリスはごくりと喉を鳴らした。ベルクーリが、自身で足りないと言うのはよっぽどのことだ。  しかし、せっかく高まった剣気を、次の騎士長の言葉が台無しにした。 「あー、ちなみに……嬢ちゃんは、脱ぐのは抵抗あるよな、やっぱ?」 「はあ!?」  思わず両手を体の前で交差させながら、尖った声を出す。 「な、何を言い出すのですか! 当たり前です!!」 「違う、そういう意味じゃ……いやそういう意味なんだが……オレが言いたいのは、奴らの拳に鎧や衣は役に立たないというかむしろ邪魔というかだな……」  顎をがりがり擦りながら要領を得ない言葉を連ねたあげく、騎士長は、まあいいや、と首を振った。 「ともかく、そのままで戦うなら武装完全支配術の用意をしておけよ」 「は……、はい」  再び背に緊張が伝う。見たところ、接近する敵は百前後だ。その数に対して金木犀の剣の解放攻撃が必要と言うからには、やはり容易ならざる相手なのだ。  しかし、一つ問題があった。  暗黒術師を掃討したときに、記憶解放状態を長時間維持してしまったため、金木犀の剣の天命は現在かなり消耗しているのだ。通常の斬撃に用いるなら問題はないが、分離攻撃はあと何分使えるか心許ない。  そしてそれは、騎士長の時穿剣も同じだろう。数百のドローンを瞬時に墜とした凄まじい広範囲攻撃を、アリスは間近で見ていた。二人の剣はともに、最低でも夜明けまでは鞘に収めておくべき状態なのである。  だが、この数十秒の会話のあいだに、敵拳闘士の一隊はもうその逞しい裸形が見て取れる距離にまで接近している。彼らを、いまだ伏撃態勢の整わない衛士隊に接近させるわけにはいかない。  アリスは、固く唇を引き結んで騎士長に頷きかけると、岩場を北に向かって滑り降りようとした。  しかしその直前、二人の背後から、静かな女性の声が掛けられた。 「わたくしが行きましょう」  アリスはぎょっとして振り向いた。隣のベルクーリもまた目を剥いている。  いつの間にかそこに立っていたのは、囮部隊に配された上位整合騎士五名——騎士長、アリス、エルドリエ、レンリに続く最後のひとりだった。  長身痩躯を、艶の薄い、地味な灰色の鎧に包んでいる。やはり濃い灰色の髪は、額に張り付くようにきっちりと分けられ、首の後ろでひとつに束ねられている。顔もまた、良く言えば清潔感を漂わせ、悪く言うと地味だ。齢の頃はアリスと同じ二十前後か、薄い眉に一重の切れ長の眼、唇に紅は無い。  名を、シェータ・シンセシス・トゥエルブ。  腰に帯びる神器は、“黒百合の剣”。  しかし、彼女がその銘で呼ばれることはめったになかった。騎士たちは、たまに彼女を話題にするときは、常にもうひとつのあざなで呼んだ。  すなわち、“無音”。  アリスとベルクーリがぎょっとしたのは、シェータが単身で敵拳闘士を防ぐと言い出したからではない。  誇張ではなく、初めて聴いたのだ。“無音”のシェータが発する声を。  溝を飛び越え、ちょっとした岩くらいなら蹴り砕き、イシュカーンと百一人の拳闘士たちは猛然たる疾駆を続けた。  もうすぐ、悪魔とさえ称される整合騎士と闘れる。その期待が、若き闘士の口元に、抑えようもなく凄みのある笑みを滲ませている。  正直なところ、この戦に駆り出されるまで、イシュカーンに敵騎士への興味は更々無かった。所詮は、鎧に身を隠し剣などという無粋な棒を振り回すやつら、と蔑んでいたのだ。事実同朋たる暗黒騎士団にも、闘者として敬意を抱けるのは威丈夫シャスターただ一人しか見出せなかった。  しかし、待機命令中、瞑想しながら感じ取った敵の闘気は、どうして馬鹿に出来ない、それどころか瞬間的には爆発じみた昂ぶりすら見せる雄々しいものだった。  無粋な鎧を剥けば、その下にはきっと見事に鍛錬された肉体があるに違いない。  イシュカーンはそう期待し、汗と拳のぶつかり合いの予感に、全身を滾らせていたのだ。  だから——。  ほんの数分前まで敵がとどまっていた小丘陵の手前に、ついにひとりの敵騎士を見出したとき、その立ち姿に拳闘士の長は唖然と口を開いた。  細い。  見たところ女のようなので、ある程度肉が薄いのは仕方ないが、それにしても細すぎる。全身くまなく金属鎧で覆ってなお、イシュカーン配下の女拳闘士の誰よりも華奢だ。装甲の下には、おそらく一束の筋肉もついているまい。腰に下がる鞘までもがまるで鉄串のようだ。  右手を上げて部下らを停止させ、自らも土煙を上げて制動したイシュカーンは、火炎のように両端が巻き上がった眉毛をきつくしかめて口を開いた。 「何だよ、てめえは。何してんだそこで」  ぴったりと頭に張り付く灰色の髪をかすかに揺らして、騎士は首を傾げた。何と答えたものか迷うように、いやむしろ答えなければいけないのかどうか考えるような仕草。  眉も眼も、鼻筋も口も鋭利な小刀でひといきに刻んだがごとき涼しげな顔に、一切の表情を浮かべることなく、女騎士はしょぼしょぼと喋った。 「わたくしはあなたの敵です。あなたを通さないためにここにいます」  ふはっ。とイシュカーンは、鼻と口から同時に大量の息を吐き出し、笑ったものか怒ったものか迷ったすえに肩をすくめるに止めた。 「そのナリじゃ、ガキ一人すら通せんぼできねえだろうに。それともあれか、手妻使いか、てめえは」  今度も、じれったいほどの間を置いて騎士は短く答えた。 「わたくしは、術式は不得手です」  体の裡に練り上げた闘気を萎えさせる敵の様に、苛立ちを感じたイシュカーンは、「ああ、いいよもう」と吐き捨てると、配下にちらりと視線を向けひとりの名を呼んだ。 「ヨッテ、相手してやれ」 「あいきた!!」  打てば響くような返事とともに、即座に集団から飛び出てきたのは、やや痩身の女拳闘士だった。それ以外の者が放つ不満げな唸りを受けながら、軽やかに武舞を踏むその顔には、敵騎士とはまったく対照的な荒々しい笑みが浮かんでいる。  ぶ、ぶぶん。  女闘士が、五メルも離れたところから空打ちした拳が風を巻き起こし、女騎士の前髪を揺らした。  この期に及んでも、その細面には闘志らしきものはひとかけらも見出せず、代わりにどこか困惑するような表情とともに小さく呟いた。 「……ひとり……」 「そりゃこっちの台詞だよ、このガリガリ!」  分厚い唇を捲り上げて、ヨッテが叫んだ。拳闘士としては細いと言っても、対峙する騎士よりは子供ひとり分ほども重いだろう。 「ぶちのめしたら、殺す前に吐くほど肉を詰め込んでやるよ! いいからさっさと抜きな!!」  女騎士は、もう何を答えるもの億劫と言いたげな仕草で、灰色の装甲を鳴らしながら左腰の柄を握った。  しゅらん。  無造作に抜かれた刀身を見て——。 「……ンだそらあ!!」  下がって腕組みをしていたイシュカーンは思わず叫んだ。  細い、などというものではない。鞘がすでに肉焼き串のようだったが、抜き身の幅はわずか半セン、赤子の小指ほども無いではないか。しかも、どうやら薄さは紙一枚以下、さらに色が艶のない黒なので、宵闇の下ではそこにあるのかどうかも定かでない頼りなさだ。  棒、などというものではない。これでは針だ。  ヨッテの顔に、朱色の怒気がみなぎった。 「……っけんなっ……」  ずざんっ。  両脚で短い武舞、というより地団太を踏んでから、赤銅色の雌豹は一直線に襲い掛かった。  イシュカーンの目から見ても、なかなかの踏み込みだった。拳闘士ギルド兎隊は、その名に反して、敏捷性だけでなく鋭い牙を持ち合わせた者達を集めた精鋭なのだ。  びばっ。  空気を引き裂いて、ヨッテの拳が疾った。  まっすぐに顔面を狙ったその打突を、騎士は避けずに極細の剣を置くように迎え撃った。  キィンッ!!  響いた音は、まるで二つの鉄鉱石を打ち合わせるような、甲高いものだった。実際に、眩い橙色の火花までが散った。直後。  くにゃ、と、騎士の握った黒い針があっけなく曲がった。  イシュカーンは、唇に薄い笑みを浮かべた。  拳闘士の肌は、生半な剣では裂くことはできないのだ。  一族に生を受けた子供は、立てるようになるとすぐにギルドの修練所に叩き込まれる。そこでまず最初に行う訓練が、鋳鉄のナイフを拳のみで叩き割ることだ。  長じるに従って、鋳鉄は鍛造鋼に、ナイフは長剣へと変わっていく。叩き割るだけでなく、生身に振り下ろされもする。その課程で、若者たちは己が肉体に鋼以上の硬さを持つ自負を抱く。我が五体は、刃に対して不可侵なり、と。  現在の長イシュカーンは、眼球で直径二センの鋼針を受け止める。  一闘士でしかないヨッテは、無論そこまでの心意を鍛えてはいないが、それでも五体でもっとも強固に確信すべき拳が、どんな剣にも負けるはずはないのだ。  それがあのような戯けた極細針となればなおさら。  大きく撓んだ黒い針が、情けない悲鳴とともに折れ飛んで、女騎士の頬に鉄拳が食い込む——  様をすべての拳闘士が思い描いた。  ぴぅっ。  響いたのは、革鞭が空気を打つような、奇妙な音だった。  直突きをまっすぐ撃ち抜いた姿勢で、ヨッテが静止している。その拳は女騎士の右頬ぎりぎりを通過し、その騎士もまた右手を前方に振り抜いている。  刀身がどうなっているか、イシュカーンの位置からはよく見えなかった。  何だよ、あんなでかい的を外すなよ。長は内心でそう毒づいた。  ヨッテのやつは、この勝負には勝ったとしても、闘技場の三等控え室からやりなおしだ。いくら拳を硬くしても、敵を殴れないんじゃぁ宝の持ち腐れ……。  すっ、と音も無く、ヨッテの握り拳が中指と薬指のあいだから裂けた。 「な……」  思考を停止させたイシュカーンの眼前で、裂け目は前腕から肘、二の腕へと続き、肩へと抜けた。  骨から微細な血管までも、一切潰れた部分のない完璧な切断面をあらわにして、ヨッテの右腕の外半分が、どさっと地面に落ちた。桶でぶちまけたように鮮血が迸ったのは、ようやくそれからだった。 「っああああああ!?」  甲高い悲鳴に混じって、再びあの音がした。  ぴう。  悲鳴が中断し、拳闘士の首がころりと落ちた。  前傾姿勢で俯き、前髪に顔を隠した女騎士の口元から、小さな吐息が漏れた。 “無音”のシェータが口を開かないのは、引っ込み思案だからでも、他人嫌いだからでもない。  ただひたすら、他の整合騎士の関心を引かぬように——よもや訓練だの手合いだのを申し込まれることのないように、ひっそりと息を殺していたのだ。  もし、誰かと比武するようなことになれば、たとえそれが騎士長ベルクーリその人であろうとも、首を落としてしまう[#「首を落としてしまう」に傍点]かもしれない、という恐怖ゆえに、シェータは百年を超えるカセドラルでの暮らしにおいて無音を貫いた。喋ることがあるのは、身の回りの世話をする召使と、昇降係の少女くらいのものだった。  彼女は、四帝国統一大会優勝を経てシンセサイズされた、生粋の剣士だ。しかしその年の大会は、ほぼあらゆる記録から抹消されている。なぜなら、寸止めが最上の徳とされる大会において、シェータと対戦した全員が斬死するという血塗られた結果になってしまったからだ。  上位整合騎士シェータ・シンセシス・トゥエルブは、ある意味では、拳闘士ギルドの長イシュカーンとまったく好対照な精神を持っていた。  イシュカーンが殴ることだけを考えているとすれば、シェータは、斬ることにしか興味がない。  とは言え、彼女がそれを愉しんでいるかというと、まったくそんなことはない。  斬ってしまうのだ。剣を持ち何かと対峙した瞬間、シェータの眼にはすでに、その断たれるべき切断面が、いや斬られたあとの姿すらも、はっきりと見える。そうなるともう、その予感、いや予知を現実にせずにはいられない。それが動かぬ棒杭くらいなら、彼女は手刀ですら滑らかに斬ってしまう。  自身は、己のその性を、忌まわしいものとしてずっと押し殺してきた。  奥深くに秘めたその衝動を見抜いたのは、最高司祭アドミニストレータだった。  アドミニストレータは、現在でこそ常識となっている、術式行使における空間リソース理論を二百年以上も昔に究めようとしていた。  そんな最高司祭がどうしようもなく興味をそそられたのが、ダークテリトリーにおいて“鉄血の時代”の終焉となった最大最後の合戦だった。東の大門と帝城オブシディアの中間に広がる平野にて、五族が相討った悲惨な激戦において、無限にも等しいほどに放出された空間力をアドミニストレータは惜しんだ。  とは言え、用心深い彼女が自身でダークテリトリーの探索になど行くわけもなく、召喚したのがシェータだったのだ。最高司祭は、そのころすでに“無音”のあざなを得ていたシェータにそっと囁きかけた。  単身、かの地に潜行し、合戦跡にて“何か”を探しなさい。できることなら、巻き込まれずに生き残った魔獣の類を。それが無理なら普通の動物を。最低でも鳥や虫を。とにかく空間力を吸い込んだ何かを。  もし見つけてきたら、それから神器を造ってあげる。“何でも斬れる最高優先度の剣”をね?  まさに媚薬のひと垂らしだった。シェータは、飛竜すら使わずに山脈を越え、炭殻色の大地を何万、何十万メルも踏み分けて、ついに血臭漂う合戦場にたどり着いた。  亜人と人が死力を尽くして殺し合ったその地に、動くものはなかった。魔獣はおろか、鼠一匹、烏の一羽すら残らず巻き込まれ消し飛んでいたのだ。  しかしシェータは諦めなかった。何でも斬れる剣。その言葉の響きが彼女の心を捕らえ、決して離そうとしなかった。  三日三晩の探索行のすえ——。  ついに見出したのが、風に頼りなく揺れる、たった一輪の黒百合だった。  そのささやかな花が、広大な戦場で唯一生き残った、リソース吸収オブジェクトだったのだ。  自分の唇から漏れた細い呼気が、悲嘆のため息だったのか、それとも陶酔の吐息だったのか、シェータには分からなかった。  それを言えば、なぜ数分前、無音の誓いを破って騎士長らに防衛役を志願したのかもよく分からない。いやそもそも、カセドラルに於いて、守備軍への参加を募る呼びかけに手を挙げた動機が何だったのかすら自覚できていない。  他の騎士たちのように、人界を守りたいからなのか?  それとも、ただ斬りたいからか?  あるいは——、  斬ってほしいからなのだろうか?  でも、もう、どうでもいいことだ。事ここに到ってしまえば、どうあれ剣を停めることはできない。  シェータはゆるりと顔を上げ、凍りついたようになっている逞しい拳闘士たちを見やった。  一切の躊躇いも、畏れもなく、漆黒の極細剣を握った灰色の騎士は、百人の敵集団へと真正面から斬り込んだ。 「……凄まじい技ですね」  喘ぐように囁いたアリスの言葉に、騎士長ベルクーリも低い唸りで応じた。 「うむ……。ここだけの話だが、半年前にあの娘を低温睡眠槽から覚醒させたとき、オレぁ多少ビビってたよ」 「私はまったく知りませんでした。シェータ殿が、これほどの技を身につけていたなんて……」  眼下の低地で、拳闘士の先行隊約百名と、整合騎士シェータの闘いが繰り広げられている。正確には、一方的な殺戮と呼ぶべきものだろう。刀身の姿すらも定かでない微細な剣が、ぴゅん、と鳴るたびに周囲の敵の、腕が、脚が、そして首が呆気なく落ちる。  感嘆しながらも、しかしアリスは、シェータの痩せた背中が漂わせる何かに、かすかな気がかりをおぼえていた。  あれは殺気ではない。それどころか敵意、戦意のかけらすら見いだせない。  ならば、なぜあの人は、ああも鬼神のごとく闘えるのか。 「考えるな、百何十年見続けてきたオレにも、あの娘のことはわからんのだ。何一つ」  呟くように言い、騎士長は身を翻した。 「ここは任せて大丈夫だろう。やがて敵本隊も追いついてくるはずだ、オレたちはそっちへの迎撃準備に加わらなきゃならん」 「え……ええ」  頷き、眼下の戦いから視線を外すと、アリスは後を追った。  更に約一千メル南。  砂礫ばかりの荒地がようやく切れ、奇妙な形の枝葉を伸ばした潅木が密に生える一帯に、守備軍囮部隊の本隊がその姿を紛れ込ませていた。  構成は、衛士が千二百、修道士が百、補給隊が三十人。これで、まずは五千の敵拳闘士隊を迎え撃たねばならない。  整合騎士レンリは、細かく分けた衛士と修道士を、樹木の陰に隠すように待機させていった。林を貫いて伸びる一本だけの細い道には、補給隊の馬車の轍が真新しく刻まれている。これを追う敵を、なるべく深く長く引き込んだところで、左右から痛撃する作戦だ。  むろん、拳闘士に剣が効かないことはレンリもすでに騎士長から聞いていた。同時に、彼らの弱点も。  拳闘士は、術式攻撃への防御が不得手なのだ。  手前の、コケすら生えていない荒地では、とても高位術式の使用に耐えるだけの空間力は無いが、この潅木地帯ならば多少は空気が濃い。よって、主に修道士隊によって敵に一度の痛撃を見舞い、同時に幻惑して、無傷で後方へと退避することは可能なはずだ。つい先刻たらふく餌を食べた飛竜たちにも、少しだけ熱線で手伝ってもらう。  レンリはすでに、迅速な後退を念頭に置いて、補給隊の馬車を部隊の最南に遠ざけていた。  前線から離せば離すほど安全だ、と彼は判断したのだ。  夜闇に紛れた敵が、直接補給隊を襲う可能性など、若い彼にはまったく想定の埒外だった。  しかし——レンリが部隊の配置に腐心しているまさにその瞬間、十台の馬車の護衛についていた僅か五名の衛士の、最後の一人が声も出せずにひそやかに絶命していた。  光沢の鈍い真っ黒な金属鎧に全身を包み、おどろおどろしい兜まで被りながらも、まったく何の音も立てずに潅木の下を移動するひとつの影があった。  進む先には、人界守備軍の若い衛士が一人、せわしなく左右に視線を走らせている。  しかし、彼は背後にだけは視線を向けない。そちらには他の仲間がいるはずだからだ。  影は、衛士の死角を、小枝の折れる音ひとつさせずに滑るように接近していく。腰には立派な長剣が下がっているが、それを抜くこともなく、右手に握ったごく小さなナイフだけをそっと構える。  ぬ、と左腕が伸び、衛士の口と鼻を塞いだ。  同時に右手が閃き、むき出された喉を一直線に掻き切る。  まったくの静寂のうちに殺戮が終了し、ぐったりと力を失った体を、影は注意深く茂みの下に押し込んだ。  顔全体を覆う、細い覗き孔が切られた鉄面の下から、ごく密やかな声が漏れる。 「ファイブダウーン、ツー・モア・ポイント」  くっく、と喉が鳴る。  古代神聖語——ではない。  影の正体は、今現在アンダーワールドにたった三人しか存在しない現実世界人のひとりにしてオーシャン・タートル襲撃チームの一員、ヴァサゴ・カザルスだった。  一時間とすこし前、ダークテリトリー軍最後方の御座竜車でワインを喇叭呑みしながら、消耗していくばかりの自軍ユニットを眺めていた彼は、ボスであるガブリエル・ミラーに何の気なしに言ったのだ。 「ヘイ、ブロ、そろそろ任せっぱなしじゃなくて、ちっと動いたほうがよくないですかい?」  すると、ガブリエルはちらりとヴァサゴを振り向き、片眉を持ち上げて答えた。 「なら、まずはお前が動いてこい」  続けての指示は、前方の戦場ではなく、はるか南に離れた地点へ潜行することだった。  ガブリエルは、敵軍がまるでSF映画のような巨大レーザーで亜人ユニットを焼き払った時点で、敵の一部がダークテリトリー側へと突出してくることを予想したのだ。  しかしなぜ北でなく南へ進むと言い切れるのか、と訊いたヴァサゴは、ボスの「そっちのほうが広いからな」という答えを聞いたときは内心おいおいと思わずにいられなかった。しかし実際こうして目の前に敵が来てしまったのだから、降参して一働きするしかない。  いかに敵ユニットどもが強力だろうと、補給物資をすべて失えば脚は止まるだろう。ヴァサゴは、この世界にダイブして初めての|暇つぶし《キリング・タイム》を継続するべく、暗い林の奥に視線を凝らした。  すぐに、枝葉でカムフラージュされた馬車のシルエットを見抜く。  鉄面の下で、ちろりと唇を舐め、黒い狩人は移動を始めた。  と、馬車の後尾に動きがあった。ぴたりと脚を止め、樹の幹に貼り付く。  持ち上がった幌から顔を出したのは、真っ白い肌に黒い髪を垂らした、うら若い少女だった。何かを感じたのか、怯えの滲んだ顔で周囲を見回している。  ヴァサゴが動かずにいると、少女はやがておずおずとした動作で地面に降り、馬車の内側に何かを囁きかけてから、ゆっくり移動を始めた。  まるでスクール・ユニフォームのような灰色の服のベルトから下がる、ちっぽけな剣に手を置いたまま、まっすぐにヴァサゴの潜む方向へと向かってくる。  ぴゅう、と口笛を吹きたくなるのを我慢して、暗殺者はにんまりと笑みを浮かべるにとどめた。 「調子にいいいいいッ」  あっと言う間に部下がばたばたと殺されていく光景を、数秒にせよ見せ付けられたイシュカーンは、我に返ると同時に怒号を発した。 「乗んなこらあああああッ!!」  ようやく出来た、敵と自分をつなぐ細い空間を、仲間を跳ね飛ばすような勢いで突進する。  握り締めた右拳に、憤激を写し取ったかのような真っ赤な光が宿った。  それを、小さく鋭い動作で引き絞り、全体重を乗せてまっすぐ撃ち出す。輝く炎の軌跡が、一直線に敵騎士の首元の急所へと伸びる。  騎士は、剣での防御は間に合わないと見てか、分厚い装甲に包まれた左手を広げてイシュカーンの拳を受けようとした。  俺の拳の前に——あらゆる鎧は紙細工だッ!!  断固たる心意に満ちた一撃が、女騎士の掌に衝突し、眩い光の線を放射状に撒き散らした。  バガァァァン!!  直後、凄まじい炸裂音とともに、灰色の手甲が吹き飛び、前腕を覆う篭手も砕け散り、二の腕から肩の装甲までもが粉々に割れ落ちた。  剥き出しになった、やはりごくごく華奢な騎士の腕の、滑らかに白い肌のそこかしこから細かい血の霧が噴いた。  しかし、驚いたことに骨は無事のようだった。それでも激痛はあるだろうに、騎士はわずかに眉をひそめたのみで、イシュカーンの手首をつよく掴むとその手を返し、動きを封じた上で右手の極細剣を閃かせた。  きぃぃぃん! という甲高い金属音が、拳闘士の肘あたりで響いた。  刀槍不入。  それが拳闘士の力の源たる大原則だ。その確信を得るためにこそ、彼らはその身にわずかな革帯しかまとわず、裸形を晒しているのだ。防具に頼った時点で、拳闘士の心意は弱まってしまうのである。  ゆえにイシュカーンも、自分の腕に叩きつけられた軟弱な剣を、意思力だけで弾き返そうとした。  しかし。  肌に食い込んでくるひんやりと冷たい密度は、これまで彼がその身で受けたどんな刃とも別種のものだった。  この剣もまた、鋼ではなく意思だ。勝利でも、剣技としての斬撃ですらもなく、ただただ事象としての切断のみを貪欲に求めている。  それを、言葉ではなく直感で察したイシュカーンは、反射的に左の拳を振りぬいていた。  ボッ。  空気を揺らして、一瞬前まで騎士がいた空間を、輝く拳が突き抜けた。  それでも、完全に外したわけではなく、灰色の胸当ての一部を掠った。飛びのいた騎士の、その部分の装甲にヒビが入り、ばかっと砕ける。  だが、イシュカーンも無傷ではなかった。  刃が一秒足らず食い込んだ、右ひじの肌に、ごくごく薄い切り傷が走っているのを彼は眺めた。小さな血の珠が、ひとつだけじんわりと浮かんでくる。たった一滴——されど、一滴。  それを舌で舐めとり、若い拳闘王は獰猛な笑みを浮かべた。 「……ほう。女、てめぇ、見かけと中身はずいぶんちげぇな」  灰色の女騎士は、困惑するように眉をひそめると、頓珍漢なことを言った。 「……わたくしのほうが、年上なのに……」 「はぁ? そりゃそうだろうよ、整合騎士ってのは何十年も生きるバケモンなんだろうが。じゃあババァって呼んだほうがいいのかよ」 「…………」  女騎士の涼しげな造作に、ぴくりと震えが走る。  だが、それはすぐに、ほんの微かな笑みへと変わった。 「……許します。あなた、硬いから。すごいですね、斬れるとこ、ほとんど見えない」 「ちっ……何を言ってやがる」  どうにも奇妙な敵の間に呑まれまい、と、イシュカーンは周囲に転がる二十以上の骸を見回した。一人ひとりの名前が脳裏をよこぎると同時に、腹の底から深紅の憤怒がふつふつと湧いてくる。 「まるで……切れ易そうだから切った、みたいな言い方しやがって。許さねえ。ブチのめす!!」  ざん、ざっ、ざん!!  素早く踏んだ武舞に、たちまち周囲を取り囲む闘士たちが追随する。それは怒りの足踏みでもあった。滾るような音韻に、高らかな喊声も重ねられる。  うっ、らっ、うららっ、うっ、らっ。  武舞踏という名の集団心理誘導装置によって、みるみる拳闘士たちの心意が高まっていく。互いに擦れ合う赤銅色の肌から汗が迸り、それは火の粉へと変わって天に昇る。  騎士は動かなかった。まるで、イシュカーンが限界まで昂ぶるのを待つように。  上等だ。  脚を止めた拳闘王の、赤金色の巻き毛と眉は炎を宿して逆立ち、全身、とくに左右の腕からは渦巻くような赤い光が噴き上がっていた。  対峙する女騎士は、あくまで静かだった。ゆるりと下げられた漆黒の細針は、闇の密度をはらんでしんしんと冷えている。 「っ……くぞおおおお女ああああァァァァァ!!」  びゅごっ!!  炎が唸り、イシュカーンは一直線に距離を詰めた。  女騎士が、あの嫌な風鳴りとともに右手の剣を振りかぶる。  ぴぅ。  極細の切断線が、イシュカーンの左肩に触れる寸前——。  間合いで勝るはずの剣よりも一瞬迅く、拳闘士の一撃が騎士の左脚を叩いた。拳ではない。蹴りだ。地面から低く跳ね上がったつま先が、炎を引きながら灰色の装甲に突き刺さった。  バガッ!!  破砕音とともに、左脚の鋼甲が、長靴だけを残してすねから太腿部まで砕けた。腰まわりを覆っていた短いスカートも、一瞬の炎を発して燃え落ちる。 「拳闘士の技が、殴りだけだと思うなよ!!」  にやりと笑い、イシュカーンは重心を入れ替え、左脚をムチのように撓らせた。  女騎士の右手中で剣が回転し、蹴りの軌道にまっすぐ斬り降ろされる。  金属同士が擦れるような、耳を劈く軋み音が炸裂した。左脚が、まるで不動の巨岩を蹴ったかのような重みに遮られた。拳闘士の長は、久しぶりに感じる鋭利な痛みを無視して、右脚いっぽんで腰を回し、渾身の拳撃を放った。  紅蓮の炎逆巻く一撃は、騎士の胸当ての中央を見事に捉えた。  ガガァァァァン!!  紛れもない爆発が炸裂し、両者の体が前後に弾き飛ばされる。  無理な踏み込みだったせいか、手応えがやや浅かった。イシュカーンは軽く舌打ちをしながら踏みとどまり、己の左脚を確かめた。  大腿部外側に、鮮やかな刀傷が深さ一センほども刻まれている。たちまち真っ赤な血があふれ出し、黒い地面に滴る。  フン、かすり傷だ、と鼻を鳴らして顔を上げ、今度は敵を見た。  灰色の騎士は、地面に片膝を突いて、こほ、こほと小さく咳き込んでいる。いくらかの威力は徹ったようだが、しかし華奢な姿はすぐにすうっと立ち上がった。  もとから損傷していた胸甲は、いまの一撃で完全に吹き飛び、上半身は胸に残る僅かな布と、右の篭手以外完全に露出している。下半身もまた、腰周りに焼け残ったスカートと、右脚の装甲だけが健在だ。  人界人特有の雪色の肌が、夜闇のなかでも眩しく輝くのに僅かに眼を細めながら、イシュカーンは嘯いた。 「なかなか闘士らしいナリになってきたじゃねえか。だが肉が足りねえな。もっと喰って鍛えろ女」  周囲から一斉に浴びせられる揶揄の叫びを無視し、騎士は肩のあたりに僅かに残った布切れを引き剥がして捨てると、ぴゅんっと右手の剣を振った。 「……あなたこそ……いま、ちょっと、柔らかくなった」 「……ンだと、てめぇ」  鼻筋に皺を寄せ、犬歯を剥き出す。  凶相をつくりながらも、イシュカーンは一瞬おのれの呼吸がわずかに浅くなるのを感じた。  馬鹿な、あるはずがない。たかだかあの程度の半裸を見せ付けられたくらいで、闘気が弱まるなどと。一族の女たちは平常あれよりずっと肌を露出しているし、そんなものを見て動揺するのは修練所初等課程のガキだけだ。  世界には、握った拳固と、それでぶちのめすべき相手しか存在しない。  たとえ目の前にいるのが、風にも折れそうなほど細く、眩しいほど白い肌をした、異人種の女だとしても。 「もうタダじゃおかねえ……見せてやるぜ、俺様の全力って奴をよ」  威嚇する狼のようにそう唸ってから、イシュカーンは女騎士に人差し指を突きつけ、吼えた。 「だからてめぇも全力で来い!! いつまでもネムたいツラしてんじゃねえ!!」  すると、騎士は再び困ったような顔をし、左手でしばらく頬だの眉間だのを触れたあげく、ほんの少しだけ眉の角度をきつくして、言った。 「ジョートー、です」 「…………おお、上等だぜ」  この間に呑まれるからどうでもいいことを考えてしまうのだ。  イシュカーンは大きく息を吸い、溜め、ぐっと腰を落とした。  右拳の甲を相手に向けて正中に構え、がふううううっ、と長く呼気を吐き出す。大きく開いた両脚が、大地の力を吸い取ったかのようにごおっと炎を上げ、その熱は身体を通って拳へと集まっていく。  赤く燃え盛る炎が、やがて黄色く輝き、さらに青みを帯びた白へと変わる。  いまやイシュカーンの右拳は、大気さえも焦がすほどの超高熱を蓄えて、きん、きんと鋭い高音だけを放っている。  対する女騎士は、こちらは半身になって腰を落とした。左手を、掌を上にしてまっすぐ前に伸ばし、右手の極細剣を体の後ろで水平一直線に構える。まるで、限界まで撓められた投石器のような力感。  すでに自分の体が頭頂から下腹部まで真っ二つになってしまったかの如き緊張感に、イシュカーンはニヤリと笑った。  こんな相手は初めてだ。まったく燃えさせてくれる。  動いたのは、双方同時だった。  純黒の半月と、蒼炎の流星が激突した瞬間、透明な水晶の壁にも似た密度の衝撃波が発生し、地面を砕きながら周囲に広がった。取り囲む拳闘士たちが、ひとたまりもなく真後ろに押し倒される。  騎士の剣と、闘王の拳は、針先ほどの一点で触れあい、鬩ぎ合った。限界を超えて圧縮された力が七色の光となって迸り、夜空に駆け上った。  シェータの技量を以ってすれば、実はこのような馬鹿正直な力比べをせずとも敵を倒すのは容易い局面だった。  若い拳闘士は、全ての心意を右拳だけに集中させて飛び込んできたので、それ以外の部分は実に斬り易そうにシェータには見えたのだ。けれんのない一直線の拳打を回避し、ひといきに首を落とすこともできた。  だがシェータはそうせず、敢えて敵の、全ての力が結晶化したかのように輝く拳を迎え撃った。意識してのことではない。体が、剣がそれを求めたのだ。  自身の選択を、意外だとシェータは感じた。おのれが、騎士としての誇りだの、高潔さだの、その手の精神性とは無縁な存在だということは百年も前に自覚している。斬りたいから斬る。あるのはそれだけ。  それは、殺したいから殺す、と同義だったはずだ。他の整合騎士が内心では忌避する山脈警護任務のあいだだけ、シェータは自己の存在を確認できた。首を刎ね、あるいは唐竹割りにしてきた黒騎士や亜人は数知れない。  その衝動を、忌まわしいものとしてひた隠し、“無音”と呼ばれて生きてきた自分が、なぜ今殺すことを——しかも敵は暗黒界の大将首なのに——選択しなかったのか、シェータにはまったく不思議だったのだ。  でも、ああ、もう考えるのも煩わしい。  在るのは、右手の剣と、目の前の輝く拳だけ。  なんて硬いの。斬れるかな。  楽しい。  敵騎士の、びっくりするほど小ぶりで、色の薄い唇に、ふたたび微かな笑みが浮かぶのをイシュカーンは見た。  それが、自分を——あるいは闘いを嘲弄するものでないことは、もう理解できた。  なぜなら、己の唇にも、今まったく同質の笑いが刻まれているからだ。  なんだよ、なよっちいナリしてるくせに、異界人のくせに、てめえも同種じゃねえか。  ぴしっ。  ごくささやかな震動が、拳の内側に響いた。  それが、敵の黒い刃が欠けたものではなく、自分の右拳の骨に罅が入った音だとイシュカーンは察した。  だめか。押し負けるか。  しかし、まあ、しゃあねえ。  拳が断たれれば、剣圧はそのまま体をも割るだろう。そう推測しながらも、イシュカーンに懼れはなかった。これほどの敵とまみえる機会は、おそらくこの戦のあとには二度とあるまい。ならば、まあ、悪い死にざまじゃねぇ……  そう考え、目を閉じようとしたその瞬間。  拳にかかる圧力が弱まった。  グワッ!!  押さえ込まれていた衝撃が一気に解放され、イシュカーンと敵騎士を木の葉のように吹き飛ばした。敵の心意が逸れた理由は、衝突する二人の間に割り込もうとした巨大な人影だった。  同じように打ち倒されたその影に、イシュカーンは尻餅をついたまま獰猛に吼えた。 「ダンパ!! てっめぇ……!! 何しやがんだ!!!」 「時間切れです、チャンピオン」  身体を起こした巨躯の副官は、ただでさえ小さい眼を糸のように細めながら、言った。ごつごつした腕を持ち上げ、短い指で北を示す。  イシュカーンがそちらに眼を向けると、いつの間にか拳闘士団の本隊と、その後ろの暗黒騎士団が目視できる距離にまで接近していた。確かに、集団戦が始まるというのに長が私闘に明け暮れている場合ではない、のだが——。  激しく舌打ちしながら視線を戻すと、巻き上がる土埃の向こうで、もうほぼすべての防具衣服を失った敵騎士が、しかしそれを気にする様子もなく細い剣を鞘に収めようとしていた。 「女! これで勝ったつもりじゃねえだろうな!!」  少し前に斬死を覚悟したことも忘れ、若い拳闘士は叫んだ。  灰色の髪を揺らし、騎士はちらりとイシュカーンを見ると、言葉を探すように短く首を傾げてから言った。 「その、女、っていうの……やめて欲しい」 「あのな……大体、てめぇこの状況で、どうやって逃げようって……」  その時、ごうっ、という突風が南から吹き寄せて、騎士を取り囲む数十人の部下たちが一斉に顔を背けた。  思わず瞬きしたイシュカーンの視界に、高々と左手を差し伸べる騎士と、急降下してくる一頭の飛竜の姿が朧に映った。  騎士は飛竜の脚に手を掛け、ふわりと空へ舞い上がっていく。のやろう、と歯噛みした拳闘王は、思わず叫んでいた。 「てめぇ、そんなら名乗っていきやがれ!!」  打ち鳴らされる羽音に混じって、微かな声だけが降ってきた。  シェータ。  シェータ・シンセシス・トゥエルブ。  たちまち夜闇に紛れて消えた白い裸身を、イシュカーンは立ち上がりながら見送り、もう一度舌打ちした。  許されるならば——あの強敵との再戦は、二年、せめて一年の修練ののちにしたい。自分にもまだまだ鍛えるべき部分があることが分かったからだ。  しかし、いくさ場でそんな我が侭が通らないことが理解できるくらいには、イシュカーンも子供ではなかった。  北から合流してくる五千の部族と、さらに五千の騎士で、敵本隊を蹂躙せねばならない。その過程であの女とふたたび拳を交える機会があるかどうかすら定かではないのだ。 “光の巫女”とやらを掴まえれば。  一瞬、そんなことを考えた自分に、イシュカーンは更なる舌打ちを見舞った。  何を馬鹿なことを。その褒美として、あの女の助命を皇帝に願う? 一族の者全員から、気が狂ったと思われるだろうさ。  踵を返し、イシュカーンは左脚の傷を手当させるために、薬草壷を腰に下げる部下へと歩み寄った。  そうだ。  そのまま、まっすぐこっちに来い。  潜伏からの奇襲《アンブッシュ》の醍醐味を、口腔内でキャンディのように転がしながら、ヴァサゴは念じた。  隠蔽《ハイディング》は完璧だ。金属鎧のマイナス補正など物ともせず、潅木の作り出す暗がりに溶け込んでいる。  黒髪の少女は、周囲を懸命に警戒しているが、その視線はヴァサゴの潜む茂みをただ通り過ぎるのみだ。あと七メートル。五メートル。  ああ、いいね。実にいいね、この感じ。まったく久しぶりだ。  更に一メートル、無警戒に近づいてきた少女が、くるりと右に向きを変え、ヴァサゴが隠してきた死体のほうへ進み始めた。  もう一息引き寄せたかったが、まあ、大した差じゃない。  ヴァサゴはまったくの無音のうちに暗がりから滑り出て、左手を伸ばしながら少女の背中に迫った。  口を塞ぎ、驚愕に収縮する身体を、一気に切り裂く——  その予感があまりにも迫真かつ甘美だったために、ヴァサゴは、目の前にきらりと光った白刃を見たとき一瞬ぽかんと立ち尽くした。 「……ワゥ!」  首元数センチを剣先が横切ってから、慌てて飛びのく。  まったくこちらに気付いていないはずだった少女が、左腰の剣を滑らかに抜き打ったのだ。実に見事な一撃。あと一歩踏み込んでいたら、喉を裂かれていたか。  かしゃり、と両手で剣を構えなおす少女の黒い瞳に、恐怖と敵意はあれど驚きの色が無いことを見てとり、ヴァサゴは潜伏が見破られていたことを不承不承受け入れた。  ナイフを右手でくるくる回しながら、口を開く。 「ヘイ、ハニー……」  そこで気付き、英語をネイティブと遜色ない日本語に切り替える。 「お嬢さん。何故わかった?」  少女は、油断なく剣を中段に据えながら、硬い声で答えた。 「……何も無いと思えるところを一番警戒しろって、先輩が教えてくれたもん」 「せ、先輩だぁ……?」  瞬きしながらも、ヴァサゴは何か記憶に引っかかるものを感じていた。はて、その台詞、どこかで聞いたような……。  しかし、思考がどこかにたどり着く前に、少女がすうっと息を吸い、物凄い大声で叫んだ。 「敵襲!! 敵襲——!!」  ちっ、と舌打ちし、ナイフを右腰に収める。  仕方ない、遊びもここまでか。  ヴァサゴは、大きく左手を上げると、同じく叫んだ。 「お前ら……仕事だ!!」  今度こそ、少女が驚愕のあまり瞠目した。  ヴァサゴの後背、数十メートル離れた茂みから、ざ、ざざざ……次々にと身体を起こしたのは、暗黒騎士団から引き抜いてきた革鎧装備の軽装偵察部隊百名。  少女の警告に反応し、前方の馬車から飛び降りたもう一人の少女も、北側から駆けつけた数十名の衛士たちも、一様に凍りついた。 「な……後ろに敵が!? 百人規模!?」  整合騎士レンリは、術師による急報が信じられずに叫び返した。  まずい、まずい!  補給部隊が全滅し、物資が失われたら全軍が動けなくなる。それに、後ろにはあの練士たちもいるのだ。絶対に守ると誓った二人の少女と、ひとりの若者が。  救援を百、いや二百は送らなければ……しかし、今本隊を動かせば、北から肉薄しつつある敵拳闘士隊に伏撃がバレるかもしれない。そうなったらもう、数ではるか優る敵にひとたまりもなく殲滅されてしまう。いや、すでに奇襲計画は露見していると考えるべきなのか? ならば全軍を南に動かして、再度の機会を待つか?  即座に結論が出せず、立ち尽くすレンリに、背後から太い声が掛けられた。 「まさか、俺たちの南進が見抜かれてたたぁな……」  丘陵から戻ってきた騎士長ベルクーリとアリスだった。レンリからすれば、雲の上とも思える実力者のふたりだが、その顔にももう余裕はまったく無い。ことにアリスは、今にも補給部隊のいる森の南へと飛んでいきそうだ。  ベルクーリの威躯の後ろに眼を向けると、千メル北の丘陵地帯のむこうには、すでに大軍が立てる地響きと、立ち上る土煙が色濃く迫りつつある。  騎士長は、一瞬瞑目すると、すぐに灰青の瞳をかっと見開いて指示した。 「レンリ、本隊を後退させろ。嬢ちゃん、すぐに補給隊の救援に向かえ。北からの敵はオレが食い止める」 「止めると言っても……小父様、敵は五千を超えます! それに、拳闘士に剣は効かぬと……」 「まあ、何とかするさ。早く行け!! 最後の一兵までも費やして敵軍を削ると決めたのは嬢ちゃん……いやアリス、お前だろう!!」  騎士長は、それだけ言うとくるりと北を向いた。  腰の時穿剣を、ゆっくりと抜き出す。  その、時経た鋼色の刀身に宿る輝きの薄さを見れば、剣に残された天命が僅かであるのは明らかだった。  ガイン!  ギャッ!!  カァァァァン!!  ヴァサゴの渾身の剣撃を、少女の細腕で三合とは言え防いだことを、むしろ称えるべきだろう。  しかもヴァサゴは連続剣技を使ったのだ。だから、少女の手から弾かれた剣が背後の幹に突き立ったとき、暗殺者の唇からは紛れも無い賞賛の口笛が漏れた。  なおも健気に拳を構えようとする黒髪の少女を、容赦なく地面に引き倒し、剣を突きつける。 「ロニエ————!!」  馬車から新たに現れた、赤毛の少女が悲鳴にも似た声を上げて駆け寄ってきた。  ヴァサゴは右手の剣をぴたりと、ロニエという名らしい少女の首元に据え、近づく少女の動きを牽制した。すくんだように、細い二本の脚が止まる。 「くっ……くっく」  鉄面の下で、抑えようも無く含み笑いが漏れた。  これだよ、この感じ。  他人の命を、絆を、愛を剣先で弄ぶこの愉悦。 「……殺しゃしないよ、そこで大人しく見てればな」  赤毛のほうにそう囁いておいて、組み伏せた黒髪の少女の頬を指先で撫でる。  背後からは、血に飢えた百人の戦士たちがひたひたと近寄ってくる足音が響く。  間近で見開かれた、大きな黒い瞳に満たされていた決意が、徐々に、徐々に、絶望の闇に沈んでいく——。  ……?  不意に、その瞳の焦点が、ヴァサゴの顔から逸れて、空へと向かった。  濡れた虹彩に、何かが反射している。  光。  降り注ぐ。  乳白色の光の粒が、ふわり、ふわりと舞い降りてくる。  ヴァサゴは、奇妙な戦慄を背中に感じながら、ゆっくりと顔をあげた。  漆黒の夜空。血の色の星々。  それらを背景に、浮かぶ小さな——それでいて凄まじく巨大な何かを秘めた影。  人。女だ。  真珠で出来ているかのように輝くブレストプレート。篭手とブーツも同色。  ドレープの多いスカートは、翼のようにいくつもの細片が寄り集まってできている。夜風になびく、腰より長い髪は、艶やかな栗色——。 「ステイシア……さま」  腕の下で、黒髪の少女が呟いた。  その声は、ヴァサゴの意識には届かなかった。空に浮遊する女の、小さな顔がちらりとかいま見えた瞬間、漆黒の狩人は吸い寄せられるように身体を起こし、立ち上がった。  解放された少女が、即座に走り去ったが、それを眼で追うことすらしなかった。  天に浮く人影が、すう、と右手を伸ばした。  優美な五指を、ゆるりと横に振る。  ラ——————————。  まるで、幾千もの天使が同時に唱和したかのような、重厚な和音が世界を揺るがした。  人影の指先から、オーロラのような光が放たれて、ヴァサゴの背後へと降り注く。  ゴッゴゴゴゴゴゴ……。  地響き。そして悲鳴。  振り向いたヴァサゴが見たのは、大地に口をあけた底なしのクレヴァスと、そこに飲み込まれていく百人の手下たちの姿だった。  ぽかんと眼を見開いたまま、視線を空に戻す。  女は、今度は左手を、北の空へと振った。  再びあの天使の歌声。  先刻の、数十倍もの規模で降り注いだオーロラが、その先でいかなる現象をもたらしたのかはもう想像の埒外だった。  最後に、空に浮く女は、まっすぐ足下のヴァサゴを見下ろした。  右手の人差し指が持ち上げられ、ぽん、と一度宙を弾く。  ラ————————。  虹色の光の幕がヴァサゴを包んだ。  足元の地面が消えた。  ひとたまりもなく無限の暗闇へと落下しながら、ヴァサゴは両手を空へと差し伸べた。 「マジかよ……おい、マジかよ」  口から震える声が漏れた。  あの顔。  あの髪。  あの気配。 「ありゃあ………………“閃光”じゃねえか」  騎士長ベルクーリは、愛剣を右手にぶら下げ、ただ立ち尽くした。  目の前に、幅百メルはあろうかという巨大な地割れが口を開けている。左右はそれぞれ遥か地平線にまで続き、深さはもう推測することもできない。縁からは断続的に石片が剥がれ落ちていくが、どれほど耳を澄まそうと、それらが底にぶつかる音がしないのだ。  そして、この大地の裂け目は、数十秒前にはまったく存在していなかった。天空から、壮麗な和音とともに七色の光が降り注ぎ、それを追うように地面が割れた。  たとえ千人、いや一万人の術師を投じようとも、そう——それこそ最高司祭アドミニストレータその人であろうとも、とうていこれほどの事象は引き起こせまい。  神威だ。神の御業だ。  暗黒神ベクタに続いて、さらなる神が地上に降臨したのだ。  ベルクーリは畏怖とともにそう考えたが、しかし、直後それを否定した。  巨大な地割れの向こう岸には、行く手を遮られた五千の敵拳闘士団が、呆然と立ち竦んでいる。  万物に天命を与え、また滅する権限を持つ神ならば、あの闘士たちの足下を引き裂き、容赦なく地の底に墜としていただろう。しかし地割れは、全速で疾駆していた彼ら全体が安全に停止できる余裕を取って生じた。  騎士長はそこに、多くの命を消し去ることへの躊躇いを感じた。  つまりこれは、人の意思が作り出したものだ。  結城明日奈/アスナ/スーパーアカウント〇一“創世神ステイシア”は、初ログイン時のみに許される微速落下保護に身をまかせながら、はやく、はやく地上へ、とそれだけを念じた。  ログインは、ようやく特定したキリトの現在座標上空で行われたはずだ。だから、舞い降りる先に、愛する人が、その魂が、間違いなく待っている。  狂おしいほどの思慕と同時に、スパークにも似た激痛がアスナの頭を駆け回った。思わず顔を歪め、歯を食いしばる。  ステイシアアカウントに付与された管理者権限、“無制限地形操作”を使用することの弊害は事前に警告されていた。フィールドという膨大な量のニーモニック・データが、STLを介してメイン・ビジュアライザーとアスナのフラクトライトを瞬時に往復する過程で、脳に過大な負荷が発生するのだ。  比嘉タケルからは、もし頭痛を感じたら、その時点で必ず使用を中止するようにと強く言われていた。  しかしアスナは、ログインした瞬間、ささやかな“人界人”とそれに前後から迫る膨大な“暗黒界人”のライトマーカーを認識するや、躊躇いなくコマンドを唱え腕を振った。  北から接近する大集団は、その手前に長大な谷を刻むことで進行を止めた。しかしキリトの居るであろう座標に、戦慄するほど肉薄していた百人ほどは、直下の地面を消し去るしかなかった。  彼らは皆、ほんものの魂を持つ“人間”だったのだ。キリトがどうにかして守ろうと、二年半もの間苦闘し続けた、真のボトムアップAIたち。  あるいは、死に行く彼らの恐怖と怨念がSTLを逆流し、耐え難い痛みをもたらしているのかもしれない。  しかしアスナは強く一度眼をつぶり、音を立てるほどに見開いて、迷いを打ち消した。  自分のなかの優先順位は、もう何年も前に決定している。  キリト——桐ヶ谷和人のためなら、どんな罪も犯す。どんな罰だって受け入れる。  永遠とも思えた数十秒を経て、パールホワイトのブーツのつま先が湿った地面を捉えた。  背の低い、捻くれた潅木が密生する森の底だ。夜空に月はなく、朧な赤い光だけがかすかに降り注いでいる。  ようやく薄れ始めた頭痛を、何度か頭を振って意識から追い出すと、アスナはまっすぐ背を伸ばした。馬のいななきが低く聞こえて、視線をめぐらせると、茂みに隠すように大型の馬車が何台も停まっているのに気付く。  どこ……? どこにいるの、キリトくん?  焦燥のあまり、その名前を叫ぼうとしたとき、背後から震える声が掛けられた。 「ステイシア……さま……?」  振り向くと、そこに立ち尽くしているのは、学校の制服のようなグレイのジャンパースカートを身につけた二人の少女たちだった。  不思議な顔立ちだ。日本人とも、西洋人とも言えない。肌の色はなめらかなクリーム、髪は右の子が紅葉のような赤、左の子がごく深い焦げ茶。  そして何より、二人の腰のベルトに下がる使い込まれた長剣が、この世界の構造と現在の状況を強く象徴している。  赤毛の少女が、微かに開いた唇から、ふたたび声を漏らした。 「あなたは……かみさま……ですか……?」  完璧な日本語。しかし、少し、ほんの少しだけ異国風のイントネーションが含まれている。そこにアスナは、アンダーワールドが歩んできた三百年という歴史を、まざまざと感じ取った。  なんてものを——創ったの。菊岡さん。比嘉さん。  あなたたちラースにとっては、ただの試行実験のひとつだったのかもしれないけれど。  この世界は、間違いなく生きている。 「……いえ……ごめんなさい。わたしは神様じゃないわ」  アスナは、ゆっくり首を振って、そう答えた。  黒髪の少女が、胸元できゅっと両手を握り、でも、でも、と呟く。 「奇跡を起こして……私を助けてくれた。みんなも、助けてくれるんですよね……? 衛士さんたちや、騎士さんたちや、人界の人たち……それに、キリト先輩も」  その名前を聞いたとたん、胸の奥を貫いた疼きのあまりの鋭さに、アスナは喘いだ。  ふらつく脚を踏みとどまり、何度か唇を動かしてから、ようやく囁き声を絞り出す。 「わたしは……わたしはただ、その人に会いにきただけなの。キリトくんに。お願い……どこにいるの? 会わせて……連れていって」  滲みそうになる涙を必死に堪え、アスナは懇願した。少女ふたりは、唖然としたように目を見開いたが、やがて、おずおずと脚を踏み出した。 「……はい。こっち、です」  距離を取って呆然と見守る、逞しい剣士たちの輪のなかを、少女たちに導かれてアスナは歩いた。  たどり着いたのは、一台の馬車の後尾だった。分厚いカンバス地の幌が垂れ下がり、中は見えない。 「キリト先輩は、ここに……」  黒髪の少女の言葉が終わるのを待たず、アスナは息を詰めながら馬車の荷台に飛び乗った。両手で幌をかきわけ、よろめくように中へ進む。  幾つもの木箱や樽が積まれた荷台は、たった一つの蝋燭の灯に、ささやかに照らされていた。  木箱の間を縫い、奥へ。奥へ。  かすかに、懐かしい匂い。お日様のような。森と草原を渡る風のような。  暗がりに馴れたアスナの瞳を、きらりといくつかの光が射た。  細身のフレームを組み合わせた車椅子。華奢な銀輪。  その上に、影のようにひっそりと身を沈める、黒衣の姿——。 「………………」  圧倒的な感情の大嵐に打ち据えられ、アスナは立ち尽くした。あれほど沢山考えてきた、再会の言葉はひとつも出なかった。  オーシャン・タートル上部シャフトのSTLに横たわる体から奪われ、囚われた、愛する人の魂がそこにあった。  傷つき、損なわれ、それでも確かに息づく命が。  おそらく——。  SAO世界から解放され、しかし目覚めることはなかったアスナを所沢の病院のベッドに見出したとき、キリトもまったく同じ痛みを、哀しみを、そして決意を感じたに違いない。  今度はわたしが。必ず、どんな代価を払おうとも、ぜったいに助ける。  ようやく呼吸を取り戻し、アスナはそっと囁いた。 「…………キリトくん」  痛々しいほどに痩せ細ったその体からは、右腕がまるごと失われていた。白黒二本の剣を抱える左腕が、アスナの声が響いたとたん、ぴくりと震えた。  俯けられたままの顔と、うつろな黒瞳にも、細波のような痙攣が走った。 「ぁ…………」  ひび割れ、掠れた声が、唇の奥から漏れる。 「ぁ……あー……あぁ…………」  かたかた、と車椅子が小さく震動した。左手が、真っ白になるほど強く握り締められ、肩から腰にかけても軋むような強張りが走った。  俯いたまま動かない両頬に、すう、と二筋の涙が流れ、剣へと滴った。 「キリトくん……いいよ、もういいよ!!」  アスナは叫び、跪くと、愛する人の枯れ枝のようになった体を強く抱き締めた。自分の両眼からも、熱いしずくがとめどなく溢れるのを感じた。  再会したその瞬間、キリトの魂が癒され、意識が戻る——。  そんな奇跡を、期待していなかったと言えば嘘になる。  しかし、キリトのフラクトライトに加えられた損傷が、純粋に物理的なものであることをアスナは認識していた。彼はいま“主体”を、自分のなかの自己を完全に喪失しているのだ。それが何らかの手段で再構築されない限り、いかに外部から激烈な入力があろうとも、自発的出力に変えることはできない。  耳裏に、比嘉の言葉が蘇る。 『彼は、激しく自分を責めていた……』  キリトは、この世界と、そこに暮らす人々を守るために戦った。その果てに、心を繋いだ仲間を、友を失った。  巨大すぎる喪失感と悔恨が、彼の心に穴を開けてしまったのだ。  でも、たとえその穴が無限に広がる虚無であろうとも、わたしが埋めてみせる。わたし一人で出来なければ、心を繋いだ沢山の人たちの力を借りて。  愛で満たせない喪失が、あってたまるものか。  アスナは、強い決意が自分のなかに満ちるのを意識した。これ以上、キリトにはひとかけらの哀しみだって感じさせない。  ——キリトくんが愛し、生きたこの世界は、わたしが守るんだ。謎の襲撃者たちから、そしてラーススタッフからも。  最後にもう一度、強くキリトを抱擁してから、アスナは立ち上がった。  振り向き、涙ぐみながらこちらを見ている二人の少女たちに微笑みかける。 「ありがとう。あなたたちが、キリトくんを守ってくれたのね」  ゆっくり頷いた黒い髪の少女が、震える声で問いを発した。 「あの……あなたは……? ステイシア様でないなら……誰なんですか?」 「わたしの名前はアスナ。あなたたちと同じ人間よ。キリトくんと同じ世界から来たの……同じ目的を果たすために」  おそらく、これが、生体脳に魂を持つ現実世界人と、ライトキューブに魂を持つアンダーワールド人が、真の意味ではじめての邂逅を遂げた瞬間だった。 「こりゃぁ何とも……たまげたとしか言えませんな」  御座竜車の先端から、突如出現した地割れを見下ろしていたガブリエルに、どこかのん気な声が掛けられた。  視線を向けると、デッキの片隅に設けられたハッチから、恰幅のいい中年男が顔を出したところだった。たしかレンギルという名の、商工ギルドの頭領だ。幅広の袖を体の前で合わせ、深々と一礼する。  いまや残り少なくなった将軍ユニットの一人だが、この男自身には大した戦闘力はないらしい。何用か、という意味を込めて片眉を動かすと、レンギルは両手を合わせたまま告げた。 「陛下。間もなく紫の月が昇りますれば……即時の行動命令が御座りませぬようでしたら、全軍に食事と休息のお許しを頂きたくまかり越しました」 「ふむ」  再び、黒々と口を開けるクレヴァスに視線を向ける。  あの地割れが、東西どこまで続いているのか確認させるために放った偵察兵からはいまだ報告がない。つまり、一マイル二マイルのオーダーではないということだ。さりとて、人力での土木作業で埋め尽くせる深さではないことも見ればわかる。  となれば、航空ユニットの使いどころであるはずだが、暗黒騎士団の飛竜とやらはわずか十頭しか居ないらしい。二万の歩兵を運ぶのに、何往復させればいいのか見当もつかない。  術式ならば何とかなるのかと、わずかに生還した暗黒術師に検討させもしたが、あの規模の峡谷に軍隊が渡れるほどの耐久性のある橋を掛けるのは不可能という返事だった。総長ディー・アイ・エル級の術者が、再び多数のオークを生贄に用いればあるいは、と言うことだったが、彼女は敵騎士の反撃により骸も残さず戦死との報が届いている。  野心に満ち満ちていたわりには、呆気なく退場したものだ。ガブリエルは一瞬そのような感慨を抱いたが、所詮はAIの駒だ、とすぐに意識から消し去った。  つまるところ——。  あの巨大な地割れは、この世界の“ゲームバランス”から逸脱した代物だ、ということだ。ダークテリトリーのAIに修復不可能な操作を、ヒューマンエンパイアのAIが実現できる道理はなかろう。  ならば、あれは恐らく、現実世界からの干渉だ。K組織のスタッフが、ガブリエルと同じようにスーパーアカウントでログインしてきたに違いない。目的もまた同じだろう。“アリス”を回収し、システムコンソールを用いてこの世界からイジェクトさせる。  厄介な局面になったのは確かだが、そうと分かっていれば、まだ対処のしようはある。  むしろ——面白くなってきた、とすら言えよう。  ガブリエルは、ごく微かな笑みを薄い唇の端に一瞬浮かべ、消し去ってから、レンギルに向き直った。 「よかろう。本日はこの地点で野営する。兵にはたっぷり食わせておけ、明日は忙しくなるからな」 「はっ。陛下の御厚情、真に痛み入ります」  再び深々と平伏し、商人の長はいそいそと姿を消した。 「キリト先輩と……同じ、世界?」  つぶらな瞳を見開き、少女たちは声を揃えて呟いた。 「そ、それは……神界のことなのですか? 創世三神や……素因を司る神様たちや、天使たちが暮らしている天上の国……?」 「違うわ」  アスナは慌てて首を振った。 「確かに、この国の外側にある世界だけど、決して神様の国じゃない。だって……ほら、このキリトが、神様だの天使だのだなんて思える?」  すると、少女ふたりは車椅子に視線を向け、互いに眼を見交わしてから、短くくすっと笑みを漏らした。すぐに慌てた様子でそれを消し、こくこくと頷く。 「は、はい……確かに、毎晩学院を抜け出して買い食いにいく神様なんていない……と思いますけど……」  赤毛の少女の言葉に、今度はアスナが唇をほころばせた。まったく、この世界でまでそんなコトしてたのね、と呆れるやら嬉しいやらで、またしても目頭が熱くなりかける。  瞬きでそれを抑え、ね? と頷きを返すと、今度は黒髪の子がおずおずと口を開いた。 「なら……その、外側の世界、っていうのは、いったい……何なのですか?」  アスナは少し考え、答えた。 「それは、ひとことでは言い表せないの。この場の指揮を執っている人たちにも同時に説明したいから……案内してもらえるかしら?」 「は、はい。分かりました」  緊張した面持ちで了承した少女たちを追い、大型馬車の後端に向かおうとしたアスナは、一瞬脚を止めてキリトを見た。  俯けられた顔には、いまだ細く涙の筋が光っている。  だいじょうぶ、もう大丈夫よ、キリトくん。  あとはわたしに任せてね。  心の中でそう囁きかけ、きゅっと左手を握ってから、アスナは身を翻した。  木箱の間をすり抜け、少女たちに続いて、荷台から飛び降りる。  ブーツが、地面を捉えたその瞬間。  黄金の煌きが、尾を引いて降りかかった。  剣光。  そう判断する前に、体が反射的に動いていた。右手が閃き、左腰に装備された細剣を抜き撃つ。  キャリイィィン!!  甲高く澄んだ剣戟が、夜の森を貫いた。  あまりの衝撃に、右手が肘まで痺れた。なんという重い剣か。  飛び散った大量の火花が白く焼きついた視界に、息もつかせぬ次撃の軌道のみが見えた。  単発技では押し切られる!  瞬時に判断し、アスナは細剣を敵の斬撃に向かって連続して突き込んだ。  カキャキャァン!!  三発目で、ようやく刃が止まった。全力の鍔迫り合いに移行しながら、アスナはようやく襲撃者の姿を確認した。  息を飲む。  とてつもなく美しい、同年輩の女剣士が、雪のような肌に血の色を滾らせてアスナを睨んでいた。矢車草の色の瞳に、電光にも似た怒りが迅っている。  黄金を細く鋳溶かしたかのようなストレートのロングヘアが、せめぎ合う剣圧に翻る。上半身を覆うブレストプレートと、そして握られた長剣もまた、深く透き通る山吹色。  少し離れた場所で、目を丸くして立ち尽くしていた少女たちが、ようやく細い悲鳴を上げた。 「き……騎士様!!」 「違います、この方は敵ではありません、アリス様……!!」  ————アリス!  それでは、この凄絶なまでの美貌を持ち、巨岩のように重い剣を振るう剣士こそが——世界初の真正ボトムアップAI、高適応性人工知能A.L.I.C.E.たる“アリス”なのか。プロジェクト・アリシゼーションの目的そのものであり、ラースと襲撃者たちの双方が希求する、一連の事件のまさに核心。  しかし、なぜこれほどの敵意を。この状況で。  全力で刃を噛み合わせながら、アスナが何かを言おうとしたその寸前、“アリス”の桜色の唇から、名手の奏でるヴァイオリンのように艶やかな響きの声が鋭く迸った。 「きさま、何者だ!! なぜキリトに近づいた!!」  その台詞を聞いた途端。  アスナの中で、あらゆる事情を脇に押しやる、一つの感情が音を立てて弾けた。  具体的には、ものすごくカチーンと来た。  反射的に返した言葉は、事態にドラム缶数本ぶんのガソリンをぶちまけるに等しいものだった。 「なぜって……わたしの、だからよ」 「なにを言うかっ、狼藉者が!!」  アリスが、真珠色の歯をきりっと鳴らしてから叫んだ。  ギャリッ、と火花を振り撒きながら、二本の剣が離れる。  ふわりと飛びのいた黄金の剣士は、ブーツが地面を捉えるや、再び猛烈な左上段斬りを撃ち込んできた。しかし、アスナも今度は気後れ無く、右手に浸み込んだ連続技を放っていた。  夜闇のなかで、巨大な弧月と、幾つもの流星が激突し、眩く輝いた。  肘から肩までを貫く衝撃に、アスナは、個人的感情はさておきまったく瞠目すべき剣技だ、と改めて息を飲んだ。正直、実力では少々劣ることを認めなければならない。互角に撃ち合えるのは、ステイシアアカウントに付与された、つまり“GM装備”であるこの細剣がアリスの黄金の長剣よりも高優先度だからだ。  再び鍔迫り合いとなり、短い間隙が生まれた。  その静寂を、渋く錆びた男の声が破った。 「うーむ、こりゃ実に何とも、見事な眺めだね。咲き誇る麗しき花二輪。いや絶景絶景」  直後、それまで誰も居なかったはずの空間から、ぬう、と二本の逞しい腕が伸び、アリスとアスナの剣の腹を、指先でひょいと摘んだ。 「!?」  まるで万力に挟まれたかのごとく剣が動かなくなった。唖然とするアスナを、細剣ごと軽がると吊り上げた腕は、争う二人の剣士をふわりと引き離して再び着地させた。  立っていたのは、見上げるような体躯を持つ、四十過ぎの男だった。  前あわせの、着物に似た装束の上から最低限の防具を身につけている。腰に下がる鋼色の長剣も、袖口から伸びる前腕も、そして鋭くも重厚な貌にも沢山の細かい瑕が走り、古強者という形容がすぎるほどにぴったり来る。  その男が現れた途端に、何歳か幼くなってしまったかのような印象を帯びたアリスが、ふくれ顔で抗議した。 「なぜ邪魔をするのですか小父様! この者は恐らく敵の間者……」 「ではない、と思うぞ。おっ死ぬところだったオレを命拾いさせてくれたのは、こちらのお嬢さんなんだからな」  君らもそうだろ、という男の言葉は、目を丸くして立ち尽くす灰色の制服の少女たちに向けられたものだった。  二人は、恐る恐るというふうに頷き、交互にか細い声を発した。 「は……はい、騎士長閣下。その方は、私たちを助けてくれたのです」 「腕の一振りで、敵の大部隊を奈落に落として……まさしく、神の御業でした」  騎士長と呼ばれた男は、さいぜんアスナが地面に穿った亀裂の方向にちらりと目をやると、アリスの肩に手を掛けながら言い含めるように説いた。 「オレも見たさ。天から七色の光が降り注ぎ、大地がばっかりと百メルも裂けた。さしもの拳闘士団も飛び越えられずに泡を食ってたよ。一息に蹂躙されるところだった我が軍を、このお嬢さんが救ってくれたのは間違いない事実だ」 「…………」  いまだ、右手に華麗な黄金剣をぶら下げたまま、アリスが胡散臭そうな視線でじろりとアスナをねめつけた。 「……ならば、小父様は、この者が敵の間者でも、神画の装束を模倣した不心得者でもなく、本物のステイシア神だなどと仰るおつもりですか」  アスナは、黙したまま軽く唇を噛んだ。ここで、この場の総責任者らしい“騎士長”に、神様なりと認定されでもしたらまた厄介なことになる。  しかし幸い、男は逞しい口元を僅かに緩めると、いいや、と言った。 「そうは思わん。オレの知ってる神サマとやらは、もっと無慈悲な存在だからな。たとえば、いきなり斬りかかってきた乱暴者なぞ容赦なく地の底に突き落とす、くらいにはな」  これにはアリスも、唇を尖らせながらも反論はできないようだった。尚も敵意の消えない青い瞳でアスナに火花の出そうな一瞥を呉れてから、右手の剣を鯉口にあてがい、シャキン! と一気に鞘に落とす。  実のところ、アスナにも大いに言いたいことはあった。要約すれば、えっらそーに、あなたキリト君のなんなのよ、ということだが、深呼吸ひとつでどうにか憤慨を意識から押し出す。これから、このアリスを説得して遥か南の果てにあるという第三のシステム・コンソールまで連れていかねばならないというのに、ケンカしている場合ではまったくない。  同じように剣を収め、アスナは現状で最も頼れそうな騎士長に視線を向けると、口を開いた。 「ええ……仰るとおり、私は神などではありません。あなた方とまったく等しい人間です。ただ、あなた方のおかれた状況について、幾ばくかの知識を持っています。なぜなら私は、この世界の“外側”から来たからです」 「外側……ね」  騎士長は、短い顎鬚をざらりと擦りながら、太い微笑を浮かべた。  対照的に、アリスのほうは、目を見開いて鋭い呼吸音を発した。 「外の世界……!? キリトのやってきた場所から、お前も来たというの!?」  これにはアスナも驚いた。では、キリトは、アンダーワールドの構造についてある程度アリスに話していたのか。  STRA——主観時間加速機能の倍率を考慮すれば、キリトはすでにこの世界で三年近い年月を過ごしている計算になる。いったい、そのうちどれくらいをこのアリスと共有したのだろう、とつい考えてしまう。  アリスのほうも、同系統の思考に辿りついたらしく、再び一歩詰め寄ろうとしたが騎士長の腕がそれを制した。 「ここから先は、他の騎士や衛士長たちにも聞いてもらったほうがよかろう。茶でも飲みながら話そうや。敵軍も今夜はもう動けまい」 「……そう、ですね」  眉のあたりに険を漂わせたまま、アリスも頷いた。 「よし、そうと決まれば……そこの君たち、熱い茶と、オレには火酒を用意してくれないか。君たちも一緒に話を聞くといい」  騎士長にそう言われた制服の少女たちは、は、はいっ! と畏まって敬礼した。  アスナは、この場所を離れる前にもういちどキリトに会いたい、と思ったが、身動きひとつする前にアリスの鋭い言葉が飛んできた。 「言っておきますが、今後私の許可なくその馬車には立ち入らないように。キリトの安全を確保するのは私の責任範囲ですから」  むかっ。  と頭をもたげる感情をどうにか寝かしつける。 「……あなたこそ、わたしのキリトくんを呼び捨てにするのやめなさいよ……」 「何か言いましたか!?」 「……いいえ、なにも!」  ふん、と同時に顔を逸らし、アスナとアリスは騎士長の背中を追った。  その場に残された二人の少女——ティーゼとロニエは、同時にふう、と息を吐いた。 「なんか……凄いことになってきちゃったね」  ティーゼは勢いよくぱちんと両手を合わせると、親友に言った。 「さ、急いでお湯沸かさなきゃ! あと、火酒ってどの馬車だっけ?」  たたっ、と走り出す赤い髪を追いかける直前、ロニエが口の中で呟いた言葉を聞いたものは、誰もいなかった。 「……私の、なのになぁ……」  ぱちぱち、と音を立てて燃える焚き火を、お茶のカップ片手にアスナはしばし見つめた。  なんとリアルな炎だろうか。  SAOやALOで幾度となく目にした、グラフィックエンジンによって描画されるエフェクトとしての火炎とは根本的に次元が異なる。生乾きの薪が爆ぜるたびに飛び散る火の粉、濃密に漂う焦げ臭さ、顔や手の表面をかすかにあぶる熱までが、現実以上の現実感を備えてアスナの五感を刺激する。  アンダーワールドにログインしてから、こうして折りたたみの布張り椅子に腰を降ろすまで、劇的状況の連続で“世界を味わう”暇などまったくなかった。あらためて感覚を総動員させると、STLによって与えられる“ニーモニック・ビジュアル”の凄まじいクオリティに圧倒されざるを得ない。  これでは、ここが仮想世界なのだと知らずにログインさせられたキリトは、当初それを確認するのに大変な苦労をしたことだろう。何せ——この世界には、いわゆる“NPC”は一人たりとも居ないのだから。  アスナは、焚き火から視線を移し、森に開けた円形の広場に集う人々を順繰りに眺めた。すでに、簡単な紹介だけは受けている。  すぐ左にどっかと座り、古めかしい酒瓶を独り占めしているのは整合騎士長ベルクーリ。その隣に、整合騎士アリス。オレンジの灯りに照らされ、深みを増した金髪の美しさには、同性ながらため息をつきそうになる。  アリスの向こうで、どこか所在なさそうに腰を下ろした十五、六の少年も、やはりこの世界で最強のクラスである整合騎士らしい。名前はレンリと言ったか。  さらに視線を移すと、まるで影のようにひっそりと座る細身の女性騎士が目に入る。真新しい鎧が体に合わないようで、しきりに革帯を引っ張ったり緩めたりしている様はあたかもVRMMO初心者だが、シェータという名で紹介されたとき、一瞬アスナと視線を合わせた切れ長の瞳には、得も言われぬ迫力があった。  彼女の左側、アスナから見て焚き火の向こうには、衛士というクラスの者たちが十人ほど椅子を並べている。いずれも剛毅な面構えの、いかにもつわものという雰囲気たっぷりだ。  そして、アスナのすぐ右に、先ほどの制服の少女らが、限界まで身を縮めてちょこんと座っている。赤毛の子がティーゼ、黒髪の子がロニエと名乗った彼女らは、何とキリトが二年も籍を置いていた学校の後輩なのだそうだ。  以上、十数人の剣士たちの顔をひととおり見渡して、アスナはひとつの感慨を深く噛み締めた。  彼らは、まさしく、本物の人間だ。  その容姿、所作、漂わせる気配まで、作り物めいた部分は欠片も見出せない。この中で、“法や命令に逆らえない”という人工フラクトライトの限界を突破したのがアリスただ一人である、という前提すらもいっそ信じられないほどだ。  キリトの、彼ら全員を守らんという心情も、今ならば深く理解できる。  その志を、わたしも共有するんだ。  アスナは強くそう決意しながら、大きく息を吸い、言葉を発した。 「皆さん、はじめまして。私の名前はアスナ。“世界の外側”からやって来ました」  今や懐かしくすらあるほどに遠ざかってしまった、辺境の村ルーリッドでの短い隠遁生活のあいだ、アリスはよくキリトの車椅子を押しては近くの牧場を見に行った。  白木の柵に囲われた緑の草地では、沢山のふわふわした羊たちが大人しく草を食み、その間を真っ白い子羊が元気に駆け回っていた。  アリスは、何て幸せそうなのだろう、と思ったものだ。柵の外のことなど何も考えず、閉ざされ、守られた世界でただ安穏な日々を送っている。  よもや——。  この世界の人間も、まったく同じ状況にあろうとは。  アスナと名乗る不思議な女性の語った言葉は、すべての騎士と衛士隊長に、天地が割れ砕けんばかりの衝撃を与えた。さすがの騎士長ベルクーリは飄々とした顔を貫いてみせたが、それでも内心大いに思うところはあっただろう。  なにせ、アスナという栗色の髪の剣士は、この世界全体が、柵に囲われた牧場、あるいは硝子でできた水槽であると告げたのだ。  彼女は、世界を“アンダーワールド”という神聖語で呼んだ。そして、その外側——地勢的にではなく、観念的な外部——に、“リアルワールド”なる異世界が広がっているのだという。  当然ながら、それは神界とはどう違うのか、という疑問が衛士たちから発せられた。  来訪者は答えた。リアルワールドに暮らしているのも、感情と欲望、そして有限なる天命を持つ人間なのだ、と。  そして今、リアルワールドのごく限られた場所において、二つの勢力が、アンダーワールドの支配権をかけて争っているのだという。  アスナはその一方の使者であるらしい。目的は、アンダーワールドの保全。  そしてもう一方の勢力の目的は——アンダーワールドから、たったひとりの人間を回収し、しかる後に世界すべてを破壊し無に帰すこと。  それを聞いた衛士たちは不安げにざわめき、若い騎士レンリも低いうめき声を漏らした。  動揺を鎮めたのは、ベルクーリの喝破だった。  同じこったろう、と二百年以上を生きた豪傑は断じた。人界の外側に広大無辺のダークテリトリーがあり、何万もの軍勢が侵略のときを手ぐすね引いて待ってたって事実を、これまで真剣に考えてきた奴なんざいねえんだ。今更、その外側にもうひとつ世界が増えたくれえでおたつくな。  甚だ暴論ではあるが、頼もしい錆び声でそう言い切ってから、騎士長はアスナに向かって、誰なのだその、お前さんの敵方が欲しがる“ひとり”とは、問うた。  異邦人の明るい茶色の瞳が、ベルクーリから逸れ、まっすぐにアリスを射た。 「じょ……冗談ではありません!!」  アリスは、思わず叫んだ。椅子を蹴って立ち上がり、右手を胸当てにバシッと当てて、さらに言い募る。 「逃げる!? 私が!? この世界と、そこに暮らす人々、それにこの守備軍の仲間たちを見捨てて……リアルワールドとやらに!? 有り得ない! 私は整合騎士です! 人界を守ることが最大にして唯一の使命なのです!!」  すると、今度はアスナが勢いよく立った。まっすぐ長い髪を大きく揺らし、名匠の拵えた銀鈴を思わせる声で反駁してくる。 「ならば尚のことだわ! もし“敵”……暗黒界人ではなく、リアルワールドにおける強奪者たちが、あなたを捕らえこの世界から引きずり出せば、残る人々や……それだけじゃない、大地も、空も、何もかもが消滅させられてしまうのよ! 敵はもう、いつここを襲ってきてもおかしくないの!」 「おっと、その点については情報が古いな、アスナさん」  悠揚迫らぬ声を挟んだのは騎士長ベルクーリだ。 「どうやら、もう来てるぜ。お前さんの敵とやらは」 「えっ……」  絶句するアスナを、焦らすように火酒の壷をぐいっと呷ってから、騎士長は続けた。 「これで合点が行ったってもんだ。“光の巫女”。そしてそれを求める“暗黒神ベクタ”。いま敵軍を指揮してるベクタ神とやらも、間違いなくあんたと同じくリアルワールドから来た人間だろう」 「暗黒……神」  顔を青ざめさせてそう呟いたアスナは、続けて少々意味不明な言葉を漏らした。 「なんてこと……ダークテリトリー側のスーパーアカウントは、ロックされてなかったんだわ……」 「あの……ちょ、ちょっといいですか」  生まれた一瞬の間隙をついて、少年騎士レンリがおずおずと手を挙げた。  全員の視線が集まったのを意識してか、頬を赤らめながら若者はか細い声で尋ねた。 「そもそも、光の巫女って何なんですか? その、リアル……ワールドの“強奪者たち”って連中は、いったい何故アリス殿をそんなに欲しがるんです?」  その質問に答えたのは、この会議でも当然“無音”を貫くと思われていた灰色の騎士シェータだった。 「右眼の……封印」  これには、アリスもぎょっとして、一瞬憤りを忘れた。 「し……知ってるんですか、シェータ殿!? なぜ!?」 「考えると……痛くなる。世界で一番硬いもの……“破壊不能属性”のカセドラル、切り倒したら……楽しいだろうな、って」  しーん。  という誰もが何も言えない沈黙を、無かったことにしたのはベルクーリの咳払いだった。 「あー、この場にも、秘かに身に覚えがある者はほかにも居ようかと思う。帝国法や、禁忌目録、あるいは神聖教会への忠誠に、わずかなりとも不満なり反意を抱くと、その瞬間右の目ン玉に赤い光がちらつき、同時に刺すような痛みに襲われる現象だ。普通はその瞬間、あまりの激痛にそれまで考えていたことを忘れる。しかし、なおも不穏当な思考を続けると、痛みは際限なく強まり、右の視界すべてが赤く染まり——しまいにゃぁ……」 「右眼そのものが、あとかたもなく吹き飛びます」  アリスは、あの忌まわしい一瞬を鮮明に思い出しながらそう呟いた。  一同の顔に、濃淡はあれ等しく恐怖の色が浮かぶ。 「では……アリス殿は…………」  畏れをはらんだレンリの声に、ゆっくり頷いて、アリスは続けた。 「私は、元老チュデルキン、そして最高司祭アドミニストレータと戦いました。その決意を得るために、一時右眼を失いました」 「あ、あの…………」  レンリよりも更に細い声で発言機会を求めたのは、これまで目を丸くして話を聞いているだけだった、補給部隊の少女ティーゼだった。 「ユージオ先輩も。私の……私たちのために剣を振るい、罪を犯したとき、右眼から……血が……」  さもありなん、とアリスは頷いた。一般民でありながら、幾多の激闘を乗り越え、騎士長をも退け、アドミニストレータ相手に見事な心意の発露を見せたあの若者なら、右眼の封印くらい乗り越えただろう。  そうだ、そういえば、あの時アドミニストレータが、封印について何かを……。 「ふむ……」  腕組みをしたベルクーリが、双眸を半眼に閉じて唸った。 「つまり、“敵”とやらは、封印を自ら打ち破った者を欲しているというわけか。アスナさん、ちょいと訊くが、あんたたちリアルワールド人にも、同じ封印があるのかい?」 「…………いえ」  わずかな逡巡ののちに、栗色の髪が横に揺れた。 「おそらく、法や命令を破れるかどうか、というその一点だけが、リアルワールド人とアンダーワールド人の差異なのだと思います」 「ならば、つまりアリス嬢ちゃんは、今や完全にあんたらと同じ存在ってわけだな? だがおかしかないか? 同じものを、なぜそうまで強く求める? リアルワールドにも人間はわんさと住んでるんだろうに」 「それは…………」  再び、先ほどよりも強い迷いの色を見せ、アスナは口篭った。  しかしアリスは、記憶にひっかかっていた逆棘が抜けた瞬間、大きく叫んでアスナの言葉を遮ってしまった。 「そうよ! “コード八七一”!」  両手を握り締め、あふれ出す記憶を声に乗せる。 「最高司祭は、右眼の封印のことをそう呼んでいたわ、コード八七一、って。 “あの者”が施した、って! その時は意味がわからなかったけど……これも、リアルワールドの言葉じゃないの!?」  アスナの顔に、再び驚愕の色が迅った。  小ぶりな唇がわななき、掠れ声が絞り出される。 「……まさか……封印は、向こうの人間が……? あっ……“深刻なレベルの……情報漏れ”……」  よろり、と椅子に沈み込んだ異界人が続けて漏らした囁きの意味は、アリスには分からなかった。 「…………いけない……スパイは自衛官じゃないわ……ラースの技術者に……いまも隔離されてない……!」  アスナは激しく動揺した。  上位存在への盲従、という人工フラクトライト唯一の瑕疵を取り除くために、菊岡や比嘉らラーススタッフは多大な努力を重ねてきた。なぜなら、現状の人工フラクトライトは、与えられた命令を善悪や妥当性によって検証できないということになるからだ。彼らをAIとして戦闘兵器に搭載した場合、仮に命令系統のハッキング等により所属部隊に対する攻撃や民間人の無差別殺傷指示が発令されれば、それは再確認もなしに実行されてしまう。  ゆえにラースは、その限界を突破し得る人工フラクトライトを生み出すために、“人界”と“ダークテリトリー”からなるアンダーワールドという強負荷実験装置を創造した。  しかし、まるで実験の成功を妨げるかのような“右眼の封印”が、現実世界の何者かによってひそかに施されていたとするならば。  そのサボタージュの目的は恐らく、あの武装襲撃チームが準備を整え、移動を完了するまでの時間稼ぎだろう。  つまり、比嘉が存在を示唆していた内通者は、アンダーワールド・メインフレームにかなり高位の管理者権限をもつ者ということになる。具体的には、ラースの中枢エンジニアの誰かだ。  そしてその何者かは、いまもオーシャンタートルのアッパーシャフトを無制限に闊歩している。入ろうと思えば、他のスタッフの目を盗んで、アスナとキリトが横たわる第二STL室にだって侵入できるのだ……。  ぞっ、と肌を撫でる寒気を払い落とし、アスナはさらに考えた。  この情報を、可及的速やかに現実サイドに伝える必要がある。しかし、システムコンソールから遠く離れた座標にログインしてしまった以上、アスナから外部を呼び出す手段は無い。たった一つだけ、今使用している“創世神ステイシア”のHPをゼロにする——つまり死亡するという方法があるにはあるが、その場合もうこのスーパーアカウントではログインできない。メインコンソールがロックされている今、アカウントデータのリセット操作もできないからだ。  襲撃者たちが、暗黒神ベクタという同レベルのアカウントを利用している以上、一般民相当のステータスでは対抗できまい。アリスを守り、無事にログアウトさせるためには、今のアカウントが必須なのもまた確かなのだ。  どうする。どちらを優先すれば。  ここまでを瞬時に思考したアスナは、たった一度の深呼吸を経て、意思を決定した。  今はアンダーワールド内部を優先する。この世界は、STRAのリミット上限、現実世界比一二〇〇倍という超高速で駆動しているのだ。むこう側で内通者が動き出すまでに、いくばくかの時間的余裕はあるはずだ。  そのあいだに、何としても敵の指揮するダークテリトリー軍からアリスを守り抜き、現実サイドへとイジェクトさせる。もしそれに失敗し、アリスが敵の手に落ちたら、連中は真正AIを独占するために残るライトキューブ群を容赦なく破壊し尽くすだろう。キリトが命を賭けて守ろうとしたこのアンダーワールドを。  結城明日奈が下した判断は、現在得られる情報に照らせばまったく正しいものだった。  しかし、彼女も、そしてオーシャンタートルの比嘉タケルや菊岡誠二郎すらも、ひとつの重大な事実に気付いていなかった。  STRA倍率は、現実時間でおよそ二時間前から、最低の一倍にまでダウンさせられていたのだ。操作したのはクリッターであり、命じたのはガブリエルだった。  約二十時間後にはイージス艦が突入してくる、という状況にある襲撃チームが、まさか倍率を下げて自らの首を絞めるなどと、ラースの人間にはまったく予想できなかったのも無理はない。  当然、倍率ダウン操作の狙いに到っては、はるか想像の埒外だったのだ。  だが——。  この時点で、たった一つの、人間ならぬ存在だけがガブリエルの狙いを看破していた。  結城明日奈が持ち込んだ携帯端末に潜む、世界最高レベルのトップダウン型擬似人工知能である“彼女”は、ある意思を秘めて自分をオーシャンタートルの大口径アンテナから外部ネットワークへと飛翔させた。 「どうか……したの?」  いつの間にか敬語でなくなっているアリスの言葉に、アスナははっと顔を上げ、首を振った。 「いいえ……大丈夫。ごめんなさい、話の腰を折って」 「折られてはいないわ。あなたの答えを待ってるんだから」  アリスが、相変わらずとげとげしい口調で問い質してくる。 「どうなの? コード八七一、って名前に思い当たるところはないの?」 「あるわ。これから説明するところよ」  つい、反射的につっけんどんな声を出してしまう自分がアスナには不思議だった。  これまでアスナは、あまり誰かとケンカしたという記憶がない。周囲の友達——リズベットやシリカ、リーファ、シノン達とはいつも楽しく遊んでいるし、学校でも皆と仲良くやっている。  いったい、最後にこんなふうにやりあった相手は誰だろう、と思い出を辿ったアスナは、思わずぷっと噴き出しそうになった。その相手は間違いなく、誰あろうキリトだ。  SAOに囚われて一年何ヶ月か経った頃だったか。ある層のフィールド・ボスモンスターの攻略方針を巡ってアスナはキリトと激しく対立し、まさに今のような尖った言葉をぶつけまくった挙句にデュエルオファーまで叩きつけた。その敵意が、恋心に変わるまでは一ヶ月も無かった気がする。  となれば、このアリスという女の子とも、いずれ同様に仲良くなる時が来るのだろうか。  いや、それはなかなか薄い可能性ね。  そう思いながら、アスナは口を開いた。 「間違いありません。あなたの言う、コード八七一という封印を仕掛けたのは、リアルワールドの人間……“敵”に与する者です」  来訪者アスナの言葉を聞きながら、アリスは、いったいなんでこんなに苛々するんだろうと考えた。  無論、第一印象は最悪だ。何のことわりもなく、車椅子のキリトに近づかれていい気分がするわけがない。傷ついたキリトを、この半年間守り、世話してきたのは自分なのだから。  しかしあのアスナという娘は、キリトと同じくリアルワールドからやってきた。言動からして、その世界でキリトと何らかの関係があったのは間違いない。となれば、異世界にまで追いかけてきたのだし、一目会うくらいの権利はあるのかもしれない。  それがこのイライラの原因なのだろうか。世界でいちばんキリトに対して義務と責任があるのはこの私だ、と思ってきたのに、突然新たな関係者が現れたからか。  あるいは、アスナの恐るべき剣技への対抗心だろうか?  あんな超高速の連撃を、アリスは間違いなく初めて目にした。速度で言えば、副騎士長ファナティオすら問題にならない。連続技、というよりまるで同時に複数の突き技が放たれたようにすら感じた。もし撃ち合わせた剣が少しでも弾かれていれば、切り替えしは向こうのほうが速かっただろう。同年代、同性の剣士にここまで戦慄させられたことは無い。  もしくは——。  アスナが、こうして見つめているだけでため息が出そうなほどに美しいから、か。  険しい部分がひとつもない、優美という言葉が結晶したかのような異国風の顔立ち。ミルク色の肌は焚き火の色に艶やかに照り映え、栗色の長い髪が柔らかに揺れるさまは、まるで極上の絹を選び抜いて束ねたかのようだ。衛士長たちの目には、陶酔にも似た賛嘆の色が浮かんでいる。彼らは、アスナがステイシア神その人なりと名乗ったところで、疑いも無く信じただろう。  知りたい。  リアルワールドとか、敵とかそういうことではなく、アスナという個人について。キリトとの関係について。その剣技について。  いつしか自分がぼんやり思考を彷徨わせていたことに気付き、アリスは我にかえるや慌てて耳を澄ませた。  アスナの涼やかな声が夜気を震わせている。 「……“敵”は、アンダーワールドにおいて封印を破る者……つまり“光の巫女”が現れ、彼ら以外の勢力がその者を取り込むことを恐れたのです。なぜなら、光の巫女は、リアルワールドにおいてとてつもなく貴重な存在となり得るからです」 「そいつが解らんのだよなぁ」  騎士長ベルクーリが、酒壷をちゃぷちゃぷ回しながら唸った。 「光の巫女、つまりアリス嬢ちゃんは、リアルワールド人と同等の存在ってわけだろ? さっきも訊いたが、同じものになぜそれほど固執するんだ? “敵”にせよアスナさんの陣営にせよ、いったい、アリス嬢ちゃんを連れ出して何をさせるつもりなんだい?」 「それは……」  アスナは、言葉に詰まったかのように唇を噛んだ。  長い睫毛が伏せられ、沈痛な色がその頬に浮かぶ。 「…………ごめんなさい、今は言えません。なぜなら、わたしは、アリスさんに自分の目でリアルワールドを見て、判断してほしいのです。向こう側は、決して神の国でも理想郷でもない。それどころか、この世界と比べれば遥かに醜く、汚れています。アリスさんを欲しがる人たちの動機もそう。今ここでそれを話せば、アリスさんはリアルワールドを、そこに暮らす人間たちを許せないと思うでしょう。でも……そんな部分ばっかりじゃないんです。この世界を守りたい、皆さんと仲良くしたい、って思う人も、きっと沢山います。そう……キリト君のように」  どこか必死な響きのある、長い言葉を、アリスは黙って聞いた。  そして、自分でも驚いたことに、ゆっくりと頷いた。 「……いいわよ。今は聞かないわ」  両手を軽く広げ、肩をすくめる。 「どうあれ、私はしたくない事をするつもりなんてないしね。それ以前に、行くって決めたわけでもない。外の世界を見てみたい気はするけど、それは目の前の敵を……暗黒神ベクタ率いる侵略軍を打ち破って、ダークテリトリーとのあいだに和平が成立してからのことよ」  すると、また強行に反撃してくると思ったアスナは、こちらも短い沈黙ののちに小さく首肯した。 「……ええ。あのダークテリトリー軍を、リアルワールド人が指揮している以上、私とアリスさんが単独でこの部隊を離れるのは危険かもしれない。敵も当然それくらい予想してくるでしょうから。私も……皆さんと一緒に戦います。“暗黒神ベクタ”の相手は、私に任せてください」  おおっ、という声が衛士長たちから上がった。彼らにとってアスナは、本人がどう言おうとステイシア神とさほど変わらぬ存在なのだろう。何より、大地を裂くほどの超攻撃力があれば、残る敵軍の二万が十万でもさほどのことはないのかもしれない。  同じことを騎士長も考えたらしく、うーむと腕組みをしてから訊ねた。 「ま、事情はおいおい、ということにしとくか。話を目先のことに戻すが……アスナさんはアレかい? あの地面をばかっといく奴は、無制限に使えるのか?」 「……残念ながら、ご期待には沿えないかもしれません」  アスナは、肩をすぼめながらゆっくり首を振った。 「あの力は、脳……というか意識に、巨大な負荷をかけるようなのです。苦しさだけならいくらでも耐えますが、あまり乱発すると、意識を保護するために、この世界から強制的に弾き出されてしまう可能性があります。そうなっては、わたしはもう戻ってこられなくなる。おそらく、大規模な“地形操作”は使えてあと一度か二度でしょう」  期待が大きかったぶん、焚き火を囲む面々に失望の色が広がった。それを感じたアリスは、思わずもう一度立ち上がっていた。 「私たちの人界を守るのに、異世界人の力ばかりアテにしてどうするの! もう、充分に助けてもらったじゃないの。今度は、私たち騎士と衛士が異界人にその力を見せる番だわ!」  激しい身振りで力説してしまったが、アスナの意外そうな視線を受けて、気恥ずかしくなり目を逸らす。  真っ先に同意したのは、この場では最年少であろう騎士レンリだった。 「そう……そうですよ! 彼女は神様じゃない、僕らと同じ人間だって聞いたばっかりでしょう! なら、僕らだって同じくらい戦えるはずじゃないですか!」  両腰の神器を鳴らしてそう力説する少年騎士の視線が、アスナから離れてその隣の赤毛の練士に向けられるのを見て、アリスはおやおやと内心微笑んだ。  次いで、“無音”のシェータまでもが、ぼそりと言葉を発した。 「私も……また、あの人と戦いたい」  顔を見合わせていた衛士長たちが、口々に追随するのにそう時間はかからなかった。  そうとも、やってやろう、俺たちが守るんだ——という意気軒昂な叫び声に、いつのまにか草地の周囲に集っていた多くの衛士らが一斉に唱和した。大勢の意思を感じてか、焚き火の炎が一際激しく燃え上がり、赤く夜空を焦がした。  これで——よかったのだろうか。  与えられた天幕の中で、真珠色のアーマーを外しながら、アスナは考えた。  ラーススタッフの思惑としては、アスナが一刻も早くアリスをシステムコンソールに連れて行き、サブコントロール室にイジェクトすることを願っているだろう。  しかしその後はどうなる。菊岡らにしてみれば、アリスのフラクトライトさえ手に入れれば、あとはそれをコピーし、構造解析して、無人兵器搭載用AIの礎とすればいいのだ。残る数十万の人工フラクトライトはもはや用無しということになる。膨大な電力とスペースを消費するアンダーワールドを、現状のまま維持するメリットなど彼らにはない。  さらに、アスナにしてみれば、この世界に来たのはアリスの保護と同時にキリトの意識との接触を願ったためでもある。  彼と触れあい、言葉を掛け、どうにか回復のきっかけを探す。一度アンダーワールドから切断されてしまえば、再び現状のダイブを再現できる保証などないのだから、キリトのフラクトライトと触れ合うのはこれが最後の機会となるかもしれないのだ。比嘉も言っていたではないか。かくなる上は、アンダーワールドに於いて何らかの奇跡がキリトを癒すことに期待するしかない、と。  今すぐにでも、彼のいる補給隊の天幕に駆け込み、抱きしめ、言葉を掛けたい。許されるなら、ダイブしている間ずっとそうしていたい。キリトを置き去りにして、はるか南のコンソールを目指すなんて、絶対にいやだ。  ——せめて、この一夜だけでも、無駄にはできない。  すべての装備を外し、軽快なチュニックとスカート姿になったアスナは、大きく息を吸い込み、耳を澄ませた。  個人用天幕には、散々辞退したのに警備の衛士がひとり付けられてしまった。神の護衛をするというので張り切った若者は、居眠りする様子もなく律儀に天幕のまわりを周回している。  その足音が、ざくざくと下生えを踏みしめながら正面を通り過ぎ、真後ろに差し掛かったあたりで、アスナは素早く天幕を出た。無音の跳躍を三度繰り返し、一瞬で十メートル先の大木の裏に潜り込む。  そっと窺うと、若い衛士はまったく気付いた様子もなく天幕の後ろから現れ、周回を継続した。ごめんなさいね、と内心で謝り、アスナは木立の奥を目指した。  大規模な会戦の疲れから人々は早々に眠り込んだようで、わずかな見張りを除いて気配はない。見張りの意識も森の外のみに向いており、アスナは見つかることなく補給隊の野営天幕群に紛れ込んだ。  目をつぶり、意識を研ぎ澄ませる。  愛する人の気配は、すぐに感じられた。  そちらへ向け、トトッと数歩移動したアスナは、視界の隅できらりと光った金色に息を詰めた。  げー、と思いつつ恐る恐るそちらを見る。  ひとつの天幕に背中を預け、腕組みをして立つ姿があった。アスナと同じような生成りのワンピースに、毛糸のショールだけを羽織っている。じろり、と睨む瞳は深いブルー。 「……来ると思ったわ」  束ねた金髪の先を揺らして、アリスがふふん、と小さく鼻を鳴らした。  自分とほとんど同じ身長、同じ体型、同じ年齢の相手をまっすぐ見つめ、アリスは準備していた言葉を投げつけようとした。  近づくな、と言ったでしょう。大人しく自分の天幕に戻りなさい。  しかし、胸に吸い込んだ空気は、容易に喉から出ていこうとしなかった。  異界人アスナの瞳に、過ぎるほどに明らかな感情の色を見出してしまったからだ。  思慕。それゆえの苦悩。それゆえの決意。  ふうっ、と長い息だけを吐きながら、アリスは自分に言い聞かせた。  譲るわけじゃない。キリトを蘇らせる責務を最も強く負う者が私であるという事実は変わらない。なぜならキリトは、私とともに戦い、ともに傷つき、私の目の前で力尽きて倒れたのだから。  だから、これはあくまで——キリト復活のための努力の一環に過ぎないのだわ。 「……取引よ」  アリスが発した短い言葉を聞いて、アスナがぱちくりと瞬きをした。 「キリトには会わせてあげる。私が知るかぎりの情報も教える。だからあなたも、あなたが知るキリトに関する全てを私に教えなさい」  一秒足らずの驚き顔に続けて、アスナはその唇に、どこか自信たっぷりな微笑を浮かべた。 「いいでしょう。でも、すごく長くなるわよ。一晩じゃ終わらないかも」  まったく気に入らない、と改めて唇を尖らせてから、アリスは一応尋ねた。 「情報の質と期間は?」  するとアスナは、橙がかった茶の瞳をちらりと夜空に向け、両手の指を折る仕草を見せながら答えた。 「えーと……顔見知りくらいの時期が一年。お付き合いが一年。それと、一緒に暮らしたのが二週間」  ぐっ。と思わず言葉に詰まる。予想外に長い。  しかしアリスは、ここで萎れてなるものかと胸を張り、言い返した。 「私は……肩を並べて戦ったのが丸一晩。そのあと、一つ屋根の下で半年間、二十四時間付きっ切りで世話をしたわ」  今度はアスナがやや仰け反った。だがすぐに体勢を戻し、ふうんそう、などと呟く。  両者は、まるで完全武装のうえ抜剣済みであるかのごとく闘気を全開にして、しばしにらみ合った。夜気がびりびりと震え、二人の間に舞い落ちた運の悪い枯葉が、ピシ、ピシと音を立てて弾ける。  無刀の鬩ぎ合いに、果敢にも割り込んだのは——不意に響いた、ささやかな声だった。 「あのぉ……」  アリスは、ぎょっとしてそちらに視線を向けた。眼前のアスナも、鏡に映るがごとく同じ行動を取る。  黒髪を短く編んで、灰色の寝巻きの上に垂らした、補給部隊の少女練士ロニエの姿がそこにあった。両手を絞るように胸の前で握り、再び口を開く。 「あの、わ、私、一ヶ月キリト先輩のお部屋を掃除して、あと剣技とかも教えてもらいました! お二人と比べると、だいぶ少ないですけど……その、私も、情報交換を……」  思わず数度まばたきしてから、アリスはふたたびアスナと視線を合わせた。同時に口元に浮かんだのは、ため息にも似た微苦笑だった。 「いいわよ。あなたもお仲間ってわけね、ロニエさん」  アリスは肩をすくめて小柄な少女に頷きかけた。ほっとしたように笑顔を浮かべる年若い練士に、なかなか大した度胸だわね、とつい感心してしまう。  微妙な空気を漂わせつつ、三人は足音を殺して移動し、アリスを先頭にひとつの小型天幕に潜り込んだ。敷き革のうえに二つ並んだ簡易寝具のうち、片方は空で、もう一方に黒髪の若者が瞼を閉じて横たわっている。毛布の端から覗くのは、二本の長剣の柄だ。  それを見たアスナの唇に、どこか懐かしそうな感傷が滲むのを、アリスは見逃さなかった。 「……どうかした?」  訊くと、敵意を一瞬で忘れ去ってしまったかのような無垢な笑顔を見せ、異世界の娘は答えた。 「“二刀流”のキリト。この人、一時期そう呼ばれてたの」 「……へえ……」  そう言えばキリトは、アドミニストレータとの最後の決戦において、己の黒い剣とユージオの白い剣を両手に握り自在に操った。  アリスは、眠るキリトの向こうに回りこみ、すとんと腰を下ろすと、二人にも座るよう手振りで示しながら言った。 「じゃ、まずはその話から聞きましょうか」  黒い荒野の夜はしんしんと更けていき、紫色の月だけがささやかに地上を照らした。  守備軍の剣士たちも、真新しい峡谷を挟んで野営するダークテリトリー軍も、やがて夢よりも深い眠りに落ちた。  双方の総力戦を目前に控えた、最後の穏やかな夜の片隅で、たった一つの天幕の蝋燭だけがいつまでも消えることはなかった。時折、厚織布の内側からひそやかな笑い声が響いたが、それを聞いているのは高い梢にとまる一羽の梟だけだった。 “死”を予感したことはある?  不意に、耳奥で鮮やかに蘇った声に、ベルクーリ・シンセシス・ワンはぱちりと瞼を開けた。  不吉な色の朝焼けが、暗い天幕の中にもごく微かに忍び込みつつある。空気は氷のように冷え、吐く息を受けるとほのかに白く色づく。  午前四時十分、と彼は読んだ。かつては大時計の針であった神器・時穿剣と精神を一体化させているベルクーリには、時刻を正確に察知するという特技がある。もう十分もたったら、伝令兵に全軍起床の角笛を吹かせねばならない。  太い両腕を頭の後ろにまわし、年経た剣士は眠りを破ったひと言を脳裏に反響させた。  ——死を予感したことはあるか。  そう彼に尋ねたのは、彼の唯一の上位者、最高司祭アドミニストレータだ。  いつ頃の記憶なのかはすでに定かではない。百年前か——百五十年か。かつて、魂の崩壊を防ぐための不要記憶消去処置を施されたベルクーリにとって、遠い過去の記憶は時系列どおりに整理できるものではないからだ。  銀髪の支配者は、その裸体を惜しげもなくびろうど張りの長椅子に横たえ、しどけない仕草でワインの杯を弄びながら問うた。  床の上にどっかと胡坐をかき、酒肴のチーズをひとかじりした所だったベルクーリは、顎を動かしながら、はてと首を捻った。  無限に繰り返される日々に——それは自ら望んだものであるはずなのだが——少々倦むこともあったのか、アドミニストレータは、たまに自身に次ぐ長命者であるベルクーリを居室に呼び出しては酒の相手をさせた。  支配者の気まぐれにも馴れていたベルクーリは、機嫌取りを考えるでもなく、思いついたことを口にした。  ——まだヒヨッコだった頃、先代だか先々代の暗黒将軍に捻られた時は、さすがにやべぇかと思いましたがね。  すると最高司祭はにやりと笑い、軽く水晶杯を振った。  ——でも、そいつの首はずいぶん前に取ってきたじゃない? 確か、そのへんに転がってる宝石のどれかに転換したような気がするわ。それ以降はもうないの?  ——うーむ、ちょいと思い出せませんな。しかし何故そのようなことを? 猊下には無縁の感覚でしょうや。  問い返すと、悠久の時を生きる少女は、長い脚を組み替えながらうふふと微笑んだ。  ——んもう、わかってないわねえベリちゃん。毎日よ。私は毎日感じてる。朝、目を醒ますたびに……ううん、夢のなかですらも。なぜなら、私はまだすべてを支配していないから。まだ生きてる敵がいるから。そして、未来のいずれかの時点において、新たな敵が発生する可能性があるから。  なるほどね。  その会話から百数十年後、人界を遥か離れたダークテリトリーの森の片隅で、ベルクーリはにやりと不敵に笑った。  今、ようやくアンタの言葉の意味が分かったよ。  死を予感するとは、つまり、自ら死の可能性を追い求めていることの裏返しだ。  得心のいく終着点を、ふさわしい死に様を、全力で足掻いても抗えぬ強力な敵を——結局は、アンタも求めていたのかな。  今のオレのように。  今この瞬間、間近に迫る死をありありと予感しているこのオレのようにね。  アドミニストレータ亡き今、世界最長命の人間となった騎士長ベルクーリは、寝床から一息に起き上がると逞しい体に白の着物を羽織った。帯を締め、履物を突っかけ、腰に愛剣を差す。  早朝の冷気のなかに踏み出し、起床の指示を伝えるために、伝令兵用の天幕に向けてベルクーリは歩きはじめた。  ほぼ同時刻、数千メル北のダークテリトリー軍野営地付近から、地平線を微かに染めはじめた曙光を頼りに十頭の飛竜が飛び立った。  その背に跨る暗黒騎士たちの腕には、それぞれ一巻きの太い荒縄が掴まれていた。一端は、すでに巨大峡谷の縁に打ち込まれた木杭に固定されている。  引き出される綱をびょうびょうと風に鳴らしながら、竜たちは幅百メルの谷を飛び越え、南岸に着地した。飛び降りた騎士たちは、剣の替わりに大きな槌を握ると、馴れぬ手さばきで新たな杭を地面に打ち込みはじめた。  皇帝ベクタが下した命令は——。  拳闘士団と暗黒騎士団一万は、峡谷に張られた十本の綱のみを頼りに、向こう側へ渡るべし。  敵の妨害攻撃が予想されるが、構わず渡峡を強行するべし。  落下した者の救助は行わない。  糧食その他の物資は運ばない。  つまるところそれは、大量の犠牲者を織り込み、しかも補給は無しという無慈悲極まる決死作戦だった。拳闘士団長イシュカーン、そしてシャスターの後を継いだ若き暗黒騎士団長は、やるかたない憤懣を覚え歯を食いしばった。  しかし、絶対支配者たる皇帝に逆らうという選択肢は彼らにはなかった。  せめて敵軍が気付かぬうちに渡峡を完了したい——という将たちの願いも空しく、夜通しダークテリトリー軍を警戒していた人界側の偵察騎兵が、遥か離れた丘の上で馬首を南に巡らせた。  堅焼きパンに、チーズと燻製肉、干し果物を挟んだ朝食をもぐもぐ食べながら、アスナは寝ぼけ頭で考えていた。  ……時間が一千倍に加速されているということは、現実世界の人々がご飯を一度食べるあいだに、わたしは千回食べるってことよね。まさか、そのぶん太るなんてことはないだろうけど……。  ちらりと視線を前に向けると、同じように瞼の重そうな整合騎士アリスが、サンドイッチを口元に運んでいる。厚手の布ごしにも、その体がほどよく引き締まり、無駄な弛みの欠片もないことがわかる。  はたしてこの世界には、生活習慣病のたぐいは存在するのだろうか? それとも体型は、産まれた時点で付与される固定パラメータなのだろうか? あるいは——外見はすべて、精神のありようを映す鏡に過ぎないのか。  傍らでは、寝床から上体を起こしたキリトに、ロニエがサンドイッチを少しずつ千切っては食べさせている。アリスいわく、天命の維持にはじゅうぶん足りる量の食事はさせてきたそうだが、しかしキリトの体が見る間に痩せほそっていくのはどうしようもなかったらしい。  まるでこの世界から、いやあらゆる世界からも、消え去ってしまいたいと彼自身が望んでいるかのように。 「……今朝は少し、顔色がいいですね、キリト先輩」  不意に、アスナの心を読んだかのように、ロニエが呟いた。 「それに、ごはんもしっかり食べてくれるし」 「まさか、美女三人の添い寝が効いたのかしらね」  アリスの言葉に、思わず複雑な笑いを浮かべてしまう。  昨夜は結局、横たわるキリトを囲んで、午前一時くらいまで話し込んだ。三人が溜め込んだキリトの記憶を開陳しあうには、それでもぜんぜん時間が足りなかったのだが、ついに睡魔に負けてその場で眠りに落ちてしまったのだ。  一瞬のちに鳴り響いたかのような角笛の音に叩き起こされ、こうして朝食を口にしながらアスナが改めて思ったのは、この人はどこにいても変わらないな、ということだった。  誰にでも優しく、それゆえに多くを背負い、己を傷つける。  ——でも、今度ばかりは無茶だよ。たった一人で世界をまるごと背負おうだなんて。  ——少しはわたしや、他の人たちにも頼ってよね。だってみんな、キミのことが大好きなんだから。  ——もちろん、一番はわたしだけど。  アスナは、改めて強い決意が胸中に満ちるのを感じた。キリトが目覚めたとき、笑顔でこう告げるのだ。大丈夫、ぜんぶうまくいったよ。キミが守りたかったものは、わたしとみんなでちゃんと守ったよ、と。  アスナの意思は、その場の二人にも伝わったようだった。アリスとロニエも、眠気の抜け落ちたまなざしをアスナと見交わすと、ぐっと強く頷いた。  敵襲を告げる角笛の、切迫した旋律が野営地に響き渡ったのは、その直後だった。  パンの切れ端を咥えたまま自分の天幕に駆け戻ったアリスは、手早く鎧を身に纏い、金木犀の剣を引っつかむや再び飛び出した。  同じように武装したアスナと合流し、ロニエとティーゼに「キリトを頼むわね!」と声を掛けてから、野営地の北を目指す。  黒い森が切れるあたりには、すでに帯剣したベルクーリの姿があった。偵察騎兵から報告を受けていた騎士長は、駆けつけたアリス、アスナと、ほぼ同時に到着したレンリ、シェータの姿を確認するや、厳しい表情で唸った。 「なるほど、“敵”側リアルワールド人てのの遣り口は相当なモンだな。皇帝ベクタが、思い切った手に出たようだ」  続いた言葉に、アリスも思わず唇を噛んだ。  荒縄一本を頼りに、幅百メルの峡谷の横断を強行。  落下すれば命はないのだ。強靭な体力と精神力がなければ出来ない芸当だ。そのような作戦を強いるとは、ベクタはよほどなりふり構っていないのか——あるいは、兵の命など紙くずほどにしか思っていないのか。  とは言え、仮に三分の一が渡峡に失敗したとしても、敵主力はまだ七千近くも残る計算だ。一千の人界軍で正面から当たっても勝ち目はない。  当初の作戦である、森に潜伏しての術式攻撃も、こう明るくなっては不可能だ。ならば更に南進し、再度奇襲の機を待つべきか?  アリスの迷いを断ち切ったのは、騎士長ベルクーリのひと言だった。 「こいつは戦争だ」  ぼそりとそう言い放った古の豪傑は、その逞しい首筋に太い腱を浮き立たせながら続けた。 「異界人のアスナさんはともかく、オレたちがダークテリトリー軍に情けを掛けてる場合じゃねえ。この機は……活かさねばならん」 「機……と?」  意表をつかれ、鸚鵡返しに問うたアリスに、ベルクーリは鋭い眼光で応じた。 「そうだとも。……騎士レンリよ」  突然名前を呼ばれ、若い整合騎士がさっと背筋を伸ばす。 「は……はっ!」 「お前さんの神器“比翼”の最大射程はどれくらいだ?」 「はい、通常時で三十メル、記憶解放状態ならばおそらく五十……いや七十メルは」 「よし。では……これから我ら四騎士で渡峡中の敵主力に斬り込む。オレとアリス、シェータはレンリの護衛に専念。レンリは、神器で敵軍の張った綱を片っ端から切れ」  アリスは小さく息を飲んだ。  成程——敵も横断用の綱は必死で守るだろうが、仮にその根元に人垣を築かれたとて、曲線軌道で飛翔する投刃ならば敵頭上を超えて綱への直接攻撃が可能なのだ。言葉どおりに、容赦の欠片もない対応策。  しかし、弱冠十五歳の少年騎士は、その幼い顔に固い決意をみなぎらせ、右拳を左胸に当てた。 「御命、了解致しました!」  ついで、無音の騎士シェータも、低く呟く。 「だいじょうぶ。私が……守る」  そして、ベルクーリの指示からは外れていたアスナまでもが一歩前に出た。 「わたしも行きます。壁は多いほうがいいでしょう」  アリスは一瞬瞑目し、胸中で呟いた。  今更この私に——巨大術式で一万の敵亜人部隊を焼き払い、また完全支配術で二千の暗黒術師を殺戮した私に、栄誉ある戦いなぞ求める資格があるはずもない。  いまはただ、剣を抜き、斬るのみ。 「——急ぎましょう」  四人に頷きかけ、アリスは視線を北の丘へと向けた。深紅の曙光が、すでにその稜線を黒く際立たせていた。