Sword Art Online 4 Alicization 九里史生     第四章  十字の窓枠を持つ窓のむこうに、四分割された青白い満月が見える。  アルヴヘイム南西部、シルフ領首都スイルベーンは重い夜の帳に包まれ、殆どの商店は鎧戸を下ろし灯りを消している。メインストリートを往来するプレイヤーの数さえもごく少ないのは、いまが現実時間の午前四時、接続者数が一日でもっとも減少するタイムゾーンだからだ。  アスナは右手を伸ばすと、湯気を立てるカップを取り上げ、濃いお茶を大きくひとくち飲み下した。眠気は感じないが、ここ三日まとまった睡眠を取っていないせいで頭の芯がわずかに重い。目を瞑り、軽く頭を振っていると、隣に座る黄緑の髪の少女が気遣わしそうに言った。 「大丈夫ですか、アスナさん? あんまり寝てないんでしょう?」 「ううん、わたしは平気。リーファちゃんこそ、あちこち飛び回って疲れてるでしょう」 「現実の体はいまベッドの上でしっかり休んでますから、大丈夫ですよ」  互いの声の端に、隠せない憔悴が滲んでいるのに気付き、顔を見合わせて小さな苦笑を交わす。  桐ヶ谷直葉のALO内キャラクター、リーファが所有するプレイヤーホームの一室である。貝殻に似た光沢を持つ建材で造られた円形の部屋は、微妙に色彩を変え続けるランプで控えめに照らされ、どこか幻想的な雰囲気を醸している。中央にはパールホワイトのテーブルと四脚の椅子が設えられ、今はうち三つが埋まっている。  二人の会話を聞き、アスナの向かいに腰掛けた青い髪の少女が、両手の指をテーブルの上で組み合わせながら口を開いた。 「無理すると、頭も働かなくなるわよ。眠れなくても、目を閉じて横になってるだけで大分違うわ」  落ち着いたその声の主は、ALOダイブ用に作成したアカウントでダイブ中の朝田詩乃だ。キャラクターネームもGGOと同じくシノンである。アスナは視線を上げ、こくりと頷いた。 「うん……ミーティングが終わったら、ここのベッドを借りてそうさせて貰うわ。ほんと、催眠魔法がプレイヤーにも効けばいいのにね」 「あたしなんか、条件反射なのか最近は、あの魔法の効果音聞くとなんだか眠くなりますけどね……。もっとも今は無理でしょうけど」  肩をすくめながらそう言うと、リーファは手に持っていたカップを置いて表情を改め、続けた。 「さて、それじゃまずは昨日調べたことの報告から始めましょう。結論から言うと、国際中央病院にお兄ちゃんが搬入された形跡はありません。書類上の記録も一切存在しないし、スタッフでお兄ちゃんを見たという人もいませんでした。病室も、入れる範囲で全て見て回ったんですが……」  その先は、かぶりを振ることで言葉に代える。つかの間、部屋に重い沈黙が落ちた。  リーファの兄である桐ヶ谷和人が、死銃事件の逃亡犯金本某に襲撃され倒れたのはほんの四日前のことだ。だが、その四日の間に、事態は誰も想像しなかった方向へと急転していた。  和人は、意識不明のまま突如失踪してしまったのである。  アスナの家からほど近い東京都世田谷区宮坂の路上で、金本によって劇物サクシニルコリンを注射された和人は、急速に筋肉を麻痺させる薬の作用によって呼吸停止に陥った。救急車内で人工呼吸が施されたものの、酸素の供給が途絶えた心臓までもやがて停止し、近隣の世田谷総合病院に運び込まれた時点ですでにDOA——到着時死亡と分類される状態だったのだ。  ERの当番医師の腕が良かったのか、和人の生命力が強靭だったのか、あるいは二人ともにその日の運勢が最良だったのか、救命措置の結果かろうじて心拍が戻り、薬物が分解されるに伴って自発呼吸も再開して、奇跡的に和人は死地を脱した。処置を終えて現われた医師にそれを聞いた明日奈は、安堵のあまり失神しそうになったのだが、続いた言葉がそれを許さなかった。  和人の心停止は五分強に及び、その結果脳に何らかのダメージが発生した可能性がある、と医師は告げた。思考能力または運動能力、ことによるとその両方に恒久的な障害が残ることは充分考えられ、最悪の場合はこのまま目を覚まさないかもしれない——、と。  詳しいことはMRIによる検査を行わないと何とも言えないので、早急にもっと設備の整った病院に移したい、と医師は締めくくり、明日奈は再度襲ってきた不安感と戦いながら和人の妹である直葉に連絡を取って、どうにか事情を説明した。結局、駆けつけた直葉の顔を見た途端また大泣きしてしまったのだが。  やがて取材先から直行してきた和人の母・翠とともに、その夜はICU前のベンチで明かした。翌水曜朝、担当医にもう危険な状態は脱しましたからと説得されて、明日奈と直葉は病院から程近い明日奈の家に、翠は健康保険証などの用意のために川越の自宅に一時戻ることになった。  交替でシャワーを使い、それぞれの学校に欠席の連絡を入れてから、無理にでも仮眠しようと二人はベッドに横になった。ぽつぽつと言葉を交わすうちに数時間うとうととまどろみ、午後一時ごろ、明日奈は翠からの電話で目を覚ました。飛びついた携帯の向こうで、翠は、残念ながら和人の意識はまだ戻らないけれど、精密検査のために脳外科に定評のある港区の国際中央病院に移すことになった、と告げた。これから救急車が来て和人を搬送し、自分は退院手続きを済ませ次第タクシーで移動する、と言う翠に、私達もすぐに新しい病院に向かいますと明日奈は答えた。  昏睡状態の和人は、確かに水曜日の午後一時四十分前後、緊急搬出入口より救急車に乗せられ世田谷総合病院を出ている。これは、病院の防犯カメラにもはっきりと映像で記録されている。  しかし、その救急車は、国際中央病院には現われなかった。消防庁の出動記録上に存在しない謎の救急車は、和人を乗せたまま、六月末の煙るような小糠雨に溶けて消えてしまったのだ……。  リーファの言葉をしばらく吟味してから、アスナはひとつ頷き、言った。 「なら、これでもう、患者の取り違えみたいな偶発的事故の可能性は完全に排除してよさそうね。元の病院にも、受け入れ先にも、それどころか東京二十三区内の中規模以上の病院のどこにも居ないんだから」 「世田谷から芝公園に行く道のどこかで救急車が事故を起こして、それに誰も気付かなかった、なんてことは有り得ないしね」  背もたれに体を預け、胸の上で腕を組んだ格好のシノンが、現実の彼女とよく似たややハスキーな声で続けた。 「——そもそも、二十三区内であの時間に世田谷総合病院に出動した救急車は一台も存在しない、っていうんだからこれはやっぱり周到に仕組まれた拉致なんだと思う。問題の救急車とそれに乗ってた救急隊員は、キリトを攫うための偽装だった……」 「でも……隊員のユニフォームはともかく、救急車をでっち上げるなんてそんな簡単にできるものなのかしら」  アスナが首をかしげると、リーファの声が割って入った。 「車に詳しい知り合いにそれとなく聞いてみたんですけど、病院関係者まで騙されるようなものを造るのは相当に難しいしお金も時間もかかるそうですよ。つまり……お兄ちゃんがあの日あの場所で金本に襲われて、世田谷総合病院に入院するなんて予測できた人がいるはずないし、失踪事件は入院のたった十八時間後なわけで……」 「キリト君が倒れたのを知ってから準備するのはほとんど不可能、ってことね」  アスナのその言葉がテーブルに落ち、しばし訪れた沈黙の中かすかな残響を残して消えた。 「でも……となると、どういうこと……? キリトが攫われたのはあくまで偶然で、誰でもいいから偽装救急車で患者を誘拐しようと計画してた奴がいた、ってこと?」  眉をしかめてシノンがそう呟く。しかしその推測も、ゆっくり横に振られるリーファの黄緑色のポニーテールに退けられた。 「ところが、それも無さそうなんです。ふつう、患者を搬送するときは、病院から管区の救急指令センターに救急車を要請する電話を入れるんですが、あの日は誰もその電話をしていないのに問題の偽救急車がぴったりのタイミングで現われたんですね。で、病院の人はみんな、自分以外の誰かが要請したんだと思っちゃったわけです。ところが、その救急車に乗ってた偽の救急隊員は、行き先の病院も、それどころかお兄ちゃんの名前も知ってたんですよ。最初に応対した看護師さんがそれは間違いないと言っています」 「……じゃあ、やっぱり最初からキリトを狙った、計画的犯罪なわけだ。つまり……犯人は、キリトが入院した途端その情報を入手できて、その上偽の救急車と救急隊員を一日足らずで用意できるような奴……」 「この際、もう、敵と呼ばせてもらうわ。大きくて強力な敵」  アスナが断固とした響きのある声でそう言うと、シノンはぱちくりと瞬きし、次いでごくかすかに笑みを滲ませた。 「私……今日ここに来るまで、二人がすごく落ち込んでるだろうって、結構心配してたんだけどな……。リーファにとっては勿論大事なお兄さんだし、アスナにとってはその、まあ、彼氏ってわけで……その人が意識不明の上に失踪しちゃったんだから……」  思いがけないことを言われて、アスナが、そう言えばわたし思ったより打ちのめされてないな、キリト君が倒れた夜はあんなに泣いたのに……と内心で少し不思議に思っていると、リーファが両手を胸の前でぎゅっと握りながら口を開いた。 「そりゃ……やっぱり心配です。でも、あたし、お兄ちゃんが行方不明になったことは、前向きに考えようと思ったんです。……だって、こんな無茶苦茶な状況で失踪しちゃうからには、お兄ちゃんまた何かとんでもない事件に巻き込まれてるわけですよね。で、そういう時のお兄ちゃんは、絶対あたしの想像もつかない場所で大暴れしてるに決まってるんです。SAO事件のときも、死銃事件のときだってそうだった……だから、今度もきっと……」 「そう……その通りね」  やっぱり、長年一緒に暮らしてきた妹には敵わないなあ、と胸の中で呟きながらアスナは大きく頷いた。 「キリト君は、きっとどこかでいつもみたいに戦ってる。だから、わたし達も、わたし達にできる戦いをしよう」  それはそうと、とシノンをちらりと横目で見て続ける。 「シノのんもあんま落ち込んでるようには見えないよねー?」 「え……そりゃまあ……私の場合はほら、アイツを倒せるのは私だけだって信じてるから……」  ごにょごにょ、と語尾を飲み込むシノンと互いに微妙な視線を一瞬打ち合わせてから、アスナは話題を戻した。 「ともかく……敵の規模は相当に大きい、ってことだわ」 「警察はどうだったの? 昨日翠さんと一緒に行ったんでしょ?」 「もう、話を信じてもらうのさえすごい大変だったわ」  アスナは顔をしかめて答えた。 「最初は、そんな誘拐は有り得ない、何かの間違いだろうの一点張りで……。パニック状態の世田谷病院に電話してもらって、ようやく事件として捜査してくれることになったんだけど、正直どこをどう捜していいのか見当もつかない、って顔してたわ」 「まあ、それでも人手と設備は持ってるからね、警察って。キリトが言ってたけど、東京にはNシステムっていう、どの車がどこを通ったかぜんぶチェックする仕組みがあるんだって。偽救急車のほうはそれでかなり追跡できるんじゃないかな」 「だといいけど……」  警察の窓口で散々無駄な時間を費やす破目になったアスナは、まだ疑わしい気持ちで首を傾げたが、三人のなかで最年少のリーファがしっかりした口調で言った。 「でも、あたし達には大掛かりな聞き込みとか科学捜査とかはできないわけですから、そういうのは警察に任せるしかないですよ。あたし達にあるカードは、たったひとつ、お兄ちゃんのことをよく知ってる、っていうそれだけなんです」 「うん……そうだね。キリト君のこと……最初から敵のターゲットがキリト君だったとして、その動機は何なんだろ……」 「こう言っちゃなんだけど、身代金目的ならアスナを攫うだろうし……。犯人からの連絡は無いのよね?」  シノンの問いに、リーファがかぶりを振る。 「電話も、メールも、手紙類も一切ありません。そもそも、営利誘拐にしては大掛かりすぎますよ。大金をかけて、救急車まででっち上げて病院から拉致する意味が無いっていうか……」 「それもそうか……。じゃあ……あんまり考えたくないけど、怨恨とか……? キリトを恨んでそうな相手、心当りある……?」  今度は、アスナがゆっくり首を横に振った。 「そりゃ、SAOの生還者の中には、キリト君に牢屋に叩き込まれたりして恨んだり、ゲームクリアしたことを妬んでる人はいると思う。でも、こんなことができる資金力と組織力がある相手って言うと……」  アスナの脳裏にちらりと、かつてSAOプレイヤーの脳を実験台におぞましい研究を行い、野望半ばにしてキリトの手で警察に引き渡された須郷伸之の顔が浮かんだが、あの男はまだ拘置所の塀の向こうだ。海外逃亡の準備をしていたことが祟って保釈も却下されている。 「……ううん、ここまでするほどの人間は思い当たらないわ」 「お金でも、恨みでもない、か……」  シノンは唸りながらしばし顔を伏せていたが、やがて右手の中指で眉間のあたりを押さえながら、自信なさそうに口を開いた。 「……あのさ……まったく根拠の無い想像なんだけど……」 「……つまり、この敵は、どうしてもキリトが今すぐに必要だった、ってことになるよね。細かく言えば、キリトという人間に属する何かが、かな。アイツの持ってるもの……ゲーム用語を使えば属性、ってどんなのが思い浮かぶ?」 「剣の腕」  アスナは考えるまでもなく反射的にそう答えた。目を閉じキリトの姿を思い描くとき、真っ先に浮かぶのは常に、黒衣をまとい二刀を手に敵を暴風のごとく斬り伏せていく旧SAO時代の彼だからだ。ALOで共に旅をした妹もそのイメージは同様のようで、間髪入れずに続ける。 「反射スピードですね」 「システムへの適応力」 「状況判断力」 「サバイバビリティ……あ」  リーファと交互にそこまで列挙したアスナは、あることに気付いて口をつぐんだ。意を得たり、といふうにシノンが頷く。 「ね。それって全部、VRMMO……仮想世界内の話でしょう」  ずばり言われて、アスナは抵抗するように小さく苦笑いした。 「や、現実のキリト君にもいいとこはいっぱいあるよー」 「そりゃいいとこはあるよ、ご飯おごってくれたりさ。でも、私たち以外から見れば、現実のアイツはこう言っちゃなんだけどどこにでもいる普通の男の子でしょう、高校生の今はまだ、ね。つまり、敵が今、こんな無茶な工作をしてまで欲しがったのは、キリトの仮想世界内における突出した能力だった、ってことにならない?」 「まさか……何かのVRゲームをクリアさせようとでもう言うんでしょうか……。でも、お兄ちゃんは、今意識不明状態なんですよ。治療も、検査すらしてないのに、そんな状態で攫っても何もできないんじゃ……」  あらためてキリトの体調を心配する表情で、リーファが唇を噛む。シノンは、テーブルに落としたスチールブルーの瞳を、標的を狙撃する時のように鋭く細め、ゆっくりといらえた。 「意識不明……って言っても、それは外から見た話だよね。もし、脳じゃなく、魂そのものにアクセスできるマシンを使えば……」 「あっ……」  何でいままでそれに思い当たらなかったのか、と愕然としながら、アスナは鋭く息を飲んだ。 「ね、私達、たった一つだけ該当する相手に心当りがあるはずでしょ。魂に接続するっていう、世界でそこにしかないマシンを持っていて、しかもまさに今キリトをパイロットにした仮想世界内テストを継続中だっていう組織……。確実な根拠のない想像だけど、でも……」 「……キリト君を拉致したのは、ソウル・トランスレーターの開発企業ラース……。確かに……そんなとんでもない機械を開発できるくらいの相手なら、救急車をでっち上げるくらいの工作は可能かも……」 「ラース……って、お兄ちゃんが最近バイトしてた会社ですか?」  リーファの言葉に、アスナとシノンはさっと顔を上げた。 「リーファちゃん、ラースのこと知ってるの!?」 「あ、いえ、詳しいことは……。ただ、会社の場所が六本木のへん、とは聞いてます」 「六本木……って言っても広いなぁ。でも、そのどこかにラースの研究所があって、キリトがそこにいるかもしれない、っていう情報を警察に伝えれば……うぅん、根拠がちょっと弱いかなあ……」  唇を噛むシノンと、不安そうに目を伏せるリーファに向かって、アスナはためらいながら口を開いた。 「……あのね、結果が出るまでは、と思っていままで言わなかったけど、実はキリト君に繋がってるかもしれない細い糸が一本だけあるの。でも、途中で切れてる可能性がほとんどなんだけど……」 「……どういうこと、アスナ?」 「シノのんにはこのあいだ説明したよね。これ」  アスナは右手の指先で、自分の左胸を突付いた。 「あ、そうか……例の心拍モニターね。あれは……確か、ネット経由でアスナの端末に情報を送ってる……」 「もうずっと信号が途絶えたまんまなんだけど、もしかしてキリト君が偽救急車で運ばれる途中の経路情報をさかのぼって追跡できれば、ある程度場所の特定ができるかもしれない、って今解析をお願いしてるところなの」 「……誰に?」  答えるかわりに、アスナは視線をすっと中空に向け、名前を呼んだ。 「ユイちゃん、どう?」  一秒ほどの静寂のあと、テーブルの上五十センチくらいの空間にきらきらと光の粒が現われ、凝集して小さな人の形を取った。光は一瞬だけその輝きを強め、すぐに消滅する。  現われたのは、身長十五センチくらいの幼い少女だった。長い黒髪に白いワンピース姿、背中には四枚の虹色に光る翅が伸び、細かく震えている。少女——妖精は、閉じていた長い睫毛を上げ、くるりとした愛らしい瞳でまずアスナを、次いでリーファとシノンを眺めた。シノンを初対面の人物と判断したようで、ふわりと上体を屈めてお辞儀をする。 「へええ……この子が、うわさのキリトとアスナの“娘”ね」 「ユイです、はじめまして、シノンさん。おはようございます、リーファさん、ママ」  旧SAO内のプレイヤー・カウンセリング用AIをその出自とする人工知能ユイは、銀糸を爪弾くような声で挨拶すると、再びアスナに向き直った。 「パパのハートレート・モニター装置からママの携帯端末IPに向けて発信されたパケットの追跡は、約九八%終了しました」 「そのパケットが六本木周辺の公共LANスポットから発信されてれば、私達の仮説もずいぶん信憑性を増す……ってわけね」  シノンの言葉に、アスナは大きく頷いた。リーファも含め、三人の期待のこもった視線がユイに集まる。 「それでは、現時点での解析結果をお伝えします。NTTの携帯端末用基地局と違って、現在の公共LANスポットは移動中の接続をサポートしないので、残念ながら特定できた発信元は三箇所だけでした」  ユイが言葉を切り、さっと右手を振ると、テーブルの上、浮かぶユイの素足の下に水色のホログラムで東京都心の詳細な地図が表示された。ユイは翅の振動を止めて地図の上に着地し、とことこと数歩あるいて地図の一点を指差す。ポン、という音とともに赤い光点が点る。 「ここが、パパの入院していた世田谷総合病院です。そして、第一の発信元は、ここです」  さらに数歩移動して新たな光点を点す。 「目黒区青葉台三丁目、時間は二〇一六年六月二十一日午後一時五十分前後。予測移動経路を表示します」  二つの光点を結ぶ道路上に、白い光のラインが伸びる。ユイは再度南西に足を進め、三つ目の光点を表示させた。ラインも追随して長さを増す。 「第二の発信元、港区白金台一丁目、同日午後二時十分前後」  世田谷から六本木に向かうにしてはコースが南すぎるかな、とアスナは少し不安に思ったが、口をつぐんだままユイの言葉を待った。 「そして……第三の発信元が、ここです」  三人の期待を大きく裏切り——ユイが示したのは、六本木の遥か東、臨海部の埋立地だった。 「江東区新木場四丁目、同日午後二時五十分前後です。ここを最後に、パパからの信号は現在まで約八十六時間に渡って途絶しています」 「新木場……!?」  アスナは思わず絶句したが、しかし考えてみると、あの辺の新開発地区には新興の巨大インテリジェントビルが林立している。その中に、ラースの第二の支部が存在するという可能性もあるのではないか。 「ユイちゃん……そのLANスポットが設置されてるのは、どういう施設の中なの?」  動悸が速まるのを感じながらそう尋ねたが、返ってきた答えは、アスナの予想を更に裏切るものだった。 「この地番に存在する施設は、“東京ヘリポート”という名称です」 「え……それって、ヘリコプターの発着基地じゃないの」  シノンが唖然とした表情で呟いた。リーファも、さっと顔色を変える。 「ヘリコプター!? ……じゃあ……お兄ちゃんは、そこから更に遠くに運ばれた……ってことですか?」 「でも……待って」  アスナは、混乱する頭の中を懸命に整理しながら言った。 「ユイちゃん、その新木場からの発信以降、信号は一切届いていないのよね?」 「はい……」  そこで初めて、妖精のように整ったユイの白い顔が、沈鬱な表情を浮かべた。 「日本国内のすべての公共LANスポットに、パパのモニター装置が接続された形跡はありません」 「ということは……着陸したのは、公共LANの電波が届かないような山奥とか……原野ってことですか……?」  リーファの言葉に、シノンがかぶりを振る。 「たとえどこに着陸しても、最終的には何らかの施設に運び込む必要があるはずよ。最先端のベンチャー企業の入る施設に、今時LANスポットが無いなんてことは考えられない。今現在キリトが電波遮断区画に居るとしても、どこかで一度はLANに接続してていいはず……」 「日本じゃない……? 外国……なの……?」  アスナの細く震える声に、即座に答えられる者は居なかった。  短い沈黙を破ったのは、ユイの、あどけなさと落ち着きの同居する声だった。 「東京から無着陸で国外に到達できるほどの航続距離を持つヘリコプターは一部の軍用機を除き存在しません。現時点ではデータが少なすぎるので確定的なことは言えませんが、パパはまだ国内のどこかに居るとわたしは考えます」 「そうね。ラースが進めている研究は、今の仮想空間技術をひっくり返すようなものでしょう? 企業にとっては最大級の秘密なわけで、その研究施設を外国に置くみたいなことはちょっと考えにくいにね」  シノンのその言葉に、アスナも頷いた。アスナの父親が率いる総合エレクトロニクスメーカー・レクトも企業スパイの跳梁には頭を痛めており、重要な研究開発はすべて奥多摩の山奥に存在する、厳重に警備された研究所で行われていると聞いている。海外にも多くの拠点を構えてはいるが、やはり情報漏洩の発生率は国内と比べて明らかに高いようだ。  考え込む表情で、リーファが俯いたまま呟く。 「じゃあ……やっぱり日本のどこか、人里離れた僻地なんでしょうか……。でも、今の日本で、そんな秘密研究所みたいなものを本当に造れるんですか?」 「しかも、ちょっとやそっとの規模じゃないだろうしね。……ユイちゃん、ラースについては何かわかった?」  アスナが尋ねると、ユイは再び空中に浮き上がり、ホバリングしながら口を開いた。 「公開されている検索エンジン十二、非公開のもの三を使用して情報を収集したんですが、企業名、施設名、VR技術関連プロジェクト名いずれも該当するものは見つかりませんでした。また、“ソウル・トランスレーション”テクノロジーなるものについて言及した資料も、申請済みの特許を含め一切発見できませんでした。」 「人の魂を読みとるなんていう大発明を、特許申請すらしてないんだから異常なほど徹底した機密管理よね」  とてもラース側から綻びを見つけるのは無理そうだ、とアスナが溜息をつくと、シノンも呆れたように首を振った。 「なんだか……ほんとに実在する企業なのか疑わしくなってくるわね。こんなことなら、キリトにもっと詳しいことを聞いておくんだったな……。このあいだ会ったとき、あいつ何か、手がかりになりそうなこと言ってなかったっけ……?」 「うーん……」  眉をしかめ、懸命に記憶を掘り返す。金本の襲撃と、それに続く失踪事件の印象が強すぎて、直前のダイシー・カフェでの平和な会話はまるで遠い過去のように霞がかっている。 「たしかあの時は……ソウル・トランスレーターの仕組みの話だけ聞いてるうちに夕方になっちゃったのよね……。あとは……ラースっていう名前の由来は何か、って話も少ししたかな……」 「ああ……『不思議の国のアリス』に出てくる豚だか亀だか、って奴ね。考えてみると妙な話だよね、豚と亀ってぜんぜん似てないよ」 「言葉を作ったルイス・キャロル自身はどっちとも明言してないみたいね。後の世のアリス研究家たちがそう推測してるだけで……」  アスナは不意に言葉を切った。何かが脳裏を掠めた気がしたのだ。 「アリス……。キリトくん、店を出る間際に、アリスについて何か言ってたよね」 「え?」  シノンと、黙って会話を聞いていたリーファも目を丸くする。 「お兄ちゃんが、不思議の国のアリスの話をですか?」 「ううん、そうじゃなくて……ラースの研究室にいるとき、アリスって言葉を聞いたとか何とか……。単語の頭文字みたいな……ええと、何だっけ……」 「頭文字……? A.L.I.C.E.ってことですか?」 「そう、それよ。たしか……アーティフィシャル……レイビル……インテリジェン……だったかな……。CとEは聞き取れなかったけど……」  記憶のスポンジをあまりに強く絞りすぎたせいか、わずかな頭痛を感じながら、アスナはどうにかそれだけを口にした。が、聞いていた他の二人は揃って怪訝な表情で首を捻る。 「なによそれ。アーティフィシャル……って“人工の”、って意味よね。インテリジェン……ス? は“知性”として……レイビル、なんて英単語あったっけ?」 「その発音に最も適合する単語は“labile”だと推測されます。“適応力の高い”というような意味の形容詞です」  シノンの問いかけに、宙に浮いたままのユイがそう答え、三人の視線はテーブル上空の小妖精に集まった。 「強引に翻訳すれば、“高適応性人工知能”ということになるでしょうか」 「人工……知能?」  藪から棒に出てきた言葉に、アスナは思わず瞬きした。 「ああそうか……アーティフィシャル・インテリジェンスは、つまりAIのことよね、ユイちゃんみたいな。でも……仮想空間インタフェースを開発してる会社に、AIがどう関係するのかしら」 「仮想空間内で動かす自動キャラクターのことじゃないの? そのへんにいるNPCみたいな」  シノンが右手を伸ばし、窓の外に立ち並ぶ商店を指しながら言った。しかし、アスナはいまひとつしっくりこない思いで唇を引き結んだ。 「でも……ラース、っていう社名がアリスから取ったものだとして、ラース内部で言うアリスが人工知能に関係する何かだとしたら……少しおかしくない? それだと、会社の目的は次世代VRインタフェースの開発じゃなくて、その中で動かすAIのほうだ、っていうふうに取れるよね」 「うーん、そうなるのかな……。でも、ゲーム内NPCなんて特に珍しくもないし……デスクトップ用の常駐AIパッケージもいっぱい市販されてるよね。わざわざ、会社の存在そのものを隠したり、人ひとり拉致までして開発するようなものなの?」  シノンの問いかけに、アスナも即答することができない。一歩進むたびに次の壁で行き止まりになる嫌な感触に、もしかしてまったく見当違いのことを考えているのではないかという危惧をおぼえながら、それでも何か手がかりを探ろうと、アスナは顔を上げてユイに尋ねた。 「ねえ、ユイちゃん。そもそも人工知能って、どういうものなの?」  するとユイは、珍しく苦笑のような表情を浮かべ、すとんとテーブルに降下した。 「わたしにそれを聞きますか、ママ。それは、ママに向かって“人間とは何か”と聞くようなものです」 「そ、そう言えばそうよね」 「厳密に言えば、これが人工知能である、と定義することは不可能なのです。なぜなら、真正の人工知能というものは、いまだかつてこの世界に存在したことはないからです」  ポットの縁にちょこんと腰掛けながらユイが口にした言葉に、三人は呆気にとられ、ぽかんと口を開けた。 「え、で、でも……ユイちゃんはAIなんだよね? つまり、人工知能っていうのはユイちゃんのことでしょう?」  リーファが口篭もりながら言うと、ユイは小首を傾げ、生徒に向かってさてどう説明したものかと考える教師のような風情でしばし沈黙したが、やがてひとつ頷いて喋り始めた。 「それでは、現時点でいわゆるAIと呼ばれているものの話から始めましょうか。——前世紀、人工知能の開発者たちは、二つのアプローチで同じゴールを目指しました。ひとつは“トップダウン型人工知能”、そしてもうひとつが“ボトムアップ型人工知能”と呼ばれるものです」  幼い少女の口からあどけない声で語られる内容を理解しようと、アスナは懸命に耳をそばだてた。 「まず、トップダウン型ですが、これは既存のコンピュータ・アーキテクチャ上で単純な質疑応答プログラムに徐々に知識と経験を積ませ、学習によって最終的に本物の知性へと近づけようというものです。わたしを含め、現在人工知能と呼ばれているもののほぼ全てがこのトップダウン型です。つまり……わたしの持つ“知性”は、見かけ上はママたちのそれに似ていますが、実は完全に異なるものなのです。端的に言えば、わたしという存在は、『Aと聞かれたらBと答える』というプログラムの集合体でしかないのです」  そう口にするユイの白い頬に、かすかに寂しさの影のようなものが過ぎったのは目の錯覚だろうか、とアスナは考える。 「例えば、先ほどママに『人工知能とは何か』と問われたとき、わたしは“苦笑い”と分類される表情のバリエーションを表現しました。これは、自分自身に関する問いを投げかけられたとき、パパやママがそのような表情で反応することが多いことから、わたしが経験的に学習した結果です。原理的には、ママの携帯端末に搭載されている予測変換辞書プログラムと何ら変わるところがありません。裏を返せば、学習していない入力に関しては、適切な反応ができないということなのです。——このように、トップダウン型人工知能というものは、現状では真に知能と呼べるレベルには遠く達していないと言わざるを得ません。これが、先ほどリーファさんが言われた“いわゆるAI”というものだと思ってください」  言葉を切り、ユイは視線を窓の外に遠く光る月に向けた。 「……次に、もうひとつの“ボトムアップ型人工知能”について説明します。これは、ママたちの持つ脳……脳細胞が百数十億個連結された生体器官の構造そのものを、人工の電気的装置によって再現し、そこに知性を発生させよう、という考え方です」  そのあまりにも壮大……言い換えれば荒唐無稽なビジョンに、アスナは思わず呟いた。 「そ……それはちょっと無茶じゃないの……?」 「ええ」  ユイが即座に頷く。 「ボトムアップ型は、わたしの知る限り、思考実験の域を出ないまま放棄されてしまったアプローチです。もし実現すれば、そこに宿る知性は、わたしとは本質的に違う、ママたち人間と真に同じレベルにまで達しうる存在となるはずなのですが……」  どこか遠くから視線を戻し、ユイは一息入れてから総括した。 「以上のように、現在、人工知能——AIという言葉には二つの意味があるのです。ひとつはわたしや家電製品やゲーム内NPCのような、言わば擬似人工知能。そしてもう一つは、概念としてのみ存在する、人と同じ創造性、適応性を持つ真なる人工の知性」 「適応性……」  アスナは鸚鵡返しにそう呟いた。 「高適応性人工知能」  二人とひとりの視線がさっと集まる。それを順番に見返しながら、頭のなかでもやもやと形を取りつつあるものを、ゆっくり言葉にしていく。 「もし……もし、ラースの開発しているSTLが、目的じゃなく手段なんだとしたら……? そうよ、確か、キリト君もそんな疑問を持ってるみたいだった。ラースはSTLを使って何かをしようとしてるんじゃないか、って……。もし、人の魂そのものの構造を解析することによって、本物の……世界初のボトムアップ型人工知能を創ろうとしてるんだとしたら……」 「その、真のAIのコードネームが“A.L.I.C.E.”ということですか……?」  アスナの言葉を受けてリーファがそう呟き、同じくどこか呆然とした表情のシノンが続けた。 「つまり、ラースというのは次世代VRインターフェース開発企業ってわけじゃなくて……ほんとは、人工知能開発を目的とした企業なの……?」  推理を進めるにつれ、“敵”の形と大きさがどんどん漠としたものになっていく展開に、三人は思わず黙り込んだ。ユイさえも、得たデータを処理しきれないとでもいうかのように、きゅっと眉をしかめている。  アスナは手を伸ばし、マグカップのポップアップメニューからすっきりした味のお茶を新しく淹れなおすと、それを大きく一口飲み下した。ほっ、と息をついてから、改めて敵の戦力評価をし直すつもりで唇を開く。 「もう、単なるベンチャー企業のスケールじゃなくなってきたわね。偽救急車やヘリコプターまで使って人を拉致する手口、所在すらわからない研究所にSTLなんていうお化けマシン、その上目的が人間と同じレベルのAIを創ることだって言うんだから。——キリト君にラースでのバイトを紹介したのがあの総務省の菊岡って人だったのは、あの人がVR関連業界にコネが多いからとかじゃなくて、そもそもラースが国と繋がってるからだったのかも……」 「菊岡誠二郎かぁ。見た目どおりのトボケメガネじゃないとは思ってたけど……。連絡は相変わらず取れないの?」  渋面を作るシノンに、力なく頷く。 「四日前から、携帯も繋がらないしメールも返ってこない。いざとなったら総務省の“仮想課”まで直接乗り込もうと思ってるけど、多分ムダでしょうね」 「だろうね……。前、キリトがあいつを尾行したけどあっさり撒かれたって言ってたからなあ……」  四年前のSAO事件発生直後、総務省に置かれた“被害者救出対策本部”は、事件解決後も仮想空間関連問題に対応する部署として残された。そこに所属する黒ブチ眼鏡の公務員菊岡誠二郎は、和人とは現実世界帰還直後からの付き合いらしく、現実世界では一介の高校生に過ぎない彼をなぜか高く買っていて、死銃事件の際にも調査を依頼したりしている。  アスナも何度か会ったことがあるが、人当たりのよいにこやかな外見の下にどこか底の知れない部分がある気がして、今ひとつ心を許せないという印象を持っている。本人は常々、閑職に飛ばされた窓際公務員を自称していたが、本来の所属はもっと別の部署なのではないか——と和人も疑っていた節がある。  謎の企業ラースでのアルバイトを和人に持ちかけてきたのがその菊岡であったということもあり、アスナは和人の失踪直後から何回も連絡を取ろうと試みているのだが、菊岡の携帯端末は常に圏外であるとの自動メッセージが応答するのみだった。  業を煮やして直接総務省に電話をしたところ、菊岡は海外に出張中であると言われ、それなら電話が繋がらないのも仕方ない——と思う反面、こうもタイミングがいいと、まさか和人の失踪にもあの男が関わっているのではないか、とすら疑いたくなってくる。 「でも……」  その時、アスナとシノンのしかめ面を交互に見ながら、リーファがぽつりと言った。 「あの菊岡って人を通してラースと国が繋がってるとして、どうしてこうまで何もかも秘密にしなきゃならないんでしょう? 企業なら利益のために秘密を守る必要もあるんでしょうけど、国がそんな凄いプロジェクトを進めてるなら、むしろ大々的に喧伝するのが普通じゃないんですか?」 「それは……確かに……」  シノンが器用に、首を捻りながら頷く。  近年、仮想空間と並んで二大フロンティアと言われている宇宙空間の開発は各国が急ピッチで進めており、外部ブースターを使わない軌道往還船や月面有人基地の建設などが、米露中そして日本でも矢継ぎ早にアナウンスされている。それらに並ぶかあるいは上回るインパクトがあるだろう真正人工知能の開発を、国が執拗に秘密にする理由はアスナにも思いつかなかった。  しかしもし本当に、キリトの拉致が国家的規模の極秘計画に関わっているなら、ただの高校生に過ぎない自分たちにできることはもう何もないのではないか……更に言えば、それは警察の手ですら届かない領域なのではないか。無力感に打ちのめされそうになりながら肩を落としたアスナの眼に、テーブルの上から見上げるユイの視線がぶつかった。 「ユイちゃん……?」 「元気を出してください、ママ。この世界でママを探しているときのパパは、ただの一度も諦めたりしませんでしたよ」 「で……でも……わたしは……」 「今度はママがパパを探す番です!」  先ほど、自分の反応はすべて単純な学習プログラムの結果だ、と言い切ったユイは、その言葉が信じられなくなるほどに優しく暖かい笑みを浮かべてみせた。 「パパへと繋がる糸は絶対に残されています。たとえ相手が日本政府でも、ママとパパの絆を断ち切ることなんてできないとわたしは信じます」 「……ありがとう、ユイちゃん。わたし、諦めたりしないよ。国が敵だって言うんなら……国会議事堂に乗り込んで総理大臣をぶんなぐってやるわ」 「その意気です!」  愛娘と笑いあうアスナを、微笑みながら見ていたシノンが、不意にきゅっと眉を寄せた。 「……? どうしたの、シノのん?」 「いや、その……現実問題として、もしラースが国家主導の研究機関なんだとしても、首相とか議会が全部了承してるってことはないと思うのよ。本気で秘密を守る気なら、ね」 「うん……それで?」 「もしこれが、どこかの省庁の一部で極秘に進められてる計画なんだとしたら、絶対に隠し切れないものが一つあると思わない?」 「何……?」 「予算よ! 研究施設にしても、STLにしても、巨額の予算が必要なのは間違いないよね。何十億だか何百億だか、そのもっと上かはわからないけど、そんな金額を国庫……税金からこっそりちょろまかすなんて無理だと思うわ。つまり、何らかの名目で、今年度の予算に計上されてるんじゃないのかしら」 「うーん、でも……ユイちゃんに検索してもらったかぎりでは、仮想空間関連でそんな大きな予算をかけてるプロジェクトは……あっ、そうか……キーワードが違う……? 仮想空間じゃなくて、人工知能……」  アスナが視線を向けると、ユイも真剣な表情で頷き、ちょっと待ってください、と言って両手を広げた。十本の指先がちかちかと紫色にまたたく。ALO内からネットワークに接続しているのだ。  三人の期待と不安に満ちた数秒の沈黙のあと、ユイは薄くまぶたを持ち上げ、数秒前と打って変わっていかにも電子の妖精然とした抑揚の薄い声を発した。 「公表されている二〇一六年度国家予算データにアクセスしました。人工知能、AI、その他三十八の類似キーワードを用いて検索中……十八の大学、七の第三セクターに該当名目で研究費が認可されていますがいずれも小額……文部科学省が介護ロボット用AI開発プロジェクトを進めていますが無関係と判断……国土交通省の海洋資源探査艇開発プロジェクト……自動運転乗用車開発プロジェクト……いずれも無関係と判断……」  その後もユイはいくつかの難解なプロジェクト名を挙げたが、いずれも無関係と続け、やがて小さく首を振った。 「……条件に当てはまるような不自然な巨額予算請求は発見できませんでした。複数の小額予算に分散・偽装しているのかもしれませんが、その場合公表データからの発見は困難です」 「うーん……やっぱり、すぐそれとわかるような穴は残してないか……」  シノンが腕組みをして唸る。藁にでもすがるような気持ちで、アスナはでも、と声を上げた。 「——いまユイちゃんが見つけたプロジェクトの中に、ラースの偽装予算が紛れてるかもしれないよね。なんとかそれを見つけられないかなあ。まあ、さすがに海洋資源とかは関係ないと思うけど……一体なんでそんな研究がヒットしたの?」 「ええと……」  ユイは再度半眼になり、どこかのデータベースにアクセスすると、ひとつ頷いて顔を上げた。 「……海底の油田や鉱脈を探すための小型潜水艇を自律航行させようという研究のようですね。その潜水艇に搭載するAIを開発するための予算なのですが、優先度に対して金額がやや大きいので検索フィルターに残ったようです」 「へえ……そんなものもロボット化されてるのね……。どんなとこで開発してるんだろう」 「プロジェクトの所在は……『オーシャン・タートル』となっていますね。今年の二月に竣工した超大型海洋研究母船です」 「あ、あたしニュースで見ました」  リーファが口を挟んだ。 「なんか、船っていうより海に浮くピラミッドみたいな感じなんですよ」 「そう言えば、聞いたことあるわね。オーシャン……タートル……」  アスナは口をつぐみ、眉をしかめ、しばらく俯いてから、さっと顔を上げた。 「ねえ、ユイちゃん……その研究船の画像って、出せる?」 「はい、ちょっと待ってください」  ユイが右手を振ると、地図のときと同じように卓上にスクリーンが広がり、それはたちまち海面の立体画像に変化した。さらにその中央に光が複雑なワイヤーフレームを描き出し、面をテクスチャーが埋めていく。  小さな海に出現したのは、確かに一見して黒いピラミッドと言いたくなる代物だった。  しかし上から見ると、正方形ではなく短辺と長辺が二対三程度の長方形だ。四角錘の高さは短辺の半分ほどだろうか。表面は、所々に細長く空いている窓を除けばつるりと滑らかで、ダークグレーの光沢を放っている。注視すると、どうやら正六角形の太陽発電パネルがびっしりと貼られているらしい。  四方の角からは操舵装置らしき突起が突き出し、そして短辺のいっぽうには小さなビルにも見えるブリッジが伸びていた。屋上にあるHマークはヘリポートだろうか。それがあまりにも小さいので、傍らに表示されているスケールメーターに目をやると、全長六百メートルという驚くべき数字だった。 「なるほど……、四本の足といい、四角い頭といい、ピラミッドの甲羅模様といいこりゃ確かにカメに見えるね。それにしても大きいな……」  シノンが感心したように言った。アスナはちらりとそちらを見てから、右手の人差し指で巨大船『オーシャン・タートル』のブリッジ部分を指差した。 「でも……ほら、頭のここんとこ、ちょっと平らに突き出してて、他の動物にも見えない?」 「あー、そうですね。ちょっと黒ブタにも見えますよね。泳ぐブタだー」  無邪気な声でリーファが言った。  直後、自分の言葉に撃たれたかのように、目を見開いた。唇を数度わななかせてから、掠れた声を絞り出す。 「亀でもあり……豚でもある……」  アスナとシノン、リーファは、無言で視線を交わしたあと、声を揃えて言った。 「——ラース!」  機体が濃い靄のかたまりを抜けると、小さな窓の向こうに再び一面の藍色が広がった。  高高度を飛ぶ旅客機からの眺めとはまるで違う、砕ける波頭すら見て取れそうな海面の輝きに、神代凛子《こうじろりんこ》は、最後に海で泳いだのは何年前だろう、と考えた。  凛子の現在の勤め先であるカリフォルニア工科大学のキャンパスからはサンタモニカ湾まで車で一時間足らずであり、その気になれば毎週末にでも好きなだけ肌を焼ける環境だったが、職を得てからの二年間、一度として砂浜を踏んだことはない。海も陽光も決して嫌いではないものの、レジャーをレジャーとして素直に楽しめる心境に至るには、まだまだ長い時間がかかりそうだった。誰も自分を知らない異国の街で、目的の無い研究に没頭することで過去を漂白する日々は、十年や二十年で終わるものではあるまいと凛子は覚悟していた。  だから、二度と帰ることはないだろうと思っていた日本の土を——わずか一日にせよ——踏み、その上捨てたはずの過去に直結する場所へと一直線に飛行している己を、凛子はどこか不思議な気分で見ていた。一週間前、思わぬ人物から受け取った長いメールを、その場で削除し、忘れ去ることもできたはずだが、なぜか凛子はそうせず、一時間足らず考えただけで要請を受諾するむねの返事を送った。思考も記憶も深く凍らせた二年間の日々をまったく無駄にする行為だとわかっていながら、なおそうしたのだった。  一体何ものが自分を衝き動かし、重い因縁の付きまとう場所へと足を向けさせたのか——。ロサンゼルスから東京へと向かう飛行機の中で、一泊した成田のホテルのベッドで、そしてこの小さな航空機に乗ってからも、なんども自問したその謎を、凛子は軽い吐息とともに頭のおくに押しやった。見るべきものを見、聞くべきことを聞けばおのずと答えは出るだろう。  とりあえず、最後に海水浴をしたのは十年前、何も知らなかった大学一年生の時だ。二年上の先輩だった茅場晶彦を無理やり誘い出し、ローンで買ったばかりの軽自動車で江ノ島に行ったのだ。自分がどのような運命に足を踏み入れつつあったのか、まるで気付きもしなかった、無邪気な十八の頃。  遠い過去に彷徨い出そうとした凛子の耳に、隣のシートの同乗者が、ローターの唸りに負けないよう張り上げた声が届いた。 「見えてきましたよ!」  長い金髪をかきあげながらサングラスの下で目を細める同乗者の視線を辿ると、確かにコクピットの湾曲したガラスの向こう、のっぺりと広がる凪いだ海面の一角に、小さな黒い矩形が見えた。 「あれが……オーシャン・タートル……?」  凛子が呟くと同時に、黒——太陽電池パネルの一面が日光を反射してまばゆく光った。飛行中ずっと押し黙っていた、コ・パイ席のダークスーツの男が、低い声で短く答えた。 「そうです。あと十分程度で着艦します」  EC130ヘリコプターは、新木場からの約四百五十キロに及ぶ飛行の締めくくりに、サービスなのか巨大海洋研究母船『オーシャン・タートル』の周囲をひとまわりしてから着艦体勢に入った。  凛子は、そのあまりの威容に、半ば唖然としながら目を見開いた。船、とはとても思えない。海にどっしりと根を下ろした巨大な黒いピラミッドだ。全長は世界最大の空母ニミッツ級の二倍——等のデータは事前に調べていたが、数字と実物との間には月と地球ほどもの開きがある。  六百掛ける四百メートルの底面積を持つ四角錐を、光沢を持つ黒いパネルが亀甲のように覆っている。その一枚一枚が、ホバリングするヘリコプターの影の胴体部分と同じほどの大きさだ。一体、総建造費がどれくらいに上っているのか、凛子には見当もつかなかった。近年開発された小笠原沖油田からの収益のほぼ全額がつぎ込まれているという噂も、この巨躯を見ればあながち的外れとは思えない。  この船の表向きの建造目的は、次なる油田の発見・開発に主眼が置かれている——はずなのだが、実はその内部に次世代NERDLESテクノロジ、人間の魂を解読するという『ソウル・トランスレータ』の研究施設が置かれている可能性がある、と一週間前のメールは告げていた。当初凛子は半信半疑だったが、こうして実際に連れてこられれば、もう信じるほかはない。  一体何故、こんな何も無い外洋のど真ん中でよりによってマンマシン・インタフェースの研究をしなければならないのか、その理由はさっぱりわからない。しかし、この黒いピラミッドの奥で、茅場晶彦の遺したナーヴギアと、それを凛子が発展させたメディキュボイドから産まれた因縁のマシンが息づいているのは最早事実なのだ。  二年間の海外生活は、凛子の傷を麻痺させても癒すことは無かった。果たしてこの中で直面するものは、その傷を塞いでくれるのか、あるいは轢き毟って鮮血を流させるのか——。  降下を始めたヘリコプターの中で、凛子はひとつ大きく呼吸すると、ちらりと隣の同乗者を見やった。サングラス越しの視線に軽く頷きかけ、降りる準備を始める。  パイロットがよほどのベテランなのだろう、機体は大きく揺れることなく、オーシャン・タートルの艦橋構造物屋上に設えられたヘリポートに着陸した。まずダークスーツが俊敏な動作で機外に滑り出て、走りよってきた同じようなスーツ姿の男と敬礼を交し合う。  続いて降りようとした凛子は、手を貸そうとする男にかぶりを振ると、ジーンズを穿いてきて良かったと思いながらわずかな高低差をすとんと飛んだ。スニーカーの底が捉えた人工の地面は、そこが船上とは思えないほどどっしりと微動だにしない。  続けて同乗者が、金髪を眩くきらめかせながら飛び降り、サングラスを太陽に向けて大きく背を伸ばした。凛子も倣って両手を広げ、胸いっぱいに潮の香りがする空気を吸い込んだ。  ヘリポートで待っていたほうの男が、よく灼けた肌に笑みを浮かべながら、凛子に向かってさっと敬礼した。 「神代博士、オーシャン・タートルへようこそ。そちらが……」  男の視線が同乗者に向くのを見て、頷きながら紹介する。 「助手のマユミ・レイノルズです」 「Nice to meet you」  滑らかな英語とともに同乗者が差し出した右手を、ややぎこちなく握り返し、男も名乗った。 「私は、お二人のご案内を命じられました中西一等海尉です。お二人の荷物は後ほど部屋に運ばせますので、さあ、どうぞこちらへ——」  右手を、ヘリポートの一端に見える階段へ伸ばしながら、男は続けた。 「菊岡二佐がお待ちです」  艦橋ビルディング内の空気はまだ、真夏の太平洋の熱と塩気を含んでいたが、エレベーターと長い通路を経てオーシャン・タートル本体——黒いピラミッドの内部へと続く分厚い自動ドアをくぐった途端、冷たい無機質な風が凛子の顔を叩いた。 「船じゅうこんなにエアコンが効いてるの?」  思わず、前を歩く中西一尉に尋ねると、若い自衛官は上体を捻って頷きながらこともなげに言った。 「ええ、精密機械が多いですから、常に二十三度前後に保たれています」 「電力は太陽発電だけでまかなってるの?」 「まさか、発電パネルでは需要の一割も満たせませんよ。主機は加圧水型原子炉を使用しています」 「……そう」  いよいよもって何でもありね、と軽く頭を振る。  明灰色のアルミパネルを貼られた通路には、人の姿はまったくなかった。事前にざっと資料を読んだ限りでは、百近くに及ぶ数のプロジェクトが入居しているはずだが、器が巨大なぶんスペースには充分な余裕があるらしい。  右に折れ、左に折れしながら三百メートルほども歩いたとき、前方突き当たりのドアの脇に、紺色の制服を着込んだ男の姿が見えた。よくある警備会社のもののように思えるが、中西を見るやサッと敬礼したその仕草はやはり民間人のものではない。  答礼し、中西はきびきびした口調で言った。 「招聘研究員の神代博士と助手のレイノルズさんがS3区画に入ります」 「確認します」  警備員は、手にしていた金属製の端末機を開くと、直線的な視線を凛子の顔とモニタの間で往復させた。頷き、次いで凛子の背後に立つ研究助手を見るや、きれいに髭をあたった口元を動かす。 「失礼ですが、サングラスを外して頂けますか」 「I see」  大きなレイバンを持ち上げた研究助手の、艶やかな金髪か抜けるような白皙のどちらかに少しばかり眩しそうに目を細め、警備員はもう一度頷いた。 「確認しました。どうぞ」  ほっ、と息を吐き、凛子は微苦笑しながら中西に言った。 「ずいぶん厳重なのね。こんな海のど真ん中なのに」 「これでも、ボディチェック等は省略しているんですよ。金属・爆発物探知機は三回ほど潜っていますが」  答えながら、スーツの胸から外したプレートをドア脇のスリットに差し込み、右手の親指をセンサーとおぼしきパネルに押し当てる。約一秒後、ドアは圧搾音とともにスライドし、オーシャン・タートルの、おそらく中枢部への入り口を開いた。  やけに分厚いドアを抜けると、その先の通路はさらに低温の空気とオレンジがかった照明、かすかに響く重い機械の唸りに満たされていた。かん、かんと響く三人の足音を意識しながら、南洋に浮かぶ船の中ではなく地下深部の研究所としか思えない場所をなおも数十メートル歩き、中西はひとつのドアの前で再び歩を止めた。  見上げると、上部のプレートに『S機関主操作室』の文字があった。  ついに、ここまで——茅場晶彦最後の遺産が息づく場所まで来てしまった。凛子は息を詰めながら、セキュリティチェックを行う中西の背中を眺めた。  ここが、意識を凍らせあてどなく彷徨った二年間の終着点となるのか、それとも新たな無明の道の開始点なのか——。重々しく横に動いた扉の向こうは、何かを暗示するような深い闇に包まれていた。 「……先生」  背後から研究助手に声をかけられ、はっと顔を上げると、中西はすでに暗い部屋に数歩踏み込み、振り返って凛子を待っていた。よくよく見ると、『主操作室』の内部は完全な暗闇ではなく、床にオレンジ色のマーカーが瞬き、奥からはぼんやりした青白い光が伸びている。  凛子は大きく深呼吸してから、意を決して右足を前に出した。二人が入室するやいなや、背後でぷしゅっと音がしてドアが閉まる。  巨大なネットワーク機器やサーバー群の間を縫うようにマーカーを辿り、ようやく機械の谷間を抜けた途端、凛子は眼前に広がった光景に、唖然と口を開けた。  正面の壁は一面、大きな窓になっており——その向こうに、信じられないものが見えた。  都市だ。しかしどう見ても日本、いや世界中のどの近代都市でもない。建物はすべて白亜の石造りで、不思議な丸い屋根を持っている。どれも二階建て、あるいはそれ以上の規模なのに、ミニチュア風に見えるのはそこかしこに巨大な樹木が根と枝葉を広げているからだ。  同じく白い石積みの道路は、無数の階段やアーチを成して樹々の間をくぐり、そこを歩く沢山の人間たちは——これも明らかに現代人ではなかった。  一人として、背広の男やミニスカートの女は居ない。皆、ゆったりしたシルエットのワンピースや革製のベスト、地面に引きずりそうな貫頭衣といった中世風の衣装を身に着けている。頭髪は、金から茶色、黒まで様々で、目を凝らすと顔立ちは西洋人とも東洋人とも即断できない。  一体これは何処なのだろう。いつの間にか、研究船の中から本当に地下の異世界か何かに移動してしまったのか。呆然となりながら凛子が視線を動かすと、どこまでも広がる街並みの向こうに、一際純白に輝く巨大な塔が見えた。四つの副塔を従えた主塔の上部は、窓枠に収まりきれずに遥か青空の向こうへと伸びている。  塔の天辺を視界に入れるべく、数歩前に進んだところで、凛子はようやく眼前の光景が窓ではなく大画面のモニタパネルに映し出されたものであることに気付いた。直後、天井で控えめな照明が点灯し、部屋から暗闇を追い払った。  小劇場のスクリーンほどもありそうなモニタパネルの手前には、いくつものキーボードとサブモニタを備えたコンソールが扇状に広がり、そこに二人の男の姿があった。一人は背を向けて椅子に掛けたまま忙しなくキーを叩いている。もう一人の、腰をコンソールの縁に乗せ上体を屈めていた男が、顔を上げて凛子を見るや、眼鏡の奥でにいっと笑みを浮かべた。  かつて何度か見た、人懐こそうでそれでいて内面の見通せない笑顔だ。総務省に出向中の自衛官、菊岡誠二郎二等陸佐である。しかし——。 「……何なんですか、その格好は?」  二年ぶりに会う人間への挨拶がわりに、凛子は顔をしかめながら尋ねた。隙のないスーツ姿の中西と手早く敬礼を交わす菊岡は、青地に黄色い椰子の木がプリントされた派手なアロハにバミューダパンツ、その上裸足に下駄履きという出で立ちなのだ。 「それでは、私はここで失礼致します」  凛子にも敬礼して中西が去り、機械群の向こうでドアの開閉音がすると、直立していた菊岡は再びだらりとコンソールに寄りかかり、やや錆びの入ったソフトな低音で言った。 「だって、せっかくこんな海のど真ん中にいるんだよ。——神代博士、それにレイノルズさん、ようこそオーシャン・タートル……あるいは『ラース』へ。やっと来てくれて嬉しいよ、何度も声を掛けた甲斐があった」 「ま、来てしまったことだししばらくお世話になります。お役に立てるかどうかは保証できないけど」  凛子がぺこりと会釈すると、隣で助手もそれに習った。菊岡はわずかに眉を持ち上げ、助手の豪奢な金髪に目を止めていたが、すぐにまたにっと笑うと肩をすくめた。 「貴女は、僕がこのプロジェクトにどうしても必要だと考えていた三人の人間の、最後の一人なんだよ。これでついに、三人ともこの海亀の腹に集ったわけだ」 「ふうん。なるほどね……そのうちの一人は、やっぱり君だったのね、比嘉君」  凛子が声を掛けると、いままでずっと背中を見せていた二人目の男が、手を止めて椅子ごとくるりと向き直った。  長身の菊岡と並ぶと、まるで子供のように小さい。髪を剣山のように逆立て、無骨なデザインの丸眼鏡を掛けている。黒いプリントTシャツに色褪せたジーンズ、かかとを潰したスニーカー穿きという格好は、大学生の頃とまるで変わっていない。  五、六年ぶりに会う比嘉健《ひがたける》は、凛子を見ると、体格に見合った童顔に照れたような笑みを浮かべ、口を開いた。 「そりゃもちろんボクですよ。重村研究室最後の学生として、先輩方の志は継がないと」 「まったく……相変わらずね、君は」  東都工業大学電子工学部の異端と呼ばれた重村ゼミにおいて、茅場晶彦と須郷伸之というそれぞれ方向性は違うにせよ巨大な二つの個性の陰に隠れていた感のある比嘉が、このような謎めいた国家的プロジェクトに深く関わっていたことに奇妙な感慨を覚えながら、凛子は手を伸ばしてかつての後輩と軽い握手を交わした。 「……で? 三人目は、どこの誰なんです?」  再度菊岡を見てそう尋ねると、自衛官は相も変らぬ謎めいた笑みを浮かべ、短く首を振った。 「残念ながら、今は紹介できないんだ。折りを見て、数日中に……」 「じゃあ、代わりにわたしが名前を言ってあげるわ、菊岡さん」  ——と言ったのは、凛子ではなく、今まで背後で影のようにひっそりとしていた『助手』だった。 「なにっ……!?」  唖然と目を見開く菊岡の顔を、してやったり、と眺めながら、凛子は一歩退いて彼女に場所を譲った。染めたばかりの長い金髪を揺らして進み出た『助手』は、大きなサングラスを外し、はしばみ色の瞳でまっすぐに菊岡を見据えながら続けた。 「キリト君を、どこに隠したの?」  恐らく、驚愕という感情にあまり馴染みがないのであろう二等陸佐は、何度か口を動かしては閉じるということを繰り返してから、ようやく囁くような声で言った。 「……研究助手の身元確認は、カリフォルニア工科大学の学籍データベースから得た写真で多重チェックしたはずだが」 「ええ、わたしも先生も、何回も嫌ってほど顔をじろじろ見られたわよ」  凛子の研究助手を勤めるマユミ・レイノルズの身元証明を隠れ蓑に、ついにオーシャン・タートルの中枢まで潜入してのけた日本の女子高校生・結城明日奈は、背筋を伸ばして菊岡の視線をまっすぐ受け止めながら答えた。 「ただ、学籍データベースの写真は一週間前にわたしの顔に差し替えさせてもらったけどね。うちには、防壁破りが得意な子がいるものですから」 「ちなみに、本物のマユミは今ごろサンディエゴで肌を焼いてるわ」  付け加え、凛子はにっこりと笑ってみせた。 「さ、これで、なぜ私が突然あなたの招聘に応じる気になったかわかって貰えたかしら、菊岡さん?」 「ああ……大変よくわかった」  こめかみを押さえながら、菊岡は力なく首を振った。突然、今まで凛子たちのやり取りをぽかんとした顔で傍観していた比嘉健が、くっくっと笑い声を上げた。 「ほら、ね、言ったでしょう菊さん。あの少年は、この計画における唯一にして最大のセキュリティホールだって」  一週間前、結城明日奈という見知らぬ差出人から届いたメールは、半ば世捨て人としてアパートとキャンパスを往復するだけの日々を送っていた凛子の心を大いに揺さぶる内容だった。  かつて凛子が、過去を清算するつもりで提供した医療用NERDLESマシン“メディキュボイド”——その設計を基にした“ソウル・トランスレーター”なる怪物の開発が、ラースという謎の機関によって進められていると明日奈は書いていた。人間の魂そのものにアクセスするというそのマシンの目的は、恐らく世界初のボトムアップ型人工知能を作り出すこと。実験に協力していた少年、“あの”桐ヶ谷和人が病院から昏睡状態のまま拉致され、その行き先は恐らく進水したばかりの巨大海洋研究母船オーシャン・タートル、そして拉致の黒幕はSAO事件に当初から深く関わり続けた菊岡誠二郎である疑いがある——という、一読しただけでは容易に信じられない話が続いていた。 『神代さんのメールアドレスは、キリトくんのPC内のアドレス帳から見つけました。神代さんだけが、私をラースへ、キリトくんの元へ至らしむるただ一つの可能性なのです。どうか、力を貸してください』——。  メールはそう結ばれていた。凛子は、激しく動揺しながらも、結城明日奈の言うことは真実であろうと判断した。なぜなら、一年ほど前から、自衛官菊岡誠二郎の名で次世代NERDLESテクノロジーの開発プロジェクトへの参加要請が再三ならず届いていたからである。  自宅アパートの窓辺から、パサデナの夜景を眺めながら、凛子は日本出国前夜に一度だけ会った桐ヶ谷少年の顔を思い描いた。須郷伸之の起こした人体実験事件の顛末を説明した彼は、最後にためらいがちに付け加えた。仮想世界内で、茅場晶彦の幻影と会話をしたこと、そしてその幻影は、何らかの意図を持って桐ヶ谷少年にシュリンク版“カーディナル”プログラムを託したということを。  思えば、茅場晶彦が自らの命に幕を引くために使った高密度・高出力の大脳パルス走査機こそがメディキュボイドの原型であり、ひいてはソウル・トランスレーターの原型である、ということになる。結局、全ては繋がっており、何も終わってはいなかったのだ。ならば、今になってこの結城明日奈からのメールが届いたのも必然なのではないか——?  一晩かけて心を決めた凛子は、明日奈に要請を承諾する旨の返事を送った。  危険な賭けではあったが、こうして菊岡誠二郎の驚き顔が見られただけでもはるばる太平洋を横断した甲斐はあった、と凛子は小さく笑った。SAO事件直後からあれこれ暗躍し、何もかも思うままにコントロールしてきた感のある菊岡からついに一本とったわけだが、しかしまだ手放しで喜ぶのは早すぎる。 「さ、ここまで来たら、何もかも白状してくれてもいいんじゃないかしら、菊岡さん? 自衛官のあなたが、何で総務省の窓際課長なんてカバーを使ってまでVRワールドに首を突っ込みつづけたのか、一体このでっかい亀のお腹で何を企んでるのか、そして……なぜ桐ヶ谷君をさらったのか」  畳み掛けるように凛子が言うと、菊岡は再度首を振りながら長い溜息をつき、相変わらず内心の読めない笑顔を浮かべた。 「まず、最初に誤解のないよう言っておきたいんだが……確かにキリト君を少々強引なやり方でラースに招待したのは申し訳なかった。でも、それはどうにかして彼を助けたかったからだよ」 「……どういう意味?」  腰に剣があったらもう鯉口を切っているであろう剣呑な表情で、明日奈が一歩詰め寄る。 「キリト君が襲撃され、昏睡状態に陥ったことを僕はその日のうちに知った。彼の脳が、低酸素状態による損傷を受け、そしてそのダメージは現代医学では治療不可能であるということもね」  明日奈の顔がさっと強張る。 「治療……不可能……?」 「脳の、重要なネットワークを構成していた神経細胞の一部が破壊されてしまったんだ。あのまま入院していても、彼がいつ目覚めるかはどんな医者にも分からなかったろうね。あるいは、永遠に眠ったままか……おっと、そんな顔をしないでくれたまえアスナ君。さっき、現代医学では、と言ったろう?」  菊岡は、滅多に見せない真剣な表情をつくり、ゆっくりと頷いた。 「だが、世界でもこのラースにだけ、キリト君を治療可能な技術があるんだ。S機関……と我々は呼んでいるが、君ももうよく知っているSTL、ソウル・トランスレーターだよ。死んだ脳細胞は治療できないが、しかし、STLで直接フラクトライトを賦活することで新しいネットワークの発生を促すことはできる。時間はかかるがね。キリト君は今、このメインシャフトのずっと上にある、フルスペックSTLの中にいるよ。六本木の分室にあるリミテッドバージョンでは微細なオペレーションができないので、どうしてもここに来てもらう必要があったんだ。治療が終わり、彼の意識が戻ったら、すべて説明したうえでちゃんと東京に帰すつもりだったんだよ」  そこまで聞いたとたん、ふらりと明日奈の体が揺れ、凛子は慌てて手を伸ばして支えた。  恐るべき洞察力と意思力を発揮し、愛する少年の元へと一直線に突き進んできた少女は、ここに来て緊張の糸が切れたかのように一滴だけ大粒の涙をこぼしたが、気丈にそれを拭って再びしっかりと立った。 「じゃあ、キリト君は無事なんですね? また元気になるんですね?」 「ああ、約束しよう」  菊岡の真意を見透かそうとするような、まっすぐな視線を数秒間ぶつけたあと、明日奈はごく小さく頷いた。 「……分かりました、今はあなたを信じます」  それを聞いて、ほっとしたように菊岡は笑った。そこに向かって、凛子は一歩進み出ながら尋ねた。 「でも、そもそも何故、STLの開発に桐ヶ谷君が必要だったの? こんな何も無い海の真ん中に隠すほどの極秘プロジェクトに、どうして一高校生である彼を?」  隣の比嘉と顔を見合わせてから、菊岡はやれやれ、というように肩をすくめた。 「それを説明しようとすると、すごく長い話になるんだけどね」 「構わないわ、時間はたっぷりあるんだし」 「……全部聞くからには、神代博士にはちゃんと開発を手伝ってもらいますよ」 「聞いてから決めるわ」  少々恨めしそうな顔を作った自衛官は、これ見よがしに溜息をついてから、バミューダパンツのポケットを探り小さなチューブを引っ張り出した。何かと思えば、安っぽいラムネ菓子だ。二、三粒口に放り込んでから、凛子たちに向かって差し出す。 「食べます?」 「……いえ、結構」 「これ、いけるのになぁ。……さて、と。お二人は、STLの概要はもうご存知と思っていいのかな?」  明日奈がこくりと首肯した。 「人の魂……フラクトライトを解読して、現実と全く同じクオリティの仮想世界にダイブさせる機械」 「ふむ。では、プロジェクトの目的については?」 「ボトムアップ型の……“高適応性人工知能”の開発」  ぴゅうっ、と口笛を鳴らしたのは比嘉健だった。丸眼鏡の奥の目に賞賛の色を浮かべ、信じられない、というように首を振る。 「驚いたなぁ。キリト君もそこまでは知らなかったはずだけどな。どうやってそんなことまで調べ上げたの?」  明日奈は、比嘉の人物を確かめるような視線を向けながら、固い口調で答えた。 「……キリト君が言ってたのを聞いたんです。アーティフィシャル・レイビル・インテリジェンス、って言葉を……」 「ははぁ、成る程ね。六本木の保守体勢も点検したほうがいいッスよ、菊さん」  にやにや顔の比嘉の言葉を、菊岡はしかめ面で受け流す。 「キリト君からある程度の情報漏れがあることは覚悟していたよ。そのリスクを勘案しても、彼の協力が不可欠だったことは君も納得していたはずだ……で、どこまで話したかな? そう、高適応性人工知能だったね」  もう一粒振り出したラムネを空中に弾き上げ、器用に口で受け止めてから、二等陸佐は国文の教師然とした風貌にそぐわしい口調で続けた。 「ボトムアップ型、つまり我々人間の意識の構造をそのまま模した人工知能の創造は、長い間夢物語だと思われていた。意識の構造、と言ってもそれがどのような形をしており、何で出来ているのかすらさっぱり判らなかったんだからね。——だが、かの茅場先生と神代教授の残してくれたデータをもとに、この比嘉君がひたすら解像力を高めて作り出したSTLは、ついに人間の魂……我々がフラクトライトと呼ぶ量子場を捉えることに成功したわけだ。ここまで来れば、ボトムアップ型人工知能の開発は成功したも同然だ、と我々は考えた。何故かわかるかい?」 「人の魂を読み取れるなら、あとはそれをコピーすればいい……そういうことね?」  ある種の戦慄をかすかに覚えながら、凛子はそう口にした。 「もちろん、魂のコピーを保存するためのメディアという問題があるでしょうけれど……」 「そう、その通りだ。従来の量子コンピュータ研究に用いられてきたゲート素子ではとても容量が足りないからね。そこでこれも巨費を投じて開発されたのが、“光量子ゲート結晶体”通称ライトキューブというものだ。一辺十五センチのプラセオジミウム結晶構造体の中に、人間の脳が保持する百億キュービットのデータを保存することができる。つまり……我々はすでに、人の魂の複製には成功しているんだ」 「…………」  指先がすうっと冷えていく感覚に耐えるため、凛子は両手をぐっとジーンズのポケットに差し込んだ。見れば、明日奈の横顔も色を失っている。 「……なら、もう研究は成功しているってことじゃないの。何故今更私を呼ぶ必要があったの?」  畏れを悟られないように、下腹に力をこめながら凛子は問いただした。また比嘉と視線を交わした菊岡は、唇の左端にかすかな虚無感のにじむ笑みを漂わせながら、ゆっくり頷いた。 「そう、魂の複製には確かに成功した。しかし、我々は愚かにも気付いていなかったのさ。人間のコピーと、真の人工知能のあいだには途方も無く深く広い溝が開いていることにね。……比嘉君、例のあれ、見せてやりたまえよ」 「ええー、もう勘弁してくださいよ。あれやるとめちゃくちゃ凹むんすよ」  心底嫌そうな顔で首を振る比嘉だったが、ため息をつくと、不承不承という様子でコンソールに向き直り、指を走らせた。  突然、謎の異邦都市を映し出していた巨大スクリーンが暗転した。 「それでは、ロードします。コピーモデルHG001」  たん、と比嘉がキーを叩くと同時に、スクリーンの中央に複雑な放射線型の光が浮かび上がった。中央は白に近く、先端に行くほど赤くなる光の棘が、幾つも伸縮しながらうごめいている。 『……サンプリングは終わったのか?』  不意に頭上のスピーカーから声が降ってきて、凛子と明日奈はびくりと体を震わせた。比嘉の声だ。だが、わずかに金属質のエフェクトがかかり、語尾がいんいんと反響する。  椅子に座る比嘉は、コンソールから伸びるマイクを引き寄せると、自分と同じ声に向かって答えた。 「ああ、フラクトライトのサンプリングは全て問題なく終了したよ」 『そうか、そいつはよかった。でも……どうしたんだ、真っ暗だ……体も動かない。STLの異常か? すまないが、マシンから出してくれ』 「いや……残念だが、それはできないんだ」 『おいおい、何だ、何を言ってるんだ? あんたは誰だ? 聞き覚えのない声だな』  比嘉は背筋を緊張させると、ひとつ間を置いてから、ゆっくりとした口調で答えた。 「俺は比嘉だ。比嘉健」 『…………』  赤い光のトゲトゲが、突然ぎゅっと収縮した。しばしの沈黙のあと、何かに抗うように、鋭い先端を一杯に伸ばす。 『馬鹿な、何を言ってるんだ。俺が比嘉だ。STLから出ればわかる!』 「落ち着け、取り乱すな。お前らしくないぞ」  ここにきて、ようやく凛子は眼前で展開している一幕の意味を悟った。  比嘉健は、自らの魂のコピーと会話をしているのだ。 「さあ、よく考え、思い出すんだ。お前の記憶は、フラクトライトのコピーを取るためにSTLに入ったところで途切れているはずだ」 『……それがどうした。当然だろう、スキャン中は意識がないんだから』 「STLに入る前に、お前は自分に言い聞かせた。もし、目覚めたとき周囲が暗黒で、体の感覚がなかったら、その時は冷静に受け入れなくてはならないと。——自分が、ライトキューブに保存された比嘉健のコピーだということを」  再び、ある種の海生生物のように、光が小さく縮こまった。長い静寂に続いて、弱々しく二、三本のトゲを伸ばす。 『……嘘だ、そんなことは有り得ない。俺はコピーじゃない、オリジナルの比嘉健だ。俺には……俺には記憶がある。幼稚園の頃から、大学、オーシャンタートルに乗るまでの詳細な記憶が……』 「そうだな、だがそれも当たり前のことだ。フラクトライトの保持する記憶もまたすべてコピーされたんだから。コピーとは言っても、お前が比嘉健であることは間違いない。なら、何者にも負けない知性を備えているはずだ。状況を冷静に受け入れるんだ。そして俺たちの共通の目的を達成するため、力を貸してくれ」 『…………俺たち……俺たちだって……?』  金属的なコピーの声に、生々しい感情の揺れを聞き取った瞬間、凛子の両腕が激しく粟立った。これほど残酷でグロテスクな“実験”を、凛子はこれまで見たことは無かった。 『……嫌だ……嫌だ、信じない。俺はオリジナルの比嘉健だ。これは何かのテストなんだろう? もういいよ、ここから出してくれ。菊さん……そこにいるんだろう? わるい冗談はやめて、俺を出してくれよ』  それを聞いた菊岡は、陰鬱な表情を浮かべながら身をかがめ、マイクに口を寄せた。 「……僕だ、比嘉君。いや……もうHG001と呼ばなければならない。残念だが、君がコピーバージョンだというのは本当のことなんだ。スキャンの前に、君は何度もカウンセリングを受け、僕や他の技術者と話し合い、自らがコピーであることを受け入れるための準備をしたはずだ。そしてそれが可能であるという確信を得てSTLに入ったはずだ」 『だが……だが、こんな……こんなものだとは誰も教えてくれなかった!』  コピーの激した絶叫が主操作室いっぱいに響いた。 『俺は……俺のままなんだ! コピーならコピーだと実感できてもいいじゃないか……こんな……こんなのは酷すぎる……嫌だ……出してくれ! 俺をここから出せよ!』 「落ち着け、冷静になるんだ。ライトキューブのエラー訂正機能は生体脳ほど高くない、論理的思考を失うとどうなるか、その危険性も君は知っているはずだ」 『俺は論理的だ! 比嘉健なんだぞ! 何なら、そこの偽物の比嘉と円周率の暗誦競争でもしてみるか!? そら、始めるぞ! 三・一四一五九二六五、三五八九七九三二、サンバチヨウログニーログヨディル、ディル、ディッディッディル、ディルディルディルディルディルディ————————————』  赤い光が、スクリーン一杯に爆発したかのように広がり、中心部分から暗転して消え去った。ぶつっ、という音を残してスピーカーも沈黙した。  比嘉健は、とてつもなく長いため息をついたあと、コンソールのボタンを押しながら呟いた。 「崩壊しました。四分二十七秒」  うっ、というこもった声に、凛子はいつの間にか握り締めていた両手を開いた。掌が冷たい汗で濡れている。  見ると、明日奈が右手で口もとを押さえている。その様子に気付いた菊岡が、広いコンソールに幾つも備えられているキャスター付きの空き椅子を一脚、そっとこちらにスライドさせてきた。受け取め、真っ青な顔の明日奈をそこに座らせる。 「大丈夫?」  聞くと、少女は顔を上げ、気丈に頷いた。 「ええ……、すみません。もう平気です」 「無理しないで。少し目を閉じてたほうがいいわ」  手をかけた明日奈の肩からふうっと力が抜けるのを確認し、改めて菊岡の顔を睨みながら凛子は言った。 「……悪趣味にも程があるわね、菊岡さん」 「申し訳ない。だが、これは、直接観てもらう以外に説明は不可能だということも、もう分かってもらえたろう」  首を振りながら、自衛官は嘆息混じりに続ける。 「この比嘉君は、百四十近いIQを持つ天才だ。その彼のコピーにして、己がコピーであるという認識に耐えることが出来ないんだ。私を含め、十人以上の人間のフラクトライトを複製したのだが、結果は一緒だった。例外なく、三分程度で思考ロジックが暴走し、崩壊してしまう」 「俺、普段あんなふうに喚いたりすること一切ないんスよ。それは、凛子先輩なら知ってると思いますけど」  とてつもなくげんなりした顔の比嘉が言葉を繋いだ。 「これはもう、コピー元になった人間の知的能力や、ロードしたコピーに対するメンタルケアとかそういう問題じゃなくて、ライトキューブに丸ごとコピーしたフラクトライトの持つ構造的欠陥なんだと考えてます。あるいは……。——先輩は、脳共鳴って言葉、知ってます?」 「え? ……たしか、クローン技術に関係したことだったような気がするけど、詳しくは……」 「まぁ、オカルトもんのヨタ話なんですけどね。もし、オリジナルとまったく同一のクローン人間を作ることができたら、二人の脳から発生する磁気がマイク・ハウリングみたいに共鳴しあって、両方とも吹っ飛んじゃうって、そういう話っス。それは眉唾としても——もしかしたら、俺ら人間の意識は、自分がユニーク存在じゃないっていう認識には根源的に耐えることができないのかもしれません……おや、胡散臭そうな顔してますね。もしよかったら、凛子先輩もコピー取って試してみます?」 「絶対にお断りだわ」  怖気をふるいながら凛子は顔を背けた。主操作室に落ちた一瞬の沈黙を破ったのは、今まで椅子の上で瞼を閉じていた明日奈の細い声だった。 「……ユイちゃんが言ってました……あ、ユイちゃんていうのは、旧SAOサーバーで生まれたトップダウン型人工知能なんですけど……人間の意識とは構造からしてまったく違うはずのあの子でも、自分のコピーを取るのは恐ろしいそうです。もし、何らかの事故で凍結バックアップが解凍されて動き出したら、多分わたしたちは互いを消滅させるために戦わざるを得ないでしょう、って……」 「へえ、それは興味深いな。とても興味深い」  比嘉が眼鏡を押し上げながら身を乗り出した。 「今度ぜひ話をさせて欲しいな。うーん、そうか……やっぱり、完成された知性の複製は不可能ってことなんだろうな……あるいは、知性ってのはユニークであることが存在の大前提条件なのか……」 「でも、じゃあ……」  凛子は少し考えてから、両手を小さく広げながら菊岡に向かって言った。 「あなた達の研究は、まったく無駄だった、ってことなの? 幾らかかったのか知れないけど、公的資金でこれだけのものを作っておいて、何もかも失敗……?」 「いやいやいや」  菊岡は大きな苦笑を浮かべながら首と右手を同時に横に振った。 「もしそれが結論なら、今ごろ僕の首は成層圏まですっ飛んでるよ。僕だけじゃない……統合幕僚監部の偉いさんまとめて打ち首獄門だ」  またしてもラムネのチューブを掌の上で傾け、それが空だと知ると今度は他のポケットからキャラメルの箱を取り出して一粒くわえる。 「実のところ、このプロジェクトはそこが出発点なんだと言ってもいい。出来合いの魂のコピーは不可能だ、という、そこがね。……丸ごとコピーが無理なら、じゃあどうすればいいと思います、博士?」 「……私も頂戴していいかしら、それ」  菊岡が嬉しそうに差し出すキャラメルを左手で受け取り、包み紙を剥いて含むと、甘酸っぱいヨーグルトの味が広がった。アメリカでは中々味わえないフレーバーだ。糖分が疲れた脳に染み渡っていくのを感じながら、考えを整理する。 「……記憶を制限すればどうなの? 例えば……名前や生い立ちといった個人的な記憶を削除する。自分が誰だか分からなければ、さっきみたいな急激なパニックは起こらないんじゃないかしら……」 「さすが先輩、よく即座にそこまで出てくるっスね」  大学時代に戻ったような口調で比嘉が言った。 「僕らも、一週間あれこれ考えた挙句ようやくそれを思いついて、実行してみました。ただ、ね……フラクトライトの量子ビット・データというのは、ウインドウズの階層フォルダみたいに整然と保存されてるわけじゃないんス。簡単に言えば、記憶と能力は表裏一体なんですよ。考えてみれば当然で、我々の能力ってのは最初っからインストールされてるわけじゃなくて、全て学習の結果なんです。学習とはつまり記憶ですよ。初めてハサミで紙を切ったときの記憶を消せば、ハサミの使い方も忘れてしまう……言い換えれば、成長過程の記憶を削除すれば、関連した能力もごっそり消えていく。出来上がったものの悲惨さは、さっきのフルコピーの比じゃあないっスよ。一応、見てみます?」 「い……いえ、結構」  凛子は慌ててかぶりをふった。 「なら……もう、記憶も能力も何もかも消去して、改めて最初から学習させたら? いえ……それも現実的じゃないわね。時間が掛かりすぎる……」 「ええ、その通りです。そもそも、言語や計算といった基本的能力は、我々大人の発達しきってしまったアタマに学習させることは非常に困難なんス。俺もずっと韓国語を勉強中なんですけどね、あれだけシステマチックな言語でももう何年やってるか……。結局、学習というのは脳神経ネットワークっていう量子コンピュータ回路の発達過程と同期してないと効率が悪すぎるんです」 「じゃあ、記憶……つまりデータ領域だけじゃなくて、思考、ロジック領域も制限するの? STLっていうのは、そんなことまで可能なの……?」 「やれば不可能ではないでしょう。ただ、途方も無い時間をかけてフラクトライトを解析し、百億キュービットのどこが何を受け持っているということを完全に突き止める必要があります。何年……何十年かかるか知れたもんじゃないっスよ。でもね……もっとシンプルでスマートな方法があることを、このオッサンが思いついたんです。俺ら科学者には多分思いつけない方法をね……」  凛子は瞬きして、コンソールに尻を乗せたままの菊岡の顔を見た。相変わらずその表情は穏やかで、それでいてこの人間の内面性を見透かすことを拒否している。 「え……? シンプルな方法……?」  首を捻るが、さっぱり分からない。降参して尋ねようとしたとき、少し離れた椅子で休んでいた明日奈が、がたん、と音を立てて立ち上がった。 「まさか……まさか、あなた達、そんな恐ろしいことを……」  相変わらず頬は蒼ざめているが、目には力強い光が戻ってきている。日本人離れした美貌に強い憤りを浮かべながら、明日奈はキッと自衛官を睨みつけた。 「……赤ちゃんの……生まれたばかりの赤ちゃんの魂をコピーしたのね? 何も知らない、無垢なフラクトライトを手に入れるために」 「いよいよ、驚くべき洞察力だね。もっとも、キリト君と二人でSAOをクリアした……つまり、かの茅場晶彦をも出し抜いた勇者なんだから、こんな言い方は失礼というものかな」  賛嘆の色を隠そうともせず、菊岡が微笑む。  思いがけないところで茅場の名前を聞いたことで、凛子の胸の奥はずきんと疼いた。知り合ってからのたった数日のうちに、結城明日奈に対しては非常な好感を抱くに至っている凛子だが、厳密に言えば明日奈は凛子を大いに糾弾し、罵り、断罪してよい立場なのだ。様々な事情があったにせよ、凛子は茅場晶彦の恐ろしい計画に協力し、その結果明日奈は残酷なデスゲームのなかに二年間も囚われることになったのだから。  だが、明日奈も、そしてずっと以前に会った桐ヶ谷和人も、一言たりとも凛子を責めようとはしなかった。まるで、すべては起こるべく決められていたことだったのだ、と言わんがばかりに。  ならば明日奈は、この一連の“ラース事件”もまた必然だと考えているのだろうか? ——思わずそう考えながら、じっと見守る凛子の視線の先で、明日奈はさらに一歩菊岡に詰め寄った。 「あなたは……自衛隊なら、国なら何をしてもいいと思っているの? 自分の目的がすべてに優先するとでも?」 「とんでもない」  菊岡は本気で傷ついたような顔をし、盛んに首を横に振った。 「確かにキリト君を拉致したことはやりすぎだった。しかしあの時点で、君やキリト君のご家族に機密を洗いざらい説明することはできなかったんだ。一刻も早く、ここのSTLでキリト君の治療をしたいがための非常手段だったんだよ。僕も彼のことが好きだからね。——それ以外の点では、僕は法と道徳を守りすぎるほど守っていると思うよ……現在、世界で同種の研究を行っているいくつかの企業や国家に比べれば。今、君が問題にしている点に関してもそうだ。STLによる新生児フラクトライトのスキャンを行うにあたっては、当然両親の承諾を得、充分な謝礼を支払ったよ。そもそも六本木の開発分室は、そのために作られたんだ……病院の隣にね」 「でも、赤ちゃんの両親には、洗いざらい説明したわけじゃないんでしょう? STLがどんな機械なのか」 「ああ……それは確かに、脳波のサンプルを取る、としか言えなかったが……しかし、まるで出鱈目でもないよ。フラクトライトは、脳内の電磁波であることには違いないんだから」 「詭弁だわ。それは、それと知らせずに赤ちゃんのDNAを採取して、そこからクローン人間を作るようなものでしょう」  不意に、やり取りをだまって聞いていた比嘉が、短い笑い声を上げた。 「分が悪いッスよ、菊さん。確かに、新生児のフラクトライトを秘密裏にコピーしたことには一定量の倫理的問題はあると俺も思うよ。でも……結城さんだっけ? 君の理解にも少々誤謬があるかな。フラクトライトというのは、遺伝子ほどには個人による差が無いんスよ。特に、生まれたばっかりの時はね」  眼鏡のブリッジを押し上げながら、言葉を探すように目を泳がせる。 「そうだな……こう説明すればいいかなぁ。例えば、メーカー製の同モデルのパソコンは、出荷されるときには、性能も外見もまったく同一の個体ッスよね。でも、ユーザーの手に渡り、半年、一年と使用されるうちに、新しいハードウェアやソフトウェアをインストールされていって、やがてまったく別物と言っていいくらいに変わってしまう。人間のフラクトライトもそれと同じなんス。俺たちは、最終的に十二人の赤ん坊からフラクトライトをコピーしたんスけど、比較したところ、大脳の容積にかかわらず、なんと九九・九八%まではまったく同一の構造でした。〇・〇二%の違いは、胎内と出産直後に蓄積した記憶だと考えてます。つまり、人間の思考能力や性格ってのは、全部生まれたあとの成長過程で決定されるってことッス。能力性格が遺伝するって説は完全に否定されたわけッスね。優生学の信奉者連中のケツの穴に、この事実を片っ端から突っ込んでやりたいッスよ」 「プロジェクト完了の暁には、好きなだけ突っ込みたまえ」  どこか疲れたような顔で菊岡が言った。 「ともかく、比嘉君が説明してくれたとおり、新生児フラクトライトには個人を特定するコードは含まれていないという結論となった。そこで、十二のサンプルから〇・〇二%の差異を慎重に削除して、得られたそれを、僕らはこう呼ぶことにした……“思考原体”とね。全ての人間が共通して生まれ持つCPUコア、とでも考えてくれればいいかな。僕ら人間は、成長する過程でそのコアに、様々なサブプロセッサやメモリを増設していく。そしてやがてはコアそのものの構造も変化していってしまう……。その“完成品”を単にライトキューブにコピーしただけでは、我々の求める高適応性人工知能足りえないことは先ほどお見せした通りだ。ならば、思考原体を最初からライトキューブ中……つまり仮想世界内で成長させればどうだろう、と考えた訳なのさ」 「でも……」  まだ納得できないような顔で明日奈は眉をしかめたが、その肩に手を掛けてそっと椅子に座らせ、凛子は口を挟んだ。 「成長させる、って言ってもペットや植物とは訳が違うでしょう。人間の赤ちゃんと同じなんでしょ、その思考原体って。なら、必要とされる仮想世界の規模は膨大なものになるはずよ。現実社会と、まったく同じレベルのシミュレーション……そんなものが作れるの?」 「不可能だね」  菊岡が、溜息まじりに頷いた。 「いくらSTLによる仮想世界の生成が、既存のVRワールドと違って3Dオブジェクトデータを必要としないと言っても、さすがにこの複雑怪奇な現代社会をそっくり作り上げることは難しい。——明日奈君が生まれた頃の映画に、こんな奴があったんだけど覚えているかな? 一人の男の、生まれた瞬間からの人生の全てをテレビショーとして放送するべく、巨大なドームの中に一つの町のセットをまるごと建て、何百人ものエキストラを配置して、そうと知らないのは主役の男だけ……という状況を作り上げる。だが、男が成長し、世界というものを学ぶに伴って、様々な齟齬が露見し、やがて男も真実に気付く……」 「観たわ。けっこう好きな映画だった」  凛子が言うと、菊岡はひとつ頷き、続けた。 「つまり……この現実世界の精巧なシミュレーションを作ろうとすれば、それが必然的に含む情報自体……地球は巨大な球体であるとか、その上には沢山の国が存在するとか、そういう知識が、シミュレーション内の人間に世界に対する違和感を生じさせてしまうというアンビバレンツがあるんだ。いくらSTLでも、地球を丸ごと複製するなんてことはとても無理だからね」 「じゃあ、シミュレーションの文明レベルを大きく過去に遡らせたら? 人間が、科学だの哲学だのと考え出す前の、一つの地方だけで生まれて死んでいった頃の時代に……。それでも、思考原体を成長させるっていうあなた達の目的は達せられるんじゃないの?」 「うん。迂遠な話ではあるが、時間はたっぷりあるんでね……STLの中では。とりあえず、神代博士の仰るとおり、非常に限定的な環境の中で第一世代の人工知能を育ててみようと僕らは考えた。具体的には、十六世紀ごろの日本の小村だね。だが……」  そこで言葉を切り、手を広げながら肩をすくめる菊岡に代わって、比嘉が口を開いた。 「これが、思ったほど簡単な話じゃないんスよ。何せ俺らは、当時の習俗やら社会構造についてまるで門外漢なんスから。家一つ作るにも膨大な資料が必要だってことが分かって、頭を抱えて……そこでようやく気付いたんス。別に、本物の中世を再現する必要なんか無い、ってことにね。俺らが求めていた、限定的な地勢で、習俗なんかも好き勝手に設定できて、厄介な科学的問題なんかは丸ごと“魔法”の一言で片付けられる世界は、実はもう山ほど存在したんスよ。そこの結城さんや桐ヶ谷君が慣れ親しんでいるネットワークの中にね」 「VRMMOワールド……」  掠れた声で呟いた明日奈に向かって、比嘉はぱちんと指を鳴らした。 「俺も実はそこそこ遊んでたもんで、すぐにあれこそ打ってつけだと分かったッスよ。しかも、誰が作ったのかは知らないけど、最近じゃあフリーのゲームビルド支援パッケージまであるって言うじゃないスか」 「……!」  比嘉の言っているのが、『ザ・シード』、つまり茅場晶彦が作り、桐ヶ谷和人が公開したシュリンク版カーディナル・システムのことであるとすぐに気付き、凛子は鋭く息を吸い込んだ。だが、どうやら比嘉は——そして菊岡も、あのプログラムの出自についてまでは知らないらしい。  瞬間的に、その件はまだ伏せておこうと考え、凛子は何気なさを装って明日奈の肩に指を触れさせた。言いたいことは伝わったようで、明日奈も無言のままかすかに頭を動かす。  そんな二人の様子は気にもとめず、比嘉は闊達な口調で続けた。 「STLのメインフレーム内に仮想世界を作るだけなら別に3Dデータは要らないんスけど、それだと外部からモニタ出来るのが単なる文字データだけなんでつまんないんスよね。そこで、早速あのザ・シードって奴をダウンロードしてきて、付属エディタでちょこちょこっと小さな村と周囲の地形を作って、それをSTL用のニーモニック・ビジュアルに変換したんス」 「紆余曲折を経て、ようやく最初の箱庭が完成したというわけだ」  まるで遠い過去を懐かしむように視線を宙に浮かせながら、菊岡が言葉を繋いだ。 「一番最初に作った村では、二つの農家で合わせて十六の思考原体を十八歳程度まで成長させた」 「ちょ、ちょっと待って。成長って……育てた親は誰なのよ? まさか既存のAIだとでも言うの?」 「それも検討したんだが、いかにザ・シード付属のNPC用AIが高度と言っても、さすがに子育てまでは到底不可能だったんでね。第一世代の親を務めたのは人間さ。四人の男女スタッフが、STL内部で十八年間に渡って農家の主とその妻を演じたんだ。いかに内部での記憶は最終的にブロックされると言っても、実験中は途方も無い忍耐を強いてしまった。ボーナスを幾ら払っても足りないくらいだよ」 「いやぁ、案外楽しんでやってたみたいっスよ」  呑気な会話を交わす菊岡と比嘉の顔をしばし呆然と眺めたあと、凛子はどうにか言葉を唇から押し出した。 「十八年ですって……? ソウル・トランスレーターには主観的時間を加速させる機能があるとは聞いたけど……それは、現実世界ではどれくらいの期間だったの?」 「ざっと一週間ッスかね」  即座に帰ってきた言葉に、再び驚愕させられる。十八年と言えばおよそ九百四十週だ。つまり、STLの時間加速倍率は千倍という凄まじい数字に迫っていることになる。 「に……人間の脳を普段の千倍も速く動かして、問題は出ないわけ?」 「STLが駆動するのは、生体としての脳じゃなくて、魂を構成する素粒子そのものなんスよ。電気的スパイクがニューロンに神経伝達物質の発生を促して……とかそういう生理的プロセスは全部すっとばせるんス。つまり、理論的には、思考クロックをどれだけ加速しても脳組織が損傷することは有り得ないと考えていいんです」 「上限が無いって言うわけ……?」  ソウル・トランスレーターの時間加速機能“STRA”について、事前に受け取っていた資料で簡単な予備知識は仕入れていたものの、具体的な数字までは知らなかった凛子は言葉もなく立ち尽くした。今まで、STL最大の機能は人の魂をコピーできることだと思っていたが、インパクトは時間加速も負けず劣らず大きい。なぜならそれは、仮想空間で行うことが可能なあらゆる作業の効率を事実上無限に引き上げられるということに他ならないからだ。 「ただ……まだ未確認の問題が無いでもないので、今のところは最大でも千五百倍ほどに制限してるんスけどね」  衝撃に痺れた凛子の頭を、やや陰鬱な表情の比嘉の言葉が冷やした。 「問題?」 「生体組織としての脳とは別に、魂自体にも寿命があるんじゃないかっていう意見が出てまして……」  すぐには理解できず、凛子が首をかしげると、比嘉は、この先を話していいかと問うように菊岡の顔を見上げた。それに向かって、まるで舐めているキャラメルが急に苦くなったかのごとく渋面を向けた自衛官は、しかしすぐに肩をすくめながら口を開いた。 「まあ、まだまったく仮説の域を出ない話なんだ。簡単に言えば、フラクトライトと呼ぶ量子コンピュータには、情報の蓄積容量と計算能力に限界があって、そこを超えると構造の劣化が始まっていく……ということだね。検証のしようが無いので確たることは言えないんだが、安全を優先してSTRA倍率に上限を設けた訳だ」 「……つまり、肉体的には一週間足らずの時間でも、内部で何十年も過ごせば、魂の老化が始まる……? ってことは……ちょ、ちょっと待ってよ。さっきあなた、思考原体の育成をするために、スタッフが十八年をSTLの中で過ごした、って言ったわよね? 彼らのフラクトライトはどうなるのよ? 今後の人生で、本来より十八年早く、知的能力の衰えが訪れるってことじゃないの?」 「いや、いや、そうはならない……はずだよ」  はずぅ? と胸中で繰り返しながら、凛子は菊岡を睨んだ。 「フラクトライトの総容量と、それを消費していくペースから概算して、我々は“魂の寿命”をおよそ百五十年と見ている。つまり、仮に我々が完璧な健康を維持し、幸運にも脳が様々な病変から逃れつづけられた場合、最大で百五十歳くらいまでは思考能力を保ち続けうる、というわけだ。だが無論、僕らはそんなに長くは生きられないからね。安全マージンを充分取っても、三十年程度ならSTL内部で消費しても問題はないと考えている」 「これからの一世紀に、何か画期的な長命技術が開発されたりしなければね」  皮肉っぽく凛子がそう言うと、菊岡は事も無げに答えた。 「もしそんなものが開発されても、僕ら庶民がその恩恵に預かれるはずがないさ。まあ、その意味ではこのSTLも同じことだが……。——ともかく、魂の寿命の件は納得してもらって、先に進ませて戴くよ。四人のスタッフの献身的努力によって“成人”した十六のフラクトライトの出来栄えは、相当に満足すべきものだった。彼らは言語力——むろん日本語だ——と基本的な計算やその他思考能力を獲得し、僕らの作り出した仮想世界において立派に生活していけるだけの水準に達した。実にいい子たちだったよ……両親の言うことにをよく聞き、朝から水を汲み、薪を割り、畑を耕し……ある子はおとなしく、ある子はやんちゃと言った個性を示しつつも、基本的には皆とても従順で善良だった」  そう言いながら微笑む菊岡の口もとに、かすかな苦々しさが漂っているように見えたのは眼の錯覚だろうか。 「成長した彼ら……二軒の家に男女四人ずつの兄弟姉妹たちは、互いに恋さえするようになった。そこで、最早彼らは自らの子供を育てることも可能だと判断した僕らは、実験の第一段階を終了することにした。十六人の若者たちを八組の夫婦とし、それぞれの家と農地を持たせて独立させたんだ。親をつとめた四人のスタッフは、その後に流行り病によって相次いで“死去”し、STLから出た。彼らの十八年間の記憶はその時点でブロックされ、一週間前にSTLに入ったときとまったく同じ状態で現実に帰還したわけだが、外部モニターで、自分たちの葬儀で泣く子供たちを見て彼らも涙したものだよ」 「あれはいいシーンだったッスねえ……」  しんみりした様子で頷きあう菊岡と比嘉に向かって、凛子は咳払いをしてその先を促す。 「……で、人間のスタッフが出た以上、STRAの倍率を気にする必要も無くなったので、僕らは内部世界の時間を一気に現実の五千倍にまで引き上げた。八組の夫婦にはそれぞれ十人前後の赤ん坊、つまり思考原体を与えて育てさせ、彼らはあっという間に成人してまた新しい家庭を持った。村の住民を演じさせていたNPCも徐々に取り除き、ついには人工フラクトライトだけで村を作ることができるようになった。世代交代が進み、彼らの子孫は増えつづけ……現実世界での三週間、内部世界での三百年に及ぶシミュレーションが経過した頃には、なんと人口八万人という一大社会が形成されるに至ったんだよ」 「八万!?」  凛子は思わず絶句した。何度か唇を動かしてから、ようやく探し出した言葉を絞り出す。 「……それじゃあ……それはもう、人工知能っていうよりも、ひとつの文明のシミュレートじゃないの」 「そうだね。だが、ある意味ではそうなるのは当然なんだ。人間というのは社会生物だ……他者との関わりの中でのみ向上していくことができる。フラクトライトたちは、三百年の時間で、小さな村ひとつからまたたく間に広がっていき、僕らの設定した広大なフィールド全体を支配するに至った。血なまぐさい争いひとつ無しで立派な中央集権構造を築き上げ、宗教までも見出した……もっともこれは、実験の当初から世界のシステムを子供らに説明するのに、科学ではなく神という概念を使わざるを得なかったせいもあるがね。比嘉君、モニタに全体マップを出してくれたまえ」  菊岡の言葉に頷き、比嘉は素早くコンソールを操作した。先刻のグロテスクな実験からブラックアウトしたままだった巨大スクリーンが明滅し、そこに航空写真じみた詳細な地形図が浮かび上がった。  当然ながら、日本、いや世界のどの国とも似ていない。海は無いようで、ほぼ円形の平野の周囲を、ぐるりと高い山脈が取り囲んでいる。全体に森と草原が多く、湖や河川もそこかしこにあって、肥沃な土地のようだ。マップ下部の縮尺スケールを見ると、山脈に囲まれた平野の直径は千五百キロメートルほどもあるらしい。 「この広さで人口八万人? ずいぶんと余裕のある人口密度ね」 「むしろ日本が異常なんスよ」  凛子に向かってにやりと笑い、比嘉はマウスを操って、カーソルをマップ中央のあたりでぐるぐると動かした。 「このあたりに首都があります。人口二万人、我々の感覚だとたいしたことないように思えるッスけど、どうしてなかなか立派な大都市ですよ。フラクトライトたちが“神聖教会”と呼ぶ行政機能もここに存在します。“司祭”という階級によって統治が行われているようですが、その支配力は見事なもんです。この広大な世界を、争いごとひとつ起こさず治めている。——この時点で、俺はこの基礎実験は成功したと考えました。仮想世界内でなら、フラクトライトは人間と同レベルの知性へと成長しうる。これなら、我々の目的にそぐう能力を持った“高適応性人工知能”を育成するという次の段階へ進むことができると喜んだわけです。しかし……」 「……僕らは、そこでようやくひとつの重大な問題に気がついた」  モニタを眺めながら、菊岡が言葉を引き取った。 「……話を聞く限り、何も問題なんてなさそうだけど?」 「問題の無いところが問題……と言えばいいかな。この世界は、あまりにも平和すぎる。整然と、美しく運営されすぎるんだ。最初の十六人の子供たちが、驚くほど親に従順だった時点でおかしいと思うべきだった……。人間なら、互いに争っておかしくない。むしろそれこそが人間のひとつの本質だと言ってもいい。だが、この世界に争いは無い。戦争など一度も起きたことはないし、それどころか殺人事件すら起こらない。やけに人口の増えるペースが速いと思ったら、そういうことなんだ。病死や事故死など殆ど起きないように設定していたので、人が寿命でしか死なない……。彼らにも我々と同じような欲望はあるはずなのに、なぜそんなことが起きるのか、僕らは調べてみた。すると、この世界には、ひとつの厳格な法が存在することに気付いた。神聖教会の司祭たちが事細かに作り上げた、“禁忌目録”と呼ばれる長大な法律だ。そこには、殺人を禁じる一項もあったよ。同じ法律は、もちろん僕らの暮らす現実世界にもある。だが、僕らがいかにその法を守らないかは、毎日のニュースを見ていればわかるだろう。ところが、フラクトライトたちは法を守る……守りすぎるほどに守る。こう言い換えてもいい……彼らには、法を、規則を破ることはできないんだ。生来的な性質として」 「……? 結構なことじゃないの?」  菊岡の厳しい表情を眺めながら凛子は首を捻った。 「それだけ聞くと、むしろ私達より優れているように思えるけど」 「まあ……一面ではそう言えるかもしれないがね。比嘉君、モニタを戻してくれないか」 「へい」  比嘉がコンソールのキーを叩くと、大モニタは再び、凛子たちがこの部屋に入ってきたときと同じ異邦の都市の映像を映し出した。大樹の根が絡む白亜の建築物のあいだを、簡素だが清潔な服装をした人々がゆっくりと行き交っている。 「あ……、じゃあ、これが?」  思わず画面に見入りながら凛子が訊くと、比嘉は少々得意そうに頷いた。 「ええ、これがアンダーワールドの首都、“央都セントリア”っす。もっとも、これは僕らにも見えるように通常のポリゴン映像に変換したものですから解像度はけた違いに低いし、表示もスロー再生ですけどね」 「アンダーワールド……」 “不思議の国のアリス”から採ったらしいというその名前を、凛子はすでに明日奈から聞いていた。恐らく比嘉たちは、本来の“地下世界”ではなく“現実の下位世界”という意味合いで用いているのだろうが、画面上の都市の幻想的な美しさはむしろ天上の国かとも思える。  そんな凛子の感想を読み取ったように、菊岡が言った。 「確かにこの都市は美しい。我々が当初与えた、素朴なプラスター造りの農家から、よくもここまで建築技術を進化させたものだと思うよ。しかしね……僕に言わせれば、この街は美しく整いすぎている。道にはゴミ一つなく、泥棒など一人もおらず、無論殺人など一度たりとも起きたことはない。それもすべて、あの遠くに見える“神聖教会”が定めた厳格な法を、何人も破ろうとしないからだ」 「だから、それのどこが問題なのよ」  眉をしかめて再度問うたが、菊岡な何故か口を閉じたまま、珍しく言うべき言葉を探しているようだった。比嘉はというとこちらも不自然に視線を逸らし、発言する気はないようだ。  広い主操作室に落ちた静寂を破ったのは、今まで沈黙を続けていた明日奈だった。その場では最年少の女子高校生は、抑制された静かな口調で、囁くように言った。 「それでは、この人たちは困るんですよ。何故なら、この巨大な計画の最終的な目的は、単に適応性の高いボトムアップ型人工知能を作ろうということじゃなくて……戦争で敵の兵士を殺せるAIを作ることだから」 「な……」  三者三様の表情で絶句する凛子、菊岡、そして比嘉の顔を、明日奈は順番にじっと見てから、続けて唇を動かした。 「わたし、なんで菊岡さん……つまり自衛隊がそんなに高度な人工知能を作ろうとしてるのか、ここに来るまでのあいだずっと考えてました。今まで、わたしとキリト君は、菊岡さんがVRMMOに興味を持つのは、その技術が軍隊の訓練に転用できるからだと推測してたんです。だから、人工知能を作るのもその延長線上で、訓練で敵の兵隊の役目をさせたいからかなって最初は思いました。でも……よく考えてみれば、VRワールド内での訓練なら現実の危険は何もないんだし、人間同士チームに分かれて戦えばいいんです。わたしたちもよくそうやって模擬戦をしますから」  一瞬言葉を切り、周囲の機械群と正面の大モニタを見回す。 「——それに、訓練プログラムの開発のためにしては、この計画は大きすぎます。菊岡さん、あなたは、いつ頃からは知りませんけど、その次を考えてたんですね。仮想世界内で育てたAIに、本物の戦争をさせることを」  少女の、茶色の瞳にじっと見詰められた幹部自衛官は、一瞬の驚きの表情をすぐにいつもの謎めいたポーカーフェイスに隠してかすかに微笑んだ。 「最初からだよ」  ほんの少し錆びのある、柔らかい低音で菊岡は答えた。 「VR技術を軍事訓練に転用することそのものは、NERDLESテクノロジが開発される以前の、HMDとモーションセンサーの時代からすでに盛んに研究されていた。当時の米軍が開発した骨董品が、今もまだ市ヶ谷の設備部にあるよ。——五年前、ナーヴギアという機械が発表されたその時点で、我々と米軍は共同であれを使用した訓練プログラムの開発を始めることになった。だが、その後すぐに開始されたSAOのベータテストを見学して、僕は考えを変えたんだ。この世界、この技術にはもっと大きな可能性がある。戦争という概念を、根底から一変させてしまうほどの……、とね。あのSAO事件が起きたとき、僕は自ら志願して総務省に出向し、対策チームに加わって、事件を間近で見守りつづけた。それも全て、このプロジェクトを立ち上げるためだ。五年かかってようやくここまで来たよ」 「…………」  まったく予想していなかった方向に話が進み、凛子はしばし呆然と目を見開いた。混乱した思考をどうにか整理して、渇いた喉から言葉を絞り出す。 「……イラク戦争と、その後のイラン戦争のときは私はまだ学生だったけど、よく覚えてるわ。アメリカ軍が無人の小型飛行機とか、小型戦車とかを遠隔操作して敵を攻撃する映像が盛んにテレビに流れてた。つまりあれね? ああいうものにAIを搭載して、自律的に攻撃する兵器を作ろうと、あなたは考えてるのね……?」 「僕だけじゃないがね。この種の研究は、すでに各国、とくにアメリカでは何年も前から続けられている。明日奈くんにとっては辛い記憶だろうが……」  菊岡はわずかに言葉を切り明日奈を見たが、彼女が落ち着いているのを確かめ、続けた。 「……君を仮想世界内に監禁し、数千人のSAOプレイヤーを実験台に用いた須郷伸之が、アメリカの企業に、研究成果を手土産にして自分を売り込もうとしていたのは覚えているかな? 彼が接触していたグロージェン・テクノロジーはIT分野では一流企業だが、そんな非合法取引に応じようとするくらい、NERDLES技術の軍事利用は隠れた花形産業だということだよ。そんなアメリカの軍産複合体が、今もっとも注目しているのが、さっき神代博士の言った無人兵器、そのなかでも特に航空機——アンマンド・エアー・ビークル略してUAVと呼ばれるものだ」  気を利かせたのか、比嘉が無言でマウスを動かし、再度モニタを切り替えた。映し出されたのは、妙に平たく細長いくさび型の胴体に、大きな翼をつけた小型の飛行機だった。翼下には沢山のミサイルらしきものがぶら下がっている。 「アメリカが開発中の無人偵察攻撃機だよ。コクピットが要らないのでものすごく小さいし、ステルス性を追求した形状だからレーダーにはほとんど映らない。これの一世代前の機体は、操縦者が小さなモニタを見ながらジョイスティックで苦労して飛ばしていたんだが、こいつは違う」  言葉とともに画面が変わり、操縦者らしき兵士の姿を映し出した。だが、シートに座るその兵士の両手はだらりと肘掛けに乗ったままで、瞼も閉じられている。そして頭は、凛子も見慣れた流線型のヘルメット——ナーヴギアに覆われていた。よく見れば色や細部の形状は違うが、明らかに同型の機械だ。ちらりと視線を動かすと、明日奈の顔には明らかな嫌悪の表情が浮かんでいるのが見て取れた。 「この状態で、操縦者は仮想コクピットから、まるで実際に搭乗しているかのように機体を操作し、敵を偵察したりミサイルを撃ち込んだりすることができる。だが問題は、いかんせん電波を使った遠隔操作なので距離に限界があるし、ECM……電子妨害にものすごく弱いということだ」 「そこで人工知能……ということなのね? この飛行機を自律的に動かすために……」  菊岡は視線をモニタから凛子たちのほうに戻し、ゆっくりと頷いた。 「最終的には、人間のパイロットが操る戦闘機を空中戦で撃墜し得るレベルを目指す。恐らく、現状の人工フラクトライトでも、適切な成長プログラムを与えれば実現可能なことだと思うよ。ただ、そこには一つ大きな問題がある。それは、肉体無き兵士である彼らに、いかにして“戦争”という概念を理解させるか、ということだ……。殺人は原則として悪、だが戦時下においては敵兵を殺すのもやむなし、という矛盾する思考を、恐らく今の人工フラクトライト達は受け入れることができないだろう。彼らにとっての法とは、たったひとつの例外でもあってはならないものなんだ」  眼鏡のブリッジを押し上げながら、眉間に深く谷を刻む。 「——僕らは、アンダーワールドの住民たちの遵法精神を試すべく、ある種の過負荷試験を行った。具体的には、孤立した村を一つ選び、畑の作物と家畜の七割を死滅させたんだ。村の全住民が冬を越すのは到底不可能な状況だった。総体としての村が生き延びるためには、一部の住民を切り捨て、食料の分配を偏らせるしかない。禁忌目録の殺人禁止条項に背いて、ね。だが、結果は……わずかな収穫を、老人や幼児に至るまで村人全員で分配することを彼らは選んだ。春が来る前に、全員が餓死したよ。彼らは、何があろうと法や規則に背くことのできない存在なんだ。その結果、どんな悲惨な事態が出来しようと、ね。つまり……現状の彼らをパイロットとして兵器に搭載しようとすれば、敵、すなわち味方マーカーの無い人間は全て殺すべし、という原則を与えるしかない。それがどんなに危険なことかは、さすがに僕にだって分かるからね……」  派手な原色のアロハの袖から出る筋肉質の腕を胸の上で組み、自衛官は力なく首を振った。  凛子は、思わず想像した。空飛ぶエイのような流線型のフォルムを持つ無人戦闘機の群れが、兵士と民間人の区別無くミサイルを次々に撃ちこみ殺戮していく光景を。粟立った二の腕を両の掌で何度も擦る。 「……冗談じゃないわ、そんなこと。一体、なんで、そんな危険をおかしてまで兵器にAIを載せなきゃいけないの? 多少の制限はあっても、遠隔操作でいいじゃないの。ううん、そもそも……無人の兵器っていう存在自体が、私にはなんだか受け入れがたいものに思えるわ」 「まあ、その気持ちはわからなくもないよ。僕も、初めて米軍の大口径狙撃ライフル搭載型無人車両を見たときは実にグロテスクだという感想を禁じ得なかった。だがね……兵器の無人化、これはもう、少なくとも先進国では抗しがたい時代の要請なんだ」  世界史の教師めいた仕草で菊岡は指を立て、続けた。 「それでは、世界一の軍事大国アメリカを例に取ってみよう。あの国が、第二次世界大戦で失った兵士の数は実に四十万人だ。それだけの戦死者を出しながら、時のルーズベルト大統領は国民から熱狂的な支持を得て、脳卒中で死ぬまで四期十三年ものあいだ最高権力者の座に留まった。僕は時代精神という言葉は嫌いだが、七十年前は、兵士がどれだけ死のうと国が勝利すればよいというのがまさに時代の精神だったんだ。続くベトナム戦争では、学生を中心に反戦運動が広がり、ジョンソン大統領は次期選挙不出馬に追い込まれるもののそこに至るまでに六万人の戦死者が出た。反共という錦の御旗のもとに、兵士は次々と戦場に送られ、死んでいった。——だが、冷戦という名の長い暫定的平和の中で、国民感情は少しずつ変化していき……そしてソ連の崩壊とともに一つの時代が終わった。共産主義という敵を失ったアメリカは、国に深く根を張った軍産複合体を維持し続けるために、戦争のための戦争に乗り出していくことになる。だが、その戦場にはもう、兵士の死を国民に納得させる旗印は無かったんだ。今世紀初頭のイラク戦争における米軍の死者は二千人。その数字によって当時のブッシュ政権は大きく揺らぎ、任期の終わりには支持率は見る影もなく低迷していた。そして二〇一〇年のイラン戦争では、五百人の戦死者のためにチェイニー大統領が二期目落選の憂き目を見たのは君達も覚えているだろう。ちなみにあの戦争では、我が自衛隊にも五人の負傷者が出て、政府が大揺れに揺れた。——つまりだ……」  一息入れてから、菊岡は長い講釈を締めくくった。 「もう、人間が戦う戦争ができる時代じゃない、ということなんだ。しかしあの国は戦争を、というか防衛予算という巨大なパイの分配を止めることができない。結果として、これからの戦争は、無人兵器対人間、あるいは無人兵器対無人兵器というスタイルにシフトしていくことになる」 「……アメリカの事情は分かったわ。納得できるかどうかはともかく」  クリーンな戦争をするための無人兵器、という発想に一層のおぞましさを感じながら、凛子は短く頷いた。次いで、菊岡をきつく睨みながら、改めて追及する。 「でも、なんで日本の自衛官のあなたが、そんな馬鹿げた開発競争の尻馬に乗らなきゃいけないのかしら? それとも、この研究は米軍主導なの?」 「とんでもない!」  菊岡は珍しく大きな声で否定した。しかしすぐにいつもの微笑を取り戻し、大袈裟に両手を広げてみせる。 「むしろ、米軍からこの研究を隠すためにこんな海のど真ん中を漂ってる、というほうが正しいよ。本土の基地はどこも向こうさんに素通しだからね。——なんで僕が自律型無人兵器開発に血道を上げてるのか……その理由を説明するのは簡単じゃないな。茅場先生に、なぜSAOを作ったのか、と訊くようなものだ、と言っても納得はしてもらえないだろうね?」 「当たり前だわ」  素っ気無く凛子が言うと、菊岡は大きな苦笑いを浮かべ、肩をすくめた。 「失敬、ちょっと不謹慎な発言だったね。そうだな……とりあえず、分かりやすい理由は二つあるよ。まずひとつは、現在の日本には、自前の防衛技術基盤というものがあまりにも不足し過ぎている、ということかな」 「防衛……技術基盤?」 「兵器をゼロから開発、生産する能力と言えばいいかな。しかしこれはある意味では当然のことで、日本では兵器の輸出が一切できないからね。メーカーも、巨額の開発予算をかけたところで取引先が自衛隊だけではとても利益は見込めない。結果として、最新の装備はアメリカから購入するか、せいぜい共同開発ということになる。だが、これが何と言えばいいか……屈辱的な代物でね。例えば現在配備されている支援戦闘機はアメリカと共同で開発したものだが、その実、先方は自分の手の内は隠したまま、日本メーカーの先端技術だけを攫っていったよ。購入する兵器に至っては何をかいわんや、近頃納入された最新型の戦闘機からは、その頭脳とも言うべき制御ソフトウェアがごっそり抜き取られている有様だった。米軍に言わせれば、我々は彼らが与えるテクノロジーのおこぼれを有り難く頂戴していればいい、ということらしいね。……おっと、この話をするとつい愚痴っぽくなってよくないな」  もう一度苦笑して、菊岡はコンソールデスクの上で足を組むと、つま先に引っ掛けた下駄を揺らした。 「この状況に、僕ら一部の自衛官と、中小の防衛関連メーカーの一部若手技術者たちは以前から強い危機感を抱いてきた。いつまでも防衛技術の中核をアメリカに握られたままで本当にいいのか、とね。その危機感こそがラース設立の原動力となったわけだ。何か一つでいい、日本独自のテクノロジーを生み出したい。我々はそう思っているだけなんだよ」  殊勝とも思える菊岡の言葉を、どこまで額面どおり受け取っていいものか、と考えながら凛子はじっと眼鏡の奥の切れ長の目を見据えた。が、相変わらず自衛官の瞳は鏡のようにその内面を晒そうとしない。 「……もう一つ理由があるって言ったわね?」 「ああ……まあ、今言ったことと密接に関係する理由なんだけどね。北朝鮮の中国国境付近に新しいミサイル基地が建設中だってニュースは君も見たろう? 恐らくアメリカは、そう遠くない未来に北朝鮮侵攻に踏み切るだろう。第二次朝鮮戦争……とでも呼ばれるのかな。その時は、改正憲法のもと、自衛隊も初の集団的自衛権行使……つまり実際の戦闘を行うことになる可能性が高い。だが……これを市ヶ谷に聞かれると首が飛ぶが、僕はまだ、自衛隊は戦うべきではないと考えている」  そう言ってから一瞬だけ口をつぐみ、すぐに菊岡は自分の言葉を訂正した。 「いや、まだ、ではなく——その状況下で、かな。アメリカの振る旗に従って、自衛隊員が他国の土を踏み、他国の兵士と戦う……国民はそれをテレビで、自衛隊の初の軍事行動として目の当たりにする。引き起こされる反応が望ましいものだとは、とても思えないよ。我々の最初の戦闘は、名づけられたとおり国土防衛のためのものであるべきだ。そうであってこそ、我々は軍隊無き国に置かれた戦力であるという矛盾を正す機会を得ることができる……」  凛子と明日奈を全面的に信用しているのか、それとも逆にまるで信用していないからなのか、菊岡は声に出すには危険すぎる意見を至極何気ない調子で口にした。 「だが、仮にアメリカが北朝鮮に侵攻することになれば、今度こそ日本は全面的に同調せざるを得ないだろう。この行動は日本の安全を保障するためのものだ、とアメリカは主張するだろうからね。自衛隊も、これまでの戦後処理のための駐留だけではなく侵攻の当初から戦力として投入されることになる。だが——もしその時、我々が、米軍にも無いテクノロジーを持っていれば……完全自律型無人兵器という切り札を完成させていれば、人間の兵士の替わりにそれを危険地域に送ることで、自衛隊初の戦死者が、あえてそう呼ぶが、侵略作戦において出るという事態を回避できるかもしれない」 「……ガチガチのリアリストだと思ってたけど、案外夢想家だったのね、菊岡さん。私には、藁山の中から一発で針を拾い上げようとするみたいな話に聞こえるわ。超えなければならないハードルが多すぎる」  思わず左右に首を振りながら凛子は呟いた。菊岡は肩をすくめ、弁解するように答えた。 「だから、この二つ目の理由は、あくまで可能性を一つでも増やしておきたいという、それだけの話だよ。米軍とは切り離された独自の防衛技術を開発するという我々の悲願の、ひとつの動機——だと受け取って欲しいな」 「…………」  凛子は視線を動かし、菊岡の隣に座る比嘉健を見た。 「……比嘉君がこの計画に参加した動機も同じなの? 君がそんなに国防意識が高かったなんて知らなかったわ」 「いやあ……」  比嘉は、凛子の言葉に、照れたように頭を掻いた。 「俺の動機は何ていうか、個人的なもんスよ。俺、学生の頃から韓国の大学にダチがいたんスけど、そいつ兵役中にイランに派兵されて、爆弾テロで死んじゃったんス。そんでまあ……この世界から戦争が無くなることはないとしても、せめて人間が死なずにすむようになるんなら、って……ガキっぽい理由っスけどね」 「……でも、そこの自衛官さんは、無人兵器を自衛隊独自の技術にしようと考えてるのよ?」 「や、菊さんの前でこう言うのも何ですけど、技術なんてそうそう長い間独占できるもんじゃないっスよ。それはこのオッサンも分かってるはずです。独占が目的じゃなくて、一歩先を行ければいいと考えてる……そうっスよね」  比嘉の直截な物言いに、自衛官が何度目かの苦笑いを浮かべた、その時だった。三人の話を黙って聞いていた明日奈が、美しい、しかし冷たく透き通った声で言った。 「あなた達のその立派な理念は、キリト君には一切話してない、そうですよね」 「……なぜそう思うんだい?」  ひょいっと首を傾げる菊岡を、明日奈は小揺るぎもしない視線で正面から見据える。 「もしキリト君に話してれば、彼があなた達に協力するはずがないわ。あなた達の話には、大切なことが一つ抜けてる」 「……それは?」 「人工知能たちの権利」  菊岡は眉をぴくりと持ち上げ、短く息を吐いた。 「……いや、確かにキリト君にはさっきの話はしていないが、それは彼と会う機会がこれまで無かったからだよ。彼こそ、筋金入りのリアリストだろう? そうでなければSAOをクリアなどできなかったはずだ」 「分かってないわね。もしキリト君が、アンダーワールドの真の姿に気付いてれば、きっとその運営者に対してものすごく怒ってるわよ。彼にとっては、自分のいる場所こそが現実なんです。仮の世界、仮の命なんてことは考えない……だからSAOをクリアできたんだわ」 「分からないな。人工フラクトライトに生身の肉体はない。それが仮の命でなくてなんだと言うんだい?」  明日奈は、どこか悲しそうな——いや、あるいは目の前の大人たちを憐れんでいるような光をその目に浮かべ、ゆっくりと言葉を続けた。 「……話しても、あなたには分からないかもしれないけど……アインクラッドで初めてキリト君と会ったとき、わたしも今のあなたみたいなことを彼に言ったわ。どうしても倒せないボスモンスターがいて、それを攻略するのに、NPC、つまりAIの村を囮にする作戦を主張した。モンスターが村人を襲ってるところをまとめて攻撃する作戦だった。でもキリト君は絶対にだめだと言ったわ。NPCだって生きてる、他になにか方法があるはずだ、って。わたしのギルドの人はみんな笑ったけど……結局、彼が正しかった。たとえ人工フラクトライトが、大量生産されたメディアの中の模造品だとしても、戦争の道具として殺し合いをさせるなんてことに、キリト君が協力するはずはないわ、絶対に」 「——言いたいことは、僕にも分からなくもないよ。確かに人工フラクトライト達は、僕ら人間と同等の思考能力がある。その意味では彼らは確かに生きている。だがこれは優先順位の問題なんだ。僕にとっては、十万の人工フラクトライトの命は、一人の自衛官の命より軽い」  答えの出ない議論だ、と凛子は思った。人工知能に人権はあるか否か——それは、真のボトムアップ型AIが発表されたその時から、世界中で年単位の議論を尽くしたとしても容易に結論の出せない命題だろう。  果たして自分はどう感じているのか、それすらも凛子にはよく分からなかった。科学者としてのリアリズムは、コピーされた魂は生命ではない、と告げている。だが同時に、あの人なら何と言うだろうか、と考えている自分も居る。いつも“ここではない現実”を望み、ついにはそれを創造し、二度と還ることのなかったあの人なら——?  自分を過去に引き戻そうとする思考の流れを断ち切るように、凛子はその場の沈黙を破った。 「そもそも、何故桐ヶ谷君が必要だったの? あなた達にとって最大級の機密が漏れる危険を冒してまで、どうして彼を……?」 「——そうか、それを説明するためにこんな話をしていたんだったね。あまりにも回り道をしすぎて忘れてしまった」  菊岡は、明日奈の磁力的な視線から逃れるように笑うと、咳払いをひとつして続けた。 「なぜ、アンダーワールドの住民たちは禁忌目録に背けないのか……それはライトキューブに保存されたフラクトライトの持つ構造的な問題なのか、あるいは育成過程に原因があったのか、僕らは議論を重ねた。前者であれば、保存メディアの設計からやり直す必要があるが、後者ならば修正することができるかもしれないからね。そこで、僕らはひとつの実験を試みた。スタッフの一人、つまり本物の人間の記憶を全てブロックし、擬似的な思考原体として、アンダーワールドの中で成長させる。その行動パターンが人工フラクトライトと同一なものになるか否か、それを確かめるために」 「そ……そんなことをして、被験者の脳は大丈夫なの? 人生をもう一回やり直すようなものでしょう……記憶領域が足りなくなっちゃわないの?」 「問題ない。フラクトライトには、およそ百五十年ぶんの記憶に耐える容量があるという話はさっきしたろう? なぜそんなに過剰なマージンがあるのか、その理由は分からないがね……聖書によれば、ノアの時代の人間は数百年生きたという……なんて話を思い出すね。とりあえず、成長と言っても最大で十歳くらいまでだよ。禁忌目録を破れるかどうか知るにはそれくらいで充分だからね。無論内部での記憶は再びブロックされるため、現実に戻った時には、STLに入る前とまったく同じ状態が保たれる」 「……で、結果は……?」 「スタッフから八人の被験者を募り、アンダーワールドで様々な環境のもと成長実験を行った。結果は……驚くべきことに、十歳になり実験が終了するまで、禁忌目録を破ったものは一人も居なかった。むしろ予想とは逆……人工フラクトライトの子供たちよりも非活動的で、外に出ることを嫌い、周囲と馴染めない傾向を示した。我々は、それを違和感のせいだと推測した」 「違和感?」 「生まれてからの記憶をブロックしても、それが消滅するわけではない。そんなことをしたら現実に戻ってこられなくなってしまうからね。つまり、知識ではない、体の動かし方に代表される本能的な記憶が、被験者がアンダーワールドと馴染むことを阻害するんだ。いかにリアルとは言っても所詮はザ・シードで作成した仮想世界であることに違いは無い。中に入ってみればわかるが、現実世界での動作とは微妙に感覚が違うんだよ。僕が初めてナーヴギアを使い、SAOのベータテストを体験してみた時に感じたものと同種の違和感だ」 「重力感覚のせいよ」  明日奈が短く言った。 「重力……?」 「視覚や聴覚の信号と違って、重力や平衡を感じる部分の研究は遅れてるの。信号の大部分が、視覚からわたし達の脳が補完する重力感覚に頼ってるから、慣れてない人はうまく動けない」 「そう、その慣れだよ」  菊岡は指をパチンと鳴らし、頷いた。 「散々実験を繰り返してから、仮想世界内での動作に慣れている被験者が必要だ、と僕らもようやく気付いた。それも、一週間、一ヶ月ではなく年単位の経験がある、ね。これでもう分かったろう。僕が、日本中でも最も仮想世界に順応している人間に協力を仰いだ理由が」 「——ちょっと待って」  固い声で、再び明日奈が菊岡の言葉を遮った。 「もしかして、それが、キリト君の言ってた“三日間の連続ダイブ試験”なの? ……でも、キリト君はわたし達に、STRA機能は最大三倍だから、内部時間でも十日だけだ、って言ってたわ。彼に嘘をついたの? 本当は、十年……?」  鋭い視線を浴びせられた菊岡と比嘉は、バツの悪そうな表情を作って頭を下げた。 「すまない、その件に関しては六本木支部の独断だ。僕らは、STRA倍率は完全に伏せるよう指示していたんだが……」 「なお悪いわよ! キリト君の……“魂寿命”を十年分もそんな目的に使って、これで彼の治療に失敗したら、わたしはあなた達を絶対に許さないわ」 「言い訳にはならないが、僕も比嘉君も二十年以上実験に提供しているんだよ。——だが、キリト君に貰った十年は、スタッフ全員が消費したフラクトライト寿命を合算しても遠く及ばないほどの成果をもたらしてくれた」 「つまり、彼は、アンダーワールド内での成長過程で、禁忌目録に違反する行動を取ったのね?」  思わず凛子がそう口を挟むと、菊岡はにこりと笑みを浮かべ、大きくかぶりを振った。 「厳密にはそうではない。だが、結果としてはこちらが望む以上の形だったと言える。キリト君は、幼児期から他の被験者には見られなかった旺盛な好奇心と活動性を示し、何度も禁忌目録違反の寸前まで行ってはお仕置きを受けていたよ。——無論、彼のフラクトライトが禁忌を犯したところで、それは人工フラクトライトの構造的欠陥を示すだけなので喜んではいられないんだが、それでも我々は注意深く彼の行動を観察し続けた。内部時間で七年ほど経過した頃だったかな……。この比嘉君が、ある興味深い事実に気付いた」  菊岡の言葉を引き取り、比嘉が続けた。 「ええ。俺は元々、桐ヶ谷君を実験に参加させることには、道義的にも保安面からも反対だったんスけどね、それに気付いたときは菊さんの慧眼に感服せざるを得なかったっスよ。俺らは、禁忌目録のそれぞれの条項の重要性を数値化して、住民ひとりひとりがどれくらい禁忌違反に近づいたかを指数に表してチェックしてたんスけど、桐ヶ谷君といつも一緒に行動してた人工フラクトライトの少年と少女の違反指数が、突出して増大しはじめたんです」 「え……? つまり……」 「つまり、桐ヶ谷君は、現実世界の記憶と人格を封印された状態でありながら、周囲の人工フラクトライトの行動に強い影響を及ぼしていたんス。もっと噛み砕いて言えば、彼の腕白っぷりが他の子供に伝染してた、って感じスかね」  比嘉の分かりやすい比喩を聞いた明日奈の口元に、ごくごくかすかな笑みが浮かんだのに凛子は気付いた。おそらく明日奈にとっては、それはたやすく想像できる話だったのだろう。 「……現在でも、なぜ人工フラクトライトが与えられた規則に違反しないのか、その理由が完全に判明したわけじゃあないっス。恐らくは何らかの構造的要因に拠るものなんでしょうけど、俺らはもう、その解明は最優先課題ではないと考えてます。俺らには、問題の全面的解決じゃなくて、たった一つの例外があればいいんス。たった一つだけでも、“規則の優先順位”という概念を得た真の高適応性人工知能を手に入れられれば、あとはそれを複製加工することで一定の成果は得られるはずですから」 「あんまり好きじゃないなあ、そういう考え方。……でも、往々にしてブレイクスルーっていうのはそんな手法で達成される、ってことかしらね」  短く息を吐き、凛子は比嘉に先を促した。 「で、その例外は得られたの?」 「一度は確かに俺らの手に落ちてきましたよ。少年桐ヶ谷君と最も近しい存在だったある少女が、実験が終了する直前、ついに禁忌目録に背いたんでス。しかも“移動禁止アドレスへの侵入”っていうかなり重大な違反っスよ。後でログをチェックしたら、少女の視界内の禁止アドレスで他の人工フラクトライトがひとつ死亡しているのが確認されました。恐らく、それを助けようとしたんでしょう。いいっスか、つまりその少女は、禁忌目録よりも他者の救助を優先したんです。それこそがまさに、俺らが求める適応性って奴っスよ。まぁ、兵器として実用化の暁に求められるのはまったく逆の、“倫理に背く殺人”だってのは皮肉な話ですが」 「……一度は、って言ったわね?」 「あー、ええ。情けない話ですが……手に落ちてきた珠を、掴みそこねたとでも言いますか……」  比嘉は肩を落とすと、何度も首を左右に振った。 「……さっき説明したとおり、アンダーワールド内は対現実比約千倍という凄まじいスピードで時間が経過しています。それを外側からリアルタイムに監視するのは不可能なので、記録した事象をコマギレにして、それを言わばスロー再生で複数のオペレーターがチェックしてるわけっス。結果、必然的に内部時間とわずかなラグ発生してしまうんス。俺らは、少女が禁忌目録に違反したのを発見した時点でサーバーを停止し、彼女のフラクトライトをコピーしようとしたんスが……その時にはすでに内部時間で約二日が経過していました。そして、驚いたことに、神聖教会はそのたった二日のあいだに少女を央都に連行して、フラクトライトにある種の修正を施してしまったんス」 「しゅ……修正ですって? 君たちは観察対象にそこまでの権限を付与してるの?」 「そんなわけないっスよ。……ない筈、でした。秩序維持のためにアンダーワールドの全住民にはある種の権限レベルが設定してあって、それが高い住民は“神聖魔法”と呼ばれるシステムアクセス権を行使できるんですが、最高レベルの神聖教会の司教たちだって可能なのはせいぜい寿命の操作くらいなんスよ。でも連中はいつのまにか、システムの抜け道的手法を見つけて……、まぁ、この先は後で実際に映像をお見せします。“アリス”の過去と現在の姿をね」 「アリス……?」  さっと顔を上げ、そう囁いたのは明日奈だった。凛子もその単語の意味は事前に聞いていた。確か、菊岡と比嘉が追い求めている“高適応性人工知能”のコードネームとでも言うべき名称だったはずだ。  二人の疑問を察したように、菊岡がひとつ頷いた。 「そう、それが、キリト君とそしてもう一人の少年といつも一緒にいた、問題の少女の名前なんだよ。もともと、アンダーワールドの住民の名前はそのほとんどが、ランダムな音の組み合わせとしか思えない奇妙なものばかりだ。だから、少女の名前がアリスだと知ったとき、我々はその恐るべき偶然に驚愕したよ。なぜなら、それは、このラースという組織を含めてすべての計画の礎となったひとつの概念に与えられた名称でもあったからだ」 「概念……?」 「人工高適応型知的自律存在、アーティフィシャル・レイビル・インテリジェント=サイバネーテッド・イグジスタンス。頭文字を取って“A.L.I.C.E.”……。僕らの究極の目的は、ライトキューブに封じられたフォトンの雲を一なる“アリス”に変化させることだ。スタッフ達は、短く縮めて“アリス化”と呼んでいる」  菊岡誠二郎は、凛子と明日奈を順番にじっと見つめ、ほぼ全ての秘密を明らかにしながら尚もどこか謎めいて見える笑みを浮かべつつ言った。 「我らが“プロジェクト・アリシゼーション”へようこそ」  何度かの逡巡のあと、凛子は左手を持ち上げ、『呼出』と刻印してある金属のボタンを押した。数秒後、小さなスピーカーから明日奈の短い応答があった。 「どなた?」 「私、神代です。少しだけ、話をさせてもらっていいかしら」 「……どうぞ」  ほんのわずかに躊躇いの響きを帯びた声が返ってくると同時に、スピーカーの下のインジケータが赤から青に変わり、モーター音とともにドアがスライドした。  凛子が部屋に入ると、ベッドに腰掛けていた明日奈はリモコンを傍らに置き、代わりにブラシを取り上げてつややかな髪を梳りはじめた。背後で再びドアが閉まり、小さなアラームが再度ロックされたことを教えた。  明日奈に与えられた客室——あるいは船室は、通路を隔てた向かいの凛子の部屋と全く同じつくりだった。ほぼ六畳ほどの空間は無機質なオフホワイトの樹脂パネルで装われ、調度は固定されたベッドと小さなテーブル、ソファー、艦内ネット接続用の小型端末一つだけ。二人を案内した中西一尉は『一等船室ですよ』と言っていたので、凛子は思わず豪華客船のスイートキャビンを想像してしまったのだが、どうやら各部屋ごとに小さなユニットバスが備えられているというのが唯一の一等たる所以だったらしい。  ただ、明日奈の部屋は凛子のものとは違い、ベッドの奥に細長い窓が設けられていた。つまりここはオーシャンタートルの最外周部、発電パネル層と接する場所だということになる。エレベーターでかなり登ったので、夕刻には窓から美しい南洋の落日が望めたはずだが、午後九時を回った今では漆黒の闇が広がるばかりだ。生憎の曇天で星もまったく見えない。  右手にぶら下げていた、エレベーター脇の自販機で買ってきた缶入りウーロン茶の片方をテーブルに置き、凛子はソファーに腰を下ろした。思わずいつもの癖で「どっこいしょ」と言ってしまいそうになり、危く口を閉じる。自分ではまだまだ若いつもりでいるが、風呂上りでTシャツにショートパンツ姿の明日奈の、輝くような美しさを目の当たりにすると、迫りつつある三十路の声を意識せざるを得ない。  明日奈はブラッシングの手を止め、ちらりと微笑みながら頭を下げた。 「ありがとうございます、丁度喉が渇いてたんです」 「洗面台の水は味見してみた?」  悪戯っぽく笑いながら尋ねると、明日奈も目をくるりと回してみせる。 「東京の水道水といい勝負ですね」 「まあ、海水を濾過脱塩した水らしいから、少なくともトリハロメタンは入ってないわね。案外、コンビニで売ってる海洋深層水より体にいいかもよ。私は一口でもうご免だけど」  ウーロン茶のプルトップを引き開け、冷えた液体を大きく飲み下す。本当はビールが欲しかったのだが、下層の食堂まで行かないと売ってないらしく断念した。  ふうっ、と息をつき、凛子はもう一度明日奈を見た。 「……桐ヶ谷君には会えた?」 「ええ、なんだか元気そうでしたよ。楽しい夢でも見てるみたいでした」  微笑む明日奈の顔は、ここ数日彼女を苛んでいた焦燥がようやく抜け落ちたように見えた。 「まったく困った彼氏ね。突然失踪した上に、こんな南の海でクルージング中だなんて。首に縄でもつけておいたほうがいいわよ」 「検討しておきます」  にこっと笑顔を見せてから、明日奈は口もとを引き締め、深く頭を下げた。 「ほんとうに、神代先生には感謝しています。こんな無茶なお願いをきいて戴いて……。お礼の言いようもないくらい」 「やめてやめて、凛子でいいわよ。……それに、こんなことくらいじゃあ、あなたと桐ヶ谷君への罪滅ぼしにはぜんぜんならないわ」  凛子は大きく何度もかぶりを振り、意を決して、じっと明日奈を見つめた。 「……私、あなたに話しておかなくちゃならないことがあるの。ううん、あなただけじゃない……旧SAOプレイヤーの全員に、告白しなきゃいけないことが……」 「…………」  わずかに首を傾げ、まっすぐに見返してくる明日奈の瞳を、凛子は懸命に受け止めた。大きく息を吸い、吐き出してから、身につけていたコットンシャツのボタンを二つ外す。襟元を大きく開き、細い銀のネックレスを持ち上げると、左の乳房の上を斜めに走る切開痕が露わになった。 「この傷痕のことは……知ってるわよね……?」  明日奈は目を逸らすことなく凛子の心臓の真上を凝視し、やがてかすかに頷いた。 「ええ。遠隔起爆型マイクロ爆弾が埋め込まれていた場所ですね。それで先生……凛子さんは、二年間も脅迫されていた」 「そう……それによって私はあの恐ろしい計画に協力を強いられ、長期ダイブ中のあの人の肉体を管理していた……。——世間ではそういうことになっているわ。だから私は起訴されなかったし、名前すら公表されずに、のうのうとアメリカに脱出できた……」  シャツとネックレスを戻し、凛子は気力を振り絞ってその先を続けた。 「でも、本当は違うの。警察病院で摘出された爆弾は確かに本物だったし、実際に起爆も可能だった。でも、それが決して爆発しないことを、私はよく知っていた。——カモフラージュだったのよ。事件が終わったあと、私が罪に問われないように、あの人が埋め込んでくれたまやかしの凶器。あの人が私にくれたたった一つのプレゼント」  その言葉を聞いても、明日奈の表情は変わらなかった。心の底まで見透かすような澄んだ瞳を微動だにさせず、ただじっと凛子を見つめている。 「——私と茅場君は、私が大学に入った年から付き合い始めて、修士課程が終わるまで六年のあいだ恋人同士だったわ。……でも、そう思っていたのは私だけだった……。今のあなたよりも年上だったのに、今のあなたより遥かに愚かだった私には、茅場君の心の内側がまるで見えてなかった。彼がただひとつ求めていたものに、まったく気付かなかった……」  視線を窓の向こうに広がる無限の夜に向け、凛子は四年間抱えつづけていたことをゆっくり言葉に変えはじめた。常なら思い出すだけで鋭い痛みをもたらすその名前は、意外なほど滑らかに唇からこぼれ落ちていった。  日本で有数の工業系大学に、ストレートで進学したその時点で、茅場晶彦はすでに株式会社アーガスの第三開発部の長たる立場だった。茅場が高校在学中にライセンス契約したいくつかのゲームプログラムによって、アーガスは弱小三流メーカーから世界に知られるトップメーカーへと飛躍したのだから、大学入学直後の彼をいきなり管理職待遇で迎えたのも当然と言えよう。  十八歳の茅場の年収はすでに億を越えていると言われ、それまでのライセンス料を合わせれば総資産は恐るべき金額になるはずだった。自然な成り行きとして、キャンパスでの彼は無数の女子学生から有形無形のアプローチを受けたらしいが、興味のないものに彼が向ける、あの液体窒素よりも冷たい視線を浴びせられて立ち直れた者は居なかった。  だから、凛子には、なぜ茅場が一歳年下の冴えない山出し娘を拒絶しなかったのか、今でもよく分からない。彼の名声をまるで知らなかったから? 一年時から重村ゼミに出入りすることを許される程度の頭はあったから? 少なくとも容姿に惹かれたわけではないことだけは確かだ。  凛子の抱いた茅場の第一印象は、養分の不足した豆もやし、である。いつも青白い顔をしてよれよれの白衣を羽織り、観測装置にまるで備品のように貼り付いている彼を、無理矢理おんぼろの軽に乗せて湘南まで引っ張り出した時のことは、昨日の出来事のように鮮明に憶えている。 「たまにはお日様さ見ないと出るアイデアも出ね!」  ——とお国言葉丸出しで叱る凛子を、茅場は助手席からどこか呆然としたような顔でしばらく眺めていた。やがてぽつりと、自然光が与える皮膚感覚のエミュレーションも考えないとな、と呟いて凛子を大いに呆れさせた。  のちに凛子は、茅場の若きセレブリティというもう一つの顔を知ったが、だからと言って付き合い方を変えられるほど器用な育ち方はしていなかった。凛子にとって茅場は、いつだって栄養の足りていないもやしっ子で、部屋に行くたびに叱り付けて持参の郷土料理を食べさせた。あの人が私を拒絶しなかったのは、つまり助けを求めていたのだろうか、私がそれに気付かなかっただけなのか、と凛子は後に何度も自問したが、しかしその答えは常に否だった。茅場晶彦という人間は最後まで自分以外に恃むものは無く、彼が欲していたのはただ一つ、“ここではない世界”という、神ならぬ人の子には触れることさえできないはずのものだけだった。  茅場は何度か、寝物語に空に浮かぶ巨大な城の話をしてくれたことがある。その城は、無数の階層からできていて、層ひとつひとつに街や森や草原が広がっているのだそうだ。長い階段を使って層をひとつひとつ登っていくと、天辺には夢のようにきれいな宮殿があって——。 「そこには誰がいるの?」  と問う凛子に、茅場はかすかに笑いながら、分からないのだ、と答えた。僕はすごく小さな頃は、毎晩夢のなかでその城に行けたんだ。毎晩ひとつずつ階段を昇って、少しずつ天辺に近づいていった。でも、ある日を境に、二度とその城には行けなかった——と。くだらない夢さ、もうほとんど忘れてしまったよ。  しかし彼は、凛子が修士論文を書き上げたその翌日に、空の城に旅立ち二度と帰ることはなかった。己の手だけで浮遊城を現実のものとし、五万の人間を道連れに、凛子だけを地上に置き去りにして——。 「ニュースでSAO事件を知って、茅場君の名前と顔写真を見てもまだ、私には信じられなかった。でも、車で彼のマンションまで飛んでいって、そこにパトカーが山ほど詰め掛けてるのを見て、初めてほんとなんだって分かったわ」  凛子は、久しぶりに長時間声を出したせいでわずかな喉の痛みを感じながら、ぽつりぽつりと話し続けた。 「あの人は、最後まで私には何も言わなかった。メール一つ寄越さなかったわ。ううん……私が大馬鹿だったのね。私はナーヴギアの基礎設計にも協力したし、彼がアーガスで作ってたゲームのことも知ってた。なのに、彼が考えてることにまったく気付かなかった……。茅場君が行方不明になって、日本中が血眼になって彼を探してるとき、私、奇跡的に思い出したの。昔、彼の車のカーナビの履歴に、長野の山奥の座標が残ってて、変だな、って思ったことを。直感的に、そこだ、って思ったわ。その時点でそれを警察に教えてれば、SAO事件はもっと違った経過を辿ったかもしれない……」  あるいは警察があの山荘に踏み込んだら、茅場は事前の宣言どおり五万のプレイヤー全員を殺したかもしれなかった。しかし自分がそれを言葉にすることは許されないと、凛子は思った。 「——私、警察の監視を撒いて、一人で長野に行った。記憶を頼りに山荘を探し出すのに一週間もかかったわ。見つけたときはもう全身泥だらけで……でも、そんなに必死になったのは、彼の共犯者になりたいからじゃなかった。私……茅場君を殺すつもりだった」  最初に会ったときとまったく同じ、戸惑ったような顔で茅場は凛子を出迎えた。その時、後ろ手に握っていたサバイバルナイフの重さは、今でも忘れられない。 「でも……ごめんなさいね、明日奈さん。私、殺せなかった」  抑えようもなく声が震えたが、しかし涙を流すことだけは懸命に堪える。 「これ以上、あの時のことをどう言葉にしても嘘になっちゃうと思う……。茅場君は、私がナイフを持ってるのを知ってて、いつもみたいに、困った人だなあ、ってだけ言って、またナーヴギアをかぶってアインクラッドに戻っていった。それまでずっとダイブしっぱなしだった彼は、髭ぼうぼうで汚れ放題で、腕に点滴の痕がいくつもあった。私……私は……」  それ以上言葉が出ず、凛子はただ何度も呼吸を繰り返した。  やがて、静かに、明日奈が言った。 「わたしも、キリト君も、凛子さんを恨んだことは一度もありません」  はっと顔を上げると、十歳年下の少女は、かすかに微笑みながらじっと凛子を見ていた。 「……それどころか……キリト君は違うかもしれないけど、わたしは……団長のことを恨んでいるのかすら、今でもよくわからないんです」  明日奈が、あの世界の中で、茅場の作ったギルドに属していたことを凛子は思い出していた。 「確かにあの事件で、多過ぎる人が亡くなりました。どれだけの人が、恐怖と絶望の中で死んでいったか……それを想像すると、団長のしたことは許されることではありません。でも……物凄くわがままな言い草ですけど、多分わたしは、あの世界でキリト君と暮らした短い日々を、これからも人生最良のひとときとして思い出すでしょう」  明日奈の左手が動き、腰のあたりで何かを握るような仕草を見せた。 「団長に罪があるように、わたしにも、キリト君にも、そして凛子さん、あなたにも罪はある……。でもそれは、誰かに罰してもらえば償えるようなものじゃない、そう思います。おそらく、永遠に赦しを得られる日は来ないのかもしれません。だとしても、わたし達は、自分の罪と向き合いつづけていかなければならないんです」  その夜、凛子は、久しぶりにあの頃——何も知らない学生だった頃の夢を見た。  眠りの浅い茅場は、いつも凛子より先にベッドから抜け出して、コーヒーカップ片手に朝刊を読んでいた。完全に日が昇ってから凛子がようやく目を醒ますと、寝坊した子供に対するように小さく苦笑し、おはよう、と言った。 「本当に、困った人だな。こんなところまで来るなんて」  穏やかな声に、凛子が薄く目を開けると、暗闇のなか、ベッドの傍らに長身の人影が立っているのが見えた気がした。 「まだ夜中よ……」  微笑みながら呟き、凛子はもう一度目を閉じた。かすかに空気が動き、硬い足音が遠ざかり、ドアの開閉音がそれに続いた。  再度の眠りの淵に落ちていく、その直前に——。 「——!!」  凛子は息を詰めながら飛び起きた。心地よいまどろみは一瞬で消え去り、心臓が早鐘のように喚いている。どこまでが夢で、どこからが現なのか、とっさに判断できなかった。手探りでリモコンを探し、部屋の照明を点ける。  窓のない船室は、当然のように無人だった。だが、凛子は、空気中にかすかに何者かの残り香が漂っているのを感じた。  ベッドから飛び降りると、素足のままドアまで駆け寄る。操作パネルをもどかしく叩き、ロックを外すと、スライドしたドアの隙間から通路に走り出た。  オレンジの薄暗い照明に照らされた通路は、右も、左も、視界に入る限りどこまでも無人だった。  夢……?  そう思ったが、しかし耳の底には、確かにあの低くソフトな声の残響が漂っていた。無意識のうちに、凛子は右手で、常に身につけているネックレスの先端にぶら下がるロケットペンダントを握り締めていた。ろう付けされて二度と開くことのできないその中に封入されている、凛子の心臓直上から摘出されたマイクロ爆弾が、かすかな熱を放っているかのようにほんの少し掌を灼いた。 [#地から1字上げ](第四章 終)     第五章  かちり、とブーツの踵が鳴らされると同時に、きびきびした声が広い部屋いっぱいに響いた。 「ユージオ上級修剣士殿、ご報告します! 本日の掃除、完了いたしました!」  声の主は、灰色の初等練士の制服に身を包んだ、わずかに幼さの残る少女だった。この春に学院の門をくぐり、上級生付きを命じられてからまだ一ヶ月と経過していないせいか、直立不動の姿勢には痛々しいほどの緊張感が漲っている。  ユージオとしては可能な限り優しく接しているつもりだが、しかし言葉で何と言われようとそうそう簡単に肩の力が抜けるものではないことは、自身二年前に嫌と言うほど経験してもいた。初等生にとって、学院に十二人しかいない上級修剣士は、ある意味では鬼教官たちよりも近寄りがたく恐ろしい存在なのだ。どうにか普通に会話ができるようになるまでは、最低でも半年はかかるものだし、ユージオだってそれは例外ではなかった。もっとも、何から何まで型破りな相棒だけはまったくその限りではなかったらしいが。  読み古した神聖術の教本を閉じ、高い背もたれのついた椅子から立ち上がると、ユージオはひとつ頷いてから言葉を返した。 「ご苦労様、ティーゼ。今日はもうこれで寮に戻っていいよ。……で、ええと……」  視線をティーゼの赤毛から左に動かし、並んで同じように背筋を伸ばしている、ダークブラウンの髪の少女に向ける。 「……ご免ね、ロニエ。あの馬鹿には何度も、掃除が終わるまでに戻ってこいって言ってあるんだけど……」  いつものようにどこかに逃げてしまった相棒の代わりにユージオが謝ると、ロニエという名の初等生は、目を丸くして何度も首を振った。 「い、いえ、報告を完了するまでが任務ですから!」 「じゃあ、悪いけどもうちょっと待ってて。ほんと、運が悪かったね、あんな奴の傍付きになっちゃって……」  北セントリア帝立修剣学院は、ノーランガルス全土から領主貴族の子弟が集まる最高峰の剣士育成機関だが、一度学院の土を踏めば、例え皇家の流れであろうとも初等練士から横一線のスタートとなる。最初の一年は実剣に触れることすら許されず、ひたすら木剣による型の練習と、教本で戦術理論の学習にあけくれることとなるが、初等生はそれに加えて学院内の様々な雑務もカリキュラムの一環として課せられる。  どのような仕事を与えられるかは、入学直後の剣術試験の点数によって決まる。九割以上の生徒は学内の清掃が任務となるが、得点上位の十二人だけが全学生のトップに立つ上級修剣士の傍付きを拝命し、同級生の羨望と約半年の緊張感を手に入れることになる。  もっとも、傍付きと言ってもやる事は他の生徒と変わらず、同級生たちが教室や修練場を掃除している時間に、同じように上級生の部屋の掃除をする、というだけのことなのだが、しかし付いた生徒の底意地が悪かったり散らかし魔だったり、あるいはフラフラどこかに消える癖を持っていたりすると、このロニエのように毎晩苦労する破目になるわけだ。 「……もし何なら、僕から先生に言ってあげるから、傍付きを他の人に代わってもらったら? アイツに付いてると、一年間苦労するよ、間違いなく」 「と、とんでもありません!」  ユージオの提案に、ロニエがぶんぶん首を振った、その時だった。ドアではなく、開け放した窓の向こうの夕闇から、聞きなれた声がした。 「おいおい、人の留守に何を言ってるんだ」  するりと音もなく、三階の窓から部屋に滑り込んできたのは、ぴったりとした修剣士の制服に身を包んだ二年来の相棒、キリトだった。ユージオの服と形はまったく同じだが、ユージオのものが濃い目の藍青色なのに対して、あちらは完全な漆黒だ。制服の色を自由に選べるのも、上級修剣士の数多い特権の一つである。  何やらいい匂いのする大きな紙袋を抱えて戻ってきたキリトを見て、ロニエは一瞬ほっとしたように息をつくと、すぐに顔を引き締め、音高くブーツの踵を打ち鳴らした。 「キリト上級修剣士殿、ご報告します! 本日の清掃、滞りなく完了しました!」 「はい、お疲れさま」  相変わらず傍付き下級生の存在そのものが苦手で仕方なさそうなキリトは、所在なげに頭を掻きながらロニエを労った。その様子に苦笑しながら、ユージオは改めて相棒の所業を追及した。 「あのなあ、外に行くなとは言わないけど、彼女たちはお前の何倍も忙しいんだから、掃除が終わるまでには戻ってきてやれよな。大体なんで窓から帰ってこなきゃならないんだ」 「カルギン通りから帰ってくるときはこの窓が最短コースなんだよ。ロニエとティーゼも覚えておくと将来役に立つぞ」 「妙なこと吹き込むなよ! ……カルギン通りってことは、その袋は跳ね鹿亭の蜂蜜パイだな」  キリトの腕のなかから漂う甘く香ばしい匂いは、一時間前に夕食を詰め込んだばかりのユージオの胃をたちまち空に戻し、きりきりと刺激した。 「……確かにあれは絶品だけど、だからってなんでそんなに山ほど買ってくるんだ」 「ふふん、欲しければ素直にそう言いたまえよユージオ君」  キリトはにやっと笑うと、膨れた紙袋から黄金色に焼けた円筒形のパイを二つ取り出し、片方をユージオに放るともう片方をくわえた。残りを袋ごと、どさりとロニエの腕に落とす。 「寮に戻っはら、部屋の皆へ食えよ。寮監に見ふかるなよ」  ロニエとティーゼは、わあ! と十五、六の少女に相応しい歓声を上げたあと、慌てたように再び姿勢を正した。 「あ、ありがとうございます上級修剣士殿! 戴いた物資の天命が減少しないよう、全速で寮に戻ります! それではまた明日!」  高速で一礼し、二人はかつかつとブーツを鳴らして部屋を横切り、外に出た。再度の礼のあと、ぱたん、と扉が閉まると、廊下からまたしても歓声が聞こえ、ばたばたと走る音がたちまち遠ざかっていった。 「…………」  ユージオは、焼きたてのパイを大きく一口齧ると、横目でじいっとキリトを見た。 「……なんだよ」 「いや、別になんでも。ただ、キリト上級修剣士殿は、なんで僕らがここにいるか、忘れておいでじゃないでしょうね、と、ええ、それだけ」 「ふん、忘れるかよ」  たちまちパイを食べ終わったキリトは、ぺろりと親指をなめると、細めた黒い瞳を窓の外——セントリア中心部に聳える神聖教会の巨大な塔に向けた。 「あと二つ……ようやくここまで来たんだぜ。まず、他十人の上級修剣士をぶっ倒して学院代表の座につく。そして、四帝国統一大会で何としても準決勝まで残る。それで俺たちはもうお偉い整合騎士様だ。堂々と正面からあの塔に乗り込める……」 「うん……。あと一年……それで、やっと……」  ——やっと、会える。八年前、目の前で整合騎士に連れ去られた金髪の幼馴染に。  ユージオは遥か彼方の神聖教会から視線を戻すと、部屋の壁に掛けられた白黒二振りの剣を見つめた。二人をここまで導いた、この運命の剣たちがある限り、僕らは決して挫けることはない——、一抹の疑いもなく、そう思えた。 「まったく、何でこんなとこに来てまで試験勉強なぞせにゃならんのか……」  とげっそりした顔で言い残し、明日に迫った上級神聖術の試験の一夜漬けのためにキリトが自分の寝室に引っ込んでしまったので、ユージオは日課の夜稽古をひとりでやることにして、二年間使い込んだ木剣を担いで部屋を出た。  確かに、ルーリッドの村を出たあの日には、よもや自分が央都で——つまりこの世界で最高の剣士養成機関に入学を許され、剣術や神聖術の勉強に毎日明け暮れることになるとは思いもしなかった。しかしやってみればどちらもとても刺激的だったし、そもそも本来であれば木こりとして一生を過ごすはずだった自分が、貴族や大商家の跡取りたちに混じって教育を受けられるだけでも、望外の幸運と言わなくてはならない。  ——その上、こんな立派な建物の広い部屋を与えられ、専属の掃除係までいるのだ、なんてことを故郷の兄貴たちに言っても全く信じやしないだろうな。長い廊下を歩きながら、ユージオはぼんやりとそんなことを考える。  帝立修剣学院の敷地は、北セントリアの中心部にある大きな丘をまるごとひとつ占有する広大なもので、建築物も大小あわせて十を数える。うち四つが、約三百人の学生のための寮となっており、百人ずつの初等練士、中等練士、高等練士が寝起きする三棟を見下ろす丘の中腹に、わずか十二人の上級修剣士の専用棟が建っている。  もともと学院は、四帝国の一角であるノーランガルスの国民からより多くの整合騎士を輩出するという明快な目的のために運営されており、選抜試験を兼ねる統一剣術大会に送り込むための精鋭である上級修剣士には至れり尽せりの待遇が与えられる。それぞれの個室は教師たちの部屋より広いという話だし、消灯前なら外出も自由、外に食事にいくのが面倒なら寮の一階に立派な食堂がある。  精鋭とは言え、たかが学生に対してこの厚遇なのだ。もしこれが、統一大会の上位常連の強豪なら——さらには名実ともに世界の頂点たる、ある意味では皇帝家をも上回る権力を持つ整合騎士たちなら、一体どのような豪奢な生活を送っているのだろうか。 「……っと、いけない」  ユージオは、肩に乗せた木剣でこつんと自分の頭を叩いた。最近ではここでの暮らしに慣れてきたせいか、村を出たばかりの頃のぎらぎらした目的意識をふと見失いそうでぎくりとすることがある。央都の有名な食べ物屋や、寮の食事がいかに豪華なものであろうとも、遠い昔に村はずれの黒い巨木の下でがっついて食べた質素な弁当よりも美味いと思ったことは一度もないし、思ってはいけないのだ。 「アリス……」  自分に言い聞かせるように、その名前を呟く。ここでの暮らしも、統一大会も、整合騎士を目指すことすら、全ては目的ではなく手段だ。余人の立ち入れない神聖教会のどこかにいるはずのアリスに、禁忌を破ることなく堂々と会いに行くための。  突き当たりの階段を降りたユージオは、建物の北側に設けられた修練場に向かった。これもまた、上級修剣士の特権のひとつだ。練士の頃は毎晩、寮の裏手の森の、自分の鼻も見えないような闇の中で剣を振ったものだが、ここでは十二人には広すぎる屋内の道場の、煌々とした灯りの下で好きなだけ稽古ができる。  大きな両開きの扉を押すと、修練場にいた三人の先客が振り返り、露骨に顔をしかめた。  二人が手合わせ中で、残り一人が審判をしていたようだったが、ユージオが一歩足を踏み込んだ瞬間に木剣の音はぴたりと止まった。そんなに警戒しなくても、別に君たちから技を盗んだりしないよ——と内心で思いながら、三人から遠離れた隅っこに向かって歩き始める。 「おや、ユージオ……修剣士殿、今夜は一人なのかな」  声をかけてきたのは、審判役の男だった。長い金髪を後ろで束ね、すらりとした長身を純白の制服に包んでいる。いかにも良血といった、過不足なく整った顔にはにこやかな笑みが浮かんでいるが、『ユージオ』と『修剣士』のあいだにわざとらしく間を置いたのは、ユージオが姓を持たない開拓農民の子であることをあげつらっているのだ。  普段は、剣呑なキリトが怖くて挨拶もしないくせに、と思いながら、ユージオも笑顔を作ると小さく頭を下げた。 「今晩は、ライオス・アンティノス修剣士殿。ええ、同室の者はあいにく明日の試験に備えて勉強をしていますよ。でももしご用なら呼んできましょうか?」 「む、いや、それには及ばない」  ライオスはもったいぶった仕草で短くかぶりを振った。ユージオはこれでも最低限の社交辞令は弁えているが、キリトはまったくその限りではない。機嫌の悪いときは、ライオスの皇家に連なる血筋など意に介せず、手合わせを申し込んでぶちのめすくらいのことは平気でやる奴だ——ということを向こうもよく知っているのだ。 「それでは、私は邪魔にならないよう隅で剣を振っています。お三方はどうぞそのまま続けてください」  我ながら卑屈な態度が上手くなったものだ、と思いながらユージオが再度頭を下げると、いつもライオスにくっついている、これも貴族の次男だか三男だかの残り二人も尊大な顔つきで頷いた。  床一面に敷かれた濃い赤のカーペットを踏んで、奥の壁沿いに並んで立つ、分厚く革の巻かれた丸太の前まで移動する。背中にライオスたちの視線を感じながら、木剣を構え、呼吸を整える。 「シッ!」  鋭い気合とともに、振り上げた剣を、ただ正面から丸太目掛けて撃ち降ろす。両手に心地よい痺れを感じながら素早く一歩下がり、また呼気と同時に剣を振る。ドシッ、ドシッという重い音だけに意識を集中していると、三人の存在など急速に消え去っていく。  ユージオが毎夜の稽古で行うのは、この何の工夫もない上段斬りを五百本だけだ。教練で学ぶ複雑華麗な型などまったくやらないし、初歩的な連続技すらも繰り出さない。すべて、ユージオの隠れた師であるキリトの指示によるところだ。  キリトの弁では、真に剣が振れるようになるのは、剣の存在が消えてからだ——という。無限回の反復練習を通して、動作の中で己と剣の境目が無くなってはじめて剣は必殺の武器となる。道具としての剣を美しく見せるための型など百害あるのみ、と嘯く彼の言葉を、それぞれの流派を持つ達人である教師たちが聞いたら泡を吹いて卒倒するだろう。  しかし、こうしてキリトの指示どおりの練習をもう二年も続けているユージオだが、彼の言わんとすることを完全に理解できた気はいまだにしない。  剣技は必殺たるべし、とキリトは言うが、そもそも人間相手の勝負で必殺などという言葉は存在し得ない。いかなる勝負においても、相手を殺してしまえばそれは禁忌目録違反であり、整合騎士を目指すどころか逆に整合騎士に断罪されてしまう。  ゆえに、学院内で行われる木剣同士の手合わせも、統一大会での真剣勝負ですら、勝敗は最初の一撃が入った時点で決定する。往々にして完全に同時の相撃ちも起こるので、その場合はより美しく華麗な技を決めたほうが勝者となる。だからこそ学院では型の演舞が重要視されるのだし、それは二人の最終目標である、整合騎士の選抜基準においても変わらないはずだ。  ユージオがそう言うと、キリトはただ一言、あの洞窟でのことを思い出せ、とだけ答えた。  確かに、ニ年前のあの日、シルカを連れ戻すために北の山脈を目指した時に体験した出来事は、ユージオの中に今も薄れない衝撃を刻み付けている。山脈を貫く洞窟で出会ったゴブリン——闇の国の住人たちには、禁忌など何一つ存在しないようだった。殺すことのみを目的としたような醜い剣を振るい、ユージオとキリトに致命傷となりうる深い傷を負わせた。  禁忌目録は、闇の国の住人は全て敵と断定し、それを殺すことはまったく禁じていない。だから、あの日洞窟で見たように、もし遠い未来に闇の軍勢が果ての山脈を越えて侵略してきたとき、それと戦うために必殺の剣を磨け、というキリトの言葉は理解できる。  だが、本当にそんな日が来るのだろうか? 人間の国は、無敵の整合騎士に守られている。彼らはまさに一騎当千、ゴブリンたちなどどれほど押し寄せてきたところで容易く退けるはずだ——。  そう反論したユージオに、キリトは笑って言った。馬鹿だなぁ、俺たちはその整合騎士になろうとしてるんじゃないか、と。  確かにそれはまったくその通りだ。整合騎士を目指すなら、闇の軍勢と戦える必殺の剣を身につけておかねばならないのは自明の理だ。だからユージオは毎夜愚直な上段斬りを繰り返している。しかし——正直、自分の中に、人間の世界を守ろうという理想があるのかどうか、ユージオにはよくわからない。修行の全てはただ、もう一度アリスに会うという目的のためだけのものなのだ。整合騎士に任じられ、神聖教会に囚われているアリスと再会し、もし騎士の特権を以って彼女の罪を免じてもらうことができれば、その後はもう任を辞してルーリッドに帰り、アリスと二人畑を耕したとしても何の未練もない……。  物思いに耽りながらも、ユージオの体と腕は水車のように勝手に動きつづける。  頭の片隅で数えている撃ち込みの本数がいつのまにか四百を超えた、その時だった。背後で、笑いを含んだライオスの声が響いた。 「いつもながら、ユージオ修剣士殿の稽古は奇しきものだな。あのような型も技もない棒振りに、どのような意味があるのか、知りたいとは思わないかウンベール」 「いや、まったくまったく」  追従する取り巻きの言葉に、三人の露骨な嘲笑が続いて、ユージオはおやおや、と思う。  ——キリトが居ないとずいぶん絡むじゃないか、ライオス君。  そんなに自分は与し易しと見られているのか、と考え、すぐにまあそうかもなと内心苦笑する。注目を浴びるのが苦手な性分は央都に来てもまるで変わらず、数限りなく行った模擬戦闘においても地味な技のみで勝利するよう自然と努力してしまった結果、ユージオは十二人の上級修剣士の中でも最も目立たない存在となっているのは間違いない。  しかし、そろそろその座に甘んじているわけにもいかなくなる。これからの一年間で行われる試合は全て学院総代表の選抜試験であり、わずか二名の枠をキリトとともに手に入れるためには、お互い以外の全ての修剣士にできるだけ派手に、美しく——つまり教官ごのみの技で勝ち続けなくてはならないからだ。  相変わらずねちっこく笑いつづけているライオス達を無視し、五百本の撃ち込みを終えると、ユージオは腰帯から抜いた手巾で額の汗を拭った。地味な割に楽な稽古ではないが、しかし故郷の森で一日中重い斧を振り回していたのを思えば何ほどの事はない。  学院の主講堂の天辺に建つ塔の鐘が、ルーリッドの教会のそれと全く同じ旋律を奏でて午後九時を告げた。消灯までの一時間で、風呂に入り明日の授業の準備をしなくてはならない。木剣を担ぎ、ユージオはまだぐずぐずしている三人に軽く会釈して修練場を後にしようとした。 「おや、ユージオ殿は丸太叩きだけで、型の修練はしないのかな」  まだ絡み足りないらしいライオスが、わざとらしい驚き顔を作って声を掛けてきて、ユージオはひそかに溜息をついた。 「ははは、ライオス殿、聞けばユージオ殿はどこぞの田舎で木こりをしていたそうな。丸太相手の技しか知っておられぬのかもしれませんぞ」 「これは教官連中に、木こり斧の型をユージオ殿に教えて差し上げろと言っておかねばなりませんな」  確かウンベールにラッディーノとかいう名前だった取り巻き二人が、事前に台本を作っているのかと疑いたくなるような台詞で調子を合わせる。こんな奴らの三文芝居に付き合っていられるものか、とユージオはせいぜい下手に出てとっとと逃げ出すべく、口を開いた。 「いやあ、田舎で叩いていた樹が人間よりよっぽど歯応えがあったおかげで、木こり剣法でもこんな立派な学院に入れました。人生、何が幸いになるかわかりませんね、それではお休みなさいお三方」  では、ときびすを返しかけたところで、ライオスが突然額に青筋を浮かべて喚いた。 「聞き捨てならんな! ユージオ修剣士殿は、我々が丸太以下だと言われるか!」 「は?」  唖然として聞き返す。どこをどう切り取ったらそんな意味になるんだ、と首を捻りかけたユージオに、取り巻きが両側から同時に怒声を浴びせた。 「無礼な!」 「許さんぞ!」 「い、いや……そんな事は誰も」  言ってない、と続けようとしたが、それに被せてライオスが更に大声を出す。 「そこまで大口を叩くからには、実力を以って証明する覚悟がおありと思ってよろしいな!」  よろしくない、と言っても収まりそうにない剣幕に、さあ面倒なことになったぞ、とユージオは密かに舌打ちした。恐らく三人は、ユージオが一人で現われたときから何やかや難癖をつけて手合いに持ち込む腹だったのだろう。  どうやったら無事に逃げおおせるかとあれこれ考えかけてから、ユージオは不意に馬鹿らしい気分に襲われた。初等生の頃からライオスらに対して不遜な態度を貫きつづけたキリトではなく、常に下手に出て相手の顔を立ててきたユージオが目の敵にされるのは理不尽としか言いようがない。アホウを相手にするだけ無駄だぜ、というキリトの声が聞こえてきそうだ。  どうせ、一ヵ月後に迫った最初の選考試合では、ライオスを完膚なきまでに打ち負かす必要があるのだ。早いか遅いかの違いでしかないなら、ここであれこれ言葉を重ねて余計な時間を取られるだけ骨折り損というものだ。 「では、証明して差し上げましょう」  ユージオはにこやかにそう言い、右手の木剣をくるりと回して相手の鼻先に突きつけた。 「な……」  一瞬ぽかんとしたライオスの顔が、みるみる真っ赤に染まる様はなかなか見ものだった。豪奢な金髪から湯気が出そうな勢いだ。 「これほどの侮辱は覚えがない! 天命を半分削られても文句は言わないでもらおう!」  学院内における双方合意の手合いであれば、寸止めではなく実際に攻撃を入れることも許されているが、しかし当然初撃で決着というルールは変わることがない。しかも今双方が携えているのは練習用の木剣であり、どれほど激しい一撃が入ったところで天命は一割も減らないだろう。修剣士なら誰もがマスターしている初歩の神聖術で容易く治療できる傷だ。  まったく大袈裟なことを言う奴だ、と思いながら、ユージオはライオスが距離を取り、芝居がかった仕草で腰から木剣を抜くのを眺めた。  望んだ手合いではないにせよこうなったからには負けるつもりはないが、しかし容易く勝てる相手ではないこともまた事実だ。傍系とは言え皇族のライオスは、幼い頃から一流の教師に剣術を学んでいるはずであり、学院の教練どおりの型による攻防なら向こうに分がある。上背も腕の長さもあちらが上、しかも華美な装飾が施された白樫の木剣までやたらと長い。  ——しかし幸い、この場には技を採点する教官は居ない。  ユージオは呼吸を整えながら、すっと腰を落とし、剣を右に低く落ろした。いかなる伝統流派の教本にも乗っていない構えだ。 「何を珍妙な……」  ライオスは鼻で笑い、背筋を伸ばして立つと剣を右体側に真っ直ぐ立てた。スーペリオ流長剣術・天衡の構え、繰り出される技は恐らく飛燕双翼の型……とユージオは読んだ。左右いずれかの偽打を見せてから反対側より本筋の飛んでくる厄介な技だが、知っていれば何ほどのことはない。 「それでは——始め!」  ウンベールの声とともに、ライオスの長剣が唸った。  ちかっと視界の左側で閃いた白光を、ユージオは落ち着いてやり過ごし、右から襲ってきた真打に合わせて剣を撃ち上げた。  ががばきびっ、と四つの音が連続して響いた。  最初の二つは、ユージオの剣がライオスの剣を右下から受け止め、即座に斬り返して左上から打ち込んだ一撃をライオスがぎりぎりの所で受けた音だ。その反射速度はさすがと言わざるを得ないが、息もつかせぬ右からの三撃目には対応しきれず、横腹を打たれた白樫の木剣はばきっと悲鳴を上げて中ほどからへし折れ——そしてくるりと体を回転させての最後の右水平斬りが、びっと鈍い音とともにライオスの長い髪をひと筋千切って頬の直前で止まった。  しん、と静まり返った修練場の床に、くるくると宙と飛んだ木剣の上半分が、重い音を立てて落下した。ライオスは両目を見開いて数歩後退すると、よろめいて片膝を付いた。 「ら……ライオス殿ォ!!」 「お怪我はっ……!!」  悲鳴を上げて駆け寄る取り巻きを、邪険に振り払ってライオスは立ち上がった。いまだ信じられないという顔で、手に残った剣の下半分を眺め、再度ユージオの顔を凝視する。 「な……なんだ、今の技は……」 「ええと……」  昔キリトから教わった、珍妙な流派の名前を思い出し、なるべく厳かな声音を作って口にする。 「——アインクラッド流剣術、直剣四連撃技ホリゾンタル・スクエア」 「あ……あいん……?」  ぽかんと口を開ける三人に向かって、ユージオは教官たちのしかめ面を真似ながら言った。 「ライオス殿が受けきれなかったのも無理はない、一本ずつ型のやりとりに終始する伝統流派には連続技という発想はありませんから。これを機に研究してみるといいでしょう。それでは」  一礼して身を翻そうとしたユージオは、ライオスの顔がどす黒い屈辱の色に染まり、いつもは涼しげな両眼に滴るような憎悪が溜まっているのを見て、やりすぎたか、と少々後悔した。こうなったらこれ以上面倒なことになる前に逃げるのが最善策だ。すっかりいつもの卑屈な態度に戻って再度頭を下げ、足早に出入り口に向かう。  扉を開け、後ろを見ないままホールに出たが、首筋のあたりにいつまでも粘つくようなライオスの視線がわだかまっているように思えた。これで今後はちょっかいを出してこなくなればいいけど、と溜息をつきながら、ユージオは足早に自室を目指した。  ある程度の嫌がらせは覚悟していたが、数日が経過しても、意外なほどにライオス達は大人しかった。  以前なら、寮や講堂で顔を合わせる折に一日一度は糖衣に包んだ蔑みの言葉を下賜してくれたものだが、修練場での手合い以来それもぱったりと途絶えている。キリトには念のため一件のことを説明し、連中に気をつけるよう注意しておいたのだが、そちらにも何の音沙汰も無いらしい。 「意外だなぁ、あんな事くらいで性根を入れ替える奴らじゃないと思ってたんだけどなあ」  お茶のカップを両手で抱え、ユージオが首を捻ると、キリトは少し考えてから答えた。 「でも、考えてみるとこの学院じゃあ嫌がらせひとつするのもそう楽じゃないぜ」  ずずっと音を立てて熱い液体を啜る。  やや波乱含みの一週間が終わり、明日はようやく休息日となった夜である。すでに稽古と入浴を済ませ、いつもなら挨拶もそこそこに互いの寝室に引っ込んで朝まで死んだように眠るのだが、この夜だけは共用の居間でお茶を飲みながらあれこれ話すのが毎週の恒例となっていた。  ユージオが首をかしげて先を促すと、キリトは黒い瞳をティーカップの中に向けたまま言った。 「例えばさ、子供の頃、ルーリッドの学校じゃあどんな悪戯をしてた?」  思いがけないことを訊かれ、眉をしかめて遠い昔の記憶を掘り返す。 「そりゃあ……僕は主にやられるほうだったけど……ほら、キリトも憶えてるだろ、あの衛士長のジンクとかにはよく苛められたなぁ。靴をどこかに隠されたり、弁当の袋にイライラ虫を入れられたり、アリスと一緒のところを囃されたりさ」 「ははは、子供のやることはどこの世界でも一緒だな。……でも、肉体的な苛め、例えば殴られたりとかそういうことはなかった。そうだろ?」 「当たり前だろ」  ユージオは目を丸くして答えた。 「そんなことするわけないじゃないか。だって……」 「——禁忌目録で禁止されてるからな。『別項に挙げる理由なくして他者の身体を意図的に傷つけるべからず』……靴を隠すのは問題ないのか、そう言えば? 盗みも禁止事項だろう?」 「盗むっていうのは、他人に所属する物を無断で自らに所属させることだよ。窓を開いてみればわかるけど、物の所有者属性が移動するのは、携行するか居室に置いてから二十四時間後だ。だから、例え合意のもとであげたり貰ったりしたものでも二十四時間以内なら正当に返却を要求できるし、合意なく持ち出してもすぐにどこかに放置すれば所有することにならないから盗みにもならない……。こんなの、五歳の子供でも知ってるぞ。いいかげん記憶が戻る気配はないのかい?」  ユージオの気遣いに、キリトは頭を掻きながら笑った。 「そ、そうか、そうだった気もするな。うーん、そんなシステムだったのか……危ねえなぁもう……」 「し、しすて……?」 「いや、なんでもない。……ん? じゃああれは? お前の青薔薇の剣を、昔話でドラゴンから盗もうとしたベルクーリは禁忌違反じゃないのかよ?」 「あのねえ、ドラゴンは人じゃないよ」 「そ、そっすか……」 「話を戻すと、物を隠す悪戯は禁忌に触れないけど、誰の所属領域でもない場所に放置された物は二十四時間後から天命の減少が始まるから、それまでに返却しないと今度は『他者の所有物の損壊』になっちゃう。おかげで靴はどんなに遅くても翌日には返ってきたけどね……でも、こんな話が、ライオスたちとどう関係するのさ?」  何故かげんなりした表情で椅子に沈みこんでいたキリトは、瞬きすると、自分で始めた話を忘れていたかのように口を開いた。 「ああ、そうだった。ええと、この学院には、禁忌目録とは別に長ったらしい院内規則が山ほどあるだろう。そこに確か、他者の所有物に許しなく手を触れてはならない、ってのもあった。だから、ジンク君がひ弱なユージオ少年を苛めたように、物を隠したり虫を入れたりとかはそもそも不可能だ」 「ひ弱は余計だよ。うーん……そうか。今まで考えたことなかったけど、確かにここだと嫌がらせしようにもその方法が無いよね……」 「せいぜい口で嫌味を言うか……これも明確な悪罵は禁止されてるから大して効果ないしな……もしくは、正当な手合いに持ち込んでぶちのめすくらいしかないぜ。それを試して返り討ちにあっちゃあ、もうあの皇帝の又従兄の孫だかひ孫だかにはできることは無いよ。そうだな、後は考えられるとしたら……俺を金品で懐柔してユージオ君と離反させるくらいかな……」 「え……」  反射的に不安な顔を作ってからユージオはしまったと思ったが、すでにキリトはニヤニヤ笑いを浮かべていた。 「心配しなくてもいいよユージオ少年。お兄さんは君を見捨てたりしないぞ」 「ふん、どうだか。ゴットロの店の特製肉まんじゅうでも出されたら尻尾振ってついていくくせに」 「それはありうるな」  真顔で言ってからわははと大声で笑い、キリトはお茶を飲み干すとカップをソーサーに置いた。 「ま、冗談はさておき、直接的な嫌がらせに関してはそれほど心配することはないだろう。だが……」  笑いを収め、わずかに両眼を細めて続ける。 「裏を返せば、禁忌目録と学院則に触れない行為なら何をやってもおかしくない、ということでもあるな。まったく、歪んだ倫理観だな……俺も何か見落としがないか、考えておくよ」  一つ頷いてキリトは立ち上がり、黒い部屋着の腰をぱんと払った。 「さて、もうすぐ消灯だしそろそろお開きにするか。ついては明日のことだがユージオ君、俺はちょっと用事ができて……」 「だめだよキリト。今回ばかりは逃げようったってそうはいかないぞ」  翌日の休息日に、二人は傍付き初等生のティーゼとロニエから、親睦会を兼ねたピクニックに誘われているのだった。同様の申し込みを先週もされたのだが、キリトがあれこれ理由を並べて逃亡してしまったため、ユージオは気落ちするロニエを慰めるのに大いに気を使ったのだ。 「あのねえ、もう二人が付いてから一ヶ月も経つんだよ。お前だって、初等生のときに付いたソルティリーナさんに散々気を使ってもらったろう」 「ああ……あの人はいい人だったなあ……。元気でやってるかなあ……」 「遠い目をするなよ! 僕が付いたゴルゴロッソさんは豪傑で大変だったんだからな……じゃなくて、今度はお前がいい人になる番だって言ってるんだ。いいな、逃げるなよ!」  ユージオがびしりと指をさすと、キリトは岩塩でも噛んだような顔をしてへいへいと頷き、おやすみの言葉とともに自分の寝室に消えていった。  ふうっと長い溜息をつき、ユージオは二つのカップをソーサーと共に小さな流し台に運んだ。汲み置きの井戸水で手早く洗い、きちんと拭いて棚に戻す。  耳の奥で、先刻キリトが漏らした、何をやってもおかしくない、という言葉がかすかな残響となって甦った。  これまでの十八年と少しの人生において、ユージオは一度たりとも、禁忌目録の穴を探そうなどと考えたことはなかった。禁忌は遵守を強制されるものではなく、天が上にあり地が下にあるのと同様の第一原則として常にそこにあった。  しかし、全ての人間が、例えばライオスのような人間にとっては、その限りではないということなのだろうか? 彼らは禁忌目録を意に反してやむなく守る——つまり、神聖教会によって創生の時代より定められた絶対の法を、邪魔なものだとさえ思っているのだろうか……?  まさかそんなはずは無い、とユージオは唇を噛んだ。もしそんなことが許されるなら、あの日アリスが整合騎士に連れ去られるのを黙って見送り、更に六年も法に従って黙々と木を切り続け、その間一度として禁忌目録と教会を疑うことのなかった自分は、葉っぱを食むことしかしらないイライラ虫よりも愚かだということになるではないか。  法とは、教会とは一体なんなのだろう——と、ユージオはその時はじめてちらりと考えた。だがすぐに思考を振り払い、明日に備えて眠るために自分の寝室へと歩きだした。  高い鋳鉄の柵に囲まれた修剣学院の敷地は、その六割以上が野原と森に占められている。  ルーリッドの村よりもはるか南に位置するだけあって、棲んでいる動植物の種類も豊富だ。故郷では見たことのない、金色の毛皮を持つ小型の狐やら青緑色のやたら細長い蛇やらがそこかしこで五月の陽光を満喫しており、ユージオはここに来て三年目であるにもかかわらずつい目を奪われた。  途端、隣を歩くティーゼが、頬をぷうっと膨らませながら抗議した。 「ユージオ先輩、聞いてるんですかー?」 「き、聞いてるよ、ごめん。……で、何だっけ?」 「聞いてないじゃないですか!」  よく熟した林檎の色の長い髪を揺らして憤慨する下級生に、慌てて弁解を重ねる。 「い、いや、あんまり森が綺麗だから、つい……。珍しい動物も居るし……」 「珍しい?」  ティーゼはユージオの視線を追ってから、なぁんだ、というように肩をすくめた。 「えー、金トビギヅネじゃないですか。あんなの、街に生えてる樹にだっていっぱい棲んでますよ」 「へえ……。そう言えば、ティーゼは央都出身だったよね。家は学院と近いの?」 「んー、皇宮の向こうだからちょっと遠いですね。パ……父親が皇宮で書記をやってるもので……」 「へえ!」  ユージオは改めて、垢抜けた雰囲気をまとう都会の少女を見やった。自分が二年前に着た時はやたらと野暮ったく見えた、灰色の初等練士の制服も、彼女が着こなすと不思議と軽やかな印象になる。 「じゃあ、お父さんは貴族なんだ?」  ややかしこまった口調で尋ねると、ティーゼは照れたように首を縮めながら短く頷いた。 「一応、六等爵士なんですけど……でも下級貴族もいいとこですから。“むしろ上級貴族の賞罰権に怯えなくていいぶん街の平民のほうが楽だぞ”っていうのが口癖なんです……あ、す、すみません私ったら」  先祖代々平民のユージオに対して配慮の足らない口を利いてしまった、と思ったらしく、しゅんとした顔でティーゼは謝罪した。 「や、気にしないで。うーんそうか、賞罰権ねえ……そんなのあったなあ……」  話題を変えるべく、ユージオはそう言いながら、初等生の頃勉強した帝国基本法を思い出そうとした。  皇宮の発布する基本法は、禁忌目録の下位規則で、主にノーランガルス神聖帝国の社会制度を定めている。それによれば、帝国のあらゆる土地に住む民はおしなべて皇帝の僕であり、それを勝手に使役したり税を課したり、あるいは褒賞することは、例え一等爵士であろうとも許されない。例外は、大貴族の私領地に住む民で、領主は自由に彼らを処罰し、または褒美を下賜する権利——もちろん大原則たる禁忌目録の許す範囲でだが——、つまり賞罰権を有する。  ユージオが不思議だと思ったのは、その賞罰権は三等級以上離れた貴族同士にも設定されており、つまり例えば一等から三等の爵士は最下位である六等爵士を皇帝に代わって裁くことが可能だ、ということだ。  法学の老教師に、なぜそんな補則があるのか訊いてみたところ、戦時に貴族によって構成される軍司令部を円滑に動かすためだと教えられた。しかし、戦争などというものは、創生神ステイシアが人の子に世界を与えたその時よりついぞ起きたことはないのだ。二百年ほど前まで、東と西の帝国と何度か国境線に関して揉めたことはあるらしいが、その時もそれぞれの国代表の剣士による試合で決着したのだと言う。  つまり、今や貴族間の賞罰権など形骸化しすぎもいいところだと思うのだが、そこはそれ、宮廷における勢力争いやつまらない苛めの道具として活用されているらしい。 「だからー、お父様は、長子の私が家を継ぐときには、せめて四等爵士に叙せられてほしいと思って、それでこの学院に入れたんです。もし学院代表に選ばれて、四帝国統一大会でいい成績を残せば、それも有り得ないことじゃないですから……。まあ、どうも無理っぽいんですけどね」  ちらりと舌を出して笑うティーゼを、ユージオはふと眩しく感じて、少し目を細めた。かつて教会に連れ去られた幼馴染と再会する、という考えようによっては女々しい動機でこの場所にいる自分と違って、家の為に剣名を上げようというティーゼの動機は至極真っ当なものであるように思えたからだ。 「そうか……ティーゼは凄いんだね。お父さんを喜ばせるためにがんばって、初等生で上位十二人に入っちゃうんだから」 「そ、そんなことないですよー。最初の試験で、運良くいくつか勝てただけですから。三歳の頃から個人教授を受けててこの程度ですもン。ユージオ先輩のほうがずっと凄いですよ、衛兵隊からの推薦枠ってとっても狭いのに、そこを楽々突破して、しかも一年飛び級して、中等錬士から上級修剣士になっちゃうんですから。私、ユージオ先輩の傍付きになれて、ほんとに光栄だと思ってるんですよ」 「い、いや、そんな……ぜんぜん楽々とかじゃなかったよ。飛び級できたのも、半分以上キリトの特訓のお陰だし……」  むしろインチキ技……と思うがそこは口に出さない。 「へええ! じゃあユージオ先輩よりキリト先輩のほうが強いんですか?」 「…………そう訊かれると、うんと言うのも癪だけど……」  あははは、と楽しそうに笑うティーゼと同時に、少し前をロニエと並んで歩く相棒の後姿を見やる。  あの木石男は、ちゃんと傍付き下級生の相手が出来ているのか、と心配になり耳をそばだてると、意外に滑らかな口調で話すキリトの声が途切れ途切れに聞こえた。 「……だから、尖月流影の構えから派生する型のうち、実際に備えるべきものは二つしか無いと考えていいんだ。真上からか真下から、それ以外は無駄な動作が入るから見てからでも受けが間に合う。ではどうやって上か下かを見分けるかと言うとだな……」  ——まあ、内容はさておき、ロニエも熱心に聞いているようだし良しとしよう、と小さく溜息をついてから、ユージオはふと考えた。  自分の、アリスにもう一度会いたい、という動機が不純なものだとすれば、一体キリトは何故この学院で辛い訓練や面倒な勉強に耐えているのだろう? 過去の記憶が無い彼にとって、自分や家の名誉のためといった動機は意味を持たないはずだ。二人の友誼のためだけに、二年間も行動を共にしてくれているともなかなか思えない。  あるいは、キリトこそが最も純粋な求道者なのだろうか——という気がすることもある。あの圧倒的な身体能力に加え、アインクラッド流連続剣技という秘剣をも操る彼は、尚も更なる強さを得んがためだけにこの学院で学んでいるのだろうか……? もしそうであるなら、いつか二人の動機が道を違えるときが来てしまったら、果たして今の僕は彼に——。 「あ、あの池のほとりがいいんじゃないですか?」  ティーゼが右手を伸ばしてはしゃいだ声を出し、ユージオを物思いから引き戻した。指差すほうを見ると、たしかに綺麗な湧き水の池の岸辺に柔らかそうな下草が繁っている場所は、弁当を食べるのに最適なように見えた。 「よし、そうしよう。——おーい、キリト、ロニエ! あそこで食べよう!」  ユージオが大声を出すと、無二の相棒はくるりと振り向き、いつもの少年のような笑みを浮かべて片手を上げた。  敷き布がわりのテーブルクロスを草の上に広げ、四人は向き合って腰を下ろした。 「ああっ……ハラ減った……」  大袈裟な仕草で胃のあたりを押さえるキリトを見て、ロニエとティーゼはくすくす笑いながら持参した大きなバスケットを開いた。 「あの、私たちが作ったので、お口に合うかどうか……」  恥ずかしそうに言い添えるロニエの様子からは、普段の“任務活動”中の緊張ぶりはほとんど感じられず、ユージオは無理矢理キリトを引っ張ってきた甲斐があったなあと考えた。これで黒衣の上級修剣士が見た目ほど怖い人物ではないと分かってもらえれば、きっと打ち解けるのも早いだろう。  バスケットに詰まっていたのは、薄焼きパンに肉や魚、チーズと香草類を挟んだサンドイッチに、スパイスの効いた衣をつけて揚げた鶏肉、干した果物とナッツをたっぷり入れて焼いたケーキ、クリームで練ったチーズを詰めたタルトといった豪勢なメニューだった。ティーゼがそれぞれの料理の天命を確認するやいなや、早速キリトが頂きますもそこそこに揚げ肉をつまんで口に放り込み、しばらくモグモグしてから学院の教師のような口調で言った。 「うむ、うまい。跳ね鹿亭に優るとも劣らない味だぞ、ロニエ君、ティーゼ君」 「わあ、ほんとですか」  ほっとした顔で少女二人が言い、互いに顔を見合わせて笑う。ユージオも負けじと手を伸ばし、魚の燻製を挟んだサンドイッチに大きくかぶりついた。はるかな昔、ギガスシダーと格闘するユージオにアリスが毎日届けてくれた弁当と違って、パンも白いしバターも贅沢に使ってある都会風の味だ。央都に来たばかりの頃は、洗練された上品な料理に馴染めず苦労したものだが、今では素直に美味いと思える。これが慣れるってことなのかな、と内心で呟きつつ、ユージオもティーゼに向かって頷きかけた。 「うん、すごく美味しいよ。でも、材料とか揃えるの、大変だったんじゃないの?」 「あ……えーと、実は……」  ティーゼは再度ロニエと目配せを交わすと、首を縮めながらかしこまって言った。 「ご承知のとおり初等生は特段の事情なく学院から出られないので、その……昨日キリト上級修剣士殿にお願いして、市場で揃えてきて頂きました」 「な、なんだって」  思わず唖然として、こちらに目もくれず料理をがっついているキリトを見やる。 「いつの間にそんなに打ち解けたんだ……僕の心配は一体……。お前なあ、そこまでしといて今更逃げようとするなよな!」  脱力感に続いてむかむかと腹が立ってきて、ユージオは一番大きく切り分けられたチーズタルトを掻っ攫うとがぶりと噛み付いた。 「ああっ、俺が目をつけていたのに……。ま、なんだ、俺としてはむしろユージオ修剣士殿に気を回したつもりなんだが」 「余計なお世話だよ、まったく。僕の方には何の問題もないぞ!」  にやにや笑うキリトに釘を刺してから、目をぱちくりさせているロニエとティーゼに向かって思わず愚痴っぽい口調になって言う。 「こいつはね、昔っからこういう奴なんだよ。二人で央都まで文無し旅をしてる頃も、最初は胡散臭がられたり怖がられたりする癖に、気付くと農家のおかみさんとか子供とかに気に入られて美味しいものを貰ったりしてるんだ。その手に乗せられないように気をつけたほうがいいよ二人とも」  しかしどうやらすでに手遅れだったらしく、俯いたロニエがかすかに顔を赤くしながら首を振った。 「いえそんな、手だなんて……。キリト先輩が、怖そうだけどほんとは優しい方なのは、すぐに分かりましたから……」 「あっ、もちろんユージオ先輩もですよ」  付け加えるティーゼに力ない笑みを返し、ユージオはタルトのかけらを口に放り込んだ。素知らぬ顔で尚も健啖ぶりを発揮しているキリトを、なんとか一度やり込めてやる方法は無いものか、と横目で睨んでいると、不意にティーゼとロニエが改まった様子で居ずまいを正した。 「あの……実はですね、お二方のその優しさを見込んで、ひとつお願いがあるんです」 「は、はい? ……どんな?」  ユージオが首をかしげると、ティーゼは赤毛を揺らして低頭した。 「大変申し上げにくいことなんですが、その……先日ユージオ修剣士殿が仰っておられた、傍付きの指名変更を教官に口添え頂きたく……」 「な、なんだって」  再度絶句してから、それではこの豪勢な料理は手切れの品だったのか、と暗澹たる気分に襲われつつユージオは念のため確認した。 「そ、それは……僕の傍付きを辞めたいという……? それともキリト……もしかして両方……?」  すると、ロニエとティーゼは伏せていた顔を上げ、一瞬ぽかんとした表情を見せてから、同時にぶんぶんと激しくかぶりを振った。 「ち、違います! 私たちじゃないです、そんな、とんでもないです。お二人の傍付き指名はむしろ代わって欲しいって子が一杯いて……いやそうじゃなくて、変更をお願いしたいのは、寮で同室の子なんです。フレニーカって名前で、すごく大人しい、いい子なんですが……その、付いた上級修剣士殿が、とても厳しい方らしくて、お部屋の掃除以外にも色々お命じになられて、それはいいんですが、ここ数日、些細な粗相に余りに厳しい懲罰を戴いたり、あるいは……学院内ではその、不適当と思われるようなお世話をお言いつけになったりと……」  言いづらそうに口篭もるティーゼの言葉に、先刻とは別種の驚きに打たれながらユージオは呟いた。 「なんだって……しかし、いくら修剣士でも、学院則に定められた範囲以外のことを傍付き練士に命じることはできないはずだけど……」 「はい、それは……院則に触れるようなことはもちろんなさらないようですが、院則もあらゆる行為を網羅しているわけではありませんから……違反にはならずとも、その、少々受容しがたいご命令を色々と……」  顔を真っ赤にして言を重ねるティーゼの様子を見て、ユージオはおぼろげに問題の修剣士がどのようなことをフレニーカという傍付き初等生に命じているのかを察した。 「いや、それ以上言わなくても大体わかったよ。確かに院則の文言だけを見てその精神を無視すれば、不埒な命令を強要することも不可能じゃない……。すぐにでも協力したいけれど……しかし、確か……」  頭の中で、二年前に暗記した学院規則の一部をなぞりながら続ける。 「ええと……上級修剣士の鍛錬を最大限支援するため、身辺の雑務役として一名の世話係を置く。世話係は、その年度の初等練士より成績順に十二名を選抜しこれに充てるが、上級修剣士とその指導教官の合意があれば、世話係を解任し、他の初等練士を再指名することを可能とす……だったかな。つまり、教官だけじゃなくてその修剣士本人の承認が要るんだよね。まあ、説得はしてみるけど……問題の修剣士の名前は?」  と訊いてから、ユージオはふと嫌な予感を覚えて眉をしかめた。ティーゼはしばらく逡巡したあと、言いづらそうに小声でその名を口にした。 「あの……ライオス・アンティノス上級修剣士殿、です」  聞いた途端、キリトが露骨な舌打ちをひとつ鳴らし、吐き出すように言った。 「あの陰険皇族め……ユージオに手も足も出なかったくせに、まだそんな腐った真似してるのか。今度は寸止めじゃなくて、ほんとにぶちのめしてやれよ」 「いや……もしかしたら、むしろ僕のせいかも……」  ユージオは唇を噛み、不思議そうな顔をしているティーゼに説明した。 「実はね、確か……六日前かな。ライオス修剣士に手合わせを申し込まれて、その……何というか、彼の誇りが大きく傷つくような勝ち方をしてしまったんだ。酷く恨まれたろうと思って気をつけてたんだけど、まさか自分の傍付き練士を苛めるなんて……」 「まったくだ、ただの八つ当たりじゃないか、下衆野郎め」  それを聞いても、ロニエとティーゼには事情がよく飲み込めないようだった。小さく首をかしげながら、覚束ない口調で呟く。 「ええと……つまり、アンティノス上級修剣士殿は、ユージオ先輩に手合いで負けたことの、ええと……何て言ったっけ……」  言葉を探すティーゼに、ロニエが同じく自信の無さそうな口調で助け舟を出した。 「腹いせ……って言いましたっけ、そういうの……」 「そう、それです。負けた腹いせに、フレニーカを辱めるような御用をお言いつけになられていると、そういうことですか……?」  おそらく、下級とはいえ貴族の長子として大切に育てられてきたのだろう少女二人には、卑劣としか言いようのないライオスの行為を理解することは容易ではないのだろう。表す語彙を持たないほどに、それは異質な思考なのだ。  彼女らに比べれば温室の花と野の雑草ほどにも違うユージオにとっても、理解も、ましてや納得のできることではなかった。  ルーリッドの村には、ジンクのような“意地悪”な子供は何人かいたが、彼らの行動は至極単純な理屈に基づくものだった。多分アリスのことが好きだったのだろうジンクは、いつも彼女と一緒だったユージオが必然的に気に入らず、靴を隠すような嫌がらせをしたのだ。その心理ならユージオにも理解できる。自分だって、まさにライオスのことが好きではないという理由だけによって、避けることもできた手合いを受け、折らずとも済んだ相手の木剣を折り、不必要な言葉を浴びせたのだ。  だが、それによって発生した怒り、屈辱を解消するのに、ほぼ唯一の選択肢であるはずの“剣の腕を鍛えて次はユージオに勝つ”という道を選ばず、ユージオとはまったく無関係である自分の傍付き練士——本来であれば教え導かねばならないはずの年若い少女を辱めて気晴らしするという思考はまったく理解できない。  腹いせ、八つ当たりという言葉が存在するのは知っている。ユージオも、幼い頃一度だけ、父が年長の兄にのみ買い与えた練習用の木剣が羨ましくて仕方なく、父手作りの不恰好な自分の木剣で何度も岩を叩いてそれを折ってしまったことがある。当然父親には、それは八つ当たりという最低の行為のひとつだとこっ酷く怒られ、以後二度と同じことはしなかった。  自分の木剣を折るのは禁忌違反ではないし、法に触れない範囲で後輩を苛めるのも同じく違反ではないのだろう。しかし——だからと言って、それは“やっていい”ことなのか? あの分厚い黒革の書物は、“ここに書いてあることは全てしてはいけない”というだけではなく、“ここに書いていないことは全て行ってよい”とも言っているのだろうか……?  長い沈黙のなかで、恐らくユージオと同じ疑問に翻弄されていたのだろうティーゼが、自分に言い聞かせるようにぽつりと呟いた。 「私には……私には、わかりません」  幼さの残る頬を強張らせ、細い眉をきゅっと寄せて、六等爵士の跡取りである少女は懸命な様子で言葉を続けた。 「アンティノス家と言えば、傍系とは言え皇位継承権を持つ三等爵家です。私やロニエ、フレニーカの家よりもずっと大きなお屋敷を構えて、領地には私有民だって沢山暮らしてるんです。つまり……ええと、その……」  しばらく唇を震わせ、また話しはじめる。 「……私のお父様は、いつも言ってました。うちが貴族なのは、遠いご先祖様が、今平民と言われている多くの人たちよりほんの少し早くこの土地に家を建てたからに過ぎない、って。だから私達は、平民の人たちより少し大きな家に住み、少しいいものを食べ、平民の人たちが収める税金の中から毎月お金を貰っているのを、当たり前と思ってはいけない……貴族であるということは、貴族でない人たちが楽しく暮らせるよう力を尽くし、そしてもし戦が起きたときは、貴族でない人たちより先に剣を取り先に死ななければならないということなんだ、って……。だから……だから、つまり、六等、五等、四等爵士よりも大きな家と沢山のお金を持っているライオス殿は、私達よりももっと平民の、そして下級貴族のことを考え、その人たちの幸せのために尽くさなければならないのではないのですか? 例え禁忌目録に書いていないことでも、それが民を不幸にすることであれば絶対に行ってはならない、とお父様は言いました。ライオス殿の行いは、確かに禁忌にも学院則にも触れないかもしれませんが……でも……でも、フレニーカは昨夜、ベッドでずっと泣いてました。なんで……なんでそんなことが許されるのでしょう……?」  痛々しいほど一生懸命に長い言葉を口にし終えたティーゼの両目には、大粒の涙が浮かんでいた。しかし彼女とまったく同じ疑問に突き当たったユージオは、彼女にどう答えてよいのか分からなかった。 「素晴らしいお父さんだな、一度お会いしてみたいよ」  その声があまりにも穏やかな響きを帯びていたので、ユージオはそれがキリトの口から出たものだということがすぐには分からなかった。  日ごろ剣呑な眼光で同期の生徒たちにすら恐れられている黒衣の修剣士は、樹の幹に上体を預け、胸の前で腕を組んで、いたわるような視線をティーゼに向けたまま続けた。 「ティーゼのお父さんが言っているのは、ノーブレス・オブリージという、文字にはなっていないがしかし何より大切な精神の在り様のことだ。貴族、つまり力あるものは、それを力なき者のためにのみ使わなくてはいけない、という……そうだな、誇りと言ってもいい」  初めて聞く異国風の言葉だったが、しかしその意味するところはユージオにもすぐに理解できたような気がして、思わず頷いた。キリトの声は、春風の中に尚も穏やかに流れ続ける。 「その誇りは、法よりも大切なものだ。例え法で禁じられていなくても、してはいけないことは存在するし、また逆に、法で禁じられていても、しなきゃいけないことだってあるかもしれない」  その、言わば禁忌目録を——つまり神聖教会を否定するような発言に、ロニエとティーゼがはっと息を飲んだ。キリトは二人をじっと見詰め、尚も口を動かした。 「ずっとずっと昔にいた聖アウグスティヌスという人がこう言ってる——正しくない法は法ではない、ってね。どんな立派な法や権威でも、盲信しちゃだめだ。例え教会が許していたって、ライオスの行為は絶対に間違ってる。罪の無い女の子を泣かせるような真似が許されていいはずがないよ。だから誰かが止めさせなきゃいけないし、この場合その誰かというのは……」 「ああ……僕らだろうね」  ユージオはゆっくり頷き、しかしいまだ飲み込めない疑問をキリトにぶつけた。 「でもキリト……法が正しいか正しくないか、誰が決めるんだ? 皆が好き勝手に決めたら、秩序なんてなくなっちゃうだろう? それを皆に代わって決めるために神聖教会があるんじゃないのか?」  教会が間違うなんてことがあるはずがない、とユージオは胸中で呟いた。確かに万能ではないのかもしれない、だからライオスの非道な行為を見逃してしまった。しかしそれは、ユージオの靴を隠すジンクの意地悪を見逃したのと、本質的には同じことではないのだろうか? ジンクの悪戯をシスター・アザリヤが叱り付けたように、ライオスの行為は自分とキリト、そして多分学院の教官が法の許す範囲で処断する。それは、教会の無謬性を疑うのとはまったく別の事であるはずだ。  ユージオの問いに答えたのは、キリトではなく、今までずっと俯いたまま黙していたロニエだった。常に控え目な黒髪の少女が、瞳に力強い光を浮かべてきっぱりした口調で言ったので、ユージオは少し驚いた。 「あの……私、キリト先輩の仰ったこと、少しだけわかった気がします。禁忌目録に載ってない精神……それって、つまり、自分の中の正義ってことですよね。法をただ守るんじゃなくて、なんでその法があるのか、正義に照らして考える……そう、疑うんじゃなくて、考えることが、大切なのかなって……」 「うん、その通りだロニエ。考えることは人の一番強い力だ。どんな聖剣よりも強い、な」  そう言って微笑むキリトの眼には、感嘆と、そしてそれ以外の何か奥深い感情が漂っているように見えた。二年付き合ってもまだ謎の多い相棒に、ユージオはふと湧いた疑問をぶつけてみた。 「しかしキリト、さっき言ってた聖アウグス何とかって奴は何者なんだ? 昔の司祭……それとも整合騎士かい?」 「うーん、司祭かな。別の教会の、だけどな」  そう答えてキリトはにやりと笑った。  空になったバスケットを一つずつ下げ、何度も手を振りながら初等生寮のほうへ去っていくロニエとティーゼを見送ったあと、ユージオは短く息を吐きながら相棒の顔を見た。 「……お前、何か考えあるか?」  尋ねると、キリトも口をへの字に曲げてしばし唸る。 「ライオスの件か……。俺たちが、下級生を苛めるのはやめろと言ったところで、素直にやめる奴じゃないのは確かだよな……しかしなあ……」 「しかし……何だよ?」 「いや……ライオスは確かに鼻持ちならない奴だけど、馬鹿じゃないよな……上級修剣士に選抜されるからには、剣の腕だけじゃなくて、神聖術とかその他学科の成績だっていいはずなんだ」 「まあね、腕っ節だけで選抜された誰かさんよりはね」 「そういう奴は二人いたって話だぜ、実は」  ついいつものように軽口の応酬を始めかけてから、そんな場合じゃないと思い直し、ユージオはキリトに先を促した。 「それで……?」 「だから、ライオスの奴は、本当に自分の傍付き練士に八つ当たりして満足するような馬鹿ったれなのか、って事さ……。確かに一時の気晴らしにはなるのかもしれないけど、長期的に見れば損失のほうが多いだろう? 悪い噂だって立つだろうし、教官の耳に入れば懲罰は無くとも注意くらいされてもおかしくない。体面に拘るあいつが、そんな危険を冒すかな……」 「でも……フレニーカって子に酷いことしてるのは事実なんだろう? 損得を計算できないくらいに、僕に負けたことに腹が煮え繰り返ってるってことじゃないのか? やっぱりこのままにはしておけないよ、僕にも原因があるなら、どうしたってひとこと言ってやらないと……」 「だからさ、そこだよ」  キリトは、ニガチグリの実を生で齧ったような顔で言った。 「もしかしたらこれは、俺たちを狙った手の込んだ罠なんじゃないのか? 俺たちが奴の仕業を抗議に行く、そこで何らかのやり取りがある、結果として俺たちが学院則に違反してしまう……みたいな仕掛けになってるとしたら……」 「ええ?」  ユージオは、予想外の言葉に思わず眼を丸くした。 「まさか……そんなこと有り得ないだろう。僕たちとあいつは同格の修剣士だよ、具体的な侮辱の言葉を口にしたりしない限り、何を注意したって逸礼行為にはならないはずだ。お前も、挑発されたくらいであいつのことをその……餌の食いすぎで飛べない灰色鴨を意味する単語呼ばわりするほど馬鹿じゃないだろ?」 「逸礼行為……ああ、上級生に対してのみ発生するあれか……あったなぁそんなの、すっかり忘れてたよ」 「おいおい、危ないなぁ。ライオスに会いにいくときは僕が喋るからな、お前は黙って怖い顔だけしてろよ!」 「おう、それなら得意だ」  はあっ、と溜息をついて、ユージオは結論を出すべく呟いた。 「ともかく、ティーゼ達に約束したんだ、放っておくわけにはいかないよ。まずライオスに口頭で注意して、それでだめなら指導教官に書面でフレニーカの配置換えを要請しよう。ライオスを聴聞くらいはしてくれるだろう、それだけでもあいつにはいい薬になるはずだ」 「ああ……そうだな……」  まだ浮かない顔のキリトの背を叩き、ユージオは丘の上に見える修剣士寮に向かって歩き始めた。ティーゼ達の話を聞いたときに感じた憤りは容易に去ろうとせず、自然とユージオの歩みを急きたてる。  二年前の春、何がなんだかわからないままに初等練士第六位の席次を与えられたユージオを丘の上の修剣士寮で待っていたのは、ゴルゴロッソ・バルトーという名の、とても二十歳前には見えない威丈夫だった。ユージオよりも頭一つ以上大きい体躯はがっちりとした筋肉に覆われ、口もとの整えられてはいるが黒々とした髭と相まって、最初は間違えて教官の部屋に入ってしまったかと思ったものである。  ゴルゴロッソは、萎縮の極みで立ち尽くすユージオを炯炯とした眼光でじろりと一瞥し、野太い声で短く「脱げ」と命令した。ユージオはまず唖然とし、次いで暗澹たる気分に襲われたが、逆らうわけにもいかず灰色の制服を脱いで下着一枚になった。再び強烈な視線が全身に浴びせられ——そしてゴルゴロッソは髭面をにかっと破顔させると、大きく頷いて「よし、よく鍛えているな」と言ったのだった。  心の底からほっとしながら再び制服を着たユージオに、ゴルゴロッソは自分も貴族ではなく衛兵隊上がりであるということと、席次順の振り分けではなくあえてユージオを指名したことを教えてくれた。以降一年間、彼はその豪放磊落ぶりで時折ユージオを困らせたが、決して理不尽なしごきをするようなことはなく、むしろ親身になって剣術の指導をしてくれたものだ。自分が上級修剣士にまで到達することができたのは、キリトのアインクラッド流実戦剣法と同じくらい、ゴルゴロッソの手ほどきになるバルティオ流の勇壮な型のお陰もあると、ユージオは今でも思っている。  ゴルゴロッソが惜しくも代表の選に漏れて央都を去るその日、ユージオは一年間秘めつづけてきた疑問を彼にぶつけた。何故、同じ衛兵推薦枠のキリトではなく自分を指名したのか——と。  刈り込まれた髭を撫でながら、ゴルゴロッソは答えた。——確かに、お前さんよりもあいつのほうがわずかに剣の腕は上だと、最初の選考試合を見たときに分かったさ。だがな、だからこそ俺はお前さんを指名したのよ。上を睨んで必死に足掻く奴だと思ったからな、俺のようにな。……まあもっとも、リーナの奴にキリトを譲れって言われたせいもあるがな。  がははは、と豪快に笑ってから、ゴルゴロッソは分厚い手でユージオの頭をごしごし撫で、言った。絶対に修剣士になれよ、そして自分の傍付き練士を大事にしてやれ、と。ユージオは嗚咽を堪えながら何度も頷き、去っていくゴルゴロッソが見えなくなるまで直立不動で見送った。  修剣士と傍付き練士というのは、単に上級生とその世話係というだけのものではないことを、彼は教えてくれたのだ。そこにあるのは、真の剣士の在り様を連綿と伝える魂の交流なのである。恐らく自分はゴルゴロッソ程の指導役にはなれまい、とユージオは思う。しかしそれでも、彼に教わったことの何分の一かでもティーゼに伝えるべく、全力を尽くさなくてはならない。そう——これこそ、さっきキリトが言っていた、“規則には書いていないが何より大切なこと”そのものではないか。  ライオスには分からないのかもしれない。傍付きになるのが嫌で選考試合で手を抜き、初年の席次を十三位に留めたあの男には。だとしても、言うべきことは言わなくてはならない。  正面のドアを両手で押し開き、寮のメインホールに入ると、ユージオはブーツを音高く鳴らしてそのまま三階のライオスの部屋を目指した。  円筒形の修剣士寮は、二階と三階が学生の居室となっている。それぞれ六人ずつの修剣士が寝起きしており、一つの共用居間を挟んで二つの個人用寝室が連結した構造を持つ。  三階南面に位置するライオスの部屋のドアをユージオがノックしたとき、それに応えて誰何したのは同室のウンベールの声だった。 「ユージオ修剣士とキリト修剣士です。ライオス殿に少々お話が」  気負わないよう意識しながらユージオがそう言うと、内部はしばらく沈黙し、やがてドアが乱暴に押し開けられた。しかめ面で二人を迎えたウンベールは、穴掘ネズミを思わせる甲高い声で半ば叫んだ。 「事前に伺いも立てず押しかけるとは無礼な! まず押し印つきの書状で面会の許しを求めるのが筋であろう!」  ユージオが何かを答える間もなく、ウンベールの背後から鷹揚な調子でライオスの声が響いた。 「よいよい、私とユージオ殿の仲ではないか。お通ししたまえウンベール。こう突然では残念ながらお茶の用意はできないが」 「……ライオス殿のご厚情に感謝するのだぞ」  唇を突き出してそう言い、一歩退くウンベールの脇を、一体これは何の寸劇だと思いながらユージオはすり抜けた。 「一体こりゃ……」  後ろに続きながら、実際にその感想を口に出そうとするキリトの脛を踵で蹴って黙らせておいて、ソファーに身を沈めるライオス・アンティノスの前まで歩く。  三等爵家の跡取り息子は、既に貴族気取りなのか何なのか、いつもの純白の制服ではなくゆったりとした薄物のガウンのみを身につけていた。赤紫色の生地は悪趣味以外の何ものでもないが、艶やかな光沢は高級な南方産の絹特有のものだ。右手に持った、これも上等のカップから漂う香りは東域の白茶だろう。それに口をつけてゆっくりと啜ってから、ライオスは顔を上げてユージオを見た。 「……それで、我が友ユージオ修剣士殿におかれては、休息日の宵時に一体どのような急用かな?」  ユージオ達の部屋にある物とはこれもまるで違う革張りのソファーを勧める気はまるで無いようだった。その方が好都合だと思いながら、ユージオはライオスをでき得る限りの厳しい顔で見下ろし、言った。 「少々好ましからざる噂を耳にしましたのでね、ライオス・アンティノス修剣士殿。友がその芳名を汚す前にと、僭越ながら注進に参った次第です」 「ほう」  ライオスはやけに紅い唇の端をわずかに歪めて笑うと、再びカップを傾け、その湯気越しに切れ長の眼を細めた。 「これは意外でもあり望外のことでもあるな、ユージオ殿に我が名を案じて戴けるとは。しかし惜しむらくはその噂とやら、まるで思い当たらない。不明を恥じつつお教え願うよりないようだ」  これ以上こんな芝居に付き合っていられるか、とばかりに、ユージオは半歩にじり寄ると直截に言い放った。 「ライオス殿が傍付きの初等練士に卑しい行いをなさっておいでだとの話を聞き及んだのです。心当りがおありでしょう!」 「無礼であろうッ!」  半ば裏返った声を返したのは、いつの間にかライオスの右斜め後ろに従者のごとく控えていたウンベールだった。 「家系も持たぬ開拓民が三等爵家長子であられるライオス殿に、こともあろうに卑しいなどとッ」 「よいよい、構わぬウンベール」  目蓋を閉じ、ライオスは左手をひらひら振って子分を黙らせた。 「たとえ生まれは違おうとも、今は共に同窓に学ぶ一修剣士ではないか。何を言われようとも逸礼を責めることはできまいよ、この学院の中ではな。……しかしまあ、それが根も葉もない中傷ということになればまた別の話ではあるがな。ユージオ殿は一体どこからそのような珍妙な噂を聞きつけてきたのかな?」 「互いに無為な時間を過ごしたくはないでしょうライオス殿、惚けるのは無しにしましょう。根も葉もないことではありません、ライオス殿の傍付き練士と同室の者たちから直接話を聞いたのです」 「ほう? それはつまりこういうことかな? フレニーカが自らの意思で公式に、同室の練士を通じてユージオ殿に私への抗議を要請したと?」 「……いや、そうではありませんが……」  ユージオは思わず唇を噛む。確かにフレニーカという初等生から直接口添えを頼まれたわけではないので、根拠のない中傷と言い張られれば否定するのは難しい。  しかし、今や愉悦を隠そうともせず脚を組んでニヤニヤ笑っているライオスを前に引き下がることなどできる訳もなく、ユージオは鋭い声で問い返した。 「……ならば、ライオス殿こそ今公式に否定なさるのですね? ご自分が、フレニーカという傍付き練士にいかなる逸脱行為も命じておられないと?」 「ふむ、逸脱。奇妙な言葉だなユージオ殿。もっと分かりやすく、学院則違反と言ったらどうかな?」 「…………」  思わず歯噛みする。学院内規則とは言え、それは学生及び教官にとっては禁忌目録と同じくらい重要な規範であり、敢えて破ろうとする者など居ようはずもないからだ。いかに高慢なライオスでもそこまではしない、いやできないことはユージオにも分かりすぎるほど分かっている。しかし、だから尚のこと許せないのだ。院則違反でなければ何をしてもいい——と言わんがばかりの彼の行為が。大きく息を吸い、ユージオはさらに言い募った。 「ですが、学院則で禁じていなくとも、初等練士を導くべき上級生としてすべきでない事というのはあるでしょう!」 「ほう、それではユージオ殿は、いったいこの私がフレニーカに何をしたと仰るのかな?」 「……そ、それは……」  ティーゼ達に詳細な説明をさせるのが忍びなく、辱めの具体的な内容を聞かなかったユージオは、思わず口篭もった。するとライオスは大仰な仕草で両手を広げ、首を左右に振りながら溜息混じりに言った。 「やれやれ、さすがにそろそろ付き合いきれなくなって参りましたぞ、ユージオ殿。これではいくら私がよくとも、このウンベールが教官に明白な侮辱行為があったと報告するのを止めさせるのは、少々難しいと言わざるを得ないな。——言っておくがねユージオ殿。私はフレニーカが嫌がるようなことは一切していないと断言できるよ。何故なら彼女は一度も嫌だと言ったことがない」  ライオスは毒が口もとのカップに滴るような笑みを浮かべ、続けた。 「そう、いくつか他愛ないことを命じはしたがね。貴君も覚えておいでだろうが、先日修練場で手酷く敗北を喫してから私も心を入れ替えて鍛錬に打ち込んでいてね、それまで醜い筋肉がつくような稽古を控えていたせいもあって全身が痛くて仕方ない。已む無くフレニーカに毎夜、湯浴みの折に体を揉み解して貰ったまでのこと。どうかな、聞いてみればまったく他愛の無い話とユージオ殿もお思いだろう。その上、制服が濡れては困ろうと、フレニーカにも裸になることを許す寛大さ、わかって頂きたいな」  クックッと喉を鳴らして笑うライオスの顔を呆然と見やりながら、ユージオは心底にあまり覚えのない感情が湧いてくるのを意識していた。このような人間を言葉だけで、つまり学院則にも禁忌目録にも触れることなく説得することが果たして可能だろうか——という疑問。  木剣をその顔に突きつけて即座の手合いを申し込むべく右手をぴくりと動かしてから、ユージオは腰が空であることに気づいた。大きく何度か呼吸して無理やりに気を鎮め、可能な限り抑制した声を出す。 「……ライオス殿、そのような事が許されるとお思いなのですか。確かに……確かに院則に規定はありませんが、それは規定するまでもない事だからでしょう。傍付きに服を脱ぐよう命令するなど、なんと恥知らずな……」 「ハハハハハ!」  突然ライオスが口の端を大きく吊り上げ、けたたましい笑い声を発した。まるでユージオがその言葉を口にするのを待っていた、とでもいうように。 「ハハハ! ユージオ修剣士殿からそのような苦言を頂戴するとは思いませんでしたぞ、ハハハハハ! 聞けばユージオ殿はご自分が傍付き練士であった頃、あの人だか熊だかわからぬ修剣士に夜な夜な服を剥かれておったそうではないか!」 「奇しなる話ですなあ! 己は好んで裸になりながら、他人を恥知らず呼ばわりなどと、はっはっ!」  ウンベールがすかさずキイキイと追従の笑いを振り撒く。  再度襲ってきたある種の名状しがたい衝動に、ユージオの右手が大きく震えた。危うく明白な悪罵を口にしてしまいそうになった瞬間、背後のキリトが踵をこつんと蹴ってきて我に返る。  確かにゴルゴロッソは月に一度ほど、ユージオに上着を取るよう言うことがあった。しかしそれは筋肉のつき方を見て不足している修行を指摘するためで、ライオスの言うような後ろ暗い行為は一切無かった。だがそれをここで抗弁しても、ますますライオスらは調子づき、更にユージオ、そしてゴルゴロッソを言外に侮蔑しようとするだろう。だからユージオは全精神力を振り絞って衝動に耐え、静かに声を発した。 「私のことはこの際関係ありますまい。確かなのは、命令に抗いはせずとも、ライオス殿の傍付き練士はあなたの行為に苦悩しているということです。今後改善が見られないようなら、教官に公式に訴えて出ることも考えなければならないので、どうぞそのお積もりで」  ご自由にされるがよかろう、という言葉と更なる笑い声を背に受けながら、ユージオは足早にライオスの部屋を出た。  背後でドアが閉まるや否や、ユージオは右手を壁に叩き付けるべく振り上げたが、鍛え上げた今の腕力でぶちかませば建物自体の天命を減少させて——つまり壁にへこみを一つ作ってしまうかもしれないと気付き、やむなく腕を下ろした。学院内の建物や器物を意図的に損傷させるのは明白な禁忌違反である。鬱憤を斧に込めてどれだけぶつけても、まるでびくともしなかったギガスシダーが少しばかり懐かしい。  ささやかな代替行為として、ブーツをガツガツ鳴らしながら早足に階段を目指していると、背後からキリトの声がした。 「そう熱くなるなよ、ユージオ」 「……ああ。ステイ・クール」 「ステイ・クール」  昔キリトに教わった異国のまじないを交互に口にすると、パン屋の大釜のように赤く燃えさかっていた頭の中がほんの少しだけ冷えて、ユージオはふうっと長い息をついた。歩調を緩め、相棒と並ぶ。 「……しかし、意外だな。僕より先にお前のほうが切れると思ったけどな」  ユージオの言葉に、キリトはにやりと笑いながら左手で腰を叩いた。 「剣があったら危なかったな。ただ……さっき言ったとおり、何か裏があるんじゃないかと思って、我慢して様子を見てたんだ」 「そういえばそんな事言ってたな。すっかり忘れてたよ……で、どう思った?」 「やっぱりあいつら、意図的にユージオを挑発してたな。ティーゼ達から話がお前に伝わるのも計算済みで、あそこでユージオがライオスに何か言ってたら、それを“明白な侮辱行為”に仕立てて教官に訴えるつもりだったんだろう。結果お前は退院処分になり、奴らは祝杯を上げるって寸法だ。中々どうしてフラ……いや、貴族にも悪知恵の回る奴がいるもんだな……」 「つまり……フレニーカって子は、ライオスが僕を罠にかける餌に使われたのか……。なんてこった……」  ユージオはきつく唇を噛み、拳を握った。 「全部、僕があいつに手合いで恥をかかせたせいだな……目立つとろくなことは無いって、何度もお前に言われてたのに……」 「そう自分を責めるな」  キリトは、ユージオの右肩にぽんと手を置き、珍しく慰めるような声を出した。 「どうせ来週には、最初の選考試合があるんだ。代表になるためにはそこでライオスにも勝たなきゃならないんだから、早いか遅いかの違いだけだったよ。多分ライオスも、あれだけお前を嘲笑えば満足したろう。もし今後もフレニーカを辱めるようなら、すぐに教官に指導を要請できるよう書状の準備だけはしといたほうがいいけどな」 「ああ……ならいっそ、奴の前でヨツトゲバチに刺された子供みたいに泣いてやったほうがよかったかもな」  キリトの手を軽く叩いて謝意を告げ、ユージオはようやく肩の力を抜いた。  ライオスはおそらく、堂々たる外見に反して中身はまだ子供なのだ。自分にも手に入らないものがあるということが理解できず、昔のジンクのように無為な嫌がらせをしている。学院の多くの生徒の、ことに上級貴族出の者たちに、そのような傾向があることはユージオも気付いていた。自分の力を全て振り絞っても、どうにもならないこともある——ということを知らないせいだろう、とはキリトの弁だが。  次の選考試合で、多くの修剣士や教官の見守る中、連続技ではなく伝統的な型を用いて完膚なきまでに勝てば、おそらくライオスも目を醒ますのではないだろうか。だからと言って、もちろんこれまでの所業が洗い流されるわけではないが。自分はともかく、フレニーカにはきちんと謝罪してもらわなくてはならない。ライオスがあのような人間のまま学院を卒業し、三等爵士に任ぜられて帝国のそれなりの要職に就くなどと、考えただけでも恐ろしい。  階段を降りて二人の部屋に戻ると、ユージオは相棒がどこかへ消えてしまう前にきっぱりと言った。 「おいキリト、今日はちゃんと稽古に付き合ってもらうからな。最低五十本は相手をさせるぞ」 「なんだよ、やけにやる気じゃないか」 「ああ……もっと、もっと強くならなきゃいけないからね。ライオスに、稽古もしないで勝てるほど剣は甘くないって教えてやるために」  キリトはにっと唇の端を持ち上げ、その意気だ、と笑った。 「それじゃ今日は、ユージオ修剣士殿にも現実の厳しさを教えてやるか」 「ふん、言ってろ。負けたほうが明日ゴットロの店で特製肉まんじゅう大をおごるんだからな」  翌日午前の剣術実技の間も、午後の学科講義中も、ライオスはもうユージオとは目も合わせようとしなかった。ここ一週間の憎々しげな視線が嘘のように消え、以前の“道端を走るチュロスク”程度の扱いに戻ったことにユージオは少なからずほっとした。  選考試合のあとが心配と言えば心配だが、昨夜キリトと文面を相談して、指導教官宛の告発状の用意は済ませてある。あとは修剣士の押印を付けて提出すれば学院側も無視できず、ライオスとユージオ達双方の聴聞が行われることになる。そうなれば、めったにない事だけに全学院の噂に上ることは避けられず、それだけでも体面ばかり重んじるライオスには手痛い打撃となるはずだ。  退屈な帝国史の講義が終わると——何せ事件らしい事件はほとんど起きていないのだ——、ユージオはとっとと寮に戻り、フレニーカの件を注意しておいたことを報告するべくティーゼとロニエを待った。  ほどなく二人は、毎日の定刻である四時の鐘とともにぱたぱたと駆けてきて、敬礼するのももどかしく部屋の掃除を始めた。その間ユージオは自分のベッドに腰掛け、大人しく作業を見守る。  以前、何度も掃除を手伝おうとしたのだが、その度にティーゼに「これは私の重要な任務ですから!」とすごい剣幕で断られてしまった。思い返せば自分もゴルゴロッソに同じようなことを言った記憶があり、やむなくせいぜい部屋を散らかさないように気をつけているのだが、少女たちはそれも不満らしく、いつも掃除のし甲斐がないと唇を尖らせる。  銅のバケツと雑巾を手にくるくると駆け回り、きっかり一時間で居間と寝室の掃除を終えたティーゼは、ユージオが所在無く待つ部屋に入ってくると後ろ手にドアを閉め、かちっとブーツの鉄張りを打ち合わせた。 「ユージオ上級修剣士殿、ご報告します! 本日の掃除、完了しました!」  いつの間にかキリトも戻ってきたようで、閉じたドアの向こうからかすかにロニエの声もした。昨日のピクニックの時とは打って変わって緊張感に満ちた少女の顔に、思わず笑みを浮かべそうになるのを我慢しながら立ち上がり、敬礼を返す。 「はい、ご苦労さま。ええと……座らない?」  ベッドを指すと、ティーゼは一瞬目を丸くし、次いでかすかに頬を赤くしながら言った。 「はっ……そ、それでは、失礼致します」  とことこ歩き、ユージオからかなり離れた場所にちょこんと腰掛ける。  自分も腰を下ろし、上体だけをティーゼのほうに向けて、ユージオは口を開いた。 「例の件だけど……昨日、ライオスには抗議しておいたよ。あいつもこれ以上大事になるのは嫌だろうから、多分もうフレニーカに酷いことはしなくなると思う。近いうち、きちんと謝罪もさせるようにするから……」 「そうですか! ……よかった、ありがとうございます、上級修剣士殿。フレニーカも喜ぶと思います」  ぱっと顔をほころばせるティーゼに、ユージオは苦笑まじりに言った。 「もう仕事は終わったんだからユージオでいいよ。それに……僕も謝らないといけないことがあるんだ。昨日も少し話したけど……ライオスが今回みたいな卑劣な真似をしたのは、やっぱり僕を挑発するためみたいだった。僕が抗議に来たところを、あわよくば侮辱行為で告発する計画だったらしい……。つまり、そもそもの原因は僕がライオスを手合いでやりこめたことで、フレニーカはそのとばっちりを食っただけなんだ。一度、僕からもちゃんとフレニーカに謝りたいんだけど、機会を作ってもらえるかな……?」 「……そう……ですか……」  ティーゼは赤毛を揺らして顔を伏せ、何事か考えている様子だったが、やがてユージオを見てかすかにかぶりを振った。 「いえ、ユージオ上……先輩は悪くないです。フレニーカにはお言葉だけ伝えておきます。あの……す、少し、お傍に行ってもいいですか?」 「え……う、うん」  ユージオがどぎまぎしながら頷くと、ティーゼは一層頬を染めつつ体をずらし、わずかに体温が感じられるほどの距離まで近づいてきゅっと身を縮めた。唇が動き、囁くような声が漏れる。 「ユージオ先輩……私、ゆうべ眠る前に、一生懸命考えてみました。ライオス・アンティノス殿はどうしてフレニーカに酷いことをするんだろう、フレニーカが憎いわけでも恨みがあるわけでもないのに……どうしてそんなことができるんだろう、って。キリト先輩は、貴族は誇りを持たなきゃいけない、って仰いました。でも……私、ほんとは知ってるんです。上級貴族の中には、自分の領地に住む私有民の女の人を、その……弄ぶようなことをする人がいるって……」  ティーゼはさっと顔を上げ、秋に色づいた水樫の葉の色の瞳に薄く涙を滲ませながらユージオを見つめた。 「私……私、怖いんです。私は、学院を卒業したらそう遠くないうちに家を継ぎ、同格の貴族の次男か三男を夫に迎えることになると思います。……もし、私の夫となった人が、ライオス殿みたいな人だったら……? 誇りを持たない、周りの人に酷いことをしても平気な人だったらどうしようって思うと……怖くて……私……」  ユージオは息を詰めて、うるむティーゼの瞳を見返した。ティーゼの恐れは理解できると思ったが、しかし同時に、自分と彼女の間に存在する深く広い隔絶をも意識せずにはいられない言葉だった。ティーゼ・シュトリーネンという立派な名を持つ六等爵士の長女に対し、己は公式に姓を持つことすら許されない開拓農民の子なのだ。貴族社会に関する知識など、おそらく央都に暮らす十の子供よりも少ないだろう。  視線を逸らすと、ユージオは自分でもその空虚さにうんざりしたくなるような言葉を発した。 「……大丈夫だよ、ティーゼなら。きっと、優しくて誠実な人とめぐり合えるよ」 「…………」  ティーゼは長い沈黙を続けたあと、意を決したかのようにユージオの右腕にすがり、肩に額をおしつけて、ごくごくかすかに囁いた。 「ユージオ先輩……お願いがあるんです。絶対に学院代表になって、統一大会に出てくださいね。そこで上位に入れば、一代爵士に叙任されると聞きました。あの、それで……こんなこと言っちゃだめなんでしょうけど……もし、整合騎士になれなかったら……私……私の……」  それ以上は言葉にならないらしく、石のように固くした体を震わせるティーゼの小さな頭を、ユージオは唖然として見下ろした。  ティーゼが何を言っているのか、今度ばかりは理解するのに時間がかかった。飲み込むと同時に浮かんできた言葉——自分がこの場所にいるのは、ただ、アリスという名の女の子ともう一度会う、それだけのためなんだ——。  それを口にする代わりに、ユージオは左手でティーゼの頭をそっと撫でながら、短く呟いていた。 「うん……わかった。もし整合騎士になれなかったら、きっと君に会いにいくよ」  ティーゼはそれを聞くと大きく肩を震わせ、やがておずおずと顔を上げた。涙の光る頬に、早春の固い蕾がほころぶような笑みを浮かべ、年若い少女は小さな唇を動かした。 「……私も、私も強くなります。ユージオ先輩のように……正しいこと、言わなきゃいけないことをきちんと言えるくらい、強く」  さらに明けた翌日は、その春初めての荒れた空模様となった。  時折吹き寄せる、渦を巻くような突風に乗って大粒の雨が激しく窓を叩く。ユージオはふと剣を磨く手を止め、講義が終わったばかりだというのにすでにソルスの光を失いつつある空を眺めた。幾重にも連なる黒雲が生き物のようにうねり、その隙間を紫色の稲光が切り裂いていく。ルーリッドの村では、蒔いたばかりの麦の種籾を洗い流す春の嵐は忌み嫌われる存在で、アリスが子供ながらにして天候予測の神聖術を成功させたときはほとんどお祭り騒ぎだったものだ。もっとも、その恩恵に預ることができたのはわずか二年だけだったのだが。  学院で神聖術を習うようになって、ユージオはアリスの異才を今更ながらに実感させられている。天候をはじめ自然界に作用する術は、術式だけでも数十行から百行以上にも及ぶ高位術の代表格で、今のユージオでは明日が晴れか雨かをさえ予測することも覚束ない。一週間も前から嵐の到来を言い当てたアリスなら、今ごろ天候操作の術すらも習得しているのではあるまいか。だとしたらこの荒天は、いつまでも自分を迎えにこないユージオに腹を立てたアリスの怒りの嵐だろうか——。 「はーっ」  とりとめの無い想念を息と一緒に吐きかけ、さっと曇った青銀の刀身を油革で丁寧に磨く。週に一度の“青薔薇の剣”の手入れは欠かしたことのない習慣だが、学院に籍を得てからというもの、鞘から抜く機会があるのはこの時だけだ。日々の鍛錬は木剣で行うよう定められているし、選考試合では公平を期すためにまったく同一性能の剣を用いる規則になっている。神器に属する青薔薇の剣と比べると学院制式剣は玩具のように軽く、全力で振ると刀身が抜けて飛んでいってしまうのではと不安になるほどだが、入学試験のときに対戦相手の高価そうな剣を粉砕してしまったことを考えればおいそれとこの愛剣を振り回すわけにも行かない。  それでも、まだ実際に使ったことがあるだけマシか、と思いながらユージオは顔を上げ、向かいのソファーでキリトが気だるそうに磨いている黒い剣を見やった。  ギガスシダー最頂部の梢を切り取り、青薔薇の剣以上に重いそれを苦労して——キリトは最低三十回は「もうそのへんに植えていこうぜ」と言った——央都まで携え、ガリッタ爺さんに言われた細工師の店をこれまた苦労のすえ探し出して託し、剣の形に研ぎあがったのが何と一年後という代物である。偏屈を絵に描いたような細工屋の親爺は、これ以上はないという顰め面で、十年は保つはずの鉄鬼岩の砥石が三つも駄目になった、あんたらは二度と来てくれるなと噛み付いたが、一生に一度の仕事が出来たからと代金は取らなかった。  完成した剣は、漆黒の刀身に元が木の枝とは思えない深い光沢をまとっていた。キリトは二、三度振ってから一言「重いな」とだけ感想を述べ、スギの樹の意匠が施された黒革の鞘に収めたそれを寮の部屋の壁に掛けっぱなしにして、以後は手入れの時にしか触っていないはずだ。つまり実戦はおろか一度の試合すらも経ていないことになる。  あるいは、僕らはこの二振の剣をもう使うことはないのかもしれない——、とユージオはこの頃思いさえする。学院内の試合で使うことがないのは確定的だし、他十人のライバルに競り負けて学院代表の選に漏れればその後真剣勝負の機会など永久にあるまい。もし代表となれれば統一大会で使うことになろうが、そこで破れればやはり一度きりの出番だ。  つまり、この剣を今後実戦で使う場面が来るとすればそれは、針穴ほどの狭き門を突破して整合騎士に任ぜられ、飛竜に打ち跨って闇の軍勢と戦うとき以外に無いわけで、そんな状況はユージオには子供の頃聞いた御伽噺よりも現実味のないものに思えて仕方ない。剣の手入れをしていると常にとらわれるこの物思いの行き着く先は、果たして自分は何のために剣の修練をしているのだろう——という答えのない疑問だ。整合騎士として神聖教会の白亜の塔に至り、そこにいるはずのアリスと再会する、という目的があるにせよ。 「おい、キリト」  刀身を磨き終わり、新しい油革で鍔の掃除に取り掛かりながら、ユージオは相棒に声を掛けた。 「ん?」  こちらは何も考えていなかったらしい眠たげな顔に、何度目かの問いを投げかける。 「その剣の銘、いいかげん決めたのか?」 「うんにゃ……まだ」 「早いとこ決めろよ。いつまでも“黒いの”じゃあ剣が可哀想だろ」 「うーん……俺の国じゃあ剣の名前ってのは最初っからついてたんだよ……そんな気がするなぁ」  適当なことをぶつぶつ言うキリトに、苦笑混じりに更なる苦言を呈そうとしたその時、さっと目の前に片手が上げられてユージオはぱちくりと瞬きをした。 「なんだよ?」 「ちょっと待て、今の四時半の鐘じゃないか?」 「え……」  耳をそばだてると、確かに風の唸りに混じって、途切れ途切れの鐘の音が聞こえた。 「ほんとだ、もうそんな時間か。四時の鐘、聞き落としたな」  すでにほとんど闇に包まれている窓の外を見ながらユージオが呟くと、キリトは尚も厳しい表情のまま短く言った。 「遅いな、ロニエ達」  ユージオははっと息を飲んだ。言われてみれば、ティーゼとロニエが四時の鐘までに部屋の掃除に来なかったことは、傍付きに任ぜられてから一度もない。じわりと湧きあがる不安感をごくりと飲み込んで、無理矢理に笑みの形を作る。 「まあ、この嵐だからね。雨が止むのを待ってるんじゃないか? 別に掃除の時間まで院則で決まってるわけじゃないし……」 「あの二人が、雨くらいでいつもの時間に遅れるかな……」  キリトは何事か考えるように視線を落とし、すぐに続けた。 「何か嫌な感じがするな。俺ちょっと初等生寮まで様子を見に行ってくるよ。ユージオはここで二人を待っててくれ」  手入れ途中の黒い剣をぱちりと鞘に収め、それをテーブルに置いて、キリトは立ち上がった。雨避けの薄い革マントをばさっと羽織り、留め金をはめるのももどかしく、窓の一つを開け放つ。 「おい、表から行けよ」  ごうっと吹き込む湿った風に顔をしかめながらユージオは言ったが、その時にはもう黒衣の姿は張り出した木の枝へと身軽に飛び移り、がさりがさりという音だけを残して消え去っていた。まったく、という言葉を噛み殺して立ち上がり、ユージオは足早に駆け寄ると窓を閉めた。  再び嵐の音が遠のいた部屋に一人残され、ユージオは言いようのない不安が腹の底を這いまわるのを懸命に押し退けようとした。ソファーに戻り、手入れの終わった青薔薇の剣を白革の鞘に収めて膝に乗せる。  神聖術を使えば、二人が今居る方向くらいは知ることも可能ではある。しかし許可なく他の生徒を対象とした術を使用することは学院則で禁じられていた。こんな時に使えないなら、何のための術、何のための院則なのかと舌打ちの一つもしたくなる。  そのまま、やけに長い数分が過ぎ去った。不意に、こん、こん、という小さなノックの音が鳴り響き、ユージオは思わずほーっと長い溜息をついた。それみろ、窓から出たりするから行き違いになるんだ、と内心で呟きながら弾かれるようにソファから立ち上がり、早足で部屋を横切るとドアを押し開ける。 「よかった、心配した——」  そこまで言ってから、ユージオはぎょっとして言葉を飲み込んだ。視界に飛びこんできたのは、見慣れた赤毛と黒髪ではなく、風に乱れた桧皮色の髪の毛だった。  廊下にぽつんと立っていたのは、ロニエよりも更に小柄な、初等練士の制服を来た少女だった。短く切り揃えられた髪と灰色の上着はぐっしょりと雨に濡れ、しずくの垂れる頬にはまったく血の気がない。小鹿を思わせる大きな瞳は憔悴のみを宿して見開かれ、薄い唇はわななくように震えている。  唖然とするユージオを見上げ、少女はか細い声を絞り出した。 「あの……ユージオ上級修剣士殿でしょうか……?」 「あ……う、うん。君は……?」 「わ……私は、フレニーカ・シェスキ初等練士です。ご、ご面会の約束もなしにお訪ねして申し訳ありません……でも、私、ど、どうしていいのかわからなくて……」 「君が……フレニーカか」  ユージオは息を詰めながら、悄然と立つ初等練士を凝視した。およそ剣士らしくない、華奢と言うよりない体つきや、花冠を編んでいるほうが相応しそうな小さな手を見るにつけ、こんな子をいいように辱めたライオスへの怒りが改めて湧いてくる。  しかし、ユージオが言葉を続けるより先に、両手を胸の前でぎゅっと握り合わせたフレニーカが狼狽しきった声を出した。 「あの……ユージオ修剣士殿には、このたび私とライオス・アンティノス殿のことでご尽力頂きまして、真にありがとうございます。それで……これまでの事情はもうご存知のことと思いますので省きますが……ライオス殿は本日夜、私に、その、この場では少々説明の難しいご奉仕を命じておられまして……」  言葉にするだけでも身を焼かれるような恥辱を味わっているのだろうフレニーカは、蒼白の顔のなかで頬だけを痛々しいほどの血色に染めて、口を動かしつづけた。 「わ、私、このようなご命令が続くくらいなら、い……いっそ学院を辞めようと、そうティーゼとロニエに相談したのですが、それを聞いた二人は、直接ライオス殿に嘆願すると言って寮を出ていって……」 「なんだって」  ユージオは掠れた声で呟いた。両手足の指先がすうっと冷えていく。 「それで、二人が戻らないので、私、ど、どうしていいのか……」 「二人が出ていったのは、いつ頃……?」 「あの、三時の鐘が鳴ったすぐ後だったと思います」  すでに一時間半以上が経過している。ユージオは思わず天井を振り仰ぎ、唇をきつく噛んだ。ならばこの板一枚上に、ずっと二人は居たということなのか。抗議や嘆願をするにしても、余りに長すぎる。  さっと振り向き、相変わらず風雨に叩かれている窓を見るが、キリトが戻ってくる気配は無かった。この天気では、初等生寮と往復するだけでも十五分はかかる。とても待っている余裕はないと判断し、フレニーカに早口で告げる。 「わかった、僕が様子を見てくるよ。君はこの部屋で待ってて。手拭いとか自由に使っていいから……それで、キリトが戻ってきたらライオスの部屋に来るよう伝えてくれ」  不安げに頷くフレニーカを残し、ユージオは身を翻すと駆け出した。寄木細工の廊下を一気に走り抜け、階段に達したところで左手に青薔薇の剣を握ったままであることに気付いたが、今更置きに戻ることはできない。そのまま一段飛ばしに三階に向かう。  一歩ごとに、黒い不安の塊が胸の奥で増大していくようだった。  ティーゼとロニエが、こんな無謀な挙に出た理由は明らかと思えた。ユージオとキリトが抗議しても効果が無かったことと、それにもう一つ、昨日ユージオの部屋でティーゼが発した言葉——強くなる、正しいことを言えるように、という一言のためだ。彼女は、自らの誇りにかけて、苦しむ友人を助けようとしたのだ。  だが——もしかしたら、それこそが……。 「最初からそれが目的だったのか……? 僕じゃなく、ティーゼ達を……?」  走りながらユージオは呻いた。  同格の修剣士同士なら、ほとんどの言葉は問題とならない。だが、初等練士が修剣士に抗議するとなれば話は別だ。よほど真剣に言葉を選ばないと、学院則に定める逸礼行為に該当してしまう。そしてその場合、上級生には指導者格としての懲罰権が発生する。 「懲罰権……」  ユージオは懸命に頭の中で院則の頁を繰る。“上級生が下級生に下す懲罰として、以下の命令より一つのみを許可する。一、居室の清掃、二、木剣を用いた修練(別項に詳細を記載す)、三、三十分以内の直立不動姿勢。但し、全ての懲罰において上級法の規定を優先す”……。  上級法——とはこの場合帝国基本法及び、言わずと知れた禁忌目録だ。つまり、他者の天命を減少させてはならないという禁忌が何より優先するという原則は変わらない。ライオスもそれを無視するのは不可能で、だからもし懲罰権を行使されたところで心配するほどのことはないはずなのだ。  なのに、突き刺さるような不安感は一向に去ろうとしない。  閉ざされたドアの前で立ち止まると、ユージオは息が整うのも待たず、右拳を乱暴に叩きつけた。  すぐに、奥からくぐもったライオスの声が応えた。 「おや、随分遅いお出ましだな、ユージオ上級修剣士殿。さあ、さあ、どうぞ入ってくれ給え」 来るのを待ちかねていた、とも取れるその言い回しに一層の憂慮を募らせながら、ユージオは我知らず呼吸を止め、一気にドアを引き明けた。  いくつものランプに照らされた共用居間に、ティーゼとロニエの姿は無かった。すでに辞去したあとか、とわずかに胸を撫で下ろす。  部屋中央の豪奢なソファーセットに、先日と同じ絹のガウン姿のライオスが深く身を沈めていた。が、今日は赤紫の薄物をだらしなく着崩し、同色のサッシュでかろうじて前を合わせているだけだ。はだけた布から、生白い肌が腹近くまで覗いている。右手には細長いグラスを持ち、満たされているのは赤葡萄から作った酒らしい。  向かいには、ウンベールともう一人、別室に居住しているはずの取り巻きであるラッディーノの姿もあった。こちらはライオスよりも更に見苦しい格好で、ラッディーノは修剣士の制服の上着を脱ぎ、白いシャツをボタンも留めずにただ羽織っている。ウンベールに至ってはズボンを穿いているだけで、修練の気配もない痩せた上体を露わにしていた。  取り巻き二人は、ソファーにほとんど寝転がるように浅く腰掛け、ユージオには目もくれずぼんやりと天井を見ていた。ウンベールの、どこか魂の抜けたような呆け顔を見ているうち、ユージオは先刻に倍する不安が背筋を這い上りはじめるのを感じた。何かがおかしい、何かがあったのだ、とてつもなく悪い何かが——という、拭いがたい直感。  ユージオは改めてライオスに視線を向けると、鉄錆に似た味の広がる舌を苦労して動かした。 「ライオス・アンティノス上級修剣士殿——つかぬことを伺いますが、本日ここに、私の傍付きであるティーゼ・シュトリーネン初等練士と、キリト修剣士の傍付きのロニエ・アラベル初等練士が訪ねて参りませんでしたか?」  ユージオの掠れ声に、ライオスは即答せずにやけに濁った両眼だけを動かし、薄い笑みが貼り付いたままの唇にグラスを当てると、紅い液体を一気に干した。卓上からさぞ高級品と思しきラベルのついた瓶を取り上げてグラスを満たし、さらにもう一つのグラスにも酒を注ぐと、それをユージオに向かって差し出す。 「……ユージオ修剣士殿、お顔の色が優れないようだ。どうだね、気付けに一杯。上物だよ」 「お気遣い無用。質問に答えて頂けませんか」  左手に握ったままの剣の鞘に、じっとりと汗が滲んでいるのをユージオは意識した。ライオスは、まるでそんなユージオの様子を肴にするかのようにじろじろと眺めながら、己のグラスをちびりと嘗め、テーブルに戻した。 「ふむ。……あの二人は、ユージオ殿とキリト殿の傍付きであったか」  変わらず粘つく口調でそう言うと、舌先で唇についた滴を嘗めとり、続けた。 「誉れある上級修剣士と相対するにしては、少々元気の良すぎる初等練士ではあったな。ただ、気をつけねばならないよ。威勢の良さは、時として非礼ともなり、不敬ともなる。そうは思わないか、ユージオ修剣士殿。……いや、これは私も失敬だったか。ユージオ殿に貴族の礼儀を問うなど、少々意地が悪かったかな、ふ、ふ」  やはり、ティーゼとロニエはここに来たのだ。ユージオは、ライオスの襟首を締め上げたくなる衝動に耐えながら、更に鋭く問いただした。 「ご高説は又の機会に拝聴します。ティーゼとロニエは、今どこにいるのです」  ユージオの声と表情を味わうがごとく、ライオスは更に一口酒を含み、ごくりと嚥下した。どろりと濁った視線でユージオを舐め、更に煙に巻くようなことを呟く。 「……いや、そもそも、ユージオ殿には荷が重かったのではないかな? 失礼ながら遥か辺境で木など挽いていた輩が、下級とはいえ爵家の息女を導こうなどと? そうだとも……ユージオ殿の指導が足りないから、あの二人は伏して尊ぶべき三級爵家長子の私に、礼の足りないことを言ったりするのだ。なれば私としても、意に染まぬことながら、己が義務を果たさねばならぬ。分かって頂けるかな、ユージオ殿。私は貴君になり代わり、上級修剣士として正しき躾を施したまで」 「ライオス殿……! いったい……」  何をしたのだ、と言い募ろうとしたユージオを制するように、ライオスはグラスを持ち上げた。満たされた酒をちゃぷんと鳴らしながらその手を動かし、居間から自分の寝室へと続くドアのほうを指し示す。 「初等練士二名は、法に則った賞罰権の行使の結果、少々疲労した様子であったゆえ隣室で休ませている。引き取るというのなら、どうぞご自由に」  学院則ではなく法、懲罰権ではなく賞罰権という言葉をライオスが選んだことにどのような意味があるのか、ユージオにはすぐに察することができなかった。ただその言葉に、とてつもなく悪い何かが絡みついていることだけは解った。  動こうとしない首を無理矢理に回し、ユージオは寝室のドアを見た。  ぴったり閉じられたその扉の手前の床に、ひとかたまりになった布がわだかまっているのにユージオははじめて気付いた。厚手の灰色の布が何なのか悟ったのは、折り重なったその隙間から覗く橙色のスカーフが目に止まった後だった。  それが、初等練士の制服であるのは最早疑いようもなかった。そして鮮やかな橙は、上位十二名の傍付き練士の証。  自分の一挙手一投足をも見逃すまいとするようなライオスの視線を頬のあたりに感じながら、ユージオは悪寒に震える体を動かし、のろのろとドアに歩み寄った。落ちた制服をまたぎ、ドアノブに手を伸ばす。  鋳銅製の握りは、掌に貼り付くほどに冷たく感じられた。一瞬の躊躇を振り払い、ユージオはノブを回して、わずかにドアを押し開いた。  内部に灯りはなく、ほぼ完全な暗闇だった。半分ほどカーテンの開いた窓から、厚い雲に遮られたソルスの灰色の光がほんのわずか差し込んでいる。ユージオは目を細め、懸命に暗がりを見通そうとした。  動くものはなかった。部屋の右側には無闇と大きな衣装箱が並び、奥の壁際には華美な形の文机が据えてある。中央には、これも巨大としか言えない天蓋つきのベッドが鎮座し——そして毛足の長い絨毯の上に、灰色の制服がもう一着投げ出されているのが見えた。更にいくつかの、小さな布の塊も。  その時、窓の向こうで一際激しく稲妻が空を裂き、部屋の中を一瞬明るく照らし出した。直後訪れた凄まじい雷鳴を、しかしユージオはまったく意識することはなかった。切り取られた光景が目の奥に焼きつき、ユージオの思考を完全に奪い去った。  ベッドの上に、雷光に青白く輝く二つの姿があった。ユージオはおこりのようにがたがたと震える右手を懸命に動かし、ドアを大きく開いて居間の明かりを寝室へと導いた。  広大なベッドを覆う白絹のシーツに、一糸纏わぬ姿の二人の少女がその身を横たえていた。黒髪の少女は半ばうつ伏せの格好で顔を枕に埋め、ぴくりとも身動きをしていない。赤毛の少女は仰向けに四肢を投げ出し、薄い裸の胸を浅く上下させていた。 「……なん……で……」  何だこれは、とユージオはぼんやりと考えた。こんなことがある筈が無い、とその一言だけを頭の中で何度も繰り返し、眼前の光景を否定しようとした。  しかし、ティーゼの紅葉色の瞳が——ほんの一日前、ユージオに縋り付き、溢れんばかりの感情をきらきらと輝かせていたあの美しい瞳が、今は虚ろに宙に向けられ、光を失っているのを見たとき——その下の白い頬に半ば渇いた幾筋もの涙の跡を見たとき、ユージオはこの部屋で行われたことを、その非道と残酷の全てを、完全に悟った。  相変わらず轟く雷鳴が部屋に満ちていたが、ユージオにはもう甲高い耳鳴りしか聞こえなかった。ふらふらとよろめくように数歩あとずさり、ティーゼの、あるいはロニエの制服に足を取られて、無様に尻餅をついた。  その格好のまま、ユージオはこちらに向けられ続けているライオスの顔を見上げた。  三等貴族の跡取りは、今や整った白皙に、隠そうともせず満面の興趣と愉悦の笑みを張り付かせていた。しばし呆然とその表情を眺めたあと、ユージオは割れた声で呻くように訊ねた。 「なぜ……どうしてこんなことを……? 懲罰権を……逸脱した……学院則違反では……」  それを聞いたライオスの赤い唇の端が、裂けんばかりにきゅうっと吊りあがった。喉が激しく上下し、次いで必死に抑えていたものが溢れ出したかのように、甲高い笑いが迸った。 「く、くく……くっ、くはは……ハ、ハハハハッ……ハハハハハハ! キャハハハハハハ!!」  手のグラスから葡萄酒の飛沫がガウンに散るのも構わずに、ライオスは身を捩り、足を踏み鳴らして哄笑を続ける。 「キャハハハハハ! だ……だから貴君は山出しだと言うのだ!! 大人しく故郷で薪でも割っておればよいものを……ハハハハッ……のこのこ央都に上って、貴族の真似事などしようとするから痛い目に……キャハハッハハハハ!! よ、よいか、教えてやろうこの山ザ……おっと、うむ、山に棲む毛だらけの人っぽいもの、これならいいかな、ハハハ! 貴君の傍付きは、この私、三等爵家長子たるライオス・アンティノスに不敬甚だしい物言いをしたァ! ゆえに私には学院則にのっとり懲罰を下す権利があァる!」  ライオスはがばっと立ち上がると、絨毯に尻をついたままのユージオを見下ろすように上体を屈めた。 「しかし学院則の懲罰権規定にはこうある! 全ての懲罰において上級法の規定が優先すると! いいか山出し! つまり、帝国基本法を適用することが可能ということなのだ! 私は三等爵士の長子、そして貴君の傍付きは六等爵士の娘だァ! 貴族の子弟間の不敬行為は親同士のそれに準ずる! よって私には、帝国基本法に定められた、貴族賞罰権を行使する権利があるのだァ!!」 「……な……何だと……」  ユージオは愕然として、そう漏らすことしかできなかった。ライオスの勝ち誇った長広舌は更に続く。 「賞罰権はいいものだぞォ、平民! 学院則のような掃除だの稽古だのといったケチ臭い規定は一切無しッ! 禁忌に触れない限り——つまり天命を減少させない限り、何をしようと、何を命じようと自由なのだッ!! 我が父など、私領地の麗しき蕾をいくつ摘み取ったか知れぬわ! よいか、これが貴族ッ!! これが権力というものだッ!! 分かったかァ無姓の輩あッ!! み、みの……みのっ、みのォ……」  ここ一週間——いや、もしかしたら入学当初から二年間に渡って醸しつづけてきた鬱憤を晴らす悦楽のせいだろうか、ライオスはぐるんと白目を剥き、陶然と体を震わせながら言い放った。 「身のほどをォォォッ! 知れェェェェッ! キャハッ、キャハハハハハハ!!」  ユージオは、頭の中が妙に冷たく静かなのを不思議に思った。怒りも、憎しみも、悲しみすらもそこには無いようだった。しかしすぐに、そうではなく、一つのある感情が余りに巨大すぎて他を完全に圧しているのだと自覚した。  その感情の名前を、ユージオは知らなかった。ただ、単純に、目の前の汚らしく、卑劣で、厭わしい存在を未来永劫消し去りたいという欲求だけがそこにあった。  ライオスの言葉が真実だとは——年若いティーゼとロニエに、複数人で陵辱の限りを尽くした行為が法で認められたものだなどとは、どうしても信じたくなかった。しかし、皮肉なことに、ライオスがそれを成し得たという事実そのものが、その行為の合法性を追認しているのだった。  そしてその事実は同時に、己にライオスを処断するいかなる権限も無いのだということを冷厳に告げてもいた。左手の剣で斬りかかることは勿論、哄笑するその口に拳を叩き込むことも、いや、言葉で罵ることすらも、ユージオには許されないのだ。  しかしならば——ならば法とは何なのか!?  人々の暮らしを守り、世界の秩序を守るためにあるのが禁忌目録であり、帝国基本法なのではないのか。ルーリッド教会のシスター・アザリヤは、子供のユージオに向かって確かにそう言った。ではなぜ、法はティーゼとロニエを守れなかったのか? なぜ、友人を助けようと勇気を振り絞った少女たちにあのような残酷を許し、そして今ユージオに剣を抜くことを許さないのか? これらすべてが法の定めた結果なのならば、正義は一体どこに存在するというのだ?  いつしかユージオの視界は千々に乱れ、大きく歪んでいた。それが溢れ出した涙のせいだと気付くには少し時間がかかった。  そんなユージオの顔を見下ろして更にひとしきり高笑いしたあと、ライオスは右手の葡萄酒を干し、溢れた赤い液体を左手で拭いながら空いたグラスを床に放った。 「さて……それでは、せっかく指導者たるユージオ殿がおいでなのだ。引き渡す前に、傍付きの躾け方というものを、もう一度きっちりとお見せしようではないか。さあさあ、立って我が寝室に入り給え」  ユージオは左手の剣を支えにして、よろけながら立ち上がった。袖口で涙を拭い、何度か大きく呼吸をしてから、ぼそりと呟いた。 「こ……これ以上何か言ってみろ。その汚らしい舌を……根元から切り取ってやる」  それを聞いたとたんライオスはぴくりと眉毛を動かし、一層興が乗ってきたと言わんがばかりに薄く笑った。 「おやおや、気をつけたほうがいいですぞユージオ殿。いかに同格の修剣士とは言え、脅迫的な言辞は危ない、危ない。貴君を告発するような真似は、私としても不本意……」 「黙れ、ライオス・アンティノス」  嘲弄めいた台詞を途中で遮ると、ライオスはさすがに鼻白んだように口を閉じた。ユージオは一歩前に出、それだけで非礼行為となるほどの近距離から相手の眼を凝視した。  頭の中は相変わらず冷え切っていた。ほとんど勝手に口が動き、抑揚の無い声が流れ出した。 「ライオス……お前がこのあとすることはたった一つだ。ロニエとティーゼに謝罪し、地に手をついて許しを乞い、そして残りの人生全てを己の罪を償うために生きると誓え」 「ハァ? 何を戯けたことを言っているのだ貴君は」  ライオスの唇が限界まで歪められ、最大級の蔑みを形作る。 「謝罪? 償う? なぜこの私が? 先ほど懇切丁寧に説明してやったではないか。私の行いは全て、あらゆる法に認められた当然の権利なのだよ。あの二人の初等練士ですら、一度聞いたら己が立場を理解したぞ。少々五月蝿く泣き喚きはしたが、決して拒否も反抗も……」 「黙れと言った!!」  再び目尻に涙がにじむのを感じながら、ユージオは叫んだ。自分たちが卑劣極まる陥穽に落ち込んでしまったことを、そしてもう誰も助けてくれる者はいないのだということを理解せざるを得なかったティーゼとロニエの絶望を思うと、おのれの胸を引き毟って血を全て流し尽くしてしまいたいほどの悲痛に苛まれずにはいられなかった。 「ライオス、お前は間違っている。たとえ学院則、帝国基本法、そして禁忌目録が禁じていなくとも、絶対にしてはいけないことだってあるはずだ。……彼女たちがお前に何をした? これほどの仕打ちを甘受しなくてはいけないほどの、どんな罪を犯したというんだ!?」 「貴君の暗愚もここに極まれりだな」  ユージオの言葉など煩わしい小蝿の羽音とでもいわんがばかりに、ライオスは右手をぶらぶらと振った。 「何を言い出すかと思えば……賞罰権の行使は我々上級貴族の生来の権利であるぞ。してはいけないこと? そんなものがどこにある? 禁じられていなければ、それは行っていいことなのだ、当然! あの二人の罪、それは、家系も辿れぬ山出し修剣士にうかうかと感化され、高貴なる血筋の者に苦言めいた大口を叩いたことだ! ふ、ふ、私にはわかっていた、いずれこうなるとな……。よいか、それはつまり、貴君の愚かしさでもあるのだぞ!」  この夜のライオスの言動のなかで、唯一それだけは正しいと、ユージオは思った。ライオスの企みを看破できず、ティーゼ達の行動も予測できなかった自分の愚かしさがこの悲劇の一因となったことは、疑いようもない事実だった。  ならば、自分はどうすればいいのか? ライオスの罪だけでなく、己の罪にすら目を瞑り、全てを無理矢理忘れ去って、偽りにまみれた日々を生きていく……?  そんなことができるものか、と内なる声が叫んだ。  だが、同時に、もう一人の自分が耳もとでせせら笑う声を、ユージオは聞いた。  ——今更そんな大言を吐く資格が、お前にあるのか? お前はもう、すでに長すぎるほどの年月を、嘘と偽りで塗り固めつづけてきたんじゃないのか? お前はなぜ、アリスが整合騎士に連れ去られるのを木偶の坊のようにただ見ていた? お前はなぜ、六年もの間、絶対に切り倒せない樹を叩きつづけることしかしなかった? お前はなぜ、央都に辿り付いたというのに教会の門に近寄ろうともせず、整合騎士を目指すなどというあまりに狭く迂遠な道を選んだのだ?  ——だって、仕方ないだろう。法に従えば、僕にはそれら以外の選択肢は無かったんだ。  ——それが汚らしい嘘だということに、お前はもう気付いているはずだ。お前は、本当は、怖かったんだろう、アリスが? 禁忌目録に違反したアリスを、教会への反逆者として心の底では忌み恐れ、会いたいと思うのと同じかそれ以上に、もう会えなくてもいいと思っていたんじゃないのか? お前が法に従うのは、それが法だからではなく、従っていれば楽だからだ。自分の弱さから目を背けていられるからだ。そんなお前に、今更、法の正義などという言葉を吐く権利があるのか?  その声が全き真実を告げていることを、ユージオは否定できなかった。  なぜなら、今日この時に至るまでユージオは、どうしてあの時アリスが一歩を踏み出したのか理解できないでいるのだ。憎むべき教会の敵である闇の国の騎士を、禁忌目録に反してまで助けようとしたあの行為にどんな意味があったのか、まったく解らないままなのだ。そんな自分が、アリスにもう一度会うために整合騎士になりたいなどと——あまつさえ、アリスを教会から助けたいなどと——。  なんという欺瞞。  なんという醜い偽善だろう。本当は、アリスを助けたいわけじゃなかった。ただ、アリスを忘れ、諦め、見捨てることの都合のいい言い訳を探していただけだったのだ。ライオスと同じだ。法を、ただ都合のいいように解釈し、自分が楽になるために利用した。そう——アリスとはまったく逆。アリスは、他人、しかも忌むべき闇の騎士を助けるために、法を犯した。法よりも大切な何かに殉じるために。  今はじめてユージオは、法、つまり禁忌目録とそれを定めた神聖教会よりもさらに正しく、大切な“何か”の存在を明確に意識した。禁じられてはいないがしてはいけないことがある。同じように、禁じられてはいるがしなくてはいけないこともある。アリスはそれに従い一歩を踏み出した。そして今、ユージオの番が来たのだ。アリスの行為よりもはるかに呪わしく、おぞましい所業ではあるが、しかし——今のユージオが、ティーゼとロニエのためにできることは、もうそれしかないと思えた。 「ライオス」  ユージオは、寝室に足を踏み入れようとしたライオスを、背後から呼び止めた。 「例え法と教会が許しても、僕はお前を許さない。謝罪する気が無いというなら、その罪は……命で償え」  右手で握った青薔薇の剣の柄は、氷で出来ているかのように冷たかった。腰を落とし、抜刀の構えを取るユージオを、振り向いて眺めたライオスは、ほとほと呆れ返ったと言わんがばかりに両手を広げた。 「何なのだそれは? 脅しのつもりか……それとも冗談の類かな? 忘れてしまったのなら教えてやるが、その骨董品をここで抜けば学院則違反、私に毛ほども傷をつけたら禁忌目録違反なのだぞ?」 「糞食らえだ、学院則も、禁忌目録も」  聞いた途端、ライオスの目が丸くなり、次いで驚きと喜悦の叫びが迸った。 「おッ、おッ! 聞いたかウンベール、ラッディーノ!」  足早にソファーの前まで戻り、ユージオに細長い指を突きつける。取り巻き二人にもユージオの言葉は聞こえていたらしく、こちらは純粋に信じられないという仰天のみを表して口をぽかんと開けている。 「ハハハ! キャハハハハ! この山出しの言ったことは、明らかに教会への不敬行為だぞ! まさか、これほど思い通りに踊ってくれるとは! お前は終わりだ、ユージオ! 聴聞にかけられた挙句退院処分は間違いなァい! ハハハハハハ!!」  上体を捩って哄笑するライオスを見ても、もうユージオの胸中には細波ひとつ立つことはなかった。呼吸を整え、更に腰を落とし——  一閃でライオスを切り伏せるべく、右手を疾らせた。  しかし、直後、がちん! という岩にぶつかったかのような衝撃とともに腕が止まった。  ユージオは驚愕して左腰に溜めた剣を見下ろした。鞘と柄に鎖か何かが溶接されているとしか思えない手触りだったからだ。だが、そこには何もなかった。青みを帯びた刀身が、わずかに親指の幅ほど覗いているだけで、縄も、鎖も、抜剣を阻むものは何ひとつ存在しない。 「な……」  ユージオは驚愕し、更に右腕に力を込めた。しかし剣は動こうとしない。歯を食い縛り、関節が軋むほどの力で抜こうとしても、まるで鞘と刀身が一体化でもしてしまったかのように、ぴくりとも動かない。 「くふっ……はは……ハハハハ! 何なのだ貴君は! 往来で小銭をねだる道化か何かか!?」  ライオスは、可笑しくてたまらぬと言わんがばかりに目尻に涙を滲ませ、腹を押さえて笑いつづけた。 「出来もしないことを大袈裟に! ハハハハハそれともそんな小芝居でこの私を脅かそうとでもいうつもりかなハハハハハハ!」 「ぐ……ぬ……ぁ……っ」  食い縛った歯がみしみしと悲鳴を上げるのも構わず、ユージオは唸りながら全身の力を振り絞って剣を抜こうとした。一体なぜ、この場面で、二年の長きに渡って自分を支え続けてくれた青薔薇の剣が自分を裏切るのか解らなかった。あるいはこの剣すらも、教会の支配下にあると言うのか? 禁忌に触れる目的のためには鞘から抜けないとでも言うつもりなのか? 「ぬ……ぅ……ッ!!」  しかし、次の瞬間、ついに刀身がほんの少し——髪の毛一筋ぶんほど動いた。  同時に灼熱の鉄串にも似た凄まじい激痛が脳を貫き、ユージオは真実を悟った。自分を裏切っているのは、剣ではなく、自分自身であるということを。あれほど己の欺瞞を悔い、覚悟を決めたつもりでいたのに、尚も頭の中に巣食う何者かが禁忌目録を遵守しようとしているのだ、ということを。 「ぐ……く……!!」  毛一筋ぶんずつ剣を抜くたびに耐えがたい激痛が弾け、ユージオの目から堪えようもなく涙が溢れた。歪む視界の中で、ライオスは栓が抜けたような爆笑を続けている。 「ハハハハハハハアハアハアハ! 滑稽……これほど滑稽なものを……見たことがないぞ……キャハハハハアハアハァ!」  激痛は最早、銀色の光となってユージオの頭から足のつま先までを駆け巡っていた。十八年と少しの人生の中で、ついぞ味わったことのない痛みだった。だが、ユージオは腕を止めなかった。ここで剣を引くことはできない、それだけは絶対にできないという一念だけがユージオを駆り立てていた。  銀色の痛みは、ついに具体的な光の線となって視界を飛び交いはじめた。花火のような閃光を縦横に残しながら、寄り集まり、また離れ、奇妙な形を描き出す。それが、ステイシアの窓に浮かぶような神聖文字に似ていることを、わずかに残された思考の片隅でユージオは意識した。“SYSTEM ALERT”、そんなような形の光が目の前一杯に広がったが、ユージオはそれに向かって、すべての力を振り絞りながら絶叫した。 「消えろおおおおオオオオ!!」  視界が銀一色に染まり、最後の、そして恐るべき痛みが右目に集中した。ばしゃっという感触とともに、涙の代わりに大量の鮮血が迸るのをユージオは見た。 「ハハハハハハハアハァアハァアハハハァァァァァァァ——————」  白目を剥いて哄笑の尾を長く伸ばすライオス目掛けて、枷を打ち払い鞘走った青薔薇の剣が稲妻のごとく襲い掛かった。  ドッ、という重い音を残し、ライオスの右腕が根元から切り飛ばされ、高く舞った。 「アアアァァァァァ————!?」  笑いがそのまま悲鳴に変わった。斬り口から噴き出した大量の血液が、ウンベールの顔から、壁に掛けられた純白の制服を横切り、そして天井へと至る一直線の朱を鮮やかに引いた。  有り得べからざる禁忌への冒涜を畏れてか、雷鳴すらも沈黙した一瞬の静寂のなかを、ライオスの右腕は回転しながらゆっくりと飛翔し、テーブルに落下すると同時に卓上の瓶とグラスを全て叩き落とした。硝子が砕け散る盛大な音に、ライオスはようやく驚愕から覚めたらしく、改めて口を開くと甲高い絶叫を迸らせた。 「アアアアアアッ! 腕がアアアアアッ! 私の右腕がアアアアアアッ!!」  左手で傷口を鷲掴みにするが、指の隙間からは尚も血液が勢いよく噴き出し続ける。 「血がっ! 血が出てるぞぉぉっ! 天命がっ! 私の天命がアアアアアアッ!!」  右半分が赤く染まったユージオの視界の中を、ライオスは糸の絡まった操り人形のようにぎくしゃくと飛び跳ね、恐ろしいほど大量の血をいたる所に撒き散らした。一部はユージオの顔から体にも振り掛かったが、その感触も、温度も、全く意識されることはなかった。 「止まっ! 止まらないイイイイイッ! しっ、神聖術っ……教官を呼べっ……ウンベールッ! 早く教官を呼んでこいイイイイイッ!」  恐慌を来したライオスの声に名指しされても、ウンベールも、ラッディーノも、目の前で起きていることが理解できない様子でぽかんと呆け顔を浮かべ、動こうとしない。 「アアアアアッ! この薄のろ共めらッ!」  ライオスは床に転がったまま金髪を振り乱して咆哮すると、突然傷口から左手を離し、鮮血の滴るその掌でウンベールの右腕を掴んだ。 「ヒ、ヒイイイイッ!!」  途端、ウンベールは悲鳴を上げてライオスの手を振り解こうとしたが、万力のようにがっちりと食い込んだ指は緩みもせず、逆にウンベールをソファーから引きずり下ろす。 「ウンベールゥゥゥッ!! 私を助けろッ!! 天命の授受に同意せよッ!!」  のしかからんばかりに喚くライオスの剣幕に圧されたかのように、ウンベールは短く漏らした。 「ハッ、ハイイッ」  それを聞いた瞬間、ライオスは獣じみた笑みを顔中に浮かべ、背筋を仰け反らせて叫んだ。 「システムコォォォォル!! トランスファ・ユニット・デュラビリティィィィィ!! レフト・トゥ・セルフゥゥゥゥゥゥッ!!」  怪鳥じみた声が術式を唱えると同時に、平等なるステイシア神がその祈りを聞き届け、ウンベールの丸い体が青白く発光した。光はたちまち一方向に移動を開始し、ウンベールの右腕から、そこを掴むライオスの左手に流れ込んでいく。 「オオオオオホォォォォォォッ! 来たぞォォォォ……天命……私の天命ィィィィ……」  ライオスは、まるで天井の板張りにステイシア神その人の姿を見てでもいるかのように恍惚とした笑みを浮かべた。しかし、その右肩の傷口からは、青い光を帯びた赤い血液が尚も太い筋を作って流れ落ち、絨毯に吸い込まれていく。  五秒近く経ってから、ようやくウンベールが己の天命の無為な浪費に気付き、引き攣った表情でわめき声を発した。 「アアッ! やめっ……ライオス殿、止めてくださいいっ! 先に傷を治療しないとっ……私の天命までなくなってしまっ……」  しかし、ライオスの耳にはまるで届いていないようで、上級貴族の蕩けたような笑みは消えない。 「オホオォォォォ……暖かいィィィィ……神が私をォォォォ……癒してくださるゥゥゥゥ……」 「は……離してくださっ……手をっ……手を離してっ……」  ウンベールは右手でライオスの左腕を掴み、引き剥がそうとするが、細く生白い腕はある種の寄生生物のようにがっちり食いついてまるで離れようとしない。 「はなっ……! 離せえええええっ!」 「おおおお……おおおおお……」  ようやく痛みの薄れはじめた右目を左手で覆い、ユージオは重い体を引き摺るように数歩進み出た。足元に横たわるライオスを、無言で見下ろす。  禁忌を侵した衝撃はいまだ去らず、ユージオから何かを考える能力をほぼ完全に奪い去っていた。それでも、ただ一つだけ、このライオス・アンティノスという名の忌まわしい存在を消し去りたいという欲求だけが頭の中に粘っこくまとわりつき、ユージオを動かしていた。 「消えろ」  意識せず唇から掠れた声が漏れた。右腕がのろのろと動き、鮮血の絡みつく青薔薇の剣を持ち上げると、ライオスの心臓の真上にぴたりと切っ先を擬した。 「おひいっ!」  ライオスの短い悲鳴を無視し、最後の一突きのために力を込めようとしたその瞬間——。  これまで感じたことのない種類の痛みが胸の中央を貫き、ユージオは手を止めた。 「やっ……やめっ……わかったっ、貴君の要求はわかったっ、あの二人には謝罪しよう、そうだ、かっ……金も払う、言い値で払うぞっ……」  甲高いライオスの声を聞きながら、ユージオは、自分を襲うこの痛みは一体なんだろうと考えた。あれほど圧倒的だった憎しみをも上回る、やるせない痛みだった。数分にも感じられた一瞬の戸惑いののち、ユージオは、自分が感じているのが憐れみであることに気付いた。  剣の下で必死に命乞いをするライオスが、汚らわしく、厭わしく、そして途方もなく憐れだとユージオには思えた。この人間には、もしかしたら自分の意志というものが、本当の意味では存在しないのではないか——、そんな気すらした。  上級貴族という生まれと法によって認められた権利を最大限利用せよ、という命令に従って動くことしかできない、憐れな生き物。つまり、ある意味では、ライオスもまた教会と禁忌目録の犠牲者と言えるのではないか? 自分が今ここで、怒りと憎しみのみによってライオスの命を奪ったとして、それで何かが正されるのか……?  しかし、だとしたら、理不尽に傷つけられたロニエとティーゼの魂を、誰がどのようにして償えるというのか。 「う……うああああ!」  ユージオは叫んだ。再び両目から、理由のわからない涙が溢れるのを感じた。ライオスの胸にわずかに触れた剣尖が震え、滑らかな肌に小さな窪みを作った。今、腕にほんの少し力を込めれば、凄まじい重さを持つ青薔薇の剣は容易くライオスの心臓を貫き、その天命を完全に消し去るだろう。 「やめっ、やめてっ、助けてくれっ、殺さないでくれえええっ」  いまだウンベールから天命を奪い続けながら、ライオスがか細い声で喚いた。ウンベールのほうは、長い術式の神聖術を必死の形相で唱え、ライオスの右肩の傷口を塞ごうとしている。  ユージオの腕は動かなかった。己に、そのまま突き刺せ、とも剣を引け、とも命ずることができず、ユージオはただ歯を食い縛り、深い葛藤の渦に翻弄されていた。  一際大きな稲妻が近くの木立に落ち、轟音が天地を揺るがした、その次の瞬間、いくつかのことが連続して起こった。  雷鳴に、反射的に身を痙攣させたライオスの胸に、剣の鋭い切っ先が浅く突き刺さった。 「ああああああっシッ死ぬうううっ嘘だああああっ私がっこの私がああああっ」  絶叫したライオスの両目が、ほとんど飛び出さんばかりに見開かれた。 「ああ有り得ないいいいいこんなことがああああアアアアアア何故だあああああアアアアディルルルルディル、ディルディルディル、ディルディルディルディ————————」  奇怪な叫びを一際高く響かせ、直後、ライオスの両目からふっと生気が消滅した。もたげられた頭がごつんと床に落下し、そしてもう二度と動こうとしなかった。  直前までライオス・アンティノスだった存在が、一瞬にしてライオスの死骸という名の物体に変化したことを、ユージオは直感的に悟った。しかし、何が原因でそうなったのかは、まったく解らなかった。 「あああっ!? らっ、ライオス殿ぉっ!!」  一瞬遅れて、ウンベールも驚愕の叫びを発した。その口が閉じられる前に、全身が一層激しく発光し、その青白い輝きは滝のように最早生命なきライオスの左手に吸い込まれ始めた。 「ああああぁぁぁぁぁ————…………」  わずか数秒で、渇いた砂にこぼれた一掬いの水のようにウンベールの天命も尽き、再度ごとんと重い音を発してその体も床に崩れ落ちた。  驚愕と混乱にとらわれ、ユージオは喘ぎながら数歩後ずさると、がくりと膝をついて眼前に転がる二つのむくろを見つめた。ライオスの傷は深手だったが、あのままウンベールの天命を貰いながら治療を続けていれば、命を落とすまでは行かなかったはずだ。ならば一体何ものがライオスの天命を奪い去ったのだろうか。  いや、そうじゃない、やはりライオスを殺したのは僕だ——とユージオは自分に言い聞かせた。そんなことが起こりうるのかどうか確信は持てなかったが、ライオスはおそらく、突きつけられた剣への恐怖のあまり自らの魂を殺してしまったのではないか。ならば、その死をもたらしたのはユージオ以外の何者でもない。  禁忌を犯し、人を殺した。ユージオはその意味を懸命に考えようとした。だが、以前の自分と、どこがどのように変わってしまったのかを自覚することは不思議に出来なかった。漠然と、教会への反逆者、大罪人となった自分に何らかの裁きが——天を裂くいかずちや底の無い地割れのような神罰が下るのではと考えそれを待ったが、窓の外では変わらず大粒の雨が吹き荒れるのみだった。  何かが動く気配を感じて顔を上げると、今までソファーで腰を抜かしていたラッディーノが、顔を蒼白にして立ち上がったところだった。震える指がユージオに突きつけられ、しわがれた声が漏れた。 「ひ……人殺し……禁忌違反者……お前……人間じゃないな? 闇の国の怪物だったんだな?」  思わぬ糾弾に唖然とするユージオの視線を受けながら、ラッディーノは痩躯をぎくしゃくと動かして壁に近寄ると、そこに掛けられていたライオスの装飾華美な長剣を外した。 「こ……殺さないと……闇の軍勢が……こんな所まで……」  うわ言のようにぶつぶつ呟きながら、ユージオの前までよろよろと移動し、ラッディーノは長剣の鞘を払った。鏡のような刀身が、ランプの明かりを受けて眩く輝く。  頭上に振り上げられた剣を見ながら、ユージオは、こんなものが神罰なのか、と考えた。小刻みに震える刃は、とても一撃で首を落とせるとは思えなかったが、避ける気にも、右手の剣で受ける気にもならず、ユージオはただそれが降ってくるのを待った。  ラッディーノは、全練士の頂点に立つ十二人に名を連ねているにしては腰の引けた、不恰好な動作で断罪の一撃を繰り出した。しかし、その剣は、ユージオの額を割るはるか手前で、ユージオの背後から黒い蛇のように伸びた一本の腕によって制止させられた。  わずか親指と人差し指のみで、こともなげに剣の腹を掴んでのけたその腕を、ユージオは呆然と視線で辿った。いつの間にか、跪くユージオのすぐ後ろに、全身濡れそぼった黒衣のキリトが幽鬼のごとく立っていた。  部屋に転がる二つの死体と一着の制服を見ただけで、キリトはここで起きたことをほぼ察したようだった。唇までを蒼白にしたその顔には一切の表情が無く、ただ両の眼だけが異様な光を放っていた。 「きっ……貴様も仲間かっ……! 闇の国の化け物かあっ!」  ラッディーノは完全に恐慌を来した裏声でわめき、掴まれた剣を再度振り上げようとした。しかしその時にはすでに、キリトの右手が五本の指で刀身をがっちりと握り、刃が掌を切り裂くのも構わずに強引にラッディーノの手から柄を引き抜いていた。飛び散った血の玉のいくつかが、ユージオの顔を叩いた。  剣を奪われ、ラッディーノは前のめりに体勢を崩した。突き出されたその顔を、唸りを上げて閃いたキリトの左拳が真正面から撃ち抜いた。鈍い衝撃音に重ねて甲高い悲鳴を撒き散らしながら、ラッディーノは襤褸人形のように吹き飛び、元のソファーに尻から落下した。 「ぶっ! ぶほっ!」  一瞬遅れて、その口から、霧のような血に混じって折れた歯がいくつも吐き出され、床板に音を立てて転がった。ほぼ完全な思考麻痺状態にあって、それでもユージオは、自分とは違い何の葛藤も見せずに禁忌目録を破ってのけた相棒の所作に息を飲んだ。  ラッディーノのほうは、それどころではない恐怖をその顔に刻み、改めて切れ切れの悲鳴を発した。 「ひ……こっ……殺されるうううっ!!」  両手を前に突き出しながらソファーから転がり落ち、そのままずるずるとドアのほうに後ずさっていく。キリトにこれ以上攻撃の意思が無いと見るや、くるりと後ろを向き、四つん這いになって開け放たれたままの戸口ににじり寄る。 「だ……誰か……誰かあああっ! 誰か助けてええええっ!!」  敷居から半身が出た瞬間そう絶叫し、ラッディーノは両手両足を遮二無二動かして廊下の暗がりへと脱した。ひいいい、と長く尾を引く悲鳴がたちまち遠ざかり、嵐の音に紛れて消えた。  ユージオは視線を戻し、再度キリトを見上げた。  右手に握っていたライオスの剣を、キリトは自分が作った血溜まりの中に落とし、そこではじめてユージオの目を見た。唇がわななくように震えてから、ぎゅっときつく噛み締められた。次いで、キリトは、まるで何者かの——もしかしたら神の声を待つかのように頭上を振り仰ぎ、そのまま数秒間身じろぎ一つしなかったが、いかなる審判も降りてこないのを知ると、もう一度ユージオに視線を戻した。  今度は、その唇から、掠れた声が零れ落ちた。 「……すまない……。甘く見ていた……まさか……まさかこれほどの……」  その先は言葉にならないようだった。ユージオは、自分の口が動き、消え入るような声が漏れるのを聞いた。 「キリト……僕……ライオスを殺しちゃったよ……」  言った途端、右目が再度ずきんと疼いた。 「あいつ……ティーゼとロニエに酷いことしたんだ……だから……だから殺した……ウンベールも殺した……僕……僕は……」  ラッディーノの言ったとおり、僕は人間ではなかったのだろうか? 闇の国の住人だったのだろうか? そう続けようとしたが、もう声が出なかった。息を詰まらせながら俯くと、少し離れた場所に転がったライオスの死骸の、虚ろに見開かれた眼と視線が合った。  人殺し、人殺し、生命なき眼がそう誹る声をユージオは聴いた。幼い頃、ユージオや兄たちを大いに怯えさせた祖母の寝物語に出てきた言葉。闇の国に棲む者には守るべき法も禁忌も無く、捕らえた人間を戯れに殺すだけに飽き足らず、同じ一族ですら欲望のために殺し合うと。それが事実であることを、ユージオは二年前、果ての山脈の地下洞窟で身をもって知った。  そうだ、僕はあのゴブリン達と何ら変わらない。同じ人間であるライオスを、怒りに任せて斬った。あの瞬間、教会も、禁忌目録も糞食らえだと、本気で思った。  せめて——せめて一つだけゴブリンと違うところを証明するために——僕は自分自身を裁かなくてはならないのではないだろうか……?  不意に、右手に握ったままの青薔薇の剣の柄が、途方も無く冷たく感じられて、ユージオは全身を強張らせた。だが、次の瞬間、キリトの左手がぐっとユージオの肩を掴んでいた。力強く、暖かい手だった。 「お前は、人間だ、ユージオ。俺と同じ……愚かで、間違いばかり犯し、その意味を探して足掻きつづける……人間なんだ」  もう一度ぎゅっと力を込めてから、キリトは手を離し、寝室のドアに向かって歩を進めた。落ちている灰色の制服を拾い上げ、ドアをそっと開き、奥の暗闇へと姿を消す。  ユージオは動けなかった。キリトの言葉はユージオに更なる混乱をもたらし、窓の外の嵐のように様々な想念が押し寄せては去っていく。  この部屋から逃げ出したかった。学院からも、央都からも——この世界そのものから逃げてしまいたいとユージオは思った。自分も寝室に行き、ティーゼ達を介抱しなくてはならないと分かってはいたが、彼女たちの瞳に、ラッディーノと同じ恐怖の色が浮かんだら、と思うとどうしても立ち上がることが出来なかった。  彫像のように固まったまま数分間が過ぎ去り、やがて、寝室のドアがゆっくりと動いた。びくりと肩を震わせてから、ユージオは恐る恐る顔を上げた。  まず、制服を身につけているが気を失ったままらしいロニエを両手に抱えたキリトが姿を現した。その後ろに、同じく服装は整っているものの赤い髪に乱れの残るティーゼが続き、一歩居間に足を踏み入れたところで立ち止まった。  輝きの薄れた紅葉色の瞳が、ライオスとウンベールの死体をしばらく眺め、次いで、半身を返り血に染めたまま跪くユージオを映した。  紙のように白いその顔に、いかなる表情も浮かべることなく、ティーゼはただ凝っと、いつまでもユージオを見つめていた。その瞳にやがて生じるであろう恐怖と嫌悪から、せめて目を逸らせることはするまいと、ユージオは只管その時を待った。  不意に、虚ろな表情を貼り付かせたまま、ティーゼがのろのろと歩き始めた。二、三歩進んではふらりとよろけ、踏みとどまると、また足を前に出す。長い、長い時間をかけて部屋を横切り、ユージオの前にたどり着くと、そこで糸が切れたようにティーゼはがくりと膝をついた。  間近で見ると、滑らかな頬にはいまだ涙の跡が残っていた。一緒に全ての感情までも流しだしてしまったかのように、赤紫色の瞳は一切内面を映し出すことなく、鏡のようにユージオの視線を跳ね返した。  かけるべき言葉はどうしても見つからなかった。いかなる謝罪も、慰めも、殺人者に堕した自分の口から出た途端空疎な偽りになってしまいそうで、ユージオは無言のまま待つことしかできなかった。  永遠とも思えた数秒が過ぎ去り——そして、ティーゼの右手が、ゆっくりと動いた。指先がスカートのポケットに差し込まれ、何度か中を探ってから抜き出されたその手には、小さな白いハンカチが握られていた。  右手をのろのろと伸ばすと、ティーゼはそのハンカチで、ユージオの左頬に伝う血をぎこちなく拭った。わずかに首を傾げ、何度も、何度も、赤子を撫でる母親のように、飽くことなく手を動かした。  ユージオは、この日何度目かの涙が頬に流れるのを感じた。ハンカチに染み込むそばから溢れ出すユージオの涙を、ティーゼはいつまでも拭い続けた。  指導教官と数名の上級修剣士が部屋に駆け込んできたのは、およそ十分後だった。  ティーゼとロニエは女性の修剣士に引き取られゆき、ユージオとキリトは今まで一度も使われたことがないという懲罰房で別々に一夜を過ごすこととなった。  一睡もできぬまま夜が明け、房から引き出されたユージオは、キリトと共に、しんと静まり返った学院を主講堂まで連行され、その前の広場に居るものを見て息を呑んだ。  春の嵐が過ぎ去ったあとの、溢れるようなソルスの光を受けて白銀に輝く巨大なそれは——見紛うことなき、整合騎士の駆る飛竜だった。しかも二騎。鏡のような鎧を全身に纏い、畳んだ羽を高く掲げて、周囲の建物の窓から恐る恐る覗く練士たちを睥睨している。  主講堂の巨大な正面扉前まで達すると、二人を連行していた指導教官は、低い声でぼそりと呟いた。 「お前たちのしたことは、学院の……いや、帝国の長い歴史にも見当たらない、恐るべき大罪だ。学院内での処分は不可能なため、神聖教会が直々に裁くこととなった。……このようなことになって……残念だ」  ユージオははっとして、伝統流派の達人である壮年の教官を見上げた。いかついその顔には一切の感情が見て取れなかったが、ユージオとキリトが無言で敬礼すると、短く返礼し、そのまま踵をかえして去っていった。 「…………」  しばらく相棒と顔を見合わせたあと、ユージオは振り向き、そっと主講堂の扉を押し開けた。  無数の長机が並ぶ講堂の内部は薄暗く、しんと静まり返っていた。目を凝らすと、正面に建つ巨大なステイシア神像の前に、暗がりにあって尚ぼんやりと輝く二人の騎士の姿があった。  ユージオは大きく息を吸い、もしかしたら最後の歩行となるかもしれない道行きを、ゆっくりと一歩踏み出した。一晩ではとても思考の整理はつかなかったが、気持ちはなぜか穏やかだった。  正面の講壇は、三段の階段状となっており、その一番下にこちらを向いて一人、最上段に背を向けて一人の整合騎士が立っていた。下に立つほうの騎士の鎧には、確かな見覚えがあった。まばゆい銀に輝く一分の隙もない装甲、長い純白のマント、そして十字に窓の切られた面頬付きの兜は、間違いなく、遥か昔アリスを連れ去った整合騎士と同じものだ。  上段に立つ騎士も、鎧は同一のようだが、こちらは兜をつけていなかった。マントの上に、ライオスのものよりも遥かに艶やかな金髪をまっすぐに垂らし、腰には同じく豪奢な金製の鞘を下げている。ユージオ達が近づいても身じろぎひとつすることなく、眼前のステイシア像を見上げたまま動こうとしない。  ぎゅっと両拳を握り締め、ユージオは最後の数メルを歩き終えると、下段の騎士の前で跪き、頭を垂れた。隣でキリトが同じ姿勢を取るのを待って、口を開く。 「上級修剣士ユージオ、及び上級修剣士キリト、出頭致しました」  しばしの沈黙のあと、金属質の倍音が混ざる威圧的な声が、頭上から降ってきた。 「……ノーランガルス第二中央区を統括する整合管理騎士、エルドリエ・シンセシス・トゥエニシックスである。オリックが三子ユージオ、無登録民キリト両名、禁忌条項抵触の罪により捕縛連行し審問ののち処刑する。なお……第二条重要補則第一項を適用すべき罪状のため、連行を整合管制騎士一名が監視する」  言葉を切り、兜の整合騎士が一歩脇に退く気配がした。ユージオが顔を上げると、最上段に立つ騎士が、背を向けたまま凛と響く声を発した。 「セントラル・カセドラル所属、整合管制騎士……アリス・シンセシス・フィフティである」  ユージオの心臓が跳ねた。  この声を、聞き間違えるはずが無かった。生まれたときから十一年間、毎日のように聞いていた声。金髪の眩い煌めき。気のせいか、懐かしい、爽やかな香りまでが漂ってくるようにすら思えた。 「……あ……アリス……? アリスなのか……?」  どうにか絞り出した声は、自分にも聞こえないほどにかすかだった。自分でも意識せず、ユージオはふらりと立ち上がると、一歩、二歩と壇を登り、金髪の整合騎士の背中に近寄っていた。  騎士は、思いのほか小柄だった。そう——アリスがあのままユージオの隣で成長していれば、ちょうどこの位だろうと思える背丈。 「アリス……!」  もう一度、今度はもう少しはっきりした声で呼びかけながら、ユージオは騎士の肩に手を掛けようとした。振り向いた騎士が、あの悪戯っぽい、それでいてつんと澄ました笑顔を浮かべてユージオを迎える——  という予感めいた幻を、視界を切り裂いた黄金の光が一閃で打ち砕いた。  左頬にすさまじい熱が弾け、直後、ユージオはぐるぐると回転しながら五メルほども吹き飛んで、先ほどまで跪いていた床の上に背中から落ちた。アリスと名乗る騎士が、こちらに背を向けたまま、鞘ごと外した黄金の剣で凄まじい速度の一撃を叩き込んだのだ——と気づいたのは、キリトに助け起こされた後だった。  痛みを痛みとして感じられるほどの余裕すらもなく、ユージオはただ、呆然と騎士の後姿を見上げた。  背後に高く伸ばした剣を、騎士はゆっくりと降ろし、石突で足元の磨き上げられた床板を叩いた。鞘に収まったままの刀身が、かしゃりとかすかな音を立てる。 「……振る舞いには気をつけなさい。私にはお前たちの天命の七割までを減少せしむる懲罰権がある。次に許可なく触れようとしたら、その手を斬り落とします」  美しく穏やかな声で淡々と、戦慄すべき言葉を口にしてから、騎士はゆっくりと振り向き、ユージオたちを見下ろした。 「…………アリス……」  その名がもう一度、小さく口から漏れるのを、ユージオは止められなかった。  黄金の剣を携える整合騎士は、見紛えようもなく、かつてルーリッドの村から連行されたユージオの幼馴染、村長ガスフトの娘にしてシルカの姉、アリス・ツーベルク本人——その成長した姿でしか有り得なかった。  癖の無い艶やかな金髪。透明感のある白い肌。何よりも、少し目尻の切れ上がった大きな瞳の、澄んだ湖のような深い青色は、アリス以外の人間には一度として見たことのないものだった。  しかし、その瞳に浮かぶ光だけが、昔と違っていた。ルーリッドの村で暮らしていた頃の、生命力と好奇心に溢れた輝きは完全に消え失せ、ただひたすらに冷徹な、対象を分析し見定めるような視線のみがユージオに注がれていた。  桜色の唇が小さく動き、再び、可憐にして冷淡な声が流れた。 「ほう……天命を三割減らすつもりで撃ったのですが、その半分しか減っていない。当たる瞬間受け流しましたか。修剣学院の代表を争うだけは……あるいは殺人の大罪を犯すだけはあるということですか」  ステイシアの窓を出すこともなくユージオの天命値が見えている、としか思えない口ぶりだったが、その意味を考えることすらできなかった。耳に流れ込んでくる言葉は、ユージオにはどうしても受け入れがたいものだった。あの優しいアリスが、そんなことを言うはずはない。いや、それを言うなら、アリスがユージオを見ても何の反応も示さないこと、ユージオに避ける間も与えない斬撃を事も無げに放ったこと、そもそも整合騎士として眼前に立っていること自体が信じられなかった。  混乱と驚愕の大渦に翻弄されるユージオの耳もとで、ごくごくかすかに、キリトの囁き声がした。 「彼女がお前のアリスなんだな」  その声は、この事態にあっても、糞度胸と言うよりない落ち着きぶりで、ユージオにほんのわずかな冷静さを取り戻させた。どうにか一度小さく頷くと、再度キリトが囁いた。 「……この場は大人しく指示に従おう。罪人としてでも、教会に入れさえすれば、何か事情が分かるはずだ」 「…………ああ……そうだな。ここに来たばかりの頃、お前がそう主張してたみたいにね」  そう答えられるだけのささやかな余裕を回復し、ユージオはもう一度頷いた。二人の様子を、一切の感情を表さず眺めていたアリス・ツーベルク——いや整合騎士アリス・シンセシス・フィフティは、左手に握った鞘を再び腰の剣帯に吊ると、下段に立つ騎士に短く命じた。 「拘束せよ」 「は」  白いマントに隠されていた騎士の左手には、見覚えのある鎖付きの拘束具が二つ握られていた。甲冑を鳴らして歩み寄ってきた整合騎士は、面頬の覗き窓の暗闇からユージオとキリトを一瞥すると、金属質の声を発した。 「立って後ろを向き、両手を背中で交差させよ」  キリトに助けられて立ち上がり、ユージオが指示に従うと、整合騎士はまず二の腕に順番に革手錠を嵌め、次いで腰に太い革帯をまわすと息が詰まるほどきつく締め上げた。ぐいっと一度引っ張って締まり具合を確認すると、キリトにも同じように拘束具を嵌める。  仕事が済むと、エルドリエと名乗った騎士は、二人の腰から垂れ下がる鎖を右手でまとめて掴み、壇上のアリスに報告した。 「拘束しました」 「よし。連行し、両名とも私の騎竜に繋ぎなさい」 「は」  じゃらっと鎖を鳴らし、二人に背後から命じる。 「歩け」  上半身を容赦なく締め付ける拘束具の痛みを感じながら、ユージオは、結局同じことだったのか、とぼんやり考えた。あの時——幼いアリスが整合騎士に連れ去られた時、斧を手に騎士に打ちかかっていれば、おそらくユージオも一緒に拘束されて央都まで運ばれただろう。そしてそこで……何が起こったのだろうか? 罪人として裁かれるはずの人間を、法の守護者たる整合騎士に変えてしまう“何か”……。  いいや、同じではない。アリスは闇の騎士を助けるために罪を犯し、自分は憎しみに駆られて人を殺めたのだから。ライオスの腕を切り落としたときのおぞましい感触、浴びせ掛けられた返り血の生々しい匂い、それらは事あるごとに鮮明に甦り、ユージオに犯した罪の忌まわしさを再認識させる。  しかし、もし自分に下される処分がアリスの受けたものとは異なる——例えば苦痛と恐怖の末の死であったとしても、それを受け入れる前に一つだけしなくてはならないことがある。アリスの身に起きたことを知り、そしてもし彼女を元に戻すことが出来るなら、そのためにあらゆる努力をするのだ。更なる罪を幾つ重ねることになろうとも。  ライオスを殺した直後から己を苛んでいた、四肢をばらばらに引き千切るような恐怖と惑乱の嵐に、ユージオはようやくすがりつくべき縄を見出したような気がしていた。アリスのために——そう、長年の望みどおり生きていてくれたアリスのためなら、あらゆる罪も悪も許される、ユージオは懸命に、そう自分に言い聞かせた。  無人の主講堂を横断し、再び正面扉から外に出ると、まばゆい陽光が目を射た。が、降り注ぐのはそれだけではなかった。円形の大広場を取り巻く幾つかの建物の窓の奥、植え込みや生垣の陰から、大勢の練士たちが自分らを覗き見ているのをユージオは感じた。恐れや憎しみ、困惑から侮蔑に至る、あらゆる種類の負の感情が針のように肌を刺す。  鎖を握る騎士エルドリエは、無数の視線を意に介す気配もなく広場中央に蹲る飛竜の前まで二人を連行し、一匹の右足をよろう装甲の留め金にユージオの鎖を、左足の留め金にキリトの鎖を繋いだ。  遥か頭上から運搬物を見下ろす竜の、巨大な黄色い眼を見上げてしまってから、ユージオは慌てて俯いた。すると、少し離れた石畳の上に、大きな革袋が二つ転がっているのに気付いた。きつく縛られたその口からはみ出しているのは、間違いなく青薔薇の剣と、キリトの黒い剣の柄だ。どうやら中身は、いつのまに纏めたのか二人の自室にあったわずかな私物らしい。多分、二振りの剣を運ぶのは数人がかりでも大仕事だったはずだ。  かつかつと音高く石畳を鳴らしながら歩み寄ってきた騎士アリスが、作業を終えたエルドリエに更に命じた。 「罪人の荷物はそなたの竜で運びなさい」  言いながら腰を屈め、青薔薇の剣の入った大袋を右手でひょいっと持ち上げる。まるで重さなど感じていないふうに、足早にもう一匹の飛竜に近づくと、その脚に革紐を留めた。エルドリエのほうは、多少苦労を滲ませながらキリトの袋を運び、反対側の脚に繋ぐと、鐙に右足を掛け、ひらりと竜の背中の鞍に跨った。  アリスは最早一瞥もくれることなくユージオの目の前を横切り、同じように軽やかな動作で騎乗すると、手綱を取った。ばさり、と音を立てて巨大な翼が広げられ、日差しを遮る。  その時だった。  背後から、二つの足音が駆け寄ってくると同時に、震えを帯びた声がユージオの耳朶を叩いた。 「お待ちください、騎士様!」  息を呑んで振り向くと、走ってくるのは間違いなく、ロニエとティーゼの二人だった。左頬の疼きを作ったアリスの苛烈な一撃を思い出しながら、ユージオは必死に叫んだ。 「やめろ、来るんじゃない!」  しかしティーゼ達は足を止めることなく、アリスの騎竜の正面まで走ると、深々と頭を下げた。 「き、騎士様……どうか、上級修剣士殿にご挨拶するお許しを頂きたく……」  一瞬の沈黙のあと、アリスの素っ気無い声が響いた。 「二分に限り許可します」  わずかに表情を緩め、再度一礼すると、ティーゼはユージオに、ロニエはキリトに向かってたたっと駆け寄った。  後ろ手に捕縛されたユージオの目の前で、よろけるように立ち止まり、ティーゼはぎゅっと両手を胸の前で握った。  一点の染みもない制服姿だったが、その頬にはいまだ血の気がなく、目のまわりは泣き腫らしたように赤く腫れていた。それも無理もない、ライオスらの辱めを受け、直後その死骸を目にするという衝撃を味わってから、まだたった一晩しか立っていないのだ。心に受けた傷の癒えようはずもないティーゼが、こうして衆目の中、大罪人たるユージオに近寄り、あまつさえ整合騎士に面談の許しを乞うなど、どれほどの無理をしているのか想像すら出来なかった。 「……ティーゼ……」  ユージオは掠れた声で呟いたが、どう続けていいのか分からず、唇を噛み締めた。昨夜、ラッディーノは、ライオスを殺したユージオのことを闇の怪物と呼んだ。無理もない、人間が禁忌目録を破るはずもなく、もしも破るものが居ればそれは人間ではないのだ。ティーゼだってそう考えても何の不思議もない。  ユージオが目を伏せようとしたその時、ティーゼの紅葉色の瞳に大粒の涙が盛り上がり、溢れて頬を伝った。 「ユージオ先輩……ごめんなさい……私の……私のせいで……」  両手をぎゅっときつく握り締め、か細い声を絞り出すように続ける。 「……ごめんなさい……私が……愚かなことを……したせいで……」 「違うよ……違うんだ」  ユージオは驚きにうたれながら、何度も首を振り、言った。 「君は何も悪くない……君は、友達のために正しいことをしたんだ。……こうなったのは、全部僕のせいだ。君が謝ることなんて何もないんだ」  そう——違うのだ。ユージオは、口を動かすと同時に胸中で呟いていた。  僕がライオスを殺したのは、何もかも自分のためにしたことだ。禁忌目録を言い訳にして八年もの間無為な時間を過ごしたことへの言い訳のために、そしてそんな自分への嫌悪のあまり、剣を振るってしまったに過ぎないんだ——。  ティーゼは、ユージオの魂の奥底まで見とおすようにまっすぐ視線を合わせ、痛々しさすら感じさせる懸命な笑みを小さく浮かべた。 「今度は……」  震えているが、きっぱりとした口調で、年若い見習い剣士は言った。 「今度は、私がユージオ先輩を助けます。私……がんばって、きっと整合騎士になって、先輩を助けにいきますから……だから、待ってて下さいね。きっと……きっと……」  嗚咽が、続く言葉を飲み込んだ。ユージオは、繰り返し頷くことしかできなかった。  飛竜の反対側では、短い会話を終えたロニエが、手に持っていた小さな包みをキリトの縛られた手に握らせながら泣き声混じりに言っていた。 「あの……これ、お弁当です。おなかが空いたら、食べてください……」  それに対してキリトが発した言葉を、再び大きく広げられた飛竜の羽音が遮った。 「時間です」  アリスの声と同時に、ぴしっと手綱が鳴り、竜が太い脚を伸ばした。鎖が動き、ユージオの体をわずかに宙に浮かせる。  とめどなく涙を溢れさせながら、ティーゼが数歩後ろに下がった。翼が打ち鳴らされ、巻き起こった風が赤い髪を揺らした。  どっ、どっ、と地面を震わせ、飛竜が助走を始めても、ティーゼは懸命に走って追いかけてきたが、やがて脚を縺れさせて石畳に手を突いた。直後、竜が大きく地を蹴り、翼を羽ばたかせて、宙に舞い上がった。  飛竜は螺旋を描きながらすさまじい上昇力で空に駆け上り、眼下のティーゼとロニエをみるみる小さくしていった。やがてその姿は石畳の灰色に紛れて消え、北セントリア修剣学院の全体像を一瞬ユージオに見せたあと、二騎の飛竜は一直線に央都の中心——神聖教会の巨大な塔目指して飛翔しはじめた。 [#地から1字上げ](第五章 終)     第六章  武装テロリスト八名が立て篭もったのは、今にも倒壊しそうな地上六階のアパートメントだった。  アメリカ|統合特殊作戦軍《SOCOM》直轄の新設カウンター・テロ部隊、“バリアンス”第二小隊チーム|B《ブラボー》リーダーを務めるガブリエル・ミラー中尉は、隊員二名と共に建物の裏手に回りこむと、まるで蹴飛ばさせるために巧妙に配置されているとしか思えない空き缶や割れガラスの山を注意深く回避しながら、侵入口に設定された窓に向かって中腰で走った。  三十秒足らずで首尾よくたどり着き、窓の直下の壁に身を潜めると、装着した多機能ゴーグルからサーモセンサーのプローブを引き出し、極細の尖端を窓ガラスの割れ目から内部に挿し込む。赤外線を捉える機械の眼は、暗闇に沈む部屋の中に三人が潜んでいることをたちまち暴き出し、ガブリエルは背後の部下に指サインでそれを伝えるとセンサーを戻した。  消音器付きサブマシンガンのセーフティが解除されていることを確かめ、ベルトからスタングレネードを一つ外す。歯でピンを咥えて抜くと、先ほどの割れ目から無造作に放り込む。  ごろごろと床を転がる音、何語だかわからない叫び声に続き、密度のある眩い白光が迸った。ゴーグルが自動的に感度を絞って目を保護してくれるが、念のために視線を下に向けて三つ数える。立ち上がりざま思い切りジャンプして窓枠の上部を掴むと、腕だけで体を持ち上げて、ブーツで窓を蹴破りながら体を放り込んだ。  靴底が床に触れる前から、ガブリエルは、視力を奪われた二人の男が、髭面を歪めて罵り声を上げ、旧式のアサルトライフルを闇雲に窓に向けつつあるのを確認していた。着地と同時に身を屈め、マシンガンを構えてトリガーを引く。三連射で右側の男の額に二つの穴を開け、大きく一歩飛んで左側の男の射線から外れると、そちらにも弾をたっぷりと見舞う。  残る一人の姿を探してガブリエルが首を回すのと、ぼろぼろのソファーの裏から拳銃を手にした小柄な人影が立ち上がるのはほぼ同時だった。慌てずにそちらにマシンガンの銃口を向け、引き鉄を絞るべく右手の人差し指がぴくりと震えた瞬間、ガブリエルは銃を天井に向けて跳ね上げた。 「……おっと」  みじかく呟く。人影は、長いスカートを穿き、髪をスカーフに包んだ女性だった。『パニックのあまり銃を拾ってしまった人質住民』だ。撃ってしまえば得点は大幅にマイナスとなる。もっとも、わずかながら『人質住民を装う女性テロリスト』の可能性も残されているので、ガブリエルは油断なくマシンガンを構えたまま、左手でゴーグルを持ち上げて作り笑いを浮かべた。 「大丈夫、もう心配ありません」  ポリゴンで作られAIに動かされる人質女性に、簡単な英語で言葉を掛けながら、ガブリエルは胸中で、まったく馬鹿馬鹿しいことだと吐き捨てていた。もしこれが現実の作戦行動中なら、銃を手にしている時点で容赦なく撃ち倒しているだろうし、その判断を責められることも、いやそもそも問題にされることすらあるまい。強行突入を選択した時点で人質にある程度の犠牲者が出るのは折込済みだし、そしてそれは常にテロリスト側の非として処理されるのだ。  ならば、仮想訓練でこんな意地の悪い引っ掛けにいちいち気を遣わされることにどんな意味があるというのだろう。むしろ訓練であるなら、動くもの全てを問答無用で撃ち殺させるべきではないのか。それくらいしなければ、今頃こわごわと窓から顔を出しているような新米隊員たちが実戦で使えるようになるまでに、どれ程の時間がかかるか知れたものではない。  女性の拳銃を取り上げ、ここでおとなしくしているよう指示してから、ガブリエルはドア下の隙間から再び熱センサーで表の様子を探った。人の気配がないことを確認し、更に意地悪いオペレーターがドアにブービートラップを仕掛けていないかどうかチェックしてから、そっと押し開く。  ブリーフィングで示された内部の見取り図によれば、上に続く階段は廊下の両端に一つずつあった筈だ。部下二人には東側から上るよう手で指示し、自分は西へ向かう。  靴底から伝わる砂埃の感触、隅をちょろちょろ這いまわるゴキブリの動き、確かにこの、日本の自衛隊と共同開発した——その実態は向こうの技術の一方的無償供与だが——NERDLES型シミュレーターは恐ろしいまでのリアリティを備えている。しかし、仮想世界を見慣れたガブリエルの眼には、いくつかの粗も浮かび上がって見える。  その最たるものが、“ポリゴンで人間をリアルに作ろうとすればするほどその違和感は増大する”という原則が無視されていることだ。先ほどのアラブ系テロリスト達も、人質の中年女性も、一見ぞっとするほどの精細さで顔を造り込まれていたが、それゆえに動いたり喋ったりしたときのいわく言いがたい気持ち悪さも鳥肌ものだった。動かすのなら、むしろある程度デザインはデフォルメーションしたほうがいい、というのが日米の最先端を行くVRMMOメーカーの共通認識になりつつあるのだ。  しかし、その方向性には、太平洋以上の開きがある。アメリカで運営されているVRMMOゲームのほとんどが、伝統的な過剰カリカチュアライズに則ったデザインを採用していて、異常に上腕の発達した大男や、蜂のようにウエストのくびれたグラマー女、あるいは人間ですらないモンスターの姿をしたプレイヤーばかりが闊歩することになる。ゲームとしてはそれが正解なのだろうが、ガブリエルには物足りない。  ガブリエルが休暇のたびに基地内の宿舎に閉じこもり、VR世界に耽溺しているのは、ひとえに剣や銃で戦うポリゴン体の向こうの、生身のプレイヤーを感じるためだ。圧倒的なガブリエルの戦闘力に屈し、怒り、憎しみ、恥辱、そして恐怖に沈んでいくプレイヤーの魂を余すことなく体感する——、その目的のためには、アメリカ製ゲームのいかにもコミック然としたキャラクターデザインは少々具合が悪いと言わざるを得ない。  その点、日本のVRMMOのデザインは申し分無い。ポリゴン体は皆、違和感を覚えさせない程度にデフォルメされおり、感情表現を阻害しない程度にリアル、尚且つ肌の質感はフレッシュで美しい。大抵のゲームはアメリカからのログインを許可していないため、アカウントを取るにはそれなりの金と手間が必要となるが、恐らく現実のプレイヤーと年齢的には大差ないのだろう若々しい外見の少年少女たちがガブリエルの武器の下に、生々しい感情の発露とともに絶命していく瞬間の快感は苦労に見合って余りあるものだ。  一個の戦闘機械と化し、正確無比な手順でシミュレーター訓練を攻略しながら、ガブリエルの想念は、数日前に参加したVRMMOゲームのトーナメント大会へと戻っていた。  ガンゲイル・オンラインという名のそのゲームは、運営体はアメリカの企業だが、使用されているモジュールは日本で無償配布されているもので、キャラクターデザインも日本市場向けのものとなっている。ガブリエルは非公開のプロキシサーバを経由してその大会にエントリーし、ゲームが慣れ親しんだタクティカル・コンバットタイプのものだったせいもあって、大いに殺戮を愉しんだのものだ。  ことにガブリエルを満足させたのは、小柄な体格に不釣合いな対戦車ライフルを抱えたうら若い少女プレイヤーだった。ほとんどの参加者が、正面から撃ち合うしか芸の無いプレイヤーだったために、ガブリエルは様々なトラップで撹乱した上でナイフで止めを刺すという最も好みの殺し方を思う様味わえたのだが、あの少女だけはどうしても接近を許さず、仕方なく遠距離からC4爆薬で仕留めた。しかし、自分が罠に掛かったと知った瞬間の少女の瞳——怒りと闘争心に、僅かな屈辱をブレンドさせたあの溢れるような輝きは、ガブリエルを大いに満足させるものだった。  数日後には、同じ大会の団体戦が催される。恐らくあの少女も、仲間を集めてリベンジを挑んでくるだろう。今度こそ、背後からしっかりと拘束し、あの猫を思わせる瞳を至近距離から覗き込みながら、ナイフで喉を切り裂く。そうすれば、もしかしたら、あの瞬間に感じた奇蹟——十五年前、エレメンタリースクールに通う子供だった頃に初めて味わったあの感動に近い何かが、再び訪れるかもしれない。  髭面のテロリスト達を機械的に掃討しながら、ガブリエルは来るべき瞬間を予期して、背筋を這い登る快感に少しだけ身を震わせた。  ガブリエル・ミラーは、一九九〇年二月にノースカロライナ州シャーロットで生を受けた。  兄弟姉妹は無く、昆虫学者の父と専業主婦の母の愛を絶え間なく注がれて育った。先祖代々伝わる家屋敷は広大なもので、遊び場には事欠かなかったが、幼いガブリエルが最も好んだ隠れ場所は父親の標本保管庫だった。  ノースカロライナ大学で教鞭を取る父親は、趣味と実益を兼ねて膨大な量の昆虫標本を買い集め、また自ら採取・処理したものも含めて、広い保管部屋の四方の壁を隙間無く埋めつくすほどのコレクションを並べていた。ガブリエルは、時間があれば保管庫に篭り、拡大鏡片手に標本を眺めつづけ、それに疲れると部屋中央のソファーに腰掛けてぼんやりと空想に耽った。  天井の高い、薄暗い部屋に一人きりで、周囲を無数の、それこそ数万匹の物言わぬ昆虫たちに囲まれていると、決まってガブリエルはある種の神秘的な感慨に襲われた。この虫たちは、みんな、ある時までは生きていたのだ——生きて、元気にアフリカの草原や、中東の砂漠や、南米の密林で巣を作ったり餌を探したりしていたのだ。しかし、短い生の半ばにして採取者に掴まり、薬品的処理を施され、今はこうして銀色のピンに貫かれてガラスケースの下に行儀よく並んでいる。つまりこの保管庫は、昆虫標本のコレクション・ルームであると同時に、殺戮の証を万単位で並べた恐るべきインフェルノでもあるのだ……。  ガブリエルは目を閉じ、周囲の虫たちが不意に命を取り戻す様子を想像する。六本の足が懸命に宙を掻き、触覚が闇雲に振り回される。かさかさ、かさかさ……。かすかな音が無数に重なり、渇いた細波となってガブリエルに押し寄せる。かさかさ、かさかさ。  ぱっと目蓋を開く。周囲を見回す。ひとつのケースの隅に留められた、緑色の甲虫の足が動いたような気がして、ソファーから飛び降りて駆け寄る。青い目を見開き、食い入るように見つめるが、その時にはすでに昆虫は物言わぬ標本に戻っている。  金属のように艶やかなエメラルドグリーンの甲殻、鋭いトゲの生えた脚、極小の網目の入った複眼。無機質の工芸品としか思えないこの物体をかつて動かしていたのは、一体どのような力なのだろうとガブリエルは考える。昆虫には、人間のような脳は無いのだと父親は言った。ならどこで考えているの、と問うと、父親は一本のビデオを見せてくれた。  撮影されていたのは、交尾中の一対のカマキリだった。鮮やかな緑色の、丸々と太ったメスを、背後から小さなオスが押さえ込み、交接器を接合させている。メスは、しばらくじっと身動きしなかったが、ある瞬間思い立ったようにオスの上半身を腕で抱え込み、その頭部をむしゃむしゃと咀嚼し始めた。ガブリエルが驚愕しながら見守るなか、オスはなおも交尾を続け、おのれの頭が完全に食い尽くされたところで交接器を離した。そして、メスの鎌を振りほどいて一目散に逃げ出したのだった。  頭部を完全に失っているにも関わらず、オスカマキリは草の葉を伝い、枝を上り、器用に逃走を続けた。その映像を指しながら、父親は言った。カマキリを含む昆虫は、全身の神経がすべて脳のようなものなのだ。だから、感覚器に過ぎない頭を失っても、しばらくは生きていられるのだ、と。  そのビデオを見てから、ガブリエルは、ならカマキリの魂はどこにあるのだろうと数日間考えつづけた。頭を取っても生きていられるなら、足を全て失ってもさして問題ではあるまい。ならば腹か? しかし腹というのは餌の消化装置だろう。なら胸だろうか? しかし虫たちは、ピンで胸を貫かれても元気にじたばたと足を動かしつづける。  体のどこの部位を失っても即死しないというなら、カマキリの魂は、その体を作る物質とは無関係に存在すると言わなくてはなるまい。当時八歳か九歳だったガブリエルは、家の周囲で捕らえた昆虫を使って何度か実験を試みた末、そのように独自の結論を得た。昆虫という半機械的な仕掛けを動かす不思議な力、つまり魂は、どの部位を損傷されようとしぶとくその器に留まろうとする。しかしある瞬間、もう無理だと諦めて器を捨て、離脱していく。  離れていく魂をこの目で見たい、とガブリエルは熱望した。しかし、どれほど拡大鏡に目を凝らし、慎重に実験を行っても、昆虫の体から離れていく何ものかを見ることはできなかった。屋敷の裏手の広い林の奥深くに作った秘密の実験場で、どれほどの時間と熱意を費やしても、望みが叶うことはなかった。  自分のそのような渇望が、親たちには歓迎されないものであろうことは、幼いガブリエルにも判っていた。だから、カマキリの一件以来、父親には二度と同種の質問はしなかったし、実験のことも決して口外しなかった。しかし、隠せば隠すほど、その欲求は大きくなっていくようだった。  その頃、ガブリエルには、とても仲のよかった女の子の友達がいた。アリシア・クリンガーマンというその少女は隣の屋敷に住む銀行家の一人娘で、当然同じエレメンタリースクールに通い、親同士も親しくしていた。物語が好きな、内気な少女で、外で遊ぶよりも家の中で一緒に本を読んだりすることを好んだ。ガブリエルは、自分の秘めたる欲求のことはアリシアにも巧みに隠し、虫の話は一切しなかった。  しかし、考えるのだけはやめられなかった。自分の隣で、天使のような微笑みを浮かべながら子供向け幻想物語を朗読するアリシアの横顔をそっと覗き見ながら、アリシアの魂はどこにあるのだろう、とガブリエルは何度も考えた。昆虫と人間は違う。人間は、頭を失ったら生きられない。だから、人間の魂は頭にあるのだろう。だがガブリエルは、父親のパソコンでネットを渉猟し、脳の損傷が必ずしも生命の喪失と直結しないことをすでに学んでいた。太い鉄パイプで顎から頭頂までを貫かれても死ななかった建設作業員もいるし、患者の脳の一部を切除して精神病を治療しようとした医者もいる。  だから、脳のどこか一部なのだ。綿毛のような金髪に縁どられたアリシアの額を見ながら、ガブリエルはそう考えた。脳組織に深く深く覆われた核に、魂の座がある。  自分は将来、アリシアと結婚することになるのだろう、とガブリエルは何の疑いもなく信じていた。だから、いつの日か、アリシアの魂をこの目で見ることができるかもしれないという深い期待をひそかに抱いていた。天使のようなアリシアの魂は、きっと言葉にできないほど美しいに違いない。  ガブリエルのその望みは、思いがけないほど早く、半分裏切られ、半分叶えられることとなった。  二〇〇一年九月十一日、ガブリエルにとって——いや、全米に暮らす人間にとって一生忘れられないだろう事件が発生した。  シャーロットの北東五百マイルに位置する大都市で、二機の旅客機が高層ビルに突入し、ひとつの時代を終わらせた。凄まじい土煙を噴き上げながら崩壊するビルディングの映像を、テレビで繰り返し観ながら、ガブリエルはその瓦礫の中で消滅した数千の魂のことを思った。いけないことだと分かってはいたが、どうしても、近隣のビルの高層階から貿易センター崩落の瞬間を眺められなかったのが残念だという気持ちを抑えることができなかった。もしあの場に居合わせれば、崩れ落ちる瓦礫の下から現われて天に昇る魂たちの輝きを見ることが出来たかもしれないのに。  同時多発テロは、様々な形で合衆国を激しく揺さぶった。その波は、アパラチア山脈のふもとに広がるシャーロットの街まで、具体的にはガブリエルの家のすぐ隣にまで及んだ。事件で最も打撃を受けたのは航空業界であり、全世界で航空会社の倒産が相次いだのだが、そのうちの一つの企業に、アリシアの父親のクリンガーマン氏とその顧客が多額の投資をしていたのである。  巨大な負債を抱え、顧客たちから容赦なく責められたクリンガーマン氏は、拳銃自殺という形で人生の幕を下ろした。家屋敷を含む資産を全てを差し押さえられ、残された夫人とアリシアは、小さな工場を営む親戚を頼って遠くピッツバーグまで引っ越すこととなった。  ガブリエルは悲しかった。十一歳の子供にしては聡明だった彼は、十一歳の子供でしかない自分がアリシアを助けることなど出来るはずもないことを理解していたし、今後アリシアを待っているであろう過酷な境遇も明確に想像できた。完璧なセキュリティに守られた屋敷、熟練のコックが作る毎日の食事、裕福な白人の子供ばかりの学校、それらの特権はアリシアの人生からは永遠に去り、貧困と肉体労働がそれに取ってかわるのだ。何より、いつか自分のものになるはずだったアリシアの魂が、名も知らぬ誰かたちによって傷つけられ、輝きを失っていくのは、ガブリエルには耐えがたいことだった。  だから、彼女を殺すことにした。  アリシアが学校で最後の挨拶をしたその日、帰りのスクールバスから降りた彼女を、ガブリエルは自宅の裏の森に誘った。道路や家々の塀に設置された全ての監視カメラを巧妙に避け、誰にも見られていないことを確認しながら森に入ると、足跡が残らないよう落ち葉の上を十分ほど歩き、密生した潅木に囲まれた“秘密の実験場”にガブリエルはアリシアを導いた。  かつてそこで数え切れないほどの虫たちが死んでいったことなど知るよしもないアリシアは、ガブリエルがぎこちなく彼女を抱きしめると、一瞬身を固くしたが、すぐに同じように腕を回してきた。小さくしゃくりあげながら、アリシアは、どこにも行きたくない、ずっとこの街にいたい、と言った。  僕がその望みをかなえてあげるよ——と心の中で呟きながら、ガブリエルは上着のポケットに手を入れ、用意しておいた道具を取り出した。父親が昆虫の処理に使う、木製の握りがついた、長さ四インチの鋼鉄製ニードルの尖端をそっとアリシアの左耳に差し込み、反対側をもう一方の手で抑えておいて、一瞬の躊躇もなく根元まで貫き通した。  アリシアは、何が起きたのかわからない様子で不思議そうに目を瞬かせたあと、不意に体を激しく痙攣させ、喉のおくでくぐもった奇妙な音を漏らした。数秒後、見開かれた青い瞳がふっと焦点を失い、そして——  ガブリエルは、それを見たのだった。  目の前の、アリシアの滑らかな白い額の中央から、きらきらと光り輝く小さな雲のようなものが現われ、ふわりふわりと漂いながらガブリエルの眉間に近づくと、そのまま何の抵抗もなく染み込んだ。  いきなり、周囲を包んでいた秋の宵闇が消えた。空から、高い木々の梢を貫いて幾つもの白い光の筋が降り注ぎ、かすかな鐘の音さえ聴こえた気がした。  凄まじい法悦と高揚感に、両目から涙が溢れた。自分は今、アリシアの魂を見——それだけではなく、アリシアの魂が見ているものをさえ見ているのだ、ガブリエルはそう直感した。  輝く小さな雲は、永遠とも思えた数秒をかけてガブリエルの頭を通り抜け、そのまま天からの光に導かれるように上昇を続けて、やがて消え去った。同時にあたりに暗がりと静寂が戻った。  生命と魂を失ったアリシアの体を両手で抱えながら、ガブリエルは、今の体験が真実だったのか、それとも極度の昂奮がもたらした幻覚だったのかと考えた。そして、そのどちらであろうとも、自分は今後ずっと、今見たものを追って生きていくことになるだろうと確信した。  アリシアの骸は、かねて見つけておいた、樫の巨木の根元に開いた深い竪穴に放り込んだ。次に、自分の体を慎重に調べ、付着した長い二本の金髪を摘み上げると、それも穴に捨てた。ニードルは綺麗に洗ってから父親の道具箱に戻した。  アリシア・クリンガーマン失踪事件は、地元警察の懸命の捜査にも手がかりひとつ発見されず、やがて迷宮入りした。  ガブリエルは当初、脳を研究する科学者を目指そうと考えた。しかしすぐに、学者が自由に出来るのはサルの脳がせいぜいであることを知った。サルの魂に興味が持てるとは思えなかったので、次に、合法的に人が殺せる職業に就くことにした。警官になるのは難しくなさそうだったが、そうそう犯罪者を射殺する機会などありそうもなかったし、世界情勢的にも兵士になるのが最良の選択と言えそうだった。  決意したその日から、ガブリエルは計画的にトレーニングを始めた。両親は不思議がったが、高校でフットボールをやりたいからだと言うとあっさり納得し、高価なエキササイズマシンさえ買ってくれた。  もともと体格に恵まれていたガブリエルの身体能力はみるみる上昇し、高校に進学してからは宣言どおりフットボールだけでなく、バスケットボールとボクシングでも花形選手となった。肉体的には、軍隊の訓練がどれほどハードなものであろうと耐えられるという確信を得るに至ったガブリエルだが、最大の障壁は両親の理解だった。息子は当然、一流の大学に進みトップエリートの道を歩むのだと信じて疑わない両親に、軍隊に入りたいなどと言っても一顧だにされないだろうことは明白だった。  十八歳になる直前、ガブリエルは毎年夏に訪れるノックスビルの別荘で、両親に酒に混ぜた多量の睡眠薬を飲ませて昏睡させたうえで建物ごと焼死させた。高校を卒業すると、相続した財産のうち不動産は全て有価証券に換え、そのまま一番近い陸軍徴募事務所に足を運んだ。  屋敷を不動産業者に引き渡す前日、ガブリエルは何年ぶりかに標本収納庫を訪れ、埃をかぶったガラスケースの向こうから囁きかける虫たちの声に耳を傾けようとした。しかし、かつて彼に、生命と魂の秘密をかさかさと語ってくれた数万匹の昆虫たちは、ピンに貫かれたまましんと黙り込むだけだった。  ガブリエルは、肩をすくめてその部屋を後にし、そして二度とシャーロットの土を踏むことはなかった。  コンバット・シミュレーターのダイビングシートから身を起こしたガブリエルは、傍らに立つ女性一等軍曹が尊敬と緊張の面持ちで差し出すゲータレードのボトルを受け取り、一息に飲み干した。空容器をガブリエルから受け取り、一歩下がった若い兵士は、頬を僅かに紅潮させながら口を開いた。 「見事でした、中尉《LT》。文句なしの最高得点です。いったい、どのような訓練をすればあれほど的確に動けるのですか?」  ガブリエルは、タフな小隊長が浮かべるのに相応しい野性的な笑みを片頬に刻んで見せながら、短く答えた。 「一度の実戦は百の訓練にまさるのさ、一等軍曹《ガニー》。本物の|糞溜め《ドッジ・シティ》を経験すれば、仮想訓練などニンテンドーと大差ない。君にももうすぐそれを知る機会が来るはずだ」 「そのときはぜひ、LTのブラボーチームに所属したいものです」 「おいおい、ミラー中尉、その情報をどこから手に入れた」  笑いを含んだ声の主は、白いものが混じるブラウンの髪を短く刈り込み、口ひげをたくわえた壮年の男だった。対テロ部隊バリアンスの司令を務めるジェンセン大佐だ。一等兵曹が敬礼して去っていくのを見送ってから、ガブリエルは歯をむき出してニヤリと笑い、答えた。 「最高司令官閣下がアジアの将軍にきついボディ・ブロウを見舞うつもりでいることは、この基地の全員が知っていますよ、大佐」 「だが、我々の出番があるかどうかは決まっていないぞ」 「あの国で戦うとなればいきなり市街戦です。SEALやグリーン・ベレーには道とドブの区別もつきゃしませんよ」 「ふっふっ、まあそういうことだな」  満足そうに髭をしごきながら頷くと、ジェンセンは表情を改め、続けた。 「ともあれ、今回の基地間合同シミュレーション訓練における総合成績トップは君だ、ミラー中尉。おめでとう」 「ありがとうございます」  差し出された右手をがっちりと握り返しながら——  冷え切った魂の奥底で、茶番だ全て、とガブリエルは呟いていた。  八年前、新品のブーツを履いて訓練教官の前に立ったその日から、ガブリエルは合衆国陸軍兵士という|役目をこなす《ロールプレイ》には二つのものを充分に示さなければならないことを知った。一つは合衆国への忠誠心、もう一つは仲間の兵士たちとの絆である。  人間の魂なるものを知る、そのために合法的に沢山の人を殺す、ただそれだけを動機として入隊したガブリエルは、忠誠心も絆も、一オンスたりとも持ち合わせていなかった。いや、そのような非合理的な感情がガブリエルの中に存在したことはかつてなかった、と言うほうが正しい。ゆえにガブリエルは、自分が愛国心に溢れた仲間思いの男であると見せかけるすべを学ばなければならなかった。  幸い、高校のアメフト部で似たような演技を三年間続けた経験が役に立ち、ガブリエルはすぐに脳まで筋肉でできているような同僚や上官たちの信頼を集めることに成功した。訓練でも抜きん出た能力を発揮した彼は、折しも勃発したイラン戦争に先遣機械化部隊の一員として派兵され——そして、殺して、殺して、殺しまくった。  テヘランへの進軍の途上では、ブラッドリー歩兵戦闘車の二十五ミリ機関砲でイラン軍の装甲車や歩兵をなぎ倒し、首都を占領してからは、掃討部隊に志願して、ライフルとコンバットナイフで街のあちこちに立て篭もるゲリラたちを始末して回った。  仲間の兵士たちは次々と敵弾に倒れ、あるいは神経症を発して後送されるものも続出したが、ガブリエルは不思議と傷一つ負うこともなかった。それどころか、日々、これこそ我が天職であるという歓喜のなかに居たとさえ言える。浅黒い肌に濃い髭を生やした異国の兵士達は、装備も練度も士気もすべてが不足しており、捕食昆虫のように背後から忍び寄るガブリエルの銃弾あるいはナイフによってあまりにも呆気なく倒れていった。  最終的に、ガブリエルは二年半で五十人以上の敵兵と、戦闘に巻き込まれた七人の民間人を殺した。気付くと彼は、二つの勲章と曹長の肩章を手にしていた。  しかし、ただひとつ残念なことに、どのような殺し方をしても、体から離れる魂を見る機会はついに訪れなかったのだった。遠距離からライフル弾で倒した場合はもちろん論外、接近して拳銃で仕留めても、額から離脱する光の雲は現われなかった。  惜しい、と思えたのは背後からナイフで喉あるいは心臓を一突きにしたケースだ。敵兵の頭に自分の頭を密着させ、スムーズに刃を埋めると、獲物の体から力が抜ける瞬間、ぴりぴりと電気のようなものがガブリエルの脳を刺激した。やはり、人間が死ぬそのとき、なんらかのエネルギーが脳から体外へ離脱しているのだ——という確信を得るには充分な現象だったが、幼い頃アリシアの魂に触れたときのような法悦には程遠かった。  一つ学んだのは、対象の死の瞬間、肉体的または精神的に乱れれば乱れるほど、魂の離脱現象は起こりにくい、という事実だ。あの日、アリシアは、自分に何が起きたのかわからないまま死んだ。ゆえに、恐怖も絶望も感じることなく、ただかすかな戸惑いの中で絶命し、その魂は損なわれることなく脳から飛び去った。  逆に、ガブリエルが殺したイラン人兵士の大部分のように、怒り、恐れ、もがき、苦しんで死ぬと、その断末魔によって魂は離脱する前に無惨に飛び散ってしまい、形を保つことができない。だから、殺すときは、可能な限り静かに、滑らかに不意をつき、最小限のダメージによって生命を奪う必要がある。  戦争の終盤に主な任務となったゲリラ拠点の掃討任務において、すでにサイレント・キルの達人となっていたガブリエルは、夜闇に紛れて敵兵の背後から近づくと無音の一撃でその命を奪った。小隊の仲間たちは、ガブリエルのことを畏怖をこめてマスター・ニンジャと呼んだが、どれほどその技術に熟達しようとも、彼は満足できなかった。  理想を言うならば——と、毎夜簡易ベッドに横たわりながらガブリエルは考えた。  可能ならば、ナイフよりも更に鋭く、滑らかな武器が欲しい。アリシアを殺した鋼鉄製ニードルのような……いや、もっと言えば、物質的でさえない凶器が必要だ。例えば、致命的なレーザーか、マイクロウェーブのようなもの。最低限の損傷で脳の活動を止め、魂を損なうことなく離脱させる……。  携行型レーザー兵器の研究が進められているという話はあったが、残念ながらイラン戦争の終結までに実戦配備されることはもちろんなかった。二年半はあっという間に過ぎ去り、軍はガブリエルがじゅうぶんすぎるほど合衆国に貢献したと判断して、彼を少尉の位とともに本国に戻した。  合法的殺人の権利を奪われ、やり場のないエネルギーをハードトレーニングで押さえ込む日々が続いた。  ある日、ガブリエルは基地のメスホールでコーヒー片手に見るともなくテレビを眺めていた。CNNのキャスターは、極東の同盟国で起きた奇妙な事件のニュースを昂奮した口調でまくし立てていた。  その内容が頭に入ってくると同時に、ガブリエルはコーヒーの紙コップを思わず握り潰していた。そのニュースは、発狂したゲーム開発者が、ヘルメット型インターフェースをハックして、高出力マイクロウェーブを発生させて数千人のゲーマーの脳を破壊したと伝えるものだった。  以前から、日本において新種のVRハードウェアが開発されたという話は知識として記憶に留めてはいた。しかしガブリエルは幼少の頃よりテレビゲームの類にほとんど興味が無かったし、そのNERDLESという奇妙な名前のテクノロジーは主にアミューズメント用途に使用されるという報道だったので、殊更気に掛けることもなかったのだ。  だが、“マイクロウェーブによる脳の破壊”というフレーズは、否応なくガブリエルの意識を惹きつけた。それこそまさに、イランより帰還して以来、ガブリエルの最大の研究テーマであった“静かで瞬間的で清潔な殺人”を実現する数少ない手段だと思えたからだ。  魂の離脱現象を再現するためには、肉体的・精神的ストレスを極小に留めた死、という矛盾する状況を作らなければならない。当然、刺殺、銃殺、殴殺といったありきたりな手段では、対象者は大いに暴れ、おののき、死に最大限抵抗しようとするので、目的の実現は到底覚束ない。  ならば、対象者の意識を薬品等で喪失させてから致命傷を与える——あるいはいっそ、麻酔薬に類するものを使って眠るごとき死に導いたら?  ガブリエルはそのアイデアを、兵士としては護るべき合衆国国民を実験台に用いて試してみた。休暇を利用して、基地のあるジョージア州リバティー郡からは州境をまたいだ大都市メンフィスやジャクソンビルに赴き、盗んだり偽名で購入した中古車を使って不運な獲物を拉致したのだ。  ガブリエルに銃を突きつけられた実験台たちは、睡眠薬だと渡された小瓶の中身を言われるままに呷った。その説明は嘘ではなかったが、限界量の数十倍のアモバルビタール製剤をシロップに溶いたその液体は、飲んだものを容易く、永遠に醒めない昏睡へと導いた。  犠牲者の呼吸が徐々に途切れがちになり、体温が低下していくのを、ガブリエルは冷静に——遠い昔、秘密の研究室で、解体された昆虫を見守ったときと同じように——観察した。彼らの死はまさに眠るようで、魂の昇天を乱すものは何一つ無いように思われた。  しかし、奇跡が再現されることは一度としてなかった。同じ方法で三人を殺してから、ガブリエルは失望とともに認めざるを得なかった。脳に作用する類の薬品を用いると、やはり魂は離脱前に損壊されてしまうのだ。  その後、全身を凍らせるという方法で一人、注射器で血液を大量に抜き取るという方法で一人を殺したが、そのどれもが失敗だった。  戦地から帰還して一年が経ち、ガブリエルは焦りと落胆の中にあった。人間の魂の謎を解き明かし、離脱現象を確実に引き起こす方法を見つけ、そして究極的には離脱する魂を捕獲するという崇高な目的のために十年以上を費やしてきたが、いまだ手がかりさえ得られていない。やはり兵士となったのは間違いだったのだろうか? 除隊し、大学に入って大脳生理学をまなぶべきだろうか? それとも、あの出来事——アリシアの無垢なる魂の昇天を己の魂で感じた至高体験そのものが、ある種の幻覚作用だったのだろうか……?  そんな迷いのなか、ガブリエルは、“SAO事件”のニュースを見たのだった。  CNNのキャスターが、次の話題です、と言ったのを機に基地内の自宅に戻り、ガブリエルはネットで関連するニュースを漁った。そして、問題の殺人機械“NERVGEAR”の構造を知り、昂奮とともに「これだ」と呟いていた。  ナーヴギアは、延髄部分で体感覚をインタラプトすることで、使用者の意識を肉体から分離させる。つまり、死の際においても、使用者は肉体の異常を体感しないということだ。さらにギアが使用者を殺す手段は、ヘルメット内の素子から高出力マイクロウェーブを発して脳幹部分を一瞬で破壊するというものだ。つまり人間の意識、魂が存在する(とガブリエルが考えている)大脳辺縁系へのダメージは最小限にとどめ、生命現象そのものを終わらせる。あの日、アリシアの脳幹を貫いたニードル以上にクリーン、そしてスマート。  まったく理想的だった。  事件発生から数日で死んだという大量の若者たちの脳から一斉に離脱する魂の群れのきらめきが目に見えるようだった。  これを手に入れなくてはならない、どうしても。ガブリエルはそう決意した。  部隊の仲間たちには無論秘密にしていたが、ガブリエルには両親から相続した膨大な資産があった。国外の銀行——具体的にはスイスとケイマン諸島——で管理していたので、軍の身上調査にも引っかかっていないと確信できた。  今まで、ほとんど手をつけていなかったその金に、ガブリエルは初めて頼った。身元を追跡できないよう注意しながら、ネットを通じて私立探偵にナーヴギアの入手を依頼したのだ。  探偵は、直接日本に飛び、現地のブラックマーケットで品を買い付けてきた。総額で三万ドルを超える報酬を要求されたが、ガブリエルは黙って払った。偽名で取ったホテルの部屋に、フェデックスで届いた箱に収められていたのは、まだ真新しい濃紺の外装を持つ流線型のヘッドギアと、殺人ゲーム“Sword Art Online”のディスクだった。しかし新品ではない。添付された報告書によれば、以前の持ち主は十九歳の大学生で、事件発生の二十二日後に死んだという。  次にすべきことは、“処刑”時に損傷した信号発生素子の修理と、制御プロトコルの解析だった。ガブリエルはそれを、別の探偵を通して見つけた電子工学部の学生にまたしても大金を払って依頼し、二ヵ月後、再生されたギアを受け取った。  再び、狩りの季節がやってきた。  車を使って拉致した獲物に、ガブリエルはヘッドギアをかぶるよう命じた。当時まだアメリカには類する機械は無く、銃を突きつけられたハイティーンの少年は、泣きながらもいぶかしそうにギアを装着し、顎下でロックを締めた。  シガーソケットにアダプタを介して接続したナーヴギア本体の電源を入れると、ガブリエルの目の前で少年の体からくたりと力が抜けた。工学部の学生が“Sword Art Online”のリバース・エンジニアリングによって解析・作成したプログラムがロードされ、現実の肉体から切り離された少年の意識は暗闇の中、一本のブルーのゲージを見ているはずだった。“Hit Point”を表すそのゲージが突如減少を開始し、半減したところでイエローに、残り二割になったところでレッドに変化、そしてゼロになると、眼前に“You Are Dead”というメッセージが表示され——。  ガブリエルの眼前で、少年の体が一瞬ぴくりと震えた。せっかく直した素子を再び焼き切らないよう、出力はやや抑えてあるが、それでも充分に致命的な電磁波が少年の脳細胞を沸騰させたのだ。  すかさず、ガブリエルはヘッドギアからわずかに覗く少年の額に、自分の額を押し当てた。目を閉じ、何ものをも逃すまいと意識を集中する。  そして、彼は見た。ついに、それを見たのだ。  きらきらと輝く光の雲が、目蓋を閉じているはずのガブリエルの眼前に広がり、そのまま脳に染み込んでくる。彼は、名も知らぬ少年の恐怖、戸惑い、絶望を感じた。少年がこれまで生きてきた十数年を、コンマ数秒のラッシュ・フィルムとして感じた。少年が両親から与えられてきた愛情、少年が両親や妹、飼い犬に感じている愛情、その汚れ無き純粋なるエネルギーを感じた。  ガブリエルの目から涙が溢れた。アリシアを殺したときには及ばないが、それでも圧倒的な法悦が彼を包んでいた。少年の魂を、このまま己の脳に閉じ込めたい、と彼は懸命に望んだ。  だが、至高体験は、わずか数秒しか続かなかった。光の雲はガブリエルの頭を抵抗なく通過し、そのまま車の屋根を透過して、夜空へと昇っていった(ように感じた)。  ガブリエルは、ようやく、実験が次のレベルへと進んだことを自覚していた。つまり、“魂の捕獲”という段階へ。 “SAO”によって殺された初のアメリカ人となった少年の遺骸と、犯行に使用した中古のピックアップを注意深く処分し、基地へ戻るべくバイクを飛ばす道すがら、ガブリエルはひとつのことをずっと考えていた。  これまでに二度知覚した魂の離脱は、はたして何らかの神秘的現象なのだろうか、それとも科学で説明のつく物理現象なのだろうか?  おそらくは——後者であろう。とガブリエルは判断した。  光の雲の離脱が、主の御許に召される魂の昇天であるならば、持ち主の死に様によって起きたり起きなかったりするのは甚だ不公平というものだ。脳幹をピンポイントで破壊された人間のみ受け入れる天国の門など、ナンセンスの極み以外の何ものでもない。  つまりあれは、人間という有機機械を制御するある種のエネルギーの流出、と捉えるべきものだろう。であるなら、何らかの手段によって閉じ込めることも可能なはずだ。しかし一体、どのようなエネルギーなのか?  フォート・スチュアートの自宅に戻ったガブリエルは、早速ネットに接続し、様々な資料の渉猟を開始した。基地内のネットワークを流れるパケットが、NSAの|情報監視システム《エシュロン》にチェックされていることは承知していたので、死、殺人、魂といった危険なキーワードの使用を避けたため時間がかかったが、ついに一週間後、興味深い情報を掲載しているサイトに行き当たった。  それは、ペンローズというイギリスの学者が提唱した、“量子脳理論”なるものを解説しているサイトだった。その説によれば、人間の思考を形作っているのは、脳細胞の微細管構造の中に存在する、量子状態の光が引き起こす波動関数の客観的収縮だという。  光量子! それこそまさに、あの揺らめく光の雲を指し示す言葉だ、とガブリエルは直感した。  つまり、離脱する魂を捕獲し、我が物とするためには、光を閉じ込められる容器があればいいということになる。  だが、それがどうにも難問だった。  光を閉じ込める——、言葉にすれば簡単だが、空気によって絶縁できる電気とは違い、光というのはどこにでも気ままに飛び出して行ってしまう。まず、内面を鏡状に加工した球体、のようなものをガブリエルは想像したが、反射してくる光の速度を上回るスピードで蓋を閉めることはできそうにない。  ならば、ある方向から入射された光を外に出さないような物質があればいいということになる。ガブリエルは半信半疑で検索を続け、そしていかなる偶然か、“光の閉じ込め”というテーマが近年の通信業界において最先端の研究テーマとなっていることを知った。  なんとなれば、通信インフラの光回線化が著しい昨今、その回線速度のボトルネックとなっている既存のルータ機器に代わる“光ルータ”というものの開発が各社で競われているのだった。その機械には、光の減速と閉じ込めという機能が必須であり、すでに“ホーリーファイバー”や“フォトニック結晶”といった基礎技術の開発は成功し、実用化が進められている段階らしかった。  ガブリエルはそれら実験段階の部材を入手するべく方法を模索したが、いくら資金が豊富な彼にも、情報管理の厳しい大企業の開発技術を盗み出すことはハードルが高すぎた。不本意ながら、ガブリエルは、光ルータ機器が実用化・市販されるまで——おそらくは目玉が飛び出すほど高価であろうが——待つよりないという結論に至った。  それまでの代替案として、ガブリエルはひとつの方策を考え出し、実行した。  ジャクソンビルの郊外に見つけた廃工場のせまい一室を、一ヶ月ほどかけて完璧な暗室に改造し、大口径のレンズを備えたカメラを持ち込んだのだ。  その後、更に一ヶ月を費やして相応しい対象を吟味し、そしてある夜、かつてのアリシアによく似た面影を持つ女子大学生を拉致した。気絶させ、暗室に運び込んだあと、入り口を分厚いテープで厳重に封鎖し、対象を椅子に座らせてナーヴギアを被せた。  対象の頭を注意深く固定し、その額にカメラのレンズを密着させるとこれも固定する。右手でナーヴギアの電源、左手でカメラのシャッターの位置を確認し、首に下げたLEDトーチを消すと、周囲は完全な闇に満たされた。  ガブリエルは、まずナーヴギアを起動した。改造SAOプログラムがロードされ、数秒後、迸ったマイクロウェーブが女子大学生の脳を灼いた。  すかさず、左手でカメラのシャッターを切る。長時間露光にセットしてあったシャッターはその口を開けたまま、対象の脳から遊離する光の雲を飲み込み、そして高感度フィルムがそれを受け止めたはずだった。  全てが終了すると、ガブリエルは死体を遠く離れた山林に埋め、カメラは名も知らぬ川に投げ込んで、フィルムを大事に抱えて基地に戻った。  興奮を抑えながら、自宅の暗室で現像した写真には——確かに、何かが写っていた。  一面の闇の中央に、ごくかすかに焼きついた七色の光。中央部では複雑なマーブル模様を作り、外に行くに従って放射状に広がっている。他人には単なる露光ミスとしか思われないに違いなかったが、ガブリエルには、どのような宗教画よりも美しい輝きを放って見えた。  これで満足しよう、今は。いつか、より完全な光の捕獲装置を手に入れる、その時まで。ガブリエルは自分に言い聞かせ、写真を額に入れて寝室に飾った。  こうして、ガブリエル・ミラーの魂を希求する旅の第一期が終わった。彼が手にかけた人間は、イラン軍兵士五十二人、イラン市民七人、アメリカ市民八人に上った。  ジェンセン大佐の肝煎りで、ガブリエルの合同シミュレーション訓練得点トップを祝うパーティーが基地近くのパブで催され、バリアンス隊のほぼ全員が集った乱痴気騒ぎは深夜二時まで続いた。  ガブリエルも盛大に羽目を外して、次々と注がれるビールを浴びるように飲み、仲間たちと声を合わせて部隊のテーマソングを歌った。端から見れば、ガブリエル・ミラーという人間は、イラン戦争で華々しい武勲を立てた英雄でありながらそれを鼻にかけない、仲間思いの気のいいLTで、愛すべき陽気な陸軍野郎そのものであったが、しかし勿論それはガブリエルの作り上げたいくつもの仮面の一つでしかなかった。  ガブリエルは酒に酔わない。どれほどアルコールを飲もうと、真に思考が乱れることは一切ない。それどころか、昔、自分の耐性を確かめるべく各種のドラッグを服用してみた時も、ハイになったり酩酊したりという症状はわずかにも現われなかった。彼の意識は常に明晰さを失わず、肉体を完璧に制御しつづけるので、様々なペルソナを操ることなど造作もないことなのだった。  タフな兵士として振舞うことは勿論、なろうと思えば、アイヴィーリーグ出のエリートビジネスマン、オイルにまみれた自動車工、首に缶をぶら下げた物乞いにすら完全に化けることが出来た。それゆえに、彼は大勢の獲物を容易く拉致し、そののちに捜査線上から煙のごとく消え失せることが可能だったのだ。  しかし、そのようなペルソナを全て剥ぎ取った、素のガブリエルに戻ったとき、彼は己がどんな人間なのか、自分でも形容することができなかった。パブでの大騒ぎがお開きになり、仲間達と別れて一人バイクに跨ると、もう必要なくなった“陽気な中尉”の仮面がたちまち消え去り、胸中を冷ややかな空虚さが満たした。  一体、自分は何ものなのか。ホンダのイグニションキーを回す手を止め、彼はふと考える。  軍に入ったのは、合法的に人間を殺すのが目的で、国や国民を守ろうという意識は欠片もないのだから軍人ではない。ならば殺人者かと言うと、殺人そのものが目的ではないので、それも違う。己を動かすのは、人間の魂なるものを知り、観察し、手に入れたいという欲求だけだ。では、なぜそれほどまでに魂に惹かれるのか? あの日、アリシアの魂を見たことが原因なのか? いや、そうではない。それ以前からずっと、生物という機械を動かすエネルギーが何なのか知りたかった。遡れる最初の記憶が、昆虫標本を飽かず眺める幼い自分なのだから。  これ以上は考えても答えは出ない。大量のアルコールが体内に入っているにも関わらず正確無比なシフト操作で大型バイクを加速させながら、ガブリエルは合理的に判断する。  自分が何ものなのかは、恐らく、目的を達したときに分かるのだろう。人間の——望み得るなら、汚れを知らぬ、活力に満ちた——魂を捕獲し、両手に収めて、心の底から満たされたと思えたとき、なぜ自分がこのような存在として生を受けたのか、その謎も解けるはずだ。  ヴァイタルな魂、その手触りを想像すると、普段虚ろな胸のうちにほんの少し熱が生まれたような気がして、ガブリエルは薄く微笑んだ。連想したのは、ガンゲイル・オンラインの大会でまみえた日本人の少女プレイヤーだ。  ナーヴギアを手に入れて以来、ガブリエルは深い興味を持って“SAO事件”の推移を見守り続けた。あの機械は直接魂にアクセスするものではないにせよ、人間の意識を肉体と切り離すという点において、己の目的達成に重大な意味を持つものだと直感していたからだ。  百の階層を持つ空中城に囚われた日本の若者たちは、そう時を待たずに全員死亡するだろうというニュース・コメンテーターたちの予想を裏切り、二年もの期間戦い続けて、何と全体の八十パーセント近くが生還した。  自動翻訳エンジンの悪文に苦労しながら読み込んだ日本のウェブログによると、事件解決の原動力となったのは、攻略組《プログレッサー》と呼ばれたごく一部——わずか二百人足らず——のプレイヤー達だったという。彼らは、一度の死亡がすなわち現実の死となる絶望的なデスゲームを戦い抜き、最終ボスを倒して、狂った開発者の設定した条件をクリアしてのけたのだ。驚くべきは、肉体と切り離されてなお失われない魂の力ではないか。  ガブリエルは、光ルータの完成を待つという方針を覆し、日本駐留部隊への転属を希望して、生還したSAOプレイヤーを何人か殺してみるべきか真剣に考えた。そのためにオンラインの語学講座に登録し、会話ならばほぼ完璧にマスターするにまで至ったのだが、計画を実行に移すより速く、日本製VRマシンとの接点は思わぬ形でガブリエルの前にもたらされた。  民生用機器の米国発売に先立って、自衛隊との協力体勢のもと、訓練用VRシミュレーションが軍に導入されるという噂が流れたのだ。もっとも、当初それを利用できるのは、SOCOM直下に新設されるカウンター・テロ部隊だけだという話だった。  ガブリエルは、迷うことなくその部隊、“バリアンス”の選抜試験に応募した。戦歴も、出身も、心理面もまったく問題なかった彼は、試験でも抜群の身体能力を見せつけ、ほぼトップの成績で合格した。  陸軍入隊以来七年を過ごしたフォート・スチュアートの第三歩兵師団から、マクディール空軍基地に置かれた主に空軍と海兵隊出身者からなるバリアンスに移ったガブリエルは、ここでも愛国心と仲間意識に溢れた好漢ぶりを如何なく発揮し、たちまち同僚と上官の信頼を勝ち得た。導入されたVRシミュレーター第一号機の、最初のテストダイブに自分が選抜されたことを、彼は偶然だとは考えなかった。  以来一年。  今では、ガブリエルは、部隊だけではなく、全軍で最もVRシミュレーション訓練に適応した兵士と言っても過言ではない。プライベートでも、ようやく発売された民生用マシン“AmuSphere”を発売日に購入し、様々なVRゲームの渉猟を続けている。  ITバブル崩壊の余波のせいか、一向に進まない光ルータの開発状況をガブリエルが忍耐強く待っていられるのは、間違いなくVR世界で多くの魂たちの殺戮を愉しんでいるからだ。殺しの手応えという点では、やはりアミュスフィアに触れて間もない米国のプレイヤーたちより、先行国日本のプレイヤーのほうが好ましい。相互接続を許可しているタイトルが少ないのは残念だが、それも秘匿プロキシ・サーバを設置することで回避できる。  次の週末に予定されている、ガンゲイル・オンライン・トーナメントのチーム戦のことを考えると、バイクのグリップを握る手がじわりと熱くなった。あの水色の髪の少女を背後から拘束し、ナイフでゆっくりと喉を切り裂けば、最後に人間を殺してからもう三年も味わっていないあの充実感がきっと甦るだろう。  その次は、いよいよ日本国内でのみ運営されているVRMMOゲームへと進出するつもりだった。ことに、旧SAOプレイヤー達が多数参加しているという“Alfheim Online”というタイトルがガブリエルの食指をそそっていた。  軍人ではなく、快楽殺人者でもなく、そして恐らくはVRMMOプレイヤーでもない、名を持たぬ自分にも、楽しみだと思えることがあるのが、ガブリエルには嬉しかった。  翌朝。  日課となっている基地一周のジョギングを終え、シャワールームに入ろうとしたガブリエルを、司令の副官をつとめる女性大尉が呼び止めた。 「ミラー中尉、ジェンセン大佐があなたに話があるそうよ。一〇〇〇に司令官室に出頭すること、いいわね」  ブルネットの髪を短く切り揃えた美人士官は、事務的にそこまで口にしたあと、やや心配そうに眉をひそめ、声を落とした。 「……司令にしては珍しく、ベイクド・アップルみたいに赤くなって湯気を立ててたわよ。あなた、何かやらかしたの?」 「なんだって?」  ガブリエルは、大袈裟に両手を広げると、とんでもないというふうに目を回してみせた。 「勲章の一つもくれるならわかるが、怒らせた覚えはないよ。……君のベッドから出てきたところを誰かに見られたなら別だがね、ジェシカ」 「つまらない冗談を言ってるとわたしがあなたをオーブンに入れるわよ。ともかく、思い当たるふしがあるなら気をつけておくことね」  かつかつとヒールを鳴らして去っていく大尉を敬礼とともに見送ってから、ガブリエルは顔に貼り付けていた野卑な笑みをすっと消し、思い当たるふしについて意識を巡らせた。  プライベートでジェンセンの気に障りそうなことと言ったら、やや長時間に及ぶVRMMOへのダイブくらいだが、今時の兵士としてはさして珍しいレジャーでもないし、そもそもガブリエルの場合は訓練の一助という大義名分もある。ドラッグの類は一切やっていないし、金銭的にもきれいなものだ。  あるいは、一年前まで行っていた“実験”が露見したのだろうか——と一瞬危惧したが、すぐにそんなはずはないと否定する。ガブリエルの裏の顔が、稀に見るシリアル・キラーなのだなどということを知ったら、熱血正義漢のジェンセンとしては湯気を立てるくらいではとても収まるまい。みずから特殊部隊用のMP5サブマシンガンを振りかざし、ガブリエルを処刑せんと兵舎に乗り込んできてもおかしくない。  つまり、論理的に考えればジェンセンの怒りの原因は自分以外のところにあると見るべきだろう。そう結論づけると、ガブリエルは小さく肩をすくめ、汗を流すべくシャワールームへ向かった。  久しぶりにぱりっと糊の利いた開襟シャツとスラックスを身につけたガブリエルは、肩章と靴がぴかぴかに輝いているのを確認してから、司令官室のマホガニー製のドアを叩いた。  即座に返って来たカミン! の声に、ドアを押し開けて一歩踏み込むと、これ以上ないほど背筋を伸ばして右手を額に持っていく。 「ミラー中尉、命令により出頭いたしました!」  大声で叫ぶと、デスクの向こうで立ち上がったジェンセン大佐は顰め面で敬礼を返し、言った。 「楽にしていい。……昨日の今日ですまないな、中尉。もっとも君のことだから、酒が残っているなどということは有り得んだろうが」  自身は二日酔いの頭痛に苛まれているような顔で髭をしごくと、司令官はじっとガブリエルを見た。 「中尉、君に客が来ている」  顎で示したのは隣接する応接室の扉だ。 「……客、ですか?」  よもや警察だろうか、と一瞬考え、仮に刑事がガブリエルを逮捕に来ていた場合、その拳銃を奪ってジェンセンを人質に基地を脱出できる可能性はいかほどか、と計算しかけたが、続く大佐の言葉にガブリエルは珍しく戸惑わされた。 「国家安全保障局の人間だ」 「は……? |NSA《フォート・ミード》が私に何の用なのでしょう?」 「君を貸せと言ってきておる。とんでもない話だ。わが部隊を人材派遣会社か何かと勘違いしてているようだ」  吐き捨てたその口調から、ジェンセンが腹を立てているのはその客に対してなのだと悟り、ガブリエルは猛烈に頭を働かせながら答えた。 「つまり、出動任務ということですか?」 「そんな結構なものではない! どうせ公にできん汚れ仕事だろう。私としては、隊のエースである君の経歴に、おかしな横槍で汚点をつけたくない。しかし連中は、SOCOMの上のほうの命令書を取り付けてきていて、私のレベルでは拒否することができない。……が、公式な出動命令が存在しない以上、君の拒否権まで取り上げることはできんはずだ。いいな、少しでも臭いと思ったら遠慮なく断って構わんぞ。そのことで経歴に傷はつかん。それは私が保証する」 「は、ありがとうございます司令官殿」  神妙な顔で礼を言ったガブリエルは、これは何かの罠なのか、あるいは運命の導きなのかと考えながら、続けて言った。 「ともかく、NSAの話を聞いてみます。まさか私に、ヒラリー・クリントンを護衛しろとは言わんでしょう」 「どうかな。あるいはその逆かもしれんぞ」  ようやくいつものにやりとした笑いを口もとに滲ませ、ジェンセンは頷くと隣室に向かって歩を進めた。ガブリエルもそれに続く。  ろくに使われないために埃っぽい応接室のソファーに腰掛けていたのは、ひと目で上等な仕立てと知れるブラックスーツに身を固めた二人組みの男たちだった。大佐に続いて部屋に入ったガブリエルを認めると、うっそりと立ち上がり、右手を伸ばしてくる。  NSAこと国家安全保障局は、FBIやCIAと比べて知名度は低いが、その実、与えられた力の大きさでは二者を上回るものがある。活動は、通信と暗号にかかわる全ての分野に及び、例えば国内を行き交う全通信を検閲する“エシュロン”なるシステムを運用したり、独自に武装した諜報員を多数抱えていたりと、全容が知れない。  ガブリエルの手を順に握った男達の右手は、鋼の骨でも入っているのかと思えるほどにがっちりと硬く、なるほどただの事務屋ではないと思わせるものがあった。  どうやら、右側の、ブラウンの髪を丁寧に撫でつけた灰色の眼の男がしゃべり役らしく、大きな笑みでそれまでの剣呑な雰囲気を消すと、闊達に自己紹介を始めた。 「バリアンスのスペシャル・エースにお会いできて嬉しいですよ、ミラー中尉。私はアルトマン、こっちのでかいのがホルツです。訓練の邪魔してしまって、いや、申し訳ない」  アルトマンの隣でさっさとソファーに座った坊主頭の大男は、当面口を開く気はないらしく、さっさとサングラスをかけると巨大なバブルガムを噛み始めた。その様子を見たジェンセンがまた沸点に近づきはじめたのを察して、ガブリエルはとっとと本題に入るべく、挨拶抜きで問いただした。 「何でも、私にしてほしいことがあるとか?」 「そう、その通り」  細身で、一見セールスマンのような軽薄な明るさを身にまとうアルトマンは、ぱちりと指を鳴らすと、にこやかにジェンセンに向かって言った。 「大佐、すみませんがお人払いを」 「……ここには私たちしかいないが」  ぶすっとした顔で答える司令官に、物怖じする様子もなく再度繰り返す。 「ええ、ですから、お人払いをお願いします」  ようやく、自分に出て行けと言っているのだと悟ったジェンセンは、眼を剥き、視線でアルトマンを焼き殺そうとでもするかのように数秒睨みつけたあと、盛大に鼻を鳴らして身を翻した。 「隣に居るからな、中尉」  ガブリエルに頷きかけ、バターンとドアを響かせて大佐が姿を消すと、NSAの男はやれやれ、というかのように首を振りながら、座るよう身振りで示した。  ソファーに腰を沈め、足を組むと、ガブリエルは肩をすくめながら言った。 「アルトマンさん、あんた帰るとき、車に爆弾が仕掛けられてないか確かめたほうがいいよ」 「我々のシェヴィには磁石はくっつきません」  冗談なのか本気なのかポーカーフェイスで答えると、アルトマンは自分もソファーに座り、ひざの上で手を組んだ。 「さてさて、ガブリエル・ミラー中尉。あなたは、“脳まで筋肉”が身上の陸軍出にしては実に特異なキャラクターですな」 「カウンセラーなら間に合っている」  ガブリエルは素っ気無く答えたが、めげる様子も無くアルトマンは続ける。 「ハイスクールの成績は抜群、どの大学でも好きに選べたのになぜか卒業と同時に陸軍に入隊。陸軍士官学校《ウエストポイント》から始める道もあったのに二等兵として泥まみれの訓練に明け暮れ、イランへの派遣部隊には自ら志願。対ゲリラ戦で華々しい戦功を上げて、帰国後はどんな楽な配置も希望できたのに、今度は全特殊部隊のなかで最もキツいと評判のバリアンス部隊へ転属ときた」 「合衆国と国民を守るために、最も厳しい環境で奉仕するのは兵士として当然のことだと思うが」 「フムン」  アルトマンはにっと笑うと、ある種の石英のような灰色の眼でガブリエルをじっと見た。 「——そんなマッチョ志向のスーパー・ソルジャーかと思えば、休日はろくに外出もせず、バーチャル・ゲームに耽溺する一面もある。我々の統計では、あのゲーム機にハマる兵士は、大概落ちこぼれ組と相場が決まっているんですがね」 「全感覚VRシミュレーションは戦闘訓練としては実戦の次に有効だ。休日を有効利用しているだけだよ。……こんな精神分析めいたたわ言を聞かせるために呼んだなら、私はもう戻らせてもらう」 「いやいやいや、我々としては、あなたがいかに我々の求める理想的な人材かということを言いたかっただけでして。実戦経験が豊富で、知能も身体能力も高く、その上ガンゲイル・オンラインではほぼ無敗の伝説的ガンスリンガー。いや、実に素晴らしい」 「たわ言はいい加減にしてくれ。一体、俺になにをさせようってんだ」  口調を変えたガブリエルの眼前に、アルトマンはスーツの内ポケットから取り出した一葉の写真を滑らせてきた。  ちらりと眺め、ガブリエルはわずかに首を捻った。 「……なんだこれは? 船……にしては妙な形だな」 「この先をお話する前に、この機密保持誓約書にサインを頂く必要があるんですがね」  すぐに答えず、ガブリエルは写真を取り上げると、詳細に眺めた。  はるか上空から超望遠撮影したと思しき、粒子の粗い画面に捉えられているのは、青い海面に浮かぶ奇妙な構造物だった。長方形の黒いピラミッド、としか表現のしようのないそれを見た瞬間、ガブリエルは、確かに何か電流のようなものがかすかに脳内を走ったのを知覚していた。  何かある、と思った。この男達が運んできたのは、いずれ途方も無い厄介事なのは間違いないだろうが、しかし自分は、この先を聞かなくてはいけない——という確信がガブリエルの背を押した。  短く頷くやいなや、アルトマンがさらに一枚の書類を万年筆つきで送って寄越した。NSAの透かしが入ったICペーパーだ。ガブリエルは、芥子粒のようなサイズで並んでいる文字にろくろく目を通さず、末尾にサインを書き殴ると、指先で押し戻す。  紙を丁寧にフォルダーに挟み、アルトマンはにっこりと笑いながら口を開いた。 「やあ、受けてもらえると思ってましたよ、ミラー中尉」 「勘違いするな、俺が同意したのはあんたらの話を聞くことだけだ」 「聞けば、降りようとは思いませんよ、絶対にね。……煙草、構いませんかね?」  ガブリエルの返事を待たずに、卓上の灰皿を引き寄せると、アルトマンはスーツのポケットから皺くちゃのウインストンを引っ張り出し一本咥えて火をつけた。近年、政府系機関のホワイトカラーには喫煙者はほぼ絶滅しつつあることを考えると、やはりこの男たちは特殊なポジションに位置しているらしい。  美味そうに紫煙を吐き出し、アルトマンは唐突に訊いてきた。 「ミラー中尉は、日本の軍《アーミー》……いや、|自 衛 隊《セルフ・ディフェンス・フォース》という組織に関してどの程度ご存知ですかね?」  さすがに少々意表を突かれ、ガブリエルはわずかに眉を顰めてから、わずかな知識を開陳した。 「JSDF? 確か……|専 守 防 衛《エクスクルーシブ・ディフェンス》とかいう奇妙なポリシーを掲げた軍隊だろう? イランにも部隊が展開していたが……戦闘区域には一切出てこなかった」 「イエス、そのポリシーは、戦争放棄を謳った憲法に配慮して捻り出されたものらしいですがね。しかし同時に、あの国が二度と不遜な真似をしでかさないための首輪の役目も果たしている。言わば、JSDFというのは……合衆国の、五十一番目の州の州兵のようなものと思ってください。その編成から装備まで、この六十年間、すべて我が国が適切にコントロールしてきたのです。しかし、今世紀に入ったあたりから、どうやら組織の一部に、憂慮すべき志向を持った集団が発生したようなのですな」 「ほう?」 「簡単に言えば、連中は、合衆国のコントロールの及ばない戦闘力を保有することを……いや、究極的には、我が軍に対抗し得るだけの軍事技術を開発してのけることを目指しています」  ナショナリズムなど欠片も持ち合わせていないガブリエルにとって、極東の同盟国の軍内部にどのような動きがあろうと、それはまったく興味の埒外だった。しかしここは、模範的兵士として不快感を示しておくべきだろうと考え、鼻筋に皺を寄せると呟いた。 「気に食わない話だな」 「まったくです」 「しかし、ひとつ解せないことがある。その台詞が、ペンタゴンの偉いさんの口から出てくるならわかるが、なぜNSAのあんたが日本の軍隊のことなどを気にする? あんたらの仕事は内緒話の盗み聞きだけだと思っていたが」  アルトマンは苦笑すると、短くなった煙草を灰皿に擦りつけた。 「ま、確かに、連中が開発しているのが戦車やらミサイルなら我々の出る幕はありませんな。それこそ情報を国防省に丸投げして終わりです。だが、困ったことに、開発されているモノというのは単なる兵器ではないのです。軍事を含む、あらゆる産業分野を変革してしまう可能性をはらむテクノロジーなのですよ」 「時間もないんだろう、遠まわしな言い方はやめてくれないか。一体何なんだ、そのテクノロジーという奴は」 「無人兵器制御用のAIプログラムです」  アルトマンの返答に、ガブリエルはやや肩透かしな気分を味わった。 「……そんな物、今更珍しくもあるまい。イランでも無人偵察機を山ほど飛ばしたぞ」 「能力のケタが違うのです。連中が作り出そうとしているのは、無人戦闘機を操縦しうる……つまり、有人の戦闘機を撃墜するだけの能力を持ったAIなのです」 「……ほう」  ようやく、僅かながら興味を惹かれ、ガブリエルは組んだ足をほどいた。 「それは要するに、人間と同じだけの状況判断力を持つ人工知能、ということか?」 「判断力……と言うよりも、こう表現すべきでしょうな。人間と同じか、あるいはそれ以上の思考力を備えた人工知能、と」 「人間以上だと?」  思わず鼻を鳴らす。 「この基地に導入されたVRシミュレータを動かしているのは最新最速のスパコンらしいが、そいつが操作する敵兵のお粗末さときたら、まだGGOで初心者《ニュービー》を相手にしてるほうがマシというものだぞ」 「そう、その通り」  アルトマンは、パチンと鳴らした右手の指をまっすぐガブリエルの顔に向けた。 「既知のアーキテクチャを持つコンピュータが、人間並みの思考を身につけるのはおそらく不可能でしょう。ウチには、それを認めようとしない技術者ばかりですが、JSDFの問題の集団……首謀者の名前を取って我々はK組織と呼んでいますがね、彼らは従来型コンピュータに早々に見切りをつけ、まったく新しいアーキテクチャを作り上げたのです。いや、作り上げた、ではなく……コピーした、と言うべきか」 「コピー? 一体何をだ?」  ガブリエルのその問いに対して、新しい煙草を咥えようとしながら、何気ない様子でアルトマンが発した言葉——。  それを聞いた瞬間、全身を襲った激しい震えを抑えつけるのに、ガブリエルは全精神力を必要とした。 「|人間の魂《ヒューマン・ソウル》ですよ」 「……何だと?」  平静な声を出せたことに自分でも驚くほどに、ガブリエルの脳は一瞬にしてレッドゾーンにまで回転を上げていた。  わずかな時間のあいだに、改めて状況を再点検する。やはりこの男達は、NSAのエージェントというのは偽装で、本当は自分を逮捕しにきたFBIの捜査官なのではないか? だとしたら今すぐ二人を制圧し、武器を奪って脱出すべきか——と考え、右手の指先がぴくりと動いたが、そこでようやくガブリエルはあることに気付いた。  つまり、仮にFBIにガブリエルの連続殺人が露見していたとしても、彼らが、その動機までを知っているはずはないのだ。人間の魂、などという単語をガブリエルはこれまで一度として口に出したことはないし、キーボードでタイプしたこともない。どんな凄腕のプロファイラーにも、この動機だけは推測することはできない。絶対に。  ならば、これはやはり偶然——あるいは必然によって掌中に落ちてきた果実なのだ。毒があるかどうかまではまだ分からないが。 「……人間の魂だって?」  一瞬の殺意を完璧に包み隠し、ガブリエルは口の端に乗せた笑みとともに訊き返した。二本目の煙草を深々と吸い込んだアルトマンは、ゆっくりと頷き、さらにガブリエルを驚かせるようなことを言った。 「中尉は、“脳量子論”というヤツをご存知ですかね?」  反射的に否定しそうになるが、自宅のパソコンでそれを検索したことがあるのを思い出し、やや頭を傾げてみせながら首肯する。 「まあ、大雑把にはな。人間の意識は、脳の中の光量子から発生するという仮説だろう」 「ところがどうやら仮説ではなかったようなんですな、これが」  知っているよ、とガブリエルは内心で呟く。自宅の寝室には、その光量子が焼きついた写真が飾ってあるのだから。 「K組織は、中尉もご存知のアミュスフィアに使用されているNERDLESテクノロジーを極限まで拡張したシステムを開発し、脳中の光量子へのダイレクトアクセスを可能としたのです。彼らはその、人間の意識を発生させている光を、フラクトライト……波動光《フラクチュエイト・ライト》の略らしいですがね、そう呼んでいますが、要は人間の魂ですな。そいつを読み取り、なおかつコピーすることすら達成したと……まあ、簡単に言えばそういうことです」  今度は、危機感ではなく、大いなる期待の震えがガブリエルの背中を疾った。渇いた舌を紙コップのコーヒーで湿らせ、ガブリエルはゆっくりと訊き返した。 「コピーするだって? 人間の魂を? それは……つまり……」  わずかに間をおき、 「媒体が存在するということか? 人間の魂を保存するための?」 「理解が早いですな、中尉。助かりますよ。ええ、その通りです。何とか言う希土類の結晶を成型したもので、ライトキューブとか呼ばれているようですが……これくらいの」  アルトマンは両手で五インチほどの幅を作ってみせた。 「大きさの立方体です。いや実に、とんでもない話ですなあ。私のお袋はガチガチのカトリックですがね、この話を聞いたら泡を噴いて卒倒しますよ」 「本当だな、とんでもない話だ」  機械的に繰り返しながら、ガブリエルは内心で叫んでいた。まったくとんでもない——とんでもなく素晴らしい話だ! 魂を読み出し、保存する技術。ガブリエルが目指していた“死者の魂の捕獲”を一気に飛び越え、生者の魂を、その意識を保ったまま抜き取れる……?  なるほど、日本人か。彼らは確か、特定の宗教を持たない民族だったはずだ。つまり、欧米人が原体験的に刷り込まれている、生命と魂の神秘へのタブー意識と無縁だからこそ、そのような不遜極まりない“神の御業”の強奪を可能ならしめたのだろう。  自分を襲う深い感動を、目の前の男達に気取られないよう注意しつつ、ガブリエルは尋ねた。 「つまりこういうことか? そのK組織とやらが作り出そうとしている超人工知能というのは、コンピュータではなく、人間の意識と同質の存在であると?」 「まあ、広義の量子コンピュータとも言えるでしょうがね。そんなものが量産されて、戦闘機だの戦車だの魚雷だのに搭載されたら、世界の軍事バランスはいっぺんに引っ繰り返りますよ。どうあろうと放置はできない、それはあなたにも理解してもらえると思いますが、ミラー中尉」 「フム……危険だな、確かに」  そう相槌を打ったものの、しかし知ったことではない、勿論。日本が利口な無人兵器を売り出して世界の軍需産業を牛耳ろうと、あるいは機械の大軍勢をもってもう一度合衆国に戦争を仕掛けようと、自分にはどうでもいいことだ、とガブリエルは胸中で呟く。  ただ、人間の魂を複製し、小さなメディアに閉じ込めるというテクノロジー、それだけは何としても手中に収めなければならない。NSAの男たちが、自分をその目的の実現へと近づけてくれるなら、ここは“米軍兵士として憤り”、“しかし冷静な判断力を失わない”ところを見せておくべきだろう。 「どちらが飼い主なのか、黄色い連中にしっかり判らせてやる必要があるようだな。——だが、現実的に、どういう対応を行うつもりなんだ? そのK組織とやらの本拠に巡航ミサイルでも撃ちこもうというのか?」 「それができれば話が早くていいんですがね」  アルトマンはニヤっと笑うと、二本目の煙草を揉み消した。 「だが、何もかも破壊してしまうには少々勿体無い技術だ、そうでしょう?」 「無傷で奪取したい、という訳だな。——なるほど、超高度な人工エージェントなんてものが存在するなら、あんたらの大事な“エシュロン”の通信検閲能力も大幅に強化できるからな」 「なんです、それは? 聞いたことが無い名前ですな」  平然とうそぶき、黒服の諜報員はもう一度唇を歪めて笑った。 「まあ、手に入れたいと思っているのは我々だけではありませんよ。実のところ、NSAよりも、とある軍事関連企業のほうが熱心なのです。この情報は彼らが持ち込んできたものでしてね、今回の作戦にかかる諸費用も彼らの財布から出ます」 「ほう。政府のスパイより先に、自衛隊の極秘計画を探り出すとは、随分と鼻の利く企業もあったものだ」 「実は、その企業というのが、以前一度日本の産業スパイに煮え湯を飲まされていましてね。当時の経費を何としても回収する気でいるんじゃないですかね。グロージェン・マイクロエレクトロニクス、聞いたことありませんか?」 「グロージェン?」  ガブリエルは、記憶のどこかに引っかかるものを感じて首を傾げた。しかし、思い出すより早く、アルトマンがまたしてもガブリエルを驚かせるようなキーワードを発した。 「アミュスフィア・ユーザーのミラー中尉なら詳しくご存知だと思いますが……四年前、日本で起きた“SAO事件”というものを?」 「……ああ、知っている」 「あれが一応の解決を見てから、数ヵ月後に露見した付随的な事件があったのです。我が国ではほとんど報道されなかったのですがね。例のナーヴギアという機械のメーカー、レクトの技術者数名が、SAO事件の被害者の脳を利用して違法な人体実験を行いました。感覚信号のレンジを拡大して、感情や記憶の操作を試みるという、これも我々にはそれなりに興味深い実験なのですがね。その技術者から研究成果を買い受ける約束をして、前金までたっぷりと払っていたのが、グロージェンMEですよ。——しかし、首謀者のスゴウという男は研究半ばにして逮捕され、グロージェンも投下した資金を全く回収できなかった。その上、マスコミに会社の名前が出るのを抑えるのに、目の玉が飛び出るような口止め料をばら撒く破目になったようですな。あそこの社長は執念深い男でね、事件以後もレクト内部にスパイを飼い続けて、その線からK組織の活動を知ったようです」 「ああ……その事件の話はどこかで読んだ記憶があるな。グロージェンの名前は、一般のウェブログでは見かけた気がするが、噂レベルを出なかったのはそういう訳か。それで、大損した金をさらにダーティーな手段で回収しようと? 阿呆だな、その社長は」  法を逸脱することで目的を達しようとする者は、常に引き際を見極めなければいけない。それを誰よりもよく知っているガブリエルがそう呟くと、アルトマンは薄く苦笑した。 「たしかに相当にヤバいギャンブルですが、当たればデカいですよ。今後一世紀の軍需産業を支配できるかもしれないんですからね。だからこそ我々の上役も一口乗ろうという気になったのです。勿論、失敗したとき首を括るのはグロージェンの社長だけですがね」 「いかにもスパイらしい言い草だな。——で? 具体的には、どうやってK組織の研究を盗み出そうというんだ?」 「もちろん、最初は穏当な手段を検討しましたよ。CIAが自衛隊内にも相当数の協力者《アセット》を飼ってますからね。K組織の実験施設が、自衛隊の基地のどこか、あるいは偽装した工場などに存在すれば、非武力的《ドライ》な作戦で奪取することも可能だったでしょう。だが、連中も馬鹿じゃない、とんでもない場所に本拠を構えてましてね……いや実際、ぶったまげますよ」 「いい加減持って回った言い方はやめてくれないか。どこなんだ?」 「中尉はもう見てますよ。それです」  アルトマンが顎をしゃくった先には、テーブルの上に乗ったままの写真があった。ガブリエルは改めて、海洋に突き出す謎の黒いピラミッドを凝視した。 「……何なんだ、これは?」 「自走型メガ・フロートです。長辺六〇〇メートルという化け物ですよ。名前は“Ocean Turtle”……日本政府のプレスリリースでは、総合海洋研究施設ということになっていますがね、その実、自衛隊の占有物と我々は分析しています。その中枢部分に、K組織の研究機関、コードネーム“Rath”が存在するという訳です」 「……六〇〇メートルだと」  ガブリエルは少々の驚きをこめて呟いた。つまりこのピラミッドは、米海軍最大の空母ニミッツ級の二倍近い大きさだということになる。こんなものを建造してまで守ろうとしているなら、K組織の超人工知能とやらは掛け値なく世界を変革し得るテクノロジーなのだ。  可能だろうか?  K組織と、グロージェンME、そしてNSAをも出し抜き、そのテクノロジーを自分だけのものにすることが?  それを実現するためには、目の前の二人を含めて、ほぼあらゆる関係者を殺して回り、尚且つ地の果てまで——それこそ地球の裏側まで逃げ切る必要がある。数分前、グロージェンの社長のことを引き際の見えない奴だと嗤ったが、この計画に比べれば、社長のギャンブルはまだしも現実的な賭け率というべきだろう。  しかし、ガブリエルには、自分がそれを成し遂げるだろうということが分かっていた。魂の捕獲を目指して生きてきたこれまでの二十八年間、あらゆる局面で正しい選択をし、あらゆる危機を苦も無く回避してきたのだ。なぜなら、自分は、この“人間の魂”を巡る物語の主人公なのだから。  いずれ殺すと決めた男の顔を無表情に見やり、ガブリエルは話の続きを促した。 「なるほど、確かに海の上では諜報員の潜入は難しいだろうな」 「その上、日本人はみんな同じ外見ですからな。NSAにもアジア系の局員はいますが、日本人に化けきるのは難しい。補給物資を運ぶヘリの要員や、研究員に偽装して潜入するのは不可能と判断しました。となると、あとは武力攻撃作戦《ウェット・オペレーション》を実行するしかない。——ここから先は、強襲作戦担当のホルツが説明します」  ガブリエルは、こいつにも役目があったのかと思いながらサングラスの巨漢に視線を向けた。ホルツと呼ばれた男は、ガムをくちゃくちゃ噛みながら、聞き取りにくい濁声で唸った。 「まず、あんたならどうするか聞きたい」  その居丈高な口調に、一瞬ムッとするが、感情を抑えて事務的な口調で訊き返す。 「敵味方の戦力と配置は」 「間違ってもステイツの関与を示す証拠は残せないからな。こっちの戦力は二小隊十二人、全員が、グロージェンMEの契約している警備会社の飼い犬だ。顔でも指紋でも追跡できないから死体を残しても問題ない。武装はサブマシンガン、アサルトライフルまで。あとは、技術者が若干名同行するが、戦力には数えられない。オーシャンタートルの警備は、自衛隊員が十名前後配備されているが、武装は拳銃だけだ」 「……フン、警備会社だと? そいつら、実戦経験はあるのか?」  ガブリエルが疑わしそうに鼻を鳴らすと、ホルツは大袈裟に肩をすくめた。 「あんたのように砂漠でドンパチした経験は無いだろうが、顔を変えなきゃならんくらいのヤバいヤマは踏んできた奴らさ。充分な戦闘訓練も積んでいる」 「どうだかな。練度はアテにならないが……しかし武器をまともに扱えれば、装備の差で何とかなるだろう。夜中にヘリで急襲、制圧するのは難しくあるまい」 「教科書どおりだな」  何が嬉しいのか、ホルツはにんまりと笑うと、ブリーフケースからさらに一枚の写真を引っ張り出し、黒い巨船の隣に置いた。見れば、グレイ一色のやけに角張った船が写っている。 「海上自衛隊の新鋭イージス艦、“ナガト”だ。常時、オーシャン・タートルから二マイル以内に張り付いている。こいつのフェーズドアレイ・レーダーを掻い潜ってヘリで接近するのは不可能だ」 「先に言ってくれ」  唸ってから、ガブリエルは少し考え、付け加えた。 「その護衛艦を沈めるわけには行かないんだろうな?」 「さすがにそこまではな。K組織は自衛隊の鬼子《チェンジリング》だ、襲撃を受けても大々的に追及はできまいと我々は予想している。だが、軍艦を一隻沈められれば、事はもう自衛隊だけでは収まらないからな」 「では、ヘリでの接近は不可能か。ならボートか? SEALで使っているゾディアックならかなりの距離を航走できるはずだが」  しかしこの案も、ホルツは噛み終えたガムと一緒に放り捨てた。 「確かに突入までは成功するかも知れん。だが、脱出が難しい。恐らくすさまじく重い機械を乗せることになるはずだからな。イージス艦が搭載している対潜ヘリに追跡されたら逃げ切れないだろう」 「空中も駄目、海上も駄目、ではどうしろと言うんだ。海に潜っていけとでも?」  ホルツの教官じみた口調にいい加減うんざりしながら、ガブリエルは吐き捨てた。が、その途端、スキンヘッドの異相をにんまりと崩し、ホルツが大きく頷いた。 「そう、それしかない。オーシャン・タートルは表向き海洋研究船だということは説明したな。実際に各種の海洋研究プロジェクトが同居していて、その中に海底探査用無人潜水艇の開発という奴がある。そいつ用の水中ドックが船底に設けられているんだ。うってつけじゃないか、お邪魔するのに」 「……アクアラングを背負って泳いでいくのか?」 「そうしたければそれでもいいぞ、でかい鮫が苦手でなければな」  さらにケースを探り、ホルツは三枚目の写真を弾いて寄越した。 「最高級のリムジンを用意した。シーウルフ級三番艦、“ジミー・カーター”……聞いたことくらいはあるだろう」  ガブリエルは、写真を摘み上げて眺めた。のっぺりとした黒い物体が、海面からわずかに顔を出し、白い航跡を引いている。  シーウルフは、冷戦時代に設計された攻撃型原潜の名前だった。ソビエトの新鋭艦、シエラ級に対抗するために最高の技術が詰め込まれ、結果として建造費がとてつもない金額に上り、わずか三艦しか造られなかったといういわくつきの船である。  現在でははるかに低コストなヴァージニア級に前線配備を取って代わられ、活躍の場を与えられぬまま引退していく運命のシーウルフを、NSAの男たちは武装強盗団の足に使うつもりらしかった。 「このジミー・カーターは、一、二番艦にない特徴として、強襲揚陸用の小型潜水艇を搭載可能だ。こいつなら、オーシャン・タートルの船底ドックにそのまま突入することができる。しかもドックから、問題のマシンが設置されているメインシャフト下部まではごく近い」 「……だが、イージス艦が問題になるのはヘリの場合と同じじゃないのか?」 「シーウルフのジェットポンプ推進システムは、十万ドルのメルセデス並みに静かさ。オーシャン・タートルを挟んだ方向から接近すれば、どんなソナーにも見つかりはしないね。また離脱も容易だ。深海に潜った原潜を見つけられるのは同じ潜水艦だけだが、周囲には配備されていない」 「なるほどな」  ガブリエルは頷き、確かにこれなら成功するかもしれない、と考えた。もっとも、“テクノロジー”の話を聞いてしまった以上、どんな無茶な作戦であっても撥ねつけることはもうできなかったのだが。 「——概要は理解した。しかし、あんたらはまだ、真っ先に説明するべきことを喋っていないな」  ホルツから視線を外し、ガブリエルは三本目の煙草をくゆらせているアルトマンをじっと見た。 「なぜ機密保全上のリスクを冒してまで俺のところに来た? もし俺がこの話を隣のジェンセン大佐に全部ぶちまけたら、あんたらの首だけじゃ済まないぞ」  アルトマンは、表情の無い灰色の眼でガブリエルの視線を受け止め、口元だけで薄く笑った。 「作戦の性格上、ことによると仮想空間内での活動が要求される可能性がありますのでね。グロージェンの雇った犬どもは、VRシミュレーター訓練などという結構なものは受けていない。かと言って、ガンゲイル・オンラインの中毒者《アディクト》を雇うわけにも行かない。毎日ベッドとタコベルを往復するだけみたいな連中ですからな。そこで、国防総省のほうに手を回して、SOCOMの誇る各特殊部隊の精鋭たちの中でもっともVR訓練に適応した隊員をリストアップしてもらったのですよ」 「……で、昨日の統合訓練でゴールドメダルを攫った俺をスカウトに来たのか。安直な話だな」 「ええ、我々も、中尉があまりにもうってつけの人材なので、逆にどこぞの諜報機関の工作なのかと疑ったくらいですからね。何せ、家族係累は一切なし、特定の女性あるいは男性との交際なし、基地内にもプライベートで親しくしている人間はいない」 「つまり、もしもの時は処分もしやすいという訳か。よく調べているな」  だが、いかにNSAでも全てを見通せるわけではない。自分たちが、どれほど最適な人間を選んでしまったのか——それを知ることができるのは、全てが終わった後のことだろう。  突入用潜水艇ね、とガブリエルは考えた。ヘリならばブラックホークでもペイブロウでも操縦訓練を受けているが、さすがに潜水艇を動かした経験は無かった。しかし、基地でVRマニュアルに触れる機会くらいはあるだろう。問題のマシンを積み込んだあと、強襲チームを全員殺し、そのまま第三国まで航行する能力が船にあればいいのだが。 「——で、仮に俺があんたらのヤバい話に乗ったとして、何か具体的な見返りはあるのかな」  口もとにわずかに野卑な笑みを作ってみせながらそう訊ねると、アルトマンも薄く笑い返し、スーツの内ポケットから小さな紙片をつまみ出した。 「無論、公式にはボーナスも勲章もありませんがね、作戦が成功すれば、グロージェンMEのCEOから私的な謝礼が送られるかもしれませんな」  記されていたのは、軍人としてのガブリエルの給与のほぼ一年分に相当する金額だった。ということはつまり、ガブリエルが海外の口座に秘匿している資金と比べれば何ほどのこともないのだが、そんなことはおくびにも出さず、下品な口笛を低く鳴らした。 「ちょっとしたもんだな、え?」 「私なら、この金でグロージェンの株を買いますね」  紙片を懐に戻したアルトマンに向かって、ガブリエルは笑みを消しながら訊いた。 「いつ、どこに行けばいいんだ」 「そう言っていただけると思っていましたよ。一週間後、宿舎まで車でお迎えに上がります。その後飛行機に乗り換えますが、少々長旅になるでしょうからそのつもりで」 「慣れているさ」  頷き、写真を回収すると男達は立ち上がったが、握手を求める気は無いようだった。ガブリエルも体を起こし、ふと思いついたふうを装って口を開いた。 「そう言えば、問題の機械だが——」 「STLとかいう略称で呼ばれているようです」 「そうか、そのSTLだが、そいつに魂をコピーされた人間はどうなるんだ?」  妙なことを聞く、というようにアルトマンは首を傾けたが、さして訝しむ様子もなく答えた。 「どうもなりはしないようですよ。もしどうかなるようでしたら、幾ら実験台がいても足りない」 「それを聞いてほっとした」  言いながら、それは少々残念だな、とガブリエルは思った。オリジナルがそのまま残ってしまっては、せっかく抜き取った魂の価値も半減だ。  だが、機械にかけ、しかるのちにオリジナルを殺せば同じことだ、勿論。  隠遁先は、できるならアジアではなくヨーロッパがいい。閑静な、森の多い郊外に居を構え、秘密の部屋にSTLという名の機械を設置して、ライトキューブに永遠に保存された魂たちと穏やかな暮らしを送れたら、物心ついた頃から自分を苛んできた餓えと渇きがついに満たされるに違いない。  手許に置く魂は厳選に厳選を重ねなくては。あの水色の髪の少女の身元を調べることはできるだろうか。そう言えば、一週間後に出発ということは、ガンゲイル・オンライン日本大会のチーム戦にエントリーすることは諦めなくてはならないようだ。  だが、いずれまたまみえることはあるだろう。それが自分と、出会うべき魂たちの運命なのだから。  NSAの男たちに続いて応接室を出ながら、ガブリエルは内心でそっとひとりごちた。そして一度瞬きをし、想念を仕舞い込むと、ジェンセンにどう言って説明したものか考えはじめた。  米海軍所属原子力潜水艦、シーウルフ級三番艦“ジミー・カーター”の艦長を務めるダリオ・ジリアーニ大佐は、魚雷管の掃除係からここまで登りつめた、骨の髄からの潜水艦乗りだった。初めて乗った船は年代物のバーベル級ディーゼル潜で、殺人的に狭い艦内のどこに行こうと、軽油臭さと歯が抜けそうな騒音に付きまとわれたものだ。  あれに比べれば、この合衆国——いや世界中のどの海軍に所属する潜水艦よりも金の掛かった船はまるでロールスロイスだ。ジリアーニは、二〇一〇年に艦長を拝命して以来、このジミー・カーターとその乗員たちに惜しみなく愛情を注いできた。絶え間ない訓練の成果で、今では高張スチールの船体とS6W型原子炉、そして百四十名の乗組員たちはまるでひとつの生き物のように結びつき、どんな海でもそこに水さえあれば自在に泳げるほどの練度に達している。  そう、まさにこの船はジリアーニの子供に等しい存在だ。残念ながら、間もなく自分は現役を退き、陸の上でデスクワークに就くかあるいは早期退職を選ばなくてはならないが、後任に推薦している副長のガスリーならきっと立派に後を継いでくれるだろう。  なのに——。  ほんの十日前、まるで晩節を汚そうとするかのようにひとつの奇妙な命令が下されたのだ。しかも、太平洋艦隊司令長官の頭越しに、ペンタゴンから直接発令されたものだ。  確かに、ジミー・カーターは特殊作戦支援用に設計された艦で、海軍特殊部隊SEALと連携するための様々な仕様を持つ。今後甲板に背負っている揚陸用小型潜水艇もそのひとつだ。  これまでにも、軍内ですら口外してはならない作戦を遂行するために、そこにSEALのコマンドたちを乗せて他国の領海を犯したことは何度かあった。しかしその目的は常に合衆国の、ひいては世界の平和を保つことだったし、死地に赴く寡黙な男たちは、間違いなくジリアーニの部下と同じ使命感を持つ海の男だった。  だが、数十時間前、パール・ハーバーで乗り込んできたあの連中は——。  ジリアーニは一度だけ、後部の待機室に“客”たちの顔を見に行ったが、その有様を見てあやうく深海に叩き出せと部下に命令しそうになった。十数人の男たちが、規律も何もなく床に寝転がり、ヘッドホンから騒音を漏らす者あり、カードや携帯ゲーム機に興じる者あり、おまけに持ち込んだビールの空き缶がそこかしこに散乱していた。  あの連中は絶対にまともな船乗りではない。それどころか、軍人なのかどうかさえ怪しい。  唯一まともそうだったのは、ジリアーニに規律の乱れを詫びた長身の男だった。Tシャツの上からでも分かる鍛えぬかれた肉体といい、きびきびした所作といい、あの男だけはかつてみたSEALの隊員と同じ雰囲気を放っていた。  しかし。  男のあの青い眼——。握手を求める右手を握り返しながら、ふとその奥を覗き込んだジリアーニは、長らく覚えのない感情を味わった気がした。あれは、そう……海軍に入るずっと以前、生まれ育ったマイアミの海でシュノーケリングをしていて、突然真横を通り過ぎていった巨大なホオジロザメの眼を間近から見てしまったときと同じ……あらゆる光を吸い込むような、完全なる虚無——。 「艦長、ソナーに感!」  不意に耳に届いた、ソナー員の鋭い声が、ジリアーニを物思いから引き戻した。  戦闘発令所の艦長席で、ジリアーニは素早く上体を起こした。 「原子炉のタービン音、目標のメガフロートに間違いありません。こいつは……でかい、とてつもなくでかいです。距離八〇〇〇」 「よし、エンジン停止、バッテリーに切り替えて無音微速航行」 「エンジン停止!」  命令がすばやく復唱され、艦内に響いていた原子炉の鼓動が消滅した。 「護衛のイージス艦の位置はわかるか」 「待ってください……目標の向こう、距離一二〇〇〇にガスタービンエンジン音……音紋一致、海上自衛隊の“ナガト”と確認」  正面の大型ディスプレイに表示された二個のブリップを、ジリアーニはじっと睨んだ。  イージス艦はともかく、メガフロートは武装を持たない海洋研究船と聞いている。そこに、武装したごろつきどもを突入させるというのが今回の命令なのだ。しかも、同盟国であるはずの日本の船に。  とても、大統領や国防長官が承認した正規の作戦とは思えなかった。いや、あるいはそうなのだろうか。もしそうなら、これまで疑いすらしなかった合衆国海軍の名誉と誇りを、これからどのようにして信じていけばよいのだろうか。  ジリアーニは、ペンタゴンから命令書を携えてきた黒スーツの男の言葉を脳裏に再生した。日本は、あのメガフロートで、合衆国と再び戦争を始めるための研究を行っている。両国の友好を保つためにも、その研究は、秘密裏に葬り去るしかないのです——。  その言葉を鵜呑みにできるほど、ジリアーニは若くも愚かでもなかった。  同時に、結局、自分には従う以外の選択肢はないのだということが理解できるほどに年老いてもいた。 「“客”の準備はいいか」  傍らに立つ副長に低い声で尋ねる。 「ASDS内で待機中です」 「よし……メインタンクブロー! 目標より距離三〇〇〇、深度五〇につけろ!」 「アイアイ、アップトリム一〇で浮上します!」  圧搾空気がバラストタンク内の海水を押し出し、生じた浮力がジミー・カーターの巨体を持ち上げた。ブリップとの距離は、ゆっくりと、しかし確実に減少していく。  民間人に死傷者は出るのだろうか。おそらくそうだろう。彼らの全員が、強制収容所で人体実験を繰り返したナチの科学者のような連中であればいいのだが。 「目標との距離三二〇〇……三一〇〇……三〇〇〇、深度五〇です!」  一瞬の躊躇いを振り払い、ジリアーニは毅然とした声で命じた。 「ASDS、切り離せ!」  かすかな振動が、後甲板の荷物が艦から離れたことを告げた。 「切り離し完了……ASDS、自走開始」  野犬の群れと一匹の鮫を乗せた潜水艇は、みるみる速度を増し、海面に浮かぶ巨大な亀目掛けて一直線に突進していった。 [#地から1字上げ](第六章 終)