Sword Art Online 4 Alicization 九里史生     第一章  強く握る。  振り上げる。  叩き下ろす。  たったこれだけの動作なのに、少しでも気を抜くと斧の当たりどころが狂い、硬い木質が両腕に手痛い反動を跳ね返してくる。呼吸、タイミング、スピード、体重移動、それら全てを完璧に制御してはじめて、重い斧の刃は秘めた力を全て樹に伝え、高く澄んだ心地よい音を響かせる。  と、頭では理解していても、実践となるとこれがままならない。ユージオが十歳の春にこの仕事を与えられてからもう二度目の夏になるが、そんな会心の一振りは十回に一度出せるかどうか、というところだ。斧の振り方を教えてくれた、前任者のガリッタ爺さんなどは百発百中で、巨大な木こり斧をどれだけ振り回そうと疲れた素振りなどまるで見せなかったのに、ユージオは五十回も振れば両手が痺れ、肩が痛んで、腕が上がらなくなってしまう。 「四十……三! 四十……四!」  自分に喝を入れるように、せいぜい大声で数をかぞえながら斧を大樹の幹に叩きつけるが、吹き出た汗で眼がぼやけ、手の平は滑り、命中率はみるみる低下していく。半ばやけくそのように、握り締めた木こり斧を体ごと振り回す。 「四十……九! ご……じゅ……う!!」  最後の一撃は盛大に手許が狂い、幹に刻まれた斧目から遠く離れた樹皮を叩いて、耳障りな金属音を撒き散らした。眼から火花が出るほどの反動にユージオは堪らず斧を取り落とし、そのままふらふらと数歩後ろに下がると、深い苔の上にどさりと体を転がした。  ぜいぜいと荒い息をついていると、同じように少し離れた場所に寝転がっていた少年が、顔だけユージオに向けてにやっと笑った。 「いい音がしたのは五十回中三回だったな。ぜんぶ合わせて、えーと、四十一回か。どうやら今日のシラル水はそっちのおごりだぜ、ユージオ」  寝転がったまま手探りで水筒を掴み上げ、ぬるくなった水をがぶがぶあおってようやく人心地ついたユージオは、鼻を鳴らして答えた。 「ふん、そっちだってまだ四十三回じゃないか。まだまだ分からないよ。そら、お前の番だ、キリト」 「へいへい」  ユージオの幼馴染にして無二の親友、一年前からはこの憂鬱な仕事の相棒でもあるキリトは、汗に濡れた黒い前髪をぐいっとかきあげると、両足を真上に伸ばし、えいやっと体を起こした。しかし、すぐには斧を拾いに行かず、手を腰に当てると頭上を仰いだ。つられて、ユージオも視線を空に向ける。  七の月もまだ半ばの夏空は呆れるほどに青く、真ん中に張り付いた陽神ソルスはぎらぎらと容赦のない光を放っている。だが、四方八方に伸ばされた大樹の枝々にびっしりと茂る厚い葉が貪欲に陽光を遮り、ユージオ達のいる樹の根元まではほとんど届かない。  こうしている間にも、大樹は陽神の恵みを無数の葉でむさぼり、また根からは地神テラリアの恩寵を絶え間なく吸い上げ、ユージオとキリトが刻んだ斧傷を着々と回復させているはずだ。日中にどれほど二人が頑張っても、一晩休んで翌朝またここに来たときには、大樹は受けた傷の七割を埋め戻してしまっているのだ。  ユージオはふう、とため息をつきながら、視線を空から樹へと向けた。  大樹——村人の間では巨人の樹、ギガースシダーと呼ばれているそれは、幹の差し渡し四メル、てっぺんの枝まではゆうに七十メルはあるという化け物だ。村で一番高い教会の鐘楼だってその四分の一しかないのだから、今年になってようやく背丈が一メル半を超えたユージオやキリトにとってはまさしく古代の巨神にも等しい相手だ。  どだい、人間の力でこいつを切り倒そうなんて無理な話なんじゃないのか——と、その幹に刻まれた斧目を見るにつけ、ユージオは思わずにいられない。くさび型の切り込みはようよう一メルに達するかどうか、という所で、幹はまだその三倍もの厚みが健在なのだ。  去年の春、キリトと一緒に村長の家に連れていかれ、大樹の刻み手という役目を与えられたとき、ユージオは気が遠くなるような話を聞かされた。大樹ギガースシダーは、二人が暮らすルーリッドの村が拓かれる遥か以前からこの地に根を張っており、その最初の入植者の時代から村人は延々と樹に斧を入れ続けているということ。初代の刻み手から数えて、前任のガリッタ爺が五代目、ユージオとキリトが六代目であり、ここに至るまですでに三百年以上の時が費やされているのだということ。  三百年! まだ十歳の誕生日を迎えたばかりのユージオにはまるで想像もできないほどの時間だった。もちろん、それは十一になった今も変わりはしない。どうにか理解できるのは、ユージオの父親、母親の時代、祖父、祖母の時代、その前、さらにその前の時代から、刻み手たちは無限とも言えるほどの回数斧を振りつづけ、その結果作ることのできたのが、このたった一メルにも満たない斧目なのだ、という事だけだ。  なぜそこまで空しい努力を続けてまで大樹を倒さなければならないのか、その理由も村長は鹿爪らしい口調で語ったものだ。  ギガースシダーは、その巨体とありあまる生命力ゆえに、周囲のとてつもなく広い範囲から、陽神と地神の恵みを奪い去ってしまう。大樹の影が届くすべての土地では、種を植えてもいかなる作物も実らない。  神聖帝国北方辺境に位置し、三方を急峻な山稜に囲まれたルーリッドの村では畑や放牧地を広げようにも南の森を切り拓くしかなく、しかしその入り口にどすんとギガースシダーがそびえているために、まずこの厄介者をなんとかしなければ、これ以上の村の発展は有り得ない。大樹の皮は鋼鉄、木質でさえ赤銅の硬さを誇り、火をかけても煙すら出ず、掘り起こそうにもその根は梢と同じだけの深さにまで及んでいる。ゆえに、我々は村の開祖たちが残してくれた、鉄さえ断てる竜骨の斧を用いて樹の幹を刻み、また次の世代に役目を伝えていかねばならないのだ——。  使命感のあまりか声を震わせながら村長がその話を終えたとき、まずユージオがおそるおそる、それならギガースシダーは放っておいて更に南の森を切り拓いたらどうなのか、と尋ねた。すると村長は、あの樹を倒すのは先祖代々の悲願であり、その大役を二名の刻み手に委ねるのが村のしきたりである、と怖い声で言った。次にキリトが、首をひねりながら、そもそもなんでご先祖様はこんなところに村を拓いたのか、と尋ねた。すると村長は一瞬言葉に詰まったあと烈火の如く怒り、杖の先でキリトとついでにユージオの頭をぽかりと叩いた。  以来一年と三月、二人は交代で竜骨の斧を握り、ギガースシダーに挑みつづけている、というわけなのだ。しかし、まだ斧を振る腕が未熟なせいもあるのだろうが、大樹の幹に入った切れ込みはどう見ても深くなっているようには思えない。ここまで刻むのに三百年かかっているのだから、子供二人がたった一年頑張ったくらいではさしたる変化もないのは当然と言えば当然なのかも知れないが、仕事としての達成感がないことおびただしい。  いや——その気になれば、見た目だけでなく、さらに明解なかたちで気の滅入る事実を確かめることもできるのだ。  ユージオの横に立ち、無言でギガースシダーを睨んでいたキリトも同じことを考えたらしく、すたすたと幹に歩み寄ると、まっすぐ左手を伸ばした。 「おい、やめとこうよキリト。無闇と大樹の天命を覗くなって村長から言われてるだろ」  だがキリトはちらりと顔を向けると、いつもの悪戯そうな笑みを口の端に浮かべ、うそぶいた。 「前に見たのは二月前だぜ。もう“無闇”じゃなくて“たまに”だよ」 「まったく、しょうがないなあ。……おい、待てよ、僕にも見せろ」  ユージオはようやく疲れの引いた体を、先ほどのキリトと同じように振り上げた足の反動で起こすと、相棒の傍へと駆け寄った。 「いいか、開くぞ」  キリトは低い声で言うと、前に突き出した左手の人差し指と中指をぴんと伸ばし、残りの指を握った。そのまま空中に、這いずる蛇のような形を描く。生命神に捧げる呪印のもっとも初歩的なものだ。  印を切った指先で、キリトはすかさずギガースシダーの幹を叩いた。本来あるべき乾いた打撃音ではなく、銀器を弾いたような澄んだ音が小さく響く。次いで、幹の内部から浮かび上がるように、小さな四角い光の窓が現われる。  天地に存在するすべてのものには、動く、動かざるに関わらず、生命を司る始原の神ステイシアによって与えられた“天命”が存在する。虫や草花にはごくわずかの、猫や馬にはそれよりずっと多くの、そして人にはさらに多くの命が与えられている。森の樹々や、苔むした岩などは、人の何倍もの天命を持っている。それらの命はひとしなみに、生まれ出でてからある時点までは増加し、頂点を迎え、ついで減少していく。やがて命が尽きたとき、獣や人は息を止め、草木は枯れ、岩は砕ける。  その天命を、古代の神聖文字で記したのが“ステイシアの窓”だ。相応の魔力を持つ者が、印を切り対象を叩くことによって呼び出すことができる。石ころや草のようなものの“窓”はほとんどどんな人間でも見ることができるが、獣になるとやや難しく、人の“窓”に至っては初等魔術を修めるに足るだけの力が無いと引き出すことはできない。一般的に樹木の窓は人のそれよりは見やすいが、さすがに古代樹と言われるギガースシダーは難易度が高く、ユージオとキリトが窓を出せるようになったのはここ半年ほどのことだ。  聞きかじるところでは、かつて、央都の帝立魔道院において大導師の位を得た魔術師が、七日七晩に及ぶ儀式のすえに大地——つまり地神テラリアそのものの“窓”を引き出すことに成功したらしい。しかし、大地の天命を一目見たとたん魔術師は恐慌を来たし、正気を失っていずこへか消え去ってしまったという。  その話を聞いてからというもの、ユージオはギガースシダーを含む大きいモノの窓を見るのが少々恐ろしいのだが、キリトは頓着する様子もない。今も、浮かび上がった光る窓にいそいそと顔を近づけている。幼馴染の親友ではあるが時々ついていけないよ、と思いながら、それでも好奇心に負けて、ユージオもその脇から覗き込んだ。  薄い紫色に光る四角い窓には、直線と曲線を組み合わせた奇妙な数字が並んでいる。古代の神聖文字であるそれを、数字だけならユージオも読むことはできるが、書くことは深く禁じられている。 「ええと……」  ユージオは指でひとつひとつ確かめながら、数字を口にした。 「二十三万……五千五百四十二」 「あー……先々月はいくつだっけ?」 「たしか……二十三万五千五百九十くらい」 「…………」  ユージオの言葉を聞いたキリトは、大げさな仕草で両手を差し上げると、がくりと根っ子に膝を突いた。次いで、わしゃわしゃと黒い髪に指を立てる。 「たった五十! ふた月こんだけがんばって、二十三万なんぼのうちたった五十! これじゃ一生かかっても切り倒せねえよ!」 「いや、だからそりゃ無理だって」  ユージオは苦笑しながら答えるしかない。 「僕らの前に五代の刻み手が三百年がんばって、たった四分の一しか行ってないんだからさ……。単純に考えて、ええと、あと十五代、九百年くらいかかる計算だよ」 「おーまーえーは〜」  頭を抱えてうずくまっていたキリトは、じろりとユージオを見上げると、突然両足にがしっと組み付いてきた。不意を突かれたユージオはバランスを崩し、苔のベッドにしたたか背中を打ち付けてしまう。 「何でそう優等生なんだ! もうちょっとこの理不尽な役目をどうにかしようと悩め!」  口では怒ったようなことを言いながら、キリトは満面のにやにや笑いを浮かべながらユージオに馬乗りになると、髪をぐしゃぐしゃと掻き混ぜてきた。 「うわっ何するこいつ!」  ユージオは両手でキリトの手首を掴み、ぐっと引っ張る。キリトがそれに抵抗しようと体を突っ張る力を利用して、ぐるんと垂直に半回転し、今度は自分が上になる。 「そら、お返しだ!」  笑い混じりに叫びながら、キリトの髪を汚れた手で引っ張るが、亜麻色のまっすぐな髪のユージオに対してキリトのは黒くつんつんと逆立っているのでこの攻撃はさして意味がない。やむなく脇腹のくすぐり攻撃へと切り替える。 「うぎゃっ、お前……それは、ひ、ひきょ……」  呼吸困難に陥りながら暴れまわるキリトを組み伏せ、なおもくすぐっていると、不意に背後からきーんと響く高い声の一撃が襲ってきた。 「こらっ! またさぼってるわね!!」  途端、ユージオとキリトはぴたりと取っ組み合いと停止する。 「うっ……」 「やべっ……」  二人してしばし首をすくめてから、おそるおそる振り向く。少し離れた岩の上で、両手を白いエプロンを巻いた腰に当て、ぐいっと胸を反らす人影を認め、ユージオは引き攣った笑みを浮かべながら言った。 「や……やあアリス、今日はずいぶん早いね」 「ぜんぜん早くないわ、いつもの時間よ」  つん、と顔を反らすと、頭の両側で結わえたゆるく波打つ髪が、まばゆい金色の光を放った。身軽な動作で岩から飛び降りたのは、青いドレスに白いエプロン姿の少女だった。右手には大ぶりのバスケットを下げている。  少女の名前はアリス。ルーリッドの村長の孫娘で、歳はユージオ、キリトと同じ十一だ。  ルーリッドの——いや、北部辺境地域に暮らす子供は全員、十歳の春に“天職”を与えられ仕事見習いに就くのがしきたりなのだが、アリスはわずかな例外としてそのまま教会の学校に通っている。村の子供ではいちばんと目される神聖魔法の才能を伸ばすため、シスター・アザリヤから個人教授を受けているのだ。  とは言え、いかに天賦の才を持ちまた村長の娘であろうとも、十一になる娘に一日中勉強をさせておけるほどルーリッドは豊かな村ではない。働けるものは全員働き、作物や家畜の天命を削り取ろうと絶えず襲ってくる日照りや長雨、害虫——つまり闇神ベクタの悪戯を退けつづけなくては、厳しい冬を村人皆が無事に越すことが難しくなる。  ユージオの家は村の南に広がる開墾地にかなり大きな麦畑を持っているが、生粋の農夫である両親は、次男であるユージオがギガースシダーの刻み手に選ばれたことを口では喜びつつ、内心は残念に思っている節がある。もちろん刻み手としての稼ぎは村の金庫から家に支払われるが、畑に出る働き手がひとり減ったことに変わりは無いからだ。  ならわしとして、各々の家の長男には必ず父と同じ天職が与えられ、農家の場合は娘や次男、三男もそれに準ずる。道具屋の子は道具屋に、衛士の子は衛士に、そして村長は村長の子が継ぐ。そのようにしてルーリッドの村は、拓かれて以来数百年ほとんど変わらない姿を維持しており、大人たちはそれこそがステイシアの加護の賜物であると言うが、ユージオはそこにほんのかすかな、名状しがたい違和感のようなものをおぼえることがある。  一体、大人たちは、村を大きくしたいと思っているのか、それとも今の形を何ひとつ変えたくないと思っているのか、それがよく分からないのだ。本当に畑を広げたいのなら、こんな厄介な樹など放っておいて、多少遠回りになるがさらに南の森を拓けばいいだけのことだ。しかし、村で一番の賢者であるはずの村長でさえも、代々のしきたりの数々を見直すことなど思いもよらないらしい。  ゆえに、ルーリッドの村はどれだけ世代が移ろおうとも常に貧しく、村長の娘アリスも勉強できるのは午前中だけで、午後は家畜の世話や家の掃除に忙しく立ち働かなくてはならない。その最初の仕事が、ユージオとキリトに昼食を届けること、というわけだ。  右腕にバスケットを引っ掛けたまま両手を腰にあて、アリスは胸を大きく反らせた。碧玉の色の瞳が、苔の上で取っ組み合いを中断したユージオとキリトをじろりと睨む。小さな唇がすうっと空気を吸い込み、そこから大きな雷が落ちる寸前に、ユージオは素早く体を起こすとぶんぶん首を振った。 「さぼってないさぼってない! 午前中の既定労働はもうちゃんと終わったんだよ」  早口にそう弁解すると、後ろでキリトが「そうそう」と調子のいい相槌を打つ。  アリスはもう一度、強い光を放つ瞳で二人をひと撫ですると、呆れたようにふっと頬を和ませた。 「仕事を終えたうえでケンカする元気があるなら、ガリッタさんに言って回数を増やしてもらったほうがいいかしら?」 「や、やめてそれだけは!」 「冗談よ。——さ、早くお昼にしましょう。今日は暑いから、悪くなっちゃう前に食べないと」  アリスはバスケットを地面に下ろすと、中から大きな白布を取り出し、ぱんと音をさせて広げた。平坦な場所を選んでそれを敷くと、待ちかねたように靴を脱ぎ飛ばしたキリトが上に飛び乗る。続いてユージオが腰を下ろすと、餓えた労働者ふたりの前に、次々と料理が並べられた。  今日のメニューは、塩漬け肉と豆の煮込みのパイ詰め、薄切り黒パンにチーズとピックルスを挟んだサンドイッチ、数種類の干し果物、朝絞ったミルク、というものだった。ミルクを除けばどれも保存性のいい食べ物だが、降り注ぐ七の月の陽光は、容赦なく料理から“天命”を奪い去っているはずだ。  料理に飛びつこうとするキリトとユージオを、アリスは犬にお預けを食らわせるように手で制すると、素早く空中に印を切り、まず素焼きのポットに入ったミルクの、次いで他の料理の“窓”を次々と確かめた。 「うわ、ミルクはあと十分、パイも十五分しか持たないわ。走って来たのになあ。——そんなわけだから、ちょっと急ぎ目で食べてね。でもちゃんと噛まないとだめよ」  天命が尽きた料理はすなわち『傷んだ料理』で、一口でも食べれば、よほど頑強な胃を持つ者でないかぎり覿面に腹痛その他の症状を引き起こす。ユージオとキリトは、いただきますを言うのももどかしく、大きく切ったパイにかぶりついた。  三人は、しばらく無言でもぐもぐと口を動かしつづけた。ハラペコの少年二人は言わずもがな、アリスも、この細いお腹のどこに入るのか、というほどの健啖ぶりを発揮して、次々と料理と片付けていく。まず六切れのパイが無くなり、九つのサンドイッチが一壷ぶんのミルクとともに流し込まれると、三人はようやくほっと一息ついた。 「——お味はどうだったかしら?」  こちらを横目で見ながら、ぽそりとそう言うアリスに向かって、ユージオは笑みを噛み殺しながら答えた。 「うん、今日のパイはおいしかった。だいぶ腕が上がってきたみたいだね、アリスも」 「そ、そうかしら。わたしはもう一味足りないような気がしたけど」  照れ隠しなのか、そう言ってアリスがそっぽを向いたスキに、ユージオはキリトにちらりと目配せして一瞬の笑いを交換した。先月から、二人の弁当はアリスが作っている、という触れ込みなのだが、正直なところアリスの母親であるサディナが手伝っているときとそうでないときの違いは歴然としている。万事につけ、技というものは長年の修練抜きには身につかないものなのだ——が、それを敢えて口にしないだけの分別はユージオもキリトもようやく身につけた、というわけだ。 「それにしても——」  と、干し果物の入った籠から黄色いマリゴの実を摘み上げながら、キリトが言った。 「せっかくの旨い弁当なんだから、もっとゆっくり食べたいよなあ。なんで暑いと弁当がすぐ悪くなっちゃうんだろうなあ……」 「なんでって……」  今度は苦笑を隠すことなく、ユージオは大げさな身振りで肩をすくめた。 「ヘンなこと言う奴だなあ。夏はなんでも天命の減りが早いに決まってるだろ。肉だって、魚だって、野菜も果物も、そのへんに置いとけばすぐ傷んじゃうじゃないか」 「だから、それが何でなんだ、って言ってるのさ。冬なら、生のハムを外にほっぽっといても、何日だって持つじゃないか」 「そりゃ……冬は寒いからな」  ユージオの答えに、キリトは聞き分けのない子供のようにぐいっと唇を曲げた。北部辺境では珍しい黒い眼に、わずかに挑戦的な光が浮かんでいる。 「そうだよ、ユージオの言うとおり、寒いから食べ物が長持ちするんだ。冬だからじゃない。なら……寒くすれば、この時期だって弁当は長い間持つはずだ」  今度こそユージオは呆れ果て、つま先でキリトの向こう脛を軽く蹴った。 「簡単に言うなよ。寒くするって、夏は暑いから夏なんだよ。古代の封禁魔術で雪でも降らせる気か? 次の日には央都の整合騎士がすっとんできて処刑されちゃうよ」 「う、うーん……。何か無いかなあ……いい方法が……」  キリトが眉をしかめ、そう呟いたときだった。いままで二人の会話を黙って聞いていたアリスが、長いおさげの先に指をからませながら口を挟んだ。 「面白いわね」 「な、何を言い出すんだよアリスまで」 「別に、禁術を使おうってんじゃないわよ。村をまるごと寒くしようとか大げさなこと考えなくても、例えばこのお弁当を入れるバスケットの中だけ寒くなればいいんでしょ?」  至極当然のことのような言葉を聞き、ユージオは思わずキリトと顔を見合わせ、同時にこっくりと頷いた。アリスはちらりと済ました笑みを浮かべ、続ける。 「夏でも冷たいものなら、いくつかあるわよ。深井戸の水とか、シルベの葉っぱとか。そういうのを一緒にバスケットに入れれば、中が寒くならないかしら?」 「ああ……そうか」  ユージオは腕を組み、考えた。  教会前広場の真ん中には、ルーリッドの村が出来たときに掘られたという恐ろしく深い井戸があり、そこから汲み上げる水は夏でも手が痛くなるほど冷えている。また、北の谷にわずかに生えているシルベの樹の葉は、摘むとツンとくる香りを放ちながらひんやりと冷たくなるので、打ち身の治療に重宝されている。確かに、深井戸の水を壷に入れたり、シルベの葉でパイを包んだりすれば、弁当を運ぶ間冷たく保つことは可能なように思われた。  しかし、同じようにしばらく考えていたキリトは、ゆっくり首を振りながら口を開いた。 「それだけじゃたぶんムリだよ。井戸水は、汲んで一分も置けばすぐにぬるくなっちゃうし、シルベの葉っぱはちょっとヒヤっとするくらいだし。とても、アリスの家からギガースシダーまで、バスケットの中を寒くできるとは思えないな」 「なら、他にどんな方法があるってのよ?」  せっかくの名案にケチをつけられたアリスが、唇を尖らせながら訊き返した。キリトはしばらく、黒い髪をわしわし掻き混ぜながら黙っていたが、やがてぼそりと口にした。 「氷だ。氷がいっぱいあれば、じゅうぶんに弁当を冷やせる」 「あんたねえ……」  ほとほと呆れた、というように、アリスが首を振った。 「今は夏なのよ。氷なんか、どこにあるってのよ。央都の大マーケットにだってありゃしないわ!」  まるで、聞き分けのない子供を叱る母親のような口調で捲し立てる。  が、ユージオはひしひしと嫌な予感を覚えつつ、口をつぐんだままキリトの顔を見ていた。この幼馴染が、こういう眼の光を浮かべ、こういう口調でものを言うときは、大抵ろくでもないことを考えているのだということを長年の経験から知っているからだ。頭のおくに、東の山まで皇帝蜂の蜜を取りに行ったときのことや、教会の地下室で黒妖精の封じられた壷を割ってしまったときのことなどが立て続けに浮かんでは消えた。 「ま、まあ、いいじゃないか、急いで食べれば大丈夫なんだからさ。それより、そろそろ午後の仕事にかからないと、また帰りが遅くなっちゃうよ」  手早く空いた皿をバスケットに戻しながら、ユージオはそう言って、この不穏な話題を打ち切ろうとした。が、キリトの瞳が何らかの思いつきにきらりと輝くのを見て、危惧が現実になりつつあるのをいやおうなく悟る。 「……なんだよ、今度はいったい何を思いついたんだ」  やや諦め混じりにそう尋ねると、キリトはにいっと笑みを浮かべながら答えた。 「なあ……ずーっと昔、ユージオの爺ちゃんにしてもらった話、憶えてるか?」 「ん……?」 「どの話……?」  二年前に天命天職を果たしてステイシアのもとに召されたユージオの祖父は、色々な昔話をたっぷりと白い髭の奥に詰め込んでいて、庭の揺り椅子に腰掛けパイプをくゆらせながら、足元にうずくまる三人の子供に聞かせてくれたものだ。不思議な話、わくわくする話、怖い話などその数はたっぷり数百に及び、ユージオはいったいキリトがどれのことを言っているのかわからず、アリスと同時に首を傾げて尋ね返した。 「夏の氷、と言えばあれしかないだろう。『ベルクーリと北の白い……』」 「おい、やめてくれ、冗談だろう!」  ユージオは最後まで聞かず、両手と首を振りながらそう叫んで遮った。  ベルクーリ、というのは、ルーリッドの村を拓いた入植者たちの中で一番の使い手だった剣士で、初代の衛士長を務めたと言われている人物だ。なにぶんもう三百年も前のことなので、口伝てにいくつかの神話的武勇譚が残っているだけだが、その中でももっとも奇想天外なのが、キリトが言いかけた題を持つ話だった。  ある夏の盛りの日、ベルクーリは村の東を流れる川に、大きな透明の石が流れてくるのに気付く。拾い上げてみるとそれはなんと氷の塊で、不思議に思ったベルクーリは、ひたすら川沿いにさかのぼって歩き続ける。やがて彼は、地の果てと考えられている北の山脈に彷徨いこみ、尚も細い流れを追って谷を登っていくと、そこには巨大な洞窟が口を開いていた。吹き出してくる、凍えるような風に逆らってベルクーリは洞窟に踏み込み、いろいろな危険を乗り越えて一番奥の大広間までたどり着くと、そこで彼を待っていたのは……という筋で、タイトルは『ベルクーリと北の白い竜』というものだった。  いかな悪戯好きのキリトと言えど、まさか禁を犯して北の峠を越え、本物のドラゴンを探しに行こうなどと考えているわけではあるまい——と半ば祈りながら、ユージオはおそるおそる尋ねた。 「つまり、ルール川を見張って、氷が流れてくるのを待とう……っていうこと?」  だが、キリトは馬鹿にしたように鼻を鳴らすと、あっさり言い放った。 「そんなの待ってるうちに夏が終わっちゃうぜ。別に、ベルクーリの真似してドラゴンと戦おうってんじゃないよ。あの話じゃ、洞窟に入ったらすぐにでっかいツララがいっぱい生えてたって言うじゃないか。そいつを二、三本折ってくれば、じゅうぶん間に合うはずだ」 「だからってお前……」  ユージオは数秒間絶句してから、傍らを振り返って、かわりにこの無鉄砲小僧を諌めてくれないものかとアリスを見た。そしてその碧い瞳の奥に、きらきらと常ならぬ光が宿っているのに気付き、内心でがくりと肩を落とした。  甚だ不本意ながら、ユージオとキリトは、村一番の悪餓鬼コンビとして、厳格な老人たちから溜息苦言叱責等々を日常的に頂戴する身である。しかし、二人の数々の悪行の裏に、村一番の優等生アリスのひそかな扇動があることを知る者は少ない。  そのアリスは、右手の人差し指をふっくらとした唇にあて、さも迷っているふうに数秒間首を傾げてから、ぱちりとひとつ瞬きをして明るい声で言い放った。 「——悪くないアイデアね」 「あ、あのねえアリス……」 「確かに北の峠に行くのは村の掟で禁じられているわ。でもそれは、峠の先にある『果ての山脈』を越えることが神聖教会の禁忌目録に触れるからでしょ? 私たちはなにも、果ての山脈のてっぺんに登ろうってんじゃないのよ。そのふもとのどっかにある洞窟を捜そうっていうだけよ。それにだいたい、峠道じゃなくて川のほとりを進むんだから、村の掟だって破るわけじゃないわよ」  流れる水のごとくそうまくしたてられると、いつものことながらユージオは異を唱える隙間さえ見つけることができない。それに、聞いているうちになんとなく、アリスの言っていることが正論のように思えてきてしまうのだ。  禁忌目録、とは、遥か央都に天まで貫く巨塔を構える世界中央神聖教会が発行する分厚い黒革装の書物だ。ユージオたちの暮らすノーランガルス神聖帝国だけでなく、東方や南方、西方のあまねく異国のあらゆる町や村の長の家にかならず一冊備えられ、その中には教会が定めた「してはいけないこと」がびっしりと列挙してある。第一項にある「教会への反逆」から、末項の「山羊に干したオリシュ麦を与えること」まで禁忌の数は軽く千を越えるが、それを全て暗記するのが学校の授業のうちでも最重要の科目となっている。  禁忌目録の威が及ばないのは、世界を囲む果ての山脈の向こうにあるという闇の王国だけだ。ゆえに、山脈を越えることは禁忌の中でもかなり最初のほうに記してある。確かに厳密に解釈すれば、山脈のふもとをうろつくくらいなら禁忌には触れないと思われる——ものの、ユージオはおぼろな不安を感じてごくりと喉を鳴らした。  だが、もう一度だけアリスを諌めてみようとしたその矢先に、キリトが大きな声で言った。 「ほら、村で一番ちゃんと目録を暗記してるアリスがそう言うなら間違いないって! よし決まり、次の休息日はドラゴ……じゃない、氷の洞窟探しだ!」 「お弁当は保ちのいい材料で作らないとかなー」  顔を輝かせる二人の親友を交互に見やって、ユージオは内心でふかい溜息をつき、次いで「そうだね」と弱々しい笑みを浮かべながら相槌を打った。  七の月三回目の休息日は、どうやらいい天気になりそうだった。  すでに天職を与えられている十歳以上の子供たちも、この日ばかりは幼い頃に戻り、夕食の時間まで遊びまわることが許されている。ユージオとキリトもいつもは他の男の子らと一緒に魚を釣ったり剣術の稽古のまねごとなどをして過ごすのだが、今日はまだ朝靄も消えないころから家を抜け出し、村はずれの古樹の下で落ち合ってアリスを待っていた。 「……遅い!」  自分もユージオを数分待たせたことを棚に上げ、キリトがぶつぶつと毒づいた。 「まったく女ってのは、約束の時間よりも身支度のほうが優先なんだからなもう。そんであと二年もすれば、お前んとこの姉ちゃんみたく、服が汚れるから森になんか入れないとか言い出すんだ」 「しょうがないよ、女の子なんだからさ」  苦笑混じりにそう言いつつ、ユージオはふとキリトの言う二年先のことを考えた。  アリスはまだ、身分的には天職に就かない子供の範疇なので、周囲も彼女が好んでユージオたちと行動を共にすることを黙認している。しかしもともと彼女は村長の娘という、村の女性たちの規範的存在となることが半ば決定している立場なのだ。そう遠くない未来には、男の子と遊ぶことも禁じられ、神聖魔法だけでなく立ち居振舞いや作法のレッスンも受けるようになるに違いない。  そして……その後はどうなるのだろう。彼女も、一番上の姉のスリニャのように、どこかの家に嫁ぐのだろうか? もしかしてその相手が、ユージオあるいはキリトだというようなことは有り得るのだろうか? 一体そのへんのことを、この相棒はどう考えているのか……? 「おい、何ぼんやりしてるんだよ。昨夜ちゃんと寝たのか?」  いきなり怪訝な表情でキリトに顔を覗き込まれ、ユージオは慌ててこくこく頷いた。 「う、うん、大丈夫。……あ、来たみたいだよ」  たったっという軽い足音を耳にとらえ、村のほうを指差す。  濃い朝もやをかき分けるように現われたアリスは、キリトの言ったとおり、綺麗に梳いた金髪をリボンで結わえ、染みひとつないエプロンドレスを揺らしていた。ユージオは思わずキリトと顔を見合わせて笑みを噛み殺し、向き直って同時に叫んだ。 「遅い!」 「あんた達が早すぎるのよ。まったくいつまでも子供なんだから」  済まし顔でそう言ってのけ、アリスは右手のバスケットをユージオに、左手の水袋をキリトに向かって突き出した。  二人が反射的に荷物を受け取ると、くるっと後ろ——村から出てゆく細道のほうを振り向き、腰をかがめて足元から草穂を一本摘み取る。丸く膨らんだその先端でびしっと彼方にそびえる岩山を指し、アリスは元気よく叫んだ。 「じゃあ……夏の氷を探して出発!」  どうしてこういつも、“お姫様と従者二人”みたいになっちゃうんだろうなあ、と思いつつ、ユージオはもう一度キリトと視線を交換し、歩き出したアリスの後を追った。  村を貫いてのびる道は、南側は人や馬車の往来も多くしっかりと踏み固められているが、北へ向かう人間はほとんど居ないため樹の根や石が多く歩きづらい。しかしアリスは道の悪さなど感じさせない軽やかな足取りで、鼻歌をうたいながらユージオの前を進んでいく。  何て言うか、身のこなしが綺麗なんだよな、とユージオは思う。数年前までアリスは村の悪餓鬼連中に混じって剣の練習(のようなこと)をすることがたまにあったが、彼女の持つ、良くしなる細枝にユージオもキリトも何度ぴしりとやられたことか。そのくせこちらの棒は、風の精でも相手にしているかのように無様に空を切ってばかりなのだった。もしあのまま修行を続けていたら、アリスはひょっとしたら村ではじめての女剣士にすらなれていたかもしれない。 「剣士か……」  ユージオはぼそりと口のなかで呟く。  巨樹の刻み手という天職を与えられる前まで、もしかしたら、と漠然と考えていた途方もない夢。村の男の子なら皆が憧れる衛士にもしも抜擢されたなら、生木の皮を剥いだ不恰好な木剣ではなく、時代ものではあろうが本物の鋼剣を与えられ、日々ほんとうの剣術を学ぶことができる。  それだけではない。北辺の村々の衛士は、毎年秋になると南のザッカリアの街で開かれる剣術大会に参加することができる。そこで上位に入賞したりすれば、街の衛兵——名実ともに本物の剣士と認められ、央都の鍛冶工房で鍛えられた制式剣が貸与される——に取り立てられることもあるという。夢はそこで終わらない。衛兵隊で出世すれば、央都に上り、皇帝の御前で開かれる武術大会に参加する機会が与えられる(昔話のベルクーリは、この大会で準々決勝まで進んだということだ)。  そしてその次にして究極が、真の英雄のみが集うという、神聖教会そのものが催す四帝国統一大会だ。神々すら照覧するというこの戦いを勝ち抜いた者だけが、あらゆる剣士の頂点、世界の秩序を守る神命を帯び、ときに“闇の王国”に棲まう悪魔とすら戦うという、飛竜を駆する整合騎士に任じられる——。  そこまではさすがに想像すらも覚束ないが、でも、もしかしたら、とユージオも思っていた頃があった。もしかしたら、アリスは、剣士ではなく神聖術士の見習いとして村を出て、ザッカリアの街の学校へ、あるいは央都の魔術院にすら行けるかもしれない。その時その隣には、護衛として、緑と薄茶の衛兵隊制服に身を包み輝く制式剣を吊った自分が……。 「まだ終わった夢じゃないぜ」  突然、横を歩くキリトがぼそりとそう呟き、ユージオは吃驚して顔を上げた。どうやらかすかな嘆息から空想をすべて読まれたらしい。相変わらずの勘の鋭さに苦笑いしてから、呟き返す。 「いいや、終わったさ」  そう、もう夢見る時期は終わってしまったのだ。村の衛士の天職を与えられたのは、現衛士長の息子ジンクとその子分二人(全員、剣の腕ではユージオとキリト、そしてもちろんアリスにまったく及ばなかったのに!)だった。少しの苛立ちと、倍量の諦めを込めて吐き出す。 「一度決まった天職は、村長にだって替えられないよ」 「たったひとつの例外を抜けばな」 「例外……?」 「仕事をやり遂げた場合だ」  今度はキリトの頑固さに呆れてもう一度苦笑する。この相棒は、鉄より硬いギガスシダーを自分の代で切り倒すという大それた野望をまだ捨てていないのだ。 「あの糞ったれな樹をぶっ倒せば、俺たちの天職はきれいさっぱり完了だ。そしたら次の仕事は自分で選べる。そうだろ?」 「そりゃそうだけどさ……」 「俺は、羊飼いとか麦造りとかの天職でなくて良かったと思ってるぜ。そういう仕事には終わりって無いけど、俺たちのは違う。絶対何か方法があるはずだ、あの樹をあと三……いや二年で切り倒して、そしたら……」 「街の近衛兵登用試験を受ける」 「何だよ、お前もその気なんじゃないかユージオ」 「キリトにだけいい恰好はさせられないからね」  軽口の応酬をしているうちに、何となくそれほど大それた夢ではない気がしてくるのが不思議だった。制式剣を拝受して村に戻り、ジンクたちの目を丸くさせるところを想像してキリトと二人にやにやしながら歩いていると、前を歩いていたアリスがじろりとこちらを振り向いた。 「こら、なに二人で内緒話してるのよ」 「い、いや、何でも。昼飯はまだかなーって、さ。なあ」 「う、うん」 「あっきれた、まだ歩き始めたばっかじゃない。それより、ほら、川が見えたわよ」  アリスが草の穂先で指す方を見ると、道の先に大きめの木の橋が姿を現していた。ルール川をまたぐ北ルーリッド橋だ。あれを渡り、さらに進むとやがて北の峠に行き着く。が、三人が目指すのは峠ではなく、川の源流だ。  橋のたもとからは、川辺の草むらに降りる細道が伸びていた。よく釣りにくる場所なので、勝手知ったる足取りでひょいひょいと下っていく。  ユージオは水辺でひざまずくと、さらさらと鳴る透明なせせらぎにざぶりと右手をつけてみた。さすがに真夏だけあって、春先には凍るようだった水はかなり温んでいる。服を脱ぎ捨てて飛び込んだらさぞ気持ちいいだろうが、アリスの前でそんな真似もできない。 「とても氷が流れてくるような水温じゃないよ」  振り向いてそう言うと、キリトは唇ととがらせて反論した。 「だから大元の洞窟まで行こうってんじゃないか」 「それはまあいいんだけど、夕方の鐘までに帰れなくなったら大目玉だからね。ええと……ソルスが空の真ん中まで来たら、その時点で引き返すことにしよう」 「仕方ないわね。そうとなれば、急ぐわよ!」  柔らかい下草をさくさく踏んで歩き出すアリスの後を、二人も早足で追いかける。  左側から天蓋のように張り出す樹々の枝が日差しを遮り、また右の川面から立ち上る涼やかさのせいもあって、ソルスが空高く登ったあとも三人は心地よく歩くことができた。幅一メルほどの岸辺は短い夏草に覆われ、足を取るような石や穴もほとんどない。  これだけ歩きやすい場所なのに、考えてみると北ルーリッド橋から先には一度も足を踏み入れたことがないんだな、とユージオは少し不思議に思った。村の掟、さらには教会の禁忌目録への畏れが、いつのまにか胸の深いところにまで刻まれてしまっているのかもしれなかった。いつもキリトと二人、大人たちはしきたりばかり気にして、と文句を言っているのに、思えば自分たちも実際に掟や禁忌を犯したことは一度もないのだ。今日のこのささやかな冒険が、かつてもっとも禁に迫る行為なのは間違いない。  今更ながら少しばかり不安になり、前を歩くキリトとアリスを見るが、二人は呑気に羊飼いの歌など合唱している。まったくこいつらは、何かを心配したりということがないんだろうか、と溜息をつきたくなる。 「ねえ、ちょっと」  声をかけると、二人は足を動かしたまま揃って顔をユージオに向けた。 「なーに?」  首をかしげるアリスに、しかめつらを作ってみせながら、少し脅かしてやろうと尋ねる。 「もうけっこう村から離れたけどさ……このへんて危ない獣とか出たりしないの?」 「えー? 私は聞いたことないけどなあ」  アリスがちらりと視線を向けると、キリトも首を傾げた。 「うーん……ドネッティのとこの爺さんがでかい長爪熊を見たってのは、あれはどのへんの話だっけ?」 「東の大林檎の樹のあたりでしょ。しかも十年前の話よ、それ」 「このへんじゃあ、出ても赤毛狐くらいだよなあ。まったく、ユージオは怖がりだな」  揃ってアハハと笑われてしまい、がくりと肩を落としたくなる。 「そ……そんなこと言ったって、二人とも村の北に出たのは初めてじゃないか。少しは気をつけたほうがいいって言ってるんだよ」  そう抗弁すると、不意にキリトが悪戯そうに目を輝かせた。 「うん、そう言やそうだよな。知ってるか? この村ができたばっかりの頃は、たまに闇の国からゴブリンだのオークだのが山を越えてきて、子供をさらったりしたんだぞ」 「何よ、二人して私を怖がらせようとして。知ってるわよ、最後には央都から整合騎士が来て、ゴブリンの親玉を退治してくれたんでしょ?」 「——『それからというもの、晴れた日には、果ての山脈のはるか上を飛ぶ白銀の竜騎士が見えるようになったのです』」  キリトは、村の子供なら誰でも知っているおとぎ話の最後の一節を口ずさむと、ふいっと振り向いた。ユージオとアリスも、いつの間にか視界のかなりの部分を覆うほどに近づいていた巨大な岩山の連なりと、その上の青い空をじっと見詰める。  もしかしたら雲の間にきらきら光る飛竜の姿が見えるかも、と一瞬思ったが、どんなに目を凝らしても空には染みひとつなかった。三人は顔を見合わせると、ふひっと笑った。 「——おとぎ話、よね。きっと、洞窟にいる氷の竜ってのも後から作った話なのよ、ベルクーリが」 「おいおい、村でそんなこと言うと村長の拳骨が落ちるよ。ベルクーリは村の英雄なんだから」  ユージオの言葉にもう一度笑うと、アリスは歩くスピードを上げた。 「行ってみればわかるわよ。ほら、のんびり歩いてると、お昼までに洞窟につかないよ!」  ——とは言え、実際には、とても半日歩いたくらいで『果ての山脈』にまでは着かないだろうとユージオは思っていたのだ。果ての山脈はほんとうの世界の果て、つまりこの神聖教会と四帝国によって成り立つ人間の国の終わりであって、いくらルーリッドの村が北部辺境のなかでもいちばん北にあると言ったってそう簡単に子供の足で辿り付ける場所ではないだろう、と。  だから、太陽が中天に達するほんの少し前、かなり幅を狭めていたルール川が、崖の根元にぽっかり口を開けている洞窟にその姿を消しているのを目にして、ユージオは本当に驚いた。  ついさっきまで左右に深く広がっていた森は突然切れてなくなり、眼前では灰色の岩がごつごつと伸び上がっている。見上げてみれば、まだ天を切り裂く稜線までは相当の距離があるだろうが、この岩の連なりが山脈の端っこであるのは間違いないようだった。 「これが……果ての山脈なのかよ?」  キリトも見ているものが信じられない様子で、ぽかんと開けた口で低くそう呟いた。同様に、アリスも青い瞳をいっぱいに見開いたまま、わずかに唇を動かす。 「ほんとに……あの山の天辺のむこうが、闇の王国なの? だって……私たち、まだ五時間くらいしか歩いてないよね。その程度じゃザッカリアの街にだって着かないわよ。ルーリッドって……ほんとうに、世界の端っこにあったのねえ……」  実際、何でこんなことを僕たちは知らなかったのか、とユージオは愕然とせざるを得ない。いや——もしかしたら、村の大人たちも、誰ひとり果ての山脈がこんなにも近いということを知らないのではないだろうか? 三百年の歴史の中で、村の北に広がる森を抜けたのは、ベルクーリのほかには僕たちしか居ないのでは……?  なんだか妙だ。ふとユージオはそう感じる。だが、何がおかしいと思うのかがよくわからない。  毎日毎日、決まった時間に起き、同じ朝食を食べ、同じように畑や牧草地、鍛冶場や糸繰り場へ出かけていく大人たち。さっきアリスは、五時間じゃザッカリアの街にだって着かない、と言ったが、もちろんアリスもキリトもユージオも、実際に街に行ったことがあるわけではない。大人が、南の街道を馬で朝から夕方まで進むとザッカリアの街がある、と言っているのを聞いただけだ。だが、その大人たちにしたって、ほんとうにザッカリアまで行ったことがある者が、果たして居るのだろうか……?  ユージオの中でもやもやと渦巻く考えがまとまった形になる前に、とにかく、というアリスの声がそれを吹き払ってしまった。 「——とにかく、ここまで来たならもう中に入ってみるしかないよね。その前に、お弁当にしましょう」  そう言うと、ユージオの手からバスケットを取り、短い下生えが灰色の砂利に変わるぎりぎりの場所に腰を下ろす。待ってました、もう腹ぺコだよ、というキリトの歓声に促されるように、ユージオも草の上に座り込んだ。香ばしいパイの匂いが疑問の残り滓を拭い去ると、思い出したように胃が空腹を訴えはじめる。  我先にと伸ばされたユージオとキリトの手をぺしぺしと叩いて撃退し、アリスは料理の“窓”を次々に引き出した。すべてにまだ余裕があるのを確かめてから、魚と豆のパイ、林檎とくるみのパイ、干したすももを配ってくれる。さらに、水袋に詰められたシラル水を木製のカップに注ぎ、これもまた悪くなっていないか確認する。  ようやくお許しが出た午餐に、いただきますももどかしくかぶりつきながら、キリトが聞き取り難い声で言った。 「そこの洞窟で……つららを見つければ、明日の昼飯はこんな慌しく食わなくてもよくなるな」  口の中のものを飲みくだしてから、ユージオは首をひねりつつ答える。 「でもさ、よく考えてみると、うまく氷を手に入れても、それ自体の“天命”はどうやって保たせるんだよ? 明日の昼までに溶けてなくなっちゃったら何の意味もないんじゃない?」 「む……」  それは考えてなかった、というようにキリトが眉をしかめると、アリスがすまし顔で言った。 「急いで持って帰って、うちの地下室に入れておけば一晩くらいは大丈夫でしょう。まったくあんたたちは、それくらい最初に考えておきなさいよ」  またいつものようにそそっかしさを指摘されてしまい、ユージオとキリトは照れ隠しにがつがつと食事を頬張った。それに付き合ったわけでもないだろうが、アリスも普段より早いペースでぺろりとパイを平らげ、シラル水を飲み干す。  綺麗に空になったバスケットに、料理を包んでいたナプキンをきちんと畳んで収めると、アリスはすっくと立ち上がった。三つのカップを持ってすぐそばの水面まで歩き、川水で手早く洗う。 「うひゃっ」  妙な声を上げながら作業を終え、戻ってきたアリスは、エプロンで拭いた手をユージオに向かって広げた。 「川の水、すっごい冷たいよ! 真冬の井戸水みたい」  見れば、小さな掌はすっかり赤くなっている。思わず両手を伸ばし、アリスの手を包んでみると、確かにひんやりと心地よい冷たさが伝わってきた。 「ちょっ……やめてよ」  少しばかり頬を掌と同じ色にさせながらアリスがすぽんと両手を引き抜いた。それでようやく、ユージオも自分が普段なら決してしないようなことをしてしまったことに気付き、泡を食う。 「あっ……いや、その」 「さて、そろそろ出発しようか、お二人さん」  それでも助け舟のつもりなのか、ニヤニヤしながらそんなことを言うキリトの足を軽く蹴り、ユージオは照れ隠しに乱暴な動作で水袋を拾い上げると肩にかつぎ上げた。そのまま後ろを見ずに、洞窟の入り口へと歩を進める。  ここまで三人が追いかけてきた透明なせせらぎは、これが本当にあのルール川の源流かと思うほどにささやかなものになっていた。差し渡しは一メル半ほどしかあるまい。高い崖に穿たれた洞窟から溢れ出す水流の左側には、同じくらいの幅で剥き出しの岩肌が伸びており、どうにか歩いて中に入れそうだった。  三百年前、衛士長ベルクーリも踏んだとおぼしき灰色の岩に右足を乗せ、しばし躊躇してから、ユージオは思い切って洞窟の内部へと踏み込んだ。いきなり周囲の気温が下がり、思わず剥き出しの両腕をこする。  後ろから二人の足音がついてくるのを確認しながら、さらに十歩ほど進んだ。  そしてユージオは、またしても肝心なことを忘れていたことに気付き、肩を落としながら振り返った。 「しまった……僕、灯り持ってきてないよ。キリトは?」  入り口からわずか五メルほどしか入り込んでいないのに、すでに二人の表情が判別しにくいほどに周囲は暗くなっている。洞窟の中は真っ暗だなどという、あまりに当然のことを忘れていた自分に幻滅しつつ、相棒の機転に望みを託すが、返ってきたのは、「お前が気付かないことに俺が気付くわけがない!」という情けないものだった。 「あ……あのねえ、あんたたち……」  一体今日何度目に聞くアリスの呆れ声だろう、と思いつつ、わずかな光にも輝く金髪に目を向ける。アリスは数回左右に首を振ってから、エプロンのポケットに手を差し込み、何か細長いものを取り出した。よく見ると、冒険に出るときに摘み取った草穂だ。  右手に持った草の先端に左の掌を添え、アリスは目を閉じた。小さな唇が動き、“窓”を引き出すときの聖句に抑揚が似ているがずっと長い、不思議な音の羅列を空中に奏でる。  最後に左手が素早く複雑な印を切ると、丸く膨らんだ穂の先にほわっと青白い光が灯った。それはたちまち強さを増し、洞窟の中をかなりの距離まで照らし出した。 「うおっ」 「おお……」  キリトとユージオは、思わず異口同音に嘆声を漏らした。  アリスが聖術を学んでいるのは知っていたが、こうしてその実例を目にしたのはほとんど初めてと言っていい。シズター・アザリヤの教えによれば、すべての魔術、つまり生命神ステイシアに祈る聖術と、七元素神の力を源とする精術は——闇神ベクタに帰依する魔物が使う闇術は例外だが——世界の平穏と安息を守るためにのみ存在するのであって、みだりに使用してはならない、ということになっているからだ。  シスターとその生徒アリスが聖術を使うのは、村に薬では治せない病人や怪我人が出たときだけだ。とユージオは理解していたので、草穂に魔法の光を灯すアリスに向かって、思わず尋ねてしまった。 「あ、アリス……こんなことに魔法使って、平気なの? 罰が当たったりとか……」 「ふん、この程度で罰が当たるなら、私なんか今ごろ十回くらい雷に撃たれてるわよ」 「…………」  それってどういう、と聞こうする前に、アリスは右手の光る草をぐいっとユージオに向かって突き出してきた。思わず受け取ってしまってから、ひええ、と思う。 「ぼ、僕が持つの!?」 「当たり前じゃない。か弱い女の子に先頭を歩かせる気? ユージオは私の前、キリトは後ろよ。時間が勿体無いわ、とっとと先に進むわよ」 「は、はい」  勢いに押されるように、ユージオは振り向くと灯りを掲げ、洞窟の奥へとおそるおそる進み始めた。  内部は、曲がりくねりつつも一定の広さで続いているようだった。青みがかった灰色の岩は濡れたように光り、時折、灯りの届かない暗がりでかさかさと小さな何かが動き回る気配がする。天井からは、不思議な形の尖った岩が垂れ下がり、それと同じ場所に地面からも石のトゲが伸び上がっている。  が、どれほど目を凝らしても、氷らしきものは一切視界に入らなかった。  さらに五分ほど足を動かしたところで、ユージオは振り向くと口を開いた。 「ねえ……確か、洞窟に入ったすぐのところに氷のツララがあるって、キリト言ってたよねえ?」 「言ったっけ、そんなこと」 「言った!」  とぼけるように目を逸らす相棒に詰め寄ろうとするが、アリスがすっと右手を上げてユージオを止めた。 「ねえ、ちょっと、灯りを近づけて」 「……?」  言われるままに、右手の魔法の光をアリスの顔に寄せる。アリスは唇を丸い形にすると、光に向かってほうっと息を吐き出した。 「あ」 「ね、見えたでしょ? 冬みたいに、息が白くなってる」 「うえ、ほんとかよ。どおりでさっきから寒いと思ってたんだよ……」  勝手な文句を言うキリトを無視して、ユージオとアリスはこくりと頷きあった。 「この洞窟の中は、冬と同じなんだわ。きっと氷だってあるはずよ」 「うん。もう少し、進んでみよう」  体の向きを変え、少しずつ広がっているような気がする洞窟の奥のほうに魔法の灯りを向けて、慎重に前進を再開する。  聞こえるものと言えば、三人の革靴が岩をこするかすかな音のほかは、とうとうと流れる地下水のせせらぎだけだった。これほど源流に近づいてもその勢いは弱まらない。 「……もし舟があったら、帰りは楽だよなぁ」  最後尾で呑気な声を上げるキリトを、ユージオは、静かにしてろとたしなめた。すでに、予定を遥かに越える深さで洞窟に入り込んでいる。まさかとは思うが—— 「——ねえ、ほんとにドラゴンに出くわしたら、どうするの?」  ユージオの思考を読んだように、アリスが囁いた。 「そりゃ……逃げるしか……」  同じくひそひそ声で答えるが、それに被さるようにまたキリトの脳天気な言葉が反響する。 「だいじょーぶだって。ベルクーリがドラゴンに追っかけられたのは、宝剣を盗もうとしたからだろ? いくらなんでもつららを取るくらい許してくれるさ。——うーん、でもなあ、できれば剥げたウロコの一枚くらいほしいよなあ……」 「おい、何考えてるんだよキリト」 「だってさぁ、本物のドラゴンを見た証拠を持って帰ったら、ジンク達が死ぬほど羨ましがるぜ」 「冗談じゃないよ! 言っとくけど、もしお前がドラゴンに追っかけられたら、僕たちは見捨てて逃げるからな」 「おい、声が大きいぞユージオ」 「あのな、お前がおかしなことばっかり言うから……」  不意に足元で妙な音がして、ユージオは口をつぐんだ。ぱりん、という、何かを踏み割ったような響き。慌てて右手の光を近づけ、右足の下を確かめてから、思わず声を漏らす。 「あっ、これ見てよ」  腰をかがめるアリスとキリトの視線の先で、つま先を動かす。灰色の滑らかな岩肌に溜まった水が、表面に薄い氷を張らせていた。指を伸ばし、透明な薄膜の一片を摘み上げる。  掌に載せたそれは、数秒のうちに溶けて小さなしずくに変わってしまったが、三人は顔を見合わせて思わず笑みを漏らした。 「間違いない、氷だよ。この先にもっとあるはずだ」  ユージオがそう言いながら周囲を照らすと、同じように氷結した水たまりがいくつも青い光を跳ね返した。それに、真っ暗な闇に沈む洞窟の、ずっと奥のほうに……。 「あ……なんか、いっぱい光ってる」  アリスの言葉どおり、ユージオが右手をうごかすと、それにつれて無数の小さな光点がちかちかと瞬くのが見えた。もうドラゴンのことなどすっかり忘れ、半ば駆け出すようにその方向を目指す。  さらに百メルほども進んだか、と思えた時だった。突然、左右の岩壁が無くなった。  同時に、息を飲むような幻想的な光景が、三人の前に出現した。  広い。とても地下の洞窟とは思えない、あまりにも広大なドームだ。村の教会前広場の、ゆうに五倍はあるに違いない。  ほぼ円形に湾曲する周囲の壁は、さっきまでのような濡れた灰色ではなく、薄青い透明な結晶にびっしりと覆われているようだった。そして床面は、なるほどこれがルール川の源だったのかと納得させられる、巨大な池——いや湖になっていた。ただし、水面はぴくりとも揺れていない。岸辺から中央までが、分厚く氷結しているのだ。  白いもやのたなびく氷の湖のそこかしこからは、ユージオたちの背丈などゆうに上回る高さで、不思議な形の柱が突き出している。先端の尖った、角張った氷の柱だ。まるで、昔ガリッタ爺さんに見せてもらった水晶の原石のようだとユージオは思った。ただし、こちらのほうがずっと大きく、美しい。無数の、深い透明な青色の柱たちが、ユージオの握る草穂が放つ魔法の光を吸収して、六方向に放射し、それをまた反射させることで、広大なドーム全体をぼうっと照らし出している。氷柱は湖の中心に近づくほど数を増し、真ん中まではまったく見通せない。  氷だった。すべてが氷でできている。見れば、周囲の壁もまた分厚い氷の板なのだった。それが高く伸び上がり、はるか頭上で天蓋のように丸く閉じている。  三人は肌を刺す寒さも忘れ、白い息を吐き出しながら、たっぷり数分間も立ち尽くしていた。やがてアリスが、かすかに震える声で言った。 「……これだけ氷があったら、村中の食べ物を冷やせるわね」 「それどころか、しばらく村を真冬にだってできるぜ。——なあ、奥のほうに行ってみよう」  キリトは言い終える前に、数歩進んで湖の氷の上に乗った。かなり分厚く凍り付いているようで、軋む音ひとつ聞こえない。  いつもだったら、ここで諌めるのがユージオの役回りなのだが、今回ばかりは好奇心が優った。もしかして、本当にあの奥にドラゴンがいるんじゃ……? と思うと、どうしても覗いてみたくてたまらなくなる。  魔法の灯りを高く掲げ、ユージオはアリスと並んでキリトの後を追った。足音を立てないよう慎重に、巨大な氷柱の影から影へと伝うように湖の中心を目指す。  すごいぞ、もしドラゴンを見たら——。ユージオは考える。そうしたら、今度は僕たちの話が、何百年も続く物語になるんだろうか? もし、もしもだけど、ベルクーリにできなかったこと……ドラゴンの宝を何かひとかけらでも持って帰れたら、村長も僕たちの天職を考え直してくれるんじゃないだろうか……? 「むぐ」  歩きながらいつのまにか夢想をふくらませていたユージオは、突然立ち止まったキリトの後頭部に鼻をぶつけてしまい、顔をしかめた。 「おい、急に止まるなよキリト」  だが、相棒は返事をしなかった。いぶかしむうち、その喉から低い呻き声のようなものが漏れる。 「……なんだよこれ……」 「え……?」 「なんなんだよ、これ!」  隣のアリスと同時に首を傾げ、ユージオはキリトの横から前方を覗き込んだ。 「一体どうしたって言うのよ……」  ユージオと同じものを見たアリスが、言葉の尻尾を飲み込んだ。  骨の山がそこにあった。  青い、氷の骨だ。氷というより、水晶の彫刻のようでもある。ひとつひとつがあまりに大きな、様々な形の無数の骨が積み重なって、三人の背丈より高い山を作っていた。山の中央に、それが何の骨なのかを厳然と語るひとつの巨大な塊があった。  頭骨だ、と一目でユージオも理解した。虚ろな眼窩と、鼻の孔。後ろ側には角のような突起が長く伸び、迫り出した顎骨には剣のような牙が無数に並んでいる。 「ドラゴンの……骨?」  アリスが低く囁いた。 「死んじゃったの……?」 「ああ……でも、ただ死んだんじゃない」  答えたキリトの声は落ち着きを取り戻していたが、普段相棒があまり見せることのない、ある種の感情に彩られているようにユージオは感じた。  キリトは数歩進み出ると、足元からドラゴンの前足と思われる巨大な鉤爪を拾い上げた。 「ほら……いっぱい傷がついてるし、先っぽも綺麗に欠け落ちてる」 「何かと戦ったの……? でも、ドラゴンを殺せる生き物なんて……」  ユージオの心中にも、アリスと同じ疑問が浮かぶ。ドラゴンと言えば、世界を囲む果ての山脈の各地に棲み、闇の勢力から人間の国を守る、世界最強の善なる守護者ではなかったのだろうか? 一体何者がそれを殺すというのか……? 「これは、獣や他のドラゴンと戦ってできた傷じゃない」  キリトが、指先で青い鉤爪をなぞりながらぽつりと言った。 「え?」 「これは剣の傷だ。このドラゴンを殺したのは人間だ」 「え……ええ? でも……だって、央都の御前大会で何度も勝った英雄ベルクーリでさえ逃げることしかできなかったのよ。そこらの剣士じゃ、そんな大それたこと……」  不意に、アリスは何かを思いついたように黙り込んだ。しばしの静寂が、今は巨大な墳墓となった氷の湖の表面に落ちる。 「……整合騎士……? 教会の整合騎士が、このドラゴンを殺したの……?」  やがて、ついにアリスがそう口にした。  法と秩序の究極的体現者たる整合騎士が、同じく善性の象徴であるドラゴンを殺す。それは、これまでの十一年の人生において一度として世界の仕組みを疑ったことのないユージオにとって、容易に受けいれることのできない概念だった。飲み込むことも、噛み砕くこともできない疑問にしばらく苦しんでから、答えを要求するように傍らの相棒に視線を送る。 「……わからない」  キリトの言葉も、しかし大いなる混乱に彩られていた。 「もしかしたら……闇の国にもすごい強い剣士がいて、そいつがドラゴンを殺したのかもしれないし……。でも、そんなことがあったなら……今までに、闇の軍勢が山を越えて攻め込んできたりしててもおかしくないはずだ。——少なくとも、宝を狙った盗賊の仕業とかじゃないみたいだけど……」  言葉を切ると、キリトはドラゴンの遺骸に歩み寄り、重なり合う青い骨の底のほうから何か長い物を掴み上げた。 「うお……めちゃくちゃ重いな……」  ふらふらよろけながら両手で支えたそれを、ユージオとアリスに示す。白革の鞘と、白銀の柄を持つそれは一振りの長剣だった。鞘の口金付近には非常に精緻な青い薔薇の象嵌が施してあり、一目で村にあるどの剣よりも価値の高いものだということが分かる。 「あっ……これ、もしかして……」  アリスが息を飲みながらそう囁くと、キリトはこくりと頷いた。 「ああ。ベルクーリが、寝てるドラゴンの懐から盗み出そうとしたっていう“青薔薇の剣”だろうな。……うぐ、もう限界だ」  顔を歪めたキリトが両手をはなすと、長剣は重く鈍い音を立てて足元に落下した。分厚い氷の床にぴしりと細いひび割れが入ったところを見ると、華奢な見た目からは想像もつかないくらいの重量があるらしい。 「……どうするの、これ?」 「無理無理、俺たちじゃとても持って帰れないよ。あんな木こり斧ですら毎日ひいこら言ってるんだから。それに……他にも、骨の下にいろいろお宝があるみたいだけど……」 「……うん、とても、何か持っていく気にはならないわね……」  揃って青い骨の山を眺め、三人は同時に頷いた。寝ているドラゴンの目をかすめて何か小さなものを攫ってくる、なら他の子供たちに大いに自慢できる冒険話だが、この場所から宝物を持っていけばそれは単なる墓荒しだ。薄汚い野盗の所業である。  ユージオは改めて二人の顔を見て、こくりと頷きかけた。 「予定どおり、氷だけ持っていくことにしよう。それなら、もしドラゴンが生きてたとしても許してくれたよ、きっと」  言って、すぐそばの氷柱に歩み寄ると、その根元から新芽のように無数に伸びる小さな氷の六角柱を靴で蹴飛ばす。ぽきんと心地いい音とともに砕け落ちたいくつかの氷塊を拾い上げ、差し出すと、アリスは空になったバスケットの蓋を開け、それを中に収めた。  三人はしばらく無言で、氷の欠片を作ってはバスケットに詰め込む作業に没頭した。巨大な氷柱の根元がきれいになると、次の柱へ移り、また同じことを繰り返す。三十分も続けるうちに、大きなバスケットは、青く透きとおる宝石にも似た結晶でいっぱいになった。 「よい……しょ、っと」  掛け声とともにバスケットを持ち上げたアリスは、しばし腕のなかの光の群に見入った。 「……きれい。なんだか、持って帰って溶かしちゃうのが勿体無いね」 「それで、俺たちの弁当が長持ちするならいいじゃないか」  即物的なキリトの台詞にしかめ面を作り、アリスはバスケットをぐいっと黒毛の少年に差し出す。 「え、帰りも俺が持つの?」 「当たり前じゃない。これ結構重いんだから」  例によって軽口の応酬を始めそうになる二人を、苦笑しながら押しとどめて、ユージオは言った。 「交替で僕も持つよ。——それより、そろそろ戻らないと、夕方までに村に着けなくなりそうだ。もうこの洞窟に入ってから一時間近く経つんじゃない?」 「ああ……太陽が見えないと、時間がよくわからないな。魔法でなんかないの? 今が何時だかわかるようなの」 「ありませんよーだ!」  アリスはついっと顔をそむけると、広い氷のドームの一方に見える細い出口のほうを眺めた。  次に、振り返ると、真反対の方向にある、もうひとつの出口を見た。  そして、眉をしかめながら言った。 「——ねえ、私たち、どっちから入ってきたんだっけ?」  ユージオとキリトは同時に、自信たっぷりにもと来た方向を指差した。それぞれ、別の出口を。  三人の足跡がついているはずだ、という意見(滑らかな氷面にはくぼみひとつなかった)、湖から水が流れ出しているほうが出口だ、という意見(両方ともに流れ出していた)、ドラゴンの頭骨が見ているほうが出口だ、という意見(キリトが提唱し他の二人に却下された)などなどがおよそ十分のあいだに空しく消えていったあと、ついにアリスが見込みのありそうなアイデアを述べた。 「ほら、ユージオが踏み割った、氷の張った水たまりあるじゃない。出口からちょっと進んでみて、それがあったら当たりよ」  なるほど言われてみればそのとおりである。自分が思いつけなかったことに少しバツの悪い思いをしながら、ユージオは頷いた。 「よし、そうと決まれば、近いほうから行ってみよう」 「俺はあっちだと思うけどなあ……」  まだ未練がましくぶつぶつ言っているキリトの背中を押し、右手に持つ草穂を掲げ直して、目の前の水路へと足を踏み込む。  灯りを乱反射する氷の柱が周囲になくなると、あれほど頼もしかった魔法の光も、はなはだ心許ないものに感じられた。三人の歩調も、ついつい速くなってしまう。 「……まったく、帰り道が分からなくなるなんて、まるで昔話のべリン兄弟だな。俺たちも、道に木の実を撒いておけばよかったな。洞窟には食べる鳥もいないし」  どことなく空元気を感じさせるキリトの軽口に、この呑気な相棒でも不安になったりすることがあるのか、とユージオは逆に少し可笑しくなった。 「何言ってんだ、木の実なんて持ってなかったくせに。今からでも教訓を活かしたいなら、分かれ道ごとにお前の服を置いていこうか?」 「やめてくれ、風邪ひいちゃうよ」  わざとらしくくしゃみの真似をしてみせるキリトの背中を、アリスがどんと叩く。 「ちょっと、バカなこと言ってないで、ちゃんと地面を見てよね。もし見落としたら大変なんだから……って、言うよりも……」  そこで言葉を切り、きゅっと弓形の眉をしかめる。 「ねえ、だいたいこれくらいの距離じゃなかった? まだ割れた氷なんてないわよ……。やっぱり、反対側だったのかしら?」 「いやあ、もうちょっと先だろ? ……あ、ちょっと、静かに」  不意にキリトが唇に指をあてたので、ユージオとアリスは言いかけた言葉を飲み込んだ。言われるままに、耳を澄ませる。  とうとうとひそやかに流れる地下水のせせらぎに混じって、確かに、何か別の音が聞こえた。高くなったり低くなったりする、物悲しい笛のような響き。 「あっ……風の音?」  アリスがぽつりと呟いた。確かにこの音は、樹の梢が奏でる風鳴りに似ている、とユージオも思った。 「外が近いんだ! こっちで良かったんだよ、急ごう!」  安堵とともにそう叫び、半ば走り出すように前進を再開する。 「ちょっと、急ぐと転ぶわよ」  そう言いながらも、アリスの足取りも軽やかだ。その後ろを、首をひねりながらキリトがついてくる。 「でも……夏の風があんな音出すかなあ? なんか……冬の木枯らしみたいな……」 「谷風ならあれくらい強く吹くよ。とにかく、とっととこんな所出ようよ」  右手の灯りを激しく揺らしながら、ユージオは小走りで進んだ。いつのまにか、早く村に、見慣れた家に戻りたいという気持ちが大きく膨らんできていた。アリスから氷をひとかけら貰って、母さんに見せたら、さぞかし驚くことだろう。今日一日のとんでもない冒険は、しばらく夕食の話題を独占するに違いない。  やっぱり、古い銀貨のひとつくらい持ってきてもよかったかな……と考えたそのとき、はるか前方の闇の中に、ぽつんと小さな光が見えた。 「出口だ!」  大声で叫んでから、まずいなあ、と思った。光が、どことなく赤く染まって見えたからだ。洞窟に入ったのがちょうどお昼、中で過ごしたのはせいぜい一時間と少しだと思っていたが、思いのほか長く地下世界に潜りすぎていたようだった。もうソルスが西に傾きはじめているのだとしたら、かなり急いで帰らないと夕食までに村に着けないかもしれない。  ユージオは一層走る速度を上げた。甲高い風鳴りの音は、もう川音を圧する大きさで洞窟内に反響している。 「ねえ……ちょっと、待って! おかしいわよ、もう夕方なんて……」  すぐ後ろを走るアリスが不安そうな声を上げた。しかし、ユージオは足を止めなかった。冒険はもう充分だ。今は、一刻も早く家に帰りたい——。  右に曲がり、左に曲がり、もういちど右に曲がったところで、ついに三人の視界をさあっと赤い光が覆った。数メル先に出口があった。闇に慣れた目を思わず細めながら、スピードを落とし、さらに数歩進んで、止まる。  洞窟はそこで終わっていた。  しかし、眼前いっぱいに広がっているのは、ユージオの知っている世界ではなかった。  空が一面真っ赤だ。だが、夕陽の色ではない。そもそも、どこにもソルスの姿がない。熟しすぎた鬼すぐりの汁を垂らしたような——あるいは、古い血をぶちまけたような、鈍く沈んだ赤。  対して、地上は黒い。彼方に見える異常に鋭い山脈、手前に広がる丘を覆う奇妙なかたちの岩、ところどころに見える水面までが、消し炭のような黒に染まっている。ただ、あちこちにまとまって生えている枯れ木の肌のみが、磨かれた骨のように白い。  すべてを切り裂くように吹きすさぶ風が、枯れ木の梢を震わせて、物悲しい叫び声を長く響かせた。それに乗って、どこか遠くから別の音が——もしかしたら、何か大きな獣のうなり声のようなものが、三人の足元まで届いてくる。  こんな場所が、こんなすべての神に見放されたような世界が、ユージオ達の暮らす人間の国であるはずがなかった。ならば、これは——三人がいま見ている、この光景は——。 「ダーク……テリトリー……」  わずかに震えるキリトの呟き声を、たちまちのうちに風がさらっていった。  神聖教会の威光が及ばない場所、闇神ベクタを奉ずる魔族の国、絵本や老人たちの昔話の中にしか存在しないと思っていた世界が、今ほんの数歩先にある。そう思っただけで、ユージオは、骨の髄まで竦み上がった。まるで、生まれてはじめて触れる情報が、いままで使われることのなかった心の区画に大量に流れ込むことで、自身の思考を処理することができなくなってしまった——とでも言うように。  禁忌……教会の禁忌がすぐ手の届くところにある。目録の最初のページに載っている、『果ての山脈を越えて闇の国に入ることを禁ずる』という文字列が、頭の中で凶悪なまでに輝きながらスクロールしてゆく。 「だめだ……これ以上、進んじゃ……」  ユージオは、どうにか口を動かして、言葉を絞り出した。両手を広げて、背後のキリトとアリスを下がらせようとする。  その時だった。何か、金属を打ち鳴らすような音が、かすかに上のほうから響いてきて、ユージオはハッと息をのんだ。反射的に、赤い空を振り仰ぐ。  血の色を背景に、白いものと黒いものが絡み合っているのが見えた。豆粒のように小さいが、それは恐ろしく高いところを飛んでいるせいだ。実際の大きさは、人間をはるかに超えるだろうと思われた。二つの何か——何者かは、激しく位置を入れ替えながら、離れ、また近づき、交錯した瞬間に断続的な金属音を響かせる。 「竜騎士だ……」  隣で同じように空を見上げていたキリトが囁いた。  相棒の言うとおり、二つの飛行体は、長い首と尾、三角形の両翼を持った巨大な飛竜のようだった。そしてその背には、剣と盾を構えた騎手の姿が確かに見てとれる。白い竜に乗るのは白銀の鎧、黒い竜には漆黒の鎧の騎士。握る剣すら、白の騎士のものはまばゆい光芒を、黒の騎士のものはよどんだ瘴気を放っている。  二騎の竜騎士が剣を打ち合わせるたびに、雷のような金属音が鳴り響き、大量の火の粉が宙を舞った。 「白いほうが……教会の整合騎士、なのかしら……」  アリスの呟きに、キリトが同じくかすれる声で答えた。 「だろう……な。黒いのは……闇の軍勢の騎士、なのかな……。整合騎士と、互角の強さだな……」 「そんな……」  ユージオは、我知らず、そう漏らしていた。 「整合騎士は、世界最強なんだ。闇の騎士なんかに、負けるはずないよ」 「どうかな。見たとこ、剣技には差がないぞ」  キリトが言った、その直後だった。まるでその声が聞こえでもしたかのように、白い騎士は竜の手綱を引いて距離を取った。黒い竜が追いすがろうと大きく羽ばたく。  だが、両者の距離が縮まる前に、くるりとターンした白い竜が長い首をぐっとたわめ、一瞬力を溜めるような動作をした。その首が前に突き出されると同時に、大きく開かれたあぎとから青白い炎の奔流がほとばしり、黒い竜騎士の全身を包んだ。  ごう、とかすかな音がユージオの耳を打った。黒い竜は苦しそうに身をよじり、空中でぐらりと傾く。その隙を逃さず、整合騎士は突進すると、大きな一振りで敵の剣を弾きとばし、返す刀で黒騎士の胸を深く刺し貫いた。 「あっ……」  アリスが悲鳴にも似た小さな声を上げた。  黒い竜は、翼のほとんどを炎に焼かれ、飛翔力を失ってくるくる回りながら宙を滑った。その背中から振り飛ばされた黒騎士は、流れ出る血飛沫の尾を引きながら、まっすぐにユージオ達が隠れている洞窟めざして落下してくる。  まず、黒い剣が乾いた音を立てて砂利混じりの地面に突き立った。次いで、三人からほんの五メルほど離れた場所に、どさりと黒騎士が墜落した。最後に、かなり遠いところに黒い竜が落ち、長く尾を引く断末魔の声とともに動かなくなった。  凍りついた三人が声もなく見守るなか、黒騎士は苦しそうにもがき、上体を起こそうとした。鈍く輝く金属鎧の胸部に、醜い孔が深く穿たれているのが見えた。騎士の、分厚い面頬に覆われてまったく肌の見えない顔がまっすぐユージオたちのほうに向けられた。  ぶるぶると震える右手が、まるで助けを求めでもするかのように伸ばされる。が、直後、鎧の喉元から大量の鮮血が迸り、騎士はがしゃんと音を立てて地面に沈み込んだ。みるみる赤い液体が広がり、黒い瓦礫の隙間に飲み込まれていく。 「あ……あ……」  ユージオの右側で、アリスが細い声を漏らした。まるで吸い込まれるような足取りで、ふらり、と前に出る。  ユージオは動けなかった。だが、左側でキリトが「だめだっ!!」と低く、鋭く叫び、手を伸ばした。  しかし、アリスの左手を掴もうとしたその指はぎりぎりのところで空を切った。アリスの靴が、奇妙なほどにくっきりとした、洞窟の灰色の岩と、闇の国の黒い地面の境界線を一歩踏み越え、じゃりっと音を鳴らした。  その瞬間、遥か上空を旋回していた白い飛竜が、耳をつんざくような鋭い咆哮を放った。  ユージオとキリトがハッと空を振り仰ぐ。同時に、竜の背に跨る白銀の騎士が、確かにこちらを見下ろした。兜の面頬に十字型に切られた隙間から、凍てつくような眼光が降り注ぎ自分を貫くのを、ユージオははっきりと感じた。  キリトはぎりっと歯を鳴らすと、再び手を伸ばしてアリスの腕を握り、短く叫んだ。 「走れ!!」  そのまま身を翻し、洞窟の奥目指して猛然と駆け出す。  ようやく我に返ったユージオは、いまだ頬を蒼白にしたままのアリスのもう一方の腕を取ると、キリトに並んで懸命に走った。  どのようにしてルーリッドの村まで戻ったのか、ユージオはよく憶えていない。  ドラゴンの骨が眠るドームに戻るとそこを突っ切り、反対側の出口に飛び込んで更に走った。濡れた岩に足を取られ、何度も滑りながらも、来たときの数分の一の時間で長い洞窟を駆け抜け、ようやく見えた白い光の中に飛び出すと、そこはまだ午後の陽光がさんさんと降り注ぐ森のとばぐちだった。  しかしユージオたちを捉えた恐慌は容易に消えなかった。今にも、背後の山脈を飛び越えてあの白い騎士が追ってくるのではと思うと気が気ではなかった。  小鳥たちが平和に鳴き交わす木々の下、小魚の群が行き来する透明な流れのほとりを、三人は言葉も無く懸命に歩いた。ユージオの耳にはずっと、アリスの靴が黒い瓦礫を踏み締める音と、直後の飛竜の咆哮が繰り返し鳴り響いていた。  息を切らしながら北ルーリッド橋までたどり着き、土手を上がって見慣れた古樹の下に出たときの安堵はとても言葉にできなかった。三人は顔を見合わせると、ようやく小さな笑みを交わした。——相当に強張ったものであったことも確かではあるが。  本物の夕焼けのなかを歩いて村の広場まで戻り、そこで三人は別れた。  ぎりぎり間に合った夕食の席で、ユージオはずっと無言だった。兄や姉の誰も、今日のような冒険をしたものはいないだろうという確信があったが、何故か自慢する気にはならなかった。この目で闇の王国を見たこと——整合騎士と闇の黒騎士のすさまじい戦い、そして最後に感じたあのいかづちのごとき眼光を言葉にすることはとてもできないと思えたし、またそれを話したとき、父や祖父がどのような反応を見せるのか知るのが怖かったのだ。  その夜、早々にベッドに入ったユージオは、冒険の最後に見たもののことはすべて忘れようと思った。そうでもしなければ、これまで神聖教会と整合騎士に抱いてきた畏敬と憧れが、違うものにすりかわってしまいそうだった。  ソルスが沈み、昇り——そしてまた、何も変わることのない日常へ。  いつもなら休息日の翌朝に仕事場へ向かうときは少しばかり憂鬱になるのだが、今日だけは、ユージオは何故かほっとする心境だった。冒険はもう当分いいや、しばらくは真面目に木こり稼業に励もう、と思いながらてくてくと村の南へ歩き、麦畑と森の境界でキリトと合流する。  長年付き合った相棒の顔にも、ほんのわずかな安堵感が浮かんでいるのをユージオは気づいた。そして向こうもユージオの顔に同じものを見たらしい。二人でしばし、照れ隠しの笑みを浮かべる。  森の細道に少し入ったところにある小屋から竜骨の斧を取り出し、さらに数分歩いて、ギガスシダーの根元に達した。巨大な幹にほんの少し刻まれた斧目も、今はユージオに、変わらぬこれまでとこれからの日々を思わせた。 「よし。今日も、いい当たりの少なかったほうがシラル水をおごるんだからな」 「最近ずっとそっちが持ってるんじゃないか、キリト?」  もう儀式のごとくなっている軽口を叩きあい、ユージオは斧を構える。最初の一発が、コーン、という最高の音を響かせたので、今日はきっといい調子だ、と思う。  午前中、二人は常にない高確率で、巨樹の幹に会心の一撃を打ち込みつづけた。その理由のなかに、もし斧打ち中に集中力を失うと、脳裏に昨日見たあの光景が甦ってしまいそうだから——というものがあったことは否定できないが。  連続五十発の斧打ちを、それぞれ九回ずつこなしたところで、ユージオの胃がぐう、と鳴った。  汗を拭いながら頭上を振り仰ぐと、ソルスはすでに中天近くにまで登っていた。いつもなら、あと一回ずつ斧を握ったところで、アリスが弁当を持って現れる時刻となる。しかも今日は、ゆっくり食べられるパイに、きんきんに冷えたミルクつきだ。想像するだけで、空っぽの胃がきりきりと痛くなる。 「おっと……」  あまり昼ご飯のことばかり考えていると、せっかくリードしているいい当たり数を減らしてしまう。ユージオは濡れた両手をズボンでごしごし擦り、慎重に斧を握りなおした。  突然、日差しがサッと翳った。  通り雨かな、面倒だなあ、と思いながらユージオは顔を上げた。  四方八方に広がるギガスシダーの枝を透かして見える青い空、そのかなり低いところを、高速で横切る黒い影が見えた。心臓が、ぎゅうっとすくみ上がる。 「ドラゴン……!?」  ユージオは思わず叫んでいた。 「おい……キリト、今のは!!」 「ああ……昨日の……整合騎士だ!!」  相棒の声も、深い恐怖に凍り付いていた。  二人が立ち尽くし、見守るなか、白銀の騎士を背に乗せた飛竜は、樹々の梢を掠めて飛び去り、まっすぐルーリッドの村の方向へと消えていった。  一体なぜ、こんなところに。  鳥や虫たちまでもが怯えて黙り込んだ完全な静寂のなか、ユージオは繰り返しそう考えた。  整合騎士は、教会に仇なすものを成敗する秩序の守護者である。帝国内に組織だった反乱集団など存在しない現在、整合騎士の敵はもはや闇の軍勢以外には居ない。ゆえに、騎士達は常に果ての山脈の外を戦場にしていると聞いていたし、実際にユージオは昨日その光景を己の目で見た。  そう、整合騎士を実際に見たのはあれが初めてだったのだ。生まれてこのかた、村に騎士がやってきたことなど一度もない。なのに、なぜ今——。 「あっ……まさか、アリスを……」  隣でキリトが呟いた。  それを聞いた途端、ユージオの耳のおくに、あの時聞いた短い音が鮮明に甦った。じゃりっ、という、炭の燃え殻を潰すような、古いコインを擦るような、不快な音。アリスの靴が、闇の国の石を踏み締める音。冷たい水でも垂らされたかのように、背筋がぞくりと寒くなる。 「うそだろ……まさか、あんな……あれだけのことで……」  同意を求めるべく、そう言い返しながらキリトの顔を見たが、相棒は常にない厳しい表情でじっと騎士の飛び去った方向を睨んでいた。しかしそれも数瞬のことで、キリトはまっすぐにユージオの目を見、短く言った。 「行こう!」  何のつもりかユージオの手から木こり斧をもぎ取ると、もう振り向くこともなく一直線に走り出す。 「お……おい!」  何か、大変なことが起きる。そんな予感をひしひしと感じながら、ユージオも地面を蹴り、懸命にキリトの後を追った。  勝手知ったる森の小道を、木の根や穴を避けながら全力で駆け抜け、麦畑を貫く街道へ合流する。村の方向を仰ぐが、すでに晴れた空に整合騎士の姿は無かった。  キリトはわずかにスピードを緩め、青く色づく麦穂の間でぽかんと空を見上げている農夫に向かって怒鳴った。 「リダックのおじさん! 竜騎士はどっちへ行った!?」  農夫は、白昼夢から醒めたかのような顔でユージオ達を見ると数回まばたきし、ようやく答えた。 「あ……ああ……どうも、村のほうへ降りたようじゃが……」 「あんがと!!」  礼を言うのももどかしく、二人はふたたび全速力で走り出す。  街道や畑の所々で、村人たちが一人あるいは数人で固まり立ち尽くしていた。恐らく、古老たちの中にさえ実際に整合騎士を見たことがある者はいないのだろう。皆、巨大な飛竜を目の当たりにし、どうしていいのかわからない、とでも言うように混乱した表情で凍り付いている。  村の南にかかる橋を渡り、短い買い物通りを駆け抜け、もうひとつ小さな橋を越えたところで、二人はハッとして立ち止まった。  円形の教会前広場の北半分を、白い飛竜の長い首と尾が弧を描いて占領していた。  大きな翼は二つの塔のように体の両側に畳まれ、教会の建物をほとんど隠してしまっている。無数の鱗と各部に装着された鋼の鎧がソルスの光を跳ね返し、まるで氷の彫像のようだ。そこだけが血のように紅い両の眼のおくで、獣らしさのない縦長の瞳孔が地上を見下ろしている。  そして、竜の前に、さらに眩く輝く白銀の騎士の姿があった。  村の誰よりも巨躯だ。鏡のように磨かれた重鎧を一部の隙もなく全身に着込み、関節部分すら細かく編んだ銀鎖で覆われている。竜の頭部を象った冑は、額の部分から前に一本、両脇から後ろへ二本の長い飾り角が伸び、がっちりと下ろされた巨大な面頬が騎士の顔をすべて隠している。  間違いなく、昨日ユージオたちの隠れ見るなか闇の竜騎士を屠ってのけたあの整合騎士だった。面頬に切られた十字の窓から迸った氷のような眼光が脳裏に甦る。  広場の南端には、数十人の村人が押し集まり、こうべを垂れていた。その一番うしろに、バスケットを下げたアリスの姿を見つけ、ユージオはわずかに肩の力を抜いた。いつものように青いドレスに白いエプロンのアリスは、大人たちの隙間から目を丸くして騎士に見入っている。  キリトとふたり、物陰をつたうようにこっそり移動し、どうにかアリスの後ろまでたどり着くとそっと声をかけた。 「アリス……」  少女は金髪を揺らしてくるりと振り向くと、何か言おうと唇を開く。そこへキリトが自分の口に指をあて、小さくしっ!と囁く。 「アリス、静かに。今のうちに、ここから離れたほうがいい」 「え……なんで?」  同じくひそひそ声で答えるアリスは、自分の身に脅威が迫っているとはまるで考えていないようだった。もしかしたら、昨日の、あの黒騎士が目の前に落ちて息絶えた瞬間のことをあまり覚えていないのかもしれない、とユージオは考える。 「いや……もしかしたら、あの整合騎士は……」  そのあとをどう説明したものか、ユージオが一瞬迷った。そのときだった。  村人たちのあいだに、かすかなざわめきが走ったので顔を上げると、広場の東入り口——村役場の方向から、一人の背の高い男が歩いてくるところだった。 「あ……お父様」  アリスが呟く。確かに、男はルーリッドの現村長、ガスフト・ツーベルクだった。引き締まった体を簡素な革の胴衣に包み、黒々とした髪と口もとの髭はきれいに切り揃えられている。炯炯とした鋼のような眼光は、前村長から職を引き継いでたったの四年ですでに全村民の尊敬を集める名士に相応しいものだ。  背後に助役を従えたガスフトは、臆することなく整合騎士の前まで歩み寄ると、教会の作法に従って体の前で両手を組み、一礼した。 「ルーリッドの村長を務めますツーベルクと申します」  頭を上げると、びんと張りのある声で名乗る。  ガスフトよりも拳ふたつぶんほども背の高い整合騎士は、かすかに鎧を鳴らしながらゆっくりした動作で頷くと、そこではじめて声を放った。 「ノーランガルス北方第七辺境区を統括する整合管理騎士デュソルバート・シンセシス・セブンである」  村長ほどには深みも、響きもある声ではなかった。まるで教会のオルガンの共鳴管に口をくっつけて喋ったような、いんいんとした金属質の尾を引く、どちらかと言えば不快な声だった。しかしその言葉は、耳ではなく額を突き抜けて頭のなかで響いたかのごとく体の芯まで届き、ユージオは顔を歪めた。見れば、ガスフトも気圧されたかのごとくわずかに身を仰け反らせている。 「……して、騎士殿がこの小村にいかなる御用でしょう」  流石の胆力を見せ、村長は再度堂々たる言葉を発した。  が、それも、整合騎士が次の声を響かせるまでのことだった。 「ガスフト・ツーベルクが三子、アリス・ツーベルクを、禁忌条項抵触の罪により捕縛連行し審問ののち処刑する」  村長の逞しい上体が一度、激しく震えた。ユージオの位置からわずかに見える横顔がはっきりと歪んだ。  長く続いた沈黙のあと、ガスフトの、さすがに艶を失った声が流れた。 「……騎士様、娘がいったいどのような罪を犯したというのでしょう」 「禁忌目録第一条第四項、ダークテリトリーへの侵入である」  そこではじめて、今まで声も無くやりとりに聞き入っていた村人の間にかすかなざわめきが走った。何人もの大人たちが、口々に教会の聖句を呟き、素早く聖印を切る。  ユージオとキリトは、反射的にアリスの体を騎士の視線から隠そうとした。が、それ以上動くことはできなかった。  ユージオの頭のなかでは、どうしよう、どうしよう、というその言葉だけが繰り返し鳴り響いていた。なんとかしなくては、という恐慌が突き上げてくるものの、しかし何をしていいのかはわからないのだった。  村長は、整合騎士の前で深く頭を垂れたまま、しばらく動かなかった。  大丈夫、あの人なら何とかしてくれる、とユージオは思った。ガスフト村長と話したことはそれほど多くないが、静かで厳しい物腰、筋の通った知性的な考え方は、じゅうぶんに尊敬すべきものだと感じていた。  しかし——。 「……それでは、いま娘を呼びにやりますので、本人の口から事情を聞きたいと思います」  掠れた声で、村長はそう言った。  だめだ、アリスを騎士の前に出したらいけない。ユージオがそう思ったのも束の間、整合騎士はがしゃりと鎧を鳴らして右手を上げた。その指先が、まっすぐに自分のほうを指しているのを見て、ユージオの心臓は縮み上がった。 「その必要はない。アリス・ツーベルクはそこにいる。お前——と、お前」  指を動かし、人垣の前のほうにいる男をふたり指す。 「娘をここに連れてこい」  ユージオの目の前で、さっと人の列が割れた。整合騎士と自分のあいだを遮るものが何もなくなり、ユージオはふたたび昨日の眼光を思い出して縮み上がりそうになる。今すぐ地面にうずくまり、騎士の視線を避けたい、そんな思いが湧き起こってくる。  空いた道を、顔見知りの村人ふたりがゆっくりと歩み寄ってきた。その肌は血の気を失い、また視線は奇妙なほどにうつろだ。  男達は、アリスの前に立ち塞がるキリトとユージオを有無を言わさず押しやると、両側からアリスの腕を掴んだ。 「あっ……」  アリスは小さく声を上げたが、気丈にもグッと唇を噛み締めた。いつものばら色が薄れた頬に、それでもかすかな笑みを浮かべ、大丈夫、というようにユージオたちの顔を見てこくりと頷く。 「アリス……」  キリトが言いかけた、その瞬間にぐいっと両腕を引かれ、アリスの右手からバスケットが落ちた。蓋が開き、中身が少し地面にこぼれる。  村人ふたりに引っ張り上げられるように、アリスは整合騎士の前へと運ばれていく。  ユージオは、落ちたバスケットをじっと見詰めた。  パイや固焼きパンは、きっちりと布に包まれ、その隙間をぎっしりと細かい氷が埋めている。一部は外に転がりだし、陽光を反射してきらきらと光っている。息を詰めて凝視するあいだにも、灼けた土の上で氷はたちまちのうちに溶け、ちっぽけな黒い染みへと変わっていく。  キリトが鋭く息を吸い込んだ。  きっと顔を上げ、引きずられていくアリスの後を追う。ユージオも歯を食いしばり、動こうとしない足を鞭打ってそれに続いた。  男二人は、村長の隣でアリスの腕を放すと、数歩下がり、そこに膝をついた。両手で聖印を組みながら深く頭を下げ、恭順の意を示す。  アリスは、強張った顔を父親に向けた。ガスフトは一瞬、沈痛な面持ちで娘を見下ろしたが、すぐに顔を背け、俯く。  整合騎士が手を伸ばし、飛竜の鞍の後ろから奇妙な道具を取り出した。太い鎖に、皮製のベルトが三本平行に取り付けられ、鎖の上端には金属の輪が備えられている。  騎士はじゃらりと音を立てながらその道具をガスフトに放った。 「村の長よ、咎人を固く縛めよ」 「…………」  村長が、手にした拘束具に視線を落とし、言葉を失ったその時、ようやくキリトとユージオは騎士の前に到達した。そこではじめて、騎士の兜が二人の方向を捉える。  輝く面頬に切られた十字の窓の奥は、深い闇に包まれていて何も見えなかったが、ユージオはそこから放射される視線の圧力を痛いほど感じた。反射的に俯き、すぐ左に立つアリスの方に少し顔を傾けて、何か声をかけようとしたが、やはり喉が焼きついたように言葉が出てこない。  キリトも同じように俯き、短い呼吸を繰り返していたが、やがてついに顔を上げると、震えながらも大きな声で叫んだ。 「騎士様!!」  もう一度大きく息を吸い、続ける。 「あ……アリスは、ダークテリトリーになんか入っていません! 石を、ほんの一つ踏んだだけなんだ! それだけなんです!」  騎士の答えは簡潔だった。 「それ以上どのような行為が必要であろうか」  連れて行け、というように、控えていた男二人に向かって手を振る。立ち上がった村人は、キリトとユージオの襟首を掴むと、後ろに向かって引きずりはじめた。それに抗いながら、キリトが尚も叫ぶ。 「じゃ……じゃあ、俺たちも同罪だ!! 俺たちも同じ場所にいた! 連れていくなら俺たちも連れていけ!!」  だが、もう整合騎士は二人には見向きもしない。  そうだ……アリスが禁忌を犯したというなら、僕だって同じ罰を受けるべきた。ユージオもそう思った。心の底からそう思った。  しかしなぜか声が出ない。キリトと同じように叫ぼうとするのに、口の動かし方を忘れてしまったかのように、掠れた息しか吐き出すことができない。  アリスはちらりとこちらを振り返ると、大丈夫だよ、というふうに小さく微笑み、頷いた。  その細い体に、表情を失った父親が、後ろから禍々しい拘束具を回した。三本のベルトを、肩、腹、腰にそれぞれ固く締め付ける。アリスの顔がほんの少し歪む。最後に、太い鎖の下端についた手錠を手首に嵌め、ガスフトは娘を整合騎士に差し出した。騎士の握った鎖が、じゃらりと鳴った。  ユージオとキリトは広場の中央まで引き戻され、そこで跪かされた。  キリトはよろけた振りをしてユージオの耳に口を寄せ、素早く囁いた。 「ユージオ……いいか、俺がこの斧で整合騎士に打ちかかる。数秒間は持ちこたえてみせるから、そのすきにアリスを連れ出して逃げるんだ。麦畑に飛び込んで、南の森を目指せばそう簡単には見つからない」  ユージオは、まだキリトが握ったままだった古ぼけた木こり斧をちらりと見てから、どうにか声を絞り出した。 「……キ……キリト……でも」  昨日、お前だって整合騎士のすさまじい剣技を見たじゃないか。そんなことをすれば、たちまちのうちに殺される……あの黒騎士のように。  声にできないユージオの思考を読み取ったかのごとく、キリトは続けて言った。 「大丈夫だ、あの騎士はアリスをこの場で処刑しなかった。多分、審問とやらをやらないと殺したりできないんだ。俺はどこかで隙を見て逃げ出す。それに……」  キリトの燃えるような視線の先では、整合騎士が拘束具の締まり具合を確認していた。ベルトを引っ張られるたびに、アリスの顔が苦痛にゆがむ。 「……それに、失敗してもそれはそれでいい。アリスと一緒に俺たちも連行されれば、助けるチャンスがきっとくる。でもここで、飛竜で連れていかれたらもう望みはない」 「それ……は……」  確かにその通りだ。  しかし——その計画とも言えないような無謀な作戦は、つまるところ——“教会への反逆”ではないのだろうか? 禁忌目録第一条第一項に規定された、最大の背教行為。 「ユージオ……何を迷うことがあるんだ! 禁忌がなんだ!? アリスの命より大切なことなのか!?」  キリトの、抑えられてはいるが切迫した声が、びしりと耳朶を打つ。  そうだ。その通りだ。  ユージオは心のなかで、自分に向かって叫ぶ。  キリトの言うとおりだ。僕たち三人は、生まれた年も一緒、そして死ぬ年も一緒と決めていたはずだ。常に助け合い、一人がほかの二人のために生きようと、そう誓い合ったはずだ。ならば、迷うことなんかない。神聖教会と、アリスと、どちらが大事か、だって? 答えなんか決まっている。決まっているはずだ。それは——それは——。 「ユージオ……どうしたんだ、ユージオ!!」  キリトが悲鳴にも似た声をあげる。  アリスがじっとこちらを見ている。気遣わしそうな顔で、そっと首を横に振る。 「それは……それ……は……」  自分のものではないような、しわがれた声が喉から漏れる。  だが、その先を言葉にすることができない。胸のなかですら、続く言葉が言えない。まるで、誰かが知らないうちに、心の奥に堅固なドアを作ってしまった、とでも言うかのように。  キリトの叫びに気づいた村長が、のろのろと腕を動かし、二人の背後に立つ男たちに向かって言った。 「その子供らを広場の外に連れていけ」  途端、ふたたび襟首を掴まれ、引きずり起こされる。 「クソッ……放せ!! ——村長!! おじさん!! いいのか!? アリスを連れていかせていいのか!!?」  キリトは狂ったようにもがき、男の手を振り払うと、斧を構えて突進しようとした。  が、いつのまにか近づいてきていた、更に数人の男たちが背後から飛び掛ると、キリトを地面に引き倒した。斧が手から離れ、石畳に擦れて火花を散らした。 「ユージオ!! 頼む!! 行ってくれ!!」  片頬を地面に押し付けられ、表情をゆがめながら、キリトが叫んだ。 「あ……うあ……」  ユージオの全身ががたがたと震える。  行け。行くんだ。斧を拾い、整合騎士に打ちかかるんだ。  心の片隅から、かすかな声がそう叫ぶ。だが、それを圧倒的な力で打ち消すもうひとつの声が、割れ鐘のようにがんがん鳴り響く。  神聖教会は絶対である。禁忌目録は絶対である。逆らうことは許されない。何人にも許されることではない。 「ユージオ——!! いいのかそれで!!」  整合騎士は、最早騒ぎには目も呉れずに、握った太鎖の先端の金属環を、飛竜の脚を覆う鎧から突き出した金具にがちりと留めた。飛竜が首を低く下げ、その背中の鞍に騎士は軽々とまたがる。全身の鎧が一際大きくがしゃりと鳴る。 「ユージオ————!!」  血を吐くようなキリトの絶叫。  白い飛竜が体を起こし、畳んでいた翼をいっぱいに開く。二度、三度、大きく打ち鳴らす。  竜の脚に縛り付けられたアリスが、まっすぐにユージオを見た。微笑んでいた。その青い瞳が、さようなら、と言っていた。翼の巻き起こした風がゆわえた金髪を揺らし、騎士の鎧にも負けないほどにきらりと輝かせた。  しかしユージオは動けない。声も出せない。  両の脚から地面に深く根が張ってしまったかのように、わずかにも動くことができない。 [#地から1字上げ](第一章 終)     第二章  ほんの少しミルクを入れた水出しのアイスコーヒーを一口含み、芳醇な香りを楽しみながらゆっくり嚥下すると、朝田詩乃はほうっと長い息を漏らした。  視線を古めかしいガラス窓に向けると、忙しなく行き来する色とりどりの傘の群が水滴の向こうにぼんやりと透けて見えた。雨は嫌いだが、この路地裏の隠れ家のような喫茶店の奥まったテーブルに沈み込み、灰色に濡れた街を眺めるのは決して悪い気分ではない。テクノロジーの匂いを一切排した店内の調度や、奥のキッチンから漂ってくる甘くどこか懐かしい匂いの効果で、まるで自分がリアルワールドとバーチャルワールドの境界に落ち込んでしまったかのごとき錯覚をおぼえる。つい一時間前まで聴いていた教師の講義が、どこか異世界の出来事のようだ。 「よく降るね」  カウンターの向こうからぽつりと投げられたバリトンが、自分に向けたものだと気付くのに少し時間がかかった。店内には詩乃のほかに客は居ないのだから、勿論そうに決まっている。  顔を動かし、丁寧にグラスを磨いているカフェオレ色の肌の巨漢をちらりと見てから、詩乃は短く答えた。 「梅雨ですしね」 「英語で言うとプラム・レインだな」  強面のマスターが鹿爪らしい顔でのたまう台詞に、思わず小さく苦笑する。 「……冗談を言うときはもっとそれらしい顔しないとウケませんよ、エギルさん」 「む……」  エギルは、“それらしい顔”を模索しているつもりなのか眉間や口もとをあれこれ動かしたが、どれも五歳までの子供なら即泣きするような凶相ばかりで、詩乃は思わず小さく吹き出した。あわててグラスに口をつけ、笑いを一緒に飲み下す。  詩乃の反応をどう解釈したのか、エギルが妙に満足そうに一際ヒールレスラーめいた面相を作ったまさにその瞬間、入り口のドアがかららんと鳴った。店内に一歩足を踏み入れた新たな客は、マスターの顔を見るや唖然とし、次いで溜息をつきながら首を振った。 「……あのなエギル、もしその顔で毎回客を出迎えてるなら、近いうち潰れるぞこの店」 「ち、ちがう。今のはジョーク用のとっておきだ」 「……いや、それも間違ってる」  つれなく駄目出しをすると、桐ヶ谷和人は水滴を切った傘を傍らのウイスキー樽に突っ込み、詩乃を見て軽く右手を挙げた。 「っす」 「遅い」  極短の挨拶に、詩乃も一言で答える。 「わり、電車乗るの久しぶりでさ」  言い訳しながら和人は詩乃の向かいにどっすと座ると、ネクタイを引っ張って緩めた。 「今日はバイクじゃないの」 「雨ん中乗る元気が無かった……エギル、俺、モカフィズ」  胡散臭い飲み物をオーダーする和人の、くつろげた襟元から覗く首筋はたしかに骨ばって、見れば顔色もどことなく生彩を欠いている。 「……あんたまた痩せた? 食いなよもっと」  顔をしかめながら詩乃が言うと、和人はぱたぱた手を振った。 「いやいや、こないだまでは、もう標準体重に戻ってたんだよ。でも、この金土日で一気に落ちた……」 「お山で修行でもしてたの」 「いいや、ひたすら寝てた」 「それでなんで痩せんのよ」 「飲まず喰わずだったから」 「……はぁ? 悟りでも開こうっての?」  まぁ、おいおい説明するよ、と言いながら和人がずるずる椅子に沈み込んだその時、エギルがトレイに乗せたグラスを持ってきた。テーブルに置かれたそれは、濃厚なコーヒーの香りがするにもかかわらず、コーラのように底からぷちぷちと泡が立っている。 「なあにこれ、炭酸コーヒー?」  和人が指先で滑らせてきたグラスを受け止め、詩乃はちびりと舐めた。途端、思わずむせそうになる。 「おっ、お酒じゃないの!」 「気付け気付け。エギル、この匂い何だ?」  にやりと笑ってから、和人は鼻をうごめかせつつ傍らの店主を見上げた。 「ボストン風ベイクド・ビーンズ」 「へー、奥さんの故郷の味か。んじゃそれもひとつ」  エギルが頷いてどすどす去っていくと、和人は詩乃からグラスを奪い返し、放り込むように一口飲んだ。 「……彼は、どんな様子なんだ?」  ぽつりと訊かれたその言葉が、何を指しているのかはすぐにわかった。が、詩乃は即答せず、和人の手のグラスをもう一度奪取すると今度は大きく飲み下した。香ばしいコーヒーの風味が炭酸の泡とともに鼻の奥で冷たく弾け、直後にじんわりと熱く甘いアルコールが喉を灼いていく。その刺激たっぷりの飲み物が、浮かんでくる断片的な思考を攪拌し、短い言葉へと繋ぎなおす。 「うん……だいぶ、落ち着いてきたみたい」  半年前に詩乃を襲った“死銃”事件、その三人の実行犯のひとりであり、当時の詩乃のただ一人の友人でもあった新川恭二は、少年事件としては異例の長さの審判を経て、先月医療少年院に収監された。審判中は頑なに沈黙を貫きとおし、精神鑑定を行った専門家相手にもほとんど口を開こうとしなかったそうだが、事件から六ヶ月が経過したある日から、ぽつりぽつりとカウンセラーの問いかけに応ずるようになってきているとのことだった。詩乃にはその理由がおぼろげに察せられた。六ヶ月——つまり百八十日というのは、ガンゲイル・オンラインの料金未払いアカウント保持期限である。それだけの時間が過ぎ去り、新川恭二の分身、いやある意味では本体とも言えたキャラクター“シュピーゲル”がGGOサーバー上から消滅したことによって、ようやく恭二は現実と向き合う準備を始めるに至ったのだ。 「もう少ししたら、また面会に行ってみるつもり。今度は、会ってくれそうな気がするんだ」 「そっか」  詩乃の言葉に短いいらえを返すと、和人は視線を降りしきる雨に向けた。数秒の沈黙を、詩乃は不満そうな顔を作りつつ破った。 「——ねえ、普通はそこで、あたしは大丈夫なのか聞くもんなんじゃないの?」 「え、あ、そ、そうか。——えーと、シノンは、どう?」  珍しく和人を慌てさせることに成功し、密かな満足感を抱きつつにっと笑ってみせる。 「あんたが貸してくれた“ダイ・ハード”のBDVD、こないだついに全部観れたわ。いやー、かっこいいわブルース。あたしもハンドガンいっちょであんなふうにバリバリ正面戦闘してみたいよー」 「そ……そう。そりゃよかった……けど、その感想は女子高生的にどうなんだ……?」  引き攣った笑いを見せたあと、和人はふっと素直な微笑みを浮かべ、頷いた。 「じゃあ……死銃事件は、これで何もかも終わった……のかな」 「うん……そう、だね」  詩乃もゆっくり頷こう——として、ふと口をつぐんだ。何か、記憶のすみに引っかかるものがあるような気がしたが、それをつまみ出す前に、キッチンから現われたエギルが湯気の立つ皿をふたつテーブルに置いた。  つややかな飴色に煮込まれた豆と、その中央にごろりと転がる柔らかそうな角切りベーコンという光景は、お昼の弁当などとうの昔に消化しきった胃に暴力的なまでの空腹感を発生させ、詩乃は吸い寄せられるようにスプーンを握った。そこでようやく我に返り、慌てて手を戻しつつ言う。 「あ、わ、私頼んでませんから」  すると巨漢マスターはいかつい顔にうっすらと悪戯っぽい表情を浮かべた。 「いいや、奢りだよ。キリトの」  対面の和人が唖然としている間に、どすどすとカウンターの向こうへ戻っていく。詩乃はくくっと喉の奥で笑ってから、再度スプーンを手にとり、和人に向かって軽く振った。 「どーも、ごちそーさま」 「……まあ、いいけどさ。バイト料入って、今ちょっとフトコロあったかいから」 「へー、バイトなんかしてたの? どんな?」 「ほら、三日間飲まず喰わずって奴さ。まあ、その話は本題を片付けてからにしようぜ。とりあえず熱いうちに食べよう」  和人は卓上の小瓶からマスタードをたっぷり掬うと皿の縁に落とし、詩乃にまわした。同じようにしてから、大ぶりなスプーン山盛りに豆を取り、口に運ぶ。  芯までふっくらと煮えた豆は、柔らかな甘味をたっぷり吸い込んでいて、洋風ながら素朴な懐かしさを感じさせる味だった。分厚いベーコンも余計な脂が抜けて、舌の上でほろほろと崩れていく。 「おいしい」  思わず呟いてから、向かいでがつがつ食べている和人に尋ねる。 「ボストン風、って言った? 味付けは何なのかしら」 「ん……えーとたしか、何とか言う粗製の糖蜜を使うんだよ。何だっけ、エギル?」  ふたたびグラス磨きに戻った店主は、顔を上げずに答えた。 「モラセス」 「だ、そうだ」 「へええ……。アメリカの料理なんて、ハンバーガーとフライドチキンだけかと思ってたわ」  後半部分をひそひそ声にしてそう言うと、和人は小さく苦笑した。 「そりゃ偏見だ。あっちのVRMMOプレイヤーも、付き合ってみりゃいい奴ばっかじゃん」 「うん、それは確かに。こないだ、国際サーバーでシアトルの女の子とスナイピングについて三時間も話しちゃった。あー、でも……アイツとだけは分かり合えそうにないな……」 「アイツ?」  すでに皿を半分以上空にした和人が、もぐもぐ口を動かしながら繰り返した。 「それが今日の本題なんだけどね。先週、GGOで第四回バレット・オブ・バレッツの個人戦決勝があったのは知ってるでしょ」 「うん、中継見てたしね。そういやまだおめでとうを言ってなかった。……まあ、シノンにとっては悔しい結果だろうけど。ともかく、準優勝おめでとう」 「ありがと。中継見てたんなら話はやいわ。優勝した、サトライザって名前の……アイツ、アメリカから接続してるのよ」  眉をしかめながら詩乃が言うと、和人はぱちくりとまばたきをした。 「でも、BoBをやった日本サーバーは、JPドメイン以外接続不可だろう? プロクシ経由も弾かれるって聞いたけどなあ」 「うん、そのはずなんだけど、どうにかしてブロック回避してるんでしょうね。大会直前の待機ルームでいきなり、俺はアメリカから参加してる、日本人に銃の使い方を教えてやる、授業料はお前らの命だ、って英語で宣言してさ」 「うわぁ……。そういう奴が強かったためしが無いけどなぁ……」  苦笑いしながら肩をすくめる和人に向かって、詩乃は手にしたスプーンをぶんぶん振った。 「他の決勝出場者二十九人もそう思ったわよ、あたしも含めてね。本場野郎に日本人のタクティカル・コンバットを見せ付けてやる、って意気込みつつステージに突入して、でも蓋を開けてみれば……」 「そいつに優勝をさらわれた訳か」 「あっさりと、ね。しかもふざけたことに、そんな事言いながらそいつ銃を持たずに開始したのよ」 「へえ」 「決勝は市街地フィールドだったんだけどさ。そいつ、武器はコンバットナイフ一本で、あとは重量制限いっぱいグレネードとマインを抱えて、トラップとストーキングだけで殺す殺す。まったく、アメリカ人ならウィリス様みたく正面からガンガン来いってのよ」  詩乃は大口を開けて最後の一匙を放り込み、腹立ちといっしょにもぐもぐ咀嚼した。とっくに食べ終わった和人は、モカフィズを啜りながら、ふぅん、と呟いた。 「ナイフ使いか。屋内だと結構いけるのかな……」 「後から他の参加者に訊いてみたら、アイツをまともにサイトに入れられたのはあたしだけなんだわ。みんな、トラップで吹っ飛ばされるか、後ろから……」  喉の前で親指をぐいっと横に動かす。 「残り人数ががりがり減ってくから、あたしもこれは動いたらやられると思って、無移動ペナルティ食らう覚悟で、ここしかない! って狙撃ポイントにこもってひたすらアイツが建物から出るの待ってさ……。ついに、道路を渡ろうとするところをスコープに捕まえて、勝った、と思いながら撃とうとしたらあんにゃろうこっちに向かって手を振るのよ。その手に持ってたのが、遠隔起爆スイッチ」 「へええーっ」 「あっ、と思ったときには、あたしの潜んでた部屋がドカーン、よ。読まれてたのよ、全部。……正直なとこ、こりゃあ歯が立たないと思ったわ。日本サーバーのGGOプレイヤーって、ほとんど全員がアサルトライフルで派手に撃ちまくる派だから、あたしも含めてああいう……サイレントキル? の技に長けてるタイプって初めて見たのよね……。みんなは、アイツ絶対グリーンベレーだぜ、なんて言ってたけどさ」  ふふ、と笑ってから和人の顔を見ると、同い年の少年はグラスの縁を指で擦りながら何か考え込むような目つきをしていた。やがて視線を上げ、冗談じゃないかもよ、などととんでもない事を言う。 「ええ? アイツが本物の特殊部隊だっての?」 「あくまで噂なんだけどさ。もう、一部の国の軍隊じゃ、訓練にNERDLESマシンを取り入れてるのは知ってるだろ? GGOを運営してるザスカーにも、米軍からGGOエンジンをリアルチューンしたバージョンの発注が来たとか……。グリーンベレーは行き過ぎとしても、VRワールドでサイレントキルの訓練を積んだ軍人が、遊び心で日本のゲーマーをからかいに来た……なんてことは有り得るかもしれないぜ」 「まさか……」  詩乃は一笑に付そうとしたが、ふと、スコープの中央に捉えたサトライザの顔を思い出し、わずかに胸のうちにざわつくものを感じた。詩乃に向かって手を振りながら、男の眼はまるで笑っていなかった。あのジェスチャーは何を意図したものだったのだろうか。 「まあ、でも、プロフェッショナルって感じじゃないよな。手を振るなんてな」  和人の呟きに、詩乃は瞬きして顔を上げた。 「え?」 「だってさ、そいつはシノンを仕留めるのに、姿を現す必要なかったわけだろ。どっかに隠れたまま爆弾を起爆するほうが、安全で確実だ。なのにわざわざ出てきて、シノンに向かってジェスチャーをするってことは、つまり、何らかのメッセージを伝える意図があった、ってことだ。たぶん……“お前は今から俺に殺される”」 「ちょっと、嫌なこと言わないでよ。……たしかに、あたし、あの一瞬でそれっぽいこと考えたけどさ。ああ、しまった、こいつの罠にやられる、って」 「今から殺す相手の思考を吟味する余裕のある奴なんて、ベテランのPvP専門プレイヤーにもなかなか居ないぜ。俺のささやかな経験からすると……そういうのは大抵、軍人というより快楽殺人者っぽい傾向のある奴だ。あるいは……その両方ってこともあるかもしれんけど……」  和人の言う“経験”が、かつて長い時間を過ごした、仮想であり現実である場所のものだということは詩乃にもわかった。俯く和人の表情にかすかな翳が落ちるのを見て、詩乃は咄嗟に大きい声を出した。 「ともかく! 一度の負けにくよくよしててもしょうがないわ。問題は、あんにゃろうが来週のBoBチーム戦にもエントリーしてるってことよ」 「ええ? そりゃ意外だな」  詩乃の言葉に、和人は目を丸くした。 「一匹狼っぽい印象なのになあ。チームメンバーもアメリカ人なの?」 「そうっぽいよー、どうも。これはもう、何がなんでもリベンジするしかない、ってことになってさ。ダインとか闇風とかのトップ連中は、サトライザチームを潰すまでは共同戦線張るらしいよ。あたしはチーム戦にはエントリーする気無かったんだけど、このままやられっぱなしなのも癪だからね。そこでこうして、あんたを呼び出してる訳」 「い、いやしかし、俺のガンさばきがさっぱりなのはシノンも知ってるだろう」 「たぶん、オーソドックスな小隊組んでも遭遇戦じゃ歯が立たないと思うのよ。そこで目には目を、剣には剣を、よ。あんたが光剣振り回してあいつの足を止めてくれれば、あたしが——」  ずどーん、といように右手の人差し指を弾いてみせる。和人は尚も首をひねりつつ、ぼそぼそ言った。 「でもさ、相手は複数なんだろ? いくらなんでも俺一人で何人も相手できないよ」 「だからあんたに、助っ人のアテが無いかメールで聞いたんじゃない。“GGOにコンバートできるハイレベルキャラ持ちで、剣の接近戦のセンスがある人”。今日、ここに来てくれるんでしょ?」 「ははぁ、なるほどね。一応声はかけたけど……そろそろ来るんじゃないかな」  和人はポケットから携帯端末を取り出すと、素早く操作し、テーブルに置いた。ELパネルには、この喫茶店を中心とした御徒町界隈の地図が表示されている。よく見ると、駅から店に至るルート上に、点滅する青い輝点があった。 「これは?」 「待ち人来る、さ。あと二百メートルってとこかな」  輝点はまっすぐ店を目指して移動している。呆気にとられつつ見守るうち、交差点を渡り、路地に入り、地図中心の十字線に接触した。  かららん、とドアベルが鳴り、詩乃は顔を上げた。傘を畳みながら入ってきた人物は、栗色の長い髪を一払いして水滴を落とすと、まっすぐ詩乃を見て、まるでそこだけが一足先に梅雨明けしてしまったかのような笑顔を浮かべた。 「やっほー、詩乃のん!」  詩乃も思わず口もとをほころばせながら立ち上がり、手を伸ばした。 「明日奈! 久しぶりー!」  磨きぬかれた床板を軽快に鳴らして歩み寄ってきた結城明日奈と、互いの指先を絡めて、再会を喜び合う。ようやく向かい合った椅子に腰を下ろすと、呆気にとられた表情で和人が呟いた。 「君ら……いつのまにそんな仲良しになったの?」  詩乃は明日奈と目配せを交わして、また笑った。 「あら、あたし先月、明日奈の家にお泊りもしたのよ」 「な、なんだって。俺だってアスナんちには行ったことがないというのに」 「なによ、心の準備が、とか言って逃げてるのはキリト君じゃないの」  じとっと明日奈に横目で睨まれ、和人はばつが悪そうにカクテルを啜った。  明日奈はくすりと微笑むと、お冷やを持ってきたエギルを見上げ、ぺこりと会釈した。 「ご無沙汰してます、エギルさん」 「いらっしゃい。——なんて言うと、思い出すね、ふたりがうちの二階に下宿してた頃を」 「あら、じゃあまたアルゲードの新しいお店に居候しちゃおうかな。……ええと、今日は……何にしよっかな……」  容貌魁偉な店主とは旧知の仲であるらしい明日奈が、コルク装のメニューを眺めているあいだ、詩乃はテーブルに置きっぱなしになっていた和人の携帯端末を取り上げてもういちど画面を見詰めた。青いブリップは喫茶店の位置に重なって静止している。 「……っと、じゃあ、ジンジャーエール。甘くないほう」  オーダーを受けたエギルが去っていくのを待って、詩乃は、それにしても、と口を開いた。 「あなた達、互いのGPS座標をモニタしてるの? 仲が良くてよろしゅうございますねえ」  そこはかとない揶揄を込めて言うと、和人は目を丸くし、イヤイヤイヤ、と手を振った。 「俺の端末でモニタしてるのはアスナの端末の位置だけで、それもアスナの操作で不可視にできるけど、俺のほうはそんな生易しいもんじゃないぜ。アスナ、見せてやってよ」 「うん」  明日奈はにこりとしながらスカートのポケットから携帯端末を取り出し、待ち受け画面のまま詩乃に差し出した。受け取り、パネルを覗き込むと、そこにはいかにも女の子らしい可愛らしいアニメーション壁紙が表示されていた。  画面中央には、赤いリボンがかかったピンク色の大きなハートマークが描かれ、およそ一秒ごとに規則正しく脈動している。上部には、見慣れた日付け、時間とアンテナ状況のインジケータが表示されているが、ハートの下部には何を示しているのか咄嗟にはわからない数字がふたつ並んでいた。  左に、大きめのサイズで“六三”、右にすこし小さく“三六・二”。詩乃が首を捻りながら眺めるうち、左の数字が“六四”に上昇した。 「いったい……」  なんなのこれ、と訊こうとしたところで、和人がどこか気恥ずかしそうに「あんまりじっと見るなよ」と言った。それでようやく、詩乃はこの待ち受け画面が表示しているものがなんなのかを悟った。 「ええっ……これ、まさかキリトの脈拍と体温なの?」 「あったりー。すごい、詩乃のんカンがいいね」  明日奈がぱちぱちと手を叩く。詩乃は、端末の画面と和人の顔に何度か視線を往復させたあと、少々呆然としながら呟いた。 「で、でも……どうやって」 「俺のここんとこの皮下に……」  和人は右手の親指で、自分のシャツの左胸を突付いた。次いで、その手を詩乃に向けて伸ばし、二本の指のあいだに五ミリほどの隙間を作る。 「これくらいのセンサー・ユニットがインプラントされてるのさ。そいつがハートレートと体温をモニタして、無線で俺の端末にデータを送る。んで、端末がネットを介してアスナの端末にGPS座標と合わせてリアルタイムで情報を渡すっつう仕組みだ」 「ええ? 生体チップぅ?」  今度こそ詩乃は大いに驚き呆れ、吐息混じりに言った。 「なんでそんな大層な……。あっ、まさか浮気防止システムなのかー?」 「ち、ちがうちがう!」 「ちがうよう!」  和人と明日奈は同時にぶんぶん首を振った。 「いやあ、俺が今のバイト始めるときに、先方から勧められてさあ。毎回電極をべたべた貼るのは大変だろうから、って。で、その話をアスナにしたら、強硬にデータの提供を要請されましてね。やむなく自分でアプリ組んで、アスナの端末にインストールしたというわけ」 「だってさあー。キリト君の体のデータを会社のヒトに独占されるなんてヤじゃない。わたしはそもそも、妙なモノを体に埋め込むなんて反対だったのよ」 「あれ、こないだ嬉しそうに、ヒマがあるとついモニター眺めちゃうのよねー、なんて言ってたのは誰だよ」  和人の言葉に、明日奈はかすかに頬を赤らめると俯いた。 「やー、なんか……なごむのよねえそれ見てると。ああ、キリト君の心臓が動いてるーって思うと、こう……ちょいトリップしちゃうって言うか……」 「うわあ、なんか危ないよ明日奈、ソレ」  詩乃は笑いながら、もう一度手の中の端末に視線を落とした。いつの間にか、脈拍は六七に、体温もわずかに上昇している。ちらりと見ると和人はポーカーフェイスで氷をがりがり噛んでいるが、モニタは彼が内心やや照れていることを如実に示している。 「ははあ、なるほどねえ……。そっか……なんか……いいなぁ……」  思わずぽろりとそう呟いてしまい、詩乃は慌てて顔を上げると、目をぱちくりさせている和人と明日奈に向かってぶんぶん首を振った。 「あ、いや、そんな、変な意味じゃないよ、ぜんぜん。その……じ、GGOにもこういう機能があったら、パーティーメンバーがどれくらい冷静かとかわかっていいなぁって、そういう」  端末をびゅんと明日奈の手に戻し、早口で続ける。 「そそうだ、本題のことをすっかり忘れてた。じゃあ……BoBチーム戦の助っ人してくれるっていうのは明日奈だったの。あたしは嬉しいけど……でも、明日奈、ALOのキャラをGGOにコンバートできるの?」 「あ、うん、それは大丈夫だよー。わたし、二キャラ持ってるから。サブアカウントのほうも、レベル的にはメインと大差ないし」 「ああ、それなら安心だね。明日奈が手伝ってくれるなら、鬼に金棒、トーチカに重機関銃だわ。何日かフォトンソードの練習するだけで充分だと思う」 「うん、今夜からもうダイブできると思うから、街とか案内してね」 「もちろん。GGOの食べ物も案外捨てたもんじゃないよ」  詩乃はにっこり笑って明日奈に右手を差し出した。互いの手をきゅっと握りあってから、さて、と胸の前で指先を打ち合わせる。 「じゃ、本題はこれで終了。さて……」  和人に顔を向け、じろーっと軽く睨む。 「じっくり聞かせてもらいましょうか。あんたのその怪しいバイトは、一体なんなの?」  ——と、言っても、と間を置かずに続ける。 「どうせ、キリトのことだから新しいVRMMOゲームのアルファテストとかそんなんでしょうけど」 「まあ、当たらずとも遠からずだな」  苦笑いしながら和人はうなずき、センサーが埋め込まれているという左胸のあたりを指先でなぞった。 「テストプレイヤーをやってるのは間違いないよ。ただ、テストしてるのはゲームシステムじゃなくて、マンマシン・インタフェースそのもののほうだけどね」 「へえ!」  詩乃は驚き、軽く目を見張った。 「てことは、いよいよアミュスフィアの次世代機が出るのね? もしかして、明日奈のお父さんの会社で作ってるの?」 「いいや、レクトとは無関係のとこ。というか……なんか、いまいち全容がよくわからない会社なんだよな……。名前も聞いたことないベンチャーのわりに、資金力が異様に豊富でさ。もしからしたら国の外郭が絡んでるのかもなぁ……」  釈然としない表情の和人につられて、詩乃も首を右に傾ける。 「へえ……? 何て名前の会社?」 「RATH、と書いて“ラース”。」 「知らない会社ね、確かに。……んん、そんな英単語あったかな……?」 「俺もそう思ったら、アスナが知ってた」  和人の隣でジンジャーエールのグラスを傾けていた明日奈は、ぱちりと瞬きをして答えた。 「『鏡の国のアリス』の中に『ジャバウォックの詩』ってのがあって、そこに出てくる名前だよ。豚とも亀とも言われてるんだけど……どういうつもりでつけたんだろうねー」 「へええ……」  大昔に読んだはずの本だが、そんな単語はまったく憶えていなかった。 「ラース……。じゃあ、そこが単独で次世代NERDLESマシンを発売するの? アミュスフィアみたいにいろんな会社の共同開発とかでなく?」 「いや、どうかな……」  和人は、相変わらず煮え切らない口調で呟いた。 「マシン本体がでかいんだよ、兎に角。モニター類とか冷却関係まであわせるとこの店が一杯になるくらいあるんじゃないかな……。初代のNERDLES実験機もそれくらいあったらしいけど、そこからナーヴギアのサイズになるまで五年くらいかかってるんだぜ。レクト他で開発してるアミュスフィア2はもう来年内には発売になろうってのに……って、こりゃヒミツなんだっけ」  和人が首をすくめると、明日奈は小さく笑って言った。 「大丈夫よ、もう来月の東京ゲームショウで発表されるらしいから」 「あ、そっちからも出るんだ。……あんま、高くないといいな……」  上目遣いに明日奈を見る。社長令嬢は、深刻そうな顔を作ると深々と頷いた。 「ほんとだよねー。さすがに値段までは教えてくれなくって。まあ、わたしはALOで満足してるからすぐに新機種買うつもりはないけど、反応速度とか段違いって言われるとぐらっとくるよね。ソフトは下位互換もするらしいし」 「う、そうなんだ。くうー、あたしも何かバイトしよっかな……」  詩乃は一瞬、家計簿データを頭の中で展開しそうになってから、改めて和人に尋ねた。 「……じゃあ、その会社のでっかいNERDLESマシンは家庭用じゃないってこと? 業務用とか?」 「いやあ、まだそれ以前の段階なんじゃないかな。そもそも、厳密にはNERDLESテクノロジーとは別物なんだよな」 「別……? 仮想世界を生成して、そこにダイブすることに違いはないんでしょ? 中の世界はどんな感じなの?」 「知らないんだ、俺」  和人はひょいっと肩をすくめる。 「機密保持のためなんだろうけど、仮想世界内の記憶は、現実世界には持ち出せないんだ。俺がテスト中にどんなモノを見てナニをしてたのか、今の俺は全部忘れてる」 「はあ!?」  和人がさらりと口にした言葉に、詩乃は思わず絶句した。 「記憶を……持ち出せない? そんなこと……可能なの? もしかして、バイトの最後に催眠術でもかけられるの?」 「いやいや、純粋に電気的な仕組みで、さ。いや……量子的、と言うべきかな……」  和人はしかめっ面で長い前髪をぐいっとかきあげると、ちらりと卓上に置きっぱなしの携帯端末を一瞥した。 「四時半か。シノンとアスナは、時間まだ大丈夫?」 「うん」 「わたしも平気だよ」  ふたりが同時に頷くと、和人はぎしっとアンティークな椅子の背もたれを鳴らし、言った。 「じゃあ、大元のところから始めようか。問題の……“ソウル・トランスレーション”テクノロジーについて」 「ソウル……トランスレーション」  詩乃は、その、どこかロールプレイングゲーム内の呪文名のような響きを持つ単語を小声で繰り返した。明日奈も軽く首を傾げ、呟く。 「ソウル……魂……?」 「まあ、な。俺も初めて聞いたときは、なんつう大袈裟なネーミングだ、って思ったけどな」  和人は片頬で軽く笑うと、続けた。 「ふたりとも、人間の心ってどこにあると思う?」 「ココロ?」  唐突にそう尋ねられ、反射的に胸の中央に触れてしまいそうになってから、詩乃は軽く咳払いして言った。 「頭……脳でしょ」 「じゃあ、脳ミソを拡大して見たとして、そのどこに心はあるんだろう」 「どこ、って……」 「脳、ってのはつまり脳細胞のカタマリだよな。こう……」  和人は詩乃に向かって、ぴんと指を伸ばした左手を差し出した。掌の中央を右手の人差し指で突付き、次に掌全体をぐるりとなぞる。 「まんなかに細胞核があって、それを包む細胞体があって……」  五本の指を順番に叩いて、最後に手首から肘まで線を引く。 「樹状突起があり、軸索があって、次の細胞に繋がっている。こういう構造の脳細胞のどこに、心は存在するんだろう? 核? ミトコンドリア?」 「えっと……」  口篭もった詩乃に代わって、明日奈が答えた。 「キリト君いま、“次の細胞に繋がってる”って言ったけど、つまりそうやって脳細胞がいっぱい繋がったネットワークそのものが心なんじゃないの? ほら……“インターネットって何”っていう質問に、個々のコンピュータにだけ注目しても答えにならないみたいに」 「うん」  意を得たり、というように和人は大きく頷いた。 「脳細胞ネットワークこそが心、現状ではそれが正しい答えだと俺も思う。でも……例えば、今の“インターネットとは何か”っていう質問をつきつめていくと、解答はいろいろ出てくるよな。世界中のコンピュータが共通規格のもとに繋がった構造自体がインターネットだし——」  テーブルの上に並ぶ和人と明日奈の携帯端末を順番に指先で叩く。 「こういう、一台一台のコンピュータだって構成要素としてのインターネットだ。更に言えば、コンピュータの前のユーザーだってネットの一部ってことになるかもしれない。これらをひっくるめてインターネットと呼んでるわけだ」  和人はそこで一息つくと、ちょっと頂戴、と言って明日奈のジンジャーエールを口に含んだ。途端、眼を白黒させて唇をすぼめる。 「うわ、何これ。凄い……マジ生姜の匂いだな」 「ふふ、コンビニで売ってるのとは全然違うでしょ。ふつうはカクテルに使う本格派のヤツよ。前に頼んで飲ませてもらったら美味しかったの。言わば裏メニューね」  にやにや笑いながら、明日奈は詩乃にもグラスを回した。 「詩乃のんも味見してみる?」  言われるままに一口飲んでみると、舌にびりっとくる強烈な辛さと生姜の香りが、頭のてっぺんまで突き抜けた。思わず涙を滲ませながら、グラスを返す。 「た……たしかにこれは凄い。でも……うん、おいしいね、甘くなくて」  帰りに商品名を訊いておこう、と思いながら詩乃は和人に話の続きを促した。 「で……人間の心とインターネットが、どう関係するの?」 「うん。——で、その、サーバやルータやパソコンやケータイが網目みたいに繋がった構造は、インターネットの“カタチ”なわけだ」 「カタチ……」 「なら、“本質”は何なんだろう?」  詩乃は少し考え、口を開いた。 「つまりそのカタチ……ネットワーク構造の中を流れるもの……? 電気信号……?」 「電気や光の信号は媒体だ。ネットの本質とはつまり、その媒体によって伝えられる、言語化された情報のことだ……と、仮にここで定義しよう」  和人はテーブルの上で、骨ばった両手の指を組み合わせた。 「さて、さっき話した、脳細胞が百何十億個繋がったネットワーク、これを心のカタチと見たとき……心の本質を何に求めるべきだろう?」 「媒体……つまり、脳細胞を流れる電気パルスによって伝えられる……情報?」 「いや、電気パルスというのは、こう……」  和人は右手を拳に握り、広げた左の掌に近づけた。 「ニューロンとニューロンの隙間つまりシナプスに、伝達物質を放出させるトリガーにすぎない。あるルートに沿って脳細胞が連続発火するという、その現象だけをもって心の本質であるとは言えないよ」 「ええー……っと……」  詩乃が眉をしかめるのと同時に、明日奈が困ったように笑いながら言った。 「これ以上は無理だよキリト君〜。だいたい、心とは何か、なんて今の科学でも答えは出てないんでしょ?」 「まあ、な」  和人はにやっと笑いながらうなずいた。 「は、はあ!? ちょっと、ここまで考えさせといてそれはないでしょう」  詩乃が猛然と抗議しかけたそのとき、和人はふっと視線を濡れた窓のほうに向け、呟くように続けた。 「でも、ある理論を用いてその答えに迫った人間がいる」 「ある……理論?」 「“量子脳力学”。もとは、前世紀の末ごろにイギリスの学者が提唱したものらしいんだけどな。長い間キワモノ扱いされたその理論を下敷きに、ついにあんな化け物みたいなマシンを作った……。——ここからは俺もほとんど理解しちゃいないんだけどな。さっき、脳細胞の構造の話をしたろ」  詩乃と明日奈は同時に頷く。 「細胞にも、その構造を支える骨格がある。“マイクロチューブル”って言うらしいんだけどな。しかしどうやらその骨は、ただの支えじゃなくて、頭蓋骨でもあるらしい。脳細胞のなかの脳だな」 「は、はあ……?」 「チューブ、つまり中空の管なんだ、その骨は。超微細なその管の中に封じ込められているモノ……それは……」 「何が、あるの……?」 「光だ」  和人の答えは短かった。 「光子……エバネッセント・フォトン、って言うらしい。光子ってことはつまり量子だ。その存在は非決定論的であり、常に確率論的なゆらぎとしてそこにある。そのゆらぎ、それこそが、人間の心なんだ」  その言葉を聞いた途端、詩乃の背筋から二の腕までを、理由の判らない戦慄がぞくぞくと疾った。心とは、揺らぐ光。そのイメージは神秘的な美しさに満ちていると同時に、まさしくそこはもはや神の領域なのではないのだろうか、との思いを起こさせるものがあった。  同じような感慨を明日奈も抱いたのだろう、薄い色の瞳にどこか不安そうな光を湛えて、少し掠れた声で呟いた。 「ソウル……魂。その光の集合体が、人間の魂なの……?」 「量子場、と言うべきかな。人間だけじゃない、動物にだってある。この理論が発表されたら、動物には魂はない、って言ってきたキリスト教原理主義者たちは怒るだろうな。実験によれば……この量子場は、持ち主が肉体的死に至ったあとも、しばらくその形を保つ。いわゆる臨死体験というのはそれが原因だ、って言ってたスタッフもいたよ。脳細胞が死に、量子が拡散するあいだに、人間は死後の世界を見るんだ、って」 「拡散……した量子は、どこにいくの?」  詩乃がおそるおそるそう尋ねると、和人は微かに笑って首を振った。 「わかってない。それを検出するには、今の数十倍の規模のマシンを開発しないとだめなんだそうだ。ただ、霞のようにランダムに消滅するというより、一定の凝集力を保ったままある方向へ向かうらしいけど……そこから先は、あんまり科学の立ち入る領域じゃないような気もするなあ……」 「わたしにはもう充分オカルトな話に聞こえるよ〜」  明日奈は細い声で言い、きゅっと肩を縮めた。 「じゃあ、つまり、キリト君がテストしてるってマシンは、その……光子でできた魂そのものにアクセスするものなの……?」 「そう言うとなんかゲームのマジック・アイテムみたいに聞こえるけどな。——もうちょっと突っ込んだ話をすると、マイクロチューブル中の光子ひとつは、そのベクトルによって“一キュービット”という単位のデータを保持しているんだ。つまり、脳細胞は、これまで考えられてきたような単なるゲートスイッチではなく、それ自体がひとつの量子コンピュータだと言える……このへんで、もう俺の理解は限界にきてるんだけど……」 「大丈夫、私もそろそろ限界だから」 「わたしも……」  詩乃と明日奈がそろってギブアップ宣言をすると、和人はほっとしたように息を吐いた。 「まあ、守秘義務契約もあるからマシンの仕組みについては細かく話せないんだけどね。ともかくその、計算機でありメモリでもある光子の集合体、人間の意識、魂……プロジェクトでは“フラクトライト”と呼んでるんだけど、そいつが保持している数百億キュービットのデータを、俺たちに理解できるカタチに翻訳するのが例の化け物マシン、“ソウル・トランスレーター”だ。考えてみるとおかしな話だよな……。俺たちの魂を苦労して解読して、それを読むのも結局また俺たちの魂なんだからな」 「ちょっと、怖いこと言わないでよ。なんか……鏡に映った自分の姿を見て石になっちゃう怪物の話とか思い出すじゃない」 「いつかそんな目に会わないとも限らないって気はするよ」 「やめてってば」  詩乃は今度こそ本格的にぞっとしない気分を味わい、半そでの開襟シャツから伸びる腕をさすった。視線を動かすと、明日奈も同じように顔をしかめていたが、やがてぽつりと呟いた。 「その機械……ソウル・トランスレーターは、意識を読むだけじゃないんだよね?」  すると、和人はほんのわずかに口篭もり、一度唇を閉じてから、低い声で答えた。 「ああ……もちろん、書き込むこともできる。そうでないと、仮想世界にダイブできないからな。フラクトライトの、視覚、聴覚と言った五感情報を処理する部分にアクセスして、マシンの生成する環境を接続者に与えるわけだ」 「じゃあ……記憶も? キリト君、さっき言ったよね。ダイブ中の記憶が無いって。それってつまり、記憶の消去や上書きもできるってことなの?」 「いや……」  和人は、安心させるように明日奈の左手に短く触れた。 「記憶データを保持している部分は、あまりにも膨大かつアーカイブ方法が複雑で、現状では手が出せないと聞いた。ダイブ中の記憶が無いのは、単にその部分への経路を遮断しているから、らしい。つまり、完全に記憶が無いわけじゃなくて、思い出せないだけ……なんだろうな」 「でも、わたし……怖いよ、キリト君」  明日奈の不安そうな表情は消えない。 「ねえ……何でそんなバイトするの? その話を持ってきたのって、あの総務省の菊岡って人なんでしょ? 悪い人じゃないとは思うけど……あの人、なんだか心の底が見えない感じがする。どこか、団長と似てるのよ。なんだか……また、良くないことが起こりそうで……」 「……確かに、あの男には気の許せないところがある。本当の身分とか職務とか、いまいち判らないしな。でもな……」  少し言葉を切り、和人はふっと瞳の焦点をどこかここではない場所に向けた。 「俺は、業務用NERDLESマシンの初代機が新宿のアミューズメントパークでお披露目されたその初回に、始発で行って並んだんだ。まだ小学生だったけど……これだ、と思ったよ。俺をずっと呼んでいた世界はここなんだ、って。小遣いを貯めてナーヴギアも発売日に買って……いろんなVRゲームに何時間も潜り続けたな。ほんと、あの頃の俺は、現実世界なんかどうだっていいと思ってたよ。そのうちSAOのベータテストに当選して、あの事件が起きて……。凄く沢山の人が死んだ。二年もかけて戻ってきてからも、須郷の事件や死銃事件が立て続けにあって……俺は……知りたいんだ。VR技術は、一体どこに向かっているのか……あれらの事件に、一体どんな意味があったのか……。ソウル・トランスレーターは、その方向性こそまったく新しいものだけど、アーキテクチャ自体はメディキュボイドの延長線上にある。開発の基礎データとなった、最初のフラクトライトは“彼女”のものなんだよ」  俯きながら和人の言葉を聞いていた明日奈の両肩が、ぴくりと震えた。低いが、しっかりした声はなおも続く。 「予感がするんだ。ソウル・トランスレーターの中には何かある。単なるアミューズメントマシンだけじゃ終わらない何かが……。確かに、危険な面もあるかもしれない。でもな……」  少しおどけるように、和人は剣を握り、振り下ろす真似をした。 「俺は、今までどんな世界からもちゃんと帰ってきた。今度だって、ちゃんと戻ってくるよ。まあ……現実世界じゃ、無力で虚弱なゲーマーだけどさ」 「……わたしのバックアップなしじゃ、背中が隙だらけのくせに」  明日奈は少し笑うと、ふう、と短く息をつき、詩乃の顔を見た。 「まったく、なんでこう自信家なんだろうね、このヒト」 「うーん、まあ、何と言っても伝説の勇者様だからねー」  ふたりの会話には判る部分もあれば、初めて聞く単語もあったが、詩乃は深く立ち入るのはやめようと思いながら、からかうように言った。 「先月出た“SAO事件全記録”読んだけどさー、あの本に出てくる“黒の剣士”がこいつだなんてちょっと信じられないよねー」 「お、おい、やめてくれー」  和人は両手を振りながら上体を仰け反らせたが、明日奈はくすくす笑うと、ほんとだよね、と頷いた。 「あの本書いたの、攻略組ギルドの中でも大きかったとこのリーダーだから、けっこう記録自体は正確なんだけど、人物描写にすごいバイアスかかってるよねえ。キリト君が、オレンジプレイヤーと戦ったとことか……」 「『俺が二本目の剣を抜いたとき——立っていられるヤツは、居ない』」  きゃははは、と二人が盛大に笑うと、和人は虚ろな眼をしてずるずると椅子に沈み込んだ。ようやく明日奈に笑顔が戻ったことにほっとしながら、詩乃は追い討ちをかけるように続けた。 「あの本、なんか翻訳されてアメリカでも出版されるらしいよねー。そしたらもう、勇者サマの世界ランカーだよね」 「……せっかく忘れてたのに……。印税を俺にも寄越せって話ですよまったく」  ぶつぶつ言う和人にまたひとしきり笑ってから、詩乃は少々疑問に思っていたことを尋ねようと、話を戻した。 「でもさ。その、ソウル・トランスレーターって、結局やることはアミュスフィアといっしょなの? VRワールドをポリゴンで生成して、そこに接続者の意識をダイブさせるだけなら、そんな大掛かりな仕組みにすることにどんな意味があるの?」 「お、いい質問」  和人は椅子の上で体を起こすと、ひとつ頷いた。 「アミュスフィアを使ってるとき、ユーザーは、現実世界では寝ているように見えるけど、実際はそうじゃないよな。現実の感覚を遮断されているだけで、脳はちゃんと覚醒している。結局、外界の情報を自前の感覚器官から得るか、アミュスフィアの信号素子から得るかの違いがあるだけで」 「それはそう……だよね。便宜的に“ダイブする”なんて言ってるけど、実際には現実世界でヘッドホンしてテレビ見てるのと、本質的な違いは無いんだもんね」 「うん。しかし、ソウルトランスレーターの場合は少し違う。魂、フラクトライトを現実世界の入力から完全に切り離された接続者の脳波パターンは、どちらかというと睡眠時のそれに近くなるんだ」 「睡眠……眠ってる、ってこと……?」  詩乃は少し考えてから、首を捻りつつ言った。 「でも、そしたら、ユーザーはどうやって仮想世界で活動するの? 見たり聞いたり、動いたりとか出来ないんじゃないの?」 「完全に眠ってるってわけじゃない。フラクトライトの、現実の肉体を制御する部分は睡眠状態に入るが、記憶領域と思考領域は覚醒している。その状態でも、ユーザーは仮想世界を見ることができるんだ。別にソウルトランスレーター……長いからSTLって呼ぶけど、それを使ってなくても、普段自分のベッドで寝てるときだって、俺たちは見てるんだぜ、現実じゃない世界を」 「それって……夢のことを言ってるの?」  そう尋ねたのは明日奈だった。和人はにっと短く笑うと頷いた。 「その通り。睡眠と夢のメカニズムについてはまだまだ未解明の部分も多いんだけど、STLを使った解析によれば、どうも人間は夢を見ているときに、記憶の整理をしているらしいんだな。短期記憶領域にごちゃごちゃと蓄積された雑多な記憶パーツを、重要性によって取捨選択し、アーカイブして、長期記憶領域に収納する。その過程で、思考領域は、取り出された記憶を感覚的に再生するわけだ。つまり……夢を見ているとき、俺たちは、脳の感覚野を使用せずに物を見、音を聞いている。もし、夢で見たいものを選ぶことができたとしたら……」  そこで一拍置いてから、和人は少しばかり衝撃的なことを言った。 「——STLによって生成されるVRワールドは、アミュスフィアのそれとは根本的に違う。コンピュータで作られたポリゴンデータじゃないんだ。人間の膨大な記憶アーカイブからマシンによって抽出される、記憶のフラグメントを組み合わせたものなんだよ」  詩乃は、明日奈と同時に眉をしかめ、頭を傾けた。 「ええ……? ポリゴンじゃない……って……」 「ほら、つまりさ……。例えばこの喫茶店の中をアミュスフィアで再現しようと思うと、山ほどの3Dオブジェクトが必要になるよな。座ってる椅子、テーブル……この上の皿やグラス、塩や砂糖の容器、壁、窓、床、天井、エトセトラ。これだけの、膨大な視覚情報がマシン本体で生成され、ヘッドギアを通して脳に流れ込むわけだ。とても、ひとつひとつのオブジェクトを本物なみに細かく再現することはできないから、例の“ディティール・フォーカシング・システム”なんて苦肉の策が採用されてたりする。しかし、STLで同じことをする場合、マシンがフラクトライトに送るデータは恐ろしく小さい。“古ぼけた椅子に座ってる”“揃いのテーブルがある”“その上に白い皿が乗ってる”……これだけだ。それらのオブジェクトの視覚、触覚的情報は、俺たちの自前の記憶アーカイブから呼び出され、配置されるわけだ。しかもそれらは恐ろしくリアルだ。なぜなら、意識にとっては本物と一緒なんだからな」 「…………ええー?」  何となく騙されているような気分にとらわれ、詩乃は唸った。 「記憶……なんて、そんなアテになるものなの? 例えばさぁ……」  和人の前でぎゅっと両目を瞑ってみせる。 「こうして眼ぇ閉じて、今座ってる椅子を思い出そうとしても、細かいとことかすごいアヤフヤだよ。一日たったら形も思い出せないよ、たぶん」 「それは記憶を再生できないだけだ。椅子の詳細な情報は、きちんとアーカイブされてシノンの頭の中にある。STLは、本人の意思ですら簡単に呼び出せない情報を、フラクトライトを半覚醒状態に置くことによって正確に引き出すことができるんだ。これは聞いた話だけど、基礎実験のとき、あるスタッフの記憶アーカイブから出てきた猫の数はなんと二千匹を超えたそうだよ」 「にせ……」  詩乃は一瞬その猫天国を想像して口もとを緩めてしまってから、短く首を振って妄想を払い落とした。明日奈はと見れば、こちらは真剣に何かを考えているふうだったが、やがて言葉を確かめるようにゆっくりと口を動かした。 「でもさ……キリト君、それだと、ユーザーが見たことのないものは生成できない、ってことになるんじゃないの?」  もっともな疑問だ、と思ったが、和人はふたたびニヤっと笑い、逆に明日奈に尋ねた。 「例えば、どんなもの?」 「えっと……ほら、今の猫にしても、羽根の生えた猫とか……毛皮が青い猫とか。現実世界には居ない動物……実在しない機械、世界のどこでもない都市、そういうものはVRゲームには必須だと思うけど……」 「ところがどっこい、なんだな。人間の意識の柔軟性というのは驚くばかりさ。“翼の生えた猫がいる”、そう指定するだけで、ダイブ中のユーザーはちゃんとそれを見るんだ。記憶アーカイブから抽出した“猫”と“翼”を組み合わせて。既存の空想的動物……ドラゴンとか悪魔まで、生成できなかったものはほとんど無かったそうだよ。さすがに、言葉では形容できないようなヤツは難しいだろうけど……。奇妙な機械とか幻想的都市とかも、結局原型となるイメージは記憶アーカイブに何かしら収納されてるのさ。それを組み合わせ、変形させるだけで、ほとんどあらゆるパターンのものを作り出すことができるんだ」  和人は一瞬口を閉じ、テーブルをとん、と叩いて続けた。 「これが、NERDLESには無い、ソウル・トランスレーション・テクノロジーの第一の利点だ。VRワールドを作るのに、膨大なマンパワーを費やして3Dオブジェクトを組む必要がない。極論すれば、コンピュータに世界生成をすべて任せることだってできるんだ」  人間の手によらず自動生成された仮想世界。  その概念には、詩乃の胸を高鳴らせるものがあった。なんとなれば、ちかごろ詩乃は、VRMMOゲーム世界の“恣意的デザイン”に違和感を覚えることが往々にしてあるのだった。  既存のVRワールドは、当然ながら端から端まで、開発会社の3Dデザイナーが組み上げたものだ。廃墟に転がる古タイヤ、荒野に生えるサボテン、それらはどんなに何気なく見えても、偶然そこにあるものではない。デザイナーが、何らかの意図のもとに配置したオブジェクトなのだ。  ゲームプレイ中に、一度そんなことを考えてしまったが最後、詩乃の胸の奥ですっと醒めるものがある。自分たちは所詮、開発者たちという名の神様の掌中で右往左往するだけの存在なのだ、ということを否応無く意識させられてしまうからだ。  もともと、愉しむためにガンゲイル・オンラインを始めたわけではない詩乃は、過去の呪縛を乗り越えたいまでも、GGOの中で己を鍛えることには何らかの現実的意味があると考えている。リアルでもモデルガンを携帯し、揃いの記章バッジを服に飾って兵士を気取るような一部のプレイヤー連中には怖気が走るが、そういうことではなく、ゲーム内でシノンが身に付けた忍耐力、自制力といったものは現実の朝田詩乃をもわずかながら強くしてくれているという信念があるし、また逆に言えば、もしそうでなければ決して少ないとは言えない時間と金銭をつぎ込んで仮想世界に飛び込み続ける甲斐がないというものではないか。  人見知りの激しい自分が、わずか数ヶ月の付き合いで結城明日奈とここまで仲良くなれたのもそのへんに理由があるのではないか、と詩乃は思う。いつもふわふわと笑っている彼女だが、同じような価値観の持ち主——つまり、VRゲームを逃避的に遊ぶのではなく、現実の自分をも高めるという目的意識を持つ人種である、ということは疑いようもない。簡単に言えば、明日奈もまた戦士である、ということだ。  なればこそ、詩乃はVR世界がただの作り物でありその内部で起きることがすべて虚構だとは思いたくない。思いたくないが、あまねくVR世界には製作者が存在するのもまた事実である。明日奈の家に泊まりにいったとき、照明を落とした部屋で詩乃はその違和感のことをつっかえつっかえ口にしてみた。すると、大きなベッドに並んで横たわった明日奈は、しばらく考えてから言った。 『詩乃のん、それはこの現実世界も同じことだと思うよ。いまはもう、わたし達に与えられた環境なんて、家や街も、学生っていう身分も、社会構造まで、ぜんぶ誰かがデザインしたものなんだよね……。たぶん、強くなる、って、その中で進みたい方向に進んでいける、ってことじゃないかな』  少し間をあけて、明日奈は笑いを含んだ声で続けた。 『でも、一度見てみたいよね。誰かがデザインしたわけじゃないVR世界。もしそういうのが実現したら、それはリアル以上のリアルワールドってことになるのかも、ね』 「リアルワールド……」  詩乃が無意識のうちに呟くと、どうやら同じことを思い出していたらしい明日奈が、テーブルの向こうでこくりと頷いた。 「キリト君……じゃあ、それはつまり……ソウルトランスレーターなら、主観的にはこの現実世界と同じかそれ以上の現実が作れる、ってことなの? デザイナーのいない、ほんとの異世界が?」 「うーん……」  和人はしばし考えこみ、やがてゆっくりと首を振った。 「いや……現状では難しいだろうな。単純な森とか草原とかは、オブジェクトのランダム配置でも生成できるだろうけど、整合性のある文明世界となると結局は人間の組んだアルゴリズムが必要だろうからな。あるいは……実際にプレイヤーが原始的世界から暮らし始めて、都市が自然に出来るのを待つか……」 「あはは、それはずいぶんと気の長い作戦だねー。百年くらいかかりそうだね」  明日奈と詩乃は同時に笑った。和人はなおも眉間にしわを刻んで考え込みつづける様子だったが、そのうち顎をなぞりながらぽつりと呟いた。 「文明シミュレートか。いや……あながち無いでもない話かもな。中に持ち込む記憶は制限すればいいんだし……STLのSTRA機能が進化すれば……」 「エスティーエルのエスティー……何だって?」  略語の連発に詩乃が顔をしかめると、和人は瞬きして顔を上げた。 「ああ……ソウル・トランスレーション技術による魔法その二、さ。さっき、夢の話をしたろ」 「うん」 「ときどき、ものすごく長い夢を見て、起きたらぐったり疲れてる、みたいなことあるよな。怖い夢のときとか特に……」 「あー、あるある」  詩乃はしかめっ面のままこくこく頷いた。 「何かから逃げて逃げて、途中でもうこれは夢だろう、とか思うんだけど目が醒めなくて。散々おっかけられてからようやく起きた、と思うとまだそこも夢だったりしてさ」 「そういう夢って、体感的にはどれくらいの時間経ってる感じがする?」 「えー? 二時間とか……三時間くらいかな」 「ところが、だ。脳波をモニターしてみると、当人がものすごく長い夢を見た、と思っているときでも、実際に夢を見ている時間は目覚める前のほんの数分だったりするんだな」  そこで言葉を切ると、和人は不意に手を伸ばし、卓上に並べて置かれたふたつの携帯端末を掌で覆った。いたずらっぽい視線で詩乃を見て、小さく笑う。 「STLの話をはじめたのが四時半だったよな。シノン、いま何時だと思う?」 「え……」  虚を突かれて、詩乃は口篭もった。古めかしい掛け時計があるのは詩乃の背後の壁だし、夏至を過ぎたばかりのこの時期の空はまだまだ明るくて陽の落ち具合で判断することもできない。やむなく当て推量で答える。 「んーと……四時五十分くらい……?」  すると和人は携帯から手を離し、画面を詩乃に向けた。覗き込むと、デジタル数字は五時をとうに回っていた。 「わ、もうそんなに経ってたのか」 「かくも時間とは主観的なものなのさ。夢の中だけじゃなく、現実世界でもね。何か緊急事態が起きて、アドレナリンがどばーっと出てるときは時間はゆっくり流れるし、反対にリラックスして会話に夢中になってたりするとあっというまに過ぎ去っていく。フラクトライトの研究によって、何故そういうことが起きるのか、おぼろげにわかってきたんだ。どうやら、思考領域の一部に、“思考クロック発振器”とでも言うべきものがあるらしいんだよ」 「クロック……?」 「ほら、よくパソコンのCPUが何十ギガヘルツとか言うだろう。あれだよ」 「計算するスピードのことね?」  明日奈の言葉にこくりと頷き、和人はテーブルの上に置いた右手の指先をとんとんと鳴らした。 「あれも、カタログはマックスの数値を載せてるけど、実は一定じゃないんだ。普段は発熱を抑えるためにゆっくり動いてて、重い処理を命じられると——」  とんとんとん、と指のスピードを上げる。 「動作クロックを引き上げて計算速度をスピードアップさせる。フラクトライト、つまり人間の意識を作る量子コンピュータも一緒だ。緊急事態に置かれて、処理すべきデータが増大すると、思考クロックを加速して対応する。シノンも、GGOの戦闘中にむちゃくちゃ集中してるときとか、弾が見えるような気がするときあるだろう?」 「あー、うん、調子いいときはね。まあ、なかなかあんたみたいに“弾道予測線を避ける”みたいな真似はできないけどさ」  唇を尖らせてそう言うと、和人は苦笑して首を振った。 「いやあ、もうだめさ、最近すっかりナマっちゃって。……ともかく、その思考クロックが、時間感覚に影響してるってわけなんだな。クロックが加速しているとき、人間は相対的に時間の流れをゆっくりと感じる。睡眠中はこれが更に顕著になる。膨大な量の記憶データを処理するためにクロックは限界までスピードアップし、結果として、数分間のうちに何時間ぶんもの夢を見る」 「ふむむ……」  詩乃は腕を組んで唸った。自分の脳、というか魂が光でできたコンピュータだ、などという話だけでも常識のはるか埒外なのに、こうして“考える”という行為によってその動作スピードが上がったり下がったりする、と言われても実感することなど到底できない。だが、和人は、まだまだ、とでも言うようにニッと笑うと言葉を続けた。 「となると、もし、夢の中で仕事や宿題ができたら、凄いことになると思わないか? 現実世界では数分間でも、夢ん中じゃあ何時間だぜ」 「そ、そんな無茶な」 「そうだよー、そんな都合のいい夢なんか見れないよ」  詩乃と明日奈は同時に異論を唱えたが、和人は笑みを消さないまま首を振った。 「本物の夢が支離滅裂なのは、それが記憶整理作業の余剰産物だからだ。STLによって作られる夢はもっとずっとクリアだ……と言うか、ユーザーの意識自体は覚醒してるんだからな。寝てるのは身体制御領域だけでさ。その状態で、思考クロック発振部分に干渉し、強制的に加速させる。それに同期させて、仮想世界の基準時間も加速する。結果、ユーザーは、実際のダイブ時間の数倍の時間を仮想世界で過ごすことができる。これが、ソウル・トランスレーション・テクノロジーのもうひとつの特殊機能、“主観時間加速”……サブジェクティブ・タイムレート・アクセラレーション、略してSTRAさ」 「……なんだか、もう……」  現実の話とは思えないなぁ、と詩乃は小さく嘆息した。アミュスフィアと“少し違う”どころではない。  NERDLESテクノロジーだけでも、社会生活はずいぶんと様変わりした。コストダウンが至上命題の一般企業では、すでに会議や営業のたぐいを仮想世界で行うのは当たり前と聞くし、シーンに入り込んで好きな場所から視聴できる3Dドラマや映画が毎日何本も放送され、高度な再現性が売り物の観光ソフトは年配者に大人気、先に和人が言ったように軍事訓練ですら仮想世界で行われる時代なのだ。あまりにも家から出ないで済ませられることが増えすぎたというので、自前の足で目的なく街を闊歩する“散歩族”ブームなどというものが到来し、それに併せて“バーチャル散歩ソフト”が発売されてこれも大好評などというわけのわからない現象も出来している。大手のハンバーガーショップや牛丼チェーンのバーチャル支店が出現したのもそう最近のことではない。  かくの如き仮想世界からの潮流に、現実世界はどこへ押し流されていくのかさっぱり判らない、という昨今の世相だが、そこへソウル・トランスレーターなどというものが登場したら、一体世の中はどうなってしまうのか——と詩乃が薄ら寒いものを感じて両腕をさすっていると、同じようなことを考えたらしく眉をしかめた明日奈が、ぽつりと呟いた。 「長い夢……かぁ……」  隣の和人を見上げ、微かに笑う。 「SAO事件が、ソウル・トランスレーターが普及する前のことでまだしも良かった……って思うべきなのかなぁ……。もしナーヴギアでなくてSTLだったら、アインクラッドが千層くらいあって、クリアに中の時間で二十年くらいかかってたかもね」 「か……カンベンしてくれ」  和人がぶるぶると首を振るのを見て、明日奈はもう一度くすりと笑うと、続けて言った。 「じゃあ、この週末、キリト君はずーっと長い夢を見てたのね?」 「ああ。長時間連続稼動試験があってさ。三日間飲まず食わずでダイブしっ放し。栄養の点滴はしてたけど、やっぱちっと痩せたなぁ……」 「ちっとどころじゃないよー。まったく、またそんな無茶して」  明日奈は可愛らしい怒り顔を作ると、左手で和人の肩をぽこんと叩いた。 「明日あたり、川越までご飯つくりに行くからね! 直葉ちゃんに、野菜いーっぱい仕入れておくように頼んどかなくちゃ」 「お、お手柔らかに」  そんな二人の様子を微笑みながら見ていた詩乃は、そっかー、と頷いてから、ふと感じた疑問を口にした。 「そんなバイトしてたのかぁー。丸三日も拘束されたんじゃ、えーと、時給かける七十二? そりゃここはキリトの奢りで決定だね。——それはそうとしてさ、その三日のダイブ中も、ええと……STRA? は働いてたんでしょ? あんた、中じゃ実際のとこどれくらいの時間を過ごしたわけ?」  和人はひょいっと頭をかたむけ、覚束ない口調で言った。 「……と、言っても、さっき説明したとおり、俺ダイブ中の記憶無いんだよね。でも、STRAは、現状では最大で三倍ちょいって話だからな……」 「てことは……九日?」 「か十日くらいかな」 「ふぅん……。一体どんな世界で何してたんだろうね。持ち出しはできなくても、現実の記憶は中に持ち込めたの? 他にテスターはいたの?」 「いやー、そのへんのこと、マジで何も知らないんだよ。予備知識があると、テストの結果に影響するからってさ。でも、機密保持が目的なら記憶の持ち込みを制限する意味なんかないだろうし……俺が行ってる都内の研究所にはSTLは一台だけだけど、本社にはもっとあるらしいから、同時にダイブしてるテスターもそりゃ居たんじゃないのかな。ほんと、“中”のことは徹底して秘密主義なんだよな……。ビーターとしては、テストのし甲斐が無いったらないよ。教えてもらったのは世界の名前だけさ」 「へえ、何て?」 「“アンダーワールド”」 「アンダー……地下の世界? そういうデザインのVRワールドなの?」 「さあ、世界設定に関しては現実モノなのかファンタジーなのかSFなのか、それすらも教えて貰ってないからな。ただまあ、そういう名前なんだから、地下っぽい暗いとこなのかな……」 「ふうん。なんかピンとこないね」  詩乃と和人がそろって首を捻ると、明日奈が、華奢なおとがいに指を当てながら小さく呟いた。 「もしかしたら……それも、アリスなのかもしれないね」 「アリスって……?」 「さっきのラースって名前もそうだけど、“不思議の国のアリス”から取ってるのかなって。あの本、最初の私家版は、“地下の国のアリス”って名前だったのよね。原題は“アリスズ・アドベンチャー・アンダーグラウンド”だけどね」 「へえ、初耳。もしそうだとしたら、なんか、メルヘンな会社だね」  詩乃は少し笑ってから続けた。 「そう言えば、アリスの本ってふたつとも長い夢の話だよね。……ってことは、もしかしたらキリトもダイブ中に、ウサギとお茶会したり女王様とチェスしたりしてたのかもね」  それを聞いた明日奈も、可笑しそうにあははと笑う。が、当の和人はと言うと、何故か難しい顔でテーブルの一点を見詰めていた。 「……どうかしたの?」 「……いや……」  詩乃が尋ねると視線を上げたが、ぎゅっと眉を寄せ、もどかしそうに瞬きを繰り返している。 「いま、アリス……って聞いて、何か思い出しそうな気がしたんだけどな……。うーん……ほら、よくあるだろ。さっきまで何かすごい気がかりなことを考えてたんだけど、何が気がかりなのかを思い出せなくなっちゃって、その不安な感じだけが残ってる、みたいなこと」 「あー、あるね。怖い夢を見て飛び起きたのに夢の中身が思い出せない、みたいな」 「うう、何か……いますぐにしなきゃいけないことを忘れてる気がする……」  ぐしゃぐしゃと髪をかき回す和人を心配そうに見やりながら、明日奈が訊いた。 「それって、つまり、実験中の記憶ってこと……?」 「でもさ、あんた、仮想世界の記憶は全部消去されてるって言ったじゃない」  続けて詩乃もそう口にする。和人は尚も目を閉じて唸っていたが、やがて諦めたように肩の力を抜いた。 「……まあ、何せ十日分の記憶だからな。デリートしきれない断片がわずかに残ってるのかもな……」 「そっか……そう考えると、もし記憶が残ってたら、あんた、私達より一週間ぶん余計にトシとってるってことになるのよね、精神的に。なんか……怖いね、そういうの」 「わたしはちょっと……嬉しいかな、差が縮まったみたいで」  詩乃と和人よりひとつ年上の明日奈は小さく笑いながらそう言ったが、その顔にもかすかな不安の色が潜んでいるように見えた。 「そういえば……ダイブが終わった直後から、今日学校で授業受けてる時くらいまで、ヘンな違和感あったよ。何か……よく知ってるはずの街とかテレビ番組とか、めちゃくちゃ久しぶりに見る感じがしてさ。クラスの連中も……あれ、誰だっけこいつ、みたいな……」 「十日ぶりくらいで大袈裟なこと言わないでよ」 「ほんとだよー、何か不安になるじゃない」  和人の言葉に、詩乃と明日奈はそろって顔をしかめた。 「キリト君、もうそんな無茶な実験やめてよね。体にだって負担かかってるよ、絶対」 「ああ、長時間連続運転試験は大成功で、基礎設計上の問題点はオールクリアされたそうだから。次はいよいよ実用化に向けてマシンをシェイプする段階だろうけど、ありゃ何年かかるかわかったもんじゃないな……。俺も当分はバイト行かないよ、来月からは期末試験も始まるしな」 「う……」  和人の言葉に、詩乃はもう一度渋面を作った。 「ちょっと、ヤなこと思い出させないでよ。キリトとアスナのとこはいいよ、ペーパーテストとかほとんど無いんだからさ。ウチはいまだにマークシート方式なんだよー、カンベンしてほしいわよまったく」 「ふふ、バレット・オブ・バレッツが終わったら今度は勉強合宿でもしよっか」  言いながら、明日奈は詩乃の背後の壁を見上げ、わ、と小さく声を上げた。 「もう六時近いよ、ほんと、お喋りしてるとあっという間だね」 「そろそろお開きにするか。なんか本題の打ち合わせは五分くらいしかしてなかった気がするけど」  苦笑する和人に、詩乃も笑みを返した。 「ま、詳しい戦術とかは中で決めればいいよ。アスナの武器も選ばないとだし。じゃ……今日はどうも、ごちそーさま」 「へいへい」  自分の携帯をポケットに入れ、反対のポケットから財布を出しながら和人はカウンターに歩み寄った。詩乃と明日奈はそれぞれ自分の鞄を持ち、先に出口へと向かう。 「エギルさん、ご馳走様でした」 「またくるねー」  夜のための仕込みに忙しそうな店主に声をかけ、ウイスキー樽から傘を抜いて、詩乃はドアを押し開けた。カラカラン、と鳴るベルに続いて、町の喧騒と雨音が耳を包む。  日没までにはまだ少し間があったが、厚い雲のせいで、濡れた路面近くにはすでに濃い夜の気配が漂っていた。傘を広げ、小さな階段を一歩降りたところで——詩乃はぴたりと足を止め、素早く周囲に視線を走らせた。 「詩乃のん、どうしたの……?」  背後の明日奈が不思議そうに声をかけてくる。詩乃はハッと我に返り、慌てて道路に出て振り返った。 「う、ううん、なんでもない」  照れ隠しに短く笑う。まさか、うなじにちりりと狙撃手の気配を感じたような気がした、などとはとても言えない。オープンスペースで咄嗟にスナイピングポイントの確認をするクセが現実世界でも出てしまったのか、と考え、少々愕然とする。  明日奈はなおも首を傾げていたが、すぐにもう一度ドアベルが鳴り、その音に押されるように階段を降りた。  財布を仕舞いながら出てきた和人は、傘も差さずに、まだ釈然としないような顔で呟いていた。 「アリス……アリス、か……」 「何よあんた、まだ言ってるの?」 「いや……よく思い出してみると、実験前、意識がシフトする直前に、スタッフが話してたのをちらっと聞いたような気がするんだよな……。A、L、I……アーティ……レイビル……インテリジェン……うーん、何だったかなあ……」  尚もぶつぶつと要領を得ない単語を口中で転がしている和人に、自分の傘を差しかけながら、明日奈が困った人ねえ、と苦笑した。 「ほんと、何かに気を取られるとそればっかりなんだから。そんな気になるなら、次に会社行ったときに訊いてみればいいじゃない」 「まあ……それもそうだ」  和人は二、三度頭を振ると、ようやく手にした傘を開いた。 「んじゃシノン、今夜十一時にグロッケンの“ラスティボルト”で待ち合わせでいいか?」 「了解。遅れないでよ」 「じゃーね詩乃のん、また今夜ねー」 「ばいばい明日奈」  JRで帰る和人と明日奈を手を振って見送り、詩乃は反対方向にある地下鉄の駅目指して一歩足を踏み出した。そこでもう一度、傘の下からそっと周囲を見渡してみたが、先刻感じたような気がした粘つくような視線は、やはりそれが幻であったとでも言うかのごとく、綺麗に消え去っていた。 [#地から1字上げ](第二章 終)     転章 ㈵  人の体温というのは不思議なものだ。  結城明日奈は、ふとそんなことを考えた。  雨は止み、雲の端にかすかな橙を残した濃紺の空の下を、ふたり手を繋いでゆっくりと歩いている。隣に立つ桐ヶ谷和人も、数分前から何事か物思いに沈んでいるようで、唇を閉じたまま歩道の煉瓦タイルに視線を落としていた。  世田谷に住む明日奈と、川越まで帰る和人は、いつもならJR新宿駅で別れてそれぞれ違う電車に乗り換えるのだが、今日は何故か和人が「家の近くまで送るよ」と言い出したのだった。彼の家までは渋谷から更に一時間近くかかってしまうため、そんなことをしていては朝田詩乃との待ち合わせ時間ギリギリになってしまうと思い反射的に断りそうになったが、和人の眼にどこかいつもと違う色の光を見た気がして、明日奈は自然と頷いていた。  最寄駅で降りたあと、どちらからともなく手を繋いだ。  こうしていると、ぼんやりと思い出す情景がある。甘いだけではない、苦く恐ろしい記憶でもあるので普段はほとんど意識にのぼることは無いのだが、たまに和人と手を繋ぐと、ふっと甦ってくるのだ。  現実世界の記憶ではない。旧アインクラッド第五十五層主街区、鉄塔の街グランザムでのことだ。  当時、明日奈/アスナはギルド血盟騎士団の副団長を務めており、護衛としてクラディールという名の大剣使いが四六時中随行していた。クラディールはアスナに対して異常なほどの妄執を抱いており、アスナにギルド脱退を決意させた和人/キリトを、麻痺毒を用いて秘密裏に葬ろうとした。  その過程で三人のギルドメンバーが殺され、あわやキリトも命を落としかけたところに駆けつけたアスナは、激情に身を任せてクラディールを斬った。二人はそのまま五十五層の血盟騎士団本部に戻り、ギルド脱退を告げて、寒風吹きすさぶグランザムの街を手を繋いであてどなく歩いたのだった。  表面的には平静を保っていたが、あの時アスナの胸中には、初めてほかのプレイヤーを手に掛けたことによるパニックが渦巻いていた。死ぬ直前のクラディールの表情、声、爆散するポリゴンの煌めき、それらが繰り返し目の前に再生され、ついに悲鳴を上げてしゃがみこみそうになった時、キリトが言ったのだった。君だけは、何があろうと元の世界に還してみせる、と。  パニックは嘘のように消え去った。同時にアスナは、この人を守るためならわたしは何でもするし、その報いはすべて胸を張って受け止める、と強く思った。  あの瞬間、繋いでいながらそれまで冷たさしか感じなかった右手が、暖炉にかざしたかのようにほわりと暖かくなったのを、明日奈は鮮明に憶えている。仮想世界は消え去り、現実に戻ってきた今でも、こうして手を繋ぐとあの温度があざやかに甦ってくる。  本当に、人の体温というのは不思議なものだ。肉体が自らを維持するためにエネルギーを消費し発している熱に過ぎないはずなのに、触れ合った掌で交換されるそれには明らかに何らかの情報が含まれている感触がある。その証拠に、お互い黙って歩いているのに、和人が何か大事なことを言い出そうとして逡巡しているのが明日奈にははっきりと判る。  人の魂とは、細胞の微小構造中に封じ込められた光子だ、と和人は言った。そのマイクロチューブルが存在するのは当然、脳細胞だけではないのだろう。全身の細胞にたゆたう光の粒たちはそれぞれ何らかの情報を担い、それらが作り出す量子場が、いま互いの掌を通じて接続している。体温を感じるというのは、つまりそういうことなのかもしれない。  その様子を想像しながら、明日奈は心の中で囁いた。  ——ほら、大丈夫だよ、キリト君。いつだって、わたしはあなたの背中を守ってる。わたし達は、世界最高のフォワードとバックアップなんだから。  不意に和人が立ち止まり、まったく同時に明日奈も足を止めた。ちょうど七時になったのか、二人の頭上で古めかしい青銅色の街灯がオレンジ色の光を灯した。  雨上がりの黄昏時、住宅街の隘路に明日奈たち以外の人影は無かった。和人はゆっくり向き直り、濃い色の瞳でじっと明日奈の眼を見ながら口を開いた。 「アスナ……俺、やっぱり行こうと思う」  ここしばらく和人が進路のことで悩んでいたのを知っていた明日奈は、微笑みながら訊き返した。 「サンタクララ?」 「うん。一年かけていろいろ調べたけど、あそこの大学で研究してる“ブレイン・インプラント・チップ”がやっぱり次世代VR技術の正常進化形だと思うんだ。マンマシン・インタフェースは絶対にその方向で進んでくよ。どうしても、見たいんだ。次の世界が生まれるところを」  明日奈は真っ直ぐ和人の瞳を見詰め返し、こくりと大きく頷いた。 「つらいこと、哀しいこと、一杯あったもんね。何のために、どこにたどり着くために色んなことが起きたのか、見届けなきゃね」 「……そのためには何百年生きても足りそうにないけどな」  和人は小さく笑い、次いで再び口篭もった。  二人が離れ離れになることを言い出せないでいるのだろう、と明日奈は思い、もう一度微笑んで、ずっと胸のうちに暖めていた自分の答えを言葉にしようとした。だが、口を開く前に、和人が、かつて別の世界で結婚を申し込んだときとまったく同じ表情で、つっかえながら言った。 「それで……、お、俺と、一緒に来てほしいんだ、アスナ。俺、やっぱ、アスナが居ないとだめだ。無茶なこと言ってるって判ってる。アスナにはアスナの進みたい方向があるだろうって思う。でも、それでも、俺……」  そこで和人は戸惑ったように言葉を切った。明日奈が目を丸くし、次いで小さく吹き出したからだ。 「え……?」 「ご……ごめん、笑ったりして。でも……もしかしてキリト君、最近ずっと悩んでたのは、そのことなの?」 「そ、そりゃそうだよ」 「なぁーんだ。わたしの答えなら、もうずーっと前から決まってたのに」  明日奈は、右手で握ったままだった和人の手に、左手も重ねた。かつて別の世界で結婚を申し込まれたときとまったく同じようにゆっくり頷きながら、その先を言葉にする。 「もちろん、行くよ、一緒に。キミの行く世界なら、どこだって」  和人は小さく息を吸い込み、しばし目を見張ったあと、滅多に見せることのない大きな笑顔を浮かべた。二、三度瞼をしばたかせたあと、右手をそっと明日奈の肩に載せてくる。  明日奈も、ほどいた両手をしっかりと和人の背に回した。  触れ合った唇は、最初ひんやりとしていたがすぐに暖かく溶け合い、その瞬間明日奈はもう一度、互いの魂を作る光が絡まって一体となるのを意識した。たとえこれから、どんな世界をどれだけの年月旅しようと、わたし達の心が離れることは絶対にない、強くそう確信した。  いや、二人の心は、もうとっくに結びついていたのだ。アインクラッド崩壊の時、虹色の光に溶けて消え去ったあの時から——もしかしたら、それより遥か以前、敵として出会い、剣を交えたその瞬間から。 「だけど、さ」  数分後、再び手を繋いで煉瓦道を歩きながら、明日奈はふと感じた疑問を口にした。 「ソウル・トランスレーター……あれは、正常進化じゃない、ってキリト君は思うの? ブレイン・チップはNERDLESと同じ細胞レベル接続だけど、STLはその先、量子レベルのインタフェースなんでしょ?」 「うーん……」  和人は反対側の手にぶら下げた傘の先で、煉瓦をこつこつと叩いた。 「……確かに、思想としてはブレイン・チップより先進的かもしれない。でも、何ていうか……先進的すぎるんだ。あのマシンを、民生用にダウンサイジングするのは多分不可能だよ。あれは、仮想世界に同時に何万人、何十万人のオーダーで接続するための機械じゃない気がする」 「ええ? じゃあ、何のためのマシンなの?」 「魂レベルで仮想世界にダイブさせる、というより、むしろ、そのダイブによって魂……フラクトライトそのものを知るためのマシンなんじゃないかな……。その先に何があるのか、俺もまだよく判らないんだけど……」 「ふうん……」  つまりSTLは目的そのものではなく、手段だということなんだろうか、と明日奈は考え、魂を知ることで一体何ができるのか想像しようとしたが、その前に和人が言葉を続けた。 「それに、さ。STLは言わば……ヒースクリフの思想の延長にあるマシンだと思うんだ。あの男が、何のためにアインクラッドを作って一万人も殺して、自分の脳も焼き切って、ザ・シードなんてものをばら撒いたのか……その目的がなんだったのか、そもそも目的なんてあったのかどうか、俺にはさっぱりわからないけど、STLっていう化け物マシンには、あいつの気配がある気がするんだよ。その目指すところを知りたい気はするけど、それを自分の進路にはしたくない。いつまでもあいつの掌で躍ってるような気がして嫌になるからな」 「……そっか……団長の……。……ね、団長の意識、っていうか思考と記憶の模倣プログラムは、まだどっかのサーバーで生きてるんだよね? キリト君は、話をしたんでしょう?」 「ああ……一度だけ、な。あいつが自殺するのに使ったマシンは、メディキュボイド、そしてSTLの言わば原型だ。ヒースクリフが自分の思考コピーに何らかの目的を持たせていたとするなら、それはラースがSTLでしようとしていることと無関係じゃないと思う。今のバイトを続けることで……何らかの決着を見つけたいと、俺は思ってるのかもしれないな……」  すっと視線をどこか遠くに動かした和人の横顔を、明日奈はしばらく見つめていたが、やがてそっと呟いた。 「……ひとつだけ、約束してね。もう絶対、危ないことはしない、って」 「もちろん、約束するよ。来年の夏にはアスナと一緒にアメリカに行けるんだから」 「その前に、SATでいい点取れるようにがんばって勉強しないとね?」 「う……」  ふふ、と笑って、明日奈は握った手にきゅっと力を込めた。 「ね、みんなには……いつ言うの?」 「その前に、一度、アスナのご両親に挨拶しないとな……。彰三氏とはときどきメールやり取りしてるけど、お母さんの覚えが悪そうだからなあ俺……」 「へーきへーき、最近はずいぶん物分りいいから。あ、そうだ……どうせなら、今日ちょっと寄っていかない?」 「ええ!? い、いや……期末試験が終わったら、改めて伺うよ、うん」 「まったくもう」  明日奈は少し唇を尖らせて見せてから、しょうがないなあ、というように笑った。和人も照れたように片頬に笑みを浮かべる。  いつのまにか、自宅から程近い小さな公園の前に差し掛かっていた。明日奈は名残惜しい気分を味わいながら立ち止まり、わずかに高いところにある和人の目をじっと覗きこんだ。もう一度キスをねだるように、軽く睫毛を伏せる。  和人も明日奈の右肩に手を乗せ、そっと首を傾けた。  距離が五センチまで縮まったその時だった。背後から、ごつごつと重い足音が響いてきて、明日奈は反射的に体を遠ざけた。  振り向くと、少し先にあるT字路から小走りに飛び出してきた人影が視界に入った。黒っぽい服装をした長身の男は、明日奈と和人に視線を止めると、すいませぇん、と間延びした声を上げながら近づいてきた。 「あのぉ、駅はどっちの方ですか?」  ぺこぺこ頭を下げながら、そう訊いてくる。明日奈は内心で小さなため息をつきつつ、一歩進み出て、笑顔を作りながら口を開いた。 「えっと、この道をまっすぐこっちに進んで、最初の信号を右に曲がって……えっ」  突然和人が、強い力でぐいっと明日奈の肩を引いた。思わずよろけるが、和人は前に出ると、明日奈を更に大きく後方に押しやる。 「ど、どうし……」 「お前……ダイシー・カフェの近くに居たな。誰だ」  鋭い口調で、和人は明日奈の思いもかけないことを言った。息を飲み、改めて男の顔を見る。  斑に色の抜けた長髪。頬のこけた輪郭線は、無精髭に濃く覆われている。耳には銀のピアス、首元にも太い銀の鎖。退色した黒のプリントTシャツに、同じく黒の革パンツを穿き、腰からも金属チェーンがじゃらじゃらと下がっている。足は、この季節なのに重そうな編み上げブーツに包まれ、全体として埃っぽい色が染み付いた印象だ。  ぼさぼさの前髪の隙間から、笑ったように細い目が覗いていた。男は、和人が何を言っているかわからない、というように首を傾げ、眉を寄せてから——突然、暗い瞳にいやな色の光とギラリと浮かべた。 「……やっぱ、不意打ちは無理か」  打って変わって低い、ざらついた声だった。唇の端がぎゅっと歪み、笑みだか苛立ちだかわからない形を作る。 「お前は、誰だ」  重ねて和人が問いただした。男は肩をすくめると二、三度首を振り、大きなため息を吐いた。 「ヘイ、ヘイ、そりゃあないよキリト。オレの顔忘れたのかよ。オレは忘れたことなかったぜ、この一年半。ソー・バッドだな」 「お前っ……」  和人の背中がびくりと緊張した。右足を引き、軽く腰を落とす。 「——ジョニー・ブラック!」  電光のように閃いた右手が、肩の上、何も無い空間を掴んだ。かつてキリトの背に装備された片手直剣の柄があった、まさにその場所を。 「プッ、クッ、クハハハッハハハ! 無いよ、剣無いよ!!」  ジョニー・ブラックと呼ばれた男は、上体を捩って甲高い笑い声を迸らせた。和人は全身を緊張させたまま、ゆっくりと右手を下ろす。  明日奈は、その名前を知っていた。旧アインクラッドにおける積極的殺人者、レッド・プレイヤーの中でもかなり通りの良かった名だ。“ラフィン・コフィン”というギルドに属し、ザザという男とコンビを組んで十人を超えるプレイヤーをその手に掛けた。  脳裏に浮かんだ新しい名前は、更なる情報を明日奈の記憶から引き出した。“赤眼のザザ”——その名前は、ほんの半年前にも聞いたはずだ。そう……あの、恐るべき死銃事件の首謀者として。  主犯のザザとその弟は逮捕され、しかし三人目の仲間は逃亡中、と事件直後に聞いた。当然、もう捕まっているだろうと思っていたその犯人の名は、確かカナモト……そして、昔ザザとコンビを組んでいた男……。ということは——。 「お前……まだ逃げていたのか」  和人が掠れた声で言った。ジョニー・ブラックこと金本は、にいっと嗤うと両手の人差し指を和人に向けた。 「オフコ——ス。ザザが捕まる前に、キリトの奴だけはどうしても仕留めてくれって頼まれたからよ。あの喫茶店を探し当てるまで五ヶ月、その前に張り込んで一ヶ月……ヘイトな日々だったぜー」  くっくっ、ともう一度喉を鳴らし、金本はぐるんと両目を回した。 「しかしキリト、剣の無いてめえはなんつーか……単なるひ弱なガキだなぁ? 顔は同じだけど、オレを散々ぶちのめしたアイツと同一人物とは思えねーなぁ」 「そう言うお前も……得意の毒武器無しで何ができるんだ?」 「ヘイ、見た目で武装を判断するのは素人だぜ」  金本は蛇のような速さで右手を背中に回し、シャツの中から何かを掴み出した。  奇妙な代物だった。のっぺりとしたプラスチック製の円筒から、簡単な握り部分が突き出している。明日奈は一瞬水鉄砲かと思ったが、和人の背中が一層強張るのを見て息を飲んだ。途惑いは、続く和人の声を聞いて驚愕に変わった。 「デスガン……! 貴様っ……」  和人は後ろに右手を突き出し、明日奈に退がるよう促した。同時に、左手に持っていた畳んだ傘の先端を、ぴたりと金本の顔に向ける。  一歩、二歩と意識せぬまま後ずさりながら、明日奈の目はプラスチック製の銃に吸い寄せられていた。あの道具の話も、和人や詩乃から聞いていた。あれは高圧ガスを利用した注射器で、内部には心臓を止める恐ろしい薬品が充填されているのだ。 「あるよー、毒武器あるよぉー。ナイフでないのが残念だけどなー」  注射器の先端を円を描くように動かしながら、金本は軋るように笑った。和人は両手で握った傘を油断なく金本に向けながら、低い声で叫んだ。 「アスナ、逃げろ! 誰か人を呼んでくるんだ!」  一瞬の逡巡のあと、明日奈は頷き、くるりと振り向いて駆け出した。背中に向かって、金本の声が飛んでくるのが聞こえた。 「おい、“閃光”! ちゃんと周りに言うんだぜぇ……“黒の剣士”の首を取ったのはこのジョニー・ブラックだってなぁ!」  最寄の家のインターホンまでは、直線距離で三十メートルほどだった。 「誰か……助けて!!」  明日奈は精一杯の大声で叫びながら走った。和人を置いて逃げたのは間違いだったのではないか……二人で同時に飛び掛り、あの武器を押さえるべきだったのではないか、そう思いながら距離を半分ほど駆け抜けたとき、その音が耳に届いた。  炭酸飲料のキャップを捻るような、ヘアスプレーを吹くような、短く、鋭い圧搾音だった。だが、その意味するところを理解するに従って、恐怖のあまり明日奈の足はもつれ、よろけて、濡れた煉瓦に片手を突いた。  明日奈は、肩越しにゆっくり振り向いた。  視界に入ったのは凄絶な光景だった。  和人の握った傘の、金属製の石突が金本の腹部右側に根元まで突き刺さっている。  そして金本の握った注射器は、和人の左肩に強く押し当てられていた。  二人は同時にぐらりと上体を傾けると、そのまま鈍い音を立てて路上に倒れこんだ。  それからの数分間は、色の無い映画を見ているように現実感のないものだった。  明日奈は動こうとしない脚に鞭打って和人の傍まで駆け寄った。腹を押さえて苦悶している金本から和人を引き離し、しっかりして、と叫んだあと、ポケットから引っ張り出した携帯端末を開いた。  指は凍ったように感覚がなかった。強張ったその先端で必死にボタンを押し、オペレーターに現在地と状況を機械的に告げた。  今更のように集まってくる野次馬。誰かが通報したのか、人垣を割って現れる警官。明日奈は質問に短く答えただけで、あとはずっと和人の体を抱き締めつづけた。  和人の呼吸は短く、浅かった。苦しそうな息の下で、彼は二言だけ短く囁いた。「アスナ、ごめん」と。  永遠のような数分間ののち、到着した二台の救急車の片方に和人は搬入され、明日奈も付き添って乗り込んだ。  意識を失いストレッチャーに横たわる和人の気道を確保しながら、口元に顔を近づけた救急救命士は、すぐさま同乗している救急隊員に向かって叫んだ。 「呼吸不全を起こしている! アンビューバッグを!」  慌しく呼吸器が用意され、和人の口と鼻を透明なマスクが覆う。  明日奈はともすれば悲鳴を上げそうになる喉をどうにか押さえつけ、奇跡のように思い出した薬品名を救命士に告げた。 「あの、さ、サクシニルコリン……っていう薬を注射されたんです。左肩です」  救命士は一瞬の驚愕を見せたあと、矢継ぎ早に新しい指示を飛ばした。 「エピネフリン静注……いや、アトロピンだ! 静脈確保!」  シャツを脱がされた和人の左腕に輸液用の針が装着され、胸に心電モニターの電極が貼り付けられた。更に飛び交う声。空気を切り裂くサイレン。 「心拍、低下しています!」 「心マッサージ器用意!」  瞼を閉じた和人の顔は、蛍光灯の下で恐ろしいほど青ざめて見えた。やだ、やだよ、キリト君、こんなのやだよ、という小さい声が自分の口から出ていることに明日奈はしばらく気付かなかった。 「心停止!」 「マッサージを続けて!」  うそだよね、キリト君。わたしを置いて、どこかに行ったりしないよね。ずっと……一緒だって、そう言ったよね。  明日奈は、固く握ったままだった携帯端末に視線を落とした。  ELモニタに表示されているピンク色のハートは、一度小さく震えたあと、その鼓動を止めた。デジタル数字が、冷酷なまでに明確なゼロの値へと変化し、そのまま沈黙した。 [#地から1字上げ](第二章 終)     第三章  空気に、匂いがある。  覚醒直前の断片的な思考のなかで、ふとそんなことを意識した。  鼻腔に流れ込んでくる空気には、大量の情報が含まれている。甘やかな花の匂い。青々とした草の匂い。肺胞を洗うように爽快な樹の匂い。渇いた喉を刺激する水の匂い。  聴覚に意識を傾けると、途端に圧倒的な音の洪水が流れ込んでくる。無数に重なった葉擦れの音。陽気にさえずる小鳥の声。その下で控えめに奏でられる虫の羽音。更に遠くからかすかに届くせせらぎ。  どこだろう。少なくとも、自分の部屋じゃないな、などと今更のように考える。普段の目覚めに必ず付随する、乾いたシーツの日向くさい匂いやドライ運転のエアコンの唸り、階下から漂う味噌汁の香りといったものが一切存在しない。それに——さっきから閉じた瞼を不規則に撫でる緑の光は、消し忘れた照明ではなく木漏れ日ではないだろうか。  もう少しだけ深い眠りの余韻に漂っていたい、という欲求を押し退け、俺はようやく目を開けた。  揺れる無数の光がまっすぐ飛び込んできて、何度も瞬きを繰り返す。滲んだ涙を、持ち上げた右手の甲でごしごし擦りながら、ゆっくり上体を起こす。 「……どこだ……?」  思わず呟いた。  まず目に入ったのは、淡い緑色の草叢だった。所々に白や黄色の小さな花が群生し、それらの間を光沢のある水色の蝶が行ったり来たりしている。草の絨毯はほんの五メートルほど先で途切れ、その向こうは、樹齢何百年とも知れない節くれだった巨木が連なる森のようだった。幹の間の薄暗がりに目を凝らすと、光の届く限りの範囲まで木々はずっと続いているように見える。ごつごつ波打つ樹皮や地面はふかふかした苔で覆われ、差し込む陽光を受けて金緑色に輝いている。  首を右に動かし、ついで体ごと一回転してみたが、古木の幹はすべての方位で俺を出迎えた。森の中に開けた小さな円形の草地、その中心に俺は寝転んでいたらしい。最後に頭上を見上げると、四方から伸びる節くれだった梢の隙間に、ちぎれ雲の漂う青い空を望むことができた。 「ここは……どこだ」  もう一度、ぽつりと呟いた。が、答える声は無い。  こんな所に来て昼寝をした憶えは、どう記憶をひっくり返しても出てこなかった。夢遊病? 記憶喪失? 脳裏を横切る物騒な単語を、まさか、と慌てて打ち消す。  俺は——俺の名前は、桐ヶ谷和人。十七歳と八ヶ月。埼玉県川越市で、母親と妹の三人暮らし。  自分に関するデータが滑らかに出てきたことにやや安堵しながら、更に記憶を手繰る。  高校二年生。だが、来年の前学期には卒業要件単位を満たすので、秋には進学しようと考えている。そうだ、そのことに関して相談をしたはずだ。あれは六月最後の月曜日、雨が降っていた。授業が終わったあと、御徒町にあるダイシー・カフェに行って、ゲーム仲間のシノンと大会の打ち合わせをした。  そのあと、アスナ——そう、結城明日奈と合流して、しばらくお喋りをしてから店を出た。 「アスナ……」  恋人であり、全幅の信頼を置いて背中を任せるパートナーでもある少女の名前を俺は思わず口にした。傍らにあるのが当たり前になりつつあったその姿を探して周囲を何度も見回したが、小さな草地はもちろん深い森のどこにも彼女を見出すことはできなかった。  突然襲ってきた心細さと戦いながら、記憶を遡る作業に戻る。  店を出た俺とアスナは、シノンと別れて電車に乗った。JRを下回りに渋谷に出て、東横線に乗り換えてアスナの家がある世田谷へと。駅を出ると雨が止んでいた。濡れた煉瓦貼りの歩道を並んで歩きながら、進学の話をした。アメリカの大学へ行きたいと考えていることを打ち明け、アスナも一緒に行って欲しいと無茶な頼みごとをして、それに対して彼女はいつもの、穏やかな日差しのような笑顔を見せ、そして——。  記憶は、そこで途切れていた。  思い出せない。アスナが何と答えたのか、どうやって別れ、駅まで戻ったのか、家には何時に帰り、何時ごろ寝たのか、まったく思い出すことができない。  やや愕然としながら、俺は必死に記憶を引っ張り出そうとした。  だが、アスナの笑顔が水に滲むようにぼやけて消えていくばかりで、それに続くべきシーンはどこをどう押しても引いても出てくることはない。目を閉じ、眉をしかめて、灰色の空白を懸命に掘り返す。  赤い——点滅する光。  気が狂いそうな息苦しさ。  ちっぽけな泡のように浮かんできたイメージは、そのふたつだけだった。思わず、胸一杯に甘い空気を吸い込む。今まで忘れていた喉の乾きが激しく意識される。  間違いない、俺は昨日、世田谷区宮坂にいたはずだ。それがなぜ、こんなどことも知れない森の中、一人で寝ているのか。  いや、本当に昨日なのか? 先ほどから肌を撫でていく風はひんやりと心地よい。六月末の蒸し暑さが、その中には欠片も存在しない。俺の背中を、今更のように本格的な戦慄が走り抜ける。  俺が今、大時化の海に浮かぶ小さな浮き輪の如く必死にしがみついているこの“昨日の記憶”は、果たして本当にあった事なのだろうか……? 俺は、本当に俺なのか……?  何度も顔を撫でまわし、髪を引っ張ってから、下ろした両手を仔細に眺める。記憶にあるとおり、右手親指の付け根に小さな黒子を、左手中指の背に子供の頃作った傷痕を発見し、ほんの少し胸を撫で下ろす。  そこでようやく、俺は自分が妙な恰好をしていることに気付いた。  普段寝るとき身に付けているTシャツとトランクスでも、学校の制服でも、いや手持ちの服のどれでもない。それどころか、どう見ても市販の既製服とは思えない。  上着は、薄青く染められた、荒い綿かもしかしたら麻の半袖シャツだ。布目は不規則で、ざらざらした感触。袖口の糸かがりも、ミシンではなく手縫いのようだ。襟は無く、V字に切られた胸元に茶色の紐が通されている。指先で摘んでみると、繊維を編んだものではなく、細く切った革のように思える。  ズボンも上と同じ素材で、こちらは生成りと思しきクリーム色だった。丈はすねの中ほどまでしかない。ポケットの類はひとつもなく、腰に回された革製のベルトは、金属のバックルではなく、細長い木のボタンで留められている。靴も同じく手縫いの革製で、厚い一枚革の靴底には滑り止めの鋲がいくつも打ってある。  こんな服や靴に、お目にかかったことは無かった。——現実世界では、だが。 「なんだ」  俺は軽い溜息とともに小さくそう口にした。  果てしなく異質だが、しかし同時に見慣れた服装でもある。中世ヨーロッパ風の、言い換えればファンタジー風の、いわゆるチュニック、ハーフパンツ、そしてレザーシューズ。ここは、現実ではなくファンタジー世界、つまりお馴染みの仮想世界なのだ。 「なんだよ……」  もう一度呟き、改めて首を捻る。  どうやら、ダイブ中に寝てしまったらしい。しかしいつ、何のゲームにログインしたのか、さっぱり憶えていないのはどうしたことか。  何にせよ、ログアウトしてみればわかることだ、そう思いながら俺は右手を振った。  数秒待ってもウインドウが開かないので、今度は左手を振った。  途切れることのない葉音と鳥の囀りを聴きながら、腰のあたりから這い登ってくる違和感を懸命に振り払う。  ここは仮想世界だ。そのはずだ。だが——少なくとも、馴染んだアルヴヘイム・オンラインではない。いや、アミュスフィアが生成する、ザ・シード準拠のVRワールドではない。  なんとなれば、つい先刻俺は、手に現実世界と同じ黒子と傷痕を確認したではないか。そんなものを再現するアミュスフィア規格のゲームは、俺の知る限り存在しない。 「コマンド。……ログアウト」  薄い望みを抱きながらそう発音したが、一切のレスポンスは無かった。胡坐をかいたまま、改めて自分の手を眺める。  指先で渦を巻く指紋。関節部に刻まれた皺。薄く生えた産毛。先ほどからにじみ出てくる冷や汗の粒。  それを上着で拭い、ついでにもう一度布地を仔細に確認してみる。荒い糸を、原始的な方法で布に編んである。表面に毛羽立つ極細の繊維までがはっきりと見える。  ここが仮想世界だとすると、それを生成しているマシンは恐るべき高性能機だ。俺は視線を前方に据えたまま、右腕を素早く動かして傍らの草を一本千切りとり、目の前に持ってきた。  従来のVRワールドに使われているディティール・フォーカシング技術なら、俺の急激な動きに追随できず、草が細部のテクスチャーを得るのにわずかなタイムラグが発生したはずだ。しかし眼前の草は、細かく走る葉脈や縁のぎざぎざ、切り口から垂れる水滴にいたるまで、俺が凝視した瞬間から超微細に再現されていた。  つまりこの世界は、視界に入るすべてのオブジェクトを、マイクロメートル単位でリアルタイム生成しているということになる。容量で言えば、この草一本で数十メガバイトにのぼるだろう。そんなことが、果たして可能なものだろうか?  俺は、これ以上追及したくない、という心の声を押さえつけ、足の間の草を掻き分けると右手をシャベルがわりに土を掘り返してみた。  湿った黒土は案外柔らかく、たちまち細く絡み合った草の根っこが目に入った。網目のようなその隙間にもぞもぞと動くものを見つけ、指先でそっとつまみ出す。  三センチほどの小さなミミズだった。安住の地から引っ張り出され、懸命にもがくそのミミズは、しかし光沢のある緑色で、オマケにキューキューと細い鳴き声を上げた。俺は眩暈を感じながらそいつをもといた場所に戻し、掘り返した土をその上にかけた。右手を見ると、掌がしっかりと黒く汚れ、爪の間に細かい土の粒が入り込んでいた。  たっぷり数十秒間放心したあと、俺は嫌々ながら、この状況を説明するに足る可能性を三つばかり捻り出した。  まず、ここが、従来のNERDLES技術の延長線上にあるVR世界である、という可能性。しかしその場合、俺の記憶にあるどんなスーパーコンピュータでもこんな超微細な3Dワールドは生成できない。つまり、俺が記憶を失っているあいだに、現実時間で数年、もしかしたら数十年の時間が経過してしまった、ということになる。  次に、ここは現実世界のどこかである、という可能性。つまり俺は何らかの犯罪、あるいは違法実験、あるいは手酷い悪戯の対象となり、こんな服を着せられて地球上のどこか——気候からして北海道、ことによると南半球か?——の森に放り出された。しかし、日本にはキューキュー鳴くメタリックグリーンのミミズはいないと思うし、世界のどこかの国にいたという記憶もない。  そして最後は、ここが本物の異次元、異世界、ことによると死後の世界であるという可能性だ。マンガや小説、アニメではお馴染みの出来事。それらのドラマツルギーに従えば、俺は今後、モンスターに襲われた女の子を助けたり村の長の頼みごとを聞いたり救世の勇者として魔王と戦ったりするのだろう。そのわりには、腰には“銅の剣”の一本もありゃしない。  俺は腹を抱えて大爆笑したいという急激な欲求に襲われ、どうにかそれをやり過ごしてから、三つ目の可能性は完膚なきまでに排除することにした。現実と非現実の境界を見失うと、ついでに正気も無くしてしまいそうな気がしたからだ。  つまるところ——ここは仮想世界か、あるいは現実世界だ。  前者なら、たとえどれほどスーパーリアルな世界であろうと、その真偽を確かめるのはそう難しくない。手近な樹の天辺まで登り、頭から墜落してみればわかる。それでログアウト、あるいはどこぞの寺院なりセーブポイントで蘇生すれば仮想世界である。  しかし、もしもここが現実世界であった場合、その実験は最悪の結果を招く。ずいぶん昔に読んだサスペンス小説で、とある犯罪組織が、リアルなデスゲームのビデオを撮影するために、人を十人ほど攫って無人の荒野に放り出して殺し合いをさせるという奴があった。そんなことが現実に行われるとは中々思えないが、それを言ったらSAO事件だって同じくらい突拍子も無い出来事だったのだ。もしこれが現実世界を舞台に行われているゲームなら、スタート直後に自殺するのはあまりいい選択肢とは思えない。 「……そういう意味じゃあ、アレはまだマシだったのかなあ……」  俺は無意識のうちにそう口に出していた。少なくとも、茅場晶彦はゲーム開始時点にあれこれ細かい説明をするという最低限の義務は果たしたのだ。  梢の向こうに覗く空を見上げ、俺はもう一度口を開いた。 「おい、GM! 聞いてたら返事しろ!!」  だが、どれだけ待っても、巨大な顔が現われたり、フードを被った人影が横に出現したりということは無かった。もしやと思い周囲の草むらを再度仔細に調べ、衣服のあちこちを手で探ったが、ルールブックに類するものを見つけることもできなかった。  どうやら、俺をこの場所に放り出した何者かは、サポートヘルプには一切応じるつもりはないようだ。事態が、ある種の偶発的事故によるものでないのなら、だが。  鳥たちの呑気な囀りを聞きながら、俺は今後の方針について懸命に考えた。  もし、これが現実の事故であるなら、迂闊に動き回るのはあまりいい考えではないような気がする。現在、この場所に向かって救助の手が近づきつつあるかもしれないからだ。  しかし、一体どのような事故が起きればこんな訳のわからない状況が出来するというのだろう。無理矢理にこじつけるなら、例えば旅行か何かで移動中に乗り物——飛行機なり車なりがトラブルを起こし、この森に落下して気絶、そのショックで前後の記憶を失った、ということも有り得なくはないのかもしれない。しかしそれでは、この妙な服装の説明がつかないし、また体のどこにも擦り傷ひとつ負っている様子はない。  あるいは、仮想世界にダイブ中の事故、ということもあるのかもしれない。通信ルートに何か障害が発生し、本来繋がるべき世界ではない場所にログインしてしまった、というような。しかしやはりその場合も、オブジェクトの恐るべきハイディティールっぷりを説明することはできない。  やはりこれは、何者かの意図によってデザインされた事態と思うほうが無理がないように思える。であるなら、俺から何か行動を起こさない限り状況は一切変化しない、と考えたほうがいい。 「どっちにせよ……」  ここが現実なのかVRワールドなのか、それだけはどうにかして見極める必要がある、と俺は呟いた。  何か方法があるはずだ。完璧に近づいた仮想世界は現実と見分けがつかない、とはよく使われるフレーズだが、現実世界の森羅万象を百パーセントシミュレートするなどということが可能だとは思えない。  俺はしゃがみこんだ恰好のまま、五分近くもあれこれ考えつづけた。が、現状で実行可能なアイデアは、ついに出てくることはなかった。もし顕微鏡があれば、地面に微生物が存在するかどうか調べられるし、飛行機があれば地の果てまで飛んでみることもできる。しかし悲しいかな生身の手足だけでは、地面を掘るくらいがせいぜいのところだ。  こんな時、アスナならきっと俺などが思いもよらない方法で世界の正体を判別してのけるんだろうなあ、と考え、短く嘆息する。あるいは彼女なら、くよくよいつまでも座り込んでいないで、とっとと行動に出ているのかもしれない。  再び襲ってきた心細さに、俺は小さく唇を噛み締めた。  アスナに連絡を取れないというだけで、こんなにも途方に暮れている自分に少々驚きもするし、そうだろうな、と納得する部分もある。この二年というもの、殆どすべての意思決定を彼女との対話を通して行ってきたのだ。今では、アスナの思考回路なしでは、俺の脳は一方のコアが動かないデュアルCPUのようなものだ。  主観時間ではつい昨日、エギルの店で何時間もお喋りに興じたのが嘘のように思える。こんなことなら、STLの話なんかしないで、現実世界と超精細仮想世界の見分け方でもディスカッションしておくべきだった…… 「あっ……」  俺は思わず腰を浮かせた。周囲の音が急速に遠ざかる。  何ということだ、今までそれを思い出さなかったとはまったくどうかしている。  俺は知っていたはずじゃないか。NERDLESマシンを遥かに超える、超現実とでも言うべきVRワールドを生成できるそのテクノロジーを。それでは——ということは、ここが——。 「ソウルトランスレーターの中……? ここが、アンダーワールドなのか……?」  呟いた声に応えるものはいなかったが、俺はそれをほとんど意識もせずに呆然と周囲を見回した。  本物としか思えない節くれだった古木の森。揺れる草叢。舞う蝶。 「これが夢……? 俺の深層イメージの加工物だっていうのか……?」  ベンチャー企業“ラース”でのアルバイト初日に、STLの大雑把な仕組みとそれが生成する世界のリアルさについては説明を受けていた。しかし、実際に仮想世界を見た記憶の持ち出しが許されないために、俺は今までぼんやりと想像することしかできなかった。“組み立てられた夢”というその言葉が導く印象は、酷く混沌とした、一貫性のない舞台劇というようなものだった。  ところがどうだ。いま俺の目に入るあらゆるオブジェクトは、リアル、つまり現実っぽい、などというレベルのものではない。ある意味では現実以上である。空気の匂いも、風の感触も、鮮やかな色彩をもつ風景のすべてが、初代ナーヴギアをはるか上回るクリアさで俺の五感を刺激している。  もしここがSTLによって作られた世界なら、それがバーチャルなものであることを何らかのアクションによって確かめるのはほとんど不可能だ。なぜなら、周囲のオブジェクトはすべて、デジタル処理されたポリゴンではないからだ。俺は、現実世界で草の葉を千切り、眺めたときと全く同じ情報を脳——フラクトライトに与えられるのであり、原理的にそれがどちらの世界に属するものなのか判別することはできない。  STL実用化の暁には、世界がそれとわかるようなマーカーが絶対に必要だな……と思いながら、俺はふうっと肩の力を抜き、立ち上がった。  まだ完全な確証を得られたわけではないが、ここは“アンダーワールド”なのだと考えるのがもっとも自然だろう。つまり俺は現在、時給三千五百円のバイト中なのだ。 「いや、でも……ヘンだな……?」  ほっとしたのも束の間、俺はふたたび首を捻ることになった。  担当エンジニアは、確かにこう言っていたはずだ。実験データの汚染を避けるため、アンダーワールドに現実世界の記憶は持ち込めない、と。だが今の状況はそれとはほど遠い。俺が失っているのは、アスナを家に送っていくところからマシンに接続するまでのごく部分的な記憶だけだ。そもそも俺は、間近に迫った期末考査の勉強をするために、当分ラースでのバイトはしないつもりだったのだ。  この状況がSTLのテスト・ダイブなのだとしても、何か深刻な齟齬が起きているのは間違いない。俺は、以前もらったエンジニアの名刺をどうにか思い出しながら、再び上空を振り仰いだ。 「平木さん! 見てたら、接続を中止してくれ! 問題が発生してるみたいだ!」  たっぷり十秒以上、そのまま待った。  しかし、うららかな日差しの下に緑の梢が揺れ、眠そうに蝶が羽ばたきつづける光景は何一つ変化することはなかった。 「……もしかしたら……」  俺は溜息とともに呟いた。  もしかしたら、この状況そのものが、俺も納得ずくの実験である、ということなのかもしれなかった。つまり、自分のいる場所がSTLの内部なのかどうか確信できないユーザーは、一体どのような行動を取るのか、というデータを採取するために、ダイブ直前の記憶をブロックして身一つで仮想世界に放り込む。  仮にそうだとしたら、そんな底意地の悪い実験に軽々しく同意した自分の頭を、思い切り小突いてやりたい気分だ。自分なら的確かつ俊敏な行動によって容易く脱出してのけるはず、などと思っていたのなら噴飯ものとしか言いようがない。  俺は、右手の指を折りながら、現状を説明するに足るいくつかの可能性を、いいかげんなパーセンテージつきで列挙した。 「ええと……ここが現実である可能性、三パーセント。従来型VRワールドである可能性、七パーセント。合意によるSTLテストダイブである可能性、二〇パーセント。STLダイブ中の突発的事故である可能性、六九・九九九九パーセント……ってとこか……」  心の中で、ホンモノの異世界に迷い込んだ可能性〇・〇〇〇一パーセント、と付け加え、俺は右手を腰に当てた。これ以上は、なけなしの知恵を絞っても無駄だろう。ある程度の確信を得るためには、危険を冒して他の人間もしくはプレイヤーもしくはテストダイバーに接触するしかない。  行動を起こすべき時だった。  まずは、そろそろ耐えがたいほどに渇きを訴えはじめている喉を潤したい。俺は、剣はおろか棒一本差していない背中を寂しく思いながら、小さな草地をあとにした。かすかなせせらぎが聞こえてくる方角——太陽の向きからしておそらく東を目指し、巨大な自然の門柱めいた古樹のあいだへと足を踏み入れる。  びろうどの絨毯のような苔と、驚くほど大きい羊歯類に覆われた森の底は、背後の円い草地とは打って変わって神秘的な世界だった。遥か高みで生い茂る木の葉が陽光をほぼ完全に奪い去ってしまい、地表まで届くのは薄い金色の細い帯でしかない。そのわずかなエネルギーのお零れを逃すまいと、緑色の丸石のうえで日向ぼっこをしているコバルト色の小さなトカゲが目に入る。  先刻まで俺の周りを飛んでいた小さな蝶のかわりに、トンボのような蛾のような奇妙な虫が音もなく宙をすべり、時折どこからか甲高い正体不明の獣の鳴き声が届いてくる。  頼むから、今危険な獣とかモンスターとか出てくるのはナシにしてくれよ、と思いつつふかふかの苔の上を、十五分も進んだだろうか。再び前方に、たっぷりとした日差しの連なりが現われ、俺は少なからずほっとした。  もうかなり明瞭になりつつある水音からして、数十メートル先を南北に川が流れているのは間違いなさそうだった。からからの喉が発する悲鳴に引っ張られるように、自然と足が速まる。  鬱蒼とした森を飛び出ると、幅三メートルほどの草地を隔てて、きらきらと陽光を跳ね返す水面が目に入った。 「み、みずー」  情けなくうめきながら俺は最後の数歩をよろよろと踏破し、草花が生い茂る川べりへと身を投じた。 「うおっ……」  そして腹ばいのまま、思わず嘆声を上げた。  何という美しい流れだろうか。川幅はそれほど広くないが、ゆるやかに蛇行するその水流はすさまじい透明度だ。純粋な無色に一滴だけ青の絵の具を垂らしたような、清澄な色合いの流れを通して、水藻がたなびく川底がくっきりと見て取れる。  つい数秒前までは、正直、ここが現実世界である可能性がわずかに残されている以上生水を飲むのは危険かもしれないと思っていた。のだが、水晶を溶かしたようなという形容詞が相応しいこの水流を見れば、誘惑に抗しきれず右手を川面に突っ込むしかない。切れそうなその冷たさに思わず奇声を上げながら、すくい取った液体を口に流し込む。  甘露、とはこのことだろう。一切の不純物を感じさせず、それでいてほのかに甘く爽やかな味の水は、二度とコンビニ売りのミネラルウォーターに金を払う気がなくなるほどの美味さだった。堪らず、両手で立て続けに何度も掬い、仕舞には直接川面に顔を突っ込んで、得心がいくまで思うさま貪る。  まさに命の水に陶然となりながら、俺は心の片隅で、ここが従来型NERDLESマシン内世界である可能性を完全に排除した。  なんとなれば、いわゆるポリゴンで完全な液体環境を体感させるのは不可能なのである。  ポリゴンというのは、もともとソリッドなオブジェクトと最も親和性がある代物なのだ。その正体は、立体空間上の有限個数の座標であり、動く液体のように常にランダムな分離変形を続けるものを再現するのは苦手と言わざるを得ない。見かけをフラクタルなライティング技術で表現することはできても、それを触覚信号に変換できる形で完全に再現するのは、アミュスフィアのようなコンシューマ機はもちろん最新のワークステーションでも難しい。  よって、例えば旧アインクラッドでは、バスタブに溜めた湯に浸かっても、与えられるのは温感と圧感、それに視覚上の水面反射光だけだった。その状況は現行のALOでも変わらず、つまり俺が今両手と顔で感じている“完璧な液体感覚”は現実のものか、あるいはSTLによって想起させられた擬似現実だ、と判断することができるのだ。  高価なエリクサーを腹いっぱいがぶ飲みしたような充足感、回復感を味わいながら、俺は上体を起こした。  ついでに、ここが本物の現実世界である、という可能性も投げ捨ててしまいたい気分だ。こんな綺麗な川や、対岸にまた奥深く続いている幻想的な森や、色鮮やかで奇妙な小動物たちが、地球のどこかに実在するとはとても思えない。だいたい、自然なんてものは、人の手が触れなければ触れないほど人にとって過酷な環境になるものではないのだろうか? 先ほどからごく軽装でうろついている俺の体のどこにも、虫食い痕のひとつもないのはどうしたわけだ?  ——などと考えているとSTLが原記憶層から毒虫の大群を召還しないでもない、と思ったので、俺は想念を振り払って再度立ち上がった。ここが現実世界である可能性を一パーセントに格下げしてから、さて、と左右を見回す。  川は、ゆるやかな円弧を描いて北から南へと流れているようだった。どちらの方向とも、その先は巨樹の群に飲み込まれ、見通すことはできない。  水の綺麗さと冷たさ、川幅からして、かなり水源に近い場所であるような気がした。となれば、人家なり街なりがもし存在するなら下流のほうが可能性が高そうだ。  ボートでもあれば楽かつたのしいだろうになあ、と思いつつ、下流方向へと足を踏み出そうとした——  その時だった。  わずかに向きを変えた微風が、俺の耳に奇妙な音を運んできた。  硬く、巨大な何かを同じく硬い何かで打ち据えた、そんな音だった。一回ではない。およそ三秒に一度、規則正しいペースで聞こえてくる。  鳥獣や自然物が発生源とは思えなかった。九分九厘、人の手によるものだ。接近することに危険はあるだろうか、と一瞬考えてから小さく苦笑する。ここは奪い合い殺し合いが推奨されるMMORPG世界ではない。他の人間と接触し情報を得るのが、現在の最優先オプションだ。  俺は体を半回転させ、かすかな音が響いてくる、川の上流に向き直った。  ふと、不思議な光景が見えたような気がした。  右手にさざめく川面。左手に鬱蒼と深い森。正面にはどこまでも伸びる緑の道。  そこを、横一列に並んで、三人の子供が歩いていく。黒い癖っ毛の男の子と、亜麻色のおかっぱ髪の男の子に挟まれて、麦わら帽子を被った女の子の長い金髪がまぶしく揺れる。真夏の陽光をいっぱいに受けて、金色の輝きを惜しげもなく振りまく。  これは——記憶……? 遠い、遠い、もう二度と戻れないあの日——永遠に続くと信じ、それを守るためならなんでもすると誓い、しかし日に晒された氷のように、あっけなく消え去ってしまった——  あの懐かしい日々。  まばたきをひとつする間に、幻は跡形もなく消滅した。  俺は呆気に取られてしばらく立ち尽くした。  今のはいったい何だったのだろう。突然襲ってきた、圧倒的な郷愁とでもいうようなもののせいで、まだ胸の真ん中が締め付けられるように痛い。  幼い頃の記憶——、川べりを歩く子供たちの後姿を見たとき強くそう感じた。右端を歩いていた黒髪の少年、あれは俺だと。  しかしそんなはずはないのだ。俺が物心つくころから暮らしている川越市には、こんな深い森や綺麗な小川は無いし、金髪の女の子と友達だったことも一度もない。そもそも、三人の子供たちは皆、今の俺のような異国の服を身につけていた。  ここがSTLの中なら、もしかしたら今のが、先週末に行った連続ダイブ試験中の記憶の残り滓なのか? そんなふうにも思ったが、STLの時間加速機能を考えても、俺が中で過ごしたのはせいぜい十日のはずだ。しかしあの深い憧憬が、そんな短期間で作られたとはとても考えられない。  いよいよもって、事態は不可解な方向へと突き進みつつあるようだった。俺はほんとうに俺なのか、という疑いに再度取り付かれおそるおそる傍らの川面を覗き込んだが、うねる流れに映し出された顔は絶えず歪んで、判別することは不可能だった。  ちくちくと残る痛みの余韻を、これもひとまずは棚上げすることにして、俺は相変わらず聞こえている謎の音に耳を済ませた。記憶の混乱に襲われたのはこの音のせいだろうか、とも思ったが、検証することはできそうもない。首を振り、音の源目指してふたたび歩き出す。  ひたすら両足を動かしつづけ、美しい風景を楽しむ余裕をどうにか取り戻せたころ、俺は音の方向が左にずれつつあるのを意識した。どうやら音源はこの川沿いではなく、左側の森に少し分け入った場所らしい。  指折り数えてみると、不思議な硬い音は連続して鳴りつづけているわけではなかった。きっかり五十回続くとおよそ三分途切れ、再開するとまた五十回続くのだ。いよいよ、人間が作り出しているとしか思えない。  俺は三分間の一時停止を頻繁に挟みながら歩きつづけた。適当な地点で川辺を離れ、森の中へ踏み込む。ふたたび出迎えた奇妙なトンボやコガネ虫やキノコ達のあいだを、ひたすらに進む。 「……四九、……五〇」  いつしか小声で数えていた音が止まると同時に、俺もまた立ち止まった。べつに疲労しているわけでもない身には、こうも頻繁なインターバルは気を急かされるが、闇雲に歩いて迷うよりマシだと言い聞かせながら足元の苔むした岩に腰をかける。  すぐ近くの木の根のうえを、青紫色の殻をもつ大きなカタツムリが這っていた。その遅々とした歩みをぼんやり眺めながら、音が再開するのを待った。  が、カタツムリが根っ子の橋を渡りきって幹に達し、果て無き絶壁に挑み始めるころになっても、森の空気は静謐を守りつづけた。計っていたわけではないが、三分はとっくに経過している。俺は顔をしかめ、立ち上がると、意識を聴覚に集中した。  そのまま更に数分待ったが、音がまた鳴りはじめる様子はない。これは困ったことになった……と周囲をきょろきょろ見回す。元きた方向と、さっきまで音がしていた方向は、どうにか見分けがつきそうだった。最悪、川まで戻れればそれでいいと自分を納得させ、消えた音源めざして進んでみることにする。  うーん、もしかしたらあの音は、森に迷い込んだ愚か者を誘う魔女のワナか何かなのかなあ、とどきどきしながらも、しかしひたすらに真っ直ぐ俺は歩きつづけた。目印がわりに撒くパンを持っていないのは残念だが、どうせ撒いても鳥がみんな食ってしまうに違いない。  いつのまにか、前方の木立の隙間が明るくなりつつあるのに俺は気付いた。森の出口だろうか、ことによると村があったりするのかもしれない。足早に光の差すほうへと進む。  階段状に盛り上がった木の根を攀じ登り、古樹の幹の陰から顔を出した俺が見たのは——  とてつもないものだった。  森が終わっているわけでも、村があるわけでもなかった。しかし失望を感じる暇もなく、俺は口をぽかんと開けて眼前の光景に見入った。  森の中にぽっかり開いた円形の空き地。先刻俺が目を覚ました草地よりもはるかに広い。さしわたし三十メートルはあるだろう。地面はやはり金緑色の苔に覆われているが、これまで歩いてきた森と違うのは、羊歯やつる草、背の低い潅木の類がまったく存在しないことだ。  そして、空き地の真ん中に、俺の視線を釘付けにしたそれが聳え立っていた。  なんという巨大な樹だろうか! 幹の直径は目算でも四メートル以下ということはない。この森でこれまで見た樹木のすべてが、ごつごつと幹を波打たせた広葉樹だったのに対して、目の前の巨樹は垂直に伸び上がる針葉樹だ。その皮はほとんど黒に近いほど濃い色で、見上げればはるか上空で幾重にも枝を広げている。屋久島の縄文杉やアメリカのセコイア杉も巨大だが、この樹の持つ圧倒的な存在感は、自然界の樹木とは思えない、王の傲慢さとでも言うべきものすら放っているように感じられた。  梢などまったく見えない巨樹の上部から、再び視線を根元に戻していく。大蛇のようにのたうつ根に注目すると、それは四方に網目のごとく広がり、俺が立つ空き地の縁ぎりぎりまで達しているのが見て取れた。むしろ、この樹に地力のすべてを奪われた結果、苔以外の植物が一切育つことができず、結果としてこの大きな空間が森に開いた、というようにも思える。  俺は、王の庭に侵入することに多少の気後れをおぼえたが、巨樹の幹に触れてみたいという誘惑に抗えず足を踏み出した。苔の下でうねる根に何度か足を取られながら、それでも頭上を見上げるのを止められないまま、ゆっくり前進する。  何度目かの感嘆の溜息を漏らしながら、巨樹の幹まであと数歩、という所まで近づいた俺は、周囲への警戒などまったく忘れ去っていた。ゆえに、気付くのがずいぶん遅くなった。 「!?」  ふと正面に戻した視線が、幹のむこうから覗く誰かの眼とまっすぐぶつかって、俺は息を飲んだ。びくっと体を弾ませながら半歩あとずさり、腰を落とす。あやうく右手を、剣など差していない背中に持っていくところだった。  しかし幸いなことに、この世界で初めて出会う人間は、敵意はおろか警戒心すら抱いていない、とでも言うようにただ不思議そうに首をかしげていた。  同い年くらいの少年と見えた。柔らかそうな濃いブラウンの髪を長めに垂らし、服装は俺と似たような生成りの短衣とズボンだ。巨樹の根元に腰を下ろし、背中を幹に預けている。  不思議なのは、その顔立ちだった。肌はクリーム色だが、西洋人とは言い切れず、かと言って東洋人でもない。線の細めな、穏やかな目鼻立ちで、瞳の色は濃いグリーンに見える。  こちらにも敵意のないことを示そうと、俺は何かを言うべく口を開いたが、さて何を喋ったものかさっぱり見当がつかない。間抜け面で何度か口をぱくぱくさせていると、先方のほうが先に言葉を発した。 「君は誰? どこから来たの?」  完璧なイントネーションの、それは日本語だった。  俺は、黒い巨樹を見たときと同じくらいの衝撃を受けてしばし立ち尽くした。別に白人が日本語をしゃべるのが珍しいというわけではなく、このどう見ても日本ではない世界で完璧な日本語を聴くとは思っていなかったのだ。中世西欧風の衣服を身に着けたエキゾチックな少年の口から聞きなれた母国語が流れ出る光景は、まるで吹き替えの洋画を見ているような非現実感を俺にもたらした。  だが、呆けている場合ではない。ここが思案のしどころなのだ。俺は、近頃錆びつき気味だった脳味噌を必死に回転させた。  この世界がSTLの作り出した“アンダーワールド”だと仮定すると、目の前の少年は、  一、ダイブ中のテストプレイヤーであり、俺と同じように現実世界の記憶を保持している、  二、テストプレイヤーだが記憶の制限を受けており、この世界の住人になりきっている、  三、コンピュータの動かしているNPCである、のいずれかだと推測できる。  一番なら話は早い。俺の置かれている異常状況を説明し、ログアウトする方法を教えてもらえばいい。  しかし二番、あるいは三番の場合はそう簡単にはいかない。アンダーワールドの住民としてのみ行動している人間またはNPCに向かって、いきなりソウルトランスレーターの異常だのログアウト方法だのと彼にとっては意味不明であろう単語を口走れば、激しい警戒心を呼び覚ましその後の情報収集の妨げとなりかねないのだ。  よって俺は、安全そうな単語のみ選んで彼と会話を交わし、そのポジションを見極める必要があるのだった。掌に浮かぶ冷や汗をこっそりズボンで拭いつつ、俺は笑顔らしきものを浮かべながら口を開いた。 「お……俺の名前は……」  そこで一瞬口篭もる。果たしてこの世界では、和風と洋風どちらの名前が一般的なのだろう。どっちとも取れる響きであることを祈りつつ、名乗る。 「——キリト。あっちのほうから来たんだけど、ちょっと、道に迷ってしまって……」  背後、おそらく南の方角を指差しながらそう言うと、少年は驚いたように目を丸くした。身軽な動作で立ち上がり、俺が元来たほうを指差す。 「あっちって……森の南? ザッカリアの街から来たのかい?」 「い、いや、そうじゃないんだ」  早速の窮地に思わず顔がこわばりそうになるのを、どうにか我慢する。 「それが、その……俺も、どこから来たかよくわからないんだ……。気付いたら、この森に倒れてて……」  おや、STLの異常かな? ちょっと待ってくれ、オブザーバーに連絡するから。——という返答を心の底から期待したが、少年は再度驚愕の表情を見せながら、俺の顔をまじまじと見ただけだった。 「ええっ……どこから来たかわからないって……今まで住んでた街とかも……?」 「あ、ああ……憶えてない。わかるのは、名前だけで……」 「……驚いたなあ……。“ベクタの迷子”か、話には聞いていたけど……本当に見るのは初めてだよ」 「べ、べくたのまいご……?」 「おや、君の街ではそう言わないのかい? ある日突然いなくなったり、逆に森や野原に突然現われる人を、このへんじゃそう呼ぶんだよ。闇の神ベクタが、悪戯で人間をさらって、生まれの記憶を引っこ抜いてすごく遠い土地に放り出すんだ。僕の村でも、ずーっと昔、お婆さんがひとり消えたんだって」 「へ、へえ……。じゃあ、俺もそうなのかもしれないな……」  雲行きが怪しいぞ、と考えながら俺はうなずいた。目の前の少年が、いわゆるロールプレイをしているテストプレイヤーであるとはどうにも思えなくなってきたからだ。最後の望みをかけて、言葉を選びつつ口を開く。 「それで……どうにも困ってるんで、一度ここを出たいんだ。でも、方法がわからなくて……」  これで状況を悟ってくれ、と必死に祈ったが、少年は同情するような光を茶色の瞳に浮かべ、頷きながら言った。 「うん、この森は深いからね、道を知らないと抜けるのは大変だよ。でも大丈夫、この樹から北に向かう道があるから」 「い、いや、その……」  ええいままよ、とやや危険な単語をぶつけてみる。 「……ログアウトしたいんだ」  一縷の望みをかけたその言葉に、少年は大きく首を傾げ、聞き返した。 「ろぐ……なんだって? 今、何て言ったんだい?」  これで確定、と見てよさそうだった。目の前の少年は、テストプレイヤーにせよNPCにせよ完全にここの住人であって、“仮想世界”などという概念は持っていないのだ。俺は失望を顔に出さないよう気をつけながら、どうにか誤魔化すべく言い足した。 「ああ、ご、御免、土地の言い回しが出ちゃったみたいだ。ええと……どこかの村か街で泊まれる場所を見つけたい、っていう意味なんだ」  我ながら苦しすぎる、と思ったが少年は感心したように頷くのみだった。 「へえ……。初めて聞くなあ、そんな言葉。黒い髪もこのへんじゃ珍しいし……もしかしたら南国の生まれなのかも知れないねえ」 「そ、そうかもしれない」  強張った笑いを浮かべると、少年もにこっと邪気の無い笑顔を見せ、次いで気の毒そうに眉をしかめた。 「うーん、泊まれるところか。僕の村はこのすぐ北だけど、旅人なんてまったく来ないから、宿屋とか無いんだよ。でも……事情を話せば、もしかしたら教会のシスター・アザリヤが助けてくれるかもしれないな」 「そ……そうか、よかった」  その言葉は本心だった。村があるなら、そこにはもしかしたらラースのオブザーバーが常駐しているか、あるいは外部からモニターしている可能性もある。 「それじゃあ、俺は村に行ってみるよ。ここからまっすぐ北でいいの?」  視線をうごかすと、確かに俺がやってきた方向とほぼ反対側に、細い道が伸びているのが見えた。  が、足を踏み出すより早く、少年が左手で制する仕草をした。 「あ、ちょっと待って。村には衛士がいるから、いきなり君が入っていったら説明するのが大変かもしれない。僕が一緒に行って事情を説明してあげるよ」 「それは助かるな、ありがとう」  俺は笑みとともに礼を言った。同時に内心で、どうやら君はNPCじゃないね、と呟いていた。  プリセット反応しかできない擬似人格プログラムにしてはあまりにも受け答えが自然すぎるし、俺に積極的に関わろうとする行動もNPCらしくない。  六本木にあるラース開発支部か、あるいはベイエリアのどこかにあるというラース本社のどちらでダイブしているのかわからないが、目の前の少年を動かすフラクトライトの持ち主はかなり親切な性格なのだろう。無事に脱出できた暁にはきちんと礼を言うべきかもしれない。  などと考えていると、少年が再度顔を曇らせた。 「ああ……でも、すぐにはちょっと無理かな……。まだ仕事があるから……」 「仕事?」 「うん。今は昼休みなんだ」  ちらりと動いた瞳の先を見ると、少年の足元の布包みから、丸いパンらしき固まりがふたつ覗いていた。その他には革の水筒がひとつあるだけで、昼ご飯だとするとえらく質素なメニューだ。 「あ、食事の邪魔をしちゃったのか」  俺が首をすくめてそう言うと、少年ははにかむように笑った。 「仕事が終わるまで待っててくれれば、一緒に教会まで行ってシスター・アザリヤに君を泊めてくれるよう頼んであげられるけど……まだあと四時間くらいかかるんだ」  一刻も早く村とやらに飛んでいき、この状況を説明できる人物を探したいのはやまやまだが、また薄氷を渡るような会話を繰り返すのは勘弁という気持ちのほうが大きかった。四時間というのは短くないが、STLの時間加速機能を考えれば現実では一時間強ていどしか経過しないはずだ。  それに、何故だかわからないが、もう少しこの親切な少年と会話をしてみたいという気分もあった。俺はこくりと頷きながら言った。 「大丈夫、待ってるよ。すまないけど、よろしく頼む」  すると、少年はにこっと大きく笑い、頷き返した。 「そう、じゃあ、ちょっとそのへんに座って見ててよ。あ……まだ、名前を言ってなかったね」  右手をぐっと差し出し、少年は続けた。 「僕の名前はユージオ。よろしく、キリト君」  見た目よりもしっかりと硬く力強い手を握り返しながら、俺は少年の名前を何度か口中で転がした。聞きなれない響きだが、しかしどこかしっくりと舌に馴染む気がする。  ユージオと名乗る少年は、手をほどくと再び巨樹の根元に座り込み、布包みから取り出した丸パンの片方を俺に差し出した。 「い、いいよそんな」  慌てて手を振ったが、引っ込める様子はない。 「キリト君だってお腹空いてるんじゃないの? 何も食べてないんでしょ」  言われた途端、俺は強烈な空腹感を意識して思わず苦笑いした。川の水は美味かったが、腹持ちがいいとはとても言えない。 「いや、でも……」  尚も遠慮していると、手にぐいっとパンを押し付けられてしまい、俺は已む無く受け取った。 「いいんだ。僕、あんまり好きじゃないんだこれ」 「……じゃあ、ありがたく頂くよ。ほんとは腹へって倒れそうなんだ」  あははと笑うユージオの前の木の根に、俺も腰を下ろしながら言い添えた。 「それと、キリトでいいよ」 「そう? じゃあ、僕もユージオって呼んで……あ、ちょっと待った」  ユージオは左手を上げ、さっそく丸パンを口もとに運ぼうとしていた俺を制した。 「……?」 「いや、長持ちするしか取り得のないパンなんだけど、まあ一応ね」  言うと、ユージオは左手を動かし、右手に持ったパンのうえにかざした。人差し指と中指だけをぴったり揃えて伸ばし、他の指は握り込む。そのまま、指先は空中にSの字とCの字を組み合わせたような軌道を描く。  唖然として見つめる俺の目の前で、二本の指が軽くパンを叩くと、金属が震動するような不思議な音とともに、パンの中から薄紫に発行する半透明な矩形の板が出現した。幅二十センチ、高さ八センチといったところか。遠眼にも、その表面には慣れ親しんだアルファベットとアラビア数字がシンプルなフォントで表示されているのが見えた。見紛うことなき、オブジェクトのステータスウインドウだ。  俺は口を大きくあんぐりと開き、しばし放心した。  ——これで確定だ。ここは現実でも、本物の異世界でもなく、仮想世界だ。  その認識が腹の底に落ち着くと同時に、安堵のあまりすうっと体が軽くなるのを意識した。九十九パーセント確信していたとは言え、やはり明白な証拠が無いという不安が薄皮のようにまとわりついていたのだ。  相変わらず経緯は不明のままだが、ともかく慣れ親しんだ仮想世界に居るのだと思うことで、ようやく俺にも状況を楽しむ余裕が出てきたようだった。とりあえず、ユージオの真似をして俺もウインドウを呼び出してみようと、左手の指二本をまっすぐ伸ばす。  見よう見真似でSとCの形をなぞってから、おそるおそるパンを叩くと、はたして効果音が鳴り響き紫に光る窓が浮かび上がった。顔を近づけ、食い入るように眺める。  表示された文字列は非常にシンプルなものだった。DurabilityPoint:7、とそれだけだ。おそらく、このパンに設定されている耐久値なのだろうことは容易に想像できる。これがゼロになったとき、一体パンはどうなるんだろう、と思いつつ数字を凝視していると、傍らからユージオの不思議そうな声があがった。 「ねえ、キリト。まさか、“ステイシアの窓”を見るのまで初めてだなんて言わないよねえ?」  顔を上げると、ユージオはすでに窓が消えたパンを片手に首を傾げていた。慌てて、そんなバカな、というように笑顔を作ってみせる。当てずっぽうに、窓の表面を左手で触れるとそれは跡形もなく消え去り、内心で少しばかりほっとする。  ユージオは特に疑った様子もなく頷くと、言った。 「まだ“天命”はたっぷりあるから、急いで食べなくてもいいよ。これが夏だと、とてもこんなに残ってないけどね」 “天命”とは数値で示された耐久力のことで、それを表示したステータスウインドウが“ステイシアの窓”なのだろう。その口ぶりからして、ユージオは今見たものをシステム上の機能ではなく、何らかの宗教的あるいは魔術的現象と認識しているようだった。  まだまだ考えるべきことは多そうだったが、とりあえず棚上げして、目先の食欲を満たすことにする。 「じゃあ、いただきます」  言って、大口を開けてかぶりついた俺は、パンの硬さに思わず目を白黒させた。しかしまさか吐き出すわけにもいかず、力任せに噛み千切る。仮想世界とは思えないほどリアルな“歯がぐらつきそうな感覚”に図らずも感嘆させられる。  いわゆる全粒粉のような挽きの荒い麦を使ったパンで、必要以上の歯応えがあるものの噛んでいるとそれなりに素朴な味わいがあって、腹が減っていた俺は懸命に顎を動かして咀嚼し、飲み込んだ。バターを塗ってチーズでも挟めばもっと美味くなるだろうに、等と恩知らずなことを考えていると、同じように顔をしかめてパンに噛み付いていたユージオが笑い混じりに言った。 「おいしくないでしょ、これ」  俺は慌てて首を横に振る。 「そ、そんなことないって」 「無理しなくてもいいよ。村のパン屋で買ってくるんだけど、朝が早いから前の日の売れ残りしか買えないんだ。昼に、ここから村まで戻るような時間もないしね……」 「へえ……。じゃあ、家から弁当を持ってくればいいんじゃ……」  そこまで言ったところでユージオがふっと視線を伏せるのを見て、無遠慮すぎることを口走ったかと首を縮める。が、ユージオはすぐに顔を上げると、小さく笑った。 「ずーっと昔はね……昼休みに、お弁当を持ってきてくれる人がいたんだけどね。今は、もう……」  ブラウンの瞳に揺れる深い喪失感をたたえた光に、俺は瞬間、この世界が作り物であることを忘れて身を乗り出した。 「その人は、どうしたんだ……?」  訊くと、ユージオは遥か頭上の梢を見上げながらしばらく黙っていたが、やがてゆっくり唇を動かした。 「……幼馴染だったんだ。同い年の、女の子で……毎日、朝から夕方まで一緒に遊んでた。天職を与えられてからも、毎日お弁当を持ってきてくれて……。でも、六年前……僕が十一の夏に、村に整合騎士がやってきて……央都に、連れていかれちゃったんだ……」  セイゴウキシ。オウト。正体不明の単語だったが、それぞれある種の秩序維持者とこの世界の首都のことだろうと見当をつけ、黙ったまま先を促す。 「僕のせいなんだ。安息日に、二人で北の洞窟までドラゴンを探しにいって……帰り道を間違えて、果ての山脈を闇の王国側に抜けちゃったんだ。知ってるだろ? 禁忌目録に、決して足を踏み入れることならず、って書いてあるあの闇の国だよ。僕は洞窟から出なかったんだけど、彼女はほんの一歩だけ、闇の国の土を踏んじゃって……たったそれだけのことで、整合騎士は、皆の見てる前で鎖で縛り上げた……」  ユージオの右手の中で、食べかけのパンがぐしゃりと潰れた。 「……助けようとしたんだ。僕も一緒に掴まってもいいから、あの騎士に斧で打ちかかろうと……でも、手も、足も、動かなかった。僕はただ、あの子が連れていかれるのを、黙って見てた……」  表情を失った顔でユージオはしばらく空を見上げつづけていたが、やがてその唇にかすかな自嘲の色が浮かんだ。ひしゃげたパンを口に放り込み、俯いてもぐもぐと噛みつづける。  俺は何と声をかけていいか分からず、同じようにもうひとかけらパンを噛み千切り、それを苦労して飲み込んだあとようやく口を開いた。 「……その子がどうなったか、知ってるのか……?」  ユージオは目を伏せたままゆっくり首を振った。 「整合騎士は、審問ののち処刑する、って言ってた……。でも、どんな刑に処せられたのか、ぜんぜんわからないんだ。一度、お父さんのガスフト村長に聞いてみたんだけど……死んだものと思えって……。——でもね、キリト、僕は信じてるよ。きっと生きてる。アリスは、央都のどこかで、かならず生きてる」  俺は息を飲んだ。  アスナは言っていた。STLの開発企業である“ラース”、そして仮想世界“アンダーワールド”、それらの名前は小説『不思議の国のアリス』から取ったものではないか、と。ならば、今ユージオが口にしたアリスという名は果たして偶然によるものなのだろうか?  いや、そんなはずはない。現実世界ならいざしらず、万物に意味のある仮想世界において、都合のいい偶然などというものは存在しない。つまり、ユージオの幼馴染にして六年前に連れ去られたという少女アリスは、おそらくこの世界における重要なキーパーソンなのだ。  そして、もうひとつ驚くべきことがある。  先ほど、ユージオは六年前に十一歳だった、と言った。つまり彼は今十七歳で、しかもどうやら、そのあまりに長大な時間の記憶をすべて保持しているらしい口ぶりだ。  だがそんな事は有り得ない。STRA機能による三倍の加速を考えても、この世界で十七年という時間をシミュレートする間に、現実世界でも六年もの年月が過ぎ去っているということになる。しかし、STLの第一号機がロールアウトしてから、まだたった半年程度しか経っていないはずだ。  これをどう考えればいいのだろうか。  ここは俺の知るSTLではなく、未知のバーチャルワールド生成システムの中で、しかもそれは最長で十七年もの昔から稼動していた。あるいは、俺の聞かされていたSTRA機能の三倍という倍率が間違いであり、実は三十倍以上の加速を実現している。どちらも、おいそれと信じられない話だ。  俺の中で、不安感と好奇心が急速にふくれ上がる。今すぐログアウトし、外部の人間に事情を聞きたいと思う反面、この内部に留まって可能な限り疑問を追いつづけてみたいという気もする。  パンの最後の欠片を飲み込んでから、俺はおそるおそるユージオに尋ねた。 「なら……行ってみたらどうなんだ? その、央都に」  言ってから、しまった、と考える。その言葉は、ユージオから思わぬ反応を引き出してしまったようだった。  栗毛の少年は、たっぷり数秒間もぽかんと俺の顔を眺めていたが、やがて信じられない、というふうに頭を振った。 「……このルーリッドの村は、帝国の北の端にあるんだよ。南の端にある央都までは、馬でひと月もかかるんだ。歩きだと、一番ちかいザッカリアまでだって二日。安息日の夜明けに出たってたどり着けないんだよ」 「なら……ちゃんとした旅の用意をしていけば……」 「あのねえキリト。君だって僕と同じくらいの歳なんだから、住んでた村では天職を与えられてたんでしょ? 天職を放り出して旅に出るなんてこと、できるわけないじゃないか」 「……そ、それもそうだな」  俺は頭をかきつつ頷きながら、注意深くユージオの様子を観察した。  この少年が、単純なNPCでないことは明らかだ。豊かな表情や、自然そのものの受け答えは本物の人間としか思えない。  しかし同時に、どうやら彼の行動は、現実世界の法律以上の効力をもつ絶対の規範によって縛られているように思える。そう、まるでVRMMO中のNPCが、決められた移動範囲内からは絶対に逸脱しないように。  ユージオは、“禁忌目録”というものによって制限されているエリアに侵入しなかったので逮捕されなかった、と言った。その目録とやらがつまり彼を縛る絶対規範で、恐らくはフラクトライトそのものを直接規制しているのではないだろうか。ユージオの天職、つまり仕事が何なのかは知らないが、生まれたときから一緒だった女の子の生死以上に大切な仕事というのはなかなか想像できない。  そのへんのことを確かめてみようと、俺は言葉を選びつつ、水筒を口につけているユージオに尋ねた。 「ええと、ユージオの村には、禁忌……目録を破って央都に連れていかれた人がほかにもいるの?」  ユージオは再度目を丸くし、ぐいっと口もとを拭いながら首を横に振った。 「まさか。ルーリッドの三百年の歴史の中で、整合騎士が来たのは六年前の一回きりだ、って爺ちゃんが言ってた」  言葉を切ると同時に、革の水筒をひょいっと放ってくる。受け取り、栓を抜いて口もとで傾けると、冷えてはいないがレモンとハーブを混ぜたようなさわやかな芳香のある液体が流れ込んできた。三口ばかり飲み、ユージオに返す。  何食わぬ顔で俺も手の甲で口を拭ったが、内心では何度目かの驚愕の嵐が吹き荒れていた。  三百年だって……!?  そのあまりに長大な年月を実際にシミュレートしているなら、STRA機能は数百……ことによると千倍にも達する加速を実現しているということになる。となると、先週末に行った連続ダイブテスト中に、俺は実際のところどれほどの時間を過ごしたのだろうか。今更のようにぞっとすると同時に、二の腕に軽く鳥肌が立ったが、その生理反応のリアルさに感嘆する余裕はほとんどない。  データを得れば得るほど、逆に謎は深まっていくようだった。ユージオは果たして人間なのかプログラムなのか、そしてこの世界は一体何を目的として作られたものなのか。  これ以上のことは、ルーリッドというらしい村に行って他の人間に接触してみないとわかりそうもなかった。そこで、事情を知るラースの人間に会えるといいけれど……と思いながら、俺はややこわばった笑みをつくり、ユージオに言った。 「ごちそうさま。悪かったな、昼飯を半分取っちゃって」 「いや、気にしないで。あのパンにはもう飽き飽きしてたんだ」  こちらは至極自然な笑顔とともに首を振ると、手早く弁当の包みをまとめる。 「じゃあ、悪いけどしばらく待っててね。午後の仕事を済ませちゃうから」  そう言いながら身軽な動作で立ち上がるユージオに向かって、俺は尋ねた。 「そういえば、ユージオの仕事……天職っていうのは、何なの?」 「ああ……そこからじゃ見えないよね」  ユージオはまた笑うと、俺に手招きをした。首を捻りつつ立ち上がり、彼のあとについて巨樹の幹をぐるりと回る。  そして、先刻とは別種の驚きに打たれて口をあんぐりと開けた。  巨大なスギの闇夜のように黒い幹が、全体の四分の一ほど、約一メートルの深さにまで切り込まれている。内部の木質も石炭を思わせる黒で、密に詰まった年輪に沿って金属のような光沢を放っているのが見て取れた。  視線を動かすと、切り込みのすぐ下に、一本の斧が立て掛けてあった。戦闘用ではないのだろうシンプルな形状の片刃だが、やや大ぶりの斧刃も、長めの柄も灰白色の同じ素材で作られているのが特徴的だ。マット仕上げのスチールのような不思議な光沢をもつそれをまじまじと凝視すると、どうやら全体がひとつの塊から削りだされた一体構造となっているようだった。  柄の部分にだけ、握りこまれて黒光りする革が巻かれたその斧を、ユージオは右手でひょいっと持ち上げると肩にかついだ。幹に刻まれたくさび型の切り込みの左端まで移動すると、腰を落として両足を開き、斧をしっかりと両手で握り締める。  細目と見えた体がぐうっとしなり、大きく後ろに引かれた斧は、一瞬の溜めののちに鋭く空気を切り裂いて見事切り込みの中央に命中し、かぁんと澄んだ金属音を大音量で鳴り響かせた。間違いなく、俺をこの空き地まで導いたあの不思議な音と同じものだった。  美しいとさえ言える身のこなしに感嘆しながら眺める俺の前で、ユージオは機械以上の正確さでペースと軌道を保ったまま斧打ちを繰り返した。テイクバックに一秒、溜めに一秒、スイングに一秒。一連の動作は、まるで、この世界にもソードスキルがあるのかと思いたくなるようななめらかさだ。  三秒にいちどのペースできっちり五十回、計百五十秒間斧を巨樹に叩き込んだユージオは、最後の一撃をゆっくりと深い切り込みから引き剥がすと、ふうっと長い息をついた。道具を幹に立てかけ、どさりと傍らの根っ子の上に座り込む。額に汗の珠を光らせながらはぁはぁと荒い呼吸を繰り返しているところを見ると、この斧打ちは俺が考えているよりはるかに重労働であるらしかった。  俺は、ユージオの呼吸が整うのを待って、短く話し掛けた。 「ユージオは樵なのか? この森で木を切ってるの?」  短衣のポケットから取り出した手巾で顔を拭いながら、ユージオは軽く首を傾け、少し考えた末に答えた。 「うーん、まあ、そう言っていいかもしれないね。でも、天職に就いてからの七年間で、切り倒した木は一本もないけどね」 「ええ?」 「このでかい木の名前は、ギガスシダーって言うんだ。でも村の人はみんな、“悪魔の樹”って呼んでる」  首を捻る俺に意味ありげに笑ってみせてから、ユージオははるか頭上の梢を仰いだ。 「そんなふうに呼ばれる理由は、この樹が周りの土地から、テラリアの恵みをみんな吸い取っちゃうからなんだ。だから、この樹の葉の下にはこんなふうに苔しか生えないし、影が届く範囲の樹はどれもあまり高くならない」  テラリア、というのが何かはわからないが、この巨樹と空き地を見たときの第一印象はあながち間違っていなかったようだ。俺は、先を促すようにこくこくと頷いてみせる。 「村の大人たちは、この森を拓いて麦畑を広げたいと思ってるんだ。でも、ここにこの樹が立ってるかぎり、いい麦は実らない。だから切り倒してしまいたいんだけど、さすがに悪魔の樹と言われるだけあって、恐ろしく硬いんだよ。普通の、鉄の斧じゃあ一発で刃こぼれして使い物にならなくなっちゃう。そこでこの、ドラゴンの骨から削りだしたっていう“竜骨の斧”を央都から取り寄せて、専任の“刻み手”に毎日叩かせることにしたのさ。それが僕」  事も無げにそう語るユージオの顔と、巨樹に四分の一ほど刻まれた斧目を、俺は半ば呆然としながら交互に眺めた。 「……じゃあ、ユージオは七年間、毎日ずーっとこの樹を切ってるのか? 七年やって、ようやくこれだけ?」  今度はユージオが目を丸くし、呆れたように首を振る番だった。 「まさか。たった七年でこんなに刻めるもんなら、僕ももう少しやり甲斐があるんだけどね。いいかい、僕は六代目の刻み手なんだ。ルーリッドの村がこの土地にできてから三百年、代々の刻み手が毎日叩いてやっとここまで来たんだよ。たぶん、僕がお爺さんになって、七代目に斧を譲るときまでに刻めるのは……」  ユージオは両手で二十センチくらいの隙間をつくってみせた。 「これくらいかな」  俺はもうゆっくり首を振ることしかできなかった。  ファンタジー系のMMOではたいてい、樵や鉱夫といった生産職はひたすら地道な作業に耐えるものと相場が決まっているが、一生かけて一本の樹すら切り倒せないというのは常軌を逸している。ここが作られた世界である以上、この樹も何らかの意図のもとにここに配置されているのだろうが、それが何なのか、俺にはさっぱり見当がつかない。  ——が、それはそれとして、むずむずと背中を這うものがある。  俺は、およそ三分間の休息のあと立ち上がり、斧を手に取ろうとしたユージオに向かって、半ば衝動的に声をかけた。 「なあ……ちょっと俺にもやらせてくれない?」 「ええ?」 「ほら、弁当を半分貰っちゃったからさ。仕事も半分手伝うのが筋だろう?」  まるで、仕事を手伝おうと言われたのが生まれて初めてであるかのように——実際そうなのかもしれないが——ユージオはぽかんと口を開けていたが、やがてためらいがちに答えた。 「うん……まあ、天職を誰かに手伝ってもらっちゃいけないなんて掟はないけど……でも、案外難しいんだよ、これ。僕もはじめたばっかりの頃は、まともに当てることさえできなかったんだから」 「やってみなきゃわからないだろ?」  俺はにっと笑ってみせながら、右手を突き出した。ユージオがなおも不安そうに向けてくる“竜骨の斧”の柄を、ぐっと握る。  斧は、軽そうな外見に反してずしりと手首に応えた。あわてて革が巻かれたグリップを両手でしっかり握り、小さく振って重心を確かめる。  SAO、そしてALOのプレイを通して斧を武器にしたことは一度もないが、動かない的に当てるくらい容易いだろう、と俺は考えた。深い切り込みの左に立ち、ユージオの姿勢を真似て両足を広げて軽く腰を落とす。  いまだ気がかりそうに、しかし同時にどこか面白そうにこちらを見るユージオが充分離れているのを確認してから、俺は肩の高さにまで斧を振り上げた。歯を食い縛り、両腕にありったけの力を込めて、思い切り叩きつける。  がぎ、と鈍い音がして斧刃は標的から五センチちかくも離れた場所に食い込み、両手を猛烈なキックバックが襲った。堪らず斧を取り落とし、骨の髄まで痺れあがった両手首を脚のあいだにはさみこんで、俺はうめいた。 「い、いててて」  情けない、という以外に形容できない一撃を見て、ユージオがあっはっはっは、と愉しそうに笑った。俺が恨みがましく目を向けると、ごめん、というように右手を立て、尚も笑いつづける。 「……そんなに笑わなくても……」 「ははは……いや、ごめん、ごめん。力が入りすぎだよ、キリト。もっと腕の力を抜いて……うーん、何て言うかなあ……」  もどかしそうに両手で斧を振る動作を繰り返すユージオを見ながら、俺は遅まきながら己の過ちに気付いた。この世界では、もちろん厳密な物理法則や肉体の動きがシミュレートされているわけではない。STLが作り出すリアルな夢なのだから、一番大切なのはイメージ力なのだ、おそらく。  ようやく痺れの取れた手で、足元から斧を拾い上げる。無駄な力を抜くように構えると、体全体の動きを意識しながら、ゆっくり、大きな動作でテイクバック。SAOで散々使った水平スラッシュ系ソードスキル“ホリゾンタルスクエア”の一撃目を思い描きつつ、体重移動によって生じるエネルギーを腰、肩の回転に乗せ、最後の斧の頭に届けて、それを樹にぶつける——。  今度は切り込み自体から遠く離れた樹皮を叩いてしまい、がいん、とこれまた醜い音を立てて斧が跳ね返った。先ほどのように手が痺れあがるようなことは無かったが、自分の動きにばかり意識が行って、照準がおろそかだったらしい。これはまたユージオが笑うな、と思いながら振り返ると、少年は意外にもわずかに目を見開いているのみだった。 「お……キリト、今のはけっこういいよ。でも、途中から斧を見てたのがよくなかったな。視線は切り込みの真ん中から動かさないで。忘れないうちにもう一度!」 「う、うん」  次の一撃もお粗末なものだった。しかしその後も、あれこれユージオの指導を受けながら斧を振りつづけ、何十回目だか忘れた頃、ようやく斧が高く澄んだ金属音とともに切り込みの真ん中に命中し、ごくごく小さな黒い切片が飛び散った。  それを機にユージオと交替し、彼の見事な斧打ちを五十回眺める。また斧を受け取り、ひいひい言いながら俺も五十回振り回す。  何度繰り返しただろうか、気付くと太陽はすっかり傾き、空き地に差し込む光はほのかなオレンジ色を帯びていた。大きな水筒から俺が最後の一口を飲むと同時に、ユージオが斧を振り終え、言った。 「よし……これで千回、と」 「あれ、もうそんなにやったのか」 「うん。僕が五百回、キリトが五百回さ。午前と併せて一日二千回ギガスシダーを叩く、それが僕の天職なんだ」 「二千回……」  俺は改めて、黒い巨樹に刻まれた大きな斧目を眺めた。どう見ても、初めて見たときと較べてそれが深くなっている様子は無かった。何という報われない仕事なのか、と愕然としていると、背後からユージオの朗らかな声がかかった。 「やあ、キリトは筋がいいよ。最後のほうは、五十回のうち二、三回はいい音させてたし。おかげで僕も今日はずいぶん楽だったよ」 「いや……でも、ユージオが一人でやればもっとはかどっただろうな。悪かったな、足引っ張っちゃって」  恐縮しつつそう謝ると、ユージオは笑いながら首を横に振った。 「この樹は僕が一生かかっても倒せないって言ったろ。いいかい……いいものを見せてあげるよ。ほんとは、あんまり見ちゃいけないんだけど」  言いながら、巨樹に近づくと、左手を掲げた。二本の指で例の印を切ると、黒い樹皮をぽんと叩く。  なるほど、この樹自体にも耐久力ポイントが設定してあるのか、と思いながら俺は駆け寄った。鈴のような音とともに浮かび上がってきた“窓”を、ユージオと一緒に覗き込む。 「うえ……」  俺は思わずうめいた。そこに表示された数字は、二十三万二千いくつ、という途方もないものだったからだ。 「うーん、先月見たときから五十くらいしか減ってないや」  ユージオも、さすがにうんざりしたような声で言った。 「つまり……僕が一年斧を振って、ギガスシダーの天命は六百しか減らせないってことだよ。引退するまでに、残り二十万を切れるかどうか、ってとこだね。ね、わかったろ。たった半日、仕事がすこしはかどらなくても、そんなのぜんぜんたいしたことじゃないんだ」  その後、“竜骨の斧”をかつぎ、空になった水筒をぶらさげて村へと戻るあいだも、ユージオは快活にいろいろな話を聴かせてくれた。彼の前任者であるガリッタという名前の老人が、いかに斧打ちの名人であるかということや、村の同年代の少年たちはユージオの天職を楽なものだと考えていて、それが少々不満であるということ、それらの話に相槌を打ちながら、俺は相変わらずひとつのことを全力で考えていた。  それは、つまり、この世界はいったい何を目的として運営されているのか、ということだ。  STLの仮想環境生成技術のチェックなら、それはもう完璧な形で達成されている。この世界が、そう簡単に現実と見分けられるようなものではないことは、俺はもう嫌というほど味わった。  にもかかわらず、この世界はもう内部時間にして最低で三百年ものシミュレートを行っており、さらに恐ろしいことに、あの巨大な樹——ギガスシダーの耐久値とユージオの仕事量からすると、さらに千年ちかくも運用を続ける予定があると考えられるのだ。  主観時間加速機能、STRAの倍率がどれほどの数字に達しているのかは知らないが、記憶を封印され、ここにダイブしている人間は、ことによるとまるまる一生分の時間を過ごすことにもなりかねない。確かに、現実世界の肉体には何の危険も及ばず、ダイブ終了時点で記憶を消去されるなら本人にとっては単なるおぼろげな“長い夢”なのかもしれないが——しかし、魂、フラクトライトはどうなのだ? 人の意識を作る不確定な光の集合体には、寿命はないのだろうか?  どう考えても、この世界で行われていることはあまりにも無茶、無謀だ。  つまり、それほどの危険を冒してでも、達成するべき目的があるのだ。エギルの店でシノンが言ったように、単なるリアルな仮想空間の生成などという、アミュスフィアでも実現可能な事柄ではないのだろう。この、現実と完全に見分けのつかない環境において、無限とも言いたくなるような時間を費やして、はじめて到達できる“何か”——。  気付くと、いつのまにか細い道の先で森が切れ、オレンジ色の光が広がっているのが見えた。  出口から間近いところに、小さな物置小屋がぽつんと立っており、ユージオはそこに歩み寄ると無造作に戸を開けた。覗き込むと、中には普通の鉄斧がいくつかと、鉈のような小さな刃物、ロープやらバケツといった道具類と、なんだかわからない細長い革包みが雑多に詰め込まれていた。  それらの間にユージオは竜骨の斧を立てかけ、ばたんと戸を閉めた。そのまま振り向き、道に戻ろうとするので、俺は驚いて言った。 「え、鍵とかかけなくていいのか? 大事な斧なんだろ?」  するとユージオも驚いたように目を丸くした。 「鍵? なんで?」 「なんで、って……盗まれたりとか……」  そこまで口にしてから、俺はようやく悟った。泥棒なんて居ないのだ。なぜなら、恐らく“禁忌目録”とやらに、盗みを働くべからず、というような一節が書いてあるのだろうから。  ユージオは笑い、歩きだしながら予想どおりの答えを返した。 「大丈夫だよ、誰も盗むような人なんていないし」  それを聞いたところで、ふとある疑問が浮かぶ。 「あれ、でも……ユージオは、村に衛士がいるって言ったよな? 盗賊が来たりしないなら、なんでそんな職業があるんだ?」 「決まってるじゃないか。闇の軍勢から村を守るためだよ」 「闇の……軍勢……」 「ほら、見えるだろう、あそこ」  そのとき、俺たちはちょうど最後の樹のあいだを抜けた。  眼前は、一面の麦畑だった。まだ若く、膨らみ始めてさえいない青い穂先が風に揺れている。傾きはじめた太陽の光がいっぱいに降り注ぎ、まるで海のようだ。道は、畑のあいだを蛇行しながら伸び、そのずっと先に小高い丘が見えた。周囲を木々にかこまれたその丘をよくよく見ると、砂粒のように小さな建物がいくつも密集し、中央には一際高い塔があった。どうやらあそこが、ユージオの暮らすルーリッドの村らしい。  そして、ユージオの指がさしているのは、村のさらに向こう、遥か彼方にうっすらと伸びる白い山脈だった。鋸のように鋭い険峻が、視線の届くかぎり左から右へと続いている。 「あれが、“果ての山脈”さ。あの向こうに、ソルスの光も届かない闇の王国があるんだ。空は昼でも黒雲に覆われていて、天の光は血のように赤かった。地面も、樹も、炭みたいに黒くて……」  遠い過去を思い出しているのだろう、ユージオの声がかすかに震えた。 「……闇の王国には、ゴブリンとかオークみたいな呪われた生き物や、いろいろな恐ろしい怪物……それに、黒い竜に乗った騎士たちが住んでる。もちろん、山脈を守る整合騎士がそいつらの侵入を防いでるけど、でも神聖教会の言い伝えによれば……千年に一度、ソルスの光が弱まったとき、暗黒騎士に率いられた闇の軍勢が、山脈を越えて一斉に攻めてくるんだって。そうなったら、整合騎士でも防げるかどうかわからないから、そのときに備えて村には衛士が、少し大きい街には衛兵隊があるんだよ」  そこでいぶかしそうに俺の顔をちらりと見て、ユージオは続けた。 「……子供でも知ってる話だよ。キリトはそんなことも忘れちゃったのかい?」 「う……うん、聞いたことはあるような気がするけど……」  冷や冷やしながらそう誤魔化すと、ユージオは疑うことなど知らないような笑顔で小さく頷いた。 「うーん、もしかしたらキリトは、このノーランガルス神聖帝国じゃなくて、東方や南方の国の出なのかもしれないね」 「そ、そうかもな」  俺は頷くと、話題を切り替えるべく、かなり近づきつつあった丘を指差した。 「あれがルーリッドの村? ユージオの家はどのへんなの?」 「正面に見えるのが南門で、僕の家は北門の近くだから、ここからは見えないなあ」 「ふうん。てっぺんの塔がその、教会?」 「うん、そうだよ」  目を凝らすと、細い塔の先端には、十字と円を組み合わせたような金属のシンボルが見て取れた。 「なんか……思ったより、立派な建物だな。ほんとに、俺みたいなのを泊めてくれるかな?」 「平気さ。シスター・アザリヤはいい人だから」  不安ではあったが、おそらくはユージオと違って本物のNPC、というか自動応答プログラムなのだろうから——なんと言っても、STLは世界にたった六台しかないのだ——常識的な受け答えをしていれば問題はあるまい、と俺は考えた。もっとも、その常識というやつが、今の俺にはぽっかりと欠如しているわけだが。  理想的には、そのシスターがラースのオブザーバーであれば話が早い。しかしおそらく、世界の観察を目的としている人間が、村長だのシスターといった重要な役どころに就いていることはないだろう。村にもぐりこんだら、どうにかして接触すべき相手を探し出さなくてはいけない。  それも、この小さな村にオブザーバーが常駐していれば、の話だけどな……と俺はやや心配になりながら、苔むした石造りのアーチをユージオと一緒にくぐった。 「はいこれ、枕と毛布。寒かったら奥の戸棚にもっと入ってるわ。朝のお祈りが六時で、食事は七時よ。一応見にくるけど、なるべく自分で起きてね。消灯したら外出は禁止だから、気をつけて」  言葉の奔流とともに降ってきた、簡素な枕と上掛けを、俺は伸ばした両手で受け止めた。  ベッドに腰掛けた俺の前で両手を腰に当てて立っているのは、年のころ十二ほどと見える少女だ。白いカラーのついた黒の修道服を身に付け、明るい茶色の長い髪を背中に垂らしている。くりくりとよく動く同色の瞳は、シスターの前でかしこまっていたときとは別人のようだ。  シルカという名のこの少女は、教会に住み込みで神聖魔術の勉強をしているシスター見習なのだそうだ。同じく教会で暮らす数人の少年少女たちの監督役でもあるというそんな立場のせいか、ずっと年長の俺に対してもまるで姉か母親のような口の利きぶりで、思わず笑みがこぼれそうになるのをどうにか堪える。 「えーと、あと他にわからないことある?」 「いいや、大丈夫。いろいろありがとう」  礼を言うと、シルカは一瞬だけくしゃっと大きな笑顔を見せ、すぐ鹿爪らしい顔に戻って頷いた。 「じゃあ、お休みなさい。——ランプの消し方はわかるわね?」 「……ああ、わかるよ。お休み、シルカ」  もう一度こくんと頷き、シルカは少し大きい修道服の裾を引きずりながら部屋を出ていった。小さな足音が遠ざかるまで待って、俺はふう、と深い息をついた。  あてがわれたのは、教会二階の普段は使っていないという部屋だった。およそ六畳ほどのスペースに、鋳鉄製のベッドひとつ、揃いのテーブルと椅子、小さな書架とその横の戸棚が設えてある。膝に置いたままだった毛布と枕をシーツの上に放り投げ、俺は両手を頭の下で組みながらごろりとベッドに横になった。頭上のランプの炎が、じじ、と音を立ててかすかに揺れた。 「一体、こりゃあ……」  どうなってんだ。という言葉を飲み込みながら、村に入ってから現在までのことを脳内に逐一再生してみる。  俺を連れて村に入ったユージオは、まずアーチから程近い場所にあった衛士の詰め所に向かった。中に居たのは、ユージオと同い年だというジンクという若者で、当初こそ俺を胡散臭そうな目で見ていたものの、“ベクタの迷子”であるという説明を拍子抜けするほどアッサリと受けいれて俺が村に入るのを許した。  もっとも、ユージオが事情を話しているあいだ、俺の目は衛士ジンクが腰に下げていた簡素な長剣に釘付けで、声は右から左に抜けていたのだが。よっぽど、いささか古ぼけたその剣をちょっと借りて、この世界でも俺が——正しくは仮想の剣士キリトが身に付けた技が有効なのかどうか試してみようかと思ったのだがその衝動はどうにか抑えた。  詰め所を出た俺とユージオは、メインストリートをわずかな奇異の視線を浴びながら歩いた。それは誰だ、と尋ねてくる村人が少なからずおり、そのたびに立ち止まって説明するので、小さな村の中央広場にたどり着くまでに三十分近くを要した。一度など、大きな篭を下げた老婆が、俺を見て「なんてかわいそうに」と涙ぐみながら篭から林檎(のような果物)を出して俺に呉れようとするので当惑しつつも罪悪感を覚えたものだ。  村を構成する丘の天辺に立つ教会に、ようよう到着したときには既に太陽はほぼ沈みかけていた。ノックに応えてあらわれた、“厳格”という言葉を具現化したとしか思えない初老の修道女がうわさのシスター・アザリヤで、俺は彼女を一目見て『小公女』に出てくるミンチン先生を連想してしまったためにこりゃあだめだ! と内心うめいた。のだがこれまた予想に反してシスターはあっけなく俺に宿を提供することを受諾し、それどころか夕食まで付けようと申し出たのだった。  明朝の再会を約束してユージオとはその場で別れ、俺は教会へと招き入れられた。最年長のシルカ以下六人の子供たちに紹介され、静かながら和やかな食卓を共にし(供せられた料理は揚げた魚に茹でたジャガイモ、野菜スープというものだった)、食後は恐れたとおり子供たちから質問攻めに会い、どうにか躱したと思ったら三人の男の子たちと一緒に風呂に入れと言われ、それら多種多様の試練からようやく解放されてこの客間のベッドに転がっている——というわけなのである。  一日の疲れがずっしりと体に圧し掛かり、目を瞑ればすぐにも寝入ってしまいそうだったが、俺を襲う更なる混乱がそれを許そうとしなかった。  一体、これはどういうことなのだ。もう一度胸中で呟き、唇を噛み締める。  結論から言えば、いわゆるNPCなどこの村には一人もいない。  最初に会った衛士ジンク以下、道ですれ違った多くの村人たちや林檎をくれた老婆、厳しくも親切なシスター・アザリヤと見習いシスターのシルカ、親を亡くしたという六人の子供たち。その全員が、ユージオとほぼ同じレベルのリアルな感情、自然な会話力、精妙な動作を備えている。簡単に言えば、皆本物の人間としか見えない。少なくとも、通常のVRMMOに実装されている自動応答キャラクターなどでは決してない。  だが、そんなことは有り得ないのだ。  既存のソウル・トランスレーターは六台のみ、ラースの分室で俺はたしかにそう聞いた。仮にそれから台数が増えていたとしても、ひとつの村を丸ごと構成するほどの人間をダイブさせる数には到底足りないはずだ。規模からして、このルーリッドの村には五百を下らない人間が住んでいるだろうし、あの、部屋ひとつぶんほどもあるSTL実験機がそう容易く量産できるものではないことは断言できる。だいいち、この世界に存在するらしい無数の村や街、そして噂の“央都”に住む人間たちのことを考えれば、仮に莫大な費用を投じてマシンを揃えることはできても、その数万——数十万? にのぼるテストプレイヤーを秘密裏に募ることなど絶対に不可能ではないか。 「あるいは……」  やはりユージオ達は本物の人間、つまり記憶を制限されたプレイヤーではない、ということなのだろうか? 常識を遥かに超えた、ほぼ完全の域に近づいた自動応答プログラム。  AI、人工知能……という言葉が脳裏を過ぎる。  近年、主にパソコンやカーナビなどの機械類のガイダンス用として、いわゆるAIは長足の進歩を遂げている。人間あるいは動物を模したキャラクターに向かって、音声で命令や質問をすると、かなりの正確さで必要な情報が返ってくるというものだ。あるいは、俺の馴染んだVRゲーム中のNPCもAIの一種と言っていい。クエストに必要な情報のやり取りは勿論、他愛ない雑談でもある程度自然な受け答えを実現しているので、“NPC萌え”を信条とする一派などは主に美少女タイプのものに付きまとい日がな一日話し掛けたりもする。  だが勿論、それらAIに真の知能が備わっているわけではない。要は、こう言われたらこう答える、という命令の集合体でしかないので、データベースにない質問や会話には応答することができないのだ。その場合、大概のものは穏やかな笑顔とともに首を傾げ、『質問の意味がわかりません』という意味の台詞を口にする。  だが、今日いちにち、ユージオが一度でもそんなことを言っただろうか?  彼は、俺が無数に発した質問のすべてに、驚き、戸惑い、笑いといった自然な表情を交えながら適切極まりない回答を返した。ユージオだけではない、シスター・アザリヤも、シルカも、年少の子供たちも一度として『データがありません』などという顔は見せなかったのだ。  俺が知る限り、既知の人工知能で最も高度なレベルに達しているのは、旧SAOにおいてメンタルケア用カウンセリング・プログラムとして開発され、今は俺とアスナの“娘”としてALOに存在するユイという名のAIだ。彼女は、丸二年間に渡って五万人のプレイヤーのあらゆる会話をモニター・分析しつづけ、ほぼ完全な擬似人格を確立するに至った。市販レベルのAIが、せいぜい数十人の開発陣との会話による“経験”しか得られないことを考えれば、ユイの応答や感情があれほど高度なことも納得できる。彼女はいまや、“自動応答プログラム”と“真の人工知能”との境界例とさえ言っていいほどのレベルに達している、と俺やアスナは考えている。  しかし、そんなユイですら完璧ではない。彼女も時には、その単語はデータベースにありません、と首を傾げることがあるし、例えば“怒っているフリ”などの人間の微妙な感情は読み違ったりもする。会話のふとした一瞬に、拭いがたく“AIらしさ”が存在するのだ。  ところがユージオやシルカたちにはそれがない。ルーリッドの村人たちが、プログラマーによって組まれた少年型、少女型、老婆型、盛年型……のAIなのだとしたら、それはある意味ではSTLなど遥かに上回るオーバー・テクノロジーだ。とうてい、実現可能なものだとは思えない。  俺は溜息とともに体を起こし、床に下りた。  ベッドと、カーテンに覆われた窓との間の壁に、古めかしい鋳物のオイルランプが据えられており、揺れるオレンジ色の光とともにかすかな焦げ臭さを発していた。もちろん現実世界では本物に触ったことなどないが、幸いSAOの俺の部屋に似たようなものがあったので、見当をつけて底部にあるつまみを捻る。  きゅきゅっと軋む音とともに灯芯が締められ、一条の煙を残して灯りが消えた。暗闇に包まれた室内に、窓から細い月光がひとすじ落ちている。  俺はベッドに引き返すと、枕を窓側に置き、今度はちゃんと体を横たえた。わずかな肌寒さを感じて、シルカがくれた厚手の毛布を肩まで引っ張りあげると、抗しきれない眠気が襲ってきた。  ——人間でもなく、AIでもない。では、何なのか?  俺の思考の片隅には、すでにひとつの答えが浮かびつつあった。だが、それを言葉にするのはどうにも恐ろしかった。もし仮に、俺の考えていることが可能なのだとしたら——ラースはもはや、神の領域の遥か深奥に手を突っ込んでいる。それに較べれば、STLで魂を解読することなど、パンドラの箱を開けるための鍵を指先でつつく程度に等しい。  眠りに落ちながら、意識の底から響いてくる声に耳を傾ける。  脱出方法を探して右往左往している時ではない。央都に行くのだ。行って、この世界の存在理由を見極めるのだ……。  からーん、とどこか遠くで鐘の音がひとつ聞こえたような気がした。  それとほぼ同時に肩口を遠慮がちに突付かれ、俺は毛布に深く潜行しながらもごもごと唸った。 「うー、あと十分……いや五分だけ……」 「だめよ、もう起きる時間よ」 「三分……さんぷんでいいから……」  尚も肩をつんつんされているうちに、ようやく小さな違和感がまどろみを押し退けて浮上してくる。妹の直葉なら、こんなまだるっこしい起こし方はしない。大声で喚きながら髪を引っ張る鼻をつまむ等の乱暴狼藉を働き、最終的には布団を引っぺがすという悪鬼の所業に及ぶ。  ああ、そうか、と思いながら毛布から顔を出し、薄く目を開けると、すでにきちんと修道服を身につけたシルカの姿が目に入った。俺と視線が合うと、呆れたように唇をとがらせる。 「もう五時半よ。子供たちはみんな起きて顔を洗ったわ。早くしないと礼拝に間に合わないわよ」 「……はい、起きます……」  暖かいベッドを、あるいは平和な眠りを名残惜しく思いながら上体を起こす。ぐるりと見回すと、そこは昨夜の記憶にあるとおりの、ルーリッド教会二階の客間だった。もしくは、ソウル・トランスレーターの作り出した仮想世界アンダーワールドの内部、と言うべきか。俺の奇妙な体験は、どうやら一夜限りのはかない夢、というわけではなさそうだ。 「夢だけど、夢じゃなかった、か」 「え、何?」  けげんそうな顔をするシルカに、あわてて首を振る。 「いや、なんでもない。着替えてすぐ行くよ、一階の礼拝堂でいいんだろ?」 「そう。たとえお客様で、ベクタの迷子でも、教会で寝起きするからにはお祈りしなくちゃだめなんだからね。一杯の水と藁のベッドでも、それを与えてくれる神様に感謝しなさいって、シスターがいつも……」  そのままお説教が始まりそうだったので、俺はそそくさとベッドから出た。寝巻きとして貸し与えられた薄手のシャツを脱ごうと裾を持ち上げると、今度はシルカが慌てたような声を出した。 「あ、あと二十分くらいしかないからね、遅れちゃだめよ! ちゃんと外の井戸で顔を洗ってくるのよ!」  ぱたぱた、と足音をさせて床を横切り、大きな音をさせてドアが開閉するともうその姿は無かった。やっぱり、どう見てもNPCじゃないよな……と思いながらシャツを脱ぎ、椅子の背にかけてあった“初期装備”の青いチュニックを手に取る。ふと気付いて鼻先に持ってきてみたが、幸い汗の匂いはしないようだった。さすがに、匂いのもとになる雑菌類までは再現していないのだろう。もしかしたら、汚れや綻びといったものはすべて“天命”という名の耐久度に統合してあるのかもしれない。とは言え、この世界での滞在が長引くならいずれ下着を含めた替えは必要になるだろうし、そのために通貨を入手する方策も検討しなくてはならない。  などと考えながら上下とも着替えを終え、俺は部屋を出た。  階段を降り、炊事場の横にある裏口で適当なサンダルを借りて外に出ると、見事な朝焼けが頭上に広がっていた。まだ六時前と言っていたが、そういえばこの世界の住民は時間をどのようにして知っているのだろう。食堂にも、客間にも時計のようなものはなかった。  首を捻りながら、四角く切った石畳の上を歩く。すぐに、大きな樹の下に井戸が見えた。すでに子供たちが使ったあとらしく、周囲の草が濡れている。蓋を外し、つるべから下がった木製のバケツを落とすと、からからかぽーんと景気のいい音がした。ロープを引いて、バケツになみなみと汲まれた透明な水を傍らのたらいに移す。  手が切れるほど冷たい水でばしゃばしゃと顔を洗い、ついでにもう一杯汲み上げてごくごく飲むと、ようやく眠気の残滓がきれいさっぱり吹き飛んでいった。昨夜はおそらく九時前には眠りについたので、こんな早起きをしてもたっぷり八時間以上は眠っているはずだ……とそこまで考えてから、しかし、と首を捻る。  ここがアンダーワールドなら、おそらくSTRA機能が今も働いているはずだ。倍率が三倍なら俺の実際の睡眠は三時間以下だし、まさかとは思うが昨日おぼろげに予想した、千倍という恐るべき加速ならば三十秒たらず(!)だ。それっぽっちで、こんなにも頭がすっきりするものだろうか。  まったく、わけのわからないことだらけだ。一刻もはやくこの世界から脱出し、状況を確かめなければ……と思う反面、昨夜眠る前にかすかに響いた囁き声がまだ耳から離れない。  俺が、桐ヶ谷和人の意識と記憶を保ったまま今この世界に在るのは、イレギュラーな事故の結果にせよ何者かの意思によるものにせよ、為すべき何かのためではないのか? 俺は別に運命論者ではないが、しかし反面、すべての物事には何らかの意味があるのだ、と考えがちであることも否定できない。だって——そうでなければ、SAO事件で消滅した一万の生命は、いったい何のために……。  ばしゃり、ともう一度顔に冷水をぶつけて、俺は思考を断ち切った。当面の行動方針はふたつだ。まずは、この村にラースの監視者が居るのか調べる。そして同時に、央都とやらに行く方法を探る。  前者は、それほど難しいことではない気がする。STRAの倍率が不明な状況でははっきりしたことは言えないが、少なくともラースの技術者が村人を装って暮らしているなら、何年、何十年もぶっ続けでダイブすることは不可能なはずだ。つまり、行商やら旅行といった理由で長期間留守にすることがある住民がいれば、そいつがオブザーバーである可能性が高い。  後者は——正直なところノーアイデアだ。ユージオは、央都まで馬でひと月かかると言っていた。その馬をどうやって手にいれるのか見当もつかないし、旅に必要な装備も資金も何一つ持っていないし、そもそも今の俺にはこの世界の基本的な知識が欠如しすぎている。ガイドをしてくれる人間が必要なのは明らかで、もっとも適任と思えるのはユージオだが、彼には一生かけても終わらない“天職”があるときている。  いっそ、俺も禁忌目録とやらに重大な違反をして、なんとか騎士に逮捕されれば話は早いのだろうか。しかし、それで央都まで連れていかれた途端斬首だの磔刑にされては、判明するのはこの世界で死んだらどうなるのかという、それだけだ。  あとでユージオに、神聖魔法には蘇生呪文もあるのかどうか聞いておかないとな、などと考えていると、教会の裏口がばたんと開き、シルカの小さな姿が見えた。と思ったとたん、大声で叱られてしまう。 「キリト、いつまで顔洗ってるのよ! 礼拝はじまっちゃうわよ!」 「あ、ああ……ごめん、すぐ行く」  俺は片手を上げると、井戸の蓋を戻して早足で建物へと向かった。  厳かな礼拝と賑やかな朝食が終わると、子供たちは掃除や洗濯といった雑務に取り掛かり、シルカはシスター・アザリヤと一緒に神聖術の勉強をするために書斎へ消えて、俺は食って寝るだけの居候の身に少々の罪悪感を覚えながら、今度は正面の入り口から外へと出た。  前庭を突っ切って青銅の門をくぐり、円形の中央広場の真ん中でユージオを待つ。  数分と経たないうちに、消えかけた朝靄の奥から見覚えのある亜麻色の髪が近づいてくるのが見えた。同時に、背後の教会の尖塔から、華麗なメロディを奏でる鐘の音が聞こえた。 「ああ……なるほど」  ユージオは、俺が開口一番そんなことを言ったので、驚いたように目をぱちくりさせた。 「おはよう、キリト。なるほどって、何が?」 「いや……。あの、一時間ごとに鳴る鐘の音が、毎回違う旋律なのに今ごろ気付いた。つまりこの村の人は、あの鐘で時間を知ってるわけなんだな」 「もちろん、そうだよ。“ソルスの光の下に”っていう有名な賛美歌を、一節ずつ十二に分けて鳴らしてるんだ。それと、半刻ごとにカーンとひとつ。残念ながらギガスシダーのところまでは音が届かないから、僕はソルスの高さで時間を見当するしかないんだけど」 「なるほどなあ……」  俺はもう一度呟きながら、塔の天辺を振り仰いだ。四方に切られた円形の窓の奥に、大小たくさんの鐘がきらきらと光っている。だが、たった今鐘が鳴り終わったばかりなのに、その下に人影は無かった。 「あの鐘は、どうやって鳴らしてるの?」 「……ほんとにキリトは、何もかも忘れちゃったんだなあ」  ユージオは、呆れたような面白がるような声で言ってから。咳払いして続けた。 「誰も鳴らしてないよ。あれは、この村にたった一つある神聖器だからね。決まった時刻に、一秒もずれることなくひとりでに鳴るんだ。もちろん、ルーリッドだけじゃなくて、ザッカリアにも、他の村や街にもあるんだけどね。……ああ、でも、今はもうひとつあるかな……」  闊達なユージオにしては珍しく、語尾が口の中に飲み込まれるように消えたので、俺は眉を上げて首を傾げた。だが、ユージオはそれ以上この話題を続ける気はないようで、ぱん、と両手で腰を叩いて言った。 「さて、僕はそろそろ仕事に行かないと。キリトは、今日はどうするんだい?」 「ええと……」  俺は少し考えた。この村をあちこち探検して回りたいのはやまやまだが、独りでうろついて妙なトラブルに巻き込まれないとも限らない。先刻考えたとおり、監視者の見当をつけるだけなら、ユージオに留守がちの村人がいないかそれとなく訊けばいいわけだし、彼をそそのかして央都に向かおうという俺の悪辣な計画のためには、ユージオの天職自体についてももう少し調べてみる必要がある。 「……ユージオさえよければ、今日も仕事を手伝わせてくれないか」  思案のすえそう言うと、ユージオは大きく笑って頷いた。 「もちろん、僕は大歓迎だけど。何となく、キリトがそう言うんじゃないかと思って、ほら、今日はパン代を二人分持ってきたんだ」  ズボンのポケットから小さな銅貨を二枚取り出し、掌でちゃりんと音を立てる。 「ええっ、いやそりゃ悪いよ」  慌てて手と首を振ると、ユージオは肩をすくめて笑った。 「気にしないで。どうせ、毎月村役場から貰う給金も、使うアテなんてないから無駄に貯めてるだけなんだ」  お、いいねいいね、央都までの路銀もこれで宛がついた。と、人非人の俺は内心で考えた。あとは、ユージオの天職、もしくはあのでかい樹をどうにかするだけだ。  そんなことを考えているのが今更ながら心苦しくなるほどに朗らかな笑顔を浮かべたまま、ユージオはじゃあ、行こうかと言って南へ足を向けた。その後を追いながら、俺はもう一度振り向き、毎時自動的に奏でられるという鐘楼を見上げた。  まったく、実に奇妙な世界だ。現実と見紛うほどのリアルな農村生活が繰り広げられているそのすぐ傍に、拭いがたくVRMMO世界っぽさが漂っている。かつて暮らしたアインクラッドの各主街区でも、きっかり一時間ごとに時を告げる鐘の音が鳴り響いたものだ。  神聖魔術、そして神聖教会か。はたしてそれらに、システムコマンド、ワールドシステム、と振り仮名を振っていいものかどうか。だがそうすると、世界の外にあるという闇の王国とやらの存在をどう考えるべきか。システムと対立するシステム……。  物思いに耽る俺の隣で、ユージオはパン屋と思しき店先でエプロン姿の小母さんと快活に挨拶をかわし、例の丸パンを四つ購入した。覗き込むと、店の奥では、店主らしい男が小麦の塊をばんばん捏ね、大型のかまどからは盛んに香ばしい匂いがしてくる。  あと一時間、いや三十分も待てば焼きたてのパンが買えるのだろうに、と思うが、そのへんの融通の利かなさも“天職”という厳格なシステムの一部なのだろう。ユージオが森について斧を振りはじめる時間はすでに決定されており、動かすことはできないのだ。そんなものをひっくり返して彼を旅に連れ出そうというのだから、俺の計画が容易なものではないことも推して知るべし、だ。  だが、どんなシステムにも抜け道はある。風来坊の俺が、彼の手伝いとして仕事に潜り込むことができたように。  南のアーチをくぐり、俺とユージオは緑の麦畑を貫く道を、遠くに横たわる黒い森目指して歩き始めた。この場所からも、一際高く鋭いギガスシダーの姿ははっきりと見て取れた。  ユージオと交替しながら、懸命に竜骨の斧を振るうちに、ソルスという名の太陽はものすごい速さで中天まで駆け上った。  俺は、鉛のように重くなった両腕に鞭打って、五百発目のスイングをお化け杉の胴体に叩き込んだ。こぉーん、と胸のすくような高い音とともに、ほんの小さな木っ端が飛んで、巨樹の膨大な耐久値がわずかに減少したことを知らせた。 「うああ、もうだめだ、もう振れない」  俺は悲鳴を上げて斧を放り出すと、ぼろ切れのように苔の上に崩れ落ちた。ユージオが差し出してくる水筒を受け取り、シラル水と言うらしいさわやかな味の液体を貪るように飲む。  そんな俺の様子を、こちらは余裕しゃくしゃくな笑顔で見ながら、ユージオは教師のような口調で言った。 「でも、キリトは筋がいいよ、ほんと。たった二日で、かなりまともに当たるようになったじゃないか」 「……それでも、まだユージオにはぜんぜん及ばないからな……」  溜息をついて座りなおし、背中をギガスシダーの幹に預ける。  改めて、たっぷりと重い斧を振り回したおかげで、俺はこの世界における己のステータスをあるていど把握できた気がしていた。  もう分かっていたことだが、旧SAO世界のキリトが備えていた超人級の筋力、敏捷力には及びもつかない。と言って、現実世界の虚弱な桐ヶ谷和人準拠というわけでもない。現実の俺なら、こんなごつい斧を何十回も振りまわせば全身筋肉痛で翌日は起き上がれないだろう。  つまりどうやら、今の俺の体力は、この世界における十七、八の若者の平均値ということなのだろう。さすがに七年もこの仕事をやっているだけあって、ユージオのそれは俺をかなり上回っているように感じる。  幸いなのは、体を動かす勘、あるいはイメージ力といったものは、これまでプレイしたVRMMOと同じかそれ以上に有効に機能するようだ。重量と軌道を意識しながら何百回もスイングしたおかげで、どうやらこの“要求STRの高い”斧をそこそこコントロールできるという自信は持てそうだった。  それに、同じ動作の反復練習というのは、かつてあの世界で反吐が出るほど行った、言わば俺の得意分野だ。少なくとも根気だけは、ユージオにも負けはしない——。  いや……待て。俺はいま、何か重要なことを……。 「ほら、キリト」  ユージオがひょいっと放ってきた二個の丸パンが、俺の思考を中断させた。慌てて両手でひとつずつ受け止める。 「……? どうしたんだい、妙な顔して?」 「あ……いや……」  俺は、するりと滑り落ちてしまった思考のしっぽを捕まえようと四苦八苦したが、何か大切なことを考えたぞ、というあのもどかしさだけが霧のように漠然と漂うだけだった。まあいい、重要なことならそのうち思い出すだろう、と肩をすくめ、改めてユージオに礼を言う。 「ありがとう。遠慮なく、頂きます」 「不味いパンで悪いけどね」 「いやいやそんなそんな」  大口を開けてがぶりと噛み付く。味はいい——が、正直なところやはり相当に固い。その感想はユージオも異なりはしないようで、顔をしかめて顎を全力で動かしている。  二人無言のまま一つ目のパンをどうにか胃に収め、顔を見合わせて微妙な笑いを浮かべた。ユージオはシラル水を一口含み、ふっ、と視線を遠くに向ける。 「ああ……ほんと、キリトにも、アリスのパイを食べさせてやりたかったなあ……。皮がさくさくして、汁気のある具がいっぱいに詰まってて……絞りたてのミルクと一緒に食べると、世の中にこれより美味しいものはない、って思えた……」  話を聞いているうちに、不思議に俺の舌にもそのパイの味が甦るような気がして、とめどなく生唾がわいた。慌ててふたつ目のパンを一口齧ってから、遠慮がちに尋ねる。 「なあ、ユージオ。その……アリスは、教会で神聖魔術の勉強をしてたんだよな? シスター・アザリヤの後を継ぐために」 「うん、そうだよ。村始まって以来の天才って言われて、十歳の頃からもういろんな術が使えたんだ」  どこか誇らしげにユージオは答える。 「じゃあ……今教会で勉強してる、シルカって子は……?」 「ああ……。シスター・アザリヤも、アリスが整合騎士に連れて行かれてからずいぶんと気落ちしてね。もう生徒は取らないって言ってたんだけど、そういう訳にもいかないからって、村の偉い人たちが説得して、一昨年ようやく新しい見習としてあの子が教会に入ったんだ。シルカは、アリスの妹なんだよ」 「妹……。へえ……」  どちらかと言うと、しっかり者のお姉さん、といった印象のシルカの顔を思い浮かべながら、俺は呟いた。あの子の姉というなら、アリスという少女もさぞかし面倒見のいい世話焼きタイプだったのだろう。のんびりしているユージオとは、きっといいコンビだったに違いない。  そんなことを考えながらちらりと視線を向けると、樵の少年は何故か、気がかりそうにちいさく眉を寄せていた。 「……歳が五つも離れてるから、僕はあんまり一緒に遊んだこととか無いんだけどね。たまに僕がアリスの家にいくと、いつも恥ずかしそうにお母さんやお婆さんの後ろに隠れてるような子だったな……。ガスフト村長や他の大人たち、それにシスター・アザリヤも、あのアリスの妹だからきっとシルカにも神聖術の才能があるってすごく期待してるみたいだけど……でも、どうなのかな……」 「シルカには、お姉さんほどの才能は無い、って言うのか?」  俺の直截すぎる訊きかたのせいか、ユージオはかすかに苦笑して首を振った。 「そうは言わないよ。誰だって、天職に就いたばかりの頃はうまくやれないさ。僕も、まともに斧を振れるまでには三年以上かかったんだ。真剣に頑張れば、どんな天職だって無理ってことはない。ただ……シルカは、ちょっと頑張りすぎてるような気がして……」 「頑張りすぎ?」 「……アリスは、神聖術の勉強をはじめてからも、べつに教会に住み込んでたわけじゃないんだ。勉強は午前中だけで、お昼には僕の弁当を届けてくれて、午後には家の仕事の手伝いをしてた。でもシルカは、それじゃ勉強の時間が足りないからって、家を出たんだよ。ちょうど、ジェイナやアルグが教会で暮らすようになって、シスターだけじゃ手が足りなかった、ってのもあったみたいなんだけど」  俺は、小さな子供たちの面倒をこまめに見ているシルカの姿を思い出した。とりたて辛そうには見えなかったが、確かに一日中勉強をした上で六人もの子供の世話をするのは、自身まだ十二歳でしかない少女にとっては簡単なことではないだろう。 「なるほどな……。そこに、更にわけのわからない風来坊が飛び込んできたわけか。せめて俺は、シルカに面倒はかけないようにしないとな」  明日はきちんと五時半に起きよう、と決意してから、そう言えばと言葉を続ける。 「あの教会で暮らしてる、シルカ以外の子供たちは、親を亡くしたんだって? 両親ともなのか? あの平和そうな村で、なんで六人も?」  それを聞いたユージオは、憂い顔を作って地面に視線を落とした。 「……三年前のことなんだけど、村に流行り病がきてね。ここ百年以上無かったことらしいんだけど、大人や子供が、二十人以上も亡くなったんだ。シスター・アザリヤや、薬師のイベンダおばさんが手を尽くしても、一度高い熱が出たらもう誰も助からなかった。教会にいる子供たちは、その時両親を失ったんだ」  俺は、予想外のユージオの言葉に唖然として言葉を失った。  伝染病だって? ——しかし、ここは仮想世界なんだ。細菌やウイルスなんてあるはずがない。つまり、病気による死者は、世界を管理する人間あるいはシステムが作り出したものだ。しかし、何のために? 住民に意図的な負荷を与えることで、一体何をシミュレートしようというのだろう?  結局、すべてそこに行き着くのだ。この世界が存在する理由——。  俺の深刻な顔をどう受け取ったのか、ユージオも沈んだ表情のままさらに口を開いた。 「流行り病だけじゃない。ちかごろ、おかしな事が多い気がするんだ。はぐれ長爪熊や、黒森狼の群が人を襲ったり、小麦の穂が膨らまなかったり……。ザッカリアからの定期馬車も、来ない月がある。その理由が……街道のずっと南に、盗賊団が出るからだ、って言うんだよ」 「な、なんだって」  俺は二、三度まばたきを繰り返した。 「盗賊って……だって、あれだろ? 盗みは、禁忌目録で……」 「勿論。すごい最初のほうのページに出てるよ、盗みを働くべからず、って。だから、もし盗賊団なんてものが本当にいたら、整合騎士があっという間に討伐してしまうはずなんだ。しなきゃならないんだよ、アリスを連れていった時みたいに」 「ユージオ……」  いつも穏やかなユージオの声に、不意に深い遣り切れなさ、とでも言うべきものが混じった気がして、俺はもう一度驚いた。が、それは一瞬で消え去り、少年の口もとにはまたかすかな笑みが浮かんだ。 「……だから、僕はそんなのただの噂話だろうって思ってる。でも、ここ二、三年で教会裏の墓地にだいぶ新しいお墓が増えたのは確かなんだ。そういう時期もある、って祖父ちゃんは言うんだけど」  そういえば、今がかねてからの疑問をぶつけてみるチャンスだ、と思い、俺はさりげなく聞こえるよう注意しながら尋ねた。 「……なあ、ユージオ。神聖術には、その……人を生き返らせるようなものは無いのか?」  どうせまた、常識を疑うような目で見られるんだろうなあ、と身構えていると、あにはからんやユージオは真剣な顔で小さく唇を噛み、それとわからない程に頷いた。 「……村の人たちはほとんど知らないだろうけど、高位の神聖術には、天命そのものを増やすようなものもある、ってアリスが言ってた」 「天命を……増やす?」 「うん。あらゆる人や物の天命は……僕やキリトのもだけど、人の手で増やすことはできないよね。たとえば人の天命は、生まれたときから、大きくなるに従ってどんどん増えていって、だいたい二十五歳くらいで最大になる。そのあとはゆっくりゆっくり減っていって、七十から八十歳くらいで無くなって、ステイシアのもとに召される。これくらいはキリトも覚えてるだろう?」 「あ、ああ」  当然初耳だったが、俺は鹿爪らしい顔で頷いた。 「でも、病気や怪我をすると、天命が大きく減る。傷の深さによっては、そのまま死んじゃうこともある。だから神聖術や薬で治療する。そうすると、天命は回復することもあるけど、決してもとの量以上には増えないんだ。年寄りにどんなに薬を飲ませても、若い頃の天命は戻らないし、深すぎる傷を癒すこともできない……」 「でも、それを可能にする術もある、ってことか?」 「アリスも、教会の古い本でそれを知って驚いた、って言ってた。シスター・アザリヤにその術について聞いたら、すごい怖い顔になって、本を取り上げられて読んだことは全部忘れなさいって言われた、って……。だから僕も詳しいことは聞いてないんだけど、なんでも、神聖教会のすごく偉い司教たちだけが使える術らしいんだ。百歳を超えた老人や、手足が千切れた怪我人の天命を呼び戻す……もしかしたら、天命がゼロになった亡骸にさえも命を与える術かもしれない、って……」 「へえ……。偉い司教、か。じゃあそれは、教会の僧侶なら誰でも使えるってわけじゃないのか」 「勿論だよ。だって、もしシスター・アザリヤにそんな術が使えたら、あの人なら絶対に子供の親、親の子供が病で死ぬようなことを黙って見てるわけないもの」 「なるほどな……」  つまり、今俺がこの場で死んだとしても、教会の祭壇で壮麗なオルガンの音とともに甦る、というようなことは無いと考えてよさそうだった。その場合はおそらく、現実世界に復帰することになるのだろう。いや、そうでなければ大いに困る。STLに、フラクトライトを破壊するような機能は無い——無いはずなのだから。  だが、脱出方法としてそいつを試すのは、可能な限り最後の手段としたいのもまた事実だった。ここがアンダーワールドであるというのは決して確定事項ではないのだし、その確信を持てたとしても、この世界の存在目的を知らないうちに脱出してしまっていいのか——と、魂の奥深くでささやく声がするのだ。  今すぐ央都に瞬間転移し、神聖教会とやらに駆け込んで、システムの中枢なのだろう司教たちの首根っこをぎゅうぎゅう締め上げてやりたい。ステータスは参照できるくせにテレポートができないとは、プレイアビリティに欠けることこの上ない。  これが普通のVRMMOなら、今すぐGMを呼びつけて不満を捲し立てるか、運営体に送るメールの文面でも考えるところだ。だがそれが出来ない以上、システムの許す範囲で最大の努力をするしかない。そう、かつてアインクラッドで、フロア攻略に散々知恵を絞ったように。  俺はふたつ目のパンを胃に送り込むと、ユージオが差し出す水筒を口につけながら頭上に伸びるバカ高い幹を見上げた。  央都に行くためには、どうしてもユージオの協力が必要だ。しかし、真面目な彼に天職を放り出せと言っても無駄だろうし、そもそも禁忌目録で禁止されているのだろう。ならば、この厄介な樹を何とか片付けるしかない。  視線を戻すと、ユージオがズボンをはたきながら立ち上がるところだった。 「さ、そろそろ午後の仕事を始めよう。まずは僕からだね、斧を取ってくれないか」 「ああ」  ユージオの差し出す手に、俺は傍らに立て掛けてあった竜骨の斧を渡そうと、右手で柄の中ほどを握った。  その瞬間、電撃のように脳裏に閃くものがあった。先ほど掌からするりと漏れていった“重要な何か”、その尻尾を今度こそ捕まえると、慎重に引っ張り上げる。  ユージオは確かこう言っていたはずだ。普通の斧では簡単に刃こぼれしてしまうから、央都から大枚はたいてこの竜骨の斧を取り寄せた、と。  ならば、もっと強力な斧を使えばどうなのだ。さらなる攻撃力、耐久力を持ち、“要求STRの高い”やつを。 「な、なあユージオ」  俺は息せき切って尋ねた。 「村には、これより強い斧はないのか? 村になくても、ザッカリアの街とかに……。これを仕入れてからもう三百年も経つんだろ?」  だがユージオはあっけなく首を横に振った。 「あるわけないよ。竜の骨っていうのは、武器の素材では最高のものなんだよ。南方で作るダマスク鋼や、東方の玉鋼より固いんだ。これ以上強いって言ったら、それこそ整合騎士が持ってるような……神聖器でないと……」  語尾が揺れながらフェードアウトしていくので、俺は首をかしげて続きを待った。たっぷり五秒ほども沈黙したあと、ユージオはごく小さな声で、あたりを憚るように囁いた。 「……斧は無い。でも……剣ならある」 「剣?」 「ぼくが、教会の前で、時告げの鐘のほかに神聖器がもうひとつある、って言ったのを覚えてる?」 「あ……ああ」 「村で、知ってるのは僕だけだ。七年間、ずっと隠しておいたんだ……。見てみたいかい、キリト?」 「も、もちろん! 見たい、ぜひ見たい」  意気込んでそう言うと、ユージオはなおも思案する様子だったが、やがて頷いて一度握った斧を再度俺に押し返してきた。 「じゃあ、キリトから先に仕事を始めていてくれないか。取って来るけど、すこし時間がかかるかもしれない」 「遠くにあるのか?」 「いや、すぐそこの物置小屋さ。ただ……重いんだ、とてつもなく」  その言葉どおり、俺が五十回の斧打ちを終えるころようやく戻ってきたユージオは、疲労困憊した様子で額に玉の汗を浮かべていた。 「お、おい、大丈夫か」  聞くと、答える余裕もなさそうに短く頷きながら、肩に担いでいたものを半ば投げ出すように地面に落とした。どすん、と鈍い音が響き、苔の絨毯が大きくへこむ。はあはあと荒い息を繰り返してへたりこむユージオに、水筒を拾い上げて渡すのももどかしく、俺は横たわるそれを注視した。  見覚えがある。長さ一・三メートルほどの、細長い革包みだ。昨日ユージオが竜骨の斧を仕舞った物置小屋の床に、無造作に放り出されていたものに間違いなかった。 「開けていいか?」 「あ……ああ。気を……つけなよ。足の上に、落っことしたら、かすり傷じゃ……すまないぞ」  ぜいぜい喉を鳴らしながらそう言うユージオにひとつ頷いてから、俺はいそいそと手を伸ばした。  そして腰を抜かしそうなほどに驚いた。いや、ここが現実なら、本当に腰椎のひとつくらいズレてもおかしくない。それほどに、革包みは重かった。しっかり両手で握ったのに、まるで地面に釘止めでもされているかのごとく動こうとしないのだ。  現実世界における妹の直葉は、ハードな剣道部の練習に加えて筋トレの鬼なので、外見とくらべて存外重いのだが、包みの体感重量は誇張でなく彼女くらいありそうだった。改めて両足をしっかり踏ん張り、腰を入れて、バーベルを持ち上げるつもりで全身の筋力を振り絞る。 「ふっ……!」  みしみし、と各所の関節が軋んだ気がしたが、ともかく包みは持ち上がった。紐で縛ってあるほうが上にくるように垂直にすると、改めて下部を地面に預ける。倒れないように左手で必死に支えながら、右手一本でぐるぐる回してある紐を外し、革袋を下にずらしていく。  中から現れたのは、思わず溜息が出そうになるほど美しいひとふりの長剣だった。  柄は精緻な細工が施された白銀製で、握りにはきっちりと白い革が巻いてある。ナックルガードは植物の葉と蔓の意匠で、それが何の種類かはすぐにわかった。柄と同じく白革造りの鞘の上部に、鮮やかな青玉で、薔薇の花の象嵌が埋め込んであったからだ。  大変な年代物、という雰囲気ではあるが汚れや染みはまるで無かった。主を得ることなく長い、長いあいだ眠っていた剣、そんなふうに思わせる風格を漂わせている。 「これは……?」  顔を上げて尋ねると、ようやく呼吸が整ったらしいユージオはどこか懐かしそうな、切なそうな目の色でじっと剣を見つめながら口を開いた。 「“青薔薇の剣”。ほんとうの銘かどうかわからないけど、おとぎ話じゃそう呼ばれてる」 「おとぎ話だって?」 「村の子供……いや大人もだけど、誰だって知ってる話さ。——三百年前、ルーリッドの村を作った初代の入植者のなかに、ベルクーリっていう名剣士が居たんだ。彼にまつわる冒険譚は山ほどあるんだけど、中でも有名なのが“ベルクーリと北の白い竜”ってやつでね……」  ユージオはふっと視線をどこか遠くに向け、かすかな感傷の滲む声で続けた。 「……簡単に筋だけ説明すると、果ての山脈を探検に出かけたベルクーリは、洞窟の奥深くでドラゴンの巣に迷い込むんだ。主の白竜は幸い昼寝の最中で、ベルクーリは即座に逃げ帰ろうとするんだけど、巣に散らばる宝の山の中にひとふりの白い剣を見つけて、それがどうしても欲しくなってしまう。音を立てないように慎重に拾い上げて、さて一目散に逃げようとしたら、その途端剣からみるみる青い薔薇が生えてきて、ベルクーリをぐるぐる巻きにしちゃう。堪らず倒れたその音で、ドラゴンが目を醒まして……っていう、まあそういう話」 「そ、それからどうなったんだ」  つい引き込まれながら尋ねるが、ユージオは長くなるから、と笑いながら首を振った。 「まあ、いろいろあってベルクーリはどうにか許してもらって、剣を置いて命からがら村に逃げ帰ってきました。めでたしめでたし……他愛ないおとぎ話だよね。もし、それを確かめにいこう、なんて考える子供さえいなければ……」  深い後悔に彩られたその声を聞いて、俺は悟った。その子供とは、ユージオ自身のことなのだ。そして、彼の幼馴染のアリスという少女も。  しばしの沈黙のあと、ユージオは続けた。 「六年前、僕とアリスは果ての山脈までドラゴンを探しにいった。でも、ドラゴンはいなかった。かわりに、刀傷のある骨の山があるだけだった」 「え……ドラゴンを殺した奴がいるってのか? 一体、誰が……?」 「わからないよ。ただ……宝には興味のない人間だろうね。骨の下には、山ほど色々な宝物が転がってた。そして、その“青薔薇の剣”も。もちろん、あの頃の僕じゃ重くてとても持ち帰れなかったけど……。——そしてその帰り道、僕とアリスは洞窟の出口を間違えて、山脈を闇の王国側に出ちゃったんだ。あとは昨日話したとおりさ」 「そうか……」  俺はユージオから視線を外し、改めて両手で支えたままの剣を眺めた。 「でも……その剣が、なんでここに?」 「……おととしの夏、もう一度北の洞窟まで行って、持ってきたんだ。安息日ごとにほんの何キロかずつ運んでは、森の中にかくして……あの物置小屋まで持ち帰るのに、三月もかかったんだよ。なんでそんなことしたのか……ほんと言うと、僕にもよくわからないんだけどね……」  アリスのことを忘れたくなかったからか? それとも、いつかこの剣を携えてアリスを助けにいくつもりだった?  色々な想像が胸を過ぎったが、それを言葉にするのは憚られた。代わりに、俺は歯を食い縛ってもう一度剣を持ち上げ、右手で柄を握ってそれを抜こうとした。  まるで地面に深く刺さった杭を引き抜こうとするがごとき凄まじい抵抗があったが、一度動き出すとあとは押し出されるような滑らかさで鞘走った。シャーン、と涼しげな音を立てて刀身が抜け、同時に右肩から腕がもげそうになり、俺は慌てて左手の鞘を捨てて柄を両手で握る。  革造りと見えた鞘にすらとてつもない重量があったようで、ずんと音を立てて石突が地面に突き刺さった。危く左足を貫かれるところだったが、飛び退る余裕もなく俺は懸命に抜き身を支えた。  幸い、剣は鞘のぶん三割方軽くなり、どうにかしばらく保持していられそうだった。俺は吸い寄せられるように目の前の刀身に見入った。  不思議な素材だった。幅およそ三センチとやや細身のそれは木漏れ日を受けて薄青く輝いている。よくよく眺めると、日光はその表面で跳ね返されるだけでなく、いくらかは内部に留まっていつまでも乱反射しているように見えた。つまりわずかに透明なのだ。 「普通の鋼じゃないよね。銀でもないし、竜の骨とも違う。もちろんガラスでもない」  ユージオが、わずかに畏れを感じさせる調子で呟いた。 「つまり、人の手によるものじゃない、ってことさ。神様の力を借りて強力な神聖術師が鍛えたか、あるいは神様が手ずから創りだした……そういうもののことを“神聖器”って言うんだ。その青薔薇の剣も、神聖器のひとつだと、僕は思う」  神。  ユージオの話や、シスターのお祈りの端々に“ソルス”や“ステイシア”といった神なる存在が出てくるのには気付いていたが、俺はいままでこういうファンタジー世界にありがちな概念のみの設定物だと思い込んでいた。  だがこのようにして、神が創ったアイテムなどというものが登場するからには考えを改めるべきなのだろうか。仮想世界における神——それはつまり、現実世界における管理者のことか? あるいは、サーバー内のメインプログラムのことなのか?  それもまた、考えて答えの出る疑問ではなさそうだった。今のところは、神聖教会とやらとひっくるめて“システム中枢”的存在と位置付けておくしかない。  ともかく、この剣が、システム的にかなり上位のプライオリティを与えられたオブジェクトなのは間違いないだろう。あとは、同じく上位オブジェクトと目されるギガスシダーと、どちらの優先度が高いか——。それによって、ユージオと一緒に央都にいけるかどうかも決まるわけだ。 「ユージオ。ちょっと今の、ギガスシダーの天命を調べてくれないか」  剣を構えたままそう言うと、ユージオは疑わしそうな目で俺を見た。 「ちょっとキリト……まさか、その剣でギガスシダーを打とうなんて言うんじゃないよね」 「まさかどころか、それ以外にこいつを持ってきてもらった理由があるとでも?」 「ええー……でもなあ……」  首を捻って考え込むユージオに、迷う隙を与えるものかと畳み掛ける。 「それとも、禁忌目録に、ギガスシダーを剣で叩いちゃだめだ、なんて項目があるのか?」 「いや……そりゃ、そんな掟はないけど……」 「あるいは村長とか、前任の……ガリッタ爺さんに、竜骨の斧以外使っちゃだめだと言われたか?」 「いや……それも……。……なんだか……前にもこんなことあったような気がするなぁ……」  ユージオはぶつぶつ言いながら、それでも腰を上げるとギガスシダーに近づいた。左手で印を切り幹を叩き、浮かんできたウインドウを覗き込む。 「ええと、二十三万二千三百と十五、だね」 「よし、それ覚えといてくれよ」 「でもさあ、キリト。その剣をまともに振ろうだなんて、絶対無理だと思うよ。持ってるだけでふらふらしてるじゃないか」 「まあ見てろって。重い剣は力で振るんじゃない。重心の移動がミソなんだ」  もうはるかな昔のこととなってしまったが、旧SAO世界において俺は好んで重量のある剣を求めた。手数で勝負する速度重視の武器よりも、重さの乗った一撃で敵を粉砕する手応えに魅せられたからだ。レベルが上昇し、筋力値が増加するに伴って剣の体感重量は減少してしまうためその都度より重いものに乗り換え、最終的に装備していたやつはたぶんこの青薔薇の剣と大差ない手応えがあったはずだ。その上、往時の俺は左右の手で一本ずつ剣を操るなどという荒業さえこなしていたのである。  もちろんワールドシステムの根幹が違うのだから単純に同一視はできないが、少なくとも体捌きのイメージくらいは流用できよう。ユージオが樹から離れるのを待って、俺は深い斧目の左端に移動すると、腰を落とし、持っているだけで両腕が抜けそうになる剣を下段に構えた。  連続技でも何でもない、単純な右中段水平斬りでいいのだ。SAOのソードスキル名を借りれば“ホリゾンタルアーク”、スキル熟練度五十足らずでマスターできる超のつく基本技。  俺は呼吸を整えると、体重を右足に移しながらテイクバックを開始した。剣の慣性質量に引っ張られ左足が浮く。そのまま尻餅をつきそうになるが、剣尖がトップポイントに達するまで必死に堪え、右足で思い切り地面を蹴って重心を左半身に移していく。同時に脚、腰の捻転力を腕から剣に乗せ、スイングを開始する。  剣が発光することも、動きが自動的に加速されることもなかったが、俺の体は完璧にソードスキルの型をトレースしていった。着地した左足がずしんと地面を震わせ、移動する巨大な質量は慣性に逆らうことなく理想の軌道に乗って突進する——。  が、模範的演技はそこまでだった。踏ん張りきれずに両足が膝からふらつき、剣は目標を遥か離れた樹皮に激突した。  ぎいいいん、と耳をつんざくような音がして、周囲の森から一斉に小鳥が飛び立ち四方へ逃げ出していった。が、俺はそれを見ることもできなかった。反動に耐え切れず手が柄から離れ、無様に宙を飛ぶと、顔から苔に突っ込んだのだ。 「わあ、言わんこっちゃない!」  駆け寄ってきたユージオに助け起こされた俺は、口に詰まった緑の苔を必死に吐き出した。真っ先に着地した顔もさることながら、両手首、腰、両膝が悲鳴を上げたくなるほど痛い。しばしその場にうずくまって呻吟してから、どうにか声を絞り出す。 「……こりゃだめだ……ステータスが真っ赤だ……」  旧SAOにおいて要求STRを上回る武器を装備したときのウインドウ表示状態がユージオに伝わるはずもなく、不思議そうに首をひねる彼に向かって俺は慌てて言い添えた。 「いや、その……ちょっと体力が足らないみたいだな。ていうか、あんな化け物、装備できる奴がいるのかよ……」 「だから、僕らには無理なんだって。ちゃんと剣士の天職を得た……それも、街の衛兵隊に入れるくらいの人でないとさ」  俺は肩を落とし、右手首をさすりながら振り返った。ユージオもつられたように背後を見る。  そして二人同時に呆然と凍りついた。  青薔薇の剣は、美しい刀身を半分ちかくもギガスシダーの樹皮に食い込ませ、そのまま空中に横たわっていた。 「……うそだろ……たった一撃で、こんな……」  ふらりと立ち上がったユージオは、しばらく絶句したのちにかすれ声で呟いた。  右手の指先をおそるおそる伸ばし、剣と樹の接合部をゆっくりなぞる。 「刃が欠けたんじゃない……ほんとに、ギガスシダーに切り込んでる……」  俺も全身の痛みを堪えながら立つと、汚れた服をはたきながら言った。 「な、試してみただけのことはあるだろ。その青薔薇の剣は、竜骨の斧よりも……その、攻撃力が上なんだ。もういちど、ギガスシダーの天命を見てみろよ」 「う、うん」  頷き、ユージオは再度印を切って樹皮を叩いた。迫り出したウインドウを食い入るように眺める。 「……二十三万二千三百十四」 「な、なに」  今度は俺が驚く番だった。 「たった一しか減ってないのか? それだけ深く食い込んでるのに……。どういうことだ……やっぱり斧でないと駄目なのか……?」 「いいや、そうじゃないよ」  ユージオは、腕を組むと首を左右に振った。 「切り込んだ場所が悪いんだ。皮じゃなくて、ちゃんと斧目の中心を叩けば天命はもっと減ったと思うよ。……たしかに、この剣を使えば、竜骨の斧より遥かに早く樹を刻めるかもしれない……それこそ、僕の代でこの天職が終わってしまうほど……。——でも」  振り向いたユージオは、じっと俺を見ると、難しい顔で軽く唇を噛んだ。 「それも、ちゃんと剣を使いこなせれば、の話だよ。一度振っただけでそんなに体を痛めて、しかも狙ったところに当てられないんじゃ、結局斧を使うよりも仕事は遅くなってしまうんじゃないかな」 「俺は駄目でも、ユージオならどうだ? お前のほうが、俺より力がありそうだ。一回、そいつを振ってみろよ」  俺が食い下がると、ユージオは尚も首を捻っていたが、やがて、じゃあ一回だけ、と呟いて樹に向き直った。  食い込んだままの青薔薇の剣の柄を両手で握り、こじるように動かす。刃が樹皮からようやく離れた、と思った途端ユージオの上体がふらふらと泳ぎ、剣先がずしんと音を立てて地面に落ちた。 「わっ、なんだよこの重さは。これはとても無理だよ、キリト」 「俺に振れたんだ、ユージオにもできるさ。要領は斧と大して変わらない。斧を使うときよりももっと体の重さを利用して、腕の力じゃなく全身で振り回すんだ」  言葉でどれほど伝わったか不安だったが、やはり長年斧打ちを続けてきただけあって俺の言わんとするところをユージオはすぐに理解したようだった。純朴そうな顔を引き締めると小さく頷き、腰を落としてぐいっと剣を持ち上げる。  ゆっくり後ろに剣を引き、わずかな溜めのあと、シッと鋭い呼気とともに猛烈なスピードでスイングを開始した。右足つま先が一直線に走るところなどは、俺も驚く見事な体重移動態だ。空中に青い光の軌跡を残して、剣尖が深い斧目の中心目掛けて突進していく。  ——が、最後の一瞬で、すべての質量を支える左足がずるっと滑った。跳ね上がった剣はV字の切れ込みの上辺を叩き、がっつと鈍い音を発して止まった。直後、俺とは逆に真後ろに吹っ飛んだユージオは、太い根にしたたか尻を打ち付けて低い呻き声を上げた。 「うぐっ……」 「お、おい、平気か」  慌てて駆け寄ると、さっと右手を上げてなおもしかめっ面を続ける。その様子を見て、俺は今更ながら、この世界には痛覚が存在するのだ、という事実に気づいた。  SAOを含むVRMMOゲームは、痛みの感覚を遮断するペインアブソーバという仕組みを備えている。脳の錯覚によって発生する幻の痛みですら無効化するので、VRゲーム内でヒットポイントが一桁になるまで血みどろの肉弾戦に興じることもできる。  だが、この世界にはそんなエンタテインメント精神は欠片も無いようだった。ようやく収まりつつあるとは言え、俺の手首や肩は今もずきんずきんと鈍く疼いている。捻ったり打ち付けた程度でこの有様なのだ。これが、武器による深手なら一体どれほどの苦痛がもたらされるのだろうか。  アンダーワールドで今後、剣を手に戦うつもりなら、その前にこれまでは要求されたことのない種類の覚悟を決めておく必要がありそうだった。何せ、俺はこれまで、重量のある刃によって肉体を叩き斬られる痛みなど想像すらしたこともないのだから。  どうやら、俺よりは苦痛に耐性のあるらしいユージオは、わずか三十秒ほどで渋面を消すと、ひょいっと身軽に立ち上がった。 「うーん、これは無理だよ、キリト。狙いどころに当たる前に、こっちの体が壊れちゃうよ」  苦笑混じりに肩をすくめ、ギガスシダーに向き直る。青薔薇の剣は、斧目の上側に浅い角度で命中したあと弾かれて、樹の根元に斜めに突き立っていた。 「いい線行ってたと思うけどなあ……」  俺は未練がましくそう言ったが、ユージオは首を振ると地面から鞘を拾い上げ、脚をふらつかせながら引き抜いた剣を慎重に収めた。その上から革袋を被せると、元通りくるくると紐で縛る。少し離れた岩の上に剣を横たえ、ふうっと長い息をついて、立てかけてあった竜骨の斧を手に取った。 「うわあ、なんだかこの斧が鳥の羽みたいに軽く思えるよ。——さ、ずいぶん時間を取っちゃったからね、午後の仕事はがんばらないと」  こーん、こーんとリズミカルに斧を振り始めたユージオの背中から視線を外し、俺は横たわる剣のところまで歩み寄ると、指先でそっと革袋越しに鞘を撫でた。  考え方は間違っていないはずだ。この剣を使えば、ギガスシダーは必ず切り倒せる。しかし、ユージオの言うとおり、無理矢理振り回してどうにかなる代物ではないのもまた確かだ。  剣がこうして存在する以上、これを装備し自在に扱える人間もどこかに居るのだろう。俺やユージオは、システムに規定されたその条件を満たしていないのだ。条件とは何だ? クラス? レベル? ステータス? 一体それを、どうやって調べれば……。 「…………」  そこまで考えたところで、俺はしばし言葉を失った。己の思考の鈍さに愕然としたからだ。  もちろん、ステータスウインドウを見ればいいに決まっているではないか。昨日、ユージオがパンの“窓”を開いたときに、それに思い至らなかったとはまったくどうかしている。  俺はいそいそと左手を伸ばすと、指先で例のマークを描き、少し考えてから右の手の甲を叩いた。予想違わず、鈴の音とともに浮かび上がってきた紫の矩形を食い入るように眺める。  パンのウインドウとは違い、そこには複数行の文字列が表示されていた。咄嗟に隅々までログアウトボタンを探したが、残念ながらそれらしいものは存在しない。  まず、最上段に“UNIT ID:NND7-6355”の一文。ユニットIDという言葉の響きには少々ぞっとしないものがあるが、深く考えるのは止めることにする。続く英数字は、おそらくこの世界に存在する人間の通し番号だろうか。  その下に、パンやギガスシダーにもあったDurabilityPointの表示がある。値は“三二八〇/三二八九”となっている。普通に考えれば左が現在値、右が最大値だろうか。わずかに減少しているのは、先ほど重い剣を無茶して振り回したせいかもしれない。さらに下方へ視線を動かす。“ObjectControlAuthority:38”とある。その下に、“SystemControlAuthority:1”の文字列が続く。  それだけだった。RPGに必須と思える経験値やレベル、ステータスなどの表示はどこにもない。俺は唇を噛み、しばし唸った。 「うーん……オブジェクト・コントロール権限……これかな……」  単語の感触からして、アイテムの使用に関連するパラメータと思えなくもなかった。しかし、三十八、と言われてもそれが何を意味するのかまったく見当もつかない。  左右に何度も頭を捻ったのち、俺はふと思いついて、自分のウインドウを消去すると今度は目の前に横たわる青薔薇の剣の情報を引き出してみることにした。袋の口をゆるめ、少しだけ柄を露出させると、印を描くものもどかしくそっと叩く。  浮かび上がったウインドウには、耐久値“一九七七〇〇”という数字のほかに、求めるものもあった。すぐ下に浮かぶ“Class 45 Object”なる表示が、先ほどのコントロール権限と対応するものである可能性は高い。俺の数字は確か三十八。四十五には届いていない。  剣の窓を消去し、元通り袋を縛ってから、俺はごろりとその場に横になった。うららかな青空を睨みながら、ふうっと溜息をつく。いくつかの情報は得たものの、結局俺がこの青薔薇の剣を使うことはできないらしい、という事実を数値で確認したにすぎない。権限レベルを上昇させられればいいのだが、その方法は見当もつかないと来ている。  この世界が、大まかには一般的VRMMOのシステムに則って動いているとすれば、何らかのパラメータを上げたいなら、長期間の反復訓練をするか、モンスターを倒して経験値を稼ぐかしないのだろうが、前者を試みる余裕は時間的にも心理的にも無いし、後者に至ってはフィールドにモンスターのモの字も見かけない。「レアアイテムを手に入れたものの装備要件レベルが足りない」という状況は、ふつうは経験値稼ぎに邁進するモチベーションを高めてくれるものだが、レベルの上げ方がわからなければ上昇するのはフラストレーションだけである。  MMOゲームは、攻略サイトが存在しない初期の手探り状態がいちばん楽しい——などというヘビーユーザー気取りの発言は、現実に戻ったらもう二度としないぞ。などと益体もない決意を固めつつ見守るうちに、五十回の斧打ちを終えたユージオが、汗を拭いながら振り向いた。 「どう、キリト? 斧が振れそうかい?」 「ああ……。痛みはもう引いたよ」  俺は振り上げた両脚ではずみをつけて立ち上がり、右手を伸ばした。受け取った竜骨の斧は、確かに青薔薇の剣と較べれば笑いたくなるほど軽かった。  せめて、この斧振り行為によって少しでも問題のパラメータが上昇することを祈ろう。そう思いながら、俺は両手で握った斧をいっぱいに振り上げた。 「うああ……極楽極楽……」  我ながら親父臭いセリフだが、労働で疲れきった体をたっぷりした熱い湯に沈めれば、そう言うより他にない。  ルーリッド教会の風呂場は、つるつるしたタイル貼りの床に大きな銅製のバスタブを埋め込んだもので、外壁に設えられたカマドで薪を燃やして湯を沸かす仕組みになっている。中世ヨーロッパにこんな風呂があったとはとても思えないが、ラースのプログラマーがこのようにデザインしたにしろ、内部時間で数百年に及ぶというシミュレーションの結果独自に進化したにしろ俺にとってはまことに有り難いことだ。  夕食が済んでから、まずシスター・アザリヤとシルカと二人の女の子がお湯を使い、その後俺と四人の男の子が入浴して、散々騒いだガキたちが先刻ようやく出て行ったところである。なのに、巨大なバスタブをなみなみと満たす湯にはわずかな濁りもない。俺は両手に透明な液体をすくうと、ばしゃりと顔に浴びせ、再度うふぇ〜と弛緩しきった声を漏らした。  これで、この世界に放り出されてからほぼ三十三時間が経過したことになる。俺のダイブ以降のSTRA倍率が不明ゆえ、現実ではどの程度の時間が過ぎ去っているのか見当もつかないが、もし等倍速、つまり現実と完全に同期していて、更に俺が行方不明などということになっていれば、さぞ家族や明日奈が心配していることだろう。  そう考えると、こんなふうにノンビリ風呂に浸かっているなどとんでもない、とっとと脱出方法を探すべきだと焦る気持ちが喉元にせり上がってくる。だが、それと同じくらいの質量で、この世界の秘密を見極めたいという欲求もまた確かに存在する。  俺が、桐ヶ谷和人としての意識と記憶を保ったままこの世界に在るのは、やはりイレギュラーな状況なのだと思えて仕方ないのだ。なぜなら、俺の行動ひとつで、シミュレーションの行方が大きく歪められても不思議はないのである。最低三百年以上に及ぶ壮大な実験が“汚染”されるのは、ラースの技術者にとって間違いなく歓迎されざる事態であろう。  つまりこれは、俺にとって驚天動地の大ピンチであると同時に、千載一遇の大チャンスかもしれないのだ。RATH——おそらくは国の、ことによると防衛予算がたっぷりと注ぎ込まれたあの謎めいた研究機関の、真なる目的を見極める、最初で最後の機会。 「いや……それもまた、言い訳、かな……」  俺は口もとまで湯に沈むと、ぶくぶくと泡に混じって呟いた。  あるいは、俺は単に、ひとりのVRMMOゲーマーとしての単純な欲望に衝き動かされているに過ぎないのかもしれなかった。“世界”を“攻略”したい——マニュアルひとつないこの世界を、知識と勘だけを頼りに渡り歩き、剣の腕を磨いて、数多いるであろう剛の者を打ち倒し最強者の称号を目指したいという、愚にもつかない幼稚な欲望。  仮想世界における強さなど所詮データの作る幻に過ぎないと、俺はかつて何度も思い知らされた。二刀流最上位剣技がヒースクリフに破られたとき、妖精王オベイロンの前で無様に地に這ったとき、追いすがる死銃から為す術なく逃げ惑ったとき、もう二度と同じ過ちを犯すまい、と苦い悔恨を噛み締めたものだ。  しかしまたしても、心の深いところでくすぶる熾火が執拗に俺を焚き付けようとする。俺には振れなかったあの青薔薇の剣を、軽々と操る奴がこの世界にはどれほど居るのだろうか? 法を守護するという整合騎士は、そして闇の国の暗黒騎士とやらはどれほど強いのか? 世界の中央にあるという神聖教会の、一番高い椅子に座るのはどんな奴なんだ……?  無意識のうちに右手の指先が水面を斬り、飛んだ飛沫が正面の壁に当たってビシッと高い音を立てた。  と同時に、脱衣所に繋がるドアの向こうから声がして、俺は我に返った。 「あれ、まだ誰か入ってるの?」  シルカの声だと気付き、慌てて体を起こす。 「あ、ああ、俺——キリト。ごめん、もう上がるから」 「う……ううん、ゆっくりしてていいけど、出るときにちゃんと浴槽の栓を抜いて、ランプを消してね。それじゃ……あたしは部屋に戻るから、おやすみ」  そそくさと去っていく気配に、俺は慌ててドア越しに呼びかけた。 「あ……シルカ。ちょっと、聞きたいことがあるんだけど、時間あるかな?」  ぴたりと止まった足音は、しばし迷うように沈黙を続けていたが、やがて聞き取れないほどかすかな答えが返ってきた。 「……少しなら、いいわ。あなたの部屋で待ってる」  こちらの言葉を待たず、とてとてと小さな音が遠ざかっていく。俺は慌ててバスタブから立ち上がると、底の端っこにある木製の栓を抜き、壁のランプを消して脱衣所に出た。タオルを使わずとも水滴がたちまち消えていくのをいいことに大急ぎで部屋着をかぶり、しんと静まり返った廊下から階段を登る。  客間のドアを開けると、ベッドに腰掛けて脚をぶらぶらさせていたシルカが顔を上げた。昨夜とは違い、簡素な木綿の寝巻き姿で、ブラウンの髪を三つ編みにまとめている。  シルカは表情を変えずに傍らのテーブルから大きなグラスを取り上げ、俺に向かって差し出した。 「お、ありがとう」  言いながら受け取ると、俺はシルカの隣にどすんと座り、冷えた井戸水を一息に飲み干した。渇いた体の、手足の先まで水分が染み透っていく感覚に、思わずうめく。 「うー、甘露甘露」 「カンロ? って何?」  途端、きょとんとした顔でシルカが首をかしげ、しまったこの世界の語彙には無い言葉だったかと慌てる。 「ええと……すごく美味しくて、癒されるーって感じの水のこと……かな」 「ふうん……。エリクシールみたいなものかしら」 「な、なんだいそれは」 「教会の高位司祭が祝福した聖水のことよ。あたしも見たことはないけど、小瓶ひとつ飲めば怪我や病気で減った天命がたちまち戻るというわ」 「へえ……」  そんなものがあるなら、何で伝染病で何人も死人が出たんだ、と思ったが何となく聞いてはいけないことのような気がして、俺は黙った。少なくとも、神聖教会というご大層な名前の組織が統治するこの世界は、当初思ったほどの楽園ではない、ということだ。  俺が空にしたグラスを受け取ると、シルカは眉をしかめて促すように言った。 「で、話があるなら、早くしてちょうだい。こんな時間に男性の部屋に長い時間いたのをシスター・アザリヤが知ったら、こっぴどく怒られちゃうわ」 「そ……それは申し訳ない。じゃあ手短に済ませるけど、その……聞きたいのは、シルカのお姉さんのことなんだ」  途端、俯いていたシルカの肩がぴくんと揺れた。 「……あたしには、お姉さんなんていないわ」 「今は、だろう? ユージオに聞いたんだ。君に、アリスっていうお姉さんがいたこと……」  言葉が終わらないうちに、シルカがえらい勢いで顔を上げ、俺は少々唖然とした。 「ユージオが? あなたに話したの、アリス姉さんのこと? どこまで?」 「あ……ああ。その……アリスもこの教会で神聖術の勉強をしてたことと……六年前、整合騎士に央都に連れていかれた、ってこと……」 「……そう……」  シルカはかすかな吐息とともに再び視線を落とし、呟くように続けた。 「……ユージオ……忘れたわけじゃなかったんだ、アリス姉さんのこと……」 「え……?」 「村の人は……お父さんも、お母さんも、シスターも、決して姉さんの話をしようとしないの。部屋も、何年も前に綺麗に片付けちゃって……まるで、最初からアリス姉さんなんて居なかったみたいに……。だからもう、みんな姉さんのこと、忘れちゃったのかな、って……ユージオも……」 「……忘れるどころか、ユージオはすごくアリスのことを気にかけてるみたいだぜ。それこそ……天職さえなければ、いますぐ央都まで探しにいきたいくらいに」  何気なく俺はそう言ったが、伏せられたままのシルカの横顔が一瞬くしゃっと歪んだような気がして二、三度瞬きした。だが、すいっと俺のほうを向いたシルカは、いつもと変わらない落ち着いた表情だった。 「そうなの……。じゃあ……ユージオが笑わなくなったのは、やっぱりアリス姉さんのせいなのね」 「笑わない?」 「ええ。いつでも姉さんと一緒にいた頃のユージオは、いつでもニコニコしてたわ。笑顔でない時を探すのが難しかったくらい。あたしはまだすごく小さかったから、ちゃんと覚えてるわけじゃないけど……でも、気が付くと、ユージオはぜんぜん笑わない人になってた。それだけじゃない、村の、他の子供たちともちっとも一緒にいないで、毎日朝に森に出かけ、夕方に家に帰る、それを繰り返すだけの人になってた……」  聞きながら、俺は内心で少々首を捻っていた。確かにユージオの物腰は静かだが、感情を殺しているという印象はない。森への行き帰りや休憩時間、俺と色々な話をしながら声を出して笑ったことも一度や二度ではないだろう。  彼がシルカや他の村人の前では笑顔を見せないというなら、その理由はおそらく——罪悪感だろうか? 誰からも愛され、次代のシスターとして期待されていたというアリスが捕縛される理由を作り、また助けることもできなかったという罪の意識……? 当時の事情を知らない余所者の俺の前でのみ、ほんの一時自らを責めずにいられる、そういうことなのか。  主観時間にして六年ものあいだ、一度として笑うことがなかったというその一事だけ見ても、ユージオの抱えた苦悩の大きさが忍ばれる。彼の魂はプログラムではない、俺と同じ本物のフラクトライトを持っているのだ。たとえこの世界が巨大な実験場で、それが終了すれば消去されてしまう記憶なのだとしても、それほどまでに深い傷を刻み込む権利が何人にあるというのだろう。  央都に行かねばならない——、再度強くそう思う。俺の目的のためだけではなく、なんとしてもユージオをこの村から連れ出し、アリスを探しあてて、二人を再会させてやらなければどうにも気が収まらない。そのためには、あの樹をどうにかして早晩切り倒さなくては……。 「……ねえ、何を考えてるの?」  シルカの声に物思いから引き戻され、俺ははっと顔を上げた。 「いや……ちょっと、思っただけさ。ユージオはきっと、君の言うとおり、いまでもアリスのことが何より大切なんだろうな、って」  心中をぽろりと口にしたその途端、シルカの顔がもう一度かすかに歪んだような気がした。少し前に大ヒットしたハリウッド映画で幼い気丈なヒロインを演じた子役の女優にどこか似た、くっきりと濃い眉と大きな瞳に、一抹の寂寥感が吹き過ぎる。 「そう……なのね、やっぱり」  呟き、肩を落とすその様子を見れば、いかな朴念仁の俺にも思い当たることがあった。 「シルカは……ユージオのことが好きなんだ?」 「なっ……そんなんじゃないわよ!」  眦を吊り上げて抗議したと思ったら、ぱっと首筋まで赤くしてそっぽを向いてしまう。よもや、この子のフラクトライトの持ち主は、現実でも同年代の女の子なのではあるまいな……などと考えていると、しばらく俯いていたシルカが、不意に少し張り詰めたような声で言った。 「……なんだか、堪らないのよ。ユージオだけじゃない……お父さんも、お母さんも、口には出さないけど、いつも居なくなった姉さんとあたしを較べて溜息をついてた。他の大人たちもそうよ。だからあたし、家を出たの。なのに……シスターも……シスター・アザリヤさえ、あたしに神聖術を教えながら、姉さんなら何でも一度教えたらすぐにできるようになったのに、って思ってる。——ユージオは、あたしのこと避けてるわ。あたしを見ると、姉さんを思い出すから。そんなの……あたしのせいじゃない! あたしは……姉さんの顔だって憶えてないのに……」  薄い寝巻きの生地の下で、細い肩が震えるのを見て、俺は正直なところ心の底から動転した。いままで、頭のどこかでこの世界はシミュレーションでありシルカたちは——プログラムではないにせよやはり仮初めの住人なのだと考えていたせいで、隣で十二歳そこそこの女の子が泣いているという事態に即座に応対できるはずもなく、無様に凍り付いていると、やがてシルカは右手で目尻を拭い、ついた水滴を払い飛ばした。 「……ごめんなさい、取り乱したりして」 「い……いや、その。泣きたいときは、泣いたほうがいいと思うよ」  何をマンガみたいなことを言っているんだおのれは。と思ったが、二十一世紀に氾濫するメディアに毒されていないシルカは、小さく微笑むと素直に頷いた。 「……うん、そうね。なんだか、少しだけ楽になったわ。人の前で泣いたのはずいぶん久しぶり」 「へえ、凄いなシルカは。俺なんて、この歳になっても人前で泣きまくりだ」  明日奈の前でだけだけど、と心の中で付け加えていると、シルカが目を丸くして俺の顔を覗き込んできた。 「あれ……キリト、記憶が戻ったの?」 「あ……い、いや、そうじゃないんだが……そんな感じがするっていうか……と、ともかく、自分は自分なんだからさ。他の誰かになんてなれない……だから、シルカも、自分にできることをすればそれでいいんだ」  これまた甚だしく引用臭いセリフではあったが、シルカはしばらく考え込み、こくりともう一度頷いた。 「……そうね。あたし……自分からも、姉さんからも、ずっと目を背けようとしてたのかもしれない……」  健気に呟くその様子を見ていると、この子のそばからユージオを引き離そうとしている自分に罪悪感を覚える。しかし、現状のままではユージオがシルカの気持ちに応える可能性はほとんど無いような気もするし、シルカにとってもアリスがいまどうしているのか知るのはいいことなのではないだろうか。  などと俺が悩んでいると、頭上すぐのところからしっとりとした鐘の和音が降り注いできた。 「あら……もう九時なのね。そろそろ戻らないと」  ぽん、と床に降り、シルカはドアに向かって数歩進んでから振り向いた。 「ね……キリトは、整合騎士がどうして姉さんを連れていったのか、その理由も聞いたの?」 「え……ああ。なんで?」 「あたしは知らないのよ。お父さんたちは何も言わないし……ずっと前にユージオに聞いたんだけど、教えてくれなくて。ねえ、理由は何だったの?」  俺はかすかに引っかかるものを感じながらも、その正体に思い至る間もなく口にしていた。 「ええと……たしか、川を遡ったところにある洞窟から果ての山脈を越えて、闇の王国に一歩踏み込んじゃったから、って聞いたけど……」 「……そう……。果ての山脈を……」  シルカは何事か考えているようだったが、すぐに小さく頷いて続けた。 「明日は安息日だけど、お祈りだけはいつもの時間にあるからね、ちゃんと起きるのよ。あたし、起こしにこないからね」 「が、がんばってみる」  一瞬だけ微笑み、シルカはドアを開けるとその向こうに消えた。  俺は、遠ざかっていく足音を聞きながら、どすっとベッドに上体を横たえた。アリスという謎めいた少女の情報を得るつもりだったが、居なくなった当時まだ五、六歳だったというシルカにはやはりほとんど記憶が無いようだ。わかったのは、ユージオのアリスに対する気持ちがいかに深いか、ということだけである。  俺は目を閉じ、アリスの姿を想像しようとしてみた。だが勿論、顔立ちなど浮かぶはずもなく、ただ瞼の裏に一瞬きらりと閃く金色の光が見えたような気がしただけだった。  その翌朝、俺は自分の考えの至らなさを嫌というほど思い知らされることになった。  からーん、と五時半の鐘が鳴るのとほぼ同時に目を醒ました俺は、やればできるものだ、などと思いながら潔くベッドから降りた。  東向きの窓を開け放つと、大きくひとつ伸びをして、暁色に染まった冷たい空気を胸一杯に吸い込む。数回呼吸を繰り返しているうちに、後頭部あたりにわだかまっていた眠気の残り滓は綺麗に消え去っていった。  耳を澄ませると、廊下の向かいの部屋でももう子供たちが起き始めているようだった。一足先に井戸で顔を洗おうと、手早く服を着替える。  俺の“初期装備”であるところのチュニックとズボンには、まだ目に見える汚れは無いものの、ユージオの言葉によれば衣服はこまめに洗濯しないと天命の減りが早まるのだそうだ。ということなら、そろそろ着替えを手に入れる算段をしなくてはならない。そのへんのことも、今日ユージオに相談してみよう——などと考えながら裏口から外に出て、井戸へと向かう。  桶に数杯ぶんの水をタライに移し、顔をつけてばしゃばしゃやっていると、後ろから近づいてくる早い足音が耳に入った。シルカかな、と思いながら体を起こし、両手の水を切りながら振り向く。 「あっ……おはようございます、シスター」  そこ立っていたのは、すでに一分の隙もなく修道服を身につけたシスター・アザリヤだった。俺が慌てて頭を下げると、向こうも会釈しながら「おはようございます」と答える。その厳格そうな口もとが、いつも以上にきつく引き締められているのを見て、内心で少々竦み上がる。 「あの……シスター、何か……?」  恐る恐るそう聞くと、シスターは少し迷うように視線をさまよわせてから、短く言った。 「——シルカの姿が見えないのです」 「えっ……」 「キリトさん、何かご存知ではないですか? シルカはあなたに懐いているようでしたし……」  これはもしや、俺がシルカをどうこうしたと疑われているのか? と一瞬周章狼狽したが、すぐにそんなわけはないと思い直した。この世界には犯す者なき絶対の法たる禁忌目録があるのであり、少女をかどわかすなどという大罪はシスターにとって想像の埒外であろう。つまり彼女は、シルカの不在は本人の意思によるものと思っており、純粋にその行き先について俺が何か情報を持っていないかと問うているのだ。 「ええと……いや、俺は特に何も聞いていませんが……。今日は安息日なんですよね? 実家に戻っているのでは?」  起きぬけの頭で懸命に考えてそう言ったが、シスターは即座に首を振った。 「シルカは教会に来てからの二年間一度も生家には帰っていません。もしそうだとしても、私に何も言わず、朝の礼拝にも出ずに行くなどということは有り得ません」 「なら……何か買い物をしているとか……。朝食の材料は、いつもどうしているんですか?」 「週の最初の日にまとめて買いこんでおくのです。今日は村の店もすべて休みですから」 「ああ……なるほど」  それでもう俺の乏しい想像力は種切れだった。 「……きっと、何か急な用事があったんでしょう。すぐに帰ってきますよ」 「……だといいのですが……」  シスター・アザリヤは尚も心配そうに眉をひそめていたが、やがて短く溜息をついて言った。 「それでは、お昼まで待って、まだ戻らないようなら村役場に相談に行くことにします。お邪魔をして御免なさいね、私は礼拝の準備がありますので、これで」 「いえ……。俺も、あとで周りを探してみますよ」  会釈して去っていくシスターを見送りながら、俺は遅まきながら胸にかすかな不安感がざわめくのを感じた。昨夜のシルカとの会話の中で、確かに何かひとつ懸念をおぼえることがあったのだ。だがそれが何なのか、思い出せない。シルカが教会から失踪するきっかけになるような何かを、俺は口にしてしまったのだろうか。  胸騒ぎを抑えられないまま朝のお祈りをこなし、シルカ姉ちゃんはどこにいったの? と口々に尋ねる子供たちをなだめながら朝食を終えても、シルカは戻ってこなかった。俺は食事の後片付けを手伝ってから教会の表門に向かった。  ユージオとは何の約束もしていなかったが、八時の鐘が鳴ると同時に北の通りから広場に入ってくる亜麻色の髪を見つけ、俺はほっとして駆け寄った。 「やあキリト、おはよう」 「おはようユージオ」  微笑ながら手をあげるユージオに、俺も短く挨拶を返し、続けて言った。 「ユージオは、今日はいちにち休みなんだろう?」 「うん、そうだよ。だから、今日はキリトに村中を案内してあげようと思って」 「そりゃ有り難いけど、その前にちょっと手伝ってほしいんだ。朝からシルカが姿を消しちゃってさ……。それで、探してみようと思って……」 「ええ?」  ユージオは目を丸くし、次いで心配そうに眉をひそめた。 「シスター・アザリヤに何も言わずに居なくなったのかい?」 「どうも、そうみたいだ。こんなこと初めてだってシスターは言ってた。なあ、ユージオはどこか、シルカが行きそうな所に心当りはないか?」 「行きそうな、って言われても……」 「俺ゆうべ、シルカと少しだけアリスの話をしたんだよ。だから、もしかしたら、アリスとの思い出の場所とかかもしれない、と思って……」  そこまで口に出したところで、俺はようやく、本当に呆れるほど遅まきながら、胸にわだかまる不安感の正体に気付いた。 「あっ……」 「なんだい、どうしたのキリト?」 「まさか……。——なあユージオ。昔、シルカに、アリスが整合騎士に連れて行かれた理由を訊かれたとき、教えなかったんだって? 何故だ?」  ユージオは何度かぱちぱち瞬きをしていたが、やがてゆっくりと頷いた。 「ああ……そんなこともあったね。何故……何で言わなかったのかな……。はっきりした理由があった訳じゃないんだけど……不安だったのかもしれないね……シルカが、アリスの後を追いかけてしまいそうで……」 「それだ」  俺は低くうめいた。 「俺、昨夜シルカに教えちゃったんだ。アリスが闇の王国の土を踏んだ話を……。シルカは果ての山脈に行ったんだ」 「ええっ!」  ユージオの顔が一気に蒼ざめた。 「それはまずいよ。村の人に知られる前に、早く追いかけて連れ戻さないと……。シルカが出発したのは何時ごろなの?」 「わからない。俺が起きた五時半にはもういなかったらしい……」 「今ごろの季節だと、空が明るくなりはじめるのは五時くらいだ。それより早くだと森を歩くのは無理だよ。てことは、三時間前か……」  ユージオは一瞬空を仰ぎ、続けた。 「僕とアリスが洞窟に行ったとき、子供の脚でも五時間くらいしかかからなかった。たぶんシルカはもう半分以上進んでると思う。今すぐ追いかけても、間に合うかどうか……」 「急ごう。すぐに出よう」  俺が急かすように言うと、ユージオもこくりと頷いた。 「準備してる時間は無いね。幸いずっと川沿いだから、水に困ることはない。よし……道はこっちだよ」  俺とユージオは、行き過ぎる村人に怪しまれない限界の速度で北に向かって歩き始めた。  商店の類がまばらになり、人通りがなくなると、石畳の下り坂を転がるように駆け下りる。およそ五分で水路にかかる橋のたもとに辿り付き、詰め所の衛士の目を盗んで村の外に飛び出た。  麦畑が広がる南がわと違い、村の北は深い森が迫っていた。ルーリッド村を構成する丘を一周するように取り巻く水路に流れ込む川がひとすじまっすぐ森を貫いて伸びており、その岸辺は短い草が繁る小道になっている。  ユージオはわき目もふらず道に飛び込むと、十歩ほど進んでから立ち止まった。俺を左手で制止しながら、地面にしゃがみこみ、右手で足元の草を撫でている。 「ここだ……踏まれた跡がある」  呟き、すばやく印を切って草の“窓”を呼び出した。 「天命が少し減ってる。しばらく前に誰かが通ったのは間違いないね。急ごう」 「あ……ああ」  俺はごくりと唾を飲みながら頷き、早足に歩き始めたユージオの後を追った。  どれだけ進もうと、風景はいっこうに変化する気配を見せなかった。RPGによくある“ループする回廊”のトラップに踏み込んでしまったのではないかと疑いたくなってくる。およそ一時間前に、かすかに鐘の音が届いてきたのを最後に村の時報も途絶えたので、時刻を知る手がかりはじわじわ上りつづける太陽しかない。  俺とユージオは、半ば駆け足に近いスピードで川縁を遡りつづけている。現実世界の俺なら、三十分もこんな真似をすれば完全に息が上がってしまうだろう。しかし幸い、この世界の平均的男子はかなり体力に恵まれているようで、かすかな、心地よいとさえ言える疲労感があるのみだ。一度ユージオにもう少しスピードを上げようと提案したのだが、これ以上速く走ると天命がみるみる減って、長い休息を入れないと動けなくなると言われてしまった。  そのくらいギリギリの速度ですでにたっぷり二時間は進んでいるのに、いまだ道の先に少女の姿を見つけることはできない。というよりも時間的にはシルカはそろそろ洞窟に到着してもおかしくない頃だ。不安と焦りが、口の中に鉄臭い味を伴って広がっていく。 「なあ……ユージオ」  呼吸を乱さないように注意しながら声を掛けると、右前方を走るユージオがちらりと振り向いた。 「なに?」 「ちょっと訊いておきたいんだけど……もしシルカが闇の国に入ったら、その場ですぐ整合騎士に掴まってしまうのか?」  するとユージオは一瞬記憶をたどるように視線をさまよわせ、すぐに首を振った。 「いや……整合騎士はたぶん明日の朝、村に現われると思う。六年前はそうだった」 「そうか……。じゃあ、最悪の場合でもまだシルカを助けるチャンスはあるわけだ」 「……何を考えてるのさ、キリト?」 「単純な話さ。今日中にシルカを連れて村から出れば、整合騎士から逃げ延びることができるかもしれない」 「……」  ユージオは顔を正面に戻すと、しばらく黙り込んだあと、短く首を振った。 「そんなこと……できるわけないよ。天職だってあるし……」 「べつに、ユージオに一緒に来てくれとは言ってないぜ」  俺は、挑発するようにそう口にした。 「俺がシルカを連れて逃げる。俺が口を滑らせたのが原因なんだからな。その責任は取るさ」 「……キリト……」  ユージオの横顔に、傷ついたような色が浮かぶのを見て俺も胸が痛む。しかし、これも彼の“遵法精神”を揺さぶるためだ。シルカの危機を利用しているようで気が咎めるが、この世界に暮らすユニット——人間たちにとっての禁忌目録が、単に倫理的なタブーなのか、それとも物理的に焼きつけられたルールなのか、そろそろ見極めておく必要がある。  果たして、ユージオは更なる沈黙に続いてゆっくり、何度も首を左右に振った。 「だめだよ……無理だよ、キリト。シルカにだって天職があるんだよ、たとえ騎士が捕まえにくるとわかっていても、君と一緒に行くはずがない。それに、そもそも、そんな事にはならないと思うよ。闇の王国に足を踏み入れるなんていう重大な禁忌を、シルカが犯すなんて有り得ないことだ」 「でも、アリスにはできた」  俺が短く反例を挙げると、ユージオはぎゅっと唇を噛み、もう一度大きく否定の素振りを見せた。 「アリスは……アリスは特別な存在だった。彼女は、村の誰とも違っていた。もちろん、シルカとも」  言葉を切ると、これ以上話を続ける気はない、というようにわずかに走る速度を上げる。俺はその後を追いながら、胸の中でつぶやいた。  ——アリス……君は、いったい、何者なんだ?  ユージオやシルカを含む住人たちにとって、やはり禁忌目録というのは、破りたければ破れる、というレベルのものではなさそうだ。あたかも、現実世界に暮らす人間が物理法則を破って空を飛んだりできないように。それは、彼らが『本物のフラクトライトを持つが俺と同じ意味での人間ではない』という、俺の考察を裏付ける材料であると言っていい。  しかし、ならば、重大な禁忌を破ったという少女アリスはどのような存在なのか? 俺と同じく、STLを利用してダイブしているテストプレイヤーなのか、あるいは——。  自動的に脚を動かしながら、頭の中でアイデアの断片をあれこれ切り貼りしていると、今度はユージオが沈黙を破った。 「見えたよ、キリト」  はっとして顔を上げる。たしかに、目指す先で森が切れ、その奥に灰白色の岩が連なっているのが見て取れた。  ラストスパートとばかりに、残る数百メートルを二人並んで駆け抜け、足元の草地が砂利に変わったところで立ち止まった。さすがに少々荒い息を繰り返しながら、俺は眼前に広がった光景を唖然として見上げた。  仮想世界じゃあるまいし——、などと思わず言いたくなるほどの、見事なエリアの切り替わりっぷりだった。密に生い茂る樹々の縁から、ほんのわずかな緩衝帯をへだてて、いきなりほとんど垂直に岩山が切り立っている。驚いたことに、手の届きそうな高さから薄い雪に覆われて、比高何千メートルあるのか知らないが頂上付近は真っ白に輝いている。  雪山は、俺のいる場所から右にも左にも視線の届くかぎりどこまでも続き、世界を南と北に完璧に二分しているようだった。もしこの世界にデザイナーが存在するのなら、あまりにも安易な境界線の引き方だと非難されても仕方あるまい。 「これが……果ての山脈なのか? この向こうが、すぐにもう、噂の闇の王国なのか……?」  信じられない思いでそう呟くと、ユージオがこくりと頷いた。 「僕も、初めてここに来たときは驚いたよ。世界の果てが……」 「……こんなに、近いなんて」  後半を引き取って嘆息混じりに言い、俺は無意識のうちに首を捻っていた。何の障害もない一本道を、たった二時間半の早足で辿り付けるこの距離、これでは、まるで、期待しているようではないか。住民が、偶然禁断の地へと迷い込んでしまう事態を。  放心する俺に向かって、急かすようにユージオが言った。 「さあ、急ごう。シルカとは三十分くらいしか遅れていないはずだよ、見つけてすぐに引き返せば、まだ明るいうちに村に戻れる」 「あ、ああ……そうだな」  彼が指し示す方向を見ると、俺たちが遡ってきた小川が、岩肌にぽっかりと口を開けた洞窟に吸い込まれて(正確には流れ出して)いるのが見えた。 「あれか……」  小走りに近づく。洞窟はかなりの高さと幅があり、ごうごうと流れる急流の左側に、二人がじゅうぶん並んで歩けそうな岩棚が張り出していた。奥のほうは真っ暗闇で、時折凍りつきそうに冷たい風が吹き出してくる。 「おい、ユージオ……灯りはどうするんだ?」  ダンジョン探索に必須のアイテムをすっぽり忘れ去っていた俺が慌ててそう言うと、ユージオは任せておけ、というように頷き、いつの間に拾っていたのか一本の草穂を掲げた。そんなネコジャラシをどうするつもりかと、俺が唖然として見守る前で、真剣な表情を浮かべると口を開く。 「システム・コール! エンライト・オブジェクト!」  システムコールだぁ!? と驚愕したのも束の間、ユージオの握る草穂の先端に、ぽうっと青白い光が点った。暗闇を数メートル先まで照らし出すのに十分な光量を持ったそれを前にかざし、ユージオはすたすたと洞窟に踏み込んでいく。  驚きから冷めやらぬまま俺は彼を追いかけ、隣に並んで問い掛けた。 「ゆ、ユージオ……いまのは?」  厳しく眉を寄せたまま、それでもちらりと得意そうな色を口の端に浮かべて、ユージオは答えた。 「神聖術だよ、すごく簡単な奴だけどね。おととし、あの剣を取りにこようと決心したときに、一生懸命練習したんだ」 「神聖術……。お前……システムとか、オブジェクトとか……意味は知ってるのか?」 「意味……っていうか、聖句だよ。神様に呼びかけて、奇跡を授けてくださるようにお願いする言葉なんだ。上級の神聖術は、聖句もさっきの何倍も長いらしいよ」  なるほど、言葉としての意味は持たない呪文扱いなのか、と内心で頷く、それにしても、即物的な呪文もあったものだ。やはりこの世界のデザイナーは、筋金入りの現実主義者らしい。 「なあ……俺にも、使えるかな?」  こんな状況ではあるが、多少わくわくしながらそう尋ねると、ユージオはどうだろう、というように首を捻った。 「僕がこの術を使えるようになるのに、毎日仕事の合間に練習しながら二ヶ月くらいかかったんだ。アリスが言ってたんだけど、素質のある人なら一日で使えるし、できない人は一生かけてもできないって。キリトの素質はわからないけど、今すぐには無理じゃないかな」  つまり反復訓練によるスキルアップが必須、というわけなのだろう。それは確かに一朝一夕でマスターできるものではなさそうだ。素直に諦め、前方の闇に目を凝らす。  濡れた灰色の岩肌は、右に曲がり左に曲がりしながら、どこまでも続いているようだった。肌を切るように冷たい風がひっきりなしに吹き付けてきて、隣に相棒がいるとは言え、棒の一本も携えない丸腰の身では、多少の不安感が湧き上がってくる。 「なあ……ほんとに、シルカはこんなとこに潜っていったのかな……」  思わずそう呟くと、ユージオは無言で光るネコジャラシを足元に向けた。 「あっ……」  青白い光の輪のなかに浮かび上がったのは、凍りついた浅い水たまりだった。中央が踏み割られ、四方に罅が走っている。  俺が試しにその上に乗ると、ばりんと音を立てて氷がさらに大きく割れ、わずかな水が飛び散った。つまり、直前に俺より体重の軽い者がこの上を歩いた、ということだ。 「なるほど……間違いないみたいだな。まったく……無鉄砲というか恐れを知らないというか……」  思わずそうぼやくと、ユージオは不思議そうに首を傾げた。 「別に、何も怖いものなんてないよ。この洞窟にはもうドラゴンもいないし、それどころかコウモリ一匹だっていやしないんだからさ」 「そ、そうか……」  改めて、この世界にはモンスターはいないのだ、と自分に言い聞かせる。少なくとも、果ての山脈のこちら側は、VRMMOで言う圏内エリアと考えていいわけだ。  いつの間にか強張っていた背中から、ふう、と力を抜こうとした——その時だった。  前方の闇の奥から、風に乗って妙な音がかすかに届いてきて、俺とユージオは顔を見合わせた。ぎっ、ぎいっ、と言うような、ある種の鳥か、あるいは獣の哭き声のように、聞こえなくもなかった。 「おい……今の、なんだ?」 「……さあ……初めて聞くよ、あんな音。……あ」 「こ、今度は何だよ」 「なんか……匂わない、キリト……?」  言われるままに、俺は吹き寄せる風を深く鼻から吸い込んだ。 「あっ……なんか、焦げ臭いな……。それに……」  樹脂の焼けるような匂いに混じって、ほんのわずかに、生臭い獣臭を嗅いだ気がして、俺は顔をしかめた。到底、心安らぐ香りとは言いがたい。 「なんだ、これ……」  そう言いかけた時、新たな音が響いてきて、俺は息を呑んだ。  きゃああああ……と、長い残響音の尾を引くそれは、間違いなく女の子の悲鳴だった。 「まずい!」 「シルカ……!」  俺とユージオは同時に叫ぶと、凍りついた岩にまろびつつ全力で走り出した。  この世界に放り出されて以来、最大限にまで——どこにいるのかまるで分からなかったあの時よりも——高まった危機感が、体の内側を氷のように駆け巡り、手足を痺れさせていく。  やはり“アンダーワールド”もまた完全な楽園などではないのだ。薄皮一枚の下に黒い悪意を内包している。そうでなければ理屈に合わない。なぜなら、おそらくこの世界は、住人すべての魂を挟んだ巨大な万力なのだから。何者かが、数百年の時間をかけて、ゆっくり、ゆっくりと螺子を回している。魂たちが結束して抗うか、あるいは無力に潰れてしまうのかを観察するために。  ルーリッドの村は、もっとも万力の口金に近い場所のひとつなのだろう。“最後の時”が近づくにつれ、村の住人の中から、弾けて消える魂が少しずつ増えていく。  だが、その最初のひとりにシルカが選ばれるのは、絶対に容認できない。彼女をこの洞窟に導いてしまったのは俺なのだから。彼女の運命に干渉してしまった者の責任として、かならず無事に連れ帰らなければ……。  激しく揺れる弱々しい光だけを頼りに、俺とユージオはほぼ全力で走りつづけた。呼吸は乱れ、空気を求めて喘ぐたびに胸が激しく痛む。何回か滑ったときに打撲した膝や手首も絶え間なくうずき、“天命”が急速に減少しているであろうことは想像に難くないが、だからと言って速度を落とすわけにはいかない。  進むにつれ、木が焚かれる焦げくさい匂いと、饐えたような獣の体臭は確実にその濃さを増していく。ぎっ、ぎっという声に混じって、がちゃがちゃ鳴る金属音も頻繁に耳に届く。前方に何者が待つのか分からないが、友好的な存在ではないだろうことは容易に想像できた。  腰にナイフの一本も持たない以上、何らかの作戦を立てて慎重に進むべきだ——とVRMMOプレイヤーとしての俺が囁くが、躊躇している場合ではないという気持ちの方が大きかった。それに、俺以上に血相を変えて猛烈なスピードで走るユージオには、何を言っても引き留めることはできまい。  不意に、前方の岩壁にオレンジ色の光が揺れた。反射の感じから見て、奥はかなり広いドームになっているらしい。びりびりと肌が震えるほどに明確な、敵性存在の気配を感じる。それも複数——かなり多い。シルカの無事を一心に祈りながら、俺はユージオとほぼ同時にドーム状空間に走り込んだ。  すべてを視ろ、そして考え、行動を起こせ——可能な限り早く。刻み込まれたセオリーに従い、俺は両目をいっぱいに見開いて、その場の状況を広角カメラのようにかしゃりと切り取った。  岩のドームはほぼ円形、直径は五十メートルほどもあるだろう。床面はほぼすべて厚そうな氷に覆われているが、中央部分で大きく割れて、青黒い水面が顔を出していた。  オレンジ色の光の源は、その池の周りに立てられたふたつの篝り火だった。高い足のついた黒い鉄製の篭の中で、薪がぱちぱちと音を立てて燃えている。  そして、その二つの炎を取り巻くように、一応は人間型ではあるが明らかに人でも獣でもない者たちが三々五々固まって座り込んでいた。その数、三十をやや超えるか。  一人、あるいは一匹の大きさはそれほどでもない。立ち上がっている者の頭の高さは、俺の胸ほどまでしかない。だが彼らの、やや猫背ぎみの体躯はがっしりと横幅があり、とくに異様なまでに長い腕と、その先の鋭い爪のついた手は何でも引き裂けそうなほど逞しい。体には、ほぼ黒に近い色の革製の銅鎧を付け、腰周りには雑多な種類の毛皮や何かの骨、小袋をじゃらじゃらと並べている。それに、無骨だが恐ろしい威力を感じさせる大きな曲刀も。  肌は、炎に照らされていてもはっきりとわかるくすんだ緑色で、まばらな剛毛が生えている。頭部は例外なくつるりと禿げ、尖った耳の周囲にだけ密集している長い毛はまるで針金のようだ。眉毛は無く、突き出た額の下に、不釣合いなほどに大きい眼球が張り付いて、濁った黄色い光を放っている。  どうしようもなく異質——ではあるが、同時に長年見慣れた姿でもあった。彼らは、RPGで言うところの低級モンスター、“ゴブリン”そのものだ。非常にオーソドックス、とさえ言っていい。それを認識すると同時に、俺はほんの少し肩の力を抜いた。ゴブリンというのはほとんど例外なくノービス・プレイヤーの練習相手兼経験値稼ぎ用のモンスターであり、そのステータスはかなり低く設定してあるのが通例だ。  だが、その安堵も、俺とユージオに最も近い場所にいた一匹がこちらに気付き、視線を向けてくるまでのことだった。  そいつの黄色い目玉に浮かんだいくつかの“表情”を見て、俺は骨の髄から凍りついた。そこにあったのはわずかな不審と、残忍な悦び、そして底無しの餓え。俺を大蜘蛛の巣に掛かった蜻蛉のように竦み上がらせるのに充分な悪意がそこにあった。  こいつらも、プログラムではない。  俺は圧倒的な恐怖の中で、それをはっきりと認識した。  このゴブリン達もまた、本物の魂を持っている。ユージオや俺と、あるレベルではまったく同質の、フラクトライトによって生み出される知性を持っている。  だが何故——どうしてそんな事が!?  俺は、この世界に放り出されてからの約二日間で、ユージオやシルカたち住人がどのような存在であるのか、おおよその推測を立てるに至った。彼らは恐らく、いくつかの原型からコピーされ、その後加工されて多様性を与えられた言わば人工フラクトライトなのだ。どのようなメディアに保存されているのかまでは分からないが、STLによって魂が読み取れるなら、その複製もまた可能であろうことは想像に難くない。  原型となったのは、恐ろしいことだが多分、複数の新生児のフラクトライトであろう。言わば原思考体とでもいうべきその存在を無数にコピーし、この世界で赤ん坊として一から成長させる。それならば、アンダーワールドの住民たちが“本物の知性を持ち”“現存STLを遥かに超える数存在する”という矛盾する状況が説明できる。俺が一日目の夜、神への挑戦であると畏れたラースの目的はつまり——真なるAI、人工知能を創ることだ。それも、人の魂を鋳型にして。  その目的は最早、八割……いやもしかしたら九割九分達成されている。ユージオの思慮深さは俺を上回るほどだし、複雑な情動は深遠そのものだ。つまり、ラースのこの壮大かつ不遜極まりない実験はすでに終了していておかしくない。  しかし尚も、このようにして継続しているからには、現段階の成果では研究者たちは不満なのだろう。何が足りないのかは根拠のない想像をするしかないが、もしかしたらあの禁忌目録、ユージオたちの“根源的に破れない法”と無関係でないのかもしれない。  兎も角、俺のこの仮説によって、ユージオたちの存在についてはおおよそ説明できる。彼らは、俺とは物理的な存在次元が異なるだけで、魂の質量はまったく同じ“人間”であると言ってよい。  しかし——ならば、このゴブリンたちは何者なのか? 黄色い目から強烈に放射される、このしたたるほどの異質な悪意は——?  彼らの魂の原型もまた人間のものである、とはとても思えない。この底無しの餓え、俺、つまり人間の血をすすり骨を噛み砕くことへの欲望は、人の魂から作り出せるものでは絶対にない。もしかしたらラースは、現実世界で本物のゴブリンを捕まえて、そいつをSTLにかけたのか、などという支離滅裂な思考が頭のなかで明滅した。  俺が凍り付いていたのは、ほんの一秒足らずだったろうが、俺の魂を竦み上がらせるには充分な時間だった。どう動いていいのかも思いつけないまま、ただ視線を動かせないでいる俺の前で、一匹のゴブリンがギィィッというような音——もしかしたら笑い声を上げ、立ち上がった。  そして、喋った。 「おい、見ろや! 今日はどうなってんだぁ、またイウムの餓鬼が二匹も転がりこんできたぜ!」  途端、ドーム中にぎぃぎぃ、きっきっというわめき声が満ちた。近くのゴブリンから次々に、武器を片手に立ち上がり、餓えた視線をぶつけてくる。 「どうする、こいつらも捕まえるかぁ?」  最初のゴブリンがそう叫ぶと、奥のほうから、ぐららぁっと大きい雄叫びが轟き、全員がピタリと笑うのをやめた。さっと群れが左右に割れ、進み出てきたのは、一際大きな背丈を持つ、指揮官クラスとおぼしき一匹だった。  金属の鎧をつけ、頭に巨大な飾り羽を立てたそいつの目は、それだけで俺を気絶させるのではと思うほどの圧倒的な邪悪さと、氷のような知性を放射していた。にやりと歪めた口の端から、黄色い乱杭歯を剥きださせて、そいつは言った。 「男のイウムなぞ連れて帰っても、幾らでも売れやしねぇ。面倒だ、そいつらはここで殺して肉にしろ」  殺す。  という言葉を、どのようなレベルで受け取ればいいのか、俺は一瞬戸惑った。  真にリアルな死、つまり現実世界の俺の肉体が致命的損傷を受ける、という可能性は除外していいはずだ。おそらくSTLの中にいる現実の俺に、このゴブリンどもが危害を加えることなど(SAOじゃあるまいし!)できようはずもない。  しかし、かと言って通常のVRMMOと同じように、死を単なるコンディションのひとつであると割り切るわけにも行かないだろう。この世界には、便利な蘇生魔法やアイテムは——神聖教会の中枢という例外を除き——存在しないのだから、ここで連中に殺されたら、たぶんこの“キリト”はジ・エンドなのだ。  ならば、もし死んだら、主体的意識としての俺はいったいどうなるのだ?  ラースの開発支部で目を醒まし、オペレータの平木孝治がにやにやしながらオツカレ、などと言ってドリンクでも差し出すのか? あるいは、この一連の記憶は消去され、またどこかの森でひとり目覚めるところからやり直しなのか? あるいは肉体なき幽霊として、世界のゆく末をただ見守る役を与えられるのか?  そしてその場合——同じくここで命を落とすであろうユージオとシルカはどうなるのだろう?  自前の脳味噌という“専用保存メディア”を持っている俺と違い、何らかの大容量記憶装置に存在するのだろう彼らの魂は、もしかしたら、死んだら消去されてそれきり……ということも有り得るのではないか?  そうだ……シルカ、彼女はどこにいるんだ。  俺は瞬間的思考をわずかに中断させ、再度目の前の光景に意識を向けた。  隊長ゴブリンの指示に従い、部下たちのうち四匹がおのおののエモノをぶら下げて俺とユージオに向かって歩き始めたところだ。ゆっくりとした歩調といい、巨大な口に張り付くにやにや笑いといい、俺たちをなぶり殺しにする気満々と見える。単純な擬似AIには有り得ない行動パターンだ。  奥に残る二十数匹のゴブリンたちも、目に興奮の色を浮かべながら口々にぎぃぎぃと囃し立て、そして——居た! 暗がりに紛れて見え難かったが、修道服を来たシルカの小さな体が、粗末な四輪の運搬車に転がされている。体は荒縄で縛られ、瞼は閉じられているが、顔色からして意識を失っているだけと思えた。  そうだ、先刻、隊長ゴブリンはこう言った。男のイウム(人間のことだろうか?)を連れて帰っても売れないから、この場で殺せ、と。  裏返せば、女なら売れるということだ。奴らは、シルカを闇の国へと拉致し、商品として売り飛ばすつもりなのだ。脳裏に、およそ十通りほどもの陰惨な想像が過ぎる。  このまま何もしなければ、恐らく俺とユージオは殺され、ユージオの魂は“消滅”するだろう。だが、シルカを待つ運命の過酷さは恐らく死より辛いものだ。それを、単なるシミュレーションの枝葉末節などと割り切ることは俺にはできない。絶対にできない。彼女も、俺とおなじ人間——まだほんの十二歳の女の子なのだから。  どうやら、やるべきことは—— 「明確だな」  俺はごく小さく呟いた。隣で、同じように凍り付いていたユージオの体がぴくりと動いた。  シルカは絶対に助け出す。例えその代償を、俺のこのかりそめの命で払うことになろうともだ。そして例え、目の前の“本物の”ゴブリンたちを一匹残らず殺すことになろうとも、だ。  もちろん、そんなことが簡単に出来ようはずもない。戦力差はあまりに巨大で、こちらには棒きれの一本も無い。しかし、知力と体力のすべてを振り絞ってやれる限りのことをやるのだ。これは明確なる戦争なのだから。 「ユージオ」  視線を前方に据えたまま、ほとんど音にならない声でささやく。 「いいか、シルカを助けるぞ。動けるな」  すぐに、短いがはっきりと、うん、という答えが返ってくる。やはりこいつも、おっとりしているようでその実ハラが据わっている。 「三つ数えたら、前の四匹を体当たりで突破して、俺は左、お前は右のかがり火を池に倒す。その光る草を無くすなよ。火が消えたら、床から剣を拾って、俺の後ろを守ってくれ。無理に倒そうとしなくていい。その間に、俺はあのボスをやる」 「……僕、剣なんて振ったことないよ」 「斧と一緒だ。いいな、いくぞ……一、二……三!」  氷の上だが、俺もユージオも脚を滑らせることなく最高のスタートを切った。この運が最後まで続くことを祈りつつ、俺は腹の底からときの声を上げた。 「うらあああああ!!」  一拍遅れて、ユージオのふほおおおお! という叫びが続くのを聞いてなんだよそりゃと思ったが幸い効果は充分だったようで、四匹のゴブリンは黄緑色の目を丸くして立ち止まった。もっともそれは雄叫びのせいではなく、“イウムのガキ”が捨て身の突進を仕掛けてきたこと自体に驚いたからかもしれないが。  ちょうど十歩目で俺は体をぐっと沈め、一番左とその隣のゴブリンの隙間目掛けて、右肩から全力のタックルをぶちかました。不意打ちと体格差とスピードの修正効果で、二匹はものの見事に後ろにひっくり返り、手足を振り回しながら氷の上をつーっとすべっていった。ちらりと横を見ると、ユージオの体当たりもきれいに決まって、同じく二匹が裏返しの亀のように回転しながら遠ざかっていく。  足を止めることなく、俺たちはゴブリンの円陣ど真ん中目掛けてさらに加速した。幸い、連中の状況対応力はそれほどでもないようで、隊長を含めていまだ立ち上がることなくぽかんとこちらを見ている。  そうだ、そのままボーっとしてやがれ。罵るように祈りながら、俺はゴブリンどもの間を縫うように最後の数メートルを走り抜ける。  さすがに隊長ゴブリンだけは他の連中とは一枚上の知能を持っているようで、怒りに満ちた叫びが氷のドームに轟いた。 「そいつらを火に近づけるな——」  だが、いかにも遅かった。俺とユージオは、三本足の火篭に飛びつくと、勢い良く水面めがけて蹴り倒した。渦のように火の粉を撒き散らしながら、二つのかがり火は黒い水面へと倒れこんでいき、ばしゅっという音と白い水蒸気を残してあっけなく消え去った。  ドームは一瞬、まったき暗闇に包まれ——次いで、ほのかな青白い光がそっと闇を退けた。ユージオが左手に握るネコジャラシの光だ。  ここで、二つ目の僥倖が俺たちを待っていた。  周囲にうじゃうじゃいるゴブリンどもが一斉にぎいいいいっという悲鳴を上げ、ある者は顔を覆い、ある者は後ろを向いてうずくまったのだ。見ると、池の向こうに立っている隊長ゴブリンさえも、苦しそうに顔を背け、こちらに左手をかざしている。 「キリト……これは……!?」  驚いたように囁くユージオに、俺は短く答えた。 「多分……あいつら、その光が苦手なんだ。神聖術の光がな。今がチャンスだっ」  俺は、周囲の床に乱雑に放り出されている武器のなかから、巨大な鉄板のように無骨な直剣と、先端にボリュームのある曲刀を拾い上げ、刀のほうをユージオの手に押し付けた。 「その刀なら使い方は斧と同じでいけるはずだ。いいか、草の光で牽制して、近づく奴を追い払うだけでいいからな」 「き……キリトは?」 「奴を倒す」  短く答え、顔を覆った右手の隙間からこちらを凄まじい怒りの視線で睨んでいる隊長ゴブリンに向かって俺は一歩踏み出した。両手で握った直剣を、数回左右に振ってみる。外見に反して、やや頼りないと思えるほど軽いが、あの剣のように重過ぎて扱えないよりは遥かにマシだ。 「ぐららぁっ! イウムごときが……この“蜥蜴喰いのジラリ”様と戦おうとでも言うのか!」  じりじり近づく俺を片目でねめつけながら、隊長が太い雄叫びを放った。同時に、右手で腰から巨大な蛮刀をじゃりんと抜き放つ。黒ずんだその刀身は、錆びだの何かの血などがこびり付き、異様な迫力を纏っている。  勝てるのか!?  頭ひとつほども大きいそいつと対峙した俺は、一瞬ひるんだ。だがすぐに、歯を食い縛って怯えの虫を噛み潰す。ここで奴を倒せず、シルカを助けられなかったら、俺がこの世界に来たのはあの子に最悪の運命を与えるためだった、ということになってしまう。サイズなど問題ではない——旧アインクラッドでは、俺より三倍も四倍も大きいモンスターどもと数え切れないほど戦ったのだ。しかもそいつらは、俺を“本当に殺す”可能性に満ち満ちていたのだ。 「違うね……戦うだけじゃない、ぶっ倒そうっていうのさ」  俺は無理矢理作った笑みの隙間からそう吐き出すと、右足で思い切り地面を蹴った。  左足を深く踏み込み、大上段に振りかぶった剣を敵の肩口目掛け真っ向正面から振り下ろす。  甘く見ていたわけではないが、ボスゴブリンの反応は息を呑むほど速かった。視力を半ば奪っていることを考えると、旧SAOのベテラン剣士並みと言っていい。戦い慣れている。 “後の先”——とでも言うのか、打ち込みに呼吸を合わせるように横殴りに飛んできた蛮刀を、俺はぎりぎりのところで掻い潜った。髪が何本か、圧力に引き千切られるのを感じた。俺の上段斬りは、先端が奴の肩アーマーを掠めて小さな火花を散らすに留まった。  止まったら斬られる、そう確信した俺は、低い姿勢から体を左に捻り、がら空きのゴブリンの脇腹目掛けて右手一本の突き技を放った。今度は見事命中したものの、傷だらけの胴鎧を貫通するには至らず、鱗状の板金を何枚か引き千切っただけだった。  ちゃんと先まで砥いどけよ! とこの剣の持ち主に向かって毒づきながら、ごうっと頭上から降ってくる反撃の一刀をさらに右に飛び退って回避する。蛮刀の分厚い切っ先が足元の氷を深く穿ち、改めてゴブリンの膂力に戦慄する。  単発攻撃では埒があかない。隊長ゴブリンが体勢を回復する前に、俺は体に染み付いた片手直剣三連撃技“シャープネイル”を繰り出した。  右下から払い上げの第一撃が、敵の左足を掠め、動きを止める。  左から右へ薙ぎ払う第二撃が、鎧の胸部分を切り裂き、その奥の肉をも浅く抉る。  右上から斬り下ろす第三撃が、致命傷を防ごうと上げられた敵の左腕を、肘の少し下部分からガツッと音を立てて断ち切った。  壊れた蛇口のように迸る鮮血は、青白い光の中で真っ黒に見えた。跳ね飛んだゴブリンの左手が、くるくる回りながらすぐ左側の池に没し、どぷんと重い水音が響いた。  勝った!  俺がそう確信してから、止めの一撃を放つまでのわずかな隙を、しかし敵は見逃さなかった。  横殴りにごうっと飛んできた蛮刀を、俺は回避しきれず、先端が左肩を掠めた。その圧力だけで俺は二メートル近くも吹き飛ばされ、ごろごろと氷床に転がった。  左腕を切り飛ばされながらも一瞬も怯むことのなかった隊長ゴブリンの胆力、当たり損ねの一撃で俺を跳ね飛ばす剣の威力、そして何より、脳天に稲妻が突き刺さるような途方もない痛みのせいで——  俺は石のように竦み上がった。 「キリト! やられたのか!?」  すこし離れた場所で、右手に曲刀、左手に光る草を持って手下ゴブリンどもを牽制していたユージオが焦りの滲む声で叫んだ。  かすり傷だ、と言い返そうとしたが、強張った舌が意思のとおりに動かず、俺はああ、うう、としゃがれた音を漏らすことしかできなかった。左肩から発生し、全身の神経を焼き切ろうとするかのような熱さのせいで、目の前にちかちかと火花が飛び、抑えようもなく涙が溢れた。  なんという凄まじい痛みだ!  耐えられる限界を遥かに超えている。氷の上に転がり、丸めた体を硬直させて浅い呼吸を繰り返す以外に何もできない。それでもどうにか首を回し、おそるおそる傷口を見ると、チュニックの左袖はまるごと引き千切られ、剥き出しになった肩に大きく醜い傷が口を開けていた。刀傷というより、巨大な鉤か何かでむしられたかのようだ。皮膚とその下の肉がごっそり抉られ、剥き出しになった筋繊維の断面から赤黒い血液が絶え間なく噴き出している。左腕はすでに痺れと熱の塊と化し、指先は他人のもののように動こうとしない。  こんな仮想世界があってたまるか、と俺は脳裏で呪詛のようにうめいた。  バーチャル・ワールドというのは、現実の痛みや苦しみ、醜さや汚さといったものを除去し、ひたすらコンフォートでクリーンな環境を実現するために存在するのではないのか!? こんな恐ろしい苦痛をリアルに再現することに、いったいどんな意味がある。いや——むしろ、この痛みは現実以上とさえ思える。現実世界でこのような怪我をすれば、脳内物質が分泌されたり、失神したりといった防御機構が働くのではないだろうか? こんな、魂そのものを苛む痛みに耐えられる人間などいるはずがない……。  それも少し違うかもな。  諦めに似た脱力感の中に逃げ込みながら、俺は自嘲気味にそう思いなおした。  そもそも、俺はリアルな痛みというものにまったく慣れていないのだ。現実世界では、救急車に乗るような大きな怪我などしたことは無いし、幼い頃祖父に強制された剣道も、練習の辛さに音を上げてすぐに辞めてしまった。SAO脱出後のリハビリは苦しかったが、最先端のトレーニングマシンと補助的投薬のお陰でたいした苦痛に晒されることもなかった。  仮想世界においては何をかいわんやである。ナーヴギアやアミュスフィアのペインアブソーブ機構によって過保護なまでに痛みを除去された結果、俺にとって負傷というのは財布から払うコインにも似た、単なる数値の増減でしかなくなった。そう——もしSAO世界にこんな痛みが存在すれば、俺は始まりの街から出ることもできなかったろう。  アンダーワールドは、魂の見る夢。もうひとつの現実。何日前のことかは定かでないが、エギルの店で自分が口にした言葉の意味を、俺はようやく知った。何が『この世界を攻略したい』だ。剣の技を試してみたい、などとどうしようもない思い上がりだった。たったひとつの傷に耐えることのできない者に、そもそも剣を持つ資格があろう筈もない。  それにしても痛い。今すぐにこの痛みから解放されなければ、大声で泣き喚き助けを乞うてしまいそうだ。せめてそんな醜態を晒す真似だけはしたくない。  涙で滲む視界の先で、隊長ゴブリンが切断された左腕にぼろ布を巻き終え、おもむろに俺を見た。両眼から放射される凄まじい怒りの念で、周囲の空気が揺らいでいるかのようだ。口に咥えていた蛮刀を右手に移し、ぶんっ、と振り回す。 「……この屈辱は、お前らを八つ裂きにして、腸を食い散らしても収まりそうもねぇが……とりあえず、やってみるとするか」  いいから、早くやってくれ。どうせここから出て、STLの中で目を醒ましたら、すべての記憶を無くしているんだ。ユージオのことも。シルカのことも。あの子をいかなる犠牲を払っても助けると誓ったその数分後に、尻尾を巻いて逃げ出す自分へのどうしようもない嫌悪感さえも。  頭上で蛮刀をぶん、ぶんと回しながら近づいてくる隊長ゴブリンから視線を外し、俺は遠く離れた場所に意識を失って横たわるシルカの姿をちらりと見た。そしてぎゅっと両目を瞑った。  重い足音が、転がる俺のすぐ前で止まった。空気が動き、巨大な刀が高く振りかぶられるのを感じた。頼むから一撃、一瞬で片をつけてくれよ、と思いながら俺はこの世界から放逐される瞬間を待った。  だが、いつまで待ってもギロチンの刃は落ちてこなかった。かわりに、背後からだだっと氷床を蹴る音がして、すぐに聞きなれた叫び声が続いた。 「キリト——ッ!!」  驚いて目を見開くと、俺を飛び越えて隊長ゴブリンに打ちかかるユージオの姿が見えた。右手に握った曲刀を腕力だけでめちゃくちゃに振り回し、自分より遥かに大きい敵を二歩、三歩と後退させていく。  ゴブリンは一瞬驚いたようだったが、しかしすぐに余裕を取り戻し、蛮刀を巧みに操ってユージオの攻撃を左右に捌いた。瞬間痛みを忘れ、俺は叫んだ。 「やめろユージオ! 早く逃げろ!!」  だが、ユージオは我を忘れたかのように大声で叫びながら、尚も剣を振りつづけた。一撃のスピードには目を見張るものがあるが、いかんせんテンポが単調すぎる。隊長ゴブリンは、獲物の抵抗を楽しむかのようにしばらく防御に徹していたが、やがて一声ぐららうっ! と叫ぶとつま先でユージオの軸足を払った。体勢を崩し、たたらを踏むユージオ目掛けて—— 「やめろおおおっ!!」  俺の叫びが届くより早く、蛮刀を横薙ぎに叩きつけた。  一撃を腹に受け、高く宙を吹き飛んだユージオは、音を立てて俺のすぐ横に落下した。反射的に体を起こし、にじりよろうとすると左肩が目のくらみそうなほどに痛んだが、喉から情けない嗚咽を漏らしてどうにか堪える。  ユージオの傷は酷い有様だった。上腹部を横一直線に切り裂かれ、ギザギザの傷口からごぽり、ごぽりと恐ろしいほど大量に血が溢れている。いまだ左手に握られたままの草穂に照らされ、傷口の奥で不規則に動く臓器が否応無く見て取れた。  ごぼっ、と重い音がして、ユージオの口からも泡混じりの血が噴き出した。茶色の瞳はすでに光を失いかけ、虚ろに宙を睨んでいる。  しかし、ユージオは尚も体を起こそうとするのを止めなかった。口と鼻からひゅっ、ひゅっと赤い飛沫混じりの空気を吐き出しながら、震える両腕を突っ張る。 「お前……なんで、そこまで……」  俺は思わず呻いた。ユージオを襲っている苦痛は、俺の比ではないはずだ。人の魂が耐えられる範疇とはとても思えない。  ユージオは、焦点のぼやけた瞳で俺を見ると、赤く染まった口を動かして言った。 「こ……子供の頃……約束したろ……。僕と……キリトと……アリスは、生まれた日も……死ぬ日も一緒……今度こそ……守るんだ……僕が……」  そこで、がくりとユージオの腕から力が抜けた。俺は咄嗟にその体を両手で支えた。細身だが筋肉質なユージオの重さを、ずしりと感じた瞬間——。  視界が断続的に白い閃光に包まれ、そのスクリーンの奥に朧な影が浮かんだ。  真っ赤な夕焼け空の下、麦畑を貫く道を歩いている。俺の右手を握るのは、亜麻色の髪の幼い少年。左手を握るのは、金髪のお下げ髪の少女。  そうだ……世界は永遠に変わらないと信じていた。三人、いつまでも一緒だと信じていたんだ。なのに守れなかった。肝心なとき、何もできなかった。あの絶望、無力感を忘れるものか。今度こそ……今度こそ俺は……。  もう肩の痛みは感じなかった。俺はぐったりとしたユージオの体をそっと氷の上に横たえると、右手を伸ばし、転がっていた直剣の柄を握った。  そして頭上に掲げ、今まさに振り下ろされつつあった隊長ゴブリンの蛮刀を横一閃に弾き落とした。 「ぐるらっ」  驚いたような声を上げ、わずかに体を泳がせた敵の腹に、立ち上がりざまのタックルをぶちかます。ゴブリンは更によろけて、二、三歩後退する。  右手の剣をぴたりと相手の正中線に据え、大きく息を吸い、吐き出す。  俺は確かに、肉体的な痛みに関してはまるで素人だ。だが、そんなものを遥かに上回る絶対的苦痛ならよく知っている。大切な人を失う痛みに較べれば、こんな傷などいくつ負おうがものの数ではない。喪失の痛みだけは、機械で記憶をいかに操作しようと絶対に消えることはないのだ。  最早我慢ならん、と云わんがばかりに隊長ゴブリンが大音響の咆哮を轟かせた。周囲で喚いていた手下どもがぴたりと押し黙る。 「イウムがぁ……調子に乗んじゃねぇッ!!」  暴風のような勢いで突っ込んでくる隊長の、蛮刀の先端だけを俺はじっと凝視した。きいいいんという耳鳴りとともに、視界の余計な部分が放射状に流れて消えていく。久しく忘れていた、脳神経が赤熱するかのような加速感覚。いや——この世界では、魂が燃えるような、と言うべきか。  袈裟斬りに振り下ろされる蛮刀を、俺は一歩前に踏み込んでかわし、左下からの一刀で敵の右腕をほぼ付け根から斬り飛ばした。巨大な腕を付けたままの蛮刀は、ぶんぶん回転しながら周囲のゴブリンの輪に飛び込み、複数の悲鳴が上がった。  両腕を失った隊長ゴブリンは、黄色い両眼に怒りと、それ以上の驚きを浮かべ、よろよろと後ずさった。傷口から黒い体液がばしゃばしゃと迸り、氷に落ちて湯気を立てる。 「……イウムに……イウムごときに俺様が負けるわけがねぇっ……」  その言葉が終わらないうちに、俺は全力で突進した。 「ゴブリンごときに……」  無意識のうちに、獰猛なセリフが口を突く。左足のつま先から右手の指先、直剣の切っ先までが一本の鞭のようにしなり、たくわえた威力を解き放つ。 「この俺が斬れるかッ!!」  ぴうっ、と空気を裂く音が耳に届いたのは、隊長ゴブリンの巨大な首が宙を舞った少し後だった。  ほぼ垂直に高く上昇し、次いでくるくる回転しながら落下してきたそれを、左手で受け止める。鶏冠のように立てられた飾り羽を鷲掴みにして、いまだ鮮血の垂れる首級を高く掲げ、俺は叫んだ。 「お前らの親玉の首は取った! まだ戦う気がある奴はかかってこい、そうでない奴は今すぐ闇の国に帰れ!」  ユージオ、もう少しがんばれ、と心の中で唱えつつ、両目に最大限の殺気を込めて集団を見回す。ゴブリンたちは、隊長が死んだことで相当に浮き足立ったようで、互いに顔を見合わせながらぎっぎっと忙しなく声を上げている。  やがて、前列にいた一匹が、肩に担いだ戦棍をゆらゆらさせながら進み出てきた。 「ぎへっ、そういうことなら、手前ェを殺ればこの俺が次の頭に……」  口上を最後まで聞くほどの忍耐力は、今の俺には無かった。左手に首をぶら下げたまま猛然とダッシュし、そいつの右脇から左肩までを一刀で両断する。どっ、と重い音に続いて血飛沫が散り、やや遅れて上半身がずるりと滑り地面に落ちた。  それで、ようやく残る連中の意思決定も終わったようだった。甲高い悲鳴が一斉に上がり、我先にとドームの一端に走り出す。俺たちが入ってきたのとは別の出口に、数十匹のゴブリンたちが周囲の者を突き飛ばし蹴飛ばししながら吸い込まれていき、たちまちのうちに見えなくなった。反響する足音と、具足の金属音が徐々に遠ざかり、消えると、氷のドームは先刻の熱気が嘘のような冷たい静寂に包まれた。  俺は今更のように戻ってきた恐怖と左肩の痛みを深呼吸ひとつで脇に押しやり、剣と首級を同時に放り投げた。振り向き、横たわったままの友の傍らに駆け寄る。 「ユージオ!! しっかりしろ!!」  声を掛けるが、紙のように白い顔は瞼を閉じたまま動こうとしない。口の端でピンク色の泡混じりの呼吸が繰り返されてはいるが、今にも停止してしまいそうな弱々しさだ。上腹の凄惨な傷口からは相変わらず血が流れ出ており、それを止めなくてはならないのはわかるがどうやって止血していいのか見当もつかない。  強張った右手で素早く印を切ると、俺はユージオの肩を叩いた。浮かび上がったウインドウを、こわごわ覗き込む。  生命力——デュラビリティ・ポイントの表示は、『二四四/三四二五』となっていた。しかも、左側の数字がおよそ二秒毎に一という恐ろしいペースで減少していく。つまり、ユージオの命が尽きるまで、あとわずか八分しかないということだ。 「……待ってろ、すぐ助けるからな! 死ぬなよ!!」  俺はもう一度声を掛け、立ち上がった。今度は、ドームの隅に放置されたままの四輪台車に向かって全力で走り寄る。  荷台には、中身のわからない樽や木箱、雑多な武器類と一緒に、縛られ転がされたシルカの姿があった。手近な箱から適当なナイフを掴み出し、手早くロープを切る。  小さな体を抱き上げ、広い床に横たえてざっと調べたが目立つ外傷は無いようだった。呼吸もユージオと較べればはるかにしっかりしている。氷に突いていたせいで冷えた左手で、頬をぴたぴた叩きながら大声で呼びかける。 「シルカ……シルカ! 目を醒ましてくれ!!」  すぐに、弓形の眉が顰められ、長い睫毛が震えて、ばちりと音がしそうな勢いでライトブラウンの瞳が見開かれた。離れた池のほとりに転がる草穂の光だけでは、咄嗟に俺を認識できなかったようで、喉の奥から細い悲鳴が漏れる。 「やっ……いやぁぁっ……」  両手を振り回し、俺を押し退けようとするシルカの体を抑えて更に叫ぶ。 「シルカ、俺だ! キリトだ! もう心配ない、ゴブリンは追い払った!」  俺の声を聞いたとたん、シルカはぴたりと暴れるのを止めた。おそるおそる伸ばしてきた右手の指先で、そっと俺の頬をさわる。 「……キリト……キリトなの……?」 「ああ、助けに来たんだ。お前大丈夫か? 怪我してないか?」 「う……うん、平気……」  シルカの顔がくしゃっと歪み、直後ものすごい勢いで俺の首に飛びついてきた。 「キリト……あたし……あたし……!」  すううっと耳もとで息を吸う音がして、幼子のような号泣が——始まる前に、俺はシルカの体を両腕で抱え上げるとくるっと振り向き、また走り出した。 「ごめん、泣くのはちょっと後にしてくれ! ユージオが大怪我をしたんだ!!」 「えっ……」  腕の中の体が即座に強張る。氷の欠片だのゴブリンどもが置いていったガラクタだのを蹴り飛ばしながら一目散にユージオのところまで引き返し、シルカをその隣に下ろす。 「もう、普通の治療じゃ間に合いそうにないんだ! シルカの神聖術でなんとかならないか!?」  俺が捲し立てると、シルカは息を飲みながらひざまずき、おそるおそる右手を伸ばした。ユージオの深い傷のそばに指先が触れると、びくりとその手を引っ込める。  やがて、三つ編みに結った髪を揺らして、シルカは大きくかぶりを振った。 「……無理よ……こんな……こんな傷……あたしの魔法じゃ、無理……」  指先を、今度は蒼白になったユージオの頬に当てる。 「ユージオ……嘘よね……あたしのせいで……ユージオ……」  シルカの頬をつうっと伝った涙が、氷の上にできた血溜まりに落ちて小さな音を立てた。戻した両手で顔を覆い、嗚咽を漏らそうとする少女に向かって、俺は酷と思いつつ大声で言った。 「泣いてもユージオの傷は治らない! 無理でもいい、やってみるんだ! 君は次のシスターなんだろう!? アリスの後を継いだんだろう!?」  シルカの肩がぴくりと震え、しかしすぐに力なく落ちる。 「……あたしは……姉さんにはなれない……。姉さんが三日でマスターした術を、あたしはひと月かけても覚えられないのよ。今のあたしに治せるのは、ほんの……ほんのかすり傷くらいで……」 「ユージオは……」  俺は喉に込み上げてくる様々な感情を無理矢理飲み込みながら口を動かした。 「ユージオは、君を助けにきたんだぞ、シルカ! アリスじゃない、君を助けるために、命を投げ出したんだぞ!」  もう一度、シルカの肩が、さっきより大きく揺れた。  こうしている間にも、ユージオの天命はゼロに向かって突進しつつある。残り時間は二分、それとも一分だろうか。身悶えするほど長くもどかしい一瞬の沈黙。  不意に、シルカが顔を上げた。 「——もう、普通の治癒術じゃ間に合わないわ。危険な高位神聖術を試してみるしかない。キリト、あなたの助けが必要だわ」 「わ、わかった。言ってくれ、何でもやる」 「左手を貸して」  即座に伸ばした俺の手を、シルカは自分の右手で強く握った。次いで、氷の上に投げ出されたユージオの右手を左手でしっかり掴む。 「もし術が失敗したら、あたしも、あなたも命を落とすかもしれないわ。覚悟はいいわね」 「その時は俺の命だけで済むようにしてくれ。——いつでもいいぞ!」  シルカは一瞬、強い光を湛えた瞳で俺をまっすぐ見つめた。すぐに目を閉じ、すうっと息を吸い込む。 「システム・コール!」  高く澄んだ音声が、氷のドームいっぱいに響いた。 「——トランスファー・ユニット・デュラビリティ、ライト・トゥ・レフト!!」  声の反響を追いかけるように、きぃんという鋭い音が高まり、膨れ上がった——と思ったその瞬間、シルカを中心として青い光の柱が屹立した。  草穂の光を遥かに上回る、凄まじい光量だ。巨大なドームの隅から隅までをライトブルーに染め上げている。俺は思わず目を見開いたが、それも束の間、突然シルカに握られた左手が異様な感覚に襲われ歯を食い縛った。  まるで、全身の構成物が光に溶け、左手から吸い出されていくようだ!  見れば、実際、俺の体から小さな光の粒が浮き出しては、左腕を滝のように流れ落ち、シルカの右手に注ぎ込まれていく。ぼやける視線でその先を追うと、光の奔流はシルカの体を通過して、ユージオの右手からその体へと流れ込んでいる。  トランスファー・デュラビリティ、つまり人から人へと天命を移動させる術なのだろう。おそらく、今俺のウインドウを開けば、数値が目まぐるしく減少しているはずだ。  構わないから全部使ってくれ、そう念じながら、俺は左手に一層力を込めた。見れば、エネルギーの導線となっているシルカも相当に苦しそうだ。あらためて、この世界に厳然として存在する、力の代償としての痛みの大きさを意識する。  痛み、苦しみ、そして悲しみ。仮想世界には必要ないはずのそれらが、これほどまでに意図的に強調されていることが、アンダーワールドの存在理由と深くリンクしているのは最早明らかだ。魂たちを苛むことで、ラースの技術者たちが何らかのブレイクスルーを目指しているなら、予期せぬ闖入者の俺がここでユージオを助けようとするのは明白な妨害行為ということになるのだろう。  だが、言わせてもらえば、そんなもの糞食らえだ。たとえ魂だけの存在であろうとも、ユージオは俺の友達なのだ。絶対にこのまま死なせたりしない。  一体いかなる情報が俺の魂に与えられているのか、天命の移動が進むにつれ、全身を異常な寒気が包み込みはじめた。徐々に暗くなる視界で、懸命にユージオの様子を確かめる。腹の傷は、術の開始前と較べれば明らかに小さくなってきているように見えた。しかしまだ完全な治癒には程遠い。流れ出る血も止まっていない。 「き……キリト……まだ、だいじょうぶ……?」  苦しそうな息の下で、シルカが切れ切れに言った。 「問題ない……もっと、もっとユージオにやってくれ!」  即座にそう答えたものの、すでに俺の目はほとんど視力を失いつつあった。右手、右足の感覚も消失し、唯一シルカに握られた左手だけが熱く脈打っている。  ここでこの世界における命を失おうとも、それはまったく構わない。ユージオの命が救われるなら、先刻に倍する痛みにだって耐えてみせる。しかしひとつだけ心残りなのは、世界の行く末を見届けられないことだ。恐らく、あのゴブリン集団を端緒とするのであろう闇の軍勢の侵攻に、真っ先に晒されるであろうルーリッドの村が気がかりで仕方ない。俺はログアウトとともにここでの記憶を失ってしまうだろうから、舞い戻ることも不可能だろう。  いや——きっと、自分の眼でゴブリン達を見たユージオが何とかしてくれるはずだ。村長に警告して衛士を増強させ、更に世界の危機を知らせるために央都へ向かう。彼ならきっとそうする。  そのためにも、今ここでユージオを死なせるわけにはいかない。  ああ、だが、しかし——俺の命は、もうすぐ尽きてしまう。なぜか、それがはっきりと分かる。ユージオはまだ目を開けようとしない。彼の傷を癒し、死の際から呼び戻すためには、命をすべて費やしても足りないというのか。 「……もう……だめ……これ以上続けたら、キリトが……っ」  シルカの悲鳴が、遥か遠くからかすかに聞こえた。  止めるな、続けるんだ、そう言おうとしたがもう口も動かない。思考を続けることすら困難になりつつある。  これが、死なのだろうか? アンダーワールドにおける魂の擬似的死……それとも、魂の死は、現実の肉体すらも殺すのだろうか。そんなふうに思えてくるほどに、たまらなく寒い……そして恐ろしいくらい孤独で……。  ふと、両肩に、誰かの手を感じた。  暖かい。氷が詰まった俺という殻を、じんわりと溶かしていく。  アリス——!?  俺はこの手を知っている。小鳥の羽のように華奢で、しかし誰よりも力強く未来を指していた手。  アリスなのか……?  声にならない声でそう尋ねると、左の耳にふっと優しい吐息の感触が訪れ、そして、泣きたくなるほど懐かしく思える声が聞こえた。 『キリト、そしてユージオ……待ってるわ、いつまでも……セントラル・カセドラルのてっぺんで、あなた達をずっと待ってる……』  黄金色の光が恒星のように輝き、俺の内部を満たした。圧倒的なエネルギーの奔流は、すべての細胞に染み渡ったあと、行き場を求めて左手から溢れ出していった。  五十回目の綺麗に澄んだ斧音が、春霞の空高く拡散していった。  額の汗を拭いながら斧を下ろしたユージオに、俺は背後から声をかけた。 「傷の具合はどうだ? 痛んだりしないか?」 「ああ、丸一日休んだら、もうすっかり治ったみたいだよ。少し痕は残ったけどね。それどころか……気のせいかな、なんだか“竜骨の斧”がやけに軽く思えるんだ」 「気のせいってわけでもなさそうだぜ。今の五十回、真芯の当たりが四十二回もあった」  それを聞いたユージオはひょいっと眉を持ち上げ、次いでにっと大きく笑った。 「本当かい? なら、今日の賭けは僕が頂きだな」 「そりゃどうかな」  笑い返しながら、俺は受け取った竜骨の斧を右手一本で軽く振ってみた。確かに、記憶にあるよりは手首に感じる反動がずいぶんと少ない。  果ての山脈地下の洞窟で、最早夢だったかとさえ思えるほどに恐ろしい体験をしてから、すでに二晩が過ぎ去っていた。  シルカの神聖術によってからくも息を吹き返したユージオに右肩を貸し、左手に隊長ゴブリンの醜悪な首級をぶら下げて、どうにかルーリッドの村まで帰り着いたときにはとうに日没は過ぎ去っていた。村では大人たちが、捜索隊を出すかどうか広場で協議しており、そこに俺たち三人がひょっこり現われたものだから、短い安堵の溜息に続いて主に村長ガスフトとシスター・アザリヤによる叱責が轟雷のごとく降り注いだ。  しかしそれも、俺が左手の生首を大人たちの足元に転がすまでのことだった。人間の頭より遥かに巨大で、黄緑色の眼と長い乱杭歯を剥き出した隊長ゴブリンの首に睨まれて、大人たちはしんと黙り込んだあと盛大な悲鳴を上げた。  あとは主にユージオとシルカが、北の洞窟に野営していたゴブリンの大集団のことと、それが恐らく闇の軍勢による大侵攻の尖兵であることを説明した。村長たちはいかにも子供のたわ言と笑い飛ばしたそうだったが、誰一人本物を見たことのない怪物の生首が石畳に転がっていればそういう訳にもいかない。議題はすぐに村の防衛をどうするかに移り、俺たちは無事放免されて、疲れた足を引きずりながら家に戻った。  教会の部屋でシルカに左肩の傷を手当てしてもらい、俺はベッドに倒れこんで泥のように眠った。翌日の仕事はユージオともども免除され、これ幸いと惰眠を貪り、さらに一晩明けて今朝には肩の痛みも全身の疲労感もすっきり抜けていた。  朝食後、こちらも元気な顔で現われたユージオと連れ立って森へと歩き、最初の一セットを彼が打ち終えたところ——である。  俺は、右手に握った斧を眺めながら、少し離れた場所に腰を下ろしたユージオに向かって言った。 「なあ、ユージオ。覚えてるか……あの洞窟で、お前がゴブリンに斬られたときのこと……。お前、妙なこと言ったよな。俺が、ユージオとアリスと、ずっと昔から友達だった、みたいな……」  答えはすぐには返ってこなかった。しばらく沈黙が続いたあと、ざあっと心地よい風が梢を鳴らして通り過ぎ、その尻尾に乗るようにして心許なそうに揺れる声が俺の耳に届いた。 「……覚えてるよ。そんな訳はないんだけどね……なんだか、あの時は、すごくはっきりそう思えたんだ。僕と、キリトと、アリスはこの村で生まれて一緒に育って……アリスが連れていかれたあの日も、その場に一緒にいたような……」 「……そうか」  頷き、しばし考え込む。  極限状況における記憶の混乱、そう説明することは容易い。ユージオという人格を構成するのが俺のそれと同じ“不確定な光”フラクトライトなら、生死の瀬戸際において情報の誤った接続が発生しても不思議ではない。  しかし、問題は——あの場で、俺にも同じような記憶の捏造が発生した、ということだ。目の前で死にゆくユージオを見たとき、確かに俺も、彼と一緒にルーリッドの村で育った、というような生々しい感覚を得たのだ。それに、眩い金髪を持つ少女、俺は会ったことすらないはずのアリスの思い出さえも。  そんなことは有り得ない。この俺、桐ヶ谷和人には、埼玉県川越市で妹の直葉と一緒に今日まで(正確にはこの世界で目覚めるまで)暮らしたというクリアな記憶が存在する。それが捏造されたものだとはどうしても思えないし、思いたくない。  やはり、あの現象は、俺とユージオを同時に同種の幻視が襲った、というそれだけのことなのだろうか?  だとしても、唯一、説明のつけられないことがある。シルカの神聖術によって俺の天命をユージオに移動し彼を救おうと試みたあの時、俺は薄れゆく意識の中で、確かに背後に何者かの気配を感じたのだ。いや、何者か、ではない——あの瞬間、俺は彼女がアリスだと確信していた。そしてアリスは言ったのだ。キリト、そしてユージオ、セントラル・カセドラルの天辺で待っている、と。  あの声までもを、俺の混濁した意識が生み出した幻だ、と切り捨てることはできない。なぜなら俺は“セントラル・カセドラル”などという単語をこれまで聞いたことはないからだ。現実世界には勿論、様々なVR世界においても、そんな場所あるいは建物の存在を噂にも聞いたことは無いと断言できる。  ならばあの声は、六年前央都に連行されたはずの本物のアリスが、何らかの方法によって俺に送ってきたメッセージである、ということになる。しかし、彼女は俺を知っているようだった。そう——まるで、あの存在し得ない記憶、俺とアリスとユージオが、ルーリッドの村で生まれ育った幼馴染同士である、という思い出が真実である、とでもいうかのように……。  俺は、昨日の朝目覚めてから頭の中で何度も堂々巡りさせているこの思考を中断し、口を開いた。 「ユージオ。洞窟で、シルカがお前に神聖術を使ったとき、誰かの声を聞いたか?」  今度の答えは早かった。 「いいや、僕はもうまったく意識が無かったから。キリトは何か聞いたのかい?」 「いや……気のせいだ、忘れてくれ。——さて、仕事をしないとな。俺は四十五回超えを狙うぜ」  頭の中から渦巻く想念を追い払い、俺はギガスシダーに向き直った。両手でしっかりと斧を握り、全身の神経の隅々にまで意識を行き渡らせる。  振りかぶった斧は、イメージした軌跡を寸分たがわずトレースし、幹に刻まれた半月形の中心に吸い込まれるように命中した。  午前のノルマの、二人合わせて千回の斧打ちは、普段より三十分近くも早く終わった。二人ともに疲労が少なく、休憩をほとんど必要としなかったせいだ。会心の一撃も先週と較べると激増し、気のせいか巨樹の刻み目も、見てそれとわかるほどに深さを増したようだった。  ユージオは、満足そうに大きく伸びをすると、ちょっと早いけどお昼にしようと言いながらいつもの木の根に腰を下ろした。俺が隣に座ると、傍らの布包みからいつもの丸パンを取り出し、俺に二つ放ってくる。  両手でひとつずつ受け止め、俺は相も変らぬその石のような固さに苦笑いしながら言った。 「斧が軽くなったみたいに、このパンも柔らかくなってるといいんだけどな」 「あははは」  愉快そうに笑い、ユージオは大きく一口齧りとって首を振った。 「モグ……変わってないね、残念ながら。それにしても……なんで急に斧を軽く感じるようになったのかなあ……?」 「さてなあ」  そう言いながらも、しかし俺はこの現象を、昨夜自分の“窓”を開いてみたときからある程度予想していた。問題のオブジェクトコントロール権限と、それにシステムコントロール権限、おまけに天命値までが数日前と較べて大きく上昇していたからだ。  理由も見当がつく。あの洞窟で、ゴブリンの大集団を撃退したことによって通常のVRMMOおけるレベルアップ的現象が発生したのだろう。二度やれと言われても絶対に御免だが、困難な戦闘に挑んだ見返りはそれなりにあったというわけだ。  今朝方、シルカにもそれとなく尋ねたみたが、やはり先週までは失敗率の高かった神聖術が妙に上手くいくような気がする、ということだった。実際には戦闘を行っていないシルカにも“レベルアップ効果”が及んでいるのは、多分俺たち三人がパーティー扱いされ、全員に経験値が入った、と考えれば納得がいく。  恐らく、ユージオのオブジェクト権限も俺と同程度、四十八前後にまで上昇しているはずだ。となればもう一度アレを試してみない手はない。  俺は、大急ぎで二つのパンを水と一緒に胃に流し込み、立ち上がった。まだゆっくり顎を動かしているユージオの視線を感じながら、ギガスシダーの幹に空いたウロのひとつに歩み寄り、先日以来そこに置きっぱなしだった青薔薇の剣の包みに手を伸ばす。  半ば確信し、半ば祈りながら、革包みを両手で握り、腰を入れて持ち上げた。 「おっと……」  途端、後ろにひっくり返りそうになり、慌てて足を踏ん張る。記憶にある、ウェイトをたっぷりつけたバーベルのようなとんでもない重さが、せいぜい肉厚の鉄パイプ程度にまで激しく減少していたからだ。  手首にずしりと応えることに変わりはない。しかしその重みは、どちらかと言えば心地よい、まさに旧アインクラッド末期の我が愛剣を思い起こさせる手応えだ。  俺は、左手一本で持った革包みの紐をほどき、露わになった美しい細工の柄を右手で握った。パンを咥えたまま目を丸くするユージオに短くにやっと笑いかけてから、しゃりーんと背筋の震えるような鞘走りとともに剣を抜き放つ。  青薔薇の剣は、先日の暴れ馬っぷりとは打って変わって、深窓の美姫の佇まいで俺の手にしっくりと収まった。改めて、見れば見るほど見事な剣だ。そこらのVRゲーム中のポリゴン製武器には有り得ない、吸い付くような柄の質感、わずかに透明感のある刀身の艶、薔薇の蔦を象った鍔の細工の見事さ、昔話のベルクーリとやらが竜から盗もうとしたのもむべなるかなと思える。 「お……おいキリト、持てるのか、その剣が?」  唖然としながらそう言うユージオに、俺はひゅひゅんと剣を左右に切り払って見せた。 「パンは柔らかくならなかったけど、この剣は軽くなったみたいだぜ。まあ、見てろって」  改めてギガスシダーの斧目の前に立ち、すっと腰を落とす。左手を前に出し、見えない弓につがえた矢のように、剣を握った右手をいっぱいに引き絞る。 「シィッ!」  かの世界で何千回と繰り返した一番の得意技、シングル・スラスト剣技“ヴォーパル・ストライク”を、俺は鋭い気合とともに全体重を乗せて放った。  水平に疾る稲妻のように宙を切り裂いた青薔薇の剣は、狙ったピンポイントを寸分違わず貫き、轟雷にも似た炸裂音を周囲に響かせた。周りの木々でさえずっていた鳥たちが瞬間押し黙り、次いで一斉に飛び立った。  久々に、剣人一体、とでも言うべき境地を味わえたことで恍惚となりながら、俺は伸びきった右手の先を目で追った。青薔薇の剣の切っ先は、小指の長さほどにまで深く、ギガスシダーの黒光りする木肌に埋まっていた。  悪魔の杉、森の暴君、黒鋼の巨樹ギガスシダーがついに——あるいは呆気なく倒れたのは、俺とユージオが竜骨の斧に換えて青薔薇の剣を振るいはじめてからわずか五日後のことだった。  実際には、膨大な樹の天命を律儀にゼロにする、つまり太い幹の全直径を刻みぬく必要は無かったのだ。くさび型の切り込みが、直径の八割に迫ろうとしていたとき、ユージオが繰り出した水平斬りの一撃を受けた巨樹がそれまでにない不気味な軋み声を発した。  俺たちは唖然として顔を見合わせ、次いで遥か頭上に伸びるギガスシダーの幹を振り仰いで、驚愕のあまり凍りついた。樹が、徐々に俺たちに向かって倒れ込んでくるのが見えたからだ。  もっとも、その時はむしろ樹ではなく、俺たちの立っている地面が前方に傾斜していると錯覚したものだ。それほどまでに、直径四メートルを超える巨樹が重力に屈して頭を垂れる光景は非現実的なものだった。  まだ一メートル近く残っていた幹の厚み部分が、のし掛かる重さに耐え切れず、石炭のような欠片を撒き散らしながら圧潰していった。巨樹の断末魔は雷が十発次々に落ちた以上の凄まじさで、破壊音は村の中央広場を突き抜けて北の端の衛士詰め所まで鮮明に届いたらしい。  俺とユージオは同時に悲鳴を上げ、それぞれ右と左に逃げ出した。オレンジ色に染まり始めた空を黒々と切り裂きなからギガスシダーはゆっくり、ゆっくりと倒れていき、とうとうその巨体を大地に横たえた。途方もない衝撃で俺は空高く放り上げられ、尻から岩の上に落下して天命が百ほど減少した。 「驚いたな……この村、こんなに人がいたんだなあ」  俺は、ユージオが差し出す、泡立つりんご酒のジョッキを受け取りながらそう呟いた。  ルーリッド村中央広場には、赤々としたかがり火が幾つも焚かれ、集った村人の顔を明るく照らし出していた。噴水の傍らでは、バグパイプに似た楽器やえらく長い横笛、獣の皮を張ったドラムを携えた楽団が陽気なワルツを奏で、それに合わせて踊る人々の靴音や手拍子が夜空へ舞い上がっていく。  喧騒から少し離れた片隅のテーブルに陣取り、足でリズムを取っていると、なんだか自分も村人の輪に飛び込んで踊りまくりたくなってきて思わず苦笑いを浮かべる。 「僕も、村の人がこんなに集まるのを見たのは初めてかもしれないな。年末の大聖節のお祈りよりも多いよ、絶対」  そう言って顔をほころばせるユージオに向かって、俺は右手のジョッキを突き出して何度目かの乾杯を交わした。アップルサイダーに似た味の酒は、この村では一番弱いものらしいがそれでも一息に呷ると顔がかーっと熱くなる。  ギガスシダーが切り倒されたことを知った村長以下の顔役たちは、六日前の安息日に引き続いて村会議の開催を余儀なくされた。そこでは、“巨樹の刻み手”ユージオ(とついでに俺)の処遇をどうするか喧喧諤諤の議論が交わされ、恐ろしいことに、予定より少々——具体的には九百年ほど——早くお役目を果たしてしまったことを罪として処罰する案も出されたそうだが、最終的には村長ガスフトの鶴の一声により、何はともあれ村を挙げての祭りを催しユージオについては掟どおりに遇する、という結論に達したそうだ。  掟どおり、というのが実際には何を指すのかが俺には見当もつかず、ユージオに尋ねてみたのだが、彼はどうせすぐにわかるよ、と笑うだけだった。  まあ、その顔を見れば、少なくとも困った目に合うわけではなさそうだという事だけは察せられる。俺はジョッキを干すと、傍らの皿から肉汁したたる巨大な串焼きを掴みあげ、がぶりと噛み付いた。  考えてみると、この世界に来てから食べたものと言えば、もう相当にうんざりしつつあった例の固丸パンと教会で出る野菜中心の質素な料理だけで、肉と名のつくものを口にするのは初めてだ。濃厚なソースのかかった柔らかい牛肉(たぶん)は、ここが仮想世界だと信じられなくなるほど芳醇な香りと旨味に満ちていて、この一口のためだけでもギガスシダー相手に苦闘した甲斐はあったと思える。  もっとも、勿論これで全てめでたしめでたしという訳には行かない。むしろ、ここでようやく全ての端緒に辿り付いたのだと考えなくてはいけないのだ。視線を動かし、ユージオの腰に誇らしげに吊られたままの青薔薇の剣をちらりと眺める。  彼にはこの五日間、ギガスシダーを標的として俺が身につけた片手直剣技のほぼ全てをみっちりと練習させた。その剣技の出自は、ソードアートオンラインという一ゲーム内の動作にすぎないのだが、イメージ力が重要なこの夢世界では有効に機能することをゴブリン隊長相手に実証ずみである。更にユージオは俺が舌を巻くほどの素質と吸収力を持っており、剣の性能と併せて今では堂々たる強力な剣士であると太鼓判を押してもいい。  あとは、その事実をどうにかして彼の自信へと変え、村を出て央都を目指す計画に同意させなくてはならない。  金串に刺さった肉と野菜を全て平らげると、俺は意を決して声をかけた。 「なあ、ユージオ……」 「ん?」  同じく串焼きを頬張っていたユージオが、もぐもぐ口を動かしながら顔をこちらに向ける。 「お前、この後……」  だが、続きを口にする前に、高い声が俺たちの間に降ってきた。 「あっ、こんな所にいた! 何やってんのよ、お祭りの主役が」  両手を腰に当て、胸を反らせて立っている女の子がシルカだと気付くのにすこし時間がかかった。髪をほどいてカチューシャを飾り、いつもの修道服ではなく赤いベストと草色のスカートを身につけていたからだ。 「あ、いや、僕ダンスは苦手で……」  もごもごと言い訳するユージオに倣って、俺も首と右手を振る。 「ほら、俺も、記憶喪失だし……」 「そんなもの、やればなんとかなるわよ!」  俺とユージオは同時に手を掴まれ、ずるずると椅子から引き起こされてしまった。シルカは俺たちを有無を言わせず広場の真ん中まで引っ張っていき、どーんと威勢良く突き飛ばした。途端、周囲からわっという歓声が上がり、たちまち踊りの輪に飲み込まれてしまう。  幸い、ダンスは学校の体育祭でやるような簡単なもので、パートナーが三回替わる頃にはどうにか見よう見真似で踊れるようになった。するとだんだん、素朴なリズムに乗って体を動かすのがなんだか楽しく思えてきて、ステップを踏む足も軽くなってしまう。  健康的な赤い頬で陽気に笑う、東洋人とも西洋人ともつかない顔立ちの娘さんたちと手を取りあって踊りまくっていると、なんだか自分が本当に記憶を無くした風来坊だというような気がしてきて、このままこの村で職を見つけ家を構えずーっと暮らしていくのも悪くないのかなあ——。  などとボーっと考えていた時、不意に音楽が高まりつつペースを上げていき、そして突然終わった。なんだもう終わりか、と楽団のほうを見ると、並んだ楽器の隣に設えられた壇に、見事な髭を生やした威丈夫が登ったところだった。ルーリッド村長にしてシルカの父、ガスフトだ。  村長は両手をぱんぱん叩き、よく通るバリトンで叫んだ。 「みんな、宴もたけなわだが、ちょっと聞いてくれ!」  村人たちは、ダンスで火照った体を冷やすためのエールやらりんご酒のジョッキを掲げて村長に歓声を送ったあと、さっと静かになる。 「ルーリッドの村を拓いた父祖たちの大願はついに果たされた! 肥沃な南の土地からテラリアとソルスの恵みを奪っていた悪魔の樹が倒されたのだ! 我々は、新たなる麦畑、豆畑、牛や羊の放牧地を手に入れるだろう!」  ガスフトの大音声を、更なる歓声が掻き消す。村長は両手を上げてふたたび静けさが戻るのを待つと、更に続けた。 「それを成し遂げた若者——オリックの息子ユージオよ、ここに!」  村長が村人の輪の一角を指すと、その先に、緊張した顔で進み出るユージオの姿があった。照れくさそうに頭を掻きながら、村長の隣の壇上に登る。彼がこちらに向き直ると、三度目の、そして最大の歓声が浴びせられた。俺も、負けじと両手を打ち鳴らし、ぴいぴいと口笛を鳴らす。 「掟に従い——」  村長の声が響き渡り、村人はまた口を閉じて耳を澄ませた。 「天職を成し遂げたユージオには、自ら次の天職を選ぶ権利が与えられる! このまま森で樵を続けるもよし、父親の後を継いで畑を耕すもよし、牛飼いになろうと、酒を醸そうと、商売をしようと、なんなりと己の道を選ぶがいい!」  なんだって!?  俺は、ダンスの余韻が急激に冷めるのを感じた。しまった、娘さんたちの手を握って浮かれている場合ではなかったのだ。やはり早いところユージオを説得し念を押しておく必要があった。ここで、僕は麦を育てますなどと宣言されてしまったら万事窮する。  息を飲みながらユージオの様子を注視していると、彼は困ったようにうつむき、ぐしぐしと頭を掻き、左手を何度も閉じたり開いたりした。いっそ俺も壇上に乱入し、彼の肩を叩いて、俺たち央都に行きまーすと宣言してやろうか——と考えたとき、すぐ隣で小さな声がした。 「ユージオ……村を出るつもりなのね……」  いつの間にか俺の横に立っていたシルカは、そう呟くと、どこか寂しそうな笑みを浮かべた。 「そ、そうなのか?」 「そうよ、間違いないわ。それ以外に、何を迷う理由があるのよ」  まるでその声が聞こえたかのように、ためらいがちに動いていたユージオの左手が、腰の青薔薇の剣の柄をぐっと握った。顔を上げ、まず村長を、次いで村人たちの輪を見回したあと、大きなはっきりした声で言った。 「僕は——剣士になります。ザッカリアの街で衛兵隊に入り、腕を磨いて、いつか央都に上ります」  しんとした静寂のあと、村人の間に、さざ波に似たどよめきが広がった。しかしそれは、あまり好意的なものではないように思えた。大人たちは皆、眉をしかめて周りの者に首を寄せ、ぼそぼそと何か言い合っている。  その声を静めたのは、今度もガスフト村長だった。片手を上げて村人を黙らせると、彼も厳しい顔を作り、口を開いた。 「ユージオ、君はまさか——」  そこで一度言葉を切り、あご髭を撫でてからまた続ける。 「……いや、理由は問うまい。天職を選ぶのは教会の定めた君の権利なのだからな。よかろう、ザッカリアの長として、オリックの息子ユージオの新たなる天職を剣士と認める。望みのままに流離い、その腕を磨くがよかろう」  ほうーっ、と、俺の口から長い吐息が漏れた。これでようやく、この世界の核心を自分の目で確かめることができる。もしユージオが農民になってしまったその時は単身央都を目指すつもりでいたが、知識も路銀も無い身で行き当たりばったり進むのでは何ヶ月、何年かかるか知れたものではない。ここ数日の苦労が報われた思いで、すうっと肩が軽くなる。  村人たちも、村長の決定ならばと納得したようで、思い出したように手を叩き始めた。が、その音が大きくなる前に、鋭い叫びが夜空にこだました。 「待ってもらおう!」  人垣を割って壇の前に飛び出したのは、ひとりの大柄な若者だった。  朽葉色の短い髪といかつい造作、そして何よりその左腰に吊られたシンプルな形の長剣に見覚えがあった。いつも北門の詰所にいる衛士だ。  若者は、壇上のユージオと村長に張り合うように胸を張り、太い声で叫んだ。 「ザッカリアの衛兵隊を目指すのはまず第一にこの俺の権利だったはずだ! ユージオが村を出ることを許されるのは、俺の次じゃないとおかしいだろう!」 「そうだ、その通りだ!」  追随する叫び声を発しながら続いて進み出てきたのは、若者とよく似た髪色、顔立ちをした、しかしこちらは相当に腹の出た中年の男だった。 「……あれは?」  シルカに顔を寄せて尋ねると、渋面とともに答が返ってくる。 「前の衛士長のドイクさんと、その息子で今の衛士長のジンクよ。村で一番の使い手、が口癖の一家なの」 「なるほどね……」  さてどうしたものか、と思いながら見守るうち、ジンクとその親父の言い分を一通り聞いたガスフト村長が、なだめるように手を挙げながら言った。 「しかしジンクよ、お前はまだ衛士の天職に就いて六年だろう。掟では、あと四年経たねばザッカリアの剣術大会に出ることはできんぞ」 「ならばユージオもあと四年待つべきだ! 剣の腕が俺より下のユージオが、俺を差し置いて大会に出るのはおかしい!」 「ふむ。しかしそれをどうやって証明するのだ? お前のほうがユージオより腕が立つことを?」 「なっ……」  ジンクと親父の顔が、見る間にまったく同じ赤に染まった。今度は親父のほうが、湯気を立てながらガスフトに詰め寄る。 「ルーリッドの長と言えどその暴言は聞き捨てなりませんな! 息子の剣が、木こりごときに遅れを取ると申すのなら、この場で試合わせてみればよいでしょう!」  それを聞いた村人の間から、そうだそうだ、の声とともに無責任な野次が盛んに飛んだ。思いがけぬ祭りの余興を楽しめそうだと見るや、ジョッキを掲げ、足を踏み鳴らして、試合だ試合だと喚き散らす。  俺が呆気に取られて見守るうち、あれよあれよという間にジンクがユージオに立会いを申し込み、ユージオもそれを受けざるを得ず、壇の前に作られたスペースで両者が向き合うという流れになってしまった。マジかよ、と思いながらシルカに耳打ちする。 「俺ちょっと行ってくら……」 「ど、どうする気なの」  それには答えず、人波を掻き分けてどうにか噴水前まで出ると、ユージオに走り寄る。悍馬のように入れ込んでいる相手とは対照的に、いまだに何が何やらと言いたそうなユージオは、俺を見ると短く苦笑した。 「ど、どうしようキリト、なんかとんでもないことになっちゃった」 「ここまで来てごめんなさいじゃ済まないだろうなあ。それはともかく、試合って本気の斬り合いなのか?」 「まさか、剣は使うけど寸止めだよ」 「ふうん……。でも、その剣はもし止まらないで当たっちゃうと、それだけで相手を殺しかねないからな。いいか、ジンク本人じゃなくてあいつの剣を狙え。出会い頭に“バーチカルアーク”を一発当てればそれで終わる」 「ほ、ほんとに?」 「絶対だ、保証する」  ユージオの背中をばんと叩くと、少し離れた場所で俺を胡散臭そうに見ているジンクとその親父にぺこりと頭を下げ、観客の列まで退いた。  壇の上でガスフト村長が両手をたたき、静粛に! と叫んだ。 「それでは——予定には無かったが、この場で衛士長ジンクと剣士ユージオの立会いを執り行う!」  ジンクがじゃりんと音を立てて腰の剣を抜き、少し遅れてユージオがゆっくり抜剣する。村人の間からほおうという嘆声が漏れたのは、かがり火の下で美しく映える青薔薇の剣の輝きのせいだろうか。  ジンクも一瞬、相手の剣がまとうオーラに気圧されたようだったが、すぐに両手にぺっと唾を吐き、自分の武器を大上段に構えた。  対してユージオは、右手一本で握った剣をぴたりと正眼に据え、左手左足を引いてすっと腰を落とす。  数百の村人が息を飲んで見守るなか、ガスフトが右手を高く掲げ、 「始め!」  の声とともに振り下ろした。  予想通り、即座に突っ掛けたのはジンクのほうだった。本当に止まるのかよと思いたくなる勢いで真っ向正面の一撃を繰り出す。  ユージオも、わずかに遅れて動いた。流れるような足捌き、体重移動、右手の振り、そして何よりその間合いと呼吸を見て——  俺の背中に圧倒的な戦慄が走った。  何もかもが完璧だった。五日前、初めて剣を握った人間の動きではなかった。一条の青い光線と化したユージオの剣が、ジンクの剣と接した瞬間、それをまるで飴細工ででもあるかのように粉砕するのを眺めながら、俺は内心で自問していた。  彼がこの先研鑚を積み、数多の技を会得し、実戦の修羅場をも経たとき、いったいどれほどの剣士となるのだろうか? もしその彼と本気で剣を交える場面に至ったとしたら、果たして俺は彼の前に立てるのか——?  あまりにあっけない、しかし見事な決着に大いに湧く村人たちに混じって、両手を盛んに叩きながら、俺は背中を伝う冷たい汗を意識した。  ジンク親子が茫然自失の体で引き上げていったあと、すぐさま音楽が再開されて祭りは前以上に盛り上がり、ようやくお開きとなったのは教会の鐘が夜十時を告げる頃だった。  りんご酒をさらに三杯飲んでやっと理由のない不安を忘れた俺は、心地よい酩酊に任せてまた散々踊りまくってしまい、仕舞いにはシルカに引きずられるようにして教会に戻る破目になった。門のところで、俺の有様を散々笑ってくれたユージオと明朝の旅立ちを約束して別れ、どうにか自室に辿り付いて、ふらふらとベッドに倒れ込む。 「まったく、ちょっと飲みすぎよ、キリト。ほらお水」  シルカの差し出す冷たい井戸水を一息に呷り、ふう、と息をつくと、改めて傍らに立つしかめっ面の少女を見上げた。 「……な、何よ」 「いや……悪かったな、って思って……。もっと、ユージオと話したいこととかあったんじゃないのか……?」  途端、軽い酒で上気したシルカの頬が更にさくらんぼ色に染まる。 「何言い出すのよ、急に」 「……謝らなきゃいけないのは、それだけじゃないな。ごめんな、俺がユージオを遠くに連れてくみたいなことになっちゃって……。もしあいつがずっとこの村で木こりを続けてたら、そう遠くないうちにシルカと結婚するようなことにもなってたかもしれないのにな……」  ふううー、ととても長い溜息をついて、シルカはベッドにすとんと腰を下ろした。 「あんたって、ほんと、何て言うか……」  呆れかえったと言わんばかりに数回頭を振ってから、続ける。 「……まあ、いいわ。——そりゃ、ユージオがいなくなっちゃうのは寂しいけど……でも、あたし、嬉しいのよ。アリス姉さんがいなくなってからずっと、何もかも諦めたみたいにして生きてたユージオが、あんないい顔で笑うようになったんだもの。自分から、村を出て姉さんを探しにいくって決めてくれたんだもの。ああ見えて、父様も心の中じゃすごく喜んでたわ。ユージオが、姉さんを忘れてなかったことをね」 「……そっか……」  シルカは頷き、ついで視線を窓の向こうの見事な満月に向けた。 「あたしね……別に、姉さんの真似して闇の国の土を踏むためにあの洞窟に行ったわけじゃないの。そんなこと、あたしにできっこないのは判ってた。判ってたけど、それを……できないのを、確かめたかったの。あたしは、アリス姉さんの代わりにはなれないってことを、確かめたかった」  俺はしばらくシルカの言葉の意味を考えたあと、首を横に振りながら言った。 「いや、君はすごいよ。普通の女の子なら、村を出る橋のところで、森の道の途中で、洞窟の入り口で引き返したはずだ。なのに、あんな暗い洞窟のずっと奥まで入っていって、ゴブリンの偵察隊を見つけちゃったんだからな。君は、君にしかできないことをしたんだ」 「あたしにしか……できないこと……?」  目を丸くし、首をかしげるシルカに、大きく頷きかける。 「君はアリスの身代わりなんかじゃない。シルカには、シルカだけの才能があるはずだ。ゆっくりそれを見つければいいんだ」  実際に、これからのシルカは以前よりはるかに神聖術の才能を増していくだろうという根拠がある。彼女も、俺やユージオと一緒にゴブリンを撃退し、そのせいでシステム上の権限レベルが上昇しているはずだからだ。  しかし、それは本質的な問題ではない。彼女は、自分とは何者なのかという問いに挑み、答えを手に入れた。そのこと自体が強力なエネルギーを彼女に与えていくだろう。自分を信じること、それこそが、人の魂の生み出す最大の力の源なのだから。  そろそろ、俺も、今まで先延ばしにしてきた恐るべき疑問の答えを見つけるべき時だった。  果たして、この意識——キリトあるいは桐ヶ谷和人という名の自我は、一体何者なのか? 生物的な脳に宿るフラクトライトによって構成される、つまり“本物の俺”なのか。それとも、STLによって作成された複製——コピーされた魂なのか。  それを確かめる方法が、たった一つだけある。ユージオやシルカたち、人工フラクトライトには絶対に不可能なある行動が、俺に可能かどうか知るのだ。  俺は体を起こすと、隣に座るシルカの顔を見つめた。 「……?」  不思議そうに首を傾げるその頬に手を伸ばし、引き寄せ、白く広い額にそっと唇を付ける。  シルカはぴくっと体を震わせ、三秒ほどそのままじっとしていたが、急に凄い勢いで立ち上がると両手で口もとを覆い、見開いた目で俺を凝視した。 「……あなた……今、何したか……知ってるの……?」  顔中真っ赤に染めて、ごくごくかすかな声でささやくシルカに向かってこくりと頷く。 「知ってる。“教会によって婚姻を認められた男女以外の者は、箇所を問わず互いに口づけしてはならない”……禁忌目録違反」 「ほんとに……信じられない……信じられない人ね」 「今のは、誓いの印さ。俺は絶対に、ユージオとアリスをこの村に連れて帰る。信じていいぜ……俺は……」  少し間を置いて、俺はゆっくりとその先を口にした。 「俺は、剣士キリトだからな」  翌朝は、見事な快晴だった。  シルカが作ってくれた弁当のバスケットの重みを右手に感じながら、俺とユージオは長い間帰らぬであろう道を南に歩いていた。  ギガスシダーの森へと入る細道の分岐点まで来たとき、俺はそこに一人の老人が立っているのを見つけた。皺深い顔は見事な白髭に覆われているが、背がぴんと伸びた体は逞しく、眼光は炯炯としている。  老人を見た途端、ユージオは嬉しそうに顔をほころばせ、走り寄った。 「ガリッタ爺さん! 来てくれたの、嬉しいよ。昨日会えなかったからね」  その名前は聞覚えがあった。確か、前任の“ギガスシダーの刻み手”だ。  ガリッタという名の老人は、髭の下で顔をわずかにほころばせると、ユージオの肩に手を置いた。 「ユージオよ、儂が指の長さほどにしか刻めなかったギガスシダーを、よもや倒すとはなあ……。教えてくれんか、一体どうやって……?」 「この剣と……」  ユージオは、左腰の青薔薇の剣をわずかに抜いてからチーンと音をさせて鞘に収め、次いで振り返って俺を見た。 「何より、彼のおかげだよ。名前はキリト……ほんとに、とんでもない奴なんだ」  どういう紹介だよと思いながら慌てて頭を下げる。ガリッタ老人は鋭い眼光で俺を射抜かんばかりに見据えると、すぐに破顔した。 「そなたが噂の“ベクタの迷子”か。なるほど変動の相じゃな」  そんなことを言われたのは初めてで如何なる意味かと首を捻っていると、老人は続けて言いながら左手で森を指した。 「さて、せっかくの旅立ちを邪魔して悪いが、少々付き合ってもらえるかな。何、そう手間は取らせん」 「え、ええ。いいよね、キリト」  特に拒否する理由も無いので頷く。老人はもう一度笑い、それでは付いてきなされ、と森へと続く道に足を踏み入れた。  この道を毎日通ったのは一週間程度のことだが、それでも懐かしさに似た感慨を覚えながら二十分ほど歩いて、広い空き地へと到着する。  数百年の長きに渡って天を衝かんばかりに聳え立っていた森の支配者は、今やその巨体を静かに横たえていた。漆黒の樹皮には、すでに細い蔦が這い登りつつあり、いずれ遠い未来には朽ち果てて大地に還って行くのかと思わせる。 「……ギガスシダーがどうかしたの、ガリッタ爺?」  ユージオの声に、老人は無言で倒れた幹の先端方向を指差し、そちらにすたすた歩いく。慌てて後を追うが、途中からはギガスシダーの枝やそれが薙ぎ倒したほかの木々が絡み合って迷路のごとき有様だ。よくよく見ると、ギガスシダーの黒い枝はどんなに細いものでも一本たりとも折れておらず、改めてその強靭さに舌を巻く。  引っかき傷を作りながら苦労して枝を掻い潜り、涼しい顔ですでに立ち止まっていたガリッタ老人の隣に辿り着いた。掌で汗を拭いながら、ユージオがぼやくように言った。 「一体なんなのさ?」 「これじゃ」  老人が指差したのは、倒れたギガスシダーの幹のまさに最頂点、真っ直ぐに伸びた梢だった。かなりの長さに渡って小さな枝ひとつ生えておらず、その先端はレイピアのように鋭く尖っている。 「この枝が、どうかしたんです?」  俺が尋ねると、老人はそっと手を伸ばし、太さ五センチほどのその梢部分を撫でた。 「ここは、ギガスシダーの全ての枝のなかで最も古く、最も結晶化し、最もソルスの恵みを吸い込んだ部分じゃ。さあ、その剣で、ここから断ち切るのじゃ。一刀で落とすのだぞ、何度も打つと裂けてしまうかもしれんでな」  老人は先端から一メートルと二十センチほど下の部分に手刀をぽんと当ててから、数歩退いた。  ユージオと俺は顔を見合わせ、とりあえず言うとおりにしようと頷いた。ユージオの弁当を預かり、俺も後ろに下がる。  青薔薇の剣が鞘から抜かれ、陽光を受けて薄青く輝くと、隣で老人がわずかな嘆息を漏らした。そこには、もしあの剣を若い頃に手にしていたら全てが変わっていた——という慨嘆の響きがあったように思えたが、ちらりと見た老人の横顔は穏やかで、心中を見透すことはできなかった。  ユージオは、剣を構えたもののしかし中々動かなかった。切っ先が、内心の迷いを映してかわずかに揺れている。手首ほども太さのある枝を一撃で断ち切れるかどうか、自信が持てないのだろうか。 「俺がやるよ」  前に出て手を伸ばすと、ユージオは素直に頷き、剣の柄を差し出してきた。弁当と交換に受け取り、彼と場所を入れ替えて立つ。  何も考えず、何も見ずに、俺はただ剣を振り上げ、まっすぐに斬り下ろした。きしっ、という澄んだ音とわずかな手ごたえを残して刃は狙った箇所を通り抜け、少し遅れて落下した黒く長い枝を返す刀で受け止めて、跳ね上げる。  宙をくるくる回りながら落下してきたそれを、俺は左手で受け止めた。ずしりと響く重さと、氷のような冷たさに少々よろける。  青薔薇の剣をユージオに返し、黒い枝を両手で掲げてガリッタ老人に差し出した。 「そのまま持っていておくれ」  言うと、老人は懐から分厚い布を取り出し、俺の手の中の枝を慎重に幾重にも包んだ。さらにその上から、革紐でぐるぐると縛り上げる。 「これで良い。もし央都に辿り着くことができたら、この枝をシルドレイという名の細工師に預けるがいい。強力な剣に仕立ててくれるはずじゃ。その、美しき青銀の剣に優るとも劣らぬ、な」 「ほ、ほんとうかい、ガリッタ爺! それは有り難いな、僕らは二人なのに剣が一本じゃあこの先困りそうだなと思ってたんだ。ねえ、キリト」  嬉しそうに声を上げるユージオに、俺もそうだなと笑いながら頷き返した。しかし、素直に諸手を上げて喜ぶには、枝の重みと発せられる冷気は少々腕に応え過ぎる気もした。  二人揃ってぺこりと頭を下げると、老人は莞爾と微笑んだ。 「なに、儂からのささやかな餞じゃよ。道中、気をつけて行くのじゃぞ。今やこの世界は、善神のみがしろしめす地ではないからな。……儂はもう少しここで、この樹を見てゆくとしよう。さらばだユージオ、そして旅の若者よ」  再び小道を辿って街道に出ると、つい先刻までは晴天だった空に、西の端から小さな黒雲が伸び上がっているのが見えた。 「ちょっと風が湿ってきたね。今のうちに進んでおいたほうがよさそうだ」 「……そうだな。急ごう」  ユージオの言葉に相槌を打ち、俺はギガスシダーの天辺の枝が入った包みをベルトに結わえ付けた。遠く遠く轟く雷鳴が、枝の重みと響き合って、俺の心をわずかに震わせた。  対となる二振りの剣。  それは何かを暗示する、未来からのサインなのだろうか?  俺は一瞬、この包みは森の奥深く埋めていくべきではないだろうか、という気がして立ち止まった。しかし、何を、何故畏れる必要があるのか、その答えはまったくわからなかった。 「ほら、行くよ、キリト!」  顔を上げると、未知なる世界への期待に輝くユージオの笑顔が目に入った。 「ああ……行こう」  俺は、わずか一週間前に友達になった、しかしどこか生来の友であるかのような気がする少年と肩を並べ、南へ——アンダーワールドの中心、全ての謎の解答が待つはずの場所へと続く道を、早足で歩き始めた。 [#地から1字上げ](第三章 終)