Sword Art Online 九里史生  無限の蒼穹に浮かぶ巨大な石と鉄の城。  それがこの世界のすべてだ。  職人クラスの酔狂な一団がひと月がかりで測量したところ、基部フロアの直径はおよそ十キロメートル、世田谷区がすっぽり入ってしまうほどもあったという。その上に無慮百に及ぶ階層が積み重なっているというのだから、茫漠とした広大さは想像を絶する。総データ量などとても推し量ることができない。  内部にはいくつかの都市と多くの小規模な街や村、森と草原、湖までが存在する。上下のフロアを繋ぐ階段は各層にひとつのみ、そのほぼ全てが怪物のうろつく危険な迷宮区画に存在するため発見も踏破も困難だが、一度誰かが突破して上層の都市に辿り着けばそこと下層の各都市の〈転移門〉が連結されるため誰もが自由に移動できるようになる。  そのようにしてこの巨城は、二年の長きに渡ってゆっくりと攻略されてきた。現在の最前線は第七十四層。  城の名は〈アインクラッド〉。約四万もの人間を飲み込んで浮かびつづける剣と戦闘の世界。またの名を—— 〈ソードアート・オンライン〉。      1  凄まじいスピードで飛んでくる苛烈な連撃を、俺は右手に握った剣でどうにか受け止め、弾き返した。  巨大なトカゲ人間型モンスター、〈リザードマンロード〉の装備した円月刀は斬撃に特化した剣で、刺突系の剣技はごく少ない。そのため防御にステップを使わずとも先読みさえ当たればパリィだけでしのぐことが可能だ。  無論、読みが外れれば、簡単な防具など物ともしないダメージを叩き込まれて地に這うことになる。だが、敵の技の出終わり時に距離ができてしまうステップ防御にくらべパリィならば反撃の開始速度を上げられる。俺はもう十分近く続く戦闘にわずかな焦りを感じていた。  視界の右端に表示されている自分のステータスバーをちらりと確認する。いままで強攻撃は受けていないものの、小さなダメージが積み重なってヒットポイントが七割ほどにまで減少している。  絶対に「死ぬ」——HPをゼロにするわけにはいかないこの世界では、バーが半分を割りこんでイエロー表示になった時点で、惨めに逃走するか、あるいは貴重な瞬間転移アイテムを使用してでも戦闘から離脱するのが常識だ。そう考えると残りHPにはそれほど余裕があるわけではない。  五連撃最後の右上段を弾くと、リザードマンロードは大きく体勢をくずした。すかさず右足を敵の中心にむかって踏み込み、がら空きの胴に中段斬りの一撃を叩き込む。敵の足元に表示されたHPバーががくんと減る。  俺の愛用している剣は、この世界ではもっとも一般的な武器である片手用の両刃直剣だ。威力も速度も突出したところはないが汎用的な扱いが可能で、戦闘のさまざまな局面から効果的な攻撃を繰り出すことができる。  中段が決まったあとはシステム的に不可避である小攻撃二連につないで敵の体力を削る。この先はCPUとの技の読み合いだ。俺の習得しているスキルによってあと二〜三回の連続攻撃が可能だが、敵に技を予測され防御されてしまえば、避けがたい反撃を食らうことになる。  深追いを避けて、沈みこんだ姿勢から下段になぎ払いの最終撃を放つ。ガードの下をかいくぐった剣先がヒットして、敵の体勢が再び崩れる。水平四連撃技〈ホリゾンタルスクェア〉。与ダメージはそれほど大きくないが、すべて決まれば敵の反撃を潰してこちらにイニシアチブをもたらす優秀な技である。  俺は重心を下げた姿勢から剣を右に大きく引き、全身の体重と力を乗せた突きの強攻撃をリザードマンの分厚い胸板に打ち込んだ。鎧を貫通した剣先から飛び散る無数の火花。金属的な悲鳴。敵のHPバーが再び大きく減少する。イエローを通り越してニアデス状態のレッドで表示されているバーの長さは約一割、リザードマンロードのステータスデータから概算して残りHPの見当をつけ、俺はもう一度強攻撃のモーションを起こした。〈ヴォーパルストライク〉、片手直剣スキルに属する単発剣技の中でも与ダメージを重視した突き技だ。これが決まればこの戦闘も終わる——。  だが、俺の放った剣先は体勢を回復したリザードマンの左手に装備された円盾に阻まれた。鈍い金属音と火花のエフェクトを散らしながら剣が奴の右側に逸れていく。  しまった、決着を急ぎすぎた——。心の中で毒づく。  CPU相手に同じ技を二回繰り返したのはいかにも軽率、強攻撃を回避された俺は技後硬直時間を課せられ剣を戻すことができない。その隙を逃さずリザードマンは連続攻撃を開始。上段の切り下ろしが俺の身体にヒットする。重い衝撃。振動だけで痛みは無いが、HPバーが無慈悲な速度で減少する。その一撃を食らったところでようやく俺は体勢を回復させることに成功するが、まだ敵の連続技は終わっていない。  円月刀の上段中攻撃から始まる技には二つのバリエーションが存在する。ヒット率を重視した〈ダンス・マカブレ〉ならこの後は剣がそのまま中段に向けて斬り上がってくるし、ダメージ重視の〈ダブルムーン〉なら再び上段逆方向からの斬り降ろしとなる。どちらにせよ高速な技でこちらの反撃を差し挟む余裕はない。俺は今までの戦闘から敵のAIは手数重視タイプだと判断し、中段をパリィ防御すべく剣を備えた。  読みが的中。跳ね上がってきたシミターを俺の剣が弾く。だが敵の技が小攻撃だったため向こうも体勢を崩すには至らない。俺は中段にある剣をそのまま垂直に相手の上半身に斬り上げる。こちらの剣先が一瞬早くヒット。  そのまままっすぐ斬り降ろす。また斬り上げる。垂直四連撃〈バーチカルスクェア〉。小小中大とつながるその最終撃、真っ向正面の上段斬りが円盾をかすめて深々と敵の額に食い込んだ。しぶとく残っていたHPバーが音も無く消滅する。無慈悲な死の宣告。  断末魔の叫びとともに両手脚を広げたリザードマンロードの体が硬直し、刹那ののちに無数のきらめく小片となって砕け散った。ガラスの塊をすり潰すような、表現しがたい効果音を発しながらポリゴンのかけらが消滅してゆく。戦闘モードが解除され、視界から自分のHPバーが消える。  俺は振り下ろしたままの剣をゆっくりと戻した。モンスターの体液が付いているわけではないが、いつもの癖で剣を切り払うと背中に吊った鞘に収め、手近にあった岩の上に倒れるように座り込んだ。  ここはアインクラッド第七十四層の迷宮区域の一角だ。赤茶けた砂岩で組み上げられた長い回廊のちょうど中央辺り、索敵範囲内には今のところモンスターの反応はない。  七十四層ともなれば、先細りの城の構造ゆえに下部と比べてかなり狭くなってきているが、それでも直径は四キロメートルほどもあるだろう。転移門のある主街区はフロアの東端に位置し、そこからうっそうとした森を抜けて辿り着く迷宮区はいままでの例に漏れず、うんざりするほど広く、複雑だ。現在も百人ちかくが攻略に挑んでいるはずだが、今日はプレイヤーの姿を見かけることはなかった。  俺は昼過ぎに単独で迷宮区に潜り込み、マッピングしながらじわじわと奥に進んでいた。危険な最前線で経験値稼ぎをする気はさらさらなかったのでモンスターは可能な限りやり過ごし、トラップの可能性があるトレジャーボックスにも一切手を触れずにマジメな攻略に励んでいたのだが、袋小路で運悪く先刻のトカゲ男と遭遇してしまったのだった。  モンスターの種類は五フロアごとに入れ替わる。リザードマンロードとは七十一フロアで一度戦闘したことがあった。その時は奴の操るシミター系の剣技に瀕死寸前まで追い込まれ惨めな逃走を強いられたため、まる一日かけて情報屋の売るデータペーパーを熟読し、曲刀技のバリエーションを可能な限り頭に叩き込んでおいたのだ。その甲斐あってリベンジに成功した俺は久々の充足感を感じながら、左手を上げて空中で人差し指を軽く振った。  軽快な効果音と共に、手の平の下に半透明の主メニューウインドウが表示される。左半分には人型のシルエットが描かれ、各所の装備状況が表示されている。右には所持アイテム詳細や習得スキル一覧、マップ表示などのメニューが並ぶ。最上部には俺の名前とHPバー、EXPバー。強敵のトカゲ男を単独で撃破したため、経験値の量がかなり増加している。  俺はアイテム画面に切り替え、新規入手品リストを確認した。たった今倒したリザードマンから得たアイテム類と金——この世界では〈コル〉なる単位で表記される——が列記されている。アイテムは、奴が装備していた三日月剣と金属鎧だ。売れば、今日稼いだ金と併せて装備のフルメンテ代くらいにはなるだろう。  迷宮区を構成する巨大な搭を出ると、すでに周囲は夕刻の色彩を帯びはじめていた。目の前に広がる金色の草原と、その彼方に見える木々の梢をおだやかに揺らす風は少し冷たい。  俺は革と金属で出来たヘッドギアを外し、空を振り仰いだ。空と言っても、見えるのは上層部の底を形成する石と鉄の組み合わさった巨大な蓋だ。そこまでの距離、言い換えればこの城の層ひとつの高さは約百メートル。城全体としては十キロメートルを超えると言われる。つまり〈アインクラッド〉は、直径一万メートルの基部から高さ同じく一万メートルのほぼ円錐形をした構造物が屹立した途方もない巨大浮遊城なわけだ。  開発した会社の規模をさっぴいても、これだけのデータ量を内包する代物が三年たらずでプログラムされたのは狂気の沙汰だ。いや——修辞でなく狂気のなせる業だったのだ。ある一人の男の暴走した脳が、この世界を生み出し、ゲームであってゲームでないものへと変容させてしまった。  俺は自分の手をまじまじと眺めた。指貫きの革製グローブに包まれた手は、普段の生活では違和感を抱かないほどにはリアルであり、この世界がサーバーの中に構築されたデータの集合体なのだということを忘れさせない程度に作り物めいている。  このような思考に囚われるのは危険だ。ここで生きるために必要な現実感を喪失してしまう。だが、俺の意識はいやおうなくあの日に向って遡りはじめていた。  すべてが終わり、そして始まった日へと。      2  直接神経結合環境システム——NERv Direct Linkage Environment System、頭文字を取ってNERDLESと呼ばれる——の試作第一号機が日本のとある企業と大学の合同研究機関から産声を上げたのは二〇〇六年のことだった。  それまで、HMDとヘッドフォン、データグローブの組み合わせによるシステムが主流だった仮想現実系エンタテイメント市場が、この映像その他の信号を直接人間の脳に送り込む新技術によって席巻されるのは確実と思われた。数多の企業が共同研究に名乗りを上げ、最初は部屋ひとつ分もの体積があったNERDLES一号機が冷蔵庫程度の大きさの本体にまでダウンサイズされるのに二年。その翌年には早くも業務用の機械が発売された。さすがに恐ろしく高価な代物であり、アミューズメントセンターやリラクゼーション施設の一部に導入されたのみだったが。  NERDLESが提供する圧倒的な現実感、HMDや全方位型スクリーンなどものともしないリアリティは全国のゲームマニアを熱狂させた。大手ゲームメーカーがリリースしたNERDLES上で動く初のゲーム——対戦型ガンシューティングだった——は数時間待ちがあたりまえ、ワンプレイ三千円(!)のシロモノだったにも関わらず、全国五箇所の設置店では連日長蛇の列ができた。かくいう俺も乏しい金をやりくりしては並んだものだ。  そして二〇一一年末、満を持して民生用一号機が共同開発した各メーカーから発表された。コンパクトなヘッドギアと、光ディスクドライブを装備したこれまた小さな本体とで構成されたそれは、無理をすれば若者でも買える程度の価格だった。初期出荷分は予約もおぼつかないほどの人気ぶりで、俺も入手するのには相当苦労した。〈ナーヴギア〉という商標名を与えられたそれが届いた日の興奮は今でもはっきり覚えている。  新品のエレクトロニクス機器特有の匂いを漂わせた流線型のヘッドギアは、光沢のあるダークブルーの外装に包まれていた。前部には装着時に顔を覆う遮光シールドが装備され、後頭部から延髄部を包み込むようなパッドが伸びている。両脇からは二本のアームが伸びて顎の下で固くロックされる構造になっている。  使用者は無理のない姿勢でリクライニングできる椅子に座り(専用のシートも同時発売されたがさすがに買えなかった)、ゲームディスクを挿入し必要に応じてWANに繋がれた本体に、光ケーブルで接続したギアを装着する。ヘルメット内部の、柔らかいパッドに埋め込まれたたくさんの素子が多重の電界を発生させ、使用者の脳の、五感を司るそれぞれの部位——詳しく言えば、触覚は延髄、味覚と聴覚は脳橋、視覚は視床、聴覚は脳幹——と精密なリンクを行う。本体から送り込まれる視覚や聴覚情報はそのリンクを通して脳に流れ込む。  感覚器官から得た情報を整理・再構築して処理したものが人間にとっての「現実の環境」であるとするなら、そういう意味ではギアの生み出す世界は使用者にとって現実そのものとなるわけだ。現実の「現実らしさ」、リアリティはまた別の問題であるが。  仮想世界内において、使用者はさまざなアクションを起こす。そのとき脳から発せられる運動信号のうち、体を能動的に動かすものだけを延髄部のパッドがインタラプトしてギア内部に取り込み、本体にフィードバックする。このようにしてプレイヤーは椅子の上で体を動かすことなく、仮想の世界で動き回ることが可能となる。  無論、現実の世界からの刺激はすべてギアがシャットアウトしてしまうため、専任のインストラクターがいない家庭での使用には危険がともなうと予想された。使用者は現実世界においては失神状態にあるのと同様であり、仮に肉体に火災等の危機が迫った場合でも使用者がそれに気づくすべがないからだ。そこでギアには、温度の変化や音、振動など一定量以上の外界刺激が与えられたり、または心拍、体温等の肉体的な異常を検出した場合(付け加えれば生理的排出現象をうながす信号が下半身から発せられた場合を含む)には自動的に接続を切り意識を回帰させるセーフティ機構が与えられた。  使用者が現実世界で最後に行う動作は、「リンク・スタート」と発声することだ。音ではなく、その発声のために脳が下した命令信号を感知してギアは動き出す。  シールドの下で閉じられているはずの眼の前にスペクトル状の光が弾け、やがて白に統一されたその中に荘厳な効果音とともにメーカーのロゴが浮かび上がる。ついで基本ソフトのロゴが表示され、その下で各種接続テストがリストアップされては右側に次々とOKの文字を残して消えてゆく。  それらが終了すると、LOADINGの表示と共にセットされたアプリケーションが読み込まれてゆき、最後にひときわ輝くSTARTの文字。同時に開始画面は中央から放射される白光の中に飲み込まれてゆき、その向こうから徐々に姿を現す仮想の——いや、もうひとつの現実の世界。ゲームフィールドに降り立ったプレイヤーは、もはや椅子の上に横たわる己の肉体を感じることはない。  本体に同梱されていたゲームソフトは単純な飛行レースゲームだったが、俺はその世界にいつまでも飽くことなく潜りつづけた。とうとう家族に強引に揺り起こされたとき、窓の外がすっかり暗くなっていたのには驚いたものだ。  民生用機器の発売と同時に、無数のアミューズメントタイトルが発表された。ナーヴギアの基本ソフトは非常に汎用性のあるもので、極論すればそれまで存在した3Dゲームですらちょっと手を加えるだけでギア上で動かすことができた。もっとも、ギア最大の売りであるリアリティを最大限に生かすためには従来より遥かに作りこまれたモデリングが必要だったため、プレイヤーの多くはナーヴギアネイティブに開発された家庭用ならではのソフトを待ち望んだ。ことにアミューズメントセンターでは運営の難しいRPG、それもネットワーク対応型のものを。  ナーヴギアのNERDLES環境で動くオンラインRPG、それこそまさに前世紀から多くのゲーマーが夢想した究極のロールプレイングゲームの姿だ。その市場は途方もない規模になると予想され、立て続けにいくつものタイトルがアナウンスされた。だが、フィールド限定型のアクションやシューティング系のゲームとは違い、RPGともなればその世界を構成するデータの量は膨大なものとなる。発売時期はどのタイトルも未定、雑誌やネットで発表される先行スクリーンショットにゲームマニアが煩悶とする日々が続いた。  二〇一二年春。あるゲームタイトルが発表され、即座にベータテストが開始されたことはファンの度肝を抜いた。開発したのは、かつて業務用NERDLESゲームで日本中のゲーマーを熱狂させた〈アーガス〉という大手メーカーだった。報道によれば、アーガスは業務用ゲームの開発が終了した直後から、まだ存在もしなかったコンシューマ機器用ゲームの開発を始めていたという。  それにしても、二年たらずの開発期間を経て姿を現したそのゲームの規模は途方もないものだった。舞台は、空に浮遊する巨大な城。プレイヤーはそこで戦士や職人となって、協力や敵対をしながら最上部を目指す。RPGには必須と思われていた〈魔法〉の要素は大胆に排除されていた。ゲームの主役は無数とも思えるほどに設定されたさまざまな種類の刀剣と、それらに与えられた剣術体系だった。戦士を目指すプレイヤーはひとつの武器を選び、それを修練することによってさまざまな剣技を習得してゆく。職人プレイヤーは鍛冶、冶金の技を鍛えて剣を生み出し、商人プレイヤーがそれを流通させる。  そのゲーム内容は、タイトル名に如実に表現されていた。曰く——〈ソードアート・オンライン〉。剣の技がプレイヤーの人格を象徴する世界。  SAOの世界観と、偏執的なまでに造り込まれた巨城の壮観はたちまちゲーマーの話題をさらった。千人限定のベータテスター募集には応募が殺到し、抽選は百倍を超える狭き門となった。濃紺の巨大なプラスティック・パッケージに包まれたベータキットが宅配便で届いた日は、人生最良の一日かと思えたものだ。  半年に及んだテスト期間は夢幻のごとき日々だった。俺は学校から帰ると取るものもとりあえずSAOにログインし、我ながら呆れるほどの熱意で剣技の習得に打ち込んだ。  ゲーム内では、自分の思うとおりに五体を動かすことができる。現実世界で剣道の達人ででもあれば、あるいはSAOの中でも強力な剣士となれるのかもしれない。だがもちろん、俺を含めたほとんどのプレイヤーは救いがたいゲームマニアであり、剣の振り方など知るよしもない。  しかし、SAO内で会得した剣技に沿った動きであれば、ゲームシステムがそれを支援、加速してくれるため、プレイヤーは技の動きをイメージしながらモーションを起こすだけで剣を自在に操り、華麗な動きで攻撃することができる。最上位剣技ともなれば十連撃に及ぶまさに芸術と言うべき美しい技の数々を、自分の体がなめらかに動きながらすさまじいスピードで繰り出し、敵の体に吸い込まれるようにヒットさせてゆくときの快感は筆舌に尽くしがたい。  考えてみれば派手な魔法攻撃はシューティングやアクション系のゲームと被る要素が多い。「プレイヤー自身の肉体をデータ化できる」というナーヴギア最大の特徴をもっともよく活かし、超人願望を充足させるという意味では、SAOの剣技に特化したシステムは実にうまく考えられた代物だと言える。テスト期間が終了し、自分のキャラクターデータが消滅したときはまるで体の半分を奪われたような気がしたものだ。  結局、千人のプレイヤーが半年がかりで攻略できたのはたった十層足らずだった。オンラインRPGには明確なクリア目標がないのが普通だったため、アインクラッドの最上階を目指す、という設定には驚かされたがなるほどこの難易度とボリュームなら、と納得したのを覚えている。  二〇一二年十一月最初の日曜日。大きなバグを出すこともなく半年間のベータテストが終了し、満を持して〈ソードアート・オンライン〉は発売された。回線の安定を最優先して第一期出荷分は五万本に限定され、ベータテストの時ほどではないにせよ再び発売前からの争奪戦が過熱したが、サービスのいいことに希望する元テスターには無償で製品版ソフトとアクセスIDが与えられた。無論、俺を含むほとんどすべてのテスターがその恩恵に与ったはずだ。  発売日の正午ちょうどにアーガス本社に設置されたゲームサーバーが正式運営を開始することになっていた。秋葉原で開かれた大掛かりなイベントでは巨大なスクリーンにゲーム内部の様子がリアルタイムで映し出され、現実世界と同時進行のセレモニーが開催される予定だった。数年前にオープンした駅前のITセンターを借り切って行われたそのイベントには、アーガスの社長やナーヴギア発売各社の重役陣、都の役人にいたるお歴々が出席し、マスコミはカメラの砲列をステージとその後ろのスクリーンに向けてカウントダウンを今や遅しと待っていた。  その日、俺は自室で即席のナーヴギア専用シートにもたれてその様子をギリギリまでテレビで眺め、昼食のピザの最後のひとかけらを飲み込むと、興奮を抑えながらギアを装着した。プラスティック越しにかすかに届くイベント司会者の声を聞きながら、俺は言った。リンク・スタート——現実世界の重力を消し去る魔法の言葉。ギアから発せられた電界が俺の意識を包み、肉体から解き放つ。  正午少し前、五万人の幸運なプレイヤーは各々の自宅から一斉にアクセスし、現実世界を飛び出して巨城アインクラッドへと降り立った。  アインクラッド第一層、通称基部フロアと呼ばれる直径十キロメートルの広大な空間の北端に、ゲームのスタート地点となる〈はじまりの街〉がある。街の中央には巨大な時計塔がそびえ立っている。SAO内では現実世界と同期して時間が経過するため、時計の表示する時間は東京の標準時間とまったく同じということになる。時計塔の周囲は中国の天安門もかくやという石畳の広場で、五万のプレイヤーはほぼ同時にそこに出現することになっていた。  光の世界を突き抜けて、前方からテスト中に見慣れた〈はじまりの街〉の風景が広がり、初期装備のブーツの靴底が石畳のリアルな感触を捉えた——と思った次の瞬間、俺はひと月ぶりのアインクラッドに降り立っていた。まず自分の格好を見下ろして、登録時に選択してあったとおりの革製のロングコート姿であるのを確認する。続いて周囲に続々と出現しつづけている他のプレイヤーの顔を見渡し——そして心の底からぎょっとした。  プレイヤーは、SAOのアカウント登録時に初期のキャラクターメイキングも済ませている。キャラクターの性別はプレイヤーのそれと変えることはできないが、体格や容貌は複雑なパラメータを操作することで自由に決定することができる。そうなればすこしでも見栄えのいいものを、と考えるのが人間の常であり、ベータテスト中はそれはもうありとあらゆるタイプの——恥ずかしながら俺を含む——美男美女で溢れたものだ。当然製品版でもその状況は再現されるものと思っていたのだが——。  周囲の人間の容姿は、その雑多なバリエーション、そして何より美形顔がろくに見当たらないという点において現実世界とまったく一緒だった。絶望的なまでの既視感。間違いなくそれはゲームマニアの大集団だった。眼球に頼らないギアのシステムゆえ眼鏡をかけている者こそごく少ないが——つまり初期装備で選択した者だ——、これはどう考えても……。  俺はあわてて腰に装備されたポーチの中をまさぐった。スタートキットと呼ばれる一連の道具の中から、無骨な金属製の鏡を引っ張り出す。おそるおそる覗き込むと、そこには予想したとおりの見慣れた顔があった。見紛うはずもない現実世界の俺だ。登録時に四苦八苦しながらパラメータをいじくってつくりだした御面相とは似ても似つかない。いや、顔だけではない。俺はベータの時の経験から、動きの違和感を少なくするために身長は現実と同じ高さに設定してあるが、当時の分身が持っていたしなやかかつ逞しい筋肉などかけらもない。  これはどういうことだ——!? 俺は混乱した頭で必死に考えた。見れば、他ののプレイヤー達も続々と鏡を睨んだり周囲を見回して呆然としている。アカウント登録時に写真提出の義務はなかった。仮にあったとしても、五万人分の顔を3Dオブジェクトで再現する時間など到底なかったはずだ。唯一考えられるとすれば、ギアの発生する多重電界——あれには、使用者の脳の形状を正確に把握するための立体スキャン機能があった。それを使って顔のつくりや体格をスキャンし、再現した——? しかし、何のために? これは明らかなサービス提供契約違反ではないか。  そこまで考えたとき、重々しい金属音を響かせながら時計塔の巨大な二本の針がきっちりと重なった。正午、SAO正式運用開始の時刻だ。文字盤の下に設置された大小多くの鐘が壮麗な和音を奏ではじめ、同時にどこからともなく鳴り響くファンファーレ。いかにもRPGのオープニング然としたその重厚な旋律に、皆の顔が戸惑いながらも明るく輝いた。  広場の上空は無論青空ではなく上層部の底で覆われていたが、そのグレイをバックにSAOの凝ったタイトルロゴが光り輝きながら出現した。ロゴの周囲を派手なエフェクトの花火が彩る。周囲から湧き上がる歓声と拍手。とりあえず目先の疑問は先送りし、俺も両手を叩いた。この光景は、現実世界のイベント会場でも中継されているはずだ。  花火のエフェクトが終わると、ロゴの下部にこれまた輝く飾り文字で「Welcome to Sword Art Online World!!」というメッセージが表示された。一際高まる歓声。  不意にBGMと鐘の音がフェードアウトした。巨大なタイトルロゴが無数の光の粒となって消滅し、その中から新たなオブジェクトが姿を現した。ロゴと同じくらいの大きさで天を埋め尽くしたそれは、半透明の光で表現された人の顔だった。  これもオープニングセレモニーの演出の一部と誰もが思い、再び拍手が巻き起こった。だが、俺は打ち合わせようとした両手を途中で凍りつかせた。まだ若い男の顔。両の頬は削いだように薄く、半眼に閉じた切れ長の目の奥から表情をうかがわせぬ瞳が覗いている。  俺はその顔を知っていた。いや、俺だけではない。ほとんど全てのプレイヤーが知っていただろう。  アーガスSAO開発部長。ゲーム業界の風雲児。若き天才。彼を形容する言葉は両手の指でも足りない。つまり、このSAOをほとんど一人で企画し、開発した人物。茅場晶彦というのがその顔の持ち主の名前だった。  彼は、当時のゲーム業界最大のカリスマと呼ばれていた男だった。中学生の時に作成したゲームプログラムが大手メーカーから商品化されて大ヒットしたことにその伝説は端を発する。十八歳にして株式会社アーガスの開発陣に加わるや立て続けにリリースしたゲームはすべてそれまでの常識を打ち破る発想で世界中を熱狂させ、弱小メーカーだったアーガスを業界トップに押し上げる原動力となった。SAO発売時には弱冠二十六歳、大のマスコミ嫌いでも知られた彼は業界の生ける伝説と言ってもよい存在だった。ゲームマニアとして彼に傾倒していた俺は、その人となりをよく知っているつもりだった。だから、そのときも断言できた。茅場晶彦は、こんなセレモニーにこんな演出で顔を出す人物ではない。これはなにかの間違いだ。  その時、巨大なクリスタルの茅場の顔がゆっくりと口を開いた。歓声は波を打つように静まり返り、すべてのプレイヤーが彼の言葉を聞こうと耳を澄ませた。  ながい、ながい悪夢のはじまりだった。      3  茅場の顔は、どこか非人間的な響きのある音声でゆっくりと告げた。 「プレイヤーの諸君、私の世界へようこそ」  私の世界——。その言葉を聞いたとき俺の全身を凍るような悪寒が包み込んだ。なにかがどうしようもなく間違っている、そんな予感。 『最初に言っておく。諸君らが今存在している世界は最早単なるゲームではない。諸君らにとっての、唯一の現実だ」  朗々とした、しかし金属質な茅場の声が福音のごとく響き渡った。その時点では、大多数のプレイヤーはまだ異常を感じていなかったのだろう。茅場の大仰な台詞にふたたび歓声が湧き起こった。だが、それも次の言葉で凍りついた。 「残念ながら諸君らは二度とログアウトできない」  なにを言われたのか理解できなかった。  そんな馬鹿なことがあるものか。俺は慣れた手つきでメニュー画面を呼び出した。左半分に装備フィギュア。右半分に各コマンド。その一番下に見慣れた〈ログアウト〉のボタンが——無かった。  一瞬頭のなかが空白になったあと、俺はそのあまりにも単純な事実に思わず笑い出しそうになった。ログアウトボタンがない。たったそれだけのことで——自発的ログアウト、つまり現実世界への復帰が本当にできないのだ。全身の血液が急速に冷えるような感覚を味わいながら、俺は必死にベータテストを思い出そうとした。緊急ログアウトが発生するのは……サーバーのトラブルで、SAOシステム側から落とされたとき。もしくはナーヴギアが外部的、身体的異常を感知して接続を強制切断したとき。それだけだ。自分からSAOを「落ちる」には、メニューを開いてログアウトボタンに触れる。それ以外に方法はない。なにひとつ。自分の体は、慣れ親しんだ自分の部屋でただ横になっているだけなのに、そこに戻る方法がない……。  呆然と立ち尽くした俺の頭上で茅場の声が続いた。 「付け加えれば、ゲームサーバーあるいはナーヴギアからの強制切断が起こった場合でも諸君らは現実世界に復帰することができない。その場合は正常な意識回復シークエンスが発生しないようにプログラムを組んである。回線切断後二十四時間以内に再接続すれば諸君らの意識はこの世界に戻ることができるが、それ以外の場合は——」  茅場は俺たちに次の言葉を刻み込むように一瞬の間を置いた。 「諸君らの意識は永遠に消失し、肉体は植物状態となる」  ここにきて、ようやく全てのプレイヤーが、何か予定外の、容易ならざる事態が起こりつつあるのだと気づいたようだった。五万人を飲み込んだ時計塔広場はしんとした静寂に包まれた。誰もが状況を理解できずにいた。  回線切断イコール意識消失だと!? そんな馬鹿な話があるものか。俺は混乱した頭で必死に考えた。意識回復シークエンスとはなんだ? つまり、ナーヴギアから解放されて意識が現実の肉体に戻るためには、単純にギアの電源を落として頭からむしり取るだけではだめだということなのか?  ギア使用者の脳は多重電界によってピンポイントで現実世界の信号パルスから切り離され、かわりに仮想世界の情報を与えられている。その状態を解除し、正常な五感からの入力を取り戻すには何らかの電気的な手順が必要だということだろうか。それを無視すれば——脳に損傷が……?  冗談ではない。停電でも起きたらどうするのだ!? と一瞬かっとしかけたが、その場合はなんらかのセーフティが働くのだろうと思い当たった。ギア内部のコンデンサーに電力を蓄えておき、停電やあご下のロックが外れたときは余力でシークエンスとやらを遂行すればいいわけだ。茅場のプログラムはその機構をハックし、無力化するのだろう。そもそもナーヴギア開発にも茅場は深く関わっているはずだ。そんな細工はお手の物ということか——。  俺が絶望的な想像を巡らしているうちにも、周囲のプレイヤーがざわつきはじめていた。ログアウトボタンの無いことに気付いた一部の者が騒ぎだしたのだ。そんな中、まるで託宣のような茅場の言葉が再開された。 「諸君がこのアインクラッドから脱出する方法はただ一つ——」  皆が押し黙り、固唾を飲んで次の言葉を待った。俺は、なんとなくその条件とやらを察していた。 「誰か一人が最上階に達し、このゲームをクリアすればよい」  思考がロックした俺の頭を、答えの無い計算がぐるぐると渦巻いた。  千人で十層を突破するのに半年かかった。五万人で百層なら——?  茅場の声は容赦なく続いた。 「誰か一人でもクリア者が出た時点でゲームは終了し、生き残ったプレイヤー全員が順次正常にログアウトされるだろう。最後に、マニュアルから二点変更になった部分を伝えておく。まず、もう気づいているだろうがメニューからログアウトコマンドが削除されている。諸君らが自発的にログアウトする方法は一切存在しない。そしてもうひとつ——」  仮想世界の賢者然とした茅場の顔は何ら表情を変えることなく、その先を告げた。 「ゲーム内での死亡はすべて実際の死として扱われる。蘇生等の救済措置は一切無い。HPがゼロになった時点でプレイヤーの意識はこの世界から消え、現実の肉体に戻ることは永遠になくなる。厳密に言えば脳死状態で、完全な死亡とは言えないが——そう大した差はあるまい」  テストプレイの時は、HPがゼロになった者は強制的にはじまりの街の〈黒鉄宮〉と呼ばれる施設に転送され、ペナルティとしてその時点の蓄積経験値を失い、さらに装備のうちからランダムに数個を死亡地点に残してしまうという仕様になっていた。それだけでも実際のところ相当キツかった。レベルアップ直前に死んだりしたら、黒鉄宮の冷たくだだっぴろい金属床の上で悔恨にのたうちまわったものだ。しかし——。  死? 意識の消滅?  その意味を咀嚼するのに数秒かかった。ゲームオーバーすなわち現実の死。ペナルティどころの騒ぎではない。トライ&エラーを許さないRPG……そんなゲームがあってたまるか。それは、つまり——デスゲームじゃないか。前世紀からあまたの小説や漫画、映画で扱われてきたおなじみの素材。俺の脳裏を、好きだったデスゲーム物のタイトルが泡のように浮かんでは消えた。いいかげんしゃぶりつくされてここ数年では見かけもしなかったネタと、こんな形で再会することになるとは。  デスゲーム。その言葉が浮かぶと同時に、俺の脳は妙に冷めていった。意識がようやく切り替わったとでも言うのか。落ち着け。落ち着いて考えろ——俺が自分にそう言い聞かせているとき、間を置いていた茅場の口がふたたび開いた。 「それから、これは現実世界の関係諸氏に告げておくが——」  半透明の巨大な水晶のような茅場の瞳が、まぶたの下でわずかに動き、焦点を移した。多分その方向に、例のイベント・スクリーンのカメラ視点が設定してあったのだろう。 「もしSAOゲームサーバーを一時間以上停止すれば、全プレイヤーが一生植物状態となるだろう。さらに、このプログラムには私の最高傑作と言っていいプロテクトが施してある。解除を試みるのは自由だが、もしシステムに検知されればその時も同様の結果が待っていることをお忘れなく。私の行方を探してもいけない。五万の若者諸君の未来と引き換えにする覚悟があるなら結構だが——」  イベント会場の混乱が思いやられるようだった。俺はふと、こっちからも会場の様子が見られればよかったのに、などとのんきな事を考えた。 「そしてこれは政府当局への助言だが、早急にプレイヤー諸君の現実の肉体を保護する手段を講じることをお勧めする。私としてもこのゲームがクリアされるのにどれほどの時間が必要なのか見当もつかない。回線切断猶予は二十四時間であることをお忘れなく。私の資産はすべて現金化してあるので、必要に応じて使ってくれたまえ——」  そこで茅場は不意に言葉を切り、誰かの声に耳を傾けているかのような気配を見せたが、数秒後、一つまばたきすると再び口を開いた。 「なぜ——。なぜ、か」  そこではじめて、上空に神聖なモニュメントのごとく顕現していたクリスタルのマスクが人間らしい表情を見せた。うすい唇がゆがめられた。欲しかった玩具を盗み出した子供のような笑み。 「私にとってこの状況は手段ではない。最終的な目的だ。この世界を作り出すためだけに私は——」  そこで言葉を切ると、茅場の顔はもとの陰鬱さを取り戻した。視線が再びこちらに向けられた。 「以上でソードアート・オンラインのチュートリアルを終了する。プレイヤー諸君の——健闘を祈る」  半透明の光で描かれていた巨大な顔が、一瞬にして無数の星となって弾けた。茅場の姿はもうどこにも存在しなかった。光の残滓がきらきらと舞い散りながら消えていった。  聞き覚えのある音楽がどこからともなくフェードインしてきた。はじまりの街のBGMとして設定してある陽気なワルツだ。奏でているのはメイン商業区にいるNPCの楽団だが、音楽は街のどこにいてもかすかに聞こえるようになっている。気付くといつのまにか時計塔広場のまわりでは商人や住民のNPCがせわしげに歩きまわり、物売りの賑やかな声が広場に響いていた。職工街のあたりからはもうもうとした蒸気がいく筋もたちのぼり、剣を鍛える槌音がBGMに花を添えた。  ゲームが始まっていた。戻ることを切望した場所に俺はふたたび立っていた。いくつかのルールだけが以前とはどうしようもなく異なってはいたが。  五万のプレイヤーの反応はほぼ一様だった。みなおずおずと周囲の者と会話を始めていた。「どういうこと?」「これって何かのイベント?」……そんな声が聞こえてきた。  俺は立ち尽くしたままぎゅっと目を閉じ、最終確認だ、とでもいうように自分に言い聞かせた。これは現実だ。ここからログアウトすることはできない。死んだら、死ぬ。  周囲の人間のように、何かタチの悪いドッキリだ、などとは残念ながら思えなかった。俺は少なくともその程度には茅場晶彦のことを知っているつもりだった。茅場は本物の天才だ。その上冗談を言わない男だ。なお悪いことに、俺はどこかで深く納得してもいたのだ。あの茅場なら——これくらいのことはやる。やってもおかしくない。そう思わせる危うい破滅的な天才性が茅場の魅力でもあったのだから。  俺はその前提を苦労して噛み砕き、飲み込んで腹に収めると、ゲーマーとしての思考法にアタマを切り替えた。リアルタイムのオンラインRPGでもっとも必要な資質は状況判断力だ。現在の状況を分析し、とりうるオプションをすべて列挙し、それぞれの結果を予測する。最善と思うオプションを選択したら迷うことなくそれを遂行する。それのできる奴だけが、ベータテストで一握りの最強剣士の座につけたのだ。  座り込み、意見交換に熱中しているプレイヤーたちの間を縫うように俺は走り出した。無論、錯綜してあさっての方角に走ったわけではない。初期アイテムに含まれる千コルで、必要な装備を整えるために市場へ向ったのだ。気付けば、俺のほかにも走り出した連中が何人かいた。仮想世界での動きに慣れた身のこなしを見るかぎりほとんどがベータ経験者だろうと思えた。  予想された状況の中で少しでも生き延びる確率を上げる為には、限りあるリソースを全力で確保し、己を強化しなければならなかった。俺は走った。走りながら頭の中で、今後どのようなスキルを選択し、どのようにステータスを上げるのがベストなのか必死に考えた。幸い俺にはベータ期間中に蓄えた知識があった。広大なはじまりの街にある三つの大きな市場の、どこにどんな店があり何を安く売っているか——その程度の情報ですらとてつもなく貴重な武器だった。ともすれば暗い方向に彷徨いだしそうになる思考を無理やりブロックして、俺は走った。      4  ゲーム開始一ヶ月で五千人が死んだ。  この世界から出られないと知ったときの皆のパニックは狂乱の一言に尽きた。わめく者、泣き出す者、中にはゲーム世界を破壊すると言って街の石畳を掘り返そうとする者までいた。無論街はすべて破壊不能オブジェクトで、その試みは徒労に終わったのだが。どうにか皆が現状を納得し、それぞれに今後の方針を考え始めるまでに数日を要したと思う。  プレイヤーは、当初大きく四つのグループに分かれた。  まず、これが約七割を占めたのだが、茅場の託宣を信じず外部からの救助を待った者たちだ。気持ちは痛いほどよくわかった。自分の肉体は、現実には椅子の上でのんびりと横たわり生きて、呼吸している。それが本当の自分であり、この状況は何と言うか「仮」のもので、ちょっとしたはずみ、ささいなきっかけで向こうに戻れるはずだ。確かにメニューからログアウトはできないが、内部で何か見落としたことに気付けば——。  あるいは、外部では今必死にアーガスが、そして国がプレイヤーを救おうと最大限の努力をしているだろう。いかに茅場が天才でも、この五万人拉致監禁という最大級の「事件」に対して組織されたであろう救出チームがプロテクトの一つや二つ破れぬわけはない。あわてずに待っていればある日ふと自分の部屋に戻り、家族と感動の対面を果し、学校では英雄の生還を皆が称える。  そう思うのも本当に無理はなかった。俺自身内心の何割かではそう期待していたのだ。彼らの取った行動は基本的に「待機」。はじまりの街からは一歩も出ず、初期の千コルを僅かずつ使って日々の食糧を買い求め、安い宿屋で寝泊りし、何人かのグループを作って漠然と日々を過ごしていた。幸いはじまりの街は基部フロアの面積の約三割を占め、東京の小さな区ひとつほどの威容を誇っていたため数万人のプレイヤーがそれほど窮屈な思いをせず暮らせるだけのキャパシティがあった。  だが、助けの手はいつまで待っても届かなかった。何度目覚めても最初に目にする光景は、常に青空ではなく陰鬱な色彩の天空の蓋だった。初期資金も永遠に保つわけもなく、やがて彼らも何らかの行動を起こさざるを得なくなった。  二つ目のグループは全体の約二割。一万人ほどのプレイヤーが属したのが、協力して前向きにゲームクリアを目指そうという集団だった。リーダーとなったのは、日本国内でも最大級のネットゲーム情報サイトの管理者だった男だ。彼のもと、プレイヤーはいくつかの集団にわけられて獲得したアイテム等を共同管理し、情報を集め、上層への階段がある迷宮区の攻略に乗り出した。リーダーのグループははじまりの街の、時計塔広場に面した〈王宮〉と呼ばれる——と言っても王様などは存在せず、NPCのガーディアンがうろつくだけの場所だったが——大きな建築物を占拠し、物資を蓄積してあれやこれやと配下のプレイヤー集団に指示を飛ばしていた。この巨大集団にはしばらく名は無かったが、全員に共通の制服が支給されるようになってからは、誰が呼び始めたか〈軍〉という笑えない呼称が与えられた。  三つ目は、これは推定で三千人ほどが属したのだが、初期に無計画な浪費でコルを使い果たし、さりとてモンスターと戦ってまっとうに稼ぐ気も起こさず、食い詰めた者達だ。  ちなみに、データの仮想世界であるSAO内部でも厳然と起こる生理的欲求が二つある。睡眠欲と食欲だ。  睡眠欲は、これは存在するのも納得が行く。脳は与えられている外界情報が現実世界のものなのか仮想世界のものなのかなどということは意識していないだろうから。プレイヤーは眠くなれば街の宿屋へ行き、懐具合に応じた部屋を借りてベッドに潜り込むことになる。莫大なコルを稼げば、好みの街で自分専用の部屋を買うこともできるが、おいそれと貯まる額ではない。  食欲に関しては、多くのプレイヤーを不思議がらせた。現実の肉体が置かれた状況など想像したくもないが、多分点滴なりチューブ挿入なりで栄養を与えられているのだろう。つまり、空腹感を感じてこちらで食事をしたとしても、それで現実の肉体の胃に食い物が入るわけはない。だが、実際にはゲーム内で物を食うと空腹感は消滅し、満腹感が発生する。このへんのメカニズムはもう脳の専門家にでも聞いてもらうしかない。  逆に言えば、一度感じた空腹感は食わないかぎり消えることはない。多分、食わなくても死ぬことはないのだろうと思う。しかしやはりそれが耐えがたい欲求であることに変りは無く、我々は毎日NPCが経営するレストラン(癪なことにこれも値段によって格付けが存在する)に突撃してはデータの食い物を胃に詰め込むことになる。蛇足だがゲーム内で排泄は必要ない。現実世界でのことは、食う方面よりも更に考えたくない。  さて、話を戻すと——。  初期に金を使い果たして、寝るはともかく食うに困ったもの達のうち大半は、例の共同攻略グループこと〈軍〉にいやおうなく参加することになった。上の指示に従っていれば少なくとも食い物は支給されたからだ。  だが、どこの世界にも協調性など薬にしたくもないという人々が存在する。はなからグループに属するのをよしとしなかった、あるいは問題を起こして放逐された者達は、はじまりの街のスラム地区を根城にして強盗に手を染めるようになった。  街の中そのものはシステム的に保護されており、プレイヤーは他のプレイヤーに一切危害を加えることはできない。だが街の外はその限りではない。はぐれ者たちははぐれ者たちで徒党を組み、モンスターよりもある意味旨みがあり、危険の少ない獲物であるプレイヤーを街の外のフィールドや迷宮区で待ち伏せして襲うようになったのだ。  とはいえさすがの彼らも「殺し」まではしなかった——少なくとも最初の一年は。このグループはじわじわと増加し、ゲーム開始一ヶ月で先に述べたとおり三千人に達したと推定されていた。  最後に、四つ目のグループは簡単に言ってその他の者たちだ。  攻略を目指すとしても巨大グループには属さなかったプレイヤーたちの作った小集団がおよそ百、人数にして二千。その集団は〈ギルド〉と呼ばれ、彼らは軍にはないフットワークの良さを活かして堅実な攻略と戦力増強を行っていた。  さらに、ごく少数の職人、商人クラスを選択した者たち。五万のプレイヤー中一割にも満たない四千人程度の数だったが、独自のギルドを組織して、当面の生活に必要なコルを稼ぐため徐々にではあるがスキルの修行を開始していた。  のこる千人たらずが、俺もそこに属したわけだが——〈ソロプレイヤー〉と呼ばれた者達だ。グループに属さず、単独での行動が自己の強化、ひいては生き残りにもっとも有効であると判断した利己主義者たち。そのほとんどがベータテスト経験者だった。知識を生かしたスタートダッシュによって短期間でレベルを上げ、単独でモンスターや強盗たちに対抗する力を得てしまった後は、正直に言って他のプレイヤーと共闘するメリットはほとんどなかったのだ。ベータテスター同士でギルドを作った例もあったが、一般プレイヤーから隔絶しているという点ではソロと一緒だった。  貴重な知識を独占し、猛烈なスピードでレベルアップしてゆくソロプレイヤーとそれ以外の者達との間には深刻な確執が発生した。ゲームがある程度落ち着いてからは、ソロプレイヤーは皆はじまりの街を出て、より上層の街を根城にするようになっていった。  黒鉄宮の、もとは〈蘇生者の間〉であったところには、ベータテストの時には存在しなかった金属製の巨大な碑が設置され、その表面には五万人のプレイヤー全ての名前が刻印されていた。なんとも有難い配慮で、死亡した者の名の上にはわかりやすく横線が刻まれ、横に詳細な死亡時刻と場所、死亡原因が記されるというシステムだ。  最初に打ち消し線を戴く栄誉を手にする者があらわれたのは、ゲーム開始わずか三時間後のことだった。死因はモンスターとの戦闘ではなかった。自殺である。  ナーヴギアの構造上、ゲームシステムから切り離された者は自動的に意識を回復するはずだ、という持論を展開したその男は、はじまりの街の北端、つまりアインクラッドそのものの最外周を構成する展望テラスの高い柵を乗り越えて身を躍らせた。浮遊城アインクラッドの下には、どんなに目を凝らしても陸地等を見ることは出来ず、ただどこまでも続く空と幾重にも連なる白い雲が存在するだけだ。たくさんのギャラリーがテラスから身を乗り出して見守る中、絶叫の尾を引きながら男の姿はみるみる小さくなり、やがて雲間に消えていった。  男の名前の上に簡潔かつ無慈悲な横線が刻み込まれたのは、それから二分後のことだった。二分のあいだに彼が何を体験したのかは想像もしたくない。実際に男が現実世界に復帰できたのか、それとも茅場の言葉どおり意識消失という結果を招いたのかはゲーム内部からでは知る術がないのだ。ただ、そのように手軽な手段でここから脱出できたのなら、すぐに全員が外部から回線切断・救出されていてよいはずだ、というのがほとんどのプレイヤーの共通する見解だった。  それでも、男がゲーム世界から消えたあともこの単純な決着の誘惑に身を任せる者は散発的に出現した。俺を含めたほとんど全てのプレイヤーは、SAO内での「死」に実感を持つ事がどうしても出来なかった。それは現在でも変らないだろう。HPがゼロになり、体を構成するポリゴンが消滅するその現象はあまりにも俺達が慣れ親しんだ、いわゆるゲームオーバーに近似しすぎていた。多分、SAOにおける死の意味を本当に悟るには実際に体験する以外の方法は無いのだろうと思う。その希薄感が、プレイヤーの減少に拍車をかける一因となったのは確かだろう。  さて、〈軍〉やそれ以外の集団に属したプレイヤー、特に待機組に属した者たちが遅まきながらゲームの攻略を開始するにつれて、やはりモンスターとの戦闘で命を落とす者も現れはじめた。  SAOでの戦闘には、多少の勘と慣れが必要となる。自分で無理に動こうとせずシステムのサポートに「乗っかる」のがコツと言えるだろうか。  例えば、単純な片手剣上段斬りでも、〈片手直剣スキル〉を習得して剣技リストに〈上段斬り〉を備えた者が、その技をイメージしながら初期モーションを起こせば後はシステムがほぼオートでプレイヤーの身体を動かしてくれるのに対し、スキルの無い者が無理やり動きを真似ようとしても振りは遅いわ攻撃力は低いわでおおよそ実戦で使えるシロモノにはならない。つまりある意味では格闘ゲームでコマンドを出すのに似ていると言える。  が、それに馴染めない者たちは握った剣をやたらと振り回すばかりで、初期状態で習得できる基本の単発技を出していれば勝てるはずのゴブリンやスケルトンと言った下等なモンスターに遅れをとる結果となった。それでも、HPがある程度減った時点で戦闘に見切りをつけて離脱・逃亡していれば、死という結果を招くことはなかったはずなのだが——。  スクリーンを通してグラフィックの敵を攻撃するのと違い、SAOでの戦闘はその圧倒的なリアリティゆえに原始的な恐怖を呼び起こす。どう見ても本物としか思えないモンスターが凶悪な武器を振り回して自分を殺そうと襲ってくるのだ。ベータの時ですら戦闘でパニックを起こす者がいたというのに、現実の死が待っているとなればなおさらだ。恐慌に陥ったプレイヤーは、技を出すことも逃げることすらも忘れ、HPをあっけなくゼロにしてしまいこの世界から永遠に退場することとなった。  自殺。モンスター戦における敗北。すさまじい速さで増えていく無慈悲なラインを刻まれた名前たち。その数がゲーム開始一ヶ月で五千人という恐るべき数にのぼった時、残った全プレイヤーを暗い絶望感が包み込んだ。このペースで死亡者が増えつづけるなら、一年経たないうちに五万人が全滅してしまう。  だが——人間というのは慣れるものだ。一ヶ月後にようやく第一層の迷宮区が攻略され、そのわずか十日後に第二層も突破された頃から、死者の数は目に見えて減りはじめた。生き残るための様々な情報が行き渡り、きちんと経験値を蓄積してレベルを上げていけばモンスターはそれほど恐ろしい存在ではないという認識が生まれた。このゲームを攻略できるかもしれない——、そう考えるプレイヤーの数は、少しずつ、だが着実に増えていった。  最上層は遥かに遠かったが、かすかな希望を原動力にプレイヤー達は動きはじめ——世界は音を立てて回りだした。  それから二年。残るフロアの数は二十五、生存者四万人。それがアインクラッドの現状だ。      5  第七十四層の迷宮区画から出た俺は、アイテムやステータスの確認を済ませると街に向って歩き出した。俺のホームタウンは五十層にあるアインクラッドで最大級の都市〈アルゲード〉だ。規模から言えばはじまりの街のほうが大きいが、あそこは今や完全に軍の本拠地となってしまっているので立ち入りにくい。  夕暮れの色が濃くなった草原を抜けると、深く木々が立ち並ぶ森が広がっている。この森を三十分も歩けば七十四層の主街区があり、そこの〈転移門〉からアルゲードへと一瞬で移動することができる。  手持ちの瞬間転移アイテムを使えばどこからでもアルゲードへ帰還することができるが、いささか値が張るもので緊急の時以外は使いにくい。まだ日没までは少々間があるし、俺は一刻も早く自宅のベッドに転がり込みたいという誘惑を振り払って、森の中へと続く細い道に足を踏み込んだ。  アインクラッド各層の最外周部は、数箇所の支柱部以外は基本的にそのまま空へと開かれた構造になっている。角度が傾きそこから直接差し込んでくる太陽光が、森の木々を赤く照らし出していた。幹の間を流れる濃密な霧の帯が残照を反射して、きらきらと美しくも妖しい輝きを発している。日中は喧しかった鳥の声もまばらになり、吹き抜ける風が梢を揺らす音がやけに大きく響く。  このへんのフィールドに出没するモンスターには寝ぼけていても遅れを取らないレベルだとわかっていても、夕闇の深まるこの時間帯はどうしても不安を抑えることができない。幼い頃、夕暮れに道に迷い途方にくれて立ち尽くした時のような……。だが俺はこんな気分が嫌いではない。あの世界に住んでいた頃は、こんな原始的な不安はいつしか忘れ去ってしまっていた。見渡す限り誰もいない荒野を単身さすらう孤独感、これこそまさにRPGの醍醐味というもので——。  そんな感慨にとらわれていた俺の耳に、不意に聞き覚えのない獣の鳴き声がかすかに届いた。高く澄んだ、草笛のような響き。俺は咄嗟に足を止めると、慎重に音源の方向を探った。聞きなれない、あるいは見なれないものの出現はこの世界ではイレギュラーな幸運か不運のどちらかの訪れを意味する。  ソロプレイヤーの俺は索敵スキルを選択している。このスキルは不意打ちを防ぐ効果ともうひとつ、スキル熟練度が上がっていれば隠蔽状態にあるモンスターやプレイヤーを見破る能力がある。俺はやがて十メートルほど離れた大きな樹の枝かげに隠れているモンスターの姿を発見した。  それほど大きくはない。木の葉にまぎれる灰緑色の毛皮と、体長以上にながく伸びた耳。視線を集中すると、自動でモンスターがターゲット状態となり、視界に黄色いカーソルと対象の名前が表示される。その文字を見た途端俺は息を詰めた。〈ラグー・ラビット〉、超のつくレアモンスターだ。俺も実物は初めて見る。その、樹上に生息するもこもこしたウサギはとりたてて強いわけでも経験値が高いわけでもないのだが——。  俺は慎重に腰のベルトから投擲用の細いピックを抜き出した。俺の投剣スキルはスキルスロットの埋め草的に選択しているだけで、それほどレベルが高くない。だがラグー・ラビットの逃げ足の速さは既知のモンスター中最高と聞き及んでおり、接近して剣での戦闘に持ち込める自信はなかった。相手がこちらに気付いていない今ならまだ、一回だけファーストアタックのチャンスがある。俺は右手に針状のピックを構えると、祈るような気持ちで投剣スキルの基本技〈シングルシュート〉のモーションを起こした。  いかにスキルレベルが低くとも、徹底的に鍛えた敏捷度パラメータによって補正された俺の右手は稲妻のように閃き、放たれたピックは一瞬の輝きを残して梢の陰に吸い込まれていった。攻撃を開始した途端にラビットの位置を示していたカーソルは戦闘色の赤に変り、その下に奴のHPバーが表示されている。祈るような気持ちでピックの行く末を見守る俺の耳に、一際甲高い悲鳴が届き——HPバーがぐい、と動いてゼロになった。お馴染みのポリゴンが破砕する硬質な効果音。俺は無意識のうちに右手をぐっ、と突き上げていた。  あわてて左手をかざしてメニュー画面を呼び出す。パネルを操作する指ももどかしくアイテム欄を開くと、果たして新規入手品の一番上にその名前があった。〈ラグー・ラビットの肉〉、プレイヤー間の取引では十万コルは下らないという代物だ。最高級のオーダーメイド武器をしつらえても釣りが来る額である。  そんな値段がつく理由はいたって単純、この世界に存在する無数の食材アイテムの中で最高級の美味に設定されているからだ。  食うことのみがほとんど唯一の快楽と言ってよいSAO内で普段口にできるものと言えば欧州田舎風——なのか知らないが素朴なパンだの煮込み料理ばかりで、ごく少ない例外が料理スキルを選択している職人プレイヤーが少しでも幅を広げようと工夫して作る食い物なのだが、職人の数が圧倒的に少ない上に高級な食材アイテムが意外に入手しにくいという事情もあっておいそれと食べられるものでもなく、ほとんど全てのプレイヤーは慢性的に美味に餓えているという状況なのだ。  もちろん俺も同様で、いきつけのNPCレストランで食うシチューと黒パンの食事も決して嫌いではないが、やはりたまにはやわらかく汁気たっぷりな肉を思い切り食ってみたいという欲求に苛まれる。俺はアイテム名の文字列を睨みながらしばし唸った。  この先こんな食材を入手できる可能性はごく少ないだろう。本音を言えば自分で食ってしまいたいのもやまやまだが、食材アイテムのランクが上がるほど料理に要求されるスキルレベルも上昇するため、誰か高レベルの料理職人プレイヤーに頼まなくてはならない。そんなアテは——いないこともないのだが……。わざわざ頼みに行くのも面倒だし、そろそろ防具を新調しなければならない時期でもあるので、俺はこのアイテムを金に替えることに決めて立ち上がった。  未練を振り切るように手を振ってステータス画面を消すと、俺は周囲をふたたび索敵スキルで探った。よもやこんな最前線、言い換えれば辺境に盗賊プレイヤーが出現するとも思わないが、Sクラスのレアアイテムを持っているとなればいくら用心してもしすぎという事はない。  これを金に替えれば瞬間転移アイテムなど欲しいだけ買えるだろうし、俺は危険を減らすべくこの場からアルゲードまで帰還してしまうことにして、腰の小物入れを探った。ちなみに、ステータス画面のアイテム欄に表示されるアイテムはその段階では名称データだけの存在で、必要に応じて選択されたものだけが重量制限の範囲内で腰と背中のパックにオブジェクトとして実体化するという仕組みだ。転移アイテムのような緊急に使用する可能性のあるものはこのように常時実体化しておくのがセオリーとなる。  俺は小物入れから空色をした八面柱型の結晶をつまみだした。〈魔法〉の要素がほとんど排除されているこの世界で、わずかに存在するマジックアイテムはすべてこのように宝石の形を取っている。ブルーのものは瞬間転移、ピンクだとHP回復、緑は解毒——といった具合だ。どれも即効の便利なアイテムだが値段が張るので、たとえば回復なら敵から離脱して時間のかかる薬類で回復するのが常道だ。俺は、今は緊急の場合と言ってよかろうと自分に言い訳すると青い結晶を握って叫んだ。 「転移! アルゲード!」  鈴を鳴らすような美しい音と共に、手の中で結晶がきらめきながら砕け散った。同時に俺の身体は青い光に包まれ、周囲の森の風景が溶け崩れるように消滅してゆく。光がひときわまぶしく輝き、次いで消え去ったときにはもう転移が完了していた。先刻までの葉擦れのざわめきに代わって、甲高い鍛冶の槌音と賑やかな喧騒が耳朶を打つ。  俺が出現したのはアルゲードの中央にある転移門だった。円形の広場の真中に、高さ五メートルはあろうかという巨大な金属製のゲートがそびえ立っている。ゲート内部の空間は蜃気楼のように揺らいでおり、他の街に転移する者、あるいはどこからか転移してきた者達がひっきりなしに出現と消滅を繰り返している。広場からは四方に大きな街路が伸び、全ての道の両脇には無数の小さい店がひしめきあっていた。今日の冒険を追えてひとときの憩いを求めるプレイヤー達が食い物の屋台や酒場の店先で会話に花を咲かせている。  アルゲードの街を簡潔に表現すれば『猥雑』の一言に尽きる。  はじまりの街にあるような巨大な施設はひとつとして存在せず、広大な面積いっぱいに無数の路地、隘路が重層的に張り巡らされて、何を売るとも知れぬ妖しげな工房や二度と出てこられないのではと思わせる宿屋などが軒を連ねている。実際アルゲードの裏通りに迷い込んで数日出てこられなかったプレイヤーの話も枚挙に暇が無いほどだ。俺もここをねぐらにして一年近くが経つが、いまだに道の半分も覚えていない。NPCの住人たちにしても、クラスも定かでないような連中ばかりで、最近ではここをホームにしているプレイヤーも一癖二癖ある奴らばかりになってきたような気さえする。  だが俺はこの街の雰囲気が気に入っていた。路地裏の奥の奥にある行きつけの店にしけこんで妙な匂いのする茶を啜っているときだけが一日で唯一安息を感じる時間だと言ってもいい。かつて住んでいた街に似ているからだ、などという感傷的な理由だとは思いたくないが。  俺はねぐらに戻る前に件のアイテムを処分してしまうことにして、馴染みの買い取り屋に足を向けた。転移門のある中央広場から西に伸びた目貫通りを、人ごみを縫いながら数分歩くとすぐにその店があった。人が五人も入ればいっぱいになってしまうような店内にはプレイヤーの経営するショップ特有の混沌状態を醸し出した陳列棚が並び、武器から道具類、食料までがぎっしりと詰め込まれている。  店の主はと言えば、今まさに店頭で商談の真っ最中だった。  アイテムの売却方法は大まかに言って二種類ある。ひとつはNPC、つまりゲームシステムが操作するキャラクターに売却する方法で、詐欺の危険がないかわりに買い取り値は場所によって多少の増減があるものの基本的には一定となる。プレイヤーが労せずに大金を入手するのを防ぐためにその値付けは実際の市場価値よりもかなり低く設定されている。  もう一つがプレイヤー同士の取引だ。こちらは商談次第ではかなりの高値で売れることも多いが、買い手を見つけるのに結構な苦労をするし、やれ払いすぎただの気が変っただのと言いだすプレイヤーとのトラブルも無いとは言えない。そこで、故買を専門にしている商人プレイヤーの出番となるわけだ。 「よし決まった! グラックリザードの革二十枚で五百コル!」  俺が馴染みにしている買い取り屋のエギルは、ごつい右腕を振り回すと商談相手の気の弱そうな槍使いの肩をばんばんと叩いた。そのままトレードウィンドウを出すと、有無を言わせぬ勢いで自分側のトレード欄に金額を入力する。相手はまだ多少悩むような素振りを見せていたが、歴戦の戦士と見紛うほどのエギルの凶顔に一睨みされると——実際エギルは商人であると同時に一流の斧戦士でもあるのだが——あわてて自分のアイテムウィンドウから物をトレード欄に移動させ、OKボタンを押した。 「毎度!! また頼むよ兄ちゃん!」  最後に槍使いの背中をバシンと一回叩くと、エギルは豪快に笑った。グラックリザードの革は高性能な防具の素材となる。どう考えても五百は安すぎるだろうと俺は思ったが、慎み深く沈黙を守って、立ち去っていく槍使いを見送った。故買屋相手に遠慮してはならないという教訓の授業料込みだと思うんだな、と心の中でつぶやく。 「相変わらず阿漕な商売してるな」  エギルに背後から声をかけると、禿頭の巨漢はひょいと振り向きざまニンマリ笑った。 「よぉ、キリトか。安く仕入れて安く提供するのがウチのモットーなんでね」  悪びれる様子もなくうぞぶく。 「後半は疑わしいもんだなぁ。まあいいや、俺も買取頼む」 「キリトはお得意様だしな、あくどい真似はしませんよっと……」  言いながらエギルは猪首を伸ばして俺の提示したトレードウィンドウを覗き込んだ。SAOプレイヤーの外見が、生身の肉体に即したものだという事はすでに述べたが、このエギルを見るたびに俺はよくもまぁこんなハマる外見をした奴がいたもんだと感嘆の念を禁じえない。百八十センチはある体躯は筋肉と脂肪にがっちりと包まれ、その上に乗った顔は悪役レスラーさながらにごつごつとした、岩から削りだしたかのような造作で、唯一カスタマイズできる髪型をつるつるのスキンヘッドにしているもんだからその怖さはそんじょそこらの強面NPCに引けを取らない。それでいて笑うと実に愛嬌のある、味な顔をしているのだ。年齢は二十代後半だろうが、現実世界で何をしていた男なのか想像もつかない。「向こう」でのことは尋ねないのがこの世界の不文律である。  その、分厚くせり出した額の下の両目が、トレードウィンドウを見た途端驚きに丸くなった。 「おいおい、S級のレアアイテムじゃねえか。ラグーラビットの肉か、俺も現物を見るのは初めてだぜ……。キリト、おめえ別に金には困ってねえんだろ? 自分で食おうとは思わんのか?」 「思ったさ。多分二度と手には入らんだろうしな……。ただなぁ、こんなアイテムを扱えるほど料理スキルを上げてる奴なんてそうそう……」  その時、背後から俺の肩を叩く者がいた。 「よっ、キリト君おひさ!」  女の声。俺にこれほどなれなれしく声を掛けてくる女性プレイヤーはそれほど多くない。正確には一人しかいない。俺は顔を見る前から相手を察していた。左肩に乗せられたままの相手の手をぐっ、と掴むと振り向きながら言う。 「シェフ捕獲」 「な……なによ」  相手は俺に手をつかまれたままいぶかしげな顔で後ずさる。  栗色の長い真中分けのストレートヘアを両側に垂らした顔はちいさな卵型で、大きなくるくるとした薄茶色の瞳がまぶしいほどの生気を放っている。小ぶりだがスッと通った鼻筋の下で、桜色のくちびるが華やかな色彩を添える。スラリとした小柄な体を、白と赤を基調とした騎士風の戦闘服に包み、白革の剣帯から吊ったのは優雅に伸びた細剣。  彼女の名はアスナ。SAOでは多分知らぬ者はほとんどいないであろう有名人だ。理由はいくつかあるが、まず、圧倒的に少ない女性プレイヤーであり、なおかつ文句のつけようがない華麗な容姿を持つことによる。プレイヤーの現実の肉体、とくに顔の造作をほぼ完全に再現するSAOにおいて、大変言い難いことながら美人の女性プレイヤーというのは超S級とでも言うべきレアな存在だ。おそらくアスナほどの美人は両手の指に満たない数だろう。  もうひとつ彼女を有名人たらしめている理由は、その騎士服を染める白と赤——ギルド〈血盟騎士団〉のユニフォームだ。Knights of the Bloodの頭文字を取ってKoBとも呼ばれるそれは、アインクラッドに数多あるギルドの内でも誰もが認める最強のプレイヤーギルドである。  構成メンバーは五十人程と中規模だが、そのすべてがハイレベルの強力な剣士であり、なおかつギルドを束ねるリーダーは伝説的存在と言ってもよいほどのSAO最強の男なのだ。アスナは華奢な少女の外見とは裏腹に、そのギルドにおいて副団長を務めている。当然技のほうも半端ではなく、細剣術は〈閃光〉の異名を取る腕前だ。  つまり彼女は、容姿においても剣技においても四万のプレイヤーの頂点に立つ存在なわけで、それで有名にならないほうがおかしい。当然プレイヤーの中には無数のファンがいるが、中には偏執的に崇拝する者やらストーカーまがい、更には反対に激しく嫌う者——これは女性プレイヤーに多い——もいてそれなりの苦労はあるようだ。  もっとも最強剣士の一人たるアスナに正面切ってちょっかいを出そうという者はそういないだろうが、警護に万全を期するというギルドの意向もあるようで彼女にはたいてい複数の護衛プレイヤーが付き従っている。今も、数歩引いた位置に白のマントと分厚い金属鎧に身を固めたKoBのメンバーとおぼしき二人の男が立ち、そのうち右側に立っている長髪を後ろで束ねた痩せた男が、アスナの手を掴んだままの俺に殺気に満ちた視線を向けてきている。  俺は彼女の手を離し、指をその男に向ってひらひら振ってやりながら言葉を返した。 「珍しいなアスナ。こんなゴミ溜めに顔を出すなんて」  俺がアスナを呼び捨てにするのを聞いた長髪の男と、自分の店をゴミ溜め呼ばわりされた店主の顔が同時にぴくぴくと引き攣る。だが、店主のほうはアスナから笑顔とともに、お久しぶりですエギルさん、と声をかけられると途端にだらしなく顔を緩ませる。  アスナは俺に向き直ると、不満そうに唇を尖らせた。 「なによう。ちゃんと生きてるか確認に来てあげたんじゃない」 「フレンドリストに登録してんだから生きてることくらいわかるだろ。そもそもマップでフレンド追跡したからここに来られたんじゃないのか」  言い返すと、アスナは照れくさそうに下を向いた。大体、この女がなぜ俺ごときに気をかけてくれるのかが不思議で仕方ない。知り合ってからそろそろ半年になるが、会うときはこのように向こうから来てくれる場合がほとんどだ。数ヶ月前に相互フレンド登録しようと言われた時には腹の底から驚愕したものだ。さすがに俺もややその気にならないでもなかったが、相手があまりにも至高の存在すぎて、わずかな希望を持つことすら恐ろしい。俺はあえてアスナとはフランクな剣友付き合いをするよう心がけていた。過度の期待が毒に転じるのは御免だ。  アスナは両腕を胸の前で組むと、つんとあごを反らせるような仕草で言った。 「そ……そんなことより、何よシェフどうこうって?」 「あ、そうだった。お前今料理スキルどのへん?」  確かアスナは酔狂にも戦闘スキルの隙間を縫って職人系の料理スキルを上げていた覚えがある。俺の問いに、彼女は得意げ顔を輝かせると言い放った。 「聞いて驚け! なんと先週に完全習得達成!」 「なぬっ!」  ア……アホか。と一瞬思ったがもちろん口には出さない。スキル熟練度は使用する度に気が遠くなるほどの遅々とした速度で上昇してゆき、最終的に熟練度一〇〇〇に達したところで完全習得となる。ちなみに経験値によって上昇するレベルはそれとはまた別で、レベルで上がるのはHPと筋力、敏捷力のステータス、それに〈スキルスロット〉という習得可能スキル限度数だけだ。俺は今十二のスキルスロットを持つが、完全習得に達しているのは片手直剣スキル、索敵スキル、武器防御スキルの三つだけである。つまりこの女は途方もないほどの時間と情熱を戦闘の役にたたないスキルにつぎ込んだわけだ。 「……その腕を見こんで頼みがある」  俺はアスナに手招きをするとアイテムウィンドウを他人にも見える可視モードにして彼女に示した。 「うわっ!! これ、S級食材!?」 「取引だ。こいつを料理してくれたら一口食わせてやる」  言い終わらないうちに〈閃光〉アスナの右手が俺の胸倉をがっしと掴んだ。そのまま顔を数センチの距離までぐいと寄せると、 「は・ん・ぶ・ん!!」  思わぬ不意打ちにドギマギした俺は思わず頷いてしまう。はっと我に返った時には遅かった。ヤッタと小躍りするアスナ。まあ、あの可憐な顔を至近距離から観察できたんだから良しとしよう、と無理やり納得する。  ウインドウを消去しながら振り向き、エギルの顔を見上げて言う。 「わるいな、そんな訳で取引は中止だ」 「いや、それはいいけどよ……。なあ、俺たちダチだよな? な? 俺にも味見くらい……」 「気が向いたら持ってきてやるよ」 「そ、そりゃあないだろ!!」  この世の終わりか、といった顔で情けない声を出すエギルにつれなく背を向け歩き出そうとした途端、俺のコートをアスナが掴んだ。 「料理はいいけどどこでするつもりなのよ?」 「う……」  料理スキルを使用するには、食材の他に料理道具と、かまどやオーブンの類が最低限必要になる。俺の部屋にも簡単なものがあるにはあったが、あんな小汚いねぐらにアスナを招待できるはずも無く。  アスナは言葉に詰まる俺に呆れたような視線を投げかけながら、 「どうせキリト君の部屋にはろくな道具もないんでしょ。いいわ、わたしの部屋に行きましょう」  とんでもないことをサラリと言った。  言われたことを脳が理解するまでのラグで停止する俺を気にもとめず、アスナは警護のギルドメンバー二人に向き直ると声をかけた。 「今日はここから直接セルムブルグまで転移するから護衛はもういいわ。お疲れ様」  その途端、我慢の限界に達したとでも言うように長髪の男が叫んだ。SAOにもうすこし表情再現機能があったら、額に青筋の二〜三本は立っているであろう剣幕だ。 「ア……アスナ様! こんなスラムに足をお運びになるだけに留まらず、素性の知れぬ奴をご自宅に伴うなどと、と、とんでもない事です!」  その大仰な台詞に俺は辟易とする。様と来た……こいつも紙一重級の崇拝者なんじゃなかろうか。目を向けると、アスナも相当うんざりした表情である。 「キリト君は素性の知れない奴なんかじゃないわ。多分あなたより十はレベルが上よ、クラディール」 「な、何を馬鹿な! 私がこんな奴に劣るなどと……!」  男の半分裏返った声が路地に響き渡る。三白眼ぎみの落ち窪んだ目で俺を憎憎しげに睨んでいた男の顔が、不意に何かを合点したかのように歪んだ。 「そうか……手前ビーターだろ!」 〈ビーター〉とはベータテスターの蔑称である。俺にとってはお馴染みの台詞だ。だが何度言われてもその言葉は俺に一定の痛みをもたらす。最初に俺に同じ事を言った、かつて友人だった奴の顔がちらりと脳裏をよぎる。 「ああ、そうだ」  俺が無表情に肯定すると、男は勢いづいて言い募った。 「アスナ様、こいつら自分さえ良きゃいい連中ですよ! こんな奴と関わるとろくな事がないんだ!」  今まで平静を保っていたアスナの眉根が不愉快そうに寄せられる。いつのまにか周囲には野次馬の人垣ができ、「KoB」「アスナ」という単語が漏れ聞こえてくる。  アスナはそちらにちらりと目を向けると、興奮の度合いを増すばかりのクラディールという男に、 「ともかく今日はここで帰りなさい。副団長として命令します」  とそっけない言葉を投げかけ、左手で俺の手を取った。そのままぐいぐいと俺を引っ張りながらゲート広場へと足を向ける。 「お……おいおい、いいのか?」 「いいの!」  まあ俺には否やのあろうはずもない。二人の護衛と、いまだに残念そうな顔のエギルを残して俺たちは人ごみの隙間に紛れるように歩き出した。最後にちらりと振り返ると、突っ立ったままこちらを睨むクラディールという男の険悪な表情が残像のように俺の視界に貼りついた。      6  セルムブルグ市は六十一層にある美しい城塞都市だ。規模はそれほど大きくもないが、華奢な尖塔を持つ古城を中心とした、城壁に囲まれた市街地はすべて白亜の花崗岩で精緻に造り込まれ、ふんだんに配された緑の木々とあいまって見事なコントラストを醸し出している。市場には店もそれなりに豊富でここをホームタウンにと願うプレイヤーは多いが、部屋がとんでもなく高価であり——多分アルゲードの三倍はするだろう——、よほどのハイレベルに達さないかぎり入手するのは不可能に近い。  俺とアスナがセルムブルグの転移門に到着したときはすっかり陽も暮れかかり、最後の残照が街並みを深い紫色に染め上げていた。  六十一層は面積のほとんどが湖で占められており、セルムブルグはその中心にある小島に存在するので外周部から差し込む夕陽が水面を煌かせる様を一幅の絵画のごとく鑑賞することができる。広大な湖水を背景にして濃紺と朱色に輝く街並みの、あまりの美しさに俺はしばし心を奪われて立ち尽くした。ナーヴギアの本体が持つ新世代のダイアモンド半導体CPUにとってはこのようなライティング処理など小手先の技なのだろうが。  転移門は古城の足許の広場に設置されており、そこからとてつもなく広い、街路樹の生えたメインストリートが市街地を貫いて南に伸びている。両脇には品のいい店やら住宅が立ち並び、行き交うNPCやプレイヤーの格好も垢抜けて見える。空気の味までアルゲードと違うような気がして、俺は思わず両手を伸ばしながら深呼吸をした。 「うーん、広いし人は少ないし、解放感あるなぁ」 「ふふ。キリト君も引っ越せばいいじゃない」 「金が圧倒的に足りません」  肩をすくめて答えると、俺は表情をあらためた。遠慮気味に尋ねる。 「……本当に大丈夫なのか? さっきの……」 「……」  それだけで何の事か察したらしく、アスナはくるりと後ろを向くと、うつむいてブーツのかかとで地面をとんとん叩いた。 「……わたし一人の時に何度か嫌な出来事があったのは確かだけど、護衛なんて行き過ぎだと思う。要らないって言ったんだけど……ギルドの方針だから、って……」  やや沈んだ声で続ける。 「昔は、団長が一人ずつ声を掛けて作った小規模ギルドだったの。でも人数がどんどん増えて、メンバーが入れ替わったりして……最強ギルドなんて言われ始めたころからなんだかおかしくなっちゃった」  言葉を切って、アスナはくるりと振り向いた。その瞳に、どこかすがるような色を見た気がして俺はわずかに息を飲んだ。何か言わなければいけない、ふとそう思ったが、利己的なソロプレイヤーである俺に何ができるというのか。俺たちは沈黙したまま数秒間見つめあった。  先に視線を逸らしたのは俺だった。アスナは少しだけ淋しそうに微笑み、場の空気を切り替えるように明るい声を出した。 「まあ、大したことじゃないから気にしなくてよし! さ、早く行かないと日が暮れちゃうよ!」  先に立ったアスナに続いて、俺も街路を歩き始めた。少なからぬ数のプレイヤーとすれ違うが、アスナの顔をじろじろと見るような者はいない。セルムブルグはここが最前線だった半年ほど前にわずかに滞在したことがあるくらいで、思えばゆっくりと見物した記憶もなかった。改めて美しい彫刻に彩られた市街をながめるうちに、ふと一度はこんな街に住んでみたいという気がわいてくるが、観光地はたまに訪れるくらいがいいのだろうと思い直す。  アスナの住む部屋は目貫通りから東に折れてすぐのところにある小型の、しかし美しい造りの建物の三階だった。無論訪れるのは初めてだ。よくよく考えると、いままでこの女とはアルゲードの酒場やらショップで話したことがあるだけで、一緒にフィールドに出たことすらない。それを意識すると俺は今更ながら腰の引ける思いで、建物の入り口で躊躇してしまう。 「しかし……いいのか? その……」 「なによ、キリト君がもちかけた話じゃない。や……やめてよ今更、わたしまで恥ずかしくなるから!」  やや顔を赤らめてうつむくアスナ。そのまま階段をとんとんと登っていってしまう。俺は覚悟を決めてそのあとに続いた。 「お……おじゃまします」  おそるおそるドアをくぐった俺は言葉を失って立ち尽くした。  未だかつてSAOでこれほど整えられたプレイヤーホームは見たことがない。広いリビング兼ダイニングと、隣接したキッチンには明るい色の木製家具がしつらえられ、統一感のあるオフグリーンのクロス類で飾られている。すべて最高級のプレイヤーメイド品だろう。そのくせ過度に装飾的ではなく、実に居心地の良さそうなインティメイトさを漂わせている。俺のねぐらとはひとことで言って雲泥の差だ。招待しなくてよかった、としみじみ思う。 「なあ……これ、いくらかかってるの……?」  即物的な俺の質問に、 「んー、部屋と内装あわせると四千kくらいかな。あ、着替えてくるからそのへん適当に座ってて」  サラリと答えるとアスナはリビングの奥にあるドアに消えて行った。kが千をあらわす短縮語なので四千kとは四百万コルのことである。参考までに、平均的レベルのプレイヤーが一ヶ月の冒険で稼ぐ金額はその百分の一程度に過ぎない。俺はくらくらして、ふかふかのソファに倒れるように沈み込んだ。  やがて、簡素な白い短衣に着替えたアスナが奥の部屋から現れた。着替えと言っても実際に脱いだり着たりの動作があるわけではなく、ステータスウインドウの装備フィギュアを操作するだけなのだが、着衣変更の瞬間数秒は下着姿の表示になってしまうため、豪胆な野郎プレイヤーならいざ知らず女性は人前で着替え操作をしたりすることはない。今の俺たちの肉体は3Dオブジェクトのデータにすぎないとは言っても、二年も過ごしてしまうとそんな認識は薄れかけて、実際今も惜しげも無く剥き出しにされたアスナのスラリとした手足に自然と目が行ってしまう。  そんな俺の内心の葛藤を知ってか知らずかアスナは屈託無く笑うと、 「キリト君もいつまでそんな格好してるのよ」と言った。  俺はあわててステータスを呼び出すと、革の戦闘用コートと剣帯、金属製のレガースなどの武装を解除する。ついでにアイテムウインドウに移動し、ラグーラビットの肉をオブジェクトとして実体化させた。陶製のポットに入ったそれが目の前のテーブルに姿を現す。  アスナは感激した面持ちでそれを手に取り、中を覗き込む。 「これがS級食材かぁ。ねえ、どんな料理にしよっか?」 「シェフお任せコースで頼む」 「そうねえ……じゃあシチューにしよう。煮込みって言うくらいだからね」  そのままキッチンに向かうアスナの後を俺もついていく。キッチンは広々としていて、巨大なかまどとオーブンがしつらえられた傍らには一見してこれも高級そうな料理道具アイテムが並んでいる。アスナはオーブンの表面をダブルクリックの容量ですばやく二度叩いてポップアップメニューを出し、温度を設定したあと棚から金属製のなべを取り出した。ポットの中の生肉を移し、いろいろな香草と水を満たすと蓋をする。 「ほんとはもっといろいろ手順があるんだけどね。SAOの料理は簡略化されすぎててつまんないよ」  と文句を言いながら、鍋をオーブンの中に入れてメニューから調理開始ボタンを押した。三百秒と表示された待ち時間にも彼女はてきぱきと動き回り、無数にストックしてあるらしい食材アイテムを次々とオブジェクト化しては淀みない作業で付け合せを作っていく。実際の作業とメニュー操作を一回のミスも無くこなしていくその動きに俺はついつい見とれてしまう。  わずか五分で豪華な食卓が整えられ、俺とアスナは向かい合わせで席についた。眼前の陶器の大皿には湯気を上げるブラウンシチューがたっぷりと盛り付けられ、鼻腔を刺激する芳香を伴った蒸気が立ち上っている。照りのある濃密な茶色い液体には大ぶりな肉がたっぷりと入り、クリームの白い筋が描くマーブル模様が実に魅惑的だ。  俺達はいただきますを言うのももどかしくスプーンを手に取ると、SAO内で存在しうる最上級の食い物であるはずのそれを頬張った。口中に充満する熱と香り。大ぶりな柔らかい肉に歯を立てると、溢れるように汁液が迸る。  SAOにおける食事は、オブジェクトを歯が噛み砕く感触をいちいち演算でシミュレートしているわけではなく、アーガスと提携していた環境プログラム設計会社の開発した味覚再生エンジンを使用している。これはあらかじめプリセットされた、様々な「物を食う」感覚を脳に送り込むことで使用者に現実の食事と同じ体験をさせることができる。もとはダイエットや食事制限が必要な人のために開発されたものらしいが、要は味、匂い、熱等を感じる脳の各部位に偽の信号を送り込んで錯覚させるわけだ。つまり俺達の現実の肉体はこの瞬間も何を食べているわけでもなく、ただシステムが脳の感覚野を盛大に刺激しているだけにすぎない。  だが、この際そんなことを考えるのは野暮というものだ。今俺が感じている、間違いなくSAOにログインしてから最上の美味は本物だ。俺とアスナは一言も発することなく、ただ大皿にスプーンを突っ込んでは口に運ぶという作業を黙々と繰り返した。  やがて、きれいに——文字通りシチューが存在した痕跡もない——食い尽くされた皿と鍋を前に、アスナは深く長い息をついた。 「ああ……いままでがんばって生き残っててよかった……」  まったく同感だった。俺は久々に原始的欲求を心ゆくまで満たした充足感に浸りながら不思議な香りのする茶を啜った。さっき食べた肉やこの茶は、実際に現実世界に存在する食材の味を記録したものなのか、それともパラメータを操作して作り出した架空の味だろうか……。そんなことを漠然と考える。  饗宴の余韻に満ちた数分の沈黙が過ぎ去ったあと、俺の向かいで茶のカップを両手で抱え込んだままアスナがぽつりと口を開いた。 「不思議だね……。なんだか、この世界で生まれていままでずっと暮らしてきたみたいな、そんな気がする」 「……俺も最近、あっちの世界のことをまるで思い出さない日がある。俺だけじゃないな……この頃は、クリアだ脱出だって血眼になる奴が少なくなった」 「攻略のペース自体落ちてるよね。今最前線で戦ってるプレイヤーなんて五百人いないでしょう。危険度のせいだけじゃないわ……みんな、馴染んできてる……この世界に……」  俺は橙色のランプの明かりに照らされた、物思いにふけるアスナの美しい顔をそっと見つめた。確かにその顔は、生物としての人間のものではない。なめらかな肌、艶やかな髪、生き物としては美しすぎる。しかし、今の俺にはその顔がポリゴンの作り物には最早見えない。そういう生きた存在として素直に納得することができる。……多分、今、元の世界に復帰して本物の人間を見たら俺は激しい違和感を抱くだろう。  俺は本当に帰りたいと思っているんだろうか……あの世界に……? ふと浮かんできたそんな思考に戸惑う。毎日朝早く起き出して危険な迷宮に潜り、未踏破区域をマッピングして経験値を稼いでいるのは、本当にこのゲームをクリアして脱出したいからなんだろうか。昔はたしかにそうだった——いつ死ぬともしれないこの世界から早く抜け出したかった……。しかし、この世界での生き方に慣れてしまった今はどうなのだろう。 「でも、わたしは帰りたいよ」  俺の内心の迷いを見透かすような、歯切れのいいアスナの言葉。ハッとして顔を上げる。アスナはにこりと笑うと、言った。 「あっちでやり残したこといっぱい有るもん」  その言葉に、俺は素直に頷いていた。 「そうだな。俺たちががんばらなきゃ職人クラスの連中に申し訳が立たないもんな……」  消えない迷いを一緒に飲み下すように、俺はお茶のカップを大きく傾けた。まだまだ最上階は遠い。その時が来てから考えればいいことだ。  珍しく素直な気分で、俺はどう感謝の念を伝えようかと言葉を探しながらアスナを見つめた。すると、アスナは顔をしかめながら目の前で手を振り、 「あ……あ、やめて」などと言う。 「な、なんだよ」 「今までそういう表情の男プレイヤーから何度か結婚を申し込まれたわ」 「なっ……」  悔しいかな、戦闘スキルには熟達してもこういう場面の反撃方法に経験の浅い俺は言葉を返すこともできず口をぱくぱくさせた。さぞ間抜けな顔をしていることだろう。そんな俺を見てアスナはにやにや笑いながら、ふうんと言っている。 「その様子じゃ他に仲のいい子とかいないでしょ」 「悪かったな……いいんだよソロなんだから」 「だめだよー、せっかくMMORPGやってるんだからもっと友達作らなきゃ!」  MMOとは大人数マルチプレイヤー・オンラインのことだ。アスナはどことなく姉か先生のような口調で問いかけてきた。 「キリト君はギルドに入る気は無いの?」 「……」 「ベータ出身者が集団に馴染まないのはわかってる。でもね」  アスナの表情が真剣味を帯びる。 「七十層を超えたあたりからモンスターのアルゴリズムにイレギュラー性が増してきてるような気がするの」  それは俺も感じてはいた。CPUの戦術に人間くささが混じってきたのは、当初の設計なのかシステムの学習の結果なのか……。後者だったら今後どんどん厄介なことになりそうだ。 「ソロだと、想定外の事態に対処できないことがあるわ。いつでも緊急脱出できるわけじゃないのよ。パーティーを組んでいれば安全性がすいぶん違う」 「安全マージンは十分取ってるよ。忠告は有り難く頂いておくけど……ギルドはちょっとな。そもそも俺みたいなのを入れてくれるギルドなんかないさ」 「そんなことないのに……。ウチに誘いたいんだけど……」 「い、いいって!! そんな無理に気ィ使ってくれなくても。KoBみたいな名門ギルドに入れるなんて端から思ってないよ」 「違うよ、そういう意味じゃないの」  アスナは視線を落として首を振った。その表情を払い落とすかのように大きな目をいたずらっぽく輝かせ、 「パーティープレイそのものが嫌いってわけじゃないんでしょ? じゃあわたしとコンビ組もうよ」 「んな……」  再び俺は言葉に詰まる。 「……こと言ったってお前、ギルドはどうするんだよ」 「うちは別に攻略ノルマとかないもん」 「じゃ、じゃああの護衛二人は」 「置いてくるもん」  時間稼ぎのつもりでカップを口に持っていってから空であることに気付く。アスナがにこにこしながらそれを奪い取り、ポットから熱い液体を注いでくれる。  正直、実に魅力的な誘いではある。アインクラッド一、と言ってもよい美人とコンビを組みたくない男などいるまい。しかし、そうであればある程、アスナ程の有名人がなぜ、という気後れが先に立つ。ひょっとして根暗なソロプレイヤーとして憐れまれてるのか……。後ろ向きな思考にとらわれながら、うっかり口にしてしまった台詞が命取りだった。 「最前線は危ないぞ」 「あら」  一瞬目の前を閃光がよぎったと思うと、アスナの右手に握られたナイフがピタリと俺の鼻先に据えられていた。細剣術の基本技〈リニアー〉だ。基本技とは言え圧倒的な敏捷度パラメータ補正のせいですさまじいスピードである。剣士としての興味が頭をもたげる。思えばこの女の戦闘は一度も見たことがないのだった。他人のレベルやステータス、選択スキルなどは尋ねないのがこの世界の大事なマナーだ。なぜならそれらの情報を知られることは同時に弱点を知られることでもあるからだ。誰かの強さが知りたかったら、間近で戦闘を見て推察するしかない。  両手を軽く上げて降参のポーズを取った俺は、ナイフを戻したアスナに、「……朝九時に七十四層のゲートで待ってる」と言った。アスナはニコリと輝くような笑顔で答えた。 「今日はありがと。久しぶりに楽しい夜だった」  アルゲードまで送っていく、というアスナの申し出を断って、俺は建物の出口で向き直った。 「こっちこそ。また頼む……と言いたいけどもうあんな食材アイテムは手に入らないだろうな」 「あら、ふつうの食材だって腕次第よ」  笑いながら、アスナはつい、と空を振り仰いだ。すっかり夜の闇に包まれた空には、しかし無論星の輝きは存在しない。百メートル上空の石と鉄の蓋が陰鬱に覆いかぶさっているのみだ。つられて上空を見上げながら、俺はふと呟いていた。 「……今のこの状態、この世界が、本当に茅場晶彦の作りたかったものなのかな……」  なかば自分に向けた俺の問いに、二人とも答えることができない。どこかに身を潜めてこの世界を見ているのであろう茅場は今何を感じているのだろうか。当初の血みどろの混乱期を抜け出し、一定の平和と秩序を得た現在の状況は茅場に失望と満足のどちらをもたらしているのか。俺にはまるでわからない。  アスナは無言で俺の傍らに近寄ると、腕に手をかけてきた。ほのかな温かみを感じる。それは錯覚だろうか、忠実なシミュレートの結果なのか。  今日もまたアインクラッドの一日が終わる。俺たちがどこへ向かっているのか、このゲームの結末に何が待つのか、今は分らない事だらけだ。道のりは遥かに遠く、光明はあまりに細い。それでも——全てが捨てたもんじゃない。  俺は上空の鉄の蓋を見上げ、まだ見ぬ未知の世界へと思考を飛翔させた。      7  午前九時。今日の気象設定は薄曇りだ。街をすっぽりと包み込んだ朝もやはいまだ消えずに、外周から差し込む陽光が細かい粒子に乱反射して周囲をレモンイエローの色彩に染め上げている。  アインクラッドは今トネリコの月、日本の暦では十月の初頭である。気温はやや肌寒い程度で、一年で最もさわやかな季節なのだが、俺の気分はかなり低調だった。  俺は七十四層の主街区ゲート広場でアスナを待っていた。昨夜は珍しく寝つきのよくない晩で、アルゲードのねぐらに舞い戻って簡素なベッドに潜りこんだあとも輾転反側し続けた。多分眠りに落ちたのは午前三時を回った頃だろう。SAOにはいろいろとプレイヤーをサポートする便利な機能があるが、残念ながらボタン一つで即安眠というようなものはない。  ところがどうしたわけかその逆は存在するのだ。メインメニューの時刻関連オプションには強制起床アラームというものがあり、指定した時間になるとプレイヤーを任意の音楽で無理やり目覚めさせてくれる。無論その後二度寝をするしないは自由だが、午前八時五十分にシステムによって叩き起こされた俺は意思力を振り絞ってベッドから這い出すことに成功した。大多数の不精者プレイヤーにとっての福音としてゲーム内では風呂に入ったり着替えたりという必要がないので——好きな者は毎晩入浴しているようだが、液体関連の環境の再現はさすがのナーヴギアでもやや荷の重い所で本物の風呂そのままを再現するには至っていない——俺はぎりぎりの時間に起きた後二十秒で装備を整え、よろよろとアルゲード転移門まで歩き、そして今七十四層で睡眠不足の不快感に苦しみながらあの女を待っているという訳なのだが——。 「来ない……」  時刻はすでに九時十分。勤勉な攻略組が次々とゲートから現れ、迷宮区目指して歩いていく。俺はあてもなくメニューを呼び出し、すっかり暗記している迷宮のマップやら、スキルの上昇具合を確認したりして時間を潰した。ああー何か携帯ゲーム端末でもあればなあ、などと考えている自分に気付きげんなりする。ゲームの中でゲームをしたくなるとは我ながら救いがたい……もう帰って寝ちゃおうかなぁ……とそこまで思考が後ろ向きになったとき、転移門内部に何度目かの青いテレポート光が発生した。  さして期待もせずゲートに目をやる。するとその瞬間——。 「きゃああああ! よ、避けて——!」 「うわああああ!?」  通常ならば転移者はゲート内の地面に出現するはずの所が、地上から一メートルはあろうという空中に人影が実体化し——そのまま宙を俺に向かって吹っ飛んできた。 「な……な……!?」  避ける、もしくは受け止める間もなく、その人物は俺に思い切り衝突し、二人は派手に地面に転がった。石畳でしたたか後頭部を打つ。街中でなければHPバーが何ドットか削れただろう。これはつまり、このトンマなプレイヤーは転移元のゲートにジャンプして飛び込んで、そのままここまでテレポートした——ということだろうなぁ……などというのんきな考察が脳裏をよぎる。混濁した意識の中、俺は自分の上に乗ったままのトンマの身体を排除すべく右手を伸ばし、ぐっと掴んだ。 「……?」  すると、俺の手に、何やら好ましい不思議な感触が伝わってきた。柔らかく弾力に富んだそれの正体を探るべく、二度、三度と力を込める。 「や、や———っ!!」  突然耳元で大音量の悲鳴が上がり、俺の後頭部は再び激しく地面に叩きつけられた。同時に体の上から重さが消滅する。その新たな衝撃でどうにか思考が回復した俺は、パッと上半身を起こした。  目の前にペタリと座り込んだ女性プレイヤーがいた。お馴染みの白地に赤の刺繍が入った騎士服とひざ上のミニスカート。剣帯からは銀のレイピア。どうしたことか、曰く言いがたい殺気のこもった眼で俺を睨んでいる。顔は最大級の感情エフェクトで耳まで真っ赤に染まり、両腕は胸の前でかたく交差され——……胸……?  突然俺は先ほど自分の右手が掴んだ物の正体を直感的に察した。同時に今の自分が陥っている危機的状況に遅まきながら気付く。普段から鍛え上げた危機回避思考法などきれいさっぱり忘れ去り、遣り場のない右手を閉じたり開いたりしながらこわばった笑顔を浮かべて口を開いた。 「や……やあ、おはようアスナ」  アスナの眼に浮かんだ殺気が一際強まった——気がした。あれは多分エモノを抜くか抜かないか考えている眼だ。咄嗟に浮上した「逃亡」オプションの可能性について検討しようとしたその時、再び転移門が青く発光した。アスナは、はっとした表情で後ろを振り向くと慌てた様子で立ち上がり、俺の背後に身を隠すように回りこんだ。 「なん……?」  訳がわからないまま俺も立つ。ゲートの光は見る間に輝きを増し、中央から新たな人影を出現させた。今度の転移者はきちんと地面に足を付けている。  光が消え去ると、そこに立っていたのは見たことのある顔だった。アスナ以外の者には到底似合わないと思われる仰々しい赤白のマント。ギルド血盟騎士団のユニフォームを着込み、やや装飾過多気味の金属鎧と両手用剣を装備したその男は昨日アスナに付き従っていた長髪の護衛だった。名前は確かクラディールと言ったはずだ。  クラディールはゲートから出て、俺と背後のアスナに目を留めると眉間と鼻筋に刻み込まれた皺を一層深くした。そう歳は行っていない、多分二十代前半だろうと思われるがその皺のせいで妙に老けて見える。ギリギリと音がしそうなほど歯を噛み締めたあと、憤懣やるかたないといった様子で口を開いた。 「ア……アスナ様、勝手なことをされては困ります……!」  ヒステリックな調子を帯びた甲高い声を聞いて、俺は、昔のロボットアニメに出てた声優の声に似てるなぁ、などと埒もない事を考えた。落ち窪んだ眼窩にやや三白眼なところはどこかその声優が当てていたキャラクターにも似ている。  現在進行形の修羅場から逃避したくて益体も無い思考を巡らせる俺に、ここが街中で無かったら絶対にコロス、というような視線を向けながらクラディールは更に言い募った。 「さあ、アスナ様、ギルド本部まで戻りましょう」 「いや!! 今日は活動日じゃないわよ! ……だいたい、あんたなんで朝から家の前に張り込んでるのよ!?」  俺の背後から、こちらも相当キレ気味といった様子でアスナが言い返す。 「ふふ、どうせこんなこともあろうと思いまして、私一ヶ月前からずっとセルムブルグで早朝より監視の任務についておりました」  得意げなクラディールの返事に思わず絶句する。アスナも同様に凍り付いている。いくらか間を置いて、固い声で聞き返した。 「そ……それ、団長の指示じゃないわよね……?」 「私の任務はアスナ様の護衛です! それには当然ご自宅の監視も……」 「ふ……含まれないわよバカ!!」  その途端クラディールはちらりと怒りと苛立ちの表情を浮かべ、つかつかと歩み寄ると乱暴に俺を押しのけてアスナの腕を掴んだ。 「聞き分けの無いことを仰らないでください……さあ、本部に戻りますよ」  抑えがたい何かをはらんだ声の調子にアスナは一瞬ひるんだようだった。傍らの俺にすがるような視線を向けてくる。  実を言えば俺はその瞬間まで、いつもの悪い癖で逃げてしまおうかなぁなどと思っていたのだった。が、アスナの瞳を見た途端勝手に右手が動いていた。アスナを掴んだクラディールの右手首を握り、街区圏内で犯罪防止コードが発動してしまうギリギリの力を込める。 「悪いな、お前のトコの副団長は今日は俺の貸切りなんだ」  我ながら呆れる台詞だが今更後には引けない。今まで敢えて俺の存在を無視していたクラディールは顔をゆがめて手を振り解くと、 「貴様ァ……!」  軋むような声で唸った。その表情には、システムによる誇張を差し引いてもどこか常軌を逸した何かを感じさせるものがある。 「アスナの安全は俺が責任を持つよ。別に今日ボス戦をやろうって訳じゃない。本部にはあんた一人で行ってくれ」 「ふ……ふざけるな!! 貴様のような雑魚プレイヤーにアスナ様の護衛が勤まるかぁ!! わ……私は栄光ある血盟騎士団の……」 「あんたよりはマトモに勤まるさ」  まあ、正直な所この一言は余計だった。 「ガキィ……そ、そこまででかい口を叩くからにはそれを証明する覚悟があるんだろうな……」  顔面蒼白になったクラディールは、震える左手でウィンドウを呼び出すとすばやく操作した。同時に俺の前に半透明のシステムメッセ—ジが出現する。内容は見る前から想像がついた。 『クラディール から1vs1デュエルを申し込まれました。受諾しますか?』  無表情に発光する文字の下に、YesとNoのボタンといくつかのオプション。俺はちらりと横に立つアスナに視線を向けた。彼女にはこのメッセージは見えていないが、状況は察しているだろう。当然止めると俺は思ったのだが、驚いたことにアスナは固い表情で頷いた。 「……いいのか? ギルドで問題にならないか……?」  小声で聞いた俺に、同じく小さいがきっぱりした口調で答える。 「大丈夫。団長にはわたしから報告する」  俺は頷き返すとYesボタンに触れ、オプションの中から『初撃で勝敗を決する』を選択した。最初に強攻撃をヒットさせたほうが勝利するという条件だ。メッセージは『クラディールとの1vs1デュエルを受諾しました』と変化し、その下で六十秒のカウントダウンが開始される。この数字がゼロになった瞬間俺と奴の間には街区での犯罪防止コードが消滅し、勝敗が決するまで剣を打ち合うことになる。  クラディールはアスナの首肯をどう解釈したものか、 「ご覧くださいアスナ様! 私以外に護衛が勤まる者など居ない事を証明します!」  狂喜を押し殺したような表情で叫び、芝居ががった仕草で腰から大ぶりの両手剣を引き抜くと中央に構えた。アスナが数歩下がるのを確認して、俺も背から片手剣を抜く。さすがに名門ギルドの所属だけあって、剣の値段は奴の物のほうが格段に高いだろう。両手用と片手用のサイズの違いだけでなく、俺の愛剣が実用一本の簡素なものなのに比べ奴の得物は一流の彫金職人の技とおぼしき華麗な装飾が施してある。  俺達が五メートルほどの距離を取って向き合い、カウントを待つ間にも周囲には次々とギャラリーが集まってきていた。それも無理はない、ここは街のド真中のゲート広場である上に俺も奴もそこそこ名の通ったプレイヤーなのだ。 「ソロプレイヤーのキリトとKoBメンバーがデュエルだとよ!!」  ギャラリーの一人が大声で叫び、周囲がドッと湧いた。普通デュエルは友人同士の腕試しで行われるもので、この事態に至るまでの険悪な成り行きを知らない見物人たちは口笛を鳴らすわ野次を飛ばすわ大変な騒ぎである。  だが、カウントが進むと同時に俺にはそれらの声は聞こえなくなっていった。モンスターと対峙する時と同じように、固く研ぎ澄まされた緊張感の糸が全身を貫いて行くのを感じる。野次を気にしてちらちらと周囲に苛立った視線を向けるクラディールの全身の様子、剣の構え方や足の開き方といった「気配」を読むべく俺は意識を集中した。  人間のプレイヤーはモンスター以上に、繰り出そうと意図する剣技の癖が事前に現れるものだ。突撃系の技、受身系の技、上段から始まるか下段からか、それらの情報を相手に与えてしまうことは人間を相手にする場合致命的なミスとなる。クラディールは剣を中段にやや引き気味に構え、前傾姿勢で腰を落としていた。明らかに突進系の上段攻撃の気配だ。無論それがフェイントということもあり得る。実際俺は今剣を下段に構えゆるめに立ち、初動を下方向の小攻撃から始めるように見せかけている。このへんの虚実の読み合いはもうカンと経験に頼るしかない。  カウントが一桁になり、俺はウインドウを消去した。最早周囲の雑音は聞こえない。  最後まで俺とウインドウとの間で視線を往復させていたクラディールの動きが止まり、全身がぐっと緊張した。二人の間の空間に紫色の閃光を伴って『Duel!!』の文字が弾け、それと同時に俺は猛烈な勢いで地面を蹴っていた。ごくごく僅か、ほんの一瞬遅れて奴の身体も動き始める。だが、その顔には驚愕の表情が張り付いている。下段の受身気配を見せていた俺が予想を裏切って突進してきたからだ。  クラディールの初動は推測通り両手用大剣の上段ダッシュ技、〈アバランシュ〉だった。生半可なガードでは、受けることに成功しても衝撃が大きすぎて優先的反撃に入れず、避けても突進力によって距離ができるため使用者に立ち直る余裕を与える優秀な高レベル剣技だ。あくまでモンスター相手なら、だが。  その技を読んだ俺は、同じく上段の片手剣突進技〈ソニックリープ〉を選択した。技同士が交錯する軌道である。技の威力そのものは向こうの方が上だ。そして、武器による攻撃同士が衝突した場合、より重い技のほうに有利な判定がなされる。この場合は、通常なら俺の剣は弾かれ、威力を減じられるとはいえ勝敗を決するに十分なダメージが俺の身体に届くだろう。だが、俺の狙いはクラディール本人ではなかった。  二人の距離が相対的にすさまじいスピードで縮んでゆく。だが同時に俺の知覚も加速され、徐々に時間の流れがゆるくなるような感覚を味わう。これがSAOのシステムアシストの結果なのか、人間本来の能力なのかは判らない。ただ、俺の目には剣技を繰り出す奴の全身の動きがはっきりと見て取れる。大きく後ろに振りかぶった大剣がオレンジ色のエフェクト光を発しながら俺に向かって撃ち出されてくる。さすがに最強ギルドの構成員だけあってステータス・パラメータはそこそこのものらしく、技の発生速度が俺の予想より速い。オレンジに発光する刀身が迫る。必殺の威力をはらむそれを正面から食らったら、一撃終了のデュエルとは言え注意域にまで達するダメージを被るに違いない。勝利を確信したクラディールの顔に隠せない狂喜の色が浮かぶ。だが——。  奴の先を取り、一瞬早く動き出した俺の剣は斜めの軌道を描き——これがこの技の特徴だ——こちらは黄緑色の光の帯を引きながら、まだ振りはじめで攻撃判定の発生する直前の奴の大剣の横腹に命中した。凄まじい量の火花。  武器と武器の攻撃が衝突した場合のもうひとつの結果。それが武器破壊である。  無論めったに起きることではない。技の出始めか出終わりの、攻撃判定が存在しない状態に、その武器の構造上弱い位置・方向から強烈な打撃が加えられた場合のみそれが発生する可能性がある。だが俺には、当たれば折れる確信があった。装飾華美な武器は耐久力に劣る。  果たして——耳をつんざくような金属音と、オレンジ色の火花の断末魔を撒き散らしながらクラディールの両手剣がその横腹からヘシ折れた。爆発じみた派手なライトエフェクトが炸裂する。そのまま俺と奴は空中ですれちがい、もと居た位置を入れ替えて着地。回転しながら宙高く吹っ飛んでいった奴の剣の半身が、上空できらりと陽光を反射したかと思うと数瞬ののちに二人の中間の石畳に突き立った。直後、その剣先とクラディールの手に残った下半分が無数のポリゴンのかけらとなって砕け散った。  しばらくの間、沈黙が広場を覆った。見物人は皆口をぽかんと開けて立ち尽くしている。だが、俺が着地姿勢から身体を起こし、いつもの癖で剣をサッと切り払うとわっと歓声が巻き起こった。  すげえ、いまの狙ったのか、と口々に一瞬の攻防を講評しはじめる。俺は多少苦々しい気分だった。技一つとはいえ衆人環視の中で手の内を見せるのは気持ちのいいものではない。  剣を右手に下げたまま、背を向けてうずくまっているクラディールにゆっくりと歩み寄る。白いマントに包まれた背中がぶるぶると震えている。その肩口から奴の顔の横に向かって剣先を突きつけ、俺は言った。 「負けを認めろ。キーワードはわかってるな? それともルール通り強攻撃を一発食らうか?」  今まで、このデュエルを友人同士の腕試しだと思っていたギャラリーの歓声が徐々に静まっていった。いぶかしげな様子でざわめきながらこちらに視線を向けている。クラディールは俺を見ることなく、両手で石畳に爪を立てておこりのように身体を細かく震わせていたが、やがて軋るような声で「I resign」と発声した。別に日本語で『降参』や『参った』でもデュエルは終了するのだが。  俺が剣を引き、鞘に収めると同時に、開始の時と同じ位置に『デュエル終了 勝者キリト』という紫色の文字列がフラッシュした。再びワッという歓声。クラディールはよろけながら立ち上がると、ギャラリーの列に向かって喚いた。 「見世物じゃねえぞ! 散れ! 散れ!」  次いで、ゆっくりと俺の方に向き直る。 「貴様……殺す……絶対に殺す……」  その目つきには俺も少々ゾッとさせられたことを認めないわけにはいかない。SAOの感情表現はややオーバー気味なのだが、それを差っ引いてもクラディールの三白眼に浮かんだ憎悪の色はモンスター以上だ。辟易して黙りこんだ俺の傍らに、スッと歩み出た人影があった。 「クラディール。血盟騎士団副団長として命じます。本日を以って護衛役を解任。別命あるまでギルド本部にて待機。以上!」  アスナの声は表情以上に凍りついた響きを持っていた。だが俺はその中に抑えつけられた苦悩の色を感じて、無意識のうちにアスナの肩に手を掛けていた。固く緊張したアスナの身体が小さくよろめくと、俺にもたれかかるように体重を預けてくる。 「…………なん……なんだと……この……」  かろうじてそれだけが聞こえた。残りの、多分百通りの呪詛であろう言葉を口の中でぶつぶつと呟きながら、クラディールは俺達を見据えた。おそらく予備の武器を装備しなおして、犯罪防止コードに阻まれるのを承知の上で打ちかかることを考えているに違いない。だが、奴はかろうじて自制すると、マントの内側から転移結晶を掴み出した。握力で砕かんばかりに握り締めたそれを掲げ、「転移……グランザム」とつぶやく。青光に包まれ消え去る最後の瞬間まで、クラディールは俺達に憎悪の視線を向けていた。  転移光が消滅したあとの広場は、後味の悪い沈黙に包まれた。見物人は皆クラディールの毒気に当てられたような顔をしていたが、やがて三々五々散ってゆく。最後に残された俺とアスナはしばらくその場に立ち尽くしていた。  俺に寄り添うようにしていたアスナは顔を伏せ、俺の肩口に額をつけて、「ごめんね……変なことに巻き込んじゃって……」と震える声でつぶやいた。こんな時、どういう言葉を掛ければいいのか分らない自分が恨めしい。いっそ奴に負けていればよかったのだろうか……などと暗澹たる気分が湧き起こる。だが、アスナの次の言葉でそれは驚愕に変った。 「わたし、ギルド辞める」 「なっ……」 「何ヶ月も前から考えてたことなの。副団長だなんて祭り上げられてちやほやされるのはもう嫌……。団長も好きだしメンバーのみんなも好きだけど、ただの居心地のいい場所だったはずなのに……いつのまにか変っちゃった……」  俺の肩口に顔を伏せたままのアスナの背中におそるおそる手を沿わせ、その身体の小ささに改めて驚く。朴念仁の鈍感人間を自覚して恥じない俺でも、ただの女の子がこのデスゲーム・ワールドの囚人となることの意味について改めて考えないわけにはいかなかった。  俺の知る限りアスナはベータテスト参加者ではない。何の知識もなく殺戮の世界に身一つで放り込まれ、二年かかっていまの居場所に辿り着くまでにどれほどの苦労があったろう。最初から最強剣士だったわけではないのだ。俺は今更のようにそんな単純な事実に思い至っていた。たとえ前から考えていたとは言っても、アスナがギルド脱退を決意するに至るきっかけを作ってしまったのは間違いなく俺だ。  言え! 言うんだ! と内心で叫ぶ声に背を押されるように、俺はなけなしの勇気を振り絞って口を開いた。 「な……なら……俺が……その場所の代わりになる」  我ながら情けない声にも程があった。それを聞いたアスナの身体がぴくりと震えた。永遠にも等しい数秒間の沈黙。  やがてアスナは、顔を伏せたまま小さくコクリと頷くと、両腕を俺の背中に回してぎゅっとしがみついてきた。俺は、自分の中に広がった暖かく深い喜びの感覚に不思議な驚きをおぼえていた。二度とこの世界で絆を求めるまいと決意し、頑なに他人を拒否してきたつもりだったのに——。  いまだ消えない深い朝霧がひときわ濃くゲート広場に流れ込み、ぴったり寄り添って立つ俺達を薄黄色の光の粒で覆い隠した。十時を告げる鐘の音が遠くで響き、市場の開く喧騒があたりを包む頃になっても、俺達は長い間そこに立ち続けていた。      8  俺とアスナは迷宮区へと続く森の小道を並んで歩いていた。今日の攻略はやめて街に戻るかと尋ねたのだが、アスナが頑として予定の消化を主張したのである。もともと予定など有って無きが如き物で、すこしでもマップを埋められればそれでいいというつもりだったのだが無論俺に否やはない。今後も継続的に戦闘を共にするというのなら早いうちに二人の剣技の相性も見ておかなければならないし、何より俺ももっと長く一緒にいたい気分だったのだ。  柔らかく繁った下草を、さくさくという小気味良い音を立てて踏みしめながらアスナが明るい声で言った。 「明日買い物に付き合ってよ。あたらしい戦闘服買わなきゃ」  両手を広げながらギルドの制服を見下ろす。 「うう……そういう店は苦手なんだけど……」 「だーめ! ついでにキリト君の服も見てあげるよー。いっつもそれじゃない」  あははと笑いながら俺のくたびれたレザーコートをつつく。 「いいんだよ別に! そんな金があったらすこしでも旨い物をだなぁ……」  言いかけながら、俺は何気なくいつもの癖で周囲の索敵スキャンを行った。モンスターの反応はない。だが——。 「……? どうしたの?」 「いや……」  俺は、索敵可能範囲ぎりぎりにプレイヤーの集団を感知していた。俺たちが歩いてきた方向だ。視線を集中すると、プレイヤーの存在を示す緑色のカーソルが連続的に点滅する。  犯罪者プレイヤーの集団である可能性はない。連中は確実に自分たちよりレベルの低い獲物を狙うので、最強クラスのプレイヤーが集まる最前線に姿を現すことはごく稀であるし、何より一度でも犯罪行為を犯したプレイヤーはカーソルの色が緑からオレンジに変化するからだ。俺が気になったのはその人数と、集団の並び方だった。  俺はメインメニューからマップを呼び出した。可視モードにしてアスナにも見えるように設定する。周辺の森を示しているマップには、俺の索敵スキルとの連動によってプレイヤーを示す緑の光点が浮かんでいる。その数十二。 「多いね……」  アスナの言葉に頷く。パーティーは人数が増えすぎると連携が難しくなるので、五、六人で組むのが普通だ。 「それに見ろ、この並び方……」  マップの端近くを、こちらに向かってかなりの速度で近づいてくるその光点の群れは二列に整然と並んで行進していた。危険なダンジョンでならともかく、たいしたモンスターのいないフィールドでここまできっちりした隊形を組むのは珍しい。 「一応確認したい。そのへんに隠れてやり過ごそう」 「そうね……」  アスナも緊張した面持ちで頷いた。俺達は道を外れて土手を這い登り、背丈ほどの高さに密集した潅木の茂みを見つけてその陰にうずくまった。道を見下ろすことのできる絶好の位置だ。 「あ……」  不意にアスナが自分の格好を見下ろした。赤と白の制服は緑の茂みの中でいかにも目立つ。 「どうしよ……わたし着替え持ってないよ……」  マップの光点の集団はすでにかなりの近さにまで肉薄していた。そろそろ可視範囲に入る。 「ちょっと失敬」  俺は自分のレザーコートの前を開くと。右隣にうずくまるアスナの体を包み込んだ。アスナはちょっと顔を赤くしたが素直に俺に密着し、自分の体がすべて俺のコートに隠れるようにした。黒のぼろコートなら格好の保護色だ。ここまで隠蔽条件を満たせば、よほど高レベルの索敵スキルで探査しないかぎり発見することは難しい。 「たまにはこの一張羅も役に立つだろ」 「もう! ……シッ、来るよ!」  アスナはささやいて指を唇の前に立てた。一層体を低くした俺達の耳に、ざっざっという規則正しい足音がかすかに届きはじめた。  やがて、曲がりくねった小道の先からその集団が姿を現した。全員が戦士クラスだ。お揃いの黒鉄色の金属鎧に濃緑の戦闘服。すべて実用的な簡素なデザインだが、先に立つ六人の持った大型のシールドの表面には特徴的な火竜の印章が施されている。前衛六人の武装は片手剣。後衛六人は巨大な斧槍だ。全員が目深にヘルメットを装着しているためその表情を見て取ることはできない。一糸乱れぬその行進を見ていると、まるで、十二人のまったく同じNPCがSAOシステムによって動かされているように思えてくる。  間違いない。基部フロアを本拠地とする超巨大ギルド〈軍〉のメンバーである。傍らのアスナもそれを察したらしく、身を固くして息を詰めている気配が伝わってくる。  彼らは決して一般プレイヤーに対して敵対的な存在ではない。それどころか、フィールドにおける犯罪行為の防止を最も熱心に推進している集団であると言ってよい。ただ、その方法はいささか過激で、犯罪者フラグを持つプレイヤー——通常緑色のカーソルが、モンスターを現す黄色に良く似たオレンジで表示される——を発見次第問答無用で攻撃し、投降した者を武装解除して黒鉄宮の牢獄エリアに監禁しているという話だ。投降せず、離脱にも失敗した者の処遇に対する恐ろしい噂もまことしやかに語られている。  また、連中は常に大人数のパーティーで行動し、モンスターの出現区域を長時間独占してしまうこともあって、一般プレイヤーの間では〈軍〉には極力近づくな、という共通認識が生まれていた。もっとも、連中は主に五十層以下の低層フロアでの治安維持と勢力拡大を図っているため、最前線で見かけることはまれだったのだが——。  俺達が息を潜めて見守るなか、十二人の重武装戦士は鎧の触れ合う金属音と重そうなブーツの足音を響かせながら機械のように整然とした行進で眼下の道を通過し、深い森の木々の中に消えていった。  現在SAOの囚人となっている数万人のプレイヤーは、発売日にソフトを入手できたことだけを見ても筋金入りのゲームマニアだと思っていい。そしてゲームマニアというのは間違いなく規律という言葉からは最も縁遠い人種だ。二年が経過するとは言え、あそこまで統制の取れた動きをするというのは尋常ではない。連中は〈軍〉の中でも最精鋭の部隊なのだろう。  マップで連中が索敵範囲外に去ったことを確認すると、俺とアスナはしゃがみこんだままフウ、と息を吐き出した。 「……あの噂、本当だったんだ……」  俺のコートにくるまったまま、アスナが小声で呟いた。 「噂?」 「うん。ギルドの例会で聞いたんだけど、〈軍〉が方針変更して上層エリアに出てくるらしいって。もともとはあそこもクリアを目指す集団だったんだよね。でも二十五層攻略の時大きな被害が出てから、クリアよりも組織強化って感じになって、前線に来なくなったじゃない。それで、最近一般の所属プレイヤーに不満が出てるって情報だったわ。——で、前みたいに大人数で迷宮に入って混乱するよりも少数精鋭部隊を送って、その戦果でクリアの意思を示すっていう方針になったらしいの。その第一陣がそろそろ現れるだろうって団長が言ってた」 「実質プロパガンダなのか。でも、だからっていきなり未踏破層に来て大丈夫なのか……? レベルはそこそこありそうだったけどな……」 「ひょっとしたら……ボスモンスター攻略を狙ってるのかも……」  各層の迷宮区には、上層へとつながる階段を守護するボスモンスターが必ず存在する。一度しか出現せず、恐ろしいほどの強さを誇るが、確かに倒した時の話題性は抜群だ。さぞかしいい宣伝になることだろう。 「それであの人数か……。でもいくらなんでも無茶だ。七十四層のボスはまだ誰も見たことないんだぜ。普通は偵察に偵察を重ねた上でボスの戦力と傾向を確認して、巨大パーティーを募って攻略するもんだ」 「ボス攻略だけはギルド間で協力するもんね。あの人たちもそうする気かな……?」 「どうかな……。まあ、連中もぶっつけでボスに挑むほど無謀じゃないだろ。俺たちも急ごうぜ。中でかち合わなきゃいいけど」  俺はアスナと密着した状況を名残惜しく思いながら立ち上がった。コートから出たアスナが寒そうに体をすくめる。 「もうすぐ冬だねえ……。ついでにわたしも上着買お。それどこで買ったやつ?」 「む……たしかアルゲード西区のプレイヤーショップだけど……」 「よーし、冒険終わったらそこ行こう! 買い物買い物」  アスナはやけに嬉しそうにぴょんと跳ねると、身軽な動作で三メートルは下の小道に飛び降りた。俺もそれにならう。筋力パラメータ補正のお陰でこのくらいの高さなら無いも同然だ。  太陽がそろそろ中天に達しようという時刻になっていた。俺とアスナはマップに気を配りつつ可能な限りのスピードで先を急いだ。  幸い一度もモンスターに遭遇することもなく森を抜けると、そこかしこに水色の花が点在する草原が広がっていた。道は真中を貫いて西に伸び、その先に七十四層の迷宮区が威容を見せてそびえ立っている。  迷宮区、と言ってもいわゆるダンジョン=地下迷宮とは違い、アインクラッドのそれは地面と、はるか百メートル上空の新フロアを繋ぐ巨大な塔と言ってよい。その形は様々だがたいてい直径は高さの二倍以上、内部は複雑に入り組んだ無数の部屋と通路が多層構造をなしてプレイヤーを待ち受けている。出現するモンスターの危険度もフィールドとは比べ物にならない。  この迷宮区の、たいがい最上部にはひときわ大きな部屋があり、次層——この場合は七十五層となる——へと繋がる階段を凶悪なボスモンスターが守護している。そこを突破して次層の主街区に到達し、転移門をアクティブ化すれば晴れて一フロアの攻略達成となる。「街びらき」のときは新たな風物を求めてプレイヤーが下層のあちこちから殺到し、街全体がお祭り騒ぎとなってそれは賑やかなものだ。現在の最前線七十四層の攻略が開始されて今日で九日目、そろそろボスの部屋が発見されてもいい頃ではある。  草原の向こうにそびえ立つ巨塔は、赤褐色の砂岩で組み上げられた円形の構造物だった。俺もアスナももう何度も訪れている場所だが、徐々に近づくにつれ天を覆い隠さんばかりのその威容に圧倒されずにはいられない。これがアインクラッド全体の百分の一の高さなのだ。願って詮無いことではあるが、いつか外部から浮遊巨大城の全景を眺めてみたいというのが俺の密かな夢だった。  軍の連中の姿は見えない。すでに内部にいるのだろう。俺達はつい早足になりながら、ようやく近づいてきた迷宮区の入り口に向かって近づいていった。      9  ギルド血盟騎士団が最強の座を不動のものとしたのは一年以上も前のことである。その頃から、『伝説の男』ことギルドリーダーはもちろんサブリーダーのアスナもトップ剣士として名を知られ、閃光の二つ名をアインクラッド中に轟かせていた。それから一年、細剣使いとしてスキル構成の完成を見たアスナの対モンスター戦闘を俺は初めて間近で目にする機会を得た。  七十四層迷宮区の最上部近く、左右に円柱の立ち並んだ長い回廊に俺達は居た。戦闘の真っ最中。敵は〈デモニッシュサーバント〉の名を持つ骸骨の剣士だ。身長二メートルを超えるその体は不気味な青い燐光をまとった人骨で、右手に長い直剣、左手に円形の金属盾を装備している。当然だが筋肉などひとかけらも無いくせに恐ろしい筋力パラメータを持った厄介な相手である。だが、アスナはその難敵をむこうに一歩も引かなかった。  骸骨の剣が青い残光を引きながら立て続けに垂直に打ち下ろされた。四連続技〈バーチカルスクェア〉。数歩下がった位置から俺がハラハラしつつ見守る中、アスナは左右への華麗なステップでその攻撃全てを避けきってみせた。  たとえ二対一の状況とはいえ、武器を装備した相手だとこちらが二人同時に打ちかかれる訳ではない。システム的には不可能ではないが、目にも止まらぬ高速で武器が飛び交う刃圏に味方が近接していると、お互いの技を邪魔しあってしまうデメリットのほうが大きい。そこで、パーティープレイでの戦闘では高度な連携が要求される〈スイッチ〉というテクニックが用いられる。  四連撃最後の大振りをかわされたデモニッシュサーバントが僅かに体勢を崩した。その隙を見逃さずアスナは反撃に転じた。白銀にきらめく細剣を中段に突き入れる。見事にヒット、骸骨のHPバーが減少する。一撃のダメージは大きいとは言えないが、何しろその手数がすさまじい。  中段の突きを三連続させたあと、ガードが上がり気味になった敵の下半身に一転して切り払い攻撃を往復。次いで斜めに斬り上がった剣先が、純白のエフェクト光を撒き散らしながら上段に二度突きの強攻撃を浴びせる。なんと八連続攻撃だ。確か〈スター・スプラッシュ〉という名のハイレベル細剣技である。もともと細剣と相性が悪い骸骨系のモンスターを相手にその剣先を的確にヒットさせてゆく技量は尋常ではない。  骸骨のHPバーを三割削り取った威力もさることながら、使用者を含めたそのあまりの華麗さに俺は思わず見とれた。剣舞とはまさにこの事だ。  放心した俺に、まるで背中に目がついているかのようなアスナの声が飛んだ。 「キリト君、スイッチ行くよ!!」 「お、おう!」  あわてて剣を構えなおす。同時に、アスナは単発の強烈な突き技を放った。その剣先は、骸骨の左手の金属盾に阻まれ派手な火花を散らした。しかしこれは予定の結果だ。重い攻撃をガードした敵はごく僅かな硬直時間を課せられ、すぐに攻撃に転じることができない。無論大技をガードされたアスナも硬直を強いられるが、重要なのはその「間」だった。  俺は間髪入れず突進系の技で敵の正面に飛び込んだ。わざと戦闘中にブレイク・ポイントを作り出し、仲間と交代するのが〈スイッチ〉である。  アスナが十分な距離を取って退くのを視界の端で確認した俺は、右手の剣をしっかり握りなおすと猛然と敵に打ちかかった。彼女程の達人なら別だが、基本的にはこのデモニッシュ・サーバントのような隙間の多い敵には突き技よりも斬り技の方が有効だ。最も相性がいいのはメイス系の打撃武器だが、俺も、多分アスナも打撃系のスキルは持っていない。  俺が繰り出した〈バーチカル・スクェア〉は四回とも面白いように敵にヒットし、HPを大きく削り取った。骸骨の反応が鈍い。モンスターのAIには、突然剣技の種類を切り替えられると対応に時間がかかるという特徴があるからだ。これがパーティーでの戦闘を行う最大のメリットの一つである。  敵の反撃を武器でパリィ防御した俺は、勝負を決めるべく大技を開始した。いきなり右斜め斬り降ろしの強攻撃から、手首を返してゴルフスイングのように同じ軌道を逆戻りして斬り上げる。敵の骨だけの体を剣先が捉えるたび、ガツンという衝撃音と共にオレンジ色の光芒が飛び散る。上段の剣を受け止めるべく盾を上げる敵の思惑を外して、俺は左肩口から体当たりを敢行。姿勢をぐらつかせた骸骨の、がら空きの胴体めがけて右水平斬りを放つ。間髪入れず今度は右の肩から再び体当たり。強攻撃を連続させる隙をタックルで埋める珍しい技、〈メテオブレイク〉だ。自慢ではないが片手剣の他に体術スキルもないと使うことはできない。  ここまでの攻撃で、敵のHPバーは大きく減少して瀕死領域に入っていた。俺は、全身の力を込めて七連撃最後の上段左水平斬りを繰り出した。エフェクト光の円弧を引きながら、剣は狙い違わず骸骨の首に吸い込まれるように命中。骨が断ち切られ、頭蓋骨が勢い良く宙に舞うのと同時に、残った体は糸が切れたように乾いた音を立てて崩れ落ちた。 「やった!!」  剣を収めた俺の背中にアスナが飛びついてきた。  戦利品の分配は後回しにして、俺とアスナは先に進むことにした。ここまで四回モンスターと遭遇したが、ほとんどダメージを負うことなく切り抜けている。大技の連発を好む俺のスタイルに対してアスナは小、中の多段攻撃を得意とし、敵のAIに負荷を与え——もちろんCPUの処理能力という意味ではなく、あくまでアルゴリズムの範囲内においてだが——戦闘を有利に運ぶという面では二人の剣技の相性は悪くないと言って良いだろう。多分レベルもそう大差ないはずだ。  俺達は円柱の立ち並ぶ荘厳な回廊を慎重に進んだ。索敵スキルのせいで不意打ちの心配は無いとは言え固い石の床に反響する足音をつい気にしてしまう。迷宮の中に光源は存在しないが、周囲は不思議な淡い光に満たされて視界に不自由することはない。  その光に照らし出される回廊の様子を注意深く見渡してみる。下部では赤茶けた砂岩で出来ていた迷宮だが、登るにつれいつのまにか素材が濡れたような青味を帯びた石に変化してきていた。円柱には華麗だが不気味な彫刻が施され、根元は一段低くなった水路の中に没している。総じて言えば、オブジェクトが重くなってきているのだ。マップデータの空白部分もあと僅かである。俺の直感が正しければこの先には多分——。  回廊の突き当たりには、灰青色の金属で出来た巨大な両開きの扉が待ち受けていた。扉にも、円柱と同じような怪物のレリーフがびっしりと施してある。すべてがデジタルデータで出来たこの世界だが、その扉からは何とも言いがたい妖気が湧き上っているように感じられてならない。俺たちはその前で立ち止まると、顔を見合わせた。 「……これって、やっぱり……」 「多分そうだろうな……ボスの部屋だ」  アスナがぎゅっと俺の手を握ってきた。 「どうするの……? 覗くだけ覗いてみる?」  強気なその台詞とは裏腹に声は不安を色濃くにじませている。最強剣士でもやっぱりこういうシチュエーションは怖いと見える。まあそれも当然だ、俺だって怖い。 「……ボスモンスターはその守護する部屋からは絶対に出ない。ドアを開けるだけなら多分……だ、大丈夫……じゃないかな……」  自信無さそうに消える語尾に、アスナがとほほという表情で応じる。 「一応転移アイテム用意しといてくれ」 「うん」  頷くと、スカートのポケットから青いクリスタルを取り出した。俺もそれにならう。 「いいな……開けるぞ……」  右手でアスナの手をしっかり握り締め、俺は結晶を握りこんだ左手を鉄扉にかけた。現実世界なら今ごろ手の平が汗でびっしょりだろう。ゆっくりと力を込めると、俺の身長の倍はあるだろう巨大な扉は思いがけず滑らかに動き始めた。一度動き出すと、こちらが慌てる程のスピードで左右の扉が連動して開いてゆく。俺とアスナが息を詰めて見守る中、完全に開ききった大扉はずしんという衝撃と共に止まり、内部に隠していたものをさらけ出した。  ——と言っても内部は完全な暗闇だった。俺たちの立つ回廊を満たす光も、部屋の中までは届かないらしい。冷気を含んだ濃密な闇は、いくら目を凝らしても見透かすことができない。 「…………」  俺が口を開こうとした瞬間、突然入り口からわずかに離れた床の両側に、ボッと音を立てて二つの青白い炎が燃え上がった。思わず二人同時にビクリと体をすくませてしまう。すぐに、少し離れた場所にまた二つ炎が湧き上がった。そしてもう一組。さらにもう一組。ボボボボボ……という連続音と共に、たちまち入り口から部屋の中央に向かってまっすぐに炎の道が出来上がる。最後に一際大きな火柱が吹き上がり、同時に奥行きのある長方形の部屋全体が薄青い光に照らし出された。かなり広い。マップの残り空白部分がこの部屋だけで埋まるサイズだ。  アスナが緊張に耐えかねたように全身で俺にしがみついてきた。だが俺にもその感触を楽しむ余裕など砂粒ほどもない。なぜなら、激しく揺れる火柱の後ろから徐々に巨大な姿が出現しつつあったからだ。  見上げるようなその体躯は、全身縄のように盛り上がった筋肉に包まれている。肌は周囲の炎に負けぬ深い青、分厚い胸板の上に乗った頭は人間ではなく山羊のそれだった。頭の両側からはねじれた太い角が後方にそそり立っている。眼は、これも青白く燃えているかのような輝きを放っているが、その視線は明らかにこちらにひたと据えられているのがわかる。下半身は濃紺の長い毛に包まれ、炎に隠れてよく見えないがそれも人ではなく動物のもののようだ。簡単に言えばいわゆる悪魔の姿そのものである。  入り口から、奴のいる部屋の中央まではかなりの距離があった。にもかかわらず俺たちはすくんだように動けなかった。今までそれこそ無数のモンスターと戦ってきたが、悪魔型というのは始めてだ。色々なRPGでお馴染みと言ってよいその姿だが、こうやって「直」に対面すると体の内側から湧き上がる原始的な恐怖心を抑えることが出来ない。  恐る恐る視線を凝らし、出てきたカーソルの文字を読む。〈The Gleameyes〉、間違いなくこの層のボスモンスターだ。名前に定冠詞がつくのはその証である。グリームアイズ——輝く目、か。  そこまで読み取った時、突然青い悪魔が長く伸びた鼻面を振り上げ、轟くような雄叫びを上げた。炎の列が激しく揺らぎ、びりびりと振動が床を伝わってくる。口と鼻から青白く燃える呼気を噴出しながら、右手に持った巨大な剣をかざして——と思う間も無く、青い悪魔は真っ直ぐこちらに向かって、地響きを立てつつ猛烈なスピードで走り寄ってきた。 「うわあああああ!」 「きゃあああああ!」  俺たちは同時に悲鳴を上げ、くるりと向き直ると全力でダッシュした。ボスモンスターは部屋から出ない、という原則を頭では判っていてもとても踏みとどまれるものではない。鍛え上げた敏捷度パラメータに物を言わせ、俺とアスナは長い回廊を疾風のごとく駆け抜け、遁走した。      10  俺とアスナは迷宮区の中ほどに設けられた安全エリア目指して一心不乱に駆け抜けた。途中何度かモンスターにターゲットされたような気がするが、正直構っていられなかった。  安全エリアに指定されている広い部屋に飛び込み、並んで壁際にずるずるとへたり込む。大きく一息ついてお互い顔を見合わせると、 「……ぷっ」  どちらともなく笑いがこみ上げてきた。冷静にマップなりで確認すれば、やはりあの巨大悪魔が部屋から出てこないのはすぐにわかったはずだが、どうしても立ち止まる気にはならなかったのだ。 「あはは、やー、逃げた逃げた!」  アスナは床にぺたりと座り込んで、愉快そうに笑った。 「こんなに一生懸命走ったのすっごい久しぶりだよー。まぁ、わたしよりキリト君のほうが凄かったけどね!」 「…………」  否定できない。憮然とした俺の表情を眺めながら散々くすくす言い続けたアスナは、ようやく笑いを収めると、 「……あれは苦労しそうだね……」と表情を引き締めた。 「そうだな。パッと見、武装は大型剣ひとつだけど特殊攻撃アリだろうな」 「前衛に固い人を集めてどんどんスイッチして行くしかないね」 「盾アリの奴が十人は欲しいな……。まあ、当面は少しずつちょっかい出して傾向と対策って奴を練るしかなさそうだ」 「盾あり、ねえ」  アスナが意味ありげな視線でこちらを見た。 「な、なんだよ」 「キリト君、なんか隠し技があるでしょ」 「いきなり何を……」 「だっておかしいもん。普通片手剣の最大のメリットって盾装備できることじゃない。でもキリト君が盾持ってるとこ見たことないよ。わたしの場合は細剣のスピードが落ちるからだし、スタイル優先で盾持たないって人もいるけど、キリト君の場合はどっちでもないよね。……あやしいなぁ」  図星だった。確かに俺には隠している技がある。しかし今まで一度として人前では使ったことがない。スキル情報が大事な生命線だということもあるし、またその技を知られることは俺と周囲の人間とのあいだに更なる隔絶を生むことになるだろうと思ったからだ。  だが、この女になら——知られても構わないか……。  そう思って口を開こうとした時、 「まあ、いいわ。スキルの詮索はマナー違反だもんね」  ニコッと笑われてしまった。機先を制された格好で俺は口をつぐむ。アスナは左手をひらりと動かしてウインドウを確認し、目を丸くした。 「わあ、もう三時だね。遅くなっちゃったけどお弁当にしよっか」 「なにっ」  途端に色めき立つ俺。 「て、手作りですか」  アスナは無言ですました笑みを浮かべると、手早くメニューを操作し、白革の手袋を装備解除して小ぶりな藤のバスケットを出現させた。この女とコンビを組んで確実に良かった事が、少なくとも一つはあるな——と不埒な思考を巡らせた瞬間、じろりと睨まれてしまう。 「……なんか考えてるでしょ」 「な、なにも。それより早く食わせてくれ」  むー、という感じで唇を尖らせながらも、アスナはバスケットから大きな紙包みを二つ取り出し、一つを俺にくれた。慌てて開けると中身は、丸いパンをスライスして焼いた肉や野菜をふんだんに挟み込んだサンドイッチだった。胡椒に似た香ばしい匂いが漂う。途端に俺は猛烈な空腹を感じて、物も言わず大口を開けてかぶりついた。 「う……うまい……」  二口みくち立て続けに齧り、夢中で飲み込むと素直な感想が口をついて出た。アインクラッドのNPCレストランで供される、どこか異国風の料理に外見は似ているが味付けが違う。ちょっと濃い目の甘辛さは、紛うことなく二年前まで頻繁に食べていた日本風ファーストフードと同系列の味だ。あまりの懐かしさに思わず涙がこぼれそうになりながら、俺は大きなサンドイッチを夢中で頬張りつづけた。  最後のひとかけらを飲み込み、アスナの差し出してくれた冷たいお茶を一気にあおって俺はようやく息をついた。 「おまえ、この味、どうやって……」 「一年の修行と研鑚の成果よ。アインクラッドで手に入る約百種類の調味料が味覚再生エンジンに与えるパラメータをぜ〜〜〜んぶ解析して、これを作ったの。こっちがグログワの種とシュブルの葉とカリム水」  言いながらアスナはバスケットから小瓶を二つ取り出し、片方の栓を抜いて人差し指を突っ込んだ。どうにも形容しがたい紫色のどろりとした物が付着した指を、いきなり俺の口に突っ込む。 「!?」  大胆なアスナの行為にドギマギするのも束の間、口の中に広がった味に俺は心底驚愕した。 「……マヨネーズだ!!」 「で、こっちがアビルパ豆とサグの葉とウーラフィッシュの骨」  最後のは解毒ポーションの原料だった気がしたが、確認する間もなく再び口に指を突っ込まれてしまった。その味に、俺は先刻を大きく上回る衝撃を感じた。間違いなく醤油の味そのものだ。あまりの懐かしさに、思わず口中のアスナの指を思い切り舐めまわしてしまう。 「あ、やっ!!」  慌てて指を引き抜いたアスナは真っ赤な顔でこっちを睨んだが、俺の呆け面を見てぷっと吹き出した。 「さっきのサンドイッチのソースはこれで作ったのよ」 「…………すごい。完璧だ。おまえこれ売り出したらすっごく儲かるぞ」  正直、俺には昨日のラグー・ラビットの料理よりも今日のサンドイッチのほうが旨く感じられた。 「そ、そうかな」  アスナは照れたような笑みを浮かべる。 「いや、やっぱりだめだ。俺の分が無くなったら困る」 「意地汚いなあもう! いつでも作ってあげるわよ。……毎日でも」  最後の一言を小声で付け足すと、アスナは横に並んだ俺の肩にとん、と頭をもたれ掛けさせた。ここが死地の真っ只中だということも忘れてしまうような穏やかな沈黙が周囲に満ちる。こんな料理が毎日食えるなら節を曲げてセルムブルグに引っ越すかな……アスナの家のそばに……とふと思いつき、それを口にしようとしたとき。  不意に下層側の入り口からプレイヤーの一団が鎧をガチャガチャ言わせながら入ってきた。俺達は瞬間的にパッと離れて座りなおす。  いいところで邪魔をしてくれた六人パーティーのリーダーは、顔見知りのカタナ使いだった。最前線ではよく会うし、ボス攻略では何度か共闘したこともある。気のいい男だが、今だけはうらめしい。 「おお、キリト! しばらくだな」  俺だと気付いて笑顔で近寄ってきたカタナ使いと、腰を上げて挨拶を交わす。 「……まだ生きてたかクライン」 「相変わらず愛想のねえ野郎だ。珍しく連れがいるの……か……」  荷物を手早く片付けて立ち上がったアスナを見て、カタナ使いは額に巻いた趣味の悪いバンダナの下の目を丸くした。 「あー……っと、こいつはギルド〈風林火山〉のクライン。で、こっちは〈血盟騎士団〉のアスナ」  俺の紹介にアスナはぺこんと頭を下げたが、クラインは目のほかに口もまるく開けて完全停止した。 「おい、何とか言え。ラグってんのか?」  ひじでわき腹をつついてやるとようやく口を閉じ、凄い勢いで最敬礼気味に頭を下げる。 「はっ、はじめまして!! く、クラインという者です二十四歳独身」  どさくさに紛れて妙なことを口走るカタナ使いのわき腹をもう一度今度は強めにどやしつける。だが、クラインの台詞が終わるか終わらないうちに後ろに下がっていた五人のパーティーメンバーがガシャガシャ駆け寄ってきて、全員我先にと口を開いて自己紹介を始めた。  俺は呆れて振り返ると、アスナに向かって言った。 「……ま、まあ、悪い連中じゃないから。顔はまずいがな」  今度は俺の足をクラインが思い切り踏みつける。その様子を見ていたアスナが、我慢しきれないというふうに体を折るとくっくっと笑いはじめた。クラインは照れたようなだらしない笑顔を浮かべていたが、突然我に返って俺の腕を掴むと、抑えつつも殺気のこもった声で聞いてきた。 「どっどどどういう事だよキリト!?」  返答に窮した俺の傍らにアスナが進み出てきて、 「はじめまして、アスナといいます。キリト君とコンビ組みますので今後ともよろしくお願いします!」  よく通る声で言い、もういちどぺコッと頭を下げた。俺はもうヤケで両腰に手を当て、胸を張った。 「まあそういう事だ」  クライン達が表情を落胆と憤怒の間で目まぐるしく変える。これはただでは解放されそうもないぜ……と俺が覚悟を決めた時。  先ほど連中がやってきた方向から新たな一団の訪れを告げる足音と金属音が響いてきた。やたらと規則正しいその音に、アスナが緊張した表情で俺の腕に触れ、ささやいた。 「キリト君、〈軍〉よ!」  ハッとして入り口を注視するうち、果たして現れたのは森で見かけたあの部隊だった。クラインがサッと手を上げて仲間の五人を壁際に下がらせる。例によって二列縦隊で部屋に入ってきた集団の行進は、しかし森で見た時ほど整然とはしていなかった。足取りは重く、ヘルメットから覗く表情にも疲弊の色が見て取れる。  安全エリアの、俺たちとは反対側の端に部隊は停止した。先頭にいた男が「休め」と言った途端、残り十一人が盛大な音とともに倒れるように座り込んだ。男は、仲間の様子に目もくれずにこちらに向かって近づいてきた。  よくよく見ると、男の装備は他の十一人とはやや異なるようだった。金属鎧も高級品だし、胸部分に他の者には無い、アインクラッド全景を意匠化したらしき紋章が描かれている。  男は俺達の前で立ち止まると、ヘルメットを外した。かなりの長身だ。三十代前半といったところだろうか、ごく短い髪に角張った顔立ち、太い眉の下には小さく鋭い眼が光り、口元は固く引き結ばれている。じろりとこちらを横柄な視線で睥睨すると、先頭に立っていた俺に向かって口を開いた。 「私はアインクラッド解放軍・コーバッツ中佐だ」  なんと。〈軍〉というのは、その集団外部の者が揶揄的につけた呼称のはずだったが、いつから正式名称になったのだろう。そのうえ中佐と来た。俺はやや辟易しながら、 「キリト。ソロだ」と短く名乗った。  男は軽くうなずくと、 「君たちはもうこの先も攻略しているのか?」 「ああ。ボス部屋の手前まではマッピングしてある」 「うむ。ではそのマップデータを提供して頂きたい」  当然だ、と言わんばかりの男の台詞に俺も少なからず驚いたが、後ろにいたクラインはそれどころではなかった。 「な……て……提供しろだと!? 手前ェ、マッピングする苦労がわかって言ってんのか!?」  胴間声で喚く。未攻略区域のマップデータは貴重な情報だ。トレジャーボックス狙いの鍵開け屋の間では高値で取引されている。  クラインの声を聞いた途端男は片方の眉をぴくりと動かし、ぐいとアゴを突き出すと、 「我々は君ら一般プレイヤーの解放の為に戦っている!」  大声を張り上げた。続けて、 「諸君が協力するのは当然の義務である!」  ……傲岸不遜とはこのことだ。ここ一年は軍が積極的にフロア攻略に乗り出してきたことはほとんど無いはずだが。 「ちょっと、あなたねえ……」 「て、てめぇなぁ……」  左右から激発寸前の声を出すアスナとクラインを、しかし俺は両手で制した。 「どうせ街に戻ったら公開しようと思っていたデータだ、構わないさ」 「おいおい、そりゃあ人が好すぎるぜキリト」 「マップデータで商売する気はないよ」  言いながらトレードウインドウを出し、コーバッツ中佐と名乗る男に迷宮区のデータを送信した。男は表情一つ動かさずそれを受信すると、「協力感謝する」と感謝の気持ちなどかけらも無さそうな声で言い、くるりと後ろを向いた。その背中に向かって声をかける。 「ボスにちょっかい出す気ならやめといたほうがいいぜ」  コーバッツはわずかにこちらを振り向いた。 「……それは私が判断する」 「さっきちょっとボス部屋を覗いてきたけど、生半可な人数でどうこうなる相手じゃないぜ。仲間も消耗してるみたいじゃないか」 「……私の部下はこの程度で音を上げるような軟弱者ではない!」  部下、という所を強調してコーバッツは苛立ったように言ったが、床に座り込んだままの当の部下達は同意しているふうには見えなかった。 「貴様等さっさと立て!」  というコーバッツの声にのろのろ立ち上がり、二列縦隊に整列する。コーバッツは最早こちらには目もくれずその先頭に立つと、片手を上げてサッと振り下ろした。十二人はガシャリと一斉に武器を構え、重々しい装備を鳴らしながら進軍を再開した。  見かけ上のHPは満タンでも、SAO内での緊迫した戦闘は目に見えぬ疲労を残す。あちらの世界に置き去りの実際の肉体はぴくりとも動いていないはずだが、その疲労感はこちらで睡眠・休息を取るまで消えることはない。俺が見たところ、軍のプレイヤー達は慣れぬ最前線での戦闘で限界近くまで消耗しているようだった。 「……大丈夫なのかよあの連中……」  軍の部隊が上層部へと続く出口に消え、規則正しい足音も聞こえなくなった頃、クラインが気遣わしげな声で言った。まったく人のいい奴だ。 「いくらなんでもぶっつけ本番でボスに挑んだりしないと思うけど……」  アスナもやや心配そうだ。確かにあのコーバッツ中佐という奴の言動には、どこか無謀さを感じさせるものがあった。 「……一応様子だけでも見に行くか……?」  俺が言うと、二人だけでなくクラインの部下五人も相次いで首肯した。 「どっちがお人好しなんだか」  言いながらも、俺も肚を決めていた。俺達は装備を確認すると、ふたたび迷宮区上層へと足を踏み入れた。      11  途中で運悪くリザードマンロード二匹に遭遇してしまい、俺たち八人が最上部の回廊に到達した時には安全エリアを出てから三十分が経過していた。途中で軍の連中に追いつくことはなかった。 「ひょっとしてもうアイテムで帰っちまったんじゃねえ?」  おどけたようにクラインが言ったが、俺たちは皆そうではないだろうと感じていた。長い回廊を進む足取りが自然と速くなる。  半ば程まで進んだ時、不安が的中したことを知らせる音が回廊内を反響しながら俺たちの耳に届いてきた。咄嗟に立ち止まり耳を澄ませる。 「あぁぁぁぁぁ…………」  かすかに聞こえたそれはまちがいなく悲鳴だ。モンスターのものではない。俺たちは顔を見合わせると、一斉に駆け出した。敏捷性パラメータに優る俺とアスナがクライン達を引き離してしまう格好になったが、この際構っていられない。青く光る濡れた石畳の上を、先程とは逆の方向に風の如く疾駆する。やがて、彼方に大扉が見えてきた。それは左右に大きく開き、内部の闇で燃え盛る青い炎の揺らめきが見て取れる。そしてその向こうで蠢く巨大な影。断続的に響いてくる金属音。そして悲鳴。 「バカッ……!」  アスナが悲痛な叫びを上げると、更にスピードを上げた。俺も追随する。システムアシストの限界ぎりぎりの速度だ。ほとんど地に足をつけず、飛んでいるに等しい。回廊の両脇に立つ柱が猛烈なスピードで後ろに流れていく。  扉の手前で俺とアスナは急激な減速をかけ、ブーツの鋲から火花を撒き散らしながら入り口ギリギリで停止した。 「おい! 大丈夫か!」  叫びつつ半身を乗り入れる。扉の内部は——地獄絵図だった。  床一面、格子状に青白い炎が噴き上げている。その中央で、こちらに背を向けて屹立する一際輝く巨体。青い悪魔ザ・グリームアイズだ。禍々しい山羊の頭部から燃えるような呼気を噴き出しながら、右手の斬馬刀とでもいうべき巨剣を縦横に振り回している。まだHPバーは三割も減っていない。その向こうで必死に逃げ惑う、悪魔と比べて余りに小さな影。軍の部隊だ。もう統制も何もあったものではない。咄嗟に人数を確認するが、二人足りない。転移アイテムで離脱したのであればいいが——。  そう思う間にも、一人が斬馬刀の横腹で薙ぎ払われ、床を激しく転がった。HPバーが赤い危険域に突入している。どうしてそんなことになったのか、軍と、俺達のいる入り口との間に悪魔が陣取っており、これでは離脱もままならない。俺は倒れたプレイヤーに向かって大声を上げた。 「何をしている! 早く転移アイテムを使え!!」  だが、男はさっとこちらに顔を向けると、炎に青く照らし出された明らかな絶望の表情で叫び返してきた。 「だめだ……! く……クリスタルが使えない!!」 「な……」  思わず絶句する。この部屋は結晶無効化空間なのか。迷宮区で稀に見られるトラップだが、ボスの部屋がそうであったことは今まで無かった。 「なんてこと……!」  アスナが息を飲む。これではうかつに助けにも入れない。その時、悪魔の向こう側で一人のプレイヤーが剣を高く掲げ、怒号を上げた。 「何を言うか……ッ!! 我々解放軍に撤退の二文字は有り得ない!! 戦え!! 戦うんだ!!」  間違いなくコーバッツの声だ。 「馬鹿野郎……!!」  俺は思わず叫んでいた。結晶無効化空間で……二人居なくなっているということは……死んだ、消滅したという事だ。それだけはあってはならない事態なのに、あの男は今更何を言っているのか。全身の血が沸騰するような憤りを覚える。  その時、ようやくクライン達六人が追いついてきた。 「おい、どうなってるんだ!!」  俺は手早く事態を伝える。クラインの顔が歪む。 「な……何とかできないのかよ……」  俺たちが斬り込んで連中の退路を拓くことは出来るかもしれない。だが、緊急脱出不可能なこの空間で、こちらに死者が出る可能性は捨てきれない。あまりにも人数が少なすぎる。俺が逡巡しているうち、悪魔の向こうでどうにか部隊を立て直したらしいコーバッツの声が響いた。 「全員……突撃……!」  十人のうち、二人はHPバーを限界まで減らして床に倒れている。残る八人を四人ずつの横列に並べ、その中央に立ったコーバッツが剣をかざして突進を始めた。 「やめろ……っ!!」  だが俺の叫びは届かない。余りに無謀な突撃。八人で一斉に飛び掛っても、満足に剣技を振るうことが出来ず混乱するだけだ。それよりも防御主体の態勢で一人が少しずつダメージを与え、次々にスイッチしてゆくべきなのに……。  悪魔は仁王立ちになると、地響きを伴う雄叫びと共に口から大量の噴気を撒き散らした。どうやらあの息にもダメージ判定があるらしく、青白い輝きに包まれた八人の突撃の勢いが緩む。そこに、すかさず悪魔の巨剣が突き立てられた。一人がすくい上げられるように斬り飛ばされ、悪魔の頭上を越えて俺達の眼前の床に激しく落下した。  コーバッツだった。HPバーが消滅していた。奴と俺の目が合う。自分の身に起きたことが理解できないという表情。口がゆっくりと動く。  ——ありえない。  無音でそう言った直後、コーバッツの体は神経を逆撫でするような効果音と共に無数の輝く砕片となって飛散した。余りにもあっけない消滅。俺の傍らでアスナが短い悲鳴を上げる。  リーダーを失った軍のパーティーはたちまち瓦解した。喚き声を上げながら逃げ惑う。もう全員のHPバーが半分を割り込んでいる。 「だめ……だめよ……もう……」  絞り出すようなアスナの声に、俺はハッとして横を見た。咄嗟に腕を掴もうとする。  だが一瞬遅かった。 「だめ————ッ!!」  絶叫と共に、アスナは疾風の如く駆け出した。空中で抜いた細剣と共に、一筋の閃光となってグリームアイズに突っ込んでゆく。 「ええい!」  俺は毒づきながら、剣を抜きアスナの後を追った。 「どうとでもなりやがれ!!」  クライン達がときの声を上げつつ追随してくる。  アスナの捨て身の一撃は、不意を突く形で悪魔の背に命中した。だがHPはろくに減っていない。グリームアイズは怒りの叫びと共に向き直ると、猛烈なスピードで斬馬刀を振り下ろした。アスナは咄嗟に身をかわしたが、完全には避けきれず余波で地面に倒れこんだ。そこに、連撃の次弾が容赦なく降り注ぐ。 「アスナ———ッ!!」  俺は身も凍る恐怖を味わいながら、必死にアスナと斬馬刀の間に身を躍らせた。ぎりぎりのタイミングで、俺の剣が悪魔の攻撃を弾く。途方もない衝撃。 「下がれ!!」  叫ぶと、俺は悪魔の追撃に備えた。そのどれもが致命的とさえ思える圧倒的な威力で、剣が次々と襲い掛かってくる。とても反撃を差し挟む隙などない。グリームアイズの使う技は基本的に両手用大剣技だが、微妙なカスタマイズのせいで先読みがままならない。俺は全神経を集中したパリィとステップで防御に徹するが一撃の威力がすさまじく、時々かすめる剣先によってHPがじりじりと減少してゆく。  視界の端では、クラインの仲間達が倒れた軍のプレイヤーを部屋の外に引き出そうとしているのが見える。だが中央で俺と悪魔が戦っているため、その動きは遅々として進まない。 「ぐっ!!」  とうとう敵の一撃が俺の体を捉えた。痺れるような衝撃。HPバーがぐいっと減少する。このままではとても支えきれない。死の恐怖が、凍るような冷たさとなって俺の全身を駆け巡る。最早離脱する余裕すら無い。  残された選択肢は一つだけだ。俺の全てを以って立ち向かうしかない。 「アスナ! クライン! 十秒持ちこたえてくれ!」  俺は叫ぶと、右手の剣を強振して悪魔の攻撃を弾き、無理やりブレイクポイントを作って床に転がった。間髪入れず飛び込んできたクラインがカタナで応戦する。だが奴のカタナも、アスナの細剣も速度重視の武器で重さに欠ける。とても悪魔の巨剣は捌ききれないだろう。俺は床に転がったまま左手を振り、メニューウインドウを呼び出す。  ここからの操作にはワンミスも許されない。早鐘のような鼓動を押さえつけ、俺は右手の指を動かす。所持アイテムのリストをスクロールし、一つを選び出してオブジェクト化する。装備フィギュアの、空白になっている部分にそのアイテムを設定。スキルウインドウを開き、選択している武器スキルを変更。  すべての操作を終了し、OKボタンにタッチしてウインドウを消すと、背に新たな重みが加わったのを確認して俺は顔を上げて叫んだ。 「いいぞ!!」  クラインは一撃食らったと見えて、HPバーを減らして退いている。本来ならすぐに治療結晶で回復するところだがこの部屋ではそれができない。現在悪魔と対峙しているアスナも、数秒のうちにHPが半分を割り込んでイエロー表示になってしまっている。  俺の声に、背を向けたまま頷くとアスナは裂ぱくの気合とともに突き技を放った。 「イヤァァァァ!!」  純白の残光を引いたその一撃は、空中でグリームアイズの剣と衝突して火花を散らした。両者の動きが一瞬止まる。 「スイッチ!!」  俺は叫ぶと再び悪魔の正面に飛び込んでいった。硬直から回復した悪魔が、大きく剣を振りかぶる。  炎の軌跡を引きながら打ち下ろされてきたその剣を、俺は右手の愛剣で弾き返し、間髪入れず左手を背に回して新たな剣の柄を握った。抜きざまの一撃を悪魔の胴に見舞う。初めてのクリーンヒットで、ようやく奴のHPバーが目に見えて減少する。 「グォォォォォ!!」  憤怒の叫びを洩らしながら、悪魔は再び上段の斬り下ろし攻撃を放ってきた。今度は、両手の剣を交差してそれをしっかりと受け止め、押し返す。奴の体勢が崩れたところに、俺は防戦一方だったいままでの借りを返すべくラッシュを開始した。  右の剣で中段を斬り払う。間を空けずに左の剣を突き入れる。右、左、また右。脳の回路が灼き切れんばかりの速度で俺は剣を振るい続ける。  これが俺の隠し技、エクストラスキル〈二刀流〉だ。その上位剣技〈スターバースト・ストリーム〉。連続十六回攻撃。 「うおおおおおあああ!!」  途中の攻撃がいくつか悪魔の剣に阻まれるのも構わず、俺は絶叫しながら左右の剣を次々敵の体に叩き込み続けた。視界が灼熱し、最早敵の姿以外何も見えない。悪魔の剣が時々俺の体を捉える衝撃すら、どこか遠い世界の出来事のように感じる。全身をアドレナリンが駆け巡り、剣撃を敵に見舞うたび脳神経がスパークする。速く、もっと速く。限界までアクセラレートされた俺の神経には、普段の倍速で二刀を振るうそのリズムすら物足りない。システムのアシストをも上回ろうかという速度で攻撃を放ち続ける。 「…………ぁぁぁああああああ!!」 「ゴァァァアアアアアアアア!!」  気付くと、絶叫しているのは俺だけではなかった。眼前の巨大な悪魔が、天を振り仰いで口と鼻から盛大に噴気を洩らしつつ雄叫びを上げている。  と、その全身が硬直したと思った瞬間、グリームアイズは膨大な青い欠片となって爆散した。部屋中にキラキラと輝く光の粒が降り注ぐ。  終わった……のか……?  俺は戦闘の余熱による眩暈を感じながら、無意識のうちに両の剣を切り払い、背に交差して吊った鞘に同時に収めた。ふと自分のHPバーを確認する。赤いラインが、数ドットの幅で残っていた。他人事のようにそれを眺めながら、俺は全身の力が抜けるのを感じて声もなく床に転がった。意識が暗転した。      12 「……くん! キリト君ってば!!」  悲鳴にも似たアスナの叫びに、俺の意識は無理やり呼び起こされた。頭を貫く痛みに顔をしかめながら上体を起こす。 「いててて……」  見渡すと、そこは先ほどのボス部屋だった。まだ空中を青い光の残滓が舞っている。意識を失っていたのは数秒のことらしい。目の前に、ぺたりとしゃがみこんだアスナの顔があった。泣き出す寸前のように眉根を寄せ、唇を噛み締めている。 「バカッ……! 無茶して……!」  嗚咽混じりの声と同時に、俺の首にすごい勢いでしがみついてきた。 「……あんまり締め付けると俺のHPがなくなるぞ」  冗談めかして言うと、アスナは真剣に怒った顔した。直後、口に小さな瓶を突っ込まれてしまう。緑茶にレモンジュースを混ぜたような味の液体が流れ込んでくる。HP回復用のハイ・ポーションだ。これであと五分もすれば数値的にはフル回復するだろうが、頭痛と全身の倦怠感は当分消えないだろう。  アスナは俺が瓶の中身を飲み干したのを確認すると、またしっかり抱きつき、胸に顔を埋めてきた。今度は当分離れそうもない。長い髪をゆっくり撫でてやると、小さくしゃくりあげはじめた。アスナの身体から伝わる暖かさに、ようやく俺にも生き残った実感が湧いてくる。  足音に顔を上げると、クラインが遠慮がちに声を掛けてきた。 「生き残った軍の連中の回復は済ませたが、コーバッツとあと二人死んだ……」 「……そうか。ボス攻略で犠牲者が出たのは六十七層以来だな」 「こんなのが攻略って言えるかよ。コーバッツの馬鹿野郎が……。死んじゃ何にもなんねえだろうが……」  吐き出すようなクラインの台詞。頭を左右に振ると太いため息をつき、気分を切り替えるように、 「……そりゃあそうと、オメエ何だよさっきのは!?」と聞いてきた。 「……言わなきゃダメか?」 「ったりめえだ! 見たことねえぞあんなの!」  気付くと、アスナを除いた、部屋にいる全員が沈黙して俺の言葉を待っている。 「……エクストラスキルだよ。〈二刀流〉」  おお……というどよめきが、軍の生き残りやクラインの仲間のあいだに流れた。  通常、様々な武器スキルは系統だった修行によって段階的に習得することができる。例えば剣なら、基本の片手直剣スキルがある程度まで成長すると、新たな選択可能スキルとして〈曲刀〉や〈細剣〉、〈両手剣〉などがリストに出現する。  ところが、中にはスキル出現の条件がはっきり判明していない物がある。ランダム条件ではとさえ言われている、それがエクストラスキルと呼ばれるものだ。身近なところでは、クラインの〈カタナ〉も含まれる。もっともカタナスキルはそれほどレアなものではなく、曲刀をしつこく修行していれば出現する場合が多い。  そのように、十数種類知られているエクストラスキルの殆どは最低でも百人以上が習得に成功しているのだが、俺が持つ〈二刀流〉と、ある男のスキルだけはその限りではなかった。この二つは、おそらく習得者がそれぞれ一人しかいないユニークスキルとでも言うべきものだ。今まで俺は二刀流の存在をひた隠しにしていたが、今日から俺の名が二人目のユニークスキル使いとして巷間に流れることになるだろう。これだけの人数の前で披露してしまってはとても隠しおおせるものではない。 「ったく、水臭ぇなあキリト。そんなすげえウラワザ黙ってるなんてよう」 「スキルの出し方が分かってれば隠したりしないさ。でも俺にもさっぱりわからないんだ」  それは本当だった。一年ほど昔のある日何気なくスキルウインドウを見たらその名前が出現していたのだ。きっかけなど見当もつかない。以来、俺は二刀流の修行は常に人の目が無い所でのみ行ってきた。ほぼマスターしてからは、例えソロ攻略中、モンスター相手でもよほどのピンチの時以外使用していない。無論いざという時のための保身という意味もあったが、それ以上に無用な注目を集めるのが嫌だったからだ。いっそ俺の他に早く二刀流を持った奴が出てこないものかと思っていたのだが……。俺は言葉を続けた。 「……こんなレアスキル持ってるなんて知られたら、しつこく聞かれたり……いろいろあるだろう、その……」  クラインが深くうなずいた。 「ネットゲーマーは嫉妬深いからな。俺は人間が出来てるからともかく、妬み嫉みはそりゃああるだろうなあ。それに……」  そこで口をつぐむと、俺にしっかと抱きついたままのアスナを意味ありげに見やり、にやにや笑う。 「……まあ、苦労も修行のうちと思って頑張りたまえ若者よ」 「勝手なことを……」  クラインは腰をかがめて俺の肩をポンと叩くと、振り向いて〈軍〉の生存者達のほうへと歩いていった。 「お前たち、本部まで戻れるか?」  クラインの言葉に一人が頷く。まだ十代とおぼしき男だ。 「よし。今日あったことを上にしっかり伝えるんだ。二度とこういう無謀な真似をしないようにな」 「はい。……あ、あの……有り難うございました」 「礼なら奴に言え」  こちらに向かって親指を振る。軍のプレイヤー達はよろよろと立ち上がると、座り込んだままの俺とアスナに深々と頭を下げ、部屋から出ていった。回廊に出たところで次々と結晶を使いテレポートしてゆく。  その青い光が収まると、クラインはさて、という感じで両手を腰にあて、言った。 「俺たちはこのまま七十五層の転移門をアクティベートして行くけど、お前はどうする? 今日の立役者だし、お前がやるか?」 「いや、任せるよ。俺はもうヘトヘトだ」 「そうか。……気をつけて帰れよ」  クラインは頷くと仲間に合図した。六人で、部屋の奥にある大扉の方に歩いて行く。その向こうには上層へと繋がる階段があるはずだ。扉の前で立ち止まると、カタナ使いはヒョイと振り向いた。 「あーその……なんだ……。今日は助かった。礼を言う。これからいろいろあるかも知れんが……何かあったらいつでも言ってくれ」  ぶっきらぼうな上に迂遠な言い回しだ。俺は苦笑すると、わかった、と言う代わりに手を上げた。奴はニッと笑みを浮かべ、扉を開けると仲間と一緒にその向こうへ消えていった。  だだっ広いボス部屋に、俺とアスナだけが残された。床から吹き上げていた青い炎はいつの間にか静まり、部屋全体に渦巻いていた妖気も嘘のように消え去っている。周囲には回廊と同じような柔らかな光が満ち、先程の死闘の痕跡すら残っていない。  まだ俺にしがみついたままのアスナに声をかける。 「おい……アスナ……」 「…………怖かった……キリト君が死んじゃったらどうしようかと……思って……」  涙まじりのその声は、今まで聞いたことがない程かぼそく震えていた。 「……何言ってんだ、先に突っ込んで行ったのはそっちだろう」  言いながら、俺はそっとアスナの背に両腕を回した。その途端、はぁっ、と深い吐息を漏らしてアスナが俺に上体を預けてきた。支えきれず床に仰向けに倒れてしまう。俺の上に乗る格好になったアスナは、そのまま全身を絡ませるようにしっかり抱きついてきた。 「……あんまり派手にやるとハラスメントフラグが立つぞ」 「いいよ……そんなのどうでも……」  無論それには大いに賛成だ。俺たちは長い時間床の上でお互いの体の感触を確かめ合った。たとえデータで出来た擬似的な身体だとしても、生命の暖かさは本物だと、そう思えた。  翌日。  俺は朝からエギルの雑貨屋の二階にシケ込んでいた。まずい茶を不機嫌に啜る。  すでにアルゲード中——いや、多分アインクラッド中が昨日の『事件』で持ちきりだった。フロア攻略、新しい街へのゲート開通だけでも十分な話題なのに、今回はいろいろオマケがついていたからだ。曰く「軍の大部隊を全滅させた悪魔」、曰く「それを単独撃破した二刀流使いの五十連撃」……。尾ひれが付くにも程がある。どうやって調べたのか、俺のねぐらには早朝から剣士やら情報屋が押しかけてきて、脱出するのにわざわざ転移結晶を使うハメになったのだ。 「引っ越してやる……どっかすげえ田舎フロアの絶対見つからないような村に……」  ブツブツつぶやく俺に、エギルがにやにやと笑顔を向けてくる。 「まあ、そう言うな。一度くらいは有名人になってみるのもいいさ」 「他人事だと思いやがって……」  奴は今、俺が昨日の戦闘で手に入れたお宝を鑑定している。時々奇声を上げているところを見るとそれなりに貴重品も含まれているらしい。下取りしてもらった売上げはアスナと山分けすることにしていたが、そのアスナは約束の時間を過ぎてもさっぱり現れない。フレンドメッセージを飛ばしておいたのでここに居ることはわかっているはずだが……。  昨日は、七十四層の迷宮区でそのまま別れた。アスナはギルドに脱退届けを出してくると言って、KoB本部のある五十五層グランザム市に向かった。クラディールとの事もあるし、俺も同行しようかと申し出たのだが笑顔で大丈夫と言われては引き下がるしかなかった。  すでに待ち合わせの時刻から二時間が経過している。ここまで遅れるからには何かあったのだろうか。やはり無理矢理にでもついて行くべきだったか……。込み上げてくる不安を抑えこむように茶を飲み干す。  俺の前の大きなポットが空になり、エギルの鑑定があらかた終了した頃、ようやく階段をトントンと駆け上ってくる足音がした。勢いよく扉が開かれる。 「よう、アスナ……」  遅かったじゃないか、という言葉を俺は飲み込んだ。いつものユニフォーム姿のアスナは顔を蒼白にし、大きな目を不安そうに見開いている。両手を胸の前で固く握り、二、三度唇を噛み締めたあと、 「どうしよう……キリト君……」  と泣き出しそうな声で言った。 「大変なことに……なっちゃった……」  新しく淹れた茶を一口飲み、ようやく顔に血の気が戻ったアスナはぽつりぽつりと話しはじめた。気を利かせたエギルは一階の店先に出ている。 「昨日……あれからグランザムのギルド本部に行って、あったことを全部団長に報告したの。それで、ギルド辞めたいって言って、その日は家に戻って……。今朝のギルド例会で承認されると思ったんだけど……」  俺と向かい合わせの椅子に座ったアスナは、視線を伏せてお茶のカップを両手で握り締めながら言った。 「団長が……わたしの脱退を認めるには、条件があるって……。キリト君と……立ち会いたい……って……」 「な……」  一瞬理解できなかった。立ち会う……とはつまりデュエルをするということだろうか。アスナのギルド脱退がどうしてそんな話になるのか? その疑問を口にすると、 「わたしにもわかんない……」  アスナはうつむいて首を振った。 「そんな事しても意味ないって一生懸命説得したんだけど……どうしても聞いてくれなくって……」  途方に暮れた幼子のような瞳で見つめられ、俺は胸の奥にある種の痛みを覚える。おいで、と手を差し伸べると、アスナはほっとしたように小さく微笑んで、俺のひざの上に飛び込んできた。細い体を抱きしめ、髪を撫でてやると甘えるような鼻声を出して胸に頭をこすりつけてくる。動物みたいな奴だ。 「……ともかく、一度グランザムまで行くよ。俺が直接談判してみる」 「ん……。ごめんね。迷惑ばっかりかけちゃうね……」 「何でもするさ。大事な……」  言葉を探して沈黙する俺を、アスナがじっと見つめる。 「……攻略パートナーの為だからな」  少しだけ不満そうに唇を尖らせたが、アスナはようやく持ち前の輝くような笑顔を見せた。  最強の男。生きる伝説。聖騎士等々。血盟騎士団のギルドリーダーに与えられた二つ名は片手の指では足りない程だ。  彼の名はヒースクリフ。俺の〈二刀流〉が巷で口の端にのぼる以前は、約四万のプレイヤー中唯一ユニークスキルを持つ男として知られていた。  十字を象った一対の剣と盾を用いて攻防自在の剣技を操るそのスキルの名は〈神聖剣〉。俺も何度か間近で見たことがあるが、とにかく圧倒的なのはその防御力だ。彼のHPバーがレッドゾーンに陥ったところを見た者は誰もいないと言われている。大きな被害を出した五十層のボスモンスター攻略戦において崩壊寸前だった戦線を十分間単独で支えつづけた逸話は今でも語り草となっているほどだ。  ヒースクリフの十字盾を貫く矛なし。それはアインクラッドで最も堅固な定説のひとつなのだ。  アスナと連れ立って五十五層に降り立った俺は、言いようのない緊張感を味わっていた。無論ヒースクリフと剣を交える気などない。アスナの名をギルド名簿から削除してくれるよう頼む、目的はそれだけだ。  五十五層の主街区グランザム市は別名鉄の都と言われている。他の街が大抵石造りなのに対して、街を形作る無数の巨大な尖塔はすべて黒光りする鋼鉄で作られているからだ。鍛冶や彫金が盛んということもあって人口は多いが、街路樹の類はまったく存在せず、深まりつつある秋の風の中では寒々しい印象を隠せない。  俺は不本意ながら顔を隠す為に巨大な黒革のフード付マントを装備していた。寒そうに剥き出しの両腕をこすっていたアスナが、無言でマントの中に潜り込んでくる。俺とアスナの身長はそれほど変わらないので多少見映えは悪いが、これなら注目を集めることだけは避けられそうだ。俺たちはゲート広場を横切って歩き出した。磨きぬかれた鋼鉄の板を連ねてリベット留めした広い道をゆっくり進む。アスナの足取りが重い。これから起こることを恐れているのだろうか。  立ち並ぶ尖塔群の間を縫うように十分ほど歩くと、目の前に一際高い搭が現れた。巨大な扉の上部から何本も突き出した銀の槍からは、白地に赤の十字を染め抜いた旗が垂れ下がり寒風にはためいている。ギルド血盟騎士団の本部だ。  アスナはすこし手前で立ち止まると、俺のマントの隙間から顔だけのぞかせて搭を見上げた。 「昔は、三十九層の田舎町にあったちっちゃい家が本部でね、みんな狭い狭いっていつも文句言ってたわ。……ギルドの発展が悪いとは言わないけど……この街は寒くて嫌い……」 「さっさと用を済ませて、なんか暖かいものでも食いに行こうぜ」 「もう。キリト君は食べることばっかり」  笑いながらマントの中で俺に抱きつくと、アスナはしばらくそのままじっとしていたが、やがて、「よし、充電完了!」と言って勢いよく飛び出した。そのまま広い歩幅で搭へ向かって歩いていく。俺は慌てて後を追った。  幅広の階段を昇った所にある大扉は左右に開け放たれていたが、その両脇には恐ろしく長い槍を装備した重装甲の衛兵が控えていた。アスナがブーツの鋲を鳴らしながら近づいていくと、衛兵達はガチャリと槍を捧げて敬礼した。 「任務ご苦労」  ビシリと片手で返礼する仕草といい、颯爽とした歩き方といいほんの一時間前に俺のひざの上で甘えていた奴と同一人物とは思えない。俺はおそるおそるアスナの後に続いて衛兵の脇を通り抜け、搭に足を踏み入れた。  街並みと同じく黒い鋼鉄で造られた搭の一階は大きな吹き抜けのロビーになっていた。人は誰もいない。  街以上に冷たい印象の建物だな……。  そんな事を思いつつ、様々な種類の金属を組み合わせた精緻なモザイク模様の床を横切って行くと、正面に巨大な螺旋階段があった。  金属音をホールに響かせながら階段を昇っていく。筋力パラメータが低い者なら絶対途中でへばってしまうだろう高さだ。いくつもの扉の前を通りすぎ、どこまで昇るのか心配になってきたころ、ようやくアスナは足を止めた。目の前には無表情な鋼鉄の扉。 「ここか……?」 「うん……」  アスナが気乗りしない様子で頷く。が、やがて意を決したように右手をあげると扉を音高くノックし、答えを待たず開け放った。内部から溢れた大量の光に、俺は目を細めた。  中は搭の一フロアすべてを使った円形の部屋で、壁は全て透明のガラス張りだった。そこから差し込む灰色の光が、部屋をモノトーンに染め上げている。中央には半円形の巨大な机が置かれ、その向こうに並んだ五脚の椅子にそれぞれ男が腰掛けていた。左右の四人には見覚えがなかったが、中央に座る男だけは見間違えようがなかった。聖騎士ヒースクリフだ。  外見にはまるで威圧的な所はない。二十代半ばだろうか、学者然とした、削いだように尖った顔立ち。秀でた額の上に、鉄灰色の前髪が流れている。長身だが痩せ気味の体をゆったりした真紅のローブに包んだその姿は、剣士というよりはこの世界には存在しないはずの魔術師のようだ。  だが、特徴的なのはその目だった。不思議な真鍮色の瞳からは、対峙したものを圧倒する強烈な磁力が放出されている。会うのは初めてではないが正直気圧される。  アスナはブーツを鳴らして机の前まで行くと、軽く一礼した。 「お別れの挨拶に来ました」  その言葉にヒースクリフはかすかに苦笑し、 「そう結論を急がなくてもいいだろう。彼と話させてくれないか」  そう言ってこちらを見据えた。俺もフードをはずしてアスナの隣りまで進み出る。 「久しいな、キリト君。いつ以来かな?」 「六十七層のボス攻略戦です」  ヒースクリフは軽く頷くと、机の上で骨ばった両手を組み合わせた。 「あれは辛い戦いだったな。我々も危うく死者を出すところだった。トップギルドなどと言われても戦力は常にギリギリだよ。——なのに君は我がギルドの貴重な主力プレイヤーを引き抜こうとしているわけだ」 「貴重なら護衛の人選に気を使ったほうがいいですよ」  ぶっきらぼうな俺の台詞に、机の右端に座っていたいかつい男が血相変えて立ち上がろうとした。それを軽く手で制し、 「クラディールは自宅で謹慎させている。迷惑をかけてしまったことは謝罪しよう。だが、我々としてもサブリーダーを引き抜かれて、はいそうですかという訳にはいかない。キリト君——」  ヒースクリフはひたとこちらを見据えた。金属の光沢をもつ両眼から、強烈な意思力が噴き上げてくる。 「欲しければ、剣で——〈二刀流〉で奪い給え。私と戦い、勝てばアスナ君を連れていくがいい。だが、負けたら君が血盟騎士団に入るのだ」 「…………」  俺はこの謎めいた男が少しだけ理解できたような気がしていた。結局この男も剣での戦闘に魅入られた人間なのだ。その上、自分の技に絶対の自信を持っている。脱出不可能のデスゲームに囚われてなおゲーマーとしてのエゴを捨てきれない、救い難い人種。つまり、俺と似ている。  ヒースクリフの言葉を聞いて、今まで黙っていたアスナが我慢しきれないというように口を開いた。 「団長、脱退はわたしの意思です。……初心者だったわたしを拾って、いままで育ててくれたことには感謝しています。ただ、ここにはもうわたしの居場所はないんです。ゲームクリアという目的はみんな同じはず、ギルドを出ても戦いをやめるわけじゃ……」  なおも言い募ろうとするアスナの肩に手を置き、俺は一歩前に進み出た。正面からヒースクリフの視線を受け止める。半ば勝手に口が開く。 「いいでしょう、剣で語れと言うなら望むところです。デュエルで決着をつけましょう」 「も——!! ばかばかばか!!」  再びアルゲード、エギルの店の二階。様子を見ようと顔を出した店主を一階に蹴り落としておいて、俺は必死にアスナをなだめていた。 「わたしががんばって説得しようとしたのになんであんな事言うのよう!!」  揺り椅子に座った俺の膝の上にちょこんと腰掛け、小さな拳でぽかぽか叩いてくる。 「悪かった、悪かったってば! つい売り言葉に買い言葉で……」  小さな子供にするように頭を撫でてやるとようやくおとなしくなり、俺の胸にぽふっと体を預けてきた。ギルドでの様子とギャップがありすぎて、笑いがこみあげてくるのを苦労して飲み込む。 「大丈夫だよ、一撃終了ルールでやるから危険はないさ。それに、まだ負けると決まったわけじゃなし……」 「う〜〜〜……」  俺の上で丸くなり、眠気を覚えたように目をパチパチしながらアスナが唸る。 「……こないだキリト君の〈二刀流〉を見たときは、別次元の強さだって思った。でもそれは団長の〈神聖剣〉もいっしょなのよね……。あの人の無敵っぷりはもうゲームバランスを超えてるよ。正直どっちが勝つかわかんない……。でも、どうするの? 負けたらあたしが脱退するどころかキリト君がKoBに入らなきゃならないんだよ?」 「考えようによっては目的は達するとも言える。俺はアスナといられればそれでいいんだ」  以前なら逆さに振っても出てこないような言葉だ。アスナはちらりと俺を見上げるとにっこり笑い、そのまま目を閉じた。夕暮れのアルゲードの活気に満ちたざわめきが窓の向こうからわずかに流れ込んでくる。  言ったことは正直な気持ちだったが、ギルドに所属するのはやはり抵抗がある。以前一度だけ所属した、今は存在しないギルドの名を思い出してかすかな痛みを覚える。まあ、簡単に負ける気はないさ……と俺は胸の中で呟いた。  髪を撫でてやっているうち、アスナは小さな寝息を立て始めた。つられたのか俺も強い眠気を感じる。今日は朝から色々あって、迷宮攻略の倍は疲れた。 「おっと……」  アスナを起こさないようにそっと左手を振ってメニューを出し、エギルに「お前は一階で寝ろ」とメッセージを飛ばしておいて、俺は本格的に目を閉じた。      13  先日新たに開通なった七十五層の主街区は古代ローマ風の造りだった。マップに表示された名は〈コリニア〉。すでに多くの剣士や商人プレイヤーが乗り込み、また攻略には参加しないまでも街は見たいという見物人も詰め掛けて大変な活気を呈している。それに付け加えて今日は稀に見る大イベントが開かれるとあって、転移門は朝からひっきりなしに訪問者の群を吐き出し続けていた。  街は、四角く切り出した白亜の巨石を積んで造られていた。神殿風の建物や広い水路と並んで特徴的だったのが、転移門の前にそびえ立つ巨大なコロシアムだった。うってつけとばかりに俺とヒースクリフのデュエルはそこで行われることになった。のだが……。 「焼きグルコーン十コル! 十コル!」 「黒エール冷えてるよ〜!」  コロシアム入り口には口々にわめき立てる商人プレイヤーの露店がずらりと並び、長蛇の列をなした見物人にあやしげな食い物を売りつけている。 「……ど、どういうことだこれは……」  俺はあっけにとられて傍らに立つアスナに問いただした。 「さ、さあ……」 「おい、あそこで入場チケット売ってるのKoBの人間じゃないか!? 何でこんなイベントになってるんだ!?」 「さ、さあ……」 「ま、まさかヒースクリフのやつこれが目的だったんじゃあるまいな……」 「いやー、多分経理のダイゼンさんの仕業だねー。あの人計算高いから」  あはは、と笑うアスナの前で俺はガックリ肩を落とした。 「……逃げようアスナ。二十層あたりの広い田舎に隠れて畑を耕そう」 「わたしはそれでもいいけどぉー」  ニコニコしながらアスナが言う。 「ここで逃げたらす——っごい悪名がついてまわるだろうねえ」 「くっそ……」 「まあ、自分で蒔いた種だからねー。……あ、ダイゼンさん」  顔を上げると、KoBの白赤の制服がこれほど似合わない奴もいるまいという横幅のある男がでっぷりした腹を揺らしながら近づいてきた。 「いやー、おおきにおおきに!!」  丸い顔に満面の笑みを浮かべながら声をかけてくる。 「キリトさんのお陰でえろう儲けさせてもろてます! あれですなぁ、毎月一回くらいやってくれはると助かりますなぁ!」 「誰がやるか!!」 「ささ、控え室はこっちですわ。どうぞどうぞ」  のしのし歩き始めた男の後ろを、俺は脱力しながらついていった。どうとでもなれという心境だ。  控え室は闘技場に面した小さな部屋だった。ダイゼンは入り口まで案内すると、オッズの調整がありますんで、などと言って消えて行った。もうつっこむ気にもなれない。すでに観客は満員になっているらしく、控え室にも歓声がうねりながら届いてくる。  二人きりになると、アスナは真剣な表情になり、両手でぎゅっと抱きついてきた。 「……たとえワンヒット勝負でも強攻撃をクリティカルでもらうと危ないんだからね。特に団長の剣技は未知数のところがあるし。危険だと思ったらすぐにリザインするのよ。こないだみたいな真似したら絶対許さないからね……」 「俺よりヒースクリフの心配をしろよ」  俺はにやりと笑ってみせると、アスナの両肩をぽんと叩いた。  遠雷のような歓声に混じって、闘技場の方から試合開始を告げるアナウンスが響いてくる。背中に交差して吊った二本の剣を同時にすこし抜き、チンと音を立てて鞘に収めると俺は四角く切り取ったような光の中へ歩き出した。  円形の闘技場を囲む階段状の観客席はぎっしりと埋まっていた。多分一万人は居るのではないか。最前列にはエギルやクラインの姿もあり、「斬れー」「殺せー」などと物騒なことを喚いている。俺は闘技場の中央に達すると立ち止まった。直後、反対側の控え室から真紅の人影が姿を現した。歓声が一際大きくなった。  ヒースクリフは、通常の血盟騎士団制服が白地に赤の模様なのに対してそれが逆になった赤地のサーコートを羽織っていた。鎧の類は俺と同じく最低限だが、左手に持った巨大な純白の十字盾が目を引く。どうやら剣は盾の裏側に装備されているらしく、頂点部分から同じく十字をかたどった柄が突き出している。  俺の目の前まで無造作な歩調で進み出てきたヒースクリフは、周囲の大観衆に目をやってさすがに苦笑した。 「すまなかったなキリト君。こんなことになっているとは知らなかった」 「ギャラは貰いますよ」 「……いや、君は試合後からは我がギルドの団員だ。任務扱いにさせて戴こう」  言うと、ヒースクリフは笑いを収め、真鍮色の瞳から圧倒的な気合を迸らせてきた。思わず圧倒されて半歩ほど後退してしまう。俺達は現実には遠く離れた場所に横たわっており、二人の間にはデジタルデータのやり取りしか無いはずだが、それでもなお殺気としか言いようのない物を感じる。  俺は意識を戦闘モードに切り替え、ヒースクリフの視線を正面から受け止めた。大歓声が徐々に遠ざかってゆく。すでに知覚の加速が始まっているのか、周囲の色彩すら微妙に変っていくような気がする。  ヒースクリフは視線を外すと、俺から十メートル程の距離まで下がり、左手を掲げた。出現したメニューウインドウを、視線を落とさず操作する。瞬時に俺の前にデュエルメッセージが出現した。もちろん受諾。オプションは初撃決着モード。  カウントダウンが始まった。周囲の歓声はもはや小さな波音にまでミュートされている。全身の血流が早まってゆく。戦闘を求める衝動に掛けた手綱をいっぱいに引き絞る。俺は背中から二振りの愛剣を同時に抜き放った。ヒースクリフも盾の裏から細身の長剣を抜き、ピタリと構える。  盾をこちらに向けて半身になったその姿勢は自然体で、無理な力はどこにもかかっていない。さすがに初動を読むのは無理か。ならばこちらから突っ込むまでだ。  二人ともウインドウには一瞬たりとも視線を向けなかった。にもかかわらず、地を蹴ったのはDUELの文字が閃くのと同時だった。  俺は沈み込んだ体勢から全力で飛び出した。地面ギリギリを滑空するように突進していく。  ヒースクリフの直前でくるりと体を捻り、右手の剣を左斜め下からバックハンドでヒースクリフに叩きつけた。十字盾に迎撃され、激しい火花が散る。が、俺の攻撃は二段構えだった。右にコンマ一秒遅れで、左の剣がフォアハンドで盾の内側へと跳ね上がる。二刀流突撃技『クロス・スパイラル』だ。  左の一撃は、惜しいところでヒースクリフの長剣に阻まれた。さすがに奇襲を許したりはしないか。俺は技の余勢で距離を取り、向き直る。  今度はヒースクリフが盾を構えて突撃してきた。巨大な十字盾の影に隠れて、奴の右腕がよく見えない。 「チッ!」  俺は舌打ちして右方向にダッシュ回避しようとした。盾の方向に回り込めば攻撃に対処する余裕ができると踏んだからだ。  ところが、ヒースクリフは盾自体を水平に構えると、その先端で突き攻撃を放ってきた。クリムゾンのエフェクト光を引きながら巨大な盾が迫る。 「くおっ!!」  俺は咄嗟に両手の剣を交差してガードした。激しい衝撃。数メートル吹き飛ばされる。一回転して立ち上がる。なんと盾にも攻撃判定があるのか。まるで二刀流だ。手数で上回れば一撃勝負では有利と踏んでいたがこれは予想外だ。  ヒースクリフは俺に立ち直る余裕を与えまいと、ダッシュで距離を詰めてきた。十字の鍔を持つ右手の長剣が、〈閃光〉アスナもかくやという速度で突き込まれてくる。敵の連続技が開始された。俺は両手の剣をフルに使ってガードに徹する。〈神聖剣〉の連続技については可能な限りアスナからレクチャーを受けておいたが、付け焼刃の知識では心許ない。瞬間的反応だけで上下から殺到する攻撃を捌きつづける。  八連撃最後の上段斬りを左の剣で弾くと、俺は間髪入れず右手で単発重攻撃〈ヴォーパルストライク〉を放った。 「う……らぁ!!」  青い光芒を伴った突き技が、十字盾の中心に突き刺さる。構わずそのまま撃ち抜く。  今度はヒースクリフが跳ね飛ばされた。盾を貫通するには至らなかったが、多少のダメージは「抜けた」感触があった。奴のHPバーがわずかに減っている。が、勝敗を決する程の量ではない。  ヒースクリフは軽やかな動作で着地すると、距離を取った。 「……素晴らしい反応速度だな」 「そっちこそ硬すぎるぜ……!!」  言いながら俺は地面を蹴った。ヒースクリフも剣を構えなおして間合いを詰めてくる。  超高速で連続技の応酬が開始された。俺の剣は奴の盾に阻まれ、奴の剣を俺の剣が弾く。二人の周囲では様々な色彩の光が連続的に飛び散り、衝撃音が闘技場の石畳を突き抜けてゆく。強敵を相手に、俺はかつてない程の加速感を味わっていた。感覚が一段シフトアップしたと思うたびに、攻撃のギアも上げてゆく。  まだだ。まだ上がる。ついてこいヒースクリフ!!  全能力を解放して剣を振るう法悦が俺の全身を包んでいた。多分俺は笑っていたのだと思う。剣戟の応酬の最中、それまで無表情だったヒースクリフがちらりと表情らしきものを見せた。何だ。焦り? 俺はヒースクリフの奏でる攻撃のテンポがごくごくわずか遅れた気配を感じた。 「らあああああ!!」  その瞬間、俺は全ての防御を捨て去り、両手の剣で攻撃を開始した。〈スターバースト・ストリーム〉、恒星から吹き出すプロミネンスの奔流のごとき剣閃がヒースクリフへ殺到する。 「ぬおっ……!!」  ヒースクリフが十字盾を掲げてガードする。構わず上下左右から攻撃を浴びせ続ける。奴の反応がじわじわ遅れてゆく。——抜ける——!!  俺は最後の一撃が奴のガードを超えることを確信した。盾が右に振られすぎたそのタイミングを逃さず、左からの攻撃が光芒を引いてヒースクリフの体に吸い込まれてゆく——  ——そのとき、世界がブレた。 「!?」  どう表現すればよいだろう。時間をほんの僅か盗まれた——と言うべきか。何十分の一秒、俺の体を含む全てがピタリと停止したような気がした。ヒースクリフ一人を除いて。右にあったはずの奴の盾が、コマ送りの映像のように瞬間的に左に移動し、俺の必殺の一撃を弾き返した。 「な——」  大技をガードされきった俺は、致命的な硬直時間を課せられた。ヒースクリフがその隙を逃すはずもなかった。憎らしいほど的確な、ピタリ戦闘を終わらせるに足るだけのダメージが右手の剣の単発突きによって与えられ、俺はその場に無様に倒れた。視界の端で、デュエル終了を告げるシステムメッセージが紫色に輝くのが見えた。  戦闘モードが切れ、耳に渦巻く歓声が届いてきても、俺はまだ茫然としていた。 「キリト君!!」  駆け寄ってきたアスナの手で助け起こされる。 「あ……ああ……。——大丈夫だ」  アスナが、呆けたような俺の顔を心配そうに覗き込んできた。負けたのか——。俺はまだ信じられなかった。最後の瞬間、奴が見せた恐るべき反応は何だ。あれがヒースクリフの強さだというのか。地面に座り込んだまま、やや離れた場所に立つヒースクリフの顔を見上げる。  勝利者の表情は、しかしなぜか険しかった。金属質な両目を細めて俺たちを一瞥すると、真紅の聖騎士は物も言わず身を翻し、嵐のような歓声のなかをゆっくりと控え室に消えて行った。      14 「な……なんだこりゃあ!?」 「何って、見たとおりよ。さ、早く立って!」  アスナが強引に着せ掛けたのは、俺の新しい一張羅だった。慣れ親しんだボロコートと形はいっしょだが、色は目が痛くなるような純白。両襟に小さく二個と、背中にひとつ巨大な真紅の十字模様が染め抜かれている。言うまでもなく血盟騎士団のユニフォームだ。 「……じ、地味な奴って頼まなかったっけ……」 「これでも十分地味なほうよ。うん、似合う似合う!」  俺は全身脱力して揺り椅子に倒れこむように座った。例によってエギルの雑貨店の二階だ。すっかり俺が緊急避難的居候先として占拠してしまい、哀れな店主は一階に簡素なベッドを設えて寝ている。それでも追い出されないのは、二日と空けずアスナがやってきて店の手伝いをしているからだ。宣伝効果は抜群だろう。  俺が揺り椅子の上でうめいていると、すっかりそこが定席だとでも言うようにアスナが膝の上に乗ってきた。ひなたの猫のようにぐんにゃり溶けた格好でしばらくごろごろ言っていたが、急にがばっと上体を起こすと、真面目くさった顔で、 「あ、ちゃんと挨拶してなかったね。ギルドメンバーとしてこれから宜しくお願いします」  ペコリと頭を下げる。 「よ、よろしく。……と言っても俺はヒラでアスナは副団長様だからなあ」  右手を伸ばしてほっぺたをぐにぐに引っ張ってやる。 「こんなことも出来なくなっちゃったよなぁー」 「む———っ!!」  ぽかりと一発叩かれてしまった。俺は笑いながら両手でアスナの体を抱き寄せた。ゆっくり椅子を揺らしながら髪を撫でてやると、条件反射的に眠そうな顔をするのが動物のようで面白い。  晩秋の昼下がり。気だるい光の中でしばしの静寂が訪れる。  ヒースクリフとの闘い、そして敗北から二日が経過していた。俺は条件どおり血盟騎士団に参加した。今更じたばたするのは趣味ではない。三日間の準備期間が与えられ、明後日からギルド本部の指示に従って七十五層迷宮区の攻略を始めることになる。  ギルドか——。  俺のかすかな嘆息に気付いたアスナが、腕の中からちらりと視線を送ってきた。 「……なんだかすっかり巻き込んじゃったね……」 「いや、いいきっかけだったよ。ソロ攻略も限界が来てたから……」 「そう言ってもらえると助かるけど……。ねえ、キリト君」  アスナの榛色の瞳が真っ直ぐ俺に向けられる。 「教えてほしいな。なんでギルドを……ひとを避けるのか……。ベータテスターだから、ユニークスキル使いだからってだけじゃないよね。キリト君優しいもん」  俺はしばらく無言でアスナの髪を玩んでいた。 「…………もうずいぶん昔……、一年半くらい前かな。一度だけギルドに入ってたことがある……」  自分でも意外なほど素直に言葉が出てきた。この記憶に触れる度に湧き上がってくる疼痛を、アスナの体温が溶かしていくような、そんな気がする。 「迷宮で偶然助太刀をした縁で誘われたんだ……。俺を入れても六人しかいない小さなギルドで、名前が傑作だったな。〈月夜の黒猫団〉」  アスナがふふ、と微笑む。 「リーダーがいい奴だった。何につけてもメンバーの事を第一に考える男で、皆から信頼されていた——。ケイタという名の棍使いだった。メンバーには両手用遠距離武器の使い手が多くて、フォワードを探しているって言われた……」  正直、彼らのレベルは俺よりかなり低かった。俺が無闇と上げすぎていたと言うべきか。俺が自分のレベルを言えば、彼らは遠慮して引き下がっただろう。だが、当時の俺はベータ出身のソロプレイヤーとして単独で迷宮に潜る毎日にやや疲れていたせいか、〈黒猫団〉のアットホームな雰囲気がとても眩しいものに見えた。俺はレベルと、ベータ出身であるという事を隠してギルドに加わることにした。 〈黒猫団〉のメンバーは、皆現実世界でも友人同士だったんだとケイタは言った。特にケイタと、メンバー中唯一の女性プレイヤーだった黒髪の槍使いは幼馴染の間柄で、二人の雰囲気は傍から見ても特別なものがあった。  ケイタは俺に、槍使いが盾剣士に転向するコーチをしてやってくれないかと言った。そうすれば前衛が俺を含めて三人になり、バランスの取れたパーティーが組める。俺は引き受けた。  黒髪の槍使いは、控えめなおとなしい女の子だった。ネットゲーム暦は長かったが、性格のせいでなかなか友達が作れないんだと笑っていた。俺は、ギルドの活動が無い日も大抵彼女に付き合い、片手剣の手ほどきをした。  俺と彼女は色々な意味で良く似ていた。自分の周囲に壁を作るクセ、言葉たらずな所。やがて、訓練以外の時間も二人で過ごすようになるまで、そう長くはかからなかった。  彼女は、ケイタには嘘はつけないと言った。俺達は二人でケイタに会いに行った。リーダーは黙って彼女の話を聞いていたが、いつもの笑顔でうなずくと、俺に「彼女をよろしく頼む」と言った。別れ際にちらりと寂しそうな顔を見せたのが、隠し事のできない奴らしかった。  それからしばらくたったある日、俺達はケイタを除く五人で迷宮に潜ることになった。ケイタは、ようやく貯まった資金でギルド本部にする家を購入するべく売り手と交渉に行っていた。  すでに攻略された層の迷宮区だったが未踏破部分が残されており、そろそろ帰ろうという時、メンバーの一人が手付かずのトレジャーボックスを見つけた。俺は手を出さないことを主張した。最前線近くでモンスターのレベルも高かったし、メンバーの罠解除スキルが心許なかったからだ。だが、反対したのは俺と彼女だけで、三対二で押し切られてしまった。  罠は、数多ある中でも最悪に近いアラームトラップだった。けたたましい警報が鳴り響き、部屋の全ての入り口から無数のモンスターが湧き出してきた。俺たちは咄嗟に緊急転移で逃れようとした。  だが、罠は二重に仕掛けられていた。結晶無効化空間——クリスタルは作動しなかった。  モンスターはとても支えきれる数ではなかった。メンバーはパニックを起こし逃げ惑った。俺は、今まで彼らのレベルにあわせて封印していた上位剣技を使い、どうにか血路を開こうとした。しかし、恐慌状態に陥った彼らは通路に脱出することも思いつかず、一人また一人とHPをゼロにして、悲鳴と破片を撒き散らしながら消えていった。彼女だけでも救わなければ、そう思って俺は必死に剣を振るい続けた。  しかし間に合わなかった。こちらに向かって助けを求めるように必死に手を差し出した彼女を、モンスターの剣が無慈悲に切り倒した。ガラスの彫像のように儚く砕け散るその瞬間まで、彼女は俺を信じきった目をしていた。  ケイタは、今まで仮の本部としていた宿屋で、新居の鍵を前に俺達の帰りを待っていた。一人生き残った俺だけが戻り、何があったかを説明している間ケイタは無言で聞いていたが、俺が話し終わると一言、「なぜお前だけが生還できたのか」と聞いた。俺は、自分の本当のレベルと、ベータテスト出身なのだということを告げた。  ビーターのお前が俺達に関わる資格なんてなかったんだ——  ケイタの言葉は、鋼鉄の剣のように俺を切り裂いた。 「……その人は……どうしたの……?」 「自殺した」  俺の胸の上でアスナの体がビクリと震えた。 「外周から飛び降りた。最期まで俺を呪っていただろう……な……」  自分の声が詰まるのを感じた。心の奥底に封印したつもりの記憶だったが、初めて言葉にすることによってあの時の痛みが鮮烈に蘇ってきた。俺は歯を食いしばった。アスナを抱きしめたかったが、お前にはその資格はない——と心のどこかで叫ぶ声がして、両の拳を固く握る。 「もう……嫌なんだ……目の前で……仲間を殺すのは……」  目を見開き、食いしばった歯の間から言葉を絞り出す。  不意に、アスナの両手が俺の顔を包み込んだ。穏やかな微笑を湛えた美しい顔が俺のすぐ目の前にある。 「わたしは死なないよ」  ささやくような、しかしはっきりとした声。硬直した全身からふっと力が抜けた。 「キリト君と二人なら、絶対に死なない」  そう言って、アスナは俺の頭を胸に包み込むように抱いた。柔らかく、暖かな暗闇が俺を覆った。目を閉じる。  記憶の暗幕の向こうに、オレンジ色の光が満ちた宿屋のカウンターに腰掛けてこちらを見ている黒猫団の連中の顔が見えた。俺は両手をそっとアスナの体に回した。  翌々日の朝、俺は派手な純白のコートの袖に手を通すと、アスナと連れ立ってグランザム市へと向かった。今日から血盟騎士団の一員としての活動が始まる。と言っても、本来なら五人一組で攻略に当たるところを、副団長アスナの強権発動によって二人のパーティーを組むことになっていたので実質的には今までやっていたことと変らない。  が、ギルド本部で俺を待っていたのは意外な言葉だった。 「訓練……?」 「そうだ。私を含む団員四人のパーティーを組み、ここ五十五層の迷宮区を突破して五十六層主街区まで到達してもらう」  そう言ったのは、以前ヒースクリフと面談したとき同席していた四人の内の一人だった。もじゃもじゃの巻き毛を持つ大男だ。どうやら斧戦士らしい。 「ちょっとゴドフリー! キリト君はわたしが……」  食ってかかるアスナに、片方の眉毛を上げると不遜げに言い返す。 「副団長と言っても規律をないがしろにして戴いては困りますな。実際の攻略時のパーティーについてはまあ了承しましょう。ただ、一度は実戦の指揮を預かるこの私に実力を見せて貰わねば。たとえユニークスキル使いと言っても使えるかどうかはまた別」 「あ、あんたなんか問題ならないくらいキリト君は強いわよ……」  半ギレしそうになるアスナを制して、俺は言った。 「見たいと言うなら見せてやるさ。ただ今更こんな低層の迷宮で時間を無駄にする気はない、一気に突破するが構わないだろうな?」  ゴドフリーという男は不愉快そうに口をへの字に曲げると、三十分後に街の西門に集合、と言い残してのっしのっしと歩いていった。 「なあにあれ!!」  アスナは憤慨したようにブーツで傍らの鉄柱を蹴飛ばす。 「ごめんねキリト君。やっぱり二人で逃げちゃったほうが良かったかなぁ……」 「ままならないな」  俺は笑ってアスナの頭にぽん、と手を置いた。 「うう、今日は一緒にいられると思ったのに……。わたしもついていこうかな……」 「すぐ帰ってくるさ。ここで待っててくれ」 「うん……。気をつけてね……」  寂しそうに頷くアスナに手を振って、俺はギルド本部を出た。  だが、集合場所に指定されたグランザム西門で、俺はさらなる驚愕に見舞われた。  そこに立つゴドフリーの隣に、最も見たくなかった顔——クラディールの姿があったのである。      15 「……どういうことだ」  俺はゴドフリーに小声で尋ねた。 「ウム。君らの間の事情は承知している。だがこれからは同じギルドの仲間、ここらで過去の争いは水に流してはどうかと思ってな!」  ガッハッハ、と笑う。  な……なんと単純な男だ……。  大笑するゴドフリーを呆然と眺めていると、クラディールがのっそりと進み出てきた。 「…………」  全身を緊張させて、どんな事態にも対処できるよう身構える。例え街の中とはいえこの男だけは何をするかわからない。  だが、俺の予想を裏切ってクラディールは突然ぺこりと頭を下げた。ボソボソした聞き取りにくい声で言う。 「先日は……ご迷惑をおかけしまして……」  俺は今度こそ腹の底から驚いて、口をぽかんと開ける。 「二度と無礼な真似はしませんので……許していただきたい……」  陰気な長髪の下にかくれて表情は見えない。 「あ……ああ……」  俺はどうにか頷いた。一体何があったのだろう。人格改造手術でもしたのだろうか。 「よしよし、これで一件落着だな!!」  再びゴドフリーがでかい声で笑った。腑に落ちないどころではない、絶対に何か裏があると思ったが、俯いたままのクラディールの顔からは感情を読み取ることができない。SAOにおける感情表現は誇張的な反面微妙なニュアンスを伝えにくいのだ。やむなくこの場は納得したことにしておいて、警戒を切らないよう自分に言い聞かせる。  しばらくすると残り一人の団員もやってきて、俺たちは迷宮区目指して出発することになった。歩き出そうとした俺を、ゴドフリーの野太い声が引き止める。 「……待て。今日の訓練は限りなく実戦に近い形式で行う。危機対処能力も見たいので、諸君らの結晶アイテムは全て預からせてもらおう」 「……転移結晶もか?」  俺の問いに、当然と言わんばかりに頷く。俺はかなりの抵抗を感じた。クリスタル、特に転移用のものは最後の生命線と言ってよい。俺はストックを切らせたことは一度も無かった。拒否しようと思ったが、ここでまた波風を立てるとアスナの立場も悪くなるだろうと考え直す。五十五層のモンスターならそう危険な相手ではないが……。  クラディールと、もう一人の団員がおとなしくアイテムを差し出すのを見て、俺もしぶしぶ従った。念の入ったことで、アイテムウインドウまで確認される。 「ウム、よし。では出発!」  ゴドフリーの号令に従い、四人はグランザム市を出て遥か西の彼方に見える迷宮区目指して歩き出した。  五十五層のフィールドは植物の少ない乾いた荒野だ。俺はとっとと訓練を終わらせて帰りたかったので迷宮まで走っていくことを主張したが、ゴドフリーに退けられてしまった。どうせ筋力パラメータばかり上げて敏捷度をないがしろにしているのだろう。諦めて荒野を歩きつづける。  何度かモンスターに遭遇したが、こればかりは悠長にゴドフリーの指揮に従う気にならず全て一刀のもとに切り倒した。  やがて、幾つめかの小高い岩山を超えたとき、眼前に灰色の岩造りの迷宮区がその威容を現した。 「よし、ここで一時休憩!」  ゴドフリーが野太い声で言い、一同は立ち止まった。 「…………」  一気に迷宮を突破してしまいたかったが、異を唱えてもどうせ聞き入れられまいと諦めて手近の岩の上に座り込む。時刻はそろそろ正午を回ろうとしていた。 「では、食料を配布する」  ゴドフリーはそう言うと、革の包みを四つオブジェクト化し、一つをこちらに放ってきた。片手で受け取り、さして期待もせず開けると中身は水の瓶とNPCショップで売っている固焼きパンだった。  本当ならアスナの手作りサンドイッチが食えるはずだったのに、と内心で不運を呪いながら、瓶の栓を抜いて一口あおる。  その時ふと、一人離れた岩の上に座っているクラディールの姿が目に入った。奴だけは包みに手も触れていない。垂れ下がった前髪の奥から、奇妙な昏い視線をこちらに向けている。何を見ている……?  突然、冷たい戦慄が全身を包んだ。奴は何かを待っている。それは……多分……。  俺は水の瓶を投げ捨て、口にある液体も吐き出そうとした。だが、遅かった。不意に全身の力が抜け、俺はその場に崩れ落ちた。視界の右隅に自分のHPバーが表示される。そのバーは、普段は存在しないオレンジ色に点滅する枠に囲まれている。  間違いない。麻痺毒だ。  見れば、ゴドフリーともう一人の団員も同様に地面に倒れ、もがいている。俺は咄嗟に、肘から下だけはどうにか動く右手で腰のポーチを探ろうとしてハッとした。しまった。解毒結晶も転移結晶もゴドフリーに預けたままだ。回復用のポーションがあるにはあるが毒には効果が無い。 「クッ……クックックッ……」  俺の耳に甲高い笑い声が届いた。岩の上でクラディールが両手で自分の体を抱え、全身をよじって笑っていた。落ち窪んだ三白眼に見覚えのある狂喜の色がありありと浮かんでいる。 「クハッ! ヒャッ! ヒャハハハハ!!」  堪え切れないというふうに天を仰いで哄笑する。ゴドフリーが茫然とした顔でそれを眺めながら、 「ど……どういうことだ……この水を用意したのは……クラディール……お前……」 「ゴドフリー!!速く解毒結晶を使え!!」  俺の声に、ゴドフリーはようやくのろのろとした動作で腰のパックを探り始めた。 「ヒャ————ッ!!」  クラディールは奇声を上げると岩の上から飛び出し、ゴドフリーの右手をブーツで蹴り飛ばした。その手からむなしく緑色の結晶がこぼれ落ちる。クラディールはそれを拾い上げ、さらにゴドフリーのパックに手を突っ込んでいくつかの結晶を掴み出すと自分のポーチに落としこんだ。万事休すだ。 「クラディール……な、何のつもりだ……? これも何かの……訓練なのか……?」 「バァ————カ!!」  まだ事態を把握できず見当はずれのことを呟くゴドフリーの口を、クラディールのブーツが思い切り蹴り飛ばした。 「ぐはっ!!」  ゴドフリーのHPバーが僅かに減少し、同時にクラディールを示すカーソルが緑から犯罪者のオレンジに変化した。だが、それは事態に何ら影響を与えるものではない。こんな攻略完了層のフィールドを都合よく通りがかる者などいるはずがないからだ。 「ゴドフリーさんよぉ、馬鹿だ馬鹿だと思っていたがあんた筋金入りの筋肉脳味噌だなぁ!!」  クラディールの甲高い声が荒野に響く。 「あんたにも色々言ってやりたいことはあるけどなぁ……オードブルで腹いっぱいになっちまっても困るしよぉ……」  言いながら、クラディールは両手剣を抜いた。大きく振りかぶる。 「ま、まてクラディール! お前……何を……何を言ってるんだ……? く……訓練じゃないのか……?」 「うるせえ。いいからもう死ねや」  無造作に剣を振り下ろした。鈍い音と共にゴドフリーのHPバーが大きく減少する。ゴドフリーはようやく事態の深刻さに気付いたらしく、大声で悲鳴を上げ始めた。だが、いかにも遅すぎた。  二度、三度、無慈悲な輝きと共に剣が閃くたびHPバーは確実に減りつづけ、とうとう赤い危険域に突入した所でクラディールは動きを止めた。さすがに殺すまではしないか……?  しかし、それも束の間。クラディールは逆手に握った剣を、ゆっくりとゴドフリーの体に突き立てた。HPがじわりと減少する。そのまま剣に体重をかけてゆく。 「ぐあああああああ!!」 「ヒャハアアアアア!!」  一際高まるゴドフリーの絶叫に被さるように、クラディールも奇声を上げる。剣先はじわじわとゴドフリーの体に食い込み続け、同時にHPバーは確実な速度でその幅を狭めてゆき——  俺ともう一人の団員が声も無く見つめる中、クラディールの剣がゴドフリーを貫通して地面に達し、同時にHPがあっけなくゼロになった。多分、無数の砕片となって飛び散るその瞬間まで、ゴドフリーは何が起きているのか理解していなかっただろう。  クラディールは地面に突き刺さった大剣をゆっくり抜くと、機械じかけの人形のような動きで、ぐるんと首だけをもう一人の団員のほうに向けた。 「ヒッ!! ヒィッ!!」  短い悲鳴を上げながら、団員は逃げようと空しくもがく。それに向かってヒョコヒョコと奇妙な足取りでクラディールが近づいてゆく。 「……お前にゃ何の恨みもねえけどな……俺のシナリオだと生存者は俺一人なんだよな……」  ボソボソと言いながら、再び剣を振りかぶる。 「ひぃぃぃぃっ!!」 「いいか〜? 俺たちのパーティーはァー」  団員の悲鳴に耳も貸さず、剣を打ち下ろした。 「荒野で犯罪者プレイヤーの大群に襲われェー」  もう一度。 「勇戦空しく三人が死亡ォー」  さらにもう一度。 「俺一人になったものの見事犯罪者を撃退して生還しましたァー」  四撃目で団員のHPバーが消滅した。全身が粟立つ不快な効果音。だがクラディールには女神の美声にでも聞こえるのだろうか。爆散するオブジェクトの破片の真っ只中、恍惚の表情で体を痙攣させている。  初めてじゃないな……。俺は確信していた。たしかに奴はついさっきまで犯罪者を示すオレンジカラーではなかったが、フラグを立てずに殺人を犯す卑怯な方法はいくらでもある。しかし、今それを悟ったところで何になるだろう。  クラディールがとうとう視線をこちらに向けた。その顔には抑えようのない歓喜の色が張り付いている。右手の大剣を地面に引きずる耳障りな音を立てながら、奴はゆっくりこちらに歩み寄ってきた。 「よォ」  無様に這いつくばる俺の傍らにしゃがみこみ、ささやくような声で言う。 「おめぇみてえなガキ一人のためによぉ、関係ねえ奴を二人も殺しちまったよ」 「その割にはずいぶんと嬉しそうだったじゃないか」  答えながらも、俺は必死に状況を打開する方法を考えていた。動くのは口と右手だけだ。麻痺状態ではメニューウインドウが開けず、よって誰かにメッセージを送ることもできない。焼け石に水だろうと思いながら、クラディールから死角になる位置でそっと右手を動かし、同時に言葉を続ける。 「お前みたいな奴がなんでKoBに入った。犯罪者ギルドのほうがよっぽど似合いだぜ」 「クッ、決まってんじゃねぇか。あの女、モノにすんだよ」  軋んだ声で言いながら、クラディールは尖った舌で唇を嘗めまわした。アスナの事だと気付いて全身がカッと熱くなる。 「貴様……!」 「そんなコエェ顔すんなよ。所詮ゲームじゃねえかよ……。心配すんな、おめぇの大事な副団長さまは俺がきっちり面倒見てやるからよ。いろいろ便利なアイテムもある事だしなァ」  クラディールは傍らから毒水入りの瓶を拾い上げ、チャプチャプと鳴らした。 「さて……」  機械じみた動作で立ち上がる。 「おしゃべりもこの辺にしねえと毒が切れちまうからな。そろそろ仕上げと行くかァ。毎晩夢に見てたぜ……この瞬間をな……」  ほとんど真円にまで見開かれた目に妄執の炎を燃やし、両端を吊り上げた口から長い舌を垂らしたクラディールは爪先立ちになって大きく剣を振りかざした。  その体が動き始める寸前、俺は右手に握り込んだ投擲用ピックを手首の動きだけで放った。被ダメージの大きくなる顔面を狙ったのだが、麻痺による命中率低下判定のせいで軌道がずれ、鋼鉄の針はクラディールの左腕に突き刺さった。絶望的なほどわずかな量、クラディールのHPバーが減少した。 「……ってえな……」  クラディールは鼻筋にシワを寄せ、唇をめくりあげると剣先を俺の右腕に突き立てた。そのまま二、三度こじるように回転させる。 「……っ!」  痛みはない。だが、強力な麻酔をかけた上で神経を直接刺激されるような不快な感覚が全身を駆け巡る。剣が腕を抉るたび、俺のHPがわずかだか確実な勢いで減ってゆく。  まだか……まだ毒は消えないのか……。歯を食いしばって衝撃に耐えながら、体が自由になる瞬間を待つ。毒の強さにもよるが、通常麻痺毒からは五分程度で回復するはずだ。  クラディールは一度剣を抜くと、今度は左足に突き下ろしてきた。再び神経を痺れさせるような電流が走り、無慈悲にダメージが加算される。 「どうよ……どうなんだよ……。もうすぐ死ぬってどんな感じだよ……。教えてくれよ……なぁ……」  クラディールはささやくような声で言いながら、じっと俺の顔を見つめている。 「なんとか言えよガキィ……死にたくねえって泣いてみろよぉ……」  俺のHPがとうとう五割を下回り、イエローへと変色した。まだ麻痺からは回復しない。全身を徐々に冷たいものが包んでいく。死の可能性が、冷気の衣を身にまとって足元から這い登ってくる。  俺は今まで、SAO内で何人ものプレイヤーの死を目撃してきた。彼等は皆、無数のきらめく破片となって飛散するその瞬間、一様にある表情を浮かべていた。これで自分が死ぬというなどという事が本当に有り得るのか? という素朴な疑問の表情。  そうだ、多分俺たちは皆心のどこかでは、このゲームの大前提となっているルール、ゲーム内での死が即ち実際の死であるというそれを信じていないのだ。HPがゼロになって消滅すれば、実は何事も無く現実世界へと帰還できるのではないか——という希望に似た予測。その真偽を確認するには実際に死んでみるしかない。そう考えれば、ゲーム内での死というのもゲーム脱出に向かう道の一つなのかもしれない——。 「おいおい、なんとか言ってくれよぉ。ホントに死んじまうぞォ?」  クラディールの剣が脚から抜かれ、腹に突き立てられた。HPが大きく減少し、赤い危険域へと達したが、それもどこか遠い世界の出来事のように思えた。剣によって苛まれながら、俺の思考は光の射さぬ暗い小道へと迷い込もうとしていた。意識に厚く、重い紗がかかってゆく。  だが——。突然俺の心臓を途方も無い恐怖が鷲掴みにした。アスナ。アスナを置いてこの世界から消える。アスナがクラディールの手に落ち、俺と同じ責め苦を受ける。その可能性は耐えがたい痛みとなって俺の意識を覚醒させた。 「くおっ!!」  俺は両目を見開き、自分の腹に突き刺さっていたクラディールの剣の刀身を右手で掴んだ。力を振り絞り、ゆっくりと体から抜き出す。HPは残り一割弱。クラディールが驚いたような声を上げる。 「お……お? なんだよ、やっぱり死ぬのは怖えェってかぁ?」 「そうだ……。まだ……死ねない……」 「カッ!! ヒャヒャッ!! そうかよ、そう来なくっちゃな!!」  クラディールは怪鳥じみた笑いを洩らしながら、剣に全体重をかけてきた。それを右手で必死に支える。単純な数値の問題。俺の筋力パラメータと、クラディールのそれに複雑な補正がかけられ、演算が行われる。  その結果——剣先は徐々にだが、確実な速度で再び下降し始めた。俺を恐怖と絶望が包み込む。ダメなのか……。死ぬのか……アスナを一人……この狂った世界に残して……。俺は必死に抗った。歯を食いしばり、近づいてくる剣に抵抗した。 「死ね————ッ!! 死ねェェェ—————ッ!!」  金切り声でクラディールが絶叫する。  一センチ、また一センチと鈍色の金属に形を借りた殺意が降ってくる。剣先が俺の体に触れ——わずかに潜り込み——……  その時、一陣の疾風が吹いた。  白と赤の色彩を持った風だった。それに触れたクラディールが剣ごと空高く跳ね飛ばされた。俺は目の前に舞い降りた人影を声も無く見つめた。 「……間に合った……間に合ったよ……神様……間に合った……」  ささやくようなその声は天使の羽音にも優るほど美しく響いた。崩れるようにひざまずいたアスナは唇をわななかせ、目をいっぱいに開いて俺をじっと見た。 「生きてる……生きてるよねキリト君……」 「……ああ……生きてるよ……」  俺の声は自分でも驚くほど弱々しくかすれていた。アスナは大きく頷くと、右手でポケットからピンク色の結晶を取り出し、左手を俺の胸に当てて「ヒール!」と叫んだ。結晶が砕け散り、俺のHPバーが一気に右端までフル回復する。それを確認すると、 「……待っててね。すぐ終わらせるから……」  ささやいて、アスナはすっくと立ち上がった。優美な動作で腰から細剣を抜き、歩き出す。  その向かう先では、クラディールがようやく体を起こそうとしていた。近づいてくる人影を認め、両目を丸くする。 「あ、アスナ様……ど、どうして……。い、いや、これは、訓練、そう、訓練でちょっと事故が……」  バネ仕掛けのように立ち上がり、裏返った声で言いつのるその言葉は、しかし最後まで続かなかった。アスナの右手が閃き、剣先がクラディールの口を切り裂いたからである。 「ぶぁっ!!」  片手で口を抑えてのけぞる。一瞬動作を止めたあと、カクンと戻したその顔にはお馴染みの憎悪の色が浮かんでいた。 「このアマァ……調子に乗りやがって……。ケッ、ちょうどいいや、どうせオメェもすぐにヤッてやろうと……」  だがその台詞も中断を余儀なくされた。アスナが細剣を構えるや猛然と攻撃を開始したのだ。 「おっ……くぉぉっ……!」  両手剣で必死に応戦するクラディール。だが、それは戦いと呼べる物ではなかった。アスナの剣尖は宙に無数の光の帯を引きながら恐るべき速さで次々とクラディールの体を切り裂き、貫いていった。アスナより数レベルは高いはずの俺の目にもその軌道はまるで見えなかった。舞うように剣を操る白い天使の姿に、俺はただただ見とれた。  美しかった。栗色の長い髪を躍らせ、瞋恚の炎を全身に纏いながら無表情に敵を追い詰めていくアスナの姿は途方も無く美しかった。 「ぬぁっ! くぁぁぁっ!!」  半ば恐慌を来たして無茶苦茶に振り回すクラディールの剣はかすりもしない。HPバーがみるみる減少してゆき、黄色からついに赤い危険域に突入したところで、とうとうクラディールは剣を投げ出すと両手を上げて喚いた。 「わ、わかった!! わかったよ!! 俺が悪かった!!」  そのまま地面に這いつくばる。 「も、もうギルドは辞める! あんたらの前にも二度と現れねぇよ!! だから——」  アスナはピタリと動きを止め、無言でクラディールの言葉を聞いていた。単なるオブジェクトデータの塊を見るようなその視線。俺はハッとした。 「や……やめろアスナ……だめだ……お前がやっちゃ……だめだ……」  だが、その声はあまりにも弱々しかった。  足元で土下座し、額を地面にこすり付けて命乞いの言葉をわめき続けるクラディールの後頭部に、アスナは細剣の先端をピタリと当て——  何の躊躇も無く一気に貫いた。クラディールの全身がビクンと震えた。  アスナが剣先を抜くと、クラディールはぽかんとした表情で顔を上げた。 「あ……? おい、今何を——」  その瞬間、HPバーが音も無く消滅した。クラディールの肉体を構成する全データが細切れの欠片となって飛び散った。神経に障る、ガラスが圧壊するような効果音。あたりに四散した微小なオブジェクトは蒸発するようにたちまち消えてゆき——気付くとそこにはもう何もなかった。  立ち尽くしたアスナの右手から細剣が落ち、石混じりの地面に乾いた音を立てて転がった。  アスナはうつむいたままよろよろとこちらに歩み寄ると、糸の切れた人形のように俺の傍らに膝をついた。右手をそっと差し出してくるが、俺に触れる寸前でビクリと引っ込める。 「……ごめんね……わたしの……わたしのせいだね……」  悲痛な表情で声をしぼり出した。大きな目から涙が溢れ、宝石のように美しく輝きながら次々に滴り落ちた。 「アスナ……」 「ごめんね……。わたし……も……もう……キリト君には……あ……会わな……」  ようやく麻痺毒の効果が切れた体を俺は必死に起こした。全身に与えられたダメージのせいで不快な痺れが残っているが、構わず両腕を伸ばしてアスナの体を抱き寄せた。そのまま、桜色の美しい唇を自分の唇で塞ぐ。 「……!」  アスナは全身を固くし、両手を使って俺を押しのけようと抗った。構わず強引に抑えこみ、舌先で唇をこじ開けようとする。間違いなくハラスメント防止コードに抵触する行為だ。今アスナの視界にはコード発動を促すシステムメッセージが表示されており、彼女がOKボタンに触れれば俺は一瞬にして黒鉄宮の監獄エリアに転送されるだろう。だが、そんな事は知ったことではない。  俺はアスナの唇を割って自分の舌をすべり込ませ、システムの感覚シミュレーションの限界まで様々な行為をおこなうとようやく顔を離した。 「もう会わないなんて許さない」  顔を真っ赤に上気させたアスナの瞳をじっと見つめたまま言う。 「俺の命は君のものだ、アスナ。だから君のために使う。最後の瞬間まで一緒にいる」  アスナは瞳をうるませ、歓びの表情で熱い吐息を洩らしながら何度も頷いた。 「うん……うんっ……」  今度は自分から腕を絡ませ、顔を近づけてきたアスナを俺は固く抱きしめた。死の淵で凍りついた体の芯が、アスナの命の熱でゆっくり融けはじめるのを感じた。      16  アスナはグランザムで待っている間、俺の位置をマップでモニターしていたのだと言った。ゴドフリーの反応が消失した時点で街を出て走り出したというから、俺たちが一時間かけて歩いた距離、約五キロメートルを五分で走破したことになる。敏捷度パラメータ補正の限界を超えた信じがたい数字だ。それを指摘すると「愛のなせるわざだよ」と小さく微笑んだ。  俺たちはギルド本部に戻るとヒースクリフに事の顛末を報告し、そのまま一時退団を申請した。アスナがその理由を「ギルドに対する不信」と説明すると、ヒースクリフはしばらく黙考した末に退団を了承したが、最後にあの謎めいた微笑を浮かべながら「だが君たちはすぐに戦場に戻ってくるだろう」と付け加えた。  本部を出ると街はすでに夕景だった。俺たちは手を繋いで転移門広場に向かって歩きだした。二人とも無言だった。  浮遊城外周から差し込むオレンジ色の光を背景にして、黒々としたシルエットを描き出す鉄塔群の間をゆっくりと歩く。俺は、死んだあの男の悪意はどこから来たのか、ぼんやりと考えていた。  この世界において好んで悪事を犯す者は珍しくない。盗みや追い剥ぎを働く者から、奴のように楽しみの為に人を殺す者までを含む犯罪者プレイヤーの数は数千人を下らないと言われる。その存在は今やモンスターのように自然発生的なものとして捉えられている。  しかし改めて考えてみるとそれは奇妙な事だ。なぜなら、犯罪者として他のプレイヤーに害を成すのは、ゲームクリアという最終目的に対してマイナスに働く行為だということは誰が考えても明白だからだ。つまり彼等はこの世界から出たくないのだという事になる。  だが、俺はクラディールという男を見て、それも違うと感じた。奴の思考は、ゲーム脱出を支援するでも阻止するでもない、言わば停止状態だった。過去を振り返ることも未来を予測することも止めた結果、自己の欲望だけがとめどなく肥大し、あのような悪意の花を咲かせたのか——。  しかし、ならばこの俺はどうなのだろう。自分が真剣にゲームクリアという目標を志向しているのかどうか、自信を持って断言することはできない。ただの惰性的な経験値稼ぎで毎日迷宮に潜っていると言われたほうがよほどしっくり来るのではないか。己を強化し、他人より優れた力を得る快感のためだけに戦っているのなら、俺も本心ではこの世界の終わりを望んではいない——?  不意に足元の鋼鉄板が頼りなく沈み込んでいく気がして、俺は立ち止まった。アスナの手にすがるように、繋いだ右手を固く握り締める。 「……?」  小首をかしげて俺の顔を覗き込んでくるアスナに一瞬視線を送り、すぐうつむいて自分に言い聞かせるように口を開いた。 「……君だけは……何があろうと還してみせる……あの世界に……」 「……」  今度はアスナがぎゅっと手を握ってきた。 「だめだよ。帰るときは二人いっしょ」  にこりと笑う。  いつのまにか転移門広場の入り口まで来ていた。冬の訪れを予感させる冷たい風の中、身をかがめるようにしたプレイヤーたちがわずかに行き交っている。俺はアスナにまっすぐ向き直った。  彼女の強靭な魂から発せられる暖かな光が、唯一俺を正しく導くものだと思えた。 「アスナ……今夜は、一緒にいたい……」  無意識のうちにそんなことを口にしていた。彼女と離れたくなかった。かつてないほど肉薄した死の恐怖は未だに俺の背に張り付き、容易に去ろうとしない。今夜独りで眠れば必ず夢に見るに違いない。あの男の狂気と容赦なく突き刺さる剣の感触を……。そんな確信があった。  今まで一緒にうたた寝したり長時間触れ合っていたことはあったものの、それ以上の意味を敏感に感じ取ったらしく、アスナは目を見開いて俺をじっと見つめていたが——  やがて、両頬を染めながら小さくこくんと頷いた。  二度目に訪れたセルムブルグ市のアスナの部屋は、相変わらず豪奢で、それでいて居心地のいい暖かさで俺を迎えた。そこかしこに効果的に配置された小物のオブジェクトが主人のセンスの良さを物語っている。と思ったのだが、当のアスナは、 「わ、わあー、散らかってるなぁ、最近あんまり帰ってなかったから……」  てへへ、と笑いながら手早くそれらの物を片付けてしまった。 「すぐご飯にするね。キリト君は新聞でも見ながら待ってて」 「あ、ああ」  武装解除してエプロン姿になり、キッチンに消えていくアスナを見送って、俺はふかふかのソファーに腰を下ろした。テーブルの上の大きな紙片を取り上げる。  新聞、と言っても、情報屋を生業とするプレイヤーが適当な与太話を集めて新聞と称して売っている怪しげな代物だ。だが、娯楽の少ないアインクラッドではそれでも貴重なメディアで、定期購読しているプレイヤーは少なくない。四ページしかないその新聞の一面を何気なく眺め、俺はげんなりして放り出した。俺とヒースクリフのデュエルがトップ記事だったからだ。 『新スキル・二刀流使い現れるも神聖剣の前にあっけない敗北』というその見出しの下には、ご丁寧にもヒースクリフの前で這いつくばる俺の姿を捕えた写真——記録結晶というアイテムで撮影できる——が掲載されている。奴の無敵伝説に新たな頁を加える手伝いをしてしまったわけだ。  だがまあこれで、大した事ない、という評価が下されれば騒ぎも収まるか……とどうにか理由をつけて納得し、レアアイテム相場表などに目を通しているうちに、キッチンから香ばしい匂いが漂ってきた。  夕食はワイルドオックスという牛型モンスターの肉に、アスナ・スペシャルの醤油ソースをかけたステーキだった。食材アイテムのランクとしてはそれ程高級なものではないが、何せ味付けが素晴らしい。がつがつと肉を頬張る俺を、アスナはにこにこしながら眺めていた。  食後のお茶をソファーに向かい合わせで座りながらゆっくりと飲むあいだ、アスナはやけに饒舌だった。好きな武器のブランドや、どこそこの層に観光スポットがあるという話を矢継ぎ早に喋りつづける。  俺は半ばあっけに取られて聞いていたが、アスナが突然黙り込むに及んでさすがに心配になった。お茶のカップの中に何か探してでもいるかのように、じっと視線を落としたまま身じろぎもしない。表情がやけに真剣で、まるで戦闘前だ。 「……お、おい、一体どうしたん……」  だが、俺の言葉が終わらないうちにアスナは右手のカップを音高くテーブルに置くと、 「…………よし!!」  気合をいれながらすっくと立ち上がった。そのまま窓際まで歩いていき、壁に触れて部屋の操作メニューを出すと四隅に設置された照明用のランタンをいきなり全て消した。部屋が暗闇に包まれる。俺の索敵スキル補正が自動的に適用され、視界が暗視モードに切り替わる。  薄青い色彩に染まった部屋の中で、窓から差し込む街灯のほのかな光に照らされたアスナだけが白く輝いていた。状況に戸惑いながらも、俺はその美しさに息をのんだ。  今は濃紺色に見える長い髪、チュニックからすらりと伸びた真っ白な肌の手足、それらが淡い光を反射してまるで自ら発光しているかのようだ。  アスナはしばらく無言で窓際に佇んでいた。うつむいているので表情はよく見えない。左手を胸元に添え、何かを迷っているように見える。  状況を理解できないまま俺が声をかけようとしたとき、アスナの左手が動いた。宙にかざした手の人差し指を軽く振る。ポーン、という効果音と同時にメニューウインドウが出現した。  青い闇のなか、紫色のシステムカラーに発光するその上を、ゆっくりとアスナの指が動く。どうやら左側、装備フィギュアを操作しているらしい——  と思った瞬間、アスナの穿いていた膝までのソックスが音もなく消滅した。優美な曲線を描く素足が剥き出しになる。もう一度指が動く。今度はワンピースのチュニックそのものが装備解除された。俺はポカンと口を開け、目を丸くして思考停止に陥った。  アスナは今や下着を身につけているのみだった。白い小さな布が、申し訳程度に胸と腰を隠している。 「こ、こっち……見ないで……」  震える声で、かすかに呟く。そう言われても、視線を動かすことなどできない。  アスナは両腕を体の前で組み合わせてもじもじしていたが、やがて顔を上げてまっすぐこちらを見ると、優美な動作でウインドウに新たな操作を加えた。最後に残されていたわずかな装備が消滅した。  俺は魂を抜かれるような衝撃を味わいながら、呆然とその姿を見つめた。  美しいなどというものではない。青い光の粒をまとった艶やかでなめらかな肌、最上の絹糸を束ねたような髪、思いがけず量感のある二つのふくらみは、逆説的だがどんな描画エンジンでも再現不可能と思わせる完璧な曲線を描き、ほっそりした腰から両脚にかけては野生動物を思わせるしなやかな筋肉に包まれている。  単なる3Dオブジェクトなどでは決してない。例えれば、神の手になる彫像に魂を吹き込んだようなと言うべきか——。SAOプレイヤーの肉体は、ログイン時にナーヴギアが大まかにスキャンした体格をもとに半ば自動生成的に作られている。それを考えれば、ここまで完璧な美しさを持つ肉体が存在するのは奇跡と言ってよい。  俺は呆けたようにいつまでもその裸身に見入っていた。もし、アスナが耐え切れないといったように両手で体を隠し、口を開かなければ一時間でもそのままだったに違いない。  アスナは、薄青い闇の中でもわかるほど顔を真っ赤に染めて、うつむいたまま言った。 「き、キリト君もはやく脱いでよ……。わたしだけ、は、恥ずかしいよ」  その声に、俺はようやくアスナの行動の意図するところを理解した。  つまり、彼女は——俺の、今夜一緒にいたい、という台詞を、俺より一段踏み込んだ意味に解釈したのだ。  それを理解すると同時に俺は底なしの深いパニックに陥った。結果、これまでの人生で最大のミスを犯すこととなった。 「あ……いや、その、俺は……ただ……今夜、い、一緒の部屋に居たいという、それだけの……つもりで……」 「へ……?」  自分の思考を馬鹿正直にトレースした俺の発言に、今度はアスナがぽかんとした顔で完全停止した。が、やがて、その顔に最大級の羞恥と怒りを混合した表情が浮かぶ。 「バ……バ……」  握り締めた右拳に目に見えるほどの殺気をみなぎらせ、 「バカ——————ッ!!」  敏捷度パラメータ全開のスピードで突進してきたアスナの正拳突きは、俺の顔面に炸裂する寸前で犯罪防止コードに阻まれて大音響と共に紫色の火花を散らした。 「わ、わあー、待った!! ごめん、ごめんって! 今のナシ!」  構わず二撃目を見舞おうとするアスナに向かって両手を激しく振りながら俺は必死に弁解した。 「悪かった、俺が悪かった!! い……いや、しかし、そもそもだなぁ……。その……で、出来るの……? SAOの中で……?」  ようやく攻撃姿勢をやや解除したアスナが、怒りの冷めやらぬ中にも呆れた表情を浮べて言った。 「し、知らないの……?」 「知りません……」 「…………オプションメニューのすっごい深いとこに、倫理コード解除設定があるのよ」  まるで初耳だった。ベータの時には間違いなくそんな物はなかったし、マニュアルにも載っていない。ソロプレイに徹して戦闘情報以外に興味を向けなかったツケをこんな形で払うことになろうとは……。だが、その話は俺に新たな、看過し得ぬ疑問をもたらした。思考能力が回復しないままうっかりそれを口にしてしまう。 「……その……け、経験がおありなんです……?」  再びアスナの鉄拳が俺の顔面直前に炸裂した。 「な、ないわよバカ————ッ!! ギルドの子に聞いたの!!」  俺は心の底からホッとしたが、危機が去ったわけではまるでない。平謝りに謝りつづけ、どうにか宥めるまで数分を要した。  アスナは裸のままどすんとソファーに腰掛けると、据わった視線で俺を睨みつけ、 「……キリト君も早く脱いで」  と命令口調で言った。 「は…………つ、続けるの……?」 「ここでやめたら馬鹿らしすぎるわよ!!」  俺は慌てて従った。アスナの言うままウインドウを開き、恐ろしく深い階層にあるオプションを解除する。  ドタバタした導入には雰囲気も何もあったものではなかったが、二人だと少々狭すぎるベッドの上で、俺たちは時間をかけてシステムの許すかぎり出来る事をした。詳細な説明は省く。  テーブルの上にたった一つだけ灯した小さな蝋燭の明かりが、俺の腕の中でまどろむアスナの肌を控えめに照らしていた。その白い背中にそっと指を這わせる。暖かく、このうえなく滑らかな感触が指先から伝わってくるだけで陶然とした気分になる。  アスナは薄く目を開けると俺を見上げ、二、三度瞬きしてにっこり笑った。 「悪い、起こしちゃったな」 「ん……。ちょっとだけ、夢、見てた。元の世界の夢……。おかしいの」  笑顔のまま、俺の胸に顔をすりよせてくる。 「夢の中で、アインクラッドの事が、キリト君と会ったことが夢だったらどうしようって思ってとっても怖かった。よかった……夢じゃなくて」 「変な奴だな。帰りたくないのか?」 「帰りたいよ。帰りたいけど、ここで過ごした時間がなくなるのは嫌。ずいぶん……遠くまで来ちゃったけど、わたしにとっては大事な二年間なの。今ならそう思える」  ふと真顔になり、自分の右手をじっと見詰める。ごくかすかな声で、 「はじめて、ほかのプレイヤーを……殺した……」  俺はハッとした。内心で激しく動揺する。やはりアスナの手を汚させるべきではなかった。 「ごめん……俺が、決着をつけるべきだった……」 「ううん、いいの」  まっすぐな瞳を向けてくる。 「キリト君を傷つけようとする人は許さない。ゲームの中だからとかじゃないよ。元の世界に戻ってからどんな罰を受けてもいい」 「アスナは……強いな……。俺よりずっと強い……」 「そんなことないよ。わたし、今とっても楽なの……。ギルド辞めて、副団長なんて肩書きやっと放り出して、キリト君のそばにいるだけでいいって思うと、すーって体が軽くなった気がする。……もともと向こうじゃそういう性格だったんだ。誰かの後についてくほうが好き。このゲームだって自分で買ったんじゃないんだよ」  何かを思い出したようにくすくす笑う。 「お兄ちゃんが買ったんだけどね、急な出張になっちゃって、わたしが初日だけ遊ばせてもらうことになったの。すっごい口惜しそうだったのに、二年も独り占めしちゃって、怒ってるだろうなぁ」  身代わりになったアスナのほうが不運だと思うが……。 「……早く帰って、謝らないとな」 「うん……。がんばらないとね……」  だが、言葉とは裏腹に口篭もったアスナは不安そうに目を伏せると、体ごとぴたりと擦寄ってきた。 「ね……キリト君。ちょっとだけ、前線から離れたらだめかなぁ」 「え…………?」 「なんだか怖い……。戦いばっかりのこの世界で……こんなに幸せだと、揺り返しがありそうな気がして……。少し、疲れちゃったのかもしれない……」  アスナの髪をそっと梳りながら、俺は自分でも意外なほど素直に頷いていた。 「そうだな……。俺も、疲れたよ……」  たとえ数値的なパラメータが変化しなくても、日々の連戦は目に見えない消耗を強いる。今日のような極限状況に至る事態があれば尚更だ。どんなに剄い弓でも、引き続ければやがて折れてしまう。休息が必要なときもあるだろう。  俺は、今まで己を戦闘へと駆り立ててきた危機感にも似た衝動が遠ざかっていくのを感じていた。今は、ただこの少女との繋がり、絆を確かめていたい、そう思った。  アスナの体に両腕をまわし、絹のような髪に顔をうずめながら俺は言った。 「二十二層の南西エリアの、森と湖がいっぱいあるとこ……あそこに小さい村があるんだ。モンスターも出ないし、いい所だよ。ログキャビンがいくつか売りに出てた。……二人でそこに引っ越そう。それで……」  言葉に詰まった俺に、アスナがキラキラ輝く大きな瞳をじっと向けてきた。 「それで……?」  こわばった舌をどうにか動かし、続きを口にする。 「……け、結婚しよう」  アスナが見せた最上級の笑顔を、俺は生涯忘れないだろう。 「……はい」  こくりと頷いたその頬を、一粒の大きな涙が流れた。      17  SAOにおいて、システム上で規定されるプレイヤー同士の関係は四種類存在する。  まずひとつは無関係の他人。二つ目がフレンドだ。フレンドリストに登録した者同士なら、どこにいようと簡単な文章のメッセージを送ることができるし、相手の現在位置をマップ上でサーチすることも可能となる。  三つ目はギルドメンバー。上記の機能に加えて、戦闘時にメンバーとパーティーを組むと戦闘力にわずかだがボーナスを得るという特典がある。その代償として、入手したコルのうち一定の割合でギルドへの上納金が差っ引かれてしまうのだが。また、ギルドメンバーはいついかなる時でもリーダーの強制召還を拒否できないというシステム上の誓約があり、俺たちがかつてアスナのギルド脱退に拘ったのもそのへんに理由がある。  さて、俺とアスナは今までフレンドとギルドメンバーという二つの条件を共有していた訳だが、二人ともギルドからは一時脱退し、かわりに最後の一つが加わることになった。  結婚、と言っても手続きは拍子抜けするほど簡単だ。どちらかがプロポーズメッセージを送り、相手が受諾すればそれで終了である。だが、それによってもたらされる変化はフレンドやギルドの比ではない。  SAOにおける結婚が意味するものは、簡潔に言えば全情報と全アイテムの共有だ。お互いは自由に相手のステータス画面を見ることができるし、アイテム画面に至っては一つに統合されてしまう。言わば最大の生命線を相手に差し出す行為であり、裏切りや詐欺の横行するアインクラッドではどんなに仲の良いカップルでも結婚にまで至る例はごく稀だ。男女比の甚だしい不均衡も無論理由の一つではあるのだが。  第二十二層はアインクラッドで最も人口の少ないフロアの一つである。低層であるがゆえに面積は広いが、その大部分は常緑樹の森林と無数に点在する湖に占められており、主街区もごく小さな村と言ってよい規模だ。フィールドにモンスターは出現せず、迷宮区の難度も低かったため僅か三日で攻略されてしまい、プレイヤーの記憶にはほとんど残らなかった。  俺とアスナはその二十二層の森の中に小さなログハウスを購入し、そこで暮らすことにした。小さいと言ってもSAOで一軒家を買うのは並大抵の金額では済まない。アスナはセルムブルグの部屋を売ると言ったのだが、それには俺が強硬に反対し——あそこまで見事にカスタマイズされた部屋を手放すのは勿体無いどころの話ではない——結局二人の手持ちのレアアイテムを、エギルの協力を得て全て売り捌きどうにか金を工面することができた。  エギルは残念そうな顔で好きなだけ二階を使っていいんだぜ、と言ってくれたが、雑貨屋に居候の新婚生活ではあまりに侘しすぎる。それに、超有名プレイヤーのアスナが結婚したなどということが公になったらどんな騒ぎになるか、想像するのも恐ろしい。人のいない二十二層でなら、しばらくは静かな生活を送れるだろうと思ったのだ。 「うわー、いい眺めだねえ!」  寝室、と言っても二部屋しかないのだが、その南側の窓を大きく開け放ってアスナは身を乗り出した。  確かに絶景だ。外周部が間近にあるため、輝く湖面と濃緑の木々の向こうに大きく開けた空を一望することができる。普段、頭上百メートルにのしかかる石の蓋の下で生活しているので、間近にある空がもたらす解放感は筆舌に尽くしがたいものがある。 「いい眺めだからってあんまり外周に近づいて落っこちるなよ」  俺は家財道具アイテムを整理する手を休め、背後からアスナの体に両腕をまわした。この女性は今や俺の妻なのだ——そう思うと、冬の陽だまりのような温かさと同時に不思議な感慨、なんと遠いところまで来てしまったのだろうという驚きに似た気持ちが湧き上がってくる。  この世界に囚われるまで、俺は目的もなく家と学校を往復する日々を送るだけの子供だった。しかし最早現実世界は遥かに遠い過去となってしまった。  もし——もしこのゲームがクリアされ、元の世界に帰ることになったら……。それは俺やアスナを含む全プレイヤーの希望であるはずなのだが、その時のことを考えると正直不安になる。俺は知らず知らずアスナを抱く腕に強く力を込めていた。 「痛いよキリト君……。どうしたの……?」 「ご……ごめん……。なあ、アスナ……」  一瞬口篭もる。だがどうしても聞かずにはおれなかった。 「……俺たちの関係って、ゲームの中だけのことなのかな……? あの世界に帰ったら無くなっちゃう物なのかな……」 「怒るよ、キリト君」 振り向いたアスナは、純粋な感情が燃える瞳をまっすぐ向けてきた。 「例えこれが、こんな異常事態じゃない普通のゲームだとしても、わたしは遊びで人を好きになったりしない」  両手で俺の頬をぎゅっと挟みこむ。 「わたし、ここで一つだけ覚えたことがある。諦めないで最後まで頑張ること。もし元の世界に戻れたら、わたしは絶対キリト君ともう一度会って、また好きになるよ」  アスナの真っ直ぐな強さに感嘆するのは何度目だろう。それとも俺が弱くなっているのか。  だが、それでもいい——。アスナと深く唇を交わしながら、俺は思った。誰かに頼り、支えてもらうのがこんなにも心地よいという事を長い間忘れていた。いつまでここに居られるのかは判らないが、せめて戦場を離れている間くらいは——。  俺は思考が拡散してゆくに任せ、ただ腕の中の甘い香りと柔らかさだけに意識を集中させた。      18  湖水に垂れた糸の先に漂うウキはぴくりともしない。水面に乱舞する柔らかい光を眺めていると、徐々に眠気が襲ってくる。  俺は大きく欠伸をして、竿を引き上げた。糸の先端には銀色の針が空しく光るのみだ。付いていたはずの餌は影も形も無い。  二十二層に引っ越してきて十日余りが過ぎ去っていた。俺は日々の食料を手に入れるため、スキルスロットから大昔に修行しかけた両手剣スキルを削除して代わりに釣りスキルを設定し、太公望を気取っているのだがこれがさっぱり釣れやしない。スキル熟練度はそろそろ六〇〇を超え、大物とまでは行かなくても何か掛かってもいい頃だと思うのだが、村で買ってきた餌箱を無為に空にする毎日である。 「やってられるか……」  小声で毒づくと竿を傍らに投げ出し、俺はごろりと寝転んだ。湖面を渉ってくる風は冷たいが、アスナが裁縫スキルで作ってくれた分厚いオーバーのお陰で体は暖かい。向こうもスキル修行中ゆえにショップメイドのようには行かないが、実用性さえあれば問題はない。  アインクラッドはイトスギの月に入っていた。日本で言えば十一月。冬も間近だが、ここでの釣りに季節は関係なかったはずだ。運のパラメータを美人の奥さんで使い果たしたのだろうか。  その思考経路によって浮かんできたにやにや笑いを隠しもせず寝転がっていると、不意に頭の上のほうから声を掛けられた。 「釣れますか」  仰天して飛び起き、顔を向けると、そこには一人の男が立っていた。  重装備の厚着に耳覆い付きの帽子、俺と同じく釣り竿を携えている。だが驚くべきはその男の年齢だった。どう見ても五十歳は超えているだろう。鉄縁の眼鏡をかけたその顔には初老と言ってもよい程の年輪が刻まれている。重度のゲームマニア揃いのSAOでこれほど高齢のプレイヤーはごく珍しい。と言うより見たことが無い。もしや——? 「NPCじゃありませんよ」  男は俺の思考を読んだように苦笑すると、ゆっくりと土手を降りてきた。 「す、すみません。まさかと思ったものですから……」 「いやいや、無理はない。多分私はここでは突出して最高齢でしょうからな」 肉付きのいい体を揺らして、わ、は、は、と笑う。  ここ失礼します、と言って俺の傍らに腰を下ろした男は、腰のポーチから餌箱を取り出すと不器用な手つきでポップアップメニューを出し、竿をターゲットして餌を付けた。 「私はニシダといいます。ここでは釣り師。日本では東都高速線という会社の保安部長をしとりました。名刺が無くてすみませんな」  またわははと笑う。 「あ……」  なるほど……。俺はこの男がここにいる理由を何となく察していた。東都高速線はアーガスと提携していた光ケーブルネットワーク運営企業だ。SAOのサーバー群に繋がる経路も手がけていたはずである。 「俺はキリトといいます。最近上の層から越してきました。……ニシダさんは、やはり……SAOのシステムセキュリティの……?」 「一応責任者ということになっとりました」 頷いたニシダを俺は複雑な心境で見やった。ならばこの男は業務の上で事件に巻き込まれたわけだ。 「いやあ、何もログインまではせんでいいと上には言われたんですがな、自分の仕事はこの目で見ないと収まらん性分でして、年寄りの冷や水がとんだことになりましたわ」  笑いながら、すい、と竿を振る動作は見事なものだった。年季が入っている。話し好きな人物のようで、俺の言葉を待たず喋りつづける。 「私の他にも何だかんだでここに来てしまったいい歳の親父が百人ほどはいるようですな。大抵は最初の街でおとなしくしとるようですが、私はコレが三度の飯より好きでしてね」 竿をくいっとしゃくってみせる。 「いい川やら湖を探してとうとうこんな所まで登ってきてしまいましたわ」 「な、なるほど……。この層にはモンスターも出ませんしね」  ニシダは、俺の言葉にはニヤリと笑っただけで答えず、 「どうです、上のほうにはいいポイントがありますかな?」 と聞いてきた。 「うーん……。六十一層は全面湖、というより海で、相当な大物が釣れるようですよ」 「ほうほう! それは一度行ってみませんとな」  その時、男の垂らした糸の先で、ウキが勢いよく沈み込んだ。間髪入れずニシダの腕が動き、ビシッと竿を合わせる。本来の腕もさることながら釣りスキルの数値もかなりのものだろう。 「うおっ、で、でかい!」  慌てて身を乗り出す俺の横で、ニシダは悠然と竿を操り、水面から青く輝く大きな魚体を一気に抜き出した。魚はしばし男の手許で跳ねたあと、自動でアイテムウインドウに格納され、消滅する。 「お見事……!」  ニシダは照れたように笑うと、 「いやぁ、ここでの釣りはスキルの数値次第ですから」 と頭を掻いた。 「ただ、釣れるのはいいんだが料理の方がどうもねえ……。煮付けや刺身で食べたいもんですが醤油無しじゃどうにもならない」 「あ……っと……」  俺は一瞬迷った。他人から隠れるために移ってきた場所だが……しかしこの男ならゴシップには興味があるまいと判断する。 「……醤油にごく似ている物に心当たりがありますが……」 「なんですと!」 ニシダは眼鏡の奥で目を輝かせ、身を乗り出してきた。  ニシダを伴って帰宅した俺を出迎えたアスナは、少し驚いたように目を丸くしたがすぐに笑顔を浮かべた。 「おかえりなさい。お客様?」 「ああ。こちら、釣り師のニシダさん。で——」  ニシダに向き直った俺は、アスナをどう紹介したものか迷って口篭もった。するとアスナはにこりと老齢の釣り師に微笑みかけ、 「キリトの妻のアスナです。ようこそいらっしゃいませ」  元気よく頭を下げた。  ニシダはぽかんと口をあけ、アスナに見入っていた。地味な色のロングスカートに麻のシャツ、エプロンとスカーフ姿のアスナは、KoB時代の凛々しい剣士姿とは違えどその美しさにかわるところはない。  何度かまばたきした後、ようやく我に返った様子のニシダは、 「い、いや、これは失礼、すっかり見とれてしまった。ニシダと申します、厚かましくお招きにあずかりまして……」  頭を掻きながら、わははと笑った。  ニシダから受け取った大きな魚を、アスナは料理スキルを如何なく発揮して刺身と煮物に調理し、食卓に並べた。例の自作醤油の香ばしい匂いが部屋中に広がり、ニシダは感激した面持ちで鼻を盛んにひくつかせた。  魚は淡水魚というよりは、旬の鰤のような脂の乗った味だった。ニシダに言わせるとスキル値九五〇は無いと釣れない種類だそうで、三人とも会話もそこそこにしばらく夢中で箸を動かしつづけた。  たちまち食器は空になり、熱いお茶のカップを手にしたニシダは陶然とした顔で長いため息をついた。 「……いや、堪能しました。ご馳走様です。しかし、まさかこの世界に醤油があったとは……」 「あ、自家製なんですよ。よかったらお持ち下さい」  アスナは台所から小さな瓶を持ってきてニシダに手渡した。その際素材の解説をしなかったのは賢明だろう。恐縮するニシダに向かって、こちらこそ美味しいお魚を分けていただきましたから、と笑う。続けて、 「キリト君はろくに釣ってきたためしがないんですよ」  唐突に話の矛先を向けられて、俺は憮然として茶を啜った。 「このへんの湖は難易度が高すぎるんだよ」 「いや、そうでもありませんよ。難度が高いのはキリトさんが釣っておられたあの大きい湖だけです」 「な……」  ニシダの言葉に俺は絶句した。アスナがお腹を押さえてくっくっと笑っている。 「なんでそんな設定になってるんだ……」 「実は、あの湖にはですね……」  ニシダは声をひそめるように言った。俺とアスナが身を乗り出す。 「どうやら、主がおるんですわ」 「ヌシ?」  異口同音に聞き返す俺とアスナに向かってニヤリと笑ってみせると、ニシダは眼鏡を押し上げながら続けた。 「村の道具屋に、一つだけヤケに値の張る釣り餌がありましてな。物は試しと使ってみたことがあるんです」  思わず固唾を飲む。 「ところが、これがさっぱり釣れない。散々あちこちで試したあと、ようやくあそこ、唯一難度の高い湖で使うんだろう思い当たりまして」 「つ、釣れたんですか……?」 「ヒットはしました」  深く頷く。しかしすぐ残念そうな顔になり、 「ただ、私の力では取り込めなかった。竿ごと取られてしまいましたわ。最後にちらりと影だけ見たんですが、大きいなんてもんじゃありませんでしたよ。ありゃ怪物、そこらにいるのとは違う意味でモンスターですな」  両腕をいっぱいに広げてみせる。あの湖で、俺がここにはモンスターは居ないと言った時にニシダが見せた意味深な笑顔はそういうことだったのか。 「わあ、見てみたいなぁ!」  目を輝かせながらアスナが言う。ニシダは、そこで物は相談なんですが、と俺に視線を向けてきた。 「キリトさんは筋力パラメータのほうに自信は……?」 「う、まあ、そこそこには……」 「なら一緒にやりませんか! 合わせるところまでは私がやります。そこから先をお願いしたい」 「ははぁ、釣り竿の『スイッチ』ですか。……できるのかなぁそんな事……」  首をひねる俺に向かって、 「やろうよキリト君! おもしろそう!」  アスナが、わくわく、と顔に書いてあるような表情で言った。相変わらず行動力のある奴だ。だが俺もかなり好奇心を刺激されているのは事実だった。 「……やりますか」  俺が言うと、ニシダは満面に笑みを浮べて、そうこなくっちゃ、わ、は、は、と笑った。  その夜。  寒い寒いと俺のベッドに潜り込んできたアスナは、ぴたりとお互いの体を密着させると満足そうに喉を鳴らした。眠そうに目をぱちぱちさせながら、何かを思い出したような笑みを浮べている。 「……いろんな人がいるんだねえ、ここ……」 「愉快な親父だったなぁ」 「うん」  しばらくクスクス言っていたが、不意に笑いを引っ込めて、 「今までずーっと上で戦ってばっかいたから、普通に暮らしてる人もいるんだってこと忘れてたよ……」と呟いた。 「わたしたちが特別だなんて言うわけじゃないけど、最前線で戦えるくらいのレベルだってことは、あの人たちに対して責任がある、ってことでもあるんだよね」 「……俺はそんなふうに考えたこと無かったな……。強くなるのは自分が生き残るためってのが第一だった」 「今はキリト君に期待してる人だっていっぱいいると思うよ。わたしも含めてね」 「……そういう言われ方すると逃げたくなる性分なんだ」 「もう」  不満そうに口を尖らせるアスナの唇を、俺は自分の唇で塞いだ。右手を背に這わせ、そのまま下のほうに降ろしてゆく。 「あ……誤魔化すなんて、ず、ずるい……」  構わず寝巻きの下に手を潜らせようとしたが、その手をぎゅっと抓られてしまった。 「今日はもうだめ!」 「……な、なんで……」 「……気持ちよすぎて、こわいんだもん……」  顔を赤くして毛布に潜ってしまう。 「うむ、あのシステムはどうやらリアリティは追求しないで、純粋な快感だけを無制限に脳神経シミュレートしてるみたいだからな。薬物使用みたいな物で、ある意味危険かもな」  と鹿爪らしい声で言ってやると、それにつられたように顔を出して、 「そうなのよね……。最初にこっちで慣れちゃうと、帰ってから、本物に幻滅したりすると嫌だなって……——って、何言わせるのよ!!」  耳まで真っ赤にしてぽかぽか殴りかかってくるアスナの攻撃を避けながら、 「わははは、いやらしい子だなぁアスナは」  と笑っていたら本当に怒らせてしまったらしく、俺はベッドから容赦なく突き落とされた。 「もう知らない! そっちのベッドで寝てください!」  毛布を被ってむこうを向いてしまったアスナに謝りながら、俺は内心でもう少しだけこの生活が続くように願っていた。ニシダやその他のプレイヤーの為にもいつかは前線に戻らなくてはならない。だが、せめて今だけは——。  エギルやクラインから届くメッセージで、七十五層の攻略が難航していることは知らされていた。しかし、俺にとってはここでのアスナとの暮らしが今いちばん大切なのだと、心からそう思えた。      19  ニシダから主釣り決行の知らせが届いたのは三日後の朝のことだった。どうやら太公望仲間に声を掛けて回っていたらしく、ギャラリーが三十人から来るという。 「参ったなぁ。……どうする? アスナ……」 「う〜ん……」  正直、その知らせは有難くなかった。情報屋やらアスナの追っかけから身を隠す為に選んだ場所なので、衆目の前には出るのは抵抗がある。 「これでどうかなー」  アスナは栗色の長い髪をアップにまとめると、大きなスカーフを目深に巻いて顔を隠した。ウインドウを操作して、だぶだぶした地味なオーバーコートを着込む。 「お、おお。いいぞ、生活に疲れた農家の主婦っぽい」 「……それ、褒めてるの?」 「勿論。俺はまあ武装してなければ大丈夫だろう」  昼前に、弁当のバスケットを下げたアスナと連れ立って家を出た。向こうでオブジェクト化すればいいだろうと思ったが、変装の一環だと言う。  今日はこの季節にしては暖かい。巨大な針葉樹が立ち並ぶ森の中をしばらく歩くと、幹の間からきらめく水面が見えてきた。湖畔にはすでに多くの人影が見える。やや緊張しながら近づいて行くと、見覚えのあるずんぐりした男が聞き覚えのある笑い声と共に手を上げた。 「わ、は、は、晴れてよかったですなぁ!」 「こんにちはニシダさん」  俺とアスナも頭を下げる。年齢にバラつきのある集団はニシダの主催する釣りギルドのメンバーだと言う事で、内心緊張しながら全員に挨拶したがアスナに気が付いた者はいないようだった。  それにしても予想以上にアクティブな親父である。会社ではいい上司だったのだろう。俺たちが到着する前から景気付けに釣りコンペをやっていたそうで、すでに場は相当盛り上がっている。 「え〜、それではいよいよ本日のメイン・イベントを決行します!」  長大な竿を片手に進み出たニシダが大声で宣言すると、ギャラリーは大いに沸いた。俺は何気なく彼の持つ竿と、その先の太い糸を視線で追い、先端にぶら下がっている物に気付いてぎょっとした。  トカゲだ。だが大きさが尋常ではない。大人の二の腕くらいのサイズがある。赤と黒の毒々しい模様が浮き出た表面は、新鮮さを物語るようにぬめぬめと光っている。 「ひえっ……」  やや遅れてその物体に気付いたアスナが、顔を強張らせて二、三歩後ずさった。これが餌だとすると、狙う獲物というのは一体……。  だが俺が口を差し挟む間もなく、ニシダは湖に向き直ると大上段に竿を構えた。気合一発、見事なフォームで竿を振ると、ぶん、と空気を鳴らしながら巨大なトカゲが宙に弧を描いて飛んでゆき、やや離れた水面に盛大な水飛沫を上げて着水した。  SAOにおける釣りには、待ち時間というものが殆ど無い。仕掛けを水中に放り込めば、数十秒で獲物が釣れるか、餌が消滅して失敗するかどちらかの結果が出る。俺たちは固唾を飲んで水中に没した糸に注目した。  果たして、やがて釣り竿の先が二、三度ぴくぴくと震えた。だが竿を持つニシダは微動だにしない。 「き、来ましたよニシダさん!!」 「なんの、まだまだ!!」  眼鏡の奥の、普段は好々爺然とした目を爛々と輝かせ、片頬に笑みを浮べたニシダは細かく振動する竿の先端をじっと見据えている。  と、一際大きく竿の穂先が引き込まれた。 「いまだッ」  ニシダが短躯を大きく反らせ、全身を使って竿をあおった。傍目にも分るほど糸が張り詰め、びぃん、という効果音が空気を揺らした。 「掛かりました!! あとはお任せしますよ!!」  ニシダから手渡された竿を、俺は恐る恐る引いてみた。びくともしない。まるで地面を引っ掛けたような感触だ。これは本当にヒットしているのだろうかと不安になり、ニシダにちらりと視線を向けた瞬間——  突然猛烈な力で糸が水中に引き込まれた。 「うわっ」  慌てて両足を踏ん張り、竿を立て直す。使用筋力のゲインが日常モードを軽く超えている。 「こ、これ、力一杯引いても大丈夫ですか?」  竿や糸の耐久度が心配になり、俺はニシダに声をかけた。 「最高級品です! 思い切ってやってください!」  顔を真っ赤にして興奮しているニシダに頷き返すと、俺は竿を構え直し、全力を開放した。竿が中程から逆Uの字に大きくしなる。  レベルアップ時に、筋力と敏捷力のどちらを上昇させるかは各プレイヤーが任意に選択することができる。エギルのような斧使いなら筋力を優先させるし、アスナのような細剣使いは敏捷力を上げていくのがセオリーだ。俺はオーソドックスな剣士タイプなので双方のパラメータを上げていたが、好みの問題でどちらかと言えば敏捷力に傾いている。  だが、レベルの絶対値が無駄に高いせいか、どうやらこの綱引きは俺に分があるようだった。俺は踏ん張った両足をじりじりと後退させ、遅々としながらも確実な速度で謎の獲物を水面に近づけていった。 「あっ! 見えたよ!!」  アスナが身を乗り出し、水中を指差した。俺は岸から離れ、体を後方に反らせている為確認することができない。見物人たちは大きくどよめくと、我先にと水際に駆け寄り、岸から急角度で深くなっている湖水を覗き込んだ。俺は好奇心を抑え切れず、全筋力を振り絞って一際強く竿をしゃくり上げた。 「……?」  突然、俺の眼前で湖面に身を乗り出していたギャラリー達の体がビクリと震えた。皆揃って二、三歩後退する。 「どうしたん……」  俺の言葉が終わる前に、連中は一斉に振り向くと猛烈な勢いで走り始めた。俺の左をアスナ、右をニシダが顔面蒼白で駆け抜けていく。あっけに取られた俺が振り向こうとしたその時——突然両手から重さが消えた。  しまった、糸が切れたか。咄嗟にそう思って水際に駆け寄ろうと片足を踏み出す。その瞬間、俺の眼前で、銀色に輝く湖水が大きく、丸く盛り上がった。 「な———」  目と口を大きく開けて立ち尽くす俺の耳に、遠くからアスナの声が届いてきた。 「キリトくーん、あぶないよ——」  振り向くと、アスナやニシダを含む全員はすでに岸辺の土手を駆け上がり、かなりの距離まで離れている。ようやく状況を飲み込みつつある俺の背後で、盛大な水音が響いた。とてつもなく嫌な予感をひしひしと感じながら、俺はもう一度振り向いた。  魚が立っていた。  もうすこし詳細に説明すれば、魚類から爬虫類への進化の途上にある生物、シーラカンスのもう少し爬虫類寄りといった様子の奴が、全身から滝のように水滴をしたたらせ、六本のがっしりとした脚で岸辺の草を踏みしめて俺を見下ろしていた。見下ろして、という表現になるのは、そいつの全高がどう少なく見積もっても二メートルはあるからだ。牛さえも丸のみにしそうな口は俺の頭よりやや高い位置にあり、端からは見覚えのあるトカゲの足がはみ出している。  巨大古代魚の、頭の両脇に離れてついているバスケットボール大の目と、俺の目がぴたりと合った。自動で俺の視界に黄色いカーソルが表示された。  ニシダは、この湖のヌシは怪物、ある意味モンスターだと語った。  ある意味どころではない。こいつはモンスターそのものだ。  俺はひきつった笑顔を浮かべ、数歩後退した。左手の竿を放り出し、そのままくるりと後ろを向き、脱兎の如く駆け出す。背後の巨大魚は轟くような咆哮を上げると、当然のように地響きを立てながら俺を追ってきた。  敏捷度全開で宙を飛ぶようにダッシュした俺は、数秒でアスナの傍まで達すると猛然と抗議した。 「ず、ずずずるいぞ!! 自分だけ逃げるなよ!!」 「わぁ、そんな事言ってる場合じゃないよキリト君!」  振り向くと、動作は鈍いものの確実な速度で巨大魚がこちらに駆け寄りつつあった。 「おお、陸を走っている……肺魚なのかなぁ……」 「キリトさん、呑気なこと言っとる場合じゃないですよ!! 早く逃げんと!!」  今度はニシダが腰を抜かさんばかりに慌てながら叫ぶ。数十人のギャラリー達も余りのことに硬直してしまったらしく、なかには座り込んだまま呆然とするだけの者も少なくない。 「キリト君、武器持ってる?」  俺の耳に顔を近づけながら、アスナが小声で聞いてきた。確かに、この状態の集団を整然と逃がすのはかなり難しそうだが——。 「スマン、持ってない……」 「しょうがないなぁもう」  アスナは頭を左右に振りながら、いよいよ間近に迫った巨大脚付き魚に向き直った。慣れた手つきで素早くウインドウを操作する。  ニシダや他の見物人達が呆然と見守る中、こちらに背を向けてすっくと立ったアスナは両手でスカーフと分厚いオーバーを同時に剥ぎ取った。陽光を反射してきらきら輝く栗色の髪が、風の中で華麗に舞った。  オーバーの下は草色のロングスカートと生成り麻のシャツの地味な格好だが、その左腰には銀鏡仕上げの細剣の鞘がまばゆく光っている。右手で音高く剣を抜き放ち、地響きを上げて殺到する巨大魚を悠然と待ち構える。  俺の横に立っていたニシダは、ようやく思考が回復した様子で俺の腕を掴むと大声で叫んだ。 「キリトさん! 奥さんが、奥さんが危ない!!」 「いや、任せておけば大丈夫です」 「何を言うとるんですか君ィ!! こ、こうなったら私が……」  悲壮な表情で釣り竿を構え、アスナの方に駆け出そうとする老釣り師を俺は慌てて制した。  巨大魚は突進の勢いを落とさぬまま、無数の牙が並ぶ口を大きく開けるとアスナを一飲みにする勢いで身を躍らせた。その口に向かって、体を半身に引いたアスナの右手が白銀の光芒を引いて突き込まれた。  爆発じみた衝撃音と共に、巨大魚の口中でまばゆいエフェクトフラッシュが炸裂した。魚は宙高く吹き飛ばされたが、アスナの両足の位置はわずかも変わっていない。  モンスターの図体にはかなり心胆寒からしめる物があったが、レベル的には大したことは無かろうと俺は予想していた。こんな低層で、しかも釣りスキル関連のイベントで出現するからには理不尽に強敵である筈がないのだ。SAOというのは、そういうお約束は外さないゲームなのである。  地響きを立てて落下した巨大魚のHPバーは、アスナの強攻撃一発で大きく減少していた。そこへ、〈閃光〉の異名に恥じない連続攻撃が容赦なく加えられた。  華麗なダンスにも似たステップを踏みながら恐るべき死殺技の数々を繰り出すアスナの姿を、ニシダや他の参加者達は呆けたような顔で見つめていた。彼らはアスナの美しさと強さのどちらに見とれているのだろう。多分両方だ。  周囲を圧する存在感を振りまきながら剣を操り続けたアスナは、敵のHPバーがレッドゾーンに突入したと見るやフワリと跳んで距離を取り、着地と同時に突進攻撃を敢行した。彗星のように全身から光の尾を引きながら、正面から巨大魚に突っ込んでいく。最上位細剣技の一つ、〈フラッシング・ペネトレイター〉だ。  ソニックブームに似た衝撃音と共にその彗星はモンスターの口から尾までを貫通し、長い滑走を経てアスナが停止した直後、敵の巨体が膨大な光の欠片となって四散した。一瞬遅れて巨大な破砕音が轟き、湖の水面に大きな波紋を作り出した。  チン、と音を立ててアスナが細剣を鞘に収め、すたすたとこちらに歩み寄ってきても、ニシダ達は口を開けたまま身動ぎひとつしなかった。 「よ、お疲れ」 「わたしにだけやらせるなんてずるいよー。今度何かおごってもらうからね」 「もう財布も共通データじゃないか」 「う、そうか……」  俺とアスナが緊張感のないやり取りをしていると、ようやくニシダが目をパチパチさせながら口を開いた。 「……いや、これは驚いた……。奥さん、ず、ずいぶんお強いんですな。失礼ですがレベルは如何程……?」  俺とアスナは顔を見合わせた。この話題はあまり引っ張ると危険だ。 「そ、そんなことよりホラ、今のお魚さんからアイテム出ましたよ」  アスナがウインドウを操作すると、その手の中に白銀に輝く一本の釣り竿が出現した。イベントモンスターから出現したからには、非売品のレアアイテムだろう。 「お、おお、これは!?」  ニシダが目を輝かせ、それを手に取る。周囲の参加者も一斉にどよめく。どうやらうまく誤魔化せたかな……と思ったとき。 「あ……あなた、血盟騎士団のアスナさん……?」  一人の若いプレイヤーが二、三歩進み出てきて、アスナをまじまじと見詰めた。その顔がパッと輝く。 「そうだよ、やっぱりそうだ、俺写真持ってるもん!!」 「う……」  アスナはぎこちない笑いを浮べながら、数歩後ずさった。先程に倍するどよめきが周囲から沸き起こった。 「か、感激だなぁ! アスナさんの戦闘をこんな間近で見られるなんて……。そうだ、サ、サインお願いしていいで……」  若い男はそこでピタリと口を閉ざすと、俺とアスナの間で視線を数回往復させた。呆然とした表情で呟く。 「け……結婚、したんすか……」  今度は俺が強張った笑いを浮べる番だった。二人並んで不自然に笑う俺たちの周りで、悲嘆に満ちた叫びが一斉に上がった。ニシダだけは何のことやらわからないといった様子で目をぱちくりさせていたが。  俺とアスナの蜜月はこのようにして僅か二週間で終わりを迎えることとなった。だが、結局のところ、最後に愉快なイベントに参加できたのは幸運だったのかも知れなかった。  その日の夜、俺たちの元に、七十五層のボスモンスター攻略戦への参加を要請するヒースクリフからのメッセージが届いたのである。  翌朝。  ベッドの端に腰掛けてがっくりとうなだれていると、支度を済ませたアスナが鋲付きブーツを音高く鳴らしながら目の前までやってきて言った。 「ほら、いつまでもくよくよしてない!」 「だってまだ二週間なんだぜ」  子供のように口答えをしながら顔を上げる。しかし実際のところ、久しぶりに白と赤の騎士装を身に付けたアスナは非常に魅力的に見えたことは否定できない。  ギルドを仮にせよ脱退するに至った経緯を考えれば、今回の要請を断る事もできただろう。だが、メッセージの末尾にあった「すでに被害が出ている」という一文が俺たちに重くのしかかっていた。 「やっぱり、話だけでも聞いておこうよ。ほら、もう時間だよ!」  背中を叩かれてしぶしぶ腰を上げ、装備画面を操作して例の派手なレザーコートと最小限の防具類、最後に二本の愛剣を背中に交差して吊る。その重みは、長らくアイテム欄に放置しっぱなしだった事に対して無言の抗議をしているかのようだ。俺は剣たちをなだめるように少しだけ抜き出し、同時に勢い良く鞘に収めた。高く澄んだ金属音が部屋中に響いた。 「うん、やっぱりキリト君はその格好のほうが似合うよ」  アスナがにこにこしながら右腕に飛びついてくる。俺は首をぐるりと回してしばしの別れとなる新居を見渡した。 「……さっさと片付けて戻ってこよう」 「そうだね!」  頷きあうと、俺達はドアを開けた。冬の気配が色濃くなった冷たい朝の空気の中へと足を踏み出す。  二十二層の転移門広場では、釣り竿を抱えたお馴染みの姿でニシダが俺たちを待っていた。彼だけには出発の時刻を伝えておいたのだ。  ちょっとお話よろしいですか、という彼の言葉に頷いて、俺たちは三人並んで広場のベンチに腰掛けた。上層の底部を見上げながら、ニシダはゆっくりと話し始めた。 「……正直、今までは、上の階層でクリア目指して戦っておられるプレイヤーの皆さんもいるという事がどこか別世界の話のように思えておりました。……内心ではもうここからの脱出を諦めていたのかもしれませんなぁ」  俺とアスナは無言で彼の言葉を聞いていた。 「ご存知でしょうが電気屋の世界も日進月歩でしてね、私も若い頃から相当いじってきたクチですから今まで何とか技術の進歩に食らいついて来ましたが、二年も現場から離れちゃもう無理ですわ。どうせ帰っても会社に戻れるかわからない、厄介払いされて惨めな思いをするくらいなら、ここでのんびり竿を振ってたほうがマシだ——と……」  言葉を切り、深い年輪の刻まれた顔に小さい笑みを浮べる。俺は掛ける言葉が見つからなかった。SAOの囚人となったことによってこの男が失った物は、俺などに想像できる範疇のものではないだろう。 「わたしも——」  アスナがぽつりと言った。 「わたしも、半年くらい前までは同じ事を考えて毎晩独りで泣いていました。この世界で一日過ぎる度に、家族のこととか、友達とか、進学とか、わたしの現実がどんどん壊れていっちゃう気がして、気が狂いそうだった。寝てる時も元の世界の夢ばっかり見て……。少しでも強くなって早くゲームクリアするしかない、って武器のスキル上げばっかりしてたんです」  俺は驚いて傍らのアスナの顔を見詰めた。俺と出会ったころはそんな様子はまるで見えなかった。他人の事をろくに見ていないのは今に始まったことではないが……。  アスナは俺に視線を送るとかすかに微笑んで、言葉を続けた。 「でも、半年くらい前のある日、最前線に転移していざ迷宮に出発って思ったら、広場の芝生で昼寝してる人がいるんです。レベルも相当高そうだったし、わたし頭に来ちゃって、その人に『こんなとこで時間を無駄にする暇があったらすこしでも迷宮を攻略してください』って……」  片手を口に当ててクスクスと笑う。 「そしたらその人、『今日はアインクラッドで最高の季節の、さらに最高の気象設定だから、こんな日に迷宮に潜っちゃもったいない』って言って、横の芝生を指して『お前も寝ていけ』なんて。失礼しちゃいますよね」  笑いを収め、視線を遠くへと向けてアスナは続けた。 「でも、わたしそれを聞いてハッとしたんです。この人はこの世界でちゃんと生きてるんだ、って思って。現実世界で一日無くすんじゃなくて、この世界で一日積み重ねてる、こんな人もいたのか——って……。ギルドの人を先に行かせて、わたし、その人の隣で横になってみました。そしたらほんとに風が気持ちよくて……ぽかぽかあったかくて、そのまま寝ちゃったんです。怖い夢も見ないで、多分この世界に来て初めて本当にぐっすり寝ました。起きたらもう夕方で、その人が横で呆れた顔してました。……それがこの人です」  言葉を切ると、アスナは俺の手をぎゅっと握った。俺は内心で激しく狼狽していた。確かにその日のことはなんとなく覚えているが……。 「……すまんアスナ、俺そんな深い意味で言ったんじゃなくて、ただ昼寝したかっただけだと思う……」 「わかってるわよ。言わなくていいのそんな事!」  アスナは唇を尖らせる仕草をすると、にこにこしながら話を聞いているニシダに向き直った。 「……わたし、その日から、毎晩彼のことを思い出しながらベッドに入りました。そしたら嫌な夢も見なくなった。がんばって彼の名前調べて、時間作っては会いに行って……。だんだん、明日がくるのが楽しみになって……恋してるんだって思うとすっごく嬉しくて、この気持ちだけは大切にしようって。初めて、ここに来てよかった、って思いました……」  アスナはうつむくと白手袋をはめた手で両目をごしごし擦り、大きく息を吸って続けた。 「キリト君はわたしにとって、ここで過ごした二年間の意味であり、証であり、希望そのものです。わたしはこの人に出会う為に、あの日ナーヴギアを被ってここに来たんです。……ニシダさん、生意気な事かもしれませんけど、ニシダさんがこの世界で手に入れたものだってきっとあるはずです。確かにここは仮想の世界で、目に見えるものはみんなデータの偽物かもしれない。でも、わたしたちは、わたし達の心だけは本物です。なら、わたし達が経験し、得たものだってみんな本物なんです」  ニシダは盛んに目をしばたかせながら何度も頷いていた。眼鏡の奥で光るものがあった。俺も目頭が熱くなるのを必死にこらえた。俺だ、と思った。救われたのは俺だ。現実世界でも、ここに囚われてからも生きる意味を見つけられなかった俺こそが救われたのだ。 「……そうですなぁ、本当にそうだ……」  ニシダはふたたび空を見上げながら言った。 「今のアスナさんのお話を聞けたことだって貴重な経験です。五メートルの超大物を釣ったことも、ですな。……人生、捨てたもんじゃない。捨てたもんじゃないです」  大きくひとつ頷くと、ニシダは立ち上がった。 「や、すっかり時間を取らせてしまいましたな。……私は確信しましたよ。あなた達のような人が上で戦っている限り、そう遠くないうちにもとの世界に戻れるだろうとね。私に出来ることは何もありませんが、——がんばってください。がんばってください」  ニシダは俺たちの手を握ると、何度も上下に振った。 「また、戻ってきますよ。その時は付き合ってください」  俺が右手の人差し指を動かすと、ニシダは顔をくしゃくしゃにして大きく頷いた。  俺たちは固く握手を交わし、転移ゲートへと足を向けた。蜃気楼のように揺れる空間に踏み込み、アスナと顔を見合わせると、二人同時に口を開いた。 「転移——グランザム!」  視界に広がる青い光が、いつまでも手を振るニシダの姿を徐々にかき消していった。      20 「偵察隊が、全滅——!?」  二週間ぶりにグランザムの血盟騎士団本部に戻った俺たちを待っていたのは衝撃的な知らせだった。  ギルド本部となっている鋼鉄塔の上部、かつてヒースクリフとの会談に使われた硝子張りの会議室である。半円形の大きな机の中央にはヒースクリフの賢者然としたローブ姿があり、左右にはギルドの幹部連が着席しているが、前回とは違いそこにゴドフリーの姿はない。  ヒースクリフは顔の前で骨ばった両手を組み合わせ、眉間に深い谷を刻んでゆっくり頷いた。 「昨日のことだ。七十五層迷宮区のマッピング自体は、時間は掛かったがなんとか犠牲者を出さずに終了した。だがボス戦はかなりの苦戦が予想された……」  それは俺も考えないではなかった。なぜなら、今まで攻略してきた無数のフロアのうち二十五層と五十層のボスモンスターだけは抜きん出た巨体と戦闘力を誇り、どちらの攻略においても多大な犠牲が出たからである。二十五層では軍の精鋭がほぼ全滅して現在の弱体化を招く原因となったし、五十層では勝手に緊急脱出する者が続出して戦線が一度崩壊、援護の部隊がもう少し遅れたらこちらも全滅の憂き目は免れなかったはずだ。その戦線を独力で支えたのが今目の前にいる男なのだが。  クォーター・ポイントごとに強力なボスが用意されているなら、七十五層も同様である可能性は高かった。 「……そこで、我々は五ギルド合同のパーティー二十人を偵察隊として送り込んだ」  ヒースクリフは抑揚の少ない声で続けた。半眼に閉じられた真鍮色の瞳からは表情を読み取ることはできない。 「偵察は慎重を期して行われた。十人が後衛としてボス部屋入り口で待機し……最初の十人が部屋の中央に到達して、ボスが出現した瞬間、入り口の扉が閉じてしまったのだ。ここから先は後衛の十人の報告になる。扉は五分以上開かなかった。鍵開けスキルや直接の打撃等何をしても無駄だったらしい。ようやく扉が開いた時——」  ヒースクリフの口許が固く引き結ばれた。一瞬目を閉じ、言葉を続ける。 「部屋の中には、何も無かったそうだ。十人の姿も、ボスも消えていた。転移脱出した形跡も無かった。彼らは帰ってこなかった……。念の為、基部フロアの黒鉄宮までモニュメントの名簿を確認しに行かせたが……」  その先は言葉に出さず、首を左右に振った。俺の隣りでアスナが息を詰めた。絞りだすように呟く。 「十……人も……。なんでそんな事に……」 「結晶無効化空間……?」  俺の問いをヒースクリフは小さく首肯した。 「そうとしか考えられない。アスナ君の報告では七十四層もそうだったという事だから、おそらく今後全てのボス部屋が無効化空間と思っていいだろう」 「バカな……」  俺は嘆息した。緊急脱出不可となれば、思わぬアクシデントで死亡する者が出る可能性が飛躍的に高まる。死者を出さない、それはこのゲームを攻略する上での大前提だ。だがボスを倒さなければクリアも有り得ない……。 「いよいよ本格的にデス・ゲームになってきたわけだ……」 「だからと言って攻略を諦める事はできない」  ヒースクリフは目を閉じると、ささやくような、だがきっぱりとした声で言った。 「結晶による脱出が不可な上に、今回はボス出現と同時に背後の退路も絶たれてしまう構造らしい。ならば統制の取れる範囲で可能な限り大部隊をもって当たるしかない。新婚の君たちを召喚するのは本意ではなかったが、了解してくれ給え」  俺は肩をすくめて答えた。 「協力はさせて貰いますよ。だが、俺にとってはアスナの安全が最優先です。もし危険な状況になったら、パーティー全体よりも彼女を守ります」  ヒースクリフはかすかな笑みを浮かべた。 「何かを守ろうとする人間は強いものだ。君の勇戦を期待するよ。攻略開始は三時間後。予定人数は君たちを入れて三十二人。七十五層コリニア市ゲートに午後一時集合だ。では解散」  それだけ言うと、紅衣の聖騎士とその配下の男たちは一斉に立ち上がり、部屋を出て行った。 「三時間かー。どうしよっか」  鋼鉄の長机にちょこんと腰掛けて、アスナが訊いてきた。俺は無言でその姿をじっと見つめた。白地に赤の装飾が入ったワンピースの戦闘服に包まれた伸びやかな肢体、長く艶やかな栗色の髪、くるくると輝く榛色の瞳——その姿はかけがえの無い宝石のように美しい。  いつまでも俺が視線を逸らさないでいると、アスナはなめらかな白い頬をわずかに赤く染めて、 「ど……どうしたのよ」  照れくさそうに笑った。俺はためらいながら口を開いた。 「……アスナ……」 「なあに?」 「……怒らないで聞いてくれ。今日のボス攻略戦……参加しないで、ここで待っていてくれないか」  アスナは俺をじっと見つめると、少し悲しそうにうつむきながら言った。 「……どうしてそんな事言うの……?」 「ヒースクリフにはああ言ったけど、クリスタルが使えない場所では何が起こるかわからない。怖いんだ……君の身にもしものことがあったら……って思うと……」 「……そんな危険な場所に、自分だけ行って、わたしには安全な場所で待ってろ、って言うの?」  アスナは立ち上がると、昂然とした歩調で俺の前に歩み寄ってきた。その瞳に激情の炎が燃えている。 「もしそれでキリト君が帰ってこなかったら、わたし自殺するよ。もう生きてる意味ないし、ただ待ってた自分が許せないもの。逃げるなら、二人で逃げよう。キリト君がそうしたいならわたしはそれでもいい」  言葉を切り、右手の指先を俺の胸の真中に当てた。瞳が柔らかくなる。口元にかすかな微笑が浮かぶ。 「でもね……。今日参加する人はみんな怖がってると思う。逃げ出したいと思う。なのに何十人も集まったのは、団長とキリト君、間違いなくこの世界で最強の二人が先頭に立ってくれるから……なんじゃないかな……。キリト君がそういうの嫌いなのはわかってる。でも、他の人たちのためじゃなくて、わたしたちのために……二人で元の世界に帰って、もう一度出会うために、一緒にがんばってほしい」  俺は右手を上げ、自分の胸に添えられたアスナの指先をそっと包み込んだ。彼女を失いたくないという痛切な感情が胸に突き上げてくる。 「……ごめん……俺、弱気になってる。本心では、二人で逃げたいと思ってるんだ。アスナにも死んで欲しくないし、俺も死にたくない。現実世界に……」  アスナの瞳をじっと見つめ、その先を口にする。 「現実世界に、戻れなくてもいいから……あの森の家でいつまでも一緒に暮らしたい。ずっと……二人だけで……」  アスナはもう片方の手で自分の胸元をぎゅっと掴む仕草をした。何かに耐えるように目を閉じ、眉根を寄せる。わずかに開いたその唇から、切ない吐息が漏れた。 「ああ……夢みたいだね……。そうできたら、いいね……。毎日、一緒に……いつまでも……」  そこで言葉を切り、はかない希望を断ち切るように唇をきつく噛み締めた。まぶたを開け、俺を見上げた表情は真剣だった。 「キリト君。考えたことある……? わたしたちの、本当の体がどうなってるか」  俺は虚を突かれて黙り込んだ。それは、多分全プレイヤー共通の疑問だったろう。だが現実世界と連絡する方法が無い以上、考えても詮無いことだ。皆漠然とした恐怖を抱きつつも、あえてその疑問に正面から向き合うことを避けていた。 「覚えてる? このゲームが始まって何週間か経った頃に、ほとんど全部のプレイヤーが半日くらい回線切断するっていう事件があったじゃない」  確かにそういう事があった。俺も十時間ほど記憶が飛んで驚いたのを覚えている。ほぼ全員が一日以内に復帰したのだが、それでもかなりの人数が戻ってこなかった。その事件は〈大切断〉と呼ばれ、サーバーダウンや、当局による救出の試みであるといった様々な憶測が飛んだのだが……。 「わたし、多分あのときに、全プレイヤーが一斉にあちこちの病院に移されたんだと思う。だって、ふつうの家で何年も植物状態の人間を介護するなんて無理だよ。病院に収容して、改めて回線を繋ぎなおしたんじゃないかな……」 「……言われればそうかもしれないな……」 「わたしたちの体が、病院のベッドの上で、いろんなコードに繋がれて、どうにか生かされてるって状況なんだとしたら……そんなの、何年も無事に続くとは思えない」  俺は不意に自分の全身が希薄になっていくような不安感に襲われた。お互いの存在を確かめるように、アスナをぎゅっと抱き寄せる。 「……つまり……ゲームをクリア出来るにせよ出来ないにせよ、それとは関係なくタイムリミットは存在する……ってことか……」 「……それも、個人差のある、ね……。ここじゃ『向こう』の話題はタブーだから、今までこの話を人としたことはないんだけど……キリト君は別だよ。わたし……わたし、一生キリト君の隣にいたい。ちゃんとお付き合いして、本当に結婚して、一緒に歳を取っていきたい。だから……だから……」  その先は言葉にならなかった。アスナは俺の胸に顔を埋め、堪えきれない嗚咽を洩らした。俺はその背中をゆっくりと撫でながら、代わりに言葉を続けた。 「だから……今は戦わなきゃいけないんだな……」  恐怖が消えたわけではなかった。だが、アスナが折れそうな心を必死に支えて運命を切り拓こうとしているのに、俺が挫けることなどどうしてできるだろう。  大丈夫——きっと大丈夫だ——二人なら、きっと——。  胸の中に忍び込んでくる悪寒を振り払うように、俺はアスナを抱く腕に力をこめた。      21  七十五層コリニア市のゲート広場には、すでに攻略チームと思しき、一見してハイレベルとわかるプレイヤー達が集結していた。俺とアスナがゲートから出て歩み寄っていくと、皆ぴたりと口を閉ざし緊張した表情で目礼を送ってきた。中には右手でギルド式の敬礼をしている連中までいる。  俺は大いに戸惑って立ち止まったが、隣のアスナは慣れた手つきで返礼し、俺の脇腹を小突いた。 「ほら、キリト君はリーダー格なんだからちゃんと挨拶しないとだめだよ!」 「んな……」  ぎこちない仕草で敬礼する。今までのボス攻略戦で集団に属したことは何度もあったが、このように注目を集めるのは初めてだ。 「よう!」  景気良く肩を叩かれて振り返ると、カタナ使いのクラインが悪趣味なバンダナの下でにやにや笑っていた。驚いたことにその横には両手斧で武装したエギルの巨体もある。 「なんだ……お前らも参加するのか」 「なんだってことはないだろう!」  憤慨したようにエギルが野太い声を出した。 「今回はえらい苦戦しそうだって言うから、商売を投げ出して加勢に来たんじゃねえか。この無私無欲の精神を理解できないたぁ……」  大げさな身振りで喋りつづけるエギルの腕をポンと叩き、 「無私の精神はよーくわかった。じゃあお前は戦利品の分配からは除外していいのな」  そう言ってやると途端に巨漢はつるつるの頭に手をやり、眉を八の字に寄せた。 「いや、そ、それはだなぁ……」  情けなく口篭もるその語尾に、クラインとアスナの朗らかな笑い声が重なった。笑いは集まったプレイヤー達にも伝染し、皆の緊張が徐々に解れていくようだった。  午後一時ちょうどに転移ゲートから新たな数名が出現した。真紅の長衣に巨大な十字盾を携えたヒースクリフと、血盟騎士団の精鋭達だ。彼らの姿を目にすると、プレイヤーたちの間に再び緊張が走った。単純なレベル的強さなら俺とアスナを上回るのはヒースクリフ本人だけだと思われるが、やはり彼らの結束感には迫力を感じずにいられない。白赤のギルドカラーを除けば皆武装も装備もまちまちだが、醸し出す集団としての力はかつて目にした軍の部隊とは比べ物にならないと思わせる。  聖騎士と四人の配下は、プレイヤーの集団を二つに割りながらまっすぐ俺たちの方へ歩いてきた。威圧されたようにクラインとエギルが数歩下がる中、アスナだけは涼しい顔で敬礼を交わしている。  立ち止まったヒースクリフは俺たちに軽く頷きかけると、集団の方に向き直って言葉を発した。 「欠員は無いようだな。よく集まってくれた。状況はすでに知っていると思う。厳しい戦いになるだろうが、諸君の力なら切り抜けられると信じている。——解放の日のために!」  ヒースクリフの力強い叫びに、プレイヤー達は一斉にときの声で応えた。俺は彼の磁力的なカリスマに舌を巻いていた。いきおい社会性に欠けるきらいがあるコアなネットゲーマーの中に、よくこれほど指導者の器を持った人物がいたものだ。あるいはこの世界が彼の才能を開花させたのか。現実世界では何をしていた男なのだろう……。  俺の視線を感じ取ったようにヒースクリフはこちらを振り向くと、かすかな笑みを浮べ、言った。 「キリト君、今日は頼りにしているよ。〈二刀流〉、存分に揮ってくれたまえ」  低くソフトなその声にはわずかな気負いも感じられない。予想される死闘を前にしてこの余裕はさすがと言わざるを得ない。  俺が無言で頷くと、ヒースクリフは再び集団を振り返り、軽く片手を上げた。 「では、出発しよう。目標のボスモンスタールーム直前の場所までコリドーを開く」  言って、腰のパックから濃紺色の結晶アイテムを取り出すと、その場のプレイヤー達から「おお……」という声が漏れた。  通常の転移結晶は、指定した街の転移門まで使用者ひとりを転送することができるだけだが、今ヒースクリフの手にあるのは〈回廊結晶〉、コリドークリスタルというアイテムで、任意の地点を記録し、そこに向かって瞬間転移ゲートを開くことができるという極めて便利な代物だ。  だがその利便性に比例して希少度も高く、NPCショップでは販売していない。迷宮区のトレジャーボックスか、強力なモンスターからのドロップでしか出現しないので、入手してもそれを使おうというプレイヤーはそうはいない。先ほど皆の口から嘆声が漏れたのは、レアな回廊結晶を目にしたこと対してと言うよりも、それをあっさり使用するというヒースクリフに驚いたということのほうが大きいだろう。  そんな皆の視線など意に介せぬふうで、ヒースクリフは結晶を握った右手を高く掲げると「コリドー・オープン」と発声した。極めて高価なクリスタルは瞬時に砕け散り、彼の前の空間に青く揺らめく光の渦が出現した。 「では皆、ついてきてくれたまえ」  俺たちをぐるりと見渡すと、ヒースクリフは紅衣の裾をひるがえし、青い光の中へ足を踏み入れた。その姿は瞬時に眩い閃光に包まれ、消滅する。間を置かず、四人のKoBメンバーがそれに続く。  いつの間にか、転移門広場の周囲にはかなりの数のプレイヤーが集まってきていた。ボス攻略作戦の話を聞いて見送りに来たのだろう。激励の声援が飛ぶ中、剣士たちは次々と光のコリドーに飛び込み、転移していく。  最後に残ったのは俺とアスナだった。俺たちは小さく頷きあうと、手をつなぎ、同時に光の渦へと体を躍らせた。  軽い眩暈にも似た転移感覚のあと、目を開くとそこはもう迷宮の中だった。広い回廊だ。壁際には太い柱が列をなし、その先に巨大な扉が見て取れる。  七十五層迷宮区は、わずかに透明感のある黒曜石のような素材で組み上げられていた。ごつごつと荒削りだった下層の迷宮とは違い、鏡のように磨き上げられた黒い石が直線的に敷き詰められている。空気は冷たく湿り、うすい靄がゆっくりと床の上をたなびいている。  俺の隣りに立ったアスナが、寒気を感じたように両腕を体に回し、言った。 「……なんか……やな感じだね……」 「ああ……」  俺も首肯する。  今日に至る二年間の間に、俺たちは七十四にも及ぶ迷宮区を攻略しボスモンスターを倒してきたわけだが、さすがにそれだけ経験を積むと、その棲家を見ただけで主の力量を何となく計れるようになる。  周囲では、三十人のプレイヤーたちが三々五々固まってメニューウインドウを開き、装備やアイテムの確認をしているが、彼らの表情も一様に固い。  俺はアスナを伴って一本の柱の陰に寄ると、その華奢な体にそっと腕をまわした。戦闘を前に、押さえつけていた不安が噴き出してくる。体が震える。 「……だいじょうぶだよ」  アスナが耳元でささやいた。 「キリト君は、わたしが守る」 「……いや、そうじゃなくて……」 「ふふ」  小さく笑みを洩らして、アスナは言葉を続けた。 「……だから、キリト君はわたしを守ってね」 「ああ……必ず」  俺は一瞬腕に力を込め、抱擁を解いた。回廊の中央で、十字盾をオブジェクト化させたヒースクリフががしゃりと装備を鳴らし、言った。 「皆、準備はいいかな。今回、ボスの攻撃パターンに関しては情報がない。基本的にはKoBが前衛で攻撃を食い止めるので、その間に可能な限りパターンを見切り、柔軟に反撃してほしい」  剣士たちが無言でうなずく。 「では——行こうか」  あくまでもソフトな声音で言うと、ヒースクリフは無造作に黒曜石の大扉に歩み寄り、中央に右手をかけた。全員に緊張が走る。  俺は、並んで立っているエギルとクラインの肩を背後から叩き、振り向いた二人に向かって言った。 「死ぬなよ」 「へっ、お前こそ」 「今日の戦利品で一儲けするまではくたばる気はないぜ」  連中がふてぶてしく言い返した直後、大扉が重々しい響きを立てながらゆっくりと動き出した。プレイヤーたちが一斉に抜刀する。俺も背から同時に二振りの愛剣を引き抜いた。隣で細剣を構えるアスナにちらりと視線を送り、うなずきかける。  最後に、十字盾の裏側から長剣を音高く抜いたヒースクリフが、右手を高く掲げ、叫んだ。 「——戦闘、開始!」  そのまま、完全に開ききった扉の中へと走り出す。全員が続く。  内部は、かなり広いドーム状の部屋だった。俺とヒースクリフがデュエルした闘技場ほどもあるだろう。円弧を描く黒い壁が高くせり上がり、遥か頭上で湾曲して閉じている。三十二人全員が部屋に走り込み、自然な陣形を作って立ち止まった直後——背後で轟音を立てて大扉が閉まった。もはや開けることは不可能だろう。ボスが死ぬか、俺たちが全滅するまでは。  数秒の沈黙が続いた。だだっ広い床全面に注意を払うが、ボスは出現しない。限界まで張り詰めた神経を焦らすように、一秒、また一秒と時間が過ぎていく。 「おい——」  誰かが、耐え切れないというふうに声をあげた、その時。 「上よ!!」  隣で、アスナが鋭く叫んだ。はっとして頭上を見上げる。  ドームの天頂部に——それが貼りついていた。  巨大だ。とてつもなくでかく、長い。百足だ——!? 見た瞬間、そう思った。全長は十メートルほどもあるだろうか。複数の体節に区切られたその体は、しかし、虫と言うよりは人間の背骨を思わせた。灰白色の円筒形をした体節ひとつひとつからは、骨剥き出しの鋭い脚が伸びている。その体を追って視線を動かしていくと、徐々に太くなるその先に、凶悪な形をした頭蓋骨があった。これは人間のものではない。流線型にゆがんだその骨には二対四つの鋭く吊りあがった眼窩があり、内部で青い炎が瞬いている。大きく前方に突き出した顎の骨には鋭い牙が並び、頭骨の両脇からは鎌状に尖った巨大な骨の腕が突き出している。  視線を集中すると、イエローのカーソルとともにモンスターの名前が表示された。〈The Skullreaper〉——骸骨の狩り手。  無数の脚を蠢かせながら、ゆっくりとドームの天井を這っていた骨百足は——全員が度肝を抜かれ、声も無く見守る中、不意にすべての脚を大きく広げ——パーティーの真上に落下してきた。 「固まるな! 距離を取れ!!」  ヒースクリフの鋭い叫び声が、凍りついた空気を切り裂いた。我に返ったように全員が動き出す。俺たちも落下予測地点から慌てて飛び退る。  だが、落ちてくる骨百足のちょうど真下にいた三人の動きが、わずかに遅れた。どちらに移動したものか迷うように、足を止めて上を見上げている。 「こっちだ!!」  俺は慌てて叫んだ。呪縛の解けた三人が走り出す——。  だが。その背後に、百足が地響きを立てて落下した瞬間、床全体が大きく震えた。足を取られた三人がたたらを踏む。そこに向かって、百足の右腕——長大な骨の鎌、刃状の部分だけで人間の身長ほどもあるそれが、横薙ぎに振り下ろされた。  三人が背後から同時に切り飛ばされた。宙を吹き飛ぶ間にも、そのHPバーが猛烈な勢いで減少していく——黄色の注意域から、赤の危険域へと—— 「!?」  そして、あっけなくゼロになった。バーが消滅した。まだ空中にあった三人の体が、立て続けに無数の結晶を撒き散らしながら破砕した。消滅音が重なって響く。 「———!!」  隣でアスナが息を詰めた。俺も、体が激しく強張るのを感じた。  一撃で——死亡だと——!?  スキル・レベル制併用のSAOでは、レベルの上昇に伴ってHPの最大値も上昇していくため、剣の腕前いかんに関わらず数値的なレベルさえ高ければそれだけ死ににくくなる。特に今日のパーティーは高レベルプレイヤーだけが集まっていたため、たとえボスの攻撃と言えど数発の連続技なら持ちこたえる——はずだったのだ。それが、たったの一撃で——。 「こんなの……無茶苦茶だわ……」  かすれた声でアスナがつぶやく。  一瞬にして三人の命を奪った骸骨百足は、上体を高く持ち上げて轟く雄叫びを上げると、猛烈な勢いで新たなプレイヤーの一団目掛けて突進した。 「わあああ———!!」  その方向にいたプレイヤー達が恐慌の悲鳴を上げる。再び骨鎌が高く振り上げられる。  と、その真下に飛び込んだ影があった。ヒースクリフだ。巨大な盾を掲げ、鎌を迎撃する。耳をつんざく衝撃音。火花が飛び散る。  だが、鎌は二本あった。左側の腕でヒースクリフを攻撃しつつも、右の鎌を振り上げ、凍りついたプレイヤーの一団に突き立てようとする。 「くそっ……!」  俺は我知らず飛び出していた。宙を飛ぶように瞬時に距離を詰め、轟音を立てて振ってくる骨鎌の下に身を躍らせる。左右の剣を交差させ、鎌を受ける。途方も無い衝撃。だが——鎌は止まらない。火花を散らしながら俺の剣を押しのけ、眼前に迫ってくる。だめだ、重すぎる——!  その時、新たな剣が純白の光芒を引いて空を切り裂き、下から鎌に命中した。衝撃音。勢いが緩んだその隙に、俺は全身の力を振り絞って骨鎌を押し返す。  俺の真横に立ったアスナは、こちらを一瞬見て、言った。 「二人同時に受ければ——いける! わたし達ならできるよ!」 「——よし、頼む!」  俺は頷いた。アスナが隣にいてくれると思うだけで無限の気力が湧いてくる、そんな気がする。  再び、今度は横薙ぎに繰り出されてきた骨鎌に向かって、俺とアスナは同時に右斜め斬り降ろし攻撃を放った。完璧にシンクロした二人の剣が、二筋の光の帯を引いて鎌に命中する。激しい衝撃。今度は、敵の鎌が弾き返された。  俺は、声を振り絞って叫んだ。 「大鎌は俺たちが食い止める!! みんなは側面から攻撃してくれ!」  その声に、ようやく全員の呪縛が解けたようだった。雄叫びを上げ、武器を構えて骨百足の体に向かって突撃する。数発の攻撃が敵の体に食い込み、ようやく初めてボスのHPバーがわずかに減少した。  だが、直後、複数の悲鳴が上がった。鎌を迎撃する隙を縫って視線を向けると、百足の尾の先についた長い槍状の骨に数人が薙ぎ払われ、倒れるのが見えた。 「くっ……」  歯噛みをするが、俺とアスナにも、少し離れて単身左の鎌を捌いているヒースクリフにも、これ以上の余裕はない。 「キリト君っ……!」  アスナの声に、ちらりと視線を向ける。  ——だめだ! 向こうに気を取られると、やられるぞ!  ——そうだね……——来るよ……!  ——左斬り上げで受ける!  瞳を見交わすだけで意思を疎通し、俺とアスナは完璧に同期した動きで鎌を弾き返した。  時折上がるプレイヤーの悲鳴、絶叫を無理矢理意識から締め出し、俺たちは凶悪な威力を秘めた敵の攻撃を受けることだけに集中した。不思議なことに、途中から俺たちは言葉を使わず、お互いを見ることすらしなくなっていた。まるで思考がダイレクトに接続されたようなリニア感。息もつかせぬペースで繰り出されてくる敵の攻撃を、瞬時に同じ技で反応し、受け止める。  その瞬間——限界ぎりぎりの死闘のさなか、俺はかつてない程の一体感を味わっていた。アスナと俺が融合し、ひとつの戦闘意識となって剣を振りつづける——それはある意味、途方も無く官能的な体験だった。時折繰り出される敵の強攻撃を受ける余波で、わずかずつHPが減少していくが、俺たちはそれすらもすでに意識していなかった。      22  戦いは一時間にも及んだ。  無限にも思えた激闘の果てに、ついにボスモンスターがその巨体を四散させたときも、誰一人として歓声を上げる余裕のある者はいなかった。皆倒れるように黒曜石の床に座り込み、あるいは仰向けに転がって荒い息を繰り返している。  終わった——の……?  ああ——終わった——  その思考のやりとりを最後に、俺とアスナの「接続」も切れたようだった。不意に全身を重い疲労感が襲い、たまらず床に膝をつく。俺とアスナは背中合わせに座り込み、しばらく動くことはできそうもなかった。  二人とも生き残った——。そう思っても、手放しで喜べる状況ではない。あまりにも犠牲者が多すぎた。開始直後に三人が散った後も、確実なペースで禍々しいオブジェクト破砕音が響きつづけ、俺は六人まで数えたところで無理矢理その作業を止めていた。 「何人——やられた……?」  左の方でがっくりとしゃがみこんでいたクラインが、顔を上げてかすれた声で聞いてきた。その隣で手足を投げ出して仰臥したエギルも顔だけこちらに向けてくる。  俺は左手を振ってマップを呼び出し、表示された緑の光点を数えてみた。出発時の人数から犠牲者の数を逆算する。 「——十四人死んだ」  自分で数えておきながら信じることができない。皆トップレベルの、歴戦のプレイヤーだった筈だ。たとえ離脱や瞬間回復不可の状況とは言え、生き残りを優先した戦い方をしていればおいそれと死ぬようなことはない——と思っていたのだが——。 「……うそだろ……」  エギルの声にも普段の張りはまったく無かった。生き残った者たちの上に暗鬱な空気が厚く垂れ込めた。  ようやく四分の三——まだこの上に二十五層もあるのだ。何万のプレイヤーがいると言っても、最前線で真剣にクリアを目指しているのは数百人といったところだろう。一層ごとにこれだけの犠牲を出してしまえば、最後にラスボスと対面できるのはたった一人——というような事態にもなりかねない。  おそらくその場合は、残るのは間違いなくあの男だろう……。  俺は視線を部屋の奥に向けた。そこには、他の者が全員床に伏す中、背筋を伸ばして毅然と立つ紅衣の姿があった。ヒースクリフだ。  無論彼も無傷ではなかった。視線を合わせてカーソルを表示させると、HPバーがかなり減少しているのが見て取れる。俺とアスナが二人がかりでどうにか防ぎ続けたあの巨大な骨鎌を、ついに一人で捌ききったのだ。数値的なダメージに留まらず、疲労困憊して倒れても不思議ではない。だが、悠揚迫らぬその立ち姿には、精神的な消耗など皆無と思わせるものがあった。まったく信じられないタフさだ。まるで機械——永久機関を備えた戦闘機械のようだ……。  俺は、疲労で紗のかかったような意識のままぼんやりとヒースクリフの横顔を見つめ続けた。伝説の男の表情はあくまで穏やかだ。無言で、床にうずくまるKoBメンバーや他のプレイヤー達を見下ろしている。暖かい、慈しむような視線——。言わば——  言わば、精緻な檻の中で遊ぶ子ねずみの群を見るような。  その刹那、俺の全身を恐ろしいほどの戦慄が貫いた。  意識が一気に覚醒する。指先から脳の中心までが急速に冷えてゆく。俺の中に生まれた、ある予感——かすかな発想の種がみるみる膨らみ、疑念の芽を伸ばしてゆく。  ヒースクリフのあの視線、あの穏やかさ。あれは傷ついた仲間をいたわる表情ではない。彼は俺たちと同じ場所に立っているのではない——。あれは、遥かな高みから慈悲を垂れる——神の表情だ……。  俺は、かつてヒースクリフとデュエルした時の、彼の恐るべき超反応を思い出していた。あれは人間の速度の限界を超えていた。言いなおそう。SAOシステムに許されたプレイヤーの限界速度を、だ。システムの枠にとらわれぬ存在。だがNPCではない。単なるプログラムに、あのような慈悲に溢れた表情はできない。  NPCでもなく一般のプレイヤーでもないとすれば、残る可能性は唯一つだ。だが、それをどうやって確認すればよいのか。方法などない……なにひとつ。  いや、ある。今この瞬間、この場所でのみ可能な方法がたった一つだけある。  俺はヒースクリフのHPバーを見つめた。過酷な戦いを経て大きく減少している。だが、危険域にまでは達していない。かろうじて、本当にぎりぎりの所でイエロー表示に留まっている。  未だかつて、ただの一度もレッドゾーンに陥ったことのない男。余人を寄せ付けぬその圧倒的防御力。  俺はゆっくりと右手の剣を握りなおした。ごく小さな動きで、徐々に右足を引いていく。腰をわずかに上げ、低空ダッシュの準備姿勢を取る。ヒースクリフは俺の動きに気付いていない。その穏やかな視線はただ、打ちひしがれるギルド団員にのみ向けられている。  仮に予想がまったくの的外れなら、俺は犯罪者プレイヤーに転落し、容赦ない制裁を受けることとなるだろう。  その時は……御免な……。  俺は傍らに腰を落としているアスナをちらりと見やった。同時にアスナも顔をあげ、二人の視線が交錯した。 「キリト君……?」  アスナがハッとした表情で、声に出さず口だけを動かした。だがその時にはもう俺の右足は地面を蹴っていた。  俺は、ヒースクリフとの距離約十メートル、床ぎりぎりの高さを全速で一瞬にして駆け抜け、右手の剣を捻りながら突き上げた。片手剣の基本突進技〈レイジスパイク〉。威力の弱い技ゆえこれが命中してもヒースクリフを殺してしまうことはないが、しかし、俺の予想通りなら——。  ペールブルーの閃光を引きながら左側面より迫る剣尖に、ヒースクリフはさすがの反応速度で気付き、目を見開いて驚愕の表情を浮かべた。咄嗟に体を捻って回避体勢に入る。  だが、今度ばかりは俺のほうが速かった。空を切り裂く一条の光線となった俺の剣が、狙い違わずヒースクリフの胸に突き立つ——  その寸前で、目に見えぬ障壁に激突した。俺の腕に激しい衝撃が伝わった。紫の閃光が炸裂し、俺と奴の中間に同じく紫——システムカラーのメッセージが表示された。 『Immortal Object』。不死存在。か弱き有限の存在たる俺たちプレイヤーにはありえない属性。 「キリト君、何を——」  俺の突然の攻撃に、驚きの声を上げて駆け寄ろうとしたアスナがメッセージを見てぴたりと動きを止めた。俺も、ヒースクリフも、クラインや周囲のプレイヤー達も動かなかった。静寂の中、ゆっくりとシステムメッセージが消滅した。  俺は剣を引き、軽く後ろに跳んでヒースクリフとの間に距離を取った。数歩進み出たアスナが俺の右横に並んだ。 「システム的不死……? …って…どういうことですか…団長……?」  戸惑ったようなアスナの声に、ヒースクリフは答えなかった。厳しい表情でじっと俺を見据えている。俺は両手に剣を下げたまま、口を開いた。 「これが伝説の正体だ。この男のHPはどうあろうと危険域にまで落ちないようシステムに保護されているのさ。……不死属性を持つ可能性があるのは……NPCでなけりゃシステム管理者以外有り得ない。だがこのゲームに管理者はいないはずだ。唯一人を除いて」  言葉を切り、上空をちらりと見やる。 「……この世界に来てからずっと疑問に思っていたことがあった……。あいつは今、どこから俺たちを見てるんだろう、ってな。でも俺は単純な真理を忘れていたよ。どんな子供でも知ってることさ」  俺は紅衣の聖騎士にまっすぐ視線を据え、言った。 「『他人のやってるRPGを傍から見ていることほど詰まらないものはない』。……そうだろう、茅場晶彦」  すべてが凍りついたような静寂が周囲に満ちた。  ヒースクリフは無表情のままじっと俺に視線を向けている。周りのプレイヤー達は皆身動きひとつしない。いや、できないのか。  俺の隣でアスナがゆっくりと一歩進み出た。その瞳は虚無の空間を覗き込んでいるかのように感情が欠落している。唇がわずかに動き、乾いたかすれ声が漏れた。 「団長……本当……なんですか……?」  ヒースクリフはそれには答えず、わずかに首をかしげると俺に向かって言葉を発した。 「……なぜ気付いたのか参考までに教えてもらえるかな……?」 「……最初におかしいと思ったのは例のデュエルの時だ。最後の一瞬だけ、あんた余りにも速過ぎたよ」 「矢張りそうか。あれは私にとっても痛恨事だった。君の動きに圧倒されてついシステムのオーバーアシストを使ってしまった」  彼はゆっくり頷くと、はじめて表情を見せた。唇の片端をゆがめ、ほのかな苦笑の色を浮べる。 「予定では攻略が九十五層に達するまでは明かさないつもりだったのだがな。確かに私は茅場だ。付け加えれば、最上層で君たちを待つはずだったこのゲームの最終ボスでもある」  隣でアスナが小さくよろめく気配がした。俺は視線を逸らさぬままそれを右手で支えた。 「……趣味がいいとは言えないぜ。最強のプレイヤーが一転最悪のラスボスか」 「なかなかいいシナリオだろう? 盛り上がったと思うが、まさかたかが四分の三地点で看破されてしまうとはな。……君はこの世界で最大の不確定因子だと思ってはいたが、ここまでとは」  このゲームの開発者にして五万人の精神を虜囚とした男、茅場晶彦は見覚えのある薄い笑みを浮べながら肩をすくめた。聖騎士ヒースクリフとしてのその容貌は、現実世界の茅場とは明らかに異なる。だが、その無機質、金属質な気配は、二年前俺たちの上に降臨したあの巨大なマスクと共通するところがある。茅場は笑みをにじませたまま言葉を続けた。 「……最終的に私の前に立つのは君だと予想していた。〈二刀流〉スキルは全プレイヤーの中で最大の反応速度を持つ者に与えられ、その者が魔王に対する勇者の役割を担うはずだった。勝つにせよ負けるにせよ。だが君は私の予想を超える力を見せた。攻撃速度といい、その洞察力といい、な。まあ……この想定外の展開もネットワークRPGの醍醐味と言うべきかな……」  その時、凍りついたように動きを止めていたプレイヤーの一人がゆっくりと立ち上がった。血盟騎士団の幹部を務める男だ。朴訥そうなその細い目に、凄惨な苦悩の色が宿っている。 「貴様……貴様が……。俺たちの忠誠——希望を……よくも……よくも……」  巨大な斧槍を握り締め、 「よくも————ッ!!」  絶叫しながら地を蹴った。止める間もなかった。大きく振りかぶった重武器を茅場へと——  だが、茅場の動きの方が一瞬速かった。右手を振り、出現したウインドウを素早く操作したかと思うと、男の体は空中で停止し次いで床に音を立てて落下した。HPバーにオレンジ色の枠が点滅している。麻痺状態だ。茅場はそのまま手を止めずにウインドウを操り続けた。 「あ……キリト君……っ」  振り向くと、アスナも地面に膝をついていた。咄嗟に周囲を見渡せば、俺と茅場以外の全員が不自然な格好で倒れて、呻き声を上げている。  俺は剣を背に収めると跪いてアスナの上体を抱え起こし、その手を握った。茅場に向かって視線を上げる。 「……どうするつもりだ。この場で全員殺して隠蔽する気か……?」 「まさか。そんな理不尽な真似はしないさ」  紅衣の男は微笑を浮べながら首を左右に振った。 「こうなってしまっては致し方ない。予定を早めて、私は最上層の〈紅玉宮〉にて君たちの訪れを待つことにするよ。九十層以上の強力なモンスター群に唯一対抗できる力として育ててきた血盟騎士団を途中で放り出すのは不本意だが、何、君たちの力ならきっと辿り着けるさ。だが……その前に……」  茅場は言葉を切ると、圧倒的な意思力を感じさせるその双眸でひたと俺を見据えてきた。右手の剣を軽く床の黒曜石に突き立てる。高く澄んだ金属音が周囲の空気を切り裂く。 「キリト君、きみには私の正体を看破した褒美を与えなくてはな。チャンスをあげよう。今この場で私と一対一で戦うチャンスを。無論不死属性は解除する。私に勝てばゲームはクリアされ、全プレイヤーがこの世界からログアウトできる。……どうかな?」  その言葉を聞いた途端、俺の腕の中でアスナが自由にならない体を必死に動かし、首を振った。 「だめよキリト君……! あなたを排除する気だわ……。今は……今は引きましょう……!」  俺の内心の声も、その意見の正しさを認めていた。奴はシステムそのものに介入できる管理者だ。口ではフェアな戦いと言ってもどのような操作を行うかわからない。ここは退き、皆で意見を交換し、対応を練るのが最上の選択だ。  だが。  奴は何と言った? 血盟騎士団を育ててきただと? きっと辿り着けるだと……? 「ふざけるな……」  俺の口から無意識のうちにかすかな声が漏れた。  奴は、己の創造した世界に五万人の精神を閉じ込め、そのうち一万人もの意識を虚無空間に破棄せしめるに留まらず、自分の描いたシナリオ通りにプレイヤーたちが愚かしく、哀れにもがく様をすぐ傍から眺めていたという訳だ。ゲームマスターとしてはこれ以上の快感はなかったろう。  俺は、二十二層で聞いたアスナの過去を思い出していた。俺にすがって泣いた彼女の涙を思い出していた。世界創造の快感のためにアスナの心を何度も何度も傷つけ、血を流させたこの男を目の前にただ退くことがどうしてできるだろうか。 「いいだろう。決着をつけよう」  俺はゆっくり頷いた。 「キリト君っ……!」  アスナの悲痛な叫び声に、腕の中の彼女に視線を落とす。胸を撃ち抜かれるような痛み。どうにか笑顔を浮べることに成功する。 「ごめんな。ここで逃げるわけには……いかないんだ……」  アスナは何か言おうとして唇を開きかけたが、途中でやめて代わりににこりと笑った。その頬を涙の雫が伝った。 「死にに行くわけじゃ……ないんだよね……?」 「ああ……。必ず勝つ。勝ってこの世界を終わらせる」 「わかった。信じてる」  例え俺が負け、消滅しても、君だけは生きてくれ——。そう言いたかったが言えなかった。代わりに、そっと唇を重ねた。そこだけはどうにか動く右手で、アスナが俺の手を固く握ってきた。  俺はアスナの体を黒曜石の床に横たえると、立ち上がった。微笑を浮べてこちらを見ている茅場にゆっくり歩み寄りながら、両手で音高く二本の剣を抜き放つ。 「キリト! やめろ……っ!」 「キリトーッ!」  声の方向を見ると、エギルとクラインが必死に体を起こそうとしながら叫んでいた。俺は連中に向かって剣を握った左手を突き出し、親指を立てた。泣きそうな顔で押し黙る二人にニヤッと笑ってみせると、再び茅場に向き合う。剣を下げ、口を開いた。 「……悪いが、一つだけ頼みがある」 「何かな?」 「簡単に負けるつもりはないが、もし俺が死んだら——しばらくでいい、アスナが自殺できないように計らってほしい」  茅場は意外そうに片方の眉をぴくりと動かしたが、無造作に頷いた。 「良かろう。彼女はセルムブルグから出られないように設定する」 「キリト君、だめだよーっ!! そんなの、そんなのないよ——っ!!」  俺の背後で、涙混じりのアスナの絶叫が響いた。俺は振り返らなかった。右足を引き、左手の剣を前に、右手の剣を下げて構える。  茅場が右手のウインドウを操作すると、俺と奴のHPバーが同じ長さに調整された。レッドゾーンぎりぎり手前、強攻撃のクリーンヒット一発で決着がつく量だ。次いで、奴の頭上に『changed to mortal object』、不死属性を解除したというシステムメッセージが表示される。茅場はそこでウインドウを消去すると、床に付き立てた長剣を抜き、十字盾の後ろに構えた。  意識は冷たく澄んでいた。アスナ、ごめんな……という思考が泡のように浮かび、弾けたのを最後に、俺の心を闘争本能が凍らせ、硬く研いでいく。  勝算は、実のところ何とも言えない。前回のデュエルでは、剣技に限れば奴より劣るという感触は無かった。だが奴の言うオーバーアシスト、あの、こちらが停止し奴だけが動けるというシステム介入技を使われればその限りではない。全ては茅場のプライドにかかっている。口ぶりから判断すれば、奴は『神聖剣』の性能の範囲内で俺に勝とうとするだろう。その隙を突き、短期決着に持ち込むしか俺の生き残る道はない。  俺と茅場の間の緊張感が高まってゆく。空気さえその圧力に震えているような気がする。これはデュエルではない。単純な殺し合いだ。そうだ——俺は、あの男を—— 「殺す……っ!!」  鋭い呼気と共に吐き出しながら、俺は床を蹴った。  遠い間合いから右手の剣を横薙ぎに繰り出す。茅場が左手の盾でそれを難なく受け止める。火花が散り、二人の顔を一瞬明るく照らす。  金属がぶつかりあうその衝撃音が戦闘開始の合図だったとでも言うように、一気に加速した二人の剣戟が周囲の空間を圧した。  それは、俺がかつて経験した無数の戦闘の中でもっともイレギュラーで、人間的な戦いだった。二人ともに一度お互いの手の内を見せている。そのうえ〈二刀流〉スキルをデザインしたのは奴なのだから、単純な連続技は全て読まれると思っていい。以前のデュエルで俺の技が軒並み止められたのも頷ける。  俺はシステム上に設定された連続技を一切使わず、左右の剣を己の戦闘本能が命ずるままに振り続けた。当然システムのアシストは得られないが、限界まで加速された知覚に後押しされてか、両腕は通常時を軽く上回る速度で動く。自分の目にすら、残像によって剣が数本、数十本にも見えるほどだ。だが——。  茅場は舌を巻くほどの正確さで俺の攻撃を次々と叩き落した。その合間にも、すこしでもこちらに隙ができると鋭い一撃を浴びせてくる。それを俺が瞬間的反応だけで迎撃する。局面は容易に動こうとしなかった。少しでも敵の思考、反応を読もうと、俺は茅場の両目に意識を集中させた。二人の視線が交錯する。  茅場——ヒースクリフの真鍮色の双眸はあくまで冷ややかだった。かつてのデュエルのときに垣間見せた人間らしさは、今はもうかけらも見えない。  不意に、俺の背すじをわずかな悪寒が疾った。  俺が今相手にしているのは——五万人の精神を仮想世界に縛り付け、そのうち一万人を死に追いやった男なのだ。果たしてそんな事が、人間にできるものだろうか。一万人の死、その認識を受け入れてなお正気を保っていられるなら——それはもう人間ではない。怪物だ。 「うおおおおおお!!」  心の奥に生まれた、ごく小さな恐怖のかけらを吹き飛ばそうとするように俺は絶叫した。さらに両手の動きを加速させ、秒間何発もの攻撃を撃ちこむが、茅場の表情は変わらない。目にも止まらぬ速さで十字盾と長剣を操り、的確に俺の攻撃を弾き返す。  弄ばれているのか——!?  恐怖が焦りへと変わっていく。防戦一方に見える茅場は、実はいつでも反撃を差し挟み、俺に一撃を浴びせる余裕があるのではないのか——。俺の心を疑念が覆っていく。奴には、オーバーアシストなど使う必要はなかったのだ。 「くそぉっ……!」  ならば——これでどうだ——!  俺は攻撃を切り替え、二刀流最上位剣技〈ジ・イクリプス〉を放った。太陽コロナのごとく全方向から噴出した剣尖が超高速で茅場へと殺到する。連続二十七回攻撃——。  ——だが。茅場はそれを、俺がシステムに規定された連続技を出すのを待ち構えていたのだった。奴の口許にはじめて表情が浮かんだ。だがそれは前回とは逆——勝利を確信した笑みだった。  最初の攻撃数発を放った時点で、俺はミスを悟った。最後の最後で、自分のセンスではなく、システムに頼ってしまった。もはや連続技を途中で止めることはできない。その瞬間硬直時間を課せられてしまう。かと言って、俺の放つ攻撃はすべて、最後の一撃に至るまで茅場に予想されている。  剣の飛ぶ方向を予測してめまぐるしく動く茅場の十字盾に空しく攻撃を撃ち込みながら、俺は心のなかでつぶやいた。  ごめん——アスナ……。せめて君だけは——生きて——  二十七撃目の左突き攻撃が、十字盾の中心に命中し、火花を散らした。直後、硬質の悲鳴を上げて俺の左手に握られた剣が砕け散った。 「さらばだ——キリト君」  動きの止まった俺の頭上に、茅場の長剣が高々と掲げられた。その剣がクリムゾンの光を放つ。紅玉色の帯を引きながら、剣が降ってくる——。  その瞬間、俺の頭の中に、強く、激しく、声が響いた。  キリト君は——わたしが——守る!!  血の色に輝く茅場の長剣と——立ち尽くす俺の間に、すさまじいスピードで飛び込んだ人影があった。栗色の長い髪が宙を舞った。  アスナ——なぜ——!?  システム的麻痺状態によって動けなかったはずの彼女が、俺の前に立っていた。敢然と胸を張り、両腕を大きくひろげて——。  茅場の表情にも驚きの色が見えた。だが剣の動きはもう誰にも止められなかった。すべてがスローモーションのようにゆっくりと動く中——長剣はアスナの肩口から胸までを切り裂き、停止した。  のけぞるようにこちらに倒れるアスナに向かって、俺は必死に手を伸ばした。音も無く、俺の腕の中に彼女が崩れ落ちた。  アスナは、俺と視線が合うと、かすかに微笑した。そのHPバーが——消滅していた。  時間が停止した。  夕暮れ。草原。微風。少し冷たい。  二人並んで丘に座り、深い紺の上に夕陽の赤金色が溶けた湖を見下ろしている。  葉擦れの音。ねぐらに帰る鳥の声。  彼女がそっと手を握ってくる。肩に頭をもたれさせる。  雲が流れていく。ひとつ、ふたつ、星が瞬き始める。  世界を染める色がすこしずつ変っていくのを、二人でいつまでも飽かず見つめ続ける。  やがて、彼女が言う。 「すこし、眠くなっちゃった。膝、借りていい?」  微笑みながら答える。 「ああ、いいよ。ゆっくりおやすみ——」  俺の腕に倒れ込んだアスナは、あの時と同じように、穏やかな笑みを浮べ、無限の慈愛を湛えた瞳で俺を見つめた。だがあの時感じた確かな重みも、暖かさも今は無かった。  アスナの全身が、少しずつ金色の輝きに包まれていく。光の粒がこぼれ、散っていく。 「うそだろ……アスナ……こんな……こんなの……」  震える声で呟く。だが、無慈悲な光はどんどん輝きを増し——。  アスナの瞳から、はらりとひとつぶの涙が落ち、一瞬輝いて、消えた。唇が、かすかに、ゆっくりと、音を刻むように動いた。  ご め ん ね  さ よ な ら  ふわり——。  俺の腕の中で、ひときわまばゆく光が弾け、無数の金色の羽根が散った。  そして、そこにもう彼女はいなかった。  声にならぬ絶叫を上げながら、俺はその輝きを両腕で必死にかき集めようとした。だが、金の羽根は風に吹き散らされるように舞い上がり、拡散し、蒸発してゆく。消える。消えてしまう。  こんなことが起きるはずがない。起きていいはずがない。はずがない。はずが——  崩れるように両膝をついた俺の右手に、最後の羽根がかすかに触れ、消えた。      23  茅場は唇の端をゆがめ、大袈裟な身振りで両手を広げると言った。 「これは驚いた。スタンドアロンRPGのシナリオみたいじゃないか? 麻痺から回復する手段は無かったはずだがな……。こんなことも起きるものかな」  だがその声も俺の意識には届かなかった。すべての感情が灼き切れ、暗く、深い絶望の淵に落下しつづける感覚だけが俺を包んでいた。  これで、何かを為す理由全てを失くしてしまった。  この世界で戦うことも、現実世界に戻ることも、生き続けることさえも無意味だ。かつて、己の無力ゆえに信頼した仲間を失ったときに、俺も命を絶っておくべきだったのだ。そうすればアスナと出会うことも、そして再び同じ過ちを繰り返すこともなかった。  アスナが自殺しないように——などと、何と愚かで、浅はかな事を言ったものだろう。俺は何もわかっちゃいなかった。こんな——空虚な穴を抱えたまま生きることなんてできやしない……。  俺は床の上で光るアスナの細剣を漠然と見つめた。左手を伸ばし、それを掴む。あまりにも軽く、華奢なその武器の中に、彼女の存在を記録する何かを見つけようとしてじっと目を凝らすが、そこには何もない。無表情に輝くその表面には主の痕跡一つ残されてはいない。細剣を握ったままのろのろと立ち上がる。  もういい。彼女と過ごしたわずかな日々の記憶だけを持って、俺も同じ場所に行こう。  右手の剣を振りかぶり、俺は茅場に打ちかかった。二歩、三歩不恰好に前進し、剣を突き出す。  技とも呼べない、攻撃ですらないその動作に、茅場は憐れむような表情を浮べ——盾で苦も無く俺の剣を弾き飛ばすと、右手の長剣で無造作に俺の胸を貫いた。  俺は自分の体に深々と突き立った金属の輝きを無感動に見つめた。さして何を思うでもない。これで何もかも終わったという無色の諦観があるだけだ。  視界の右端で、俺のHPバーがゆるやかに減少していく。知覚の加速がまだ解けないのか、消滅していく一ドット一ドットが見て取れるようだ。目を閉じる。意識が消失するその瞬間にはアスナの笑顔を思い浮かべていたい。  視界が暗闇に閉ざされても、HPバーが消えることはない。はかなく、赤く発光するその帯は、確実な速度で幅を狭めてゆく。いままで俺の存在を許していたシステムという名の神が、舌なめずりをしてその瞬間を待っている気配を感じる。あと十ドット。あと五ドット。あと——  そのとき、不意に俺は、かつて感じたことのない激烈な怒りを覚えた。  こいつだ。アスナを殺したのはこいつだ。創造主たる茅場でさえすでにその一部でしかない。アスナの肉体を引き裂き、意識を吹き消したのは、俺を包むこの気配——システムそのものの意思だ。プレイヤーの愚かしさを嘲弄しながら無慈悲な鎌を振るうデジタルの神——。  俺達は一体何なのだ。SAOシステムという絶対不可侵の糸に踊らされる滑稽な操り人形の群か。システムが良しと言えば生き延び、死ねと言えば消滅する、それだけの存在か。  俺の怒りを嘲笑うかのように、HPバーがあっけなく消滅した。視界に小さく紫色のメッセージが表示された。『You are dead』。死ね、という神の宣告。  全身に激しい冷気が侵入してきた。体の感覚が薄れてゆく。俺の存在をほどき、切り刻み、食らい尽くそうと、命令コードの大群が暴れまわるのを感じる。冷気は背筋から首を這い登り、頭の中にまで入り込んでくる。皮膚感覚、音、光、何もかもが遠ざかる。体が分解してゆく——ポリゴンの欠片となって——四散し——。  そうはいくものか。  俺は目を見開いた。見える。まだ見える。俺の胸に剣を突き刺したままの茅場の顔、その驚愕の表情が見える。俺の体はすでに輪郭がおぼろに薄れ、各所で弾けるように光の粒がこぼれては消滅してゆく。だが、まだ俺は生きている。 「うおおおおおおおお!」  俺は絶叫した。絶叫しながら抵抗した。システムに。絶対神に。  あんなに甘えん坊で淋しがりやの泣き虫だったアスナが、精一杯の意思力を振り絞って回復不可能の麻痺を打ち破り、介入不可能の剣撃にその身を投じたのだ。俺を救う、ただそれだけの為に。俺がここで無為に倒れるわけにはいかない。断じていかない。たとえ死が避けられないとしても——その前に——これだけは——。  左手を握り締める。細い糸を繋ぐように感覚を奪い返す。その手に握っているものの感触が蘇ってくる。アスナの細剣——それに込められた彼女の意思が今なら感じ取れる。がんばれと励ます声が聞こえる。  途方も無くゆっくりと俺の左腕が動き始めた。少し持ち上がるたびに輪郭がぶれ、オブジェクトが砕けてゆく。だがその動きが止まることはない。少しずつ、少しずつ、魂を削りながら持ち上げてゆく。不遜な反逆の代償か、恐ろしいほどの痛みが全身を貫くが、歯を食いしばって腕を動かす。わずか数十センチの距離が途方もなく長い。体が凍るように冷たい。すでに感覚があるのは左腕だけだ。冷気は急速にその部分にも侵食してゆく。氷細工を散らすように体が崩れ、こぼれ落ちる。  だが、ついに、白銀に輝く細剣の先端が茅場の胸の中央に擬せられた。茅場は動かなかった。その顔に驚愕の表情はすでになく——わずかに開いた口元には穏やかな笑みが浮かんでいる。  半分は俺の意思、もう半分は何か不思議な力に導かれて、俺の腕が最後の距離を詰めた。音もなく体を貫く細剣を、茅場は目を閉じて受けいれた。彼のHPバーが消滅した。  お互いの体を貫いた姿勢のまま、俺たちはその場に一瞬立ち尽くしていた。全ての気力を使い果たし、俺は宙を見つめた。  これで——もういいかい——?  彼女の返事は聞こえなかったが、ほのかな暖かさが一瞬、とくん、と左手を包むのを感じた。俺は砕けかけた全身を繋ぎとめていた力を解き放った。  闇に沈んでいく意識の中で、自分の体が千のかけらとなって飛散するのを、そして同時に茅場も砕け散るのを感じた。聞きなれたオブジェクト破砕音がふたつ、重なるように響いた。今度こそ全てが遠ざかっていく。急速に離脱してゆく。かすかに俺の名を呼ぶのはクラインと——エギルの声だろうか。それらにかぶさるように、無機質なシステムの声が——。  ゲームはクリアされました——ゲームはクリアされました——ゲームは……      24  全天燃えるような夕焼けだった。  気づくと、俺は不思議な場所に居た。  足元は分厚い水晶の板だ。透明な床の下には赤く染まった雲の連なりがゆっくり流れている。振り仰げば、どこまでも続くような夕焼け空。鮮やかな朱色から血のような赤、深い紫に至るグラデーションを見せて無限の空が果てしなく続いている。かすかに風の音がする。  赤金色に輝く雲の群以外何もない空に浮かぶ小さな水晶の円盤、その端に俺は立っていた。  ……ここはどこだろう。確かに俺の体は無数の破片となって砕け散り、消滅したはずなのに。まだSAOの中にいるのか……それとも本当に死後の世界に来てしまったのか?  自分の体に視線を落としてみる。レザーコートや長手袋といった装備類は全て死んだ時のままだ。だが、その全てがわずかに透き通っている。装備だけではない。露出している自分の体さえ、色硝子のような半透明の素材へと変化し、夕焼けの光を受けて赤く輝いている。  左手を伸ばし、人差し指を軽く振ってみた。耳慣れた効果音と共にウインドウが出現する。では、ここはまだSAOの内部なのだ。  だがそのウインドウには、装備フィギュアやメニュー一覧が存在しない。ただ無地の画面に一言、小さな文字で『最終フェイズ実行中 現在五四%完了』と表示されているだけだ。見つめるうち、数字が五五へと上昇した。体が崩壊すると同時に脳死——意識消滅に陥るものと思っていたのだが、これはどういうことだろう。  肩をすくめてウインドウを消去したとき、不意に背後から声がした。 「……キリト君」  天上の妙なる音楽のようなその声。全身を衝撃が貫く。  今の声が幻でありませんように——。必死に祈りながらゆっくりと振り向く。燃えるような赤い空を背景に——彼女が立っていた。  長い髪を風がそっと揺らしている。穏やかに微笑むその顔は手を伸ばせば届きそうな距離にあるのに、俺は動けない。  一瞬でも目を離したら消えてしまう——。そんな気がして、無言で彼女を見つめつづけた。彼女も、俺と同じように全身がはかなく透き通っていた。夕焼けの色に染まり、輝くその姿は、この世に存在するなにものよりも美しい。  涙が溢れそうになるのを必死にこらえ、俺はどうにか笑みを浮べた。ささやくような声で言う。 「ごめん。……俺も、死んじゃったよ」 「……バカ」  笑いながら言った彼女の目から大粒の涙がこぼれた。俺は両手を広げ、そっと彼女の名を呼んだ。 「……アスナ」  涙の粒をきらめかせながら俺の胸に飛び込んできたアスナを固く抱きしめる。もう離さない。何があろうともこの腕は離さない。  長い、長いキスの後、ようやく顔を離し、俺たちは見つめあった。あの最後の戦いについて、話したいこと、謝りたいことは山ほどあった。だが、もう言葉は不要だと思えた。代わりに視線を無限の夕焼け空に移し、口を開いた。 「ここは……どこだろう?」  アスナは無言で視線を下向けると、指を伸ばした。その先を目で辿る。  俺たちの立っている小さな水晶版から遠く離れた空の一点に——それが浮かんでいた。円錐形の先端を切り落としたような形。全体は薄い層を無数に積み重ねて造られている。目を凝らせば、層と層の間には小さな山や森、湖、そして街が見て取れる。 「アインクラッド……」  俺の呟きに、アスナがこくりと頷いた。間違いない、あれはアインクラッドだ。無限の空に漂う巨大浮遊城。俺たちが二年間の長きに渡って戦いつづけた剣と戦闘の世界。それが今、眼下にある。  ここに来る前、元の世界で発表されたSAOの資料でその外観を目にしたことはあった。だがこうして実物を外部から眺めるのは初めてだ。畏怖に似た感情にうたれ、息を詰める。  鋼鉄の巨城は——今まさに崩壊しつつあった。  俺たちが無言で見守る間にも、基部フロアの一部が分解し、無数の破片を撒き散らしながら崩落してゆく。耳を澄ませると、風の音に混じって重々しい轟音がかすかに響いてくる。 「あ……」  アスナが小さく声を上げた。下部が一際大きく崩れ、構造材に混じって無数の木々や湖の水が次々に落下し、赤い雲海に没していった。あの辺りは俺たちの森の家があった場所だ。二年間の記憶が焼き付いた浮遊城の層一つ一つが薄い膜を剥がすようにゆっくりと崩落してゆくたび、哀惜の念がちくりと胸を刺す。  俺はアスナを抱いたまま、水晶の浮島の端に腰を下ろした。  不思議に心は静かだった。俺たちがどうなってしまったのか、これからどうなるのか、何もわからないが不安は感じない。俺はやるべきことをやり、かりそめの命を失い、今こうして愛する少女と二人、世界の最後を看取っている。もうそれでいい——。どこか満ち足りた気分だった。それはアスナも同じだろう。俺の腕の中で、半ば瞳を閉じて崩壊してゆくアインクラッドを見つめている。俺はゆっくりと彼女の髪を撫でた。 「なかなかに絶景だな」  不意に傍らから声がした。俺とアスナが視線を右に向けると、いつの間にかそこに男が一人立っていた。茅場晶彦だった。  騎士ヒースクリフではなく、SAO開発者としての本来の姿だ。白いシャツにネクタイを締め、長い白衣を羽織っている。線の細い、鋭角的な顔立ちの中で、それだけは変わらない金属的な瞳が、穏やかな光を湛えて崩壊してゆく浮遊城を眺めている。彼の全身も俺たちと同じように透き通っていた。  この男とつい数十分前までお互いの命を懸けた死闘を繰り広げていたはずなのに、俺の感情は静かなままだった。この永遠の夕刻の世界に来るときに、怒りや憎しみを置き忘れてきてしまったのだろうか。俺は茅場から視線を外すと、再び巨城を見やり、口を開いた。 「あれは、どうなってるんだ?」 「比喩的表現……と言うべきかな」  茅場の声も静かだった。 「現在、アーガス本社地下五階に設置されたSAOメインフレームの全記憶装置でデータの完全消去作業を行っている。あと十分ほどでこの世界の何もかもが消滅するだろう」 「あそこにいた人達は……どうなったの?」  アスナがぽつりと呟いた。 「心配には及ばない。先程——」  茅場は右手を動かし、表示されたウインドウをちらりと眺めると続けた。 「生き残った全プレイヤー、三八八六一人のログアウトが完了した。そうだ、言い忘れていたな。ゲームクリアおめでとう、キリト君——そしてアスナ君」  俺はそれには答えずに、 「……死んだ連中は? 一度死んだ俺たちがここにこうしているからには、今までに死んだ一万人だって元の世界に戻してやることが出来るんじゃないのか?」と聞いた。  茅場は表情を変えずにウインドウを消去し、両手を白衣のポケットに突っ込むと言った。 「命は、そんなに軽々しく扱うべきものではないよ。彼らの意識は帰ってこない。死者が消え去るのはどこの世界でも一緒さ。君たちとは——最後に少しだけ話をしたくてね」  それが一万人を殺した人間の台詞か——と思ったが、不思議と腹は立たなかった。代わりに、さらに質問を重ねた。根源的な、多分全プレイヤー、いやこの事件を知った全ての人が思ったであろう疑問。 「なんで——こんな事をしたんだ……?」  茅場が苦笑を洩らす気配がした。しばしの沈黙。 「なぜ——、か。私も長い間忘れていたよ。なぜだろうな。NERDLESシステムの開発を知ったとき——いやその遥か以前から、私はこの世界をつくりだすことだけを欲して生きてきた」  少し強く吹いた風が、茅場の白衣の裾とアスナの髪を揺らした。巨城の崩壊は半ば以上にまで及んでいる。思い出深いアルゲードの街もすでに分解し、雲の連なりに飲み込まれていった。茅場の言葉が続いた。 「子供は次から次へいろいろな夢想をするだろう。空に浮かぶ鉄の城の空想に私が取りつかれたのは何歳の頃だったかな……。その情景だけは、いつまで経っても私の中から去ろうとしなかった。年経るごとにどんどんリアルに、大きく広がっていった。あの城に行きたい……長い、長い間、それが唯一の欲求だった……。私はね、キリト君。まだ信じているのだよ——どこか別の世界には、本当にあの城が存在するのだと——……」  不意に、俺は自分がその世界で生まれ、剣士を夢見て育った少年であるような感慨にとらわれた。少年はある日はしばみ色の瞳の少女と出会う。二人は恋に落ち、やがて結ばれ、森の中の小さな家でいつまでも暮らし——。 「ああ……。そうだといいな」  俺はそう呟いていた。腕の中で、アスナがそっと頷いた。  再び沈黙が訪れた。視線を遠くに向けると、崩壊は城以外の場所にも及び始めていた。無限に連なっていたはずの雲海と赤い空が、遥か彼方で白い光に飲み込まれ、消えていくのが見える。光の侵食はあちこちで発生し、ゆっくりとこちらに近づいているようだ。 「……君たちにクリアの報酬を渡さなくてはな」  茅場の声がした。俺はアスナの髪に頬をすり寄せながら答えた。 「ゲームクリアはそれ自体が報酬だろう。——この光景だけでいいよ」 「ん……。わたしも」  アスナの左手が俺の頬に触れた。笑いを含んだ茅場の声が流れた。 「まあ、そう言うな」  俺たちは右隣に立つ茅場を見上げた。茅場は穏やかな表情で俺たちを見下ろしていた。 「——さて、私はそろそろ行くよ」  風が吹き、それにかき消されるように——気づくとその姿はもうどこにも無かった。水晶板を、赤い夕焼けの光が透過し、控えめに輝かせている。俺たちは再び二人きりになっていた。  彼はどこに行ったのだろう。現実世界に帰還したのだろうか。  いや——そうではあるまい。意識を自ら消去し、どこかにある本当のアインクラッドへと旅立っていったのだ。  仮想世界の浮遊城はすでに先端部分を残すのみだった。結局俺たちが目にする事の無かった七十六層より上の階層がはかなく崩落してゆく。世界を包み込み、消去してゆく光の幕もいよいよ近づいていた。ゆらめくオーロラのようなその光に触れるたび、雲海と夕焼け空そのものが微細な破片を散らしながら飲み込まれてゆく。  アインクラッドの最上部には、華麗な尖塔を持つ巨大な真紅の宮殿が屹立していた。ゲームが予定通り進行すれば、俺たちはあそこで魔王ヒースクリフと剣を交えることになったのだろう。主無き宮殿は、その基部となる最上層が崩れ落ちていっても、運命に抵抗するかのようにしばらく浮遊しつづけていた。赤い空を背景にひときわ深い紅に輝くその宮殿は、最後に残った浮遊城の心臓のように思えた。  やがて破壊の波が、容赦なく真紅の宮殿を飲み込んだ。下部から徐々に無数の紅玉となって分解し、雲間に零れ落ちてゆく。一際高い尖塔が四散するのと、光の幕がその空間を飲み込んだのはほぼ同時だった。巨城アインクラッドは完全に消滅し、世界にはわずかな夕焼け雲の連なりと小さな水晶の浮島、そこに腰掛けた俺とアスナが残るのみとなった。  もうそれ程時間は残っていないだろう。  俺はアスナの頬に手を添えると、ゆっくり唇を重ねた。最後のキス。時間をかけて、彼女の全存在を魂に刻み込もうとする。 「……お別れだな」  アスナは小さく首を振った。 「ううん、お別れじゃないよ。わたし達はひとつになって消えていく。だから、いつまでも一緒」  ささやくような、しかし確たる声で言うと、俺の腕の中で体の向きを変え、正面から真っ直ぐ見つめてきた。小さく首を傾け、柔らかく微笑む。 「ね、最後に名前を教えて。キリト君の、本当の名前」  わずかに戸惑った。二年前に別れを告げたあの世界での名前のことだとようやく気付く。  自分がかつて、別の名前で別の生活を送っていたということが遥か遠い世界の出来事のように感じる。記憶の奥底から浮かび上がってきた名前を、不思議な感慨を抱きながら発音する。 「桐ヶ谷……桐ヶ谷和人。多分先月で十六歳」  その途端、止まっていたもう一人の自分の時間が音をたてて流れ出したような気がした。剣士キリトの奥底に埋もれていた和人の意識が、ゆっくり浮上してくる。この世界で身に付けた硬い鎧が、次々と剥がれ落ちていくのを感じる。 「きりがや……かずと君……」  一音ずつ噛み締めるように口にして、アスナはちょっと複雑そうに笑った。 「年下だったのかー。……わたしはね、結城……明日奈。十七歳です」  ゆうき……あすな。ゆうきあすな。その美しい六つの音を何度も胸の中で繰り返す。  不意に双眸から熱く溢れるものがあった。  永遠の黄昏の中で停止していた感情が動き出す。心臓を切り裂くような激しい痛み。この世界に囚われて以来初めての涙がとめどなく流れ落ちてゆく。小さな子供のように喉を詰まらせ、両手を固く握り締めながら声を上げて泣いた。 「ごめん……ごめん……。君を……あの世界に……還すって……約束したのに……僕は……」  言葉にならない。結局、一番大切な人を助けられなかった。この人が歩むはずだった光溢れる道を、力及ばず閉ざしてしまったという悔いが涙に形を変えて尽きることなく溢れ出してくる。 「いいの……いいんだよ……」  明日奈も泣いていた。七色にきらめく宝石のような涙が次々と頬を伝い、光の粒子となって蒸発する。 「わたし、幸せだった。和人君と会えて、いっしょに暮らせて、今まで生きてきて一番幸せだったよ。ありがとう……愛しています……」  世界の終焉は間近だった。最早、鋼鉄の巨城も無限の雲海も乱舞する光の中に消え去り、白い輝きの中に僕たち二人が残るだけだった。周囲の空間が次々と輝きに飲み込まれ、光の粒を散らしながら消滅していく。  僕と明日奈はかたく抱き合い、最後の時を待った。  白熱する光の中で、感情すら昇華されていくようだった。心の中にはもう明日奈への思慕しか存在しない。なにもかもが分解され、蒸発していくなか、僕はただ明日奈の名前だけを呼び続けた。  視界が光に満たされていく。全てが純白のヴェールに包まれ、極小の粒子となって舞い散る。目の前の明日奈の笑顔が、世界に溢れる光と混ざり合う。  ——愛して……愛しています——  最後に残った意識の中に、甘やかな鈴の音のような声が響いた。  僕という存在、明日奈という存在を形作っていた境界が消滅し、ふたりが重なっていく。  魂が溶け合い、ひとつになり、拡散する。  消えていく。      25  空気に、匂いがある。  自分の意識がまだ存続していることより、まずそれに驚いた。  鼻孔に流れ込んでくる空気には大量の情報が含まれている。鼻を刺すような消毒薬の匂い。乾いた布の日向くさい匂い。果物の甘い匂い。そして、自分の体の匂い。  ゆっくり目を開ける。その途端、脳の奥までを突き刺すような強烈な白い光を感じ、慌てて目蓋をぎゅっと閉じる。  おそるおそる、もう一度目を開けてみる。様々な色の光の乱舞。目に大量の液体が溜まっていることに遅まきながら気付く。  目を瞬いて、それらを弾き出そうとする。しかし液体はあとからあとから湧き出てくる。これは涙だ。  泣いているのだった。何故だろう。激しく、深い喪失の余韻だけが胸の奥にせつない痛みとなって残っている。耳に、誰かの呼び声が微かにこだましているような気がする。  強すぎる光に目を細めながら、どうにか涙を振り払う。  何か柔らかいものの上に横たわっているようだった。天井らしきものが見える。オフホワイトの光沢のあるパネルが格子状に並び、そのうち幾つかは奥に光源があるらしく柔らかく発光している。金属でできたスリットが視界の端にある。空調装置だろうか。低い唸りを上げながら空気を吐き出している。  ……空調装置。つまり機械だ。そんなものがある訳がない。どんな鍛冶スキルの達人でも機械は作れない。仮にあれが本当に——見たとおりのものだとしたら——ここはアインクラッドでは——  アインクラッドではない。  僕は目を見開いた。その思考によってようやく意識が覚醒した。慌てて跳ね起きようと——  したが体が言うことを聞かなかった。全身に力が入らない。右肩が数センチ上がるが、すぐに情けなく沈み込んでしまう。  左手だけはどうにか動きそうだった。自分の体に掛けられている薄い布から左手を出し、目の前に持ち上げてみる。  驚くほど痩せ細ったその腕が自分のものだとはしばらく信じられなかった。これでは剣など到底振れそうにない。病的に白い肌をよくよく見ると、無数の産毛が生えている。皮膚の下には青みがかった血管が走り、関節には細かい皺が寄っている。恐ろしいほどにリアルだ。あまりに生物的すぎて違和感を感じるほどだ。  二の腕には微細抽入装置と思しき金属の管がテープで固定され、そこから細いコードが延びている。コードを追っていくと、左上方で銀色の支柱に吊るされた透明のパックに繋がっている。パックにはオレンジ色の液体が七割がた溜まっており、下部のコックから滴が一定のリズムで落下している。  体の横に投げ出したままの右手を動かし、感触を探ってみた。僕が横たわっているのは、どうやら密度の高いジェル素材のベッドらしい。体温よりやや低い、ひんやりと濡れたような感触が伝わってくる。僕は全裸でその上に寝ている。遠い記憶が蘇ってくる。たしかこういうベッドが、寝たきりの要介護者のために開発されたというニュースを遥か昔に見た気がする。皮膚の炎症を防ぎ、老廃物を分解浄化するという奴だ。  視線を周囲に向けてみる。小さい部屋だ。壁は天井と同じオフホワイト。右手には大きな窓があり、白いカーテンが下がっている。その向こうを見ることはできないが、陽光と思われる黄色がかった光が布地を透かして差し込んできている。ジェルベッドの左手奥には金属製のワゴントレイがあり、藤の籠が載っている。籠にはひかえめな色彩の花が大きな束で生けられており、甘い匂いの元はこれらしい。ワゴンの奥には四角いドア。閉じられている。  得られた情報から推測するに、おそらくここは病室のようだった。僕はそこに独りで横たわっている。  宙に上げたままの左手に視線を戻した。ふと思いつき、人差し指をそっと振ってみる。  何も起こらない。効果音も鳴らないし、メニューウインドウも出てこない。もう一度、今度はもう少し強めに振ってみる。さらにもう一度。結果は同じだ。何も起こらない。  と言うことは——ここはSAOの中ではないのだ。ならば別の仮想世界だろうか?  しかし、僕の五感から得られる圧倒的な情報量は、先程からもう一つの可能性を声高に告げていた。つまり——元の世界だ。二年前に旅立ち、もう戻ることはあるまいと思いさえした、現実の世界。  現実世界——。その言葉が意味するところを理解するのには時間がかかった。僕にとっては、長い間あの剣と戦闘の世界だけが唯一の現実だった。その世界がすでに存在せず、自分がもうそこに居ないのだということがなかなか信じられない。  では、僕は還ってきたのだ。  ——そう思っても、さしたる感慨や歓びは湧いてこなかった。ただ戸惑いと、わずかな喪失感を覚えるのみだ。  それでは、これが茅場の言うゲームクリアの報酬なのだ。僕はあの世界で死に、体は消滅し、それを受け入れ、満足さえ感じていたというのに——。  そうだ——僕は、あのまま消えてもよかった。白熱する光の中で、分解し、蒸発し、世界と溶け合い、彼女とひとつに—— 「あ……」  僕は思わず声を上げた。二年間使われることのなかった喉にするどい痛みが走る。だがそれすらも意識していなかった。目を見開き、湧き上がってくる言葉、その名前を声に出す。 「あ……す……な……」  アスナ。胸の奥に焼きついていた痛みが鮮烈に蘇る。アスナ、僕が愛し、妻とし、ともに世界の終焉に立ち会ったあの少女は……  夢だったのか……? 仮想世界で見た美しい幻影……? ふとそんな迷いにとらわれる。  いや、彼女は確かに存在した。一緒に笑い、泣き、眠りについたあの日々が夢であるものか。  茅場はあのとき——君たちにクリアの報酬を、と言った。君たち、確かにそう言った。ならばアスナも——還ってきているはずだ。この世界に。  そう思ったとたん、彼女への愛おしさ、狂おしい程の思慕が僕の内部に満ち溢れた。会いたい。髪を触りたい。キスしたい。あの声で、呼んで欲しい。  全身の力を振り絞って起き上がろうとした。そこでようやく頭が固定されていることに気づく。顎の下でロックされている硬質のハーネスを手探りで解除する。何か重い物を被っている。両手でそれをどうにかむしり取る。  僕は上体を起こし、手の中にある物体を見つめた。濃紺に塗装された流線型のヘルメットだった。後頭部に長く伸びたパッドから、同じくブルーのケーブルが延び、床へと続いている。これは——  ナーヴギアだ。僕はこれによって二年の間あの世界に繋ぎとめられていたのだ。ギアの電源は落ちていた。記憶にあるその外装は輝くような光沢を纏っていたのだが、今や塗装はくすみ、エッジ部分では剥げ落ちて軽合金の地が露出している。  この内部に、あの世界の記憶すべてがある——。そんな感慨にとらわれて、僕はギアの表面をそっと撫でた。  多分、二度と被ることは無いだろう。でも、お前は良くやってくれたよ……。  胸の奥で呟いて、僕はそれをベッドの上に横たえた。ギアと共に戦ったのはすでに遠い過去の記憶だ。僕にはこの世界でやらなければならないことがある。  ふと、遠くざわめきを聞いたような気がした。耳を澄ませると、ようやく聴覚が正常に復帰したとでもいうように、様々な音が飛び込んでくる。  確かに大勢の人の話し声、叫び声が聞こえる。ドアの向こうで慌しく行き交う足音、キャスターの転がる音。  多分、この病院にはSAOの「患者」が大量に収容されていたのだ。彼らが一斉に目を醒ましたので、病院中が大騒ぎになっているのだろう。  アスナがこの病院にいるかどうかは分らない。SAOプレイヤーは日本中に居ただろうから、可能性で言えばここに収容されている確率はごく低い。だが、まずはここからだ。たとえどれだけ時間がかかろうときっと見つけ出す。  僕は薄い上掛けを剥ぎ取った。痩せ細った全身には無数のコードが絡み付いている。四肢に貼り付けられているのは筋肉弱化を防ぐ電極だろうか。それを苦労して一つずつ外していく。ベッドの下部に見えるパネルにオレンジ色のLEDが点り、甲高い警告音が響き渡るが無視する。  点滴のインジェクターも引き抜き、ようやく自由の身になると足を床に付けた。ゆっくり力を入れ、立ち上がろうと試みる。じりじりと体が持ち上がったものの、すぐに膝が折れそうになる。思わず苦笑する。あの超人の如き筋力パラメータ補正は見る影も無い。  点滴の支柱に掴まって体を支え、どうにか立ち上がった。部屋を見渡すと、花籠の置いてあるトレイの下段に畳まれた診察衣を発見し、裸の上から羽織る。  それだけの動作で息が上がってしまった。二年間使われなかった四肢の筋肉が痛みで抗議している。だがこんな所で弱音を吐いてはいられない。早く、早く、と急かす声がする。全身が彼女を求めている。アスナを——明日奈をもういちどこの腕に抱くまで僕の戦いは終わらない。  愛剣の代わりに点滴の支柱を握り締め、それに体を預けて、僕はドアに向かって最初の一歩を踏み出す。 [#地から1字上げ](ソードアート・オンライン 終)