久世光彦 陛下 目 次  第一章 千里眼の秋  第二章 魔   王  第三章 冬 の 鴉《からす》  第四章 汨羅《べきら》の淵《ふち》に  第五章 女 正 月  第六章 恋《れん》   闕《けつ》  終 章 白虹《はつこう》日を貫く [#改ページ]    第一章 千里眼の秋  小石川|白山界隈《はくさんかいわい》は、坂道と猫の多い町である。上りの人力車の車夫は前屈《まえかが》みに深く笠《かさ》の頭を垂れ、反対に下りの車は車夫も客も反り返り、足を踏ん張って坂道をいく。難儀している車夫をからかうようにその顔を見上げ、少し先行しては立ち止まり、車が追いつくとまたその前を過《よぎ》って走るのがこの町の猫である。  猫たちはいったい何匹いるのか誰も知らないが、みんな坂下の円乗寺を塒《ねぐら》にしているらしい。坂に沿って並ぶ、昔で言えば銘酒屋もどきの小料理屋から出る残飯を誰かがやったのが癖になり、猫たちが境内に棲《す》みつくようになって、もう七、八年になるだろうか。その円乗寺の西の隅には、八百屋お七の墓がある。風雨にさらされてほとんどすり減ってしまった石塔の文字を指で辿《たど》ってみると、釈妙栄信女と読める。「伊達娘恋緋鹿子《だてむすめこいのひがのこ》」のヒロインにしては平凡な戒名である。お七は子供のころから猫が大好きで、だからこの町の猫たちはお七に呼ばれて集まってくるのだという話もあるが、そんなこともあって、この坂はお七坂とも猫坂とも呼ばれている。  秋、坂上の浄心寺の森の上の空が薄赤く焼け、やがて色を失いながら昏《く》れていくのを見ながらこの坂を上っていくのが剣持梓《けんもちあずさ》は好きだった。姉の遊子《ゆうこ》がうっとりした顔で口にする西方《さいほう》浄土というところは、鬱金色《うこんいろ》に染まったあの雲の辺りにあるのかもしれない。梓がそう思うのは、坂を上るにつれてだんだん濃くなってくる、金木犀《きんもくせい》の匂《にお》いのせいもある。この花の匂いに包まれていると、なんだか自分の体がいま立っている石畳から浮き上がり、折からの夕風に乗って飛び立ちそうな、いい気持ちになるのである。こんな甘い香りに噎《む》せながら死ぬのなら、いますぐにだっていい。  梓の男らしく大きな目に、束《つか》の間《ま》、霞《かすみ》がかかる。霞の向うの遠い遠い夕空に、金や銀の花吹雪が、映画のスローモーションのようにもどかしく舞い落ちるのが見える。あそこでは、いつもさやさやと風が吹き、その風はどんな季節にも金木犀の匂いがする。誰でもがあんなにきれいなところへ行けるわけがない。何か空恐ろしい代償を差し出さなくてはいけないのなら、それはいったい何なのだろう。手足から少しずつ血が退《ひ》いていき、立ち眩《くら》みそうになって梓は目をつむる。すると、白山上の娼家《しようか》の窓から洩《も》れはじめた三味線や女たちの嬌声《きようせい》が、天上の蓮《はす》の国から聞こえてくる清々《すがすが》しい音楽のように、剣持梓には思われるのだった。  まだ女を買うには少し早い時刻である。麻布《あざぶ》の聯隊《れんたい》からまっすぐにここへくると、いつもこの時刻になってしまう。お七坂の残照を眺めるのにはちょうどいいが、浅葱色《あさぎいろ》の「花廼家《はなのや》」の暖簾《のれん》を軍服でくぐるにはいくら何でも早すぎる。だからわざわざ市電を二つ手前の八千代町で降りて、そこからゆっくり歩いてくるのだが、それでも、別に信心もしていない円乗寺に寄って手を合わせたり、猫たちと遊んだりしないと間が保《も》たない。軍人が娼家へ出入りしてはいけない法はないし、同僚の福井や左近充《さこんじゆう》なんかは、まるで気にもしないらしいが、梓はどうしても拘《こだわ》ってしまう。だいたいそんなことが、退役《たいえき》とはいえ、陸軍少将の父に知れたら、どんなに叱《しか》られることだろう。また加賀藩譜代の剣持家の系図を前に、何時間も不心得を詰《なじ》られるに決まっている。いかめしい名前が綿々と連なり、広げると畳二畳分は優にある長い長い系図である。  考えてみれば可哀相《かわいそう》な父である。梓と違って、父の甲四郎《こうしろう》には、軍の機構の中で栄達の野心があった。名古屋の幼年学校から陸士を出て任官以来、陸軍省、参謀本部を中心に順調に栄進し、いずれは陸軍次官の声が囁《ささや》かれはじめたころ、突然現役を退《しりぞ》いた。いまからちょうど二年前、昭和八年秋のことである。家庭内に不祥事を抱えている者に、一軍の統率ができるかという中傷が相次いだためだった。甲四郎は一言の抗弁もしないで辞表を書き、最後の日に次男の梓を三宅坂《みやけざか》に呼んで身辺のものを整理し、暮れかけた参謀本部の裏庭で焼いた。一人の軍人の三十年にしては、小さな炎だった。こっそり盗み見た父の顔は、笑っているようだった。軍服の胸を飾る参謀肩章のくすんだ金モールに、白い灰が降り積もるのを父は払おうともしない。淋《さび》しい炎はさらに小さくなり、甲四郎が自分で揮毫《きごう》した漢詩の軸が最後まで燃え残った。それが、笑って炎を見ている父の顔とは裏腹の、泣きだしたくなるくらいの無念のように梓には思えた。   風|蕭々《しようしよう》として易水《えきすい》寒し   壮士ひとたび去って復《ま》た還《かえ》らず  秦王《しんおう》暗殺に向かう荊軻《けいか》と、それを送る燕《えん》の太子丹《たいしたん》の、易水のほとりの別れである。頭が切れるだけに計算ずくのところが覗《のぞ》いて見えて、あまり好きになれなかった父にも、そんな思いつめた気持ちがあったのだろうか。——裏庭を渡る秋風に煽《あお》られてほんのしばらく火勢が強まり、≪不還≫の二文字が最後にチリチリと縮れて三宅坂の薄闇《うすやみ》に消えた。あの秋の庭にも、金木犀が匂っていたのを梓は思い出す。  自分は父に似ていないと梓は思う。陸軍|中尉《ちゆうい》と言えば、そろそろ才覚を現わさなければならないころだが、梓には人と競《せ》ろうという気持ちがあまりない。かと言って、大きく構えて自分の道を行こうというのでもない。ただ、梓の体の中を流れる血が、ときどきどうしようもなく滾《たぎ》って、自分で抑えようがなくなるのである。牛のようだと梓は思う。たとえば、紅《あか》いものを見ると、それだけで苦しいくらいに動悸《どうき》する。夏、乱れ咲く曼珠沙華《まんじゆしやげ》がそうである。春、聯隊の庭の桜の枝越しにふり仰ぐ高屋根の日章旗がそうである。そして秋、お七坂の上に見る夕映えがそうである。女を買いにいくのに仇討《かたきう》ちみたいな顔をするなと、よく福井たちに言われるが、ほんとうにそうだと梓は恥ずかしく思う。  けれど、突然の病のように梓を襲う血の滾りは、それはそれで軍人に向いているような気がする。幸福な病のような気さえする。だから梓は、自分の選んだ道が間違っていると思ったことはない。体が大きいだけで怠惰な福井や、大使館付きの武官になって憧《あこが》れのフランスへ行くことばかり考えている左近充なんかより、よほど自分の方が軍人に向いている。戦死した兄の正行《まさゆき》と比べたって、そう思う。兄はどう見ても文人向きだと梓は思っていた。それが、父に強制されたわけでもないのに、当たり前のように軍人になってしまった。でもやっぱり兄の正行に似合うのは、丁寧に展翅《てんし》した青い蝶《ちよう》の標本を作ったり、応接間のウィンザー・チェアに凭《もた》れて、妹の遊子が弾く「ドナウ河の漣《さざなみ》」を聴いたりしている光景である。絵が得意で、遊子も、いちばん下の梓も、小学校の図画の宿題はたいてい兄に描いてもらっていた。つまり、戦死という死に方に誰よりも似合わないのが兄だったと、梓はいまでも思っている。  兄はおととしの元旦《がんたん》に死んだ。関東軍に配属されていた正行は、山海関《さんかいかん》で支那《しな》軍との交戦中に爆死したという。一片の骨も遺さず、剣持家に還ってきた白布に包まれた箱には、表紙がぼろぼろになるまで兄が読んだ「ハイネ詩集」が一冊、遺品として入っていただけだった。何も元旦から戦争をしなくてもいいのにと、梓は涙をこぼしながら思ったが、考えてみれば、支那は旧暦だから、日本の正月は向うでは年の暮れだったわけである。兄は、髭《ひげ》も眉《まゆ》も薄く、その分優しい顔立ちの二十六歳だった。梓は来年、兄の死の歳《とし》になる。  姉の遊子の様子がおかしくなったのは、そのころからである。突然というのではなかった。兄の四十九日が終わり、柳の芽が吹くころ「ドナウ河の漣」のリズムが変になりはじめた。母は少し前から気づいていたらしいが、遊子が桃の枝を髪に飾って家族の前に手をつき、「明けましておめでとう」と笑って言ったとき、梓ははじめて二つ違いの姉の心の中に、哀《かな》しい異変が起こっているのを知った。姉は、静かに静かに狂っていった。葉桜のころには近所の評判になり、やがて噂《うわさ》は父の仕事関係にまで伝わり、秋、金木犀の淋しい匂いに送られて、父は栄光と言っていい三十年の歴史を自分の手で焼きつくし、少しだけ酒に酔って家へ帰った。  剣持家の不祥事とは、このことである。 「花廼家」では、ちょっとした騒動が起こっていた。馴染《なじ》みの弓《ゆみ》が口開けの客をとっているというので、玄関|脇《わき》の土間のテーブルで飲みながら待つつもりでいたら、階段の上で弓の金切り声が聞こえ、それにつづいて物凄《ものすご》い音がしたかと思うと、鳥打帽に紺の絣《かすり》の男が階段から転がり落ちてきた。弓の客にしては垢抜《あかぬ》けない男である。その弓が猛《たけ》り狂っている。聞いていると、こんな町には珍しくもない話のようである。今晩の金がないのに、とぼけて弓を抱こうとしたらしい。こんなときには諦《あきら》めるしかないのに、四十がらみの痩《や》せた男は、こんど東京へ出てきたときにかならず払うからと、蹴落《けお》とされた土間に這《は》いつくばって、仁王立ちの弓に訴える。勘定高いので評判の女将《おかみ》のおゆうが中に入って、ゆうべも泊まってくれたわけだし、身元だってしっかりしてるんだから、一遍ぐらいはいいじゃないかと取りなしているのも、可笑《おか》しいと言えば可笑しい。梓が妙だと思うことは、他にもあった。弓は、十六の春に東京へ出てきて今年で四年になるが、若い娘だけあって都の言葉を身につけるのが早く、普段それほど北の訛《なま》りが気にならなかったのに、男を見下ろして早口にまくし立てる今日の弓は、お国言葉丸出しで、その勢いには男よりも強いものがあった。とにかく帰れと弓は叫ぶ。もう二度と顔など見たくない。学校の柿《かき》の木で首を縊《くく》って死んじまえなどと、恐ろしいことを言う。梓が呆《あき》れて見ていると、隣りで見物していたお喋《しやべ》りの菊ちゃんが、梓の耳元に背伸びして教えてくれた。土間で泣いているのは、弓ちゃんの小学校時代の先生ですって。——だから学校の柿の木が出てきたわけである。  怒っている弓はとてもきれいだ。切れ長の目元がほんのりと赤く染まり、啖呵《たんか》の合間に、髷《まげ》に挿した平打ちの簪《かんざし》で、癇性《かんしよう》らしく地肌を忙《せわ》しく掻《か》くから、せっかくの髪が崩れ、耳やうなじの辺りに三筋、四筋とほつれかかるのも色っぽい。男としてさほど体の大きくない梓に抱かれても、ほんの一抱えほどしかないはずの弓が、階段を一段上がったところで喚《わめ》いているせいもあって、いやに大きく、白肌の観音様が火を噴いているようである。梓は、今夜の弓が愉《たの》しみだった。  何を思い出したか、弓が階段を自分の部屋に駈《か》け上がり、戻ってきて手に持った英語の辞書を先生に投げつけたのを最後に、「花廼家」の騒ぎはようやく治まった。可哀相な先生が下駄を拾い、屋号を染め抜いた暖簾をくぐって出た戸外《そと》は、もうとっぷりと暮れ、肩を落としてお七坂を下る先生の背中に、菊ちゃんが、またどうぞと空々しい声をかける。  弓は小学校のころから、利発できれいな子だったのだろう。先生だって、昔の教え子を抱くことがいいことだとは思っていない。でも我慢できなかったのだ。梓みたいに、体の中の血が燃えて滾るのをどうしようもなかったのだ。夕風に揺れる暖簾の隙間から先生を見送った梓は、土間に落ちたままの小型の辞書を拾って、「花廼家」の階段を昇った。  怒って汗をかいたので、もう一度|風呂《ふろ》に入り直してくると弓は部屋を出ていった。風呂と言ったって坂の途中の銭湯までいくのだから、三十分は戻ってこない。階下《した》の奥座敷では、地元の大工組合の宴会がはじまったらしく、開け放した縁先から手拍子交じりの「わたしのラバさん」がここまで聞こえてくる。窓から入ってくるのは「わたしのラバさん」だけではない。裏庭の金木犀の匂いが、今日はいつもより強く、激しい。十日ばかりこなかった間に秋は深まり、金木犀もいまが盛りなのだろう。明日の朝目覚めるとそれがいくらか薄くなり、また十日してここにくるころには、他の秋の花の匂いに変わっている。一年中、この花の匂いに噎せて暮らせる国はないものかと,梓はいつも考える。  この家に通うのだって、この花のせいである。東京にはいくらもこんな町はある。どっちかと言えば、白山上は場末である。客筋は、明治のころの銘酒屋の風情《ふぜい》が懐《なつ》かしくてやってくる年配の男たちか、土地の職人たちにほとんど限られている。梓のような若い男、ましてや制服の軍人はどうしたって珍しい。尤《もつと》も、それが便利なところもある。あまり人目に触れたくない会合などを開くにはもってこいの場所なのである。市電の便はよい。どの家も、奥に座敷がある。女たちにしたって、今夜の相方に興味はあっても、話の内容にはまるで関心を持たない。その上、気がおけなくて、安い。  はじめて「花廼家」へきたのも、そんな会合だった。兄の正行が死んだ年の秋、姉が狂い、父が退いた昭和八年の明治|節《せつ》の夜、梓たちは先輩に誘われて、北一輝《きたいつき》さんを囲む会に参加した。その夜の北さんは、終始温和な表情で若い将校たちの話を聞き、ときに頷《うなず》き、ときに長いこと黙った。ただ、陛下という言葉が出るたびに、北さんの銀縁の眼鏡の奥の目が、猫のように艶《なまめ》かしく光るのが不思議だった。——みんなが頬を紅潮させ、声を震わせて真剣に論じているのを、梓は庭に近い濡《ぬ》れ縁の柱に凭れて、遠い声のように聴いていた。金木犀が咲いている。ふとそう思ったら、そればかりが気になって、みんなの話が遠くなった。その日のことで憶《おぼ》えているのは、北さんが、「剣持梓君ですか、いい名前だ。一度聞いたら、忘れたくない名前ですね」と初対面の挨拶《あいさつ》をしたときに笑って返してくれた言葉だけだった。  その夜、十一時を過ぎて北さんや先輩たちが帰り、残った福井と左近充と梓の三人は、一人ずつ店の女を抱いて「花廼家」に泊まった。その夜の女が、弓である。長い時間かけて飲んだ酒と、先輩たちのわけのわからない熱気に、梓は疲れていた。一つ布団《ふとん》に寝て、何となく顔を見合わせたら、もうそれで済んだような気持ちになって、その夜はそのまま眠ってしまった。弓を選んだのは梓の方である。座敷の隅にお盆を抱えて控えていた弓が、臙脂《えんじ》の袖《そで》の蔭《かげ》で小さな欠伸《あくび》をしたのを見て、この女にしようと梓はこっそり決めた。阿佐《あさ》ケ谷《や》の家の、このごろ手入れを怠っている庭の隅に咲く、吾亦紅《われもこう》のようだと思ったのである。吾亦紅が欠伸をしている。——それは、姉の遊子が、庭に咲く花の中でいちばん好きな花であった。  ゆうべ閉め忘れた部屋の掃き出し口から入ってくる冷気で目が覚める。その気配で女も目を覚まし、小さな顔を崩して笑いながら、ゆうべとおなじ欠伸をする。その口を掌《て》で塞《ふさ》いでやったら、梓の小指を白い歯で噛《か》んで返した。弓の体は熱かった。梓は、子供のころの病気の朝、母に銀の匙《さじ》で食べさせてもらったお粥《かゆ》の熱さを思い出していた。——あのころは、よく熱を出した。夜中にその熱が上がり、小さな体が震えだすと不思議な夢を見た。——梓は途方もなく巨《おお》きな漏斗《じようご》の底に、微細な点のようになって空を仰いでいた。いまにも体が底無しの空洞に落ち込みそうなのを、懸命に穴の縁にすがって耐えている。すると、どこか遠いところから、西洋の鐘がもどかしいくらいにゆっくりと鳴るのが聞こえ、それがやがて漏斗の壁に何重にも反響して、梓の上に光のように降ってくるのである。この世がこれで終わるのか、それともこれから始まるのか、どっちかに違いないと梓は思った。なんだか力の抜けてしまった梓の目に、突然やわらかな光が射《さ》す。見上げれば、遠く霞んだ穹窿《きゆうりゆう》の果てに、鮮やかな鬱金に染まった雲が幾片か、お互いに戯《たわむ》れ合っては離れ、また縺《もつ》れては別れ、やがて手をとり合って舞い上がり、空いっぱいに群れ飛んでいくのだった。  あの、子供の日の夢の雲が還ってきて、お七坂の上に現れるのかもしれない。北さんにはじめて会った二年前の秋から今日までずっと、梓は弓の熱い体を抱くたびに、そう思う。  銭湯へいった弓はまだ帰ってこない。坂下の団子屋か、向かいの小間物屋へでも寄り道しているのだろう。急に仕事に精をだすかと思うと、変に投げやりになったり、弓には普通の男ならちょっとついていけないくらい気紛れなところがある。さっき追い返された小学校の先生だって、一度や二度は心から優しくされたこともあったのだろう。先生というのも善《よ》し悪《あ》しである。十年近くも経《た》ってみれば、一別以来の懐かしさも一入《ひとしお》だろう。旧《ふる》い友だちの消息や、老いた父母の様子など聞けば、弓だって先生の胸に縋《すが》って泣いたりもしただろう。けれど、昔々の教室で、貧しくても正しく生きろ、人は見ていなくても、神様はどこかからちゃんと見ていると教え諭した先生が、痩せた胸に浮いた肋骨《ろつこつ》を、かつての日の女生徒の乳房にこすりつけ、口元をだらしなく弛《ゆる》ませて体の上で悶《もだ》えていたら、弓でなくたって突き飛ばしたくなるに決まっている。  人間には、一人一人、生きていく上での役割のようなものが決められているのかもしれない。梓は、夕靄《ゆうもや》に煙って坂下へ消えていく先生を見送りながら、そう思った。それは梓だっておなじことで、軍人の家に生れて、何の不思議もなく軍人になり、まるで定められていたことのように兄が死に、姉が静かに狂い、いま梓は鬱金の雲に手招きされて、なだらかに長い坂を上っている。やがて坂は尽きるだろう。梓は、娼家のクレゾール液の匂いのする畳に一人体を伸ばし、自分はそう長生きしないだろうと、ふと思った。  すみませんね、弓ちゃんもうじき帰りますから、と菊ちゃんが、首筋のまだ青い桃ちゃんを連れて入ってくる。桃ちゃんが捧《ささ》げ持ったお膳《ぜん》には、申し訳ほどの料理と銚子《ちようし》が二本載っている。「花廼家」の女たちは、店の名に因《ちな》んで、ほんとうはみんな花の名前を名乗ることになっているという。だから、菊に桃なのである。他にも鳳仙花《ほうせんか》という語呂《ごろ》の悪い名の、朝鮮半島出身の子もいるが、弓のように強情を張って本名で通しているのもいる。店でいちばん年嵩《としかさ》の楽子《らくこ》もそうである。十五の暮れに売られてきて、二十八になってまだ足を洗えないでいる。梓は、酔った楽子が歌を歌いだすと気が重くなる。菊ちゃんと桃ちゃんが大声で唱和する。歌は決まって「十九の春」である。   あたしがあなたに 惚《ほ》れたのは   ちょうど十九の 春でした   いまさら離縁と いうならば   もとの十九に しておくれ   見捨て心が あるならば   早くお知らせ くださいね   年も若く あるうちに   思い残すな 明日の花  この女たちも、いずれ長生きはできないだろう。「花廼家」は萎《しお》れて色を失くした花たちの墓場である。日当たりの悪い庭に咲く金木犀と、女たちが体を洗うクレゾールの匂いは、まだ生きている花たちに手向けられた香華《こうげ》の香りである。そんな抹香《まつこう》臭い家にいて、どうしてこんなに安らいで眠れるのか、梓は自分が不思議でならない。ときどき、この家の女たちが家族のように思えることさえ、梓にはある。だから梓は、自分を先頭に、少し遅れて弓が、その後ろに楽子に菊ちゃんに桃ちゃんがつづき、殿《しんがり》に顔色の悪い鳳仙花が、奇妙な隊伍《たいご》を組んで夕焼けの坂道を上っていく光景を想《おも》う。それは、まるで桜祭大売出しの看板を掲げ、クラリネットを吹き、太鼓を打ち鳴らして街をいくチンドン屋の一隊のようである。楽しげに飛び跳ね、滑稽《こつけい》に体をくねらせ、幸福な笑いを辺りに振り撒《ま》く。梓は五人の女たちにせがまれて、これから金木犀が一年中匂う国へいこうとしているのだ。死ににいこうと言っているのに、どうしてこの女たちは、こんなに明るいのだろう。  坂を上ってくる、あの足音は弓である。子供ではあるまいし、下駄ばきでスキップしてくるなんて、弓しかいない。風呂へ入って機嫌が直り、手拭《てぬぐ》い振り回して帰ってくるのだから他愛ない。けれど弓には、そうやって気分を変えようという心算《つもり》もあるらしい。泣いたあとは、色目のきつい着物に着替えて崩れた気持ちを引き締める。長雨など降って、体の具合が悪い日は、せめて半襟を子供っぽい紅梅色に替えて昔の唄《うた》など唄ってみる。   お瀬戸出てみろ 西見てごらん   お岩手山に 赤い雲   おまえの顔も 赤い   猫の顔も 赤い   それ見て笑うた お庄屋《しようや》さまの   婆さまの影法師も 赤い  弓は北岩手、渋民村《しぶたみむら》の出だという。渋民村と言えば、|啄木《たくぼく》である。ところが弓は、この郷土の詩人を、あんまり好きじゃないと言う。高等小学校のころは、どの歌を読んでも泣きたいくらい好きだったのに、四年前に東京へ出てきてから、だんだんわがままな人だと思うようになり、この人が不憫《ふびん》なら、村の父ちゃんの方が、母ちゃんの方が、それより誰より、泣きながら袂《たもと》や懐《ふところ》に、詰められるだけ石を詰めて、狸《たぬき》みたいな姿になって水に沈んだ、てふ姉ちゃんの方がよほど不憫だと思ったら、もう啄木はお岩手山の赤い雲よりも遠くなってしまった。私は体を売っても、貧乏は売らない。それから先は、啄木の言葉の一つ一つが、ザラザラの砂のように、嚥《の》み込むのさえ苦しくなった。弓は、昔、先生がくれた「啄木歌集」を、先生の情けない手紙や汚れた脱脂綿といっしょに「花廼家《はなのや》」の勝手口の塵芥箱《ごみばこ》に捨てた。  女たちの歓声に追われて、弓が部屋へ駈け込んでくる。敷居に躓《つまず》いて、胸に抱えた新聞紙の袋から湯気の立つ今川焼きが畳に散乱するのを、楽子と菊ちゃんと桃ちゃんが這いつくばって拾う。鳳仙花だけはちょっと変わっていて、こんなときにも滅多に姿を見せない。梓は火鉢の鉄瓶を下ろして、女たちのためにお茶をいれてやる。軍帽こそ脱いでいるが、堅苦しい軍服の男が、長襦袢《ながじゆばん》の女たちに囲まれている図を、梓は自分でも可笑《おか》しいとは思うが、こんなことはしょっちゅうである。窓際《まどぎわ》の板の間一畳分を入れて、わずか五畳の部屋だから、四人の女たちと梓で、弓の部屋はいっぱいになる。二つしかない湯呑《ゆの》みのお茶を回し飲みながら、女たちは喋る間も惜しんでよく食べる。この子たちは、食べているときが、いちばん正直でいい顔をしていると梓は思う。甘いものが何より好きな十六歳の桃ちゃんなんか、両手に今川焼きを一つずつ持って、なんだか泣いているように見える。  湯上がりの、ほんのり薄桃色に染まった襟元を大きく寛《くつろ》げて、弓は鏡台に向って夜の顔をつくっている。息を弾ませて駈けてきた子供の顔が、眉を引き、白粉《おしろい》を刷《は》き、唇を染めていくうちに、だんだん娼婦《しようふ》の顔に変わっていく。弓には、そんな哀《かな》しい変化をかえって愉《たの》しんでいるところがあるようだ。いずれ二人になって部屋の電燈を消し、窓に填《は》め込まれた安物の色|玻璃《ガラス》を透した月の光の中に立つと、あの顔がどこの店にもいる性悪の女の顔になる。そして梓の裸の胸に猫のようにすり寄り、上目づかいに肌を咬《か》む。 「ねえ、軍人さん、一度お願いしたかったの。あの刀、抜いてみせて」  菊ちゃんが真顔で言う。菊ちゃんの本名はリンという。その名前のおかげで、つまり名前と病気が引き合って、淋病《りんびよう》の治りが悪いのだとみんなは陰口きいている。そう言えば、菊ちゃんの体からは、いつも薬の匂いが強く匂う。 「だめよ、刀は軍人さんの命でしょ。商売道具でしょ。あんたたち、往来歩いてて、あそこ見せてくれって言われて、ハイハイって裾《すそ》まくるのかい」  弓が、鏡台から振り返りもせずたしなめる。 「命だったら、そりゃあたしたちだって見せないよ。見せるもんですか。でもさ、これは命じゃないもん。商売道具だもん。さあさ、どこからでも、どうぞご覧くださいってもんよ。ね、桃ちゃん」 「命かどうかは、わかんないけど、あたしは嫌。見られるのは嫌」 「じゃ、桃ちゃん、あんたお客に見せたことないのかい」  桃ちゃんは、唇の端についた餡《あん》こを指で探しながら、赤くなってうつむく。桃ちゃんは徳島から海を渡って売られてきた。徳島には、街のはずれに眉山《びざん》という、容《かたち》の優しい山があって、桃ちゃんの細くて薄い眉にそっくりだというのが、桃ちゃんの可愛《かわい》い自慢なのだが、眉山なんて山、誰も知らない。  梓はゆっくり立って、床の間に寝かせてあった軍刀をとり、笑いながら女たちの目の前で抜いてみせた。息を呑む暇もない女たちの顔を掠《かす》めるように、軍四郎兼光が白い尾を曳《ひ》いて光る。加賀の剣持家に伝わる名刀である。刃に女の肌に似た絖《ぬめ》りがある。それが光の加減で、菫色《すみれいろ》に沈んだり、桜の色に華やいだりする。こんな肌の女にとり憑《つ》かれたら、地獄へでもどこへでも行くしかないと梓は思う。だから梓は、一人では怖くてとてもこの刀が抜けない。草臥《くたび》れた女たちといっしょにいて、ようやく、それでもどぎまぎしながら、この妖《あや》しい刀を眺めることができるのだ。そんな不気味さが女たちにも伝わるのか、みんな黙ってしまった。やがて小声で、ご馳走《ちそう》さまと楽子が席を立ち、つづいて菊ちゃんと桃ちゃんがもそもそ出ていって、部屋は梓と弓の二人だけになる。東の窓から見える浄心寺の森の上に、十三夜の月がかかり、その薄い光に映えて、軍四郎兼光は、こんどは貝紫の色にほんのり輝くのであった。  刀を抜いたまま枕元《まくらもと》に置いて、あれをしようと弓が言う。酔っているわけではない。正気で言うのだから困ってしまう。さすがに梓も、それは断る。元通り、床の間に軍刀を寝かせて、ようやく梓のさっきからの動悸《どうき》は治まった。弓が鏡台から立ってきて、半色《はしたいろ》の長襦袢の袖から青白い腕を見せて電燈を消すと、それを待っていたように廊下の襖《ふすま》が音もなく少し開き、その隙間から女将のおゆうが、新しいお銚子を二本載せた朱色のお盆を置いていく。弓の酌《しやく》で飲むのは十日ぶりである。熱い酒の匂いが鼻先に漂い、ようやく菊ちゃんの薬の匂いが消えていく。  先刻《さつき》の先生とはどうして喧嘩《けんか》したのかと訊《き》くと、フンと鼻で笑って弓はつれない。けれど、気長に訊いてみると、どうやら床の中で啄木について言い争ったらしい。何から何まで啄木を良しとして崇敬する先生に、教え子の弓が、あんなのはインチキだと逆らって喧嘩になり、それとこれとは別だとのしかかってくる先生を弓が突き飛ばし、それ以上させなかったら、先生が怒ってゆうべの金を返せと言ったという。昔の先生と、娼婦の生徒が、布団の中で啄木の話をするというのも妙なものだが、先生の言い分ももっともだと梓は思う。小田嶋《おだじま》先生は、いまも渋民村の小学校の平訓導《ひらくんどう》である。教え子恋しさに一晩汽車に揺られてくるのは大変だろう。汽車賃もかかれば、「花廼家」に上がるにはそれ以上の金が要る。妻子もいる小田嶋先生は、いくら無理をしたって、せいぜい三月に一度ぐらいしか弓に逢《あ》えない。着いた朝から、また夜行に乗って次の晩岩手へ帰るまで、弓の部屋に籠《こ》もって、せめて三度は弓を抱かないと、とても元は取れない。それをたぶん二度で我慢して、いまごろ先生は、宇都宮辺りの車窓の月を眺めて泣いているかもしれない。  小田嶋先生は、小学校三年から六年まで、弓の担任だった。盛岡の師範学校を出てしばらく市内の学校に勤め、その間にちょっとした事件を起こした。高等小学校の担任の女の子とおかしくなって町の評判になり、その子が十六になるのを待って結婚したから黙過されたが、あくる年、渋民の小学校に転勤させられたのである。もともとそういう癖があったのだ。弓も可愛がられた。わずかながら田畑を持って息子四人、娘二人の子供たちを育てた弓の父親と妙にうまが合い、先生はよく家へ上がり込んで父親と囲炉裏《いろり》端で酒を飲んでいた。利口な子だから、なんとか女子師範へ進ませてやりたいと先生に言われれば、父親だって悪い気持ちはしなかったのだろう。弓もできることなら、学校の先生になりたいと思っていた。入学式の朝、矢絣《やがすり》の着物に紺の袴《はかま》を穿《は》いて、桜がひらひら散る中を足早に校門をくぐる女教師は、小さいときから弓の憧れだった。弓は桜が大好きだった。  けれど、父親が旧《ふる》い友人の保証人になり、その友人が事業に失敗して抵当に入れていた田畑が人手に渡り、弓の夢は桜のように散ってしまった。やがては、この家も出なくてはならないだろう。そうしたら、いまの学校だって行けなくなる。小田嶋先生が家へくることもなくなった。いちばん上の兄だけが家に残り、他の三人の兄たちは北海道へ働きに出て、家へ仕送りをつづけていたが、一年もするとそれも途絶えがちになった。自分一人、食べていくのがやっとだったのだろう。けれど、三つ違いの姉が売られていくまでは、弓にはさほどのさし迫った気持ちはなかった。母親のとみが、せめて二人の娘には、いちばん哀しい思いだけはさせまいと、最後まで抵抗してくれたからである。啄木の時代から、貧しさだけはよその村に決してひけを取らない渋民村だった。弓より少し年嵩《としかさ》の娘たちが、夕闇《ゆうやみ》にまぎれて、鳥打帽の男に抱えられるように村を出ていくのを、弓は何度も見たことがある。東京へ行儀見習いにいくとか、諏訪《すわ》の絹糸工場へ働きにいくとか、親たちは口ごもりながら言っていたが、弓たちにはだいたい察しがついていた。哀しい仕事に出かけるのでなければ、村外れの橋から逃げ帰ろうとするわけがない。その襟首を掴《つか》んで引き戻す男は、決まって小太りで、煙草《たばこ》はチェリー、指には大きな印鑑の指輪を填《は》めているのだった。——姉に一年遅れて、指輪の男に連れられて東京へ出てきたのが、弓にはずっと昔のことのように思われる。  どこでどうやって知ったのか、小田嶋先生が「花廼家」の勝手口に現れたときは、びっくりした。去年の夏のことだった。廊下の隅の囲いの中で、クレゾール液で体の後始末をしていたら、懐かしい岩手の言葉が聞こえたので、脱脂綿を指に巻きつけたまま飛び出した。どっちが先だったかは忘れたが、女将のおゆうの目の前で、二人抱き合い、声を上げて泣いた。先生が手にしていた山芋の束が土間に落ち、そこらに泥が飛び散った。その晩、一度済ませた後、山芋を擂《す》って醤油《しようゆ》をかけ、丼《どんぶり》を抱えて二人で食べた。二人とも、口の周りが澱粉《でんぷん》で真っ白になり、それが可笑しくて顔を見合わせて笑った。向いの部屋で客を取っていた楽子が、不審がって覗きにくるくらい笑った。  それから一年と少しの間に、先生は都合四度、東京へ出てきて弓を抱いて帰った。痩せた胸を自分で撫《な》でながら、生れ育った土地を捨て、妻子を捨てて弓と暮らしたいと泣く先生を、最初のうち弓はありがたいとも嬉《うれ》しいとも思った。もう一度勉強をし直して、女子師範へ入ることもできるんだと言われたときには、薄くなって疎《まば》らな髪がそそけ立つ先生から後光が射《さ》すようにさえ見えた。けれど、弓はすぐに冷静になった。そんないいことが、あるはずがない。何かと言えば、昔の遠足の話だとか、校庭の柿の木の話だとかを持ち出して、弓といっしょに感傷に浸りたがる先生が、弓にはとても情けない男に思えてきた。いまの弓は、貧しいこと、貧しいから哀しいこと、哀しみの果てには何もないこと——そんなことをみんな、笑ってしまいたいと思っているのだ。もう少ししたら、死ぬことだって笑ってしまえるかもしれない。これは決して、投げやりなんかじゃない。何もかも、可笑しくて仕方がないから、笑ってしまうだけのことだ。  それを、貧しくても美しい気持ちで生きようとか、啄木みたいに詩《うた》の心だけは忘れたくないとか、四十|面《づら》さげて益体《やくたい》もない寝言を言っている小田嶋先生は、いったい何なのだろう。貧しいのが辛《つら》いなら、夢が実らないのが哀しいのなら、てふ姉さんみたいに石の狸になって死ねばいい。そんな度胸もないくせに、あれだけは好きで、終わったと思ったら、またすぐに指を這わせてくる、あの粘っこい嫌らしさはどうだろう。それなら、弓を東京へ売った指輪の男の方が、よほどわかり易《やす》いし、男らしい。あいつは、渋民村から弓を連れ出し、あくる朝の汽車に乗るのにその晩泊まった盛岡の旅人宿で、布団も敷かず、まず弓の顔を口の周りが腫《は》れ上がるくらいつづけざまに殴り、ものも言わずに裸にし、終わったらもう一度、さっきの倍の力で弓を殴った。  弓は他人事《ひとごと》のように話す。だから梓も笑って聞いている。話が面白いので、酒がすぐになくなる。催促の手を打つと、階下ではーいと女将の代りに、菊ちゃんの間延びした声が返事をする。淋病がなかなか治らない菊ちゃんは、今夜もお茶を挽《ひ》いているらしい。  けれど、弓には小田嶋先生に感謝しなくてはならないこともある。いくらあのことが好きな先生でも、部屋へ入ってから帰るまで、ずっとしているわけではない。それでは、あとは何をしているかというと、弓にローマ字を教えているのである。さっき玄関先で、弓が先生に投げつけたのも、先生が買ってくれたローマ字の辞書だった。ローマ字を習いたいと思い立ったのは弓だった。その動機というのが、やはり啄木だというから面白い。啄木は晩年、人に言えない口惜《くや》しい思い、皮膚を破って奔流しそうな激しい怒り、毛糸の玉みたいに解《ほど》いても解いても尽きない哀しみ、自分でも始末しかねる女の体への執着——そんな数えきれない恥の数々を、ローマ字で日記帳に克明に書きつけたという。もし他人の目に触れても、ローマ字だから咄嗟《とつさ》にはわからない。そんな隠れ蓑《みの》があるせいか、啄木の日記には凄《すさ》まじいばかりに正直で恐ろしいことが書いてあるらしい。いっとき通いつめていた弓の客に、帝大で国文学をやっている若い男がいて、その男が弓の出身を聞いて教えてくれたのである。弓は、啄木の「ローマ字日記」を読みたいと思った。恥を言葉で飾らず、苦しさを感傷で誤魔化さない啄木なら、もう一度好きになれるかもしれないと考えたのである。啄木は死ぬ少し前の明治の終わりごろ、この小石川|界隈《かいわい》に住んでいて、この白山辺りにも女を買いにきていたという話を、「花廼家」二代目のいまの主人が、先代から聞いたことがあるという。あんまり床の癖が悪くて、女たちから苦情が絶えず、とうとう先代が啄木の襟首掴んで殴ったら、体のない啄木は、頭から階段を転げ落ちたらしい。——それでは、さっきの小田嶋先生とそっくりではないか。  ほんとうのことなら、弓も書いてみたいと思った。いくら開き直った弓だって、胸の底にあるものを、女将や朋輩《ほうばい》に盗み読まれるのは嫌だった。でも、ほんとうのことなら書きたい。別に誰にわかって欲しいというわけではないが、このまま体も魂も腐って死んでいくのでは、あまりに自分が不憫《ふびん》だと思ったのである。A、B、Cぐらいしか知らない異国の文字が、岩手山に降る雪みたいに、弓の頭の中をひらひら飛んだ。ほんのいっとき、弓は自由を感じた。新しい風が弓の頬を撫でて吹いたように感じた。ローマ字を習おう。明るく、元気なローマ字日記を書こう、と弓は思った。  小田嶋先生がびっくりするくらい、弓の上達は早かった。先生が布団にもぐって弓の女をいじっている間も、弓は腹這《はらば》いになって帳面にローマ字を書いていた。後で先生に赤鉛筆で丸をつけてもらうのである。小文字のqが、なかなか巧《うま》く書けない。好きなのは大文字のBだった。お乳とお腹《なか》の飛び出した、楽子のようだと弓は笑った。日本語のように漢字があったり、平仮名や片仮名があったりして面倒なのに比べ、西洋の言葉はたった二十六文字ですべてできているのが、魔法みたいに不思議だった。先生は、ローマ字が終わったら、ほんとうの英語を勉強しろと言うが、弓は高望みはしない。日記が書ければ、それでいい。  Yumi——まず自分の名前を憶《おぼ》えた。西洋人みたいで、ちょっと照れくさかった。しかし、やっぱり名前だけは日本の文字の方がいいと弓は思う。弓という自分の名が好きだった。この店にきたときに、花の名前を名乗れと言われて、大好きな桜にしようかと考えたこともあったが、名前を隠して体を売るのも嫌だったし、それよりも、親にもらった名前で稼ぎたかった。そして弓は考えた。——花の名前や、木の名前を名乗って戦争にいく男たちがいるだろうか。弓にとって、春を売ることは命がけの戦争であり、「花廼家《はなのや》」は弾丸飛び交う戦場だったのである。  月が高く昇り、部屋の中は青い海のようだ。風が出てきたのか、軒端《のきば》に干した弓の半襟やガーゼが、暗い影を畳に落として大きく揺れる。梓が笑いながら弓の雑記帳に書く。——≪Sorosoro Siyoka ? ≫——弓が答える。——≪Hai.≫  弓の胸は、やわらかな石鹸《せつけん》の匂《にお》いがする。こういう所の女には、体に染みついた病の匂いや、消毒液の匂いを消すために、香水を使う女が多いものだが、弓は嫌いらしい。梓もあれは苦手である。香料の類《たぐ》いで心惹《こころひ》かれるものと言えば、夏、姉の遊子が寝るときも手放さないくらい執着している支那《しな》扇から匂い立つ麝香《じやこう》ぐらいだろうか。遠くを見るような目で見つめられ、ゆったりと麝香の風を送られると、梓は目の前に小首を傾《かし》げている女が姉であることを忘れることがある。この小扇、元はと言えば、兄の正行が遊子への土産に、南京《ナンキン》で買ってきたものである。姉の定まりのない狂った目は、梓に兄の俤《おもかげ》を見ているのかもしれない。このごろ思うのだが、遊子の視線には匂いがある。それが妙なことに、台所のガスの匂いなのである。栓をしっかり閉めても、どこかから洩《も》れてくる微量の青いガスの匂いである。梓は、いつも背後から薄いガスに追われている。  しかし梓は、自分は兄に似ていないと思う。兄と姉は、母の静子《しずこ》似である。細面《ほそおもて》で、目も鼻も口も小振りなくせに、一つ一つに彫刻刀で彫ったような鋭さがあり、その各々《おのおの》に優美な翳《かげ》りがある。春の午後、人気のない阿佐ケ谷の家の縁先に遊子が坐《すわ》り、春霞《はるがすみ》に煙った目を中空に泳がせているのを、芝に萌《も》え立つ陽炎《かげろう》ごしに見たりすると、梓は、昔の人形が蔵の中から迷い出てきたのではないかと思ってしまう。  そういう妖《あや》しさは兄の正行にもあった。剣持家には、いまでも奥座敷の床の間に、身の丈二尺ばかりの、青銅の大楠公《だいなんこう》像があるが、夕暮れ、その前に端坐《たんざ》して像を見つめていた正行の姿には、まるで恋をしている女の悶《もだ》えに似た切なさがあった。そういうところで、兄と姉は引き合っていたのではないかと梓は思う。自分はあの人たちとは違う。顔も体も武骨である。父に似て、兄弟の中で一人だけ眉《まゆ》も濃い。兄のように、幼年学校時代、稚児《ちご》さん趣味の男たちに熱い目を注がれたこともない。自分には、白山上の気の強い娼婦《しようふ》とこうやって寝ているのが、ちょうど程に合っている。いつの間にか小さな寝息を立てている弓を起こさないように、そっと寝返りをうつと、娼家の床の間には、極彩色の七福神の置物が、剽軽《ひようきん》に笑っていた。  そろそろしようか、はい、と言いながら、何もしないで眠っている。何もしないで寝息を立てている娼婦というのは、変なものだ。紅隈取《べにくまど》りをした歌舞伎《かぶき》役者が、白昼、市電に乗っているようなものである。弓の、今日は一段と濃い唇の色が、その隙間から覗《のぞ》いている健康そうな白い歯と矛盾している。こうして見ていると、眉墨なんか使わなくても十分濃い弓の眉の根が、ときどき癇性《かんしよう》にピクッと動くのが面白い。眠っていても、何かが気になって、落ち着きのない顔である。物識《ものし》りの左近充に聞いた話だが、世の中には睡眠中に決して夢を見ない人間がいるそうである。弓がそうなのかもしれない。弓らしいとも思うが、ちょっと可哀相《かわいそう》にも思う。  ただ馴染《なじ》みというだけで、他の女たちと比べてとりわけどうという女でもないのに、このごろ梓は、この先もずっと弓が傍にいるような気がしてならない。それが馴染みということなのだとは思っても、ぼんやりと思い描く遠い風景の中に、自分に寄り添って見えるのが、いつも弓らしいのが気にかかる。たとえば梓には、こんな光景が見える。——どこまでも白い砂の戦場である。辺りに累々《るいるい》と連なる戦死者の体は、どれもうっすらと砂を被《かぶ》って、どこにも血の色がない。梓はぼろぼろに破れた軍旗を高く掲げて、いまにも沈みそうな夕日に向って歩いている。太腿《ふともも》あたりに傷を負っているらしく、足が思うように運ばない。その上、軍靴《ぐんか》の裏に粘り着く砂が、濡《ぬ》れた粘土のように重い。もう誰も生きていない。でも梓は、夕日の果てに待っている誰かに、この軍旗を届けなければならない。それは約束なのだ。たぶん梓がこの世に生れた日から、その人との間に交わされた、長い長い約束なのだ。それは目の前の落日にそっくりの、赤い約束である。そのために、梓は軍人になった。それなのに、この足の重さはどうだろう。もう歩けない。  ……誰かが呼んでいるような気がして振り返る。砂を巻いて吹きつける激しい風の中に、ふと梓は懐《なつ》かしい金木犀《きんもくせい》の香りを嗅《か》ぐ。目をこすって見ると、灰色の紗幕《しやまく》のような砂嵐《すなあらし》の中を、優しい枝ぶりの、一本の金木犀の木がこっちへ歩いてくる。真っすぐに、梓に向って歩いてくる。金木犀が笑う。金木犀は弓だった。この木に掴まって行きなさい。あの人のところへ行きなさい。梓は、これほどきれいな弓の笑顔を、はじめて見た。  そしてたとえば、こんな遠い夢——梓は白装束で古式ゆかしい切腹の座に就いている。辺りはしんと静まりかえり、立会人たちのしわぶきの声一つ聞こえない。目の前の緋毛氈《ひもうせん》には、藍色《あいいろ》の墨を湛《たた》えた硯《すずり》と、その脇《わき》に紫毫《しごう》の小筆が一本、それに小梅を散らした短冊《たんざく》が一枚。——大変なことを忘れていた。辞世を用意していなかった。もう間に合わないので人様のを借りることにする。 かへらじとかねて思へば梓弓《あずさゆみ》 亡《な》き数に入る名をぞとどむる  不審そうに首を傾《かし》げて囁《ささや》き合っている奴《やつ》らがいるが、火急の場合だ、仕方がない。型通り検視人に一礼し、背後に控える介錯《かいしやく》の顔を振り返って梓は仰天した。股立《ももだ》ち高くとって軍四郎兼光をだらりと下げた介錯人は、弓だった。白鉢巻きに濃い眉がよく似合う。この子に斬《き》れるのだろうか。ちょっと心配しながら、梓は促すように弓の目を見て重く頷《うなず》く。その途端、白光が辺りの冴《さ》えた空気を薙《な》いで奔《はし》り、ずいぶん気の早い介錯だと思う間もなく、梓の首は宙を飛び、梓は最期《さいご》の視野の中に、弓が返す刀で自分の首をみごとに刎《は》ねるのを、見た。目の前が昏《くら》くなるのを感じながら、辞世の中に≪梓弓≫と、二人の名が詠《よ》み込まれていたから弓が介錯したのだと、ようやく梓は納得した。  弓の今川焼きを二つも食べたせいか、咽喉《のど》が渇く。部屋の鉄瓶も空《から》なので、床を脱け出し、弓の茶羽織を羽織って階下に水を飲みにいく。襖《ふすま》を開けると、向いの部屋の障子に淋《さび》しい影法師が揺れ、楽子の例の唄が聞こえる。もう客は帰ったのだろうか。いつ聞いても、気が滅入《めい》る唄である。   一銭二銭の 葉書さえ   千里万里と 旅をする   おなじコザ市に 住みながら   逢《あ》えぬわが身の 切なさよ   奥山住まいの 鶯《うぐいす》は   梅の小枝で 昼寝して   春がくるよな 夢を見て   ホケキョホケキョと 鳴いていた  台所の帰りに階段脇の帳場を覗いたら、女将《おかみ》のおゆうが煙管《きせる》で一服つけながら算盤《そろばん》を弾《はじ》いていた。青紫の煙がゆらゆら立ちのぼり、長押《なげし》の御真影のあたりで薄れて消える。それなりの場面になると、なかなかきつい女だというが、普段のおゆうは、ちょっと気忙《きぜわ》しいところにさえ目をつむれば、感じと愛想のいい女である。亭主の喜久造の姿をこのところ見かけないが、だいたいこの手の店は、亭主がフラフラしていて、女将の腰にしっかり根が生えている方が上手《うま》くいく。大森辺りの娼妓《しようぎ》上がりだというが、姉とおなじ名であることもあって、梓はちょっと親しみを持っている。 「おや軍人さん、お弓はどうしました」 「寝ています」 「なんでしょうね、お客さんうっちゃって。——でも、そうさせてやって下さいな。あの子、このところ忙しかったから。——ゆうべは、ほら、学校の先生でしょ。その前が浅草に出てる、あの千里眼。二人とも寝かせてくれないんですって」  やはり弓の馴染みに、千里眼を売り物にする浅草の芸人で、花輪《はなわ》という五十がらみの男がいる。インチキなのは承知の上で、それでも結構人気があるのは、喋《しやべ》りが上手いかららしい。申し訳みたいに、伸び縮みする遠眼鏡みたいなものを持っていて、レンズに映って見える、遠くでいま起こっていることや、過去や未来の光景をブツブツ独り言を言いながら描写してみせるのだが、妙に下世話なこの独り言が受けるのだという。花代を値切りたい一心で、花輪は弓の部屋でも千里眼をやってみせたことがある。面白半分に弓が、行方知れずの姉の消息を知りたいと言ったら、しばらく遠眼鏡で星空を覗いていた花輪が、これはまずい、これはまずいと慌《あわ》てだした。どうしたのと訊《たず》ねると、若い娘が身を投げる、ああもう助からないと叫ぶので、弓はびっくりした。てふ姉さんが死んだときの詳しい様子は弓も知らないから、もっとよく見て、もっとよく見てと花輪の胸に縋《すが》ったら、雪のちらつく橋の上から沢庵石《たくあんいし》みたいに落ちたと呟《つぶや》いて、後は蒼《あお》い顔をして黙った。  他にも花輪は、岩手の弓の家の裏にあった狐《きつね》の顔をしたお地蔵さんのことや、小学校の校庭にある、花は咲いても実のならない柿の木のことなんかも、言い当ててみせた。自分で、俺はインチキだと言っている分、弓には気になって仕方がない。あの人は怖い、と弓は言う。本当はみんな見えているのに、寄席《よせ》ではわざと間違ってみせている。弓と寝ていても、それまで猫みたいに弓の首筋を舐《な》め回していたのが、急に咽喉の奥でウッと呻《うめ》いたと思ったら、飛び上がって弓の体を離れ、床の間の前にうなだれていた。あれは、何か恐ろしいことが見えたのだと弓は言う。  おなじ女の馴染みが二人、仲良く酒を飲むというのも可笑《おか》しなものだが、梓は弓に内緒で一度花輪という男と話してみたいと思う。過ぎてしまったことは、もういい。兄が死んだ山海関の戦闘の様子が見えたところで、それは哀《かな》しいだけだ。梓が気になるのは、自分に時折ぼんやり見える、さまざまな光の交錯する情景は、千里眼で見える未来の世界なのではあるまいかということである。それを花輪に訊《き》いてみたい。自分は何処《どこ》へ行こうとしているのか。男のくせに、こんなにときめいて、誰のところへ行こうとしているのか。——梓は怖《おそ》れているのではない。千里眼で、行く先が確かに見えるものなら、白い夢の中で、金木犀の弓が真っすぐに梓に向って歩いてきたように、脇目も振らず七色の光降る国へ急ぎたいのである。いつかくるその日まで、毎日の時間を、そのことだけを考えて過ごしたいのである。——花輪は、今度はいつ「花廼家」にやってくるのだろう。梓は、先行きの日々が見えてしまう花輪という男は、北さんに似ているのではないかと、ふと考えた。  楽子の「十九の春」も、いつか聞こえなくなり、今夜の「花廼家」は静かである。泊りの客がついているのは、この部屋と、いちばん若い桃ちゃんだけらしい。梓の胸の中で、弓はよく寝ている。裏庭の金木犀がここまで匂ってくるが、それに消毒用のクレゾールと、便所の石灰の匂いも交じっているので、あまりいい気持ちにはなれない。そんな曖昧《あいまい》な思いもすーっと遠くなり、梓は弓の髪に顔を寄せて眠った。  もう何度も見た夢である。——五歳の梓が玉砂利を踏んで立っている。すぐ脇の大きな男は、陸軍|大尉《たいい》の父である。胸には天保銭《てんぽうせん》と呼ばれる陸大の徽章《きしよう》が鈍色《にびいろ》に輝き、三十歳の父の横顔は引き締まって見える。あの森の中に、陛下がおいでになる。父の声がいつもより、重い。陛下に、お会いしたいか。はい。そうか、陛下にお会いしたいのか。父の顔がはじめて笑った。陛下にお会いして、何と言うのだ。こんにちはと言うのか。いいえ、好きですと言います。それから、どうする。陛下を抱いてあげます。ほう、抱いていただくのではないのか。いいえ、抱いてあげるのです。お母さまやお姉さまが、梓を抱いてくださるように、陛下を抱いてあげるのです。  大内山の森の上の空が赤い。お濠《ほり》の水が絖《ぬめ》るように光り、その上を渡ってくる小さな風には秋の匂いがした。金木犀の秋である。あの森の中にも、姿のいい金木犀の木がたくさん植えられていて、それがある朝、木洩《こも》れ日の降る中、一斉《いつせい》に金色の花をつける光景を梓は想《おも》った。父の声が次第に遠退《とおの》いていき、梓は空想の森に独り遊んでいた……。  陛下の庭には、梓の他に誰もいなかった。大きく傾いた秋の陽が作る樹木の影が、きれいに刈り込まれた芝生に長く延び、梓は薄赤く染まった芝と、黒い樹《き》の影の境界線を辿《たど》って、ずっと奥に見える白壁の館《やかた》に向って歩いていった。子供だからだろうか。誰も梓を咎《とが》めようとしない。庭を東西に過《よぎ》る小川を越え、いくつもある四阿《あずまや》を一つ過ぎるたびに、金木犀の匂いが強くなる。やがて白壁の館に近い棗《なつめ》の木に、みごとに白い馬が繋《つな》がれているのが見えた。あれが、父が教えてくれた「白雪」という名の馬だろうか。温和な目を細めて白馬が微笑《わら》う。梓のことを好きだと言っている。  こんなに大きな金木犀は見たことがない。阿佐ケ谷の家にあるのは、せいぜい父の背丈ぐらいで、花をつける枝も、脇をすぼめたように小ぢんまりしているが、この庭のはどうだろう。ふり仰ぐばかりの高さも高さなら、大銀杏《おおいちよう》のように末広がりに枝を広げた威風を、梓はとても言葉では言い表わせないと思った。そのとき、最期の落暉《らつき》が一条、夕空を裂いて金木犀の大樹を深紅に焼いた。その梢《こずえ》の先、天にいちばん近い深紅の大気の中に、誰かが影のように立っているのを梓は見た。見てはならないものを見てしまったのだろうか。梓は目が眩《くら》み、それまで紅《あか》かった視野が急速に昏《くら》くなり、その人が女の衣服を身につけていると気づいたとき、梓は深い甕《かめ》の中に落ちるように意識を失っていった。  夢を見ない弓には、夢を見て叫んだり、悶えたりするのを見ているのが、不思議で面白いらしい。梓が目を覚ますと、何も着けていない弓の熱い体が、梓の上にあった。さっきからずっと、梓の寝顔を見ていたという。寒いと思ったら、いつの間にか、自分も脱がされている。梓が笑って髪を撫《な》でてやると、弓が白い歯で梓の乳首をやわらかに咬《か》む。梓も、弓のおなじところを咬み返す。すると弓が深い溜息《ためいき》を洩らして顔を上げ、ほぐした髪の先を筆の穂先のようにして自分の唾《つば》で濡らし、梓の胸から腹へ、腹から逞《たくま》しい腿へと遊ばせる。梓の髪は短いから、おなじことを返してやることができない。だから代りに、乱れた弓の長い髪を掌《てのひら》に掴《つか》み、それで白い首筋から息づく胸をゆっくりゆっくり撫でてやる。真っすぐに伸ばした弓の足の指が、見る見る内側に折り込まれていくのが、梓の目の端に入る。弓は喜んでいる。溜息がやがて吐息に変わり、それにも耐えかねて、前歯で弓が下唇をきつく噛《か》むころ、梓は秋の嵐になって弓の体を突き上げ、逆落とし、組み敷いて、絞める。弓も商売人である。負けてはいない。春のせせらぎを走る小魚のように、素早く梓の太い腕を逃れ、後ろへ回って足をからめ、反転して梓の男を強く咬む。  時が経《た》ち、いつか二人は笹小舟《ささおぶね》になって静かに揺れていた。息づかいは小さくなり、血走っていた目の色も和らぎ、笑っている弓の瞳《ひとみ》の奥を覗《のぞ》きながら、梓はぬるい春の海を漂っていた。いつも二人の夜の終わりはこうである。ゆっくり梓の中から熱いものが流れだし、大らかに広がる弓の湾が、静かな川を迎えるようにして終わる。その刻《とき》が近づいている。月も蒼《あお》く冴《さ》えている——。  その月の光に、何かが光った。ギラリと光った。梓の目が大きく見開かれる。枕元《まくらもと》から一尺も離れていない畳の上に、抜身《ぬきみ》の軍四郎兼光が、蛇のように寝ている。弓の気紛れである。梓の頭の中が赤く燃えた。絖りを帯びた切っ先に、蒼い月の光が集まって、辺りが白々と輝いて見える。と思う間もなく、白光の塊が弾けて飛び、代ってそこに眩《まばゆ》いばかりの落日に染まった金木犀の大樹がそそり立つのを梓は見た。その赤に灼《や》かれて、梓の血が滾《たぎ》る。梓は、驚いて目を瞠《みは》る弓の体を大きく裂き、凶暴なばかりに漲《みなぎ》ってきた力で弓を刺した。弓が、いままで聞いたことのない鋭い声で、高らかに啼《な》く。梓も、天に懸けられた紅の階段をまっしぐらに駈《か》け上がっていった。軍旗が風にはためく音が、梓の耳元で激しく鳴る。女と寝て、こんないい気持ちになったことが、かつてあっただろうか。梓は泣いていた。涙の粒を夜の中に撒《ま》き散らし、栄光の軍旗を高々と押し立て、梓は幻の金木犀に向かって吶喊《とつかん》した。——そして、五歳の秋の日の、夢の芳香に噎《む》せながら、「花廼家」中に響く声で、叫んだ。 「陛下!」 [#改ページ]    第二章 魔   王  剣持梓《けんもちあずさ》の家がある阿佐ケ谷から荻窪《おぎくぼ》へかけての住宅地は、意地の悪い土地の人たちから≪胴村《どうむら》≫と呼ばれている。定年になって引退した大学の先生や役人たち、それに、梓の父の甲四郎のような退役軍人が多く住んでいたからである。つまり、首になって、首のない、胴体だけの連中だというのである。はじめてその言葉を聞いたとき、梓は笑ってしまった。そう言えば元日の午後など、阿佐ケ谷駅に下りの省線電車が着くと、たぶん宮中参賀の帰りなのだろう、軍服の胸に古い勲章をぶら下げた足元の覚束《おぼつか》ない軍人たちや、白い髭《ひげ》だけが立派で羊羹色《ようかんいろ》に褪《あ》せてしまったフロックコートを着た老人がゾロゾロ降りてくるのを見ると、なるほど≪胴村≫の住人たちだと思う。  もっとも、甲四郎が安い土地を買って家を建てた大正の終わりごろは、≪胴村≫になる以前で、まだこの辺りは畑や原っぱがほとんどだった。大きな森もあったし、幅一間ほどの川に架かった木の橋のたもとには、お道化《どけ》た顔の道祖神《さいのかみ》が、半分土に埋まっていたりしたものである。それが新興住宅地として開けてきたのは、ここ数年——昭和四、五年ごろからだろうか。アール・デコ風の玄関の脇《わき》に、応接間のステンド・グラスの窓が見える、和洋折衷の二階家があちこちに建ちはじめた。だからこのごろでは、純日本風の剣持家は、まだ十年ほどしか経《た》っていないのに、そんな町の中では、ずいぶん古めかしく、時に陰気に見えることさえある。それには、三年ほど前からこの家の家族たちの様子が少しずつ変わったことも関わりがあるのだろう。兄の正行《まさゆき》が戦死し、たぶんそのことが因《もと》で、姉の遊子《ゆうこ》の魂は時折どこかへ遊びにいくようになった。日ごろ、どっちかと言えば世間体を気にする方だった父が、不思議なことに、遊子の異常については自然に任せるよう母に命じたらしく、剣持の家では二十五歳の娘を人目に触れないところに隠したりしなかっただけでなく、むしろ自由に振舞うままに任せた。雨戸を立てきっても、夜中のピアノは戸外《そと》に洩《も》れる。夏の朝、若い娘が麻の葉模様の寝巻姿で住宅街を走れば、人は振り返る。町の噂《うわさ》は父の勤め先にも伝わり、切れ者と言われていただけに敵も多かった甲四郎は、黙って三十余年の軍人生活から身を退《ひ》いて、影の薄い≪胴≫になった。  このごろの遊子は、表向きそれほど奇矯《ききよう》ではない。ピアノの前に坐ることも少なくなったし、戸外へも出たがらない。けれど、その分、心の病は静かに深く遊子を侵しているらしく、ある朝、梓が何の気なしに押入を開けたら、上の段に姉が正座していて、顔いっぱいで笑いながら、滂沱《ぼうだ》と涙を流しているのに出くわしたことがある。姉はそそけ立った髪に兄の軍帽を載せ、梓の顔を見て挙手の礼をした。きれいなだけに哀れだと、梓は思う。いっしょに狂ってやれるものなら、そうしてやりたいと思うことさえある。  月に一度、ハイヤーを裏口に呼んで、母の静子は姉を井の頭公園の先にある病院へ連れていく。前の晩、いっしょに風呂《ふろ》に入って髪を洗ってやり、せめてもの心づくしにヘリオトロープを薄く襟足に匂《にお》わせるから、その日の朝、廊下ですれ違う遊子は普段より女らしく、ときに梓は姉であることを忘れて、ふっと悩ましい気持ちになることがある。そんな遊子の肩を抱いて車に乗り込む母の様子も、その朝は浮き立って見える。もしや、少しでもいい兆候が見られるのではないかと、医師の診断に期待するのだろう。けれどその夜、梓が帰ると、まだそれほど遅い時間ではないのに、剣持家はいつものように戸を立てて静まり返り、玄関脇の軒燈だけがぼんやり点《とも》っているのだった。胴村の家々の窓からは暖かな灯が洩れ、微《かす》かにラジオの音も聞こえたりしているが、そんな家でも一つ垣根を越えてみれば、中には何が棲《す》んでいるかわからない。襖《ふすま》を開ければ薄紅《うすくれない》の修羅《しゆら》の部屋があり、もう一つ奥を覗けば、仏壇の前で、気のふれた女の鬼が笑っている。  梓は一月《ひとつき》ほど前から、兄の部屋の遺品を整理している。三回忌も済んだのだから、納戸《なんど》に片づけろと父が言うのである。父にしてみれば、兄が使っていた机や座布団《ざぶとん》が通りすがりに目に入るだけでも辛《つら》いのだろう。遺品といったところで、本が主で、あとは蝶《ちよう》の標本と手紙類だけだから、大したことはないのだが、本一冊にしても、パラパラめくっていて兄が鉛筆で傍線を引いている箇所を見つけたりすると、つい読んでしまうので、このところ梓の仕事は存外手間取っている。正行の蔵書は、遺骨の代りに白木の箱に入って帰ってきたハイネをはじめ、ヴェルハーレンとかメーテルリンクとか、梓にはよくわからない西洋の詩が多い。中でも「月下の一群」という堀口大學《ほりぐちだいがく》の訳詩集は、よほど繰り返し読んだのだろう、ページは手垢《てあか》に汚れ、本の綴《と》じが緩んで白い糸で不器用に補修してある。栞《しおり》が挿《はさ》んであるページを開いてみる。薄紫の小さなリボンのついた栞には、目の大きな女の子が教会の前で傘《かさ》をさしている絵が描いてあり、隅に虹児《こうじ》とサインがある。遊子にもらった栞なのだろう。——それは、ヴェルレェヌというフランスの詩人の歌だった。   巷《ちまた》に雨の降る如《ごと》く   われの心に涙ふる   かくも心に滲《にじ》み入る   この悲しみは何ならん?  兄の、軍人にしては薄い胸の中には、どんな雨が降っていたのだろう。そんな濡《ぬ》れた胸を抱えて、どうやって敵と戦っていたのだろう。山海関の戦闘で、一人でも敵を殺すことができたのだろうか。もっと遡《さかのぼ》ってみれば、蝶が好きで、リリアン・ハーヴェイが好きで、「十五少年漂流記」が好きで、妹の遊子の弾くピアノが好きだった兄は、父が一高の受験を勧めたのに、どうして士官学校を選び、カーキ色の軍服を進んで着たのだろう。それを考えると、梓はクロロホルムを嗅《か》いだ蝶のように息が苦しくなる。梓には、兄と自分のいまいるところが逆なような気がしてならない。この部屋でヴェルレェヌを読んでいるのが正行で、座敷の仏壇の中にいるのが自分である方が、よほど似合っている。そうしたら遊子も、夕暮れの蝶のように狂わなくて済んだのだ。  北さんの本がある。  灰色のカヴァーをかけて、本箱の裏側に落ちていたので、いままで気づかなかったが、兄と北さんというのはどうも繋《つな》がらない。椿《つばき》の似合いそうな、焼きの濃い備前の花瓶に、咲きかけのフリージアを投げ込んだような、落ち着きのない組合せである。優しい色や文字の西洋の詩集や画集の中では、「日本改造法案大綱」という角張っていかつい文字だって、いかにも場違いな気がする。これは冷たい本である。けれど、こうして掌《て》に本の重みを量っていると、灰色のカヴァーの下に、梓の知らないもう一つの貌《かお》の兄が隠れているようで、梓は少し怖くなった。  裏庭に面した窓の障子が、急に翳《かげ》って暗くなる。いままでくっきり映っていた南天の葉影が、すーっとぼやけて障子に滲《にじ》む。北さんのせいだろうか。北さんは魔王のようだと、はじめて北さんに会った日に福井が言っていたが、北一輝という名前を見ただけで秋の夕日は、ふと翳りたくなるのだろうか。  そう思って眺めると、「日本改造法案大綱」は、なんだか不吉な妖術《ようじゆつ》の本のようである。梓のような若い将校たちや、幼年学校、士官学校の、いわゆる将校生徒たちの間では、これは、おなじ北さんの「支那《しな》革命外史」と並んで、有名過ぎるくらい有名な本である。一昨年の秋、北さんを囲んで酒を飲んだ夜、その席にいた連中の中で「日本改造法案大綱」を読んでいないのは、梓一人だった。自由、自由とうるさいフランスかぶれの左近充《さこんじゆう》でさえ、北さんの前では、支那、印度七億民ノ覚醒《かくせい》実ニコノ時ヲ以《もつ》テ始マル。戦ナキ平和ハ天国ノ道ニアラズなどと、頬を紅潮させて諳《そらん》じてみせるので、梓はびっくりした。そんなに面白い本なのかと、隣りにいた福井に小声で訊《き》いたら、面白い面白くないの問題じゃないと怖い顔でたしなめられた。  その本を兄が本箱の裏に隠していたことが、やっぱり梓には不思議でならない。もっとも、去年の十一月に起こった≪士官学校事件≫以来、北さんの本は軍関係で禁書になっているそうだから、持っている連中はみんな正行のように隠していておかしくないのだが、それは役所や聯隊《れんたい》の中の話であって、自宅でまでカヴァーをかけて本箱の裏に秘めておく必要はないはずである。とすると、父の甲四郎も知らないことになる。ここで梓は、もう一つ不審に思う。父はどちらかと言えば、北さんを信奉する者の多い、いわゆる≪皇道派≫に近いところにいた。つまり軍の中では、≪相沢事件≫の永田軍務局長らの≪統制派≫とは、あまりうまくいっていなかったと聞く。そういう立場にあった父の目を盗む必要が、どうして兄にはあったのだろう。ましてや、兄が大陸で戦死したのは、士官学校事件の起こる前の、昭和八年正月のことである。正行が北さんの本を読んでいることは、もちろん梓も知らなかった。家族の誰にも知られないで、兄はヴェルレェヌの詩句とは程遠い、呪文《じゆもん》のような「日本改造法案大綱」を読んでいた。  梓は灰色の本を開いてみる。——≪今ヤ大日本帝国ハ内憂外患並ビ到《いた》ラントスル有史|未曾有《みぞう》ノ国難ニ臨メリ。国民ノ大多数ハ生活ノ不安ニ襲ワレテ一ニ欧州諸国破壊ノ跡ヲ学バントシ……≫。雲間からまた陽が現れて、北一輝の呪文の文字が薄紅色に染まる。裏の尼寺から聞こえてくる夕の勤行《ごんぎよう》の読経《どきよう》の声が、今日は微《かす》かに乱れて艶《なまめ》かしい。梓には、このしっとりと重い書物が、こんどは桃色の恋文の束のように思われた。兄の小さな魂を生暖かい手で掴《つか》みとった北さんは、やっぱり魔王なのだろうか。黄昏《たそが》れていく兄の部屋で、梓は一度だけ会った北さんの、表情というものがまるでない右目を思い出していた。すーっと寒気がした。  その夜、梓は北さんに短い手紙を書いた。——兄をご存じだったのだろうか。近いうちに、一度お目にかかりたい。できれば、二人だけで——。  あれは憲兵だと楽子《らくこ》が言うと、女将《おかみ》のおゆうが、憲兵なら軍服で赤い腕章をしているはずだから刑事だと、さっきから帳場がうるさい。何年か前、白山下の時計屋のショーウィンドゥを破って時計や宝石を盗んで逃げた男が、その晩この辺りの店に泊まったらしいというので、「花廼家《はなのや》」をはじめ、隣りの「羽二重」や裏の「達磨《だるま》」に私服の刑事がしばらく出入りしたことがあったらしく、おゆうは刑事についてはえらく自信のある口振りである。匂いでわかる、目でわかるとやかましい。弓は帳場から一間《ひとま》おいた縁側で巻《まき》煙草《たばこ》を喫《の》みながら、女たちの話を聞くともなく聞いていた。半年ほど前、剣持さんが忘れていった煙草を悪戯《いたずら》で一口吸ってみた。途端に蓖麻子油《ひましゆ》を飲んだみたいに胃の辺りが重く濁り、慌《あわ》てて吐き出したら煙といっしょに胸のつかえがきれいに晴れた気持ちになった。それが病みつきになり、弓は一日に一箱、朝日を吸うようになった。いまの境遇を不自由だと、弓はあまり思っていない。夜ごとの客たちは、家が貧しく血を吐くような思いで売られてきた女を抱くのが好きらしく、そんな身の上話を喜ぶから、適当に話を合わせてやることにしているが、弓はほんとうのところ、秋の空に消えていく煙草の煙のように、昔のことはみんな忘れてしまっている。こういう町の女の三年は、十年とおなじである。  北という右目のおかしな支那服の男が「花廼家」にやってきた一昨年《おととし》の秋ごろから、わざとらしく遊び人を装った、目に落ち着きのない男たちがこの界隈《かいわい》をうろうろしだしたのに、弓は気がついていた。今日も、隣りの「羽二重」の女将のお梶《かじ》とそんな男の一人が、この家の方を盗み見ながらこそこそ話しているのを、風呂《ふろ》帰りの菊ちゃんが見かけたというが、その男の話なら、「羽二重」の下働きの蝶次郎から聞いて知っている。はじめのうちは、こういう町に女を世話する、昔ながらの桂庵《けいあん》かと思っていたら、どうも「花廼家」に出入りする軍人さんたちの様子を訊きたがっているようだと、蝶次郎は弓に言う。隣りのお梶は、自分の店があまり繁盛《はんじよう》していないので、「花廼家」の暖簾《のれん》にちょっとでも傷がつけば客足が落ちるとでも思うのか、ことさら声を潜めてあることないこと告げ口しているらしい。軍人さんたちが、どんな談合をしていたからといって、世の中どう変わるはずもないのに、刑事だか憲兵だか知らないけど、あの男たちは梓たちのことを、四十七士だとでも思っているのだろうか。弓は、二本目の朝日に火を点《つ》けながら、この前の夜、弓の腰が折れそうなくらい抱きしめた、梓の獣みたいな力を思い出していた。 「羽二重」との境の板塀の破れ目から、蛍みたいな蝶次郎の目が覗《のぞ》く。どうしてか、いちばん邪険に扱う弓のことが好きらしく、追い払っても追い払っても、子犬みたいについてくる。この子の渾名《あだな》は、陰間《かげま》の蝶次郎である。まだ十六だというが、昔の、役に立たない殿様みたいな長い顔に、筆先で突いたような小さな目が、いつもおどおどしている。菊ちゃんや桃ちゃんが、嫌だ、この子薄化粧してる、と囃《はや》し立てると、青い顔をポッと赤らめるのが可笑《おか》しい。ときに、変な趣味の男の部屋に呼ばれることがあるらしいが、「羽二重」もそんなに不景気なら、蝶次郎に薄紫の長襦袢《ながじゆばん》でも着せて、看板にすればいいのにと弓は思う。  塀の向うの蝶次郎が、さっきから妙な目配せを送っていると思ったら、背中の帳場が急に静かになった。襖《ふすま》を細目に開けた女将のおゆうが、弓を意味ありげに手招きする。立っていくと、土間の椅子《いす》で煙草を吸っていた、ずんぐりと小柄な中年男が振り返る。目深にかぶった鳥打帽の廂《ひさし》の下に、白目の多い目が炯《ひか》っている。ああいう目は、女に非道《ひど》いことをする目だ。楽子や菊ちゃんや桃ちゃんが、弓と目を合わさないように黙って自分の部屋へ下がっていくのも、なんだか不自然な気がする。男が影のように立ち上がる。日のあるうちから客が付くのは有り難いが、口開けがこんな陰気な男では、また今夜一晩、ろくなことはなさそうだと、弓は気が重くなる。 「姉ちゃんが身投げしたっていうじゃないか」。いきなり男に言われて、布団に入りかけていた弓はびっくりした。裸の腿《もも》の間を、冷たい風が通り抜けたように嫌な気がした。「兄なら、田舎に一人いますけど、姉はいませんよ、私」。腹這《はらば》いになった体を起こして弓を引き寄せながら、男は嬉《うれ》しそうに笑う。「そうかい。じゃ、おととしの正月、言問橋《ことといばし》の下で上がった、女の土左衛門《どざえもん》は、あれは誰だったんだい」。店の誰にも言ったことのない話を、どうしてこの男は知っているのだろう。背中から腹へ廻ってくる男の手が、冷たい。「袂《たもと》や懐《ふところ》に、いっぱい石を詰めこんでいたっていうじゃないか。水練が達者だったわけだ。姉ちゃんも、おまえみたいにいい体してたんだろうな」。いつの間にか、男の太い腕が弓の顎《あご》を下から押し上げ、仰《の》け反《ぞ》った弓の目の奥を男が覗き込んでいる。「歌も上手だったんだってな。仲の町辺りじゃ評判だったらしいぜ。増本のおてふが金襴緞子《きんらんどんす》を歌うと、助平な金歯の客も泣いたっていうじゃないか」。違う。てふ姉ちゃんが好きだったのは「雨降りお月さん」だ。——雨降りお月さん雲のかげ お嫁にゆくときゃ誰とゆく ひとりで唐傘《からかさ》さしてゆく……弓より目鼻立ちがはっきりして、気性の優しかったてふは、渋民村《しぶたみむら》から売られていくとき、他の娘たちのように泣きはしなかった。真っ赤になった目を悟られまいと背中を向けた父親に元気な声をかけ、弓に手を振って出ていった姉を、弓は忘れない。娘たちが売られていく日に限って、どうして岩手の夕暮れはあんなにきれいだったのだろう。村道へつづく竹林が濡れ濡れと夕日に輝き、藁屑《わらくず》を浮かべて流れる小川は、てふ姉ちゃんの目のようにキラキラ光っていた。いっそ歌のように、惨《みじ》めに雨でも降っていればいいのにと、十五だった弓は思ったものだ。——貧しい村は美しい。  こんなに忙《せわ》しく動き回る男の手を、弓は知らない。弓の体を仰向きにし、俯《うつぶ》せにし、反り返らせ、押し潰《つぶ》し、その間じゅう男の手は、胸から腰、腰から内腿へと這い回って休まない。その度に、体つきに似合わない男の長い指の、鋭い爪《つめ》が、弓の白過ぎる肌に赤い線を残して走る。弓は朱《あか》い枕を噛《か》む。痛いのではなかった。爪が走った跡から甘い樹液がゆっくり滲みだし、そこから四方に流れて網の目のように弓の皮膚を覆《おお》っていくのが目に見えるようで、弓は思わず長い悲鳴を上げた。男の指が、弓の肌に絵模様を描いている。熱くなった皮膚が、その鋭い一筆一筆に応《こた》えて充血し、はじめ小さな点だったのが次第に広がって花弁が開き、やがて雪の朝、庭に散り敷いた椿のように点々と視界を彩《いろど》っていく。それは冬の水から上げられたてふ姉ちゃんが、体にへばり着かせていた着物の柄だ。あの日、遺体を引き取りに走った弓の目には、姉の胸に、腰の周りに、裾《すそ》に散った椿の花びらが、一つずつ、姉の短い生涯の、悔いと怨《うら》みと諦《あきら》めに見えた。  押し寄せては、焦《じ》らすように素早く引き、引いたと思ったらまた泡を噛んで襲ってくる赤い波に弄《もてあそ》ばれ、弓の体は涕《な》いていた。男に気取《けど》られると口惜《くや》しいので、枕にかじりついて、震えながら歌った。——唐傘ないときゃ誰とゆく シャラシャラシャンシャン鈴つけた お馬に揺られて濡れてゆく……。気が遠くなりかけて見た闇《やみ》の中に、弓は、てふ姉ちゃんが笑って手を振っているのを、見た。  男が知っていたのは、冬の水に沈んだてふのことだけではなかった。渋民村の父親が、まだ借金を返し切れず、家族たちがこの春から、村外れの元|厩《うまや》だった軒の低い小屋に移り住んだことも、二番目の兄が函館《はこだて》で傷害事件を起こしたことも、身内の弓がつい先ごろ知った話まで、男はみんな知っていた。一旦《いつたん》引いた弓の体の熱が、ゆっくりまた戻ってくるのを生暖かい掌《てのひら》で確かめながら、刑事らしい男は、そんな話を一つずつ、弓の耳に囁《ささや》くのだった。金属をこすり合わせるみたいな、癇《かん》に障る男の声を、弓は蝗《いなご》のようだと思った。  なぜ私のことを調べているのだろう。白山辺りの座布団女郎をはたいたって、もう埃《ほこり》の一つだって出やしない。「義眼って知ってるかい」。蝗は急に妙なことを言う。「嘘《うそ》の眼だよ。作り物の。いつも、一つだけそっぽを見ている。この店に、そんな目の男がくるだろう」。「知りませんねえ。こんなところのお客は、毎晩入れ替わり立ち替わり、お座敷だってここと思えばまたあちら、お客の目が二つだろうと、三つのお化けだろうと、一々|憶《おぼ》えてられませんよ」。弓は、嫌らしい岡っ引きをはぐらかす捕物帳の女みたいに、わざと答えてやった。「そうかい、そりゃそうだな」と、男は意外にあっさり引き下がり、枕から手を伸ばしてお盆を引き寄せ、とうに冷えた酒を飲みはじめた。酌《しやく》をしてやるのも面倒だから、そのまま放っておいたら、チラチラ弓を横目で見ながら「雨降りお月さん」を、小唄か端唄《はうた》みたいに鼻で歌いだした。歌というものは、誰が歌ってもいいというものじゃない。あんな哀《かな》しい、切ない歌が、品のない街の物売りの声に聞こえる。  あれは、やっぱり義眼だったのだろうか。もう少し親しくなってから、剣持さんに訊いてみたいと思っていたことだが、余計なことを訊いて叱《しか》られて、店へきてくれなくなっても困るから黙っていたけれど、確かにあの黒い支那服は変な人だった。軍人さんたちが顔を赤くして一頻《ひとしき》り喋《しやべ》りまくると、支那服がポツリと何か言う。するとみんなが感心したように熱い溜息《ためいき》を洩《も》らして、しばらく黙りこむ。それからまた議論がはじまり、一頻りあってみんなが支那服の方を見る。ポツリと何か言う。——その繰り返しだった。よく聞いてみると、支那服の言っていることは、「世の中そんなものです」とか、「覚めない夢はありません」とか、あるときはお経の文句みたいなのをブツブツ称《とな》えたりして、よくわからなかった。それに、他の軍人さんたちがみんな日本酒だったのに、支那服の男だけはウィスキーだった。黄金色《こがねいろ》のウィスキーを、水みたいに、クイックイッと、立てつづけに飲むのにもびっくりしたが、咽喉仏《のどぼとけ》を見せて飲む度に、仰向いた左の目は天井を向くのに、右の目は正面の弓の方を見たままなのが怖かった。——やっぱり、あれは義眼だったのだ。  あの夜の客たちで変だったのは、義眼の支那服と剣持さんだった。剣持さんは、見かけはどうということはなかったが、みんなが熱心に話したり支那服の男の言うことに耳をそばだてている中で、一人他のことを考えているようだったし、無礼講みたいな崩れた座の中で、一人だけ軍服の襟を緩めようともしなかった。だいたい、「花廼家」の奥座敷に客が八人というのが多すぎるところへ、弓たち女が四人もお酌に付いたから、誰かが溢《あぶ》れて不思議はないのだが、弓が気づいたとき剣持さんは、いつの間にか、みんなからポツンと離れた廊下の障子に凭《もた》れ、裏庭の金木犀《きんもくせい》をぼんやり見ていた。時折、煙草に火を点けはするが、一口喫むとすぐに脇《わき》の灰皿に置いてしまうので、灰皿はそんな燃えさしの煙草でいっぱいだった。瞬《またた》きもせず遠くを見ている剣持の横顔が、弓は気になった。  たとえばあれは、死ぬことを考えている目だ。おととしの正月、てふ姉さんが身投げする前に、おなじような目をしていたのを弓は思い出す。こう言うと、人はすぐに暗い目や、なげやりな目、ちょっと目蓋《まぶた》を突いたら涙が零《こぼ》れそうな目を想《おも》うらしいが、そんなんじゃない。あれは笑っている目だ。千里眼の遠眼鏡を覗いていたら、死んだ祖母《ばあ》ちゃんが縁側で裁縫を広げていて、なかなか針の目が通らず、ようやくの思いで通ってほっとしたら、猫が祖母ちゃんの手元に飛びついて、また一からのやり直し——そんな懐《なつ》かしい光景が、束《つか》の間《ま》、てふ姉ちゃんの悲しい目に映って見えたのかもしれない。姉ちゃんは祖母ちゃん子だった。その祖母ちゃんが痩《や》せて死に、すぐに後を追うように猫が死に、それから三月して、てふ姉ちゃんは東京へ売られた。  刑事らしい男に背中を向けて、寝たふりをしながらそんなことを考えていたら、男の湿っぽい手が、また胸を探りにくる。小田嶋《おだじま》先生にしても、千里眼の花輪さんにしても、こういうところへくる男たちの手は、どうして年中湿っぽいのだろう。武骨だけれど、春みたいに暖かい剣持の大きな掌と、あの日の遠い目を、弓は思い出していた。剣持さんに逢《あ》いたい。——何かが宙を飛ぶような気配がしたと思ったら、いきなり男が猫みたいな声を上げて飛びすさった。飛びすさって部屋の隅の乱れ籠《かご》に脱いであった洋服から、平べったいピストルみたいなものを取り出し、腰を落として両手に構えた。薄闇の中に男の荒い息づかいだけが聞こえ、弓は裸に茶羽織を頭からかぶって震えていた。誰かいる。この部屋に、男と弓の他に、誰かいる。——畳を爪で引っ掻《か》くような音がして、ふーっと長い吐息がつづいて聞こえた。そっと首をもたげてみると、部屋の真ん中に茶黒の猫が一匹、姿勢を低くして男を睨《にら》んでいる。さっきの声は、男の声ではなく、この猫だったのだ。よく見ると、坂下の円乗寺に群れている猫の中でも、あまり目立たない、みんながふざけて蝶次郎と呼んでいる猫だった。男だか女だか、よくわからないのである。その蝶次郎が、珍しく怖い顔をしている。どこから入ってきて、どうして刑事に飛びかかったのだろう。隣りの「羽二重」の軒下でよく見かけるが、「羽二重」とあまり仲のよくない「花廼家」へはほとんど寄りつかないのに、今日にかぎってどうしたのだろう。男も、やっと相手が猫とわかったらしく、下品に舌打ちして洋服を着はじめる。すると蝶次郎も体の力を抜いていつもの蝶次郎に戻り、大儀そうに二、三度男を振り返りながら、出窓の隙間から外へ出ていった。今夜は雨になるだろう。蝶次郎の消えた窓の隙間から入ってくる十一月の湿った風が、弓の裸にまといつく。  猫の蝶次郎のおかげで、弓は一人になれた。それでも、客を立てつづけに三人もとったくらい、弓の体は疲れていた。時計はまだ七時を少し廻ったころである。階下の座敷の左官屋の寄合は九時までだから、体の始末をした後、着替えてそっちへも出なければならない。座敷に出ている間に別の客がついたら、上になったり下になったり、またその相手である。正直言って嫌になる。ローマ字日記を書く暇もない。  今日のところは帰ってくれて助かったが、刑事風の男は、またやってくるのだろうか。蝗の鳴声みたいな男の声が、耳について離れない。義眼の北という人と弓とは何の関係もないから、弓のところへくるとすれば、それは剣持さんとの関わりなのだろう。それにしても、ずいぶん暇な話である。いくら馴染《なじ》みと言ったって、いまに所帯を持つ約束をしたわけでもあるまいし、相方《あいかた》の女の素性をあんなに詳しく調べて、いったいどうしようというのだろう。別に口止めされたわけではないから、今夜のことは剣持さんに話してみよう。だけど——ということは、あの男もそれを承知の上で帰ったということになる。ピストルを持っているくらいなら、それを弓に突きつけて脅すことだってできたはずである。猫にびっくりして、具合が悪くなって、なんだか慌てて帰ったが、それでも最後にはニヤニヤ笑って弓の顔を覗き込んで部屋を出ていった。あのままここに泊まっていったら、剣持さんの話になったのだろうか。弓は、ふと剣持梓のことが心配になった。男の身の上が気にかかるなんて、弓ははじめてだった。そのことが、弓にはちょっと嬉しかった。  北さんから、速達で返事がきたのは、五日後の日曜日だった。十一月二十三日、新嘗祭《にいなめさい》の午後三時に、御茶ノ水のニコライ堂で会いましょうとある。中野の家へ来てもらってもいいのだが、向いの二階にいつもカメラを持った憲兵が張り込んでいて、迷惑をかけるといけないからと、いかにも文字を書き慣れた万年筆の達筆で書いてある。北さんの身辺は、いつも見張られているらしい。ちょうど一年前の士官学校事件以来、それは目立って厳しくなり、中野駅前の本屋へいくのにも尾行が二人ついているとか、その執拗《しつよう》さは関東大震災のころの大杉栄以上だとか、福井や左近充が言っていたが、それなら梓と会うニコライ堂にも尾行はついてくるだろう。けれど梓は、何とも思わなかった。「日本改造法案大綱」をパラパラめくっていたら、あの疲れた顔を見たくなっただけである。あの不思議な目を、正面から見たいと思っただけである。そして梓は、北さんから兄の話を訊いてみたかった。あの人は、弟の梓も知らない何かを知っている。  中野坂上の家の二階に、大きな白木の仏間を造り、そこで北さんは法華経《ほけきよう》を朗誦《ろうしよう》し、いろんな霊の声を聴くという。その声は、不動明王だったり、塚原卜伝《つかはらぼくでん》だったり、大山|巌《いわお》や山岡|鉄舟《てつしゆう》のこともあるらしい。革命への思いと、霊のお告げと、北さんの中ではいったいどうなっているのだろう。変な人だと梓は思う。  北さんに会うのなら、あの本を読んでおかなければ無礼なのではないかと、梓は考えなくもなかったが、いまさら慌てて読んだところで、所詮《しよせん》は付け焼刃である。「支那革命外史」だって、同僚の桜井が隠し持っていることは知っているが、何も北さんと議論をしにいくわけではない。昭和維新だとか、君側《くんそく》の奸《かん》だとか、梓がほとんど何も知らないことは、一昨年の「花廼家」の梓の様子で、北さんだって察しがついているに違いない。それでも会ってくれるというのだから、それでいいではないか。人と人は、何か理屈があって会うわけではない。  梓には、もう一つ見たいものがあった。陛下、という言葉を耳にしたときの、北さんの左の目にゆらゆらと火《ほ》めく、艶かしい陽炎《かげろう》である。あれはいったい何なのだろう。梓が幼いころから見つづけている、大内山の夢のつづきを現世《げんせ》で目にしたように、あの夜、梓は思った。だから北さんに、金木犀の夢の話をしてみようと思う。その夢の意味を訊《たず》ねてみる相手は北さんしかいない。  北さんは隊付将校の日常を知っているから、新嘗祭の日を指定してきたのだろう。その日は朝から聯隊《れんたい》で簡単な式典があり、十二時に食堂で将校たちの昼食会を終えたら暇になる。北さんの手紙には、ニコライ堂で会った後、いつかの白山上の店へでもいきましょうと書いてあった。それなら几帳面《きちようめん》な左近充に「花廼家」の電話を訊いて、座敷をとっておかなければならない。ついでに、弓の体も空けさせよう。——いつものように、市電を二つ手前の八千代町で降りて、北さんと二人、だらだら坂を上っていく光景を、梓は想ってみた。お七坂の森の上に、夕映えの雲はその日見えるだろうか。円乗寺の猫たちは、機嫌がいいだろうか。北さんの左目が、猫に似ていたのを思い出して、梓は一人の部屋で声を立てて笑った。  今日は一日家にいて、兄の遺品の整理を終わってしまうつもりだったが、ふと思い立って、梓は普段着の和服の上に襟巻だけして家を出た。弓に逢いたくなったのである。いまから省線に乗って水道橋で降り、市電に乗り換えて白山上へいくと、ちょうどいつもの時刻になる。日曜だから弓は暇にしているだろうし、客がついていたら女将を相手に酒を飲むだけで帰ってきてもいい。弓に逢いにいくときの気分には、旧《ふる》い友だちを訪ねるような、気のおけない懐かしさが半分ぐらいある。あとの半分は、むろん男と女のことだが、よその女を買ったあとの重い胸のつかえみたいなものが、弓との場合には残らない。昔の同級生と、歌でも歌ってきたような軽い愉《たの》しさがあるから不思議である。近く北さんに会うと決まったせいか、今日の梓はそんな軽さが欲しかった。  東京行きの省線は空《す》いていた。駅ごとにすれ違う下りの立川行きや浅川行きは、日曜の家族連れで混んでいる。子供のころ、父に連れられて二重橋へいった帰り、混雑した電車の中で、足を踏ん張って立っていたのを梓は思い出す。父は目の前の席が空《あ》いても坐ろうとしなかったし、梓を坐らせようともしなかった。それだけでなく、皇居の前に並んで立っていたときは、あんなに痛いくらいに強く梓の掌を握ってくれたのに、電車では、どんなに揺れても手を貸してくれなかった。だから梓は、小さな体で懸命に平衡をとらなければならなかった。その間、父は一言も口をきかず、唇をきつく引き締め、目をつむったままだった。点りはじめた新宿の灯が車窓を流れ、中野を過ぎ、阿佐ケ谷に着くころには、内股《うちもも》の筋肉が張って、痛かった。駅を降りて商店街を抜け、背の高い杉の並木道に入ると、ようやく父は梓に声をかけた。——今日は、陛下とどんなお話をした? はい、このごろ風邪が流行《はや》っているようですが、陛下はお引きになりませんか、と訊ねました。ほう、陛下は何とおっしゃった? いまのところ大丈夫だ、ありがとう、とおっしゃいました。それから? それから、いつものように、好きです、と申し上げました。——父は、幾つもうなずき、梓の掌を探って、強い力で握った。  市ケ谷辺りから車窓の右手にニコライ堂が見えてくる。西日の茜色《あかねいろ》が、緑青色《ろくしよういろ》の丸屋根に射《さ》して不思議な輝きを見せている。あれがロシアの色なのだろうか。眺めているうちに、内へ内へ、だんだん気持ちが籠《こ》もっていくような、重い哀しみの色である。あの丸屋根の下に、ロシア人の幸福があるのだろうか。梓には東京の真ん中に、こんな寂しい異国の寺院があることが、よくわからなかった。そして、北さんは、どうして梓に会うのにニコライ堂を選んだのだろうと考えた。北さんが毎晩称えているのは法華経のはずである。愛用しているのは支那服である。およそ縁のなさそうなロシアのお寺で、北さんは梓に何を語ろうとしているのだろう。——電車が飯田橋を過ぎ、梓の降りる水道橋にさしかかると、ニコライ堂はだんだん大きく梓の目に迫り、梓は魂が何か理不尽な力に引き寄せられ、緑青色の伽藍《がらん》の中へ吸い込まれそうになるのを感じた。その時である。鐘楼の鐘が鳴り響き、梓は丸屋根の先端の十字架に、巨大な義眼が一つ、串刺《くしざ》しにされ、オレンジ色の血を流しているのを、見た。 「花廼家」の暖簾をくぐろうとしたら、ちょうど坂を下りてきた千里眼の花輪と出くわした。おなじ女の体に馴染んだ男が二人、挨拶《あいさつ》をするのも可笑《おか》しなものなので、何となく目礼をしたら、相手も何となく具合悪そうに目を伏せた。「あらまあ、今日はどうしよう。私のいい人が重なっちゃって」。階段を下りてきた弓が、土間に立っている二人を見て、陽気な声を上げる。「じゃんけんにする? それとも、三人仲良くってのもいいんじゃない?」。いつものことながら乱暴なことを言う。そこへ剽軽《ひようきん》な菊ちゃんが顔を出して、「花輪さん、私じゃだめ? おととい検査に行ったばかりだから、きれいなもんよ」。花輪は困ってしまう。梓も困ってしまう。今日は私服できているが、梓が軍人であることは花輪も知っているはずである。だから遠慮されたのでは、陸軍も困ってしまう。  そこで梓は、花輪を酒に誘った。そんならここで、みんなで飲みましょうよ、という菊ちゃんを振り切って表へ出たら、坂上の浄心寺の森の上に月が出て、恐縮している花輪の、ただでさえ蒼《あお》い顔を、海みたいに青々と照らした。花輪には、酒を奢《おご》るほかに、浅草の寄席の一回分の花代をはずむと言ったら、すぐに承知した。酒も好き、女も好き、お金はもっと好きという憎めない男である。しかし、相手が軍人だから落ち着かないのか、今夜の花輪は、芸人のくせに口数が少ない。お七坂の途中にある「夜会服」というバーに入っても、鳥打帽を脱いだりかぶったり、とにかく忙《せわ》しい。芸の話を聞きたいのなら、私じゃなくてもう一人の塙《はなわ》の方がいいと、妙なことを言う。そいつの方が人づきあいが上手だし、話も面白い。商売も、私は千里眼だけど、そいつは百面相の芸人だから、退屈しない。いままで小坊主《こぼうず》の顔をしていたのが、あっちを向いてヒョイと振り返ると、梅干し婆《ばば》あになっている。その塙に比べれば、私なんか、もともと人前に出る柄じゃないと、うなだれるので、梓は話の接《つ》ぎ穂《ほ》がなくなってしまう。仕方がないから、芸人にはハナワという苗字が多いのかと訊《たず》ねたら、たまたまだという。花輪は仙台の出で、もう一人の塙は、塙|保己一《ほきいち》とおなじ武蔵|児玉《こだま》の出身で、言葉に苦労しなくていいから羨《うらや》ましいと愚痴るのが可笑しい。それでも、少し酒が入ったら、ポツポツと喋《しやべ》りだしたので、梓は少し気持ちが楽になった。 「夜会服」という洒落《しやれ》た名前の割に、品のない女が揃《そろ》っている店である。だいたい夜会服はおろか、洋服の女が一人もいない。これでカウンターと蓄音機がなかったら、「花廼家」とたいして変わりがない。鳴っている音楽だけは舶来である。と言っても、「小さな喫茶店」と「黄昏《たそがれ》のオルガニート」の裏表を繰り返しやっているだけなのだが、カウンターの中にいる、紫と桃色の縞《しま》の着物を着たママらしい肥《ふと》った女が、タンゴ好きなのだろうか。「黄昏のオルガニート」は、死んだ兄の正行が好きだったので、梓もよく知っている。オルガニートというのは、風琴の一種で、アルゼンチンでは街の音楽師が手押し車にオルガニートを乗せてやってくるという。こうやってタンゴを聴きながら兄を想うと、涙がこぼれそうになる。ふと考えると、兄には、日本よりも支那よりも、こんな音楽が街角に流れている国の方が似合っていたのではあるまいか。軍旗よりも観兵式よりも、夜会服の女や赤い酒や、バンドネオンの忍び泣きの方が、ずっと似合いだったのではなかろうか。ゆっくりと広がっていくウィスキーの味といっしょに、水色のタンゴの哀《かな》しみが梓の胸を浸す。アルゼンチンにはアルゼンチンの哀しみが、ロシアにはロシアの哀しみがある。ニコライ堂で北さんに会ったら、タンゴの話をしてみようと梓は思った。  女の話や仙台の話をしているときは元気だったのに、商売の千里眼のことになると、花輪はまた黙りがちになってしまった。弓が言うように、花輪は、見えてしまうことが怖いらしい。仙台の在に住んでいた子供のころから、花輪の目には妙なものが見えた。深夜、襖《ふすま》の向うで父親と母親が諍《いさか》っているのを聴いていると、満天星《どうだん》の襖絵の上に、裸の男と女がゆっくり絡《から》み合っているのが見える。男は父親で、女は知らない小太りの娘だった。朋輩《ほうばい》と酒を飲んでいたと抗弁している父親の嘘が、花輪にはすぐにわかるのである。  五つの子供が、失《う》せ物の在処《ありか》を言いあてるのが近所の評判になったころから、花輪は、自分に他の子にない奇妙な能力があることを意識しはじめた。ある冬の朝、目が覚めたら、天井板が活動写真のスクリーンみたいに白っぽく光っていて、そこにゴム長が片方、川を流れていくのが映って見えた。女の家からの帰り、酔って川にはまった父親の遺体が家に運び込まれたのは、それから一時間後のことだった。父親の女のことにしても、死にしても、花輪に見えるものは、よくないことの方が多かった。楽しい光景は、彼の網膜に像を結びかけては春の雪みたいにフッと消えた。花輪の千里眼は、不吉な千里眼だった。  関東大震災のときは、たまたま父親の法事で故郷の仙台へ帰っていたが、ちょうど前の日の昼ごろ、浅草の十二階が崩れるのが見えたという。お寺の本堂でお経の真っ最中に、花輪は十二階の尖塔《せんとう》に空から白い光が走り、赤い絹布《けんぷ》を引き裂くような音を聴いた。思わず立ち上がったら、花輪の正面に坐っていた本尊の釈迦牟尼《しやかむに》も突然立ち上がり、その姿が見る見る浅草十二階に変わって、映画のスローモーションのように震えながら崩れ落ちた。花輪は白昼の本堂の真ん中で、女のような悲鳴を上げた。親戚《しんせき》の目が一斉《いつせい》に振り返り、住職のお経が途絶え、境内の蝉《せみ》時雨《しぐれ》もはたと止《や》んで、後に恐ろしい沈黙が残った。  花輪も梓も黙ってしまった。花輪も梓も、いくら盃《さかずき》を重ねても酔えなかった。梓が深い吐息をつき、花輪が心細く長い溜息《ためいき》を洩《も》らし、タンゴが疲れ果てたように止んだ。梓がゆっくり花輪の方に向き直ると、千里眼の芸人の肩がピクリと動いた。梓は花輪の両肩に手をかけ、自分の顔を正面から直視させた。 「何が見える?」。花輪は目を泳がせ、俯《うつむ》いた。 「目を逸《そ》らすな! 何が見える?」。花輪の目が大きく瞠《みは》られ、濁った白目の中の、小さな黒目がゆらゆらと揺れた。 「何も見えません」 「そんな先のことでなくていい。一年後——私の一年先に、何が見える?」。花輪は荒い息をつき、深い井戸の底を窺《うかが》うように、梓の目を覗《のぞ》き込む。梓の手に、花輪の体が熱病にかかったみたいに激しく震えるのが伝わってくる。 「何も見えません」。千里眼が、泣きそうに首を振る。 「それなら半年、三月《みつき》でもいい。何が見える?」。花輪の目に、ようやくやわらかな安堵《あんど》がにじむように広がる。体中に凝《こ》っていた力が、すーっと脱けていくのがわかる。梓も優しい目になって囁《ささや》いた。 「見えるだろう。お前の千里眼に何が見える?」 「雪が見えます。朝の雪です。——蛍みたいに、きれいです」  新嘗祭《にいなめさい》の朝、東京に今年はじめての霜が降りた。阿佐ケ谷の梓の家の庭では、ゆうべまで咲き残っていた水引草が凍って死んだ。梓は裏庭に出て、いまは使っていない井戸から水を汲《く》み上げ、上半身裸になって体を拭《ふ》いた。北さんに会うのに、改めて考えることは何もなかったが、体だけは引き締めておかなければならないと思ったのである。いったい、北さんが敵なのか、味方なのか、梓にはよくわからなかった。音を立てそうに張りつめて冷たい水で体を縛るのは、北さんが、どこか異民族に見えるからである。しかし、この冴《さ》えた朝の大気に包まれていて、それでも胸の奥底が熱く火照《ほて》るのは、北さんの義眼ではない方の目に宿る、恋猫のように艶《なまめ》かしい光のせいである。ときめきという、軍人には似つかわしくない言葉を、梓は力をこめて体を拭きながら、繰り返し想《おも》っていた。すると、梓の胸の中で行きどころを探していた滾《たぎ》るように熱いものが、見事に鍛えられた腹の筋肉を伝って、一直線に梓の猛々《たけだけ》しい男に向って奔《はし》った。——梓の背中が、何かに刺されて固くなる。梓には振り返って見なくてもわかる。二階の格子《こうし》窓の隙間から、姉の遊子が梓の体を見ている。  三時少し前に着いたら、北さんはまだきていなかった。お堂の前に大きな橡《とち》の木が一本だけあり、その樹蔭《じゆいん》に鉄製のベンチが二つ、背中合わせに置いてある。しばらくそれに坐って北さんを待っていたが、日が翳《かげ》って寒くなってきたので、正面の重い樫《かし》の扉を押して中へ入ってみる。梓とすれ違いに、礼拝を終えた白系ロシアの年老いた夫婦が出ていくと、ニコライ堂の伽藍《がらん》には梓一人しかいなかった。あちこちの台に置かれた香炉に長い線香が煙を上げ、その煙が棚引いてお堂の中は靄《もや》がかかったようにぼんやりと薄暗い。正面の祭壇の前には、幾段にも組まれた木製の蝋燭立《ろうそくた》てがあり、百本余りの赤や青の西洋蝋燭が小さく揺れて瞬いている。静かである。物音一つしない。高窓のステンド・グラスも、背景の空が曇っているので、色がはっきり見えない。梓が祭壇に向って歩くと、足音の一つ一つが幾つにも反響して、梓の後ろから大勢のロシア人たちがついてきているような妙な気持ちになる。北さんは、どうしてこんな場所を選んだのだろう。静かではあるが、荘厳《そうごん》というのとは違う。息がつまりそうになるが、それは何かに縋《すが》りたくなる不安からではなく、お堂の四方からゆっくり押し寄せてくる妖気《ようき》みたいなもののせいに思われる。心が鎮《しず》まるというよりは、狂おしくなる。よく磨き込まれた床を踏んで祭壇に近づくにつれ、梓の動悸《どうき》は激しくなった。お堂の中はますます暗くなり、梓の視界が次第に荒涼とした風景に変わっていく。梓の目は、まだ見たことのないシベリアの凍土《ツンドラ》が、ニコライ堂の隅々にまで広がっているのを見た。  こうも気持ちが妖《あや》しく乱れ、落ち着きをなくしていくのは、きっと壁の基督《キリスト》や聖母や、聖人たちや使徒たちのせいである。彼らはどうして、こんなに色っぽいのだろう。聖画なら聖画らしく、もっと慎ましく、敬虔《けいけん》で哀しい顔をしていればいいのに、ニコライ堂の絵の中の男や女たちは、みんな、たったいま男と女の交わりを終えてきたばかりのように見える。目は潤《うる》み、口元はゆるく綻《ほころ》び、体の線が濡《ぬ》れ濡れと艶いている。それに、彼らの身に纏《まと》っている布の、何と恥ずかしげもなく鮮やかなことだろう。あれは娼婦《しようふ》の赤である。韮《にら》の匂《にお》いのする刑吏の青である。臆病《おくびよう》に上目づかいの、背教者の紫ではないか。——梓はその秘密を解こうとでもするように、聖画の中の一人一人を正面から見つめていった。彼らは梓を誘い、梓に媚《こ》び、いまにも手をさし伸べて梓を抱き寄せようとする。——祭壇の右手奥に、等身大の十二人の使徒たちを描いた木の屏風《びようぶ》のような絵がある。草色のローブを引きずった髭《ひげ》の使徒、蓬髪《ほうはつ》を深紅の布で後ろに縛った使徒、背の丈が子供ぐらいしかないコバルト・ブルーの使徒、柳みたいな細い眉《まゆ》をした女に見える使徒、——一人、地味な利休ねずみの法衣らしいものを着た使徒がいる。梓は首を傾《かし》げた。その男だけ、こっちに背を向けた後ろ姿なのである。  梓は声を上げそうになった。利休ねずみの使徒が、いきなり振り返ったのである。北さんだった。ゆったりした支那服の手を上げて、梓に笑いかけた。まるでその刻《とき》を待っていたように、それまで隠れていた太陽の矢が、西の窓の色《いろ》玻璃《ガラス》を透して北さんの顔に降りかかり、右目の義眼を金色《こんじき》に染めた。  北さんは風邪気味だった。ゆうべ写経をしながらうたた寝したらしい。「信心が薄いから罰《ばち》が当たったのです」と北さんは鼻声で言う。「君は、ニコライ堂ははじめてですか?」と訊《き》かれたので、「はじめてです」と答えたら、「私は明治三十七年の夏に、早稲田の聴講生になって東京へ出てきたとき友人に連れてこられて、それ以来ちょくちょく遊びにきます」と笑った。明治三十七年と言えば、北さんは二十歳過ぎだろうか。梓が生れる前の話である。「このお堂は、私が生れた年に工事に着手したそうです。でき上がるまでに六、七年かかったらしいけど、まあ私の歳《とし》とおなじというわけです」。何が可笑しいのか、北さんは穏やかに話しながら、しきりに笑う。「震災で、隣りの鐘楼が倒れましてね、この中にも火が回って半分ほど焼けましたから、ずいぶん様子は変わりました」。北さんは、にこにこしながらお堂の中を見回している。支那服を着ているから、ちょっと異様と言えば異様だが、こうしているところを見れば、誰が魔王だなんて思うだろう。「しかし、私が死んでも、君が死んでも、ニコライ堂は残ります。——私にはわかります。どんな災厄に遭っても、東京にはそのまま残って亡《ほろ》びない建物が二つだけあります。一つは、このニコライ堂です。もう一つはどこだか、わかりますか?」。「——わかりません」。「皇居です」。 「兄をご存じでしょうか。剣持正行といいます。でも、本人はマサツラと名乗ることもありました。小楠公《しようなんこう》が好きでしたから」 「少しだけ知っています。私にはマサユキだとおっしゃいました。はじめは、私の『支那革命外史』をお持ちになって、署名を求められました。横顔が『アンナ・カレーニナ』のジョン・ギルバートに似ていて、きれいでした。もう五、六年になるでしょうか。確か、九段の軍人会館で何かの会があったときです」  梓は、「アンナ・カレーニナ」も、ジョン・ギルバートも知らなかった。 「兄は、北さんのことを、好きだったのでしょうか?」  北さんは、口をすぼめて小さく笑った。 「私を好きという人は、まあいません。私は人に好かれるという人間ではないのです。でも、私の方から好きだと思うことはあります。たとえば、あなたのお兄さんがそうでした」  いつの間にか、梓を呼ぶ呼び方が、君から、あなたに変わっている。秋の日は大きく傾き、北さんの利休ねずみの支那服は宵闇《よいやみ》に溶けて、蒼白い北さんの顔だけが、梓の目の前の宙に滲《にじ》むように浮かんで見えた。二人は祭壇を正面に、数|米《メートル》離れて対している。 「好きということは、——北さんが兄を好きということは、どういうことでしょう」 「死んで欲しくなかった、ということです」  北さんの左頬が、ステンド・グラス越しの光の加減で、レモン色に染まっている。生きている方の目にさっきまであった暖かな微笑が、いまは消えて、北さんは何だか苦しそうだった。 「お兄さんは、そのころ、私なんかより、海軍の連中と親しくしていました。かなり危ない近づき方でした。三上君のところに出入りしていたのは知っていますか?」 「三上さんというのは、五・一五の三上さんでしょうか」 「そうです。三上君たち海軍と、陸軍がうまくいかなくなって、陸軍がみんな計画から手を引いた後も、士官ではお兄さんだけが残りました。私は、この人だけは死んで欲しくないと思いました」 「どうしてでしょう」 「好きだったからです。だから、未然にと考えて、軍の裏から手を回して、関東軍に転任させました。あなただって、おかしいと思ったでしょう。お兄さんが、いままで何の縁もない歩兵第七七聯隊なんかに、突然配属されたわけですから」 「歩兵第七七聯隊は、錦州《きんしゆう》作戦に備えて、山海関に派遣されました」 「知っています。その報《しら》せを聞いた前の晩、私は霊告を受けました。≪汝《なんじ》ニ宝玉授ク≫。天の、重い声でした」 「霊告——それが兄の死と、どんな関わりがあるのでしょう」 「——わかりません」 「おととしの元旦《がんたん》、山海関で小さな戦闘があり、兄は二十サンチ砲に直撃されました。一片の骨も、肉も残っていなかったといいます」 「知っています」 「五・一五では、一人の犠牲者も出ませんでした。三上さんも、古賀さんも、誰も死にませんでした。——死んだのは、兄一人でした。これは、身内の愚痴でしょうか」  北さんは黙った。梓も喋《しやべ》るのが辛《つら》くなって黙った。二人の声と、その反響がなくなってみると、夕闇のニコライ堂の沈黙は、ここから永劫《えいごう》につづくもののように、梓には思われた。何か、地虫が這《は》いずり回りながら鳴くような声が聞こえる。見ると、北さんの薄い唇がかすかに動いている。北さんの法華経だった。声は次第に高くなり、梓には、北さんの背後に居並ぶロシア正教の聖人たちが、一人また一人と、北さんのお経に和しはじめたように見えて掌《て》が冷たくなった。 「私が余計なことをしたから、お兄さんは死んだのかもしれません」 「そうかもしれません」 「それがあったから、私は、今日ここへきました」 「私は、今日まで何も知りませんでした。兄がそんなに深く、計画に関わっていたことも、どうして山海関へいったかも……」  話しながら、梓は北さんの声がやっぱりお経に聞こえた。梓はお経と対話していた。 「似ている」。お経が言った。 「誰がです?」 「あなたが、です」 「兄にでしょうか」 「違います。あなたたち兄弟は、そんなに似ていない」 「それなら、誰に似ているのでしょう」 「私が知っている、いや、知っていた支那のある人に、あなたはとてもよく似ているのです」 「何という方でしょう」 「たぶん、ご存じではないでしょう。宋教仁《そうきようじん》といいます」 「宋教仁? その方は、いまは……」 「いまは——幽霊になっています」  恐ろしい音が大伽藍の天井から二人の上に落ちてきて、漆喰《しつくい》の壁が、窓の色《いろ》玻璃《ガラス》が、聖母や使徒たちの聖画が、反響し合いながら震えた。ニコライ堂の夕べの鐘である。鐘はつづいていくつも鳴った。北さんは、元の柔和な顔に戻っていた。左の目は笑い、右の義眼は、表情などあるはずがないのに、どこか遠い、遠いところを見ているようだった。 ≪Nanohanabatake ni irihi usure……≫。さっき、菊ちゃんや桃ちゃんと歌っていた歌をローマ字日記に書いていたら、階段を昇ってくる凄《すご》い音がして、軍服姿の剣持さんが入ってきたと思ったら、ものも言わずに弓の前に仁王立ちになった。口を半分開け、ぜいぜいと荒い息をついている。軍人さんでも、怖いものを見ることがあるのだろうか。そんな怯《おび》えた顔だった。お七坂には、猫がたくさんいる。ということは、死んだ猫の霊だって、この辺にはたくさんいるわけだから、気をつけた方がいい。  弓がローマ字日記の帳面や鉛筆を片づけ、階下《した》へお酒を取りにいこうとしたら、剣持さんがいきなり弓の帯に手をかけ、その場へ突き飛ばし、押入を開けて自分で布団を敷きはじめた。こんな剣持さんを見るのは、はじめてである。後で、何でしょう、帝国軍人がと、からかってやろう。  弓の白い体を抱いて、その中に溺《おぼ》れようとしても、固く閉じた梓の目の奥からどうしても離れようとしないものがあった。離れないだけでなく、それは梓の網膜から弾《はじ》けて飛び、千々《ちぢ》に乱れた脳髄の中を目まぐるしく駈《か》け回った。氷のように冷え切っていながら、炎を上げて燃えさかる、それは一個の眼球だった。眼球が蒼《あお》い光を曳《ひ》きながら、不吉なハレー彗星《すいせい》のように、梓の思いを切り裂いて奔《はし》るのである。——いまから一時間前、宋教仁の幽霊の話には口を濁したまま、北さんは梓に歩み寄り、女のように小さな掌をさし出して握手を求めた。ふんわりと暖かい掌だった。「また会うこともあるでしょう。死んではいけませんよ。剣持閣下にとっても、あなたは残されたたった一人の息子さんなのですから。死なないと私に約束してくれるなら、面白いものを見せてあげましょう」。——そう言って握手の手をほどき、俯いて何かしていたと思ったら、突然北さんの掌《てのひら》の中に、コロリと眼球が一つ、転がっていた。「変なものです。自分でこうやって眺めても、変だと思います。蜻蛉《とんぼ》の目の方が、まだましです」。そして北さんは、右手の指で眼球を摘《つま》み、それを梓の目の前に突き出した。思わず梓は後ずさった。喜びもない、哀しみもない、白と黒に染め分けられた球体が、梓をじっと見ている。北さんの指が、器用に動いて眼球を反転させた。何かぼんやりした小さな人の像のようなものが、一瞬球面に見えて、消えた。北さんが、手品みたいに隠してしまったのである。 「何だと思います?」 「よくわかりませんでした」 「陛下です」。北さんの左目が、猫のように炯《ひか》る。 「陛下?」 「ほんの五ミリぐらいの、陛下の肖像です」。また北さんの目が、艶《なまめ》かしく炯った。 「陛下のお姿が、貼《は》りつけてあるのですか?」 「私は生きている左目で、曠野《こうや》を見ています。その代り、見えない右目で、陛下を真っすぐに見ているのです」  梓の体が燃える。押しひしがれた弓の顔が、梓の下で歪《ゆが》んでいる。今日の剣持さんはどうしたのだろう。こんな力で抱いてくれるのは嬉《うれ》しいけど、心配になってしまう。さっきから、弓の中に激しく押し入り、押し入っては引くたびに、口の中で変なことを呟《つぶや》いている。弓には、それが、ヘイカ、ヘイカと聞こえるのだ。ヘイカって何だろう。梓の呟きが忙《せわ》しくなり、体中の筋肉が弓を捉えて躍った。弓の口も、梓に合わせて震えて動く。やがて二人は、巨大な赤い渦巻に呑《の》まれるように、深い深いところへ落ちていきながら、声をかぎりに叫んだ。声を合わせて叫んだ。 「陛下!」 [#改ページ]    第三章 冬 の 鴉《からす》  陰間《かげま》の蝶次郎《ちようじろう》がハモニカを吹いている。隣りの「羽二重」も暇らしい。ここ白山|界隈《かいわい》の銘酒屋街も、近ごろは世間の景気並みに秋風が立って、鈴蘭燈《すずらんとう》に薄青い灯が入るころになっても、人通りが少ない。人通りがないからその代り出てくるわけでもなかろうが、そんな日暮れどきは、あちこちに猫たちの姿が目立つ。三、四匹連れで、銘酒屋の店先から店先へと覗《のぞ》いて歩く一群がいるかと思うと、哀れな門づけみたいに、もう灯を落とした碁会所の前で啼《な》きつづけている年とった牝猫《めすねこ》もいる。こうした夕景をぼんやり眺めていると、お七坂の猫たちは、このごろだんだん人間に似てきたように弓は思う。どこか自堕落で、投げやりで、あきらめが早くて、うら悲しくて、この辺の男や女にそっくりである。もしそうでないとしたら、北岩手からこの街に売られてきた十六の春から、この秋で四年、数えきれない男たちに抱かれて寝た夜を重ねた分、弓の気持ちの方が少しずつ猫に似てきたのかもしれない。あの猫たちみたいに、啼きたいような、踊りだしたいような、そんな侘《わび》しいお七坂の夕暮れである。 「花廼家《はなのや》」と「羽二重」の境の板塀の上にも、蝶次郎のハモニカに聞き入っている風流な猫たちがいる。菊ちゃんや桃ちゃんが、ふざけて蝶次郎と呼んでいる茶黒の野良《のら》と、片目の白の二人連れである。蝶次郎のハモニカは、去年あたりまで、「朧月夜《おぼろづきよ》」や、「故郷の廃家」のような文部省唱歌専門だったのが、このごろは≪宮田バンド≫とかの教則本を取り寄せて練習に励んだせいか、いくらかましになって、今夜は「小さな喫茶店」である。歌が好きな弓は、ハモニカに合わせて小さな声で歌ってみる。   小さな喫茶店に 入った時の二人は   お茶とお菓子を前にして   一言も喋《しやべ》らず   そばでラジオが 甘い歌を   優しく歌ってたが   二人はただ黙って   うつむいていたっけね  弓はそんなことをした憶《おぼ》え、一度だってない。岩手の村には喫茶店なんて一軒もなかったし、東京へ出てきてからだって、誰も連れていってくれない。昼間、ぶらぶら坂を下りて、春日町《かすがちよう》の交差点まで足を伸ばし、窓の色《いろ》玻璃《ガラス》がきれいな「プランタン」という喫茶店に入ってみたことは何度かあるが、その店には歌のように洒落《しやれ》た二人はいなかった。テーブルの上に、家の図面か何かを広げて相談していた男たちが、桃色の蹴出《けだ》しを裾《すそ》から覗かせた弓を、嫌な目でじろじろ見るので、せっかくの珈琲《コーヒー》もそこそこに出てきてしまった。軍服姿では恥ずかしいが、いつかのように和服を着た剣持さんとなら、小さな喫茶店に入ってみたいと、弓はふと思う。黙って俯《うつむ》いているのは、もともと剣持さんは上手だから、あとは弓が大人しくしていればいいわけである。今夜、お連れさんが帰って、二人きりになったら、頼んでみようと考えて、弓の胸の中は少しだけ暖かになった。  中庭を挟んで向うの廊下で弓が歌っている「小さな喫茶店」が、梓《あずさ》たちの奥座敷まで聞こえてくる。梓は、弓がいたってちっとも構わないと思うのだが、福井と左近充《さこんじゆう》が気にするので遠慮してもらっているが、その分、話が堅くなっていけない。ふだん聯隊《れんたい》の中で思うように話せない話題なので、二人はさっきから、まるで喧嘩《けんか》でもしているように、喚《わめ》き合っている。福井たちによると、梓たちの聯隊の所属している第一師団が、年明け早々、満州に派遣されるという噂《うわさ》があるらしく、その理由が、福井や左近充たちのような過激な隊付将校が第一師団には大勢いるからだという。——だから蹶起《けつき》は急がなければならない。しかし、時期|尚早《しようそう》論の北さんが何と言うか。そんなことを言っていたら、機会は永遠に失われる。五・一五のときのように、海軍に先を越されたら、また面目を失うだけではないか。——梓は、立って庭に面した障子を開ける。冬近い冷えた空気がゆっくり流れ込んできて、座敷に重く淀《よど》んだ酒と煙草《たばこ》の匂《にお》いを消していく。福井も左近充も、喋り疲れたのか、ほーっと長い溜息《ためいき》をついて黙る。ついいまし方まで、空中に幻を追っているように憑《つ》かれた目をしていた二人が、急に子供っぽい自信のない顔になって、それが梓にはたまらなく可愛《かわい》く見える。やっぱりこいつらには、——左近充はナポレオン・ボナパルトへの憧《あこが》れや、フランスの三色旗の由来について目を輝かせて話す方が、福井は仙台の名門の女学校へ通っている妹の器量自慢をしている方が、——国体論だの、治乱興亡だのと唾《つば》を飛ばすより、どんなに似合っていることだろう。二人を好きな梓は、それでも、もう決して止まらないだろう二人の、風に逆らって奔《はし》る姿を想《おも》って、胸が長い針で刺し貫かれたように、苦しかった。  弓が酒のお代りを持って入ってきたのをきっかけに、梓は福井たちに訊《き》いてみた。「宋教仁《そうきようじん》という男を知らないか?」。「ほう、剣持も少しは勉強したらしいな」。左近充が嬉《うれ》しそうに乗りだしてくる。「おまえたち、会ったことがあるのか?」。二人が大声で笑う。「残念ながら、俺たちは会ったことがない。宋教仁は、大正二年に上海《シヤンハイ》で暗殺された」。北さんが幽霊になったと言ったのは、そういうことだったのだ。「支那《しな》の辛亥《しんがい》革命で、北さんといっしょに弾丸の中を駈《か》け回った仲だ。言ってみれば、兄弟分だ」。左近充はなかなか詳しい。「どっちが兄貴分なんだろう」。「そりゃ、宋教仁の方だろう。理論家としてはともかく、革命の闘士としては格が違う。歳《とし》だって、確か北さんの方が一つか二つ下だったはずだ」。「どんな顔をしていたか、知っているか?」。「凄《すご》い美男だったらしいぞ。日本に亡命して早稲田へ行っているときなんか、学資を出したいっていう女が、順番待ちで行列してたらしい」。梓は、何だか胸がドキドキしてきた。そんな評判の美男に似ているなんて、北さんはあの日、梓をからかったのだろうか。「俺は羨《うらや》ましいよ」。福井が溜息まじりに言う。「北さんは、暗殺された宋教仁の遺体に取りすがって号泣したっていうじゃないか。あの、北さんがだぞ。いくら引き剥《は》がそうとしても、北さんは離れなかった。宋教仁の血塗《ちまみ》れの耳を掴《つか》んで、放そうとしなかった」。  宋教仁は、大正二年の三月、上海北停車場前の路上で、刺客に鋭い刃物で胸を刺されて死んだという。春霞《はるがすみ》の漂う石畳に俯《うつぶ》せに横たわっている宋の姿を、梓は想ってみた。雨に濡《ぬ》れた石畳の溝《みぞ》を、宋の胸から噴き出した血は、ゆっくりと流れていったのだろう。その流れは右に折れ、しばらく行ってまた右に曲がり、赤い運河のように上海北停車場の広場を彩《いろど》っていく。宋教仁の、生きていたときはあんなに綺麗《きれい》だった顔から、見る見る赤みが退《ひ》き、彼の体温はやがて顔の下の石よりも冷たくなる。——梓は小さく身震いした。北さんの笑わない左目は、もうこの世の、すべての重い、悲しいものを見てしまった目に違いない。  福井は菊ちゃんと、左近充は桃ちゃんと、向うの部屋で寝ている。酒に疲れた梓がラムネを飲みたいとわがままを言ったら、弓が、私もちょうど飲みたかったところだったと、坂の途中の酒屋を起こして買ってきてくれた。すぐに怒ったり喚いたり、手がつけられないと思うこともあるが、気持ちの優しい女である。しかし、やっぱり変わっていると言えば変わっている。たしかに余分に金を渡しはしたが、両方の袂《たもと》いっぱいラムネを買い込んできて、どうぞどうぞと、福井や左近充の寝ている部屋を配って回ったのである。いまごろ、向うの部屋では、男も女もゲップゲップしながら励んでいることだろう。 「花廼家」に梓が泊る夜は、約束していたように東北の窓に月が出る。けれど、その都度少しずつ色が違う。今夜の月は、夜更《よふ》けの渚《なぎさ》に打ち上げられた貝殻の紫である。梓は、子供のころ、両親と兄弟三人、揃《そろ》って行った片瀬《かたせ》の海を思い出す。——あれは、梓が学校へ上がった年の夏だから、兄の正行《まさゆき》が四年生、姉の遊子はまだ胸の薄い三年生だった。混雑した海を父が嫌うので、一家はいつも前の晩から江ノ島の旅館に泊り、日の出を待って泳ぎだすのだった。夜明けの海は清潔だったが、冷たかった。膝《ひざ》の辺りまで海に入って、梓と遊子は逃げ帰り、泳げない母が坐っている花茣蓙《はなござ》で毛布にくるまる。そのころ、父の甲四郎は昇りはじめた朝日に輝く海を、抜き手を切って、若い鯱《しやち》のように沖へ沖へと行くのだった。母の静子が、遠い目をして、波間に見え隠れする父の姿を追っている。早く大人になって、あの父のように沖へ泳いで行こう。勁《つよ》くなりたい。雄々しくなりたい。梓は、朝風にガタガタ震えながら思ったものである。——そのとき、唇を噛《か》んで沖を睨《にら》んでいた兄の正行が、毛布をかなぐり捨て、砂を蹴って波打際《なみうちぎわ》へ走った。遊子が金切り声を上げ、母も梓も、思わず立ち上がった。正行が倒れ込むように赤く染まった波に身を投げ、しばらく姿が見えなくなったと思ったら、次の瞬間、懸命に波に逆らって沖を目指す兄の小さな姿が梓の目に映った。遊子が叫びながら泣いていた。母が微笑《わら》いながら泣いていた。——梓は、生涯かかっても、兄に勝てないだろうと思った。  その兄の心を奪い、五・一五のクーデター計画に関わろうとするまで影響を与えた北一輝という人は、いったい何なのだろう。弓のラムネで一度|鎮《しず》まった梓の胸が、またザワザワと騒ぎはじめる。そう言う梓だって、ニコライ堂で北さんに会ってからというもの、あの人のことばかり考えている。笑わない左目と、絶望した右目の義眼のせいだけではない。振り返ると、いつも背後に、支那服を着た北さんが立っているような気がする。気味が悪いと言えば気味が悪いが、そればかりではない何かがある。恥ずかしさと言おうか。それとも、女々しいと思うくらいの、ときめきと言おうか。福井が、北さんと宋教仁の関係を羨んだのが、梓にはよくわかる。その宋によく似ていると言われたことを思うと、梓の胸は小さな嵐《あらし》に襲われたように乱れるのである。北さんは、死なないと約束しろと言った。しかし、それとおなじ言葉を、北さんは何年か前に、兄にも言ったはずである。そして北さんは軍に手を回して兄を関東軍に転出させ、赴任先の山海関で正行は死んだ。言わば、北さんに殺された。——梓は嫉妬《しつと》した。けれど、その兄は、もういない。梓は口惜《くや》しく考える。死んだ奴《やつ》には敵《かな》わない。  考えている梓を、弓は決して邪魔しない。いつも、そうだ。赤い布団《ふとん》に腹這《はらば》いになって煙草を吸い、ローマ字の本を読みながら待っている。ときどき振り向いて笑ってやれば、それで満足なのだ。それでいて、よく気がつく。さっきも、ふと襟元が寒くなって坐り直したら、黙って自分の茶羽織を投げて寄越《よこ》した。福井も左近充も、菊ちゃんと桃ちゃんと抱き合って眠ったことだろう。階下の帳場の時計が十二時を打っている。長閑《のどか》な音である。けれど、そんな時計の音だって、すぐ近くで聞けば耳に響いてびっくりする。帳場の時計の脇《わき》に掛かっている御真影の陛下は、さぞうるさいことだろう。  あの日、ニコライ堂の五時の鐘にも驚いた。ちょうど北さんが、義眼の裏に貼《は》りつけた陛下の肖像を、手品みたいに見せたときだったから、梓は季節はずれの雷が落ちたのかと思って、肝《きも》が冷えた。その大音声《だいおんじよう》の鐘の音の中で、北さんの唇がかすかに動き、梓に何か言ったように見えたが、あれは何を言ったのだろう。宋教仁の幽霊のことを話そうとしたのだろうか。そして、梓は、ほんとうに宋という男に似ているのだろうか。そんな話をちらとして、後は黙ってしまうなんて、女を口説く手口のようだと梓は思う。そんな手口に乗って、梓は女とも寝ないで、この秋の夜長を、北一輝や宋教仁について考えている。  左近充の話によると、北さんの「支那革命外史」には、北さんの宋教仁への熱い思いが、くどいくらいに書かれているという。——≪……長江《ちようこう》流れて濁波《だくは》海に入ること千万里、白鴎《はくおう》時に叫んで静寂死の如《ごと》し。断腸の身を欄に倚《よ》せて千古の愁《うれい》を包める浮雲を望み、天日の悲しむを仰ぐ。限りなき追憶は走馬燈の如く眼前に浮びては消えつつ——満州の馬賊運動より帰りし彼の始めて来訪せし七年前のこと。刑吏に追尾され、時に一飯の食を分ちし窮時のこと。悪女の深情に困惑せし滑稽《こつけい》のこと。武昌都督府の玻璃窓《はりまど》に震ふ砲声を聞きつつ宿志遂行の欣快《きんかい》に寝物語せし抱寝《だきね》のこと。砲弾落下の中を漕《こ》ぎて蒼白《そうはく》の顔を見合せながら弾丸は中《あた》らずと傲語《ごうご》せし若さのこと。同時声を合せて生きて居たかと相抱きし南京《ナンキン》城外の嬉しかりしこと。……≫。梓は聞いていて涙がこぼれそうになった。男は、男に対して、こんなにまでの気持ちになれるのだろうか。これは、血と涙で綴《つづ》られた恋文ではないか。——≪……横死の前日、議論を上下して相争ひし後悔のこと。白きベットに横《よこたわ》りし死顔のこと。……蹌踉《そうろう》として棺車を引きし思ひ無量の長途なりしこと。霊前に別《わかれ》を告げんとして至るや、讐《しゆう》を報ずるの日を待てと思ふと共にハラハラと落涙せし昨日のこと。……≫。——胸が痛くなった。まだ見たこともない上海の街が、娼家《しようか》の天井のスクリーンにぼやけて映る。赤煉瓦《あかれんが》造りの塀に沿って、夜霧の中を男が二人、手を取り合ったまま走っている。闇《やみ》の中でも炯《ひか》る眼を持った支那の若者と、隻眼《せきがん》の日本の青年である。二人とも、鋭く痩《や》せて美しい。——突然、石造りの建物の二階の窓が開き、その窓から青い機銃の火が二人を追って奔る。すると、まるでその音に誘われたように、グレイの空から雪片が一つ、二つと落ちてきて、やがてその白は空いっぱいを覆《おお》い、折から吹き寄せてきた東支那海の風に煽《あお》られて舞い狂い、二人の美しい青年の姿を掻《か》き消していくのだった。——梓がはじめて見る、革命の美しい光景だった。梓の目には、北さんに寄り添ってしなやかに走る宋教仁の顔に鮮やかに青い閃光《せんこう》が走り、その顔が一瞬兄の正行に変わったと思ったら、次の瞬間、降りしきる雪の群れに溶けて消え、こんどは梓自身の顔になって、隻眼の北さんと手を取り合うように、灰色の支那の空に舞い上がるのを見た。北さんも、梓も、春三月、綻《ほころ》びかけた迎春花《インチユンホア》みたいに微笑っていた。これからいっしょに死ににいくように、幸福に微笑っていた。そして梓は、熱く思った。——北さんに、もう一度会おう。  左近充の「ラ・マルセイエーズ」で目が覚めた。フランス語で歌っている。隊で聯隊歌なんかを歌うときは荒っぽい胴間声《どうまごえ》なのに、今朝はシャリアピンばりのよく響くバスである。しかし、変な男だ。女郎屋まがいの銘酒屋の二階で、恥ずかしげもなく窓をいっぱいに開け、朝日に向って胸を張り、腰に手を当ててフランス国歌を歌っている。これで帝国軍人である。もう一人の福井にしたって似たり寄ったりである。六尺近い大男が、紅葉《もみじ》を散らした菊ちゃんの茶羽織を引っかけて、顔を洗った手ぬぐいをそのまま頬かむりにした姿で、芸のない幇間《たいこもち》みたいに、ひょいひょいと廊下を飛んでくる。これが陸軍|中尉《ちゆうい》である。そういう梓だって大きなことは言えない。さっき、何の気なしに弓の姫鏡台を覗《のぞ》いたら、右の頬から首筋にかけて、長い蚯蚓腫《みみずば》れが走っていた。ゆうべ、弓という可愛い猫が、夢中になって引っ掻いた痕《あと》に違いない。  普通なら、各々敵娼《おのおのあいかた》の部屋で食べるものだが、どうせみんなお友だちだからというので、昨夜の座敷に勢揃《せいぞろ》いして朝ごはんということになる。むろん、発案者は弓である。梓たち男三人に、女が弓に菊ちゃん、桃ちゃん、それに楽ちゃんに鳳仙花《ほうせんか》に女将《おかみ》のおゆうが加わって、総勢九人のちょっとした宴会である。さすがに亭主の喜久造は、廊下から覗いただけで逃げていった。女たちは、いつもの朝は台所の脇の板敷きで車座になって食べているらしいが、こんなところの朝ごはんは粗末なものである。お菜《かず》といったところで、菜っ葉と蕪《かぶ》の味噌汁《みそしる》に大根おろし、それに白菜の塩漬だけである。梓たち客には、丸干しの鰯《いわし》が二匹ずつついているが、楽ちゃんたちが羨ましそうに横目で眺めて落ち着かないので、みんなで目配せして提供したら、女たちが、ほんとうに嬉しそうに声を上げた。  明るい晩秋の日差しが、しまい忘れた軒先の簾《すだれ》越しに射《さ》し込む気持ちのいい朝である。もう一度二階へ上がって寝直したいくらい暖かで、長閑で、あと一月《ひとつき》もすると正月がやってくるなんて、とても思えない。それに、今日は日曜日で、今夜の当直将校の左近充だけは夕方までに麻布の聯隊へ戻らなくてはならないが、梓と福井は一日何もすることがない。父の甲四郎は、そろそろ陸大の受験勉強をはじめたらどうかと言うが、梓には、自分が晴れがましい天保銭《てんぽうせん》を胸につけている姿が、どうしてか思い浮かばないのである。なんだかそれまで生きていないような気がすると、冗談まじりに父に言ったら、途端に父の目が泳いで揺れた。悪いことを言ってしまった。北さんがニコライ堂で梓の耳に囁《ささや》いたように、父にとっては、正行が戦死したいま、自分の血を継ぐ男の子は、梓一人しかいなくなってしまったのである。別にそのことが重荷というわけではないが、父というものは、なぜそれほどに自分の血が流れて行く先が気になるのだろう。自分が死んだあとも、子や孫の血の中に潜《ひそ》んで、その魂魄《こんぱく》は生きつづけるとでも、ほんとうに思っているのだろうか。  甲四郎は、いまでも兄の正行に嫁を取って後継ぎの男の子を作っておかなかったことを悔やんでいる。さすがに梓の前では、そんな未練を口にすることはなくなったが、母の静子に長々と愚痴っているのを、梓はたまたま風呂《ふろ》上がりの廊下で聞いてしまったことがある。こんなことになるのなら、あのとき斎藤のところへ頭を下げにいけばよかった、という父の低い呟《つぶや》きから少し間があって、母の溜息が短く洩《も》れ、それっきり夜更けの茶の間は静かになった。斎藤というのは、甲四郎とおなじ、いまは退役の斎藤|瀏《りゆう》少将のことである。若い将校たちを分け隔てなく可愛がる上に、佐佐木信綱門下の歌人で、ものの哀れを解するというので、兄たちは、何かといってはお宅を訪ね、ご馳走《ちそう》になっていたという。その斎藤家に、史《ふみ》さんという、正行とおなじ年ごろのお嬢さんがいて、もてなしてくれるのも、兄たちには密《ひそ》かな楽しみだったらしく、梓も史さんが明るく賢い娘さんだという噂《うわさ》を何度か耳にしたことがある。もしかしたら、兄は史さんのことを好きだったのかもしれない。史さんも、父君の血を継いで、少女のころから激しく美しい歌を詠《よ》んでいたというから、そんな辺りにも正行は惹《ひ》かれたのかもしれない。二人の仲がどうのというところまでは聞いていなかったが、父と母の、あの夜の会話からすると、五・一五の少し後ぐらいに、そんな話があってもおかしくはなかった。あのころ、兄は虚《うつ》ろな目をしていた。その虚ろな兄を何とかしてやりたいという血の願いが、父にはあった。父の甲四郎と、斎藤少将とは、たしか陸大で同期だったはずである。  父は、梓の結婚については、何も言わない。姉の遊子のことがあるからである。気が触れた娘がいては、嫁取りができないと諦《あきら》めているわけではあるまいが、可哀相《かわいそう》に、自分からは言い出せないでいる。たぶん、母もおなじ気持ちなのだろう。おまえも、明けて六だねえと、このごろ思い出したように言うのも、来年兄が死んだ歳になるという意味にも取れるが、梓には、もうそろそろと母が言っているように聞こえてならないのである。けれど梓には、そんな気持ちなんかどこにもない。女は弓がいればたくさんである。それでも、いまに父や母があんまりうるさく言うようだったら、ある日、弓に花嫁|衣裳《いしよう》を着せて、阿佐ケ谷の家に連れていってやろうかと思う。二人はどんなにびっくりすることだろう。そして、素性を知ったら、腰を抜かすどころか、卒倒してしまうに違いない。しかし、卒倒する前に、父も母も、弓があんまりきれいなので、溜息《ためいき》をつくに決まっている。そんな光景を想《おも》って、梓は思わず声を立てて笑った。 「嫌あねえ、剣持さん、思い出し笑いなんかして。ゆうべの弓ちゃん、そんなに良かったの?」。菊ちゃんだけでなく、福井も左近充も女将も、満座が梓を見て笑っている。どの顔にも屈託がなくて、なんだかずっといっしょに暮らしている家族のようだ。少なくとも、阿佐ケ谷の剣持の家の朝よりは、ずっと明るい。いちばん明るい声で笑っているのが、弓である。自分のことを言われているのに、「あらまあ、赤くなっちゃって」などと、丸干しの鰯を直《じか》に手に持ったまま、梓を指差して笑い転げている。「あらまあ」は弓の口癖である。岩手から出てきて、東京の娘たちが「あらまあ」とさり気なく言うのが羨《うらや》ましくて、はじめは口の中で、そのうち声に出して練習しているうちに、もう治らない癖になってしまった。桜が咲いても「あらまあ」である。一夜の風に花が散り、硝子《ガラス》戸を一枚開けて寝た部屋の中が、花びらでいっぱいになっていても「あらまあ」である。この分では、ある朝、梓が死んだと聞いても、「あらまあ」で終わりそうである。  女将のおゆうは、いい歳をして福井がお気に入りらしい。歳はいくつだ、生れはどこだと、しきりと詮索《せんさく》したがる。福井も、適当にあしらえばいいものを、「仙台は東八番丁の生れで、仙台陸軍幼年学校から陸士四十五期、剣持中尉と同期であります」と律儀《りちぎ》に答えている。今朝方、菊ちゃんに上に乗っかられて、梓たちの部屋まで聞こえるくらいワァワァ喚いていた奴《やつ》とは、とても思えない。左近充は、辛抱強くゆうべの敵娼の桃ちゃんに「ラ・マルセイエーズ」を教えている。けれど、この桃ちゃんというのが、可愛《かわい》らしい顔をしているくせに桁外《けたはず》れの音痴で、せっかくのフランス革命歌が「もういくつ寝るとお正月」に聞こえる。弓の方が先に憶《おぼ》えてしまって、左近充に合わせてきれいに歌う。その横顔が簾越しの朝日に映えて、思いつめた男の子みたいに凜々《りり》しい。オルレアンのジャンヌ・ダルクに似ていると言ったら、福井や左近充に笑われるだろうか。  楽ちゃんは、この三月《みつき》ほどのうちにずいぶん痩せた。自分では何ともないと言い張るが、誰が見たってどこかおかしいに違いない。こういうところの女は、花柳病の方は怖がって、第一、第三木曜の検診にもすすんでいくが、その他のことでは、なかなか病院へいこうとしないし、周りも何も言わない。商売道具は明日の暮らしに関わるが、何年先の命なんかそれぞれの勝手で、余計なお世話というわけである。もし楽ちゃんの元気のなさが、肺のせいだとしたら、これは騒ぎになるのだが、いまのところ楽ちゃんは咳《せき》もしないし、熱も出ない。弓に言わせれば、腸が腐っているのだという。息に嫌な匂《にお》いがするらしい。客がつかないのもそのせいで、この秋のはじめごろ、それまで二、三度、楽ちゃんを名指しで上がったことのある、蝮《まむし》の粉の行商をやっている男が久しぶりにやってきて、二人で部屋へ入って、ものの十分もしないうちに、男が、あの女は焼き場の匂いがするとブツブツ言いながら、荷物をまとめて出ていったことがあった。楽ちゃんは、階段の上までは追って出たが、そこにペタンと横坐り、アハハアハハと笑っていた。  それからというもの、楽ちゃんは変に明るくなった。天気のいい日は、隣りの「羽二重」の蝶次郎と、表で裾《すそ》をからげてゴム跳びをしたり、みんなが滅入《めい》っている長雨《ながあめ》の午後には、急に思い立ったみたいに赤い襷《たすき》をかけ、真っ白の手拭《てぬぐ》いを姐《あね》さまかぶりにして「花廼家《はなのや》」中の掃除を一人ではじめたりするのだった。その間中、楽ちゃんは「十九の春」に「国境の町」、「無情の夢」に「むらさき小唄《こうた》」、知ってる歌を端から歌い、歌の合間は、ただアハハアハハと笑っていたという。  弓は、楽ちゃんの「むらさき小唄」にちょっと泣いたと、梓に言ったことがある。それから、あの人は死ぬかもしれないとポツンと言って、物凄《ものすご》い力で梓に縋《すが》りついた。   嘘《うそ》か真《まこと》か 偽《にせ》むらさきか   男心を 誰か知る   散るも散らすも 人の世の   命さびしや 薄|牡丹《ぼたん》  鳳仙花がいちばん早く食べ終えて、自分の茶碗《ちやわん》や箸《はし》を重ねて台所へ立っていく。笑っているのを見たことがないのは、この子だけである。釜山《プサン》の西にある馬山《マサン》という町の生れだというが、ほかのことは何にも言わないし、誰も訊こうともしない。笑わないというだけで、そんなに暗いわけでもないし、不都合があるわけでもない。「花廼家」へきて五年近くになるが、日本語も達者だし、客の選り好みなんかしないでよく働く。おまえたち日本の娘より気性もいい、行儀もいいと、おゆうの覚えはいちばんいい。おゆうに逆らったと言えば、源氏名《げんじな》の一件だけで、この店に荷物を解いた日に、撫子《なでしこ》という女将の取っておきの名前を薦《すす》めたら、頑固《がんこ》に首を振って、どうしても鳳仙花にしたいと頭を下げつづけたという。朝鮮にいたことのある千里眼の花輪さんに後で訊いたら、鳳仙花は、日本の桜とおなじ、お国の花らしい。 「花廼家」の可笑《おか》しな朝ごはんも終わりである。福井は、このまま夕方までいつづけるという。左近充は、ちょうど近くの本郷座で「商船テナシチー」をやっているから、それを観《み》て一旦《いつたん》家へ帰り、着替えて当直にいく。左近充の大好きなフランス映画である。幼年学校は熊本だが、そこの第二外国語で、左近充はフランス語を選択した。子供のころからフランス贔屓《びいき》だったので、それだけでは物足りず、予科士官学校に入って東京へ出てきてからも、休みの日は御茶ノ水のアテネ・フランセへ通って勉強したというから相当なものである。映画の会話も半分ぐらいはわかるらしい。アルベール・プレジャンがいいからいっしょにいこうと梓を誘うが、梓は外国映画が苦手である。アルベールなんとかだって知らない。フランス映画を観ながらいびきをかくよりは、浅草の寄席《よせ》で、花輪の千里眼と、もう一人の塙《はなわ》の百面相を見物した方がまだましである。  梓たちが席を立って二階へ戻ろうとしたら、玄関の戸が細目に開き、内側に取り込んだ浅葱色《あさぎいろ》の暖簾《のれん》をくぐって、鼠色《ねずみいろ》の工員服のようなものを着た痩せた小男が入ってきた。「ホウシェンカハ、オリマスデスカ?」。低くよく通る声だが、言葉がちょっとおかしい。「日本人じゃないな」と福井が梓の耳に囁《ささや》く。「はいはい」と気軽に立って、弓が玄関へ出ようとするのを押しのけるように、女が一人、緋色《ひいろ》の長襦袢《ながじゆばん》の裾を蹴立《けた》てて廊下を飛び出していった。笑わない鳳仙花である。早口にまくし立てるように鳳仙花が男に何か言い、吃《ども》りがちに男が低く答えている。耳馴《みみな》れない言葉である。「見たか?」。福井の目が光っている。「何を」。梓が福井の蔭《かげ》から背伸びすると、ちょうど鳳仙花が鼠色の男の手を引いて、階段を昇るところだった。「頸《くび》と、手の甲に、血が付いていた」。そこへおゆうが台所から戻って、「どうしたんだい?」。「こんな早くから、お客さんですよ。さすが働き者の鳳仙花さん、あたしたちも見倣《みなら》わなくっちゃ」。ちょっとわざとらしいところはあるが、こんなときの弓の間《ま》は恐ろしくいい。女将はいくつもうなずいて、機嫌よく帳場へ入る。「あらまあ、どうしちゃったんです? 軍人さんたち。そんな狭いところに、みんなで突っ立って」。弓の青空みたいに明るい声が、白山上の娼家の隅々にまで響くようだった。  十一月も終わりだというのに、日差しが強く、左近充はせっかく新しく誂《あつら》えた、明るい藍色《あいいろ》のインバネスを、手に持って歩かなければならなかった。梓も襟巻を懐《ふところ》にしまった。暇そうな猫が二、三匹、後になり先になり、梓たちに尾《つ》いてくる、長閑な秋のお七坂である。「階段を昇るとき、見たか?」。左近充も、あの二人にこだわっている。「男の手の、血か?」「いや、鳳仙花だ」「鳳仙花?」「あの女、笑ってた」。左近充の横顔が優しい。目が笑っている。「しかし、さっきあの女の部屋の前を通ったら、二人で泣いていた」。左近充の声が、少し曇る。「あいつら、何だろう」。 「商船テナシチー」がはじまるまでに、まだ時間があるというので、二人で坂下の円乗寺に寄る。何の変哲もないお寺だが、境内の西の隅に八百屋お七の墓がある。ほんとうかどうか怪しいものだが、昔からそういうことになっているらしく、墓前にはおもちゃの纏《まとい》や、お七の好物だったという酒饅頭《さかまんじゆう》が供えられ、供養《くよう》の線香の煙が絶えない。歳月に黒ずんだ墓石の上には、銀杏《いちよう》の樹《き》が二本、お七を抱きかかえるように枝を広げ、季節の最後の残り葉をゆっくりと降らせている。 「北さんに逢《あ》っているそうだな」。黄色い銀杏の葉を指先でクルクル回しながら、左近充が何の前触れもなく言ったので、梓はびっくりした。「誰に聞いた?」「福井だ」「福井は、誰から聞いた?」「それは、知らん」。木洩れ日はチラチラ降っているが、樹木が多い円乗寺の境内は表通りより涼しく、左近充は藍色のインバネスを羽織る。「羨《うらや》ましいよ」。梓を見て小さく笑う。「こんど、俺たちも連れていってくれ」。梓は妙に狼狽《うろた》えた。「俺は、そういう意味で逢ったのではない。死んだ兄貴のことで、ちょっと訊きたいことがあっただけで、お前たちの、そういうのとは違う」「しかし、ゆうべお前は、宋教仁のことを俺たちに訊いたじゃないか。お前が北さんから宋教仁の話を聞いているということは、二人は、革命の話をしていることになる。それなら、俺たちが考えていることとおなじだ」「お前や、福井たちは、革命を考えているのか」「まあ、そうだ」。左近充は、ちっとも怒っているようには見えなかった。梓を非難している風でもなかった。革命という言葉も、とても穏やかに言った。「こんど、いつ北さんに逢うんだ?」「いや、別に予定はない。もう逢わないかもしれない」。梓は嘘をついた。梓は、今日帰って、北さんに手紙を書こうと思っていた。「俺は、お前や福井のように、北さんを尊敬しているわけではない。だいたい、俺には北さんという人がよくわからん。どういうことをしてきた人なのかも知らないし、あの顔で何を考えているのかも、さっぱり見当がつかない。ただ……」「ただ?」「ただ——辛亥革命というのは面白そうだと思った。あれは、いったい何だ?」「なんだ、剣持、お前、辛亥革命も知らないで、北さんと話しているのか!」  さすが北さんに傾倒しているだけあって、左近充は支那の政変や、北さんのそれとの関わりについては驚くほど詳しかった。三百年も専制政治をつづけた清《しん》朝を倒して、民主共和の国を造ろうとした宋教仁たち革命分子は、今世紀のはじめごろ、革命の口火は切ったものの運動は思うように展開できず、各地の戦いで敗れた宋たちは明治三十七年に東京へ亡命してきたという。北さんと宋教仁が知り合ったのは、このときである。梓はそのころ、まだ生れてもいない。その後、孫逸仙《そんいつせん》がやはり亡命していたヨーロッパから東京へやってきて、ほとんどの革命運動家が東京に集結したのを機に、黒竜会の内田良平や北さんたち日本の同志が彼らに手を貸して、≪中国革命同盟会≫という統合組織を作ることになった。日本人だったが、北さんも正規のメンバーだった。そのころ、「国体論及び純正社会主義」という著書を発禁にされていた北さんは、自分の国の改造にほんとうのところは絶望していたのだろう。夢を隣国の革命に託す気持ちになっていったに違いない。そこには、だんだん私的にも親しくなった宋の影響も強かったのだと思う。北さんは、宋の下宿の世話もしたし、早稲田の聴講生になる宋のために手続きに奔走もした。貧しい一つ部屋に暮らしたこともあったという。梓が妬《ねた》ましく思うくらいの二人の男の友情は、この東京時代に、まるで二つの色を持ちながら、その萼《がく》の部分で緊密に結び合った二弁の花のように、香り咲いたのである。梓は、左近充から聞いた、「支那革命外史」の中に記された宋への弔詞を思い出していた。過ぎた日々のあれこれを、一つ一つ手に取っては愛撫《あいぶ》するような北さんのあの文章は、艶《なまめ》かしい麝香《じやこう》の香りを焚《た》き籠《こ》めた、紅色の艶書《えんしよ》のようではないか。  やがて、東京からの指導によって、中国本土のあちこちに革命の火が起こり、機は熟した。宋教仁たちは急いで帰国して戦いに身を投じ、北さんも彼を追って上海へ渡った。よその国の政治革命に、日本人が銃を執《と》って参加したのである。宋と北さんは合流し、共に砲火の下をくぐり、共に絶体絶命の危機に陥り、幾度も運よくそこから逃れ、革命は成就《じようじゆ》した。二人はどんなに嬉《うれ》しかっただろう。北さんの生涯の幸福は、そのときに終わったのではなかろうかと、梓はふと考える。城廓《じようかく》の頂に翻る革命の旗を、男が二人、手を結び合って見上げる——それに勝る幸福が、この世にあるはずがない。——明治四十四年、辛亥《しんがい》の年、それは梓が生れた年でもあった。  革命の成就の後には、悲しい仲間割れがはじまる。歴史の中では、よくあることだ。宋教仁は、同志だったはずの袁世凱《えんせいがい》が送った刺客に胸を刺され、春三月の上海北停車場の冷たい石畳に、死体になって転がっていた。逆上した北さんは、袁だけでなく、その背後に糸を引く者として、孫逸仙、つまり孫文までも激しく指弾した。宋教仁が邪魔だった革命政府にとっては、異国人の北さんは、もっと邪魔だった。宋の柩《ひつぎ》を担《かつ》いだのだから、もういいだろう。国へ帰って、できるものなら、自分の国の革命をやればいい。——宋の死から三月《みつき》、大陸の季節は、晩春から初夏に変わろうとしていた。三年間の国外退去命令の出た北さんは、追われるように上海から船に乗った。船の上で、北さんは一度も振り返ろうとしなかったという。少年の日、佐渡の島で遠く想いを馳《は》せた幻の支那大陸は、もう一度、手の届かない幻になろうとしていた。  銀杏の葉越しに降りかかる木洩《こも》れ日の仄揺《ほのゆ》れの中、左近充の目がキラキラ輝いている。北さんと、革命のことを想っているからだろう。こいつの、こんなにきれいな顔は、見たことがない。これほどきれいな顔をしているからには、この先そんなに長生きするはずがない。——梓は、また妙なことを考える。左近充が、あれほど憧れているフランスを見ることは、たぶんないだろう。決して見ることがないから、フランスは左近充の目に美しいのだ。その国が、千里眼でも届かないくらい遠いから、左近充はよく響く声でフランス国歌を歌うのだ。——お七の墓の脇《わき》にうずくまり、梢《こずえ》で啼《な》く野鳩《のばと》の声を聞きながら遠くを見ている左近充の、子供みたいな姿を見ていると、後ろから力いっぱい抱き締めてやりたくなる。  ローマ字日記を広げてはみるのだが、何をどう書いていいのかわからない。とにかく剣持さんのことを書きたいのだが、気持ちがまとまらない。いちばん書きたいのは、剣持さんとしたあと、後始末をしたくない気持ちのことだ。あの人の体の中から、飛び上がるくらい熱いものが弓の中に流れ込んでくるのを感じるのも嬉しいが、それをそのままお腹《なか》で抱いていたいと思ったのは、剣持さんがはじめてだ。それも、つい最近のことである。でも、それでは商売にならなくなるから、そのまま剣持さんにくっついて眠ってしまいたい気持ちを、無理に自分で叩《たた》き起こして立ち上がると、弓の体の奥から出口に向って、あの人のものがツツーと流れて落ちるのがわかって、とても悲しい。いま、剣持さんが死んでいくと、変なことを考えてしまうのだ。でも、そんなこと、難し過ぎて、とてもローマ字なんかで書けやしない。  もう一つ不思議なのは、剣持さんの顔を見ていると、あの人のお母さんに会ってみたいと思う気持ちだ。このごろでは、離れていて情が薄くなったのか、岩手の母親に会いたいなどとは、ちっとも思わなくなってしまったというのに、これはどうしたことだろう。でもよく考えてみると、会って話したいとか、そういうのではないから、正しくは見てみたいのだと思う。たとえば、剣持さんがちょっと甘えた顔で、お母さんといっしょにいるところを、弓は見たいと思う。お母さんに、「梓さん」と呼ばれて、振り返ると、お母さんがお八つをお盆に載せて立っている——そんな他愛のない二人を見たいのである。別に、あの人にとって特別な人になりたいなんて、弓は思っちゃいない。そんなこと、冗談にだって考えたことはない。だから、不思議なのだ。わからないのだ。  小田嶋《おだじま》先生が、怠けてはいけない、日記は毎日書くから日記なのだと言うから、何か書かなくてはならない。いまに世の中、みんなローマ字を使うようになるかもしれないのだ。岩手の出では|啄木《たくぼく》とおなじくらい有名な、田中館愛橘《たなかだてあいきつ》博士という偉い学者が、そう言ったらしい。剣持さんだって、あんな愛想のない顔をしているけれど、英語もドイツ語も読めるというのだから、弓もローマ字ぐらいは自由に書けるようになりたい。剣持さんは、もうお母さんの家へ着いただろうか——ぼんやりそんなことを考えながら、弓は、死んだてふ姉さんが好きだった童謡を、ローマ字で書いてみた。  Amehuri otukisan kumo no kage,  Oyome ni yuku tokya dare to yuku?  Hitori de karakasa sasite yuku.……  筋向いの鳳仙花の部屋から洩れてくる泣き声が伝染《うつ》ったのか、弓は、帳面に綴《つづ》った外国の文字が、涙に曇って見えなくなった。  お七坂の下で左近充と別れた梓が、少し遠回りして靖国《やすくに》神社を参拝し、飯田橋の「白十字《はくじゆうじ》」で母と遊子にケーキを買って省線に乗り、阿佐ケ谷の家に着いたら、それでもまだ三時前だった。父は外出しているらしく、縁側で母と遊子が、正行の古いセーターを向い合って解《ほど》いている。姉の遊子は、セーターの腰から胸へ、毛糸が見る見る解けていくのが面白くてならないらしく、ひよこみたいに声を上げて笑っている。このごろは慣れてしまって、そんな姉の姿を、梓はあまり不憫《ふびん》だと思わなくなっていた。これはこれで、閑雅な晩秋の風景ではないか。そう思って見れば、母も幸せに見えなくもない。小鬢《こびん》の辺りに目立ちはじめた細い白髪《しらが》が夕風にそよぐのも、年齢《とし》に似合った風情《ふぜい》だし、胸の中にポッカリと空洞が開いてしまった娘を見る目の色にも、以前のようなささくれ立った悲しみが影を潜め、代って春の水のような安らぎが漂いはじめたようである。家族というものは、暖かな日には暖かな、寒い日には寒いなりの、ほんの一摘《ひとつま》みの幸福を見つけようとするものらしい。  その夜遅く、梓は二階の自分の部屋で、北さんに短い手紙を書いた。≪北さんの石みたいに冷たい義眼の裏の、陛下のお姿をもう一度見せてください。用件はそれだけです≫。北さんは、きっときてくれる。≪北さんに尾行がついていることは、知っています。でも私のことなら、気にしないでください。今日、私も、白山下のお寺で、どこかから私を見つめている目を感じました≫、と書こうとして、梓はやめた。梓が生れるずっと前から、血染めの革衣《かわごろも》を靡《なび》かせて弾雨の中をくぐっていた北さんに、そんなこと、恥ずかしくてとても書けない。  ついさっきまで聞こえていた遊子のピアノが、いつの間にか止《や》んで、杉並のこの町に鳴っているのは、雨もよいの風の音だけである。菊ちゃんのおかげで寝不足の福井は、もう眠っているだろうか。今夜当直の左近充は、いつものように下士官たちを自分の部屋に集めて、尊皇|討奸《とうかん》を説いているのだろう。陸士からいまの歩兵一|聯隊《れんたい》まで、ずっといっしょだったせいもあるが、二人ともいい奴である。——習志野《ならしの》で定例の大演習があったおととしの秋、日の暮れから降りだした豪雨の中で、梓たちは土砂の流れる壕《ごう》の底にうずくまって夜戦の終わりを待っていた。時折、南の森の方角で機銃音が聞こえるだけで、虫の音《ね》がすだく静かな夜である。三日間の疲労で、兵たちはびしょ濡《ぬ》れのまま死んだようにうなだれている。梓の右に左近充、左にぼんやり口を開けた福井、みんな寒さに震えていた。その震えが、互いに触れ合った二人の膝《ひざ》から梓に伝わってくる。なんだか福井から梓へ、梓から左近充へと、一つの血が静かに流れていくようだ。そのうち梓は可笑《おか》しくなった。三人の呼吸までが揃っているのである。いつかはこいつらと別れていかなければならないと思うと、梓の胸は重く痛んだ。そのとき、習志野の夜に休戦|喇叭《らつぱ》が鳴り渡り、最後の曳光弾《えいこうだん》が雨の夜空を過《よぎ》って、梓たちの泥だらけの顔を束《つか》の間《ま》照らして消えた。あいつらは、いい顔をしていた。——あいつらのためなら、蛆《うじ》の湧《わ》いた傷口に口をつけて、膿《うみ》を吸い出してやってもいいと、梓は思う。あいつらが弓を一度抱かせろと言うのなら、喜んで抱かせよう。弓だっていい奴だから、一生懸命あいつらを喜ばせようとしてくれるだろう。——「あらまあ」の弓は、何をしているだろう。  弓は、千里眼の花輪に抱かれていた。十日ぶりの花輪は元気がよくて、まだ一時間も経《た》っていないのに、二度目である。今日の花輪は、珍しく仲間を一人連れてきた。その連れの名が、おなじ塙だというから笑ってしまう。なんでも、軍隊で三年ほどいっしょに暮らした仲らしい。この塙というのが変わった男で、暖簾《のれん》を分けて入ってきたときは、顔も長くて、顎《あご》も長くて、相撲の男女《みな》ノ川《がわ》みたいだったのが、しばらくして、店先でお茶を飲んでいるのをひょいと見たら、これがロッパそっくりの太った丸顔になっていたので、弓はびっくりして腰が抜けそうになった。花輪とおなじ寄席に出ている百面相の芸人らしいが、女を買いにきたついでに妙な芸をしてみせるなんて、人騒がせな男である。可哀相に、敵娼《あいかた》になった桃ちゃんは、気味悪がって震えていた。女を喜ばせようと思ってふざけているのだろうが、この男のは念が入っていて、桃ちゃんの手を引いて階段を上がっていくのを見たら、高勢実乗《たかせみのる》のアノネオッサンの顔になっていた。  二度目の花輪が終わりそうになっている。この人のいつもの癖で、口の中で何やらブツブツ、忙《せわ》しく称《とな》えはじめたら、もうそろそろなのである。お客の最後を気持ちよくいかせるのが女の務めだと思っているから、弓は足を絡《から》め、腰をうねらせ、男の尻《しり》を引きつけて、真っ赤な山の頂上へ花輪を誘い上げていった。花輪が顎を突き上げ、白目を剥《む》いて一気に登りつめようとしている。私の中で、この人はこんなにいい気持ちになっている。そう思ったら、弓は涙が出そうに嬉しくなり、そのうち目の前が桃色に染まって、わけがわからなくなった。弓の上で、灼《や》けた砂に打ち上げられた魚みたいに跳びはねている男の体が、ゆうべの梓のように思われたのである。だから弓は、花輪の耳にかじりつき、声を殺して激しく囁《ささや》いた。——「陛下!」。  途端に、花輪が弓の体を投げだすように飛び上がり、湯気の立った真っ裸のまま、直立不動の姿勢で弓に向って挙手の礼をした。——変な人だ。  北さんは、どうして義眼の裏に陛下の肖像を貼りつけているのだろう。西洋人は、よく頸《くび》に下げたロケットに恋しい人の写真を忍ばせているというが、眼窩《がんか》の中というのは、そんな甘い気持ちではない。朝から晩まで、陛下を、目の裏の生暖かい肉で濡らし、涙で浸し、自分も硬質のフィルムで傷ついているのだ。北さんには、ほんとうに陛下の姿が、すぐそこに見えるに違いない。五歳のころから大内山の森に憧《あこが》れ、金木犀《きんもくせい》の香りにむせながら陛下を慕ってきた梓も、鋭い肉の痛みを堪《こら》えながら陛下を凝視する北さんには、どう逆立ちしたって敵《かな》わない。北さんは、陛下に迫っている。ひるみそうになる魂と体を、立て直し立て直し、それでも迫りつづけている。あまりの執拗《しつよう》さに、もし陛下がお怒りになったとしたら、北さんは却《かえ》って嬉しいのかもしれない。もっと言えば、北さんは陛下に、わざと逆らい、女のように拗《す》ねて見せ、それでも自分を見てくださいと叫んでいるのだ。梓は、北さんの「日本改造法案大綱」というのは、北さんの目が流した血で書かれた、凄惨《せいさん》な恋文ではないかと、ふと思った。  もう寝よう。北さんのことをあれこれ考えていると、体が熱くなったり、冷たくなったり、目が潤《うる》んだり乾いたりする。その上、この季節、どこにも咲いているはずのない金木犀の甘い匂いが部屋中に立ち籠《こ》めているようで、息苦しくなる。梓は空気を入れ替えようと窓を開け、流れ込んでくる新しい風を逃がすために廊下の襖《ふすま》も開け放った。十五|燭光《しよつこう》の電燈にぼんやり照らされた長い廊下のはずれに、何か仄白《ほのじろ》いものが、微《かす》かに揺れながら立っている。その目が薄明かりの中に炯《ひか》った。梓を見つめて、猫の目のように炯った。——遊子だった。薄雪のような、全裸だった。  それからちょうど一週間経ち、暦は師走《しわす》に変わった。朝方少し降った雪が梅の小枝に残って、湯島天神の境内は点々と白梅が咲いているようである。梓は、北さんと並んで絵馬堂の低い縁に腰かけていた。北さんの支那服は、今日は艶《つや》のある厚地の黒で、衿《えり》と袖口《そでぐち》に刺繍《ししゆう》された同色の竜が、北さんが身じろぎするたびに、生きているように蠢《うごめ》く。北さんは黙って目を閉じたままである。だから、いつもなら正視できない義眼が見えなくて助かる。ただ、左よりいくらか膨れて見える右目の辺りが、時折細かく痙攣《けいれん》するので、北さんは右の眼窩にも竜を一匹飼っているのではないかと思ってしまう。  雪のせいか、参詣《さんけい》の人々の姿は、休みの日だというのにポツンポツンと疎《まば》らである。社務所も暇らしく、巫女《みこ》姿の女の子が二人、火鉢に掌《て》をかざして蜜柑《みかん》を食べているのが見える。本殿の奥で鳴っていた太鼓の音が止《や》んだと思ったら、男坂口にある瓦斯燈《ガスとう》の上で、羽の汚れた鴉《からす》がうるさく啼きだした。北さんが口元を緩めて微笑《わら》い、ゆっくり目を開ける。すると、鴉は急に落ち着きをなくし、やがて羽を広げてどこかへ飛んでいってしまった。たった一つの目で鴉を怖がらせるのだから、大したものである。 「宋教仁の話をしましょうか」  北さんの、健康な方の目が笑っている。あの笑った目で、人の気持ちをみんな見透《みすか》してしまうのだから気味が悪い。 「ゆうべも私の夢枕《ゆめまくら》に立ちましてね。こっちへこい、こっちへこいと言います」 「こっちというのは、死んだ人たちの世界のことでしょうか」 「まあ、そうなんでしょうが、とりようによっては支那へこいととれないこともありません。私はとぼけて、そっちの方の返事をしておきました」 「また、支那へいかれるのですか?」 「すぐというわけにはいきません。支那は寒いですから、年が明けて、暖かくなって、まあ三月ごろにはいきたいと思っています」 「支那の、どこへいかれるのですか?」 「汨羅《べきら》というところを知っていますか?」 「知りません」 「巫山《ふざん》は?」 「知りません」 「その辺りへいってみるつもりです。湖南の方です。まあ帰りにでも上海へ寄ってきましょう。幽霊の墓もありますし」 「幽霊は怖くありませんか?」 「あんな怖いものはありません。私は子供のころから恐《こわ》がりで、いまでも、夜一人では手洗いにいけません」 「どうするのです?」 「家内についてきてもらいます」  魔王と言われる人が可笑しなことを言う。それも、どうやら本気らしい。 「どうして宋教仁という人は、北さんのところにだけ現れるのでしょう」 「私のことが、好きなのでしょう。私は、生きている人たちには好かれませんが、死んだ連中にはよく追い回されます」 「宋さんの幽霊がはじめて現れたのはいつだったのでしょう」 「彼の、葬式の日です」  その日、上海では小雨が降っていた。宋教仁の葬列は、彼が命を落とした北停車場の広場から出発し、市の西に長く伸びる連山に沈む夕日に迎えられるように、大通りを上海の中心部に向けて進んでいた。柩《ひつぎ》を担《かつ》ぐのは、革命の同志たちである。頬に大きな刀傷のある若い男がいる。醜く足を引きずる髭《ひげ》の男もいる。長い戦いに疲れて俯《うつむ》きがちな老人もいる。それほど大男ではなかったはずなのに、宋教仁の柩は妙に重かった。北さんは、柩を担ぐ六人の、ちょうど真ん中の左側にいたが、もう三十分も歩きつづけているので、右の肩が抉《えぐ》られたように痛い。北さんが宋と連れ立ってよく遊びにいった娼家街《しようかがい》に葬列がさしかかったころ、急に雨足が強くなり、北さんたちは思わず足を早めようとした。そのとき北さんの耳に、柩の中からトントントンと何かを知らせるような音が聞こえた。金襴《きんらん》の布で覆《おお》われた柩の中にいる者と言えば、宋教仁しかいない。死者が何か言っている。立ち止まった北さんの体が凍った。今度は、さっきより強く、はっきり、トントントンと聞こえるのである。北さんは、みんなの顔を見回した。誰も気づいていないようだ。一人だけ、北さんのすぐ後ろで柩を担いでいる譚人鳳《たんじんほう》だけが、色をなくした唇を震わせている。北さんが目で問いかけると、蒼《あお》ざめてうなずいた。譚人鳳も聞いたのだ。そのとき北さんは、葬列を出迎えている群衆の中に埋もれて、妻のスズが手を合わせてこっちを見ているのに気がついた。すると柩の中から、そうだそうだとでも言うように、トントンと落ち着いた音が聞こえた。身辺の世話をしてくれたスズに、礼を言いたいとでもいうのだろうか。北さんは、目顔で妻を呼んだ。人ごみを分けてスズが柩に近づき、小さな掌《て》を柩の腹に当てた。まるで咽《むせ》び泣くように、柩が細かく震えた。静かな時が流れ、やがてスズの目から涙がポツンと落ちると、宋教仁はゆっくりと、一つだけ、柩の壁を叩《たた》いた。——葬列は動きはじめた。北さんがふと気づくと、いつの間にか雨は晴れ、雲間から射《さ》すその日最後の光の箭《や》が、柩を包んだ金襴の布を深紅に染めているのだった。  葬儀の日をきっかけに、宋教仁の幽霊は、雨の夜にかぎって北さんの枕元に立つという。あるときは穏やかな声で北さんに語りかけ、あるときは血の色の涙を流して、いつまでも無念を訴えつづけた。宋暗殺の黒幕が孫文であることを北さんに告げたのも、もちろん宋教仁の幽霊だった。その夜、宋の亡霊は、北さんの部屋の鏡の中に、光の群れのように輝きながら現れ、これからその男の姿になると呟《つぶや》いた後、青に紫に色を変えながら鏡面を駈《か》け回り、やがて雪崩《なだれ》るように温和な孫文の顔に像を結んだ。北さんも、はじめは信じなかったらしい。あれほどの人格者が、東京以来の同志を裏切るはずがない。北さんの心中まで、幽霊というものは読んでしまうのだろうか。そのとき、鏡に映った孫文は、邪悪に口元を歪《ゆが》め、目の奥に猜疑《さいぎ》の光を漲《みなぎ》らせ、悪魔のようにニヤリと笑ったという。 「宋の幽霊につきあって、もう二十年になります。そろそろ成仏《じようぶつ》してもいいころだと思うのですが、あきらめの悪い奴《やつ》です」 「いまでも現れるのですか?」 「さすがに近ごろは、少し間遠になりましたが、私のところへこなくなった分、家内の夢に出てくるそうです。よく眠れないと言って、ぼやいています」 「その亡霊が、私に似ているのでしょうか」 「髭のないところを除けば、そっくりです。家内にあなたを引き合わせたら、びっくりすることでしょう」 「しかし、亡霊に似ていると言われるのは、正直な話、あまり気持ちのいいものではありません」 「そうでしょう。いまでは、あなたにその話をしたのを悔やんでいます。しかし、一昨年《おととし》、白山上の料理屋ではじめて逢ったときは、驚きました。あまり似ているので、これは生れ変わりではないかと思ったくらいでした」 「私は、明治四十四年の生れです。武昌《ぶしよう》で辛亥《しんがい》革命が起こった年ですから、宋教仁という人はまだ生きていたはずです。ですから、生れ変わりではありません」  北さんは、むきになって言う梓が可笑しくてならないらしく、嬉しそうに笑う。一人で怒っているのも変なものなので、梓も何となく笑ってしまう。垂れ籠めていた雲の間からやわらかな冬の日が洩《も》れて、さっきよりいくらか暖かになった境内に、若い女の子の明るい声が聞こえる。見ると、セーラー服の女学生が三人、鳥居の脇《わき》に屋台を出している写真屋のカメラの前に肩を寄せて、写真を撮っているところだった。ベレー帽にルパシカの写真屋の冗談が、そんなに可笑しいのだろうか。女学生たちは、いつまでも笑い止まない。 「写真を撮りませんか?」。北さんは妙なことを言う。「私は剣持梓です。宋教仁ではありません。髭も生えていませんが、それでもいいのでしょうか?」。北さんは、また可笑しそうに笑い、もうスタスタ写真屋の方へ歩きだしていた。  カメラの前に並んで立つと、北さんは梓の肩の辺りまでしかなかった。それが向い合うと、どうしてあんなに大きく見えるのだろう。芸を極めた役者が舞台に立つと、実際は五尺そこそこしかない小男が、六尺豊かに見えるというのとおなじ理屈なのだろうか。もしかして、でき上がった写真の中で、梓は北さんより小さく写っているのではないかと、ちょっと心配になる。何しろ相手は魔王なのだ。  準備ができたらしく、写真屋がレンズの方を向くように合図する。梓は軍帽を目深にかぶり直し、胸を張った。北さんが俯いて何かしている。横目で窺《うかが》うと、神経質そうに掌の中のものを探っているようである。写真を撮るので、義眼をはめ直しているのだ。梓は慌《あわ》てて目を逸《そ》らせた。やがて北さんは顔を上げ、真っすぐにレンズを見た。写真機を覆った黒い布の中で、写真屋の押し潰《つぶ》したような声が聞こえた。カメラに向ってニッコリ笑いかけた北さんを見て、梓も声を上げた。北さんの義眼の表に、陛下が——天然色の陛下が、華やかな大礼服を身につけ、銀縁の眼鏡を光らせて立っていた。左胸に飾られた大勲位菊花大綬章が、初冬の薄日に鈍く輝き、その光に目を射られたのか、いつの間にか瓦斯燈の上に戻っていた痩《や》せた鴉が、鋭い声で啼いた。 [#改ページ]    第四章 汨羅《べきら》の淵《ふち》に  よくないことが起こる日は、なんとなくわかる。その日は、朝から下駄の花緒が切れたり、お腰の破れを繕う針が、つづけざまに三本も折れたりで、弓は一日、気が晴れなかった。けれど、景気の悪い年の暮れにしては、宵《よい》の口に帝大の学生さんが上がってくれたし、そのあと間なしに、千里眼の花輪さんが泊りをつけてくれたので、朝からの嫌な胸騒ぎも思い過ごしかと安堵《あんど》しかけた夜中の十二時過ぎ、その夜二度目の花輪さんの上に乗っかって黄色い声を上げていたら、いきなり背中の出窓から、黒い男が二人飛び込んできたので、弓は仰天して花輪さんの肥《ふと》った体から転げ落ちた。男たちは二人とも、黒い鳥打に烏天狗《からすてんぐ》みたいな、これも黒いマスクをかけていたので、人相はわからなかったが、ものも言わずに弓の五畳の部屋を駈《か》けぬけ、廊下から階段の方へ鼠《ねずみ》のように走った。弓の部屋は、隣りの「羽二重」との境の、狭い露地に面した二階である。蝙蝠《こうもり》ではあるまいし、あの男たちは梯子《はしご》でも使ったのだろうか。階段を上り下りする忙《せわ》しい音が聞こえる。どうやら、玄関からも、裏庭からも、同時に何人かが雪崩《なだ》れ込んだ様子である。菊ちゃんや桃ちゃんも起きだしたらしく、寝呆《ねぼ》けた声が廊下を走る。電燈をつけると怖いので、弓は布団《ふとん》をかぶって廊下へ這《は》いだしてみた。暗い廊下のはずれ、階段|脇《わき》の鳳仙花《ほうせんか》の部屋だけ電燈が点《つ》いていて、その笠《かさ》が大きく揺れ、無言で争ういくつかの人影が、お化けみたいに廊下の壁に縺《もつ》れて動いている。弓がしがみついている柱の肌が、裸の腕に凍《し》みるように冷たい。あと十日もすれば正月がくるというのに、朝は寒さで水道管が破裂するし、夜は土足で踏み込まれるし、なんて不運な「花廼家《はなのや》」だろう。  鳳仙花の吠《ほ》えるような声が聞こえたと思ったら、廊下を這うように小柄な男がこっちへ逃げてきたので、弓は思い切り悲鳴を上げた。男は、腰を抜かした弓の小脇をすり抜け、出窓へ飛びつく拍子に布団の枕元《まくらもと》の電気スタンドを倒し、それを律儀《りちぎ》に元へ戻してから、窓の外の闇《やみ》にフッと消えた。出窓の手摺《てす》りに手をかけて振り返り、弓に片手拝みで迷惑を詫《わ》びる目が、暗いけど澄んでいた。この忙しいのに、ずいぶんお行儀のいいことだ。悪い人じゃない、と弓は思った。男が手品みたいに消えた部屋に、大蒜《にんにく》の匂《にお》いが、うっすらと残っていた。  それからが大変だった。黒い男たちが、逃げた男を追って弓の部屋の出窓から次々に飛び下り、表の通りで鋭い呼子の音が凍りつきそうな夜気を裂いて、白山上の銘酒屋街は、寝巻姿の近所の人たちと、どこからか集まった猫坂の猫たちで大騒ぎになった。女将《おかみ》のおゆうが言うには、鳳仙花の部屋に泊っていた小柄な男が、独立運動をやって手配中の朝鮮の人とかで、張込みの刑事たちが踏み込んだらしい。でも、ずいぶんだらしのない警察だ。あんなに大勢で捕まえにきて、ものの見事に逃げられた。弓は体に布団を巻きつけて、それでも足の先から這いあがってくる寒さに震えながら、フフンと鼻で笑ってやった。昔から、弓はお巡りさんが別に嫌いではなかった。むしろ好きだった。渋民村で子供だったころ、駐在さんのお嫁さんになりたいと思っていたくらいである。それが、剣持さんを尾《つ》けている刑事がいると知ったときから、急に気色が悪くなった。剣持さんを追い回すなんて、ろくなものじゃない。だから弓は、フフンと笑った。  玄関から階段にかけて、刑事たちが土足で踏み込んだ足跡が、乱れて点々と連なっている。桃ちゃんが台所から雑巾《ぞうきん》バケツを運んできて、床の汚れを拭《ふ》こうとしたら、おゆうが顎《あご》をしゃくって二階を目顔で示す。鳳仙花の部屋に、まだ何人か土足の男たちが残っているというのである。階段の上から、男たちの忍んだ低い声と、激しく言いつのる鳳仙花の声が交互に聞こえてくる。菊ちゃんが弓に囁《ささや》く。「鳳ちゃん、あの男と、お国で同郷なんですって」。この店の子たちは、鳳仙花ちゃんでは語呂《ごろ》が悪いので、みんな鳳ちゃんと呼んでいる。楽ちゃんは、もう少し詳しい。「貧乏っていったって、あたしたちよりひどいらしいよ。鳳ちゃんも、あの男も、生れてすぐに間引かれそうになって、それが運よく助かって、言ってみりゃ死にぞこないの仲なんだって」。「なんだか、青葱《あおねぎ》みたいな人だったね」。さすが、おゆうはうまいことを言う。  小柄で顔色の悪いあの男が、「花廼家」に姿を見せはじめたのは、この夏のはじめごろからだった。いつも薄い影みたいに土間に立って、「ホウシェンカハ、イマシェンカ?」と低い声で帳場を覗《のぞ》き込む。地の底から這いあがってくるような暗い声だ。桃ちゃんなんか、気味悪がって泣きそうになる。菊ちゃんは、あの人がくると、せっかく咲いた夕顔が凋《しぼ》んでしまうと言う。弓は、足音もなく現れ、誰にも気づかれずに煙みたいに帰るのが気になる。花代《はなだい》は、みんな鳳ちゃんが立て替えているというのは、ほんとうだろうか。お互い、好き合っているのだろう。好き合ってみたところで、こんな街の男と女の行く末に、おめでたい話なんてあった例《ため》しがない。燃えてみたって、猫坂の陽炎《かげろう》みたいなものだ。ゆらゆら揺れて、すぐ消える。  真っ裸の鳳仙花は、黒い男たちに引きずられて警察へ連れていかれた。女将のおゆうが追いかけて、裸の肩に亭主の褞袍《どてら》を着せかけてやる。寒空の下、両側から男に腕を取られ、裸足《はだし》で坂を下りていく褞袍の鳳ちゃんは、足元が縺れて、破けた奴凧《やつこだこ》のようだった。ふらりふらりと宙を飛んでいく。円乗寺の石垣のはずれに鳳ちゃんの姿が見えなくなるころ、雨が降りだした。猫はてんでの塒《ねぐら》に帰り、女たちは、押し黙ったままそれぞれの部屋へ戻る。家中の戸障子が開けっぱなしになっていたので、「花廼家」は隅から隅まで冷えきっていた。これからまた、花輪さんとさっきのつづきがはじまると思うと、階段を昇る弓の足は重くなる。元を取らなければ治まらない花輪さんのことだから、朝までに二回は覚悟しなくてはならない。——部屋は空っぽだった。捕物のどさくさに紛れて、花輪さんは逃げた。こんな場合、花代はどうなるのだろう。  鳳仙花のおかげで、伸び伸びと一人で寝られるのはありがたいが、寒いのと、鳳ちゃんのことが気になって、布団に入っても目が冴《さ》えて眠れない。雨も本降りになってきたようで、裏のトタン屋根がうるさく鳴っている。弓はぼんやり思い出す。——裸の鳳ちゃんが階段を引きずり下ろされるのを目の前に見た桃ちゃんは、いきなり泣きだした。それからずっと土間の隅っこにしゃがんで、泣いていた。弓だって泣きたい気持ちだったが、涙は一粒も出なかった。桃ちゃんだって、来年のいまごろだったら、もう泣けないかもしれない。そんなものだ。女は、一雨ごとに顔が変わっていく。  菊ちゃんは、嫌な子だ。こんな晩に、歌っている。   並木の路《みち》に 雨が降る   どこの人やら 傘《かさ》さして   帰る姿の なつかしや  ゆうべ、花輪さんと寝る前に、少しだけお酒を飲んだ。熱いお酒で体が暖まったせいか、花輪さんは機嫌がよかった。このごろは千里眼の調子がいいらしく、今日も寄席《よせ》でお客の財布の中身をぴったり当てたし、知り合いの反物屋に頼まれて、家出した娘の安否を占ったら、九十九里にある遠縁の家に隠れているのが見えて、自分でも気味が悪いくらいだという。花輪さんは、千里眼が冴えはじめると食欲がなくなり、その代り女が欲しくなるらしい。そう言えば、頬がげっそりと殺《そ》げ、両目の下に一つずつ、地図帳のオーストラリアみたいな隈《くま》ができているくせに、一度終わったと思ったら、またすぐに弓の長襦袢《ながじゆばん》の裾《すそ》を割ってくる。いくら商売でも、そんなに立てつづけでは体が保《も》たない。そこで弓は、気を逸《そ》らせるために、自分の将来を千里眼で覗いて欲しいと甘えてみせた。すると花輪さんは、いきなり弓を仰向けにして、紅梅模様の長襦袢の中に頭を突っ込み、女の未来は上の顔より下の顔に顕《あらわ》れると言って、電気スタンドの明かりを引き寄せ、顔を近づけてきた。三十ワットの電球の熱で、内股《うちもも》の辺りがむず痒《がゆ》く、なんだか変な気持ちになる。 「これは驚いた。女郎が子供を産むらしい」 「女郎って、誰のことです?」 「おまえだよ。おまえさんだよ」 「あたしが、子供を産むんですか?」 「女の子だね。おまえによく似て、眉《まゆ》が狸《たぬき》の尻尾《しつぽ》みたいに太い子だ」 「見えるんですか?」 「見える、見える。枯れた柿《かき》の木の下で、親子で遊んでる」 「どんな、柿の木です?」 「枝ぶりは見事だけど、幹がくねくね曲ってる」  それなら、渋民村の、弓の家の柿の木だ。黒ずんで、ひしゃげたようで、なんとも器量は悪いけど、秋になると毎年甘い実をつける。竹竿《たけざお》の先を三つに割り、そこに石ころを填《は》めて開かせた道具を器用に操って、てふ姉ちゃんは柿の実をとってくれた。弓が広げて待つ前掛けの中に、柿の実は一つ、二つと落ちて蓄《た》まった。——花輪さんは、その柿の木が枯れているという。いったい花輪さんの千里眼には、何年先の光景が映っているのだろう。袂《たもと》にいっぱい石を詰め込んで、大川に浮いているのが見えると言われるよりは余程いいけれど、このまま十年働いたって返しきれない「花廼家」の借金を抱えて、弓はどうやって子供を産むというのだろう。千里眼なんて、やっぱり当てにならない。   並木の路は 遠い路   いつか別れた あの人の   帰りくる日は いつであろ  菊ちゃんの歌に、欠伸《あくび》がまじる。雨が、このまま一生降りやまなかったら、どうしよう。弓はさみしくてしょうがない。こんなことなら、花輪さんに抱かれて寝る方が、ずっとよかった。今夜は雨降りのせいか、猫も啼《な》かない。  夜来の雨が上がって、庭先で白菜を漬けている母の白い割烹着《かつぽうぎ》に、冬の日差しが眩《まぶ》しい。梓《あずさ》の生活は朝が早いが、母の静子はもっと早く、梓が起きだすころにはもう家中の掃除が終わり、茶の間の柱の一輪差しに新しい椿《つばき》の花が活《い》けられ、台所では味噌汁《みそしる》の鍋《なべ》が白い湯気を吹いている。日当たりのいい縁側に、恰幅《かつぷく》のいい父の甲四郎が目を閉じて坐り、その肩を姉の遊子が揉《も》んでいる朝の情景を、こうして二階の窓から見ていると、梓の胸の底に懐《なつ》かしさが激しくこみ上げてくる。——いつか見た家族たちである。けれど、あのときは、梓の隣りに兄がいた。遊子の目には、娘らしい生き生きとした輝きがあった。上から見るとずいぶん薄くなりましたね、と正行《まさゆき》が父の寂しくなった髪をからかい、梓が声を立てて笑うと、当の甲四郎よりも、遊子が怖い目で梓たちを睨《にら》んだ。わずか三、四年の間に、おなじ風景の中で、人だけが静かに消え、静かに変わっていく。垣根の山茶花《さざんか》は淡い紅色の花をつけ、庭の隅の泉水のほとりには、黄水仙《きずいせん》と口紅水仙が頭を寄せ合って揺れているが、かつてその庭にいた兄は死に、姉は狂った。  先週、週番司令だった梓は、今週は比較的暇だった。昼ごろまでに隊へいけばいい。こんなときに兄の遺品の整理を片づけてしまおうと、梓は朝食の後、二階の正行の部屋へ上がって一つだけ残っていた柳行李《やなぎごうり》を開けた。いつものように、姉の遊子が梓の脇にちょこんと坐って、手伝いたそうな顔をしている。ここのところ、梓がこの部屋へ入ると、かならず黙って尾《つ》いてきて、正行の本やセーターやスケート靴を胸に抱いたり、細くなった手で撫《な》で回したりしている。そんなに遊子は、兄が好きだったのだろうか。心が空っぽになるくらい好きだったのだろうか。——行李の中は、ほとんどが士官学校時代のノートや、自分で書いた詩や短い小説らしいもの、それに手紙類だった。一画一画きちんと書かれた、几帳面《きちようめん》な兄らしい字だった。「逢」とか、「迅」とか、梓がどうしても上手《うま》く書けない「|※《しんにゅう》」が、印刷された文字のように優美なので、梓が苦笑したら、何を勘違いしたのか、遊子も口に手を当てて可笑《おか》しそうに笑った。  紐《ひも》の解けた手紙の束の中に、例の斎藤|史《ふみ》さんからのものがあった。女らしく美しいけれど、どこか鋭い勁《つよ》さのある筆の文字である。中に、自作の歌が何首かあった。   そこに少しの   日蔭《ひかげ》をつくれひるがほよ   花は汚れて骨|埋《う》められる  梓は詩や歌は苦手だが、二度繰り返して読んだら、短剣で刺されたように鳩尾《みずおち》の下が痛んだ。その短剣が真夏の白光の中を奔《はし》り、空中に舞い上がったと思ったら、突然直下して花の中心を貫いて鎮《しず》まる幻を、梓は見た。兄は、この歌に刺されて、息が止まったに違いない。正行は一輪の昼顔に自分を見たのではなかろうか。まるで兄の未来を予見しているような歌である。梓は生れてはじめて、歌というものに胸を揺すぶられ、体の芯《しん》が冷たくなるのを覚えた。   狂ひたる人を春野に坐らせて   泣けば笑へば   落椿《おちつばき》の花  正気の欠片《かけら》でも残っているのだろうか。遊子は驚いたような目で、梓の手元の文字を見つめて動かない。両掌《りようて》をきれいに揃《そろ》えて膝《ひざ》に置き、いつもの朝よりかすかな胸の膨らみの起伏が大きく、生れつき色白の顔に、南の窓から射《さ》し込む日差しがやわらかなだけに、姉のいる風景は、梓の目に残酷である。——公報より早く、陸軍省から兄の戦死の報《しら》せが入ったのは、昭和八年、正月三日だった。その朝、剣持家では、今朝とおなじように家族が朝食を終え、父の甲四郎と梓は縁側で新聞を読み、遊子は自分の部屋で鏡に向っていたので、電話には母が出た。一人の人間がこの世からいなくなったことを伝えるにしては、ずいぶん短い電話であった。「お手数おかけしました、ありがとうございます」という落ち着いた声が聞こえたと思ったら、玄関脇の電話室から静かに母は戻ってきた。裏の尼寺の林で、つづけざまに百舌《もず》が啼いた。父の前に母が正座して、目顔で頷《うなず》くだけで充分だった。不幸は、何も言わなくても、深く冷たく伝わるものだ。父が読んでいた新聞を丁寧に畳み、それを隣りの梓の膝に置き、着物の衿《えり》を正しながら仏間へ立っていくのと入れ違いに、姉が廊下に現れて、そのままそこに立ちつくした。風もなく、散る花びらの一ひらさえもない、朝の庭だった。そこだけ化粧し残した姉の白く乾いた唇が、激しく震えていたのを、梓は思い出す。それから三月《みつき》ほどの間に、姉は夕暮れの散歩のようなゆっくりした足どりで、誰にも気づかれないまま、静かに狂っていった。   傾きし緋牡丹《ひぼたん》の花   思ひきり崩れはてよと   いふこころあり  史さんの父君の斎藤|瀏《りゆう》少将は、昭和三年五月、第二次山東出兵の際、熊本の旅団を率いて済南《さいなん》の居留民保護に向ったが、中国国民党軍と激しい市街戦になり、済南城は占拠したものの、在留邦人や中国の外交官に犠牲者を出した責任を問われて、梓たちの父の甲四郎とおなじように予備|役《えき》の身になった人である。梓は、ここにも奇縁を見る。斎藤少将を慕って、よく退役後の私邸に通い、娘さんの史さんにも好意を抱いていたらしい兄の正行が、数年後に山海関で戦死し、その死をきっかけに姉の遊子が魂を失《な》くしたことが原因で、父はおととしの秋、身を退《ひ》いた。それも、これも、兄はさぞ残念なことだろう。兄の部屋から見える尼寺の、葉を落とした大銀杏《おおいちよう》の樹《き》の上に、一つだけ浮かんで西へ流れるうっすらと白い雲が、梓には、大空を彷徨《さまよ》う正行の、無念の魂魄《こんぱく》のように思えるのだった。  失意の父君をじっと見つめる史さんの、こんな歌もある。   古き軍用品を   家人にかくれ焼きにけり   馴《な》れし生活《くらし》を絶たむとしつつ  甲四郎もそうだった。三宅坂の夕暮れ、参謀本部の庭で私物を火に投げ入れながら、父はどうして小さく笑っていたのだろう。無念の思いが、牡丹の花のように崩れ落ちると、そこには、笑ってしまいたくなるほどの、空々しい風が吹き寄せるとでもいうのだろうか。父の無念、兄の無念、そして姉の無邪気な無念——梓はこの哀《かな》しい家族たちの分まで、明るく、大らかに、幸福な死を迎えたいと思った。  弓が焼き芋を食べながら、「主婦之友」の付録の〈花嫁さん全集〉というのを読んでいたら、鳳仙花が幽霊みたいに帰ってきた。ゆうべの褞袍の腰に荒縄を巻いて、髪は崩れ、顔が赤紫に腫《は》れ上がっていた。冷飯草履の一足ぐらい履かせてくれたってよさそうなものを、鳳ちゃんの裸足のふくらはぎには、泥と黒い血の網の目模様が広がって痛そうだ。それでも、垂れさがった両の目蓋《まぶた》の蔭に、強い目がギラリと炯《ひか》っていて怖かった。菊ちゃんや桃ちゃんに肩を抱かれて井戸端へ連れていかれ、汚れた手足を洗ってもらっている間、鳳ちゃんは唇をきつく噛《か》んだまま、一言も口を利《き》かなかった。泣きもしない代り、硬い顔を緩めもしない。普段から、あまり気持ちを表に出さない子だが、よほどひどい目に遭ったのだろう。ただ、外から帰った女将《おかみ》のおゆうが台所から覗いたら、いきなり地べたに手をついて、何度も何度も頭を下げた。「これからは気をつけておくれよ。いろいろあるだろうけど、もうここへは来させない方がいいね」。こんなときでもはっきり言うおゆうが、弓は好きだった。みんな、一人一人精一杯やっているのだ。甘えてはいけないし、甘やかしてもいけない。  病院へいこうと言っても、鳳仙花はどうしても聞かなかった。仕方がないので、体をきれいにしてから、台所の床に寝かせ、女たちだけで傷の手当てをした。ひどい傷である。鳳ちゃんの首から胸にかけて、裏返しにして背中からお尻《しり》一帯、そして腿《もも》から足の指の先まで、つまり鳳ちゃんの体は、全身、赤チンで真っ赤になって、まるで鳳仙花の花盛りだった。その無残に赤い体を見て、また桃ちゃんがベソベソ泣きだす。そう言えば、この家に鳳仙花という名前の女がいると小田嶋《おだじま》先生に言ったら、≪薄らかに赤くか弱き鳳仙花、人力車《じんりき》の輪に散るはいそがし≫という白秋の歌を教えてくれたことがあった。|啄木《たくぼく》の押しつけがましい哀れさより、この歌の静かさの方がずっと哀しいと弓は思った。  それにしても、鳳ちゃんは因果な男を好きになったものだ。革命とかいうものに目を血走らせている男は、そんなにいいものなのだろうか。剣持さんのお友だちの、福井さんや左近充《さこんじゆう》さんもそうらしいが、唾《つば》を飛ばして叫んだり、怒ったりするのを可愛《かわい》いとは思うけど、好きになるというのとは違う。どうせ好きになるのなら、口数は少ないけど、ここぞというときに力のありそうな剣持さんの方がいいと考えて、弓はひとりで赤くなった。  ちょっと目を離していて、ふと見たら、遊子が兄|宛《あて》の手紙で折鶴《おりづる》をつくって畳に並べていた。鶴は三羽、仲良く頸《くび》を傾《かし》げて、かすかに風に揺れている。折りかけの一枚を姉の手から取り上げて、梓が何気なく見ると、それは手紙の最後の一枚らしく、便箋《びんせん》の隅に差し出し人の名があった。——三上|卓《たく》。五・一五の、あの三上さんではないか! 封筒の消印は昭和六年の暮れ、事件の半年前である。三羽の折鶴を解《ほぐ》してみると、≪……胸の炎の鎮めがたく、その思ひを拙《つたな》い詩に託してみました。御笑覧ください≫とあって、一字一字力のこもった字で、四行十|聯《れん》の長い詩が記してあった。法華宗《ほつけしゆう》の髭題目《ひげだいもく》に似た、火を噴くような文字であった。   汨羅《べきら》の淵《ふち》に 波騒ぎ   巫山《ふざん》の雲は 乱れ飛ぶ   混濁の世に 吾《われ》たてば   義憤に燃えて 血潮|湧《わ》く   権門|上《かみ》に 驕《おご》れども   国を憂《うれ》ふる 誠なし   財閥富を 誇れども   社稷《しやしよく》を思ふ 心なし   ああ人栄え 国ほろぶ   盲《めし》ひたる民 世に踊る   治乱興亡 夢に似て   世は一局の 碁なりけり   昭和維新の 春の空   正義に結ぶ 丈夫《ますらお》が   胸裡《きようり》百万 兵足りて   散るや万朶《ばんだ》の 桜花  北さんが、来春、支那大陸へ渡ったら汨羅とか巫山へいってみるつもりだと、この前、湯島天神で言っていたのを梓は思い出した。まだ見たことのない湖や山を遠く想《おも》ったのか、北さんの一つしかない目は、少年のようだった。北さんの目は、いつもどこか投げやりで、皮肉っぽく醒《さ》めていて、自分で自分を笑っているようなところがあるが、あの日の目だけは違った。佐渡にいた少年のころ、北さんの目は二つとも、きっとあんな目だったのだろう。あれは、どこか遠い遠いところへ行こうとしている目の色だ。もしかしたら、北さんは、汨羅や巫山より、もっと悠《はる》かなところへ行こうとしているのではないか。梓は、ふとそう思って、悲しくなった。生きている目で、少年の日の憧《あこが》れを追いかけ、もう一つの死んだ目で、義眼の裏に貼《は》りつけた陛下の幻を凝視して、北さんはどこへ行こうとしているのだろう。尾《つ》いていきたい、尾いていきたい、と梓は思った。——昔、こんなことがあった。蝶《ちよう》の蒐集《しゆうしゆう》に熱心だった兄の正行は、夏になると、毎朝まだ暗いうちから起きだして、白いピケの帽子をかむり、昆虫《こんちゆう》採集用の胴乱《どうらん》を腰に括《くく》りつけ、捕虫網を持って、二|粁《キロ》ばかり離れた森へでかけた。兄が九歳、梓はまだ六つのころだった。梓が尾いてくるのを、兄は拒みはしなかったが、寝坊して支度がちょっと遅れても、決して待ってはくれなかった。蝶は待ってはくれないと言うのである。森の、櫟《くぬぎ》や皀莢《さいかち》の根方に咲く花が、まだ露を置いているころでないと、美しい蝶たちは梓たちの手の届くところにいてくれない。朝日が昇って、それまで森に立ちこめていた靄《もや》が流れはじめると、蝶たちは梢《こずえ》の高みへ舞い上がってしまうのだ。草の径《みち》で、梓がほんのわずかな音を立てても、正行は厳しく振り返った。怖い顔だった。……ある朝、兄が息を呑《の》んで、ミヤマカラスアゲハだと言った。そんな珍しい蝶がこの森にいるはずがないと梓は疑ったが、兄の目は異様に炯っていた。正行の視線の先に、藪手毬《やぶてまり》の白い花が群れていて、そこに一匹の大きな蝶が、木洩《こも》れ日に紫の翅《はね》をキラキラ輝かせて花の蜜《みつ》を吸っていた。もしかしたら、ほんとうにミヤマカラスアゲハかもしれない。梓は体が固くなった。兄が湿った森の土を這《は》って藪手毬に近づき、捕虫網を閃《ひらめ》かせて蝶に飛びかかった。蝶は舞い上がり、正行をからかうように、森の径を低く飛んで逃げた。そこは森のかなり奥で、それより先へはまだ一度も行ったことがないのに、兄は紫の蝶を追って、深い草叢《くさむら》を分け、樹の幹を縫って走った。忘れられた弟は、その日、森の迷子になって涙を流した。  何処《どこ》へかは知らないが、北さんは梓を連れていってくれるだろうか。それとも梓は、支那服の北さんの姿を見失って、もう一度森の迷子になるのだろうか。——≪汨羅の淵に波騒ぎ、巫山の雲は乱れ飛ぶ……≫。梓はもう一度三上さんの詩を声に出して読んでみた。霧に霞《かす》んだ暗い湖が、ぼんやり見えるようだった。そして、どこまでも深い霧の向うに、梓は巨大な隻眼《せきがん》の魔王がうっそりと立ち上がるのを見た。——左近充たちの話によると、昭和六年、事件が起きる前に、三上さんは何度も北さんを訪ねているという。とすれば、三上さんは、北さんから何かを感じて、この詩を作ったのかもしれない。汨羅も巫山も、それは北さんが三上さんの耳に低く囁《ささや》いた言葉だったのではないか。   止めよ離騒《りそう》の 一悲曲   悲歌|慷慨《こうがい》の 日は去りぬ   われらが剣《つるぎ》 いまこそは   廓清《かくせい》の血に 躍るかな  正行宛に送られた三上さんの詩は、こう終わっている。離騒というのは何だろう。支那の故事に詳しい父に、今夜|訊《き》いてみようと梓は思う。——武蔵野の面影を残す裏の林で、長閑《のどか》に雉鳩《きじばと》が啼《な》き、階下の茶の間の時計が、十一時を打った。遊子は、正行の遺品の軍帽を頭に載せた正座のまま、ゆらりゆらりと舟を漕《こ》いでいる。  階下《した》の帳場に、また本富士署の刑事がきていると、桃ちゃんが蒼《あお》い顔でご注進にくる。女将は適当にあしらっているらしいが、もう一時間も粘って鳳仙花の男のことを知りたがっているという。この前、弓を買って、剣持さんや北さんとかいう義眼の人について、ねちねち弓をいたぶりながら訊いた刑事もそうだったが、あの手の男たちには、魚を貪《むさぼ》っている猫に似た臭《にお》いがあると、弓は思う。石鹸《せつけん》で洗ってもなかなか落ちなくて気持ちが悪いのに、そのくせなんだか気になって、洗ったあとしきりに指を鼻へ持っていって嗅《か》いでみる。こんどまたあの男がやってきたら、追い返す自信がないような気がして、弓は自分の中の女が心細い。  だけど正直な話、弓は男に抱かれている間だけしか、自分が生きているように思えないのだ。花輪さんや小田嶋先生みたいに、あまりしつこいのは困るとはいっても、それだけこの体に執着してくれることを、弓はどこかで喜んでもいる。弓は田舎者で愛想がなくて口も下手だけど、あの間だけは、上になっている男と、自分の思い通りに喋《しやべ》ったり、からかったり、励ましたりできると思うのだ。だって、剣持さんにしたって、弓がその度に一生懸命になったから、少しずつあの人のことがわかってきたのだし、お母さんのことを想像したりするようになったのだし、またきて欲しいと願うようにもなったのだ。女の体は、そのまま心なのかもしれない。だから、弓は体で話すのが大好きだ。できるものなら、世の中のいろんな男と寝てみたいと思う。たとえば、鳳仙花には悪いけど、革命とかに血眼になっている朝鮮のあの男にも抱かれてみたい。片方の目が変な北さんという人が支那服を脱いだら、どんな体がその下から現れるのか見たいとも思う。帳場の欄間で、いつも優しく微笑《わら》っている御真影の中の陛下だって、あそこから降りて弓の布団にきて下さったら、力いっぱい抱きしめ、心をこめて慰めてさし上げたい。  風がでてきた。物干し台の洗濯物がバタバタ鳴るのが聞こえる。表通りの砂埃《すなぼこり》が弓の部屋にまで入ってきて、鏡台の鏡がうっすら曇っている。そこに映る弓の顔も、今日は曇りがちである。なんだか苛々《いらいら》する。鼻の頭に浮いた脂《あぶら》が気になる。髪の毛に艶《つや》がない。無性に甘いものが食べたいが、この風では坂下の和菓子屋まで桃ちゃんをお使いにやるのも可哀相《かわいそう》だ。階段の脇《わき》の硝子《ガラス》窓を少し開けて表通りを見ると、坂の街が白く煙っていた。白山上のこの辺りでは、毎年、師走《しわす》の風は坂下から坂上へ吹き上げる。通りに人影も猫たちの姿も見えない代り、風が目に見えるようだ。  いつもは聞こえない、坂下の円乗寺裏の小学校の子たちの歌が、風の合間に途切れ途切れに聞こえてくる。オルガンの音が懐《なつ》かしい。   初日のひかり さし出《い》でて   四方《よも》に輝く 今朝の空   君がみかげに 比《たぐ》えつつ   仰ぎ見るこそ 尊《とう》とけれ  お正月の式の練習をしているのだろう。昔、弓たちも小田嶋先生のオルガンで歌った。音楽室の窓からは、雪をかぶった岩手山が見えた。雪のほかには、何もない村だった。——歌がいちばん上手で、いまに流行歌手になるといっていた春ちゃんはどうしただろう。勉強はできなかったけど、上唇がちょっと捲《めく》れあがって、子供のくせに色っぽかった伸《のぶ》ちゃんが、盛岡の乾物屋へお嫁にいったのは小田嶋先生に聞いた。霞ちゃんは、肺病で死んだ。北上川の春霞みたいに、流れて消えた。フミちゃんと、ヤッちゃんと、正枝と国子は、東京で弓と同業らしい。あの子たちが、みんな、男の体の下で変な声を上げていると思うと、弓はなんだか可笑しな気持ちになる。だから、逢《あ》いたいような逢いたくないような、そんな昔の友だちである。  気持ちが寒いと、体も寒い。今日で三日もご無沙汰《ぶさた》しているローマ字日記を書く気にもならない。することもないから、布団に入ってさっきの〈花嫁さん全集〉のつづきを読む。階下の夫婦は毎月一冊ずつ雑誌をとっていて、亭主が「キング」で、おゆうが「主婦之友」、付録はいつも女たちの誰かが貰《もら》うことになっているが、〈花嫁さん全集〉では貰い手がなく、ごみ箱に捨てられていたのを弓が拾ってきた。≪婦人一生の座右宝典≫と表紙にあるが、大安吉日《たいあんきちじつ》だの、三三九度だのに縁がありそうな女は、一人だってこの「花廼家《はなのや》」にいるわけがない。  結納から婚礼、嫁入り道具に新婚旅行、そんなよくある写真入り記事のあとに、〈職業による良人《おつと》への仕え方〉という特集があり、官吏、教師、会社員などと並んで、〈軍人を良人に持った花嫁はどう仕えたらよいか〉というのがあった。≪陸に、海に、空に、祖国日本を護《まも》る軍人の花嫁さんは、一旦《いつたん》緩急あった場合の覚悟を、まずしっかりと胸に畳み込んでおかなければなりません。その覚悟があれば、ふだんの言語動作も、自然軍人の妻らしくあるものです≫。一旦緩急というのは、どういうことなのだろう。好きというだけでは、いけないらしい。≪「士を百日養うは、一日の用に供せんがためなり」と言いますが、この一日のために、御主人の健康に常に気をつけなければいけません。お料理なども、充分に栄養のあるものを御工夫なさること≫。剣持さんの奥さんになる人も大変だ。弓みたいに、昼を今川焼きとラムネで済ましてしまうようでは、半日でお暇を出されてしまう。≪服装も、正装、通常礼装、軍装など、なかなか面倒なものですから、先輩の奥さん方から伺って、早く呑《の》み込むこと。事あるごとに御主人に伺いを立てなくては、用意も完全にできないようでは困りましょう≫。そんなめんどくさいことをしなくても、剣持さんなら、みんな自分でしてくれるだろう。いろんな服があって面白そうだが、着たあとの始末をしたり、ナフタリンを入れてしまったりするのは、どう心を入れ替えたって、弓の性には合いそうにない。その代り、毎晩、可愛がってあげる。体の隅から隅まで、可愛がってあげる——昼間から変なことを考えてニヤニヤしていたら、襖《ふすま》が開いて、小田嶋先生がしょんぼりそこに立っていた。弓は目を丸くした。先生は見慣れない墨色の衣《ころも》を着て、頭が坊主《ぼうず》になっていた。  梓たちの第一師団が満州へ送られるというのは、ほんとうらしい。年明け早々という噂《うわさ》もあるし、陸軍の大移動のある三月だという説もあり、それがこのところ兵たちの耳にも入ったらしく、ただでさえ年の暮れで忙《せわ》しないのに、麻布の歩兵第一|聯隊《れんたい》は何かと落ち着かない空気が漂っていた。外地へいったことのない梓は、それもいいではないかと思う。遠くから見れば、日本のことも、いまよりよくわかるかもしれない。北さんが見たという、果てしない高粱《コーリヤン》畑の向うに沈んでいく、巨大な落日だって見ることがあるだろう。父の甲四郎も斉斉哈爾《チチハル》にいたことがある。海を越えて届く軍事郵便の葉書に、色鉛筆で下手な花の絵がいつも描いてあった。迎春花《インチユンホア》は薄紫だった。ネコヤナギの花は綿のような白で、カヤツリグサは黒ずんだ紅色《べにいろ》の花をつけていた。無窮とも思える広大な大地でありながら、ふと足元を見ると、そんな可憐《かれん》な花が咲き乱れる満州という国に、梓はいってみたいと思う。北さんが追いかけて見失った幻と、梓が想う幻とは、違うのかもしれないし、違っていて当たり前なのかもしれないのだ。幻は、口にしてはいけない。人がそれを口にしたとき、たぶんそれはもう幻ではないのだ。  梓は王道楽土という言葉が好きである。福井は胡散臭《うさんくさ》いと言うが、梓はそうは思わない。五族共和を信じられないと言う左近充の気持ちならわからないでもないが、王道楽土は悠《はる》か遠いから、美しすぎるから、幻だから——それを想うとき、梓は涙がにじんでくるのだ。だから、梓に見える王道は黄金《きん》の道ではなく、銀の道である。瞼《まぶた》の裏に浮かぶ楽土は太陽の国ではなくて、月の世界なのである。——そう考えて、梓には、北さんが義眼の裏に陛下の肖像を貼りつけて、見えない目で凝視している意味が、はじめてわかった。福井や左近充や、歩兵第一聯隊の青年将校たち——翻ってみれば五・一五の有志たちが、眩《まぶ》しく仰いでいたのは、太陽の天皇だったが、北さんが見据えているのは、艶《なまめ》かしい月の陛下だったのだ。  週番士官室が、見る見る暗くなった。梓は驚いて立ち上がった。窓に寄って見ると、強い西風に運ばれた黒雲が、いま太陽を蔽《おお》い尽くし、そのまま東の空に駈《か》け抜けるところだった。日輪が逆行している。——暗い天の一角から、北さんの法華経が朗々と聞こえてくるのを、梓は聞いた。北さんが、太陽の天皇を支那服の袖《そで》に抱きしめ、風に乗って銀色の月の世界へ連れていこうとしている。それは別に不思議でも何でもないことかもしれない。北一輝《きたいつき》という人は、魔王なのだ。  北さんは梓に、死なないと約束しろと言った。五・一五の直前に、兄の正行を死なせまいと山海関の部隊に転属させた。その理由を、北さんは、好きだったからだと微笑っていう。それなら、北さんの好きとは何か?——血族という言葉を、梓は突然想った。北さんは梓たち兄弟の中に、陛下を月の人として恋する一族の血を見たのではなかろうか。そう考えて、梓はいままで周りにたち籠《こ》めていた濃密な霧が、嘘《うそ》のように晴れる思いがした。ニコライ堂の伽藍《がらん》の下で北さんに逢った日から、梓の肌に濡《ぬ》れた粟粒《あわつぶ》のように纏《まと》いついて離れない北さんへの拘《こだわ》りは、おなじ色の血への誘《いざな》いだったのだ。梓は今日まで、時折、狂ったように滾《たぎ》り立つ自分の中の血の色を、福井や左近充とおなじ赤い血だとばかり思っていたが、どうやらそれは違うらしい。誰もいない夕暮れの士官室の椅子《いす》に深く体を沈め、梓は目をつむってその色を想ってみた。——寂しい色が見えてくる。それは落暉《らつき》を映した半凪《はんな》ぎの海のように、さまざまに色を変えて輝き、また色を変えた小波《さざなみ》になって、梓の幸福な目に打ち寄せてはまた遠のいていくのだった。臙脂《えんじ》に見え、桔梗色《ききよういろ》に変わり、それが群青《ぐんじよう》になったかと思うと、袂《たもと》を翻すように椿の赤になり、青磁の光を帯びたかと見ると、そこに朱鷺《とき》の色がにじんで、やがて梓の海は、ほっと吐息をつきたくなるような、深い深い紫になって静止した。紫——それは、禁じられた色だった。  誰も料理に手もつけないし、テーブルのグラスには紅《あか》い酒が注がれたままである。みんな押し黙ったまま、腕を組み、瞑目《めいもく》し、長靴《ちようか》の爪先《つまさき》を震わせるだけだった。「竜土軒」の奥の一室は、ほどよいスティームで暖かだったが、福井の頬も左近充の額も、血の気が引いて白々と寒そうだ。みんなは聯隊前のこの店によく集まっているらしいが、梓ははじめてだった。アール・ヌーヴォー風の窓のステンド・グラスに、通りの市電のスパークが映って、灯りを落とした部屋に不思議な色が走る。誰かが、病んだ牛みたいに呻《うめ》いたが、それっきりまた静かになった。この半年、ずっとこうらしい。三人、五人で集まれば威勢がいいのだが、いざ蹶起《けつき》の日を決めようとなると、北さんの曖昧《あいまい》さが気にかかって、誰もがためらってしまうのだという。北さんはこういった密議には決して姿を現さない。人づてに時期|尚早《しようそう》と窘《たしな》めるだけである。そのくせ、有志が訪ねると、やがてその日がくるというお告げがあったと励ますのである。もう北さんのことは考えまいという意見も当然あった。けれど、北さんがいないと不安な気持ちは、全員にあった。ほんとうのところ、いまこの部屋にいる十数人には、誰も陛下が見えないのだ。北さんにだけは、陛下が見えているとみんなが思っているから、北さんのいない蹶起が心配なのだ。五・一五は、北さんが引いた。それに倣《なら》って陸軍も引いた。だから事件の後、何も変わらなかったとみんなは思っている。北さんを信奉していた三上さんが、北さんに逆らって行動に出たことが、どうしても引っかかってならないのだ。魔王はいま、みんなに痩《や》せた背を見せて法華経を称《とな》えている。振り返ってくれない。それなのに、第一師団の満州派遣の噂は、日に日に高くなる。みんな、どうしていいかわからない。今夜、この部屋の沈黙の耐えられない重さは、大き過ぎる矛盾の重さだった。  梓は、さり気なく立って部屋を出た。左近充だけが気づいてチラと梓を見た。福井は梓に早く決心しろと言うが、気持ちの優しい左近充は、よく考えろと言ってくれる。梓は、そんなこと、どっちでもいいと思っている。竜土町から青山一丁目への電車道を、梓は北さんのことを考えながらゆっくり歩いた。夜になってもおさまらない風が、マントの裾《すそ》を大きく吹き上げる。青山御所の真上にかかる半月を掠《かす》めるように雲が飛び、まるで月が走っているようだ。北さんは、いつあの月のように走りだすのだろう。梓は、北さんの黒い疾走を想った。見る見る動悸《どうき》が激しくなる。そのときは、梓も疾走するときだ。北さんに遅れないだけでなく、北さんを追い越して走るための翼を、梓は欲しいと思う。それは、降り注ぐ月光に染められて、キラキラと輝きながら羽撃《はばた》く紫の翼である。  北さんは、何を待っているのだろう。一つの季節がめぐってくると、一つの花が開くように、北さんの庭にも、大輪の紫の花はいつか咲くのだろうか。北さんは夜毎の法華経に托して、陛下を呼んでいるのだと梓は思う。その声が、まだ届いていないのだ。北さんが待っているのは、その声が届く日に違いない。——梓は、「花廼家」ではじめて北さんに逢った日のことを思い出す。陛下、と誰かが口にする度に、北さんの左目は、春先の猫の目のように艶《なまめ》かしく炯《ひか》った。福井や左近充たちが熱心に訴えた憂国の思いなんか、北さんの耳は聞いていなかった。神兵隊事件のころから、そんなことはもう聞き飽きていたのだろう。北さんの悲願は、彼らのそれより、もっと辛く、もっと悲しく、もっと色っぽく、そしてもっと明るかったのだ。冷たい義眼の裏の秘密を見てしまった梓には、今夜、そのことが切ないくらいにわかるのだった。  百面相の塙《はなわ》さんではあるまいし、どうしてお坊さんみたいな姿になったのか、弓が訊こうとする間もなく、小田嶋先生はダブダブの衣を脱ぎ捨て、二重に首にかけた木の数珠《じゆず》をもどかしそうに外し、長い汽車の中で汚れた足袋は履いたまま、弓を押し倒して裾に手を入れてきた。目が血走って、息が荒い。けれど、先生が思いつめた顔をしている分、弓は先生の頭が海坊主に見えて可笑《おか》しくてならない。笑いたい気持ちと、あのこととは、どうも折り合いがつけにくい。せっかく岩手からきてくれた小田嶋先生には悪いけど、弓は手足から腰の辺りまで笑ってしまって、それどころではないのに、思いつめた先生は焦《あせ》りに焦り、そのうち腹を立てていきなり弓の頬をひっぱたいたので、こんどは弓が怒って、思いっ切り胸を突いてやったら、もともと田圃《たんぼ》の青蛙《あおがえる》みたいに痩せた先生は、嘘《うそ》みたいに一間《いつけん》ばかりふっ飛び、ちょうどそこにあった鏡台の角に頭をぶつけて、気を失ってしまった。その音が階下まで聞こえたのか、菊ちゃんと桃ちゃんが飛んできて、さすがの弓も恥ずかしい。  桃ちゃんに手伝ってもらって布団を敷き、その上に先生の体を運んで、濡《ぬ》れ手拭《てぬぐい》で坊主頭を冷やしてあげたら、間もなく先生は息を吹き返し、顔をくしゃくしゃにしたと思ったら、いきなり弓の手をとって泣きだした。桃ちゃんがびっくりして見ていたけれど、弓は小田嶋先生の頭を膝《ひざ》の上に抱いて、肋《あばら》の浮いた胸をさすってやった。 「ごめんね、先生」 「頭が痛い。頭が痛い」 「ごめんね、先生」 「もうぼくは、先生じゃない」 「あらまあ、どうして? どうして先生は先生じゃないの?」 「知ってるだろう、米搗《こめつ》き場《ば》の娘。あの子が去年からぼくの担任で——」 「シマちゃん? シマちゃんがどうしたの?」 「またぼくは……恥ずかしいけど、またぼくは……」 「まさか、先生。だってあの子は、まだ九つか十でしょ?」  呆《あき》れてものが言えない。前にも一度教え子に変なことをして、転勤させられたというのに、悪い癖はまだ治っていないのだから嫌になる。弓の知っているシマちゃんは、雀《すずめ》の巣みたいな赤茶けた髪の、いつもおどおどして、ちょっと頭の弱い女の子だった。いくら北岩手の暗い空に押し潰《つぶ》されているような毎日だって、そんなことにしか先生の情熱はいきどころがないのだろうか。これでは尊敬される啄木だって、迷惑な話だ。弓は情けなくなる。もう一度、鏡台の角に頭をぶつけてやりたくなるが、そこは堪《こら》えて、上に乗ってあげる。顔中、涙でびしょ濡《ぬ》れなのに、そこだけは元気いっぱいなのだから、困った先生である。  弓の下で喘《あえ》ぎながら、途切れ途切れに告白した小田嶋先生の話は、こうだった。——先生が間違いを起こしたのは、シマちゃんとではなく、シマちゃんの母親とだった。去年、年齢《とし》の離れた亭主を持病の喘息《ぜんそく》でなくしたシマちゃんの母親は、何かと心配してくれる小田嶋先生を頼りにするようになり、ことし桜のころ、夜中に米を搗いているところを後ろから先生に抱きつかれて可笑しなことになった。先生の親切はいつも口だけである。お金も力も使わない。それでも寂しい女には嬉《うれ》しいことなのか、シマちゃんの母親は、人目を憚《はばか》りながら先生の痩せた体に溺《おぼ》れていった。そしていまから一月《ひとつき》前、先生が性質《たち》の悪い風邪で寝込んで十日も学校を休んでいるのを知らなかったシマちゃんの母親は、辛《つら》い思いを片仮名で綴《つづ》った手紙を、娘のシマちゃんに学校へ持たせてやった。学校は大騒ぎになった。シマちゃんは、その手紙を校長先生に渡してしまったのである。——ちょうど話のきりのいい、そこまで話して先生は、一声|呻《うめ》いて終わった。さすが先生、歴史の授業で、ちょうど平安時代が終わったところで鐘が鳴るようなものである。  話のつづきは、土産に先生が担《かつ》いできた黍餅《きびもち》を火鉢で焼きながら聞かされた。——以前に起こした事件のこともあって、小田嶋先生は学校をやめた。ところが世の中よくしたもので、やめた途端に盛岡の在にある実家の父親が脳溢血《のういつけつ》で倒れたというのである。先生の父親は、小さな山寺の住職だった。檀家《だんか》も数えるほどで、老夫婦で境内を耕して畑にし、なんとか食べている貧乏寺だったが、それでも路頭に迷うよりはましだったから、小田嶋先生は躊躇《ちゆうちよ》なく頭を剃《そ》った。信心の薄い生臭坊主になったのである。前歯のない口でモソモソ黍餅を食べながら、先生は、それでも未練たらしく啄木の歌なんか呟《つぶや》いている。   石ひとつ   坂をくだるがごとくにも   我けふの日に到《いた》り着きたる  何を寝言みたいに言っているのだろう。先生は怠け者で、向上心がなかっただけの話ではないか。だから弓も、ちょっと意地悪だとは思ったが、啄木の歌を先生に返してやる。   何故《なぜ》かうかとなさけなくなり   弱い心を何度も叱《しか》り   金かりに行く  誤解してはいけない、ぼくは弓に金を借りにきたんじゃない。先生が慌《あわ》てて抗弁する。当たり前だ。白山上の座布団《ざぶとん》女郎にお金の無心するようになったら、人間、死んだ方がいい。もう一つ情けなくなって、弓は火鉢の炭火を口をすぼめて吹く。白い灰が力なく舞い立ったあとに、うっすらと赤い火が光る。小田嶋先生の命も、こんなものだ。痩せて、弱って、溜息《ためいき》ついて、——誰かが吹いてやらなければ、亡《ほろ》んで消える。   どうなりと勝手になれといふごとき   わがこのごろを   ひとり恐るる  ボソボソ言いながら、先生の手の火箸《ひばし》が、灰に字を書いている。ダ、ダ、ダ、ダ……。いくつも、いくつも書いている。ダは、ダメのダだろうか。弓は、鼻でフンと笑った。なんでこんなに寒い夜に、こんなに寒い男につき合っているのだろう。さっきから足の裏が冷たくて、痛いくらいだ。それに、今夜のこの風——裏庭の木に鳴る木枯らしの音かと思ったら、先生が唐津の火鉢を抱いて泣いていた。米搗き小屋のシマちゃんみたいに、鼻を垂らして泣いていた。   己《おの》が名をほのかに呼びて   涙せし   十四の春にかへる術《すべ》なし  思いもよらず、弓は変な歌を口走っていた。先生の顔がゆっくり上がって、小心そうな目が弓を見た。涙で溶けそうな赤い目であった。もうだめだ。弓は先生に飛びついた。堪えても、堪えても、泣けてしょうがなかった。今夜は、思い切り泣いてやる。ことし一年分、悔いのないほど、泣いてやる。  風の中、梓が阿佐ケ谷の家に戻ると、父の甲四郎はまだ起きていて、離れの自分の部屋で一人、酒を飲んでいた。明日は病院へいく日なので、母と遊子はもう寝たらしく、母屋《おもや》はしんと静まり返っている。挨拶《あいさつ》をして寝ようとしたら、ちょっと飲んでいかないかと父は言い、手元の一升|壜《びん》の酒を銅壺《どうこ》に移して火鉢の鉄瓶で温めはじめた。越乃寒梅《こしのかんばい》の辛《から》い匂《にお》いが、父と子が黙って向い合う冬の離れに漂う。肴《さかな》はいつもの烏賊《いか》の黒造りである。こうして父と二人酒を飲むのは何ヵ月ぶりだろう。参謀本部を退いてから一年余りの間に、父はめっきり老《ふ》けこんだように見える。首筋に日焼けの痕《あと》の小さな染《し》みが目立ちはじめ、小鬢《こびん》のあたりには白いものが光っている。失意の甲四郎は、年が明けて五十二になる。  父の盃《さかずき》の脇《わき》に、本が一冊広げられている。手に取ってみると、昔、父が懇意にしていた斎藤|瀏《りゆう》少将の歌集だった。開かれたページの中ごろの一首が、零《こぼ》した酒に濡れている。   よしといひ あしといふとも一すぢに   吾《わ》が歩みたる足跡ぞこれ  思いは、父もおなじなのだろう。甲四郎にはもう、見る夢がない。おととしの秋、三宅坂の参謀本部の庭で私物を焼いたあと、金木犀《きんもくせい》の匂いのする風に吹き流され、宙を彷徨《さまよ》うような足取りで皇居前の玉砂利を踏み、大内山の黒い森を仰いで平伏した父の哀しい姿を、梓は思い出す。父は、陛下に何を詫《わ》びたかったのだろう。ちょうど雲間から現れた月の光に照らされて、玉砂利の広場は白い海のようだった。父は、大海を前に泣き濡れる嬰児《みどりご》であった。——甲四郎は、その夜を最後に、陛下への夢を諦《あきら》めた。  父は、このごろの遊子に回復の様子が見えはじめたと言うが、梓はそうは思わない。奇矯《ききよう》な振舞いが影をひそめた代りに、目に嫌な光が宿ることが多くなった。男を見る目が、以前と違うのである。父や梓に対してだけではなく、出入りの庭師が縁側でお茶を飲んでいるのを、二階の窓からじっと見つめている姉は、体臭の濃い、白い獣《けもの》のようだった。梓は、姉がいまにも欄干を乗り越えて宙を飛び、年老いた庭師に襲いかかりそうな気がして、腋《わき》の下を冷たい汗が流れた。  他にも梓は、父や母には言えない遊子を知っている。先だっての夜、廊下を泳ぐように裸で歩いている姉を見かけ、びっくりして後を追った梓は、深夜の姉の部屋で怖いものを見た。襖《ふすま》の隙間から梓が覗《のぞ》くと、いつもは座敷の欄間に掛かっている陛下の御真影が、姉の布団の上に投げ出されていて、廊下から部屋に戻った遊子が、いきなりそれを裸の胸に抱きしめたのである。鈍い音がして額のガラスが割れ、姉の白い胸のあちこちに血の花が一斉《いつせい》に咲いた。遊子は、低い声で嬉しそうに笑っていた。血を噴き出す胸に抱かれた陛下の大礼服が、赤い大礼服になり、陛下を包む瑞雲《ずいうん》が、茜《あかね》に染まった。梓は思わず傍の柱にすがって紅色の眩暈《めまい》を堪えるしかなかった。姉が笑っている。ククク、クククと笑っている。悪い夢を見ている、と梓は思った。そう思ったのは、目の前の光景のせいだけではなかった。梓は、自分の体が、赤い淫《みだ》らな光に灼《や》かれたように、荒々しく猛《たけ》ったのに驚いたのである。梓の中の血を滾《たぎ》らせたのが、姉の胸に咲き乱れた冬の花なのか、龍顔《りゆうがん》のそこだけ薄くれないに染められた陛下のやわらかな唇なのか——梓は、それについて考えることをすまいと思った。いずれにしても、それは、怖いことだったのである。  甲四郎との間で、遊子の話題は長くはつづかなかった。父も子も、せめてこんな夜ぐらいは、心静かに過ごしたいと思ったのである。梓は、正行に宛《あ》てられた三上さんの手紙のことは隠して、汨羅《べきら》と巫山《ふざん》の故事を父に訊《たず》ねてみた。兄と北さんとの関係、あるいは兄と五・一五の関わりについて、父がどれくらい知っているのか、梓にはよくわからなかったからである。梓の盃に熱い酒を注ぎながら、父は静かに語ってくれた。——汨羅というのは、支那の湖南省|湘陰《しよういん》県を流れる川で、楚《そ》の国の憂国の士として名高い屈原《くつげん》が、その淵《ふち》に身を投げたので知られているという。巫山は、汨羅に近い名山である。そのころ楚は、屈原の考えで北の斉《せい》の国と合従《がつしよう》の同盟を結んで大国・秦《しん》に対していたが、楚の懐王《かいおう》は連衡《れんこう》を唱える奸臣《かんしん》たちの言葉を信じて屈原を退《しりぞ》け、斉と断絶して秦に近づいて、国土の大半を失うことになる。けれど、彼の祖国への思いは熱く、次に即位した王にも忠誠を尽くすが、ここでもやはり佞臣《ねいしん》たちの陰謀に遭って愛する楚の国から追放されてしまうのである。失意の屈原は、ひとり洞庭湖《どうていこ》のほとりを放浪し、天を仰いでは嘆き、地に伏しては怨《うら》み、その傷心を「離騒《りそう》」の長詩《ちようし》に籠《こ》めて、とうとう汨羅江に投身して果てる。  父の目が涙で濡れているのを梓は見た。自分から身を退いたとはいっても、屈原の無念が甲四郎にはわかり過ぎるくらいわかるのだろう。斎藤少将にしても、そうかもしれない。歩いてきたひとすじの道が、突然絶えたのである。風の中を走りつづけて、ふと立ち止まってみれば、そこにはもう誰もいなかった。凪《な》いだ海には、ただ白々と冬の日差しが降り、金木犀の香りのする陛下の幻は羽毛のように心細い雲の向うに流れて消えた。甲四郎にとっては、胴村のこの家は冷え冷えとした汨羅なのかもしれない。少しばかりの酒に揺れながら、いま父は巫山の夢を追って、夜の底に落ちていこうとしている。 「巫山の夢というのを知っていますか?」 「父に聞きました」 「おやおや、剣持閣下は、そんな色っぽい話をご存知でしたか」 「色っぽい?」 「父上は、そうはおっしゃらなかったでしょう。しかし、ほんとうは、色っぽい話なのです」  北さんは、そう言って嬉しそうに笑う。周りの異国の信者たちが眉《まゆ》を顰《ひそ》めて二人を振り返った。大《おお》晦日《つごもり》の夜——ニコライ堂の大伽藍《だいがらん》では、行く年を送り、くる年を迎える弥撒《ミサ》が静かに行なわれていた。信者たちの手の色とりどりの西洋|蝋燭《ろうそく》の炎の揺らめきを見ていると、北さんと二人、見知らぬ国にきているような気持ちになる。赤髭《あかひげ》の司祭がよく響く低い声で聖書を一節読み上げると、数百人の信者たちの声がそれにつづく。まるで、遠くから海鳴りが押し寄せてくるようである。ロシア正教の寺院だから、きっとロシア語なのだろう。男も女も、妙に粘っこく濡れた声で、梓にはそれが、神を讃《たた》えながら陰気に笑っているように聞こえる。そう思って見ると、壁に飾られた極彩色のロシアイコンの使徒たちも、みんな唇を歪《ゆが》めて笑っているようで気味が悪い。やがて司祭と信者たちの朗読が終わり、オルガンが鳴り響いて、祭壇の脇に並んだ少年聖歌隊が歌いだすのを待っていたように、北さんが梓の耳に囁《ささや》く。 「楚の懐王のことは知っていますね?」 「はい」 「女好きの、意気地のない男でしたが、その懐王が、ある日巫山の頂上で昼寝をしていたら、輝くばかりの美しい女が真っ裸で現れて、懐王の体の隅から隅まで、舐《な》め回してくれたそうです」 「——」 「譚人鳳《たんじんほう》という嘘《うそ》つきの爺《じい》さんに聞いた話ですから、当てにはなりません。しかし面白いのは、その裸の女は、女の神だったそうです」 「神ですか」 「そう、神の女です。というよりは、支那では神というのは、ほんとうは、みんな女だと言います。男の姿をしていても、みんな女だそうです」 「——」 「日本ではどうなんでしょう」 「——」 「存外、そうかもしれませんね。私は、そう考えると嬉しくなります。あの人も、髭なんか生やして軍服を着て、男みたいに見えますが、実は女なのかもしれませんね」  北さんは、口をすぼめて笑った。生きている方の左目が、性質《たち》の悪い娼婦《しようふ》のように、濡れ濡れと笑っていた。——梓は、いつか見た夢を思い出していた。子供のころ見た、黄金色《こがねいろ》の夢だった。その人は、むせかえるばかりに咲き匂う金木犀の大樹の梢《こずえ》の辺りに、裳裾《もすそ》の長いキラキラ光る女の衣裳《いしよう》を身につけて、紅色《くれないいろ》の大気の中、ぼんやりと影のように浮かんでいた。あの日の光が梓の網膜に蘇《よみがえ》った。幾条《いくすじ》もの交錯する光線に全身を貫かれ、梓の体内の血が燃え上がった。梓は、澄んだ瞳《ひとみ》の童子に還《かえ》り、声をかぎりに叫んだ。 「陛下!」  六尺ゆたかな異国の男たちが、一斉に梓を振り返った。  梓の声に和するように、ニコライ堂の鐘が鳴る。大伽藍が震え、蝋燭の炎が高々と掲げられ、悲しみの昭和十一年がやってきた。——沸き起こる異国語の歓声に包まれながら、北さんが、子供のように笑った。梓が、魔王のように笑った。 [#改ページ]    第五章 女 正 月  人はほとんどの場合、日を選んで死ぬわけにはいかない。春、花の下で死にたいと願って、望み通りに笑って往生した坊さんもいるらしいが、世の中そううまくばかりはいかない。きちんと勘定を合わせたみたいに、大《おお》晦日《みそか》に死ぬ人もいれば、何もこんな日にということもある。たとえば元日がそうである。正月元日が命日という人の話はあまり聞かないようだが、それはみんなが大きな声で言わないだけで、昔から、ふだんの日とおなじように、人はいくらも死んでいるのだ。  しかし、家族の命日が元日という家庭の正月は、何年|経《た》っても落ち着きが悪いもので、剣持家では、昭和八年の元日に長男の正行《まさゆき》が戦死してからというもの、絶えておめでとうの声が聞かれなくなった。三回忌は去年ごく身内だけで済ませたし、今年あたりから、もう平常に戻ってもいいと梓《あずさ》は思うのだが、門松や輪飾りは世間並みに飾ってあっても、家族四人|揃《そろ》っての朝の祝事は、みんな黙って盃《さかずき》をあげ、黙って頷《うなず》き合うだけだった。  姉の遊子は、胸から袂《たもと》に桃の花の咲き乱れる振り袖《そで》を着て、きれいである。ほんの少しの酒にふっくらと染まった頬も、襟元の花と競ってきれいである。歳《とし》から言って、もう桃の花でもあるまいが、本人がどうしてもと、母にこの着物をせがむらしい。それがまた、遊子にはよく似合う。焦点のどこかおかしい女の目に、どうして盛りの桃はよく映るのだろう。狂って三年、遊子の小さな魂は、垣根の向うへ遊びにいったまま、脱け殻だけが桃の花みたいに、風にふらふら揺れている。その姉が、数の子を摘《つま》んだ箸《はし》を手にしたまま、ゆらりと立って泳ぐように、縁側から庭石伝いに東南のはずれの築山《つきやま》へ向っていく。足元は、今朝下ろしたばかりの足袋|裸足《はだし》である。冬枯れの庭には踏む花もなく、遊子の足は銀色の霜柱の上を滑るようにいく。遊子は築山の向うに、何かを見つけたらしい。梓は、箸を置いて縁先に出てみた。姉が芝居もどきに掌《て》を額にかざして、築山の上から遠くを見ている。そんな遊子のいる辺りだけに春がきたように、桃の花群が匂い立って、それは一瞬の幻かと見紛《みまご》うばかりの麗《うらら》かな風景だった。「お父さま、お母さま!」。裏の林のヒヨドリに似た声で遊子が叫び、家族たちが庭に下り立ってみると、薄青く霞《かす》んだ東南の空に、半分だけの朝の虹《にじ》が架かっていた。虹が折れている。そんな虹を見るのは、はじめてだった。——この家族の中の誰かが、ことし死ぬ。きっと、死ぬ。何の脈絡もなく、けれど鋭く、梓は思った。それがいま揺れる後ろ姿を見せている遊子であっても、怪訝《けげん》そうに眉《まゆ》を曇らせている母であっても、あるいは、虹にすぐ背中を向けて座敷に戻った父であっても、——何の不思議もないように梓には思われた。  剣持家の昭和十一年は、こうして明けた。  仏壇の正行の写真が一廻り小さくなったのは、やはり去年の正月からだったと思う。一廻り小さくなって、兄は、祖父や祖母とおなじ過去帳の中の人になった。だから、この家の仏壇の扉が朝から開かれているのは、かならずしも今日が正行の祥月《しようつき》命日だからというわけではない。母は身内の死者たちのために、いつも元旦《がんたん》には新しい花を飾り、小振りの椀《わん》の雑煮に木箸を添えて供え、火鉢に火をおこして人気のない仏間を暖かくする。そう思って眺めると、軍服姿の兄の写真には、色の薄い黄菊がいつの間にか似合うようになった。これが死者になっていくということなのかもしれない。かつての日、真夏のダリヤに喩《たと》えられた女も、楚々《そそ》として秋海棠《しゆうかいどう》と囁《ささや》かれた人も、こうしていつか小菊が似合うようになる。  仏壇の前に坐っていると、時が止まったように静かなようで、いろんな音が聞こえてくるものだ。武蔵野の名残りを残したこの杉並辺りでは、まず鳥の声が近い。メジロ、ムクドリ、シジュウカラに、オナガ——梓でさえ二十年住むうちに、それぞれの声を聞き分けられるようになった。照る日、曇る日で、その啼《な》き声が違うのも面白い。今朝のように気持ちよく晴れた朝は、鳥の声もあちこちで忙《せわ》しく弾んで甲高い。それに、冬の朝は高い空の風が混じる。切れ目があるような、ないような、澄んで高い音である。地を低く吹く風は、この辺りに多い杉や橡《とち》や椋《むく》の木の梢《こずえ》を鳴らす。ときに、その音は、遠い海鳴りのようでもある。——目をつむって深く息を吸い、静かに吐きながらそれらの音を聞いているうちに、梓は死者たちが何かを梓の耳に吹き込んでいるように思えてきた。兄の正行だけではない。もう写真を見ても思い出せない、ずっと以前に死んだ祖父や祖母の低い声が、この仏壇にはいない伯母や従兄《いとこ》のぼんやりとした声が、くぐもり、響き合い、縺《もつ》れ合って、ついそこまで押し寄せてきているようだった。彼らは梓に何を伝えたいというのだろう。そして梓は、突然死者たちが自分を呼んでいると思った。家族の一人がことし死ぬというのは、他ならない梓のことなのではないか。  羽子板をつく女の子の声で、梓は救われた。腋《わき》の下にじっとりと熱い汗をかいていた。半分に折れた虹なんか見たせいかもしれない。それにゆうべの寝不足もあって、今朝の梓は変なことばかり考える。こんなことでは、いけない。梓は庭下駄を突っかけて裏の井戸端へ走り、着物を脱ぎ、裸足になって冷水摩擦をはじめた。胸や腹の筋肉が、気持ちよく朝の水を弾《はじ》く。ここまで鍛え抜いた体が、滅びるはずがない。梓は踏み広げた自分の足が、大地からそのまま生えだしたもののように感じた。もう死者たちの声は、どこからも聞こえてこなかった。梓の体は、激しく生きていた。この体内に燃える力を、何としよう。十二束三伏《じゆうにそくみつぶせ》の剛弓から放たれた矢だって、今日の梓の肉体を貫くことはできまい。  正月早々妙なことと言えば、白山上の銘酒屋街でも朝の暗いうちから一騒ぎあって、「花廼家《はなのや》」の女たちは揃って寝不足だった。明け方、女たちが安い体を売る家々が並ぶ、お七坂を下りきったところにある円乗寺で小火《ぼや》があったのである。とは言っても、火が出たのはお寺さんからではなく、境内の西の隅に一つだけ離れて建っている小さなお堂からだった。お堂の奥には埃《ほこり》だらけの摩利支天が祀《まつ》ってあったらしいが、この像というのが、明治の末ごろ、つまり|啄木《たくぼく》がこの界隈《かいわい》で女遊びをしていたころ、旅の僧が彫ったいやに卑猥《ひわい》な顔をした仏だったという。だいたい台座が朱で、三面六臂《さんめんろつぴ》の三つの顔が、それぞれ赤、黄、青の三色だというから賑《にぎ》やかである。そんなわけで本堂に置くわけにもいかず、さりとて捨てれば仏罰が怖いというので、ときの住職がいい加減なお堂を建ててお茶を濁したのだった。だから、中には壊れた仏具や黴《かび》の生えた経文やら、マッチ一本で燃え上がりそうなガラクタが堆《うずたか》く積まれ、冬などは宿無しの浮浪人の格好の寝場所になっている。  まず円乗寺の縁の下を塒《ねぐら》にしている猫たちが騒ぎだしたというから、さすが猫坂と異名のあるお七坂の小火らしい。弓たちがショールをかぶって走ったころには、もう本郷の消防が三台もきていて、お堂はすっかり焼け落ち、辺りの木の枝がくすぶっているくらいだったが、ふだん火の気がないところだというので、制服の巡査と鳥打帽の刑事らしいのが、四、五人で焼け跡に屈《かが》んで何か調べているようだった。その中に、いつかの夜、弓の部屋に上がって、てふ姉さんのことをしつこく訊《き》いた顔があったので、弓はびっくりした。女将《おかみ》のおゆうの話では、ああいうのを思想関係の刑事というそうだが、こんなけちな小火ぐらいで、どうして思想関係とやらが出張《でば》ってくるのだろう。その刑事が、見物の連中から何やら訊きだそうとしている。このお堂に寝泊りしている男を見かけなかったかとか、煙草《たばこ》の火を見た者はいなかったかとか、糸を引いて粘るような刑事の低い声は、弓が二度と思い出したくない気味の悪い声だった。菊ちゃんと桃ちゃんの袖を引っ張っても、火事見物が好きなのか、生返事しかしないので、弓は下駄の音をひそめて野次馬の群れから離れ、いつあの刑事に背中から呼び止められないかとドキドキしながら、一人小走りに坂を上がり、「花廼家」へ帰った。  小一時間ほどして戻ってきた菊ちゃんと桃ちゃんは、火の匂《にお》いに気が立っているのか、帳場の火鉢に火をおこして寝ようとしない。鳳仙花《ほうせんか》だけは降りてこないが、女将のおゆうも楽《らく》ちゃんも起きだしてきて、東の空が白むというこんな時間に、帳場は火事談義に花が咲いている。界隈に火事がないように八百屋お七の供養《くよう》をしているのに、今夜のようについお膝下《ひざもと》で小火が出たんじゃしょうがない。大きくならなくてよかったが、大きくなったとしてもここらは大丈夫、震災のときだって風は坂上から坂下へ吹いたから助かったのさ。ところで、猫坂の猫たちはどうしたろう。円乗寺さんの境内じゃ、キナ臭くて寝られまい。と、おゆうが心配したところで、猫が一声甘えて啼いた。いつ紛れ込んできたのか、偏屈者の蝶次郎《ちようじろう》である。途端におゆうは形相を変え、シッシッと怖い目で睨《にら》んだと思ったら、いきなり手の煙管《きせる》を蝶次郎めがけて投げつけた。  寝そびれた弓は、思い立って押入から柳行李《やなぎごうり》を引っ張りだし、その底を探って、たった一枚持っているてふ姉さんの写真を取りだした。ちょうどいまから三年前、昭和八年の元日の夜更《よふ》けに、てふ姉さんは言問橋《ことといばし》から真逆様に身を投げて死んだ。袂《たもと》や帯の隙間に、いっぱいに石を詰め込んでいたので、死体は新年宴会の五日の朝まで上がらなかった。吉原辺りではそんな言い伝えでもあるのか、てふ姉さんは、有名な見返り柳の細い枝に、藁半紙《わらばんし》に鉛筆で書いた貧しい書き置きを結んで川へ走った。≪みなさん、ごめん≫。その一言に、姉の無念や、心残りや、どっちを向いても行き止まりの情けなさや、笑いだしたくなるほどの馬鹿《ばか》馬鹿しさや——そんな思いが籠《こ》められているのが、すぐ下の妹の弓にはよくわかった。字も上手だったし、ちゃんとした文章も書ける人だったのに、小学一年生みたいに、迷って行き暮れた文字だった。  あの年の冬は変に暖かだった。千束村《せんぞくむら》の焼場で、てふ姉さんを骨にした帰り、山谷堀《さんやぼり》の脇《わき》の浄閑寺というお寺で、持っていた五円分の短いお経を読んでもらい、弓は骨壺《こつつぼ》を抱いて日本堤をぶらぶらと歩いた。てふ姉さんの骨は、二時間|経《た》ってもまだ熱く、拭《ぬぐ》っても拭っても掌《てのひら》が汗ばんだ。紙洗橋に立って今戸《いまど》の方を見たら、煤《すす》けて赤い夕空に、凧《たこ》が一つだけ頼りなげに浮かんでいた。鍾馗《しようき》様のようにも見えたし、児雷也《じらいや》のようにも思えた。てふ姉さんの鼻の下に、あの凧みたいな立派な髭《ひげ》を描いてあげて、高いところの好きだった姉さんを、一度でいいから、空の高みで遊ばせてやりたかった。てふ姉さんが行方知れずになった報《しら》せを受けた元旦の夜からそのときまで、どうしてか出なかった涙が、突然、洪水のように弓の目に溢《あふ》れた。声を上げて泣きながら、弓は≪みなさん、ごめん≫と姉の代りに、橋の上から叫んだ。  てふ姉さんが笑っている。渋民村から東京へ売られていって、半年ほど経って送られてきた写真である。都会風に前髪を鶏冠《とさか》みたいに巻き上げ、小梅を散らした銘仙を着て笑っている。襟を心持ち抜いた着方がちょっと気になるくらいで、てふ姉さんは不幸せそうには見えなかった。鏡台の上の、ウテナの化粧水の瓶に立てかけて写真を飾る。あとで階下《した》の床の間から、花を一輪盗んできて添えよう。写真が倒れないように、使いさしの紅皿をあてがうと、弓の鏡台は妙に色っぽい仏壇になった。弓はお経を知らないから、祥月命日の供養には、歌でも歌うしかない。   怨《うら》みますまい この世のことは   仕掛花火に 似た命   もえて散る間に 舞台が変わる   まして女は なおさらに  こんな歌、てふ姉さんが好きだとは思えないが、仕方がない。弓は、ひとこと、ひとこと、噛《か》んで吐き出すようにして歌った。そうしないと、あの世のてふ姉さんの耳に、届かない。   意地も人情も 浮き世にゃ勝てぬ   みんなはかない 水の泡沫《あわ》   泣いちゃならぬと 言いつつ泣いて   月にくずれる 影法師  弓は部屋の真ん中に敷いてあった赤い布団《ふとん》を引きずってきて、鏡台を枕《まくら》に敷き直した。それから写真のてふ姉さんに片目をつむり、布団にもぐって眠った。弓が眠りに落ちるのとすれ違いに、伝通院の森の上にことしの初日がゆっくりと昇ってくる。 「花廼家」の昭和十一年は、こうして明けた。  桃ちゃんが鰹節《かつぶし》を削り、菊ちゃんが座敷の火鉢でお餅《もち》を焼く。お雑煮の汁を作るのが楽ちゃんで、形ばかりのお節《せち》料理を銘々皿に取り分けるのは、ここ何年も弓の役割になっている。鳳仙花だけは、お国が違うので、台所の七輪で酒の燗番《かんばん》である。だいたい支度ができたころ、近所の髪結いへ早くからいっていた女将のおゆうが、丸髷《まるまげ》の裾《すそ》に手を当てながら、下駄を鳴らして帰ってくる。どこかしら滑稽《こつけい》な春婦《しゆんぷ》たちの正月である。  主人の喜久造も隅っこにいるにはいるのだが、もともとぼんやりと影の薄い男なので、八畳の座敷は女たちだけの正月に見える。とは言っても、黒の羽織を着てきちんと装っているのはおゆうだけで、あとの女たちは普段通りの長襦袢《ながじゆばん》の上に茶羽織を羽織ったしどけない姿である。弓みたいに髪を紅《あか》い手絡《てがら》でまとめているのはいい方で、楽ちゃんなんか、起きてそのままのざんばら髪で数の子をかじっている。ことしは数の子の不作の年だという。一人一切れなのに、噛んでも歯応《はごた》えのない、ふやけた数の子である。 「去年も言ったかもしれないけど、あんたたちは幸せものだよ」。おゆうが前歯に挟まった餅を、行儀悪く箸の先で突つきながら言う。 「あら、どうしてでしょう」。元旦早々、口を尖《とが》らせるのは菊ちゃんである。 「だってそうじゃないか。いいかい、世間では、こんなお元日の朝から女がご馳走《ちそう》を食べてなんかいられないんだよ。ゆっくりお屠蘇《とそ》も祝えなきゃ、お雑煮だって箸をつけたかつけないうちに、立たなきゃいけない。それじゃ、あんまり女が可哀相《かわいそう》だっていうんで、日を改めて一月十五日に女正月ってのをやるんだよ」 「女正月って、何ですか? 私、知らない」。女正月にかぎらず、桃ちゃんはたいていのことを知らない。 「男たちの正月が終わって、ほっと一息ついて、十五日の朝、お飾りや書き初《ぞ》めを燃やしたら、それから半日が女正月なのさ。私ゃこれでも高輪《たかなわ》のちょっとしたお邸《やしき》で育ったから、よおく憶《おぼ》えているよ。この日ばかりは女の天下、お祖母《ばあ》ちゃんも、おっ母さんも、私たち娘も女中たちも、みんなで車座になって、飲んだり食べたり、楽しかったねえ」。おゆうのこの手の話がはじまったら、とにかく聞いてやらなければならない。そこのところを、楽ちゃんはよく心得ていて、 「私たちの地方じゃ、十五日はドンド焼きって言いますよ。やっぱり東京は粋《いき》だねえ、女正月だなんて」。楽ちゃんは、確か岡山の在の出である。 「それはそれで、また違うのさ。正月の松や注連縄《しめなわ》を燃すのを、関東じゃ左義長《さぎちよう》っていうんだよ。お宮さんや、お寺さんの境内で大きな火を焚《た》いてさ、楽しかったねえ。そうかい、楽ちゃんの方じゃドンド焼きかい。面白いねえ」  話に入るでもなく、相槌《あいづち》を打つでもなく、大人しく食べていた鳳ちゃんが、そっと席を立つ。暮れの例の事件からというもの、前にも増して口数が少なくなった代り、肌理《きめ》の細かい白い襟足にかかる二筋三筋のほつれ毛が、このごろいやに色っぽい。そんな鳳ちゃんを見送っていた桃ちゃんが、弓の耳元に囁《ささや》く。 「鳳仙花さん、さっき台所でこっそりお餅を三つ、袂に入れてました。私、見ました」  梓が聯隊《れんたい》の式典に出るため、二階の自分の部屋で支度をしていると、廊下を忍んだ足音が近づいてきて、掠《かす》れた女の声が囁いた。 「正《まさ》兄さん、あたし」  姉の遊子である。梓は小さく溜息をついた。このところ、よく姉は梓のことをそう呼ぶ。ふとそんな風に錯覚するのか、兄と弟の区別がつかなくなっているのか、どこか螺子《ねじ》の緩んでしまった姉の頭の中を想像してみたところで、どうなるものでもあるまいが、その声が日に日に哀《かな》しげになっていくのを聞いていると、梓は胸の真ん中に赤い錐《きり》を突き立てられたように、一瞬息が止まりそうになる。 「姉さんですか。いま出かける支度をしています」 「よかった、間に合って。遊子、お手伝いします」  足音の縺れ具合で心配していた通り、行儀正しく膝《ひざ》をついて襖《ふすま》を開けた姉は、襟をはだけ、裾を大きく乱した鳩羽色《はとばいろ》の長襦袢姿だった。 「お勤め、ご苦労さま」  三つ指ついて見上げる目が、病んだ猫のように薄赤い。遊子は静かに立ち上がり、するすると梓に近寄ったと思ったら、いきなり、いま掛けたばかりの軍服の釦《ボタン》に手を伸ばし、上から順に外していく。母の鏡台から盗みだしてきたのか、姉の胸元からはヘリオトロープの強い匂いが匂ってきて、梓は姉に気づかれないように、首を反らせて逃げた。 「姉さん、梓は帰ってきたのではありません。これから出かけるのです」 「遊子も、いま戻ってきたところです。今日は一日、ほんとうに暑かった。去年、正兄さんに買っていただいた日傘《ひがさ》をさして出かけたのですが、それでも暑くて、遊子、お行儀が悪いとは思ったけど、道端で氷を食べてしまいました」 「ほう、氷屋が出ていましたか」 「はい。葦簀《よしず》張りの屋台に青い旗がきれいでした。遊子、何を食べたと思います?」 「さあ——」 「氷苺《こおりいちご》にきまっているじゃありませんか。ザラザラした氷に、赤いシロップがにじんでいくのって、きれい。ほんとうに、きれい。あんまりきれいなんで見惚《みと》れていたら、急にお腹《なか》が重くなって、道端で遊子、あれになってしまいました」  姉は梓の上着を脱がせながら、裏の林の四十雀《しじゆうから》みたいにさざめき笑う。笑いながら胸で大きく息をつく。こうして見ると、姉はほんとうに暑いらしく、首筋や鼻の頭にうっすら汗をかいているのが、梓には、小さいころから驕慢《きようまん》に咲き誇る大輪の花のように眩《まぶ》しく眺めてきた弟として、たまらなく恥ずかしく、恥ずかしい以上に悲しかった。この姉の熱い体を、いったい誰が鎮《しず》めてやれるのか。父や母は、ただ不憫《ふびん》と胸を痛め、目を伏せてはいるが、それは遊子の中の火に風を送らないというだけで、静かに冷ましてやることにはなっていない。風はなくても炎はつのる。誰かが、もう一つの熱い大きな火になって遊子の火を包みこみ、抱きかかえ、天を衝《つ》く火炎樹となって湖の底に沈まなければ、可哀相な姉は、眠ることさえできない。火になろうと梓は思った。姉の前に跪《ひざまず》き、その胸をはだけようとした。——階段を足早に上がってくる音がする。 「梓さん、そろそろ出かけないと、遅れますよ」  母の声は、泉から汲《く》み上げた若水のように、澄んでいた。  梓は酔っていた。もうみんな帰ってしまった週番士官室に一人残って、椅子《いす》から床に崩れてなお、酒の茶碗《ちやわん》を離さなかった。聯隊の式典が終わって三時間にはなる。麻布の町は静かで、西の窓からやわらかな薄日が射《さ》し、梓がうずくまっている床にぼんやりと影を落としている。無性に誰かに傍にいて欲しかった。残って介抱してくれようとした福井と左近充《さこんじゆう》を、追い払うように帰してしまったのを、梓は悔やんでいた。士官学校のころは、いつも酒癖のよくないあいつらの面倒をみてやったではないか。生徒監の目を盗んで、夜中に一升|壜《びん》を持ち出し、練兵場の真ん中で三人肩を組み、抱き合うようにいっしょに歌った仲ではないか。   誉《ほま》れも高き楠《くすのき》の   深き香りを慕いつつ   鋭心《とごころ》みがく吾等《われら》には   見るも勇まし春ごとに   赤き心に咲き出《い》ずる   市ケ谷台の若桜  声が掠《かす》れて苦しかった。朗々と歌っているつもりが、切れ切れの呟《つぶや》きにさえならなかった。どんよりと曇った視界に、姉の、間近に息づく白い胸が閃《ひらめ》いては消えた。ほんの一瞬垣間見た遊子のふくらみには、幾すじかの赤い傷痕《きずあと》が走っていた。あの、風の強い暮れの一夜、御真影を抱きしめてガラスが割れ、そのときに血を噴いてできた傷である。姉の胸は、あちこちに血の玉が飛び散って、うららの春の芥子畑《けしばたけ》のようだった。陛下の優しげな肩から胸を飾る勲章も、一つ一つが紅色に輝いていた。陛下の全身は、あの夜、狂った遊子の血に染まった。思い出して梓は、体中の血管が膨れ上がるのを覚えた。今朝、母の見ている前でも、姉を抱かなければいけなかったのだ。そうすることで、姉の哀れな火は鎮められ、陛下の龍顔《りゆうがん》を汚《けが》した罪は罰せられ、姉の傷だらけの白い胸を、梓の厚い胸が押し潰《つぶ》すことで、梓は陛下に束《つか》の間《ま》触れることができたのだ。——梓は泣いていた。泣きながら歌っていた。   ああ山行かば草むすも   ああ海行かば水漬《みづ》くとも   など顧《かえり》みんこの屍《かばね》   われらを股肱《ここう》とのたまいて   いつくしみます大君の   深き仁慈《めぐみ》を仰ぎては  陛下に、逢《あ》いたい。——梓は椅子に縋《すが》って立ち上がり、縺れる足で扉へ走った。両手を広げて雲の中を飛行しているようだった。走る梓の目の端に、赤みを帯びて鋭い太陽の箭《や》が入った。陛下! と叫んだつもりだったが、口元が緩み、舌が上手《うま》く廻らなくて、代りに梓の唇から洩《も》れたのは、低い呻きと重い涎《よだれ》だった。あの光の生れているところに、陛下が微笑《わら》って立っている。梓は太陽の矢に胸を貫かれようとでもするように、光に向って真っすぐに跳躍し、西の硝子《ガラス》窓を破って営庭に転がり落ちた。両の掌《て》や指から、黒ずんだ血が噴きだしている。口の中も、どこかが切れたらしく、乾いた梓の舌の上に、甘い血の味がゆっくりと広がっていった。  Akemasite omedeto. Watasi wa akete nijuiti ni narimasita.  Kyo wa Tyo-neesan no meiniti desu.  ——明けましておめでとう。私は明けて二十一になりました。今日はてふ姉さんの命日です。——たったそれだけ書いて、弓は疲れてしまった。しばらく怠けていた弓のローマ字日記である。これで正しいのかどうか、自信もないが、小田嶋《おだじま》先生がこんどきたときに見てもらうしかない。けれど、小田嶋先生に見られると思うと、恥ずかしかったり、悔しかったりして、ほんとうの気持ちが書けない。ローマ字の勉強もしなくてはならないが、ほんとうにその日考えたことを正直に書かなければ、日記ではない。いつか弓の部屋に上がってくれた帝大の学生さんが言っていたけれど、啄木のローマ字日記はほんとうに凄《すご》いらしい。どんな格好で女と寝たかとか、拳骨《げんこつ》を女の中に突っ込んでやったとか、とても恥ずかしいことがいっぱい書いてあるという。ニヤニヤ笑って啄木のそんな話をしながら、若いのに髪の毛の薄い学生さんが、弓のあそこに手を伸ばしてきたので、弓はびっくりして突き飛ばしたのを憶えている。拳骨なんか入れられたら、大切な商売道具が壊れてしまう。  商売道具で思い出したが、弓にはこの二、三日、気になっていることがある。左の腿の内側に、薄い葡萄色《ぶどういろ》の、痣《あざ》みたいなものが浮きだしているのである。痛くもなければ、痒《かゆ》くもないが、なんだか気持ちが悪い。長さ二|糎《センチ》ばかりの、あれは勾玉《まがたま》というのだろうか。子供のころ絵本で見た、因幡《いなば》の白兎《しろうさぎ》を救《たす》けた大国主命《おおくにぬしのみこと》が、首にかけている首飾りの石みたいな形をしている。三種の神器の一つが、こんなところにできるなんて罰《ばち》があたりそうだが、もし変な病気だったらもっと困る。女将や朋輩《ほうばい》たちに訊くわけにもいかないし、病院で診てもらおうにも、正月では開いているはずがない。お客をとったって、覗《のぞ》かせなければいいのだから、とりあえず不都合はないのだが、もしやだんだん大きくなったりしたらどうしようなどと考えると、やっぱり落ち着かない。いつも後始末はちゃんとしているし、水曜日の検診だって休んだことはないのだから、そんな心配はないんだと、自分に言い聞かせるしかない。こんなこともあるのだから、大事に労《いたわ》ってやろうと、弓はつくづく思う。ここは女の命である。剣持さんの提げている剣のようなものだ。  階下で弓を呼ぶ男の声がする。剣持さんかとドキッとする。もし内腿の勾玉が悪い病気で、帝国軍人に伝染《うつ》したりしたら申し訳ないと思ったのである。弓は安心した。階段を降りてみたら、赤い顔をして土間に立っていたのは、千里眼の花輪さんだった。襟に破魔矢を挿して、額にべったり湯島さんのお札《ふだ》を貼《は》りつけて笑っている。正月早々、お客がついてくれるなんて、有り難いことである。精一杯愛想よく笑いかけようとした弓の顔が凍りついた。花輪さんの背後の暖簾《のれん》を分けて、今朝方の火事場で見かけた、あの思想関係とかの刑事がゆらりと入ってきたのである。 「おや、そんな派手な長襦袢を着てていいのかい。今日は、姉ちゃんの祥月《しようつき》命日じゃなかったかな?」  嫌なことを憶えている男だ。白目の多い細い目が意地悪そうに笑っている。そこへ、うまい具合におゆうが出てきてくれたので、弓は男には返事もしないで、怪訝《けげん》そうな顔をしている花輪さんの手をとって二階へ上がった。階段の途中で振り返ると、刑事は図々《ずうずう》しく帳場へ上がるところだった。いったい何をしにきたのだろう。  浴衣《ゆかた》に着替えながら、花輪さんが言う。 「今朝の虹を見たかい」 「虹って、何です?」 「半欠けの虹が出たのよ。あれは八時ごろだったかな」 「あらまあ、そうでしたか。生憎《あいにく》そのころは寝てましてねえ。明け方、坂下の八百屋お七のお墓があるお寺で小火《ぼや》があって、みんなで見物してたもんで、寝たのは六時を廻ってましたっけねえ」 「いや、あんなものは見なくて幸《さいわ》いってもんよ。俺《おい》らも見なきゃよかった」 「縁起でも悪いんですか?」 「そりゃお前、なにしろ半欠けだもんな。見ない方がいいに決まってる。それがお前、俺《おい》らは二度も見てるってんだから、いつまで経《た》っても運が開けないのもわかるわな」 「あらまあ、前にもそんなことあったんですか」 「あれは、大正十二年の正月よ。お前、あの年、どこにいた?」 「私ゃ岩手で、半欠けじゃないきれいな夢を見てましたよ。まだなんにも知らない生娘《きむすめ》でしたからねえ」 「そりゃいい按配《あんばい》だったな。しかしな、虹って奴《やつ》はほんのちょっとした気候の加減で、場所によっては見えたり見えなかったりする。つまり、見た奴の方が全然少ないってことよ。だから俺《おい》ら、東京にいてもろくなことはないと思って、その年はほとんど地方の巡業で暮らした。そしたらお前、案の定——」 「どうしました?」 「関東、大震災よ」  そんなもの見ようが見まいが、たいした変わりはないと思うが、花輪さんは千里眼をやっているせいか、大まじめである。ことしも旅に出ようかなどと、ブツブツ言っている。半欠けの虹のせいか、お酒のピッチも今日はいやに早い。弓が、新しいお銚子《ちようし》を取りにいこうと廊下へ出たら、袖を掴《つか》んで止めようとする女将の腕を振り切って、あの刑事が鳳仙花の部屋へ入っていくのが目に入り、慌《あわ》てて弓は部屋へ戻って、音を立てないようにそっと襖《ふすま》を閉めた。鳳仙花の部屋から、鳳ちゃんの不貞腐《ふてくさ》れた声と、乱暴に押入を開ける音が聞こえる。虹も見ていないのに、縁起の悪い正月だ。  酒はもういいと言って、花輪さんは弓に布団を敷かせ、敷いている間に裸になって、いきなり弓の上に乗ってきた。そして一頻《ひとしき》り弓の首筋を吸っていたと思ったら、急に起き上がって、弓の左足を肩に担《かつ》ぎ、右足を押さえつけてきた。ひんやりと勾玉の辺りが寒い。花輪さんが入ってくる。ああ、ことしが始まる、と弓は思った。——音もなく、布団に捻《ね》じつけられた弓の顔の正面の襖が開いた。弓が長い悲鳴を上げた。細い目をもっと細くして、刑事が部屋の四方に目を配る。花輪さんが、弓の足を担いだまま、小腰を屈めて挨拶《あいさつ》している。死んだ魚のような白い目で、しばらく弓の顔を眺めて、刑事は出ていった。足音が階段を降りていく。——それを待っていたように、背中の窓がスルスルと開いたので、弓はもう一度叫びそうになった。いつかの夜、「花廼家《はなのや》」から逃げた朝鮮の男の小さな顔が、窓の隙間から覗いて、その目が縋《すが》るように何かを弓に訴えていた。  円乗寺のお堂で煙草《たばこ》を吸って小火を出したのは、この男だった。弓たちが見物に出かけたのとすれ違いに、鳳仙花の部屋に逃げ込んだに違いない。鳳ちゃんが台所でくすねてきたお餅を食べて、日が暮れるのを待っていたところを刑事に踏み込まれ、窓から出て樋伝《といづた》いに弓の部屋に現れたというわけだ。階下《した》へは降りたが、刑事はまだ帰ったとはかぎらない。もう一度、この部屋にやってくるかもしれない。弓は、腰から下がガタガタ震えて怖かった。どうしていいかわからないので、とりあえず男二人の首を両腕に抱え込んで布団を被《かぶ》った。新撰組《しんせんぐみ》に襲われた勤王の志士をかくまう、祇園《ぎおん》の名妓《めいぎ》の気持ちだった。朝鮮の男の吐く荒い息が、弓の裸の胸に熱い。その息とおなじくらい熱い手が、弓の勾玉の辺りを探ってきた。こんなときに、とんでもない男だと思ったら、それは花輪さんの手だった。花輪さんが、弓の耳に囁《ささや》く。——一度したいと思っていたんだ。三人でやろう。  弓は喘《あえ》いでいた。堪《こら》えようと思えば思うほど、熱いものがお腹《なか》の中を駈《か》け巡る。まるで半折れの虹で胎内を貫かれ、灼《や》かれ、残りの半分を瞼《まぶた》の裏に見ている気持ちだ。三人ですることは諦《あきら》めたが、一つ布団の中で他の男に見られていることが、花輪さんを異常に昂《たか》ぶらせているらしく、花輪さんは弓の腰を抱えて、動物園の尾長鶏《おながどり》みたいに首を振りながら啼《な》いている。俯《うつぶ》せに布団に頬をこすりつけた弓の顔のすぐ前に、朝鮮の男の涙に濡《ぬ》れた顔がある。顴骨《かんこつ》が高いのがちょっと気になるだけで、鼻筋が通ってきれいな顔である。なんだかとても可哀相《かわいそう》になって、弓は男の手を探りあて、指に指を絡《から》ませてしっかり握りしめてやった。顔は小さいのに、節くれ立った太い指だった。鳳ちゃんはきっと、この顔も、この指も、大好きなのだろう。この人も、鳳ちゃんの沈んだ声や、新月みたいな優しい眉《まゆ》を大好きなのだろう。そう考えたら、弓は嬉《うれ》しいような、悲しいような気持ちになって、涙がこぼれた。男も絞るような声を立てて泣きだした。泣いては何か激しく呟き、呟いてはまた泣いた。鳳ちゃんのお国の言葉は、さっぱりわからなかったが、そんなことはどうでも良かった。鳳ちゃんも、この部屋へきて、いっしょにすればいいのに、と弓は気が遠くなりながら思った。そうしたら、花輪さんも、この人も、弓も鳳ちゃんも、みんな一つ気持ちの仲間になれるのに——。こんなに気持ちがいいのは久しぶりだった。ことしは、きっといい年だ。  玉砂利を踏んでいく長い影法師が揺れている。陛下、陛下と譫言《うわごと》を言いながら、よろめいている。血塗《ちまみ》れの梓は、這《は》うようにして麻布の聯隊《れんたい》の営門を出て乃木坂《のぎざか》を下り、山王ホテルの前から虎《とら》ノ門《もん》を左に曲がって桜田門に突き当たり、祝田橋《いわいだばし》の角で体の中のものを吐いて、いま二重橋へ向かおうとしている。ここまで、いったい何時間かかったことだろう。まだ目の裏に残照が揺れているのに、ふと見上げると、昭和十一年元日の月はもう中天にかかろうとしている。——あれは五歳のころだったろうか。父の甲四郎と、やはり元日にここに立ったことがある。もちろん日が高い時刻だった。たくさんの人がいた。たくさんの人の玉砂利を踏む音が、海鳴りのようだった。甲四郎と梓は、お濠《ほり》にいちばん近いところに立っていた。目を上げると、大内山から吹き下ろす冷たい風に水の面が波立ち、それに冬の日が映えてキラキラと眩しかった。父が、小さい梓に、いつものように訊《たず》ねた。——今日は、陛下とどんなお話をした? はい。今日は、花のお話をしました。ほう、それは正月らしくていい。陛下はどんな花がお好きとおっしゃった? 陛下は、しばらくお考えになって、赤い花だとおっしゃいました。そして梓に、赤い花は嫌いか? とお訊《たず》ねになりました。ほう、それで? 好きです、と申し上げました。吾亦紅《われもこう》も、曼珠沙華《まんじゆしやげ》もみんな好きだと申し上げました。陛下はちょっとびっくりなさって、どうしてそんな難しい花を知っているのかとおっしゃいました。で、梓は何と言ったのだ? 遊子姉さんに教わりましたと申し上げました。陛下は、そうか、優しい姉さんがいて幸せだなとおっしゃいました。——陛下、赤い花を摘んでまいりました! 梓は乾いた血のこびり着いた両掌を、皇居に向って高くさし上げた。梓の耳元で風が鳴った。梓はその中に、陛下の声を聴いた。——そうか、それは有難う。早く私に見せてくれ——。激しい水音がして、水面に大きな輪が広がった。石垣から梓がお濠へ飛び込んだのである。背中に叫び声を聴きながら、梓は抜手をきって、真っすぐに対岸の黒い森に向って泳ぎだした。固く結んだ唇に、幻の赤い花を咥《くわ》え、梓は陛下の待つ森へ、水《みず》飛沫《しぶき》を上げて泳いでいった。  皇居のお濠に飛び込んだというのに、わずか一時間ほどで放免されたのには、いろんな幸運が重なっていたと言わなければならない。まずは、事件を扱うことになったのが、憲兵司令部でも、皇宮警察でもなく、所轄《しよかつ》の丸ノ内署だったこと、次に偶然の目撃者二人が梓に好意的であってくれたこと、さらには、担当の警察官が定年間近のいい人だったことなどが幸いしたのである。扱いようによっては大事件である。一人の青年将校が、夜陰に紛れて濠を渡り、皇居に侵入しようとしたと思われても仕方がなかったし、実際梓はそのつもりだったのだ。けれど、数|米《メートル》離れたところで見ていた制服の女学生二人が、口を揃《そろ》えて梓が誤ってお濠に落ちたと証言したのである。梓としては、競泳の選手のように、見事に石垣を蹴《け》って飛び込んだはずだった。しかし、他人の目にそう映るには、梓は酔い過ぎていたのだろう。その辺のことは、よく憶えていないが、二人の女学生が、そのときの状況を話しながら、梓の方を盗み見て、可笑《おか》しそうに笑っていたところをみると、よほど不様だったに違いない。びしょ濡れの梓は、寒さに震えながら、顔を赤くした。  世話になったお礼に、梓は美穂と正子という二人の女の子を家まで送ることになった。中野に住んでいる二人は、女高師の付属女学校に通う仲良しで、本郷にある恩師の家を訪ねた帰りに、夜の宮城|遥拝《ようはい》を思い立ったという。普通、思わぬ事件に巻き込まれて警察へなんか連れていかれたら、半泣きになっていたっておかしくないのに、この二人はびっくりするくらい陽気である。親切な老警察官が、地元の交番を通じて二人の家庭に事情を説明してくれた安心もあって、中野に着くまでの帰りの省線の中でも、女学生たちはよく笑った。却《かえ》って、濡れた体を心配されて、阿佐ケ谷なら近くだから送りましょうかと言われ、梓はまた赤くなって恐縮した。  姉の遊子にも、こんな時代があったのを思い出す。美穂という子とおなじように、肩まである髪を三つ編みにして、明るい紺のセーラー服に臙脂《えんじ》のスカーフがよく似合った。「ドナウ河の漣《さざなみ》」を上手に弾き、兄の正行に教わったヴェルレェヌを、目をつむって歌うように諳《そらん》じ、いまにどんなにきれいな娘になるだろうと、親戚《しんせき》の間でも評判だった。別に女の子にかぎった話ではないが、人間、どんなことが起こるかわからない。せめて今夜のこの二人のやわらかな髪に、これからの人生、いつもそよ風が吹き寄せてくれることを、梓はこっそり願った。女学生たちは、めったにできない珍しい体験に少し昂ぶっているのか、ほんとうによく喋《しやべ》る。今日訪ねた恩師というのが、ミナト式という渾名《あだな》で、男のくせに毬《まり》つきが上手だとか、自分たちがしている制服のバンドのバックルに書いてある文字は、右から読んでも左から読んでも≪女高師高女≫だとか、他愛ない話が呆《あき》れるくらい次々とつづく。快活な小さな動物たちのような、こんな声を、できるものならいつまでも聴いていたいと、梓は思う。  省線を中野で降り、北口の商店街を抜けて坂を上がりきった辺りに、女学生たちの住まいはあった。美穂と正子が先に立ち、二、三歩遅れて梓が歩くその上に、元日の半月が黄ばんだ光を降らせている。三つの影法師が、ゆっくり長い坂を上っていく。年始帰りの酔客たちと時折すれ違うほかは、ほとんど人通りのない町である。ようやく話の尽きた女学生たちは、小さいけれど澄んだ声で「菩提樹《ぼだいじゆ》」を歌いはじめる。ちゃんと二部合唱になっている。昔、姉の遊子も、学校の友だちとよく歌っていたものだ。晩《おそ》い春の午後、小さかった梓が、玄関の脇《わき》にあった砂場にしゃがんで遊んでいると、二、三人で歌いながら帰ってきたセーラー服の姉たちが、家の前で手を振って別れ、遊子はスカートの裾を翻して梓の上を飛び越え、「ただいま〜」と家へ入っていった。   泉に添いて 茂る菩提樹   慕いゆきては うまし夢見つ   幹には彫《え》りぬ ゆかし言葉   うれし悲しに 訪《と》いしその蔭《かげ》   訪いしその蔭  北さんの家は、この辺りではなかったろうか。別れ際《ぎわ》に訊いてみると、意外に正子という子が知っていた。朝から夜中まで刑事が張り込んでいるので、界隈《かいわい》では有名らしい。このすぐ先だという。梓は、迷惑をかけたことを丁寧に詫《わ》び、二人に挙手の礼をした。笑いだすかと思ったら、女学生たちは急にまじめな顔になり、梓に向っておなじ敬礼をしてくれた。梓はもう一度、この子たちの上に、今年、いいことがたくさんあるように祈った。  月影の下、歌声が遠ざかっていく——。   今日も過《よ》ぎりぬ 暗き小夜中《さよなか》   ま闇《やみ》に立ちて まなこ閉ずれば   枝はそよぎて 語るごとし   来よ いとし友 ここに幸《さち》あり   ここに幸あり  その家は大きかった。高く巡らされた粗いコンクリート塀は、冬枯れの蔦《つた》の蔓《つる》で一面に覆《おお》われ、その向うには骸骨《がいこつ》のような枯れ枝越しに、銅色の洋館の屋根が見える。たいていの庭は、常緑樹と落葉樹が按配《あんばい》よく配されているものだが、ここから見る北さんの家には緑がない。欅《けやき》、楡《にれ》、ブナ、楓《かえで》に桜、塀際には木蓮《もくれん》に化粧柳——夏から秋にかけては美しい庭に違いないが、いまの季節のこの庭は、白く痩《や》せた枝が乾いた音を立てて鳴り合い、響き合って、いかにも魔王の棲家《すみか》のようである。塀の内は、二千坪は優にあるのではなかろうか。この広い敷地の地面の下に、累々《るいるい》と冷たい死者たちの屍《しかばね》が埋まっているのではないかとふと思って、梓は体が硬くなった。その中には、兄の正行の凍った顔もあるのかもしれない。  唐草を象《かたど》った鉄の門扉《もんぴ》に灰色の電線が這い、その先に、押し釦《ボタン》のベルがぶら下がっている。釦を押す。つづけて、二度押す。返事はない。見上げると、背の高い大谷石《おおやいし》の門柱には、大きな木の表札が高々と掲げられ、その表に闊達《かつたつ》な墨の字で、北一輝、大輝と大書してあった。——門扉の間《あわい》から見える敷石伝いの遠い玄関に、ポッと静かな灯が点《とも》った。  鳳仙花の部屋に男が隠れていることは、女将《おかみ》はもちろん、誰も知らない。元日の夜ぐらいは家にいようと、花輪さんが帰ってしまうと、「花廼家」はまだ八時だというのに静まりかえって、なんだか気味が悪い。適当にその辺のもので済ませておいておくれということで、女たちはてんでに台所で餅を焼いたり、お茶漬けを掻《か》っこんだりしては、また自分の部屋に引き籠《こ》もってしまう。楽ちゃんなんか、昼過ぎからずっと鼾《いびき》をかいて寝ているらしい。菊ちゃんはふだん怠けて溜《た》まっている繕い物、桃ちゃんは年賀状書きである。ことしこそは遊びに帰りますと毎年《まいとし》書いて、この子はもう三年も郷里の徳島へ帰っていない。  弓は、おむすびを四つ作った、塩昆布《しおこぶ》が一つ、塩鮭《しおざけ》が一つ、鱈《たら》の子をほぐしたのを一つ、そして梅干しのが一つ。四つのおむすびを皿に載せ、鳳仙花の部屋の前に置いて自分の部屋へ戻ろうとしたら、襖が細めに開いて鳳ちゃんが顔をだした。可哀相に、まだ口元の腫《は》れが引いていない。弓ちゃん——囁くようにそれだけ言って、あとは片手拝みに弓を拝み、鳳ちゃんは皿のおむすびを押し戴《いただ》いて、襖の蔭に消えた。独立だの、革命だのはどうだっていいから、とにかく早く逃げなさい。生きていさえすれば、なんとかなる。  弓が部屋へ戻ったら、どこから入ってきたのだろう、猫の蝶次郎《ちようじろう》が、さっき脱いだ弓のお腰の上に坐って咽喉《のど》を鳴らしていた。こんな界隈で育っただけあって、助平な猫だ。今夜は、この猫を抱いて寝よう。明日からは、また精出して男と寝よう。布団に入りしなにふと鏡台を覗いたら、鏡の中に、狸《たぬき》の尻尾《しつぽ》みたいな眉の、愛くるしい弓ちゃんがいた。おやすみ、弓ちゃん。ついでに、おやすみ、剣持さん。——鏡の前の千両の実が、つやつやと光っている。  白木の床に、白木の板壁、東方に向ってかなり大きな窓があるようだが、黒い布に一面が覆われていて見えない。左近充が一度だけ見たという伝説の仏壇は、おなじ白木の観音開きの奥にあるというが、これも扉が閉ざされていて見えない。梓が通された北さんの家の仏間は、こうして見ると道場か祈祷所《きとうしよ》のようである。洋館造りの外見からは、ちょっと想像もつかない妙な部屋だと梓は思う。この十五畳で毎朝、北さんは法華経《ほけきよう》を朗唱し、深夜、神仏の声を聴いているというのだろうか。わずかに香《こう》の匂いが漂っているようだが、この部屋に入ってまず感じるのは新しい木の匂いである。左近充の話によると、少し木の面が汚れてくると、北さんは大工を何人も入れて、床も壁も、一日がかりで鉋《かんな》で削らせるそうである。掌《て》で触れてみると、この部屋の木は、しっとりと水分を帯びて重く、いまでも若い樹液を滴《したた》らせているように艶《なまめ》かしい。  北さんと梓は、黒檀《こくたん》の大きな卓子《テーブル》を間に、正座で向い合っていた。襖も障子もないこの部屋に不似合いな、黒々と光る卓子である。調度品といえば、ほかにやはり黒い椅子《いす》が二脚あるだけで、壁に書画の類《たぐ》いもなければ、卓上に書物の一冊もない。膝に手を置き、背筋を伸ばしてみても、梓はどこか腰が落ち着かない。もっとも、こうして北さんと向い合うのが、和風の座敷だったり、あるいはくだけて炬燵《こたつ》の四畳半だったりしたら、もっと居心地が悪そうである。つまり、この不思議な部屋は、北一輝にいちばんよく似合う風景なのだった。 「門の表札にあった、大輝とおっしゃるのは、北さんのご子息でしょうか」 「そうです。養子です。辛亥《しんがい》革命のとき、いっしょに逃げ回った嘘《うそ》つき譚人鳳《たんじんほう》の孫でしたが、私が拾って日本に連れ帰りました。ほんとうは英生《えいせい》というのですが、私の息子ですから大輝にしたのです。爺《じじ》いに似ず、真っすぐな、いい奴《やつ》です。ことし二十三になりました」 「支那《しな》の言葉を話されるのですね」 「誰がでしょう」 「ご子息です」 「とんでもない。あの子は一歳と二ヵ月のとき私に拾われました。だいたい、いまでも自分が譚人鳳の孫だと知りません。私と家内の実子だと思っています」  そんなことを、この家の中で大きな声で言っていいのだろうか。梓にそんな話をするのだって、考えてみれば可笑しなことである。北さんは、変な人である。  そこへ奥さんのスズさんが酒を持って入ってきた。伏目がちに、顔も小さく、目鼻も口も小さい、影のような人である。灰色の着物に灰色の帯をしているせいか、いつ入ってきて出ていったのか、よくわからない。奥さんが置いていった、彫りのある黄色がかって透明なガラスの器の中に、どんよりと重い支那の酒が揺れている。北さんが、それぞれのグラスに酒を注ぐ。手にとると、梓のグラスの底に二|糎《センチ》ばかりの蒼《あお》い勾玉《まがたま》が沈んでいる。酒を傾けると、それは不規則にゆっくりと転がり、転がりながら電燈の光に映えてうっすらと輝く。 「何でしょう、これは」 「勾玉みたいな顔をしていますが、つまらないガラス玉でしょう」 「でも、きれいです」 「そうですね。私のは赤です。ほら」  北さんのグラスには、芥子《けし》の花に似た薄赤い勾玉が泳いでいる。 「青海省辺りの、正月の風習だと言います。ずいぶん昔、譚の爺さんがくれたものですから、当てにはなりません」  北さんは、かなり大きなグラスの酒を一息に飲む。赤い勾玉も酒といっしょに口に入れて、しばらくしてコロンとグラスの底に吐き出す。それが、一瞬北さんの義眼に見えて、梓は息を呑んだ。北さんは、一人の夜、右の眼窩《がんか》から陛下の肖像を貼りつけた義眼を取りだし、それを酒に浮かべてグラスを傾けているのではなかろうか。そう思って上目づかいに北さんを盗み見ると、北さんはなんだかとても可笑しそうに、一人で笑っているのだった。——その北さんの顔が、急にまじめになった。 「さっきの虹《にじ》の話ですが、あなたが折れた虹を見たのは、何時ごろでしたか?」  何気なく話した今朝の虹に、北さんはずいぶん拘《こだわ》っている。 「確か、八時過ぎだったと思います」 「折れて消えていたのは、右の半分でしたか? それとも左でしたか?」 「右半分が消えていました」 「そのとき、気がつかなかったでしょうか。太陽は空のどの辺にあったでしょう」  梓は、よく思い出せなかった。 「はっきり憶《おぼ》えてはいませんが、たぶん、虹が消えて見えない、その方角だったと思います」 「その虹が、太陽と重なっているということは、ありませんでしたか?」 「折れて見えない辺りの雲が光っていましたから、そんなことはなかったと思います」 「もう一つ。その虹は、何色だったでしょう」 「何色と言っても——普通の七色の虹でした」  そこで北さんは、ほっとしたように息をつき、グラスに新しい酒を注いだ。いったい、虹がどうしたというのだろう。何か悪い前兆だとでもいうのだろうか。そんな梓の気持ちが見えたのか、北さんは梓の目を見て、ゆっくり首を振った。 「昔読んだ本のことを思い出しただけです。面白い話が出ていたもので——」 「どんな話ですか?」 「支那の古い書物で、≪戦国策《せんごくさく》≫というのを知っていますか?」 「いいえ」 「彗星《すいせい》が月を追っかけて走ったとか、青い鷹《たか》が宮殿の屋根|瓦《がわら》にぶつかったとか、そんなおかしな話が出ていました。その中に、白い虹がどうのこうのというのがあったような気がしましてね」 「白い虹がどうしたのでしょう」 「いや、思い違いでしょう。——思い違いです」  北さんにしては珍しく、歯切れが悪い。そんな話、きいたこともないが、いったい、白い虹なんてこの世に現れることがあるのだろうか。あったにしても、虹と太陽の位置がどうだというのだろう。心を鎮め、身を整えて、北さんはこの部屋で様々な天の啓示を受けるらしいが、それにしては落ち着きがなく、不安の色が目に走る。さっきからずいぶん飲んでいるはずなのに、頬が青白く、細い指が昆虫《こんちゆう》の触手のように、忙《せわ》しなく黒檀の卓子を叩いている。——さっきから、おなじ指の動きの繰り返しである。≪・ ・— ・—・・≫、ほんの少し間をおいて、≪・ ・— ・—・・≫——モールス信号である。≪陛下!≫。北さんは、千々に乱れてこの夜更け、陛下、陛下と叫んでいる!  菊ちゃんの、酔って呂律《ろれつ》の回らない声に、弓は目が覚めた。いつの間にそんなに飲んだのか、奇声を上げて襖を叩き、みんなを起こして廻っている。半泣きの桃ちゃんの声が、それを追いかける。たまに静かな正月だというのに、傍迷惑《はためいわく》な話である。いい機会だから、今夜はきっちり絞めてやろうと、弓が掻巻《かいまき》を羽織って立っていこうとしたら、ガラリと部屋の襖《ふすま》が開いて、注連縄《しめなわ》をおでこに巻きつけ、長襦袢《ながじゆばん》の裾《すそ》をからげて、お尻《しり》まる出しの菊ちゃんが、桃ちゃんといっしょに転がり込んできた。金時の火事見舞いみたいに、顔から首筋まで真っ赤にして、フーフーいっている。弓はすっかり気勢を殺《そ》がれてしまった。弓の鏡台の前にへたり込み、菊ちゃんは小首を傾《かし》げて、写真のてふ姉さんに挨拶をしている。「あーら、どなたか知らないけど、お邪魔しまーす」。てふ姉さんは人が好《い》いから、迷惑そうな顔もせず、ニコニコ笑っている。そう言えば、首の細いところや、目尻がいつも笑っているところが、菊ちゃんはてふ姉さんによく似ている。走りだすと止まらない悲しい気性もおんなじだ。だから気をつけないと、袂《たもと》に石ころを詰め込んで、正月早々冷たい水に飛び込むことになりかねない。いい人ほど早死にするというのはほんとうだ。「花廼家」の女たちは、誰から死んだってちっともおかしくない。  階下《した》でおゆうが怒鳴っている。「いったい何時だと思っているんだい! 夜中に泣いたり喚《わめ》いたりするんだったら、男といっしょのときにしておくれ。|ただ《ヽヽ》で起こされたんじゃ、勘定が合わないよ!」。桃ちゃんは馬鹿だから、ほんとうに涙を流している。「菊ねえさん、もう寝ようよ、寝ようよ」。この子も、考えてみれば可哀相《かわいそう》な子だ。すぐに泣くから、お客が面白がって、いじめるのだ。いじめるといい顔をするというのが、いつの間にかこの街の評判になって、扱帯《しごき》で縛ったり、あちこち抓《つね》ったり、明けて十七の桃ちゃんのふっくらと白い体は、落椿《おちつばき》を散らせた残雪の庭のようだ。 「今夜は飲もう、みんなで飲もう」。楽ちゃんの部屋の方で、菊ちゃんが荒れている。襖か障子の倒れて破ける音もする。弁償で、菊ちゃんの借金はまた増える。「鳳《ほう》ちゃん、鳳ちゃん!」。足音は走って、こんどは鳳仙花の部屋の辺りがうるさい。——それから、急に静かになった。ついさっきまでの騒々しさが嘘《うそ》のように、「花廼家」が冷たい夜気の中に沈んだ。何があったのだろう。廊下を這《は》うような音がして、開けっぱなしの襖の蔭《かげ》から、ひょっこり桃ちゃんが顔を出す。飲んでもいないのに、目が坐っている。「ゆ、み、ねえ、さん……」。震えた声といっしょに、桃ちゃんの歯の鳴る音がする。びっくりして廊下に出てみると、階段上の鳳ちゃんの部屋の前で、菊ちゃんと楽ちゃんが、抱き合って腰を抜かしている。  真っ白な敷布の上に、墨汁《ぼくじゆう》の筆を大きく振ったように、赤い血の筋が二本走っていた。七福神を描いた唐津の火鉢を二人で抱きかかえるみたいにして、鳳ちゃんと朝鮮の男が、お互いの肩に頭を載せ合って、死んでいた。鳳ちゃんの目がなんにも見ていないので、弓には、死んでいるのがすぐにわかった。一つの首に一本ずつ、真鍮《しんちゆう》の火箸《ひばし》が突き立って、それがまだ揺れている。お気に入りの、菫《すみれ》の銘仙だって持っているのに、鳳ちゃんは、弓たちが見飽きたいつもの長襦袢のままだった。男は、あくせく生きている弓たちを馬鹿にしたように、弛《ゆる》んだ口から長い舌を出していた。——枕元の皿に、半分に割ったおむすびが一つだけ残っていて、白いご飯の中から赤い梅干しが覗いていた。悪いことをした。この人は梅干しが嫌いだったのだ。  弓の胃の奥から、熱くて苦いものが飛び出しそうになって、弓は鳳仙花の部屋から転げ出た。足に力が入らなくて、階段は、手摺《てす》りに抱きつくようにして、ようやく降りた。どこかで、のんびり、猫が啼いている。薄闇《うすやみ》を透かして見ると、あまりこの辺で見かけない灰色の大きな猫が、土間にうずくまって、弓の方を真っすぐに見ていた。ちょっと首を傾げた。あれは、鳳ちゃんだ。鳳ちゃんが猫になって、はじめて笑ったと弓は思った。  また、元日に人が死んだ。こんなに人が死んでいいのだろうか。その分、人は生れているのだろうか。弓は心配になった。この心配について、ローマ字日記に書いてみよう。きっとその日記は、長い、長い日記になるだろう。≪Hito wa sinu. Hito wa sinu. Hito wa sinu.……≫。それだけでも、何十遍書いてたって、書き足りない。  店の中に取り込んである暖簾《のれん》を分け、戸を開けて戸外《そと》へ出ると、雪だった。ぼんやり点《とも》った街燈の周りにまといつくように舞う、やわらかで軽い雪だった。初雪——元日から雪が降るなんて——ことしは雪の年なのだ。背中で帳場の電燈が点《つ》いて、女将と主人の喜久造が慌てて階段を昇っていく気配が聞こえる。ようやく我に返った桃ちゃんの泣き声もする。これから、交番の巡査がきて、もしかしたらあの嫌な刑事もきて、「花廼家」は大騒ぎになる。まだ血だらけの鳳ちゃんや、みんなには悪いけど、弓はこの家にいるのが嫌になった。そこらにあった下駄を突っかけて、弓は駈けだした。交番は坂下にあるから、坂の上の浄心寺の方へ走った。ちょうど隣りの「羽二重」の先辺りから勾配《こうばい》が急になるので、弓はすぐに胸が苦しくなった。雪が降っているのに、それほど寒くはなかったが、こんどは目の奥から熱いものがどんどん湧《わ》いてきて、視界が霞《かす》むので困ってしまう。弓は、あれ? と思った。白く霞んだ中に、もう一つの、雪の中を誰かが走っている光景が見えてきたのである。水色の長襦袢の裾を蹴立《けた》てて、女が飛ぶように走っている。鳳ちゃんかしら? ずっと重い石の下で苦しかった鳳ちゃんが、身軽になって、鳳仙花が風に揺れるお国へ帰っていくのかしら? でも、その女は鳳ちゃんみたいに痩《や》せていなかった。腰の辺りに女っぽい肉がつき、長襦袢の襟元からこぼれる胸もふっくらと丸い。眉《まゆ》が濃くて、目がキラキラ光って——どこかで見た顔である。——弓だった。  弓は、走りながら、もう一人の走る弓を見ていた。遠いような、近いような、それは覗き機械《からくり》から覗いたような、不思議な風景だった。このところ何度も花輪さんと寝ているうちに、花輪さんの千里眼が伝染《うつ》ったのだろうか。千里眼の世界で、弓が叫んだ。「剣持さーん!」。だから弓も、熱い声で叫んだ。 「剣持さーん!」 [#改ページ]    第六章 恋《れん》   闕《けつ》  もう明日は立春という二月四日、昼過ぎから降りだした雪は、折りからの北東の風に煽《あお》られるようにその勢いを増し、午後九時には路上に三十|糎《センチ》に余るほど降り積んで、夜の帝都は白一色に包まれた。ラジオによると、明治二十年以来、五十年ぶりの大雪だという。夕方からは電車も停まり、商店も軒並み戸を立てて灯を落としたので、中野から高円寺へかけての街は、人通りも疎《まば》らで、気味が悪いくらいに静かだった。ぼうと霞《かす》んだ雪明かりの道を歩きながら、梓《あずさ》は、このまま世界が雪の中に消えていくのではないかと思った。  いくらかは雪が少ないだろうと考えて選んだ線路沿いの道も、省線電車が停まってみれば、ただの道と変わりがなく、かえって建物に遮られない分、風がまともに吹きつけて、梓はときに立ち止まって白い眩暈《めまい》に耐えた。眩暈は、雪のせいばかりではなかった。二、三日前から風邪気味だったのに、昨日一日、習志野《ならしの》練兵場で行なわれた射撃訓練で無理をしたのが祟《たた》り、今朝はさほどではなかった熱が、夕方、麻布の聯隊《れんたい》を出るころから上がりはじめたらしく、体中が火照《ほて》ったかと思うと冷たい汗が流れ、汗に濡《ぬ》れた肌を炙《あぶ》るように、また熱が上がり、その繰り返しで梓の体は、ふやけた海綿みたいに頼りなく、力がなかった。早く阿佐ケ谷の家へ帰って眠らなければ、と気ばかりが焦《あせ》って、足が進まない。北さんの言うことを聞いて、あのまま中野の北さんの家に泊めてもらった方がよかったかもしれない。まだ、高円寺の灯も見えない。  目を開ければ鋭い雪片が目蓋《まぶた》を刺し、目をつむると、まるで眼底から火山流が噴き上げてくるように目の裏が熱い。そうこうするうちに、梓の耳の奥では、錆《さ》びた時計の歯車の軋《きし》むような音が鳴りはじめ、それは小さな反響を伴いながら次第に大きくなり、やがて両の耳孔いっぱいに谺《こだま》して、さっきからの眩暈を一層激しくさせるのだった。梓の耳に鳴るのは、北さんの声である。いまから数時間前、樹液の艶《なまめ》かしい匂《にお》いのする白木の部屋で、北さんは梓に魔のように囁《ささや》き、童子の声で訴え、老女のように嘆き、巫女《みこ》さながらに秘《ひそ》かに告げた——。 「このところ、宋《そう》の亡霊がまたぞろ出はじめましてね。どうも寝不足でいけない」 「宋というのは、あの宋教仁《そうきようじん》でしょうか」 「意地の悪い奴《やつ》で、私が嫌がるのを知っていて、厠《かわや》に現れます。それがあなた、窓とか天井ならいいんですが、金隠しの穴から、いきなり出てくるから、びっくりして出かけたものも止まってしまいます」 「で、何て言うのでしょう」 「それがあなた、ただヘラヘラ笑って、こっちはいいぞ、こっちはいいぞって言うだけで要領を得ません。昔は難しい漢字が好きな男で、幽霊になってからも、七言《しちごん》絶句とか、五言律詩みたいに、話言葉にも韻を踏んでいたものですが、このごろは面倒になったのか、下世話なことしか言いません。だいたい私のことは貴公としか呼ばなかったのが、ゆうべなんか、あんたです」 「こっちというのは、あっちのことでしょうか」 「そりゃ、奴がこっちと言えば、あっちでしょう。それがどうしてかあなた、あっちにはいい女が多いそうです。特に革命をやっていたって言うと、ちやほやされるらしくて、譚人鳳《たんじんほう》の爺《じじ》いなんか若い女に引っ張りだこで、身が保《も》たないって泣いてるそうです」  北さんの話は、例によってどこまでほんとうかわからないが、ひところ奥さんのスズさんの枕元《まくらもと》にばかり立っていた宋教仁の亡霊は、やっぱり北さんのところへ帰ってきたらしい。幽霊になって涼しい顔はしているけれど、志半ばで殺された無念は、二十年|経《た》っても晴れないらしく、その証拠に、宋の幽霊はいつも、掌《て》に上海《シヤンハイ》から北京《ペキン》行きの汽車の切符を握り締めているという。改札口の鋏《はさみ》のまだ入っていないその切符は、宋の腕を伝って流れた血に染まって、迎春花《インチユンホア》の花びらのように見えたと北さんは言う。しかし、旧《ふる》い同志を懐《なつ》かしんでいた目の色が急に冷めて、北さんは、だけどあれは無念なんていう上等なものじゃないと、皮肉に唇を歪《ゆが》めて笑う。北さんの、こういうところが、梓にはよくわからない。——あれはね、女みたいな、やきもちですよ。やきもちなら、袁《えん》や孫《そん》に焼けばいいものを、あいつのは、革命をやっている者へのやきもちなのです。ところが、革命なんて、いつの世でも、陽炎《かげろう》みたいな、もやもやと形のないものです。亡霊みたいなものです。だから、宋はあの年の三月、春を見ないで死んでよかったのです。あれは、幸福な死だったのです。  北さんは、青い玻璃《ガラス》の杯を傾けながらつづけた。——孫文が日当たりのいい表通りのヒーローだとしたら、宋教仁は、いまでも支那《しな》の裏町の英雄です。奴が生きていたら、世の中変わっていただろうとみんな言います。言っているのは、数少ない支那のインテリたちです。世の中の何の力にもならない彼らに慕われ、憧《あこが》れられて、それがどれほどのものかは知りませんが、伝説の主人公なんて、元来そんなものです。彼らは、ふと筆を止めて宋のことを考える。座談の合間に、小さな溜息《ためいき》をついて、美しかった宋の横顔を想《おも》う。そうして、宋教仁という伝説は夏の日の雲のように大きくなっていく。その幸福をわかっていないのは、当の宋の亡霊だけです。私は毎晩、言って聞かせるのですが、奴にはどうしても、そこのところがわからない。だから、私はこのごろ思うのです。もしかしたら、あいつはほんとうの革命家だったのではないでしょうか。革命家というものは、多かれ少なかれ、ロマンチシストだと思っていましたが、宋って奴にはどうやらその欠片《かけら》もない。人生は皮肉なものですね。ほんとうに国を変えようとした、不器用な棒のような男が伝説の森の主人公になり、おなじ森の中で蝶《ちよう》を追いかけて五十年、ただ走り回っていた奴は、うろうろとこの歳《とし》になって死場所を探している——。宋は、幽霊になって嫌な奴になりました。出てくるときは陰間《かげま》みたいに厠の穴から顔を出すくせに、帰りには、紫の渦巻き模様が翅《はね》いっぱいに広がった、金と銀の目の大きな蝶の背中に乗って飛んでいくのです。  北さんは、泣いているように見えた。  夜半の雪は、ちっとも小降りにならない。梓は、まだ元の中野電信隊跡の、広い空き地にいる。体が熱いのか、冷たいのか、もう梓にはよくわからなくなっていた。背の低い兵舎の幾棟かが連なる上に、壊れかけた鉄塔が幽霊のようにうっそりと立っていて、そこからぶら下がっている千切れた電線が、激しい風に吹き上げられて、巨大な白い蛸《たこ》の足のようだ。北さんの家から、半道《はんみち》も歩いただろうか。ガラスに貼《は》りついた雪を息で吹いて時計を見ると、鋼鉄の針は十時をいくらか過ぎたところを指していた。指先が痛い。動悸《どうき》が早い。腰の軍刀が重い。梓には、霜を吹いて凍てついた銀色の刀身が透けて見えるようだった。  ふと、白一色の視界が、玉砂利を敷きつめた静寂の風景に変わった。梓は、五歳の身の丈になって、父の甲四郎と皇居の森を前に立っていた。常緑の樹々《きぎ》は雪に蔽《おお》われ、お濠《ほり》の水には薄い氷が張って、淡い光に輝いている。焦茶《こげちや》の外套《がいとう》を着て、母が編んでくれた毛糸の手套《てぶくろ》をしているのに、梓の小さい体は慄《ふる》えていた。梓は父の顔を仰いで見る。細く高い鼻梁《びりよう》のそこだけを雪片は避けて降り、炯々《けいけい》と光る目の色の熱さに溶けて、雪は父の頬に涙のようにゆっくりと流れていた。甲四郎は、大内山の森に目を据えたまま、いつものように落ち着いた声で梓に訊《たず》ねる。——今日は、陛下とどんなお話をした? はい、陛下は、男なのか、女なのか、それを教えてくださいと申し上げました。ほう、面白いことを訊《き》く。で、陛下は何とおっしゃった? なんだか、恥ずかしそうにお笑いになって、それきり何もおっしゃいませんでした。どうして梓は、陛下が女の人ではないかと思うのだろう。はい、陛下とお話するとき、胸がドキドキするからです。お腹《なか》のあたりから、お尻《しり》のあたりが、痒《かゆ》いような、熱いような、変な気持ちになるのです。蕁麻疹《じんましん》になったとき、カルシウムの注射をされたみたいな、変な気持ちなのです。それに……。それに、どうした? それに——陛下のお声は、遊子姉さまの声に似ているのです。それも、梓がいけないことをして、遊子姉さまが怒ったときの声にそっくりなのです。怖いけど、なんだか恥ずかしくなって、梓は、もう一度、変な、いい気持ちになるのです。 「恋闕という言葉を知っていますか?」  それまで目をつむって黄褐色の酒を飲んでいた北さんが、突然梓を見て言った。右の義眼がぼんやり電燈の光の中に泳ぎ、左の目が牝猫《めすねこ》の目のように色めいて炯《ひか》った。 「兄の持っていた西洋の詩集の余白に、赤い鉛筆の字で書いてありました。見たのは、ついこの間です。上田敏《うえだびん》の≪海潮音《かいちようおん》≫という本でした」  北さんは、嬉《うれ》しそうに笑いながら言う。 「どんな詩だったか、憶《おぼ》えていますか?」 「ヴェルレェヌという人の、確か《よくみるゆめ》という詩だったと思います」 「知ってます、知ってます。≪海潮音≫は、私が早稲田の聴講生になって東京へ出てきたころ出た本でした。あのころは、ヴェルハーレンも、ロセッティも、みんな憶えていたものです。≪よくみるゆめ≫も、よく知っています」  北さんの左目は、少年のそれのように明るく、ひとことひとこと、確かめるように呟《つぶや》く声には、春の花に似た艶《つや》があった。   常によく見る夢ながら、奇《あ》やし、懐かし、身にぞ染む。   曾《かつ》ても知らぬ女《ひと》なれど、思はれ、思ふかの女《ひと》よ。   夢見る度のいつもいつも、同じと見れば、異りて、   また異らぬおもひびと、わが心根や悟りてし。 「そうですか、お兄さんはこの詩の余白に、恋闕という言葉を遺していましたか」 「はい。どういう意味なのでしょう」 「恋は、文字通り、恋です。闕《けつ》は、宮城《きゆうじよう》の門という意味です。ただ、もともとは門の上に物見の櫓《やぐら》があって、滅多な者は近寄せなかったといいます。つまり、私たちが知っている馬場先門とか、桜田門とは、ちょっと違うわけです」 「宮城の門を恋するわけですか」 「支那にはない言葉です。誰かが創《つく》ったのでしょう」 「北さんではないのですか?」  北さんは、女のような声で笑った。科《しな》をつくって手を振った。 「残念ながら、私ではありません。血盟団の連中あたりかもしれません。三上君からもらった手紙にもあったような気がします」 「兄は、陛下に恋していたのでしょうか?」  北さんは、答えなかった。答えない代りに、こんどは、急に老婆《ろうば》みたいな低い声で笑った。気味の悪い声だった。途切れるかと思うと、また地の底から這《は》い出て連なり、細い赤い糸を手繰り寄せるように、ほつれては乱れる、長い、長い笑いだった。熱が高くなるのだろうか。梓の体を、胸から下腹部にかけて、点々と啄《つい》ばんで悪寒《おかん》が走った。肌が地割れして、そのまま乾いて崩れていくような、嫌な感じだった。繰り返し襲ってくる悪寒と眩暈の中に、梓は北さんの目が両方とも虚《うつ》ろに見開かれ、虚ろに泳いだ視線の先に、瞼《まぶた》の裏に貼りつけた陛下の肖像を、熱く凝視するのを見た。  なだらかな坂を上がりきると、道の右側に天祖神社の杉林が見えてきた。境内の水屋から流れ出て、道路の側溝に落ちる水の音が、冷えきった夜気の中にチロチロと聞こえる。いつもなら、人影を見て騒ぎだす鴉《からす》の群れも、今夜ばかりは、どこに潜んでしまったのか、声もない。あと三町もいけば、梓の家である。降り積んだ雪の底のコンクリートが凍って、ひと足ひと足、よほどの力を籠《こ》めないと滑って歩けない。梓は、よろめきながら、社《やしろ》の大鳥居の脇《わき》に灯っている常夜燈の明かりだけを見つめて雪を分けていった。——尺を超す雪の道の向うから、轟々《ごうごう》と地面を震わせてトラックの前照燈が近づいてくる。青みを帯びた鋭い光が、疲れた梓の目に眩《まぶ》しい。——それは、千里眼の中の視界のように、朧《おぼ》ろに霞んで覚束《おぼつか》ない光景だった。天祖神社の前で急ブレーキをかけて、トラックが停まり、下士官らしい運転席の男が大声で叫ぶ。梓を迎えにきたのだろうか。福井か左近充《さこんじゆう》が隊のトラックを差し向けてくれたのだとしたら、さすが同期の朋輩《ほうばい》である。しかし、運転席の男に応《こた》える声が、社の奥から聞こえる。雪を透かして見ると、社殿の前に重装備をした三十人ばかりの兵が整列し、いま参拝を終えて、軍帽の上に赤い鉢巻きを締めた指揮官の訓示を聞いているところだった。明るい、爽《さわ》やかな声だった。「本隊は、ただいまより荻窪《おぎくぼ》に向い、教育総監|渡辺錠太郎《わたなべじようたろう》邸を襲撃する。これは、演習ではない。実戦である。以上!」。つづいて「着剣!」の声が響き、雪明かりの中に兵たちの剣が閃《ひらめ》く。何という美しい軍隊だろう。青白い銃剣の輝きは、舞い狂う今夜の雪に、何と似合うことだろう。梓は、目の前を早駈けでいく男たちに見惚《みと》れて、甘い溜息をつく。この寒さというのに、彼らの額は汗ばみ、頬は引き締まり、その目は澄んで若い獣のように炯っている。白く吐く息さえが、整然として一点の乱れもない。——やがて兵たちはトラックの荷台に乗り込み、トラックは向きを変えて、まだ暗い阿佐ケ谷の街を荻窪へ向って走り去り、梓は雪の中に一人残った。——そして、長い時間が経った。雪はようやく疎《まば》らになり、梓が背にした東の空に曙光《しよこう》が射して、荻窪辺りの雲が薄桃色に染まったころ、梓は遠くに数発の銃声を聞いたように思った。妙に間延びのした、ぼんやりした音だった。梓の純白の視界が、ゆっくりと滲《にじ》むように、鮮血の色に変わった。 「陛下は、お怒りになるでしょうか」 「私は、そう思います。結果はそうなりませんでしたが、五・一五のときも、お気持ちはおなじだったはずです。私は、呆気《あつけ》にとられました。三上君たちは、がっかりしたと思います。だってそうでしょう。自分に恋していると慕い寄る男たちに裏切られたのですよ。あなたなら、どうします?」 「たぶん、その男たちを、殺します」 「そうでしょう。それが恋というものです。殺すほどでなければ、殺されるほどでなければ、そんなものは恋でも何でもありません」 「こんどは、ほんとうに殺してくださるでしょうか」  梓は神楽殿《かぐらでん》の前に立っていた。天祖神社の境内の杉林を拓《ひら》いて、ここに神楽殿ができたのは、梓が子供のころだった。春と秋の祭礼の折にだけ、四囲の板戸が取り払われ、朱の袴《はかま》を穿《は》いた巫女《みこ》たちが、手に鈴や扇や榊《さかき》の枝を持ち替えては、笙《しよう》や太鼓に合わせてのろのろと踊った。——その神楽殿の正面の扉が、いま音もなく開こうとしている。こんな雪の中、どうしたというのだろう。梓は、昔、絵本で見た天《あま》の岩戸を思い出す。岩戸の隙間から、いくつもの色の混じり合った光が洩《も》れ、その眩しさに目を覆った指の間から、誰かが手招きしながらこっちへやってくるのが見える。見てもよいものなのか、いけないのか、母に訊ねたいと思って辺りを探すのだが、梓は降りしきる雪の中で一人だった。そして梓は、見えない母に訴える。お母さんあれは、女の人ですよ。だって、さっきからとてもいい匂いがする。金木犀《きんもくせい》の匂いがする。 「私が、はじめて女の体を知ったのは、十七のとき、相手は新津《にいつ》の薬種問屋の後家さんでした」。北さんは、いきなり変なことを言う。 「今夜みたいな雪の夜で、炬燵《こたつ》にあたっているうちに、可笑《おか》しなことになりました。前歯が二本金歯で、笑うとピカピカ光って、お祭りのお獅子《しし》みたいでしたが、よく気がつく、親切な女でした。ふだん薬草の仕分けをしているだけあって手先が器用で、笑い話をしているうちに、布団の中の手が伸びてきて着物の前を割ったと思ったら、私のものは、もう摘《つま》みだされていました。寒い夜でしたから、炬燵の火が真っ赤に熾《おこ》っていて、その明かりに照らされて、私のものも火柱みたいに真っ赤でした。あんなに赤い自分のものは、それ以来見たことがありません」  仏間との間の白木の戸が開いて、奥さんのスズさんが現れても、北さんは平気だった。梓たちの脇をすり抜けていくとき、梓はスズさんの低い呟きを聞いた。「暗雲無シ。晴天ノ如《ごと》シ。暗雲ナシ……」。北さんが、薄く笑い、スズさんは蒼《あお》い顔をして、霞がかかった目を虚空《こくう》に泳がせ、前屈みのふらふらした足どりで、梓たちの部屋を出ていった。 「炬燵ってのは、下から炙《あぶ》られているうちに、そんな気になるんでしょうかね。上から乗っかってきた後家さんの中は、病気の朝のお粥《かゆ》みたいでした。私は、はじめての割りに落ち着いていて、下から、目をつぶってガクンガクン揺れている後家さんの丸髷《まるまげ》が落ちてこないか、まじめに心配していました。あれは、存外丈夫にできているものですね」  北さんの、はじめての女の話は、なかなか終わらない。熱のせいで赤くなっている梓の顔を、北さんは面白がっているとでも思っているのではなかろうか。 「そのうちに、丸髷の向うの長押《なげし》に御真影が架かっているのに気がつきました。目を離そうとするのですが、どうしても写真の陛下と目が合ってしまって、あれは困りました。もっとも、あのころは、ロシアが旅順、大連を租借したって騒いでいたころですから、御真影は明治天皇でしたがね」  今夜の北さんは、嬉しそうによく笑う。 「御真影で思い出しましたが、私も、弟の|※吉《れいきち》も、新穂村《にいぼむら》というところにあった母の実家で生れましたが、母がお産をした奥の十畳というのが、御真影のある部屋でした。どっちを向いてかまでは知りませんが、つまりは、母は女として恥ずかしい姿を陛下に見られたわけです。あなたの母上だってそうかもしれませんよ。帰って訊いてごらんなさい」  階下《した》から、苦しそうな、長い女の叫び声が聞こえて、梓は思わず腰を浮かせた。スズさんの声である。けれど、北さんはちっとも驚かない。残り少なくなった支那の酒を、ゆっくり口に含んで、梓を見てにやりと笑う。 「また宋の亡霊に搦《から》まれたんでしょう。家内は正直で、相手が諦《あきら》めの悪い亡霊でも、まともに付き合ってやるから、疲れるのです。私が、体が弱いものですから、天のお告げを承《うけたまわ》るのも、ご祈祷《きとう》申し上げるのも、このごろは家内が代わってやってくれています。……可哀相《かわいそう》に——」  最後のところで、北さんは声を落とした。日が翳《かげ》ったように、眉《まゆ》の辺りが暗くなる。スズさんを気遣ってか、いつものように酒の催促もせず、北さんは手持ち無沙汰《ぶさた》に箸袋《はしぶくろ》を拾って、折鶴《おりづる》を折ったりしている。いやに頭でっかちな、不細工な鶴である。 「恥ずかしいという気持ちは、人間の気持ちの中で、いちばんわかりにくいものです。可愛《かわい》いとか、憎らしいとか、妬《ねた》ましいとか、そんなものは理性で何とでもなると思いませんか? 私は、できます。抑えることだって、自分で煽《あお》ることだって、どうにでもできます。しかし、恥ずかしいという気持ちだけは、始末におえない。それくらい性質《たち》が悪い。やっぱり、女と寝ているところを見られたり、赤ん坊を産んでいる姿を曝《さら》したりしているせいでしょうか。結局のところ、日本人は天皇に恥ずかしがっているのです。顔を赤らめ、身をよじり、胸を早鐘のように動悸《どうき》させて、恥ずかしがっているのです」 「恋という気持ちと、それは似ていますね」 「そうかもしれません。あなたや、あなたのお兄さんは、きっとそうです」  いつの間にか、北さんは右目の義眼を外して、掌の中に転がしている。死んだ目がぽっかり脱け落ちた跡の黒い穴が、真っすぐに梓を見つめていた。  倒れないのがおかしいくらい、梓の体には力がなかった。この高熱は、北さんのせいである。梓は、恋に蒼褪《あおざ》めていた。いまではもう、ほとんど何も見えない梓の目は、雪の神楽殿に舞う赤い幻を追っていた。——その人は、桃の花の唇につややかな榊の小枝を緩《ゆる》く咥《くわ》え、両の目尻《めじり》に含羞《はじらい》の紅を刷《は》き、頸《くび》の後ろで一束《いつそく》にまとめた濡《ぬ》れ濡れと滑《ぬめ》り光る髪に雪を載せて、はじめは蝶《ちよう》のように軽々と、やがて緋《ひ》の袴の裾《すそ》を蹴立《けた》てて獅子のように、踊るのだった。雪よりも白い足袋を履いた形のいい足が、トンと床を踏み鳴らす度に、粉雪が袴の腰の高さまで舞い上がり、それは、どこからか射《さ》し込む五彩の光に染められたまま、その人を包んで離れない。そしてその人の、秋の水のように澄んだ流し目——引き締まって冷たく、とろけて甘く、その酷《むご》い矛盾こそが禁じられた心地よさとでもいうように、その人の目は、梓を虜囚《とりこ》にして許そうとしないのだった。梓はいつか跪《ひざまず》いていた。跪いて両手を凍った大地につき、可哀相な咎人《とがにん》のように首を差し伸べて、その人の目を見ていた。これが北さんのいう恥ずかしさなのだろうか。このまま、雪白の海の底に埋もれて、溶けてしまいたい。けれど、恥ずかしいというのは、何と気持ちのいいことなのだろう。体内の血がかすかに揺れて騒ぐのがわかる。梓には、理科実験室の循環系統図のように、自分の体内の血脈が目に見えるのだった。そこに流れる血の色は、青ともつかず、紫ともつかず、夕暮れの鬱金《うこん》の色に見えて、振袖《ふりそで》柳の緑が混じり、彼岸の桜に匂って躑躅《つつじ》に滲むその上に、砂金の粒の流れて見えるのは——あれは鋭い刃で払って落とされた無数の金木犀である。梓は、濃霧のように押し寄せる恋闕《れんけつ》の香りに、笑いながら気を喪《うしな》っていった。  昭和十一年二月四日に帝都に降った雪は、午後五時には昭和六年冬の積雪記録・二十二|糎《センチ》五を越え、八時過ぎには大正十四年二月に降った二十六糎をも凌《しの》いで、東京中央気象台が開設されてから三番目の積雪量を記録した。  その夜更《よふ》け、阿佐ケ谷の住宅街の窓から、雪の通りをふと見た人は、純白の軍帽の廂《ひさし》を深く目の下まで下ろし、おなじ色のマントに痩身《そうしん》を包んだ五尺七寸の亡霊が、抜身の軍刀で襲いかかる雪片を薙《な》ぎ払い、薙ぎ払い、北へいくのを見たことだろう。  雪が晴れてみると、死の国の風景のようだった。風は止《や》み、綿帽子を被《かぶ》った背の低い木々は重く頭を垂れ、杉並の名の通り、この辺りに著しく多い杉の梢《こずえ》は、銀色の注射針のように鋭く鈍色《にびいろ》の天を衝《つ》いていた。視界の中に、動くものは、何もない。熱のすっかり下がった剣持梓は、自分の家の冠木門《かぶきもん》を枕に、降り積んだ雪を褥《しとね》に、長々と横たわっていた。意識ははっきりしているのだが、体が痺《しび》れたように動かない。いちばん疲れているのは目であった。中野の北さんの家からここまで辿《たど》り着く、この何時間かの間に、いったい梓はどれくらいの幻を見たことだろう。一つの幻が次を誘い、誘われて現れた幻は、また異形の仲間を連れてやってくる。一つを追えば、別の一つがまつわりつき、それに心を奪われそうになると、いま一つが袖を引く。梓の幻たちは、早瀬の中で絡《から》み合い、縺《もつ》れ合い、やがて杭《くい》を離れた加賀友禅になって、色とりどりに流れていった。そんなつづけざまの眩暈《めまい》の果てに、いまでも梓の目の奥は、無数の針を立てたように痛い。  暁の光が頬に射し、寒さで硬くなった梓の肌に、ほんのりと血の色が蘇《よみがえ》る。物音一つしなかった屋敷の奥に、ふとある気配を感じたのである。カサと音がして、門の脇の植込の雪が落ち、その下からつややかな寒椿《かんつばき》が一輪、顔を見せた。小走りに雪を踏む足音が近づいてくる。ゆっくり頸をめぐらせて見ると、ちょうど内側から門が開かれるところだった。姿が見えるより先に、ヘリオトロープの強い匂いが、やわらかな雪の面《おもて》を渡って梓に届く。少し遅れて門が軋《きし》みながら開くと、菫色《すみれいろ》の寝衣の裾を長く雪に曳《ひ》いて、裸足《はだし》の遊子が小首を傾《かし》げ、赤すぎる唇の間から舌をチロチロ覗《のぞ》かせて梓に笑いかけていた。梓は、とうとう姉とそうなる刻《とき》がきたのを知った。 「正《まさ》兄さま、お兄さまのお留守の間、遊子、これをしっかりお護《まも》りしていました」  寝衣を脱ぎ落として露《あらわ》になった素肌の胸に、遊子が抱いていたのは、ガラスに罅《ひび》が走り、その面に乾いた血のこびり着いた、剣持家の御真影だった。姉は、もうすっかり梓のことを、死んだ正行《まさゆき》だと思い込んでいる。自分は、自分ではないのだ。この体は、滅びたはずの兄の体なのだ。ゆうべ梓が見たものが、幸福な幻なら、これから姉が見ようとしているのも、姉の、幸福な幻なのだ。姉が御真影を抱いたまま、梓の体を跨《また》いで立つ。梓は、遊子の桜色に染まった頬に、ひとすじの涙が流れているのを見た。姉は、潤《うる》んだ目を梓の目から離さないまま、そろそろと裸の腰を落としてくる。動かないはずの梓の右手が、雪の上から腿《もも》を伝って、腰の方へと動いていく。血が退《ひ》いて蒼黒く変色した五本の指は、しっかりと抜身の軍刀の柄《つか》を掴《つか》んでいた。雪よりも白い遊子の体が、最後の勢いをつけて、梓の腰に落ちた。 「陛下!」  紅絹《もみ》を一気に引き裂く女の声が昧爽《あさあけ》の竹林を震わせ、遊子の足元の雪に薄い紅がゆっくりと滲み、頭上の竹の葉叢《はむら》を覆《おお》っていた前夜来の雪が、音を立てて姉弟の上に落ちた。 「いないって言ってくださいな。どこかへ遊びにいったとかなんとか、とにかく、後生だから、いないってことにしてくださいな」 「だけど弓ちゃん、そりゃ可笑しいだろう。銘酒屋の女は、いつも店にいるって決まってるんだ。先客が上がってるならともかく、そんな嘘《うそ》はつけないね」 「わかりました、わかりました。それなら菊ちゃんに頼みます」  梓が北さんの白木の部屋で、難しい問答を繰り返していたころ、弓も「花廼家《はなのや》」の女将《おかみ》と、声をひそめて問答していた。階下《した》の土間に、小田嶋先生がきているというのである。ふだんなら、客の選り好みをするような弓ではなかったが、こんな雪の夜、あの先生に抱かれて寝るのだけは嫌だった。寝るのは別に構わない。問題はその後である。この雪ではとても帰れないから、先生は泊まっていくことになる。窓に降る雪は、故郷の渋民村を思い出させる。渋民と言えば、貧乏である。啄木である。おっ母さんを背負って泣いて、昔の友だちがやっている木賃宿の前を通りかかって泣いて、泣いてばかりで嫌なのだ。啄木はもういないから、まだ顔を見ないで済む。しかし、先生はまるで啄木からお墨付きでももらってるみたいに、威張って泣くから嫌なのだ。啄木は偉い人でもあったが、罪な人でもあったと、弓は思う。大正からこの方、岩手には情けない泣き虫が急に増えた。  階段の上からこっそり覗くと、弓に言い含められた菊ちゃんが、小田嶋先生を相手に、結構いい芝居を打っている。 「そうなんですよ。その通りなんですよ。大きな声じゃ言えないけど、弓ちゃん、そっちの方の病気でね。本人働くっていうのを、みんなで無理矢理病院へ入れたんですよ」  菊ちゃんの声は大きくて、隣りの「羽二重」まで聞こえそうだ。 「済生会病院、地図書きましょうか?」  先生は、怖そうに手を振る。 「去年の暮れから、うちは災難つづきでね。知ってるでしょ? 鳳《ほう》ちゃん。あの子も弓ちゃんとおんなじ病気を気に病んで、元旦に、二階のとっつきの部屋で、これ」  菊ちゃんは、生れつきの嘘つきだ。弓が頼んだのは、ちょっと風邪をこじらせて、肺炎にでもなったら事だから、入院したというくらいの嘘である。 「ところで先生、なんともありません?」  菊ちゃんが先生の着物の裾に手を伸ばす。 「見てあげる。ね、私、見てあげる」  可哀相に、小田嶋先生は、菊ちゃんの手に土産の干柿《ほしがき》を押しつけ、後ずさりのまま、雪の戸外へ飛びだしていった。今夜はどこで泊るのだろう。 「花廼家」では、女を一人欲しがっている。死んだ鳳仙花の後釜《あとがま》である。二階の女たちの部屋が一つ空《あ》いてもう一月《ひとつき》になるが、新しい女はまだ決まらない。なにも女将のおゆうが、あれこれ贅沢《ぜいたく》をいってるわけではないが、出入りの桂庵《けいあん》の仙吉がいうように、朝鮮の男と女がお互い咽喉《のど》を火箸で突いて死んだ店となると、誰だって嫌がるというのがほんとうのところなのだろう。畳はよく拭《ふ》いたし、曲がった火箸も新しいものに替えたが、弓たちには何となく鳳ちゃんの部屋が、いまでも妙に匂うような気がする。何でもよく知っている千里眼の花輪さんによると、酒の混じった血の匂いは、雨が降ると部屋の隅々の黴《かび》と呼び合って、怨《うら》みがましい匂いになるのだという。しかし、女の痩《や》せた体を売る部屋に、いい匂いなんて、だいたいが似合わない。窓にどんな花を飾ったって、クレゾールの消毒液に合う花なんかあるはずがないし、何よりも残って消えないのは、夜毎の男たちの体の匂いである。魚の行商をしている男が帰って、次に上がるのが、縁日の金魚|掬《すく》いだったりすると、銀の鱗《うろこ》の匂いと、アセチレン燈の臭気が混じり合って、さすがの弓も吐きそうになる。 「花廼家」の心中事件が新聞の隅っこに載って十日ほど経った夜、鳳ちゃんは骨になって帰ってきた。鳳ちゃんの骨壺《こつつぼ》は、誰も気がつかないうちに帳場の上がり框《がまち》に、最後に着ていた粗末な長襦袢にくるまれて置いてあった。酔っ払って帰る桃ちゃんの客が、知らないで土間へ蹴飛ばしたら、中から素焼きの壺が現れて大騒ぎになった。その晩は、たまたま泊りの客がなかったので、女たちだけで遅すぎる通夜《つや》をした。帳場と背中合わせの小座敷に、林檎箱《りんごばこ》に白いシーツをかけて祭壇を作り、その上に載せた鳳ちゃんを囲んで、みんなで酒を飲んだ。どこかで聞きつけた「羽二重」の蝶次郎が、坂下の円乗寺から淋《さび》しい色の山茶花《さざんか》を一枝盗んできて、牛乳|壜《びん》に挿して鳳ちゃんの脇《わき》に飾ったら、祭壇が前よりもっと哀れになり、蝶次郎は声を上げて泣いた。生前の鳳ちゃんが、陰間の蝶次郎と親しかったなんて、誰も聞いたことがない。変なのが一人いたんじゃ、鳳ちゃんも落ち着かないだろうから、あんたもう帰りなさいと菊ちゃんが言ったら、蝶次郎が、一度だけ故人と寝たことがあると言ったので、みんなびっくりした。だって、あんた陰間じゃないかと、菊ちゃんが問いつめると、それを心配した鳳ちゃんが、ちゃんと男になりなさいと言って、無料《ただ》で寝てくれたのだと蝶次郎はいう。鳳ちゃんは、蝶次郎のはじめての女だったのだ。「あたしも寝てやってもいいよ。だけど無料《ただ》じゃないからね」と菊ちゃんが言ったので、みんなで大笑いし、それからみんなで泣いた。  その鳳ちゃんの骨壺は、いま弓の部屋の押入の隅にある。いずれ、郷里の渋民村の弓の家の墓に入れてやるつもりである。結局、鳳ちゃんの本名は、わからずじまいだった。俗名も、戒名もなく、鳳ちゃんは女郎屋の押入で眠っている。でも、東京のどこかで無縁仏になって淋しいより、毎晩弓の嬌声《きようせい》を聞いている方が面白いかもしれない。これからは、あのときの声がよく聞こえるように、押入の襖《ふすま》を少し開けて男と寝よう。  さっきの菊ちゃんの冗談を思い出して、弓は長襦袢の裾を捲《まく》ってみる。去年の暮れごろから、弓の太腿のつけ根に現れた薄い葡萄色《ぶどういろ》の痣《あざ》は、年が明けても消えないどころか、日増しに大きくなっているようである。相変わらず痛くも痒《かゆ》くもないが、一人でじっと眺めていると気分が悪くなる。はじめ勾玉《まがたま》みたいな形だと思っていたのが、この二、三日、地図帳の台湾にだんだん似てきた。——それにしても、女の体は不思議である。女を売っている弓がそう思うのだから、間違いない。好きな人でなくても、あんなに気持ちがよくなるのだって不思議だし、男のものが入って十月十日すると、それが生きた赤ん坊になって出てくるのだから、これはもっと不思議である。とすると、台湾の痣だって、何かの不思議のはじまりなのかもしれない。弓は、ただ棒のような男と比べて、女の方が柔らかで、複雑で、なんだか得《とく》のような気がしてならないのだった。  今夜の雪は半端《はんぱ》じゃない。この分じゃ女を買いにくる粋狂な男なんていないと、女将が店の暖簾《のれん》をしまいかけた八時ごろ、百面相の塙《はなわ》さんと、千里眼の花輪さんが、そろって雪達磨《ゆきだるま》になって入ってきたので、にわかに「花廼家」は活気づいた。なにはともあれ、熱いところを一杯というので、帳場に上がって弓の酌《しやく》で二人が飲みはじめると、二階の女たちも賑《にぎ》やかに集まってきた。男が二人に女が四人、ちょうど数が合うから、花輪さんに二人、塙さんに二人、今夜はそれでいきましょうと弓が冗談で言ったら、男たちがまじめな顔でこそこそ相談をはじめた。菊ちゃんは乗り気である。桃ちゃんは、心配そうに弓の顔を窺《うかが》う。楽ちゃんはどうでもいいらしい。言い出した弓は困った。冗談で言ったのに——冗談じゃない。  相談がまとまった二人は、とんでもないことを言う。弓の部屋へ、二人で上がるというのである。つまり、弓が花輪さんと塙さんの二人を相手にするわけだ。男一人に女が二人というのもなかなか捨て難いが、今日は財布が淋しい。花代は二人分付けるから、そうしよう。弓は眉を吊《つ》り上げて抗弁した。私は、玩具《おもちや》じゃない。そんなことするくらいなら——と言いかけて、詰まってしまった。そんなことするくらいなら、何ができるというのだろう。せいぜい死んだ方がましぐらいのものだが、弓は死ぬくらいなら、何でもしようという女である。弓は悲しくなった。泣きたくなった。啄木を思い出した。そう言えば、啄木に「悲しき玩具《がんぐ》」というのがあった。  女将のおゆうが、まあまあと割って入って、ようやく決着がついた。女二人分の花代のほかに色をつけることで、弓は納得させられた。きっかけを作ったのは自分だし、小田嶋先生に泣きながら舐《な》められるよりはいいかもしれない。そうと決まると、潔《いさぎよ》いのが弓のいいところである。百面相と千里眼、数が賑やかで結構じゃないか。パッと裾を捲《まく》って階段を駈《か》け上がった。花輪さんと塙さんも、おなじ呼吸で裾を捲って後を追った。  死んだ鳳ちゃんの布団を花輪さんが運んできて、弓の布団に並べて敷いたら、部屋は赤い運動場のようになった。男なんて、子供みたいなものだ。百面相と千里眼が、相撲をとっている。顔を真っ赤にして、汗にまみれて、変な男たちだ。花輪さんの方が頭一つ大きいが、ひょろりと腰が高いので、塙さんに下から組みつかれると、顎《あご》が上がって、そのままズルズル寄り切られてしまう。弓は部屋の隅で胡坐《あぐら》をかいて、飲みながらの見物である。ときどき適当にハッケヨイと声をかけてやると、男たちは勇み立つ。顔を真っ赤にして、汗にまみれて、いつの間にか真剣になっているのが可笑《おか》しい。こんなことで、後は大丈夫なのだろうか。——チビの塙さんの出し投げが決まる。ノッポの花輪さんが鏡台にぶつかる。階下《した》では、三人で何をしていると思っているだろう。花輪さんがあんまり弱いので、弓はさっきから苛々《いらいら》していたが、とうとう我慢できなくなって、布団の土俵に飛び込んだ。飛び込んで男たちの汗の匂いを嗅《か》いだら、熱い血が、お腹《なか》の辺りから頭の天辺《てつぺん》まで駈け昇った。それからは、いったいどうなったのかわからない。弓が花輪さんの裸の腰に武者ぶりついたら、塙さんが弓を羽交い締めにして後ろから胸に吸いつき、そうしている間に花輪さんが裾から潜り込んで足を割る。そのまま三人で布団に倒れた後は、どっちが千里眼で、どっちが百面相なのか、弓にはわからなくなってしまった。——小さな子供が二人、声を上げて弓の体の中を走り回っている。のどかな春の野である。子供たちは、転んではまた起き上がり、取っ組み合っては離れ、泣いて、喚《わめ》いて——弓は可笑しくなる。可愛くてしょうがなくなる。私の中で力いっぱい遊びなさい。男の子なら、日が暮れても、夜が明けても、倒れるまで遊びなさい。——弓は、母の気持ちになっていた。  冷たい畳の上に這《は》いつくばって、真っ裸の弓は、蛙《かえる》みたいに投げだされていた。ほかの部分の力がみんな脱けきっているのに、弓の女だけが熱い息を吐き、激しい動悸を繰り返し、甘い幸福を味わっている。やっぱり女は違うんだ。この中に心があり、この奥に涙の海があり、これ自体が命なのだ。——そんなことをぼんやり考えながら薄く目を開けたら、二人の男が布団に折り重なって鼾《いびき》をかいていた。吸う息、吐く息、呼吸がぴったり合っていて可笑しい。花輪さんの方は、いつもの間延びのして剽軽《ひようきん》な顔だが、百面相の塙さんの顔は、弓がはじめて見るものだった。商売柄、どんなときだって作った顔しか見せない塙さんの、これが文字通りの素顔なのだろうか。変に優しい顔だった。眉を悲しそうに顰《ひそ》め、小さな唇からきれいな白い歯を覗かせて、女のようだ。弓の桃色の長襦袢《ながじゆばん》を羽織っているので、余計そう見えるのだろう。そんな塙さんが、小さく首を振って目を覚まし、重たげな瞼《まぶた》を開いたとき、弓はあまりのことに三尺ばかり飛びすさって叫んでしまった。——塙さんの顔が、鳳仙花になったのである。もっと生きていたかった。諦《あきら》めの色をいっぱいに湛《たた》えた鳳ちゃんの腫《は》れぼったい目は、そう語りかけているようだった。  翌朝、いっしょに北陸の巡業に出かけるという二人を送り出して、弓が台所へ顔を出すと、ちょうど女たちの朝飯がはじまったところだった。いつもなら、ゆうべはご繁盛《はんじよう》なことでとか何とか言われるところなのに、みんな妙に静かで様子がおかしい。自分でご飯をよそって楽ちゃんと菊ちゃんの間に坐ると、端っこの桃ちゃんがお汁《つゆ》を注いでくれる。なんだか並びが変だと思ったら、去年まで鳳仙花が坐っていた辺りが、今朝はいやに広く空《あ》いている。勝手口の脇《わき》にある南天の枝の雪がバサッと落ちた。みんながビクッと肩をすくめる。寒さのせいだけではなく、冷え冷えとした板の間である。 「何かあったの?」 「うん——」。菊ちゃんの目が泳いでいる。 「女将さんは?」 「円乗寺さんへ、お祓《はら》いに」。蚊《か》の鳴くような桃ちゃんの声である。 「お祓い?」 「出たのよ」。楽ちゃんまでが変だ。 「花廼家」の、みんなの部屋に、ゆうべ鳳ちゃんが現れたというのである。時刻を訊《き》いてみると、だいたい弓が見たのとおなじ見当である。女将のおゆうは、いい歳《とし》をして、眠っている亭主の喜久造の布団に潜り込んで、後ろから肩をゆすったら、振り返った顔が枕紙《まくらがみ》を咥《くわ》えた鳳仙花だったという。楽ちゃんは、どうもあそこの具合がおかしいので、夜中に起きだして鏡台の鏡を少し上に向け、鏡を跨《また》いで映してみたら、髪逆立てた鳳ちゃんが真っ赤な口を開けてそこにいた。菊ちゃんの場合は、寝呆《ねぼ》け眼で便所の戸を開けたら、お尻を捲った鳳ちゃんがしゃがんでいて、桃ちゃんはその逆で、便所でしゃがんでいたら、いきなり戸が開いて鳳ちゃんが入ってきたというのである。——みんな、声をかぎりに叫んだという。  これでようやく、ゆうべの不思議に合点《がてん》がいった。弓があんなに大きな悲鳴を上げたのに、誰も起きだしてこなかったのは、みんなおなじ時刻に、一斉《いつせい》に叫んだからなのだ。鳳ちゃんは、男の後を追いかけて海を越え、日本へやってきた。独立運動の指導者だった男は、九州の門司《もじ》から神戸、神戸から浜松を経て東京と、転々と移動し、鳳ちゃんは体を売りながら男について歩いた。稼いだお金はみんな男に渡して、自分は下着一枚買おうとしなかった。朝鮮の人にとって、お国とは、それほど大切なものなのだろう。偉い、と弓は思う。鳳ちゃんといっしょに死んだ人は、涼しげで、それでいて力のある目をしていた。あれは、お国を想《おも》う目だったのだ。男は、ただ棒のようなものだと思っていたが、男にはお国というものがあるのだ。——剣持さんに逢《あ》いたい。弓はお腹の下の方で、激しく思った。  大雪の日から一週間が経《た》った。紀元節のこの日は、雪こそ降らなかったが、この冬いちばんの寒さだった。あの夜から寝たきりだった梓は、今朝ようやく床から起きて、家族たちと朝の食卓を囲んだ。出かけるのは七日ぶりである。今日は、九時からの聯隊《れんたい》の祝典に一時間ばかり顔を出せばいい。この前、母に看病してもらったのは、いつだったろう。もう十何年にはなる。——廊下を母の品のいい足音が近づいてくる。静かに襖が開く。母が運んでくる琺瑯《ほうろう》引きの洗面器の中の氷が触れ合って、かすかな音をたてる。枕元で手拭《てぬぐい》を絞る水音が聞こえて、梓の額の、熱で生暖かくなった手拭が取り去られ、沁《し》みるように冷たい新しいものに替えられる。母の細い指が、胸の布団の衿《えり》を直してくれる。熱と薬の匂いのする部屋である。どこかで小綬鶏《こじゆけい》が啼《な》いている。母が拵《こしら》えてくれた林檎の絞り汁を飲みながら、梓は、こうやって力のない体で甘い時間を過ごすのは、これが最後のような気が、なぜかするのだった。  病み上がりの体では、やはり食はそれほど進まなかった。父や姉はまだ途中なのに、母は気を利《き》かして、梓にだけお茶をいれてくれる。姉の遊子は、食べている間は大人しい。時折キョロキョロ目を遊ばせるくらいで、静かに箸《はし》を運んでいる。けれど、ときに手元が危うくなることがあり、箸に挟んだものを落としたりする。それをさり気なく拾ってやるのは、父の甲四郎である。 「もしこの子が、お前の後に生れていたら——」  父は、遊子の方をチラと見て、ふと口ごもる。 「私の、後にですか?」 「うん。そうしたら、弓という名にしただろう」  梓はびっくりしてお茶を噴き出しそうになった。 「遊子にしたのが、いけなかったのかもしれない」  父の穏やかな目が、遊子の仄白《ほのじろ》い横顔を見ている。 「どうしてでしょう」 「人は不思議なもので、名前の通りになる」  低い声に、淋《さび》しさが滲《にじ》んでいる。 「しかし、なぜ、弓なのですか?」 「兄が正行、これはマサツラとも読める。次が梓、だからその下は弓」 「如意輪堂《によいりんどう》ですか」  甲四郎は、小さく笑ってうなずき、遠くへ目をやって呟《つぶや》く。 「かへらじとかねて思へば梓弓——」 「——亡《な》き数に入る名をぞとどむる」  後をつづけたのは遊子だった。 「あたし、知ってる。お父さま、あたし、知ってます。四条畷《しじようなわて》の戦いですよね?」  さっきから、もう何十杯も汲《く》み上げているので、井戸の水は暖かいくらいだった。「花廼家」の裏の井戸端で、姐《あね》さんかぶりに襷《たすき》がけで、弓は汗を流して洗濯をしていた。自分の分はもちろんのこと、みんなが押入に蓄《た》め込んでいた汚れものを全部出させたから、弓の周りは洗濯物の山だった。隣りの蝶次郎が、垣根の向うから不思議な顔で見ている。「どうなさったの? 弓|姐《ねえ》さん」。蝶次郎の陰間ことばは、まだ治っていない。どうなさったのか、弓には自分でもよくわからない。あれから一週間も経つのに、鳳仙花の幽霊の話以来、女たちがメソメソしているのを見ていたら、ただ無性に腹が立ってきて、そのうち居ても立ってもいられなくなり、みんなの部屋を回って洗濯物を引きずり出し、階段の上から蹴落《けお》としてここまで運んできた。女が気分を変えるには、自棄食《やけぐ》いするか、洗濯でもするしかない。盥《たらい》いっぱいに水を張り、女の匂いのする汚れ物をことさら乱暴にぶち込んで、粉石鹸《こなせつけん》を振りかける。それから洗濯板で、腰巻なんか破けるくらいにゴシゴシ洗う。前掛けも着物の裾も、びしょ濡《ぬ》れである。掌《てのひら》も指も、ふやけてしまって、変に白っぽく皺《しわ》だらけになってしまった。鳳ちゃんにも、洗濯の愉《たの》しさを教えてやればよかった。世の中、たいていのことは、こうやってせっせと洗濯すれば、とりあえずの片は付く。弓はいい気持ちだった。いい気持ちだから、もっと景気をつけようと、歌を歌った。   七つ八つから 容貌《きりよう》よし   十九|二十《はたち》で 帯とけて   解けて結んだ 恋衣   お駒才三《こまさいざ》の はずかしさ   恋と義理との 諸手綱《もろたづな》   ひかれて渡る 涙橋   風にすねたか 黄八丈   袖にくずれる 薄化粧  景気はつかなかった。鳳ちゃんのことを思い出したのである。お駒は大好きな才三のために罪を犯したが、鳳ちゃんは、追われている男をかくまっただけだった。逃げきれないと悟った男といっしょに、死んでやっただけだ。——そう思ったら、急に胸の奥から何かがこみ上げてきた。思わず口を覆《おお》ったら、掌の粉石鹸の上に、黄色いどろりとしたものが零《こぼ》れた。まだそこにいた蝶次郎が、眉《まゆ》を顰《ひそ》めた。 「あら、弓姐さん、悪阻《つわり》じゃないの?」  祝日なので、日本橋の三越は家族連れの客で混んでいた。エスカレーターから売場に群がる人々を眺めながら、梓は、この不景気というのに、どうしたことだろうと不思議だった。しかし、そういう梓が買いにきたのも、生活に必要なものとは言えなかった。  玩具売場は六階にあった。梓がそこで買ったのは、赤い玩具《おもちや》のピアノだった。いくつも並んでいた中では高い方で、ちゃんと黒鍵《こつけん》もついていた。これを持って、梓は白山上へ弓を訪ねてみようと思っている。弓を買いにいくのではなく、今日は、ほんとうに訪ねるのである。この体でそんなことをしたら、死んでしまう。遊子がもし梓の後に生れていたらという父の話に、弓を思い出したのである。もう、ずいぶん長いこと逢っていない。少なくとも、今年に入ってはじめてだから、遅過ぎるお年玉でも持っていこう。小学生のころ、弓はオルガンを上手に弾いたという。それなら弾いて欲しい曲がある。「ドナウ河の漣《さざなみ》」である。心の病の進んだ遊子は、もう「ドナウ河の漣」さえ弾けなくなっていた。  下りのエスカレーターに乗ろうとして、梓は立ち止まった。玩具売場の一画に、喇叭《らつぱ》や鉄兜《てつかぶと》、それに刀や銃や機関銃——戦争ごっこの一式が並んでいたのである。その中に、かなり精巧に造られた三十八年式歩兵銃があった。手に取ってみると、とても玩具とは思えない。子供のためのものだから、サイズは確かに小さいが、引き金はちゃんと動くし、撃鉄も槓桿《こうかん》も真物《ほんもの》そっくりである。梓は窓際《まどぎわ》に寄って、硝子《ガラス》窓から射《さ》し込む午後の陽に、その銃をかざしてみた。——黒い銃身が、鈍く光った。梓の目が、鋭く炯《ひか》った。 「おめでただね。三ヵ月に入ったところだろう」と、胡麻塩《ごましお》頭の医者に言われても、弓はちっとも驚かなかった。蝶次郎に言われた途端、弓はそう信じていた。「で、どうするのかな?」。医者の言っている意味はわかっていたが、弓は返事をしなかった。どっちにしても、あんたの世話にはならない。おめでた、と言ったときの、皮肉とも、蔑《さげす》みともつかない口調が、気に入らなかったのである。——診察室のガラスのケースに、怖そうな器具がピカピカ光って並んでいる。大きなメスがある。先の尖《とが》った鋏《はさみ》がある。何に使うのかわからないペンチみたいなものもある。弓は、まだ手術というものを受けたことがない。体にメスが入ったことがない。傷跡なんか一つもない、きれいな体なのである。楽ちゃんたちは、何かというと所詮《しよせん》汚れた体なんていうけれど、弓は死んだって言わない。このきれいな体から、きれいな赤ん坊を産んでやる。弓は自分の商売も忘れて、誇らかにそう思った。  お金を払って坂下の病院を飛びだしたら、浄心寺さんの森の上の雲がポッカリ割れて、二月の薄日が、弓の怒った顔をからかうみたいに射《さ》してきた。下駄の音をわざとカラカラ響かせて、ぐいぐいお七坂を上がる。猫たちがびっくりして道をあける。しばらくいくと、弓の前を、カーキ色のマントを着た大きな男が歩いている。一足一足、足元を確かめるように、ゆっくり歩いている。弓は真っすぐ歩きたかった。避《よ》けて通りたくなかった。「花廼家」の弓ちゃんのお通りだ。邪魔をするんじゃないよ。——心臓がキュンと縮まった。お腹《なか》の中が熱くなった。首の根っこまで赤くなった。弓のお腹の赤ん坊の、若過ぎる父親が、にっこり笑って振り返った。  そこから「花廼家」までの、ほんの一町ばかりの坂道を、軍服姿の梓と並んで歩いたのが、弓の女の一生の中で、いちばん満たされた時間だった。——千代紙屋の二階から、下手な三味線の割に渋い長唄《ながうた》が聞こえてくる。その隣りは「加賀善」という汁粉屋である。店先の赤い毛氈《もうせん》を敷いた縁台に、羽の青い鳩《はと》が三羽、客みたいな顔をして遊んでいる。そろそろお天道《てんと》さまは西に傾いて、梓と弓の薄い影法師が、二人の後ろに長く伸び、それにじゃれかかるように猫が二匹、体をすり寄せながら尾《つ》いてくる。梓は何も言わない。弓も一言も喋《しやべ》らない。お互いの、静かな呼吸だけを聞いている。——この人が、お腹の赤ん坊のお父さんだと思う理由は、何もない。一つもない。でも、そうとしか思えないのが嬉《うれ》しかった。そして、これが弓の思う女の不思議だった。  弓が、無言で梓の袖《そで》を引く。梓が立ち止まって、弓の指差す先を見ると、正面の、雲が吹き流されて現れた薄青い空に、また半欠けの虹《にじ》が、掠《かす》れた筆で刷《は》いたように架かっていた。しかも、今日のは水蒸気の柱のように、ぼんやりと白い。これが北さんの言っていた「戦国策」の白虹《はつこう》だろうか。飛行機雲かとも見えるが、ところどころ、淡い紫めいて燻《くす》んだり、ぼやけて黄色に光ったり、あるいは中途で折れた端辺りに、緑の名残りを残しているのを見ると、あれはやっぱり虹である。そして、彎曲《わんきよく》の途切れた先に、冬の日輪があった。弓は不安そうに梓を見た。その気配に弓を振り返った梓が、もう一度目を空の高みに戻したとき、ついいまし方まで立っていた二月の虹は、消えていた。  それでも二人は何も言わなかった。そのままの姿で、坂の途中に立っていた。まだ空が青い時刻だというのに、白山上の銘酒屋街は、二人のほかに人影もなく、それは穏やかに霞《かす》んだ一枚の絵のような光景であった。  遠く、坂の上で女の子たちの声がして、お七坂を金糸銀糸の手毬《てまり》が転がってくる。弓は、何かきれいな獣が、自分たちに向って駈《か》けてくるのかと思った。ひょいと伸ばした弓の手をすり抜け、毬は人通りの疎《まば》らな坂道をどこまでも転がって、やがて見えなくなった。弓は坂の上を見上げた。毬は、もう転がってこなかった。金糸銀糸の美しい手毬は、二度と弓の前に転がってこなかった。  帳場のラジオの調子が悪い。伝通院前の電気屋で真空管を買ってきてくれと、おゆうが何度頼んでも、うっかり者の喜久造は出かける度に忘れてくる。今日も、おゆうが煙管《きせる》片手に、ラジオの「明治一代女」に合わせて首を振っていると、ピーピー嫌な雑音が混じってきたので、癇癪《かんしやく》を起こして長火鉢から立っていき、ラジオの腹をドンと叩《たた》いたら、それっきり何も言わなくなった。鳳仙花の心中からこっち、すっかり客足の遠のいた「花廼家」は、それでしんと静かになった。  弓は美しい狙撃手《そげきしゆ》だった。照準を睨《にら》んだ切れ長の右目は、夜明けの湖水のように澄み、標的を狙《ねら》う瞳《ひとみ》の中心に、ポツンと鮮やかな朱の点が浮かんでいる。梓が火鉢の火を灰で覆《おお》ってしまったので、弓の部屋は薄暗い氷室《ひむろ》のようだった。電燈を消した室内にわずかな月光が射し込み、それが鏡台の鏡に映って天井に揺れ、二月は残酷な狩猟の季節である。  弓の獲物は梓である。下品な色に塗りたくられた江戸遊歓図の襖絵《ふすまえ》を背に、梓は足を心持ち開き、腕をいっぱいに広げた磔刑《たつけい》の姿で立っていた。身を装《よそ》うものは、つややかな褐色の筋肉だけである。海の色の月の光が、ちょうど梓の左胸の辺りに漂い、その中心、心臓の真上の部分に、差し渡し五|糎《センチ》ばかりの赤い丸が描いてある。赤い印は、ほかに、右腹に一つ、左腹に一つ、咽喉《のど》の中央に一つ、そして額に際立《きわだ》って一つ——都合五つの赤い丸が、弓の銃口を誘い込むように濡れて光っていた。梓の足元には、大量の紅を溶いた紅皿と、細い紅筆が一本、転がっている。  黒い銃口と、標的の距離は、ほぼ三|米《メートル》——いくら玩具の小銃でも、命中度は高い。起伏の激しかった弓の白い胸がようやく静まり、梓のきつく結んだ唇の端に、甘い微笑が浮かぶ。月が翳《かげ》り、風が止《や》み、処刑の刻《とき》が近づく。——生れたその日から、この刻を待って、待っていたのです。あなたに酷《むご》く殺されたくて、今日まで生きてきたのです。——梓の蒼褪《あおざ》めた唇が裂け、裂帛《れつぱく》の声が飛んだ。「撃て!」。弓の、標的とおなじ色に染められた口が応《こた》える。「ターン」。つづけざまに梓の声が飛び、一秒の狂いもなく弓は応えた。——弾丸は熱いものと思っていたのに、この氷のような冷たさはどうだろう。深々と体内に射《う》ち込まれたものが、臓器の熱さに溶けていくのが、梓には見えるようだった。——北さん、見ていますか? 痛いですよ、ひどく痛いですよ。ここへ、いらっしゃい。あなたも、ここへいらっしゃい。——薄い膜がかかって、もうほとんど見えなくなった梓の最期《さいご》の視界の中で、北さんがニヤリと笑った。  弓の放った最後の一弾が、梓の額に描かれた赤い丸の真ん中を射ち抜き、それでもしばらく虚空《こくう》を見つめていた目に、写真機のシャッターを下ろすように黒い影が落ちて、梓は大きく首を折った。そして梓の唇が、針で突いたように、ほんの少し動いた。「陛下——」。そのときはじめて梓の体が血を噴いた。右腹と、左腹の標的の真下のそこが、白い樹液のような血を噴いた。宙を飛んで駈け寄った弓が、無残な傷口から迸《ほとばし》る白い血を、赤い口に受けた。梓は死んでいた。弓は、頬を桜色に染めて、生きていた。  それから、どれくらい経ったろう。遠くでピアノが鳴っていた。それは梓の耳に、寄せては返し、また忍び寄っては遠のいたが、「ドナウ河の漣」ではなかった。誰が弾いているピアノだろう。途切れ途切れに聞こえるあの唄は、何だろう。ずっと昔、聞いたことがある。だけど、それは、ずっとずっと昔だ。——梓は菫色《すみれいろ》の長襦袢を着せられ、布団に寝ていた。目を開けると、鏡台の前でこっちに背を向けて、弓が赤い玩具のピアノに合わせて唄っている。可哀相に、ちょっと風邪声《かざごえ》だ。   坊やはよい子だ ねんねしな   ねんねのお守《もり》は どこへいった   あの山越えて 里へいった   里のお土産《みや》に なにもろた   でんでん太鼓に 笙《しよう》の笛   起上《おきやが》り小法師《こぼし》に 振り鼓—— [#改ページ]    終 章 白虹《はつこう》日を貫く   暁のどよみに答へ嘯《うそぶ》きし   天のけものら須臾《しゆゆ》にして消ゆ    斎藤 史《ふみ》  たったいま、冬の日は浄心寺の森に沈んだばかりである。やがて、棚曳《たなび》く雲を染めていた鬱金《うこん》の中の赤が薄れ、次いで橙《だいだい》が消えて、暮れなずむ大空に最後に残るのは紫の光である。——子供のころは、おなじ二月でも、もっと一日が長かったような気がする。弓が育った北岩手の渋民《しぶたみ》辺りは、日の出の時分はちょうど村全体が岩手山の蔭《かげ》になっていて、空が明るくなるのが遅く、日暮れは弓の家が背中に背負った鎮守の森の杉林のせいで、まだ両親が畑から戻らないうちから、ひんやりと夜の気配が足元に漂ってきたものだが、それでもいまよりは陽のある時間が長かった。なんだかこのごろは、すぐ日が暮れる。天文のことはよく知らないが、地球の様子が、少しずつ変わってきているのではないだろうか。誰も気づかないうちに、だんだん太陽が遠退《とおの》いているのだとしたら、こんな怖いことはない。  歳《とし》のせいもあるかもしれない。菊ちゃんが言うように、一年中、女を売っているからもあるのだろう。十六の春に東京へ出てきて、この商売をはじめたころから、弓の時間は、季節に関わりなく駈《か》け足で弓の小脇《こわき》をすり抜けていくようになった。——汗っかきの花輪さんを送り出して、ようやく一人の布団《ふとん》で体を伸ばし、ほんの一眠りしたと思ったら、女将《おかみ》のおゆうの金切り声で起こされる午《ひる》近くになっている。顔も洗わないで、台所の板の間に一人分残された、目刺し一匹、沢庵《たくあん》三切れの載った丼飯《どんぶりめし》に白湯《さゆ》をかけて掻《か》っ込んでいると、もう桃ちゃんがお湯へいこうと誘いにくる。素人《しろうと》衆に嫌がられるから、この界隈《かいわい》の女たちは口開けの銭湯へいくのである。弓は生れつき明るい性質《たち》だから、女将のお古の垢落《あかお》としで、肌が赤くなるまで体中を擦《こす》ると、十六の娘に戻ったような新しい気持ちになれて嬉《うれ》しくなる。嬉しくなって桃ちゃんと二人、縁日へ急ぐみたいに、下駄の音をカラコロさせてお七坂を上がり、「花廼家《はなのや》」の暖簾《のれん》をくぐると、目の前の土間の卓子《テーブル》に、もう一人の塙《はなわ》さんが、にっこり笑って弓を待っている。百面相の芸も、この不景気では売れないらしく、昼一回の寄席《よせ》が終わると、可哀相《かわいそう》に、他にすることがないらしい。塙さんと手をつないで階段を昇り、紅《あか》い襖《ふすま》を開けて部屋へ入れば、そこはもう淫《みだ》らに湿った夜の世界である。いくら丈夫な弓だって、長い溜息《ためいき》をつきたくもなる。——グリニッチ標準時とか、日付変更線とか、高等小学校の理科の時間に教わったが、あんなものは当てにならない。影の薄い女たちの冬の日は、時間が経《た》つのが早過ぎる。  それにしても、このごろの弓の周りは、落ち着きのない毎日である。穴籠《あなご》もりの動物たちのように、大人しく春がくるのを待っていればいいのに、みんな目が泳いで浮き足立ち、思いつめた顔でどこかへ急いでいるようでみっともない。関東大震災で厄払いはすっかり済んで、昭和になったらいいことばかりあると言ったのは小田嶋《おだじま》先生だが、先生の尊敬する|啄木《たくぼく》がこの白山上辺りで飲んだくれ、情けなく泣き濡《ぬ》れていた明治の終わりごろと、世間はちっとも変わっていない。飲んで男と寝るのは商売だし、嫌いじゃないから毎晩やっているが、落ち込んで泣いている暇なんか弓にはない。売れっ妓《こ》の弓でさえ、一月《ひとつき》に揚げる花代は高々三百円である。このうち七割五分を「花廼家」に入れて、残りの七十五円が弓の取り分になるのだが、その六割は前借りの返済に天引きされるから、手元に残るのはたったの三十円ということになる。食費、住居費、それに月に二度の衛生検査の費用はもちろん店持ちだが、着るものや、化粧品や髪結い代も、風邪を引けば薬代も、玉割と呼ばれるこの中から払わなくてはならない。岩手の母親に足袋一足も送ってやれないどころか、うっかりしていると、朋輩《ほうばい》たちに奢《おご》ってやった饂飩《うどん》や今川焼きの立て替えなんかが、いつの間にか蓄《た》まって、借金が嵩《かさ》むばかりである。啄木みたいに、呆《ほう》け顔でじっと手を見ている暇なんかありゃしない。  いつのことかは知らないが、いまの商売から足を洗ったら、早くお婆《ばあ》さんになって思い切り泣いてやろうと、弓は思う。泣かないで生きてきた何十年の人生の中で、自分に辛《つら》く当たった奴《やつ》や、蔑《さげす》んだ奴、汚い嘘《うそ》をついた奴にお金を誤魔化《ごまか》した奴、そんな奴らを涙の海で溺《おぼ》れさせてやるのだ。それですっぱり忘れてやる。——あとの時間は、いい人たちのことを、一人ずつゆっくり思い出して過ごそう。おまえが嫁にいくときの裲襠《うちかけ》は、何があっても私が縫ってやると、弓がまだ三つか四つのころから耳元に囁《ささや》いてくれたお祖母《ばあ》ちゃんのことを、まず誰よりも先に思い出そう。次が、冬の水に落ちて流れた、可哀相なてふ姉さん。それから、真鍮《しんちゆう》の火箸《ひばし》が曲がるくらい思い切り咽喉《のど》を突いて死んだ鳳仙花《ほうせんか》。——死んでしまった人たちが先になるのは仕方がない。だってあの人たちは、いつも穏やかに微笑《わら》っていて、どんな話にも目を細めて頷《うなず》いてくれる。現世の欲得というものがないからだろう。あっちの国では、一日中、気持ちのいい風が吹き渡り、楡《にれ》の茂みの隙間から零《こぼ》れて落ちた日光の玉が、艶《つや》やかな花びらの面《おもて》を弾んで転がり、森の径《みち》でいき交う人たちは、みんな仏様の顔をしているのだと、お祖母ちゃんは見てきたようなことを念仏みたいに繰り返し言っていたが、ほんとうにそうなのかもしれない。このごろみんなが、どこかへ急いでいるように見えるのは、あっちの国へいこうとしているのだろうか。——つい先だって二十一になったばかりだというのに、このごろの弓は、しきりとそんなことを考える。  日当たりのいい午後の縁側で、お婆さんになった弓が、菊ちゃんや桃ちゃんや、花輪さんや塙さんのことを思い出しているころ、剣持《けんもち》さんはどうしているのだろう。そのころになれば、いまのみんなと遠くなっているには違いないが、剣持さんとだけは、どうなっているのか、とても気になる。無事に陸軍で出世して、髭《ひげ》を生やして威張ったりしているのだろうか。なんだか可笑《おか》しくて笑ってしまう。弓は花輪さんみたいに千里眼でないから、そんな先のことまで見えないのはしょうがないが、どうも剣持さんについてだけは想像もつかない。しかし、そんなことでは困るのだ。剣持さんは何にも知らないけれど、いま弓のお腹《なか》の中には、あの人の子供がいる。  重臣襲撃の隊編成の中で、いちばん成功率が高いのはどこかと剣持|梓《あずさ》が訊《き》いたら、左近充《さこんじゆう》は目を剥《む》いて驚いた。そう言えば、今回の計画に参加するともしないとも、まだ梓は左近充や福井に確答していなかった。福井は単純だから、陸士以来の仲間がいよいよ心を決めたらしいのを、涙まで流して喜んだが、左近充はさすがに冷静で、梓の目の中に揺らめく炎の色に、自分たちにあるものとは異なる何かを見て、いくらかの不安と疑いを抱いているようだった。歩兵第一|聯隊《れんたい》の向いにある「竜土軒」のカウンターの青い洋燈《ランプ》の下で、左近充は梓の質問には答えないまま、いつまでも梓の目を覗《のぞ》き込んでいた。——中庭に面した冷えきった色|硝子《ガラス》の向うに、うっすらと小雪の影が走る夕暮れである。 「われわれの蹶起《けつき》で、眠っていた国民の目が醒《さ》めると思うか?」 「わからない」 「戒厳令の下、新しい首班には、誰が指名されると思うか?」 「わからない」 「陸軍大臣は?」 「わからない」  梓には、ほんとうにわからなかった。そんなこと、一度だって考えたことがなかったのである。——マスターがレコードをかけ替えた。「黄昏《たそがれ》のオルガニート」——兄が好きだった古いタンゴだった。街の音楽師が、小さな手押車に乗せたオルガニートを弾きながら、日暮れの石畳をやってくる。腐った野菜と機械油の混じった街の匂《にお》いの中に、喘《あえ》ぐような楽器の音が流れ、俯《うつむ》いていく人々は誰も顔を上げようとしない。梓はふと、兄がほんとうは生きていて、いまでは父母のことも、妹や弟のことも忘れ、アルゼンチンの古い石造りの部屋に横たわって、オルガニートを聴きながら、澄んだ目で天井を眺めているような気がした。 「北さんは、ほんとうのところ、いまの時期をどう考えているのだろう」 「——」 「おまえ、聞いていないか?」 「いや——」 「さっきのおまえの質問だが——成功率がいちばん高いのは、荻窪《おぎくぼ》の教育総監邸だと思う」  荻窪は、梓の家に近い。父や姉の耳にも、暁の銃声は届くかもしれない。  二月二十四日、晴れのち小雪。——そこまで日本語で書いて、あとはしばらくご無沙汰《ぶさた》している弓の「ローマ字日記」である。毎日きちんと書いていれば、去年の暮れでページは終わっていたはずなのに、小田嶋先生に買ってもらった丸善の英字用横書きノートは、まだ半分以上も残っている。 ≪Fumiko, Sakurako, Momoko, Yuo……≫。自分でも気づかないうちにペンが動いて、今日の日記は女の名前の羅列《られつ》である。どれも、こんな名前だったらよかったのにと、弓がかねがね思っていた名である。文子、桜子、桃子、遊子……文子は賢そうだし、桜子は上品でいい匂いがする。桃ちゃんは可愛《かわい》らしいから、桃子にしようか。遊子はちょっと名前としては変だけど、剣持さんのお姉さんが確かこの字だった。弓の知り合いは、ほとんどが、うめとか、なおとか、よねとか、平仮名の二文字だった。家族を考えても、母がとみで、姉はてふである。でも、これからは子の時代だと思う。——弓は、この秋に生れてくるはずの、子供の名前を考えているのである。  男だったらどうしよう。——≪Kaoru, Hajime, Takesi, Tuyosi……≫。薫は男だか女だか紛らわしいからやめよう。一《はじめ》はもののはじめだし、すっきりしていていいと思うが、啄木の本名だから、これもやめる。泣き虫の男になられたら困ってしまう。剛《たけし》とか、毅《つよし》とかが強そうでいいかもしれない。でも、弓がいちばん好きなのは樹《き》という字だった。真っすぐに伸びやかに立っていて、大きく枝を広げ、茂った葉の一枚一枚が瑞々《みずみず》しく朝の陽に輝いて美しい。生れてくる子が、冬、冷たい風にも揺るがないくらい勁《つよ》く、夏、爽《さわ》やかで優しい木陰を作る、樹のような男の子だったら、どんなに嬉しいことだろう。ただ、困ったことに、樹と書いて何と呼べばいいのか、それが弓にはわからない。こんど剣持さんがきたら訊いてみよう。だって、剣持さんが梓という名前だから、弓は一文字の男の名を考えているのだ。  花輪さんも、塙さんも今夜はこない。二月いっぱい、横山パイプ・タバコという妙な名前の漫才師と一座を組んで、四国から九州へ巡業している。百面相と、千里眼と、漫才で、百千万だというのだから笑ってしまう。階下《した》の帳場では女将のおゆうが胴元になって、楽ちゃんと菊ちゃんと、それに隣りの「羽二重」から、こっそり蝶次郎《ちようじろう》が呼ばれて、宵《よい》の口から花札を引いている。桃ちゃんは見物である。つまり、今夜も「花廼家」の女たちは、揃《そろ》ってお茶を挽《ひ》いているわけである。二八《につぱち》の二月を越すまでの辛抱だとおゆうは言うが、この不景気は当分つづきそうな気配である。剣持さんの話では、農村出の兵隊さんたちの中には、郷里のことが心配で、夜中に毛布をかぶって泣いている人がいるという。他人事《ひとごと》ではない。弓の実家のある岩手も、隣りの青森も、この三年ほどは凶作つづきで、いまでは男は出稼ぎに、女は娼妓《しようぎ》に売られるのが当たり前のようになっている。東京でもこんなによく雪が降るのだから、渋民村では二階の窓から出入りしていることだろう。いつか、あの雪の村へ帰ることがあるのだろうか。——たまには早く寝ようかと布団をのべたついでに、雨戸の隙間から覗いてみたら、夜のお七坂は真っ白な絹布《けんぷ》を敷きつめたような雪景色だった。  床の中でうとうとしていたら、「弓|姐《ねえ》さん、いいかしら」と、襖越《ふすまご》しに女言葉の太い声がして、女たちにカモにされて一文なしになった蝶次郎が、お銚子《ちようし》を二本、顔の前にぶらぶらさせて入ってきた。「一本ずつ飲みましょ。飲んだら帰る。ほんとに帰る」。そう言って蝶次郎は火鉢を引き寄せ、炭取りから炭をつぎ、丹前の懐《ふところ》からするめを一枚とり出して炙《あぶ》りはじめる。こんな寂しい夜は、陰間《かげま》と飲むのもいいかもしれない。女みたいに優しい蝶次郎の襟足を眺めながら、茶碗《ちやわん》に注いだ熱いお酒を口にふくんだら、鳳仙花とこの子が寝た話を思い出して、弓は吹き出しそうになった。鳳ちゃんが蝶次郎の上に跨《また》がって、いざというとき、蝶次郎は両手を合わせて「堪忍《かんにん》、堪忍」と泣いたというのだ。——あれからもう二月《ふたつき》近く経ったというのに、蝶次郎は毎晩のように鳳ちゃんの夢を見るらしい。あの晩、あんなに優しくて仏様みたいだった鳳ちゃんに逢《あ》えるのは嬉しいけれど、この寒いのに真っ裸で現れるのが怖いと、蝶次郎は真顔で言う。「あらまあ、でも色っぽくていいじゃないの」と弓が茶化すと、「そんなこと言うけど、弓姐さんは鳳ちゃんのあそこを見たことがないでしょ」。当たり前だ。いくらおなじ屋根の下で体を売っていたって、変なところを見せっこするほど暇じゃない。「それが凄《すご》いの。浅草の花屋敷のお化け大会って知ってるでしょ。あれの提灯《ちようちん》のお化け、ほんと、そっくりなの。黒い煤《すす》だらけで、真ん中からパックリ割れていて、その中から真っ赤な蝋燭《ろうそく》の火がメラメラって」。この子の話はいつも可笑しい。女言葉だから、なお可笑しい。  お酒がなくなってみると、思い出したように二月の寒さが身に沁《し》みる。お喋《しやべ》りの蝶次郎も、いつの間にか黙ってしまい、炭をくべてはフウフウ吹いて火をおこしている。帳場の時計が八つ鳴る。こんなに冷え込んで、まだ八時である。今夜は、猫坂の猫の声も聞こえない。 「あんた、こんなにお店|空《あ》けていて、いいの?」  弓が心配してやっても、蝶次郎は平気な顔で片目をつむってみせる。 「人を捜しにいってることになってるの。だから、いいの」 「何か、あったの?」 「去年からいるお千ちゃんて、知らないかしら?」 「知らない」 「ほら、咽喉《のど》に瘰癧《るいれき》の痕《あと》があって、首筋に切り疵《きず》のある色の白い子。岡山から出てきて三年ばかり板橋の遊廓《ゆうかく》にいて、去年の春にうちへきたんだけど、その子が夕方からいなくなったの。それがね、はじめてじゃないのよ。うちの女将さん、面倒なことになるのを嫌がって、あたしたちに捜せっていうんだけど、死にたいんだから、死なせてやればいいのよ」 「死にたがってるの? どうして?」 「病気よ、病気。男の病気。お客を好きになって、たんびにどうにもならなくなって、挙げ句の果てに、みんなから馬鹿《ばか》にされて、ふっと死にたくなるんでしょ。所詮《しよせん》、女郎には向いてないのよ」  陰間のくせに、生意気なことを言う。でも、しばたたいている目が哀《かな》しそうだ。その蝶次郎が、懐から皺《しわ》くちゃの半紙を引っ張りだして弓に見せる。くねくねした下手な筆の字で、そこにはこう書いてあった。≪お世話になりました。どうか、さがさないでください。蝶さま。千≫。 「何? これ」 「書き置きに決まってるでしょう」 「それはわかるけど、どうしてあんたに……」 「あたしって、いつもそうなの。なんだか頼りにされちゃうのよね。書き置き貰《もら》うの、これで二度目よ。縁起でもないでしょ? 嫌んなっちゃう」 「へえ、前にもそんなことあったんだ」 「三年前の正月よ。昔からの吉原《よしわら》女郎の習わし通り、みんなへの書き置きは見返り柳に結んであったけど、他にもう一通、あたし宛《あ》てにあったのよ」 「あんた——あんた、吉原にいたの?」 「そうよ、誰にも言ってないけど、水道|尻《じり》の裏で客引きやってたわ」  暗い声でそう言って、蝶次郎はまた懐を探った。蝶次郎の懐からは、いろんなものが手品みたいに出てくる。こんどは銀色のハモニカだった。丹前の袖《そで》で吹き口を丹念に拭《ぬぐ》い、蝶次郎は軽く目をつむって、細く震える音で吹きはじめた。それに合わせるように、弓の膝頭《ひざがしら》がガタガタ震えた。≪雨降りお月さん雲のかげ お嫁にゆくときゃ 誰とゆく……≫。——その女は、てふ姉さんだ。 「竜土軒」から帰ったら、北さんから速達が届いていた。明日の午後三時、浅草花屋敷の切符売場の前で逢おうと、薄墨の立派な字で用件だけ書いてある。いくら年中尾行がついている身とはいっても、北さんは、ニコライ堂とか湯島天神とか、変なところばかり指定してくる。まるで東京遊覧を楽しんでいるようだ。梓は、幼いころ、兄と姉と三人、母に連れられて花屋敷へいった冬の日のことを思い出す。どうしてか、動物園や遊園地の類《たぐ》いを嫌う父に、その日のことは内緒だった。だから、たぶんそれは、父が毎年豊橋で行なわれる冬季大演習に参加して、家を留守にしている間のことだったのだろう。——その日、梓は赤い総《ふさ》のついた毛糸の帽子をかぶっていた。灰色のレギングスにキャメルの外套《がいとう》、帽子とおなじ色の毛糸で編んだ手套《てぶくろ》は、嬉しさで掌《て》が汗ばんでいたので、母に預かってもらっていた。——兄や姉が何を着ていたかはほとんど憶《おぼ》えていないのに、梓は自分が身につけていたものだけは、いまでも正確に思い出すことができる。——土鍋《どなべ》の蓋《ふた》みたいな赤い屋根の下で、回転木馬が廻っていた。兄の馬は白で、姉の遊子が青、梓は赤い馬だった。梓には、まだ小さくて危険だというので、係の老人が一人、木馬の脇に付き添ってくれていた。寒い日だったせいか、木馬館は空《す》いていた。天井の拡声器から降ってくる「ドナウ河の漣《さざなみ》」が、急に大きくなったり、しばらくすると消え入りそうに小さくなるのが気になった。臙脂《えんじ》のショールに首を埋めた母が、柵《さく》の向うから手を振っている。梓の斜め左前に正行《まさゆき》の白い馬、右前に遊子の青い馬——梓の赤い馬はいくら厳しく鞭《むち》を入れても、二人の馬に追いつかない。兄は引き締まった横顔を梓に見せて、真っすぐに疾走する。姉はスカートの裾《すそ》が風に翻《ひるがえ》るたびに、小さな声を上げ、白い咽喉をのけぞらせて梓を振り返る。——そして突然、遊子が青い馬から墜《お》ちた。長い悲鳴が木馬館に響いた。兄が振り向きざま跳躍して、俯《うつぶ》せに倒れた遊子の上に全身で重なった。藻掻《もが》く梓の腰を抱き締めていた老人が鋭く呼子を吹き、回転木馬は速度を緩め、やがて停まった。——ペンキで描いたお花畑の床に、血の気の退《ひ》いた姉と、紅潮した兄が抱き合っていた。いつまでも、抱き合っていた。  火の気のない剣持家の十畳の仏間は、冷え冷えと静かである。二月の夜気が、締め切った白い障子に貼《は》りついて動かない。梓は、兄の遺影に線香を上げ、軽く手を合わせた。——木馬館の冬の日、兄とおなじくらい遊子のことを想《おも》っていたのに、梓は姉を助けられなかった。あの日から、梓はいつも兄に負けていた。片瀬の夏の海で泳いでも、春の草の上で相撲をとっても、兄は容赦なく梓に勝った。美しい姉の遊子にしても、梓に熱い目を向けるようになったのは、兄の正行が死んだ衝撃で、心がゆらゆらと白い体を離れてからである。写真の兄は軍帽の廂《ひさし》を目深に下ろし、その蔭の澄んだ目で梓をじっと見つめていた。梓は穏やかに微笑《ほほえ》んで、兄の目を真っすぐに見返した。——兄さん、ようやく兄さんに勝てるようです。兄さんは、支那《しな》の兵隊たちに殺されたけれど、私は、陛下に殺していただくのです。たぶん、あなたが好きだった北さんといっしょに——。  いつの間にか、すぐ脇に遊子が坐っている。このごろの遊子は、猫のように足音を立てない。牡丹《ぼたん》に戯《たわむ》れる蝶の絵柄の着物の襟元から、うっすらと麝香《じやこう》が漂ってくる。 「姉さん、そこにいたのですか」 「はい。さっきから、ずっと」 「姉さん、憶えてますか? 姉さんの木馬は、青でしたね」 「そう、海みたいに、青い、青い馬」 「姉さん、馬から墜ちましたね」 「だって、あなたが私の方を、見てくださらないんですもの」 「あれは、わざとだったんですか?」 「わざとに決まってるじゃありませんか。ご存じのくせに」 「——」  姉が、梓の耳に熱い息を吹きかける。その息が、しっとりと濡《ぬ》れている。 「あのとき、遊子のお乳に触ったでしょ。くすぐったかったわ。でも大丈夫。私、誰にも言ってません。お父さまにも、梓にも——」  背中に、もう一つ、別の気配を感じて、梓は振り返った。廊下の障子に映った大きな影が、ゆっくり動いて、ふと消えた。  こんな雪の夜に女と遊びにくる粋狂なお客がいるはずもないが、白山上の銘酒屋街は、店の看板に雪が吹きつけてそのまま凍り、どこが「花廼家」で、どこが「羽二重」なのか、見分けがつかない。この分だと、一夜明けた帝都は白一色になっているだろう。デパートではゴムの長靴が、半日で売り切れになったという。弓は雪国育ちだから、これくらいの雪には驚かないが、徳島から出てきた桃ちゃんなんかは、このまま世界が雪の下に沈んでしまうのではないかと、本気で怖がっているようである。ときどき、屋根に降り積んだ雪が、裏庭の南天の枝にバサッと音を立てて落ちるたびに、桃ちゃんは不安気に首をすくめる。  蝶次郎を送り出して、まだつづいている帳場の花札をしばらく覗《のぞ》き、弓は自分の部屋へ戻ると、いきなり布団をかぶった。そのまま、じっと動かなかった。いつまで経ってもちっとも肌に馴染《なじ》んで暖まらない布団の中で、弓は自分がいま、泣きたいのか、笑いだしたいのか、よくわからないでいた。——店も違ったし、それほど長い付き合いでもなかったが、てふ姉さんと蝶次郎はどこかで気が合ったらしい。吉原|大門《おおもん》に灯が入る夕暮れどき、おはぐろ溝《どぶ》の外れにあるお稲荷《いなり》さんの境内で、蝶次郎が習いはじめのハモニカを吹き、それに合わせて、てふ姉さんが「雨降りお月さん」を歌ったこともあったという。そこから見ると、浅草の花屋敷の赤い灯、青い灯が、千束《せんぞく》の田圃《たんぼ》の水に映って、きれいだった。てふ姉さんは、気持ちよく蝶次郎にお金も貸してくれた。何ごとにもいい加減な蝶次郎も、てふ姉さんにだけは、その都度きちんと返した。ただ、最後に借りた五円を返さないまま、てふ姉さんが死んでしまって、そのことを蝶次郎は可哀相なくらい気に病んでいた。こんど、きっと弓姐さんに返しますと言う蝶次郎の細い目に、涙がキラキラ光っていた。  てふ姉さんは、東北の生れだとは言ったけれど、親や兄妹《きようだい》のことは一言だって話さなかったらしい。遠い目をして、静かに微笑《わら》っていたという。鳳仙花とおなじように、「ちゃんとした男になりなさい、あんたがよかったら、私はいいのよ」と、女みたいにふっくらした蝶次郎の耳に囁《ささや》いてくれたこともあった。弓は胸が熱くなった。てふ姉さんの優しさが、たまらなく哀しかった。だから、思わず蝶次郎の手を取って、薄紫の長襦袢《ながじゆばん》の胸へ誘った。冷たい蝶次郎の手だった。蝶次郎は反った長い睫毛《まつげ》を伏せて目を閉じ、ほんの少し震えていたが、それから先へは手を伸ばしてこなかった。  今日まで知らなかったが、てふ姉さんが、真冬の大川へ身を投げたのは、心中だった。それも、不思議な心中だった。前もって時間を約束して、遠く離れたところの男と、別々に、おなじ時刻に死んだのである。相手は、店で知り合ったおない歳《どし》の慶応の学生さんだった。蝶次郎は逢ったことがなかったが、眉《まゆ》の細い、涼しい横顔の坊っちゃんで、胸の病気に罹《かか》っていた。転地療養を繰り返し、手術も二度したが、治る見込みがなかった。——死のうということになった。そう約束したら、いままで暗かった胸の中が、霧が晴れたみたいに明るく、きれいになった。旅の帽子に花を一輪挿してかぶり、旅行|鞄《かばん》を提げて汽車に乗り込むような、弾んだ気持ちだった。せっかくだから、もう一度だけお雑煮を食べてからにしようとその人が言い、てふ姉さんは笑って頷《うなず》いた。三年前、小雨もよいの元日の夜、十時に店の裏口を脱けだしたてふ姉さんは、お稲荷さんの石垣の隙間に蝶次郎|宛《あ》ての書き置きを押し込み、見返り柳の枝に廓《くるわ》で世話になった人たち宛ての、もう一通をしっかり結んで、日本堤を大川へ走った。飛ぶように走った。  相手の学生さんが、どんな風に死んだかは誰も知らない。疑ってかかれば、ほんとうに死んだのかどうかだって、わからない。けれど弓は、蝶次郎の話を聞いて、はじめて胸がすっきりした。三年の間、どんより淀《よど》んでいた澱《おり》が溶けて流れた。——その日、ラジオの時報にお互いの時計を合わせて、約束の十一時きっかりに二人は死んだに違いない。誰も知らなくたって、弓は知っている。あれは、きれいな心中だったのだ。信用できなければ、神様に訊いてみるがいい。  明け方、弓は長い、長い夢を見た。——てふ姉さんに頼まれて、弓は石を探していた。そこは皇居の前の玉砂利の広場で、どこからどこまで、無数の石の海だった。この中から、たった一つの石を探してくれとてふ姉さんは言うのだ。その石の裏には、≪百≫という字が書いてあって、それが見つからないと、てふ姉さんはあっちの国へいっても、約束した人と逢えない。そう言って、てふ姉さんは帯を解き、帯締めの間や懐や、袂《たもと》の中から石を取り出してみせた。子供のころ、袂いっぱいに摘んだ秋茱萸《あきぐみ》の実のように、石はポロポロとてふ姉さんの痩《や》せた体から零《こぼ》れ落ちた。てふ姉さんが体につけている石は、全部で九十九あって、その一つ一つに、一から九十九までの番号がふってあった。あと一つ、百番目の最後の石がここにあるはずなのに、どうしても見当たらない。約束の十一時まで、もう時間がないと、てふ姉さんは泣く。弓は広場に這《は》いつくばって≪百≫という石を探した。ここにはいろんな石がある。片仮名の石や、平仮名の石、ローマ字の石もあるし、何にも書いてない石もあった。けれど≪百≫という石だけは、いくら探してもなかった。てふ姉さんは、九十九の石で体を狸《たぬき》みたいに膨らませ、早く早くと弓を手招きしている。弓は半分泣いていた。石に書いてある字が涙でにじんで、もう見えない。諦めかけて空を見上げた弓の濡れた目に、凍《い》てついた冬の星座が映って瞬《またた》いていた。  てふ姉さん、ごめんなさい。こんなに探しても、≪百≫の石は見つかりません。——そのとき、誰かが後ろから弓の肩を叩《たた》いた。すみません、今日は取り込んでいて、商売はお休みです。明日また、私の体を買ってください。そう言おうとして振り返ったら、いつか剣持さんたちといっしょに「花廼家」にきた北さんとかいう人が、哀しそうな顔をしてそこに立っていた。鼻の下の髭《ひげ》が、夜露に濡れて光っている。あなたが探している石は、ここにあります。そう言って北さんは、自分の右目を指差した。弓は手を伸ばしてその目に触ってみた。たしかに、硬くひんやりとした石の感触がする。北さんの左目がニヤリと笑った。すると、蒼褪《あおざ》めた右の眼窩《がんか》から、白い眼球がポロリと弓の掌に落ちた。そこには≪百≫という文字が、くっきりと浮かんで見えた。 ≪25th Feb. '36 Kumori. Asa kara onaka ga itai. Yonaka ni surume o tabeta seika mo sirenai. Demo betu no onaka no yona ki mo suru. Tyotto sinpai.……≫。——二月二十五日、曇り。朝からお腹《なか》が痛い。夜中にするめを食べたせいかもしれない。でも、別のお腹のような気もする。ちょっと心配。——赤ん坊ができたことは、蝶次郎のほかは誰も知らない。何を食べても平気だし、あれ以来、悪阻《つわり》らしいものもない。朝起きるとき、体がちょっと大儀なのと、以前より咽喉《のど》が渇くのが変わったと言えば変わったことだが、坂下の病院へは、人を見下したような医者の世話になるのが業腹《ごうはら》なので、あの日からこっちいっていない。しかし、いずれはどこかいい病院を探さなくてはいけない。困るのは、もちろん商売のことで、いつものようにしていいものなのか、避けなければならない時期というものがあるのか、その辺に弓はまるで無知である。幸い、このところの不景気で、閑古鳥《かんこどり》の鳴いている「花廼家」だから助かっているが、月が変わって巡業が終われば、花輪さんたちはやってくるだろうし、泣き虫の小田嶋先生だって、そろそろ顔を見せてもいいころである。手加減してくれと言うわけにもいくまいし、体の具合がちょっとと言ったって、容赦してくれそうもない手合いである。だいたい、そんなことで花代を頂戴《ちようだい》したら、「花廼家」の弓の気が済まない。  こんなとき、みんなはどうしているのだろうと弓は思う。堕《お》ろしているに決まってる。産みたければ、女郎なんかやっていられないし、この商売をつづけるのなら、母親になることなんか考えてはいけないのだ。そうしているうちに女の体は変わってしまい、赤ん坊を産めなくなるのだと、女郎上がりの女将《おかみ》のおゆうは言う。そう言えば、おゆうと喜久造には子供がいない。  今夜は、奥の座敷で新聞社の人たちの宴会があるらしい。みんな品よくやっておくれよと、おゆうが朝からうるさい。ほんとうは女たちが、品悪く、一人でも多く客をとって欲しいのだが、客がないのだからしょうがない。いろんな知り合いに声をかけて、小さな宴会でも取ってくるのが、このごろの女将の仕事である。嬉《うれ》しくもないのに、お追従《ついしよう》笑いをして、酔ってもいないのに手拍子で歌って、好きでもないのに客の首にかじりつくなんて、弓は真っ平だと思う。弓は、男と寝るのが好きだから「花廼家」にいるのだ。入れ替わり立ち替わり、上になったり下になったり、戦争みたいな毎日が好きで、この商売をやっている。弓は、剣持さんの赤ん坊を産んで、しっかり育てながら体を売れたら、どんなにいいだろうと思う。それこそ、女の幸せである。  曇り空の一角が突然裂けて、そこに現れた二月の太陽が放った白い光の箭《や》が、軍四郎兼光の切っ先に弾《はじ》かれ、そのまま翻って梓の目を真っすぐに射たので、梓は瞬間軽い眩暈《めまい》を覚えた。よく人は、鍛えぬかれた刀身を見つめていると心が鎮《しず》まるというが、梓の心は、そのとき獣《けもの》の心になる。目の前に竦《すく》む獲物を見据え、舌舐《したな》めずりを静かに繰り返し、やがて一瞬の機を察知して躍りかかりざま肉を裂く喜びに慄《ふる》えるのが、梓の中の第一の獣である。第二の獣は、四肢《しし》を緩めて、狩られるのをひたすらに夢見て待つ、温順な獣である。狩ったものは、狩られる。斬《き》ったものは、斬られ、殺したものは、殺される。その平等の均衡がこの名刀の輝きの中にはあり、それが梓を夢のように酔わせ、二月は、美しい狩猟の季節である。  刃の面《おもて》に映って、梓の獣の目が炯《ひか》っていた。二十余年を生きてきて、いまがいちばん体の中に力が漲《みなぎ》っていると、梓は思う。酷《むご》く引き裂かれるにふさわしく、引き締まった体である。この強健な体と、しなやかな獣の心を、次の世に残さずにいくことが、今日の梓には、許されない罪のように思われるのだった。自分の子供のことを考えたことなど、梓はこれまで一度だってなかった。梓はいつでも、子供だった。父と母の従順な子であり、兄と姉の、可愛《かわい》らしい末の弟だった。それなのに、今日は変なことを考える。目をつむると、大きな枝を張った樹《き》の幹に縋《すが》って、上へ上へ登っていく男の子が見えるのだ。梓に似てはいるが、梓ではない。頬が赤く、眉が太いところが誰かを想わせるのだが、よくわからない。真っすぐに天に向って伸びている、あれは何の樹だろう。榎《えのき》のようにも見えるし、椋《むく》のようでもある。男の子は下枝《しずえ》にとりついて、そこから次の枝に飛びつき、艶《つや》やかな葉群れをくぐって見る見る梢《こずえ》の先へ登っていく。梓は笑ってそれを見ている。ちっとも心配なんかしていない。その樹は、勁《つよ》い樹だ。どこまでも、どこまでも登っていけ。  梓がふと笑って手の力が弛《ゆる》んだら、刀身が揺れて、そこに何か仄白《ほのじろ》いものが映った。木蓮《もくれん》の花に似た、遊子の顔だった。目が据わったまま、梓の手の軍四郎兼光の切っ先に吸い寄せられている。——緋《ひ》の長襦袢の姉は、今朝もきれいだった。母の真似《まね》をして高く結い上げた髪のせいか、遊子は朝の光の中で、いやに大人びて見えた。その赤い唇の端に、歪《ゆが》んだ笑いが浮かんだと思ったら、姉は泳ぐように梓に近づき、いきなり裸の刀身を緋色の袂で掴《つか》んだ。今日は禁じることはよそう。姉の好きなようにさせようと梓は思った。戸外《そと》へ出てはいけない、叫んではいけない、肌を見せてはいけない、ピアノを弾いてはいけない。——哀しそうに言うことをきいている姉が可哀相だった。梓が黙って見ていると、姉は空いている左手で、忙《せわ》しなく胸をはだけた。湿った汗の匂いがして、小さいけれどまろやかな乳房が、開かれた窓から流れ込む冷気の中で、目に見えないくらい微《かす》かに揺れていた。刀の切っ先が、そこに当てられた。なんだか、聖書の中の奇蹟《きせき》を見ているようだった。プツンと円い血の珠《たま》が一粒、姉の蒼白《あおじろ》い肌に生れた。薄赤い血の珠は見る間に膨れ上がり、すぐに実った果実のように、自らの重みで落ちそうになった。梓は、ゆっくり口を寄せ、舌の上にそれを拾った。姉の血は、幼い日、熱の出た夜に飲まされた、シロップを混ぜた薬のような味がした。  部屋を出際《でぎわ》に、梓はもう一度振り返ってみた。長年|棲《す》みなれた六畳は、きちんと整頓《せいとん》され、硝子《ガラス》戸越しの光線の中にうっすらと白い埃《ほこり》が舞っていた。やがてこの部屋の家具や本は、まとめて奥の納戸《なんど》に運ばれ、兄の遺したものといっしょに、そこで眠ることになるだろう。阿佐ケ谷のこの家には、誰もいない部屋が二つになるわけである。それでも母は毎朝の掃除をやめないだろう。母は窓にはたきをかけ、床を掃き、雑巾《ぞうきん》で拭《ふ》いて、自分が産んだ子たちの匂いを消していく。たいていの家では、それが逆のはずである。親がいなくなり、子供たちが残って、歳月のうちに昔の匂いをゆっくりと消していく。梓は小さく笑った。——お母さん、こんな家もあるのですよ。  母は洗い物をしているらしい。台所で水の音がする。父は庭木に水をやっている。いつものような、穏やかな家庭の風景である。音がしないように玄関の戸を開けたら、二階の窓で歌っている姉の細い声が聞こえた。笛のような、悲しい声だ。   すみれの花 咲くころ   はじめて君を知りぬ   君を思い 日ごと夜ごと   悩みしあの日のころ   すみれの花 咲くころ   いまも心ふるう   忘れな君 我らの恋   すみれの花 咲くころ  北さんに逢《あ》うときは、いつも早めにいく。麻布竜土町の聯隊《れんたい》から青山一丁目まで歩いて、浅草行きの地下鉄に乗ったのが二時ちょっと過ぎだったから、約束の三時には十分|間《ま》がある。こんな時間なのに、車内はほどほどに混んでいた。生気のある顔が、あまりない。みんな疲れて、猫背に見える。道具箱を膝《ひざ》に抱えて、揃《そろ》いの半纏《はんてん》を着た植木職人らしい二人連れが、梓のすぐ前に腰掛けていて、さっきから頻《しき》りに不思議な虹とお濠《ほり》の鴨《かも》の話をしている。年とった方は、ついさっき皇居の上に白い虹が出ていたと言い、若い方は三宅坂《みやけざか》の途中からお濠を覗いたら、普段はいない野生の鴨や鴎《かもめ》が、何百羽も群れになって激しく啼《な》いていたと言う。虹の話はほんとうらしく、半蔵門辺りでは、しばらくの間人だかりがして、中には写真を撮っている者もいたという。梓は、いつか北さんが半分に折れた白い虹のことを、奇妙に思えるくらい気にしていたのを思い出した。あれは狼狽《ろうばい》といっていいくらいの動揺だった。「史記」だか「戦国策」だかにあるという支那の故事は知らないが、この職人たちの話を聞かせたら、北さんはいったいどんな顔をするだろう。  花屋敷はすっかり昔と変わっていた。震災の後に新しくなった木馬館は、梓の子供のころより一回り大きくなり、壁や天井のイルミネーションも眩《まばゆ》いほどきれいになっていた。木馬たちを回すモーターの音や、耳障りな床の軋《きし》む音もなくなって、目をつむれば、そこは美しい音楽の館《やかた》のようでもあった。あの日の梓たちとおなじ年ごろの、木馬の男の子や女の子たちも、いまこうして見ると、ずいぶん華やかで洋風な雰囲気が似合うようになったものだ。時代は回転木馬のように、何かに動かされ、急《せ》き立てられて廻っている。——そして梓は、突然、忘れていた兄と姉の着ていた洋服を思い出した。兄はそのころ小学校へ上がっていたが、日曜だったので、母の編んだ濃紺と灰色の横縞《よこじま》のスウェーターに編み上げの靴だった。姉のワンピースは淡い藤色で、襟の周りに暖かそうな兎《うさぎ》の毛皮があしらってあった。姉のお気に入りの洋服だった。兄の正行といっしょに出かけるときは、いつもそれを着たがった。——あの日、兄はほんとうに遊子の胸に触ったのだろうか。  どこかへ電話をかけにいっていた北さんが、咳《せ》き込みながらもどってくる。今日はいつもの支那服ではなく、めずらしく和服にインバネス姿である。寒さのせいか、色白の頬が薄い桃色に染まっている。 「どこも混んでいますね。どうしてみんな、こう暇なんでしょう」  北さんは侮《あなど》ったように、皮肉な目で人の群れを眺める。 「寒いから、幽霊屋敷へでも入りましょうか。あそこなら、たぶん空《す》いている」 「幽霊は、お嫌いだったのではありませんか?」 「いや、怖くなくなりました。便所も一人でいってます」 「宋教仁《そうきようじん》は、訪ねてこないのですか?」 「私がいつまでもこの世に未練を持っているので、愛想をつかしたのでしょう。そう言えば、このところ見ていない」 「旧《ふる》い友だちに、そんなことでいいのでしょうか」 「いいんです、いいんです。こんどは、いきなりこっちから出かけていって、びっくりさせてやります」  そう言って、北さんは可笑しそうに笑った。表情のない右目がなければ、それは子供のように邪気のない笑顔だった。  季節外れの幽霊屋敷は、思った通り人影がほとんどなく、いつもならあちこちの暗がりでおこる悲鳴もないので、北さんと梓の足音だけが、トンネル状に蛇行する小屋の天井に幾重にも反響して、歩きながらではとても話にならない。二人は、三途《さんず》の川瀬の音が陰気に聞こえる賽《さい》の河原に腰を下ろした。蒼い人魂《ひとだま》が宙を飛び交い、水のほとりに狐火《きつねび》が燃えている。北さんには、ニコライ堂なんかより、こういう黄泉《よみ》の国の荒れ果てた風景の方がずっと似合う。黒いインバネスが、魔王の翼のようだ。 「明日、支那へ渡るつもりでした」  北さんは懐《ふところ》を探って船の切符らしい薄いブルーの紙片を取り出し、日付を確かめている。知らなかった。前に逢ったときは、確か、春三月、迎春花《インチユンホア》が開くころと言っていた。 「でも、やめました」 「——」 「あなたを残していくのが、ちょっと気がかりでね」  北さんは、足元の狐火に切符を投げ入れた。客船の写真が印刷された青い紙が、ピカピカ光りながら燃えていく。 「で、いつですか?」  北さんの、焔《ほのお》の色を映した左目が、射るように梓を見ている。 「いつということに、なりました?」 「明日の、朝です」  北さんが、長い息を吐いた。安堵《あんど》とも、諦《あきら》めともつかない、長い吐息だった。 「二月二十六日ですか——なんだかキリのよくない日ですね」 「いけないでしょうか」 「いやいや、佳《い》い日とか悪い日とかではなく、憶えにくい日というだけです」 「——」 「そうですか——明日ですか」  そして北さんは、もう一度軽い息を吐いた。強い光を放っていた目が、いまは温和に笑っている。カサと小さな音を立てて、船の切符が燃え落ちた。 「花廼家」では、奥の座敷で都新聞の宴会がはじまっていた。お客は六人、その中の、床の間を背に坐っている清川さんという髪の薄い人が、どこか地方へ転任になるので、その送別会らしい。どんな事情かは知らないが、あんまりおめでたくない転任らしく、弓たちがいくらキャーキャー騒いでも座は一向に盛り上がらず、なんだか白けてしまう。弓の腰の辺りの鈍い痛みは、日が暮れるころから一段と重くなり、それを我慢していると、こんどは額に冷汗がにじんでくる。桃ちゃんが心配してくれるのはいいけれど、みんなに聞こえるような声で、あれじゃないの? あれじゃないの? と何度も訊くので困ってしまう。あれより、もっと凄いことなのだ。  そのうちに宴席は、何やら難しい話になってきた。今日の午後、この人たちのいる学芸部とかを訪ねてきた、井伏《いぶせ》さんという小説家が、宮城《きゆうじよう》の真上に、大きな白い虹が立っているのを見たというのである。確かそんな言い伝えが支那の本にあったはずだと、下泉さんという部長さんと、その小説家が辞書を引いて調べたら、それは兵隊たちが乱を起こす前兆のこと、とその辞書に出ていたという。井伏という人が見た虹は、それだけではなく、お日様の真ん中を突き刺していたそうで、そんなことは滅多にあるものじゃないらしい。だけど、戦国時代ではあるまいし、いまの日本で乱なんか起こしたって、どうなるものでもあるまいと、床の間の清川さんが、溜息《ためいき》混じりに言う。弓もそう思う。 「運命ってものは、やっぱりあるのでしょうね」  北さんが、インバネスの襟を立てて、ポツンと言った。日暮れ近い賽の河原は、いつか狐火の焔も小さくなり、肌を刺すような寒さが二人を包んでいた。 「どういうことでしょう」 「今日、あなたに逢いに浅草へくる途中、市電の中から見たんですよ」 「何をでしょう」 「白虹《はつこう》です。みごとに太い虹でした。白というより、あれは、ミルクみたいな色ですね。いくらか黄ばんで、周りは靄《もや》がかかったようにぼやけていました」  地下鉄の職人たちの話は、ほんとうだったのだ。 「まるで宮城を跨《また》ぐように、今日の虹は畏《おそ》れもなく大空に架かっていました。それだけでなく、その虹が太陽の真ん中を貫いているのです。これはもう、運命としか言いようがありません」 「どういうことでしょう」 「史記の鄒陽《すうよう》伝というのに書いてあります。≪白虹、日を貫く≫といって、兵乱の前兆だといいます」 「乱ですか」 「これには二説があって、一つは兵たちの誠心が天に通じて現れるというのと、もう一つは、天子に対する怨念《おんねん》が凝《こ》り固まって、空に虹を架けるというのと——。いずれにしても、乱は乱です」 「——」 「その上……」 「その上?」 「その上、日輪にまとわりつくように、勾玉《まがたま》の形をした雲が群れ飛んでいました」 「——」 「ほんとうは、今日の虹を見て、支那へいくのをやめたのです」  北さんが、ゆっくり立ち上がって梓に近づいてくる。不思議なことに、左の目も、右の目も、おなじようにキラキラ光っている。 「いつか、ニコライ堂で会ったとき、霊告の話をしたのを憶えていますか」 「はい」 「≪汝《なんじ》ニ宝玉授ク≫。どうやら、あなたのことだったようです」  そう言って、北さんは大きく一つ頷《うなず》き、それから梓を真っすぐに見た。 「私たちは、いい友だちだったようです」 「はい」 「百年経ったら、また逢いましょう」 「——百年ですか」 「そうです。百年です」  どっちからともなく手を差し出し、二人は掌《て》を握り合った。触れ合ったときは、重い石のように冷たかった北さんの掌が、急速に熱くなっていく。その、怖いくらいの熱さが、たまらなく嬉しく、哀しかった。 「ここに盃《さかずき》がないのが残念です。まあ、乾杯も握手も、西洋からきた風習だから、おなじようなものでしょう。あなたと、私の、掌《てのひら》を盃に、乾杯しましょう」  北さんが、梓の目を見た。梓が、北さんの目を見た。北さんの目が笑い、梓は顔中で笑った。——北さんの薄い唇が、わずかに動いた。 「あの女《ひと》のために——」 「あの女ですか?」 「それなら、陛下のために——」 「乾杯!」  二階で小田嶋先生が待っていると、菊ちゃんに小声で囁かれて、弓はびっくりした。東北本線は雪で止まっていると新聞に出ていたのに、先生はどうやってきたのだろう。肝腎《かんじん》の清川さんが床の間を枕に眠ってしまったので、都新聞の宴会はそろそろお開きだろうが、この後、一月《ひとつき》ぶりの小田嶋先生の相手をするのでは、とても弓の体が保《も》たない。具合が悪いからと言って帰ってもらえないだろうかと菊ちゃんに相談したら、もうメリヤスの下着になって弓の布団に入っているという。確かにローマ字を教えてもらった恩義はあるが、帰りの汽車賃を立て替えたことだって何度もあるし、部屋に上がるたびに二度はしてあげているし、そういつまでも仰げば尊しは通用しない。おなじ男でも、陰間の蝶次郎の方が、姿はなよなよしていてもよほど男らしいし、優しい。さっきも弓の体を心配して、裏口からこっそり蝮《まむし》の粉を届けてくれた。  手洗いに立ったついでに、女将に言って小田嶋先生の相手を誰かに頼もうと帳場へいったら、おゆうと亭主の喜久造が声を潜《ひそ》めて話しているのを聞いてしまった。楽ちゃんの腸は、もう手術をしても仕方のないくらい腐ってしまって、おゆうが医者に訊いたら、あと三月《みつき》と保たないと言ったらしい。女将たちが暗い顔をしているのは、楽ちゃんが可哀相《かわいそう》だからではない。鳳仙花が死に、これでまた楽ちゃんがいなくなったら、後をどうしようかと相談しているのである。喜久造は、この際、店を畳んだらどうかと言い、おゆうは女郎上がりだけあってこの商売の旨味《うまみ》を知っていて、なんとか後釜《あとがま》を探したいと言う。弓が溜息ついて座敷に戻ったら、だらけきった席の真ん中で、楽ちゃんが一人声を張り上げて歌っていた。   わたしゃ夜咲く 酒場の花よ   赤い口紅 錦紗《きんしや》の袂《たもと》   ネオンライトで 浮かれて踊り   さめてさみしい 涙花  仕方がないから、弓も楽ちゃんと声を合わせて歌った。   わたしゃ悲しい 酒場の花よ   夜は乙女よ 昼間は母よ   昔かくした 涙の袂   更《ふ》けて重いは 露じゃない  歌い終わって抱き合って、人目も構わずワアワア泣いた。  麻布第一聯隊の営門をくぐろうとして、梓はふと足を止めた。どこかから、女の泣き声が聞こえたような気がしたのである。梓は考えた。これからタクシーを拾って、白山上で弓に逢ってきても、十二時には戻れそうである。明日の朝は、四時半の非常呼集だから、何とかなる。——一度だけでも、母の静子に弓を会わせておけばよかったと梓は思う。母には、お母さん、私はこんな変な子が好きなんですよ、弓には、この人から私は生れたんだよと、ただ教えてやりたいだけだった。新しい知り合いができるのが大好きな母と、緊張してものも言えない弓とが、並んで庭の桜を見上げている光景を思い浮かべて、梓は十分幸福な気持ちになり、背筋を真っすぐに伸ばして営門を入った。  何度|撥《は》ねつけても、小田嶋先生は弓の裾《すそ》に手を入れてきた。泊り賃はいらないから、大人しく寝てくださいといくら頼んでも、先生は目に涙を浮かべてのしかかってくる。こうなるともう、弓を可愛いと思う気持ちなんかどこかへいって、ただ、したいやりたいの一念だけである。布団の中で揉《も》み合って、揉み合って、弓は体の芯《しん》から草臥《くたび》れてしまった。そのうち何もかもが、面倒になって、どうにでもなれと、体の力を抜いたら、その途端、小狡《こずる》い猿みたいに、小田嶋先生は弓に飛びかかり、器用に腰紐《こしひも》を解いて、弓の中へ入ってしまった。何やら言い訳を重ねる口の端から垂れる涎《よだれ》と、女々しい涙で、弓の顔はびしょびしょになる。終わるまで何か楽しいことでも考えようと、目をつむっても、薄闇《うすやみ》に浮かぶ顔は、てふ姉さんや、鳳《ほう》ちゃんや、やがて死んでいく楽ちゃんの顔ばかりで、弓は嫌になった。間もなく終わりそうな先生が、思いつめた声を上げ、腰の動きを早くする。——弓の体の奥に、鋭い痛みが奔《はし》った。そしてすぐに、鱗《うろこ》の逆立った熱い魚が、弓の中でつづけざまに体を躍らせているような気持ちよさが押し寄せてきた。女に生れて、よかったのか、怨《うら》めしいのか、弓にはよくわからなくなっていた。  弓は、また長い夢を見ていた。——剣持さんが、抜き身の軍刀を右手に提げて、雪の道を歩いている。よく切れそうな刃の一面に、霜が下りて冷たそうだ。弓は、生れたばかりの赤ん坊を抱いて追いかけるのだが、剣持さんの足は早くて、とても追いつけない。白い雪の道はどこまでもつづき、その道が果てる辺りの青空に、乳色の大きな虹が、天国の門のように架かっている。約束なんかしてなかったけれど、剣持さんは、たった一人でどこへいくのだろう。帰ってくるのですか? 帰ってくるのなら、私は、男たちと寝て待っていましょう。——慌《あわ》てて、裸のまま連れてきたから寒いのだろう。胸の赤ん坊が泣きだした。その声に、剣持さんが振り向く。弓はびっくりした。目深にかぶった軍帽の下の顔は、一面硬い褐色の毛に覆《おお》われた獣の顔だった。弓は、急に心配になって、赤い総《ふさ》のついた毛糸の帽子を脱がせて、赤ん坊の顔を見た。安心して、涙がこぼれた。剣持さんそっくりの顔で泣いていた。  日が翳《かげ》って辺りが暗くなったと思ったら、空の色は鈍色《にびいろ》に変わり、虹は拭《ぬぐ》ったように消えていた。剣持さんは、さっきと変わらない歩調で歩いている。けれど、いつの間に現れたのだろう。剣持さんと並んで、紫の繻子《しゆす》の支那服の男が一人、肩を寄せるように歩いている。すると、その男が現れるのを待っていたように、白い地平線に、黒光りのする銃を構えた兵士たちが整列しているのを弓は見た。何百という銃口が、正確に二人の額の真ん中を狙《ねら》っている。剣持さんにも、もう一人の男にも、それが見えないのだろうか。二人とも、歩調を緩めようともしない。その訳がようやく弓にはわかった。二人は、黒い布で目隠しをされていたのだ。——弓は叫んだ。咽喉が破れるくらい叫んだ。  昭和十一年二月二十六日、午前六時半、——弓は、恐ろしい悲鳴を上げて布団から飛び起きた。小田嶋先生が、狼狽《うろた》えて押入に隠れた。二階の廊下を駈けめぐり、縋《すが》りつく桃ちゃんを蹴とばし、羽交い締めにしようとする菊ちゃんを撥《は》ねとばして、弓は階段を転がって落ちた。弓は、小田嶋先生と寝たままの、真っ裸だった。裸だったが、高熱のため、弓の体は薄赤く染まっていた。「花廼家」の騒ぎを聞きつけて、「羽二重」や「達磨《だるま》」の窓に灯が点《とも》り、弓が戸口から飛びだしたころには、「花廼家」の前には人垣ができていた。——弓はお七坂を下へ走った。白みかけた冬の空から、思い出したように、薄い雪片がホロホロと舞うように落ちていた。凍った道に足をとられて、何度も転びながら、弓は走った。弓が走り過ぎたあとの雪に、薄紅牡丹《うすべにぼたん》の花びらを散らしたように、うっすらと血の痕《あと》が残った。  頬を切るように、風が冷たい。梓と兵たちの乗った軍用トラックは、いま荻窪から赤坂山王ホテルに向かおうとしていた。もうすぐ阿佐ケ谷の街へ入る。梓の軍服の袖からのぞく純白のシャツには、紅い喪章のように、血がにじんでいた。  どれくらい時間が経《た》ったのだろう。頭の中が真っ赤に燃えていて、弓には何もわからない。お腹が痛い。誰かに、お腹に汚れた手を突っ込まれ、中の内臓を引っ張りだされているみたいに、痛い。強い力で腕を掴まれ、そこに鋭い針が刺されて、何か生ぬるい赤いものが体に流れ込んでくるのがわかる。何人もの激しい人の声が、遠くに聞こえる。——弓はいま、死のうとしているのだ。こんなに熱く、こんなに痛いのだから、きっとそうに違いない。弓が死ねば、赤ん坊も死ぬ。せっかく剣持さんにそっくりの子だったのに、可哀相なことをした。——大きな樹が見える。枝いっぱいに緑の葉をつけた、大きな樹だ。それが弓の視界の中で、次第にぼやけ、遠くなっていく。樹という字は、人の名前だったら、何と読むのだろう……。  号外の鈴の音が聞こえる。何かあったのだろうか。——さっきまで、あんなに熱かった体が、こんどは震えて寒い。それよりも、お腹が空《す》いてたまらない。ゆうべの宴会で、何か食べておけばよかった。——弓はポカンとした。お腹が空くということは、生きているからだ。どうして生きているのだろう。薄く目を開けてみる。人の顔がいくつも弓を覗き込んでいるようだが、みんな野篦坊《のつぺらぼう》のおなじ顔に見える。——目が見えるようになったら、「花廼家」に帰らなければならない。小田嶋先生はどうしただろう。どさくさ紛れに花代をとぼけられたのではかなわない。  うとうと眠りかけていたら、流産という言葉が耳に入って、弓はギクッとした。助かってよかったと言っている泣き声は、桃ちゃんだ。助かったというのは、弓のことなのか、赤ん坊のことなのか、訊きたいと思っても舌が強《こわ》ばって動かない。そのあとの菊ちゃんの声を聞いて、弓は胸の中から熱いものが飛びだしそうになった。私は、女の子だと思うよ——私は、女の子だと思うよ。——生きていてくれたのだ。男の子だろうと、女の子だろうと、どっちだって構わない。——思い切って、目を開けてみた。ぼんやりと、みんなの顔が見える。桃ちゃんが泣いている。菊ちゃんが笑ってる。楽ちゃんも、今日は元気そうだ。嫌な子だ——蝶次郎までいる。弓の寝台の脇《わき》の椅子《いす》で舟を漕《こ》いでいるのは、小田嶋先生だ。この先生は、こんなに可愛い顔をしていただろうか。そして、白いドアを開けて入ってきたのは、坂下の病院の胡麻塩《ごましお》頭ではないか。寝ていないのだろうか。兎みたいな真っ赤な目をしている。  みんな好きな人たちばかりだ。嬉しくて、嬉しくて、弓は誰の名前から呼んでいいのか、わからなかった。ここにはいないようだけど、ほんとうは剣持さんの名前を呼べればいちばん嬉しいのだが、こんな大勢の前では、いくら弓でも恥ずかしい。だから弓は、いつも剣持さんが呼んでいた人の名前を呼んだ。生きている嬉しさをいっぱいに籠《こ》めて、声をかぎりに呼んだ。 「陛下!」 この作品は平成八年一月新潮社より刊行され、平成十一年三月新潮文庫版が刊行された。