[#表紙(表紙.jpg)] トットチャンネル 黒柳徹子 目 次  細面  ソプラノ・ブス  �お母さんになる!�  郵便受け  書留《かきとめ》  受付  赤巻紙 青巻紙 黄巻紙  筆記試験  素直《すなお》  恋人《こいびと》からの手紙  面接  だます人  小さい靴《くつ》  プロとアマ  女座長  担任の先生  五食《ごしよく》  営業妨害《えいぎようぼうがい》  ゼンマイ仕掛《じか》け  自分の声  サイン・プリーズ  ストライキ  若干名《じやつかんめい》  津々浦々《つつうらうら》  蹴落《けおと》さねえ奴《やつ》は!  無色透明《むしよくとうめい》  お稽古《けいこ》は「リハーサル」  メトロノーム  縞馬《しまうま》  タップ・ダンサー  懐中時計《かいちゆうどけい》  プラットホーム  卒業式  どうしたんですか?  忍者《にんじや》か!  障子《しようじ》、笑って!  七尾伶子《ななおれいこ》さん  狐《きつね》のお面  真似《まね》なんか、してない!  スージーちゃん  踏《ふ》まないで下さい  ヤン坊《ぼう》 ニン坊 トン坊(㈵)  ヤン坊《ぼう》 ニン坊 トン坊(㈼)  にわとり  「趣味《しゆみ》、相撲《すもう》」  壁《かべ》とパジャマ  三好《みよし》十郎先生  芸名  「終《おわり》」  テレビジョン  競馬  夢声《むせい》さん  河原で泣け!  見開《みひら》き  五十八円  クリスマス  怪談《かいだん》  内縁《ないえん》関係  有名人  拙者《せつしや》の扶持《ふち》  インタビュー  お見合い  結婚詐欺《けつこんさぎ》  二宮金次郎《にのみやきんじろう》  仕出《しだ》し  初めての旅  お上手ねえ  カラー・テレビ  「実家に帰ってます」    *  あとがき [#改ページ]   トットチャンネル [#改ページ]   細面[#「細面」はゴシック体]  のぞきこんでいた新聞から目を離《はな》すと、トットは、小さな溜息《ためいき》をついた。 「どうして、日本人て、細面《ほそおもて》が好きなのかなあ」  いま、トットは新聞の求人欄《きゆうじんらん》を見ていたのだった。その年頃《としごろ》になっていた。ところが、新聞を見る限り、どこにも自分をやとってくれるところは、なさそうに見えた。どの求人広告も、細面を希望していた。 「求む・ウェイトレス・細面」「求む・女子事務員・細面」「求む・麗人《れいじん》・細面」  トットは立ち上ると、ママの鏡の前に立って、自分の顔を、よく観察した。正面は勿論《もちろん》、右ななめ横から、左ななめ横……。どう見ても、丸に近かった。トットは、もう一度、溜息をついてから、いった。 「これじゃ、仕事は見つからない」  トットは鏡の前を離れた。音楽学校の同級生の、細面の女友達《おんなともだち》の顔が目に浮《う》かんだ。 (ああ、彼女《かのじよ》なら、仕事がいっぱいあるな)  トットは、中をくりぬいて、乾《ほ》したカボチャの外側に、いろんな色を塗《ぬ》って、なんとか、しゃれた花瓶《かびん》に見えないものかと格闘《かくとう》してるママに、声をかけた。 「ねえ、なんで、みんな細面が好きなの?」 「細面?」  トットは、新聞をママの目の前にひろげると、指さした。ママは絵具《えのぐ》の筆を置き、その求人欄を、じっと見た。注意深く。それから、いった。 「これ、細面《ほそおもて》じゃないわよ。委細面談《いさいめんだん》とかいうことじゃないの? それをちぢめて、新聞じゃ、細面って、書くのよ」そして、また筆をとった。 「そうか!」  トットは安心した。(細面《ほそおもて》なら絶望的だけど、委細面談なら、なんとかなる……)  そのとき、トットは、反対側の頁《ページ》に、NHKの広告が出ているのに気がついた。 「NHKでは、テレビジョンの放送を始めるにあたり、専属の俳優を募集《ぼしゆう》します。プロの俳優である必要はありません。一年間、最高の先生をつけて養成し、採用者はNHKの専属にします。なお、採用は若干名《じやつかんめい》……」  テレビジョンというものが、日本に出来つつあることは、トットも、なんとなく知っていた。昔《むかし》、小学校のトモエ学園での親友の山本|泰明《やすあき》ちゃんが、木の上で、たしかにテレビジョンのことを教えてくれた。「アメリカには、テレビジョンという箱《はこ》のようなものがあり、それが日本に来たら、家にいても、お相撲《すもう》が見られるんだって!」泰明ちゃんは、うれしそうに説明した。小児麻痺《しようにまひ》だった泰明ちゃんにとって、家にいて相撲が見られることが、どんなにうれしいことか、それが、よくわかる話しかただった。ただ、そのとき……、トットちゃんと呼ばれていた、その頃、どうしてもわからなかったことは、 「どうやって、自分の家の小さな箱の中に、おすもうさんが入るのか?!」ということだった。その、わからないことは、NHKの、 「テレビの放送を始めます!」という広告を見た、いまも、同じだった。 (……採用は、若干名か。若干名って、何名のことかな) 「ねえ?」と、聞こうと思ったとき、カボチャを塗り終ったママは、出窓にカボチャを置き、「まるで、外国製の陶器《とうき》としか、見えないじゃないの!」と自分だけで満足して、手を洗いに、部屋を出ていった。  戦争が終って、八年目に近づこうとしていた。  戦争中、カボチャの一切れは、宝物だった。その頃を思うと、陶器と見えようと、ただ、カボチャに色を塗ったとしか見えなかろうと、それは、幸福な光景だった。 (それにしても、若干名って、何名かなあ)  新聞に、また目をやったとき、ヴァイオリンの弓に、松脂《まつやに》を、こすりつけながら、パパが入って来た。今日、パパがコンサート・マスターをしてるオーケストラは休日だった。  パパは、窓の上のカボチャを見ると、トットにいった。 「ママ、うまいねえ。どう?」 「うん」といいながら、トットは、おかしくなった。パパときたら、なんでも、ママが「いい」と思うものは、自分もいいと思うんだから。なにしろ、パパのママ好きは有名で、仕事に出かけるときは、いつもグズグズしていて、たいがい遅《おく》れて行くのに、帰って来るときは、大いそぎで、つんのめりそうになって帰って来るから、いつもパパの靴《くつ》は、前が、すりへっているんだ。 「ねえ、若干名って、何名のこと?」  トットは、少しずつ、NHKの広告の内容を、本当に知りたがっている自分を感じていた。パパは、あっさり答えた。 「別に、何名って決まってるわけじゃなくて、いい人がいたら採用することで。でも、まあ、数人って、とこかな。でも、どうして?」  トットは、その瞬間《しゆんかん》(しまった!)と思った。  なんとなく、このNHKの件は、パパに秘密にしておいたほうが、よさそうだ、と直感したからだった。 「ううん。なんとなく聞いただけ」  ありがたいことに、パパは、それ以上、追求もせずに、カボチャを、また、うっとりと眺《なが》めると、日課であるヴァイオリンの練習にもどって行った。トットは、もう一度、NHKの広告を読みなおした。そして、とても、この広告が気に入った。どこにも細面とは書いてなかった。なんとなく、さい先が、いいような気がした。 「履歴書《りれきしよ》、送ってみよう!」  とうとう、トットは結論を出した。  細面のかわりに、第六次にもわたる、物凄《ものすご》い試験があろうとは、夢《ゆめ》にも考えなかったから出た、結論だった。トットは、自分の部屋の机にむかうと、神妙《しんみよう》な顔で書き出した。   学歴  トモエ学園に入学……。  生まれて初めて書く履歴書だった。 [#改ページ]   ソプラノ・ブス[#「ソプラノ・ブス」はゴシック体] 「ねえ、NHKだったら、いいお母さんになるやりかた、教えてくれるかしら?」  トットは、履歴書《りれきしよ》を書き終ったとき、もし、誰《だれ》かがそばにいたら、こんな風に聞いてみたいな、と思った。でも、本当のところ、この質問の意味を理解するのには、かなりの説明が必要だった。そして、その説明とは、次のようなものだった。  それは、音楽学校の卒業を前にして、なぜ、トットが新聞の求人欄《きゆうじんらん》など、一生懸命《いつしようけんめい》、見ていたか、ということになり、それは、�世界的なオペラ歌手になる予定だった�ということにさかのぼり、では、どうして、�なりたいと思ったのか?�ということになると、こうなるのだった。  高校一年のとき、イタリア製のオペラ映画�トスカ�を見て、「あれになる!」とトットは決めた。トスカは、美しい歌姫《うたひめ》の役なので、その扮装《ふんそう》は、終戦後、まだ着るものまで余裕《よゆう》のなかった日本人の服装とくらべると、もう、夢《ゆめ》としか見えなかった。  大きく豊かに胸をあけたドレス。その胸元や袖《そで》などには、豪華《ごうか》なレースやリボン。首には、揺《ゆ》れるたびに、ピカッ! と星じるしが、いくつも出るダイヤモンドのネックレス。髪型《かみがた》は、何本もの縦《たて》ロールで花飾《はなかざ》りつき。そして、その美しい人は、大きい扇《おうぎ》で、ちょっと顔をかくすように、優雅《ゆうが》に現れると、いきなり、世にも高いソプラノで、 ※[#歌記号、unicode303d]ア・ア・ア・ア〜〜〜〜  と、歌ったのだった。それは圧倒《あつとう》的で、トットの、すべての感覚を、かき乱した。 「ああ、あの人になろう!」  躊躇《ちゆうちよ》なく、トットは決心した。 「あれは、どこに行ったら、教えてもらえるのかな?」学校の友達《ともだち》に相談すると、 「やっぱり音楽学校じゃないの?」ということだった。次の日から音楽学校さがしが始まった。ところが、東京中、走りまわり、いくつかの音楽学校の窓口で、かけあってみたものの、高校一年で入れてくれるところは、なかった。でも、トットは必死だった。(ほかの人より、一日でも早く学校に入ろう。早く入れば、それだけ早く役がもらえる!)  顔も才能も、肉体的条件も無視だった。この幼稚《ようち》な考えは、�なんでも先着順�という、戦争中の配給制度が、小さい時から身にしみついている結果に違《ちが》いなかった。一列に並《なら》んで、たべものや着るものを貰《もら》うときには、早く並んだものの勝ちだった。その頃《ころ》は、何を配給してるのか、わからなくても、人が列になってれば、すぐ、その列のうしろに並ぶ、というのは、習慣だった。あわてて列のうしろについたら、お葬式《そうしき》だった、なんて笑い話が、あるくらいだった。  そんなわけで、トットは、とうとう東洋音楽学校(現在の東京音大)と話をつけ、次の年、高校二年になったらば、試験を受けさせてもらうことに、こぎつけた。その頃は、まだ、いろんな所に空襲《くうしゆう》で焼けた学校があり、建物は復興できずにいた。だから一人でも多くの生徒を学校は欲《ほ》しがっていた。なにしろ、この東洋の前に、期日的に試験に間に合ったM音楽学校の試験官は、トットに、はっきり、こう聞いた。 「いくら、寄付してもらえますか?」  トットは、何のことか、始めは、わからなかった。そして、(寄付の額で入れるのかも知れない!)とわかったときは、とても驚《おどろ》いた。でも残念ながら、こう答えるしか、なかった。本当だったのだから。 「私、両親に内緒《ないしよ》で試験、受けに来てますから、それは、駄目《だめ》だと思います……」  そして、当然のことだけど不合格だった。それと、もう一つ。この頃は、六三三制が決まった過渡期《かとき》だったので、世の中は、中学五年で卒業する人、高三で卒業する人、混乱の時代だった。だからこそ、こういう約束《やくそく》も、トットは、音楽学校と、とりつけることが出来たのだった。  次の年、本当にトットは試験を受け、合格し、東洋音楽学校の生徒になった。  生徒になった途端《とたん》、すぐわかったこと。それは、オペラ歌手には、先着順ではなれない、ということだった。  それと、もう一つショックだったのは、あの映画�トスカ�の美しい女の人の歌った声は、本人のものではなく、他の声のいい人が歌ったものに、トスカ役の人が、口を合わせたのだ、と知らされたことだった。同級生の少し意地の悪い男の子が、あたりを見廻《みまわ》してから、小声で教えてくれた。大声でいっては、さしさわりがありすぎるからだった。 「ほら、ソプラノ・ブスに、テノール馬鹿《ばか》って、昔《むかし》からいうじゃないか? あれだよ」  そんなことがいえるのも、その子がバリトンだったからで、失礼しちゃうことに、トットは、ソプラノだった。  それでも四年間、トットは頑張《がんば》った。たまには、自分の声の中に、あのトスカのときの雰囲気《ふんいき》を感じるときさえあった。  学校は、雑司《ぞうし》ヶ谷《や》で、有名な鬼子母神《きしもじん》のすぐ近くにあった。お昼休み、よくトットは友達たちと、境内《けいだい》のベンチに腰《こし》をかけ、焼きいもを喰《た》べては、音楽の話をした。その焼きいもは、鬼子母神の隣《とな》りの小さな店、おじいさんとおばあさんがやってる石焼きいも屋さんから、毎度、買ったものだった。鬼子母神は、安産の神様だとかで、お腹《なか》の大きい女の人が、毎日、何人も来ては、お祈《いの》りをしていった。お母さんらしい人につきそわれた若奥《わかおく》さん風の人もいたし、子供をゾロゾロ連れて、「またですよ!」という感じのオバさんもいた。寒そうな顔で走って来て、おがんで、またすぐ走って帰る、やせた女の人もいた。たまには、お腹の大きい犬が、神社の境内を横切ることもあって、トットたちは大笑いをした。そして、卒業も間近になったある日、トットが気がついたとき、友達みんなは、就職が決まっていた。みんなは、焼きいもを喰べて、楽しくしていただけではなかった。別にトットに秘密にしてたわけではないらしかったけど、トットが、「アレレレ……」と思ったときには、 「私、コロムビア」 「あたし、藤原歌劇団!」 「僕《ぼく》、テイチク」 「私、中学の先生」  と、口々に、いっていた。中でも三浦洸一《みうらこういち》さんという人は、すでにレコーディングというのを済ませて、レコード歌手としてのデビューが決まっている、という話だった。  そして、トットは何も決まっていなかった。本当のこといって、こんなに、びっくりした事はなかった。自分のぼんやりにも、あきれた。でも、トット本人だけでなしに、パパにもママにも、あまり真剣《しんけん》に、卒業してから就職、ということについての考えはなかったらしい、と思えて来た。パパは前から、なるべく、早いとこ、お嫁《よめ》に行ってほしい、というようなことを、ほのめかしていた。女の子が、男の社会で苦しむのを多く見て来たし、特に、パパの音楽の世界では、泥《どろ》まみれになっていった女の子も沢山《たくさん》、知っていた。  それにしても、自分だけ、身のふりかたが決まっていない! とわかったとき、トットは悲しかった。オペラ歌手が駄目にしても、この四年間は、自分にとって、何だったのだろう、と、はればれしなかった。 [#改ページ]   �お母さんになる!�[#「�お母さんになる!�」はゴシック体]  そんな、ある日、学校の帰り、駅の近くの電信柱に、ポスターが、ななめに貼《は》ってあるのを、トットは見つけた。 �人形劇「雪の女王」公演。銀座・交詢社《こうじゆんしや》ホール� 「人形劇って、どんなものかな?」  想像しても、わからなかった。それまで人形劇というものを見たこともなかったし、話にも聞いたことがなかった。  ほんの偶然《ぐうぜん》から見たこのポスターが、NHKの新聞広告につながってくるなどとは、思いもつかないことだった。当時、トットの住んでいた洗足池《せんぞくいけ》の自分の家のあたりから、銀座に行く、ということは、かなり大変なことだった。銀座は、若い女の子が、あまり一人で行くようなところではなかった。でも、なんとなく気をひかれて、ある日曜日の昼間、トットは、一人で、その交詢社ホールというところに出かけて行った。ホールは、子供で、いっぱいだった。気持のいい音楽が始まると、少しふとった元気のいいお姉さんが、両手にそれぞれ、男の子と女の子の人形をはめて登場し、おじぎをしてから、体をステージの下に沈《しず》めた。ステージの上には、お人形だけが残った。そして、始まった。トットは、少し椅子《いす》から体をずらして、ステージの下にもぐってるお姉さんを、横から、のぞいて見た。お姉さんは、ひざをついて、両手のお人形を動かしていた。手をいっぱいに、のばして。そして、子供の声みたいのを出して歌ったり、しゃべったりしていた。そして、ステージのはじからはじまで走ったり、とびはねたりした。汗《あせ》びっしょりになって。一瞬《いつしゆん》たりとも、休まなかった。見てる子供たちは、好奇心《こうきしん》まる出しの、あどけない顔で身をのり出し、笑ったり拍手《はくしゆ》をしたりした。クライマックスに近づき、雪の女王が、主役の男の子のカイと、女の子のゲルダに、恐《おそ》ろしいことを命令したときは、シーンとなって、「かわいそう」とか口々にいった。このとき、トットは不思議な感動に、おそわれた。トスカの映画を見たときとも、また小学生のとき見て、バレリーナになろうと決心した「白鳥の湖」を見たときとも、全く違《ちが》った……、なにか、やさしいもので満たされていた。昔《むかし》から知ってる友達《ともだち》といるような、なつかしさすら感じていた。と同時に、生まれて初めて見た、この�人形劇�というものにも、ショックを受けていた。大拍手のうちに、人形劇は終った。新橋の駅まで歩きながら、トットは考えた。 (もし、ああいうことが、私にも出来たら。沢山《たくさん》のお客さんに見せる人にはなれないけど、自分の子供に見せられたら……)  いつの間にか、職業婦人になる、という夢《ゆめ》は遠いものになり、結婚《けつこん》ということが、妙《みよう》に身近になってきていた。 (結婚すれば、子供が生まれる。掃除《そうじ》、洗濯《せんたく》、お料理、これは、みんな、お母さんならやれる。でも人形劇の出来るお母さんは、そうはいないんじゃないかな)トットは家に帰る道を歩きながら、いろいろ想像した。 (人形劇ほど、むずかしくなくても、子供が寝《ね》つくまで、枕元《まくらもと》で、上手に絵本や童話を読んでやれるお母さんになろう! そうしたら、きっと、子供も尊敬してくれるに違いない!)  結婚の相手は、全く見当もつかなかった。だのに、ベッドに入って、ふとんから首を出してる子供の姿が。しかも、何人もの姿が、はっきり見えるようだった。自分の拡《ひろ》げる絵本に期待してる子供の息づかいが感じられるようにさえ、思った。  この日の人形劇「雪の女王」の音楽が、芥川也寸志《あくたがわやすし》という人の作曲であり、男性四人のコーラスが、まだ、プロになる前の、ダーク・ダックスだったなどとは、知るはずもなかった。でも、この人形劇を見たことが、トットの人生を決める、一つのきっかけになったことは、間違いなかった。  家に帰ってから、トットは、人形劇をやってたお姉さんが、どんなに一生懸命《いつしようけんめい》にやってたか、とか、子供がとても喜んでいた、とかを、ママに報告した。そしてママに聞いた。 「どっかに絵本を上手に読むこと、教えてくれるところか、人形劇のやりかた、教えてくれるとこって、ないかなあ?」  同級生の就職に刺戟《しげき》され、何か仕事はないかと拡げた新聞に、NHKの広告が出ているのを見つけ、(NHKなら、いいお母さんになるやりかた、教えてくれるかも知れない)と、トットが考えたのは、人形劇を見てから、ちょっとしか経《た》っていない、冬の午後だった。 [#改ページ]   郵便受け[#「郵便受け」はゴシック体] 「マンモスの夢《ゆめ》を見ると、次の日、必ずいいことが起る」これが、このころのトットの得意な話だった。そして、事実そうだった。だから、トットをよく知ってる人は、 「どう最近、マンモスのほうは。出てる?」と聞くくらいだった。  さて、履歴書《りれきしよ》をNHKに送ってからというもの、トットの落ち着かないことといったら、なかった。何しろ、パパにもママにも内緒《ないしよ》で出した履歴書だから、NHKから返事が来たら、誰《だれ》よりも早く、それを受けとらなくちゃならなかった。郵便屋さんは、朝一回と午後一回、来る。トットは履歴書を出した二日後くらいから、なんとかかんとか胡麻化《ごまか》して学校を休み、なるべく外にいて、郵便屋さんを待つようにした。そういうときに限って、パパも仕事が休みで、庭で植木の手入れなどしたりする。もうトットは、気がきじゃなかった。なんかの加減で郵便屋さんが、パパに、「はい」なんて手渡《てわた》したりしたら、どうしよう。とにかく、なるべく郵便受けの近くにいるのに限る。でも、体操というのもわざとらしいし、発声練習をずーっとやっているわけにもいかないし……。外にいるのも大変だ。 (こういうとき、犬でもいればいいのにね。そうしたら、一緒《いつしよ》に遊んでるふりして、待ってれば、いいんだからさ)トットは子供のとき友達《ともだち》だった犬のロッキーのことを思い出した。でも、目は、ずーっと、道路のむこうから姿を現すはずの郵便屋さんを、待っていた。  四日ほど、そうやっていたけど、そして、何通かの手紙は、うまく直接、受けとったけど、NHKからのは、なかった。そのうちに、なんだか、もう通知は、来《こ》ないような気がしてきた。そう思うと気が楽になって、学校に行き始めた。そうして何日かが過ぎた。  その日は、どうしても、家で勉強しなければならないものがあった。トットは朝から熱心に自分の部屋で机にむかっていた。もうNHKのことは、ほとんど忘れかけていた。パパは仕事、ママは出かけていた。 「ごめん下さい」という男の人の声が玄関《げんかん》でした。出てみると、郵便屋さんが立っていた。そして、いった。 「書留《かきとめ》です。ハンコ下さい」  ハンコを押《お》して、書留を受けとった。パパかママのだろうと思い、そのへんに置こうとして、何気なく宛名《あてな》を見ると、それは、トット宛だった。そして、それは、NHKからのものだった。とたんにトットは思い出した。 (そういえば、ゆうべマンモスの夢みたんじゃないの! すっかり忘れてた!)  手の上の書留はハトロン紙の封筒《ふうとう》でいかめしく、いままでトットが受けとっていた、ピンクや、ブルーのとは、全く違《ちが》っていた。 [#改ページ]   書留《かきとめ》[#「書留《かきとめ》」はゴシック体]  NHKからの書留を、自分の部屋の机の上に置くと、トットは考えた。 (これは、「採用します」か、または、「落第」の、どっちかの知らせに違《ちが》いない)  もう一度、封筒《ふうとう》を手の上にのせてみる。思いなしか部厚く、意味あり気な重さを感じた。トットは、結論を出した。 「私は採用されました!」  なぜなら、もし、「落第」の通知なら、一枚の紙きれで充分《じゆうぶん》のはず。 (この重さは、採用されたための、いろいろの書類が入っているからです)  トットは、いつもなら、歯のはじで、かじって切れ目をつけ、ビリビリと指で開ける封筒を、ちゃんとハサミをとり出して開封した。心臓が気持よく早くなり、幸福な気持だった。 (もっと大変かと思ったら、案外、早く決まったんじゃないの!)  こういうところ、トットは非常に楽天的だった。開封して、中の紙をひっぱり出すと、最初に見えたのは、写真だった。 「あっ、どっかで見たことある写真!」  と思ったのも当り前で、それは、トットが履歴書《りれきしよ》に貼《は》りつけて出した、自分の写真だった。そして、部厚いと思った中味は、なんと、トットが郵送した履歴書だった。一瞬《いつしゆん》にして、トットの気持は暗くなった。履歴書が送り返されること、それは不採用のしるしに違いなかった。 (やっぱりダメだったのか!)と思ったとき、一枚の便箋《びんせん》が四つ折になって履歴書の間にはさまっているのに気がついた。いそいで開《ひろ》げた、その便箋の几帳面《きちようめん》な字は、トットを物凄《ものすご》く、おどろかせた。 「拝啓《はいけい》。あなたは、なぜ、この履歴書を郵送なさったのですか。新聞には、履歴書本人持参のこと、と書いてあったはずです。締切日《しめきりび》までに、田村町のNHKまで、御持参ください」 (あれ? 持参って、書いてあったっけ……)  トットは、あわててNHKの広告ののった新聞を、そこいらじゅう探した。でも、必要のものが、必要のときにあったためしがない、という、いつものことで、どこにも見つからなかった。郵送した安心から、そのときに捨てたのかも知れなかった。よろこびから、落胆《らくたん》、そして、拍子抜《ひようしぬ》け、と、トットの気持は目まぐるしく変った。あんなに何日も、パパとママに見つからないかとビクビクして郵便屋さんを待ちつづけ、くたびれて、忘れた頃《ころ》に手にした書留が、これだった。 (どうしよう)  トットは、自分の履歴書に目をやりながら考えた。毎度のことだけど、自分のぼんやりさにも、がっかりしていた。おまけに締切日は、あと二日後に迫《せま》っていた。 (持参したところで、合格するとは限らないし)  それに……と、トットは、つぶやいた。 「若干名《じやつかんめい》しか採用しないんだから、きっと、ダメだわ」  履歴書の写真は、いまの混乱を味わう、ずーっと前のトットらしく、陽気に笑っていた。トットは、何枚もない写真の中から、やっと、その写真をえらんだ時の、自分の、楽しかった気分を思い出すと、悲しくなった。 (こんなつもりじゃ、なかったのに……)  こんなに深刻なことになるとは考えていなかった。人形劇を見て、NHKなら、自分がお母さんになったとき、上手に童話を読めるように教えてくれるに違いない。そう思いついて出した履歴書だった。 (でも!)と、そのときトットは、頭をあげた。(少なくとも、この書留は、締切の前に私のところに、もどったのだし、有難《ありがた》いことに、今日、私は家にいて、これを受け取った。もし学校に行ってたら郵便屋さんは、家中、留守《るす》でハンコを押《お》す人がいないから、局に持って帰り、明日、もう一度、配達する。その場合、私が学校から帰るのが夕方だから、二日後の締切には間に合わないかも知れない。今日、偶然《ぐうぜん》、学校を休んで家にいたのは、なにかの、めぐりあわせ!)  時計を見ると、夕方までには、間があった。NHKは、一度、前を通ったことがあったから、どのくらい遠いか見当はついた。お財布《さいふ》を調べてみた。電車賃ぐらいの、おこづかいは、ギリギリ持っていた。天気もよかった。 (行ってみようかな、NHK……)  トットは、椅子《いす》から立ち上った。 [#改ページ]   受付[#「受付」はゴシック体]  大井町線にのり、終点の大井町で乗りかえて、京浜東北《けいひんとうほく》線で新橋まで。ついこの間、交詢社《こうじゆんしや》に人形劇を見に行ったときは、のん気な気分で、この新橋駅で降りた。あれから、そんなに経《た》っていないのに、今日、トットは、重苦しい気分で、駅を出た。駅の人に聞いたら、NHKは銀座とは逆の、左のほうで、田村町という所にある、と教えてくれた。左のほうの駅前は、広場で、雨ざらしのベンチがあり、なんだか、人がいっぱいで、小さい飲み屋が並《なら》んでいた。トットは、なるべく、よそ見をしないように、人の間をすりぬけ、本屋さん、薬屋さん、お寿司屋《すしや》さんの店が続く通りを、どんどん歩いた。少し行くと、角に交番があったので、トットは念のために聞いた。若いおまわりさんは、目の前を指さした。 「あれ!」といって。  そこがNHKだった。トットは道路の反対側に立って観察した。  NHKは大通りに面していて、とても大きかった。コンクリートで四角くて、背が高く、どっしりとしていた。屋上に、塔《とう》だの、なんだかキラキラ光る丸いものとかを発見したとき、(やっぱり放送局という名前に合ってるところがある!)と、トットは思った。でも、これから、あの大きな建物の受付に行くのか、と思うと、少し心細い気がした。  そのときトットは、NHKの右のほうに、日比谷公会堂《ひびやこうかいどう》を見つけた。突然《とつぜん》、昔《むかし》、あそこのステージに出演したことを思い出した。まったく忘れていたことだった。 (そう、たしかに、出演した)  それは、「歯のいい子」ということで。  幼稚園《ようちえん》のとき、はっきり憶《おぼ》えてはいないけど、十人くらいステージに並び、誰《だれ》かの合図で、口を大きく横にあけて�歯�を見せたら、みんなが拍手《はくしゆ》したのだった。  少なくとも、歯はいいのだ、と、トットは気を強くし、道路を横切って、NHKの入口に立った。入口には守衛のおじさんがいて、トットが履歴書《りれきしよ》をさし出すと、親切に、受験者用の受付を教えてくれた。その受付は、臨時の事務所で、NHKの裏手の、カマボコ形の建物の一角にあった。トットが、ガラガラとすりガラスの戸を開けてのぞくと、大きな机のむこうに、何人か男の人がいた。トットの前には、すでに数人の若い女の人が立っていた。面接でもしているのかと思ったら、その女の人達《ひとたち》は、何やら書類みたいなものを受け取って、出て行った。いれ違《ちが》いにトットが履歴書をさし出すと、若い男の人が受け取り、目を通し、写真とトットを見くらべると、「はい」といって、安全ピンのついたカードをくれた。「五千六百五十五番」と数字が書いてあった。「受験番号です」と男の人がいった。トットの前に、すでに、五千六百人以上の人が来たことが、これでわかった。それから印刷物をくれた。それには、第一次の試験の日づけと、時間と、NHKで受験する部屋のナンバーなどが書いてあった。  トットは、想像もしていない、大規模なものに、応募《おうぼ》してしまったことを、はじめて知った。お礼をいい、ガラガラと音のする戸をしめて外に出ると、トットは深呼吸をした。面接でもあるのかと、そのために、あわてて着てきた一張羅《いつちようら》のよそゆきのオレンジ色のスカートが、いまとなると、なつかしく、親身に思えた。 「とにかく」と、トットは自分にいった。でも、そのあとの、きのきいた言葉は、見あたらなかった。トットはいった。 「泣くほどのことじゃなし!」でも、本当のところ、泣きたい気分だった。  あちこちに、電燈《でんとう》がつき始めた。トットは、駅にむかって走り始めた。  五千六百五十五番のカードが、バッグの中で、とびはねていた。 [#改ページ]   赤巻紙 青巻紙 黄巻紙[#「赤巻紙 青巻紙 黄巻紙」はゴシック体]  第一次試験の当日、NHKに行って、トットは仰天《ぎようてん》した。たしかに、自分の受験番号が五千番台ということは、わかっていたけど、実際に、NHKの廊下《ろうか》といわず、トイレといわず、階段といわず、どこもかしこも、若い男女で身動きも出来ないのを見たときは、「わあー凄《すご》い!」というしかなかった。女の人の服装《ふくそう》も、いろいろで、これもびっくりした。帽子《ぼうし》にレースの手袋《てぶくろ》という社会人みたいな人もいたし、宝塚《たからづか》みたいな、はかま姿の人もいた。それから、バレエのタイツ風、中国服、訪問着、セーターにズボン、セーラー服。そして、トットのように、落下傘《らつかさん》スタイルの広がったスカートの人も多かった。誰《だれ》も彼《かれ》もが、きれいに見えた。トットは、まだお化粧《けしよう》をしていなかったけど、中には、すっかりお化粧して、つけまつ毛をトイレで直してる人もいた。トイレといえば、待ってる間に、白粉《おしろい》をはたく人、口紅をつける人、髪《かみ》をとかす人、靴下《くつした》の曲ってるのを直す人、などで一杯《いつぱい》で、ドアが開かないくらいだった。そして、みんなが口々にしゃべっているので、その賑《にぎ》やかなことといったら、なかった。  そんな中で、試験が始まった。男女の試験場は別だった。みんな二枚ずつ紙を手渡《てわた》され、五人ずつ、まとまって部屋に入り、順々に、試験官の前で、紙に書いてある言葉を読み、済んだら出て行く、という仕組みだった。試験官は六人で、ほとんどが男の人だった。  トットは、五人のうちの四番目で椅子《いす》にすわった。順番が来て、トットの前の人が立ち上った。髪を短かくして、スーツを着た、少しトットより年上に見える美しい人だった。その人は、すっきり立つと、紙を斜《なな》めに持ち、 「赤巻紙《あーかまきがみ》、青巻紙《あおまきがみ》、黄巻紙《きまきがみ》!」  と、世にも流暢《りゆうちよう》に、そして、少し気取った風に、一息に読み切った。トットは強烈《きようれつ》なショックをうけた。演劇の経験のないトットは、その紙をもらったとき、とても、ゆっくり、明瞭《めいりよう》に、 「アカマキガミ!(呼吸)アオマキガミ!(呼吸)キマキガミ!(呼吸)」という風に、力を入れて、ひとことずつ読むように廊下で練習し、それでいい、と思っていた。夢《ゆめ》にも、こんな風に、スラスラと、まるで、 「あーる晴れた日に!」といったのかと思うくらいに、さり気なく、このややっこしい三つの言葉をいっちゃう、なんて、考えてもいなかった。試験官は、うなずくと、いった。 「じゃ、もう一枚のほう読んでみて?」  一枚目のがうまくいくと、「もう一枚」のほうを読ましてもらえることは、もっと前の人のでわかっていた。「赤巻紙」でダメな人は、それだけで、「はい、結構!」といわれるんだから。その女の人は、勿論《もちろん》、「もう一枚のほうを」といわれた。その人は、次の紙を手にすると、いきなり、試験官にむかって、 「あーら、しばらく、お元気?」  と聞いた。トットは、 (ああ、この女の人は、試験官と知り合いなんだな。だったら、きっと受かる。いいなあ)  と、うらやましく見ていた。ところが、試験官のほうが、「ああ、しばらくだね」と、いわない。 (おかしいな……)と、トットが思ったら、なんと、それは、もう一枚のほうに書いてあるセリフだった。トットは、おかしくなった。それは、自分の思い違《ちが》い、ということもあるけれど、(あんな知らない人に、本当に知ってるみたいに、馴《な》れ馴れしくいったら、みんな笑っちゃうんじゃないの?)  ところが、誰も笑わずに、熱心に聞いている様子だった。トットは狼狽《ろうばい》した。 (あんな風に、セリフっていうものなの?)  女の人は終ると、丁寧《ていねい》におじぎをし、もう一度、試験官に自分の顔が見えるようにニッコリすると、出て行った。いよいよ、トットの番になった。とにかく、トットは試験官の前に立つと、おじぎをした。自分流に、ゆっくり読むか、前の人のように、プロ的にやってみるか、迷っていた。頭を上げたとき、トットは決めた。(出来るだけ、さっきの人みたいに、流暢風に、やってみよう!)  息をすいこむと、トットは急いで読んだ。少し気取ることも、忘れなかった。  とたんに、試験官が、全員、のけぞって、ドッ!! と笑った。トットは驚《おどろ》いた。たしかに、トットの耳にも、 「あーかまき紙、青巻紙、黄巻紙!」とは聞こえず、なんとなく、 「アーカマキキキ、アキキキキキ、キキキキキ!」と、キだけしか聞こえなかったけど、自分では、ちゃんと読んだつもりだった。 (もうダメだ……)と思ったとき、試験官の一人が、ポケットからハンカチを出すと、涙《なみだ》をふきながら、まだ笑いの残る声でいった。 「もう一枚のほう、読んでみて?」 「えっ? いいんですか?」  トットは、すっかりうれしくなって、これで挽回《ばんかい》しなくては、と思ったから、さっきの人のように、目を少し斜めに見すえるように試験官を見て、 「あーら、しばらく、お元気ーい?」  といった。今度は、うまくいったかしら。  また、試験官は、全員、わあ!! っと、のけぞって笑った。なんでだか、トットには、わからなかった。(喜劇女優を募集《ぼしゆう》してるんじゃないのに、こんなに笑われたら、もう絶望!)すっかり、がっかりして、部屋を出た。ドアを閉めるとき、トットの次の人が、「赤巻紙……」と読み始めたのが耳に入った。試験官は、笑っていなかった。  これが、第一次の試験だった。トットは、これで、もう、あきらめた。いくらNHKは新聞広告で、「プロの俳優である必要はありません」といっても、結局、うまい人が受かるに決まっているんだから。  発表は三日後、NHKの裏玄関《うらげんかん》の外に、番号が、はり出される事になっていた。  トットは、行っても無駄《むだ》だと思っていた。だから、当日は朝から学校に行った。勿論、試験を受けたことは、パパにもママにも、話していなかった。友達《ともだち》にも。午後の授業になるまで、トットは平静だった。ところが、お昼休みのあと、午後になると、なんだか落ちつかなくなった。胸がしめつけられるみたいな風で、なにも手につかなくなった。 (やっぱり、発表が気になってる……)  ダメってわかってても、行くだけは、行ってみよう。トットは友達に、「早退する」と告げ、いつも授業中に逃《に》げ出すとき、そうするように、窓から外に出て、あとは新橋まで一目散《いちもくさん》だった。NHKの前に行ってみると、大きい木の立看板が立っていた。トットは自分の番号を間違えないように、何度も口の中でくり返した。早いうちに見に来た人が多かったのか、閑散《かんさん》としていた。それにしても、沢山《たくさん》の番号が残っていた。ずーっと見ていった。五千番台は、うしろのほうだったから見当はついた。ゆっくり見た。ダメに決まってる! と思いながら、こんなにドキドキするのは、やっぱり、どこかに、(もしかしたら!)という気持があるからか、と、少しなさけない気もした。 「……五千六百五十五番」トットの目は、そこに止まった。そして、(似てるけど、残念!)と思った。あとで考えると、落語の「富籤《とみくじ》」と同じだったけど、本当に、(ちょっと近いけど、違ってる……)って感じだった。  ……もう一度、見直した。まぎれもなく、それは、自分の番号だった。のけぞって笑った試験官の顔が浮《う》かんで、消えた。 (受かってた!)  トットは、この気持を、誰かに伝えたいと思った。信じられない、この気持を。誰かに。守衛さんが通りかかった。 「あたし、受かりました!!」  トットは、少し恥《はず》かしそうに、でも、はっきり守衛さんにいった。人の良さそうな、やせたおじさんは、「おめでとう」といって、歩いていった。結局、この第一次試験の合格のよろこびを、トットが伝えたのは、このNHKの守衛さんだけだった。秘密にことを運《はこ》ぶというのは、こういうことなのだと、トットは少し残念に思いながら、でも、胸の中で、はねまわる�うれしさ�という心地いいものを抱《だ》いて、NHKを、はなれた。 [#改ページ]   筆記試験[#「筆記試験」はゴシック体]  第一次で終るのかと思ったら、それは、とんでもないことで、次々と試験があることがわかった。でも、第一次が受かった、ということは、希望を持てたということでもあった。発表から三日後、今日は筆記試験だった。  芝居《しばい》に関係のあることはダメでも、筆記試験なら。トットは、鉛筆《えんぴつ》をよくけずり、消しゴムもちゃんとあることを確認《かくにん》し、筆箱《ふでばこ》をカタカタいわせて、NHKに着いた。  ところが、NHKは、この間にくらべて、シーンとしていて、若い受験生らしい姿は、見あたらなかった。 (あーら、みんな落ちちゃったのかしら)  呑気《のんき》な足どりで、トットは受付の女の人に聞いた。 「今日の筆記試験の部屋、どこですか?」  その受付の女の人は、トットの顔を見ると、隣《とな》りの同僚《どうりよう》の女の人に聞いた。 「筆記試験って、今日、ありましたっけ?」  トットは、ドキッ!! として、何か悪い予感がした。聞かれた女の人は、どこかに電話をした。それから、電話を置くと、いった。 「今日の試験、ここじゃ、ありませんよ」 (ここじゃない?)トットは、とび上った。 「じゃ、どこですか?」頭の中が、ガーンとした。受付の女の人は気の毒そうにいった。 「お茶の水の、明治大学の階段教室です」  このとき、トットの頭に浮《う》かんだこと、それは、小さいときから、面倒《めんどう》なことを一切《いつさい》いわないママが、これだけは、くり返して、トットにいってたことだった。 「学校から、どっかに出かける時とか、いつもと違《ちが》うことがある時は、必ず、先生のおっしゃることを、よく聞いて、紙に書いて、ママに渡《わた》して頂《ちよう》だい」 (こういうことがある、と、ママは前からわかっていたのかしら。いいつけを守っとけばよかった)いまさら、そんなことを後悔《こうかい》しても遅《おそ》かった。第一次の発表のとき、ちゃんと、場所を見て帰るべきだった。明治大学がどこなのか、お茶の水が、どこなのかも、わからなかった。トットは、誰《だれ》のせいにも出来ない、なさけない気持で駅にむかった。(今から行っても、もう間にあわない)  新橋の駅の手前まで来たとき、トットは足を止めた。これまで、ただの一度もヘソクリをしたことのないトットが、千円|札《さつ》を一枚、定期入の中に大切にしまってあることを思い出したのだった。千円あったら、タクシーに乗って、そのお茶の水ってとこに行けるかもしれない。どこから、こんなにまとまった考えが浮かんだのか、自分でもわからなかった。昭和二十八年|頃《ころ》、学生が一人でタクシーに乗るなんてことは、絶対にないことだったから。でも、トットは、その千円札をとり出すと、ヒラヒラさせながら、タクシー乗り場へとんで行って運転手さんに聞いた。「これで、これで、お茶の水の明治大学って行かれます?」若い運転手さんは、たのもしそうにいった。「ああ、大丈夫《だいじようぶ》!」  明治大学の門についたとき、NHKの係りの肥《ふと》ったおじさんが、運よく外を見てるとこだった。  トットは叫《さけ》んだ。「筆記試験!」  おじさんは、手まねきをすると、いった。 「早く、早く、もう始まってるよ」  トットは、かけ出した。試験場になってる階段教室の一番上のドアを開けた。静かだった。みんなの鉛筆のサラサラいう音だけだった。トットは、自分の番号の書いてある机にすわった。 (とにかく、間にあった)  両隣りは男の子で、どんどん書いていた。答案用紙が、トットを待っているように、白く光っていた。 [#改ページ]   素直《すなお》[#「素直《すなお》」はゴシック体] 「上と下で、関連のあるものを、線で結んで下さい」  これが、答案用紙の、まず最初のセクションの問題だった。トットの目は、上の段の、「カルメン」に止まった。いそいで下を見る。沢山《たくさん》、名前とかが並《なら》んでいる中に、(あった、あった!)「ビゼー」が。トットは、筆箱《ふでばこ》から鉛筆《えんぴつ》を取り出すと、グニャグニャしない線になるように、息をつめ、力を入れて、カルメンとビゼーを、ななめの線で結んだ。走って来たのと、試験に間にあった、という興奮で、まだ息は、少しハアハアしてたけど、安堵《あんど》感は、充分《じゆうぶん》にあった。一つ出来たので、ほっとした。次に知ってるもの……と探したら、 「ありました!」 「イサム・ノグチ」————「彫刻家《ちようこくか》」これで二つ。ところが、それからが、いけなかった。上の段にも下の段にも、トットに馴染《なじ》みのあるものは、何もなかった。それでも、上と下との数が同じなら、なんとか辻褄《つじつま》を合せることも出来るのに、数えてみると、上の段が二十個なのに、下の段は二十五個もあった。そして、どうやら放送劇だの、芝居《しばい》のことらしい、トットの知らない分野の名称が、きっちり、並んでいた。例えば、 「昭和二十七年度、放送劇《ラジオ・ドラマ》の芸術祭受賞作品」  正解は、「ぼたもち」なんだけど、トットは、当時、ぼたもちと芸術祭が、くっつくとは思わなかった。  困ったトットは、何気なく、右の男の人の答案用紙をチラリと見た。驚《おどろ》いたことに、うらやましいことに、この人は放送|通《つう》らしく、まるで幾何学《きかがく》模様のように、線を複雑にすっかり引いて、次のセクションにとりかかっていた。トットは、勇気を出して、その男の人に、いった。 「教えて頂けませんか?」  真面目《まじめ》そうな、眼鏡をかけたその男の人は、身を起して、トットを見ると、はっきり、いった。 「いやです」 「そうでしょうね」トットは小さい声でいって、自分の答案用紙に、目を移した。 (誰《だれ》だって入りたいんだもの)ケチな人! なんていう気持は全くなく、教えてくれないのが当り前と、わかっていた。でも、(教えてくれたら、もっといいのに)という、子供っぽい考えだった。時間は、どんどん経《た》っていく。仕方がない。なんでもいいから、埋《う》めていこう。 「巌金四郎《いわおきんしろう》」 (……?)当時、巌《いわお》さんは、ラジオの「向う三|軒両隣《げんりようどな》り」で威勢《いせい》のいい江戸っ子の役で大変なスターだった。トットは残念なことに、夕方のその時間は、聞いたことがないから知らなくて、関係のありそうなものを探した。「菊五郎劇団」(これかなあ?) (巌金四郎って、古めかしい名前だから、これにしてみよう……)トットは自信なく線を引いた。これで、トットが歌舞伎《かぶき》にくわしくなく、放送劇団という、これからトットが入ることになるNHKの劇団の大先輩《だいせんぱい》のことも、知らない、と判明したわけで……。巌さんなら、「東京放送劇団」というのに線を引かなければ、いけなかった。あとでわかったことは、この筆記試験を受けた人は五百人で、その中で、「巌金四郎」を知らなかった人は、たったの二人しかいなかった。そして、その一人は誰か男の人で、あとの一人は、トットだった。  それでも、トットは、とにかく二十個、全部、まじめに考えながら線を引いた。でも、考えれば出来る問題も世の中にあるけど、この種類の問題は、知らなければ答えられないことだった。「プロの俳優である必要はありません。NHKが養成します」という新聞|募集《ぼしゆう》からすればNHKは、知らなくても仕方がないと考えて、出した問題なのかも、しれなかった。でも、そんなこと考える余裕《よゆう》もなく、トットは、カルメンとイサム・ノグチ以外、全部|間違《まちが》ったと思って、がっかりしていた。そして、事実、全部、間違っていた。  次のセクションは、言葉の意味を書くことだった。 「丁丁発止《ちようちようはつし》」  これは、かなりの人が、馬に乗ったときの「かけ声」と書いたことを知って、トットは大笑いした。 「あれは、ハイシー、ドー、ドーです!」  人のことを笑うわりに、トットの答えも、ひどかった。 「あることが、続いていて、止まるかと思うと、止まらない」  なんのことか、さっぱりわからないけど、死にもの狂《ぐる》いで、ねじり出すように作りあげた答えだった。広辞苑《こうじえん》によると、�丁丁発止�は、「刀などで互《たが》いにうちあう音」であり、�丁丁�は「物をつづけて打つ音」とある。  口を刀のかわりにして、丁丁発止とわたりあう事もあるのだ、などとわかったのは、何年も経ってからのことだった。とにかく、こういうような問題が三つくらいあり、どれも明確にわかったものは、なかった。そうこうしているうちに、早々と、出来上った人は、多少、誇《ほこ》らし気な感じで、係りの人に紙を渡《わた》して、階段教室を出ていった。  三つ目のセクション。 「最近、聞いたNHKのラジオの番組名を書いて下さい」  トットは、目をつぶって、思い出そうと試みた。(ああ、思い出した)一つだけ。ドラマじゃないけど、とにかく、ラジオで聞いた番組なんだから。それは、このところ、お正月、恒例《こうれい》になってる、宮城道雄さんのお琴《こと》と、パパのヴァイオリンによる「春の海」の二重奏だった。パパは、尊敬してる大天才の宮城さんと毎年、二重奏できることを喜んでいたし、楽しみにしていた。トットは、答案用紙に大きく、 「宮城道雄の琴と、ヴァイオリンの二重奏による�春の海�」と書いた。パパの名前は、パパには勿論《もちろん》、誰にも内緒《ないしよ》にしてたから、書かなかった。そのかわり、「お正月らしく素晴《すばら》しい曲だと思います」とつけ加えた。  とうとう、最後の問題まで来た。 「あなたの長所と、短所を書きなさい」 (助かった!)  トットは、これに賭《か》けることにした。やっと自分を知ってもらえるチャンスがきた。  長所・と書いてから、トットは、ためらわずに、「素直なとこ」と書いた。これには訳があった。少女になった頃《ころ》から、トットの家を訪問する人達《ひとたち》は、どういうわけか、トットを見ると、いった。 「お父さまも、お母さまも、お奇麗《きれい》なのにねえ……」すると、ママが必ず、それに続けて、いそいでいうのだった。 「でも、素直なだけは、取り柄《え》です」  これは、一つのパターンになるほど、何回もくり返された。思えば、傷つく話なんだけど、トットはちっとも気にしていなかった。  事実、パパは、女性のファンに大もてのハンサムで恰好《かつこう》が良かったし、ママは若い頃、映画女優にと何度も映画のプロデューサーが足を運んだという美人でグラマーだった。そのため、パパは仕事に出かけるとき心配で、アパートのドアの鍵《かぎ》を、外から閉めていったという話も残ってるくらいなんだから。二人は、トットが見てもお似合の、お奇麗なカップルだった。そして、それは、トットの自慢《じまん》でも、あった。だから、 「お父さまも、お母さまも、お奇麗なのにねえ……」という語尾《ごび》にふくまれる、 (それなのに、お嬢《じよう》さまは似ていらっしゃらないわねえ)または、(お気の毒にねえ)ということより、ママがいってくれる、 「素直なだけは、取り柄です」のほうが重要で、また、自分は素直なのだ、と信じていた。そんなわけで、まっ先に、「素直」と書いたのだった。それからトットは次に、「親切」と書き、「友達がそういいます」と書き加えた。(受かりたい一心から自分をよく見せようと書くのはよくないけど、やっぱり、正直にいい[#「いい」に傍点]と思ってることは書くべきだ)そこで、次に、 「いつも機嫌《きげん》が良くて、食欲もある」と書いたら、もう書くことがなくなった。考えてみると、これまで、自分の長所なんて深く考えてみたことがないことに気がついた。「明朗」だとか、「嘘《うそ》をつかない」なんて、あまりにも幼稚《ようち》っぽい……。消しゴムで消したり書いたりしているうちに、とうとう紙が少し破けてしまった。この頃になると、ガタガタガタガタ、あっちでも、こっちでも、答案用紙を提出するために立ち上る音が凄《すご》くなった。右隣《みぎどな》りの男の人は、気の毒そうにトットを見ると、「じゃ……」といって、立ち上って出て行った。(いい人なんだなあー)と、トットは気を使わしたことを気の毒に思った。(とにかく、短所を書いちゃおう。そして、短所のように一見、みえるけど、よく読むと、長所とつながるようなことにしよう)  短所・大喰《おおぐ》い  まっ先に、こう書いちゃったものの、(俳優になるのに大喰いなんて、まずいかな?)と思ったけど、一応そのままにして、次に、 「散らかす」と書いた。これは家族の中で有名なことだったから、やはり書いといたほうが気が済むように思えた。それから、 「就職が決まっていない」と、少し小さい字で書いた。気がついてみると、長所につながる、逆説的なところは、全くなく、短所そのものだった。そしてトットは、最後に、御丁寧《ごていねい》に、こんなことまで書いたのだった。 「私は楽天的なせいか、いろんなこと、すぐ忘れてしまいます。母は、時々、私に、�ちょっと参考のために聞いておきたいんだけど。さっきあなた、自分で、『失敗した』とかいって、ワァワァ泣いてたわね。でも、いま、そうやって、ゲラゲラ笑って、オセンベをボリボリ音をたてて、たべてるでしょう? 少しは、さっきの泣いたこと、どっかに残ってる?�と聞きます。そんなとき考えてみると、私は、すっかり、さっきのこと、忘れています。反省とか悩《なや》みを、すぐ忘れるのですから、これも短所と思います」  時間がきた。せきたてられるように、トットが立ち上ったとき、もう大きな階段教室はガランとして、ほとんど、人は残っていなかった。 [#改ページ]   恋人《こいびと》からの手紙[#「恋人《こいびと》からの手紙」はゴシック体]  NHKの内玄関の外に立てられた合格者発表用の、木の立看板は、最初のときと、くらべると、随分《ずいぶん》、小さくなっていた。トットの五千六百五十五番という受験番号が、本当とは思えないくらいだった。第二次の筆記試験を受けた人が五百人という話で、それから、更《さら》に少なくなったわけだから。それにしても、到底《とうてい》ダメと思っていた、あの筆記試験に、受かった、とわかったときの驚《おどろ》きといったらなかった。(やっぱり、長所と短所を正直に書いたのが、よかったのだ)と、トットは勝手に決めていた。  今日は、パントマイムの試験だった。二度と同じあやまちをくり返さないため、トットは、今日の試験場が、NHKであることを、合格発表のとき、確かめてあった。  今日の試験から、ママに報告したので、心は、少し罪の意識から解放されていた。二次の試験が通った、とわかったとき、トットは、もう、黙《だま》ってはいられなくなった。(うれしい)というより、これから先、どうしたものか恐《おそ》ろしくなってきたからだった。 「NHKの専属俳優の試験を受けている」  と、トットが打ち明けると、ママはいった。 「そうでしょう。なんか、やってると思ったわ」それからトットは、パパには、反対されるから当分の間、秘密にしてほしいこと、ママも知ってるように、自分がお母さんになったとき、上手に絵本や童話を読んでやれる人になりたいので、NHKだったら、それを教えてくれると思うので受けたのだとも話した。ママは、よくわかってくれた。 「若いうちよ。なんでも、やってみるのがいいのよ」そんなわけで、トットは、少し気分が楽になってNHKに着いたのだった。  着いたものの、パントマイムがどういうものか、わからなかった。しかも、人数が減ったとはいっても、まだまだ女の人は沢山《たくさん》いた。そして、廊下《ろうか》や待合室で、それぞれ夢中《むちゆう》になって演技のことを喋《しや》べり合ったり、反対に頭をかかえて、うずくまって考えたりしていた。トットは、教えてくれそうな人を探して廊下をウロウロした。一階から二階へ上る階段の手すりのところに、プロ的な身のこなしで、一人で練習してる女の人を見つけたので、トットはそばに近よってみた。その人は、丁度、練習をやり終って、一人で満足気に、こういったところだった。 「まあ、こんなとこじゃないの」  トットは、おずおずと聞いた。 「あの、パントマイムって、どんなこと、やるんですか?」その人は、こなれてる調子でいった。「ああ、セリフをいわないで、体の動かしかたと表情で、表現するのね。筋書、もらったでしょ? 自分で創作するの。カンタンよ」 (カンタン?)トットは手の中の紙を見た。カンタンどころか、こんな難かしいこと、生まれて、見たことも聞いたこともなかった。筋書は、こうだった。 「あなたの恋人から手紙が来ました。あなたは、ワクワクして、早く、その手紙を読もうとします。でも、まわりに人がいるので、誰《だれ》もいない部屋に行って読むことにしました。さあ誰もいない部屋に来ました。手紙を読み始めます。最初は、うれしいことが書いてありますが、段々、読むうちに、それが別れを告げる手紙だとわかります。絶望! 嘆《なげ》くあなた」……こんな一本の映画が作れるくらい物凄《ものすご》い分量と内容。それを、笑ったり、泣いたりして、赤の他人の前で演《や》って見せようというのだから、俳優という職業も、かわってるといえば、変ってる。見るほうも御苦労《ごくろう》なことに違《ちが》いない、と、トットは思った。  この日もセリフの試験と同じように、五人ずつ部屋に入って、順番に試験官の前でやる、という方法だった。トットたちの十分くらい前にやった女の人が、「別れの手紙だ」とわかった途端《とたん》、悲嘆《ひたん》にくれるあまりの演技で、試験官の机の上にあった一輪挿《いちりんざ》しの赤いカーネーションを、ムシャムシャ喰《た》べちゃった、というニュースが、廊下で待ってたトットたちのところに伝わってきていた。部屋に入ると、本当に、机の上のカーネーションは、茎《くき》しかなかった。どう悲嘆にくれても、 (カーネーションは喰べないわ)と、トットは思った。ただ、人と違うことをやって見せようとする女優さんの気持は、わかるような気がした。五人が入って横に一列に並《なら》ぶと、男の試験官の一人が、いった。少し東北ナマリが入っていたけど、やさしそうな声だった。 「スカート、ちょっと、まくってね、足、足、見せてね。膝《ひざ》まで」  突然《とつぜん》のことに、びっくりしたトットは、(まるで、ミス・ユニヴァースみたい)といいたかったけど、生意気と思われそうなので、やめた。  それにしても、トットは、例によって、一張羅《いつちようら》のパラシュート・スカートだけど、ペチコートをはいていたから、まくっても、まだ恰好《かつこう》がよかった。でも、トットの右横の人は、袴《はかま》に着物だったので、モジモジした。東北弁の先生は、もう一度、いった。 「恥《はず》かしがらないで。はい、ちょっと」  草履《ぞうり》と足袋《たび》と、すねが、チラリと見えた。 「はい、結構ですよ」  今なら、水着かもしれないけど、当時は、こんなものだった。パントマイムが始まった。一人がやってる間、他《ほか》の人は、邪魔《じやま》にならないように、壁《かべ》にくっついて、見ているのだった。トットの番になった。うまくいくわけはなかった。それでもトットは、女事務員が会社で受けとった手紙というつもりで一生懸命《いつしようけんめい》やった。人がいるところでは、わざとゆっくり歩き、誰も見ていないとわかったとき、猛《もう》スピードで走って、空《あ》いてる部屋にとびこむんじゃないかと想像して、トットは走った。丁度、試験官の机の前あたりを、空き部屋と決めて、走りこんだ。部屋にとびこんだとき、木の床《ゆか》に靴《くつ》がすべった。両足が左右に、どんどん拡《ひろ》がって、床にペタンとくっつき、丁度、フレンチカンカンのグラン・テカール(大股《おおまた》びらき)の形で止まった。試験官は、セリフのときのように、のけぞっては笑わなかったけど、我慢《がまん》できないように、口々にアハハハハ、と笑った。トットは、どうしようもないので、そのままの形で手紙を読み、床の上にいるのを幸い、まるまった形で嘆き、絶望し、終った。  東北弁の先生は、救うようにいってくれた。 「大丈夫《だいじようぶ》? 怪我《けが》はしなかった?」  それでも、このパントマイムの試験、その次の第四次の歌の試験と、信じられないまま、パスして、トットは、とうとう最後の面接まで、こぎつけた。  もっとも歌の試験も、すんなりいった訳では、なかった。ラジオのスタジオのマイクの前で、渡《わた》された音階的のものを歌ったら、終ると同時に、おじさん風の試験官の人が、ゾロゾロ、ガラスのむこうの調整室から出て来て、トットに、こう聞いた。 「この、あなたの履歴書《りれきしよ》に、音楽学校の声楽科[#「声楽科」に傍点]ってあるけど、間違いないのね?」  でも、放送に出たい、というような憧《あこが》れも、希望も持っていない人間の強みは、気軽なことだった。今度こそ、落ちるかも知れない、と思いながらも、試験場や待ってる間の、いろいろな出来事が、いちいち新らしく、心たのしく感動的だった。友達《ともだち》は出来なかった。今日、一緒《いつしよ》になってドキドキした仲間を、次の試験のとき発見することは、なかった。毎回、知らない人と隣《とな》り合せになった。受験番号が、何百番も離《はな》れている同士が、次のとき、隣り合せになることで、その間の何百人もの人が落ちたのだとわかった。みんな口々に、「あなた何番?」と聞きあい、「もう、私、これで落ちるわ」と、必ず、いった。 [#改ページ]   面接[#「面接」はゴシック体]  これまでの他の試験場にくらべて、落ち着いた部屋だった。いつもより試験官が多く、八人くらいが、まん中の受験者用の椅子《いす》を、かこむように並《なら》べられた机のむこうに、すわっていた。廊下《ろうか》に出された折りたたみ式のイスにすわって順番を待ってるとき、腕章《わんしよう》をつけた係りの若い男の人が、トットの三人くらい先の女の人に、親切そうな声でいってるのが聞こえた。「あんまり緊張《きんちよう》しないほうが、いいですよ」トットがのぞくと、黒いスーツの胸に赤い造花をつけた、その女の人は、下をむいたまま、うなずいた。耳が真赤《まつか》だった。その係りの人は、トットの前を通ったとき、何もいってくれなかった。トットは少し、つまらなかった。  いよいよ番が来て、トットはまん中の椅子に座《すわ》った。いままでの試験官とは違《ちが》った、するどい声の人が加わっていて、矢つぎばやの質問が、八方から飛んだ。 「煙草《たばこ》、吸いますか?」「いいえ」 「酒は?」「飲みません」 「演劇の経験は、ないんだね」「はい」 「この受験用の、君の写真に写ってる自動車は君の?」「違います。私んじゃありません。でも、折角、新らしいオーバー作ってもらったんで、色はエンジなんですけど、で、知らない人の車だけど、その前で撮《と》ったら恰好《かつこう》いいと思ったんで。従兄《いとこ》に撮ってもらいました」 「ピアノ弾《ひ》けます?」「少し」  そのとき、眼鏡をかけた、一番、中心のところにすわってた男の人が、机の上の紙を、のぞきこみながら、いった。 「君、黒柳って、これヴァイオリンの黒柳さんと関係あるの?」「え?!」  履歴書《りれきしよ》の父の欄《らん》に、パパの名前を書かないで出したのだった。(どうしよう。嘘《うそ》はいえない)  仕方なく、トットはいった。「父です」  へーえという声が、試験官の中から聞こえた。 「そう、で、お父さんには相談したの? この試験、受けること」(万事休《ばんじきゆう》す!) 「あの……してません」 「どうして?」 「だって相談したら、こんな、みっともないこと[#「みっともないこと」に傍点]、しちゃいけないって、いうに決まって……あーあ」  口を押《お》さえたけど、遅《おそ》かった。 [#改ページ]   だます人[#「だます人」はゴシック体] (なんということを!)トットは、この瞬間《しゆんかん》、部屋の天井《てんじよう》が自分の頭の上に落ちて来て、自分をペタンコにしてくれればいいのに、と強く願った。でも、天井は落ちて来なかった。少なくとも、これから入れてもらおう、としているNHKのことを、 「父に相談したら、そんな、みっともないこと[#「みっともないこと」に傍点]、しちゃいけない、っていうに決まってますから、だまって受けました」なんて……。 (なんで、いっちゃったのかなあ)  短かく息苦しい時間のあとに、トットは、必死で、こういった。 「でも、父は、そういうかも知れませんけど、私は、入れて頂きたい、と思っています」  試験官が、自分にもだけど、パパに悪い感情を持つに違《ちが》いないということが、恐《おそ》ろしかった。でも有難《ありがた》いことに、試験官は、敵意を持ったようには、見えなかった。  眼鏡をかけた中心の男の人が、眼鏡をはずすと、また聞いた。 「お父さんは、俳優になるのに反対なのかい」  トットは、今度こそ、上手に答えなくては、と、心を静めて、いおうとした。 「反対かどうかは、相談してませんから、わかりませんけど……」 「じゃ、どういうんだい?」と、また、その人が、たたみかけるように聞いた。トットは入れて頂くような、うまいことを答えなくちゃ、と思いながらも、こうなると、本当のことしか、口からは出て来ないのだった。次の瞬間、トットは、とても早口に、こういってしまった。 「こういう世界は、いろんな、だます人がいるからって……」  なんとなく、部屋の中がシーンとしたようだった。それから試験官のみんなは、第一次の試験のときのように、のけぞって笑った。東北弁の男の人が、いった。 「はい。これで、いいですよ。終りました。ありがとう」  トットは、力がぬけたように立ち上った。さっきまでの、生き生きとした、闘争《とうそう》的な、スリル満点! という気持は、すっかり消えていた。(もう、ダメ。全部、終った!)という悲しい気持だった。でも、ここまでだって、残るなんて、思ってもいなかったんだもの。考えれば奇蹟《きせき》に近かった。  トットは立ち上ると、心からの感謝をこめて、おじぎをしてから、いった。 「有難うございました。失礼なこと申し上げちゃって、本当に、御免《ごめん》なさい。ここまで残して下さって、とっても嬉《うれ》しかったです」  本当に、これまで、つきあってくれた大人の人達《ひとたち》に、申しわけない、という気持で一杯《いつぱい》だった。トットは静かに部屋を出た。  芸能の世界や、音楽の世界に、自分の娘《むすめ》を入れたくない、という強い気持がパパにあったことを、トットは、わかり過ぎるほどわかっていた。パパは絶対に、といっていいくらい、人の噂《うわさ》をしない人だけど、あるとき、自分が息子《むすこ》のように可愛《かわい》がってもらった山田耕筰《やまだこうさく》先生の家に、トットが一人でお使いに行くとき、こういった。 「誘惑《ゆうわく》されないように、気をつけてね」  当時、トットは、まだ十八|歳《さい》くらいで、山田耕筰先生は、もう、六十五歳になっていた。それでも、パパは、心配した。そして、たしかに、山田耕筰先生は、 「そこに立ってごらん」といって、窓ぎわの、光の射《さ》すところに、トットを立たせ、自分は、少し後に下《さ》がって、離《はな》れたところから、じーっと、トットの全体を見て、聞いた。 「いくつになったの?」  トットが、「十八」と答えると、 「いいねえ」といった。そして、もう一度、 「いいねえ、若くて」と、いった。暗い空間を背景に、先生の特徴《とくちよう》のある頭に、斜《なな》めの光線が当っていた。  トットは、なんとなく、この日のことを家に帰って、パパには報告しなかった。  そういうことから、トットは、NHKだって、パパが心配するに違いない、と思っていたのだった。  そんなわけで、あのとき、「みっともないこと」っていわなかったにしても、やっぱり、似たようなことを言ってしまったに違いないもの、(仕方ないわ)と、トットは、後悔《こうかい》から、あきらめに変った気持で新橋の駅まで歩いていった。家に帰ると、トットは、ママに、ひとこと報告した。 「ダメだったみたい」ママは、「そう」といっただけだった。NHKの廊下《ろうか》で待っていたときから、数時間しか経《た》っていないのに、もう、はるか昔《むかし》のことのように思えた。廊下の折りたたみ式のイスに並《なら》んですわっていた、仲間のように感じた人達も、遠い人になった。 [#改ページ]   小さい靴《くつ》[#「小さい靴《くつ》」はゴシック体]  ところが、次の日のことだった。トットが、夕方、少し遅《おそ》く学校から帰って自分の部屋にいると、すぐ、ママがノックして入って来た。ママの面白《おもしろ》いところは、用事の内容によってだけど、母親というよりは、寄宿舎の同級生が、秘密の話をしに忍《しの》びこんで来るみたいに、スルリと入って来ることだった。ママは、声をひそめると、いった。 「大変!」  トットは、わけがわからずに、聞いた。 「何が?」  ママは、順序よく説明した。 「今日、NHKの偉《えら》いかたが、家に見えたのよ。そして、試験の結果、お宅のお嬢《じよう》さんを、是非、入れたいと思ってるけど、お父さまが反対らしいので、お気持を伺《うかが》いに来ました、って、おっしゃって……」  トットは、呆然《ぼうぜん》と、部屋のまん中に立っていた。(NHKの偉いかたが、家に見えた……って?)ママは続けた。 「いい工合《ぐあい》に、パパが仕事から、帰って来るのが遅くって、いなかったの。だから、�折角、そんなに大変なところに、入れて頂けるんでしたら、主人には、私から、よく話しますので、よろしくおねがいします�って申し上げたんだけど。あなたは、入れて頂きたいんでしょ?」 「それはそうだけど……。で、パパは?」  トットは、ためらいがちに聞いた。ママは、ますます、秘密を打ちあける同級生、という風な感じで、うれしそうに、いった。 「そこは、ほら、例の、ママの上手な言いかたで、うまくやったわよ。パパって、いきなり頭から何かいうと、怒《おこ》ったり、傷ついたりするじゃない。だから�NHKの偉いかたが見えて、こんな難関を突破《とつぱ》するくらいの才能がおありになるんだから、ぜひ、許してほしい、って、おっしゃったのよ�って……」 「へーえ、才能があるって?」と、トットは、胸がふるえてくるような、うれしさで、聞いた。ママは、少し考えてから、いった。 「とにかく、パパには、そういう風に説明したほうがいいから、そう言ったんだけど、NHKのかたが、そうおっしゃったか、どうか。まあ、そんなようなことは、おっしゃったけど……」  トットは、少しがっかりしたけど、とにかく、思いがけない合格の知らせが、だんだん、本当なのだ、とわかって来た。  ママは続けた。 「それで、パパも、�そんなら、やってみるといいね�って!」 「わーい」とは、いわなかったけど、字にすると、そうなるくらい、トットは、感激《かんげき》した。ママは、トットにいった。 「よかったわね。おめでとう。それはそうと、そのNHKの偉いかた、文芸部長の、吉川義雄さんて、おっしゃるんだけど、とても小さい靴のかたでね。靴を揃《そろ》えるとき、びっくりしたの」ママは、体のがっしりとした、立派なかたが、ああいう小さい靴を、はいてらっしゃるとは思えなかった、とくり返した。そのことが、ママには、強い印象として、残ったようだった。トットは、合格と、パパの許可が出た、という二重の喜びで、小さい靴のことは、忘れていた。  そのことを思い出したのは、後に、テレビ発展|途上《とじよう》の、最も華《はな》やかで、また難かしいことが沢山《たくさん》あった時代の、芸能局長となった吉川義雄さんが、�旦那《だんな》�という渾名《あだな》で、泣く子もだまる豪快《ごうかい》な人、といわれながら、実は、繊細《せんさい》で、心やさしい人、と、トットに、わかった時だった。でもトットは、靴のことは忘れても、将来、どうなるかは勿論《もちろん》、なにがなんだか、さっぱりわからない、ケサランパサランみたいな小娘《こむすめ》の意志を尊重するために、吉川さんが、わざわざ、家まで訪ねて来て下さったことは、絶対に、忘れなかった。 [#改ページ]   プロとアマ[#「プロとアマ」はゴシック体]  トットが一張羅《いつちようら》のオレンジ色のパラシュート・スカートに白のブラウス、という恰好《かつこう》で、「合格者集合室」という貼《は》り紙のドアを開けて、恐《おそ》る恐るのぞくと、すでに、かなりの男女が来ていた。あまり広くない会議室のような部屋だった。みんな、どこにすわっていいかわからない、という感じで、立ったり、机に腰《こし》かけたりしながら、二人とか三人とかのグループになって、話をしていた。トットは、長いこと知りたいと思っていたこと、つまり、(NHKの広告の、�若干名《じやつかんめい》�って、何名なのか?)が、いよいよ、今日、はっきりすると思うと、うれしくなった。トットは念のために、そーっと数えてみた。 「一人、二人、三人……」いまのところ、二十六人だった。ドアが開いて、女の人が入って来た。「二十七人……」また走って、今度は男の人が入って来た。「二十八人……」 (若干名は、二十八人か。ふーん)  数えるとき、ざっと見た感じでは、なんとまあ、奇麗《きれい》な人ばかりだった。年齢《ねんれい》は、バラバラだった。トットのような大学生くらいの人もいれば、高校生のような男の子もいたし、もう見るからに「女優」とわかる女の人も何人かいた。男の人の中には、会社員みたいに見える人もいた。(誰《だれ》か、顔見知りの人が居ないかなあ……)と、少し心細い気持で、トットがキョロキョロし始めたとき、前のほうのドアが開いて、男の中年の人が、書類を手にして入って来た。みんなは、ザワザワと立ち上り、その人のほうをむいた。その人は、書類をテーブルの上に置くと、事務的な感じで言った。 「着席して下さい。私は庶務《しよむ》のものです。みなさんに、今後の方針をお伝えします。これから三ヶ月の養成期間を持ちまして、そこで、最終|審査《しんさ》が行われることは、御存知ですね」 (えーっ!!)トットは、とび上った。  この上、まだ試験があるなんて、全然、知らなかった。もうこれで、全部、終って合格だと思っていた。トットだけが、このことを、どこかで聞き洩《も》らしたことは、他《ほか》の人達《ひとたち》が、「えーっ!!」ともいわないし、静かに聞いてることで、明らかだった。若干名は、二十八名では、なかった。それは、これから三ヶ月後に残った人の数《かず》だと、わかった。庶務の人は続けた。 「そして、その三ヶ月間の、まあ、第一次養成が終りまして、残ったかたが、ひきつづき四月から、来年の三月末までの一年間、第二次養成を受けまして、来年、昭和二十九年の四月から、NHK放送劇団の第五期生、つまり、NHKの専属になって頂くわけです。では、来週からの時間割の紙を渡《わた》します」  これで説明は終りだった。みんなは、時間割の紙をもらいに、前まで立って行った。トットも、いそいで、机の間をぬって、庶務というところの人から紙をもらった。細かい、いろいろな授業の時間割や、授業を受ける「スタジオ」だとか「本読《ほんよみ》室」といった場所が書いてあった。そのとき、トットは、すぐ近くで、他の二人の女の人と話をしている、黒いスーツに赤いバラの花をつけた女の人に気がついた。「あっ、あの人だ!」面接の日、廊下《ろうか》で待っていたとき、係りの男の人から、 「あんまり緊張《きんちよう》しないほうが、いいですよ」と親切そうに注意され、気弱そうに、耳を真赤《まつか》にして、下をむいたまま、うなずいた人だった。トットは、その人の耳を見た。今日は赤くなかった。トットは、 「私、あなたのこと、おぼえてるわ」といおうとして近づいた。その時、耳が赤かった人が、こんなことを言ってるのが聞こえた。威勢《いせい》のいい、カラリとした声だった。 「私、いまは演出のほうやってるの。最近演出したのはね、�はまちどり�って芝居《しばい》!」  トットは、びっくりした。面接のときとは、別人のようだった。顔も、色が白くて、奇麗だった。(わあー、人ってわからないもんだ)耳が赤かった人の前の、小柄《こがら》だけど、グラマーな女の人が、少し甘《あま》ったれた口調でいった。 「じゃ、私の芝居、見て下さったのね」  耳が赤かった人は、いった。 「そう。だから、あなたを、さっき一目、見たとき、�あ、あのとき出た人!�って、すぐ、わかったわ。あなた、凄《すご》くよかった」  もう一人の大柄の、ほっぺたのピカピカした女の人が、ハンカチを握《にぎ》りしめていった。 「だから、あの高校の学生コンクールのとき、私たち、知らなかったけど、みんな同じところに居たわけね。おかしいわねえ」若々しく、三人は声をあげて笑った。うれしそうに。トットは、うらやましく思った。 (みんな同じところに居た、っていったけど、私は、いなかった)それに、耳が赤かった人が、どうやら、監督《かんとく》、というような、凄い能力のあることをやった人らしい、とわかったことは、大ショックだった。そして、他の二人も、プロの俳優に違《ちが》いない、と、トットは判断した。大人の目で見れば、高校演劇をやっていた、ということは、それほどのキャリアではないけれど、全く経験のないトットにすれば、もう自分とは、プロとアマの違いがある、と思ってしまった。トットは、耳の赤かった人に、「あなたのこと、おぼえているわ」と、いいそびれたので、そこを離《はな》れた。そして、まだ、あっちこっちで話してる人の間を、なんとなく偵察《ていさつ》して歩いてみることにした。  一見して女優とわかるお化粧《けしよう》に、胸をぐーっと開《あ》けた赤いドレスの人が、ハンサムな大人の感じの男の人と、話していた。二人の立ったポーズも恰好になっていた。女の人がいった。 「あなたの映画、見たわ」  ハンサムな男の人が、髪《かみ》をかき上げながらいった。 「そうですか。あなた、大映ですか……」  男の人に珍《めず》らしく、えくぼがあった。  トットは、ますます、ユーウツになった。これから三ヶ月間、とにかく、今日、集まった美しいプロの人達と、一緒《いつしよ》にやって行かなくちゃならないことが、決まった。  夕方、台所にいたママは、帰って来たトットが、玄関《げんかん》を開けるなり、 「もう、奇麗な人ばっかり。どうすればいいの?」というのを聞いた。 [#改ページ]   女座長[#「女座長」はゴシック体]  芝居《しばい》の経験がないことで、すっかり溜息《ためいき》をついたトットだが、運命によっては、旅まわりの、女座長になっていたかも知れなかった。それは、戦争中、トットが疎開《そかい》をしていた、青森県|三戸《さんのへ》郡|諏訪《すわ》ノ平《たいら》、というところでの出来ごとだった。戦争が終った次の年だった。  春の雪どけで、川が氾濫《はんらん》し、鉄橋が落ちて、東北本線が不通になった。そんなわけで、もっと大きな町に行く予定の旅まわりの一座が、やむなく、諏訪ノ平に途中下車《とちゆうげしや》した。当時、諏訪ノ平は、小さな村で、芝居小屋は、なかった。大急ぎで、駅前の野菜市場が、小屋になり、急ごしらえの、低い舞台《ぶたい》が出来た。お客は、地面にむしろを敷《し》いてすわった。誰《だれ》もが興奮していた。  もと宝塚の男役出身という女の人が座長で、「雪之丞変化《ゆきのじようへんげ》」をやった。八人くらいの小劇団だった。トットは、雪之丞変化より、前座のアコーディオンの、少し小肥《こぶと》りの小父《おじ》さんの歌が気に入った。茶色と白の、コンビの靴《くつ》をはいた小父さんは歌った。  ※[#歌記号、unicode303d]花咲《はなさ》き花散る宵《よい》も、銀座の柳《やなぎ》の下で、待つは 君ひとり、君ひとり……  東京ラプソディーだった。トットは、銀座を知っていた。(小さいとき、パパに連れてってもらった!)そのとき、初めて、東京に、ホームシックを感じた。それまで、そんなに帰りたいとも思わず、諏訪ノ平の生活が、楽しいと思っていたのに……。土地の中学生の友達《ともだち》と、むしろの一番前にすわって、トットは涙《なみだ》をこらえるのに、一生懸命《いつしようけんめい》だった。もし、涙を友達に見られたら、こんなに親切にしてくれるみんなを、裏切るような気がしたからだった。鉄橋は、なかなか回復しなく、コンビの靴の小父さんは、毎日※[#歌記号、unicode303d]花咲き花散る……を歌い、トットは毎日、むしろの一番前にすわって、涙をこらえ、みんなと一緒《いつしよ》に拍手《はくしゆ》した。  そんなある日、トットが学校から帰ると、珍らしく、家にお客さんが見えていた。薄暗《うすぐら》い電球の下で、ママが困惑《こんわく》したような顔で、すわっていた。よく見ると、お客さんの一人は、あの、茶色と白の、コンビの靴の小父さんだった。もう一人は、やせた中年の女の人だったけど、トットには、その人が誰か、わからなかった。わからないのも道理で、その人は、お化粧《けしよう》をしていない、素顔《すがお》の女座長さんだった。真白く顔を塗《ぬ》って、目をつり上げ、かつらをかぶって、男の人になって、チャンバラをしてるとこしか見ていないトットには、見当がつかなかったのだった。  ママは、トットを見ると、(助かった)という風な感じで、いった。 「こちらの座長さんが、あなたに、一座に入ってほしい、っておっしゃるの」 (私に? 入って、何をするの?)トットには、なんのことか、理解できなかった。  女座長さんの説明によると、こうだった。 「毎日、あなたが、一番前で、見てらっしゃるのを、私たちは舞台から見ていまして、ぜひ、一座に加わって頂きたい、と思ったわけです。そして、お母さま! 必ず、いつか、座長にして、お返しにあがります。おねがいします」  いつも、さっそうとチャンバラをやる女座長さんが、ママに深々と、おじぎをした。トットは、(そうだなあー。面白《おもしろ》いかなあー)と、考えた。でも、反面、(ママや、弟や妹と別れて、どこか遠いところに、一人で行ってしまうのは、悲しい)とも、思った。ママは、トットに聞いた。 「どうする?」どんなときでも、子供の意志を優先させるママだった。トットは、 (やっぱり、行かない!)と決めた。 �面白そう�なのと、�みんなと別れる�のを較《くら》べたら、別れるのが、いやだ。  トットは、悪いなあ、と思ったけど、 「行きません」と、はっきりいった。ママも、 「まだ中学生ですし、主人も、シベリアの捕虜《ほりよ》になって、まだ帰ってまいりませんので、相談もいたしませんと」と、いった。  女座長さんと、コンビの靴の小父さんは、それでも、しばらく勧誘《かんゆう》を続けたが、あきらめて、帰って行った。  そして、そのうち、鉄橋も直り、一座は、大きい町に出発してしまった。野菜市場の舞台も取りこわされた。トットも、すっかり、このことを忘れてしまっていた。  もし、NHKの合格集合日に、この話を思い出していたら、 「私ね、もしかすると、女座長になっていたかも知れないのよ」と、みんなみたいに、プロらしく、誰かと話が出来たかも、知れなかった。 [#改ページ]   担任の先生[#「担任の先生」はゴシック体]  NHKの第一次養成が始まった。  六千人の中から、やっと二十八人が残り、やれやれ、と思ったのも、つかのま、あと三ヶ月間の第一次養成が終ったところで、本当の採用者……トットが知りたがってる「若干名《じやつかんめい》」が決定するのだ、と、わかった。トットは落ち着かない気分と同時に、この、テレビのための養成という、思ってもみなかった新らしい事態に、ワクワクしていた。また、このとき、NHKも、テレビの放送開始を目の前にして、活気に溢《あふ》れていた。  養成は、夕方から始まった。これは、NHKの配慮《はいりよ》で、もし昼間からやるとなると、いま行ってる学校とか会社を、やめなければならない人も出てくるだろうし、また、もし、やめても、三ヶ月後に採用されるとは限らない。いまの生活を変えずに、養成を受けられるように、ということで、音楽学校に行ってるトットにも、有難《ありがた》いことだった。  時間は、毎日、夕方の六時に始まり、終るのが九時だった。土曜日が休みで、そのかわり、日曜日は、朝十時から、午後三時まで、たっぷりだった。NHKの中の本読室や会議室が、教室になった。交通費が、それぞれの住居《すまい》の駅から、新橋まで支払《しはら》われた。  始業式の日、庶務《しよむ》の人が、お爺《じい》さんを連れて来た。その人は、毛のない頭に、茶色の毛糸の正《しよう》ちゃん帽《ぼう》をかぶり、ベッコウの丸い眼鏡をかけ、焦茶色《こげちやいろ》のカーディガンを着ていた。顔の色は白く、ピンクの頬《ほお》をしていた。それまで見ていた、ネクタイに黒っぽいスーツという、NHKの人とは、違《ちが》っていた。歩きかたや、動作に、とても特徴《とくちよう》がある、と、トットは、思った。その人は、腰《こし》をかがめて、部屋に入って来た。そして、トット達《たち》をチラリと見ると、はにかんだように、入口の近くに立ち止まった。もっと進むのかと思ったら、急に止まったので、ひどく中途半端《ちゆうとはんぱ》な感じだった。庶務の人が、みんなに、いった。 「このかたが、みなさんに、朗読や物語を教えて下さる、大岡龍男《おおおかたつお》さんです。そして、まあ、みなさんの、担任の先生というか、面倒《めんどう》を見て下さるかたです」  その、大岡さんというお爺さんは、紹介《しようかい》されると、体を半身《はんみ》にした不思議な歩きかたをして、みんなの前に進み、また、中途半端な場所に止まった。それから、手の甲《こう》で口をかくすようにして、少し、照れたみたいな笑いをしてから、こういった。トットが、これまで聞いたことのない、丁寧《ていねい》な言葉だった。 「担任の先生なんて、そんなんじゃ、ございません。みなさまの、小使い……とでも思って頂けば、よろしいんで。それにしても、みなさま、ここまでお残りになるの、大変でございましたねえ。ほほほゝゝゝ」  ふっくらとした、やわらかそうな手の甲で、口をかくしたまま、しゃべる、そんな風だった。トットは、今まで逢《あ》った、どの人とも違うタイプの、この老人が、おかしくもあり、どんな人なのだろうか、と知りたくもあった。この人が、高浜虚子《たかはまきよし》の門下であり、「ホトトギス派」の写生文では、一家をなしている大変な作家である、と、トットにわかったのは、何十年も経《た》った、ずーっと後《あと》になってからのことだった。そんなことは、全く、わかっていないトットだけど、この最初の挨拶《あいさつ》のときの印象を、いつまでも忘れなかった。そして、このあと直面する大人の社会の中で、トットが七転八倒を始めたとき、最初に、やさしく口をきいてくれ、トットを理解してくれようとしたのが、この大岡老人だった。  養成の内容は、「演劇・放送劇を中心とする」という約束《やくそく》通りだった。  大岡先生のほかに、セリフは、当時、演劇課長であり、ラジオの演出家でもあった中川|忠彦《ただひこ》さんが、先生だった。中川さんは、ハンサムで、「海老《えび》さま」という渾名《あだな》だと誰《だれ》かが、トットに教えた。後の団十郎、その頃《ころ》の海老蔵に、よく似ているからということだった。  動きの基礎《きそ》演技の先生は、あとでテレビの美術部長になった佐久間|茂高《しげたか》さん——モコウさんと他《ほか》の先生方は呼んでいた。楽しい教えかたの先生だった。トットがうれしかったのは、タップ・ダンスと、バレエのレッスンもあったことだった。バレエは、小さいとき、すでに習い、そして、バレリーナになる夢《ゆめ》は捨てていたけど、タップ・ダンスは、新らしい経験だった。日本のタップ・ダンスの草わけといわれ、日劇のスターだった荻野《おぎの》幸久先生が、手をとって教えてくれた。でも、トットは、うれしかったけど、すでに会社員だった男の人や、ふとった女の人は、タイツ姿になるのをいやがって、しばしば、もめた。声楽の時間もあった。先生は、栗本正さん。芸能についての講義は、のちにNHKの会長になった坂本|朝一《ともかず》さんで、その頃は、演芸課長だった。頭がよくて、�カミソリ�という渾名がある、と、トットは知らされた。  そして、発声と音声生理の時間は、颯田琴次《さつたことじ》さんが先生だった。この先生は、東大の医学部の教授、芸大の教授で、また、音楽評論家でもあった。そして、東大に音声障害科というのを作って、声楽家の治療《ちりよう》というのを日本で最初に始めた大先生だった。品のいい静かな先生だったけど、当時七十|歳《さい》近くのお年にもかかわらず、毎回、熱心な授業だった。まだ、NHKに採用されるとも、俳優になるとも決まっていない人達を相手に、先生は、声とか、発声とか、それによる口の動きかた、などということを、熱をこめて話し、また、ある時は、質問もした。 「いい声を出そうとするために、変な顔になるのと、顔を奇麗《きれい》に見せるために、声を少し犠牲《ぎせい》にするのと、あなたなら、どちらを選びます?」いきなり聞かれて、トットは困った。これは、音楽学校で、散々、見て来たことだった。いい声を出そうとして、アゴがはずれそうになって大騒《おおさわ》ぎをした先輩《せんぱい》を見たことが、あったくらいだったから。 「どっちもよくないと、ダメです!」と、トットが答えると、 「そうね。でも難かしいことよ。お嬢《じよう》さん」と先生は、いった。  そう。お嬢さん、と呼ばれるくらい、全くの素人《しろうと》だったトット達に、このプロの先生方は、本当に、一生懸命《いつしようけんめい》、教えてくれた。骨惜《ほねお》しみをしないで、教えてくれた。さじを投げないで、教えてくれた。 [#改ページ]   五食《ごしよく》[#「五食《ごしよく》」はゴシック体]  こういう中で、トットが気に入ったものの一つに、五食があった。これは、NHKの五階にある食堂のことで、NHKの人が、短かくして、「ゴショク」と呼んでいるところだった。トットは、随分《ずいぶん》、長いこと、放送界では、オショクジのことを、ゴショクというのだ、と信じていた。というのも、最初にさそってくれた人が、「お腹空《なかす》いたから、ゴショクに行かない?」といったからだった。とにかく、五食には、A定食・B定食・C定食とカレーなどがあった。音楽学校の売店の、コロッケや、メンチボールのはさまったパンが、唯一《ゆいいつ》の外食のメニューだったトットにとって、�おでん�だとか、�サバの煮《に》つけ�とか、�あじのフライ�などといった定食は、社会人になったような気分を味わわせてくれた。  トットは毎日、学校が終ると、走ってNHKの五食に行き、財布《さいふ》の中味と相談をしながら、何かを喰《た》べる。その時間に五食に行けば、必ず、養成を受けてる仲間に逢《あ》えた。将来、NHKの女優になることより、友達《ともだち》と一緒《いつしよ》に話をしながら、にぎやかに五食で喰べてるとき、トットは、なんだか、とても充実《じゆうじつ》しているように思えた。自由にも、思えた。  まわりのNHKの男の人の中には、局に来てから、靴《くつ》と履《は》きかえたサンダルを、ズルズル引きずるようにさせて歩いて、五食に入って来て、定食の見本《サンプル》の並《なら》んだガラスケースを見て、「また、あじか!」とかいって、お金を投げ出すようにして食券を買い、テーブルにすわると、お茶をついで、つまらなそうにしている人もいた。大きなマスクをして、寒そうにすわってる人もいた。また、やはり五階にある、売店の薬局から、胃薬を買って来て、御飯《ごはん》の前に、のんでる人もいた。でも、トットは、何を見ても、面白《おもしろ》く、興味があり、うれしかった。その五食の食券売り場の横に、小さな机を出して、一本五円で、ナイロンのストッキングの伝線病を直してる、おばさんがいた。伝線してるところに、中から筒《つつ》をあてて、カギ針で、しゃくっていくのだけど、その見事な手ぎわに感動して、トットは、拍手《はくしゆ》した。  そんな、ある日、食堂に貼《は》り紙が出た。 「食堂内では、なるべく静かにして下さい」  これは、トット達の騒《さわ》ぎを指《さ》していることは、あきらかだった。以来、ゴショクに行くとき、トットたちは、出来るだけ、声をひそめ、静かにした。それでも、いつのまにか、忘れて、「ここよ!」と、友達を大声で呼んでしまったりして、口をおさえた。 [#改ページ]   営業妨害《えいぎようぼうがい》[#「営業妨害《えいぎようぼうがい》」はゴシック体]  NHKの授業が九時に終ると、トット達《たち》は、家に帰るのに、新橋の駅まで歩いた。新橋の手前の志乃多寿司《しのだずし》の前に、毎晩、きれいな女の人が、ハンドバッグを持って、何人も立っていた。六時前にNHKに行く頃《ころ》は、ほとんどいないのに、帰る頃は、薄暗《うすぐら》いとこに、たいがい、十人くらい、いた。みんな背が高く、濃《こ》いお化粧《けしよう》をして、立ったり、ぶらぶら、行ったり来たりしていた。洋服も、たいがいスーツとかが多かったけど、中には、ワンピースにストールとか、カクテルドレス風の人もいた。ハイヒールのかかと[#「かかと」に傍点]の、細くて高い時代なので、歩くと、みんな、コツコツと音がした。  それは、三ヶ月の養成の、丁度、まん中頃のことだった。相変らずトットは、一張羅《いつちようら》のオレンジ色の落下傘《パラシユート》スカートに、白のブラウスだった。それに、いとこが作ってくれた、黒のビロードのチョッキを着ていた。そして、その晩、トットが、とても自慢《じまん》だったのは、スカートの中に、ゴワゴワした白の、ナイロンのペチコートを、はいていることだった。前から欲《ほ》しかったのが、昨日《きのう》、やっと、ママの知り合いから、手に入った。トットは、うれしかった。うんと広がったスカート。これは、トットが長いこと、夢《ゆめ》に見ていたものだった。体をゆすると、スカートもフワフワ揺《ゆ》れる。  授業が終って、いつものように、トット達は、志乃多寿司の前まで来た。勿論《もちろん》、いつものように、奇麗《きれい》な女の人達が、ハンドバッグを持って立っていた。そのとき偶然《ぐうぜん》、トットは、地下鉄の風の来る穴の上を、通りかかった。マリリン・モンローの、あの有名な、スカートをおさえるシーンの映画、「七年目の浮気《うわき》」は、まだ封切《ふうき》られていなかったけど、とにかく、丁度そのとき、地下鉄が下を通り、風が猛烈《もうれつ》に吹《ふ》き、トットのスカートが、ひろがった。パラシュート・スカート、というぐらいで、ほぼ、円形に裁《た》ってあったから、実に、うまく広がった。しかも、下の白のペチコートまで、ひろがるから、トットは夢中《むちゆう》になった。まわりにいるのは、女の人ばかり。しかも、夜だし。トットは、NHKの女友達に、 「見て? 見て?」  といっては、スカートが、まくれるのを喜び、時には、後のほうの、パンティーが見えるくらいになるのを、手でおさえては、大笑いした。女友達の中にも、フレアー・スカートをはいてる人がいたので、一列に並《なら》んでは、風が来ると、「キャー!!」といって、大さわぎをした。それにしても、凄《すご》い風が下から吹いて来る穴が、あるものだった。それと、新橋のあたりは、ひんぱんに地下鉄が通るらしく、たて続けにスカートが広がる時もあり、トット達は、飽《あ》きずに、やっていた。そのときだった。物凄い声が、聞こえた。 「なに、いつまでもやってんだよ! このガキ! 営業妨害だぞ! この野郎《やろう》!!」  一瞬《いつしゆん》、誰《だれ》が出した声だか、わからなかった。それは、恐《おそ》ろしく、低い、男の人の声だった。でも、男の人の姿は見えなかった。トット達は、スカートをおさえたまま、キョロキョロした。途端《とたん》、もう一度、聞こえた。 「早く、そこを、どきなよ!」  トットが声の出た方角を見ると、それは、そこに立ってる女の人の、一人だった。赤い口紅の唇《くちびる》から出た声だった。トットは、「キャ〜!!」というと、駈《か》け出した。他《ほか》の女の子も、駈け出した。なんだかわからないけど、こわかった。新橋の駅の明るいところまで来て、みんなで顔を見合せ、「あー、おどろいた」と口々に、いった。  次の日、五食で、「ゆうべ、どんなに、びっくりしたか」という話をトット達がしていると、映画女優からNHKを受けた、仲間の女の人が、こともなげに、いった。 「あら、あれ、オカマよ」 「オカマ?」  トット達の知らない言葉だった。今のように情報のない時代だったから、そういう人がいることを、知らなかった。姐《あね》ご肌《はだ》の、その女優さんは、いろいろ説明してくれた。 「女装《じよそう》して、あそこで、客が通るの、待ってんのよ。それなのに、あんた達が、本当の女の子で、それが、スカートまくって、お尻《しり》だしたりしてたら、そりゃ怒《おこ》るわよ。こわいわよ。本当は男なんだから……」  トット達は、驚《おどろ》くと同時に、興味を持った。 (男とは、絶対に見えない!)  その晩、トット達は、手をつなぐと、地下鉄の穴の上を通らないように注意しながら、あまりキョロキョロしないようにして、志乃多寿司の前まで来た。今日のトット達の目的は、 (いつも女だと思っていたけど、本当は男だとすると、どんなに上手に変装してるのか、よく見てみよう)ということだった。  いつものように、おねえさん達は、立っていた。トットは、昨日のことがあるので、少しこわいから、下をむき、上目使いに、観察しようとしていた。ところが、昨日、いないで、話だけトット達から聞いて、面白《おもしろ》そうだと思って一緒《いつしよ》について来た女の子は、無邪気《むじやき》そうに、ジロジロ見た。瞬間、昨日と同じ凄味のある声が、耳もとで聞こえた。 「なに、ジロジロ、見てんだよ!」  また「キャ〜!!」だった。  それ以来、トットは、志乃多寿司の手前で、右に曲って、違《ちが》う道から帰ることにした。そうして、また十日くらい経《た》った、ある晩、セリフの稽古《けいこ》が長びいたあとで、疲《つか》れ切ったトット達は、電車に乗る前に、何か、甘《あま》いものを喰《た》べて帰ることにした。例の、手前を右に曲って、すぐの左側に、おしる粉屋さんがあった。甘味屋さん的な装飾《そうしよく》の全くない、ガランとした小さな店だった。でも、みつ豆や、おしる粉、くず餅《もち》、ところてん、など、おいしくて、安いので、たまに、トット達は、寄ることがあった。その晩も、五、六人で、ガヤガヤ入って、あれこれ注文し、テーブルの上に、その、それぞれのものが運ばれてきた時だった。ガラリ、と戸を開けて、大きな女の人が二人、入って来た。トットには、一目で、それが、あの志乃多寿司の前の、こわいおねえさんだと、わかり、身がすくむような思いがした。運の悪いことに、おねえさん達は、隣《とな》りのテーブルに席をとった。みつ豆を手に、トットは、「どうしようかなあー」と考えた。(逃《に》げるわけにも、いかないし)むかい側にすわってる友達も、すでに察知したらしく、トットと同じように、頭をうなだれた形で、ところてんを、ズルズルと、口に押《お》しこんでいた。おねえさん二人は、クリームあん蜜《みつ》と、磯辺巻《いそべま》きを注文すると、ハンドバッグから煙草《たばこ》を出して、吸い始めた。伏《ふ》し目にしてるトットの目のはしに、おねえさんの、とんがった赤いハイヒールの先が、入ってきた。おねえさんが足を組んだので、トットのスカートのそばまで、そのハイヒールは来ているのだった。(とにかく、目を合わさないようにしよう)トットは必死に、下をむいたまま、みつ豆をたべた。そのとき、耳もとで、あの、太い声がした。 「ねえ、お嬢《じよう》さんたち、いま帰るの?」  びっくりして顔をあげたトットに、濃いお化粧の顔が笑った。 「いつもより、遅《おそ》いんじゃないの?」  もう一人のおねえさんがいった。トットは、あわてて、「ええ」といってから、いそいで、つけ足した。「今晩は!」 「今晩は!」と、おねえさん達は愛想よく答えた。そして、煙草の煙《けむり》を、トット達にかからないように、壁《かべ》のほうに、ふーっと、はき出した。  次の晩から、トット達は、もう廻《まわ》り道をしないで、前のように、志乃多寿司の道を通って、新橋の駅まで歩いた。前と違うことは、立ってるおねえさん達に、「今晩は!」と、声をかけることだった。おねえさん達も、 「今晩は!」とか、「いいわねえ、もう帰れて!」とかいった。ある晩など、トットは、おねえさん達に、「お先に!」といってしまい、あとから、(私も一緒に仕事をしてる人と、よその人に思われたわ、きっと)と、おかしく思ったりするくらい、親しくなった。  オカマ、という言葉を教えてくれた女優さんが、あるとき、思い出したようにいった。 「ねえ、あの晩、ほら、おしる粉屋さんで逢《あ》ったとき、あの二人、私達みんなが喰べてるとこ、じーっと見てたじゃない? きっと、本当の女が、どうやって喰べるのか、研究してたんだと思うわ」  トットは、(そうかも知れない)とも思った。でも、また、思いがけなく人の良さそうな表情の、あの、おねえさん達が、頬杖《ほおづえ》をついて、煙草の煙をはき出していた姿を思い出すと、女の動作の研究、というより、むしろ元気な女の子の若さを見て、自分たちの行き先きかなんかを、考えていたのじゃないか、と思えた。おしる粉屋さんで、トット達に話しかけたのも、あの晩、お客もつかまらず、もしかすると、寂《さび》しかったからなのかも知れない、と、トットは思った。 [#改ページ]   ゼンマイ仕掛《じか》け[#「ゼンマイ仕掛《じか》け」はゴシック体]  朗読の時間が終ったとき、大岡先生が、トットを呼びとめた。よびとめた拍子《ひようし》に、先生の靴《くつ》は床《ゆか》ですべって、三十センチほど横すべりして、止った。従って、先生の体も、三十センチ、思いがけない方向まで行って止った。どうやら、そんなことは、大岡先生は平気らしく、いつものように、手の甲《こう》で口をかくすようにすると、いった。 「あなたの朗読ね、ゼンマイ仕掛けのお人形! 始めは、いきおいがいいけど、少しずつ、ゆっくりになっちゃって。で、アレアレ、と思ってると、また、突然《とつぜん》、急に早くなるんでございます。それが、あなたさまのリズムかとも存じますが。聞く人が、おどろきましょう? どうしたものでしょうねえ。ゼンマイのほう」  トットは、なんと返事をしたらいいかわからなかった。自分の朗読が、そんな風だなんて考えてもみなかったし、また、どうしたら直るものやら、わからなかった。トットが困ったようにして立っていると、大岡先生は笑い声でいった。 「わたくしも、随分《ずいぶん》、いろんな朗読を伺《うかが》いましたけど、あなたさまのようなリズムは、初めてでね。でも、馴《な》れれば、また、ゼンマイ仕掛けも、よいものかも知れません」  いうだけいうと、大岡先生は、いつものように、体を半身にして、本読室を出ていった。 (ゼンマイ仕掛けのお人形……)  少し悲しい気がしたけど、考えてみれば、絵本や童話を自分の子供に上手に読んでやる、お母さんになるんだもの……。(ゼンマイでも、子供は、聞いてくれるんじゃない?)トットは、自分にいいきかせるようにして、部屋を出た。  三ヶ月の養成も、終りに近づいていた。 [#改ページ]   自分の声[#「自分の声」はゴシック体]  トット達《たち》は、今日、とても興奮していた。それは、自分の声を聞かせてもらえる実習が、あるからだった。 (自分の声を聞く!)  それは、みんなにとって、生まれて初めての経験だった。今なら、小学生でも、自分用の録音機、カセット・レコーダーや、テープ・レコーダーを持っていて、自分の声を聞いてるけど、この、昭和二十八年当時は、NHKとか、他《ほか》の放送局など、特別のところにしか、まだ、テープ・レコーダーというものはなかった。また、あっても、ラジオの放送に使うことは、まれで、ほとんど全部が、ナマの時代だった。  トット達は、NHKのラジオの第五スタジオに連れて行かれた。第四次の歌の試験も、ラジオのスタジオだったけど、あのときは、五人くらい一緒《いつしよ》にスタジオに入り、順番に、ハクボクで描《か》いてある足形の中に立って、あたえられた楽譜《がくふ》を必死に見ながら歌ったので、あまり、まわりを見ていなかった。今日の第五スタジオを、よく見ると、スタジオのまん中に、グリーンのカーテンが天井《てんじよう》から垂《た》れていたり、床《ゆか》から、すっくと立った、大きなマイクロフォンがあったり、ガラス窓のむこうの小さい部屋には、いっぱい機械があったり、折りたたみ式の椅子《いす》が沢山《たくさん》ならんでたり、重たいドアが、いくつもあったり、木のついたて[#「ついたて」に傍点]があったり、とても珍《めず》らしかった。トットは、キョロキョロして、隅《すみ》から隅まで観察した。当然だけど、窓がなくて、電燈《でんとう》は、いっぱいついてるけど、 (なんとなく薄暗《うすぐら》い感じだ)と、トットは思った。  大岡先生は、みんなに声のテスト用の紙を配った。二十八人の生徒は、椅子に、少し固くなってすわり、その紙を見た。女性用のは、こういうセリフだった。 「まあ、嫌《いや》な方。妾《わたし》がその事について、何故《なぜ》だまってるかとおっしゃるの。そして、そのわけを、いま、あなたは、何気なく妾からきき出そうってわけなのね。冗談《じようだん》じゃないわ。ほほほゝゝゝ。何て身勝手な話なんでしょう——。そんならおききしますけれど、一体あなたは、妾の敵なの、味方なの。え。どっち。まずそれをはっきりしていただきたいわ——」  ……前後がよくわからないけど、(なんだか、この女の人は怒《おこ》ってるらしい)と、トットは判断した。男性のほうのは、 「晴れた日は、朝ごとに富士がよく見える」  といった、朗読だった。みんな口々に紙を見ながら声にして、よみ始めた。ひとしきり声が大きくなったところで、大岡先生が、いった。 「さ、それじゃ、そろそろ、声の録音、始めましょうか」  ガラス窓のむこう側から、中年の男の人が、二つもドアを開けて、こっちのスタジオの中に入って来た。エレベーターの中で見かけたことのある人で、茶色の大きいサンダルをズルズルひきずるようにして、マイクのそばに来た。頭の毛が沢山あって、上のほうに突《つ》っ立って生えていた。その、少しユーウツそうに見える人は、 「マイクから三十センチくらい、離《はな》れて」とか、「持ってるセリフの紙を、マイクにさわらせないように」とか、「なるべく下を見ないで、しゃべるように」とか、いろいろ注意してくれた。トットたちは、ひとつひとつに感心して、うなずき、おじさんの言う通りにしよう、と思っていた。 「じゃ、始めの人から、おねがいします」  その人は、また、サンダルをズルズルさせながら、ガラス窓のむこうの部屋に、もどって行った。トットは、 (自分の名前を、セリフの前に言うのかな?)  と思ったから、大岡先生に、小声で聞いた。 「あの、名前は、いうんですか?」 「ああ、そうしましょうね」  と、大岡先生は、軽くいった。  トットは、もう一つ質問があったので、また、大岡先生に聞いた。 「いまの、おじさん、下を見ないで、っておっしゃったけど、少しは見ても、いいですか?」  大岡先生は、いつものように小腰《こごし》をかがめ、手の甲で口をかくす喋《しや》べりかたで、トットに近づくと、いった。 「あなたさま、あの方《かた》は、おじさん[#「おじさん」に傍点]じゃございません。あの方は、声や音を調整なさる、ミクサーさん。よろしゅうございますか? みなさんも。あの方は、ミクサーさんです」  トットは真赤《まつか》になった。しかも、こっちの話してる声が、マイクを通して、むこうに聞こえてるらしく、こっちむきに座《すわ》ってる、そのミクサーさんは、ガラス窓ごしにトットのほうを、チラリと見た。  それから大岡先生は、適当に順番を決めた。この頃《ころ》、大岡先生は順番を決めるとき、プロ的な人を先にして、トットは、いつも、ビリだった。というのも、トットを先にしたときに、必ずゴタゴタが起るので、みんなの模範《もはん》になるような、馴《な》れてる人から先にすることに、したようだった。従って、トットは、いつも、最後になるのだった。短大を中退という、プロ的なトップバッターの女性は、右手に紙を持ち、左手を腰にあてた恰好《かつこう》で、ガラス窓のミクサーさんに、会釈《えしやく》をすると、 「よろしくお願いしまーす」と、いった。  ミクサーさんは、指で輪っかを作って、「OK」という、しぐさをした。プロ的な人は、うなずくと、自分の名前を言い、大きく息を吸ってから、高い、しっかりした調子の声で始めた。 「まあ、キライな方《かた》。メカケが、その事について、何故だまってるかとおっしゃるの。そして、そのわけを、いま、あなたは、何気なく、メカケからきき出そうってわけなのね」  そこまでいったとき、大岡先生が、足音をしのばせて、その女の人に近より、 「ちょっと、ちょっと。始めから、もう一度! ミクサーさん、ご免《めん》なさい。テープ、もどして下さいね。あの、あなた、これね、�キライな方�じゃなくて、�イヤな方�それから、�メカケ�じゃなくて、�わたし�と読んで頂戴《ちようだい》。じゃ、お願いします」と、いった。  トットは、自分では、「わたし」と読むつもりだったけど、プロ的な人が、「メカケ」と読んだので、 (大変! もう少しで、間違《まちが》えて、『わたし』と読むところだった……)と思った瞬間《しゆんかん》だったので、少し混乱したけど、静かにしていた。  そして、トットの番になった。銀色の、蜂《はち》の巣《す》模様みたいな形の穴の沢山ある四角いマイクを、「相手の人間」と思ってしゃべるのは、とても難かしかった。それでも、とにかく、トットが終ったので、全部が終了《しゆうりよう》した。  大岡先生は、満足そうに、うなずくと、マイクに近より、ミクサーさんにいった。 「じゃ、テープの送り返し、お願いします」  いよいよ、自分の声が、出てくるのだ。みんな、心配なのと、照れるのと、期待するのとで、はしゃいだ声を出していた。  当然、プロ的な女の人から始まった。スピーカーから、声が出た。ひびきのある、大きい声だった。その人は、首をすくめて、 「あら、私、こんな声かしら……」といったけど、みんなが、「上手ねえ」とか言ったので、だまったまま、聞き入った。そんな風に、順々に送り返しが来て、そのたびに、みんなが反応して、とうとう、トットの番になった。前の人のセリフが終ったところで、少しゴトゴトという音が入った。 「あれは、私の靴《くつ》の音でーす」と、トットが言ったので、みんな笑った。ちょっとした間《ま》があり、女の人の声が聞こえた。 「黒柳徹子」  鼻にかかったような、ヘンな声だった。甘《あま》ったるいようでいて、愛想のない、不思議な声だった。トットに、それが自分の声だ、とわかるまでに、随分《ずいぶん》、時間がかかった。トットは立ち上ると、ミクサーさんのほうを向いて叫《さけ》んだ。 「すいません。これ、機械がヘンですから、直して下さい!」  ガラスのむこうのミクサーさんは、顔をあげると、こっちを見て、いった。 「なんです?」  トットは、いそいで、いった。 「あの、NHKの機械が、こわれてるみたいですから、ちょっと直してから、私の声、出してほしいんですけど」  ミクサーさんは、きっぱりとした調子で、こういった。 「こわれていません。これは、あなたの声です」  トットは、いいはった。 「だって、私の声、こういうんじゃないんです。絶対、NHKの機械こわれてます!」  ミクサーさんのおじさんは、機械を点検してみる風もなく、くり返した。 「これが、あなたの声です」  突然《とつぜん》、トットは、泣き出した。泣きながらいった。 「だって、こんな声じゃ、放送に出られない」  あとから、あとから涙《なみだ》が出た。自分の声を、いい声とは、決して思っていなかったけど、こんな聞いたこともない、不思議な声とは思っていなかった。そのとき、ミクサーさんが、いった。前より、声は少しやさしくなっていた。 「自分の耳で聞いてるのと、実際の声とは、誰《だれ》でも違って思えるんです。あなただけじゃなくてね。口や顔の中で共鳴したのが自分の耳に聞こえるからね。もう一度、出してみましょうか?」  ミクサーさんは、親切に、もう一度、始めから、トットの声を出してくれた。それを聞くと、トットは、更《さら》に泣いた。 「こんな声じゃない。こんなヘンな声じゃない」  実習が終り、みんなが、興奮しながらスタジオを出て歩く後ろから、トットは、一人だけ、みじめに泣きながら、ついて行った。 「あんな声じゃない。あんなヘンな声じゃない」  その日、一日中、トットは泣いて暮《くら》した。機械を調べもしないで、 「これが、あなたの声です!」と、なんの慰《なぐさ》めもなく言ったミクサーのおじさんも、意地悪に思えた。「あら可愛《かわい》い声よ」という、友達の言葉も、嘘《うそ》に聞こえた。泣いてない友達が、うらやましかった。  これが、生まれて初めて、トットが自分の声を聞いた日の出来ごとであり、このあと、何年たっても、トットは、自分の声を聞くたびに、 「やっぱり、NHKの機械は、こわれてる」と、思うのだった。 [#改ページ]   サイン・プリーズ[#「サイン・プリーズ」はゴシック体]  トットと鈴木|崇予《みつよ》さんは、授業が終って、夜の道をNHKから新橋にむけて歩いていた。鈴木さんは、最後の面接の試験のとき、黒いスーツの胸に赤いバラをつけていた人だった。  二人が、新橋の第一ホテルの近くのビルとビルの間の細い道にさしかかったとき、前のほうから、背の高い大柄《おおがら》の外人の男の人が歩いて来た。その人は、トット達《たち》を通してくれるために立ち止った。外燈《がいとう》の下で、何気なく、その人の顔を見て、トットは驚《おどろ》いた。 「あっ! あの……映画に出た人!」  鈴木さんも、ほとんど同時に気がついた。その人は、その頃《ころ》、大ヒットしたアメリカ映画、「花嫁《はなよめ》の父」で、エリザベス・テイラーの恋人役《こいびとやく》をやって大人気の、ドン・テイラーという俳優だった。その人は、やさしくトット達を通らせてくれると、ドンドンと第一ホテルのほうに向かって歩き出した。有名なスターなのに、たった一人だった。(こういうときの心理というのは不思議なものだ)と、あとからトットは思ったけど、熱狂《ねつきよう》的なファンではないにしろ、�素敵《すてき》だと思ってる有名な人に逢《あ》った�ということは、ショックであり、そのまま行き過ぎるのは、勿体《もつたい》ない、という、そんな気持だった。とっさに、トットは鈴木さんに、いった。 「ねえ、サインして貰《もら》おう? 今日の記念に」  サインをして貰う、というようなアイディアは、当時としては、よく見ていたアメリカ映画の影響《えいきよう》だった。とにかく二人は、走って後《あと》を追った。大きな背中にむかって、トットが声をかけた。 「エックス・キューズ・ミー」  その人は振《ふ》り返った。明るいところで見た顔は、映画と同じだった。トットは勇気を出して聞いた。 「アー・ユー・ミスター・ドン・テイラー?」  ふっくらとした顔をほころばせて、その人は答えた。「イエス」 「わあー、よかった」と、トットは日本語で言ってから、いそいで、つけ足した。 「ウイル・ユー・ギヴ・ミー・サイン?」  本来なら、オートグラフとかいうのだろうけど、たしか、(サインとかいうのだな)と思って言ってみたら、通じた。なにしろ、ドン・テイラーが、にっこりして、 「オブ・コース」と、いったんだから。  それからが大変だった。何に書いてもらうか、だった。トットは考えたあげく、ノートより、その日の吉川義雄先生の授業の教材、「花伝書《かでんしよ》」が、いい、と考えた。トットは鈴木さんに、「お先に、どうぞ」といった。鈴木さんは、勉強のノートを出し、 「ウイル・ユー・プリーズ?」と丁寧《ていねい》にいった。鈴木さんは、実践《じつせん》女子大の英文科に在学中だし、トットは、一生懸命《いつしようけんめい》の生徒ではなかったけど、英国系のミッションスクール「香蘭《こうらん》女学校」で、典型的なイギリス夫人から英語を習ったから、二人あわせれば、なんとかなったのだった。  鈴木さんのノートを手にすると、ドン・テイラーは、�何か書くもの……�という仕草をした。(本当だ! なんて、私ときたら、気がきかないんだろう)トットは大急ぎで、バッグの中に頭をつっこむようにして、書くものを探した。鈴木さんも、ゴソゴソ、バッグに手をつっこんだ。でも、それより早く、ドン・テイラーが、自分の上着の内ポケットから、万年筆を取り出すと、はっきりとした、読みやすい字で、大きく、ドン・テイラー、と書いた。鈴木さんは顔を赤くして、 「サンキュー」と、いった。トットは、文庫本の花伝書の、最初のページを開いて渡《わた》した。ドン・テイラーは、それが日本の本とわかると、あっちこっち、パラパラ、ページをめくった。そして、「まるっきり歯が立ちませーん。チンプンカンプン!」という風な、滑稽《こつけい》なジェスチャーをした。「花嫁の父」の中の、しっかりとした真面目《まじめ》な青年という印象より、今のほうが、トットには面白《おもしろ》かった。トットも鈴木さんも声を出して笑った。ドン・テイラーも笑った。そして、トットの花伝書に、たっぷりと、世阿弥《ぜあみ》先生もびっくりなさるほどの、ドン・テイラーのサインが入った。トットはお礼をいい、大きく、おじぎをして失礼しようとした。ところが、そのとき、ドン・テイラーが、なにか、いいにくそうにしながら、トットに、話しかけた。(なんだろう……)トットは緊張《きんちよう》した。ドン・テイラーは、トットのカバンを指して、 「ファウンティン・ペン」と、いった。 「ファウンティン・ペン?」トットが聞き返すと、ドン・テイラーは、さっきと同じ、�書く�仕草をした。あわててバッグに手をつっこんで、トットは、すべてを了解《りようかい》した。 「アイム・ソーリー」  要するに、サインをして貰って興奮したトットが、ドン・テイラーの万年筆も、花伝書と一緒《いつしよ》にカバンにしまってしまったのだった。トットが銀色のピカピカ光る万年筆を返すと、ドン・テイラーは、「サンキュウー」といい、もう一度にっこりして、ホテルの中に入って行った。トットも鈴木さんも、夢《ゆめ》を見ているように思って、しばらく動けなかった。  次の日、NHKに行って、この話を報告すると、男の子は、 「ケチだなあー、ハリウッドのスターなんだから。なんだい、万年筆の一本くらい!!」と、口惜《くや》しまぎれの調子でいった。でも、トットは、むしろ、 「万年筆を返して」  という、人間っぽい人が、ハリウッドのスターとわかって、うれしかった。(私達と同じだ)と思って。第一、言ってくれないで、あとでバッグの中に万年筆を発見したら、トットは、(泥棒《どろぼう》のようだ)と、自分を、せめたに違《ちが》いなかった。  それにしても、ハリウッドのスターが、何故《なぜ》、新橋にいたか? ということは、後になって新聞などでわかったことだけど、朝鮮《ちようせん》戦線の慰問《いもん》のためだった。同じ頃「若草物語」のマーガレット・オブライエンだとか、ダニー・ケイ、ボブ・ホープ、マリリン・モンローといった人達も、そのために日本に立ち寄っていた、と、わかった。  それから数年後、ドン・テイラーは、ウィリアム・ホールデンと、「第十七|捕虜《ほりよ》収容所」に出演した。ドイツの収容所から、アメリカ軍のドン・テイラーやウィリアム・ホールデンが、脱走《だつそう》しようとする、ビリー・ワイルダーのサスペンス喜劇だった。暗い映画館の中で、トットは、(ドイツ兵に見つかって殺されたら、どうしよう)と、ハラハラ、ドキドキしていた。トットは、人一倍こわがりだけど、特に、一度でも話をしたことのある人が、気の毒な目にあうのは、つらかった。こわくて、たまらなかった。だから、時々、トットは、自分に、こう、いい聞かせた。 (いい? あの人は、花伝書を見て、「チンプンカンプン」って冗談《じようだん》やった人なんだから。しかもこの映画は、戦争中の映画で、私が逢う前の話だし、もし、この映画の中で殺されたとしても、実際には、その後に逢ってるんだから、安心なの!)そう思っても、やっぱり心配で、脱走が成功したとき、トットは、誰《だれ》よりも、大きな拍手《はくしゆ》をした。 [#改ページ]   ストライキ[#「ストライキ」はゴシック体]  とうとう三ヶ月間の養成は終りに近づいた。困ったのは、二十八人全員が、とても気が合ってしまって、誰のことも、ライバルとか、押《お》しのけよう、というような気持には、なれないことだった。なれないどころか、「卵の会」という会まで作ってしまった。ガリ版でみんなの名簿《めいぼ》を作ったり、中には、こんな詩を作った人もいたくらいだった。 「私たちは、みんな真白な卵、新鮮《しんせん》な卵、  雄鶏《おんどり》か、雌鶏《めんどり》か、チャボか、レグホンか。  そんなことは、神様だけが御存知、  でも私|達《たち》は、仲良し、いつまでも」  そして、これは、みんなの気持でもあった。そこで、いよいよ、今日で授業が終り、数日後に、本当の若干名《じやつかんめい》が決定する、という晩、みんなで相談した。結論が出た。つまり、誰か、一人でもNHKが落したら、入った人が全員、結束《けつそく》して、 「じゃ、私達も入りません。全部を入れて下さらなきゃ、絶対に、いやです!!」と、ストライキをしようということだった。 「絶対よ!」「絶対な!」みんなで誓《ちか》い合った。  そうして、いよいよ新橋の駅で、ばらばらに別れるときが来た。誰かが心細そうにいった。 「でも、やっぱり、このまま、お別れになっちゃうかも知れない。私、きっとダメだから」「お別れなんか、ないわよ」と、誰かがいった。「だから、ストライキ、やるんじゃない!」と、また誰かがいった。「みんなで団結すれば大丈夫!」と、力強そうに誰かがいった。  最後に、とりしきることが好きな男の人が、いった。「入《はい》れた人は、団結して、一人でも落伍者《らくごしや》のないように。誓ったことを忘れないように。じゃ、また全員で逢《あ》うことを楽しみに!」 「じゃ……」と、みんながいった。「……お逢いするのを楽しみに……」 「またね」「またね」二十八人の誰もが心細いまま、別れた。  もう、終電車に近かった。 [#改ページ]   若干名《じやつかんめい》[#「若干名《じやつかんめい》」はゴシック体]  それは、速達の葉書で来た。  トットの名前と住所の上に押《お》してある、真赤《まつか》な速達のしるしの横線が、いかにも鮮《あざ》やかで、これなら「特別のお知らせ」って、すぐわかる、と、トットは思った。差出人は、日本放送協会。芝《しば》局料金別納郵便、という丸いスタンプが印象的だった。  トットは、息を止めるようにして、葉書の文面を見た。終りのほうに目が行かないように自分をいましめて、始めから読み始めた。タイプ印刷で、こう書いてあった。 「前略 [#ここから1字下げ]  過日の銓衡《せんこう》試験の結果、貴下は合格と決定|致《いた》しました。ついては、左記により開講致しますから、本状|御持参《ごじさん》の上、御出席下さい。 [#ここで字下げ終わり]    記   日時 四月六日 午前十時   場所 観光ホテル    日本放送協会     編成局 庶務課《しよむか》」  トットは、大きく息を、はいた。  ……ああ。とうとう。やっと。これで。一応。とにかく。やれやれ。よかった。わあー。いろんな気持が、押しよせた。NHKの俳優|募集《ぼしゆう》の広告を見て、決心してから、まだ三ヶ月と、ちょっとしか経《た》っていないのに、随分《ずいぶん》いろんな事を経験した。試験の頃《ころ》のことが、もう、ずーっと昔《むかし》に起ったことのように思えた。そして、この三ヶ月間の第一次養成中は、毎日が、楽しくは、あったけど、やっぱり、この合格が決まるまでは、何かソワソワしていたのだ、と、いま、わかった。 「わあー、受かったって!」  突然《とつぜん》、トットは、うれしくなって、葉書をヒラヒラさせて、家中を走り廻《まわ》った。昔、小学生のトットちゃんだった頃なら、一番最初に、この葉書を見せに行ったはずの、シェパードのロッキーが、もう、いないのが残念だった。  葉書を受けとってから三日目に、トットはNHKのむかいにある、観光ホテルに出かけて行った。そして、とうとう、長いこと疑問だった「若干名」を、この目で確かめることが出来たのだった。  若干名の人数と顔ぶれは、次の通りだった。  今井喜美子(後《のち》の、新道乃里子さん)  臼田弘子(後の、幸田弘子さん)  黒柳徹子(トットのこと)  鈴木|崇予《みつよ》(後の、里見京子さん)  田中洋子  友部光子  本多文子  吉本ミキ  横山道代  今井純成(後の、今井純さん)  木下秀雄  黒江悠久  桜井英一  鈴木|啓弘《よしひろ》  関根信昭  三田松五郎  八木光生  以上、女性九人、男性八人。  磯浦《いそうら》康二という人がいたんだけど、この人は、このあとNHKのアナウンサーの試験を受けなおして、合格したので、アナウンサーになってしまった。そんなわけで、若干名は、十七人、のことだった。トットがNHKの新聞広告の、「採用は若干名」というのを読んで、パパに「若干名って、何名のこと?」と聞いて、パパが「何名って決まってるわけじゃなくて、いい人がいたら採用することで。でも、まあ、数人って、とこかな」と教えてくれてから、六千人の応募者が、ハラハラしたり、泣いたり笑ったりして、とうとう、ここで、十七名が、若干名として残った。残ったほうが良かったか、悪かったか、それは、誰《だれ》にもわからないことだったけど、トットに関していえば、少なくとも、この葉書が、人生を変えたことは事実だった。  自分の子供に上手に絵本を読んでやる、お母さんになるつもりのトットが、これで、まだ、日本人の誰にも、わかっていなかった、テレビジョン、という世界に、一歩、足をふみ入れることになったのだから。  それにしても、トットが、つらくて、申しわけない、と思ったのは、例のストライキをしなかったことだった。というのも、こんな風に個々の家に合格の葉書が来て、指定通りに、観光ホテルに集ったとき、みんなに、また逢《あ》えた嬉《うれ》しさが先にたち、 「わあー、また逢えて、よかった」とか、 「あなた、残ったのねえ」とか、騒《さわ》いでるうちに、NHKの庶務の人が来て、あっという間に、時間割のこと、交通費のこと、講師の先生のこと等を説明し、あれよあれよ、というまに、授業が始まっちゃったのだった。  あんなに、固く約束《やくそく》をして別れたのに。でも、「落ちた人を入れてくれなきゃ、私|達《たち》も入りません」と、NHKにかけあう余裕《よゆう》も、また、誰が落ちたのか、正確なデータもなかった。 「あれ、あの人、いないけど、落ちたのかなあ?」「本当は受かってるんだけど、今日、都合が悪かったのかしらね」とか、はっきりしないうちに、ストライキをしようという盛《も》り上りにも欠け、NHKに誰が落ちたのか聞く暇《ひま》もなく、結局、そのままに、なってしまった。きっと、落ちた人は、家で、「今にストライキの結果が来るに違《ちが》いない」と、待ってただろうに。(なんて、人間は、自分勝手なんだろう)トットは、あとあと、何年経っても、約束を破って悪かった、という気持が残っていた。  この、三ヶ月間の養成を一緒《いつしよ》に受けた仲間、二十八人のうちの、合格しなかった十一人とは、その後、一度も逢うことは、なかった。  後に、芸能界で逢うこともなかったから、きっと、それぞれ、あの日を境いに、別の道を歩き出したに、ちがいなかった。 [#改ページ]   津々浦々《つつうらうら》[#「津々浦々《つつうらうら》」はゴシック体]  ところで、合格と決まったことから、 (じゃ、来年になったら放送に出るのかな)  と、漠然《ばくぜん》と考え始めたトットは、あることを思い出して、 「あー!」といった。  それは、数年前の中学三年の頃《ころ》のことだった。ある土曜日、同級生の友達《ともだち》の家に遊びに行った帰り道。「途中《とちゆう》まで送っていく」という友達と二人で、池上線の長原の駅前まで来たときだった。トットは、小さい机を道端《みちばた》に出して、そこに�手相を見ます�という布をたらして座《すわ》ってる、若いおじさんというか、お兄さんのような人を見つけた。へーえ、と思ってトット達が、その前を通りかかると、 「どうですか? 手相、見ますよ?」  と、その人がいった。手相なんていうのは、大人の見てもらうものと決めていたトットは、びっくりした。でも、その二十七、八|歳《さい》くらいの、ねずみ色の、よれよれの着物を着た、小柄《こがら》な人は、やさしそうだった。その頃の日本人が、みんなそうであったように、栄養が悪そうな、白っぽい顔をしていた。トットは、何だか、どうしても、見てもらいたくなった。冒険《ぼうけん》のような気がしたからだった。見料も、トットのお小遣《こづか》いで足りるくらいだった。お財布《さいふ》の中味を確かめ、もじもじしてる友達を説得して、トットは、 「おねがいします」  と、手を出した。その日、トットは、大切な兎《うさぎ》のぬいぐるみを抱《だ》いていた。アメリカのララ物資だか、放出物資の中から、偶然《ぐうぜん》、教会を通して、トットの手に渡《わた》った、当時としては珍《めず》らしい、しかも、トットが何より欲《ほ》しいと思っていた、動物の、ぬいぐるみだった。アメリカ人の子が、寄付してくれた、その兎は、小さくて、フワフワして、トットの宝物だった。トットは、兎を抱いていないほうの手を出した。トットは小さい時から、いつも汚《きた》ない手をしてるので有名だった。知らないうちに、歩きながら、ほうぼうを触《さわ》ったりするらしく、全体に、薄黒《うすぐろ》く、汚《よご》れていた。それは、女学生になっても同じで、その時も手を出してから、(ああ、汚ない手!)と思ったけど、もう遅《おそ》かった。でも、お兄さんは平気で、そのトットの手をとると、天眼鏡で、しばらく、じーっと手のひらを見て、それから、手を離《はな》すと、「そっちの手を見せて下さい」といった。兎を持ちかえて、もう片っぽを出すと、そっちは、もっと汚れていた。 「ごめんなさい。汚なくて」  トットがいうと、お兄さんは、笑いながら、 「大丈夫《だいじようぶ》ですよ」といった。  若いのに、少し疲《つか》れているような笑い顔だった。お兄さんは、手のひらだけじゃなく、横とか爪《つめ》とかを見ると、手をはなした。  そして、トットの顔を見ると、いった。 「結婚《けつこん》は、遅いです。とても遅いです」  トットは、友達と顔を見合わせて笑った。まだ、結婚の話なんて、遠い先のことだのに、それが遅い、というのは、どういうことだろう。おかしい人。笑ってるトット達を見ながら、お兄さんは、まじめに、いった。 「お金には、困りません。それから……」  そういうと、もう一度、トットの手をとって見てから、慎重《しんちよう》な調子で、いった。 「あなたの名前は、津々浦々に、ひろまります」 「津々浦々?」  トットは、聞き返した。お兄さんは、少し困ったように、せきばらいをすると、 「どういう事かは、わかりませんが、そう、出ています」といった。そして、もう一こと、つけ加えた。 「それから、お稲荷《いなり》さんを信仰《しんこう》すると、よろしいです」  トットは、悪いと思ったけど、前より、もっと笑ってしまった。小さいときから、クリスチャンの家庭に育ち、現在、イギリス系のミッションスクールに行ってる女学生に、「お稲荷さん」は、とっぴょうしもないことに聞こえた。本当に、おかしいことをいう。いつまでも笑ってるので、お兄さんは、自信ありそうな、それから、親切そうな調子でいった。 「そうなさったほうが、いいんです」  それでも、お礼をいって、お金を払《はら》い、机から離《はな》れたとき、あたりは、もう薄暗くなっていた。  家に帰って、ママに、 「津々浦々に名前が、ひろまるってさ!」  というと、晩御飯《ばんごはん》の支度《したく》をしてたママは、おなべを、のぞきこみながらいった。 「いやだわ、あなた。なんか悪いことでもして、新聞にでも出るんじゃないの? 気をつけてね」  そして、それっきり、このことを、トットは忘れていた。でも、いま、「放送に出る」ということで、思い出したのだった。あのお兄さんの言ったことは、当っていた。たしかに、NHKの電波は、津々浦々まで行ってるんだから。  それと、あのときは笑ったことだけど、後年、お稲荷さんは芸能人の守り神ということで、俳優仲間、大勢と、大《おお》晦日《みそか》になると、赤坂の豊川《とよかわ》稲荷にお参りに行くようになったのも、考えてみると、不思議なことだった。  兎のぬいぐるみを持って、汚ない手をした女の子の手から、どうやって、あの人は、こんなことを読みとったのだろう。寒そうで、あまり恵《めぐ》まれた生活をしてる人にも見えなかったけど……。  トットは、自分の手のひらを、見てみた。でも、トットには、ただ、相変らず汚れてる、小《ち》っちゃい手、としか、わからなかった。 [#改ページ]   蹴落《けおと》さねえ奴《やつ》は![#「蹴落《けおと》さねえ奴《やつ》は!」はゴシック体]  三ヶ月間の第一次養成期間が夜だったのと違《ちが》って、今度の一年間の養成は、終ったときにNHKの専属になることが約束《やくそく》されていたから、仕事を持ってる人も、学生も、決心したら、それをやめて、この昼間の養成に出席しなくては、ならなかった。  有難《ありがた》いことに、トットは、目出たく、音楽学校を卒業した。  それにしても、今度の養成は、かなりのものだった。月曜から土曜までの毎日。朝十時から夕方五時まで。昼休みの一時間を除いて、ぎっちりの授業だった。観光ホテルというのは、田村町のNHKのむかいのホテルだけど、タップやバレエをやるホールだの、日本|舞踊《ぶよう》のためのお座敷《ざしき》、そして、セリフの勉強や、演技の訓練、それから講義という、毎日の勉強には、六|畳《じよう》の部屋を三つ、襖《ふすま》をはずして、ぶちぬいた、寺子屋風になる日本間などがあるので、おあつらえむきだった。おかしかったのは、あるとき、セリフの稽古《けいこ》の脚本《きやくほん》が、 「おねえさん、おねえさん!」で始まるんだけど、誰《だれ》かがこれをいうと、ホテルの女中《おねえ》さんが、 「はーい」  といって、襖を開けて入って来ることだった。 「セリフですよ」というと、 「あーら、すいませんねえ」といって出て行くけど、また、 「おねえさん、おねえさん!」というと、 「はーい」といって、違う女中《おねえ》さんが、襖を開ける、なんてことが、あった。  先生は一流だった。  日本舞踊が、西崎緑先生。  演劇が、新劇界の長老、青山|杉作《すぎさく》先生。  芸術論が、池田|弥三郎《やさぶろう》先生。  芸術史が、富永|惣一《そういち》先生。  この他《ほか》、音声生理と発声、颯田琴次《さつたことじ》先生。邦楽史が、吉川《きつかわ》英士先生。高橋|邦太郎《くにたろう》先生や、吉川義雄先生も、風俗や芸能全般を、受けもって下さった。タップとバレエは、引き続き荻野幸久先生、声楽も栗本正先生。ラジオ・ドラマが中川忠彦先生、動きの基礎《きそ》を、佐久間茂高先生。そして、テレビジョンのスタジオでのことは、現場からディレクターや、技術の方達《かたたち》が、かわるがわる来てくれた。また、講義の内容によって、多彩な顔ぶれが揃《そろ》った。勿論《もちろん》、朗読、物語は、大岡龍男先生には、かわりなかった。  そんなある日、放送研究という時間に、NHKの放送劇団の一期生であり、当時、ラジオの「向う三|軒両隣《げんりようどな》り」などで、大スターの巌《いわお》金四郎さんが、講師として、お見えになった。いってみれば、来年から、トット達の大先輩《だいせんぱい》になる人だった。放送をよく聞いてる仲間は、緊張《きんちよう》して、お出迎《でむか》えした。筆記試験のとき、巌さんのことを知らなくて、「歌舞伎《かぶき》の菊五郎劇団の人」と決めちゃって、筆記試験に残った五百人中、この答え(正解は、東京放送劇団員)が出来なかった人の、二人のうちの一人のトットも、緊張した。もう一人の出来なかった人は、落ちたらしいので、この教室で、巌さんを知らなかったのは、トット一人、ということになったわけで、そのことを、巌さんが知ってるかも知れない、と思うと、トットは、こわかった。  みんなは、他の先生方と違って、現職の俳優さん、ということで、楽しみにしているようだった。  巌さんは、誰かが手早く開けた襖から、部屋に入ると、すぐ、先生の席のところに、あぐらをかいて、すわった。そして、煙草《たばこ》を出して火をつけて一服すうと、みんなを見廻《みまわ》して、こういった。 「蹴落さねえ奴は、蹴落されるんだ!」  そして、そのあと、だまって、煙草を吸っているだけだった。  みんなも、だまっていた。トットは、誰か大きい男の人の後ろにかくれて、なるべく、巌さんから見えないようにすわって、いまの言葉を考えていた。 (蹴落す、っていうのは、どういうことだろうか……) (実力を持つ、ということだろうか) (実際に、自分に近寄って来る人を、意地悪してでも、遠ざけることだろうか) (要するに、あらゆる手段を使って、自分より強くなろう、とする人を排撃《はいげき》することらしい……)と、トットは考えた。  そして、 (とても、私には、出来ない)と悲しく思った。  トットの小学校、トモエ学園の小林校長先生は、いつも、みんなにいった。くり返して。 「みんなで一緒《いつしよ》にやるんだよ。何をするのも一緒だよ。助け合ってね」  そして、トットは、その通りに、やって来た。助けてもらうことが多かったけど、それでも、みんなと、仲良くして、楽しくやるのが好きだった。それなのに……。 (蹴落すのも、いやだけど、蹴落されるのも、イヤだ。この世界は、そうしなければ、やっていけないのだろうか……)  巌さんは、きっと、プロの心意気を、みんなに教えて下さろう、と思って、こういったのだろうけど、トットは、とてもショックを受けてしまった。 (いま、この教室にいる誰のことも、私は、蹴っとばすことなんて、出来ない)  そして、このときのトットの気持は、終生、変らなかった。だから、最初のときから、トットは、プロへの道を放棄《ほうき》した、といえるのかも、しれなかった。 [#改ページ]   無色透明《むしよくとうめい》[#「無色透明《むしよくとうめい》」はゴシック体]  大岡先生が、トットを呼び止めた。トットが五食に行こうと歩いていたNHKの廊下《ろうか》だった。 「トットさま!」と大岡先生はいった。  大岡先生は、自分の気に入ってる人には、どんな若い人にも、「さま」をつけて呼ぶことにしているようだった。後に里見京子さんになった鈴木|崇予《みつよ》さんのことも、「ソーヨさま」と呼んでいた。大岡先生によると、「崇予《みつよ》」より、この字は、「ソーヨ」と呼ぶほうが、いいのだそうで、勝手に変えてしまった。こういうところが大岡先生の面白《おもしろ》いとこだった。 「トットさま!」大岡先生は、いつもの体を半身にした横ばい状態で歩いて近づいて来た。そして、手で口をかくす、例のしゃべりかたで、こういった。 「あなた、ご自分が、なぜ、採用されたか、御存知?」 「えー?!」トットは大声を出した。 「そんなこと、知りません!」  トットは、もし、何か理由があるなら、ぜひ、知りたいと思った。大岡先生は、うれしそうに、「ホ、ホ、ホ」と笑ってから、いった。 「あなたの試験のお点、とても悪かったんですの。だけど、試験官の先生方がね、�これだけ、なんにも演劇について知らないと、逆に白紙みたいなもので、テレビジョンという、全く新らしい分野の仕事を、素直《すなお》に、雑念なく吸収するかも知れない。つまり、吸い取り紙ね。全く演劇の手垢《てあか》のついてない子を、一人くらい採《と》って、テレビジョンと一緒《いつしよ》に始めてみましょう�って、そういうことだったんですよ」大岡先生の、丸い眼鏡の奥《おく》の目は、いたずらっ子のようだった。先生は、続けて、いった。 「つまり、あなたは、無色透明! そこが、よかったんですよ、トットさま!」  それだけいうと、大岡先生は、これも、いつものことで、どこかに突然《とつぜん》、消えてしまった。 「無色透明……」  トットは、ぼんやりと考えていた。才能があるらしいとか、顔がいい、とかで採用されたとは思っていなかったけど、少なくとも、もう少し、演劇的な理由だと思っていた。でもまた、大岡先生が、わざわざ、それを自分にいう、ということは、そう悪いことでもないのかしら? とも考えた。  無色透明。六千人の中から、トットが残されたわけが、これだったとは!  でも、トットには、やっぱり、どう考えても、自分が、それで採用されたのだ、と思いたくないものが、どこかにあった。もしかすると、本当は、とても、有難《ありがた》いことであったかも、わからないのに。 [#改ページ]   お稽古《けいこ》は「リハーサル」[#「お稽古《けいこ》は「リハーサル」」はゴシック体]  今日の授業は、今までの中で、一番(現場っぽい!)と、トットは思った。なにしろ、テレビジョンに出るにあたっての、直接、必要な�言葉�を、教わったのだから。  先生は、演出家でもあり、また、テレビジョン放送番組研究班(当時は、こういうものがあった)の、副部長の、永山弘さんだった。永山さんは三十代の、とってもハンサムで、スポーツマンタイプの魅力《みりよく》的な人だった。永山さんは、NHKがテレビジョンを始めるにあたって、特派員として、アメリカに送った人だった。永山さんは、アメリカのNBC、CBSといったテレビ局で、実際に勉強して来た。そして、日本より七年前に、テレビの本放送を始めたアメリカでのことを、NHKのテレビ本放送が始まる前に帰って来て、みんなに教えた。そんなわけで、トット達《たち》も、習うことになったのだった。  永山さんは、その前は、ラジオの「話の泉」や「えり子とともに」の名プロデューサーで、しかも演出力も抜群《ばつぐん》、感覚が秀《すぐ》れている上に、英語が出来ることもあって、派遣《はけん》された。永山さんは、よく響《ひび》く、知的な低い声で、始めた。  稽古が「リハーサル」  演出家が「ディレクター」  お化粧《けしよう》が「メーキャップ」  稽古や本番の日程とか、時間割が「スケジュール」  ……いま、テレビ関係者だけじゃなく、一般《いつぱん》の人達が普通《ふつう》に使ってる、こういう言葉は、実は、このとき、永山さんが初めて、アメリカから持って来て、教えてくれたのだった。  テレビの本番当日の用語も面白《おもしろ》かった。 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] ○衣裳《いしよう》も、メーキャップもなし、カメラも使わないけど、装置《セツト》は出来てるスタジオの中での稽古を「ドライ・リハーサル」 [#ここで字下げ終わり] ○カメラを使う稽古が、「カメラ・リハーサル」 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] ○同じカメラ・リハーサルでも、俳優の立つ位置を決めたり、小道具などの出し入れの手順を確認《かくにん》したり、という風に、止《と》めながらやるのが「ブロッキング」 ○本番通りに衣裳をつけ、メーキャップもして、カメラを使っての、いわゆる、通し稽古が「ラン・スルー」 [#ここで字下げ終わり]  永山さんは、ひとつずつ、英語の綴《つづ》りも書いて、丁寧《ていねい》に教えてくれた。  次に永山さんは、俳優が、画面に写るときの、サイズの呼びかたを、説明した。  これは、なんとも、まあ、複雑なものだった。上からいくと、  顔の大写しが「アップ」  映画でも、クローズ・アップとかいう、というようなことを知ってたトットも、そのあとに、こんなに細かくサイズがあるとは、驚《おどろ》いた。顔の大写しの次は、顔から下の、のど、きっちり[#「きっちり」に傍点]のサイズが、「ビッグ・バスト」 「そして、この、ビッグ・バストに、�タイト�と�ルーズ�があり、�タイト�は、画面に首までの顔が、きっちり入ることで、�ルーズ�は、ほんの少し、タイトより、ゆるめて[#「ゆるめて」に傍点]、首と顔のまわりに、かすかな空間を入れること。いうときは、タイト・ビッグ・バスト、または、ルーズ・ビッグ・バスト。わかるかい?」  永山さんは、自信に満ちた力強い声で、いった。それから、次は「バスト」で、これは、おへそから上くらいのサイズで、これにも、�タイト�と�ルーズ�があり、そして「ウエスト」。ウエストは、おへその下くらいまでで、やっぱり�タイト�と�ルーズ�。続いては、あまり使わないけど「ニー・ショット」。頭から、膝《ひざ》くらいまでの絵。そして、全身は「フル・フィギュア」ちぢめて「FF」。これにも�タイト�と�ルーズ�があり、そして、全景が「フル・ショット」  トット達は、夢中《むちゆう》になって、ノートに書きこんだ。(タイト・バスト。ルーズ・バスト……。タイト・ウエスト。ルーズ・ウエスト……舌を、かみそうだ……)  それから、永山さんは、ドラマでカメラに写される場合の俳優とカメラの関係を具体的に、黒板に書いて教えた。  カメラが、いまのように何台もあり、その場で、ズーム・レンズで、クローズ・アップも、FFも撮《と》れるのと、わけが違《ちが》って、当時は、大きいドラマでも、カメラは二台だった。しかも、クローズ・アップのときは、カメラが全速力で、俳優の顔のところまで近づく、という方式だった。永山さんは、黒板に、AカメラとBカメラを描《か》き、二人の俳優が、会話をしてるところを例にした。トットが、(難かし過ぎる)と思ったのは、重いカメラが、アップのために近づく余裕《よゆう》のないときは、恐《おそ》ろしいことに、人間のほうで、カメラの前まで走っていって、クローズ・アップに撮ってもらう、という説明のときだった。しかも、ピントのため、カメラの前の決められた線の上に、きっちり立たなければならず、セリフが終ると、もう一台のカメラが相手を撮ってるときに、電気より早いくらいに走って、もとにもどって、二人が写る、という、やりかたのときだった。 「だから俳優さんは、静かな会話のはずなのに、ハアハアしてるときも、あるんだよ」と永山さんは笑いながら、いった。ナマ放送で、いちいち止めることが出来ないのだから、こんな風に、俳優には、すべての、カット(画)のサイズと動きを、説明し、俳優は、それを台本に書きこんで、セリフと同じように、正確に記憶《きおく》してもらわなければ、ならない、と永山さんは、力説した。 「ドラマの一カット目から、例えば、最後の百十五カットまで、僕《ぼく》は、技術の人は勿論《もちろん》だけど、俳優の人にも、いちいち、図を描いて、説明するんだよ」と、いった。  百以上もあるカットのうち、自分の出てるところが、たとえ少なくても、その、すべてを憶《おぼ》えることが、どれほど困難で、大変なことかは、永山さんの黒板を見て、よくわかった。AとBのカメラで、「こう撮る」「こっちから撮る」「このとき、このカメラの前まで走って来る」「次、相手を、このカメラで撮ってるから、もとの位置にもどる」「カメラの下をもぐって、こっちに移動する……」ほんの数カットでさえ、黒板は白墨《はくぼく》で、まっ白になってしまった。  それでも、こんなに丁寧に、すべてのカットのことまで説明してくれたのは、この頃《ころ》では、永山さんだけだった。この後、トットは実際にスタジオで、永山さんの演出のものに出ることになったけれど、永山さんは、新人のトットにさえ、 「なぜ、僕が、ここで君に、こっちを向いてほしいか、といえば……」と、カメラの技術上のことと同時に、その役柄《やくがら》の心理を理解し、その上での画作《えづく》りをしているのだと、ことわけて、教育してくれた。 「とにかく、こっちをむいててくれれば、いいんだから!」と、いうようなことは決して、なかった。  トットは、最初の、この授業のときから、永山さんをステキと思い信頼《しんらい》し、将来、こういう人と仕事が出来たら、いいのに! と熱心にノートに、出来る限りを記した。  この二年後の昭和三十年、永山さんはテレビ史上、初の芸術祭賞をとり、芸術祭男と呼ばれた。「追跡《ついせき》」という、そのドラマは、内村直也作で、東京の月島と、東京のNHKのスタジオ、大阪のNHKのスタジオと、大阪の心斎橋《しんさいばし》を結ぶ、四元ナマ放送という、当時では考えもつかないスケールの大きいドラマだった。男性的な永山さんらしい作品だった。NHKの、ありったけのカメラ十三台を駆使《くし》した、というのも、大変な話題になった。 「……お稽古が、リハーサルで、お化粧がメーキャップ……」  黒船が来て驚いた下田の人達と、あまり違わないのではないか、と思われるくらい、この永山さんの授業は、トットには、新らしく、「文明」という感じがした。  これは、昭和二十八年の二月一日の午後二時、日本で初めて、テレビの画面がNHKから放送された、少し、あとのことだった。このとき、日本のテレビの台数は、まだ、八百六十六台。大学卒の初任給が一万一千円のこの頃、テレビの受像機は、アメリカ製しかなく、二十五万円くらいもしたから、ほとんど、誰《だれ》も、テレビを持っていなかった。だから、高級な喫茶店《きつさてん》の入口には、 「テレビジョン、有ります」  という貼《は》り紙があったりして、繁昌《はんじよう》した時代だった。  永山さんの、この生き生きとした授業を、トットは、いつまでも、なつかしく、思い出した。 [#改ページ]   メトロノーム[#「メトロノーム」はゴシック体]  青山杉作先生は、トットにとっては、もう「歩く日本の新劇史」というくらい、歴史的な人に思えた。放送に関しては、全く何も知らないトットだけど、映画については、一日に六本立ても見る、という工合《ぐあい》に、かなりのものだったから、映画の中での俳優としての青山杉作先生を、よく見ていたし、映画のプログラムなどで、新劇の演出家として、日本の新劇の歴史の始まりから一緒《いつしよ》に生きて来た人、として知っていた。また、トットに、 「東山千栄子《ひがしやまちえこ》さんと、とても、お親しいんですって!」  と耳打ちした同期生もいたくらい、新劇の中での青山杉作先生は、重要な人だった。  青山先生の授業は、実際の演技指導より、昔《むかし》の新劇の話や、俳優の、心がまえ、などが多かった。先生は、トットたち若い人と話すのも、楽しくて好きだ、と、よく自由に会話をした。  そんな、ある日、トットは、前から知りたいと思ってたことを聞いた。 「松井須磨子《まついすまこ》って、どういう人でしたか?」  山田五十鈴《やまだいすず》が、松井須磨子になった「女優」という映画も見ていたし、日本最初の近代劇をやった女優として、トットは、興味を持っていた。日本で最初にイプセンの「人形の家」のノラをやり、トルストイの「復活」のカチューシャをやり、しかも恋人の島村抱月《しまむらほうげつ》のあとを追って首をつって死んだ人。その人と一緒に芝居《しばい》をした人が、ここにいる! そんな人と話をすることがあるだろうなどと、夢《ゆめ》にも考えたことはなかったから、トットは、ワクワクしながら、聞いたのだった。青山先生は、いつも、とても物静かだった。しゃべるとき、いつも真直《まつす》ぐに首をのばし、ゆっくりとした、口調だった。トットの質問に、青山先生は、少し微笑《びしよう》すると、いった。 「あなたが、あの時代に女優になってたら、もっと有名になってたかも知れませんよ。つまり、それまで、男の役者が女形として、やってた中に、女が入っていって、しかも西洋の芝居をやったんですから、新らしい、というか、変ってるというか、そういうことで、もてはやされたのであって、あなたのように、個性的じゃありませんでした。ふつうの人でしたよ」  ……トットは、びっくりした。はじめは、トットの元気がいい事を、皮肉って、先生がいったのか、と思ったくらいだった。でも先生の表情も話しかたも、そういう風には見えなかった。でも、映画の主人公になるような情熱的で、美しく、常人とは違《ちが》う人、と思っていた。それが、ふつうの人だったなんて……。 「そう、本当に、ふつうの人でした」  青山先生は、くり返した。それは、まるで、女優としては、すぐれてはいない、とでもいうように聞こえた。たしかに、トットがその前にラジオで聞いた松井須磨子のカチューシャのセリフや、「羊さん/\」とかいう歌を思い出してみると、当時の録音技術のせいもあるかもしれないけど、女優らしいメリハリはなく、歌の音程も悪く、素人《しろうと》のようだった。でも、やっぱり、誰《だれ》もやっていないことを始めたのだから、偉《えら》い人だ、と、トットは考えた。  そのとき、でも、青山先生は、こんな映画になるような、歴史に永久に残る女優と共演したことを、誇《ほこ》りにしてるようでもなく、まして自慢《じまん》にもしてるように思えないのを、トットは、不思議に感じた。でも、それが青山先生らしい、ということなのかとも思った。同時に、こんな静かな人に見えるのに、自分の考えは、はっきりいう人なのだ、ということにも驚《おどろ》いた。(お寺の息子《むすこ》だと、ご自分で、おっしゃったけど、確かに、達観した風に世の中を見てるとこがある)と、トットは生意気に考えてみたりもした。トットは、その日、授業のあとに、どうしてか自分でもわからないけど、小さい手帖《てちよう》を出して、表紙の裏に、サインをして下さい、と先生に頼《たの》んだ。それは、この前の、ドン・テイラーに頼んだのとは違う、なにか深いところで、(この人の何かに、もっと触《ふ》れたい)といったものが、トットの中にあったのかもしれなかった。青山先生は、帰るためにかぶった、いつものベレーをぬぐと、万年筆を出し、机の前にすわると、少し考えてから書き始めた。畳《たたみ》に正座した先生は背が高いので、書く形になるのには、背中を、うんと曲げなければ、ならなかった。 「芸に遊ぶ」  先生は、こう書くと、トットにいった。 「いつか、わかります。大切なことですからね、女座長さん!」  どういうわけか、青山先生は、同期生の中で、一番、素人っぽく、芝居もヘンで、プロにもなれそうにもないトットのことを、女座長さん! と呼んでいた。 「どうしてですか?」と、トットが聞くと、 「あなたに似合ってるからですよ」  と、冗談《じようだん》とも、真面目《まじめ》ともつかない調子でいった。トットは、喜こんでいいのか、悲しんでいいのか、わからなかった。いずれにしても、「芸に遊ぶ」という状態とは、ほど遠いトットだったけど、いつかわかる日が来るのだろうと、そのノートを大切に持っていた。  あとでわかったことは、この言葉は、孔子《こうし》のもので、「勉強ばかりしないで、遊ぶことも大切です。緊張《きんちよう》を続けないで、たまには、リラックスしなさい」という教えだった。  ある日、先生は、メトロノームを持って来て授業を始めた。先生の授業の中で、一番、よく話が出るのはチェーホフの「桜《さくら》の園《その》」で、その日も、授業は、「桜の園」だった。桜の園の二幕目の幕切れ。ラネーフスカヤ夫人の娘《むすめ》のアーニャが野外で恋人《こいびと》と話してると、遠くから、姉(ラネーフスカヤの養女※[#「ワに濁点」、unicode30f7]ーリャ)の、アーニャを探す声がする。桜の園の上に月が出かかる夕暮《ゆうぐ》れ。誰もいなくなった舞台《ぶたい》に、 「アーニャ! アーニャ!」  という声が寂《さび》しく聞こえる、あの有名な幕切れのところの、テキストが配られた。  トットは、※[#「ワに濁点」、unicode30f7]ーリャをやることになった。  いよいよ話が進んで、トットが、 「アーニャ! アーニャ!」と叫《さけ》ぶところに、なったときだった。いきなり青山先生は、メトロノームの蓋《ふた》を開けると、メトロノームを動かした。カッカッカッカッカッカッカッカッ。メトロノームは規則的に、くり返した。驚いてるトットに先生は、いった。 「いい? アーニャ! と一度いったら、二度目のアーニャは、僕《ぼく》が、合図しますからね、待ってて頂戴《ちようだい》」  なんで、メトロノームが必要なのか、わからないけど、トットは、「はい」といってから、 「アーニャ!」と、叫んだ。  青山先生は、手をあげて、メトロノームの針にあわせると、小さくタクトを振《ふ》った。メトロノームの針が、左右に揺《ゆ》れる。 「カッカッカッカッカッカッ、カ!」  途端《とたん》に先生の長い指が、トットにむけて動いた。「はい!」  トットは、必死に叫ぶ、「アーニャ!」  先生は、「そう、これでいいのよ」と満足そうだった。でも、トットには、わからなかった。青山先生は、他《ほか》の役の人のセリフとセリフの間も、メトロノームを使って、合図し、 「これだけの間《ま》をとって」といった。  青山先生を尊敬してたトットも、これだけは、わからなかった。メトロノームは、トットにとっては、音楽のリズムを刻む、恐《おそ》ろしいものだった。ヴァイオリニストのパパが、お弟子《でし》さんを教えるとき、癇癪《かんしやく》を起すと、必らず、このメトロノームの音が始まった。そして、パパは、こう大声で、いうのだった。 「テンポ! どうして、テンポを守らないの! このメトロノームを聞いて! これに合わせて、始めから!」ときには、「リズムが悪いの! リズムを正しくとるのは、基本なんだよ! メトロノームを、よく聞いて!」  ヴァイオリンの音と、メトロノームの正確なくり返しの音と、パパがリズムをとって床《ゆか》を踏《ふ》む音が一緒になると、それは恐ろしく、家族は、息を殺して、レッスンの終るのを待った。青山先生は、演出家として、絶対、これだけの間《ま》が欲《ほ》しかった。役柄《やくがら》の心の動きや動作を数にすると、このくらいの時間、と計算なさったから、かも知れなかった。  でも、トットにとっては、どうしても、メトロノームは、機械だった。どうして、俳優の、心の中のメトロノームを使わせないのだろう、と、銀色に揺れる、メトロノームの針を見ながら、トットは、思った。 [#改ページ]   縞馬《しまうま》[#「縞馬《しまうま》」はゴシック体]  トットは、口笛《くちぶえ》を吹《ふ》きたい気分で、バスに乗っていた。なにしろ、NHKのカラーテレビの実験のための、モデルになってほしい、という、輝《かがや》かしい仕事が、もう来たのだから。観光ホテルの畳《たたみ》の教室から、一人、抜《ぬ》け出せたのも、笑いがこみ上げるほどの、うれしさだった。トットは、この前、生まれて初めて見た、総天然色の「赤い靴《くつ》」を思い出していた。バレリーナのモイラ・シャラーのピンク色の肌《はだ》の美しさが、いまでも、はっきり目に浮《う》かんだ。トットは、モイラ・シャラーには、かなわないけど、ピンクと白の格子《こうし》の、よそゆきの洋服を着ていた。バスは、世田谷・砧《きぬた》の、NHK技術研究所前という停留所に止まった。  カラーの研究なんていうから、どんな近代建築なのかと思ったら、畠《はたけ》のまん中みたいなとこに、灰色で四角いものがあって、それが、そうだった。トットが、カラーのモデルで来たというと、係りのおじさんが、お化粧《けしよう》さんの部屋にトットを連れていった。トットは、小走りに後をついていった。お化粧をしてくれるお姉さんは、トットの顔をコールドクリームでふくと、いきなり、濃《こ》い紫色《むらさきいろ》のものを、トットの顔の右半分に塗《ぬ》った。びっくりしたけど、(きっと、これは、下地かなにかで、そのうち、ピンクを塗るんだわ)と思っていると、今度は左半分に、真白を塗った。お化粧さんは、鏡の中のトットを見ると、 「じゃ、スタジオに行きましょうか?」といった。トットが、あわてて、 「あのお、これだけで?」  というと、お化粧さんは、特別に変ったことをしてる、という気はないらしく、 「そうですよ。今日は、紫と白の日なんですから」といった。トットは、狼狽《ろうばい》して、半泣きになり、「せめて、ピンクと、白じゃ、ダメなんでしょうか」と頼《たの》んでみた。でも、お化粧さんは、「今日は、この色のテストだから」といって、トットをスタジオに連れていこうとした。仕方なく、部屋を出ようとして、トットは、鏡を、チラリと見た。モイラ・シャラーとは、似ても似つかない、紫色の縞馬みたいなものが、そこに写っていた。それから、どうしてスタジオに行き、どうやって椅子《いす》にすわったか、おぼえていないくらい、トットは悲しかった。そして、その顔で、半日、だまってカメラの前に、ただすわらされていたのだった。あんまり悲しそうにしているので、お化粧さんが、慰《なぐ》さめてくれるため、トットにいった。 「でも、肌のいい人って、お願いしたんですよ。色のテストのとき、もともとの肌が白くて良くないと、テストになりませんのでね。あなたで、よかったわ」だけど、悲しくて、鼻をかんだら、鼻のまわりの色がとれて、鏡の中には、狸《たぬき》が、いた。  帰りのバスは、来たときより、ずっと、のろのろしてるように、トットには、思えた。 [#改ページ]   タップ・ダンサー[#「タップ・ダンサー」はゴシック体]  荻野幸久先生が、トットにいった。 「NHKの授業の他《ほか》に、僕《ぼく》のスタジオに来て、個人レッスンを受けてくれませんか?」  荻野先生は、トットをタップ・ダンサーにしたい、と決めたようだった。それには、NHKのダンスの時間割だけでは、とても足りないので、授業が終ったあと、教えたいが、という有難《ありがた》い申し出だった。しかも、月謝は、タダでいいから、と、先生は、つけ加えた。  トットにしても、実は心の中で、タップ・ダンサーに憧《あこが》れていた。というのも、丁度、その頃《ころ》、音楽や踊《おど》り入りのアメリカ映画が、洪水《こうずい》のように日本に輸入され、公開されていた。ドリス・デイの「二人でお茶を」、セシル・B・デミル監督《かんとく》の「地上最大のショウ」、ダニー・ケイの「虹《にじ》を掴《つか》む男」、フレッド・アステアとジュディー・ガーランドの「イースター・パレード」、ベティー・ハットンの「アニーよ銃《じゆう》をとれ」、ジュディー・ガーランドの「オズの魔法使《まほうつかい》」、ジェームズ・スチュワートの「グレン・ミラー物語」……。中でも、ジーン・ケリーの「雨に唄《うた》えば」と「錨《いかり》を上げて」の中のタップ・ダンスのシーンは、それまでトットが見たことのない種類のエンターテイメントだった。あんな軽やかに、しかも、リズミカルに、靴《くつ》のつま先と、かかとにつけた金具で、音が出せるものか……。トットは信じられない思いで、画面に見入った。女性のタップ、アメリカNo1は、長い脚《あし》の、アン・ミラーだった。これより前の時代だと、アステアと、エレノア・パウエルという、神業《かみわざ》のようなタップの名手のコンビがいるのだけれど、トットには、ジーン・ケリーと、アン・ミラーだった。小学生の時の学校の方針で、特別のリズム教育を受けて来たトットには、�体のリズムを音に出せる�ということが、たまらなく魅力《みりよく》的に思えた。自分が、なれるかどうかは別問題として、「ああいう人になりたい!」と、すぐ呑気《のんき》に思いつくトットにとって、タップ・ダンスは、輝《かがや》くような職業に見えた。  そんな時に、この荻野先生の申し入れがあったのだから、トットは、ちょっと考えて、すぐ返事をした。 「そうさせて頂きます」  先生との相談で、週に三日、通うことにした。  ところが、荻野先生のスタジオは、埼玉《さいたま》県の蕨《わらび》にあった。夕方、五時に授業が終ってから満員の電車で行くと、スタジオに着くのは、もう七時近くになっていた。  当時の蕨は舗装《ほそう》してなくて、雨が降ると、もう地面は、あっちこっち、ぬかるみと水たまりで、頭のてっぺんまで、はね[#「はね」に傍点]が上る、という有様だった。しかも、先生のスタジオは、駅から、かなり歩きでがあった。トットは、ぬかるみで、すべったり、傘《かさ》をとばされたりしながら、あの、ジーン・ケリーの「雨に唄えば」と、この状況《じようきよう》には、かなりの、ひらきがあるな、と、少しがっかりしながら、それでも、熱心に通った。  荻野先生は、日本のタップ・ダンスの第一人者として、日劇を一杯《いつぱい》にし続けた、というだけでなく、まだ、日本にタップ・ダンスの基本というものがない時代から、アステアの映画を見て研究し、創作し、独学に近く、タップ・ダンサーになった人だった。  アステアの映画が封切《ふうき》られると、先生は、毎日、朝、映画館の開館と同時に、おにぎりを持って入り、最後の回の「END」のタイトルが消えるまで、見続けた。そして、タップというものは、いくつかの基本ステップが組み合わされたものである、ということをアステアの踊りの中から見つけ、分析《ぶんせき》し、それに自分流のステップも混ぜて、遂《つい》に、オギノ式(?!)タップの基本ステップを確立させたのだった。日劇での教え子も入れると、お弟子《でし》さんの数は、数え切れない、という話だった。でも、蕨の稽古場《けいこば》は、たいがい個人レッスンなので静かだった。  タップ・ダンスは、靴のつまさきの金具で、床を軽く「蹴《け》る」というか、「叩《たた》いて」すぐ「止《と》める」というのが根本のようだった。このとき、あの独特の音が出る。どんなに細かく叩いても、いちいち、止める。「空中に体が浮《う》いているほど、いい音が出る!」と荻野先生は、いった。そして大切なのが、リズム。それにしても、あの、いり組んだステップを憶《おぼ》えることが、最も難かしかった。これは、紙に書いたり出来ない複雑なものなので、先生が、あるステップを見せて下さると、いかに、それを早く、口三味線《くちじやみせん》のように、自分自身の音にして、憶えるかに、かかっていた。 「チリタン、タチリタ、チリタチリチタ」  まるで邦楽《ほうがく》のようだけど、これを分解すると、「右足で蹴って止める。左足で蹴って止める。もう一度、右足で蹴って止めて、もとにもどすと同時に、左足で蹴って止めて、もとにもどす一|拍前《ぱくまえ》に、右足を前に出して、かかとも一緒《いつしよ》に止める」となる。これは、「チリタン」でも「パタタン」でも「ウンパパ」でも、自己流でかまわなかった。なんでもいいから、この「チリタン」で読んだステップを、自分の足に、一刻も早く憶えさせるのが、次の仕事だった。長い振《ふ》り付けになると、「チリタン」や「パラララン」や「ウンパッパ」や、「とんで、とんで、パタタン、止まって、パパパパン!」などの声で、稽古場は、修羅場《しゆらば》のようになった。それに、手の振りがつき、首の振りがつき、最後に音楽に合わせる、という、はっきり言って、気が狂《くる》いそうなのが、タップ・ダンスだった。 (なんでもそうだけど、楽しそうに見えるものほど、本当は裏が大変なんだ)と、トットは今更《いまさら》のように思った。  バレエ・ダンスの練習靴で稽古していたトットは、ある日、先生から、黒くてリボンのついてるタップ・シューズを頂いた。新品ではなかったし、少し足より大きかったけど、練習靴のゴム底のペタペタ、というのと違《ちが》って、踊ると、ジーン・ケリーや、アン・ミラーと共通の音がした。トットは、うれしくて、夜は枕元《まくらもと》に置いて寝《ね》た。  その頃、ラーメンが流行のきざしを見せていて、一杯、三十五円か四十円だった。夜、レッスンが終ると、荻野先生は、中学一年の息子《むすこ》さんを連れて、蕨の駅まで、トットを送ってくれ、よく、ラーメンを御馳走《ごちそう》して下さった。奥《おく》さまと離婚《りこん》して、息子さんを男手で育ててる先生にとって、そんな風に、子供と外食することも必要だったのかも知れない。奥さまだった人は、日本人ばなれしたプロポーションと美貌《びぼう》で、男の人達《ひとたち》を魅了《みりよう》した、日劇最初のスター、銀暁美《しろがねあけみ》だった。荻野先生と、銀さんの二人のコンビの踊りは、みんなが溜息《ためいき》をつくものだった、という。残念なことに、とにかく、トットが通ってる頃、お二人は、もう別れていた。  寒い日は、ラーメンが特に、おいしかった。たべながら、先生は、タップの金具というものが、まだ日本になかった頃、どうやって、踊ったか、というと、「アルミニュームのお鍋《なべ》、あれを、靴の底の形に切って、それを釘《くぎ》で靴にうちつけて踊ったんだから。お鍋だよ!」などという、珍《めず》らしい話を、早口の東京弁で、面白《おもしろ》く話してくれた。  また、荻野先生が、タップのパイオニアであるように、荻野先生のお母さまが、翠川《みどりかわ》秋子という、NHKの初代の女性アナウンサーだった、という事を知ったのも、驚《おどろ》きだった。  大正時代、小学校の低学年だった荻野先生は、鉱石ラジオという、レシーバーを片方の耳に、くっつけて聞くラジオで、お母様の放送を、聞いた。「母の声をよくキャッチ出来たときは、うれしかった」と懐《なつ》かしそうに話した。まだ、真空管も、ラッパもないラジオの頃だったから、ラジオといっても、大勢で一緒に聞くことは出来なかった。みんなで聞けるアメリカ製のラジオは、その頃、一台、千円もした。千円というのは、当時、家が一|軒《けん》、買える値段だった。だから、子供たちは、いいことを考えた。一つの鉱石ラジオのレシーバーの上に、ドンブリをかぶせ、そこに、三、四人の子供たちが耳をくっつけて一緒に聞いたものだった……というような、思い出話も、出た。そういうときの先生は、やさしくて、若々しく、楽しかった。でも、スタジオでの稽古は、きびしくて、皮肉たっぷりで、容赦《ようしや》がなかった。これは、NHKの授業のときも同じだった。それでも、トットは頑張《がんば》った。足の親指の爪《つめ》が変色し、特に左のほうは、爪の中が、虫がくったように、ボロボロになってきた。足の全部の指の、曲がるところには、タコが出来た。このレッスンは、トットがNHKと専属|契約《けいやく》を結ぶまで、続いた。荻野先生は、終始、最高の、プロになるためのレッスンを続けてくれた。残念なことに、タップ・ダンサーになる前に、女優としての仕事が多くなって、結局、夢《ゆめ》は消えることになってしまった。  そして、実際のところ、そのまま続けても、アン・ミラーには、到底《とうてい》なれなかったに決まっていた。トットの唯一《ゆいいつ》の、いいところは、どんなに足が内股《うちまた》になっていようと、振りつけを間違えていようと、顔の表情だけは、ニッコリしてる、という点だけ。ダンサーになれない決定的なとこは、その日、どんなによく出来ても、一晩寝ると、前の日やった振りつけを、全部、忘れちゃってる、という、トット自身にもわからない不思議な特技のせいで。  でも、先生への感謝と、ジーン・ケリー、アン・ミラーへの憧れは、消えることは、なかった。それにしても……と、トットは考えた。 (この間まで、オペラ歌手になろうとしてた私が、もう、タップ・ダンサーになろうとしてた。これから、一体、いくつくらいのものに、私は、�なろう�とするのかしら……。お母さんにも、ならなきゃ、ならないんだし……)  トットがタップに熱中してる間、同期生の中にも、突然《とつぜん》、ピアノを始めた人、日本|舞踊《ぶよう》の名取りになろうとする人、朗読に熱中する人、反対に「いまなら、止《や》められる。自分は違う道へ進んだほうが、いいのではないか……」と悩《なや》む人など、いろいろいた。ウロウロしてるのが、自分だけじゃない、と知ると、トットも、少しは、安心するのだった。 [#改ページ]   懐中時計《かいちゆうどけい》[#「懐中時計《かいちゆうどけい》」はゴシック体]  NHKの授業は、養成も終りに近づいて来て、熱が入って来た。�テレビのための専属俳優�という珍《めず》らしさから、新聞、雑誌の取材、というのも、少しずつ始まって来た。  そんな中で、トットの仕事が、増えた。  それは、授業中に、一番、先生の近くに座《すわ》ってるトットが、その日、最後の授業の先生の懐中時計を少し進ませて、授業を早目に終らせる、という役目を、同級のみんなから、おおせつかったことだった。最初、トットが、これをやったのは、あの「トットさま」と、体を半身にして歩いてくる朗読、物語の、大岡先生の時間だった。先生|方《がた》は、みんな、鎖《くさり》のついた懐中時計、または、NHKの紐《ひも》つきの、ストップ・ウォッチを、まず机の上の自分の目の前に置くと、授業を始めた。教室は、旅館の日本間で、畳《たたみ》の上に、長い机が並《なら》んでいて、十七人の生徒が、その机のまわりをとりかこむ形で、トットは、先生の右手の角に座っていたから、時計は、目の前だった。大岡先生のは、金色で、長い鎖がついてる懐中時計だった。トットは、始めは、全く悪意はなく、なんとなく、(手にとってみたいなあー)って思ったから、先生が話してる間に、鎖の端《はし》っこに手をかけて、ソロソロと、引っぱってみた。静かに、ゆっくりと。だいたい三十センチくらいの距離《きより》だから、そう難かしくはなかった。ほとんど自分の前まで引っぱって来たとき、パッ! と、畳にすわってる、自分のスカートの膝《ひざ》の間に落しちゃう、という、やりかたが成功した。大きな金色の竜頭《りゆうず》をいじってるうちに、 (少し進ませれば、早く終るのに!)  という、悪魔《あくま》のささやきが聞こえた。十五分進ませてみた。返すほうが大変だったけど、全く見つからずに、元のところに、もどせた。そのうち大岡先生は、時計を見ると、 「あら、今日はこれで、終りにしましょう」  といった。トットは、急に良心が痛んだ。今日一日、先生が、この時計で生活したら、気の毒だ! そこで、誰《だれ》かが先生にセリフのことで質問しに来たスキに、大忙《おおいそ》がしで、十五分、もどして、机に置いた。この話を、得意になって同級生にしたものだから、みんなは、すっかり喜こんで、少し早目に終ってほしい授業のときは、「頼《たの》む!」という話になった。以来、トットは、みんなの注文に応じて、だいたい、十五分くらい進ませた。数学が得意じゃないトットが、半端《はんぱ》な数のときに十五分進ませるのは大変で、一度などは、何度も進ませたり、もどしたりしてるうちに、わかんなくなって、適当にして、机にもどしたら、その日は、いつまで経《た》っても授業が終らなくて、みんなに、あとから文句をいわれた。調べてみたら、間違《まちが》って、二十分も、遅《おく》らせちゃったのだった。以来、半端な数のときは、机の下に、ノートを置いて、足し算をしてから、進ませた。  ただ、トットが、どんな困難を排《はい》しても、やったことは、授業が終ったとき、必らず十五分、もとに、もどす、ということだった。  スリでも、スルより、もどす[#「もどす」に傍点]のが難かしい、といわれているように、ソソクサと帰ろうとする先生の時計を、間違いなく十五分、もとにもどしておく、というのは、かなりの技術と才覚を必要とした。でも、どこか手際《てぎわ》がいいのか、必ず成功した。いまだから白状するけど、養成の終りの三ヶ月くらいは、ほとんど、毎日、先生方は、疑うこともなく、早く授業を終らせて下さっていたんだ。でも、それが、同級生の誰よりも、セリフが下手で、みんなに教えてもらっていたトットが、唯一《ゆいいつ》、みんなにお返し出来た、というか、感謝されたのが、この懐中時計の、一件だった。 [#改ページ]   プラットホーム[#「プラットホーム」はゴシック体]  朝、新橋の駅から、大いそぎで、教室の観光ホテルに向かうトットの耳に、どっかの店のラジオから、「尋《たず》ね人の時間」が聞こえた。戦争が終って、もう九年も経《た》つのに、まだ、日本中で、家族を探してる人がいると思うと、トットは、胸が痛くなった。と同時に、「家には、パパが帰って来た!」という、うれしさが、今頃《いまごろ》になって、こみあげて来た。そして、ママの、あの頃の姿が、映画みたいに、目に浮《うか》んだ。  それは、青森に疎開《そかい》してたときのことだった。終戦になったとき、パパは、中国の北部にいた。そして、その後、シベリアの捕虜《ほりよ》になったことは、新聞でわかっていた。終戦後しばらくした、ある日、新聞に、「シベリアの捕虜の中に、ヴァイオリニストの黒柳守綱氏がいる」と出たからだった。  でも、毎日、毎日、汽車に溢《あふ》れるほど、引揚《ひきあ》げの兵隊さんが帰って来る頃になっても、パパからは、なんの便りも、なかった。ママは、引揚船のつく、舞鶴《まいづる》にも、手紙を書いた。「青森県|三戸《さんのへ》郡|諏訪《すわ》ノ平《たいら》」と住所も書いて。新聞社にも問い合わせた。でも、何も、わからなかった。そのうち、日本に帰りたいあまり、収容所を脱走《だつそう》したシベリアの日本人の捕虜が、射《う》たれて死んだ、とか、川を泳いで渡《わた》って逃《に》げようとして、川にとびこんだまま行方不明《ゆくえふめい》になった捕虜の人がいる、というような噂《うわさ》が、流れてきた。そのたびにママは、 「パパは水泳は上手だけど、逃げたりする人じゃないから、大丈夫《だいじようぶ》よ」  と、トットたちに、いった。その頃、ママは、トットや、トットの小さい弟や妹のたべるものを調達するために、いろんなことをしていた。まず始めは、近くの村や山の中で結婚式《けつこんしき》があると聞くと、全く知らない家なのに、一張羅《いつちようら》の着物を着て出かけて行った。そして、「おめでとうございます」といってから、「きんらんどんすの帯しめながら……」とかを歌った。音楽学校声楽科出身なのが、役に立った。それと、ママは、パパと結婚したての頃、映画会社のプロデューサーだった川口松太郎さんから、 「女優になりませんか?」  と何度も誘《さそ》われた、というくらい奇麗《きれい》だったし、年も、まだ、戦争が終った頃は、三十五|歳《さい》くらいだったから、きっと、どこの家でも、「わざわざ来てくれて」と、いうことになったに違《ちが》いなくて、必ず、引き出ものの、お米の粉で作った大きな鯛《たい》とか、おもちだのを、おみやげに、くれた。ママは、それをもらって帰ると、子供たちの前にひろげて、 「凄《すご》いでしょう。たべなさい」  と、いった。トットたちは、目を丸くして、赤い鯛を見た。でも、結婚式も、そう毎日は、ないので、次にママは、諏訪ノ平でとれる野菜や果物を、いっぱい背負って、八戸《はちのへ》の海のほうに行き、魚と交換《こうかん》してもらって帰って来た。栄養失調で、オデキだらけだったトットも、その魚で、すっかり直った。家族がたべる分をとると、ママは、残りを魚のほしい人に売った。日曜には、トットにも、果物を、かつがせた。トットは、友達《ともだち》に見られたら恥《はず》かしい、と思ったけど、ママは、平気な顔をしていた。東京にいた頃、ママは奇麗にして、パパの演奏会に行ったり、お手伝いさんもいた生活だったのに、何もいわずに、こんなに、すぐ、かつぎ屋のおばさんみたいになれるママを、トットは不思議に思っていた。海のほうで、スルメとかが沢山《たくさん》手に入ると、ママは、家の近くの青果市場にコンロを持って行って、そのスルメをお醤油《しようゆ》で煮《に》て、売った。農業組合の事務員もした。それでも、パパからは、何の便りもなかった。  ある日、引揚者の沢山のった汽車が、諏訪ノ平の駅に臨時停車した。諏訪ノ平は、小さい駅なので、ふつう、急行は、止まらなかった。でも、東北本線は単線なので、上りと下りがすれ違うのを、駅でやるために、たまには、止まることもあった。その日、ママは、汽車が駅に止まったのを見ると、走ってプラットホームに行き、汽車の窓から頭をつっこんで叫《さけ》んだ。 「どなたか、黒柳守綱って人、シベリアで、お逢《あ》いになりませんでしたか?」  汽車が出るまで、ママは、プラットホームの、はじから、はじまで、叫びながら走った。疲《つか》れきって乗ってる引揚げの人達は、それでも、口々に話し合ったり、何かいってくれたりしたけど、はっきりしないまま、汽車は出て行ってしまった。誰《だれ》もいないプラットホームに、ママだけが立っているのを、トットは遠くのほうから見て、悲しく思った。 (あんなことをして、なんかの役に立つのかな)  と考えたりもした。でも、ママにとっては、いまは、これしかなかった。もう、終戦から二年も経っていた。  やっぱり、ある日、ママは、頭を汽車の窓につっこんで、聞いていた。 「黒柳って、ヴァイオリン弾《ひ》くものですけど」  そのとき、一人の、おじさんが、人混《ひとご》みの中から叫んだ。 「ああ、収容所で、ヴァイオリン弾いて、我々を慰問《いもん》してくれた。元気でしたよ!」 「生きているんですね?」 「そうだよ。奥《おく》さん、元気だしなさいよ。もうじき帰ってくるから!」  その通り、パパは戦争が終って、四年目に、最後の引揚船で、帰って来た。  ……トットは、プラットホームを走りながら叫んでるママの姿と、 「パパ、元気だって……」  と泣きながら、子供たちのところに、駅から帰って来た、あの日の、ママの顔を思い出した。パパが出征《しゆつせい》したあとも、疎開中も、泣いたことのなかったママの、たった一度の涙《なみだ》を、あの日、見たことを、トットは、「尋ね人の時間」を聞いていて、思い出したのだった。 [#改ページ]   卒業式[#「卒業式」はゴシック体]  わぁーい! とうとう養成は終った。  なんであれ、一区切りつく、というのは、うれしいことだった。まして、これから、NHKのテレビとラジオに出演するようになるのだと思うと、なんだか漠然《ばくぜん》として、わけはわからないものの、スリル一杯《いつぱい》で、トットは、とても浮《う》き浮きした気分だった。  卒業式は、四月の本契約《ほんけいやく》の前に、早目に行われることになった。これは、卒業と同時に、現場の人達《ひとたち》に紹介して、四月のデビューの前に使ってもらい、早くスタジオに馴《な》れるように、というNHKの計らいからだった。  トットたちは、テレビの一期生であると同時に、NHK東京放送劇団の五期生になるのだった。後《のち》に、あまりにも元気がいいのと、それまでの劇団のムードと、まったく違《ちが》ってる、ということで、トットたち五期生は丁度、同じ頃《ころ》、大ヒットした「ゴジラ」をもじって、「ゴキラ」と呼ばれるようになった。でも、この卒業式の当時は、誰《だれ》も、そんなことは、わかっていなかった。ただ、受持ちの大岡先生だけが、期待と心配と、先生特有の面白《おもしろ》がりとで、あれこれ大騒《おおさわ》ぎをしているのが、トットには、おかしかった。  とうとう卒業式の日が来た。場所はNHKの会議室で、最高責任者の吉川義雄さんが、挨拶《あいさつ》とか、訓辞とかを、することになっていた。トットは、この日を特別の日と思い、たのしみにしていた。ところが、なんという不運!! この日まで、無遅刻《むちこく》、無欠席だったトットが、この日に限って、遅刻をしてしまったのだった。  だいたい、トットは小さいときから、「今日は何か大切なことがある!」という日に、きまって、ふだん起らない悪いことが起るという、めぐりあわせになっていた。  うんと小さいときは、必らず当日になると、熱が出る。または、トイレなどに落ちる。少し大きくなってからは、例えば、戦後のことだけど、夢《ゆめ》にまで見るくらいホームシックになっていた東京に、疎開先《そかいさき》の青森から、一人で、ちょっとだけ帰って、親戚《しんせき》や友達に逢《あ》って来ていい、とママが約束《やくそく》してくれて、トットは、毎日、その日を指折り数えて待っていた。いよいよ出発の日が来た。オーバーのポケットに大切に切符《きつぷ》をしまって、トットは駅まで走った。ところが、オーバーのポケットに大きな穴があいていて、駅についたら切符はなかった。真青《まつさお》になって、雪の道をもどって探したけど、どこを探しても見つからなかった。トットが走って駅に行くとき、丁度、下《くだ》りの汽車が着いて、かなりの人が降りていったので、その中の誰かが、ひろってしまったのかも、しれなかった。ママが、無理をして、やっと買ってくれた切符だったから、それ以上の我儘《わがまま》は、いえなかった。ポケットの穴が、うらめしかったけど、それは、自分の不注意だった。そんなわけで、憧《あこが》れの上京はパアになって、友達にも逢えないことになり、それから、もう何日も、トットは泣いて暮《くら》した。  またあるときは、祖父のお葬式《そうしき》の夜のことだった。トットは、親戚の子供たちと、壇《だん》の前で、静かに、トランプをしていた。トットは勝っていて、賭《か》けの大豆《だいず》を、一人じめしていた。そこに、「お坊《ぼう》さんが見えた!」というので、トットたちは、いそいでトランプを片付けて、大人にまざって、きちんとすわった。医者だった祖父を慕《した》って、病気を治してもらった人達も沢山《たくさん》、来ていた。お葬式が始まった。お坊さんは、お経《きよう》をとなえ、壇の鉦《かね》を叩《たた》いた。ところが、ふつうなら、 「チーン」  というはずの鉦が、 「ジャリーン」  と、ヘンな音がした。そして、何度、叩いても、この音だった。なんとなく、みんなは、変った音だな、という風に、そっちを見た。トットだって、そう思った。そのとき、トットは、「あーっ!」と、いいかけて、口をおさえた。(そうだった!)トランプのとき、勝った大豆をしまっておく入れ物が手近になかったので、トットは、少し大き目の、あの鉦の中にしまっておいたのだった。  お葬式が終り、お坊さんが帰ってから、みんな鉦をのぞいて、中の大豆を見て、 「一体、どういうわけで、こんなものが、この中に入ったのだろう」と不思議がった。  トットは、叩きながら、中も見たはずの、お坊さんに、申しわけないと思った。トットが、ママに、このことを白状したのは、何年も経《た》ってからのことだった。  トットが、「今日は特別!」というとき失敗するのは、初めてのデイトの時も、そうだった。有楽町の駅の改札口《かいさつぐち》で待ち合せることになったんだけど、改札口を間違えて、二時間もドキドキしながら待っていて、結局、うまく逢えないで、その人とは、ダメになってしまった。改札口のそばの、靴《くつ》みがきの小母《おば》さんも、一緒《いつしよ》になって、待ってくれたんだけど……。  そういえば、人間として、最も重大な、この世に生まれてくる瞬間《しゆんかん》からして、トットは、不運だった。なにしろ、 「いよいよ生まれます」  と、お産婆《さんば》さんが宣言してから、たっぷり、丸一日、ふんぎりがつかない、というか、思いきりが悪いというか、出かかっては、やめる、という事をくり返し、結局、生まれたときは、もう、ほとんど死んでいた。  お産婆さんが、逆さまにして、振《ふ》りまわしたら、「ケッ!」といって、やっと息をした。 「だから、あなたを、口から先に生まれた、という人がいるけど、それは、本当じゃないのよ。ふつうなら�オギャー!! �というところ、あなたは�ケッ!�と、いったんだから……」  と、ママがいった。そして、ママが何より驚《おどろ》いたのは、あまり長いこと、せまいところに居たせいか、顔が物凄《ものすご》く長くなっちゃって、紫色《むらさきいろ》で、まるで、七福神の寿老人《じゆろうじん》みたいだった、と、いうことだった。 「よく、こんなに、ちゃんと丸顔になったものだと思うくらいよ」と、ママは、トットに、時々いった。そんなわけで、ふつうの人なら、「ここ一番!」というとき、トットの身に、不運が起るのは、不注意は勿論《もちろん》だけど、生まれつきなのかも、知れなかった。  たのしみにしていた卒業式に、何故《なぜ》、トットが遅刻したか、というと、その朝、家のそばの、乗る駅のプラットホームに、いつものように、階段ではなく、線路のわきの柵《さく》をくぐり、枕木《まくらぎ》をこえて、線路からホームに、よじのぼろう、と思ったのが、間違いだった。いつもうまくいくのに、この日は、タイトスカートなんか、はいたせいか、何度、とびついても、よじのぼれず、モタモタしてるうちに電車が来るのが見えた。仕方がないから、一台やり過そうと、柵の外に出るために走ったら、ハイヒールの片方が、枕木にひっかかって、ぬげた。そのまま、柵の外に出て、電車が行ったので、近づいて見ると、ハイヒールのかかと[#「かかと」に傍点]が、とれていた。なんとか、それで歩いてみようと、片っぽだけ背のびしてみたけど、やはりダメなので、はだしで家まで取りに帰った。靴といっても、そう何足もあるわけじゃないので、気に入らなかったけど、とにかく、今日の洋服に合うのを選び、今度は、ちゃんと階段をのぼって、やっとホームまでたどりついたら、さあ、今度は、なかなか電車が来ない。時間は、どんどん迫《せま》ってくる。乗り換《か》えの大井町の駅でも、降りた新橋の駅でも、走れるだけ走って、やっと、卒業式の会場にたどりついたとき、もう、吉川先生の訓辞が始まっていた、という、いきさつだった。そーっと入っていったトットを見ると、吉川先生は、訓辞をとめて、いった。 「なんだい君は! 今日みたいな日に遅刻するなんて!」  トットは、ハァハァしながら、 「申しわけありません。プラットホームに、とびついたんですけど、靴がぬげて、かかと[#「かかと」に傍点]が……」  と、いいかけた。吉川先生は、いつもの冗談《じようだん》をいう感じとは、全く別の、こわい顔で、 「君、心がけが悪いよ。これが放送だったら�遅《おく》れて、すいません�といって、すむかい?」  といった。  トットは、(本当にそうです)と思いながらも、この一年間、一度も遅刻した事のなかった自分を考えると、あわれに思えて、悲しかった。(こんなはずじゃ、なかった!)と自分の呑気《のんき》さにも腹が立った。涙《なみだ》が頬《ほお》を伝わって、ポタポタ落ちた。同期生のみんなも、「気の毒!」と思ってるに違いないけど、どうしようもなかった。訓辞のあと、庶務《しよむ》の人が、事務的なことの説明をすると、吉川先生が、テレビ・ラジオの現場のプロデューサーや演出家《デイレクター》の部屋を廻《まわ》って、トット達を紹介《しようかい》する、ということになった。吉川先生が、芸能とか演芸とか音楽とか書いてある部屋に入って、 「紹介します。この子たちが、今度の五期生です。養成が終って、いよいよ、よろしくお願いする、ということに、なったわけだ」  といい、五期生のみんなが、 「よろしく、おねがいします!!」  と、おじぎをする、卒業式で最も大切な、おひろめ、というか、初めての顔見世が、はじまったのだった。ディレクターやプロデューサーの机の間を通って、五期生のみんなは、出来るだけ、自分を魅力《みりよく》的に見せるようにした。部屋にいた、みんなは、拍手《はくしゆ》をしたり、立ち上って、興味深そうに、一人々々の顔や、姿を、じーっと見た。中には、ちょっと話しかける人もいた。ところが、トットといえば、みんなのあとから、泣きながら、ついていったのだった。吉川先生に叱《しか》られたショックと自己嫌悪《じこけんお》と、(今日に限って!)という口惜《くや》しさで、どうしても涙が止まらなかった。だから、みんなが、 「よろしく、おねがいします!」  といってる時も、一緒に、おじぎをして、口の中で、モゾモゾ言ったけど、涙と鼻を、すすりあげるだけで、声にはならなかった。一人だけ泣いてるので、不思議そうに、 「どうしたの?」  と聞く人もいた。すると、トットは、目も鼻も真赤《まつか》になっていたけど、せめて上手に説明しようとした。でも、 「あの、遅刻したんで、吉川先生に叱られて……靴がぬげたもので……」くらいまでいうと、もう、あとは、また悲しくなって、しゃくり上げるのだった。本当だったら、誰よりも、元気に、ニコニコして、 「こんにちは!」  と、いいたかったのに……。こんな風に、一階から五階と、ゾロゾロ、夕方近くまで、ご挨拶《あいさつ》は続いた。とうとう吉川先生が、 「おい、もう泣くなよ」  と、トットのそばに来て、いって下さったけど、トットの涙は、とまらなかった。  そんなわけで、晴れの顔見世の日、トットがお見せしたのは、涙でグチョグチョのハンカチと、お聞かせしたのは、ズルズルという、鼻をすする音だった。  十七人の仲間の一番最後から、トボトボついていくという、トットが思ってもいなかったデビューだったけど、とにかく、これで、トットは、社会人になったのだった。 [#改ページ]   どうしたんですか?[#「どうしたんですか?」はゴシック体]  トット達《たち》の先輩《せんぱい》の東京放送劇団の人達が、他《ほか》の誰《だれ》よりも上手なことの一つに、ラジオの�ガヤガヤ�というのがあった。ガヤガヤとは、�その他《た》大勢��群衆の声�のことだった。例えば、時代もので、役のある俳優さんが、マイクのところで、 「鼠小僧《ねずみこぞう》! 御用《ごよう》だ!」  というと、マイクから少し離《はな》れたところで、何人ものガヤガヤの男の人達が、 「御用!」「御用だ!」「御用々々!」「御用!」  と口々にいって、大勢がとりまいてる感じを出す、そういう仕事だった。  今日、トットたちは、初めて、本当の放送のガヤガヤに使ってもらうことになり、ラジオのスタジオに入った。スタジオに入ったら、まず、御挨拶《ごあいさつ》。それは、 「おはようございます」  だった。(夜なのに�おはよう�は、おかしい)と、トットは思ったけど、そういうしきたり[#「しきたり」に傍点]だから、おかしくないのだ、と、みんなが説明した。事実、ある晩、トットがスタジオに入ったとき、 「こんばんは!」  といったら、古い俳優さんが、 「いやだねえー、近頃《ちかごろ》は。仕事をしてるって感じがしないね。�こんばんは�なんて、なんだか、家に客でも来たのか、って気がしてさ」  と、半分|冗談《じようだん》、でも、本当は、絶対に、 「おはようございます」  じゃなくちゃ、イヤだ! という風に、いった。だからトットも、仕方なく、毎回、心の中で(外は暗いのに!)とか、(さっき、晩御飯たべたのにさ!)と思いながらも、スタジオに入るときは、元気よく、 「おはようございます!」  と、いうようにした。でも、本当のこといって、それから、どれくらいスタジオの生活を続けたかわからないトットだけど、夜、「おはようございます」ということに馴《な》れることは、なかった。だから、夜、スタジオやお稽古場《けいこば》に入るときの、「おはようございます」は、本当の朝に言うときに較《くら》べると、どうしても、小さい声になってしまうのだった。  さて、この日の、トット達、初めてのガヤガヤは、五期生の、ほとんどが一緒《いつしよ》だった。ガヤガヤでも、台本は、ちゃんと一冊ずつもらえた。でも、台本に、ガヤガヤのセリフが一人一人、書いてある、ということは稀《まれ》で、むしろ、その情景に合ったセリフを、自分で作る場合が多く、どんなセリフを考え出すかが、ガヤガヤの本領とも、いえた。  今日のトット達のガヤガヤは、終戦直後の引《ひ》き揚《あ》げて来た人のドラマの中で、主役の男女が道端《みちばた》で話してると、そばで、バタリ!! と男の人が倒《たお》れるところ。バタリ!! という効果音が入り、マイクのそばの主役の男女が、「あら?」とか、「あっ!」とかいうのと同時に、ガヤガヤは、声をひそめて、 「どうしたんですか? どうしたんですか?」 「どっかで見たことのある人ですが……」 「死んだんですか?」 「救急車、呼んだほうがいいんじゃないでしょうか?」 「どこの人ですか?」 「いや、誰かわからないようですよ」 「どうしたんですか?」 「いや、お気の毒に……」  などと、一斉《いつせい》に、言って、なんとなく、本当に、そこに人が倒れたみたいな感じを出すのが役目だった。  トット達が、今日はじめて、というので、先輩のセリフのある俳優さんには待って頂いて、ガヤガヤの部分だけ、特別に稽古をする、ということになった。こういう、部分的な稽古は、「抜《ぬ》き稽古」とよばれることを、このときトットは知った。  ガラス窓のむこうで、演出家が、キューを出した。キューとは、「始め!」のことだった。  五期生は、主役の人より、八十センチくらい離れたところで、主役をとりかこむ形になって、さっきのセリフを、口々にいった。  ちょっとやったところで、ガラスのむこうの演出家の男の人の声が、スピーカーから出てきた。 「ちょっと! ちょっと! 誰かな? 一人だけ声が目立つんだけど。もう一回やってみて?」  いわれた通り、また、みんな口々にやった。すぐにスピーカーから声がした。 「ちょっと、そのお嬢《じよう》さん、あなた!」  指さす方向を見ると、それは、どうやら、トットのことらしかった。トットが、「はい?」という動きをすると、演出家は続けていった。 「困るのよね。一人だけ目立っちゃうと!」  トットは、自分が目立つようにしてる、なんて、夢《ゆめ》にも思ってなかったから、びっくりした。ただトットは、人が道に倒れて死んでるかも知れないのに、声をひそめて、 「どうしたんですか? どうしたんですか?」  という気にはなれないから、凄《すご》く大きい心配そうな声で、「どうしたんですか?」と叫《さけ》んだのは、事実だった。演出家は、いった。 「あなたね、みんなより、ちょっと、三メートルくらい離れて、それでやってみて?」  みんなより三メートルも離れると、同期生の友達の背中しか見えなくて、トットは、とても不安で心細い気がした。それに、これだけ離れちゃうと、倒れてる人が、一体どうなってるか見えるはずがないから、もっと不審《ふしん》になると思ったから、トットは、次のキューのとき、もっと大きい声で、 「どうしたんですかあ?」  といい、(今度は、うまくいったかしら?)と、ガラス窓を見たら、音量を調整するミクサーさんが、なんだか耳をおさえて、とび上ったみたいだった。演出家は立ち上ると、いった。 「あのね、お嬢さん、ずーっと、そのまま、うしろにさがって……。そう、そのまま、ずーっと行って、はい、その、ドアのとこから、やってみて?」  とうとうトットは、一人だけ、ドアのところからやることになった。そうなると、トットは、なんとか、仲間のみんなと声を揃《そろ》えて一緒にやりたい、と思うから、ありったけの力をこめて、 「どーしたあんですかあー?」  と絶叫《ぜつきよう》することになった。同期生は、相変らずマイクの近くで、ひそひそ声で、やっていた。トットが演出家のほうを見ると、姿はなく、よく見ると、中で、みんなが頭をよせあって、相談してるようだった。そのうち、演出家が、ガラス窓の中から出て来た。そして、ドアのところに一人で立ってるトットに、やさしくいった。 「お嬢さん、今日は帰っていいよ。でも伝票は、つけとくから……」  伝票というのは、ラジオでもテレビでも、トット達劇団員が仕事をすると、演出家が、何時から何時まで、どこのスタジオで、何という番組に出演したか、ということを書きこんで庶務《しよむ》に提出する伝票のことだった。それを一時間いくら(その頃、トットは一時間五十八円だった)で何時間、と計算して、庶務が月給として払《はら》ってくれる、というシステムになっていた。だから、帰されると、(収入にならない)とトットが心配するのを気の毒と思い、「伝票は、つけとくから……」と、親切に言ってくれたというわけだった。でもトットは、一人だけ帰されるのは悲しいことだから、 「なんとか、もう一度、やらせて下さい」と頼《たの》んで見た。演出家は、しぶしぶ、「それじゃ……」と、やらせてくれた。ところが、いざキューが出ると、みんなみたいに小さい声で、「どうしたんですか? どうしたんですか?」と、いおうと思ってるのに、実際は、(そこに人が死んでたら、どうしよう!)と、泣きそうな大声で、 「どうしたんですかあ?」  に、なってしまうのだった。演出家は、時間を気にしながら、トットに、いった。 「目立つとね、聞いてる人が、特別の役だ、と思っちゃうから、ダメなのよ。ガヤガヤは印象を強くしないこと。普通《ふつう》の声じゃないとね……」  仕方なくトットは、スタジオの外のベンチで、みんなが終るのを待った。せめて、新橋の駅まで、一緒に帰りたかったから。  以来、どの番組の、どの演出家のスタジオに行っても、ガヤガヤをやる段になると、トットは、きまって、いわれた。 「お嬢さん、帰っていいよ。伝票は、つけとくから」しまいには、何もやらないうちから、トットの顔を見ただけで、 「あれ? 君、来たの……。いいよ、帰って。伝票は、つけとくから!」という演出家もいた。  こんな風に、毎日、NHKに行っては、スタジオに入れずに、外で、本を読みながら友達の終るのを待つ、という生活が続いた。それでもトットは、生れつきの陽気のせいか、あまり憂鬱《ゆううつ》じゃなく、(こんなものだろう)と、思っていた。 [#改ページ]   忍者《にんじや》か![#「忍者《にんじや》か!」はゴシック体]  ラジオのガヤガヤのほうは、どうも、うまくいかないトットだけど、テレビのほうでは、どうだったか、というと……。  テレビでは、ラジオの雰囲気《ふんいき》作りのガヤガヤにあたる人達《ひとたち》を、「通行人」または、「仕出《しだ》し」、ときには、「エキストラ」「群衆」という風に呼んでいた。これもラジオのガヤガヤと同じで、雰囲気とか情況《じようきよう》を作るためなのだから、一人だけが目立っては、いけないのだった。  例えば、喫茶店《きつさてん》で、人妻と、その浮気《うわき》の相手の男性が、ヒソヒソ話をしている。この二人が主役だとすると、その二人の廻《まわ》りには、男女のカップルだとか、男性一人で、新聞よみながらコーヒー飲んでるとか、恋人《こいびと》を待ってるらしい女の人とか、女同士が三人くらいとか、いろいろ、すわっている。テレビで見てる限りでは、別に、この�仕出し�と呼ばれる人達が難かしいことをしてるように見えなくて、(出演料もらって、コーヒー飲めるなんて、いいなあー)と思う人がいるに違《ちが》いない。ところが、実際、こういう人達は、いつ、どこから写るかわからないから、いつ写っても大丈夫《だいじようぶ》のように、喫茶店の客らしい演技をし続けていなくちゃならない。相手がいる人は、ずーっと何か、話している感じを、持続させる必要があった。かといって、自分たちの話に熱中して、 「だから、パンダが、子供産んだらサ!」  なんて大声でいうと、これは、主役のマイクに声が入って邪魔《じやま》になるし、熱中し過ぎる演技は、目ざわりになるので、万事、ひかえ目でなくちゃいけないのだった。中でも、絶対にしては、いけないことは、主役の俳優をジロジロ見ることだった。仕出しの中には、スターを初めて、身近に見る人も多いから、つい、ジロジロ見て、 (わあー、あの人、案外、そばで見ると、シワが多いのねえ?!)  なんて、小声で、つれに話したりすると、これは、ドラマの筋を、違う方向に持っていってしまうことになるのだった。つまり、ジロジロ見てるところがカメラに写ったとすると、これは、テレビを見てる人に、 (あ! 浮気をしてる、ってこと、いまの人が、きっと旦那《だんな》に伝えるに違いない! そういう役の人だ……)とか、 (人妻の旦那が、やとった女探偵《おんなたんてい》かしら?)  とか、思わせちゃうからだった。  そうかといって、カップルが、下をむいて、だまって、何も言わないで、コーヒーを、すすってるだけだと、これまた、見てる人に、 (何か、特別に哀《かな》しい結末を迎《むか》える二人か?)  とか勘《かん》ぐられて、これも、さまたげになる。要するに、喫茶店のお客らしく、口は、ちゃんと開けて話はするけど、声は、あまり出さないようにして、そうかといって、ヒソヒソ声には、ならないように。いかにも実《み》のあることを話しているようにして、実際は熱中せず、体は、あまり動かさない。しかも、そのシーンの間中、テストも入れて何時間になっても、緊張《きんちよう》を持ち続けること。お水が欲《ほ》しいからといって、ウェイトレス役の人を、勝手に呼んだりしては、いけない。ウェイトレスやウェイターの動きは、全部、演出で決まっているのだから……という風に、ほとんど、ガンジガラメなのが、仕出しの仕事、といえた。  しかも、テレビ見てて、主役以外に、目が、そっちの仕出しのほうに一度でも行かなければ、最高の出来!! という、考えてみると、なんとも難かしいのが、この仕出しだった。  ついでにいうと、ウェイトレスのように、主役のそばに行って、 「御注文《ごちゆうもん》は?」  と聞いて、ひっこみ、用意されたコーヒーなどを、お盆《ぼん》にのせ、主役二人の、セリフか、動きの、きっかけで、 「お待ちどおさまでした」  と、テーブルに置く、たったこれだけでも、かなりの年月が必要とされた。  後《のち》に、NHKのテレビ、「事件記者」でお馴染《なじ》みになった俳優の原|保美《やすみ》さんは、初めての役が、ウェイターだった。しかも、これが、あの、日本映画史に残る、 「愛染《あいぜん》かつら」  田中絹代さんと、上原謙さんの二人に、コーヒーを出すことになった。ところが、新人の原さんは、どうしても、あがっちゃって、ふるえが止《と》まらない。だから、コーヒーカップとお皿《さら》を出そうとすると、カタカタカタカタ、と物凄《ものすご》い音がする。コーヒーは、チャポンチャポンと、こぼれる。主役の二人のセリフより、カタカタの音のほうが大きいから、何度もN・G(ノー・グッド)が出る。とうとう最後に、大きな絆創膏《ばんそうこう》で、お皿とカップを貼《は》りつけて、やっと、出した、というエピソードがあるくらい、これは、年季の要《い》るものなのだった。  さて、トットが、初めて、テレビの通行人で出ることになった番組は、当時、ブギウギで大スターだった、笠置《かさぎ》シヅ子さんの歌が入るドラマだった。トットは、この笠置さんの後ろを通る、街の娘《むすめ》だった。  笠置さんは、うんとふくらんだパラシュート・スカートで、お魚屋さんの店先の前に立っていた。お魚屋さんといっても、今のセットのように、お店とか、いろいろ立体的なものなど、なくて、ただ、お魚の絵が沢山並《たくさんなら》べて描《か》いてある、書き割り、という、一枚の絵の、セットだった。音楽が始まった。笠置さんは、リズミカルに、手を、うんと動かして踊《おど》りながら、 「鯛《たい》に平目《ひらめ》に 鰹《かつお》に鮪《まぐろ》に ぶりに鯖《さば》」  という買物ブギを、お歌いになった。  トットは、ラジオのスタジオより、ずーっと高い所にあるガラス箱《ばこ》の中にいる演出家から、レシーバーで命令をうけて、スタジオの中でキューを出すF・D(フロアー・ディレクター)の指図で、歩き出した。トットの考えでは、町のまん中の、お魚屋さんの前で、パラシュート・スカートをはいて、大きい声で歌いながら踊ってる女の人がいたら、それは、珍《めず》らしいし、面白《おもしろ》いことだし、変っている、と考えた。だから、 (これは興味がある!)と、いう風に、歩きながら笠置さんを観察し、顔なんかも、横から少しのぞいたりして、通り過ぎた。途端《とたん》に、スタジオの中に、ひびき渡《わた》るスピーカーから、ディレクターの、怒鳴《どな》る声がした。 「ちょっと、いまの後ろ、通った人! すーっと通ってよ! すーっと!!」  トットは、びっくりした。 (どこの世の中に、こんな面白いことが起ってるのに、見もしないで、すーっと通る人が、いるんだろう……)でも、仕方がないから、 「はい」  といい、もう一度、音楽の前奏が出て、笠置さんの歌が始まった。トットは、とにかく、すーっと、通った。 (これで、よかったかしら?)と、思った瞬間《しゆんかん》、更《さら》に、大きい声が、ガンガンと、来た。 「なに? いま後ろ、黒い影《かげ》みたいなものが通ったけど……」 (影?)トットは、思いがけないことに驚《おどろ》いた。ディレクターは、いった。 「テレビはね、タテに歩くときは、走ってもいいけど、横に歩くときは、たったこれだけの、ブラウン管のサイズなんだから、すーっと、本当に大股《おおまた》で歩いちゃうと、ほとんど、早すぎて、見えないの。ジロジロ見ないで、前方に用事あり気に! で、さっさと歩いているように見せて、実は、歩幅《ほはば》を盗《ぬす》んで、時間をかけて、なるたけ、ブラウン管の、はじから、はじまで、よく写るように。でも、目立たないように、すーっとね。わかった?」  ……わかりっこ、なかった。  笠置さんは、大スターなのに、苦労人らしく、ちっとも機嫌《きげん》を悪くしないで、 「大変でんなあー」  と、いって下さった。もう一度、テストが始まった。トットは、前方に目をやって、どんなに面白そうでも、笠置さんを見ないようにして、なるべく距離《きより》を進まないように、動きも、スローモーション的に、手や足を、ゆっくり動かして、とにかく、横切った。スタジオの中のみんなも、息を殺してる、という風だった。まだ、曲が終りきらないうちに、スピーカーから、凄《すご》い声がした。 「きみ! それじゃ忍者よ。君は忍者じゃないんだからね……。もう帰っていいよ。ああ、伝票は、つけとくからね!」  これで、テレビ初出演は、ラジオと全く同じように、おろされる、という形で、終った。同期生が、スタジオのカメラの前で、いろんなことをしてるとき、トットは、また、スタジオの外のベンチで、本を読みながら、みんなが終るのを待つ、ということになった。  そういうときの、慰《なぐさ》めは、大岡先生だった。大岡先生は、いつものように、突然《とつぜん》、ふっ! と現れると、トットのすわってるベンチに、横ずわりみたいに、かけると、例の、片手の甲《こう》で口をかくすようにして、 「トットさま、今日は、どちらのお仕事?」  と聞く。 「あの、ここなんですけど、もういい! って言われたんで……」  というと、大岡先生は、別に深く追求することも、また、力づける、という風もないけど、なんとなく、 「ふ、ふ、ふ」  と、笑って、 「何、およみ?」  と、トットの読んでる本の表紙など見ると、 「じゃ」  とかいって、あっという間に、どこかに姿を消してしまう。そして、しばらくすると、また、ふっ! と、隣《とな》りにすわって、 「トットさま、今日は、どちらのお仕事?」  と、さっきと同じことを、聞くのだった。トットは、もう馴《な》れっこになっていたから、また、さっきと同じように、 「ここのスタジオなんですけど、もう、いい! って、言われたんで……」  と答える。大岡先生の、おかしいことは、一日に何度でも、NHKの中で逢《あ》う限り、それが廊下《ろうか》だろうと、エレベーターの中であろうと、トイレの前であろうと、必ず、 「トットさま、どちらへ?」  と聞く。たった今、一分前に逢ったときでも、逢えば、また、 「トットさま、どちらへ?」  と聞くのだった。決して、耄碌《もうろく》してるのでもないのに、(どうして、こう同じことを聞くのだろう)と、トットは、いつも、いぶかしく、また、おかしく思った。(ちゃんと聞いてないのかな?)と思うと、そうでもないようで、つまり、そういう性格の人なのだろう、と思うしか、なかった。でも、一人ぼっちで、スタジオの外で友達を待ってるトットにとっては、 (おかしいなあー、同じこと何度も聞いて……)  とは思いながらも、やはり大岡先生が、足音を全くさせないで、気がついたときは、隣りにいる、という不思議なやりかたで、 「トットさま、今日は、どちらのお仕事?」  と、聞いてくれるのは、何か滑稽《こつけい》でもあるけど、一人じゃない、という気がして、うれしかった。もしかすると、大岡先生は、トットたちの受け持ちという仕事も終って、NHKの中でヒマだったのかも、知れなかったけど……。  このあと、何十年も経《た》ち、大岡先生も亡《な》くなってから、このころの、 「トットさま、今日は、どちらのお仕事?」  と、一日に何度も隣りにすわってくれた、あの「大岡老人」、とみんなに呼ばれていた姿と、何もわからないで、自分では間違ってない、と一生懸命《いつしようけんめい》やってるのに、どこに行っても、おろされて、それでも、そんなに絶望もしないで、そんなものだろうと、大人しく、本なんか読んでた自分の姿を思い出すと、何か、痛いような哀《かな》しみで、トットは、涙《なみだ》するのだった。  でも、その当時、おろされて泣いたことは、一度も、なかった。 [#改ページ]   障子《しようじ》、笑って![#「障子《しようじ》、笑って!」はゴシック体]  テレビというのは、新らしい仕事のはずなのに、なんとも、トットにわからない、古い言葉が沢山《たくさん》あった。一番、びっくりしたのは、トットが、お座敷《ざしき》にすわってる娘《むすめ》で、すわっていると、いきなりディレクターが、 「障子、笑って!」  と、いったことだった。トットは仰天《ぎようてん》した。 (障子が笑うのかしら?)急いで、ふりむいて障子を見ていると、大道具さんが、二人お座敷に上って来て、あッ! という間に、障子をはずして、持って行ってしまった。 (折角、笑うとこ、見ようとしてるのに……)  トットは、心の底から、がっかりした。  それにしても、障子が笑うなんて、面白《おもしろ》いこと考えるディレクターだなあー、トットは、尊敬した。ところが、これは、 (障子は不要。はずして、持って行ってしまってくれ!)という意味なのだった。それを知ったとき、トットは、 (折角、笑うとこ、見ようとしてるのに……)と思ったのと同じくらい、がっかりした。  広辞苑《こうじえん》に、「笑う」が比喩《ひゆ》的には、 �つぼみが開くこと��果実が熟して皮が裂《さ》けること��縫目《ぬいめ》がほころびること�  などは、出ているけど、�片づける�とは、出ていなかった。  障子がどうやって笑うのか……と、トットが息をつめて、楽しみにしていたと、そのディレクターは、知らなかった。もし、知ったら、 「なんて、馬鹿《ばか》な子だろう」  と、思ったに決まっていた。でも、トットにとっては、テレビという新らしい世界だもの、障子だって、笑う仕掛《しか》けになっているのか、と思ったとしても、「それは、トットが馬鹿とは、いえないのじゃないか!」と、ひどく、がっかりしながら、トットは、障子が無くなった座敷の、まん中に、いつまでも、すわっていた。たしかに、それ以来、聞いてると、みんなは当然のように、 「ヤカン、笑って」「箪笥《たんす》、笑って!」「リンゴ笑って!」と、叫《さけ》んでいた。でも、トットは、そのたびに、ヤカンや、リンゴや、箪笥が、ケラケラ笑うところを想像して、一人で、(ああ、面白いなあ)と、思うのだった。 [#改ページ]   七尾伶子《ななおれいこ》さん[#「七尾伶子《ななおれいこ》さん」はゴシック体]  トットが、東京放送劇団の先輩《せんぱい》の中で、もっとも恐《おそ》れていたのは、七尾さんだった。七尾さんは、トットが入った頃《ころ》、丁度、終りに近づいていた、あの、「君の名は」で、主役の「真知子」と、人気を二分した「綾《あや》」の役で、日本中の人気の的の人だった。少しかすれたような独特の声で、ラジオ・ドラマで、ひっぱり凧《だこ》だった。なぜ、トットが七尾さんを恐れていたか? というと、それは、面とむかって、怒《おこ》るからだった。例えば、ラジオのスタジオに入って、トットが運よく、おろされないで、本読みまで、たどりつき、思わず、はしゃいで、同じ五期生の友達《ともだち》と、ベチャベチャ、しゃべったりしてると、 「静かに! うるさいじゃないの! スタジオは、勝手なこと、しゃべるとこじゃないのよ! 静かにしなさい!」  と、あの有名な声で、怒ることだった。あるときは、トットが、首にロケットを下げてて、中に、どんな写真が入ってるか、なんて休憩《きゆうけい》時間に、スタジオの外の廊下《ろうか》で友達に見せびらかしているときだった。そばを通りかかった七尾さんが、いった。 「ラジオのスタジオに入るとき、そういう、ネックレスや腕輪《うでわ》なんか、はずしなさいよ。マイクに、ぶつかったりして、音がしたら、どうするの!」  そういえば、七尾さんは、いつもネックレスや腕輪を、していなかった。それにしても、折角、おしゃれして来たのに。ロケットの中に、憧《あこが》れのシューベルトの写真を切りぬいて、入れて来たのに……。鎖《くさり》を首から、はずしながら、トットは思った。 (意地悪!)  他《ほか》の先輩は、誰《だれ》も何もいわないのに、七尾さんだけが怒るんだもの。  だから、トットは、毎日、スタジオに入るとキョロキョロして、心の中で、(七尾さんと一緒《いつしよ》じゃないと、いいなあー)と思うくらいだった。で、七尾さんの姿を見つけちゃうと、(あーあ……)と憂鬱《ゆううつ》になるのだった。なにか、オドオドして、のびのび出来ないからだった。事実、オドオドしたために、こんなことが起った。その日は珍《めず》らしく、すべてが順調で、本番までスムースに行った。そして、これも、また珍らしく、ナマ放送じゃなく、録音をとる、ということになった。勿論《もちろん》、トット達は、ガヤガヤだった。女学生のガヤガヤだったから、少しくらいトットの声が目立っても、おろされる心配は、なかった。本番が始まり、半分くらいまで、進んだときだった。トットが、みんなとマイクのところに行こうとすると、トットの赤いハイヒールが、突然《とつぜん》、ギイギイ、と音をたて始めた。静かに、足音を、しのばせて歩いているのに、安物らしい、ひどい音だった。(あっ!)と、トットが習慣的に七尾さんを見ると、もう、マイクのところで、七尾さんは、トットを、にらんでいた。とにかく、そのシーンのガヤガヤが済むと、トットは、いそいでマイクから離《はな》れ、相変らずギイギイという靴《くつ》を急いで脱《ぬ》いで、はだしになった。それから、両手の靴を、どこかに置いて来《こ》ようと、ぬき足、さし足で進んだら、なんという運の悪さ。片っぽの靴を、床《ゆか》に落してしまった。 「ゴトーン!!」  かなりの音がした。(しまった!)七尾さんは、こわーい顔をしている。トットにとって、本来なら、音をたてた場合、マイクの調整の人を見るべきなのに、一番こわい七尾さんを、つい、見てしまうのだった。それでも、N・Gにはならなかった。(よかった!)床にころがった靴を、そーっと拾って、やっとカーテンのむこうに静かに置き、いそいでマイクのところに、もどった。勿論、はだしで。そして、そのシーンを済ませると、次のガヤガヤまで、なるべく皆《みな》さんの、御迷惑《ごめいわく》にならないように、そして、出来るだけ、七尾さんの目から、遠いところに行こうと、スタジオの隅《すみ》の、カーテンのむこうの、もう誰もいないところまで行った。カバーをかけたグランドピアノが置いてあり、そこまで行けば、トットが静かにしよう、としてるのが、七尾さんにも、わかってもらえるくらい、隅っこだ、と、トットは思った。(やれやれ)トットは、ため息をついて、ピアノに、よりかかった。とたんに、グランドピアノが、 「ギ——イ!!」  と大音響《だいおんきよう》を発し、一メートルも移動してしまった。当然、N・Gだった。カーテンのむこうから、七尾さんの、かみなりが落ちた。静かにしよう静かにしようと思えば思うほど、こんなになっちゃう、ということが、七尾さんに、わかってもらえなくて、悲しかった。七尾さんは、先輩としてミクサーさんにN・G出したことを、あやまってくれた。それから、七尾さんは、トットにむかうと、いった。 「スタジオは、仕事をするところ。俳優になろうと思ってるんなら、ちゃんとやりなさい。そんなことやってたら、いつか、本当に自分が、何かやりたい、と思ったって、誰も協力なんかしてくれないからね!!」  怒ってる声だった。  このときは、ただ、こわかった七尾さんだった。何もいわないで、だまってる先輩のほうが、いい人だ、と、トットは思っていた。 「俳優殺すに刃物《はもの》は要《い》らぬ。お上手お上手! の三度もいえば良い!」  この、ことわざを聞いた、ある日、トットは、(はっ!)と思い出した。あの頃、真剣《しんけん》に怒ってくれ、プロとしての根性や、マナーを、トットに、にくまれながらも教えてくれたのは、先輩では、七尾さん、たった一人だった……。 [#改ページ]   狐《きつね》のお面[#「狐《きつね》のお面」はゴシック体]  どういう風の吹《ふ》きまわしか、トットのところに、ガヤガヤじゃない、単独のテレビの仕事が来た。それまで、ラジオにしても、テレビにしても、仕事、といったら、必ず、同期生と一緒《いつしよ》に指名されるのに、この日は、トット一人だった。(でも、行っても、どうせ、おろされるかも知れないし……)と、割に呑気《のんき》に出かけたトットは、台本を渡《わた》されて、とび上った。(大変!)それは、司会のようなもので、カメラにむかって、NHKの近くの小学校の生徒のやる、歌とか踊《おど》りとか、コーラスとかを、紹介《しようかい》する、という難かしそうな仕事だった。担当のディレクターは、顔の色が黒く、肥《ふと》っていて、まゆ毛が濃《こ》くて、ちょっと、ダルマのようだ、と、トットは思った。バンカラで有名な人だった。その人は、トットを、スタジオの床《ゆか》に、絆創膏《ばんそうこう》で×じるしをした上に立たせると、大声で説明した。 「いいかい、この×が、君の立位置《たちいち》! そしてその、第一カメラが、ふつうは、一《いち》カメというが、これが君の前に来る。カメラの上の赤いランプが、パッ! とつく。ついたら、君が写ってることだよ。だから、しゃべる。いいね? で、この赤いライトが消えるまで、君は写ってる。セリフは、台本通り。じゃ、リハーサル、やってみよう!」カメラは、二台だった。トットは、台本に書いてあることを、大急ぎで、暗記した。カメラが来た。赤いランプがつく。 「みなさん、今晩は! きょうは、小学校の生徒さんの、楽しい歌とか、踊りとかを、御紹介しましょう。まず、麹町《こうじまち》小学校三年生の○□△×君の、歌です」赤いランプが、消える。○□△×君が歌いだす。二カメが○□△×君を写し始めた。一カメも大急行で○□△×君のところに行く。  その間に、トットは、いそいで足許《あしもと》に置いた台本を開く。 (えーと、次は、四谷《よつや》小学校四年生の、×▽○□ちゃんの踊り……)歌が終る。カメラが、トットの前に、すっとんで来る。赤ランプがつく。トットがいう。 「次は、四谷小学校四年生の×▽○□ちゃんの踊りです」  ……こんな風に、六人くらい紹介すると、ちょうど予定の時間で、「では、さようなら」で番組は終ることになっていた。  思いがけないほど、万事スムースにいった。ダルマ・ディレクターは、満足気に、 「うん! 大丈夫《だいじようぶ》! その調子! いいぞ!」  と、大声で叫《さけ》び、リハーサルは終った。  スタジオの中の、少し高い台の上に置いたテレビジョンは�モニター�といって、リハーサルも本番も、カメラで撮《と》ったものが写る、しかけになっていた。トットの顔も、そこにクローズ・アップに写っているようだったけど、写っているとき、そっちを見ると、横目に写っちゃって、叱《しか》られるといけないから、トットは見ないように我慢《がまん》した。カメラ・リハーサルが、もう一度あり、とうとう本番になった。夕方、五時半からの、子供も見る番組だった。ナマ本番というのは、時間キッチリに始まるので、どんなことがあっても、待ってはくれない。メーキャップさんが、茶色っぽいスティックを、スポンジで顔に塗《ぬ》ってくれ、トットが普段《ふだん》は、つけてない、口紅も、つけさせられた。ちょっと紫色《むらさきいろ》っぽい口紅だったけど、写ると、これが自然に見える、という話だった。  ところで、その日は、偶然《ぐうぜん》、パパとママが一緒に銀座に行く用があった。そこで、 「じゃ、銀座のあと、どうせなら、トットのテレビをパパとママが喫茶店《きつさてん》で見て、そのあと、トットと、そこで逢《あ》って、三人で食事でもしよう……」という約束《やくそく》になっていた。まだ、個人でテレビを持ってる人は、ほとんどなくて、トットの家も、勿論《もちろん》、なかった。求人広告に「求む家政婦。当方テレビジョン有り」という、今では、嘘《うそ》のような時代だった。喫茶店は、NHKと道路をへだてた、むかいの、フロリダ、と決まった。  本番というのは、恐《おそ》ろしく、ドキドキするもので、F・D(フロアー・ディレクター)が、 「二十秒前! 十五秒前! 十秒前!」  と、始まりの、秒よみ[#「秒よみ」に傍点]を叫び出すと、途端《とたん》に手先が冷たくなり、頭がボーッとして、心臓が音をたて始め、いくら唾《つば》を飲みこんで、のどを下に押《お》しても、心臓が押し上げるのか、のどが、口の外に、出ようとする。ましてや「……九、八、七、六……」と近づいてくると、もう、目の前が暗くなる。「五……四……」……もう、絶対に、時計は止ってくれない。 「三……二……キュー!!(合図)」  始まった。  トットは、それでも、目をしっかりと見開いて、目の前の赤ランプがつくと、すぐ、いった。 「みなさん、今晩は! きょうは、小学校の生徒さんの、楽しい歌とか、踊りとかを、御紹介しましょう。まず麹町小学校三年生の○□△×君の、歌です」  赤ランプが消えた。(ああ、よかった。少なくとも、はじまりは、うまくいった……)深呼吸してから、いそいで、しゃがんで台本を見る。(えーと、次の学校は、四谷小学校、四年生の……)  口の中で何度かくり返しているうちに、カメラが来る、赤ランプがつく。しゃべりだす……。  こんな風に、まん中くらいまで、うまくいった。ところが、思いがけないことが起った。  それは、小学校の男の子が二人で、一枚の羽織《はおり》を着て、二人《ににん》羽織というのをやっている時だった。羽織を着た子の背中に、もう一人の子が入っていて、前の子の口の中に、羽織から出ている後《うしろ》の子の手が、おまんじゅうを入れようとするんだけど、なかなか、うまく、口の所にいかなくて、喰《た》べるほうの子は、指にかみついたり、おまんじゅうがコロコロ、ころがっちゃったり……。始めは、わざとして笑わせてたんだけど、本当に、うまくいかなくなって、しまいには、顔の出てる子が、「ちがうよ! もっと、右!!」とか、後の子にいい始め、後の子はあせるもので、ますます、おまんじゅう持った手が頭にぶつかったり、鼻を押したりして、もう、いつ終るか、わからなくなって来た。トットは、(どうなることか!)と、ハラハラして、見ていた。突然《とつぜん》、トットの目の前に、赤ランプが、パッ!! と、ついた。 「ウッ!」  ……トットは、びっくりした顔でカメラを見た。生徒が、やっている間に、ちゃんと台本を見て、次の子の学校名と名前などを、暗記しておかなくては、いけないのだった。それなのに、おまんじゅうに気を取られていて、見るのを忘れていたのだった。何を次に言えばいいのか、思い出せなかった。台本は、足許にあるけど、もし、取ってみようとすれば、体を、沈《しず》ませなければならない。そうしたら、カメラから、姿が消える……。(ああ、どうしよう……)馴《な》れてる人なら、こんなときに、 「さあ、次は、なんでしょう? 楽しみね、じゃ、どうぞ!!」  なんて、胡麻化《ごまか》すことも出来るけど、何しろ、カメラと真正面に相対したのは、今日が生まれて初めてのトットだもの、どうしようもなかった。(誰《だれ》かが助けてくれるか?)と、思ったけど、F・Dの人は、もう、次の子供のほうに合図しに行ってしまって、あるのは、目の前のカメラだけ。カメラさんの姿は、カメラにかくれて見えなかった。(ああ! 神様……!)それでも、赤ランプは、消えない。 「赤いランプがついてるうちは、写ってるんだからな!!」  ダルマ・ディレクターの声が耳に残っている。 (どうしよう……)  トットは、この間じゅう、ずーっと、困った顔のまま、だまって、カメラのほうを見ていた。 (もう、消えてくだされば、いいのに……)  でも、赤ランプは、ついている。 (こんなに孤独《こどく》な、ものなの?)  トットは、悲しくなった。それと、自分が悪いんだけど、このまま、こうやって、カメラと、にらめっこしてて、どうなるのかしら……?  恐ろしい沈黙《ちんもく》。こういうときの時間が、どのくらいのものか、見当もつかなかった。まるで、五分も経《た》ったか、と、トットは思った。とうとう、トットは、どうしていいか、わからなくて、顔は、カメラにむけたまま、少し、うつむいて、小声で、いった。 「いやんなっちゃう……」  次の瞬間《しゆんかん》、赤ランプが、パッ!! と消えた。トットは、凄《すご》い、いきおいで、しゃがんで、台本を、めくった。そのあと、トットが、どんなに挽回《ばんかい》しようと頑張《がんば》ったか、それは、誰の目にも、はっきりした。  それでも、とにかく時間が来れば、番組は終る。(ああ、終った……)と思った時だった。頭の上のガラス箱《ばこ》のドアを蹴《け》とばすように出て来たダルマ・ディレクターの、世にも恐ろしい声が! 本当に、雷《かみなり》とは、このことか、と思えるような大きな声が、上から落ちてきた。 「お前!! 社会人なんだぞ! なんだ? �いやんなっちゃう�とは!! もう女学生じゃねえんだから。社会人だってこと、忘れるんじゃ、ねーぞ!!」  トットが、どんな絶望的な、暗い気持で、パパとママの待つ喫茶店にむかったかは、いつまでも、ふるえちゃって、止まらない手と、目に一杯《いつぱい》たまった涙《なみだ》が、証明しているようだった。トットが入っていくと、いつものように、ママは、美しい顔で、笑いかけた。ママの黒いベレー帽《ぼう》が、黒いレインコートと、よくマッチしていた。パパが、ママのことを自慢《じまん》するのも、もっともだ、と、トットは、しょげながらも思った。トットは、うつむいたまま、聞いた。 「見た?」 「見たわよ」ママがいった。  パパも、いった。「見たよ」  パパとママにとっては、娘《むすめ》の顔を、初めて、はっきり[#「はっきり」に傍点]、ブラウン管で見たことになるのだった。トットは、恥《はず》かしいのと、がっかりとで、 (どんな顔に写ってた?)  とは、聞けなかった。だから、思い切って、こう、聞いた。 「間違《まちが》ったとこ……わかったでしょ?」  ママは、ちょっと考えてから、いった。 「間違ったとこ? 気がつかなかったけど……」 「本当?」  トットは、少し元気になった。  ママは、うなずいた。 「ええ、気がつかなかったけど……」  トットは、自分に良いほうに解釈した。 (そうか! もしかすると、あれは、NHKのスタジオの中だけのことで、放送には、あそこが写らなかったのかも、知れない……)  さっきまでの心配が、どんどん消えていくようだった。トットは、うれしくなった。 (わかんなかったのなら、他《ほか》は、うまくいったんだもの、わあー!!)  トットは、顔を、あげかけた。そのとき、不意に、ママが、いった。 「それは、いいけど、どうして、あなた、狐のお面、かぶって出たの?」 「え?!」  トットは、ママの言ってる意味が、わからなかった。ママは、気がねしてるような風に、いった。 「そうなの。どうして、狐のお面かぶって、ああいう司会みたいの、やるのかなあ、ってパパとも話したんだけど……」 「狐の、お面?!……」  トットは、何が驚《おどろ》いた、といって、こんなに驚いたことは、なかった。だって、メーキャップだってして、顔は、ちゃんと出して、やったんだもの。トットは、強くいった。 「お面なんて、かぶってないわ!!」  でも、ママは、はっきりした口調で、いった。 「あら、やだ……。かぶってたじゃない……」  トットの、初めての、クローズ・アップは、狐のお面の顔としか、見えなかった。こんな、ショックなことは、なかった。  つまり、その頃の、白黒のテレビの画像は、そんなだった。白と黒のコントラストが強かったし、ブラウン管には、横線が沢山《たくさん》、走ってる。そんなわけで、口は、横に、どんどん長くなって、切れ長の口[#「切れ長の口」に傍点]になり、鼻の先は白いので前に飛び出し、目は、顔の白にくらべて、黒目が強調されちゃって、つり上り……(どっちにしても、緊張《きんちよう》で、つり上っては、いたけれど……)おまけに、肌《はだ》の感触《かんしよく》が出ないから、顔は、固い。その上、髪《かみ》の毛は、真黒[#「真黒」に傍点]で、柔《やわ》らか味は、全くなくて、ギザギザだ。……そんなわけで、家族には、いつも120点をつけるママですら、「狐のお面」と信じて疑わない風に、写っていたのだ、とわかった。  将来、テレビが、カラーになり、例えば、赤ちゃんの顔が、ピンク色で、生き生きと輝《かがや》き、ポチャポチャと柔らかそうで、よだれまで、はっきり見えて、もう、手を出して、さわってみたくなるまでに技術が進むだろう、なんてことを、このときのトットは、想像することも出来なかった。  ただ、今度、また大写しで出ることがあったら、狐のお面をかぶっているようにだけは写らないと、いい! トットには、それだけだった。 [#改ページ]   真似《まね》なんか、してない![#「真似《まね》なんか、してない!」はゴシック体]  今日、トットは、これまでの自分の人生で、こんなに悲しく、また屈辱《くつじよく》的な気持を味わったのは、初めてだ! というような目に、あってしまった。午後、ラジオのガヤガヤの仕事が終り、第一スタジオ(一スタ)から出て来たところで、トットは、放送劇団の一期生の男優のIさんに呼びとめられた。Iさんとは、いままで、一緒《いつしよ》のスタジオだった。そして、トットたちは、ガヤガヤだけど、勿論《もちろん》、Iさんは、主役だった。 「ちょっと、話がある。この本読室、空《あ》いてるから、ここでいい」Iさんは、一スタの前の本読室のドアを開けて入った。トットは、(なんだろう?)と思ったけど、大先輩《だいせんぱい》が話がある、というのだから、ついて入った。ガランとした薄暗《うすぐら》い本読室だった。すわって話、するのか、と思ったら、赤ら顔に眼鏡を光らせたIさんは、立ったまま、いきなり、いった。 「なんだ! お前の日本語は!」  いきなり、お前の日本語は、なんだ! と言われても、外国人なら、何か言うことがあるかも知れないけど、日本人のトットには、何と答えたらいいのか、答えようが、なかった。トットは、オロオロした風に、Iさんを見た。Iさんは、いかにも不愉快《ふゆかい》そうに、たたみかけるように、 「それでも、日本語か?」  といった。トットは、こわかったけど、相手の言おうとしてる意味をわかりたかったから、一生懸命《いつしようけんめい》、おねがいをする調子で聞いた。 「私の日本語、おかしいんですか? どういう風にですか?」  Iさんは、ニベもなく、答えた。 「どういう風にも、こういう風にも、日本語として、ヘンなんだよ! 全部が!」  トットは、だまってしまった。トットのしゃべりかたは、昔《むかし》から、しゃべってる自分の、しゃべりかたで、そんなに、ヘンとは、思ってなかった。パパもママも、ヘンとか、おかしいとは、別に、いわなかったし。だけど、全部が、ヘンだと、いま、目の前のIさんは、いっている。たしかに、これまでの放送劇団の人達《ひとたち》の、しゃべりかたと違《ちが》うことは、トットにも、わかっていた。でも、同期生の人達だって、みんな、同じように、しゃべってるし、「しゃべりかたが早い!」と、トットは、ディレクターに、よく叱《しか》られるけど、ふだんは、みんなだって、そのくらいの早さで、しゃべってる。ただ、みんなは、ラジオ・ドラマの時は、ふだんより少し、ゆっくりにするけど、トットは、ふだん、自分が、しゃべってるままの速度で、しゃべる。だから、「早い」といわれちゃう。そういうことは、わかっていた。でも、現代の若い女の子の役だったら、ふだんのままで、いいのではないか? と、トットは、考えていた。だから、Iさんが、もし、 「セリフが早すぎる!」  と言ったのなら、自分の意見を伝えることも出来た。でも、日本語が、全部、ヘン、となると、これは、大問題だった。一応、東京放送劇団の俳優は、訛《なまり》が無い、ということが条件で、その点、トットは、東京に生まれて育ったので、訛は、なかった。(……ヘン、て、どういうことなのかなあ……)トットは、とても心細くなって、早く、ここを出たい、と思った。でも、目の前のIさんは、とても、出してくれそうもなかった。 (�お前は下手だ!�とか、�しゃべる態度が悪い�とか、�早すぎて、いってる事が、わからない�と、いってくれたら、確かに、そういうところがあるんだし、直しもする)  でも、Iさんの言ってることは、そういうことじゃ、ないらしかった。 (それにしても、私は新人で、下手だし、確かに、ヘンなとこもある。ですから、なんとか、ふつうの人のように、やれるように、勉強しますから……)と、トットが、いおうと思っているとき、Iさんは、トットが、ゾッ! とするような、はきすてるような口調で、こういった。 「とにかく、お前の日本語、全部、明日《あした》っから、直してくるんだな!」 (直す? 生まれたときから、何十年も、しゃべってる、私の、この言葉を、全部、直せって?)  トットは、気が転倒《てんとう》した。そんなこと、出来っこ、なかった。だって、これは、私の、自分の、しゃべりかたで、自分のもの。一体、直して、どんな風に、しゃべれば、いい、と言うのだろう。でも、次のIさんの言葉を聞く前だったから、トットは、オロオロしながらも、ちゃんとしていた。ところが、次に、Iさんは、こういったのだった。トットが、一生忘れることが出来ない! と思った、この言葉を。 「中村メイコの真似でも、してやがんのか?」  放送界に、うといトットでも、中村メイコさんの名前は、知っていた。でも、ラジオの声を聞いたことも、それまで、なかったし、テレビでも、まだ一緒に出るようになる前で、どんな芸風の、どんな喋《しやべ》りかたを、する人なのか、知らなかった。  それに、知っていた、としても、自分らしくないことをするのが、どんなに恥《はず》かしいか、トットは小さい時から知っていたから、するはずがなかった。その人間だけが持っている、個性を、早く、小さいうちに見つけて、それを、のばす、という、トモエ学園の小林校長先生の教育方針の中で育って来たトットは、自分のものは、それが、ヘンでも、大切だ、と思って来た。それなのに、 「誰《だれ》かの真似を、するつもりか?」  と、いわれた。トットは、もう少しで、涙《なみだ》が溢《あふ》れそうになるのを、我慢《がまん》して叫《さけ》んだ。 「真似なんか、してません!」  Iさんは、 「とにかく、聞いちゃいられねえんだ!」  と、いい捨てて、部屋を出て行った。 「真似をしてる? 真似をしてる? 真似をしてる?」  体中が、悲しみで、ふるえた。涙が、とめどなく、流れた。どんな汚《きた》ない言葉で、ののしられても、我慢は、出来た。「ヘンな子ね」と、馬鹿《ばか》にしたみたいに先輩に笑われても、こらえてきた。でも、「誰かの真似をしてる」と、いわれたことは、トットにとって、耐《た》えられないことだった。そういうことをいう大人の人がいる、ってこと、トットは、知らないで、育ってきてしまった。  それから二時間、トットは、真暗な中で、本読室のコンクリートの壁《かべ》を、こぶしで叩《たた》きながら、一人で泣いていた。 「真似なんかしてない! 真似なんかしてない!」  と、くり返しながら……。 [#改ページ]   スージーちゃん[#「スージーちゃん」はゴシック体]  今日のテレビの本番は、思ってもいない結果に終った。でも、始めの予想では、うまく、いくはずだった。上野動物園のスター、チンパンジーの、スージーちゃんが、テレビ特別出演で、いろいろな彼女《かのじよ》の芸を披露《ひろう》することに、なっていた。それも、ただ、出て来て、何かを見せるのではなく、ドラマ形式になっていて、スージーちゃんは、ホテルに泊《とま》る、お金持のお客さんの役。そして、番組のフィナーレでは、ステージで、踊《おど》りも見せることになっていた。トットは、ホテルのボーイの役で、スージーちゃんの泊ってる部屋に、お食事を、おとどけする、という役目だった。それでも、部屋の中で、直接、スージーちゃんと、二人だけで向い合うことになるので、彼女に馴《な》れて頂くために、トットは、ディレクターに連れられて、上野動物園に出かけた。園長さんの部屋が、会見の場所だった。  小さいときから、動物が好きなトットは、チンパンジーとは、直接、逢《あ》った事は、なかったけど、とても、たのしみだった。こわいとか、気持わるい、とかいう気持は、なかった。他《ほか》にも、数人、俳優さんが行った。園長室で待っていると、スージーちゃんが、飼育係《しいくがか》りの男の人に手をひかれて、部屋に入って来た。ベージュ色の毛糸で編んだ、可愛《かわい》いワンピースを着ていた。ドアが開いて、スージーちゃんが、チラリ、と見えただけで、トットは、 (わあー、可愛い!)  と思った。本当に、三|歳《さい》くらいの子供のようだった。とても、お行儀《ぎようぎ》よく歩いて来た。スージーちゃんは、部屋に入ると、突然《とつぜん》、飼育の人の手を放し、手で漕《こ》ぐような恰好《かつこう》で、大急ぎで走って、トットの目の前まで来た。まわりにいた俳優さんの中には、「キャッ!!」と言って、飛びのいた人もいた。スージーちゃんは、まん丸い、まっ黒な目で、トットを見た。それは、人間の子供と、どこも違《ちが》わないように、トットには見えた。部屋の中には、トット以外にも、人が居るのに、いきなり、トットの目の前に、スージーちゃんが来たので、トットは、びっくりした。スージーちゃんは、小さな手を、トットのほうに、さし出した。黒いけれど、指の長い、品のいい手だった。トットは、なんだか、わからないけど、自分も手を出して、 「コンニチハ」  といった。次の瞬間《しゆんかん》、もう、スージーちゃんは、トットの膝《ひざ》の上に、チョコンと、すわった。みんなは、ドアから一歩、入ったか、入らないかで、もう、動物好きな人が、わかったのだと、スージーちゃんの勘《かん》に驚嘆《きようたん》した。トットも、一時は、びっくりしたけど、うれしかった。 「お母さんだと思ってるんじゃない?」  と、ディレクターが言ったので、みんなが、ドッと笑った。(これなら、大丈夫《だいじようぶ》!)みんなが安心した。  NHKでのリハーサルも順調で、とうとう、本番の日になった。スージーちゃんが、どういう芸を見せるのか、というと、ホテルの上等の部屋で、スージーちゃんが、まず、お化粧《けしよう》をする。手鏡を持って、口紅を塗《ぬ》り、白粉《おしろい》の丸い箱《はこ》の中からパフを出して、鼻の頭にパタパタとやって、次に櫛《くし》で頭をとかして、出来上り。その頃《ころ》、ボーイ役のトットが、トントンとドアをノックして、 「失礼いたします」  といって入って、バナナや、リンゴの、のっているお盆《ぼん》を、テーブルの上に置く。スージーちゃんは、そのバナナを一つ手にすると、ソファーに座《すわ》って、丁寧《ていねい》に皮をむいて喰《た》べ始める。そうすると、トットが、 「では、失礼いたします」  といって、部屋を出る。トットの役は、そこまでだった。そのあと、他の、男のボーイの役の人が、鍵穴《かぎあな》から中の様子をのぞいてみると、スージーちゃんも、むこうの鍵穴から、のぞいてるといった、いろいろのギャグがあった。そして、最後が、ステージでの踊り……ちょっと、�どじょうすくい�みたいのだけど、とにかく音楽に合わせて踊る……という、芸達者なチンパンジーでなければ出来ない、ストーリーだった。  カメラ・リハーサルも上々の出来だった。そして、ナマ本番になった。  小さな丸い帽子《ぼうし》をかぶって、ページ・ボーイ風の衣裳《いしよう》を着たトットは、バナナとリンゴをのせたお盆を持って、ドアの外に立ち、キューを待った。中では、スージーちゃんが、うまくお化粧してるはずだった。ところが、思ったより、キューが遅《おそ》い。トットは、あせった。 (大丈夫かしら? フロアー・ディレクターが、私にキューを出すこと、忘れてるんじゃないかしら?)でも、うっかり、中をのぞきに、まわりこんだとき、キューが来たら、間に合わない。やきもきしていると、何故《なぜ》か、フロアー・ディレクターが、床《ゆか》を、よつんばいに、はいずりながら、トットのところに来た。そして、ささやくように、いった。 「とにかく、なんとか、よろしくね!」 「え?!」  トットが、 「なんですか?」  と、いう暇《ひま》もなく、背中を押《お》された。仕方なく、ドアをノックして、中に入り、 「失礼いたし……」  と、いいかけたとき、目の前に、真白な、粉の固まりみたいなものが、飛んできた。一瞬、それが、何だか、トットには、わからなかった。でも、よく見ると、それは、白粉を、頭から、かぶった、スージーちゃんだった。F・Dさんが、 「なんとか、よろしく」  といったのは、このことだったのか、と、トットは、了解《りようかい》した。(それにしても、パフで、鼻の頭をパタパタはたくはずが、どうしたのかしら?)と思ってると、スージーちゃんは、その真白な、粉の固まりみたいな体で、また、鏡の前に飛んで行き、パフをつかむと、頭の天っぺん[#「頭の天っぺん」に傍点]に、更《さら》に、パタパタと、やった。それから、口紅を手にとると、口のところに持って行き、歯で噛《か》んで、口紅を、のみこんでしまった。それから、唖然《あぜん》として立ってるトットのところに、走って来た。それは、もう、初めて逢った日の、小さい女の子のようではなく、小さいモンスターのようだった。トットは、どうしたらいいか、わからないけど、逃《に》げるわけにも、いかないので、お盆をテーブルに置き、バナナを一本、手にとって、 「どうぞ、召《め》し上って下さいませ」  と、渡《わた》そうとした。ところが、それより早く、スージーちゃんは、バナナをトットの手から、ひったくると、皮もむかずに、バナナに、かみつくと、次に、ポーンと、遠くのほうに、放《ほう》り出した。トットは、必死で、スージーちゃんを、なだめに、かかった。 「なにか、ご機嫌《きげん》が、お悪いようで……」  出来るだけ、やさしい声で、いったけど、スージーちゃんには聞こえないらしく、次々とバナナや、リンゴを、放り投げ、最後には、お盆も、投げてしまった。 (どうしたらいいの?)  F・Dさんは、次々と、いろんなサインを出すけれど、どれとして、トットには、意味が、わかるものは、なかった。そのうち、スージーちゃんは、どんどん部屋のセットから出て、カメラ方向に歩き出した。トットは、少し追いかけたけど、本来なら、そこには、部屋の壁《かべ》が、あるはずなのだから、(どうしたものか?)と考えた。その、さなかに、トットは、とても、おかしいものを見た。それは、ドアの鍵穴から覗《のぞ》く、例のボーイの役の人が、腰《こし》をかがめ、鍵穴を覗いてる恰好《かつこう》で、キューを待っている姿だった。その俳優さんに、大岡先生は、前から�ビキニの灰�という渾名《あだな》をつけていた。それは、�どこに降るかわからない�という意味で、そのくらい、この俳優さんは、本番での、出入《ではい》りが、いい加減で、セリフも、よく、トチった。その人が、今日に限って、用意よく、鍵穴から、のぞいているから、トットは、(おかしい!)と思ったのだった。だって、部屋の中には、もう、誰《だれ》もいないのに……。  このあと、スージーちゃんは、すべてのギャグを、カットして、何かに使う予定で、スタジオの隅《すみ》に置いてあったザルに入った、南京豆《ナンキンまめ》を、スタジオの床に、まき散らした。カメラは、この南京豆に、ひっかかって、動きが、とれなくなった。F・Dさんは、南京豆の上で、すべって、ころんだ。スタジオの中は、もう、大混乱だった。そして、スージーちゃんは、フィナーレに、誰も思いつかないことを、考えた。それは、カメラの上に、よじのぼることだった。NHK一、といわれるカメラさんが、どんなに、グルグル廻《まわ》したり、移動させても、自分のカメラの上に、のっかってるスージーちゃんを撮《と》ることは、出来なかった。スージーちゃんが居ないので、ステージの上でウロウロしてる、司会者を撮っていたカメラが、大急行で、Uターンして、カメラの上の、スージーちゃんに、ピントを合わせた。  その途端《とたん》、粉まみれのスージーちゃんは、みんなを見廻すと、パチパチと、拍手《はくしゆ》をした。そして、放送は終った。世にも、滑稽《こつけい》で、皮肉なドラマが、終った。  トットには、そのとき、どうして、スージーちゃんが、こんなに荒《あ》れたか、その理由が、はっきり、わかっていた。  それは、休憩《きゆうけい》時間や、カメラ・リハーサルのとき、みんなが、スージーちゃんのスカートを、まくって、ちゃんと、毛糸で編んだピンクのパンツを、はいてるのが面白《おもしろ》い、といって、何度も何度も、見たからだった。 「さわらないで下さい」  と、飼育のかたも言い、スタッフも注意してたけど、いろいろの出演者や、技術の人達《ひとたち》が、可愛いからもあるけど、やっぱり、面白いので、かわるがわる、まくったのが、スージーちゃんの、気にさわり、興奮して、ああいう事になってしまったのだった。トットは、一度も、スージーちゃんに、さわらなかった。勿論《もちろん》、さわりたかったけど、自分だって、知らない人に、いじくり廻されたら、いやだから、きっと、チンパンジーだって、いやだろう、と思ったからだった。それと、トットの小学校の小林校長先生は、いつも、 「動物を、だましちゃ、いけないよ。性質が悪くなるからね」と、生徒に言っていた。だから、みんなが、スカートを、まくるたびに、トットは、 「よしたほうが、いいのに!」  と思ったけど、注意をするにしては、全部の人が、トットより、先輩《せんぱい》だった。チンパンジーの、かわりに、 「やめて下さい!」  と、大きい声でいえなかった自分を、トットは、口惜《くや》しい、と思った。もし、有名なら、いえるのに。有名とか、スターには、それまで、なりたい、とは思っていなかったけど、このときは、そうじゃないことを、本当に、残念に思った。スージーちゃんにも、申しわけない、と思った。  粉まみれのまま、スージーちゃんは、飼育の人に抱《だ》きかかえられ、トットに、 「さよなら」  も言わずに、帰ってしまった。  その日、トットは、ずーっと、悲しかった。 [#改ページ]   踏《ふ》まないで下さい[#「踏《ふ》まないで下さい」はゴシック体]  トットは、テレビスタジオの、まん中に立って、目をこらし、みんなの足許《あしもと》に、注目していた。誰《だれ》かが、カメラのケーブルの上に、のったり、踏んだり、していないように。  テレビカメラには、長くて、太いケーブルが、ついていて、電源に、つながっている。時には、蛇《へび》のように、スタジオの床《ゆか》に、とぐろを巻いてるときもあり、また、カメラマンが、大急ぎで、カメラを押《お》して走ると、ケーブルも、どんどん、のびるので、ぼんやり立っていると、それに足をとられて、ひっくり返る人もいる。だから、それぞれのカメラには、アシスタントがいて、ケーブルが、もつれたりしないように、とか、カメラが、このケーブルの、のび[#「のび」に傍点]が悪いため、先に行かれなかったりしないように、とか、立ってる人や、セットを、ひっかけないように、と、注意して、ケーブルを手に持って、さばくのが、仕事だった。  ところで、トットは、このカメラのケーブルの上に、のったり、踏んだりしてる人を見ると、 「すみません。それ、踏まないで下さい」  と、頼《たの》んで歩いた。みんなは、不思議そうな顔で、トットに聞いた。 「なんで、そんなこと、頼むんだい?」  トットは、教わった通りに、答えた。 「だって、これ踏まれてると、私の顔が、つぶれて写る、って聞きましたから」  本当に、そう思ってたから、トットは、大《おお》真面目《まじめ》だった。ところが、スタジオ中の、みんなは、ドッと笑った。……トットは、だまされていたのだった。この間、カメラのアシスタントの男の子が、ケーブルを指して、 「これ踏むと、顔が、つぶれて、写るよ!」  と、トットに言った。自分の顔が、面長《おもなが》では、ないにしろ、思いなしか、横ひろがりに写るらしい、と、感じていたトットにとって、これは、とても有難《ありがた》い忠告だった。だから、自分が写るときには、誰かが踏んでいないように、気をつけなくちゃ、と思っていたのだった。でも、そういえば、一度、映画から来た、奇麗《きれい》な女優さんが出たとき、(勿論《もちろん》、リハーサルの時だったけど)トットが、ちょっと、誰にも見られないようにケーブルを踏んでみたけど、モニターに写った美しい顔は、決して、つぶれたようには、ならなかった。そのとき、 (おかしいなあ!)  とは、思ったけど、だまされてる、とは、思っていなかった。ケーブルを踏むと、悪く写る、と、本気にしていた。 (この前のように、狐《きつね》のお面を、かぶったみたいに、写っては、困る!)それと、自分でも、自分のことを奇麗とは思っていないけど、これ以上に悪く写っては、テレビジョンを、ご覧《らん》の皆様《みなさま》に、ご迷惑《めいわく》だ!……そんな思惑で、今日も、誰かが、ケーブルを踏んでいるのじゃないか? と、スタジオの中を、かけ廻《まわ》って、お願い、したのだった。  ケーブルが関係ない、と、わかったとき、トットは、安心もした。でも、反面、自分が悪く写っても、それが、誰のせいでもない、という現実にぶつかって、トットは、人には言えない、心細い気分にも、なったのだった。 [#改ページ]   ヤン坊《ぼう》 ニン坊 トン坊(㈵)[#「ヤン坊《ぼう》 ニン坊 トン坊(㈵)」はゴシック体]  NHK始まって以来、最初の、大がかりな、「オーディション」というものが行われることになった。「オーディション Audition」今では、テレビでも、劇場でも、映画でも、出演する人を審査《しんさ》するとき使われる、この言葉も、もともとは、ラジオのための、ものだった。  広辞苑《こうじえん》によれば、「放送番組の試聴《しちよう》。また、歌手・俳優などを登用する際の聴取テスト」英語の字引きにも「聴力。歌手の試験。歌手、放送員の聴取審査。また審査すること。受けること」とあり、語源的には、�聴《き》く�ことから始まったもののようだった。当時としては誰《だれ》にとっても、全く、初めて聞く言葉だった。  ある日、「オーディションがあります。ラジオの第二スタジオに集って下さい」という伝票が、トット達《たち》五期生の女性|宛《あて》に、配られた。(なんのことだろう?)とにかく、当日、トット達が第二スタジオに行くと、もう、かなり沢山《たくさん》の、女優さんらしい人が、来ていた。一つのグループは、十人くらいで、それは、文学座の人達だった。 「ほら、あの目の大きい人が、岸田《きしだ》今日子《きようこ》さんよ」と、五期生の誰かが、小声で話していた。他《ほか》にも、いろいろな劇団から、とか、個人で、とか、若い女優さんが、沢山、来ていた。NHKの人の、簡単な説明が始まった。 「NHKでは、戦後、子供も大人も一緒《いつしよ》に聞ける連続番組に力を入れて来ました。まず、アメリカの占領下《せんりようか》では、CIE(民間情報教育局)の要請《ようせい》で、浮浪児《ふろうじ》たちが元気で生きていく物語『鐘《かね》の鳴る丘《おか》』占領が終ってその後《あと》が、古川緑波《ふるかわろつぱ》主演で、楽しい『さくらんぼ大将』そして、この四月からは、全く新らしい番組を始めることになりました。題名は、 『ヤン坊 ニン坊 トン坊』  これは、インドの王様から、中国の皇帝《こうてい》に献上《けんじよう》された、三|匹《びき》の白い高貴な子供の猿《さる》が、中国を抜《ぬ》け出して、故郷のインドにいる両親の許《もと》に帰るまでの、冒険《ぼうけん》物語。歌が沢山はいった、楽しい、夢《ゆめ》のある放送劇です。そして、このオーディションの最大の目的は、 『大人《おとな》で子供の声の出せる人』  という事。作者の飯沢匡《いいざわただす》先生は、子役を使わずにやりたい、脚本《きやくほん》を、本当に理解し、感情を表現して演じる、ということは、子供には難かしいし、スタジオで、学校の宿題をやったりしてるのを見るのは、子供が気の毒でたまらない。まして、これは、ナマ放送の上に、歌が何曲もあるので、子供には無理だろう、と、おっしゃってます。それで、今までに、ないことですが、大人の女性の皆さんに、男の子の声を出して頂いてみることにしました」  それまでは、ほとんど、子供の声は、子供に限っていた。それを、大人で子供の声を出せる人を探して、やってもらう。そういう事だった。今では、アニメ映画や、外国映画のアテレコに大人が子供をやるのはあたりまえで、むしろ、本当の子供がやるのが珍《めず》らしいくらいだけど、そのときのNHKでは、「これは、大冒険で、かなりの反対もあったけど、飯沢匡先生の強い希望であるので、イチかバチか、やってみようと思う」ということも、その人は、つけ加えた。なお、役に合った声が必要なので、審査員になまじ、顔を見せないほうがいい、という事で、ガラス箱《ばこ》のむこうの副調整室と、マイクの前に立つ女優とは、厚い木の、ついたてが、遮断《しやだん》した。  審査員には、作者の、飯沢匡先生、作曲の、服部正先生、トット達五期生のラジオ・ドラマの先生でもあるNHKの演出家の中川忠彦先生。そして、直接、この番組を演出することに決まった教養部の中村文雄さん、飯沼一之《いいぬまかずゆき》さん。プロデューサーの入江俊久さん、と、知らされた。勿論《もちろん》、トットは、中川先生以外、その中の、誰一人として、逢《あ》ったことは、なかった。  歌の譜面《ふめん》と、三ページ分くらいの、セリフのやりとりを書いた台本が渡《わた》された。歌の伴奏《ばんそう》のために、女の人が、ピアノの、前に、すわった。NHKの人は、だいたいの見当で、 「あなたは、一応、ヤン坊をやってみて下さい」とか、 「ニン坊から、やってみて下さい」とか、決めた。トットは、「トン坊」を、やりなさい、といわれた。  三匹の白い子猿の性格は、テーマソングで、表現されていた。 ※[#歌記号、unicode303d]ヤン坊 ニン坊 トン坊  しっかりものの ヤン坊  あばれん坊の ニン坊  かわいいチビ助 トン坊  トットは、子供の声なんて出してみたことはなかったけど、台本を読んでみると、自然に出るような気がした。そして、トットが、とても気に入ったのは、小さいトン坊が、ねるとき、誰も歌ってくれないので、自分で、自分を眠《ねむ》らせるための「子守唄《こもりうた》」を歌うとこだった。 ※[#歌記号、unicode303d]トン坊 トン坊 おやすみよ  トン坊 早く おやすみよ  ニッコリ ニッコリ お月様  風と馳《か》けっこ 白い雲  押《お》しくらまんじゅうの お星様  眠れば みんな お友達  遊びましょうよ と 待っている  トン坊 トン坊 おやすみよ。  服部正先生の子守唄のメロディーは、美しく、哀《かな》しく、優《やさ》しかった。  トットは、そのとき、ふと、パパのことを想《おも》った。小さいとき、いつも寝《ね》つくまで、トットに、子守唄を歌ってくれたのは、パパだった。ヴァイオリニストにしては、音程が不確かだったけど、いつまでも歌ってくれた。少し大きくなってからは、寝つくまで、ベッドのそばで、童話や、世界の名作……「クオレ」だとか「小公子」だとか「家なき子」といったものを読んでくれたのも、パパだった。あまり上手な読みかたでは、なかったけど、毎晩、読んでくれた。  オーディションは能率よく、すすんでいた。 [#改ページ]   ヤン坊《ぼう》 ニン坊 トン坊(㈼)[#「ヤン坊《ぼう》 ニン坊 トン坊(㈼)」はゴシック体]  そして、NHKはじまって以来、という、大がかりなオーディションは、終った。トット達《たち》のような新人は、他《ほか》にいなくて、みんな、もう放送に馴《な》れてる女優さん達だったから、万事、スムースに進んだ。でも、セリフは上手だけど、「私、歌の譜面《ふめん》、すぐ読めないのよ」という人も、中にはいた。トットは、何もかも、人より秀《すぐ》れてるところは、なかったけど、音楽学校を出ているから、楽譜を、その場で見て、すぐ歌う訓練は、出来ていた。だから、「困った困った……」といってる、どこかの女優さんに、少し教えてあげたりした。考えてみると、オーディション、というのは、誰《だれ》もがライバルであるはずなのに、トットは、同じドキドキの苦しみを味わった同士、といった親しみを、みんなに感じていた。 「トン坊を、やって下さい」  と、いわれていたトットは、とにかく、出来る限り、小さい男の子のような声を出してみた。一年間のNHKの養成期間に、こういう訓練はなかったけど、有難《ありがた》いことに、主役をやれなかったおかげで、いろんな変った役を勉強したので、どんな風にやれば、どんな声が出るか、見当がついていた。トットがトン坊をやるときは、勿論《もちろん》、ヤン坊とニン坊をやる人と、一緒《いつしよ》だった。でも、一通りやると、係りの人が、トットに、 「あなたは、もう一度、トン坊を、やって下さい」といって、違《ちが》う、ヤン坊やニン坊を、トットのいるマイクのところに連れて来た。そして、その係りの人は、耳につけてるレシーバーで、ガラスのむこうの副調整室からの指令を聞くと、その場で、ヤン坊とニン坊の役を、とりかえて、 「もう一度、はじめから、お願いします」  といったりした。それは、トットと同期生の誰かのときもあれば、すでに有名な女優さんの時もあった。トットは、思った。 (いいなあ、みんなは、ヤン坊だの、ニン坊だの、いろいろ、やれて。私は、もしトン坊が、よくなかったら、落ちて、それで、おしまい!)  でも、これまで、何度となく、通行人の役を降ろされたり、日本語がヘンだから、直して来い! と、先輩《せんぱい》にいわれたり、ディレクターに無視されたりが、あたりまえのようになっていたから、 (あまり、多くは、望むまい!)  と、決心していた。でも、本当のことを言って、絵本や童話を、自分の子供に上手に読んでやるお母さんになる予定で、NHKに入ったトットだもの、この、「ヤン坊ニン坊トン坊」のような番組が、もし、やれたら、それは、 (夢《ゆめ》が、かなったことになるのに……)  と、ひそかに思っていた。  それから、また別のヤン坊ニン坊が何度か来て、そのたびにトットがトン坊をやって、とうとう、オーディションは、終った。係りの人は、 「しばらく、お待ち下さい」  といって、副調整室に入っていった。  厚い木の、ついたてが、ガラスのむこうの審査員《しんさいん》と、スタジオのトット達を、相変らず仕切っていた。だから、中で、いま、何が行われ、どんな人が、なにを言ってるのか、全く、わからなかった。スタジオの中は、誰も彼《かれ》もが、一生懸命《いつしようけんめい》やった、とわかる紅潮《こうちよう》した顔で、だまって、腰《こし》かけていた。でも、お互《たが》い、この初めてのオーディションというものを一緒にやり、いま、�結果を待つ�という心細さ、というか、競《きそ》い合ってるという恥《はず》かしさ、というか、同時に、スリルを味わっている、という複雑な思いでいた。だから、顔を見合わすと、誰かれなく、やさしく、ほほえみあったりするのが、一寸《ちよつと》、悲しい、と、トットは思った。ただ、女優のオーディションというのは、優劣《ゆうれつ》よりも、その役柄《やくがら》に、合うか[#「合うか」に傍点]、合わないか[#「合わないか」に傍点]が、まず、第一、という事が、まだしも他の社会の競争にくらべて、気が楽だった。  七、八分して、係りの人が、紙を持って入って来て、いった。 「では、これで、オーディションを終ります。御協力ありがとうございました。役が決まりましたので、お伝えします。  ヤン坊、文学座の、宮内順子さん  ニン坊、同じく文学座の、西仲間幸子《にしなかまさちこ》さん  トン坊、NHK劇団の、黒柳徹子さん  以上です。みなさん、本当に、ありがとうございました。また、よろしくお願いします」  トットは、立ち上ったけど、何もいえなかった。トットの同期生の五期生のみんなが、そばに来て、「よかったわね」と、口々に、いってくれた。他の女優さん達も、みんな立ち上り、それぞれ、さよならを言ったり、解放された感じで、話し始めた。トットは、だまって、立っていた。トットにくらべると、お兄さん役のヤン坊とニン坊になる、文学座の二人は、大人っぽく、新劇の女優さんらしく、さっぱりとした、立居振舞《たちいふるまい》だった。係りの人が、 「それじゃ、作者の飯沢匡先生、作曲の服部正先生、それから�ヤン坊ニン坊トン坊�の、実際の担当者たちを紹介《しようかい》します」  と、いった。そのとき、トットは、初めて、今まで、ついたてのむこうにいた審査員を、見たのだった。  その日、トットは、その頃《ころ》の一張羅《いつちようら》を着ていた。白い小さい衿《えり》のグレーの無地のシャンタンの身頃《みごろ》に、グレーに白の大きな水玉の、やはりシャンタンの、ふくらんだフレアー・スカートの、ワンピースだった。髪《かみ》は、ポニー・テールで、頭のてっぺんには、当時、大流行の、帽子《ぼうし》とも、ヘアー・バンドともつかない、わらじ型[#「わらじ型」に傍点]のものを、のせていた。黒のベルベットだった。同期生の男の子たちは、それを、 「エジソン・バンド」と、呼んでいた。昔、頭を良くするためにと売り出した、エジソン・バンド、というものに、形が似てる、という話だった。  トットは、自分が選ばれた、ということを、うれしい、と思うより先に、とても恐縮《きようしゆく》していた。それに、あとで、選んだ人が、後悔《こうかい》しなければいい、と、オドオドと考えていた。(いつもみたいに、結局は、降ろされたら、どうしよう)とも、思っていた。だから、係りの人が、 「このかたが、作者の飯沢匡先生ですよ」  と、トットに紹介してくれたとき、トットは、おじぎをするなり、必死で、いった。 「私、日本語が、ヘンですから、直します。歌も下手ですから、勉強します。しゃべりかたも、ちゃんと、しますから」  そのとき、飯沢先生が、いって下さったことを、トットは、そのあと、何度も、何度も、思い出した。だって、そんなこと、NHKで、誰一人、いってくれたことが、なかったから。飯沢先生は、にこにこ、しながら、こういったのだった。 「直しちゃ、いけません。あなたの、その、しゃべりかたが、いいんですから。ヘンじゃありません。いいですか? 直すんじゃありませんよ。そのままで、いて下さい。それが、あなたの個性で、それが、僕《ぼく》たちに、必要なんですから。大丈夫《だいじようぶ》! 心配しないで!」  ……それまで、トットの�個性�というものは、みんなの邪魔《じやま》だった。 「君の、その個性、なんとか、なりませんか。ひっこめて、もらえないかねえ」と、いわれ続けてきた。「ひっこめて」と言われても、どうしたらいいのか、トットには、わからなかった。でも、とにかく、 (ふつうの人のように、どうしたら、なれるかしら?)と、つとめて来た。それなのに、飯沢先生は、 「そのままで、いて下さい」と、いって下さった。トットは、急には信じられなかった。でも、胸の底から、うれしさが、こみあげて来た。たった一人でもいい、トットの個性を、必要とする人に、逢《あ》えたんだもの。  飯沢匡、という人について、トットは、何も知らなかった。  丁度、このとき、昭和二十九年、飯沢先生は、朝日新聞を、やめた。それまでの、ジャーナリストと、劇作家、という二つの仕事を、一つに、しぼるためだった。そして、この年、文学座のために書いた「二号」という芝居《しばい》で、第一回岸田演劇賞を、受賞した。  トットが、トン坊に決まったニュースに、有頂天《うちようてん》になった大岡先生は、トットに、こう、耳うちした。 「放送界には、真船《まふね》(豊)上皇《じようこう》、北条(秀司《ひでじ》)天皇が、いらっしゃいますが、飯沢先生は、別格で、ハイカラでも、いらっしゃるので、飯沢|法王《ポープ》、と、私どもは、かげで、お呼びしてるんでございますよ。それと、やはり、忘れては、いけないことは、飯沢先生が、世界で最初に、原爆《げんばく》の写真を、雑誌に、のせたかた、ということで、ございましょうね」  戦後すぐ、アサヒグラフの編集長になった飯沢先生は、日本がアメリカから独立した日に、それまで、机の引き出しに、かくしてあった、広島の原爆の写真を、アサヒグラフに、のせた。これが、世界に最初に紹介された、原爆の恐《おそ》ろしさだった。日本人も、それまで、見たことのない、原爆の、写真だった。外国からも、増刷の注文が殺到《さつとう》した。 「一見、やさしそうに見えるけど、こわいかたです」  と、大岡先生は、小声でいい、 「それにしても、トットさまのデビュー作品が、飯沢先生で、本当に、よろしゅうございました」  と、つけ加えた。トットも、そう思った。  こうして、トットの、本当の意味のデビューは、この、「ヤン坊ニン坊トン坊」と、決まった。そして、放送が始まった。ところが、第一週目で、ヤン坊の宮内順子さんが、文学座の旅公演と、ぶつかって、続けられなくなり、ちょっとして、ニン坊の、西仲間さんが、赤ちゃんが出来て、お休みをしなくちゃならなくなり、配役は、こう変った。  ヤン坊 NHK劇団の、里見京子  ニン坊 同じく    横山道代  トン坊 同じく    黒柳徹子  そして、この番組は、爆発的にヒットし、この三人は、NHKの三人|娘《むすめ》として、マスコミに、とりあげられ、注目されることに、なるのだった。  でも、もし、トットが、このオーディションに受からず、 「あなたの、そのままが、いいんです」  という、飯沢先生に逢わなかったら、恐らく、放送界に残ることは、なかったに、ちがいない。いくら元気で、楽天的なトットでも、ヘンとか、邪魔、という圧倒《あつとう》的な声に、自信を失って、きっと、他の道を探して、歩いて行ったに、違いなかった。 [#改ページ]   にわとり[#「にわとり」はゴシック体]  テレビのナマ放送というのは、本当に、思いがけないことが起る。今日も、そうだった。トットは、東北の農村の娘《むすめ》の役で、お祖父《じい》さんは、左卜全《ひだりぼくぜん》さんだった。 「ヤン坊《ぼう》ニン坊トン坊」での、デビューということで、通行人の役より少し、いい役をするように、なっていた。この娘は、都会に憧《あこが》れていて、今日も今日とて、自分の家の縁側《えんがわ》に立って、 「絶対に、東京サ、行ぐのだ!」  と祖父に、いった。庭先には、にわとりが、コッコッコッ! と、餌《えさ》をついばんでいる、のどかな、田舎《いなか》の風景のシーンだった。そして、次のシーンは、とうとう、トットの役は、上京し、小さなアパートに、住み始める。心やさしい娘だから、机にむかって、故郷のお祖父ちゃんに、手紙を書く。トットの、その手紙を読む声が、手紙の字に、だぶる……。 「私は、元気でいます。東京サ住むのは、大変ですが、頑張《がんば》っています。おじいちゃんも……」  そこまで書いたとき、どういうわけか、田舎にいるはずの、にわとりが、トットのアパートの部屋を、コッコッケーッ! と、いいながら、横切った。ドラマの中では、遠くはなれた故郷も、スタジオの中では、隣《とな》りだった。それにしても、田舎にいるはずのにわとりが、東京の、トットのすわってる後ろを、コッコッケーッ、といいながら、ヒョコヒョコ歩いていく、というのは、どうしても、おかしかった。トットは、なんとか胡麻化《ごまか》そうと、一段と大きい声で、手紙を読み続けた。 「おじいちゃんも、元気で、いて下さーい」  何を思ったか、にわとりは、トットのその声に合わせて、更《さら》に大きく、 「ケッケッ!」  といって、そのまま、横切って、行ってしまった。トットは、笑いたかったけど、知らん顔をするのが、一番! と思ったので、手紙を書き続けた。その途端《とたん》、アパートのセットの外で待ちかまえていた小道具さんや、F・Dさんだのが、一どきに、にわとりを、つかまえにかかったらしく、 「この野郎《やろう》!」  という押《お》し殺したような声と、にわとりの、 「ケーケッケッケッ、コキコッケー!!」  という悲鳴と、バタバタとか、ドタドタとか、凄《すご》い物音がした。トットは、目は、手紙のほうにいってたけど、その情景が手にとるように感じられて、ふき出しそうになった。でも我慢《がまん》して、手紙を続けた。そのうち、外に連れ出したらしく、スタジオは、また静かになった。 (やれ、やれ……)  ドラマは、それから、東京で健闘《けんとう》し、少し挫折《ざせつ》もした娘は、結局、田舎に、もどる。最後は、また、始めのシーンと同じに、娘が、縁側に立って、外を見ながら、お祖父ちゃんに、 「ヤッパシ、田舎は、いいねえ」  と、しみじみ、いうところで終ることになっていた。トットが、しみじみ、最後のセリフを言おうとしたとき、トットは、もう、笑わないではいられないものを、見てしまった。それは、さっきの、にわとりが、紐《ひも》で、小包みたいに、グルグル巻きに、しばられて、庭先に、ころがされてる姿だった。恐《おそ》らく、小道具さんが、逃《に》げ出さないように、しばったんだけど、最後に、また庭先にいる、という指定なので、ほどく時間もなかったし、そのままの形で、置いたらしかった。気の強そうな、にわとりは、小包みたいになりながらも、ケッケッ! と、いっていた。  それまで、どんなことがあっても笑うまい、としていたトットだけど、たまらなかった。 「アハハハ……」  と笑ってしまった。何も知らない左卜全さんは、トットの芝居《しばい》が変った、と思ったらしく、あの有名な、口をあけて、 「ホワホワホワ〜〜」  と、一緒《いつしよ》に笑った。トットも、ますます、おかしくなって、笑った。にわとりだけが、ユーウツそうに、  ケッ!  といった。トットは、おかしいのを我慢するために、涙《なみだ》が、いっぱいになった目で、いった。 「ヤッパシ、田舎は、いいねえ」 「終《おわり》」のタイトルが出た。 (やれやれ、もう少しで、不謹慎《ふきんしん》! と叱《しか》られるところだった)  事情を知らないディレクターは、上から降りて来ると、トットに、いった。 「いやあー、最後のとこ、感じが出てて、よかったよ!」  紐をほどいてもらった、にわとりは、羽根をバタバタやると、トット達《たち》の苦労も知らずに、 「コケコッコー」  と、鳴いた。 [#改ページ]   「趣味《しゆみ》、相撲《すもう》」[#「「趣味《しゆみ》、相撲《すもう》」」はゴシック体]  NHKにも、いろんな変ってる面白《おもしろ》い人がいる、って、トットにも、段々わかってきた。一番、トットが気に入ったのは、衣裳係《いしようがか》りの、小池さん、という男の人だった。この人は、NHKに入るとき提出する書類に、こう書きこんだというので、有名だった。 「あなたの趣味は」という欄《らん》に、 「相撲」  と書いた。これは、まあ、わかるけど、次の、 「特技は?」  という欄に書いたことが、変っていた。  普通なら、衣裳さんとして入るんだから、「日本|舞踊《ぶよう》」とか、「車の運転」とか、書くのだろうに、小池さんは、 「うわ手投げ」  と書いた。それでボーナスの額が、他の人より少なかった。と冗談《じようだん》をいう人が、いたくらいだった。それから、アナウンサーで、恐《おそ》ろしい間違《まちが》いをする人がいた。この人は、後にディレクターに変わり、優秀《ゆうしゆう》なラジオのプロデューサーになった。名前は、高島さん、といった。なにしろ、アナウンサーのとき、ニュースの前の数秒間に、例えば、 「火の元には、充分《じゆうぶん》、お気をつけ下さい」  とか、そういう、一口メモ的なことをいう時、 「税金は、進んで滞納《たいのう》しましょう」  と、いっちゃった。そして、訂正《ていせい》をするヒマもなく、 「ピ・ピ・ピ・ピーン・七時のニュースをお知らせします」と、ニュースになってしまった。  また、その頃《ころ》、NHKは、音楽のレコードを、かけ間違うと、アナウンサーが謝《あや》まるのだけれど、 「ただいま、間違ったレコードを、かけてしまいました。失礼いたしました」  と、いわずに、なぜか、 「ただいま、間違ったレコードの上に、針を、おろしてしまいました。失礼いたしました」  と、いうことに決まっていた。この高島さんは、正直で、こういう遠まわしの、いいかたに抵抗《ていこう》があったためか、こんな風に、なってしまった。 「失礼いたしました。ただいま、間違った針がレコードに……いや、失礼いたしました、間違ったレコードが、針に……いや、失礼いたしました、間違った針を、レコードが、いや、失礼……」  といってるうちに、またもや、 「ピ・ピ・ピ・ピーン」に、なってしまった。  そして、もう一つ。これは、「自分ではない」と高島さんは否定したけれど、こういう放送をしたアナウンサーもいた。休み時間に、マージャンをして、割と時間ギリギリに、天気予報のスタジオに馳《か》けこんで、こういった。 「明日《あす》は、|トン≪東≫|ナン≪南≫の風!」  トットは、マージャンはやらないけれど、「東南」を、「トンナン」ということぐらいは、知っていたので、ありそうなことだ、と思った。でも、トットは、この高島さんが、やさしくて、えばらなくて、大好きだった。  アナウンサーといえば、いつも、お相撲を中継《ちゆうけい》してる人が、人手が足りないとき、バスケットボールの中継をして、 「土俵の下からの、大きなシュートです」  というのを、トットは聞いたことがある。でも、あまり堂々としているので、間違ってるようには、聞こえなかった。  こんな風に、失敗をするのが、自分だけじゃない、と知ると、トットは、少し安心するのだった。 [#改ページ]   壁《かべ》とパジャマ[#「壁《かべ》とパジャマ」はゴシック体]  テレビジョンが始まった、この年、まだ、すべてが馴《な》れていなかったから、間違《まちが》いをするのは、人間だけ、とは限っていなかった。いろんなものが、間違いをした。中でも、セット(装置)は、いろいろ、やってくれた。例えば、忍者《にんじや》が、土手に、ぴったりと、へばりついて、一足、一足、横ばいに移動している。土手と見えるのは、緑色の木綿《もめん》の大きな布で、これが一面に張ってあり、それには、同じ緑色の、きざんだものが、ところどころ、縫《ぬ》いつけてあった。どうやら、それは、草のつもりらしかった。忍者は更《さら》に動く。突然《とつぜん》、忍者は、足をすべらして、ズルズルと、ずり落ちた。芝居《しばい》なのか、偶然《ぐうぜん》なのか、とにかく、忍者役の俳優さんは、土手に、つかまった。途端《とたん》、土手の布も、一緒《いつしよ》にズルズルと下《さが》り始め、かぶせてあった土手の布の下から、土手の形に積んである木の箱《はこ》(通称ハコアシ)が、ばっちりと写った。忍者の人は、ひどく恐縮《きようしゆく》して、そのズルズルと、下にたるんだ、緑の土手を、引っぱり上げて、箱を、かくしにかかった。土手というのは、セットにしても、かなり大きいものだから、その、はじからはじまで、よじ登りながら、しかも、よつんばいで布をかぶせる、というのは、大変なことだった。ところが忍者が几帳面《きちようめん》にこれをやってたため、時間がなくなり、このドラマは、結末が、永久に、わからないままに終った。でも、こんなことは、しょっちゅうだった。  事務所のシーンで、課長の役の人が、上の半分が、くもりガラスになってるドアを開けたら、ドアが取れちゃって、しかも、この人は、力まかせにノブを引っぱったもので、取れたドアは、その人の頭の上から倒《たお》れかかり、その人の体の形どおりにガラスが割れて、ドアは床《ゆか》に落ち、その人は、ドアの枠《わく》の中に立ってる形になった。でも、この人は、ひどく、真面目《まじめ》な性格だったので、頭にコブを作り、髪《かみ》の毛をガラスの破片《はへん》だらけにしながらも、床に落ちてるドアを踏《ふ》み越《こ》え、事務所に入り、叫《さけ》んだ。 「部長! この書類に、ハンコお願いします!」  ところで、トットにも、災難が、ふりかかった。今日のトットの役は、恋人《こいびと》と日比谷公会堂《ひびやこうかいどう》でデイトをして、音楽を聞き、少し散歩なんかして、彼《かれ》と別れて家に帰り、その日のことをベッドに入って日記に書く、といった、娘役《むすめやく》だった。ナマ放送の大変なことに、もう一つ、�衣裳《いしよう》がえ�があった。途中《とちゆう》で撮《と》るのを止《と》めて衣裳を着がえるわけには、いかないから、日が変ったことや、時間の経過を現すために衣裳を替《か》えたくても、出づっぱりの時は、どうしようもなかった。脚本《きやくほん》を書く方々も、まだ、そういうことを、あまり頭に置かないで書いていらした。そこで、衣裳さんと俳優さんが、短時間のうちに、どう、うまく替えるかが、勝負どころだった。一番よく使われた方法は、一つのシーンが終って、俳優さんが、次のセットに走っていく間に、衣裳さんも一緒に走って、後ろからぬがせて、着せる、という、やりかただった。まるで歌舞伎《かぶき》の、「お染《そめ》の七役《ななやく》」の早変りでも、やってるみたいだ、と、トットは思った。でも、時々、思いがけないことも起った。女の衣裳さんが、凄《すご》い勢いで、ある有名な女優さんのズボンの、後ろのチャックを走りながら、さげた。そして、ズボンを降ろすとき、パンティーまで、つかんでしまってて、一緒に降ろしたものだから、スタジオの、丁度、まん中へんで、 「あっ!!」  という間に、大変なものが見えてしまった。でも、女優さんのほうは、必死に走りつつあるので、あまりぬげた感覚がないみたいだったので、衣裳さんは、また、凄い勢いで、上にあげちゃった。その瞬間《しゆんかん》、見損《みそこ》なったカメラさんや大道具さんは、あとあとまで、残念がった。  トットも、この前、走りながら、頭からワンピースを、ぬがされたもので、スリップ一枚で、スタジオの中央を横切ることになった。そこで、 「やーだ」  と、トットがいったら、衣裳さんの中で、一番、偉《えら》い、石井チャンという女の衣裳さんに、どなられた。 「なにが、�やーだ�だよ。間に合わないほうが、よっぽど、�やーだ�だよ!!」  石井チャンは、まるまると肥《ふと》っていて、ソバカスのある、血色のいい顔で、じれったそうに、いった。たしかに、そうだった。でも、やっぱり、スリップ一枚になるのは、恥《はず》かしいことだった。  ところで、今日、トットは、日比谷公会堂で、デイトをして、散歩のあと、すぐ、自分のベッドに入っていなければいけないので、パジャマに変る必要がある。そこでトットは、いいことを、思いついた。 (よそゆきの下に、パジャマを着とけばいい!)  着るよりは、ぬぐほうが、ずっと早い。少しぐらい、着ぶくれても、そのほうがいい! 石井チャンも賛成してくれた。なにしろ、散歩のあと、カメラが、スタジオに作った夜空の月を写してる間に、日比谷公園のセットから、パジャマになって、自分のベッドに、とびこんでいなくては、いけないのだから。 (でも、こういうのって、私、得意なのよね)  と、トットは、自分に、いった。小さい時から、トットは、すばしっこいので有名だった。そのために、ひどい目にあったこともあるけど、とにかく、すばしっこいことが、こんな時に役立つなんて、うれしい、と、トットは思った。  本番の当日になった。トットは、石井チャンの選んでくれて、自分も気に入ったピンク色のワンピースの下に、水色のパジャマを着た。そして、パジャマのズボンの裾《すそ》を、注意深くまくって、スカートの中に、かくした。石井チャンは、離《はな》れて見て、 「OK」  といった。あとは、お月様が写ってる間に、石井チャンが、後ろからワンピースを、ぬがしてくれればいい。  トットは、日比谷公会堂の大きな壁のところに立って、恋人を待っていた。チラリ、と腕時計《うでどけい》を見るのも、「待ってます」という演技のつもりだった。  そのとき、トットは、ふと、背中に、ヘンな重みを感じた。いやな予感がした。でも、後ろには、日比谷公会堂の壁があるだけだった。 (まさか!)  トットは、自分の疑いを打ち消した。 (まさか、この壁が、私に、よりかかってるはず、ないわ)  でも、念のために、恋人を探すふりして、一歩、前に出てみた。 (わあ!!)  壁は、完全に、トットに、よりかかっていた。なぜなら、一歩、前に出たら、背中が、もっと、重くなったから。トットは、いそいで、背中で、押《お》して、もとに、もどってみた。壁のほうも、すぐ、一度は、もとにもどる様子だけど、次の瞬間、やはり、ズシリ、と、トットの背中に、もたれた。トットは、こわくなった。でも、もう一ぺん、試《ため》してみよう。今度は、思い切って、一メートルくらい前進してみた。壁は、もう間違いなく、トットの背中によりかかっている。トットは、たきぎを背負った、二宮金次郎のような、体型になってしまった。 (どうしよう)  もし歩き出したら、この大きな壁は、完全にカメラのほうまで倒れかかってしまう。誰《だれ》か気がついてくれないかと、キョロキョロしたけど、F・Dさんは、恋人役の俳優に出すキューに忙《いそ》がしく、また、他《ほか》の誰も、この大事件に気づいてる人は、いそうにも、なかった。とうとう、恋人が来てしまった。「やあー」とか、手をあげながら、何も知らない、その人は、トットの腕をとると、 「ごめんね、さあ、行こう」  と、いった。でも、トットとしては、行くわけには、いかない。  このとき、トットは、NHKの名誉《めいよ》を、双肩《そうけん》に、担《にな》ってる、という気がした。トットが、グズグズしているので、恋人役の人は、不安な表情になって、 「ねえ、行こうよ」  と、強く、ひっぱった。これが、舞台《ぶたい》なら、小声で、「壁が、倒れかかってる!」とか、いえるんだけど、マイクロフォン、というのは、どんな音も、ひろってしまうから、口が裂《さ》けても、それは、いえないのだった。そこが、なにもかも、失敗をバラしても、それさえが、ネタになって、大受けに受けるバラエティー番組と、違うところだった。すったもんだしてるうちに、トットは、何か、今度は、足許《あしもと》のほうにも、いやな感じがした。でも、とにかく、背中のものを、なんとかしなくちゃ、ならない。その頃《ころ》、やっと、誰かが、気がついてくれたらしく、ふっ、と背中が軽くなった。背中の荷を、おろす、というのは、こういう気分か、と、トットは、うれしくなって、機嫌《きげん》よく、 「さあ、行きましょう」  と、恋人に、いった。その俳優の人は、やっと、トットが行く気になったので、安心した様子で、 「うん」  といった。二人は、その場を去った。トットが、ふり返ってみると、壁は、ちゃんと、立っていた。 (ああ、よかった……)  トットとしては、とにかく、自分の発見と、自分の才覚で、何もかも、うまくいった、と、うれしかった。なんだか、やっと、プロになったような、そんな気もした。トットが、写っていない所まで来たとき、石井チャンが、近づいて来て、低い声で、いった。 「どうしたの? パジャマのズボンが、両方ともスカートから、出ちゃってたよ?! だらしのない恰好《かつこう》だったねえ……」 「えっ?」  見ると、スカートから、ダラダラと、パジャマが、さがっている。あの壁騒動《かべそうどう》で、ずり下《さが》ったんだ。どうも足許が気持が悪いと思ったのは、そのせいだったのだ、と、トットに、わかった。 (壁のせいよ!)  と、いいかけて、トットは、やめた。誰のせいでもない。自分が�パジャマを中に着る�と、いい出したんだし、ゴムかなんかで、止めておけば良かったのに、すぐ、おろせるように、まくっておいただけ、なのが、いけないのだもの。 「ごめんね」  と、トットは、薄暗《うすぐら》い中で、石井チャンに、いった。石井チャンは、まるまるとした手で、トットの手を握《にぎ》ると、耳もとで、いった。 「でも、うまく、やったよ。あれで、壁が倒れたら、いま頃、大変だよ。私が気がついて、大道具さんに、いったんだけどさ……」  苦労人らしい、根っからの衣裳さんの石井チャンの言葉は、 (知っててくれたんだ!)  と、トットには、うれしかった。  このとき、よくは、わからないけど、テレビジョンというのは、どんなことが起っても、その場は、誰の責任でもなく、画面に写ってる自分自身で、なんとしてでも、うまく切り抜《ぬ》けなければ、やっていかれないもの、と、トットは、肌《はだ》で感じた。  あとになれば、笑い話になるような事の連続だったけど、この時期、中にいた人達《ひとたち》は、それなりに、みんな、床を這《は》い、手に傷をし、青ざめ、かけずり廻《まわ》っていた。  テレビジョンが、後《のち》に、恐《おそ》ろしいまでの、はなやかな世界に、なるとは、この頃、想像もしていなかった。むしろ、大変な割には、地味な仕事だな、という風にさえ、感じていた。日本中で、テレビジョンの台数が、まだ、九百台ぐらいしかなくて、大学卒の月給が一万一千円のとき、テレビジョン一台の値段は、二十五万円もした、そんな頃だったから。 「それにしても、あの壁は、重かったナ」  と、トットは、夜、疲《つか》れ切って家に帰り、ベッドの中で、しみじみと考えていた。 [#改ページ]   三好《みよし》十郎先生[#「三好《みよし》十郎先生」はゴシック体] 「ヤン坊《ぼう》ニン坊トン坊」は、毎週、日曜日の午後五時半から、三十分間、NHKラジオの第一放送の、電波に、のった。ところが、トット達《たち》、五期生の三人|娘《むすめ》の名前は、始めの一年間、伏《ふ》せられた。これは、NHKの希望で、そうなったんだけど、これについてNHKの人は、こう説明した。 「これまで、子役は、子供が、やって来ました。それが、この番組で、初めて、大人《おとな》が子供の声を出すことになりました。これは聞いている人を、だますことになるわけです。ヤン坊ニン坊トン坊の声をやる三人は、すでに、テレビに出始めていて、名前が知られ、顔も見られているので、大人、ってことが、わかります。当分は、三人の名前は、発表しないことにいたします」  飯沢先生は、「子供の偽善《ぎぜん》的なセリフ廻《まわ》しが、なんとも、いやなので、大人にやってもらったわけだけど、このほうが、どんなに自然で、生き生きしてるか、わからない。別に、だますことには、ならないんじゃないんですか?」とか、「子供が子供の声をやるのが、リアリズムである、というのは、単純すぎるんじゃないかな」と抗議《こうぎ》をした、という話だったけど、結局、「ヤン坊」の放送のあとの配役をいうとき、NHKのアナウンサーは、こんな風に、マイクの前で読んだ。 「ただいまの出演  ヤン坊  ニン坊  トン坊  カラスのトマトさん    新村礼子  学者猿《がくしやざる》         芥川比呂志《あくたがわひろし》  オセンチ猿        益田喜頓《ますだきいとん》  蛇《へび》            北林谷栄《きたばやしたにえ》  ドロ亀《がめ》          大森義夫  語り手は         長岡輝子  以上のみなさんでした」  でも、トットは、(切角《せつかく》、出ているのに、名前、いってもらえないのかあ)というくらいの気持だった。まだ、名前だとか、タイトルだとか、そんなことが、重要という風な自覚は、なかった。だから、あるとき、「ヤン坊ニン坊トン坊」のスタジオに、誰《だれ》かが雑誌を持って来て、飯沢先生や、作曲の服部先生や、長岡先生が、順々に廻《まわ》して読んでらっしゃる中味を、あとで、ちらりと見せて頂いたときだって、特別な感激《かんげき》は、なかった。それは、芸術新潮に、のった、「ヤン坊ニン坊トン坊」の批評だった。  内容は、�三|匹《びき》の白猿王子の冒険《ぼうけん》物語は、愉《たの》しい。近来の収穫《しゆうかく》�と、いうような風に始まって、�テーマ音楽の明快なリズムを、三匹は元気に歌っているし、次々と登場する動物たちの歌が、それぞれ違《ちが》う性格を持ち、その、どれ一つだって、決して低俗でも、蒸《む》し返しでもない。その音楽にも増して、耳をよろこばせるのは、名優たちである。三匹の中では、末っ子のトン坊が、食べちまいたいくらい、可愛《かわい》い声(子役ぶった声ではない)を出す�と、あった。トットは�食べちまいたいくらい、可愛い�って表現のところで、(食べられるにしては、私は大きすぎる)と、少し、おかしかった。きっと、批評を書いた人は、とても小さな猿を想像したに違いなかった。そして、その批評は、更《さら》に、�カラスのトマトさんは、凄《すご》い珍優《ちんゆう》であり、長岡輝子の話しぶりが、ゆったりとして、子供に媚《こ》びる声なんか出さないのに、大変なつかしい感じ。全体に爽《さわ》やかなドラマで、これは演出|飯沢匡《いいざわただす》の非凡《ひぼん》さによるものだろう。もう一つ賞《ほ》めたいのは、この愉快《ゆかい》な冒険小説に、一本|貫《つらぬ》いている高い精神である�とあり、最後に、�念のため、他《ほか》の連続児童ドラマを、二、三|聴《き》いてみたが、流れる歌は、流行歌的、少女歌手的、せりふは、相変らずメソメソ声や怒鳴《どな》り声の低調さだった�と結んであった。  トットは、自分の声が、(子役ぶった声ではない)というところで、少し安心した。でも、別に、「わあー、ほめられて、うれしい!」ということも、なかった。トットには、まだ、ラジオでやったものが、印刷になって批評される、という意味が、よく、のみこめて、いなかった。それから、また、芸術新潮というのが、どういう雑誌かも、わかっていなかった。ただ、おぼろ気に、飯沢先生が、いろいろのNHKの反対を押《お》しきって、大人の声で、やった、この、「ヤン坊ニン坊トン坊」が、先生の思い通りに、いってるらしいことは、よかった、と思ったくらいだった。  でも、名前を伏せた、ということのために、いろんなことが起った。  その頃《ころ》、劇作家の三好十郎先生の、お宅に、トット達劇団員は、先生の作品の本読みに伺《うかが》うことになった。大岡先生は、あわてて、「三好十郎先生は、�炎《ほのお》の人・ゴッホ�や�彦六《ひころく》大いに笑う�など、立派な作品をいくつもお書きになった、左翼《さよく》演劇作家として、有名な方《かた》です」と、トットに説明してくれた。また、「いま、お体が、少し、お弱りになっているので、本読みや稽古《けいこ》は、世田谷の先生のお宅に伺って、するんでございます」とも、つけ加えた。  ベランダに面した大きいガラス戸のある、昔風《むかしふう》の応接間の、まん中の、ひじかけ椅子《いす》に、三好先生は、すわってらした。ベレー帽《ぼう》に、丸い眼鏡の、小柄《こがら》な方だった。みんなは、先生を囲むようにして、床《ゆか》に座《すわ》ることに、決まっているらしかった。トットは、後ろに行こうとしたのに、なんだか、先輩《せんぱい》に押されて、先生の目の前に、すわってしまった。先生は、眼鏡の奥《おく》の目に力をこめて、こう、おっしゃった。 「僕《ぼく》は、このあいだから始まったばかりの、『ヤン坊ニン坊トン坊』を聞いていますが、あれをやってる子供は、実に、素朴っこ[#「素朴っこ」に傍点]で、いい。子供というのは、『お前は白い猿だよ!』といわれると、もう、すっかり、『自分が猿だ』と、思いこむ。これが、大人の俳優になると、うまくやろう、とか、こんな風にやろう、とか、あれこれ、やり過ぎて、嘘《うそ》になる。今度のドラマは、あの子供たちのように、ぜひ、素朴《そぼく》っこに、やって下さい」  東北出身ではない先生が、なぜか、「素朴っこ」とおっしゃったのが、トットには面白《おもしろ》かった。それにしても、トットは、顔が上げられなかった。「あれは、私達です」と、この大先生には、いえなかった。ななめ後ろを、振《ふ》り返ると、里見さんも、横山さんも、トットと同じように、下を、むいていた。  この頃のことを、三好十郎先生の一人娘のまりさんが、「泣かぬ鬼父三好十郎」という本の、あとがきの、出《で》だしのところに、こんな風に、書いて下さっている。 『父の中の小さな違和感《いわかん》をはっきりと感じはじめて以来、私は日毎《ひごと》に内向的になり、屈折《くつせつ》していく自分の心がはっきりとわかっていった。ただ、反抗的というのではなく、陰気《いんき》な、まるで可愛げのない少女だった。  父は、ラジオドラマを次々と書きあげ、NHKへの出入りが激《はげ》しかった。ちょうどこのころ、飯沢匡さんが「ヤンボー、ニンボー、トンボー」という子供向けの連続放送劇を書いていらして、大人も子供も放送を楽しみにしていたものだった。父もこの楽しい連続ドラマが大変好きで、家にいる時はかならず聞いていた。このドラマに出てくるかわいらしい子供達は、当然のこととして子供が演じているものと、だいぶ長いこと思っていたらしい。  ある日、NHKで、あの「ヤンボー、ニンボー、トンボー」の中の子役は、NHK劇団の若手の三人の女優さん達であることを聞かされて、父はびっくりしたらしかった。「あの、飯沢さんのヤンボー達は、黒柳徹子、里見京子、横山道代の三人なんだってさ。うまいもんだ!」と、しきりに私の顔を見ながら感心していた。  私は、「ヘェー、そうなの」と、冷ややかに答えた。父は、ケロケロと底ぬけに明るい黒柳さんがお気に入りのようすだった。  その日も、例のごとく父の書斎《しよさい》には何人かの声優さんが来ているらしかった。私は、お茶のしたくで忙《いそが》しそうにしている母を横目で見ながら、いつものように居間の自分の席で本を読んでいた。自分の部屋に行けば集中して読書が出来るのを知っていながら、なんとなくボーっとしていた。いねむりをしていたのかもしれない。 「あの、ごめん下さい。入ってもよろしゅうございますか」  と、かん高い女の声がした。睡気《ねむけ》が一ぺんにふっとぶような声だった。  私はその声につられるように、反射的に「どうぞ、お入り下さい」と、その時の自分としてはできるだけやさしく答えたつもりだった。 「失礼いたします。マア、これがまりさんですか。私、黒柳徹子です。私を見たいとおっしゃったそうで、ホホホ。今日は、大勢でおじゃましましたのよ」  と、早口で言って、白いスカートをフワッと広げて座り、はなやかに笑った。  私はあまり突然《とつぜん》のことなので、どぎまぎして何を言ったのかはまったく憶《おぼ》えていない。ほんの一瞬《いつしゆん》の対面ではあったが、あの真白い洋服を着た黒柳さんの姿は、他のものみなが灰色に見えたといっても言いすぎではないあの時期の私の心の中に、ほんのちょっとだが一筋の光りが射《さ》したかのように感じた。  まるで貝のように心を閉ざしてしまった私に、ちょっとでも突破口《とつぱこう》を見つけてやりたいと、父の考えたことだったのだ。若さとはなやかさをもつ彼女《かのじよ》の姿を私に見せることで、父ともあまり口を利《き》かない私の気持を、少しでも楽にしてやろうという父の思いつきだったのだ。  たぶん、私と四つか五つしか年の違わない黒柳さんを見て、父はうらやましかったのかもしれない。今、テレビなどで大活躍《だいかつやく》している黒柳さんを見ると、私の前に一瞬あらわれた白い洋服の彼女の輝《かがや》くような若さと明るさを、なつかしく思い出す。』  配役に名前を出さないから、リアリズムの大家の三好先生まで、だましてしまうことになった、と、トットは心苦しかった。子供とは、そういうものだと、熱をこめて話した先生を思うと、悲しかった。そしてまた、まりさんの、これを読んだとき、自分の存在が、誰かの心を慰《なぐ》さめたり出来る、なんて、夢《ゆめ》にも考えていなかった、その頃の自分を想《おも》って、哀《かな》しかった。また、この本読みの日だって、「ちょっとヘンな声が出れば、仕事になる時代なんだから、いいわね」と、先輩に面とむかって言われてユーウツだったし、いじけていた様に、トット自身は思っていたのに、他の人には、こんな風に、ケロケロと、楽しい人間に見えたのかと、不思議でもあった。三好先生は、このあと、亡《な》くなる前に、トットを主演に、ラジオ・ドラマを書いて下さった。録音の日、スタジオに見えた時は、毛布の膝《ひざ》かけをなさりながら、いろんなことを、話して下さった。 「いい女優か、そうでない女優かは、その人の、子宮の位置で決まるんだよ!」  ……なんのことか、意味は、わからなかったけど、力を振りしぼるようにして、おっしゃった、この言葉は、強い印象となって、トットの胸の中に、いつまでも、残った。 [#改ページ]   芸名[#「芸名」はゴシック体]  トットは、わき目もふらずに、NHKの廊下《ろうか》を歩いていた。今日、トットは、朝、起きた時から、断然、芸能局長のところに行って、この間うちからの悩《なや》みを相談しよう、と決めていた。だから、仕事の前に、ぜひとも、三階の芸能局長室に行かなくては、ならないのだった。  局長室の大きいドアを細目に開けると、吉川義雄さんが、誰《だれ》かと電話で話していた。大声で、面白《おもしろ》そうなことを言っていた。トットが、NHKに入るとき、パパとママを説得して下さった時から、ほんの少しの間に、吉川さんは局長になっていた。吉川さんは、トットを見つけると、手まねで、入口近くの椅子《いす》にすわるようにと、合図した。吉川さんは、茶色のベッコウの眼鏡を頭の上にのせて、廻転椅子《かいてんいす》に、よりかかる恰好《かつこう》で腰《こし》かけて、相手の人に、 「アハハハハ、お前さんは、駄目《だめ》だねえ」  などと、いっていた。(御機嫌《ごきげん》がいいらしい)と、トットは安心した。吉川さんは豪放磊落《ごうほうらいらく》だけど、怒《おこ》ると、とても、こわい、と、トットは知っていたから、少し、ビクビクして来たのだった。トットの悩み、というのは、「名前」のことだった。トットは、本名の黒柳徹子で出るつもりだったけど、NHKのラジオのアナウンサーが、必ず、つっかえるので、このところユーウツになっていた。ラジオでは、ほんのひとこと[#「ひとこと」に傍点]の役とか、ガヤガヤに近い役でも、配役をいうとき、読んでもらえた。 「ただいまの出演……」から始まって、「主役の人、脇役《わきやく》の人」と、順番に来て、トットは、他の同期生なんかと、最後のほうで、名前を読んでもらえるのだった。ところが、アナウンサーは、トットの名前のところに来ると、つっかえる。NHKでは、これを「トチる」とか言うんだけど、とにかく、毎回、すんなりとは、いかなかった。おまけに、こういう配役なんかを読むときのアナウンサーは、少しばかり調子の高い、気取った声で読む人が多いので、余計、トチったのが、目立つのだった。書いてある紙を見ながら、有名な人から順に、アナウンサーが、読んでくる。 「……そして、  村娘1 友部光子  村娘2 新道乃里子《しんどうのりこ》  村娘3 黒…ナナギ・テツ…失礼いたしました。黒ヤナナ…失礼いたしました、黒ヤナ…ギテツコ、以上の皆さんでした」  ナマ放送だから、トットのすぐそばで、アナウンサーが自分の名前を汗《あせ》を流しながら、いい直してるのを、見るのは、つらかった。それにしても、みんな、よく、つっかえた。 「これが、クロヤナギじゃなく、シロヤナギ、なら、随分《ずいぶん》、いいやすいんだよな」なんていうアナウンサーも、いた。また、ある時は、「クロナナギ、トツコ」にしちゃったアナウンサーがいた。本番が終ってから、その人は、 「テツコの�テ�は、思い切って、うんと、口を横に開かないと、�ト�になっちゃうんだなあー」  そういって、凄《すご》い出歯を、むき出しにして、 「テ!」  と、いってみせた。トットは、(私の名前を、そんなに、歯をむき出しにして、いわなくたって、いいじゃないの)と、心の中で思った。でも、それも、すべて、本名の名前が、いけないんだ! と、今更《いまさら》のようにトットは、自分の名前を不満に思った。  ママから聞いた話によると、長女のトットが生まれるとき、パパやママの友達《ともだち》や、親戚《しんせき》の人が、みんな、 「男の子に違《ちが》いない!!」  といった。若いパパとママは、すっかり、それを信用して、名前は、男らしい、 「徹《とおる》」  と決めて、待っていた。赤ちゃんの産着《うぶぎ》も、男の子らしいものを揃《そろ》えていた。ところが、生まれて来たのが女の子だったので、パパもママも、一時は、迷ってしまった。でも、やっぱり始めから、二人とも気に入ってる、「徹」の字を使おう、という事になり、そのまま下に、「子」をつけて、「徹子」にした。これがトットの名前の、いきさつだった。小さいときは、それでも、 「テツコちゃん!」  と呼ばれると、それを、自分では、 「トットちゃん」  と、呼ばれてるんだと思っていたから、 「お名前は?」  と聞かれると、すまして、 「トットちゃん!」と答えていた。そんな訳で、みんなが、「トットちゃん」と呼んでくれていたので、たいして、名前については、気にすることがなかった。ところが、小学校に上って少したった頃《ころ》、近所のガキ大将が、突然《とつぜん》、道のまん中で、 「テツコ、鉄ビン!」  と、叫《さけ》んだ。(鉄びんは、ひどすぎる)と、トットは思った。そして、その頃から、どうも、「徹子」という名前は、固い感じだな、と考えるようになった。それが、NHKのアナウンサーが、トチることで、 (これは、もう、もっと女の人らしい、読みやすい名前に、変えるしかない!)  と、トットは、決めたのだった。でも、勝手に変えちゃうわけにも、いかないので、局長に相談してみよう、と、来たのだった。  電話が終ると、吉川さんは、椅子を、クルリと、トットのほうにむけて、 「なんだい?」  と、いった。トットは立ち上り、吉川さんの机の前に立って、少し緊張《きんちよう》して、いった。 「私、芸名にしようと思ってるんです」  吉川さんは、頭の上の眼鏡を、ちゃんと、かけ直すと、トットに聞いた。 「で? どんな芸名か、決めたのかい?」  トットは、はっきりと、いった。 「はい、リリー、が、いいんです!」  トットは、前から考えていた事を一気に、いった。 「苗字《みようじ》のほうは、なるべく�白�がつくもので、白川でも、いいですけど、名前は、絶対、リリーが、いいんです。リリー白川とか……」  吉川さんは、それまで、机の上に、のり出していた体を、椅子の背中のほうにもどすと、いった。 「およしよ。お前さん、そんな、ストリッパーみたいな名前……」  トットは真剣《しんけん》に、いった。 「だって、みんな、私の名前、すぐ、トチるんです」  吉川さんは、「アハハハハ」と大声で笑ってから、少し、まじめに、いった。 「いいかい。名前なんてものは、例えば、君が、|○□△ゝ《まるかくさんちよん》助さんでも、いい女優になれば、みんな憶《おぼ》えてくれるよ。名前なんて、関係ないんだよ。いまの名前、いいじゃないか。君に似合ってるよ。変えるんじゃないよ」  トットは、それでも、(こんな固い名前より、しゃれてて、女っぽい、リリーが、いい)と思っていた。でも、そんなこと、おかまいなしに、吉川さんは、笑いの混った大声で、いった。 「馬鹿《ばか》だね、君は。そんなこと考えてるより、早く、いい女優に、なってくれよ」  これで、おしまいだった。とうとう、トットは、リリー白川に、なりそこなってしまった。仕事のあるスタジオのほうに行く廊下を歩きながら、トットは、考えていた。 (もし、来年から、ヤン坊ニン坊トン坊で、配役、いってくれるとき、私が芸名だったら、よかったのに……。  ただいまの出演  ヤン坊 里見京子  ニン坊 横山道代  トン坊 リリー白川!)  それでもトットは、スタジオに入ると、もう、このことは、忘れてしまった。そして、その日も、アナウンサーは、マイクの前で、いったのだった。 「……そして、  ウェイトレスは、クノナナギ トツコ、以上の皆さんでした」 [#改ページ]   「終《おわり》」[#「「終《おわり》」」はゴシック体]  テレビの化粧室《けしようしつ》で、メーキャップしてるトットの、まわりに、突然《とつぜん》、人がバタバタと走って来て、うわずった声で、 「鍵《かぎ》、なかった? この辺に、鍵?!」  と叫《さけ》んだ。なんだかわからないまま、トットも立ち上って、一緒《いつしよ》に探したけど、鍵は、なかった。 「いやあ、困っちゃったなあー」  悲鳴のような声を残して、男の人達《ひとたち》は、また、バタバタと、どこかに走って行ってしまった。 (なんの鍵かな?)  トットは、鏡の中の自分の顔を見ながら、思っていた。  丁度、このころ、下のテレビのスタジオの中は、大さわぎだった。この番組は、トットが出るものではなくて、たったいま、ナマ本番に入ったところだった。その一番最初のシーンで、刑事《けいじ》が、犯人の手に、いきおいよく手錠《てじよう》をかけた。用心のために、刑事は、自分の手首にも手錠をかけ、犯人と繋《つな》がるようにした。そして、それから、ドラマが展開し、犯人には、犯人の留置場や、面会室の生活があり、刑事には、刑事で、家庭や、取調室の生活がある、という風に、いくはずだった。ところが、どういうわけか、刑事が、 「ガチャ!!」  と、手錠をかけたまでは、よかったんだけど、なんと、それを外す、鍵が、どこにも見つからない、という、考えてもいないことが、起ったのだった。リハーサルの時は、ちゃんと刑事の役の人が、ポケットの中に入れてたんだけど、途中《とちゆう》で衣裳《いしよう》を替《か》えたり、いろんな事をしてるうちに、本番になり、「ガチャ!!」と、やってみたら、鍵が、どこにも、なかった、ということなのだった。トットのいる化粧室に走って来た人達は、その鍵を探していたのだった。  ひっぱったり、いじったり、すればする程《ほど》、手錠は、くいこむ。時間は、どんどん経《た》つ。仕方なく、刑事は、犯人の留置場に、一緒に、くっついて行った。そして、なるたけ、カメラに入らないように、犯人に、くっついたまま、出来るだけ体を丸めて、うずくまった。そして、次のシーンは、刑事が、仕事が終って、家に帰ったところ。刑事が玄関《げんかん》を開ける。 「ただいま」  男の子が、とび出して来る。 「お父さん。お帰りなさい!」  ところが、お父さんの隣《とな》りには、犯人が、これまた、体を、ちぢこめて、くっついている。子供は正直だから、怪訝《けげん》そうな顔をする。そうして、楽しい晩御飯《ばんごはん》。 「お父さん、今日は、どうでした?」  妻が、御飯を、よそいながら聞く。それも、なるべく犯人を、見ないようにして。犯人は、畳《たたみ》に、はいつくばるようにして、写らないようにしている。 「ああ、いろいろ、あってね……」  犯人の利《き》き腕《うで》の右手と、刑事の左手とが、繋がっているので、刑事は、お箸《はし》は持てるのだけど、御飯がたべられない。お茶碗《ちやわん》を、お膳《ぜん》に置いといて、御飯をつまむ、というのも不自然だ。仕方なく、オタクワンなど、やたらにボリボリと喰《た》べ、あとは、お茶を飲むばかり。話は、一向に、はずまない。そして、シーンは、また、留置場に、変わる。夜、ねむれない犯人は、寝《ね》がえりを、くり返す。そのたびに、刑事も、ひきずられて、ゴロゴロと、あっちに行ったり、こっちに行ったり。どんなに、カメラさんが頑張《がんば》っても、まるっきり片方が写らないようには、撮《と》れっこない。テレビを見てる人にとっては、一体、「なんで、いつも二人が一緒にいるのか」さっぱり、わからないに決まっている。  ということで、このドラマは、始まって、五分も経ないうちに、誰《だれ》かが、カメラの前に、 「終」  の紙を、おっつけて、終ってしまった。  このころ、「終」と書いたエンド・マークのカードは、スタジオの、いろんな所に落ちていて、いよいよ困ると、誰かが、それをカメラの前に、おっつけて、おしまいにしちゃうことが、よくあった。  結局、鍵は見つからず、手錠を借りた会社から人が来て、やっと外した、という話を、次の日、トットは、F・Dさんから聞いた。  家族と楽しく晩御飯を喰べてるはずの刑事の横に、犯人が、恐縮《きようしゆく》しながら、ちぢこまってる姿を想像すると、トットは、(気の毒だな)とは思いながらも、おかしくて、おかしくて、いつまでも、笑っていた。 [#改ページ]   テレビジョン[#「テレビジョン」はゴシック体] 「ねえ、どうして�テレビジョン�って、いうんですか?」トットは、ふと、思いついて、スタジオの中で休憩《きゆうけい》してる小道具のおじさんに聞いてみた。考えてみると、随分《ずいぶん》いろんなことを習ってきたけど、なぜ、この四角い箱《はこ》の中に写るものを、 「テレビジョン」  というのか、教えてもらった記憶《きおく》は、なかった。小道具のおじさんは、しばらく考えていたけど、 「そうだねえ、なんでかねえ」  というと、通りかかった、大道具のお兄さんに、「テレビジョン、って、どういう意味か、わかるかね?」と聞いた。トンカチをぶら下げた、お兄さんも、頭を掻《か》きながら考えていたけど、 「知らねえ、わかんねえ。テレビジョンだから、テレビジョンじゃねえの?」  というと、行ってしまった。トットは、小さい頃《ころ》から、なんでも、すぐ疑問に思ったことを、「どうして?」と聞くので、大人からは、 「聞きたがり屋の、トットちゃん!」  と、からかわれていた。それなのに、なんで、今まで、 「テレビジョンて、なんで、そういうのか?」って考えてみなかったことに、自分でも驚《おどろ》いた。きっと、大道具のお兄さんのように、「テレビジョンだから、テレビジョン!」と思ってしまっていたに違《ちが》いなかった。ちょっと、スタジオの中の人にも聞いてみたけど、あまり、はっきりした返事が、なかったので、トットは、自分で調べてみることにした。  そして発見したのは、まず、「テレ」の部分だけど、これは、テレ[#「テレ」に傍点]フォン(電話)テレ[#「テレ」に傍点]グラム(電報)テレ[#「テレ」に傍点]スコープ(望遠鏡)といった、遠いもの、に使われている、ということがわかった。英語の辞書にも、「遠距離《えんきより》」とか、「遠隔《えんかく》」と、のっていた。そして、「ビジョン」(本当なら、ヴィジョン)のほうは、「視《み》ること」とか、「視力」とか、「光景」という意味なので、両方あわせた、�テレヴィジョン�とは、�遠視�というか、「遠くを見るもの」と思えばいいのだ、と、トットは理解した。もっとも、ヴィジョンの意味の中には、�幻《まぼろし》�というのもあって、「遠幻《えんげん》」なんて、一寸《ちよつと》ロマンティックでいいな、と、トットは考えた。次にトットは、この言葉を、誰《だれ》が発明したのか、知りたいと思い、NHKの図書室に、もぐりこんで、資料を、探した。そして、わかったことは、とても面白《おもしろ》いことだった。  この、「テレビジョン」という言葉を最初に使ったのは、フランスの、名もない図書係りだった。ところが、いまでは、もう、その人の名前も、何も残っていない、ということだった。二十世紀、世界中の人が注目することになった、「テレビジョン」という言葉を作った人が、忘れられてしまった、という事が、トットには興味があった。一八九二年(明治二十五年)に、マックス・プレスナーという新聞記者が、 「将来、演劇、オペラ、重要事件、議会、教会の礼拝、競技、行進、都市、国王が国民に演説する情景……などを写し出す[#「写し出す」に傍点]、 �テレストロスコープ�  なる、不思議な機械が出来るだろう」  と記事に書き、これは、予言のように、受けとめられた。この人より、もっと前の一八七八年(明治十一年)に、すでに、画を伝送する、 �テレクトロスコープ�  というものを、フランスの、サンレク、という人が考えている。とにかく、「テレビジョン」という風に決まるまで、長い間、いろんな風に、呼ばれていたことが、あまり、沢山《たくさん》は無い資料を、はじから読み漁《あさ》って、トットには、わかった。そんな中で、トットの目をひいたものが、あった。それは、NHKがテレビジョンを本放送するにあたって、アメリカから招聘《しようへい》したテッド・アレグレッティーという人が書いた、 「NHKテレビへの期待」  という文章だった。この人は、昭和二十七年に来日し、NHKのテレビジョン全般《ぜんぱん》にわたる指導、実施《じつし》の企画《きかく》、演出にあたった人で、アメリカのNBCテレビなどで活躍《かつやく》した人物だった。この文章は、日本より七年早く、一九四六年(昭和二十一年)から始まったアメリカのテレビの現状などを、NHKの人のために来日してから書いたものの中に、あったのだった。 「米国のテレビジョンは、ラジオと同様に、商業放送で売るために番組を提供する。番組内容も極度に大衆向きとなり、放送の目的自体が、大衆性にあることになるが、不幸にして、大衆性は、質とは一致《いつち》しない。NHKテレビは、公共放送であるから、知的、情操的な面の向上に大衆を刺戟《しげき》することに、総力を集中し得る立場にある。勿論《もちろん》、NHKたりとも、番組の一般|娯楽《ごらく》性を忘れては、ならないが、それは、番組の中の唯一《ゆいいつ》の支配的要素ではない。私は、NHKでは、ニュースと教養番組が、全体の53%を占《し》めるのを知って、大変面白いと思った。米国のテレビでの、この部分の占める割合は、15%に過ぎない。然《しか》し、公共放送のみに許される、この番組|選択《せんたく》の自由には、重大な責任が伴《ともな》う。常に最良の番組作成に対する努力が払《はら》われるべきであり、自己満足と無気力に陥《おちい》っては、ならない」  そして、続けて、NHKを始めとして、将来、テレビジョンを開始するであろう民放に対するメッセージとして、こうも書いている。 「テレビは、世界に現存する、あらゆる機関の中で、最も有力な教育宣伝の媒介物《ばいかいぶつ》であることは、否定できない。吾々《われわれ》の文化が、向上するか、堕落《だらく》するか、正しい人類向上の道をたどるか、或《あるい》は、その進歩の道をはずれるかは、テレビジョンに、かかっている、ということが出来よう。かくて、世界各国の国民は、テレビジョンの力により、お互《たが》いに自分の姿を、さらけ出すようになり、世界各地の慣行習俗も、今までの孤立《こりつ》の殻《から》を破って、お互いの眼《め》の前に現われてくる。かくて、今まで人類が夢想《むそう》だに出来なかった国際間の、より大いなる理解と永遠の平和の可能性が生れてくる。これがテレビジョンの力なのである。私がアメリカからやって来て、一人|寂《さび》しく働いている人間である、というよりは、日本のテレビジョンの将来に偉大《いだい》な関心を持ち、この偉大な公共物を成功に導くため、全身の努力を傾倒《けいとう》している人間である、ということになれば、私の、最も幸いとする所であろう」  昭和二十八年、NHKが放送を始めた、このころ、テレビジョンに出るのは、俳優として、恥《はじ》だ、と思ってる人も大勢いた時代だった。テレビジョンを、「電気|紙芝居《かみしばい》」と馬鹿《ばか》にして呼ぶ人もいた時代だった。  そんな時に、この人の書いたものは、深くは理解できなかったけど、なにかわからない、不思議な力、そして、安心感を、与《あた》えてくれたように、トットには思えた。 [#改ページ]   競馬[#「競馬」はゴシック体]  トットの今日したこと、といえば、結果的に考えてみて、あまり人に言えることでは、なかった。それにしても、トットがNHKの養成所に通っていた頃《ころ》から、気になっていることが、一つあった。それは、新橋駅の、NHKに行くほうの改札口《かいさつぐち》を出たところが、広場になってるんだけど、そこに、何やら大きなステージのような、家のような、そそり立つ木の壁《かべ》のような、不思議な建物が、あることだった。そして、いつも沢山《たくさん》の人が、そこに集っていた。最近では、その広場に、街頭テレビ、という、とても大きなテレビジョンが置かれたので、なおさら、人が集っていた。相変らず、テレビジョンのセットは、高くて手が出せないので、一般《いつぱん》大衆は、テレビを見たい時、こういう街頭テレビか、喫茶店《きつさてん》などで、見ていた。この街頭テレビは、NHKより半年あとに開局したNTVが、方々に置いたもの、という話だった。それにしても、前からある、あの不思議な建物は、一体なんだろう。  トットは、丁度、ラジオの一スタの前で、大岡先生に逢《あ》ったので、聞いてみることにした。逢った、といっても、もう、その日も、大岡先生とは、五度くらい、エレベーターの前や、トイレの前で逢っていた。そして、そのたびに大岡先生は、例の、靴《くつ》を少しひきずり、体を半身にした、横ばい風の奇妙《きみよう》な歩きかたで近よると、手の甲《こう》で口をかくすようにしながら、聞くのだった。 「トットさま、どちらへ?」  いま一スタから出て、トイレに行って帰って来たのだもの、答えは、「一スタ」に決まっていた。でも大岡先生は、何度でも、逢うたびに同じことを聞いた。トットは、段々と、それは、大岡先生が寂《さび》しいから聞いているのだ、とわかって来た。トット達《たち》、五期生の受持ちの先生、責任者としての役目は、養成が終り、トット達が仕事を始めると、ほとんど、なくなってしまった。だから、偶然《ぐうぜん》に逢うように見えるけど、それだって、大岡先生一流の、誰《だれ》も真似《まね》の出来ない独特の方法で、バッタリ逢うように、仕組んでいるのかも、知れなかった。それでいて、自分の聞きたいことだけ聞くと、本当に、あっ! という間に、姿を消してしまうのだった。大岡先生が、自分に近よって来る姿は、すぐ目に浮《う》かぶトットだけど、去って行く姿は、一度も見たことが無いように思えた。大岡先生は、自分の後姿《うしろすがた》を、絶対に見せない人だった。大岡老人と呼ばれても、聞こえないふり[#「ふり」に傍点]をする人だった。こういう大岡先生の、孤独《こどく》でもあり、また、トット達の受持ちになって、何回目かの青春を味わっているような、複雑な状態がわかってきたから、トットは、どんなに大岡先生に頻繁《ひんぱん》に逢い、同じことを質問されても、茶化したり、笑ったりすることは、しなかった。何度でも、 「一スタです」とか、「トイレです」  とか、答えていた。でも、今日は、大岡先生に聞くことがあったので、トットは、うれしかった。 「新橋の駅の前の広場の、人が沢山、集って来るところにある建物、あれ、なんですか?」  大岡先生の、丸い眼鏡の奥《おく》の目が、さも、大変なことを語るように、生き生きとした。 「トットさま、あれは、でございますね、競馬の馬券を売る所でございます。私は買いませんのですけれど、局のかたで、お買いになる方《かた》も、いらっしゃるようで、ございますよ」 (競馬か!)  トットは、物凄《ものすご》く、びっくりすると同時に、うれしくなった。早く聞いておけば、よかった。でも、広場の周りは、小さい飲み屋さんが、長屋のように並《なら》んでいて、焼酎《しようちゆう》や、カストリ焼酎とか言うものを飲ませるんだと、みんなが話していたので、トット達は、近よったことが、なかったのだった。  競馬とわかった二、三日後の今日、トットが、お昼頃、改札口を出ると、もう、人が沢山、集っていた。トットは、すっかり、うれしくなった。トットは、深呼吸をして、勇気を出すと、人々の間をかきわけて、建物の近くに寄ってみた。ほとんど男の人で一杯《いつぱい》だった。中には、どういうわけか、新聞紙を地面に敷《し》いて、寝《ね》てる男の人もいた。近づいてみると、本当に小さい窓が沢山あって、その窓には、2—3とか、2—4とか、看板が出ていた。そして、それぞれの窓口の中に、女の人の居るのが、見えた。トットは、 (やっぱり、馬券売場って、本当なんだ!)  と、感激《かんげき》した。それからトットは、人混《ひとご》みを抜《ぬ》けると、ステージの上に、そびえ立っている木の壁《かべ》の後ろのほうに、ぐるりと廻《まわ》ってみた。  馬を探すためだった。トットは、そこで競馬をやっているんだ! と、思ったから。  ところが、後ろに廻ってみると、そこは、ゴチャゴチャとした、小さいカウンターつきの、飲み屋さんと、道路があるだけで、競馬をやってる風には、見えなかった。それでもトットは、念のために、二度くらい、グルグルとまわりを廻ってみた。  どこにも馬は、いなかった。  すっかり、がっかりしたトットは、馬券売場の窓口の、空《す》いていそうな所に近よると、中のお姉さんに聞いた。 「すいませんけど、馬、どこにいるんですか?」  ソロバンかなんか、いじってたお姉さんは、顔を上げると、つっけんどんに、いった。 「なんですか?」  トットは、少し、どぎまぎしながら、聞いた。 「あの……馬……。ここで競馬、やってないんですか?」  お姉さんは、あきれたような顔に、なって、いった。 「ここに馬なんか、いませんよ」  トットは、まだ思い切れなくて、恐縮《きようしゆく》しながらも、追及《ついきゆう》した。 「じゃ、馬、どこにいるんですか?」  お姉さんが、トットのことを、どう思ったかは、わからないけど、もう、ソロバンのほうに、指も目も、行っていた。そして、口の中で、ブツブツと、 「中山に、居るんじゃない?……」  といって、もう、とりつく島のない、風情《ふぜい》だった。 「中山って、どこですか?」  なおも、しつっこくトットが聞くと、 「買わない人は、そこ、どいて!」  と、いった。トットは、もう、どくほか、なかった。  NHKで、この話をしたら、みんな、ドッ!! と、笑った。中には、かなり、トットのことを、馬鹿《ばか》だ! と思った人も、いたようだった。やさしい人は、 「君は、馬鹿、というよりは、空間的な感覚が、欠けてるんだよね……」  と、なぐさめてくれた。  でも、トットは、あの、そびえてるステージの上の壁の向う側には、広々とした空間があるもの、と、思いこんでいたのだった。そして、若々しく元気な馬が、何頭も、そこを走っているように思ったのだった。考えてみると、新橋の烏森《からすもり》に、馬が走ってるわけは、ないのに……。 「場外馬券」というシステムを、トットは知らなかったから、こんな風に考えてしまったのだった。  でも、真相がわかってからでも、トットは、なんだか、あの壁のむこうには、やっぱり馬が走っているように思えて、ならなかった。だから、雨の日なんか、馬が濡《ぬ》れてないか、と、ふと心配したりしてしまうのだった。 [#改ページ]   夢声《むせい》さん[#「夢声《むせい》さん」はゴシック体]  トットは、テレビの化粧室《けしようしつ》で、徳川夢声さんと隣《とな》り合せになった。これまで、全く放送にも映画にも縁《えん》の無かったトットだけど、徳川夢声さんは、知っていた。というのも、子供のときから、徳川夢声さんに関して、(不思議だな)と思ってたことが、あるからだった。それは、トットが小さいとき、たまにラジオを聞くと、よくアナウンサーが、こう、いっていた。 「いやあ、丁度いいところに、徳川夢声さんがスタジオに見えましたので、お話を伺《うかが》いましょう」  トットは、徳川夢声という人は、よく、こんな風に、丁度いい時にNHKを通りかかるもんだなあー、と感心していた。そして、NHKというところは、誰《だれ》でも、丁度いい頃合《ころあ》いの時に行けば、出られるものなのか、と、奇妙《きみよう》な思いでも、いた。そんなわけで、トットは、夢声さんの名前を憶《おぼ》えていたのだった。  トットは、徳川夢声さんが、少しバサバサの、グレーと白髪《しらが》の混った、長目の髪《かみ》を梳《と》かしてもらったり、ほほ骨が特徴《とくちよう》の顔に、化粧をしてもらいながら、トットのほうをむいて、ニッコリ笑って下さったので、いいチャンス! と思ったから、聞いてみることにした。 「あの、昔《むかし》、よくNHKの放送を聞いてると、�徳川夢声さんが、丁度いいところに見えました�って、いってたんですけど、本当に、あんな風に、NHKに偶然《ぐうぜん》、お寄りになったんですか?」  徳川夢声さんは、あまり声を出さないで、 「ハハハハハ」  と笑った。笑うとき、顔は、あまり動かさなかった。目だけが笑ってる、って感じだった。夢声さんは、トットの顔を、面白《おもしろ》いものを見るような目つきで見ながら、おっしゃった。 「ああ、君も、おかしいと思ったの? そうだねえ、本当は偶然に行くことなんて、ないんだよ。いつも頼《たの》まれて行ってたんだから。なんで、あんな風にアナウンサーが言ったのかなあ。しゃれてる、とでも思ったのかな? 不自然だよね」  トットは、(そうだったのか)と、おかしくなった。 「そりゃ、そうですね。そんなにタイミング良く、誰か有名な方がブラリと、スタジオに見えることなんて、考えられませんものね」  多少の経験からトットは、こういった。  夢声さんは、トットのことを知ってて下さった。というのも、夢声さんの、あの有名な、 「宮本《みやもと》武蔵《むさし》」  の朗読は、大岡先生の、手がけたものだった。大岡先生が、朗読の放送を受け持ち、演出もしてたとき、夢声さんに、吉川英治作の「宮本武蔵」を、と考えたのだった。台本も、大岡先生と夢声さんで、いろいろ工夫《くふう》して作って、楽しかった、という話は、大岡先生から聞いていた。そして大岡先生は、こういう大先輩《だいせんぱい》の方達《かたたち》ちにも、トットの事などを、いつの間にか、伝えておいて下さったのだった。  トットが、化粧前で、ハンドバッグに頭をつっこんで、ゴソゴソやってると、夢声さんが、白い化粧用のケープから顔だけ出した形で、トットに話しかけた。夢声さんの広いおでこに、メーキャップさんは、パタパタと、パフを叩《たた》いていた。 「いやあ、この間は、本当に、おかしな事が、あってね。�こんにゃく問答�の本番中のことなんだけどね」 �こんにゃく問答�というのは、夢声さんが、横丁の御隠居《ごいんきよ》さん、柳家金語楼《やなぎやきんごろう》さんが、八っつぁん、という設定の、連続のテレビ番組で、番組のタイトルが出るとき、本当に、グツグツ煮《に》えてる、こんにゃく[#「こんにゃく」に傍点]が画面に写るのも、変っていて、おかしかった。そして、御隠居さんと八っつぁんは、それぞれの役柄《やくがら》を演じながら、本当に世の中に起ってる、いろいろなことを、その日の新聞から選んで話し合う、という、とても、程度の高いものだった。落語の、あの少し怪《あや》し気な物知りの御隠居と、間が抜《ぬ》けた質問をする八っつぁんの会話のような対談が、即興《そつきよう》で、しかも、話題は、その日の新聞からナマ放送、というのだから、こういう、お二人じゃないと出来ないのだ、と、トットは尊敬して見ていた。その番組でのことを、夢声さんは、これから話して下さろう、としているのだった。 「……本番が始まって、少ししたとき、僕《ぼく》が、ふっ、と気がつくと、僕と金語楼氏が話してる座敷《ざしき》のセットから、ちょっと離《はな》れた、スタジオの壁《かべ》に掛《か》けてある僕のオーバーのポケットに、手を、つっこんでいる奴《やつ》がいるんだ。丁度、僕のところから、まる見えなんですがね。ところが、こっちは、ナマ放送中で、�泥棒《どろぼう》!�というわけには、いかない。僕も、いろいろと考えてね、�ちょっと便所に行って来る�といって、立ち上っても、それほど、不自然では、ないかも知れないけど、今まで、そんな事、したことないので、金語楼氏が心配するかも、知れない。よほどカメラさんに、�おい、お前さんの後ろに泥棒がいるよ�と教えようかとも思ったけど、一応、僕の家の座敷で、二人だけで話している、と、見てるほうでは思ってくれているのだろうから、それも、うまくない。だけど、見てると、僕の財布《さいふ》を、ポケットから、引っぱり出してるんだよ。誰かが気がつくかと思ったんだけど、みんな、こっちを見てるから、カメラの、すぐ後ろで仕事をしてる泥棒には気がつかない。いやあ、本当に、やられたね。そしてね、とうとう泥棒君は、財布を抜きとって、自分のポケットに入れると、僕のほうを見たんだよ。そのとき、僕たちの目が、パチッと、合ったんだ。なんと、君、そいつは、ニタ! と笑ったんだよ。僕のオーバーと、わかってたんだね。口惜《くや》しかったね、悠々《ゆうゆう》とスタジオを出て行くのに、手も足も出せないんだから。若い青年だったけどね。NHKの人じゃなかったね。いやあ、ニタ! と笑われたときは、�お見事!�といいたいくらいの気分だったかなあ。テレビって、残酷《ざんこく》ね。だから、ハンドバッグとか貴重品、離さないでいたほうが、いいからね」  トットは、「はい」といってから、(ナマ放送してるから、絶対に、つかまらないと、わかって、夢声さんのお財布を盗《と》るなんて、ひどい)と思った。そのとき、夢声さんのお化粧も、終った。夢声さんは、 「じゃね、失敬!」  と、いって、ニッコリ笑うと立ち上った。トットも立ち上って、お礼を言った。  猫背《ねこぜ》で、少し、ガニ股みたいな足つきで静かに、夢声さんは、化粧室を出て行った。その後姿を見ていて、トットは、 「アッ!」と、小さく叫《さけ》んでしまった。  それは、数ヶ月前のことだけど、トットは、盲腸《もうちよう》の疑いで、一日だけ病院に入った。手術はしないで済みそうだ、という事だったけど、なんだか、膿《うみ》を止める薬と、盲腸との闘《たたか》いが、体の中で、感じられる、深刻な夜だった。トットは、形容しがたい不快な気持で、ベッドに横になっていた。もとは、といえば、大喰《おおぐ》いしたのが、いけなかったらしいけど、とにかく、お腹《なか》は、そんなに痛くないにしても、熱は出るし、生まれて味わったことのない、いやーな感じで、いっぱいだった。おまけに、ちょっと目を閉じると、すぐ、くり返し、同じような光景が、目の前に現れるのだった。夢《ゆめ》なのか、実際なのか、はっきりしない、奇妙な感じだった。  それには、ソフト帽《ぼう》をかぶり、その下から、少しモシャモシャの長目の白髪を出し、グレーの夏服を着て、少し、ガニ股《また》のお爺《じい》さんが、必ず登場した。トットの前を、その人が歩いている。トットが後ろから歩いて行くと、お爺さんは、ふっ、と立ち止って、後ろを振《ふ》りむき、ニッコリする。トットは、ちっとも、こわくないお爺さんだけど、なんだか、イヤで、なるべく、目をつぶらないように努力した。だけど、どういうわけか、また、ふっ! と気がつくと、今度は、トットが大きな石垣《いしがき》のそばを歩いている。いきなり、その石垣の途中《とちゆう》に、小さな木の扉《とびら》のようなものが、あることに、トットは気づく。そーっと開けてみると、そこに、また、あのお爺さんがいて、ニッコリする。(なんで、あんな扉なんか開けちゃうんだろう)と後悔《こうかい》しながら、必死に目を開けて、起きていようとするのだけれど、またもや、ふっ! となって、今度は、井戸《いど》を見つける。なんとなく、上から、のぞいて見ると、井戸の底に、また、あのお爺さんがいて、ニッコリする。なにもかも明るく、ちっとも、こわい感じは、しなかった。こんな風に、必ずトットが、何かを、のぞき、のぞくと、そこに、あのお爺さんがいて、ニッコリ笑う、というくり返しが続いた。おしまいにトットは、お爺さんが、何となく、さそっているような風なので、一緒《いつしよ》に、ついて行っちゃおうかな、とも思った。でも、どこかに、断固として、ついて行っては、いけない! というものも、あった。遂《つい》にトットは、起きていることに、決めた。そうこうしているうちに、薬が効いたのか、運がよかったのか、次の日には、もう熱も下り、盲腸までに進まずに、トットは元気になって退院した。  それから少し経《た》った、ある晩のことだった。トット達《たち》は、ラジオのために徹夜《てつや》していた。休憩《きゆうけい》時間に、なんとなく、怪談《かいだん》めいた話になった。いつも、あまり自分のことを話さない、トット達の劇団の一期生の加藤道子さんが、静かに、 「私、死神って、見たことあるの」って、いった。みんなは、シーンとした。  加藤さんの話をまとめると、こんな様子だった。それは、まだ、加藤さんが、十代の時。妹さんが、疫痢《えきり》にかかって、入院した。そのとき、昼間だったそうだけど、なんとなく、道子さんが一人になって、看病することになってしまった。有名な俳優のお父さまの加藤精一さんも、お母さまも、ちょっと、いなかった。道子さんは、妹さんの足許《あしもと》の椅子《いす》にかけていた。突然《とつぜん》、ねむ気が来たような気がしたので、起きていなくちゃ、と思っていて、ふっ! と気がつくと、ベッドから一メートル半くらい離れたところに、お爺さんがいて、寝《ね》ていた妹さんを抱《だ》いている。びっくりした道子さんが、 「やめて!」  というと、次の瞬間《しゆんかん》、お爺さんは消えて、今度は、透《す》き通った、おじぞうさんが、妹さんを抱いている。(ああ、おじぞうさまならいいなあ)と、夢とも幻《まぼろし》ともつかない中で道子さんが、考えて、ベッドを見ると、妹さんが、急に苦しそうに息をして、あっ、という間に、亡《な》くなってしまった。そんなに悪いとは思ってなかった妹さんが、あっ! という間に、死んでしまった。道子さんは、 「昔のことだけど、はっきり憶えているのよ」  と、不思議な体験を、話して下さった。トットは、なんとなく、聞いた。 「その、お爺さんて、どんな感じの人でした?」  道子さんは、ちょっと考えてから、少し、いいよどみながら、いった。 「そう……強《し》いていえば、徳川夢声さんみたいな……」 「えー?!」  そのとき、トットは、全身、とり肌《はだ》が立つような気がした。というのも、トットの、あの工合《ぐあい》の悪いとき、何度も見たお爺さんが、なんとなく、徳川夢声さんていう人に、そっくりだ……と思っていたから。道子さんも、 「不思議ね、同じような人を見るなんて」  と、いった。その話を、いまトットは、化粧室を出る夢声さんを見て、思い出したのだった。夢声さんのニッコリ笑った顔は、どこかで見た事があったけど、後姿を見たのは今が、初めてだった。そして、その、後姿は、あの時のお爺さん、そのものだった。そういえば、夢声さんは、ドイツの怪奇映画「カリガリ博士」の説明がお得意だったそうだし、怪談ばなしも、ことの外、お上手で、人をこわがらせるのも、お好きのようだった、と、後《あと》でいろんな人から聞いた。そんなことから、工合の悪いトットの前に似たような人が現れたのかも知れないけど、トットは、そういう「カリガリ博士」とか、どれ一つとして見た事はなかった。  でも本当の夢声さんは、トットのような、かけ出しのハンドバッグを心配して下さるような親切な方《かた》だった。そして、トットは、話芸の神様から、たった一人で、こんな面白い�泥棒の話�を聞かせて頂いて、とっても、うれしかった。 [#改ページ]   河原で泣け![#「河原で泣け!」はゴシック体]  NHKラジオの演出家の中で、指折りと言われている近江浩一さんが、スタジオで、トット達《たち》に、お説教をした。それは、トット達の仲間では、ないけれど、トットくらいの年の、どこかの女優さんが、セリフが言えなくて、何度も何度も、近江さんに、やり直しをさせられてるうちに、とうとう泣き出してしまった時だった。近江さんは、その泣いている人に言うことを、ついでに、トット達にも知っておいてもらいたい、と思ったらしく、こう言ったのだった。 「スタジオで泣くっていうのは、甘《あま》えてる証拠《しようこ》なんだぜ。本当に、せっぱ[#「せっぱ」に傍点]つまっているとき、人間は、泣く余裕《よゆう》なんか無い! 泣く暇《ひま》があったら、その分、なんとか考えて、うまく芝居《しばい》をするように。本当に泣きたかったら、河原に行って泣きなさい。スタジオで泣くのは、恥《はず》かしいことと、今日から肝《きも》に銘《めい》じておくこと。泣くときは、一人で、河原に行って泣く!」 (なるほど)  と、トットは思った。たしかに、スタジオで泣きたい時はあるけど、泣いてる暇は、無い。河原なら、誰《だれ》もいないし、成程《なるほど》、昔《むかし》の人は、いいことを、いう。 (それにしても)  と、トットは考えた。 (このNHKのある新橋から、河原というのは、随分《ずいぶん》、遠いなあ)  すぐ頭に浮《う》かぶ河原といえば、小学校のとき、学校から散歩に行った多摩川だった。 (わあ! いちいち、多摩川の河原まで、泣きに行くのは大変だ!!)  トットは、ひそかに、そう思った。でも、近江さんの言う通り、たしかに、スタジオで泣くのは、恥かしいこと、と思えた。泣く時間があったら、その分、なんとか、つらくても切り抜《ぬ》けよう……。  そのとき、スタジオにいた中年の女優さんが、そっと、トットに教えてくれた。 「どうしても、涙《なみだ》が出て困るときは、舌の先を、少し、歯で噛《か》んでごらんなさい。涙は止《と》まりますよ。私も、昔、先輩《せんぱい》に教えて頂いたんだけど。これは、本当に、不思議に止まるのよ。悲しいことだけど、せめて、こうやって、止めて、仕事をしていくしか、ないものねえ」  苦労人らしい、その、あまり有名ではない女優さんは、老眼鏡を、はずしながら、そういった。トットは、決心した。 「芝居が下手と言われたり、セリフを何度も、やり直しさせられたり、役を降ろされたり、誰かに、ひどい事を、いわれたり、そういう、悲しい、と思えるときでも、泣くのは、やめよう。どうしても、涙が出そうになったら、舌の先を噛んで、我慢《がまん》しよう。そして、本当に、どうしても、泣かなくちゃ気が狂《くる》いそうなときに、河原に行こう!」  そして、本当に、トットは、その日以来、ただの一度も、スタジオの中で泣いたことは、なかった。自分と関係のない事柄《ことがら》で涙を流すことはあっても、自分のことで泣いたことは、一度もなかった。泣き虫のトットだけど、この近江さんの言葉は、強く印象に残った。 「泣くときは、河原に行って泣け!」  そして、毎日が忙《いそ》がしく、また怠《なま》けもののトットにとって、多摩川まで、電車を何度か乗りかえて行って、泣く、というのも、おおごと[#「おおごと」に傍点]で、結局、行かずじまいになってしまった。  それにしても、舌の先を噛む、というのは、霊験《れいげん》あらたかだった。ちょっと噛むだけで、出かかった涙は、止まった。涙腺《るいせん》と舌と、どういう関係があるのかは、わからないけど、とにかく、止まった。心の苦痛が、舌の先の苦痛で、やわらぐ、というのも不思議だった。 「こんなに、しょっちゅう噛んでいて、いつか、舌癌《ぜつがん》にならないかしら?……」  そんな心配が頭を、かすめることは、あったけど、泣かないことが、先決だった。  顔で笑って、心で泣いて、涙が出かかりゃ、舌を噛む。自分で選んで始めた仕事にもせよ、なかなか大変だ! と、トットは思った。  ところが、しばらくして、トットは、自分が大きな間違《まちが》いをしていたことを発見した。それは、あのとき、近江さんは、 「泣きたいときは、河原に行って泣け!」  といったのではなく、 「泣きたいときは、廁《かわや》に行って泣け!」  と、いったのだった。トイレを廁、というのは、軍隊で、よく使ったそうだけど、トットには、あのとき、 「河原《かわら》」  と、聞こえたのだった。トイレなら、スタジオの、すぐ傍《そば》にも、あったのに……。  でも、おかげで、トットは、舌の先を噛みながらも、メソメソせず、誰を恨《うら》むこともなく、前むきに歩いて行くことを、教わったのだった。 [#改ページ]   見開《みひら》き[#「見開《みひら》き」はゴシック体]  NHKのスタジオの壁《かべ》を背中にして立っているトットに、カメラマンが、 「これは、見開きで行きますからね」  と、レンズを、のぞきこみながら、いった。トットは、アサヒグラフのグラビアにのるので、いま、写真を撮《と》られているところだった。カメラマンは、朝日新聞の秋元啓一さんで、のちにベトナム戦争の報道写真を、沢山《たくさん》、撮った人だけど、この頃《ころ》は、呑気《のんき》に、トットの写真なんかを撮りに来てくれていた。 「見開き」  と聞いて、トットは、 「わかりました」  といった。そして、目を、なんとか実際より大きく見えるように、開《あ》けて、まばたきをしないようにして、カメラを見た。秋元さんは、カメラから顔を離《はな》すと、いった。 「顔、もっと自然にして下さい」  トットは、ますます目に力を入れて、大きくしながら、いった。 「だって、見開き、なんでしょう?」  突然《とつぜん》、秋元さんは、しゃがみこんで笑った。編集の男の人も、大声で笑った。トットには、意味が、わからなかった。 (見開きです、といったから、目を大きく開いているのに……)  秋元さんは、随分《ずいぶん》、長く笑ってから、少しボサボサの髪《かみ》の毛を、かくようにして、トットに、いった。 「ごめんなさいね。見開きっていうのは、君の目のことじゃなくて、グラビアの頁《ページ》でね、開いて両方の頁に、またがる写真のことを、いうんです。なるほどね、僕《ぼく》たちには、あたり前になってることが、違《ちが》う世界の人には、わからないんだなあ。気をつけなくちゃ。顔は、ふつうで、いいんですよ、じゃ、いきますよ!!」  トットは、とても恥《はず》かしかった。それは、見開き、という言葉を知らなかったこともあるけど、それより、目を大きく開くのは、不自然なこと、と思いながら、無理して、ポーズをしてた自分に対してだった。でも、考えてみると、雑誌の見開きを、自分の目と勘違《かんちが》いしたのは、確かに、おかしいことだった。トットも、少し首を、すくめながら笑った。でも、そのおかげで、とても、雰囲気《ふんいき》のある、楽しい写真が出来上った。  それにしても、その現場の人達《ひとたち》にとっては、日常的な言葉だけど、トットのように、初めて聞く人間にとっては、びっくりしちゃう、というのが、沢山あるのにも、トットは驚《おどろ》いた。  特にテレビは、映画から来たもの、歌舞伎《かぶき》から来たもの、アメリカから来たもの、いろんな言葉が、ゴチャゴチャに混っているので、憶《おぼ》えても憶えても、きりがなかった。 『ケツカッチン』  F・Dさんが、お化粧室《けしようしつ》でメーキャップをしてるトット達にむかって、叫《さけ》んだ。 「古川緑波《ふるかわろつぱ》さん、ケツカッチンですから、急いで下さい!!」  トットは、とび上って、心配そうに、F・Dさんに聞いた。 「古川緑波さん、どっか、お悪いんですか?」  F・Dさんは、それこそ、見開きのとき、トットがしたように、目を、まん丸くして、いった。 「どこも悪くありませんよ。ケツカッチンというのは、ここの仕事と、次の仕事が、時間的に余裕《よゆう》が無いんで、こっちを、きちんと決まった時間に終らせなきゃ、いけない、っていうこと。こっちのケツが、次に、ぶつかっている、ということ。わかった?」  わかったけど、トットは、あまり、美しい言葉では、ないと思った。だから、自分では絶対に使わなかった。奇麗《きれい》な女優さんが、 「私、ケツカッチンですから、よろしく!」  なんて言ってるのを見るのも、あまり好きじゃなかった。小学生のとき、ひと頃、はやった、お尻《しり》をぶつけて遊ぶ「ドンケツ」は、面白《おもしろ》い響《ひび》きがあって、嫌《きら》いじゃなかったけど。貴族的な古川緑波さんにも、ケツカッチンは、似合っていないように、トットは思った。 『消えもの』  御飯《ごはん》をたべるシーンがあって、トットが、お膳《ぜん》の前にすわっていると、ディレクターが来て、せわしい調子で、トットに聞いた。 「消えもの、どしたの?」  トットは、夢《ゆめ》を見ているのかと思った。(このディレクターは、私に、何を聞いているのかしら? 消えもの? おばけのドラマじゃないのに。何が消えたというのかしら……)  その瞬間《しゆんかん》に、小道具さんが、大きなお盆《ぼん》にのせて、エッサエッサと運んで来たものを見て、ディレクターは、安心したように、 「ああ、来た来た」  といった。 (消えものが、来た?)  見ると、果物だの、おつけものだの、お味噌汁《みそしる》だの、焼魚だのが、並《なら》んでいた。つまり、喰《た》べて、なくなるものを、消えもの、というのだと、トットは理解した。そして、「消えもの」というのは、たべものが主《おも》だけど、時には、ドラマの中で、投げつけて、割れてしまうコップだとか、まるめて、どうにかなっちゃうハンカチといった、消耗品《しようもうひん》も、そう呼ぶ、ということも、あとになって、わかったことだった。 『なめる』  トットの大好きな、永山ディレクターが、リハーサルのとき、トットを指しながら、いった。 「ここで、Aカメラさん、黒柳君の肩《かた》を、なめて下さい」  トットは仰天《ぎようてん》した。そこで急いで、いった。 「なめて頂かなくて、結構です」  でも、永山さんは、まるで聞こえなかったような様子で、響きのある声で続けた。 「で、肩をなめたら、Aカメラさん……」  トットは、もっと大きな声で、必死で、いった。 「なめて頂かないで、結構です」  やっと気がついて、永山さんは、トットに、いった。 「なめる、ってこと、君、気にしてるの? 君の肩なめ[#「肩なめ」に傍点]、どうして、反対なの?」 (肩なめ?)  トットは、少し狼狽《ろうばい》した。 (あれ? 私、何か、思い過し、したかな?)  たしかに、これは、トットの思い過しだった。  なめる、というのは、ある物越《ものご》しに、何かを撮ることで、例えば、「花をなめる」または、「花なめ」といったら、手前に花を置いて、その花越しに、むこうに居る人を撮る、ということだった。トットは、小さい声で、永山さんに、いった。 「なめて下さって、結構です……」 『バミリテープ』  F・Dさんが、上の副調整室との連絡用のレシーバーを、はずしながら、トットに、いった。このレシーバー風のものを、スタジオでは、インカム[#「インカム」に傍点]と呼ぶ。恐《おそ》らく最初アメリカから来たときは、Intercommunication=[#「=」はゴシック体] 相互《そうご》通信・連絡=[#「=」はゴシック体] と呼ばれていたんだろうけど、これでは、あまりに長いので、日本流に、短かく、インカムになったらしい。そのインカムを、はずしながら、F・Dさんは、トットに、いった。 「バミリテープ、持って来ますから、ちょっと、動かないで、ここに立っていて下さい」 「バミリテープ?」  何度、口の中でくり返してみても、見当のつかない言葉だった。何が来るのだろう……。トットは、物凄《ものすご》いものを期待して、待っていた。  F・Dさんは、まるで、手ぶらのように、もどって来ると、いきなり、トットの足許《あしもと》に、しゃがんで、いった。 「ちょっと、足、どかして下さい」  トットが、とびのくと、F・Dさんは、手の中に持って来た、幅《はば》一センチくらいの、ビニールテープのような絆創膏《ばんそうこう》のような巻いたものを、少し引っぱって千切ると、スタジオの床《ゆか》に、小さな×じるしを、作った。そして、上から手で、こすりつけるようにして、よく貼《は》りつけた。そして、トットに、 「ここですからね」  といった。つまり、トットが、むこうから歩いて来て、止まる位置なんだけど、どうして、こんな、バンソーコーみたいなものが、バミリテープ、なんて、おごそかな名前で呼ばれるのか、トットには、わからなかった。でも、よく観察していると、スタジオの床の、俳優さんが、確実に立たなくちゃいけない点だとか、椅子《いす》などを、芝居《しばい》の途中《とちゆう》で動かして来て、決められた所に、きちんと置く、その場所を、 「バミる」  と、みんなが言ってることに、気がついた。  多分、「場《ば》をみる」から来た「場見る」に違いなかった。それが、変化したのか、自分の立つ所に、×じるしをつけて貰《もら》いたい俳優さんは、 「ここ、バミって下さい」  と、F・Dさんに、頼《たの》んだりしている。そしてF・Dさんは、「はい、バミりましょう」なんて、いう。  つまり、「バミる」「バミって」「バミリテープ」となっていったのだ、と、トットは、自分流に解釈した。それにしても、この、どこの家にも、どこの会社にもあるビニールテープみたいなものが、テレビ局に来ると、俄然《がぜん》、 「バミリテープ」  と、特別な名前で呼ばれるのは、変っている、と、トットは、自分の足許の、小さい×じるしを見ながら、思っていた。 [#改ページ]   五十八円[#「五十八円」はゴシック体]  世の中に「手の平《ひら》を、かえしたような」という表現があるけれど、 (なるほど、こういうことを、いうのだな)  と、トットは悲しみながらも、この言葉に感心していた。 (こういう表現を考え出した人は、よくよく、ひどい目に遇《あ》ったに違《ちが》いない)  NHKに、通称、「スタ管」という部がある。スタジオ管理の略なのだけど、例えば、ラジオのスタジオで公開放送があれば、必要なだけの椅子《いす》を数えて運んで来て並《なら》べる、そういうのがスタ管さんの仕事だった。それから、テレビにしても、ラジオにしても、オーケストラが出演するとなれば、その人数分の椅子の他《ほか》に譜面台《ふめんだい》、それから、NHKが用意する楽器……ハープやコントラバスや木琴《もつきん》やティンパニー……そういうものを、スタジオに前もって、運んでおくのも、スタ管さんの仕事だった。勿論《もちろん》、片付けるのも、その人達《ひとたち》の役目だった。  そんなスタ管さんの中に、なんとなく、トットなんかに口をきく三十|歳《さい》くらいの男の人がいた。いつもグレーの作業服を着ていた。 「今日は、何時まで、かかりそうですか?」  とか、 「すいませんね、並べるのに、時間がかかっちゃって」  などと、そっと、トットに話しかけた。トットは誰《だれ》とでも話をするのが好きだから、 「今日は、少し遅《おそ》くなりそうよ」  とか、お友達のように話していた。  ところが、今夜のことだった。トットは、劇団に届いた伝票通りに、テレビのリハーサル室に来ていた。八時から十二時まで、という事になっていた。でも、八時にリハーサル室に来たのは、トット一人だった。トットは、自分が間違えたのかと、他のリハーサル室を、ひとつひとつ走って探して歩いた。運の悪いことに、この夜に限って、どこも使ってなくて、誰もいなかった。ドラマ班の部室に電話をしたけど、もう夜の八時過ぎのせいか、返事は、なかった。トットは、ドキドキした。みんなが、どこか違うところで、リハーサル始めてるとしたら、どうしよう……。交換台《こうかんだい》にも聞いてみた。交換台の女の人は、 「八時から、一応、使用ってことになってますけど」  といった。出たり入ったり不安でいるうちに、とうとう二時間が過ぎた。そのとき、二、三人の靴音《くつおと》が聞こえた。トットはとび上ってドアを開けた。台本を重ねて持った人達が入って来た。 「あの、私が出して頂く番組のかたですか?」  すがりつきたい気持だった。  そのときトットは、あの、時々、はなしをするスタ管の人が台本を持っていることに気がついた。つまり、その人は、もうスタ管の人ではなくて、F・Dさんか、そういう役目の人になってる、ということだった。スタ管さんだった人は、トットをジロリと見ると、いった。 「ああ、そうだよ」  トットは安心して、涙《なみだ》が溢《あふ》れそうな気持だった。それでも、(もし十時に変更《へんこう》になったのなら、どうして前もって連絡してくれなかったのかしら……)という気持があったのも事実だった。そこでトットは遠慮《えんりよ》がちに、その人に、いった。 「私、八時って伝票に書いてあったんで、八時に来てたんですけど、十時に、変ったんですか? 知らないもので、待っちゃった」  そのとき、トットは想像もしない言葉を、そのスタ管さんだった人が、トットに言ってるのを聞いた。かん高い荒々《あらあら》しい声で、その人は、こう、いったのだった。 「待ってりゃいいだろう? 伝票、出してあるんだから! つべこべ言わないで、待ってりゃいいんだよ!」  十時に変更になったと、わかってるんなら、何時間でも、待つのは、つらくなかった。でも、何が何だか、わからなくて待っているのは、本当に、不安だった。でも、そんなことは、おかまいなしに、その人は、つけ加えた。 「だまって待ってりゃ、いいんだよ」  トットは、だまって考えていた。スタ管だった時、あんなに人の顔色を見るように話していた人が、F・Dになった途端《とたん》、こんな風に、なってしまった。  その頃《ころ》になると、いろんな俳優さんが次々に入って来た。みんな、十時と知らされている人達だった。スタ管だった人は、有名な人には、腰《こし》をかがめ、ニコニコしながら台本を配って歩いていた。 「伝票、出してあるんだから、だまって待ってりゃいいんだ!」という声が、胸の中で、重く悲しく、沈《しず》んでいた。  このとき、トットの一時間の出演料は、五十八円だった。給料に文句をいうつもりは、なかったけど、ラーメン一|杯《ぱい》分にも、ならない金額だった。気をもんで、走りまわった二時間が、百円ちょっとだった。  でも、考えてみると、百円で、トットは、人生の現実を見ることが出来たのだった。人間として、どういうことが大切かということを、百円がトットに教えてくれた。  そして、トットの中にある、優《やさ》しいもの、柔《やわ》らかいものが、このときほど、無言で、トットに話しかけたことは、なかった。 [#改ページ]   クリスマス[#「クリスマス」はゴシック体]  アメリカ映画の影響《えいきよう》か、それとも進駐軍《しんちゆうぐん》から流行してきたのか、少しずつ「ジングルベル」といった風な、クリスマスの音楽が、町の中に流れ始めた。アメリカ軍むけのラジオ放送、FENから洩《も》れてくるのも、賑《にぎ》やかな、クリスマスの歌だった。お菓子屋《かしや》さんには、靴下《くつした》の恰好《かつこう》のキャンディーの詰《つ》め合せとかが並《なら》び、お花屋さんには、ひいらぎ[#「ひいらぎ」に傍点]だの、クリスマスツリーに飾《かざ》るモールだの、星だのが、ピカピカ光っていた。  そして、クリスマス当日の夜は、酔《よ》っぱらいの小父《おじ》さん達《たち》が、新橋の駅のまわりを、ワイワイ歩いていた。みんな、揃《そろ》って銀紙で出来た三角の帽子《ぼうし》をかぶり、手に、バン! と音のするクラッカーと、クリスマスケーキの箱《はこ》を、ぶら下げていた。男同士、足をもつれさせながら肩《かた》を組んで、何故《なぜ》か、クリスマスの歌じゃなくて、軍歌をうたってる人が多かった。  クリスマスといえば、トットには大きな思い出が、三つあった。まるで、落語の「三題|噺《ばなし》」の題のようだけど、一つは「第九シンフォニー」二つ目は、「羊《ひつじ》」三つ目は、「初恋《はつこい》」だった。一つ目の「第九シンフォニー」は、ベートーベンの第九のことで、これは、トットの誕生《たんじよう》に関係があった。というのは、トットのママとパパは、クリスマスの夜の、「第九シンフォニー」で、めぐり逢《あ》ったのだった。  ママは、当時、音楽学校の声楽科の生徒で、オペラだとか、オーケストラで、コーラスが必要という時は、学校から友達と一緒《いつしよ》に、かり出されていた。そんなある、クリスマスの日、新響《しんきよう》(今のN響)が、「第九」をやることになり、ママ達は、あの有名な「歓喜の合唱」のために出かけて行った。他《ほか》の音楽学校からも、沢山《たくさん》、来ていた。そして、そのとき、パパは、まだ二十三|歳《さい》くらいだったけど、もう新響のコンサート・マスターだった。トットが不思議だと思うのは、ママのほうから、パパを見つけるのは、そう難かしいことではなかっただろうけど、パパのほうが、どうやって、凄《すご》い人数の中のママを、見つけたのか、ということだった。自分の昔《むかし》のことを話すのを、とても恥《はず》かしがるパパだから、トットは聞いたことがなかったけど、きっと、ママから、パパだけに通じる魔力《まりよく》のようなものが、オーケストラの人達の頭を、飛び越《こ》えて、パパの胸に、とどいたに違《ちが》いなかった。そして、パパは、ヴァイオリンを弾《ひ》く手を止《と》めたとき、ふりむいて、沢山いる女の子の中の、ママだけを、見た。そのとき、ママは、自分で毛糸で編んだ、グリーンのセーターに、グリーンのベレー帽、そして、やっぱり自分で縫《ぬ》った、グリーンのギャザースカート、というグリーン一色で立っていた。それに、お小遣《こづか》いをはたいて買った輸入ものの、編みあげの靴で。  偶然《ぐうぜん》、ママのグループの中の積極的な人が、オーケストラの人と知り合いだったりしたことから、グループで、つきあうようになり、そこで、パパとママは、話すチャンスが出来た。とにかく、そんなわけで、クリスマスの晩、以来、二人は、離《はな》れられなくなった。結婚《けつこん》ということになったとき、ママの家のほうから、「音楽家に、嫁《よめ》にやることは大反対!」といったゴタゴタがあったりしたけど、とにかく、パパとママは結婚した。そして、すぐ、トットが生まれた。ママは、トットがお腹《なか》にいるとき、ずーっと、第九の「歓喜の合唱」を、ドイツ語で、口ずさんでいた。生まれてからは、子守唄《こもりうた》がわりに、この曲を歌った。だから、トットが、生まれて最初に憶《おぼ》えた歌、というのは、この曲だった。 ※[#歌記号、unicode303d]ザイネ・ツァーベル・ビンデル・ビーデル・ザイネーツァーベル・スタンゲッティー・アーレメ・シェンデルフンゲン……  トットは、大きい声で、おぼえた通りに歌った。パパの友達たちは、曲が曲だけに、小さい子が、これを歌うので大笑いをした。  ところが、これが、あとになって、とても困ることになるのだった。というのは、トットが音楽学校に入って、また、ママと同じように、「第九」のコーラスを頼《たの》まれるようになった時だった。ドイツ語で歌おうとすると、必ず、この小さい時に憶えたのが、口をついて出てしまう。ところが、これは、ママの発音が正確じゃなかったのか、または、トットが小さくて、口がまわらないので、自分流に歌ったのを、そのまま憶えてしまったのか、いずれにしても、本当の楽譜《がくふ》に書いてあるドイツ語とは、似ているようで、全く違うのだった。でも、どんなに勉強しても、いざ、このメロディーになると、 ※[#歌記号、unicode303d]ザイネ・ツァーベル・ビンデル・ビーデル……に、なってしまうのだった。コーラスの友達は、みんな、 「なんとなく、似てはいるんだけど、よく聞くと、違うんだなあー」と、冷やかした。だからトットは、日本語の、 「うたえよ、同胞《はらから》、たたえよ、友よ……」  のほうが、有難《ありがた》かった。  でも、そんなわけで、クリスマスの晩、「歓喜の合唱」の中から、トットが生まれることに、なったのだった。  大きくなってから、トットは、あるときパパに、どうして、クリスマスに、「第九」をやるのか、と聞いてみた。パパは、すぐ答えた。 「あの頃《ころ》、音楽家は、みんな、貧乏《びんぼう》でね。だから、大《おお》晦日《みそか》が近づくと、借金もあるし、お正月の用意もしなくちゃならないから、大変だったのね。そこで、誰《だれ》か頭のいい人が考え出したんだけど、せめて、第九をやれば、コーラスが沢山、出る。コーラスのメンバーが、最低、一枚、家族に切符《きつぷ》を売ったとしても、かなりの切符が出るわけで、そうすれば、満員になる。それで、みんな、なんとか、年が越せる、という、本当は、苦肉の策だったんだよ。いまは、もう、クリスマスというと、�第九�という風に、なっちゃったけど、はじまりは、そういう、せっぱつまったことからだったのね。だから、日本だけじゃないかな? 年末になると、第九をやる国は……」  そして、パパは、つけ加えた。 「もちろん、今だって、本当に、いい音楽をやろうとしてる音楽家で、お金持の人は、いないけどね」  でも、トットは、「第九」のコーラスが、シラーの詩で、本来の意味は、 「人々よ、自由になり、手をつないで、さあ、友達になろう」  というのだ、と知ったとき、この曲で育ったことを、とても、うれしく思った。  二つ目の「羊」は、トットが、六歳くらいで、日曜学校に通っている頃の出来ごとだった。その年のクリスマスは、「馬小屋に生まれたキリストのところに、三人の博士が、貢《みつ》ぎものを持って、訪ねてくる」あの有名な場面を芝居《しばい》にすることに、牧師さんが決めた。よく、クリスマスカードにもなっている、あのシーンだった。小編成の聖歌隊が歌う。 ※[#歌記号、unicode303d]聖《きよ》し、この夜、星は光り……  変声期をむかえた男の子もいて、時々、声が、ひっくり返るのを、のぞけば、結構きれいな聖歌隊だった。そして、この歌をバックに、馬小屋の床《ゆか》にすわった、母マリアに抱《だ》かれたキリスト。まわりを、小さな羊たちが、とりかこんでいる。頭から白い布をかぶった三人の博士が、手に手に、貢ぎものを持って入って来る……。こういう工合《ぐあい》に始まる予定だった。そして、なんと、トットは、キリストに抜擢《ばつてき》された。教会の信者の中でも、かなり年かさの、マリア役のお姉さんに抱かれて、トットは、始めのうちは、赤ん坊のキリストらしく、大人しくしていた。でも、稽古《けいこ》をしてると、抱かれているままなので、段々、たいくつしてくる。三人の博士が、一人々々、長いセリフをいってる間、じーっとしてることなんか、トットに出来るはずが、なかった。トットは、足許《あしもと》に、うずくまってる羊に、小さい声で、話しかけた。その子たちは、頭に、羊の顔を描《か》いたお面をのせて、じーっとしていた。 「ねえ!」  トットは、ポケットから、ちり紙を一枚出してヒラヒラさせ、羊の口のところに、つき出して、いった。 「羊だから、これ、たべるのよ」  羊の子は、ちらりと、ちり紙を見ると、もっと頭を下げてしまった。トットは、 「ねえ、どうして、たべないの?」  といって、羊に近づこうとしたけど、母マリアが、ギューッと力を入れて抱いているので、それ以上は、羊に近づけない。仕方なく、足で羊の子をギュウギュウ押《お》してたら、とうとう、牧師さんに見つかってしまった。牧師さんは、お説教のときと同じような、ゆっくりとした、歌うような調子で、トットに、いった。 「イエスさまは、どんなときでも、だれに対しても、おやさしかったのです。イエスさまになる子供は、大人しくしていなければ、いけません。では、役を、かえてみましょう。トットちゃんは、羊になりましょう。そして、羊だった粟田《あわた》君が、今度は、イエスさまですよ。さあ、もう一度、はじめから、やってみましょう」  トットは、羊のお面をかぶって、うずくまった。うずくまると、お尻《しり》が客席のほうをむいているわけで、顔が見えてないから、恥かしくもないし、このほうが(気に入ったわ)と、トットは思った。博士のセリフが始まった時、トットは、キリストの粟田君に、いった。 「ねえ、紙、私に、頂戴《ちようだい》? たべるんだから!」  でも、粟田君は、本当のキリストのように、博士のほうをむいていて、トットに返事をしなかった。トットは、うずくまった恰好で、もう一度、くり返した。 「どうして、紙、出さないの? ねえ、私、たべるんだから、紙、頂戴!」  それでも、キリストは、知らん顔をしていた。そこで、トットは、丁度、トットの目の前にある粟田君の足の裏を、くすぐった。粟田君は、くすぐったがって、ヒイヒイ、もだえた。  そんなわけで、トットは、羊の役も、おろされてしまった。そのときは、残念とも思わなかったけど、いまになってみると、新聞記者の人に、 「初めての役は、なんでしたか?」  と聞かれたとき、 「イエスさまです」  と答えられたら、(随分《ずいぶん》、面白《おもしろ》かったのに)と、少し、後悔《こうかい》みたいな気持で、トットは、あの小さい教会のステージを思い出していた。 「初恋」は、もう、そのもの、ずばりの初恋だった。相手は、トットの教会の副牧師だった。小さい時から知ってはいたけど、海軍士官学校の制服で復員して来た日に、トットは、教会の入口のところで、しばらくぶりに、その人を見てしまった。別れた頃は、小学校の低学年だったトットも、今は、もう中学生になっていた。背が高く、ハンサムで、笑うと、目がやさしくなり、声が、とても、よかった。そのとき、トットは、あまり熱心な信者では、なかった。でも、その日から、トットは、すべての集会に参加した。教会というのは、日曜日の礼拝の他にも、行こうと思えば、夜の祈祷会《きとうかい》だとか、信者のお見舞《みまい》だとか、色々、集る日があった。その、どれにも、トットは出席した。副牧師は、住宅事情のせいか、教会の中の一室に住んでいた。とうとうトットは、日曜日の、子供の礼拝の日曜学校のオルガン弾きにもなってしまった。そうすれば、「どの讃美歌《さんびか》にするか」とか、少しでも副牧師と話すチャンスが出来るし、前の日に、オルガンの練習をしてれば、チラリとでも、お姿を見かけることが出来る。トットは、聖歌隊にも入った。とにかく、一週間のうち、四日間は、教会に通った。ママも、教会なら、と安心していた。学校の友達は、トットが急に熱心なクリスチャンになったのだと、驚《おどろ》いていた。  クリスマスが来た。長老たちの話し合いで、クリスマス・キャロルをしてみよう、という事になった。それは、クリスマスの夜、聖歌隊のみんなが、信者の家の窓の下に集って、クリスマスの讃美歌を歌う、という、この教会にしては、新らしい試みだった。二曲くらい歌ったら、次の信者の家まで歩いて行って、また歌う。そして、また、次の家と、夜通し歌い続ける。この夜だけは、�どんなに遅《おそ》くなっても、心配しないで下さい�という紙が、聖歌隊のメンバーの家に配られた。小学校の高学年と中学生が中心の、十五人くらいの編成だった。そして、トットが、狂喜乱舞《きようきらんぶ》したのは、引率《いんそつ》が、副牧師、とわかった時だった。  この夜は、特に、寒かった。まだ戦争が終って、あまり経《た》っていないので、電気も、薄暗《うすぐら》かった。でも、トットの心は、明るかった。一番最初の信者の家の窓の下に立ったときは、ビクビクする気持と、外で歌う、というワクワクした気分とが一緒になった、不思議な感じだった。 「聖し、この夜」と「もろびと、こぞりて」を、まず歌った。すると、歌ってるときは、閉まっていた窓が、歌い終ると開いて、おばあさんが、涙《なみだ》を浮《う》かべて、立っていた。 「なんて、ステキなんでしょう」  そういうと、おばあさんは、その頃では、とても貴重な、お砂糖を少し入れたお湯の入ったお茶碗《ちやわん》を、みんなの手の中に、渡《わた》してくれた。かじかんだ手に、熱いお茶碗は、気持がよかった。トットは、とても、うれしかった。  おばあさんが、よろこんでくださったのも、うれしかった。でも、何より、うれしかったのは、クリスマスの夜、うんと遅くまで、何時間も、副牧師と、一緒にいられる、ということだった。どんなに寒くても、どんなに歩いても、平気だった。背の高い副牧師の、後姿を見ながら、あとから、ついて行くだけで、満足だった。そして、次の信者の家の窓の下につくと、心をこめて、出来るだけ大きい声で歌った。心の中は、踊《おど》っていた。月も星も、一緒に仲間になってくれているように感じた。でも、この初恋も、このクリスマスの夜で終ってしまった。というのは、それから、ちょっとして、副牧師は、教会の信者の、トットより、はるかに大人の女の人との結婚を発表したからだった。誰かの話によると、赤ちゃんも、もう出来てるらしい、ということだった。  トットは、それ以来、また、あまり熱心に教会には、通わなくなってしまった。  そして、しばらくの間は、クリスマスの曲を聞いても、楽しくは、なれなかった。  新橋の駅で、終電車を待ちながら、トットは、なつかしく、この三つの話を思い出していた。いつも、たいがい終電車で顔が合うホステスのお姉さんの姿が、今晩は、見えなかった。 (クリスマスで、忙《いそ》がしかったのかも知れない)  ホームに、明々《あかあか》と電気をつけて、終電車が入って来た。 [#改ページ]   怪談《かいだん》[#「怪談《かいだん》」はゴシック体]  今日という今日は、トットにしても、テレビのスタッフにしても、冷汗《ひやあせ》ビッショリだった。今日の本番で、トットは、お琴《こと》を弾《ひ》くことになっていた。しかも、怪談の中で。原作が小泉八雲《ラフカデイオ・ハーン》で、トットは新妻《にいづま》の役だった。何しろ、こわい話で、かなり地位のある、そしてお金持の、さむらいのところに、トットが後妻に来た。ところが、昼間はいいんだけど、夜、ひとりで寝《ね》ていると、にわかに、恐《おそ》ろしい音がして、前妻の亡霊《ぼうれい》が現れる。でも、夫が家にいる時は、決して出て来ない。新妻が目当てなのだった。そして、夫が、夜、お城かなんかに行ってて留守だとなると、ドドドド……と、音がして、現れる。いってみれば、それのくり返しなんだけど、こわがりのトットは、ドドド……が聞こえると、 「キャア〜〜出るう!!」  と、本気で逃《に》げ出したくなってしまうのだった。そして、お琴、というのは、日中、旦那《だんな》さまが庭などを散策していると、お座敷《ざしき》で新妻が、お琴を弾く、といった、のどかな風景を現すシーンに必要なのだった。  ところで、自分で演奏の出来る人は別として、テレビで楽器を弾くというのは、本当に大変なことだった。勿論《もちろん》、音は、専門家の人の演奏したテープが流れるから、それに合わせるんだけど、さわったこともない楽器を、上手に演奏してるように見せるのは、至難の技《わざ》だった。比較《ひかく》的、うまく胡麻化《ごまか》せるのは、ピアノで、手許《てもと》を写さないで貰《もら》えば、なんとか恰好《かつこう》はつく。でも、たいがいの楽器は、指とか、こまかい所が、丸見えになるので、苦労の種だった。しかも、ふつう、配役が決まってから、楽器を演奏する、ということがわかるので、ずーっと前から練習しておく、ということは、よほどのことでない限り出来ないので、大変なのだった。  で、お琴がある、となると、NHKが頼《たの》んだお琴の先生が、リハーサル室に、お琴を持って来て下さる。そのときによって、個人的に、その先生のお稽古場《けいこば》に伺《うかが》うときもあるけど、このときは、来て下さった。女の先生だった。まず、すわりかたから始まって、お琴の爪《つめ》の、つけかた。そして、絃《げん》に、どんな風に指を、ふれるかの練習。右手は、どう。左手は、どう……。そして、音階の説明。それから、トットの演奏する曲にとりかかる、という、やりかただった。でも、いくら、音はテープから出る、といっても、テンポや、音の高い低いは、きっちり、合わせなければ、ならない。右手の指に爪をつけて、コロリンシャンとやり、左手は、長い絃を、押《お》したり、はなしたり、ゆり動かしたりして、音の高さを変えたり、音色を変化させたりする。それでも、三日目ぐらいには、なんとか、形がついて来た。  ところが、大変なのは、お琴だけではなかった。ナマ放送だから、着物の着換《きが》えの時間は、なかった。おばけは、夜になると出るので、必ず新妻は、寝るときは、ちゃんと、ねまきを、着ていなくちゃならなかった。おばけが出ると、 「あれえ——」  みたいな声を出して、ガバッ!! と、ふとんの上に起き上るので、ねまきが見えるからだった。そして、すぐ朝になると、お城から帰って来た夫に、 「また、ゆうべも……」  と報告をし、そのときは、もう、金持の新妻らしい着物を着ていなくては、ならなかった。そして、また夜……。  そんなわけで、ひきぬき的に、ぬいでいくしかない、ということになり、トットは、着物と、ねまきを交互《こうご》に、合計、六枚着て、帯をしめた。これは、もう異常な見もので、これに、かつらを、かぶってるんだから、小泉八雲が生きていなくて、本当に良かった、と、トットは、ひそかに思った。冷汗は、本番のとき、やって来た。  それは、いよいよ、お琴のシーンになった時だった。トットは、先生のおっしゃった事を、すべて頭に叩《たた》きこみ、スピーカーから流れて来るテープに合わせ、新妻らしく、弾き始めた。突然《とつぜん》、親指のお琴の爪が、絃に引っかかって、絃の間から、指が抜《ぬ》けなくなった。 (どうしよう)  必死で、ひっぱったら、はずみで、今度は、中指までが、ズルッと、絃と絃の間に、もぐってしまった。そして、そのとき、人さし指に、はめてた爪が、スポン! と取れて、お琴の向こう側に飛んでしまった。トットは逆上して、とにかく、手を、絃の間から抜こうと、もがいた。  困ったことは、そうやってる間にも、コロリンシャン、と美しい音《テープ》は、続けて、出ているのだった。(とにかく、右手を、なるべく、かくすことだ!)トットは、上半身を、少し前に、つき出した。ところが、こういうとき、着ぶくれている、というのは、自由がきかなくて、これまた、仕方のないもので、その時、かつらが、どういうわけか、目のところまで、かぶさってしまった。それは、もう、前妻とくらべて、どっちが、おばけか、わからない様子に、違《ちが》いなかった。その後、どうなったか、「終」のマークが出るまで、トットは、無我夢中《むがむちゆう》だった。おかしいことに、この怪談は、 「とても、こわかった」  と、評判が良かった、という話だった。 [#改ページ]   内縁《ないえん》関係[#「内縁《ないえん》関係」はゴシック体]  トットは、結婚式《けつこんしき》の披露宴《ひろうえん》というものに、それまで招《よ》ばれたことが、なかった。初めての経験だった。それはNHKの劇団の一期上の、東儀さんがお嫁《よめ》さんに行くことになり、披露宴に、劇団のみんなも招んで下さったのだった。トットは、その日のために、ピンクのコールテンの布地を無理して買い、ママにスーツを作ってもらった。五期生の友達《ともだち》も、結婚式の披露宴に出るのは初めて、といって、なんとなく緊張《きんちよう》して、出席した。  新橋の、品のいいレストランの特別室だった。トットが部屋に入ると、もう東儀さんは、おむこさんの人と、正面にすわっていた。いつも大きい目が、もっと大きく見え、とても奇麗《きれい》だと、トットは思った。そのとき、トットは、おむこさんを盗《ぬす》み見した。そして、とても驚《おどろ》いてしまった。というのは、その男の人は、トットが日曜学校の頃《ころ》から、教会で知ってる男の人だった。(こんな偶然《ぐうぜん》が、あるだろうか!)トットは、俄然《がぜん》、うれしくなった。トットは背のびをして、おむこさんに手を振《ふ》った。でも、おむこさんは、目を伏《ふ》せているので、トットのことは、見えないらしかった。親戚《しんせき》のかたとか、みなさんも席について、披露宴が始まった。お仲人《なこうど》さんという男の人が、「新郎《しんろう》新婦は……」と、二人の紹介《しようかい》を始めた。そして、次々と、いろんな人が立って、挨拶《あいさつ》をした。東儀さんのお家は、宮内庁《くないちよう》の、雅楽《ががく》のお家柄《いえがら》なので、品のいい御挨拶が多かった。新郎のほうも、立派な方達が、祝辞をいった。そのうち、劇団の先輩《せんぱい》の加藤道子さんにも、御指名《ごしめい》が来た。道子さんは、放送のときのような美しい声で、「東儀さんが、これで劇団をやめて、奥《おく》さんになってしまうのは勿体《もつたい》ない」ということや、「でも、お幸福《しあわせ》な家庭を、お作り下さい」というお祝いをいった。そのとき、司会の人が「それでは、東儀さんの後輩を代表して、黒柳徹子さんに、お祝辞を頂戴《ちようだい》します」といった。トットは、前もって頼《たの》まれてはいなかったけど、披露宴で御挨拶するのなんて、初めてのことだから、うれしいし、ましてや、おむこさんを知っているのだから、話す内容もあるし、と、立ち上った。トットは、丁寧《ていねい》に新郎と新婦に、おじぎをしてから、元気よく話し出した。 「えー……」そこまでいって、トットは考えた。(なんと言えば一番いいのかなあ。つまり�皆《みな》さんは御存知ないでしょうけど、実は、私と新郎とは、昔から、ずーっと、教会で知り合いでした�って言いたいんだけど、これじゃ、ちょっと幼稚《ようち》じゃない? もっと端的《たんてき》に、大人っぽく、いえないかしら?……)  そのとき、いい言葉が、ひらめいた。そうだ、これがいい! そこでトットは、こういった。 「今日は、本当に、おめでとうございます。私は新婦の後輩で、今日、おまねきを受けましたが、実は、私と新郎とは、内縁関係でございます」  一瞬《いつしゆん》、会場はシーンとした。トットとしては、実に、いい形容だと思っていた。(それにしても、どうして、シーンとしたのかしら?)そのとき、トットの隣《とな》りに座《すわ》っていた同期生の木下秀雄君が、 「すわれよ!!」  と、いって、トットの手を引っぱった。木下君は五期生のお目付役、と呼ばれている人だった。トットは、小さい声で、木下君に、いった。 「まだ何も言ってないじゃないの。これから、まだ、いうことあるんだもの!」  二人がゴソゴソもめているのを見て、そのうち、会場中の人が、大笑いを始めた。トットには、ますます、わけがわからなくなった。それでも、なんだか少し喋《しやべ》って、トットは、すわった。そして、お食事が出た。  トットが、大変なことを自分が言ったらしい、とわかったのは、その日、披露宴のあと、NHKの玄関《げんかん》を入ったときだった。そこで逢《あ》った知り合いのディレクターが、トットを見るなり笑い声で、 「今日、結婚式で新郎とは、内縁関係、って言ったんだって? 評判だよ?」と、いった。 「だって、そうなんだもの!」  トットは威張《いば》って、そういった。ディレクターは、 「おむこさん、それ、君が言ったとき、どんな顔した?」と、トットに聞いた。(そういえば、おむこさんが、凄《すご》い勢いで、頭をあげて、トットのほうを見たような、気がした……)  トットは急に心配になって、ディレクターに聞いた。「内縁関係って、いっちゃいけないんですか?」ディレクターは冗談《じようだん》好きの人らしく、イヒイヒと笑い声を入れながら、こういった。 「いけなくはないけど、普通《ふつう》は、結婚式じゃ、いわないよ。まあ、君だから、間違《まちが》いだろうと、みんなも許してくれたんだろうけど、ひどいね。たいがいの家なら、これで、もめちゃうよ。本当に、君、知らないで、いったの? ヒ・ヒ・ヒ……」  なんとなくトットは、からかわれているようで、いやになったから、「失礼します」といって、スタジオのほうに歩き出した。そのあとは、本番の忙《いそ》がしさに、とりまぎれて、そのことは、忘れてしまっていた。  二日くらい経《た》ったときだった。トットが、朝、新聞を開くと、この字が、トットの目に、とびこんで来た。 「内縁の妻、刺《さ》し殺される」  記事を読んでみると、「内縁関係にあった夫が、嫉妬《しつと》から、内縁の妻を殺した」という内容だった。なんで夫とか妻に、わざわざ、�内縁�なんていうのを、つけるのかしら……。トットは、だんだん不安になってきた。そーっと、辞典を引いてみた。  内縁関係==[#「==」はゴシック体] 男女が婚姻《こんいん》の意志を有して、同居し、事実上の婚姻関係[#「事実上の婚姻関係」に傍点]がありながら、未《いま》だ、法律上の届出を、すましていない状態。 「わあー!! ×! △!!」  やっと、本当の意味がわかったトットだったけど、それから数年間というもの、誰《だれ》も、結婚式には、招んでくれなかった。 [#改ページ]   有名人[#「有名人」はゴシック体] (考えてみると……)と、トットは思った。 (これは凄《すご》いことなんだ!)  トットは、隣《とな》りの鏡の前で、ただでも大きい目を、もっと大きく見えるように、鏡に顔をくっつけるようにして、目《め》ばりを描《か》いてるエノケンさんを見ながら、そう思った。トットにとって、夢《ゆめ》や憧《あこが》れを持って入った芸能界ではなかったし、あんまり一どきに、沢山《たくさん》の有名人に逢《あ》ったせいもあって、いちいち、感動は、しなかった。 (でも、本当は、大変なことなんだ……)  なにしろ、トットが小さい時、お誕生日《たんじようび》に、パパからプレゼントしてもらった、手廻《てまわ》しの映写機に写るのは、いつも、チャップリンと、エノケンさんだった。アクロバットのような身軽さと、面白《おもしろ》い顔と演技。何回、くり返して見たか、わからないくらいだった。歴史上の人物とさえ、思っていた人だった。その、エノケンさんと、かけ出しの私が、いま、話をしたり、セリフを言い合ったりしてるんだもの……。そう思って見廻してみると、この世界に入らなければ、遠くのほうから、画面とか、舞台《ぶたい》だけで、見させて頂くはずの方々に、毎日、逢っているのだった。しかも、ふだんの顔のままの、御本人《ごほんにん》に。  例えば、�海老《えび》�サマだった、後《のち》の市川団十郎さんとは、ラジオのスタジオで、お逢いしたのだけれど、びっくりするほど、顔の色が黒かった。「光源氏《ひかるげんじ》」の時は、真白い顔の色だったので、余計、そう見えたのかも知れなかった。そして、着物の胸元《むなもと》からは、ラクダのシャツが、のぞいていた。でも、真実、やさしそうな笑顔だった。それは親しみやすく、光源氏より、更《さら》に、色っぽい、ドキドキするような男性だった。  丹波哲郎《たんばてつろう》さんは、ラジオの公開放送のために、汽車旅行を一緒《いつしよ》にしたのだけれど、トットの目を、じーっと見つめて、それから、自分の鼻を、人さし指でさして、こういった。「きみ、こういう人を、好きにならなくちゃ、駄目《だめ》なんだぜ! ハ・ハ・ハ!」  響《ひび》きのある、少し不良っぽい、それでいて、大人じみた声で、トットは、面白かった。  テレビ初期の大ヒット番組、「私の秘密」の解答者の藤浦洸《ふじうらこう》さんは、同じ解答者の、渡辺紳一郎さんや、藤原あきさんに、テレビの化粧室《けしようしつ》で、本番前に、こんなことを、いっていた。「コレラが外国で発生して、�コレラって、どんな症状《しようじよう》になるんだ?�って、みんなが言うからさ、�俺《おれ》みたいになるんだよ�っていうと、みんなが、�ああ、そうですか、成程《なるほど》!�って納得《なつとく》するんだよ。つまり脱水《だつすい》状態になったときの、見本だね」みんなが、ドッと笑った。そのくらい藤浦洸さんは、やせていて、小さくて、しわが一杯《いつぱい》あった。でも、元気一杯で、全身が感性のような人だった。  藤原あきさんは、藤原義江さんと別れて、資生堂のコンサルタントをしている時期だった。年をとっても美しい女性の、代表だった。しわなんか、一本も、なかった。あきさんは、メーキャップさんに、こぼしていた。 「みなさんが、私の着物を楽しみにして下さるんで、毎週、変えるようにしてるんだけど、あんまり大変なんで、この間、安いもの着たのね。テレビって、その点、ちょっと見[#「ちょっと見」に傍点]が、良ければ、いいと思って。そしたら、すぐ、お友達《ともだち》から言われちゃったわ。�あなた、どうして、あんな安物、着るの?�って。画面て、なんて正直なんでしょうね」  あきさんは、トットのパパとも親しいせいもあって、トットにも、とても親切にして下さった。着るもののアドバイスとか、お化粧のコツとか。なかでも、トットが忘れられないのは、あるとき、小さい声で、こんな風に、おっしゃったときだった。 「はっきり言って、お化粧品てね、つけることより、取ることを大切に考えたほうが、いいのよ。高いクリームをつけるより、安いのでいいから、沢山、使って、よく、お化粧を落すこと。高いもの使うと、落すのにも、ケチるでしょう? それは、ダメ。安くてかまわないから、ジャンジャン使って、ガーゼで拭《ふ》いてみて、お化粧の残りが、全く、つかなくなるまで、落すの。それと、自分の顔や体に、手をかけること。いいこと? 手をかけるのと、かけないのとでは、私くらいの年になったとき、とっても違《ちが》ってくるのよ。いまから、お始めになると、随分《ずいぶん》、いいわ。女の人は、奇麗《きれい》でいなくちゃ、つまらないじゃない?」  あきさんは、顔だけじゃなく、どこもかしこも、美しいだろう、と、トットは思った。それにしても、夫も子供も捨て、イタリアまで、年下の藤原義江さんを追いかけて行き、「姦婦《かんぷ》!」とまで新聞に書かれた、あきさんが、「お化粧は、よく落すことが、何より」と地味な話に熱心なのが、心に残った。これから、しばらくして、あきさんは、タレント議員第一号として、参議院に立候補し、最高得票で、当選することになるのだった。  森繁久彌《もりしげひさや》さんほど、スタジオが、華《はな》やか、というか、賑《にぎ》やか、というか、派手っぽくなる男優さんは、他《ほか》にいなかった。森繁さん出演のテレビは、いつも女優さんの数も多かった。そして、なんとなく、みんな競《きそ》い合って、はなやいだ雰囲気《ふんいき》を作り出した。トットから見ると、はるか年上の、大人中の大人に見えた森繁さんだけど、あとで数えてみると、まだ四十|歳《さい》くらいだった。本読みの時も、テレビのスタジオの待ち時間でも、森繁さんは、みんなに、楽しい話を、たて続けに聞かせた。みんなが笑いころげ、特に女優が喜ぶのを見て、自分のほうも、たのしむ、という感じだった。何もかもが充実《じゆうじつ》していて、男の盛《さか》りとは、こういうことを言うのだろうと、トットは観察した。  ある時、ドラマの中で、森繁さんと一緒の場所から出ることになって、トットは、薄暗《うすぐら》いところに立って、キューを待っていた。森繁さんと二人だけだった。勿論《もちろん》、それまで、何回か森繁さんとは、お話もしたし、芝居《しばい》もしていた。でも、二人だけというのは初めてだった。そのとき、森繁さんが、ひょっ、と軽い感じで、こういった。 「どう? 僕《ぼく》と一回!」  瞬間《しゆんかん》、トットは、その意味が、わからなかった。芝居のこととか、そういうことじゃないことは、わかったけど、何を指しているのか、はっきりしなかった。 (キスのことかしら?)と、トットは思った。(それとも……!)トットは、森繁さんに失礼とは思ったけど、小さい声で、聞き直した。 「何をでしょうか?」  森繁さんは、だまって、トットの手をとると、手の甲《こう》に、ちょっとキスした。そのとき、キューが出て、トットも森繁さんも、何くわぬ顔で、その場所から、明るい所に出た。トットは、カマトトではなかったけど、あまり、そこらへんのことは、よくわかっていなかった。でも、悪い気持はしなかった。それは、森繁さんが、新人の女の子を、自分の思い通りにしようとしているスター、といった、昔風《むかしふう》の感じじゃなかったからかも、知れなかった。それ以後、森繁さんは、二人だけになると、「どう? 一回!」と口ぐせみたいに言い、トットも、「何を一回ですか?」といって、それからは、もう二人の合言葉のようになってしまった。そんな中でトットは、おぼろ気ながら、人間というものは、ほんの一瞬にもせよ、そういった、色っぽい、というか、しなやかな雰囲気というものが、大切なのだろう、と感じていた。  丹下《たんげ》キヨ子さんは、女性のコメディアンとして、放送界で、一世を風靡《ふうび》していた。大勢の男性のコメディアンに囲まれて、たった一人で、軽く、いなしている、という風だった。「女傑《じよけつ》」とも呼ばれていた。その丹下さんが、ある時、ラジオのスタジオに入って来ると、 「暑いねえ」  といって、さっさとブラウスを脱《ぬ》いでしまった。そのとき、トット達、女性しかいなかったけど、ラジオのスタジオで、ブラウスを脱いじゃう、というのは、びっくりすることだった。たしかに、暑かった。冷房《れいぼう》というようなものの無い時代の夏のスタジオは、扇子《せんす》くらいでは、追いつかない暑さだった。  ブラウスを脱いだ丹下さんを見て、トットは、ドキッ!! とした。あんなに奇麗なスリップとブラジャーというものを、トットは、アメリカ映画でしか、見たことがなかった。薄いベージュ色のサテンのスリップと、白のブラジャーで、どっちもレースがついていた。そして、ブラジャーの中の胸は、思ってもいない程《ほど》、豊かだった。女傑と呼ばれ、男っぽい喋《しやべ》りかたをしてる丹下さんの、本当の姿を見た思いがした。真白い輝《かがや》くような肌《はだ》も、丹下さんの女らしさを表わしていた。トットが、そんな風にショックを受けてる、なんて、全然、気がついていない丹下さんは、あの独特の低い、張りのある、笑わないではいられない喋りかたで、ディレクターに、叫《さけ》んでいた。 「ちょっと! そろそろ、始めてもいい頃《ころ》じゃないの?」  山田五十鈴《やまだいすず》さんを見かけたのは、トットが、テレビの通行人を降ろされて、スタジオの外の廊下《ろうか》の椅子《いす》にすわって、中の同期生が終るのを待っていたときだった。  山田さんは、着物の両袖《りようそで》の中の手を、胸のところに入れた、ふところ手をして、スタジオの廊下を、プラプラプラプラ歩いていた。トットと目が合うと、ニッコリした。そのあとも、だまって、トットの前を、行ったり来たりしていた。セリフを憶《おぼ》えていたのか、何かを考えていたのか、わからないけど、だまって、ふところ手をして、プラプラ歩いていた。映画で、松井須磨子《まついすまこ》になった時とは違ってるけど、やっぱり「女優」という以外に、呼びようがない人に見えた。プラプラと廊下を歩いてるだけなのに、芝居を見ているようだ、と、トットは思った。  ラジオのスタジオで、滝沢修《たきざわおさむ》さんが、台本の一番最後の、何も書いてない頁《ページ》に、いつの間にか、トットの顔をスケッチして、 「はい!」  と、本番が終ったとき、渡《わた》して下さった。トットは驚《おどろ》いた。こんな偉《えら》いかたが、こんなに簡単に、トットなんかを描いて下さるなんて。「炎《ほのお》の人・ゴッホ」を見ていたから、余計に、そう思ったのかも、知れなかったけど、とにかく、トットは感激《かんげき》した。滝沢さんが、本職くらい、絵がお上手で有名、ということは、あとから、知った。滝沢さんの描いて下さったトットは、本物より、しっかりとした知的な顔立ちで、トットは恐縮《きようしゆく》してしまった。でも、よく見ると、トットの、もっと若い頃の、少し少女の時のような面影《おもかげ》も、そこに、あった。  川口松太郎さんの脚本《きやくほん》で、主演が三益愛子《みますあいこ》さんという、ラジオの番組の時は、とても面白かった。川口松太郎さんも、スタジオに見えた。本読みのとき、三益さんは、隣りに座《すわ》ってらっしゃる川口松太郎さんに、しょっちゅう、「ねえ、パパ、これ、どういう意味?」とか、平気で、大きい声で、聞いた。  川口松太郎さんは、若い女の出演者も沢山いるし、その他、大勢、俳優さんもいるので、わりと、脚本家と女優、という関係にしよう、としてらっしゃるのかな? と、トットには見えたんだけど、三益さんは、おかまいなく、「ねえ、ちょっと、パパ、この読みかたは、どうなの?」とか、「パパ、ここ、これでいいの?」とか、聞いていた。そのたびに、川口松太郎さんは、笑いながら、親切に答えてらした。 (夫婦で同じ仕事をするのも、いいな)  トットは、ふと、思った。  映画俳優のAさんとテレビで一緒になった。新劇の女優さんが、小さい声でトットにいった。「あのAさんね、この前、夕方、私の友達の女の子、さそってね、�御飯たべよう�って、いったんですって。だから、ついて行ったら、待合みたいのに連れてったから、�あら、御飯て、おっしゃったから……�といったら、�馬鹿《ばか》だなあ、明日の朝御飯だよ!!�って、いったんですって」  そのAさんが、早目に稽古《けいこ》が終って、帰り支度《じたく》してるトットに、いった。 「オードリー・ヘップバーンの映画、見てなかったら、見ませんか?」トットは、「麗《うるわ》しのサブリナ」を見たいと思っていたところだったので、(どうしようかな?)と思ったけど、まだ、明るいし……、「じゃ、御一緒します」と、いった。  オードリー・ヘップバーンは、最高だった。映画が終ったとき、Aさんは、いった。「少し、日比谷《ひびや》公園散歩しようよ」歩いてるうち、かなり暗くなって来た。Aさんは、立ち止まると、大きな体をかがめて、トットにいった。「さっきの映画みたいなキス、してみようか」(こんな手もあった!)トットは、息を吸いこむと、いった。 「私は、オードリー・ヘップバーンじゃないし、あなたも、ハンフリー・ボガートじゃないから、やめといたほうが、いいと思います」Aさんは、大声で笑った。それは、映画に出るときのAさんと、全く同じトーンの、少し恰好《かつこう》のついた、笑い声だった。  水谷八重子《みずたにやえこ》さんは、テレビの化粧室で、誰《だれ》かに、ゆっくりした口調で、話していた。 「ハリウッドはね。化粧室が立派なの。名犬リンチンチンも、個室を、ちゃんと、持ってました」  越路《こしじ》吹雪《ふぶき》さんは、豪華《ごうか》なイブニングドレスを着て、茶色くしたショートの髪《かみ》も美しくセットし、イヤリングもネックレスも、全部した恰好で、鏡の中の自分を点検して、「まあまあかな?」といった。そして、突然《とつぜん》、トットに、「オコゼって魚の顔、見たことある?」と聞いた。  トットが、「ない」というと、越路さんは、自分の両手で自分の顔をはさんで、大きな両目をさげ、唇《くちびる》を斜《なな》めに曲げ、ひどい顔にして、「これが、オコゼ!」といい、次の瞬間、イブニングの裾《すそ》をサラサラさせて、スタジオに入っていった。 「虚像《きよぞう》と実像」、というようなことは、わからなかったけど、かけ出しのトットに、当時の有名人は、こんな風に、見えた。そして、一流といわれる人ほど、人間的だ、と、トットは思った。 [#改ページ]   拙者《せつしや》の扶持《ふち》[#「拙者《せつしや》の扶持《ふち》」はゴシック体]  その頃《ころ》、NHKでは、本番当日、出演者に出演料を払《はら》っていた。トット達《たち》劇団員には、NHKの庶務《しよむ》が、一ヶ月働いた時間を計算して、職員と同じ二十五日に月給袋《げつきゆうぶくろ》を手渡《てわた》してくれていた。でも、外部の出演者は、ラジオもテレビも、本番の前に謝金係りの女の人が、スタジオに来て、茶封筒《ちやぶうとう》に入れた、その番組の出演料を、顔と名前と照合して渡した。俳優さん本人が、中に入ってる領収書に住所と名前を書いて、その女の人に渡すと、現金の入った袋が、手の中に残る、という仕組みだった。NHKの頭文字《かしらもじ》をとって「日本|薄謝《はくしや》協会」とか「ケチケチケー」とか、みんな、いろんなことを言ってたけど、とにかく、その日のうちに、必ず現金が貰《もら》えちゃう、というのは、新劇の舞台《ぶたい》で暮《くら》していくことの難かしい俳優さん達《たち》にとっては、結構ありがたいことに違《ちが》いなかった。トットにしても、ほとんど、月給袋をもらった日に、洋服一枚と、靴《くつ》かハンドバッグを買っちゃうと、もう、手許《てもと》には、何も残らないくらいの月給で、あとは、毎日、家を出るとき、ママから百円、おこづかいを貰ってる身だった。だから、領収書にサインして袋を受けとる、外部の俳優さん達を、どんなに、うらやましく、毎回、見てたか、わからなかった。  この出演料が、あるとき、もう一寸《ちよつと》で、大変なことになるところだった。それは、テレビの時代劇の時だった。ある新劇の中年の俳優さんが、この出演料を、いつものように、本番前に受け取った。普通《ふつう》なら、カバンとか、上着のポケットにでも入れて、鍵《かぎ》のかかるロッカーにしまうんだけど、もう本番直前で、すっかり扮装《ふんそう》をしていたので、ふところに、何気なく、しまった。この人の役は忍者《にんじや》で、密書を殿様《とのさま》に届ける役目だった。ところが、途中《とちゆう》で敵にやられてしまって、虫の息になる。そのとき、同僚《どうりよう》の忍者が、かけよって来るので、その密書を、その人に渡し、本人は息たえる、というストーリーだった。本番になった。途中までは、トントンと進んだ。そして、とうとう、何人もの敵に囲まれ、遂《つい》に、バッサリと切られるクライマックスになった。敵は姿を消した。「う〜む」地面に倒《たお》れて、もがいていると、同僚の忍者が近よって来た。虫の息で、忍者は、近づいて来た同僚に、いった。 「ふところの……ふところの、密書を殿へ……」  同僚は、いそいで、もがいてる人の、ふところに手をつっこんで、手にさわったものを取り出した。カメラ、その手許に近よる。クローズ・アップ。ところが、本来なら、それに「密書」と書いてあるはずだった。でも、よく見ると、これが、あの、出演料の茶色の袋だった。同僚は、ハッ!! と気がついて、思わず「これは……」と、いってしまった。もがいている忍者も、何か様子が、おかしいと薄目《うすめ》をあけて見てみると、なんと、さっき受け取った出演料では、ないか……。このとき、この人、ちっとも騒《さわ》がず「それは、拙者の扶持でござる。密書は、もっと奥《おく》……」といって、息たえた。同僚の忍者は、ふところの、もっと奥に手をつっこみ、見事に密書を殿にとどけた、という、この話は、その日のうちに、NHK中に、伝わった。ナマ本番の俳優の心得として、立派だ、ということで。御本人《ごほんにん》は出演料を衣裳《いしよう》のふところに、しまう、という不注意は、俳優の心得として「ありうべからざることで、ござる」と恥《は》じていた、という話も、ついでに、伝わった。それでも、時代劇の中で、親指と人さし指で輪を作って、仲間の武士に「OK」と、合図をしたという俳優も出て来てる時代なので、この「扶持」という、セリフにない言葉が、すぐ出るのは、やはり、たいしたものだ、と、みんなは、面白《おもしろ》がりながらも、ほめたたえた。  それでもナマ番組では、とり返しのつかないことも、相変らず、起っていた。  カメラにむかって話をする、落語家の人や、漫談《まんだん》の人、また司会のようなことをする人で、カメラが、ついたとたんに、さり気なく話し出す、というのに、まだ馴《な》れない人が、大勢いた。カメラの上の赤いランプがつき、F・Dさんが、キューを出すんだけど、みんな、たいがい、キューを出す人のほうを向いていて、キューが出ても、すぐ話し出さずに、キューを出した人に、自分を指さし「私、写りました? いいんですね? 始めますよ?」というジェスチャーをし、それから、おもむろにカメラにむかって、おじぎをしてから始めた。また中には、キューを出した人に、おもむろに、うなずいて、それから急に、カメラのほうに笑顔《えがお》になって、あいさつをする人もいた。若い女の人の中には、キューを見損《みそこ》なって、写ってるのかどうか、半信半疑で、困った顔で舌を出して首をすくめたり、キョロキョロしてるところが、たっぷり写ってる、なんてことも、しょっちゅうだった。始まるときが、そんな風だから、終りも、うまくいかない事が多かった。 「では、さようなら」と、カメラにいって、おじぎをした人が、いつまでも写ってる。仕方なく、何度もニッコリして「本当に、さようなら」なんていってるのに、まだ写ってる。中には、横をむいて「まだ写ってるんですか?」と聞いたりしてる人もいた。時には、F・Dさんが「あと何秒です」と終りの秒よみを、指で知らせてる最中に、勝手に「では、ごめん下さい」と帰っちゃう人もいたりして、あと、壁《かべ》だけが、時間まで写ってる、なんてこともあった。  帰っちゃう、といえば、トットも出ていたドラマで、左卜全《ひだりぼくぜん》さんが凄《すご》いのを、やった。森繁久彌《もりしげひさや》さんが、おまわりさんで、犯人を探し出す、という推理劇のドラマの時だった。卜全さんは、死んでお棺《かん》に入ってる役だった。劇中、森繁さんの推理が進行するにつれ、お棺の中の卜全さんも、証拠《しようこ》として、何度も画面に写った。四回くらい写ったあとだった。卜全さんは、もう自分の出番は終った、と思ったか、お棺から出て、さっさと化粧室《けしようしつ》に入り、お化粧を落して、帰り支度《じたく》を始めた。ところが、もう一回、お棺の中のシーンが残っていたのだった。カメラがポーン!! とお棺を写すと、なんと、中の死体がない。森繁さんは絶句した。トットは、すぐ次のシーンに卜全さんの孫の役で出る事になっていた。でも、死体が忽然《こつぜん》と消えてしまった。元来、死体が消える、というスリラーじゃないから、森繁さんが、どんなに上手に即興《そつきよう》にセリフをいって、つないでも、説明のしようも、つじつまのあわせようもなかった。例によって、誰《だれ》かが「終」のパターンを、カメラに、おっつけて、この番組は終ってしまった。化粧室で、これを聞いた左卜全さんは、あの歯のない口を、大きく開けて、フヮフヮフヮと笑ってから、 「いやあー、それは、失敬しましたぁー」といった。トットの見たところ、卜全さんは、それほど、大事件とも思っていないようで、呑気《のんき》というか、面白い人だな、と、トットは、おかしかった。  ラジオのスタジオで、事件が起った。それは、トットの先輩《せんぱい》の名古屋章さんが巻き起したのだった。これから本番、というとき、名古屋さんの右手の人さし指が、使ってないマイクスタンドの穴から出なくなる、という事件だった。マイクスタンド、というのは、マイクロフォンを立てる器材で、いってみれば、電気スタンドのようなもの。電球のかわりに、マイクを、のせる、と思って頂けば、いいんだけど、高さは、立ってる男の人の胸のところくらいまであり、ガタガタしないように、頑丈《がんじよう》な鉄で出来ていて、下に行くほど、太く重くなっていた。放送に使う、みんなが、とりかこむマイクスタンドの上には、勿論《もちろん》マイクが、のっているけど、スタジオの方々に、このマイクの、のっていない、本番で使わないマイクスタンドが、何本も置いてあった。マイクは、俳優だけじゃなく、音響《おんきよう》効果さんや、音楽を演奏する人達も沢山《たくさん》使うので、マイクスタンドは、予備のため、あっちこっちに置いてあった。そして、マイクスタンドのてっぺんには、マイクを固定する心棒をさしこむための、穴が開いていた。その穴から、なぜ、名古屋さんの指が、ぬけなくなったのか、というより、なぜ、そんな穴に名古屋さんが指をつっこんだのか、というと、それは、こういうことだった。テストも終り、あと一寸で、本番というとき、名古屋さんは煙草《たばこ》を吸った。スタジオの中は禁煙《きんえん》なので、名古屋さんは、そーっと、隅《すみ》のほうで、吸った。そして「さあ、本番だ!」というので、いそいで、すいがらを捨てに行こうとしたけど、時間もギリギリだったので、丁度、手近にあったマイクスタンドの、てっぺんに、こすりつけて煙草を消した。そして、誰も見ていないのを幸い、その穴に、すいがらを、つっこんだ。ところが、なかなか下に落ちていかないので、指をつっこんで、ギュウギュウ押《お》しこんでいるうちに、悪いことは出来ないもので、人さし指が、金輪際《こんりんざい》、ぬけなくなった、というわけだった。ナマ本番の恐《おそ》ろしいところは、どんなことがあろうとも、時間が来たら、始まってしまうことだった。このころ、ラジオの二枚目、一手|販売《はんばい》という売れっ子だった名古屋さんは、最初から出ていた。仕方なく、名古屋さんは、台本を口でくわえると、左手でマイクスタンドを持ちあげ、マイクのところまで、やっとの思いで運び、左手に台本を持って、放送が始まった。ページをめくるとき、誰か手の空いてる人が親切に見ていて、めくってくれる時もあったけど、みんなが忙《いそ》がしいとき、名古屋さんは、歯でページをめくった。その間、右手の人さし指は、マイクスタンドの中に、つっこんだままの形だった。そして、自分の出番が終ると、また台本を口でくわえ、恐縮《きようしゆく》しながら、みんなの邪魔《じやま》にならないところまで左手でマイクスタンドを運んだ。トットが見ていると、名古屋さんは、離《はな》れたところで、必死に指を引きぬこうと努力していた。でも、穴の中の指は、すでに、ふくらんだらしく、どうしても抜《ぬ》けない。しまいには、スタンドを足ではさんで、体ごと、ひっぱるんだけど、駄目《だめ》みたい。そうこうしているうちに、自分の出番になる。またマイクスタンドを、静かに大急ぎで運び、マイクのところに置くと、二枚目の声で、台本を読んだ。物音をたてないために、名古屋さんが、すべて、コソコソと静かにやるのが、当然とはいえ、おかしかった。誰かが石鹸水《せつけんすい》を持って来て流しこんだけど、マイクスタンドから、ぬけない指は、まわりの狼狽《ろうばい》とは無関係のように、なんとも優雅《ゆうが》に、地面を指さしてる形のまま、動かなかった。しかも、マイクスタンドが馬鹿々々《ばかばか》しく重いだけに、ごくろうさま! という感じも強くした。みんなは、気の毒、という気分と、意外な出来ごとに、始めは同情もし、手をかしていたけれど、だんだん、おかしくなってきた。どう見ても、片手に台本、片手の指はマイクスタンドの中、という恰好《かつこう》は、滑稽《こつけい》だった。みんなが我慢《がまん》してるのに、一人、年上の女優さんが、クスッ! と笑った。こういう場合、一人だけ始めに笑う人がいると、あとは、せきを切ったようになるものだった。笑いは、一度はじまると、涙《なみだ》より始末が悪かった。涙なら止めようがあっても、笑いは、止まらない。とうとう、マイクの前の全員が笑い始めてしまった。笑わないのは、名古屋さんだけだった。名古屋さんが必死に、なればなるほど、また、おかしくて、みんなは笑った。たまに息を整えて、なんとか喋《しやべ》り出した人も、途中から、また笑い出して、笑いながらでは、セリフがいえないので、間があく。そんなわけで、次々と間が空き、会話として、成り立たなくなって来た。トットは、ガヤガヤだったので、一生懸命《いつしようけんめい》やったけど、やっぱり笑いがこみあげて来て、声も、とぎれがちだった。  そうこうしてるうちに、時間が来て、グチャグチャのまま、本番が終った。勿論、ラジオを聞いてる人達にしてみると、なにがなんだか、わからないままだった。第一、聞いてる人の誰一人として、スタジオで、そんなことが起ってるだろう、なんて、想像もつかないに決まっていた。全員がディレクターから、ひどく叱《しか》られた。叱られる、とわかっていても、こういう時の、おかしさは、止まらないのだった。  しかも、もっと、おかしかったのは、本番が終ったと同時に、どういうものか、あんなに、とれなかった名古屋さんの指が、スポン! と、抜けたことだった。 [#改ページ]   インタビュー[#「インタビュー」はゴシック体] 「ヤン坊《ぼう》ニン坊トン坊」が始まり、一年が過ぎた。NHKの方針で、ラジオを聞いてる人のイメージをこわさないために、トット達《たち》大人が、子供の声をやってることを、一年間は、伏《ふ》せる約束《やくそく》だったので、相変らず、配役をいうアナウンサーは、放送が終ったとき、 「ただいまの出演  ヤン坊  ニン坊  トン坊」  というだけだった。それが、そろそろ、マスコミも「誰《だれ》がやっているのだろう?」と、騒《さわ》ぎだしたし、一年も過ぎた事だし、ということで、NHKが新聞社などに発表した。すでに、トット達の一年間の養成が終ったとき「NHKがテレビのために養成した女優」ということで、新聞などが、とりあげてくれていた。でも「あの�ヤン坊ニン坊トン坊�の声をやってる三人は、実は子供ではなく、ゴキラと呼ばれている新らしいタイプの、NHKの劇団の五期生でした!」ということで、相当の話題になった。特に、「ヤン坊」たちは白い猿《さる》なんだけど、次の年が、サル年、という事もあり、取材が殺到《さつとう》した。  しっかりものの ヤン坊 里見京子  あばれん坊の  ニン坊 横山道代  かわいいチビ助 トン坊 黒柳徹子  毎日々々、三人は「NHKの三人|娘《むすめ》」とか「仲良し三兄弟」という風なタイトルで、新聞に出た。当時のマスコミは、週刊誌というのは、まだ大手新聞社の、朝日、読売、毎日、サンケイぐらい。あとは、松島トモ子、小鳩《こばと》くるみ、などが表紙の、少女雑誌が全盛《ぜんせい》だった。女性週刊誌や、テレビの芸能ニュースが姿を見せるのは、もっと、ずーっと後《あと》のことだった。新聞記者の人達は、みんな男の人だった。そして、それぞれ親切だった。トット達には、マネージャーもいないし、NHKの広報とかの人が、つきそう、ということも、別になかったので、いつも三人固まって、田村町の喫茶店《きつさてん》で、そういう記者の人達のインタビューを受けた。始めは、インタビューなんて、びくびくしてた三人だけど、記者の人達が、優《やさ》しい、とわかってからは、安心して話が出来た。ヤン坊たちが猿、ということもあって、動物園での取材も、かなりあった。たいがい、猿の檻《おり》の前とか、チンパンジーと一緒《いつしよ》に写真に写った。たまには「木にぶら下って下さい」なんていう人も、中にはいたけど、ほとんどの記者の人は、不自然なことは、させようとは、しなかった。「たべものは、何が好き?」と聞いてくれて「栗鹿《くりか》の子《こ》!」なんてトット達が答えると、インタビューの場所を、NHKの近くの甘《あま》いもの屋さんにしてくれる人もいた。どの人も、まだ社会に出てホヤホヤの、西も東もわからないトット達に、丁寧《ていねい》に接してくれた。話もちゃんと聞いてくれた。そして、記事の内容も、話した通りを、うまくまとめてくれて、好意的だった。映画で見るような、メモを手にしたヨレヨレのレインコートの人は、いなくて、スーツに、ネクタイを、きちんとしてる人が大部分で、中には、大学ノートを持ってる記者の人もいた。こういう、一見プロに見えない人ほど、凄《すご》く上手な記事を書くのだ、ということも、トットには驚《おどろ》きだった。一緒に来るカメラマンの人達も、みんな苦労人らしく、ひとこと、何かいうことが、とても意味があって、トットは感心した。本当に、その頃《ころ》のジャーナリズムの人達を、トットは信頼《しんらい》していた。 (何か嘘《うそ》を書くかも知れない)とか、(こんなことを質問してるけど、実は、別のことを聞き出そうとしているのだ)とか、(どうせ聞いたって、始めから書くことは決めてあるんだろう)なんて、そんなこと、これっぽっちも疑った事は、なかった。そして、また、裏切られたこともなかった。自分の話したことが、こんな風な文章になるのかと、トットは、くり返し、印刷されたものを読んで、感動した。  そういう時に、有名な出版社が、週刊誌を出すことになり、記者の人がインタビューに来た。その若い男の人は、とても、ぶしつけに、トットに聞いた。新らしいタイプの週刊誌、ということで張り切っていたに違《ちが》いないけど、のっけから、こんな風だった。このときは、トットだけ、一人だった。まず、その人は、こう聞いた。 「カストロの胸毛《むなげ》について、どう思う?」  トットは、ちょっとびっくりしたけど、カストロの顔や姿を思い出しながら、答えた。 「私の母の友達で、胸毛がなきゃ、いやだ、という人もいますけど、私は、胸毛は、その人によるし、カストロの胸毛、見たことないので、わかりません」その人は次に、 「どんな男性のタイプが好き?」と聞いた。これも、トットには、答えようがなかった。 「タイプで、男性のこと、おはなしするの、難かしくて……」すると、その人は、こういった。 「この間、女優のYに同じ質問したら�私は、芝生《しばふ》に入らないで下さい、と書いてあると、入らないような人が好きです�って。あの答えは、実によかったなあー。そんな風なこと、言ってよ」  トットは、女優のYさんという人は、きっと「きちんとした人が好き」「ルールを守る人が好き」ということを、面白《おもしろ》くいったのだな、と思った。でも、トットは、その記者の人の、威圧《いあつ》的な喋《しやべ》りかたや、態度が、好きになれなかった。その人の気に入るような事も、いえばいえるけど、気持が動かなかった。それでもトットは、一生懸命《いつしようけんめい》に、わかってもらえるように、答えた。 「男性は、その人、その人によって、きっと、いいところが違うと思います。タイプは決まってないけど、私に影響《えいきよう》を、あたえてくれる人が、いいです」その記者の人は、次に、 「いま読んでる本は?」と聞いた。丁度そのとき、トットはストレイチーの「エリザベスとエセックス」を読んでいたところだったので、そう答えた。それから、ちょっとして、その週刊誌が発行された。トットが、それを読んだとき、自分の悲しい気持を、どうしたら早く忘れられるだろうか、と、いつまでも考えたくらいの、内容だった。  ——カストロの胸毛を、どう思いますか?  この質問に、トットが、こう答えたように、なっていた。 「胸毛? いいじゃん?」  ——どういうタイプの男性が好きですか? 「男なら、なんでも、いいわ」  ——今、読んでる本は? 「エリザベスとセックス!」  他《ほか》のいくつかの質問の答えも同じようだった。トットは、自分とは全く別の人格の人間が答えているように思えた。自分が一生懸命、伝えようと思ったことが、こんな風になるのかと、恐怖《きようふ》を感じた。そして「芝生に入らないで下さい、と書いてあると、入らないような人が好き」という言葉を、いいなあー、と言った人が、本当は、ルールも何も無視して、どんどん芝生の中に入るような人だったんだ、と、本当に残念だった。  もっとも、この週刊誌は、有難《ありがた》いことに、数ヶ月で姿を消した。うまく、いかなかった、という話だった。それにしても、これまで知らなかった世界があることを知って、トットは、おびえた。自分らしくあるために、一体、どんな風に生きていったら、いいのかしら。人は、このインタビューを読んで、「どうってことない」って、いうかも知れないけど、少なくとも、私は、いわなかったのに、 「男なら、なんでも、いいわ」  なんて……。トットは、悲しかった。 [#改ページ]   お見合い[#「お見合い」はゴシック体]  突然《とつぜん》、トットの身の上に、考えてもいなかったことが起った。それは、「お見合いをしてみないか?」という、おさそいだった。  しかも、たて続けに、三つも。  最初のは、トットのママの女友達《おんなともだち》——この人は、かなり、いい画家なんだけど、その人からの話だった。この人は、ママと同じくらいの年で、御主人《ごしゆじん》は、一流銀行につとめている、温厚《おんこう》な人だった。でも、その画家は、温厚な人が、大嫌《だいきら》い、という性格ときているので、しょっちゅう、御主人に、つらく当っていた。なんで結婚《けつこん》したのかは、わからないけど、トットの見る限り、御主人は、大きい体に、やさしい声で、いつも奥《おく》さんの機嫌《きげん》を取るように、何をいわれても、文句もいわずに、暮《くら》していた。その機嫌を取るような態度も、画家である彼女《かのじよ》には、気に入らなかった。なにしろ、この画家は、強い性格の人で、例えば、女の人のヌードを描《か》くのに適当なモデルがいないと、新らしく来た、お手伝いさんに、 「ちょっと裸《はだか》になってよ!」  と、いうような人だった。お手伝いさんは、当然、びっくりして断わる。そうすると画家は、さっさと、自分の洋服をぬいで、こういう。 「私もぬいだんだから、あなたも平気でしょ?」  仕方なく、お手伝いさんは、しぶしぶと洋服をぬぐ。アトリエといっても、普通《ふつう》の日本風の家の一室を、それにあててるんだけど、そこで、描くほうも、描かれるほうも、両方ヌード、という事になるのだった。この話を、ママから聞いたとき、トットは、面白《おもしろ》いと思った。そして、もっと面白いのは、この、一人がポーズ、一人がキャンバスにむかっている、という、二人とも裸の絵を、誰《だれ》かが描くことで、これは珍《めず》らしい絵になるだろう、と想像した。とにかく、そのママの友達の画家の紹介《しようかい》で、トットは生まれて初めて、お見合いをすることになったのだった。ふつう、お見合いというと、相手の経歴だの、写真だのが、前もって渡《わた》される、って話だけど、形式的なことを嫌う、その画家のことなので、トットにも、ママにも、相手のことは、わからなかった。それでも、「お医者ですって」と、ひとこと、直前になって、画家がママに伝えてくれた。それは、多少なりとも、トットが何かを空想する材料には、なった。そして、偶然《ぐうぜん》とはいえ、お見合いの場所が、かねがねトットが、小学校に通ってる頃《ころ》から興味を持っていた家に、決まった。この家は、大井町線の、緑ヶ丘《おか》と大岡山の間の、高台にあった。いつも電車の窓から見ては、 「一体、どんな人が住んでいるのかなあ?」と、トットが、考えていた家だった。  大きな赤い三角の屋根に、白い壁《かべ》の、巨大《きよだい》な西洋館。しかも、小さな窓が一個だけ、白い壁のまん中にあるので、まるで、 (子供の描く絵みたいな家だ!)  と、トットは、その頃、自分も子供だったけど、そんな風に考えていた。そのあたりは、空襲《くうしゆう》で焼けた家も随分《ずいぶん》あるのに、この目立つ家は、焼け残った。 (あの家でお見合いなんて、本当に人生は、不思議なものだ……)  この家でお見合い、というのは、この家の、おばさまが、トットのお見合いする相手の知り合いで、画家のところに、お話を持って来た人だったから、ということだった。とにかく、トットは、子供のときからの、憧《あこが》れの家に行くのだ、というだけで興奮した。「お見合い」という事については、なんとなく「人ごと」みたいな所があった。  お見合いには、両親がついていくものか、どうか……パパとママは、話し合ったけれど、なにしろ二人にとっても初めてのことなので、迷っている風だった。そして結局、ママだけ、という事になった。みんなの都合のいい日の、夕方から、お見合いは始まった。  憧れの西洋館の中は、電車の中から想像していたのとは、全く違《ちが》っていた。広くて、天井《てんじよう》が高く、エキゾティックなんだろう、と、ずーっと思っていた。でも、実際は、天井の高さも、普通の日本の家ぐらいで、しかも家の中《なか》、全体が、なんとなく薄暗《うすぐら》く、いくつも、小さい部屋に仕切られていた。 「想像していた雰囲気《ふんいき》に合ってる!」と、トットが思ったのは、そこの、おばさまが、可愛《かわい》らしい花模様のティーポットから、同じ模様のティーカップに、お紅茶をそそいで、すすめて下さった時だった。夕方の光線と、花模様のティーポット、それから、しゃれた肩《かた》かけの、上品なおばさま……。 (ふむ、こういう人が、住んでいたのか!)  トットは、やっと長い間の疑問がとけて、安心した。  相手のお医者さんという人は、トット達より前に来ていた。トットは、その人に、「今晩は!」といった。トットより、七つか八つ年上だろう、と、トットは思った。色が黒く、あまり特徴《とくちよう》のない感じの人だった。その人は、 「自分は、歯医者です」  と、自己紹介をした。トットのママは、なんとなく、あまりお邪魔《じやま》にならないように、という風に、すわっていた。お紅茶を、みんなにすすめながら、そこの家のおばさまは、その歯医者さんが、 「立派な病院を持っている」ということや、「患者《かんじや》から評判がいい」というような事を、いろいろ話して下さった。トットは、そのたびに、「はあ」と、うなずいた。画家は、だまって、じろじろ、その男の人の顔を見ていた。考えてみると、その男の人は、四人の女の人に囲まれていることに、なるのだった。いつも、よく喋《しや》べるトットだけれど、知らない方《かた》の家だし、まして、お見合いなのだし、と、自分から、しゃべろう、という気持は、なかった。突然、その歯医者さんは、 「私は軍隊にも、行きましてね」  と、戦争中の話になった。そして、その人は、ずーっと、軍隊の話をした。トットを含《ふく》めて、みんな、だまって、時々うなずきながら、ずーっと、話を聞いた。そのうち、お食事も出たけど、その間も、軍隊の話は続いた。随分、長く聞いてる割には、胸を打たれるところが、(あまりないわ)と、トットは思った。勿論《もちろん》、大変だったらしい、という事は、わかるんだけど、印象に残るものがなく、平板な話が、延々《えんえん》と続くのだった。結局、トットが、その何時間にも及《およ》ぶ軍隊の話の中で、印象に残ったのは、一つだけ、「馬が、いた」ということだけだった。  一方、トットのパパは、夜、仕事から帰って来て、まだ、ママもトットも帰って来ていないので、 「これは、話がはずんで、うまくいったに違いない!」と、楽しみにして、二人の帰りを待っていた。夜、かなり遅《おそ》く、トットとママが、疲《つか》れ切って帰ってきた。パパは、二人の様子を見て、いった。 「どうしたの? うまくいったのかと思ってたけど……」  ママは、パパに、いった。 「駄目《だめ》よ、だって、この人より、しゃべるんだもの!」  トットは、ベッドに入ってから、ふと思った。 (歯医者さんの患者さんは、みんな口を開けたままだから、何も喋べれない。そういうとき、あの人は、ずーっと、あんな風に、話をしつづけるのかしら?)  それから、今日トットが、お見合いの人に逢《あ》って、何か言ったのは、逢ったときに、「今晩は!」と、別れぎわに、「さようなら」と、それだけだったことに、気がついた。 (でも、あの歯医者さんは、気のいい人なんでしょうねえ)疲れた頭で、やっと、そこまで考えると、トットは、もう次の瞬間《しゆんかん》、ねむってしまった。そして、この、はじめてのお見合いの結果は、なんとなく、うやむやのうちに、立ち消えになってしまった。  二回目のお見合いは、トットのママのほうの親戚《しんせき》——からの話だった。相手の人は、トットとは、遠い縁《えん》つづきになる人で、この人もまた、お医者さんだった。お父さんも医者で、親子で開業してる医者だった。先方のお母さん、という人は、ママも、よく知ってる人なので、今度は、気楽にいきそうだ! と、ママは、いった。  それにしてもお見合い、という制度について、トットのパパやママは、「これでうまくいくのかしらね」という気持を、もっていた。自分たちが、恋愛《れんあい》結婚で、周囲の反対がありながら、若いときに結婚しただけに、お見合い、ということに、あまり積極的では、なかった。積極的なのは、トットだった。 (結婚したい!)  という気持は、特に、なかったけど、お見合い、という方法は、悪くない、と思っていた。 (お見合いなら、自分だけじゃわからない、相手のことを、パパやママに、よく見て貰《もら》える!)  いろんな点で、トットは、自分の判断を、信用してないところがあった。だから、パパとママに判断してもらうのも、悪くない、と考えていた。 「結婚」という事を、トットは、人生の中で、一番くらい、重要な事、と考えていた。するなら、絶対、一生、別れたりしないで、一緒《いつしよ》に暮していきたい、と、おぼろげに考えていた。少しずつ「離婚《りこん》」という言葉が、人の口に、のぼるように、なり始めた頃だった。でも、まだ離婚する人は少なく、もし離婚、となると、もう、誰かが死にでもしたような騒《さわ》ぎで、将来は、もう真暗、という、そんなイメージが、あった。  二度目のお見合いは、大森にある、相手のお家だった。出迎《でむか》えて下さった、お母さんを見た時、トットは驚《おどろ》いた。奇麗《きれい》な顔立ちのかたなのに、目のまわりと、口のまわりが黒茶色で、ちょっと、むじな[#「むじな」に傍点]のようだった。お見合いの相手は、背が、うんと高く、ハンサムで、のびのびと育ってる人のように、見えた。家の中に、白いスピッツ、という種類の犬が二|匹《ひき》いて、たえず、キャンキャンと吠《ほ》えていた。スピッツも、まだ珍《めず》らしい頃だった。ところが、このスピッツが、神経質で、トットやママがお邪魔をして、随分たつのに、何だか、いつまでも、キャンキャン吠えていて、落ち着かないお見合いになった。それでも、トットとママは、暖かい、おもてなしを受けた。お食事がすむと、お父さんのほうの、お医者さんが、トットと息子《むすこ》に、 「散歩でも、してらっしゃい」  といった。トットたちは、なんとなく、相手を意識しながら、二人で外に出た。玄関《げんかん》まで、二匹のスピッツは、ついて来て、また、ひとしきり、吠えた。羽田のほうから吹《ふ》く風の中で、歩きながら、その人は、友達の話だとか、医学の話をした。トットも、少しは、テレビの話とかを、した。でも、なんとなく、共通の話題もなく、盛《も》り上りに欠けて、二人は、家に、割と早く帰って来てしまった。また、スピッツが、玄関に来て、吠えた。飼《か》い主も客も、見さかいのつかない犬のようだった。 「パパが、そろそろ帰って来る時間なので……」  と、ママがいって、トットとママは、失礼することにした。むじなの顔のお母さんは、門のところで、トットに、「また是非《ぜひ》、遊びにいらして下さいませね」といい、息子は、少し離《はな》れた後ろのほうで、頭を下げた。スピッツ二匹は、顔を並《なら》べて、お別れのつもりか、一段と高い声で、吠えた。帰り道、ママが、少し笑い声で、いった。 「あの、おばさまね、上等のクリームというのを買って、特に、目のまわりと、口のまわりの、しわの出そうな所には、よく、すりこんで、マッサージしなさい、っていわれて、そうしたら、なんだか、クリームが合わなくてね、あんな風に、しみになっちゃったんですって。いつかは、もとにもどるそうだけど……。あら、あなたも、むじなって思った? 私だって、びっくりしたわよ」  ママは、別に、お見合いの相手を、「どうだった?」とは聞かなかった。でも、トットの様子で、少し興奮に欠けてる、と思ったのか、数日後、「この間の話、うまく、断わっておくわ」といった。トットも、あのスピッツの中に入って、嫁《よめ》として、うまくやれるとは、思えなかった。  懲《こ》りもしないで、トットが挑戦《ちようせん》した三つ目のお見合いは、やはり、ママのお友達からの話だった。このときは、写真は来なかったものの、お父さまの仕事、本人の履歴《りれき》、家族のこと、すべて一目瞭然《いちもくりようぜん》の紙が来た。トットは面白くて、何度も何度も読み返した。お見合いの、いい点は、おいしい食事が出る、という事も、トットは、この頃になると、発見した。両家の話し合いで、お見合いの場所は、「辻留《つじとめ》」になった。噂《うわさ》だけしか聞いてなかった「辻留」でお見合い! トットは、ワクワクした。そして、三人目の、この相手の人も、どういうわけか、お医者さんだった。脳外科のお医者さんで、特に手術が、うまい、といわれてると、ママの友達は、つけ足した。  トットのパパとママの両方のお父さん、つまり、トットの二人の祖父は、両方とも、偶然、医者だった。でも子供は、誰も医者にならなかった。パパのお兄さん達や、ママのお兄さん達や弟も、誰一人として、なろう、とした人もいなかった。孫にも、いなかった。そんなわけで、もしかすると、なんかの、めぐりあわせで、トットの旦那《だんな》さまには、医者を……という事になったのかしら、と、トットは不思議に思いながら、「辻留」にむかった。  この日は、パパも仕事が休みだったので、ママと一緒に、ついて来てくれた。お座敷《ざしき》に入ると、御本人は、まだで、御両親が座《すわ》っていた。トットは、頭がツルツルで、血色がよく、凄《すご》いハンサムのお父さまを、まず、一瞬で気に入った。お母さまも、女らしい感じのかたで、着物が、よく似合っていた。トットは、お父さまとも、お母さまとも、どんどん、いろんな、話をした。二人とも若々しく、会話は楽しかった。 (この御両親の息子さんなら、きっと大丈夫《だいじようぶ》!)トットは、うれしくなった。トットは小さい時から、頭の毛のない人が、好きだった。小学校の時の、大好きな校長先生が、毛が薄かったせいか、特に、ツルツルの人は、大好きだった。そして、ツルツルの人は、たいがい、うまい工合《ぐあい》に、頭の恰好《かつこう》が良くて、いかにも脳味噌《のうみそ》とかが、つまってる! という感じもあって、頼《たの》もしく、トットは、気に入っていた。お母さまは、 「男の子ばかり、四人の家なので、前から、一人でいいから、女の子が、欲《ほ》しいと思っておりましたの」  と、上等のハンカチを、手に握《にぎ》りながら、おっしゃった。やわらかく、やさしい声だった。元《もと》、大変な実業家だった、というお父さまは、すっきりとした体つきで、トットを子供あつかいしないで、対等に話して下さった。お見合いの相手は、その日も手術で、少し遅《おく》れる、という事だった。  お父さまとお母さまを観察していて、トットは、(こんな風な人が来るのかな?)という予想をたてて、期待していた。とうとう、本人が到着《とうちやく》した。でも「遅くなりまして……」と入って来たお見合いの相手の人は、髪《かみ》の毛がフサフサしていた。繊細《せんさい》で、整った顔だけれど、少し神経質そうにも見えた。お父さまと、くらべるのが、おかしいのだけれど、お父さまが持っている�自由闊達《じゆうかつたつ》�の気分——トットが何にもまして気に入ってる——が、息子さんには見当らないのも残念だった。  それでも、初めて喰《た》べる「辻留」のお料理は、おいしく、美しく、心に残った。  それから、トットはしばらく、お見合いの相手の人と話をした。話をすると、物静かではあるけど、お父さまの子供だけあって、活力が充分《じゆうぶん》で、(なんとなく、うまくいくかも知れない)と、トットは思った。  次の日から、お母さまは、トットを、まるで、本当の娘《むすめ》のように思って下さって、デパートなどに一緒に行けば、セーターやブラウスや、オルゴールや、コンパクト等を、買って下さった。将来、もし結婚しないことになったら、困るから、トットは、 「本当に、買って頂くの、困るんです」  と、いちいち、ことわった。でも、昔から娘が欲しく、娘と歩くのが夢《ゆめ》だった! というお母さまは、まるで、堰《せき》を切ったように、次々と、いろんなものを、買ったり、送ったりして下さった。  その間も、トットは、脳外科の先生と、自分のスケジュールの合う日は、デイトして、映画を見たり、食事をしたりした。医学にも、少しくわしくなった。また、大磯《おおいそ》のお宅にも伺《うかが》った。  男ばかり四人の息子の中に、入って遊ぶ、というのは、お兄さんが欲しい、と思っていたトットには、夢のようなことだった。  四人もまた、新らしい妹、という風に、大切にしてくれた。四人とも結婚していなかった。四人の性格も、それぞれ違っていて、トットには興味があった。一緒に、お食事を作ったり、海に行ったり、誰かのガールフレンドの相談にのったり、まるで、学生の寮《りよう》にでも入ってるみたいな、楽しさだった。トットのお見合いの人は長男だったので、もし、結婚したら、トットは年は妹でも、みんなの姉になるわけだった。お母さまは、トットに、すっかり気を許して、 「あの一番下の子、空手か、なんかやったのはいいんですけど、目がするどくなっちゃって……まるで、巾着《きんちやく》切りの目みたいでしょ? いやね」とか、みんなが、ワアワアいいながら、御飯をたべ始めると、 「ごめんなさいね。ちょっと、みんな! ここは飯場《はんば》じゃないのよ!」とか、滑稽《こつけい》なことを、次々と、おっしゃった。見たところが上品なので、こういう、いいまわしが、なお、おもしろく聞こえた。  本当に、遊んでるぶんには、こんな、夢のような事があって、いいのかしら? と、トットには、信じられない気持だった。  ある日、お母さまは、トットの家に見えると、パパとママに、 「七重《ななえ》の膝《ひざ》を、八重に折って、おねがい致《いた》します。どうぞ、お嬢《じよう》さまを、家の嫁にして下さいませ」と、まるで、おがむようにして、おっしゃった。  トットは、考えた。 (たしかに、遊んでる時は、本当に、楽しい。でも、一人になると、やっぱり仕事をしたり、自分の家にいるほうが、気持が安まる。これは、どういうことなのかしら?)  きめかねていた。その頃、ママの友達が、ママにいった。 「お嬢さまというものは、お母さまが、はっきりなさらないと、気持が決まらないものなんです。フラフラしてらっしゃるのは、お母さまの責任もあるんですよ」  ママは、責任を感じて、トットに、いった。 「ねえ、どうする? あなたが決まらないのは、私のせい、っていわれたんだけど……。あちらのお母さまも、あんなに、おっしゃってるから、おことわりするんなら、早くしたほうが、いいと思うわ」  トットは、ふっ! と、(結婚しちゃおうかな?)と思った。色んな点からいって、こんなに、みんなに祝福されてする結婚も、ないかも知れない。パパの意見も聞いてみた。パパは、 「トット助《すけ》がよかったら、いいんじゃないの? やさしそうだし、仕事は、出来るそうだし……」  でも、そうかといって、大賛成! という風でもなかった。  トットは、自分で決めるよりほか、なかった。結婚と仕事を、くらべてみたとき、トットには、結婚のほうが、大切に思えた。「ヤン坊《ぼう》ニン坊トン坊」で、マスコミに、とりあげられ、放送は大ヒットしたけれど、これから先、テレビやラジオで、やっていける、という自信は、全く、なかった。個性が認められる風潮には、なってきたけど、やっぱり、ディレクターや、プロデューサーの感覚の根底には、個性のあまり強くない、美しいけど主張のない顔や、演技や、しゃべりかたを、よし[#「よし」に傍点]とするところも、まだ多分にあった。トットは、自分なりに、いろいろ、考えてみた。  そして、ある日、ママに、そーっと、いった。 「私、あの人と、結婚する」 [#改ページ]   結婚詐欺《けつこんさぎ》[#「結婚詐欺《けつこんさぎ》」はゴシック体] 「私、あの人と結婚する!」  そうトットが言った時から、どういうわけか、ママは、トットを、(可哀《かわい》そうに)という風に見始めた。客観的に見て、この結婚は、申し分のないものだった。嫁《とつ》いで行って、みんなに可愛《かわい》がられるのは、目に見えていた。結婚相手の男性は、将来を嘱望《しよくぼう》されていた。まして、嫁《よめ》と姑《しゆうとめ》は難かしい、といわれているのに、そのお姑さんが、誰《だれ》よりもトットを気に入って下さっている、というのは、ママ達《たち》にとっても、安心のはずだった。  ところが、ママは、あまりウキウキとした様子もなく、むしろ、同情するような感じで、ある日、こういった。 「ねえ、結婚したら、オーバーなんかも、やっぱり、そう自由に作って頂く、ってことも出来ないと思うから、作ってあげるわ」  トットは、大よろこびで、ママと自由ヶ丘に出かけた。それまでトットが持っていたオーバーといえば、濃《こ》いブルーの、プリンセス・ラインのと、ママのお古のエンジ色のギャバジンのとの二枚だった。自由ヶ丘の洋服屋さんで、トットとママは、あれこれ相談した。そして、結局、今まで持っていない、ということで、毛足の長いピンクのオーバーを、トットは絶対に欲《ほ》しい、と主張した。ママは賛成した。それから、ママは、驚《おどろ》いたことに、ブルーの品のいいのと、グリーンと黒のチェックの新らしい感じのものと、あと二枚も、オーバーを注文してくれた。どっちも、トットが決めかねて、最後まで、鏡の前で体に巻きつけてみたりしていたものだった。トットは、びっくりして、ママに聞いた。 「本当に、三枚も、いいの?」  黒いベレー帽《ぼう》に、黒のレインコートのママは、人が振《ふ》り返るほど美しかった。トットは、ママが自慢《じまん》だった。そのママが、いった。 「三枚あっても、一生っていうわけには、いかないけど、まあ、いいじゃない? お祝い!」  トットは、(ああ、こうして、家族と、少しずつ、別れていくんだな)と、多少センチメンタルな気分になった。それから、お店の人と相談して、オーバーのスタイルを決め、なるべく早く作って下さい、とお店の人にお願いして、トットとママは、店を出た。  トットが、「結婚する」と返事した事は、相手の家《うち》を、とても喜ばせた。お母さまからは、矢継《やつ》ぎ早に、色々なプレゼントが贈られて来た。結納《ゆいのう》といった形式的なことはしなかったけど、段々と、結納をした形になっていった。  そんなある日、トットは、仕事の帰り、青山の明治記念館の前を通りかかった。結婚式があった日らしく、中から、手に手に、引き出ものの風呂敷《ふろしき》包みを持った人が、ゾロゾロ出て来た。男の人はモーニング、女の人は、黒の留袖《とめそで》を着ていた。トットは、ふと、自分の結婚式を思った。「結婚する」とは、いったものの、結婚式のことまで想像していなかった。ウェディング・ドレスだとか、お色直しのドレスだの、というものに、まだ、ほとんど、みんなが気を使わない時代だった。それにしても、結婚式という具体的なことについて、何も考えていなかったことに、トットは気がついた。 「結婚式!」  そう思った途端《とたん》、トットは、足が止まってしまった。 (私は、お見合いで結婚する。恋愛《れんあい》じゃない。もし、結婚式の帰り道、「この人!」というような人に逢《あ》っちゃったら、どうするのかしら……)  トットは、いそいで家に帰ると、ママに、この件で相談した。ママは、 「ふむ」  というと、手をほほに当てて考えた。それから、いった。 「本当ねえ、それは問題だわね」  次の日、ママの友達の、このお見合いの話を持って来て下さった、おばさまが、トットの前に現れた。白髪《しらが》の混った毛で、きっちりとしたオカッパ頭にしてる、そのおばさまは、トットの前に、きちんと座《すわ》ると、こういった。 「恋愛結婚は、燃え上るのも早いかわりに、冷えるのも、早いものなのよ。その点、お見合い結婚がいいのは、結婚してから恋愛が始まること。そして、その恋愛は、いつまでも続く、と申しますわ」  説得力のある話しかただった。(なるほど)と、トットは思った。でも、冷静に考えてみると、トットのパパとママは、恋愛結婚だけど、こんなに長く続いている。いまだにパパは、家がよくて、仕事に行く時は、たいがい遅《おく》れて行くのに、帰って来る時は、つんのめって帰って来る。そして、玄関《げんかん》のドアを開けるが早いか、 「ママは?」  と聞くんだから。  段々と、トットは、憂鬱《ゆううつ》になって来た。一度も、恋愛しないで結婚してしまって、大丈夫《だいじようぶ》なのかしら。オカッパ頭のおばさまのいう通り、お見合い結婚して、徐々《じよじよ》に恋愛になっていくのも、いいかも知れないけど、やっぱり、一生に一度、出逢いがしらに、ぶつかるような恋愛も、してみたい……。だけど、一度、結婚したら、絶対に、別れる、というのは、いやだった。 (どうしよう……)  トットは、悩《なや》んでしまった。  そんな時、トットは、「ヤン坊《ぼう》ニン坊トン坊」の作曲の、服部正先生と、偶然《ぐうぜん》、NHKの向い側の喫茶店《きつさてん》で、お茶を飲むことになった。作曲家としては、大先生だけれど、大学生みたいな若々しいところが身近に感じられて、トット達、ヤン坊の里見京子さんや、ニン坊の横山道代さんも、いろんなことを、服部先生に相談していた。トットは何気なく、お茶を飲みながら、先生に、いった。 「私、いま、結婚しようかと思ってるんですけど、どうしたらいいか、わかんなくなっちゃってるんです。お相手は、とてもいい人なんだけど、特に、好き、っていうんでも、まだ、ないし……。結婚式の帰りに、�あ、この人!�と思うような人に、逢っちゃったら、どうしよう、って、そんなこと、心配になっちゃうんです」  服部先生は、トットの話を聞くと、恰幅《かつぷく》のいい体を、少し前かがみにすると、トットに、小さい声で、こうおっしゃった。 「君、その人の、どこか気に入らないところ、ない? 大きいとこで、いやだな、と思うとこは、始めから、わかってるんだから、別として、小さな、とるに足らないこと……例えば、お箸《はし》の持ちかたが、気になる、といった、そんな、一見、なんでもないような小さなとこで、気に入らないことがある場合ね、そういうのが、案外、重大でね。どうしても、気になるところがあったら、止《や》めたほうが、いいのよ」  やわらかな服部先生の声は、静かに、そして軽く、トットの胸を揺《ゆ》さぶった。ためらいと不安で一杯《いつぱい》だったトットは、この先生の言葉で、自分が、どうしたいのか、わかったような気がした。たしかに、トットは、一つだけ結婚相手の人の動作で、気になってるところがあった。それは、歩く時の感じだった。もしかすると、外科医独特の歩きかたなのかも知れないけど、トットが前から、(もっと若々しく歩けばいいのに)と思うような、そんな歩きかただった。難くせをつければ、誰にでも、気に入らないところがあるだろうことは、トットにだって、充分《じゆうぶん》わかっていた。それでいて、なお、服部先生の言葉には、真理があるような気がした。 (そういえば、先生は、離婚《りこん》の経験が、あるって、聞いた……)先生の体験から出たものかどうかは、伺《うかが》わなかったけど、(多分そうだろう)と、トットは思った。  いずれにしても、トットは、いま、自分が、どうしたいのか、やっとわかった。  トットは、決心した。(自分勝手とは思うけど、いろいろな点からいって、いま結婚するのは、どうも、私にとって、いいことでは、なさそうだ)そう考え出すと、これまでの自由さが大切に思え、仕事だって、まだ始めたばかりで、海のものとも、山のものとも、わからないのに、今、やめちゃうなんて……と、いう気になってきた。でもまた、こんなに固まってる話を、いま御破算《ごはさん》にするのは、どんなに大変か、と恐《おそ》ろしくもなった。その、ゴタゴタさが、いやさに、「結婚しちゃおう!!」って思う人も、きっと沢山《たくさん》いるに違《ちが》いない、とも思った。でも、トットは、自分の考えに結論を出し、勇気を出して、ママにいった。 「悪いけど、私、この結婚、やめたいんだけど」  ママは、「なんで?」と聞いた。トットは、自分の思ってることを伝えた。ママが、 「いまさら、そんなこといっても、もう、どうしようもないのよ」っていったら、どうしよう。でも、また、そういわれても仕方ないな、と、トットは、つらい気持でいた。パパは仕事に出かけていて、留守だった。ちょっとして、ママは、いった。 「そうね。やっぱり、あなたが、そう思うんなら、やめましょうよ。あちらには申しわけないけど」  はっきりいって、ママも、トットが、自分からお見合いしてみる、といったにもせよ、お見合いで、こんなに早く決まっちゃったことに、不安を感じていたのだった。 「でも、あちらのお母さまとか、あんなに、おっしゃって下さったのに、どうしよう……」  突然《とつぜん》トットは泣き声になった。  ママは、元気のある声で、いった。 「そりゃ、大変よ。でも、やってみるわ」  それから、どういう事があったか、ママはトットに、いちいち報告しなかった。しなかったけど、電話の工合《ぐあい》や、外に出かけて行く様子などで、かなり難かしいことなのだな、と、トットにも、わかった。そして、心の底から、相手のお家の皆さんを、おさわがせしたことを申しわけなく思った。(でも、自分の心には正直じゃなきゃいけない)とも、思っていた。  かなり経《た》った、ある日のことだった。ママは、トットに、いった。 「万事、うまく、おさまりました。御安心ください!」  トットは、本当に、ホッとした。と同時に、勝手すぎる考えだけど、相手のお家の皆《みな》さんに、もう逢えないことを、寂《さび》しく思った。そして、考えてみれば、自分みたいなものを大切にして下さる、とおっしゃってるお申し出を断わるなんて、バチが当らないかしら? とこわくもあった。その日以来、ママは、トットを見ると、こう呼ぶのだった。 「結婚詐欺!」  どうして? と聞くトットに、ママは、半分、本気の声で、こういった。 「オーバー三枚も、作ってあげたじゃないの! こういうのを、結婚詐欺、というんです!」  このとき以来、トットは、お見合いは、一切《いつさい》、やめようと、心に誓《ちか》った。  結婚詐欺で手に入れたオーバーは、どれも、よく似合って、暖かく、トットを包んでくれた。いろんな意味で、ママの母親らしい気持の、一杯こもったオーバー。  でも、本当の話、心がとがめて、あまり着心地《きごこち》のいいオーバーじゃない、ってことを、トットは、誰にも、いえなかった。 [#改ページ]   二宮金次郎《にのみやきんじろう》[#「二宮金次郎《にのみやきんじろう》」はゴシック体]  テレビにしても、舞台《ぶたい》にしても、俳優にとって、一番困るのは、セリフが出て来ない、ということだった。特に、テレビのナマ放送は、終りの時間が決まっているから、時間通りに、進行しなくちゃならなかった。そんな訳で、どうしても、セリフを忘れちゃう人や、おぼえられない人は、カンニング、という事になるのだった。それにしても、学校の時は、一人の先生の目を盗《ぬす》めば良かったんだけど、テレビでは、何百万人、時には、何千万人の目を盗んで、カンニングするんだから、(凄《すご》いなあー)と、トットは、感心して、先輩《せんぱい》の俳優さんのやりかたを、見学するのだった。それにしても不思議なのは、圧倒《あつとう》的にカンニングするのは男優さんで、どういうわけか、女優さんで、カンニングをする人は、いなかった。これは、女優のほうが、記憶力《きおくりよく》がいいからか、それとも生《き》真面目《まじめ》なせいなのか、よくわからないけど、とにかく、カンニングは、男優さんの専売特許だった。  カンニングの方法で、一番多いのは、手に持っているノートや新聞、週刊誌、扇子《せんす》、などに、書きこむやりかただった。でも、世の中は、うまくいかないもので、「老眼鏡をかけないと、カンニングも読めない」と、こぼしている中年の俳優さんもいた。  それにしても、トットが出た番組で、電車の中ならともかくも、バーのせまいカウンターに、五人|並《なら》んだ男優さん全員と、カウンターの中のバーテンさんが、手に手に、カンニング用の新聞や雑誌を持ってるのを見た。誰《だれ》も飲みものを持たないで、新聞紙を握《にぎ》りしめて酔《よ》っぱらった演技をしてるのが異様で、見てるトットのほうが、酔っちゃいそうだった。モダン・タイムスで、チャップリンが、カンニングを、カフスに書いといたら、踊《おど》った瞬間《しゆんかん》に、カフスが、ポン! と飛んじゃって、大爆笑《だいばくしよう》、というのがあったけど、本当に、みんな、苦労していることが、よくわかった。また、役によっては、手に何も持てない、という時もある。そういうときは、なにか、まわりの物[#「物」に傍点]に書きこんでる人を、トットは、よく見かけた。でも、この方法は、手許《てもと》に無いだけに、失敗も多かった。  例えば、電信柱。トットも一緒《いつしよ》に出ていた刑事《けいじ》さんの役の人は、電信柱の陰《かげ》にかくれて、犯人を待ちながら、沢山《たくさん》セリフをいう設定だった。だから、この刑事さんは、セリフを電信柱に、几帳面《きちようめん》に書いた。ところが、本番前に、照明さんの都合で、電信柱を少し移動させることになり、そのために、電信柱のむきが、変った。そんな事を知らない刑事さんは、ヒタッ!! と電信柱の陰にかくれた。(なんということだ!! セリフが無い!)刑事さんは困りはてて電信柱の廻《まわ》わりを、グルグルと犬みたいに、まわった。おかげで、刑事さんは、犯人に、まる見え、という結果になってしまった。  でも、こんな風に、なにか書く物[#「物」に傍点]がある時はいいけど、いろんな都合で、全く無い場合だってある。そういう極限状態でも、カンニングを試みた人は、大勢いる。トットの見た限りでいうと、お丼《どんぶり》の中の、おうどんに書いた人、おまんじゅうに書いた人、お位牌《いはい》に書いた人、自分のはいてる運動靴《うんどうぐつ》に書いた人、すき焼きの白菜に書いた人、マージャンのパイに書いた人、相手役のワイシャツのポケットに書いた人、(この人は、自分のセリフの時、上着をひらいて見せて貰《もら》う、という約束《やくそく》を、相手役と、とりつけた心臓の強い人)そして、こういうのは、たいがい、失敗のうちに終るのだった。  伝説になっているカンニングの失敗篇《しつぱいへん》は、こういうのだった。  時代もので、長火鉢《ながひばち》の灰の中に、男優さんが、カンニング・ペーパーを埋《う》めた。むかい側に、おかみさん役の中年の女優さんが座《すわ》り、やりとりがある。男優さんの考えとしては、こうだった。そのシーンになって、長火鉢の前に座るやいなや、まず火箸《ひばし》を手に取る。それから、なんとなく灰の中から、例の紙を取り出し、いかにも、炭《すみ》の様子を見ている風をしながら、紙を見て、セリフをいう。これなら、不自然には、見えなかろう。ところが、この中年の女優さんは、男優さんを、好きじゃなかった。そこで、この女優さんは、長火鉢の前に、どん! と座ると、物もいわずに、火箸を、しっかり握ってしまった。男優さんは、狼狽《ろうばい》して、「一寸《ちよつと》、火箸、お貸しよ」とかいって引っぱるんだけど、女優さんは、にっこり笑いながら、「あら、こんなこと、お前さんに、させちゃあ、女がすたるよ」といって、絶対に、渡《わた》さない。仕方なく、男優さんは、(異常と思われても、セリフが出ないよりは、いいだろう)と、灰の中に、手をつっこんで、紙を引っぱり出す。やっと、姿を現した紙を見よう、とする間もなく、女優さんが、火箸で、パシャ! パシャ! と灰を上から、かけちゃう。とうとう、何もセリフが始まらないうちに、火箸の取りっこと、ののしり合う、という大騒《おおさわ》ぎ。以来、このシーンは、テレビ界に伝説として、残った話の一つとなった。  でも、失敗ばかりとは限らないで、立派な伝説として、後世に語りつがれているのもある。それは、左卜全《ひだりぼくぜん》さんと、お地蔵さん。左卜全さんが、お地蔵さんの、よだれかけに、カンニングを書いておいた。意地の悪い人がいるもので、本番直前に、全部、お地蔵さんを、後ろむきに並《なら》べてしまった。さて、このシーンに入って来た卜全さんは、ちらり、とお地蔵さんを見るなり、つかつかと、そばに寄り、 「村の童《わらべ》が、いたずらしおって!」  といいながら、お地蔵さんを、次々と、元《もと》のむきに直してしまった。そして、全く、何事もなかったように、よだれかけを見ながら、セリフを、おっしゃった。そばにいた人達《ひとたち》は、思わず本番中なのも忘れ、拍手《はくしゆ》をしそうになった、という。  悪役で有名な上田吉二郎さんは、お弟子《でし》さんに、長くて大きい巻物状の紙を、カメラの横に持たせるので有名だった。セリフは絵入りが多かった。あるとき、トットが見ていると、火山の噴火《ふんか》してる絵があったので、 「これ、何のセリフなんですか?」  と聞いてみたら、あの独特のダミ声で、 「え?! と、おどろく!」  とおっしゃった。たった「え?!」なら、おぼえたら良さそうなのに、あんな何色もの、クレヨンで噴火の絵を……。トットは、その優雅《ゆうが》さに、驚嘆《きようたん》したのだった。  テレビでは、マイクに声が入ってしまうので、プロンプターは通用しない。でも、舞台では、プロンプターが、どこかに、かくれていて、セリフが途切《とぎ》れると、すぐ、台本を見ながら、つけてくれる。  トットの知ってる、あらゆるカンニング、プロンプターの中で、最高と思ったのは、三木のり平さんの、二宮金次郎だった。のり平さんが主役の「あかさたな」という芸術座の芝居《しばい》のとき、あまりのセリフの量に、のり平さんは、ふつうのプロンプターでは、間に合わない、と考えた。そこで、その時のお弟子さんが、背の小さい人だったのを幸い、その人に、ちょんまげをつけさせ、衣裳《いしよう》を着せ、たきぎを背負わせ、床《とこ》の間に、二宮金次郎の置きものの恰好《かつこう》で、立っているように、いいきかせた。  なぜ、これが、いい考えか、というと、二宮金次郎は、御存知のように、本を読んでいる恰好をしている。これを台本に換《か》えればいい、と、のり平さんは考えたのだった。なるほど、のり平さんのいる座敷《ざしき》の、床の間の二宮金次郎が、プロンプターなら、こんなに、近くて、いいことはない。遠くから見ると、確かに、置きものに見えた。でも、時々、凄い、いきおいで、置きものが、ページをめくるので、これは、おかしいのじゃないか、というので、とりやめになった、ということだった。これほど滑稽《こつけい》で、いいアイデアのプロンプターを考える人は、古今東西、三木のり平さんぐらいしかいないに違《ちが》いないと、トットは、何度も思い出し笑いをしながら、感心したのだった。  その後、次々と、テレビ技術は開発されたけど、一向に、カンニング技術は、改善されなかった。アメリカでは、カメラの下や横に、セリフが電光|掲示板《けいじばん》のように、どんどん出る、と聞いた。日本のほうが俳優さんを信用してるのか、そういう機械は導入されなかった。白菜に万年筆でセリフを書いてる男優さんの姿は、哀《かな》しく、テレビが二十世紀の新らしいメディアという感覚は、このとき、トットには、全く無かった。 [#改ページ]   仕出《しだ》し[#「仕出《しだ》し」はゴシック体]  テレビでは、役がついていない、いわゆる通行人、といった出演者を、「仕出し」とか「エキストラ」と呼んでいる。ラジオでは、そういう人達《ひとたち》を、「ガヤガヤ」とか「その他大勢」とかいった。テレビでは、そういう人達を斡旋《あつせん》するプロダクションの人を「仕出し屋さん」と呼んでいた。ふつう「仕出し屋さん」というと、お弁当なんかを作って届ける商売をいうのかと思うけど、ここでは、そうではなかった。そして、今日、トットは、一人の仕出しの人のために、涙《なみだ》を流したのだった。  その人は、お爺《じい》さんだった。  今日のドラマは、サラリーマンの話で、トットの役は、OL。同僚《どうりよう》たちと、会社の帰りに、一寸《ちよつと》した飲み屋に寄って、みんなでワァワァやったりする、というシーンでの出来ごとだった。トット達は、一応、役があるので、カメラの撮《と》りやすい位置のテーブルに座《すわ》って、セリフのやりとりをする。飲み屋さんには、いろんなお客が来ているので、仕出し屋さんの出番になるのだった。ディレクターの、だいたいの意向を聞くと、どこのテーブルに、どんなタイプで、どのくらいの年齢《ねんれい》の人を座らせるかは、仕出し屋さんのマネージャーの仕事だった。  このマネージャーは、まるで工事現場の監督《かんとく》さんみたいに、皮のジャンパーを着て、声の馬鹿《ばか》に大きい人だった。体も頑丈《がんじよう》そうで、赤ら顔だった。年は三十五|歳《さい》くらいだけど、仕出しの人達には、威圧《いあつ》的にものを言った。トットは、その人が、仕出しの人達に、「あんた、ここに座って!」とか、「ほら、あんたは、ここだよ!」とか、どなるようにいうのを聞くと、こわくて、ドキドキした。そして、この人は、仕出しの人には威張って命令するんだけど、一応、形がつくと、突然《とつぜん》、目を細め、卑屈《ひくつ》な笑い顔になって、自分より年の若いディレクターに、「こんなもんで、いいでしょうかねえ?」と、いうのだった。  そして、リハーサルが始まった。トットも通行人の経験があるから、そして、しょっちゅう、降ろされていたから、よくわかるのだけれど、こういう、一見、なんでもない飲み屋のシーンの仕出し、というのは難かしいものだった。役のある人達の邪魔《じやま》にならないように、適当に賑《にぎ》やかに盛《も》りあげる必要があった。時には、ディレクターの注文で、役のある人のセリフを聞いていて、きっかけのセリフのところで、 「お姉さん、ビール、もう一本!」とか、 「おばさん、お勘定《かんじよう》!」  とか叫《さけ》んだりもしなくちゃならなかった。  今日の飲み屋さんでは、トットの、斜《なな》め後ろのテーブルに、お爺さんが二人、向い合せに座った。そのうちの一人が、トットは、とても気になった。どうしてかというと、その人は、トットの小学校の小林校長先生に、そっくりだったからだった。年恰好《としかつこう》も、背恰好も、ほとんど同じだった。ずんぐりした体つきで、頭のてっぺんが、はげていて、歯が抜《ぬ》けていた。トットの校長先生は、いつも、黒のヨレヨレの三つ揃《ぞろ》いを着ていたけど、そのお爺さんも、NHKの衣裳《いしよう》のグレーの、安物の三つ揃いを着ていた。トットは懐《なつ》かしい思いで、そのお爺さんを見ていた。  当時、カメラに、あまり、はっきり写らない仕出しの人達のテーブルの上には、食べられるものは、出なかった。お皿《さら》や、小鉢《こばち》は出るけれど、小鉢の中は、ナマのお大根の切ったのだとか、せいぜいオタクワン。お皿の上は、お魚でも、わざわざ、骨や皮をバラバラにして、食べ散らかした形に、小道具さんが作って出していた。日本酒は、お水で、ビールは、お茶だった。ところが、今日は、なんの風の吹《ふ》きまわしか、冷ややっこだの、焼き魚だのが、そういう仕出しの人達のテーブルにも出た。トットが見ていると、そのお爺さんは、背中を丸めて、その魚を見ると、小声で、自分の前に座っている、もう一人のお爺さんに、 「これ、食べても、いいのかねえ?」  と、いった。いかにも、うれしそうだった。トットは、なんだか悲しくなった。トットだって、たまに本物のケーキなんか出ると、「ワァ!」とかいって、リハーサルの時から食べちゃって、「本番用のが、もう、ありません!」と叱《しか》られる時だってあった。でも、トットは、なんだか、校長先生に、そっくりのお爺さんが、あまり、おいしそうでもない焼き魚を、いかにも、うれしそうに、ジロジロ眺《なが》めているのを、見たくなかった。  とにかく、カメラ・リハーサルが始まった。このお爺さんは、もう一人のお爺さんと、飲んだり、話したりという芝居《しばい》を、続けていて、ここのシーンの最後のほうの、トットのセリフのきっかけで立ち上る。そして、 「じゃ、また来るよ」  といって、この店の常連らしい感じで、出て行く、ということになっていた。トット達は、それぞれ、長いセリフがあり、丁丁発止《ちようちようはつし》と受け渡《わた》し、若者らしく笑ったりしながら、最後のほうになった。お爺さんが立ち上る、きっかけになるセリフを、トットは、いった。当然、お爺さんは、立ち上るはずだった。ところが、お爺さんは立ち上らない。カメラのそばに立っていたF・Dさんが、いった。 「一寸、すいません、そこの人、きっかけですから……」  トットは、振《ふ》り返って、お爺さんを見た。お爺さんは、お猪口《ちよこ》を片手に持って、焼き魚を、一生懸命《いつしようけんめい》、食べているところだった。F・Dさんの声も耳に入らないようだった。お猪口の中味は、勿論《もちろん》、水だった。トットは、(どうしよう?)と思った。失礼だけど、そっとお爺さんに、「ここで、お立ちになるんじゃないですか?」と、いおうかしら……。ところが、それより早く、あの皮ジャンパーのマネージャーが飛んで来ると、大声で、 「あんた、なに、ぼんやりしてるんだよ! ここで、立ち上って出て行くんだろ?!」  と、怒鳴《どな》った。お爺さんは、その声に顔を上げた。そして、スタジオ中の人が、自分を見ていることに気づくと、お爺さんの顔は紅《あか》くなった。そして、お魚を食べていたお箸《はし》を置くと、いそいで立ち上り、片手をあげて、 「じゃ……」  と、いおうとしたけれど、興奮したせいか、そのあとのセリフが出て来なかった。しかも、あわてたためか、お銚子《ちようし》を倒《たお》したので、ガチャン! と音がして、中の水が、テーブルの上に、こぼれた。マネージャーは、また怒鳴った。 「何してんだよ!」  お爺さんは、片手をあげたままの形で、ヨロヨロと、のれんをかきわけて、出て行った。マネージャーは、腰《こし》をかがめると、F・Dさんに、 「すいません、よく言いますから!」  といった。第一回目のカメラ・リハーサルは終った。そして、手直しがあってから、二回目のカメラ・リハーサルになった。飲み屋のシーンになると、トットは、気が気じゃなかった。お爺さんは、さっきより、もっと背中を丸めて、座っていた。オドオドしてるようにも、見えた。もう焼き魚は、ほとんど残っていなかった。トットは、校長先生と一緒《いつしよ》に、お弁当を食べた時の事を思い出した。あの時は、楽しかった。いつもいつも、みんな笑いながら、お弁当を食べた。校長先生と食べるお弁当の時間は、待ち遠しかった。戦争中で、ほとんど食べるものが無かったけど、それでも、誰《だれ》も、卑《いや》しくは、なかったし、みんなが、お互《たが》いに、やさしかった。怒鳴る人も、卑屈な人も、いなかった。トットは、悲しくなってくる気持を押《おさ》えて、元気にセリフをいった。いいながらも、(お爺さん、きっかけ大丈夫《だいじようぶ》かしら?)と、心配だった。もう一寸で、きっかけ、という時、ガタンと音がして、お爺さんが立ち上る気配がした。トットは、ハッ! とした。(お爺さん、そこじゃないの! まだ早いのよ、待ってて!)トットは、大急ぎでセリフを言った。でも、お爺さんは、きっかけより早く、モゴモゴと不鮮明《ふせんめい》に、 「じゃ……また……来るよ」  といって、歩き出してしまった。途端《とたん》にF・Dさんが、叫んだ。 「すいません、きっかけが違《ちが》います!」  お爺さんは、混乱した顔になって、もどって来た。そして、「すいません、すいません」と、頭を下げた。そして、トットにも、頭を下げると、 「すいません」  と、いった。トットは、出来るだけ安心させるように笑って、 「大丈夫ですよ」  と、いった。お爺さんは、靴《くつ》をひきずるようにして、椅子《いす》にもどると、座った。トットは、大きい声で、F・Dさんに、 「私のきっかけのセリフの、少し前から言いますから。いいですか?」  と頼《たの》んだ。F・Dさんは、インカム(耳につけたレシーバー)で、上の副調整室のディレクターに、 「じゃ、そこからで、いいですね?」といい、 「五、四、三、二、一」と叫んで、キューを出した。トットは、お爺さんに、わかるように、ゆっくりと、セリフを、いった。特に、きっかけの時は、(ここですよ)という風に、大きめの声でいいながら、(うまく立ってくれますように!)と、祈《いの》るような気持だった。  ところが、お爺さんは、立ち上らなかった。間《ま》が出来た。スタジオの中がシーンとした。トットは、振り返る勇気が、なかった。でも、(どうしたのかしら?……)と、やっぱり、振り返って見た。お爺さんは、だまって、座っていた。もう一人のお爺さんが、小声で、 「立つんだよ、早く! 早く!」  と、いっていた。お爺さんは、何も芝居をしないで、だまって座っていた。茫然《ぼうぜん》としているようにも見えた。間髪《かんはつ》を入れずに、マネージャーが走って来た。そして、さっきより、もっと怒鳴った。 「あんた! もう、いい! 駄目《だめ》なんだよ、もう。帰んなさいよ! みんなに迷惑《めいわく》かけて!」  そして、マネージャーは、離《はな》れた別のテーブルに座っていた若い仕出しの男の人を、引っぱって来ると、まだ座っているお爺さんを、ひきずり上げるように立たせ、そこに、若い男の人を、座らせた。お爺さんは、されるままになって、だまって立っていた。  トットは、胸が痛くなった。(校長先生に似ていなかったら、こんなに悲しくは、なかったかも知れない……)校長先生は、トットにとって、誰よりも尊敬する人だった。人間は、どんな人でも、生まれた時、素晴《すばら》しい性質と、才能を持っているんだ、と教えてくれた人だった。普通《ふつう》の小学校を一年生で退学になったトットの話を聞いてくれ、 「君は、本当は[#「本当は」に傍点]、いい子なんだよ」  と、いい続けてくれた人だった。  校長先生に似たお爺さんは、マネージャーに邪慳《じやけん》に、突《つ》きとばされるようにして、飲み屋を出て行った。トットは、若い男の人の前の、さっきのままになってる焼き魚の、お皿を見た。 「これ、食べても、いいのかねえ?」  と、うれしそうに言った顔が浮《う》かんだ。「すいません、すいません」と、頭を下げたときの、不安な目を思い出した。突然、涙が止まらなくなった。それは、誰にも、誰にも、わかってもらえない涙だった。(あの人が、私の好きだった校長先生に似ていたから……)そんな理由で泣くなんて、と、みんなは笑うに決まっていた。トットは、みんなにわからないように、涙を拭《ふ》いた。若い男の人は、いっぺんで、きっかけを憶《おぼ》え、リハーサルは、スムースにいった。  本番が終って、トットが衣裳部屋に、自分の衣裳をぬぎに行ったら、あのお爺さんが、ぬいで行った三つ揃いが、畳《たたみ》の上に、たたんで、置いてあった。トットは、それを見ると、また悲しくなって、子供みたいに、泣きじゃくった。なんで、こんなに悲しいのかと、自分でも、あきれる程《ほど》、トットは、衣裳部屋の隅《すみ》で、いつまでも、泣いていた。  そして、トットは、このとき、自分の涙が、「老い」を、いたむためなのだとは、まだ、わかっていなかった。 [#改ページ]   初めての旅[#「初めての旅」はゴシック体] (夢《ゆめ》じゃないかしら!)  トットに凄《すご》い仕事が来た。それは、京都を皮切りに、大阪、広島、福岡、大分、宮崎の、それぞれの街の、大きな劇場で催《もよお》されるファッション・ショウの司会だった。トットは、戦争中が小学校だし、女学生の時は、戦後のゴタゴタで、修学旅行というものを、したことが、なかった。だから、東海道線に乗って九州まで行けるなんて仕事が、自分に来るなんて、本当に信じられない嬉《うれ》しさだった。これも「ヤン坊《ぼう》ニン坊トン坊」で、パーッと、名前が出たお陰《かげ》に違《ちが》いなかった。「スキー毛糸」という毛糸会社の、ニットのショウで、沢山《たくさん》の、ファッションモデルも、ずーっと一緒《いつしよ》に旅行する、という事だった。NHKの仕事のほうも、うまく、やりくりが、ついた。パパは、 「十日間も?」  と、反対したそうに言ったけれど、いつものように、ママが、うまく説得してくれた。トットは、青森に疎開《そかい》したとき以来、初めて、自分で荷物を作った。(あの時の旅と、なんという違いだろう)  東京駅から、汽車に乗るのも、初めてだった。どんなに我慢《がまん》しようとしても、うれしくて、顔が笑っちゃうのだった。ガタン、と汽車が動き出したとき、トットは思わず、ホームに立ってる知らない人にも、手を振《ふ》った。汽車の窓からの景色は、何もかもが珍《めず》らしく、顔を窓にくっつけて、ずーっと外を見ていた。モデルの人達《ひとたち》の中には、旅馴《たびな》れた人がいて、 「横浜駅では、シュウマイを買うと良いのよ」とか、「豊橋では、チクワを買う事に決めてるの」と教えてくれた。当時、京都までの所要時間は、八時間だった。  二時間くらい走った時、トットは、金の鯱《しやちほこ》のついた、建物を発見した。 「わあー、名古屋城!」  トットは感動した。本当は、それは、熱海《あたみ》の旅館だったんだけど、トットは知らないから、屋根の上の鯱を見て、すっかり名古屋城と信じてしまった。だから、そろそろ次は、京都だと思ったので、荷物など整理し始めた。そこに車掌《しやしよう》さんが通りかかったので、トットは、一応、念のため、と思って聞いた。 「次は、京都ですね?」  車掌さんは、トットの顔をじーっと見ると、少し、びっくりした声を出して、こういった。 「いま、熱海を出たところですから、次は沼津です。名古屋までは、あと四時間です」  というなり、どこかに行ってしまった。  トットは、学校で、地理と歴史を、ちゃんと習っていなかった。なぜなら、戦争に敗《ま》けた、と決まったとき、日本の歴史と地理は、大きく変った。でも、新らしい教科書を作る余裕《よゆう》は、当時の日本には全く、なかったので、トット達は、古い教科書の、違うとされた所を、すべて、墨《すみ》で塗《ぬ》りつぶしたものを渡《わた》された。ほとんどが、真黒の教科書だった。�日本は■■■■■■■の歴史があり、■■■■■であり、■■■■■■■のである�  こういう工合《ぐあい》だった。地理も同じようなものだった。勿論《もちろん》、自分で勉強すれば良いのだけれど、トットは、フランス革命だの、マリー・アントワネットだの、フーシェのことは、くわしく勉強したのに、自分の国のことは、怠《なま》けてしまった。そこで、基本的なところが欠如《けつじよ》しているので、人から見ると、冗談《じようだん》をいってる、と思われるところが、よく、あった。でも、トットの同級生で、 「豊臣秀吉と、信長と、家康は、三人兄弟なんでしょう? 誰《だれ》が長男?」  と、トットに聞いた女の子がいるから、トットだけでは、ないらしかった。  富士山も、生まれて初めて、近くで見た。子供の時、小学校に通う大井町線の、自由ヶ丘の手前のカーブの所で、富士山のてっぺんを見たことがあるけど、まるごと[#「まるごと」に傍点]見るのは、初めてだった。その品の良い形に、トットは、拍手《はくしゆ》したい気持だった。そして、今さらのように、北斎《ほくさい》だの広重《ひろしげ》という人の、うまさを、しみじみと、思った。 「次は、名古屋! 名古屋!」といって、車掌さんが歩いて来た。トットは、急いで、 「恐《おそ》れ入ります、名古屋城は、どっちの窓から、見えますか?」と聞いた。車掌さんは、チラリと、トットを見ると、いった。さっきと同じ車掌さんだった。 「ここからね、名古屋城は、見えないんです」  がっかりしたトットは、続けた。 「だって、石川五《いしかわご》右|衛門《えもん》が、名古屋城の鯱のとこに登って、�絶景かな、絶景かな!�って、いった、って聞いたんで、高い所にあるのかな? って、思ったものですから……」  車掌さんは、トットから目をそらすと、手許《てもと》の時刻表かなんかを見ながら、早口でいった。 「五右衛門が登ったのは、京都の南禅寺の山門と、芝居《しばい》なんかでは、やるようだけどね。名古屋城に登ったってことは、聞いてないねえ。それに、名古屋城は焼けちゃって、これから復原するって、聞いてるけどね」  関西なまりの、親切そうな人だったけど、なるべく、トットに、かかずり合いたくない、という感じだった。  こうして、キョロキョロしてるうちに京都に着いた。長い間の憧《あこが》れの町だった。絵や写真や、映画では見ていたけど、自分の足で歩いて、京都の空気が吸える、というのは、特別の気分のものだった。日本旅館に泊《とま》ることになったトットは、ここでも、何もかもが珍らしく、女中さん達を質問ぜめにした。パパの仕事の関係で、小さい時から洋風に育ったトットには、すべてが、エキゾティックに見えた。夕方、南座でのリハーサルに出かけようとしたトット達に、美しく着物を着た旅館の、おかみさんが、 「おはよう、おかえり」  と、柔《やわ》らかく細い声を、門口で、かけてくれた。 (まるで、自分の家にいるようだ)とトットは、思うのだった。  次の朝のことだった。トットは、暗いうちに起きた。なんか、ワクワクして寝《ね》ていられなかった。「わあー、京都に来てるんだあー」叫《さけ》びたい気持だった。トットは、朝御飯《あさごはん》の前に、一人で、すぐ近くにある清水寺《きよみずでら》に行ってみようと、決心した。朝もやの中を、トットは、跳《と》びはねながら、清水寺に向った。坂を登ると、清水寺があった。誰の姿も見えなかった。本堂と思えるところに頭をつっこんだトットは、切角《せつかく》、来たんだから、ちゃんと、おがんで行こうと、考えた。靴《くつ》をぬいで、大きな祭壇《さいだん》の前の、厚い朱色《しゆいろ》のお座ぶとんの上に、すわった。どうせなら、鉦《かね》も、木魚《もくぎよ》も、叩《たた》いたほうが、御利益《ごりやく》が、ありそうだ。トットは、いろいろ鳴らしながら、心をこめて、お祈《いの》りもした。しばらくした時だった。誰かが後ろからポンポンと、トットの肩《かた》を叩いた。ふり返って見ると、それは緋色《ひいろ》の袈裟《けさ》をお召《め》しの、偉《えら》そうな年老《としと》ったお坊《ぼう》さんで、その後ろに、何人もの、いろんな色の袈裟のお坊さんが、ずらりと並《なら》んでいた。お年を召したお坊さんは、トットに、おっしゃった。 「ちょっと、そこ、どいて、もらえませんか?」  トットは、愛想よく、 「どうぞ、どうぞ、交代しましょう」といってお座ぶとんを、ゆずった。そしてトットは、満足して、坂を降りた。  何も知らない、という事は、恐《おそ》ろしいことで、あの清水寺の、有名な管長さんの、お座ぶとんにすわって、鉦を叩いたり、木魚を鳴らしたりしてたわけなんで。しかも、みなさんの、朝の、おつとめの前に。  こんな風に、すべての街で、みなさんに、ご迷惑《めいわく》を、かけながら、トットは、生まれて初めての旅を、心ゆくまで、楽しんだのだった。 [#改ページ]   お上手ねえ[#「お上手ねえ」はゴシック体] 「ヤン坊《ぼう》ニン坊トン坊」が、どんなにヒットしたかは、九州、熊本のNHKが、トット達《たち》三人を、飛行機に乗せて、特別番組のために、招《よ》んでくれたことでも、よく、わかった。当時、飛行機が、どのくらい珍《めず》らしいか、というと、トットが学校を卒業した時でも、NHKに入った時でも、どんな時でも、ついて来たことのないパパとママが、このときは、羽田飛行場に見送りに来たんだから。リンドバーグの時代から、随分《ずいぶん》、たっているけれど、やっぱり、飛行機に娘《むすめ》が乗る、というと、熊本までなのに、ハンカチ振《ふ》って送りに来る、というのは、つまり、そのくらい、飛行機が珍らしかったに違《ちが》いない。  トットが、生まれて初めて飛行機に乗って、ずーっと下を見ていて、一番、感心したことは、 「日本は、地図と同じ形をしている」  ということだった。地図を作った人は、空から見た訳じゃないのに、よく、あんなに正確に、岬《みさき》だの、入江《いりえ》だの、島だの、ちゃんと描《か》いたものだ、と感動した。熊本の旅館で、ヤン坊の里見京子さんと、ニン坊の横山道代さんと、一つの部屋で、ふとんを並《なら》べ、電気を消した中で、いろんな話をしたことも、トットにとっては、楽しいことだった。「ヤン坊ニン坊トン坊」に関しての新聞や雑誌のインタビューを、三人|揃《そろ》って、百以上したかも知れないけど、ゆっくり話しするのは、初めてだった。  NHKの面接試験のとき、黒いスーツの胸に、赤い造花のバラをつけ、耳たぶを赤くしていたのが、里見京子さん、ということは、わかっていた。でも、あの造花が、とても印象が強かったので、トットは、もう一度、聞いてみた。 「あのときの、赤い造花の女の子が、あなただったのよね」  鈴木|崇予《みつよ》、というのが本名だけど、大岡先生によると、「これは崇予《そうよ》、というのが、よろしゅうございます」ということで、「ソーヨ」と私達が呼んでいた里見さんは、甘《あま》い声で、いった。 「あら、やーね、あれ造花じゃなかったのよ。本物のバラだったのよ」  トットは、とても驚《おどろ》いた。胸に本物の赤いバラをつけるなんて、その頃《ころ》、考えられない贅沢《ぜいたく》だった。トットは、体を起して聞いた。 「え? どうして?」  ソーヨは、マシマロみたい、とみんなに形容されてるくらい、やわらかい顔立ちとは違った、強い感じで、いった。 「だって、そのほうが目立つじゃない? 無理して、試験中、ずーっと毎回、一輪、お花屋さんで買って、胸につけて行ったの」  不思議な羨望感《せんぼうかん》のようなものが、トットを襲《おそ》った。トットは試験の時のことを思い出した。考えただけでも、冷汗《ひやあせ》が出た。�目立つ�なんてこと、考えてみたこともなかった自分が、(なんて幼稚《ようち》だったんだろう!)と恥《はず》かしくなった。ソーヨは、続けて、いった。 「私も、あなたのこと、憶《おぼ》えてるわ。私の、少し後ろに居たでしょう? 私、家に帰って、その日のこと、母に報告したから、憶えてるの」トットは、ソーヨが、自分のことを憶えていた、ということにも、びっくりした。 「へーえ、私、どんなだった?」  ソーヨは、ゆっくりと、いった。 「�お母様、私、今日、フランス人形みたいな人、見たわ�って、いったの」  ……一張羅《いつちようら》のオレンジ色のパラシュート・スカートに、白の、ちょうちん袖《そで》のブラウスだった自分の姿が、パッ! と浮《う》かんだ。どこを見ても、奇麗《きれい》な受験生ばかりの中で、心細く立っていたトットを、そんな風に見てた人がいた、というのは、信じられない驚きだった。でも、同時に、自分では、あわれっぽく見えただろう、と思っているのに、フランス人形みたいに見えたなんて、と、トットは、うれしくなった。ソーヨは、お世辞をいう人じゃない、って知っていたから。  そういえば、他《ほか》にも、こういうことがあった。「ヤン坊ニン坊トン坊」の何回目かに「歌舞伎猿《かぶきざる》」という猿が登場した。すべてのセリフが、飯沢匡《いいざわただす》先生の台本に、七五調で、書いてあった。その歌舞伎猿の役になって、小野田勇さんが出演した。小野田勇さんは、放送劇団の二期生で、その頃は、一世を風靡《ふうび》した、三木トリローグループの日曜|娯楽版《ごらくばん》の出演者として、大スターだった。そんなことを全く知らないトットは、小野田勇さんの七五調のうまさに感激《かんげき》して、ぴったり、そばにくっついて聞きほれた。そして、テストが終った時、小野田さんに、 「お上手ねえ」  と、いった。小野田さんにしてみれば、お上手で当然だし、第一、プロに面とむかって、 「お上手ねえ」  などという人間がいるなんて、信じられないことに決まっていた。しかも、それまでの「女優」といえば、スタジオで静かにしていたのに、見ていれば、トットは、ハンドバッグから飴《あめ》やお菓子《かし》を出して、クチャクチャ食べてる。まわりの人に、それをすすめる。そして、目まぐるしく動く。それでいて、「歌です」と、ディレクターにいわれると、ナマ放送でも、平気で、初見《しよけん》で楽譜《がくふ》を見て、すぐ歌っちゃう。娯楽版の人達も歌うけれど、あんな風に、苦もなくは、歌えない……。小野田さんは、トットを見ながら、考えた。 「自分たちの今までの�女優�に持っていたイメージは、苦節何年、というようなものだった。それなのに、あの人は、生まれついてのリズム感があり、率直《そつちよく》だ。時代は変って来た。天性の人の時代になっていくのだろうな。きっと、これからは、こういう人達が、放送を占領《せんりよう》していくに違いない……」  そこで、この「お上手ねえ」を境にして、小野田さんは、スターだった俳優業を、あっさりと止《や》め、作家に転向してしまった。そして、後《のち》に、「若い季節」や「おはなはん」を、書いた。書く仕事は、前から少しは、してらしたけど、これで、はっきりと、職業にしていくことに決めた、という話だった。勿論《もちろん》、こんなことは、その頃、トットが知るはずもなかった。トットは、自分では、自信なく通ってたスタジオだったのに、ある人には、こんな感じを、あたえていたのかと、後年、小野田先生[#「先生」に傍点]になってから伺《うかが》って、ショックを受けた。そして、先生が、 「とにかく、君は、キラキラ輝《かがや》いてたよ」  と、つけ加えて下さったとき、「わあ! 本当ですか?」と有難《ありがた》く思ったけど、同時に、(ああ、あの頃、もし、それを知ってたら!)と、残念にも、思った。でも、自分が、ほとんどの人に、ダメだ、といわれ続けてる中で、キラキラ輝いてた時があった、と知ったことは、それが、後《あと》であったにせよ、トットには、幸福なことだった。 [#改ページ]   カラー・テレビ[#「カラー・テレビ」はゴシック体]  とうとう、カラー・テレビが、本放送になった。トットが、一番、カラーで面白《おもしろ》い、と思ったのは、今まで、白黒のとき目立たなかった、シミチョロなんかが、はっきりしたことだった。よほどのクローズ・アップにならない以上、グレーのスカートの下から、シミーズが少し出てても、白黒の画面では、わからなかった。それが、カラーだと、くっきりと立体的になって、 「あっ、シミチョロ!」  と、わかった。まして、着物の下から、赤い長襦袢《ながじゆばん》が、チョロチョロ出てたりすると、白黒なら、なんてことなかったけど、カラーで写ったら、これは、もう、 「色っぽーい!!」  と、鮮烈《せんれつ》に、目に焼きついてしまう。色気を必要としない役では、邪魔《じやま》になることだった。なにもかもが、いい加減では、いけなくなった。  メーキャップも、本当の色に近いものを、つけるようになった。白黒では、紫色《むらさきいろ》みたいな口紅をつけさせられて、「これが白黒だと、ちょうど、普通《ふつう》の赤に見えます」といわれて、鏡を見るたびに気持が悪かったんだけど、今は、口紅も、ピンク色になった。衣裳《いしよう》も勿論《もちろん》、家のセット、景色、小道具、たべもの、もう、何から何までが、根本的に、本物じゃないと、嘘《うそ》に写るので、NHKの中は、上から下まで、大さわぎだった。  それより何より、俳優たちが困ったのは、スタジオの暑さだった。白黒の何倍もの光量を必要とするので、その暑さは、想像を絶した。トットは、生まれて初めて、植木鉢《うえきばち》の木から、水蒸気が上がっていくのを、目で見た。こういうものは、すべて本番前まで、スタジオの外に出しておいて、「本番、五分前!」くらいに入れるんだけど、入れたと同時に、サーッと、木から水蒸気が、上にあがっていって、見る見る、木が、しおれていった。花なんか、すぐ、グンニャリとなった。なにしろ、本番が始まって、十分くらい経《た》って、 「お茶でもいれましょう」  というセリフで、トットが台所に立って行って、ヤカンを手に持ったら、アルミの、手で持つところが、すっかり熱しちゃってて、 「アチチチチ」という間もなく、火傷《やけど》で、火ぶくれが出来る、という有様だった。本番での、たべものも、困ったものの一つだった。お寿司《すし》なんか、早くたべないと、マグロの赤い色が、ちょっとの間に、茶色になった。トットが迷惑《めいわく》したのは、サンドイッチだった。喫茶店《きつさてん》のシーンで、男の人とデイトをしたトットは、サンドイッチを注文した。勿論、台本の指定だった。ウェイトレスが、二人の間に、サンドイッチののったお皿《さら》を運んで来た。これも、それまで、スタジオの外で冷やしてあったものだった。運ばれても、しばらくトット達《たち》は、セリフのやりとりがあったので、サンドイッチに手をつけなかった。これが、いけなかった。トットが、いざ、サンドイッチを食べようと、手に持って、口に近づけた時、愕然《がくぜん》とした。 (わあー、サンドイッチのパンが、暑さで、すっかり乾《かわ》いちゃって、それぞれ、外側に、反《そ》っちゃってる!)  パンが、それぞれ、外側に反りかえっちゃってるサンドイッチを、口に入れるのは、至難の業《わざ》だった。かなり、大きく口を開けても、入りそうになかった。そうかといって、手で押《お》しつぶしながら、口の中に、つっこむ、という訳にも、いかなかった。第一、サンドイッチを食べるのに、そんなに、あごが、はずれるくらいに、大きく口を開けるのは、いかにも異常だ。仕方なくトットは、まるで手品師のように、食べたふりをしながら、手の中に、どんどんサンドイッチを、しまいこみ、その分、ほっぺたを空気で、ふくらませて、噛《か》んでる芝居《しばい》をして、切り抜《ぬ》けた。ところで、この時、トットのデイトの相手の人は、別に困った風もなく、反っくりかえったサンドイッチを平気で食べていた。よく、こんな大きなものが、口に入るな、と、トットは、感心して、その人の四角い顎《あご》を観察した。よくよく見ると、目は、とても、細かった。名前は渥美清《あつみきよし》、という人だった。  とにかく、この暑さは、白黒のテレビが本放送になった頃《ころ》、番組が始まった時は、たしかにあった数本の髪《かみ》の毛が、「おあとがよろしいようで」と終って気がついたら、焼け切れてて、全く無かった、という、落語家のかたの伝説には、かなわないけど、苦労の一つだった。  そして、汗《あせ》。トットは、ほとんど汗をかかない体質なので、平気だったけど、フランキー堺《さかい》さんの場合、本番がスタートして、「みなさん今晩は!」と、カメラにむかって歩いていっただけで、もう、遠心分離器《えんしんぶんりき》みたいに、汗が飛び散った。汗かきの越路《こしじ》吹雪《ふぶき》さんは、ほんの一寸《ちよつと》の芝居の間に、ショートカットの髪の毛が、シャワーから出たみたいに、ビショビショになった。誰《だれ》も彼《かれ》もが、セリフを言いながら汗をタラタラと、たらしていた。それでも、夏のストーリーなら、いいけど、冬の話の時は、不自然だった。まして、オーバーなんか着てる人は、よその家に上って、オーバーをぬぐと、湯気がたった。カメラさんは、みんな、タオルを首にまいて、汗の流れを止めていた。一回リハーサルが終るごとに、みんなスタジオの外に走って出て、ハアハアと息をした。夏でも冬でも、スタジオの外は極楽のように、感じた。砂漠《さばく》で、日陰《ひかげ》を見つけたら、きっと、こんなだろう、と、みんなで話しあった。  スタジオでは、そんなでも、テレビは、カラーになって、ますます普及《ふきゆう》し、番組も増え、トットはだんだんと、忙《いそ》がしくなった。 [#改ページ]   「実家に帰ってます」[#「「実家に帰ってます」」はゴシック体]  テレビがカラーになった頃《ころ》、突然《とつぜん》のように、世の中は、「個性」の時代に入っていった。マスコミは、 「個性が重要な時代!」  と書きたて、トットは、新聞や雑誌に、毎日、追いかけられるようになった。「個性的な女優」ということで。でも、昨日まで、ディレクター達《たち》から、「みんなと同じに出来ませんか?」とか「あなたの個性が邪魔《じやま》なんだよね」といわれていたトットが、「さあ、あなたの個性は、なんですか?」と聞かれても、答えようが、なかった。「なんだか、変った子だね」と、あつかいに困っていたディレクターが、「個性があるから、なんとかなるだろう」と、仕事の伝票を、劇団に廻《まわ》して来た。NHKのディレクターの中でも有名な畑中庸生さんは、トットのことを、こんな風に、新聞に書いた。 「お世辞にも、美人とはいえないが、個性があり、クローズ・アップに耐《た》えられる顔……」  美人とは、自分でも毛頭、思ってはいないけど、何もかもが、「個性」という言葉で、片付けられてしまうことが、トットには、少し悲しかった。それでも、仕事は、毎日々々、増え続け、「あっ!」と、トットが気がついた時は、もう、寝《ね》る時間が、毎日、三時間くらいしか、ない、という事になっていた。テレビのレギュラーだけでも、週に六本あり、ラジオも、毎日のものを含《ふく》めて、三本くらい、あった。それでも、後《あと》から後から、仕事が入って来た。仕事を始めて間もないトットは、自分で、断わる、という事は出来なかった。劇団には、マネージャーなんて、いなかったから、すべて、自分で時間を調整し、交渉《こうしよう》し、整理していた。伝票が廻って来ると、その仕事が、「したいか、どうか?」ではなくて、単に、時間が空いてるか、どうか、だけで引き受けた。断われたのは、すでに同じ時間に、本番が入っちゃってて、どうしようもない時だけだった。  トットは、ほとんど寝てなくても、ちゃんとセリフを憶《おぼ》え、まじめにリハーサルに出て、本番も、なんとかボロを出さない点数を、とっていた。  そんな、ある日の夕方、テレビスタジオの本番中、突然、トットは、相手のセリフが、ほとんど聞こえないことに気がついた。その少し前から、なんだか耳の中が、ザワザワザワザワ、まるで、上野駅の雑踏《ざつとう》みたいだな、とは思っていたけど、その日は、そのほかに、「キーン」という高い音も入って、人の言ってることが聞こえない、と、わかった。(一体、これは、なんだろう?)いつも、いろんなことで、率直《そつちよく》なトットだけど、自分の体のことを、人にいう、というのは恥《はず》かしくて、いやだった。次の日も同じだった。なんだか、それに、目まいも、してるように感じた。トットは、前から健康診断して頂いてる病院の院長先生に電話した。そして、今の症状《しようじよう》を、説明した。年老《としと》った院長先生は、 「今、すぐ、おいで!」  と、いった。でも、トットは、病院に行く時間さえ、「都合つけられない」といった。先生は、いった。 「死ぬよ」  トットは、リハーサルのディレクターに、こわごわ打ち明けた。ディレクターは、時間をくれた。トットは感謝して、青山の病院に急いだ。先生は、トットの話を聞き、一寸《ちよつと》、診察しただけで、 「過労だな、すぐ、入院しなさい」  といった。トットは、唖然《あぜん》とした。入院するほど、自分が、どこか悪くなってる、なんて、思ってもいなかった。それに、一体、どうやって、全部のディレクターやプロデューサーに、断わったらいいのか、見当もつかなかった。トットは、途方《とほう》にくれた。(マネージャーがいれば、きっと、そういう人が、やってくれるのだろうけど)トットは、院長先生に、 「とにかく、NHKの方達に、おことわりして、すぐ入院しますから」  といって、走ってNHKに帰った。そして、一人ずつ、ディレクター達に、「過労で、入院しなくちゃいけないので、休ませて下さい」と頼《たの》みこんだ。ところが、見たところ、トットは、少しは青い顔をしてるかも知れないけど、歩いてるし、しゃべれるし……ということで、なかなか、みんなが、「うん」とは、いってくれなかった。みんな「他《ほか》のは降りても、これ、一本だけやってくれない?」といった。みんな、トットが、いなくなると困る、といった。トットは、 「もう、私がいないと、NHKは、つぶれちゃうんじゃないの?」と冗談《じようだん》めかして、いいながらも、悪い気は、しなかった。結局、ズルズルと、また、スタジオにもどって、本番を、やったりしていた。でも、耳鳴りは、もっと、ひどくなっていた。三日くらい経《た》った朝だった。トットは目を覚まして、何気なく足を見て、叫《さけ》びそうになった。膝《ひざ》から下に、いくつも、いくつも、真赤《まつか》な、花びらのようなものが、見えた。それは、蕁麻疹《じんましん》のように、ふくらんだりしていなかった。色も、ピンクとか、紫《むらさき》じゃなく、血、そのものの、真赤な、色だった。大きさは、花びらのようだったり、小さな花くらいだった。痛くも、かゆくもなく、鮮明《せんめい》な赤で、どちらかというと、奇麗《きれい》なくらいで、恐怖《きようふ》、そのものだった。 「死ぬよ」  と、先生が言ったことを思い出した。トットは、ママに足を見せた。ママも呆然《ぼうぜん》とするくらい、それは、恐《おそ》ろしい見ものだった。  トットは、すぐ入院した。いい按配《あんばい》に、その病院が、NHKに関係のある病院だったので、院長先生が、全部の番組に、断わって下さる、という事になった。トットは、自分が死ぬのかしら? と思った。トットが心配そうにしてると、院長先生は、トットの足を指して、「それは、そんなに心配することないよ。毛細血管が切れたんだから、二、三日も寝てれば、すぐ、なくなる」と、いった。過労から、赤血球が減って、そんな風になった、ということだった。いろいろ検査した結果、一ヶ月は入院、ということになった。 「寝てれば、なおるよ」  と、院長先生にいわれて、仕方なく、トットは、ただ、寝ることに、つとめた。院長先生が言った通り、本当に、足の赤いものは、三日で消えた。テレビを見てもいい、という、お許しが出たので、トットは、テレビを借りて、病室で見ることにした。自分のレギュラーの番組が、自分がいなくて、どうなるのかが、心配だった。時間が来て、トットが司会をしていた番組が、まず放送になった。ドキドキして見ていると、トットの知らない若い女の人が出て来て、こういった。 「みなさん、こんにちは! 今日から、私が当分、司会、やりますよ、どうぞ、よろしくね!」  そして、番組が始まった。たった、それだけだった。トットがいなくても、番組は、別に、困った風もなかった。みんな楽しそうに、写っていた。トットが、渥美清《あつみきよし》さんと、夫婦をしてるドラマがあった。これも、ナマ放送だから、一体、筋は、どうなるのかしら? と、トットは、気をもんでいた。放送が始まった。近所の人が、夫の渥美さんに聞いている。 「奥《おく》さん、どうしました?」 「実家に帰ってます」  これで終りだった。  トットの役に、実家が、あったかどうか疑問だったけど、そんなことは、問題にならないことだった。死にもの狂《ぐる》いで続けようとした仕事が、 「実家に帰ってます」  この、ひとこと。他《ほか》の番組も似たりよったりだった。そして、みんなは、どしどしと、トットなしで、進んでいた。トットは、この時、はじめて、 「テレビは、すべてが、使い捨て」  と、わかった。  たった一人、病室で、トットは、何も写っていないブラウン管を、いつまでも、見つめていた。 [#改ページ]   あとがき[#「あとがき」はゴシック体]  今から六年前、テレビが始まって、丁度、「二十五周年」ということで、大きな特別番組の収録がNHKホールでありました。  私は、そのとき、�私とテレビの関係�は、昔《むかし》の女の人が、相手の顔も、よく見ずに、お見合いで結婚《けつこん》し、そして銀婚式を迎《むか》えたのに似ている、と思いました。私は、テレビのために養成されました。でも、テレビというものが、まだ始まってなくて、どんなものか、よくわからず、それでも身をゆだねて、二十五年、経《た》ってしまったんです。 「銀婚式なんだわ、本当なら」  私は、NHKホールの片隅《かたすみ》で、つぶやきました。  その日、私は、司会者の一人だったんですけど、司会のほかに、もう一つ、面白《おもしろ》いコーナーに出演しました。それは、私と森繁久彌《もりしげひさや》さんが、その日から更《さら》に二十五年、経った……つまり、 「テレビ開局 五十周年」  という特別番組に出演したら……という想像のシーンでした。そのころ、森繁さんは、九十|歳《さい》ちょっと、私は七十歳くらいです。二人とも、その年齢《ねんれい》に自分がなった時を推定して、扮装《ふんそう》しました。たしか森繁さんは和服、私は、スーツだったように思います。森繁さんは、ふくさに包んだ、しびんを、お持ちになりました。二十五年後、NHKホールに、二人が登場します。アナウンサーのかたが、インタビューなさいます。 「五十年前のテレビというのは、どんなもので、ございましたか?」  森繁さんが、ぼんやりしていらっしゃるので、私が注意を、うながします。 「森繁さん! テレビが始まった頃《ころ》、どんなだったか、って聞いてらっしゃいますよ」  すると、森繁さんは、いきなり、 「えー? NHKの弁当は、まだ、出ないの?」  と、お聞きになりました。私が、 「あら、さっき、楽屋で召《め》し上りましたよ」  というと、森繁さんは、 「僕《ぼく》はね、まだ喰《た》べていないんだ!」  と、すっかり恍惚《こうこつ》の人に、なっておしまいになりました。(映画での名演技より、更に、年期が入ってる感じでした)。アナウンサーは困って、 「はあ、五十年前のテレビというと……」  と、くり返します。森繁さんは、次に、 「うなぎは、とどきましたか?」  と、アナウンサーに聞きました。仕方なく私がアナウンサーのかたに、 「はあ、あの頃は、ライトが暑くて、髪《かみ》の毛の薄《うす》いかたで、焼け切れて、ツルツルになったかたも、いらっしゃいましてね」、といって、森繁さんに、 「そんなこと、ございましたでしょう?」  と、同意を求めたら、森繁さんは、もぞもぞと、ふくさを拡《ひろ》げて、 「おしっこ……」  と、まあ、こんな風な感じで、実は、即興《そつきよう》で続いたんです。でも、実際に、あと二十五年、経ったとき、どうなっているんでしょうね、と、みんなで笑いました。笑いながら、みんなが心の中で考えていたことは、同じだと思います。 (自分は、大丈夫《だいじようぶ》かな? その頃、まだ、元気でいられるかな?)  森繁さんは、七十歳の私が入歯にもならず、早口で喋《しや》べって、シャンシャンしてる、ってことについては、疑問のようで、 「あなたは、自分だけ、いい役にしてるんじゃあ、ありませんか?」  と、おっしゃいました。といっても、この二人の設定をお決めになったのは、森繁さんなんですけど。  この「テレビ五十周年」というスケッチ(コント)は、森繁さんの、ひどく、お気に入りのものとなり、この後《のち》も、どこかで、お逢《あ》いするたびに、 「ねえ、あの二十五年後の稽古《けいこ》してみようよ」  と、おっしゃっては、 「うなぎ、とどきましたか?」  と、本当の恍惚の人のように、なさるので、そのたびに、私は笑いました。  でも、それからも、もう、六年も経ってしまいました。五十周年まで、あと十九年。森繁さんと、 「現役《げんえき》じゃないと、出して頂けないから、頑張《がんば》りましょうね」  と、時々、話し合います。  その二十五周年のとき、私が、びっくりしたのは、技術の進歩です。カメラなど、どんなに遠くにあっても、その場所で、動かさずに、クローズ・アップも、ロング・ショットも、レンズで、思い通りに撮《と》れるようになりました。クローズ・アップのとき、俳優のほうから、カメラの前まで、飛んで行ったり、反対に、カメラが近寄りすぎて、俳優と正面|衝突《しようとつ》! なんていう、初期の頃を思うと、天国のようです。そして、照明ですが、昔は、ライトの一つが、ポリバケツくらいあったんですけど、今では、同じ光量で、煙草《たばこ》のライターの大きさに、なっています。照明の、ついたり、消えたり、上ったり下がったりも、コンピューターです。いま風に言えば、ハードウェアーの進歩は、信じられない早さです。でも、ソフトウェアーの、私たち人間のほうは……? 番組の内容や、演技や、美術は……。  この点になると、本当は、とても、心細くなってしまうのです。 「徹子の部屋」というテレビの対談番組を始めて、九年になります。今までに、二千二百十五人の方達《かたたち》に、お目にかかり、お話を伺《うかが》いました。この番組をやって、私が発見したことが、あります。それは、もう、ほとんどのゲストのかたが、 �始めに、自分が、やろう!�、と思った仕事と、違《ちが》う仕事を、現在、やってらっしゃる、ということです。そして、なお、一流になり、永続《ながつづ》きしてらっしゃるのです。このことは、私の、思ってもいないことでした。私は、自分が、始めに、「女優になろう!」、と思って、なったわけではないので、それが長い間の、私のコンプレックスでした。こういう創造的な仕事は、始めから、 「なろう!」  として、なった人が、やるべき、と考えていました。偶然《ぐうぜん》から、なってしまった人間が、こんなに仕事に恵《めぐ》まれては、いけないのではないか……ということが、いつも心の中に、ありました。それが、「徹子の部屋」で、みなさんのお話を伺って、(私だけじゃない!)と、わかったのです。人生って、不思議なものだ、と、つくづく思います。勿論《もちろん》、あいだに戦争がありましたから、余儀《よぎ》なく、違った人生を選ばなきゃならなかった方《かた》も、多いと思いますけれど……。  この、「トットチャンネル」は、昭和二十八年から、話が始まります。なるべく、その時点のことに、とどめておきたかったので、後日談、といった風なものは、あまり書きませんでした。でも、「後日談」として、書いておきたいこともありますので、それは、これから、お読み頂ければ、と、思います。    �お母さんになる!�[#「�お母さんになる!�」はゴシック体]  NHKの試験を受けてみよう、という直接の原因になった人形劇「雪の女王」。あの音楽の作曲が芥川也寸志《あくたがわやすし》さんだった、ということは、最近まで知りませんでした。「音楽の広場」というNHKのテレビ番組を御一緒《ごいつしよ》にやるようになって、あの「雪の女王」のことが、ある日、話題になり、あれが、芥川さんだったのだ! とわかったのです。歌がダーク・ダックスだった、ということも、そのときに、わかりました。もし、あの時の音楽が良くなかったら、私は、NHKを受けることに、ならなかったかも知れません。そして、ついでのことですが、芥川さんは、私の父のファンで、というか、父の音楽が好きで、音楽学校の学生の頃、よく、私の家の庭先にもぐりこんで、父のヴァイオリンの練習だの、父たちが作った�東京|絃楽四重奏団《ストリング・カルテツト》�の練習だのを、聞いていらしたのだそうです。もちろん、家の家族は、そんなこと、夢《ゆめ》にも知りませんでした。  数え切れない、いくつもの偶然が重なって、私たちは、人に逢ったり、仕事を選んだりするようになるもの、と、わかってはいても、びっくりしてしまうのは、こういう時です。    受付[#「受付」はゴシック体]  私が、昨年の冬、とても驚《おどろ》いたのは、田村町の、NHKのあった場所が、アイス・スケート場になっているのを、発見した時です。昭和四十八年に、NHKは渋谷に引越《ひつこ》し、放送センター、という風になりました。そして、長いこと、田村町のNHKだったビルは、灰色のまま、まわりの新らしいビルに、はさまれた形になっていました。そして、突然《とつぜん》、ある日、「日比谷シティ」、という、ヤングの人達の、よろこびそうな名前になり、お休みの日など、若い人が沢山《たくさん》、出入りする、ビルと、広場に、姿を変えたことを、車の中から見て知りました。でも、それが、冬はスケート場になる、とは、思ってもいませんでした。民放テレビの放送記念日に、萩本欽一《キンちやん》さんと久米宏さんと、私の三人で、「テレビ」、について話すことになりました。そこで、それぞれ、最初にテレビに出た場所に立って、当時を振《ふ》り返って話し、それを挿入《そうにゆう》の録画として使うことになりました。それで私は、放送センターに引越してから久しぶりに、田村町に行ったのです。今は、田村町、という名前もなく、交叉点《こうさてん》は、西新橋一丁目。そして、あの、ラジオやテレビのスタジオだった辺りが、スケート場になっていることを、知ったのです。軽快な、いま風な音楽にのって、若い男女が、楽しそうに、腕《うで》を組んで、すべっています。(ここで、苦しんだり、泣いたり、悩《なや》んだりした人達が沢山いたのだ、なんてこと、みんな知らない!)。あたり前のことですけど、私は、多少、センチメンタルな気分になったのでした。    女座長[#「女座長」はゴシック体]  数年前のあるとき、小川宏モーニングショウから、「私の逢いたい人」というコーナーに出て下さい、とおはなしが、ありました。どんな人でもいい、自分の思い出の中にいる人で、逢ってみたい人を、探して下さる、そして、御対面をする、というコーナーです。私は、ふと、この女座長さんに逢ってみたい、と思いました。あの終戦のゴタゴタのとき、父はシベリアの捕虜《ほりよ》、東京の家は焼け、身寄りも、ほとんどない青森で、長屋みたいな家に住んでた私のところに来て、熱心に女優にならないか、と、さそって下さった有難《ありがた》い方《かた》。若かった私に、なんかの意味で、自信を、あたえて下さった、あの女座長さんに、ひとこと、 「あのときの、お礼を申しあげたい」  と、思いました。そして、「あのときは、思ってもいませんでしたが、こうやって女優になってみますと、一番最初に、スカウトして下さったのは、あなたでした」。現在の私があのときの中学生だった、という事を、知って頂きたい、とも思ったのでした。小川宏ショウは凄《すご》いところで、ほとんど手掛《てがか》り、というものがない、この女座長さんを、とうとう、私の出演する朝までに、探して下さったのです。いよいよ、御対面! という時が来ました。私は、ドキドキしました。そのとき、小川さんが、黒いリボンのかかった写真の額を抱《だ》くような形で、私に見せて下さり、そして、おっしゃいました。 「このかたですか?」  それは、まぎれもなく、あの日、薄暗い電球の下で、私を尋《たず》ねて下さった、あの女座長さんでした。名前は、湊川《みなとがわ》みさ代さん。  残念なことに、湊川さんは、四十九歳という若さで、亡《な》くなってしまっていたのです。亡くなって、十年になる、ということでした。 「お礼を申しあげたかったのに……」  私が泣きそうになっていうと、小川さんが、御主人と電話が、つながっている、ということで、受話器を渡《わた》して下さいました。電話のむこうの、やさしそうな御主人は、そのとき、こう、おっしゃったんです。 「彼女《かのじよ》は、あなたがテレビに出始めた頃、�あっ、この子だわ、やっぱり、なったわね�と、見つけて、知っていました。そして、�必ず、この子は、よくなるわ�とも、いってました。そして、あなたの番組は、必ず[#「必ず」に傍点]、見て、いつも、よろこんでいました」  私は、涙《なみだ》が、とまりませんでした。 (ちっとも、知らなかった……)。  私のことなんか、よく憶《おぼ》えては、いらっしゃらないと思ってたのに。本当に、御対面、できなかったことは残念でした。せめて、「有難うございました」を、お伝えしたかったのに……。御主人は、「これからも、頑張って下さい」、と、おっしゃって、電話を、お切りになりました。  黒いリボンのかかった写真の中の女座長さんは、あの、雪之丞変化《ゆきのじようへんげ》で、颯爽《さつそう》としてた時と、ちっとも変っていないように見えました。    担任の先生[#「担任の先生」はゴシック体]  大岡龍男《おおおかたつお》先生のことは、この、あとがきを書く頃、(こんなにも写生文の作家として、すぐれていた方《かた》だったのか!)という資料が集まって、私は混乱しています。「大岡先生」という、一冊の本が書けるくらいです。  例えば、作家の富士正晴先生は、お作品の「高浜虚子《たかはまきよし》」の中に、こんな風に、大岡先生のことを書いてらっしゃいます。 [#ここから1字下げ] 「「ホトトギス」は毎月やってくるが、父はその雑詠欄《ざつえいらん》を巻頭から見て、巻末のあたりでようやく自分の一句を発見して、嬉《うれ》し気に赤鉛筆《あかえんぴつ》で傍線《ぼうせん》をひき、句稿《くこう》の方にも同じ句に傍線をひく。(略)  わたしの方はその散文の方を時々|退屈《たいくつ》まぎらしによんでいた。何しろ大分昔のことで、ほとんど記憶《きおく》していないが、NHKに勤めていた大岡竜男という人の文章(私小説的なものであったが、「ホトトギス」では写生文というだろう)が悲し気で、つつましやかで、おとなしくて、読むのが好きだった気がする。「山会」とか何とか称して、虚子のところに集って読む写生文が多くのっていたが、大岡竜男のそれと、虚子の以外、余り印象に残っていない。」 [#ここで字下げ終わり]  そして、また、ほかの頁にも正晴先生は、大岡先生の作品を、 [#ここから1字下げ] 「実に温和|淳良《じゆんりよう》な精神の私小説(しかし、これも写生文である)は出ている度《たび》に必ず読んだ。きっと単行本になっていると思うから、それを知りたいと思う。読みたい欲望が非常にある。「ホトトギス」を見ればわかるが、父の死後、大阪府立図書館に寄附《きふ》してしまったので見ることが不可能である。」 [#ここで字下げ終わり]  と、書いてらっしゃいます。  また、大岡先生の「長篇《ちようへん》小説 嫁《よめ》」には、吉屋信子さんが、長い序文を、お書きになりました。 「 [#ここから1字下げ]  大岡氏の作品について  私が俳誌ホトトギスを毎月本屋から配達して貰《もら》つたのは、二十年も前からである。それは漠然《ばくぜん》と俳句といふものに興味を持つてゐたせいもあるが、その頃私は俳句を作つてはゐないし、その雑誌をとつてゐたのは、むしろ俳句よりはそれに載《の》る俳文|随筆《ずいひつ》小説をよむためだつた。  その中でも、大岡龍男といふ人の書いたものには実に深い興味を持つた。その一つ一つが随筆の形をとりながら、すぐれた私小説の感じだつた。ことに(妻を描く)といふ長篇の分載《ぶんさい》されてゐた時など、この作品は文壇《ぶんだん》でも注視されていゝ優《すぐ》れた私小説だと思つた。これが単行本になつた時、たぶん正宗白鳥氏が褒《ほ》めてゐられたと思ふ。(略)  この書(嫁)のごときも、私の毎月愛読しつゞけたものである。これも私小説の類《たぐ》ひではあるが、単なるそれは自然主義的な書き方でなく、現実の生活の叙述《じよじゆつ》の裏に、いひ知れぬ柔《やは》らかな純粋《じゆんすい》な情味を湛《たた》えた——いくつになつても作者のどこかお坊《ぼつ》ちやん気質を思はせる善意《グツトウイル》が裏打ちされてゐることで、読む人の心をほの/″\と温めると思ふ。  それが私をして、大岡氏の作品|贔屓《びいき》にさせる原因である。また、氏は虚子門下の俳人であるだけに淡々《たんたん》たる文章の裏に、実に適確な表現がある。けれどもこの淡々たる表現を生む人自身は、こうした私小説的な文章に身を打込《うちこ》むほど、実にねつい[#「ねつい」に傍点]生活への執着《しゆうじやく》、愛着ともいふべき逞《たく》ましさを持つてゐられることは、この本を読んだ人にはお分りになると思ふ。  ともあれ、このやうな大岡氏が、何故文壇的に一人の小説家として坐《すわ》り込まれないかが不思議な気がする、しかし考へると、氏の文章の味《あぢは》ひは、むしろ職業的の作家としてでないところに深い余韻《よいん》をふくんでゐるのだと思ふ。  しかも大岡氏自身は、文学に対して十分の鑑識眼《かんしきがん》を具《そな》へてゐられる。かの(煉瓦女工《れんがじよこう》)で一躍《いちやく》名をなした野沢富美子を世に送つたのも、この大岡氏なのである。  それほどの大岡氏が、いま放送局の文芸に関するポストにゐられることは、放送文化のためにも頼《たの》もしいことで——或《あるい》は氏の才能は桝《ます》に被《おほ》はれた燭光《しよつこう》のような気もするけれど、どうかこの書によつて大岡氏の文学の愛好者が沢山ふえ、氏の文学がます/\完成される機縁《きえん》になれば、氏の作品のフアンの一人としての私もほんとうにうれしい。かくあらんことを祈《いの》る。  一九五〇年三月 [#ここで字下げ終わり] [#地付き]吉屋信子   [#地付き]」  あんなに、毎日々々、お逢いし、話しをしていたのに、ただの一度も、自分が小説を書いたとか、いろんな作家とお知り合いだ、なんてことを、おっしゃったことは、ありませんでした。そして、残念なことに、NHKの私のまわりの方たちも、そのことを話題にしていなかったのです。  作家の尾崎一雄《おざきかずお》先生は、 「大岡龍男さんのこと」  という長い随筆を書いていらっしゃいます。大岡先生に、お逢いになった、きっかけは、昭和三十年。尾崎先生が、志賀直哉《しがなおや》に、インタビューをなさり、それをNHKがラジオで放送する、というときで、大岡先生はプロデューサーでした。 [#ここから1字下げ] 「(略)その時分、私はぽつりぽつりと本を出してゐたから、自宅《うち》へ見えた大岡さんに何か一冊差上げたかも知れない。そのお返しとして貰つたのかどうか分明でないが、今私の手許《てもと》に大岡さんの著『長篇小説 嫁』といふ本がある。 (略) 『長篇小説 嫁』の扉《とびら》には、ペン書きで私を名宛《なあて》に次のやうに記してある。 [#ここから2字下げ] 「私小説」……たゞ好きで書いてをります。私は「私小説」が好きなのでございます。 それだけのことでございます。大岡龍男」(略) [#ここで字下げ終わり]  ここまで読んで、この、いかにも大岡先生らしい、扉の文章に、私は、先生が懐《なつ》かしく、涙が出たのです。この、尾崎先生が、志賀直哉にインタビューなさった、つまり録音した日のことを、大岡先生も、書いてらっしゃいます。これが大岡先生の文章です。 「   直哉居を訪《おとな》ふ [#ここから1字下げ] [#地付き]大岡龍男    NHKの「藝談《げいだん》」の時間に、今度始めて小説家に出て貰ふことになり、語り手は志賀直哉、聞き手は小説家の尾崎一雄……これはいゝ組合せだと思つてさうきめた。(略)  もう一つ意外であつたことは志賀さんの書齋《しよさい》がしごくむぞうさで新しいものづくめであつたことも思ひのほかだつた。凝《こ》つたもの、古色蒼然《こしよくそうぜん》たる道具類……そんなものは一つもみうけられず何もかも潔癖家《けつぺきか》らしい新《しん》きの品物ばかりがそろつてゐた。勿論《もちろん》いゝ趣味《しゆみ》のだ……。  志賀さんは新しい黒いメリンスの兵子帶《へこおび》をしめ、かなり著古《きふる》した毛の夏シャツを袖口《そでぐち》からのぞかせてゐたが、著てゐる人が志賀さんなのでそれが立派にみえた。眉《まゆ》の濃《こ》い非常に志賀さんは氣高い美しい老人だつた。聲《こゑ》も人間ばなれのした綺麗《きれい》聲だつた。(略)  志賀さんの書くものがさうなようにこの人は無駄《むだ》は云《い》はない人だなとさとつた。一體《いつたい》志賀さんは短篇の作品が旨《うま》い人だが、それだけこつちも長く話してゐる人ではないと思つた。用がすんだらさつさとこの家はひきあげべき家だなと思つた。(略)  志賀さんはたえず片手に蠅叩《はへたたき》を持つて氣にしては蠅を叩いてゐた。そして蠅の死がいをつまんでは窓をあけて捨て、その手を書齋の一隅《いちぐう》にしつらへられてゐる手洗ひ場で洗つてゐた。私は蠅なんか氣にならないたちの人間だから志賀さんの叩きはづした蠅が鼻の頭に來てとまつたりしても平氣だつたが……。志賀さんは赤い鉛筆がほしかつたらしく、自分のチビた赤い鉛筆を私|等《ら》に示して、私等の持つて行つた長い赤い鉛筆を「それ僕《ぼく》に呉《く》れないかなあ……今、買つて來て貰つてるけど、もし買つて來なかつたらこれを貰つとくけどいゝかしら」 と云つたりした。まつたくさう云ふところは威張《いば》らなくつて、それで紳士《しんし》でいゝ人だなあと思つた。  やがて熱海から戻《もど》つて來た夫人がおかしわと小さい鹽煎餅《しほせんべい》の柿《かき》の實《み》を持つて出てこられ、志賀さんは夫人に 「赤い鉛筆どうしました?」  と早速訊《さつそくき》いた。夫人は微笑《びしよう》して 「アッ……買つてまゐりませんでした」  とさもあいすまなさうに叮嚀《ていねい》に挨拶《あいさつ》し、大變《たいへん》に上品なしとやかないゝ奥《おく》さんだつた。  志賀さんは私等にお菓子《かし》をとり分けて呉れ、自分も柏餅《かしはもち》をいくつもいくつもたべてゐた。 (略) 録音し終ると、志賀さんはお孃《じよう》さんや、二人の女のお孫さんを呼び皆《み》んなで録音を聞いた。  志賀老夫人は志賀さんのかたへにつつましく微笑をたゝへ頭をたれて聞き入つてゐられた。  ペルシャの壁畫《へきが》にある美人のやうな若いお孃さんも押《お》し默《だま》つたまゝつつしんでお父うさんの藝談に耳かたむけてゐた。  二人の小さいお孫さんも判《わか》つても判らなくてもおとなしく、お祖母《ばあ》さまのそばで録音を聞いてゐた。  みると志賀さんの手に私のあげた名刺《めいし》があつた。私はその名刺をどうされるだらうと眺《なが》めてゐた。」 [#ここで字下げ終わり]  全文を御紹介《ごしようかい》できたら、本当に面白《おもしろ》いのだけれど。湯河原と熱海《あたみ》の間にある、この家から海が見え、「志賀さんは、この海の色みたいな紺碧《こんぺき》のしま柄《がら》のそれはいい好みの着物だつた。私たちが居る間にたつた一度、志賀さんはあごの白い短かいひげを撫《な》ぜた。」  大岡先生に興味をお持ちのかたのために、経歴を簡単に書いておきます。  大岡先生は、明治二十五年四月四日、文部大臣や衆議院議長などをなさった大岡育造というかたと、芸者さんの間に、東京で生まれました。そして、育造さんの次男として育ち、慶応大学で学びました。中退です。芸者さんだった、お母さまの妹さんは、新劇運動もした歌舞伎《かぶき》俳優の市川左団次の、夫人。そして、このお母さまが、のちに実業家と結婚《けつこん》して、生まれた女の子の娘《むすめ》が、七尾伶子《ななおれいこ》さん。ですから、大岡先生は、七尾さんの叔父《おじ》さまにあたる、という事になります。  ここで、もう一つ、大岡先生についての随筆を。  劇作家の宇野信夫先生が、お書きになったものです。 「蜀山人《しよくさんじん》の狂歌《きようか》」  という題がついています。 [#ここから1字下げ] 「(略)彼《かれ》は一見、温順実直そうに見える人だが、荷風《かふう》に心酔《しんすい》して、内々|遊廓《ゆうかく》や玉の井に親しんでいた。そして虚子の弟子《でし》で、「ホトトギス」の同人でもあった。その頃《ころ》の彼の句に、玉の井にて、と題して、「涼み台遊女が読める主婦の友」というのがある。当時橋場に住んでいた私のところへ、前述の通り、彼はよく訪ねてきた。大岡氏は話なかばに突如《とつじよ》として「左様《さよう》なら」と腰《こし》をあげ、早々に帰って行く癖《くせ》があった。あとでわかったことだが、私を訪ねるのは私に用事があるわけではなく、局の車で私の所へ来て、適当に時間をつぶし、白髭橋《しらひげばし》を渡って玉の井へ行ったり、吉原へ通ったりしていたのである。 (略)その大岡氏も、今はもう八十|歳《さい》である。一人|息子《むすこ》が矢張り放送局へ勤め、山口の局長に栄転したので、今は息子と共に山口に住んでいる。言い忘れたが、大岡氏は、此《こ》の一人息子の母が亡《な》くなってからはずっと独身で、一人息子を小学生時代から男手一ツで育てた。だから、玉の井や吉原に凝っていた時分でも、文句を言う者は誰《だれ》もいなかったわけである。  今でも、時々思い出したようにハガキをよこす。気がむくと、五枚続きのハガキをよこすことがあるが、これは私にばかりではない、ほかの人にも、時としてそんなことをするそうだ。」 [#ここで字下げ終わり]  たしかに、大岡先生は、私にも、五枚続きの葉書やら、原稿用紙二十枚くらいの手紙を、NHKで渡して下さればいいのに、ちゃんと切手を貼《は》って、しかも、ほとんど毎日、郵便にして送って下さいました。なんで、年端《としは》もいかない私に、この写生文の大先生が、いろんなことを、あんなに、溢《あふ》れるように瑞々《みずみず》しく書いて下さったのか、わかりません。  例えば、先生が新宿に住んでらした時、先生の家の前のアパートに、女装《じよそう》をしてバーにつとめる男の人達《ひとたち》が数人、住んでいて、その人達が、午後、揃《そろ》ってお風呂《ふろ》に、どんな風に出かけて行くか、といった事、そして、こってりお化粧《けしよう》をして、女装をして、おつとめに出かける時の様子、それから、夜中に酔《よ》っぱらって帰って来る、その描写《びようしや》が、まるで、物音も、においもするように、書いてありました。「猫《ねこ》に小判」という言葉は、本当に、こういう事を言うのでしょう。面白くは読んでも、全部を蔵《しま》っておく、というような考えがないまま、大岡先生の厖大《ぼうだい》な手紙は、バラバラになってしまい、いま手許《てもと》には、何も残っていません。もしかすると、大岡先生は、私が書くことを、好きな人間だと思っていらっしゃったのでしょうか。これも、つい、この間、聞いたのですが、先生は里見《ソーヨ》京子さんに「トット様は、文章が、お書きになれるかたで、いらっしゃいます」、と、おっしゃってたそうです。私は、先生が、そんなことを考えてた、なんて、全く、知りませんでした。ソーヨも随分、先生から手紙をもらった一人です。  さっきの宇野信夫先生の随筆を読んで、思い出したことが、あります。ある日、仕事が終って夕方、帰ろうとしてた私は、スタジオのドアのところで、大岡先生に逢《あ》いました。帰り支度《じたく》をしてらしたようなので、「新橋の駅まで、御一緒《ごいつしよ》しましょうか」、と伺《うかが》いました。大岡先生は、例の手の甲《こう》で口を、かくすようにすると、こんなことを、おっしゃいました。 「この間、私が新橋の駅の近くまで参りましたら、天使のようなかたが、お呼びになりましたもので、そのかたのお家にお邪魔《じやま》して。生憎《あいにく》、持ち合せがなかったもので、拝借してまいりました。それを、今日、これから、お返しに上るんでございます」。「天使のようなかた?」「持ち合せがないから、拝借した?」私は、ちょっと、わかりませんでした。こういう事を、しゃあしゃあと、平気で私にいい、しかも、「天使のようなかた」などと形容するところが、大岡先生の面白いところでした。もちろん、あとになって、意味は、わかりましたが、その頃《ころ》、大岡先生は、もう六十歳は、とっくに過ぎていらしたわけで。このことを、宇野先生のお書きになった随筆で、三十年ぶりに、思い出した、というわけです。  昭和四十七年の十二月十一日に、大岡先生は、八十歳で亡くなりました。御自分で、亡くなる一年前に遺言状《ゆいごんじよう》を書き、その中に、ちゃんと、御自分の戒名《かいみよう》も作っておおきになりました。 「愛文院竜州居士」  この遺言状は、「桑《くわ》の実」という雑誌に、生きてらっしゃるときに発表し、一年後に亡くなりました。この遺言状の中に、「七十年の生涯《しようがい》は短かいようでいて長いものでした。天国への道ははるかで、そしてたのしいものにちがいありません。天国へ行った亡き妻、亡き子に会え、虚子先生にもおめにかかれるでしょう」とありました。  私は胸が一杯《いつぱい》になったのですが、数えてみると、このとき、本当なら「八十年の生涯は……」と、なるはずなので、このあたり、大岡先生の、いたずら心か、それとも、間違《まちが》ったのか……。「トット様、どちらへ?」と、私に、一日に何度も何度も同じことを聞いた、あの大岡先生の、不思議な、そして物哀《ものがな》しい感じが、この「七十歳」という中に、現われているようにも思えます。  大岡先生の最後の葉書の文面は、はっきりと憶《おぼ》えています。一緒に暮《くら》してらした息子さんの転任先からの葉書でした。たった、ひとこと。 「東京なんて、なにさ!」  前にはやった、松山恵子さんの歌の題名でした。  いま、ここに書きました色々な資料は「長篇小説 嫁」のモデル、大岡先生の息子さんのお嫁さんが、親切に山口から送って下さったものです。  それからもうひとつ。大岡先生と私たちが一緒に写ってる写真をここに御紹介しようとしました。ところが驚《おどろ》いたことに、私のところに一枚もないのです。山口の大岡先生の遺品の中、全部、探して頂いたけどそこにもありません。あの整理のいい新道さんのところにも、誰のところにもありませんでした。あんなに毎日、何年も一緒だった大岡先生の写真が一枚もない! 今まで全く気がつかないことでした。大岡先生は痕跡《こんせき》をとどめたくなかったんでしょうか。先生が後姿を絶対に見せなかったように。一枚もないのが不思議、と思うのと同時に、でも、やっぱり、(大岡先生らしい)と、私は思ったのです。    若干名《じやつかんめい》[#「若干名《じやつかんめい》」はゴシック体] 「合格と決定|致《いた》しました」という速達の文面。また養成期間中の時間割、授業の内容など、すべて、こういった印刷物は、同期の新道乃里子さんから拝借したものです。天性、ものの整理の悪い私にとって、この頃の、こういったものを、きちんと、とっておいた新道さんは、本当に救世主のような、お友達です。また、「トットチャンネル」を書く前に、いろんな思い出を集って話して下さった里見京子さん、友部光子さん、新道乃里子さん、八木光生さんの皆《みな》さんにも、この場をお借りして、お礼を申し上げておきたいと思います。  そして、ストライキをしなかったことで、裏切ってしまった、第一次の養成で御一緒だった十一人の皆さま、お元気でいらっしゃるでしょうか? ストライキしなくて、御免《ごめん》なさいね。今でも私、本当に、気にしているんです。御免なさいね。    テレビジョン[#「テレビジョン」はゴシック体] 「トットチャンネルを楽しく読んでる」とおっしゃって下さって、吉川義雄先生から、よく、お葉書を頂きました。ここ数年、半身不随《はんしんふずい》で、それでも、ふるえる字で、心に沁《し》みる葉書を書いて、下さってました。私も、よく書きました。この数年、私達は、お逢いする機会は少ないけど、文通は、なにかにつけて、していました。  私は、外国に行けば、必ず、絵葉書を、お出ししました。体は不自由でも、口のほうは、昔《むかし》と変わらない先生でした。この、「テレビジョン」を読んで下さったときの葉書です。 「啓《けい》 いま大阪の『露《つゆ》の五郎』の対談を見終つた(注・「徹子の部屋」)。夏は上京の自動車の便ないので、殆《ほと》んど毎日トットちゃんと逢つている。恋人《こひびと》でもこう逢ふまい。大恋人だ。今日の洋装はガラッと変つて落語家と会見するにふさわしく、且《か》つ上品な衣裳《いしよう》なのにうたれた。こうも人柄《ひとがら》の感じが違ふものなのだろうか。  終了後《しゆうりようご》に、昨日来着した「小説新潮」を読む。いかなる放送史にもとり上げていないテッド・アレグレッティをとり上げていたので、ビックリし感銘《かんめい》を新たにした。彼はテレビ演出の日本の草分けだからだ。わたしがアメリカで契約《けいやく》して来たイタリヤ系の人で、永山弘君の育ての親でした、まさに——、」  思ってもいなかったことなので、私は、とても、この葉書を読んだとき、うれしかったです。    二宮金次郎《にのみやきんじろう》[#「二宮金次郎《にのみやきんじろう》」はゴシック体] 「窓ぎわのトットちゃん」という私の本が、英語に翻訳《ほんやく》され、アメリカの本屋さんの店先に並《なら》ぶことになったので、私は、アメリカに行き、世界で一番有名なトークショウ、あの、ジョニー・カースンの「トゥナイト・ショウ」を始め、十くらいのテレビに出ました。トークショウの他《ほか》は、ニュース・ショウや、ニュースの時間です。このとき、なんといっても驚いたのは、「テレプロンプター」という、テレビのカメラを見て喋《しや》べる職業の人《ひと》用の、電気|仕掛《じか》けカンニングペーパーです。  鏡を応用してあるんですが、とにかく、机の上の原稿《げんこう》を見る必要もなければ、カメラの横のカンニングペーパーを、横目でチラチラ見る必要もないんです。まっすぐ、カメラにむかい、どんどんしゃべるテンポで進んでくれる拡大したタイプライターの字を読めば、いいんです。まるで、何もかも、すっかり、おぼえこんで、喋べってる、としか絶対に見えません。アナウンサーとか、コマーシャルをやる人とか、とにかくカメラにむかって喋べる人には天国のようなものです。 「わあ、こんないいものがあるのに、なんで、何もかもアメリカ方式を取り入れたNHKが、一緒に買わなかったのかしら……」と私は叫《さけ》びました。私がショックを受けていると、CBSだったか、どこだったか、局は忘れましたが、そこの人達が慰《なぐさ》めてくれました。 「いや、これは、極《ご》く最近、開発されたもので、昔からなんかは、なかったよ。レーガン大統領の命令だよ。大統領は百パーセントテレビを利用したからね。そのために、テレビを見てる人には絶対にわからない、最もすぐれたカンニング方式を開発しろ! ってことでね。それで、これが出来たわけ」。なるほど、と、私は納得《なつとく》しました。レーガン大統領が、テレビ出演のすべてに、これを使っているのでは、ないにしても、少なくとも、スタジオで、余裕《よゆう》しゃくしゃく、ニコニコ笑いながら、何も見ずに、長時間にわたって演説なさる時など、これを、フルに使ってらっしゃるに違いない! と思ったからです。こんな兵器があったとは! それにしても、アイゼンハウワーは、テレビを最大限に利用して大統領に当選し、そのころ、アメリカのテレビは、著《いちじる》しく、発達しました。いま評判の、アメリカの女性副大統領候補のフェラーロ女史は、とてもテレビ写りが良く、人気は、うなぎ昇《のぼ》りだそうです。日本の政治家の皆さんは、テレビを、それほど重要! と考えていらっしゃらないように、私には思えます。日本に、このテレプロンプターが導入されれば、恐《おそ》らく、政治家の皆さんの人気は、もっと上がるでしょう、と、私は考えるのですけど。    初めての旅[#「初めての旅」はゴシック体]  清水寺《きよみずでら》の皆さま、本当に失礼いたしました。今になって考えてみると、あの時の偉《えら》そうな、お年をお召《め》しの、お坊《ぼう》さんは、百七歳までお元気で、五つ子ちゃんの名付親として、数年前、よく、マスコミに姿をお見せになった、あの大西良慶貫主《おおにしりようけいかんじゆ》さんでいらしたようです。お許し下さいませ。    「実家に帰ってます」[#「「実家に帰ってます」」はゴシック体]  渥美清《あつみきよし》さんとは、夫婦役だの恋人役だので、誰よりも御一緒に仕事をしました。そんな訳で、昔、私と渥美さんが、恋人同士ではないか? という事で、何度か週刊誌に、のったことがあります。寅《とら》さんの、ずーっとずーっと前のことです。浅草から来た渥美さんは、NHKのテレビのスタジオの外《そと》に靴《くつ》をぬいで、スタジオに入った! というので有名でした。ピカピカの床《ゆか》を靴で踏《ふ》んではいけない! と思ったのだそうです。そういう頃でした。おかしかったのは、私と噂《うわさ》が出たとき、週刊誌にのった、渥美さんの写真です。必ず、チンドン屋さんの恰好《かつこう》をしてるんです。というのも、当時、渥美さんの写真は、NHKには、それしかなかったんでしょう。いつも、それが、のるのでした。  ……以上が、「トットチャンネル」の本篇《ほんぺん》の後日談として、つけ加えたい部分でした。  永山弘さんを始め、いろいろ昔のことを思い出して、御協力下さった皆さま、ありがとうございました。特に、テレビの初期の頃の資料を探し出して下さった、NHKの愛宕山《あたごやま》の放送博物館の後藤義郎さんに厚くお礼を申し上げます。  最後に。これの連載中《れんさいちゆう》に悲しいことが、ありました。もう終りに近づいている頃、吉川義雄先生が、亡くなった事です。その一寸《ちよつと》前、私が、放送文化賞を頂いたとき、NHKホールに、わざわざ車椅子《くるまいす》で来て下さって「よかったね」と、珍《めず》らしく、にくまれ口じゃなく、おっしゃって下さり、そのすぐ後《あと》に、やさしい葉書を下さいました。それが最後でした。  それから、NHKのディレクターで、「夢《ゆめ》で逢いましょう」「ステージ101」「ビッグショウ」「この人を」そして「紅白歌合戦」と、私がNHKに入ってから、ずーっと仕事を一緒にして来た、末盛憲彦さんが、昨年の夏に、まだ五十四歳という若さで、突然《とつぜん》、亡くなった事です。この、「あとがき」の、森繁さんとの、テレビ二十五周年のときの演出も、末盛さんでした。私が「五十周年のときの演出も、末盛さん、やるのよ」、といったら、 「そんなに長くNHKにいられないよ」  と、笑いながら、いいました。どんなに偉くなっても、紅白歌合戦で、私が司会をするときは、そばについていてくれて、ストップ・ウオッチを持って、静かに、 「まだ五秒ありますから大丈夫《だいじようぶ》ですよ」とか、 「少し急いだほうが、いいみたいね」  とか、いってくれた末盛さん。どんなに安心だったか、わかりません。  そんな訳で、昨年の暮《くれ》、やはり紅白の司会でNHKホールに立った時、 「ああ、末盛さんが、もういない!」  と思ったら、あまりにも、NHKホールは悲しくて、賑《にぎ》やかな番組だけに、困りました。「戦友」というものが、どういうものか、本当には、私には、わからないけど、もしかすると、私と末盛さんは、テレビの中での、戦友だったかも知れない、と思うのです。もうじき、一周忌《いつしゆうき》です。  そして、私の父が、昨年の四月三十日に死にました。思ってもいないことでした。そのとき私は、仕事のため、新幹線に乗っていました。 「芸人は親の死に目に逢えない」  とは聞いていましたが、それが、自分の身に起るとは、思っていませんでした。私が支援《しえん》してる、ろう者の俳優さん達の狂言《きようげん》の初日で、私はプロデューサーでしたから、東京には帰れませんでした。次の朝、神戸のホテルのドアの下に配られた新聞の、死亡欄《しぼうらん》の、父の写真を見たとき、もう一度だけでいいから、生きてる父に逢いたい、と思いました。  丁度、「トットチャンネル」の締切《しめきり》が迫《せま》っていて、「ヤン坊《ぼう》 ニン坊 トン坊」の(㈵)を書きかけているときでした。  父の音楽を好きでいて下さった方に、あらためて、お礼を申し上げます。  こんな長い、あとがきを読んで頂くことに、なってしまいました。  終りに。テレビという新らしい仕事に、たずさわりながら、志を半ばにして亡くなった沢山《たくさん》の方達に、心からの感謝と、「お疲《つか》れさま」を、お伝えしたいと思います。そして、御家族の皆さんが、みんな元気で、お暮しでいらっしゃることを、祈《いの》っています。    一九八四年 七月 [#ここから8字下げ] ロス・オリンピックの開会式の衛星ナマ中継《ちゆうけい》を二十億人の人が見たという日に。 (いまのテレビは、ここまで発達しています) [#ここで字下げ終わり] この作品は昭和五十九年十月新潮社より刊行され、 昭和六十二年三月新潮文庫版が刊行された。