チャックより愛をこめて 〈底 本〉文春文庫 昭和五十四年二月二十五日刊 (C) Tetsuko Kuroyanagi 2000 〈お断り〉 本作品を「文春ウェブ文庫」に収録するにあたり、一部の漢字が簡略体で表記されている場合があります。 また、差別的表現と受け取られかねない表現が使用されている場合もありますが、作品の書かれた当時の事情を考慮し、できる限り原文の通りにしてあります。差別的意図がないことをご理解下さいますようお願い申し上げます。 〈ご注意〉 本作品の全部または一部を著作権者ならびに(株)文藝春秋に無断で複製(コピー)、転載、改ざん、公衆送信(ホームページなどに掲載することを含む)することを禁じます。万一このような行為をすると著作権法違反で処罰されます。 [#改ページ] 目 次 は じ め に アルファベットだより 『繭子ひとり』と私 綴方・ニューヨーク ニューヨークの仔猫ちゃん お わ り に 章名をクリックするとその文章が表示されます。 [#改ページ] チャックより愛をこめて
は じ め に 『チャックより愛をこめて』をこれから読んでいただくわけですが、まず、読んで下さるかたに、心からお礼を申しあげたいと思います。 どうも有難う。 さて、この本は、私が一九七一年の九月から、翌年の九月までの一年間を過ごしましたアメリカから、日本にむけて送ったいろいろな文章を、文藝春秋でまとめてくださることになったものです。 で、この本の題名が何故、『チャックより愛をこめて』というのか、ちょっとお話ししとくほうがいいと思います。 「チャック」というのは、まァ、私の仇名のようなものですが、なんで「チャック」というのかというと、私がお喋りなものだから、カバンのふたなんか開けたり、閉めたりする、あのチャック、あれを口にしたほうがいいんじゃないか、というので、「チャック」というんだろうと、デマを飛ばしたかたがありますが、真相はそうじゃございません。 なんで、「チャック」といわれるようになったかと申しますと、これはだいぶ前の話ですが、私がNHKの放送劇団員になるときの試験に、朗読というのがあったんです。私は何を読んだらいいかわからないものですから、いろんな本を片っぱしから読んだあげく、芥川龍之介の『河童』を朗読することにきめたんです。 どういうわけで、それが気に入ったか、と申しますと、たくさん河童が出てくる中に「チャック」という頭のいい河童がいて、それは男だったんですけれども、いつも「チャックチャック、チャックチャック」といいながら、喋るのが面白かったんです。そして、私の朗読の印象が強かったためでしょうか、それ以来、みなさんがなんとなく「チャック」と呼ぶようになったんですが、まだ、仇名というところまでいきませんでした。でも、「黒柳」というのが呼びにくいので、みんなが、なにか違う名前で呼びたいというふうに思っていたことは確かでした。 私は、ちっちゃいときに「徹子」なもんですから、「てつびん」といわれ、ひどくそれは嫌いでしたので、なるべく「てつびん」じゃないといいなァと、思っていました。 そうこうしておりますうちに試験に受かり、NHKの専属となり、一年間の養成。十三人ぐらいの生徒でしたけれども、朝十時から夕方の五時まで、毎日お講義があったんです。そのときに、私は、いつも先生の隣りに坐りました。 なぜ、先生の隣りに坐るかといいますと、先生から離れたところに坐ると、どうしても隣りの人と喋るということになります。つまり私は自分自身をよく知っておりますので、わざわざ先生の隣りに坐って、けっして話ができない状態に自分を置くことによって、なんか勉強も一生懸命できるんじゃないかと思ったわけです。 たまには先生の机の上にあります懐中時計を、十五分ぐらい進ませたりして、講義を早く終らせ、授業が終りますと、時計をまたもとにちゃんとお戻しして、先生があとで困ることのないようにしたりもしてたんです。 で、話はもとに戻りますが、私、先生の隣りにおりましたときに、やっぱり離れたところにいるお友だち同士が喋っていて、いくら先生が「シーッ」とおっしゃっても駄目なんです。 そのころ、私はいまではちっとも珍しくありませんが、皮でつくった楕円形の筆入れを持っていました。これはまわりがグルッと、チャックになっていて、当時では非常に新製品でありまして、みんなからうらやましがられたものなんですが、その日も先生が「シーッ」とおっしゃっているのに、喋っているお友だちがいたもんですから、私は、その楕円形の筆入れを歯でくわえまして、「ジャッ」とそのチャックを閉めながら、喋っている人に「チャック」とこういったんです。 それ以来、「チャック」は決定的になったんです。だから本当は、私が喋ったんじゃなくて、よその人が喋ったのに、私が、という伝説が信じられているわけです。 ……というのが長いですけど、私の|仇名《ヽヽ》の由来でございます。 ただ、いまはもう私もトシになりましたんで、みなさんは大体「黒柳さん」とおっしゃいますけれども、このタイトル『チャックより愛をこめて』は、イラストレーターの和田誠さんが、私が、『話の特集』に送った原稿につけて下さったのを、この本全体になんか感じがあっているので、いただくことにしたわけです。 [#改ページ] アルファベットだより モノローグ〔〕 まず最初のは、化粧品の資生堂の『花椿』に、一年間、ニューヨークから書き送った「アルファベットだより」でございます。 この「アルファベットだより」の中に写真がありますが、これはポラロイド・カメラで、いちおう私が撮りました。 私が撮りました、といっても、資生堂からポラロイドをおあずかりしたとき、「私を必ず画面の中に入れること」というお約束だったので、私が画面の中に入るということは、どなたかが写すっていうことになりまして、これがまた簡単なようでむずかしいことでございました。 というのは、誰かに頼まなきゃならないわけなので、つまり、私がその辺の人に頼んで撮ってもらうということになったんです。 ところが、アメリカの人というのは意外に親切な人が多くって、私が、たとえばお魚屋さんの店先のところで撮りたいと思い、「ここんところでシャッター押してくださらない?」っていうと、「いいですよ、もちろん!」といって、その辺のかたがとても協力して撮ってくださるんです。 ただひとつ困ることは、私と一緒にすぐ写っちゃう人がいたことです。隣りにニッコリ笑って並んだりするんで、ずいぶんポラロイドを無駄にしました。子供なんかも、すぐ一緒に並んじゃって「一枚、頂戴」なんていいました。 でも、そうもいかないので、私一人、ないしはなにか必要な物と私、というふうにお願いして撮っていただき、毎月送ったわけでございます。 アルファベットの中に、書ききれないこともたくさんありました。 でも、始める前は、アルファベットの終りのほう、たとえば、「X」ですとか、「Y」とか、「Z」なんかはずいぶん書きにくいんじゃないかしらと思いましたけれども、向こうにおりますと、案外、毎日いろんなことがあったものですから、アルファベット二十六文字、そんなに困ることなく書くことができました。 そして『花椿』をお読みになってらっしゃるかたから、感想とか、励ましのお手紙をたくさんニューヨークにいただいたのも、うれしかったことのひとつです。 それでは、「アルファベットだより」をどうぞお読みくださいまし。 アメリカ いま私は、アメリカでこの手紙を書いております。くわしくいうと、アメリカはニューヨーク、ニューヨークはマンハッタン、マンハッタンは西七十三丁目、セントラル・パークまで歩いて二十メートルの、小さいアパートの五階の、またまた小さい部屋の、台所に近い椅子の上で、書いているのであります。 テレビの仕事と別れて、もう二カ月以上になります。日本をたったのは一カ月半くらい前ですが、ヨーロッパを廻り、最後にオランダのロッテルダム・シンフォニーオーケストラでヴァイオリンを弾いてる弟に二年ぶりで逢い、生まれて八カ月の彼の息子のお守りを十日ほどして、やっと一週間まえに、このニューヨークにたどりついた、とこういうあんばいなのです。これから私は、ここに一年いるつもりでいます。その間に、毎月「アルファベットだより」をお送りします。一年は十二カ月で、アルファベットは二十六ですから、Aから始めて毎月、二つずつ、時には三つ、お送りすれば、だいたい一年でZまでいく、という計算になるので、それで「アルファベットだより」としたわけなのです。 さて、何故アメリカに来たのか、ということを、最初にお話ししたほうがいいと思って、Aはアメリカにしました。それには、まず私がどうして女優になったか、ということから始めましょう。 私は「女優になろう」なんて、だいそれた望みなど持ったことは一度もなく、自分とは無縁の職業と思っていました。ところが、ある時偶然に、人形劇を見ました。大人の人たちが指人形を動かしながら、歌ったり喋ったり汗|だく《ヽヽ》になってやっています。その頃、私はオペラ歌手になるべく音楽学校に入ったのに、ちっとも声はよくならないし、曲も混みいってくると間違えてばかりいるしで、オペラ歌手になれる望みはまったくなく、しかも卒業は近づくで、なんとなく憂鬱な気分でいたのでした。人形劇を見て喜ぶ子供たちを見て、結婚して母親になったときに、こんなふうに上手に話のしてやれるお母さんになりたい、とふと思いました。 その直後に新聞で、NHKが放送劇団員を募集していることを知り、それなら、子供に話をするやりかたを教えてくれるに違いないと、なんとなく試験を受けたのです。人生とは不思議なものだと思います。いい母親になりたい、とただそれだけの気持で受けた試験だったのに、いっこうに母親にならず、いつのまにかこんなニューヨークのアパートに一人で住むことになるのですから。 さて、試験にパスして、NHKの専属になってからの十五年間、とにかく一生懸命やってきました。でも、なにによらず一生懸命やるとくたびれるし、そのことだけにかかりきっていたのですから、ほかのことにゆっくり目をむけたり、新しい何かを常に吸収する、というチャンスはあまりないわけです。そこで私は、一年くらい前に、しばらく仕事を休んで、ひと息いれようと決心しました。ひと息いれるのには、アメリカじゃなくて日本にいても、またよその国でもよかったのですが、まるまる仕事から離れるのと、生活を少し変えてみるためには、やはり日本から出たほうがよさそうだし、言葉の関係とか、友だちがたくさんいるということで、いちおうアメリカにしてみました。これだって絶対ここというわけじゃないので、途中でよその国へ引越してもいいし、というような、いたって自由な考えで、来てみました。 私は今度のこの決心を、汽車がレールからちょっとはずれて引込み線に入るのだ、というふうに考えています。引込み線にじーっと止まっている汽車は、時に寂しげに、またレールを走ってる汽車からすると置いてきぼりをくっているように見えます。たしかに寂しかったり心細かったりもするでしょうけど、案外、いままで急いで走ってるときには気がつかなかった景色を発見したり、新しいことがまわりで起こったりで、自分なりに居心地よくしていられるかもしれません。 とはいうものの、知らない土地で、しかも悪評高いニューヨークに、生まれて初めてのアパート生活を始めようというのですから、やはり相当の度胸がいるとは思っています。 というわけで、長くなりました。前説は短いに限ります。では、AのつぎはBにまいりましょう。 ベッド ベッドといっても、いま|はやり《ヽヽヽ》の×××シーンとかいうものではなく正真正銘の寝床のことであります。小さい部屋とはいっても、アパート難のニューヨークの、しかも、こんな街の真中に見つけられたということは奇跡に近いのです。でも何故か、家具|なし《ヽヽ》なのであります。そこで、なにはさておいてもベッドを手に入れなきゃ、と早速行動を開始しました。 くわしい人に聞いたら「どうせ来年、日本に帰るのなら、上等のを買ってもつまらないから、貸し家具屋がいいんじゃない?」「へーえ、貸し家具屋か!」と感心しながら、そういう店に行ってみると、なるほど、ザーッと家具が並んでいます。ベッドも、シングル、ダブル、ソファーベッドに、ベッド兼用長椅子と、よりどりみどり。ところがよく見るとどれも新品なのですが、そのデザインというのが、どれも安物をなんとなく高く見せている、といった趣味の悪さがチラリとうかがえ、どうも感心しない、という代物。それにしても、いったい、いくらくらいで借りられるのだろうか……。 ネクタイをきちんとしめ、愛想はいいけど、どこか気の許せない小父さんが、シングルベッドをなでながらいう。「一カ月、十ドルで結構。もし買うなら即売もしてますよ。百八十ドル……」。「なるほど」と私はバッグから、小さい手帳と鉛筆をとり出す。知らない土地に一年もいようというのだから、態度もおのずとしっかりしてきて、ちゃんと計算してみようというわけです。「えーと、買えば五万九千円。借りれば月に三千三百円。一年で三万九千円か……」。でもこれだけじゃ足りないから、あと椅子にテーブルにじゅうたんに……なんていうと、最少限でも、月に七十ドル、一年で二十八万円。「えっ! ただ借りるだけで? しかも、こんな趣味の悪い家具にかこまれて一年も暮すの? こりゃいやだ!」と、私は「貸し家具屋? へーえ」と感心したことも忘れて、早々に店をとび出しました。 ほかの店もだいたい似たりよったり。さりとて、趣味のいい家具を新品の店屋で買うとなったら、ロックフェラーか、オナシスでも探さなきゃ。 そこで、いまはやりのアンティクのショップ、つまり|骨董《こつとう》|屋《や》、昔流にいえば、古道具屋を探してみることになりました。偶然見つけた店が、テレビ局や映画会社、またコマーシャルフィルムなどに、あれこれ「小道具」として家具を貸してる、という、とても変わった大きい店で、私が女優であるといったら、ひげをはやした店主はすっかり親近感をおぼえたらしく、なんでも安くしてくれる。私がベッドが欲しい、というと「じゃ、これがいいでしょう」と、店の表に止めてある車の中の、クラシックでたっぷりとゴージャスなベッドを指さしていいました。「いいけど、いくら?」「一万九千円でどうです? 新しいマットレスつきで」「安い! 買いましょう」「ただし、これからコマーシャル撮るのに持って行くから、明日の朝、届ける、というのでどうです?」「えっ!?」というような話し合いの結果、その日の本番が終り次第に夜、運んでくれる、ということで話がつきました。どんなシーンを撮ることやら。でも来年、いらなくなった時に、傷つけてなきゃいい値段でひきとってくれるという親切な申し出もあり、結局、買うことにしました。 それ以来、私はそのベッドに寝ているわけですが、寝心地は結構であります。 明日には、テレビドラマで使った緑色の長椅子と、コマーシャルに使ったじゅうたんが届くはずです。 願わくば「撮り残しがあったから、ちょっと返して!」なんて、ベッドを持っていかれるなんてことのないことを! セントラル・パーク 写真でごらんのように、お正月あけのセントラル・パークには、こんなに雪が積っています。この写真はけっして露出過度なのではなく、どこも真白なのでこんなボンヤリしたでき具合になってしまったのです。これを撮ったときは、もちろん零下。零下も七度か八度くらい。白黒なのでそう寒そうには見えませんが、カラーなら、耳も鼻も真赤で、顔の皮がつっぱって思うようにいかず、必死で笑ってる、というのがおわかりになったと思います。 それにしても、私はセントラル・パークが好きです。ニューヨークに住いを決めた本当の理由は、もしかしたら、毎日、ここに来られると思ったからかもしれません。私がここを好きな|わけ《ヽヽ》は、なんといっても広びろとして、美しいからです。いろんな種類のたくさんの木、手入れのゆきとどいた芝生や池や橋、そして形のいい丘とくぼみと、どこまでも続く舗装された歩道など、これが世界一の大きい街の真中にある公園とは、とても信じられないくらいです。 それと、リスや鳩などがたくさんいることも気に入ってます。リスはどんなに人が居てもこわがらずに、チョロチョロ、そのへんを走りまわって、たまには人間に近づいて来たりもします。この写真を撮っているときも、ねずみ色の小さいヤツが、しっぽを細かくゆすりながら雪の上を走って来て、ごく近い木の根もとで、何かたべていました。 またセントラル・パークのよさは、どの季節もそれなりにいい、ということです。春は、どこも美しいのが当然ですが、昨年の春に来たときは、まわりの車の排気ガスにも負けず、どの木も青あおとした葉をつけ、若わかしく、空気までが澄みきっているように見えました。 日曜日のセントラル・パークは、犬を連れた人、自転車に乗った子供、ゆっくり歩く老人などで、にぎわうのですが、春ともなると、特に大勢集まります。ヒッピー風の男の子たちが、ギターを弾いて反戦歌を歌ってるまわりに、ここに来れば、いちばん新しいファッションが見られるといわれるくらい、個性的で珍しい洋服、メーキャップの女の子たちがたくさんむらがって拍手したり一緒に歌ったりしています。反戦歌といっても、どなったり演説風なのではなくフォーク調で、日曜日に教会に行くかわりに、セントラル・パークで礼拝は如何? といった感じ。年とった人もいっぱい彼等をとりかこんで拍子をとったり、うなずいたり。お金が一円もかからず、結構楽しんで、たっぷり半日は過ごせるところ、それがセントラル・パークです。 また、昨年の初夏に来たときは、この中の野外ステージで、オペラを観賞することができました。ニューヨーク市長のリンゼーさんの肝いりで、メトロポリタン・オペラの歌手が総出で『カヴァレリア・ルスチカーナ』を上演しました。 オペラといっても衣裳をつけないで、演奏会形式でしたが、百人近くのオーケストラもつく、とあって、相当の人出でした。もちろん、入場料はタダ。見渡す限りの芝生の真中に、特別あつらえのステージがポンとあり、どこかそれが見えるところに、すわればいいわけ。すわるといっても椅子はありませんから、日本ならさしずめ、ゴザ持参、というところでしょうが、こちらのこととて、そんな|いい《ヽヽ》ものはありませんので、毛布とかレインコート、新聞紙などをしいて、すわったり、ねっころがったりしながら鑑賞という具合。 いかにもクラシックファンという中年者もいれば、髪の毛の長い男の子たちも、白い人も、黒い人も、黄色い人も、犬も、みんな一緒に楽しみました。夜の八時に始まったので、頭の上の空には星がきらめき、時どき飛行機の赤と黄色のライトがチカチカとそこを横切っては消えていき、窓の明かりが、宝石をちりばめたように見える摩天楼の群れは、高く高くのび上がってパークのまわりをとりまいて、その中で聴く一流の歌手の素晴らしいオペラ……と絵に描いたようなロマンチックな晩も、ここにはあるのです。 そして、いま私は、真白になった冬のセントラル・パークを歩いています。木はどれも裸になって雪がはりつき、歩道に落ちた小枝は、まるでできそこないのベッコウ飴のように氷が固まって、冷たそうに見えます。おまけにすべってころぶと、カチンカチンに凍った犬の|糞《ふん》の上にしりもちをつく、という悲しいありさまですが、それでも私は、ここに来ると、幸福な気分になるのです。 毎日の散歩道の途中に、子供がソリですべるのにちょうどいい丘があり、私は、今日も六、七人キャアキャアと、陣笠をさかさまにしたようなプラスチックの|ソリ《ヽヽ》(と呼ぶべきか?)にうつぶせに乗って遊んでいるのをしばらく見ていました。写真の街燈の左側に亀の子のように見えてるのがその中の一人です。近く、私もあの陣笠をマーケットで買って、やってみよう、と思っています。 そんなわけで、私はほとんど勉強のない日はお昼頃、散歩に出かけます。ただし、たったひとつ、このセントラル・パークで残念なことは、日が暮れてから、この中を一人で歩いたら、どんな恐ろしいことが起こるか、想像もつかない、ということです。 「日本は、こんないい公園もないかわりに、それほど恐ろしいこともないから……ニューヨーク市長のリンゼーさんも東京の治安はいいと感心したくらい。……結局、どっちが幸福なのか……」と、このあいだも、こんなことを考えながら歩いていたら、突然とても巨大な、にくたらしい黒い犬に正面からぶつかり、私は死ぬほどびっくりしました。牛かと思ったもので。犬のほうも、おどろいてましたが。 それ以来私は、昼間でも、四方八方に気を配り、用心しながら歩くことにして、今日も半日、何事もなく無事に過ごしたのであります。 ダンサー ミュージカル、ショウ、バレー、の本場だけあって、ニューヨークのダンサーの数は相当なもので、したがって先生もたくさんいるわけで、いたるところにダンス・スタジオがあります。それでも、やはり自分にあった、そして教えることの上手な|いい《ヽヽ》先生を見つけるのが大変なことは、どの国も同じで、そういういい先生のスタジオはいっぱいです。 私はダンサーになるわけではありませんが、俳優のための肉体訓練のクラスがあることと、いろんな人の推薦により、ルイジ、という先生についてドタバタとやっております。 ルイジ氏はモダンダンスを教えるのですが、ある程度、彼のテクニックを身につけると、あとは生徒の個性にまかせる、といったふうで、本職ダンサーのレッスンを見ていると、ルイジ式基本をやるのでも、レコードにあわせて、前方の大きい鏡を見ながら、それぞれ自分流に研究しながらやっています。 その間、ルイジは、スタジオの隅にたくさんある鉢植に水をやったり、ダンサーの間をかけまわる彼の小さい犬(どっちが前か後かわからないが、走るとわかる)をつかまえたりで、あまり見ていないように見えますが、それでもいい先生といわれるのには、何か秘密があるのでしょう。 ところが、現在ニューヨークでは八五パーセントくらいのダンサーが失職しているそうです。どうやって暮しているのかというと、パートタイムで、レストランのウェイターやウェイトレス、デパートの売り子などしながら踊りの仕事を探し、その間も、なんとか月謝をひねり出してレッスンを続けていくのだそうです。 ダンサーになるまでも、私の友人を例にとると、レッスンを毎日八時間、そして、三年間ぶっ通しに続けて、やっと人前で踊れるようになった、という大変さなのに、プロになったらなったで、また仕事探し、という苦労が待っているのです。 それでもダンサーになる人があとをたたないのは、やはり「踊りたいから」だそうであります。それはニューヨークだけの現象ではなく、日本にだってありますね。「踊る阿呆に見る阿呆、同じ阿呆なら踊らにゃソンソン」って。英語に訳して、こっちのダンサーに歌ってあげようと思いましたが、とてもむずかしいのでやめました。 イングリッシュ 当然のことではありますが、アメリカにいるかぎり、すべての会話は英語でおこなわれるわけであります。しかも、まったく当然のこととはいいながら、テレビも、芝居も、ラジオも、映画も、新聞も、週刊誌も英語というのは、ちょっと多すぎるのではないか、とこの頃考えています。「ああ、今日はひとつも日本語を喋らなかったなあー」と、夜、寝るときに思うことがよくあります。 もちろん、日本人のかたとお話をしたり、『座頭市』といった日本の映画も見られるし、日本のお料理屋さんに行ったりすれば、日本語を話したり聞いたりできるわけですけれど、いまのところ、ほとんど毎日、日本語ナシ、の生活です。というと、いかにも英語ができるみたいですけれど、そんなことはないのです。こっちに来たとき、「英語の学校に行くか、または、先生につこうと思う」といったら、みんなが、「毎日、外人と会話をしていれば、自然に習えて、それが一番いい!」などというものですから、あまり語学の勉強も好きではないところから、早速、|自然に《ヽヽヽ》やることに決めました。 話はちょっとそれますが、「外人と会話を……」と書きましたが、よく考えてみると、こちらで|外人《ヽヽ》といえば、私のことでして、ひと頃よく流行した「変な外人」というのは、私のことになるわけです。 そんなわけで、英語の学校には行っていませんが、演技の学校の先生の、おすすめに従って、「スピーチ」という勉強をしております。これは、英語のアクセント、発音、英語風声の出しかた、などのコーチで、ろくに英語もできないのにアクセントでもないのですが、発音と同じくらいに、アクセントは重要で、驚いたことに、これが悪いと、英語が通じないのであります。それは日本語でも同じことですが、日本語というのは、比較的アクセントの強さ弱さがおだやかですが、こちらは顔や建物が立体的なのと同じように、アクセントも相当に立体的なのです。 私は小学校で少し英語を習ったのですが、戦争中のことで、すぐ中止になってしまい、クラスで一番頭のいい男の子に個人的に、「徹ちゃん、狐はFOXだよ」などと教えてもらったりした程度で、女学生になりました。 有難いことに、私の学校は香蘭女学校といってイギリス系のミッションスクールだったので、たくさんのイギリスの先生から、本式の英国風英語を習うことができました。習うことはできても、私はちゃんと習わなかったから、いま、困っているわけなのですが、それにしても、外国人と話す、という訓練をさせていただいたことは、よかったと思っています。 その後、音楽学校で、英語のほか、イタリア語、ドイツ語をやったのですが、どれも、|モノ《ヽヽ》になりませんでした。歌に必要な言葉は仕方なく憶えましたが、それは「愛して」とか、「私の胸に」とか、「もっと強く」なんていうことばかりなので、うっかり喋ったら大変なことになります。もっとも、イタリア人か、ドイツ人の恋人でもできれば、都合がよかったのかもしれませんが、|生憎《あいにく》と、そんな人は現われませんでしたので。 さて、女優になってから一念発起して、フランス人にフランス語を習いました。これは一週間に一回でしたが、五年間も続きました。しかし、びっくりしたことに私は、フランス語はまったく喋れないのです。というのは、フランス語だけでなしに、フランスの文化も習おうという生意気な発想だったために、フランス語ができなくては文化もなにも通じないので、親切なフランス男性である先生は、文化のお話をしてくださるときには|英語《ヽヽ》、ということになったわけです。 おまけにフランス語の動詞の活用とか、文法をまったく私は勉強しなかったので、いつまでたってもフランス語は進まず、永久に私たちは英語で話し、結局、フランスなまりの英語を五年間習った、ということで終ったのであります。 というような結果、いまニューヨークで「あーあ」なんて英語の洪水の中で唸っている毎日です。自然に習うといっても、そう簡単にはいきません。日常の用がたりるとか、ちょっとした世間話などはできても、本当にその国の生活とか文化などがわからないと、一緒になってお喋りする、というか、私たちが日本語で話し合うというようなわけにはいかないのだと思います。 それに新しい言葉も、どんどんできていますし。とはいうものの、そんな面倒なことを毎日考えて暮しているわけではありません。たしかに自然に少しずつ憶えてはいるようです。 それと、友だちのアメリカ人が、みんな私の先生になったつもりらしく、いちいち間違いを直してくれるのです。この間も、長距離電話をかけてきた人が、私の英語を直したので「電話料がもったいないからやめてください」と頼んだくらいです。 グァム島にいらした横井さんは、日本語を忘れるといけないからと、蛙に餌をやりながら話し続けていらしたそうですが、ニューヨークでは、その心配もなさそうです。こちらでの日本人の威勢は、たいしたものですから。 それに、この一週間は、札幌オリンピックの中継が、毎日テレビで見られるので、解説は英語ですが、現地の音の中から「頑張れよ!」とか、「しっかり!」なんて日本語が聞えるのでなつかしく、私も一緒になって「頑張れよ!」などと叫んでいます。 けっして負け惜しみではありませんが、自分の国の言葉はステキです。そして自分の国の言葉があり、それを話せる私は幸福だと、いろんな人種のいるこの国にきて、しみじみ、わかったのです。 フード ニューヨークで、「|食物《たべもの》」に関して困ることは、まず|無い《ヽヽ》といっていいと思います。お金が無けりゃ困るのは、どこにいても同じなのですから、それを別にすれば、結構、住みよい国のようです。 よく、アメリカの食物はまずい、という説がありますが、ある程度のお金を払えば、そんなひどいことはないし、たくさん払えば、本当においしいものがたくさんあります。ただ日本のように、五十円のラーメンとか、百円の親子丼といったように、安くて、どうまずく作ったとしても、結構たべられて、お腹がいっぱいになる、といった種類のものはありません。ですから外人が、こっちの日本レストランで、カツ丼や天丼を好んでたべるのがよくわかります。 そんなわけで、日本料理は、このところ盛んで、このマンハッタン界隈だけで、百軒はあるという話ですから。上等のとこ、立喰い形式の安いとこ、よりどりみどりです。 しかも、面白いことに客の八〇パーセントは外人で、スキヤキ、天ぷらといった有名なものだけではなしに、お鮨、野菜の煮つけ、焼魚、ぬた、それからさっきいった丼物など、なんでもたべて、「日本料理はおいしくてたまらない!」というそうです。 自分でお料理するとなると、とても経済的です。ニューヨークの、ど真中のマーケットのほうが、野菜でも、お肉でも、お魚でも、東京より安いくらいですから。 また日本の食料品屋さんが私の家から五分のところにあって無いものはまったくない、という豊富さです。 強いていえば、「どじょう」だけが無い、という話ですけど。おまけに、このお店では、お豆腐、しらたき、こんにゃく、おからなど、威勢のいいねじり鉢巻のお兄さんが朝早くから作っていますから、日本にいるのと変わりません。 それと、あらゆる国のお料理がたべられるというのも、いいものです。 そんなわけで、困ることはないのですが、女性にとって、ひとつだけ、こう食物が豊かでは太る、という心配があるのです。こちらの女性は、肉づきのよろしいかたが多いのですが、ケーキでも、ステーキでも巨大ですから、自然人間も巨大になるのでしょう。 そのため「太らない食物」というものも普及してはいますが、女性は、やはりどの国でも同じで「明日から減量するから。今日でおしまい!」といいながら、とめどなく、たべている人がほとんどです。 私もこちらの女性に歩調をあわせて、たべて、これ以上フードると(ひどいしゃれですが)日本に帰ってテレビの画面から、はみ出した、なんてことになったら大変。 では、明日から、気をつけることにいたしましょう。 ガール ニューヨークで見る若い女の子は、本当に若い果物という感じがします。私のおつきあいしている家にも、たくさん年頃の女の子がいますが、みんな、のびのびと健康的な身体つきで、見ているだけで「若いって、なんていいんだろう」と思わせてくれます。なんにもお化粧していなくて洗いっぱなしなのに、頬っぺたはピンクで、そばかすのある子もいるけれど、みんな輝くような肌で、見れば見るほどきれいで、清潔です。 この年頃の女の子のファッションは、といえば、揃って髪の毛は真中からわけて長くたらし、おへその出るくらい短いセーターにブルージーンズ、と決まっています。そして靴は、ウォーキングシューズというのか、茶色の皮でできていて、底などタンクのキャタピラのようにゴロゴロしているのか、または日本でも戦後、流行した高いヒールの紐などついているのをはいています。 そして、彼女たちは、この格好で、パーティにだろうと、ディナーにだろうと出かけようとするので、母親や父親と衝突するのです。母親にしてみれば「こんないい年頃の娘が、昔のようにピンクのリボンなんかつけて、女の子らしいスカートなんかはいてくれたら、どんなにうれしいだろう。でも、そんな、だいそれた望みは持つまい。せめて、その茶色の兵隊のようなドタ靴と、しみだらけのジーンズだけは、ぬいでもらえないかしら!」と思い、また父親は「そんなジーンズに紐つきのハイヒールは、あわないからよしなさい。その靴が流行した頃のファッションはよく知っているが、髪の型といい、オーバーといい、スカートといい、もっとずーっと女らしいものだった。お前のは、|醜い《ヽヽ》というんだよ。ぬぎなさい!」と叫ぶのです。 私なんかも、まあ、もうちょっときれいな格好しても悪くないな、と思うのですが、彼女たちにしてみれば、なぜこれが「美しくない」といわれるのかわからない。「これで、きれいじゃない?」と信じて疑わないのですから、それよりきれいなのを着せるということは、無理なことかもしれません。 それでもとにかく、二十歳くらいまでの女の子は、見ていても飽きないほどきれいです。でも昔から「花の命は短くて」という歌にもあるように、残念なことながら、二十歳を越える頃から、肥り始め、顔からはつやと、生き生きした若さが消えて、急に中年に近づいていくように見えます。もちろん、これは人にもよりますし、また中年が悪いというのでもなく、内面の美ということはあるのですが、いちおう、見たところをいえば、大部分がこうなるわけです。 そのかわり逆に、こっちのショウ関係の人や女優の中には、日本人がかなわないほど、すばらしく若い人たちがたくさんいます。 例えば、ルーシー・ショウのルシール・ボールは、相変わらず穴に落ちたり、ゴーゴー踊ったりと、テレビで活躍していますが、もう六十二歳だそうですし、アレキシス・スミスという、私が中学生の頃、すでに中年だった映画女優が、いまブロードウェイに出て、『フォーリーズ』というミュージカルの中で、足を全部出して、チャールストンやいろいろのダンスなどを踊るのですが、若わかしくて、魅力たっぷりです。また、キャサリーン・ヘップバーンも舞台で見れば映画より若く、セクシーで、私の倍くらいのスピードでセリフをいいますが、六十七、八歳にはなっているそうです。 ということは、気をつければ若くいられるということなのでしょうか。でも一般の女性の若さを失っていく速度は早く、もちろん、若さを保つための本、カロリーの本、やせるための本、そのための先生と、いろいろあるようですが、どうもふせぎきれないようです。でも、こちらの旦那さんは、どんなに奥さんが太ってしまってシワがあろうと、彼女たちにいい続けます。 「マイ・ガール! ご機嫌はいかがかね!」 ホース セントラル・パークに、リスやいろんな鳥がたくさんいることは、前にお話ししましたが、このニューヨークには、馬もたくさんいます。それも、おまわりさんを乗せて、パカパカと、自動車と並んで、銀座通りのような賑やかな大通りを歩いているのです。一頭のときもありますし、二、三頭連れだっているときもあります。あっちこっちでよく見かけるのですが、何をしているのでしょう。 そこで、この間、ブロードウェイの通りで、手帳をひろげて何やら書いている馬の上のおまわりさんに質問してみました。 「失礼ですけど、なにか見張ってらっしゃるの?」 答え「あなたが美しいので見張ってるんですよ」 「………」 話はそれますが、こちらは、おまわりさんでもこの調子で、すぐお上手が口から出るのですから、ましてや、プレイボーイだの、世馴れている人の口から、オートメーションの機械のように、ほめ言葉とか、愉快な言葉が出てくるのはあたりまえですし、喋るのが商売のプロの司会者などにいたっては、のべつ人を笑わせて、つきることがない、というのも、驚くことではないのかもしれません。 あまり、しょっちゅうなので、そのときは笑っても、あまり憶えていませんが、この間も、こういうことがありました。 中年の男の友だちから、ディナーに誘われたのですが、その夜は芝居を見に行くことに決めてあったので断わり、芝居を見て帰って来たところに、彼から電話があり「芝居どうだった?」そこで「脚本があまり上できとはいえないみたい。とにかく百パーセント満足というわけにはいかなかったわ」すると、すぐさま「だから、今晩、僕と一緒にいれば、百パーセント満足できたのに!」といいました。 とりたてて、びっくりするほどお上手、というものではないけれど、瞬間的にこういうものが出る、というのは訓練によるものか、国民性によるものか。 もっとも日本でも、森繁久弥さんという、外人をうわまわるほど、お上手のかたがいらっしゃいますけれど。 それはともかく、美しいといわれた私は、馬の顔の前で、「オホホホ」と笑ってから、そのおまわりさんがこわくないと思ったので、いろんなことを聞きました。 要するに馬でパトロールをしているのです。車が混む所ではパトロールカーより場所をとらず、背が高いからあたりがよく見え、犯人などを追跡するときは、どこまでも追いかけていかれ、おまけに格好もよく、さらにいいことは、「私が乗馬が好きなことであります」と最後につけ加えました。 その他、駐車違反の車を見つけるのも、どうやらこの乗馬おまわりさんの役目と見うけました。ついでにいうなら、このマンハッタンをパトロールする馬は二百頭。そして常時、七十頭はこのマンハッタンをパカパカやっているそうです。馬のパトロールというのも、やはり西部劇の国だからでしょうか。 いずれにしても、世界一暴力沙汰の多いこのニューヨークで、のんびり馬にまたがって「あなたが美しいので見張ってるんですよ」なんてのんきなことをいっているおまわりさんのいるこの国も、相当に変わってて、面白い国だと思います。 おまわりさんとお別れのとき、私は「サンキューベリマッチ!」といいました。ちょっとハンサムなそのおまわりさんは、ていねいに馬の上から頭を下げ、「ドウイタシ|マステ《ヽヽヽ》!」と日本語でいってにっこり笑いました。 サービスもここまで行きとどけば完璧! といったふうで私は感心したのであります。 アイスクリーム アメリカは、なんといっても、甘いものの豊富な国で、アイスクリームは、その代表的なものです。十年前に、初めてこの国に来たとき、私はアイスクリーム専門店、というのが、たくさんあるのに、とても驚きました。 日本でもこの頃は、こういうお店もできて、種類も随分あるようですが、私の若いときは、ヴァニラと、チョコレートくらいしかありませんでした。私のいまいるアパートの近くに、わりと有名なアイスクリーム屋さんがあるので、今日、通りがかりによって、どのくらいの種類があるのか聞いたところ、やはり本場だけあるとびっくりしました。 目の前に並んでいるアイスクリームは、五十種類。そして、この店の本社には、なんと、五百種類あって、毎週、二種類ずつ、新しい味を、どれかと交換して置いて行くのだそうです。五百種類のアイスクリームを考え出す人も考え出す人だけど、きっとそれをテストしてたべてみる係がいるに違いないから、その人も大変だと思いました。 メニューを見て、日本で珍しいのはどれかな? と考えましたが、「風船ガム入り」というのは、やはり目新しいほうじゃないでしょうか。メニューに説明がついています。「信じられますか? 本当の風船ガムが入っています。噛んでください」。ピンクのアイスクリ—ムの味は、なるほど風船ガム。中に、水色や黄色、茶色などの柔らかいガムがプツプツと入っています。そして、クリームをのみこんだ後、ほんの少しのガムが口に残ります。ただし、ふくらませて、パチンとやるほどは入っていませんし、入っていたら大変です。 「ブランディ・アレクサンダー」というのは、「特別製法によるフランス本場のブランディ入り」。色は薄いコーヒー色で、味は確かにブランディそのもの。「酔っぱらいません?」と売り子のお兄さんに聞いたら、笑われました。また「ラム酒と乾しぶどう入り」とか「デンマークのチーズケーキを、そのままアイスクリームにしました」なんて、およそアイスクリームとは思えないようなのもあります。 「西瓜」とか「野苺」なんていうのは、ローズ色できれいです。世界中の珍しいナッツの入ったものや、チョコレートの小さいかけらが混っているのも私は好きです。 どんな味かを試すために、四つもコーンに入れてもらって両手で受けとったとき、お婆さんが入ってきて「お嬢ちゃん、それ全部一人でたべたら、お腹をこわしますよ」といいました。私はお嬢ちゃんでもないし、四つ全部まるまるたべる気はないし、たべたところで、こわれるようなお腹でもないし、と思ったけど「はい」といいました。 お婆さんは満足して「年よりのいうことを聞くのよ」といい、続けて「これをたべると、太る太ると思いながら、この店の前を素通りはできないじゃないの。貴女は何を買ったの? 風船ガムに、マンゴウとメロンのと、ブランディと西瓜。どれもいいわね。ちょっと、お兄さん。(カウンターの後ろのお兄さんを呼んで)あなたの推薦するのはどれ? この間のヤツ、気狂いみたいに気にいったけど、今日はね……」と永久に続くので、私は彼女にお別れをいって外に出ました。 四つの味をかわりばんこにナメナメ裏通りを歩いているとき突然「アイスクリームって、もうせんたべたことがあるわ。どんな味かっていうとね、甘くて、冷たくて、口の中でとけるのよね」と、アメリカの空襲をさけるため、真っ暗な防空壕の中にしゃがんで、大豆の煎ったのをかじりながら、友だちと話をしてた小さかった私が、目に浮かびました。私の手に持っているこれを、あのときの私にたべさせてやったら、何ていったかな? と考え、生きていて本当によかったと思いながら、私はアパートに帰ったのです。 ジーザス・クライスト アメリカでは、いま、イエス・キリストが|流行《はや》っています。もちろん、イエス・キリストは、洋服とは違いますから、|はやりもの《ヽヽヽヽヽ》ではないのですが、ちょっとこのところ、流行の感があるのです。 『ジーザス・クライスト・スーパー・スター』という音楽をお聞きになったかたも多いと思いますが、若い人たちの作った、このレコードが爆発的大ヒットをしたので、昨年の秋から、これをミュージカルにしたものが、ブロードウェイでオープンしました。そして、これがまた、切符は半年先まで売り切れ、プレミアムつきでも、なかなか手に入らないという大当たり。 内容は、キリストが十字架にかかるまでの一週間を、まったく聖書に忠実にミュージカルにしたものです。若い人たちが作った(スタッフはすべて二十歳代)というから、どんな風になったのかと思ったら、筋はまったく聖書そのものなので、ちょっと驚いたくらいです。そのかわり、音楽は全部ロックで、セリフなし。初めから終りまで、全部、歌。 ついでにいうと出演者は、ブロードウェイでは珍しく、全員、マイクロフォン持ち。キリストまで持っているので、「みっともない」という意見もありますが、エレキのサウンドが大きいから、肉声では、とてもたちうちできないので、これは仕方のないことだと思います。それと、キリストを裏切るユダに、黒人を持ってきたところが、やはり、新しいところではないでしょうか。 舞台装置が評判ですが、これはレコードのヒットから見て大当たり間違いなし、という見きわめのもとに始めたので、豪華そのもの。なにもかもが機械じかけです。幕があく前には幕と思っていたものが、開幕の音楽が始まると同時に、突然、後ろに倒れて、それが舞台の床になるとか、キリストを狙う人たちが乗っているゴンドラ風の乗りものは空中を走り、キリストは移動風セリ上りから現われ、最後に、はりつけになった十字架は、キリストをはりつけたまま、舞台の奥から、客席の最前列までずーっと出てきて、また、もどるとか、アレヨアレヨ、と興奮させられることの連続です。 趣味が悪いの、薄っぺらだの、金キラキンでいやらしい、だのといった意見のうずまく中で、あれだけの客を集めているのには、それだけの理由があるのだと思いました。といってももちろん、装置だけよくても人は集まりませんけれど。 出演者は、プロデューサーが『ヘア』を作った人なので、主役のキリストをはじめ『ヘア』に出た人も多く、みんな歌が上手で、芝居も感動的に見せ、難がありません。それにしても、これだけ人がつめかけるというのは、人はやはり「スーパー・スター」を必要としてるということなのでしょうか。 この『ジーザス・クライスト』の前にオープンし、これのもとになったといわれる、ロック・ミュージカル『ゴッドスペル(GODSPELL)』は、現在も、オフ・ブロードウェイで上演中ですが、これも聖書のマタイ伝からとったキリストものです。そして、これも当たっています。近く映画にもなるという話です。 町を歩く若者の中に、十字架のペンダントを首にかけてる人を、平和マークと同じくらい見かけます。それと、昨年の十二月三十一日の大晦日に、タイムズ・スクエアに新年を迎えようと集まった人の中に「キリストは、われわれのために死んだ」とか「キリストは、地球を救った」というようなプラカードを持った人がたくさんいて、しかも若い人が多いのが目につきました。また、ブロードウェイの通りなどで「キリストは平和のために死んだ」などという、プラカードを背中に背負って歩いている人もよく見かけます。 これは、信者をふやすためかもしれないけれど、キリストを、もう一度見直そう、という気運が見えていることは、確かなようです。 ヒッピー風の長い髪も、見れば、キリスト風に見えないこともないのです。一時は否定的に見なされていたキリストが、いま復活してきたのは、いったいどうしてなのでしょう。みなさんは、どうお考えになりますかしら。 そして今日も、人びとは、最低千五百円、最高五千円、プレミアムがつくと一万円以上にもなるという入場料を払って、キリストを見に劇場につめかけるのです。 キモノ アルファベットだよりに「着物」を入れるのは、ちょっとおかしいみたいですけど、もはや「着物」は、日本語だけではなくなったようです。 いまから十年前、アメリカに来たときは、私が着物を着ていると、「ビューティフル・ジャパニーズ・ドレス!」といわれたものですが、この十年のあいだに「キモノ!」と呼ばれるようになりました。 私は日本にいるときは、仕事で着る以外、ほとんど着たことがないのですが、外国に出るときは、なるべく着るようにしています。大荷物になるし、おまけに着るときの大騒ぎといったらありませんが、これも慣れで、はじめは振袖などを一人で着るのに三十分近くもかかったりしましたが、最近では七分もあれば着られるようになりました。 おまけに着物のおかげで、どのくらい|よい《ヽヽ》ことがあったかわかりません。近いところでは、チャーリー・チャップリンに会うことができました。 ご存じのように、チャップリンが、アメリカを追われてから二十年ぶりに帰って来ました。そして、どんな大統領だって、このように盛大な歓迎は受けないだろう、といわれるような、大変な迎えられかたをしたのでした。 ニューヨークでも、ロックフェラー・ジュニア主催の大歓迎パーティが開かれ、私もNHKからたのまれて、出席しました。 チャップリンが夫人同伴で入場すると同時に、二千八百人の出席者は、狂ったような拍手と、「お帰りなさい!」の声をおくりました。チャップリンは「うれしいです」といって、しばらく絶句してから、涙をふいたようでした。そして「胸がつまって、何もいえません」、をパントマイムでやり笑わせましたが、本当に、それ以上はいえないようでした。 そのあと、チャップリンと一緒に、夫人の最も好きなチャップリンの映画を二本見て、パーティは終りました。これだけの人ですから、もちろん、誰も近よれず、バルコニーの彼を遠くから見ていただけで、それでも、私は来てよかったな、と思いながら、キャメラマンと下りのエスカレーターで帰ろうとしました。 ところが、エスカレーターからちょっと下を見た私はびっくりしました。なんとチャップリンが、奥さんと、ロビーに坐っているではありませんか。見れば、回りに人影はなさそう。 「あら、チャップリンに会わなくちゃ!」 私は知らなかったのですが、あまり人が集まったので、警官が出て人を全部外に押し出し、近よれないようにした直後だったのです。目の前に、やけに背の高いおまわりさんが立っているので、胸をトントン、とノックして、「チャップリンさんに会いたいのですけど」。 警官は、私の上から下までツツーと見ると、急に尊敬した態度をとり「どうぞ」といいました。こんなときに、振袖がものをいうのです。ここで私が洋服を着ていたら、おそらく、ただのファンだと思われて、追っぱらわれたに違いありません。 チャップリンに会った印象をお伝えするなら、私が「日本のみなさんにおっしゃることはありませんか?」というと、突然、目に涙をいっぱい浮かべ、私の手を握って、「日本を忘れない、歌舞伎は素晴らしいものだった。私がみなさんを愛していることを伝えてください。ありがとう。ありがとう」と、いつまでも、私の手を離さないから、私も、天才に手を握られてるのって、いいもんだな、なんて思いながら握られていました。 そしてチャップリンは、もう一度私に「ありがとう」というと、奥さんの腕をとり、『モダンタイムス』のラストシーンのように、あの見馴れた背中を私たちに見せながら、長い長い廊下のむこうに消えていきました。 ……とここまでニューヨークで書いて、続きはローマでございます。 いま、私はローマのホテルで、このお便りをしたためております。というのは、テレビ番組の仕事のためなのです。ところが、今日、私は、着物のおかげで損をすることもある、という初めての経験をしました。 というのは、この番組のディレクターは恐ろしい人で、このローマの泥棒市の中で、私が何かを買うのではなく、売っているところを撮影すると、宣言しました。なんと恐ろしい! 仕方なく私は、少しでも早く、たくさん売るためには、めだつにかぎる、それには振袖、と決め、ディレクター持参の「姉さま人形」「紙風船」などを道ばたで売る人になったのです。 イタリア語で「さあ、いらっしゃい、いらっしゃい」と叫んだときは、さすがに恥ずかしくて顔が赤くなりましたが、人が、どんどん集まってくるにしたがって、なんとなく気が強くなりました。 ところが、みんな振袖の魅力に集まってくるので、口ぐちに「きれい」「お人形さんみたい」というだけで、誰も買ってくれません。そしてつぎからつぎへと際限もなく、店屋と店屋が立ち並んでる道幅のせまいところに、人がつめかけたので、ついにまわりの店屋から苦情が出てしまいました。 やっと、姉さま人形が一個売れたので、大声で「ありがとうございます」といったところに、いかめしいおまわりさんが二人来て「いま、やめなければ交通妨害の罪で、牢屋に入ってもらいます。そして、キャメラは没収!」と恐ろしいことをいったので、商売も撮影も中止になってしまったのです。 でも考えてみれば、結局、着物の美しさに、あれだけの人が集まったのですから、やはり、よろこぶべきことなのかもしれません。 ただ、着物を着ていて、よく質問されて困ることがあるのです。 「ちょっとうかがいますが、その背中にしょってる枕は、なんのためですか?」帯のことなんですが、なんと答えたらいいのでしょうね。 ラヴ・シーン ラヴ・シーンといっても、映画のではなく、舞台で行なわれるラヴ・シーンですが、このブロードウェイでは、相当に、刺激的なのがあります。 例えばご存じ『オー・カルカッタ』などは、正真正銘、生まれたままの姿をした男女が、抱き合ったり、ベッドに入ったり、そのほか、ちょっと『花椿』には書けないようないろんなことをやるのです。しかも毎日。そして、もうオープンして、二年以上になります。 ところが、この芝居に出てる裸の男優が、舞台で、演劇的興奮以外の、個人的興奮を示した場合には、その人は俳優組合からはずされるとか、劇場は閉館、とかいう噂があるくらいですから、ラヴ・シーンも、はたで見るほど、楽ではないのかもしれません。 キス・シーンにいたっては、のべつ出てきます。日本の場合は、残念ながら本当にしてるように見せかけて、実はしてない、というのが実情ですが、外国では当然、唇と唇とが密着します。 これは、実生活の違いで、こっちに来たとき、はじめ私もびっくりしたのですが、恋人同士でなくても、親しい間柄なら、よその奥さんが、他の旦那さんと、父親が娘と、とにかく、どんどん唇にキスするのはあたりまえなので、舞台で本当にしても、ちっとも「あら、スゴイ!」ということでもなく、むしろ、本当にしなかったら、おかしいと思われるに違いありません。 イギリスのオールド・ヴィクで見た『エドワード二世』という芝居では、愛しあってる|男《ヽ》同士が長い長い濃厚なキスをしたので、芝居とはいえ、私は相当のショックを受けました。そのうち、日本でも、だんだん舞台のうえで、本当のキス・シーンをするようになるかもしれない、と私が『オー・カルカッタ』に出ている俳優にいったら「本当にしないで、見せかけのほうが、いいかもしれないよ。嫌いな相手役と、こっちみたいに六年間もロングランで、毎日キスすることを考えてごらんよ!」。なるほど、そうかもしれませんね。 マリワナ 一週間ほど前にブロードウェイを歩いていたら、知り合いの若いアメリカの俳優に、ばったり逢いました。 「テツコ!(ついでに申し上げますと、アメリカでは、親しさを表わすために、みんな名前を呼びます。私などは、なんとなく、|なれなれ《ヽヽヽヽ》しすぎると思って苗字を呼ぶと、名前で呼んでちょうだい! といわれます。ですから、ニクソン大統領も、親しい人はリチャード、と呼ぶわけです。これもアメリカの習慣なのですから、別におかしいとも思いませんが、もし、日本で親しいからといって、田中総理を「角栄!」と呼んだら、随分、失礼になるでしょうね)テツコ! ちょうどよかった。僕の友だちの映画監督が、日本に、もうじき行くんだけど、彼は|草《くさ》を吸うんで、ちょっと、心配してるんだ。日本に行ったら、どこで草が買えるかな?」 (草?……草ってなんだろう……)。私は、すぐには何も思いつかず、考えこみました。 (煙草のことじゃないし……。まさか、お灸のモグサのことじゃあるまいし……。吸う草ね……)。そこで仕方なく「吸う草って、なんのこと?」と聞きました。彼は、ホ、ホ、ホ、と女の人のように笑って「マリワナさ、もちろん!」といいました。「あら大変!」煙草も吸わない私にとって、マリワナなんて、この世の終りのように思えます。 人にいわせると、これは、ふつうの煙草と同じくらいの害しかなく、煙草を許すならマリワナも許すべきで、このアメリカで、これが合法的というか解禁になるのは時間の問題とも、いわれていますが、ともかくいまは法律で禁止されているのですから、これは、「あら、大変」なことです。「ねえ、どうだろう?」彼は私の返事を待っています。 「私、どんなとこで買うのか知らないし、第一、日本では買えないのよ。そいで、もし誰かがそんなもの吸ってたら……(ここで、私は、新聞に出てる麻薬の記事を頭に浮かべ適切なことをいおうと思いましたが、あまり、はっきりしたことがわからないから、だいたいのところでいいや、と決めて)……一年くらい牢屋に入れられるわよ。日本は、とてもきびしいんだから」と、はっきりいいました。 「えっ? 一年も?」彼は少し、ひるんだ顔になって「買えないんじゃ、やっぱり吸う分だけ持ってったほうがいいかな」と恐ろしいことをいいました。「羽田の飛行場で、全部調べられるわよ」「そうか!」。 それから彼はちょっとだまって、タイムズ・スクエアの車の洪水を眺めてから、小さい声でこういいました。「こういうのはどうだろう。彼が泊る予約をした東京のホテルに、送り主の名前は書かないで、小包みにして彼宛に送るっていうのは?」「外国からの郵便物は、全部、羽田で中身をチェックするわ」「やっぱり全部やるかな」彼はがっかりした様子でそういうと、「じゃ彼にそういうね。さよなら」と長いジーパンの足を少し、くねくねさせながら、私と反対のほうに歩いて行きました(油断もスキもありゃしない)。私はGメンになった気分で夕方の雑踏の中を歩きました。 ところで、この八カ月のニューヨーク滞在中、私の近くでマリワナ、という言葉が出たのは、このときと、あともう一度だけです。私の友だちといったら、ショウビジネス関係の人とか、アーティストが多いのに、おどろくまいことか、ただの一人も、そういうものを用いる人がいないのです。というのも、このニューヨークで、プロフェッショナルとして生きて行くのには、まず健全な肉体が必要、それには早寝早起き、そして絶え間のない勉強、ということで、思ったより、ずーっと常識的な、まともな生活なのです。ニューヨークといえば麻薬の町、と思ってた私にとって、これはとてもうれしいことでした。 もう一度だけマリワナという言葉を身近で聞いたのは、昨年の秋です。私の男友だちが、彼のアパートの住人たちが交代で主催するパーティ、というのに連れてってくれた時です。 よくニューヨークのアパートは、隣りの部屋に住んでる人が誰かわからない、といいますが、私の知ってるかぎり、大変によくお互いのことを知っていて、さらに親しくなるために、こういうパーティをやったりするのです。 パーティといっても、食べものは、なし(これが高級アパートになると、いろいろ出るけど、私の友だちのとこはなにもなし、また、なにもなしのケースがまことに多い)。だからなにかたべたい人は、自分で持っていく。飲みものはコーラの類とウイスキーなど。おつまみも、なし。これも欲しい人は持参という、いたって気楽なパーティです。三十人くらいの老若男女が、レコードに合わせて踊ったり、喋ったり、中には読書したりしてる人もいる、という、のんびりしたものでした。 夜八時頃から始まって、夜中の十二時頃になり、私はなぜか、おまわりさんが、部屋の中にいるのを発見しました。この人もアパートの住人かな? と思ってたら、しきりに窓を指さして、その部屋の持主と話しているのです。窓が開いていたので、そこから何か投げた人でもいたのかしら、と見ているうちに、おまわりさんは、「おたのしみください、みなさん!!」といって、ニコニコしながら出て行きました。 なんのことかと思ったら、パトロールをしていて上を見上げたら、この寒いのに窓が開いていて、人が中でワヤワヤやっている、おまけに窓からのにおいがどうもマリワナくさい、というのでやってきたところ、部屋の中で吸ってる人も見当らず、特ににおいもしないので、がっかりして出て行った、とこういうわけだったのです。事実、誰も吸った様子はありませんでした。 と、こんな具合で、私はまだ一度もマリワナを吸ってる人や、まして麻薬患者など見たことがないのですが、このニューヨークで起こる犯罪の六割は麻薬患者によるものという恐ろしいデータがあるのですから、存在することは確かです。 私がアメリカ人に自慢できることは、日本には、こういったことによる犯罪がほとんどない、という事実です。みんなは本当にうらやましい、といいます。この自慢がいつまでも続くことを、そして、このアメリカも、いつか自慢できる国になることを、私は心から祈っているのです。 ノウ 昔からいわれていることですが、いまだに日本人はイエスか、ノウか、よくわからないとアメリカ人にこぼされます。これは英語ができない、ということでなしに、会話の習慣の違いにあるようです。 例えば、日本語の場合、「今晩、貴女はパーティに行きますか?」と聞かれて、行かないのなら「いいえ」といいますね。そしてさらに相手が「なんだ、貴女、行かないんですか」といったら「ええ」といいます。つまり相手の質問を認めるから「イエス」になるので、これでいいわけです。ところが英語になると、同じ質問のばあい、答えが始め「ノウ」で、次に「イエス」になっちゃうと、わからなくなってしまうので、行かないのなら、あくまでも「ノウ」でなくてはならないのです。 これは馴れないと、なんとなく抵抗があっていいにくいし、また質問する人の言葉のえらびかたによっては、たまに「イエス」でいいときもあり、外人すら間違えるときがあるくらいです。そこで、一番いいのは、こういうばあい「イエス」といわずに、貴女のいっていることは正しい、という意味で「ライト(RIGHT)」を使い、さらに自分の意志をはっきりいうことだ、とアメリカ人に教わりました。 「私と結婚してくれますか?」「ノウ」「結婚してくれないんですか?」「ライト、私は貴方と結婚はしないのです」。これで一切の誤解は生じないというわけです。「ノウ」をいうのは、むずかしいことで、「イエス」といったほうが楽なときが多いのですが、やはり「ノウ」をいうべきときははっきりいわなくては、と思います。 日本のことわざにも「ノウある鷹は爪をかくす」というのがあるくらいですもの。(これは冗談です。もちろん) オスカー 本当はアカデミー受賞者が貰う、金色の人形のことなのですが、いまでは「アカデミー賞」というかわりに「オスカー」と呼ばれているようです。この受賞式は紅白歌合戦のように年中行事のひとつで、みんな楽しみにして、テレビの前に集まります。これは日本にも中継されたのではないかと思いますが、一番の興味は、誰が選ばれるか、その場にならないとわからないということでしょう。 アカデミー賞選考委員会みたいなところから、あらかじめ、それぞれの分野で数人ずつがノミネートされていて、つまり受賞候補者として、数人が指名されていて、当日、会場で司会者が「主演女優賞にノミネートされている方は、グレンダ・ジャクソンさん、バネッサ・レッドグレーブさん、ジェーン・フォンダさん、ジュリー・クリスティーさん。さて、受賞者は……」、そこまでいうと、誰かが封筒を持ってきて、司会者に渡す。司会者はその封を切ってカードを取り出し「……ジェーン・フォンダさん!」となるわけで、その封筒を開くまでが、ドキドキするのです。ましてや、会場でそれを見つめる候補者の胸のうちはどんなでしょう。テレビは、その瞬間の候補者の顔を全員、同時に画面に入れて盛り上げます。 今年ははじめから、アメリカが貰うのに決まっているからジェーン・フォンダだ、という説が強く、おまけにノミネートされたジャクソンさんもレッドグレーブさんも、イギリスからこなかったので、「やっぱり!」とテレビのまわりの人がいっていたら、予想通りになりました。 ジェーン・フォンダは、反戦運動で有名ですが、この日は、もし受賞しても、会場では何もいわないこと、といいふくめられていたそうで、約束通り何もいいませんでしたが、ただ「いいたいことはありますが、いまはいいません。有難う」と意味あり気にいって、オスカーを握りしめて引っこみましたが、この後の他のテレビ局のインタビューでは、いいたいことをいったようです。 それにしても、イヴの総て、ではありませんが、このテレビ中継をどれだけの若い女優が闘志を燃やしながら見ることでしょう。もしオスカーを貰ったら、その瞬間から世界に認められ、出演料はケタ違いに上がり、いくら仕事がないアメリカでも、当分仕事にあぶれることはないでしょうから。 この中継のつぎの日、演技の学校で会った若い女優がいいました。 「あれを貰うためだと思うと、毎日十時間、自分一人で勉強してもつらくないわ。私には野望があるものね」 これにくらべたら、なんと私の生活の呑気なこと。でも考えてみると、人間は誰でもそれぞれ自分だけのオスカーを持ち、またそれを夢みているのかもしれませんね。 パンダ 昨年、天皇陛下がヨーロッパをご旅行になったとき、ロンドンの動物園でパンダをご覧になり、その写真がたくさん報道されて、パンダは、一躍有名になりました。また今年(一九七二年)の四月には、ニクソン大統領が中国を訪問した記念にと、二匹のパンダがワシントン動物園に中国から贈られ、これが大ニュースとなり、パンダはいまや、ブームになりつつあります。 私のいるニューヨークの町の中は、種々のぬいぐるみ人形はもちろん、ブローチ、イアリング、セーター、コップ、タオル、|蝋燭《ろうそく》、洋服布地、スリッパなど、すべてパンダの模様で溢れています。また、それをあおるように、ニューヨーク・タイムスがパンダの写真や記事を、第一面に何度ものせるのです。 まあ、それだけ、パンダというのは珍しい動物なのでしょう。ご存じとおもいますが、パンダ(くわしくはジャイアント・パンダ)は中国の四川省の西部や北部などの高い山に住んでいて、つまり中国にしかいないのです。現在、世界中でどのくらいいるかというと、わかっているだけで十七匹。全部で、たったの十七匹です。保護動物に指定はされても減るいっぽうで、というのも、なかなか子供を増やすのがむずかしい動物なのです。 話は少しとびますが、私がパンダに興味を持ったのは小学生のときで、叔父がアメリカのおみやげ! とくれた、ぬいぐるみのお人形を手にしたときからです。耳と手と足と目のまわりだけが真黒で、あとは真白の熊。こんな動物が実際にいるはずはないから、おもちゃとして作ったデザインだろうと思って、可愛がっていました。 ところがある日、新聞に「この動物はパンダという」と書いてあり、|よつんばい《ヽヽヽヽヽ》になってる本物の写真が出ているではありませんか。 「☆」そのときのショックを表わせば、このくらい、びっくりしたのです。 それ以来、いろいろ調べて、これが熊のように見えるけど、熊の種類ではなく洗い熊科であることや、笹や竹が好物であること、身長はメスで一・五メートルくらいもあり、思ったより大きいこと、人間と同じように|肘《ひじ》まくらや、手を頭の後ろに組んだりして寝ることもできる、などを知ることができました。 そしてついに五年前に、長年の夢が実現して、生きているパンダをロンドンで見ることができました。実物のほうが写真より可愛くなくても、それは仕方のないこと。あまり期待はすまい! と決心して出かけたのですが、実物のほうが百倍も可愛くて、本当にそのときはうれしかったのです。 そして、つい最近、幸福にも私は、ワシントンに来た子供のパンダを見ることができました。ニューヨークからワシントンは飛行機で三十分。でも早く見たくて、その三十分をとても長く感じました。 パンダ・ハウスにおさまっている二匹は、オスが一歳で「シンシン」、メスが少しお姉さんで一歳半の「リンリン」。この二匹は、びっくりするほど性格が違っていて、シンシンが暗いところで小さくなって昼寝をしているのに対して、女の子は部屋の真ん中で大の字。 男の子の部屋がゴミひとつ落ちてなくて、身体も真白と黒で、いかにもパンダらしいのにくらべ、リンリンの部屋は、五つもある鉢植えの竹を全部かじってたべちゃって、しかも鉢をひっくり返して、中の泥を部屋中まきちらして、その真ん中ででんぐり返りをするから、身体は全体が真黒で、パンダとは思えないくらい。 そして、シンシンはトイレをするとき、部屋のスミでするのに、リンリンは、わざわざ植木鉢のヘリによじのぼって、安定の悪い格好でしゃがんで、西洋トイレ風のつもりか、そこから床に落す、といういたずら好き。でも、どんなことをしても可愛いから、彼女は「|道化師《どうけし》リンリン」と呼ばれて、人気者なのです。 私がガラスのそばにくっついて見ていたら、部屋の真ん中で、ランチの笹と人参を両手に握って、かわりばんこにたべてお客さんを笑わせていたのが、ふと私を見ると、急にたべるのをやめて、スタスタと歩いてきて、私をじーっと見ると、まるで私にキスをするように、ガラスに唇をつけました。私も急いで顔をよせたので、本当にキスをしているように見えました。 動物園の人たちは「こんなことは初めてです」とびっくりしていました。つぎに彼女はゴロンと寝っころがると、私に寄りかかる形になって、私に甘えるみたいにして、いつまでも、じーっとしていました。 一日に七万人の人が見にきても、お母さんから離れて、はるばるアメリカまできた小さい女の子には、ここの生活が寂しいに違いない、と私はガラス越しに頭をなでてやりながら可哀そうに思いました。でも、いつの日か、隣りの檻のシンシン君が成長して、きっとここの生活を楽しいものにしてくれることでしょう。 「そのとき、またワシントンにくるわ」私はそう思って、リンリンの側から、元気を出して離れたのでした。 クイーン ご存じのように、アメリカに本当のクイーンはいません。でも、アメリカの人はクイーン、「女王」という呼び名が好きなようで、オナシスと結婚するまではジャクリーヌ・ケネディを、アメリカのクイーンと呼んでいましたし、昔、スターだったジンジャー・ロジャースを「撮影所の女王」とも呼んでいたそうです。また、オレンジの女王、ホットドッグの女王、ポプコーンの女王、ヒッピーの女王、と数えきれないほどの女王を作りました。 そのせいでもないでしょうけど、このあいだうちのニューヨークは、女王のブームで、ブロードウェイでは、クレア・ブルーム主演の「ビバ・ビバ・レジナ」というエリザベス一世とメリー・ステュワートの話を新しい脚本で上演したものと、もうひとつ、日本でも、文学座が上演して、杉村春子先生がメリー・ステュワートをおやりになったシラーの作品を同時にやっていましたし、映画館では、バネッサ・レッドグレーブ主演の『スコットの女王メリー』をやっているかと思うと、テレビでは毎日曜、連続で、エリザベス一世の生涯を、グレンダ・ジャクソンというイギリスの女優が演じてる、という具合。そしてテレビの深夜放送では、ベット・ディビスの『ヴィクトリア女王』を見せてくれるのです。 そんなふうですから、本物の女王に逢った人、なんていったら大変です。この間、夕ご飯に招ばれて行った家に、偶然現在のエリザベス女王に親しくおめもじがかなった、という夫人がいて、みんなはとてもうらやましがって、その会見が、どんなだったか、興味しんしんで膝をのり出しました。 この夫人は、ミュージカル『マイ・フェア・レディー』をロンドンでやったときのプロデューサーの奥さんで、初日にエリザベス女王がお見えになったので、プロデューサーの奥さんということで、おめもじができたのだそうです。「なんたる名誉!」とみんなは溜息をつきました。 ところが、この小肥りの奥さんが無類に呑気というか、人間的な人で、この会見は失敗のうちに終った、というのです。というのも、そもそも、女王陛下にお目にかかったら、質問というものを、われわれはしてはいけないのだそうですね。あちらがご質問くださったら、こっちはただお答えする、というのが|しきたり《ヽヽヽヽ》。 さて、このアメリカ人の奥さんは、そんなことは知らないから、女王と面とむかいあった途端、なにかいったほうがいいように思ったので「お忙しいですか?」とまず質問。女王陛下は(これは奥さんが後でよく思い出したらなんですが)、ちょっとびっくりしたような顔をして「……ええ」とおっしゃった。 その後、なんとなく白けた間ができたので、また質問。「アン王女が今日はお見えになるという話でしたけど、いらっしゃいませんのね?」「アンは病院に入っております」「どこがお悪くて?」 女王はじーっと彼女を見つめてから、ゆっくりと「……|扁桃腺《へんとうせん》の手術です」そこでまた、しらじらとした長い間。奥さんはまた質問する。「女王陛下は扁桃腺をお取りになりましたの?」「……(長い間)……いいえ」 そして、女王は「いいえ」と同時に、体を十センチほど右に移動させたと思ったら、それが合図らしく、さーっと、おつきの人が二人、その奥さんの両側から現われて、「ではこの辺で……」と彼女は連れ去られたそうです。 そして、ショウの終った後、女王は出演者の一人ひとりと握手をなさったけれど、「ショウはよかった」とか「あなたの演技はよかったです」というお言葉はひとつもなく、ただ「ご機嫌は如何?」とおっしゃっただけで、お帰りになったそうです。 「ひとことぐらい感想が欲しかったわね」と質問夫人が口惜しそうにいったので笑ってしまいましたが、女王の発言は国の発言とも見なされて問題が大きくなるから、いつも個人の感想をお洩らしにならないのでしょう。考えてみると、女王というものは寂しいものです。一歩、宮殿の外に出ると、女としての感情生活は許されないのですから、それからすると、ジャクリーヌ・オナシスさんは、正直な人なのでしょう、きっと。 話はかわりますが、ニューヨークの東のほうにクイーンズ、という地区があります。といっても女王さまが住んでいるわけではなく、何故か日本人のかたがたくさん住んでおいでです。また、レストランなどのトイレに行くと「女」というサインのかわりに、「クイーン」というのも、よく見かけます。 もうひとつ、これはアメリカの俗語ですが、クイーンとは、女王という意味のほかに、男を好きな男の人のことをさしてもいうのです。それからいうと、アメリカはクイーンだらけといえるかもしれません。 レストラン ニューヨークには数えきれないほどのレストランがあります。そして、とても高くておいしいところとか、お値段は高いけどまずいところ、また安くておいしいところなど、いろいろあるのは、どこの国も同じです。いろいろある中で、有名なのはフォー・シーズンとか、パピヨン、ルーテス、21などで、お値段も——もちろん晩ご飯ですけど——二人で|最低《ヽヽ》、一万五千円はするという恐ろしさです(日本にも同じか、もっと高いところがこの頃あるそうですね)。 ところが、よくニューヨークの人に聞いてみると、こういうレストランに行くのは、ほとんど、ニューヨークの人でなく、地方からの旅行者が多いのだそうです。そしてニューヨークの住人は、これほど上等のところじゃないにしても、よほど|なにかが《ヽヽヽヽ》ないと、みんなレストランには行かないようです。なんといっても高いし、自分の家で作ったほうが、おいしいし、安くたべられるからでしょう。 そんなわけで、私のアメリカ人の友だちの中には、料理人なみに上手な人がたくさんいます。女性だけでなしに、男性もいます。アメリカ人というと、レストランに行くか、|罐詰《かんづめ》、またはテレビディナーなどをたべて、手のこんだお料理はしない、というふうに何故か思いこんでいた私は、みんながあまりお料理に熱心なので驚いています。といっても、もちろん、私のおつきあいしてる範囲の人たちですけど。 でも、アメリカ人の料理ずきは、本の売りあげ第一位が料理の本、ということでもわかります。それと日本料理に対する関心が非常に高まっていて、タイム・ライフ社で出している各国の料理というシリーズの中の「日本料理」という本は、なんと五十万部も売れたのだそうです。 そんなふうですから、私が日本のお料理ができるとわかると、みんな帳面や、見出しのついたカードを持ってきて、料理法を教えて、と迫ります。 この「料理法」をこっちでは「レスィピィ」(RECIPE)というのですが、レスィピィの交換はよく行われています。もちろん私も、おいしいお料理をいただくと、その家の主婦に聞いたり、コックさんのいる家庭のときは、どんどん台所に入っていってコックさんに聞きます。そして私のノートに書いておくのです。 昨日、|招《よ》ばれた家でたべた「サバのスペイン風トマト煮」は、実においしかったので、もちろんに書きとめましたが、お返しに「サバの味噌煮」を教えてあげました。奥さんは大喜び。サバはもちろん、お味噌も、お酒も、|生姜《しようが》も、お醤油も、すべてニューヨークで買えますから。 二十階建の高級アパートで、目の青い奥さんがサバの味噌煮を作ってる、なんて面白いじゃありませんか。 ……なんて呑気なことを書きながら、いまふと思ったことは、ちょっとまえまでは黒人はレストランに入れなかった、ということです。そして法律で、黒人が入るのを阻止してはいけないと決まったいまでも、私はただの一度も、ちょっとしたレストランで、黒人のお客に逢ったことがないのです……。 サラダ 小さいことですが、アメリカに来て知ったことのひとつに「サラダ」があります。もちろん、サラダという言葉は知っていましたが、ふつう私たちはサラダを作る材料を野菜といい、野菜は英語でベジタブルだから、サラダの材料は、ベジタブル、と思っていました。 ところが、それはどうやら間違いなのです。といっても、英語で野菜はたしかにベジタブルだし、サラダの材料のレタス、トマト、セロリー、ピーマン(話はちょっとそれますが、アメリカではピーマンを、グリーン・ペッパーと呼びます。はじめて行ったとき、あさはかにも英語だと思った私は、一生懸命「ピーマン、ピーマン」といったのですが、わかってもらえず「それはピー(豆)の種類か?」などと聞かれて困ったことがありました。ピーマンは何故かフランス語なのです)。 それで話をもどしますと、こういう野菜は、もちろんその通りの名前で呼ぶのですが、いざ、これでサラダを作るとなると、驚いたことに、全部が作る前から「サラダ」になるのです。 私がお友だちの田舎の別荘に遊びに行き、マーケットに一緒に出かけたときのことです。私はサラダを作る役目だったので、「さあ、ベジタブルを買わなくちゃ!」といったら、友だちが「今日は、お魚とポテトの煮込みだから、ベジタブルは必要ないじゃないの」と、いいます。「いいえ、生のベジタブルをたべるでしょう?」といったらとても不思議な顔をして、しばらく考えてから「生のベジタブルってなーに?」というので、私のほうがびっくりしました。 私としては、当然、生野菜のつもりだったのですが、よく聞いてみると、むこうとしては、ベジタブルというのは、つけあわせなどの、煮た野菜のことをいうので、「それの生?」と考えてわからなくなったらしいのです。 でも、いまだに私は、この「サラダ」について、よくわからないのですが、いずれにしても、サラダを作る生野菜を買いに行くときは、ちょっとおかしいみたいですが、「サラダを買いに行く」といえば間違いがないのです。もしできているサラダ、例えばポテト・サラダなどを買いに行くと思われたら困る、と思うかたもあると思いますが、売っているサラダには、それぞれ「××サラダ」とか、また違う名前があるので、その心配はないのです。 私の友だちの日本人の男性ですが、フランス語はもちろん、英語もほとんどできない人が、あるときパリに行きました。人通りの少ない道端に腰かけて休んでいたら、若いフランス人が歩いて来て、なんとなく隣りにすわりました。 私の友だちは、ふだんから愛想のいい人なので、何か話しかけたほうがいいように思って、その人がカゴをかついでいたので、魚屋さんだと思いましたから、「貴方は魚屋さん?」といおうとしました。でも、そんな複雑なことはいえないので、せめて「魚」を、フランス語でいおうとしたけどわからない、考えていたら英語ならわかったので、カゴを指さして「フィッシュ?」と聞きました。するとそのフランス人は、わかったのか、わかんないのか、とにかく「ノン」といいました。 それじゃ、きっと八百屋さんだと決めたけど、今度は八百屋がわからない。それじゃ、せめて「野菜」と思ったものの、それも出てこないので、一番、カンタンなやつでいこうと決めて「サラダ?」といったら「ウイ」と答えた、という話で、随分、いい加減な人もいるものだと、私たちは、ひっくり返って、そのときは笑いました。でも、いま考えてみると、アメリカ式にいうなら、これは、それほど笑うことではないのです。でも、私はやっぱり、いまでも笑ってしまいます。 いずれにしても、よその国の風俗、習慣を知るというのは、むずかしいことです。こういう小さいことで、知らないことが限りなくあるのですから。でもまた、それだから、よその国に住むのは面白いと、いえるのかもしれません。 ティーチャー 私の演劇の先生の名前は、メリー・ターサイといいます。歳はいくつかわからないけど、だいたい七十歳くらい。 昔はとてもいい女優だったのだそうですが、だいぶ前から先生になって、だいたいいつも十五、六人くらいのプロの俳優のために、クラスを開いて、秋からつぎの夏の初めまで一コース、というふうにして教えるのです。 私が、この先生に何故教えてもらうようになったのか、という話をすると長くなりますが、「貴女にめぐり逢うために、どんなにたくさんの偶然がこれまでに必要だったことか」という大好きなフランスの詩を思い出したので、偶然のいくつかを書いてみることにします。 三年ほど前に、帝劇で『風と共に去りぬ』をミュージカル化した『スカーレット』というのを上演したこと、ご存じのかたもあると思います。あれは、脚本の菊田一夫先生以外は、作曲も、装置も、衣裳も、全部ブロードウェイの人たちでした。 この中で、演出振付をしたジョー・レイトンさんは、『ノー・ストリングス』とか『ジョージー・M』、また最近では『トゥ・バイ・トゥ』など、ブロードウェイでヒットしたミュージカルを手がけた有名な人ですが、この人の奥さんが女優で、このメリー・ターサイに習っていたのです。 それで私が、このミュージカルに出たことからお友だちになり、ニューヨークに一年の予定で、休養かたがた勉強に行きたい、といったら「私の先生がいいから、ぜひ、習いなさい、話をしとくから」といって、まだ私が、いつ行くとはっきり決めてないうちに、ぜんぶ、お膳立てをしてくれちゃったので、自然、生徒になった、といういきさつなのです。 でも、自然になったとはいうものの、この先生にめぐり逢えたということは、私の人生の中で、とても大きいできごとでした。立派な先生で、私は、本当に、このメリーが好きです。そして運のいいことに、先生のほうも、東洋人を教えたのは初めてだそうですが、とても可愛がってくれています。 メリーは、いつも黒い洋服しか、絶対に着ません。たいがい、いつも同じ洋服、そして、ストッキングも、靴も、オーバーも黒。そして細い銀の首飾りと腕輪を数えきれないほどしています。だから先生が動くと、シャラシャラと静かな音がします。そして彼女は、たて続け、というより、前のが終らないうちに、つぎのに火をつける、というくらいに、煙草を吸います。 旦那さんは脚本家です。 さて、このメリーにどんなことを習ったか、というと、なにしろすべて英語なのですから、直接、私のこれからの演技に、どれだけ役に立つかわかりませんが、大きいことは、「想像力の強化」ということです。 彼女の説によると、俳優という仕事は、気も遠くなるほどの想像力を持っていなくてはならない。そして、一つの役について、どれだけの想像力を生み出すことができるかで、いい俳優か下手な俳優かが決まる、とまでいうのです。 といっても、その想像力が役から離れると「勝手に脚本を作らないで頂戴!」といわれます。 そういう点を指摘するときの早さと的確なこと。そして一番私が尊敬した点は、「じゃ、どうしたらいいか?」という疑問にすぐ答えてくれることです。ふつう「間違っている」「よくない」とは指摘できても、「じゃ、どうすれば……」というのは、むずかしいことなのですが、メリーは、それができるのです。 「いま、この俳優は、こういうところに、落ちこんでしまっている」とか、「こんな悪いくせがつきそうだ」とか、「なにが、この人に足りない」などということを、すぐ見抜いて、いってくれるのです。そして当然ですが、人生に起こるいろんなことを山のように知っています。 また、とても優しい人で、時どき授業のない日に、私のアパートに電話をかけてくれて、「日本に地震があったとニュースがいったけど、大丈夫らしい」「札幌オリンピックで日本の選手が、いまテレビに出ているけど見てる?」「今週で、あの舞台の、あの俳優はやめて、違う人になるから、いまのうちに見ておきなさい」というふうに、私の本当に必要なことを、いつも教えてくれるのです。 そして、前の写真でもおわかりのように、元気で、若わかしいこと、そして瞬間のうちに、どんな役の姿にもなれることの物凄さ、びっくりしてしまいます。ついでですから申し上げると、私の相手役になっているこの同級生の男の人は、この秋から、ブロードウェイで上演されるアラン・ベイツ、ヘレン・ヘイスなどの出る芝居で、いい役にえらばれた人です。 私が、アメリカがうらやましいと、心から思う点は、プロになってからも、こういう、すぐれた先生がいて、教えてもらえることです。現在六十歳、ブロードウェイのトップ・スターであるグエン・バードンなどが、いまだに習いに行く先生がいる、というのですから。 アンダー・スタディー ブロードウェイの舞台で、本役の人が病気になったり、気分がむかないとき、代わって出る人を、アンダー・スタディーといいます。これは日本の「代役」というのとちょっと違っていて「あの役のアンダー・スタディ—をやりました」ということは、その人の芸歴の中で、立派に役立ちます。 プログラムの人物紹介にも、ちゃんと「誰れ誰れさんのアンダー・スタディーに選ばれて……」なんて書いてあるくらいです。それは、いいのですが、ブロードウェイで気に入らないのは、主役が休んで、このアンダー・スタディ—がやるなどということを、けっして事前に観客に知らせないことです。 日本だったら、劇場の入口を入ると、すぐ目につくところに「本日○○○病気のため、△△△をもって代役といたします」と貼ってあるので、すぐわかり、それでもいいから見ることにするか、払いもどしをして帰って、つぎの機会にするか、と考える余裕があるのですが、あちらはこういう仕掛けです。 開幕のベルが鳴る。観客は席にすわって幕が上がるのを、いまや遅しと、待ちかまえている。客席、暗くなる。ミュージカルだと、ここで、前奏など始まる。「さあ、始まるぞ!」と客が乗り出したとき、スピーカーで「本日、主役の○○○出演不能のため、アンダー・スタディー△△△が演じます」と、いうが早いか、オーケストラが、どんどん演奏を始めちゃうので、「あれー、せっかく、あの人を見に来たのに」と思っていると、もう幕が上がって芝居が始まっちゃうので、立つ気にもなれず、そのまま終りまで見ることになるので、とてもずるいと思います。 ただ感心するのは、アンダー・スタディーが「自分は代役だから、このくらいやればいいんじゃないか?」という感じはなく、本当は毎日やってるんじゃないかと思われるくらい、ちゃんとやることです。そして観客も、はじめはブーブーいってても、終りには「よくやった!」と大拍手を送るのです。 でも本役が休まなければ、永久に出るチャンスはなく、また本役も、自分より上手にやられたら大変ですから、休まないように努力するので、アンダー・スタディーの神経の疲れは、大変と思います。一カ月単位の芝居で、アンダー・スタディーのない私たちは、考えてみれば、なんて呑気なことでしょう。 ベジタリアン ベジタリアン、という言葉を初めて聞いたとき、「菜食主義者」という意味とはしらず、インディアンとか、イタリアンというのと同じにどこかの国の人のことかと思いました。 さて、いまニューヨークの若い人の間に、この菜食主義が、とてもはやっています。ある種類の人は、肥らないためですが、たいていは、動物を殺してたべるのはよくないという考えと、「禅」に憧れてるらしいのですが、とにかく増えてきているのです。 日本では、野菜がとても高いので、菜食主義も大変と思いますが、アメリカは、他の物価にくらべて安いし、豊富なので、その点は簡単です。でも野菜だけだと、栄養が足りないといけないといって、卵とか貝などはたべる人もいます。 そして、それに合わせて、どういうわけか、|裸足《はだし》の女の子が圧倒的に多いのです。私の若い友だちにいわせると、ひとつには「自然に帰る」という思想、そしてもうひとつには動物を殺して作った靴はいやだ、という考えなのだそうです。 長くのばした髪を真ん中からわけてたらし、シャツにブルー・ジーンズ、そして裸足というのが、若い女の子の大多数で、この格好で、飛行場だろうが、町の中だろうが、バスだろうが、パーティだろうが、まったくおかまいなしに、どんどん入って行きます。私などは、よく足の裏が痛くならないものだと感心してしまいます。 でも、さすがに私の友だちの娘のように、寒い避暑地で裸足でいると、かかとが古いお餅のように、ひびわれて、あかぎれのひどいのになってしまいます。 ある日、この子は、あかぎれにすっかり泥がつまって、ヒビヒビになった|かかと《ヽヽヽ》を見ていましたが、突然、病院に行くから一緒に行ってほしいと、私にいうので、ついて行きました。その子は、先生に、かかとがこうひびわれるのは、ビタミンが足りないのじゃないかと聞きました。先生は足の裏と、かかとをチラリと見て「裸足で歩いてるの?」と聞きました。その子が「うん」と答えると、「こんな寒いところで裸足で歩いてたら、ビタミンが足りてても、ひびはきれるさ。靴をはきなさい! 靴を!」といいました。 ところがその子はガンとしてそれを拒否し、どうしてもビタミンが足りないといいはって、ついにビタミンAだが、Eだかを一瓶、手に入れました。そして家に帰ると相変わらず外も家も関係なく裸足でペタペタと歩いては、ビタミンを飲んでいました。 でも、たしかに裸足というのは気持がいいものです。裸足に畳の感触、これはいままで日本人だけのものでしたが、いまに世界的になるのではないでしょうか。すでに、セントラル・パークなどで、日本の下駄をはいているアメリカの女の子に、どれくらいすれ違うかわからないくらいです。やっと靴と、じゅうたんに馴れた私たちは、いったい、どうしたらいいのでしょう。 ウィンド 英語をカタカナで書くと、ときどき困ることがあります。現在も、そうなのですが、私は「|風《ウインド》」のつもりなのに、ウィンドと書くとなんとなくショウ・ウィンド、といったような感じになってしまいます。まして発音どおりウィンドウ、とすると、なおさらわからなくなります。それはとにかく、「風」について、今日はお話しようと思っているのです。 風といえば、昔、「風邪」という英語がどうしてもわからなくて、この「風」でわかるかと「アイ・アム・ウィンド」といってまったく通じなかった、という友だちがいましたが、やはりこれは、いくら勘のいいアメリカ人にもわからないでしょう。ご存じと思いますが、ちなみに「風邪」は「|COLD《コールド》」です。流感のときは、インフルエンザを略して「フル(FLU)」ともいいます。脱線してしまいましたが、これからお話しするのは「風」です。 ニューヨークは、時どき、突風が吹きます。もちろん、ニューヨークじゃないところにも、風は吹きますが、高いビルが多いと、ビルの谷間に特別の、うずまき風のようなのが起こって、風の強い日は、時にそれが突風のようになるらしいのです。さて、この突風が、時どき、大事件をまきおこすので、とても注意しなければいけないのです。 だいたいニューヨークの街の中のビルは、九十年から百年たっているものが多いのです。オジイさんなどはこういう古い建物を「茶色の建物」、新しいモダンなビルなどを「白い建物」と呼んで区別してるようですが、この頃、この「茶色の建物」の|飾りもの《ヽヽヽヽ》が強い風の日などに取れるようになったのです。 飾りものというのは、煉瓦やコンクリートなどでできていて、ベランダを支えてる形のものや、窓の下に装飾的に出っぱったりしてる、だいたいウクレレ程度の大きさのものですが、これが建物から取れるとなると、加速度がついて大変なわけです。 いつか学校の帰りに、家の近くまできたら、歩道に人が大勢集まっているのです。どうしたのかと思ったら、この飾りものが、ビルの八階から取れて落ち、一階の床屋さんの赤と白のテントのような、歩道に張り出してる屋根をつき破って、ちょうど下を歩いていたオバアさんの頭に命中して、いま救急車で運ばれたところだ、っていうのです。随分運の悪いオバアさんですが、私だって、運が悪きゃ、こういう目に遭うわけです。 話は違いますが、よくニューヨークでは道路で人が死んでいても、人びとは無関心で通り過ぎる、なんていいますが、私の見た限りでは、むしろ日本人より以上に関心を持って、むやみと人が集まるみたいです。 このときもそうで、みんな口ぐちに「なんて気の毒だ!」「どこのオバアさんだ?」「よく見かける人よ」「恐ろしいじゃありませんか!」といって、いつまでもその場を離れないのです。 それにしても、いつ風で上から物が落ちてくるかわからないのじゃ、恐ろしくて歩けやしない、と私が口の中でブツブツいったら、隣りにいた背の高いオジイさんが突然「そうです。だから、みなさん田舎に住みましょう!」と大きな声でいいました。「でも、田舎に住めないとしたら?」と、少し離れたところにいた、かつらをかぶったオバさんがいいました。するとオジイさんは「その場合は車道に近いところを歩きましょう。ただし、犬の糞には気をつけて!」といいました。 最近は罰せられるようになったみたいですが、前は歩道の車道寄りや、車道の歩道寄りは、犬の糞だらけだったので、タクシーから降りるときは、まず、足をおろす前に、道を見ることが必要だったくらいです。 そんな具合ですから、上を見たり下を見たり、まるで宮本武蔵のように、いつも気を配って歩くのは大変だと思いました。 また私は、交差点で青になるのを待っていたとき、突風に押されて、前にとび出て、もう少しで車にひかれそうになったこともありました。 ニューヨークなど、大きいビルのあるアメリカの街で風が強かったら、どうぞ、みなさま、お気をつけください。 ただでさえ、日本人に風あたりの強いアメリカで、風の事故にあってはつまりませんものね。 クリスマス 私はあさはかにも、西洋人ならみんなクリスマスをする、と思っていたのですが、それは大きな間違いでした。むしろ私の友だちは、ほとんどクリスマスをしない、といっていいくらいです。何故なら、私の友だちはユダヤ人が多く、ユダヤ人はキリストを認めていないのだから、キリストの誕生日であるクリスマスを、けっして祝ったりはしないのです。そんなわけで、私はニューヨークのクリスマスを見学するために、キリスト教の友だちを探さなければならなくなりました。 ところが、運のいいことに、アルメニア人の友だちが、「クリスマス・イヴに教会に行きませんか?」とさそってくれたので、これ幸いと、行ってみることにしました。どこの教会に行こうかと、いろいろ調べた結果、リンカーン・センターに近い、カトリックの教会、ということに決まりました。 このアルメニア人の友だちは、何故かイギリス国教である聖公会(エピスコパル)の信者、そして日本人の私が新教(プロテスタント)。共にキリスト教ではあっても、流派が違うのです。それが二人揃って、また流派の違うカトリックの教会に行くのですから、ヘンな話。もっとも、キリストをたたえることは同じなのだから、まあ、いいでしょうということになって、出かけました。礼拝は、夜の九時から始まりました。この教会をえらんだ理由のひとつは、聖歌隊、及びオーケストラつきの他に|バレー《ヽヽヽ》(ボールではなく踊りのほう)も入るという宣伝だったからです。 この教会の建物は非常に豪華で大きく、天井は高く、立派なものです。礼拝に来てる人は年寄りはもちろん、若い人も多く、みんなふだんより、いい服を着てるみたいでした。頭の禿げたオジさんや、まじめそうなお姉さん、また、汗をふきふきしてる肥ったお兄さんなどで編成されている聖歌隊はみんなお揃いの真赤なガウンで、いそいで見たらサンタクロースの団体か、と思うくらいですが、その声の揃ってよく合うことは抜群です。 ふつうカトリックの教会では、われわれの知ってるクリスマスの讃美歌を歌う、ということはあまりないそうですが、クリスマス・イヴにかぎり「聖し、この夜」「もろびと、こぞりて」「ああ、ベツレヘムよ」など、一般的な歌を、ここではどんどん一緒に歌わせてくれるのです。これがないと、みんなが礼拝に来てもクリスマスの感じがしないので、サービスに流派を越えるのだそうです。 そのうちにバレーが始まりました。この夜のために、新しく作曲したミサ曲を、三十人くらいのオーケストラが演奏、それに合わせて、マリアが天使のお告げで|みごもる《ヽヽヽヽ》あたりから、キリストが十字架にかかるまでを、四人くらいのダンサーが踊りで見せました。正面の祭壇のいろんなものを取りはらい、ふだんより広くなったところで、飛んだりはねたりするわけです。 とはいっても、ブロードウェイ・ミュージカルの『ジーザス・クライスト・スーパースター』などとは根本的に違って、やはり大変に|荘重《そうちよう》でありました。これはマリア役がバレリーナにしては、ひどく肥っていたので、余計に荘重な気がしたのかもしれません。 そうこうしているうちに、ミサは終りました。暖房のきいた礼拝堂から出ると、外は気持よく冷えていて、街は静かです。友だちと別れて私はアパートに帰り、小さい暖炉に薪をくべて、火の見えるところにすわりました。おそらく、屋根の上の大きい煙突からは煙が出ていることでしょう。 私は小さいとき、サンタクロースが入ってこられるように、どんなに大きな煙突が欲しかったかわかりません。でも、サンタクロースがそこからこないことを知ったいま、大きな煙突があっても別にうれしくなく、火なんかたいちゃうんだから「大人になると、いやですねえ」などと一人ごとをいって、私は寝ることにしました。外はクリスマス・イヴにふさわしく、雪が降り出したようです。ニューヨークのクリスマスは、静かでした。 ヤング 若さ、というものは「年」に関係ないんだ、ということを、私はこの夏に、つくづく思いました。今年の夏は、ニューヨークから少し離れた避暑地に行くチャンスが多かったので、そういうところで、街の中では見られない若わかしいオバアさんをたくさん見て、とても感動したのです。その中の一人をご紹介しましょう。 私の友だちの別荘に泊りに行ったときのことです。友だちの知り合いのご夫妻からピクニックのおさそいがあったので、われわれはよろこんで出かけました。 知り合いの奥さんは、名前をベッツィーといい、年は七十歳くらい。ご主人も年はほぼ同じ。ベッツィーさんは、顔にたてにシワはあるし、美しい人ではないけれど、とっても元気のいい人で、水色のショートパンツに運動靴といういでたちで、私たちの他にこのピクニックに集まった中年の友だちや、その人たちの子供や、孫や、なんだか総勢十五人くらいの一族をとりしきっているのです。 そのとりしきりかたが、いわゆる、口ばっかり達者で、というふうでなく、まるで学校を出たての若い体操の先生、という感じです。私たちは、ベッツィーさんの作った多量のお弁当や、水筒や、果物を、手わけして持って、ベッツィー家の舟つき場に行ったのですが、ここでもまた、彼女の魅力は百パーセント発揮されるのです。 「はい、女、子供は全部ここにいらっしゃい。私が救命具をつけますから」「モーターボートは二艘あります。一つは主人が、もう一つは私が運転します」「では、貴女はこっち、貴方はあっち」「みんな乗りましたね? じゃ行きましょう。あなた(ご主人のこと)、エンジン大丈夫ですか? ではお先にどうぞ!」 「ではわれわれも出発します。GO!」 そうしてわれわれは、大西洋の中の小さな小さな島、「タバコ島」に到着しました。何故タバコ島と呼ばれるのかは、はっきりしませんが、昔、ここで煙草の葉を作ったのではないか、という意見が誰かから、出ました。 さて、上陸したわれわれはベッツィーさんの指示で、それぞれ、岩でテーブルを作ったり、テーブル・クロースをかけたり、サラダを混ぜたり、お皿を並べたり、パンを切ったりしました。そして、みんなでとてもおいしいお弁当を、たくさんたべて、その後、貝をひろったり走ったり、昼寝をしたり、自由に遊びました。その間ベッツィーさんはご主人と並んで散歩をしたり、若いママさんと、なにか秘密めいた話をしたり、小さい男の子に「ころんでも泣かない法!」なんていうのを教えたりしていました。 やがて夕方になり、またわれわれはベッツィーさんのいう通りに救命具をつけ、モーターボートに乗り、もとの島に帰ってきました。このピクニックの間じゅう、ベッツィーさんは実に優しく、かつ行動的で、私は心から感心しました。われわれの一行の誰よりも、彼女が魅力的でした。 その後、海に面した彼女の家のテラスで、私にこんな話をしてくれました。 「私は、つい最近、いまの主人と結婚したのよ。前の主人が死んでから、二十年間、私は未亡人だった。でもいまの人が結婚してくれたから、私はいまとても幸福なの。感謝してるわ。この別荘は、二人のなけなしのお金で作ったのよ。こんなに遅く幸福がくることもあるのね。希望はやはり持っているものね」 大金持ちでもなくて、七十歳くらいで結婚できたことは本当に素晴らしいと思います。が、これもひとえに、彼女の若わかしい魅力のせいだと思います。そして初めて逢ったときは美しいと思わなかった顔が、別れぎわには、なんと、輝いて見えたのです。 誰もが、このベッツィーさんのように、健康でいられるとも限らないけど、少なくとも彼女自身、いろんなことを努力している、と私は思いました。二十年間の未亡人生活も、彼女をダメにしなかったんですものね。 『欲望という名の電車』の主人公のように、年をとることへの不安から、気狂いのようになってるオバアさん、五年前に亡くなったご主人のことを、昨日死んだことのように泣いて見せて人の同情を買おうとするオバアさん、また、世の中のすべてのことに興味を示さず、ただ陽あたりにじーっとしてるオバアさん。そして、なにかにつけて不満をのべるオバアさん。こういうオバアさんの多いニューヨークに、このベッツィーさんのような人もいる、ってことを知って、私はとてもうれしくなったのです。 本当の若さというのは、年齢の若さの瞬間的なのにくらべて、永遠のものであると信じて、私も上手に年をとりたいと思っているのです。 ゼン(禅) 早いもので、アルファベットだよりを始めてからもう一年になります。そして、とうとうおしまいの「Z」になってしまいました。私のアメリカでの一年は、このアルファベットだよりで始まり、いま終るわけです。「Z」を禅にしたのは、資生堂の香水に「ZEN」があるからではありません。 もっとも「ZEN」は、いつも私が使っていて、特にニューヨークでは「何を使ってらっしゃるの?」と随分アメリカ人に聞かれて、鼻たかだかだったことは事実ですけれど、「Z」を禅にしたのは、なんといっても「禅」がアメリカ人の憧れだからです。「サトリ(悟り)」はいまや、「ジュウドー」「カラテ」と同じくらいポピュラーになっています。 外人同士が集まっての座禅大会。それほど本式ではなくとも|数珠《じゆず》をいつも肌身はなさず持っている人たち、禅の食事と称する日本食をいつもたべている人、ブルックリンの植物園の中に、京都の竜安寺と全く同じ石庭ができていて「禅ガーデン」と呼ばれているのですが、そこに出かけて行って、悟りを開こうとする人、ブームといっては失礼ですが、アメリカでは、ますます禅を知ろうとする人が増えているようです。 考えてみれば私も、一年仕事を休んで、セントラル・パークのベンチに腰かけて、一日中じーっと自分の生きてきたこと、これからのことを考えていたときもありましたから、これも大胆にいってみれば禅に通じるものかもしれません。 いま、お経が日本で|流行《はや》っているそうです。流行っているといういいかたはいけないかもしれないけど、般若心経のカセット・テープが大変な売れ行きだそうです。たとえ流行にもせよ、ひとり静かに精神を集中するのは、いいことだと思います。 私はテレビの仕事にもどっても、セントラル・パークのベンチのことは忘れないようにしようと思っています。 この一年、みなさまのはげましのお手紙や投書で、どんなに力づけられたか、わかりません。心からお礼を申し上げます。 それでは、ここで最後のお別れの言葉「またお逢いする日まで」をドイツ語で申し上げます。なぜドイツ語なのかというと、ちょっと|しゃれ《ヽヽヽ》になっているからなので、どうぞ、そのしゃれをお見のがしのないように、おねがい申し上げます。 それでは、みなさま。アウフ・ヴィーダー・ゼン! [#改ページ] 『繭子ひとり』と私 モノローグ〔〕 日本と違いまして、アメリカは、サービスが悪いといいますか、それとも働く人がみんなで平等にお休みをとるといいますか、とにかく日曜日というのはお話にならないんです。デパートはもちろん、レストランも、いろんなお店も、みんなお休み。ホンのちっちゃい立ち喰いのようなところですとか、小さいスーパーマーケットのようなものは多少、開いていますけど、ほとんどが全部閉まっていて、日本でいったら、元旦の東京です。 ですから当然、郵便物の配達も日曜日はありません。ただ、速達ですとか、電報ですとか、そういうものの場合は、郵便屋さんが配達してきます。 そしてまァ、ほとんどのニューヨークのアパートはそうなんですけれども、入口にドアマンとか、エレベーターボーイ、それから、いろんな使用人が大勢いるお金持ちのアパートは別として、ふつうのアパートは、泥棒が入らないような仕掛けができています。 それは、アパート全体の入口のドアが外からけっしてあかないのです。私が自分自身で入るときは、合鍵で入ればいいのですけれども、来客がどうするか、といいますと、ドアの外に名前を書いた郵便受けがありまして、そこにボタンがあります。 そのボタンを「ビー」と鳴らしますと、私の部屋のベルが「ビー」と鳴るんです。そこで、インターホーンがありますから、「どなたさまですか」というと、郵便受けのところから、「誰それでございます」ってお客さんから声があって、そのかたなら入っていいということを私が判断いたしますと、部屋の中にあるベルを、今度こっちが「ビー」と押すわけです。 そうすると、私がベルを押し続けている間は表のドアがあくんです。これは不思議で、たとえ、私の部屋が四十階でも、一階の表戸があいちゃうんです。そして、私が入ってもらいたくない人のときには、もう知らん顔しておけば、永久にそのドアはあかないわけなんです。 この仕掛けは非常にいいのですが、泥棒の場合は頭がいいですから、どこの家のボタンでも目茶苦茶に押すんです。そうすると、インターホーンのないアパートや、こわれているところでは、誰だかよくわからないから、郵便屋さんかもわかんないしっていうんで、自分の部屋のベルが「ビー」と鳴ると、なんとなくこっちも「ビー」と押しちゃうと、スウーと建物の中に入ってきて、ほかのうちの部屋に泥棒に入ったりして、迷惑がかかることもあるんです。 そこで、私のアパートの管理人のオジさんは、どんなことがあっても自分の待っている人以外のときは、けっして表のドアをあけてくれるな、と厳重にいってました。 私のところも、インターホーンがもうこわれておりましたから、私は知ってる人の場合は、必ず電話をかけてから来ていただき、それ以外に「ビー」と鳴ってもけっして返事をしないことにしていたんです。 よく留守番をしている仔羊のところに狼がきて、「トントン」なんてノックして、「お母さんだよ」なんていうのと同じような気がいたしましたけれども、けっしてあけなかったんです。 さて、ある日曜日に、「ビー、ビー、ビー」と鳴るんです。あんまり「ビー、ビー」押すもんですから、誰かしらと思って、通りに面している窓をあけて下を見ましたらば、郵便配達の赤い自動車がとまってました。 「じゃ、まァ、いいか」と、ベルを押しましたら、一分くらいして部屋のドアを「ピンポン」と鳴らしたので、今度は部屋ののぞき穴からその人をよく見たんです。 そうすると、郵便配達人でしたので、大丈夫だとは思いましたけど、部屋の鎖は厳重にしめたまま、「どちらさまでしょう」といって、少しあけたら、「郵便屋です」といって速達をくれました。 私は「どうもありがとう」といって、そういうときは、チップは別にやらなくていいですから、ドアをしめました。そしてその速達を見ましたら、話は長くなりましたが、文藝春秋からだったんです。 『文藝春秋』四月号に、随筆を書いてほしいというご注文で、ちょうど私が一九七一年の九月までやりました『|繭子《まゆこ》ひとり』のこと、どうでしょうっていうふうに書いてありました。 ちょうど、その頃、ニューヨークで『繭子ひとり』のロケーションをやることになっていたので、そのときの模様を書かしていただくことにしました。それを、これから読んでいただくのですが、この中に、ちょっと書くのを忘れたことがあります。 私が五番街のいちばん賑やかなロックフェラー・センターの前でひどいオバさんの格好になって撮影をしておりましたときに、外人の女の人がスッと私のところに寄ってきまして、日本のある新興宗教の名前をいい、私に入らないかと、英語で|折伏《しやくぶく》したんです。 ふだんの格好のときはこないのに、まァ、よっぽど私が、そういう宗教を必要としている人のように見えたのでしょう。そして、一生懸命、集会に出ないかと勧められてしまい、断わるのが大変でした。 この同じ五番街も着るものによって違ってきます。 この撮影の少し後のイースターパレードのときに、振袖を着て歩いてみましたら、たくさんのキャメラマン、ニュース・キャメラマンが私を写しにきました。 この頃は、イースターパレードといっても、昔のような花のついた帽子をかぶる人も少なく、新しいアイディアの、いわゆる珍しい格好も種切れのところに、私が振袖で歩いたものですから、みなさんとっても珍しがって、何十人、何百人から写真を撮られたか、わかりません。 その日の夕方のテレビのニュースとか、翌日には『デイリーニュース』その他のいろんな新聞に大きく写真が出たくらいでした。 もちろん、私が誰ということではなく、イースターパレードの中の美しい東洋の風俗という具合に紹介されたわけです。 では、速達でご注文の「『繭子ひとり』と私」(原題「『繭子ひとり』でまなんだ事」)を、読んでいただくことにいたします。