黒川博行 二度のお別れ     1  風呂あがり、やっとありついた晩飯。冷めたアサリの吸物をひとすすりして、さてこれからと箸をとりあげた時、電話が鳴った。反射的に壁の時計を見る。もう午後十時、こんな時間の電話にろくなものはない。 「おーい、電話やでー」  ちょっと振り向けば受話器に手が届くもののなぜかおっくうで、隣りの部屋にいるはずの佐智子に声をかけた。返答がない。代わりに、ザーッと水の走る音のするところをみれば、残り湯で洗濯でもしているのであろう。 「えーい、しゃあないなあ」  受話器をとる。 「はい、黒田です」 「黒さんか……わしや、村橋や、帰ったばっかりでしんどいやろけど……」  抑揚のないしぼりだすような声を聞いた途端、私はまだ未練がましく手にしていた箸を放り出した。出動命令である。 「うん、そや、北淀川署や。先に現場、寄ってくれへんか。他の連中にも連絡しとく。わしも手が空いたら行くよって」 「ほな、いますぐ出ますわ……一時間もせんうちに着きます」  これからの外出が決して本意ではないということを、直属上司である村橋に気付かれないよう努めて平静な口調で喋ってはいたが、眼と眼の間がせまくなり、唇がへの字に曲がるのまで隠す必要はなかった。  実際、私は疲れていた。もう十日ほども前になろうか、羽曳野で発生したガソリンスタンド強盗事件の犯人をその翌日にあっけなく逮捕したのはいいが、この犯人、お定まりのように供述が二転三転する。その度に、こちらは裏付け捜査のため右往左往させられる。今日も夜の八時まで富田林近辺の自動車修理工場を巡り歩いていた。 「もう堪忍してえな」  ひとり呟いて食卓上の小型テレビのスイッチを切った。  こんな遅くから私を駆り出す原因となった事件は、さっきから何度もくどいほどテレビ、ラジオで報道されている。  新幹線、新大阪駅の北にある三協銀行新大阪支店に強盗が侵入し、いあわせた男の客一人をピストルで撃ち、そのまま人質として連れ去ったというのがそのあらましである。強奪された金は四百万円。人質を連れ去ったことと、その消息がまだ掴《つか》めないということが、事件を大きく取り扱う理由となっている。 「おーい、佐智子、お呼びがかかった。出掛けるで。帰りはまた連絡するから」  残りの吸物を一気に飲み干して立ち上った。まだ温かみの残っている靴に充血した足を滑り込ませる。 「男はつらいよ」  と、ひどく陳腐な言葉を吐きながら。  阪急茨木駅から梅田駅、地下鉄に乗り換えて新大阪駅、改札口を出て北へ歩くこと十分。もう十一時を過ぎているのに、そのビルだけには煌々《こうこう》と明りが漲《みなぎ》り、周辺に多数のヤジ馬がたむろしていることで、遠目にも、そこが事件の現場、三協銀行新大阪支店であると知れた。テレビ中継車が二台、その大きな図体を反対側車線に横たえており、局員が歩道上に大仕掛けな望遠カメラをセットして、関係者の動きを追っている。  新大阪支店は、二階建て鉄筋コンクリート。ブラウン管を通して見た感じよりずっと小さく、三協銀行各支店の中でも小規模な店舗と思われた。南側が玄関で、六車線の広い道路に面し、西側を中古車センター、東と北を住宅展示場に囲まれている。  一帯はビジネス街でもなく、住宅地域でもない。目立つ建物といえば、新幹線利用の出張族をあてこんだワンルームマンションと、高い塀をめぐらせた学校だけ。あとはフェンス囲いの空地と、露天の駐車場がそこここに点在している。これでは昼間の人通りもあまり多くないだろうと推察できる。  ともかく、押し入るには恰好の条件が揃っていた。  紙芝居のおっちゃんを見つけた子供のように、顔見知りの記者連中が走り寄って来て、私をとり囲んだ。 「黒田はんのお出ましでっか。何か新しいネタ持ってはりませんか」  私がお出ましになったところでどうってことない。第一、来たばかりの私より記者連中の持ちネタの方が多いに決まっている。 「わし、まだテレビニュースで見たことしか知らんのや、ちょうどええわ、経過をかいつまんで教えてくれ——いや、いま分ってる範囲でええから」 「それやったら話が逆ですがな。黒田はんにかかったらわやにされる。……ま、よろし、報告しまひょ。その代わり、あとでええネタ頼みまっせ」 「あとのことはどうでもええから、早よう説明してくれ」  情報に飢えている記者相手だと、私も少しは強い立場にある。日頃、えらそうにする機会がないので、ここを先途《せんど》と攻めたてる。 「もう、しょうないなあ、しっかり聞いて下さいよ」  中で一番年かさの記者がしぶしぶ語り始めた。  その日、四月一日は朝から小雨がパラついて、本格的な春到来がまだ程遠いことを感じさせるような寒さであった。  銀行内は三月の決算期を越え、昨日までの戦場のような忙しさが嘘のように静まりかえり、全てが平常に戻っていた。  午前中の客の波が少し引いて、そのことがそろそろ昼食時であることを知らせる十一時三十四分、強盗が侵入した。犯人は自動扉が開いて行内に足を踏み入れるや、ピストルを天井に向けて二発たて続けに発射した。パーン、パーン、と何か気の抜けたような軽い音であったが、天井の石膏《せつこう》ボードに穴があき、そのかけらや粉が降るのを見て、行内は騒然となった。  犯人は入口附近に立ち、スッポリとかぶったマスクのために円くなった頭を小刻みに動かして行内を睨めまわす。 「ゼニや、ゼニ出せ。あるだけの金かき集めてカウンターの上に置け。早ようせい。他の奴らはその場に伏せんかい」  喚きながら正面のカウンターまで走って、出納係にピストルを突きつけた。もちろんこの時、北淀川署とのホットラインは作動していたし、防犯カメラもまわっていた。出納係は十九歳の女性で、あまりに突然の出来事にすぐには動けない。銃を突きつけられるまま、呆然と両の手を上げていた。 「何しとんねんわれは、誰が手を上げ言うた。ゼニを出すんや、ゼニを。早よう出さんとほんまにぶち殺すど」  と、一歩踏み込んだ。その時、犯人のうしろ、三メートルほど離れた地点から男がとびついた。ほんの一、二秒揉みあったあと、バーンと今度は少し鈍い音がして、とびかかった男はその場にくずおれた。押さえた腹からは、血がしたたり落ちて床を赤く染める。その光景を見て行内は蜂の巣をつついたような騒ぎになった。 「やかましい、静かにせんかい。ゴチャゴチャ言う奴は、こいつのようになるんやぞ。分ったらじっと伏せとけ」  行内を見渡してそう叫ぶと、出納係の方に向き直って、また銃を突きつけた。出納係は目の前で人が撃たれたものだから、恐怖の頂点に達したらしく、がむしゃらに金を積みあげる。犯人はその金を腹巻にねじ込んでいる間も、 「もっと出せ、もっと出さんかい。一人やるんも二人やるんもいっしょやど」  と、決まり文句を並べ立てていた。思わぬハプニングであったが、人を撃つことによって生じた恐怖は、犯人にとってより好ましい状況を作り出していた。もう誰も歯向いはしない。ただ犯人の言うがままであった。 「もうええ、そんな小ゼニはどうでもええ、ええからおまえ、こっちへ出て来い。早よう出て来んかい」  喚きながら、出納係を掴もうとカウンター越しに手を伸ばした。十九歳の娘にとってこれがもう本当の限界であった。悲鳴をあげて後ずさりする。 「このガキ、何さらすねん」  犯人はカウンターを越えようとした。その時だった、倒れていた男が血で真赤に染まった腹を押さえながらウーンと呻いて立ち上ろうとしたのは。まだ生きている。 「くそっ、おまえでええわい」  犯人は男のえり首をうしろから掴んで引き起こした。男は玄関までひきずられるようにヨロヨロついていく。もう抵抗する気力も体力もないようだ。 「ええか、じっとしとれよ。そのままや。動いたらぶち殺すど」  犯人は扉の手前で振り向くと最後の脅し文句を残し、男を連れて出て行った。あとに残ったのは少なからぬ血と、男の割れたメガネだけ。行員や気丈な客があとを追って外にとび出した時は、白い車が五十メートル先の通りを左に折れるのが見えただけであった。  正確な被害金額は三百九十四万六千円。  犯行時、行内にいた客は七名、行員は十八名。  犯人は中肉中背、顔には防寒用の、眼と口の部分だけ露出している毛糸のマスク。色は黒、三つ開いた穴のまわりには白いフチどりがある。薄茶色の作業服上下、上着のボタンはあらかじめ外してあった。その下は黒っぽい腹巻、そのまた下はラクダ色の丸首シャツ。靴はありふれた形の安全靴。手には黒の革手袋、首に赤いタオルを巻いていた。  強盗を捕えようとうしろからとびかかった男の名は、垣沼一郎。三十五歳、近くの鉄工所の経営者である。融資依頼に来たが、銀行の担当者が席を外していたため、ロビーのソファーに坐って待っていたもので、彼にすれば思いもよらぬ災難に巻き込まれたことになる。  記者達の語ってくれた事件経過は以上のとおりであった。  私は何か新しいネタを仕入れたら必ず提供することを約して、その包囲網を逃れた。  中に入るため外部警備の若い警官に身分を明かすと、ハハッとかしこまって姿勢を正した。ほんの少し優越感を覚える。何といっても私は府警捜査一課の刑事である。  ロープを跨いで行内に入る。照明と人いきれのためだろう、少なくとも外よりは暖かい。立てていたコートのえりを元に戻した。  行内はまだ事件の余韻を充分に残していた。人造石を貼ったあずき色のフロアには、チョークで、犯人の行動経過、撃たれた男の血痕、倒れていた状態、男のメガネの位置が示されていた。レンズのかけらがその周辺に散乱している。  入口すぐ近く、天井の、犯人に撃ち抜かれたと目される石膏ボードは取り外されて、そこにはポッカリと二つの正方形の穴が開いていた。その奥の弾痕までは暗くて見えないが、弾は既に摘出され、種々の検査を受けているはずだ。  カウンターの上にはまだ何枚かの千円札が残っているし、事務机の上には書類が散乱したままだった。椅子が倒れクズカゴがひっくり返り、全てが犯行時の異常事態を物語っていた。  現場の状況は記者達から聞いた犯行内容とピタリ一致し、その情報収集力が非凡なものであることを改めて実感させられた。  独特のキンキンとかん高い声が聞こえる。マメちゃんだ。府警捜査一課第六係刑事。フルネーム、亀田淳也。姓はともかく名前の方は新派の二枚目でも充分通用する甘い響きを持っている。もうそろそろ三十に届こうかという年だが童顔、色黒で、背が低く、コロコロしたその体型から、みんなは彼を「マメダ」と呼ぶ。「豆狸《まめだぬき》」と「カメダ」をひっかけたものだ。陽気で、機関銃のように息つく暇なく喋りまくる。性格と体格を見事に一致させた人物ではある。その風貌と気易さが聞き込みや取調べの際強力な武器となって、若手であるにもかかわらずベテラン捜査員に伍していける理由となっている。  愛すべき存在ではあるが、マメちゃんと半日も一緒にいるとめっきり疲れる。そのお喋りに応対しなければならないからだ。  しかし、いまは便利だ。何かと新しい情報を持っているに違いない。靴音を忍ばせ、うしろからそっと近づいて尻を撫でてやる。我ながら——あほなことを——と思うが、マメちゃん相手だとこんな出会いこそふさわしい。 「ギクッ、あっ、なんや黒さん。まだ病気治ってませんのか……いつ来はりましたん?……ええ、だいたいそんなとこです。犯人も人質もまだ行方不明ですわ。人質が負傷してるから、そう遠くへは行かれへんはずやし……明日中には見つかりますやろ。ところで黒さん、聞きはりました?」 「何を」 「捜査分担……府警本部が担当することになりましたんや。神谷警部じきじきのお出ましやそうでっせ」 「また、あの赤だるま出しゃばりよるんかいな」 「黒さんのすぐうしろに立ってはりまっせ」 「?!」  驚いて振り返ったが誰もいない。 「嘘、嘘。さっきのお返しですがな」  神谷の名を聞いて気が重くなった。あの偏執居士がこの捜査の指揮をとるとなると、それ相応の覚悟はしておかねばならない。私は腹を括《くく》り、ついで顔をひき締めた。 「もうすぐ捜査報告がありまっせ」 「どこで」 「支店長用の応接室です。階段上って二階の突き当りですわ。先に行ってええ席とりましょ」 「その、ええ席いうの何や、映画見に行くわけでもあるまいし」 「行ったら分りますわ。早よう行きましょ」  一応、現場の状況は頭に入れたので黙ってあとに従った。  その部屋は二十畳くらいの広さで、奥には磨き込まれて赤黒く光ったデスク、中央には五人用のゆったりした応接セット、手前には折りたたみ式のパイプ椅子が二十脚ほど配されていた。壁は凝った織りの布製クロス貼り、その上を八十号の本物らしい静物画で飾ってある。茶色を基調として品良くまとめられてはいるが、生活の匂いのない殺風景な部屋であった。  移動式の黒板が二枚運びこまれ、一枚にはこれからの会議の進行順、残る一枚には現場の簡単な平面図が描き込まれていた。 「さあ、ここに坐りましょ」  マメちゃんはさっさと革張りのソファーに身を沈めて、隣りを目で示した。 「わしら、折りたたみ椅子でええのと違うんか」 「何言うてはりますねん。これから長い長い会議になりますんやで。ちょっとでも楽なとこにおらんと……。これも早い者勝ちですがな」  マメちゃんは卓上の客用たばこを咥《くわ》え、石造りの大きなライターで火を点《つ》けた。 「そんな堅いこと言わずに、ここに坐ってたばこでもどうです。こんな機会でもなかったら、ぼくら支店長用の応接室なんかに入れませんで。コーヒーは出んけど、火くらい点けますがな……あっ、これ洋モクや、フィリップモーリスや。二、三本もろとこ」  と言って五、六本、ポケットに隠した。  アメリカたばこの素朴な香りを二本も味わい終えた頃には、捜査員が続々と詰めかけ、人いきれとけむりで部屋が白っぽくなっていた。捜査報告が始まる。担当は、北淀川署捜査係長、有川警部補。  型通りの紹介のあと、まず事件経過についての報告があったが、それは、さっき私が記者連中から聞いたことを確認するだけの退屈なものであった。  そのあと質問と詳細検討に入って、会議は俄《にわ》かに活況を呈してきた。各捜査員は堰《せき》を切ったように発言する。 「銀行の出入口は南側玄関だけですか」 「客用入口はここだけです。駐車場を利用する客もこの玄関から入ります」  黒板上の見取り図を指で追いながら有川が答える。 「ということは、犯人が行内でピストル振りまわしてた間に、すきを見て、客が外へ逃げ出すことは不可能やったんですな」 「そうです。犯人は玄関と、そのまん前のカウンターを往復しただけですから、それは無理でした」 「犯行中、行内に入って来た客はおりませんのか」 「一人います。近所の主婦が電気代の払い込みに来たんです。現場見て知ってはるように、玄関はガラスの二重ドアになってます。外側のドアは手動で前後開き、内側は左右開きの自動ドアです。二つのドアの間は三坪ほどの風防室になってます。小雨がパラついていたので、この主婦——萩原さんは風防室まで入って傘をたたんでました。何気なく行内を見ると様子がおかしい。客がみんな伏せていて、一人の男が大声で喚き散らしている。おまけに黒いマスクかぶってるもんやから、こら強盗やと直感して、気付かれんようにそっと外へ出た。落ち着いたもんですわ。あとで検討してみたら、これは犯人が金を腹巻にねじ込んでいる時で、萩原さん、銀行来るのがもうちょっと遅れてたら、出て来た犯人と風防室で鉢合わせしてます」 「その萩原とかいうおばさん、外へ出てからどないしたんですか」 「外へ出てまわりを見ると、東側……そう住宅展示場になってますが、そこに男が二人いた。二人はこの展示場の営業員で、木谷さんと、川本さん……えーっと、木谷さんは二十四歳、川本さんは二十六歳です」  間断なく発せられる質問に対して、有川は資料を繰りながら丁寧に応じる。名前や年齢など、どうでもいいと思うが、有川の几帳面な性格がそうさせるらしい。 「二人はちょっと早いが、昼食に行こうとしてたとこです。萩原さんは走って行って、どうも銀行強盗らしいと告げた。とりあえず一一〇番やいうことで、木谷さんが展示場内の公衆電話まで走った。残る萩原さんと川本さんはそこに立ったまま、どうしようかとオロオロしてました。その時です、犯人が人質つれて玄関から出て来たのは。……黒マスクの男がもう一方の男を、銀行の前に駐めてある白い車に押し込んだ。それから自分は反対側の運転席にまわって、車を出した。えらいスピードで萩原さんと川本さんの前を走り過ぎた。……三十メートル先に信号のない交差点があるんですが——そう、銀行からやと五十メートル東になります。そこを左折して消えた。これは銀行員や店内にいた客も外に出て目撃してます。逃走車は、白のカローラ、セダン、五十五年型。ナンバーは、大阪そ・一七〇四、盗難車です。昨日の夕方、住吉区の路上で盗まれたものです」 「逃走するのを、あんぐり口あいたまま見とったんですか。そのへんを走ってる車を停めて追いかけるとかせんかったんですか」  うまくタイミングを計って、マメちゃんが質問をはさんだ。 「銀行員がタクシー停めて追いかけたんですが、もうその時には、カローラの影も形も……」 「銀行員らしいわ……わざわざタクシー停めるやて」  マメちゃんは横を向き、私に同意を求めるように言い添えた。 「犯人、ケガしてまへんのか。その……垣沼はんともみおうた時とか……」 「さっき鑑識から報告がありましたけど、現場に付着した血はA型だけ、垣沼さんの血液型と一致します。犯人は負傷してないようです」 「出血量は?」 「現場での出血量はそう多くないようです。鑑識の調べでは、せいぜい一〇〇�くらいやろということでした。しかし垣沼さんの腹腔内にはもっと多量の出血があるはずですから、いずれにしても早よう発見して保護せんことには生命にかかわります」  この種の混成部隊による会議では、ものの言いように各捜査員の力関係が表われる。概して、古株ほどぞんざいな言葉遣いであり、わざとそんなふうに言うことで、自分のその場における立場を誇示しようとする狙いもあるようだ。 「弾はまだ垣沼はんの腹の中でっか」 「天井裏の二発以外発見されていないところをみるとそう思われます」 「ピストルについて何か?」 「リボルバー型で、口径の小さいものです。粗悪な改造ピストルと推定されます。発見された弾に線条痕がついてませんから……」 「パトカーはいつ現場に到着しました?」 「最初のパトカーは犯人の逃走後約一分して到着しました」 「と、いうことは……?」 「犯人の侵入から逃走まで約二分、北淀川署と銀行とのホットラインが作動してから三分後です」 「一分間の開きか……。こいつは大きいですなあ……。その後、逃走車を目撃した、というような情報は?」 「いまのところありません。しかし、そんなに遠くまで逃走できたとは考えていません。事件の三十分後には、緊急配備も完了しました。府下全域に車の特徴とナンバーが通知され、主要幹線では検問も始まってましたから、そうそう遠くまでは行けません。犯人は現場から車で三十分の地域内に潜伏してると考えられます。府警の交通管制室とも連絡をとってその範囲を特定する作業に入ってます。いずれにせよ逃走車を発見するのが先決です。垣沼さん、負傷してますから、車から遠く離れることは不可能です。とにかく車さえ発見すれば垣沼さんも……」  有川は最後まで言わなかったが、何を言いたいかはこの部屋の全員に分っているはずだ。そう、車が発見される時、即ち、垣沼が死体となって発見される時である。どう考えてもその方が理屈にあっている。犯人にとって人質は切り札に違いないが、それはあくまでも自分の身が危うくなった場合にだけ効力を発揮するものであって、少なからぬ金を手に入れ、何とか逃げおおせた時点においては、切り札が|ババ《ヽヽ》に変わってしまう。|ババ《ヽヽ》は抜かれる運命にある。私が犯人なら、利用価値がなく、おまけにキズモノである垣沼を生かしてはおかない。 「わし、ちょっとひっかかることがありますねん」  ごま塩頭の刑事が猪首を傾げて話し始めた。 「犯人は、確か、赤いタオルを首に巻いてたと聞いたけど、これ、どういう意味ですねん。強盗するのにこんな目立つもん巻く必要おまへんで。ただでさえおもろいマスクしてるのに……わし思うけど、首のまわりに何ぞあるのと違いまっか。大きなほくろとか傷痕とか……多分そうでっせ」 「かも知れません。その可能性は充分あります」  有川がその言葉をひきとった。  捜査員の間に小さなどよめきが起こる。ここに至って、やっと有力な手掛かりが出たと読んだためであろうか。  質問が途切れたのを機に、有川は席を外した。主役が部屋を出たので、まあ一服ということになった。 「黒さん、腹減りましたなあ。何も食わんとたばこばっかり吸うてるから、胃が痛うて」  マメちゃんが私の肘をつついて言った。 「胃が痛いのに腹が減るのおかしいで」 「それ、逆ですがな。腹が減ったから胃が痛いんですわ。食い過ぎも体に悪いけど、何も食わへんいうのもいかんのでっせ。あとでラーメンと餃子食いに行きましょうな。ニンニクごってり食うて精つけたるんや」 「何のために」 「またいやらしい目つきして……うちの嫁はん、いま腹ぼてでっせ。仕事です、仕事、仕事のためですがな」  そう答えて目を輝かせているところを見ると、この男本当にこの稼業が好きなのかも知れないと誤解しそうになる。  有川と一緒に男が一人、部屋に入って来た。府警捜査一課、強盗班キャップ、神谷警部であった。——捜査一課には、警部補を長とし、一人の部長刑事と、あと三人の刑事を加えた五人一組の係が九つある。九つのうち四つが強盗班、五つは殺人班。一課長の下で班を統括する職制をキャップと呼ぶ——。因みに、私は第六係、強盗班所属であり、マメちゃんと、あとひとり沢居というのが同僚だ。部長刑事は胃かいようで、もう半月近くも入院している。係長は、村橋警部補、私に出動を命じた御仁だ。  有川が紹介しようとするのを目で制して、神谷は口を切った。 「私、府警捜査一課の神谷、言います。この事件は一課が担当することになりました。捜査本部は北淀川署に置きます」  最初の顔見せとあって、少しは慎重な口ぶりだ。北淀川署の刑事はもちろんのこと、隣接するいくつかの署からも多くの捜査員が応援に来ているので、いつもの横柄な態度は見せられない。 「今後の捜査方針を説明しておきます。まず第一は容疑者の特定。犯人はその荒っぽい関西弁から、相当年数、大阪、または大阪近辺に在住していたと思料されます。それにピストルを使用したことから考えて、暴力団関係者の線も浮かびます。四課の協力を得て、これを洗う予定です。第二は連鎖犯行の防止。この種の犯罪は誘発されやすい傾向にあるから、各金融機関のパトロール回数を増加させます。第三に、これが最も大切なことですが、垣沼さんの発見について。これは、北大阪を中心に捜査します。犯人の潜伏できそうなアパート、マンション、倉庫、空家等は、各警察署のファイルを元に軒並み調査します。垣沼さんの服装は、白のニットシャツにグレーのズボン、紺色コール天の替え上着、黒の短靴。ニットシャツは大きく血に染まっています。身長は百六十九センチ、体重六十五キロ、顔は、ここに写真があります。これらの特徴を報道機関に流して市民からの通報を待ちます」  スナップ写真を顔の部分だけ大きく引き伸ばしたのであろう、粒子が荒れている。しかし、メガネの奥で笑っている細い眼、太い鼻、左右に張り出したアゴは、その特徴をよく表わしていた。 「えらい我の強そうな顔やな。典型的な受難の相ですわ」  マメちゃんは写真を手に、したり顔で呟いた。 「人相まで見るんかいな」 「そら、そうですがな。現にこうしてひどい目に遭うてはる」 「早よう発見せんと、この写真に黒い枠がついてしまうで」 「ほんまや……この広い大阪の空の下、どこかにはいてはんねやろけど……」  マメちゃんらしくもない感傷的な言葉を聞いて、ふっと唇の端が緩んだ。  東の空が赤く色づいて、新しい一日が始まろうとしていた。捜査は何ら進展を見ぬまま四月二日に持ち越された。  マメちゃんの希望どおりニンニクいっぱいの餃子とラーメンを腹に収め、仮眠のため北淀川署へ歩く。猛烈に眠い、早く横になりたい。 「ねえ黒さん、いまごろ銀行の偉いさんどうしてると思います? ぼくらみたいに徹夜で対策練ったんやろか。自分とこの支店に賊が入って、金と人質奪って逃げた。金だけやったらしゃあないで済むけど、人質までとって行った。おまけにその人質というのが、大切な、大切なお客様ときた。黒さんが頭取やったらどないします? 大変なことでっせ。だいたい、銀行の警備員が何もせんと這いつくばってるのに、とびかかったんが客や。ここがもうおかしい。こんなことマスコミに大々的に報道されたら、そら困りまっせ。ま、なんせ、銀行のことや、新聞やテレビに手をまわして、うまいことしよるやろけど……」  どない思います、と、人の意見を訊きながらも答える暇さえ与えない。そのくせ相槌を打つことを要求する。マメちゃんの独壇場であった。 「どうせ偉いさんのことや、連れて行かれたんが行員やったら、どんなにええやろと思てまっせ。それも、組合の幹部なんかやったら、もう小躍りするとこや。偉いさんいうのはそんなもんです。そうでないと出世せん。銀行というとこはねえ……」  金に縁遠いものほど銀行を毛嫌いするらしいが、マメちゃんを見ていると、それが実感として分る。 「それにしても、垣沼とかいう人、えらい災難に遭うたもんや。何もピストル持っとる奴にとびかからんでもええのに……。黒さんならどないします、こんな場面に出くわしたら?」 「うん、そうやなあ……警察官としては……」 「この際、警察官であることを忘れて下さい。非番の時はただの一般市民ですがな」 「その時の状況によるわ……つまり、とびつきやすい地点におるとか……」 「ということは、条件が揃たら、何か行動を起こすということですか」 「そういうことになるかも知れん……」 「何ちゅう情ないこと言うてはりますねん。そんな中途半端な考え方があかんのです。ぼくやったら、絶対に何もしませんわ。犯人が伏せろと言う前から伏せてますがな。床に這いつくばって、神さん、仏さんにお祈りしてます。何でたかが銀行のために危ない目に遭わんとあきませんのや。黒さんかてそう思いますやろ?」 「う、うん……」  本音を言っているだけに、妙に説得力がある。 「そやけど、垣沼さんの場合、ちょっと事情があるやろ。有川係長の報告によると、垣沼さん、融資の依頼で銀行に来てたわけやろ。鉄工所経営してるそうやから、運転資金が欲しかったんやろ。欲しいけども色よい返事がない。そこで、銀行にええとこ見せよと思て、とびかかったんと違うかな。まず、貸付け担当者が席外してるからいうて、ロビーに待たせとくのがちょいとおかしい。銀行にとって大事な客であれば、こんな場所に待たせておくはずがない。応接室は三つも四つもあるんや。それに、担当者が席外してたいうのも怪しい」 「なるほど、仰せのとおりや。さすが黒さん、有川はんのちょっとした説明でそこまで読んではったんですか……大したもんや。それで分った」 「何が?」 「垣沼さんが抵抗もせんと連れて行かれたわけ。……つまりですな、垣沼さんが純粋な正義感から犯人にとびかかったのなら、車に押し込まれてからも、ハンドルひったくるなり、大声あげるなりして抵抗するはずや。しかし、この場合は、垣沼さん、融資が欲しいためにとった行動でっしゃろ。ということは、もう銀行の連中の見てへんところで努力する必要ないんや。そうか、そうやったんか……。そやけどぼく、久しぶりにおもろい事件にぶちあたったと思うてますねん。言わばニューヨーク型の犯罪ですなあ。新感覚派ですわ」 「何や、それ?」 「侵入するなりピストル、バンと撃って『ゼニ出せ』ですやろ。金かっさろうたら人質ひき立てて車でプイや。何となしスピーディーでしょ。腹巻に札束詰め込むんは興醒めやけど」  マメちゃんにかかったら、犯罪なんて好奇心の対象でしかない。善悪の判断もすこぶる曖昧だ。  ありがたいことに、前方に北淀川暑が見えて来た。やっと眠れると思うと足にはずみがつく。「黒さん、今日の段取りどないします?」 「そうやな、四時間ほど仮眠して、十一時ごろ、向こうへ行こか」  私とマメちゃんに与えられた今日の役割は、垣沼の自宅へ行き、家族から垣沼発見のためのより詳しい情報を仕入れることであった。     2  東淀区中新庄にある垣沼鉄工所は北淀川署から車で約二十分、工場の二階が居宅になっている。  附近は典型的な準工業地域で、さして広くもない道路をはさみ、二間、三間間口の小さな住宅、工場、商店がひしめきあって軒を接していた。  大きく「垣沼鉄工所」と書かれた半開きのシャッターをくぐる。四十坪ほどの薄暗い工場内には、シャーリングやプレス機やら、大型の工作機械が所せましと据え付けられており、加工途中の半製品が隅の方に堆《うずたか》く積まれていた。ただ一箇所残った入口近くの少し広いスペースにも、配達用の軽トラックが駐められていて、空間を余すところなく利用している。  奥の階段を上りきると垣沼家の玄関に突きあたる。木製の派手な装飾扉が、一階の工場と鮮やかな対比をなしていた。  垣沼の細君は、あまり眠っていないらしく、赤いはれぼったい眼で私達を迎え、洋風の応接間に案内した。こんな事件さえなかったら、我々刑事の訪問など受けることもなく、平凡な毎日を送っていただろうと思うと、テーブルをはさんで、その顔を見るのがつらかった。この時ばかりは、マメちゃんもいつになく堅い表情を保っていた。彼女の心痛を和らげるためには慎重に言葉を選ばねばならない。 「このたびは大変なことで……お察しします。申し遅れましたが、私、捜査一課の黒田です」 「同じく、捜査一課の亀田です。今後は、主にぼくらが、奥さんとの連絡にあたります」 「垣沼|庸《よう》子です」  そう言ったきり下を向いて、視線を自分の膝に落としている。泣くことも喚くこともせず、ただじっと耐えているその姿に彼女の悲しみが見えた。 「北淀川署はもちろん、府警本部の捜査員も含めて、何百人もの警察官が懸命になって、ご主人探してます。何としてでも無事救出する覚悟です」  そこまで一気に言って、私は額の汗を拭った。 「お願いします」  庸子が小さく応えた。 「お疲れやとは存じますが、これから、我々の質問に答えていただきたいんです」 「はい……」 「まず、ご主人の特徴とか、癖とか、ありましたら」 「それは昨日、北淀川署で……」 「ええ、それは知ってます。昨日お話しになったこと、それ以外のこと、どんなことでも結構です。何が捜査の参考になるかも知れませんから」 「もうお話しすることは……」 「例えば、ご主人の性格とか……」 「それなら……私、いつかこんなことになるのと違うか思うてました。主人、妙に一本気なところがありまして、ようけんかしてました。取引先とか、知り合いの人とはそんなことなかったけど、見ず知らずの人にはけっこう我《が》を通してました。普段はまじめでおとなしい人ですけど、言い出したらきかへんのです。車、運転してる時、前に割り込みするような車があったら、ブーブー、クラクション鳴らしてどこまでもついて行くんです。それで、その車が停まったら、降りて行ってえらい剣幕でどなりつけるんです。つかみあいのけんかしたこともありました。『あんたも、もうええ年なんやから、そうとんがらんでもええやないの』と言うても、答えはいつも一緒、『わしの性格や、しゃあない』と、それだけです。喫茶店で、高校生がたばこ吸うてたら、『おまえら未成年が、そんなことでどうすんねん』と、大きな声出して、たばこ取りあげるし、国鉄の電車の中で、職員が坐ってるの見たら、『あんたら無料パスで乗ってるのと違いますか。客が立ってるのに、のうのうと坐ってたらあかんやないか』と、怒るし、もうそんな例あげたらきりのないくらいです。とにかく、自分が正しい思うたら、絶対にあとにひかん質《たち》でした。ヤクザみたいな人につっかからんかと心配で……」  庸子の話で、垣沼の性格が徐々に明らかになって来る。頑固、潔癖、独善的、戦闘的、猪突猛進型、……言葉がいくつか浮かんでは消える。自分はそれでいいが、まわりの人間に少なからぬ迷惑を及ぼすのがこのタイプだ。 「奥さんの心配してはったことが、ほんまに起こってしもたんですな」  マメちゃんが話を継ぐ。 「よりによって、ピストル持ってる強盗にまでつっかからんでも……」  庸子はそこまでポツポツと低い声で自分に言いきかせるように喋っていたが、こらえきれなくなって泣き伏した。 「すんません、奥さん。つまらんこと言いました」 「いえ、いいんです。ちょっとでも参考になったらと思て」  涙を拭いて答える。案外、芯は強そうだ。 「つらいやろけど、もうちょっとだけお願いします。昨日、ご主人は何で銀行に行ってはったんですか」 「融資の依頼です。……正直言うて、うち、もう倒産寸前です。新しい工場建てたんがえらい重荷になってしもて……」 「新しい工場?」 「二年前です。この工場だけでは手狭や、言うて、桜井町に五十坪の土地買うて、新しい工場を建てたんです。うち、主に車輛関係の打ち抜き部品を製造してますから、コンピューター連動の当時一千万円もするような五十トンプレス機なんかも入れましたけど……結局のところ無理な設備投資やったんです。ご存知のようにこの不景気ですから、新たな受注先を開拓することもままなりません。特に最近は、資金繰りが苦しゅうて、お金はいくらあっても足りない状態でした。主人、毎日のように、金策に走りまわってました。この工場も、桜井町の工場も、敷地、建物とも、抵当に入ってるし、銀行との話しあいも、はかばかしくなかったみたいで……」 「だいたい銀行というのは、景気のええ時だけ下手に出て、金借りてくれ言いよる。そのくせ、企業が倒れかけになっても、貸した金だけは、どんなことしても取り立てる。たとえ取り立て不能になっても、担保はしっかり設定しとるから、どうころんでも損はせん仕組みになってる。赤い肌じゅばんの下から黒い鎧《よろい》がチラチラ見えてますんや」  おかしな言いまわしではあるが、マメちゃんなりに憤慨している。この男、余程、銀行が気に食わないらしい。 「ご主人も大変ですなあ……」  今度は、私が言った。 「ええ。三年前の夏にお父さんが死なはってからは、主人がひとりでこの鉄工所切りまわしてました。うち、小さいけど、五人ほど従業員使うてますから、その人らの面倒みてあげんといかんし……。子供に手がかからんようになってからは、私も免許とって、製品の配達したり、伝票の整理したりして、できるだけの手伝いはしてるんですが……結局は、あの人に苦労ばっかりかけてます」 「ところで奥さん、ちょっと立ち入ったこと訊くようですが……。ご主人、生命保険には、いくら入ってはったんでしょうか……いえ、これはご主人の安否とは関係なく、参考としてお訊ねするんですが……」  どうしても語尾がかすれがちになる。時には相手の感情を無視した質問もしなければいけないのが、刑事稼業のつらいところだ。 「はっきりは知りませんが、たぶん一千万円くらいやと思います。主人、保険が嫌いで、私によう言うてました。『自分の死んだあとで、何ぼ金もろてもつまらん。使えん金なんか要らん。葬式代だけで結構や。おまえと絢《あや》子の食いぶちくらい、わしが貯めといたる』……絢子というのはうちの娘で、いま幼稚園に行ってます。昨日から、義姉夫婦の家に預かってもろてます。あの娘を見てたら、余計に情のうなって……。とにかく、お金なんかどうでもいいんです。あの人さえ無事に還ってくれたらそれでいいんです。それに、主人……自分から死ぬような、そんな弱い性格と違います」  庸子は私の質問の本当の狙いを正確に掴んでいた。彼女の語った垣沼の性格と少額の保険契約が、私の疑惑を吹き飛ばした。  垣沼は半ば死ぬ気で犯人に挑んだのではなかったか、自殺の手段としてあの状況を利用しようとしたのではなかったか。……多額の保険契約があれば、その推測も充分成り立つと私は考えていた。それは、事件経過を聞いて以来、胸の奥に澱《おり》となってたまっていた私の仮説であった。  隣りの部屋で電話が小さく鳴った。訊くべきことも訊き終り、腹も減った。そろそろ垣沼家を辞するきっかけを掴もうとしていた時だったので、庸子が立ったのを機に、私達も腰をあげた。しかし、庸子がとったのは私への電話であった。それも村橋から——二十四時間余すことなく管理されている。 「黒さんか、ちょうどよかった。プレゼント、犯人からのプレゼントが届いたんや。ガセと違う、本物や、犯人からの脅迫状や。いますぐ、垣沼さんの奥さん連れて本部へ戻ってくれ。奥さんには、頼まなあかんことがあるんや。それから、茶碗でも何でもええ、垣沼さんの指紋がベットリついてるのを、二、三個借りてくれるか。詳しいことは戻ってからや、ええな、頼むで」  短い通話に、捜査本部の切迫した雰囲気が感じられた。事件は大きく変転したらしい。  昨日の朝、垣沼が使ったまま、まだ洗っていなかった白磁の湯呑み茶碗と、彼愛用の電気カミソリをハンカチに包んで、庸子、マメちゃん、私の三人は捜査本部へ急いだ。 「村長、いったいどうなってますねん」  ——誰も村橋を「村橋係長」とは呼ばない。略して「村長」である。浅黒い顔には深いしわが何本も貼りつき、それが窪んだ眼と、前に突き出した唇をとりまいている。痩せた体をくすんだグレーの背広で包み、古くなってガタが来ているのか、よくずり落ちるメガネをせわしなく元に戻しながら、カマキリのようにヒョコヒョコ歩く姿は、正に村長を思わせる——。  村橋は私から受けとった湯呑み茶碗と電気カミソリを鑑識に持って行くよう、傍らの刑事に指示してから、油の切れた回転椅子をキーキーと軋ませてこちらに向き直った。デスクの中央をどこから借りて来たのか、大きな広辞苑が占領している。 「これ見てくれ、脅迫状や」  ひきだしから五枚の紙を取り出して、デスクの上に広げた。不揃いの大きなカタカナが、隙間なく詰まっているところは、いかにも脅迫状である。最初に「カキヌマヨウコドノ」とある。 「何でまた、奥さん宛の手紙がこんなところにあるんですか。奥さん、こんな手紙来てることすら知りませんで」 「ちょいとわけ有りや。ま、聞いてくれ。十時五十分いうから、いまから二時間ちょっと前や、吹田の千里ニュータウンにある酒屋に電話が入った。男の声で、交番に届けたいものがあるが、自分ではよう持っていかん、代わりに行ってくれ、その届け物は店頭の自動販売機の横に貼りつけてあるから、と、それだけ言うて、電話を切ったらしい。店の主人、おかしな電話やと思いながらも、そこを調べてみたら、ほんまに封筒がセロハンテープで貼りつけてあった。手にとってみると、もっこりふくらんでるところがあるので、中は手紙だけやないらしい。電話の主の言うとおりにするのも癪やからと、おっさん、その封筒を開けてみよったんや。手紙はもちろん入ってたけど、そのもっこりふくらんでたもん、何やと思う?……指や、人間の小指や。ビニール袋に、第二関節から先の小指が入ってたんや」 「ええっ……犯人、垣沼はんの指つめたんですか……。そんなあほな」  マメちゃんの、ただでさえかん高い声が、もう一オクターブ高くなって部屋中に響いた。いあわせた捜査員の目が我々に集中する。 「大きな声だすな。わしの方がびっくりするやないか」 「そやかて……」 「ま、話は最後まで聞け。……それで、店の主人、えらい仰天してすぐ交番に走った。それがいま、黒さんの手にしてる脅迫状や」 「これコピーでっしゃろ。本物はどこにあります?」 「みんな鑑識や、指紋の有無調べてから、筆跡鑑定する。小指がほんまに垣沼はんのものかどうかも詳しく調べてる。黒さんに茶碗とカミソリ持って来てもろたんは、指紋を照合させるためやけど、まず間違いはないやろ。それにしてもムチャクチャや。よりによって指を切り落とすやなんて……。どないしてでも犯人を挙げんと、大阪府警の沽券《こけん》にかかわる」  村橋は話しているうちに興奮して来たのか、黒い顔に赤味が加わって、溶けてブヨブヨになったチョコレートを思わせる。 「村長、その指……」 「分ってる、みなまで言うな。小指が切り取られたん、垣沼さんが生きてるうちか、それとも殺されてからかを知りたいのやろ」 「さすが、よくご存知で」 「わしのすることや、ぬかりはない。その件も鑑識に依頼してある。切断面の凝血状態やら酵素活性とやらを調べたらまず百パーセント間違いはないそうや。死んで一、二分も経たんうちに切りとっても正確に判定できる。死人に銭払うような不様なことできるかい」  ちょっと喉のあたりを撫でてやると、すぐにゴロゴロと鳴き始める。この他愛なさも、村長と呼ばれる所以《ゆえん》か。 「ところで、この脅迫状が千里ニュータウンにあったということは……」 「そや、車も垣沼はんも、その附近で発見される可能性大や。所轄署から捜査員出してもろて、重点的に聞き込みと捜索をしてる」 「あの一帯、まだ雑木林がようけ残ってるし、案外そこに隠しとるんかも知れませんな」 「そう簡単にはいかんやろ。……話はあとにして、それ読んでくれ」 「オレワイマオコツテイマスオマエノテイシユガイランコトシタカラゼニヨウケトラレヘンカツタイツソコロシタイガ……何やこれ、たまらんなあ、この調子やったら全部読むのに一時間はかかる。口に出して読みあげるだけで、ひとつも頭に入らへん」  マメちゃんが悲鳴をあげた。 「読みにくいか」  村橋が訊く。 「読みにくいも何も……字が汚ない上に、文章もひどいから」 「ほな、これ読め。わしが書き直した」  村橋は別の紙を放って寄越した。広辞苑の置いてあった理由が分る。村橋のメモは漢字交じりで書いているだけに少しは読みやすいが、文字そのものは脅迫状と大差ないくらいひどい。 「さすがに係長や。細かいとこまでよう気がつきはる。ものすごう読みやすい字ですな」  その言葉を聞いて、村橋は得意気にそりくり返る。マメちゃんに皮肉を浴びせられたとは、露ほどにも思っていないらしい。 〈俺は今、恐っています。おまえの亭主が要らんことしたから、銭ようけとられへんかった。いっそ殺したいが、それでは儲からん。俺は身代金をとることにする。一億円を用意せよ。三協銀行から借りたらよい。札は古い一万円札だけ。唐草のふろしきで包め。札は全部本物や。新聞の束なんか要らん。番号控えたり、薬品かけたり、小細工はするな。明日十時、おまえの家に電話する。その時、亭主の声聞かせる。金と車、用意して待て。金はおまえが運ぶこと。おまえに言うことはこれだけ。あとはサツに見せること〉  ここで小休止。五枚のうち二枚が垣沼庸子宛で、あとの三枚は警察宛らしい。随分念入りな脅迫状だ。 〈おまえらが俺をつかまえようと努力するのは勝手やが、取引の邪魔はするな。そのために、おまえらに命令しておく。(一)金が揃わんとか理由をつけて時間かせぎをするな。(二)電話の逆探知はするな。(三)金の運び役の変更は認めない。(四)運び役に尾行はつけるな。(五)取引の現場におまえらがウロチョロしていることは許さん。(六)新聞や放送局には絶対に何も言うな。(七)取引に関して、おまえらの方から条件を出してはいけない。以上のことに一つでも違反があったら、俺は二度と連絡しない。それは人質の死を意味する。金を受けとって、俺の安全が確保された時、人質は開放する。無事、救出できるよう約束を守れ〉 「どうや、どう思う?」  私達が読み終えるのを見計らって村橋が訊いた。 「下手な文章ですなあ。大阪弁や標準語ゴチャ混ぜで、全然統一感があらへん。格調の低い脅迫状ですわ」  マメちゃんが言いたてる。 「何を言うとるんや君は。脅迫状に格調の高いも低いもないやろ、……内容や、内容について訊ねとるんや」 「それを次に言おかいなと思てたんやけど、係長が口はさみはるから……あの後半の三枚、警察宛の方ですけど、あれに書いてある七つの条件、六番を除いて、全部守るわけにはいかんのと違いますか。いかにも破ってくれと言わんばかりの条件や。警察に挑戦しておいて手だしだけはするな、そんな虫のええこと聞けるわけおませんがな。こいつやっぱりあほでっせ。自分では気の利いたこと書いたつもりが、全部逆手にとられること分っとらん。ま、文章見ても、頭の働きがええようには思えんけど」  村橋は、我が意を得たりと頷く。 「それから係長、字、間違うてはりまっせ」 「え?!」  急に話題が変わって村橋は狼狽した。 「ちゃんと辞書ひいたがな。間違いなんかあるはずない」 「そやけど、まだ二箇所残ってます。〈俺は今、恐《ヽ》ってます〉と違うて〈怒《ヽ》ってます〉ですわ。それに最後のところ、〈人質は開放する〉もおかしいでっせ」 「ほんまやな、ついうっかりしとった。捜査会議でこんなん見せたら恥かくとこや」  軽く感謝するような口調ではあるが、憮然とした面持ちで、村橋は文字を訂正する。しかし、〈開放〉を〈介抱〉と書き直したのには驚いた。それを見てマメちゃんも目をむいたが、さすがに、それ以上斬り込むのは危険と考えてか、もう何も言わなかった。 「黒さん、どう思う?」  マメちゃん相手ではどうもピントがずれると思ってか、今度は名指しであった。 「その前にお訊きしたいんですが……この脅迫状、垣沼さんの奥さんに見せはるつもりですか」 「ああ、そのつもりや」 「村長、まさか……」 「もちろんや、脅迫状だけやがな。小指まで見せるあほおるかいな、奥さんただでさえ参ってはるのに。小指のことは垣沼はんを救出するまで奥さんには内緒や、ええな。マメちゃんも、喋ったらあかんで」  村橋は、庸子を待たせている別室の方を見遣って声を潜めた。 「それで、黒さんの考えはどないや」 「文章はマメちゃんの言うたとおりかなりひどいけど、脅迫状としては当を得た内容やと思います。ツボを外してへんと言えます。こちらのしそうなこと、要求しそうなことを犯人なりに予測して禁止してるところなんか上出来やと思います。特に、警察への禁止事項の一番と三番なんかよう考えてますわ」 「そこのとこ、わしも同感や」 「これくらい細かい指示をしてくる限りは、こちらとしても、いまのところ、犯人の要求どおりに動かんといかんでしょう。この脅迫状に書いてあることが本当なら、垣沼さんまだ生きてます。たとえ一分でも早よう救出せんとあきません。そのためには下手な小細工せんと、取引の時に犯人を逮捕する必要があります。それも、生かした状態で。とにかく、明日の十時までに要求どおりのこと、用意万端整えとかんといかんですな」 「黒さんもそない考えるか……わしもそない考えるんやが……」  そう言って村橋は思わせぶりな表情を作った。 「何か?」 「わしは取引に応じるべきやという意見やが、キャップは違うんや。ピストル持った犯人相手に、のこのこ出向いて行ったら危険やと言うんや」 「そやけど」 「そうや。わし言うたったんや。取引しようがすまいが、犯人いまでもピストル持っとることには変わりないんやから、危険なのは同じや。ここで断わったら、また他の人間を人質にとるおそれもある、とな」 「正論ですがな」  時おり、こうしておだててやると村橋の口がより一層軽くなる。 「そやろ、黒さんもそう思うやろ。神谷はん、どうも取引の時、一般市民にけが人出るの心配しとるようなんや。偉いさん特有の保身本能いうやつやな」 「一課長はどうです?」 「分らん。いま、刑事部長や各課長、キャップが集まって話し合いしとる。捜査会議までには結論が出るやろけど、準備だけは整えとかんといかん」  その時、鑑識課員が来て、村橋に小指と茶碗の指紋、及び血液型が一致したことを告げた。脅迫状と封筒、小指を入れてあったビニール袋からは、予想どおり、犯人の指紋その他、手掛かりになるものは何も検出されなかった。また肉眼鑑定ではあるが、切断面の凝血状態からみて、充分な生活反応が認められたため、垣沼は少なくとも小指を切断された時点では、まだ生きていると断定された。 「聞いてのとおりや、この脅迫状は本物やと確定した。垣沼さんも生きてはる。許せん。何が何でもこの犯人は逮捕する。こんな奴をのうのうと泳がしとったら、世の中物騒で仕方がない。府警の捜査一課が担当したからは……」  愚痴とも抱負ともつかぬ言葉が延々と続く。マメちゃんほどひどくはないが、村橋も似たような性癖をもっている。しかし村橋のそれは芝居くさい。普段、それほど饒舌でない村橋が意味のないことを長々と喋っている時、必ずあとに好ましくない提案や命令がある。捜査一課の係長ともなると一筋縄ではいかない。  私は腹を括って切り出した。 「ところで村長、垣沼の奥さん、別室で待ってもろてるんですが、どうします」 「とりあえず、この脅迫状見せてくれ。それからすぐ銀行や。奥さんと捜査員二人が、事件について相談に行きますと、三協銀行大阪本店の店長に電話入れといた」 「その捜査員二人というのは……?」 「もちろん黒さんとマメちゃんやがな、頼むわ。わしも行きたいけど、いまから捜査会議用の資料をまとめんといかん」  私は直感した。村橋は逃げをうち始めている。  この一億円の貸借については、当然かなりの紛糾が予想される。まず、垣沼家の土地、建物は全て抵当に入っているらしいから、新たに一億円もの大金を借りられるはずがない。また、大阪府警にとってもそれが可能であるかどうかは疑問である。一市民の生命に対して、多くの人々の税金から成り立っている捜査費を注ぎ込めるかどうかは、私ごとき下っ端には分らない。あくまでも、捜査費は「捜査するための費用」であって、身代金とは性格を異にする。仮に、捜査費であると認められたとして、誰にそんな大金の決裁権があるのだろう。刑事部長か本部長か、或いは府警を越えて警察庁のお偉方か。いずれにしても責任の所在がはっきりしない。  昭和五十二年九月のダッカ事件が思い浮かぶ。パリ発東京行きの日航機が日本赤軍にハイジャックされ、バングラデシュのダッカ空港に強行着陸した。日本赤軍は、日本政府に対し、赤軍幹部ら九人の釈放と、人質の身代金六百万ドルを要求した。結局、政府は出国意志のある六人と、現金を引き渡したのだが、支払いを指示した法務大臣と首相には、あとで弱腰であるとの批判が集中した。「超法規的措置」という言葉が新聞紙上を賑わしたことが記憶に残っている。事件の性格は違うが、今回もその「超法規的措置」とやらが実施されるのであろうか。また、それを実施して、犯人をうまく捕えられたらいいが、その逆の場合どうなるのであろうか。責任者の更迭は必至である。「キャリア」に、そこまで火の粉をかぶる覚悟があるのか……。基本に立ち戻って、垣沼庸子に請求された身代金を警察が肩代わりすることが正しいことかどうかという問題もある。つまるところ、一億円は銀行が出す他ない。  その交渉を、村橋は私達に求めているのである。下の方で話をまとめさせ、累《るい》が上に及ぶのを防ぐつもりだ。 「銀行へは行きますけど、具体的には何をするんですか」  村橋の狙いを知っていて私は訊いた。 「銀行に一億円用意してもらうように口添えするんや」 「垣沼の奥さんに一億円貸してやって欲しいと言うんですか」 「そういうことや」 「銀行が貸さへんと断わったらどうします?」 「そこは、黒さんの才覚とマメちゃんの口で何とかして欲しい。黒マメコンビやったらできる」 「しかし、銀行いうところは、返すあてのない金は貸しませんで」 「しばらく借りるだけや、犯人を逮捕したら返せる。そのためには、どないしてでも逮捕するんや。いまはそうとしか言えん」  銀行との交渉に入る前から、早くも心理戦が始まっていた。村橋の顔がキツネに見えて来る。 「そやけど係長……」 「あのな、黒さん、この文章もう一回よう読んでみてくれ。犯人が金を要求してるのはあくまでも垣沼の奥さんに対してであって、大阪府警やない。人情としては出してやりたいけど、そんなわけにもいかんのや」  そう言われると、理屈は通っているだけに返す言葉がない。 「早よう行かんと時間ないで、明日の十時までに用意せんといかんのや。札のナンバー控えんといかんし……。あ、それから黒さん、分ってるやろけど、この脅迫状の件はまだ内緒やで。くれぐれも気をつけてくれ。垣沼の奥さんはもちろん、銀行側にも固う口止めしといてくれ。ほな、早よう行ってんか」  村橋の声に後押しされるように、庸子の待つ取調べ室に向った。殺風景な部屋の中央にある被疑者用の粗末な椅子に浅く腰掛け、肩落としている庸子を見ると、どうしても脅迫状の件を切り出すことができない。私の苦衷を察してか、マメちゃんが口を開いた。 「奥さん、ご主人生きてはりまっせ。犯人からの手紙が届いたんです。明日の十時、ご主人の声聞けます。これがその手紙です。まず読んで下さい」  マメちゃんは、書き直した脅迫状のうち、庸子宛の分を手渡した。庸子は少し怪訝《けげん》な表情を作ってそれを受けとり、机の上に広げた。食いいるように読む。次々にしたたり落ちる涙が、紙の上に不規則な水玉模様を作った。 「奥さん……それには、金持って来いと書いてあるけど、ものは考えようです。どこかに隠れたきり何の音沙汰もないよりましですわ。それ発見されたん千里ニュータウンやから、ご主人も近くにいてはるかも知れません。警察官増員して、集中的に捜索してます。その間にぼくらは銀行へ行かんとあきまへん。ご主人取り戻すためには見せ金が必要です。いえ、ちょっと借りるだけです。犯人逮捕したらもう必要のない金です。交渉は黒田さんとぼくがします。奥さん、横で聞いてくれはったらよろしい。ご主人のためです、ほんのちょっと辛抱して下さい。さあ行きましょ」  余計な精神的苦痛を与えまいと、噛んで含めるようにゆっくり話しかけ、庸子の手をとって椅子を引いた。  マメちゃんならではの対応であった。  三協銀行本店は地下鉄本町駅の南、御堂筋をまっすぐ下った左側にある。各種金融機関の集中するその一帯にあって、ひときわ目立つ大きな赤茶色のビルがそれである。さすが本店だけあって外部は全面インド砂岩貼り、行内も柱といい、床といい、全てが白っぽい天然大理石で蔽われている。カウンターも、もちろん石造り。腰の部分には、ご丁寧にも数メートル間隔で銀行のマークが浮彫りされている。仰ぎ見るほど高い天井には、そこここにシンプルな現代風のシャンデリアが吊られ、スポットライトとともに左右の壁面に掛けられた幾何的パターンの緞帳に淡い光を投げかけていた。  そのどれをとっても、新大阪支店とは歴然とした格の違いを感じさせる。  受付に名を告げると、あらかじめ指示されていたのかすぐ応接室に通された。白木と布製のクッションを組み合わせた北欧風のソファーに、庸子をはさんで、三人並んで坐る。  交渉に入る前に、本部で読んできた、三協銀行に関する資料をもう一度思い起こす。——預金残高十二兆二千億円、全国都市銀行中第四位の財閥系銀行、三協商事と並ぶ三協グループの中核。大阪が発祥の地であるだけに、本社機能が東京に移った後も、大阪本店の、他の支店に対する影響力は大きい。重役連は関西出身者がその殆どを占めている——。  お茶を運んで来た女子行員が室外に消えて、マメちゃんが卓上のたばこに手を伸ばした時、ノックの音とともに男が三人姿を現わした。  一人は、もう十年以上も前に停年退職したと思われるような痩せて小柄な老人。しみの浮き出たその顔は、どこかで見たような記憶がある。もう一人は、白髪をオールバックにした五十年輩の男。長身に、別誂えらしいダークグレーの背広がよく似合っている。あとの一人は秘書らしい。四十前後で、黒ブチの厚いメガネをかけ、いかにも実直そうに両手で革のアタッシェケースを抱えている。  まず、名刺の交換をして、オールバックと秘書は私達に向いあってソファーに腰を沈めた。老人は部屋の奥までヒョコヒョコと歩いて行って、店長用らしいデスクのうしろに、いかにも疲れたふうに腰をおろした。何者かはまだ分らないが、挨拶もせず名刺も出さないところをみると、あくまでもオブザーバーのような立場をとろうとしているらしい。  オールバックの差し出した名刺には「三協銀行大阪本店 常務取締役店長 川添良平」とあった。黒ブチメガネの方は「東京本店秘書室 秘書課長」となっている。  川添の目を見ながら、単刀直入に切り出した。 「捜査本部から連絡あったと思いますが、実は、この垣沼庸子さん宛に、脅迫状が届きまして……これがそうです。先に読んで下さい」  訳文《ヽヽ》のコピーを差し出した。 「それから、先に申し上げておきますが、これはまだ非公開捜査の段階です。くれぐれも外部に洩れないようにお願いします」  川添は内ポケットから銀ブチの眼鏡を出し、片手で耳にかぶさった白髪をひとなでしてから、掛けた。息苦しい沈黙が流れる。 「捜査本部の方は脅迫の対象をはっきりとおっしゃいませんでしたが、この文を読むと、一億円は垣沼さんの奥様が用意するようになっていると、私には受けとれるのですが」  口調は、ばか丁寧だが、私が事前に予想していたのと同じ答えが返って来た。 「確かにそう読めます」 「それでは、奥様に一億円お貸しせよとおっしゃるのですか」 「そういうことになります」 「しかし一億円ともなると、はいかしこまりましたとお貸しできる金額ではございませんし、返済能力の有無を調査する必要もあります」 「その脅迫状にも書いてあるとおり、明日の十時までに用意せんといかんのです」 「それは分ります。急いでおられることもわたくし個人としては分るのですが、何しろ銀行のシステムとして、その種のお金はすぐ用意できないようになっておりまして……」 「そこを何とかできませんか。人命にかかわることですから」 「非常事態であることは充分存じておりますが……。奥様にお訊ねします。一億円相当の担保はございましょうか、動産、不動産、何でも結構です」 「ちょっと待って下さい。店長、知ってはるのと違いますか……、あの時、垣沼さんのご主人、おたくの新大阪支店へ融資の依頼に行ってたこと。もう既に土地も建物も抵当に入っているんです」 「新大阪支店のことは存じません」  そう答えた時だけ視線を逸《そ》らした。現職の刑事二人を前にしてとぼけている。 「同じ銀行内やのに、えらい連絡が悪いんですなあ」  こう皮肉るのがせいいっぱいであった。どなりつけたいのはやまやまだが、ここで決裂させては元も子もない。  突然、庸子が涙声で訴えた。 「お願いします。主人さえ還って来たら一所懸命働いて、どんなことをしてもお返しします。いま、このお金用意できへんかったら、私一生悔やみます。ひと一人の命買うたと思うて貸して下さい、お願いします」  ひざの上に組んだ手をじっと見つめながら、自分に言いきかせるように話すその言葉には、夫を気遣う情感があふれていた。 「奥様のご心痛はお察し致しますが、私の一存ではどうにもしようがございませんので……。お金はお客様からお預かりしている大切なものでございますし……」  と呟きながら、川添が老人に視線を移した時、マメちゃんの怒りが爆発した。 「あんた、川添さんとか言いましたな。言葉遣いこそ丁寧やけどちょいと冷たすぎるのと違いまっか。銀行いうたら何ですねん、金貸すのも商売のうちでっしゃろ。何が大阪本店の店長や。器量の大きいとこなんか小指の先ほどもあらへん。ちょっとは人間らしいせりふ吐いてみたらどうでっか。まあ、よう吐けんから、取締役たら肩書きつけてもろて喜んではるのやろけど……よう考えてみなはれ、垣沼さんいったいだれのためにこんな災難に遭うてますねん。あんたが高い高い給料もろてる、この銀行のためでっせ。ほんまやったら、おたくの女子行員が連れて行かれるとこを、垣沼さんが代わりに人質として連れていかれたこと、知ってまっしゃろ。いわば銀行にとって恩人でっせ。その恩人のためにたった一億くらいの金出せんとは何事や。それもただくれとは言うてへん、貸してくれと言うてますんや。預金残高が十二兆円もあるようなお大尽がたったの一億円もよう貸しまへんのか。大きな新しいビル、何十億もかけてどんどん建て替えてからに……まだ何年でも使えるのにもったいない。この間、大蔵大臣が言うてましたやろ。銀行が都会の一等地を金にあかせて買いまくり、大きなビル建てる悪習がはびこっている、よって強力な指導が必要である……。確か、テレビでそう言うてましたがな。年間何億もの政治献金はする、総会屋には定期的に金包む、おまけにその種の金は課税対象になること覚悟で、使途不明金として計上してますやないか。そんな死金使うんやったら、一億円くらい気前よう貸したらどないですか。それに、いまでこそ新聞には内緒やけど、事件が解決してから、三協銀行は人質に一銭も出さんかったということが大々的に報道されてみなはれ、えらいイメージダウンになりまっせ。たったの一億円が大事か、銀行のイメージが大切か、それくらいの損得勘定やったらできまっしゃろ。ええ、どうです、一億円貸してくれますのか」 「貸そ。貸しましょ」  と、マメちゃんの啖呵《たんか》に調子を合わせて返答したのは、部屋の奥に坐っていた老人であった。  いつの間にやらソファーの脇に立っている。 「申し遅れました。私、頭取の加賀美です」  どこかで見た顔だと思っていたが、加賀美と聞いてはっきりした。いまも三協銀行頭取には違いないが、それよりも日本経済団体同志会の会頭、加賀美啓介とする方が名が通っている。銀行経営よりも財界活動に重きを置き、そのアクの強さで、十年近くも会頭の座を守り通している。  これほどの大物が同じ部屋にいたとは驚きであった。秘書課長がいるはずだ。いくら大阪本店とはいえ、支店長クラスに毛の生えた人物に秘書課長がつき従うのは、考えてみるとおかしい。今回の事件のため来阪していたのかも知れない。 「川添君、どんな事態にあっても、お客様あっての銀行ということを忘れてはいかん。垣沼さんもお客様の一人です。まして現在は非常に危機的な状況です。こんな時、しゃくし定規に対応していたら、預金者の皆さんの信頼を失う。こちらの刑事さんのおっしゃるとおりです。三協銀行ともあろうものが、一億円と人命を秤《はかり》にかけたなどと報道されてみなさい、十億や二十億の損失では済みません。大阪支店長ともなればそれくらいのことはすぐ判断できるよう、日頃から勉強しておく必要があります」  川添は消え入りそうに小さくなっている。それにしても、マメちゃんの説得に新聞云々のくだりがなかったなら、こんな具合にあっけなく事態が急転したかどうか疑わしい。川添にはお客大事と説教しているようだが、加賀美の心情もそう変わりはないように思える。  本音はどうあれ、頭取が身代金を貸すと言明しているのだから、素直に喜ぶべきことには違いないが、こんな人物が集まって日本を動かしているのかと思うと情なさを通り越して空恐ろしささえ覚える。ともかく庸子の心労が少しでも減ったのだから評価はしよう。  加賀美が庸子に言った。 「奥さん、念のため申し上げておきますが、一億円は差し上げるのではない。借用証書を提出してもらいます。それが銀行のシステムですから。これを崩すと銀行業の根幹まで崩すことになります。ただし利息は要りません。一億円もの大金に利息をつければとうてい返済不可能でしょう。もちろんご主人が救出された時は、即刻返済してもらいます。……こんなところでどうでしょう?」 「ありがとうございます。助かります」  庸子は加賀美に深々とお辞儀したが、私に言わせれば、それは加賀美の醜悪な猿芝居以外の何ものでもなかった。同じ大根役者なら村橋の方が余程可愛気がある。  何しろ、頭取|直々《じきじき》のご命令であったから、その後の銀行の対応は迅速この上なかった。本店はもちろん近辺の支店にも連絡して、一時間も経たぬうちに指定どおり、古い一万円札で一億円が集められた。  その間、私は村橋に連絡して新米刑事を二人派遣してもらった。札のナンバーを控えるためである。  一分間に八枚から九枚、一時間に約五百枚、二人いれば十時間で一万枚。札のナンバーを全て書き写すことができる。  非公開捜査であるから行員の応援を求めることはできない。この種の単純作業は当然若手の仕事である。私のようなベテランがすべきことではない。  金が集められ、新米刑事が到着したことを確認して、私達は銀行を出た。  庸子を自宅まで送り届け、私とマメちゃんは捜査本部に戻った。     3  村橋に交渉の結果を報告する。いたくご満悦の態で黒マメコンビを誉めちぎるが、別段嬉しくもない。村橋の誉めことばが単なる社交辞令に過ぎないことを長年のつきあいで知っているからだ。その証拠に、私たちに食事する時間さえ与えず、すぐ捜査会議に出席せよとのたまった。やれやれ……。  事件発生から三十一時間。四月二日、午後六時三十分、捜査会議が始まった。  場所は北淀川署第二会議室。スチール製の折りたたみ式テーブルと、椅子が配置されているだけの殺伐たる部屋だが、捜査会議にはこんな場所こそ似つかわしい。  最初、各捜査員からの報告があった。めぼしい収穫はない。あえてあげるなら、犯行に使用されたピストルが二十二口径の改造ピストルであると断定されたことと、銀行の防犯カメラに撮られた犯人の写真が各捜査員に配布されたことであろう。  次に神谷が立った。 「本日、犯人から一億円を要求する脅迫状が届いた」  一同の間にどよめきが広がる。 「最初に注意しておくが、この件はまだ非公開や。その点、よく注意するように。それでは報告する。本日、午前十時五十分、吹田市千里新町竹山台三丁目五の八、伊藤酒店に電話があり、店主の伊藤正雄さん五十八歳が出たところ、男の声で——と、いった状況や。これが脅迫状のコピー。カタカナばっかりで読みづらいから、漢字交じりに書き直した文を添える」  と、例の資料を配布した。村橋の訳文は誰かに清書させたらしく、読みやすい字になっている。「開放」が「解放」と正しく訂正されているのがおもしろくなかった。マメちゃんもそれが不満らしく残念そうな表情を作った。 「筆跡鑑定の結果、左手で書いたことが判明したが、字体を意識的に崩しているため、具体的な特徴は掴めていない。封筒と便箋は製造元、入手経路等、現在調査中や。もちろん、指紋は付着していない。いままでの説明に質問や疑問点があったら、何なりと言うてくれ」  誰も手をあげない。配布されたコピーを読みかえしている。 「それでは、課長、お願いします」  と、神谷が一礼して坐った。捜査員の視線が堀内に集中する。  ——府警本部捜査一課長、堀内剛の名を知らぬものは府警本部にはいない。数年もすれば次々とポストが変わるキャリア組とは違って、堀内は叩き上げであった。刑事畑一筋に歩いてきた根っからの職人気質の上、旧制中学卒という学歴のハンデもあり、これ以上の昇進は望むべくもないが、その能力は誰もが認めるところである。五十代も半ばを過ぎてそろそろ後進に道を譲る時期も近いようだが、その目にはまだまだ衰えを知らぬ強靭な意志の強さを秘めている——。 「いままでの報告にもあったように、地道な捜査を継続して行くのは当然であるが、本日、この会議で主に検討してもらいたいのは、明日の我々の行動についてであります。脅迫状の内容どおりであれば明日午前十時、垣沼家に犯人から電話がかかって来る。いかに対処するかを、この会議の席上で検討していただきたい。質問、意見があれば遠慮なく述べて下さい」  先の幹部会議で、取引に応ずるとの結論が出たらしい。  おずおずと手をあげて一人の捜査員が発言する。 「犯人からの電話に対してはどんな態勢でのぞむつもりですか」 「神谷君を中心とした一課の捜査員、五、六名が垣沼家に詰める予定です」  堀内は手短かに答えて、あとを神谷に任せた。 「テープレコーダー等の設置には科学捜査研究所の応援をあおいでいる。設置は今夜中に完了させるつもりや。もちろん、機器類の運び込みは目立たんよう充分注意して行う。電話局には、発信先を探知するよう依頼済みや」 「金の運び込みはどないします。垣沼家のまわり、新聞記者がウロウロしてるかも知れへんよって、もし気付かれたら、あとあと支障があるのと違いますか。それに脅迫状の件、記者にはいつ発表するんですか」 「発表はこのあと一課長にしていただく。それから、一億円は機器類の搬入とは時間をずらして、やはり今夜中に運び込む。刑事三、四人で運ぶ段取りしてる。前後にはパトカーつけるから、万一犯人が車を襲うことがあっても、まず大丈夫やろ。ま、その方がこちらにとっては好都合かも知れん。犯人を探す手間が省ける」 「この脅迫状の指示どおり、金を用意して電話を待ってるだけでっか。他に何かええ手段《てだて》ありまへんのか、何かあるはずでっせ」  とかみついたのは、昨日捜査報告の席上でも、ぞんざいな言葉遣いをしていたゴマ塩頭の刑事だった。自分からは何の提案もできないくせに文句だけは一人前だ。どこにもこの手合いがいる。 「いまは、待つことしかないようや。そういう笹野君に何かええ案あるんかいな、あったら教えてもらいたい」  ゴマ塩頭は笹野とかいうらしい。神谷がうまくいなしたので、それからは黙りこくってしまったが、笹野に発せられた質問すなわち、全捜査員に対する課題でもあった。  沈黙が続いた。 「みんな、えらい静かになってるから、先に言うとこ。……この事件《やま》には共犯がいる」  それを聞いて部屋がざわめいた。神谷は自分の言葉の効果を確かめてから、おもむろにあとを続ける。 「まあ聞いてくれ。理由は犯行後の犯人の動きや。犯人が姿を消した四月一日の午前十一時三十六分から、酒屋に電話のあった翌日の午前十時五十分までの約二十三時間の間に、犯人は、車を隠す、垣沼さんをどこかに監禁する、脅迫状を書く、小指を切りとる、それを封筒に入れて酒屋の自販機に貼りつける。ざっとこれだけの作業を済ませた。いまだに逃走車が発見されてないことからみて、車の隠し場所、すなわち、垣沼さんの監禁場所やと考えられるから、これは何とか一人でできるとしても、あとの作業は共犯が存在せんかったら実行できん、という結論に達したんや。脅迫状はこのコピーを見ても分るように、便箋五枚分も書いとる。ただ書けばええ、いうのと違うて、自分の要求を洩れのないように確認しながら不自由な左手で書かんといかんから、これだけでも二時間や三時間はかかる。小指を切断するのも、一人ではしんどい。何ぼピストルで脅したところで、垣沼さんが自主的に切るわけないのやから、昏倒させるか、何人かで押さえつけるかしてから切らんとあかん。そのあと酒屋まで、近いか遠いかは分らんけど、脅迫状を持って行った。その間、負傷して弱っているからというて大の男を見張りもつけずに放ったらかしにしておくということは考えられん。以上のことから共犯が存在すると断定した」  神谷は、一気に喋り終えて、ゆっくりとたばこを咥えた。 「なるほど、まことに論理的な意見ですな。感心しました」  前の方でそんな声があがった。ちょうちん持ちもいる。 「明日、取引現場で犯人を逮捕した場合、共犯が垣沼さんに危害を加えるおそれはないんですか」  至極まっとうな質問が出た。 「その件についても検討した。心配ない、遠慮容赦なくパクッてくれ」 「しかし……」 「よう考えてみい。ここにAとB、二人の犯人がおるとする。Aは人質の監視役、Bは取引に出かける。Bがパクられた時、Aはどうする?……人質を殺すか?……殺すわけがない。Bが捕まった以上、人質にはもう何の価値もない。殺す理由もない。おっつけ自分の居どころもBがゲロしよる。こらあかん、逃げよかということになる。これ以上、罪の上積みすることはできん、警察に救助させといてから逃げよか……ここでAから匿名の電話が警察にかかる。……ま、こんなふうに理想的にことは運ばんやろけど、犯罪者の心理はえてしてこんなところや。元々、欲で結びついとるだけやから、金の入る可能性のなくなった時点で、二人の関係はきれいさっぱり解消する。そんなもんと違うか」  これまた、極めて論理的な回答であった。  神谷はたばこに火を点ける。 「質問」  手を上げたのは隣りに坐っているマメちゃんであった。 「この脅迫状の内容についてですが、金と車用意させた上に、警察に対すること細かな注文まで書いてあります。一般的な脅迫状であれば、とりあえず金を用意しておけとだけ指示してくるはずです。このことから考えるに、犯人は明日十時の電話で取引場所を指示して、すぐにでも奥さんに金を持ち出させるのやないかという気がします。あの奥さん、免許持ってはるし、一億ともなると重たいからおそらく車で運ばせることになると思いますが、その場合の追跡捜査はどうなります?」 「わしもそのことには気がついてたから、垣沼家のまわりに覆面パトカーを五、六台配備しておくよう計画してる」 「具体的にはどこですか」 「それはわしが現場に行って検討する」 「キャップ、それでは遅いのと違いますか」 「何でや?」 「車を使うということは、つまり、相当の遠方まで金を運ばせる可能性があると考えられます。京都や神戸まで運ばせることもあり得ます。それをたった五台や六台の車で尾行するのでは、見失うおそれがありますし、犯人に気付かれる可能性もあります」 「それやったらそう仮定してみて、亀田君に何かええ計画でもあるんか」  神谷はマメちゃんが執拗に食いさがるので不快そうな表情を露わにしている。 「ええ計画かどうかは分りませんけど、垣沼家を中心として、そこから延びる幹線道路には全て尾行用の車を配置すべきです。それも二台ずつ。途中で連絡をとりながら尾行用の車を替えていかんとあきません。犯人が警察用無線を傍受することも考えられますから携帯用のトランシーバーを利用することも提案します」 「よっしゃ、分った。亀田君の意見、ありがたく頂戴しとく」  面倒になったのか神谷は適当なところで話を収めた。 「他に質問、意見ないか」 「すんません、もうひとつ……」  またマメちゃんであった。 「また君かいな。何ぞ悪い虫でもついとるのと違うか」  ハハハと笑ってみせた神谷の頬がこわばっている。 「脅迫状には、金と車を用意しておけとありますが、車の方どうなってます?」 「垣沼の奥さんにも覆面パトカーを提供する。奥さんひとり乗ってもらうわけにはいかんから、後部座席とトランクには捜査員ひとりずつ隠れさせる予定や」  どうだ、これで文句あるか、というような神谷の強い口調であった。マメちゃんの追及がひとまずやんだ。  他の捜査員も発言する。 「札束は本物を使わんでもええのと違いますか」 「犯人が取引の現場に現われるなら逮捕できる確信はあるけど、万一のことも考えて本物を用意してる。札のナンバーは銀行に捜査員を派遣して全て控えさせてる」 「垣沼さんの奥さんの安全は確保されてますか」 「正直なところ、万全とは言えん。さっき言うたように車の中には捜査員が一緒に乗り込んでるけど、車の外に出るようなことがあったら、多少の危険性はある」 「犯人はピストルを持っとるんでっせ。今度は奥さんを人質にとって逃げよることがあるかも知れん。奥さんでのうても、そこいら辺歩いてる人間誰もが人質になる可能性がある。そんな事態になったら、どないします」  例の笹野刑事であった。懲りない性格らしい。 「そんな事態にならんよう努力するのが我々の務めや」 「具体的にはどう努力するんでっか」 「つまり……可能な限りの人員をその取引現場に集結させて……一般市民には被害のないよう充分配慮して……」  まるで国会答弁だ。神谷は額の汗を拭いながらポツリポツリ答えるが、それはただ言葉の羅列であって、内容がない。 「キャップ」  しびれを切らして、マメちゃんが手を上げた。 「普通、金の受け取り場所として、人目につくようなところは選ばれません。人通りが多いということは何かと障害になりますが、これは我々にとっても、犯人にとっても言えることです。犯人にすれば、まわりにいる人間のうち、誰が、いつ、敵にならんとも限りません。また、人質をとってるからいうて、今度はそうそう簡単には逃げられるはずがありません。それと、札束が勝手に歩いて来るわけないんやから、必ずどこかに犯人は現われます。現われはするけど、いままでの誘拐事件の例から考えて、犯人が金の運び役から直接金を受けとることはないと思われます。金をどこか指定する場所に置かせておいて、機会をみてそれを奪うのが一般的なパターンです。今回は車を用意するように指示してますから、走ってる車から金を放り出させて、あとからそれを拾うような計画を練ってるかも知れません。そやから一般市民に危害が及ぶことは、可能性としてはあるけど、そんな事態が現実に起こるとは考えられません。犯人が我々の前に姿を現わすことがあれば、その時こそ、犯人の逮捕される時です」  まことにもっともな意見である。私の明晰な頭脳をもってしても、この論理を打ち破るのは難しい。正直いって、マメちゃんにこれだけの能力があるとは考えてもみなかった。その情報分析力と説得力には敬意を表したい。 「それから、もうひとつ提案があります。ぼくは、必ずしも垣沼の奥さんが金を運ぶ必要はないと考えます。確かに脅迫状では奥さんを指名してますが、犯人はどうやって金を運んで来た人物を垣沼庸子さんやと判定できます?……事実上、不可能です。そら、犯人、垣沼さんに人相や服装くらい訊いとるやろけど、初めて見る他人を奥さんと断定できるわけがおませんし、多分、奥さんとは直接会う機会もないはずです。要するに金を運ぶのは、女性であったら誰でもええのです。さっき、ぼくは危険性が少ない言いましたけど、ないとは言い切れません。そやから、金を運ぶのは婦人警官が望ましいと考えます。その方が何かと好都合です。さっきまで一緒におりましたけど、垣沼の奥さん、横から見てても、かわいそうなくらい憔悴してはります。ご主人行方不明の上に、今日は金の段取りまでして……もうこれ以上奥さんに心配かけとうないんですわ」 「実はわしもそのことには気付いとった。提案しようと思うとったんやけど、婦人警官の人選の問題もあるから、いままで黙っとったんや。課長のご意見もお聞きせんことには……」  指摘されて、たったいま気付いたくせに、そのことをうまく糊塗した上、暗に人選を課長に任せるように持って行くあたり、神谷一流の処世術である。 「亀田君の意見、もっともです。人選は私がするから、その方向で取り組んで下さい」  堀内もそう答えざるを得ない。 「他に意見、質問等あったら……」  もう誰も手を上げなかった。  壁の時計が十時を指そうとしている。どの捜査員の顔にも疲れが見える。 「それではここで五分ほど休憩をとる。その前に課長からもう一度捜査員各位に対し注意をいただく。課長、お願いします」  堀内が立ち上る。 「くどいようですが、この事件における捜査の基本は人質の救出にあります。それも早急な救出が必要です。そのことを肝に銘じて行動していただきたい。それから、犯人がピストルを所持していることを、いつも念頭に入れておいて下さい。仮に犯人と遭遇しても、軽率な対処をすると、捜査員はもとより一般市民まで巻き添えにするおそれがあります。捜査員の生命も大切ですが、一般市民の生命はもっと大切です。かすり傷ひとつ負わせてもいけません。このことだけは、いつ、どんな事態が起ころうと、忘れることのないように願いたい。自分の立場と周囲の状況を慎重に判断して行動するように。以上注意しておきます」  休憩のあと、具体的な捜査分担や人員配置について、神谷から改めて説明と指示があったが、内容は殆ど覚えていない。それも当然で、全く聞いていないのだから覚えていようはずがなかった。他人の捜査分担まで聞く耳は持たない。専ら眼をつむって英気を養うことに執心していた。決して居眠っていたわけではない。自分なりに事件の流れを反芻していただけだ。  予想どおり、私とマメちゃんは、神谷、村橋ほか数人の捜査員と、垣沼家に詰める役を仰せつかった。庸子のやつれた姿を見るのはつらいし、またそれ以上に、四六時中、神谷や村橋と同じ部屋にいるのが気詰まりではあったが、捜査の流れからいっても、我々が最もふさわしいには違いなかった。  捜査本部をあとにして、垣沼家に向う。ぐずぐずしていたら、神谷が我々の車に同乗すると言いだすおそれがある。  車のラジオが十一時を報らせた。さすがにこの時刻になると、大阪市内も道路は空いている。酔客を乗せたタクシーが制限速度を無視してとばしている。彼らにとって一番の稼ぎ時であるだけに無理もない。我々の車を追い越して行く赤い尾灯がやけに目立つ。  喫茶店で包んでもらったサンドイッチをほおばりながら、マメちゃんが言う。 「呑んで、歌うて、ホステスの尻さわって、騒ぐだけ騒いで、あとはタクシーのうしろにふんぞり返っとったら、家まで連れて帰ってくれる。普通のサラリーマンが羨ましいですなあ。ぼくら、ろくに眠りもせんと朝の早ようから働いて……、こんな味気ないもん食うて、その上、まだこれから働かんといかん……因果な商売に首つっこんでしもたもんや。時々ほんまに嫌になることありまっせ。黒さんそんな気になることありませんか」 「ある、ある、いつでもそうや。わし、いままで何回転職考えたか分らへん。うちの嫁はんは、うだうだと文句ばっかり言いよるし、子供ともめったに遊んでやられへんし……もうほんまに何でこんなことせないかんのやろといつも思う。せやけど、わしももう若うないから、そうそう大きな変化を求めることできへんし、結局、しんどい、しんどい言いながら、一生この調子やないかいなと考えてる」 「そやかて黒さん、まだ三十代前半でっしゃろ。決して遅いことおませんで」 「どういう意味や、わしに刑事をやめろと言うんかいな」 「いや、そういう意味やおません……ただ遅うないと言うただけで、深い意味はありません。黒さんにやめられたら大阪府警の損失ですがな」 「そんな、とってつけたような言い方せんでもええやないか……マメちゃんの方が若いねんから、マメちゃんこそ考えてみたらどうや」 「ぼくはあきません。多分、一生このままですわ。もうひとり身やないのやし、近いうちにまたひとり増える。どないあがいたってあきません」  マメちゃんは去年の春結婚した。子供はまだない。しかし正確には、半分くらい「ある」と言った方がよさそうだ。今年の冬、出産予定である。 「そやけど、ぼくもあと四、五年して黒さんの年代になったら、考えが変わるかも知れません。時間的に不規則な仕事やし、きのうや今日みたいに帰られへんことも多いし……なんか情のうなりますなあ」 「その、情ないというのがひっかかるなあ。いまのわしが情ないように聞こえる」 「またすねる……ただ、この稼業が情のうなってきただけです」 「新婚早々から、そんなつまらんこと考えんでもええ。とりあえず明日のことだけ考えよ」 「そうしましょ。なんや知らんけど、黒さんとやったらすぐ話が横道にそれる」 「そら、こっちのせりふや」  最後のサンドイッチをパック入りのミルクで胃に流し込み、口直しのたばこに火を点けた時、垣沼家に着いた。  近くの路上に駐車する。幸い附近に記者と覚しき人影は見当らない。目立たないよう、一人ずつ車を降りて垣沼家の扉を小さくノックする。開けたのは、夕方からここに詰めている北淀川暑の佐藤とかいう新米刑事であった。  八畳ほどの居間をのぞくと、二人の男が部屋の真中のテーブルに電話機を置いて、テープレコーダーのセットに余念がない。先程、捜査会議の席上、神谷から報告のあった府警科捜研の所員であろう。簡単な挨拶と紹介を済ませて、我々は脇のソファーに身を沈める。庸子の姿がないところをみると、もう寝ているのだろう。顔を合わせれば、慰めの言葉のひとつもかけないといけないが、そうしなくて済むだけでも、随分気が休まる。神谷の到着と、一億円の運び込みと、どちらが先になるかは分らないが、それまで私とマメちゃんには、とりたててすることがない。  昨日からの寝不足で、頭も体も重い。ソファーに深く腰をおろして身をもたせかけていると、まぶたまで重くなってくる。忙しく立ち働いている科捜研の連中の手前、あからさまに眠るわけにもいかず、たて続けにたばこを吸っていると、佐藤がコーヒーを運んで来てくれた。キッチンには、熱いお茶とコーヒー、おにぎりと味噌汁程度の簡単な食事も整えてあり、自由に飲食するよう、庸子が佐藤に伝えたそうである。  それを聞いて佐藤の無神経さに、ひどく腹が立った。憔悴しきった庸子が、台所に立っているのを、ただ漫然と見ていたのであろう。市民警察を標榜する第一線の警察官に、その程度の配慮すらできないのでは、先が思いやられる。我々だけならまだしも佐藤までが、庸子の入れておいたコーヒーを何の遠慮もなく飲んでいる。それを見ると、余計に腹立たしくなる。  こういう輩に限って、昇進試験だけはすんなりパスして、順調に出世して行く。あの神谷も、若い頃は似たような勤務ぶりであったに違いない。  たばことコーヒーで、ほんのしばらくは静かであったマメちゃんが口を開いた。 「こうやってじっと坐ってたら、何をするのも嫌になりますなあ。いまごろ犯人、どないしとんねやろ。ない知恵しぼって、明日の計画練っとるのやろか。どないして金奪ったろかと……」 「うん……」 「そやけど、結局のところ、出たとこ勝負になりますなあ。ここが誘拐犯罪の難しいとこや。犯人からの指示があるまでじっと待っとかんとしようがない。間が持たんわ。村長も、一億円も、いつ来るやら分らへんし、それまで英気を養うときましょ。眠たい時は眠るに限る」  喋り終えて、背広のポケットからよれよれのハンカチを出して眼のあたりに掛けると、そのままうしろに倒れ込んだ。クッションを枕代わりにして、本格的に眠る態勢をとっている。動作が自然で、あっけらかんとしているだけに、まわりの人間の反感を買わない。マメちゃんに備わった人徳とでもいおうか、ともかく得な性分である。  眠気覚ましに、そっと部屋を出て玄関に向う。外はいつの間にか小雨模様となっていた。  車を駐めたすぐそばに、公衆電話ボックスがある。先程、目星をつけておいたものだ。コートを頭上にかざして走る。  十円玉を入れるのももどかしく、ダイヤルをまわす。長いコールのあと、やっと佐智子が出た。 「えらい遅いやないか、何しとってん」 「いま、お風呂入ってる途中やったから」 「美加出してくれ、美加」  娘の美加は五歳、かわいいさかりだ。 「もう寝てます」 「かまへん、起こせ」 「そんなこと言わはったかて……もう十二時前やのに」 「かまへんやないか、声聞かしてくれ」 「もう、あんたいう人は。……ちょっと待って下さい、起こして来ます」  パタパタとスリッパを鳴らして佐智子が遠ざかった。  音のないまま時が過ぎる。美加がむずかっているのだろう。  ブーッと硬貨の追加を催促する音がする。あわててポケットの小銭を洗いざらいかき出してみたが、あいにく十円玉がもう一枚もない。何という不覚。 「おとうちゃん?」  突然、美加の声が柔らかく響いた。 「ああ、美加か……今日はどないしとったんや」 「おとうちゃん、あのね、美加ね……」  そこで通話が途切れた。くそっ、忌々しい。思わず棚にあった電話帳を払い落とした。  すごすごと垣沼家にとって返すと、玄関の扉の向うから、村橋のしわがれ声が聞こえる。 「おう。黒さん。どこに行っとったんや、おらへんから心配したで」  村橋は、私の顔を見るや、咎めるように言った。 「ちょっと外の様子を頭の中に入れとこかと思うて」 「そうか、それはご苦労さんなことで。黒さんくらいのベテランになると、そこまで配慮するんやな。見習うべき心構えや」  眠っていたマメちゃんを、横目で見ながら喋る。私は一応、素直に受けとって、照れ笑いをしてみせた。 「キャップ、一緒やなかったんですか」 「神谷はん、まだ打ち合わせや何やら、済ませとかなあかんことぎょうさんあるから、明日の朝、こっち来る言うとった」  あえて「神谷キャップ」と呼ばないところに村橋の意地が感じられる。 「そのテーブルの上にあるの、例の金ですか」 「そや、いま運び込んだばっかりや。さすが一億円ともなると、重たいで」  セットされたテープレコーダーの横に、犯人の要求どおり、唐草模様のふろしきに包まれた身代金が置かれていた。村橋のほかに沢居と、第七係の池田、鈴木、勝井がいるところをみると、五人で運んで来たらしい。えらく大がかりな陣容だ。 「人目につかんように運ばんといかんから、往生したわ。それにひょっとして犯人が途中を襲うてくることもあるかも知れんから、うかつなこともできんし、緊張の連続やったで。もうクタクタや」 「それはどうもご苦労さんです」 「まだ三分の一くらいしか札のナンバー控えてへんのや。いまからここにいるみんなで手分けしてせんといかん。黒さんも手伝うてくれるか」  包みをほどきながら、村橋が言った。その言葉どおり、輪ゴムでとめてある札より、まだ帯封のしてある札の方が、はるかに多くふろしきの中に収まっていた。  私とマメちゃんが銀行を出てから、もう七時間にはなる。まだ三分の二残っているとなると、私達がナンバーを控えるように指示した、あの二人の若手捜査員は、いったいどんな状態で作業していたのであろうか。予定では、一人で一時間に五百枚。二人では千枚を書き写すことができるはずであったから、少なくとも半分は作業済みでないといけない。あの二人の怠慢な作業振りが目に浮かぶ。 「この輪ゴムでとめてある方は、もうナンバーを控え終った札や、早速始めよか。わしはチェック係や」  と、自分だけは実体のない役割を決めこんで、ソファーにどっともたれ込む。厭味のひとつも浴びせかけたら気分もすっきりするだろうが、とっさに口に出せる才覚など私にはない。マメちゃんなら可能であろうが、寝入りばなを起こされたせいか、精彩のない顔をして押し黙っている。私、マメちゃん、沢居、池田、鈴木、勝井、佐藤の七人が黙々と単調な作業を開始する。科捜研の二人はテープレコーダーの操作方法を説明し終えると、そそくさと帰って行った。間違っても、手伝いましょうなどとは言わなかった。村橋だけは上機嫌で、明日の——もう今日になっているが——捜査体制や、それに対する自分の意見を、とうとうと言いたてる。相槌こそ打つが、誰も真剣に返事をしない。実際そんな余裕などない。機械的に札束をめくり、しゃにむにナンバーを書き写していると、頭の中が空っぽになる。これが自分の金なら、あれを買って、こう遊んでと、いろいろ楽しい想像をめぐらすこともできようが、どうせ一時の見せ金だと思うと、そんなことすらする気になれない。  長い退屈な夜の始まりであった。  視野が急に明るくなって目が覚めた。開け放たれた窓から、外の強い光が部屋いっぱいに射し込み、澱んだ生暖かい空気が洗い流された。ブルッと寒さにひと震えすると本格的に頭も覚める。一服吸いつけて、我が愛用のウォルサムを見る。もう八時になろうとしていた。  大の男が大勢でとりかかっただけあって、午前四時には作業が終り、一億円を囲み、そのまま雑魚寝《ざこね》の状態で仮眠をとったのであった。からだ中にねっとりと脂の膜が貼りついたようで、動くたびに皮膚が衣服をひきずる。しわだらけの背広がそのまま体型を形作っている。みんなソファーから半身を起こして、眠い目をこすっている。  テープレコーダーに、濃い緑色の悪趣味極まりない綿コートが、無造作に掛けてある。神谷の所有物だ。隣りのキッチンで味噌汁をズーズーすすり込んでいるのが、多分彼であろう。下品な食い方だ。時おり庸子の声が交じるところをみると、給仕でもしているのだろう。ご苦労なことだ。予定どおりなら、あと二時間で審判が下る。庸子はいたたまれない気持ちを、そんなことで紛らわせているのかも知れない。  楊子を使いながら、神谷が部屋に戻ってきた。そのうしろには女が二人。一人は庸子、あとの一人は制服を着ている。身代わり役の婦人警官であろう。顔かたちに相当の開きはあるが、二十代後半で、背格好は庸子と殆ど同じ。髪をセットして庸子の服を付ければ、遠目には判別し難い。 「みんな、しゃんとしたか? もうひとがんばりや。気を引き締めてやってくれ。先に紹介しとく、中杉佳子巡査。今回、奥さんの身代わり役を志願してくれた。平常は北淀川署の交通課に勤務している優秀な警察官や」  中杉はしゃちほこばって、ピョコンと頭を下げた。心なしか青ざめた顔色とひきつった表情に、若さが見える。本当に自分から志願したかどうかは疑わしいが、こんな大役をもらって、緊張の極に達しているようだ。 「それではこれから、今日の捜査分担を指示する。なに……朝めし?……そんなもんはあとでええやないか。とにかくや……わしを含めて、いまここにいる十人は、犯人から連絡が入るまでこの部屋に待機すること。中杉君が金を持って出かけたら、村さんと沢居君はすぐ車で尾行してくれ。犯人にそれと覚られんように、ある程度間隔をあけてついて行くように。勝井君と佐藤君はこの場に残って何かの時の連絡係。尾行は無線で連絡しながらするから、はぐれることはないと思うけど、あんまり離れすぎてもいかん。いざという時の対処ができんでは困る。ひょっとして、徒歩で金を運べという指示があるかも知れんけど、その時はもちろん歩いて尾行してくれ。この場合は、もっと間隔をつめること。多少の危険は覚悟の上や。走ったらすぐ追いつける距離を保ってくれ。防弾チョッキと短銃、忘れたらあかんで」 「ぼくと黒さんはどないします」  マメちゃんが訊いた。 「歩いて尾行する場合は、池田君、鈴木君の組から、ちょっと離れて尾行してほしい。それから、車で尾行する場合は、二人とも、セドリックに乗ってくれ」 「セドリックいうたら?」 「中杉君の乗る車や」 「ということは、ぼくらトランクに押し込められるいうことですか」 「|ぼくら《ヽヽヽ》やない。|ぼく《ヽヽ》だけや。あんな狭いところに二人も詰め込まれへん。黒田君は悪いけど、後部座席に隠れといて欲しいんや。いつでもとび出せる状態でな」  昨日の捜査会議で神谷をやり込めたツケが、きっちりとまわってきた。神谷はどうしてもマメちゃんに清算させる腹づもりでいるらしい。 「せやけど、キャップ、トランクにとじ込められたら、いざという時出られませんがな。あれ、中からは開けられへんよって」 「ちゃんと中から開けられるような細工をするように頼んである」 「………」  そこまで準備されていれば、マメちゃんにも、反論の余地がなかった。 「君らの役割は、いま言うたとおりや。他の捜査員との連携もあるから、附近の地図見ながら説明する。ええな」  居丈高に言いおえると、神谷は持参した革のアタッシェケースを膝の上に置いた。  それは、彼が常日頃持ち歩いている自慢の品で、イタリアの何とかいうブランドものだと、しきりに吹聴しているのを聞いたことがある。この種の品に不案内な私にも、確かに高価そうな造りであることは理解できるが、それが持主に似つかわしくないことはより一層明確に判断できる。いつだったか若手の捜査員が「キャップ、ええカバン持ってはりますね」と、皮肉まじりに誉めた時、神谷が「一点豪華主義やで、君」と、答えたことがあった。あとで、みんなに「あれがほんまの、|掛け値なし《ヽヽヽヽヽ》の一点豪華主義やで」と、茶飲み話の種にされたことなど、神谷は知る由もない。  まわりの目を意識しながら、金色のダイヤル錠をおもむろに操作すると、蓋がパカッと開いた。中には数枚の地図と百円ボールペンだけが収まっていた。側と中身のあまりの落差の大きさに、思わず笑いがこみ上げる。紙きれ数枚を持ち歩くのに、大きなアタッシェケースなど要らない。刑事には、くたびれた背広とまがったネクタイ、片減りした靴こそ似つかわしい。  地図を広げて、神谷は説明を始めた。 「堀内一課長ともいろいろ検討した結果、この赤いしるしのついた所に、車を配置することになった。全部で五台や。どの車にも二名以上の捜査員が乗ってる。これだけの車があったら、尾行には差しつかえないやろ。場合によっては沿線の警察署からも、応援を要請できるような体制を敷いてある」  何のことはない、昨日マメちゃんからあった提案そのままの配置だ。尾行用車輛と人員配備については、これが現在考えられる最善の策であると言ってもいいだろう。 「犯人が現われたら、即刻逮捕してくれ。しばらく泳がせておいて垣沼さんの居どころをつきとめようなどという、悠長な考えは捨てんといかん。とにかく、こいつが犯人やと判断したら躊躇なく逮捕すること。それも犯人がピストルを振りまわすようなことにならんうちに逮捕するんや。ただの誘拐犯と違うところはここや。いつ、どこで、どんな方法で逮捕するかは、君らの判断に任せるほかないけど、犯人と撃ちあいになるような事態は絶対に避けてくれ。このことだけは何が起こっても忘れんように。ええな」  神谷に念を押されるまでもなく、犯人の逮捕には相当の危険が予想される。どの捜査員の顔もひき締まっている。 「中杉君は何も考えずに、ただ犯人の指示するままに動いたらええ。抵抗さえせなんだら危ないことはない。ほな、早速奥さんに服借りて、着替えてくれるか」  部屋に入ってきた時と同じように、ピョコンと頭を下げて、中杉が庸子と一緒に出て行った。  そのあと十時までの約一時間半は、犯人との通話を長びかせる方策やら、具体的な連携の方法といった、細々とした打ち合わせに費やされた。普段にも増してみんなの口が軽かったのは、そうすることで重々しい緊迫感から逃れようという意識も働いていたからに違いない。     4  四月三日、午前十時きっかり、予告どおり垣沼家の電話が鳴った。テープレコーダーがまわり始め、全員がヘッドフォンを付け終るのを待って、神谷は庸子に合図を送った。震える手で受話器をとる。 「垣沼です」 「庸子か、わしや……」 「あんた……あんたやね……」 「わしはまだ大丈夫や」 「あんた、ほんまに……ほんまに生きてはったんやね」 「大丈夫や、こんなことでへこたれるわしやない」  言葉とは裏腹に、その声は最後の精気をしぼり出すような苦痛に満ちた喘《あえ》ぎであった。 「あんた……死なんといて」 「心配するな、必ず帰る……」 「よっしゃ、もうええ、それくらいで上等や」  突然、犯人の野太い声が割って入った。 「おれの名前はオオガキや、覚えといてくれ」 「ちょっと待って……」  と庸子が問いかけた時には、もう通話が途切れていた。みんな拍子抜けの体《てい》で顔を見合わせた。 「十八秒きっかり……何と愛想のない電話や。これでは逆探知なんぞ、でけへん」  時計係の村橋が腕時計をにらみつけたまま、ぼそりと抑揚のない声を洩らした。それを受けて神谷が続ける。 「奥さん、さっきの打ち合わせどおり、もうちょっとは話を長びかせてくれんと困りますがな。ご主人のため思うたら、たとえ一秒でも長う話してもらわんと……」 「キャップ、それは無理というもんです。あの調子やったら、話の接《つ》ぎ穂も何もあったもんやない。仕方おません」  マメちゃんが庸子の弁護にまわる。 「そらそうかも知れんけど……もうちょっと話の持って行きよういうもんがあるはずや」  さすがにきつい言葉を吐いたと反省したのか、今度は誰に言うともなく続けた。 「すみません……」  とだけ言って、庸子が泣き崩れた。  こんな時、神谷の偏執的な性格を見る。元々、相手の心情を思いやる神経など持ちあわせていようはずもなかろうが、これでは少しひどすぎる。  何とも名状しがたい沈黙が部屋のみんなを支配したが、それも長くは続かなかった。  それ以上あわてふためきようのない様《さま》で、中年の女が部屋にころがり込んで来たからだ。細い眼を吊りあげ、厚い唇から色の悪い歯ぐきをいっぱいにむき出して、唾を飛ばしながら訴える。  ちょっと村橋に似ていると言えば、この女に失礼か。 「庸子はん。電話や、垣沼はんからや。うちにかかってきたんや。庸子はん呼んでくれと……垣沼はんえらい苦しそうにしてはる。早よう出たって」  あとで知ったが、この女、隣りの主婦であった。勝手知ったる他人の家、階段を走り上って、ノックもせずにとび込んで来たらしい。  主婦の先導で、庸子といっしょに我々も隣りの家に走る。こうなったら人目をはばかっている余裕などない。  庸子が電話にかじりつく。 「あんた、私です。……えっ……オオガキさん。……そうです。垣沼庸子です。……ええ。……はい」  通話の相手は犯人であろう。話の内容を掴めぬことがひどくもどかしい。神谷が途中で受話器をひったくった。 「こらおまえ、垣沼さんをどこへやった。……わし?……警察官や。……それで、……ああ……。分った、約束は守る」  一分ほど話して受話器を置いた神谷に、質問の雨が降る。 「どうでしたキャップ、犯人どう言いよりました?」 「いますぐ、車に身代金積んで、梅田へ走れと言いよった。奥さんひとりで……。国鉄大阪駅、東口前の広場に公衆電話ボックスが三つならんでる……そや、あの大きな広告塔の前や。車、そばに駐めて、三つのうち真中のボックスに入れ。棚の裏に封筒貼ってあるから、それをよう読めとほざいとった。十時四十分までに行かんとあかん。早速、出動や。犯人の言うとおり踊ってみせたろ……。池田君、車こっちにまわしてくれ。それから、中杉君にもすぐ出るよう連絡頼む」 「ちょっと待って下さい、キャップ」 「なんや、黒田君」 「大阪駅東口前の広場いうたら、阪急や地下鉄に乗り継ぐ客で、ものすごう人通りの多いとこです。おまけに、あのあたり、車道の上を歩道橋がとりまいてます。そこから見下ろしたら、車の中、丸見えです。私が後部座席に隠れてるのも発見されます」 「それもそやな」 「シートカバー、余分に用意して下さい。前のシートとうしろのシートの間、あの脚を置くところに何とか寝てみます。上からシートカバー掛けたら遠目には分らんと思います」 「そら、ええことに気付いた。ちょいと窮屈やけど、我慢してくれるか。さあ行こ。防弾チョッキ、忘れたらあかんで」  はからずも、藪をつついてヘビを出してしまった。  時おりシートカバーをめくっても、目に入るのは煤《すす》けた天井と灰色の空ばかり。雲を背景として、電柱だけが右から左へと移動して行く。  自分から提案したとはいえ、身長百七十センチの私が脚置き用の空間——あとで知ったが、レッグスペースと呼ぶらしい——に、すっぽり収まるためには、前のシートをいっぱいにスライドさせたところで、こんな具合に仰向きで、膝小僧を抱えた姿勢をとらざるをえなかった。  ちょうど腰のあたりにフロアトンネルのふくらみがあたって、背骨をギシギシと痛めつける。  腰から下は丸くなり、上半身はそっくり返っている。  タコやナマコでもあるまいし、よくこんな不自然な格好でいられると自分でもおかしかったが、車が動き始めた途端、そんな余裕などどこかに吹き飛んでしまった。  いうならば、逆エビ固めの状態である。それを、緊張しきった中杉がギクシャクした運転で痛めつける。  地獄の責め苦とはこれを言うのであろう。一匹どころか、二匹も、三匹も、ヘビをつつき出したようだ。  訳知り顔で、つまらぬ提案をした自分を罵る。これなら、トランクで何やら悲鳴をあげているマメちゃんの方が余程ましだ。  ただ身を固くしてじっと耐えているうちに、目的地に着いたらしい。エンジンが止まった。 「目的の電話ボックス前に到着しました。」  中杉がかすれた声で小さく言う。私は、これでしばらくは拷問が中断されると思うと、安堵感が先に立つばかりで、すぐには言葉を返すことができない。 「黒田さん、目的地に到着しました。どうします?」  再度、中杉が言った。 「どんなボックスや?」 「全面ガラス張りです」 「誰かおるか?」 「いません」 「ほなら、ドアをロックしてすぐに行ってくれ。金はわしが持っとくから……。メモに何が書いてあろうと、とりあえずは車に戻ってくれ、ええな」  いきおいよくドアを閉めて中杉が出た。ロックする音がする。  一億円の包みは私の腹の上にある。ドアロックはしてあるが、いつ、誰が、この包みに手をかけないとも限らない。シートカバーの下からふろしきの端を掴んだ左手、ピストルを握りしめた右手、両方に汗がにじむ。歩道橋や周辺のビルから犯人が観ているかも知れず、うかつに動くことはできない。  身体の自由と目を奪われた私には、ただ布きれとピストルをギュッと握りしめて、耳をそばだてていることだけしかできなかった。  中杉が出て一分も経つか経たぬうちに、またドアが開いた。ピクンと体中の血が一瞬動きを止め、右手の人指し指に神経が集中する。 「黒田さん」  小さく中杉が呼びかける。 「何や、君か。帰って来るのがあんまり早いもんやからびっくりしたやないか。どうやった、メモあったか」  せいいっぱいの落ち着きを込めて答えるが、声が震えるのは致し方ない。 「はい、棚の下にテープで貼ってありましたけど……それが、ちょっとおかしいんです」 「おかしいて……何がや」 「これ見て下さい」 「見て下さい言うたって……そら無理や。そこで読んでくれ。あんまり大口あけたらあかんで」 「読みます。『日頃、取引している相互銀行の支店長か次長に、いますぐここから電話せよ、オオガキ』……これだけです」 「何やそれ……。その相互銀行とかいうの何番や」 「番号、書いてません」 「それやったら電話のかけようがないやないか。第一、どこの相互銀行かも分らん……垣沼の奥さんやったら知ってはるやろけど……。そうか、分った。それ踏み絵や、踏み絵に違いない」 「フミエ? フミエさんて誰です?」 「違う、人の名前やない。ところで君、それ読んだあとどないした」 「どないした言わはっても……。いま、ここでこうして黒田さんに……」  中杉の反応が鈍い。事態を全く呑み込んでいない。 「違うがな。わしが訊いとんのは、それ読んだあと、電話ボックスの中でどないしとったかということや」  胃のあたりがムズムズしてつい口調も荒くなる。 「電話番号書いたメモがどこかにないかと思うて、ボックスの中を探してみたんですけど、どこにもなくて……。それで、黒田さんに指示してもらおうと戻って来たんです」  この女、何を考えているのか、まだ理解していない。 「あのなあ……相互銀行へ電話するように書いてあるのは、おそらく君が、ほんまに垣沼庸子であるかどうかを知るためや。垣沼庸子本人であれば、どこの相互銀行であるか当然知ってるから、番号暗記してるかどうかは分らんけど、電話帳をひくなりしてすぐにでも電話できる。メモ探して、キョロキョロしてるということはや、君が替え玉やということになる」 「えっ? それやったら……」 「君はその文を読んだあと、平気な顔して、どこでもええから電話かけるふりをせなあかんかったんや。これだけ大きなビルや歩道橋に囲まれた電話ボックスや、どこかから犯人、観察しとるに違いない」 「黒田さん、私……」  声の調子で中杉が泣き出しそうになっているのが分る。ここでこれ以上責めてはいけない。 「ま、済んだことはしゃあない。とにかくその相銀に電話しよ。尾行車に連絡とるから君はじっとしとれ」  トランシーバーを使って、後方に停車しているはずの村橋に、垣沼鉄工所と主に取引のある相互銀行の電話番号と、支店長及び次長の名を調べてもらうよう依頼する。三分ほどして回答があった。 「はい了解。……聞いたやろ、福洋相互銀行東淀支店や、電話番号はいま言うたとおり。支店長の名は阿部彰弘、次長の名は近藤、すぐに電話してくれ」  バタンと音がして、中杉がとび出した。  私は再び闇の世界。右手にピストル、左手にふろしきを持ち、耳に全神経を集中してジリジリと時を過ごす。  中杉には踏み絵と説明したが、果して本当にそうであったか……。ただ単なる垣沼庸子宛のメッセージではなかったか……。簡単なメモの裏に、ともすれば犯人の怜悧な横顔がほの見える。 「阿部さんに連絡がつきました」  中杉が戻って来た。 「十時二十分頃、オオガキと名乗る男から電話があったそうです」 「阿部は、そのオオガキを知っとるのか」 「初めてやそうです。オオガキは自分を警察の者やと言いました」 「それから?」 「オオガキが言うには、おとといの事件のことで垣沼さんとこ電話したけど、奥さん出たばっかりでつかまらん、多分おたくに連絡するはずやと聞いたのでこの電話かけた、もし阿部さんに奥さんから連絡あったら、悪いけど、梅田の地下街にある『ミューズ』いう喫茶店に、十一時までに品物持って来るよう伝えて欲しい、そんな内容やったそうです」 「それで?」 「阿部さん、何となく引き受けて電話切ったそうです」 「男の声に特徴は?」 「三十から四十歳くらい。落ち着いた話し方で、声には聞き覚えがないそうです」 「君は阿部をどう思う」 「嘘をついているようには思えませんでしたが」 「ま、本部の方から事情聴取に誰ぞ遣ってるはずやから、詳しいことはいずれ分るやろ。ところで、いま、何時や」 「十一時五分前です」 「よし本番や。そのミューズに行ってみよ」 「私ひとりでですか」  一時、平静を取り戻したかにみえた中杉の声がまた震えている。それに反比例するように私の頭は冷静に回転し始めた。 「もちろん、君ひとり行かせることできん。わしとマメちゃんも行く。係長にも、キャップにも応援頼まんといかん。そのためには時間が要る。打ち合わせの場所も要る。……そや、駐車場に駐めよ。この先のビルの屋上が地下のショッピング街専用の駐車場になってる。あそこ、無人の開閉機しかないし、屋上やから周囲の目も届きにくい。すぐ出発や」  シートカバーの下から中杉にあれこれ指示してやっと屋上駐車場に車を入れたのが十一時二分。もう遅刻だ。  周辺に誰もいないのを確認して、慢性エビ固めの責めを解かれる。  どんより濁った大阪市街の空気を胸いっぱいに吸って大きくのびをする。マメちゃんは、トランクの中が寒かったと不平を言い、クシャミを連発する。  すぐうしろの尾行車からは、村橋、沢居。次の車からは神谷。少しずつ時間と場所をずらして車を降りる。総勢六人、我々の他には誰もいない。神谷の指示で池田と鈴木は既にミューズの店内に入っている。その他、連絡により、所轄署からも三十人以上の捜査員が派遣され、ミューズ周辺に集結しつつある。全員、固定配置に付く予定だ。防弾チョッキとピストルを身につけ、機会があれば犯人を逮捕する手筈になっている。 「中杉君は金を持って、すぐミューズに行ってくれ。ふろしき包みをひったくろうとする者があっても、抵抗はするな。素直に渡したらええ。逮捕は我々がする。池田君と鈴木君が店内にいるから、黒田君と亀田君はどこか近くで張ってくれ。店内で騒ぎが起きたら、すぐに走り込めるような位置で張ること」  地下街に通じる屋上エレベーター室にいったん集合して、神谷が最後の指示を与えた。  金の包みを持った中杉を取り囲むようにして、地下街に向う。  阪急電鉄の梅田駅コンコース地下が「阪急五番街」と呼ばれる大規模なショッピング街と飲食街になっており、その中でもミューズは最も名の通った喫茶店であった。  壁や間仕切りがなく、テーブルと椅子だけをレイアウトしたカフェテラス方式である上に、百席以上もあろうかという広さであったから、否が応でも人目をひく。この私でも一度や二度はそこで四百五十円のウインナコーヒーなど飲んだことがある。  北側が厨房、あとの三方が舗道に面している。店内は二十センチくらい床が高くなっており、周囲との境界に高さ約七十センチの簡単な木製装飾柵を巡らせただけのまことに開放的な造りであるから、外部からの見張りには好都合なことこの上ない。しかしそれは犯人にとってもいえることで、店内からもまわりの様子が逐一観察できる。また、いざとなったらどこからでも店外にとび出せる上に、この人通りの多さであるから、手近な人間を盾にとるのも簡単だ。  こんな場所を指定して来るあたり、一筋縄ではいかぬしたたかさを感じさせる。  店内は見渡したところ四分ほどの入りか。中杉はかねての打ち合わせどおり、ほぼ真中のテーブルに席をとった。膝の上に大きなふろしき包みを置いて、厨房を背にして坐る。そのうしろの席では池田と鈴木がコーヒーをすすっている。談笑しているふうを装ってはいるが、目だけは間断なく動いている。  私とマメちゃんは、西側のエスカレーターをはさんで、ミューズからおおよそ二十メートル離れたところにある公衆電話コーナーで電話をしている。いや、正確にはそのふりをしている。二人連れのセールスマンが、会社にこれからの訪問先を訊いているという想定であった。  村橋と沢居はミューズの南向い側にあるトンカツ屋、東側のサラダショップには神谷が陣どっている。  その他、所轄署からの応援捜査員、府警本部捜査員と、姿形こそ様々には装っているが、目つきだけはいかにもそれらしい男がミューズをとりまいている。じっと立ち話をしているのも不自然だから、みんな、通行人に交じってゆっくり歩いている。所在なげにみえて、そのくせアンテナはしっかりと中杉に向けている。少しずつメンバーを入れ替えながらも、絶えず刑事がミューズのまわりを流れている。挙動不審とみえる人物がミューズの前を通りかかろうものなら、たとえ店内に入らずとも、捜査員は二人一組になって、スーッと流れを離れ、その人物の尾行を始める。  大きな紙袋を持ってミューズの店内を見遣りながら、足早に歩いて行った労務者風の男が最初の該当者であった。刑事が二人、ピッタリとその労務者風をマークする。いずれどこか適当なところで職務尋問にあうはずだ。  次にマークされたのは、店内に入りかけて思い直したように踵《きびす》を返した学生。布製のバッグを肩から提げている。学生にもひっそりと刑事が尾《つ》き従う。 「どやマメちゃん、あの労務者と学生?」  受話器を持っているが話し相手はうしろに控えているマメちゃんだ。 「違いますなあ、本星《ほんぼし》やったらあんな目立つ動きはせんでしょう。こら来ませんで。犯人、まんざらあほでもなさそうやし、こんなとこで大立ちまわり演じるような真似しませんやろ。それに、さっきの電話ボックスでの中杉君の動き、きっとどこからか観てたはずやし、再度出直しちゅうことになるのと違いますか」 「わしもそう思うわ」  のんきそうに話していつつも、神経はピリピリして、心臓と防弾チョッキが直接触れあっているような息苦しさを覚える。 「せやけど、もうこの辺でお終いにしてくれへんやろか。手間暇かけずにヒョッコリ出て来よったらさっさと逮捕してやるのに……」 「手錠は、ぼくらがかけたいですな」 「これだけ世間の注目を浴びとる事件や、わしらが捕まえたとなると、表彰もんやな」 「当然ですがな。刑事部長賞はいきまっしゃろ」 「いや、本部長賞まではいくで」 「そら、よろしいなあ」 「うん、ええ」 「もらいましょか」 「うん、もらお」 「そやけど、相当な危険は覚悟せんとあきませんで。とびかかったんはええが、撃たれたとなると元も子もあらへん。垣沼さんみたいになるの嫌でっせ」 「防弾チョッキつけてるやないか」 「こんなもん信用でけへん。この薄さが気に入りません。飛行機が空を飛ぶのといっしょで、どこか全面的に信頼できんとこがあります」 「そう言や、頼りないなあ」 「それに、チョッキの部分を撃ちよるとは限りません。犯人もピストルに関しては素人や。狙いが狂うて、ナニの部分でも撃たれたもんならえらいことや。嫁はんすぐ逃げよる」  佐智子の顔が目に浮かぶ。 「表彰状あきらめよか」 「その方がええようですな」 「池田と鈴木、かわいそうやな」 「あの二人、最初にとびかかる役まわりでっしゃろ。えらい緊張してまっせ」 「あの二人が犯人押さえつけたところで、我々が手錠かけるというのはどうや」 「そら、理想的ですけど、そううまいこといきますか」 「いくかどうかは分らん。あくまでも努力目標や。危い橋を渡らずに、おいしいとこだけいただくようにするのが、我々下っ端の処世や」 「賛成」  他愛ないが、エゴイズム丸出しの軽口を叩いていることが、お互い緊張している証拠であった。こうでもしないとやりきれない。  奉職して十数年。張込み、尾行、ガサ入れと、緊迫した場面には何度も遭遇したが、今日は格別だ。  誘拐事件も初めて、その取引現場にいあわせるのも初めて、おまけに犯人はピストルを所持している。刑事冥利につきるといいたいが、正直なところもうしんどい。今日はとりやめということにして欲しい。家に帰って大の字になって眠りたい。美加をこの膝の上に抱いてのんびりテレビ見たい。 「黒さん、あれ」 「うん?」  見れば、さっきの労務者風の男が戻って来て、ミューズの前をうろうろしている。通行人を、五、六人はさんだうしろには、これも先程戦列を離れた刑事が二人ピッタリと付いている。  労務者風は意を決したように店内に入る。中杉のすぐ隣りのテーブルに席をとった。  本星か。捜査員の目が男に集中する。この一瞬を凍結すれば、どれが刑事で、どれがただの通行人であるかは一目瞭然だ。  男が床に置いた紙袋に手を入れた。神経がピンと張りつめる。  マメちゃんはピストルの位置を確かめるためか、右手で左の脇の下を押さえた。池田と鈴木はカップを手から離し、腰を浮かし気味にしている。  男が取り出したのは新聞であった。両手を大きく広げて読み始める。  張り詰めた空気が少し和らいだ。ふっと下を見ると受話器がブラブラ揺れている。知らぬ間にとり落としたらしい。  あまり長電話しているのも不自然と映るから、そろそろ場所を移動しようかとマメちゃんに提案している矢先、我々の横を足早に通りすぎた男がミューズに入った。しばらく店内を見まわしていたが、中杉を目にして、まっすぐ近づいて行く。  長髪で、うす茶のジャンパーに紺のコール天パンツ、右手に大きなスポーツバッグを提げている。少し若すぎるようだが、背格好だけなら犯人と符合する。  私とマメちゃんは受話器を置き、小走りでミューズに向う。首筋から背中にかけて汗がジワッとわき出すのを感じる。  他の捜査員も少しずつ近づいて、包囲網を狭める。  長髪は中杉の横に立った。少し腰をかがめて、二言、三言、話しかけている。隣りの労務者風は新聞に目を遣ったまま無関心。鈴木と池田はもう臨戦態勢。  男が右手をジャンパーのポケットに突っ込むと、怯えるように中杉が上体をひいた。池田と鈴木が男にとびつく。  すわっとばかりにマメちゃんが走り出した。私も負けじと走る。  怒声と悲鳴、椅子やテーブルの倒れる音。  私は跳んだ。跳び越えるつもりが、柵を足にひっかけてしまった。体は浮いているのに、それを支持すべき二本の足までがいっしょになって宙を掻いている。テーブルの脚が視野いっぱいに広がったところで目を瞑《つむ》った。まっ暗な中に青白い火花が散る。  痛いっ。  気絶こそしなかったが、再び目をあいてよろよろと立ち上った時には、長髪男は床にひき倒され、その上に五、六人の刑事が折り重なっていた。マメちゃんがちゃっかり一番上に蔽い被さっている。  中杉はふろしき包みを抱えて床にペッタリ坐り込み、顔のひきつった客がまわりを囲んでいた。例の労務者風もそばに立ちすくんでいる。 「そのまま、そのまま、もう心配ありません」  大きなだみ声とともに神谷がずかずかと歩み寄って来た。 「何でもありません。落ち着いて下さい」  この場の状態を見れば、何でもないはずがない。説得力の乏しい解説だ。 「我々、警察官です。いま、犯人を逮捕しました。安心して下さい」  ほう、とどよめきの声があがる。  折り重なった人の層が一枚ずつはがれ、最後に長髪男が現われた。池田と鈴木に両側から腕をとられて身を起こした。抵抗もせず、ただじっと下を向いている。一見して学生風。二十歳を少し過ぎたところか。  すかさず身体検査にかかる。ピストルを出すかと思われたジャンパーの右ポケットからは封筒が出て来た。神谷はそれを受け取ると注意深く封を切った。中には便箋が一枚。ゆっくりと開く。例のカタカナが並んでいる。——「垣沼の居どころは、私の安全が確保された時、電話で報らせる」——そう読めた。  まさに本星だ。胸がキュンと鳴る。  長髪男の他の所持品は、定期券、免許証、キーホルダーに現金少々。免許証から松宮秀和、二十一歳と分る。大型のスポーツバッグの中身はトレーニングウェアと、何とか経済論といったお堅い本が数冊、写真とマンガの詰まった雑誌、それっきりであった。ピストルはどこにもない。  年齢といい、所持品といい、我々が頭に描いていた犯人像とは大きく食い違う。  銀行に押し入ったのがこんなヤワな男であるはずがない。犯人グループが何人であるかはまだ分らないが、刑事のカンでこいつが主犯でないことは分る。  いずれにせよ、衆人環視の中で本格的な取調べをすることはできない。 「本部や、捜査本部に連れて行け。そこで取調べる」  神谷は、唇の端にたばこを咥え、使い捨てライターで火を点けると、鷹揚にけむりを吐きながら池田と鈴木に指示した。  せいいっぱい気取った仕草だ。大勢の観客に囲まれて役者になりきっている。  松宮が引き立てられて行くのを見送って、再び口を開いた。 「おそれ入りますが、いま、店内におられた方は、全員、運転免許証等の身元を証明できるものを呈示して下さい。あくまでも参考のためです。それから、連絡先も必ずお教え願います。これは強制ではありませんが、今後の捜査のため、協力して下さい」  今度は、ええっという抗議のどよめき。いあわせた客にすれば、とんだ迷惑だ。  この言葉を聞いた途端、店を囲んでいた二重、三重のヤジ馬の輪が大きく広がった。  放火などの愉快犯は必ずといっていいほど、ヤジ馬の中に交じっているから、松宮が推察どおり従犯であった場合、この中に主犯がいることは充分考えられる。  ミューズをとり囲んだ人垣の外側には、もうひとつ、所轄署の捜査員で構成された包囲網があり、一人、二人と抜けて行くヤジ馬の中から怪しいと睨んだ人物を尾行する手配りとなっている。 「よっしゃ、これでええやろ。あとは任せて、わしらは捜査本部に戻ろ。早ようあいつをうたわすんや」  神谷がこちらへ向き直って言った。  全員が車に分乗して北淀川署に帰る。  まだ人質を救出していないだけに、天下晴れての凱旋とまではいかないが、少なからぬ収穫はあった。  署に到着するや、取調べ室に走る。あらかじめ連絡してあったので、松宮は部屋に入れられ、我々の訊問を待っていた。  腰縄をうたれ、堅い椅子にぽつねんと腰掛けている。背を丸め、頭を垂れているため、長い髪が広がってジャンパーのえりを隠している。手も、脚も、ヒョロヒョロと長く、ひ弱で、どことなく貧乏たらしい印象を受ける。  神谷、村橋、マメちゃん、私の四人が監視の刑事と交替。訊問に入る。 「松宮とかいうたな。これから訊くことに素直に答えんとあかんぞ。もうこうなって、逮捕されてしもた以上、早よう垣沼さんの居どころ、わしらに教えんとえらいことになるで。垣沼さん、死んでしもたらお前の罪重うなるばっかりや。おまえ大学生やないか、損得勘定のできん年でもないやろ。分ったら言うてみい」  正面に腰をおろした村橋が、松宮をじっと見据えながら慰撫するように話しかけた。  顔をあげた松宮の目が潤んでいる。 「何べん聞いても、あんたらの言うことさっぱり分らん。おれ、何でこんな目に遭わされんとあかんねん。人権|蹂躪《じゆうりん》やないか。署長を呼んでくれ、署長を」  外見に相違して、根は図太いようだ。 「えらい往生際が悪いなあ、さっさと吐いた方が得やいうこと分らんのか」 「何を吐くんや」 「垣沼はんの居どころや」 「知るか、そんなもん」 「知らんわけがない」 「知らんわい。おれ、ただ頼まれただけや」 「ほう、何を頼まれた」 「着替えを受け取るよう頼まれただけや」 「誰に?」 「誰て……中年のおっさんや。メガネかけてネクタイして……」 「それがおまえの相棒か」 「いちいちひっかかること言うけど、おれがいったい何をしたいうねん?」 「取引に現われたやないか」 「取引……。そうか、取引か……」  存外、口の軽い若者である。とぼけているのかも知れないが、村橋の訊くことにはストレートに反応する。 「ひとりごと言うてんと、ちゃんと分るように説明せんかい」 「いや、ちょっとやばいのと違うかとは思とったんや。だいたい話がうますぎるわ。そやけどおれ、ほんまに知らんかったんやで。ただのバイトや」 「おまえの言うこと分らん。言いたいことがあるのなら、順序立てて話せ。こっちはせいとるんや」  神谷が横から口をはさむ。 「うん」  松宮は素直に頷いて先を続けた。 「おれ、今日、午前中の講義に遅れてしもて……梅田までは出て来たんやけど、午後から出ようか出まいかと思案しとったんや。いま学校に出るような時期と違うけど、おれ成績悪いから補講を受けてる。ま、コーヒーでも飲んでからと思てアップルハウスへ寄ったんや」 「ひとりでか?」 「そうや」 「そんなとこ、昼間からひとりで行って何するつもりやった」  黙っておけば勝手に喋り続けるものを、村橋はいちいち合の手を入れる。 「コーヒー飲むつもりやと言うたやないか」 「それだけやないやろ。どうせ、隣りの部屋でも覗いたろと考えとったんやろ。それとも何か、その部屋であの手紙でも書いとったんか」  松宮はキョトンとした顔で村橋を見ている。 「おっさん、何か間違うてるのと違うか。おれが行ったんは茶店《さてん》やで」 「喫茶店にもいろいろ種類のあることくらい、わしでも知ってる。おまえが行ったんは個室喫茶とかいうとこやろ。最近、はやっとるそうやないか」 「何でおれがそんなとこ行かなあかんねん」 「おまえ、さっき言うたやないか。……カップルハウスやと」 「あほくさ、これやから年寄りは困る」 「誰が年寄りじゃ、気い付けてもの言え。おまえ、いま、どういう状態に置かれとると思うとんのや」 「無実の罪で逮捕されて、おっさんに責められとるのやないか」  松宮の口調が段々と横柄になって来る。物怖じしないというか、小生意気というか、最近の若者の精神構造は、全く理解の範疇を越えている。村橋から見れば異人種である。 「おまえが無実の罪と言いはるのなら、しっかりと釈明してみせんかい」 「そやから、おれが説明しようとしてるのに、おっさんが邪魔ばっかりすんねやないか」 「何を、こいつ」  村橋は掴みかからんばかりに身を乗り出す。あまりの剣幕に松宮が少したじろいだ。 「ま、係長、そんな怒らんと。ちょいとこいつの言うこと聞いたりましょうな」  マメちゃんが仲裁に入る。 「そのアップルハウスとかいう店どこにあるんや」 「阪急東通り。言うとくけど、普通の喫茶店やで。おれらの溜り場や。何やったら、電話してもええで。かおりちゃんいうウェイトレスがおるから、その娘に訊いてみたらええがな」 「おまえに言われんでも訊く。それよりおまえが無実やと言いはる根拠を早よう示さんかい」  マメちゃんも焦《じ》れている。 「アメリカンとトースト注文してマンガ見とったら、変なおっさんが入って来た」 「何時頃や」 「さあ……。時計持ってへんし分らんわ」 「分らんでは困る」 「分らんもんは分らんわい」 「何やと」  今度はマメちゃんが目を吊り上げる。  こんなことでは、無駄な時間が過ぎるばかりだ。私が話を引き取る。 「ま、何時頃やったかはあとでゆっくり考えよ。それより、そのおっさん、どう変やった?」 「アップルハウスいうたら若者の店や。一日中、ハードロック、ガンガン鳴らしてるから、そんな中年のおっさん珍しいねん。今日、それほど寒うもないのにコート着たまま、のそっと入って来よった。メガネかけてマスクしてたわ。革の手袋もつけとった。店の中見まわしとったけど、客がおれひとりやと知ると、他に何ぼでも席あるのにわざわざ隣りに坐りよったんや。こいつホモと違うか思て、ものすごう気持ち悪かったわ。ほいで、おれに話しかけよるんや。『君、バイトせえへんか、ほんの三十分くらいで五千円になるバイトや』と、こうや。おれ思た、こらてっきり本物や、とな。それで、『おれそんなんとちゃうねん。普通の男やねん』と答えたら、相手もビックリして、『違うがな、そんなおかしなバイトと違う』と、手を振りよった」 「おまえの話、えらい長いなあ。いったいどこから本筋に入るんや。こっちはせいとるんやど」  いらいらを押し殺して、マメちゃんが催促する。  村橋は椅子にもたれて天井を仰いだまま。 「まあ待ってえな。これからや。……その男が言うには、おととい、えらい夫婦ゲンカして家を出たんはええが、着替えが無うて困ってる。家に電話して女房に持って来てもらう段取りにはなってるけど、自分で受け取りに行くのも、何やけったくそ悪いから、代わりに行って欲しい、もう十一時過ぎてるから待ってるはずや、場所は地下街のミューズ、うちの女房、唐草のふろしき持っとるからすぐ分る。名前はヨウコや、包みをこの店まで持って来たら五千円払う、と言いよった。そこで、おれ作戦練った。いまから大学の講義出んとあかんしなあ、としぶる格好見せたら、七千円にする、とおっさん言いよった。こらいける思てもう一回ごねたったら、一万円や、と答えよった。しゃあない、これも人助けやとオーケーしてやった」 「封筒は?」 「女房に渡してくれ、と預かった」 「ばかたれ、何でその肝腎なことを早よう言わんのや」  部屋の空気が震えるほどの大声で神谷が、がなり立てた。 「くそっ、もう十二時になる。こいつの言うこと嘘かほんまか分らんけど、とにかくそのアップルハウスに、四、五人遣らんといかん。ここからでは遅いから曽根崎署に頼も。村さん、来てくれ」  あたふたと二人が部屋を出た。  呆けたような表情の松宮をはさんで私とマメちゃんは顔を見合わせた。もう遅いと、お互いの顔に書いてある。虚脱感が漂う。 「おまえ、何で逮捕された時、男に頼まれただけやと言わなんだ」  気を取り直してマメちゃんが訊いた。 「あんな大勢の人間、まわりにおるのに、そんなまわりくどいこと言えるかい。恥ずかしいて顔隠すのにせいいっぱいや」 「あの時、おまえが吐いとったら逮捕できたかも知れんのに……」 「自分らの都合だけ押しつけんといて欲しいわい」 「おまえなあ……」  マメちゃんが松宮に歩み寄ろうとするのを私は目で制した。 「もういっぺん訊くけど、おまえ、いままで言うたことに嘘はないやろなあ」 「嘘なんか言うてへん」 「よっしゃ、信用したる。信用したるから、これから訊くことにしっかり答えるんやで、ええな」 「分った」 「その男の人相、服装、気付いたこと、何でもええ、詳しいに言うてくれ」 「さっき言うたとおりや、メガネつけて、マスクして、コート着て、革手袋つけて……」 「もっと詳しく」 「メガネは銀ブチで、レンズには薄い色が付いてたと思う。サングラスかも知れん。髪はオールバック。てかてかになでつけてたわ。マスクしとったから顔はちゃんと見てへん。そやけど、普通のサラリーマンいう感じはせんかった」 「何でそう感じた」 「言葉遣いや。勤め人らしい丁寧な言葉遣いをしようとしとるんやけど、どっか板についてへんのや。それに、何も持ってへんのも気になった。サラリーマンいうたら、鞄か書類袋くらい持っとるもんやろ」  この男、抜けてるようで、意外に観察眼が鋭い。 「訛《なま》りは?」 「別に……大阪弁やったと思う」 「写真見て、こいつやと指摘できるか」 「どうやろ……メガネとマスク外したらどんな顔になるか想像できへん」 「服装は?」 「綿のコート着てた。平凡なベージュ色や。店の中暑いのに最後まで脱ぎよらへんかったわ。ネクタイしてたと思うけど、はっきり覚えてない」 「首すじに、傷痕か、ホクロみたいなもんなかったか」 「さあ……そういうたら、あいつ、コートのえりをずっと立てとったわ。そやから、首見えへんかった」  やはり、という表情を作って私はマメちゃんを見た。赤いタオルといい、コートといい、犯人の首筋には目立つ何かがあると考えられるし、逆の意味で、そのことを言った松宮の供述に嘘はないと判断できる。裏がとれるまで断定はできないが、この時点で松宮が共犯である可能性は殆どなくなった。  そうと分った以上、ここでぐずぐずしていては時間の無駄である。  部屋の外で待機していた係官と交替して廊下に出た。  村橋がこちらに向って走って来るのが見えた。 「黒さん、マメちゃん、垣沼家へ行こ。犯人からまた電話が入った。詳しいことは聞いてへんけど、あの婦人警官が替え玉やというのがバレてしもたらしい」 「やっぱり」 「神谷はんと、池田、鈴木は金持ってもう出た」 「三人だけで大丈夫ですか、金は」  人間より一億円が気にかかる。 「心配せんでも、前とうしろに車ピッタリつけてる。それより、早よう我々も垣沼家へ行かなあかん」 「松宮、どないします」 「しばらく止めおきや。アップルハウスへ遣った連中から詳しい報告があるまで離すわけにはいかん。それに、ちゃんと裏とって共犯でないと断定できたとしても、面割りやら、モンタージュ作成に協力させる必要がある。大事な目撃者としてせいぜい利用させてもらうんや。あとは、車の中で相談しよ」     5  垣沼家の近くまでは赤色灯をまわし、サイレンを鳴らしながら走る。素早くハンドルを操作しながらも、マメちゃんの口は静止することがない。 「いったいどういうことでっか。もうちょっと詳しい内容聞かせて下さいよ」 「実はな……耳切りよったんや、耳」 「ええ……?」 「詳しいには聞いてへんけど、犯人、垣沼はんの耳を切りよったらしい。むごいことしくさる。替え玉なんぞ寄越すからこうなるんやと言うたそうや」  これは明らかに犯人からの挑戦と考えていい。約束どおりにしないと、垣沼に少しずつ危害を加えるぞという警告である。こちらの仕掛けが犯人に見破られるたびに、垣沼の指や耳がそがれるというのなら、短絡させれば、我々の動きそのものが垣沼の体に逐一影響を与えるとも言える。  耳をそいだのはもちろん犯人だが、そうさせたのは我々、それも事実上の指揮官である神谷や村橋がそう仕向けたと非難される危惧もある。  実際のところ、失態が続いている。おとりはバレる。取引現場に現われた男を勢い込んで捕えてみればただのメッセンジャー。どこかしら捜査が空転している。村橋が青くなるのも当然だ。 「アップルハウスへ遣った捜査員から、連絡は入ったんでしょ」  私が訊いた。 「簡単な連絡は入った。けど、犯人とっくに店を出たあとやった」 「犯人、何分くらい店で待っとったんですか」 「それが不思議なことに、松宮が出たあとすぐに出て行ったそうや。多分、松宮を尾けて行ったに違いない。コーヒーにも口つけんと、金だけ置いて出よったらしい」 「ということは、松宮がふろしき包み持ってアップルハウスに戻る途中で受け取るつもりやったんですかな」 「おそらく、そうやろ。ミューズからアップルハウスまで、ゆっくり歩いたら十分かかる。その間に、松宮が妙な好奇心起こして中身を改めたりしたらえらいこっちゃ思うてすぐ受け取る考えやったんやろ」 「それやったら、充分期待が持てますな」 「何に?」 「ミューズのまわりをとりまいてたヤジ馬の、そのまた外側で張ってた捜査員が、ひょっとして犯人を尾行してるかも知れませんやろ。犯人、どうせどこかから松宮の様子を見とったに違いないんやから」 「わしも、それを期待しとる」 「それはおませんやろ」  と、しばらくおとなしかったマメちゃんが横やりを入れた。 「ぼく思うに、犯人はミューズまで行ってませんわ。黒さんの言うてはったように、電話ボックスで、犯人は女が替え玉やいうこと見破ったんです。婦人警官相手にのこのこ取引にはやってこんでしょ。犯人、金も本物でないと考えたんです」 「どういうことや?」 「ぼくが犯人ならこう考えます。金の運び役でさえおとりやのに、ふろしきの中身が本物であるはずがない、とね。犯人にしてみれば、金を受け取るまでは、それが本物であるかどうかを確かめる手段《てだて》がないのやから、それも無理のないとこです。あれは、ただの様子うかがい。警察をおちょくりよったんですわ。網の中に魚放り込んでみよったんや。たとえ松宮がふろしき受け取ったところで、犯人にはもう一度松宮に会う意志はなかったんです」 「えらい自信あり気やな」  村橋は厭味たらしく応じるが、マメちゃんは意に介しない。 「松宮の言うには、犯人手ぶらやったそうです。いまどき唐草のふろしき包みいうたらえろう目立ちます。それを、裸のままぶらぶら提げて帰れますか?……無理でっせ。車かなんかに乗せて帰るんならそれでもええけど、少なくとも地下街のミューズから地上の道路までは歩いて運ぶほか方法がおません。どないしてでも金持って帰るつもりなら、大きなバッグぐらい持っとるもんです」 「ご高説、有難くうけたまわりましたと言いたいとこやが、決定的に非論理的な部分がある」  村橋には、簡単なことをわざわざ難しく言いまわす俗物趣味がある。 「そんなに、決定的に非論理的な部分、ありましたか」  マメちゃんが皮肉る。 「犯人、松宮に二度と会う意志ないと言うたな。それなら、もし松宮がすんなりとアップルハウスまで金を持って帰りよったらどうするつもりやったんや。みすみす一億もの大金、見ず知らずの男に渡せるか。持ち逃げしよる可能性もあるんやで」 「それは、単なる|おはなし《ヽヽヽヽ》ですがな。垣沼庸子に身替り立てるくらいや、金は本物でない、おまけに何十人もの捜査員が網張ってるに違いない、と考えますわ。のこのこと松宮に会いに来るようなあほやったら、何もこんなややこしい手続き踏まんと、自分で受け取りに来よりますがな」 「そんなことあるかい。だいたい君、犯人を買いかぶりすぎや。強盗《たたき》やって、衝動的に人質連れ去ったような奴に、そこまで先を読める能力なんかあらへん。簡単に解釈すりゃええものをわざわざひねくれて考える。君の悪い癖やで。だいたいが、犯罪者の心理と行動いうもんは理屈だけで割り切れるもんやない」  どうあろうとマメちゃんの意見だけには素直に承服できないようだ。  何でもかでも単純に考えて、犯人パクれるんやったら、こんな楽なことおませんわ」 「それ、わしへのあてつけか」 「理論と理屈があかんと言わはるからですがな」 「理論まであかんとは言うてへん。屁理屈があかんと言うとるのや」 「僕の意見のどこが屁理屈です」 「屁理屈は、屁理屈、他に言いようがない」 「何ですて……」  双方負けじと、口角泡を飛ばす。  また始まった。  この二人、前世から余程深い因縁でもひきずっているのか、何かといえば角突き合わせる。二人だけの時は結構仲睦まじくやっているのに、第三者がいると、いつか止めに入ってくれるとたかをくくっているのか、口争いがとめどなくエスカレートする。酔っぱらいのケンカに警官が仲裁に入ると、余計ひどくなるのと同じパターンである。当人同士はこれで結構発散しているからいいようなものの聞いている私の身にもなって欲しい。  そろそろ止め男の出番だ。 「もうよろしいがな。どっちにころんだところで大した違いはあらへん。いずれ犯人パクったらわかることや」  垣沼家に近づいた。目立たないように、少し離れた公園の脇に車を駐めて、あとは細い路地を縫うように歩く。垣沼家に到着、佐藤が我々を迎え入れる。  一億円を囲んで、居間には、神谷、池田、鈴木、勝井、沢居と、第七係長の米田がいた。  我々を含めて総勢十名、坐るところもない。 「詳しい話聞かせてくれ。ここにおったん勝井君やろ」  村橋が勝井を呼ぶ。勝井は頷いて我々のそばに歩み寄った。 「十二時二十分でした。また、隣りのおばさんがこの部屋にとび込んで来たんですわ」 「えらい忙しいおばはんやな」  村橋が口をはさむ。 「今朝と同じ調子で、奥さんにオオガキいう人から電話や、と言うので、私えらいあわててしもて……十二時二十分いうたら奥さん取引現場行って、ほんまやったらいてはらへん時刻です。電話とってもらうわけにもいかんからどうしようか思うて……」 「君の困惑ぶりを訊いとるんやない。電話の内容を訊いとるのや」  村橋が先を促した。 「結局、私が電話とったんです。奥さんまだ帰ってないと言うたら、そんなはずない、替え玉を使うとるんやから家におるはずや、おまえからよう言うとけ、約束破った罰としてだんなの耳、切り落としたとな。……それでガチャンですわ」 「君、まさか奥さんに……」 「そんな……よう言いません」 「それでええ、そんなむごいこと奥さんに言うたらあかん。だいたいが、耳切ったいうのもほんまかどうか分らん。犯罪者はえてしてそんなはったりかますもんや。それから……」  と村橋が言いかけた時、卓上の電話が鳴った。 「奥さんや、早よう奥さん呼んで来い」  神谷がどなった。  庸子が受話器の前に坐り、テープがまわり始めた。全員がヘッドフォンを耳にあてて準備完了。神谷は自分の手で受話器を取りあげ庸子に渡した。 「もしもし垣沼です」 「あ、奥さん、福洋相互銀行の阿部です」  全員の顔が不快さにゆがむ。 「えらいお取り込み中やいうの知ってたんですが、オオガキいう人からまた電話がありました」  オオガキと聞いて緊張感を取り戻す。 「……実は、今朝も、そのオオガキいう人から電話あって奥さん宛の伝言頼まれたんですが……あとで警察の人が支店に来て、オオガキの声はどうやった、もっと詳しいこと聞かせてくれとか訊かれるもので、えらい騒動でした」 「すみません、ご迷惑おかけしまして」 「それでまた、今度の電話でしょ。私がオオガキさんからの伝言を中継する役割になっているようで……」 「申しわけありません」 「先に警察に連絡すべきかどうか迷いましたが、まず奥さんに報らせようと思いまして」 「それで、何と言ったんですか」 「それがまたおかしな伝言で……奥さん宅から、西に百メートルほど行くと、バス通りに出る。歩道橋があるから、その階段裏を探してくれ、という内容でした」  聞いた途端、佐藤と沢居が外にとび出した。  神谷はもう待ち切れぬとばかりに、庸子から受話器をひったくった。 「それだけか、オオガキの言いよったんそれだけか」  あまりの大声に思わずヘッドフォンを外した。 「ああ驚いた。あなた何です。誰ですか。急にどなったりして」 「警察や、警察のもんです。ちゃんと説明して下さい。オオガキの伝言、ただそれだけですか」 「それだけです。それだけしか聞いてません」  警察と聞いて怖れをなしたか、阿部は消え入りそうに答えた。 「何時頃です」 「ついさっき、五分ほど前です」 「どんな声でした」 「午前中のと同じ声です。さっきの警察の人には詳しく話しましたけど」 「分った。分りました。わざわざどうも」  訊きたいことだけ訊いて、乱暴に受話器を置いた。 「何ちゅう奴や。ちょいと長びきそうな連絡はすべて他人を利用しよる。吹田の酒屋のおっさんといい、隣りのおばさんといい、いまの支店長といい……この調子やったら大阪中の電話に逆探知の装置セットせないかんやないか」  神谷は悔しさにこぶしを震わせている。 「どうせ、歩道橋の裏にはまた例の手紙がテープで貼りつけてあるんやろ。どこまでわしらをなめとるんや」  やきもきして待つこと数分、封筒を手にした佐藤と沢居が息せき切って帰って来た。二人とも、顔に血の気がない。走ったせいだけでもなさそうだ。 「どうした、何ぞあったんか」 「これ……これ見て下さい」  佐藤が封筒を差し出した。 「分っとる。脅迫状や」  受け取った神谷が上から覗き込む。一瞬、表情が固くなった。 「奥さん、すんません、席外してもらえませんか。ちょっと差し障りがありますから」  庸子が部屋を出るのを待って、再び口を開いた。 「間違いない、耳や。ビニールに包んである。このまま鑑識に送る」  そう言って同封してある紙だけを抜き取った。おもむろに開く。見慣れたカタカナ文だ。便箋四枚にビッシリ詰まっている。ひどく読みづらい。  あとで書き直したが、ここではそれを紹介しよう。 〈垣沼の耳を切り落とした。その理由は、一、運び役におとりを使った。二、尾行している車があった。三、取引現場に刑事が多数いた。——以上である。  このように、私の指示に反することが続く場合、次はもう一方の耳を切る。その次は右手の指。垣沼にこれ以上の身体的損害を与えるか否かは、そちらの出方次第だ。条件をもう一度言う。一、金は、垣沼家にあるアディダスのスポーツバッグに入れること。二、金は必ず垣沼の妻が運ぶこと。代役は認めない。三、札に小細工はするな。四、尾行はするな。五、その他、取引に支障あることは全て禁止する。  今回の取引方法を指示する。午後二時四十分、金を持って、阪急西三国駅前、喫茶サンロードへ行け。店の前に車を駐めておくこと。車は軽トラックを使用せよ。不審な動きがあった場合、当方の判断により、即刻取引は中止する。また取引途中であっても何らかの障害が発生した場合、第三者に累が及ぶことも有り得るので、その点はよくよく留意されるよう要望する。オオガキ〉  読み終えて、神谷は便箋をテーブルに叩きつけた。 「くそっ、もう二時二十分や。あと二十分しかない。ここから西三国駅まで十分かかる。ということはあと十分。それで準備せないかん。こっちに時間的余裕与えんように、うまいこと計算してけつかる。とにかく連絡や。村さん、府警本部に連絡してくれ。脅迫状の内容言うて緊急配備をとるように要請するんや。佐藤君は軽トラック。確か下の工場に駐めてあったはずや、奥さんにわけ言うて貸してもらえ。ガソリン少ないようならすぐ入れて来い。それから、沢居君、君は奥さんにこのこと伝えてくれ。今度は奥さんひとりに金届けてもらわんといかん。うまいこと説得してくれ」  神谷はしたたる汗を拭いもせず、次々と指示を与える。 「それから……地図や。わしのカバンの中に、車の配備計画練る時に使うた地図がある。確か西三国駅周辺も大きく載ってるはずや」  地図を広げると、残る全員でそのまわりを囲んだ。  阪急宝塚線は十三を起点として北へ延び、豊中、池田を経由して宝塚市で終結する。十三駅の次が西三国駅、駅をはさんで西側は住宅街、東側が商店街で、駅前はロータリーになっている。踏切がないので東から来た車は駅に突きあたるとロータリーをまわってUターンし、元の道を戻る方式だ。車にとっては、いわば袋小路である。東淀区中新庄の垣沼家からまっすぐ西へ走れば駅前に着く。 「よう考えてますなあ」  米田がポツリと洩らした。 「うん、確かによう考えとる——商店街を通る車はロータリーに突きあたってUターンする。軽トラックに尾《つ》いている車は、いやがおうでも目に付く。犯人にとっては、尾行車のチェックがしやすいという利点があるわけや」  神谷があごを撫でながら解説した。 「利点があれば欠点もあります。袋小路みたいになっとるんやから、袋の出口に何台か張りつけといたら、絶対に逃げられへん。車で逃走するつもりなら、こんな条件の悪いとこありませんで」  すかさずマメちゃんが言った。 「金持って、電車で逃走するいうのはどうや」 「そら無理です。いちいち切符買うて電車待っとることできません」 「ほな、どうするんや。わざわざ逃げようのないとこ選びよったんか」 「いったん駅の西側へ出て、そこから車で逃走するというのはどうですか」 「と言うと……?」 「踏切はないけど、この駅の下には連絡用の地下道がありますねん。歩行者と自転車だけしか使えん細い道ですわ。ぼく何回か通ったことあります。これ利用して西へ抜けてから、あとは車乗って逃げるいう手があります」 「その地下道の長さは?」 「三十メートルくらいですか」 「よっしゃ、ここではさみうちにする。駅の西側にも張りをつけよ」  そんな、牛や羊を追い込むみたいに簡単にことが運ぶんなら苦労は要らん、相手はピストル持った人間やで、と私は心の中でうそぶいた。  それから数分、垣沼家にいる捜査員の役割と配置は決まった。 「ええか、これ逃したら二度と人質を救出する機会はないもんやと思うてくれ。犯人も負傷した人質抱えてあせっとる。必ず姿現わしよる。どないしてもパクるんや。化ける者は早よう服替えとけ。あと二分で出るぞ」  神谷に言われるまでもない。今度こそ接触して来る。嫌でも人目につくふろしき包みから金をバッグに移させたことがそれを証明している。汗とほこりでよれよれになったネクタイを外しながら、そう確信した。  沢居に付き従って庸子が居間に入って来た。前を見つめたまま動かない眼から、その心痛と緊張、キッと結んだ唇からはどうしても夫を助け出すんだという強い使命感がうかがえる。 「沢居から事情は聞きはったと思いますが、今度は奥さんに行ってもらわんとあきません。いや、心配することはおません。奥さんのまわりにはいつでも我々が目を光らせてます。絶対に手出しはさせません。奥さんは何も考えずに、ただ犯人の言うとおりにしてはったらよろしい。あとは我々に任せといて下さい」  神谷の問いかけに、庸子はこっくり頷いた。 「二時四十分までにはサンロードに着いとかんといけません。トラックは裏の路地にまわしときました。行きましょ」  私とマメちゃんは尾行車に乗ることとなった。庸子ひとりに運転させるのは非常に危険な賭けではあるが、荷台と小さな運転席だけの軽トラックに身を潜めるスペースなどない。  我々にできることは、犯人に感知されぬよう尾行すること。そして、いざという時、すぐにでも庸子を保護できる距離を保つこと。消極的な対応だが、いまはそれしかない。  米田と勝井は五分前に垣沼家を出た。先にサンロードへ行って、庸子を待つことになっている。  沢居と佐藤は垣沼家に残って連絡にあたり、あとの六人は二台の車に分乗する。  白のライトバンに村橋、マメちゃん、私。茶色のセダンには神谷、池田、鈴木が乗り込んだ。  午前中、幹線道路の要所に配備されていたパトカーも、いまは西三国を基点とした配置をとりつつある。その他、五台の覆面パトカーが西三国駅周辺で張込みにあたるよう手配された。  蟻一匹這い出せぬ包囲網だ。余程のほころびでもない限り金を手にして抜け出すことは難しい。  一億円入りのスポーツバッグを乗せて、庸子の運転する軽トラックが出発した。裏道を抜けると西三国までは片側二車線の道路が続く。比較的空いている。  十メートルほど離れて軽トラックを追走する。我々のすぐうしろは神谷の乗る車、庸子の二、三台前を走る車は覆面パトカーだ。目的地が分っているから、サンロードまでは庸子をはさむようにして走ることができる。まず、途中で襲われる心配はない。 「垣沼の奥さん、ほんまに大変やなあ。もしあれがうちの嫁はんやったら、絶対、あんなふうにはいきませんわ。おろおろ泣いてばっかりがオチや。ほんまにしっかりしてはるわ」  運転するマメちゃんが言った。 「女いうもんは、いざとなったら、男より強いんや。最後の最後は男より肚が据っとる。特に子供産んだ女はそうや」  うしろから村橋が応じる。 「女は弱し、されど母は強し、ちゅうやつですか」 「強うなかったらやって行けん。わしとこなんか安月給で、その上、亭主がめったに家に寄りつかんのやから、母親がしっかりせんとどもならん。四人の子を立派に育てあげて、まがりなりにも大学までやったんは、みんなうちのやつがしっかりしとったからや。わしなんか種|蒔《ま》いただけやで」  村橋の唯一の自慢は、四人の子をすべて大学や短大へやったことで、どんなにかけ離れたことを話題にしていても、結局はそこに落ちついてしまう。今回は「女の特性」から自慢話にたどりついた。放っておけば延々と続くので軌道修正する必要がある。 「村長、今度こそ、犯人ほんまに姿現わしよると思いませんか。私、そんな気しますわ」 「わしはそう思わん……あのな、営利誘拐ちゅうのは、釣りといっしょや。犯人は魚、わしらは身代金というミミズをたらした釣人や。魚にしてみたら、よう肥えたうまそうなミミズにガバッと食らいつきたいんやけど、鉤が見え隠れしとるだけにそうもいかん。ちょこちょこつついてみては、釣人の様子をうかがいよるんや。腹ぺこでいまにもくたばりそうな魚やったら、少々の危険は覚悟で食らいつきよるけど、この事件の魚は、もう既に、小さいミミズを食うとる。四百万いうたら、少ない金と違うで。そら一億円に比べたら小さいけど……。よっぽど、うまいこと鉤隠さへんかったら絶対に食わへん。わしはそう思う」  村橋には釣りの趣味がある。 「なるほど、釣りか。仲々うまいたとえですなあ」  マメちゃんが話に割り込む。 「そやけど村長、こいつただの魚と違いまっせ。一匹目はそうでもないが、二匹目はかなりのすれからしや。あの文章、読みましたやろ。字こそいっしょやけど、最初の脅迫状とは月とスッポンや。黒さんちょっと読んでくれますか」  私はメモを取り出して読みあげる。 「それそれ、そこのくだり、『第三者に累が及ぶことも有り得るので、……留意されるよう要望する』……そんな難しい言いまわし、ちょいと書けませんで。ほんまの推理小説みたいですがな。こら明らかに、同一人物の文章やおません。今度のは、おそらくアップルハウスに現われた奴の文や。村長もそない思いませんか」 「うん、かも知れん。銀行に押し入った奴と、あとで姿現わした奴とでは、イメージが合わん。どっちが主犯かは分らんけど、この取引に関しては、おそらくあとの奴が筋書練っとるのやろ。とにかく、取引に現われた奴、片っ端から逮捕して締めあげたらええ。いまはそれしかない」  熱のこもらぬふうに、村橋が言う。 「村長はんの言わはるとおり、パクりさえしたらいずれ分るのやろけど、ぼく、何や悪い予感して仕方ないんですわ。犯人、ぼくらの予想している以上に頭のきれる奴で、相当練りに練った計画を持っとるように感じますねん。単なる思い過ごしやったらええのやけど……」  先行する覆面パトカーが指示器を点滅させると、派手なイルミネーションのついたアーチの手前で、ゆっくりと車体を左に寄せた。軽トラックはそのまま速度を落として直進する。  西三国商店街に入った。車道をはさんで両側にはビッシリと商店が軒を並べている。  サンロードは進行方向の左側、駅の手前四軒目にあると、事前に報告を受けている。  地図で見たとおり、駅前には小規模なロータリーがあり、侵入して来た車はUターンして元の道を引き返すようになっていて、反対車線とは緑地帯で仕切られている。殆ど葉を落とし、ほこりで白っぽくなった灌木がまばらに続いている。 「マメちゃん、サンロードの向い側に車駐めよ」 「了解」  マメちゃんはスピードをあげた。軽トラックを追い越し、ロータリーをUターンすると、駅から三十メートルほど離れた地点でライトバンを停めた。マメちゃんを残して、私と村橋は車を降りる。  サンロードは前面に古風なレンガタイルを貼ったごく一般的な構えだ。窓ガラスは全て濃い茶色だから外から内部を覗き見ることはできないが、店内では米田と勝井が網を張っているはずだ。  庸子はサンロードのまん前に軽トラックを駐めた。バッグを両手で抱え、肩で古めかしい木彫ドアを押した。  神谷の車は軽トラックのうしろ、約二十メートル離れたところに停まっている。反対側の歩道を池田と鈴木が我々と同じように、駅に向って歩き始めるのが見える。 「村長、どないします。張込みするのに適当な場所見当りませんで。このまま歩いとったら、駅まで行ってしまいますがな」 「このあたりうろうろ歩きまわっとるわけにもいかんし、そこらの食堂にでも入ろか……そやけど窓のない店ばっかりやな。中に入ってしもうたら、外の様子が分らんで」 「困ったもんですな」  他人から見れば談笑しながら歩いているようだが、実際は二人ともあせっていた。 「黒さん、あれ見てみ、ちょうどええがな」  村橋が駅の方を指した。都合のよいことに、市営バスの停留所があって、十人くらいの客が並んでいる。  私と村橋はゆっくり歩いて、列の最後尾についた。すぐ前の買物カゴを持った主婦がこちらを向いたが、何か汚ないものでも見てしまったかのようにすぐ目を逸らした。  我々の格好を見れば、無理もない。村橋はグレーの作業ズボンにゴム長靴、いかにも安物といった合成レザーのジャンパー、ご丁寧に頭にはタオルのはちまき。私はところどころつぎのあたったジーンズにゴム長、上着はグレーの作業服、首にタオルを巻いている。土建屋の親方と、その使用人といった想定だが、二人とも防弾チョッキを付け、脇の下にはピストル、提げたビニールバッグの中には小型のトランシーバーを隠し持っているところに、本物との相違点がある。  池田と鈴木はサンロードの前を通りすぎ、二軒おいた隣りの不動産屋へ入った。ガラス一面に手描きの安っぽいチラシが貼ってあるので、中の様子は分らない。張込み場所としては申し分ない。  舞台の設定は終り、脇役もそろった。あとは主役の到来を待つばかりである。 「黒さん……」 「何です、えらい怖い顔しはって……」 「ピストル、自信あるか」 「自信も何も……最後に訓練受けたん、半年前ですわ。こんなことなら、もっと真剣に撃っといたらよかった」 「わし、思うんやけどなあ……梅田で松宮パクッたやろ、あんなパクり方ではあかんで。あの時、松宮が手に持っとったんただの封筒やったし、共犯でもなんでもなかったさかい捜査員にけがはなかったけど……今度はあかん。とびかかってねじ伏せるようなパクり方、危のうてしゃあない。あんな古典的なことしとったら、こっちの命、何ぼあっても足らん。わし防弾チョッキとかいうもん信用できん」 「マメちゃんもそんなこと言うてましたわ」 「あいつ要領ええよって、自分の身を護る術《すべ》よう知っとる」 「タイミングが難しいですなあ」 「そや、その通りや。ピストル手に持たしたらあかん。その前にホールドアップさせるんや」  村橋の口からホールドアップなどとシャレた言葉がとびだしたのがおかしかった。 「犯人が身構える前に、こっちが先にピストル構えとくんや。それで、手上げんとおかしな真似するようやったら、足狙うてズドン。殺したらあかん」 「村長、ピストルどうですか」 「あかん、竹光《たけみつ》や。三十年以上この稼業やっとるけど、訓練以外で撃ったことない。このごろ手は震えるし、眼はかすむし……黒さん頼むわ」 「そんな……」 「わしらロートルの出番やない、若いもんの時代や、若いもんが先頭に立って頑張るんや」  何のことはない、自分はうしろで応援するから、おまえひとりで逮捕せい、と言わんばかりだ。  大阪府警捜査一課、黒田憲造逮巡査部長、殉職、二階級特進。そんな新聞の見出しがチラチラ脳裏に浮かぶ。  不動産屋で目を光らせている池田と鈴木に先陣を切らせるにはどう動くべきか懸命に考える。 「いま、何時や」 「もう二時五十分です」 「遅いな……」  村橋の言葉を合図とするかのように、サンロードの扉が開いて、バッグを提げた庸子が出て来た。東へ歩き始める。三軒隣りの乾物屋前にある郵便ポストまで行くと、そのまわりをグルッと一周した。かがみ込んで、ポストの下側を探っている。暇なのか、乾物屋の主人が店先で庸子の仕草を見つめている。  私と村橋はさりげなくバス待ちの列を離れた。ゆっくりとサンロードに向う。  庸子が立ち上った。封筒を手にしている。例のごとく、ポストの下に貼りつけてあったのだろう。  封筒とバッグを持って庸子は軽トラックに乗り込んだ。トラックの中で封を切っている。 犯人は庸子をどこかに誘い出すつもりだ。  私と村橋がサンロードの前まで歩いた時、軽トラックのエンジンがかかった。我々は歩を早める。  軽トラック出発。もうグズグズしていられない。  反対車線で我々を待つライトバン目指して走る。それを見てマメちゃんがエンジンをかけた。ライトバンの把手に手をかけた時、ロータリーを通ってUターンした軽トラックが、私の横を走り抜けた。 「追え、離れたらあかん」  マメちゃんはタイヤを軋ませる。  緑地帯の向うでは、不動産屋を出た池田と鈴木が神谷の待つ乗用車に向って走っている。  米田と勝井もサンロードからとび出した。     6 「どないなってますねん」  訊いたマメちゃんに村橋が答える。 「封筒の中身、見んことにはちゃんと分らんけど、どこかに誘い出して、そこで金奪《と》ろ、いう企みやろ」 「何でまた奥さん、封筒がポストの下に貼ってあると知ったんやろ」 「サンロードに呼び出し電話でもかけよったんやろ。ポストの下探せ、言うてな」 「えらいまわりくどいことしますな。次に行く場所も電話で伝えりゃ済むものを」 「根っからお手紙が好きなんやろ。この犯人、若い時、女たぶらかそ思うて、文通ばっかりしとったんや。そういう軟弱な奴に限って、不細工な顔しとる。顔に自信ないもんやから、手紙書くしか能がない」 「そういう係長も、いまの奥さんによう手紙書いたとか聞いたことありまっせ」 「あほぬかせ。わしらの若い時分は、電話なんぞいう便利なもん、大金持ちの家にしかなかったからや。手紙でもやりとりせんことにはどないもならへん」  話がすぐに脱線する。それと知ってマメちゃんは修正にかかる。 「結局のとこ、またすっぽんかまされましたな」 「すっぽんて……うちの母ちゃんにか……」 「犯人にですがな」 「そっちのすっぽんか……せやけど今度のすっぽんからは、かなり濃いスープが出とる」 「何ですねん、それ」 「もうすぐミミズに食らいつきよるということや」 「すっぽんがですか」 「魚やがな」 「すっぽんは魚ですか」 「あほ、あれはカメや」 「さっぱり分らん」 「分らんでもええ」  軽トラックは商店街を抜けたところで左へ曲がった。北へ向って走る。  神谷班、米田班とも追いついて、我々のうしろを走っている。車内ではバックシートにふんぞりかえった神谷が、やれ車間距離がせまい、もっとスピードをあげろだのと、がなり立てているに違いない。池田と鈴木のうんざりした様子が目に浮かぶ。  さっき別れた覆面パトカーは遠く離れて我々を追って来ている。 「このまま、まっすぐ行ったらどこや」 「吹田か、豊中ですわ」 「その先は?」 「そんなん分りますかいな。トラックに訊いてもらわんと……」  村橋がバックシートから身をのり出し、私とマメちゃんの間に顔をはさみこむようにして喋る。  饐《す》えたような生臭いにおいが漂う。どうやら、村橋のジャンパーが発生源らしい。  私はあわててポケットのたばこを探った。 「吹田いうたら、最初の脅迫状見つけたとこやな。銀行から逃げた時も北へ逃げよったし……案外あのあたりに巣を作っとるのかも知れへんで」 「そやけど、吹田、豊中は大々的に捜査員投入して、しらみつぶしに調べてまっせ。逃走車がまだ発見されてへんということは、望みうすやと、ぼくは思いますわ」 「それもそうやけど、何となく、北摂方面は臭い」  臭いのはあんたの服や、と喉の奥で毒づいて、けむりを天井へ吹き上げた。  案に相違して、庸子の運転する軽トラックは、三分ほど北へ向うと、橋の手前を左に曲がった。橋の名は江の木橋。神崎川を跨いでいる。越えると吹田市、こちら側はまだ大阪市内だ。 「何や、もうひとつ動きがよう分りませんな。北へ行ったり、西へ向うたり……こっちの身にもなって欲しいわ」 「ここ、どこや」 「淀川区江の木町……のはずですわ」 「下水処理場のあるとこやな」 「よう知ってはりますな」 「新聞読んでへんのかいな、四、五年前、建設反対の住民運動があって、えろう揉めたん知らんか」 「知りません。新聞なんぞ、めったに読まへんから……」 「刑事がそんなことでどうする」 「スポーツ新聞なら読みまっせ」 「あんなもんあかん」  他愛のない会話を交わしつつも、視線だけは軽トラックから離れない。  阪急電鉄の踏切を渡り、次の信号を越えたところで、軽トラックは左側の指示器を点滅させて速度をおとした。停まるつもりらしい。マメちゃんはそのままのスピードを保って軽トラックを追い越した。  軽トラックが停まったのは、木造の二階建文化住宅の真前、歩道上には全面ガラス張りの電話ボックスが立っている。二十メートルほど前方に停めた車のウィンドウ越しに、我々はうしろを振り返る。  周辺に見えるのは、かごにいっぱい夕食の材料をつめこんだ自転車をのんびりこいでいる主婦と、せまい工場内では仕事が捗《はかど》らぬとみえてか、歩道上まで出張して鉄板を溶接している町工場のおやじ、重そうなカバンを提げいままさに車に乗り込もうとしているセールスマン、その三人だけ。下町の平凡な光景だ。格別興味をひく人物はいない。 「どないしょ、ここから張ってるだけでええんかな、キャップから連絡ないし」 「しばらく様子見ましょ、いまのところそんなに切迫した感じもないし」  と、私。 「この調子で振りまわされとったら、わしらの存在、いずれ犯人にばれるで」 「そやかて、奥さんひとりにするわけにもいきませんやろ」 「うむ……」 「どっちにころんだところで、ぼくらの存在、犯人にはよう見えてますんや。西三国駅での僕らのあわてぶり、どうせどっかから観て笑うとったに違いない。僕らは人形に徹するほかないんですわ。人質という強い糸に操られてる人形ですわ。せいぜいおもしろおかしゅう踊ってやりましょうな」  自嘲と憤懣をないまぜにしてマメちゃんが吐き捨てた。  庸子はトラックを降り、バッグを抱えて電話ボックスに走り込んだ。棚の下を探っている。そこから封筒をひきはがし、おずおずと封を切る。読みおわると、足許のバッグにおおいかぶさった。ファスナーをひく。そのままの姿勢でしばらくあたりを見回していたが、思い決したように、やおらバッグの口を勢いよくいっぱいに広げた。札束がひとつふたつころがり落ちる。  それを拾いもせず、じっと見つめている庸子の姿から、私はパンドラの箱を想い浮かべた。庸子の悲しみ、苦しみ、全てがバッグに凝縮されていた。最後に「希望」が残っていればこそ耐えられる。  反対側の歩道を、先程の自転車に乗った主婦が通りすぎたが、庸子に注意を払う様子もない。  その意志があれば、時おり走りすぎる車の中から、バッグの存在を知ることができるだろうが、車道側に庸子がうずくまっているので、札束までは見えないだろう。 「お披露目ですな」  マメちゃんがボソッと呟く。 「電話かけさすんかと思うたら、札束の公開かいな……そやけど、犯人どこから覗いとるんやろ、この附近、高い建物ないで。望遠鏡使うたって、札が本物かどうか分らんのに……」  と村橋が応じた。 「犯人にすれば、そんな細かいとこまで見る必要ないでしょう。手紙を読んで、躊躇なくバッグ広げて見せる……その行為を観察してたら、中身が本物かどうか、おおかたの察しは付きます」  マメちゃんが解説した。 「へえ、そこまで読んではりますんか……まるで心理学者でんな。いまはやりの行動心理学とかいうもんでっか」  マメちゃんに対してか、犯人に対してか、どちらともとれるような皮肉を村橋が浴びせる。 「それにしても、毎度、毎度同じパターンを使いよる。大阪駅東口前の時と同じや。ガラス張りの電話ボックスに閉じこめといて、外から観察する……水族館か動物園みたいなもんや。自分の思いどおりに泳がして、さぞ気持ちのええことやろて」  文化住宅の二階から学生風の男女が、そこだけ鉄骨造りの階段を降りて来た。  私と村橋は反射的に歩道へとび出した。小走りで、ボックスに近づく。  庸子はあわててバッグを閉じる。男と女は腕を組み、庸子には目もくれず、電話ボックスのそばを通りすぎた。  軽トラックの二十メートル後方からは、池田と鈴木がボックス目指して歩いて来る。  車道をはさんで反対側の歩道には、米田と勝井が立っている。全員、いまの学生風を見て車からとび出したようだ。  パトカーもその姿こそ現わさないが、無線を駆使して庸子の軽トラックを遠まきに包囲しているはずだ。包囲網は庸子の動きにつれて、正確に移動している。  学生風が遠のくのを待って、庸子は電話ボックスを出た。軽トラックには戻らず、バッグを提げて、我々の方に歩いて来る。  立ち止まる私と村橋を視野に入れまいと、まっすぐ前を見据えて庸子が脇をすり抜ける。  もう軽トラックに用はないようだ。取引の近いことを予感させる動きだ。  私と村橋はライトバンに戻ると、トランシーバーの入ったビニールバッグを持って、庸子を追う。マメちゃんは少しずつライトバンを移動させて、いざという時に備える。庸子がトラックを捨てたからといって、犯人も車を利用しないとは限らない。  庸子はそのまま西へしばらく歩き、信号のある交差点を左、つまり南へ曲がった。なおも歩調をゆるめず、まっすぐ進む。バッグが手に食いこむのだろう、何度も持ちかえる。  風景は変わらない。町工場や、モルタル塗りの小さな住宅が、ところどころに細い路地をはさんでひしめきあっている。  庸子は時おり左腕に目を遣りながら、足早に歩き続ける。強い使命感が疲れを顕《あら》わにすることを許さない。  さっきの交差点から五分も歩いただろうか。次の信号の二十メートルほど手前で、ふいに庸子が歩をゆるめた。時刻を確認してから、真前にある喫茶店のドアを押した。  店の名はカントリー、元は赤だったのだろうが、色あせて黄色っぽくなったテントで二階部分を全面蔽い、窓には趣味のわるい紫色のシートを貼っている。窓枠の下にしつらえた植込みの赤茶けたナンテンが、外装をよりアンバランスに演出している。 「村長……」 「言わんでもええ。店の中捜査員おらんし……そやからいうて外で張っとっても中の様子分らんし……わしらが行かんとしゃあないやろ。黒さん先入ってくれ」  尾行してますと言わんばかりに、続いて中に入る。店内で取引のあることも充分考えられるから、庸子から片時も離れるわけにはいかない。  庸子は窓ぎわの席についたばかり。ウェイトレスとマスターの他に客は我々三人だけだ。紫のシートを透して、店内からは外がよく見える。  私と村橋は奥のカウンターに席をとった。赤いチリチリ頭のウェイトレスが大儀そうに水の入ったグラスを、庸子に、そして我々に運ぶ。  ペーパーフィルターで淹れるコーヒーのかおりが店内に漂い始め、たばこを一本灰にした時、カウンターの片隅においてある電話が鳴った。マスターの横で洗いものをしていたウェイトレスが、濡れた手をジーンズのしりで拭きながら、のそのそと受話器をとる。庸子への呼び出し電話であった。  二、三回手短かに返事した庸子は、受話器を置くと、勘定を置いて店を出た。  私と村橋もコーヒーがカップに注がれるまで待っていられない。そそくさと席を立つ。さすがにウェイトレスは怪訝な顔をしたが、マスターは相も変わらぬ仏頂面で我々を見送った。  店をとび出した途端、ぶつかったのが池田と鈴木。 「奥さん、どこ行った」 「次の角、左へ曲がったとこです」 「そうか……今度は君ら、先に尾けてくれ。わしと黒さんはちょいとまずい……じっとしとらんと早よう追わんかい」  村橋が背中を軽く押しやると、二人はネジを巻かれたオモチャのように歩きはじめた。 「あいつら、先頭切るの嫌なんやで。刑事のカンで取引の近いことを知っとるんや。功名は欲しいけど、危ない橋は渡りとうない、そういう態度が見える。捜査一課にも、ヤワな連中が増えてきた。情ない限りやで」  そういうあんたはどうですねん。係長やということカサにきて、何とかうまいこと立ち回ろとばっかりしてるやないか。あんたこそ、いちばんヤワでんがな——と、これは私が胸の中に収めた言葉。  池田と鈴木を追って左へ曲がる。庸子はまっすぐ東へ歩いている。先に電話ボックスがあった。 「黒さん、見てみい、また電話ボックスや。奥さんきっと入るで」 「こないしてみると、電話ボックスいうの、ようけあるんですな」 「ほんまや、いままで何気なく見過ごしとったけど、こんなにあるとは思わなんだ。電電公社もうかり過ぎやさかい、こうして金使わんとあかんのやろ。お役所仕事いうのはそんなもんや。要るか、要らんかは問題やない、いかにその年の予算を使い切るか……ただそれだけですわ」  村橋が最後はおどけるように締め括った。  そのことばどおり、庸子は電話ボックスに入った。さっきと少し違うのは、しばらくのち庸子が再びドアを少しあけて、隙間からバッグだけを外に押しやったことだ。ドアを閉めて、庸子はかがみ込む。そのまま立ち上らない。旧式の上部だけガラス張りのボックスだから、庸子が何をしているのか見当がつかない。 「黒さん、ピストルの用意ええか。安全装置外すの忘れたらあかんで。今度こそほんまや。犯人あのバッグ拾いに来る」  池田と鈴木は電話ボックスを通りすぎて、その少し先にある特定郵便局に入った。彼らはバッグだけが外に置かれたことを知らない。米田と勝井は反対側の歩道をゆっくり歩いている。私と村橋は二人並べばもうまっすぐ歩けないような細い路地に潜り込んで、目だけをギョロつかせている。  電話ボックスに変化なし。時間の経過が遅い。いつ誰があのバッグに手をかけるか、……バッグを凝視する。二分、三分、四分、時計の針だけは機械的に進むが、時間は静止したままだ。 「あかん、黒さん。わし、もう我慢できん。気が狂いそうや。こら拷問や、やりきれん」 「応援を要請しましょ。あのバッグのそばにいるの我々だけです。池田組と米田組は、ちょっと離れすぎてます」  村橋がトランシーバーを取り出した時、ボックス脇に軽自動車が停まった。銀ブチ眼鏡に紺スーツの男がひとり、黒の革鞄を大事そうに抱え、運転席を降りて急ぎ足でボックスに向う。  私はホルスターのホックを外しながら路地を出る。  男はポツンと置かれたバッグに目を遣った。  私はホルスターからピストルを抜いた。安全装置を外す。足が地につかない。男の背後に迫る。  男は少し上体をかがめてバッグを見つめる。ほんのしばらく逡巡したのち、バッグを足で横に押しやり、ボックスの扉を勢いよく開いた。足許に女がうずくまっているのを見て、少なからず驚いたようだ。庸子もヒッと小さく叫ぶ。 「しっ、失礼」  誤ってトイレの扉を開けたかのように、男は目を逸らせた。何も言わずに車に引き返す。私と目があうと照れ隠しのように首を横に傾げた。私はピストルを上着で被う。  男はタイヤを軋ませて走り去った。私は膝の力が抜けて、思わずしゃがみ込んでしまった。  物陰に停まっていた覆面パトが、軽自動車をさり気なく追走する。  それをしおに、庸子はボックスを出た。バッグを手に、また歩き始める。 「もう、わし知らん。こうなったら、何があっても驚かへんで、どうとでもしてくれ」  私の背後で村橋が呻いた。このくそじじい、私を盾にするつもりだったに違いない。  庸子は郵便局を過ぎ、その先を左に曲がった。池田と鈴木が尾ける。気をとり直して我々もあとを追う。 「村長、気付きませんか」 「何に?」 「奥さんの動きですがな」 「どういうことや、勿体ぶらんと言うてくれ」 「奥さん、喫茶店寄ったり、電話ボックス入ったり、不規則な動きしてるようやけど、ちょっと広い通りに行きあたると、必ず左に曲がってます。軽トラック駐めた時は西向きです。次の角曲がって南向き、次は東、そして今度は北に歩いてます。このまま、まっすぐ歩くと……」 「そうか、読めた」  村橋が手を打った。 「次の角、左に曲がったら元の場所や、トラック駐めたとこやないか」 「そうですわ。何のことはない、一辺四百メートルくらいの四角のまわり、ぐるっと一周まわっただけですわ。要するにこれも顔見せやったんです。犯人、端《はな》から取引するつもりなんかあらへん。ぐりぐり歩かせて、我々の動きを観察しとるんですわ」  解説しているうちに、顔が熱くなる。犯人のせせら笑いを思うと、こめかみのあたりがピクピクする。 「今回も見送りか。いったい、いつ接触して来るつもりなんや。垣沼はん、死んでしまうがな」 「このまま、取引がないことも考えられます。犯人がどう脅そうと、取引の場に我々がおらんということはあり得へんのですから」 「なんや後味わるいな、わしらが垣沼はんに危害加えるみたいで」 「わるうても、放ったらかしにできませんわ。ここで見逃したからいうて、この犯人が二度と強盗やら、殺しやらせんという保証はおません。相手はピストル持っとるんです。あんなもん持たしたら、普通の人間でも目がギラギラして来よる」 「あの奥さん、ほんまのこと、どう思うてんねやろ。わしらのこと邪魔でしゃあないのと違うか、そんな顔してるで」 「少なくとも歓迎はされてませんな。頼りにもされてません。極端に口数が少ないのも、その表われですわ。正直言うて、人質とり戻したかったら、黙って犯人に金渡してやったらええのです。金でひと一人の生命買えるんやから、安いもんや。しかし、そないすることを世間が許さんのですわ。何のため税金払とるんや、言うてね」 「わしらかて税金払うとるやないか。わしにも一市民として発言する権利くらいある」  また話題がそれる。いちいち応えていたらキリがない。村橋に背を向けて先を行く。  しばらく北へ歩いていた庸子は、ふっと立ち止まると、車道に出た。そのまま道路を渡り始める。庸子の進行方向には、下水道の点検でもしているのだろう、オレンジ色のキャンバス六、七枚でマンホールのまわりを囲んだ一画があった。作業員は見あたらない。脇目もふらずにそこまで小走りで近づくと、庸子はキャンバスをひょいと手でよけて囲いの中に入った。またしゃがみ込む。  キャンバスの高さは約一メートル。頭が見え隠れする。しばらくのち庸子はかがみこんだまま、先程の電話ボックスでしたと同様、キャンバスをずらすと、バッグを西側の道路上に押しやった。 「またかいな。もうその手は桑名のなんとやらや。こんなことにつきおうとられへんで」 「村長、連絡。あの工事現場、車で包囲するよう連絡して下さい。今度はさっきみたいなことおませんで。車道の真中や、犯人いちいち車から降りんでも、ちょいとドア開けて手伸ばすだけで、バッグ奪れる。ゆっくり走りながらでも、さろうて行けます。バッグが西側にあるということは、犯人南から来て北へ逃げる公算大ですわ」 「よっしゃ。そう言う」  情報はすべて神谷に集まる。彼の乗る覆面パトカーを中継して、全パトカーに指令がとぶ手筈となっている。  私はそれとなく、マメちゃんのライトバンを探す。犯人が車を利用するつもりなら、こちらもその準備はしておかねばならない。 「村長、マメちゃんどないなってます。いざという時、車がなかったらお手上げでっせ」 「さっきの喫茶店までは、ちょこちょこ付いて来てたんやけど……まださっきの通りにおるんやろ」 「そんなのん気なこと言うてる場合やおませんで、犯人いつ現われよるや分らんのに」 「もうええやないか、そんなシャカリキになってどうする。追跡は、ほんまもんのパトカーに任せといたらええんや。犯人が車に乗ってしもたらわしらはお役ご免や。下手な運転して、事故でも起こしてみい、また失点が増える。餅は餅屋、追跡はパトカーと相場が決まっとる。もう、わししんどい、くたくたや。この辺でひと休みしたいがな」 「そやかて、ここまで来て、ただ眺めとるのもつまらんでっせ」 「ほな、黒さんだけ追うたらええがな。相手はピストル持っとんのやで」  なんのことはない、敵前逃亡である。ここが戦場なら、即射殺だ。  村橋がメガネを外して額の汗を雑巾色のタオルで拭いた時、私は人さし指をピストルに見立てて、この万年上等兵を射ち殺した。  あとで知ったが、その時、マメちゃんは、さっきまで池田と鈴木のいた郵便局前に待機していたらしい。神谷の車はそのすぐうしろ、二台連れだって行動していた。  犯人が車で来ると読んだためか、私と村橋は大胆にもキャンバス囲いから遠く離れ、さっき曲がった角地を固定配置の場に選んだ。身を潜めるべき路地も、手頃な店も見当らないので、電柱に何枚も貼られたストリップの広告を、ためつすがめつ鑑賞する悶々不良中年コンビを演ずる。遅すぎたきらいはあるが、何もしないよりはいい。  池田と鈴木は路地から通りをうかがい、米田と勝井は借りてきた熊《ヽ》のように、むこうの歩道をのらりくらり往復する。  村橋の連絡により、パトカーの配備も完了しているはずだ。  最初のうち、頭を見え隠れさせていた庸子も、少しは落ち着いたとみえ、しゃがみこんだまま姿を見せない。  三時四十五分、夕方のラッシュアワーにはまだ間がある。時おり通る車も、バッグなど目に入らぬとばかり、キャンバス囲いを大きく迂回して走る。とりたてて怪しい動きをする車はないが、その車種、色はしっかり頭に刻み込む。同じ車が二度も三度も通るようなら、当然尾行の対象となる。さっきの銀ブチメガネもいまごろはパトカーに停められて、目をパチクリさせていることだろう。  依然、何の変化もない。張込みとは本来こんなものだ。  紅茶に角砂糖を落とす。泡がブクブクあがるばかりで、いっかな溶ける気配がない。まどろっこしくなってスプーンに手を伸ばしたとき、ガクッとサイコロが傾く。甘味がカップの底辺に沿って拡散して行く。角砂糖は中から溶ける。外の形に変化がないからといって、あせってはいけない。まして、スプーンに目を遣ったりすると、崩れる瞬間を見落とすことになる。ただじっと、カップの中を眺めているだけでいい。……以前、マメちゃんから、こんなたとえ話を聞いたことがあった。もっとも本人は、女の子を落とす秘訣として喋ったのだが。 「黒さん、何をぼんやり考えとるんや。女の股ぐらのあたりに、じっと目を遣って……、もう長いことしてへんのかいな」 「えっ、いや、張込みの原点に立ち返っとったんですわ」 「何のこっちゃ……あのな、わし、いま気付いたんやけど……あの工事現場、何で作業員おらへんのや? いま昼飯食いに行くような時間やないで。現場放ったらかしてどこへ行く。ちょいとおかしい思わんか」 「そういえば、おかしいですな」 「そやろ、だいたいあんなとこに、あんなもんあるのもおかしい。公衆電話や喫茶店なら、その場所を移動することないのやから、金の受け取り場所としては、何ら不思議はない。そやけど、下水道の補修工事や点検なんぞ、せいぜい半日で終るもんや。ということは、いつどうなるとも知れん場所を、犯人は取引地点として指定したことになる。これはどういうことや」 「あの現場は、犯人が設定した……」 「そうや、作業員がおらんのも、それで納得が行く」 「目的は?」 「そこが、もうひとつよう分らん。犯人、下水道伝うて金受け取りに来るつもりやったんか……それなら、バッグあんなとこに放り出しとく必要はない。さっさとマンホールに投げ込んだらええんや」 「やっぱり、車使うて拾うつもりなんやろか……しかし、それやったら、道の真中にわざわざあんな舞台作る必要ない。奥さん車道の端に立たせとくか、それともバッグだけそのへんの電柱にでもぶらさげといてひったくるか、その方が人目につかんし、余程簡単です」 「奥さん、しゃがみ込んだまま動かへんというのも気に入らん」 「さっきも、そうでした」 「そや、あの電話ボックスでもそうやった。まさか、この切迫した時に冗談であんなことするとは思えん、何か意味がある」  村橋も金髪女の大きく広げた脚の付け根に目線を据えたまま考えこんでいる。 「マンホールや、マンホールが問題や。穴にカギがある」  ポスターには、『貞操帯の鍵をあなたに』と、どぎつくピンク色で大書してある。  私と村橋はうちそろって、うんうん唸り続けた。 「黒さん、こらあかんで。わし胸さわぎがする。あのマンホールやっぱりおかしい。どう考えても腑に落ちん。もう待てん」 「私もです」 「行ってみよか」 「行きましょ」  互いに頷きあい、囲いに向って一歩を踏みだした時、キャンバスの線上に、庸子の顔が浮かび上った。中腰のまま、不安そうに周囲を見まわしている。池田、鈴木組と目があう。池田と鈴木は路地をとび出した。マンホールに向って走る。それを避けようとして、トラックが急ブレーキをかけた。タイヤがアスファルトをかんで、悲鳴をあげる。 「あほか、お前ら」  運転手が首を突き出して喚いた。  私と村橋も走る。ゴム長の中で足が踊る。  米田と勝井も走っている。  私が囲いの中に見たものは、呆然と立ちすくむ庸子と、その両手にしっかりと握りしめた細いナイロンロープ。そのロープの先はマンホールに消えている。池田と鈴木は流れる汚水の上に頭をかざし足を大の字に据えて、張り切ったロープをたぐっていた。 「どないした」  私はどなった。 「どないもこないもあるかい、このロープの先に一億円ひっついとるんや」 「金はそこにあるやないか」 「あれは金と違う」  私は走り寄ってバッグを開く。 「これは……」  中には発泡スチロールがぎっしり詰まっていた。やっと走りついた村橋も、その白い塊を見てへなへなと坐り込んだ。 「どういうことや」  振り返った私は、再び大声をあげる。 「詳しいことはあとや。いまはそんなこと考えとる暇ない。早よう、キャップに連絡してくれ。この下水道の先に犯人がおるんや」  池田と鈴木はなおもロープをたぐりながらどなり返す。流れが強い上に、大きなバッグを先端に括りつけているためか、かなり重そうだ。 「ここから下流のマンホールを監視するように手配してくれ」 「村長、トランシーバー」  村橋は黙って手にしたビニールバッグを振った。底が破れてヒラヒラしている。 「わしのを使え」  池田の肩から黒い箱を外す。ロープの先はまだ見えない。  私の連絡は、捜査陣を驚嘆させるに充分であった。一言、二言、言葉を交わした時には、もうマメちゃんのライトバンが、曲がり角から姿を現わした。  池田と鈴木のたぐるロープが、マンホールのまわりにくねくねと抽象模様を描き出す。おおよそ百メートルもたぐっただろうか、やっと端が見えた。バッグとは似ても似つかぬ、赤い三輪車をしっかり括りつけて……。     7 「こんなあほなことようあったな。あれだけの捜査員投入しておきながら……」  神谷のゆがんだ顔がより一層ひどくゆがむ。会議室のすり減って木目の浮き出た机に視線を落とし、肩はもっと落としてぼっそり呟いた。 「済んだこと、いまさらどうのこうのと悔やんでも仕方おませんがな」  村橋が応じた。 「ようそんな無責任なこと言えるな。済んでしもたらどんなことにでも免罪符が下りるのか。それやったらわしらの職業、存在価値がなくなる」 「そやかて……」 「もうええ、時間がないんや、今日の事件経過まとめてくれ。黒板使いながらやってくれ」  村橋はよいしょと大儀そうに席を立ち、黒板に歩み寄った。 「午前中から全部まとめるんでっか。書ききれませんで」 「昼からや、サンロードからでええ」  神谷が二重顎を突き出して指図する。村橋はぷいと横を向いた。 「ほな始めるで。わしの言うことに不足があったら、ちゃんと手上げて発言するんやで、ええな」  神谷へのうっぷん晴らしか、ちょっとすごんでみせた。 「二時三十分、米田、勝井、サンロード着、店内で張込み。二時三十八分、奥さん、サンロード着。店内の客、五人。近所の主婦二人と子供一人、八百屋の主人とクリーニング屋の使用人。いずれも馴染み客や。まず問題はない。他にマスターとウェイトレス一人。ウェイトレスはマスターの娘。これも問題なし。二時四十八分、犯人より電話。オオガキと名乗って奥さんを呼び出す。三軒隣りの乾物屋前にある郵便ポストに、封筒貼りつけてあるという連絡やった。二時五十分、奥さん、サンロードを出る」 「コーヒー代二百八十円、あの味にしては高い」  米田が口をはさむ。捜査員の間からふっと笑い声が洩れる。 「発言は手上げてからにしてもらえまへんか……。これがその手紙や」  村橋は手にした封筒を示すと、無造作に中身をひき出した。広げて見せる。もう見飽きた、あの文字だ。 「読むで、しっかり聞いてくれ。〈商店街を抜けて最初の信号を左に曲がり、そのまままっすぐ北へ走れ。橋の手前、左側の角に薬屋があるから、そこを左に曲がれ。踏切を渡り、ひとつめの信号を越えたところにガラス張りの電話ボックスがある。そこに入れ。三時五分までに行くこと。棚の下にメモあり。あらためて忠告する。ご主人はまだ生きている。心配するな。ご主人を生かすも殺すもあなた次第。あなたの目的は、ご主人を取り戻すことであって、私を捕えることではない。そこをよく考えること。私はあなたに危害を加えるつもりはないが、もし警察が介入したら、その時は容赦しない。存分に撃ち合う。私が死ねばご主人もいずれ死ぬ。あなたの為すべきことはひとつ、ただ黙って私の言うとおりにするだけだ。金を受け取り、それが本物であると分った時、私はご主人を解放する〉……ああしんど」  しんどいのはこっちだ。村橋が、行きつ戻りつ、こけつまろびつ読みあげる言葉は、音として耳に入りこそすれ、頭の芯まで届かない。耳の奥でいったん再構築してから脳に収める。 「えらい説得調ですな。まんまと金奪られたから言うんやないけど、奥さんの心理、うまいこと衝《つ》いてますがな。何とか思いどおりに操ろうとしてる」  他人事のようにマメちゃんが評するのを神谷が睨みつける。  構わず、村橋は続ける。 「二時五十三分、軽トラック出発。三時五分、江の木町二丁目の電話ボックスに入る。これが棚の下にあった手紙。読むで、ええか、〈金が本物であることを証明されたし。バッグをいっぱいに広げること。私は望遠鏡で見ている。附近に人通りのない時実行せよ。その後、三時十分、ボックスを出て西へ歩け。スーパー・ダイエーの広告塔が見える方向だ。もうトラックは使わない。金を持って行くこと。信号を左へ曲がれ。南へまっすぐ歩き、次の信号手前の喫茶カントリーで待て。三時二十分、連絡する。もう一度確認する。ご主人を生かすも殺すもあなた次第。あなたの目的はご主人の救出。警察の目的は私の逮捕。どうすべきかよく考えること。なお、あなたの動きは全て監視されているからそのつもりで〉以上や」 「だんだん暗示をかけよいう作戦ですな。くどくどと同じことを繰り返しよる」  マメちゃんが言った。自分がくどいことには気付いていない。 「三時十分、奥さん電話ボックスを出る。三時十八分、南江の木町一丁目、喫茶カントリーに入る。三時十九分、わしと黒田君、店内に入る。三時二十四分、犯人から電話。南へ歩いて次の角を左に曲がったら電話ボックスがある。そこにメモがあるから読めという内容やった。奥さん電話切ってすぐ店を出た。わしと黒田君もあと追うた。わしら何も飲まずに金だけ払うて店出たんや。コーヒー代三百円、匂い嗅いだだけで三百円。わしらのコーヒーがいちばん高かったで」  そこで言葉を切り、村橋はニヤニヤと一座を見渡した。誰も笑わない。ニヤニヤ顔の持って行き場がなくなった。  コホンとひとつ空咳《からせき》をして元の表情を作る。 「カントリーのマスター、ノミ行為と管理売春で二回パクられてる。ウェイトレスはまだ十六やった。中学卒業してから、働いたり遊んだりや。……ま、いまはこんなことどうでもええ、本筋に移ろ。奥さんカントリーを出たあと南へ歩いた。ひとつめの信号を左、つまり東へ曲がった。百メートル歩いて、南江の木町三丁目の電話ボックスに入ったんが三時二十七分や。入って約一分後、また扉がちょっと開いた。奥さん、バッグだけ外に押しやってかがみこんだ。おかしな動きやけど、これには理由がある。あのボックスの中にあったメモや。例の如く棚の下に貼ってあった」  村橋は三枚目のメモを取りあげるといきなり読み始めた。 〈もう一度、金を確認する。ボックスの外にバッグを押し出せ。顔を見られたくないから扉を閉め、ボックスの中で坐って待つこと。何があろうと決して立ち上ってはいけない。三時三十五分までその状態を保つこと。そのあと、バッグを持って進行方向へ歩け。ひとつめの信号を左に曲がれ。百メートル先、道路中央に下水道補修現場がある。三時四十二分ちょうど、そこへ行け。マンホールの蓋の下に次の連絡メモ有り。繰り返し忠告する。私の指図に逆らってはいけない。警察をあてにしてはいけない。あなたの目的はご主人。私の目的は金。私が逮捕されればあなたの目的は達せられない。あなたの生命も保証できない〉  心憎いばかりの演出だ。倦《う》まず説得を続けることで、徐々に相手の気持ちを軟化させ抵抗力をそぐ。高度な心理作戦と言える。夫を救出することしか頭にない妻には、とりわけ効果的だ。 「こいつやっぱり普通やない。ここまで同じこと繰り返すいうのは並の人間には出来ん。なんぼカタカナやからというて不自由な左手でこれだけ何枚も書くの、相当の努力でっせ。常人には真似のできん所業や。こういうのを偏執狂言いますねん、偏執狂とね」  評論家、亀田淳也氏が断言する。 「そのおかげかどうかは分らんけど、大枚一億円せしめたんやから、いまのところ努力は報われたと言える」  村橋が感情のこもらぬ平板な調子でマメちゃんのあとを継ぐ。  またひとつ空咳をして黒板に向き直った。 「三時三十四分、軽自動車がボックス横に停まって男がひとり降りた。男は北大阪信用金庫の外勤で、横田正勝、二十七歳。これから行く得意先に連絡入れようとしたらしい。結果的には白やったけど、あの時はえらい緊張したで……」  私のうしろに隠れておきながら、緊張したも何もない。 「三時三十五分、奥さんボックスを出た。東に歩く。次の角を北に曲がった。例の工事現場に入ったんが三時四十二分。そこにあったんがこれ。最後の手紙や」  村橋は紙を広げて、目の高さまで持ちあげると、両腕を固定したまま、上体を左右に回転させた。  安宅の関でもあるまいに、えらく勿体ぶった仕草だ。 「読むで……〈金を受け取る。まずマンホールの中にあるバッグをとり出して、囲いの外、白線の中に置け。その作業を終えてから次を読むこと〉ここのとこ、説明せんと分りにくいやろ。マンホールの中には、鉄のはしごが取り付けてあるんやが、その一番上の段に、ハリガネでバッグが吊るしてあったんや。アディダスのスポーツバッグ、色は青。札束入れて来たのと同じバッグや。ちょいとかがみこんで手を伸ばしたらすぐとれる。奥さん、そいつを囲いの外に押し出した。ご丁寧にチョークで円を描いとったから、その中に押しやった。にせバッグには、あの白い軽い、発泡スチロールとかいうのがギッシリ詰まってた。いま、鑑識で調べてる。……〈以上の作業を終えたら、ロープに金の入ったバッグをしっかり括りつけること。バッグをゆっくり降ろせ。ロープの端は持っておけ。離してはいけない。ロープが伸びきった地点で私は金を受け取る。そのあと、ご主人の居どころを書いたメモをロープに括りつけるから十分間待つこと〉……これでおしまいや」 「私らが行った時、奥さん、ロープの端を手に巻きつけて青息吐息でした。水の流れ強い上に、先にあんな大きなもん括りつけとるから、えらい重とうて……ロープ離さんように踏んばってるのがせいいっぱいでした。あの様子では、とてもやないが犯人の指示どおり十分間も持ち堪《こた》えられへん。奥さんの手、ロープが食い込んで白うなってました」  池田が説明を加えた。 「バッグと三輪車、いついれ替わったんですか。奥さん気付かへんかったんですか」  律義にも、手を高く上げてから勝井が訊いた。 「ロープは水の流れにそうてスルスル伸びて行ったそうやから、途中で奪られたということはないと思う。ロープが張りきってからやろ、バッグ奪りよったんは」  村橋が答えた。 「池田さんと鈴木さん、囲いの中に入ったん何時です」 「三時五十分。ロープを降ろし始めたんが三時四十三分。百メートル全部伸びきるまで約二分。こいつはあとで実験してみた。つまり三時四十五分から五十分の間に、バッグ奪って、代わりに三輪車括りつけよったんや。黒さんの連絡で、現場周辺のマンホールにパトカー張りついたんが三時五十三分。そやから、三時四十五分にバッグ手にしたと考えて、地上に出るまで、八分の余裕があったわけや」 「奥さん、ロープの端握りしめたまま七分間も頑張ってはったんですな。そら手が痺れるはずや」  どこか白々しいマメちゃんの言葉に神谷が大声でかみついた。 「そんなつまらん頑張りをするからあかんのや。ロープ降ろす前に、わしらに連絡すればええものを、まるで夢遊病者みたいに踊らされて……だいたい君らも君らや。奥さんの様子見て、こらおかしいと思わんかったんか。何年捜査一課の飯食うとるのや」 「そう言わはってもですなあ……」  それが興奮した時の癖で、鼻をクシュンクシュン鳴らしながら、最も長く一課の飯を食っている村橋が神谷に負けぬ大声で応じた。 「あの場合、あないする他に、手ありませんがな。わしら、このメモ読みながら動くわけでもないし、ただ奥さんのあとを金魚のフンみたいに従いて歩くしかしようがない。グルグル振りまわされるばっかりで、いったいいつ取引があるのやら予想もつかん。ええ、そうでっしゃろ……大阪駅東口前の電話ボックスしかり、ミューズしかり、サンロードから、文化住宅前の電話ボックス、カントリー、また電話ボックス……わしら、どれだけ歩きまわったと思いますねん。それも、足に合わん臭い長靴履いて……。あの工事現場でもそうですがな。奥さん、中でしゃがんだきりなら当然行動起こしてます。そやけど、肝腎のバッグがわしらの目の前にちゃんと鎮座ましましとる。バッグがある限り安心や。あれが消える時は犯人の現われる時……誰でもそない考えます。それに奥さんがしゃがみこむのは前のボックスで経験済みやし、少々のことでは驚きまへん。  だいたいがやね……犯人が現われるまで、要らん手出しはするな、奥さんのあとしっかり尾けるだけでええと言わはったのは、キャップ、あんさんでっせ。それを最高指揮官であるあんさんがそんなふうに言うの、おかしいのと違いますか……。要するに、心理の綾をうまいこと衝かれたんですわ。犯人の方が一枚上手やった。いまはそうとしか言えまへん」  言うだけ言って、村橋は震える手でたばこを吸いつけると、たて続けにけむりを吐いた。 「いや、別に村さんのこと言うたんやない。奥さんがもうちょっと考えてくれたらと、わしはそれを言いたかったんや」  神谷が弱々しく呟いた。ケンカは先に興奮した者の勝ちだ。 「質問」  勝井がまた手を上げた。 「犯人が地上に出たんはどこからです。目撃者は?」 「おらん」 「何でです。何ぼ他人のことに関心ないというたって、地中から人間這い出て来たら誰かてびっくりします」 「そんなにあわてるな、これ見てくれ」  村橋は傍らの紙袋から大きな青い紙を抜いてテーブルの上に広げた。 「江の木町周辺の下水配管図や。現場から北へ七百メートルも行くと神崎川沿いに、市の下水処理場がある。淀川区一帯の下水は全部この処理場に集まるさかい、現場附近の下水管はものすごう太い。直径一メートル五十センチ、子供やったら中でマラソンできる。補修、点検用のマンホールの位置は、この二重丸のところ。現場から百メートル下流やから、これとこれが怪しいんやけど、最近蓋が開けられた形跡はないんや」 「マラソンできるくらいや、もっと遠いマンホールから出たんと違いますか」 「それはない」 「何で?」 「さっきわし言うたはずや。バッグ手にして、地上に出るまで八分しか余裕がないと」  自分で書いた黒板の文字を眺めながら村橋が答える。 「八分もあったらかなり遠くまで行けます」  勝井は諦めきれない。 「あの時間、まだ夕食の仕度には早いさかい、汚水そんなに多いことはないけど、大人のふともも隠れるくらいの量は流れとったんや。そんなとこを重たいバッグ提げて、懐中電灯持ってどう走る。下の方、泥たまってるから足がめり込むし、壁は苔でヌルヌル。こけんように歩くのがせいいっぱいや」 「村長さんのご意見、充分拝聴しました。八分間でそんなに遠くまで行かれへんこともよう分りました。ほんなら、犯人まだ下水管の中に潜んでるとお考えですか」  マメちゃんが神妙な口調で訊いた。 「あほか君は、いま何時や思うてんねん。もう八時過ぎやで、あれから四時間以上経っとる。あの一帯の下水管、ネズミしか通れんような細い穴まで捜索したん知っとるやろ」 「ほな、どうやと言わはりますねん。遠くへは行けん、近くのマンホールの蓋開けた形跡はない、下水管は捜査済み、犯人金持って消えたんでっか」  あほ呼ばわりされてマメちゃんは少々鼻白んだ。 「どんな手品にでもタネはあるんや。この配管図よう見てみい」  神谷を除いた全員の視線が青い紙に集中する。神谷だけが、椅子に背中をもたせかけ、ぼんやりとけむりを吹きあげているところを見ると、タネを知っているのだろう。知っていながら、得意気に我々を焦らす村橋を放置しているところに彼の人間性がうかがえる。今日の失態をどう言い繕うか、作戦でも練っているに違いない。 「まるで迷路クイズですな。お手上げや。すんなり降参します。タネ明かして下さい」  おもしろくもないお遊びにつきあっていられない私は、村橋をおだてた。 「しゃあない、教えたろ。タネはここにあるんや」  村橋が指したのは、下水処理場そのものであった。 「この図面ではよう分らんけど、この処理場ぎょうさんの溜池持っとるんや。第一沈澱池、第二沈澱池いう具合にな。汚物を沈澱させて、その上澄みを次のプールに順繰りに送る。そうやって段々と汚れを取り除く。最終段階では、空気を送り込みながら、残った汚物をバクテリアで分解させる。そのあと神崎川に放水と、まあ、こういう段取りになってる。犯人はわしらの盲点を衝いて、この処理場まで行きよったんや。  問題はこの第一沈澱池にある。えらい大きな正方形のプールで、全体を屋根がわりのコンクリート板で蔽われてる。その上で少年野球くらいならできる広さや。つまり、とてつもなく大きなコンクリート製のマッチ箱を地中に埋め込んである、と考えたらええ。このマッチ箱に半分くらい水が入っとるのやけど、水面と天井との距離は約二メートル五十センチ。水面から五十センチほど上を、田んぼのあぜ道みたいに、鉄製の通路が十メートル間隔で碁盤の日のように走ってる。こいつは池の点検用や。下水管を通って集まった汚水は、いったんこの第一沈澱池に流れ込む。  犯人もこの池に入った。箱の中やから誰にも目撃されることはない。下水管から|あぜ道《ヽヽヽ》に渡り、こいつを通って鉄の扉をあけた。階段を上って堂々と外に出た。ここで、もし誰ぞに目撃されても、処理場の中やし、作業服着て長靴|履《は》いとったら、怪しまれることはない。あとは、車にバッグ積んですたこらさっさや。こんな簡単な逃げ方あらへん。説明しとるわしまであほらしなる」 「処理場出入りする際のチェックは」 「固形沈澱物の引取りや何やで、四六時中、車が出入りしとる。従業員も交代制勤務やさかい全くのフリーパス。手の付けようがない」 「その第一沈澱池から逃走したというの間違いないんですか」 「五時頃、捜索に行ったもんが確認してる。あぜ道にゴム長の痕がベットリ付いとった。もちろん写真は撮ってある。いま、従業員のゴム長と照合中やが、処理場で支給されたものとは模様が全く異っとるさかい、まず犯人のものとみてええやろ」 「車の目撃者はどうですか」 「あの処理場、とてつもなく広いから、車駐めるとこ何ぼでもあるんや。あっちの池の側に一台、こっちのポンプ室横に一台と好き勝手に駐めとる。近所の連中が駐車場代わりに使うこともあるそうやさかい、こいつも望み薄や。ま、本格的な聞き込みは明日からになるけど……」 「他に何ぞ手掛かりは?」 「何もない。ゴム長の痕だけ残して消えよった。稀に見る計画的犯罪や。スマートなもんでっせ」  結論付けて、村橋はフィルターのところまで吸い尽したたばこを揉み消した。 「犯人からみたら、してやったりいうとこやけど、我々にしたら大チョンボやなあ。明日の朝刊が楽しみや。いままで箝口令《かんこうれい》敷いてた反動で、どれくらいひどい叩かれようするのか想像もできん。赤い三輪車の代わりに、約束どおり、垣沼はんの居どころ報らせるメモでもついてたらちょっとは救いがあったんやけど……。それにしても垣沼はん、どないなっとるのやろ。定石どおりやったら、もうこの世にはいてはらへんねやけど……」  誰もが意識して避けていた垣沼の安否を、米田があっさり口にした。 「それや、そのことやけどな……」  神谷が突然ガバッとはね起きて立ち上った。椅子がうしろに倒れ、乾いた音が部屋に響いた。  神谷のゆがんだ顔はいつもどおりだが、それに青味がさして凄味さえ感じさせる。唇の端が小刻みに震えている。 「さっき鑑識から連絡があったんや。垣沼さんの耳のことでな……」  ゴクッと唾を呑み込むと、あとは一気に喋り続けた。 「垣沼さん、死んでるんや。あの耳、詳細に調べた結果、切断面の凝血状態と細胞組織中の出血状態、それにアルカリフォスファターゼ反応とかいう酵素活性を調べた結果、生活反応がないと断定された。つまり、あれは生きた人間から切り取ったもんやない、ということが分った。今朝、十時の電話では垣沼さん確かに生きてたから、あのあとすぐ殺されたか、或いは傷が悪化して死んだに違いない。もうちょいと早よう検査が済んでたら、みすみす一億もの大金、奪われることもなかった。奥さん、死人に金払うたことになるんや」  ロープの端を手に巻きつけたまま、放心したようにマンホールの底を凝視していた庸子の姿と、写真の中で笑っていた垣沼の顔がオーバーラップする。  我々は考え得る最悪の事態を招いてしまった。  捜査を始めるにあたって、いったい誰がこんな状況を頭に描いたであろう。カメラのフラッシュや、テレビのスポットライトの交錯する中を、意気揚々と犯人をひき立てる姿、或いは、どこかうらぶれた倉庫から、衰弱した垣沼を毛布にくるみ、両脇を支えて救出する場面を想い描いていたのではなかったか。  もくろみと現実との間には、かくも大きな隔たりがあることを実感した。 「こうなった以上、あとは犯人を逮捕して金を取り戻すしかない。明日からの捜査に本腰を入れて、この汚名をすすがんといかん。これからが勝負や思うてみんな頑張ってくれ」  神谷は緩慢な動作で倒れた椅子を元に戻し、力尽きたように腰を下ろした。  垣沼の死を確認して部屋の空気は凍りついたまま。咳ばらいひとつ聞こえない。灰皿の中でくすぶるたばこを揉み消す者もいない。  痺れを切らしたのか、村橋が口を切った。 「どうしたんやみんな、お通夜みたいに黙りこくって……片付けないかんことは山ほどあるんやで。垣沼はん亡くなったんは、そら気の毒やけど、死んでしもたもんはいまさらどうもしようがない。一日でも早よう犯人パクることや。垣沼はんの遺体発見して、ちゃんと弔ってあげんといかん。金も取り戻さんといかん。こんなとこでボーッと残念会しとる暇ないんや。これからの捜査のためや。意見あったらどんどん出してくれ」 「よろしいか?」  元気よく手を上げたのはマメちゃんであった。 「犯人の遺留品には有力なものが多数あると思います。まずひとつは看板に使われたアディダスのスポーツバッグ。犯人がこのバッグを手に入れたんは、垣沼さんを連れ去ったあとです。垣沼家に青のバッグがあると聞いて同じ型、同じ色の製品を用意したんです。ここ一両日の間にこのバッグ買うた人物を探すべきです。それから、バッグの中に入ってた発泡スチロール、あれ、かなり有力な手掛かりになります。細《こま》こう刻んであったけど、元は何か大きなややこしい形してたはずです。その形、復元したら何を梱包してたかすぐ分ります。梱包の対象物が都合のええことに洗濯機や冷蔵庫みたいな大物やったらしめたもんです。そんな重たいもん、提げて帰るわけにもいかん。当然届けてもらう。そのためには住所、名前を書く。犯人にしてみたら、名刺置いていったようなもんですわ。ま、そんなに理想的にはいかんやろけど可能性はあります。もうひとつは現場を囲んでたオレンジ色のキャンバス。犯人、あれをどこから調達したか分らんけど、かなり特殊な用具やし、丹念に洗うてみたらええ結果でるかも知れません。それに、あらかじめキャンバスをセットしてマンホールの蓋開けてるところ、誰かが見てるはずです。聞き込みする価値は充分にあります。ぼくの意見、これだけです」 「もうひとつある」  村橋が応じた。 「ナイロンロープや。あれ、まだまっさらやさかい、つい最近どこかで買いよったに違いない。それに、太さ九ミリ、長さ百メートルいうたら、物干ロープみたいに簡単には手に入れられん。わし思うに、あれは登山用品や。こいつもキャンバスに負けず劣らず特殊限定用品やさかいひょっとしたらひょっとする。あとひとつ、赤い三輪車があるんやけど、こいつはあかん。錆びてボロボロやし、前輪もない。どこぞのゴミ捨て場で拾うたもんやろ」 「そんな特殊な品、短期間のうちによう集めよったな。銀行に侵入したのがおとといの昼、金|奪《と》りよったんが今日の午後三時四十五分頃。まる二日とちょっとです。その間にこれだけのもの準備しようと思うたら並大抵の苦労やおませんわ」  勝井が意見ともひとりごとともつかぬ口調で呟いた。 「いまごろ何を言うとるのや、君は」  神谷がテーブルを叩いた。灰皿が跳ねる。 「何をて……短期間にあれだけの小道具集めたんやから、どこぞでボロ出してるはずやと思いまして……」 「いつ誰が短期間や言うた」 「そやかて……逆算しますと……」  神谷の口調が峻烈であるだけに、勝井はおどおどしている。 「捜査一課の刑事がそんなことでは困る。手前勝手な判断したらあかんのや」  神谷はそこで言葉を切り、全員を見まわした。 「さっき村さんが言うたやろ。稀に見る計画的犯罪やと……犯人の目的は二つあったんや。……いや、厳密にいうたらひとつかも知れん。第一の目的は銀行強盗。これは言うまでもない。第二の目的は身代金。犯人、何で垣沼さんを連れ去ったか……銀行から安全に逃走するための盾代わりやない。最初から身代金奪るための人質やったんや。そうでなかったら足手まといになる負傷者をわざわざ車に押し込んだりはせん。……銀行内での状況、もう一回頭に描いてみい。犯人、最初は出納係を連れ出すつもりやったんやで……それを急に気が変わったように、垣沼さんに変更した。何で変更したか……簡単や、垣沼さんの方が身代金引き出すには有利な材料やと判断したからや。  考えてもみい、銀行いうとこは、一円の金でも出し惜しみするくせに世間体だけはえらい気にしよる。自分とこの行員は、いわば身内や。身内に一億もの大金、すんなり出すとは考えられん。お客様からの預かりものです、とか何とか、大義名分振りかざしてぐずぐず言うに決まっとるんや。身内のことであればマスコミにも、そうひどくは叩かれんやろしな。銀行にとっては神様である客を人質にとるのが一番や。それも銀行のため思うてとびかかって来た客を利用するのが最も効果的や。ま、瞬間的にそこまで読んだかどうかは疑わしいけど、結果的には犯人にとって有利な選択となったんや。ええか、もういっぺん言うで……犯人の主たる目的は、銀行強盗ではなく人質の誘拐。そう考えたら全てに納得がいく。今日の犯人の動きは、最初から計画して周到な準備を終えていればこその所業や。  ……わしらにも反省すべき点はある。金奪られるまで、犯人の目的が最初から身代金にあると考えてなかったことや。あくまでも強盗のついでに、金を要求して来たと思い込んでたことや。強盗《たたき》打つような粗暴犯に、そんな巧みな芸当できるはずないと、どこかでタカくくっとったんが間違いのもとや。いま、こうして最悪の事態になって初めて目が覚めた。類《たぐい》稀なる計画的犯罪……村さんもうまいこと言うたもんや。……そやけど、この計画的犯罪が完全犯罪と呼ばれるようになることは絶対に避けんといかん。  垣沼さん、ボロボロになって死んだ。犯人にとことん利用されて骨までしゃぶり尽くされた。最初は逃走するための防護壁として。次は身代金奪るための生贄《いけにえ》として。指を切り落とされ耳そがれ、ほんまに雑巾みたいに二度、三度のおつとめ果たして死んでしもた。ええか、草の根分けても犯人ひっ捕まえるんやで。それが大阪府警の威信を取り戻す唯一の手段や」  最後は管理職らしい決まり文句で、神谷は長い演説を締め括った。     8  どうです、ちょっとはびっくりしはったでしょう。銀行強盗あったすぐそのあと、裏では、こんなあわただしい動きがあったんですわ。  そら腕ききの記者連中のことや、最初の脅迫状が届いた頃には、私らのあわてふためきようを見て、何かあるとすぐに感づきよった。そやけど、新聞紙上に大きく、身代金の件、発表するわけにはいかん。人質の生命にかかわりますがな。  例のごとく、報道関係者招集しての協力依頼。体《てい》のええ箝口令ですな。これは、捜査一課長の骨折りでうまいこといきました。  あの当時の新聞、今度の大掃除の時でよろしい、畳の下にでも敷いてあるの目にとまったら、じっくり読んでみて下さい。〈垣沼さんはどこに〉、〈人質の発見は近いか〉、〈最大の謎、消えた逃走車——白のカローラを追え〉、見出しこそいろいろ工夫してあるけど、内容は相も変わらず同じことの繰り返し。もっともっとセンセーショナルなネタ持ってるのに発表できん記者のいらだちが、活字の裏にへばりついているようです。  そのせいもあるんやろけど、まんまと一億円|奪《と》られたあとの一週間は、文字どおり針のむしろ。それまでのうっぷん晴らしみたいに、私ら、よってたかってケチョンケチョンに叩かれたこと、みなさんよう知ってはる思います。 〈初動捜査の誤りか、大阪府警、大失態〉、〈平謝り、刑事部長〉、〈無能集団、捜査一課〉、そら、ひどいこと書かれましたわ。何も好き好んで一億円献上したわけでもないのに、かさにかかって攻めよった。あれこそペンの暴力いうやつでっせ。いま思い出してもむかむかします。  とりわけ、〈無能集団〉というの、カチンと来ましたわ。神谷の赤だるまや、村橋のカマキリは、確かにその通りですけど、私やマメちゃんまでいっしょくたに扱われたらたまらん。私ら、あくまでも歯車です。兵隊です。上官の命令どおり動いてただけですわ。給料が少ないように、権限も少ないんです。ちょっとは同情してもらわんと……。  しかし、どない抗弁したところで、所詮は引かれ者の小唄、もうやめます。金奪られたことに関してはもう何も言いません。  そやけど、そのあとのことは一言も、二言も言わせてもらいます。あの「魔の四月三日」以降、私ら、夜も寝ずに昼間寝て——ちょっと冗談がすぎました。——要するに、それくらい一所懸命、使命感に燃えて歩きまわっとったんです。  簡単に説明しときます。——その後の捜査には、大きく分けて五つの方針が立てられました。  ひとつめは、遺留品捜査です。キャンバスやロープ、スポーツバッグはもちろんのこと、銀行で撃ったピストルの弾や、ゴム長の痕、犯人がかぶってた毛糸のマスク——この二つは写真しかなかったけど——どんな細かいもんでもないがしろにせんと、その出所をあたりました。  その二は、逃走車。捜索対象区域を大阪府下から近畿全域に広げて、逃走車の発見に全力を注ぎました。あの当時、白のカローラに乗ってはった人は、警察に事情聞かれたことあるかも知れません。  その三、犯人のアジト。垣沼さんをどこに監禁しとったんや知らんけど、大の男をそうそう長いこと隠しおおせるもんやない。犯人にしても、奪った金を舌なめずりしながら数える場所が要る。これも北大阪だけやのうて、対象を府下全域、兵庫県、京都府の一部まで広げました。それにしても犯人、札数える時臭かったやろ思います。ロープに括られて、下水に長いこと浸《つか》っとったんやから。  その四、関係者、及び目撃者の洗い直し。新大阪支店の行員を始めとして、ミューズの店内にいた客、サンロードの客、文化住宅から出て来た学生風の男女、カントリーのマスターとウェイトレス、電話ボックスに入ろうとした信用金庫の営業マン。アリバイから交友関係、小遣いに至るまで、とことん取調べました。特に松宮は、そらもうかわいそうなくらいしつこうやられてましたわ。白と判定されてからでも、やれ面割りや、モンタージュやで、アップルハウスのかおりちゃんとかいうウェイトレスといっしょに、夜遅うまで協力させられてました。  その五、これは四番目とも多少の関連はあるんやけど、例の赤いタオル……。犯人、銀行に侵入した時、首に巻いてましたやろ。あいつ、アップルハウスに現われた時も、コートのえり立てて首筋隠しとったから、きっと何かあるいうわけで、首にアザやら傷痕のある前歴者リストアップして、松宮や、ウェイトレスに見せたんはもちろんのこと、所轄の連中の協力も得て洩れなく調べあげました。誤解してもろたら困るけど、私ら、首筋にばっかりこだわってたわけやおません。犯歴からみて、この種の事件《ヤマ》打ちそうな奴は、一応みんな洗うてみたし、犯行にピストルが使われたこともあって、暴力団関係者は特に念入りに調査しました。  それともうひとつは、あの下水道。犯人は、マンホールの配置やら、下水処理場の機構をあんなにうまいこと利用しよったんやから、なんぞ関係のある者の仕業ということで、職員はもちろんのこと、パイプを設置した業者、補修、点検の業者、処理場の建設業者まで、それこそ尻の穴のぞくように細こう調べました。  ……それから、最後に一番肝腎なこと、そう、垣沼一郎さんのことです。あとあとどうなったか……、私、几帳面な性格やから、あったことはみな書いとかんと寝覚めが悪いんです。もうちょっとだけやし、我慢して読んで下さい。 「腹減った。黒さん、ちょっと寄って行きましょうな。ずっと歩き詰めやし、もうクタクタや。ひと休みして、きつねでも食いましょ」  マメちゃんに腕をとられて、通りがかったうどん屋ののれんをくぐった。熱いおしぼりで首筋を拭いたら、汗と脂がほこりといっしょくたになって茶色に浸みついた。 「あれからもう十日。この調子で神戸や和歌山まわってたら、あと一カ月はかかりまっせ。それにしても、船具屋いうの、ようけあるんですなあ」  マメちゃんはおしぼりを顔にあてたまま、呆けたように言った。  我々二人の役割は、ロープの出所を洗い出すことにある。売れない手品師のように、あのナイロンロープの切れ端を手に、毎日足を棒にしている。  最初、登山用品と目されていたロープは、製造元を突きとめて照会したところ、主として船用品であることが判明した。工事現場で材料の上げ降ろしに使われることもあるにはあるが、大半はモーターボートや小型漁船の係留に使用されているらしい。  また、都合の悪いことにこのロープ、かなりのベストセラー商品とみえて、製造量がやたらに多い上、製造期間も長く、ここ五年間も同じ仕様で作られている。近畿方面に出回っている九ミリ径のナイロンロープは、その半分以上がこのロープで占められているという有様だ。おおよその製造年は分ったものの、そんなこと、何の助けにもならない。  以上のようなわけで、私とマメちゃんは、もう十日間も大阪湾周辺地区に点在する船具屋を尋ね歩いている。日頃は縁がないだけに気にもとめなかったが、船具屋という商売、結構需要があるとみえて、大阪市内だけでも百軒以上あった。  それでも、毎日の積み重ねというのは有難いもので、歩き始めて十日目の今日、大阪府下は、あと四軒を残して全て調べ終ったことになる。一区切りついたのは確かだが、結局のところ、犯人らしき男にロープを売った船具商を尋ねあてることはできなかった。  明日からは神戸、それでだめなら和歌山、それでも探り当てられなかったら琵琶湖周辺。気の遠くなるような距離をこの足で歩かねばならない。 「マメちゃん、今朝の新聞読んだか? 三協銀行、垣沼の奥さんに対して一億円の返済を免除する、いう発表してたなあ」 「そんなもん当然ですがな。垣沼さん、生きて帰る見込みないんやし、そうであれば、垣沼鉄工所が再開されることもない。つまり、返済能力がないということになります。鉄工所も自宅も、とっくの昔に抵当に入ってるそうやし、もうとるもんないと判断しよったからですわ」 「なるほど、そういうことやったんかいな」 「その代わり、取れる金にはしっかりと唾つけたそうでっせ」  アゲはそのままにして、うどんだけを啜り込みながら、マメちゃんはせわしなく喋る。 「垣沼さんの保険金、一千万円ほどしかないそうやけど、こいつに目つけよったんですわ」 「死体発見されんことには保険金下りへんのと違うんか」 「そやから、保険金が下りた時は、全額を銀行に返済するという念書みたいなもんとりよったんですわ」 「死人にムチ打つようなことするんやな」 「ほんまにそうですわ。死人にムチ打っといて、生き馬からは眼を抜く。それが銀行の本質ですがな。返済免除とかいう大向う受けするネタ発表してるその陰で、そんな小細工しとるんですわ」 「奥さん、承知したんか」 「承知するも何も……あの一億円はもうええから、代わりに保険金差し出せと言うたそうですわ。一千万いうたらそら大金やけど、一億円のうちの一千万でっせ。それくらいの金、ドブへ捨てた思うて、目つぶることできんのかいな」 「銀行にとっては、いわば金が商品や。商品を粗末にしたら商人道にもとるのと違うか」 「理屈はそうやろけど……もっと腹立つことありますねん」 「何や?」 「これは噂やけど、銀行、奥さんの許《もと》に集まった見舞金や義捐金《ぎえんきん》にまで目つけてるそうですわ」 「そらひどいな」 「さすがに、この金にまではよう手を付けへんけど、半ば強制的に預金させてるそうです。……だいたい新聞社も新聞社や、こんな話こそ大々的に報道したらええものを、そうしよらん。いったい、日本の社会機構いうのはどないなっとるんや」  マメちゃんは声を荒げた拍子に、最後まで楽しみにとっておいたアゲをポトリと落とした。 「くそっ、日本の社会機構のおかげで、きつねが素うどんになってしもた。諸悪の根源でっせ、これは」 「そんな怒りないな、……わしのアゲ食うか」  そう言い終るのも待たずに、マメちゃんは私が半分ほどちぎって残しておいたアゲをヒョイとつまんで自分の鉢に入れた。 「さっきの保険金の話がほんまやったら、垣沼さんの死体、発見してもせいがないなあ」 「葬式するのに困りますがな」 「あんなもん、単なる儀式に過ぎん。いっそのこと、見つからん方がええかも知れん。考えてもみい、犯行から十日も経っとるんやで……死体、腐っとる。奥さん、夫の無惨な死にざま見るより、きれいな思い出を抱いて生きて行きたいがな」  仕事柄、死者の身元確認には何度か立ち会ったことがある。遺体が新しく損傷も軽い場合はまだいい。遺体の胸にすがって泣き崩れる肉親もいる。それが、轢死体や焼死体、まして腐乱死体であったりすると、とんでもない修羅場に出食わすこともある。一度なぞ、腐乱死体に対面した途端、つい堪えきれず、その死体の顔にゲーッとやってしまったのを見た。遺族にとってこれ以上の悲劇はない。 「一億円の返済、免除されたんや。いまさら垣沼さんの死体なんぞ発見したところで、奥さんには何のメリットもない。な、マメちゃんもそう思うやろ」 「かも知れませんなあ。……金返さんでええのなら、奥さんとしても少しは気が楽や」 「金も取り戻さんでええがな。取り戻したところで銀行が喜ぶだけや」 「あっ……」  マメちゃんは口に入れかけたアゲを今度は鉢の中に落とした。しずくがはねる。 「黒さん……」  と、話しかける表情が硬い。 「その一億円やけど……奥さん、最初から返済する気がなかったとは考えられませんか」 「うん……?」 「いま、黒さんに言われてフッと思い当ったんやけど……」  マメちゃんはそこで言葉を切り、目を閉じて上を向いた。 「……いや、やっぱり考えすぎや、そんなことあらへん」  と、自分の発言を打ち消す。 「どないした。言いたいことがあったら最後まで言うてみい……気持ちの悪い」 「すんません、もうええのです。ちょっと突飛なこと考えついたもんやから。……さ、行きましょ。あと四軒です。それで、大阪府の分は終ります」  マメちゃんは元の快活な表情を作って立ち上った。  大阪府の南端、岬町から、南海電車、地下鉄、阪急電車と乗り継いで、北淀川暑の捜査本部に帰り着いた頃には、日もとっぷりと暮れて小雨模様となっていた。熱い茶とストーブを楽しみに部屋の扉を押したが、中に入った途端、寒々として、どこかしら空虚な雰囲気を感じとった。いつもならその日の仕事を終えた捜査員が、報告を済ませて帰途につく前の短い時間を、茶と甘いものをさかなに無駄話でつぶしているのだが……。 「カッちゃん、何ぞあったんか」  入口近くの机に向って報告書をまとめている勝井に訊いた。勝井は顔をあげると、その質問を予期していたかのように間髪を入れず答えた。 「垣沼さんの死体、見つかったんです」 「どこで?」 「箕面《みのお》の山奥ですわ」 「いつ?」 「午後二時。ハイカーが発見しました」  私は舌打ちした。二時といえば、あの甘すぎるきつねうどんを食っていた時だ。 「どんな具合やった?」 「箕面の滝からちょっと登ったハイキングコース脇の雑木林に埋められてました。手が地中からはみ出てたそうです。ハイカーが発見して、池田署に電話しました。おかしなことに、電話の主は名前を明らかにしてません」 「あとで事情聴取されるのが嫌やったんやろ」 「何で垣沼さんの死体やと分った?」  マメちゃんが口をはさむ。  着衣はぎとられた裸の死体やったけど、左の小指と右の耳がないんです」 「それだけでは判定できんやないか。野犬が食いちぎったんかも知れん」  保険金云々が頭にあるだけに、容易なことでは死体が垣沼であると認めたくないらしい。 「指紋の照合も終ったんや」  部屋の奥で我々のやりとりを聞いていた池田が言った。 「いま、阪大の法医学教室で解剖してもろてる。村長さん、奥さん連れて確認しに行ってはる。夜中には解剖所見の発表がある予定や。まだ帰ったらあかんで」  今日もまた遅くなる。  私は傍らの椅子にどっかりと坐り込んだ。  午後十一時、神谷と村橋が帰り着いた頃には、遠く他府県まで遺留品捜査に出ていた捜査員にも連絡がついて、強盗班の主要メンバーは全員、部屋に揃っていた。神谷はイタリア製アタッシェケースをいったんテーブルの上に置き、中から紙の束を取り出した。十枚ほどの紙に、細かい字がぎっしり詰まっている。 「鑑定書や。無理言うて今日書いてもろた。村さんに発表してもらう」  と言って、鑑定書を隣りに坐った村橋の前に押しやった。村橋はずり落ちたメガネを指で押し上げてから、それを手にとった。 「発表する。『鑑定主文、一、死亡時刻の推定——四月一日午前から四月三日午前の間』」  捜査員の間から、一瞬どよめきがあがった。鑑識が判定していたとおり、垣沼は四月三日午前十時の電話のあとすぐに死んだことが分った。 「まあ待て、最後まで読んでしまうから、そのまま聞いてくれ。『二、死亡原因——頭部盲管射創による出失血死。三、死体の外見及び状況——左手第五指、第二関節より先端部欠損、右耳介欠損。右後頭部に軽度挫創。四、血液型——A型。付記、——死体より欠損したる左手第五指及び右耳介については、府警本部鑑識課に保存されたるものと切り口等一致し、明らかに同人より切り取られたと確定する』……これだけでええやろ。あとは検案経過と説明が書いてあるだけや。指紋は鑑識で照合したけど、垣沼はんのと完全に一致する。それと、死体から取り出された弾も、同じピストルから発射されたものと判明した」 「頭を撃たれて死なはったんですか」 「そや、頭や。一発は左眼から入った。頭蓋骨に沿うて下に下りて首の骨に刺さった。二発目の弾は、右のこめかみから入って左の下顎までとどいた。至近距離から顔狙うて一発。倒れても、まだちょっとは動いてはったんやろ。そこで今度は、こめかみにピストルあててまた一発。射入口が破裂して、髪の毛が焦げてたそうや。虫でも殺すみたいに平気な顔してやりよったんやろ。もっとひどいことがある……。腹の傷、何の手当てもしてへんし、胃の中もからっぽやった。弾は肝臓抜けて小腸で止まってたんやけど、腹の中に鉄の塊抱えたまま飲まず食わずでまる二日も放ったらかしにされてたんや。まだあるで……左手の小指や。垣沼はんのシャツ切り取って指にあててから、ナイロンテープでグルグル巻いただけ。くすりもつけとらん。まだあるんや——」  村橋の悲憤慷慨ぶりを見ていると、街頭演説を連想する。大仰な身ぶり手ぶりを交じえて、さも自分だけが正義の味方であるかの如く、他人の迷惑顧みず、騒音をまき散らす。  仕事に熱中するのは大いに結構だが、我々の貴重な時間まで独占されるのは困る。  また始まったで——そんな表情で私はマメちゃんを見た。それを受けたマメちゃん、メモ帳に何やら書いて、私の方に放って寄越した。達者な字が並んでいる。 〈これ終ったらラーメン食いに行きましょ。相談したいことがあります〉  午前0時、帰ることを諦めた私はマメちゃんにOKの合図を送った。  ラーメン屋から深夜営業の喫茶店へ流れた。まずいコーヒーに砂糖を足しながら、 「相談いうの何や、えらい難しい顔して……転職でもするんか」 「そんなだいそれた相談やおません。ぼくの考えを聞いて欲しいだけです」 「何の?」 「この事件についての、ですがな。ぼく、やっぱり気になるんですわ」 「昼間、岬町のうどん屋で言いかけたことやな。何ぼでも聞いたるで……今日はどうせ帰られへんのやし」 「笑うたらあきませんで」 「笑うたりするかい」 「絶対、笑わんといて下さいよ」  えらく予防線を張る。余程、突飛なことを言おうとしているようだ。 「あの時、黒さんに言われて思い当ったんやけど……垣沼さんの奥さん、ひょっとしたらひょっとしまっせ」 「どういうことや」 「元々、支払い能力も返済能力もない垣沼家に一億円もの大金を要求した犯人の狙いは何です?……捜査方針を狂わせるためやと、ぼくは考えたいんですわ。脅迫の対象が銀行や警察でなく、垣沼家であったことが我々の読みを誤らせたんです」 「……?」  マメちゃんの言わんとすることが理解できない。 「つまりですな、垣沼一郎、庸子、オオガキの三人、最初からツルんでたと考えてみるんですわ……」  マメちゃんの推理は、私の思考範囲をはるかに越えていた。  ——垣沼鉄工所は倒産の危機に瀕していた。何としてでもまとまった金を手に入れたい垣沼一郎は銀行強盗を決意した。銀行を襲うにあたって、垣沼にはひとつのアイデアがあった。  昭和五十四年一月の三菱銀行猟銃強盗人質事件がまだ記憶に新しい。あの事件の場合、犯人が猟銃を突きつけたにもかかわらず、行員は容易に金を出そうとしなかった。のみならず、警察に通報しようとした。ところが、一人めの犠牲者が出るや、状況は一変した。誰も抵抗はしない。金も要求するままに渡される。……目の前で人が撃たれる場面を作れば、短時間で金が奪えると垣沼は考えた。そこでオオガキに話を持ちかけた。 (おまえが銀行に押し入ったら、わしがとびかかる。手か足を撃ってくれ。そないしたら脅しにも迫力が増すし、わしも名誉ある負傷者として、その後の融資依頼に色良い返事がもらえる。けがしとるんやから共犯やと疑われることもない。銀行から見舞金ももらえる……)  実際、一石二鳥にも三鳥にもなるはずの名案ではあったが、垣沼のもくろみは大きく外れることとなった。垣沼は妻の庸子に裏切られたのである。  おそらく、庸子とオオガキは深い仲にあったはずだ。二人の狙いは垣沼の計画のはるか埒《らち》外にあった。この際、垣沼を消し、なおかつ多額の身代金を奪取しよう、との相談がまとまった。  事件当日、予定どおり垣沼はオオガキにとびかかった。予想に反して垣沼は腹を撃たれた。呆然自失の体《てい》で垣沼は車に押し込められた——。 「と、いうことですわ。どうです、これで垣沼が簡単に連れ去られたことに、より明快な説明がつきまっしゃろ。……やっぱり、大の男が抵抗もせずに拉致されるいうのおかしいですがな」 「そう言われたら、確かにようできた推理やとは思うけど……」  せわしなくたばこをふかしながらマメちゃんの説を反芻する。 「わし、やっぱり賛成できん。マメちゃんの説、考えすぎや。庸子とオオガキができてたいうのが気に入らん。庸子はそんな尻軽には見えん。その上、垣沼が二人に強盗を持ちかけるいうのでは都合が良すぎる。話を作りすぎたら現実離れする。……それに、垣沼が共犯であったと、どないして証明するつもりや。何にせよ、証拠というもんが要るんやで」 「証拠は……あります」 「どこに」 「桜井町。垣沼鉄工所第二工場です」 「どんな証拠や」 「逃走用に使うたカローラです」 「何やて!」  けむりにむせた。 「カローラ、これだけ探してるのに、何で発見されへんのですか。あんな大きなもん、どこに隠すんです。強盗事件の三十分後には緊急配備も完了しとったんでっせ。そうそう遠くへは逃げられません。垣沼が共犯であると考えたら、この答えは簡単に出ます。カローラは第二工場にあるはずです」  東淀区桜井町の工場は事件の半年前から稼動していないと聞いている。現在は閉鎖中だ。 「あの工場、まだ捜索を受けてません。そらそうですやろ、被害者の工場に逃走車が隠してあるやて誰が考えます。鍵は垣沼家にあるし、庸子の心痛を思えば第二工場を捜索するような無神経なことできませんわ」 「よっしゃ、分った。ここでうだうだ言うとってもしゃあない。明日、朝一番にでも桜井町へ行ってみよ」 「そらあきません。さっき言うたように、鍵は庸子が持っとるんです。鍵を借りに行ったりしたら余計な警戒心を与えます」 「ほな、どないするんや。マメちゃんの説、証明するのやめるんか」 「いまから行くんですがな。そのために、夜中になるのを待っとったんです」  マメちゃんは上着のポケットから梱包用テープと小型の懐中電灯を出し、テーブルの上に置いた。  十五分後、私とマメちゃんは東淀区桜井町にいた。午前二時、しのつく雨を街灯が淡く、白く照らし出す。附近に人影はない。  垣沼鉄工所第二工場はバス通りから一筋入った幅五メートルほどの道路に面していた。軽量鉄骨スレート葺きの二階建て、第一工場より少し大きい。シャッターが下りている。  マメちゃんが右隅にある通用口の扉を押した。もちろん開きはしない。  細い路地に沿って建物の右横へまわる。窓らしきものはない。  裏へまわった。ここにも通用口、施錠されている。その横にすりガラスの窓があった。トイレのようだ。 「しゃあない。ここから入りましょ」  マメちゃんが耳許で囁く。 「どないして?」 「ガラス割るんです」  隣りの工場とは高いブロック塀で遮断されているから忍び込むには好都合だ。 「刑事が泥棒の真似してどないする。手がうしろにまわるで」 「その、手をうしろにまわすんがぼくらの仕事ですがな」  分ったような分らぬようなことをマメちゃんは言う。遵法精神など持ちあわせていない。  マメちゃんはテープを窓に貼った。ハンカチを手に巻いてコツンコツンと叩くが、ガラスは割れない。 「まどろっこしいな、わしがやったる」  傘の先で突けば、一面に亀裂が走った。 「あーあ、やってしもた。……ガラス割ったん、黒さんでっせ。ぼくは見てただけ」  とは何たる言い草。  割れたガラスを取り除き、手を差し込んで錠を外す。窓を開け、侵入した。懐中電灯の丸い光の中に、第一工場で見たと同じような大型工作機械が浮かび上る。機械の数はそう多くない。配置に余裕があるから通路も広い。足許に注意しながら表のシャッター目指して歩く。カローラの白い車体を期待して懐中電灯を振りまわすが、そんなもの影も形もない。  シャッターのすぐ内側に、ブロックで囲った二メートル四方の危険物貯蔵庫があり、その横が十坪ほどの空きスペースとなっていた。カローラを隠すとなれば、そこが物理的に唯一駐車可能な場所となるはずだが、ただガランとした空間が広がるだけ。 「おかしい、こんなはずあらへん」  マメちゃんは私の持つ懐中電灯をひったくってあたりを這いずりまわる。私はぼんやりたばこをふかして待つ。たかだか五十坪ほどの工場内、どう探したところでカローラが見つかるはずもない。  マメちゃんが戻って来た。 「残念やったな。やっぱり垣沼夫婦は純然たる被害者なんやで」 「それはおません。とにかく庸子とオオガキは共犯です」 「カローラ、なかったがな」 「そら、たまには読み違いもあります」  |たまには《ヽヽヽヽ》というのが気に入らない。 「眠たい、わし帰るで。もうつきあいきれん」 「仕方おません、今日のとこは帰りましょ。けど、ぼく、あきらめませんで。庸子とオオガキ、いつかは必ず接触するはずです。その現場、絶対に押さえたる」 「独断専行はあかんで」  マメちゃんの暴走が怖い。日頃は怠慢な仕事ぶりのくせして、思い込んだら命がけ、なりふり構わず走る性癖がある。いつもとばっちりを食うのはこの私。こんな夜中に空巣まがいの所業に及んだのがいい例だ。 「明日、村長にぼくの考え言うてみます。説得する自信ありまっせ」  まだまだものの見方が甘い。あのカマキリが容易に動くわけがない。  私は胡乱《うろん》な目でマメちゃんを見ていた。  まだ眠気を残した顔で捜査本部に現われた刑事達は、簡単な打ち合わせを済ませると、二人一組になって部屋を出て行く。午前九時、いつも変わらぬ朝の情景だ。マメちゃんと私は、村橋のデスクの前に立っている。 「ほう、なかなかおもろい話やないか。たいした想像力や。刑事にしておくのはもったいない」  村橋はマメちゃんの説明を聞き終えて、言った。 「そやし、これからは垣沼庸子に二十四時間の張りをつけるべきやと、ぼくは思うんですわ」 「成算は?」 「あります」 「証拠は?」 「……ありません」 「そらあかん。単なる思いつきで捜査進めることできん」 「ただの思いつきやおません。ぼくの考えでは、犯行後二、三日は桜井町の第二工場に逃走車があったはずです。その辺を洗うてみたらおもしろい結果が出ます」  今朝はカローラを発見できなかったが、それは捜索が遅れたためだとマメちゃんは主張するのである。もちろん、トイレから侵入したなどとは村橋に言っていない。 「えらい今日はくどいやないか……しゃあない、ええもん見せたる」  眉根を寄せてそう言うと、村橋はうしろを向き、ファイリングケースからうす茶の書類袋を取り出した。中から数枚の紙を抜く。 「これ、よう読んでみい。東淀署からまわって来た」  手にとってみれば、東淀区一帯の捜索結果を記した報告書であった。捜索場所、日付、時刻、捜索係の名前、等が一覧表になって並んでいる。  桜井町の欄を目で追う。あった……〈垣沼鉄工所第二工場、四月四日午前九時、×〉と書いてある。 「どうや、第二工場も例外なく捜索対象になっとるんや。結果は見てのとおり。それで気が済んだやろ」 「ほんまですなあ……」  マメちゃんが首をひねる。 「垣沼の奥さんに不審な点はない。分ったら、もう|おはなし《ヽヽヽヽ》はやめにして、自分の仕事にかかれ」 「けど係長……ぼく、どうしても納得できんのですわ。さっきも言うたように……」 「もうええ」  村橋はマメちゃんの言葉を大声で遮った。 「……そこまで言い張るんなら許可したる。ただし、援軍は出さんぞ。黒マメだけでやれ」 「そんな……」  応援要員がないということは張込みを断念せよというに等しい。一日二十四時間を、それも何日に渉《わた》るか予想もつかない張込みをたった二人でできるわけがない。最低限四人は必要だ。張込みの基地も要る。車も要る。それに、第一、私には張込みなんかする意志はない。 「空理空論のためにただでさえ少ない人員を割くわけにはいかん。さ、早よう行け、今日からは神戸やろ」  村橋は横を向き、手を邪険に振った。予想どおりの反応であった。 「こんな時、下っ端の悲哀いうの、つくづく感じますわ。何ぼ正論を吐いたかて報われることがない」  北淀川署を出て阪急の駅へ行く道すがら、マメちゃんは力なく言う。 「そら、与えられた材料をコツコツ洗うことで結論を導き出すのが捜査の本道かも知れんけど、あらかじめ仮説を用意しておいて、それを立証するのも一つの捜査方法ですがな」 「そういう考え方が自白偏重主義となり、数々の冤罪事件を生む……警察学校で習うたやろ」 「それとこれとは別、ぼくは確固たる信念に基いて意見を述べとるんです」 「信念……か」  もう口にしなくなって久しい言葉だ。 「黒さん……」  マメちゃんは立ち止った。 「半月、いや、十日間だけ……ぼくの好きにさせて下さい」 「やっぱり諦めきれへんのか……よっしゃ、やりたいようにやってみい。ロープの洗い出し、わしひとりでもできんことないやろ」 「ほんまですか」  マメちゃんが顔中で笑う。 「毎日六時、そうやな、ここで会うことにしよか。本部へは二人一緒に帰らんとまずいやろ」  ちょうど真前にある古びた喫茶店をさした。小さなサンプルケースの中に、うっすらほこりをかぶったカレーライスとスパゲティーがある。簡単な腹ごしらえもできそうだ。 「おおきに、すんません」  マメちゃんは上着のポケットからロープの切れ端を取り出し、私に手渡すと、喜び勇んで駆け出した。  その姿を見遣りながら、「無駄な努力を……」  と、呟いてみたが、ひょっとしたらという偶然におもねる気持ちも心底にはあった。  ——最初の意気込みどおり、マメちゃんの垣沼庸子監視は執拗を極めた。私がロープを手に、神戸、和歌山を歩いている間、マメちゃんは東淀区中新庄へ日参した。自分の軽自動車を道路の曲がり角に駐めて、日がな一日、垣沼鉄工所を眺めやるのだ。六時過ぎ、私と一緒に捜査本部へ帰ってからも、時間を都合しては張込みに出かけて行った。憑《つ》かれたようなマメちゃんの精勤ぶりに押されて、私も三回や四回はつきあった。  庸子に不審な動きはなかった。次々と訪れる新聞社や雑誌の記者、銀行関係者、親戚、知人、はては新興宗教の勧誘員に至るまで種々雑多な来客の応対に追われて、外出もままならないようだった。もっとも我々は二十四時間の張込みをしたわけではないから確たることは言えないが……。  そして二週間、さすがのマメちゃんにも目立って疲れが見えて来た。マメちゃんの言う下っ端の悲哀を如実に感じさせる憔悴ぶりであった。マメちゃんは張込みをやめた。  三カ月後、庸子は鉄工所をたたんで実家へ帰った。愛媛県|今治《いまばり》、別れの挨拶を済ませ、幼い絢子の手を引いて去るうしろ姿が近所の人の涙を誘ったと聞く。  オオガキはまだ捕まらない。     9  あれから丸々三年ちょっと、私にとってとりわけ印象の深い事件やったから、まだ咋日のことのように思い出されます。「三協銀行強盗誘拐殺人事件」——偉い人の戒名みたいに長ったらしい名称やけど、こう呼ばんことには感じが出ません——こいつ、とどのつまり迷宮入りになってしもたんです。正式には継続捜査いうことになってますけど、体《てい》のええ敗戦宣言です。専従捜査員、まだ何人かは置いてますけど、事実上捜査本部は解散。世間をあれだけ瞠目させた事件にしては、何ともしまりのない結末となりました。  前に五つの捜査方針が立てられたと言いましたけど、あれ、ことごとくデッドロックにのりあげたんです。そのええ例が、私とマメちゃんの手がけてた、——もっとも、その殆どは私ひとりでやったんやけど——ロープの追跡捜査。製造元と問屋からもろたリストをもとにして近畿一円の船具商は全部あたってみました。地元の警察にも色々と協力してもろたけど、結果的に何の収穫もなし。船具屋がロープ買うた客覚えてへんのやからしょうがない。ま、それも無理おませんわ。ただロープの切れ端持って行って「これ買うた客教えてくれ」では答えろいう方がムチャや。  そんなこんなで、私とマメちゃんの努力は水の泡。  アディダスのスポーツバッグを売った店は分りました。千里ニュータウン内のスポーツ用品店です。犯人現われたん、四月二日の午前十一時過ぎでした。十時五十分、伊藤酒店で最初の脅迫状が見つかったことから考えて、犯人、自販機に封筒を貼りつけたその足で、スポーツ用品店へ行ったと思われます。  コートのえり立てて、マスクして……そう、アップルハウスで見せたのと同じ服装やったそうです。分ったことはそれだけ。あんまり捜査の足しにはなってません。  ついでに、マンホール囲んでたキャンバスのこと、言うときましょ。あれ、池田と鈴木が担当したんやけど、盗品と分っただけ。事件のひと月ほど前に、豊中の工事現場から持ち去られたんですわ。  もうひとつおまけは、発泡スチロール。復元してみると、マメちゃんの言うてたように冷蔵庫の梱包部品やいうことが判明しました。一時は、すわっと色めき立ったもんやけど、結局出どころは分らずじまい。犯人がどこからか拾て来たもんやろということになりました。  そんな具合に、遺留品捜査は全部アウト。あとの四つについては言わずもがな……きれいさっぱりしたもんです。  それを、何でいまさら、と思いはるのは当然です。  私が十日間も眠い目をこすりながら、このレポートを書き継いで来た理由。安息を求めるべきプライベートな時間を、机に向うことでつぶしてきた理由。  それは、電話があったからです。……相手は真犯人。  十日前の午後十時、風呂から上って、注いだビールの泡をなめた、ちょうどその時でしたわ。 「くそっ、やっと落ち着いたと思うたらこれや……」  私は腹立ちまぎれに受話器を栓抜きでゴツンと叩いてから手にとった。 「もしもし、黒田さん? 捜査一課の黒田さん?」 「はあ、黒田です……捜査一課抜けてから、もう一年になりまっせ」 「それはそれは……ご栄転おめでとうございます」  声に聞き覚えはないが、私と同年輩であろうと察しをつける。それにしても人を食った奴だ。 「いったい、あんた誰です、何の用や」 「まあ、そんなにせきなはんな、夜は長いんやから」  馴れ馴れしい口調が、私の不快感を高める。 「もう切るぞ」 「そんなことしたらせっかくの機会ふいにしまっせ」 「タレコミか」 「そんなとこかな」 「みかえりは?」 「そんなもんいりまっかいな、いまから死ぬ人間に……」 「誰が死ぬんや」 「この私」 「何で?」 「つまらんこと訊きなはんな。もう生きることに疲れたからに決まってる」  どうもこの男、自殺志願らしいが、死ぬ前に電話をかけるような輩に限って、ほんとに死んだためしがない。 「これから死のうというあんたが、何でわしに電話かけるんや、ややこしいことせんと一一〇番にかけたらええがな」 「逆探知されるから、死なれへん」  もっともなご意見である。 「わしの家の電話番号、誰に聞いた?」 「番号調べで訊いたんです。黒田憲造さん、茨木市梅山台三丁目、プラムマンション内……、どうです、よう知ってまっしゃろ」  私の住所まで調べているとは油断がならない。 「電話の相手にわしを選んだ理由は?」 「あんたがいちばん話が分りやすそうやと聞いたからですわ」 「誰から」 「誰からでもよろしい、それを言うたら、私が誰であるか分ってしまう」 「いまから死ぬんやろ、名前くらい言うたらどないや」 「言わせるか、言わせへんかは、黒田さん次第です」  実に失礼極まりない奴だ。自殺云々を聞いていなかったら、とっくに受話器を置いている。 「私……あの事件の犯人ですねん」 「どの事件や?」 「垣沼一郎誘拐殺人事件」 「何やて?!」  せん抜きが指先から抜け落ちた。 「そう……私です。私がやったんですわ」 「あれはもう、お宮入りになっとんやぞ。それを何で……」 「ようありますやないか、死ぬ前の異常心理とかいうやつ。私、このこと誰ぞに言うてから死にたいんですわ。そうでっしゃろ……史上まれにみる完全犯罪を成功させておきながら、誰にも認められずに死んでしまう、こんなあほなことおまっかいな。この日本にも、私という類まれな知能犯がいたという証明が欲しいんです。私が精魂込めて作り上げたシナリオを、どういう具合に演出したかを、最後に伝えておきたい。……いわば、遺言みたいなもんですわ」  男の声が徐々に低くなって、真実味を帯びて来た。最初の、私をからかうような調子が消えている。 「おまえのいうこと、嘘かほんまか分らんけど、聞いてみるだけの価値はありそうやな……詳しく言うてみい」  私はグッと身を乗り出した。 「まず、銀行強盗から説明しましょう。あれ、実は……狂言やったんです。最初から、垣沼が私にとびつく段取りになってた」 「やっぱり、そうか……」  三年前、マメちゃんが主張していたことを思い出す。 「私らの目的は、他人に危害を加えずに、金だけ奪ることにあった。そのためには、ピストルが本物であることを、銀行にいる全員に早よう知らしめる必要がある。オモチャやと誤解されたら、警備員なんぞがとびかかってくるかも知れん。そやから、押し入ってすぐ、天井に向けてピストルを二発撃った。それで、みんなの恐怖心をあおる。さらに今度は、垣沼を撃つ。目の前で人が撃たれ、血がだらだら流れるとこ見たら、もう誰にも抵抗しようという意志がなくなる。それが狙いでした」 「垣沼は共犯やな」 「そういうことになります」 「共犯を何で撃った」 「撃ってまへんがな……撃つ|ふり《ヽヽ》しただけです」  意外なことを言う。 「嘘つくな、垣沼の腹からは、弾が摘出されたんやで」 「あの時点では、弾は入ってへん。三発目だけはただの空砲でした。あの場面、思い出してみなはれ、ピストルが火を噴くとこ、誰が見ました?」 「そういわれたらそうや……」 「ピストルの発射音のあと、人が倒れ、床に血が広がった……誰が見ても撃たれたと思う」 「血は?」 「垣沼が事件の二十分くらい前に、自分の腕から注射器で抜いたのをビニール袋につめてたんですわ」 「なるほど」 「そやけど、あれ、タイミング計るのにえらい苦労しましたで。あんまり長い間揉みあいしとったら、他の奴までとびかかってくるおそれがある。そやけど、すぐ撃つのも芝居じみてる。難しいもんや」 「幸い……いや不幸にも、予定どおりいったんやな」 「あいつが失敗せんかと、ヒヤヒヤしましたで」 「そうか、それで垣沼は抵抗もせずにおまえに連れ去られたんやな」  少なくともあの時点でオオガキの裏切りはなかったのだ。 「……で、どこへ逃げた」 「東淀区桜井町」 「くそっ、垣沼鉄工所第二工場やないか」  男の告白が次々とマメちゃんの推論を裏付ける。本星であることを私は確信した。 「そのあと、車、どこへ持って行った? あんな大きなもんいつまでも工場に置いとかれへんやろ」 「そやから処分しましたがな」 「……処分?」 「二人がかりで解体しましたんや。何せあそこ鉄工所やさかい道具はようけある。ボディーとシャーシはアセチレンバーナーでバラバラにした。シートは切り刻む、ウインドガラスは粉々に砕く。エンジンだけはどないもしようがないから、エンジン番号削ってそのまま捨てた」 「どこに?」 「豊中のスクラップ屋。解体車のエンジン山ほど積んでるし、あそこに置いとったら何の不自然さもない。資源再利用に協力させてもろたんです。あとの小物はぼちぼち、ちょっとずつ海へ捨てましたわ」 「解体するのに音が出るやないか」 「あんた何も知りまへんのやな。第二工場見てへんのかいな」 「ちゃんと見た。抜かりはあるかい」  もちろん、不法侵入云々は言わない。 「アセチレンボンベいうのは危険物貯蔵庫建てて、そこに置いとかんとあかんのでっせ。コンクリートのブロック、何枚も積んで頑丈に作っとかんと、役所の許可が下りへんのですわ」 「すると……」 「そう、バーナーだけやったら音せんさかい、大きな部分に切り分けといて、残りを貯蔵庫の中でシコシコ分解したんや。事件から三、四日経って巡査が工場調べに来よったけど、せまい貯蔵庫の中に車が詰まってるとは思いもよらんかったやろ。私その時、工場の二階から巡査のあほ面覗いとったんですわ」  事件後、我々は白のカローラを追っていた。スクラップを探すことなど思いもよらない。 「そう言や、十日ほど経ってからも刑事らしい二人連れが来ましたで。夜の二時頃、裏のトイレから泥棒猫みたいに忍び込んで来よった。あれ、ほんまの泥棒やったらえらいことや。当然、二階まで上って来る。わし、階段の上り口でピストル構えてましたがな。……あの泥棒猫、黒田さんと違いますんか。第二工場を見たと言うんやったら、あんさんしか……」 「やかましい。要《い》らん詮索せんでもええ」  私は男の饒舌を遮った。気分が悪い。  ——あの時、二階を調べなかったことをどう評すればいいのだろう。目と鼻の先まで迫りながら、男を逮捕できなかったことを悔やむべきなのか、撃たれなかったことを喜ぶべきなのか。 「おまえ、車の段取りどないした……違うがな、カローラのことやない。スクラップ捨てに行ったり、下水処理場からバッグ持って帰ったりするのに車が要るやろ。どこで都合つけた」 「あれは第二工場の軽トラック使うたんですわ。工場附近の路上に駐めといて、私だけが裏から出入りした。もちろん、軽トラックには鉄工所の名前なんぞ書いてません」 「ピストルはどこから手に入れた」 「垣沼が作りよったんです。モデルガンの弾倉と銃身だけ取り替えたら、案外簡単にできましたわ」 「弾は作ることできへんぞ」 「垣沼がフィリピンで手に入れたんですわ。射撃場で弾ちょろまかすくらい造作もない。空港でX線検査されるけど、弾の十発や二十発どうとでもなる。あの時は電池の中に詰めたんやけど……」 「えらい詳しいやないか、ほんまはお前が行ったんやろ」 「そんなもん、どうでもよろし」  そうそう簡単には、しっぽを掴ませない。 「それだけ協力した垣沼を、何でオモチャにしたんや」 「小指切りとるためです。脅迫状が本物であるとみなしてもらうためには不可欠のもんや。かがみこんでドアの内張を外してる垣沼の首筋狙うて、うしろからバールで殴った。昏倒したのを、身動きできんようにグルグル巻きにし、サルグツワをかませてから小指切りとった。ウーンと唸ったけど気絶したままやった。それから腹撃ったんですわ。これにはえらい苦労しました。銀行で弾が発見されてないということは、垣沼の体内に弾が残っている必要がある。弾が貫通してもたらどもならん。クッションや座ぶとんを何枚か重ねた上から骨盤狙うて撃ったら、うまいこといきました。もっとも、貫通したところで、何発か撃ってみたら一発くらいは体内に残ったやろけど」 「それ、いったいいつのことや?」 「強盗に入った日の夜やから……四月一日の深夜か、四月二日の未明ということになりまっしゃろ」 「垣沼、死なんかったんか?」 「さすがに痛かったんやろ、気絶から覚めてイモムシみたいにしばらく動いてたけど、死にはせんかった。人間いうのは丈夫なもんでっせ」  平然と言ってのけるあたり、やはりあれだけの事件を打てる図太さがある。 「それからどないした」 「夜が明けてから小指を脅迫状といっしょに封筒に入れ、トコトコと電車で千里ニュータウンまで行きました。自動販売機の横に封筒貼りつけてからのことは、黒田さん、知ってはりまっしゃろ」 「腹撃たれて苦しんでる垣沼を放ったらかしにして、外をうろついとったんか」 「そういうことになります」 「ちょっとはかわいそうやと思わんかったんか」 「私もそう思うたから、引導を渡してやった」 「どういうふうに」 「あの晩、外から帰って来たら、垣沼、まだうんうん苦しんでた。もうしおどきやと考えて、顔狙うて一発。念のためこめかみにピストルあててもう一発。苦しみから解放してやった」  ここで私は根本的な疑問点に気付いた。確認のためもう一度訊く。 「垣沼は腹を撃たれてから二十四時間近くも苦しんでたんか」 「そうや」  その言質を得てから、私は追及を始めた。 「おまえいったい何者や、だまって聞いてたら、嘘ばっかり言うとるやないか」 「嘘て……いまから死ぬつもりの人間が、嘘なんかつきまっかいな」 「あのな……わしまだ覚えてるけど、垣沼の小指、強盗事件の翌日、つまり、四月二日の午前中に交番へ届けられたんや。そしてその翌日、四月三日の午前十時、垣沼家に電話がかかってきた。そこで垣沼は苦しそうに喘いでいた。その声は録音されてる。四月二日の晩に死んだはずの人間が、なんで次の日の電話に出られるんや……お前の言いたいことは分っとる、垣沼の喘ぎをあらかじめテープに録っといて、それを電話で流したと言いたいんやろけど、そうはいかんで。あの時の奥さんとのやりとり、わし、いまでもよう覚えとる、『垣沼です』、『庸子か、わしや……』、『あんた……あんたやね』、『わしは大丈夫や』、『あんた死なんといて』、『心配するな、必ず帰る』……あれは絶対にテープを操作した声と違う、生《なま》の声や、生きた人間の肉声や。奥さんとのやりとりにも、不自然なとこは全くなかった。……まだあるで。隣りのおばさんや。あのあと、隣りのおばさんがころがり込んできた。『庸子はん、大変や、ご主人からや、垣沼はんからやで』いうて大変な騒ぎやった。何ぼ電話やからいうて、隣りの主人の声、聞きまちがえるはずない」 「………」  私の理路整然たる追及に、相手は押し黙ったままだ。 「おまえ、ほんまは何者や、あの事件のこと、相当詳しく知っとるとこみると、全くの部外者でもないようや。さあ言え、おまえ、誰や」  私は腹にたまった疑問を、一気にぶつけた。 「……あんた、まんざらあほでもないな。要点だけはしっかり押さえてる。わしもつい喋りすぎた。……よっしゃ、分った、これでふんぎりがついた。わしの名前教えたろ、……わし、垣沼一郎や」 「………」  あまりの驚きに、二の句が継げない。今度は、私が沈黙する。 「四月三日の十時、電話したのは確かにわしや。あいつを昏倒させて指切りとったのも、それを千里まで運んだのも、わし。死体から耳切りとったのも、車解体したのも、ピストル改造したのも、誘拐の案考えたのも、またそのための小道具揃えたのも、脅迫状書いたのも、何もかもすべて、わしや。わしがこの完全犯罪を遂行したんや。わしのこの頭で、わしのこの体で、実行したんや」 「そ、そやかて……死体の指紋は?」  それを言うのがせいいっぱいであった。立場が逆転している。 「指紋照合のための基本となったものは何や……よう考えてみい。庸子が君と亀田とかいう刑事に渡した、わしの茶碗と電気カミソリやろ。わしの茶碗やからいうて、わしの指紋がついとるとは限らん。あれにはオオガキの指紋がついとったんや」 「オオガキのほんまの名前は」 「そんなこと言う必要ない。わしはあいつをドヤ街から拾て来て、第二工場の二階に、二、三日住まわせとった。わしの日用品のすべてを使わせてな……わしの仕組んだ一連の強盗誘拐劇の中で、一番の困難点がここにあった。わしの指図どおりに踊って、そのあと死体を提供する奴を探すことにあったんや。わしは、延べ一年も、ドヤ街をうろつきまわった。わしと同年輩で、同じ血液型で、前科のない人間。そうやろ、つまり、垣沼一郎の茶碗と電気カミソリについたオオガキの指紋は、当然の如く垣沼一郎の指紋として登録され、脅迫状の添え物として、また、死体確認のための最重要な資料として利用されるんやから、これだけは譲れんとこや。オオガキとわしの顔が似てる必要は全くない。眼を撃ち抜かれ、耳そがれ、小指の欠けた腐乱死体見て、誰が垣沼でないと判断できる。人間の顔いうのはその程度のもんなんや。他人と区別つけるために、首の上に乗ってるだけで、余程の特徴でもない限り、鼻や唇の正確な形までは誰も覚えてへん。まして、日頃メガネをかけてる人間がそれを外した時の顔いうのは、相当親しい人間にも想像できん。それをできるのは死体を確認しに行った庸子だけや」 「くそっ、やっぱり庸子は……」 「そや、庸子はまがうことなきわしの共犯や。あいつがおったればこそ、あの犯罪が成就した。オオガキをうまいこと言いくるめて銀行強盗を承知させた時、わしの犯罪は九分どおり成功したんや。あとは、敷いたレールの上、走るだけやった」  垣沼の謎解きを聞いていると、時間の経つのも忘れてしまう。パジャマを引かれてふっと下を見ると、美加が目をこすりながら立っている。私の声で目が覚めたのだろう。頭を撫でてから、背中を軽く押してやる。それで気が済んだのか、自分の部屋に歩いて行った。  話を続ける。 「まだちょっと分らんことがある。くどいようやが、四月三日の電話にはオオガキも出た。あれは……」 「あんた、さっき自分で謎解きしたやないか。あのオオガキの声こそ、テープから流れたもんや。確か『よっしゃ、もうええ、それくらいで上等や、おれの名前はオオガキや』とだけ言うて、電話切れたはずや」 「それやったら、あのあと隣りの家で神谷キャップと話したんはおまえか」 「そのとおり、あの神谷とかいうやつ、庸子に言わせたら、ほんまの能なしらしいな。あれだけ長々と取引方法や条件喋ったのに、全く気がついとらん。ま、あの状況や、無理もないけど」 「隣りのおばさんにかけた二回目の電話はどうした。あの場合、おまえの声は使えん」 「あんたも細かいなあ、わしより細心や。『オオガキや、奥さん呼んでくれ』……と、これだけを声変えて言うのやからばれる気づかいはない」 「福洋相互銀行はどうや」 「支店長や次長とは話したことない。日頃会うてるのは営業課長や」 「銀行で思い出したけど……三協銀行でのことや。おまえ、あの日、融資担当者をロビーで待ってたやろ。……もし担当者がおったらどないするつもりやった?」  疑問点が次々に浮かんで来て間断するところがない。 「あんた、ほんまに細かいなあ……ネズミ年かいな……。わしのすることに手抜かりはあるかい。適当な名前使うて担当者がおるかおらんか、いつ帰って来るか、電話で訊いといた」  どこまでも油断がない。確かに類まれなるシナリオだ。 「庸子をいったん大阪駅東口前の電話ボックスに入れたのもおまえの演出か」 「もちろんや」 「それで分った……おまえが最も重要視した条件は、金の運び役が庸子であることや。つまり、おまえには、|人質の妻《ヽヽヽヽ》ではなく共犯者《ヽヽヽ》としての庸子が必要やったんや」 「ご明察」 「あれには完全に一ぱい食わされた。大阪駅東口前の歩道橋やビルから庸子を観とったに違いないと、我々は読んでた。そのために次の運び役が庸子になってしもた」 「あの演出は、わしの自慢や。君らがおとりを使うことは、最初から予期しとった」 「連絡にメモを多用した理由も分った。人質であるべきおまえが、直接電話してはまずいからや」 「そのとおりや。理由はもうひとつある。サンロードからマンホールまで庸子を誘導するにあたっての証明を残しておきたかったんや。何もなかったら、庸子のあの不自然な動きを説明できんし、あいつに嫌疑がかかる惧れもある」 「何もかも予定どおり、いうやつか……アップルハウスはどうや、ただの気まぐれか」 「あれも予定の行動や。わしの計画に無意味なものはない。十時の電話から、金を受けとる予定の三時四十五分までの間、わしにはすることがようけあった。オオガキの死体から耳を切りとる、メモを再点検する、それを所定の場所に貼りつける、マンホールの蓋めくってキャンバス立てる、ロープとかバッグの小道具セットする——と、せないかんことが山積してた。それに反して、君らにはわしからの指示があるまで何もすることがない。することないから、あれこれ考える。中にはきれる奴もおる……あとで聞いたけど、亀田とかいう刑事、ちょっとは頭の回転早いそうやないか。そんな奴にわしの計画を深読みさせんために、また君らを混乱させるために、わしはあえてアップルハウスに行ったんや」  テーブルに手を伸ばしてコップをとった。気が抜けてドロッと感じる液体を一気にあおる。何とも形容しがたい苦味が喉を刺した。 「下水道のカラクリ何で知った?」 「あの事件の四年か五年前や、下水処理場の建設にあたって、江の木町一帯の下水管を新設したんや。工事用の部品、ほんのちょっとやけどわしのとこでも作ってたから、一、二回は現場へ届けたこともあった。現場監督との世間話で、あの下水管が、第一沈澱池に続いてることを知ったんや」 「車の処理といい、ピストルといい、自分の職業をフルに活用したな」 「それもわしの自慢や」 「オオガキの死体はどうした」 「においの広がらんように、ビニール袋に包んで、第二工場の貯蔵庫に十日ほど置いたあと、箕面の山に運んで埋めた」 「何ですぐに埋めんかった」 「そう来るやろと思た。あんたもあの神谷といっしょで鈍いとこがあるなあ。……考えてもみい、死体が早よう見つかったら、都合がわるいやないか。死亡時刻が正確に分ったら、最初にかけた電話がフイになる。垣沼一郎《ヽヽヽヽ》は、少なくとも四月三日、午前十時までは生存してないとあかんかったんや。四月二日に死んだことが分ったら、このわしが犯人であることがばれてしまう。そのためには、死体を充分に腐らせておく必要がある。しかしまた、腐り切ってしもうてもあかん。指紋の検出ができんようになってしまう。死体が垣沼一郎《ヽヽヽヽ》であると認定されんことには、このわしが困る。垣沼一郎《ヽヽヽヽ》の死亡が確定された時、わしは自由になるんや。そうや——死体の発見者もこの私。垣沼一郎が垣沼一郎《ヽヽヽヽ》の死体を発見したんや」  得意気に解説する垣沼の口調が、私の神経を逆撫でする。ヤツの鼻をへし折るべきだ。 「おまえ、すべてが計画どおりに運んだ思うてええ気になっとるけど、幸運にも恵まれたんやぞ」 「えっ……」  と言って黙り込んだ。 「あの耳なあ……死んでから切りとったら、すぐ分るんや。凝血状態とか、酵素活性を調べてな……。検査の結果がもうちょっと早よう出とったら、あの金、よう奪らんとこやったんやで」 「あほくさ。何言うか思うたらそんなことか。鬼の首とったような口ぶりやないか……それくらいのこと、とっくの昔に承知してる。そのために、君らに時間を与えんようすぐ庸子のあと追わしたんやないか。確か、君らが耳を受けとってからわしに金奪られるまでに、一時間半もなかったはずや。その上、耳を送ったん垣沼家やろ。検査道具も薬品もあらへんやないか。つまらんこと言うな」  ジャブを放ってストレートをもらった。すかさず話題を変える。 「まだ分らんことがある……赤いタオルや。オオガキ、赤いタオル首に巻いてたやろ。何であんな目立つことした……あれも演出か?」 「そや、新聞で読んだけど結構捜査陣を惑わしてたそうやな。ただし、あれだけはわしの考えやない。オオガキが提案しよったんや」 「少なからず効果はあったがな」 「あんなドロくさい仕掛けをこのわしが考えるはずがない。しかし、ま、評価はしてもええ」  あまりの長電話に、佐智子が寝室から顔をのぞかせた。手招きで呼ぶ。そばへ来たのを見計らって、二本の指を唇の前にかざした。佐智子がたばことライターを持って来る。深く吸いつけてハーッとけむりを吐くと気分が整った。 「女房子供があって従業員も使うてるおまえが何であんなことしでかした」 「銀行に一泡吹かせたかった……それに尽きる。わしは三協銀行のやり方に我慢ができんかった。第一工場だけで充分やと渋るわしをおだてたりすかしたりして、むりやり第二工場建てさせておきながら、景気が悪うなって返済金が滞りだした途端、手のひら返したように責めよった。金持ってる者には愛想笑いと揉み手で接するくせに、貧乏人には横柄な態度をとる。それが世の常やと言うてしまえばそれまでやが、その豹変ぶりがあまりにも露骨すぎる。わしは制裁を加えるべきやと決心したんや。事件の一年半くらい前から、わしとこ完全に行き詰まって、いつ倒れても仕方のない状態やったけど、わしの執念で持ち堪えた。共犯者探して誘拐劇を演出するまでは何としてでも倒産したらあかんかったんや」 「何で?」 「あっさり倒産してしもたら、うちの財産全部清算したところで借金が残る。わしの生きてる限りは債権者につきまとわれる。そやからいうて、わしが自殺しても保険金が入るだけ。これもおそらく借金の穴埋めに使われる。庸子と絢子には何も残してやることができん。要するに、債務者であるわしが死んで、なおかつ庸子と絢子に金残してやるためには、あの事件打つほかなかったんや。オオガキには気の毒したけど、あれくらいの災難はどこにでもころがってる」 「一億円はどないした?」 「まだ一銭も遣うてへん。債権者が押しかけて来んのやから遣う必要ないし、うかつに遣うこともできん。それに、事件後、第一工場のそばにはいつも警察官らしいのがおったがな。多分、亀田いう刑事やろ。やっぱり庸子は疑われとったらしいな。しかし、証拠といえるもんがないのやから手は出せんはずや」  マメちゃんの推論は正しかった。正しかったが賛同を得られなかった。上司の能力も低かった。あと一息、あと一歩まで迫っていたのに援軍をもらえず、刀折れ矢尽きてしまった。いまさら悔やんだところでどうしようもないが、悔やんでみる価値はある。  湯ざめしたのか鼻がムズムズする。足もくたびれて来た。そろそろ本筋に入ることにする。 「分った。おまえの言うことよう分った。おまえの知能と実行力も充分理解した。こんな犯罪を地下に埋もれさせとくことできん。そやし、おまえ……自首せい」 「あほぬかせ、わしは明日死ぬんや」 「死ぬくらいなら自首したらええ、その方がましや」 「絢子がかわいそうや、犯罪者の両親持ったことになる」 「もうタネ明かしたんやからいっしょや、おまえが死んだところでこのわしが公表する」 「ほう、証拠もないのにそんなことよう言えるな」 「証拠は……ある」  ゆっくり答えて、私はたばこを揉み消した。 「おもしろい、聞かせてもらおか」 「銀行強盗の時、おまえ血を抜いてビニール袋に詰めたとか言うてたな」 「ああ、言うた」 「オオガキとおまえの血液型は、確かに同じA型やけど……血液型いうもんはそれだけと違うんや。警察はABO型のほかに、MN型いうのも同時に検査するんや。そやから、銀行に残したおまえの血の鑑識検査の結果と、オオガキを解剖したときの鑑定書を詳細に照合してみたら、明らかにこれは同一人物でないと分る。つまりおまえが犯人であることが分るんや」  あくまでも重々しく、私は言った。 「あんたもめでたいお人やな。そんなこと百も承知や。最初の説明で垣沼《ヽヽ》が血を抜いたいうの嘘やがな。あれはオオガキの血を抜いたんや。『わし貧血症やから、血抜いたらほんまに倒れるかも知れん。幸い同じ血液型やからおまえ抜いてくれ』言うたら、オオガキ、何の疑いもなく抜きよった。ま、元々あんまり血の巡りのええ奴やなかったけど……」  私の指摘のすべてに対して回答が用意してある。斬り込むすきがない。  最後の切り札を出す。 「証人がおる。垣沼庸子という立派な共犯者が」 「あんた、ほんまに鈍いんやな、庸子がおったらこんな電話するか」 「ええ?!」 「そうや、そのとおりや、庸子はもうこの世にはおらん」 「おまえ……女房まで殺したんか」 「殺してへん、死んでしもたんや。自殺したんや。……くそったれ、絢子まで道連れにしよった。何や胸さわぎがするよって来てみたら、二人とも死んでしもとるんや……」  垣沼の声がかすれて声が震え始めた。 「……事件のあと庸子は鉄工所たたんで、絢子連れて愛媛の実家へ帰った。あんた知ってるやろ」 「ああ、知ってる」 「実家、あんまり裕福でないさかい、庸子は近くにアパート借りてタオル工場で働き始めた。見舞金や義捐金、それに銀行で奪《と》った四百万円は解雇した従業員に支払うたから、生活は逼迫《ひつぱく》してたんや。わしも近くのパチンコ屋に人相変えて住み込みで勤めた。たまには、絢子が眠るのを待って寝顔見に行くんや。明け方になると、田舎道をとぼとぼ歩いて帰る。そんな生活が三年も続いた。絢子ももう小学校二年や。運動会や学芸会いうても、物陰からじっとあいつを見とるだけや。わしは生きとるんや、お父さんは元気やでと叫んで絢子をこの腕で抱きしめたいと何度思うたか知れん。家族が一つ屋根の下で暮らされへんのや……こんな情ないことあるか。いま思えば、事件起こす前の方が幸せやったような気がする。金には困ってたけど誰はばかることなく生きて行けた。わしも庸子もあほやったんや。銀行への恨みで前後の見境いなくしてしもたんや。犯罪いうのは割に合わんもんやとつくづく思う。わしら、犯罪には成功したけど生きようを誤ったと言える。  庸子はわし以上に疲れてた。朝の早ようから夜遅うまで働いても、収入はたかが知れてる。たまの休みに絢子連れて外へ出ても、田舎のことや、あれがあの垣沼の奥さんやと噂の種にされる。えろう大変でしたねというその言葉の裏にあけすけな好奇心が見えてる。わしという夫がいるのに会えるのは夜中だけ、それも絢子が目を覚まさんかとビクビクしながらやから大きな声で愚痴もこぼせん。結局、どこへ行ってもあいつには人目を気にする生活がついてまわるんや。庸子はこの間から、わしと会う度に、死にたい、死にたいと洩らしとった。それが案の定このザマや。わしも死ぬ。庸子と絢子が待っとるから早よう行ったらんと……。明日の新聞、楽しみにしといてくれ。予讃本線で中年男の飛び込み自殺があるはずや。身元が分らんようにバラバラになって死んだる。ま、全国版には載らんと思うけど……。ああ、これでスッキリした。誰かにわしのこの気持ち、聞いて欲しかったんや。あんたにも子供いてるやろから共感するとこあるやろ。これで心置きなく死ねる。今度こそ、ほんまの垣沼一郎が死ぬ。二度目のお別れや」 「ちょっ、ちょっと待て」 「何や、くどいで」 「一億円は?」 「あんなもん、犬にでもくれてやる。元はと言えばあの金のために、わしのかけがえのないものを失《な》くしてしもたんや……あんた欲しいのなら探してみたらええがな。長い間のご清聴感謝します。それでは……」 「待て、待たんかい」 「……あ、そや、忘れてた。あの赤い三輪車なあ……あれ、絢子のんや……」  〈了〉  あ と が き  大阪人が二人集まれば漫才になる——よくひきあいに出される言葉です。自分が|あほ《ヽヽ》になって場を盛り上げる、そんなサービス精神の旺盛な人物をこの作品では描こうと考えました。刑事も人間、基本的にはサラリーマンであることに変わりなく、自分をかえりみて、少しばかり怠慢指向型のキャラクターを設定したわけです。大阪人の思考形態、ある種下品なユーモア、バイタリティー、楽しんでいただけたなら幸いです。  プロットは単純明快、誘拐物です。登場人物が少ないせいもあり、読者の方々は鉄工所のおやじが怪しいと推理されつつ読み進まれたものと思います。小指の一本で一億円が手に入れば、これほど分のいい取引はない——実際、垣沼に対する疑念を挟むべきか否か、随分悩みました。……しかし、終り近くなって、垣沼の死体が発見される。そこで、読者のみなさんは新たな犯人をお探しになる。タイトル同様、プロットにも二度のドンデンを私は期待したのであります。  ご存知のように「二度のお別れ」は第一回サントリーミステリー大賞、佳作賞を受けたものです。小説はもちろん、まとまった文章を書くなど初めてであるだけに、行きつ戻りつ、何度も書き直し、非常に苦しく、ほんの少し楽しい経験をしました。  おもしろく読んでいただいたかどうか、今はそれだけが気がかりです。  昭和五十九年八月                    黒 川 博 行 単行本 昭和五十九年九月文藝春秋刊 底 本 文春文庫 昭和六十二年六月十日刊