[#表紙(表紙.jpg)] 幸荘物語 花村萬月 [#改ページ]   幸荘物語        1 〈わぎだま〉とは、追いつめられるなどして、かろうじて作り笑いなどをしてみせるときに頬にできる楕円形《だえんけい》の筋肉の集まり、と広辞苑《こうじえん》にある。  というのは真っ赤な嘘だが、しかし、それにしても円町《えんまち》君の頬には見事な〈わぎだま〉ができていた。  円町君は余裕の笑顔をつくっているつもりなのだろうが、頬を無理やり持ちあげて筋肉を盛りあげ、眼を細く弓なりに変形させているだけであるから、なんだか腐った魚を盗み食いした猫が食中《しよくあた》りの予感に怯《おび》えているかのような顔にしかみえない。  僕は少々意地悪な気持ちになり、じっと円町君を見つめた。 「なんや。わしの顔になにかついてるか」 「べつに。おい」 「なんや」 「関西弁になりかけてるぞ。わし、だって」  円町君の額や首筋に汗がうかんできた。僕は擦り切れた畳を何気なく毟《むし》って、ふと思いついて囁《ささや》き声で迫った。 「毟るって漢字、知ってるか」 「しらん」 「こないだワープロで変換して驚いたんだが、少ない毛って書くんだ。少ない毛で毟る」 「それが、どうした」 「いや、べつに」  べつにと言いながら、僕は意地悪く円町君の額に視線を据えた。とたんに円町君の顔が歪《ゆが》んだ。〈わぎだま〉も消えた。 「俺の額は生まれつきだぞ」 「なにも言ってない」 「見ただろう」 「被害妄想」 「そうか」 「そうだ」 「じゃあ、許す」 「許すもなにも、円町君は自分の立場を理解してない」 「証拠がないだろう」 「円町君以外に考えられないんだ」 「だが吉岡は部屋に鍵《かぎ》をかけていないじゃないか」  僕は頷《うなず》いた。部屋に鍵をかけたことはない。僕だけでなく、このアパートで暮らす者のほとんどは部屋に鍵をかけない。  万が一盗まれて困るものは、持ち歩くことにしている。つまり現金などは、常にポケットの中である。今年で築三十三年という幸荘《さいわいそう》に伝統があるとしたら、それは鍵をかけないということだ。 「誰でも入れるって言いたいわけだ、円町君は」 「まあな」 「すると、その口のまわりにくっついている香ばしそうな茶色はいったいなんでしょう」        *  吉祥寺駅前からサンロードに入って、すぐに左に折れる。そこがダイヤ街チェリーナードだ。しばらく行って十字路になっているところの左側にサトウという肉屋がある。  看板にはサトウという店名をはさんで松阪牛、神戸牛と大書されている。右を向いた黄色い牛のマークがシンボルである。店構えはちょっと草臥《くたび》れているが、いつもお客さんが群がっている。  サトウは牛肉のブランド物を扱っているというだけの肉屋ではない。二階がステーキハウスなのだ。もっとも残念ながら僕はあまりステーキに縁がなく、サトウの二階でステーキを食べたことはない。  僕はステーキが食べたくなるとスクーターに乗って三鷹まで行く。駅南口に〈くいしんぼ〉という店があって、安く、大量に牛肉が食べられるのだ。ただし、ここのステーキは霜降っておらず、じつにヘルシーである。  それはともかく、食べたことがないから断言はできないのだが、肉のサトウの二階のステーキハウスのステーキは、かなり霜降っているのではないかと思う。  この件に関して僕はいいかげんなことを言っているわけではない。というのも精肉業としてのサトウの名物にメンチカツがあるのだが、このメンチカツがただものではない。夕方にはメンチを求めて長い行列ができるのだ。だから買うのも一苦労である。  あくまでも噂であるが、サトウのメンチカツは、ステーキ用の肉など上質の牛肉をさばいて、あまった部分を固め、衣をつけ、揚げているという。  実際にこのメンチカツは絶品だ。ジューシーなどという科白《せりふ》は僕が口にすると少々薄気味悪いが、からっと揚がった衣に歯を立て、ぐいと囓《かじ》った直後、肉汁と脂がじわりと滲《にじ》みだす。その瞬間、僕はメンチカツハイを味わって意識が朦朧恍惚《もうろうこうこつ》となる。  その食感は、ねっとりまったりとした霜降り系の肉に飢えている貧乏な輩《やから》にとっては途轍《とてつ》もない御馳走《ごちそう》であり、宝物である。だから当然ながら幸荘の住人にも大評判である。ステーキは無理だが、メンチカツなら並びさえすれば買えるというわけである。  数ヶ月前、僕はフリーマーケットでオーブントースターを値切りまくって三百円で買った。いい買い物をしたと思う。  というのもサトウのメンチカツは脂がのっているだけに、冷めるとせっかくの美味《おい》しさが半減してしまうのだ。そこでオーブントースターの出番である。  アルミホイルでメンチカツを包み、トースター内に安置する。ときにヒューズが切れて停電し、罵《ののし》られることもあるが、強力八百ワットで三分間、あの揚げたてメンチの復活である。  僕は昨日買って残しておいたメンチカツだけを愉《たの》しみにアルバイトからもどったのだ。オーブントースターによるメンチカツ再生の儀式だけを脳裏に描いて前傾姿勢、足早に人混みで浮かれている夕刻のサンロードを抜けた。  五日市街道に突きあたったら、街道を国分寺方面に約五分、吉祥寺北町に幸荘はある。木造二階建て、玄関を入って黒光りする床に腰をおろして靴を脱ぎ散らす。  ところが僕は妙なところで潔癖というか物事を割りきれないたちで、スニーカーの靴|紐《ひも》をしっかりと結わえなければ気がすまないのだ。  結わえたものは、ほどかなければならない。だから玄関の上がり框《かまち》に座って、苛々《いらいら》しながら靴紐をほどく。  一応、下駄箱はあるのだが、それには目もくれない。靴は幸荘の伝統に則《のつと》って、脱ぎ散らしたままだ。  その脇には骨董品《こつとうひん》じみたピンク電話が据えつけてあるが、住人たちはこの電話をあまり使わない。というのもこの電話であれこれ喋《しやべ》れば、即座に幸荘中の噂になってしまう。特に女性がらみは嫉妬《しつと》もはいって、かなり鬱陶《うつとう》しいことになる。  しかも、外からこのピンク電話に電話がかかってきても誰も受話器をとろうとしないのだ。いくらベルが鳴っても、みんな、面倒臭がって無視をする。つまり電話としての役目をほとんど果たすことがないというわけだ。  せめて大家がいればいいのだが、幸荘の持ち主は都内にいるそうで、僕はいちども大家を見たことがない。また大家がいないからこそ、この梁山泊《りようざんぱく》というか、無法地帯が成りたっているというところもある。ちなみに家賃は吉祥寺駅前の古い不動産屋に持参する。  さて、僕は、軋《きし》みのでている木の階段を、メンチメンチメンチメンチメンチメンチメンチと連呼し、念じて駆けあがった。  そして、だ。我が部屋の、やや歪みかけた合板のドアを開いたら、円町君がいて、よお……と片手をあげてきたわけだが、どうもその笑顔が不自然で、頬には〈わぎだま〉ができていた。  腰が引けているその態度に不審を抱くまでもなく、彼の口のまわりを汚した揚げパン粉の焦げ茶色で僕はすべてを悟ってしまい、食い物の恨みは恐ろしいということをとことん思いしらせてやるために、こうしてねちねちと絡んでいるわけだ。 「なあ、円町君。僕に向かって笑いかけた時点で、ばれちゃってんだよ。〈わぎだま〉ができてたじゃないか」 「なにが〈わぎだま〉かよ。そんな言葉は幸荘の中でしか通用しないぞ。幸荘方言だ」 「居直るなよ。食べたんだろう」 「ちゃんと用意してあるんだよ」 「なにを」 「代金」  ジーパンのコインポケットに中指を突っこんだ円町君を、僕は苦笑まじりに見守った。人のものを勝手に食って、ばれて問いつめられたら払えばいいんだろうと開き直る。 「おい、吉岡」 「なに」 「今日のところは許してやれ」 「誰を」 「俺を」 「つまり金がないんだろう」 「ないわけじゃない。ほら」  コインポケットから円町君がほじくりだしたのは十円玉が三枚と、一円玉が同じく三枚、計三十三円也であった。 「朝からなにも食べてなかったんだ。許してやれよ」 「日本語、変だよ」 「まあ、いいから。許してやれ」  盗み食いをした本人が、他人事《ひとごと》のように『許してやれ』というのには呆《あき》れてしまう。だが呆れてしまうと同時に、なんとなくユーモラスな様子もあって、僕は許してやろうかという気になりかけた。 「二度と僕の部屋に入らないでくださいよ」 「そんなことを言うな。あれこれ借りることもある」 「円町君は借りるばっかりで、誰かになにかを貸すのはとことん嫌がるでしょう」 「気にするな。許してやれよ」 「許してやれよって、円町君自身が問いつめられてんだぜ」 「ごちゃごちゃ言うな。こんど金が入ったら、奢《おご》る」 「円町君のおごるって、傲慢《ごうまん》の傲の字が当てはまるんじゃないかな」 「作家志望は、言うことが小難しくていけねえな」 「音楽家志望は、言うことに論理がなくていけねえな。感性だけで生きてんじゃないの」 「いいねえ、感性。それだよ、それ。感性で生きてんだよ、俺は」 「感性は馬鹿者の言いぐさ」 「なんだ、それ」 「そういう広告コピーがあったんだ」 「感性の意味がわかってねえなあ」 「でも、音楽雑誌の広告にあったんだぜ。音楽スクールの生徒募集広告だったかなあ」 「なんで感性は馬鹿者の言いぐさなんだよ」 「僕は楽器とか弾けないし、歌もうたえないけど、推察するに、だめな音楽家志望ほどきちっと技術を磨かないで、いいかげんな演奏をして、その拙《まず》さを言い逃れるために感性なんて科白を持ちだすんじゃないかな」 「おまえね、言うことが難しすぎるの。砕いて喋れよ」 「まあ、感性だけで生きてる円町君には通じないかもしれないなあ」  皮肉な顔をつくって嘆息してみせたとたんに、腹が鳴った。かなり大きな音だった。驚いた。同時に自分が哀れになった。  逼迫《ひつぱく》していたのだ。ここ数日、かなりきつい経済状態だった。残金が数百円という状態だった。しかし新人賞応募原稿締め切りである六月末が迫っていた。だからアルバイトにでる気にはなれなかった。  しかし原稿が捗《はかど》らなければ、絶食の危機である。僕は思案した。肉のサトウでメンチカツを二個買った。メンチの衣が炭水化物、中の肉が脂と蛋白質《たんぱくしつ》、そして野菜として玉葱《たまねぎ》が入っている。そんなどうでもいいことを脳裏に描いて、メンチを買った。あのときの僕にとってメンチは、ある究極の栄養食品であるかのように思えたのだった。  メンチさえあれば、なんとかなる。この危難をのりきれる。応募原稿は見事に完成し、この吉岡信義は選考委員に絶賛を受け、文學界新人賞を受賞する。  とくに山田詠美選考委員の選評は僕の作品を鋭く、厳しく、しかし優しく愛撫《あいぶ》するがごとく批評してくれる。吉岡君、悪くないよ。そんなひとことをかけてくれ、吉祥寺でデートしてくれる。  僕は吉祥寺の西荻窪《にしおぎくぼ》よりのあたりで山田詠美さんが歩いているところを目撃したことがあるのだ。綺麗《きれい》な人だった。世の中には綺麗な人は幾らでもいるが、抽《ぬき》んでた小説を書ける美人は、まあ、いない。 「どうした」  円町君が声をかけてきて、僕の夢想は消しとんだ。僕の眼前にいるのは山田詠美ではなくて、若禿《わかはげ》のミュージシャン志望だ。 「メンチは諦《あきら》めるから、でてってくれないかな」 「冷たいことを言うなよ。バイトしてきたんだろう」 「してきましたよ。冷凍庫」 「じゃあ、一圓《いちえん》に行こう」 「奢ってくれるんですか」 「なにをおっしゃいます、吉岡さん。冷凍庫作業なら日払いじゃございませんか」 「メンチを食われた上に、なんで僕がラーメン奢んなきゃならないの」 「持ちつ持たれつ」 「円町君の場合、持たれつだけじゃねえか」 「気にするな。腹が鳴ってたぞ。吉岡は空腹なんだよ。一人で食う飯ってのは味気ないだろう。付きあってやるって」 「あーあ。円町君が山田詠美だったらなあ」 「なに言うてはるの」 「なんでもない」 「さあ、殿。御出立でござる」  結局僕は円町君に促されてアルバイトの疲労のたまった脹脛《ふくらはぎ》を意識しながら外にでた。何気なく振りかえって見た幸荘は、ちょっとだけ傾いている。気のせいか。それともほんとうに傾いているのか。 「傾いてるのは、おまえだよ。吉岡は馬鹿正直だから庫内作業、手抜きなしだろう」 「うるせえな。こんなことなら大戸屋で夕飯を食ってくるんだったよ」 「大戸屋か。いいな。米もいい。実質的な食事ができるってもんよ。よし。予定変更。一圓から大戸屋へ。針路を南南西にとれ」  帰途の中央線の車中では夕食を食べて幸荘にもどるつもりだったのだ。しかしメンチを残していることに思い至り、夕食の誘惑を振りきった。原稿が書き上がらない最悪の場合を想定して残したメンチカツだった。  原稿は思いのほか捗って、自分でも納得のいく百八枚が完成した。文學界新人賞の応募規定には、枚数は四百字詰め原稿用紙百枚程度、とあるので八枚オーバーは許容範囲内だろう。  なぜ文學界新人賞に応募したかというと、山田詠美や島田雅彦といった選考委員の選評が凄《すご》くおもしろいからだ。なんといえばいいのだろう、選評が時代と乖離《かいり》していないというところか。  とにかく原稿は昨夜完成し、完成祝いにメンチを食べようとも思ったが、ビールが欲しいなどと生意気なことを思っているうちに精も根も尽き果ててしまい、原稿の上に突っぷして眠ってしまっていた。  朝、目覚めたときには、なぜか万年床で毛布にくるまっていたが、いつ寝床に移ったのかは記憶がない。  僕は寝汗で湿った寝床の中で思案した。原稿が書き上がったのはめでたいが、経済的逼迫がそれで解消するわけではない。新人賞賞金五十万円也が入るのは十二月の発表時、つまり半年先である。  そこで当座の金を稼ぐために日銭のはいる冷凍庫である。  だが作業現場に遅れて着いて仕事にあぶれてしまうと電車賃が無駄になる。  ひとつ残ったメンチカツを食べてアルバイトにでるのが健康の上でも最善の策であるが、どうせ食べるならばオーブントースターで芯《しん》まで温めてやりたい。  だが、そんな暇はない。  というわけで、メンチカツひとつ残して、後ろ髪を引かれる思いで幸荘を飛びだした。  原稿はバイト先にまでもっていき、昼休みに郵便局に出向いて窓口から文學界編集部新人賞係宛に送った。  見知った顔から昼食代を借りようという腹づもりだったが、よく考えたら借りた金で昼飯を食ってしまうと、応募原稿を編集部に送ることができない。  だから昼食代は借りたが、昼食は抜いた。  正直なところ、作業中に幾度か眩暈《めまい》に襲われた。原稿書きに追いまくられて、ほとんど絶食に近い日々を送っていたからだ。  だからこそ、の、メンチカツである。吉祥寺駅に着いた時点で夕食という選択もあったのだが、僕は誘惑に耐えて幸荘にもどった。  そうしたらこの猿顔の禿に僕のメンチカツは食べられていた。そして、なぜか猿顔の禿に夕飯を奢ることになっていた。まったく世の中はわからない。 「なに見てんだよ」 「べつに」 「おでこばかり見るんじゃねえよ」 「べつに見てないさ」 「これは生まれつきだからな」 「はいはい」 「心がこもってない」 「うるせえな! 僕は腹が減ってんだよ」  睨《にら》みつけると、円町君は不服そうに口を尖《とが》らせた。なにかよけいなことを口ばしったら、無視して一人で飯を食いに行ってやろうと思ったが、円町君は唇を尖らしたまま口を噤《つぐ》んで、黙りこんだ。  気づいたらサンロードの人混みの中を歩いていた。べつの空《す》いている道を歩けばいいのだが、習慣だろう。それと女の子がたくさんいるところを歩くほうが、漠然と歩くにも張りがある。  吉祥寺という街には、僕や円町君のような奴が無数に群れている。人気ブランドというのだろうか、平均して家賃は安くないが、勤め人には向かず、自分の才覚で一旗あげようと考えている若い奴らが吸いよせられ、集まってきているのだ。  幸荘はそういった奴にとって伝説的なアパートである。幸荘の住人からは、幾人も有名人がでている。漫画家、ロックミュージシャン、俳優、イラストレーター、詩人。第一線で活躍している人々を輩出しているのだ。  なによりも家賃が安い。トイレは共同であるが、この御時世に六畳一間で三万三千円である。しかも入居時に礼金がない。まあ、家賃なりのボロさであるが、住めば都とはよくいったものだ。  部屋に鍵《かぎ》をかけないという伝統も、考えてみれば原始共産制のようなものではないか。つまり飢えている者が勝手に他人のメンチカツを食べられるというふうな。  原始共産制は搾取の余地のない生産力の低さが前提にあり、金銭、つまり貨幣関係を仲立ちとしない。  このあたりは幸荘の現状がぴたりと当てはまる。それはともかく物の本によると人類の歴史の大部分は原始共産制にあたるという。いわゆる定着経済である牧畜や農耕をはじめる以前が途轍《とてつ》もなく長かったということだ。 「人間は、一千万年ぐらい前にチンパンジーやゴリラから分かれたっていうよな」 「なんだ、いきなり」 「いや、人って自分の尺度ですべてを考えてしまうだろう。でも人類がいまみたいな生活をはじめたのって、ついこのあいだなんだ」 「吉岡」 「なに」 「ついていけないよ」 「なぜ」 「怒ってたかと思うと、いきなり人って自分の尺度ときたもんだ」 「そうか。唐突すぎたか」 「前から思ってた。吉岡はいきなりな奴だ」  僕は肩をすくめた。すくめてから嫌らしい外人みたいな仕草だと恥ずかしくなった。  六時半をまわっているが、まだ明るい。サンロードは混みあっている。女性のノースリーブの腋《わき》の下が眩《まぶ》しい。蒸し暑いが、いい季節だと思う。  長髪やピアス、ときに刺青《いれずみ》をした若者が僕たちに素早く視線をはしらせる。あるいはことさら無視をする。プータローはプータロー同士、お互いにおなじ匂いを放っている相手に即座に気づき、過剰反応するのだ。  吉祥寺駅北口にも大戸屋はあるのだが、あえて南口の大戸屋に入った。こっちのほうがときどき綺麗《きれい》な女の子の店員がいるからだ。僕が卵でとじたカツの定食を頼むと、円町君もおなじものを注文した。 「これといい、メンチといい、吉岡は衣で揚げたもんが好きだなあ」  僕は笑顔をかえして食うことに集中する。あれほど苛々《いらいら》していたのに、胃の中にものが入ってきてそれなりの重量感を主張するようになると嘘のように気分が安らいでくる。  大戸屋で満腹してから、井《い》の頭《がしら》通り沿いにある三浦屋で缶ビールを買った。僕と円町君は缶ビールが入った袋をさげてだらだらとした、しかし満ちたりた足どりで井の頭公園に向かった。  公園内に下る階段の脇には自作のアクセサリーなどを並べた露店が幾つもでていて賑《にぎ》わっている。その中に自分で描いた絵を売っている露店があった。  その昔、売れない詩人が駅構内などで自作の詩集を売ることがあったそうだが、得意そうに並べられている自作の絵はポップアートの出来損ないじみていてあまりに粗雑な作品だった。  図々《ずうずう》しい。これを売ろうというのだから強気だ。呆《あき》れてしまった。もちろんそれを口に出したりはしない。なぜなら僕の立場も彼と五十歩百歩であるからだ。まあ、強いていえば僕には羞恥心《しゆうちしん》があるから、路上で未熟を曝《さら》したりはしないが。僕は円町君に行こうと促した。円町君がいきなり|呟い《つぶや》た。 「しかし、ひどいもんだな」  まずい、と、思った。こんなダサい絵を平然と並べて売っているような奴である。客観性に欠けるくせに自己顕示欲と自意識、そして自尊心だけは人一倍であるに決まっている。あわてて円町君の背を押した。無駄だった。腰をかがめて円町君が念押しをしたのだ。 「おまえなあ、天下の往来だからって、なにを並べてもいいってもんじゃないぜ。なんだよ、これは。ガキの落書きのほうがよっぽどましで爽快《そうかい》だぜ。なんでこんなもんに二千円なんて値段が付いてるんだよ。藁半紙《わらばんし》じゃねえか」  男は中途半端な長髪をかきあげて、円町君を上目遣いで一瞥《いちべつ》した。睨みつけたつもりらしい。僕は男に向けて愛想笑いをし、円町君に早く行こうと囁《ささや》いた。しかし円町君は動かず、真顔で男の絵に視線を据えた。 「なあ、吉岡」 「なに」 「豆腐屋が豆腐を売っているとする」 「豆腐」 「そう。豆腐」 「それがどうした」 「うん。売っている豆腐がまずかったら、豆腐屋は豆腐がまずいと客に文句を言われるよな」 「まあ、そうだろうな」 「絵描きが絵を売る。正確には自称絵描きだが」 「僕たちだって自称って部分じゃ一緒だぜ」 「だが、売ってない。そうだろう」 「それは、まあ、そうだ」 「俺たちは身の程を知っている。まだ未熟だから売らない。でも、こいつは」  円町君の言いたいことは、だいたいわかる。僕も円町君の意見に賛成だ。豆腐は食べなければ味がわからないかもしれないが、絵は、こうして並べてあれば、どの程度のものかはだいたい察しがつく。  この絵は、まずい絵だ。少なくとも僕と円町君にとっては。  感性を盲信する円町君ではないが、この絵を描いた男も、たぶん周囲に作品が理解されないと、自分の芸術は一般大衆には理解されないのだなどと嘯《うそぶ》くのではないか。  男は僕たちを睨み続けているが、円町君は腰をかがめたまま、逆に男を睨みかえした。 「おまえ、目障りだよ。売ってるものがアクセサリーだったらべつになんの問題もないけど、おまえの場合は許せない。自分の描いたもんが相手にされないからって、わざわざ公園になんかもってくるなよ。おまえは公募展にでもしこしこ出品して、とことん蹴《け》おとされて恥をかいて、はじめて絵描きになれるんだよ。手順がちがう。公園で得意そうにクズをひけらかすんじゃねえ」  僕は少しだけ円町君を見直していた。先ほどの『ガキの落書きのほうがよっぽどましで爽快』という言葉といい『とことん蹴おとされて恥をかいて、はじめて絵描きになれる』といういまの言葉といい、なかなか的を射ているではないか。  男は円町君と僕を睨みつけながらタバコを手にとった。指先が小刻みにふるえている。もう、いいだろう。円町君に眼でここを離れようと合図をした。しかし円町君はにこにこしながら使い棄てライターをとりだした。  僕は円町君の指先がさりげなくライターの焔《ほのお》を最大に調節するのを見逃さなかった。円町君はライターを男の顔に近づけ、相変わらずのにこにこ顔で囁いた。 「火、つけてさしあげるよ」  若干の不気味さを感じたのだろう、男は軽くのけぞったが、円町君はかまわずライターのフリントに指をかけ、発火させた。  焔が十五センチも立ち昇っただろうか。しゅわーというガスの放たれる音と同時に、狼狽《ろうばい》しきった男の口からタバコが吐きだされた。僕はタイミングよくタバコと一緒に吐きだされた唾《つば》をよけた。  幸荘で一時期使い棄てライターでの悪戯《いたずら》が流行《はや》ったことがあって、ガスのノズルをひらくノブを持ちあげて移動させ、最大限にガスが放出されるように調整すると、バーナーで焙《あぶ》るような音と共に焔が幾十センチも立ち昇り、それでタバコに火をつけられた者は思わず腰を抜かしたのだが、おなじことを円町君は絵を売っている男にしたのだった。  幸荘での悪戯とちがうところは、焔を加減せずに顔に近づけたので、鼻の頭を焼き、眉《まゆ》を焦がし、頭髪に火が燃え移ったことであった。  男は携帯用の小さな合成繊維張りのパイプ椅子に座っていたのだが、真後ろに転倒し、必死になって手で頭を覆い、なにやら呻《うめ》きとも叫びともつかぬ声をあげて、転がりまわっている。  まだ完全に暮れてはいないが、少々|翳《かげ》ってきていたので、男の頭髪が燃えあがってたてる焔がはっきりと見てとれた。ゆらゆらとりとめがなく、淡い朱と青の入りまじった鬼火が男の顔全体を覆っていた。 「さあ、行こうか」 「ああ」  と、返事をしたものの、放り出していってしまっていいのだろうか。気になったが、火をつけたのは僕ではない。円町君だ。そう開き直ることにして、その場を離れることにした。  意外と周囲の者はなにがあったか気づかないようだ。振りかえるとアクセサリー売りのお姉さんとお兄さんが男を抱きおこし、その頭を平手でパンパン叩《たた》いて炎を消しながら、小首をかしげている。 「野郎、整髪料の匂いをさせてたんだ」 「整髪料」 「もともとは石油みたいなものだろう。よく燃えるなあ」  変なところで冷静な円町君に感心した。それにしても無茶をするものだ。円町君にはなにか鬱屈《うつくつ》しているものがあるのだろうか。ちいさく吐息が洩《も》れた。 「まだライターを改造したままだったのか」  小声で問いかけると、円町君はしばらくあいだをおいてから頷《うなず》いた。 「なんかさ、ライターの火をしゅーしゅーやるのが流行ってから、経済的な地味な焔じゃ納得できないんだよね。タバコに火がつけばいいってもんじゃないだろう。火ぐらい派手に燃やしたいじゃないか」 「まあ、そうかもしれない」 「吉岡はタバコの火をつけるにも、じつにけちけちしてるよな」 「まあ、そうかもしれない」 「凄《すご》い、けちだよ」 「まあ、そうかもしれない」 「おまえ、おちょくってるな」 「まあ、そうかもしれない」 「しまいに殴るよ」 「殴ったほうが、よっぽど気持ちがいいぜ」 「ライターで焙ったのは、無様だったか」 「まあね」  やりとりをしながら井の頭池に沿って歩いていくと、やがて足許《あしもと》に踏み場もないほどの鳩が群れはじめた。土鳩の群れである。くーくく、くーくくと物欲しそうに擦りよって、まったく人を怖がらない。 「うざったいね」  僕が呟《つぶや》くと、円町君は頷き、鳩の群れを蹴りあげた。いっせいに鳩が羽ばたき、埃《ほこり》っぽくなった。 「暇な爺婆《じじばば》が餌をやるから、変に人慣れしてるんだ」 「おい、あそこ、あいてるぜ」  池に面したベンチを指さすと、円町君は足早にベンチに行き、座り、僕を手招きした。僕は鳩の糞《ふん》で汚れていないか一瞥《いちべつ》して、腰をおろした。 「鳩ってナントカ脳炎の黴菌《ばいきん》をもってるから、触らないほうがいいらしいな」 「なんだ、鳩ってのは病気もちか」 「そういうことだ。平和の使者は、イタリア料理では丸ごと食われて、しかも病気もちなんだ」 「吉岡は鳩を食ったことがあるのか」 「ある。あまりうまくなかった」 「うまそうには見えないな」 「うまかったら、鶏とおなじで養鶏場ならぬ養鳩場があちこちにできてるさ」 「ナントカ脳炎て、日本脳炎みたいなものか」 「髄膜脳炎だったかな。はっきりしない」 「そうか。俺、ヘルペス脳炎ていうやつなら知ってるぞ」 「ヘルペスってのは性病だろう」 「罹《かか》ったんだよ、俺が」  隣のベンチのアベックが、顔を顰《しか》めて立ち去った。 「ヘルペスに罹ったのか、円町君は」 「そう。脳炎じゃなかったけど、医者にあれこれ脅された」  噴水から噴きあがる扇状の水《みず》飛沫《しぶき》が夕風に篝《あお》られて乱れている。犬の散歩の最中に愛犬が盛ってしまったらしく、なにやら愛犬家同士の失笑まじりのやりとりが背後から聴こえる。  僕はビールをとりだし、一本円町君に手わたした。缶の表面はすっかり濡《ぬ》れていた。円町君と僕は同時に指先の滴《しずく》を払い、ジーパンの太腿《ふともも》に缶をこすりつけて水分を染みこませた。 「かっこうわるかったなあ。陰部ヘルペス」 「いいなあ、陰部ヘルペス。円町君にぴったりだぜ」 「うるせえよ」  ここでお互いにいったん沈黙し、缶ビールのプルタブを引く。じわじわとあふれる泡は夕陽を浴びてうっすら橙色《だいだいいろ》に染まっている。僕は舌先で泡を弄《もてあそ》び、そのきめ細かさと苦さを肯定し、顔を天に向け、流しこむ。  一息つくと、円町君が冷めた顔をして呟いた。 「なんかビールって小便を飲んでるみたいだな」 「残念ながらビールはともかく、小便を飲んだことはない」 「俺は、あるぞ」 「まじか」 「まじだ」 「女が俺の小便を飲んだ」 「どこで」 「ホテルだ。連れ込みの風呂場《ふろば》だ」 「はあ……」 「飲んでくれたんだ。俺だって飲まないわけにはいかないだろう」 「どんな味がするもんなんだ」 「秘密だ」 「飲んでないんじゃないか」 「いや。飲んださ」 「じゃあ、味くらい教えてくれよ」 「しょっぱかった」 「塩味か」 「まあな」 「円町君はいい趣味をもってるなあ」 「皮肉を言うな。俺はその女にヘルペスを移された」 「しっこなんか飲みあってるからだよ」  円町君はフンと横を向き、派手にビールのげっぷを吐いた。僕は声をたてずに失笑し、少々ぬるくなってしまったビールを飲みほした。  なにやら地虫が鳴きだした。円町君は噴水のほうに顔を向けているが、噴水を見ているわけではない。僕は二十四歳にして童貞なので、少々肩身がせまい。なんで僕には彼女ができないのだろう。 「風邪の華って知ってるか」  いきなり円町君に訊《き》かれて、僕は我に返った。 「なんだっけ。口の端にできるできものだろう。風邪をひいて、風邪薬を服《の》み続けたときなんかにできるな。薬で胃が荒れたときにできるんじゃないのか」 「あれがヘルペスだよ」 「まさか」 「そうなの。あれがヘルペスなの。単純ヘルペス。単純ヘルペスには口唇ヘルペスと陰部ヘルペスがあるんだ」  へえ……と僕は抑え気味の声をあげて、しかしそれ以上なにか喋《しやべ》る気にもなれない。風邪の華がヘルペスならば、みんなヘルペスに罹ったことがあるというわけではないか。 「ヘルペスって治らないんだ。神経にウイルスが居ついちゃってさ、いちどヘルペスの症状がでた部分にしつこくあらわれるんだ。風邪の華なんていうように発熱したときや、疲労したときなんかにウイルスが暴れだすんだな」 「へえ。治らないのか」 「そう。一生ものなんだ」 「あまり、ありがたくないなあ」 「性器ヘルペスに罹ってないなら、まあ、いいじゃないか」 「うーん。まあ、なんといいますか。なあ、どんなふうになるんだ」 「なにが」 「ちんちん」 「さあな」 「教えろよ」 「いやだ。けっこうかったるくて痛いんだ」 「腫《は》れるのか」 「うるせえよ。糜爛《びらん》するんだよ、糜爛。わかるか」 「ああ。難しい字だ」 「水疱《すいほう》みたいのができて、それが糜爛して、やがて乾いて、とりあえず姿を消す」 「糜爛か。けっこう、凄《すご》いな」 「吉岡、おまえ、みんなに話すだろう」 「いや、この件に関しては沈黙を守ろう。ただ」 「ただ?」 「円町君がやった女を俺がやろうとしたときには、その前に、それとなく注意を与えてくれ」  拳《こぶし》を咬《か》むようにして円町君が笑い声をあげた。すぐに笑いをおさめ、独り言をするように、いい女だったんだと呟いた。 「ほんとうに、いい女だったんだ」 「そうか」 「しっこだって飲みたくなるさ。それくらいいい女だった」 「うらやましいな」  軽い調子で応じたが、本音だった。  耳年増《みみどしま》という言葉がある。僕は、それにあたる。ときどき自分がおかしいのではないかと思う。セックスはおろか、まだキスさえしたことがないのだ。  それなのに偉そうに小説を書き、新人賞に応募している。原稿には平気でセックスシーンも書く。堂々と、平然と、いまだ見たこともない女性器の描写までしている始末だ。  性的欲求がないわけではない。性欲は人一倍強いほうかもしれない。ときに暇をもてあまして、覚えたての頃のように一日に幾度も自慰をしてしまうこともある。  だが女性の前ではからっきしだ。頭のなかの概念では女性にも性欲があるということを理解把握しているのだが、現実にはどうしてもそれが事実であるとは思えないようなところがある。  だから萎縮《いしゆく》してしまう。怖くて手が出せないといってもいい。まあ、あれこれ理屈をつけはするが、僕に自信がないということだろう。  だから僕と女の子の付きあいは、ごく清潔で、最後には彼女に苦笑まじりに振られてしまう。  ——吉岡君はなにを考えているんだかわからない。それが女の子の僕に対する最終的な評価だ。 「円町君はかなり深い関係を築いてるな」 「なにが」 「女性関係」 「そうかな。よくわからない。まあ、だらしないとはいえるけど」 「いや、うらやましいよ。僕なんていつだって自意識がまさって自分をさらけだせないでいる。それこそ好きな彼女のおしっこを躯《からだ》に浴びて、それを飲みほすことができたら、ある究極かもしれないね」 「吉岡は理性がまさってるんだよ」 「うーん。そういうことじゃないんだけど」 「沈む夕陽を見るのはいやだ」 「なんだ、いきなり」 「セントルイスブルースの歌詞だ」 「へえ。恰好《かつこ》いいな」 「まあな。早く俺も音楽で一旗あげて」 「幸荘から颯爽《さつそう》と出ていく」 「うん」  ビールの酔いがだらだらとまわってきて、少しだけ気懈《けだる》い。この懈さがビールの取り柄だと思う。もっと酔っ払ってしまうと、じつに暑苦しい飲み物だと呪いたくなるのだが。 「前から訊きたかったんだが」 「なにを」 「うん。円町君は、なんで関西弁を遣わないのかな。なんで関西弁で歌わないんだ。京都の出身だろう」 「ああ。俺は京都の出身であることに誇りをもってるよ。でも、関係ないね」 「関係ない」 「そう」  直後だ。円町君が前に向かって転がった。なにがあったのか。振りかえったとたんに僕の眼前に拳が迫った。  よけきれなかった。  バランスを崩してベンチから落ちた。  噎《む》せた。  吐きだした。  血だった。  錆《さび》の味がした。  懐かしい味だった。血の味を再確認した。  他人事《ひとごと》のように思った。  鼻血だ。  これは鼻血だ。  世界がもどってきた。まわりが見えるようになってきた。円町君に髪を焼かれた男だった。知りあいを頼んだのだろう、三人引き連れていた。  円町君がそいつらと大立ちまわりを演じていた。四対一だ。僕なんか較べものにならないくらいに円町君は喧嘩《けんか》が強いようだ。よけるのではなくて、自ら飛びこんでいく。  相撲の解説で知ったのだが、突っ張りは突っ張る相手の懐に飛びこんで密着してしまえば威力が半減するという。腕を大きく突き出せないし、振れないので、力がこもらないわけだ。  理屈では、まあ、そういうことになっている。しかし実際に殴りあいの最中に相手の懐に自ら飛びこんでいくのは、普通の神経ではできないだろう。  円町君は顎《あご》をひいて上体を揺らせながら相手の懐深く密着していく。それから膝《ひざ》を繰りだす。金的を膝で蹴《け》りあげる。  たいしたものだ。  見惚《みと》れた。  喧嘩慣れしきっているのだろう。  見惚れているだけでは、恰好がつかないような気がした。  よせばいいのに、立ちあがっていた。  円町君の後頭部に拳を叩《たた》きこもうとしていた男の背に飛びついた。  飛びついたまではよかったが、それからどうしたらいいかわからなくなった。  僕はたまにはったりをかますことはあっても実際に殴りあいの喧嘩をしたことがなかった。だから相手の背にしがみついて、途方に暮れた。  円町君と視線があった。円町君は笑っていた。瞳《ひとみ》を見開いたまま、笑っていた。唇が酷薄に歪《ゆが》んでいた。冷たく昂《たか》ぶっている、そんな笑いだった。 「吉岡、絞めちゃえ」  なるほど、僕の手は相手の首に巻きついていた。いっちょう、殺してやるか。  力を込める。  腕の中の男が、もがく。  二の腕に垂れてきたのは彼の鼻水と涎《よだれ》だ。  なんだか男の咽仏《のどぼとけ》が歪みはじめているようだ。これならほんとうに殺せるぞ。  殺せる?  なにを考えているんだ、僕は。  とたんに腕から力が抜けた。  同時に男の肘《ひじ》が鳩尾《みずおち》にめり込んでいた。  意識をなくしたわけではないが、動けなくなっていた。僕は地面に膝をついていた。まいったな……肘打ち一発で動けなくなるなんて、思いもよらない現実だ。  そんな僕と円町君を男たちは荒い吐息をつきながら、公園のトイレに運びこんだ。僕の息も男たちと同様に荒いのだが、それよりも息を吸うたびに肋骨《ろつこつ》が痛んで、ひどく胸苦しい。  僕は水洗便器に顔を押し込まれた。ひんやりとした陶器と水洗の水が僕を醒《さ》ました。躯の末端にまで、力がもどってくるのがわかった。  しかし、すっかり怖《お》じ気づいていて、身動きできなかった。  汚いとは思わなかった。  あるがままを受けいれるしかない。そんな諦《あきら》めに支配されていた。一人が僕の背にのしかかっている。もう一人が僕の後頭部を押さえている。僕は便器にたまっている水で顔を洗われている恰好だ。  後頭部を押さえている男が脚で水洗のノブを蹴った。水が流れて、僕は意外なその勢いにさらに狼狽《うろた》えた。白く泡だつ急流だ。  大便を流すのだから、それなりに勢いがあるのだろう。狼狽えながらも、他人事のようにそんなことを思っている。人間の心とは不可解なものだ。  飲みたくはなかった。しかし、飲んでしまっていた。それが気管に入りこんでしまい、ひどく噎せた。  溺《おぼ》れ死ぬかもしれない。  そんな恐怖が脊椎《せきつい》を伝って這《は》い昇り、必死で閉じている瞼《まぶた》の裏側で炸裂《さくれつ》した。  僕は純白に爆《は》ぜる光を見た。  不潔もへったくれもなく、水洗の水を飲んでいた。  やがて、水流が衰えた。  僕は噎せながらも、安堵《あんど》していた。  背や後頭部に感じていた圧迫も消えていた。  恐るおそる首をねじまげた。  背後を見た。  暴れまわっていたときの円町君とおなじような酷薄な笑顔が見おろしていた。彼らの手がつまんでいるのは奇妙な中途半端さで大きくなっている陰茎だった。  僕は、為《な》すすべもなく顔に小便を受けていた。避けることができなかった。もちろん顔をそむけるくらいのことはできるはずなのだが、じっと凝固して彼らの小便を顔に浴びていた。  円町君は女の小便を飲んだという。彼女の小便だ。  僕は、見ず知らずの男の小便を顔に浴びている。よけることもせずに。  この無力感は、いったい、どういうことなのだろう。虚脱とは少しちがう気がする。わからないのは僕が小便を浴びて安堵していることだ。隣からは円町君が怒鳴り声をあげているのが聴こえる。僕は黙って小便を浴びている。      2  円町君が助けおこしてくれた。なんだか苦笑が洩《も》れた。妙に照れくさい。肩を抱きあうようにして便所の外にでると、遠巻きにして幾人か、様子を窺《うかが》っていた。  警察に連絡してくれとはいわないが、せめて止めにはいってくれればいいのに。  そんな調子のいい苛立《いらだ》ちを覚え、彼らを睨《にら》みつけた。でも観客たちは怯《ひる》みもせずに他人事の笑顔をかえしてきただけだった。  僕も円町君もびしょ濡《ぬ》れだった。重なりあうようにしてよろよろと歩きはじめた。夕風がいつのまにか湿った夜風に変わっていた。僕は円町君のちぎれかけた耳朶《みみたぶ》を見つめながら、呟《つぶや》いた。 「強いから、全員、のしちゃうかと思ってたんだけどな」 「記憶がはっきりしないけど、岩でやられたみたいだ」 「岩」 「そう。岩か、石か。とにかくこのあたりをガツンと一撃だ。それで一瞬わけがわからなくなったんだ。気絶したつもりはないけど、意識がなくなったんだと思う」  円町君は顔を顰《しか》めながらぶらぶらになってしまった耳朶をつまんでみせた。乾きはじめた血が粘るのがよくわかった。黒みがかった緋色《ひいろ》だ。嫌な色だ。 「医者に行かないと」 「飯にビールだろう。メンチも、か。もう吉岡の世話にはなれないよ」 「なにを水くさいことを言ってるんだよ。放っておくと、耳がもげちゃうぞ」 「いいんだ。いらねえよ、耳朶なんて」 「無茶を言うな。救急車を呼んでもらおう」 「ふざけるな。俺は、俺たちは喧嘩《けんか》に負けたんだぞ」  意外な剣幕だった。僕にはこういうふうに勝ち負けにこだわる気持ちがほとんどないので、気圧《けお》された。きまりが悪くなって、黙りこんだ。しばらくして、円町君が囁《ささや》くように言った。 「すまん。俺のせいで」 「いや、まあ、いい経験をしたよ」 「奴ら、俺に小便をかけやがった」 「僕もかけられたよ」 「ぶっ殺す」  僕はちいさく息をついた。独白するような声が洩れた。 「僕は、もう、いいや。小便をかけられたとき、ホッとしたんだよね。もう殴られない。もう便器で溺れ死なずにすむって。屈辱さえ味わっていれば、死なずにすむって。大げさかもしれないけど、あの瞬間には、ほんとうにそう思ってたんだ」  円町君は立ちどまり、僕の顔をじっと見つめた。気圧されてはいたが、それでも僕は真っ直ぐ円町君を見つめかえした。 「吉岡は奴らを許すのか」 「許すもなにも、先に手を出したのはこっちだし」  一応はそう答えたが、歯切れが悪いという自覚はあった。でも、もう、暴力|沙汰《ざた》はたくさんだ。じっと円町君を見つめる。円町君はぶらぶらしている耳朶を掌で押さえ、曖昧《あいまい》に僕から視線をそらした。 「俺は疫病神なんだ」 「それは恰好《かつこう》良すぎるな」 「事実だ。いつも抑えがきかなくて、よけいなことをして、まわりを巻きこむ」 「いまさら反省してもらってもなあ」 「すまん」  僕は笑顔をかえした。雑な笑顔である。だからといって円町君を蔑《ないがし》ろにしているわけではない。自分の不明瞭《ふめいりよう》な感情をどのように表現していいかわからないのだ。そんなときの表情でいちばん無難なのは笑顔だろう。 「なあ、円町君。僕たちは、なぜか人の多いところを選んで歩いているような気がするんだが」 「そういえば、そうだな」 「皆様方の視線が痛いぞ」 「小市民どもに血と小便の匂いを嗅《か》がせてやるのさ」 「僕は、できれば目立ちたくないなあ」 「バカ。喧嘩に負けたときこそ、堂々とするんだよ」 「だからって、人通りの多い場所を歩く必要はないと思うけどな。敗残兵はひっそりと。そのほうが絵になるさ」 「そんなことはない」 「どうでもいいんだよ、僕は。早い話が恥ずかしいって言ってるんだ。なんでサンロードのど真ん中を抜けていく必要があるんだ」  円町君が肩をすくめた。垢抜《あかぬ》けた仕草もできるんだな、などと皮肉のひとつも言ってやりたいが、口をひらくのが億劫《おつくう》だ。一瞥《いちべつ》をくれたまま黙っていると、円町君のほうが口をひらいた。 「吉岡」 「なんだ、あらたまって」 「うん。俺は、ちょっと女のところに行く」 「女」 「そうだ。女だ」  突っぱった顔で言いはしたが、円町君の瞳《ひとみ》の奥にみえたのは気弱な照れのようなものだった。だが僕は、女のところに行くという意外な言葉に気圧されて、先ほどと同様の雑な笑顔をかえすことしかできなかった。  円町君はあっさりと僕に背をむけた。ホープ軒のある路地に姿を消した。  僕はいよいよ人混みのはげしくなってきたサンロードに置き去りにされた恰好だ。 「なんなんだよ」  呪いと憤りの呟きは、弱々しかった。女という円町君の言葉がきつく頭にこびりついてしまい、奇妙な劣等感にうなだれた。  女——。  たった、ひとことである。  女、という一文字に過ぎないのだ。だが、僕にはまったくとどかない。まったく縁がない。  僕が女という単語で脳裏に描くもの、あるいはあらわすものは、一切の実体をともなわない幻に過ぎない。小便など飲みたくもないが、円町君は僕の知らない実存をしっかりと我がものにしているのだ。  それにしても、さんざんよけいなことをして事を荒立て、引っかきまわし、無茶をして、円町こと陰部ヘルペス野郎は彼女のところに去った。  円町君の彼女は、円町君の千切れかけた耳朶を見て、ちいさく悲鳴をあげるだろうか。狼狽《ろうばい》して駆けより、無茶を叱り、親身になって手当してくれるのだろうか。僕は漠然と彼女に膝枕《ひざまくら》をされる円町君の姿を空想した。  さて。  どうしたものか。  僕には心配してくれる人も、手当をしてくれる人もいない。せめてできることは、人気のない路地に逃げこむくらいのことだ。晒《さら》し者になるのは、たくさんだ。なによりも小便臭いのだ。論外である。  だが円町君の消えたホープ軒の方向は幸荘に帰るには反対側であるといっていい。かといって元町通りは人通りが多すぎるし、わずかではあるが引きかえさなければならない。つまりサンロードのこのあたりには、残念なことに幸荘方向にむかう手頃な路地がない。  僕は舌打ちをした。めったに舌打ちなどしないのだが、だんだんむかっ腹が立ってきたのだ。女という抽象に対する羨望《せんぼう》は、抑えきれない腹立ちにとってかわられてきた。  冗談じゃねえよ——。  声にならない声で呟《つぶや》いて、もういちど舌打ちをした。そして気づいた。唇が捲《めく》れあがっている。捲れあがって腫《は》れあがっている。そっと指先で触れてみた。  痛い。  熱く感じられるくらいに、痛い。 「まいったなあ」  こんどは声にだして言った。すると、いきなり感覚が鋭敏に、あるいは正常に戻った。顔全体が火照っていて、しかも耐えきれぬくらいに痛みが澱《よど》んでいることを悟った。  顔だけでない。右胸、肋骨《ろつこつ》のあたりが軋《きし》むように痛む。息をするのが苦しい。顔も躯《からだ》も凄《すさ》まじく発熱しているのに流れる汗は奇妙に冷たい。僕は自分で意識している以上にたくさん殴られたようだ。  どうやら孤独は苦痛を倍加させる性質があるのだ。いまさらのように僕は女のもとへ逃亡した円町君を怨《うら》んだ。呪った。円町君自身が言っていたように、円町君はとんでもない疫病神だ。  円町君と一緒だったときにはたいして気にならなかった通行人たちのひそひそ声や好奇の眼差《まなざ》しが、いまは刺さる、刺さる。僕は俯《うつむ》いて、足早にサンロードを抜けた。  サンロードよりは通行人の少ない五日市街道にでて、多少は気分が楽になったかというと、肉体的苦痛がいよいよ増してきて、それどころではなかった。歩道にへたりこみそうになってきた。激痛に加えて周期的な発熱と震えが、僕の意識を濁らせる。  きっと僕は泣き笑いの顔をしていたことだろう。円町君に対する呪いと怨みの言葉を譫言《うわごと》のように呟きながら、五日市街道を前のめりになって歩いたのだ。  ぼんやりと意識していたのは、向かいからくる通行人が僕の姿を見たとたんに大げさによけるというか、迂回《うかい》するということだ。ふたり連れなどは擦れちがってから僕を指さしてなにやらひそひそ話をしている気配だが、実際にそうだったのかは判然としない。  幸荘が見えたときは、その老朽化した佇《たたず》まいが僕をやさしく保護するバリアのように感じられた。  小学生のころだ。下校のときに便意を催して、それに必死に耐えて自宅にもどったときのことを漠然と思い出した。  なぜ学校の便所で大便をしてはいけなかったのだろう。とりとめのない思いが駆けめぐる。自宅のトイレに駆けこんで、ひと息に排泄《はいせつ》したときの安堵《あんど》と快感には忘れがたいものがある。  いまや僕は、幸荘の傾いた佇まいを眼にしたとたんに心が安らぐのだ。ここが僕の家だ。僕の自宅なのだ。屋根に生えたぺんぺん草が奇妙に青々としている。役立たずのテレビアンテナに雀がとまっている。  住むところになど固執していないつもりであったが、ホームレスになるのはさぞつらいことだろう。この安堵と縁がなくなってしまうのだから。いざというときの、この巣にもどってきたぞ……という心の安らぎは、何ものにも替えがたい。  幸荘の玄関、上がり框《かまち》に腰をおろし、僕はきっちりと結ばれたスニーカーの靴|紐《ひも》を顔を顰《しか》めながら解《ほど》いた。かかとを踏んで歩く奴を軽蔑《けいべつ》していた潔癖な僕だが、 「もう、二度と紐なんて結ぶものか」  そう、かろうじて呟いていた。腫れあがっているであろう顔の内側で渦を巻く熱の回転周期がいよいよせわしなくなってきた。上がり框に座りこんだまま、しばらく動けなかった。それでも気を取り直して僕は四つん這《ば》いになって階段をのぼった。  二階の廊下に腹這いになったまま、ひと休みをした。いや、正確には気がゆるんで動けなくなったのだ。五分ほど転がっていただろうか。それでも自らを叱咤《しつた》して、這って自分の部屋にむかった。  自室の合板のドアがまぢかに迫った。  ああ、僕の部屋だ。  縋《すが》りつくようにドアノブに手をかけて、渦巻く熱の中に尋常でない震えがまじっていることに気づいた。  僕は凍えているのかもしれない。  熱くて、寒くて、わけがわからない。  僕は壊れてしまった。  足音がする。  かかとから床板を踏みぬくような派手な足音だ。  それで我に返った。  僕は自室の前の廊下に転がっていた。無意識のうちに床にぴったり顔を押しつけて、その冷たさで顔の火照りを冷ましていた。 「あれ、まあ。派手にやったなあ」 「誰」 「誰ってことはないだろう。富樫《とがし》ですよ」 「ああ……富樫君か」  僕は富樫君の独特の体臭、あの腋臭《わきが》を嗅《か》いだような気分になった。もちろん匂いなど判別できる状態ではないのだが。 「生きてるか」 「まあ、なんとか」 「うわぁ。よくもここまで人の顔が」 「なに」 「いや、驚いた。ここまで変形した、いや腫れあがった人の顔を見たのは初めてだ」 「アオタン、ひどいか」 「アオタンなんてもんじゃないって。顔全体がいつもの三倍くらいに腫れあがってるよ。よほど殴られたんだなあ。ちょっとやばそうだぜ」 「富樫君」 「なに」 「医者だけは呼ぶな」 「呼んだほうがいいでしょう。救急車」 「頼む。呼ばないでくれ。僕は」 「僕は?」 「自尊心」  僕は富樫君を見あげた。瞼《まぶた》が腫れあがっているせいか、富樫君の顔はおぼろにしか見えない。それでも僕は眼で訴えた。必死に訴えた。医者になんかつれて行くな。救急車なんて絶対にごめんだ。 「自尊心ねえ」 「寝てれば、なおる」 「そうかなあ」 「頼む。頼むよ」  僕は富樫君にすがっていた。哀願していた。耳朶《みみたぶ》の千切れかけた円町君には医者に行けと言ったくせに、自分が医者を呼ばれそうになったら、にわかに羞恥《しゆうち》心と自尊心が迫《せ》りあがってきたのだ。 「じゃあ、よけいなお節介はよすけどさ、まあ、布団くらいは敷いてあげるね」 「すまない。でも、布団は敷きっぱなしだ」 「あ、そう。万年床じゃ敷きようがないね。とにかく寝かしつけてあげるよ」  富樫君が息みながら僕を抱きおこしてくれた。痩《や》せた腕だが、ほのぼのとした体温が伝わってくる。普段は内心顔をそむけている富樫君の腋臭だが、いまはまったく気にならない。  部屋に入った。匂いがした。こんな情況でもわかる。僕の部屋の匂いだ。 「汚ないシーツだなあ。糊《のり》をきかせろとまでは言わないけれど、たまには洗濯したほうがいいね」 「そんなに汚いか」 「彼女を連れこむわけにはいかんでしょう」 「彼女」 「どうしたの」  それは禁句だよ——。  胸の裡《うち》で呟《つぶや》いて、それから作り笑いをうかべた。でも、どうやら顔が引き攣《つ》れ、歪《ゆが》んだだけのようだった。 「ねえ、どうしたの」 「なんでもない」  万年床に転がると、富樫君が毛布を躯《からだ》にかけてくれた。そっと後頭部に手が挿しいれられ、僕の頭を枕の上にのせてくれた。 「お節介かもしれないけど、やっぱ医者に診てもらったほうがいいなあ。半端じゃないよ、顔の腫《は》れ」 「いいんだ。じっとしていれば、なんとかなるよ」 「じゃ、せめて濡《ぬ》れタオルでも顔にのっけてあげよう。とにかく冷やさなくては」 「すまないな。そうしてもらえると、ありがたい」 「いや、まてよ。氷がいいな。冷蔵庫の氷じゃすぐに溶けちゃいそうだから、コンビニで買ってきてあげるよ」  人情が沁《し》みる。優しさが胸に迫る。僕はだてに幸荘にいるわけではない。夢ばかり見ている貧しい奴ばかりだが、だからこそ共同体が成りたつのだ。そんな満足感と幸福感が湧きあがった。  だが呼吸は荒い。痛みもおさまったわけではない。熱はさらにひどい。僕はいままで喧嘩《けんか》らしい喧嘩をしたことがなかった。我は強いほうかもしれないが、身の程も知っているから適当なところで身を引いてきた。  だから、本格的に殴りあったこともなかった。殴られるということ、そしてその結果を今日初めて、躯で知った。思い知らされた。  ひどいものだ。映画やテレビドラマのようにはいかない。不屈の闘志とやらで立ちあがるわけにはいかない。恰好《かつこう》良く血の混じった唾《つば》を吐いて、相手をぶちのめす余地など、少なくともこの僕には、ない。  殴られれば壊れてしまう。破壊されてしまう。だが、いまだに僕はたいして殴られたという実感がないのだ。それなのに、いまや身動きさえできない。人間とは案外と脆《もろ》いものだ。あるいは、僕は途轍《とてつ》もなく脆弱《ぜいじやく》だ。  所詮《しよせん》は作家志望なんて、こんなものなのだろうか。小説家なんて、口喧嘩の達人に過ぎないのだろうか。時間がたてば、僕は、今日のことを思いかえして、屈辱に身を震わせ、原稿用紙になにやら書きつけて憂さを晴らすのだろうか。  しかし、とりあえず、もう通行人に好奇の眼差しを浴びせられることもない。自尊心が傷つくことはない。ようやく僕は心底から安堵した。氷で冷やされたタオルを想うと、うっとりしさえした。  いきなり稲妻が疾《はし》った。  飛び起きた。  いや、飛び起きたつもりだったが、躯がいうことをきかなかった。腫れあがった瞼に指先を添え、痛みをこらえて必死で拡げた。腫れのせいで視野が狭く、そうしなければほとんど世界が見えないのだ。  富樫君がカメラを構えていた。黒いボディに無数の傷、自慢のニコンであることだけは確認したが、わけがわからない。いったいこの男はなにをしているのだ。呆然《ぼうぜん》と富樫君を見あげた。 「すまん。もう一枚」 「なんで……」 「いいじゃない。めったにないよ、ここまで腫れあがった顔。記録しておくに値する」  ふたたびフラッシュが光った。白すぎて青く感じられるほどの光が僕の顔に刺さった。心底からの怒りに、僕は痙攣《けいれん》した。濡れタオルはどうした。氷はどうしたのだ、氷は。 「どうするつもりだ」 「なにが」 「写真だ」 「さあ」 「いいかげんにしろ、てめえ」 「写真家の本能だよ」 「うるせえ。出ていけ」 「気が短いなあ」 「人がぶっこわれたところを写して、おもしろいか」 「おもしろいかって言われると困るけどさ、インパクトは相当なものだよ」 「出ていけ」  だが、容赦なくフラッシュが光った。連続して光った。カメラのことはよくわからないが、モータードライブというやつかもしれない。富樫君は僕の周囲をそろそろと移動しながら、ひたすら写し続ける。いまや畳に膝《ひざ》をついて、接写である。シャッターの連続して切れる金属音が鼓膜を軋《きし》ませる。 「もうちょっとだからね。もうちょっと。そうしたら氷を買ってきてあげる。いいよ、いいねえ、とてもいい。怒った顔が、またリアル。闘争なんて題はどうかなあ。闘争。ちょっとニュアンスがちがうかな。タイトルって作品には不可欠だってこと、ようやくわかってきたんだよね。吉岡には釈迦《しやか》に説法ってやつだろうけどね。ああ、そうだ、連絡をとってほしい人っているかな。医者はともかく誰か親しい人、たとえば御両親にきてもらって面倒を見てもらうってのはどうかな」 「御臨終じゃねえんだよ」  怒鳴りつけて、枕元をさぐった。  投げつけた。  なにを。  わからない。  ひどいことをするなあ、という富樫君のぼやき声を彼方《かなた》に聴いた。さらに笑い声が被《かぶ》さった。  なぜ、笑えるのか。  なぜ、僕を笑うのか。  しかも、ふたたびシャッターの音が響いたのだ。  信じがたい。  だが、もう、眼をあける気にもなれなかった。奥歯を噛《か》みしめて、怒りを抑えこんだ。  ようやく富樫君が出ていった。  叫びたい衝動をどうにか抑えこんで、目尻《めじり》から滲《にじ》む涙を意識し、泣いたら負けだと叱咤《しつた》した。  ところが廊下で声がする。  僕のことを噂しているのだ。 「いま入るとまずいよ。文庫本だからよかったけどさ、見事にカメラに命中したからね。硬い物が当たってたら、弁償してもらうとこだよ」 「頭に血が昇ってるから後先考えられねえんじゃねえの。ほどほどにしとけよ」 「頭に血が昇ってるっていうよりは、顔面に血が全部集まっちゃってるんだな」 「そんな凄《すげ》えのか」 「もう、半端じゃない。ほんとうに普段の三倍くらい膨らんでるんだ。赤紫色に変色してバスケットボール大。きちっと愛機で記録したからさ」 「ちょっと覗《のぞ》いてみていいかな」 「やめといたほうがいいよ。これ以上キレさすとまずいから」 「ちょっとだけ。そっと」 「やめときなって」  しばらく間があって、室内の空気が揺れた。ドアがちいさく開かれたのだ。覗いているのが誰かは、わからない。思考するのが面倒で、憂鬱《ゆううつ》で、厭世観《えんせいかん》とでもいうべき諦《あきら》めに支配されていた。  それから意識が遠くなり、そのおぼろな意識のなかで性悪説をとらざるを得ない、と呟く自分がいた。虚《むな》しさの極みだ。        *  僕はうなされた。  自分の呻《うめ》き声で幾度か意識がもどった。  やがて腫《は》れた顔面が波打つように熱をもっているのがわかるようになってきて、周期的にその痛みで目が覚めた。  唐突に我に返ったのは、深夜だった。だいぶ熱もひき、迫《せ》りあがってくる痛みの質も強圧的なものではなくなっていた。  僕は上体を起こして、反芻《はんすう》した。夢うつつではあったが、間違いない。幸荘の住人たち、外道どもが入れかわり立ちかわり壊れた僕を見学にきていたのだ。  露骨に嘲笑《あざわら》う声も聴いた。僕はみんなの玩具《おもちや》に成りさがったのだ。喧嘩《けんか》の弱い、ださい玩具に。それでも誰かが心配して救急車を呼ぼうとした。富樫君がとめた。自尊心が傷つくそうだから、と。      3  僕はあの夜を忘れないだろう。とことん殴られて、うなされて意識をなくし、ふと目覚めた深夜の静まりかえった自分の部屋、不思議な鮮やかさで迫った天井の節目を。  布団は寝汗でびっしょり濡《ぬ》れていた。とくに首筋から肩口、そして背にかけてがひどかった。  そのせいか、以前幸荘に住んでいたミュージシャン志望が脱脂綿に水を含ませて、そこに七味唐辛子から抜きとった麻の種を蒔《ま》いていたのを思い出した。濡れてべとつく僕の布団が麻の実を蒔いた脱脂綿とそっくりに感じられたのだ。  彼は丹誠こめて麻の実を育てたが、結局は発芽しなかった。ひと月ほどたって麻の実が腐ったときの落胆の表情を思いかえして、僕は胸の裡《うち》で頬笑んだ。  しばらくしてから彼は、市販されている麻の実は唐辛子であろうが、オウムやインコの餌であろうが、熱処理をされているので絶対に発芽しないのだと報告にきた。  不思議に彼のことばかりが思い出された。懲りない男で、マリファナ狩りと称して深夜に鹿沼《かぬま》の麻畑に出向き、放し飼いの番犬に尻を囓《かじ》られてもどったこともあった。  僕はカーテンをひるがえす夜風と、そのたびに降りかかる月の光を浴びながら、彼のことを思い続けた。いま、どうしているだろうか。残念ながら音楽で群れから抽《ぬき》んでたという噂はまだきかない。  ふと、顔のまわりを覆うように水の入ったビニール袋がたくさん置かれていることに気づいた。布団が濡れているのは寝汗のせいばかりではなかったのだ。  おそらくはビニール袋のなかには氷が入っていたのだ。富樫君か誰かわからないが、氷を大量に買ってきて、僕の腫れあがった顔のまわりに置いてくれた。  僕は声をたてずに失笑した。これではまるで死体ではないか。僕の母の実家は神奈川県|秦野《はだの》市だ。それはどうでもいいことだが、一昨年の夏、ひたすら暑い昼下がりに母方の爺《じい》さんが亡くなった。  秦野市と足柄上郡中井町の境界付近に震生湖《しんせいこ》という湖がある。幼いころ僕は爺さんに連れられて震生湖に釣りに行ったものだ。鯉やヘラブナ、ワカサギなど、最近ではブラックバスなんかも釣れるらしい。  爺さんは釣りの名人で、鱒《ます》などを日本古来の疑似餌《ぎじえ》で釣るテンカラ釣りにかけては第一人者であるという噂だったが、僕と鱒釣りにでかけることはなかった。  僕が生まれてはじめて死体を見たのは、震生湖だった。いぼ状の点々ができて青黒く膨らんだ全裸の女性が湖面に浮かんでいた。オーストリッチというのだろうか、ダチョウかなにかの革だ。僕はオーストリッチのあのイボイボをみると、いつだってあの腐乱した死体を思いうかべるのだった。  あの女の死体はどうしたのだろうか。爺さんが警察に知らせたのだろうが、僕にはやたらと膨らんだ女の腹部しか印象がない。事の前後、とくに発見後の記憶が見事に欠けている。  ただ、その日は大漁だった。爺さんが、おまえもおかげでいっぱしのヘラ師だ、と褒めてくれたのを覚えている。  だが、いま思いかえすと、おかげでいっぱしの〈おかげ〉とはどういう意味なんだろう。やはり水死体の〈おかげ〉ということなんだろうな。  爺さんは震生湖の湖畔で僕につまらなさそうに語りかけたものだ。  ——地震で押切川が堰《せ》きとめられてできたから震生湖というのだ。関東大震災だ。凄かったぞ。  つまらなさそうな口調なのに、釣りに行くたびに震生湖のいわれを口ばしるのは、よほど関東大震災の印象が強烈だったせいか、それとも少し惚《ぼ》けていたせいだろうか。僕は少しだけ鬱陶しく思いながらも爺さんが好きだった。  爺さんは真夏に死んだので、躯《からだ》の至るところにドライアイスをあてがわれていた。  和紙で包んだドライアイスを置きにきた葬儀屋の男が、老衰は生きているうちから漫然と腐っていくようなものだから病死に較べて足がはやいといった意味のことを同僚に囁《ささや》いていたのを偶然耳にしたが、逆ではないかと死体に関する素人の僕は考え、べつに腹も立たなかった。  僕は顔にまとわりつく水の入ったビニール袋を雑に脇によけた。自分がドライアイスにかこまれた、死んだ爺さんになったような気分になったからだ。まだビニール袋のなかの水は冷たかった。氷で冷やしてくれるという約束は一応は守られたわけだ。僕は富樫君に礼を言わなければならないのだろうか。  冗談じゃないよな。  あんな仕打ちを受けたのは初めてだ。  いくら写真家志望であるといったって、仲間が殴られまくって悶絶《もんぜつ》しかかっているときに、その顔の腫れがおもしろいとシャッターを切るものだろうか。  カメラマンなんて人でなしの仕事なのだろう。戦場に行き、傍らの人間が銃弾に倒れるところを冷徹に写す。それが素晴らしい写真だと評価される。  おそらくはファインダーを覗《のぞ》いたとたんにカメラマンは外道に成りさがるのだろう。記録の鬼が取り憑《つ》く。報道写真家はどこまで鬼になれるかが勝負なのかもしれない。  溜息《ためいき》が洩《も》れた。  富樫君はカメラマンとして大成するだろうか。  みんな、夢を食い潰《つぶ》して大人になり、そして、夢を単なる思い出に変えてしまうのだろうか。  酔っ払ったときにだけ、若かりし頃の夢を思い出し、切なくカウンターに突っぷすのだろうか。幸荘の一時期を、甘酸っぱく思い出すのだろうか。  氷が溶けて水となったビニール袋を脇にのけて物思いに耽《ふけ》り続けた。そっと寝返りをうつと、枕カバーに染みて乾いた血が、頬にごわごわ感じられ、それが奇妙に時間の経過を感じさせた。  ひどく身震いをする瞬間があったが、それは苦痛からもたらされる震えとは多少ニュアンスがちがっていた。発熱はおさまりはじめていた。  もちろん、まだ、腫れあがった顔面はがんがんと脈打っていたし、おそらくは罅《ひび》が入ったと思われる右胸の肋骨《ろつこつ》は呼吸のたびに鋭く痛んだ。結局は病院に行かなければならないだろう。面倒だ。  それでも僕は、平安といっていい気分に支配されていた。幸荘の住人たちが入れかわり立ちかわり半死半生の僕の壊れ方を見学にきたことを寂しく反芻しながら、じっとしていた。  おそらく、みんな、殴られるということの意味を知らないのだ。  わかっていない。  躯で味わったことがない。  だから死体を覆うドライアイスのように氷の入ったビニール袋を僕のまわりに置いて面白がるのだ。  かすかにラジオの音が聴こえてきた。米軍放送だろう。誰かが身じろぎもせずに異国の言葉に耳を澄ましている。  いや、身じろぎもせずに耳を澄ましているのは、僕だ。  あんなに深い夜を味わったのは、初めてだった。夜という時間が失意の人をやさしく包みこむこと、暗がりにこそ安らぎがあることをじわじわと思い知らされた。  日差しの真下では、真昼の光のもとでは、ぶち壊された僕は失意を癒《いや》すことはできないだろう。傷ついた貧弱な獣が唯一できることは、躯をちいさく丸めて闇に逃げこむことだけなのだ。  さらには、僕はあの藍色《あいいろ》の夜の深みと柔らかさのなかで自分の存在の脆《もろ》さを心底から知り、しかも愛《いと》おしく感じていた。  戦争に行ったお祖父《じい》さんたちには大げさだと笑われるかもしれないが、人は自分のおかれた境遇のなかでの最悪から学んでいくしかない。  僕は闘争の意味を悟った。  口喧嘩だろうが殴りあいだろうが国家間の戦争だろうが変わらない。  目的は相手を破壊すること。  だが、僕は、ほんとうに相手を破壊したいのだろうか。心底から破壊したいと希《ねが》っているのだろうか。いまだにそれがはっきりとしない。  僕を殴り壊し、便器の流水で溺《おぼ》れさせ、小便をかけた奴らに対する具体的な憎しみがないことに僕は戸惑っていた。 「僕は奴らに憎しみを覚える前に怖がっちゃってるんだろうか」 「どうかな。まあ、恐怖の気持ちはあるだろうな。それがあるうちは憎しみの気持ちは隠蔽《いんぺい》されているものかもしれない」 「やっぱり」 「怖いか」 「怖いですよ。奴らに出会ったら、復讐《ふくしゆう》を目論《もくろ》む前に、いかに気づかれずに逃げだそうかって算段をするだろうな」 「吉岡は、いままで本格的な殴りあいをしたことがなかったじゃないか。正確には殴られたことがなかった。吉岡は殴り殴られを、漠然と映画やテレビドラマの一シーンのように感じていたんだな」 「それは、いえてる」  僕は同意しながら槇村さんの白髪まじりの長髪を見つめた。 「だからとりあえずおまえは殴られた実感さえもたなかった。後になって腫《は》れてきて、慌てたんだ」 「そうですね。後になって、ね。思いかえせばトイレに連れこまれる前に、一人に羽交い締めにされて、もう一人からいいように殴られているんです。ボコられてる。でも、円町君とサンロードを歩いているときには奇妙な高揚感があって殴られたことをほとんど意識しませんでした。おしっこをかけられたことのほうが屈辱で、凄《すご》く恥ずかしかった」 「脳内麻薬がでてる状態だな。痛みを感じないんだ。円町といたときには、威勢のいい円町に篝《あお》られて、まだ躯のほうは戦闘態勢にあったわけだ」  脳内麻薬はともかく、確かに僕と円町君は昂《たか》ぶっていた。とくに円町君は復讐心理に取り憑かれて、瞳《ひとみ》がひどくギラついていた。僕は円町君と一緒にいることでとりあえず高揚していたのだろう。 「僕は映画やドラマの主役のように殴られ続けたあげくに雄々しく立ちあがることはできなかった。だらしなく発熱して寝込んでしまった。腫れこそだいぶ引いたけれど、いまだに顔のあちこちに青痣《あおあざ》が残っている。ヒーローにはなれないもんですねえ」 「素手で殴る、殴られるってことは、ボクシングの試合とは違うさ」 「槇村さんは殴り、殴られをこなしてきましたか」 「いや。平和主義とかいって逃げまわってきた。その結果が幸荘の主という情けない立場だ」 「情けないってことはないでしょう」 「吉岡。俺はもう四十五になるんだよ」 「はあ」 「老眼。意味がわかるか」  槇村さんが目頭に手をやった。僕は目頭を揉《も》む槇村さんを黙って見守っている。ふと思った。この人は人生を後悔しているのだろうか。ひどく気になった。 「四十を過ぎると、焦るよ。とくに老眼だ。どう頑張っても眼の焦点が合わずに満足に本が読めなくなってくる。本なんていつだって読めると思ってるだろう。ところが違うんだな。たかが読書が億劫《おつくう》になるんだ」  僕は眼に関しては良くもなければ悪くもないといったところだろうか。たかが読書が億劫であるという槇村さんの苦渋の表情は、正直いってピンとこない。 「ある日、眼の焦点が合わなくなって、時間が少なくなっていることに、いきなり気づかされるんだ。歯眼魔羅というやつだな」 「最初に歯、次に眼、そして魔羅にくるってやつですね」 「俺の場合は眼歯魔羅かな」 「ははは。あっちは盛んらしいですね」 「バカ言ってんじゃねえよ。てめえが昂ぶらないから、相手を昂ぶらせてるだけだよ」  槇村さんが中指を立ててみせた。とても長い中指だ。なんだか意味深だ。 「昂ぶらないから、昂ぶらせてるだけ、か」 「なんだ、妙に感心してる」 「じつはですね、僕は、童貞なんですよ」 「いいんじゃないの」 「いいですか」 「いい」 「じつは、必死の決意で口ばしったんですけど」 「俺も二十歳なかばまで女を知らなかった。オナニーしすぎの猿だったなあ」  めずらしく率直な口調の槇村さんだった。他人にはけっこう厳しいことを言うくせに、自分はわりと恰好《かつこう》をつけているところがある槇村さんであるから、意外だった。僕はなんとなく迎合した。 「嘘でしょ」 「嘘なもんか」 「へえ、槇村さんの年代って、やり放題のフリーセックスかと思ってたけど」 「いつの時代も、やってるのって、じつは、ごく一部なんじゃないかな。みんな自意識があるじゃないか」  僕は深く頷《うなず》いていた。自意識や自尊心の問題は、僕のもっとも大きな問題である。僕が自身の欲望をも含めた自分というものを率直かつ素直にさらけだせていたら世界はずいぶんと変わっていただろう。  恥をかきたくない一心で、僕はいまや大きな恥を抱えてしまっている。円町君のようないいかげんな奴だって、適当に雌を見つけてその肌を実際に知っているのだ。 「女は楽でいいよな。自意識があっても相手の男に押しきられたって言い訳がきく。だから正確には、女は、よほどブスでないかぎり適当にやってると思う。あるいはやられちゃってる。問題はやはり男だ」  なんとなく答えはわかっている。でも、あえて短く尋ねかえした。 「なぜ」 「男は勃《た》たせなければならないだろう」 「まあ、そうですね」 「劣等感をもちやすい」  僕はなんとなく俯《うつむ》きそうだ。僕の想像していた答えとは微妙に隔たりがあったからだ。自意識という精神の問題が勃起《ぼつき》という肉体的条件に結びつくということは、いちばん触れたくない部分である。  だが、勃つということに関して確かに漠然とした劣等感と不安がある。べつに勃たないわけではないのだ。勃ちすぎて困っているくらいである。問題は勃ってから、なのだ。 「吉岡は包茎か」 「いえ。いや、まあ、仮性です」 「そうか。ますますやりづらいなあ」 「そうですね」  同意はしたものの、素直に納得するのも癪《しやく》である。仮性ではあるが勃てば中身が顔をだす。物の本などから類推するサイズ的なことに関しても、誇るほど立派ではないが、卑下するほど惨めでもない。 「吉岡」 「はい」 「俺はいまだに包茎だぞ」 「そう、なんですか」 「おまえと同じく仮性だが、はっきりいって威張れた代物じゃない」 「でも、なんか、女性からは評判じゃないですか。いろいろ武勇伝をききました」  だが、その武勇伝のほとんどは槇村さんが自らの口でそれとなく口ばしり、自慢したものである。しかし槇村さんは僕のお世辞を真に受けて応《こた》えた。 「うん。失望はさせてないと思う。なぜならば」 「なぜならば」 「女はちんちんの大きさなんてまったく気にしてないからだよ」 「よく、そう言いますけど」 「セックスってのは、綜合《そうごう》芸術みたいなところがあるんだな」  なにを大げさな、と思ったが、もちろん黙っている。 「動物のセックスならば、生殖目的だから強い雄が雌に精子を注入すればめでたし、めでたしだ。しかし、人の男と女は、そうは単純にはいかない。セックスのうまい下手に、その人間の総合的な性能があらわれるんだよ。ただ」 「ただ?」 「セックスはいったん人間を棄てて動物にならなくてはならないから、とりあえずはデリカシーのない奴の勝ちなんだ」  まさにその通りだろう。僕に彼女がいなくて円町君にいるということの真の意味が、そこにはある。 「性的衝動か。やりたいという気持ちの前では、人間性なんてもんは棄てなくちゃならない。とりあえず竿《さお》汁たらして迫る奴の勝ち。吉岡はくどく前に、口説いて失敗したときのことを考えちゃうだろう」  僕は苦笑いをうかべながら意味もなく首を左右に振った。傷つきたくない僕。なんと不細工な生き物だろう。 「殴りあいをしただろう」 「ええ、まあ、正確には一方的に殴られただけだけど」 「たぶん、近いうちにできるよ」 「なにが」  と、僕は間の抜けた声をあげた。槇村さんはつまらなさそうな顔で人差し指と中指のあいだに親指を挿しいれて、僕の眼前に差し出し、ひとこと、言った。 「おまんこ」 「おまんこ!」 「そう。おまんこ」  露骨な言葉の羅列に、僕は狼狽《うろた》えた。それでもかろうじて訊《き》いた。 「なぜ」 「なぜって、暴力|沙汰《ざた》とおまんこは、意外と馴染《なじ》むんだな」  僕は小首をかしげた。槇村さんは膝《ひざ》に手をついた。どっこいしょ、と大儀そうに立ちあがり、あっさりと部屋から出ていった。すぐに階段をおりる音が響いてきた。昼飯でも食いに行ったのか。  一緒にどうだと誘ってくれればよさそうなものだが、槇村さんにはそういう身勝手なところがある。なによりも童貞と喋《しやべ》るのに厭《あ》きたのかもしれない。  取りのこされて、反芻《はんすう》した。  暴力沙汰とお××こは、馴染む。  まてよ。僕はなぜ頭のなかで思いうかべる言葉なのに伏せ字にしているのだろう。童貞の恥じらいか。 「ええい、鬱陶《うつとう》しい」  自分を叱って、部屋から出た。夏休みである。学生は帰省している。幸荘もどこか物静かだ。思案して、円町君の部屋に向かった。円町君の部屋は二階のいちばん端、西側だ。 「いるか」 「いるぞ」  そんなやりとりをして、僕はドアをひらいた。廊下よりも暑苦しい空気が押しよせた。 「あれ」  間の抜けた声が洩《も》れた。  円町君の部屋には女性がいた。 「ども」  さらに間の抜けた声で挨拶《あいさつ》をすると、女は肩をすくめた。僕は悟った。円町君はときどき肩をすくめることがある。彼女の真似だ。彼女が肩をすくめるので、意識的か、無意識かはわからないが、伝染したのだ。  僕はあらためて彼女に挨拶をした。 「吉岡です。円町君にはいつも」 「お世話になってる、だろう」 「いや、ひどいめにあってます」  円町君がからっとした声で笑った。女は愛想で唇の端をゆがめた。円町君がどこかわざとらしい呆《あき》れ顔で言った。 「おまえなあ、槇村さんとセックスとかおまんことかでかい声でやりあってただろう」 「聴こえたか」 「いいかげんにしろよ。こっちまで誤解されるだろう」  僕は肩をすくめた。すくめてから、これは円町君から伝染したもので、オリジナルは彼女であると納得した。  簡単なやりとりが続き、円町君が得意そうに彼女のことを紹介してくれた。もっとも円町君の紹介はポイントがぼけていて、あまり肝心なことはわからない。  ともあれ彼女の名は香月《かづき》ということだけはわかった。歳は二十代半ばといったところだろうか。もっと年上であるような気もするが、かなり若くも見える。年齢不詳だ。  円町君と香月さんのあいだには汗をかいた麦茶のペットボトルがあり、口紅のついたコップがある。汗で額に張りついた彼女の乱れ髪に、僕はときめきを覚えた。もちろん自意識過剰男である僕はそれをおくびにもださない。円町君が下から覗《のぞ》きこむようにして言った。 「吉岡の顔もだいぶ男前にもどったな」 「円町君ほどじゃないって」 「俺は、まだ耳がぶらぶらしてるぜ」  円町君はガーゼで覆われた左耳のあたりを掌で押さえてみせた。僕は不明瞭《ふめいりよう》に笑いかえして、麦茶のペットボトルに視線を据えた。唐突に胸苦しくなった。  円町君は彼女のおしっこを飲んだのだろうか。  彼女は円町君のおしっこを飲んだのだろうか。  円町君は彼女から陰部ヘルペスをうつされたのだろうか。  彼女は円町君に陰部ヘルペスをうつしたのだろうか。  気になる。  ひどく気になる。  エアコンさえない部屋で、ふたりはなにをしていたのか。彼女が円町君の部屋を訪れた気配はまったくしなかった。  香月さんは幸荘の住人のように踵《かかと》を踏みならすような歩き方はしないだろう。だが、がさつそうでいて住人たちは他人の気配に案外と敏感だ。とくに僕は、敏感である。僕は口ばしっていた。 「香月さんは幽霊みたいですね」  香月さんが僕を一瞥《いちべつ》した。僕はよけいなことを口にしてしまったことを意識して、躯《からだ》を硬くした。 「それって、褒め言葉」 「ええ、まあ、そうです。ここの住人て、けっこう他人の気配に敏感なんですよ。獣みたいな奴ばかりだから。でも、俺も槇村さんも香月さんがいらしていたことに気づかなかった。これは凄《すご》いことです」 「ありがと」 「いえ、どういたしまして」  僕はなにを言っているのだろう。どういたしまして、はないだろう。しかも、うわずった声である。ほんとうに垢抜《あかぬ》けない。不細工だ。  円町君が大きなあくびを洩らした。壁に立てかけてあるエレクトリックギターを手にとった。かなり古いものらしい。僕は円町君に視線を据えた。  円町君はアンプをとおさずに、そのままエレクトリックギターを弾いた。当然ながら満足な音はでない。爪が弦をこする音や、フレットに弦が当たる雑音のほうが大きい。  それでも音楽が聴こえた。  思いのほか撥《は》ねるリズムで、しかも、大きくうねる。 「野太いな」  呟《つぶや》くと、円町君は頷《うなず》いた。 「Gのブルースだ。Gのあたりだと弦の張りに緊張感があるんだよな」 「ふうん。場所によって違うのか」 「違う。このギターはテレキャスだからあまり調整がきかないけど、たとえばギブソン系のレスポールなんかだったら、弦のテンションをかなり自分好みに調整できるんだ」 「なぜ、そのレスポールとかにしないんだ」 「音が好みじゃない。テレキャスターは鋭い、刺すような音がでるんだ。増幅しても、ひずみが少ないし」 「それはそうと、弾きながら|喋れ《しやべ》るのか」 「ああ。問題ない。ギターソロなんて、じつは指癖がほとんどなんだよ。アドリブって、そういうことなんだ。もっともジミヘンだけは別格だな。なんでもギターを弾きながら、まったく違う曲を歌うことができたらしい。クラプトンがインタビューでのけぞったって言っていた。普通は歌のメロディにギター演奏が引きずられるもんなんだが」  円町君は淡々とした口調であるが、門外漢の僕には言っていることの半分くらいしかわからない。黙ってギターを爪弾《つまび》く円町君を見つめる。  楽器が弾けるのは、いいな。うらやましいな。そんなことを漠然と思っていたときだ。いきなり香月さんが声をあげた。 「いいかげんにしなさいよ」  円町君はギターを弾いたまま、香月さんに顔をむけた。 「なんだよ。でかい声をだすなよ」 「ちゃんと聴きなさい」 「はい、はい」 「はい、は、いちどでよろしい」  香月さんは、なんだか学校の先生みたいな口調だ。僕はそろそろ退散しよう。そっと立ちあがりかけた。 「あなた」 「はい」 「あなたも円町といっしょになって喧嘩《けんか》をしたんでしょう」  あれが喧嘩をしたといえるのだろうか。一方的にぶちのめされただけではないか。いささか疑問ではあるが、逆らわないほうがよさそうだ。同意することにした。 「まあ、しましたけど」 「座りなさい」 「はあ……」 「吉岡は巻きこまれただけだ。悪いのは俺だから」 「喧嘩にいい悪いもないわ」  そうは思えない。しかし香月さんは顔色を白く変え、その額には血管がうきあがっている。どうやら癇癪《かんしやく》もちらしい。素直にしているにかぎるようだ。 「ねえ、円町」 「はい、はい」  逆らうな、円町君。  おちょくるな、円町君。  僕は胸の裡《うち》で念じた。円町君はわざとチャラチャラと軽くギターを掻《か》き鳴らし、醒《さ》めた眼を香月さんにむける。しかし、その足はちいさく貧乏揺すりをしていた。 「円町はミュージシャンでしょう」 「まあね。まだ稼げないけどね。まあ、音楽家志望ですよ」 「だったら、なぜ、耳を怪我するような無茶をするの」  うん。正論だ。音楽家が耳を悪くしては洒落《しやれ》にならない。 「吉岡君って言ったっけ」 「はい」 「あなた、慎重そうな人に見えるけど。なんで円町をとめないの」 「……とめたんですけどね」 「まだ顔が腫《は》れているじゃない」 「ずいぶん、ましになったんですよ。発熱したときは死ぬんじゃないかと思ったな」  香月さんがいきなり舌打ちをした。女の人らしくないし、舌打ちの音は加減がなかったのでかなりきつく刺さった。僕は軽く狼狽《うろた》えた。 「あなた」 「はい」 「こんどこの猿がなにかしたら」 「猿ってことはないだろう」 「うるさい、猿!」  円町君はギターを弾くのをやめ、口を尖《とが》らせた。香月さんがくるっと僕をむいた。 「いいこと、あなた。吉岡君」 「はい」 「こんど、この猿がつまらないことをしようとしたら、あたしの名前をだして」 「名前、ですか」 「そう。香月に叱られるって」  円町君が割りこんだ。ふてくされた口調で言った。 「ガキじゃあるまいし」 「ガキでしょう」 「でかい声をだすなよ」 「とにかくあなたには音楽家という自覚がない。最低よ」  もっともではあるが、なんとも凄い剣幕である。童貞を誇るつもりはないが、童貞の僕は女性になんとなく母性的安らぎを期待してしまうのだが、これではヒステリーの教育ママである。こんな具合に頭ごなしに迫られては、円町君でなくたって逆らいたくなるだろう。 「吉岡君」 「はい」 「あなた、円町とはそれほど長い付きあいではないでしょう」 「まあ、そうですね。幸荘に入ってからですから」 「あたしはずっと円町の面倒を見てきたの。この大馬鹿者の」 「まあ、歯止めがきかないところはありますけれど、それが円町君の個性ではないでしょうか」 「吉岡君は、円町の音楽的才能をどの程度だと考えているの」 「さあ、これからの人、かな」 「冗談じゃないわ」 「冗談じゃないとは」  それから香月さんが幾人も並べあげたのは、僕でさえも知っている日本の有名なジャズミュージシャンだった。 「そんなビッグな人たちと演奏してたんですか」 「そう。はったりをかますのは趣味じゃないわ。でも、円町は決してこんなアパートでくすぶっているようなミュージシャンではないの」  こんなアパートという言い草はないと思ったが、 「はあ」  と逆らわずに頷《うなず》いておいた。香月さんが顔を近づけて続けた。 「円町は本来はジャズのギタリストなの。それなのにブルースに徹したいとかいって、みんなを裏切った」 「まってください。ブルースに徹すると、みんなを裏切ることになるんですか」  僕が問いかけると、香月さんは僕をきつく睨《にら》みつけた。僕は音楽のことはよくわからない。しかしジャズもブルースも音楽だろう。円町君がやりたい音楽をやればいい。なんの問題もない。 「みんなの期待ってものがあるでしょう」 「はあ」 「誰もが円町に期待していたの」 「はあ」 「それを裏切ってはまずいでしょう。円町は独りで生きているわけではない。円町はいろいろな人から期待され、助けられ、援助を受けて」 「助けられるのと援助を受けるというのはいっしょだと思いますけど」 「うるさいなあ、揚げ足を取らないで」 「すみません」 「とにかく円町は、独りで生きてるわけじゃないのよ。わかった?」 「わかりません」 「わからない」 「わかりませんね。だって、円町君の人生じゃないですか。好きに生きればいい。好きな音楽を演奏すればいい」  香月さんが僕を真っ直ぐに見つめた。 「ブルースじゃ生きられないのよ」 「それは、どういうことですか」 「単純よ。需要がないから、お金にならないってこと」 「そんなことはないでしょう」 「あなたはわかってない」 「わかってませんか」 「わかってないわ」 「納得できませんけど」 「かみ砕いて説明してあげる。いいこと。円町は日常生活は雑だけれど、こと音楽に関しては細かいの」 「日常生活の雑さかげんで僕もそれなりに迷惑してますけど、音楽に関して細かいのは素晴らしいことでしょう。大雑把だったら困っちゃう」 「そうね。でも、細かさのなかに気の小ささも含まれているとしたら」 「気が小さい。そうは思えないけど」 「決めつけるのはよくないことだけど、ブルースをやるには、円町は繊細すぎるのよ」 「繊細だとブルースはできないんですか」 「音楽評論家の評価は、技巧的にすぎるってところかな」 「僕は、さっきの円町君の演奏を聴いて、かなり野太い音がしてるって感じましたけど」  そこまで言って、当の円町君が傍らにいることを忘れて言いあっていることに気づいた。円町君は手持ちぶさたな顔をして、相変わらず細かく貧乏揺すりをしている。 「香月さん。もうやめましょう」 「なぜ」 「円町君がいるんですよ。本人がいるんだ」 「それが、どうかしたの」 「どうかしたって……」 「あたしは円町のことを思って言っているの」 「そうかもしれませんが、大きなお世話だと思います」 「大きなお世話!」  香月さんが眼を剥《む》いた。文字通り眼を剥いたので僕はおかしくなってしまった。もちろん顔にはださない。 「すみません。ですぎました。僕はもう引っこみます。ごゆっくり」  僕は膝《ひざ》に手をついて立ちあがった。なんともいえない疲労感があった。香月さんのような女性が自分の彼女だったらたまらない。温厚を自認している僕ではあるが、ここまで干渉されたら、キレてしまうだろう。  部屋から出かけたときだ。円町君が声をかけてきた。 「吉岡」 「なに」 「頼んでおいてやったぞ」 「なにを」 「彼女」 「彼女?」 「そう。コレ」  円町君が小指を立てて器用にウインクをした。 「香月はジャズシンガーなんだよ、一応」  一応? と香月さんが眉間《みけん》に縦皺《たてじわ》を刻んで円町君を睨みつけた。相変わらずひとこと多い円町君である。ということは香月さんとお似合いであるということか。 「とにかく吉岡に彼女。香月は交際範囲が広いし、必ずいい女を見繕ってくれるよ」 「見繕うって、酒の肴《さかな》を見繕ってるんじゃないんだから」 「やだねえ、酒飲みは。酒の肴だってよ。他の譬《たと》えが思いうかばないのか、文学者」 「うるせえよ」  そういえば顔の腫れに悪いということで、ここしばらく禁酒してきたのだが、もう解禁してもかまわないだろう。冷えたビールのことを思い、ぬる燗《かん》の日本酒をそっと口にはこぶことを思うと唾《つば》が湧いてきた。 「とにかく、吉岡。期待して待て」 「はい、はい。期待してまっさ」 「はい、は、一度でよろしい」 「はい、はい、はい」  香月さんが僕を見あげた。つまらなさそうな調子で言った。 「円町と約束したから、できうる限りいい子を見つけてあげる。趣味は、どんな子」 「趣味ですか。僕は面食いですが綺麗《きれい》なだけのバカな女の人は困ります。バランスのとれた、抽《ぬき》んでた美人を」  わざと無茶を言ったのだが、香月さんは大きく頷いた。 「わかったわ。絶対に期待に応《こた》えてみせるから」 「それは、ありがたいことです。よろしく」  どこか投げ遣《や》りな調子を意識して言い、僕は円町君の部屋から辞去した。廊下を踏みならして自分の部屋の前を通り過ぎ、富樫君の部屋の前に立った。 「あけるぞ」 「どうぞ」  僕は富樫君の腋下《わきした》から漂う独特の体臭を嗅《か》いだ。 「おい、富樫。金貸せ」 「なんだよ、ずいぶん態度がでかいなあ」 「うるせえ。黙って金貸せ」 「口調は威勢がいいけど、腰が引けてるのね」 「うるせえな。とにかく貸せ」 「いいけど、幾ら」 「一億円」 「はい、はい。一億円。どうぞ」 「富樫」 「はい」 「これは千円というんだ。千円札という」 「ああ、そうでございますか。我が家ではこれを有史以来一億円と言い習わしてきましたので」 「一億円はいい。一万円、貸せ」  富樫君はしばらく思案して、それでも黙って一万円札を差しだしてくれた。 「よし。一万円、確かに借りた」 「あのね」 「なに」 「一万一千円でしょう」 「ああ、そうか。千円は利子だ。忘れろ」 「なんなんだよ。シャレになんないよ」  僕は無視して、富樫君の前にしゃがみこんだ。 「それ、なに」 「デジカメ」 「デジタルの亀?」 「吉岡は、おもしろすぎるな。じつにおもしろい。真っ白けだよ」 「すまん。それが噂のデジカメか」 「そうだ。ほら」  富樫君がタバコの箱くらいの大きさの銀色をしたデジタルカメラを手わたしてきた。僕はレンズを覗きこんだ。ちいさいだけで、普通のカメラと変わらない。 「ばか。うしろを見るんだよ」 「うしろ」 「そう」 「なに、これ」 「おめこ」  デジタルカメラの背後にあるちいさな液晶画面に映っていたのは、複雑に絡まりあった貝|紐《ひも》のようなものだった。ただし得も言われぬ艶《つや》がある。あきらかに濡《ぬ》れて潤い、光っている。 「あはは、逆さまに見ちゃったから、一瞬なにがなんだかわからなかったよ」  僕は無様に釈明した。さらに富樫君の顔色を窺《うかが》いながら尋ねた。 「なにか白いものが流れでてるけど」 「それは吉岡も知ってるだろう」 「僕も知ってる」 「そう。精液」  僕は液晶画面と富樫君の顔を交互に見較べた。富樫君はつまらなさそうな顔をつくってはいるが、どこか得意そうな眼のいろだ。 「誰が撮ったの」 「俺だよ」 「ということは」 「俺の精液」  軽く狼狽《ろうばい》したが、それをごまかしてデジタルカメラをおいた。富樫君がデジタルカメラの電源スイッチを切るのを見据えて、顔を顰《しか》めて呟《つぶや》いてやった。 「最悪だな。見たくねえよ、富樫君のタレなんて」 「うるせえよ」  僕は醒《さ》めた声をつくって言った。 「あまり画像がよくないな」 「デジタルの限界だな。銀塩写真にはまだまだとどかない」 「ぎんえん写真」 「うん。ハロゲン化銀、つまり臭化銀にほんのわずかだけヨウ化銀を混ぜて、ゼラチンのなかに分散させた乳剤を支持体に塗って乾燥させたものが、吉岡たち素人が呼んでいるところのいわゆるフィルムだよ」 「はあ」 「カメラで写すことによってだな、フィルムに光が当たると、つまり露光するとハロゲン化銀は化学変化を起こしてハロゲン化銀結晶のなかに銀の原子の集団をつくりあげるんだな」 「へえ……」 「これを潜像が形成された状態っていうんだけどさ、この状態では乳剤の見ための変化は起こらないわけ」  僕はちいさく咳《せき》払いをした。確かに一万円、いや一万一千円を借りはしたが、これ以上講釈をきかされてはたまらない。 「すまんな、富樫君。僕はちょっと用があるんだ。これから外出しなければならない」 「そうか」 「しかし、いつ見ても凄《すご》い機材だよね。幸荘でいちばんの金持ちは富樫君だ」      4  富樫君の部屋に雑然と転がる撮影機材を示して御世辞を言い、僕は愛想笑いをうかべて逃げだした。  階下におりながら、僕はポケットのなかに突っこんだ一万一千円をさぐりかけて、掌にびっしょりと汗をかいていることに気づいた。  なんとも恰好《かつこう》が悪い。掌の汗をジーパンの太腿《ふともも》にこすりつけた。上がり框《かまち》にしゃがみこんでスニーカーを履く。  結局は、僕は靴紐を結ばずにはいられない。たかがスニーカーの踵《かかと》を踏みつけて外出することもできないのだ。僕はこの細かさを一生引きずって生きていくのだろうか。  靴紐を結びながら、溜息《ためいき》が洩《も》れた。  頭のなかには、富樫君のデジタルカメラの背面にあるごくちいさな液晶画面いっぱいに拡げられた女性の局部の映像が焼きついてしまっていた。  といって具体的な形状を思いうかべることができるわけではない。それはなんとも曖昧《あいまい》なかたちをしていた。  朱で掃いたかのような二筋の扉があって、それが微妙に絡みあっていたようだが、自信をもってそうだと言いきることはできない。  とにかくそのこづくりな扉の下部から白い粘液が流れおちていた。総体的には艶やかに照り輝くぬめる光景とでもいえばいいか。画面一面が濡れそぼって見えた。 「まいったな」  靴紐を結び終えて、僕は独白した。苦笑いがうかんでいた。あの間延びした不細工な富樫君でさえも彼女がいて、その彼女とセックスをして、あろうことか直接、射精をしているのである。  自身の局部を、しかも交わった直後の局部をデジタルカメラで撮らせる女など最悪だ。それを赤の他人である僕に得意そうに見せる富樫君も最悪だ。  だが富樫君が特別に変態であるとも思えない。女にも男にも露出癖のようなものがあるのだろう。行為に飽くと、刺激を求めてカメラを構え、その映像を他人に見せて得意がったりするのだ。  外にでたとたんに、僕は頭のてっぺんに突きささる真昼の陽射しに軽い眩暈《めまい》を覚えた。立ち眩《くら》みだ。  寄りかかったブロック塀は熱く灼《や》けていた。僕は俯《うつむ》きかげんで蟀谷《こめかみ》のあたりを押さえて、じっとしていた。  脳裏には、ちっぽけな液晶画面いっぱいに露《あら》わにされた女性器のぬめりがくらくらと揺れながら大きくなったり、ちいさく引っこんだりしている。僕は泣きそうな声でかろうじて独白した。 「狂っちゃったよ、俺」  はじめて自慰を覚えたときも、その快感に有頂天になりながら、同時に途轍《とてつ》もない厄介さを自覚して憂鬱《ゆううつ》になったものだ。いまも、あれと似たような気分だ。  見たいのである。  心底から見たい。  しかし、同時に顔をそむけてしまうようなところもある。  気持ちが分裂してしまって、自分がわからない。僕は、いったい、どうしたいのか。  僕はワープロ専用機で原稿を書いているのでよくわからないのだが、パソコンにワープロソフトを導入して原稿を書いている知りあいが、インターネットでムフフな画像をゲットしてなんたらかんたらと吐《ぬ》かしていた。  つまり彼はああいったそのものズバリの画像を見てムフフとほくそえんでいたわけだ。  早く童貞を棄てなくてはまずいのではないか。でないと、富樫君にはどうといったこともない画像なのに、僕はこういう具合に際限なく取り乱してしまう。  つまり僕は、セックスに取りこまれてしまっているのだ。あるいはセックスに取り憑《つ》かれてしまっている。知らないせいで、過剰反応して、狼狽《うろた》えている。  こんな恰好悪い自分は、たまらない。自尊心が許さない。  かといって、道を歩いている女性を襲うわけにもいかない。  じつは、吉祥寺にはソープがある。ソープランドである。あれは吉祥寺南町になるのだろうか。  記憶が漠然としているが、京王井の頭線のガードを抜けたあたりに店があったはずだ。格安であるときいた。しかしさすがに富樫君から借りた一万一千円では心許《こころもと》ない。  それになんでも手抜きの店らしい。手抜きといっても手を抜かれていいかげんにあしらわれるわけではなく、女性の手で刺激されて放出するシステムであるということらしい。  昔風にいうと、それはオスペというらしいのだが、意味はよくわからない。スペシャルにオをつけて、それをさらに省略したということだ。正直なところ僕には風俗関係のネーミングや由来がほとんどピンとこない。  ああいう場所で遊び馴《な》れている人は、軽々と、面白|可笑《おか》しく洒脱《しやだつ》に、しかも象徴的なネーミングをするのだろう。  僕は幾度めかの溜息を呑《の》みこんで、酒屋の自販機にコインを投入した。  缶ビール、ロング缶。  文句あるか。  僕は周囲を睥睨《へいげい》しながら、ビールを飲み、歩道を行く。周囲を睥睨というのは、嘘であるが。  暑い。照り返しで五日市街道の路面が銀色に光ってみえる。さて、僕は、どうしたらいいのだろう。  ロング缶を飲みほすと、腹がいっぱいになってしまった。しかも胸もいっぱいになってしまった。咽《のど》に沁《し》みいったのは最初だけで、あとはただ苦くて冷たいだけの液体に成りさがってしまった。  ビールをおいしく感じなかったのは、はじめてのことといっていいだろう。それは酔っ払ってふらふらのときにさらに飲むビールの味なんて覚えてはいないし、そんなものはおいしくもないだろうが、いまは、炎天下、しかも最初の缶ビールである。  それなのに、ピンとこない。ゆるやかに酔いが廻《まわ》ってくることを期待しているのだが、それも訪れない。僕はげっぷを吐きちらしながら、拗《す》ねた眼で道行く人たちに視線をはしらせる。  気取っていたって、てめえら、股《また》ぐらにあんな傷口を隠しもってるんじゃねえかよ。ほら、そこのねえちゃん、僕から視線をそらすんじゃねえよ。やることはやってんだろ。いれさせて、ださせてるんだろ。気懈《けだる》い手つきで、ティッシュで拭《ふ》くんだろ。  と、そこで、すこし酔っ払っていることに気づいた。僕は、いつのまにやらくだを巻くオッサン状態である。 「ロング缶一本だぜ、たったロング缶一本」  苦笑して諄《くど》く呟《つぶや》くところも酔っ払いだ。僕は空の缶を眼の前で振って、缶の表面に浮かびあがっている水滴を飛ばして眼にいれてしまった。  眼球の表面を覆った水が陽炎《かげろう》の揺れる五日市街道の景色をさらに歪《ゆが》ませる。渋滞していて青白い排ガスが立ち昇る。車のラジエターからの熱気で空間がひずんでいる。僕は大げさに顔を顰《しか》めた。  どうやら今日は廻りが早い。だいたい僕のような生活をしていると、飲みたいときに飲めるのが利点であるが、アル中になるのも早いようだ。  実際に幸荘の住人のなかにはアルコールで身持ちをくずすというか、くずす身持ちなど最初からないのだが、とにかく酒で失敗をして、ひどい人になるとT済生病院であるとかのアル中病棟に放りこまれてしまった先輩もいる。  自由業とは、飲みたいときに飲めるから自由業なのではないか。僕はべつに酒に強いわけではない。だが、なんとなくとりあえずビール。そういう癖がついてしまっている。  もちろんビールだけでは終わらない。軽く酔って散歩して、最後には安い飲み屋にしけこむか、酒屋で強い酒を買って自分の部屋にもどるか、だ。  そんな日々を繰り返していたら、周囲からなんとなく酒飲み扱いをされるようになっていた。僕は立ちどまり、目頭を揉《も》んで独り言をした。 「暑いなあ。やってられないよ」  僕はわざわざ吉祥寺駅から中央快速高尾行きに乗り、国分寺まで行った。駅南口を新宿方向にすこし坂を下ったところに〈ほんやら洞〉という店がある。昼間は喫茶店だが、もちろん飲める。古い店だ。  国分寺まで出かけたのは、飲んで、酔っているところを仲間に見られたくなかったからだ。  吉祥寺の飲み屋で飲んでいれば、絶対に知りあいに出会ってしまう。たくさん人が集まる吉祥寺でも昼日中から本格的に酒を飲んでいる奴は、そう多くはないのだ。普通の人はお仕事。働いているのだから。  なんといえばいいのだろう。昼日中から飲むような奴は、たいがいが寂しい奴だ。  だから会ってしまえば無視するわけにもいかない。  あれこれ相槌《あいづち》を打ち、笑い声をあげ、ときに反撥《はんぱつ》してみせたりもして巧みに迎合し、結局は大して酔えないで、自分の部屋で飲みかえさなくてはならなくなる。  僕は気がちいさいので、声をかけられれば無視できない。八方美人だから適当に合いの手を入れて、内心は鬱陶《うつとう》しいと思いつつも、いい人を演じてしまう。だから〈ほんやら洞〉までやってきたのだ。  この店は若者文化の拠点とやらで相当に歴史があるが、もちろん江戸時代から続く老舗《しにせ》というわけではない。おっと冗談にもなっていない。中央沿線でも国分寺は、いまでは死語となりつつあるロック喫茶が日本ではじめて開店したところだ。 〈ほんやら洞〉も中央沿線の若者に支えられて二十年以上続いているのではないか。周辺には美大や音大があるので、少し尖《とが》った若い奴らが集まるわけだ。  もっとも、いまでは若い奴らというよりも、元ヒッピー、フーテンといった四十代にならんとする槇村さんのような年寄りが昔を懐かしがって〈ほんやら洞〉に夜な夜な集まって酔っ払い、少々哀しい雄叫《おたけ》びをあげている場合もある。  僕は常連というわけではないから、カウンターではなく、前にレコードプレーヤーが設置してあって衝立《ついたて》状になっている独り掛けのボックス席に腰をおろし、とりあえずビールを頼んだ。空腹を覚えたので名物のカレーも追加だ。  路上で飲んだロング缶で腹がいっぱいになってしまったのだが所詮《しよせん》は水分、汗になって流れだしてしまい、いまでは酔いもどこかにいってしまった。  熱々のカレーをハフハフいいながら口に放りこみ、ビールで流しこむ。  腹が一段落して窓の外に視線をやると東京経済大学の学生たちだろう、坂道を蟻のようにのぼっていく。  スピーカーから控えめに流れる七十年代のロックに耳を澄ましているうちに、僕は心地よく酔いはじめていた。幾度かカウンター内で立ち働いている店のお姉さんにビールを注文したあげくに、鬼殺しのボトルをいれてしまった。  ウイスキーでもいいのだが、やはり日本人は焼酎《しようちゆう》だろう。価格も手頃だし。  そうだ。ウイスキーでもいいのだが、やはり日本人は焼酎だろう。価格も手頃だし。  日本人は焼酎だよ。ウイスキーでもいいんだけどね——思いが堂々巡りをしていることに気づいたとたんに西日が瞳《ひとみ》に刺さった。  店内に客は僕だけである。目頭を弄《いじ》ったら、目脂《めやに》が指先についた。 〈ほんやら洞〉が賑《にぎ》わうのは午後六時をすぎてからである。元ヒッピー、フーテンとはいえ霞《かすみ》を喰《く》って生きてはいけないから、みんな働いているのだ。先ほどまでは画家らしい人がカウンターに座って店の女の子となにやら談笑していたが、ビールを一本飲んで、あっさりと席を立っていった。  僕はしたたか酔っていた。時間の経過がはっきりしないが、午後の倦怠《けんたい》がいちばんきつくなる時刻だろう。頬杖《ほおづえ》を突いてジョニー・ウィンターのブルースを聴き、足を貧乏揺すりのように動かす。リズムを取っているつもりだ。  ふと気づくと、鬼殺しのボトルはほぼ空になりかけていた。目の前におかれたアイスペールの中の氷は角が溶けて丸まっている。  僕はカウンター内のお姉さんから死角になっていることをいいことに、ボトルに直接口をつけて飲みほした。さらにアイスペールの中にたまった冷水をがぶ飲みした。  ちいさく吐息をついて、立ちあがる。伝票を差しだすと、お姉さんが心配そうに一瞥《いちべつ》してきた。僕は精一杯の笑顔をうかべた。富樫君から借りた一万円がくずれた。  国分寺駅ビルの丸井を散策した。なかばよろけながらうろついた。書店で文芸誌を立ち読みした。文芸誌のコーナーには僕しかいない。今日に限らず、いつだって書店の文芸誌のおいてある一角は閑散としている。  小説を書いて御飯を食べている本物の小説家は幾人くらいいるのだろう。小説誌の目次に目をとおしていくと、決まりきった名前が並んでいる。僕を含めた無数の小説家予備軍の頂点に立つ人たちだ。  エアコンの冷気が心地いい。僕は時間を忘れて本の匂いと紙の手触りを愉《たの》しんだ。  小説誌を丁寧にもとの場所にもどし、中央快速に乗った。幸荘にもどったとたんに、いきなり酔いがまわった。息を荒らげて万年床に倒れこんだ。枕に顔を押しつける。涙が滲《にじ》んだ。すこしだけ泣いてしまった。      5  あれこれ偉そうなことを口ばしり、御大層なことを考えるのだが、実際はただの怠け者だ。しみじみと、そう思う。  幸荘に暮らすことの利点に、横のつながりから適当に仕事を紹介してもらえることがある。つまりアルバイトをまわしあうのだ。誰かに声をかければ、適当な仕事がすぐに見つかる。  たとえば本来ならば劇団員しか募集していないイベント絡みの会場設営などのアルバイトであるが、幸荘に暮らす売れない俳優志望に声をかければ、すぐに集合場所を教えてもらえる。  現場に行けば、たいして役に立たなくたって、なんとなく雇われてしまう。雇う側は僕が劇団員であり、舞台の裏方の仕事をこなしてきて〈殴り〉こと金槌を自由自在に扱えて、それなりの大工仕事ができると思いこんでいるわけだ。  ごく簡単な面接をするのは現場にでない課長などであるから、実際の作業では迷惑をかけてしまうことがよくある。たいしたアシストもできずに、なんだよ、てめえは満足に釘《くぎ》も打てねえのかよ、とプロの大工さんに叱られたりもする。  幸いなことに僕は愛嬌《あいきよう》を振りまくのが巧みというか、口先で相手の自尊心を擽《くすぐ》る術に長《た》けている狡《ずる》いところがあるので、作業終了後には簡単な食事と酒に誘われて焼酎を奢《おご》ってもらうといったことがよくある。  五日前からこの現場に顔をだしている。横浜のイベント用大型テント設営現場だ。テントといってもキャンプなどに使ういわゆる野営用のテントではなく、設計図に従って鋼鉄のアングルを組んで立ちあげる数百人を収容できる巨大なものだ。  現場は横浜公園、つまり横浜スタジアムの傍らだ。僕は現場監督に誘われていっしょに中華街に昼食をとりにでかけた。安くおいしい店だとのことだが、昼の定食にいきなりスッポンと甘栗の炒《いた》め物がでてきたのには面喰らった。 「昼からスッポンですか」 「意表をつくのがこの店のいいところよ。そういえばおまえにも意表をつかれたな」 「そうですか」 「そうだよ。釘を打つのにトンカチの柄の根元を持つ奴なんて論外だぞ。それでも男か。親の顔が見たいね」 「監督。僕はお坊ちゃまなんですよ」 「しまいに怒るよ。なにがお坊ちゃまか。そのツラで」  僕はニヤッと笑う。監督もなんだか愉しそうだ。スッポンのゼラチン質と甘栗の甘みが意外にあう。僕は御飯をお代わりした。  試合でもあれば多少は騒がしいのだろうが、午後の公園は閑散としていた。人がいないわけではないが、あたりは僕たち作業員と、そしてホームレスがほとんどを占めている。  ホームレスたちは真夏日の陽射しを避けて木陰にうずくまっている。暑くて、青いビニールシートでつくった小屋のなかにはとてもいられないのだろう。  目立たないように気を遣って、あちこちに散っているが、ホームレスの数はかなりのものだ。もっとも正確にはホームレスとはいわないのかもしれない。地下足袋《じかたび》を履き、作業服を着ている人も多い。  おそらくは仕事がないのだ。日雇い仕事にあぶれ続けている。僕は骨組み組みたてのための仮枠にいいかげんに釘を打ち込みながら、微妙な居たたまれなさを感じた。  横浜スタジアムの南側には寿町などのドヤ街があるそうだ。日雇い労働者の住む町だ。宿代さえない人たちが、ここ横浜スタジアムで漠然と時間を潰《つぶ》しているわけだ。  わざわざ吉祥寺くんだりからやってきた小僧に、おじさんたちは仕事を奪われてしまった。  現場仕事の達人であろうおじさんたちが仕事にあぶれて、釘も満足に打てない僕が一万五千円もの日当をもらう。  僕は募集要項にある劇団員でもなく、裏方作業経験者でもないが、現場監督に気にいられて昼食を奢ってもらい、目印の付けられた部分に淡々と釘を打てばいいというもっとも楽な作業を与えられている。  ガチ袋のなかの釘をさぐる。一人前の大工を気取って釘を口に含む。だが、明日は、もうこの現場にはやってこない。今日もいれて十日間働いて総額十五万円也を稼いで、あとは適当に遊んで暮らす心づもりだ。  本当に仕事を必要としている人たちには仕事がなく、満足に釘も打てない僕は現場監督に取りいって楽をしながら金を稼いでいる。しかも永続的に働くわけではない。稼いだ十五万で半月ばかりブラブラ遊んで暮らす。  僕は奇妙なやりきれなさを感じて、自棄《やけ》気味に釘を叩《たた》きこんだ。 「おう、吉岡。だいぶ上達したじゃねえか。釘打ちだけは一人前になったな」 「監督。使えない奴で申し訳ありませんが、また、いずれ現場におじゃましますから、そのときは、よろしくお願いしますよ」 「へりくだって言ってるんじゃなくて、ほんとうに使えないからまいっちゃうんだよね。劇団の質も落ちたなあ。ろくな舞台をやってないんじゃないか」  皮肉を言いながらも現場監督は僕の肩をポン、ポンと二度叩いて、満足げな微笑をうかべて離れていった。  日当が抜群だから耐えたが、吉祥寺、石川町間はかなりの距離がある。いちばん単純な帰途は石川町から京浜東北線に乗って東京駅にでて、東京駅からは中央線で吉祥寺という経路だ。  しかしJRのみで動くと金も時間もかかるのだ。もっとも時間がかからず、運賃も安いのは石川町から桜木町にでて、そこから東急東横線で渋谷《しぶや》、渋谷からは京王井の頭線で吉祥寺という私鉄をメインにした順路だ。  横浜スタジアムのアルバイト最後の日、僕はなんだかチマチマと時間のやりくりや金勘定をするのがいやになり、京浜東北線で東京駅まで行ってしまった。  じつはラッシュアワーの時刻にもかかわらず、桜木町で僕の目の前に座っていた乗客が下車したので、なんとなく席に座れてしまったのだ。もう立ちあがる気になれなかった。  当然ながら東京駅始発だから中央線快速も座ることができた。僕はそれなりに疲労を感じていたが、中央特快の車中では隣に座ったOL風が爽《さわ》やかな柑橘《かんきつ》系のコロンの香りを漂わせていて気分が落ち着かなかった。  僕は、臭い。正直なところ自分ではよくわからないが、富樫君の腋臭《わきが》ほどではないにしろ、絶対に汗臭いはずだ。なにしろ仮組のテントで陽射しが遮られていたとはいえ真夏日である。汗まみれになって足場に釘を打ち続けたのだから。  汗の匂いに彼女が嫌悪を催さないか。そればかりが気になって、僕は凝固していた。そればかりか電車が揺れるとノースリーブの彼女の二の腕が僕の腕に触れる。  過敏になっている僕は、彼女の二の腕に生えている産毛の感触を感じとって、性的に緊張していたのだ。ごく微妙な接触であるが、微妙であるだけに僕の受けた性的刺激は大きい。  電車が吉祥寺に滑りこんだときには、まず安堵《あんど》の吐息をついた。そして下車することを残念に思った。さりげなく彼女を振り返る。彼女は僕など眼中にない様子だ。  苦笑いを洩《も》らして、駅の階段を下った。ようやく帰ってきた。そんな開放感があった。これから半月、倹約すればそれ以上、仕事をしないで小説を書くことに専念できる。  とりあえず大戸屋で腹を充《み》たした。酒は自販機ですました。さすがに疲れているので酔うには程遠いがロング缶一本でもそれなりに満足できた。  幸荘に帰り着くと、心底からホッとした。上がり框《かまち》で靴|紐《ひも》をほどきながら、溜息《ためいき》をついた。なんだか吐息を洩らしてばかりいる。しかし肩からすっかり力が抜けていた。  階段をあがる。僕の部屋が明るい。僕が稼いだことを嗅《か》ぎつけたのは誰だろう。 「香月さん」  意外さに声が少々うわずっていた。自分の部屋にはいるというのに、失礼しますと口のなかで呟《つぶや》いていた。 「円町が、もうそろそろ帰ってくる頃だから中で待たせてもらえって」 「ああ、そうですか。円町君が」 「そう。ごめんね、勝手に入っちゃって」 「いや、鍵《かぎ》をかけてないから問題ないです」  僕は戸惑っていた。はじめて会ったときの香月さんが放っていたギスギスした雰囲気がない。今夜の香月さんは柔らかく、妙に女っぽい。 「座ったら。吉岡君の部屋なんだから」 「ああ、そうですね。では」 「悪いけど万年床はたたませてもらったわ。匂いが苦手で」  僕は頭を掻《か》いた。わざとらしかった。雑に二つ折りにされた布団を一瞥《いちべつ》して、内心は大きなお世話だと思った。 「円町君は」 「仕事。カラオケ」 「カラオケって」 「円町君は初見がきくから」 「しょけん、て、なんですか」 「初めて見るって書くのかな。譜面を与えられて即座に演奏できるってことね」 「円町君は譜面が読めるんですか」 「侮ってはいけないわ」 「すみません」 「円町は選ばなければ稼げるわけよ」  香月さんは納得しきった表情で言うが、僕には何がなんだかわからない。小首をかしげてみせると、香月さんは含み笑いをうかべながら言った。 「だからスタジオにこもって渡された譜面どおりに演奏をするわけ」 「やっとわかりました。カラオケに使うバック演奏をするわけですね」 「そういうこと。吉岡君がカラオケで歌うとき、かなりの確率で円町がギターを弾いているわけよ」 「僕はカラオケが嫌いです」  よけいなことを言った。しかし香月さんは深く頷《うなず》いた。 「エコーを効かせて歌うことの愚かさってあるわよね。ほんとうに歌がうまくなりたいんだったら、エコーはまずいわ」 「いちど香月さんの歌を聴いてみたいものです」 「いずれ、ね。そんなことより、今日やってきたのは前の約束を守るためよ」 「約束って」 「円町と一緒に約束したじゃない。吉岡君にぴったりのいい子を見つけてあげるって」  そういえば、そんなことを言われたような気もする。だが記憶が不確かだ。なにしろ香月さんの言うことを真に受けていなかったのだから、現実感がないのも当然だろう。 「美人が見つかりましたか」 「うん。かなり、よ。くぐつ草で待ってもらっているの」 「それは、それは」 「なによ。他人事《ひとごと》ね」  僕は曖昧《あいまい》な笑顔をかえした。お節介な親戚《しんせき》のおばさんにお見合い相手を無理やり紹介されたらこんな気分になるだろう。正直なところ、面倒だ。釘も満足に打てない役立たずではあったが、それなりに働いてきたので疲れ果てているのだ。 「なんでここに連れてきてくれなかったんですか」 「無茶よ。いきなりこの素敵な御布団が敷いてある部屋で会うなんて」 「いいじゃないですか。この部屋には僕のすべてが包み隠さずぶちまけられているんだ」  香月さんは取りあわなかった。顎《あご》をしゃくって僕を促した。彼女の仕草には有無をいわせぬところがある。しかたなしに僕は膝《ひざ》に手をついて立ちあがった。  だらだらしていると、急《せ》かされた。独りで待たせているので早く行ってあげなくては可哀相だという。  くぐつ草はダイヤ街チェリーナードにある喫茶店だ。どこかの人形劇団が経営しているらしい。おそらくは日本でいちばん入り口のドアが重い店だ。  大中という中国物産を扱っている店の脇の地下におりる急な階段を下る。くぐつ草の赤錆色《あかさびいろ》をした鉄のドアを、全体重をかけて押しあける。その最中に、急に落ち着かない気分になった。  異様に重いドアが完全にひらき、僕は否《いや》が応でも店内を見渡さざるを得なくなり、立ちつくした。傍らに立った香月さんが得意そうに僕の横顔に視線を据えている。  店内で一人で座っている女の子は、彼女だけだ。髪の長い日本人形のような女の子だった。香月さんと僕に気づくと柔らかく頬笑んだ。 「待ちくたびれたでしょう」  香月さんが声をかけると、彼女はちいさく頷いた。近づいてみると意外なほどに背の高い女の子である。痩《や》せているが、履き古した男物のリーバイスのジーンズに包まれた腰は見事に左右に張っていた。 「紹介するわ。佐和子よ」  あわてて僕は頭をさげた。佐和子さんは軽く会釈をかえしてくれた。僕は彼女の爪が短く切り揃えられているのをぼんやり見た。 「佐々木佐和子さん。略してSSって呼ばれてるの」  言いながら香月さんが背を押してきた。僕は佐和子さんに向かいあって座った。SSがイニシャルであることを悟るまでにしばらく時間がかかった。僕はあがっていた。うわずっていた。それでもSSからナチスの親衛隊を連想していた。 「なにを黙りこんでるのよ。自己紹介しなさいよ」 「はい。あの吉岡です」 「ださいなあ。なによ、その挨拶《あいさつ》は。男でしょう。きりっとしなさい。吉岡君、SSが美人だから、狼狽《うろた》えているのよ」  佐和子さんはちいさく肩をすくめた。表情にとりわけ変化はみられない。なんだか凄《すご》く大人っぽかった。香月さんが勝手に僕の分もコーヒーを注文した。  くぐつ草のコーヒーはかなり濃い。一口含んで、ようやく真っ直ぐ佐和子さんの顔を見ることができるようになった。入り口から見たときは日本人形を想わせたが、こうして近くから見るとかなり印象がちがう。  僕の顔と佐和子さんを見較べるようにして香月さんが訊《き》いてきた。 「なんだか腑《ふ》に落ちないような顔ね」 「はあ。不思議な印象を持つ方だなあって」 「なにを畏《かしこ》まっちゃってるのよ。SSって多面体なのよね」  佐和子さんは唇をわずかにすぼめたが、なにも言わない。香月さんが投げ遣《や》りな口調をつくって続けた。 「四分の一だっけ、ロシア人の血」  佐和子さんが頷いた。香月さんが遠慮のない声でさらに続けた。 「つまりSSはクォーターってわけ。アングルによってずいぶん印象が変わるわけよ」  僕は、はあ……と不明瞭《ふめいりよう》な声をあげることしかできない。それにしてもロシア人の血とは意外だった。佐和子さんは柔らかい頬笑みを絶やさず、しかしひとことも口をひらこうとしない。 「なによ、あなたたち。黙りこくっちゃってさ。わかったわ。あたしがじゃまなのね。吉岡君。あなた、私の分のコーヒー代。いいわね」 「はい」  返事をしたとたんだ。香月さんはあっさりと席を立ってしまった。僕はあわてて振り返り、香月さんの背を眼で追った。香月さんに声をかけようとしたが、咽《のど》が詰まったようになってしまって声がでなかった。 「まいったな」  僕は佐和子さんに向き直って愛想笑いをうかべた。ところが佐和子さんの顔からは先ほどまでの微笑が消えていた。  困った。  どうしていいかわからない。  思いかえしてみれば、佐和子さんは僕と顔をあわせてからひとことも喋《しやべ》っていない。しかも笑顔を消してしまった。 「あの、僕、臭いですか」  佐和子さんが小首をかしげた。 「僕、アルバイトで汗まみれになったまま、ここに来てしまったから、その、なんというか。もし汗臭かったらほんとうにごめんなさい」  佐和子さんが頷いた。唇の端が幽《かす》かに動いた。先ほどまでの微笑がもどってきた。 「とにかく急だったんで、驚いちゃって。なんだかしどろもどろで不細工ですね。すみません」  佐和子さんはふたたび頷いた。  まいった。彼女は、いまだにひとことも喋っていない。どうしたらいいのだ。 「あの、なんて言いますか、物静かな方ですね」 「緊張しているんです」 「ああ、そうですか。緊張ですか」  ほとんど無意識のうちに繰り返して、あらためて佐和子さんの顔を見直した。 「緊張、ですか」 「はい。あたしは引っ込み思案ていうのかな。こういうの、苦手なんです」 「僕も、じつは、苦手なんですよ」  佐和子さんが頬笑んだ。佐和子さんの頬笑みには照れたところがない。見事に肩から力が抜けている。だからとても彼女が緊張しているようには感じられない。 「落ち着いているようにみえるけど」 「感情が、あまり外にでないたちみたい」 「香月さんなんか、かなり感情的ですけどね」 「香月は、率直だから」 「佐和子さんは率直じゃないんですか」 「え——」  佐和子さんが絶句してしまった。追いこんでどうするのだ。僕は自分の迂闊《うかつ》さにますます狼狽《ろうばい》した。 「ごめんなさい。そんなつもりじゃないんです」 「いいの。あたしは率直とはいえないから」 「だから、そんなつもりで言ったんじゃないんですよ」  僕の口調はどこか哀願の調子を帯びていた。佐和子さんに嫌われたくない一心だ。佐和子さんの性格などはよくわからない。ただそのどこか儚《はかな》さを感じさせる外貌《がいぼう》に一目惚《ひとめぼ》れしてしまった。 「ほんとうにごめんなさい。僕はあなたの美しさに狼狽えきっているんです」  正直な気持ちではあるが、言ってしまってから、愕然《がくぜん》とした。  あきらかに佐和子さんは引いていた。あの頬笑みも完全に消えてしまった。僕は救いようのない阿呆《あほう》だ。俯《うつむ》いた。 「ありがとう」  佐和子さんの声に、僕はあわてて顔をあげた。佐和子さんが真っ直ぐ見つめていた。 「わかるのよ」 「なにが、ですか」 「率直に言うわ。あたし、いろいろな人から綺麗《きれい》だって言われる」  僕は頷いた。 「傲慢《ごうまん》かしら」 「いえ。当然です。いまだって店のお客の注目の的です」 「目立つのかしら」 「安易に美しいなんて言葉を遣うのはデリカシーに欠けているとは思うけど、確かに目立つと思います」 「でも、あたしは目立ちたくないのよ」  ようやく僕は落ち着きを取りもどした。真っ直ぐ佐和子さんを見つめることができた。佐和子さんも僕を真っ直ぐに見ている。 「あえて傲慢を承知で言いきってしまえば、吉岡さんが緊張してしまうのも、わかるの。充分にわかるの」 「僕は、じつは女性とちゃんと付きあったことのないだらしのない男なんです。情けない奴なんです。ただでさえ女性に免疫がないのに、佐和子さんのように美しい方を前にしたら、もう、どうしようもありません」  佐和子さんが手を口にやった。声をころして笑っている。僕も照れ笑いをうかべた。顔に血が昇って、耳が熱い。しかし佐和子さんから視線をはずさない。 「科白《せりふ》だけ聴いてると、ラテン系の凄いプレイボーイみたい」 「ところが現実に僕は免疫がないんですよ。だから舞いあがって失礼なことばかり口ばしってしまうようです」 「心底から傲慢だった時期もあるのよ。十代の後半くらいかな。じつに生意気だったのよ、あたし」  僕は黙ってぬるくなったコーヒーを飲みほした。佐和子さんはちいさく咳《せき》払いをした。 「こうして喋っていると最悪よね。自分のことなのよ。嫌らしさと恥ずかしさに憂鬱《ゆううつ》になるわ」 「そういう自覚があるなら、問題ないんじゃないですか」 「そう言ってもらえると気が楽。あたしって子供のころはあいのこってバカにされたわけ。ところが思春期っていうの、そのころから男の子にちやほやされるようになって、バカにされていた裏返しかなあ、傲慢になっちゃったのよね。凄く傲慢になっちゃったの」 「それは復讐《ふくしゆう》のようなものですか」 「復讐」 「はい」 「凄《すご》いひとことね」 「言いすぎました」 「いいの。そのとおりよ」  佐和子さんはぬるくなった水のグラスをそっと掴《つか》んだ。結局は飲まずに、もとの場所にもどした。濡《ぬ》れた指先をぼんやりと見つめて、呟《つぶや》いた。 「あたし、ちやほやされるようになってからも、目立つのがいやで髪の毛を真っ黒に染めたんだよね。なぜかはよくわからないけれど、耐えられなかったの」  それで店の入り口から佐和子さんを見たときの印象の理由がわかった。初めて佐和子さんの姿を一瞥《いちべつ》した瞬間、彼女は髪の長い日本人形に見えたのだ。 「冷静に考えれば、騒ぐほどじゃないのよ。ちょっとだけ栗色。そんな髪の色なんだけど、あたしにとってはたまらないわけ。で、真っ黒く染めて、それはいまだに続いているの」  僕は頷いた。染められた髪の毛は、黒すぎるのだ。暗闇じみた黒さなのだ。そこには微妙な不自然さがある。人工的なものに対する違和感かもしれない。人形の頭に植えこまれた人工毛髪のように。 「黒髪なんていうけれど、日本人の髪の毛は真っ黒じゃないわよね」 「そのとおりです」 「でも、我慢できないの。真っ黒じゃないと居たたまれないの」  その気持ちも理解できる。劣等感というものは過剰にはしるから劣等感なのだ。こんなに美しい女性にも抜き差しがたい劣等感がある。そのことに僕は逆に感動にちかい気持ちを抱いていた。 「あたし、躯《からだ》の毛は淡いわけ」  佐和子さんの自嘲《じちよう》気味な口調の意味を解さず、僕は小首をかしげた。佐和子さんは躯を引き、下腹のあたりをちらっと一瞥した。僕は上擦った声を洩《も》らしてしまった。 「淡い……」 「そう。栗色なのね」 「栗色」  なんだか鸚鵡《おうむ》になったような気分だ。しかし佐和子さんの言葉を繰り返すことしかできない。 「あたしを裸にしたら、頭と躯の色の差に、違和感を覚えると思うの。でも」 「でも?」 「ここまで染める気にはなれないし」 「佐和子さん」 「なに」 「頭の毛も染める必要はないと思います」 「そうよね。染める必要はないわよね」 「ありません」 「断言してもらうと、気持ちがいいな」 「お願いします。染めないでください」  佐和子さんは僕から視線をはずした。唇には不思議な頬笑みがうかんでいる。 「あのね。染めていると負担がかかるのかしら。抜け毛が多いのよね」 「はあ」 「とくにベッドでなんか、ぞっとするくらい抜けるの。ピロ・ケースやシーツに無数のあたしの毛」 「だから染めるのはやめましょうよ」 「愛しあったあとなんか、とくに凄いのよ。つい我を忘れて乱れてしまうと、凄いわけ。一段落して、あたしの抜け毛に驚く男の人もいる」  僕は俯いた。佐和子さんは自分を罰しているような状態だ。はじめて会った僕に赤裸々な告白をして自身を虐《いじ》めている。そういう精神状態は理解できるが、痛々しすぎる。辛《つら》すぎる。やめて欲しい。  だが、言葉がでなかった。僕は黙って俯いているだけだ。佐和子さんも僕と視線をあわせようとしない。じっとして、黙っている。くぐつ草の店内から音が消えた。  僕は自分の呼吸だけを意識して、黙りこくった。  沈黙はどれくらい続いただろう。数分間だったかもしれない。もっと短かったかもしれない。もっと長かったのかもしれない。よくわからない。 「吉岡さんだったよね」  そっと僕は眼をあげた。佐和子さんが頬笑んでいた。また、頬笑んでいた。僕はようやく佐和子さんの柔らかな笑顔の意味を悟った。彼女の頬笑みは、障壁であり、強固なバリアだったのだ。 「ごめんね。初対面なのに、あたしっていきなりな女だよね。どうしちゃったんだろう。不恰好《ぶかつこう》だな。告白女。許せないよね」 「——そんなことはありません」 「とにかく、ごめんね」 「だから、そんなことはありませんよ」 「ありがとう」 「なんで礼を言うんですか」 「わからない。パターンかな」 「そうですよ。ただのパターンですよ。佐和子さんの心の問題は、なんにも解決していない」 「きついなあ」 「ごめんなさい」  僕は頭をさげた。佐和子さんがちいさく咳払いをした。 「ねえ、吉岡さん」 「なんですか」 「だいじょうぶよ。汗臭くたって平気」  佐和子さんは、なにを言っているのか。それでも僕はなんとなく腋《わき》のあたりに顔をむけて、そっと匂いを嗅《か》いでいた。  自分でもはっきりとわかる匂いがあった。客観的に判断して、凄《すさ》まじくきついというわけでもないだろう。だが、まちがいなく腋臭《わきが》の匂いだ。 「香月がいなくなった直後に気にしていたでしょう。僕、臭いですかって」 「ああ、はい。そうですね。で、実際に臭いですよ。しかたないって居直れればいいんだけど、佐和子さんの前ではちょっと辛いですね」 「だから、だいじょうぶなのよ。汗臭くたって平気なの」 「なぜですか。女性は臭いとか臭くないとか凄く気にするじゃないですか」 「それって思い込みよ。女ってね、好きな人の匂いなんて気にしないし、じつは汚れさえ愛《いと》おしく感じるんだよ」  僕は、あらためて緊張した。僕の匂いが気にならないということは、佐和子さんは僕のことが好きなのだろうか。彼女自身の言葉を重ねあわせて考えると、そういうことになるのだが。 「あの……僕の匂いは許せますか」 「だから本人が気にしているほど匂ってはいないのよ」 「べつに僕が好きだってわけじゃないんですね」  思わず口を滑らせてしまった。あきらかに佐和子さんは呆気《あつけ》にとられた顔をした。 「あたしが言ったのは一般論だから。吉岡さん、考えすぎ」 「そうですよねえ、考えすぎですよね」  僕は笑いにまぎらわせてしまおうとした。しかし、うまくいかなかった。なぜなら僕は佐和子さんに惹《ひ》かれていて、狂おしい気持ちを持てあましていたからだ。  ふたたび沈黙だ。緊張と気まずさがきつく絡みついて、身動きがとれない。まるで空気にさえも重さがあるようだ。こんなときに限ってタバコを忘れてしまっている。コップの水はとっくに飲みほしていた。つまり一切することがない。 「大変だったでしょう」  いきなり佐和子さんが声をかけてきて、僕は反応が遅れた。 「なんの、ことですか」 「香月。強引だから。ぜんぶ自分で仕切るでしょ。いきなり携帯に電話してきたのよ。あたしの都合とかに一切耳を貸さないんだな。吉岡さんも香月の強引さにまいっちゃってるんじゃない。友達だから悪くいえないけれど香月のやり方は、ちょっとね」  僕は愛想笑いをかえした。まったく香月さんは強引だ。佐和子さんも迷惑しているのだろう。僕が意識して愛想笑いをつくっていると、佐和子さんが軽く会釈した。 「じゃあ、あたし、帰ります」 「帰る」  思いがけないひとことだった。意外なひとことだった。繰り返した僕の声は裏返っていた。 「ええ。香月の顔を立てるためにここまできたけれど、ほんと、吉岡さんも迷惑だったでしょう。ごめんなさいね。香月のかわりにあやまります。なにしろあの子はああでしょう。独善的だから困ってるの。お詫《わ》びといってはなんだけれど、ここのコーヒー代はあたしが払いますから」  佐和子さんが立ちあがった。伝票を掴《つか》むと僕にちいさく頭をさげ、レジに向かった。僕は焦り気味に声をあげた。 「佐和子さん。コーヒー代は僕が。バイト代も入ったことだし」 「いいの。気にしないで。借りはつくりたくないから」  佐和子さんはあの柔らかな頬笑みをつくって言い、あっさりとくぐつ草から出ていった。取りのこされた僕は頬が愛想笑いのかたちのまま凍りついていた。  借りはつくりたくない……。  強烈なひとことだった。  僕は頬にこびりついている愛想笑いを無理やり苦笑に切り替えた。  僕は立ちあがるべきではないか。いますぐ佐和子さんを追うべきではないか。  しかし、いますぐ立ちあがって店の外にでたら、佐和子さんに追いついてしまうではないか。  僕の気持ちは乱れに乱れて錯綜《さくそう》していた。追うのは簡単だ。佐和子さんに追いついて、もう少しお話をしてくださいと頼みたい。おそらくは哀願するだろう。もうちょっと、もうちょっとだけ付きあってくださいと。  問題は、それを断られたときだ。にこやかに拒絶されたりしたら、僕は二度と立ち直れないのではないか。  頭を抱えたくなった。  しかし、喫茶店の店内である。僕は恰好をつけてすました顔をつくりつづけている。適当に時間を潰《つぶ》して、万が一にも佐和子さんに追いつかないようにして、やがて、おもむろに立ちあがって店をでて、こそこそと幸荘に逃げかえる。  つまり僕は自尊心の奴隷《どれい》なのだ。  恥をかきたくない。  恰好ばかりをかまって、肝心の大切なもの、佐和子さんを逃がしてしまう。佐和子さんを逃がしてしまっても、自尊心が傷つかないことを選ぶ。  なぜ僕は、これほどまでに強固な自尊心を持って生まれてきてしまったのだろう。  悲しい。  じつに、悲しい。  大切なものが自らの手をすり抜けていくのをみすみす見逃して、薄笑いさえうかべかねないのだ。僕はどこか精神的におかしいのかもしれない。  あらためてコーヒーを注文して、気持ちを落ち着かせようと思った。しかしコーヒー代金は佐和子さんが払っていってしまった。  佐和子さんが出ていった瞬間だ。レジのお姉さんが僕と佐和子さんを素早く見較べるようにした。  僕はその瞬間を見逃しはしなかった。自意識過剰の権化の面目躍如である。そして過剰なる僕の自意識は、僕に平然とした顔をつくることを要求する。  早い話が、あらためてコーヒーを注文するのにさえ躊躇《ためら》いを覚えて、結局は、僕はレジのほうを見ないようにして立ちあがり、くぐつ草をでたのだった。  地下から地上にあがると、凄まじく不快指数の高い夜であることを改めて思い知らされた。酒が飲みたい。いや、酒が飲みたいんじゃなくて、酔っ払って忘れたいんだ。  僕の酒は、じつはほとんどの場合、ゆきすぎた自尊心や過度の自負心を酔いにごまかして忘れるためではないか。自意識を鈍磨させるためではないか。  蒸す。  路上を行くと、すぐに肌がべとついてきた。首筋や背、そして匂いが気になってしかたのない腋窩《えきか》に、即座に汗が滲《にじ》んだ。  吐く息よりも吸う息のほうが熱いのではないか。そんな気がした。僕は前屈《まえかが》みになって歩いた。足早に幸荘に逃げかえった。  自分の部屋に転がりこんで、へたりこみ、べとべとの靴下を脱ぎ棄てて、畳の上に大の字になった。  首をねじまげると香月さんがいいかげんに折り畳んだ万年床が間近にあった。  僕の匂いがした。  強烈にした。  だが、もう溜息《ためいき》もでなかった。  ほとんど無意識のうちに股間《こかん》に手をのばしていた。佐和子さんの面影は、いまだかつてなく、くっきりと脳裏に刻まれていた。  佐和子さんが言っていた。『あたしを裸にしたら、頭髪と躯《からだ》の毛の色の差に違和感を覚える』と。  さらに『愛しあったあとなんか、とくに凄《すご》いのよ。つい我を忘れて乱れてしまうと凄いわけ。一段落して、あたしの抜け毛に驚く男の人もいる』とも言っていた。  なんだ。  童貞は僕だけか。  僕だけがなにも知らずに、しかし外ではひたすら恰好《かつこう》をつけ、独りの部屋で無様に自慰に励む。  センズリには男のソウルがある、などと格好いいことを言ったのは槇村さんだったか。汗まみれの臀《しり》を畳に貼りつかせ、ぺたぺたいわせてオナニーをする僕の姿のどこに魂があるのか。どこにソウルがあるのか。  僕は迫《せ》りあがってくるものを抑えきれなかった。ティッシュに手をのばすのも忘れていた。呻《うめ》いて、悶《もだ》えて、痙攣《けいれん》した。 「佐和子さん」  悲しい快感がおさまりつつある。掠《かす》れ声で名を呼んでいた。畳の上に直接、白濁が散っていた。唖然《あぜん》とするほどに大量だった。しかも快感の余韻でしばらくのあいだ臀の筋肉の痙攣がとまらなかった。 「佐和子さん……」  もういちど名を呼んで、完全に虚脱した。精液のあの匂いが鼻腔《びこう》に充《み》ちた。新鮮な香りだ。真新しい匂いだ。  僕は肩で息をしていた。臀を出したまま灼《や》けて毳立《けばだ》った畳の上に転がって、身動きできなかった。  しばらくのあいだは畳の上で微妙に盛りあがっていた僕の精液だが、蒸し暑い夜風に汚れたカーテンがだらけて翻るころになると、なんとなく染みこんでしまったといった風情で、どことなく姿を消してしまった。  それでも僕はしおれた陰茎をたらし、臀を出したまま畳の上に転がっていた。  生きる気力をなくしてしまったというのも大げさだが、正直なところ、すべてがどうでもよくなってしまった。  苦笑いをうかべられるなら、まだ余裕がある。泣けるうちは、まだましだ。いまや僕は表情を喪《うしな》い、感情をなくしてしまった。  ただ、ただ気懈《けだる》い。すべてが鬱陶《うつとう》しい。憂鬱だが、それを嘆く気力もない。  熱帯夜がじわじわと僕を浸蝕《しんしよく》していく。  こんな晩に人を殺せたら、さぞやすっきりとすることだろう。  こんな晩に強姦《ごうかん》できたら、僕は射精のその瞬間に解脱してしまうのではないか。  佐和子さんの躯のなかに僕の白く濁った苛立《いらだ》ちを注ぎこむ。大量に、えげつなく。そのとき佐和子さんはどんな反応を示すのだろうか。あの長身をふるわせて、どんな言葉を口にするのだろうか。  白く濁って生臭い僕の理不尽を膣《ちつ》のなかにいっぱいにされて、どんな声で泣くのだろうか。理不尽で充たされた子宮に無理難題が宿って、まるでトイレで排泄《はいせつ》されるかのように投げ遣《や》りに、凝固した僕の自意識と自尊心がごっちゃになったものが誕生する。  僕のする事なす事、すべてがうまくいかない。僕の充血器官は人並みに硬直して雄々しく振るまうが、じつは絶望的な役立たずだ。  せめて風ぐらい吹かないか。  いや、吹いているんだ。  風は吹いている。  体温と大差のない風が。  不服そうにカーテンが揺れているぜ。  こんなことならば香月さんのたくらみなど無視して、銭湯に行って汗を流すべきだった。それからいつもの居酒屋で酔っ払って、鼾《いびき》をかいて寝てしまえばよかった。 「なにしてるの、吉岡」  名を呼ばれて、僕は唇の端を歪《ゆが》めた。笑ったつもりだ。声の方向を見ずに応《こた》えた。 「センズリだよ、センズリ」 「もう、終わったのか」 「とっくだよ」 「眠っちゃったのか」 「起きてたさ。阪神巨人のゴールドカードに耳を澄ましていたんだ」 「ケツをだして、か」 「そういうこと。よその部屋のテレビのナイター中継の音声だけを聴きながら、オナニーしてケツをしまわない。これが最先端のトレンドだよ」 「吉岡、すっげー、まわりくどい喋《しやべ》りだぞ。解説口調だ。じつは俺に臀を見られたことを恥じているな」  図星だった。ようやく、つくり笑いでない笑いをうかべることができた。僕は横になったまま、くくく……と自嘲《じちよう》気味な笑い声をあげた。 「どうだ、恥じている。そうだろう」 「まあね。でも円町君でよかったな。富樫のバカにでも見られた日には、なにがどう伝わるかわからないからね」 「わかったから、早くしまいなさいって。その蒙古斑《もうこはん》」 「僕って蒙古斑があるのか」 「ある、ある。お子さまのお臀といっしょだな」 「驚いたな。そうか。蒙古斑があったのか。僕は惨めな童貞じゃないか。蒙古斑があるって指摘してくれる異性がいないんだな」 「居直りが強烈だな。どうしたんだよ、うまくいかなかったのか」 「いかなかった。わけのわからないうちに僕の手からすり抜けていってしまって、僕は彼女の面影を手淫《しゆいん》で汚したというわけだ」 「そんなにいい女だったのか」 「そうなんだ。ちょっとずばぬけていたな」 「それで香月の奴、俺を遠ざけたんだな」 「そうだろうな。円町君だって絶対に欲しくなるよ。円町君ならば絶対に欲しがるさ」  僕はだらだらと上体を起こした。円町君が指さした。 「とっととしまいなさいって。その包茎」  いまの僕にとっては、じつは包茎と同じ程度に蒙古斑が気になるのだが、それでも汚れ気味なパンツの前を引きあげて、まず包茎を隠蔽《いんぺい》した。ここで吐息が洩《も》れた。少しは僕も回復しつつあるようだ。  ジーンズを引っぱりあげるのも面倒だ。いいかげんにジッパーを引くと、ボタンは填《は》めずに円町君に向き直った。 「蒙古斑て、でかいのか」 「範囲か」 「そう」 「凄いよ。臀全体をバットで思い切り殴られたのかってところかな」 「一面か」  円町君がじっと僕の眼を覗《のぞ》きこんだ。僕は黙って見つめかえした。円町君はほんとうに猿顔だ。人と猿のあいだに位置する生き物という感じだ。 「あのな」 「なに」 「嘘だよ」 「なにが」 「蒙古斑」 「ないのか」 「ないよ」 「なんだ」 「中肉中背。綺麗《きれい》な臀だよ。つやつやしてて、ちょっとそそられるな」 「臀も中肉中背っていうのかな」 「吉岡は細かい」 「小説家志望が言葉に細かくなかったら、まずいだろう」 「まあな。でも、普段は鈍感なふりをしろよ」  僕は眼を瞠《みは》った。この猿は、ときどき核心をついてくるから侮れない。 「円町君」 「なに」 「訂正しておくことがある。僕は包茎じゃない。仮性包茎だ」 「はいはい」  僕はちいさく笑った。何に対して笑ったのかは自分でもよくわからない。円町君にタバコをねだった。窓際に並んで腰かけて、同時に煙を吐いた。 「吉岡。ジッパーくらい引きあげろよ」 「いいんだ。円町君の前だ。恰好《かつこ》つける必要はない」 「そういう問題じゃないだろう」  僕は視線を落とし、菱《ひし》形にひらいた社会の窓から覗いている汚れたパンツを一瞥《いちべつ》した。脇から円町君も覗いていた。 「円町君はホモの気があるのかな」 「あるな。少しだけだけど」 「おっかないな」 「まあな。でも無理強いはしないって」  他愛のない会話が僕を立ち直らせていく。もし、誰も知り合いのいないワンルームマンションか何かで暮らしていたとしたら、僕はまだ死んだままだっただろう。僕は傍らでタバコを吹かしている円町君の横顔をそっと窺《うかが》った。 「なんだよ。吉岡もホモの気があるのか」 「ちょっとだけ、な」 「ああ……やりたくなってきたな」  咥《くわ》えタバコで、円町君がいきなり両手で股間《こかん》を押さえた。僕はひらきっぱなしの社会の窓をふたたび一瞥した。 「僕はもう射精しちゃったよ」 「オナニーじゃ充《み》たされない」 「そうかな」 「あるいはまったく別の性行為といえばいいのかな。とにかく、充たされない」 「オナニーとセックスは違うか」 「当たり前だろう。セックスには相手がいる」 「そうか。その通りだな」  同意したが、セックスを知らない僕には、その違いがわからない。あくまでも空想するのみで、現実味がない。 「カラオケの録音だっけ。うまくいったのか」 「ああ。おかげで稼がせてもらったけど、カラオケも斜陽だからな」 「そうなのか」 「そうなんだ。一時の勢いはない。最近の若い奴は、カラオケにそれほどのめりこまないんだ。ボックスの中にいると、喋れなくて孤独なんだってさ」 「喋れなくて孤独、か。若い奴らも棄てたもんじゃないな」 「吉岡だって若いじゃねえか」  僕は肩をすくめた。タバコをほぼ根元まで喫った。煙の熱が暑苦しく、いがらっぽい。しばらく沈黙が続いた。そうだ、金はあるのだ。 「飲みにいくか」 「それも、いいな」 「それもいいとは」 「うん。飲みにいくのもいい。でも、それってなんにも変わらないだろう」 「まあ、そうだな」  曖昧《あいまい》に黙りこむと、円町君がいきなり手をのばしてきた。僕は円町君に股間を押さえつけられていた。 「勘弁してくれよ」  苦笑すると、円町君はあっさりと手をはずした。僕の股間を押さえた手の掌の匂いをいいかげんに嗅《か》ぐ仕草をした。 「シャレにならないよ。恥ずかしいし、おっかないぜ」 「よし。吉岡。パンツを穿《は》きかえろ」 「なんで」 「なんでもいい。せめてパンツだけ替えろ」  円町君の口調には有無をいわせぬ不思議な迫力があった。僕は押入をひらき、段ボール箱に詰めたパンツを適当に引っぱりだした。 「だめだ。真新しいのはないか」 「真新しいのは、ない。いちばん新しいのはこのトランクスだ」 「よし。それにしろ」  僕はわけもわからぬまま円町君に背をむけて、新しいパンツを穿いた。背後から円町君が言った。 「単車を借りてきた」 「単車ってオートバイか」 「うん。カワサキのゼファー、ナナハンだ」 「ナナハンか。円町君は運転できるのか」 「失礼なことを言うな。ガシドラの流星とは俺のことだ」 「ガシドラ」 「東山ドライブウェイ」 「ああ……円町君は京都だもんな」 「そういうこと」  円町君に促されて僕は部屋をでた。階段をくだりながら、訊《き》いた。 「なんで円町君は関西弁で喋らないんだ」 「鬱陶《うつとう》しいだろう」 「関西弁は鬱陶しいか」  上がり框《かまち》で丹念に靴|紐《ひも》を結ぶ僕を見おろして、円町君が言った。 「それとおなじくらいに鬱陶しいさ」  僕はかまわず、のんびりとスニーカーの紐を結ぶ。 「京都に帰ったら、関西弁だろう」 「当然だ。俺は郷に入ったら郷に従えだ。そういう主義なんだよ」 「関西人にしては珍しいな。どこに行っても関西人を主張する奴が多いじゃないか」 「うん。それは否定しない。でも俺はいやなんだな、そういうのが。そのかわり」 「そのかわり?」 「生まれ育ったところを芸名にした」 「芸名って、円町っていうのは芸名か」 「そういうこと。俺の出身地だな。西大路と丸太町通りが交差するところが円町だ」 「町名か」 「そう。円町交差点に面したパチンコ屋が俺の実家だよ」  上がり框から立ちあがる。おかげで気分はかなり立ち直っていた。こんど京都に連れていけと言うと、円町君はいいかげんに頷《うなず》き、いくら泊まってもいいぞと付けくわえた。  それから円町君は携帯を取りだし、名刺を見ながらどこかに電話した。下駄箱脇のピンク電話には目もくれない。二名、お願いしますと言っているところをみると、どこかに予約を入れたようだ。 「意外だな。携帯なんか持ってるのか」 「香月には内緒だぞ」 「弱みをひとつ握ったな」 「弱みってほどじゃない。女はあれこれ気をまわす。深読みして、邪推する。思い込みで嫉妬《しつと》されるのはたまらない」  僕は曖昧に頷いた。なるほど、と思いはするのだが、セックスとオナニーの違いと同様に、身をもって、実感として理解しているとは言いがたい。 「円町君。僕は微妙な限界を覚えるよ」 「なんに対して」 「小説に対して」 「大げさだよ。吉岡は童貞を持てあまして過剰反応してるんだ」  僕は口を尖《とが》らせた。円町君が僕の肩に手をおき、軽く押した。僕はどことなく甘えた気分で不服そうな顔をつくったまま、幸荘の裏の路地にまわった。 「ナナハンか」 「ゼファーだ。じつはバリバリの改造車で、エンジンはナナハンじゃない。八〇〇ccになってるんだ。月木の集合管にバックステップだぞ。やっぱカワサキには月木だな」  よくわからないが、真っ黒い車体をした凄《すご》い塊だ。僕が巨大なガソリンタンクを恐るおそる撫《な》でると、円町君が呟《つぶや》いた。 「こういうかたちをしたガソリンタンクをティアドロップって言うんだ」 「ティアドロップ……涙か」 「そう。涙滴型って言うのか。涙の粒が落ちるかたちだな」 「いかにも凶暴そうな面構えなのに、ロマンティックだな」 「ロマンは凶暴さの中に秘められているものなのさ」  柄ではない。僕はわざとらしく円町君の顔をのぞき込んだ。円町君は僕の視線にかなり照れて、俯《うつむ》いた。僕を見ずに言った。 「とっとと乗れ」  ヘルメットはスクーター用の自前だ。少々|心許《こころもと》ない。僕はリアシートを跨《また》いだ。円町君は爪先《つまさき》立ってスタンドを跳ねあげ、オートバイのキーをひねった。後ろで見守っているかぎり、エンジンをかける手順は原付スクーターと大差ないようだ。  いきなり吼《ほ》えた。  その瞬間に僕の睾丸《こうがん》がきゅっと縮んだ。エンジンからだろう、細かな振動が伝わってくる。 「シートベルトなんか掴《つか》んでるんじゃねえよ」 「ど、どこを持てばいいんだ」 「俺の腰に手をまわせ。ただし、あまり密着するなよ。オートバイに男を乗せるのは、あまり愉《たの》しくないんだ」 「排気音ていうのか、凄いな。重低音だ」 「だから月木の集合管だって言っただろう」  いきなり、動いた。  ぐい、と動いた。  進んだ。前に進んだ。  前に走るのは当たり前のことなのに、僕は引き攣《つ》れを起こしそうなほど昂奮《こうふん》を覚えていた。まず、躯《からだ》全体が剥《む》きだしなこと。風が当たるというか、空気がぶつかってくること。そして、加速の底力。  僕の愛車である原付スクーターは当然のこととして、自動車ともあきらかに違う、脳|味噌《みそ》が後ろに取りのこされて片寄ってしまいそうな途轍《とてつ》もない加速をする。その重力変化は尋常ではない。僕は対処できず必死で円町君にしがみついた。  五日市街道をしばらく行って、信号待ちで円町君が言った。 「吉岡。すっげー気持ち悪いんだよ。ちょっと離れろ」 「なんだよ、円町君はホモじゃなかったのか」 「まあな。吉岡は好みじゃないんだ」 「うるせえ。僕だって円町君なんか好みじゃねえよ」  ふてくされて僕は臀《しり》をだらだらと後ろにずらす。すると円町君は発進のときにわざと急加速をする。リヤタイヤがあまりのパワーに空転するのが臀に伝わってくる。オートバイは蛇行しながら、あっさりと時速百キロを超えてしまう。僕は昂奮と恐怖に円町君にしがみつく。すぐに赤信号だ。急ブレーキだ。すると重心が前に移動して、ますます僕と円町君はきつく密着する。すると円町君がパターン化した嫌みを言う。  その繰りかえしに飽きたころ、オートバイは青梅《おうめ》街道に入っていた。僕は頭のなかでルートを整理した。  五日市街道から吉祥寺通りに入って、すぐに女子大通り、そして青梅街道だ。原付スクーターでどこにでも行く僕は、道には詳しいのだ。  四面道《しめんどう》を抜けたあたりで飽きたのだろう、さすがに円町君も常識的な運転をするようになった。  とはいえ信号待ちではなりふりかまわず、ときに歩道を進んだりしてまでして、いちばん先頭にでる。そして信号が青に変わると同時に急加速をしてタイヤを軋《きし》ませて飛びだすことにはかわりない。ただ、走行中にかろうじて会話が成りたつほどの速度、時速七十キロあたりを上限に流すようになった。 「いったいどこに行くんだ」  僕が尋ねると、円町君は醒《さ》めた声で、新宿と答えた。前方の信号が赤だ。円町君はなめらかに減速し、思い出したように付けくわえた。 「バルボーナに行く」 「高級そうな飲み屋だな」 「飲み屋じゃない」 「じゃあ、なんだ」 「ソープ」 「ソープ」  鸚鵡《おうむ》返しに繰り返して、ハッとした。緊張した。得体の知れない緊張だ。唐突にエンジンから噎《む》せかえるような熱気が迫《せ》りあがってくるのが意識された。  なにか言わなければ。  焦りを覚えた。  しかし、言葉がでないのだ。  僕は円町君の腰にまわした手の掌にじっとりと汗をかいていることだけを意識した。 「どうした。急に黙りこんで」 「うん」 「煮えきらねえな」 「いや、なんというか、僕は知らないから」 「ソープか」 「うん。ソープもなにも、女性自体を知らない」 「だから、こうしてソープに行くわけじゃないか」 「いや、いきなりなんでな、硬くなっちゃってるんだ」 「どれどれ」  言いながら、円町君が腰を後ろにずらしてきた。臀を突きだすようにして僕の股間《こかん》をさぐる。 「なんだよ。ふにゃちんじゃねえか」 「いや、そこの硬さじゃなくてね、精神的というか、なんというか、まあ、その、なんですか」 「なにをしどろもどろになってはるねん」  僕は答えを返せなかった。顔に血が昇るのを感じた。しかし、血の気はすぐにひいていった。のぼせたかと思ったら、冷えきっている。これは相当に狼狽《ろうばい》し、緊張しているのだろう。そんな具合に、他人事《ひとごと》のように自分の状態を判断した。 「よし」 「どうした」 「円町君。肚《はら》を決めたよ」 「よろしい。吉岡はまな板の鯉になりなさい。すべてをおまかせすれば、未来はひらけるのです」 「そういえば、むかし、こんなんでましたけど、とか言う関西の占いのおばちゃんがテレビにでてたよな」 「どうした、いきなり」 「円町君の口調があのおばさんにどことなく似ていた」 「紫色の御高祖頭巾《おこそずきん》をかぶってたおばちゃんだろう」 「おこそずきん?」 「そう。あのおばちゃんがかぶってただろう、時代劇の登場人物みたいな頭巾を」 「かぶってた、かぶってた。インパクトあったなあ、あのおばちゃん。正直に告白するけど、僕はあのおばちゃんに微妙な色気を感じていました」 「ははは。確かに妙な色気があったな。それはともかく、だ。御高祖頭巾というのは、関西人にとって、ちょっと語感が危ない」 「なんのこと」 「御高祖とおそそ、似てるじゃないか」 「おこそ、と、おそそ」 「そう。京都ではおめこのことをおそそって言うんだ」 「ひえー、おめこぼしを」 「なに言うてはるの」 「吉本風ギャグ。笑うに笑えないから、とりあえず笑うしかない」 「吉岡は関西人を舐《な》めとるな」 「そんな、そんな。ほら、ごらんよ。あの夜空を。アソコに輝くのがおめこ星、なんちゃって」  アクセルをあけながら、円町君が揺れる。笑っているのだ。僕もなんだかほぐれてしまって、しかし普段とはあきらかに違って軽口や冗談ばかりを口ばしっている。  一見他愛ないやりとりをしているのだが、僕に限っていえばやはり正常ではない。僕は唐突な躁《そう》状態に支配されていた。  ゼファーが神田川をわたった。眼前に新宿副都心の高層ビル群がのしかかるように迫ってきた。  四十四階建てのアイランドタワー、五十階建ての野村ビル、四十三階建ての安田火災ビル。おのぼりさんのようにいちいち確認して円町君にうるさがられ、僕はようやく躁状態を抑えこむことができた。  ところが、こんどは少々|鬱《ふさ》いだような状態で、僕自身がそんな波だって落ち着かない気持ちの変化を持てあました。  じっと黙りこんでいると、円町君がいきなりゼファーのクラッチを握ってギアを抜き、エンジンを空吹かしした。  背後から覗《のぞ》きこんでいた僕の眼前で、回転計の針がレッドゾーンまで跳ねあがった。月木の集合管とやらに替えてあるので、とてつもない爆音がビルの谷間に轟《とどろ》いた。 「新宿署の皆様方に御挨拶《ごあいさつ》だよ」  確か野村ビルの手前に新宿署のビルがあったはずだ。しかし僕は背の低い警察署の建物のことを全く意識していなかった。 「逮捕されちゃうぞ」 「そりゃ、困る。やってから逮捕してくれ。逮捕は中出し後、なんちゃって」 「中出しって……直接か」 「女の子によるんじゃないの。俺が予約した子は、ナマでOKだよ。もっともプロの世界では、いまはナマでやらせる女の子はへってるな。ナマでもいいっていうのは、どっちかというと素人の子だし、病気持ちも素人娘が多いから怖い世の中です」      6  ゼファーが新宿大ガード下に飛びこんだ。右側にホームレスがつくったかなり大きな段ボールの家があった。ガード下は排ガスがこもりそうだし、電車の走行音がさぞうるさいことだろう。しかし雨をしのげることのほうが優先されているらしい。  ガードを抜けると、いきなり左折した。西武新宿方面だ。どこまで行くのかと身構えていたら、あっさり新宿プリンスホテルの向かいの歩道に乗りあげ、エンジンを切り、僕に降りるように言うと、円町君はマクドナルドの近くまでゼファーを押した。 「一方通行なんだ」 「こんなところに停めてどうするの」 「この近くなんだ、バルボーナは。名門中の名門だぞ。なんと大リーグで活躍中の××御用達《ごようたし》だ」  円町君はパリーグにいた有名な投手の名前をあげた。常連だったという。 「なんでそんなことを知ってるんだ」 「女の子が言ってた。俺は××と兄弟なんだよ」 「あまりうれしくないね、その兄弟」 「吉岡はファンじゃないのか」 「うーん、ファンだったとしても、なんか嫌じゃないか。知ってる人と兄弟なんて」 「だいじょうぶ。××は俺のことなんて知りはしないさ」  なるほど。僕は微笑した。緊張がないといったら嘘になるが、とりあえずは現実感がない。だいたいこんなところにソープがあるのだろうか。  円町君に従って路地に入った。脇に抱えたヘルメットに微妙な違和感を覚えている。 「なあ、吉岡。ソープ選びの基準のひとつだが」 「うん」 「マスコミ取材、一切お断りのところがいいんだな」 「なぜ」 「親ばれとかを嫌って、内緒で働く女の子っているわけじゃないか。彼女たちにしてみれば、マスコミに登場するのは、ありがたくない」 「だから?」 「だからな、綺麗《きれい》で擦れてない女の子がいるってわけだよ」 「なんで」 「なんでって、吉岡は鈍すぎるぜ」  円町君は口を噤《つぐ》んでしまった。僕は曖昧《あいまい》に追従の笑いをうかべたが、円町君は気づいていないみたいだ。卑屈に付き従う僕にむかって円町君が顎《あご》をしゃくった。僕はその方向を一瞥《いちべつ》して小首をかしげた。そのビルの入り口には、背の高い観葉植物があるだけだ。  ここか、と眼で問うと、円町君が頷《うなず》いた。そっと僕の肩に手をまわし、フロア内に入るように促された。観葉植物の陰まで進むと、エレベーターがあった。なるほど、背の高い観葉植物は目隠しの役目をしているのだ。  ちいさなエレベーターだ。円町君が六階のボタンを押した。僕は咽仏《のどぼとけ》をぎこちなく上下させた。さすがに掌が汗まみれだ。そんな僕の状態を察したのか、円町君が声をかけてきた。 「ときどき七階まで行っちゃうんだ」 「なぜ」 「押しまちがえて。七階は使い終わったバスタオルとかが山積みでさ、べつに恥ずかしがることもないんだけど、苦笑いなんかして一階さがるわけだ」 「ときどき七階まで行くって言ったよな」 「ああ」 「ということは、よく来るのか」 「まあな。稼いだときには、な」  そこでエレベーターのドアがひらいたので、会話は終わった。玄関といっていいのだろうか、あまり広くない。先を行く円町君が靴を脱いだので、僕も腰をまげてスニーカーの紐《ひも》をほどいた。  頭の上に、いらっしゃいませという男の声が降ってきた。僕は顔をあげることができず、円町君の背だけを見つめていた。  円町君が映画館の切符売り場のような一角の前に立った。中にいる若い男が毎度ありがとうございますと円町君に頬笑みをむけた。なるほど、常連らしい。 「お連れの方、女の子のご予約は」 「うん、まかせるよ。初めてなんだ。いい子をつけてあげてよ。絶対にリピーターになると思うんだ」 「承知いたしました。料金はご一緒で」 「ああ、かまわない」 「そういたしますと十二万六千円でございます」  緊張しきっていた僕だが、十二万六千円という金額は聞き漏らさなかった。だが、現実味はなかった。しかし円町君は実際に札を数えはじめて十三枚の一万円札を差しだし、四千円のつりを受けとった。  ドアではなく、赤い天鵞絨《ビロード》のカーテンのさがった応接室に案内された。ボーイが片膝《かたひざ》をついてオシボリを差しだし、飲み物の注文を訊《き》いた。  円町君がウーロン茶とひとこと言った。僕も精一杯の笑顔をつくってウーロン茶と言った。ボーイが出ていってから、声をひそめて尋ねた。 「ふたりで十二万六千円というと、ひとりあたり六万三千円か」 「気にするな。おごりだ」 「気にするなって言ったって……」 「いいんだよ。俺は吉岡におごることで優越感を買ったんだから、気にすることはない」 「しかし金額があんまりだ」 「もし、吉岡にあぶく銭がはいることがあったら、そのときにおごりかえしてくれればいい」  あまりくどくやりあうのも失礼な気がした。だから僕はすまん、と頭をさげ、黙った。運ばれてきたウーロン茶をほとんど意識せずに飲みほしていた。  円町君がサービスのタバコを咥《くわ》え、ソファーにふんぞりかえって、ざっとソープのシステムを説明してくれた。  たいがいの店は入浴料を店に払い、サービス料を女の子に直接わたすのだが、この店は全額をカウンターで支払ってしまうとのことだ。サービス料は入浴料の二倍が相場で、つまり入浴料を三倍にしたものが総額ということになるそうだ。  新宿には金額的にこのクラスの、いわゆる高級ソープがもう一軒あり、そこは在籍している女の子が直接客の前に並んで、好きな子を選ぶことができる顔見せシステムになっているという。 「選べるほうがいいんじゃないのか」  合いの手を入れた僕の声は微妙にうわずっていた。しかし円町君は気にせずに答えた。 「うーん、なんていうのかなあ。人買いになったような気分でな、俺はあまり好きじゃないんだ。それと女の子の質は、ここがいちばんだよ」 「おまかせでも、はずれないのか」 「絶対、はないけどさ、まあ、間違いなく十人並み以上の女の子が相手をしてくれる。この十人並み以上っていうのが、風俗ではなかなかに難しい条件でな。これをクリアしている店って、まずないんだ。安い適当な店に入ると、金を払って修行しているような情況になっちゃうわけ。ほとんど苦行の世界だよ。街でナンパするとしたら絶対に声をかけないような女と、金を払ってやるってんだから、たいした修行だよね」 「つまり、絶対に、やりたくない女と我慢してやるってわけだ」 「そういうこと。金を払っちゃってるから逃げるに逃げられないんだな。貧乏人根性って言われればそれまでだけど、そこで自分の好みや趣味を貫徹して、相手の女とやらないで出てきたりしちゃったら、その女の全人格を否定したような、なんともいえない罪悪感を覚えそうで、無視できないのかもしれない。そんな気分でもあるんだな」  意外に深みのある円町君の言葉だ。なるほど。金を払っているからこそ、趣味でない相手を抱く。抱かなければならない。  どうやら金を払うということの本質は、単純に売り買いをするということだけに終わらないらしい。まして売春。女の肉体を買うことは、相手の自尊心までをも買うことなのかもしれない。  そこで相手の感情など忖度《そんたく》せずに、嫌なものは嫌であると告げる性根が、僕にも円町君にもないようだ。これはいいことなのだろうか。それとも気が弱いから恰好《かつこう》をつけているだけなのだろうか。  一概にいえないところがじつに難しい。とにかく相手が物でない場合、買うということにも責任がついてまわるらしい。金を払ったからといって必ずしも優位に立てるわけでもないらしいのだ。僕が考えこんでいると、円町君がおどけた声をあげた。 「資本主義の論理がもっとも如実にあらわれているのがソープじゃないかな。つまり満足は金で買えるんだが、それなりの額が必要だってこと。安上がりにすまそうとすると、結局は高くつくってわけだ」 「相手の自尊心|云々《うんぬん》といった葛藤《かつとう》までついてまわっちゃうみたいだしね」 「自尊心云々ときたか。大きくでたな。でも、ほんとうに人間相手に金を遣うってのは難しいぞ。俺は確かにおまえにここの代金をおごった。いい気になるなって怒られるかもしれないけど、でも、なんだか申し訳ないような気分になってるんだな」 「それは考えすぎじゃないか」 「いや、そんなことはない。相手になにかをしてやるってのは、じつに難しいことだ。俺にも吉岡にも、いつだって自尊心ってやつがついてまわるからな」  タバコを灰皿に押しつけながら、円町君は考え深げな眼差《まなざ》しで俯《うつむ》きかげんだ。僕がじっと見守っていると、表情を変えて言った。 「それはそうとな、この店には年齢制限があって二十六以上の姐《ねえ》ちゃんは池袋の姉妹店にまわされるそうなんだ。つまりお母さんとやる恐怖を味わわなくてすむ」 「それは、ありがたい」  おどけかえしたところで、カーテンが揺れた。ふたたびボーイが片膝をついて上目遣いだ。 「ご予約のお客様、どうぞ」  円町君が頷《うなず》いて、立ちあがった。僕は狼狽《ろうばい》した。それをなんとかごまかしてソファーに深く座りなおした。円町君は僕にむけてかるくウインクをすると、でていった。  取りのこされた僕は、思わず貧乏揺すりをしそうになって、あわてて揺れかけた膝頭を手で押さえた。そこへ新たな客が入ってきた。身なりのしっかりとした中年男だ。僕のほうを見ようとしない。  男は仏頂面をしてスーツのポケットから取りだした書類らしきものに眼をとおしている。手持ちぶさたと緊張が綯《な》いまぜになった複雑な気分をもてあました僕は、週刊誌を手にとった。  頭上のテレビからは九時のNHKニュースの音声が降ってくる。ソープにNHK。なんだか似合わない取り合わせだ。  僕は週刊誌のページを気もそぞろに繰っていき、数日前にコンビニで立ち読みしたものであることに気づいた。しかし、週刊誌をべつのものに替える気にはなれなかった。普段はいいかげんに斜め読みする政治関係の記事を丹念に読んだ。空気が揺れた。 「ご予約のお客様、どうぞ」  思わず顔をあげたが、ボーイは僕の顔ではなく眉間《みけん》に縦皺《たてじわ》を刻んで仏頂面をして書類を見ていた中年男をむいていた。  ふたたび取りのこされて、僕は心細さにますます居たたまれなくなった。誰もいないのをいいことに派手に貧乏揺すりをした。それこそ指でもしゃぶりたい気分だ。  ソファーを移って、テレビのニュースに視線を据えたときだ。ちいさな咳《せき》払いが聴こえた。ボーイが作り笑いをうかべて囁《ささや》くような声で言った。 「お待たせいたしました。玲奈《れいな》さんです」  僕は、 「はい」  と昂《たか》ぶった声で返事をかえし、ぎくしゃくとした動きで立ちあがった。足がもつれそうだ。僕の顔にはさぞや間抜けな苦笑いがうかんでいることだろう。  応接室からでると中肉中背の女性が深々と頭をさげていた。  なぜか僕から顔を隠すようにしているので、その表情は判然としない。  顔が見えないことをいいことに、僕は観察した。玲奈さんは躯《からだ》にぴったりと密着したボディスーツを着て、かなり踵《かかと》の高いハイヒールを履いている。  こちらです、と声をかけられて、玲奈さんの後に従った。第一印象は中肉中背だったが、背後からその姿を観察すると、見事なスタイルだ。腰のくびれが見事だ。 「ずいぶん綺麗《きれい》なスタイルですね」  緊張、そして意思と無関係にそんな言葉がすらすらと口をついてでて、僕は少々|愕然《がくぜん》とした。玲奈さんは階段をおりるように促しながら僕のほうを振りかえった。 「エステにはかなりお金を遣っているんですよ。効果、ありますか」 「抜群ですよ。でも、素質でしょうね。もって生まれたものかなあ」  玲奈さんが頬笑んだ。調子のいい男だと思っているのかもしれない。  僕は自分が自分でないような不思議な気分に支配されていた。今ならどんな歯の浮くような科白《せりふ》でも口ばしることができそうだ。  くぐつ草で佐和子さんと会ったときにも、調子のいい科白が口をついてでたのを思い返した。  確か、科白だけ聴いてるとラテン系のプレイボーイみたい、と佐和子さんに言われた。僕は追いつめられると、口が軽くなって図々《ずうずう》しくなるのかもしれない。  緋色《ひいろ》をした絨毯《じゆうたん》の敷きつめられた階段をくだっていく。かなり湿気がきつい。もともとが蒸し風呂屋《ぶろや》だから当然か。そんなことを漠然と思いながら、先を行く玲奈さんの顔の造形を反芻《はんすう》していた。  佐和子さんの美貌《びぼう》とは質が違うが、かなりの美人だ。どちらかというと和風美人の範疇《はんちゆう》だろう。しかし、その抜群なスタイルが和風な表情を裏切っていて、不思議な色香がある。童貞の僕にも理解できる色気だ。  個室の並ぶ廊下を行く。女性の喘《あえ》ぎ声が聴こえてきて、僕は一瞬立ちどまってしまった。玲奈さんが振りかえった。彼女の顔にも憤ったような照れがあらわれていた。  結局は無言のまま、進んだ。玲奈さんがいちばん奥まった部屋のドアをひらいた。吸いこまれるように室内にあがろうとしたときだ。玲奈さんが苦笑した。 「スリッパはそこで」 「あっ、申し訳ありません」  玲奈さんが頷いた。僕はあわてて玲奈さんの脱いだハイヒールの脇にスリッパをおいて室内にあがった。玲奈さんがベッドを眼で示した。座れということらしい。  僕は焦り気味に腰をおろした。幽《かす》かにベッドが軋《きし》んだ。玲奈さんが僕の前に跪《ひざまず》いた。僕は彼女のつむじをぼんやりと眺めていた。細く頼りない髪をしている。 「裸足《はだし》のほうがリラックスできるでしょう」 「ああ、まあ、そうですね」  そんなやりとりをしていると、玲奈さんが手を伸ばしてきた。僕のソックスに手をかけた。僕はあわてた。 「いいですよ。自分で脱ぎます。なにしろバイトから帰って替えてないので臭いです」 「気になさらないでください」  玲奈さんが小首をかしげて呟《つぶや》き、僕は彼女の手で靴下を脱がされた。僕の足は玲奈さんの手のなかにあった。 「アルバイト」 「はい。建設現場というか、イベントのすごく大きなテントを設営する仕事です」  玲奈さんの手指はひどく冷たい。その指が僕の足裏をさぐり、指圧しはじめた。土踏まずをかなり強く押された。僕はかるく仰《の》け反り気味になって、呻《うめ》き声をあげた。 「痛いですか」 「いや、気持ちいい……」 「ここ、効くんですよね。立ちっぱなしの仕事には、このツボですよ」  僕はよだれを垂らしそうな心地よさに身悶《みもだ》えしていた。玲奈さんの指には意外なほどの力があり、まさにツボなのだろう、僕は彼女の指に完全に支配されているかのような気分だ。  右足、左足と指圧されて、玲奈さんが悪戯《いたずら》っぽい眼差しを僕にむけた。 「じゃ、こんどは真ん中の足」  囁き声で言うと、僕の穿《は》いているジーンズのジッパーに手をかけてきた。僕は狼狽し、逃げ腰になって声をあげた。 「ちょっとまってください」 「なにか、問題でもありますか」  相変わらず玲奈さんは悪戯っぽい眼差しだ。僕は哀願の口調で言った。 「問題あり、です。いきなりなんて」 「いやですか」 「いや、そんなことはないけど」 「じゃ、問題なし、じゃないですか」 「問題ありですよ! 僕は初めてなんです。こういうものなんですか」 「こういうものって言えば、言えるかなあ。誰にでもするわけじゃないけど」  結局は、僕は玲奈さんにすべて脱がされてしまい、完全に露《あら》わにされて、愛撫《あいぶ》されていた。僕の意思とは無関係に育ちきって、猛々《たけだけ》しい。なんだか不気味でもあり、滑稽《こつけい》にもみえる。  やがて玲奈さんは僕の余剰を剥《む》いて反転させ、あまり大気に触れることのないその本体を一瞥《いちべつ》し、わずかに顔を顰《しか》めた。 「だからやめてくれって言ったじゃないか」  僕は羞恥《しゆうち》に居たたまれず、声を荒らげていた。先ほどからずっと汚れているから勘弁してくれと哀願していたのだ。  玲奈さんは頷《うなず》き、僕に背をむけた。まず僕の着衣を大雑把にたたんで籠《かご》にいれた。それからあっさりとボディスーツを脱ぎ、下着を脱いだ。自分自身の着衣はたたまずに、いいかげんに丸めて、僕を見つめ、小首をかしげて一緒にお風呂に入りましょうと囁《ささや》いてきた。  恥ずかしさと怒りが混じりあって複雑な思いではあったが、それよりも玲奈さんの裸体のほうに意識がいってしまい、羞恥も憤りも中途半端なまま凋《しぼ》んでいってしまった。  玲奈さんの乳房は外から想像しているよりもちいさかった。少しだけ裏切られたような気分だ。もちろんそれを顔にださないように意識した。  ようやく気持ちが鎮まってきた。  なにしろいきなり足裏を指圧され、さらに真ん中の足にアプローチされて全裸にされてしまったのだ。一段落して、室内を冷静に観察する余裕がでてきた。  風呂場とベッドルームが連続した奇妙な部屋だ。左奥にくすんだ紅色をした大きな浴槽が据えてあり、湯があふれていた。玲奈さんが腰を折り、湯加減をみている。右側に据えてあるのは使われることのない所謂《いわゆる》トルコ風呂だろう。  その蒸し風呂の脇に銀色をした巨大なマットが立てかけてある。真ん中がえぐられた金色をしたイスが、噂にきいたスケベイスだ。なんとも垢抜《あかぬ》けない色彩の羅列だ。 「熱めが好き? それともぬるいほう」 「ああ、熱いのが好きです」  僕が応《こた》えると、玲奈さんは独白するような調子で呟いた。 「あまり熱いとのぼせちゃうよね」  それから僕のほうをむき、手招きした。滑るから、と注意されて、僕はタイルの上に進んだ。  足裏に冷たい感触を受けることを予測していたのだが、床暖房でも仕込まれているかのように生暖かい。僕がスケベイスを一瞥すると、玲奈さんは顔を顰めた。 「バカみたいよね、この露骨なかたち」 「醒《さ》めて見ちゃうと、ちょっと笑えますね」 「一緒に入ろうか。お湯のなかで洗ってあげる」  促されて僕は浴槽のなかに躯を沈めた。決して緊張が失《う》せたわけではない。しかし、いかにも風呂に入っているという顔をつくって大きく伸びなどしてみせた。  玲奈さんが浴槽の縁をまたいだ。足を湯に差しいれる瞬間に、下腹の翳《かげ》りが幽かに拡がって、なにやら曖昧《あいまい》とした色彩が覗《のぞ》けた。僕は息苦しくなって、横をむいた。  僕と玲奈さんは向かいあって湯のなかに躯を沈めた。玲奈さんが僕の下に足を差しいれてきたので、僕の胴体は玲奈さんの足の上で浮かびあがるかたちになった。  玲奈さんの手が伸び、湯のなかで僕のその部分が丹念に洗われた。僕は過敏な部分を指先でこすられて、だらしなく身悶えをした。  やがて玲奈さんの膝《ひざ》がくの字に折りまげられ、僕の腰を完全に持ちあげた。湯のなかで軽くなっているとはいえ、女性に躯《からだ》を持ちあげられることにはどことなく抵抗があった。  しかし、そんなことよりも湯から露出した硬直を玲奈さんが口に含んでしまったので、もう僕は逆らえず、言葉も失っていた。  いつのまにやら玲奈さんは髪を頭の上にまとめていた。その頭が上下する。僕は彼女に含まれて、完全に自由を奪われたと感じた。  すぐに兆してしまった。  あわてて玲奈さんの頭を押さえた。  眼をあげて玲奈さんが僕の顔を一瞥した。  僕は首を左右に振って窮状を訴えた。  すると玲奈さんは咽《のど》の奥にまで僕を飲みこんで、じわじわと頭を上下させたのだ。  僕は完全に我を失い、玲奈さんの口の中で爆《は》ぜていた。玲奈さんは僕が悶えているのに許してくれなかった。さらに口唇を使いつづけ、とことん爆ぜさせ、絞りとった。  どうにか僕が痙攣《けいれん》を抑えこむと、玲奈さんはやっと解放してくれた。顔を浴槽の外にむけて、そっと僕の放った白濁を口から吐きだした。僕はまだ我を失っていて、しかし自分の思い通りにならない不能感とでもいうべき不自由な感覚を率直に受けいれていた。  玲奈さんが顔をむけた。僕は頷いた。震え声でかろうじて呟いた。 「凄《すご》い」 「よかった?」 「よかったなんてもんじゃなくて、凄かった」 「どう、凄いの」  僕は咳《せき》払いした。照れを隠して率直に言った。 「オナニーだと加減するじゃないですか。いきそうになったら手心をくわえるとか。微妙に手加減する」 「手心、くわえるんだ」 「くわえます。なんていうのかな。自分でコントロールしているわけですよ」 「ああ、そういうことね」 「そうなんです。良くも悪くも自分の自由自在ってところがありますよね。僕が住んでるのは、傾きかけたすっげーボロアパートなんですけど、いくときに隣に変な声が聴こえちゃったりしたらやばいじゃないですか。恰好《かつこう》がつかないというか。で、けっこう加減するんですよね」  玲奈さんが含み笑いを洩《も》らして浴槽からでた。僕に背をむける。どうやら口をすすいでいるようだ。茶色い液体の幽《かす》かな消毒臭がした。僕は湯のなかでリラックスして、つづける。 「玲奈さんにされて驚きましたよ。自由にならないんですから。僕の意思とは無関係に玲奈さんが、こう、アレをしちゃうわけでしょう。その不自由さがたまらなかった。不自由なのが気持ちいいんですよ。思わず声がでちゃいました」 「それってね」 「はい」 「いつも女が感じてることなんだよね」 「女が感じている」 「そう。誰でもってわけじゃないけどさ、いいなあって思ってる人。好きな男の人に抱かれるでしょ。で、彼にリードされちゃうわけじゃない。そういうときって、あたしの思いこみやら期待なんて簡単にはぐらかされちゃうの。どこに運ばれるかわかんないのね。そのうち、むちゃくちゃにして……って感じかな。あたしの意思とかと無関係に気持ちよくなっちゃってさ、もう、ぼろぼろ」 「その、ぼろぼろって感じは、気持ちいいんですか。それとも」 「いいとこ突いてくるわね」 「そうですか。で、どうなんですか」 「ノーコメント」  声は明るい調子だったが、振りむいた玲奈さんの顔にはなんともいえない複雑な影があった。その瞳《ひとみ》は、気持ちいいから始末に負えないんだよね、と訴えているようだった。  いきなり男と女の深くて冥《くら》い淵《ふち》を覗きこんだような気分になった。玲奈さんと視線が絡んだ。玲奈さんの唇がなにか言いたげに動いた。しかし言葉は発せられなかった。  気が変わって喋《しやべ》るのをやめたというのではなく、言葉が見つからなかった。そんな感じだった。  小説家志望としてはいささか癪《しやく》だが、こういったことを言葉のみで突き詰めるのは難しいだろう。  これを表現できるのは、ある間のようなものだけだ、という直感がはたらいた。書かずにあらわす。僕は湯面を軽く指先で弾《はじ》いて、態度を曖昧なものにした。  玲奈さんはふたたび背をむけて、こんどは壁に立てかけてある銀色をした巨大なマットにとりついた。マットがタイルのうえに横たえられ、その瞬間に室内の湿りきった空気が乱れた。  僕はそれを漠然と眺めていたが、ようやくそれがマットプレイとやらの準備であることを悟った。 「すみません」 「なに」 「それ、やめましょうよ」  怪《け》訝げんそうに玲奈さんが見つめた。僕はなにを口にしていいかわからず、戸惑った。とにかくマットプレイの詳細がわからないままに拒絶の気持ちが抑えられなかったのだ。 「あの、僕、こういう場所も初めてなら、じつは女性とこうすること自体も、その、なんていいますか」  エアマットに片手をついたまま、玲奈さんが見あげている。僕は下腹に力をいれて、言った。 「童貞なんです」  自分でも思いもしなかった大声だった。玲奈さんは黙って見つめている。僕は羞恥《しゆうち》と湯のぼせで真っ赤になり、弾けそうな心臓の鼓動を意識しながら、つづけた。 「もし、可能であるならば、ふつうの男女がするようなことを、その、なんていいますか、一方的なサービスではなくて、それって、女性から一方的なサービスを受けるわけでしょう」 「そうよ」 「それ、なんだか悲しいです」 「みんな、してもらいたがるんだけどな」 「そうですか。でも、僕は、初めてなので、もっと、ふつうの関係を」 「いいよ。あたしはそのほうがずっと楽だから」 「利害が一致しましたね」 「お客さんて、なんだか喋りが硬いっていうか、小難しいね」 「すみません。そういう性格なんです」  小説家を志しているせいかもしれない、などとは口が裂けても言えなかった。なぜか強烈な規制がはたらくのだ。それの大部分は得も言われぬ恥ずかしさだった。小説を書くことは恥ずかしいことなのだろうか。  僕が考えこんでいると、玲奈さんは黙ってエアマットを壁に立てかけなおした。  いままで僕は、わりと平気で小説を書いています、などと口ばしってきた。得意がっていたとさえいえる。  ところが、いま、それを口にすることになんともいえない躊躇《ためら》いを覚えるのだ。恰好をつけているわけではない。強いていえば玲奈さんの裸体を見守っているうちに、小説を書くということが、なんとも浅ましく卑しい職業に感じられたのだ。  しかも僕はその賤業《せんぎよう》を生業《なりわい》としているわけではない。せいぜいが小説家の卵といったところ、それも孵《かえ》るかどうかわからないという不安定さだ。 「のぼせてない」  問いかけられて、僕はあわてて頷《うなず》いた。かなり、のぼせていた。玲奈さんが手招きした。僕は浴槽から勢いよくでた。  玲奈さんがまず僕の背後にまわって、それから床に膝をついて、僕の全身を丹念に拭《ふ》いてくれた。  跪《ひざまず》いた彼女の太腿《ふともも》のうえに足を載せるように言われた。恐るおそる載せると、足指の股《また》にまでバスタオルの端が挿しいれられて、清められた。 「そんなことまでさせちゃって」  僕が呟《つぶや》くと、しばらく間をおいて、玲奈さんは笑った。 「みんなお客さんみたいな人だったら、凄《すご》く楽なんだけどな」  僕も玲奈さんにあわせて笑いかえした。なにが可笑《おか》しいのかは判然としないが、玲奈さんの笑顔は素敵だった。だからそれに染まることにしたのだった。  そっと玲奈さんが密着してきた。胸が僕の背に触れ、その手が肩にかけられていた。最初に僕の足裏を指圧してくれたときは凍えるほど冷たかったのだが、お湯を扱ったせいかだいぶましになっていた。もっとも、それでも、かなり冷たい。 「さあ、ベッドに行こうよ」 「はい」 「いい御返事ね」 「はい」 「硬くならないで。硬くするのは、そこだけでいいの」  言ってから、玲奈さんは自分を指してオヤジギャグと呟き、自嘲《じちよう》した。僕は苦笑した。玲奈さんの指摘どおり、僕は、もう充分に育ちきっていたのだ。  僕は自分の野放図さに呆《あき》れていた。くたびれはててアルバイトから帰り、佐和子さんにふられて自棄《やけ》気味に自慰をし、先ほど玲奈さんに口で爆《は》ぜさせられた。それなのに——。  ベッドはセミダブルといったサイズだろうか。僕と玲奈さんは並んで座った。ぎこちなく固まっていると玲奈さんが尋ねてきた。 「なにか、飲む」 「はあ」 「あたし、咽《のど》が渇いちゃったの。コーラが飲みたいな」 「じゃあ僕もコーラ」  玲奈さんは頷くと、壁の受話器をとり、コーラふたつと短く声をあげ、タバコを喫ってもいいかと訊《き》いてきた。僕は玲奈さんから一本もらって火をつけてもらった。 「時間はだいじょうぶだから、ゆっくりしてね」 「ここ、友達のおごりなんですよ」 「いいお友達ね。どんな人」 「ああ、猿です。猿。ギターを弾く猿」 「ひどいことを言うのね」 「ははは。オートバイも運転する猿です」  僕は面白可笑しく円町君のことを喋った。音楽家志望の猿にすぎないと思っていたのだが、現実にはプロの音楽家だった。そのおかげで僕はこうして玲奈さんに奉仕されていい気分だし、なによりも香月さんの言うことが事実ならば将来を嘱望されていたジャズギタリストであったのだ。  それなのにブルースをやりたいとかで仕事を選ぶようになったという。その結果が幸荘暮らしである。世の中はバカばかり、と言った気分になりがちな僕であるが、人は侮れないものだ。  円町君は不思議な男だ。幸荘で知りあってそれなりに付きあってきたのだが、本人は過去にきちっと音楽家としての仕事をしてきたことなどおくびにも出さなかった。どちらかといえば阿呆《あほう》な面ばかりを僕にみせた。  香月さんが口ばしったから、僕は円町君がただの猿でないことを知ったのだが、すこし恰好《かつこう》よすぎはしないか。せいぜい僕も、自分が小説家を志しているなどと軽々しく口にしないだけの節操をもとう。  ドアがちいさくノックされた。僕はわずかに身構えたが、なにも起きない。玲奈さんが立ちあがり、そっとドアをひらいた。廊下に銀の盆が置かれ、その上にコーラの入ったグラスがふたつ載っていた。  僕と玲奈さんはコーラで乾杯した。湯のなかでのぼせたせいか、コーラの炭酸が咽に沁《し》みた。干涸《ひか》らびきった咽の皺《しわ》がじわじわと解《ほぐ》れていく。  コーラのグラスをおいた玲奈さんがちいさく吐息を洩《も》らした。その横顔にはなんともいえない疲労が浮かびあがっていた。おそらくは、僕が今日最後の客なのだろう。そんな直感がはたらいた。  異性とのセックスを知らない僕があれこれ考えるのも噴飯ものではあるが、たとえば自慰をしただけでもぐったりと疲れることがあるのだ。  見ず知らずの男の相手をし、そればかりか肌をあわせる玲奈さんの疲労は凄《すさ》まじいものがあるのではないか。僕など満員電車で他人の躯《からだ》が触れることさえ嫌悪するほどだ。だが玲奈さんのストレスはそんなものの比ではないだろう。  ベッドの向かいのボックスの上の、ちいさな置き時計の針は午後十一時十分を指している。秒針は先ほどからぐるぐると回転しているのだが、そのほかの針は凍りついているかのように微動だにしない。  この部屋のなかで玲奈さんは、客に気づかれぬように幾度時計に視線をはしらせ、溜息《ためいき》を飲みこむのだろうか。ぼんやりと物思いに耽《ふけ》っていると玲奈さんが囁《ささや》いてきた。 「ねえ、キスしてくれないの」 「いいんですか」 「いいの。特別よ。キスして」 「僕はキスも未経験なんです」 「めずらしいよね、いまどき」 「凄く恥ずかしい」 「そういう意味じゃないよ。素敵よ」  見つめあった。そっと顔を寄せた。  唇が重なった。  誘いこまれるようにベッドに倒れこんでいた。唇は重なったままだ。  微《かす》かにコーラの味がする。  それが自分の口のなかに残ったコーラの味なのか、それとも玲奈さんの口のなかのコーラの味なのか判然としない。  でも、僕は、これから先、キスをするときに、きっとこの味を思い出すのだろう。  そんなことを漠然と想い描きながらも、僕は途方に暮れていた。  これから、どのようにすればいいのか。玲奈さんの唇がそっとひらかれていた。しかも幽《かす》かに吸われている。僕は誘われているようだ。  舌先と舌先が触れあった。  しばらくはおずおずと、やがてきつく絡みあった。  僕は昂《たか》ぶった。  吸いあって、抱きしめあった。  玲奈さんの手が僕の下腹にあり、微妙に愛撫《あいぶ》してくれていた。  僕はすべてをまかせて、まるで玲奈さんの赤ん坊だ。そう意識したとたんに気が楽になったのだろう、こんどは玲奈さんの口臭をはっきりと感じた。口臭の芯《しん》にあるものは間違いなくタバコの匂いだ。  しかも玲奈さんの口のタバコの匂いの奥にわずかではあるが腐臭に近い口臭があるのを感じた。  不思議なことに、その瞬間に僕は真剣になった。唇を離し、玲奈さんを組みふせ、凝視した。  玲奈さんが見つめかえす。僕は玲奈さんのうえに突っぷした。玲奈さんが僕の耳朶《みみたぶ》を咬《か》むようにして囁いてきた。 「見たい?」  僕はちいさく、しかし、すがるように頷《うなず》いた。玲奈さんが躯を起こした。頬笑みがうかんでいた。柔らかく、やさしい表情だった。腰を迫《せ》りだすようにして、そっと僕の顔に近づけた。        *  ゼファーはぐいぐい加速して、すべてを置き去りにする。汗を流したせいか、往路と違って躯にぶち当たる夜風が心地よい。僕は円町君の腰に手をまわしながら、行きとは別の男になったことを誇らしく実感していた。 「なあ、円町君。肌と肌が触れあうってことは、素晴らしいことだなあ。とてもいいことだ」  童貞を棄てさった実感からか、僕は能弁になっていた。この昂ぶりと喜びをなんとか共有してほしいと希《ねが》っていた。 「異性と抱きあう意味がよくわかった。空想では思いも及ばなかった温かさがある。肌と肌の熱だ。これから僕の書く小説は大きく変わると思うよ。肌と肌。素晴らしいことだ」  しばらく間をおいて、円町君が呟《つぶや》いた。 「そればかりじゃないんだけどな」  妙に醒《さ》めた口調だった。しかし気にならなかった。すべての感情は摩耗するのだ。昂ぶりは喪《うしな》われ、ローテーションに堕落する。だから僕は今夜のことをきつく胸に刻みつけておきたい。  円町君がなにかを振りきるようにアクセルをあけた。唐突な加速に僕の上体は反りかえり、首が折れまがって天を仰いでいた。そのままの姿勢で夜空を見あげ、呟いた。 「ああ、満月だ」      7  若い頃に槇村さんが愛飲していたのは、合成酒という代物だったという。僕は畳のうえに横向きに転がって、汗に濡《ぬ》れたTシャツの腹を捲《めく》りあげ、そこに夜風をあてながら焼酎《しようちゆう》を舐《な》め、訊《き》いた。 「なんですか、それは」 「日本酒みたいな……いや、日本酒だな。日本酒もどきだ。一升瓶で二百八十円だった記憶がある」 「いつ頃ですか」 「二十年以上前だ」 「いくら二十年以上前でも、一升が二百八十円てことはないんじゃないですか」 「うん。記憶違いかもしれないな」  自己主張が強い槇村さんがあっさりと認めたので、逆に僕はつっかえ棒をはずされたような気分になった。  会話が途切れた。畳のうえに放りだしてあるはずの広辞苑《こうじえん》を手探りした。これだけ分厚いと探しだすのも簡単だ。酔いで少々重くなった瞼《まぶた》を見開いて広辞苑を引いてみる。 「合成酒、合成酒、と。ええと——アルコールにブドウ糖、有機酸、アミノ酸を加えて清酒に類似した風味を持つように造った酒。合成清酒、とありますよ」 「アミノ酸か」 「ええ。アミノ酸」 「それで旨味《うまみ》調味料みたいな味がしたわけか」 「そんな味がしたんですか」 「したんだな。しかも妙に甘ったるかったのはブドウ糖か。なるほどなあ」 「いまも合成酒って売ってるんですかね」 「さあな。まあ、すたれちゃったんじゃないか」 「ちょっと飲んでみたい気もしますけど」  率直な気持ちを口にすると、槇村さんは複雑な笑顔をうかべた。僕はなにか軽はずみなことを言ったのだろうか。 「いい時代だよな」 「いまが、ですか」 「うん」 「僕にはそうは思えないですけど。景気は悪いし、首相は大馬鹿野郎だし、芋焼酎と合成酒に大差があるようにも思えないし」  槇村さんはそれに応《こた》えず、黙って焼酎を呷《あお》る。こんなに蒸し暑いのに、気の早い秋の虫の声がする。僕は虫の声に耳を澄ます。  僕は二十四歳、槇村さんは四十五歳。槇村さんは僕の倍近く生きているわけだ。僕から見れば槇村さんは充分に若いのだが、四十五歳といえば立派なオヤジではないか。  四十五歳にして幸荘の主として君臨するのはどんな気分なのだろうか。それなりに心地いいのではないか。それとも、自分の人生に忸怩《じくじ》たるものを感じているのだろうか。 「想像がつかないな」 「なにが」 「槇村さんが僕の倍近く生きていること」  酔いにまかせて口ばしってしまうと、槇村さんは先ほどの複雑な笑顔ではなく、柔らかな頬笑みをうかべた。 「俺もおまえと同じくらいの年頃のころには、正直なところ、まったく想像がつかなかったよ。自分が年をとるとも思えなかったし」 「年をとるとも思えない」 「そう。そりゃあ誕生日がくれば二十四が二十五になるけどさ、それは数字が変わるだけで吉岡自体には明確な変化があるわけじゃない。そうだろう」 「そうですね」 「ところが、ある年頃から衰えを意識する」 「衰えですか」 「そう。若干の個人差があるみたいだがな、衰えは避けられない」 「そうかもしれませんね」 「そうなんだよ。でも、吉岡の年齢では、衰えはまったく現実味がない。そうだろう」 「そうですね」  返事が面倒だ。同意し続ける。槇村さんは首を左右に振った。こんどは自嘲《じちよう》気味な笑いに唇の端が歪《ゆが》んでいる。僕は肴《さかな》のウルメイワシの唐揚げを口に運び、しつこく咀嚼《そしやく》する。 「おまえ、ばりばり噛《か》めるだろう」 「なんのことですか」 「硬いものだって平気だ。その煮干しだって平気で囓《かじ》れるじゃないか」 「煮干しじゃないですよ。ウルメイワシ唐揚げって書いてある」 「なんだっていい。おまえが平気で喰《く》えるそれだが、俺にとっては、なかなかにつらい」 「歯は大丈夫じゃなかったんですか」 「なんで」 「だって老眼は嘆いていたけど、歯と魔羅は平気だって」 「馬鹿野郎。ぜんぶ駄目になりつつあるよ」  きつい口調に、僕は口をすぼめる。どうも槇村さんは酔っ払っているせいで厭世的《えんせいてき》とでもいうのだろうか、人生を儚《はかな》んでいるようなところがある。だが僕は愚痴など聞きたくもない。  放っておけば槇村さんは自分のことばかり喋《しやべ》る。だから懈《だる》いのをこらえて適当に相槌《あいづち》をうって軌道修正を試みているのだが、槇村さんの喋りは老人の繰り言じみていて少々|苛立《いらだ》ちを覚える。  酔いがまわりはじめて赤らんだ槇村さんの額には脂汗のようなものが浮かんで、てらてらと裸電球の光を撥《は》ねかえしている。今夜の酔いはどこか憂鬱《ゆううつ》だ。僕は雰囲気を変えたくて、口ばしった。 「ねえ、槇村さん。僕、ちょっと前に童貞喪失しましたよ」 「ほう。やったか」 「やりました。もろにビシキメ」 「なに」 「ビシキメ。ビシッと決めました」 「ああ、そういうことか」 「そうなんですよ。そういうことなんです」 「そうか。吉岡も一人前の男になったか」 「なりました。円町君に言わせると女体マスターです」 「ははは」 「嘘ですよ。いまのは嘘です。女体マスターなんて口が裂けても言えません。正直なところ、女体がどうなってるか、いまだによくわからないし、最近は、もとのオナニーマスターに逆戻りです」 「なにはともあれ、めでたい、めでたい」 「あ、心がこもってないなあ」 「そうかなあ。まあ、いい。童貞喪失の顛末《てんまつ》を語ってきかせよ」 「おっと、合点だ。とはいえ、じつに単純なんですよ。カラオケの演奏の仕事で稼いだ円町君がソープをおごってくれたんです」 「ソープか」 「はい。ソープです。僕にふさわしい」 「なにを拗《す》ねてるんだ」 「拗ねてみえますか」 「ちょっと、ね」  槇村さんが親指と人差し指の隙間を二センチくらいあけて示した。ちょっと、という意味らしい。さらに軽くウインクしてきた。つられて僕は意味もなくウインクを返し、ナナハンのリヤシートに乗せられて新宿に連れていかれた顛末を語りはじめた。  玲奈さんとのことを喋ると、なぜか胸苦しさを覚えた。それなのに僕は露悪的になり、浴槽の中で、玲奈さんに口に含まれて射精したことを捲《まく》したてた。 「潜望鏡か」 「なんですか」 「潜望鏡っていうんだよ。吉岡がされた技のことだ」  苦笑いがうかんだが、すぐに引っこんだ。潜望鏡。確かにかたちはそう見えないこともないが、なんとも冴《さ》えないネーミングだ。 「どうした」 「なんでもありません。それから玲奈さんはマットの準備をしたんですけど、僕はそれを断りました」 「なんで。あれは、それなりに気持ちがいいだろう」 「してもらってないから、わかりませんよ。ただ、なんていうのかな。ふつうの男女がするようにして欲しかったんです」 「なるほど。いまの発言は、すれた中年オヤジの発言でした。訂正いたします」 「で、ベッドに座ってコーラを飲んで、それからキスしました」 「キスしたのか」 「しましたよ」 「ディープキスか」 「ええ。舌と舌が絡んで、ちょっと凄《すご》かったですよ」 「そうか。舌と舌か。絡んだか」 「絡みました。息苦しくなりました」 「おまえはその」 「玲奈さん」 「ああ。玲奈さんに気にいられたんだな」 「なぜ、ですか」 「ソープの女は、あんまりキスをしたがらないんだ。下の口は味なんてわからないし、匂いも感じないだろう。でも、本物の口と口はちょっと、 って感じだな」 「はあ。そんなもんなんですか」 「そんなもんなんだよ」  僕は自尊心を擽《くすぐ》られた。同時に玲奈さんに対する強烈な慕情が湧きあがった。僕は玲奈さんを恋い焦がれていた。酔いのせいもあるのだが、身悶《みもだ》えをしたいくらいに玲奈さんと肌をあわせたいと願った。  だが僕の前にいるのは自己主張の強い中年男だ。もう、どこかに消えてほしい。だが親身な顔をつくって中年男が訊《き》いてきた。 「どうした。黙りこんで」  僕は気を取り直して笑顔をつくった。恋情を醒《さ》まそうと焼酎《しようちゆう》を口に運び、呷《あお》った。 「キスのあとです。玲奈さんが言いました。見たいか、 って」 「ああ、いい女だな」 「そう思いますか」 「うん。凄くいい女だ」 「チクショウ。僕、また逢《あ》いに行きたくなっちゃいましたよ。ああ、行きたい。たまらないなあ」 「行けばいいじゃないか」 「でも……六万円もするんです。六万三千円」 「そうか。そう、おいそれと行くわけにもいかないか」 「いきませんよ。プータローにはきつい額です」 「円町も罪なことをするな」 「罪なことですか」 「罪なことだよ。吉岡だって知らなければ、胸苦しくならんですむわけだから」 「円町君には感謝していますよ。いままではどうにもケチな奴だって思ってたんですけどね。でも、違いました。円町君は誰かに何かしてやる、おごったりしてやるってことに抵抗があったんですね。たかが金で自分が優位に立つということに対する」  僕の脳裏には、メンチカツを盗み食いしたところを発見されて追いつめられ、頬に立派な〈わぎだま〉を出現させている円町君の姿がうかんでいた。  だがメンチカツの返済がバルボーナであるとしたら、僕はずいぶん得をしたことになるのではないか。これが円町君流の借りの返し方なのだろうか。  物思いに耽《ふけ》っていると、槇村さんが酔いに赤らんだ眼を見開いて迫ってきた。 「猿のことはどうでもいい。玲奈さんに見せてもらったんだろう」 「ああ。見せてもらいました。見ました。僕の間近で、大きくひらいてくれました。指先で拡げてくれました」 「おい、おい」 「それが、ですね。玲奈さんがなんともいえない真顔なんですよ。真剣なんです。だから僕も真顔で見つめたんです。凝視したっていうんですか」 「で、どんなだったんだ」 「どんなだったって、槇村さんなら見飽きてるでしょう」 「いや、俺は作家、吉岡信義の眼で見た女性器の佇《たたず》まいが知りたい」 「女性器の佇まいですか」  反射的に繰りかえして、僕は照れた。槇村さんは真顔で迫る。 「そう。おまえの眼がとらえた女だ」 「正直に言いましょう。いまとなっては印象が曖昧《あいまい》で、何かに譬《たと》えるってことが難しいんですよ。強いていえば」 「強いていえば」 「ええ。強いていえば、女の人というのは、その躯《からだ》に痛々しい傷口をもっているって感じました。しかも、その傷口は涙を流しているんです」 「おい、おい。それは愛液だよ。涙じゃないよお、愛液だよお」 「まいったな。槇村さんが壊れちゃった」 「吉岡がうまいことを言うからだよ。傷口があって、涙を流してる。さすが小説家」 「志望ですって。まだ自称小説家にすぎません。宙ぶらりんのプーです」 「まあ、いい。で、どうした」 「はい。玲奈さんは途中から、なんだか切なそうな顔になりました。同時に羞恥《しゆうち》心ていうんですかね。恥ずかしそうに、僕から隠しました」 「そうか。いいなあ。じつに、いい」 「いいですか」 「いい。いまどき、めずらしい女だぞ」  うん、うん、と頷《うなず》きながら槇村さんは焼酎をグラスに注ぐ。注ぐ勢いはいいが、飲むのには時間がかかる。衰えというものは、こんなところにあらわれているのだろうか。 「おい、吉岡。なにを黙りこんでるんだ。それから、どうした」 「どうしたって、やったんですよ。玲奈さんが下になって、手で僕を誘導してくれたんです」 「うまくこなせたか」 「はい。はっきりいって僕は落ち着いていました。なぜかというと出かける前にオナニーをしていて、それから玲奈さんに口でされて、つまり三度めですからね。でも」 「でも?」 「あったかかったです。較べるものがないくらいにあったかかった」 「三度めか。それなら充分に彼女を泣かせることができたな」 「いや。見栄を張りました。じつは、たいして動かないうちに爆発しちゃったんです」  槇村さんが投げ遣《や》りに天を仰いでみせた。僕はあのときの激烈な快感を反芻《はんすう》し、溜息《ためいき》をついた。 「凄く気持ちがよかったのは確かですけど、いまとなっては、ほとんど明確な印象が残ってないんです」  槇村さんは顎《あご》のあたりを指先で弄《もてあそ》んで、呟《つぶや》いた。 「まあ、そんなもんかもしれないな。男は女というものに対して、いつまでたっても明確な印象なんてもてはしない」 「はあ」 「わからんよ。同じ人間なのに、まったく違う生き物だ」 「そうかもしれません」  同意をしはしたが、僕はそんなことをいえるほどに性的体験を重ねていない。ただ、僕はお金で女性を買って童貞を喪失したわけだが、決して不幸な童貞喪失ではなかったということだ。 「円町君には感謝してますよ。ほんとうに感謝している」 「そうか。感謝してるなら、飲ませろ」  開け放った入り口に円町君が立っていた。僕は手招きした。円町君が腰をおろすと、槇村さんは小さく吐息を洩《も》らし、膝《ひざ》に手をあてがって立ちあがった。よろけている。 「大丈夫ですか」  声をかけると、うるさそうに手を左右に振って出ていった。僕と円町君はぼんやりと槇村さんを見送った。 「最近は煙《けむ》たがられて相手にされないから吉岡のところにばかり入り浸ってるな」 「うん。まあ、なんていうのかな、僕は年上の人の相手をするのが得意なんだ。でも、昔に較べてずいぶん抑えてるな。僕が幸荘に入ったばかりのころは、しつこかった。自慢話ばかりでさ。だから最近は槇村さんが女の自慢話とかをはじめたら、露骨に嫌な顔をしてやることにしてるんだ」 「それがいいよ。けっこう甘ったれなんだよな、槇村さんは」  槇村さんが階段をおりていく音がする。女のところにでも行くのだろうか。不規則で、弱々しい足音だ。円町君が呟いた。 「昔は酒豪というか、すごい酒乱だったんだってな」 「槇村さんが」 「そう。T済生病院に入院したこともあるらしい」 「なんで」 「アル中。いまは依存症とかいうのか」 「知らなかった。飲ませちゃったぞ。いいのかな」 「いまさら。それに大して飲めなかっただろう」 「そうなんだ。なんだか苦しそうに飲んでいた」 「ボロボロなんだよ。飲みたくても、もう躯が受け付けないみたいだ」  僕は焼酎の一升瓶を一瞥《いちべつ》した。鹿児島の芋焼酎だ。 「吉岡もほどほどにしておかないと、入院させられちゃうぞ」 「うん。まあ、ほどほどに。明日から」  円町君がくくく……と含み笑いを洩らす。僕も抑えた声で笑う。  槇村さんは合成酒を飲んでいたという。なるほど。アル中なら、味なんて二の次だろう。値段が安ければいいのだ。  円町君が台所をあさって新しいグラスをもってきた。僕は躯を起こし、円町君の手にしたグラスに焼酎をなみなみと注いでやる。  虫の声にぼんやり耳を澄ましていると、円町君がグラスを差しだしてきた。僕は投げ遣りにグラスを突きだす。それなのに、ぶつかったグラスとグラスから、意外と澄んだ、鋭い金属質の音がした。  円町君の唇が、乾杯、と動いた。声は発せられなかった。僕は軽く頷き、呟いた。 「夏の盛りに気の早い秋の虫だ」 「気が早いんじゃなくて、秋の先駆けだよ」  僕は円町君にむかってフンと笑いかえす。ところがなんともいえない切ない気持ちになった。はっきりいって淋《さび》しい。物淋しい。溜息が洩れた。洩れてしまった。  円町君はあぐらをかいたまま、動かない。そっと視線をやると、おもむろに芋焼酎《いもじようちゆう》を口に含み、アイスペール代わりのどんぶりの中で溶けてしまった氷の水を咽《のど》を鳴らして飲んだ。  手を差しだすと、円町君は黙って冷たく汗をかいたどんぶりを突きだしてきた。氷はコンビニで買ってきたものだ。冷蔵庫の氷と違って臭みがない。だからそれが溶けた水はなかなかにうまいはずだ。  もっともかなり酔っ払っているから、なにを飲んでも匂いはおろか、味も満足にわからないだろう。そんな自嘲《じちよう》気味な気分で、どんぶりに口をつける。  寝転がったままなので、畳のうえに水が滴《したた》り落ちた。気にせずに飲んだ。  溶け残った氷が前歯にあたった。  強くあたったわけではないが、なんだか身が引き締まった。  じんわりと歯茎に冷たさが染みわたってきた。しばらく氷を舌先で弄んだ。それから、天井をむいたまま、氷を噛《か》み砕いた。 「槇村さんは衰えを嘆いていた。最近は衰えたってことばかり喋《しやべ》る」 「衰えか。吉岡は、なにか感じるか」 「感じない。十代よりは衰えたような気もするけど、切実なもんじゃない。僕が衰えたなんて口ばしったら、それは恰好《かつこう》つけ以外の何ものでもない」 「槇村さんには秋の虫の声が吉岡よりもずっと切実に聴こえるんじゃないか」 「そうかも、しれないな」  同意した。なぜか唇に薄笑いがうかんでいた。僕は面倒になって一升瓶を掴《つか》み、ラッパ飲みした。裸電球が揺れて見えた。揺れているのは、たぶん、僕のほうだ。  僕は意味不明の声をあげた。呻《うめ》き声に近かった。蟀谷《こめかみ》がひどく脈打つ。躯を胎児のように丸めた。円町君はあぐらをかいたまま、窓の外の夜を睨《にら》みつけるようにして焼酎を飲んでいる。僕は眼を閉じた。玲奈さんにのしかかって腰を動かす自分が見えた。玲奈さんの顔が佐和子さんの顔に重なった。      8  八月の終わり、僕は用意万端整えた。用意万端とはどういうことかというと、まず金。それから新品の下着。もちろん先ほど銭湯の一番|風呂《ぶろ》で汗も流してきた。髪も二度洗ったし、髭《ひげ》も剃《そ》った。爪も切った。 「富樫君。オーデコロンて、もってたよね、確か」  僕の猫撫《ねこな》で声に、望遠レンズの手入れをしていた富樫君は、眉間《みけん》に縦皺《たてじわ》を刻んで、警戒心丸出しの一瞥をくれた。 「ねえ、オーデコロン」 「ないよ、そんなもん」 「なんでもいいんだよ。いい香りがするやつ」 「だから、ないって言ってるじゃん」 「ところが富樫君。きみからは、ときどき、いい匂いがするんだな。きみの腋臭《わきが》を凌駕《りようが》する芳香だ」 「吉岡」 「なんだ」 「嫌みがきついよ」 「そうかな」 「人が気にしてることを言うもんじゃない」 「なにを気にしてるんだ」 「——腋臭」 「やっぱり気にしてたのか」 「俺の唯一の欠点だ」 「富樫君の欠点は、腋臭か」 「まあね。俺はわりと完全無欠だから、しいて探せば、そんなところだ。師匠にも言われたよ。おまえは可愛げがないって」 「師匠って誰」  富樫君は得意そうな眼差《まなざ》しで僕も知っている高名な写真家の名を告げた。 「富樫君は、あの写真家の弟子なのか」 「まあね」  じっと見つめると、曖昧《あいまい》に視線をそらす。ひょっとしたら富樫君は見栄を張って、あの写真家の名を口ばしったのかもしれない。  しかし、それを指摘するのは得策ではない。僕はオーデコロンを借りなければならないからだ。だから満面に笑みをうかべて迫る。 「ねえ、頼むよ。一世一代の晴れ舞台なんだよ」 「ひょっとしてデート」 「いや、まあ、そうだよ。デートだ」 「ふーん。それでスカしてるのか」 「そう。精一杯のおしゃれ。可愛らしいもんじゃない」  迎合してみせると、富樫君は渋々といった表情で立ちあがり、押入をあけた。  驚いた。  押入の中には種々の男性化粧品がプラスチックのトレーのうえに整然と並んでいる。富樫君がその中のひと瓶を選ぼうとしたのを制して、僕は化粧品の前に立った。 「吉岡、それは、だめだよ」 「なんで」 「カルバン・クラインだぜ。カルバン・クラインのエタニティー・フォーメンだ」 「フォーメンなら問題ない。フォーウーマンだったらちょっと困るけどな」  四角い瓶の中で淡く透明なグリーンの液体が揺れる。富樫君がすがる。 「幾らすると思ってるんだ。定価一万五百円だぞ」 「なんだ、五百円てのは。消費税か」 「なんでもいい。とにかく、それは困る。こっちにしてくれ」  富樫君が差しだしたのは僕にも見覚えのある日本のメーカーの、しかも古ぼけて黄色く変色した瓶だった。 「おい、富樫」 「なんだよ」 「中坊じゃないんだ。いまさらこんなのを使えるか」 「態度、でかいよ。吉岡は借りるんだぜ」 「借りてやるんだよ」 「信じられない!」 「信じなくていい。とりあえずカルバンなんとかを貸せ」 「だめだ。吉岡には価値がわかってない」 「うるせえ。馬子《まご》にも衣装だ。自分に対して言う科白《せりふ》じゃないけどな、まあ、いい。没収いたす」  僕はカルバン・クラインのちっぽけなボトルをチノパンの尻《しり》ポケットに突っこんだ。富樫君の顔は泣きだしそうだ。 「ひどいぜ、吉岡は。俺はおまえに一万一千円貸してるんだぞ」 「そういえば、借りてるな。しかし、千円は利子だったはずだ。差引き九千円の借りだ」 「なんなんだよ。吉岡は俺が相手だと異様に態度がでかくなるよ」  僕は鷹揚《おうよう》に頷《うなず》いて、さらに見くだした態度で富樫君の頭を撫でる。 「ところで、だ。意味が違うんじゃないか」 「なんの」 「師匠に言われたっていってただろう。おまえは可愛げがないって」  僕は指先で富樫君の頭皮をさぐる。地肌に軽く爪を立てる。 「それって、完全無欠だから可愛げがないんじゃなくて、身の程知らずだから可愛くないんだよ。絶対に、そうだ」  断言してやって、富樫君の頭から手をはずす。指先に移ってしまった富樫君の髪の匂いに舌打ちをする。富樫君がうつむいている。悲しそうな顔をしている。  なぜだろう。最近の僕は富樫君を前にすると、妙にサディズムを刺激されてしまう。  殴られて顔を腫《は》らしたときに写真を撮られたことを根にもっているのだろうか。それもあるだろう。  しかし、それだけではない。なんといえばいいのだろう。僕は富樫君という人間を見切ってしまったのだ。  それが傲慢《ごうまん》な態度であり、どちらかというと恥ずかしく嫌らしい態度であることは百も承知だ。  でも、カメラ小僧、いや、カメラオタクというべきか、とにかくカメラという機械を構えて、ファインダー越しでなければ富樫君はなにもできない男であるということを僕は悟ってしまったのだ。  僕の生きている世界でもっとも与《くみ》し易い人間が、富樫君なのだ。僕は富樫君にむけていいかげんにウインクをして、廊下にでた。  いったん自分の部屋にもどり、真新しいヘインズの純白のTシャツを脱いで、とりあえず腋窩《えきか》にカルバン・クラインを噴いてみた。  少々スプレーしすぎたかもしれない。だが、判断がつかない。まあ、いいか。ティッシュで腋窩をいいかげんに拭《ぬぐ》った。  そこいらへんにカルバン・クラインの瓶を転がしておくと、富樫君が取りもどしにくるだろう。素早く思案して、窓から上体をのりだして雨戸の戸袋の中に安置した。  あわてて外にでて、幸荘を振りかえった。なんとも子供っぽい。いったい僕はなにをしているのだろう。失笑が洩《も》れた。  表情を真顔に変え、近所のタバコ屋にある公衆電話にむかう。くしゃくしゃになった名刺を取りだす。  バルボーナからでるときに、マネージャーらしき男からもらった名刺だ。バルボーナの名前はなく、有限会社栄光とある。その下の住所は歌舞伎町一の××だ。  先にあがって待っていてくれた円町君と一緒にバルボーナから出かかったときだ。少々柄の悪い、ヤクザがかったオジサンがエレベーターの中の僕たちを追ってきたのだ。  自称マネージャーというオジサンが僕たちに見せたのは、アルバムだった。ファイルされているのは店に在籍している女の子たちで、それぞれが着衣と裸、二種類の写真におさまって、作り笑いをうかべていた。  エレベーターが一階につくまで、僕はアルバムを繰って感嘆していた。ざっと見ただけでも、かなり綺麗《きれい》な女の子ばかりが在籍していたからだ。  写真でこれだけ綺麗であるということは、実物はかなりのものであるということだ。円町君はこのアルバムを見るのがはじめてでないらしく、落ち着きはらっていたが、僕は軽い眩暈《めまい》さえ覚えていたのだった。  深呼吸をした。しかし、電話機を前に、まだ、決心がつかない。  あたりには夕暮れの気配が濃く立ちこめてきた。躯《からだ》からはカルバン・クラインの芳香が濃厚に立ちこめている。  僕はあのアルバムに囚《とら》われていた。なにしろ僕はマネージャーからもらった名刺にアルバムの中の気にいった女の子の名前をメモしているのだ。  僕はじつに嫌らしい人間だ。というのも玲奈さんを指名するのが一番いいことだとは思うのだが、どうせ金を遣うなら別の女の子、アルバムで見せてもらって名刺にメモしてある幾人かの中でも最も気にいった子を予約したいという衝動もかなり切実なのだ。  名刺には松岡、川村、香坂、上条、青木と五人の苗字《みようじ》がメモされている。僕は玲奈さんでなかったら香坂さんを指名したいと考えている。  いや、正直なところ、気持ちはほとんど香坂さんに傾いているのだ。写真を見た瞬間に、こんな綺麗な女の子がいるのか! と息を呑《の》んだほどだったからだ。もちろん玲奈さんだって抜群だ。でも……。  決心がつかないまま、プッシュした。  呼び出し音一回で、受話器の彼方《かなた》から声がした。 「はい、バルボーナでございます」 「ああ、その、なんていいますか、その」 「はい。ご予約でしょうか」 「はい。ご予約です。ええと玲奈さん、いらっしゃいますか」 「はい。玲奈さん。ええと長岡さんはご出勤です。ただ、お客様。長岡さん、いまからですと、八時半からのお相手になってしまいますが」 「八時半、ですか」  二時間以上ある。僕は悩んだ。 「どういたしましょうか。おまかせいただけるなら、極上の女の子を用意しますけど」 「はあ、でも、その、やはり」 「じゃあ、長岡を」 「そうですね。長岡さんをお願いします」 「お客様、お名前は」 「お名前は、吉岡です。吉岡信義です」  受話器の彼方で笑いを圧《お》しころしている気配がした。そうか。フルネームを口ばしる客もめずらしいのだ。  僕が受話器をもったまま立ちつくし、赤面していると、相手は馬鹿丁寧な調子で八時くらいにもういちど確認の電話を入れてくれと言った。僕はかろうじて、はいと返事をして受話器を置いた。  背中にも、掌にも、びっしょり汗をかいていた。緊張のあまり咽《のど》の渇きがひどい。  僕は足早に吉祥寺駅にむかった。時間はたっぷりある。あせる必要はないのだ。しかし、じっとしていられなかった。歩く姿勢は前傾にしてやたらと大股《おおまた》である。  こういうときにかぎって勘が鈍るというか、反射神経に曇りがでるというか、周囲を見ている余裕がないというか、僕は混雑するサンロードで、向かいからくる歩行者と幾度もぶつかりそうになった。  つまり、それほど緊張していて、いまだに緊張が抜けていないということなのだ。口の悪い円町君でもいれば、吉岡は欲ボケしてるんだよ、などと言われかねない状態だ。  同様に、緊張のあまり電話口で香坂さんの名を告げることができなかった。きれいに失念してしまったのだ。結局は玲奈さんの名前を口ばしっていたわけだ。  まあ、いいか。玲奈さんとじっくり百十分間。二度目だから最初と違ってリラックスできるだろう。余裕をもって、対処できるはずだ。  そう自分に言いきかせるのだが、六万三千円も遣うんだぞ、自分の好みを貫徹したっていいのではないか、という後悔の気持ちも棄てきれない。  ええい! 未練がましい。  僕は胸の裡《うち》で自分を叱った。  一瞬だが立ちどまって、握り拳《こぶし》をつくっていたようだ。  前からきた女子高生風の女の子が怪《け》訝げんそうに見つめてきた。僕は軽く笑いかえした。女の子もまんざらでもなさそうに頬笑んだ。  彼女とは、そのまま擦れちがったが、声をかけたら、なんら問題なくお茶でも飲めたような気がする。それはいまだ抱いたことのない確信だった。  意外だが、当然であるような気もした。いままでは自分で勝手に障壁をつくっていたのだ。童貞の|頑な《かたく》さで、他人を、とくに婦女子を徹底的に立ちいらせないようにバリアを張り巡らせていた。  ひとえに自尊心を傷つけたくないためである。  でも、あれも、これも、それも、じつは自尊心を棄ててかからなければ手に入らないものなのだ。他人の心を手に入れるのに、自分が恰好《かつこう》つけていて、どうするのか。  それに、率直になったからといって恥をかくようなことはなにもないではないか。なぜだろう。僕はいつの頃からか、欲しい、というひとことを思ったり、口にすることを恥じるようになってしまったような気がする。  吉祥寺駅に着くと、中央線で事故があって電車が遅れるとアナウンスしていた。どうやら飛びこみ自殺らしい。  いまから女を買いにいく僕のような男もいれば、世を儚《はかな》んで中央線の列車に飛びこんでしまう者もいる。  でも、まあ、僕は生きているし、バルボーナに予約の電話を入れたときの緊張も消えさって、やってこない列車を淡々と待つ。暮れはじめたホームを抜けていくのは秋の気配を含んだ夜風の先駆けで、あせる理由のない僕には心地よく感じられる。  まわりの人々も眉根《まゆね》を軽く顰《ひそ》めて舌打ちをする程度だ。連れ合いのある人は、すぐに雑談にもどった。  中央線に飛びこみ自殺。  流行になってしまっているという。迷惑な死に方だ。どうせ死ぬなら、誰もいないところで静かに死んでいけばいいのに。  それとも、わざわざ人のたくさんいるところで死んでみせるのは無視しつづけた周囲に対する復讐《ふくしゆう》のようなものなのだろうか。それとも僕のお得意の自尊心を、飛びこみ自殺をする人も、死ぬ直前まで棄てきれずに、自分の死を華々しく大ごとにしてしまいたいという欲求がはたらくのだろうか。  あくびが洩れた。いくらなんでも二時間もあれば新宿には辿《たど》りつくだろうし、中央線がだめならば、総武線の黄色い電車に乗ればいい。実際に総武線のホームに移動する人もいるようだ。  ふと思った。予約電話でのやりとりからすると、玲奈さんは長岡という苗字らしい。なぜ初めてのときに彼女は自分のことを長岡と名乗らずに、玲奈と名を告げたのか。  タバコに火をつけて、記憶をたどった。やがて、思い当たった。がっかりした。僕に彼女が玲奈さんであると告げたのは、バルボーナのボーイだった。  朱色の電車がやってきた。思ったよりも早く死体が片づいたらしい。喫っていたタバコをホームに投げ棄て、踏みつぶすと、近くにいたおばさんが露骨に嫌な顔をした。  駅員のお詫《わ》びのアナウンスを背に、中央線に乗りこんだ。  さすがに混んでいる。カルバン・クラインの匂いがきつすぎないか、ちょっとだけ気になったが、冷静に考えてみれば、汗臭いよりは絶対にましなわけで、照れ臭くもあるのだが、意外と楽に居直ることができた。  普段は長岡さんと呼ばれている玲奈さんが自ら僕に玲奈と名乗ったのなら、それは、やはり僕に対する好意だろう。しかし、残念ながら、それはなかったようだ。  すっかり暮れた電車の窓に僕の顔が映っている。不服そうに口が尖《とが》っている。しかも、気取って微妙に顔をつくっているから、我ながら滑稽《こつけい》だ。  列車が新宿駅のホームに滑りこんだ。人の流れに逆らわずに下車し、階段に進んだ。落ち着いているつもりでも、やはりどこか舞いあがっているのだろう。階段を一段踏みはずした。  相変わらず凄《すご》い人出だ。僕はおのぼりさんになったような気分で八時半まで時間をつぶすことにした。ところが目的があって、時間がきめられていると、案外とぼんやりして過ごすのは難しい。  目的が目的だけに、やはり童貞に毛の生えたような立場の僕は緊張し、微妙に狼狽《うろた》えていて、しかも落ち着きをなくしているのだ。世界が奇妙に輝いて感じられて、色彩が鮮やかだ。胃のあたりをなにやら突きあげられるような昂《たか》ぶりがある。  西武新宿近くまで行き、マクドナルドのあたりをうろつき、さりげなくバルボーナの前を抜け、その前の店で串焼《くしや》きにされている車エビの焦げる匂いを鼻腔《びこう》に満たし、コマ劇場に抜けた。  客引き丸出しの男が近づいてきた。黄色く変色した前歯が目立つ。いつもだったら即座に顔をそむけて逃げだすのだが、なんとなく微笑して、話だけ聞いた。 「ねえ、お兄さん。サネくり放題なんだから」 「なんですか。サネくり放題って」 「だからさ、店の女の子のオサネをサネくり放題ってわけなのよ。こんな気前のいい店は歌舞伎町のどこにもないよ」 「僕、ソープの予約を入れたんで、時間を潰《つぶ》してるんですよ」 「じゃ、その予約時間まで、一杯いこうよ。ね、お兄ちゃん。ソープ、キャンセルしたって満足できるって。なにかムカつくことがあったら、おっちゃんがきっちり処理するからさ」 「いまどき、めずらしいですよね、おじさんみたいな客引きって」 「なんで」 「だってさ、いまは女の子がカラオケ行こうとか誘って、結局はボッタクリバーに連れていかれちゃうんでしょ。そこへいくと、おじさんの客引きは正統派だよね。サネくり放題か」  調子にのって捲《まく》したてると、おじさんは鼻梁《びりよう》に皺《しわ》を刻んで僕を一瞬、睨《にら》みつけ、あっさり離れていった。  なぜだろう。僕はとたんに居たたまれなくなった。狼狽《ろうばい》気味に腕時計に視線をはしらせた。安物のデジタルの数字が奇妙に読みとりづらかった。  七時五十六分、ということは八時四分前。頭のなかで時刻を組みかえて、僕はテレホンカードを握りしめて公衆電話をさがした。すぐに見つかった。予約を入れた吉岡です。もう、店に行って待っていていいですか。  おそらく僕はすがるような声をだしていたのだろう。店の人が応接室と呼び名を訂正した待合室で待つことを断られるはずもなく、だから僕はサンロードを行くときと同様の前傾姿勢でバルボーナにむかった。  複雑な心境というか、なんとも難しい精神状態だ。エレベーターのなかでは両手の掌の汗を幾度もチノパンの太腿《ふともも》にこすりつけたし、七万円也をわたして、七千円のおつりをもらったときには、まるで恵んでもらったかのように、ありがとうございますなどと口ばしる始末だ。  赤い天鵞絨《ビロード》のカーテンをすり抜けるようにして応接室に入り、オシボリで手を拭《ふ》き、ついでに首筋の汗を拭《ぬぐ》い、ウーロン茶を頼んだあたりで、ようやく安堵《あんど》の吐息が洩《も》れた。  為《な》すべきことは、すべて為した。あとは身をまかせるのみ。僕は虚脱気味にだらけてソファーに座りなおした。週刊誌でも読もうと思ったが、立ちあがるのが億劫《おつくう》だ。  ウーロン茶の氷を頬ばっていると、カーテンが揺れた。中年のこれといって特徴のない男がボーイに案内されてきた。きちっと地味なスーツを着込んでいるが、サラリーマンにも見えない。  男が僕を見るので、なんとなく会釈をかえすと、男は深く頷《うなず》いて、満面に笑みをうかべた。 「豪勢だね」 「いや、精一杯の贅沢《ぜいたく》です」 「常連なの」 「まさか。このあいだ初めて友達に連れてきてもらって、それからしばらくアルバイトに精を出して、ようやく金をつくりました」 「そうか。じゃあ、イッパツの重みがちがうね」  うまいことを言う。僕はくくく……と含み笑いを洩らしてしまった。 「いいよね、ソープ」 「はあ。僕みたいに女性と縁のない男には救いかもしれません」 「縁、ないの」 「ありません」 「そうは見えないけどな」 「いや、だめなんです。情けないけど」 「あせることはないよね。へたな結婚なんかした日にゃ、もう、地獄。地獄だけどね、ち、に点々だよ。ぢごく、 って書くの」 「はあ。ぢごく、ですか」 「ぢごく、ぢごく。この世の地獄」  言いながら男が自分のタバコをすすめてくれた。パッケージにはロスマンズとあった。銀のライターで火をつけてくれた。香りは悪くない。すっかり気が楽になっていた。漠然と吹かしていると、訊《き》かれた。 「ねえ、熊本、知ってるかな」 「なんですか、熊本って」 「日本一のソープって呼ばれてるのが、熊本にあるの」 「熊本、ですか」 「そう。その店は表にでることを嫌ってるからね、俺も名前を教えることはできない。仮にBとしておこうか」 「Bですか」 「そう。B」  男が懐からクレジットカードのようなものをとりだした。白枠に青地、金色の装飾だけが確認できた。どうやら会員証らしい。だが一瞥《いちべつ》させられただけでは、なにがなんだかわからない。 「なぜ、表にでることを嫌がるんですか」 「客に不自由していないから」 「そんなに凄《すご》いんですか」 「うん。熊本って土地が意外だろう」 「ええ。意外ですね」  僕はなんとなく阿蘇《あそ》山を思いうかべた。見たこともない阿蘇山ではあるが、牛が長閑《のどか》に草を食《は》んでいる光景が脳裏にありありとうかんだ。男が身を寄せてきた。 「でもね、たとえば仕事で福岡に行くとするだろう。すると熊本までタクシーで高速を使って一時間ちょっとなわけだ。だから、それほど地の利が悪いってわけでもないんだな」 「なるほど。地理的には、そんなもんなんですか」 「そんなもん。だから、俺も福岡に用があるときは必ず予約を入れるんだ。でも、断られることもある」 「そんなに繁盛してるんですか」 「それもあるし、女の子が少ないんだな」 「客がたくさんいるのに、女の子が少ないんですか」 「冷静に考えてごらん。日本一にふさわしいサービスができる女の子が、日本にどれくらいいると思う」 「ああ、そういうことですか」 「そういうことなのよ。きちっと接客できる抽《ぬき》んでた女の子。まず、いないわけだ。とにかく感動するよ、彼女らに逢《あ》うと」 「感動、ですか」 「うん。なんていうのかな。接客業の極致をみる感じだな。客商売をする者は、どんな商売だって、いちど彼女らの誠心誠意の応対を味わったほうがいいね」 「そこまで、凄いわけですか」 「凄い。それとね」 「はい」 「店自体なんだけどね。そんなに新しい建物じゃないんだ。どちらかというと古い。でもね、もしBに行く機会があったなら、便所に行ってみるといいね」 「便所、ですか」 「そう。徹底的にぴかぴか。舐《な》められるくらいに磨き抜かれてるの」 「それって、ちょっと感動的ですね」 「そうなんだ。超一流ホテルだって、あそこまで磨き抜かれてないって」  トイレを磨くのは当然ながら女の子の仕事ではないだろう。ボーイが磨くはずだ。ということは女の子の教育だけでなく、男の教育も徹底的に行き届いているということだ。  早い話が売春なのだが、しかし、この商売は、接客業の原点なのかもしれない。原点にして、全てがある。そんな気がした。 「Bの他にはね、最近、雄琴にできたフォーナインって店が凄い。はっきりいってB以上だな」 「そんなに凄いんですか」 「B以上ということは、ほんとうの日本一ってことだよ」 「詳しいことは知りませんけど、雄琴って、メッカですよね」 「まあ、過去の話だな。いまは、ちょっと寂れちゃってるんだよね」 「そうなんですか」 「うん。でも、フォーナインはべつ。これぞ超高級店という感じだよ。四捨五入したら十万円かかるんだけどね、店がスタイリストやヘアをセットする女性を抱えている。しかも店舗を改装するのに三億円かけてるんだ」 「三億円!」 「そう。新築じゃなくて改装で三億だよ。しかも、だ。経営者|曰《いわ》く、客のために三億かけたんじゃない。働く女の子が誇りをもてるようにだ」 「で、接客ですか。どうなんですか」 「日本一かもしれないね。全てをトータルして、日本一だな。なによりもいわゆるソープのジメッとした湿気《しけ》た感じが全くないのがいいな」 「ああ、ここも全体的にジメッとしてますよね。ちょっと不潔感があるのは否めない」 「だよね。風呂屋《ふろや》だから多少の湿気は仕方がないのかもしれないけど、フォーナインみたいにカラッとさせることもできるわけだから経営者の才覚だよね」 「正直なところ、この天鵞絨の緞帳《どんちよう》みたいのも苦手です。なんだか黴《かび》が生えていそうだ」  男が赤いカーテンを一瞥して頷いた。 「フォーナインは待合室もこんなんじゃなくて、カウンターバーで好きな飲み物を飲みながら待つんだ」 「カウンターバーですか」 「うん。バーテンがいて、ありとあらゆる飲み物が揃えてあって。安っぽくないのね」 「うらぶれてないって感じですか」 「そう。うらぶれてないの。とりわけフォーナインは豪勢でさあ、そうだなあ、自尊心を擽《くすぐ》られるっていうのかな」  自尊心というのは僕のキーワードだが、きっと全ての男のキーワードでもあるのだろう。金が欲しいとか、いい女を連れて歩きたいとか、名誉が要るとか、恥をかきたくないとか、全ては自尊心を充《み》たすためだ。 「なんだかフォーナインは、僕には、ちょっと敷居が高いかなあ」 「若いんだから。いつかは、 って思っていればいいじゃない。焦ることはないよ」 「だんだんとランクアップしていくわけですね」 「そういうことだ。とにかくフォーナインは貧乏くささがないから、終わってから、堂々と帰れるんだよ。ついに俺もこんな凄いところで遊べるようになったんだなあ……って感じかな。性欲を充たすだけじゃなくってさ、男の自尊心を充たす。そこまで考えて店がつくられてるんだな」 「なんだかイメージが変わりました。へたな業種なんかよりもよっぽどしっかりした経営哲学のある店があるわけですね」 「そういうこと。でも、ピンキリだからさ。場末のうらぶれて惨めなところで自分のおっかさんみたいのを抱いて、俯《うつむ》いて帰るのも、また独特の自虐的な詩情があるとでもいえばいいかな。なんともいえないもんがあるんだよね。あんまり味わいたくないけどさ」  僕は素直に笑い声をあげた。男が頷《うなず》いた。 「ここも、悪くないよね」 「はあ。そう、思います」 「ちょっと設備なんかが古臭くなっちゃってあれだけど、ここは、わりと普通の女の子が相手をしてくれる。いかにもといった女は少ないからね」  僕が深く頷いたとき、カーテンが揺れた。男が予約した女の子の準備ができたのだ。僕が黙礼すると、男は軽く片手をあげてでていった。  おそらく男は、なにか店を経営しているのだろう。経営者だ。抑制がきいているが、僕から見ても金のかかっている服装であることがわかった。  男がソープで遊ぶのは趣味と実益といったところか。接客業の原点をソープに見いだし、しかも『ぢごく』とまで言いきった結婚生活をつつがなく続けていくために、ここで発散する。  いろいろな人生があるものだ。腕組みをして、いささか大げさなことを思っているうちに、男に貰《もら》ったロスマンズを根元まで喫いきってしまった。  消す前に、店のサービスのタバコに火を移した。堂々と見ればいいのだが、ちらっと腕のデジタル時計に視線をはしらせた。  八時二十七分を確認したときだ。血のような色のカーテンが重々しく揺れた。ボーイが僕に向かって微《かす》かに頬笑んだ。  どうやら僕の顔を覚えているようだ。覚える気がなくても、これほど狼狽《うろた》えまくっている僕である。覚えられてしまうか。  そんなことを思うくらいに僕は落ち着いていた。玲奈さんに、逢える。勢いよく立ちあがった。  先を行く玲奈さんの首筋に後れ毛が微妙な曲線を描いて張りついている。細い首だ。もともと細い首なのだが、そこに強烈な疲労が滲《にじ》んでいる。  いきなり玲奈さんが振り返った。階段を降りきったところだ。彼女の首筋を凝視していた僕はどんな顔をつくっていいか戸惑い、とりあえず笑顔を返した。 「指名してくれたのね。ありがとう」  玲奈さんがぴったり躯《からだ》を寄せてきた。僕の臀《しり》に手をまわした。臀の尖《とが》りを両の手でしっかりと押さえて腰を密着させてきた。  熱い眼差《まなざ》しとでもいえばいいか。僕はいまだかつて女性からこのような視線を浴びたことがないので、かなりドギマギした。  個室にはいる。内装や設備はほとんど一緒だが、前のときと部屋がちがう。少しだけ広いかもしれない。僕は自分からベッドに腰をおろし、本心から安堵《あんど》した。 「ねえ、僕が指名したら、そんなにうれしいというか、その、なんだ、ははは」  なにを言っているのかわからなくなって、頭をかいた。玲奈さんはそれに答えず、そっと躯をかがめた。 「いい香り。カルバン・クラインのオードトワレ、エタニティー・フォーメン」 「わかるんですか」 「わかるよ。深い森の香り。ユニセックスな香りの元祖じゃない」 「ユニセックス」 「うん。男女兼用っていうのかな。いい趣味ね、吉岡さん」 「あれ、僕の名前」 「覚えてるよ。だって、いちばん、好きな、ひと、だもん」  うまいことを言う。擽られた。顔に血が昇った。お世辞である。調子に乗るな。自分に言いきかせた。 「友達の化粧品を奪って、ぶっかけてきたんですけど、加減がわからなくて。臭くないですか」 「うん。お友達、いいセンスね」  僕は富樫君の顔を脳裏に思いうかべて、失笑した。玲奈さんが怪訝《けげん》そうに覗《のぞ》きこんできた。タバコを咥《くわ》えてから、喫っていいですかと訊いてきた。  前回と同じく、一本貰って、同時に煙を吐いた。小さく咳《せき》払いして、尋ねた。 「玲奈さんは、どんな香水が趣味なんですか」 「あたしはやっぱりディオールね」 「クリスチャン・ディオールだっけ」 「そう。プワゾンがいちばん。英語だとポイズンだっけ」 「毒」 「そういうこと。どう?」  玲奈さんが腕をあげた。手を頭の後ろにやり、腋窩《えきか》を僕に近づけた。ごく幽《かす》かだったが甘く妖《あや》しい香りがした。官能的な匂いでもあった。  しかし、具体的な何かに譬《たと》えることはできなかった。抽象的な、しかし、なんとも性的な香りだ。恐るべし、クリスチャン・ディオール。 「どうかな」 「うん。つるつるだ」 「香りよ。香りのほう」 「玲奈さんの肌の匂いも少しだけするよね。それと絡まって、たまらない」  僕は理性をなくし、玲奈さんの腋窩に鼻を埋め、そっと舌を這《は》わせた。玲奈さんが擽ったそうに身をよじった。そのままベッドに倒れこんだ。  接吻《せつぷん》をした。躯をこすりつけあった。玲奈さんの躯はとても冷たい。それでも、どちらからともなく裸になって密着していると、じんわりと汗ばんできた。  お互いの吐息ばかりが、耳につく。指先が肌をさぐりつづける。僕の指は、玲奈さんの傷口をさぐっていた。しかし、内部への探求は微妙にはぐらかされて果たせなかった。  やがて、僕は玲奈さんのなかにあった。そこで、ようやく冷静さを取りもどした。 「玲奈さん。直接だけど……」 「いいの。吉岡さんなら、いいの」 「だいじょうぶなの」 「だいじょうぶ。ピル、服《の》んでるし」 「ピル」 「そう。おかげでお乳が張ってしょうがないのよね」  僕は玲奈さんのあまり大きくないお乳を掌で覆って、動作しはじめた。 「ピルを服んでると、張るの」 「そうなの。女性ホルモンみたいなもんでしょう。でも」 「でも?」 「もう少し、大きくならないかなあ」  僕は玲奈さんに密着して、ちいさく笑う。 「笑ったな」 「ごめんね」 「張るばっかりなのよね。張るばっかりで、大きくなんない」 「うん。きつく張って、痛々しいね」  何気なく口にしてしまったのだが、玲奈さんが真顔になった。僕と玲奈さんは見つめあった。 「痛々しい」 「うん。ごめんなさい。でも、そんなことを言うつもりはなかったんだけど」 「いいの。痛々しいよね。お金のために、張りつめてるのよ」 「お金の、ため、か。なにに、そんなにお金がいるの」  愚問だと思いながらも、口にせずにはいられなかった。玲奈さんは拗《す》ねた顔で横をむいた。 「欲しいじゃない」 「なにが」 「ディオールだって、シャネルだって」 「そんなもんのために、躯を張るの」 「そう。躯を張って、乳を張らすの」 「あれ」 「どうしたの」 「玲奈さん、僕、でちゃうよ」 「いいわよ。気にしないでいきなさい」  姉のような口調と眼差しの玲奈さんだった。僕は唐突に突きあげ、迫《せ》りあがってきたなにかに身をまかせて、玲奈さんを組みふせ、後先を考えずに動作した。  吼《ほ》えたと思う。  かなり大声をだしたと思う。  気がつくと、突っぷしていて、玲奈さんが僕の頭を撫《な》でていた。 「よかった?」 「うん」  僕の返事は、どこか幼児口調だ。僕は金を払って玲奈さんの子供になったのだ。そんな気がした。  しばらくじっとしていた。僕はまだ玲奈さんのなかにある。意識的にやってくれているのか、それとも無意識なのか判然としないが、僕にまとわりつく玲奈さんの躯がときに収縮し、痙攣《けいれん》気味に僕を締めつける。  そのせいで、ふたたび勢いを取りもどしそうだ。玲奈さんの耳朶《みみたぶ》に唇を寄せて、そっとそれを訴えた。 「だめ」 「だめって……」 「だめよ。あなたがしたことの結果を見せてあげる」 「なんのこと」 「こういうことよ」  玲奈さんが腰を動かした。僕は外されていた。  上体を起こした玲奈さんが、僕を手招きした。玲奈さんは大きく脚を拡げていた。僕は玲奈さんの両脚のあいだに正座するように座った。 「ほら。吉岡さんがあたしのなかから流れだしてくる」  指先で拡げ、掻《か》きだす。  それを僕に見せつける。  玲奈さんの顔に表情らしい表情はない。  僕は愕然《がくぜん》と玲奈さんの傷口を凝視する。  流れだしてくるのは僕が放った白濁だ。  僕の放出した胸くその悪い濁りだ。  僕はうつむいた。  憂鬱《ゆううつ》で虚《うつ》ろな声が洩《も》れた。 「なんで、そんなものをわざわざ見せるの」 「吉岡さんが、お客さんじゃないから」 「どういう意味」 「わからない。お金を貰《もら》って、お客さんじゃないなんて言われたら腹が立つかもしれないけどさ、なんだか弟みたいで」 「僕って頼りないからな」 「そういうことじゃないのよ。吉岡さんは建設業だっていってたよね。前にきたときに、たしか、そういっていた」 「うん。いろいろアルバイトをするから、一概にいえないけど、まあ、そんなもんだな」 「ほんとうは、なにをする人」 「え」 「ねえ、ただ、建設業、してるわけじゃないでしょう」 「言わなくてはいけないかな」 「あたしも言うから。たとえばね、この仕事は指名が全てなの。指名のない子は、店から嫌がらせをされて、やめざるを得なくなる。具体的にはふりのお客さんをまわしてもらえなくなるから、収入がなくなって、やめなくちゃならないの」 「それで、指名してくれてありがとうって言われたわけか」 「そうなの。あたし、最近、仕事にあまり熱心になれなくてさ、収入もダウン気味。あーあ。この商売をはじめたときには、それなりに夢もあったんだけどな」 「夢って」 「ノーコメント」 「なんだよ。言うからっていって、肝心のことは言わないじゃないか」  玲奈さんは、いまでは、きつく脚を閉じている。ただ、流れだした僕がシーツに惨めな染みをつくっている。 「ねえ。吉岡さんは、なにをする人」 「口にするのは、凄《すご》く恥ずかしい」 「なんで」 「自称、だから」 「自称、なに?」 「自称……小説家」 「わあ! 凄いんだ。やっぱりね。普通の人じゃないと思ったんだ」 「それって、普通以下って意味?」 「なんで、そんな拗ねたことを言うの」 「だって、恥ずかしいんだよお」 「可愛い。凄く、可愛い」 「うれしくねえよお。可愛いなんて言われたってさ」  僕は玲奈さんにあやされるようにしてベッドから立ちあがった。一緒に浴槽に躯《からだ》を沈めた。湯のなかで、玲奈さんが両手を使って僕の触角を丁寧に洗ってくれた。玲奈さんの体液と僕の体液が絡みあって、かなりしつこいぬめりがあったようだ。  ぬるめの湯のなかで重なりあってぼんやりしていると、玲奈さんが|囁い《ささや》た。 「ねえ、まだ、したい?」  なんとも微妙な質問だった。僕は、表面上はいかにも入浴状態、リラックスしてはいたが、その部分だけは充血しきって硬直しているのだから。 「まあ、したいといえばしたいけど」  情けない答えである。無様なことだが、僕の脳裏には、しんどい思いをして稼いだなかから捻出《ねんしゆつ》した六万三千円、ということがあった。はっきりいって、もとを取りかえしたいということである。 「もう、やめちゃおうよ。こんなところでするの」  なにか応《こた》えなくては、と焦った。しかし、言葉がない。イッパツだけかよ! というのが本音であるからだ。ところが、僕は、焦りながら、それでも苦しげに迎合していた。 「そうだね。わりと本音をさらしあったあとだもんな。いまさら、なんていうか、そうだよね」  自分でもなにを言っているのか意味不明だ。でも、玲奈さんは、それを諒解《りようかい》の意味にとったようだ。うれしそうに浴槽のなかで立ちあがった。 「ねえ、もし、客がついたら、あと一人なんだ。でも、たぶんつかないと思う。あたしってマネージャーに嫌われてるからさ。ふりのお客さんは、まあ、だめだからね。まわしてもらえない。だから十二時にはあがれると思うのよ」  なにを言っているのか。僕は理解できず、眼前に迫る玲奈さんの腰、濡《ぬ》れてつやつや輝く陰毛を見つめた。 「ね、吉岡さん。デートしよう。朝まで付きあってよ。セックス抜きで」 「デートか。いいね。十二時まで待てばいいのか」 「そう。携帯、教えて」  携帯、教えて——携帯電話の番号を教えてくれということか。 「携帯、もってない」 「そうか。じゃ、あたしの携帯の番号教えるからさ。適当に時間を潰《つぶ》して、十二時くらいに電話してよ。もし、でなかったら、ごめんね。お客さんの相手をしてるってことだから。でも十二時半には、必ずあがれるから」  僕は満面に笑みをうかべていた。はっきりいって作り笑いである。デートは、いい。僕に文句があるわけもない。しかし、セックス抜きというのは、ちょっと……。 「ねえ、玲奈さん」 「なに」 「言いづらいんだけどさ、僕、もう、お金があんまりないんだよ。だからデート費用が」 「バカねえ。誘ったのはあたしだよ。姐御《あねご》が払うって」      9  バルボーナからでたのは、十時半くらいだった。最悪の場合でも十二時半には仕事からあがれると玲奈さんは言っていた。とはいえ、あと二時間弱ほどは適当に時間を潰さなければならない。  酒でも飲んで待てばいいのだろうが、どことなく不安だ。新宿の相場や様子がよくわからないせいだ。所持金は一万七千円に小銭少々といったところだ。つまり八万円持ってきて、バルボーナに六万三千円払って、その残金というわけだ。  僕はどこに行けばいいのだろうか。吉祥寺から新宿までは中央線で十五分弱の距離である。しかし、たいがいのことは吉祥寺で事足りてしまうので、あるころから僕はほとんど新宿に立ち寄らなくなっていた。  もちろん付きあいで新宿の居酒屋で飲んだりすることはある。しかし独りでは、居酒屋にはなんとなく入りづらい。金を払って飲むのだから、堂々と暖《の》簾れんをくぐればすむことなのだが、例の自意識が邪魔をする。  僕はなんとなくコマ劇場のほうに向かっていた。客引きに声をかけられたりするのは少々|鬱陶《うつとう》しいが、ほかに思いつく場所がなかった。  コマの周辺を僕はのんびりとした足取りを意識して、歩きまわった。賑《にぎ》わっている。しかし、このあたりをうろついている人たちに明確な目的はあるのだろうか。そんなお節介なことを考えもした。  結局は懈《だる》くなり、コマの手前にあるマクドナルドでハンバーガーとアイスコーヒーを注文し、二階にあがって時間を潰した。近くの席では、制服のままの女子高生たちが中年オヤジとなにやら商談をしている。  付きあうけどさあ、ヤリなしだよ、ヤリなし。  そんな|姦し《かしま》い科白《せりふ》が、だらしなく頬杖《ほおづえ》をついて暇をもてあましている僕の耳に入ってきて、苦笑が洩《も》れた。  だってさあ、ヤッちゃったら援交になっちゃうじゃん。おじさん、まずいよ、それ、淫行《いんこう》。やっぱ時代はヤリなし、でしょう。  ヤリなし、なんて図々《ずうずう》しいよな。そんなことを思ってさりげなく女子高生たちを窺《うかが》う。彼女たちは四人で、オヤジはハンカチを使って額を拭《ぬぐ》っていた。視点が定まらず、あきらかに戸惑っている。  なんだ、ルーズを穿《は》いたピラニアに襲われた哀れなおじさんか。ふたたび苦笑すると、なにを思ったのか女子高生のなかのひとりが僕にむけて親愛の笑みをかえしてきた。  さて、どうしたものか。僕は曖昧《あいまい》に頬笑みかえして、歯のあいだに詰まったハンバーガーの肉片、いや肉の繊維らしきものを指先でつまんで引っぱりだした。  午前零時を数分まわった。少し前から店内には水商売らしき女性が増えはじめていた。向かいに座った女の人が、赤い紙のパッケージに入ったフライドポテトを溜息《ためいき》まじりにつまんでいる。彼女の頬には酔いと疲労がきつくまとわりついていた。  それでもようやく肩から力を抜きかけているようだ。しかしまだ開放感を覚えるまでには至らないのか、その瞳《ひとみ》はあきらかに投げ遣《や》りな緊張を宿している。  店が終わってからハンバーガーショップにくるような水商売の女性は、店でいったいどのような立場にあるのだろう。  バーやクラブといった金のかかる店のシステムはよくわからないが、店がはねてから独りでフライドポテトを食べている彼女からは水商売につきものの華のようなものは微塵《みじん》も感じられない。  もともと水商売の華やかさなどは幻想なのかもしれない。たとえば早朝に飲屋街を歩くと、ビニール袋に乱雑に放りこまれた生ゴミとカラスの姿ばかりが眼につくし、電信柱には嘔吐《おうと》された酸っぱい名残がこびりついていたりもする。水商売というものは、たぶん、夜の暗さのおかげでかろうじて成りたっているのだろう。  潮時だ。僕は大きく息を吐くと、階下に降りていった。店員に公衆電話の有無を尋ねるつもりだった。しかし並んでいる客を顔面にこびりついてしまった笑顔で機械的にさばいているその姿を黙って見つめているうちに、どうでもよくなった。  電話くらい、自分でさがそう。  そんな気分で外にでて、ハンバーガーを食べる前よりも人出が増えていることに少し驚いた。新宿は野方図だな。そんな感慨を覚えて、公衆電話にカードを挿しいれた。  最初の呼び出し音が鳴りおえる前に玲奈さんは電話にでた。その素早さが痛々しい。たぶん牢屋《ろうや》に閉じこめられているような気分なのだろう。  玲奈さんはバルボーナの近くでは待ち合わせをしたくないという。いますぐ店をでるから、紀伊國屋《きのくにや》書店で待っていてくれと言って電話が切れた。  この時刻に書店というのには違和感を覚えた。軽い戸惑いを胸に、僕は紀伊國屋書店にむかった。  シャッターの降りた書店の周辺には、思いの外たくさんの人が群れていた。なかには転がって寝ている人、ホームレスもいる。  僕はホームレスの近くに立った。そのあたりだけが人影が途切れていたからだ。  腕時計に視線をはしらせる。バルボーナとコマ劇場、どちらも距離的には同じくらいであるはずだが玲奈さんはなかなかやってこない。  いいようのない懈さが脹脛《ふくらはぎ》のあたりから迫《せ》りあがってきた。僕はホームレスの隣にだらしなく座りこんだ。ホームレスはちいさく鼾《いびき》をかいていた。  タバコを咥《くわ》えた。煙が暑苦しいばかりであまりうまくない。惰性で喫って吐いてを繰りかえしているうちに気づいた。ホームレスの鼾だが、寝たふりだ。  横向きに転がって腕で顔を隠しているホームレスの表情はわからない。  ただ、その鼾は、あきらかに演技だ。周囲の動向に微妙に反応する。  たとえばガラの悪い声が響くと、ことさら正確な規則正しい鼾をかき、僕がさりげなく視線をむけると、とたんに鼾の様子がくぐもったりする。  どういうことなのだろう。ホームレスになって日が浅いのか。まだ完全に居直れないのか。しかし、その服装は皆が避けるに充分な汚れっぷりであり、その隣に腰をおろす僕も我ながら物好きだ。  緊張しすぎる性格で、世の中とうまく折り合いがつけられなかったのか。それとも僕が腰をおろしたせいで目が覚めてしまったのだろうか。もし、そうだとしたら、すまないことをした。横目で、ホームレスを窺った。とたんに、顔を覆った彼の下膊《かはく》の筋肉が幽《かす》かに痙攣《けいれん》した。  睡眠の邪魔をする気はない。立ちあがって距離を取ろうと考えたときだ。小走りに玲奈さんがやってきた。座りこんだまま、笑顔をつくって見あげた。 「ごめんね。空気を引きずりたくないから」  釈明の口調だ。空気を引きずりたくないとはどういう意味か。店の、あるいは仕事の雰囲気を断ちきりたいということだろうか。 「似合うね、ジーンズ」 「でしょう。あたしってラフな恰好《かつこう》のほうが好みなんだ」  見ないほうがいいと思いながらも、僕はそっとホームレスを盗み見て、膝《ひざ》に手をやって立ちあがった。  玲奈さんもホームレスを一瞥《いちべつ》した。あきらかにホームレスが張りつめた。  僕はさりげなくその場を離れた。玲奈さんはホームレスが起きていることに気づかなかったようだ。僕は振り返って訊《き》いた。 「どこに行くの」 「二丁目」 「二丁目って、あの」 「そう。行きつけのゲイバー」 「おもしろい趣味だね」 「だって男にじろじろ見られるのって、もうたくさんなわけよ」  玲奈さんは露骨に顔を顰《しか》めていた。彼女のような仕事をしていると、男の視線に過敏になってしまうのだろう。感傷かもしれないが、僕はなんとなく眠るふりをするホームレスと同じ匂いを玲奈さんに感じた。  よけいなことは言わないでおこう。そう、決めた。玲奈さんが一日に幾人の男を相手にするのかわからないが、僕のようなうぶな男ならともかく、遊び馴《な》れた男からは、きっと自尊心を傷つけられるような扱いを受けることがあるはずだ。  あるいは、客のなかにはストーカーのような男もいるのかもしれない。僕が玲奈さんになんとなく感じていたのは、男に対する過剰な過敏さだ。男はみんな性欲の塊であり、いつだって女を押し倒そうと考えている、といったふうな。  そんな玲奈さんにとって、二丁目のゲイバーは、自分が女であると思いこんでいる男がやっているわけだから気が楽なのだ。僕はそう納得して、玲奈さんのナイト役を貫徹しようと決心した。 「ねえ、おなか、すかない?」 「うん。すいた」  ハンバーガーを食べた僕は、それほど腹がへっているわけではない。しかし腹を押さえてへこたれた顔をつくると、玲奈さんがそっと、しかし満足そうに腕を絡めてきた。  アベックである。僕は初めて女の人と腕を組んで歩いたのだ。自分自身の実感では充分に長く鬱陶《うつとう》しいのだが、他人からみればおそらくはたいして長くない僕の人生において、女の人と腕を絡ませて歩くということは、じつに画期的な出来事なのだ。  今夜の、この腕の感触を記すためだけに、途中で放りだしてしまった日記を書くのを再開しようと考えたほどだった。  まず、微妙な接触があった。僕の腕に生えている毛と玲奈さんの腕の産毛が、まるで静電気を起こしそうなくらいに幽かに触れあって、こすれ、しかしそれは一瞬で、きつく密着していた。  でも僕は、玲奈さんの産毛が触れるか触れないかの瞬間をくっきりと記憶していた。これこそが性的とよばれる事柄の本質ではないか。そんな身の程知らずの感慨さえ覚えていた。  触れるか、触れないか。  接触の極致だ。  そのとき感覚は澄みわたり、神経は研ぎすまされ、触覚は最大限にひらかれて、身震いするほどの昂《たか》ぶりを感知する。  もちろん、そのあとの密着も心地よいものだ。残暑のもたらす汗さえも男と女のあいだでは、ふたりの密着を加速する接着剤としての役目を果たすのだ。 「ご飯がいい? それともお蕎麦《そば》はどう」  僕は腹具合を素早く勘案して、満面に笑みをうかべた。 「やっぱ蕎麦だな」  怖いもの見たさ、つまり冷やかしで幾度か二丁目を歩いたことはある。しかし、この一角に蕎麦屋があるとは思いもしなかった。しかも僕でも知っている有名なルミエールというゲイ関係の本やら雑貨を売る店の隣に、その蕎麦屋はあったのだ。  蕎麦屋に入る前に、僕はルミエールのあたりにたむろしている男たちから値踏みの視線をむけられた。  いきなり緊張した。掌に汗をかいていた。女連れの僕は、彼らにどのように映っているのだろうか。  蕎麦屋は至極真っ当な店だった。木造調の店内には鰹《かつお》だしの香りが漂っていた。席に着くと熱いお茶がでた。注文を玲奈さんにまかせてお茶を啜《すす》る。ようやく気分が落ち着いてきた。 「ご飯が食べられる店もあるのか」 「うん。お米屋さんの上に、朝の九時までやっている定食屋さんがあるわ」 「ここは、何時まで」 「たしか朝の四時くらいまで」 「ねえ、玲奈さん」 「なに」 「あのお姉さん——」  いったん言葉を区切って咳《せき》払いした。というのも、たぶんお姉さんだと思うのだが、意識的に観察すると、とたんに男か女かわからなくなってしまったからだ。 「とにかくあの人、店に入ってきたときからずっと玲奈さんを見ているよ」 「ああ、レズっ子ね」 「レズっ子って、レズってこと?」 「そう。靖国通りと花園通りを貫くかたちで二丁目の仲通りがあって、ルミエールやこのお蕎麦屋さんがあるでしょう」 「うん」 「ちょうど向かいって感じかな、ちいさな路地があるの」  正直なところ、通りの名前で説明されても、このあたりの地理はよくわからない。しかし話の腰を折るのも面倒だから、いいかげんに相槌《あいづち》を打っておく。 「そのちいさな路地がね、レズのメッカ、白百合通り」 「白百合」 「そう。ただ単に百合通りっていう子もいるけどね、とにかくレズビアン・バーが集中してるのね。あたしが独りで歩いていたりしたら、もう、大変」 「もてる?」 「もてるなんてもんじゃないよ。あたしを見てるあの子、男か女かわかんないじゃない」 「そうなんだ。直感的に女だと思ったけど、改めて観察しなおすと、わかんなくなっちゃうんだよね」 「あたし、あの子、知ってるよ」 「知ってるって」  僕は素早くレズの子と玲奈さんを見較べた。玲奈さんが顔の前で手を振った。 「ばか。勘違いしないでよ。ホモとちがってさ、レズって人数が少ないのよ。絶対数が少ないっていうのかな」 「ああ、そういうもんなんだ」 「そう。そういうものなの。だから、界隈《かいわい》をうろついてるのって、いつも同じ顔なんだよね。いわゆる野郎系」 「野郎系」 「そう。ちびで、だぼだぼズボン。決まりきった恰好なんだよね」 「はあ……」  ビールで乾杯していると、天ぷら蕎麦がふたつ運ばれた。揚げたての天ぷらが、つゆのなかで幽《かす》かに爆《は》ぜる音をたてている。 「あつあつだな」  割り箸《ばし》を使って汁のなかに黄金色をした天ぷらを押しこみながら呟《つぶや》くと、玲奈さんはうれしそうに頬笑み、申し訳程度に七味唐辛子を振りかけ、天ぷら蕎麦に集中した。  僕も蕎麦に集中した。ハンバーガーも悪くないが、やはり醤油《しようゆ》の香りと鰹のだしだ。しばらく蕎麦をたぐって、ふと顔をあげると、玲奈さんの額を汗が一筋伝っていた。  そっと手をのばして、汗に触れた。玲奈さんが照れた。 「ひょっとして、あたしたちってラブラブかな」 「うん。かなりラブラブだ」  調子のいい科白《せりふ》がすらすらと口をついてでてくる。玲奈さんはハンカチを取りだして汗を拭《ぬぐ》った。 「ねえ」 「なに」 「レズのなかでもね、しっかり男役入っちゃってる人のことをね、ヅカ系っていうの」 「宝塚のヅカ?」 「そう。ほら」  さりげなく玲奈さんが眼で示したのは、盛り蕎麦を食べているサラリーマン風だった。僕は咳払いして、尋ねなおした。 「あの人が」 「そうよ」 「ちょっと見えないけど」 「でも、女」 「へえー」  ホモであるとばかり思っていたおじさんだったが、女であるときいて、改めて観察しなおすと、なるほど、どことなく女めいているような気もしてきた。  ヅカ系が僕の視線に気づいた。険しい眼差《まなざ》しで見つめかえしてきた。  決まり悪くなった。あわてて視線をそらし、ちいさく咳払いをした。なんだかこの店に入ってから咳払いばかりしているような気がする。僕は蕎麦に集中するふりをして、汁もあまさず飲みほした。  玲奈さんはテーブルに頬杖《ほおづえ》をついて、満足の吐息をついている。ビールと一緒にとどいた焼き鳥が、冷たくなってしまっていた。もう少しなにか食べるか訊《き》かれたが、満面の愛想笑いで辞退した。  蕎麦屋からでると、月が雲に隠れてしまっていた。ビルの谷間から見あげる夜空が、ずいぶんと低くなっていた。 「なんていうのかな。この界隈って、ずいぶん小説を書くのに参考になるような気がするな」 「そうかな」 「うん。おもしろい人だらけだ」 「でも、あぶないよ。ミイラ取りがミイラになるっていうじゃない」 「ははは。僕は、そっちの気はまったくないから」 「どうかな。あたしだってそっちの気はまったくないにもかかわらず、ネコにゃんにゃんしたこと、あるよ」 「どういう意味」 「だから女の子に誘われて、その子、ばりばりのタチで、あたしは逆らいきれずに従順な、でもちょっとだけわがままネコ」  よく意味がわからず雑に肩をすくめると、玲奈さんは呟いた。 「だから、誘われて、断りきれずにレズったことがあるの」 「はあ……」 「男女の差なんて、簡単にひっくりかえるのよ。いちばんあぶないのが、自分にはその気がないと信じこんでいる人」  そういうものかもしれないな、と玲奈さんの言葉を反芻《はんすう》した。ノーマルという言葉の意味が、このあたりを流していると判然としなくなってくる。僕は、二丁目の空気に毒されているのだろうか。  雑居ビルの階段をのぼる。せまくて、暑苦しい。先を行く玲奈さんのジーンズの臀《しり》に視線は釘付《くぎづ》けだ。 「玲奈さんは骨盤、恰好《かつこう》いいね」 「いろいろお世辞をいう人がいるけど、骨盤、褒められたのは、初めてだな」 「いや、お世辞じゃないよ。腰、抜群だ」 「ありがと。鳥|籠《かご》みたいなものよね」 「骨盤が」 「そう。ちんちん、閉じこめちゃう、かなり大雑把な鳥籠」  言いながら玲奈さんは黒っぽい色をしたドアを押した。  カウンターのなかから柔らかな笑みをうかべて頭をさげたのは、茶色がかった巻き毛をした美少年だった。華奢《きやしや》で、綺麗《きれい》だった。僕はさりげなく玲奈さんと彼を見較べた。  男の僕であっても、この少年を前にするとあぶない胸騒ぎを覚える。女性ならば、胸騒ぎどころではないだろう。そんな気がしたのだ。  玲奈さんは常連らしく、奥まったカウンターのいちばん端に腰をおろした。少年からオシボリを受けとりながら、儲《もう》かっているかという挨拶《あいさつ》を交わす。 「だめですよ。玲奈姉さん、頑張らないと」 「だめ。もう、あたし、リタイヤかなあ」 「悲しいこと言わないでくださいよ。玲奈姉さんは、あたしたちオカマの星」 「なによ、それ。あたしもオカマだっていうの」  少年は僕にむかってオシボリを差しだし、媚《こ》びのいっぱい詰まった眼差しを据えた。 「ねえ、お客さん。玲奈姉さんて、きつい化粧をしたら、かなりオカマ顔になりますわよね」 「ああ、まあ、そういえば、整ってるから、オカマ顔か。いえてるかもね」 「わかってらっしゃる、お兄さま」  しなをつくられて、僕はドギマギして、しかも頬に血が昇るのを抑えられなかった。玲奈さんが肘《ひじ》で僕の脇腹をつつき、くくく……と含み笑いを洩《も》らした。 「ねえ、情ちゃん。吉岡さんたらね、そっちの気はまったくない、なんて吐《ぬ》かしてたんだよ。断言してた」 「あら、嘘つきですねえ。あたしとふたりきりにしてくださったら、必ずや」 「できる?」 「ええ。あたしねえ、吉岡さんにフィストしてみたい」 「へえ、もう名前を覚えちゃったんだ」 「当然ですわ。こちら、あたしの好みですもの。商売抜きで尽くしちゃう」  会話だけ聴いていると、どっちが女でどっちが男かわからなくなってしまいそうだ。美少年がボトルをさがすために背をむけると、玲奈さんがまた僕の脇腹を肘でつついた。 「おっかないわね。情ちゃん、吉岡さんとフィストしたいって」 「フィスト?」 「フィストファック」  玲奈さんがカウンター上に拳《こぶし》を突きあげた。美少年がくるっと振り返って、顔を寄せてきた。 「あら、吉岡さん、フィストくらい体験済みですわよね」  美少年の息が僕の頬を擽《くすぐ》った。  狼狽《ろうばい》気味に僕は尋ねた。 「フィ、フィストファックって、ほんとうに行われるんですか」 「行われますよお。いちど味わったら、もう帰れませんわ」 「その……どんな感じなの」  美少年が僕に視線を据えた。瞬《まばた》きをしない。僕が曖昧《あいまい》な笑いでごまかそうとすると、すっと顔つきを変化させ、冗談めかした口調で言った。 「吉岡さん、はじめから飛ばしてらっしゃるわあ。フィストがどんな感じですか、ですって。お姉さんは、体験、ある?」 「あるわけないじゃない。入らないわよ」 「あら、認識不足。入るんですよ」 「入ったって、けっこうよ。大切な商売道具よ。拡げられてたまるもんですか」  美少年が破顔した。くるっと丸まった唇の端がなんとも可愛らしく感じられて、僕は女性を前にしたときとはべつの昂《たか》ぶりを抑えきれなかった。  それは勃起《ぼつき》といった肉体的な具体性こそないが、あきらかに性的|昂奮《こうふん》だった。しいて表現すれば、中途半端に勃起しかけて、なにやら得体の知れない液体を滲《にじ》ませて、それを下着に染みこませているような、なんだか女性が昂ぶったときのような状態だ。 「吉岡さん。あたし、拳、入っちゃうんですよ」  僕はカウンターの上で握り拳をつくった。きっと泣き笑いの顔をしていたと思う。 「こんなのが」  と、小首をかしげてかろうじて問いかけると、美少年は思いきり首を縦に振った。 「こんなの、入れて、気持ち、いいんですか」 「当たり前じゃないですか。亀頭《きとう》が開きますか」 「開く」 「そう。拳骨《げんこつ》なら、なかで開けるじゃないですか。グウで入れて、パアと開く。直腸ジャンケンて、最近の流行なの。うまく当てたら、勝ち。あたしはけっこう強いんだな。 っていうのも、だって、開いたらパアに決まってるじゃないねえ」  言うだけいうと、美少年と玲奈さんは顔を見合わせるようにして笑いだした。僕は毒気にあてられっぱなしで、追従の笑いをうかべることくらいしかできない。  だいたい客が僕と玲奈さんしかいないのがいけないのだ。抽《ぬき》んでて美しく、しかも超越的な変態を僕と玲奈さんで独占しているのがまずいのだ。しかも童貞を棄てさったばかりの僕には、全てが想像の埒外《らちがい》だ。どこまでが事実なのか、どこまで信じていいのかわからないことだらけだ。  それでも和やかに酒宴は続いていき、美少年は客がこないことを嘆くでもなく、僕たちはどんどん杯を重ねていった。いいかげん酔いがまわって、僕は以前から知りたかったことを尋ねた。 「ねえ、僕には正直なところ、同性愛の気があるんだろうか、ねえ」  ねえ、ねえ、と連呼するあたりに酔っ払いのくどさが滲んでいるなあ、などと他人事《ひとごと》のように思い、美少年に視線を据える。 「あら、自分がホモかどうか自分できちっと判断できる画期的な方法がありますわ」 「自分で判断できるの」 「できます。正確に」  玲奈さんが割りこむ。 「それってレズかどうかもわかるの」 「わかりますう」  美少年も酔ったのか、顔の色は白っぽいままだが、語尾が微妙に迫《せ》りあがるようになってきた。 「おせえて、おせえて」  玲奈さんが甲高い声をあげた。僕も唱和した。おせえて、おせえて、おせえて。美少年がもったいつけて人差し指を立てた。 「いいこと。オナニーのときにいちどでも男のことを考えたことのある人は、間違いなくホモ」 「それだけっすかあ」 「それだけよお。ホモってねえ、いくら必死で表面上の感情を抑えて女の人とやってたって、オナニーのときは気がゆるむの。同性愛の気がちょっとでもあれば、おちんちんをしごくときに、なんとなく好みの男の人の面影が忍びこんできちゃうんだなあ」  玲奈さんがもったいつけて言った。 「あたし……高校のころかなあ、いつもお姉さんのことを思ってしてたなあ」  僕はわざと訊《き》く。 「なにを」 「ばかあ。オナニーよ、オナニー」 「じゃあ、充分にレズっ気があるんじゃないですか」 「そういうことになるか」 「なりますよ」 「いいわよ。あたしは、レズ。今日からレズ。問答無用のレズ。男好きのレズ」  言いながら玲奈さんはバーボンのロックを呷《あお》る。そして、いきなり、話が飛ぶ。 「ねえ、わかってるの。あたしは、もう、飽きたのよ。ホスト遊びはやめ。やめたのよ。 ったく、いったい幾ら貢いだんだろう。一千万じゃきかないよね。ねえ、情ちゃん、あたしさあ、一千万じゃきかない女なんだよ」  美少年は苦笑し、適当にあやし、それから僕に向き直る。  僕はごく自然に美少年と視線をあわせ、頬笑みあう。空気は、ますますもって和やかだ。僕は美少年と相性がいい。しかも、とても気楽に接することができる。  もう、先ほどまでのようにドギマギすることもない。なぜならば、彼が単純だが的確かつ見事な真実を教えてくれたからだ。  曰《いわ》く——オナニーのときにいちどでも男のことを考えたことのある人は、間違いなくホモである。  これは、じつに名言だ。  なるほど、と思う。  つまり本人が嫌だと思っていてもその気のある奴は、オナニーのときに、ほとんど無意識のうちに男の面影を想って勃起させてしまうのだ。  この美少年も女性の面影ではなく、男の姿を想ってオナニーをしていたのだ。  ところが、僕は中学に入ってオナニーを覚え、日々着実に実行するようになってから、力強く断言してしまうが、いちども男を想ってオナニーをしたことがない。  その最中に男の面影が忍びこんできたこともない。僕は女の人に手をだせない惨めな野郎ではあったが、それでも、常に女の人の面影で射精してきた。  こういうゲイバーといった形態の店でなんとなく覚える不安は、じつは、ひょっとしたら自分にその気があるのだろうか、ないのだろうかという曖昧《あいまい》さによるものではないだろうか。  とにかく微妙な居たたまれなさを覚える人は、自分のオナニーを思いかえして、その行為の最中に男の面影が忍びこんできたことがあるかどうかを回想してみればいいのだ。  もし、男の面影が忍びこんできたことのある人は、居直ればいい。  自分には同性愛の気がある、と。  それは、悪いことではない。すこしも悪いことではない。  確かに異性愛のように認知されていないかもしれないが、快感なんて、否定されている事柄のほうが強烈なんじゃないだろうか。 「そうですよ。〈同性愛の愛知らず〉 っていうんです」 「どういうこと」 「つまり快感の追求ばかりにはしるんですの。あたしにもその気があるから偉そうに言えないけれど、愛なんかじゃなくて、いかに眩暈《めまい》のしそうな快感を味わえるかに全てを賭《か》けてしまうのね」 「はあ。そんなもんですか。僕は、同性愛の人は、より純愛なのかと思ってたけど」 「誤解ですう。ホモって汚らしいの。とことん汚れているのよ」 「どうしたんですか。卑下する必要はないですよ」 「わかってらっしゃらないのよ。あたしなんていまやフィストに夢中で寝ても覚めてもフィスト一直線。どうなっちゃうんだろう」 「そういえばフィストファックがどうこうって言ってたよね」 「そうなんですよお。最初はちょっとした悪戯《いたずら》のつもりで高田馬場のサド師のところにでかけたんだけど、はまっちゃって」 「そういうことをしてくれる人がいるわけだ」 「そうなんですよ。してくれちゃうんですよ。あたし、その人に夢中で」 「じゃあ、愛じゃないですか」  横目で玲奈さんを窺《うかが》う。カウンターに頬杖《ほおづえ》をついて、かろうじて起きてはいるが、半分眠っているような状態だ。  疲れているのだろう。そっとしておいてあげよう。それに、なによりも、フィストがどのようなものか下世話な好奇心に支配されていて、酔っ払った玲奈さんのことなどどうでもいい。 「ちがうんです。そりゃあ、その人のこと、好きだけど、正確にはその人の腕がお臀《しり》の穴に入っちゃうことが好きなんですよ」 「ほんとうに、腕まで入っちゃうんですか」 「入りますよお。ちゃんと張り形を使って拡げておくんですけどね」 「はあ……日々、修練、鍛錬てか」 「そうなんですよお。鍛錬のたまもの。最初はジェラシック・エラ・コックくらいですけどお、そのうち、エスカレートして、いろいろ大丈夫になっちゃうんです」 「たとえば」 「いやん。だって、あたしの口からペットボトル一・五リッターを呑《の》みこんじゃうなんて言えませんのことよ」 「言ってるじゃねえか」  僕はわざとガラの悪い口調で応じる。余裕|綽々《しやくしやく》である。というのも、自分がいまだかつて男を想ってオナニーをしたことがないという確証があるので、美少年とは絶対に愛しあう関係に陥ることがないという確信をものにしているからだ。 「ねえ、吉岡さん。水を詰めたペットボトルを冷凍庫でキンキンに冷やしておくんですよ。ただし、凍らせちゃったらだめなんです」 「それを、入れるの」 「入れるんですの。冷たいのを、じわじわ、すぽん、て。凍傷覚悟だけど、なんていうのかなあ。一・五リッター。その重量感がたまらないんですね。アナルにずっしりとくる重さ。直腸重力って名付けてるんだけど」 「なんか文学的だな。直腸重力か。足穂がよろこびそう」 「いいですよねえ、稲垣ちゃん。あたし、愛読者ですよ。肛門《こうもん》性交は腸から食道を経て、大きく開かれた口から天に通じているとかいう意味の文句を漠然と覚えてます」  美少年が祈るように手を組んで、中空にうっとりとした視線をやった。稲垣足穂も彼に稲垣ちゃんと呼ばれて、天国で苦笑しているだろう。いや、柔らかく頬笑んでいるか。  ともあれ一・五リッターサイズのペットボトルが入るのだとすれば、拳骨《げんこつ》はおろか腕までも充分に呑みこめるわけだ。 「うーん。人間の可能性に乾杯」 「吉岡さんも試してみません」 「フィスト」 「ええ」 「いや、ちょっとね」 「でも、これってホモと関係ないから。もちろんホモのほうが馴染《なじ》むけれど」 「純粋な快楽の追求か」 「そういうことですう。はっきりいって腕を入れてくれる人の技術と相性ってありますけど、純粋に個人的な問題であり、個人的な快感なんですよね」 「はまると、怖そう」 「怖いですよ。じつに怖いです。際限がないんです。ほんとうに、そのうち、あたし、頭を入れてもらうことになるでしょうね」  僕は頭を左右に振るだけである。素人考えではあるが、これは脳|味噌《みそ》が肥大した人間だけが行う変態行為だろう。美少年はフィストという行為に快楽を覚えているのではなく、頭さえも入ってしまうという空想の実現に狂おしいまでの欲求を覚えているのだ。想像力が支える快感だ。それとも、じつは、もっと即物的なもので、実際に腕が入ってグーチョキパーをすることが気持ちいいのだろうか。 「体験してみないとわからなそうだけど、わかってしまったときは、足抜けできないって感じだろうな」 「そうなんですよお。蟻地獄」  蟻地獄か。この世は、程度の差こそあれ蟻地獄だらけなような気がする。それとも、こういった感慨あるいは観念をもつこと自体が蟻地獄を助長するのかもしれない。蟻地獄をつくるのは僕自身であるということだ。  やっと客が入ってきた。若く、清潔そうな青年のふたり組だった。一分の隙もなく刈りあげた髪の青々としたあたりが、見事に同性愛の匂いを放っている。  美少年は彼らの応対をしながら、ちらちらと僕に視線をむける。決して僕が性的なのではない。ただ僕は彼らのいういわゆるノンケであり、異性愛者である。そんな僕をこっちの道に引きずりこんでしまうことに野心を燃やしているのだ。  僕がすっかり薄くなったバーボンの水割りを飲みほしてちいさく息をついたときだ。カウンターに突っぷしていた玲奈さんがいきなり顔をあげ、酔いに赤く染まった瞳《ひとみ》を僕の顔に据えた。 「よし。吉岡。次行くぞ」 「はい」  と、返事はしたものの、次に行くには、玲奈さんはちょっと酔っ払いすぎているのではないだろうか。たいして強くもないくせに玲奈さんはバーボンをロックで飲んでいた。  僕は美少年に声をかけた。美少年は僕の顔をまっすぐ見つめた。 「お勘定、こうなってます」  玲奈さんは酔いにまかせて揺れている。僕は顔にださずに悩んだ。玲奈さんが払ってくれるという約束ではあったが、こんな状態である。  勘定書には通信教育のペン習字を習ったかのような端正な字で一万二千円とある。僕はポケットのなかに裸で突っこんであった一万円札と五千円札を取りだした。  つりを受けとって、玲奈さんを支えるようにして店をでようとすると、美少年が哀願するような口調で言った。 「お安くしておきますし、今日入れていただいたボトルもあります。ぜひ、またいらしてください」  僕は満面の笑みをかえして頷《うなず》いた。彼とはうまくやっていけそうな気がした。なぜか、僕のほうが優位に立っているのが直感できたからだ。  それは客と商売人という関係の優劣ではない。もっと根元的な性に根ざしたものだ。おそらくは、僕は、ある種類の同性愛者たちに好かれる個性をもっているのだろう。  路上にでると、月は完全に隠れてしまっていた。しかし界隈《かいわい》は賑《にぎ》わっている。男とやりたい男が、群れている。玲奈さんを支えて歩く僕は、この界隈で異物である。  ここから早く逃げだそう。脱出だ。それが礼儀であるような気もした。  さらに僕の心を覗《のぞ》いてみると、酔ってしまった玲奈さんを介抱するという大義名分のもと、まだいちども入ったことのないラブホテルなるホテルに入ろうという大いなる野望が兆していたのであった。  あれほど冷たかった玲奈さんの躯《からだ》であるが、いまや凄《すさ》まじく熱をもっている。しかも彼女の脈拍が肌をとおして伝わってくるような感じさえする。  僕は密《ひそ》かに性的な昂《たか》ぶりを抱き、玲奈さんを支えなおす。玲奈さんの肌は酔いからくるのだろう、妙に粘つく汗に覆われて、爬虫類《はちゆうるい》のような艶《つや》がある。  記憶をふりしぼる。ラブホテルが林立しているのは、確かコマ劇場の裏側、バッティングセンターなどがあるほうだ。いままでは無縁の場所と決めこんで、そのあたりの地理は曖昧《あいまい》なままだったが、いまや、僕は利用客としてホテル街を目指すのである。  だから二丁目から新宿通りの方向に抜けるのは、得策ではない。少しでも愛の宿に近づくためには靖国通りのほうに抜けるのが大人の態度というものだ。  よろける玲奈さんを支えなおして、うろ覚えの二丁目の地理を改めて脳裏に組みたてなおそうとしたときだ。玲奈さんが自嘲《じちよう》の口振りで囁《ささや》いた。 「二丁目は詳しいよ」 「そうなんですか」 「そうだよ。だってさ」 「だって?」 「だってさ、あたし、二週間にいちどはここにきてさ、検査してもらってるから」 「検査って、なんの」 「おまんこよ」 「はあ」 「おまんこ検査だよお」  僕は舌打ちした。しかし玲奈さんは大声で連呼する。僕が困るのがおもしろくて仕方ないという酔っ払い心理だ。 「そうですか。おまんこ、検査してもらうんですか」  わざとつまらなさそうな、しかも冷静な声をつくって応じてみたが、酔っ払いの嫌らしさか、玲奈さんは僕の表情を窺《うかが》い、得意そうに女性器名称を連呼する。その表情はなんとも得意そうだ。  周囲の人々の注目の視線がつらいが、言いたいだけ言わせてしまおう。そう決心して、僕は唱和した。僕もそれなりに酔っているので、その気になれば怖いものはない。  おまんこおまんこおまんこおまんこおまんこおまんこおまんこおまんこおまんこおまんこおまんこおまんこおまんこおまんこ——  拳《こぶし》を振りあげて繰りかえしているうちに言葉は意味を喪《うしな》い、ただの呪文《じゆもん》になってしまう。玲奈さんと僕は大声で連呼しながら、靖国通りにでた。 「一個でもおまんことはこれいかに」 「だっさー、吉岡、すっげーださい。ださくさですう。責任とれ、吉岡」 「はい、はい。ちょっと休みましょうね」 「いいなあ、それ。あたし、もうだめ。休ませろお」  しめた、と思いつつ、僕は靖国通りを行く車の流れが切れるのを待つ。信号のある交差点まで行くのが懈《だる》いので、適当に横断するのだ。  深夜にもかかわらず、車の流れはなかなか途切れることがない。玲奈さんは当然のこととして、僕も酔いを自覚しているので、強引に突っきる無謀は避けようと、ずるずると動きだす玲奈さんを押さえこむ。  すると玲奈さんはガードレールにちょこんと座って、僕にも座れと命じた。 「なあ、吉岡。あたし、もう、二丁目の病院に行くの、疲れたよ」 「おまんこ検査ですか」 「血ィ、抜かれるんだぞ」 「血液検査」 「吉岡はいちいちうるさいよ。なにが血液検査だよ、ばか。言い直すんじゃねえよ」  内心は、理不尽だとムッとしながらも顔には満面の笑みをうかべている。男というものは、下心をもつと、なんと寛容になれる生き物であろうか。 「我慢できないのはさ、性病はともかくだぞ、シャブの検査までされるんだよな」 「シャブ」 「そうだよ。あたしがヤープーなんかやってるわけないじゃんか。ねえ」 「それはそうですよね。絶対にやってないですよね」 「ばか野郎。あたしはポン中じゃなくてアル中だよ、ばか」  確かに玲奈さんは覚醒剤《かくせいざい》とは縁がなさそうだ。僕は子供にするように玲奈さんの頭を撫《な》でた。玲奈さんは僕に完全に躯をあずけてしがみついている。  ガードレールに座ったまま、ちらっと背後を窺うと車の流れが途切れていたが、かなりいい感じである。僕は父親のような気分で玲奈さんの頭を撫でつづけた。  酔いがまわっている。僕は玲奈さんを抱き支えながらも、躯を前後に揺らせていた。玲奈さんは完全に虚脱して、ただ、呼吸だけが痛々しいくらいに荒い。  ふと意識が途切れた。一瞬眠ってしまったのだろうか。玲奈さんが僕の脇からすり抜けていた。僕は、玲奈さんのタクシーという怒鳴り声を聴いて、あわてて立ちあがった。  黄色い車体に朱色の線が入ったタクシーが急停車していた。ドアが開くと同時に、玲奈さんが転がりこむように乗りこんだ。僕はぽかんとしていた。運転手が僕と玲奈さんを見較べて、ドアを閉じようとした。  もちろん、飛びこんだ。間一髪といったところか。運転手が肩をすくめた。玲奈さんがにこやかに告げた。 「うちまで」 「はい。おうちまでですね」  おいおい、そういう受け答えをするか。僕は緊張を抑えこんで、運転手に適当なホテルまでと告げた。  タクシーは靖国通りを新宿大ガードの方向に走っている。すぐにおなじみの景色が拡がった。玲奈さんは首をがっくりと折って、僕にしなだれかかっている。  歌舞伎町の奥のホテル街にすんなりと入れるのだろうか。円町君とバルボーナに行ったとき、一方通行のおかげでオートバイを歩道に停めて歩いたことが念頭をかすめた。 「お客さん。まかせてもらっちゃっていいですか」  タイミングよく運転手が声をかけてきたので、僕はお願いしますと応《こた》えた。ところが玲奈さんがいきなり顔をあげた。 「目標、南阿佐ヶ谷。中杉通りを北上せよ」  僕は焦った。おそらくは自宅がある場所を告げたのだ。玲奈さんは変なところで意識がしっかりしている。  具体的な場所を告げられたので、運転手もそれに従わざるを得ないのだろう。よけいなことを言わずに車を大ガードに飛びこませた。青梅街道だ。  ふたたび玲奈さんがしなだれかかってきた。荒かった息は、多少は規則正しくなり、鼾《いびき》と寝息の中間くらいになって落ち着いた。  まあ、いいか。玲奈さんの部屋にあげてもらえば問題はない。ホテル代もかからないし、なによりも玲奈さんが僕を信用してくれたということだろう。  なによりも、うまくいけば僕は玲奈さんのヒモになれるかもしれない。幸荘も悪くないが、玲奈さんに養ってもらえれば僕は小説を書くことに専念できる。  まだ残暑厳しき折、エアコンのある部屋で原稿用紙に向かえば、さぞや執筆が捗《はかど》ることだろう。  僕は捕らぬ狸の皮算用をしながら、ちょっとだけ大胆な気分になり、運転手に気づかれぬように、そっと手を玲奈さんの臀《しり》にまわした。  やったことはないが、まるで電車のなかの痴漢である。玲奈さんの臀の張りが僕を昂《たか》ぶらせる。酔っているせいもあるが、僕は玲奈さんにかわって露骨に息を荒らげていた。  指先に意識を集中していた。だから運転手のくぐもった声に反応するのが遅れた。  もちろんジーンズの生地の上からではあるが、僕は図々《ずうずう》しくなって玲奈さんの臀の裂けめに指先を這《は》わせ、進ませ、ほとんど挿入するかのようなかたちをとってこすっていたのだ。 「ああ、いま、起こします。ねえ、玲奈さん。中杉通りに入ったそうです」  すると玲奈さんはすっと顔をあげ、運転手に道を指図しはじめた。多少は酔いも抜けてきたのか、具体的でしっかりした口調だ。  タクシーが中杉通りを右折した。とたんに街灯がまばらになり、暗くなった。さらに路地を右に曲がり、左に入ったような気がしたが、もう完全に方向がわからなくなった。生け垣が黒々と壁になって、立派な屋敷があるようだ。 「運転手さん。その路地を右に入ったところで停めてください。ひとり、降ります」  腕組みなどしてシートにふんぞりかえって僕は玲奈さんの言葉にうん、うん、と頷《うなず》き、ふと我に返った。  ひとり、降ります——?  どういうことだ。  僕の心臓は酔いとは別の理由で鼓動を早めた。玲奈さんの臀に這わせていた指もとっくに外していた。僕は一気に醒《さ》めていった。同時にある覚悟をしていた。  それなのに、まだ、甘い期待を棄てきれていなかった。  タクシーがせまい路地を右に曲がった。玲奈さんが停めてくださいと他人行儀な声を運転手にかけた。車が停まった。 「じゃあ、ね。吉岡さん。愉《たの》しかったわ。またね。また、お店にいらしてね」  車内に顔をわずかに突っこんで、玲奈さんが頬笑んだ。作り笑いに見えた。僕は引き攣《つ》れた笑顔をかえし、鷹揚《おうよう》な声で応えた。 「うん。ほんと、愉しかった。また、あの美少年に会いにいこうね」  精一杯の虚勢だった。玲奈さんが小首をかしげた。それがなにを意味する仕草かは判然としない。  すっ、と玲奈さんの顔が消えた。そういうふうに感じられた。  街灯のない路地に玲奈さんの姿があった。ひどく頼りなく立っているが、酔っているふうには見えなかった。  運転手がドアを閉めた。僕は躯《からだ》をねじまげて玲奈さんの姿を凝視した。  玲奈さんは、あっさりと、背をむけた。  せっかく右折したのに、彼女は道をもどっていくのだ。  それがなにを意味するのか。僕に自宅の場所を教えたくないということか。  玲奈さんはいちども振り返らなかった。その姿はあっさりと闇に溶けた。僕はジーンズ越しとはいえ、玲奈さんの臀を悪戯《いたずら》していた自分の指を虚脱して見つめた。  運転手がどこに行くのか尋ねてきた。僕は照れ笑いを滲《にじ》ませた声をつくっていちばん近いJRの駅に行ってくれと言った。まだ始発まで時間があると運転手がよけいなことを言った。僕はカラッとした声で応えたつもりだった。でも、泣き声だった。 「金があまりないんです。始発を待ちます」      10  秋の虫がその鳴き声を競う季節になっても僕は玲奈さんとの悲しきデートの顛末《てんまつ》を誰にも語っていない。自分の惨めなことをあれこれ得意がって話すようなところのある僕であるが、このことだけは人に喋《しやべ》れない。  タクシーのなかで玲奈さんの臀に指を這わせて悪戯したのがまずかったのだろうか。  いや、それは、ちがうだろう。そんなことで嫌われたのではない。甘い期待をもちすぎた僕の目と感受性が曇っていたのだ。勝手な思い込みをしたあげくに、独り相撲をとっていたというわけだ。  僕はあの惨めな夜のことを自分に納得させるために階級差などという大げさな言葉をもちだして、とりあえず納得しているというか、自らを慰めている。  僕と玲奈さんは階級がちがうのだ。それを強いて言葉にすれば買春階級と、売春階級ということになる。買う方と売る方は、同じ土俵に立つわけにはいかないのだ。  金を払う方が、じつは立場が弱くなる。本来は優位に立つために金があるのに、円町君であるとか僕のようにある感受性を持っている人間にとっては、金を払うことによって弱みをもってしまう。  それは、はっきりいって、自分勝手な幻想をもつせいだ。僕は玲奈さんを金で買った。そう割りきって接するのがいちばん正しいやり方なのに、そこに人間的な関係の幻想を持ちこんでしまう。 「金で買っておいて、それはないよな」  独白して、数行書いただけの原稿用紙を指先でコツコツ叩《たた》く。  秋の夜風が心地いい。エアコンの利いた玲奈さんの部屋で創作に励むという幻想は見事に打ち砕かれたが、幸荘だって季節が変われば天然のエアコンが利くようになる。  僕は夜風に原稿用紙が舞いちらぬように広辞苑《こうじえん》を重し代わりにのせて、立ちあがった。 「ああ、そうだ、確かあそこに」  最近の僕は、なにやら行動に移る前に、どうも独り言をしているような気がする。認めたくはないが、女性を知ってから、よけいに寂しさが増した。  知ってしまったおかげで、痛みまで覚えるようになった。あれからバルボーナには行っていない。金銭的な問題もあるし、買うということに対する難しさに気持ちが萎《な》えてしまうのだ。 「あった、あった」  僕は窓から身を乗りだし、雨戸の戸袋に隠した富樫君のカルバン・クラインのオードトワレ、エタニティー・フォーメンを取りだした。ちいさなボトルにはうっすらと埃《ほこり》が積もっていた。そっと首筋に噴いた。  やがて立ち昇った匂いは、なんだかひどく虚《むな》しい香りに感じられた。僕にはふさわしくない芳香だ。なんとなく納得して、ティッシュで瓶の埃を拭《ぬぐ》い、親指と中指でつまんで持つ。  富樫君は不在だった。飲みにいったのだろうか。僕はそっと富樫君の部屋の前にエタニティー・フォーメンを置いた。廊下にさがる裸電球の黄色い光を浴びて、意外な美しさで瓶が輝いている。  しばらく見つめて、溜息《ためいき》をつき、溜息をついた自分を意識して苦笑し、突っこむ必要もないのにジーンズのポケットに両手を突っこんで少しだけ前屈《まえかが》みになって廊下を行く。  円町君の部屋の前に立って、ようやく気配に気づいた。幽《かす》かな囁《ささや》きがとどく。香月さんがきているのだ。相変わらず幽霊のように物静かだ。僕はわざとらしく咳《せき》払いをしてからドアをノックした。  はじめて円町君の部屋で香月さんと会ったときには汗をかいた麦茶のペットボトルと口紅のついたコップがあったが、今夜の香月さんは薄手のカーディガンを羽織って軽く小首をかしげている。  僕は唐突に季節の移り変わりを実感し、身をすくめるようにしてTシャツから剥《む》きだしの二の腕を押さえた。そんな僕を見あげて香月さんが尋ねてきた。 「元気にしてた?」  僕は満面の笑みをうかべた。 「吉岡君」 「はい」 「ずいぶん大人っぽくなったね」 「——そうですか」 「うん。いいね。いい感じよ」 「ははは。褒められた」  僕は不思議な安らぎを覚えて畳の上に座りこんだ。僕と円町君、そして香月さんの座る姿を天井から見おろしたら綺麗《きれい》な正三角形を描いているだろう。  夜風が香月さんの髪を乱す。香月さんが軽く髪を払った。改めて思った。凄《すご》みのある美しさをもった人だ。  円町君は愛用のギターの指板にこびりついた垢《あか》をピックで剥《は》がしている。遊びでときどき弄《いじ》るならともかく、円町君のようなプロフェッショナルになると、常時ギターを弾いているので、フレットが指の垢や汗で汚れるのだ。  僕がその作業を見つめていると、円町君が眼で合図を送ってきた。当然ながらバルボーナに行ったことは黙っていろということだ。だから、僕は口ばしった。 「じつは、ですね。僕、ソープで童貞を棄てたんですよ」  とたんに円町君の顔がわずかに歪《ゆが》んだ。僕はなぜ恩を仇《あだ》で返すようなことをしているのだろうか。自分の理不尽な気持ちの動きに軽い狼狽《ろうばい》を覚えた。  しかし香月さんは円町君の顔の変化に気づかなかったようだ。鈴虫の声が涼しげだ。円町君はふたたび無表情にギターのフレットの垢をピックで削りはじめた。  僕は黙って円町君の作業を見つめた。香月さんが呟《つぶや》くように言った。 「そうか。棄てちゃったんだ」 「棄てました」 「どんな感じ」 「べつに。大げさなことをいえば、新しい煩悩を抱えたような気もするけど、よくわからない」 「煩悩か。わかるわ、なんとなく」 「わかりますか」 「うん。セックスに対して抑制のきかない自分に苛《いら》だつもの」 「香月さんは抑制がきかないんですか」 「きく人がいたら、会ってみたいわ」  僕はちいさく笑った。いまなら香月さんの言葉に、素直に頷《うなず》くことができる。  円町君は相変わらずギターのフレットを清掃している。僕と二人だけのときには姦《かしま》しいくらいに喋るのに、香月さんがいるとなぜか無口な円町君だ。 「誤解してもらっては困るのは、女と男は抑制のきかなさが違うのね」 「違いますか」 「違う。男の人っておしっこをするみたいにセックスをしたがるでしょう」 「ああ、そうかもしれません」 「女の場合は、ちょっと違うのよね」 「どう違うんですか」 「ノーコメント」  思わせぶりに頬笑んで香月さんは立ちあがり、ケトルに水を入れ、ガス台にかけた。僕は痩《や》せた香月さんの後ろ姿を漠然と眺めた。唐突に円町君が呟いた。 「俺は女のほうが業《ごう》が深いと思うな」 「おっ、凄いお言葉がでましたね」  僕が茶化しても円町君は表情を変えなかった。ギターを傍らにおき、淡々とした声で言った。 「男は小便をするみたいにセックスをするからこそ、可愛らしいもんなんだよ」  香月さんが茶筒から目分量で急須《きゆうす》にお茶の葉を入れた。そのサラサラと乾いた音に耳を澄ましていると、そっと振りむいてきた。立ったまま僕たちを見おろす。 「円町の言うことは理解できるよ。でも、だからって際限なくあちこちで精液を撒《ま》きちらしていいってわけじゃないわ」 「なんのことだよ」 「いいわ。許してあげる。吉岡君を男にするために誘ったって好意的に解釈してあげる」  円町君の視線が狼狽《うろた》え気味に宙をさまよった。僕は感嘆して香月さんと円町君を交互に見較べた。  僕が円町君に誘われてソープに行ったことなど、香月さんにとってわかりきったことだったのだ。お見通し、といったところか。  女の直感か。あるいは僕がソープで童貞を棄てたなどと余計なことを口ばしってしまったせいか。まあ、九十九パーセント、僕の余計な科白《せりふ》のせいだろう。  気詰まりな沈黙が続いた。  ケトルの湯が沸いた。  蒸気が噴きあがる。  こらえなければと奥歯を噛《か》みしめた。噛みしめたのだ。しかし、場違いなピィーというけたたましい音に、僕は思わず笑ってしまった。  とたんに円町君もうつむきかげんのまま、くくく……と忍び笑いを洩《も》らした。香月さんが溜息をついた。円町君を見据えた。 「この猿は、際限がないのよ。顔も猿なら、アレも猿」  さすがに円町君が嫌な顔をした。人前で、猿、猿と連呼されてはたまらないだろう。しかし香月さんの頬にうかんでいるのは苦笑の気配である。とりあえず大丈夫だろうと僕は判断して、肩から力を抜いた。 「香月さん。なにをしてるんですか」 「なにって」 「立ちっぱなしだ」 「湯を冷ましてるのよ」 「なんで」 「なんでって、吉岡君は熱湯でお茶を淹《い》れるの」 「熱湯というか、お湯ですよ。ヤカンからドボドボと」 「最悪。ちょっと冷ますものなの。だいたい八十度くらいかな。いいお茶はもっと低い」 「そういうもんなんですか」 「そういうものなの。熱湯ドバドバじゃ、せっかくのお茶の葉が台無しよ」 「すみません」  なぜ、あやまっているのだろうと思いながらも、僕は上目遣いで頭をさげていた。  香月さんの淹れてくれたお茶は、たしかに僕が淹れたものと違って甘く、しかも香ばしかった。苦いだけの液体ではない。ふーん、と納得しながら、湯気を吹く。秋の夜長、酒もいいが、お茶も悪くない。 「それはそうと、吉岡君。どうなったの」 「なにが、ですか」 「佐和子。やっちゃった?」  僕は思わず咳《せき》払いをしていた。これが安っぽい映画のシナリオかなにかだったら口からお茶を吹きだしているところだが、おなじ安っぽさでも、僕は茶碗《ちやわん》をおいて、わざとらしく咳払いをしていた。 「ねえ。どうなったの」 「どうなったのって——」 「なに、絶句してるのよ」 「だって、香月さんは強引すぎますよ」 「なにが」 「佐和子さんにまったくその気がないのに、僕と無理やり会わせたでしょう」 「まったくその気がなかったかなあ、SSは」  SSが、佐々木佐和子の略であることに思い至るまで、しばらく時間がかかった。僕は憤った口調で捲《まく》したてた。 「ありませんでしたよ。まったくありませんでした。あれこれ男女のことを話しましたけど、あくまでも一般論か、あるいは佐和子さんの個人的なことに終始して、最後にはあやまられてしまいましたからね」 「あやまられた」 「そう。あやまられたあげくに、借りはつくりたくないって言われて、コーヒー代を払われちゃいました。いいところなしってやつですか」  香月さんがしげしげと僕の顔を見つめた。香月さんの黒眼に僕の戸惑った顔が映っている。僕が視線をそらしたとたんに、軽蔑《けいべつ》のこもった口調が刺さった。 「だらしない男だなあ、吉岡君て」 「そんな言い方はないでしょう」 「無様だよ。せっかくあたしがセッティングしてあげたのに」 「だから、あのお見合いには無理があったんですよ」 「言い訳」 「言い訳ですか」 「言い訳よ。言い訳にすぎないわ。吉岡君はSSのことをどう思ったの」 「どう思ったって、凄《すご》く綺麗《きれい》な人で、その、なんていえばいいのかな」 「なんていうのよ」 「惚《ほ》れこみましたよ!」 「じゃあ、なんで」 「なんでって」 「なんで、黙って帰しちゃったの。男なら、やっちゃいなさいよ。やっちゃうべきよ」 「やっちゃうべきって……」 「男なら、ちゃんとアプローチをするべきでしょう。私は貴女《あなた》が気にいりました。欲しいですって」  いままで黙っていた円町君がいきなり口をはさんだ。 「そうだな。やっちゃうべきだったな」  腹立ちを覚えた。円町君に言われる筋合いはない。 「勘弁してくれよ。僕は円町君じゃないんだ。円町君とは違うんだ。やりたいからって、やっちゃうような、あるいはやっちゃえるような男じゃないんだ、僕は」  すると香月さんが引きとった。 「そうね。たしかに円町は、少しは吉岡君を見習わないとね」  円町君は憮然《ぶぜん》とした顔で口を噤《つぐ》んだ。傍らにおいたギターを手に取り、抱きかかえ、覆い被《かぶ》さるようにしてふたたびフレットの垢《あか》を削りはじめる。  罪悪感が迫《せ》りあがった。僕は悪くない。  悪くはないが、少しは悪いかもしれない。  理屈では、僕はまったく悪くない。しかし感情がそれを裏切る。 「すまん。言いすぎた」  円町君は僕を無視して、ギターに覆い被さっている。鈴虫の儚《はかな》げな声が切れぎれに聴こえる。冷涼な夜風が僕を醒《さ》ます。  居たたまれない沈黙が続いた。僕はこの場から逃げだそうと考えた。卑怯《ひきよう》ではあるが、もう、この場にいたくない。  香月さんの口から深い溜息《ためいき》が洩れた。  僕は身動きができなくなった。立ちあがろうとしていたのだが、その場に固まった。 「吉岡君」 「はい」 「あたしは円町が好きなの」 「わかってます」 「円町を悪く言わないで」 「ごめんなさい」 「たしかに救いようがないけど、でも、それをズバッと指摘されちゃうと、あたしが悲しくなっちゃうよ」 「いえ。はっきりいって円町君は男気のある素晴らしい奴です。僕のような狡《ずる》い男とは違います」  いきなり円町君が舌打ちをした。立ちあがった。でていった。声をかけようとしたが、咽《のど》が硬直して声がでなかった。廊下を円町君の足音が遠ざかっていく。  僕は小声で香月さんにあやまった。あやまることしかできない。あやまり続けてそっと顔色を窺《うかが》うと、香月さんは頬笑んでいた。 「円町が傷つくのは、いまにはじまったことじゃないから。円町ってひたすら傷つきやすいのよ。大人になりきれないっていうか」 「はい」 「だから気にしないで。それよりも、あなたと佐和子。必ず一緒にしてみせる。またセッティングするわよ」  冷静な顔でお茶を飲みほす香月さんを、僕は苦笑いして、見つめた。      11  洞窟《どうくつ》のようなくぐつ草で、僕と佐和子さんは向かいあって座っていた。佐和子さんはGジャンとジーンズといういでたちで抽《ぬき》んでたスタイルを誇示し、周囲の視線を一身に集めている。  また会えたという嬉《うれ》しさと昂《たか》ぶりに心臓の鼓動が尋常ではない。その一方で派手な美貌《びぼう》の持ち主である佐和子さんと地味な自分という取り合わせを客観視してしまって、臆《おく》してしまう気持ちも強い。  僕はコーヒーを一口含んでから、上目遣いで佐和子さんを見つめた。 「髪、切ってしまったんですか」 「うん。吉岡さんと会ってから、しばらくして、なんとなく」 「はあ」 「最初はこんな短くするつもりはなかったのよ。でも、なんだか勢いがついちゃって。いちばん短かったときは五分刈りって感じだったかな。高校野球の選手みたいな頭」 「そんなに」 「そうなの。頭が軽くて、それはそれで気持ちがよかったな。でも、あたしってやたらと髪がのびるのが早いのね。もう、こんなになっちゃった」  佐和子さんは顔いっぱいの笑顔をうかべたまま、両手で額から髪を後ろに持っていき、オールバックのようにした。 「吉岡さんが断言してくれたよね」 「なにを、ですか」 「髪。染めなくていいって」 「ああ、まあ」 「うれしかったな。頭の毛も染める必要はないと思います、 って、まっすぐあたしを睨《にら》んで」 「睨みましたか」 「睨んだよ。正直、叱られちゃったみたいな感じだった」 「叱ったつもりはないんです。ただ、うまく言えないけど、なんだか寂しいような、悲しいような気分で」 「あたし、寂しくて悲しかった?」 「いえ、なんていうのかな。あのときの佐和子さんの髪の毛って夜のように真っ黒だったでしょう」 「夜のように真っ黒」 「そう。しかも人工の夜」 「いまは」 「永遠の黄昏《たそがれ》。そんな色かな」 「あたしは永遠の黄昏」 「綺麗《きれい》な色ですよ。柔らかそうで、嫋《しな》やかそうで、ほんとうの佐和子さんの髪の毛が見られて、僕は満足です」 「吉岡さんて、じつは凄《すご》いプレイボーイだったりして」 「なぜ、ですか。なんでそんなことを言うんだろう」 「だって凄く口がうまいんだもの。初めて会ったときもそう思ったな。真に受けていい気持ちになってると、弄《もてあそ》ばれて棄てられそう」  唖然《あぜん》として、僕は佐和子さんの顔を凝視する。たしかに多少は同じ年頃の男よりは語彙《ごい》が豊かかもしれないが、プレイボーイはないだろう。だいたいプレイボーイなんて言葉はいまや死語だ。 「弄ばれて棄てられそうっていうのは、あんまりですよ」 「ごめんね。怒らないで」 「べつに怒ってはいないけど」 「とにかく吉岡さんに叱られて、あたしは髪を切ったの。髪を切って、あたし本来の色をした髪が生えるのを待った。わりとタイミングよく香月から連絡があった」 「どういうことですか」  思わず意気込んでしまった。額面どおり佐和子さんの言葉を受けとると、僕は傲慢《ごうまん》になってもかまわない情況のようではないか。  もちろん、傲慢になるほど甘くはない。僕は学習したのだ。玲奈さんと付きあって、世の中が甘くないということをきっちりと学習した。  玲奈さんの降りてしまったタクシーで阿佐ヶ谷の駅まで行き、そこからガラガラに空《す》いた早朝の中央線に乗って吉祥寺までもどったあの朝のことは絶対に忘れない。  佐和子さんがじっと見つめていた。それに気づいた僕は、あわてて顔をつくった。 「吉岡さん、変わったね」 「変わりましたか。まあ、変わりもするでしょうね」 「なにがあったの」  僕は思案した。言うべきか、言うまいか。結論はすぐにでた。隠し立てすることではない。佐和子さんは自分が髪を暗闇のように黒く染めていることを告白した。僕も自分が変わった理由を率直に告げよう。 「じつは、童貞を棄てたんです」 「童貞」  思いのほか佐和子さんの声が大きかったので、隣の席の女の子が目を丸くしていた。僕は苦笑気味に笑い、円町君と連れだってソープに行ったこと、アルバイトの金を握りしめるようにしてふたたび玲奈さんに会いに行ったこと、一晩玲奈さんに付きあって、抜群のタイミングで放り出されてしまったこと。そういったことを包みかくさず喋《しやべ》った。 「あたし、思うんだけど」 「はい」 「その玲奈さんって人、悪意はなかったんじゃないかな」  佐和子さんの言おうとしていることは、なんとなく理解できる。玲奈さんには悪意はなかった。それは確かなことだ。自虐的に居直ってしまえば、僕に身勝手な期待があっただけだ。 「僕は臆病なくせに、甘い期待をもつ名人だったんです。臆病はいまだに克服できないけど、甘い期待をもつ棚ぼた野郎からはどうやら脱却できたようです」  佐和子さんが頷《うなず》いた。頷かれてしまうと反撥《はんぱつ》を覚えないでもないが、まあ、しかたがない。なんとなくお互いに言葉がなくなり、手持ちぶさたな時間が過ぎていく。やがて、佐和子さんがぽつりと呟《つぶや》いた。 「よかった」 「なにが、ですか」 「なんでもない」  佐和子さんは曖昧《あいまい》に視線をそらしてしまった。彼女は、僕が甘い期待をもたなくなったことがよかったといっているのだろうか。違うような気もする。しばらく考えこんだ。よけいに訳がわからなくなった。  リップクリームを塗っているのだろうか、佐和子さんの唇が艶《なま》めかしく輝いている。僕はがさつだから、荒れ放題の唇をしている。おそらくアルコールで唇の潤いを洗いおとしてしまっているのだ。  かなり気持ちが落ち着いてきた。以前のように舞いあがりっぱなしでないのは玲奈さんを知ったおかげだろう。黙って佐和子さんを見つめていると、彼女は腕時計に視線をおとした。僕は先回りして言った。 「もう、帰りますか。だったら駅まで送りましょう」 「吉岡さんはあたしがどこに住んでいるか知っているの」 「知りません」 「電車には乗らないの。だから駅に行く必要もない」 「歩いて帰れるところなんですか」 「うん。二十分くらいかかっちゃうけど」  僕は下腹に力をいれた。気合をこめて、しかし、さりげなく言った。 「送っていきますよ」 「そんなに帰してしまいたいの」 「そんなことはないですよ!」 「だって、まだお日様のある時刻だよ」  佐和子さんが憮然《ぶぜん》として口を尖《とが》らせている。僕は自覚していないままにドジを踏んでしまったことを悟った。いつだって僕は相手の気持ちを勝手に先回りして推測し、大きく外して怒らせてしまうようなところがある。 「あたし、散歩がしたいな」 「散歩ですか! じゃあ、井の頭公園に行きましょう」  勢いこんで井の頭公園と叫ぶような声をあげた自分が鬱陶《うつとう》しく、しかも可愛らしい。僕はあわてて伝票を掴《つか》んで立ちあがり、コーヒー代を払った。  吉祥寺駅を抜けて武蔵野公会堂のある通りから井の頭公園に向かう。道々、人々の視線が佐和子さんと僕に絡む。ちらっと盗み見る者、露骨に嫉妬《しつと》の眼を向ける者、ほとんどの男にとって佐和子さんは気になる対象であるのだ。  僕はしみじみと実感した。佐和子さんのような女性と連れだって歩くのは心地よく、なによりも心底から自尊心が充《み》たされるものだ。いわゆる〈いい女〉を連れて歩く男の気持ちが、いまはよくわかる。  金で買えそうで買えないものが〈いい女〉ではないか。そんな気がした。もちろん金をたくさん持っていたほうが〈いい女〉を連れて歩くことのできる可能性は大幅に高いだろう。  しかし、それだけではないということも実際に〈いい女〉を連れて歩けば実感できる。運もあるし、僕に甲斐性《かいしよう》があるとは思えないが、なによりもその男の本質的な甲斐性のようなもの、そういった金銭ではどうにもならないものが微妙に複合して絡みあっているのだ。  もちろん僕が玲奈さんを買ったように、佐和子さんをお金で買って、こうして連れ歩いても似たような満足が得られるのかもしれないが、いま、僕は、とりあえずコーヒー代しか遣っていない。だから、より上質の満足感を味わっているというわけだ。  十月初旬の井の頭公園は、木々のなかにも少々色づきはじめたものがあり、秋の気配が濃厚だ。西日が僕と佐和子さんを浮かびあがらせる。僕たちはぴったり寄りそって公園内の石畳の上を行く。  手を握りたい。  とても、できない。  だから偶然を装って、嫌らしくならない程度に躯《からだ》を近づけ、どちらかというと囁《ささや》き声で談笑する。  僕たちの足許《あしもと》に鳩が群れ、犬の散歩をしている人が僕と佐和子さんを盗み見る。僕は得意の絶頂であるが、ふと冷静にかえると、なんだ、まだ、手も握っていないのだ。 「あそこに座ろうか」  ごく軽い調子を意識して声をかけたのだが、やや上擦っていた。佐和子さんはちいさく頷いた。なんだか恥ずかしそうな顔をしている。雰囲気は、悪くないのではないか。  ベンチに腰をおろした。がんばれ、吉岡。いい雰囲気だぞ。まるで、これはデートみたいじゃないか。調子に乗って口ばしった。 「僕たちってデートしてるのかな」  佐和子さんが僕を見た。まっすぐ見た。僕はやや臆《おく》した。 「あたしは最初からデートしているつもりだけど」 「いや、なんていうのかな、僕はいままでろくなことがなかったから、佐和子さんとこうしている現実を信じられないんだ」  釈明の口調である。僕は自分の狼狽《ろうばい》ぶりが少し悲しい。佐和子さんが優しい柔らかな眼差《まなざ》しを向けてきた。 「ねえ、吉岡さん。もし、いやでなかったらだけど、あたしたち、真剣に付きあおうか」  僕に言葉はない。 「このまま別れちゃったら、香月になにを言われるかわからないじゃない。だから吉岡さんがいやじゃなかったら、付きあってくれないかな」  ベンチの上で僕は躯をねじまげた。まっすぐ佐和子さんを見据え、頭をさげた。 「お願いします。僕は初めて佐和子さんと会ったときから真剣でした。正直なところ僕には自信がないけど、でも、気持ちに嘘がないことだけは確かです」 「それなのに玲奈さんだっけ、そっちに行ってしまうわけ」 「それに関しては、言い訳はしません。ただ、僕は、正直なところ、悪いことをしたとは思ってません」 「じゃあ、あたしと付きあいはじめても、玲奈さんのところに行っちゃうの」  僕はちいさく溜息《ためいき》をついた。風の具合か、噴水の飛沫《しぶき》が霧状になって僕たちをわずかにしっとりとさせた。 「もし行くと言ったら」 「悲しい」 「じゃあ、悲しませるようなことはしません」 「悲しいだけじゃないよ。あたしは嫉妬深いからキレるかもしれない」 「いいかげんにしてください。僕は佐和子さんを裏切りません」  佐和子さんがふわっと僕から視線をそらせた。僕を見ずに呟いた。 「純情っていうのかな。吉岡さんの眼の色、ちょっと怖いくらい」  僕は純情なのだろうか。純情というのは邪心のないことだろう。だとしたら、僕は邪心の塊ではないか。 「佐和子さん」 「なに」 「僕は純情を貫徹したい」  佐和子さんが頷いた。そっと僕の手をとった。壊れ物に触れるように握ってきた。僕は感情を抑えきれなくなり、佐和子さんの手をきつく握りしめた。やがて、冷たかった佐和子さんの手がしっとりと汗ばんだ。  しばらく、じっとしていた。凝固していたといっていい。確かに緊張してるのだが、こんなに幸福な緊張を僕は知らなかった。  ふと我に返ると、すっかり陽が翳《かげ》っていた。どちらともなく立ちあがった。手はきつく握りあったままだ。  佐和子さんは音大の教職員過程を卒業しているという。つまり音楽の先生になれるわけだ。しかし音楽教師にはならずに海外のクラシック音楽家のコンサートを仕切っている音楽事務所に勤めている。 「子供のころからピアノが大好きだったの。でも、まあ、才能はそれなり。でも香月は一緒に組もうなんていうのよ。香月が歌って、あたしが弾く。たしかに仕事になるような気もするけど」 「それ、いいと思うな。絶対にやるべきだ」  佐和子さんは曖昧《あいまい》に頬笑んだ。その頬笑みには微妙に鬱屈したものが隠されていた。僕は即座に表情を変えて、おどけた。 「しかし佐和子さんが音楽の先生だったら、男子生徒は落ち着かないな。みんなのおかずになっちゃいそう」 「おかず」 「そう。おかず」 「どういう意味」 「どういう意味って——」  僕は詰まった。不用意なことを口ばしってしまったものだ。オナニーのおかずとは、とても言えない。こんどは僕のほうが曖昧に頬笑む番だ。ところが佐和子さんはまっすぐ僕の顔を見つめてくる。弱った。背に汗が浮いた。  いきなり佐和子さんが僕の脇腹を肘《ひじ》でつついた。その瞳《ひとみ》が悪戯《いたずら》っぽく笑っている。 「わかってるわよ。男の人の、あのシコシコってやつのおかずでしょう」 「わかってて、問いつめてきたのか」 「まあね」  僕は佐和子さんと手をつないだまま、井の頭公園西園に入った。トラックを走る人の邪魔をしないように注意して、しかし最短距離を横切っていく。  トラックの内側に生い茂る雑草は、夏の猛々《たけだけ》しさを喪《うしな》って、夕風に薙《な》ぎたおされるように揺れている。草叢《くさむら》は秋の虫たちの天国だ。短い生を、精一杯の声を張りあげて鳴きまくり、そして死んでいく。 「常軌を逸した虫の声だ」  佐和子さんは黙って頷《うなず》いた。しばらくしてから自嘲《じちよう》の笑いをうかべて呟《つぶや》いた。 「あたし、才能、ほどほどなのね」 「なんのこと」 「ピアノ。素人から尊敬される程度には弾けるけど、まあ、それなりなわけ」 「佐和子さんは偉いよね」 「あたし、偉いの?」 「偉いよ。だって、俺なんて自分の程度も知らずに身の程知らず、自称小説家だもんな。図々《ずうずう》しいにもほどがある」 「見切っちゃったあたしは偉いの」 「うん。客観性を持っているってことだ」 「そうか……」 「でも、俺は思うんだ。クラシックのピアニストってのは大変かもしれないけど、香月さんと組んでジャズやポピュラーのピアノを弾くってのは、ありなんじゃないかな」 「いいの。あたしは、もうピアノから解放されたくもあるから」  僕は頷いた。あれこれ追及しなくとも佐和子さんの気持ちはなんとなくわかる。いや、相手の気持ちがわかる、というのは、この程度でいいのではないか。なんとなくでいい。そんな気がした。  陸上のトラックをはずれると、木が生い茂っている。夕暮れの気配が木々に遮られて、そこだけ早くも夜が滲《にじ》んでいた。僕はそっと佐和子さんの横顔を見つめ、その首筋に手をかけ、引きよせていた。  唇と唇が重なった。  軽い接触だ。  佐和子さんのほうが先に唇から力を抜いてきた。それに気づいた僕はもったいつけずに舌先を挿しいれた。  軽く絡ませあって、佐和子さんの唾液《だえき》を吸った。佐和子さんも吸いかえしてきたが、弱々しかった。そのまま唇は離れていた。  僕はちいさく咳《せき》払いをした。  ごく自然に接吻《せつぷん》をしたことに、なんともいえない肯定の気持ちを覚えていた。  佐和子さんは両手で頬を押さえて薄く眼を閉じていた。その顔にはなんとも不思議な微笑のような表情がうかんでいて、胸が切なくなるような美しさが漂っている。  佐和子さんが吐息を洩《も》らした。そっと見つめると、逃げるように歩きだした。僕はその傍らにぴたりと寄りそった。  あきらかに上気している佐和子さんを誘導するようにして西園をでた。渋滞している吉祥寺通りを横切って裏路地に入った。  このあたりは吉祥寺ではなく、三鷹市だ。いや、JR吉祥寺駅からすぐなので勘違いしてしまうのだが、井の頭公園自体が三鷹市にあるのだ。  佐和子さんの住む賃貸マンションは小学校のすぐそばにあった。部屋は三階だ。ベランダにでて夜風を浴びていると、佐和子さんが背後に立って、公園や学校のそばに住むものではないと囁《ささや》いた。 「うるさいのよ。子供の声って、かなりうるさい」 「子供、嫌いなの」 「吉岡さんは」 「大嫌い」  佐和子さんが背後で含み笑いを洩らし、そっと僕の背に胸を押しつけてきた。 「あたしも嫌い。十五分くらいなら、可愛いんだけどなあ」 「ガキって自分勝手だもんな」 「あたしは、違うよ。相手の気持ちを推しはかるとても良い子だった」  佐和子さんはいったん息を継いだ。淡々とした口調で続けた。 「でも、ほんとうは、相手の気持ちを推しはかる子なんてとことん嫌な子供なのよね。あたしって大人の受けだけはよかったもの」  どこかで車のホーンが鳴った。原付スクーターの不規則な排気音もとどく。ベランダを抜けていく夜風は思いのほか冷涼で、毛穴が収縮していった。僕は黙って背に当たる佐和子さんの胸の量感を愛《いと》おしみ、その体温を感じていた。佐和子さんは僕よりもはるかに熱い。熱を帯びている。  校庭に校舎の影が黒々とのびて、小学校全体が闇に沈んで感じられた。校庭に植えられている鈴掛けの木はだいぶ葉を落とし、複雑な骨格をしたシルエットを垂れこめた夜のなかで誇示している。  夏の恰好《かつこう》のまま衣替えをしていない僕は、いまだにTシャツ一枚だ。そのせいか、くしゃみがでた。連続して、でた。くしゅん、くしゅんと、まるで子供のくしゃみだ。  予期していなかったので、鼻を啜《すす》りながら照れまじりに苦笑いをうかべた。佐和子さんが囁いてきた。 「もう、部屋に入ろうよ」  僕は素直に頷いた。促されるままに部屋のなかにもどった。佐和子さんがティッシュを差しだした。そのさりげなさに感心しながら、いいかげんに鼻をかんだ。合成皮革張りの薄緑色をしたソファーに座る。いつもは毛羽だった畳の上に直接座る。だから、どことなく落ち着かない。佐和子さんがサッシをロックし、カーテンを引いた。それから僕の隣に腰をおろした。僕は佐和子さんの首筋を控えめに飾る銀色の産毛に指先を触れさせた。佐和子さんが痙攣《けいれん》するように躯《からだ》を揺らせて僕の指先から逃げた。やがて向きあい、お互いに喰《く》いいるように凝視した。しばらく瞬《まばた》きも忘れて見つめあい、きつく口づけをした。西園の木陰における接吻とは異質な、露骨に性的なものだった。お互いの舌先が出入りし、歯と歯が当たって硬質な音をたて、咽《のど》を鳴らして唾液を貪《むさぼ》りあい、躯のあちこちを軋《きし》みがでるほどにこすりつけあった。僕は自分の触角がすっかり大きくなって硬くなっていることを隠さなかった。それどころかジーンズ越しではあるが佐和子さんの局部にそれをきつく押しつけ、行為を暗示するかのように動作させた。さらに佐和子さんの着ているGジャンを強引に脱がせ、その下のシルクのブラウスの裾《すそ》を苛立《いらだ》たしげにジーンズから引きぬいた。ブラウスのなかに手を挿しいれ、さぐる。やがて佐和子さんのしっとり潤った乳房が僕の掌のなかにあって、さらに量感を増した。      12  それから三日間、僕は佐和子の部屋に居続けた。佐和子は仕事を休んで、ずっと僕とベッドのなかにいた。  僕はなかば呆《あき》れていた。幾度、佐和子を抱いたか。自分にこれほどのポテンシャルがあるとは信じがたい。だが、僕は、のべつ幕なしといった按排《あんばい》で佐和子のなかに自分を埋め続けた。  さすがに佐和子の眼の下に、うっすらとではあるが、隈《くま》ができていた。それがまるで芝居の化粧のように複雑な凄《すご》みと美しさをたたえている。  そして僕は、ふたたびそれに対して欲情して佐和子を組み伏せ、のしかかり、動作し、雄叫《おたけ》びをあげて虚脱する。  そのまま佐和子の上で死を想わせる眠りに墜《お》ちこんで、唐突に目覚めてお互いの汗が冷えていることに気づいて、ちいさく胴震いをする。  湿ったシーツの上で、なにも考えられない状態で横たわっていると、先ほどトイレに立った佐和子が気懈《けだる》い声で告げた。 「ねえ、もう冷蔵庫のなか、空っぽだよ」 「ああ。そうか。腹、減ったな」 「だから、空っぽなの。ピザでもとる?」 「いや、食べに行こう」 「外で食べるの」 「うん。面倒か」 「そんなことないよ。一緒に歩きたい」 「いま、いつだ」 「変な質問。ええと、いまがいつかというと十月七日の午後三時。よろしいですか」 「うん。近くにファミレスでもあるかな」 「ある。わりと最近できたデニーズ」 「デニーズへようこそ、か」  他愛のないやりとりが、なんとも愉《たの》しく、擽《くすぐ》ったい。僕はだらだらとベッドから起きあがり、佐和子に促されてバスルームに向かった。  いいかげんにシャワーを浴びていると、佐和子が折戸を押して入ってきた。あれほど無限に抱きあったのに、その裸体を目の当たりにしたとたんにふたたび欲情した。  僕はその欲情の昂《たか》まりを佐和子にむけて誇示した。佐和子は失笑気味に笑い、それでも僕の前に跪《ひざまず》いた。僕は佐和子に含まれて、シャワーの湯がバスルームの床を叩《たた》く音を漠然と聴いていた。  やがて、兆した。  佐和子の口のなかに爆《は》ぜた。  虚脱している僕にむけて、佐和子が口をひらいてみせた。その舌の上に僕の白く濁った徴《しるし》があった。  佐和子は柔らかく頬笑むと、その白濁を唇を窄《すぼ》めるようにして飲みほした。  肩を上下させて僕が息を荒らげたまま見守っていると、佐和子は僕の徴を完全に飲みほしたことを証明し、確認させるかのように口をひらいてみせた。僕はあやふやなまま、頷《うなず》いた。二度、頷いた。  佐和子は満足そうにシャワーを浴びはじめた。それからふと思いついたかのように、僕の股間《こかん》にシャワーの湯を浴びせかけた。 「よかった」 「なにが」 「あなたの初めての相手が、お金を貰《もら》ってする女の人で」  僕はなんとなく拗《す》ねた笑いを唇にうかべていた。そういえば、くぐつ草で童貞喪失の顛末《てんまつ》を語って聴かせたときに、佐和子はいまとまったくおなじ口調で『よかった』と呟いたのだ。  そうか。あのときも、僕の初めての相手が商売女であったことに安堵《あんど》したのだ。 「もし、僕の相手が素人だったら、どんな気分だ」 「あたし、あなたを殺しちゃうよ」 「それだけで殺されちゃうなら、俺はいままでおまえを抱いた男を皆殺しだ」 「あたしは、あなたが初めてだもん」 「よくも、そういうことが言えるな。ひたすら僕をリードしまくっていたくせに」 「冗談でしょう。あたしが嫌だっていうのに、ひたすら犯しまくったくせに」 「そういうことを言うと、ほんとうに犯しちゃうぞ」  僕の股間を一瞥《いちべつ》して、佐和子が露骨に顔を顰《しか》めた。その眉間《みけん》に刻まれた縦皺《たてじわ》が奇妙にリアルで、僕は意味もなく笑った。 「ねえ」 「なに」 「玲奈さんって、どうだった」 「それが、いまでは、はっきり想いだせないんだ」 「嘘」 「嘘じゃない。オッパイが小さくて期待はずれだったことくらいだな、思いだせるのは」 「あたしとどっちがいい」 「決まってるだろう。佐和子だよ」 「自信は、あるんだ。みんな、感嘆するもんね」 「みんなって誰と誰だよ!」 「あっ、本気で嫉妬《しつと》してる」 「当たり前だろう。以前の男を匂わせるようなことを言わないでくれよ」 「涙目になること、ないじゃない」  僕は佐和子に適当にあやされてバスルームからでた。釈然としないが、躯《からだ》をバスタオルで拭《ふ》いてもらっているうちに、どうでもよくなってきた。僕は佐和子に甘えかかった。  僕の着ていた衣服はすべて、いつの間にか洗濯してあり、だが乾燥機で乾かしたのか、綿のTシャツはわずかに縮んでいた。  それを着終わってピチピチになってしまった胸のあたりに多少の息苦しさを覚えて生地を引っ張っていると、佐和子がGジャンを差しだした。  佐和子は女の子にしては大柄だから、借りたGジャンはまったく違和感なくフィットした。僕は玄関先の姿見に自分を映して、多少反りかえって満足の笑みをうかべた。 「なあ、佐和子。僕って、変わったよな」 「そうね。変わった」 「目つきが悪くなったよな」 「変なの。目つきが悪くなりたかったの」 「そういうわけじゃないけどな、僕は、なんだか、生まれてこの方、ずっと家畜みたいな顔をしていた」  佐和子が肩をすくめた。なにを言ってるのかしら、といった表情だ。僕はしゃがみこんでスニーカーの靴|紐《ひも》を結んだ。  背後に立った佐和子が、黙って靴紐を結ぶ僕を見守っている。このあたりは昔と変わらぬ律儀さだが、男というものは自信を持つとずいぶんと顔つきが変わるものだ。先ほど姿見に映った自分の顔は、以前とは別人のような鋭さがあって、我ながら驚いていた。  外にでた。西日がきつい。もっとも秋の陽射しに力はなく、透明だ。吹き抜ける風は、その芯《しん》に北風の前触れのような冷たさを含んでいた。  僕と佐和子は、ほぼ同時に首をすくめて躯をふるわせた。寒いというには大げさだが、その涼しさは心地よさから微妙にはずれている。 「今年は冬が早そうね」 「信じられない。僕って、三日前はTシャツ一枚だったんだぜ」 「それ、なのよね」 「なんのこと」 「あたしが、あなたと付きあおうと決心した原因」 「Tシャツ一枚だったから」 「そう。見るからに寒そうで、寂しそうで、ところがあなた自身はそれにまったく気づいていないの」 「——衣替えが面倒だっただけだぜ」  佐和子が頷いた。すべてを許容する母性がその眼差《まなざ》しにあった。彼女は、僕が自分でも気づいていなかった孤独であるとかの諸々《もろもろ》を、ひと目で見抜いたのかもしれない。 「でも、同情したわけじゃないだろう」 「当然よ。あなたは私の恩人でもあったし」 「髪の毛のことか」 「うん。もう、自覚しなくてはね。あたしは、あたしであるってこと」  あたしは、あたしである、か。では、僕は、僕であるか。僕は僕であるだろうか。わからない。  寄りそって裏路地を行く。ひとつだけはっきりしていることがある。僕は、僕独りのときは、僕が僕であることに自信をなくすが、佐和子と一緒だと、僕が僕であることを改めて確認できる。  僕、僕、と主語が多い。頭を左右に振って脳裏から主語を追い払った。佐和子が怪訝《けげん》そうに頭をふる僕を見た。僕は唇の端だけで笑う。佐和子はなんとなく納得して、うれしそうに僕の腕に自分の腕を絡ませてくる。  すぐに、むらさき橋通りに突きあたった。真新しいデニーズが開店していた。原付スクーターで一帯を走りまわっている僕もこの店の開店は知らなかった。  夕刻の店内は六分ほどの入りだ。僕と佐和子は禁煙席を希望し、いちばん奥まったフロアに案内された。とりとめのない無駄話をしていると、料理が運ばれた。 「しかし佐和子に、それは似合わないよな」 「そうかなあ」 「スパゲティはいいよ。でも、タラコってのがなあ」 「タラコのパスタ、好きだけどな。自分でもつくるんだよ。味付けの秘密は、なんと昆布茶なの。パスタをバターで絡めて、さらにタラコを絡めて、そこにさらに昆布茶の粉末を絡めて味を調えるわけ。秘伝ね。タラコに昆布があうのよ」 「でも、そういう雰囲気じゃないね」 「それは、あたしはバタ臭い顔をしているからタラコは変かもしれないけどさ」 「バタ臭いとかそういう問題じゃない」 「じゃあ、なにを食べたらいいかしら」 「納豆スパゲティ」 「そんなの、ここにはないもん」  佐和子が拗ねてみせる。僕は笑い声をあげながらタラコのスパゲティの上でじわじわと丸まっていく刻み海苔《のり》を見つめる。  僕は知床鶏のみぞれ唐揚げだ。豆腐のサラダがついているのだが、久々に口にする豆腐の大豆の風味がなんともいえず、新鮮だ。 「おい、タラコ」 「なによ」 「知床鶏、食うか」 「うん」 「おい、タラコ」 「タラコじゃないもん」 「タラコだろ。ミス・タラコ。僕のコーラも飲め」 「うん」 「おい、タラコ」 「だから、タラコじゃないってば」 「——欲しくなってきた」  佐和子が唖然《あぜん》とした顔で僕を覗《のぞ》きこんだ。僕は食事をしながら硬くしていた。佐和子が苦笑いをうかべた。 「いいけどさ、あたし、明日は出社するよ。一応は社会人なんだから」 「明日のことなんか考えるなよ。僕はおまえが欲しいんだ。それだけだ」  二十四歳にして、ついこのあいだまでは童貞だった僕は、いったいなにを埋めようとしているのだろうか。  食事をして、すぐに佐和子の部屋にもどって、即座に組み伏せた。自らを佐和子のおなかのなかに埋めこみ、痙攣《けいれん》気味に動作している。佐和子のおなかのなかに僕が侵入しているのだ。  佐和子は思いきり両脚を拡げて、自分のおなかのいちばん奥深い部分に僕の触角を迎えいれようとして喘《あえ》いでいる。  さすがにこれだけ回数をこなすと佐和子の反応を冷静に看取ることができる。僕は調子に乗って佐和子を乱れさせた。  ファミリーレストランでは呆《あき》れ顔をしたくせに、こうして組み伏せてしまえば、すべてを露《あら》わにして啜《すす》り泣き、きつい密着を求めて切なく不規則に腰を上下させて訴えるのだ。不明瞭《ふめいりよう》な声で、譫言《うわごと》のように愛を求める。  僕は佐和子の支配者だ。雄々しく反りかえって密着させ、円を描く。それから軽く腰を引いて、佐和子の奥底を突く。佐和子の口からくぐもった呻《うめ》きが洩《も》れ、薄くひらかれた瞼《まぶた》の奥の瞳《ひとみ》が痙攣気味に反転し、完全な白眼となる。  ああ……まるで仏像のような瞳だ。そんな感慨をもちながら、僕は佐和子のなかの僕を引きぬきかげんに浅く保持する。小刻みな動きは忘れない。  焦《じ》らす。  佐和子が焦れる。 「おねがい、おねがい」  そう、連呼する。僕は佐和子の耳朶《みみたぶ》を咬《か》むようにして囁《ささや》く。 「なにが、おねがいなんだ」 「だから、おねがい」  佐和子の言葉はまるで呪文《じゆもん》のようで、僕は調子に乗って佐和子を焦らしつつも微妙に背のあたりが寒く凍えるような実感をもつ。  女のおなかのなかに男の触角を挿しいれる。その結果、双方が得も言われぬ快感を覚え、愛を深める。  無理やり定義すれば、やや気恥ずかしいが、そんなところか。ところが、いま、僕は、佐和子と微妙な距離を感じて焦っていた。焦らしているつもりで、自分のほうが焦れてしまいそうだ。そんな気分を隠蔽《いんぺい》するつもりで、そっと訴えた。 「そろそろ、いくぞ」 「いいよ。なかにちょうだい」 「……いいのか」 「うん。もう、おなかにだされるの、いや」 「わかった」 「ああ、あたしだって欲しかったのよ」  囁いた佐和子の目尻《めじり》から一筋、涙が伝った。  女のおなかのなかにぶちまけるのは初めてではない。玲奈さんのおなかのなかに直接|爆《は》ぜさせたことがある。だが、佐和子との場合は玲奈さんとの行為とはべつだ。  玲奈さんはピルを服《の》んでいた。佐和子は、服んでいない。僕は一瞬、脳裏に妊娠という言葉を思いうかべていた。軽く萎《な》えそうになった。まったく正直だ。  だから、意地になった。佐和子には僕の触角の変化を気取られていないはずだ。気持ちを引き締め、爆ぜる時間を先延ばしにし、僕はますます居丈高に動作した。雄であることを誇示した。  性の交わりは、やはり女のおなかのなかに直接射精することで完結するのだろう。僕はこの交わりにいままでと違う思いを込めていた。妊娠したなら、それは、それでかまわない。僕が責任をとればいいことだ。就職するのも悪くない。  佐和子が息を整える気配が伝わった。まっすぐ僕を見あげてきた。僕の顔、頬に手をのばし、愛《いと》おしげにさすってきた。 「だいじょうぶよ。だいじょうぶだから。安全日。体温、はかってるわけじゃないけど、だいじょうぶなはずよ」  そんなことは、どうでもいいのだ。僕には訊《き》きたいことがある。 「なぜ、涙を流した」 「なんのこと」 「あたしだって欲しかったって言って、涙を流した。一筋、涙が流れ落ちた」 「覚えてない」 「無意識か」 「あまり、素敵だから。怖いくらいに。素質っていうのかな」 「なんの素質だ」 「小説家。あたしは、あなたの原稿用紙になったような気分。一方的に書きこまれるだけで、なんにもできないんだもの」  僕が佐和子の言葉に自尊心を充《み》たされたかというと、とてもそんな気分ではなかった。佐和子の流した涙には、佐和子自身も気づいていないもっと奥深い何か、触れてはいけない性の奥底の哀しみのようなものが結実していた。  愛する人とひとつになったからといって単純にはしゃいではいられない。僕は新たな世界を手に入れたのと同時に、快感の奥底にある罪の気配、原罪の気配を嗅《か》ぎとって、厳粛な気分になりつつあった。  僕はそれから翌朝まで佐和子を抱き、幾度もそのおなかのなかを汚し、佐和子が出社するために部屋を出ていくのを夢うつつで見送った。  昼過ぎに目が覚めた。枕カバーに涎《よだれ》の染みが無様に拡がっていた。      13  佐和子に借りたままのGジャンを着て、だらだらと歩いて幸荘にもどることにした。むらさき橋通りを北上してJR中央線の下を抜け、成蹊《せいけい》通りに入り、そこから裏道を使って五日市街道にでるのがいちばん合理的な帰り道なのだが、なぜか足は井の頭公園の方向にむかっていた。  汗ばむこともない。散歩には抜群の季節だ。いままでだったら顔をそむけてしまう公園のベンチのアベックたちにも余裕をもった眼差《まなざ》しをむけることができる。  やはり無茶をしすぎたのだろうか。気分は悪くないが、さすがに懈《だる》い。ふわふわとした足取りで、わざわざ人混みでごったがえしているサンロードを抜け、自販機でタバコとカップ酒を買い、幸荘にもどった。  郵便受けを漠然と覗いた。岡山の大学でまだ留年している古い友人からの封書と、ハガキがあった。ハガキには速達の赤いスタンプが押してあった。  まずは速達から……と一瞥して、僕はその場に立ち尽くした。青インクの万年筆で書かれたハガキの文面は、こうだ。 [#ここから1字下げ] 前略。幾度も電話しましたが御不在なようです。あせる必要もないのですが、個人的な期待もこめてハガキを書きました。じつは吉岡さんの応募された原稿が新人賞の最終候補作五篇のうちの一つに残りました。選考会は十月十七日ですが、その前に御連絡をお待ちしています。 [#ここで字下げ終わり] [#地付き]文學界編集部、松山光雄拝     僕は幾度も文面を読みかえし、それからハガキの表に押された編集部の住所連絡先のスタンプを凝視した。悪戯《いたずら》ではない。悪戯ではないのだ。  僕が佐和子と抱きあっているあいだに、ほとんど念頭から消えていた新人賞応募原稿が僕のあずかり知らぬところで発酵し、こうして最終候補作五篇のうちの一つとなった。  しかもハガキをくれた編集部の松山さんは、個人的期待をこめて、と記してくれた。わざわざハガキを書いて連絡をくれたのだ。しかも速達だ。  いままでも新人賞の第二次予選通過まではいったことがある。しかし、そこから先はなかった。最終選考に残ったことはなかったのだ。  震えこそしなかった。しかし、ハガキをもった手に汗が滲《にじ》んでいた。僕は玄関の上がり框《かまち》の前に立ちつくし、小声で呟《つぶや》いた。 「佐和子。おかげで、なにかが近づいてきたぞ。佐和子……」  それからあわてて靴|紐《ひも》をほどいた。 「なにをしているんだ、僕は」  思わず声をあげて、習慣的にほどいてしまった靴紐を結びなおした。岡山の友人からの封書は郵便受けにもどし、ハガキを二つ折りにして握りしめ、外に出た。焦り気味に、足早に歩きはじめて、振りかえった。  立ちどまって、じっと見あげた。幸荘は相変わらず傾き加減で、屋根に生えた枯れかけのぺんぺん草が秋風にわびしく揺れている。うらぶれて、寂しげで、いちだんと老朽化したように思えた。  僕は佐和子のところに引っ越すつもりでいたのだ。佐和子が一緒に暮らそうと言ってくれたのだ。幸荘とは較べものにならない快適なマンションだ。  だが、この傾いたアパートから出てはいけない。明確な理由は自分でもわからないのだが、いま幸荘から抜けだしてはならない。もうしばらくは、この灼《や》けた畳の汗臭い部屋で暮らさなければならない。そう感じた。不思議な感覚だった。  ちいさく頷《うなず》くと、我ながら淡々とした足取りで、タバコ屋に向かった。公衆電話の前に立つと、店番をしている顔|馴染《なじ》みの婆さんが僕を一瞥《いちべつ》した。  軽く頭をさげると、僕など存在しないといったふうに顔をテレビに向けた。愛想のないことこのうえない。僕は婆さんの視線を追った。ワイドショーだ。顔だけは知っている女優がなにやら泣き顔で記者会見をしている。  テレホンカードを取りだした。落ち着いているつもりだったが、指先が微《かす》かに震えていた。この公衆電話もテレホンカードもバルボーナに予約を入れるときに使ったものだ。  円町君だって携帯電話をもっているというのに、まったく僕は仙人のような生活を送っている。いまどきテレビも電話もない生活を送っているのだ。  ハガキの表に捺《お》された編集部のスタンプの電話番号を口のなかで反芻《はんすう》して、プッシュした。呼び出し音二回で、相手が出た。若い女性の声だった。 「吉岡と申しますが、松山さんをおねがいします」 「少々お待ちください」  受話器の彼方《かなた》から編集部のざわついた気配がとどく。僕は呼吸を整えた。 「はい、松山ですけど」  間延びした、抑揚を欠いた声だった。なんだか寝起きのような声だ。 「新人賞最終選考の件でハガキをもらった吉岡ですが」 「ああ、吉岡さんですか。いいタイミングだ。もしよかったら、これから会いませんか」 「はい!」  僕の返事は勢い込んでいて、かなり上擦っていた。なんだかきまりが悪くなった。松山さんはあまり喋《しやべ》るほうではないようで、しばらく沈黙があった。 「あのね、吉岡さん。待ち合わせ場所なんですけど新宿は、どうですか。私のほうの勝手な都合だけど、新宿で会うことにしてもらえると、ありがたいんだけど」  それから事務的に待ち合わせ場所と時間が決まっていった。僕もそれに応じて、機械的に言葉のやりとりをした。しかし受話器を置いたときには、疲れきっていた。婆さんが上目遣いで僕の様子を窺《うかが》っていた。  やい、ババア。僕はただのプータローじゃないんだぞ。いまに見ていろ。大作家になったあかつきには、絶対に悪く書いてやる。腰を抜かすなよ。  思いと裏腹に、僕は精一杯の笑顔で愛嬌《あいきよう》を振りまいてハイライトを買っていた。咥《くわ》えタバコで歩いていると、最近は顔を顰《しか》められてしまうことがよくある。かと思うと、女の子が歩きながらタバコを喫っているのに頻繁に出くわす。  僕は開き直って咥えタバコで吉祥寺駅に向かった。松山さんとの待ち合わせは、新宿駅ビル、マイシティ八階、プチモンドという喫茶店に三時ということだ。  ホームの階段を半分ほど上りかけたとき、電車から降りた乗客の群れがひとかたまりになって階段を降りてきた。僕は階段を駆けあがり、滑り込みで中央線に飛び乗った。  新宿に着いたのは二時半で、しばらく時間を潰《つぶ》すことにした。マイシティの中のCDショップを覗《のぞ》いた。なぜか書店に入るのが躊躇《ためら》われたのだ。  三時五分前にプチモンドに入った。松山さんはテーブルのうえに出版社の名の入った大判の封筒を置いておくと言っていたが、僕が店内にはいると目敏《めざと》く見つけてくれ、立ちあがって迎えてくれた。  テーブルのうえには僕の応募原稿のコピーが拡げられていて、それに気づいたとたんに僕は硬直し、緊張した。僕の前にホットコーヒーが置かれた。いつコーヒーを頼んだのかも判然としないし、松山さんとどのような挨拶《あいさつ》を交わしたのかも、よくわからない。  名刺をもらった。そのあたりから意識がはっきりとしてきた。当然ながら僕は名刺などつくっていない。また、名刺など必要のない身分であり立場だが、なんとなく心許《こころもと》ない気分を覚えた。  松山さんは汗をかいていた。ハンカチで幾度も首筋や額を拭《ぬぐ》った。前夜、飲みすぎたとのことだ。少々太り気味の躯《からだ》には疲労の気配が漂っていた。 「入社したときには五十六キロだったんですよ。ガリガリだったんだ。ところが最近では七十キロの後半だからね。まったく」 「失礼ですが、おいくつですか」 「三十路《みそじ》半」  三十五歳ということだろうか。僕は失笑したいのをこらえて黙っていた。松山さんが僕の原稿のうえに視線をおとした。ふたたび肌がひりつくような緊張を覚えた。 「私なりに赤をいれてきたんですよ」 「赤」 「そう。ダメだしっていうのかな。ここの部分は、ちょっと煩雑にすぎるとか、ここは言葉が足りないとか、構成上、難点があるとか。ちょっと見てください」  僕はコピー原稿を受けとった。最初の一枚目はともかく、二枚目の原稿からは、赤いサインペンの文字で呆《あき》れるほどの指摘が書きこまれていた。 「導入部はほとんど問題がないんだね。しいていえば肩に力が入りすぎていないでもないけど、まあ、許容範囲内です。ところが気がゆるんじゃったのかなあ。二枚目からは、少々雑になっている」  僕は乱れかけた呼吸を抑えこんで、呟いた。 「雑、ですか」 「うん。雑。あるいはテンションが落ちている。で、また数枚あとの刺青云々《いれずみうんぬん》のくだりあたりから緊張感がもどってくるんだけど、あなたの癖なのかなあ。べつに緊張感が抜けるのはかまわないんですよ。いつも緊張してたら読む方も大変だ。でも、言い方が悪いかもしれないけれど、あなたは場面の描写に緊張感が抜けたときに、いっしょに文章まで緩くなっちゃうんだよね」  なんとも鋭い指摘だった。僕は自分の原稿を前に凝固してしまった。松山さんがコーヒーを啜《すす》った。のんびりとした仕草だった。 「あのね」 「はい」 「どうでもいい身辺雑記で応募してこなかったことは評価しています。過剰に文学を意識せずに、客観描写を心がけているところも年齢を勘案すると、かなりのものです。ただ」 「ただ?」 「ただ、吉岡さんは、きっと自分の波が文章にそのままあらわれちゃうんだね」 「そうかも……しれません」 「ほかになにかアルバイトをして小説を書いているわけでしょう」 「はい」 「それを考えると、専業作家と違って態勢を整えることが難しいのはわかりますよ。でも、新人賞に応募してくる人たちは、みんな同じハンデを抱えているわけです」  それから延々と一時間半ほど、松山さんから丹念なレクチャーを受けた。その指摘のどれもが実戦的で、少々かじったことのある同人誌の合評会などとは比較にならない密度をもっていた。  松山さんは自分と僕の分のコーヒーのおかわりを幾度も注文し、正直なところ腹が水膨れになってしまった。一段落して、僕は尋ねた。 「いつも、こんなに水分をとるんですか」 「うん。まあ、そうだね。で、夜は飲み屋でまた水分。完全に水太りだなあ」  松山さんは照れたような笑いをうかべ、カップに三分の一ほど残ったコーヒーを飲みほした。それから口調を改めて言った。 「まとめます。私が吉岡さんの作品を評価したのは、まず、いま流行の、若者の退屈な日常とやらを描いたものじゃなかったこと」 「退屈な日常」 「そう。無意味で退屈な日常と僕。そんな作品が多いんだ。いやになるよ。てめえのつまらん日常を描いた代物なんて、誰が読みたいかってんだ。そんな感じなんです」  僕は失笑した。大学時代に同人誌を主宰していた僕の友人は、自分が熊本の田舎から上京して、新聞配達をして苦労しながら大学に通ったことを私小説、あるいは都市の虚無などと称してしつこく書いていた。 「ああ、そのレベルの人、多いんですよ。なにか勘違いしている。誰があんたの苦労話を読みたがるかってんだ。たかが新聞配達。くだらないよねえ」 「はい」 「べつに新聞配達の仕事がくだらないっていってるんじゃないんだよ。大学に行きたいなら、そして経済条件が整わないなら、黙って新聞配達をしなさいよ。アルバイトに励みなさい。みんな、働いてるんだし、いずれは、いやでも働かなければならないんだ。それは吉岡さんでもいっしょですよ。いまは正業に就いていないかもしれないが、もし専業作家になったら、それは、単なる物書きという職業で、単純なお仕事であり、労働なんです」 「はい」 「苦労や努力を誇ったらおしまい。同じように、人生、なにをやっても面白くなくて、退屈で無意味とか吐《ぬ》かす輩《やから》がじつに多いわけですよ。都会的ぶりたいのかな。よくわからないけどね、なぜか、こういう作品を提示してくるのは地方出身者なんだ」 「はあ」 「吉岡さんは、いいね。彫り師のことを淡々と書いてきた。得点、高いです。資料をそれなりにあたったんだろうけど、まあ、その大部分は空想ですよね」 「空想だって、わかりますか」 「うん。どこがどうだっていうんじゃなくて、空想でいいんです。空想であるけれど、ある世界を構築しようと足掻《あが》いている。私は吉岡さんの独自性を高く買っています」  僕は控えめに吐息をついた。わかってもらえるのだ。きちっと理解してもらえる。意図は伝わる、ということだ。 「とにかく僕は、自分の日常を敷衍《ふえん》して描くことだけはやめようと決めたんです。必要なのは小説としてのリアリティ。そう決めたんですが」 「うん。いいよ。いいんだ。無限にスタイルがあっていいわけ。新聞配達の苦労話もあっていい。でも、自分を美化してるんじゃ、お話にならないよね。小説家なんて恥をかいてなんぼってところがあるからね。それと」 「それと」 「うん。それとね、吉岡さんは、凄《すご》く素直で私の言うことをなんでも受けいれたよね。これ、問題あり、だな」 「問題ですか」 「問題だよ。いいかい。私は所詮《しよせん》は編集者なんだ。編集者にすぎないんだ。小説が書けないから編集者をやっている。そんなたかが編集者の言うことを、はい、はい、 って素直に頷《うなず》いちゃうのは、よくないよ。べつに肩|肘《ひじ》を張って私の言うことを無視しろっていうんじゃない。ただ、他人の言うことにはよく耳を澄まして、そして自分の脳|味噌《みそ》のフィルターを使ってきちっと濾過《ろか》してください。反論をする権利が作者にはあります。負け惜しみはききたくないけどね」  僕は深く頷いた。いい人に出会ったと実感した。松山さんが汗を拭《ぬぐ》った。そして、顔の前に人差し指を一本立てて、言った。 「最後に、ひとつだけ。この作品、いま、徹底的にディスカッションしました。時間をあげますから、書き直してみてください。書き直せば絶対に受賞します」 「受賞——」 「ええ。私に小説は書けないけど、読んだ小説を客観的に判断する能力はあります。で、いまのままでも悪くない作品ですが、私の指摘のうちの幾つか、とりわけ重要な文章の緩みを直せば、間違いなく受賞するでしょう」  ぬるくなったコップの水を僕はひと息に飲みほした。手の甲で唇を拭った。 「受賞できますか」 「できます。いまの数倍の密度を獲得できたら、もっと上の賞も視野に入れることができます。ただし」 「ただし」 「選考委員には、当然ながら書き直しをしていない作品を読んでいただきます」  書き直しをしていない作品——。つまり、いま、さんざん松山さんに指摘された不完全な緩みきった作品。 「でないと他の応募者に対して不公平ですからね。いいですか。あなたがこの作品を書き直すのは賞云々ではない。よりよい作品に仕上げなおす。それだけのことです。賞なんてものは実力さえあればいやでも後からついてきます。とにかく私に、充分に推敲《すいこう》を重ねた作品を読ませてください。いいですね」 「はい」 「集中力。それ意外になにも要りません。私を失望させないでください。あえておこがましく、図々《ずうずう》しい言い方をします。いっしょによりよい作品をつくりましょう。吉岡さんはまだデビュー前の新人です。経験不足は否めないし、なによりもまだ二十四歳じゃないですか。時間はたっぷりありますから、じっくりと腰を据えてこの作品を完成させてください。よろしく」 「こっちこそ、よろしくお願いします」  頭をさげた瞬間に、松山さんは立ちあがっていた。伝票を掴《つか》むと出口に向かっていく。あわてて僕は後を追った。松山さんが支払いをしてくれた。 「ごちそうさまでした」 「気にすることはありません。経費で落ちます」  松山さんはニヤッと笑うと、額を流れる汗をハンカチで拭った。いっしょにエレベーターで下まで降りた。エレベーターのなかでは緊張のせいでなにも喋《しやべ》れなかった。  これから訪れなくてはならない作家がいるとのことで、松山さんは中央東口からJRの構内に入った。僕はそれを見送った。  じっと見送っていると、松山さんはくるっと振りむいて片手にもっていたハンカチを振った。満面の笑顔だった。僕は頭をさげた。人混みに松山さんの姿が消えた。  さて——。  どうしたものか。  僕の手には、松山さんが赤をいれてくれたコピー原稿の入った大判の封筒がある。即座に幸荘に帰って原稿に手を入れればいい。いまの昂《たか》ぶりが消え失《う》せないうちに取りかかってしまえばいい。  切符の販売機に向かった。混みあっていた。列のいちばん最後に並んだ。何気なくジーンズのポケットをあさっていた。  僕は部屋に鍵《かぎ》をかけない。だから現金は全財産を常に持ち歩いている。一万円札と千円札。湿気《しけ》てよれよれだ。列からはずれて勘定した。八万円強ほどあった。  取ってつけたように咳《せき》払いをしてその場を離れた。バルボーナに向かっていた。  予約の電話は入れなかった。奇妙に腹が据わっていた。何とかなるだろう、という普段の僕らしくない思い切りのよさがあった。新宿通りをわたり、中古カメラ屋を横目で見ながら歩道を行く。  バルボーナのエレベーターのなかで、ちいさく吐息をついた。  なんで、僕は、こんな密室の中で息を詰めているのだろう。  なんで、僕は、あえて佐和子を裏切るのだろう。  なんで、僕は、こんなときに、自分を汚すような行為をするのだろう。  エレベーターのドアがひらいてしまった。僕は怪訝《けげん》そうな係りの男に、必要以上に顔を寄せて言っていた。 「予約は入れてないんだけど、なんとかならないかなあ。頼むよ」  それはまるで僕らしくない口調で、しかも図々しかった。 「できたら玲奈さんがいいんだけど」  係りの男が口を窄《すぼ》めた。窄めた唇が、すぐに苦笑いのかたちに変わった。 「玲奈さんは、今日はお休みなんですよ」 「休み」 「はい。せっかくですけど生休です」 「せいきゅう」 「そうなんですよ。生理休暇。まかせてもらえるなら、按排《あんばい》しますけど」 「そうですか。じゃ、按排してください」  僕は湿った札を数えて、わたした。男が丁寧に数えて確認する。その手つきを見るとはなしに見ながら、思った。生理休暇のことを略して生休というのだ。一般常識なのかもしれないが、僕は知らなかった。  待合室に落ち着いて、唐突に我に返った。残った金は二万円弱だ。そして、つぎに金が入るあてがあるのは、半月後だ。二万円弱でどうして生きていくのか。 「佐和子がいる。僕には佐和子が」  独白して、首を左右に振っていた。裏切っておいて、生活の面倒をみてもらおうと考えているのだから、僕もなかなかの無頼ではないか。人間の屑《くず》というやつだ。  僕は、堕《お》ちてみたかったのだろうか。わからない。はっきりしない。だが、そんな大それた衝動で動いたというよりは、単なる性欲に抗《あらが》うことができなかったというのが正直なところだろう。  ただし、性欲だけでもないのだ。  断じて性欲だけではない。  もっとも、では、なにか? と問われれば、曖昧《あいまい》な笑いをうかべて逃げだすしかない。僕はウーロン茶のグラスに口をつけた。胃のなかは水分でいっぱいだった。  プチモンドで幾度もコーヒーをお代わりしたのだ。いまさら水分など欲していない。それでも、どこか黴《かび》臭いような味のするウーロン茶を半分ほど飲んだ。  中年の客が案内されて、僕の死角になる位置に座った。あまり顔を見られたくないらしい。僕は大判封筒の中から、原稿を取りだした。最初の一行から意識を集中して、吟味してみた。  なるほど松山さんの言うとおり、張りつめているところと弛緩《しかん》している部分の落差が大きい。僕は唇の端を歪《ゆが》めてちいさく笑い顔をつくった。  客観視できるのだ。自分の作品を他人の眼で見ることができる。こういう具合に書きあげたものを見ることができるならば、僕の創作はずっとましなものになっていくだろう。なんともいえない万能感があった。  僕は愛用している水性ボールペンで、松山さんが指摘した部分をどう書き直すかの目安を原稿の余白に記していった。  熱中した。僕から見えない位置に座った中年男が案内されて立ちあがる気配にも僕は乱されることがなかった。いつのまにかウーロン茶のグラスが空になっていた。かわりにタバコを咥《くわ》えた。  ちいさな咳払いに、我に返った。舌打ちしたい気分だ。御案内いたしますという男を睨《にら》みつけるように見あげて、原稿をしまった。腹を立てるのは理不尽だと思いなおして、笑顔をつくった。  立ちあがり、男に従った。小柄な女の子が上目遣いで僕と眼をあわさずに深々と頭をさげた。男がつまらなさそうに紹介した。 「御案内します。真生《まお》さんです」  僕は頷《うなず》いた。御案内というのがここのキーワードなのか。そんな醒《さ》めた眼で七三に分けた男の髪を見つめた。いまどきポマード臭い頭なんて。  真生さんに従って、階段を下った。小柄だが、きつい眼をした女の子だった。僕は感心していた。この店は、はずれがない。  よく考えたら、他の店は知らないし、バルボーナだって三度目だ。はずれ云々《うんぬん》を吐《ぬ》かす資格などない。真生さんが振り返って、こちらです、とドアを開いた。  やっと真生さんの顔に笑顔がうかんだ。気の強そうな顔に、意外なほどの優しさが湧きあがって見えた。僕は原稿に熱中しているときとは別の種類の胸騒ぎに似た昂ぶりを覚えはじめていた。  僕は馴《な》れた様子を演技するつもりで、雑にベッドに腰をおろした。真生さんが跪《ひざまず》いた。その手が靴下にかかった。ちょっと臭いかもしれない。申し訳なく思った。  真生さんは几帳面《きちようめん》な手つきで僕の靴下をたたみはじめた。玲奈さんも靴下を脱がしてくれたが、たたみはしなかった。ふーん、と思って見つめていると、きまりの悪そうな表情で真生さんが笑った。 「お客さん、あたし、まだ日が浅いんです。いろいろ教えてください」 「日が浅いって」 「はい。じつは二日目なんです」 「二日目か」 「そうなんです。まだ本格的に働くには経験不足なんで、あの、なんていうんですか、お客さんの数をセーブしてもらっているんです。今日はお客さんが初めてです」 「なんだか得したような気分だな」 「でも、へたですから……」  真生さんが俯《うつむ》いた。僕は彼女の頭頂部を見つめた。細い髪の毛だ。微妙なウエーブがかかっている。 「左巻きだ」 「あたし、左巻きですか」 「うん。確認」  僕は真生さんのつむじの渦巻きに指を這《は》わせた。真生さんはじっとしている。僕は自分の馴れた手つきに、やや呆《あき》れていた。 「いやだな、左巻き」 「そうかな。じつは僕も左巻きなんだ」 「嘘です」 「嘘じゃないよ。ほら」  僕が頭をさげると、真生さんは跪いたまま僕の頭に指先を這わせた。その指をはずすと、宙で円を描いた。 「左巻きです」  真生さんが呟《つぶや》いた。僕は頬笑みかえした。真生さんは笑わなかった。思い詰めた表情で僕のジーンズに手をかけ、ベルトをはずし、トランクスをずらして露《あら》わにし、いきなり顔をかぶせてきた。  僕は含まれる直前に真生さんを押しとどめた。真生さんが怪訝《けげん》そうな、しかし縋《すが》るような眼差《まなざ》しをむけてきた。僕は首を左右に振った。 「こうしろって教わったんですけど」 「いいよ。無理しなくて」 「でも、仕事ですから」 「あのね」 「はい」 「仕事でやってるって客に感じさせちゃったらまずいわけ」 「あ、そうですね」  一呼吸おいて、真生さんがあやまってきた。 「申し訳ありません」 「気にしないで。はっきりいって僕のここだけど、きれいとは言い難い。お風呂《ふろ》、入ろうか」  裸になった真生さんは、小柄ではあるが綺麗《きれい》にバランスがとれていて、華奢《きやしや》な人形のような躯《からだ》をしている。  真生さんがボディソープを泡だてた。フランスのものらしい。いい香りがするが、かなり強い匂いでもある。 「匂いが移ったら、まずいですか」 「うーん、微妙なところだな」 「奥様に叱られますよね」 「奥さんはいないけどね」 「とりあえずそう言えって。彼女ですね」 「そう」 「なんで彼女がいるのに、男の人はこんなところにくるんですか」 「真生さんに稼いでもらうため」  調子にのって口ばしると、真生さんは僕の顔をちらっと見て、それから俯いて苦笑した。僕も笑った。 「稼がせていただきます」  そう言って真生さんは手にボディソープの泡をとり、僕の股間《こかん》に丹念に絡ませた。僕の腰から臀《しり》にかけて滑らかな泡に覆われた。ところが、その泡の中から僕の息子が熱《いき》りたって顔をだした。 「元気」  しっとりとした声で真生さんが呟いた。そっと掌を這わせてくる。僕は無表情をつくって身をまかせていたが、内心、呆れていた。あれほど佐和子を抱いたのに、この反応である。  しかも、すっかり図太くなって、完全な無表情で真生さんの愛撫《あいぶ》を受けている。きめ細かな泡の具合がとても心地よくて、僕はいよいよ硬さを増していた。 「流しますね」 「うん」  シャワーの湯を浴びせかけられると、やや弛緩した。それでも充分な大きさを保っていて、僕はなんだか得意な気分だ。  いっしょに浴槽に入った。僕は真生さんを横抱きにして、軽く口づけをした。唇と唇が接触しただけだ。遠慮したのだ。  もういちど軽く唇を触れさせると、真生さんから求めて、口をひらいてきた。僕は舌先を挿しいれて真生さんの歯並びをさぐった。同時に、漲《みなぎ》った乳房をそっと掌で覆い、圧迫を加えた。  真生さんの眉間《みけん》に刻まれた縦皺《たてじわ》は、演技や商売上のものではない切迫したものだった。僕は自分でも意外なほど冷静に観察し、そっと指先を真生さんの下腹に滑らせた。  湯とはべつの液体が真生さんから溢《あふ》れていた。僕は優しく指先を挿しいれた。湯よりも熱い真生さんのおなかの中をさぐった。真生さんが啜《すす》り泣くような声をあげた。  しばらく湯のなかで真生さんをいじめた。たいして経験のない僕の指で、真生さんは啜り泣くような声をあげ続け、必死で僕にしがみついてきたのだ。 「許してください。なにもできなくなってしまいます」  そう訴える真生さんの視線の先に、壁に立てかけた巨大な銀色のマットがあった。僕はあのマットを知らない。どのようなことをするのかはだいたい想像がつくが、玲奈さんとのときには準備をしようとしたのを押しとどめて、拒絶した。  真生さんは今日で二日目という新人である。玲奈さんのように仕事に馴れていないのだ。僕はあっさりと真生さんから指をはずしていた。真生さんは肩を揺らすように息をしていたが、手の甲で額に浮いた汗を拭《ぬぐ》い、苦しげな笑顔をうかべて浴槽からでていった。  よろける真生さんを、僕はとても冷静な眼で見守った。どうやら真生さんは過敏といっていいくらいに敏感らしい。おそらくは僕の指で昇りつめてしまったのだ。  だから足許《あしもと》がおぼつかない。職業意識だけで銀色のマットを床におき、頭のあたる部分にタオルを敷き、洗い桶《おけ》になにやら液体をいれ、湯を注いでいる。  僕は浴槽の縁に両腕をのせ、その上に顎《あご》をおいて醒《さ》めきった顔で真生さんの仕事を見つめつづけた。  こんなに過敏で、彼女はこれからの仕事をこなしていけるのだろうか。いちいち感じて身悶《みもだ》えしていては、疲れきってしまう。  それとも、これくらい感じやすくてセックス自体が好きなほうが、この仕事にむいているのかもしれない。いうなれば趣味と実益である。 「どうぞ。滑りますからお気をつけてください」  マニュアルどおりの喋《しやべ》りだ。僕は鷹揚《おうよう》に浴槽からでて、はたと困りはてた。というのもマットの上で具体的にどうするのか、その詳細がわからないからだ。  真生さんの視線から、そして周囲の状況から、ここに横たわってくださいということはわかるのだが、仰向けか。俯《うつぶ》せか。  途方に暮れるというには大げさだが、馴れたふりをした手前、いまさら自分がどのような体勢をとればいいのかを訊《き》くことはできない。 「俯せでお願いします」  上目遣いで真生さんが言った。僕はつまらなさそうに頷《うなず》き、真生さんがお湯を飛ばして温めたマットの上に体を横たえた。首を真生さんのいる方にむけ、マットの枕の部分を両手で抱く。 「熱いかもしれません」  そう呟いて、真生さんが僕の背にローションらしきものをたらした。  熱かった。思わず顔を歪《ゆが》めていた。真生さんがあわてた。 「熱いですか」 「うん。熱い」 「申し訳ありません」 「いいよ。我慢する。たらしちゃえ」 「……すぐに冷たくなるんで、昨日は冷たいって叱られちゃったんです」 「いいから。たらせってば。僕って真性マゾだからさ。許す」  真生さんが情けなさそうに笑った。僕は笑いかえしながら思った。僕はマゾなんかではない。間違いなくサドだ。サディストだ。彼女がほとんど経験のないことを知って、僕はあえてマットに横たわっているのだ。  とりわけこれがしたいわけではないのだ。このサービスを受けたいと思っているわけではない。でも、だからこそ、こうしてだらしなく身を投げだしている。  真生さんがふたたびローションを塗りはじめた。どうやら水を足したのだろう、こんどは体温よりやや温かい程度だった。僕は顔以外の全身を得体の知れないぬめりで覆われていた。 「失礼します」  真生さんが躯《からだ》を重ねてきた。僕の背に幽《かす》かに触れているのは、真生さんの乳首ではないか。硬い感触だ。  彼女は僕に体重をかけないように四肢を突っぱっているので、乳首の先だけが僕の背を移動し、擽《くすぐ》っていく。間違いない。硬く尖《とが》っている。  昂《たか》ぶっているせいだろうか。あるいは単純な肉体的反射か。なんだか痛々しい。いきなり僕は罪悪感を覚えてしまい、ちいさく咳《せき》払いをした。 「ねえ、いいよ。かまわないから。体重をかけていいよ。ぴったり重なって」 「でも——」  真生さんは僕に体重をかけようとはしなかった。あくまでも僕は客なのだ。真生さんは僕の上で必死に手足を突っぱりながら乳首を滑らせ、やがて僕の臀の谷間に指を挿しいれ、日の当たらない部分を弄《いじ》りはじめた。  正直なところ、驚いた。こんな部分まで愛撫をするのか。見ず知らずの男の排泄《はいせつ》器官にまで指を這《は》わせる。  だが、ほんとうに驚愕《きようがく》するのはこれからだった。やがて真生さんの手が僕の触角を愛撫しはじめ、そして彼女の舌先が僕の肛門《こうもん》に触れた。挿しいれられんばかりに真生さんの舌先は尖って、僕の肛門を舐《な》めあげる。  やめろ。  やめてくれ。  そう、声をあげたかった。  ところが、まったく声がでなかった。  しかも僕は、いまだかつてないほどにきつく勃起《ぼつき》させていたのだ。大げさなことをいえば、肉体と精神が離反していた。  心は、そんなことはやめてくれと叫ぶ。ところが躯は、もっと、もっと、もっと、もっと、刺激してくれ、強く、きつく、いやらしく! そう反応している。  僕はもう逆らう気をなくしていた。真生さんに全てをまかせてしまおう。なぜなら、僕は偽善者にすぎないからだ。おそらくはどこにでも転がっているような偽善者だ。僕は有象無象にすぎないのだ。金で買った女に肛門を舐められてだらしなく身悶えをしてしまう薄汚いその他大勢だ。  真生さんはいつのまにか僕の頭の方に自らの下腹をむけ、憑《つ》かれたように僕の臀のあちこちを舐めあげている。ぬるぬるのローション。僕の背を擽る彼女の陰毛。大股《おおまた》開きの男と女。  なんだ、これは。  お祭りか。  発散は、発散だが。  くだらねえ。  それなのに、夢中だ。  人間の尊厳とかいうよな。  立派な科白《せりふ》だ。  尊厳。  そんなもの、どこにあるのだろう。  ここにあるのは、凄《すさ》まじく程度の低いユーモアじゃないか。  滑稽《こつけい》だ。  滑稽すぎる。 「真生さん」  思わず声をあげていた。  怪《け》訝げんそうに彼女が僕を見た。  どうやら彼女は真剣に仕事をしていたらしい。生真面目にお仕事をこなしていたのだ。単純に仕事をしていた。人間の尊厳などという噴飯ものを思いうかべていたのは、愚かな僕のほうだけだったらしい。  僕の腹づもりでは、このあたりで真生さんに声をかけると、彼女は哀しみの詰まった眼差しを僕に据えて控えめに笑う。僕と真生さんの視線が絡む。僕は囁《ささや》く。もう、いいよ、こんなことをしなくて。  それから、僕と真生さんは、このぬるぬるなマットから滑りおち、冷たいタイルの上できつく抱きしめあう。泣きそうになりながらセックスをする。  だが、真生さんは惚《ほう》けたような顔をして僕の上を滑りつづけ、舐めつづけている。  それから僕は不慣れな真生さんからいわゆるソープランドにおけるサービスのフルコースを受け、仕事熱心な彼女に三度射精に至らされて虚脱しきって帰りの身支度をした。  佐和子との日々でひたすら射精しつづけて、その感触がまったく抜けないうちに真生さんを買った。男の肉体には途轍《とてつ》もない力が隠されているものだ。悲しいくらいに途轍もない力だ。 「いかがでしたか、真生ちゃん」  マネージャーが声をかけてきた。僕が頬笑みかえすと、マネージャーもいっしょにエレベーターに乗ってきた。僕はだらけてエレベーターの壁面に寄りかかった。 「いいね。すごく良い子だ」 「でしょう。きちっとご奉仕できましたか」 「ああ、バッチリだったよ。三度」 「そうですか。三回ですか」  マネージャーは、うん、うん、と二度頷いた。満足そうだった。 「馴《な》れてくると手を抜きますよね。二度いかせれば文句ないだろうって態度に終始しちゃってねえ」 「そういうもんですか」 「そういうもんなんですよ。指名だけが命の女の子たちなんですけどね、自分の立場を忘れちゃうんですねえ。お客さん、これからもよろしくお願いします。また真生ちゃんを指名してやってください」  マネージャーに深々と頭をさげられて送りだされた。歌舞伎町は完全に暮れていた。僕は過ぎているので腰が定まらず、しかも肌は銭湯からの帰りのようにサラサラで、秋風が冷たく沁《し》みるのだ。  右手にはコピー原稿の入った大判の封筒がある。だが、こんなものになんの意味があるのか。  たぶん、僕は受賞するだろう。文學界新人賞を受賞する。そして定期的に小説を発表するようになる。  傲慢《ごうまん》になっているわけではない。ソープの待合室で客観を獲得して以来、ずっとその客観が僕のなかに居座っているのだ。  客観は当然ながら僕の願望などとは無縁なところで世界を淡々と眺めて、これから僕がどうなるかを僕に告げる。僕は受賞する。間違いなく受賞する。なぜなら、そのレベルにあるからだ。  ところが——。  ところが、僕は、いますぐのこと、つまり今夜の自分がどうなるかがまったくわからなくて、行き場をなくした子供のように狼狽《うろた》えている。早く佐和子に最終選考に残ったというよろこびの報告をすればいいのに、歌舞伎町の雑踏のなかを無様に彷徨《さまよ》っている。      14  佐和子が甲斐甲斐《かいがい》しく僕のチノパンの太腿《ふともも》を濡《ぬ》らした日本酒をオシボリで拭《ぬぐ》っている。向かいの席で富樫君が羨《うらや》ましそうにそれを眺めている。 「ごめんね、あたし、ちょっと舞いあがっちゃってるの」  オシボリを卓の上にもどして、上気した佐和子があやまった。僕は柔らかく頬笑んで頷《うなず》きかえす。余裕|綽々《しやくしやく》である。  新人賞最終選考に残ったという知らせを受け、松山さんと会ったその日から三日間がたっていた。なぜか僕はそのことを誰にも言えずに、ひたすら圧《お》し黙っていた。  ようやく今日、僕は佐和子に最終選考に残ったことを告げた。恥ずかしそうに、決まり悪そうに、ごく小声で佐和子に言った。  西日を浴びながら彼女を抱いて、淡いが深い眠りに陥って、それから覚めたときだ。腕のなかの佐和子にむかって、そっと囁いた。夢うつつな表情をしていた佐和子だったが、とたんに張りつめた。  みんなを集めてお祝いをしよう、ということになった。佐和子は熱心だった。しかし土曜日の夕方である。タイミングが悪く、微妙に時刻が遅かった。幸荘のみんなはそれぞれ外出していて、富樫君だけが手持ちぶさたな顔でカメラ機材の手入れをしていた。  佐和子が自分の友達の女の子を幾人か誘って、総勢五人ということになったのだが、富樫君は佐和子の美貌《びぼう》にまいってしまい、せっかくやってきてくれた女の子たちと満足に口もきかない状態だ。  モデルになってくださいと富樫君は迫ったのだが、佐和子はそれをやんわりと断ってしまった。富樫君はカメラを構えると図々《ずうずう》しくなるらしく、それなりに悪さをしているのだが、どうやら自分が心底から撮りたいと思った対象とはあまり縁がないらしい。  僕は内心、佐和子が富樫君のモデルになってもいいと思っているのだが、もちろん黙っている。ただ胸の裡《うち》に湧きあがる微妙な優越感を噛《か》みしめているだけだ。  土曜日の萬亭《よろずてい》は混んでいた。吉祥寺で居酒屋といえば萬亭だ。格安なのに肴《さかな》がうまい。佐和子が僕の太腿あたりに酒をこぼしてしまったので中断していた乾杯を再開して、皆は飲み、食い、笑い、語らった。  場の中心は、僕だ。文芸誌の新人賞最終選考に残っただけだというのに、佐和子が呼んだ女の子たちは僕を憧《あこが》れの眼差《まなざ》しで見つめ、佐和子はなにかと僕の世話を焼く。それがうれしくてしかたがないといった風情で。  早くも富樫君が酔いはじめた。口を尖《とが》らせて写真家の世界の対人関係についてぶつぶつ文句を言う。僕はそれを適当にあやす。 「そうか、そうか。写真の世界は徒弟制度なのか。古いんだな。悪弊ってやつだよね」 「あくへいって、なんだ」 「善悪の悪に、弊害の弊。こう言えばだいたい意味がわかるだろう」 「わからない。文学者は言うことが小難しくていけないよ。一般庶民にもわかるように言ってくれなくちゃ」  面倒になり、僕は富樫君の頭を軽く小突いた。富樫君は大げさに頭を抱えた。 「吉岡は、いつのまにか傲慢になったよ。もともと傲慢だったけど、新人賞に決まってから、よけいに傲慢になった」 「おいおい、まだ受賞したわけじゃないぜ。勘弁してくれよ」 「うるせえ。だいたい俺のほうが年上なんだぞ。いいかげんにしろよな」  こんな場で年齢のことを言いだすとは垢抜《あかぬ》けない。僕が失笑すると、女の子たちも苦笑いをうかべた。僕はそっと佐和子に耳打ちした。 「富樫君なんか誘わなければよかったな」 「だって彼、お友達がいないんでしょう」 「まあな。写真がどうこうというよりも、カメラ機材オタクってところがあるんだ。レンズ自慢とかくだらないわけ。値段が幾らしたんだとか、じつにアレなんだよね。へたに話しかけると、会話がすぐそっちのほうにいってしまうから、みんな、なんとなく」 「こぉら、吉岡! なにをひそひそ話してるんだよ。だいたい、てめえだけだぞ」  富樫君が睨《ね》めまわしてくる。いやな目つきだ。正直なところ、腹が立つ。 「なにが、てめえだけ、なんだよ」 「自分のことを僕なんて呼ぶ奴だよお」  なぜだろう。僕は怯《ひる》んでいた。それをごまかすためにメカブの小鉢に箸《はし》をすすめた。 「——自分のことを僕と呼んではいけないのか」 「気取るんじゃねえよお。何様のつもりだよお。たかが新人賞じゃねえかよお」 「よお、よお、 ってうるさいんだよ。腋臭《わきが》を治してからあれこれほざけ」  とたんに富樫君が硬直した。一切の動きを喪《うしな》った。凝固したのだ。そんな富樫君が握りしめたグラスから一筋、滴《しずく》が伝い落ちた。  僕は言ってはいけないことを言ってしまったことを悟った。ところが富樫君の左右に座った女の子が、僕が腋臭|云々《うんぬん》と口ばしってから一拍おいて、幽《かす》かに顔を顰《しか》めて富樫君から躯《からだ》を離したのだ。  彼女たちは露骨に嫌がっていた。躯が斜めに逃げていて、富樫君の右側の女の子など、鼻梁《びりよう》に皺《しわ》を刻んでいる。いまにも鼻をつまみそうな気配だ。  飲み会はなんともいえない雰囲気に包まれてしまった。まわりの席は、土曜の夜の開放感に和気藹々《わきあいあい》、騒々しくもあるが和やかだ。ところが僕たちの席は、緊張して張りつめ、息苦しい。  実際に富樫君の腋窩《えきか》からは、あの臭いが漂っていたのだ。おそらくは酔いも関係しているのだろうが、いつもよりも強力な臭いがしていた。  僕もそれなりに酔っているのだが、それでもツンと鼻にくる獣臭い刺激が鼻腔《びこう》の奥の奥を刺激する。  富樫君の両脇に座った女の子たちは、耐えていたのだ。それが僕のひとことで、解き放たれてしまった。  僕は途方に暮れた。どうすればいいのだろう。あやまればいいのか。丁寧に謝罪する。しかし、富樫君の腋窩の臭いは、それでおさまるわけではない。  女の子たちは富樫君から逃げだしたくてしかたがないといった表情を崩さない。確かに僕はよけいなことを言ってしまった。しかし現実に富樫君は臭いわけで、はっきりいってそれは心地よい香りではない。つまり富樫君から顔をそむけることには、やむを得ない面もあるわけだ。  まいった。  心底からまいった。  腋窩が臭いことで富樫君を責めるわけにはいかない。当然のことだ。しかし理性的な態度をとれば責めるわけにはいかないが、現実には居たたまれない臭いがするわけで対処のしようがない。  これは差別云々の問題ではないのだ。実際に臭いのだ。しかし、そうであっても、残念ながら僕の人間的な大きさや幅が、これで露《あら》わになってしまったようだ。 「富樫君。すまん」  思いきって頭をさげた。富樫君は微動だにしない。なぜかチューハイのグラスをずっと握りしめたままだ。まだたくさん氷が浮かんでいる。手が凍えないだろうか。つまらない心配がうかんだ。 「そうね。信義がいけないわ」  佐和子が僕をまっすぐ見据えて言った。さらに続ける。 「でも、富樫君もよくない。つまらない愚痴を言いはじめたでしょう。みんな、閉口していたのよ。なんで普通に愉《たの》しく酔えないの。今夜は信義の前祝いみたいなものよ。それなのに写真家の世界にはコネがどうこう、嫉妬《しつと》があれこれって具合に愚痴を並べあげられたら、まわりの者はたまらないわ。富樫君がやるべきことは、愚痴を口にすることではなくて、自分の力で情況を変えること」  佐和子がちいさく溜息《ためいき》をついた。富樫君は硬直したままだ。女の子たちも僕も、じっと俯《うつむ》いている。 「ねえ、富樫君。あなたはきっと大きく誤解していると思うの。だから、はっきりと指摘しておいてあげる。いいこと。あなたの腋臭だけど、その臭い自体が嫌なんじゃないの。あなたの今夜の態度がよくないの」  富樫君が顔をあげた。一瞬だった。また、下をむいた。佐和子はかまわず続けた。 「あのね。あたし、はっきりいって腋臭の匂いが嫌いじゃないの。こんなことを人前で言うのも恥ずかしいけど、好きな人の腋下の匂い、大好きよ。うっとりとする。ベッドで彼の腋下に顔をうずめて、安心して眠れるの。なぜかっていうと、匂いがあるから。彼の匂い。女って、そういうものなのよ」  強《こわ》ばっていた富樫君の肩が震えた。佐和子はまた溜息をつき、しかし毅然《きぜん》とした調子で言った。 「みんな劣等感があると思うの。劣等感がない人なんて、いない。あたしは混血であること。富樫君は腋下が匂うこと。ある人は背が低いことだったり、髪の毛が薄いことだったり、学歴がなかったりすることだけど、問題は自分がうまくいかないことを腋臭のせいにしたり、混血であることにしちゃうってことなのよね」  僕は咳《せき》払いをして、そっと割りこんだ。 「佐和子。恰好《かつこう》よすぎるよ」 「よすぎるかな」 「よすぎる。間違ってはいないけど、正論は辛《つら》いよ。うまく言えないんだけど、正しいことってのは、案外、現実と離れてる。離反してるっていうのかな。例がおかしいかもしれないけど、その昔は、女の人は貧しさから売春をしたって教えられた。それは、たぶん間違っていないんだ。ところが現在だ。貧富の差はあるけれど、日本で飢え死にする人は、それほどいないだろう」 「ええ。飢え死にがないわけじゃないだろうけど、それはかなり難しいわね」 「とにかく昔は貧しさから売春をした。売春は悲しい出来事とされて、歴史の勉強をすると、そういう情況に追いやった権力者なんかが糾弾されたわけだ」 「だって、そうなんでしょう」 「そうだ。でも」 「でも」 「いまの時代に、売春はなくなったか」 「なくならないわね」 「だろう。援助交際というふうに名前を変えて、すごく蔓延《はびこ》っている。でも、貧しさから援助交際をするんじゃないよね。ご飯が食べられないからってわけじゃない」  喋《しやべ》っているうちに、なにを言っているのかわからなくなってきた。小説家を志しているにもかかわらず、言葉の無力さを痛感するのはこういうときだ。 「僕の言いたいことは、これだけ。誰にも反論のできない正論というのは、じつに嫌らしくないか」 「じゃあ劣等感は、劣等感のままってわけ」 「うん。それを克服できるのは個人的な能力の問題なような気がするんだ。あえて言ってしまえば、ダメな奴は永遠にダメ」 「ずいぶんひどいことを言うのね」 「まったく。でも、誰もが物欲しさに援助交際をするわけじゃない。しかも冷静に分析していくと援助交際、つまり売春のいったいどこが悪いのだろう」  富樫君の傍らの女の子が割りこんだ。 「だってお金で躯《からだ》を売るのよ」 「うん。でも大学時代に合コンなんかをすると、平然と玉の輿《こし》を狙うって意味のことを口ばしる女の子がたくさんいたよ。それって結婚という認知された手順を踏みはするけれど、合理的な売春じゃないのかな」 「でも」 「経済的に豊かな男に寄生して、セックスを餌にして残りの人生を遊んで生きようとしているだけじゃないか。そして、それを当然のこととして口にする女の子だらけだったよ。具体的な年収とか、家がどうとか、車がどうとか」 「でも、それだけじゃないと思うの。まず愛があるのよ。でも、愛だけじゃ生きていけないもの」 「援交をする女の子も、愛だけじゃ生きていけないんだよね。なにがなんでもシャネルが欲しいというのと、年収幾ら以上の男じゃなくてはダメっていうのとどれくらいの差があるのかな」  女の子が黙りこんだ。佐和子がちいさく呟《つぶや》いた。 「なーんだ、女って、みんな売春婦かあ」  僕は曖昧《あいまい》に頭を掻《か》き、付けくわえた。 「男だって一緒だな。そこに性差ってのはないと思うよ」 「みんな楽をしたいのね」 「それは生物の基本的な性質なんだよね。アメーバに不快な電気刺激を与えれば、アメーバはそこから逃げだそうとする。心地よい場所を求めて移動する。生物学的に全ての生き物は、じつは快感を求めて生きているんだよ。これは紛れもない事実なんだ」 「わかった。男も女も一緒ね」 「一緒だけど、女の子の全てが援交をするわけじゃないし、三高の男を求めるわけじゃない」  酔いもあるのだ。たいして飲んでいるわけではないが、目の前には酒があり、喋れば咽《のど》が渇く。そこでアルコールで咽を潤す。ますます舌は滑らかに、制禦《せいぎよ》がきかなくなっていき、会話は調子にのってどんどん外れていってしまう。  やがては呂律《ろれつ》がまわらなくなって、しかし、それでも、くどくどと屁理屈《へりくつ》をこねまわすのだろう。どこかで軌道修正をしなくては、と思うのだが、コントロールがきかない。  疲労というには大げさな、しかし微妙な憂鬱《ゆううつ》と懈《だる》さに囚《とら》われて卓に頬杖《ほおづえ》をつくと、佐和子がカラッとした声で言った。 「全ての女が援交をするわけじゃないけど、手っ取り早いというので売春に励んでブランド物を買う女の子もいる。同じように誰もがきちっと劣等感を克服するわけじゃない。ちょっと前のあたしは、うまくいかないことがあると、みんな混血のせいにしていた。そういったことは、結局は個人的な問題なのね。そうでしょう」 「そうなんだ。言いたいのは、そういうことだ。個人的な問題なんだ。援交は断じて社会的な問題じゃない。個人的な問題だ。劣等感であるとかを社会的な問題に還元するのは、狡《ずる》い生き方だ。なあ、富樫君。腋臭は社会問題か」 「——社会問題だ」  富樫君のボソッとした口調に、皆がいっせいに笑い声をあげた。  みんな、それなりに酔いがまわってきたのだろう、もう富樫君の両脇の女の子も躯を避けようとはしない。  僕も富樫君の臭いがわからなくなってきていた。いや、意識を集中すれば嗅《か》ぎとれるのだが、もうどうでもいい。  ようやく和気藹々《わきあいあい》とした空気がもどってきた。会話は僕が想像した鬱陶しい方向に流れず、うまい具合に収束した。佐和子がうまくまとめてくれたおかげだ。僕は酒の酔いと佐和子に感謝した。  そっと佐和子の横顔に視線をやる。幽《かす》かに頬が赤らんで、端正さのなかに可愛らしさが滲《にじ》んで、たまらない。僕は世界中の誰よりも佐和子が好きだ。  でも、松山さんと会ったあとにバルボーナに行った。愛する佐和子以外の女の子とセックスをして、三度射精をした。  なぜだ。  なんでだ。  いまだに、わからない。  佐和子が僕の視線に気づいた。柔らかく頬笑んで見つめてくる。僕は佐和子を真っ直ぐ見返す。真っ直ぐに見つめかえすことができるのだ。  なぜ僕はこのように堂々としていられるのだろう。バルボーナに行ったことに罪悪感をもっていないのだろうか。自分が行ったことなのに、僕は自分がそれをどのように感じているのか判然としない。  井の頭公園で『いいかげんにしてください。僕は佐和子さんを裏切りません』と断言したことが脳裏を掠《かす》めた。佐和子は『純情っていうのかな。吉岡さんの眼の色、ちょっと怖いくらい』と応《こた》えた。  純情——。  そうだ。あのときも僕は、いまのように佐和子を真っ直ぐ見つめて『僕は純情を貫徹したい』などと吐《ぬ》かしたのだ。  あのときも、いまも、佐和子は僕のことを純情であると信じきっているのだろう。佐和子にとって僕は純情という言葉で括《くく》られてしまう存在なのだ。  しかし僕は純情であるといわれることに微妙な反撥《はんぱつ》を覚えているのかもしれない。  いや、純情でありたい。  純情。純粋。純真。純潔。純朴。純正。純然。純愛。純血。純化。そして純文学。  純文学はともかく、僕は誰よりも純情であり、純粋でありたい。  しかし同時に、不純でありたい。  汚物でありたい。  汚濁でありたい。  穢《けが》れでありたい。  禍禍《まがまが》しい存在でありたい。 「どうしたの。めずらしいわね。酔っ払っちゃったの」  僕は笑いかえし、佐和子に躯をあずける。どうしたの。めずらしいわね。酔っ払っちゃったの——。だが、付きあってどれだけの時間がたったというのか。めずらしいわね、と言われるほどに僕たちは二人の時間を重ねたのか。  僕は自分自身が一筋縄でいかないことに感動に近い気持ちを覚えていた。その感動は善悪を超越したところから発したもので、僕は自らの歪《ゆが》みを傲慢《ごうまん》にも淡々と肯定していた。  これから先、誰にも言わないし、言えないが、僕は、たぶん小説家にしかなれないのだろう。他の何ものにもなれないのだ。  折り目正しく生きようと思った。  きちっと仕事をこなし、誰も裏切らず、善い人になろう。そう決心した。  ただし、心は、僕のものだ。僕の精神は、あくまでも僕のものだ。願わくば、僕は静かなる悪魔になりたい。ああ、密着している佐和子の体温が愛《いと》おしい。 「おい」  頭上から声が降ってきた。円町君だ。 「槇村さんが死んだぞ」  走ってきたのか、円町君の額には汗が浮かんでいた。僕は長閑《のどか》な顔で見あげた。 「よく、ここがわかったなあ」 「吉岡の行くところなんて、ここしかねえじゃねえか」 「失礼だなあ、君は。相変わらずだ」 「ふざけてる場合じゃないって。死んだんだよ」 「だから、槇村さんが死んだんだろう」 「そうだ。中央線に飛びこんだ」 「ああ、よくあることだ。流行なんだよな。いつだったかなあ、わりと最近だ。そうだ。富樫君のオーデコロンを奪って——」  あぶない、あぶない。僕は曖昧《あいまい》に言葉を呑《の》みこんだ。玲奈さんに会いに独りでバルボーナに行ったときだ。予約の電話を入れ、吉祥寺駅に着いたら、アナウンスが中央線に事故があったと告げていた。 「なあ、吉岡。わかってるのか。槇村さんが飛びこみ自殺をしちゃったんだよ」 「わかってるよ。飛びこみだろう——」  僕は佐和子に寄りかかっていた躯《からだ》を起こし、姿勢を正した。すうっ、と酔いが引いていった。同時に苦笑した。 「いいかげんにしろよ。円町君は幸荘にいなかったじゃないか。香月さんのところにしけこんでたんだろう」 「そうだ。香月の部屋にいた。今夜は泊まるつもりだった」 「なんで槇村さんのことがわかるんだよ」  問いかけると、円町君は黙って携帯電話を示した。怪獣ブースカのストラップが左右に、間抜けに揺れている。  僕はようやく円町君の言うことが事実であり、現実であるということを認識した。まず掌に浮いた大量の汗を卓の上に投げだしてあるオシボリで拭《ふ》いた。  それから目頭を揉《も》んだ。溜息《ためいき》をついた。頭を掻《か》いた。タバコに火をつけた。いったん遠のいた酔いがじわりとぶり返してきた。  僕の前では富樫君が腑抜《ふぬ》けた顔をして、小首をかしげている。富樫君も信じ難いのだろう。槇村さんが死ぬなんて。飛びこみ自殺をするなんて。  なかなか立ちあがる気になれなかった。タバコをもみ消して咳《せき》払いをした。円町君が舌打ちをした。 「ったく、うざってえなあ。なにをだらだらしてやがる。おい、行くぞ」 「ああ……どこへ」 「どこへ?」 「そうだ。どこに行く」  とたんに円町君の顔から力が抜けた。僕は眼で念押しをした。円町君が途方に暮れた。 「馬鹿野郎。そんなの俺にもわからねえよ」  僕は円町君に座るように促した。富樫君の右側に座っていた女の子が席をあけた。僕は訊《き》いた。 「詳細はわかってるのか」 「いや。中野で飛びこんだらしいが」 「中野駅に行くか」 「いや。なんだか行っても無駄なような気がしてきた。吉岡に、どこに行くって訊かれたとたんに、全てが無駄に思えた」 「たぶん槇村さんの御家族に連絡がいってるだろう。僕たちはバラバラになった槇村さんと対面するのか」 「いや。そんなのは、ごめんだ」  円町君も僕も口を噤《つぐ》んだ。富樫君が大きな溜息をついた。 「こんなことを言ったら吉岡や円町に叱られるかもしれないけどな、俺は、槇村さんは長生きしないと思っていたよ。死にたいんじゃないかって思っていた」  佐和子が抑えた声で尋ねてきた。 「槇村さんって方、幸荘に住んでいるの」 「うん。四十代半ばで幸荘の主みたいな人だった。いろいろ僕の相談にのってくれたんだ。僕が円町君と井の頭公園で暴力|沙汰《ざた》を起こしてぼこぼこに叩《たた》きのめされたとき、吉岡は近いうちに童貞を棄てるって予言した」 「当たったの」 「当たった。なんでも見えちゃってるような、そんな人だった」 「どんな気分」 「なにが」 「いまの気分よ。ごく近しい人が亡くなったんでしょう」 「うん。でも、なんていうのかな」 「言いづらいの」 「いや。はっきりいって他人事《ひとごと》なんだ。それに驚いている。ああ……電車、とまっちゃったんだな、そんな感じで」  富樫君が頷《うなず》いた。 「痛くも痒《かゆ》くもないんだよな。俺のオヤジが死んだときもそうだった。入院して、もう助からないって宣告されたときは、オヤジが死んだらもっとショックがあるのかと思っていたんだけどさ、現実には、なんにも変わんないんだ。世界は、まったく変化がない」  円町君が富樫君の酎《ちゆう》ハイを奪って飲みほし、訊いた。 「おまえのオヤジ、死んじゃったのか」 「死んじゃった。膵臓《すいぞう》の癌」 「親不孝息子だな」 「円町に言われたくはないよ」  僕は二人のやりとりを漠然と聴きながら、店の女の子を手招きした。日本酒に切りかえようと思った。注文を終えて宣言した。 「さあ、とことん飲もう。徹底的に酔うぞ。槇村さんの通夜だ」  徹底的に飲むと宣言したわりに、誰もが加減して飲んでいた。佐和子が連れてきた女の子たちは、切りのいいところで、沈んだ顔で挨拶《あいさつ》をして帰っていった。  入れかわるようにして香月さんがやってきた。円町君が連絡をいれたのだ。香月さんは僕と佐和子を交互に見て、ちいさく頷き、しかし余計なことは言わずに席に着いた。  僕と佐和子、円町君に香月さん。そして富樫君。確かに僕たちはそれなりに沈鬱《ちんうつ》な顔をつくってはいるが、富樫君の言うとおり、近しい人が死んでも世界はなにも変わらない。まったく変化がない。  槇村さんが亡くなったと連絡を受けた円町君は取るものも取りあえず僕たちが飲んでいる萬亭に駆けつけたわけだが、結局は一緒に酒を飲んでいる。  確かに幸荘というボロアパートに一緒に暮らしていたが、そして、自ら選択した誇り高き貧乏故に、幸荘に暮らす者たちは運命共同体といった意識を心のどこかに抱いてはいたが、所詮《しよせん》は僕たちは部外者なのだ。  槇村さんの処理は、槇村さんの御家族が行う。僕たちのような幸荘に暮らす有象無象が押しかけても迷惑なだけだ。僕たちにできることといえば、槇村さんの死を肴《さかな》に、こうしてちびちびと酒を飲むことだけだ。 「しかしドラマチックだなあ」  僕は黙っていることができずに、呟《つぶや》いてしまった。そして槇村さんの死に対してドラマチックなどという言葉を不用意に用いてしまったことを恥じた。  だが、誰もが深く頷きかえしていた。富樫君が杯を干した。首を左右に振りながら、口をひらいた。 「まったくドラマチックだよ。とことんドラマチックだ」 「自分でドラマチックなんて口ばしっておいてこんなことを言うのもなんだけど、ちょっと不適当な言葉だったな。反省」  僕が誰ともなしに頭をさげると、円町君が抑えた声で言った。 「いや、ドラマチックだよ。凄《すご》くドラマチックだ」 「俺たちって同窓生みたいなものだろう。幸荘は俺たちの学校だよ。だから、たとえば中年オヤジになっても、一年に一度くらいはこうして飲み屋で会いたいな」  富樫君の言葉に、感傷的になっている僕たちは深く頷いた。 「俺たち、親父になって会うだろう。幸荘時代を懐かしむ。それでだな、ある程度酔いがまわると、きっと槇村さんのことを喋《しやべ》ると思うんだ。そのときも、きっと、ドラマチックだなあ……って感慨に耽《ふけ》るんだ」  加減して飲んでいるせいかもしれないが、こういうときに人はたいして酔えないものだということを、今夜、知った。僕は蟀谷《こめかみ》を丹念に揉んだ。 「富樫君が言っただろう。お父さんが亡くなって、もっとショックがあるのかと思っていたけど、現実には、なにも変わらないし、世界は、まったく変化がなかったって」 「ああ。なーんにも変わらないんだよ。そりゃあ、オフクロや妹は泣いたけど、そしてオヤジはこの世から消えてしまったけど、俺は溜息なんかつきながら、シコシコ御飯を食べてるんだな」 「なあ、富樫君。それは、ひょっとしたら世界が変わらないんじゃなくて、僕たちが無力だってことじゃないかな」 「俺たちは、無力か」 「うん。世界が変わらないんじゃなくて、僕たちが運命をまったく変えられないんだ。そういうことじゃないか」 「そうか。そういうことか」  香月さんが溜息をついた。灰皿のなかの喫殻をしばらく指先で弄《もてあそ》んでいたが、いきなり言った。 「きついね。吉岡君て、言うことがきつい」 「そうかな」 「そうよ。大嫌いだな。小説家なんて」  僕は苦笑した。佐和子が香月さんを睨《にら》みつけた。 「香月。なんで、そういうことを言うの」 「いくらでも言うわよ。冗談じゃないよ。なにが、世界が変わらないんじゃなくて、僕たちが運命を変えられないんだ、よ。ふざけないでよ。物書きなんて最悪。言葉を弄んでればいいわ。いつか、しっぺ返しにあって泣くよ、絶対に」  僕は俯《うつむ》きたくなった。香月さんの言うことは、正しい。槇村さんが死んだのだ。この世界から消えた。それなのに僕は気のきいた科白《せりふ》を吐いて、どこか得意がっている。  そうなのだ。物書きとは、所詮は傍観者に過ぎなくて、心底からの痛みと縁のないところであれやこれやをでっちあげるのだ。自らが痛みを覚えたら、たぶん、書けない。冷徹に記録することなどできない。ましてや、虚構をでっちあげることなど。 「でも、それでも、僕は、書くよ」 「なによ、いきなり」 「香月さんは、物書きの罪を暴いた。いや、こういう、もったいぶった大げさな言い方が気に食わないんだろうけど、仕方がない。物書きが罪深いという自覚は、充分にもっている。でも、僕には言葉しかない」  香月さんが口の端で笑った。薄笑いだ。僕を肯定したのか、それとも蔑《さげす》んだのか。  今夜、はじめて、心底から飲みたいと思った。しかし自制した。このうえ、酔っ払って醜態をさらすなんて、僕には耐えられない。それに僕は間違ったことは言っていない。そういう自負がある。  先ほどから円町君が店内に流れる有線放送のロックにあわせて指先でリズムをとっている。さすがにミュージシャンだ。僕にもわかる正確さだ。僕は卓上を叩《たた》く円町君の指先を凝視した。 「なんだよ」 「機械みたいだ」 「ああ。まあな。音楽家は、正確には演奏家か。まず機械にならなくては。俺の好きなドラマーのルーズベルト・ショウなんて、まったく時計みたいな太鼓を叩くよ」 「そうか。それがプロってことなのか」 「うん。以前、吉岡も言ってたけど、感性とか言ってる奴は、まあ、ダメな奴だな。きちっと演奏ができてからでしょう、感性」 「そうだな。そうだよな。物書きにもあてはまるよ」 「槇村さんは、感性とか吐《ぬ》かす段階で終わっちゃった人だ」  驚いた。厳しい言葉だった。円町君がさらに続けた。 「あの人、なんにもしなかったじゃないか。あれこれ偉そうに言いはしたけど、俺たちのあいだで長老ぶっていたけど、いったいなにができたの」 「まあ、仙人みたいな人かな」  富樫君が割りこんだ。 「仙人は褒めすぎだな。ただの女好きだよ」 「富樫の言うとおりだ。槇村さんは、口だけだった。富樫のようにシャッターを押さなかった。俺のように弦をはじかなかった。吉岡のようにワープロのキーボードを叩かなかった。世間一般の人のように働かなかった。ほんとうに槇村さんは口だけの人だった。口先だけだった。人生の師匠のような顔をして、でも、使ったのは声帯だけだった。喋ることくらい、誰だってできるさ。でも、喋っただけだから、なにも残さなかった。残らなかった。四十も半ばになってそれに気づいた。だから居たたまれなくなった。それで死んじゃった。そういうことだ。しかも」  僕はまだなにか言いたそうな円町君をおしとどめた。円町君に誘発されて、僕まで槇村さんを糾弾してしまいそうになったからだ。お開きにしようと、かろうじて言った。みんな、黙って立ちあがった。  支払いを終えて萬亭を出ると、月の光が冷たかった。路上で少年たちがスケボーをしている。僕は佐和子と寄りそって、歩きはじめた。もう誰も口をきかなかった。  円町君は香月さんのところに行った。佐和子を幸荘の僕の部屋に連れ帰るのは初めてのことだった。富樫君が僕と佐和子を交互に見て、内緒話のような声でおやすみと囁《ささや》いた。  自分の部屋に入ったとたんに、かなりきつい酔いを覚えた。よろけかけて、佐和子に支えられた。 「だいじょうぶ?」 「うん。問題ありまっせーん」 「酔ってるね」 「はーい。酔っ払ってまーす」 「声、大きいよ。みんな寝てる。寝静まってる」 「そうかあ。反省。反省。俺、酔っ払っちゃったよお」  佐和子が僕の万年床を一瞥《いちべつ》して苦笑いするのが視野の端に映った。 「なんだよ。なにがおかしいんだよ」 「だって、見事に汚いから。シーツ、灰色だよ」  僕は灰色をしていると指摘されたシーツのうえに大げさに転がった。ふと我に返ると、佐和子が転がった僕を膝枕《ひざまくら》してくれていた。僕は頭上からさがる裸電球の黄色い光に顔を顰《しか》めた。 「ねえ、信義。耳そうじ、してあげようか」 「なんじゃ、それ」 「だって、耳掻《みみか》きが落ちてたよ」  僕の耳のなかが心地よく擽《くすぐ》られた。痛くもないのに、痛いと文句をつけた。 「我慢しなさい。槇村さんって人は、もう痛くなくなっちゃったんだよ」 「痛くなくなっちゃったのか」 「そう。なにも感じない。ひょっとしたら幸せかもね」  幸せ——。  僕は急に息苦しさを覚えた。無駄口を叩けなくなった。じっと凝固して身をまかせていた。耳掻きがやさしく僕の耳をさぐる。 「はい、逆。くるっとして」  そんな佐和子の言葉を遠くに聴き、僕はこんどは左の耳の穴を掃除してもらっている。幸せとは、いまの僕の状態をいうのだろう。僕は幸せだ。これほどの幸せがあるか。 「はい。終わったよ」 「幸せ、終わっちゃったのか」 「なに」 「なんでもない」  僕は佐和子の下腹に顔を押しつけた。佐和子の腰を抱く恰好《かつこう》だ。佐和子がちいさく身悶《みもだ》えした。僕はかまわず佐和子の匂いを愛《いと》おしんだ。こみあげた。酔いと悲しみが一緒くたになって急激に迫《せ》りあがってきた。きつい。たまらない。泣いた。声をころして泣きじゃくった。僕は不純だ。最悪だ。      15  槇村さんの葬式は三鷹駅南口、井の頭病院近くの禅法寺で執りおこなわれた。秋晴れの、空のやたらと高い日だった。  円町君が鱗雲《うろこぐも》の密集しているあたりを仰いで控えめに深呼吸をした。僕も富樫君も誘われるようにして青みの薄い、どちらかというと冷たい空を見あげた。陽射しは強いが、風は涼しい。飛行機雲がゆるゆると視界を横切っていく。  槇村さんのおさめられた棺が、御家族や親戚《しんせき》の手によって運ばれていく。なんだか妙に軽そうだ。 「霊柩車《れいきゆうしや》、キャデラック」  富樫君が単語だけを並べて囁いた。なるほど、フォード・キャデラックとある。とことん磨きこまれて黒光りしている。ワックスで磨きあげたというよりも、樹脂かなにかを化学的にコートしているのだろう。  そこまで考えて、僕は我に返った。霊柩車の色つやに思いを馳《は》せている僕は、槇村さんの死を悼んでいるのだろうか。  槇村さんの入った棺桶《かんおけ》が軽そうであるということだけが、ばらばらの肉片と化してしまったであろう槇村さんの死を実感させるが、それとても別段、僕の感情を乱すわけではなく、借り物の喪服のサイズが合わないことのほうが気になって仕方がない。 「馬子にも衣装とはいうけど、俺たちってきちっとした恰好が似合わないなあ」 「まったく。吉岡のスラックスなんて、ひでえ寸足らずだぜ」 「そうなんだ。踝《くるぶし》が出ちゃってる。恰好悪い。悪すぎる」  富樫君が列席者に気づかれぬように苦笑した。 「俺たち、みんな、ネクタイ、うろ覚え」  円町君が肩をすくめた。僕はちいさく頷《うなず》いた。僕も富樫君も円町君も、ちゃんとネクタイを結べなかったのだ。漠然と覚えているつもりだったが、結べなかった。手順を失念していた。  結局は、一緒に列席した幸荘の友人の漫画家志望に結んでもらったのだが、正直なところ、いまだに首まわりに違和感がある。ホワイトカラーという人種は、毎日、こんなにひどい目にあっているのか。  それにしても幸荘から槇村さんの葬式に列席した者は数えるほどしかいなかった。みんなにも生活があるとはいえ、これは少し寂しすぎる。  槇村さんの死を知った幸荘の連中の態度は概《おおむ》ね醒《さ》めたものだった。冷たいニュアンスを隠さない者もいた。年長であるというだけでどちらかというと尊大な口をきいていた槇村さんに反感を覚えていたのかもしれない。  僕たちはマイクロバスに乗せられて、多磨霊園に隣接する火葬場にむかった。バスは補助席までだして、満員だった。隣に座った円町君にそっと耳打ちをした。 「幸荘の連中、意外に冷たかったな」 「まあな。槇村さんには得体の知れないところがあったからな」 「けっこう威張っていたし」 「うん。ちょっと狡《ずる》いところもあった。いざとなると主であるってことを、さりげなく示して立場を誇示するような」 「そうかな。僕はあまり感じなかったけど」 「拝聴するっていうのか。吉岡は槇村さんの話をちゃんと聴いてやっていたじゃないか。俺なんか面倒で、鬱陶《うつとう》しくて、けっこう無視していたからな」 「僕は槇村さんの話を聴くのが嫌いじゃなかったんだ」 「俺は嫌だった。なんで、あんなオヤジに説教されなくちゃなんないのって感じ。口は達者だけど、なんにもできないじゃないか。若い頃はどうだか知らないけど、なにかをする気もなかった」 「それは、なかったな。なんか妙に諦《あきら》めちゃってた」 「しかも気分で不意に立ちあがって勝手にいなくなっちゃうようなところがあったじゃないか。いままで拝聴させてたくせに、中途半端なときに出てっちゃったりする。こっちを無視しやがってな。あれで自分の立場を高めてるつもりだったみたいだった」  僕はなんとなく酸っぱいような気分になって口を窄《すぼ》めた。 「もう死んじゃったんだし」 「そうだな」 「ただ、こうしてみると人望がなかったってことだけは、いやでも理解できるよ」 「それだけじゃないさ。幸荘に住んでる奴でも、ある程度歳がいってて目のでない奴にとっては、槇村さんの死は他人事《ひとごと》じゃない」  きつい円町君のひとことだった。自由人を気取っていても、僕たちには常に槇村さんのような死が、どこかにまとわりついているのかもしれない。  マイクロバスが火葬場の駐車場に入った。なかなか立派な焼き場で、しかしどことなくオートメーションの工場を想わせる。  僕たちは列席者のなかでも末席のほうで漠然と佇《たたず》んでいた。微妙な居心地の悪さを覚えてもいた。そんなこんなで、ぼんやりとしていたら、いつのまにやら槇村さんの棺は焼かれていた。  棺桶の窓を覗《のぞ》いて遺骸《いがい》と最後の対面をすることはなかった。そこまで遺体の損傷が激しかったということだろう。  槇村さんは骨になり、僕たちはさりげなく火葬場を離れた。富樫君はアルバイトがあるとのことで、バスに乗ってJR武蔵小金井駅にでるといって東八道路にむかった。僕と円町君は昼下がりの倦怠《けんたい》をもてあまして多磨霊園のなかに入った。 「秋たけなわって感じだ」 「ああ。色づいてきた木もあるな。なんだか府立植物園を思い出す」 「ここは小説家の墓がたくさんあるんだぜ。三島だろう、吉川英治だろう、江戸川乱歩の墓もある。北原白秋、田山花袋、菊池寛。中村武羅夫もそうか」 「誰だ、中村むらおって」 「小説家だよ。反マルクス主義っていうのかな、プロレタリア文学がのさばるのに危機感をもって、純粋な文学を目指したんだ」 「ふーん。小説家もいろいろ政治的で大変だな。それはともかく」 「なに」 「やたらと墓に詳しいな」 「ああ。ときどき原チャリでここにきて暇|潰《つぶ》しをしてるからな」 「お墓で散歩か。文学者のなさることは、よくわかりまへんな」  僕は笑った。円町君は借り物の革靴の踵《かかと》を平然と踏みつぶして歩いている。僕もそれに倣いたいところだ。靴擦れができるかもしれない。しかし、耐えた。  すっかり冷たくなった空気を胸に充《み》たした。プラタナスの枯葉が北からの風にころころと転がっていく。直線距離にして一・五キロ弱ほどあるだろうか。結局は、僕たちは多磨霊園の東の端から西の端に抜けていた。  そこから、さらに霊園に隣接する浅間山の古戦場にのぼった。もっとも海抜七十九メートル、山というにはおこがましい。頂上には木花之開耶姫《このはなのさくやひめ》を祀《まつ》った神社のちいさな祠《ほこら》がある。べつに拝みもせずに、僕と円町君はベンチの木の葉を払って腰をおろした。 「ここに祀られてるのは海幸彦、山幸彦のお母さんだよ」 「吉岡は物知りだよなあ」 「そう言われると、ちょっと恥ずかしい」  僕と円町君は同時に自販機で買ってきた缶コーヒーのプルタブを引いた。ここが足利尊氏と新田善興らが戦った古戦場であるという蘊蓄《うんちく》を口にするのはやめた。やたらと甘ったるいコーヒーで、失敗したと思った。 「なあ、円町君」 「なに」 「僕は富樫君に言われたんだ。おまえだけが自分のことを僕って言っていると」 「ああ、そうだな」 「どう思う」 「どう思うって、勝手にしなさいよ」 「それだけか」 「最初は、嫌みな奴だって思ったよ」 「……そうか」 「まあな。育ちが違うのかなとか、気取ってやがるとか」  手のなかのコーヒー缶がかなり熱い。僕は意地になって握りしめた。円町君がタバコを咥《くわ》えた。僕にもすすめてくれた。  円町君は自分のタバコにだけ火をつけ、僕に顔を近づけてきた。僕は円町君のタバコの火を自分のタバコに移した。なんだかキスをするような感じで、しかし男の儀式であるという不思議な誇らしさがあった。  タバコは、いい。毒だからいい。喫うこと自体にたいした意味が見いだせないから、いい。最近は嫌われているから、なお、いい。肺の奥の奥にまで煙を充たした。 「僕は、自分のことを僕って呼んでいるということを富樫君に指摘されたとたんに、怯《ひる》んじゃったんだ」 「なぜ」 「わからない。ただ、狼狽《ろうばい》ですよ。腰が引けた。まったく無様だったな。で、僕は富樫君に対して棄て科白《ぜりふ》を吐いた」 「なんて」 「腋臭《わきが》を治してから、あれこれほざけ」  円町君が破顔一笑した。僕は笑ったが、すぐ真顔にもどした。 「言ってはいけないことだったみたいだ」 「腋臭か」 「うん」 「事実じゃないか」 「そうだけど、さ」 「おまえが自分を僕と呼ぶのも事実。富樫の腋下から酸っぱい匂いがするのも事実」 「まあ、そうだけど」 「煮えきらねえなあ。どうでもいいじゃねえかよ、そんなことは。どうせ、いつか死んじまうんだ」 「そうは、いかない。僕にとっては、自分が僕であることが、じつに大事《おおごと》なんだ」 「じゃあ、これからは俺って呼べばいいじゃないか。儂《わし》でもいいぞ。私でもいいし、わいでもわてでもいいし、おらでもいい。ただ、おいら、は、やめてほしいけどな」 「おいら、は、だめか」 「だめ、だめ。無理やり下町出身であることを演技してるみたいで嫌らしい」 「ふーん。僕とおいらは、どっちが嫌らしいかな」 「どっちもどっちだけど、嫌らしさからいったらおいらだなあ」 「僕は、自分のことを俺と呼ぼうかなとも思ったんだ。でも、なんか意地になってる」 「吉岡も大変だなあ。でも、いいことだ」 「いいことかな」 「うん。おまえは言葉を遣って仕事をするんだから、僕であることや、俺であることに対して鈍感だったら、ちょっとまずいぜ」  僕はしげしげと円町君の顔を見直した。円町君が突っぱって睨《にら》みかえしてきた。 「なんだか円町君、槇村さんが乗り移ってたぜ」 「嫌なことを言うな」 「嫌なことか」 「すっげー、やだ」  顔を顰《しか》めた円町君は、ほんとうに猿のようだ。笑いを呑《の》みこんで、僕は缶コーヒーを飲みほした。 「僕は、とうぶん僕でいくことにするよ」 「それがいい」 「僕で育ってきたからな。それはともかく富樫君に、おまえは自分のことを僕って呼んでるって指摘されて、しばらくして円町君が飛びこんできたんだ。槇村さんが死んだって」 「そうだったのか」 「うん。ちゃんと円町君の言葉は耳に入っていたんだけどな、僕はそれを信じることができなかった。というか、なかったことにしたかった。それだけ槇村さんが死んだって言葉にはリアリティがあったんだ」 「あの晩は、現実感がないとか吐《ぬ》かしてたじゃないか」 「うん。リアルというか、現実感て、ほんの一瞬なんだよね。その、いきなりな現実を自分なりに咀嚼《そしやく》しちゃうと、とたんに現実味がなくなる。僕の脳|味噌《みそ》が現実を処理したとたんに、ね」 「なんとなく、わかるような気もするけど、屁理屈《へりくつ》だな」  僕は頷《うなず》いた。木々の合間から覗《のぞ》ける青空に視線をやった。今ごろ煙になった槇村さんはいちばん高いところにまで辿《たど》りついただろうか。  せわしない。まったく、せわしない。夏から秋にかけて、僕は次からつぎに新たな体験を重ねて、いささか眩暈《めまい》を覚えている。暴力|沙汰《ざた》、童貞喪失、佐和子の出現、新人賞、ちいさな裏切り、槇村さんの死。 「なにを溜息《ためいき》ついてんの」 「いや、まあ、いろいろあったなあって」 「おまえ、最終選考に残って、編集者に期待されてるんだってな」 「やめてくれよ。すごく幼稚な原稿なんだ」 「卑下するっていうのか。よくないな」 「そんなんじゃない。自分の程度はよくわかってるよ。カスではないが、まだ未完成」 「自信はあるのか」  僕は一呼吸おいて、深く頷いた。      16  ソファーに座った佐和子が僕の額を人差し指で軽く押した。胡座《あぐら》をかいていた僕は逆らわずに、そのままの姿勢でフローリングの床に倒れこんだ。腕組みをして、佐和子が見おろしてくる。 「まったく、なんであんなボロアパートに固執するんだかわからないな」 「固執なんて大げさだよ」 「でも、煮えきらないじゃない」  僕は転がったまま、いいかげんに肩をすくめてみせた。床暖房が入っているので、背中がじんわり暖かい。佐和子がじっと見つめている。  体育の授業中だろう、小学校の校庭から子供たちの歓声が微《かす》かにとどく。僕はなんとなく頬笑んでいた。なぜ、あたしのマンションで一緒に住まないのか。佐和子はそう言っているのだ。  確かに週のうちの半分ほどは佐和子の部屋に入り浸っているのだから、幸荘の家賃を払うのもバカらしい気がする。  佐和子が立ちあがり、腰をかがめて手を差しだしてきた。僕はその手を掴《つか》み、ゆっくりと起きあがった。そしてそのまま佐和子に体重をあずけていく。  密着した。僕の重みに耐えきれず、佐和子はキッチンとの仕切の壁面に背をあずけた。僕は佐和子のタイトスカートを強引に捲《めく》りあげた。 「だめ」 「だめって言うのは、だめ」 「もう……」  僕は立ったまま強引に佐和子とひとつになった。佐和子はすぐに恥ずかしげな喘《あえ》ぎを洩《も》らしはじめ、しかし、さらに声が大きくなるのを怺《こら》えるためか、僕の着ているTシャツ越しに肩口を咬《か》んできた。  コットンの生地に佐和子の唾液《だえき》が滲《にじ》むように拡がっていく。僕は佐和子の全身を揺するようにして動作する。  僕は松山さんと会った日の、あのちいさな裏切りを佐和子に告白していない。永遠に告白する気がない。僕が自分のことを僕と呼んでいるうちは、僕は佐和子に、あのことを喋《しやべ》らないだろう。  そして、これから先、僕が自分のことを僕と呼んでいるうちは、佐和子を裏切ることはないだろう。僕が僕であるうちは、佐和子を裏切らない。そう、決めたのだ。  決めたことは、守る。  僕は佐和子のおなかの中だけに、白く濁った僕を放ち、いっぱいに充《み》たす。  佐和子が啜《すす》り泣くような声をあげた。  なぜ、佐和子は切ない声をあげるのか。いったいなにが切ないのか。  佐和子が極限まで切迫し、声を喪《うしな》った瞬間に、僕は炸裂《さくれつ》する。不思議なことに、ふたりの律動がずれたり乱れたりすることは絶対にない。  肩で息をしていると、佐和子がなかばよろけながらも僕から躯《からだ》を離し、適当に自分の躯の処置をしてから、僕の躯を清めてくれる。  西日を浴びた僕の下半身が滑稽《こつけい》だ。思わず口許《くちもと》が歪《ゆが》んでしまう。跪《ひざまず》いた佐和子が丁寧に僕を清め、トランクスを引きあげ、ジーンズを穿《は》かせてくれる。ジッパーを引きあげて、ボタンをとめ、はい、と母親のような声をあげる。  僕は虚脱気味に頷き、ソファーに座りこんだ。しかし、すぐに立ちあがってトイレのドアを開く。  ビデを使っていた佐和子が露骨に顔を顰めた。僕はかまわず狭い空間に躯を潜りこませる。 「鍵《かぎ》をかけないのが悪いんだ」 「あたしの部屋だもん」 「お返しだ」  呟《つぶや》いて、跪き、佐和子の下腹に手をのばす。ビデの温水が僕の手を濡《ぬ》らす。僕は佐和子の内部にまで指を挿しいれ、さぐる。浄《きよ》める。ふと気づくと、佐和子が切なそうに眉間《みけん》に縦皺《たてじわ》を刻んでいる。  ゆっくりと指をはずす。 「意地悪」 「なにが」 「——なんでもない」 「夜にまた頑張るよ」 「もう、いいわよ。満足してる」 「佐和子が満足したって、僕は満足しないんだ」  佐和子が蟀谷《こめかみ》のあたりに手をやって、苦笑した。僕はトイレからでた。リビングルームに射し込む西日がずいぶんと低くなっている。ついこのあいだまでは、太陽は頭の真上にあったような気がするのだが。  佐和子と連れだって外にでた。信号のない場所で車の切れめを縫って吉祥寺通りをわたり、井の頭公園西園の競技場を横切る。  夏のあいだはトラック内側にあれほど猛々《たけだけ》しく生い茂っていた草々だったが、いまやすっかり丈を短くして、中には黄色く枯れはじめているものもある。  僕と佐和子は乾いた空気に包まれて、とりとめのないあれこれを語りながらゆっくりとした足取りで歩く。  横断歩道で手を挙げて御殿山通りをわたり、井の頭公園にはいる。誰かが放したウサギが繁殖してあちこちに穴を掘っているという噂を聞いたが僕はまだ出会ったことがない。  僕と佐和子は手こそつなぎはしないが、ぴたりと躯を寄せあって、井の頭池に沿って歩き、七井橋のところで公園からでた。  L.L.Bean をひやかす。店内にずらっと並んだ服は、もう冬のものばかりだ。二階にあがり、靴をみる。僕はゴアテックスのインナーが入った軽登山靴を手にとる。  唐突に緊張がはしった。つとめて平然と構えていたが、今夜、新人賞の最終選考、結果発表がある。 「受賞したら、プレゼントしてあげる」 「二万近くするぞ」 「値段のことなんかどうでもいいよ。いつも、それを見てるでしょう」  僕はちいさく頷《うなず》く。いま履いているスニーカーはかなり草臥《くたび》れている。そろそろ新しい靴を買わなくてはならないのだ。  まだ五時前だというのに、すっかり陽の光が弱まっていて、L.L.Bean からでた僕は狼狽《ろうばい》というには大げさだが、やや臆《おく》したような気分になった。  武蔵野公会堂を右に見て、井の頭通りをわたり、そのまま直進して登山用具の山幸を覗《のぞ》く。急な階段をあがり、二階で寝袋やテントをみる。  新人賞の賞金五十万が入ったら、寝袋を買おうと思っている。佐和子の分も買おう。軽量なテントも買って、年が明けて春になったらふたりで野宿旅にでたい。佐和子は一緒に行ってくれるだろうか。  吉祥寺駅に入り、ロンロンの二階でCDショップに寄った。結局は一枚も買わずにサンロードを行く。  本町新道の交差点には拡声器で『ここだ、ここだよ、春木屋は、ここです』と宣伝をしていた名物おじさんがいたものだが、いまはどうしているのだろうか。  サンロードを抜けて、五日市街道にでた。かなり歩いた。さすがに脹脛《ふくらはぎ》が懈《だる》い。ときどき餃子《ギヨウザ》を食べる一圓は、こんな時刻なのに客がいっぱいだ。東映の映画館の看板を横目でみて、八幡宮の交差点だ。派出所の警官が手持ちぶさたな顔をしてこっちを見ている。  僕と佐和子は幸荘の前に立った。正味三十分強の旅だった。なぜ僕は、この傾きかけたアパートからでる気になれないのだろう。腕組みなどして、考えこんだ。  佐和子のマンションと違って、新建材の匂いはしない。夏は暑く、冬は寒い。つまり季節感がはっきりとしている。もともと汚いので掃除をしなくてもいい。  あれこれ無理やり捻《ひね》り出しているうちにバカらしくなった。僕は幸荘の屋根で枯れているぺんぺん草を一瞥《いちべつ》し、カラスがとまっている古いテレビアンテナに視線を移し、それから佐和子の顔を真っ直ぐ見つめて言った。 「受賞したら、佐和子の部屋に居候させてもらうよ」  幸荘の玄関を入ると、下駄箱の脇に、いまでは懐かしいというか珍しいピンク電話がある。ピンク電話は、もともとは白かったレースの編み物のうえにまるで骨董品《こつとうひん》のように鎮座している。  このピンク電話を使う者はほとんどいない。たとえば、ここから彼女に電話をかければ、幸荘の全員にあいつは不純異性交遊に励んでいるといったことが伝わってしまう。  あることないこと、噂が立つわけだ。それはいささか鬱陶《うつとう》しいから、僕もこのピンク電話を避けてきた。たとえばバルボーナに予約をいれるのを聴かれたりしたら、当分はソープ王などと呼ばれかねないからだ。  また、外から電話がかかってきても、誰も受話器をとろうとしないから、まったく役に立たないのだ。だから僕もこのピンク電話の番号を誰かに教えることもなかった。  ただ、新人賞の連絡先電話番号として略歴にこのピンク電話の番号を書いておいたのだ。そして、今夜は、このピンク電話が役に立つ。ここに結果の連絡が入るわけだ。  ピンク電話をあえて見ないようにして、佐和子を促して二階にあがった。黒光りする木の階段は、足裏がひんやりとして気持ちがいい。もうしばらくすると、冷たくてたまらなくなるのだが。  僕の部屋にはもう円町君や富樫君、さらには有象無象が集まって、青白いタバコの煙が煙幕のように立ちこめていた。畳が濡れているのは、誰かがビールをこぼしたからだ。 「吉岡信義君、バンザーイ!」  そんな声があがり、僕は露骨に顔を顰《しか》めてやった。円町君が僕と佐和子を交互に見て、舌打ちをした。 「なんだよ、手ぶらじゃねえか」 「手ぶらとは」 「もう酒がねえんだ」 「勝手だろ、そんなの。誰が集まってくれって頼んだよ」  富樫君が割りこんできた。僕の万年床のうえに胡座《あぐら》をかいて、もう完全に酔っ払っているではないか。 「吉岡。おまえ、そういう口をきくのは、よくないよ。だいたいおまえは幸荘を棄てようとしているだろう。見棄てる気だ。チクショウ、自分だけがいい思いをする気だ」  相手をするのもバカらしいので、足で富樫君の背を押して転がした。富樫君の臀《しり》で暖まった布団のうえに腰をおろす。  円町君が富樫君に酒を買ってこいと命じた。ぶつぶつ文句を言いながらも富樫君はよろける足取りで部屋から出ていった。佐和子が窓を開け放った。夜の冷たさを含んだ空気が意外な勢いで流れこんできた。  理由はなんでもいいのだ。なにかにかこつけて酒を飲むのは、幸荘の素晴らしい伝統だ。酒屋で買ってきた乾きものを主な肴《さかな》に、飲める者は遠慮せずに、たいして飲めない者はそれなりに、乱雑な酒宴は続いた。  僕は平然としているのに、周囲のほうがどことなく浮き足だっているのが面白い。僕もそうだった。誰かにチャンスや機会がやってくると、落ち着かないものだ。  それはともかく、酔っ払いどもが佐和子にあれこれちょっかいをだすのはたまらない。僕は佐和子をガードすることにばかり気をとられて、おちおち酒を飲むこともできずにいた。  富樫君はいつのまにか飲むのを控えて、少々青白い顔をして腕の安物のデジタル時計を覗きこむ。 「誰かと約束でもしてるのか」 「いや、もう七時半だぞ。そろそろ」 「僕のことを気にかけてくれてるのか」 「そうだよ。俺は吉岡に出世してほしい。最近は装幀《そうてい》に写真を使うのが流行《はや》っているだろう」  やや、呆《あき》れた。じっと富樫君の顔を覗きこむと、彼はうん、うんと二度頷いた。その背後で円町君が肩をすくめてみせた。その直後だ。 「おめでとう!」  そんな声とともに香月さんが駆けこんできた。皆、いっせいに拍手した。僕だけが小首をかしげていた。なぜなら、あのピンク電話が鳴った気配がしなかったからだ。 「こんなに騒いでるんだから、受賞したんでしょう」  香月さんが問いかけると、失笑と爆笑がいっせいに弾《はじ》けた。まいったな……僕は苦笑いだ。そのときだ。階下でベルが鳴った。僕は下腹に力をいれ、ゆっくりと立ちあがった。  階段を降りる足がおぼつかない。受話器を握る手が汗ばんでいた。電話をしてきたのは松山さんではなかった。受話器の彼方《かなた》で、今回は残念ながら——という女性の抑えた事務的な声がした。 「はあ、そうですか」  間の抜けた声をあげた。そこまでは、それなりに記憶があった。階段を踏みしめて部屋にもどる。大騒ぎはひと息に収束して、みんな固唾《かたず》を呑《の》んで僕を注視している。  僕は頬笑んだ。 「だめだった」  一瞬、間があった。そのあとに、皆のあいだに流れたのは、安堵《あんど》の気配に似た空気だった。そして、申しあわせたようになぜだめだったのかを尋ね、憤りと慰めの言葉を口にしながら、各々が自分の部屋にもどっていった。  僕は平然としていた。どうということもない。部屋に残ったのは僕と佐和子と円町君と香月さんだけだった。僕は万年床のうえに胡座をかいて超然と頬笑んだ。円町君が痛々しそうな口調で言った。 「吉岡。〈わぎだま〉ができてるぞ」  そして香月さんを促して部屋から出ていった。僕は頬に手をやって〈わぎだま〉を確認した。ほんとうだ。見事な〈わぎだま〉ができていた。  すると、僕は、追いつめられているのか。そっと佐和子が立ちあがり、開けはなたれたままの部屋のドアを閉めた。僕は自分の頬に浮かんでこびりついて離れない筋肉の痼《しこ》りをぼんやりと 弄《もてあそ》んだ。 「電話ではなんて言っていたの。選評っていうのかな」 「——記憶が、ない」 「憶《おぼ》えてないんだ」 「うん。憶えてない。なにか言ってたんだけど、まったく憶えてないよ」  僕はなんだか泣き笑いのような声をだしていた。縋《すが》るように佐和子を見た。佐和子が頷《うなず》いた。その胸に抱きこまれていた。 「いいところまでいったんだもんね。来年があるよ。来年どころか、松山さんだっけ、きっと信義の作品を載っけてくれるよ」  もう、そんなことはどうでもいい。それよりも僕は佐和子のおっぱいを吸いたい。赤ん坊のように佐和子のおっぱいを吸って、その胸で眠ってしまいたい。じっとしていると佐和子の囁《ささや》き声がした。なんだかひどく遠くから聴こえた。 「帰ろうか」 「どこへ」 「あたしの部屋へ」 「僕の家は、ここだ」 「そう。幸荘」 「そうだ。幸荘だ」 「今日は、今夜はあたしの部屋に帰ろうよ」  廊下にでると、皆が僕と佐和子の気配を窺《うかが》っているのがわかった。僕は佐和子にむけて苦笑した。  上がり框《かまち》で、きちっと靴|紐《ひも》を結んだ。佐和子が黙って見おろしている。僕は佐和子と並んで外にでた。愛車である原付スクーターのシートをなんとなく手の甲で叩《たた》いた。シートは夜露に濡れてハッとするほど冷たかった。 「俺は書くぞ、佐和子の部屋に帰って」 「俺?」  佐和子の問いかけに応《こた》えず僕は、いや俺はそっと幸荘を振り返った。俺の部屋の窓以外には万遍なく黄色い光が滲《にじ》んでいて、シルエットは意外なほどに温かい。俺は深く頷くと、佐和子を促して歩きはじめた。 [#地付き]〈了〉    本書は、平成十二年十一月に刊行された単行本『吉祥寺幸荘物語』を改題し文庫化したものです。 角川文庫『幸荘物語』平成14年12月25日初版発行