TITLE : 兎の眼 本作品の全部または一部を無断で複製、転載、配信、送信したり、ホームページ上に転載することを禁止します。また、本作品の内容を無断で改変、改ざん等を行うことも禁止します。 本作品購入時にご承諾いただいた規約により、有償・無償にかかわらず本作品を第三者に譲渡することはできません。    兎 の 眼  目 次 プロローグ 1 ネズミとヨット 2 教員ヤクザ足立先生 3 鉄三のひみつ 4 悪 い 日 5 鳩 と 海 6 ハエの踊り 7 こじきごっこ 8 わるいやつ 9 カラスの貯金 10 バクじいさん 11 くらげっ子 12 くもりのち晴れ 13 みなこ当番 14 泣くな小谷先生 15 さよならだけが人生だ 16 ハエ博士の研究 17 赤いヒヨコ 18 おさなきゲリラたち 19 不幸な決定 20 せっしゃのオッサン 21 ぼくは心がずんとした 22 波 紋 23 鉄三はわるくない 24 つらい時間 25 裏 切 り 26 流 れ 星 エピローグ    プロローグ    鉄《てつ》三《ぞう》のことはハエの話からはじまる。  鉄三の担任は小谷芙《ふ》美《み》先生といったが、結婚をしてまだ十日しかたっていなかった。大学を出てすぐのことでもあり、鉄三のその仕打ちは小谷先生のどぎもをぬいた。  小谷先生は職員室にかけこんできて、もうれつに吐いた。そして泣いた。  おどろいた教頭先生が、あわてて教室にかけつけてみると、鉄三は白い眼をして、一点をにらみつけていた。まわりで子どもたちがさわいでいた。  鉄三の足もとを見て、教頭先生ははじめ、なにかきれいな果物でも落ちているのかと思った。それから、それをのぞきこんで思わず大声をあげた。  それは、二つにひきさかれたカエルだったのだ。そのカエルはまだひくひく動いていた。ちらばった内臓は赤い花のようだった。  教頭先生はしばらく立ちつくしていたが、こわがって泣いている女の子がいるのに気がつくと、はやくそのカエルを始末しなくてはならないと思った。それで鉄三をおしのけた。すると、かれは左の足でもう一匹のトノサマガエルをふみつぶしていたのである。  小谷先生はいろいろ考えた。  あのざんこくな殺し方は、よほどつよい憎しみがないとできるものではない。  まてよ、と小谷先生は思った。鉄三は学校のすぐうらの塵《じん》芥《かい》処理所に住んでいる。とうぜんハエも多いにちがいない。カエルのえさ採りが原因で、なにか友だちといさかいがあったのではあるまいか。  小谷先生がそう思ったのには、多少のわけがあった。処理所から通学してくる子どもはゴミ屋とかバタ屋とかいってからかわれることがあって、学校で問題になることが多かったのだ。  だが、よくわからない。……そうだとしても、なぜカエルを殺す必要があったんだろう。  小谷先生はカエルのえさをどこでどうして手に入れたのか、子どもたちにたずねてみた。すると処理所にはいりこんで、ハエをとった子どもがふたり名のって出た。ゴミの上で四、五匹とったという子どもと、処理所の人の家のそばで、ビンの中のハエを十三匹とったという子どもで、小谷先生は、ビンの中のハエということばを、ちょっとへんだなとは思ったが、そのときはかくべつ気にとめず、つぎの質問をしてしまった。  ビンの中のハエを十三匹とったというのはたしかにへんだ。ビンの中にハエが十三匹もいるものだろうか。もちろん、たくさんのビンがおいてあって、そのビンからすこしずつハエをあつめていったということも考えられるけれども、それにしても不自然な話である。もし小谷先生が、そのことに気がついて、へんな話の意味を調べていたら、ことの真相はそのときにすっかりわかっていたはずであった。  ふたりの子どもは鉄三のあんないで処理所にはいったのではない、といった。鉄三は友だちがひとりもいないこと、カエルに生きたえさをあたえなくてはならなくなったときから鉄三はカエルの世話をすこしもしなくなったことなど合わせてしゃべった。けんかもしたことはないと、ふたりは口をそろえていった。  けっきょく、小谷先生はなにもわからなかった。  ふたたび事件がおこったのは、それから二カ月ほどたったころである。  アリの観察が、その時間の学習で、小谷先生はアリに巣作りをさせるためには、観察ビンのまわりに黒い布をまいておくとよいという説明をしていた。なにげなく前の子どものビンをとって話をはじめて数分たったとき、とつぜん鉄三が立ちあがった。そして、あっというまに猟犬のように小谷先生にとびかかった。  思わず小谷先生はひめいをあげた。ひめいをあげたとき、小谷先生はもう先生ではなくなっていた。小谷芙美というただの若い女だった。恐ろしいものきたないものをはらいのけようとして、気のくるったように鉄三をはらい落とした。  ほかの子どもたちも、鉄三はとつぜん先生をおそったと思った。しかし、鉄三が小谷先生の手からビンをむしりとったのを見て、そのビンをうばうために、そうしたのだということを知った。  ビンの持主は文治といったが、そのつぎにおそわれたのは文治だった。文治がひめいをあげたとき、かれの顔は血だらけになっていた。鉄三の爪で切りさかれた皮膚が、赤いえのぐをつけた布ぎれのように、びらびらしていた。——鉄三の攻撃は、それでもとまらなかった。  顔をかばった文治の手に、鉄三の歯がくいこんだ。文治のはげしい泣き声に、死にものぐるいで鉄三を引きはなした小谷先生は、文治の手から白い骨がのぞいているのを見ると、その場に卒倒してしまったのである。  職員室で、鉄三は教頭先生になぐりたおされた。ほかの先生たちも、文治が顔や手から血をしたたらせて、泣きわめきながら病院にはこばれていくのを見ていたので、だれも教頭先生の暴力を非難しようとはしなかった。いくらぶたれても鉄三は口をひらかなかった。泣きもしなかった。はじめ鉄三をかわいそうに思っていた女の先生も、そんな強情な鉄三を見ているうちに、教頭先生の暴力はやむをえないことだと思うようになっていった。  小谷先生は保健室でねていたので、教頭先生が鉄三をつれて家へいった。臼《うす》井《い》貘《ばく》というかわった名のために、バクじいさんと呼ばれている鉄三の祖父の前で、鉄三はふたたびお仕《し》置《おき》を受けたが、ついに、かれの口はひらかずじまいだった。  よく日、小谷先生は学校を休んだ。二日休んで三日めに小谷先生は学校にきた。きれいな先生だという評判なのに、その日の小谷先生はすこしも美しくなかった。  昼すぎに、バクじいさんが学校へやってきた。小谷先生になにか話をしてかえっていった。そのとき小谷先生はあわてたような顔をした。そして長いあいだ考えごとをしていた。  子どもたちが下校するのをまちかねたようにして、小谷先生は文治の入院している病院へいった。ねている文治をおこし、二カ月前に、処理所へはいってとったハエはビンの中にいたものかとたずねた。小さな声で、文治はそうだとこたえた。どうしてビンごと家へもってかえってしまったの、あれは鉄三ちゃんのものだったのよ、とすこし怒ったような声で小谷先生はいった。中国産のジャムがはいっていて、ビンのかたちがかわっているからすぐわかるそうよ、あなた、あれをアリの観察ビンにしたでしょう、と小谷先生はことばをつづけた。  文治ははずかしそうに、ごめんといった。それで小谷先生の顔がすこしやわらかくなった。ビンの中にハエがたくさんはいっていたので、そのままもってかえったが鉄三のものとは知らなかったの、と文治は答えた。  鉄三ちゃんにあやまりなさいね、と小谷先生はいって、自分もなにか決心をしたようであった。  つぎの日、小谷先生は鉄三を職員室に呼んだ。そうしてあなたにあやまらなくちゃいけないわときり出した。あなた、ハエをあつめていたんでしょ、ビンに入れてためていたのね、カエルのえさがすくないので気にしてくれていたんだわ、それがなくなって、あなた怒ったんだ、あなたの気持を知ろうとしないで、ほんとうにごめんなさいね、と小谷先生はいった。  鉄三はだまっていた。表情はすこしもかわらなかった。  ゆきちがいというものは、とんでもないところからアブのようにとんでくるものだ。  よく日、文治の父が職員室へどなりこんできて、そのために職員室は大さわぎになった。けがをさせられたうえに、けがをさせたものにあやまれとはどういうことだといって、小谷先生の胸ぐらをつかんだ。そんなことになれていない小谷先生はまっ青になって、口もきけなかった。  とめにはいった教頭先生はなぐりかかられるし、それを制止した若い先生も、あついお茶のはいったコップをぶっつけられた。  ともかく文治の父を、校長室におしこんで校長先生が話をしようとしたが、いちど、たけりくるった文治の父はなかなか平静にならず、どうにかこうにか話がついたときには、かわいそうに小谷先生は人相がかわるくらい泣きはらした顔をしていて、いまにもぶったおれそうだった。  小谷先生がごく平凡な医者のひとり娘で、両親から大切に育てられて大きくなったことを知っている校長先生は、彼女がそのショックにたえられるかどうか心配をした。  その夜、小谷先生は小さな子どものように校長先生に送られて家へ帰った。よく眠れない夜をすごした小谷先生は、その朝になって学校をやめたいと虫がうめくようにつぶやいた。  もちろん学校をやめたいという小谷先生の願いは、まわりの人たちにかんたんにつぶされてしまった。そういうことをいちいちきいていたら、学校の先生は十年もたてばひとりもいなくなってしまう、と小谷先生をからかう同僚もいた。  小谷先生は学校で仕事をしていても、どこか心がひえている自分を感じた。はじめ、かわいいと思っていた子どもたちも、ちょっとしたゆきちがいで自分に害を加えることもあるのだと思うと、かわいいとばかり思っていられないと身がまえるような気持になっていた。小谷先生はまい日、うっとうしい気分で学校へきた。  この学校はH工業地帯の中にある。T駅をおりて学校に近づくと、そこは煙《ガ》霧《ス》で終日どんよりしており、学校にはいると、小谷先生はいつも軽いめまいがするのであった。  この学校は、すぐとなりに塵芥処理所があるために、さまざまな被害を受けていた。  その処理所は一九一八年につくられ、それいらいほとんど改良を加えられていなかった。そのため煙突から出る煙はもうれつで、においもひどかった。  灰をとりだすころには、学校にも人家にも白いものがふった。低学年の子どもたちは、雪やこんこといってふざけていたが、高学年になると腹を立てて、役所に抗議文をおくりつけたこともある。  もちろん処理所をほかの場所に移すという計画もあるにはあったが、なかなか実行に移されそうになかった。選挙のとき、どの政党もそれを公約にするが、いっこうにはたされないので、人びとはS町の七不思議といっていた。  処理所のことをすこし説明すると、ゴミを焼く炉は三基あって、その炉はごくかんたんなしかけになっている。焼却口は二階にあって、あつめられたゴミはそこから下の焼却室に落とされる。もちろんその前に、ゴミは燃えるものと燃えないものに、あらく分けられている。燃えにくかろうとくすぶろうと、燃えきるまで、ただ時間をかけてまっている。だから焼却口から落とすゴミのかげんで、能率がよかったりわるかったりした。だいたい二十四時間で一区切りがついて、灰が落ちる。灰のたまるところは地下室ふうになっているが、とり出し口は運ぱんのつごうで道路に面している。  灰のとり出しは午前中におこなわれた。灰をかぶるので、たいてい作業員はふんどし一つで、そばで見ていると、なかなかそうれつだ。しかし、ときにはスプレーの空《あき》カンが破れつしたり、ガラスの破片で手足を切ったり、たいへん、きけんな仕事でもあった。焼却場のよこには大きな雨天体操場のような建物があった。処理しきれないゴミをここにためておく。梅雨のころに、ここにゴミがたまると、くさったものの熱で、部屋全体がむっとした。  この建物からすこしはなれたところに、処理所で働いている人たちの家屋が、十四、五けんハーモニカ長屋ふうにならんでいた。  鉄三の家はこの長屋のいちばん東のはしにある。  ここで働いている人たちは、大まかにいって二つに分けられた。  一つは役所の職員でコンクリートの建物の中で事務をとったり、現場で働いている人たちのかんとくをしたりしている人で、この人たちは夕方になると、それぞれの家へかえっていった。  いま一つは、役所に臨時でやとわれている人たちで、おもに現場で働いている。ゴミを分けたり、燃やしたり、灰をとり出したりする人たちである。  処理所の中の長屋に住んでいるのは、この人たちなのである。  小谷先生が、この処理所のよこにある学校にきて、夏休みまでの四カ月におこった事件をならべてみると、ここの地域の子どもたちのようすがよくわかる。  交通事故は四件、ちょうど一カ月に一件。死亡事故はなかったが、車にひっかけられて三十メートル引きずられた子どもは六カ月の重傷をおった。  交通事故以外の重傷がもう一件ある。製鋼所の屋根にすみついている鳩をとろうとして転落したので、新聞に大きく出た。学校の責任もいろいろいわれたので、学校とすれば、これがいちばん大事件であったようだ。スーパーマーケットの万引は月に数回、ときには十数回もある。子どもの家出が一件。親の家出はよくあるが、これはいちいち学校で調べきれない。大事にいたらなかったが浮浪者が校内にはいって女の子をつれだそうとした事件、鉄三がおこしたような事件は、さほどめずらしいことでないので、数のうちにはいらない。この場合は小谷先生が大学を出たばかりだというので、ほかの先生の関心があつまったにすぎないのだ。  じっさいこの学校はたいへんな学校である。勤めている先生にまで、へんなのがいる。ある日、小谷先生は子どものかいた作文をだれかにみてもらいたいと思った。  だれに、と考えて、足《あ》立《だち》という先生を思った。児童詩や作文の著書があるときいていたので、足立先生のことを思ったわけだが、小谷先生は、ちょっと、ちゅうちょした。足立先生はあまり評判がよくなかったのだ。  髪を長くのばしていたし、背広ネクタイというきちんとしたかっこうからほど遠い服装をしていて、小谷先生にはちょっとだらしなく見えた。  かけごとなどして私生活がみだれているという噂《うわさ》もきいていた。ただ、どういうわけか、ほかの先生はこの足立先生に一目おいているようなところがあり、それは父兄の評判がいいからだと、だれかにきいたこともあるような気がした。  が、ともかく足立先生のところへもっていった。教室にはいると、足立先生は子どもの机をならべて、その上でねていた。小谷先生はあきれて、なるほど教員ヤクザというあだながあるそうだが、まったくそのとおりだわ、と思った。 「先生はいつもそんなふうにねているんですか」  小谷先生がたずねると、 「まあ、な」と足立先生は乱暴な口をきいた。  それでも子どもの作品をよむときは、ちゃんとイスにすわった。  小谷先生のさし出した作品をよんで、足立先生は笑った。 「いい作品だね。こういう作品が生まれるところをみると、まだ、タカラモノをねむらせているかもしれんな」 「どういう意味ですか」 「ほかにもよい作品があるのに、あなたが見落としているかもしれないということ。作品だけでなしに人間もね」  そういわれて、小谷先生はきゅうに不安になった。 「臼井鉄三に手こずっているようだけれど、ぼくの経験からいうと、ああいう子にこそタカラモノはいっぱいつまっているもんだ」  小谷先生はびっくりした。  鉄三がああいう事件をおこしたことを知っているのはかくべつふしぎでもないが、二千人近い児童数の学校で、ほかの学年の子どもの名まえをおぼえているということはたいへんなことだ。  ほめてもらったのはうれしいが、足立先生のいうことはよくわからない。  鉄三にタカラモノがつまっているかもしれないといったけれど、タカラモノってなんだろう、鉄三は文もかかないしおしゃべりもしない、どこにタカラモノとやらがかくされているのだろう、と小谷先生はそのとき思ったのだった。  1 ネズミとヨット    夏休みがきた。  処理所の子どもたちにも夏休みがきた。子どもたちのいない学校はきゅうにほこりっぽくなり、古い城のようにカビくさくなった。はんたいに処理所は猛暑のために、ゴミが発こうして、処理所全体がまるで温室の中のようにむし暑かった。  そんななかでも子どもたちは元気に遊んでいた。  小谷先生から鉄三に手紙がきた。バクじいさんが読んでやった。 ——てつぞうちゃん、げんきにしていますか。せんせいはてつぞうちゃんがげんきかどうか、とてもきにかかります。おたまじゃくしにえさをあげていたてつぞうちゃんをおもって、げんきにきまってる、とじぶんにいいきかせています。せんせいはとてもげんきです。もういちど、がくせいにかえったつもりで、うみややまでまっくろになってあそんでいます。もうすぐ、てつぞうちゃんにあえますね。せんせいはたのしみにしています。 「よい先生じゃのう」  と、バクじいさんはいったが、鉄三はキチという犬をだいて知らん顔をしていた。  鉄三の家の前は、すこし広っぱになっているが、いまも功《いさお》、芳吉、純、四郎、武男などがキャッチボールをしていた。  四郎の投げたボールを、純がうけそこなって、ボールはどぶに落ちた。どぶといっても、かなり大きな下水で、すぐ運河につながっている。純はあわてて、そこへもぐりこんでいった。まっ黒な顔をしてはい出てきた純の手に、ボールはしっかりにぎられていた。  ボールを投げかえして純はいった。 「どぶの中に、銀色の目をしたネズミがおるでえ」 「うそつけ」  と、いいかえされて、純は腹を立てた。 「うそやと思うのなら自分の眼で見てこい」  それでみんな、どやどやとどぶの中へもぐりこんでいった。  はじめ四郎が出てきて、つぎに功が出てきた。そして顔を見合わせて、ため息をついた。 「ほんまやなあ。あれ、ネズミの親分やで」  キャッチボールどころではなくなった。なんとか生けどりにしたいと、みんな思った。子どもたちはしばらく相談していたが、じきちっていって、つぎにあつまってきたときには、それぞれ、金網、ざる、針がね、ゴムひもなどをもってきていた。  いちばん後から、半分泣きべそをかいた四郎がかけてきた。手にチーズをもっているところをみると、家の者にしかられながら、むりにもち出したのだろう。ネズミのえさにするらしい。  子どもたちはきような手つきで、たちまちにネズミをとるしかけをこしらえた。 「鉄ツン、ここをもっとけ」  鉄ツンというのは鉄三のことである。鉄三も手伝わされて、チーズはひもでしっかり結わえられた。ネズミがすこしでもそれを引っぱると、上から金網が落ちてくるようになっている。  しかけをおくために、ふたたび純がどぶの中にもぐっていった。 「銀色の目のネズミが、あのえさに食いつくとはかぎらへんで」  と功がいった。  そらそうや、とみんな心配した。 「銀色の目のネズミは親分にきまっとる。うまいもんは親分が先に食うやろ」  どぶから出てきた純がいって、みんなうなずいた。子どもたちは汗と土で顔をよごして、まるで泥水につけた古い地図のようだったが、だれも気にするものはいなかった。  目玉をぎょろぎょろさせて一時間ほどまった。まちかねて、みんなでもぐっていった。  一年生の鉄三だけが上からのぞいていた。 「あかん」——といって、みんなぞろぞろ出てきた。  かなりじょうぶなひもだったのに、ぷっつり、とちゅうでかみ切られている。 「引っぱらんとかみ切りよったァ。えらいかしこいやっちゃなァ」  芳吉が感心していった。 「おまえとだいぶちがうな」  と功がいったので、芳吉は口をとがらせて、なんどい、といった。  こんどは針がねでつりばりを作ることにした。えさの位置を高くして、ネズミが前足でかかえこまないと食べられないように調節した。このようにして子どもたちのチエのかたまりは、ふたたび、どぶの中へかえされた。 「どうや鉄ツン、うまいこといくと思うか」  と、純が鉄三にたずねてやった。 「う」  短くうなるように、どうとっていいのかわからないような返事を、鉄三はした。いつものことなので純たちは平気だ。この仲間は話しかけることで、口数のすくない鉄三をいたわっていた。  子どもたちは日かげで、丸い輪になってすわった。まっているあいだ、ほかの遊びをしようという気はなく、おたがいが銀色の目のネズミのことを、眼で話し合っていた。  そのうち、この仲間でたったひとり本をよく読む純が、シートンの狼《おおかみ》 王ロボの話をはじめた。猟師たちのワナにつぎつぎ挑戦するロボを空想して、子どもたちは背すじをぞくぞくさせた。  その興奮はそのまま自分たちが、いま、とらえようとしている銀色の目をしたネズミにつながって、胸がどきどきした。 「もうええやろか」  四郎がかすれたような声でいった。子どもたちはうなずいたものの、その気持は複雑にゆれた。銀色の目のネズミがとらえられることをのぞんではいるものの、そうかんたんにとらえられるようではこまる。それは、もっとしたたかで、手《て》強《ごわ》い相手でなくてはならなかった。  純が先頭で、どぶの中へもぐっていった。ぴしゃぴしゃと水をける音がして、みんなはだまりこくっていた。 「やった!」  純はかん高い声でさけんだ。みんな、どきっとした。いっせいにかけよって、しかけに手をふれた。体あたりをくれるネズミの重さが、子どもたちの手にじかにきた。だれの胸もわくわくした。 (こら大っきい、こらネズミの親分にちがいあらへん、こいつやこいつや、銀色の目のネズミにまちがいあらへん)  どの子どもたちも気持がたかぶって、のどがからからにかわいた。 「目、光っとるか」  功がいって、みんな暗闇をすかして見た。五ミリぐらいの銀の玉がなかよく二つならんで闇の中をはねまわっていた。  芳吉がしんぼうできなくなって、かん声をあげた。うおーんと子どもたちの声が、せまいトンネルの中にひびいた。  ころがるようにして出てきた子どもたちは、この偉大な王様をていちょうに迎えるべく、頭の上にかかげて、わっしょいわっしょいとかけだした。  鉄三にだかれていたキチは、それを見るとぴょんとはねて、後をおった。鉄三もかけた。  処理所の西のはしに、かれらの御殿がある。古い材木を組み立てて作ってあるのだが、なかなか子どもとは思えないできばえで、子どものそういう遊びには無理解なおとなも、ここばかりはお目こぼしとなっている。  処理所の中ではここがいちばん涼しい。  子どもたちはそこを基地と呼んでいる。いたずらをするときの根拠地でもあり、しかられて家をほうり出されたときの仮りのすまいでもある。  ネズミの王様はそこまでつれてこられた。子どもたちはこわれものでもあつかうように、おそるおそるかごをおろした。  子どもたちが、それをとりかこんだ。眼が集中する。神さまが姿をあらわしたのだ。子どもたちの熱い視線で、神さまは焼き殺されそうになった。  しばらく時間がたった。  さいしょに純が腰をおろした。それから武男がすわって、純を見た。純も武男も同じ眼をしていた。  ふたりはなにもいうことがなかった。功と四郎も力なくすわった。  いつまでもながめていたのは、芳吉と鉄三で、そのうち芳吉はまのぬけた質問をした。 「どぶの中では銀色の目玉をしていたのになァ。なんでやろ」  うんざりして、返事をするのもいまいましいという顔つきで功がこたえた。 「あほたれ、暗いところで光があたれば、動物の目は光るようになっとんじゃ」  だれも純を非難しなかった。だが、からだの力がいっぺんにぬけてしまったのか、みんなぽかんとして空を見あげていた。  しばらくして四郎がいった。 「こいつ、どないしよう」 「殺してしまえ」と芳吉がいった。  そのとき、まだネズミを見ていた鉄三がひくい声でいった。 「かわいそうや」 「そやな」  と純はいって、芳吉の頭をぽんとたたいた。 「ネズミやから、このままにがしてやるわけにはいかんし……」  純はこまってみんなの顔を見わたした。 「川に流してやろ」  と功がいって、みんなさんせいした。  それから、子どもたちはしかけを作ったときと同じ熱心さで、小さな木の箱をこしらえた。すぐに、うえ死にしないように箱の中にチーズを入れた。  子どもたちは広い運河まで出て、そこからネズミを流した。石にぶつからないように気をつけて流した。       *  鉄三たちがそんなことをして遊んでいるとき、小谷先生はヨットにのって海の上にいた。小谷先生はこの夏休み、夫とけんかをするくらい遊んでばかりいた。  あのつらい四カ月をわすれようとしているのかと、小谷先生自身がふしぎに思うくらい遊びほうけていた。  どちらかというと、これまでの小谷先生はまじめなタイプの生活で、生まれた家が医院だったせいもあって、外へ出て遊ぶよりは家で読書をしているほうが多かった。大学生のとき友だちと旅行をしたことが、ただ一つ自由な遊びといえばいえるくらいのものだった。  ぐれるということばがある。とちゅうから心がかわって悪くなるという意味であるが、どうやら小谷先生は四カ月のつらい教師生活のために、かわいくぐれているのかもしれない。  小谷先生は夏休みになると、すぐ同僚の先生たちと岐《ぎ》阜《ふ》の長《なが》良《ら》川にいった。岐阜からかえって、すぐ北アルプスの笠ガ岳に登った。八月にはいると、小谷先生は学校や家の仕事をあたふたとかたづけて、こんどは海へいった。和歌山県にあるアメリカ村は白いしっくいと黒いカワラの帽子をかぶった美しい漁村だった。  そうして遊んでいても、どこかものたりないものを小谷先生は感じるのだった。学生時代はどんな遊びをしてもたのしかった。でも、またすぐ、遊びにいこうという気にはならなかった。いまはちがう。たのしくなくても、またすぐ、どこかに遊びにいこうとする。どうしてなんだろう。  そして、またヨットにのってしまった。もう夏休みがおわろうとしているのに——  ヨットにのっていて一つふしぎなことがあった。兵庫県にある家《え》島《じま》群島を出て、姫路の室津港へ航行しているときだった。ちょうどなかほどまできたとき、海の上になにか黒いものが浮かんでいるのに気がついた。ヨットを寄せてひろいあげてみると、それは三十センチくらいのカメであった。大きさと形から、海のカメでないことはだれの眼にもはっきりしていた。どうしたのか右腹が五センチくらいさけていた。しかし、傷はだいぶいえていたので命にべつじょうはなさそうだ。なぜ海に出たんだろう、どこへいこうとしていたのだろう。  海にかえしてやると、カメは首をぴんと立て、手足をゆらゆら動かして泳いでいった。この広い海でそれはなんとなくおかしな動作だった。しかし、おかしいのでよけいカメのしんけんさに胸うたれた。  2 教員ヤクザ足立先生    スモッグ警報が出ていたのに、つきぬけるような青空があった。秋が近いのかもしれない。こういう予報はいくらはずれてもだれも文句はいわない。  そんな日は子どもたちもなんとなくはしゃいでいるような感じである。一年四組の教室から、リズム打ちのれんしゅうをさせる小谷先生の声がきこえてくる。 「あわてなくたっていいのよ。できない人はできなくていいから、そのかわり、からだで調子をとってね」  小谷先生は夏休みを遊びくらしたせいか、なかなか子どもたちに寛大だ。 「だめだめ、人のまねは。人に合わそうとするから、おくれてきてへんになっちゃうのよ。できない人は首をふってるだけでもいいのよ。いい、はじめますよう、はい、タンタタ、タンタタ、タンタタタン……」  カスタネットのかん高い音が教室中にはねまわって、子どもたちも小谷先生も陽気である。  そのとき教室の戸があいて、足立先生の顔がにゅーうとつき出た。 「ノックくらいしてちょうだい」  小谷先生はちょっと腹を立てて、大きな声でいった。 「ノックくらいしてちょうだい」  といたずらな子どもたちが小谷先生のマネをした。みんな笑った。足立先生がアカンベェーをして笑い声がいっそう大きくなった。  足立先生は小谷先生の耳もとでなにか話していた。小谷先生の顔がちょっとくもった。 「じゃ後で」 「はい」と、小谷先生は返事をした。  出ていきしな足立先生は、小谷先生をからかっていった。 「できない人はできなくていいんです。そのかわりからだで調子をとってね」  小谷先生はまっ赤になった。  足立先生が行きかけると、子どもたちの声が後をおった。 「また、こいよ」 「またおいでよう」  たいへん人気があるんだなと小谷先生は思った。 「じゃま者がはいったゾ。さあ勉強勉強!」  小谷先生はちょっとくやしい思いでいった。カスタネットの音がまたひびきはじめた。  あいかわらず鉄三はすわっているだけでなにもしていない。 「鉄三ちゃん、先生といっしょにやってみる?」  小谷先生は鉄三のうしろにまわって、かれをだきかかえるようにして両手をとった。 「はい、タンタタ、タンタタ、タンタタタン、タンタタ、タン……」  鉄三はしかたなしにやっている。 「こんどは鉄三ちゃんひとりでやるのよ。いいこと」  小谷先生はみんなの前にいって指揮をした。鉄三はやっぱりやらない。小谷先生は小さなため息をついた。  鉄三のうしろにまわったとき、鉄三の髪がくさかった。鉄三ちゃん、頭くさいよといいかけて小谷先生はあわててことばを飲みこんだ。両親のいない鉄三に、それはいってはいけないことだ。  学校がひけてから、きょうは二つ用事ができたわ、と小谷先生は思った。  四時に学校を出た。  足立先生とふたりで、春川きみの家に向かった。春川きみは足立先生の受持ちで二年生、弟の諭《さとし》は一年生で、小谷先生の担当である。  ふたりの母親は二度めの家出で、足立先生は戻るみこみがないといった。  足立先生は、母親のいない場合の生活を、父親とよく話し合っていて、だいたいいけるだろうという見通しをつけていたということである。  きょう学校に電話があった。  春川きみが近所の子どもに勉強を教えて、十円二十円の月謝をとったというのである。まさか、といいかけて、足立先生は、いや、ありうる話かもしれないと思ったそうだ。  この校区はまずしい家庭が多いが、まずしい者だけの世界というものはない、見《み》栄《え》をはる家庭もあるし、物や金のうえで安心してくらそうとしている家庭もある。そういうところで、みにくい話がおこってくるのはとうぜんだし、子どもがそれをまねすることだってありうる、と足立先生はいった。  春川きみの家に近づくと、うどん屋とか飲み屋、焼肉ホルモン、お好み焼きなどの看板をつけた店が多くなった。  足立先生はつーっと路地へはいっていって、たいこ焼とかかれてあるのれんをくぐった。  子どもへのみやげにするつもりらしい。まっているあいだ、足立先生はその店の人としゃべりつづけていた。小谷先生は思った。このひとは学校ではあまりしゃべらないのに、外へ出るとよくしゃべる。へんな人だ。 〈空屋あります——すみれ文化住宅〉という木の看板のかけてあるところが、春川きみの家で、そこは廊下まで暗かった。 「なんでこんなハイカラな名まえをつけよるんやろな」  足立先生はあきれて、しばらくその前に立っていた。  小谷先生はくすっと笑った。  春川きみは明るい子だった。足立先生がはいっていくと、さっそくとびついて頭の上までよじのぼってきた。小谷先生があきれて見ていると、きみは肩ぐるまの姿勢のまま、足立先生のひたいをポンポンたたいて、ハゲハゲそこぬけえーと歌った。 「なんで先生がハゲやねん。男まえの先生にそんなこというたら、たいこ焼、やらへんで」  と足立先生がいったので、きみはやっとおりてきた。それでもまだ、両手を足立先生の首にまわして、 「小谷先生は足立先生の恋人か」  ときいた。 「そうや。学校にはないしょにしといてや」  と、足立先生はじょうだんをいった。 「そのかわり、たいこ焼三つやで」  と、春川きみはどこまでも明るい子だった。 「弟はどないしたんや」 「遊びにいってる、呼んでこようか」  どうしますと足立先生は、小谷先生に眼でたずねた。いない方がかえっていいでしょう、と小谷先生は、きみにきこえないようにこたえた。  たいこ焼をたべているきみに、足立先生はさりげなくたずねた。 「近所の子に勉強、教えてやったんか」 「うん」  きみは下を向いたままこたえた。 「絵も教えたったで」  足立先生のつぎの質問を、春川きみは先まわりしてこたえようとしていた。そのときのきみの眼はおとなの眼に近かった。 「絵はなに教えたってん」  きみの緊張をほぐすように、足立先生はのんびりした調子でたずねた。 「先生に教えてもろたデカルコマニィー」  デカルコマニィーは二つ折りにした画用紙に二、三色のえのぐを入れておしつけてからひらく、つまり合わせ絵の一種である。 「それやったら、きみでも教えられるなァ」  たいこ焼を足立先生もたべはじめた。小谷先生にもすすめたが小谷先生はたべなかった。 「近所の子いうてだれや」 「まっちゃんとしげちゃんとことえちゃん」 「お金はいくらもろたんや」  からっとした調子で足立先生はたずねたが、きみのからだはぴくんと動いた。 「二十円」 「二十円ずつか」 「うん」  そうか、といって、足立先生は遠いところを見るような眼つきになった。しばらくして、 「おとうちゃんはどうや」とたずねた。 「きのうはかえってきたけど、その前は三日かえらんかった」 「それ、どうして学校でいわなかった?」  足立先生はちょっときつい声を出した。 「………」 「おとうちゃん、お金いくらおいていったんや」 「五百円」 「ことえちゃんらに二十円もらったのはその日のことか」  きみは首をこっくりふった。  小谷先生は胸が痛くなった。 「きみちゃん」——と、名を呼んだ。  いつのまにか、きみはたいこ焼をたべるのをやめていた。 「きみ」 「ん」 「お金をもらうのはやめとくか」  足立先生はのんびりと思いやりをこめていった。 「うん」——きみはうなずいた。  小谷先生は胸がいっぱいになった。まだ母親にあまえているとしごろなのに、と思うと涙があふれそうになった。  かえり道、足立先生はおこったような顔をしていた。にぎやかな通りに出ると、いっそうけわしい表情になった。 「いっぱい飲んでいくか」  ふいに足立先生はいった。そういうなり小谷先生のつごうなどきかず、かってにさっさと一けんの居酒屋にはいっていった。  小谷先生はまだこれから鉄三の家へまわるつもりだったし、それに校内区で男の先生とふたりで酒を飲むということにうしろめたい気がしたので、とまどってしまった。  しかし、このまま別れてしまうのは気がかりである。たずねたいこともいっぱいあった。ついに小谷先生は相当の決心をして、その店へはいっていった。  足立先生の前のコップはもう半分からになっていた。小谷先生がよこにすわっても、知らん顔をしていた。せかせかと酒をからだの中に流しこんでいる。眼がなにかを考えていた。 「きみちゃんは、はじめから、あんなに明るいすなおな子だったんですか」 「いや」  ぶすっと足立先生は答えた。いっそうふきげんになっていくようだ。小谷先生は話しかけるのがこわいような気がした。子どもに接しているときの、あのそこぬけに明るい足立先生はそこになかった。  足立先生はふとわれにかえったように、 「あ、どうも」といった。  やっぱりへんな人だ、笑い出したくなるのをこらえながら小谷先生は思った。 「先生ときみちゃんを見ていると、そんなに話もしないのに気持が通じているでしょう。きょうのことだって、先生はなにもいわないのに、きみちゃんは悪いことをしたと思ってるし、すなおにあやまっているし……」 「さあ、それはどうかな」  足立先生はちょっときびしい声でいった。 「悪いことかな」  コップの酒をぐいと飲みほして、ことばをつづけた。 「あんたやいまのぼくにはわからんことやけど、六十円もらったとき、きみはどんなにうれしかったことやろ。こん夜、おとうちゃんがかえってこなかったら、ごはんがたべられへんというときに、たとえ悪いことをしてでも、もうけた六十円はどんなにありがたかったことやろな」  酔いがまわってきたのか足立先生の口調に関西なまりが多くなった。 「きみにおとなのことばが使えたら、きっというにちがいあらへん。わたしがいっしょうけんめい教えて、たった二十円の月謝をもらってどこが悪いねん。そういわれたら、あんた、かえすことばがあるか」  酔ってはいるのだろうが足立先生は静かにしゃべっていた。 「きみは悪いことをしたと思ってあやまってるわけやあらへん。すきな先生がきて、なんやら、やめなさいというているらしい。地球の上でたったひとりかふたり残ったすきな人がやめとけというとる。しゃーないワ。きみの気持はそんなとこやろ」  小谷先生はまっすぐ足立先生をみつめたままだった。  3 鉄三のひみつ    足立先生と別れて、鉄三の家へいそぐ小谷先生は、からだのまん中がずっしり重かった。足立先生や春川きみが大きく見え、自分はひどく小さいものに感じられた。鉄三に会ったってわたしはなにができるのだろうと思うと小谷先生は気がめいった。  鉄三は家の前でひとりで遊んでいた。遊んでいたと思ったのは小谷先生のまちがいで、鉄三はしゃがんでキチにたかっているのみをとっていたのだ。 「鉄三ちゃん」  小谷先生は声をかけた。鉄三はちょっと小谷先生を見て、すぐまたキチの方を向いた。  きみが足立先生の頭の上までよじのぼっていたことをちらっと思いうかべて、さびしい気がした。いつの日に、鉄三ちゃんはわたしにものをいってくれるのだろうと、小谷先生は思う。  バクじいさんをさがしにいくと、ちょうど仕事がおわって、からだをふいているところだった。灰のためにまつ毛や鼻毛までまっ白だった。  小谷先生が姿を見せると、きょうしゅくしたバクじいさんは、顔だけあらってあわててシャツを着た。 「鉄三ウ、小谷先生じゃ」  バクじいさんは大声でさけんだ。 「おじいさん、鉄三ちゃんの髪の毛を洗ってあげたらいけませんか」  小谷先生はつとめて明るく、なにげない調子でいった。 「ウハ」と、バクじいさんはきみょうな声を出して、 「わしもあれも風呂がきらいで……すんまへんなァ」  バクじいさんはなにか悪いことでもしたようにいうのだった。小谷先生はこまってしまってどぎまぎした。 「鉄三ちゃん、先生が洗ってあげるから行水をしなさいよ」  鉄三は下を向いたままだった。小谷先生はかまわずに湯をわかしにかかった。勝手口からうらに出ると、行水をするのにちょうどつごうのよい広さをもったたたきがあった。  小谷先生がそこへたらいを出そうとすると、どうしてかバクじいさんはひどくあわてた。自分でたらいをはこんで、それから、たたきのすみにおいてあるなにかに、テントのような布をいそいでかぶせた。 「なんですの」  と小谷先生がたずねると、バクじいさんはいっそうあわてて、いやいやと口ごもってしまった。  植木かなにかだろうと小谷先生は思った。  用意ができると鉄三はおとなしく服をぬいだ。しょうがないという感じでたらいにはいって、やっぱり下を向いてじっとしていた。 「鉄三ちゃんはお風呂屋さんへはひとりでいくの」 「………」 「おともだちといくの」 「………」 「鉄三ちゃんのおともだちはだれなの」 「………」  小谷先生はたずねるのをやめにした。 「先生もお風呂はきらいなんよ。先生は髪が長いから、洗ってるとすごく時間がかかるでしょ。じゃまくさいもん。鉄三ちゃんと同じよね」  鉄三はちょこんとあぐらをかいて、されるがままになっていた。  バクじいさんがそばにきて、 「鉄三はしあわせもんじゃ。先生のご恩をわすれたらいかんぞ」といった。  ご恩はどうでもいいから、ちょっとしゃべってくれんかナ、と小谷先生は思っている。  いつのまにか鉄三の皮膚はピンク色になった。 「ほら、鉄三ちゃん、男まえになったァ」  小谷先生はポンと鉄三の肩をたたいたが、鉄三はにこりともしない。  たらいの湯をかたづけようとして、小谷先生はなにかにつまずいた。鉄三がはだしのまま、それをひろいにいって、おおいの中におしこんだ。ビンのようなものだった。三人のあいだに、妙な空気が流れた。  鉄三のひみつがあきらかになったのは、そういうことがあって三日後である。きっかけはつぎのようなことであった。  理科の実験に使うために、功と芳吉はショウジョウバエを採集していた。処理所にハエが多いということで、功も芳吉も、自分用のほかに友だち数人からたのまれている分をあつめなくてはならなかった。  ショウジョウバエは三ミリくらいの大きさなので、手でとるとつぶれてしまうし、網ではすきまから逃げてしまう。えさでおびき寄せる方法しかない。  功と芳吉はさいしょぬかみそを使った。ショウジョウバエのえさはぬかみそがいいということを学校で教わっていたからである。ところが、ぬかみその中に防ふ剤か着色剤かなにかハエのきらう化学物質がはいっていて、さっぱりハエが寄りつかなかった。  しかたがないので、アジの干物やサバの頭を使った。ゴミのそばで生活しているので、功も芳吉もハエの好物を知っていたのである。ハエはたかったけど、その中に一匹もショウジョウバエはまじっていなかった。  こまりぬいて芳吉はいった。 「しゃあないな。鉄ツンにたのもか」  さすがに功も芳吉も、六年生でありながら一年生の鉄三に助けを求めるのは気がひけるのである。 「しゃあない」——と功がいって、芳吉が鉄三を呼びにいった。つれてこられた鉄三は、ビンの中にはいっている魚を見ると、すぐに捨ててしまった。 「やっぱりえさがあかんのか、え、鉄ツン」  功は心細そうにたずねた。 「う」——と鉄三はいつものように意味のとりかねる返事をして、さっさと歩きはじめた。大きなからだの功と芳吉が、鉄三の後をちょこちょこついていった。  ゴミ置場へくると、鉄三はくさった果物ばかりをさがして歩いた。いちいちにおいをかいで気に入ったものを芳吉にもたせた。くさりのひどいものは合格しないようだった。芳吉がにおいをかぐと、あまずっぱいにおいといっしょにすこし酒のにおいがした。果物は発こうしているのだ。もちろん鉄三はそんなむずかしいことばは知らない。  そのえさでおびき寄せてみると、またたくまにショウジョウバエはあつまってきた。 「へえ」と功は感心した。 「さすが鉄ツンやなァ」——芳吉もうなった。  鉄三はかくべつうれしそうな顔もみせなかった。  その話を、芳吉がうっかり教室でしてしまったのである。功があわててとめたが、まにあわなかった。 「一年生の子がそんなにハエのことにくわしいのか」  功の担任がたずねた。 「こまったなあ」  功は顔をくしゃくしゃにしていった。  鉄三がたくさんのハエを飼っていること、処理所の子どもたちから鉄三はハエ博士と呼ばれているくらいハエについては、もの知りであること、ハエを飼っていることを友だちや先生に知られて、いやがられてはこまるという心配から、バクじいさんがかたく口どめしていることなどを、功はしかたなしにしゃべった。  放課後、 「このバカ」  と、功は芳吉をにらみつけていった。 「おれは知らんぞ」  芳吉はしょんぼりしてしまった。  この話はすぐ小谷先生に伝わった。小谷先生がまっ先に思いうかべたことは、カエルの事件である。  文治はビンの中のハエをとってきたといったが、それは鉄三の飼っていたハエを、ビンごともってきたということである。  小谷先生は功と芳吉を呼んで、鉄三がなぜハエなど飼っているのかたずねた。 「なぜって」  功はこまって口ごもった。 「鉄ツンはハエをものすごくかわいがっとんや。みんなが文鳥を飼ったり金魚を飼ったりするのとおなじやろ」 「小鳥や金魚は金がいるけど、ハエはタダやから」  と芳吉がいったので、まわりにいた先生たちは笑い出した。 「ハエって、すごくバイキンをもっているのでしょ。どうしてそんなふけつなものを飼うのかしら」  顔をしかめて小谷先生はいった。 「そんなん知らんやん。鉄ツンにききいなァ」  こまりはてて、功はいった。  いったいに処理所の子どもたちは、先生の前でもことばを改めない。友だちと同じようなことば遣いをする。  功はまだ芳吉をうらんでいるらしく、ときどき芳吉をこづいた。そのたびに芳吉はかなしそうな顔をした。  鉄三がカエルをふみ殺したわけがいまはじめてわかった。ハエは鉄三のペットだったのだ。それを、文治は知らないでカエルにやってしまった。カエルはそれをたべ、おこった鉄三はカエルに復讐をした。カエルが生きたえさしかたべなくなって、それ以後、鉄三はカエルの世話をしなくなったということも、いまになるとよくわかる。しかし、と小谷先生は考えこんでしまった。  また問題が一つふえたような気がする。動物を飼ったり、植物を育てたりすることはいいことだけれど、ハエを飼っているのをいいことだというわけにはいかない、鉄三はまだおさないので衛生観念がなくてそういうことをするのだろうけれど……。  こまった、小谷先生は頭が痛くなった。カエルを引きさいたときの鉄三のつよい気持を思うと、ちょっとやそっとの説得でハエを飼うのをやめさせられるとは思えなかった。  ともかくバクじいさんとよく相談してみようと小谷先生は思った。そう思ってふと気がついたことがある。  鉄三に行水をさせていたとき、鉄三とバクじいさんがあわててかくしたものがある。あれはハエの飼育ビンだったのだ。それにしてもバクじいさんが鉄三にハエを飼うのを許しているのはどういうわけだろう。  小谷先生はバクじいさんに会うために、三時に処理所にでかけていった。ひどく暑い日でふいてもふいても汗が吹き出た。処理所にはいると、発こうしたゴミのためにいっそう温度が高くなった。こんなところでハエを飼うなんてむちゃだと小谷先生は思う。  ここにくる前、小谷先生はある本でハエの項を調べてみた。とりわけ気になったのはつぎのような文章である。 ——ハエが伝ぱする病菌の種類は、古くから多数あげられているが、赤痢、腸チフスをはじめ、パラチフス、サルモネラ症、コレラ、アメーバ赤痢、各種の寄生虫症、結核、など二〇余種におよんでいる。また小児まひはクロキンバエなどによって伝ぱされる疑いが濃厚であり研究中である。  このことをわかりやすく鉄三に話してやらなくてはならない。  小谷先生が処理所にはいっていくと、いちはやくその姿をみつけて、功や芳吉が走ってきた。純や四郎も後からかけてきた。 「先生、鉄ツンをおこったらあかんで。あいつ犬とハエしか友だちないねんから。な、たのむで」  功はひっしになっていった。 「叱りにきたんとちがうんよ。どうしてハエを飼ってるのか鉄三ちゃんやおじいさんにききにきたの」 「そうか、そんならいいけど。あいつ、ほんまにハエしかなかのええ友だちおらへんから。先生みたいな美人やったらハエなんかに縁はないやろけどな」  功はませたことをいった。 「おせじいって……」と小谷先生が功のひたいを軽くつつくと、功はへへへ……と笑って、小谷先生の腕をもった。芳吉も純も笑って、小谷先生にすがりつくようにして歩いた。  なんと人なつっこい子どもたちだろうと、小谷先生は思った。処理所の子どもたちをひどく悪くいう先生がいるが、小谷先生にはわからない。 「ほかの先生方も、よくここにくるの」 「くるかい!」  ひどくこわい声で四郎がいった。 「おおかたのセンコはわいらをばかにしとんじゃ。わいらのことをくさいいうたり、あほんだれいうたり、だいたい人間あつかいしてえへんのじゃ」  四郎のあらっぽいおしゃべりをきいて、小谷先生は背中が寒くなるような気がした。こんなに人なつっこい子が、どうしてきゅうにそんなこわいことをいうのだろう。 「くさいゴミをもってくるのは、あいつらのくせになァ」 「ほんまじゃ」——と、みんな口をそろえていった。 「姫松小学校でええセンコいうたら、アダチとオリハシとオオタくらいやな」  足立先生の名まえがあったので、小谷先生はちょっとうれしかった。 「足立先生はいいの」 「あいつはおれらの友だちや、な、みんな」 「そや、ともだちや」と、これも口をそろえていった。 「小谷先生は?」と、小谷先生はたずねてみた。 「ええで」と功が、ちょっとてれていった。 「どこがいいの」 「鉄ツンをかわいがっとるやろ」  小谷先生はどきっとした。それから、この子どもたちにはずかしいと思った。 「鉄ツンはかわりもんやから苦労するやろ」  功はおとなのような口のききかたをする。 「そうなんよ。苦労してんねんよ」  小谷先生もくだけた調子になっていった。 「先生、ええにおいするなあ」  純がすこしはずかしそうにいった。  子どもたちがついてきてくれたので、小谷先生はだいぶ気がらくになった。バクじいさんに会う前に、鉄三に会おうと思って、そうっとうらにまわった。  鉄三は壁にもたれてすわっていた。腕を曲げて眼の高さにまで上げ、じっとなにかをながめていた。  小谷先生は眼をこらした。  鉄三の腕に無数のハエが遊びたわむれているのだということを知ったとき、小谷先生は思わず声をあげそうになった。  そんなことってあるだろうか。  巣にたかるミツバチのように、鉄三の腕にハエが群がっている。ハエはとびもしないで、まるで鉄三にあまえるかのようにからだをこすりつけている。羽根でもちぎってあるのかと思ってよく見たが、羽根はちゃんとついていた。 「鉄ツン」  と芳吉が呼ぶと、鉄三はこちらを見た。うしろに小谷先生がいるのに気がついて、立ちあがって腕をかくそうとした。 「あかんねん、鉄ツン。小谷先生はもう知ってはるワ」  功はもうしわけなさそうだった。  小谷先生はこわいものを見るように、功の肩をつかんで、おずおず近づいた。  約一センチくらいのハエで、からだは黄緑色でつやがあった。よく光る金属でこしらえたおもちゃのように見える。  ミドリキンバエという種類なのだが、もちろん小谷先生はそんな名まえなど知らない。 「きれいなもんやなァ」  純はむじゃきにいったが、きれいどころか、小谷先生は先ほどから鳥はだが立って、からだがふるえているのだ。 「鉄三ちゃん、捨てなさい。そんな……はやく……もう……」  小谷先生はうわごとのようにさけんでいる。鉄三は一つ一つつまんで、ビンの中へもどしはじめた。 「どうしてあのハエ、とばないの」  やっと落ちついて小谷先生は先ほどから気になっている質問をした。 「ちょっとまっててよ先生」  功はそういって、すぐ一匹のハエをつかまえてきた。 「これはふつうのハエやから手をはなしたらとんでいってしまうで。よう見ときよ先生。大きな羽根の下にもう一つ小さな羽根があるやろ」  なるほどそういわれてみると、そんな羽根がある。 「その羽根のすぐ下に、細い糸みたいなものがあるやろ。よく見んとわからへんで」  小谷先生が、わかったわというと、功は鉄三からピンセットをかりてきて、それでその糸のようなものをとってしまった。 「ほら」といって、ハエを地面に落とすと、なるほどハエはとぶことはとぶのだが、すぐ、ひっくりかえってしまって、どうにもならないというふうにあがくだけだった。 「鉄ツンはこんなハエを見て、ハエが踊っとる、というとったで」  気味悪いのもわすれて、小谷先生は感心してしまった。 「みんな鉄ツンに教えてもろたんや」  功はばつの悪そうな顔をしていった。  鉄三が飼育しているハエのビンは、みんなで二十くらいあった。みかん箱の上にならべてあって、まるで病院の標本室みたいだった。何種類のハエがいるんだろう。青黒い図《ずう》体《たい》を身動き一つさせないで、ビンの壁にへばりついているハエがいる。胸背に縦線のある大きなハエは、ごそごそはいまわっていかにもどん欲な感じがする。よく光るあい色のハエは、するどくとびはねて、みるからに元気者だ。  小谷先生が知っているハエといったら、イエバエくらいだった。 「いく種類いるのかしら。イエバエはどれ」 「イエバエはおらへん」と功がこたえた。 「イエバエは人のくそをたべるから、きたないといって鉄ツンは飼わへん」  鉄三は成虫のほかに、蛹《さなぎ》やうじも飼っていた。うじを見て、小谷先生はまた気分が悪くなった。  もう自分は鉄三のからだにふれることができないかもしれないと思うと、小谷先生はなさけない気持になった。そして、きょう、ここにきたことを後悔した。  バクじいさんはひどくきょうしゅくしていた。そして決心をしたような顔つきになって話しはじめた。 「かくすつもりはなかったんですけんど、せっかく先生にかわいがってもろとるのに、と思うと、つい……。先生は若いおなごの先生やよって、よけいいえんかったんですわい。それに、この処理所の子は学校でよういじめられるちゅうて、きいとったもんやさかい、そんなことから鉄三がいじめられたらかわいそうやと思うて、よけいかくすようなことをしてしもた。鉄三がハエを飼っていることを知ったとき、わしゃおこりました。めったとたたいたことのない子ですけんど、わしゃたたいておこりました。ビンもわってしもたんですわい。おこられてもどつかれても、この子はハエを飼いますのんじゃ。そのうち、おこれんようになりましたわい、どつかれんようになりましたわい。こいつは母親もないし、父親もない。世の中でだあれもかわいがってくれるもんがおらん。そう思うたら、ハエを飼っとるぐらいで、おこられんようになりましたわい。おまえがそないにかわいがっとるもんなら飼うてやれ、そやけどハエは人間のきらわれもんや、人目につかんとこで飼えというてやったです。小谷先生、ハエを飼うとるのんは鉄三が悪いわけやない、山へつれていってやれば鉄三は虫を飼うと思います。川へつれていってやれば魚を飼うと思います。けんど、わしゃどこへもつれていってやらん。こいつはゴミ溜《た》めのここしかしらん、ここはセンチムシとゴミムシと、せいぜいハエぐらいしかおらんとこや。鉄三がハエを飼うのはあたりまえといえばあたりまえの話やと、わしゃ思うたんですわい。鉄三が文治とかいう子に乱暴したときに、わしゃ先生になにもかも話しとけばよかった。ハエのことをかくして、ビンをぬすまれたことしか話さなかったのがいかんかったです。あのビンの中には鉄三が、金《きん》獅《じ》子《し》と呼んでかわいがっていたハエがはいっとったです。そら見事なハエで、ふつうハエは大きくても一センチそこいらやが、金獅子は二センチもありましたやろか。びかっと金色に光って王様みたいにいばっとりましたわい。それをぬすまれたもんやから、鉄三はかなしがって一日なんにもたべんかったです。文治っていう子を傷つけたとき、そら、もうしわけないと思いましたけんど、あんなにかわいがっとったもんやから、それくらいのことはやりかねんと、ひそかに思うたです。先生には、めいわくをかけてすまんといつも思うとります。かわいそうな子やからかわいがってほしいとは思いません。けんど、この子も人間の子なんやから、人間の友だちがほしいとわしゃいつもねがっとるんです。鉄三はちゃんとした人間の子ですわい」  小谷先生はひとこともものがいえず、頭をたれたままだった。  4 悪 い 日    雨の日とか風の日は二、三日つづくように、悪いこともかさなってやってくるものだ。  その日は水曜日だったので職員会議がひらかれた。小谷先生の学校は水曜日に会議がひらかれるしきたりになっている。  予定されていた話し合いがすべてすんで、みんなやれやれという表情のとき、教頭先生がもう一つといって立ちあがった。 「村野先生からのご提案で、みなさんに話し合ってもらいたいということがありますので、もうすこし時間をください。じゃ村野先生」  三年生の主任をしている村野康《やす》子《こ》先生はちょっと青い顔をして発言した。 「わたしの組に瀬沼浩《こう》二《じ》という子どもがいるのですが……」  子どもの名まえをきいて、たくさんの先生は、またかという顔をした。浩二は処理所の子どもだったのだ。 「その浩二くんに給食当番をさせるかさせないかということで、先日学年の先生たちと話し合いをいたしました。浩二くんはせいけつにするということができない子どもです。食事前の手洗いはいたしません。消毒液に手をつけることもしません。お風呂がきらいで、手足はいつもアカがこびりついているような状態なんです。いろいろ指導しましたけれど、よくなりません。家庭にも連絡をして協力をもとめましたが、なしのつぶてで、まるで関心がないようです。そのうち子どもの方から非難の声があがってきまして、浩二くんが給食当番をしているあいだは給食をたべないというのです。わたしはこれまで子どもに衛生ということをやかましくいってきましたから、そういう子どものもっともな言い分を無視するわけにはまいりません。万一、食中毒でも発生すれば、たちまち教師の責任です。わたしは浩二くんによく話をしました。改めないときには給食当番をやめてもらうと告げました。その話を学年打合会でしましたところ、折橋先生からそれは差別の教育やといわれたんです。わたしは二十五年も学校の教師をしてきました。わたしはわたしなりにいっしょうけんめいやってきたつもりですが、そういうことをいわれたのははじめてです。折橋先生から一方的に差別教育だといわれたことに、わたしは納得できないものを感じます。この問題をみなさんに話し合ってもらって、こういう場合、みなさんだったらどうするか教えていただきたいと思います」 「折橋先生なにかご意見がありますか」  折橋先生はこまったような顔をして、頭をかきながら立ちあがった。 「よわったなァ。ぼくは教師になってまだ二年めだから、村野先生みたいにいろいろなことをちゃんと知っとって、いいとか悪いとかよういわんのやけど……」  折橋先生はしゃべるのが得意でないらしい。鼻の頭にいっぱい汗をかいて、へいこうしてしゃべっていた。 「ぼくがいいたいことは、先生もふくめてクラス全体が、浩二くんの立場に立ってものを考えていないということなんです。うまいことよういわんけど、浩二くんがアカだらけということは、浩二くんが好きでそうやってるわけでないんだから、浩二くんの側に立って考えたら、また、ちがった見方ができるんとちゃうかということをいいたかってんけど……口べたやから、うまいことよういわんワ」  折橋先生がそういってすわると、みんなちょっと笑った。あんまり汗をかいているので気のどくな気がしているのだろう。すかさず、村野先生が立った。 「それはどういうことですか。わたしは浩二くんの立場に立って考えたからこそ、そういう処置をとったのですよ。このままだったら、浩二くんはいっそうクラスから、のけ者にされます。原因は浩二くんにあるんですから、それを無視して浩二くんの立場に立ってみても、問題は解決しませんよ。折橋先生のものの考え方はたいへん子どもにやさしそうだけれど、それはかえって子どもをあまやかしてだめにすると思います。教育というものはきびしさが必要でしょう」  それから数人の先生が立って発言した。折橋先生に好感はもっているが、考え方としては村野先生の方に流れていくようだった。  ふけつなものをそのままにしておくのはまちがいだということと、子どもの気持をできるだけ傷つけない心くばりをしよう、という二点で話がまとまっていくようだった。ある先生はいった。 「わたしは給食当番を選ぶとき、子どもに投票させています。友だちにやさしくできる人、いつも身なりをせいけつにしている人を考えて投票しなさいというんです。そういう目的をもたせていると、給食当番になりたくて、子どもどうし、よい意味の競争をしてくれるのでたいへん教育的だと思います」  発言がとぎれたときに教頭先生が、小谷先生に話しかけた。 「先生のところの臼井鉄三は……」  小谷先生はどきんとした。話し合いのとき、鉄三のことにふれられないかと、はらはらしていたのだ。 「ふつうに給食当番をさせています」  小谷先生は小さな声でこたえた。 「あの子、ハエを飼ってるね」  小谷先生は針のむしろにすわっているような気になった。 「あの臼井くんに給食当番をさせているんですか」  村野先生はあきれたようにいった。鉄三がハエを飼っていることは、ほかの先生にもすっかり知れわたっているのだ。  村野先生はいじ悪く、養護の先生にハエを飼っている子どもに給食当番をさせることをどう思うかとたずねた。とうぜん養護の先生は、ゆきすぎだ、すぐやめさせてもらいたいといった。小谷先生は小さくなっていた。 「なにいうとるんじゃ」  とつぜん大きな声がした。  足立先生である。教頭先生がむっとして、「発言するなら手をあげてからにしてくれ」といった。 「はあーい」  足立先生はバカにしたように、いっそう大きな声をはりあげた。しかたなさそうに教頭先生は、どうぞといった。 「折橋くんのいっていることだけが正しくて、ほかの人のいうてることは、みんなまちがいやとぼくは思う。給食当番は全員にさせなくちゃいけない。あたりまえのことながら、浩二も鉄三も全員のうちにはいる。もし、浩二や鉄三がふけつであるために病原菌をばらまいたとしたら、学級担任をはじめクラス全員がよろこんで伝染病にかかる」  みんなどっと笑った。 「もっとまじめに発言してもらいたいな」  苦虫をかみつぶしたような顔をして教頭先生はいった。 「まじめにいうとる。ぼくのいいたいことは保健教育に名をかりて、子どもの心をふみつけていないか、それぞれの教師が自問自答してくれということなんだ」  小谷先生が手をあげた。  立ちあがった小谷先生はしばらくだまっていた。ことばをさがしているふうだった。 「なんの考えもなしに鉄三ちゃんを給食当番にしていた自分をはずかしいと思います。鉄三ちゃんが、せいけつな子どもでないことはわたしも認めます。その子どもを給食当番にしてなにも思っていなかったというのは、たしかに学校の教師としてなまけ者だったと思います。そのことをまず反省しますわ」 「そんなもん反省せんでよろしい」  足立先生がヤジをとばした。 「もう、だいぶ前の話になりますが、鉄三ちゃんがカエルをふみつぶしたことがあります。そのとき、わたしはただ恐ろしいだけで、どういう気持から、そんなざんこくなことをしたのか、子どもの心のうちを考えてやるゆとりがありませんでした。つい先日その原因がわかったんです」  小谷先生は鉄三のひみつを知ることになったようすをていねいに話していった。バクじいさんの話はとくにくわしく話した。 「鉄三ちゃんはまだ、わたしに心をひらいてくれません。しかたがないですわ。鉄三ちゃんが悪いわけじゃないんですもの。わたしがもし、事件のおこったさいしょのときに、あの子の心にふれていたら、四カ月も五カ月もまるでむだな時間をついやさなくてもすんだのにと思うととてもくやしい。足立先生や折橋先生がおっしゃった子どもの心を大切にするということは、そんなわたしの体験から考えてとてもよくわかるお話なんです。さいわい、わたしの組の鉄三ちゃんは手洗いの消毒を実行してくれますので、このまま給食当番をつづけることを許していただきたいと思います。ハエを飼っていることについては、わたし、いっしょうけんめい鉄三ちゃんを説得してみますわ」  小谷先生が職員会議で発言したのははじめてのことだった。そういうこともあってか、みんなしーんときいていた。話しおわると、自分のからだがこまかくふるえていて、そのことが小谷先生にははずかしかった。  悪い日の、悪いことのさいしょは、その職員会議の後だった。教頭先生に、ちょっとと呼ばれて、職員室のとなりの教室へいくと、かれはこわい顔をして立っていた。 「ああいう発言はこまるね小谷先生」と、にがにがしげにいった。 「あれじゃ、まるでわたしが悪者になってしまうじゃないか。あの事件ではあんたのために、わたしはずいぶん苦労をしたんだよ。ああいう話をされると、わたしは臼井鉄三をなぐっただけの軽はくな人間になってしまうじゃないか」  小谷先生はどういっていいのかわからなかった。だまって、ただつっ立っていた。やりきれない気持があとに残った。  悪いことの二つめは、そのかえり道であった。小谷先生は鉄三に会って話してみようと思った。すぐに鉄三にハエを飼うことをやめさせられるとは夢にも思わなかったが、話しているうちに、すこしはうちとけてくれるかもしれないと思ったのだ。気長にやってみるつもりだった。 「鉄三は人間の子どもなんだから、人間の友だちがほしいとねがっている」バクじいさんのことばが小谷先生の頭にこびりついていた。  処理所にはいっていくと、例によって功たちがかけてきた。この子たちとは、なんの苦労もなしに、なかよしになれたのになあと小谷先生は思う。 「功くん、浩二くんってどの子」  小谷先生がたずねると、功は、 「ここにおるやん」  と、すぐとなりの、からだの小さな子どもを指さした。 「あなたが瀬沼浩二くん」 「うん」  大きくうなずいて、浩二の笑ったどんぐり眼が小谷先生を見あげている。  小谷先生はなあんだと思った。きょうの職員室の話から、ひどくきたない子を想像していたのだ。陰気で反抗的でいつも白い眼をむいているようなことをいっていたが、じっさいの浩二はまるでちがう。  たしかに、はだしできたないけれど、このくらいのよごれなら下町の子ならふつうだ。色の白い小谷先生でも、はだしで遊んでいたら、これくらいはよごれることだろう。 「浩二くん、きれいな眼をしているね」  小谷先生がそういうと、浩二はうれしそうに笑った。 「もてるなァ」と、純にからかわれて、浩二はいっそううれしそうな顔をした。 「ちぇ、あのオールドミスのオバハン、だましたナ」  小谷先生はずいぶん乱暴なことばを使ってひとりごとをいった。処理所の子どもたちや足立先生のくせが、うつってきたのかもしれない。  功がききとがめ、 「先生がそんなことばを使ってはいけませんねえ。おっほんおっほん」  と、胸をはって校長先生のまねをした。 「ふふふ……」と小谷先生はてれ笑いをした。 「先生、あした徳治がかえってくるで」  徳治といちばんなかのよかった四郎がいった。 「そう。徳治くんあした退院するの。よかったね」  鳩をとろうとして製鋼所の屋根から転落した子どもが徳治だった。 「徳ックン、どんな顔してかえってくるやろ」  みんなが徳治のことを気にしているふうだった。 「鉄ツンに用事か」  功がきいた。ええ、とこたえて、小谷先生は思った。  鉄三とふたりきりで話をするより、この子どもたちと雑談しているようにして、なにげなく話をするほうがいいんじゃないかしら。 「鉄三ちゃんを呼んできてくれる」  純が鉄三を呼びにいった。まっているあいだ、小谷先生は浩二と話をした。 「浩二くん、あなたお風呂きらい」 「きらいや」 「きれいにせんとおヨメさんきてくれへんよ」 「ふふふ……」 「浩二くんは給食のとき、手を洗わんでしょう」 「だって……」 「だってって」 「おれのこと、みんなバイキンバイキンっていうもん」 「だれがそんなことをいうの」 「みんな」 「みんな? 先生はしからないの」 「先生はおれの味方とちゃうもん。おれが悪いって。きれいにしないもんが悪いっていうもん」  小谷先生はため息をついた。 「そう。それで浩二くんは手洗いをしないの」 「うん」 「じゃ先生があなたのクラスの人にいったげよか。浩二くんの気持を」 「いらん」 「どうして」 「おれ、ムラノきらいやもん」  そのとき小谷先生は思った。  おれ、コタニきらいやもん、鉄三はそういっている。小谷先生は暗い気持になった。  純につれられて鉄三がきた。あいかわらず心のない人形のようだった。小谷先生の前にきても下を向いたままだ。 「おまえ、ほんまにあいそないなァ」  純まであきれている。 「純くん、別荘につれてってよ」 「別荘?」 「つづり方にかいていたでしょう。ぼくらの別荘って」 「ああ、基地のことか」  子どもたちはよろこんで、小谷先生をかれらの御殿に案内した。 「あれ、ここ涼しいねえ」 「処理所の中でいちばん涼しいねん」 「ほんとだ」 「ここはアダチもようくるで。職員会議サボったったいうて昼ねしてるワ」  小谷先生は吹き出してしまった。ほんとにしようがない人だ。 「あなたたち、アダチとかムラノとかいって先生を呼び捨てにしているけれど、わたしのこともコタニっていっているの」  先ほどから気になっていることを、小谷先生はたずねた。  功は頭をかいた。四郎がいった。 「そないいうたら、小谷先生だけはコタニっていわへんなァ」  ほんまや、と、みんなふしぎな顔であいづちをうった。 「どうしてなの。不公平じゃない」 「先生は美人やから、みんながおまけしてるのやろ」 「あんなことをいって、わたしになにかおごらせる気なんでしょう」 「アダチはたいこ焼、おごってくれるで」  と芳吉はいった。功がまたあわてて、アホと芳吉をこづいた。 「おまえはほんまに……」  功はぶつぶついっている。どうもこのコンビはじきこういうことになってしまうらしい。小谷先生は笑った。 「いいわ。たいこ焼は暑いから、アイスキャンデーにしなさいよ。先生おごってあげるから」  みんな、かん声をあげた。  処理所の子どもたちと話していると、小谷先生は気持がのびのびした。足立先生じゃないけれど、わたしもときどき遊びにこよう、こうしておしゃべりをしているうちに、鉄三もやがてうちとけてくれるだろうと思った。  みんなたのしそうにアイスキャンデーをしゃぶっていた。小谷先生も子どもにかえって、アイスキャンデーを一本たいらげた。子どもたちはまだたべている。 「鉄三ちゃん、きょう学校でね。先生方の話し合いがあったの。鉄三ちゃんがハエを飼ってること、どの先生も知っていたわ」  功がちらっと鉄三を見た。 「ハエってバイキンのかたまりなんでしょう。先生も調べたんだけれど、赤痢とかチフスとかたいへんこわい病気をはこぶんだって。もしよ、もし鉄三ちゃんがハエからそのバイキンをもらって給食当番をしたらどうなると思って。クラスの人みんなが病気になってしまうのよ。そのことを先生たちは心配をしているの。鉄三ちゃんは知らないんでしょうけれど、飼ってかわいい虫とか動物はほかにもいっぱいいるわ。先生といっしょに人間に害をしない虫を飼いましょう、ね」  鉄三はアイスキャンデーをたべるのをやめた。 「いまこの町で、ハエや蚊をなくす運動をしていて、できるだけたくさんのハエを殺すおくすりをまいているの」  鉄三の眼がすこし光った。小谷先生は気がつかなかった。 「ハエを殺してしまわないと……」  鉄三が立った。  つかつかと小谷先生の前にきた。両手で思いきり小谷先生の顔をつかむと、あるだけの力を出して、うしろにつきとばした。ひめいといっしょに小谷先生はあっけなくたおれた。 「鉄ツン!」  顔色をかえて、功は立ちあがった。  鉄三はかけた。とっさになにがおこったのか小谷先生には判断ができなかった。逃げていく鉄三のうしろ姿をぼうぜんと見ていた。  鉄三の姿が見えなくなると、せきが切れたようにかなしみがおそった。からだの中のものが、つぎからつぎへ吹き出てくる。胸があつくなり、痛くなり、そして目の前が暗くなった。  小谷先生は大声をあげて泣いた。子どもたちがいることもわすれて、幼児のように泣きじゃくった。  子どもたちは泣いている小谷先生の前にしゃがみこんだ。功と純は眼にいっぱい涙をためて、じっと小谷先生の顔を見つめていた。  悪いことの三つめは家へかえってからである。  小谷先生はべったり部屋にすわりこんでいた。あかりもつけずに気のぬけたようにすわっていた。  声をかけられて、はじめて夫のかえってきたことを知った。食事は、と問われて、まだ、とものうげに小谷先生はこたえた。部屋のあかりをつけて、小谷先生の顔を見た夫はちょっとおどろいた。それから小谷先生の話をきいて、いいかげんにしとくことやなといった。 「いいかげんにできないから苦しんでるんじゃないの!」  小谷先生はヒステリックにさけんだ。 「バカ!」と夫はどなった。 「だれが大事なんかよく考えろ。家の生活もきちんとできない者に、ひとの子の教育ができてたまるか」  小谷先生の眼からぽろぽろ涙がこぼれた。 「おまえがひとりでくらしているんならどうしようと勝手だ。ぼくだって会社でいやなこともあればつらいこともある。それをいちいち家の中へもちこんでいたらどうなるんだ。なんのために共同生活をしているのか、よく考えろ」  心の冷えていくのが小谷先生にわかった。わたしのつらいことは、あなたのいってるつらいこととまるっきりちがう、と小谷先生はいいたかったが、もう、口がひらかなかった。  その夜、小谷先生はウィスキーをがぶのみした。そして自分がこの世でひとり生まれてきたようなさびしい気持になった。  ウィスキーのビンの口にハエが一匹とまった。おっぱらわないで、じっとそれを見た。小谷先生はいつまでも、そのハエを見つめていた。  5 鳩 と 海    徳治がかえってきた。  鉄三がハエ博士なら、徳治はさしずめ鳩ぐるいというところだろうか。  さいしょにしゃべったのが鳩のことだった。 「キンタロウはどうしている」  キンタロウというのは徳治がいちばんかわいがっていた鳩の名まえである。 「あいつにこまってるねん」  徳治がるすをしていたあいだ。ずっと鳩の世話をしていた四郎がこたえた。 「ほかの鳩をいじめまわすんや。ゴンタなんか、えさも水もよう飲みよらへん」  ゴンタは徳治の飼っている十四、五羽の鳩のうち、いちばんの年寄りだ。  みんなで鳩を見にいった。徳治の家の物干しに鳩小屋がある。  徳治が製鋼所の屋根から落ちて大けがをしたとき、鳩小屋はこわされる運命にあった。それをきいた徳治は病院で、あばれくるった。こわしてみろ、こわしやがったら死んでやるわいと、そばにあった果物ナイフをふりまわした。根まけした徳治の両親があきらめて、四郎に鳩の世話をたのんだというわけである。  徳治はなつかしそうに眼を細めて鳩を見た。 「タロもおるやん。チョンコもおるやん。おいこらドンベイ、こっち向け。ご主人さまがかえってきたんやでえ」  そのうち一羽の鳩がグルルロロロとなきだした。それにつられて、ほかの鳩たちもいっせいになきはじめた。 「おぼえとるやん。おれがかえってきたことをよろこんどる」  徳治は顔をまっ赤にして、うれしそうにさけんだ。 「鳩でもわかるんやなあ」——感心したように功がいった。 「どれがキンタロウやねん」  四郎が指さした鳩はなるほど不敵なつらがまえであった。ほかの鳩のようにきょろきょろしないで、ひとつのところをじっと見ている。  四郎が水とえさを入れてやった。鳩たちはいっせいにえさをついばみはじめた。 「見とけよ」  四郎がささやいた。  キンタロウは二度三度、目玉を動かした。それから、ぱっととび立って、まるで重いものが落ちてくるような横着なとび方をして、えさ場にきた。すぐ、となりの鳩を一突きつついた。つつかれた鳩はちょっととびのいて、つづけてえさをとろうとした。そこでキンタロウの攻撃がはじまった。上にかぶさるようにして、その鳩の首すじをつつきまわす。逃げる鳩をおって、いっそうはげしくくちばしをたたきつける。 「にくたらしいやつやなあ」  いかにもよわいものいじめという感じに、たまりかねて純がいった。 「あれがゴンタか」 「うん。やられている方がゴンタ」  四郎が竹の棒をさしこんで、キンタロウをこづきまわした。 「ゴンタがよわってしまうやん」  徳治は心配そうにいった。  巣の方においやられたゴンタは、丸くふくれて羽毛の色つやがさえなかった。ゴンタは、キンタロウのすきを見て、ふたたびえさ場にやってきた。ひと口ふた口えさをついばんだと思ったら、もうキンタロウの攻撃をうけていた。 「えげつな」  功は顔をしかめた。 「徳ックン、こんな鳩、おい出してしまえ」と、純はいった。 「おい出すか」と四郎もいった。 「おい出せ、おい出せ。徳ックン」  芳吉も武男もそういうので、なんだか徳治は後へさがれないような気分になった。  徳治はしょうちした。  四郎はキンタロウをらんぼうにひっかきまわして、それから追放した。キンタロウは空高く飛んだ。 「あのあんぽんたん、よろこんどる」  四郎はいまいましそうにいった。  鳩舎の中で一羽の鳩がゴロゴロないた。 「キンタロウのよめはんや」  四郎がそういって、みんなちょっと後味の悪い気分になった。  キンタロウは、処理所のいちばん高い屋根の上にとまった。 「あいつ、きょろきょろしてるで」 「びっくりしてるんやろな」  キンタロウはそこから動かなかった。じきどこかにとんでいくだろうと思っていた子どもたちは、あてがはずれておたがいに顔を見合わせた。 「なんや廊下に立たされてるみたいや」 「おまえ、よう立たされるから、身につまされるんやろ」  と功にいわれて、武男はちょっとふくれっ面になった。 「ほうっとけ、ほうっとけ」  みんなむりにキンタロウのことをわすれようとした。徳治の家で、しょうぎの歩回しをして遊んだ。もうし合わせたように、だれもキンタロウのことを口にしなかった。そのくせ、ちらちら窓の方に眼をやっている。 「ちょっとションベンしてくるワ」  四郎がいうと、みんなうたがわしそうな眼つきをした。 「ションベンやでえ」  口をとがらして四郎がいう。  四郎がかえってきて、ふたたび歩回しがはじまったが、だれも身を入れてやっていない。 「おれもションベンいってくるワ」  こんどは功がいった。 「おれもいくワ」  功と純はならんで小便をした。よこ眼で屋根の上を見ている。 「おまえ、ションベンあんまり出てへんやないか」  功にいわれて純はこまったような顔をした。ふたりはならんでかえってきた。どちらも監視しあっている。  三度目の小便のとき、徳治はたまりかねていった。 「ずるいぞ、おまえら」  それがきっかけで、みんな、わあと、先をあらそって外へ走り出た。  キンタロウはまだ屋根の上にいた。じっと風に吹かれていた。子どもたちにはキンタロウが別の鳩かと思うほどさびしそうに見えた。四郎が石をおもいっきりけった。  よく日、みんな早おきだった。  ねむい眼をこすって屋根の上を見た。キンタロウはまだそこにいた。  子どもたちは安心をして朝ごはんをたべ、そして学校にいった。  その日、学校で落ちついて勉強をした者はひとりもいなかった。四郎は二度、廊下に立たされていたし、功は先生の質問にとんちんかんな答をして、みんなに笑われた。純は計算のテストがふだんより悪かったし、武男は給食のミルクかんをひっくりかえして大目玉をくった。  学校がおわると、みんないちもくさんにとんでかえった。  悪い予感があたらないように子どもたちは祈った。処理所にかえるといそいで屋根の上を見た。  キンタロウはそこにいなかった。子どもたちはがっかりした。キンタロウをおい出せということばをとり消しても、もう間にあわなくなってしまったのだから。  三時ごろ、全員そろった。このままでは徳治に悪いとみんな思っている。鳩のいそうな場所を徳治にきいた。キンタロウの特徴もしっかり頭に入れた。手分けしてさがしにいくことになった。みつかれば徳治にれんらくするつもりなのだ。まだ、からだが十分でない徳治は残って本部づけというところだ。  四時ごろ、汗とほこりでまっ黒になった顔が、つぎつぎかえってきた。つかれたようすから、なにもいわなくても、だめだったことがわかる。  みんな、その場にへたりこんでしまった。あらい息をして眼だけ光らせている。 「もう一カ所、鳩のあつまっているところがあった」  徳治がいったので、みんなあわててとびおきた。 「近すぎてわすれとった。運河沿いで海に出ると、かどのところに製粉所があったやろ。あそこは小麦を入れるサイロがあって、鳩がようあつまってくるんや。キンタロウは腹をへらしているはずや。ひょっとしたら、そこへいっとるかもわからへん」  なるほどと子どもたちは思った。そこへ行くとすぐにでもキンタロウに会えるような気がした。子どもたちはかけ出した。  運河に出るには、いちど処理所の門を出て、ぐるっとまわってこなくてはならなかった。しかし、気のはやる子どもたちは下水を通って、ネズミの親分をつかまえたあのトンネルをくぐって、あっさり近道をした。  土管を出ると、車《しや》輛《りよう》工場のへいによじのぼった。そこをこえてしまうと検疫所の広っぱに出るので、後はらくだ。  子どもたちはやっと歩きはじめた。 「キンタロウのやつ、おれたちのこと、おこってるやろか」 「すねて家出したんやな」 「自殺するかわからへんで」 「アホ、鳩は自殺なんかするかい」 「犬はするで。おれ見たんや。犬とりに引きずられて箱に入れられるとき舌をかみ切りよった」 「へえ」  子どもたちは、がやがやさわぎながら海辺に出た。  海は広い原野のようだった。おりからの夕日が、さざなみに朱の色をつけて、それは、よく実った稲穂が風にゆれているようである。たえずざわめいて、子どもたちになにごとか話しかけるようであった。  かれらはしばらくその風景に見とれていた。いつもきたない鈍《にび》色《いろ》の海なのに、きょうは神さまがいたずらをしているのだろうと、子どもたちは思った。  製粉所のサイロは、天に向かってにょっきり突っ立っていた。子どもたちはふたたび、へいをよじのぼって、製粉所の倉庫の方へ近づいていった。 「オッサンにみつからんようにしいや」  功はみんなに注意した。  鳩は倉庫の屋根うらに、群れていた。 「すごい」  芳吉はびっくりして、思わずさけんだ。  無数の鳩たちはグルッポーグルッポーとなきながら、ふいの侵入者をけいかいするようだ。 「なん匹くらいおるやろ」 「百匹くらいやろか」 「二百匹はおるで」  子どもたちはひそひそ話したが、この中から一羽のキンタロウをみつけだすのは、とうていむりなように思われた。  それでも子どもたちはねっしんに見ていった。 「こらっ!」  とつぜん大声でどなられて、子どもたちはとびあがった。おどろいた鳩がものすごい羽音を立ててとび立った。  鳩と子どもたちはひっしで逃げた。鳩はつかまっても学校に報告されないが、おれたちはそうはいかん、職員室でねちねちやられるのはたまらんわい。  とちゅうで芳吉がひっくりかえったが、はよおきろと功に尻をけられて、半泣きで走った。やっとの思いでへいをよじのぼって、おいかけてきた守衛のオッサンに悪たれをついた。 「デブ、くやしかったらここまでこい」  つかまった者はだれもいなかったが、とうとうキンタロウはみつからなかった。  子どもたちはがっかりしていた。  芳吉はひざから血を流している。 「泣くな、それくらいのことで!」  功はどなりつけた。こっちが泣きたいくらいだ。  埋立地までくると、子どもたちは海に向かって腰をおろした。うすら寒い風が吹いてくるような気がした。 「あれ、見い」  武男の指さす方を見ると、二百羽近い鳩の群れが急旋回して、西の空にとんでいくところだった。空は落日で血のように染まり、鳩はきれいなシルエットと化した。  ふうーと純が大きな息をした。 「あいつら、どこへでもいけてええなあ」と四郎はうらやましそうにいった。 「おれもどっかへいきたいワ」  功がめずらしく小さな声でいった。  この海の向うはどこやろか、ずっと向うか、ずうっとずうっと向うや、地中海や、ちがうわいインド洋じゃ、大西洋じゃ、うるさい、どこでもええわいと純はいって、それからやっぱり小さな声で、どこでもええから広いところへいきたいとつぶやいた。 「純は海が好きか」と、功はたずねた。  純はうなずいた。「白鯨」の話を思いうかべていた。モビー・ディックとよばれる狂暴な白鯨に片足を食いちぎられ、復讐をちかう捕鯨船の船長エイハブが、純の理想の人物だった。男らしいやつがおれは好きや、海は人間を男らしくさせるんやで、と純はいった。  みんなは遠い眼をして海の向うを見た。そして純がいったことばをみんな考えた。  太陽がまっさかさまに落ちてきて、子どもたちの顔を赤く照らした。  かえりがおそいので、徳治が心配をして見にきた。みんなは徳治の顔を見るのがつらい。 「あかんねん。徳ックンすまんなァ」と四郎がわびをいった。 「ええねん、おれ気にしてない」  徳治はみんなの気を引き立てるように、わざと元気な声でこたえた。  子どもたちはおそうしきのかえりといったあんばいで処理所へかえってきた。  むだなことだと思いながら、みんな屋根の上を見た。やっぱりキンタロウはいなかった。あいつ本気で家出をしてしもたんや、あほなやつや、おれたちの気持も知らんであほなやつや、あいつ、と子どもたちは思った。 「徳ックン、あれ見い!」  四郎がするどい声でいった。徳治の家の物干しに、ちょこんと黒い影がとまっていた。 「キンタロウや!」  わあっとみんなかけた。鳩をおどかしてはいけないので、徳治だけ、そっと物干しにあがった。徳治がトラップをあけてやると、キンタロウはすとんと身軽に小屋にとびこんだ。徳治は下でまっている四郎たちに大声でさけんだ。 「キンタロウがかえってきたでえ!」  6 ハエの踊り    小谷先生の机の上に数さつの本がつみあげてある。先ほどから、小谷先生はいっしょうけんめいそれらの本を読んでいた。ときどきメモをとっている。  ひどくねっしんなので、となりの先生は興味をもって、なにを読んでいるのときいた。小谷先生は小さな声で、ないしょとこたえて、ふたたび本の上に眼を落とした。  小谷先生が読んでいたものは、昆虫にかんするさまざまな本であった。図鑑や飼育事典などという本もあった。  小谷先生はそれらの本の中から、ハエについてかいてある部分をひろい読みしていたのだ。小谷先生は内心おどろいていた。あれだけ人間の生活に関係のある虫なのに、ハエのことが書いてある書物は、きょくたんにすくない。学校にある本はなんの役にも立たなかった。市立の図書館にいって借りてきた本が五さつあったが、ハエの専門書はたった二さつで、そのうちの一さつはハエの分類だけをあつかってあったから、けっきょく役に立ちそうなのは、一さつだけというありさまである。その一さつも昆虫学者がかいたのではなく、たまたま水産食品の研究を職としている、ある農林技官が食物にたかるハエを除く必要からかいたもので、げんみつにはハエの専門書といいかねた。  こんな調子では、人間はあんがいハエのことを知っていないのではないか、ハエについてくわしい知識をもった人がいないのではないかと小谷先生は思った。  小谷先生自身、ハエはバイキンをたべるものとばかり思っていたが、それはとんでもないまちがいで、ハエはバイキンをえさにしているわけじゃない。 「ハエはバイキンを食べるのでたいへんふけつです」たいていの先生はそういって子どもに教えるが、それはまちがったことを教えているわけである。 「ハエは細菌のついた食べものを好んでたべます。だから、ふけつなものやくさりかけたたべものははやく処分して、ハエにふれさせないようにしましょう」と教えなくてはならないところである。  考えてみると、ハエはだいぶぬれぎぬを着せられていると小谷先生は思った。  小谷先生がハエのことを調べる気になったのは夫婦げんかがもとである。鉄三に暴力をふるわれ、夫にそむかれて、その夜、小谷先生はひとりぼっちであった。  やけ酒を飲んでいたら、酒のビンの口に一匹のハエがきてとまった。どうしてか、そのハエが、小谷先生にはいとしく感じられた。酔っていたせいかもしれない。だれでもいいからやさしいことばをかけてくれと涙をこぼしていたときであったからかもしれない。ともかく一匹のハエがいとしかったのだ。  本を読んでいて、二つのおもしろいことがらにぶつかった。小谷先生はちょっと興奮した。だれかにしゃべりたくてしかたがなかった。ちらっとみると、足立先生がまだ職員室に残っている。すぐ足立先生を思ったことで、小谷先生はちょっと顔が赤くなった。 「ちょっとお話してもいいですか」  小谷先生が声をかけると、足立先生は仕事の手を休めて、おう、といった。 「足立先生がこんなにおそくまで学校にいるのはめずらしいのでしょ」 「そうらしいな」  先生たちの下校時刻はだいたい午後五時なのだが、足立先生は時間を守ったことがないようであった。先生間の評判が悪いのも、それが一つの原因らしい。 「小谷先生、顔の傷どうした」  足立先生はにやにやしながらたずねた。小谷先生はそのことにふれられたくない。 「夫婦げんかじゃありませんよ」  つんとしてこたえると、 「鉄ツンにやられたんやろ」と、足立先生は笑った。  いやだな、なんでも知ってる、あの子たちはいったいわたしと足立先生とどっちが好きなんだろう、と小谷先生は女性らしいやきもちをやいた。 「そんな話をしにきたんじゃないんです」 「ハイ、ハイ」  足立先生は神妙にこたえた。 「先生、ハエの踊りって知っている」 「ハエの踊り?」 「ええ、ハエが踊るの」 「まさか」  足立先生は信じられないという顔をした。しめしめこの話はまだ子どもたちからきいていないらしい。 「わたしが踊らせてみせるから、生きているハエを一匹とってきて」 「ぼくをからかうんじゃないだろうな」  まだ足立先生はうたがっている。  それでも便所の窓のあたりをさがして、ハエを一匹とってきた。青黒い色をした大型である。 「大きい方がいいわ」  と小谷先生はよろこんだ。さて、と思ったが、そのハエをさわるのがどうしてもいやだ。しかし、なんとかして、こにくらしい足立先生をびっくりさせてやりたい。  小谷先生は死ぬ思いで、功に教えてもらったとおりハエに手術をした。もちろんうしろを向いて足立先生にわからないように—— 「はい」  と、そのハエを机の上においた。ハエはしばらくじっとしていたが、小谷先生がとんと机をたたくと、あわてたように踊り出した。 「うへぇー」  足立先生はすっとんきょうな声をあげた。小谷先生ははなはだ満足だ。 「おい見てみろ。ハエが踊っとる。おい、はよ見にこい」  足立先生はだれかれなしに声をかけた。みんな寄ってきて感心してハエを見ている。 「なんでこんなことになるんや」 「種あかしをしてあげましょうか」  小谷先生はますます得意であった。 「ハエは分類学からいうと双《そう》翅《し》目《もく》に属しているんです。アブや蚊と同じように二枚の羽根をもっているのが特徴なんだけれど、ハエも大昔はチョウやトンボのように四枚の羽根をもっていたらしくて、退化したうしろ羽根のあとがいまもちゃんとついているんです。これを平均棍《こん》といって、ハエがとんでいるときの平衡感覚をつかさどるわけ。だから、それをとってしまったら、ハエはとべなくなってしまうのよ。とぼうとしてとべないから踊っているように見えるというわけ」 「へえ、小谷先生は学があるんですなあ」  まわりの先生が感心していうので小谷先生は吹き出してしまった。 「いまそこで読んでいた本にかいてあったんです」  小谷先生が正直に白状したので笑い話になってしまったが、それでもまだみんな感心していた。  ちょっとしたさわぎがおさまって、足立先生とふたりになると、小谷先生は話をつづけた。 「じつはいまのこと鉄三ちゃんに教えてもらったんですよ先生」 「鉄三がそんなむずかしいことを知っていたのか」  びっくりして足立先生は問いかえした。 「そうじゃないですけど、羽根の下の糸のようなものをちぎると、ハエはそういう状態になるということを、鉄三ちゃんは経験で知ったんじゃないかと思うんです。鉄三ちゃんが処理所の子どもたちに教えて、わたしはそのことを功くんからきいたんです」 「ふーん」  足立先生は感心した。 「たいした話だ。鉄三はたいへんな科学者ということになるね」 「ええ。それにわたし、とっても気になる文を読んだんです。ここにかきぬいてきましたから、ちょっと読んでくださいナ」  小谷先生がしめした文章はつぎのようなものである。 「ハエは親に産み放され、生涯を仲間も家族も家さえなく、ひとりで暮らす。その間、ハチ、クモ、小鳥などにおどかされるが、他をおどかすことはなく、その食べる物といえば社会の廃棄物にすぎない。そこにはなんの美談もないが、残忍性もなく、ごくつつましい、いわば庶民の生活である」  読みおわって足立先生は笑い出した。 「なんやこれ、まるで鉄三のこといってるみたいやなァ」 「ね、そうでしょ。先生もそう思う」 「思うね。鉄三はつつましく生きていたのに、そばから横ヤリを入れられた。しかも、横ヤリを入れた者は学校の教師だったというわけだ」 「ええ、それにまだもう一つ気になることがあるんです。わたしの読んだ本の中に、冬がおわって春に活動をはじめるハエはおおかた戸外にいて、花の蜜《みつ》とか木の汁を吸っているとあるんです。暖かくなるにつれて、くさったものとか、ゴミ、ふん便などに進出するとかいてあるんですけど、それだったらハエが悪いのじゃなくて、暖かくなってくさったものとかゴミを出す人間が悪いということになるでしょう。ま、そこまでハエの肩をもたなくてもいいでしょうけれど、鉄三ちゃんが春さきからハエを飼っていて、それをふやしているとしたら、バイキンのくっついているハエという非難はあたらなくなるでしょう」 「なるほどなァ」 「わたし、なにげなくきいていたんだけど、鉄三ちゃんはイエバエだけは飼っていないというんです。イエバエはふん便をたべるので飼わないというのが理由なんですって。ちゃんとすじが通ってるんです」 「ふーん」 「わたし、あの子について知らなかったために、ずいぶんまちがったことをしているような気がしますわ」 「あなただけじゃないけどね」 「足立先生、いっしょに鉄三ちゃんのところへいってくださらない」 「なぜ」 「また、ひっかかれそうだもん」  足立先生はちょっと笑った。そして、教師が子どもをこわがっていてどうする、と小谷先生を叱った。だって……と小谷先生は泣きべそをかいた。わかったわかった、あんたはまだ若い先生やから、まけといてやると足立先生は立ちあがった。  足立先生が処理所に姿を見せると、子どもたちは全速力で走ってきて、バッタのようにとびついた。  純だけがなんだかばつの悪そうな顔をして小谷先生の手にぶらさがった。 「アダチやぞォ」  という声に、小谷先生のときには姿を見せなかったしげ子や恵子、みさえなども出てきた。恵子は功の、みさえは純の妹である。 「徳治、キンタロウはどうや」  と足立先生がたずねた。なんでも知っているらしい。 「いま、しつけとるさいちゅうや」 「くろうするやろ」 「くろうするワ」 「おまえのおかあちゃんも、そういうておまえを育てたんじゃ」  徳治はちぇっといって頭をかいた。 「先生だいてぇ」  シュミーズ姿のみさえが手を出した。  よしよしと足立先生はだきあげた。みさえは足立先生のクラスである。 「なんじゃ、あまえて」  と純は妹の背中をこづいた。いやーんとみさえがいった。かわいい子だなと小谷先生は思う。 「先生は学校でもこんな調子で授業をなさるの」  きみが足立先生の頭の上へよじのぼっていったことなど考えあわせると、小谷先生には想像もできない世界だった。 「だいたいこういう感じやな」 「いちど授業を見せてください」 「いいよ。いつでもおいで」  みさえがやっと足立先生からはなれた。シャツが汗でびっしょりぬれていたが、足立先生はすこしも気にしていなかった。  鉄三は家のうらでキチに行水をさせていた。キチはシャボンだらけになって、うらめしそうにこちらを見ている。  純は小谷先生にささやいた。 「先生、鉄ツンに行水させたやろ。あれから鉄ツン、キチに水あびさせるようになったんやで。きっと先生のマネをしてるんや」 「ほんと」——小谷先生はうれしそうだった。 「鉄ツン、そらあかんワ。犬は耳の中に水がはいったらいやがるんや。こうして耳をおさえて洗ってやりな、そうそう」  足立先生は自分のことでもしているように気軽に鉄三の作業を手伝っていた。こうして見ていると、人間というものにいちばんこだわりをもっていない人は足立先生かもしれないと、小谷先生は思った。そのために、ときには乱暴にみえることがあって、ひとに非難されるのだろうけれど……。  ふたりがかりで洗ったので、キチはすぐきれいになった。 「そら、きれいになったワ」  キチはきょとんと足立先生の顔を見ていた。 「鉄ツン、おまえの友だちを見せてんか」  いうよりはやく、足立先生はハエのビンを見ていた。鉄三はからだをかたくしている。あきらかに警戒しているのだ。 「こらまたすごいな、いったい何種類おるのんや」  足立先生は、ひいふうみいと数えた。 「こら鉄ツン、ちょっとこい」  足立先生はあっというまに鉄三をうしろ向きにだきかかえて、自分の足もとにすわらせてしまった。 「鉄ツン、この小さいハエはなんちゅうハエや」  鉄三はもそもそしている。 「先生、鉄ツンはハエの名まえを四つしか知っとらへん。ほかのことはなんでも知ってるけど、名まえだけは教えてもらわんとわからんから、ぜんぜんあかんのや」  功のおしゃべりを純がうけて、 「その四つも、功やおれが学校で調べてやって、やっとわかったんや。あんなボロ図鑑あかんで。もっとええのん買《こ》うとけ」といった。 「しゃあないから鉄ツンは自分でかってに名まえをつけとるんや。その小さいのはのみにようにてるから、ノミバエということにしてるらしいで」 「足立先生」  小谷先生はおどろいていった。 「その名まえ、でたらめじゃないわ。学名ノミバエよ。ほら、羽根のないのがあるでしょう。ノミバエは種類によっては雌に羽根のないのがあるのよ」 「へえ、鉄ツン、おまえ、あきれたやつやな。これほんとの名まえもノミバエというそうやで」 「………」  小谷先生はハエの分類の本を出してきた。 「鉄ツン、小谷先生がハエの勉強をしたいから、おまえに弟子入りさせてくれっていうてるで。ちゃんと教えたりや」  足立先生は笑いながらいった。  みんなで本とハエをかわるがわるのぞきこんで、九つのハエの名まえがわかった。  イエバエ、オオイエバエ、ヒメイエバエ、ケブカクロバエ、キンバエ、ミドリキンバエ、ニクバエ、ノミバエ、ショウジョウバエである。もっともイエバエは飼っていなかったが、いちばん数の多いハエなので、みんなよく知っていた。  一つだけよくわからないハエがあった。数もすくないとみえ、ビンの中にたった六匹しかはいっていない。  暑いのにみんな顔をつきあわせて、あれでもないこれでもない……といいあった。なん回もページをめくった。  そのとき、とつぜん、 「これや」と声がした。 「えっ」  と小谷先生はびっくりして鉄三の顔を見た。 「これや」  と、また鉄三はいった。指さされたところを見ると、ホホグロオビキンバエとかかれてあった。  小谷先生が鉄三の声をきいたのは、それがはじめてであった。    7 こじきごっこ    鉄三がおしゃべりをした。鉄三ちゃんがとうとうしゃべってくれた。小谷先生はかえりの電車の中でなんども笑い出しそうになり、あわてて口のあたりをおさえた。  小谷先生の家は共かせぎだ。学校のかえりにいつもスーパーマーケットによる。夕食の買物をしていて自分がうわの空だということを感じた。おつりを受けとらないで行きかけて店員に笑われた。  人間っていろいろなことによろこびを感じる動物なんだわ、と小谷先生は思った。  家にかえると、先にかえっていた夫が話しかけた。 「さっき、おとうさんから電話があって、土地の手続きがすんだから書類をとりにくるようにって」 「そう」 「これで自分の家が建てられるぞ」と、夫はよろこんでいる。  小谷先生の家は代々、医者だったのですこしばかり資産があった。援助をあてにしないで独立するようにいわれていたが、土地の値上りがはげしくなって、若い夫婦ではむりだと思ったのか、いくらか土地をわけてくれることになったのだ。 「わたしもきょう、うれしいことがあったの」  小谷先生から鉄三の話をきいて、夫はへんな顔をした。妙なこととくらべる、と思ったのかもしれない。  その夜、小谷先生の家では久しぶりに、どちらもきげんがよかった。そんな夜が、ずっとつづいてくれればよかったのだが……。      *  九月はどこの学校も、秋の運動会のれんしゅうにいそがしい。子ども、教師ともどもつかれてくたくたになる。  よく事故がおこるのは、そんなときだ。この姫松小学校でも三件の交通事故がつづけておこった。  小谷先生の学級もいやなできごとが二つつづいた。  昼の休み時間のことだ。  職員室にいた小谷先生は、わすれものを思い出して、それを教室にとりにいった。教室に残っている子が十二、三人いてキャッキャッさわいでいる。なにをしているのだろうと小谷先生は眼をやった。  諭が広げたハンカチを前にして、きちんとすわっている。その前を一列にならんでいる子どもがいて、先頭の子どもがハンカチの上になにかを投げた。諭は、 「おありがとうございます」  と頭をさげて、投げられたものを、うしろにかくした。そこで子どもたちはキャッキャッと笑う。  つぎの子は女の子で、 「はい、おこじきさん」といって、諭の前に白いものをおいた。  諭はまた、おありがとうございますといって、頭を下げた。 「かわいそうなおこじきさん。ちゃんとおちょうだいをしなさい」  これも女の子がままごとするような調子でいった。諭はにやにや笑いながら、いわれたとおり、手をかさねておちょうだいをした。  そのとき小谷先生は諭に近づいてそれを見ていたので、手の上におかれたものが給食のパンであることを知った。 「なにをしているの!」  思わずするどい声になっていた。諭があわてて、うしろのものをかくした。 「諭ちゃん、それを見せなさい」  諭はしぶしぶそれを前に出した。十四、五枚の給食のパンだった。  小谷先生はこわい顔をしていた。 「だれがこんな遊びをはじめたの、え、いいなさい照江ちゃん」 「だれって……みんながしているから、わたしもしたの」  照江はべそをかいて、半分泣き声でいった。 「諭ちゃんも諭ちゃんじゃないの。こじきのまねをするなんて。そんなこと、はずかしいことなのよ!」  諭がにやにやしていたことが小谷先生にはたまらなくいやだった。ききただすと、四、五日前からそんな遊びがはやっていること、諭はいつも二十枚近くのパンを家へもってかえっていることなどがわかった。  足立先生といっしょに、きみ、諭のきょうだいの家をおとずれてから、小谷先生は諭の生活のようすに、たえず気をつけていた。給食のパンをもってかえらなくてはならないほど、ひどいくらしに落ちこんでいるとは思えなかった。  小谷先生は足立先生に相談をした。 「うーん。ぼくにもよくわからないけれど……なんなら、きょう、きみの家へいってみようか」  小谷先生はその日、用事があったので、足立先生にいってもらうことにした。  つぎの日、足立先生から話をきいた。 「とくに理由があるわけじゃなさそうだったよ。たしかに諭はたくさんの食パンをもってかえってくるそうだけれど、四、五枚たべて後は捨ててしまうそうだ。ぼくはまたパン屋にでも売りにいくのかと思って、ちょっと心配したけど、それは、げすのかんぐりだった」  といって頭をかいた。 「だけど、ぼくは諭の気持がなんとなくわかるような気がするなあ。そりゃ二十枚のパンはむだなんだろうけれど、これだけあるということで安心していられるのとちがうか。たとえ二、三日父親がかえってこなくても、これだけのパンがあればくらしていける、そう思って、まい日パンをもらい、まい日パンを捨てている、そんなに思うのはぼくの思いすごしやろか」 「………」 「それからな小谷さん、あんた諭がにやにやして、こじきのまねをしたというて腹を立てているけど、そらあんたの方がまちがってるな。にやにやでもせんことには、あんなことはずかしくてできんというのが、諭のほんとうの気持やろ」  小谷先生はかえすことばがなかった。  なさけないことは、つぎの日にもおこるのである。  器楽合奏のれんしゅうがすんで、音楽室へ楽器をかえしにいったかえりだった。めずらしいことに教室の前の廊下で、みんなが鉄三をとりかこんで歌をうたっていた。小谷先生は歌のれんしゅうをしているのだとばかり思っていた。さっき、けいこをしたばかりの「ブンブンブン」のメロディーだったからだ。それでにっこり笑って教室にはいろうとした。きくともなしにきいていて、小谷先生は思わず立ちどまった。  メロディーは「ブンブンブン」にちがいなかったが歌詞がまるでちがう。   ブンブンブンハエがとぶ   うすいのまわりに   キンバエギンバエ   ブンブンブンハエがとぶ  臼井は鉄三の姓である。さすがに小谷先生はかっと頭に血がのぼった。 「やめなさい!」  小谷先生はからだを小さくふるわせていた。なにかいいたいのだが、怒りのためにことばが出ないのだ。小谷先生に人をぶった経験があれば、そのとき、子どもをぶっていただろう。  なんという子どもたちだろう、きのうの諭の事件といい、きょうといい、いったいこの子たちにはひとの心があるのだろうか、やさしさとか思いやりとかそんなものが、ひとかけらでもあるのだろうか。  くやしさがいちどに吹きあげてきた。 「あんたたち……」  ことばにならず涙の方が先に落ちた。  小谷先生は眼に涙をためたまま、いつまでも子どもたちをにらみつけていた。  その日の夜ふけ、小谷先生はおそい風呂からあがって鏡の前にすわった。  ——つかれたなァ、かわいそうにおまえ、眼にくまができているゾ、まだ二十二歳なのにこんな顔になっちゃって。  その夜、小谷先生はまた夫とかるい口論をした。夫の友だちの建築士が家にきた。これから建てる家の構想をきいてもらって設計図をひいてもらうことになっていたのだ。夫はねっしんだったが、小谷先生は身が入らなかった。  建築士がかえってから、失礼じゃないかと夫は怒った。おれたちのためにわざわざ出向いてくれているのに、かんじんのおまえがいいかげんな返事をして、と小谷先生をなじった。すみません、と小谷先生はすなおにあやまった。どうしてか身が入らなかったの、なんだかどうでもいいような気になってしまったのよ、といった。どうでもいいとはなにごとだ、と夫はいっそう腹を立てた。悪いと思ったけど、そう思ってしまったんよ、もうかんにんしてと小谷先生はいった。  夫はかるいいびきを立ててねむっている。  ごめんね、と小谷先生は心の中でわびた。結婚してからすこしもやさしくないわね、ごめんなさい、どうやら、わたしは悪い子のようよ。  つぎの日は日曜日だった。夫は日曜出勤だった。送り出してから、小谷先生は出かけるしたくをした。奈良へいくつもりだった。学生のころ、古美術クラブにはいっていたので、京都、奈良のお寺はよく歩いていた。結婚してからいちどもお寺にいっていない。結婚と学校につとめたのがいっしょだったのでしかたがなかったのだが、なんだかさびしい気がしていた。  鶴橋から私鉄にのりかえて、西大寺駅でおりた。駅前に大きなビルが建っている。そのビルを見ながら、大学の先生のつぶやいたことばを小谷先生はいま思い出した。 「ぼくの学生のころは、ここはひなびた田舎駅でね。くされかかった木のさくをとびこえておりたもんだ。細い土の道と小川と、あとは広びろした田んぼだけだった。この駅をおりただけで西大寺の土べいのにおいがひたひたとおしよせてくる感じだったよ」  小谷先生は西大寺が好きだ。さいしょにつれてきてもらったお寺が、西大寺ということもあったのだろうが、その後いろいろお寺を見て歩いてやっぱり西大寺がいちばん気に入っていた。  電話ボックスのところを曲がると、なつかしい土べいが見えた。  西大寺は土べいがいいと小谷先生は思っている。白壁の落ちているところがある。ちょっと柿の色ににている。雨にうたれてぽこぽことしたおうとつがついている。それは光った壁よりもずっとやさしい。古い山門をくぐって中にはいると、白い砂利がしかれてある。ふみしめて歩くと、しゃがれた声で話しかけられているような気がするのであった。  西大寺は竹がいいと小谷先生は思う。お寺の中に竹におおわれた細い道がある。そこにはまだ白壁が残っていて竹の青によくにあうのだった。その場所で深呼吸をすると爪の先まで青くそまった。  本堂の中は夏でもひんやりしている。ここは素足にかぎる。小谷先生はソックスをぬいで、その冷気にふれた。そして、まっすぐに堂の左手の方に歩いていった。そこに善《ぜん》財《ざい》童《どう》子《じ》という彫像がある。 「こんにちは」——と小谷先生は呼びかけた。 「ちゃんとまっていてくれましたね」  小谷先生はほほえんだ。  あいかわらず善財童子は美しい眼をしていた。ひとの眼というより、兎の眼だった。それはいのりをこめたように、ものを思うかのように、静かな光をたたえてやさしかった。  小谷先生は小さなため息をついた。  長い時間、善財童子を見つめていた小谷先生は、ほっとつぶやいた。 「きてよかったわ」  本堂の廊下は涼しくて広い。ときどき、ここでぼんやり考えごとをしている人がある。小谷先生もそこにすわりこんだ。きょうはだれもいない。五重塔あとや正門が緑にかこまれて涼しそうだ。 「どうしてあんなに美しいのでしょう」  小谷先生の眼のおくに、まだ善財童子の姿がやきついてはなれない。 「美しすぎるわ、どうしてあんなに……」  どうしてだろうと小谷先生は思った。  とつぜん、なんのつながりもないのに、高校時代の恩師のことばが思い出された。その教師は生徒たちから東大ボケといってバカにされていた。まるで風さいのあがらないことや昼休みにきまって貧乏ゆすりをしながら、かけうどんをたべることなどが、バカにされる材料だったようである。生徒たちはその教師の前では平気でカンニングをしたり、おしゃべりをした。  小谷先生はどうしてもその教師をバカにすることができなかった。  授業中ふいにその教師はいった。 「人間は抵抗、つまりレジスタンスが大切ですよ、みなさん。人間が美しくあるために抵抗の精神をわすれてはなりません」  生徒たちはみんなポカンとしていた。小谷先生もなんのことをいっているのか、さっぱりわからなかった。それっきりそのことはわすれていた。  それを、いま思い出したのだ。 「人間が美しくあるために抵抗を……」  小谷先生は口の中でつぶやいて、どきっとした。  鉄三や諭、処理所の子どもたちを思い出したのだ、それから足立先生も。  善財童子になぜあなたはそんなに美しいのと問いかけた、それと同じ問いができるのだ。わたしはなぜ美しくないの、きのうの子どもたちはなぜ美しくなかったの、と。  処理所の子どもたちのやさしさを思った。ハエを飼っている鉄三の意志のつよさを思った。パンをもってかえる諭のしんけんさを思った。  わたしは……  小谷先生は青ざめて立ちあがった。その背にセミのなき声がむざんにつきささった。  8 わるいやつ   「六ページをあけてごらん」  足立先生は大きな声でいった。図工の時間である。『動物をならべる』と教科書にかいてあって、赤いカニをならべた児童作品が印刷されてあった。 「この絵はどうや」と、足立先生がたずねると、 「あかーん」  とおおぜいの子どもたちがいうので、うしろで授業を見ていた小谷先生はびっくりした。教科書にのっている作品をだめな絵といわせて、いったいどうする気だろう。 「どこがあかんのや」  半分くらいの子どもが手をあげた。 「ほい、春子」と、足立先生は指名した。 「同じことばっかりしてるからあかん」 「もうちょっとくわしくいうてみ、春子」 「形が同じやろ先生、色もみんな同じやからたいくつ」 「はー さよか」  と足立先生はいった。つぎの子を指さした。 「カニは生きとんやろ。そやのにリンゴやミカンみたいに、きちんとならんでたらおかしいで。うじゃうじゃしとかんとあかんな先生」 「さよか」  とまた足立先生はいった。さんせいしているのかはんたいしているのかよくわからない。足立先生はつぎつぎ子どもたちに発言させていった。小谷先生は感心した。二年生の子どもがちゃんと批判をする。 「みんなよう知ってるな。わしゃ、教えることがないからここで昼ねをする」  足立先生がそういうと、あかん、ずるいという声があちこちでした。 「月給もろとんやからちゃんと教えなさい」  いちばん前の席にすわっていた子がいった。みんな笑った。なごやかな空気がじきうまれた。子どもたちの心をほぐすのに足立先生は独特の才能があるようだ。  足立先生は三人の子どもに一匹ずつカニをかかせた。 「はい、これとちがうカニのかける人」  また四、五人の子どもが黒板に向かった。そういう調子で、黒板はじきカニの絵でいっぱいになった。そこにはいろいろなカニがいた。なるほど、これでは教科書の絵はたいくつなはずだ。 「まねさえしなかったら、だれでも、いいカニがかける」  と足立先生はいって黒板の絵を消してしまった。 「カニもいろいろある。デブチンもおるしガリガリもおる。じき、おとうさんやおかあさんにだいてえというあまえんぼうもおる。けんか好きでけんかばっかりしているカニもおる。つまみぐいをして、おかあさんにおいかけられているカニもいる」  足立先生は子どもたち自身のことをいっている。自分のことをいわれているので、子どもたちはてれくさそうにしている。 「どんなカニをかいてもいいから、そのカニがなにをしているのか、あとから先生に説明ができること、それがきょうの絵の約束や」  カニをどうならべるかという話し合いのときも子どもたちはなかなかよい意見を出した。うずまきにならべるといって、ありきたりと足立先生に批判されると、すもうやサーカスを上から見た形を考え出した子どもがいた。ことば遣いは乱暴だが、この学級の子どもたちはみんないきいきしている。足立先生もふだんとすこしもかわっていない。  頭のてっぺんにまでよじのぼってくるようなあまえ方をしていたが、そういうのは教室でどうなっているのだろうと小谷先生は思った。子どもたちが絵をかきはじめると、そのことはじきわかった。  仕事のとちゅうで、これでいい、と足立先生にすくいを求めるように絵をもってくる子どもがいる。そういう子どもには足立先生はとてもつめたい。 「これでいいかどうかは自分で決めなさい。自分の絵やろ」という。  あまえさせてはいけないところは、ちゃんとわきまえているらしい。ひとりの子どもが足立先生のところへ絵をもってきた。また、おいかえされるのかと小谷先生は注目していた。 「水色と白で、カニのあぶくをかきたいんやけど先生の考えはどうや」と子どもはいった。 「ええ考えやなァ、あぶくはなるべく小さい方がおもしろいで」  と足立先生は親切にこたえてやっている。なるほどと小谷先生は思った。ちゃんと自分の考えをもってくればいくらでも相談にのるということらしい。  小谷学級の子どもたちは、ちょうど二時間つづきの映画会だったので、小谷先生はそのまま残って、つぎの授業も見せてもらうことにした。  作文の授業だった。どの先生もにがてとみえて十名ほどの参観者があった。折橋先生や太田先生もねっしんにメモをとっていた。  ひとが見ていても足立学級の子どもたちは平気だった。あいかわらず、のびのび学習していた。 「きょうはみんなに特別大サービスをする」  足立先生は市場の商人のようなことをいう。 「苦労をしなくても一発でよいつづり方をかく方法をおしえてやる」 「うそつけ。いつでも苦労をして文をかけっていうてるやんか」  この学級の子どもたちはすこしもえんりょがない。 「そやから、きょうは特別大サービスというとるやろが」 「うしろで先生が見ているからか」 「なあーに、うしろで見ている先生なんか鼻クソみたいなもんや。あんなもん関係ない」  とうとう小谷先生たちは鼻クソにされてしまった。子どもたちは笑って、それから気のどくそうな眼をして、うしろの先生を見た。先生たちはにが笑いをしている。 「ともかく、これはわたしの長年の苦労のけっか、ついに発明した偉大な方法である」  足立先生は大道芸人のようなことをいった。  「そやから、ほんとうをいうとあんまりひとに教えたくない。しかし、かわいいみんなのためや。本日、涙をのんで教えてやることにする。一発でよいつづり方がかけるということは、一発でよいつづり方かどうか見分けることもできるというわけだ。つまり、二つの方法を同時にしかもタダで教えてもらえる。みんなはしあわせじゃなァ」  しっかりしているようでも、やっぱりまだ二年生だ。足立先生のペースにまきこまれて、おおかたの子は、口をあんぐりあけてきいている。  授業中というものは、たいていだれかがおしゃべりをしたり、よそごと、よそ見をしているものだ。それを注意していて、さっぱり勉強がすすまなかったという経験は、学校の先生ならみなもっている。  足立学級はそういう心配がすこしもないようだ。 「文の中にはわるいやつとええやつがいっしょに住んでいる。それをみつけて、わるいやつをおい出したら、じき、ええ文になる。かんたんなこっちゃ」  それから足立先生は一枚のプリントをくばった。 「健治、さいしょの文を読んでごらん」 「……『あさ七時におきました。まい日、うんどう会のけいこをしています。きょうはおかあさんについてかいものにいきました。おとうさんが八時三十分にかえってきました。テレビをみてねました』」  健治が読みおわると、みんな笑い出した。さすがにひどい文だと子どもごころに思っているのだろう。 「つぎの文、明《あきら》、読みなさい」 「……『ぼくは学校のかえり、工事をしているところで、ブルドーザがうごいているので、それを立ちどまって見ました。ブルドーザにひかれたら、せんべいみたいにペッチャンコになると思いました。ブルドーザがとまったので、足をどうろにつけたらあつかった。ぼくはなんであついんやろと思いました。ひもでんきもついてないのにふしぎやな』」 「それではいまから、いよいよ先生がええやつとわるいやつを教えてやるから、よう耳の穴をほじくってきいておれよ」  と、足立先生はいって黒板につぎのようなことをかいた。   〇したこと   〇見たこと   〇感じたこと   〇思ったこと   〇いったこと   〇きいたこと   〇そのほか  そして、「したこと」の上に×をつけ、あとはみな〇をつけた。 「先生、したことはわるもんか」  子どものひとりはまちかねたようにたずねた。 「そうや」——足立先生はすましている。 「それじゃ、さっきみんなが笑った方の文を調べてみることにしよう。『あさ七時におきました』これは、したことか、見たことか、思ったことかどっちや」 「したことや」  子どもたちはいっせいにこたえた。 「そやから、これはわるいやつや。×をつけておけ」  子どもたちはよろこんで×印をつけた。 「つぎ、『まい日、うんどう会のけいこをしています』これはどうや」 「したことやからわるいやつや」 「じゃ、これも×」 「『かいものにいきました』」 「わるいやつ、わるいやつ」  足立先生がなにもいわないうちに、子どもたちはさわいでいる。  けっきょくみんな×印がついた。ヒャーといって子どもたちは感心している。 「さっき、わるいやつをおい出したら、ええ文になるっていうたけど、わるいやつをおい出したら、この文、なんにもなくなってしまうやん先生」 「そうや。こんな文はいくらかいても消えてしまうから、こんなものをかくくらいなら、家で昼ねをしとる方がずっとましやということや」  子どもたちはげらげら笑った。  つぎの文はみんな〇印がついた。一雄という子どもの文だったので、一雄はうれしそうな顔をした。わるい文にならないかとひやひやしていたのだ。 「ここでちょっと大切なことをいうておくけれど、世の中には、ええやつもわるいやつもおる。わるいやつがおるから、ええやつもひき立つ。文も同じで、ええやつばっかりだと味がない。わるいやつもちょっといれておくと味のある文ができる」  足立先生はうまいことをいう。したことをみんなはぶいてしまうと文が成り立たない場合があるので、先まわりして子どもに注意をうながしているのだ。 「文はええやつとわるいやつがじき区別できてつごうがいいけど、人間は、なかなかそうはいかんなァ。ええやつと思っとったら、わるいやつだったりする。ええやつなのに、わるいやつだと思われたりするし……」  足立先生はうしろできいている先生たちに皮肉をいっているようだ。  折橋先生がへへへ……と笑った。  職員室へおりてきた足立先生は、ご苦労さまとお茶をふるまわれた。 「そんなもんいらん」  と足立先生は自分の机からなにか黒いビンをとり出した。 「やめときなさいよ」  と、となりの先生は、教頭先生の眼を気にしながら足立先生をこづいた。 「ちょっと」  足立先生は赤ん坊みたいな顔をして、その悪い飲みものを一口のんだ。  ほんとうに、この教師はええやつかわるいやつかよくわからない。 「先生、さすがに名授業やわ。すごく勉強になりました」  なんでもほめるので、おほめのアネゴとあだなされている木村幸子先生がいった。 「そうでっか」  足立先生はバカにしたようにこたえた。なんでもほめるけど、自分はすこしも努力しないので、足立先生はその先生が大きらいなのである。 「とても勉強になりました。ありがとうございます」  小谷先生もお礼をいった。 「はい」  足立先生はまぶしそうな顔をした。足立先生も多少、えこひいきをするようだ。 「でも先生のまねはしません」 「うん」  足立先生はうれしそうな顔をした。たいていの先生は、まねをさせてもらいますとか、教えてくださいとかいうのだ。足立先生はそういう人にへきえきしている。 「苦しんでも自分で考えて、自分でつくりだすようにします」 「うんうん」  足立先生はいっそううれしそうな顔になった。そしてこのひと、だいぶかわってきたぞと思った。 「小谷先生」 「えっ」とふり向くと、足立先生の声がとんだ。 「きょうの先生、きれいな」 「バカ」  と小谷先生はいって、自分の乱暴なことば遣いに顔を赤くした。  だいぶ足立先生ににてきた。  9 カラスの貯金    その日は諭の家へいってから、鉄三のところへ寄った。  このごろ小谷先生は学校がおわっても、すぐかえりの電車にのらない。かならず、子どもの家を二、三げんまわって、そして鉄三の家へ寄ってかえるようにしている。そのために家へかえるのが一時間から、ときには二時間近くおくれる。夫のきげんが悪い。そこまで教師がする必要があるのかという。必要があるからしてるわけじゃない。おもしろいからやっているの、というと夫はあきれた顔をする。  いろいろな職業がある。見聞きしていると小谷先生は自分でやってみたくなるときがある。パン屋でパンをつくらせてもらった。肉屋で肉のさばき方と、上手な肉の買い方を教えてもらった。サルベージの仕事など、話をきいているだけでおもしろかった。  夫婦げんかの仲裁をさせられたこともある。そこで人間は同じことでもいろいろな考え方、感じ方をするものだとつくづく思った。いろいろな人のいろいろな話をきいていると、自分の人生がちっぽけなものに思われてならなかった。  なんとなく大きくなって、なんとなく結婚した自分が、なさけなかった。  夫にそのことを話してみたが納得できないような顔をしていた。ま、いいじゃない、どちらがよく生きるか競争しましょう、あなたもせいぜいわたしに刺激をあたえてね。若い夫はこまったような顔をしていた。  小谷先生は鉄三の家のうらへまわって、 「鉄三ちゃん」  と声をかけた。どこからかキチがとんできて小谷先生にじゃれた。キチはすっかり小谷先生になついてしまっている。鉄三はのそのそ出てきた。 「あなたのお友だちかわりない?」  小谷先生はひととおりハエのビンを見わたした。ビンの上にラベルがきれいにはってある。それぞれハエの名まえがかきこまれてあった。小谷先生がかいたと思われる字、鉄三がかいたらしい字がまざっている。  ラベルがはってあるだけなのに前とくらべるといっそう標本室らしく見える。小谷先生も、えらいもんだなと思っている。 「おけいこした?」と小谷先生はたずねた。 「う」——と鉄三はいう。  やっぱり鉄三は「う」だけしかものをいわない。前とちがうところは小谷先生が、それをあまり気にしなくなったことだ。家にあがりこんで鉄三のノートを見る。みみずの踊っているような字というが、鉄三の字は踊っているなんてものじゃない。みみずはのたうちまわって、こんがらがって気絶している。だから鉄三のかいた字は小谷先生と本人しかわからない。  小谷先生はハエの名まえをかいたカードを二十枚ほどこしらえてやった。小谷先生に用事があってこれないとき、鉄三はそれをノートにうつしてひとりで勉強する。きょうのように小谷先生とふたりのときはカルタをとるようにしておぼえるのだ。 「はじめよか鉄三ちゃん」  鉄三の前に、そのカードをならべた。 「ほほぐろおびきんばえ」と小谷先生は読みあげた。  鉄三はすぐそれをとった。自分が図鑑からみつけたハエなので、さいしょにおぼえたようである。 「みやまくろばえ」  しばらくして、鉄三はとった。 「ちーずばえ」  これも、じきとった。やはり字数のすくないのがおぼえやすいらしい。 「こぶあしひめいえばえ」  これはだいぶ長い時間がかかった。 「きはだしょうじょうばえ」  鉄三はなかなかとれない。ショウジョウバエの類は名まえがみな長ったらしいので、にがてなのである。 「これよ鉄三ちゃん」  小谷先生は教えてやった。そういうとき、鉄三はすこし表情をかえる。くやしいようなはずかしいような、すこし、てれたようななんともややこしい顔である。  小谷先生は鉄三の頭をなでてやる。いいよ、いいよ、いそがなくったって、ゆっくりおぼえればいいのよ。 「つぎいくよ、いい。こしあきのみばえ」  鉄三は、いっしょうけんめいさがしている。  小谷先生はハエがこんなふうに役立ってくれるとは夢にも思っていなかった。鉄三は学校にきてもなにもしない。教科書はひらかない、ノートはまっ白、友だちとも遊ばない、生きていることはたしかだが、学校にいるときの鉄三はまるで植物人間だ。  それがハエをきっかけにして文字をおぼえだした。まだある。ハエの絵をかき出したことだ。図書館から借りていたハエの本をかえさなくてはならないときがきて、鉄三にそういった。鉄三はその夜、ハエの図をうつしだしたのだ。小谷先生はかわいそうになって、東京の出版社からその本をとりよせ鉄三にプレゼントした。そのときのことがきっかけで鉄三はハエの精密描写をするようになったのだ。線描はちえがあらわれるといわれている。鉄三の絵は、とても一年生の子どもがかいたものとは思えなかった。多少、形がいびつになるのはしかたがないが、ひじょうにこまかいところまでていねいにかいてある。  たとえばハエの羽根の線を脈といっているが、イエバエの羽根の第四脈(羽根の内部に走っている脈で、頭側から数えて五番め)はくの字に曲がって第三脈にくっついている。ほかのハエの第四脈は第三脈と平行しているか、あるいはゆるく曲がっているのだが、おどろくことに鉄三はそんなこまかいところまで、正確にかきわけているのだ。  はくじょうすると小谷先生は鉄三のことをちえおくれの子どもではないかとうたがっていたふしがある。鉄三の絵を見て、その考えを改めざるをえなかった。  鉄三の飼育しているハエの種類も、本をもたせてから、きゅうにふえた。クロオビハナバエとかミヤマクロバエはひじょうにすくないハエだったが、鉄三はそれをつくだに屋へいって採取してきた。いま大切に飼っている。 「はい鉄三ちゃん、こんどはかくお勉強、きょうはいくつラベルをはりかえられるかナ」  はじめラベルの字は小谷先生がみんなかいた。鉄三の字ではだれも読めないからだ。すこし、れんしゅうをして、まともな字になったら鉄三のかいたものとはりかえていった。どれくらいで全部のラベルがはりかえられるか小谷先生はたのしみにしている。  小谷先生は人間の才能というもののふしぎさを感じる。鉄三があれほどハエの図を正確にかくのに、文字はふつうの子のように、れんしゅうした分だけしかうまくならない。情熱をうちこんだものには人間の才能はかぎりなくのびていくものらしい。  かつて足立先生は、鉄三の中にタカラモノがかくされているかもしれないといったが、小谷先生はいまそのことがよくわかるのだった。  まだ、どんなタカラモノがかくされているかわからないわね鉄三ちゃん、とかれの横顔を見ながら、小谷先生は心の中で話しかけた。  遊びつかれた功たちが、鉄三のところにやってきた。 「オッス」と、四郎が小谷先生にあいさつをした。 「オッス」と小谷先生もむじゃきにかえす。  どやどやとあがりこんできて、鉄三や小谷先生のそばにくっついた。 「おまえ、タダで家庭教師をしてもろてとくやなァ」  と功は鉄三の頭をついた。 「だめ、勉強中だから、じゃませんといて」  と小谷先生はこわい顔をした。鉄三は知らん顔をして字をかいている。そばでいくらわいわいさわがれても、いっこう平気だ。 「先生」 「ん」 「鉄ツン、はよ字をおぼえて、ハエの研究論文なんかかいたらええなァ」 「そうね。そしたら鉄三ちゃんは博士やから、あんたはカバン持ちになるのんよ」 「おれが鉄ツンのカバン持ちやてか、笑わせるなあ鉄ツン」  鉄三の尻をポンとたたいて、功は笑いころげた。 「純くんがいないけれどどうしたの」 「みさえが熱を出してねてるので看病や」 「あれ、みさえちゃん病気」 「うん、まっ赤な顔してフウフウいうとる」 「そらたいへん、先生ちょっとおみまいにいってこよう」  鉄三に勉強をつづけるようにいっておいて、小谷先生はみさえの家にいった。子どもたちもついてきた。この処理所の子どもたちは、たいていの家が共かせぎなので、昼間どこの家へでもかってにあがりこむくせがある。 「みさえちゃん、しんどい?」 「熱が三十九度もあるの」  頭につめたいタオルをおいてもらったみさえはとろんとした眼つきで、それでも小谷先生がきてくれたのがうれしいのか、ちょっと笑った。 「純くん、えらいね」  純は洗面器を前に、ひざこぞうをかかえてすわっている。 「遊ばれへん」  ぶつぶついっている。みさえの枕もとにいろいろなものがおいてあった。チューインガム、ビー玉、シール、千代紙。 「これ、おみまい?」と、小谷先生はたずねた。 「うん、功ちゃんらがくれたん」  酒ビンのふたやゴムのヘビ、こわれた時計のバンドなどもある。 「これもおみまい?」  うしろで功たちがはずかしそうに頭をかいていた。 「先生もなにかおみまいするわ。なにがいい。みさえちゃん」 「アイスクリーム」 「バカ」と純がいった。 「おまえ、アイスクリームたべすぎて病気になったんやろ」 「みさえちゃん、病気のとき、アイスクリームはよしたほうがいいわ。先生がいいものをさがしてきてあげるからね。まっててね」  みさえはこっくりうなずいた。  小谷先生は子どもたちといっしょに、みさえのおみまいを買いにいった。 「なににしようかなァ」  商店街をうろうろした。小谷先生のうしろに子どもたちが、金魚のうんこのようにぞろぞろくっついている。 「おれもちょっと熱があるから、なんかおみまいちょうだい」  武男はあまえた声を出して、みんなにどやされた。  けっきょく小谷先生はスズランによくにた小さな花と、六角形の和紙の箱にはいったチョコレートを、みさえのおみまいにした。なんだかつまらない気がした。 「あなたたちのおみまいの方がずっとすばらしいわ。先生のは、なんだかみすぼらしい」  どうして、と子どもたちはふしぎそうな顔をした。 「だって先生のはお金で買っただけのものでしょ。あなたたちは自分で大事にしていたものをあげたのだから、その方がずっとまごころがこもってるわ」 「まごころよりチョコレートのほうがええ」  芳吉は正直なことをいった。  話しているうちに、子どもたちはそれぞれなにか大事なものをもっているらしいことがわかった。 「見せてほしいナ」  と小谷先生がいうと、子どもたちはいっせいに眼をかがやかせて、 「見せてやるよ」  とさけんだ。そして、われさきにとかけ出していった。  小谷先生がみさえにおみまいを手わたしていると、大きな箱をかかえて功がいちばんのりした。  小谷先生にはよくわからないが、功のあつめているのは機械のこわれたものらしい。ラジオとか時計はわかった。 「おれ、エンジン組み立てられるよ」  功は得意そうにいって、ばらばらの金物を手ばやく組み立てた。小谷先生は感心してながめていた。 「功くん、それクロッキーするときにいいワ。また貸してよ」 「いいよ、貸してやるよ」  子どもたちはつぎつぎ、いろいろなものをもってきた。ガラクタばかりなのだが、なかにはいろいろおもしろいものがあった。 「恵子ちゃん、それなに」 「なんやと思う。あててみ先生」  功がよこからいった。  ガラスにはちがいないのだが、さまざまな形だし、色もひとつひとつちがっている。きれいなピンクがかかっていたり、陶器のようにしぶい青があったりする。恵子はそれをたくさんもっていた。 「きれいなもんねえ。なんなのいったい、教えて」 「あのね先生、ビンがとけてできるんよ。ゴミの中にビンがまじっていることがあって、知らないで燃やしてしまうでしょ。そうすると長い時間焼かれていて、こんなのができるの。灰の中にまじってる」  へえーと、また小谷先生は感心する。 「ひとつ、あげよか」 「だって恵子ちゃんの大事なもんでしょう」 「先生がほしかったらあげるワ」 「そりゃ、ほしい」 「じゃあげる」  小谷先生はその中から、つよい緑の色をした石をもらった。  浩二は発泡スチロールをあつめていたが、ただ、あつめるだけでなしに、それでたくさんのロボットをつくっていた。 「浩二くん、こんなすてきなもの、どうして学校の展らん会に出さないの」  この作品をみれば、浩二のねうちがよくわかるのに、と小谷先生は村野先生のことを思ってざんねんでならない。  ガラクタをながめていて、小谷先生はカラスの貯金ということばを思い出した。カラスは役に立たないものをあつめるくせがある。風船のやぶれたのやくつのひも、なんでも巣にもちこんでためている。  ものをあつめるところはカラスの貯金ににているが、処理所の子どもたちは、廃品を利用してものを作る心を貯金している、と小谷先生は思った。  10 バクじいさん   「ごめんごめん」  と小谷先生は鉄三の家へかえってきた。鉄三はうす暗い家の中で、もくもくと字をかいていた。 「たくさんかけたわね。にくばえとひめいえばえがきれいじゃない。きょうはふたつはりかえましょう」  小谷先生は鉄三のために細長い紙を切ってやった。 「清書ね。よく見てていねいにかくのよ」  鉄三は、いっしょうけんめいかいている。  できあがったラベルをふたりではりかえていると、バクじいさんがかえってきた。  小谷先生の顔をみるなりいった。 「先生、わしのねがいをきいてくれませんか」 「なんですか、おじいさん」 「先生のつごうもきかないでわるいんじゃが、こんばん、いっしょにごはんをたべてくれませんか」  小谷先生の頭に、夫のふきげんな顔がうかんだ。が、小谷先生はできるだけすずしくいった。 「いいですわ、おじいさん」 「先生はお医者さんのひとり娘じゃそうだから、こんなきたないところで食事をするのはかなわんだろうけれど……」 「なにいってるのおじいさん。よろこんでごちそうになりますわ」 「鉄三、先生がいっしょにごはんをたべてくださると」  鉄三はべつだんうれしそうな顔もしなかった。  バクじいさんが食事のしたくをはじめたので小谷先生は声をかけた。 「おじいさん、手伝いましょうか」 「なになにきたないところだから……」  小谷先生はかまわず立っていった。 「このさかな、焼くのですか、だったら、わたし焼きます」 「それは舌ビラメですわいな。ムニエルにしましょうか」  小谷先生はおどろいてしまった。バクじいさんがムニエルということばを知っているだけでもびっくりものなのに、舌ビラメのムニエルとは——。  舌ビラメのムニエルはフランス料理のごちそうの一つである。バクじいさんの手もとを注意してみると、玉キャベツとかマッシュルームがおいてある。 「そのお肉はどうするんですか」  バクじいさんは牛肉にニンニクをすりこんでいた。 「これはストロガノフという料理に使うんですが、ま、名まえはややこしいが、ロシア風牛肉ケチャップ煮というところですかな」  小谷先生はますますおどろいてしまった。そんな料理、名まえもしらない。これでは手伝うどころか、バクじいさんにあらためて料理をならいたいぐらいだ。 「どうして、そんなむずかしい料理をたくさん知っているんですか」 「なあに、たいしたことはない。長いこと船にのっていたら、バカでもかってにおぼえますわい」 「お船にのっていらっしゃったんですか」 「そうですわい。外国の船にも日本の船にもなあ……」  そういって、バクじいさんは遠い眼をした。  しばらくしてできあがった料理は、けんらんごうかであった。舌ビラメのムニエル、マッシュルーム入りストロガノフ、ボルシチスープにシバエビのサラダといったあんばいで、どこかのレストランにいって食事をしているようだった。 「鉄三ちゃん、あなた、いつもこんなごちそうをたべているの」  眼を丸くして小谷先生はたずねた。 「いつもこういうぐあいにはいきませんわい。けんど、たべるものはだいたい、ちゃんとしたものをたべさせております」  どうりで鉄三は給食のときたいへんぎょうぎがいいわけだ。たべ残すこともないかわりに、よぶんにがつがつたべることもない。いまの子はなかなかそうはいかないので、小谷先生は鉄三のぎょうぎのよさが、とくに心に残っている。鉄三はじょうずにフォークやナイフを使って食事した。 「鉄三ちゃん、あなた外国にいってもこまらないわね」と小谷先生はいった。  バクじいさんにすすめられて、小谷先生もはしをつけた。 「うわァ、すごくおいしい」  小谷先生は、まんざらおせじをいっているようでもなさそうだ。 「先生いっぱいどうですか」  バクじいさんは、小谷先生にビールをすすめた。 「はい」——小谷先生はわるびれずにうけた。 「このごろの若いひとはビールくらいどうということはないんですやろ」 「大きいジョッキに二はい、飲んだことがあります」  小谷先生は不良少女みたいなことをいっている。 「ウハ、そりゃたいへんだ。こんばん、わしと飲みくらべをしましょう」  バクじいさんは、うれしそうにいった。 「美人のおしゃくでは、わしの方がさきに沈没してしまいますわい」 「おじいさんはお料理をつくるのもじょうずだけれど、おせじもじょうずですね」 「ウハハハ……」  バクじいさんは、ほんとうにたのしそうだ。  そんなバクじいさんの顔を見ていると、とてもいい顔をしている。ひとつひとつのしわが、まるできれいな絵のようだ。眼がとてもやさしい。西大寺の善財童子がとしをとったらこんな顔になるのかなァと小谷先生は思った。 「おじいさんは若いとき、美男子だったでしょう」 「ははは……先生は、わしにおかえしをしてくれますんやな」 「だって鉄三ちゃんでも、ほんとにいい顔してますもん」 「そうですかいのう」  バクじいさんはいっそう相《そう》好《ごう》をくずした。  鉄三は食事をすませて、さっそくハエの絵をかいている。 「先生にあのご本をいただいてから、ずっとこれですわい。だけど、わしゃうれしいです。ハエを飼うか、キチののみをとるかそんなことしかできんかった子が、絵をかいたり字をかいたりするようになってくれたんですもんなあ」  家の壁に、鉄三のかいたハエの絵がいっぱいはってある。 「鉄三ちゃん、もう、なん枚くらいになるかナ」  鉄三は眼をあげて壁の絵を見ている。それが小谷先生への返事なのだ。 「先生はおいくつですか」  バクじいさんは、とつぜん、そんなことをきいた。 「二十二歳ですけど……なぜ」 「二十二ですか、そうですか、二十二歳ですか」  バクじいさんはまた遠いところを見るような眼をした。 「二十二のとき、わしゃ朝鮮にいましたなあ」 「おじいさんは若いとき、朝鮮にいたんですか」  バクじいさんはそれにこたえず、しばらくぼんやりしていた。 「先生は友だちをうらぎったことがありますか」  ぽつんと、バクじいさんはいった。 「さあ、小さなことではあるかもしれないけど、いまはおぼえてないですわ」 「そうですか」  いつのまにかバクじいさんの顔からたのしげな表情が消えている。 「わしゃ、若いころ東京のW大学にいたんですわい」  また、小谷先生はびっくりした。 「親友がいましてな、いいやつでした。金龍生というて朝鮮の人間でした。わしの生涯のうち、あんなりっぱな男はほかにおりませんでしたわい」  バクじいさんは過ぎ去った昔を思い出して、眼をしばたたいた。 「そのころ朝鮮は日本の植民地でした。金は不幸な母国の歴史を勉強しとったです。そういうグループがあって、そこで自分の国のことを勉強しとったです。爆弾投げたわけやなし、人を殺したわけやなし、自分の国のことを勉強しておって牢《ろう》屋《や》に入れられるちゅうバカな話がありますか先生」  バクじいさんの顔は、苦しそうにゆがんだ。 「金龍生は牢屋に入れられましたわい。金と友だちやというだけで、わしも引っぱっていかれたです」  小谷先生は胸が痛くなった。 「拷問というのを知っておりますか先生、人間ちゅうもんは、どんなことでもするもんですな。悪魔になれといわれたら、はいというて悪魔にもなれるもんですな。金が勉強しておったグループのメンバーを言えといわれて拷問されましたわい。天井からつるされて竹刀でぶたれました。あんなことはサムライの時代のことかと思っとったら、なんのなんの。わしも若かったから、口ごたえしてやったら、半殺しにされましたわい。人間が人にさからえるのはつかのまのこと、それからつめと肉のあいだに千枚通しを入れられたり、熱湯をかけられたりして、身も心もぐにゃぐにゃにさせられてしもうたです」  からだがふるえてきて、それをとめるのに小谷先生は苦労をした。 「日本人だからそれくらいですんだんで、朝鮮人はもっとひどいときかされたもんやから、金のことを思って胸が痛んだです。がんばっておったら、金の母親がわしのところへきて、これいじょう拷問にたえていると命がなくなってしまうから、白状してくれと泣きつかれたです。龍生はどうしてもしゃべらないようだから、あんた、はいてくれ、そうして一年でも二年でも監獄にいってくれば、また自由の身になれるちゅうて泣くんですわい。そらそのとおりや、死んでしもたらなんにもならん、わしが受けた拷問を思うても、死ぬちゅうことは、じゅうぶん考えられる。それで、わしゃ白状しましたわい」 「それで金さんはたすかったのですか」  小谷先生はせきこんでたずねた。 「なんの」——バクじいさんは、ごくっとのどをならした。 「赤い絵の具のついたジャガイモみたいな顔して、ものいわんと家へかえってきたです。もういっしょにしゃべることもかなわん、いっしょに酒を飲むこともかなわん、いっしょにチェロをひくこともかなわんからだになって、だまってかえってきたです。金のおっかさんもえらいやつでしたわい。そのときは、もう一つぶも涙をこぼさんじゃった。あんたをうらまん、そのかわり龍生の分も生きてくれというて、わしを許してくれましたわい。わしゃ朝鮮の国と朝鮮の人を心から尊敬しておりますんじゃ。金と金のおっかさんを生んだ国ですもんなあ。そのころの日本というのは、朝鮮人というのを虫けら以下にあつかっておったけんど、わしゃ、ばかたれめ、いまに思いしらされるぞと、ひそかに思っとったです。金が死んでわしはもう学問をする気なんぞこれっぽちもなくなってしもうたです。金の魂にさそわれたのか、わしゃ朝鮮に行きましたわい。東洋拓殖会社というのが社員を募集しておったんで、なにをする会社かよう調べもせんと、ただ朝鮮に行ける、朝鮮で働ける、それだけで応募してしもたんです。そのとき、わしゃちょっとでも罪ほろぼしをせにゃならんと思うとったんでしょう」  小谷先生はからだをかたくしてきいていた。身一つ動かしてもわるいような気がした。 「わしはその会社の量地課というところにまわされたです。しばらくしてその課がなにをするところか、じきにわかったです。わしゃ日本人の悪ぢえにびっくりしたですわい。なんのことはない朝鮮人をごまかして、人の土地を自分のものにしてしまうちゅうことですわい。その当時、朝鮮の農民は字の読めん人が多かったですが、そういう人におっそろしくむずかしい申告書をかかせますんじゃ。あたりまえのことですけんど、ほとんどなにもかけませんわい。すると所有者不明白な土地ということにして、没収してしまいますんじゃ。そういう土地をタダみたいな値で払いさげてもらって、日本人の移民に売りつける仕事をその会社はやっとったわけですが、おしまいのころには、ごまかす方の仕事もひきうけてやっておったようです。わしゃ、からくりがわかると、むしろその会社にはいったことをよろこびました」  バクじいさんはそこでことばをきった。 「どうしてですか」と小谷先生はたずねた。 「わしゃ、すこしでも朝鮮人の味方をして、とりあげられる土地をすくなくしてやろうと思ったんですわい。けんど、それはあまい考えでしたわい。三カ月ほどして、わしゃ憲兵隊にしょっぴいていかれました。ほんとうにわしは神さまをのろいますじゃ。ほんの三カ月ほど朝鮮の人の味方をしたばっかりに、わしは朝鮮独立の運動をしている人を、二、三人知ってしまったんです。憲兵隊の拷問は警察のなん倍もなん倍もひどいもんですわい。先生のような若い女《ひと》がきいたら、きくだけで気絶してしまいますやろ。わしは恐ろしいだけでなしに、人にはいえんはずかしい拷問を受けたです。肉体より先に心がずたずたになってしもうたです」  バクじいさんはそのときの苦痛を思い出したのか、じっと眼をとじた。小谷先生は心の中でひめいをあげた。 「人間ちゅうもんは、ほんとうによわいもんですわい。わしはたった三日ともたんで、なにもかもしゃべってしもうたです。それから二日ほどして、わしゃ憲兵に自分のしゃべった結果を見せられました。さあ十二、三げんも家があったんでしょうか。後かたもなく焼きはらわれており、黒こげの死体があちこちにころがっておったです。小さな死体もありましたから、女、子どものようしゃなく、みな殺しだったんでありましょう。人間ちゅうもんはじき悪魔になれると、さっきいいましたが、あれはわしにいうたことなんですわい。その死体を見て、たいへんなことをしてしもたと思うより先に、これで自分の命がたすかると、吹き出てくるよろこびに身をまかせておったんですわい。わしは金にどういうてあやまればいいですか、金のおっかさんにどういうてあやまればいいですか」  バクじいさんは、じっと涙をこらえているようだった。 「人間ちゅうもんはいちどダメになると、あとは坂道をころがっていくようなもんです。だまっておればだれにもわかることやない、それからはおきまりの酒や女におぼれてしもうたです。あっちの船にのり、こっちの船にのりして、流れもんになってしまいましたわい」  おじいさん、そんなに自分をせめないで、だれだってそんな状態におかれたら、そうなってしまう、小谷先生は胸の中でつぶやいた。 「そんなひどいわしにも、神さまは平等にしあわせをくれましたわい。わしはおそい結婚をして、女の子がひとり生まれたです。大きくはないけれど、ちゃんとした船をもって小《しよう》豆《ど》島の石を神《こう》戸《べ》にはこぶ仕事をしておったです。べつに金もちじゃなかったですけんど、なにひとつ不自由のない生活でしたわい。娘は大きくなってムコをとりました。さいわいムコがわしの仕事を手伝ってくれたんで、それまでやとっていた男を独立させて、家族だけで船の仕事をしとりました。そのじぶんは、ばあさんは船にのらずに、生まれたばかりの娘の子どものもりをして、かわりに娘夫婦が船にのっとったです。ちょうどその日はばあさんが神戸に出るちゅうもんだから、赤ん坊をとなりの家にあずけて、一家四人で出航したんですわい。家島あたりまでよい天気だったのに、淡路島を見るころ、きゅうに天気がくずれたもんです。海の男ちゅうもんは天気には神経質なもんで、そういうスカタンはめったとやらんのですが、その日はどういうわけか、いかんかった。ずぼっと船は海に落ちたです。石を積んでおるもんだから、そういう感じになるんですわい。あっというまです。どうするひまもない。ムコは泳げたんですけんど海に落ちるとき、なにかで頭を打ったらしい」  小谷先生はそっと鉄三を見た。鉄三は無心に絵をかいている。 「昔の罪がこんなかたちになってかえってきたと思われるでしょうけんど、先生、それはちがいます。そんなことを思ったら金や、金のおっかさん、それから朝鮮の人たちにもうしわけない。うらみつらみでものを考えたら、わしは朝鮮の人のうらみつらみで、からだ中、穴だらけになっとりますわい。金のおっかさんがおまえの罪をゆるしてやるかわりに息子の分まで生きてくれというたです。いまここで性根を入れて生きんかったら、金龍生を三度までうらぎることになる、そう思って、わしゃ歯をくいしばったです」  あついものがこみあげてくるのを小谷先生は感じた。 「先生を泣かせてしもうてすまんです。飲みくらべをしようというとりましたのに、すまんことをしてしもうたですわい」 「いいえ」と小谷先生はいった。 「おじいさんの顔のきれいなのがよくわかります。おじいさんの眼がやさしいこともよくわかります」  バクじいさんは押入れから、大きな紙づつみを出してきた。ていねいにつつんである。  なかからチェロが出てきた。 「金龍生のチェロですわい。金もわしもチェロをひくのが大好きでした」  そういって、バクじいさんはいとしそうにチェロをなでた。 「いまでもおじいさんはチェロをひくんですか」 「いいや。ひきゃせん。もうじき金龍生とふたりでひきますんや。それまでこのチェロをとっておきますわい」  小谷先生は静かにうなずいた。  11 くらげっ子    十月にはいって小谷学級に奇妙な子どもがはいってきた。名まえを伊藤みな子といった。走るのがとても好きな子どもだったが、走るということとスピードをくっつけて考えるとすこしようすがちがってくる。みな子はなにかうれしいことがあると走る。自分にとって快いことがあれば走る。  みな子は走るとき笑う。天をあおいで笑う。手と足をあおるようにして走る。くらげのおよいでいるのを人間がまねすると、みな子の走り方に近くなる。だから、みな子はいくら走ってもスピードは出ない。スピードが出ないだけでなしによくこける。  みな子が走っていると、小谷学級の子どもたちは、ああ、きょうはみな子ちゃんきげんがええのんやなあと思う。  みな子は朝、おばあさんにつれられて学校にくる。おばあさんに自分の席を教えてもらって、いちどはちゃんとすわるけれど、三分間とじっとしていられない。席を立ってあちこち歩く。友だちのもちものをいじる。ときには消ゴムをくわえて、ごはんをたべるまねをする。 「あかん、みなこちゃん」——と友だちにしかられると、きげんのよいときはククククッと笑って消ゴムをかえす。きげんのよくないときはポイと捨てる。それからまたうろうろ歩く。うろうろ走るときもある。みな子はたえずなにかをしていたい。しかし、みな子がなにかをすると、それはたいていひとにめいわくをかけることであった。  小谷先生が教室にはいってくる。子どもたちは自分の席につく。ひとつだけ席があいている。もちろんみな子の席だ。だけど、みな子は自分の席がわからない。 「みな子ちゃん、あなたの席よ」  と小谷先生はみな子の手をひいて、イスにすわらせる。授業がはじまる。しばらくすると、みな子は立って小谷先生のところへくる。小谷先生の手をもってちょっと笑う。ぶらさがって大きな声で笑うときもある。  小谷先生は子どもたちにすることをいいつけておいて、みな子を席にすわらせる。画用紙をもってきて、クレパスで丸や三角をかいてみせる。色をぬることも教える。  やっと、みな子がクレパスを使い出すと、いそいで前にきて授業をはじめる。そんなことが一時間のうちなん回もある。だから、みな子がきてから、小谷先生はまるで忍術使いのようにひらりひらりとからだを動かして、たいへん重労働だ。  こまることはまだたくさんある。  みな子がオシッコジャアーというときだ。みな子はいろいろおしゃべりをする、歌をうたうときもある。だが、小谷先生にも小谷学級の子どもたちにも、そのおしゃべりの内容はわからない。小さな子どもが早口でむちゃくちゃの歌をうたっているのと同じだ。  たったひとつだけわかることばがある。それがオシッコジャアーだ。しかし、その後がたいへんだった。そのことばをきくやいなや小谷先生は超スピードでみな子を便所につれていかなくてはならない。それでも成功するときはまれである。たいていは、とちゅうでもらしてしまう。オシッコジャアーというよりはやく、その場でもらしているときもある。 「やったァ」と、子どもたちはいっせいにいう。子どもたちはおもしろそうに見ているが、たいへんなのは小谷先生だ。後始末にどうしても五、六分はかかってしまう。そのあいだ授業はおるすになっているのだから、小谷先生はいらいらする。  みな子のおばあさんは毎朝、新しいパンツを三枚、小谷先生にわたしている。三枚も使うことはめったにないのだが、それくらいもらっておかないと安心できないのだ。 「ほんとうに、もうしわけありません」  おばあさんはかわいそうなくらい小さくなって、小谷先生にわびている。 「いいえ、ちっとも」  と小谷先生は明るく笑う。子どもでもそういう小谷先生の顔はとてもいいと思うのか、小谷先生といっしょに頭をさげて笑っている子がいる。  しかし、小谷先生も人間だ。給食前のいそがしいときに、オシッコジャアーの半分くらいでもらされてしまうと、思わず乱暴なことばでどなりつけたくなるときがある。 「このションベンタレのくらげ野郎め」  でも、小谷先生はしからない。笑顔もたやさない。小谷先生はみな子をあずかるとき自分にちかったことがある。かならずおしまいまでめんどうをみること、だれにもぜったいぐちをこぼさないことのふたつだ。泣かないということもいれたかったのだけれど、泣虫の小谷先生には、これはちょっとむりなように思われたのでやめにした。  願をかける、と昔の人はいう。自分の願い事がかなうまで、どんな苦しみにもたえると神さまにちかうことだ。そのあかしとして、いっさい牛肉はたべませんとか、お茶をのみませんとか約束ごとをする。もちろん小谷先生は若いのでそんな古くさいことはしないけれど、ちかいごとをしたという点では昔の人によくにている。  小谷先生がみな子をあずかる決心をしたのは、バクじいさんのあのすさまじい話をきいてからだ。西大寺の善財童子の美しさ、バクじいさんのやさしさを、小谷先生は自分にもほしいと思った。それを生きることの目的にしてもいいと思った。  おおげさにいえば小谷先生は自分の人生をかえるつもりで、みな子をあずかったのである。そういうわけだから、少々苦しいことがあっても音をあげるわけにはいかない。オシッコくらいで笑顔をわすれていたら先が思いやられる。  みな子の世話のうち、いちばんたいへんなのは給食だ。みな子はスプーンがうまく使えない。はじめのうちはスプーンを使おうとしているが、思うようにいかないと、あっという間に手づかみだ。それが熱いものだったらおおごとになる。つかんだものを投げ捨てる。汁がついていると手をふりまわす。そばにいる子どもたちはたまらない。さけようとしてミルクをひっくりかえす子ども、キャアとおおげさにさわぐ子ども、てんやわんやの大さわぎになってしまう。  それにみな子は、自分のものと人のものの区別がつかないので、ときどき、となりの子の分をとってたべる。 「淳《じゆん》一《いち》くん、かんにんしてあげなさいね」  小谷先生は隣の淳一にいって、とられた分だけ食器に入れてやる。淳一はいやな顔をする。それはそうだろう、いっぺん手をつっこまれた食べ物をふたたびたべるのは、だれだって、そうとう勇気がいる。  小谷先生はあわてて食器ごと自分の分とかえてやることがある。  なによりもこまるのは、みな子が教室から外へ出てどこかへいってしまうことだ。ちょっと眼をはなしているすきに風のようにとんでいく。  みな子は教室より外の方がいいのである。うれしそうに笑って、くらげのようにゆらゆらかけていくのだろう。  小谷先生はあわててさがしにいく。そういう子だから自転車がこわいわけでない、マンホールの穴がこわいわけでもない。きけんがいっぱいだ。  小谷先生が青ざめてさがしまわっていると、みな子は学校に飼っているヤギとのんきに遊んでいたりする。学校の池に腰までつかって金魚をおいまわしていたこともある。そういうとき、小谷先生はこまるけど、みな子はほんとうにしあわせそうだ。みな子の笑い顔を見ていると、小谷先生はどうしても叱ることができない。     *  みな子がきて一週間たった。  小谷先生は考えがあって、みな子はどういう子でなぜこの学級であずかっているか、いっさい子どもたちに説明しなかった。一週間たって、はじめてみな子のことを学級の話題にした。  ちょうどみな子はかぜをひいて休んでいた。話をするのにつごうがよかった。  みな子がどのようなめいわくをかけるかということを話し合ったあと、春子という子がいった。 「みなこちゃんはアホやろせんせい」 「みなこはアホのおやぶん」  と、いたずら者の勝一がいって、みんな笑った。 「アホいうてなんやの」  小谷先生はきいた。 「あたまのわるいこ」 「べんきょうができへんこ」  と子どもたちはこたえた。 「それだったら、あんたたちもおかあさんから、いつも、そういわれているじゃないの」  子どもたちはうへっという顔をした。 「むかしアホの子が生まれると、みんな殺したり捨てたりしました」  小谷先生は絵本でも読むような調子で、恐ろしいことをいった。 「うそォ」と、子どもたちはどよめいた。 「うそなんかじゃないわよ。ギリシャの国ではそういう子どもを捨てるクエゲストという山がちゃんとあるのよ。日本ではおじいさんやおばあさんを捨てる山があって、うばすて山という名がついているでしょう。子どもの方はあし舟にのせて川に流したんですって」  女の子はこわそうにだきあって小谷先生の話をきいている。 「でも、どうして殺したりしたんでしょうね」 「ひとにめいわくをかけるからとちがうか」  たけしという子どもがいった。 「みな子ちゃんも、すごくめいわくをかけるわねえ」  と小谷先生はいった。子どもたちはこの先生いったいなにをいい出すのだろうという顔をして、しーんとしてきいている。 「ぼくらもおかあさんにめいわくをかけとるで」  たけしは自分のいったことをとり消すように、あわてていった。 「みなこちゃん、あしたくるかせんせい」  みな子と呼び捨てにしていた勝一がそんなことをいった。 「さあ」と、小谷先生はいじがわるい。 「くるよ、な、せんせい」  二、三人の子がたまりかねたようにいった。 「きてほしい?」 「うん、きてほしい」  子どもたちは声をそろえていった。 「めいわくをかけられてもきてほしいの」 「いいよ」  たけしが、ひときわ大きな声でいって、みんなはいっせいにうなずいた。  みな子が、そのクエゲストとかいう山につれていかれてはたまらないと、子どもたちは思ったのかもしれない。  さいしょの試練が小谷先生にやってきた。職員室で子どもの作文を読んでいると、教頭先生がちょっとと呼びにきた。 「校長室や」  教頭先生はあまり、きげんがよくない。  校長室にいくと、小谷学級の子どもの親たちが十四、五名も立っている。 「ご父兄があなたと話をしたいということでみえられているんだが……」  校長先生はこまったような顔をしている。 「どういうことですか」 「例の伊藤みな子のことで、あなたの意見をきかせてほしいというのです。わたしはいろいろ説明をしたんだが……」  校長先生がひたいの汗をぬぐっているのは、まんざら暑さのせいばかりではなさそうだ。 「さいしょに小谷先生はどういうお考えのもとで伊藤みな子さんの教育にあたられているのかおきかせください」  鉄工所を経営している淳一の母が、切り口上でいった。 「べつにみな子ちゃんだからといって、特別な考えをもって教育にあたっているわけじゃありません。みなさんの子どもさんと同じですわ」 「じゃうかがいますが、先生は特別に校長先生におねがいをして、伊藤さんを先生のクラスにひきとられたそうですね。さきほどうかがいましたら、伊藤さんは十一月には養護学校にはいられるそうですね。一カ月のブランクができるので、そのあいだ、この学校であずかってほしいと、伊藤さんは申し出られたらしいのですが、なんですか学校ではいちどおことわりになったとか、それをわざわざ先生がたのみこんでひきとられたというふうにききました。それだったら、先生に特別なお考えがなかったら、おかしいじゃありませんか?」 「あなたの意欲をじゅうぶん説明したんですがねえ」  校長先生はもたもたした調子でいった。教頭先生はにがい顔をしている。はじめからみな子をあずかることに反対だったからだ。  小谷先生は思った。もちろん返事はできる、しかし、わたしの考えをまちがいなく伝えようとすれば、一時間や二時間の話し合いではむりだ、万一それができたとしても、納得してもらえるかどうかわからない。けっきょく小谷先生はかんたんなことしかいえなかった。 「みな子ちゃんをひきとったのは、みな子ちゃんをわたしたちの仲間にすることで、この学級がよくなると思ったからです」 「じょうだんじゃありませんよ。あなた、気はたしかですか。一日中、勉強もなにもできないって、うちの子どもはいっていますよ」  うしろの方でヒステリックにさけんだ親があった。小谷先生はひどいことをいうと思ったけれど、だまっていた。 「先生の趣味でなにをなさるのもかってですが、そのために、ほかのものにめいわくがかかるとしたら、話は重大ですわよ、ね、みなさん」  小谷先生も若い。だんだんくやしさがこみあげてきた。 「趣味でやっているんじゃありません。わたしはわたしなりに力いっぱいやっているんです」  べつの親は、おだやかにいった。 「先生の情熱を否定しているわけじゃありませんよ。伊藤さんのおかあさんがみな子さんを大事になさっていられるのと同じように、わたしたちも自分の子どもをなによりも大切にしています。いまのような学級の状態で、もし学力が落ちたらと、それを心配しておねがいにあがっているんですのよ」  また、べつの親はいった。 「先生はえこひいきをしていますね」  さすがに小谷先生はきっとなった。 「先生はわたしたちの家を訪問されるときは、規則だからとおっしゃってどんなにおすすめしても、お茶ひとつ飲んでくださいませんね。だけど、あるところでは、お茶どころか、あがりこんで食事までなさるというじゃありませんか」  小谷先生は頭をかかえたくなった。 「そういうことで先生にたいして感情的になっているおかあさんたちもいるんですよ」  なんだか小谷先生をつるしあげる会になっていくようだった。  たまりかねて教頭先生はいった。 「どうです先生、この問題、もういちど考えなおしてみては……」  小谷先生はまっすぐ顔を教頭先生に向けた。 「わたし、みな子ちゃんを手ばなしません」 「しかし……」淳一の母がいった。 「先生はいったい、だれのためにそんなにみな子ちゃんにこだわるのですか」 「わたしのためです」  小谷先生は、きっぱりいった。母親たちはざわめいた。 「おどろきましたわ。学校の先生は子どものために仕事をなさるのではありませんの」 「わたしは自分のために仕事をします。ほかの先生のことは知りません」  話にならないわ、と親たちはあきれて口ぐちにいった。  バクじいさん助けてください。わたしは正直にしゃべりました。おじいさんのあやまちを、わたしのものにしたら、そんなふうにしかいえなかったのです。おじいさん、わたしはまちがっていますか、おじいさん、教えてください……小谷先生は、じっと眼をつぶった。  さすがにその日は、子どもたちの家をたずねる気はなかった。  鉄三ちゃんごめんね、きょう先生をなまけさせてね。  12 くもりのち晴れ    よく日、小谷先生はうんうんうなるようなかんじで学校にきた。一学期のときはそんなことがあると、じきに休んでしまっていた。こんどはそういうわけにいかない。小谷先生は自分自身をうしろからおすようにして学校につれてきた。  校門の前で、みな子がまっている。あらっと小谷先生は思った。みな子の両親とおばあちゃんが、やっぱりたたずんでいる。 「みな子ちゃん、どうしたの。かぜはもういいの。むりをしちゃだめよ」  みな子は小谷先生の顔を見ると、うれしそうに笑った。小谷先生はみな子のハナをかんでやった。  よかった、学校にきてよかった、みな子ちゃんは笑っている、小谷先生は胸につかえていたものが、すっと下におりていくように感じた。 「先生」  と、みな子の母親は呼びかけた。ハンカチを眼におしあてている。 「どうなさったんですか」  小谷先生はおどろいてたずねた。 「先生……きのう……みな子のために……」  あとは声にならないようである。父親があとをひきとった。 「きのうの夜、教頭先生がわたしどもの家へみえられましてね。きのうのできごとの一部始終を話していかれたんですワ。そのとき、これ以上、小谷先生にめいわくをかけないように、つまり、わたしらの方から辞退するようにと……」 「なんですって」  なんというひきょうな人だろう、人のよわみにつけこむとはこのことをいうのだろう。小谷先生は怒りのために顔が赤くなった。 「先生、きのうもみな子はカバンをもって……おばあちゃんの手を引いて……」  と母親はまた泣いた。 「わたし、さいごまでみな子ちゃんをあずかりますわ。心配しないでくださいね」 「しかし教頭先生が……」 「わたしの方から話しておきます。さあ、みな子ちゃんいきましょう」  小谷先生はつとめて明るくいった。  みな子が顔を見せたので、クラスの子どもたちは安心したようだった。休み時間にみな子を遊んでやる子がふえた。  もちろん、みな子の行動のおおかたは、小谷先生や子どもたちのめいわくになることにかわりはなかった。しかし、小谷先生は笑顔をたやさず、みな子の世話をつづけた。  みな子がきたために、いちばん被害を受けているのは、なんといっても、となりにすわっている淳一だった。淳一はおとなしい子だった。みな子によくノートをやぶられていた。教科書までやぶられて、べそをかいていたこともある。  はじめのうち、給食の時間に食べ物を手づかみにされて、むっとしたり、エンピツをとられてあわててとりかえしにいったりしていたが、そのうち、みな子にたいする態度がすこしずつかわってきた。  そのかわり方は、小谷学級全員の子どもたちのかわり方とにているところがある。  ノートをやぶられそうになると、淳一はあわてないで静かにいう。 「みなこちゃん、ノートかえしてちょうだい」  みな子はノートをやぶるときでも、やぶらないでかえすときでも、たいてい笑っている。ノートをかえしてもらうと、淳一もにっこり笑う。そばで見ていると、ふたりでたのしいことをして笑っているようである。そして、淳一はいらないノートを、みな子にわたして、 「これ、やぶり」という。  やぶられてしまったときは、 「あーあー」とため息をついて、 「みなこちゃん、ノートをやぶったらあかんねんで」という。  しからないでいうと、みな子はたいてい笑う。それで淳一も笑う。やっぱりふたりはたのしいことをして笑っているように見える。  給食のときは、はじめから食器をみな子の手のとどかないところにおいてある。みな子の食器がからっぽになったら、淳一はいう。 「みなこちゃん、あんた、もっとほしいのんか」  みな子の眼がきょろきょろしていたら、淳一は自分の分をすこしわけてやる。みな子が笑ったら、とられる心配はもうないので安心だ。  みな子のことで二回めの話し合いをしたとき、その淳一がいった。 「せんせいはみなこちゃんがめいわくですか」 「はい、めいわくです」  小谷先生のこたえはなかなか正直だ。 「だけどせんせいは、みなこちゃんをかわいがっているでしょう。みなこちゃんがすきなんでしょう」 「はい」  小谷先生はにこにこ笑っている。淳一ののんびりしたもののいい方に、思わずほほえんでしまうというあんばいだ。 「めいわくだけれど、みなこちゃんはかわいいからこまっているんでしょ、せんせい。それで、ぼくらにそうだんしているんでしょう」 「そうよ」  小谷先生はそんなもののいい方をする淳一がとてもかわいい。 「ぼく、いいかんがえをおもいついたんだ」 「どんなこと、淳ちゃん」 「みなこちゃんのとうばんをこしらえたらどうですか、せんせい」 「みな子ちゃんの当番?」 「うん、そうじとうばんはそうじをするでしょ。にちばんはまどをあけたり、しゅっせきをとったりするでしょ。みなこちゃんとうばんは、みなこちゃんのせわをするとうばんです。みなこちゃんとあそんだり、べんきょうをしたり、とうばんになったこは、みなこちゃんのそばをはなれたらいかんの」 「いい考えね。だけど、みな子ちゃんの世話をするということは、たいへんなことなのよ。先生を見てたらわかるでしょう」  はい、といってまた淳一が手をあげた。 「どうしてぼくがそんなことをおもいついたか、おしえてあげよか。ぼく、みなこちゃんがノートやぶったけどおこらんかってん。ほんをやぶいてもおこらんかってん。ふでばこやけしゴムとられたけどおこらんと、でんしゃごっこしてあそんだってん。おこらんかったら、みなこちゃんがすきになったで。みなこちゃんがすきになったら、みなこちゃんにめいわくかけられてもかわいいだけ」  小谷先生はうなってしまった。みな子ちゃんがめいわくですか、と淳一にきかれて、正直そうな顔をして、はい、なんていったけど、これだったら、まるで淳一にテストをされているようなものじゃないか、みな子ちゃんをめいわくと思っているうちはダメですよ、と淳一に教えられているようなもんだ。おまけに淳一はそういう機会をみんなにわけてやろうといっている。 「淳ちゃん、あなたはほんとうにかしこい子ね」  小谷先生は心からいった。  みなこ当番はクラス全員がさんせいした。つぎの日からやろうということになった。男ひとり女ひとりの組で世話をすることにした。じゅんばんはくじびきできめた。  はやい番の子はよろこんだ。おそい子はがっかりした顔をしていた。  その日、学校がひけてから勝一の家へまわった。勝一の家は肉屋だ。小谷先生の顔を見るなり、勝一の父は興奮した顔で、 「先生、ちょっと二階にあがっておくんなはれ」といった。  二階にあがって、小谷先生はおどろいた。きのう校長室にあつまったのと同じくらいの人数の父兄がいる。顔ぶれがすっかりちがっていた。おもに商店街など、下町の父親、母親たちだ。 「先生、きのうの一件をききましたぜ。ここにきとるもんは、みんな先生の味方ですワ。まだまだ先生の味方はおりまっせ」  これはまずいことになったと小谷先生は思った。 「きいてあきれる話だんな。恵まれん子のために心血を注いでおられる先生に、ケチをつけにいくちゅうのは、いったい、どういう了見でんねん。小谷先生は学校がおわってからでも、こうして子どもの家をまわってくれはる。勉強のできん子がおったら、たとえ五分のあいだでもみてくれはる。ほかに、こんな先生がおりまっか」 「いや、ちがうんです」  小谷先生は苦しげに口をはさんだ。 「わたしの未熟さもあるんです。みな子ちゃんをあずかってから、勉強のすすみぐあいもじゅうぶんでないし、おかあさん方が心配されるのもむりないんです」 「先生、もしそれを本気でいうてはるとしたら、その考えはまちがっておりますよ」  まだ若い勝一の父はいった。 「それは眼さきの欲というもんとちがいまっか。わしら教育のことはようわからんけど、自分とこの子さえよかったらええという考え方にはさんせいできまへんな。これは、もちろんエエカッコのことばです。そんなことをいうとったら、この世の中、生きていけまへん。それをようわかっとって、あえていうてまんねん。そういう世の中やからこそ、いっそう学校で思いやりというもんを教えてほしいと思いまんな。思いやりてなもんは、えらい時代おくれみたいですけど、わしら商売しておって、そういうもんで信用をもらうことがありまんな。そういうもんで、ああ生きとってよかったと思うことがありまんな。ちがいますか先生」  そのとおりだ、と小谷先生は思う。 「だまっとったら、小谷先生を支持している父兄はおらんと思われますやろ。そんなけったくそわるい話ないから、これから校長のとこへいって一発ぶってこようかと思うてまんねん」  うれしいけれど、それはやめてほしい、と小谷先生はいった。そして、きょう学級であったことを話した。 「あしたから、みな子ちゃんをかこんで新しい出発をするんです。子どももわたしもはりきっているんです。だから外からそっと見守っていただく方がありがたいですわ」 「わかりました」  勝一の父は男らしくいった。 「みなさんどうです。先生におまかせしませんか」  だれも反対する者はなかった。 「先生、わたしら先生の味方だっせ。こまったことがあったら、いつでも、いうとくんなはれ」  小谷先生をはげますように、母親たちはいうのだった。 「小谷先生、あんた、あんまり子どものことに熱中して、おムコさんをそまつにしたらあきまへんで」  と魚屋の主人はいった。 「だんなをそまつにして離縁されたら、それこそ、わたいらこまりますよってな」 「そのときは、いまの女房をほうりだしますよって、わしのところへ、ヨメにきてください。たのみまっせ先生」  勝一の父がじょうだんをいったので、みんな大笑いになった。  なんと気のいい人たちだろう、きのうは泣いたけれど、きょうは笑った、くもりのち晴れだと、小谷先生はすがすがしい気持で思った。  勝一の家から鉄三の家へまわった。 「鉄三ちゃん、きのうはごめんね。先生、なまけちゃった」 「ん」  このごろ鉄三の返事は「う」から「ん」にかわってきたようだ。「う」より「ん」の方が、だいぶ気持がこもっているように、小谷先生には思われる。 「博士、実験の結果はどうでありますか」  きげんのよい小谷先生は、おどけた口ぶりでいった。  鉄三は大学ノートをもってきて小谷先生に見せた。 「あすで一週間ね。だいたいの結果は出たようね鉄三ちゃん」  ノートをみながら小谷先生はいった。  じっけん中とかかれてあるビンが五つある。イエバエ、ケブカクロバエ、ミドリキンバエ、ニクバエがそれぞれ十匹ずつ、べつべつのビンに入れられている。もう一つのビンには四つの種類のハエが五匹ずついっしょに入れられていた。  これで鉄三は「ハエのたべもの」の研究をしている。一日に三回、どのハエが、どのえさにたかったかを記録してある。もちろんえさにたかっている場合と、えさをたべている場合とは、げんみつにいえばちがうわけだけれど、小学生の実験だから、そこまではこまかく調べる必要はないだろうと小谷先生は思っている。  実験に使ったハエは、数の多い、人間のくらしに関係のふかいものを四種類選んだ。イエバエは鉄三の飼っていないハエだったが、イエバエをのぞくと、ハエの研究として意味がなくなってしまうので、小谷先生は鉄三にたのんで飼ってもらった。  えさが問題だった。  ハエのえさといっても無数にある。小谷先生は動物性のものと植物性のもの、それから栄養学でいうところの脂肪、たんぱく質、糖類などを考えていた。鉄三にそんなむずかしいことを教えるわけにはいかないので、小谷先生は鉄三とふたりでゴミ置場を歩いて、鉄三にハエのえさを教えてもらった。鉄三が指さしたハエのえさは、魚貝類、動物の死体、動物の皮、果物、野菜クズ、みそ、酒カス、菓子類、木の汁、草木の花などであった。  そこで鉄三と相談して(もっとも鉄三は「ん」というだけだったけれど)魚のアラ、牛肉、ラード、果物、野菜クズ、アメ玉の六つを選んだ。  鉄三はどのハエがどのえさを好むかということをだいたい知っていたから、鉄三の方からいうと、この実験はあまり興味がない。そのことは小谷先生もよくわかっていた。  だが鉄三はすこしもいやなそぶりを見せなかった。学校にくる前と学校からかえってから、そして夕方と、一日三回きちんと記録をとっていた。一日も欠かしていなかった。 「鉄三ちゃん、これでみると、キンバエとケブカクロバエ、ニクバエはおさかなと牛肉が好きということがはっきりしてるね」 「ん」 「イエバエは果物やアメが好きなようだけれど、この記録を見るとなににでもたかるようね。人間のふんをたべるって、鉄三ちゃんが前にいっていたから、ハエの中ではいちばんくいしんぼうというところかナ」 「ん」 「どのハエも油がきらいね。ラードにはほとんどたかっていないわ」 「ん」 「この記録を見て、先生ちょっとおもしろいことに気がついたんだけれど、アメ玉には、まい日、同じ数だけたかっているのに、魚のアラとか牛肉、果物のようにくさるものは、日によってたかる数がちがうでしょ。ほら魚のアラは三日めがいちばん多いでしょう。果物は五日め、ね」  小谷先生はちょっと興奮したようだ。 「鉄三ちゃん、これは大発見よ。おさかなの場合、あまり新しくてもふるくても、ハエはたからないわけよ。これで魚の鮮度がわかるじゃない。これからハエがたかっている魚など買わないでおきましょう」  小谷先生はとんでもないところで、主婦の顔になった。  鉄三はたいしたことないという顔をしている。  13 みなこ当番    さいしょの当番は勇二と照江だった。朝、みな子は席をかわった。勇二と照江にはさまれるようにしてすわった。  淳一がバイバイと手をふると、みな子は同じように笑って手をふっていたのに、一時間めの授業がはじまると、じき席をたって淳一のところにきた。 「みなこちゃん、あんた、もうぼくのところへきたらいかんのやで」  淳一はみな子の手を引いて、勇二のところへつれていった。 「ちゃんと、みなこちゃんをみたらなあかんで」  と勇二にいっている。  小谷先生はにこにこして、だまってそれを見ていた。いちど子どもにまかしたら、できるだけ口を出すまいと心に決めているふうだった。  一時間めのとちゅう、淳一のところへいくのをあきらめたみな子は、ふらっと外へ出た。それっとばかり勇二と照江はみな子について出る。勉強の好きでない勇二は、どうやらその機会をまっていたようなふしがある。  小谷先生はくすっと笑った。 「みなこちゃん、チョウチョウや」  勇二はがぜんはりきって、チョウチョウのとんでいるまねをする。みな子はケラケラ笑ってチョウチョウになった。  三匹のチョウチョウは運動場に出た。みな子チョウはかける。勇二チョウと照江チョウはおいかけるのにけんめいで、鼻の頭に汗をかいている。 「なにしとるんや、あいつら」  体育をしていた六年生はけげんな表情で、みな子たちを見ている。  ぞんぶんに広い場所をかけまわった三人は、スベリ台で遊ぶことにした。みな子は高いところにあがるのが好きだ。  みな子は手足がじょうぶでない。高いところにのぼったら、かならずいっしょにあがってどこかをつかまえておくように、小谷先生からくれぐれも注意されている。勇二も照江もいっしょにスベリ台にのぼった。  このごろの小学校では、スベリ台なんて遊具にはあまり人気がない。一年生が、はじめにちょっと使うだけで、後は赤くさびつかせたままほうってある。  そんなところを、みな子はいっきにすべる。あわてて勇二も照江もすべった。 「おしりまっかかや」  照江はなさけなさそうな顔をしていった。 「ほんまや」と勇二がいう。  みな子は笑う。また、のぼる。おいかけるふたり。みな子はすべる。ふたりもすべる。 「みなこちゃん、おしりまっかかになるで。すべりだいやめて、てつぼうしよう、ね、みなこちゃん」  照江はいっしょうけんめいみな子にいいきかせている。 「みなこちゃんはかしこいね。おりこうさんでしょ。あっちへいきましょ」  みな子の頭をなでて、照江はごまかすのにいっしょうけんめいだ。 「なんで、おなじことばかりするんやろ」  勇二もおうじょうしている。  ぱっと照江の手をふりはらって、みな子は走る。また、スベリ台にのぼった。 「パンツやぶれるやん」照江は泣きそうな声を出した。  二時間めがおわるころ、勇二は、泣いている照江と、笑っているみな子をひきずって教室にかえってきた。  三人のお尻をみて、子どもたちは笑いころげた。ぱっくり大きな穴があいている。もちろんパンツはどろどろだ。  みなこ当番の一日めはたいへんだった。役目をおえたふたりは、みんなから拍手を受けた。みな子をむかえにきたおばあさんに礼をいわれて、ふたりは顔をくしゃくしゃにさせた。  勇二も照江も、今夜はぐっすりねむることだろう。  当番がまわってこなくても、この仕事のたいへんさは、子どもたちによくわかっているようだった。  当番の二、三日前になると、すでに当番のおわった者のところへいって、いろいろみな子のことをたずねている。淳一はさしずめみな子の専門家だ。だれがききにきても、淳一はていねいに教えてやっている。  小谷先生は当番のはじまった日から学級通信の発行をはじめた。みなこ当番のようすを中心に、その日のクラスのできごとを家庭に知らせるのだった。小谷先生は通信のはじめに、このあいだの淳一のことばを大きな字で印刷した。 ぼく みなこちゃんがノートやぶったけど おこらんかってん 本をやぶってもおこらんかってん ふでばこやけしゴムとられたけど おこらんかってん おこらんと でんしゃごっこしてあそんだってん おこらんかったら みなこちゃんがすきになったで みなこちゃんがすきになったら めいわくかけられても かわいいだけ       *  五日めにちょっとした事件があった。  清と道子が当番のときで、二時間めにみな子の後をおって運動場に出た。しばらくいっしょに遊んでいたが、オシッコジャアーがはじまって、清と道子はいそいでみな子を便所につれていこうとした。  走りかけたが、みな子はその場でもらしてしまった。 「やったでえ」と清はのんびりといった。 「せんせいにパンツもらってきて」  勝気な道子は自分で始末するつもりらしい。清が報告にきたので、小谷先生はいそいで現場にいった。 「あらあら」  小谷先生はみな子のぬれたパンツをぬがそうとした。 「せんせい、わたしらみなこちゃんのとうばんやから、わたしらでする」  道子はぴーんとした声でいった。小谷先生は、はっとして、思わず、 「ごめん、道子ちゃん」といった。 「それじゃお願いするわね。先生、教室にかえるわ」 「いって」  まだ道子はつんつんしている。  その後、事件がおこった。  パンツをぬがされたみな子は、気持がよくなったのか、すぐ、そばにあった飼育池にはいっていこうとした。藻が繁殖していて、一帯がぬらぬらしていた。  片足がはいるやいなやみな子はひっくりかえって、あっというまに、頭から水の中に落ちた。それを見て、道子はずかずかと池にはいっていった。みな子を助けようとして手をさし出した。みな子の手が道子の手にふれた。そのしゅんかん、道子も水の中へたおれた。  それからふたりはおぼれたトンボになった。清がわあわあさわいだ。体育をしていた佐山先生があわててかけつけて、ふたりを助けた。佐山先生もいちど池でしりもちをついたくらいだから、よほどよくすべる池だったのだろう。  小谷先生は大目玉をくった。とくに教頭先生からは、つよく叱られた。小谷先生はひたすらあやまるだけで、一言もべんかいをしなかった。へたにべんかいをして、当番の禁止をもうしわたされたらこまるからだ。  みなこ当番をはじめようとしたとき、こういうことがあるだろうということを、小谷先生はあらかじめかくごしていた。  小谷先生は学校のすみずみまで歩いて、この場所ではこういう事故がおこりそうだと、いちいちてんけんしていた。屋上とか、ゴミを焼く炉の上とか、重大なきけんがおこりそうなところは、みな子をつれていかないこと、みな子が行きかけたら力ずくでもとめることなどを、子どもたちに話してあった。  話すだけでなしに、じっさいに子どもたちをつれて歩いて、一つ一つ、ここではこうするああすると教えてあった。  それでも小さな事故はおこるだろう。しかし、それを恐れていたらなにもできないと小谷先生は思った。子どもはケガをさせないようにして、もりをしているだけでいいと公言してはばからない教師がいたが、小谷先生はそんな人を軽べつしている。  それにしてもだいぶ叱られちゃったナと思いながら、小谷先生は校長室を出た。どうしたの、と折橋先生にいわれて、ぽろっと涙がこぼれた。  足立先生がポーンと肩をたたいた。  くよくよするなと小谷先生は自分にいいきかせた。あしたの当番は鉄三ちゃんだ、鉄三ちゃんうまくやるかなァと小谷先生は思った。鉄三と組になった女の子はやよいといって、めだたない子だった。道子のように気性のつよい子と組んでくれていたら、安心してみていられるのだが、鉄三とやよいでは、ちょっと心細い。  鉄三ちゃんがんばってね、と小谷先生は祈るような気持だった。  つぎの日、鉄三はふだんとかわらない顔をして学校にきた。やよいは朝から心配そうなようすだ。  一時間め、みな子は数え棒やおはじきを出して、わりあいおとなしく遊んでいた。  鉄三は知らん顔をしている。小谷先生は心配だ。鉄三の顔を見ていると、人のことなど知らんといっているような気がしてしまうのだ。  二時間め、みな子は外へ行きたそうなそぶりをみせた。すると、鉄三の方が先に立った。鉄三は歩きはじめた。みな子はばたばたと後をつけた。やよいもあわてて走った。  小谷先生は窓からちらちら鉄三たちを見ていた。  鉄三は先に歩く、みな子とやよいが後をつけている。こんなかっこうは、きょうがはじめてだ。いつもみな子の後を、当番の者がおいかけているのだ。これはおもしろいぞと小谷先生は思った。  鉄三たちは校門のそばの桜の木のところまできた。上を向いて桜の葉を見ている。三人とも口をあんぐりあけて上を向いているが、みな子とやよいは、鉄三のまねをしているだけである。  しばらくして、鉄三は桜の木をゆすった。ばらばらっとなにか落ちてきた。鉄三はそれをていねいに拾いあつめた。  みな子とやよいがのぞきこんでいる。四センチくらいの毛虫なのだ。やよいは気味わるそうだが、みな子はそれを手でつついてキャッキャッとよろこんでいる。  毛虫をもって砂場まできた。穴をほって、ひとまず毛虫をそこに入れた。鉄三は砂地を平らにならした。その上に毛虫をぱらぱらとゴマでもふるようにおいた。そしていそいで三センチくらいの厚さに砂をかけた。  三人はお尻を立ててのぞきこんでいる。三十秒ほどすると、あっちからもこっちからも、にょろにょろ毛虫は首を出した。なんとも奇妙なながめだ。  みな子は毛虫を見て笑い、鉄三の顔をのぞきこんで笑っている。よほど気に入ったのだろう。二、三回同じことをくりかえすと、こんどは、みな子が自分でやりはじめた。だれがやっても毛虫は顔を出す。みな子は前よりもいっそう大声で笑った。  みな子はすっかりごきげんだ。  窓から見ているだけでは気になるのか、ときどき小谷先生は鉄三たちのようすを見にきた。そして安心して教室へかえっていった。鉄三はみな子を遊んでやっているふうでもない、自分勝手に好きなことをやっているのだが、みな子はよろこんでいる。  小谷先生は感心した。いままでの当番はどっちかというと、みな子にふりまわされていたようなところがある。みな子がブランコをすればブランコ、タイヤとびをすればタイヤとび、もっとも、そうしなければ、みな子はそっぽを向いてしまうのだから、しかたないわけでもある。鉄三はちがう。鉄三はすこしもみな子のきげんをとらない。  三時間め、鉄三たちは小谷先生の眼のとどかないところにいってしまった。小谷先生は心配になってさがしにいった。  西校舎の裏側に三人はいた。みな子のかん高い笑い声がひびいていたので、みな子ちゃんごきげんなんだナと小谷先生は思った。  三人ともなにか作っていた。近くに寄ってよく見ると、奇妙な形の粘土細工のようなものがおいてあった。工事のときに使って、そのまま置きわすれていた赤土を、水でこねて作ったらしい。  鉄三のはまん中がかたつむりのからのようで、ちゃんとうずまきのすじがついている。それが中心で、そこから太い線香のような足が、十本ほど四方にのびている。細い木の枝をつまようじのように折って、その作品につきさしてあった。抽象彫刻のようなおもしろさがあった。  みな子はダンゴのようなたまを、無造作につみあげて、やっぱり木の枝をさしてある。かんたんなだけにかえって力づよいものを感じさせた。やよいはふたりを手伝ったらしく自分の作品はなかった。 「すごいものを作るわね。ピカソのおじさんが見たら、泣いてよろこぶわよ」  小谷先生は自分が学校の教師であることがはずかしかった。  四時間め、たいへんなことがおこった。  三人は粘土遊びをやめて、西校舎から運動場をよこ切って、自分たちの教室へかえるところだったようだ。運動場では、山内という学年主任の先生と太田先生のクラスが簡易サッカーをやっていた。どちらも五年生だった。子どものけったボールをみな子は笑いながらおいかけてラインの中にはいった。ピーと笛がなって、審判をしていた山内先生は、こらっとさけんだ。それでもまだ、みな子は笑ってボールをおっていたので、山内先生はみな子の首すじをつかんで、ラインの外へ引きずり出そうとした。  そのときだ。鉄三にとびかかられた山内先生は右の腕にするどい痛みを感じた。おうとさけんでふりはなそうとしたが、しがみついてはなれないので、鉄三の顔を二、三発なぐった。太田先生がとんできて、やっとの思いで鉄三を引きはなしたが、一部始終を見ていた太田先生は、鉄三を引きはなすとき、思わず、 「あんたが悪い」  といってしまったのだ。 「なに!」  と山内先生がかえして、それでもうれつな口論になった。太田先生は小谷先生と同じで、ことし教師になったばかりの若さだから、いちど火がついたら、なかなかおさまらない。子どもの前だったので、さすがに気がひけたか、ふたりは職員室までかえってきたが、そこからがすごいけんかになってしまった。  山内先生は眼が血走っているし、太田先生はまっ青な顔をしている。昼休みのベルがなって先生たちもたくさん職員室におりてきた。 「礼儀しらず、やめてしまえ!」と山内先生はどなった。  やめてしまえとはどういうことだ、やめてほしいのはあんたの方だ、戦場に子どもを送りこんでおいて、ぬけぬけと教師をしているなと太田先生はやりかえした。山内先生の世代は、それをいわれるといちばん気にする。山内先生は思わず太田先生の胸ぐらをつかんだ。 「とめてえ!」  女の先生はひめいをあげた。 「とめるなとめるな、こんなときに太田くんにいわせろいわせろ」  足立先生が太田先生の味方をしたので、こんどは教頭先生がどなりだした。足立先生もどなりかえした。  とうとう二組のけんかがはじまった。  事情をきいてとんできた小谷先生は、あまりのことに泣き出してしまったのだった。 「アダチィ、まけるな」 「オオタァ、やれ」  いつのまにか、功や純ら、処理所の子どもたちが窓から首をつき出して、足立先生たちを応援している。    14 泣くな小谷先生    小谷先生はしくしく泣いている。 「くそったれめ!」と太田先生はまだ青い顔をしている。 「そう興奮するな」  といっている足立先生は、眼に大きなくまをこしらえている。 「小谷さん泣くことあらへんで」  折橋先生は、こまった顔をしていった。 「そや、泣くことあらへん」と太田先生もいった。  このままではおさまらん、とまだ荒れくるいそうだったので、足立先生が三人をこの飲み屋につれてきたのだ。折橋先生と太田先生は、とくになかがいい。 「どさくさにまぎれて、だいぶなぐってやったけど、こんなところにくまをこしらえたら、わりにあわんなあ」  足立先生はおだやかならんことをいっている。 「あんたら、坊ちゃんを気どって校長や教頭をたたいたらあかへんで。校長さんをたたいたら、これやろ」  飲み屋のおかみは首を切るまねをした。 「もうちょっと姫松小学校におってもろてがんばってもらわんといかん。きょうび、いい先生はすくないんやから、あんたら自重せんとあかんで」 「わかっとる。わかっとる。おちょうしつけてんか」  足立先生は顔をしかめた。いまごろ、どこか痛くなってきたらしい。  小谷先生は鉄三がかわいそうでならなかった。りっぱにつとめをはたしたのに、とんでもない結果になってかえってきた。なぜ、山内先生はみな子をのけるときにだいてくれなかったのか、せめて手をもって外へ出してくれていたら、鉄三はとびかかっていかなかっただろうに。  せっかく鉄三がいい仕事をして、友だちという仲間を自覚した日に、よりによって、こんな事件がおころうとは。鉄三がみな子を守ろうとして、山内先生にとびかかっていった気持を考えると、小谷先生はたまらない気がした。鉄三がいとしくてならなかった。  鉄三を送っていって、バクじいさんに事情を話しているあいだ、小谷先生はずっと泣いていた。バクじいさんはそんな小谷先生をやさしい眼でながめた。そして大きな手で鉄三の頭をなでていった。 「鉄三はほんまにええ子じゃ。それでこそおじいちゃんの孫じゃ。みな子ちゃんは、いつまでもいつまでも鉄三のことをおぼえていてくれるわい」  三人の先生は酒を飲むピッチがはやかった。やけ酒か、おこり酒かよくわからないが、ふだんよりたくさん飲んでいる。 「きょうのけんかだけとりあげて文句をいわれたら、たしかにおれは軽はくだったかもしれん。相手がさきになぐってきたとはいえ、先輩に手をかけたんだから。けれど、おれはいままでずっとしんぼうしてきたんやで。学級文集を作ったらいやみをいうし、家庭訪問をしたらあんまり人気とりするなよという。あんな、は虫類みたいな男はちょっとおらんな。文集を作りたくても作れない先生のことを考えてやれ、とさ。そんなこと、おれの知ったことか」 「そらおまえ、どこの学年でもいっしょやで。そんなやつに腹を立てとるより、ちょっとでもわかってくれる先生をふやしていく方が力になるのんとちがうか」と、折橋先生はもっさりいった。 「おれはおまえみたいに人間ができとらんから、そんなことを考えるまえに、悪いやつをやっつけてやりたくなる」  太田先生はあちこちにやつあたりしている。 「そらおまえ、怪獣ごっこをやってんのやったら、それでええけど、ほんとに悪いやつはなかなかおれたちの前に、姿を見せんのとちがうか」  そばできいていた足立先生は笑い出してしまった。 「ふたりとも学校の先生やめて漫才やれ」 「こんなとこで、じょうだんをいってもろたらかないまへんなァ」  折橋先生はうらめしそうにいっている。 「小谷先生、すこし飲みますかあ」  折橋先生に、酒をついでもらった小谷先生は、コップの酒を一息に飲みほした。折橋先生と太田先生は顔を見あわせた。 「ごめいわくかけてすみません」と小谷先生はいった。 「元気出しや」と太田先生はなぐさめた。 「足立先生、眼のところ痛くないですか」 「ひとのことをいう前に自分の眼を見たらどないや」  と足立先生にいわれて、小谷先生はコンパクトを出した。まっ赤にはれあがっている。 「小谷先生はいい人やけど、そのめそめそ泣くのだけはなんとかしてんか。おれ、かなわんねえ」 「ごめんなさい」と小谷先生はまた涙が出そうになった。 「そらそら。まるで女学生やな。あんたが学校にきてから、おれは、はらはらしどおしで三キロほどやせたね」 「足立先生がですか」  折橋先生はひやかし半分にいった。  よく日、臨時の職員会議がひらかれた。  さいしょに校長先生が発言した。 「きのうの出来事はたいへん遺憾であります。いずれ、わたしは教育委員会からおしかりを受けるでありましょうが……」 「だまっとったらわからへんがな、あほたれ」  足立先生はきこえよがしにいった。 「わたしはこの学校をできるだけ民主的に運営するべく努力してきました。みなさんの発言を尊重して、できるだけわたし自身の意見はのべずに……」 「そやからあかんのや」とまた足立先生がヤジった。 「なにか恩を仇《あだ》でかえされたような気がします」  校長先生はめずらしくきついことをいった。教頭先生と山内先生は小さくなっている。 「原因になった小谷学級の伊藤みな子さんのことでありますが、わたしは小谷先生の熱意にほだされて、小谷学級であずかることを許しました。しかし、こんなにたびたび事件をおこされては考えなおさざるを得ません。もちろん小谷先生の言い分もじゅうぶんおききしたい。ほかの先生のご意見もうかがって結論をくだしたいと思います」  草下という一年生の学年主任が手をあげた。 「一年の組から問題がおこりましたので、わたしも責任を感じます。ただこんどの場合は校長先生にも反省していただきたい点があるように思います。伊藤さんをあずかるときの手続きがよくなかったと思うんです」 「手続きの問題なんかじゃない」  足立先生のヤジがとんだ。草下先生はくるっと足立先生の方を向いた。 「足立先生、ひとの発言のさいちゅうにヤジをとばすのはやめてください。わたしはあなたの教育実践をたかく評価していますが、あなたのそんなヤクザみたいな態度はすこしも好きになれません。あなたのよさまで誤解されますからおやめなさい」  拍手がおこったところをみると、足立先生は、ほかの先生にもだいぶ反感をもたれているらしい。  足立先生が頭をかかえてしまったので、笑い声がおこって拍手がいっそう大きくなった。  折橋先生や太田先生まで手をたたいて大よろこびしている。 「伊藤さんをこの学校にあずかるようになったとき、それを知っていたのは校長・教頭両先生と小谷先生だけです。学年で相談をしたわけではありませんし、職員会議ではかられたわけでもありません。だれも、なにも知らなかったわけです。それがこんどの事件を引きおこした一つの原因でもあると思います。伊藤さんのことが、みんなで話し合われていて、みな子ちゃんのことをみんなが知っていたら、きのうのことはなかったかもしれません」  草下先生のいうとおりだ、自分の考えのおよばないところがあったと小谷先生は思うのだった。 「草下先生のご意見はもっともです。ぼくもそのとおりやと思いますけど、しかし、そのためにはうちの学校の教師ひとりひとりが障害児にたいしてある一定の理解をもっていなくてはいかんと思うんです。こういう公式の場所で発言すると、だれもかれも、ちえおくれの子どもの教育を大切にしているようなことをいうけど、じっさいはそうではないんですね。かれらのことをお荷物さんといったり、自分の学級にそういう子どもがいると、ことしはあたりが悪いなんて平気でいうでしょう」  折橋先生は耳の痛い話をはじめた。 「ぼくがさっき、ある一定の理解をといったのは、障害児問題がよくわからなくても、その子たちといっしょに苦労を共にしてみようという、さいていの決意があるかどうかということをいったんで、はじめからお荷物さんなんていうとる教師がいるような職場では、草下先生の意見もけっきょくはきれいごとにおわってしまう」  きょうは折橋先生、なかなか雄弁だ。  村野先生が発言した。 「りっぱなご意見のようですが、小谷先生もふくめて、みなさん、子どもの立場に立ってものを考えていないように思います」  浩二の問題で、折橋先生から同じようなことをいわれた村野先生の発言だったので、みんなは、いっしゅんぽかんとした。 「ちえおくれはひとつの病気なんですから、できるだけ設備のととのったところで、効果的な治療を受けなくてはいけません。そのために養護学校があるんです。本校のようなふつうの学校にきて、正常児といっしょに学習してなにが身につくんですか。子どもは苦痛なだけですよ。伊藤さんの場合でもあと一カ月すこしで転校でしょう。せっかくなれたと思ったら、また新しいところで苦労しなくてはならない、子どもがかわいそうですよ」 「はい」  大きな声がした。足立先生だ。 「ヤジがとばせないので苦しい」  みんな大爆笑だ。 「村野さんはまちがったことをいっているので訂正しておく」  足立先生は高《たか》飛《び》車《しや》にいった。そういうものの言い方と、ようしゃのないところが煙たがられるところだろう。 「さきほど治療ということばを使われたが、胃が悪いから治療するという意味の治療だったら、村野さんはなにか勘ちがいをしているか、それとも無知かどっちかだ。大脳の細胞、つまり神経細胞が再生しないことぐらい中学生でも知っている事実で、ちえおくれの子どもの教育はそこがほかの教育とちがうところだ。村野さんは、なにが身につくんですかと反問されたが、その考え方が、こんにち精薄児教育のもっともまちがった考え方とされているのをごぞんじか。ドイツのビールフェルトに誕生したベテルで、ちえおくれの人たちと一生をすごしてきたある白髪の修道女がこういったんです。『効果があればやる、効果がなければやらないという考え方は合理主義といえるでしょうが、これを人間の生き方にあてはめるのはまちがいです。この子どもたちは、ここでの毎日毎日が人生なのです。その人生をこの子どもたちなりに喜びをもって、充実して生きていくことが大切なのです。わたしたちの努力の目標もそこにあります』村野さん、このことばをわれわれ教師はじっくりかみしめて考えんといけません。小谷先生はたぶんこの話は知らないはずだ。しかし、小谷先生がやってきたことは、このことばそっくりじゃないか」  村野先生はかえすことばがない。 「小谷先生はきのうからこちら泣いてばかりいる。なにを泣くことがあるんですか。泣くな小谷先生と、みんながいってあげんといかん。さきほど話したベテルのボランティアの中には失業者や貧困者、非行少年さえまじっているという。ちえおくれの人たちのことを障害者とわれわれは呼ぶが、心に悩みをもっているのが人間であるとすれば、われわれとてまた同じ障害者です。小谷先生は、みんなもよく知っている臼井鉄三でさんざん悩んだ、血を吐くような思いで一歩一歩鉄三の心に近づいていった。小谷先生には問題児も、ちえおくれも、学校の教師もなにもない、みんな悩める人間だったんだ。きょう、みなさんは学校からかえるとき、西校舎のうらを見てからかえられるがいい。そこに二つの作品がある、じつにみごとですがすがしい作品がある。それは問題児の鉄三が、ちえおくれの伊藤みな子といっしょに作った感動的な作品です。あの鉄三があのみな子が、と思われるだろう。ちえおくれといわれ、問題児とかげ口をたたかれた子どもを、小谷学級の子どもたちはあたたかく受けとめ、先生もふくめてみんなが泥だらけになって生きてきた、そういうあかしがあの作品だと思う。わたしはそんな小谷先生を尊敬する、そして泣くな小谷先生とやさしくいってあげたい」  足立先生はそういって腰をおろした。しばらくは職員室は水をうったように静かだった。  15 さよならだけが人生だ    みな子は絵をかいている。みなこ当番が、みな子の指の先に赤、青、黄などの絵の具をつけてやる。みな子は大きな画用紙の上に、その指を好きなように走らせる。力づよい線が美しい色といっしょに生まれてくる。  アクションペインテングとかドローイングとか呼ばれているその絵は、約束ごとがないので、みな子のような子どもにはうってつけの教材だ。みな子もその絵をかいているときは、いきいきしている。  よかったね、みな子ちゃんと小谷先生はかたりかけた。職員会議で足立先生が発言してくれていなかったら、いまごろどうなっていたかわからない。みな子ちゃん、いま、あなたはわたしの学級になくてはならないひとなのよ。  みな子がきてから、この学級はだいぶかわったと小谷先生は思う。一学期のときは、告げ口が多かった。いまはそれがほとんどない。なんとなく学級に活気が出てきた、なにかしなければ子どもはかわらないんだとつくづく思う、もちろんわたしもと、小谷先生はちょっとてれて思った。  でも、もうすぐみな子ともわかれなくてはならない、それがかなしい。かなしいだけでなしにこれからどうすればいいのだろう、いつまでもいてほしいのにと小谷先生はさびしく思った。 「せんせい、きゅうしょくぐるま、もうつかわないの」  照江がたずねにきた。 「ええ、かえってじゃまでしょう。もう使わないわ」  給食の車というのは、ミルクかんをはこぶ車のことで、机と机のあいだを引っぱっていきながら、それぞれの食器にミルクを入れていくようになっている。教室がせまいので、あちこちにあたって、よくミルクをこぼす、かえって不便なので、さいきん使っていなかったのである。 「そしたら、あのくるまつかっていい」 「いいわ。だけどなにに使うの」 「みなこちゃんのじょうようしゃにするの」 「へえ」 「いい」 「もちろん、いいわ」  小谷先生は興味をもった。気をつけて見ていると、遊び時間にせっせと色をぬっている。車はラワンという木材でできていた。はじめクレパスで色をつけていたが、木の色にまけてしまってうまく色がのらない。とちゅうで絵の具にかえた。水をまぜないで小さな面積をていねいにぬっている。いろいろな模様をかきこんでぬっていた。 「はよ、かかせてえな」  じゅんばんをまっている子がさいそくをしている。 「六十、六十一、六十二、六十三……」と数を読んでまっているところをみると、ひとり百とか二百とか制限時間があるらしい。小谷先生は思わずほほえんだ。 「きれいわね」 「きれい? せんせい」 「とってもきれいナ。イランやパキスタンという国ののりあいバスは、ちょうどこの車のように絵がかいてあるの。こんな車にのったら、さぞたのしいことでしょう」 「みなこちゃんをのせてあげるの」 「先生ものせてほしいなァ」 「せんせいはおとなだからダメ。こわれてしまう」  車は三日ほどで完成した。きれいな花のような車だった。  子どもたちはみな子をのせて試運転をした。車が動き出すと、みな子はかん高い笑い声をあげた。からだをゆらゆらさせてよろこんだ。鳥のように手をふってはしゃぐのだった。  車はみな子のお気に入りになった。どういうわけかみな子はカサが好きだ。雨がふらないときでもよくカサをさした。学校の置きガサは黄色だ。そのカサをさして車にのるのが、みな子のお気に入りなのである。黄色いカサと、赤や青の車はよくにあった。  当番の子どもに引かれて、みな子の車はゴロゴロ教室をまわる。そのよこで子どもたちは静かに小谷先生の授業を受けていた。  二度めのみなこ当番が道子にまわってきた。こんどは淳一と組になった。昼の給食の時間のときのことだった。献立がクジラ肉甘《うま》煮《に》である。熱い料理ではないので、ついみな子はスプーンをおいて手づかみした。そのとき道子は、 「ダメ」  とさけんでみな子の手をぴしゃっとぶった。みな子はしかたなしに、またスプーンでたべはじめた。  よこでそれを見ていた文治が、 「みなこちゃんをたたいた、わるいわるい」とはやしたてた。  それがきっかけで、三度め、みな子のことを話し合う時間をもったのだ。 「みなこちゃんがわるいことをしたら、みんなでちゅういするほうがいいとおもうねん。みんなはみなこちゃんがすきやとおもうねん。そやからいうて、なんでもかんでも、みなこちゃんにしんせつにするのは、まちがいやとおもうねん。みんなのかんがえと、ぼくのかんがえはちがいますか」と淳一がいった。 「みなこちゃんかてれんしゅうしないと、いつまでもなおらないでしょう。わるいことをするのをなおさないと、わたしらはかまわないけれど、みなこちゃんがかしこくならないでしょ。わたしのかんがえは、みなこちゃんもべんきょうをしたら、かしこくなるとおもうんだけど、せんせいはどういうかんがえですか」  と道子もいうのだった。  小谷先生がおどろいたのは、たいていの子どもが、そうやそうやとふたりの意見にさんせいすることだった。 「みんなえらいわ」と小谷先生はいった。 「みな子ちゃんはもうすぐ養護学校にいって、いろいろれんしゅうをするのよ。つらいことがあるかもわからない、そのとき、いまのみんなの考え方は、きっとみな子ちゃんに役立つと思うわ、ね、みな子ちゃん」  みな子はククク……と笑って、小谷先生の手にぶらさがった。  それからしばらくして、みな子はへんとうせんをはらして学校を休んでしまった。いまは一日でも二日でもおしい時間だったのに、小谷先生はざんねんでならなかった。子どもたちもなんとなく元気がない。主のいない車にのって遊ぶ子がいたが、じきおもしろくなくなるのか、つまらない顔をしておりてしまう。車の明るい色が、いまはいっそうわびしかった。  小谷先生は学校のかえりに、みな子の家に寄ってみた。 「おとなしくねていますか」 「なかなか先生、それにいま淳一くんと道子さんがおみまいにきてくれたので、キャアキャアいうて遊んでいます」 「あら、淳ちゃんらがきているんですか」 「ええ。それに先生」  みな子の母親は声をひそめた。 「このあいだ淳一くんのおかあさんがみえられましてね。あなたに悪いことをした、きょうはあやまりにきたっておっしゃるんですよ。先生が印刷してくださる学級通信を読んで先生のお考えもよくわかったし、なによりも淳一くんのかわりようにおどろかされたっていっていました。淳一くんがうちのみな子といっしょにすわっていたときに、先生に席をかえてもらうようにいいなさいとおっしゃったらしいです。淳一くんはいやだというので、教科書までやぶられてどうしていやなのかとたずねると、淳一くんはみな子を大事にしてやらないと、あちこちで教科書をやぶるといったんだそうです。その一言でおとなの負けだと思ったと、淳一くんのおかあさんはしみじみおっしゃっていました」 「そうですか」  小谷先生は胸のあつくなるような思いだった。  みな子の部屋にはいっていくと、みな子はふとんの上で、淳一と道子はその前で、はらばいになって折紙をおっていた。もっともみな子はおってもらった折紙をならべているだけだったが……。 「ごくろうさま、淳ちゃん道子ちゃん」 「あ、せんせい」とふたりはおきあがった。 「みな子ちゃん、ぐあいはどうですか」  と小谷先生がいうと、みな子はすぐ笑顔になって小谷先生の手をさわりにきた。 「あら、みな子ちゃん、あなただいぶ熱があるじゃないの」 「ええ、どういうんですかね。こういう子は熱なんかあまり気にならないんでしょうかね。八度、九度とあがっても、こんなちょうしなんですよ」 「みなこちゃん、いつもとおなじよ、せんせい」と道子がいった。 「でも、あまり長く遊んでいると、みな子ちゃんの病気によくないから、もうすこしいたらかえりましょうね」  小谷先生はつらい思いがした。もうすぐ、この子たちに別れのかなしさを味わわせなくてはならないと思うと、自分がたいへんにざんこくなことをしているように思えた。  その夜、小谷先生は夢を見た。       *  どこか遠い海だった。それはサンゴ礁の海だったろうか。はるか沖合は白く波立って、かげろうの羽音のような潮《しお》騒《さい》が、かすかにきこえてきた。まっ白な砂はいつか波にあらわれて、ゆらゆらゆらいでいる。コバルトブルーの海は少女の眼のように、ふかく、やさしかった。みどりのつるが、砂浜に足をのばしている。淡《と》紅《き》色の小さなラッパは、ひるがおの花で、天を向いてかわいい演奏をしている。この海はどこだろう。赤いカニが二匹にげた。小谷先生はそのカニをおう。先生をごまかしちゃダメよ、あなたはみな子ちゃん、あなたは鉄三ちゃん、カニになって先生をごまかそうとしたって、その手にのるもんですか、こらまて。長い髪をなびかせて小谷先生は走る。海の中へにげるなんてずるい。小谷先生は先まわりをする。笑い声をあげてカニがにげていく。わるい子、先生はおこったゾ、もうかんにんしてやらないわ。白い砂浜を小谷先生はかけた、鉄三とみな子ははだかで砂をほっている。そら、つかまえた。みな子はからだをくねらせてにげる。キャアキャア笑ってするりと身をかわす、鉄三は両手を広げて鳥のようににげる、ブーンとひこうきのまねをして小谷先生をからかってにげる。ちゃんとおしゃべりができるくせに、よくも先生をだましていたナ。みな子の笑い声がかん高い。ふたりはかける、小谷先生もかける。また海へにげるつもりだ、ほんとうにわるい子、いいわ、先生はおよげるんだから、どこへでもにげてごらん。バクじいさんがいた。岩に腰をおろしてチェロをひいている。子どもたちはバクじいさんにとびついた。みな子がまた高い声で笑っている。鉄三はバクじいさんにもたれてあまえている。バクじいさんはやさしい眼をしてにこにこと、チェロをひいている。ひどいわ、みんな、わたしをこんなにかけさせておいて。バクじいさんはふたりの手を引いて歩きだした。おじいさんまって、わたしもいくんだから。潮騒はいっそうひどくなった。まって、まってったら。沖の波がたかくなった。どうしたの、鉄三ちゃん、わたしをおいていかないで。みな子ちゃん、こっちを向いて。おじいさんおじいさん、いや、ほうっていかないで。鉄三ちゃんみな子ちゃあーん。      *  小谷先生は泣いていた。夢だったのにほんとうに涙をこぼして泣いていた。いやだわ、夢を見て泣くなんて子どもみたい、小谷先生ははずかしかった。  とうとう、みな子と別れる日がきた。  小谷先生はできるだけ、ふだんの日と同じようにふるまった。昼休みにみな子の両親とおばあさんがそろって学校にきた。つぎの学校へ手続きにいくので、みな子は給食をたべないでかえることになった。  みな子の両親は、小谷先生にお礼をいった。母親とおばあさんは泣いていた。小谷先生はほほえんであいさつを受けた。みな子の両親は子どもたちにもお礼をいった。 「どういたしまして」  だれかがおどけていったので、みんな笑った。小谷先生はほっとした。できるだけさりげなく、みな子と別れたかった。それで、その笑い声はありがたかった。  給食はくばってしまっていたが校門までみな子を送っていくことになった。みな子はみんなにかこまれて、きげんがよかった。  ゆらゆらと歩いて笑い声をあげた。 「みなこちゃん、きょうきげんがいいね」とたけしがいった。 「あしたからこのがっこうにこられへんのになあ」とふしぎそうだ。  校門の前で、みんなはいった。 「みなこちゃん、さようなら」  みな子はククク……とうれしそうに笑った。おばあさんがなんども頭をさげた。 「みなこちゃん、またあそびにおいでよウ」「みなこちゃんのくるま、ちゃんとおいといたげるさかいな」 「みなこちゃん、さよーならー」  みんな手をふった。みな子はいっそう大声で笑った。子どもたちはみな子の姿が見えなくなるまで手をふっていた。  みな子を見送ってから、給食をたべるために、みんな教室へかえった。いつもはやかましいのに、きょうはあまりしゃべる子どもがいなかった。教室中がなんとなくしーんとしていた。  小谷先生は淳一が給食をたべないことに気がついた。 「淳ちゃん、どうしたの。どうして給食をたべないの」  淳一はうらめしそうに小谷先生の顔を見た。ほおのあたりがひくひく動いた。みるみる眼に涙がたまった。なにかを訴えるように、となりの道子を見、たけしを見て、ふたたび小谷先生の顔をみつめた。  それは短い時間だったのに、長い時間のように感じられた。小谷先生はくるっとうしろを向いた。小谷先生の肩ははげしく動いて、どの子どもも先生が泣いていることを知った。淳一はぽろぽろ涙をこぼし、それまで、がまんしていた道子は声をあげて泣きはじめた。照江はしゃくりあげ、たけしは下を向いたままだった。みんなさむい顔をして、さめた給食をみつめていた。  16 ハエ博士の研究    鉄三と小谷先生はさきほどから、三つのビーカーをにらみつづけている。ふたりとも、ひどくしんけんな顔をしている。「ハエの研究」をすすめてから、はじめて鉄三と小谷先生の意見がくいちがったのだ。  鉄三の「ハエの研究」はだいぶすすんでいた。ずっと前からいろいろなハエをあつめて飼っていたのだから、ハエの種類と分類はすでにすませていることになる。鉄三のかいたたくさんのハエの絵が、その仕事にあたる。「ハエのたべもの」から研究をはじめて「ハエの一生」にとりかかり、それから、産卵の研究をした。これは同時に、ハエの発生場所を知ることにもなって、なかなか貴重な研究資料である。  ハエのたべものは鉄三の飼っているすべての種類で実験をして、一つ一つのハエのたべものの好みを表にしてある。クロバエやキンバエ、ニクバエなどは動物質のたべものを好み、イエバエは植物質を好むようである。鉄三の作ったこの表の中から、おもしろい事実を一つ二つひろってみると、ニクバエは名のとおり動物質のたべものにたかるが、一方では木の汁をエサにしたりする。チーズバエという名のハエがいたので、じっさいにチーズが好きなのかどうか実験してみると、もちろんチーズにもたかるが、魚の干物にも同じようにたかるので、とくべつチーズが好きというわけでもないことがわかった。  ハエの一生は鉄三にとってごくかんたんな研究だったようである。卵から成虫になるまでの期間がおよそ二十日くらいだったので、観察しやすかったのだろう。ハエは種類によって、成長の日数に差があるが、およそ卵は一日でうじになり蛹《さなぎ》になるまでに、二回皮をぬぐ。その期間はイエバエが六日から十日、ニクバエ、クロバエは七日から九日、キンバエは十二日ぐらいということが、鉄三の観察からわかった。  蛹は土の中にもぐる、土がなければなんでももぐれるところにもぐる。鉄三はビンの中でハエを飼っていたので、蛹が土の中にもぐることを知らないと、はじめ小谷先生は思っていたのだが、鉄三がハエを採集するときに成虫をとるより蛹の方を多くとってきていたので、この考えはあらためなくてはならなかった。  鉄三の観察によると、蛹の期間はイエバエで四日から十一日、ニクバエ、クロバエ、ヒメイエバエで十二日から十五日、キンバエで十日前後であった。  ショウジョウバエは卵から成虫になるまでの期間が十日ぐらいで、ほかのハエの半分ぐらいの時間しかかからない。  ハエはいつまで生きるかということであるが、ざんねんながら、これは鉄三の実験結果はばらばらでよくわからない。  文治に、カエルのえさにされてしまった金《きん》獅《じ》子《し》のかわりに、鉄三がいま大事にしている二代目の金獅子は、飼ってから二カ月たっているが、いっこうにくたばりそうにない。二カ月もたつとたいていのハエは死んでいる。  ニクバエは卵をうまない、体内でふ化してうじになって出てくる。これは小谷先生は知らなかった。鉄三の研究から知ったことである。  ハエの産卵場所はハエの種類によってだいたいきまっている。しかし、このことを知るまでに、鉄三はたいへん苦労をした。ビンの中の実験とちがって歩きまわらなくてはならなかったからだ。小谷先生もだいぶ手伝いをした。ゴミ溜《た》めの中、くさったワラや草の中、鉄三はどんなきたないところも平気でほりかえした。ネズミの死体をしらべているときは、さすがに小谷先生は近づくことができず、遠くからはらはらしながら鉄三を見ていた。小谷先生は鉄三を、つくだに屋やかまぼこ屋、魚屋やパン屋など、ハエのいそうな店につれていった。鉄三はまるで名たんていのように、ハエの産卵場所をみつけてきた。  市場に小谷先生のファンがたくさんいるのでこういうときにはつごうがいい。ハエはいませんかなどといって、たべもの屋へはいっていったら、ふつうなら、ぶんなぐられるところだろう。  ハエの産卵場所のベスト5は、つぎのようなところだった。ゴミ溜め、便所、たい肥(つみごえのこと、わら、草、落葉などのくさったもの)、動物死体(魚、昆虫、小動物など)、つけものおけ。  鉄三は卵を見て、ハエの種類がわかるときがある。たとえばキンバエの卵はやや赤味をおびているのですぐわかる。イエバエとオオイエバエは大きさでわかる。なかにはよくにていてわからない場合がある。そういうとき、鉄三はその卵をもってかえって飼育してみた。こうして鉄三はハエの産卵場所を、表にした。種類によって、その場所がことなることもそれでよくわかった。 「鉄三ちゃん、イエバエは便所にたくさんいるでしょう。人間のふんをえさにするし、便所とかんけいがふかいのに、どうしてイエバエのうじは便所にいないんでしょう」  小谷先生はイエバエやキンバエのうじがどうして便所にいないのかふしぎだった。オオイエバエ、ヒメイエバエ、ケブカクロバエ、ニクバエなどのうじは便所にいるのである。  鉄三は首をかしげた。ほんとうにわからないらしい。このごろ小谷先生は、鉄三がしゃべらなくても、かれと話ができるようになっている。眼の動きや、ちょっとした動作でだいたい鉄三がなにを考えているのかわかるのだ。  鉄三の方も「ちがう」とか「あかん」、それにハエの名まえをいうぐらいのことは、しゃべるようになっている。 「鉄三ちゃん、あなた、ハエの絵はかいているけれど、うじの絵はかいていないでしょう。それぞれのハエのうじをできるだけこまかくかいてみたらどう。なにかわかるかもしれなくてよ」  二、三日して鉄三のかきあげた絵を一目みて、小谷先生はすべてがわかった。 「鉄三ちゃん、うじのからだのうしろに突き出たものがあるでしょう。これ、なにするものか知っている?」  鉄三は首をふった。 「でも鉄三ちゃん、突き出たものをもっているうじと、もっていないうじをあなた知っていたんでしょう」  鉄三はうなずいた。 「もっていない方のハエの名まえをいってみて」 「イエバエ、キンバエ、ミドリキンバエ」 「やっぱり」と小谷先生はいった。 「あなたがいまいった名まえのハエは、どれも、うじが便所にいないわ。鉄三ちゃん、この突き出たものは気門といってね。うじはここで呼吸をしているのよ。だから、突き出たものをもっているうじは、便所のようなどろどろしたところでもすめるけれど、もっていないうじはおぼれ死んでしまうわけよ」  小谷先生は自分の発見に興奮したようだ。 「ね、鉄三ちゃんそうじゃない。これでなぜイエバエやキンバエのうじが便所にいないか、ナゾがわかったじゃない」  鉄三の目もかがやいた。ふたりはさっそく実験にとりかかった。小麦粉をといてどろどろした液を作った。それをビーカーに入れて突起のあるうじ、ないうじをいっしょに入れた。結果は小谷先生の思ったとおりになった。生きていたうじはすべて突起のある方のうじばかりだったのである。このハエの産卵の研究は、後で鉄三がたいへんな手柄をたてる原因にもなる。  いま、鉄三と小谷先生がにらんでいる三つのビーカーには、砂糖、砂糖水、水がはいっている。水と砂糖水はハエがとまりやすいように綿にしみこませてある。  ふたりの意見がちがったのは、ハエがえさにたどりつくまでは、もののにおいにたよるのだろうが、水ににおいがあるかという疑問に、鉄三はあるといい、小谷先生はないといったことからである。水ににおいがあるなら、ハエは水、または砂糖水にたかるだろう、すくなくとも砂糖だけのものより数多くハエがたかるはずだ。  ふたりはじっとビーカーを見つめた。  あっと小谷先生が声をあげた。ハエがさいしょにとまったのは砂糖水の方である。  小谷先生はなさけなさそうな顔をした。鉄三はじっとビーカーを見つめたままだ。二匹めのハエはさいしょ水の方にとまったが、すぐ砂糖水の方に移動した。三、四匹たかるまではひまがかかったが、それからは、つぎつぎとんできた。たいていのハエは砂糖水の方にとまる。水の方にとまるハエもかなりいたが、これはじき砂糖水か、砂糖の方に移っていく。とんできて、さいしょに砂糖だけの方にとまったハエは、数えるほどしかいなかった。 「やっぱり鉄三ちゃんの方が正しいのね。ざんねんむねん」  小谷先生は笑いながらいった。  秋がふかくなって、鉄三の「ハエの研究」もいそがなくてはならなかった。さむくなれば、この研究はいちおうおしまいにしなくてはならない。ハエというのは、いつの季節にも活動しているわけでなく、たとえば、真夏はクロバエ、オオイエバエが姿を消し、いっぽう秋にはキンバエ類がほとんどいなくなる。鉄三が比較的多種類のハエを自由に研究できたのは、自分で飼っていたからである。採集だけにたよっていたら、こんなにも成果はあがらなかっただろう。  鉄三はハエの研究をするうち、すこし、かわってきたようだ。  これまでハエは鉄三のペットで、猫かわいがりするようなところがあった。気に入ったハエだけをあつめて、たのしんでいるようなところもあった。観察をはじめてから、ずいぶん冷静になった。実験のためにハエをまびいたり、ときには死ぬことをしょうちの上で観察をつづけなくてはならなくなっても、けっして感情的にならなかった。  うじの実験なども、むかしだったら、小谷先生は怒りくるった鉄三にまたもや顔をひっかかれているところである。  鉄三はハエやうじを、ピンセットでつまむようになった。たくさんのハエを移動させるようなときは、手でつかむくせがいまもなおらないが、なるたけ素手は使わないようにしていることが、小谷先生にもよくわかった。  小谷先生はアルコールとクレオソート液を鉄三にわたしていたが、ときどきは使っているようだった。採集してきたハエと、はじめから自分の飼っているハエは区別していて、実験や観察のためにどうしても両者にふれなくてはならないようなとき、その消毒液を使っていた。二代目金獅子をアルコールでふいていて、鉄三は小谷先生に笑われたことがある。 「鉄三ちゃん、まるっきり細キンのないハエはからだがよわくてすぐ死ぬそうよ」  そういわれて、いまは金獅子をアルコールでふくのはやめている。 「ハエの研究」は順調だったが、悩みがないわけではなかった。小谷先生はこの研究がほんとうに完成するときは、鉄三が文章を自由にあやつるようになったときだと思っていた。  みな子が転校していって、小谷先生はすぐ「朝の日記」をはじめた。みな子で苦労した時間をすぐ「朝の日記」にふりかえたのだ。小谷先生は自分にラクをさせないつもりだった。「朝の日記」は先生も子どもも四十分はやく登校するところからはじまる。小谷先生はひとりひとりの日記に感想をかきこんでやりながら、子どもととりとめのない話をする。なんでもないことだが、これは先生も子どももたいへんな重労働であった。  鉄三はさいしょの日、日記帳に「みどりきんばえ、きんじし」とかいてきた。つぎの日は「いえばえ、うんこ」とかいてきた。三日めは「しょうじょうばえ、おさけ」だった。小谷先生はそのノートにいろいろおしゃべりをかいてやるのだった。ハエのことだったり、バクじいさんのことだったり、ちょくせつ日記とかんけいのないことばっかりだ。しょうじょうばえはおさけがすきです、というかき方を教えるのはかんたんだが、小谷先生はそんなことはかかない。鉄三を信頼しているからだろう。  芸は身をたすける、とむかしの人はいったが、とんでもないところで、鉄三はそのことばを証明するような、たいへんな手柄をたてた。  ある日、小谷先生のところへ電話がかかってきた。校区内にあるハム工場からだった。 「妙なことをうかがいますが、先生はハエの研究をなさっていられるとかおききしたんですが……」 「わたしが研究しているわけじゃありませんわ。教え子がやっているんです」 「じつはあまり大きな声でいえないのですが、わたしの工場でハエが異常にふえてこまっておるんです。商売が商売ですからハエはたいへんこまるんです」  それはそうだろう、ハム工場にハエがいっぱいいてはお話にならない。 「肉のとりあつかい、廃棄物の処分、工場内の清掃などどれもじゅうぶん気をつけているつもりなんですが、さっぱり原因がわかりません。いちど、ごらんいただいて適切な処置をおねがいできないものでしょうか」  小谷先生はこまった。専門家じゃあるまいし、そんなことができるとは思えない。 「保健所にたのんでみられたら……」 「いやもう保健所はおねがいしました。ご指導をうけたところは全部きちんとやったのですが、いっこうにハエがへらんので……」  鉄三をつれていってみようかと小谷先生は思った。うまくいかなくてもともとだ。ひょっとして鉄三がなにかみつけてくれるかもしれない。  小谷先生がしょうちすると工場の人はひじょうによろこんだ。  大きな外車が学校によこづけになった。あんまり見事な車なので子どもがわいわいさわいだ。その車に鉄三と小谷先生はのった。いっしょについてきた工場の人はへんな顔をした。 「この方がハエの研究をしているんですか」 「そうです」  小谷先生はすましてこたえた。工場の人はいっそう、へんな顔をしている。ま、むりもない。りっぱな応接室で、お茶とケーキをごちそうになってから、小谷先生は鉄三といっしょに工場をひとまわりした。たしかに清潔な工場である。どうして、こんなところにハエがいるのだろう。 「おかしいね、鉄三ちゃん」  鉄三もふしぎそうな顔をしている。小谷先生は鉄三といっしょに仕入れたハエの知識をフルに回転してみたが原因がわからない。 「どこにハエが多いのですか」  いちばんハエの多いといわれる工場につれていってもらった。なるほど、かなりのハエの大群だ。 「イエバエや」  と鉄三がさけんだ。そんなバカな、というようなひびきがあった。小谷先生もすぐ気がついた。製肉工場だから、キンバエやニクバエがいるのなら話はわかるが、イエバエばかりというのは妙だ。 「へんねえ鉄三ちゃん」  鉄三はきゅうにハム工場のへいをよじのぼっていった。そうして大声でさけんだ。 「あれや」  はしごをもってきてもらって、小谷先生と工場の人はへいの向こうを見た。そこはまだ田んぼが残っていて、道のはしに大きなたい肥の山が六つもあるのだった。  小谷先生はすべてがわかった。 「あのたい肥が原因ですわ。イエバエはたい肥の中に卵をうむんです。おたくの工場にいるハエはみなイエバエですから、あのたい肥が原因であることはまちがいありませんわ」  一週間ほどして、ハム工場からお礼がとどいた。その日の給食に、献立表にないソーセージがひとりひとりの子どもについていた。やがてその理由が校内放送で伝えられた。  鉄三はいちやく英雄になってしまった。もっとも鉄三自身は人ごとのように、知らん顔をしていたが……。  芸は身をたすける、小谷先生はそのことばをかみしめた。知らず知らずのうちに笑いがこぼれてくるのをおさえることができなかった。  鉄三がはじめて大声でおしゃべりをしてくれた、そのことがなによりも小谷先生にはうれしかった。  17 赤いヒヨコ    駅前に人だかりがしている。かえりをいそぐ小谷先生はそれをさけて通ろうとした。三歳ぐらいの子どもが泣きじゃくっている。母親が引き立てるのだが、子どもは大地にしがみつくようにして泣いている。  小谷先生はのぞきこんでみた。  ダンボールの中に、赤や青のヒヨコがおしあいながらにぎやかにないていた。となりにたらいがあって、五センチくらいのミドリガメがごそごそはっている。子どもはそのどちらかをほしがって泣いているのにちがいなかった。なるほど子どものほしがりそうなものだと小谷先生は思った。それにしてもどうしてヒヨコが赤いのだろう、青いヒヨコなんていたのかしらん。よく見ると、ヒヨコはなにかの染料でそめられているのだ。ところどころはげかかっていて、そこから黄色い毛がさびしそうにのぞいていた。いやなものを見たと小谷先生は思った。  泣きじゃくっていた子どもの声が小さくなったと思ったら、その子は母親の手を引いて人ごみの中へはいっていった。いくらかのお金とひきかえに赤と青のヒヨコを箱につめてもらっている。手わたされて子どもはにーと笑った。いやな笑いだと小谷先生は思った。そしてふと夫のことを考えた。  ふたりで西大寺にいったことがある。  夏の雨で西大寺はあでやかだった。 「雨のお寺って、わたしたち運がいいわ。ほら緑がいまにもとけて落ちそうよ」  小谷先生ははしゃいでいった。  土べいについて話をしたり、西大寺の竹の美しさについて議論をした。本堂では、ふたりの興味がちがった。小谷先生はあいかわらず善財童子のファンだ。 「どうですか、わたしちょっとは美しくなりましたか」  すこしばかり自信のある小谷先生は、善財童子にそんなことを話しかけた。  夫は本尊の釈《しや》迦《か》像《ぞう》が好きだ。衣の線があやしくて美しいという。 「そういえば、このお釈迦さん、なかなか美男子ねえ」  小谷先生は寺の住職がきいたら顔をしかめそうなことをいった。 「ひみつの場所を教えてあげましょうか」と小谷先生は夫にいった。  塔のあとを右にすすむと小さな池がある。その辺はかん木が多くて、あまり人が近づかなかった。池のよこに小さな石仏がならんでいるのだった。ひなびた風景が好きで、小谷先生はよくここへ足をはこんだ。 「この景色いいでしょ」 「うむ」  夫は短い返事をした。 「ここの石仏おもしろいのよ。尊厳さなんてちっともないの。あっちにいるオッチャン、こっちにいるオバチャンといった顔をしているわ」  と小谷先生は夫の方をふりむいた。夫はぼうと立っていた。夫の眼はなにも見ていない眼だった。考えごとをしているらしいのだが、口もとがひらいている。夫のそんな顔を小谷先生は見たことがなかった。  ふいにのっぺらぼうの顔を見たような気味のわるいものを小谷先生は感じた。  夫の友だちがひんぱんに小谷先生の家をおとずれるようになった。仕事の話をしているようだった。小谷先生は学校からかえったばかりでつかれていることが多かったが、つとめて笑顔で接待した。自分も学校の仕事が行きづまったとき、足立先生や折橋先生に相談にのってもらった、そのときのことを思い出して笑顔をたやさないようにつとめた。  そんなことがつづいて、ある日、夫はいった。 「友だちの事業に出資してやりたいのだが、おとうさんからもらった土地を担保にしてお金を借りてはいけないかな」  夫はいずれいまの会社をやめて、その会社を共同で経営するのだともいった。  いいでしょと小谷先生はいった。家を建てることだけが目的の無気力なサラリーマンになるより、失敗をしても力いっぱい生きる人の方がいいと小谷先生は思っていた。  ちょうどみな子が小谷学級にはいってきたころ、夫は主任になった。その祝いの会を小谷先生の家でもった。おきまりのお世辞と、遊びの話ばかりでその会はおわって夫はつかれていた。小谷先生はふとんを敷きながら、 「あなたもたいへんね」  となぐさめるようにいった。夫はふいに小谷先生をだきしめながら、ささやいた。 「はやくおまえにラクをさせてやりたいよ。学校に勤めるのももうすこしのしんぼうだからね」  小谷先生は仰天した。いったいこの人はなにを考えているのだろう。小谷先生は夫の善意を傷つけないために、それにたいしてなにもこたえることができなかった。  赤いヒヨコも青いヒヨコもなき声は同じだった。自然のままの黄色いヒヨコも同じ声でなくだろう。声まで染められない、そう思うと毛を染められたヒヨコのなき声は精いっぱいの抵抗のように思われた。  人間が生きるっていうことはどういうことだろう、ふたりで生きるということはどういうことだろうと小谷先生は思った。  家にかえると、夫は青ざめた顔をしてげんかん口に立っていた。小谷先生の顔を見るなりいった。 「おまえ、たいへんだよ」 「どうしたの」 「どうしたもこうしたもあるもんか、ドロボーだよ、ドロボーにはいられたんだ」  なるほど家の中は警官でいっぱいだった。部屋の中はものの見事にちらかっていた。白衣を着た人がタンスのあちこちに白い粉をふりかけている。犯人の指紋をとっているのだろう。小谷先生も両手にべったりインキをぬられた。 「なぜわたしが指紋をとられなくちゃいけないんですか」 「は、犯人のものと区別するためです」  若い警官がこたえた。  ぬすまれたものをいちいち報告しなければならなかった。大きなものは思い出せたが小さなものはよくわからない。すると、そばにいた夫がてきぱきと品物の名をいった。内心、小谷先生はおどろいていた。家のことは女の方がよく知っているものだが、わたしの家はまるで反対だ。  それにしてもよくこんなにごっそりもっていったものだと小谷先生はしまいにはおかしくなってしまった。 「奥さんのおうちは共かせぎですね」 「はい」 「共かせぎのおうちはとくに気をつけてもらわないとこまりますよ」 「はい」  返事をしたものの小谷先生はバカらしくなった。なにを気をつけるのだ、戸じまりをして出ていった者になにを気をつけろというのだろう、それにどうして、共かせぎの家はとくに気をつけなくちゃいけないのだ、いうべきことがさかさまのような気がした。  夫は頭に手をやって、さかんに恐縮している。腹が立つので小谷先生は夫の服をぐいと引っぱった。 「きれいさっぱりなくなっちゃったわね」  警官がかえってから、小谷先生はむしろほがらかにいった。こんなことで家の中が暗くなってはかなわないと思っているのかもしれない。 「ちぇ」と夫は舌打ちした。  男だからグチはこぼさないが、いらいらしているようすがよくわかる。預金通帳とか証書の類など、届ければ被害がふせげるものを、なんどもねんをおすように小谷先生にたずねている。 「わたし、あなたに買ってもらった真珠のブローチがおしかったナ」  と小谷先生はいってみた。夫はまっていたように、つぎつぎと品物の名を口にした。小谷先生はひそかに後悔した。  三日めに犯人はあっけなくあがった。  食事をしているとチャイムがなった。小谷先生が出てみると、刑事や警官数人と、背の低いみすぼらしい男が右の手に手錠をかけられて立っていた。小谷先生は息がつまった。 「天井にぬすんだものの一部をかくしているらしいんです。こんな時間にもうしわけありませんが現場検証をさせてもらえませんか」 「どうぞ」  小谷先生はテレビドラマでもみているような気がした。  男の手にかけられた手錠が白くぶきみに光って、小谷先生は気が遠くなりそうだった。  天井板はかんたんにはずれた。そこに住んでいる小谷先生の知らないことだった。そこから、小さくて値のはる品が数点出てきた。小谷先生が口にした真珠のブローチもあった。 「どうしてそんなところへかくしたのかな」  夫がひとりごとのようにいった。 「なあーに、なにかのもの音におどろいてあわててかくしたんでしょう。気の小さい男ですよ」  とひとりの警官がバカにしていった。そして、おい、とその男をこづいた。男はあわてて土下座した。 「申しわけありません」 「は、いいえ」  思わず小谷先生はいってしまった。警官たちは吹き出した。小谷先生はまっ赤になってしまった。 「家から出たもんだから、盗品ともいえませんな。ほんとうは手続きがいるんだが、ま、ここでお返ししときます」  品物は夫が受けとった。  犯人がげんかんに出たとき、小谷先生ははじめてその男の顔を見た。老人のような顔だった。眼をしょぼしょぼさせて、たえずおろおろしていた。男が頭をさげて向きをかえたとき、小谷先生はあっと思った。男は左手がなかった。戦争でなくしたのだろうか、それとも交通事故だろうか、小谷先生は引かれていく男のうしろ姿を見つめた。さむい気がした。 「あんな人生もあるんだね」  夫もしみじみいった。小谷先生はぺったりたたみにすわった。いまかえしてもらったばかりの真珠のブローチがにぶく光っていた。そんなものをもっていた自分がいけないように小谷先生には思えた。 「でも、もどってきてよかったな」  夫はあたりまえのことをいっているのだったが、どうしてか小谷先生はそのとき夫ににくしみをおぼえたのだった。  つぎの日の夜、処理所の子どもたちが小谷先生の家にやってきた。 「こんばんは」  功も芳吉も、四郎も徳治も顔を出した。 「こんばんは先生」  純も恵子も顔をつき出した。 「あれあれ、いったいなん人できたの」 「みんなや」 「みんな?」  しげ子、武男、浩二、みさえとぞろぞろはいってきた。 「ヒャー、ほんとにみんなできたのね。いないのは鉄三ちゃんだけじゃないの」  小谷先生はおどろいていった。 「鉄ツンもきてるで先生」  えっと小谷先生はびっくりした。 「こら鉄ツン、はよ、あがらんかい」  と功がいった。小谷先生が外へ出てみると鉄三は戸のかげでもじもじしていた。 「まあ、鉄三ちゃんもきてくれたの。先生うれしいわ、さあさあはやくあがって」  小谷先生は鉄三の手を引いた。鉄三ははにかんだような表情になった。鉄三がそんな顔をするのを小谷先生ははじめて見た。  子どもたちはぎょうぎよくすわっている。だいぶ親にいいきかされてきたとみえる。みんないまにも笑い出しそうなくらいにこにこしていた。  さわぎにおどろいて、となりの部屋から夫が姿を見せた。子どもたちはちゃんとあいさつをした。 「先生のおムコさんか」  功がたずねた。 「そうよ」 「男まえやなァ」 「純ちゃん、それおせじ」 「ちゃうでえ、ほんとのこというてんねんで」——純はむきになっていっている。  夫は銭湯にでもいくといってでかけていった。でかけるとき、小谷先生をひどく傷つけることばをはいていったのだった。 「先生の家、ドロボーにはいられたわりにはちゃんとかたづいているね」としげ子がいった。 「でも後かたづけがたいへんだったんよ」としげ子の質問に小谷先生はこたえた。  しげ子のことばを合図のようにして、みんな袋やふろしきの中から、ごそごそなにかをとりだした。 「これ、処理所のおじちゃんやおばちゃんから」  と功がさしだしたものは、おみまいとかかれた封筒だった。なかに、かんたんな手紙と二万円がはいっていた。 〈先生、えらいめにあいましたね。ドロボーぐらいでまいるような先生やないと思うけれど、がんばってください。これはみんなの気持です〉  純が小谷先生の前においたものは、小さなカエルの貯金箱だった。 「これあげる」とはずかしそうな顔をしている。  みんなつぎつぎ、小谷先生の前にさしだした。貯金箱があったり、封筒があったりした。芳吉などは自分でこしらえたと思われる木の貯金箱をおしげもなく小谷先生の前においた。  鉄三もひもに通した五円玉を重そうにおくのだった。  この子どもたちが、いいあわせたようにお金をもってきたのは、よくよく考えた上でのことだろうと小谷先生は思った。 「先生、ごはんは食べられるか。なんやったらぼくのお金でお米買いよ」と徳治はいった。  そういわれて小谷先生は気がついた。もし自分たちの家にドロボーがはいったら、その日から食事もできなくなる、徳治はそういっているのだ。 「うれしいわ」小谷先生は涙声で礼をいった。  子どもたちはドロボーを一言も非難しなかった。小谷先生の身だけを案じてくれていたのだった。  夫はでかけるとき、子どもをはやくかえせといった。おれは子どもがにがてだから、といったが小谷先生はもうそのことばをきいていなかった。  小谷先生は赤いヒヨコを思った。  ほんとうの毛がうすよごれて見えるかわいそうな赤いヒヨコを思った。  18 おさなきゲリラたち    ひるの三時ごろのことだった。  功と芳吉が血相をかえてとんできた。 「鉄ツン、キチがとられた! キチが犬とりにとられたんや」  ハエの記録をとっていた鉄三はいっしゅん功の顔を見た。それから、とぶようにはねるともうれつなスピードでかけだした。 「こらまて、鉄ツン」  鉄三のどこにそんな敏しょうさがあったのだろう。  功はあわてて鉄三の後をおった。処理所の門の前で、やっと鉄三をつかまえた功はぜいぜいとのどをならしながらいった。 「落ちつけ鉄ツン。おまえひとりで犬とりのところへいったって、どうするんや。相手は小谷先生とちゃうねんぞ。かみついたって泣いてくれる相手とちゃうねんぞ」  功はおどかしたが、鉄三はつかまえている功の手をふりはなそうともがいている。 「鉄ツン、ようきけ」  功は鉄三の肩を力まかせにゆすった。 「おまえはまだ小さいんや。おれらにまかせとけ、な、鉄ツン。かならずキチをとりもどしたるから、な」  鉄三はやっとからだの力をぬいた。  芳吉がふたりにおいついてきた。 「おまえら、はやいなァ」  ふうふう肩で息をしている。 「おまえがおそいんじゃ」  ドジなやつめという感じで功がいった。 「芳吉、おまえ、いそいでみんな集めてこい。鉄ツンもいってこい」  ふたりがかけだしてから、功は地べたにすわりこんで、しんこくな顔をしてなにか考えていた。 「ほんまにキチ、とられたんか」  まっさきに純がとんできた。 「うん、純、おまえええとこきてくれた。ちょっとおれの考えをきいてんか」  処理所の子どもの中では純がいちばんの知恵ぶくろだ。功はキチ奪回計画を純にひそひそ話している。  しばらくすると、みんなあつまってきた。しげ子だけ親せきにいっているとかでるすだった。 「キチがいなくなったら鉄三ちゃんがかわいそうやんか」  みさえが泣きそうな顔をしていった。 「そやからキチをとりもどすんじゃアホ」  と純はえらそうにいった。 「みんなこっちこいや」  功は、ひとりひとり役わりをきめた。それから地面に地図をかいて、こまかいところまで打ち合わせをしているようだった。  しばらくして、みんなちらばっていった。つぎにあつまったとき、それぞれ、ぶっそうなものをもっていた。まるで戦争にいくようであった。のこぎり、ハンマー、バールと呼ばれる鉄の棒、かなづち、くぎぬきなどで、学校の先生が見たら気絶をするところだろう。  子どもたちが処理所を出発したとき、野犬狩りの吏員たちは、商店街の裏通りで仕事をしていた。運転手をいれて三人の組だった。  軽トラックの荷台に太い木でこしらえた大きな箱のような檻《おり》がつんであった。一センチくらいの太さの棒が十センチの間かくでならんでいる。  中に、七、八匹の犬がとらえられていて、キャンキャンとかなしそうにないていた。  功たち一行はものかげにかくれて、じっとそれを見ていた。鉄三がとびだしそうになるのを功や純たちはひっしでとめなくてはならなかった。  たくさんの犬のなき声だったが、鉄三にはキチのなき声がわかるのだろう。 「鉄ツン、もうちょっとのしんぼうやで」  徳治が同情していった。鳩を飼っているので鉄三の気持がよくわかるのだ。 「きた!」  四郎がするどい声でいった。  一頭の赤犬がおい立てられて、気のくるったようにかけてきた。まち受けていた捕り方は白く光る金属線をかざして、犬にせまった。  赤犬ははねた。それよりいっしゅんはやく白い光が宙におどった。子どもたちにはそれがいなびかりのように見えた。空中で一回転した赤犬は、さかさまの姿勢で地面にたたきつけられるように落ちてきた。  男はなれた手つきで、すばやく金属線を引いた。犬の首にがっしりと白く光るものがくいこんでいる。「グゲェ」と赤犬は気味のわるい声をあげた。  犬の目はまっ赤に血走っていた。そして、だれかにすくいをもとめるように、あちこちを見た。  男はさらに金属線をしめあげ、赤犬を宙につるした。犬は後足をはげしく動かした。むなしく空をけるのだった。前足をそろえジャンプするようにからだを動かした。いっそう金属線がのどにくいこむ。  赤犬は苦しそうにもだえた。それから、小便とフンをだらだらともらした。  功や純は青い顔をしている。ふたりとも鉄三がとびださないように、かれの肩をがっしりとおさえている。  キチもああしてとらえられたのだろうか。  鉄三の気持を思うと、みんな、たえられない思いだった。 「しんぼうせえよ鉄ツン、しんぼうせえよ鉄ツン」  と功はうわごとのようにいっている。さきほどから功はびんぼうゆすりをしている。興奮したときのくせなのだ。  赤犬はつるされたまま、檻の中へいれられた。新入りの犬がくると、中の犬はいっそうけたたましくないた。男たちはひと息いれるつもりかタバコをとりだした。 「いまや、いけ」  と功がひくい声で命令した。恵子とみさえが立ちあがった。 「しっかりやってこいよ」  純が心配そうに妹にいった。  恵子とみさえはしっかり手をつないでいる。すこし緊張しているが、それでも落ちついた足どりですたすた歩いていった。  ふたりはタバコを吸っている男たちの前にきた。 「おっちゃん」と恵子の方が声をかけた。 「あたいら野良犬たんとおるとこ知ってんで」  男たちはけげんな顔をして、ふたりを見た。子どもが協力してくれることなどまずないのでびっくりしていた。 「この道、まっすぐいったらゴミの処理所があるやろ。そこへ犬が残飯をたべにくるのんや。居ごこちええから、住みついてしもとんや」 「わるいことするから、うちのおかあちゃんがつかまえてというとったで、おっちゃん」  と、みさえもいっしょうけんめいしゃべっている。 「案内したげるからいこ」 「ほんとかいな」  ひとりの男がぼそっといった。 「なんでうちがうそいわなあかんねん。ひとがせっかく教えにきたっとんのに……」  恵子はつんとした。なかなか名演技だ。 「すまんすまん、ほな、おっちゃんにその場所教えてんか」  いちばん年配の男がいった。 「いこ」と恵子は先に立って歩き出した。  軽トラックも動き出して、功の計画通りにことがはこびそうだった。  功たちはみつからないように車の後をつけた。  処理所に近くなると、恵子はいった。 「おっちゃん、車は処理所のうらにおいとき」  処理所のうらは人通りがない。襲撃するのにぜっこうの場所なのだ。 「そうか」  野犬狩りの吏員たちは、すなおに車をおいた。そこまではうまいぐあいにいったのだが…… 「野犬はどこにおるんや」 「土管の中やねん」 「土管の中に犬がおるのんか」 「きっとそこが安全なんやろ」  恵子は口から出まかせいっている。  恵子とみさえについてきたのは三人のうちのふたりだった。運転手は運転台に残ってタバコをふかしている。 「なにしとんや、恵子は」  かくれてみていた功はいらいらしてさけんだ。 「ひとりでも残したらなんにもなれへん。あのぼけなす」  恵子はひっしだった。ひとり残っている。どうしよう、どういったらいいだろう、恵子は頭が痛くなるほど考えた。  とつぜん恵子はうしろ向いてぱっと走った。運転手のそばへきていった。 「おっちゃん、おっちゃんもこなあかん」 「なんでや、おっちゃんは犬をとらへん。車を運転するのがおっちゃんの商売や」 「そやかて、土管の中は広いねんで。おっちゃんかて通せんぼくらいはできるやろ。ふたりだけやったら、犬にげてしまうで。はよおいで」  恵子はごういんに運転手の手を引っぱった。 「かなわんな、この子」  しぶしぶだったが運転手はついてきた。 「やった」  功はよろこんでこおどりした。 「さすがおれの妹」  功はじまんしたが、今回はだれも文句をつけなかった。  恵子は三人の男に、土管の入口を教えた。 「なんやこれ、下水道やないか」 「こんなとこへもぐるんかいな」  運転手はなさけなさそうにいった。 「ほんとにこんなとこに犬がおるんか」 「なにをいうとんおっちゃん、野良犬の巣やから一匹や二匹とちゃうねんで。四、五匹かたまってんねんで。ちょっとくらい苦労せなあかん、いこ」  恵子はみさえといっしょにいちばん先に土管の中へはいっていった。  男たちもしかたなしについてきた。 「くさいなァ」  ぶつぶついっている。 「おったァ、おっちゃんあっちににげたァ」  と、恵子はデタラメをいっている。  男たちはあわてて、どたどたかけた。せまくて暗いので思うように走れない。 「おっちゃん、あっちやあっちや」  男たちはひいひいいいながら走っている。 「おそいなあ、おっちゃんらは」 「あ、あっちににげたァ」  みさえまで、ちょうしにのってさけんでいる。  一方、功たちは男が土管に消えてしまうとかん声をあげて、犬の檻におそいかかった。バッタのように自動車にとびついた。ハンマーで天井をぶちやぶるもの、バールで鉄のサクをこじあけるもの、側面をのこぎりで切るもの、小さい鉄三も浩二もひっしでかなづちをふるっている。  いつもはのろまな芳吉だが、こういうときはからだが大きいだけに役に立つ。さいしょ天井に穴があいた。あっというまに側面にも大きな穴があく。 「キチ!」  鉄三が大声でさけんだ。しっぽをくるったようにふってキチは鉄三にとびついた。 「キチ、キチ、キチ」  と、鉄三はキチをだきしめた。キチは鉄三の顔をベロベロなめた。  功が天井の穴から檻の中にはいった。 「ついでにおまえらもにがしてやる。そら行け、はよにげろ」  犬たちははねまわり、とびまわってよろこんだ。  数分の後、犬は一匹もいなくなった。かわりに数十分の後、処理所の子どもたちは全員、警察につかまっていたのだった。  足立先生ら、子どもたちの担任が教頭先生といっしょに警察にかけつけた。  教頭先生が代表してあやまっている。 「あんたら、どんな教育してんねんや」  野犬狩りの吏員はかんかんだ。  泥だらけのところをみると、まだ土管にもぐったときのままらしい。 「この子の担任はだれや」  恵子がおし出された。 「ぼくです」  折橋先生はのっそりといった。 「どういう子やこの子は」 「どういう子いうてべつに……頭のええかしこい子ですワ」 「そら、かしこいやろ」  男はぶりぶりしながら、恵子のだましっぷりを説明した。そばで足立先生は笑いをかみ殺すのに苦労している。 「ほんまに末恐ろしい子やで」  恵子はひとり悪者にされているらしい。  六年生の功から一年生の鉄三まで、ずらっと一列にならばされている。  功はよこを向いて知らん顔をしている。芳吉は平気で鼻クソをほじくっていた。多少、神妙な顔をしているのは純くらいのもので、後はみな、勝手気ままな顔をしている。 「ぜんぜん反省してまへんな」  よく太った警察署長が、吏員のてまえ大声でいった。 「浩二くん、はやくおじさんたちにあやまりなさい」  村野先生はいらいらしていった。 「おまえらアホやな。キチを返してほしかったら注射して鑑札受けたらすむことやろ」  と、足立先生はいった。 「そんなお金あらへんわい」  功が投げすてるようにいった。 「そらそうやな、そらそうや」  足立先生はあっさりひきさがった。どうもたよりない。が、足立先生は功にそういわそうとしているようなふしがある。 「ま、いっぺん車を見てください」  署長が中庭においてある車を指さした。 「うへぇー。こりゃまた派手にやりよったなァ」  足立先生はうれしそうにいって、小谷先生にわきをつつかれた。 「これでやりよったんですワ」  部屋のすみに、ハンマーやのこぎりなど破かい作業に使われた品物がおいてあった。 「それ、返してよ」と、芳吉がまのぬけたことをいった。 「あの車をどないしてくれるんや」と吏員のひとりが芳吉にいった。 「そんなこと知らんで」 「知らんですむか」その男は声を荒立てた。  功がそこでどなった。 「ひとの犬をだまってとるもんがわるい!」 「おまえ六年やろ、六年にもなって、なんのために野犬狩りをしているのかわからんのか」 「キチは野犬とちがうわい」 「鑑札を受けていない犬はみんな野犬あつかいするようになっとる」 「そんなこと、おまえらが勝手にきめたんやないか」 「口のへらんガキやな」  男はたじたじだった。 「だいいちことば遣いが悪い」と署長はぶぜんとしていった。 「これは学校教育の問題だ」 「そうでんなァ」足立先生はひとごとのようにいった。  けっきょく、子どもたちの親がかけつけてきて、こわした檻を弁償することで話がついた。子どもと先生は一時間ほど、署長の説教をくらってようよう釈放されたのだった。  19 不幸な決定    よく日、足立先生と折橋、太田、小谷先生の四人は、処理所をたずねた。子どもたちはみんな基地にあつまって、しょんぼりしていた。なにか相談をしていたらしい。 「どうした若きゲリラたち、元気ないなァ、そら陣中みまいや」  足立先生がたいこ焼をひろげたが、だれも手をのばさない。 「めずらしいことやなあ。よっぽど、ひどくしかられたんやな、どうした功」 「あかんねん」  功は力なく首をふった。 「なにがあかんねん」 「檻の修理に六万円もかかるんやて」 「六万円」 「うん」 「そらまた高いなァ」 「とうぶんみんな小づかいなしや。それはええけど、おれの家また借金せなあかんから、おれ、こまる」 「そりゃ、だれでもこまるわな」  足立先生も真顔になった。  このあいだ、ドロボーの被害で、おみまいをもらっている小谷先生は、たいへんつらい思いがした。 「そいで、なんか金もうけをみんなで考えとったんやけど、そないかんたんにお金はもうかれへんな」  功はしょんぼりしている。 「学校でカンパをつのっても、やったことがやったことやから、ちょっとあつまらんやろな」  と、太田先生はいった。 「功ちゃん、こんどお給料もらったら、わたしいくらか出すわ」  小谷先生がそういうと足立先生はうらめしそうな顔をした。 「それをいうてくれるなよ。おれは飲み屋の借金でぴいぴいいうてるんやから」 「六万円か。えらいまたたいへんな襲撃をやったもんやな。戦争は勝っても負けても高くつく」  折橋先生は折橋先生らしいことをいっている。 「せっかく買ってきたんやから、たべろよ」  足立先生はみんなにたいこ焼をすすめた。 「このあいだのハム工場みたいな話、二、三件ないかいな。そしたら鉄ツンひとりで、ぱっぱっと金がもうかるんやけどなあ」  足立先生は鉄三に金もうけをさせる気でいるらしい。 「ええこと思いついたでえ」——折橋先生が大声を出した。 「この処理所に大八車がありましたやろ。あれ借りて、クズ屋するねん。クズ屋はもうかるでえ」 「クズ屋か」  太田先生はあまり気がのらないらしい。 「クズ屋いうてバカにしたらあかん。からだはきついけれど金はもうかる」  足立先生はぱーんとひざをたたいた。 「やろ、それやろうや。な、功、なんでもするな、みんなもやるやろ」  子どもたちの眼がいっせいにかがやいた。 「なんでもするで」  きゅうに功は元気になった。  二、三日かかって足立先生がいっさいの交渉をすませてきた。二つの大きな問題があったそうだ。先生にそんなことをさせるわけにはいかないと処理所の親たちがいったこと、廃品回収業者から生活権のしん害だと抗議されたことなどらしい。  いずれも足立先生の奮闘で解決した。あとは廃品をあつめて卸元にもっていくだけでよい手はずになっていた。 「やっぱりやるのんか」  太田先生は元気がない。 「いやならやらんでもええで」と足立先生にいわれて、 「やる、やる、やりますがな」とやけくそのようにいった。  四人はトレパン姿で、日よけの麦ワラぼうしをかぶった。処理所にいくと子どもたちはみんなそろってまっていた。遠足にいくようなつもりでいるらしい。 「おまえたちのために、おれはとうとうクズ屋にされてしもうた」  太田先生はまだグチをいっていた。 「職業に貴《き》賤《せん》はないと教えたんはだれや」  太田先生は足立先生にどなられた。  四台の大八車は処理所の門の前で、それぞれの方向にわかれた。 「がんばってこいよ」 「おまえこそがんばれよ」  子どもたちも四つにわかれた。  小谷先生の車には純とみさえの兄妹、それに鉄三だ。小谷先生は梶《かじ》棒《ぼう》の中にはいって車を引く、純は梶棒からとったロープを肩にかけて引く、みさえと鉄三は後おしだ。  キチが前になり後になりしてついてくる。キチはあたらしい首輪をつけてもらっている。首輪にはアルミニュームの鑑札が光っていた。小谷先生が貯金をおろしてプレゼントをしたのだ。  小谷先生は女だから、どこかのグループにはいるようにいわれたのだが、ことわった。一つでも車がふえればそれだけ、もうけがよくなる。子どもたちの貯金をおみまいにもらっているので、こんなときに恩返しをしなくてはならないと小谷先生は思ったのだ。  道を通る人びとがじろじろ見た。結婚しているとはいうものの小谷先生はまだ二十二歳の若さだ。はずかしくてしようがない。下ばっかり見て車を引いた。 「先生、だまっとったらだれもクズ出してくれへんで」と純がいった。 「どういうの」  あたりまえの話だが小谷先生は廃品回収なんて商売はしたことがない。学生時代にアルバイト一つしたことがないのだから、こういうとき始末がわるい。 「クズおはらぁーい」 「ああ落語できいたことあるわ」 「落語なんてかんけいあらへん。クズたまってませんかぁーとか、新聞紙、ボロぎれ、ご不用のものはございませんかぁーとか、なんでもいえるやろ」 「純ちゃんあなたとってもじょうずじゃないの。あなたにまかせるわ」  小谷先生はずるいことをいっている。純はしようがないという顔をした。  はじめの意気ごみはどこへやら、小谷先生はだんだん心細くなってきた。 「純ちゃんどうしよう」 「なにをいうとんや先生は。まだなんにも商売してないねんで」  そのとき、先生じゃありませんの、という声がした。ふりむくと小谷先生の受持ちの子どもの母親だった。 「先生、なにしてますの」  小谷先生はもじもじした。 「おばちゃん、新聞紙、雑誌、ボロぎれ、いらないものありませんか」  と、そばで純がいった。 「あ、廃品をあつめているの。先生たいへんですね。また図書室の本をふやすんですか」 「ええ、まあ」  いちどPTAでクズをあつめたことがあった。図書室の本がすくないので、そんなことをして本をふやしたのだ。 「ご近所の方にもいってあげますわ」  やれやれ助かったと小谷先生は思った。三げんの家がクズを出してくれた。新聞紙、週刊誌、空ビンなどである。  純はよろこんでいる。鉄三とみさえはなにもいわないさきに紙ひもで新聞紙をたばねている。四人はくるくるこまネズミのように働いた。 「純ちゃん、ヘルスメーターをもってきて」  天《てん》秤《びん》がないので、学校のヘルスメーターを借りてきた。クズの重さをはかる。足立先生にかいてもらったクズ買いとりの値段表をみて代金をはらった。母親たちは妙な顔をしている。 「学校の寄付じゃありませんの」  しかたがないので小谷先生は個人的な子どもの不幸でこういうことをしているのだ、とかんたんに説明した。 「はずかしがっていたらダメね、純ちゃん」 「うん」 「いいことを思いついた。受持ちのおかあさんの家をまわろう、たった三げんでこんなにあつまるんだもん」  うす暗くなってから四台の車はかえってきた。どの車もいっぱいの荷物である。 「よう、小谷さんところもがんばったな」  みんなほこりで顔を黒くしているが元気いっぱいだ。初日のちょうしがよかったので、つかれを感じないのだろう。  食事のしたくができているので、みんなでたべてほしいと、四郎の母親がいいにきた。足立先生がえんりょをすると、処理所の親たちがみんなでこしらえたのだからぜひにということであった。  にぎやかな食事がはじまった。処理所の親たちもかわるがわる顔を見せた。バクじいさんがビーフシチューをさしいれてくれた。朝から、ことこと煮ていたのだという。  子どもたちはにぎりめしをほおばっている。足立先生らはビールや酒をふるまわれてごきげんだ。 「あの車いっぱいの荷で、どれくらいもうかりますか」  足立先生が四郎の父にたずねた。 「そうでんな。足立先生の車で四千円、小谷先生のなら三千円というところですか」 「へえーたった三時間ほどで、そないなお金になりますか」  足立先生は眼を丸くしている。 「おれ、学校の先生やめて廃品回収業をやろ」  というと、すかさず功がいった。 「なにいうてんねん。クズはありませんかっていうとき、ぜんぜん声がきこえへんかったくせに」 「それをいうなよ」と、足立先生はあわてた。 「あれ、足立先生も……」  どうやら太田先生も声の出せなかったひとりらしい。  折橋先生と組んでいた武男がなにかいいかけた。折橋先生はあわてて武男の口をおさえた。 「さては折橋くんもやなァ」  足立先生はにやにやした。 「男のくせに先生らはみんなあかんたれやなぁ」と、純がいった。 「小谷先生なんか、クズおはらぁーいって、ものすごい大きな声出したで、な、みさえ」  と、みさえの足を、自分の左足でつついた。 「ふん」  みさえは知らん顔してうなずいた。 「へえー」  と、足立先生も折橋先生も本気で感心している。 「見なおした、見なおした」と、太田先生はおおげさに頭をかかえた。  小谷先生はくすくす笑った。みさえのよこにすわっていた鉄三を見て、小谷先生はびっくりした。  鉄三が笑っている。鉄三まで笑うたのしい食事だった。  しかし、いいことはあまり長くつづかない。  よく日、小谷先生は頭から水をあびせられるような話をきいた。  昼休みに足立先生に呼び出された。ちょっと青い顔をしている。足立先生がそんな顔をするのはめずらしい。 「処理所の移転が本決まりになった」  小谷先生はどきっとした。 「どこへなの」 「第三埋立地」 「あそこへはいかないことになっていたのでしょう」  第三埋立地にはオートメーション化された塵《じん》芥《かい》処理所が建設されていた。  功たちの処理所は、第五埋立地にやはり同じような近代的な処理所ができるので、そこに移転する予定であった。予定どおりとしても二年半ほど先のことだった。 「どうしてまたきゅうに」 「住民運動がはげしいのやろな」 「処理所が移転するのに文句をつけるわけにはいかんでしょ」 「そらそうや。処理所の移転そのものはいいことなんや。けれど、また処理所に住んでいる人たち、とくに子どもがぎせいになる」 「どういうことですの」 「この学校にくるのに片道五十分かかる」 「五十分も」 「もちろん小学生にそんな通学はムリだから、とうぜん転校ということになるが、これがまた問題でね。二十分くらいの道のりだというんだけれど、転校先の学校に行くには、埋立地を横切らなくてはならない。ダンプカー銀座といわれている道路がいくつもあるんだ。子どもにとってこれはたいへんなことだよ」 「そんなところに人を住まわせるのがいけないわ」 「そのとおり。処理所の人の生活の問題もある。市場にいくのに三十分も四十分もかかるんだから」 「この町のどこかに住むというわけにはいかないのかしら」 「それが理想的なんだけれど、それをやると居住権の問題があって補償がたいへんなんだろう。新しい処理所の近くにプレハブ住宅を建てるというのが、いちばん安あがりの方法なんだろうな」 「足立先生どうしてその話を知ったのですか。きのうのようすでは処理所の人たちは知っていないようだったけれど」 「うん、役所もこころえているよ。移転になっていちばん問題になるのは子どもの通学だということを、よく知っているわけや。トラブルがおこるのをまえもってさけたいのだろう。うちの学校に打診してきたんだ。さっき校長に呼ばれて、処理所の親を説得できないかというんだ」 「引き受けたんですか」 「だれがそんな話を引き受けるかね」 「わたし、いま、鉄三ちゃんをとられたらこまるわ。このあいだみな子ちゃんと別れたばっかりなのに……」  小谷先生は、もうおろおろしている。 「あいつらがおらんようになったら、ぼくもさびしいワ」  足立先生も、しんみりといった。  20 せっしゃのオッサン    三日間はどの車もいっぱいの荷をもってかえってきていたのに、四日めになるといいあわせたように、荷がすくなくなった。  四人の先生はすぐに気がついた。 「おまえさんらまわる家がなくなったんやろ」  足立先生がいって、みんな大笑いになった。四人とも、受持ちの家庭をまわっていたのだ。  四日間の収入を合計してみると、四万八千円になった。 「もうちょっとやで、もう一回、みんなが車いっぱいの仕事をしてきたら、後一日でオーケーや」 「自信ないなあ」  太田先生と折橋先生は顔を見あわせて、ため息をついた。 「あしたから、クズおはらぁーいをやらないかん」 「それ、にが手やなあ」  太田先生はずいぶんなさけなさそうな顔をしている。  五日めは、四人ともひそうな決意をして出発した。 「純ちゃん、きょうはクズおはらいよ。純ちゃん大明神たのみます」  小谷先生は両手をあわせて、純にたのんでいた。  車をひくのはだいぶなれた。ときどき鉄三も前にまわって車を引く。この四日間で小谷先生はいろいろ勉強をさせてもらった。肉体労働というものが、これほど気持のよいものとは思ってもいなかった。汗をながして働いて、やっとありついたいっぱいの水のおいしさはかくべつだった。  子どもたちがよく働くのにも小谷先生はおどろかされた。そうたいにこのごろの子どもは手伝いをしなくなった。小谷先生がそう思って見るからか、小さなみさえや鉄三がけんめいに働いていると、いとしくなってしまう。教室でなんにもしないでじっとしていた鉄三は、いったいどこへいってしまったのだろうと、小谷先生はしばしば思った。  秋がふかいとはいえ日中の日ざしはきつい。小谷先生も子どもたちもすぐ汗ばんでしまう。 「純ちゃん、先生黒くなった?」 「そうでもないよ、気になる?」 「だってまだ若いもん」 「おムコさんにきらわれたらこまるんやろ」 「おムコさんより純ちゃんの方がずっといいよ。もし純ちゃんがおとなだったら、おヨメさんにしてもらうわ」 「うっひ。わかってるよ。おせじをいって、おれにクズおはらいをいわせる魂《こん》たんやろ」 「ちがうわ。ほんとよ。純ちゃんのおヨメさんにもなりたいし、鉄三ちゃんのおヨメさんにもなりたいし、功ちゃんのおヨメさんにもなりたいし……」 「あつかましいなァ先生は」 「先生、あたいらにもお話してえーな。おにいちゃんとばっかりお話して」  みさえがうしろから注文をつけた。 「やくなやくな、みさえ」  純はたのしそうにいった。鉄三はもくもくと車をおしている。キチはあっちにいったり、こっちにいったりいそがしそうだ。ときどき鉄三の方に向かってわんわんとほえるが鉄三は知らん顔をして車をおしている。 「純ちゃん」 「なに」 「きょうはどうせクズおはらいでしょう。だったら校区外に出て、わたしらの顔の知られていない街にいきましょうよ」 「その方が、クズおはらいがいいやすいね先生」  純たちは商店街のうらをつきぬけて、どんどん大八車をおしていった。小さな工場がたくさんあつまっている街に出た。 「先生、このうらに家がたくさんあるで」 「そう、じゃそこでやろうよ」  路地をすこし広くしたぐらいの道があった。両側にびっしり文化住宅がならんでいる。 「ここがいいね、純ちゃん」 「うん」  純は決心してどなりはじめた。 「クズはありませんか——、新聞紙、古雑誌、ボロぎれはありませんか——」  赤ん坊をだいたおかみさんたちが、いっせいにこちらを見た。そしてこの奇妙な組合せにおどろいてひそひそ話をはじめた。  小谷先生はきれいな顔をしているし色が白い。それに子づれだ。ふしぎがるのもムリはない。  じろじろ見られるので小谷先生ははずかしくてしかたがない。つい下を向いてしまう。するといっそうへんなあんばいになって、よけいおかみさんたちの注目の的になってしまう。 「いこ、純ちゃん」  たまりかねた小谷先生は大八車をガラガラおして、とうとうその路地をとび出してしまった。 「あかんやん」  純はうしろから文句をいいながらついてきた。  小谷先生はハンカチを出して顔の汗をふいている。冷汗なんだろう。 「もう、わたし、キチになりたい」 「なにいうてんねん、さ、がんばろ先生」  小谷先生は純にはげまされている。 「はずかしいのん」  みさえが小谷先生の顔をのぞきこんだ。 「鉄三ちゃんあんたはずかしい?」  みさえがきくと鉄三は首をふった。 「みんなはずかしくないのに、先生だけはずかしがっている。おとなはやっかいやなあ」  小谷先生はげっそりした。  勇気を出してまた路地にはいっていった。 「純ちゃん、こんどは声を出さないで、一けん一けんたずねていきましょうよ」 「それでもいいで」  大八車を道のはしにおいて、ご用聞きのようにいちいちたずねて歩いた。 「すみません、新聞紙や古雑誌はありませんか」  わりあいすらっといえたので小谷先生はほっとした。後がいけなかった。 「クズ屋さんなら勝手口にまわってよ。玄関からくるなんて……」  小谷先生はあわててその家をとび出した。  失敗失敗、クズ屋というものは勝手口からはいるものなんだナ、学校の先生なんてものはなんにも知っていない、小谷先生はまた冷汗をかいた。 「ごめんください」 「なんじゃ」  ステテコ姿の大男が出てきた。 「古い新聞紙や古雑誌はありませんか」 「クズ屋か」 「はい」  クズ屋じゃないが、この場合ちがうといってもはじまらない。 「その縁の下にビンがあるやろ。もっていけ」  ずいぶんきたない縁の下だ。いまさらけっこうですともいえず、小谷先生はしかたなしに縁の下にもぐって、古いビンをとり出してきた。きれいな顔がいっぺんにどろどろになった。  小谷先生はいくらか代金をわたそうとすると、大男はいった。 「いらん。くれてやる。おまえさん若いのにくだらん仕事をしとるな。ほかにすることないのんか」  ほっといてちょうだい、と小谷先生はいいたくなった。 「こじきじゃないからお金はおいときます」  そうそうにとび出した小谷先生は、腹の中はにえくりかえる思いだ。熊野郎、すかたん、アンポンタン、無知、アホ、まぬけ、と小谷先生は思いつくかぎりの悪たいをついた。処理所の子どもたちの口の悪いのがなんとなくわかるような気がした。  純もみさえもご用聞きをしている、鉄三まで出かけていくので小谷先生はびっくりした。 「おばちゃん、古い新聞紙や雑誌はありませんか」  みさえはていねいにいっている。  鉄三はガラッと戸をあけると首だけ中に入れて、 「新聞」と、ぶあいそうにいう。 「新聞ってなに」  なんのことかわからないので家の者が出てくると、鉄三はだまって大八車を指さした。  あれだったら新聞というだけでもだいたい用はたりる、と小谷先生は思った。鉄三は鉄三なりにやっているのだ。  みなの奮闘むなしく、収かくははかばかしくなかった。やはりクズ屋でもなわばりがあるらしい。顔見知りでないとなかなかクズは出してくれない。四人ともがっかりしてつかれてしまった。  大きな土管のある空地にきた。小谷先生はアイスキャンデーを買ってきた。よっこらしょと土管を背もたれにして腰をおろした。 「休けいしましょう」  のどがかわいているのでアイスキャンデーはめっぽうおいしいけれど胸のうちはなんともさえない。 「まだちょっとやなァ。徳ックンらはうまくいっているかなあ」  純は心細い。 「クズ屋さんってあんがいむずかしいね先生」  みさえがいう。 「ほんとねえ」  小谷先生は笑ってみさえの頭をなでた。ほんとにみさえのいうとおりだ、クズをあつめるだけのことだが、はずかしいことだってあるしなさけないこともある、仕事というものはどんな仕事でもたいへんなもんだ、クズ屋をバカにする者にはクズ屋をやらせればいい、そうすればそのことがよくわかると、小谷先生はあの熊野郎を思いうかべて思うのだった。  土管の入口から、なにかのそのそと出てきて、きゃあと小谷先生はとびあがった。  純が小谷先生をかばうように立った。 「やあやあ、坊ちゃんこんにちは」  けったいなオッサンが出てきた。髪の毛は肩までたれている。ひげの中から顔がちょっとのぞいている。服なのか着物なのかよくわからないものを着ている。ずいぶん派手につぎがあたっているが、見ようによってはなかなかしゃれたデザインでもある。 「オッチャンこじきか」  えんりょのないみさえが、あっけらかんとたずねた。 「むかしはこじきでありましたが、いまはこじきではありませぬ。おじょうさん」  けったいなオッサンは両手をひろげて芝居のまねをした。みさえはよろこんで、オッサンの前にきてしゃがんだ。 「おじょうさん、わたしにほどこしをいたしませんかな。そのアイスキャンデーまだ半分のこっておりまするぞ。富める者はまずしき者にほどこしをしてこそ神さまの意にかなうというものじゃ。バクシー」 「なんやオッチャン、そのバクシーというのんは」 「よくぞきいてくだされた。バクシーはインドのことば、神さまのみ心のままに——、おじょうさん神さまのみ心のままに、そのアイスキャンデーを……」 「なんや、けっきょくちょうだいということか」 「なんとそう明なおじょうさまか」  オッサンはおおげさな身ぶりでまた両手をひろげた。 「けったいなオッチャンやな。はい」  みさえはたべかけのアイスキャンデーをオッサンにわたした。小谷先生は気味がわるくてしかたがない。 「そちらのおじょうさまはこれまたなんとお美しいお方か、わたしはいまにも眼がくらみそうじゃ」  どうやら悪人ではないらしい。純はふたたび腰をおろした。小谷先生もしゃがんでみたもののなんだか落ちつかない。 「みなさんのご関係は。まさか親子ではありますまいな」 「学校の先生、おれは生徒」  アイスキャンデーをしゃぶりながら純はいった。 「これはまたおどろきいった。またまたなにゆえに、学校の先生がクズ屋をやっておられるのか」  純はじゃまくさそうにあらましの話をした。 「おどろきいったる美談、せっしゃいたく感激もうした。いやいやみあげたご心底」 「オッチャン、オッチャンは時代劇みたいなもののいい方するねんなァ」  みさえがいった。 「せっしゃは現代がきらいでこざる。電気も自動車もみんなきらいでな、しかしアイスキャンデーは好きでござる」  みさえは笑った。 「よし、それではせっしゃにまかされよ」  けったいなオッサンはそういって立ちあがった。そして大八車を自分で引いて歩きはじめた。オッサンはさっそうとしていた。  純たちはオッサンの後につづく。 「いいのかしら純ちゃん」 「べつに悪い人でもなさそうやで」 「先生もそう思うけれど」  オッサンは、純たちがさいしょにはいっていって逃げ出してきた例の路地にはいっていった。なかほどで車をとめると、オッサンは大声でしゃべりはじめた。 「せっしゃのオッサンがまいったぞ。クズを出されい、クズを出されい。せっしゃのオッサンがまいったぞ」  あちこちから子どもが出てきた。せっしゃのオッサンがきたァとかけてくる。たいへん人気者だ。 「遠からん者は耳をすましてよくきけよ。本日はせっしゃがクズをちょうだいするのではござらん。せっしゃ一生一代の善行。ここにおられるのは、その名も高き姫君先生じゃ。クズ屋は世をしのぶかりの姿。先生は慈悲も大慈悲観音菩《ぼ》薩《さつ》、小児マヒの教え子のために連日連夜、入院資金を調達してござる」 「オッサン、おれ、そんなこというてへんで」  純が眼をむいて文句をつけた。 「まかしとけ、まかしとけ」  オッサンはまるで平気だ。 「こんにち現代、かかる美談があったらお目にかかりたい。六根清浄六波羅蜜《みつ》寺《じ》おぬしらにも美談のはしくれにぶらさがらせてやりたい。さあさあいそいでクズをもってまいられい」  小谷先生はあっけにとられている。よくまあ口から出まかせにつぎからつぎへことばがでてくるものだ。ふてぶてしいところは足立先生ににている。  たちまち廃品があつまって、純たちはいそがしくなった。小谷先生も目方をはかるのにてんてこまいだ。  オッサンは向こうの路地へいって同じことをどなっている。  一時間もすると、車に積みきれないくらいの荷ができた。 「ありがとうございます。もういっぱいですわ」  小谷先生は礼をいった。 「せっしゃのオッチャンおおきに」  純もみさえも礼をいった。 「オッチャン、あたいらS町の処理所の子やねん。いっぺん処理所に遊びにきて」 「かたじけのうござる」  けったいなオッサンはそういうと、ひょうぜんときびすを返した。 「オッチャンありがとう」 「オッチャンまた会おうね」 「さらばじゃ」——オッサンはまだ気どっている。  その日は純たちの車が文句なしの一等賞であった。足立先生も折橋先生も太田先生も眼を丸くしておどろいている。純はそれが痛快でならなかった。    21 ぼくは心がずんとした    小谷先生は黒板に「なに?」とかいた。 「きょうのつづり方の題は『なに?』です」 「なにいうてなんや」  と、勝一が大きな声でたずねた。 「なにいうてなんやわからへんから、なにです」  と、小谷先生がまじめな顔をしていったので、みんな大笑いした。  きょうは小谷学級の研究授業の日である。うしろに大ぜいの先生が立っている。小谷先生は学校の先生になってはじめて自分の授業を人にみてもらうのだ。だから緊張してこちこちになっている。足立先生のようにきらくにはやれない。 「みなさんの原稿用紙に、『なに?』とかいてください。それから、小谷先生は大きな荷物をさげてきました、とかいてください。みんなが同じことをかくのはそれだけです。後はそれぞれ勝手にかいてください。思ったとおりにかいてちょうだいね」  小谷先生はそういって、いちど廊下に出た。そうして、一メートル四方もあろうかと思われる白い布につつんだ大きな荷物を重そうにさげて、ふたたび教室にはいってきた。 「うわあ、おおきいなァ」  子どもたちは口ぐちにいった。 「大きいでしょう。さあ、なんでしょう」 「テレビ」と、勝一がさけんだ。 「ストーブや」 「せんぷうき」  子どもたちはいろいろなことをいっている。 「それじゃみんなの思ったとおりかきなさい。なぜ、そう思ったかというわけもかいておくといいつづり方になりますよ」  みんないっしょうけんめいかいている。鉄三だけはその箱をじっとにらんでいた。 「じゃ淳一くん、あなたのかいたのを読んでください。はじめからね」  淳一は立ちあがった。 「——『こたにせんせいはおおきなにもつをさげてきました。ぼくはなんやろかなとおもいました。みんな、テレビやとかストーブやとかいろいろいっています。ぼくはテレビかもしれんとおもうけど、あんまりはやくいってまちがったらそんをするから、わからんとかきました』……」  うしろで立ってみていた先生たちは思わず笑った。淳一らしい文章だと小谷先生も思った。 「それじゃ、この白い布をとりますよ」  白い布をとると、中からカラーテレビのダンボールが出てきた。 「やっぱりテレビ、ぼくのいうたとおり」  勝一がよろこんでいる。 「はい、つづけてかいてください」  しばらくして、小谷先生は、こんどは勝一を指名した。 「勝一くん、いまのところだけ読んでね」 「——『やっぱりテレビや。ぼくははじめにあてた。ぼくはとくいです。ぼくはじまんしたいきもちです』……」  淳一が首をかしげている。鉄三はあいかわらずじっと箱をみつめていた。 「じゃ、つぎ、いきます」  小谷先生はテレビの箱をやぶいた。するともう一つの箱が出てきた。その箱には夏みかんの絵が印刷されてあった。子どもたちはざわめき、うしろの先生たちは笑った。  子どもたちは、またエンピツを走らせた。 「テレビとはちがったようですから、勝一くんはどうかいたかナ。つづけて読んでちょうだい」  勝一は立って読んだ。 「——『せんせいはわるい、せんせいはぼくをうらぎった』……」  うしろの先生たちは大笑いだ。折橋先生は涙をこぼして笑っている。 「ごめんね。勝一くん。こんどあててね」  小谷先生は勝一のところにいって頭をなでた。 「箱の中を見てください」  小谷先生は箱のふたの部分をやぶいて子どもたちに中を見せた。新聞紙をくしゃくしゃにしてつめてある。夏みかんを一つ一つ新聞紙にくるんでつめてあるようにも見える。 「みんなだまされたらあかんでえ」淳一が大きな声でいった。 「ほんとよ、だまされたらダメよ。よく考えてかいてね」  どの子どもたちもしんけんだ。よそみをする子どもはひとりもいない。  このクラスもかわったな、とうしろで見ていた足立先生は思った。 「はい、こんどは道子ちゃん読んでください」 「はい。『わたしはりんごだとおもいました。まるいものがしんぶんしにつつんであるからりんごだとおもいました。なぜ、なつみかんじゃないかといったら、せんせいのめをみていると、せんせいがうそをついていることがわかるからです』……」  小谷先生は新聞紙をとった。新聞紙はただ丸めてあるだけだった。なつみかんの箱の中から、デコレーションケーキの箱が四つ出てきた。また子どもたちがざわめいた。 「ケーキか、せんせい」 「さあ」と、小谷先生はいった。 「みんなおなじものがはいっているの、せんせい」  照江がたずねたので、小谷先生はそうだとこたえた。 「先生ちょっとずるいわね。見るだけで中のものをあてさせるんだものね。先生、反省しました。こんどは音をきかせてあげます。どんな音がするかよくきいていてね」  そういって小谷先生は箱をふった。がさがさという音がした。四つの箱はみな同じような音がした。 「わかった」とたけしがいった。 「わかった」 「わかった」  あちこちで声がした。 「そんなにかんたんに、わかったの」 「ぜったい、あれや」と、たけしは胸をはってこたえた。 「じゃ、かいてちょうだい」  いわれるよりはやく、エンピツをもっている子どもがいる。小谷先生はうまい授業を考えたものだ。こういうちょうしで文をかかせていけば、知らぬまにたくさんかいていくことだろう。そのときそのとき、心ははりつめているのだから、よい文がかけるにちがいない。 「それじゃ、たけしくん読んでください」 「——『せんせいは、ぼくらをごまかそうとして、くろうしている。けれど、おとをきかせてくれたので、ぼくはいっぺんにわかってしまいました。ぼくはこころのなかで、じゃじゃじゃじゃーんといいました。はこのなかにはいっているものは、クッキーかかみにつつんだキャンデーです。あんなおとがするのはそれにきまっています。せんせいはぼくらをごまかしたおわびに、さいごにおかしをくれるつもりです。やっぱりこたにせんせいはええぞ。ぼくはこころのなかでヤッホーとさけびました』……」  またうしろで先生たちが笑った。小谷先生まで笑い出した。 「そう、みんなわかったっていってたけど、おかしだと思ったのね」 「ちがうの、せんせい」  たけしがひそうな顔をしてたずねた。 「さあ、どうでしょう」 「おかしやろ」 「おかしや」  おかしでなかったら小谷先生は子どもたちにリンチにされてしまいそうだ。 「じゃ、おかしかどうか、みんなにこの箱をさわらせてあげる」  四つの箱はそれぞれのグループにわたされた。子どもたちは箱をふったり、においをかいだりしている。とつぜん、ひとりの子どもが声を出した。 「なんかはいっている!」 「アホ、なんかはいっとるのははじめからわかっとるやん」  と、たけしがいったが、その弘道という子はそういう意味でいったのではなかったらしい。 「ほら、なんかなかでうごいとるやろ。ごそごそしてるやろ」 「ほんまや」と、みんなびっくりした。  箱をもらってすぐゆすっていたので、いままで気がつかなかったのだ。 「虫や」と、子どもたちは眼を光らせた。 「かぶと虫やで、きっと」  かぶと虫ならおかしよりずっといい。子どもたちはすっかり興奮してしまった。  エンピツをもっているあいだも、子どもたちは箱をにらみつけている。かたいものがぶつかるような音がする。子どもたちの血はおどった。  生きものだということがわかってから鉄三の眼は箱にくぎづけになってしまった。 「弘道くん、読んでください」 「——『かぶとむしや、ぜったいや。ぼくはいまかみさまにおがんでいます。かぶとむしにまちがいありませんようにといっておがんでいます。先生、ぜったいぼくにちょうだいね』……」 「やれやれこまったナ」と小谷先生はいった。 「さっき、ぜったいおかしといって、ちがってたでしょ。こんどもちがうかもしれない」  子どもたちは不安そうな顔つきになった。 「でもね。先生はみんなをいじめてよろこんでいるわけじゃないから、このへんでタネあかしをしましょう」  子どもたちは、わあっといってよろこんだ。 「いま、みんなの気持、どんなですか」と、小谷先生はたずねた。 「どきどきしてる」 「きぜつしそう」 「オシッコしたいきもち」  子どもたちはいろいろいっている。 「いまの気持をしっかりおぼえておいてね」  小谷先生はカッターで封のセロテープを切ってやった。 「いち、にい、さんであけていいわ。いい。いち、にい、さん」  子どもたちは眼もくらむ思いで宝の箱をあけた。いっせいにかん声があがった。まっ赤で元気のよさそうなアメリカザリガニが、子どもたちの眼の中にとびこんできたのだ。  小谷先生は、しばらく子どもたちをさわがせていた。 「みんなに一匹ずつあげます。大切に飼ってやってね」 「ヤッホー」と、たけしが思いきり大きな声でさけんだ。  どうやら小谷先生は子どもたちのリンチを受けずにすみそうだ。 「さあ、こちらを見て」と、小谷先生はいった。 「さいごをがんばってね。いままでみんなの心がいちばんさわいだのは、箱の中を見る前と、箱の中のものがなにだったのかわかったときですね。みなさんのつづり方のさいごに、そのときの心のようすをしっかりかいておきましょう」  はーい、と元気よく返事をして、子どもたちは机に向かった。  うしろで見ていた先生たちは、たいそう感心した。ふつう一年生は、かんたんな文でもなかなかかけないものだ。さあ、かきましょうといわれて全員がエンピツをもつなどということは、ちょっと考えられない。  教室のうしろに子どもたちの日記帳がたくさんおいてあった。どれもこれも手あかでボロボロになっている。そのことは子どもと小谷先生が、その一さつのノートの中でどれほど苦闘したか、よくものがたっていた。  太田先生はこの授業のはじまる前に教室にきて、その日記をひろい読みした。さとるという子どものかいた文を読んでひどく感動した。そして、この学級の子どもたちがすらすら文をかくひみつはこれだと思った。 「二がっきのまんなかへんになって、まいにちにっきをかくことになりました。あさ、はやくおきてせんせいにみてもらいます。あさ、はやくおきるのはつらい。にっきがはじまるとぼくはあそぶひまがありませんでした。すこしかくともうかくことがなくなって、せんせいから、もっとがんばりなさい、といわれました。つぎのひ、きのうより二ぎょうおおくかいて、もうおわり、ぼくはにっきはだいきらいとかいたら、せんせいがこんなことをかいてくれました。(さとるくん、にっきがきらいとしょうじきにかいたのはいいことです。でも、いまくろうしてたら、あとからきっと、よかったなとおもうようになりますよ。くろうというものはいいもんですよ。もっともっとくろうして、あなたのあたまをじょうとうにしなさい。ぶんをかくことはしんどいことです。せんせいでもひとばんぶんをかいたら、はががたがたになります。ごはんをたべるといたいです。さとるくんはぶんをかきおわったら、はがいたくなりますか。ならないでしょう、まだまだがんばれるとおもいます。)  ぼくはかくことがなくなったら、あちこちにいきました。いろいろなところへいくといっぱいかくことができました。ぼくはなまけごころがでてくると、せんせいのかいてくれたことをおもいだしてがんばっています」  小谷先生はさきほどから胸がどきどきしていた。鉄三がエンピツをもってなにかかいているのだ。なにげない顔をして、そっとのぞくと、鉄三はいっしょうけんめい文をかいていたのだ。  小谷先生はどうきがはげしくなった。  鉄三がエンピツをおくのを見とどけてから小谷先生はいった。 「できましたか」 「はーい」  おおかたの子どもは返事をした。 「だれのを読もうかナ」  小谷先生はまよっていた。はじめて鉄三が文をかいたのだから、それを読んでやりたい。でも、もしそれがわけのわからない文だったら、鉄三に恥をかかすことにもなりかねない。  どうしよう。小谷先生は頭がくらくらした。子どもを信じることだ、どこかでそんな声がした。そうだ鉄三ちゃんを信じよう。 「鉄三くんのを読みましょう」  小谷先生は鉄三の原稿用紙を手にとるといそいで眼をとおした。祈るような気持だった。 「ぼくわりとりとみたそれかだはこなかへりとりとみたまたりとりととみたあかいやつでたぼくわはながずんとしたさいらのんらみたいぼくわこころがずんとしたぼくはあかいやつすきこたにせんせもすき」  小谷先生は大きな声で読みはじめた。 「ぼくはじっとじっと見た。それから、はこの中までじっとじっと見た。赤いやつが出た。ぼくは鼻がずんとした。サイダーを飲んだみたい、ぼくは心がずんとした。ぼくは赤いやつがすき、小谷先生も好き」  小谷先生も好きというところへくると、小谷先生の声はふるえた。たちまち涙がたまった。たえかねて小谷先生はうしろを向いた。子どものだれかが手をたたいた。すると、あっちからもこっちからも拍手がおこった。拍手が大きくなった。足立先生も手をたたいた。折橋先生も手をたたいている。みんな手をたたいている。  教室は拍手で波のようにゆれた。  22 波 紋    鉄三が学校を休んだ。一回の欠席もなかった子だったので小谷先生は心配した。休み時間に小谷先生はなにげなく足立先生にそのことをしゃべった。 「あれ、ぼくとこのみさえも休んでいるで」と、おどろいた顔をした。  折橋先生のクラスの恵子も休んでいることがわかって、あわてて、処理所の子どもたちの出欠を調べた。  教頭先生はろうばいした。いそいで校長室にはいっていった。  しばらくして、足立先生が呼ばれた。 「足立君、処理所の子どもたちが全員、欠席している」 「そのようですね」 「君、これは同盟休校だろうか」  足立先生は首をかしげた。足立先生にもよくわからない。処理所の親たちが学校になんのれんらくもしないで子どもたちを休ませるだろうか。足立先生ら心を許した教師にも伝言がない。足立先生にはちょっと考えられないことだった。 「ともかく君、いますぐ処理所にいって事情をきいてきてくれんかね」  教頭先生がわたしもいきましょうかといったが、足立君ひとりの方がことが荒立たんでよろしいと校長先生はいった。  足立先生はなかなかかえってこなかった。校長先生はいらだつ心をおさえかねて、なんども校長室をうろうろ歩いた。  小谷先生も折橋先生も授業がすむとすぐ職員室におりてきた。なんの情報もはいらないので、不安気な顔をしてまた教室にもどっていった。  図工の時間で、専科の教師に授業をしてもらっている太田先生はふたりにいった。 「かわったことがあったら、教室まで知らせにいってやるよ。落ちついて授業をしろよ」  昼近くになって、足立先生はやっとかえってきた。 「どうだった足立君」  まちかねて校長先生はたずねた。 「まずいです」  ぶっきらぼうにこたえた。たいへんきげんがわるい。足立先生はことばをつづけた。 「きのう、役所から人がきて処理所の移転について説明会があったそうです。たった二名できて、それもずいぶん若い男だったといいます。結論からさきにいうと、処理所の親たちは二つの点で腹を立てています。一つは、移転の決定がきゅうで一方的であること、それも、正式職員には一カ月も前から本庁でくわしい説明があったのに、臨時雇員には通告ていどの話しかなかったこと、二つめには、徳治の父親が子どもの通学はどうなるのかという質問をしたのにたいして、決められたとおりの学校にいってもらうといったこと、つまり転校しろということです。埋立地は道路もじゅうぶんでないし、ダンプカーの出入りもはげしい、子どもにとって、たいへんきけんだと功の親がいったら、その男たちはどうこたえたと思います」 「なにかいったのかね」  校長先生は身をのりだした。  足立先生はいっそう不きげんな顔になっていった。 「きょうび、犬でも車をよける、いいですか校長、ようきいといてくださいよ。きょうび、犬でも車をよける、といったんです」 「バカなことをいいくさって」  校長先生もにがい顔をした。  それから、足立先生と、校長、教頭先生は一時間あまりもこまごまとした話をつづけていた。  その日は水曜日だったので、小谷先生は昼からの授業がなかった。専科であき時間のできた折橋先生とふたりで処理所にいってみた。  子どもたちは例の基地にあつまっていた。勉強道具がちらかっているところをみると、勉強のまねごとをしていたようである。  ふたりが姿を見せると、子どもたちはかん声をあげてとびついてきた。 「さっきアダチがきとったで」 「うん、知ってるよ」と、折橋先生はいった。 「えらいわね。みんなで勉強してたの」と、小谷先生がいうと、 「おれと純としげ子が先生」と功はえらそうにいった。 「おにいちゃんはね先生、わからへんかったら、ゴムのホースであたいらをぶつの。鉄三ちゃんも一回ぶたれた」と、みさえがうらめしい顔をしていった。 「三つもたたかれたァ」と、浩二がいっている。 「そやかて、こいつらものおぼえがわるいんやで先生」  と、純は半分にげごしでいった。  五たす八は、ときかれて、まごまごしている鉄三を思うと、小谷先生はしぜんに笑えてくる。ゴムのホースでぶたれて、鉄三はどんな顔をしているのだろう。 「それにしても、ストライキやなんて、おまえら、かっこのええことやりよったなあ」  折橋先生がいうと、功は口をとんがらせていった。 「なにがかっこがええんじゃ。チビらに勉強は教えてやらないかんし、時間は長うてたいくつやし、ええことなんかちっともないわい。学校にいきたいワ」 「そらそうや、すまん」  折橋先生はすなおに失言をわびた。 「はじめはおとうちゃんやおかあちゃんらとけんかして、なんでぼくらが学校を休まないかんのやいうとったんや」  この子どもたちがいっせいに両親にくってかかるようすを想像して、折橋先生はいっしゅんたじろいだ。 「そやけど、おれらかて島ながしはいややもん」  だれがいい出したことばか知らないが、島ながしとは、うまいことをいったものだ。まさしく現代の島ながしだ。 「先生らに会えんようになるし……」  純がしょんぼりいった。 「そいでがんばっとんや」 「すまんすまん、先生がわるかった。ごめんして」  大きなからだの折橋先生が小さくなっている。  処理所からかえった折橋先生はすぐ校長室にいった。 「校長さん、ぼく、考えたんですが、処理所の子が学校を休んでいたら、教師は出張授業をせんといかんと思ったんです。子どもが休んでいるのを、教師がじっと見てるというのは犯罪です。ちがいますか」 「あんたのねっしんさはたいへんけっこう。けれど、じっと見てるということばはとりけしてもらいたい。わたしもいろいろ手をつくしている。これでもそうとう苦労をしているつもりだ」  と、校長先生はいった。 「そりゃすみません。ことばがすぎていたらあやまります。だけど、その出張授業というぼくの案、考えてみてくれませんか」 「うーん」  校長先生は考えこんでいた。  三時ごろ、学年主任と処理所の子どもの担任がそれぞれ校長室に呼ばれた。そこで折橋先生のいいだした話がけんとうされた。  とくべつな勤務をむりじいするわけにはいかない、気持のある先生がいくことはさしつかえない、ということになった。折橋先生ははなはだ不満だ。  その日、処理所に勉強を教えにいったのは、けっきょく、四人の先生だけであった。  小谷先生は思った。この処理所をさいしょにおとずれたとき、四郎がこわい顔をしてさけんだことがある。 「おおかたのセンコはわいらをばかにしとんじゃ。わいらのことをくさいいうたり、あほんだれいうたり、だいたい人間あつかいしてえへんのじゃ」  ざんねんながら、四郎のいったことは正しかったのだ。 「姫松小学校でええセンコいうたら、アダチとオリハシとオオタくらいやな」  子どもたちはとうから、見通しだったといえる。  処理所の子どもたちが同盟休校をはじめて三日めに、皮肉なことがおこった。 「六歳のハエ博士、おとな顔まけの業績、保健所も手をやくハエ、一目で発生場所を見破る」  新聞は大きな活字で、鉄三の研究を報道した。鉄三がハエのビンをのぞきこんで、記録をとっている写真ものせてあった。  ハム工場のハエ退治の話、一年生の鉄三がハエの生態を系統的に調べていること、いま研究しているのは、ハエに色の好みがあるかどうかということなど、新聞の記事にしてはかなりくわしくかかれてあるのだった。  同じ新聞の社会面にやはり大きな見出しでつぎのような記事が報道された。 「ぼくたちはごめんだ、塵《じん》芥《かい》処理所の移転に反対して登校を拒否」  新聞を読んだ人たちは、この二つの記事に同じ人間が出てくることなど思ってもみなかった。  校長先生は新聞を読むと頭をかかえこんでしまった。一つの新聞に名まえが二度も出たのはこの校長先生がはじめてだったろう。  足立先生は、ぽんぽんひざをたたいてよろこんだ。鉄三の記事はもちろんうれしい、処理所のこともこうなれば、おおやけになって黒白をつけてもらう方がすっきりしていい、そんな気持らしかった。  小谷先生はいつまでも鉄三の写真をながめていた。いろいろな思いがいちどにおしよせてきたのだろう。  処理所の子どもたちは新聞をうばいあって読んだ。鉄三やみさえには功が読んできかせてやっていた。  わからないことばが出てくると純が説明してやった。 「鉄ツン、おまえのことがかいてあるねんで。ちょっとはうれしそうな顔をせんかい」 「ん」  鉄三はしりをぴょこんと立てて、いっしょうけんめい漢字をかいている。 「ほんまに鉄ツンはあいそないなァ」  四郎があきれかえった顔をしていった。  事件が新聞記事になって、はじめて役所から人がきた。こんどは課長が出席した。  ちょうど子どもたちに勉強を教えていた四人の先生と校長、教頭先生が学校側の出席者になった。 「さいしょにみなさんの日ごろのご苦労にたいして深く感謝の意を表します」  課長は深ぶかと頭をさげた。処理所の人たちもていねいにおじぎをした。 「さて、このたびはわたしどもの不手ぎわから、みなさんのご不興をかい、まことにもうしわけしだいもございません。先日こちらにうかがわせました係員からみなさんのご不満をおききしました。いちいちごもっともであります。みなさんに説明がおくれましたのは、みなさんに動揺をあたえてはいけないという心くばりからでございます。決して職員と差別をしたわけではございませんので、その点ごりょうかいをいただきたいと思います。それから、子どもさんの通学の件でありますが、ごぞんじのように通学区域というものははじめから決まっておることでありまして、わたくしどもの一存ではどうにもならないことでございます。交通事故のご心配は親ごさんとしてとうぜんのことです。関係方面にれんらくをとりまして、できるかぎりのことはいたしますので、なにとぞ処理所の移転にご協力をたまわりますようにおねがいいたします」  課長はまた頭をさげた。 「ものの言い方だけはバカていねいやな」  きこえよがしに足立先生はいった。  徳治の父が先日の係員の無礼な態度をなじった。課長はそばの男になにか耳うちした。男は席を立っていった。 「それは、いまはじめてききました。もうしわけありません。若いものですから、つい口がすべったと思います」 「それはどういう意味です」  徳治の父はいった。 「つい口がすべったということは、本心はそうだというてるのと同じことではありませんか」 「いや、決してそういう……」 「課長さん、あんた息子さんがありますか」 「あります」 「あの男にわたしらと同じことをいわれたらあんたどう思います」 「みなさんと同じです。腹を立てるでしょう」 「ところが、あの男はあなたには決してそんなことはいわない。だれにいっても腹を立てることばを、わたしたちにはいう、あんたらのように力をもっている者にはいわない。それが差別というんです」 「課長さん」  バクじいさんが手をあげた。 「じつは、ここにおるもんは子どもに学校を休ませる前に、自分たちでストライキをしようというたんですわい。こんなきたない仕事はきょうびだれもやらん。わたしらがストライキをやったら、たちまちこまってしまいます。わかりますか課長さん、わたしはみんなにいいましたわい。そんなだれでもやるようなことはやるな、たちまち人がこまるようなことをとくとくとしてやるな。どんなに苦しくてもこの仕事をやりぬけ。それが抵抗というものじゃというたです。けんど課長さん、人間には限度というものがありますわい。労働者はストをする権利をもっておりますわい。さっき足立先生がことばだけていねいやとおっしゃったが、わたしも同じ意見です。あなたはほんとうに、わたしらのいうことに耳をかそうという気持をもっとらんように思いますのじゃ」  バクじいさんは課長の顔を見てゆっくりとしゃべった。 「課長さん、この新聞を見てくださいましたか。六歳のハエ博士というのは、じつはわたしの孫ですわい。この子は学校にあがりたて石みたいな子でした。ものはいわない、字はかかない、本もノートもさわったことがないという子でしたんじゃ。石なら害はせんけれど、この子は自分の気に入らないことがあると、だれかれなしにひっかく、かむというありさまじゃ。課長さん、そちらに色の白いきれいな女の先生がおいでじゃろ。わしの孫に、なんども顔をひっかかれて、いつも泣いておられた。その先生がいうにいわれんご苦労をなさって、わしの孫をハエ博士といわれるようになるまで育ててくださったんじゃ。そんなとおとい美しいものを、あんたは、はじめから決まっておることでしてと、あんた自身なんの苦しみもないことばで、かんたんにひきさいてしまおうとされている。わたしらはそれを許せんというているのですわい」  小谷先生はせなかが寒くなった。口調はおだやかだが、バクじいさんのことばはきびしかった。 「わたしと孫はふたりっきりですわい。身寄りというものはない。この処理所で働いている者は多少とも人生の重さを背おっておるもんばかりです。同情はいりません。ふつうの人間がふつうのことをいっている。あなたはそれをふつうにきいてくださるだけでいいんです」  そのとき、若い男がつれてこられた。 「白井くん、先日の君の失言をここでおわびしなさい」  課長は芝居がかったきびしさでいった。 「もうしわけありません。重々おわびいたします」  男はなんの抵抗もなしにわびた。まるで打ち合わせてきたようであった。  バクじいさんはだれにともなく、いやいやをするように首をふった。 「すこしもわかっておらん」  バクじいさんはかなしそうだった。  23 鉄三はわるくない    二時間めがおわって、小谷先生が黒板の字をけしていると、道子がそばへきていった。 「せんせい、てつぞうちゃんどうしてがっこうにこないの」  いつかは子どもにきかれるだろうと、小谷先生はびくびくしていたところだ。どう説明しようかとまよっていると、そばにいた勝一がいった。 「てつぞうちゃん、ストライキしとんやなせんせい」 「ストライキってなんやの」 「ストライキいうたら、やすむこと」 「そやから、なんでやすんでいるのってきいてんの」 「がっこうをかわらされるかわからへんから。なあ、せんせい」  勝一は両親からいろいろきかされているらしい。 「なんでがっこうをかわらされるのん」  そのころになると、たくさんの子どもたちが小谷先生をとりまいていた。 「てつぞうちゃん、なんにもわるいことしていないのに、なんでがっこうかわらされるのん」 「いろいろわけがあってむずかしいんだけど、鉄三ちゃんの住んでいる処理所が、おひっこしをしなければならなくなったの。みんなだって、お家がかわったら学校もかわるでしょ。こまっていることはね、処理所の人たちがおひっこしをしたいわけじゃなくて、お役所のつごうでおひっこしをしなければならなくなったの。お役所のつごうということは、このへんに住んでいる人たちのつごうということになるから、それで、たいへんこまっているの」  子どもたちはわかったようなわからないような顔をした。 「がっこうに、はいがふるからいけないんでしょ」  道子がいった。 「そうよ」 「おかしいなあ」と道子は首をかしげた。 「それだったら、しょりじょだけおひっこしをして、てつぞうちゃんたちはわたしらみたいにこのへんにすんだらいいんでしょう。わたしのおとうさんだって、おしごとはでんしゃにのっていくのよ」  そのとおりだ、こんな一年生の子どもでもわかっていることを、役所の人たちはどうして本気で考えてくれないのだろう、と小谷先生は思った。 「てつぞうちゃんはこのごろいいことばっかりしているのにね」  いつのまにきていたのか、たけしがぽつんといった。 「ぼくのおかあさんはいってたよ。しんぶんにのるくらいいいことをするのは、なかなかたいへんだって。あんたもしんぶんにのるくらいいいことをしなさいって」  小谷先生は笑った。 「新聞にのったからいいっていうわけじゃないけれど、鉄三ちゃんはなにもわるいことをしたわけじゃないんだから、学校にこれないということはかなしいわ。先生もつらいの」 「みなこちゃんもいないし、てつぞうちゃんもいないし、せんせいさびしいね」  うしろで淳一が小さな声でいった。  事件はだんだん大きくなっていった。教育委員会から調査団がきた。教員組合も介入した。PTAもひんぱんに会をひらいていた。  しかし、小谷先生の不安は日一日とつのった。いろいろな人がきて調べてくれるのはいい、だが、ほんとうに処理所の人たち、処理所の子どもたちの気持をわかってくれるのだろうか。  学校でも職員会議がひらかれた。  大部分の先生は処理所の子どもたちに同情しながら、同盟休校は行きすぎだというのであった。子どもを争いにまきこむのはよくないといった。PTAでも、そういう意見が大勢をしめた。  小谷先生は、自分はなにもしないで、口先だけは正しいとか正しくないとかいっている先生たち、母親たちに絶望した。  小谷先生はバクじいさんのことばを思いうかべた。 (わたしらがストライキをやったら、たちまちこまってしまいます。わたしはみんなにいいましたわい。そんなだれでもやるようなことはやるな、たちまち人がこまるようなことをとくとくとしてやるな。どんなに苦しくてもこの仕事をやりぬけ。それが抵抗というものじゃ)  小谷先生はバクじいさんのように生きたいと思った。小谷先生は足立先生に相談した。 「先生、駅前でビラをくばりましょう。子どもたちに勉強を教えているだけで満足していては、子どもたちにわるいような気がしてきました」  足立先生は大さんせいだった。職員会議でいくら発言しても、反応のない先生たちに業をにやしていたところだったのだ。  ビラの文面は足立先生と処理所の人がいっしょになって考えた。   -------------------------------------------------------------------------------       みなさんに訴えます     すでに新聞紙上でごぞんじのことと思いますが、こんどS町塵芥処理所は第三埋立地に移転することになりました。S町塵芥処理所はいまから、五十五年前につくられ、それ以後、ほとんど改良されていません。ゴミ処理の方法もたいへん原始的で、そのために人家に灰が降ったりするくらいです。     街のまん中にある旧式な処理所が近代的な設備をもった埋立地に移転することは、たいへんよいことです。わたしたちも大さんせいであります。新聞の報道によると、わたしたちが移転そのものに反対しているかのような印象をあたえますが、決してそのようなことはありません。     これまでわたしたちは、わるい条件の中をグチ一つこぼさず働いてまいりました。わたしたちは処理所の中に住んでおりますが、これは雇用されるとき住宅つきという約束だったからです。夏はゴミのにおいがします。冬は灰が降ります。しかし、わたしたちは不平をいったことはありません。     こんど処理所が移転しますと、わたしたちはその横に建てられたプレハブ住宅に入居することになります。ところがこの場所は、もっとも近い市場へいくのにも往復五十分はかかるのです。子どもが通学するのに四十分の時間が必要です。ごぞんじのように、埋立地は工事用の車が多く、道路が整備されておりません。このようなところに、子どもを住まわせるわけにはいかないのです。     わたしたちは、つぎのような要求をしています。人間としてさいていの願いです。     ○臨時雇員制を廃止して、全員、正式採用すること     ○移転後の旧処理所あとに住宅を建設して優先入居させること     みなさんの声が大きくなることを、わたしたちは願っております。  S町塵芥処理所現業員一同  姫松小学校教員有志一同 -------------------------------------------------------------------------------    小谷先生たちの仲間がひとりふえた。図工専科の江川洋子先生で、ビラをくばるのなら、わたしもくばりますといってくれたのだ。江川先生はまだ若い女性だったので、小谷先生はたいへん心づよく思った。  五人の先生たちは朝三十分はやく学校にくることにした。もっとも小谷先生は「朝の日記」の時間にあたるので、子どもに事情を話して、しばらく休ませてもらうことにした。 「いいよ、せんせい、ぼくらはかいておくからね。てつぞうちゃんががっこうにくるようになったら、またみてね」  と子どもたちはいってくれた。  処理所の人たちと手分けして、駅前、バス停留所などでビラをくばることにした。  小谷先生は江川先生と組んだ。江川先生はちょっとはずかしそうだった。小谷先生はクズ屋をしてなれているので、ビラを手わたすくらいのことはなんでもなかった。くばりはじめて、五分ほどたった。純とみさえ、それに鉄三がまっ赤な顔をしてかけてきた。はあはあいっている。 「あたいらもくばる先生」  みんなで相談をして手伝うことにしたと、純はいった。  小谷先生はちょっとまよった。子どもにビラをくばらせてよいものだろうか、それでなくとも子どもを争いの道具に使うという非難があちこちにある。小谷先生がちゅうちょしていると、純はいった。 「もともと、おれらのことやろ」  そのことばをきいて小谷先生は決心した。小谷先生は純たちにビラをわたした。  電車から人がおりてくると、てんてこまいになる。 「いそがしいなァ」  純がひめいをあげている。みさえははじめのうち、 「オッチャン読んでちょうだい」  といちいちいって、手わたしていたが、おしまいのころになると、はい、はいといってふところにおしこむようにしていた。その方がずっと能率がいい。 「あっ、わすれとった」  ふいに純が大きな声をあげた。 「鉄ツンこい」  純はバンドをはずして、からだにはさんでいた大きな紙をとり出した。二枚の紙はゴムバンドでとめてあった。それを鉄三に頭からかぶせた。鉄三はサンドイッチマンのようなかっこうになった。  へたくそな字で、「わたしが有名なハエ博士、研究をつづけさせろ!」とかいてあった。 「だれがこんなことを考えたの」 「おれ」  純はとくいそうにいった。 「ダメ、純ちゃん、これは行きすぎだわ」 「なんでも宣伝の時代やで先生」 「ダメ、こんどは純ちゃんの黒星。このアイデアは純ちゃんが考えたのではなくて、おとなのまねをしているだけでしょ」 「そういわれたらそうやなァ」  純はちょっとがっかりしていたが、小谷先生はさっさとその紙を鉄三からとってしまった。 「あっ、せっしゃのオッチャンや」  こんどはみさえが大声を出した。 「せっしゃのオッチャーン」  オッサンは手製の車をゴロゴロおして、踏切の向こうを歩いていた。みさえの声がきこえたのか、オッサンはこっちを向いた。やあというように片手をあげて、車はこっちに向かった。 「なにあの人」と江川先生はたずねた。 「ちょっと説明がしにくいわ」  小谷先生はこまっている。 「やあやあ、こんどはなんの商いでござるか」  この人にはへんなところばっかり見られると、小谷先生はちょっとはずかしい気持だ。 「このあいだはありがとうございました」  それでもちゃんと礼をいった。 「オッチャン、あたいらストライキをしてるねん」 「ストライキ?」  せっしゃのオッサンはぽかんとした。 「学校にまいらぬのか」 「そう、ストライキ中」 「学校の先生も生徒といっしょに、ストライキをいたされるのか」  小谷先生はどういっていいのかこまってしまった。どうもこの人に会うとなんだかへんになってしまう。 「純ちゃん、説明してあげて」  純が話をした。 「ふむ」  オッサンはたいそうにきいている。  純の説明をきいて、ビラを読むとなっとくがいったらしかった。 「よし、せっしゃにまかされよ」  オッサンは胸をどんとたたいた。  こんどはなにをいいだすんだろう。小谷先生ははらはらした。  とつぜん、せっしゃのオッサンは、ろうろうとした声で黒田節を歌いはじめた。歌うだけでなしに踊りだした。  江川先生はまっ赤になっている。  人があつまってきた。オッサンの踊りをおもしろそうに見ている。そのすきに、純たちはビラをわたしていった。  こんどはせっしゃのオッサンに助けてもらわなくてもじゅうぶんできた仕事だったが、オッサンの好意はうれしかった。でも若い女の先生には刺激がつよすぎる。  その日の三時すぎのことだ。  鉄三は小谷先生からもらったハニワを出してきてクロッキーをやっていた。 「てつぞうちゃん」  という声がきこえた。鉄三がふり向くと、たけし、勝一、文治など七、八名の子どもが立っていた。  鉄三はこまったような顔をしている。処理所の子どもは別にして、友だちが遊びにきたという経験がいちどもないのだからどうしていいのかわからないのだ。 「てつぞうちゃん、あがってもいい」たけしがいった。 「ん」と鉄三はこたえた。 「てつぞうちゃん、このまえ、ハエだまってとってごめんな」 「ん」と鉄三は文治を許してやった。 「てつぞうちゃん。がっこうにいつくるのん。みんなしんぱいしているよ」 「ん」 「これ、みちこちゃんがてつぞうちゃんにあげるって」  たけしは、アブの絵がプリントしてあるハンカチを鉄三にわたした。鉄三はやっぱりこまった顔をして、そのハンカチを見ている。 「てつぞうちゃん、おまえ、ハエのえ、うまいなァ」  勝一はあちこちにはってある絵を見て、感心したようだ。 「さーすが」と、ひとりごとをいいながら、一枚一枚見てあるいている。 「これ、なんていうハエ」  妙な形のハエをみつけて、勝一がきいた。 「ノミバエのめす」 「ふーん。はねあらへんなァ」 「はねあらへん」  鉄三ははじめて友だちと話をした。  けれど、どういうわけだろう。勝一もたけしも、ほかの友だちも、みんなごくあたりまえのような顔をしている。  小谷先生が見ていたら、きっとびっくりしたことだろう。そして、子どもというもののふしぎさに考えこんでしまったかもしれない。  子どもたちはしょうぎのコマで、山くずしをして遊んでいた。  いつのまにかバクじいさんはかえってきていたが、しばらく家にはいらないで戸口でじっと鉄三の遊ぶようすを見ていた。そして、しずかに涙をふいていた。    24 つらい時間    同盟休校がはじまって、ちょうど一週間たった日に、二つの総会があった。一つの方からのべる。  姫松小学校の臨時PTA総会は、午後二時きっちりにはじまった。さいしょ議長がえらばれた。  かんたんなあいさつの後、議長はいった。 「本日のPTA総会は、議案にありますとおり、S町塵《じん》芥《かい》処理所移転問題にたいする本校PTAの態度表明に関する件、ただ一つであります。じゅうぶんのご審議をねがいます。本日の総会はたんにPTAの総会というにとどまらず、住民大会の性質をもつものでございまして、わたしどもの態度表明はこんごの移転問題に重大な影響をあたえるわけであります。本日は話し合いに必要と思われる当事者は全員出席をしていただいておりますので、ご不審の点は、よくききただしていただきたい。なお、ただいまのところ、新しいニュースがはいっておりますのでお伝えいたします。処理所移転にさいして、紛糾あるため移転予定を一カ月、おくらせるとのことであります」  会場からざわめきがおこった。  おおかたはそれを非難する声だった。  それぞれの立場の者がかわるがわる立って説明をした。役所、処理所現業員の言い分は平行線のままだった。学校側は、子どもの教育にさしさわりのあるトラブルは一日もはやく解決してもらいたい、と他人事のような発言をして、小谷先生や足立先生をくやしがらせた。  住民代表といわれる主婦は立ってつぎのような説明をした。 「さきほど議長さんから、処理所の移転が一カ月延期されたと報告をうけました。これはいったいどういうことでしょう」  拍手がおこった。そんな延期は延期してもらえというヤジがとんで、会場は笑いにつつまれた。 「わたしたちが、処理所の移転を要求して運動をはじめたのは、きのうやきょうのことではないのです。もう四年前から署名や陳情をくりかえしているのです」  そうだそうだという声があちこちでした。  その主婦は、役所の人のすわっている方を向いていっそう声を高くした。 「あなたたち、いちど、この校区のどこでもいいから住んでごらんなさい。せんたくものは灰だらけ、黒いシミだらけ、食事のときに灰がとんでこようものなら、どんなに暑くても窓をあけるわけにはいかんのです。そんな生活を、ちゃんと税金をはらっているわれわれにおしつけておいて、あなたたちはそ知らぬ顔をしている。紛糾あるため一カ月延期とはなんですか。人をバカにするのもいいかげんにしてください」  また、拍手が高くなった。 「紛糾をおこしたのはだれですか、あなたたちではありませんか。あなたたちの紛糾のためになぜ、わたしたちが被害を受けなければならないのです。だいたい役所側とか処理所の現業員側とかいっているのがおかしい。処理所の現業員さんはあなたたちがやとっているんでしょ。つまりあなたたちは身内じゃありませんか。身内のけんかを、なんの関係もないわれわれになぜ、おしつけるんです。すこしははじをしりなさい、はじを」  たいへんな拍手だった。役所の人はにがい顔をしている。 「問題をすりかえてもらってはこまります。わたしたち住民のねがいは一日もはやく塵芥処理所を移転してもらいたい、ただそれだけです。ほかに問題はありません。あるような顔をして問題をもちだしてくるのはあなたたちの陰謀です」  議長はいった。 「これで、それぞれの説明はおわりました。ただいまから討論にうつります。ご意見のある方は手をあげていただきます」  ひとりの母親が手をあげた。 「わたしはさきほど、瀬古さんがおっしゃったことに全面的にさんせいしますわ。これほどはっきりした公害はありません。この学校の給食室はガラス戸と金網の二重窓になっています。ハエの多いときは金網を、灰のふるときはガラス戸をとつかいわけていらっしゃるんです。給食のおばさんのご苦労もさることながら、食物によその学校以上に神経をつかわなくてはならないというのは、われわれ父兄としてほうっておくわけにはいかない問題です。一部の人の待遇の問題で、この地区全体の人が不利益をこうむるというのはおかしいと思うんです。全体のことを考えていただきたいですわ」  二、三人が発言をしたが、いずれも同じような意見だった。 「ほかにちがった意見をおもちの方はおりませんか」  と議長がうながした。  うしろの方で手をあげた者があった。勝一の父だった。 「ひとつふたつきかしてほしいことがありますねん。ひとつは処理所の人たちにおたずねしたい。あんさんらはどうしてご自分でストライキをしないでかわいい子どもさんにそれをやらせるのか。もうひとつは瀬古さんという方におたずねしたい。もし、お宅の子どもさんが埋立地から通学せないかんということになったらどないしやはりまっか」  徳治の父が答弁に立った。 「わしらは学問がおまへんよって、うまいことりくつはよういいまへんが、思っとることだけはいうておきます。さっき瀬古さんとかいう方が身内の問題で人にめいわくをかけるなというとられましたが、そらそのとおりだす。そう思っとるから、わしらはストライキをせん。労働者はストライキをする権利をもっております。それでもわたしらはぎりぎりしんぼうしておるのです。自分の子どもを学校にやらなかったら、自分の子どもの勉強がおくれるだけですみます。その考えもひとつありますが、もうひとつの考えは、ふりかかった火の粉は自分ではらえということだす。埋立地にいって苦労するのは子ども自身です。自分のことは自分でたたかえと、わしらは子どもに教えとるんです」  つづいて瀬古という主婦が立った。 「おこたえします。わたしの子どもが埋立地から通学するようなことになったらどうするかというおたずねですが、わたしだったら、それはそれ、これはこれときっぱり区別をつけてたたかいます。大衆運動の中に私情をもちこんで問題の本質をぼやかすようなことはぜったいいたしません」  勝一の父がつづけて発言をもとめた。 「どっちの意見ももっともだんな。けれど、わしが感心したのは処理所の方の意見です。当世はやりの教育ママにきかせてやりたいような話ですワ。ゴミというもんはもともと、ひとりひとりの人間、ひとつひとつの家庭から出てくるもんです。自分のことは自分で始末せないかん。そう思うておっても都会生活はそれを許さんから処理所がある。もともとは自分が出したゴミだということをいつでも頭においとかんと、人間は勝手なことばっかりいうようになりまんな。処理所は移転してもらわんとこまるという考えだけでこりかたまっているから、そのためにめいわくをこうむる人がでてきたということに眼がいかん。自分さえよかったら他人はどうなってもええと考えとる人間はこの会場にひとりもおらんはずや。そやのに、処理所の人たちの不幸に眼がいかん。なんでかというたらわしがはじめにいうたように、ゴミというもんはもともと自分が出したもんやということをわすれてしもとるからや。ことわっとくがそやからいうて、わしが役所をかばっとると思たら大まちがいやで」  勝一の父はしんけんな顔をして声をはりあげた。肉屋のオッサンがんばれというヤジがとんだ。  やっぱりうしろの方で手をあげた人があった。小谷先生が中腰になって見ると、淳一の母だった。 「さきほど一部の人のつごうでたくさんの人が不利益をうけるのはいけない、という考えをこんどの問題にあてはめて、ご意見をのべられた方がありました。二、三カ月前だったら、わたしもその方と同じようなことをいった、と思います。わたしの子どもは一年生なんですが腺《せん》病《びよう》質《しつ》な子で、友だちもすくなくいつもひとりでなにかをしているという感じの子どもでした。その子どもがあるときを境にしてすっかりかわってしまったのですが、その原因がきょうの問題と関係があるように思いますので発言させていただきました。ある日のことです。担任の先生がちえおくれの子どもさんをひとりあずかっていらっしゃいました。たいへん重症な方で、ことばもはっきりしませんし、用便の方も不始末が多いのです。とうぜん、先生の手がかかります。授業もじゅうぶんでございませんし、わたしたちは子どもの学力のおくれを気にしたわけです。つまり、ひとりの子どものために、他の子どもがぎせいになっていいものかどうか疑問に思ったのです。ほかにもそう考えておられる方がたくさんいましたので、その方たちと先生に抗議にまいりました。先生はわたしたちの抗議をうけつけてくださいませんでした。そのときはなんと強情な先生だろうと思いました。日がたつにつれて、わたしは自分の子どもがすこしずつかわっていくのに気がついたのです。ひとのことなど知らん顔をしていた子が、他人のことでなやむようになり、考えるようになったのです。気がつくと、おとなでも手をやくようなたいへんなせわを、なんと一年生の子が、先生のかわりにやりとげていたんです。口でいえばかんたんですが、その間、先生も子どももたいへんな苦労があったと思います。ひとつの試練をのりこえたときに、人間的な成長があった、わたしたち考えさせられましたわ。  一部の子どものためにみんながめいわくをこうむる、わたしたちははじめそう考えていたのです。しかし、それはまちがいでした。よわいもの、力のないものを疎外したら、疎外したものが人間としてダメになる、処理所の方たちの要求はわたしたちの要求として、処理所の子どもたちのたたかいはわたしたちのたたかいとして考えていかなくてはいけないと思います」  そうだ、と大声でどなったものがある。足立先生だ。かなりたくさんの拍手がおこった。  それから総会は一時間あまりつづいた。いろいろな人が立って発言した。さいごに二つの結論が出た。かんたんにのべると、つぎのようなことになる。  ㈰S町塵芥処理所の移転は、当住民の危急存亡のねがいであり、移転の実施は遅滞なくすみやかにおこなわれることを要求する。  ㈪S町塵芥処理所の移転を強く要求する。またわれわれ住民は、処理所現業員のたたかいを全面的に支持し、移転要求とからめてたたかうことを宣言する。  二つの決議文が出たので採決をとることになった。約三対一の割合で㈪は否決された。  小谷先生は目の前が暗くなるような思いだった。世の中とか人間の複雑さを思いしらされたような気がした。  小谷先生は重い気持で家路についた。  そしてまた、家でも気の重い話がまっていたのであった。いうなら二つめの総会である。  家にかえると、小谷先生の両親と、夫の両親がまっていた。夫はさきにかえっていた。  六人で食事をはじめたが、なんとなく気まずい空気がただよっていた。小谷先生の父がさきに口をひらいた。 「夫婦仲がわるいそうだが、みんな心配しているんだよ」  すみませんおとうさん、夫婦仲がわるいんじゃなくて、生き方がちがうんです、といいたかったが小谷先生はだまっていた。 「わたしがわるかったかもしれない。世間知らずのままではいけないと思って、二、三年世間の風にあたらせるつもりで学校に勤めさせたのがよくなかったかもしれない」  わるいけれどおとうさん、それはまちがいです、社会というものはひとりの人間のそんなべんりのためにあるもんじゃないんです、もちろん小谷先生は心の中でいっただけだった。 「芙美さん、あなた、一雄が事業の準備のためにいろいろな人とおつきあいすることをいやがっておられるときいたんですが……」 「そんなことはないですわ、おかあさん」  そうじゃないんだ、夫がもしそういったとしたらそのことだけで夫はいいかげんな人間だと思う。  夫はこのごろかえりがおそかった。午前二時、三時と酔ってかえってくるのだった。小谷先生はそういうことにこだわらないタチだった。いやだとも不愉快だとも思わない。  夫はいうのだった。きょうはどこそこのえらい奴をキャバレーにつれていって飲ましてやった、これであの仕事はばっちりだ、接待もラクじゃないぜ、世の中きびしいね。  小谷先生はくだらないテレビドラマをみているような気がした。世の中はきびしいっていうのはそんなときにいうことばじゃないでしょうと小谷先生はいった。接待もラクじゃないって、あなたの顔を見ていると、けっこういっしょにたのしんでいるじゃありませんか。おまえはきついことをいうね、身もふたもないことをいうね、おれはそんな女はきらいだね、と夫はいったのだった。 「一雄も家庭のことを考えて、いろいろな人とおつきあいをしているんだから……」 「もちろんですわ。だからわたし、一雄さんのお友だちがみえられたら、どんなにつかれていても笑顔で接待してますわ」 「芙美さん」  夫の母はしんこくな顔をしていった。 「あなた、一雄のどういうところが気に入らないのですか」 「………」  それはいえない、いったってわからない、あなたもあなたの息子さんも傷つくだけです、生き方のちがう人間がひとつ屋根に住んでいる、それはたいへんなことだということをわたしはいま考えているんです、そのことを考えて考えぬいてわたしは生きるだけです、と小谷先生はひそかにいった。  話はだらだらといつまでもつづいた。小谷先生はそのつらい時間をじっとたえた。  25 裏 切 り    PTA総会で一方の決議文が否決されたとき、足立先生は青ざめてつぶやいた。 「これで攻撃される方にまわってしまった」  そのことばはすぐ具体的な形になってあらわれてきた。  功の父が役所に呼び出された。埋立地への転居を承知すれば職員に採用して班長の地位をあたえるというのであった。  功の父はその場で課長をどなりつけてかえってきたので、そのときはたいしたことにならなかった。  五人の先生も役所に呼び出された。指導主事がまっていた。手にビラをもっている。 「このビラにかいてある教員有志というのは先生方のことですか」 「そうです」 「五人だけですか」 「ざんねんながら五人だけです」  足立先生の言い方がおかしかったのか指導主事はちょっと笑った。 「あなた方の熱意には敬服しているんです」 「まともにうけとっていいんですか」 「もちろんですとも」 「そりゃどうもありがとうございます」  そばできいている小谷先生はおかしくてしかたがない。ふたりともけっこう狸《たぬき》だ。 「あなたが小谷芙美先生ですか」 「そうです」  なにをいわれるかと思って、小谷先生は胸がどきどきした。 「臼井鉄三くんの担任ですね。新聞を見ました。ほんとうにたいへんでしたね。ご苦労さまでした。いま教育委員会はあなたの噂《うわさ》でもちきりですよ」  小谷先生は返事にこまった。ちょっと頭をさげておいた。 「ところでこのビラの件ですが……」  そらきたと小谷先生は思った。 「気持はわかるんですが中立を守らなくてはならない公務員として、やや慎重を欠くとわたしは思うんですが、いかがですか」 「そうですかなあ」  足立先生がとぼけづらでいった。 「子どもたちに一日もはやく学校にきてもらいたいと思ってやったことなんです。いけなかったでしょうか」  小谷先生はまじめにたずねた。 「いけないとはいっておりませんよ。わたしはむしろ先生方の純真さに感激しているくらいなんです。けれどその純真さを政治的に利用されたらよくないと思って……」 「ああ、そうですか。それだったら、ぜんぜん心配いりません。これでもみんなそうとうの悪者ですから、人に利用されるなんてことはぜったいない。なんなら誓約書をいれておきましょうか」  足立先生はポンポンいっている。  指導主事はもっと話をしたいらしいのだが、完全に足立先生のペースにまきこまれてしまってまごまごしていた。 「足立先生、あなた、校長、教頭と出世をしてもらわねばならん人材なんだから、よく考えてくださいよ」  指導主事はやっと一矢むくいたが、ケッケッケッと足立先生に笑われておしまいになった。  どんなにひどくしかられるのかと思って内心びくびくしていた小谷先生たちには、ちょっとあっけないくらいだった。 「指導主事もいろいろおる。気のよわいのや強いのや。ま、そのうちにいろいろいうてくる。かくごしとけや」と足立先生はみなをおどかした。  役所を出て教員組合にまわった。  足立先生はそこでだいぶ長い時間、話をしていた。 「あんたら、あの決議文が否決されて運動がしにくいのやろ。しにくうてもがんばらなあかんで。おれたちだけに働かしとったら承知しやへんで」  足立先生は笑いながらいった。どこへいってもこの先生は豪傑である。  五人の先生はその足で処理所にまわった。そしてかなしいものを見たのだった。  浩二の家の前に軽トラックがとまっていた。家財道具をつみこんでいる。そのまわりに処理所の人たちが手伝うでもなし手伝わぬでもなしといった中途半ぱなぐあいで、あつまっていた。子どもたちもそれをじっと見ているだけだった。 「どないしたんや。引っ越しかいな」  なにげなく足立先生がたずねた。 「しぃー」と徳治の父が口をおさえて足立先生をものかげにつれていった。ほかの先生もつられてついていった。 「瀬沼の奴、これですワ」  徳治の父はくやしそうにいって、両手をあげるまねをした。 「功のオヤジと同じことをいわれたんですワ。わしらだいぶ説得したんですが、相手のなげたえさの方が大きかった」 「そうですか」——足立先生はいかにもざんねんそうだった。 「あかんとわかったら、だまっておくり出してやろうと、みんなで決めたんです。裏切られた者より裏切った者の方がつらかろうと、バクじいさんがいうんです。そらそうやとみんなもさんせいして、それであんなとこへ、ぼうと立っとるんです。手《て》伝《つど》うてもつらがるやろし、手伝わんのもこっちの気ィがすまんし、なんやへんなぐあいです」  折橋先生も太田先生もことばがない。  みんなは浩二の家の前にひきかえした。タンスをはこんでいた浩二の父と足立先生の顔が合った。  とつぜん浩二の父は地べたに土下座した。 「すんまへん、先生すんまへん、すんまへん、すんまへん」  あまりにも無残な光景だった。思わず小谷先生は眼をそむけた。  足立先生は浩二の父の手をとった。なんどもうなずいて、しずかにかれの肩をたたいた。足立先生の眼に涙が光った。  荷物はつみおわった。 「浩二、こい」——浩二の父がいった。  浩二はがらんとした部屋のすみで、発泡スチロールのロボットをだいて背を向けていた。 「浩二」 「いけへんわい」  浩二は撃たれた鳥のようにさけんだ。  母親はむりやりかれをひきずってきた。  浩二は眼にいっぱい涙をためていた。 「浩二」と功が呼んだ。  功は泣いていた。 「浩二、泣くな」といった純も泣いていた。  浩二がむりにトラックにのせられたとき、子どもたちはいっせいに泣きだしたが、けっして手出しはしなかった。白いほこりをあげて、浩二はいってしまった。  けだもののような声をあげて、足立先生が泣きだした。 「浩二のやつ……」  おんおんと地の底からひびいてくるような声をだして、あの足立先生が泣いていた。  この人もまた心のどこかに深い傷をもっている……あふれてくる涙の中で、小谷先生は思うのであった。  足立先生がハンストをはじめたのは、そのよく日のことである。処理所の正門の前に、登山用のテントをはって、すねたようにごろんとねころんでいた。  古い敷布に、ラッカーの赤と黒で、「ただいまハンスト中」「当局の卑劣な切りくずしに抗議する」などとかいてあった。「我は海の子、処理所の子、ハエの子ではないわいな」とかいてあるところが、足立先生らしいユーモアだった。  足立先生はだれにも相談しなかった。  折橋先生がいっしょにやるというとこわい顔をしてとめた。 「ひとりで英雄ぶっとるわけやない。おれも人の子、出世もしたいし、うまいもんもくいたい。バツはこわいし、クビはもっとこわい。おれだっていつおまえさんたちを裏切るかもわからん。そういうただの人間や、おれにはおれの歴史がある。歴史が歴史をつくり、歴史が歴史をたしかめる」  足立先生はナゾのようなことをいって、折橋先生をおいかえしてしまった。  一日めはたいへんだった。  足立先生を説得してハンストをやめさせようと、ひきもきらず人がきた。足立先生はコンクリートのへいの方を向いてねころんだままで、そういう人にはひとことも返事をしなかった。  足立学級の子どもが一時間おきにれんらくにきた。そうすると足立先生はおきあがった。そして勉強の内容をこまごまと指示していた。 「しっかりやるねんで。よその先生のせわになったらあかんで」  足立先生がいうと、 「まかしといてえ」と子どもは元気にかけていった。  三時間めにれんらくにきた子がいった。 「つぎ、給食やで先生、ここへ給食もってきたろか」 「おおきに、おおきに」とその子の頭をなでた。 「給食たべたらなんにもならんワ」と足立先生は笑いながらいった。  昼から新聞記者がたくさんきた。足立先生は新聞記者にはていねいに話をしていた。そして、さいごにかならずいうのだった。 「ちゃんとほんとのことかいてや」  足立先生は子どもと新聞記者以外は、ぜったいしゃべらなかった。たったひとつ例外があった。教員組合の人がきたときだ。 「三日めから医者をよこしてんか。まだ死ぬのんはやいからな」と足立先生はいった。  三時ごろ、足立先生がねころんでいると、へいの向う側から、コンコンという音がした。足立先生が眼を向けると、破れたへいの穴から小さな眼がのぞいている。 「だれや」 「おれや、功や」 「功か」 「腹へったか」 「ああ、腹ぺこや」 「つらいやろ」 「つらいな。日ごろ大ぐいやからよけいつらい」 「これ、たべろ」  功は小さな穴から、砂がつかないようにそろそろニギリメシを出してきた。 「ニギリメシやないか」 「そうや」 「こんなもんたべたら、ハンストにならへん」 「だまっとったらわからへん」  足立先生は笑ってしまった。 「医者がみたらすぐわかる。くいたいけれどやめておく」 「あかんか」  功はへいの向うでがっかりしているようだ。  ニギリメシはまたそろそろかえっていった。 「功」 「ん」 「ハンストというのは、水は飲んでもええことになっとる。もっとも水を飲まなんだら二、三日でおだぶつや。そこでな功、おまえの家に水があるやろ」 「水ぐらいなんぼでもある」 「水道の水とちがうで。一升ビンにはいっとる水や。おまえのとうちゃんが、まい晩飲んでる水や」  どうやら功はわかったようだ。 「それ、コップにいっぱい入れてこい。ストローもわすれんようにもってきてや。コップはこの穴は通らんからな」  ばたばたとかけていく音がした。功のほかにもまだだいぶ人間がいるらしい。  しばらくして、ふたたびコンコンと合図があった。 「どや」 「あったあった」 「いっぱい入れてきたか」 「いっぱい入れてきた」 「よしよし、その穴のところにそろっとおけ。おいたか。ストローをよこせ」  足立先生はねころんだままストローをくわえた。 「ストローのさきをコップにつっこんでくれ」 「つっこんだ」 「よしよし」  足立先生はえびす顔になった。 「コップ、ちゃんともっといてや」  足立先生は赤ん坊のようにチュウチュウと吸いはじめた。 「おいしいか先生」 「おいしいてなもんやないな。気絶しそうなくらいや。頭がくらくらする」  そりゃ頭がくらくらすることだろう。朝から、なにもたべていないところへ、そんなけしからんものをながしこんでいるのだから。 「こぼしたらいかんぞ。うまいぐあいにコップをかたむけろよ」  足立先生は勝手なことをいっている。 「先生、なに歌っとるんや」 「なになに」  足立先生はのんきに木曽節なんか歌っていた。  四時ごろになって、小谷先生ら四人がそろって処理所にきた。 「足立先生だいじょうぶ」  小谷先生は心配そうにたずねた。 「だいじょうぶだいじょうぶ、わがはいはいたって元気でござる」  足立先生はせっしゃのオッサンみたいなことをいっている。功の差入れてくれたいっぱいの水? で、きゅうに元気になったようだ。 「足立先生、淳ちゃんのおかあさんたちが中心になって、署名運動をはじめてくださることになったのよ。ひとりひとり話をすればわかってくれるはずだって」 「それはありがたい」 「先生のクラスの父兄ともれんらくをとっていっしょにやるっていっていらっしゃったわ」 「いっそうありがたいね」足立先生はすこし明るい顔になった。  26 流 れ 星    足立先生のハンストは、あちこちからさまざまな反響を呼んだ。子どもが登校を拒否するという事件は全国的にときどきある。しかし、その子どもに同情して、ハンストをおこなったという先生は、ちょっと例がない。  近ごろめずらしい先生だと好意的にみる人もいる反面、そういうぶっそうな教師がいるから世の中が乱れるという人もいた。教育委員会も動機が動機だけに、あつかいにこまっているようであった。  足立先生はただだまって、ハンストをつづけていた。なにかを考えているような顔でもあり、苦痛にたえているような顔でもあった。そばを通っていく人びとは、ものめずらしく足立先生を見た。いたましそうに顔をくもらせる人もいた。  小谷先生かられんらくがあった。こんどの運動に、「処理所の子どもを支援する親の会」という名まえがついたことと署名は予想以上にふえていることなど、メモに走り書きしてあった。足立先生のハンストはおかあさんたちにもたいへんショックをあたえています、とつけ加えてあった。  過半数になれば、採決された決議文をひっくりかえすこともできる。足立先生はそのメモを読んで、ちょっと顔をほころばせた。そして、ぼそっとした声でいった。 「てんぷら、くいたいなあ」  そのころ、学校でちょっとしたことがおこっていた。  二時間め、村野先生が教室にはいっていくと、浩二がすわっていたのだ。 「あらっ」  村野先生はおどろいた。転校していった浩二だったので、どうしてそこにいるのかよくわからなかったのだ。 「どうしたの浩二くん」  浩二はだまって勉強道具を机の中に入れた。 「浩二くん、あなた勉強しにきたの」 「うん」と浩二はうなずいた。 「あなた埋立地から歩いてきたの」 「うん」  村野先生はまたびっくりした。埋立地から歩いてきたのだったら、浩二の足で一時間はかかっているはずだ。 「おとうさんやおかあさんは知っているの」 「………」  浩二はだまっていた。  浩二は自分ひとりの考えで、この学校にきたのだ。 「浩二くん、あなた、学校をかわったのよ。あたらしい学校にいかなくちゃ……」  そうはいったが、さすがに村野先生は浩二の気持を考えると、強いことがいえなかった。浩二は五時間めまで、ちゃんと授業をうけた。  村野先生は、五時間めがすんでから浩二にいった。 「浩二くん、あしたから新しい学校にいくんですよ。いいこと。先生も浩二くんと別れるのはさびしいのだけれど、これは学校どうしのたいせつなお約束なんだから。ね」  浩二は下を向いていた。  村野先生はかわいそうになって、浩二の頭をなでてやった。  学校がひけると、浩二はかけた。ちょっとうれしそうな顔をして、処理所の方へどんどんかけた。  人のけはいがしたので、足立先生がふりむくと、浩二がにこにこ笑って立っていた。 「おう、浩二」  足立先生は思わず手をさし出した。  ふふふ……と浩二は笑って、どんと足立先生に体あたりをくらわした。腹がへって、よろよろの足立先生はひとたまりもなくひっくりかえって、浩二の下敷きになった。ふたりはとっ組みあって笑いころげた。 「浩二、なんや、それ」  足立先生は浩二のカバンを見てたずねた。 「学校へいってん」 「学校って、姫松小学校へか」 「うん」 「そうか、おまえもがんばるなァ」  足立先生はしみじみいった。  浩二は処理所の中へかけこんでいった。浩二はホームランを打った野球選手のように、からだ中、あちこちたたかれながら、大歓迎をうけた。  浩二についてきた足立先生はそのようすをたのもしそうにながめていうのだった。 「おまえたちが大きくなったら、どんな世の中になるやろなァ」  浩二は夕方まで処理所で遊んでいた。日が沈むと浩二はしょんぼりした。浩二がなにを考えているのか、子どもたちにはよくわかった。 「浩二、かえるか」  功は、浩二をはげますようにいった。 「うん」と浩二は元気がない。 「送っていってやるワ、な、みんな」 「うん、送ってやる」  子どもたちは浩二を中心にして、いっせいにかけだした。浩二を送っていくと、かえりはまっ暗になる。浩二の気持を思うと、みんなそんなことにかまっていられない。  子どもたちはかけた。商店街をぬけ、車の多い国道をよこ切った。子どもたちは歌をうたいながら、秋のトンボのようにかけた。空はあかね色だった。  埋立地と旧市内を結ぶ大橋までくると、子どもたちはひと息いれた。太っている芳吉は、はあはあいっている。  海から吹いてくる風は、ほてったからだにここちよい。はしけのゆききが、墨でかいた絵のようだ。 「いこか」  功がみんなにいった。 「よっしゃ」とみんなはいせいよく返事をして、ふたたびかけだした。  埋立地にはいると、そこは砂ばくのように広かった。 「わあーい」  子どもたちは、声をかぎりにさけんだ。 「ひーろーいーなあー」 「うーみーみーたーいーやあー」 「みんなーこおーえんにーせえー」  子どもたちは顔を見あわせて笑った。  そして、また、かけた。  浩二の家では、母親が半分泣きだしそうな顔をして浩二のかえりをまっていた。  浩二の顔を見ると、こわい顔をして思わず立ちあがった。 「おばちゃん、浩二をおこったらあかん」  功が窓から首をつきだして大声でどなった。つぎつぎと首が出て、 「おばちゃん、おこったらあかん」  と口ぐちにいった。 「あんたら浩二を送ってきてくれたの」 「うん」 「これから、処理所へかえるんかい」 「そうや」  さすがに浩二をしかれなくなったようだ。 「おっちゃん」  功は浩二の父親に話しかけた。 「浩二、きょう姫松小学校へいったんやで」 「えっ」  浩二の両親は顔を見あわせた。 「ほんとか浩二」 「ほんとや。あしたもいく」  浩二はきっぱりといった。 「おっちゃん、浩ちゃんをよそへやらんとって」  恵子は浩二の父親の眼をじっと見ていった。 「そうか、浩二は姫松小学校へいったんか」  浩二の父親はひとりごとをいうようにつぶやいた。その声に元気はなかった。 「浩二、かえるで」 「浩ちゃん、さいなら」 「浩二、バイバイ」  子どもたちは口ぐちにいった。  浩二はどんぐり眼をいっそう大きくさせて笑った。そして、力いっぱい手をふった。  浩二の父親は、下を向いてなにごとか考えているふうだった。  その日、小谷先生たちもいそがしかった。足立先生がハンストをやっているのだから、ゆっくり運動をつづけるわけにはいかないのだ。  だれがいいだしたのかネズミ算式運動といいはじめた。ネズミ算というのを広《こう》辞《じ》苑《えん》という辞書でひいてみると、つぎのようにかいてある。 (正月にオスメス二匹のネズミが十二匹の子を生み、二月には親子いずれも十二匹の子を生み、毎月かくして十二月にいたれば、ネズミの数は二百七十六億八千二百五十七万四千四百二匹の大数になる、というような算術の問題)  つまり、ひとりのさんせい者が生まれたら、そのさんせい者がつぎのさんせい者を求めて運動をおこすというやり方である。なるほどこれなら運動の広がりははやい。  処理所の子どもたちの立場をわかってもらうだけではたりないのです。立場をわかってもらえたら、つぎの人に話しかけてほしい、と運動に加わった母親たちは訴えた。  そして、ちえおくれの子を仲間にしていった小谷学級の話をして、わたしたちも小谷学級の子どもに学ぼうと話をむすんだ。  共かせぎのために、子どものめんどうをみてやれないという悩みをもっている親たち、子どものできがわるいので、学校に行かないという親たちもすぐ仲間になってくれた。  いろいろな家庭があり、いろいろな親がいたのである。参観日や総会にやってくる親だけが、親ではなかった。小谷先生たちは、そのことを学校にかえって話した。  すこしずつだったが、署名をとってくれる先生がふえだした。親の方から、さいそくをされてあわてて署名にまわった先生もいた。  足立先生、もうすこしのしんぼうですよ、たくさんのおかあさんたちがわたしたちの味方になってくださったのよ、小谷先生は心の中でつぶやきながら、夜おそくまで、かけずりまわっていた。  秋は深い、夜になると冷えてくる。  足立先生は毛布にくるまって、ぼんやり空をながめていた。こんな都会でも、空気のつめたいときには星がきれいだ。  さきほど処理所の親たちがきて話しこんでいった。かれらはいつのころからか、もうしわけないということばを足立先生の前にださなくなった。  そんな他人ぎょうぎなことをいうのは、それこそ、もうしわけないと思っているのだ。 「きょうは流れ星が多いなァ」  足立先生はそんなことをぼんやり思った。  コツコツとへいをたたく音がした。 「先生、もうだれもおらへんか」 「功か、おらん」 「そんなら、そっちへいく」  しばらくして子どもたちは出てきた。それぞれ足立先生のまわりに、すわったりねころんだり、勝手気ままなしせいになってくつろいだ。 「寒いで」と足立先生はとがめるようにいった。 「さっき、ごはんをたべたばっかりやから……」  徳治はいいかけて、あわてて口をつぐんだ。 「気にするな徳治」  足立先生はよわよわしく笑った。 「浩二を送ってやったで」と功がいった。 「そうか、ごくろうさん」 「先生、しんどいか」  純がおそるおそるという感じでいった。 「うん、苦しい」と足立先生は眼をつむった。  子どもたちはどうしていいのかわからない、じっと足立先生の顔を見た。 「いま、空を見とったら流れ星がいきよった」  足立先生はぽっつりといった。 「あの晩も流れ星が多かった」 「あの晩いうて」 「先生が生まれてはじめてドロボーした晩や」 「先生がドロボーしたの」  足立先生の前にしゃがみこんでいたみさえはびっくりしていった。 「いまみたいに腹がへって死にそうなときに先生はドロボーをした。みさえ、びっくりしたか」 「うん」  みさえはこっくりうなずいた。  ははは……と足立先生は小さく笑った。 「むりもない」  足立先生はみさえの頭をなでた。 「一日に親ユビくらいのじゃがいもが五つ、ごはんはそれだけやねんで」 「おなかへったやろ」 「いまみたいに、腹がへって苦しゅうて苦しゅうてかなわんかったナ。先生にもおにいちゃんがおった。みさえのおにいちゃんみたいにええおにいちゃんやった」  純はちょっとてれた。 「先生はそのおにいちゃんとふたりでドロボーにはいった。こっそり倉庫にしのんで大豆やトーモロコシをぬすんだ。こわかったなあ。ドロボーはなん回やっても恐ろしいなァ」 「そんなになん回もしたんか」  四郎がかすれたような声でたずねた。 「先生はドロボーが恐ろしゅうて恐ろしゅうてかなわんかった。だから、四、五回でやめてしもた。先生のおにいちゃんはドロボーが平気やった。なん回もなん回もドロボーしたんやな。きょうだいが七人もいたからツバメがえさをはこぶようになん回もなん回もドロボーをしたんやな」 「おまわりさんにつかまらへんかったんか」 「つかまったで。なん回もつかまった。けど、なん回もドロボーした。先生のおにいちゃんはとうとう少年院におくられることになってしもうた」  子どもたちは恐ろしそうな顔をした。 「その日、先生のおにいちゃんは死んだ」  足立先生があまりあっさりいったので、子どもたちはしばらくその意味をとりかねていた。 「先生のおにいちゃんは、みさえのおにいちゃんみたいに本を読むのが好きやった。死んだとき、文庫本の『シートンの動物記』がボロボロになってポケットにはいっとった。なん回も読んだんやろなァ」  足立先生は遠いところを見るような眼をした。 「ドロボーして平気な人間はおらんわいな。先生は一生後悔するような勘ちがいをしとったんや。先生はおにいちゃんの命をたべとったんや。先生はおにいちゃんの命をたべて大きくなったんや」  子どもたちはしーんとしている。 「先生だけやない。いまの人はみんな人間の命を食べて生きている。戦争で死んだ人の命をたべて生きている。戦争に反対して殺された人の命をたべて生きている。平気で命を食べている人がいる。苦しそうに命をたべている人もいる」  足立先生はそういってまた眼をとじた。 「先生のおにいちゃんがかわいそうや」  みさえがしくしく泣きだした。  足立先生はやさしくみさえをだきしめた。 「みさえは心のきれいないい子やな。ほら見てごらん。また流れ星がながれた。あの星は先生のおにいちゃんや。みさえのように心のきれいな先生のおにいちゃんや」  子どもたちはみんな空をあおいだ。  星は、ぬれた魚の眼のようにいとしく光って天にはりついていた。  エピローグ    その日の朝はやたらと空が高かった。ハケではいたような雲が、かすかに空に残っていた。トンビだろうか、二羽の鳥がたわむれながら西の方へとんでいった。  基地で勉強していた子どもたちは、しばし手を休めて空を見た。 「高いなあ」  みんなあんぐりと口をあけて空をあおいだ。 「ちくしょう、あのトンビ、ええ調子やな」 「勉強せんとデイトしてるワ」芳吉がうらやましそうにいった。  トンビは豆つぶのようになり、しばらくして子どもの眼から消えた。  そのとき、バタバタという小型トラックの音がした。ゴミをはこんでくる車は大型トラックで音がちがう。子どもたちがふり向くと、荷物の上に、浩二がちょこんとのっている。顔中で笑って功たちに手をふっているではないか。 「浩二や」 「浩二がかえってきた」  子どもたちは総立ちになった。 「浩二!」  勉強どころでない。だれもかれもあわててかけだした。  功は足立先生のところにかけた。 「先生、浩二や。浩二のやつかえってきよった」 「え」  足立先生もびっくりした。立ちあがろうとして、よろよろとたおれかかった。あわてて功がささえた。 「だいじょうぶ、だいじょうぶ」  足立先生はしっかりした声でいった。  浩二は車からとびおりた。功にささえられてよたよた歩いてくる足立先生を見ると、ぱっとかけだした。 「先生」  浩二は足立先生にとびついた。 「おっと」  功がうしろから足立先生のからだをささえた。足立先生はあんがいしっかりした足どりで浩二をうけとめた。 「ふふふ……」浩二は笑った。 「ははは……」  足立先生は腹の底からこみあげてくる笑いに、自分自身をもてあましているようであった。  昼ちかく、小谷、折橋、太田先生が上気した顔でかけてきた。  浩二をかこんで基地にいるときだった。 「やったァ、やったァ」太田先生はとびあがってさけんでいる。 「また、ええことらしいぞ」  足立先生は子どもたちにいった。 「足立先生よろこんでちょうだい。署名が過半数をこえたのよ」 「ほんまかいな」  足立先生の顔がくしゃくしゃにくずれた。  署名が過半数をこえたということは、校区の半分以上の家庭が処理所の子どもたちの味方になったということだ。道すがら署名をとったのではない、同情で署名をしてもらったわけでもない、署名をした人は自分の足で歩いて仲間をふやしたのだ。小谷先生はそのことを子どもたちに、わかりやすく説明してやった。 「組合や議員さんのあっ旋で、きょう三時から交渉の手はずがととのったの。おかあさんたちは二百人くらいあつまってくださるそうよ」  小谷先生は子どもたちの方を向いていった。 「あんたたちも出席するのよ。子どもの言い分もきいてくれって要求したの」 「まかしといて」功は胸をはって力づよくこたえた。 「足立先生いける?」 「おれは死んでもいきまっせ」  足立先生も元気な声でこたえた。  小谷先生は、ふと浩二に気がついた。浩二がいる、浩二がいるのはあたりまえだ、だけどなんだかおかしい。 「あっ」と小谷先生は声をあげた。 「浩二くん、あなたかえってきたの」  浩二はにっこり笑ったのだった。      * 「出発!」  功は大声をあげた。大八車が動きだした。三日のハンストで足立先生のからだはふにゃふにゃになっている。自分のからだに骨がないような気がしている。そんな足立先生を大八車にのせている。  大八車は歌っているようだ。ゴロゴロ、ゴロゴロと。うまくはないけれど、腹の中にしみこんでくる歌のようだ。  鉄三は小谷先生の手をしっかりにぎっている。小谷先生はときどき鉄三の顔を見る。鉄三はちょっとはにかんでそれからすこし笑う。小谷先生は明るい顔で笑いかえして、鉄三の手をぎゅうとにぎる。鉄三もにぎりかえして、ふたりは笑ってしまうのだ。  バクじいさんはうれしそうだった。うしろからひょこひょこついてくる。キチに引っぱられるように、おっかなびっくりで歩いている。小谷先生と鉄三のやりとりがうれしくてしかたがない。金龍生や、わしは生きておってよかったわい、おまえとチェロをひきたいが、もうすこしまってくれよ、バクじいさんは金龍生と話をした。  みさえと恵子は折橋先生に手をもってもらって歩く。おしゃべりをして笑いながら歩く。折橋先生にからかわれて、みさえはふくれた。ふくれながら歩く。折橋先生のお尻をぶちながら歩く。  大八車はあいかわらず、ぶきような歌をうたっている。ゴロゴロ、ゴロゴロと。  功や純や、徳治や四郎に大八車を引いてもらっている足立先生は、てんぷらがくいたいのにまだ、てんぷらがくえない。けれど眼は明るくかがやいている。ひょっとすれば、きょう、てんぷらがくえるかもしれない。それで明るい顔をしているのかもわからない。 「なにいうとんや」  うしろで車をおしていた武男が、足立先生にたずねた。 「いやいや」と足立先生はごまかした。  足立先生は大八車の上で、ドングリコロコロの歌をうたっていた。ドングリコロコロでなくて、テンプラコロコロと武男にきこえたのだ……。  太田先生としげ子は恋人のように、よりそって歩いている。なにかひみつのことでも話しているのか、ときどきふふふ……と笑っている。芳吉がうしろからそれをひやかしていた。  そんな子どもたちを、いとしそうにながめながら、処理所の人たちは歩いている。  そんな先生をたのもしそうに見て、処理所の親たちは笑う。  大八車は、ゴロゴロのほかに、ギイギイという伴奏までつけはじめた。  浩二は足立先生のよこにいる。ときどき、足立先生に頭をなでてもらってにこにこして歩く。ドングリ眼を大きくひらいて、笑っている。 「いくぞォ」  功がひときわ声をはりあげた。  大八車はぐーんと速度をました。キチがそれにあわせてとびだした。バクじいさんはがくんと腰をおられてひっくりかえりそうになった。 「まってくれ!」  バクじいさんはひめいをあげた。もっとも子どもたちには、まってくれが、ファファときこえただけだったが——。  びっくりして車をとめると、バクじいさんはしぼんだ風船みたいな顔をしていた。顔の面積は半分になっている。子どもたちはおどろいた。どうしてきゅうにそんな顔になったのだ。 「ファファ、ファファ」  バクじいさんはなにやらいっしょうけんめいさがしている。そばにいた功の父は気がついた。 「入れ歯や、バクじいさん入れ歯を落としよったんや」  大笑いになった。みんなでさがしてやっと入れ歯はみつかった。水道の水であらって口に入れると、やっともとのバクじいさんにもどった。  鉄三は声をあげて笑った。小谷先生は鉄三の手を引いてたしなめているが、自分でも笑いをころすのにへいこうしている。 「出発!」  功はどなった。そんなにうれしそうに笑っているときじゃないんだ、なにもかもこれからなんだぞ、功のきびしい声はそういっているようだった。  出発——なんていいことばだろう、小谷先生は鉄三の手をしっかりにぎりながら、しみじみ思うのであった。  大八車はまたぶきような歌をうたいはじめた。 初出/一九七四年 七 月 理 論 社 一九八四年十二月 新潮文庫 兎《うさぎ》の眼《め》  灰《はい》谷《たに》健《けん》次《じ》郎《ろう》 ------------------------------------------------------------------------------- 平成13年1月12日 発行 発行者  角川歴彦 発行所  株式会社  角川書店 〒102-8177 東京都千代田区富士見2-13-3 shoseki@kadokawa.co.jp Kenjiro HAITANI 2001 本電子書籍は下記にもとづいて制作しました 角川文庫『兎の眼』平成10年3月25日初版刊行          平成12年8月15日5版刊行