TITLE : 井伏鱒二随聞    井伏鱒二随聞  河盛 好蔵 目 次 1 作家の素顔 井伏文学の周辺 緑蔭対談 「山椒魚」まで 夕すずみ縁台話 文学七十年 自選を終えて 2 井伏鱒二小伝 作品ノート 「ドリトル先生」ききがき 名山を見る 阿佐ヶ谷会のこと 常に新らしく 高森訪問記 荻窪五十年  あとがき 井伏鱒二隨聞 1 作家の素顔 河盛 井伏さんはこのごろずいぶん旅行をされますね。先日は広島でしたか。 井伏 あれは原爆の資料館を見に行ったんです。原爆患者の療養日記や、いろんな人の体験記みたいなもの、二千何百編集めたというんです。 河盛 どうしてまたそういうものを? 井伏 僕は『新潮』へ「黒い雨」書いているでしょう。原爆患者の女の人が子供産んで死んだんです。その親戚の人が療養日記とか、お医者さんのカルテを見て説明を引受けてくれるというので書き出したんです。そうしたら遺族の人が、それより前に、療養日記は見るのも涙の種だって燃しちゃったんです。途方に暮れた。小説も途中で切らなきゃいけないかと思っていたところに、二千何百編集まったって……。そういうことです。 河盛 とても全部は見きれないでしょう。 井伏 ええ。あそこは持ち出せないし。——療養の仕方、発病の仕方、一人ひとりみんな違いますね。知ってる人にもいろいろ訊いたんですが、酒を飲むと、いいという原爆症の小料理屋のマダムもありました。 河盛 酒が原爆症に効くんですって……? 井伏 速断はできないでしょうけれども、よしたらば亡くなった人があるそうです。マダム自身も視力が弱って来たんですって。いまごろになって。もう二十年ですよ。それでまた酒を飲んでました。 河盛 あなた、あの時は福山でしたね。 井伏 ええ、福山の近在に疎開していました。もう福山も最後だと思って、あのとき福山の町を見に行ったんです。その時刻、芦田川の堤の高射砲陣地のあるところでお弁当食っていたんです。その時はキノコ雲が出ていたはずですが、西の尾道との境に山があるんです。そのために……。少し西の三原からは見えたそうです。遠くから見るとキノコ雲に見える。近くから見た人はクラゲの形だそうです。あの雲は、あまり動かないのですね。そうして西側のほうは大粒の黒い雨が降ったんです。足がクラゲの足みたい。黒い、えんどう豆くらいの雨が……。手についたらシャボンで洗ってもなかなかとれない。それにやられた人はいけないそうです。 河盛 こわいですね。 井伏 こわいです。——いまは原爆記念館のあるところ、楠の森でね、ちょうど若葉で、きれいでした。 河盛 広島からお帰りになってからは? 井伏 あくる日、甲府へ。 河盛 南船北馬というところですね。一年間にずいぶん……。 井伏 今年はそうもしません。 河盛 しかしこの四、五年、月の十日は……。 井伏 以前は、釣りで旅行していましたが、このごろしないです。 河盛 日本国中ほとんど歩かれましたか。 井伏 僕はおんなじところへ行くから、——いつもおなじとこですよ。 河盛 甲府ですね。山梨県があんなにお詳しいのは、どういうわけですか。 井伏 山梨県ばっかり行ったからですよ。なんかあそこは飽きないですね。 河盛 なにかいいことがあるんじゃないんですか。 井伏 いいこともないです(笑)。人と知り合いになったでしょう、釣りの人が多いですからね。あそこは釣りが非常に盛んなんです。 河盛 最初いかれたのも釣りのためですか。 井伏 そうです。宿も東洋館というところばっかり泊まっていましたが、戦争でシンガポールに行って来てからは、梅ケ枝という宿へ行くようになりました。戦争中、甲府市外へ一年疎開しているときも、一週間のうち三日や四日は梅ケ枝という宿へ行ってました。そして太宰(治)君、野沢純君などと飲んでいたんです、宿屋の帳場で。そこへ行くとヨッちゃんという、三十年勤続の女中がスペシャルという白ブドウ酒を一人に一本ずつ……商売ですけれども。とてもそんなもの普通手にはいらない。それからタバコも、そこのおかみさんの生家は桜桃つくっているんで、鉄砲虫を駆除するために、長年お客のタバコの吸いがらを集めてカマスに入れていた。それをヨッちゃんが灰ふるいでカマスから出してきてくれる。それを僕たちは長ギセルで喫う。キセルで吸殻を喫うことは、昔の不良少年の言葉でゴウケツをやるというんですね。ゴウケツやってたら、一年間にカマス二俵吸った、太宰君と野沢君と僕と三人で(笑)。 河盛 甲州はお酒はどうですか。 井伏 地酒のいいのがありますよ。富水《ふすい》という逸品があった。それからサド屋の白ブドウ酒、これはいいものですね。 河盛 一つの土地を深く、詳しく知ってるほうが面白いでしょうね。あちこちとび歩くより……。 井伏 人がね。風景がよくても、どうも。 河盛 甲州人というのはそんなにいいですか。 井伏 僕のつきあう人はみんないい人のような気がします。疎開していたときのことですが、タバコの配給でタバコ屋の前に行列しますね。すると、お前より俺が先だって組打ちをはじめるような人もいる。そういうふうな人がいるかと思うと、中に、りっぱな人がいますね。 河盛 黒駒《くろこま》の勝蔵はあすこですね。 井伏 盆地の東側です。いまも家が残っています。大名でなく、ああいう代官の支配していた土地は博徒が多いですね。上州でも。 河盛 信玄の遺徳みたいなものはありますか。 井伏 それはどうも、あの土地では信玄と呼び捨てにするといい顔しませんね。信玄公とか、機山公《きざんこう》といわないと……。だいたい五十以上の人は、信玄と呼び捨てにすると気を悪くしますよ。 河盛 えらいものですね。よほど善政を施したんですね。 井伏 よほどやったらしいです。勝頼の方はそれほど人気がないですが。 河盛 山梨県では井伏さんを名誉県民にしなければいけませんね。 井伏 不名誉県外民だ(笑)。 河盛 あなたが佐藤(春夫)さんのところへ始めて行かれたのは学生時分ですか。 井伏 もう学生でない。ブラブラしていました。そうしたら田中貢太郎《こうたろう》さん、あの人が、お前もそろそろ年をとってくるから——わしは小説はわからんけれども、小説のわかる小説家を紹介してやる。そういって紹介状書いて下すった。でも一人行くのは体裁わるい。それで前から出入りしている富沢(有為男《ういお》)君に連れてもらって、短篇一つ持っていった。 河盛 それはなんですか。 井伏 「鯉」。田中さんが編集していた『桂月《けいげつ》』という雑誌へ書いたんです。それを名刺代りに持っていって見てもらったらいいだろうと、田中さんにすすめられましてね。佐藤さんが読んでいたら、奥さんが奥のほうで呼んだんですね。佐藤さんは、椅子の上にあぐらかいて読んでいたんですが、立っていくのに、「ここまで読めばあとも読みたい、興味がある」といって立って行ったんです。富沢君が僕のほうを見て、こういうふうに(と胸をさすってみせて)しましたよ。 河盛 胸をなでおろしたわけですね。 井伏 緊張していました。それからあと読んで「七十五点」といったんですがね。 河盛 いい点じゃありませんか。 井伏 その晩、興奮してね、下宿へ帰って眠れない。その後、富沢君について、よく行ってましたよ。 河盛 あなたがご覧になって、作家としての佐藤さんのいちばん偉いところはどこですか。 井伏 どんな作品でもわかる鑑賞眼、非常に奥歯も前歯も達者な鑑賞眼。こまかい味もわかるし、大きさもわかる。鑑賞眼というものはすぐれていた。感じたことを言葉でいえる。僕なんか抽象的なことはいえないんですが、そういう面を、生きた自由な言葉でいえる。 河盛 詩歌の鑑賞なども見事なものですね。 井伏 ただね、恋愛のことを一度相談したら、これは相談相手になってもらえる人じゃないなと思ったんです。 河盛 といいますと? 井伏 僕はね、言い寄ることも、手紙を出すこともできなかった。そんな堅気の家の娘。悩んでいたんですよ。佐藤さんに訴えたら、どういう感じの少女だっていうんです。ポインターのような感じですと答えました。 河盛 ポインター……。 井伏 犬のポインター。やわらかみがありますね、なだらかな感じで。そういう感じの少女だといったら、そら君、ポインターの口へ砂糖塗って、なめればいいって(笑)。佐藤さんは、芸術家ではあるが、ぜんぜん身上相談はだめだと思った(笑)。それから僕の帰ったあと、誰かが行ったら、「さっき井伏君が来て、まっ赤な顔して女のことをいった」。ますます悪いや(笑)。佐藤さん、自分のことではひどく悩む人ですが、僕たちの現実のことはそういうふうにね(笑)。もし僕たちが恋愛を小説に書いたら、佐藤さんはそれを見て、いろいろなことを教えて、親切に直してくれる。心がけもいってくれる。しかし小説でない現実の問題に対しては、そういう態度。 河盛 佐藤さんは、偉大な文学の教師でしたね。三好達治君がいってましたけれど、佐藤さんに詩を見て貰って、ここのところ少し気に入りませんがというと、すぐ「こうすればいいだろう」と言下に直すそうですが、そのものズバリで見事なものだったそうです。それは天才だっていってました。 井伏 人の文章直すときは、まったく後光がさすくらい。 河盛 あなたも直されたことありますか。 井伏 ええ。鉛筆でね、ちょっと来いといって、ここのところって。後ろから立つと、先生もちょっと禿げているんですね。ああ、先生も少し薄くなったな(笑)。 河盛 あなたの「鯉」に出てくる青木南八《なんぱち》、あれは非常な秀才だったそうですね。 井伏 ええ、いつか、佐藤輝夫君がフランソワ・ヴィヨンの詩で博士になったでしょう。その祝賀会に行ったら、辰野隆《ゆたか》さんがテーブル・スピーチして、佐藤輝夫君の同じクラスに、青木南八という秀才がいた。彼がどういう答案を出していたかを、いちいち覚えているんですね。辰野さんという人は秀才好みですね。さかんに青木のことをほめましたね。でも、それからがいけない。 河盛 あなたのことが出たんですね。 井伏 そう。そのクラスには、ここにもおいでになる井伏さんという人がおいでになりました。その学生の仏文和訳の答案は、ひどくロマンチックだったって。みんな僕のほうを見る。弱った。帰りにクロークで僕がオーバーを受け取っていたら、僕の背中をドーンとたたいてサッと逃げ出す人がいるんです。見ると辰野さん。 河盛 目に見えるようです。辰野先生が学校の教師をしたのはあのときが初めてでしょう。 井伏 助手か助教授か……。 河盛 助手時代ですね。だから、あなたがたに教えたのが初めてなんです。 井伏 最初の講義のときにクタクタになった厚い小型の本を持ってきて、とうとうと一時間半くらい読み続けましたね、講義しないで。どっかで読んだことがあると思ったら『即興詩人』でしたよ。いつか座談会で同席したとき、その時のことを話したら、あれはたぶん仕度をしていなかったから(笑)。 河盛 やはりアガってたんだな、先生も。 井伏 颯爽としていたな。早稲田へは吉江孤雁《こがん》先生の代りにいらした。 河盛 吉江さんがフランスに行かれたから。 井伏 辰野さんが酔ったときのゼスチャー、しゃべり方は、お弟子さんたちに浸透していますね。酔ったときの今日出海と中島健蔵と佐藤正彰と小林秀雄を合わせれば、ちょうど酔ったときの辰野さんになる。辰野さんと座談会のとき僕がそういったら、あまり賛成しなかったですがね(笑)。 河盛 辰野さんが亡くなられて、ポッカリ大きな穴があいたみたいで、先生の偉さがますますはっきりします。小林秀雄君なんか、文字通り恩人だといって感謝していますね。先生も小林君を大事にしてられました。 井伏 辰野さんがいってたのかな、だれかに聞いたのか、小林君に貸したフランス語の本の頁には、フケと髪の毛がずいぶんはさまっている(笑)。 河盛 辰野さんの本で勉強したんでしょうね。 井伏 この酒、うまいですね。 河盛 こちらもあがって下さい。これは(オードブルを盛った皿)あなたからいただいたものですよ。食べるとあなたの描いた絵が出てきます。 井伏 これは瀬戸で描いたんです。 河盛 このごろ焼きもののほうはいかがです。 井伏 しばらくやめたです。やればやるほど下手になりますね。 河盛 あなたのお酒にいつも感心するのは、前の晩朝の四時ごろまで飲んでられても、十時ごろからちゃんと机にむかわれる。あの秘訣は。 井伏 お湯へはいってね、汗流すんです。昨夜も一人で三時ごろまで飲んでいた。それで今日は朝早くからお湯へはいって、汗を流したんですよ。そうすると二日酔い、さめますよ。それから酒飲むとき、水を飲むんです。それから酢のものね。河盛さんはだいたい適宜まで飲んだら、さっと帰る。 河盛 そうしないと体がもちませんよ。あなたにはいつも叱られるけれど。 井伏 あれは僕にはできないな。あれは一つの芸ですよ。 河盛 唄とか音楽などはいかがです? 井伏 僕はだめですよ。いなかで、音といえば谷川の音と松風と、馬の鈴の音、荷車の音、そんなものですよ。学校にもオルガンがあるだけ。ピアノなんか、見たことなかったですね。 河盛 谷川の松風ばかりというのは、風流じゃないですか(笑)。 井伏 そして谷川で釣りをして……。音痴になるわけで、都会の人にはかなわんですね。 河盛 いつか井伏さんが「保元物語」の現代語訳をやってられたとき、原文の調子を生かそうとして直し直して、やっと直し了ったら元の原文になっていたという話(笑)。あれは笑ったな。 井伏 いくら直しても原文が一番いいんだからといったわけですよ。外国語ならば日本語になるけれども、日本語を日本語に訳したら原文になる(笑)。中山義秀さんが「平家」をやったでしょう。あれと僕の訳した「保元物語」と合本でした。義秀さんが「祇園精舎の鐘の声」をあそこはそのままにやった。翻訳しようがないですものね。義秀さんも苦労したでしょう。 河盛 ああいうふうな昔のものでは、なにがお好きですか。 井伏 僕は「平家物語」。僕はあの合戦記が好きなんです。子供のときから武者絵が好きでした。 河盛 井伏さんの文章は男性的ですからね。菊池(寛)さんの文章もそうですね。 井伏 ああ、そうですね。心臓の弱い人や酒飲む人は文章の区切が短いといいますね。菊池さんは心臓が弱かった。志賀(直哉)さんは酒をきらいでしょうし、そうともいえないね。志賀さんも区切がちょっと短いようですね。簡潔ですね。鴎外のものも。 河盛 僕はだいたい日本の作家の文章は節回しのいいのと、リズム感のいいのと二つに分れると思うんです。——井伏さんのはリズム感のいいほうです。志賀さんもそう。それにくらべて荷風は節回し派ですね。林芙美子もそうです。日本では節回しのうまいほうが大衆性がありますね。谷崎(潤一郎)さんも節回し派のほうですね。 井伏 磨いたような。 河盛 どうも節回しのうまいほうが日本ではもてるようだ……。 井伏 そういえば「平家」も節回しがいいが。 河盛 あれも節回し派ですね。 井伏 西鶴なんかそうじゃないね。 河盛 西鶴はリズム派のほうでしょうね。しかし日本もこれからはリズム派もだんだん悦ばれてくるんじゃありませんか。間《ま》のいい文章が歓迎されてきますよ。志賀さんの文章は間がいいですね。鴎外もそうです。 井伏 その間というものが、むずかしくって。 河盛 井伏さんは文章で、どういうことにいちばん苦心されますか。 井伏 みなつらいような気がする。書くほどむずかしくなってくる、マンネリズムになってきて。 河盛 テニヲハなどにも……。 井伏 それも一部分でしょうけれども、なんか一つの素材、それによってその文章が——行く道が自然にきまるようだと思うのです。いい書き出しが見つかれば、スッといく道があるような気がする。それがコツンと行き当ってしまいますよ。まあ書き出すまでが、いちばん苦労しますね。最初の二行が書けたら、もう四行はできてますものね。四行書けば八行ということになる。 河盛 あなたは書き出すと、早いほうじゃありませんか。 井伏 わりに早いですね。書きだしのところを苦労していますとね、ハエのような——ハエがガラス戸からこう出ればスッと出られるのに、同じところをごそごそしているでしょう。追ってやっても出ないですね。ああいうふうにハエのような……。スッといけばそりゃ出ていけるんだが、いつも僕はハエのようだと思う。最初からそうですよ。藤原審爾君にいったら、藤原君も「お互いにそうじゃないですか、書き出しは……」と。 河盛 筋道がきまっているのを途中で行きづまるというのは、どういうことでしょうか。 井伏 感興が途切れるんでしょうね。 河盛 文学者を志してから、これまで一番くやしかったことがあるとしたら、どんなことですか。 井伏 締切りに負けて、いいかげんに書いたことですね。十分には僕はしなかったです、長年。 河盛 そんなこと、あなたにはないでしょう。 井伏 いや、ただ締切りでね。それをいまだにくり返しているんですが、僕の理想はね、まとめて百枚なら百枚書いて、どっか旅に出てね、宿へ着いて読み返すんですね。直して、また家へ持って帰って読みなおす。それが理想ですがね。書いて、いちおう読み返すことは読み返すんですが、誤字だらけで出している。それをくり返して来たから、くやしいですね。 河盛 志賀さんは、何度も読み返されるそうですね。ひきだしに入れておいて、出して、また読んで……。 井伏 そうでしょう。それが理想ですがね。いつか上林暁が、読みなおすほどコクが出ると、ひとりごといってました。それはそうかも分らない。 河盛 いつか太宰君がこんなことを言ってましたよ。井伏さんは、文学の先生としてはじつにつらい先生だ。なぜかというと、井伏さんの書かれるものは粋《いき》で、まねのしようがない。あれでベッタリと手垢がついていると、こちらも気が楽なんだがと。 井伏 その言葉、額面どおりにとれないですよ。太宰君はお世辞がうまいから。 河盛 しかし太宰君のいうことは僕にはよく分りますね。ところでこれからの仕事の御予定は? 井伏 夏、甲府のことを三百枚。これは売る本でなく、製本技術を残すために、製本屋さんのために書くんです。 河盛 製本屋さん? 井伏 きれいな製本を。部数はごく少なくね。一冊仕上げるのに何日もかかる製本だそうです。 河盛 工芸的な製本ですね。それ、甲府の人がやるのですか。 井伏 いえ、大阪です。大阪にそういう年寄りがいて、製本技術の名人だそうです。 河盛 それはどこが出すんですか。甲府市が出すんですか。 井伏 いや、そうじゃないですよ。どこのか僕もよく知らないですが、温泉協会の安西君に頼まれてね。 河盛 甲府の観光局ででも考えついたんでしょうか。 井伏 そうではないんだそうです。甲州のことをいろいろ書く。信玄について書くとか、城山について書くとか、印伝《いんでん》の袋物随筆とか、歴史でも民俗学でもなんでもいい。たくさん雑文を集めるんです。安西君は甲府がいいだろうって。僕を甲州人だと思っているらしいですよ。それが夏の仕事です。 河盛 それは楽しみですね。 井伏 まあね……。三百枚はちょっときついけれども、製本のためのなんです。仕事というより遊びですね。 河盛 そういう製本の名人が、大阪にいるとは、おもしろいですね。 井伏 寿岳文章さんのブレークの詩の研究があるでしょう。あれを製本した人です。あのブレークもそう部数は作らなかったでしょう。 河盛 それに紙もいいんでしょう。 井伏 僕のはああいうちゃんとした研究じゃない。寿岳さんのは厚いでしょう。あれも二十部、三十部の本じゃないですか。 河盛 二、三十部じゃもったいない。百くらい作って頂きたい。 井伏 あまり製本できないそうですよ。 河盛 あなたがいままでお書きになった、いちばん大作はなんですか。 井伏 長いの? 長いのは『群像』へ書いたあれがいちばん長いです、「漂民宇三郎」。 河盛 あれは名作ですな。もっと長いもの、お書きになりませんか。 井伏 いやあ、僕は大作とか大河小説というのは一ぺんも、やったことないでしょう。好きで書いてるだけですから……。どうも大作は……。 河盛 そういえば、こんど永井(龍男)君の短篇集(『一個その他』)が出て、みな感心して、短篇をもう一度見直さなければいけないという機運が文壇に出てきていますね。これはいいことです。ただ長いばかりの荒らっぽい小説が横行しすぎていますからね。もともと日本人は短篇はうまいんですから。 井伏 短篇が問題になりだした。木山(捷平《しようへい》)君とか永井君が、——上林(暁)君が加わると、もう一ついいわけですが。 河盛 芥川賞も短篇重視でやってもらいたいですね。せいぜい五十枚までの作品を。 井伏 山川方夫《まさお》(昭和四十年交通事故で急死)とか、ああいうのがいれば。 河盛 よかったわけですね。井伏さんは山川方夫をよく御存じでしたか。 井伏 いや、文通したことも会ったこともないですけど、作品は好きでした。人を見たこともないです。あの人、だんだんうまくなってきた。一作ごとにうまくなってきた。惜しかったですな。 河盛 全く惜しかったですね、これからというとき。 (昭和四十年九月、『小説現代』)   井伏文学の周辺 河盛 井伏さんはご自身の文学に郷土(広島)の影響ということをお感じになりますか。 井伏 僕は文章や言葉はあっちのほうだと思うんですがね。 河盛 それは無意識のうちにですか。 井伏 無意識ですね。文章は歩き方のようなもので変えようったって変えられないですな。人工的には変えられるでしょうけれども、急いだりするとやっぱり昔の歩き方になる。ずいぶん僕には郷里のローカルカラーが出ているんじゃないかと思うんです。 河盛 どういうところからそれをお感じになりますか。 井伏 小山祐士、木下夕爾、葛原しげるとか鈴木三重吉、倉田百三などもそうですが、広島県には一脈の甘さがあるでしょう。どうも僕は甘さがそうじゃないかと思うんです。 河盛 井伏さんの文章甘いですかね。むしろ辛いほうじゃありませんか。 井伏 甘いんじゃないかと思うんですよ。骨がないようなところ。三重吉もそうですね。 河盛 あのへんの方言みたいなものを意識してお使いになることがあるでしょう。 井伏 あれは田舎の言葉をこさえて、あのとおりじゃないんですけれども、誇張したりしたのです。 河盛 あなたご自身の性格の上に、郷土の影響というものをお感じになりますか。 井伏 年をとるとだんだんよけい出てくるんじゃないかと思うんです。これは小説のなかの会話の場合ですが、田舎言葉を入れて書いた次に、続けてまた田舎の言葉を入れると、面白くないですね。ほかの地方の、(地方というのは東京ですが)標準語を入れると退屈しないですね。あれを続けるとかなわないですね。 河盛 読むほうも多少かないませんね。 井伏 自分でいやになっちゃいますね。なるべくかわりばんこにして書いてみて、自然にそうなってきています。 河盛 だいたいご郷里のほうは、非常におだやかな気候じゃありませんか。 井伏 気候はおだやかです。しかし生活は豊かじゃないです。狭いところへ家がたくさんありますから。人口がいまの五分の一ぐらいだったらいいところです。 河盛 文化の程度はどうなんですか。早くから開けていたところですか。 井伏 途中でとぎれているんです。戦国のころ毛利が攻めて来て、村人が一人もいなくなったときがあるらしいんです。記録もないんですね。 河盛 ずっと昔にさかのぼるといつごろになりますか。 井伏 それは弥生式なんか、裏の山に横穴古墳がずいぶんあった。埴輪は出ませんが、勾玉《まがたま》だとか刀、錆びたもの、金の飾り、それから僕の疎開中に室町の古鏡も出ましたよ。 河盛 文化はそうとう昔は開けておったわけですね。 井伏 荻窪で毎月、古書展覧会があるでしょう。毛利がくる前の備前、備中、備後の山城記というのがあるんです、それ買って来て見ていたら、僕の家の名前がありました。 河盛 いつごろですか。 井伏 それは大内義隆のころですね。 河盛 そうするとそれより前からお宅はあることになりますね。 井伏 そうなんですね。嘉吉二年(一四四二)に山口からきたんです。 河盛 十五世紀半ばですな。大旧家ですね。ご家族のなかから非常に影響を受けた方がありますか。 井伏 おじいさんじゃないでしょうか。八十いくつで亡くなったのです。もう、もうろくしていましたね。一年半ぐらいじっと囲炉裏のところへ坐ったきりでした。 河盛 どういう影響を受けられましたか。 井伏 頑固なんです。ある年、度量衡の検査がきたんです。骨董自慢で、下男に元禄時代の枡だとか、オランダのはかりをもっていかせたんです、そうしたら下男が殴られたらしいな。 河盛 どうしてですか。 井伏 つまり度量衡の検査されるのに、昔の枡なんかもっていくのです。自慢だったんですね。はかりなんか調べる役人だから、共鳴してくれると思ったんでしょう。すぐ噂を聞いて近所の顔役の人が数人きましてね。検査官を愚弄するというんで、始末書書かせたんです。そうしたらそれからすっかりしょげちゃった。家名を傷つけたといって。それまで威張っていたのですが、それからはさっぱり、もうろくしました。 河盛 そのおじいさんが、そのころ田舎にはめずらしい蓄音器を買ってらしたという話をうかがったことがあります。それをおじいさんが、あなたにかけさせて、兄さんにかけさせない。そのほうがいい音がするという、それほどおじいさんに可愛がられていたわけですね。 井伏 じっと聞いていて、どうも満寿二《ますじ》のほうが音がいいというんだ(笑)。弟がいたんですけれども、やっぱり六つのとき亡くなったので、末っ子になったわけだ。それで僕は甘やかされて育ったわけです。 河盛 そうしますとご兄弟は。 井伏 兄と姉と。 河盛 お兄さんとはおいくつ違いですか。 井伏 四つですが、それを十ぐらい違うように思っていました。 河盛 ことにお父さんがいらっしゃらないから。 井伏 兄貴は秀才でしたがね、これも頑固でした。戦争中に急性肺炎で亡くなりましたが。兄貴は僕を小説家にしたかった。僕は絵描きになりたかった。兄貴も小説家になりたかった。しかし家を継がなければいけないから……。田舎は家のほうが大事ですからね、身代りにされたんですね。 河盛 しかし、あの時代に小説家になれなんてめずらしいですね。 井伏 そうなんです、田舎で小説家になるといったら、それは軽蔑されましたね。兄貴の代理で親戚へいくと、いつもいちばん末席へ坐らせられるんです。 河盛 それほどですか。 井伏 そんなことはもう不良少年ですよ。 河盛 あの時分はそうでしたね。ところで、あなたご自身にも小説家になろうという気はあったわけですか。 井伏 やっぱり半ば絵描きのほうになりたかったですね。 河盛 それでも小説家になれといわれて、どうしようと思われたですか。 井伏 ならなければいけないと……(笑)。僕なんかの同級生で、台湾へいって、巡査なんかになると、二十円家へ送る人があるんです。おふくろがお前なにしているんだというんです。兄貴は、満寿二はそういうようなのとはちがうんだと、とりなしてくれるんです。ところが中学三年の夏休みに、柳川春葉の「生さぬ仲」というのを読んで僕は涙こぼしていた。そしたら兄貴がぶん殴るんです、そんなもの読んで泣くようじゃ小説家になれないって。こっちは小説家になるつもりないです。なんでも殴るんです。スパルタ教育といって、ひどかった。田舎だと長男がいちばんですからね、次男、三男のつらさは……。 河盛 早稲田ではいかがでしたか。 井伏 僕はあの学校好きでした。アーサー・シモンズを入学そうそうに読まされたな。教師は吉田絃二郎先生がいたな。僕は青木南八という友だちの影響を受けたんです。 河盛 井伏さんが最初に文壇で訪問された作家は、岩野泡鳴でしたね。どうして泡鳴を訪ねられたのですか。 井伏 同郷の僕の先輩が泡鳴のところへ出入りしていたんです。その人が僕をつれていってくれたんです。晩年二、三度です。 河盛 泡鳴の文学というものを、やはり認めておられたわけですか。 井伏 僕は短篇が好きでしたね。でも行っているときは悪い影響だけ受けると思って読まなかったんです。非常に強烈な影響を受けますからね。文学談は聞いていましたけれども。泡鳴は文壇人と会を持っていました。僕はそれへ入りたいなと思っていたら、それへ入るのには、女友達をつれてこなければ入れてやらないというんで駄目でした(笑)。 河盛 どうでしたか、岩野泡鳴という人は。 井伏 女中に対してもやさしい口をきく人でした。 河盛 小説家になることを志されてから、愛読された作家は誰ですか。 井伏 チェーホフですね。それは当時の早稲田の流行ですね。芥川さんが、早稲田のやつはチェーホフしか知らんといったそうですが、そんなものでした。最初の僕の習作みたいな「山椒魚」というのは、チェーホフの「賭」というのを読んだ感動を書いたものです。一人の男が賭け金に目がくらんで進んで幽閉される。そのうちに絶望からデカダンの気持になったり、それからあきらめたりして、最後に悟るんですね。それで最初は悟るまでを書こうと思った。そうしたらあきらめから、今度は絶望を書けないんです。それで瞬間的でも、本読むか、経験するかして、自分で感じなければ書けないもんだな、説明になってしまうんだなというんで、そこでちょん切ったんです。それでシリ切れとんぼになった。 河盛 はじめて伺うお話だな。その時分はチェーホフの翻訳出ていましたか。 井伏 雑誌なんかにぽつっと出たりしましたね。僕らはガーネットの英訳で読みました。それから僕は因島へいってから、トルストイを米川さんの翻訳で読んだ。 河盛 トルストイの影響というのはありますか。 井伏 コーカサスものが好きです。コーカサスものは、読むと挿画を自分で描いたりしました。しかし「クロイツェル・ソナタ」なんか晩年の作品の道徳的なところは痛くて……。こっちが叱られているような気がします。 河盛 コーカサスといえば、あれは昭和七年ごろでしょうか。ある晩、“はせ川”にいったら横光利一さんがおって、前に坐っている人と二人で何やら楽しそうに話しています。その前の人が、コーカサスには実に美人がいるという話をさかんにしているのです。そこで、横光さんは、いまいってもおるでしょうかといったら、いやあもうすっかり輸出していないそうですといったんで、私は吹き出して、あれだれですかといったら、あれは井伏鱒二だと(笑)。それではじめて井伏さんを知ったのです。……昭和七、八年かな。 井伏 いやあ同人雑誌『作品』のころです。 河盛 その時分、チェーホフのもの以外で、日本の作家でなにか愛読されたものありますか。 井伏 志賀直哉さんを予科の二年ぐらいのとき読んだんです。それは「謙作の追憶」、これは感動しましてね。同級の友達に志賀直哉というのはすごいぞといったら、なんだお前、いまごろ志賀さんを知るようじゃ文壇に出られないぞといわれた。鴎外の『中央公論』に出た「阿部一族」、これは感心しましたね。 河盛 井伏さんは文壇へデビューされてからずいぶん不遇時代が続きますね。 井伏 ええ。僕は横光利一なんかより十年遅れたんです。正宗さんのは読みました。正宗さんのは、たいていどんなものでも読まないことはなかった。考え方も正宗さんの考え方で考えようとしたはずだが、正宗さんのようにならなかったのは、頭がシャープでないから。正宗さんに感心したんです。短篇なんかいまでも感銘深く思っているのがあります。いつまでも残る。 河盛 その時分の正宗さんというのは、「牛部屋の臭い」とかいう、あのころのものですか。 井伏 あのあとですね。軽いもので職人ふうのものを書いたりするのが、僕は好きなんです。なんか派手でないけれども、いつまでも残ったですね。その前には兄貴の書棚で独歩を読んだんです。僕らの時代の人はたいてい独歩読んでいますね。 河盛 私は井伏さんのものではじめて拝見したのは、「夜ふけと梅の花」です。あれが出たのは昭和五年ですか。僕はあの時分フランスにおりましたから、帰って七年ごろはじめて読んだんじゃないかな。あれは感心しました。それ以来の井伏ファンです。 井伏 どうもありがとう。はじめて聞いた。 河盛 「さざなみ軍記」というのはいつでしたかな。あれは。 井伏 長くかかりましたよ。最初は「逃げて行く記録」という題で書いた。 河盛 昭和五年ですね。 井伏 左翼運動が盛んでした。僕は左翼になれなかったけれど、みんな友だちが同人雑誌やめて、全部左翼になったでしょう。『戦旗』に入っちゃったんです。僕一人とり残された。その気持を僕は最初あれに入れているわけです。少年が室の津の田舎の娘に好かれると有頂天になる、それが自分と同じ階級でないものから愛情をもたれたいという、それはあのころの僕の気持でした。最後は生野へいって生活を築くことにしようというのが、最初のプランでした。 河盛 あれはずいぶん長くかかっていますね。三、四年……。 井伏 もっとかかっています。あれは少年が戦争に出るとだんだんませてくる。それでませてくる少年を書くわけで、文体も急速に変って行く。前を直さないんだから、妙な文体で、まだ翻訳調の真似が残っている。そういう急速にませることを書こうと思ったんです。最初書こうと思ったのは同人雑誌をしているときで『文芸都市』へ入る前です。「平家物語」を読んで書いたんです。あれは歴史の背景をもっと知っていればよかったかもわからない。 河盛 あれは井伏さんの代表作の一つですけれども、ご自身も愛着をおもちでしょうね。 井伏 そのころはそうじゃない。いまいくらか愛着をもっていますが、あのころから後はポエティカルなものを、捨てよう捨てようと思いましたからね。それもやっぱり文壇的文学イズムに左右されたんでしょうね。なるべく捨てようと思った。入れたほうがいいのかもしれない。 河盛 捨ててもおのずから入ってくるんでしょうけれども。一時われわれは、葛西善蔵の文学理論に、あやまられましたね。 井伏 あれなんですよ。筋を読んじゃいけない、筋を書いちゃいけない、映画を見ても筋をおぼえていたんじゃ駄目だというんでしょう。横光利一にもその影響がありましたが晩年はそれがなくなった。どういうものですかね。シンボリズムの悪影響かな。 河盛 シンボリズムでもないですね。妙なものですね。芥川なんかでも、あれに毒されていますね。 井伏 芥川さんのような人が、筋を考えたら、うまく書いたでしょう。 河盛 あのころの葛西の神格化は大変なものでしたね。 井伏 筋を軽蔑したですからね。筆がはずむとおくというんでしょう。文壇的文学イズムというのはいけないですね。 河盛 「多甚古村」をお書きになったのは、どういう……。 井伏 あれは満州事変になってからです。お巡りが僕に材料送ってきたんです。ところどころ見て、お巡りの好みとなるべくちがうように書いた。浪花節が好きだと書いてあれば、浪花節嫌いだとか、これは悪いやつだというと、そう悪くないように。そうすればまちがいないと思って(笑)。 河盛 するどい社会諷刺がありますね。あのころの時世に対する。 井伏 ずいぶん遠慮しましたがね。 河盛 戦後の作品で、いちばん気にいってられるのはなんですか。 井伏 過渡期の「追剥の話」です。気にいったというほどじゃないですけれども、実写ですから……。ああいうときには、過渡期には空想のものを書くよりも、現実のほうが強いから。写真のほうが面白いようなものですね。 河盛 最後に最新作の「黒い雨」についてうかがいたいのですが、あれをお書きになった動機はどういうんですか。 井伏 それは疎開中知り合いになった人が書かないかという手紙をくれたんです。いろいろ考えて、二年ぐらいそのままにしておいたんです。それから大田洋子さんのものを読んだり、お医者さんの治療の記録を読んだりして、やっぱりこしらえごとよりも、記録の方がいいような気がしてきたんで、広島へいって座談会したり、録音とったりして準備しました。 河盛 原爆の時には福山のご郷里におられたわけですね。 井伏 福山へも行きました。見おさめで。そして中国山脈のなかへ逃げていこうと思っていたのです。そのときに落ちたんですね。落ちたことはわからないんです。福山から広島まで四十里あるでしょう。ちょうど僕は川の土手で、弁当食っていたんですが、その直前でした。わからないんです。雲が見えなかった。それから福山で駅の前の旅館へいくと、大勢汽車からおろされているんです。汽車が動かないというんですよ。駅員もなんのことかわからない。あくる日、広島に出ていた人たちがトラックに便乗して怪我だらけになって帰ってきたんです。そのまたあくる日、家を壊しにいっていた挺身隊が帰ってきて、それがばたばた死んじゃった。それから救いにいった人の方が早く死んじゃって、怪我をしたりやけどしたりした人なんかの方が生きている。丈夫でいった人のほうがやられている。酒飲む人は助かっている。酒もいいらしいです(笑)。 河盛 ほんとうですか。井伏さんのフィクションじゃないですか(笑)。 井伏 ピカッと光った瞬間にやられた人もいる。耳なんかなくなっている人もいる。ウジが食ったのです。耳のなかにウジがわいて、それがいまでもウジの動く幻聴が聞えるという人もいるのです。 河盛 ほかの原爆小説をいろいろ読まれましたか。 井伏 大田洋子の小説を読んで……。彼女とは一度会っただけですが、原爆を書くならもう少しちゃんとしなければいかんと思ったのです。原民喜君のはよかったですね。大江健三郎のも「ヒロシマ・ノート」読んで感心したのですが、広島の人は悪くいうんですよ。どういうわけだといったら、理屈が多いという。原爆にあっている人は理屈はいらない。あれは真面目ないい作品だと思うんです。ずいぶん参考になったです。人によってみなちがう。僕はそう深刻なものを出せないな。僕が書くと原爆が駄目なんだ。 河盛 そんなことはありません。僕は「黒い雨」は日本で初の本当の原爆小説だと思っています。ではこの辺で。 (昭和四十一年十一月、中央公論社刊『日本の文学』第五十三巻・月報)   緑蔭対談 河盛 この間、あなたの年譜を拝見していましたら、この一、二年作品の発表はありませんね。どっかのゴシップで読んだんですが、井伏先生は自分自身に対してストライキを課してると。どういうわけですか。 井伏 ちょっと途切れるようなことがあったんです。おふくろが死んだから。 河盛 お母さんが亡くなられた。それは存じませんでした。 井伏 これは長生きしましてね、九十三で死んだ。 河盛 ご長命ですね。 井伏 まあ看護する人は苦労したでしょうけど。それでちょっと気持が途切れたんです。 それから甲州のことを五、六年前から書く、書くといっていましたね。その調べがつかないで。このごろはどんどん民俗学とか考古学の発掘があったりして、あっちの郷土史家の新しい本が出るんです。それはもうなかなか盛んなものですね。こっちは追いつけていない。土地で生まれて土地で育って、その土地で研究して、立派な本が出るんです。博物館のようなのを個人でこさえたり、そういうことが盛んですね。追っつかないんですよ。それでまあ書くほうを途中投げすてまして、長くそれを調べてましたしね。ちょっとおふくろのことで途切れたんです。書けなくなったんです。で、ストしてやろうと思いましてね。二年ほどなまけた。勤めてる人はストしても月給が上がるでしょう。こっちは何にもならないことがわかったから、今年は書くということで。 河盛 ストを解いたわけですね。 井伏 それで随筆を五つばかり書きましたよ、久しぶりに。これからまた怠ける……。 河盛 呼び水ですね。それは甲州の歴史ですか。 井伏 そうです。甲州の昔の道、ヤマトタケルのころからの道を書こうと思う。古い道、最初は矢の根を運ぶ道ですね。 河盛 どこへ運ぶんですか。 井伏 ほうぼうへ。信州の和田峠というところから黒曜石が、いまでもあるそうですから、そこから矢の根を運んでいく道があるわけなんです。それから塩を運ぶ道。 河盛 塩をね。 井伏 集落ができ道もできると、今度は中央の役人が宣撫に来るとか生活に来る。それで古い道が通った。ところが断絶があるんですね。その次にまた戦国のちょっと前ころからの道もあります。鎌倉時代の道もある。そういう古道を調べようと思ってる。 甲州盆地は雨が降れば水害になる。あそこは皆、底は小石の原っぱです。土手というものが当時はないですから、大水が出るたんびに川は左寄ったり右に寄ったりになってよろめくわけです。 河盛 なるほど。 井伏 一番北の酒折の宮のところへみな寄っているのです。甲州の人はあそこから道が出てるといいますけれども、よそから来る人はそこを通らなきゃ信州へ行けない。道の方からこっち東海道の人は、そこを通るでしょう。そこは扇の骨のように出てるわけで、だいたい八つか九つぐらいこう……。 河盛 その要《かなめ》はどの辺なんですか。 井伏 酒折の宮です。例の伝説のヤマトタケルの「新治、筑波を過ぎて」というあれをそこでうたったという連歌の碑がある。酒折の宮というのも、たぶん、後世こさえたんでしょうがありますよ。そこは住めないところです、吸血虫が発生するところ。そこの掘った水を飲むと鉄分があって肝臓病になるんです。吸血虫というのは千葉の印旛沼のほとりと、甲州の酒折のちょっと南の方と、広島県の片山というところ、それから北九州に一部、静岡にも一部ある。そんなのはすぐ駆除したけど、酒折と広島県の片山は駆除できないんです。そこへヤマトタケルノミコトが行ったとすれば病気になるでしょう。 伝説、古事記なんかだと信濃を通って三重県の能褒野で発病しますね。それで白鷺になって飛んでいくんですが、ちょうどその病状が、吸血虫にかかった人と、あそこの水飲んで肝臓病になったような二つの病気の容体のようですよ。よぼよぼになってね。吸血虫だとここから脹れるんです。あれ宮入《みやいり》貝といって蜷《にな》よりちょっと小さい巻貝がいるんです。それが中間宿主になっている。 河盛 ジストマみたいなものですか。 井伏 中間宿主の中に子供の生毛くらいの小さな虫がいるんです。それが土手へ上がってきます、水の中を泳いで。田植えのころなんか田圃の中にいるし、水たまりにもその虫が出るんです。それが人間の毛穴から入るんです。それを発見したのが宮入博士という人で宮入貝というんです。 広島の方は片山という小さい山の周囲に出るんです。それで片山病という名前が出たんでしょう。甲州の方では宮入博士の宮入貝といって日本住吸血虫とかいうんです。 河盛 それは大昔からあったわけですか。 井伏 昔からあったでしょうが、名前は明治の終わりか大正の初め。僕の方は片山から三里ばかり離れているんですが、福山という町に出る途中。僕が小学校のときのことですが、日曜なんかでも、東京の医科大学の博士が助手を連れてきて田圃で泥んこになって、まず自分が片山病にかかって研究をやりよった。僕は東京の大学の博士だというんで尊敬していたが、片山病の研究に来て一心に研究しているので驚いた。学者というのはまあ大変なもんだと思って(笑)、恐れをなした。それが宮入博士だったかどうかはわかりません。 河盛 その道は、だいたいみなお調べになりましたか。 井伏 いや、まだ調べてないんです。 河盛 実地にお歩きになるわけですか。 井伏 ええ、ところどころしか歩かない。そこのところの昔からあったこと、江戸時代にたとえば広重の日記にあるようなこと。時代は別々に、そこの観光案内のようなことになるだろうと思う。 河盛 なるほど。それは面白いですけれども、お調べになるの大変ですね。 井伏 ええ。馬のことをまず調べてる。 河盛 馬ですか? 井伏 馬を甲州では律令前から飼ってますね。勅旨牧が北巨摩郡に三つあったんです。それより前には黒駒なんかでも飼ってたでしょう。伝説ですけれども、古い本にちょいちょい出てきます。 河盛 黒駒ね。黒駒勝蔵なんてあそこだから多少関係あるんでしょうね。 井伏 ええ、あれはバクチウチで、ずっと後世の人間です。昔は甲斐の黒駒といえば名馬の一つの代名詞のようになってたんです。聖徳太子の乗った馬も甲斐の黒駒ですね。地方から献上した百匹のうち、あれに自分が乗るっていって舎人というものに飼わせ、宮廷の人たちに命じて飼い馴らした馬でしょう。みんなの見ている前で乗ったら、見る見る雲を霞とどっかへ行っちまった。そしたら、いま甲州へ行ってきたといったということです。相当スポーツマンだったらしいという話です。 河盛 このごろは武田信玄ブームで。 井伏 ブームですねえ。 河盛 大変ですねえ、あれ。 井伏 毎年、夏の初め頃に信玄祭りというのがありまして、商店が軒にみな短冊や提灯かけます。祭りの当日は二十四将が鎧着て馬に乗って出るんです。その前を市長か県知事かがオープンカーでいきます。お巡りが交通整理しまして大変です。二十四将はみな馬に乗ってる。鎧を着て、みな旗指しものをしまして名前を書いている。山本勘助なんていうのは片目つぶして乗ってます。 河盛 ははア、そうですか。 井伏 先頭を三枝(佐枝子)さんの先祖と云う人が三枝何とかって、旗に名前書いて進んで行く。馬はこのごろは甲州にもいなくなったでしょう。昔は甲斐の黒駒と威張ってたけど。農家から借りるのに一日七千円とか。 河盛 七千円、はーア。 井伏 ええ。それから鎧は最近とてもよくなった。昔は、戦前なんかぼろぼろのを紐で結えた鎧を使っておった。最近はすごい鎧を着てるんですよ。どうしたの、と訊いたら、松竹かどこかの映画会社の衣装部から借りたって。 河盛 なるほどね。 井伏 きれいですよ。緋縅だとか紺糸だとか。それは幾らで借りたか知りません。 河盛 それはやっぱりちゃんとゆかりのある人が乗るんですか。 井伏 ええ、みな二十四将の……。 河盛 子孫ですか。 井伏 子孫でない。世話役の人でしょうよ。役人なんか、そういう人はたぶん馬に乗れないですから。よく知りませんがね。乗り回すときはここんとこ、脚の脇に……手をこういうふうに、乗り回す。駄馬ですからね。苦労するんだそうです。帰りは駅の地下の広場で休んで、疲れ果てて、馬から降りたらもうしゃがんで動けなくなって。 河盛 井伏さんは甲州をとてもお詳しいですが、甲州に何か因縁がおありなんですか。 井伏 あたしは一年で一つずつの県を調べようと思ってるんです。昭和の三年ごろですか、甲州へ始めて行きました。あそこの歴史を調べようと思って。その次は静岡県なんて思っていたんですが、一年以上たったってまだ甲州やってる。 河盛 甲州がよほどお気に入られて……。 井伏 そうですよ。あそこは飽きないでしょう、たんに行っても。季節が谷ごとに変わるんです。たとえば昇仙峡は花崗岩でしょう、松の木の。風化して支那の南画のような山があって。そのお隣の増富の渓谷は安山岩ですから闊葉樹。がらり変わるんですよ。あちらの風景というのは観光客を飽きさせないです。中国の僕の広島県のほうはどこへ行っても松の木で、全然魅力ないですよ。甲州は一つ一つ谷ですから。 河盛 そうですかね。 井伏 御坂なんかでも盆地側と郡内側は樹木だって違う。いまは山よりも知り合いができて、風景よりも人ですね。甲州に友達がたくさんできたから、その人たちと釣りの会をつくりまして、そんなので……。 河盛 あなたと甲府へ行くともう大変なもんですね。井伏さんがいらしたといって大変ですよ。 井伏 そんなことはない(笑)。 河盛 下へもおかないですよ。 井伏 私じゃないです、あんたが来たからですよ。 河盛 話がとぶんですけれども、お母さんが九十三、ずいぶんご長命ですねえ。 井伏 柳田(国男)さんと同じ年。晩年は柳田さんのようにはっきりしてませんでしたね。もうろくしましてね。 河盛 しかし柳田さんももうろくしてたそうですよ、晩年は。 井伏 テレビで見ましたがしっかりしていましたよ。 河盛 いや、それはもうテレビに出なくなってからですよ。 井伏 ああ、そうか。 河盛 ある出版屋さんの話で、「君んとこ印税払ってない」「いや、お払いしました」。それからまた五分ほどたつと、「君んとこ印税払ってない」っていく度でもいうんで弱ったといってました。 井伏 五分くらいで。 河盛 ええ。 井伏 そういえば伊馬(春部)君が折口さんに連れていってもらって……。柳田さんが、「君んところはどこだ」「目黒」。五分くらいたつと、「君んとこは海岸だったそうだね」「いや、海岸じゃない。目黒です」。また五分から十分すると……。三度訊ねられたって。昔のことははっきり覚えてる。田舎のどこそこには郵便ポストがあるとか学校があるとか。最近のことを忘れるんだね。 河盛 井伏さんは柳田さんにお会いになったことありますか。 井伏 いえ、一遍もない。本はもらったことがある。隠れキリシタンのことを書いた本を突然送ってきて、扉へ「まず写真からご覧ください」ということを書いてあった。 河盛 柳田さんは本を手紙の代わりに使うそうですね。本を送る時に中へ書き込まれるそうです。 井伏 ああ、そうですか。 河盛 あれはしかし日本国中、大変なお弟子さんでしょう。 井伏 三千人とか。 河盛 三千人ね。佐藤(春夫)さん以上ですな。 井伏 往復葉書なんかで地方の知り合いに調査のための質問なんかをやるでしょう。 河盛 それがカードみたいになるんでしょうね。 井伏 そうでしょう。伊馬君がいってたが、郵便が高くなるとプンプン怒ってるって。 河盛 それは実感でしょうね。 河盛 井伏さんは年譜によりますと五つの折にお父さんが亡くなられたわけですね。 井伏 ええ、いまの年齢なら五つの年齢です。 河盛 そうしますと、お父さんのことはほとんど覚えておられませんか。 井伏 叱られたときだけ覚えてる。怖いもんでしたね、親父というのは。 河盛 われわれの親父、みんな怖かったですね。 井伏 怖いですね。ひどく叱られた。かわいがられたということは覚えてませんね。 河盛 私なんかでも親父にかわいがられたって記憶ないですね。 井伏 あんた幾つですか。 河盛 三十二、三ごろまでおったわけですけど。 井伏 そりゃあ幸せだったですね。 河盛 しかしそれでもかわいがってもらったような記憶ないですね。怒られたことしか覚えてませんね。 井伏 僕たちの子供もそう思ってるかもわかりませんね。 河盛 いや、子供に対してはそりゃわれわれは甘いですよ。われわれの親父と違いますよ。しかしこっちはかわいがってるつもりでも子供はそう思ってないかもしれません。叱られたことしか覚えてないという……。 井伏 三十幾つになってもそうですかね。 河盛 ええ。 井伏 うーん。子供を早くまともにするためには、親は早く老けたようなふうをしてちょっとよろけだすと効果あるかもしれない。 河盛 なるほどね。 井伏 真似したらほんとになるかもしれん(笑)。 河盛 そう。われわれは真似しなくてもそろそろよぼよぼしてきた時分ですからね。新聞に「風貌・姿勢」を書いておられますでしょう、写真入りで。昔の、いまは亡くなられたお友達で一番印象に強く残っているというのは誰ですか。やはりまず第一に青木南八ですか。 井伏 青木のことは今度書かなかったですけれども、書いた人では、どうにもまあ直書きですかね、お互いの友達で三好君なんか……。 河盛 ああ、三好君ねえ。 井伏 生きてればいいと。あれは話してすぐ結論を出してくれたでしょう、いい結論を。 河盛 私この間、三好君が吉川幸次郎さんと一緒にやった『新唐詩選』ですか、あれを読んでいますと、賀知章の「袁氏《えんし》の別業に題す」のところで……。 井伏 「嚢中自ら……」 河盛 「嚢中自ら銭あり」という個所で、あれは普通は、多少のお金は自分が持ってるから君心配しないでくれという解釈ですね。ところが三好君はそうじゃなくて、財布があればお金というものは自然にあるものだと。 井伏 「自」っていう字にこだわったんですかな。 河盛 というわけですね。僕は読んでいかにも三好的だと思ってね。三好君というのはだいたい他人の財布と自分の財布の区別のない人でしたから(笑)。つまり財布があれば誰でもいい。君の財布でもいい、自分の財布でもいいと、そういう意味にとっているんですね。ともかくお金なんていうものはどこからでも湧いてくるもんだ、だからお金のことは心配するなというふうに解釈してる。 井伏 吉川さんはそれは正しいっていっていますか。 河盛 三好君の分担のところの解ですから。あのとき吉川君が言っていましたけれど、実に奇説を出したそうですね。「いや、どうしてもそういう解釈にはならん」というと、三好が残念そうにしていたそうですよ(笑)。そういう説も入れとけばいいと思うんですがね。 井伏 ええ。 河盛 三好君はいつごろからご存じですか。 井伏 三好君がヴェルレーヌの論文を書いているころです。 河盛 そうすると卒業……。 井伏 卒業前ころです。 河盛 昭和二、三年じゃないですか。 井伏 二、三年ですね。あのころ三好君は飛行機で亡くなった滋野男爵のうちにいた。まあ三好達治という名前は知ってたんです。それが三好ってことは知らない。廊下で日向ぼっこで新聞読んでたら、三好が、三好だといってふらっと来て、上がっていろいろ話した。ヴェルレーヌについて話すんですね。この人、容易ならぬ男だと思った。 河盛 なるほど。 井伏 立派なことをいうんです。 河盛 煙に巻かれたそうですね。 井伏 僕の知らないことで、ちゃんとヴェルレーヌというものをはっきりつかんでるな、偉いやつだなあと。それから『作品』の会で同人でしょう。それが三好達治でしたよ。それまで『驢馬』か何か出してたの? 河盛 『驢馬』は三好君、関係なかったんじゃないですか。あれは堀辰雄君かなんか。 井伏 何か同人雑誌を出してた。 河盛 『青空』じゃないですか。梶井君なんかと。 井伏 ああ、『青空』か。名前は知ってたんです。何かひどく立派なことを言いましたよ。「ある雨のうた」とか、「空は屋根の上に」とか。 河盛 獄中作ですな。 井伏 「何とかを踊りましょう」 河盛 「ジッグをひとつ踊りましょう」 井伏 そう。あれなんかを引用してヴェルレーヌ論をやりましたよ。立派なやつだと思った。僕は三好が帰ってもあれが三好達治だとわからん。三好は知ってると思ってたですよ。 河盛 それはむろんそうでしょうね。 井伏 あれの初期の詩もいいですね。 河盛 ええ、初期の詩はいいですね。あなたがこの前お書きになった「風貌・姿勢」で、三好君の「太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪ふりつむ/次郎を眠らせ……」。年をあなたはお訊きになるでしょう。「太郎は四つぐらいか」というと、「まあそんなもんだ」。「次郎は二つぐらいと思うてもいいか、」というと、「おまえはそんなこといって、次郎は寝小便したんだろうといいたいんだろう」という、あれ、面白いですね。 井伏 あそこまで聞くといやがるんですね。少し冷かしがありますけどね。 河盛 名作ですね。 井伏 いいですね、あれは。 河盛 三好君のなかでも特にいいもんじゃないですか。どうしてあんなものができたかと思いますね。いままでああいうふうなもの全然ないでしょう。全く新しいものですね。 井伏 そうです。あれ外国の影響でしょうね。 河盛 そうでしょうねえ。日本の詩人の発想じゃないですね、あれは。 井伏 一番いいとこをピンセットでこうしてね。 河盛 そうそう。 井伏 あれには参ったな。 河盛 あの詩は当人も得意だったんでしょうね。 井伏 そうでしょう。 河盛 三好君は詩もうまかったけれども批評家としても立派でしたね。 井伏 そうです。あれは批評がよかった、飲んで話していてもね。 河盛 詩の、たとえば鑑賞などはなかなかのものでしたね。 井伏 勉強してたんですね、あれ。 河盛 まあ三好君というのはなかなか秀才でしたね。 井伏 秀才だったですか。 河盛 ええ。 井伏 そうだろう。いつか、あそこの長男君がまだ中学校へ入りたてで。三好君がどっかの会に出る途中で、おすし屋へ行こうと子供を連れて店屋に寄って、ぼくらと一緒になって、さあ飲もうと、子供を帰すときに、子供さんが靴をはいてたら、「英語と算術をやれ」っていって(笑)。 河盛 英語と算数をやれとね。 井伏 算術。 河盛 算術をね。へーえ。 井伏 子供さんにしょっちゅう会ってないから。別居していましたから。やっぱり三好、そういうことを言うのかなあと。子供の前では飲まないんですよ。子供にすしを食べさせてから後から飲むんです。 河盛 そういうこと、わりあい折り目正しかったですね。 井伏 正しかった。 河盛 三好君は有名になってから、校歌を頼みに来るところがたくさんあったそうですね。中学校とか小学校で校歌をつくってくれと。そうすると三好君は、いや私はひょっとして心中なんかすることがあるかもしらん。そういうときには自分の校歌のためにおたくはひどく迷惑するだろう。だから絶対いやだといってほとんどつくらない。絶無でしょうね。 井伏 山口県の川棚温泉へ行ったときに、土地の人が校歌を頼みに来ましたよ。やっぱりおれは心中するかもわからんからいやだっていいました。 あれは親孝行だったらしい。 河盛 それは親孝行だったでしょうね。三好君もお父さん早く死んだのかな。 井伏 そうらしい。『作品』の同人は不思議に早く父親が亡くなった人ばっかり。小林秀雄がそうでしょう。永井龍男、河上(徹太郎)、僕も親父が死んでる。ほとんど片親の人ばっかりの同人雑誌でした。 河盛 ああ、そうですか。 井伏 三好が親孝行だと思ったのは、いつか九州の旅行の帰り、岩国の河上君のところへ寄ろうというんで寄った。河上君のお母さんが、酒わかし器を持って来て酒をつけ——立派なお母さんでね。飲むと、「徹ちゃん、まだ飲む?」、「うん」。お母さんがつけてお燗をする。すぐ一本空になる。酒飲みばっかり三人飲むんだから。「徹ちゃん、飲む?」、「うん」。またつける。それを何十回も繰り返す。お母さんと徹ちゃんの仲がいいんです。三好、少なからず妬いてたらしいですがね。翌朝、河上が岩国の駅へ送ってきて、僕たち二人きりになると、三好が、『「徹ちゃん、飲む?」、「うん」。見ちゃいられないね』(笑)、と大きな声を出しました。二人は東京まで帰る約束なので、僕は福山で降りなかった。ところが、三好、大阪で降りないような風をしていたのに、さっと降りて、「失敬するよ」といって出て行っちゃった。 河盛 なるほど。お母さんに会いたくなったんでしょうね、きっと。 井伏 親孝行なんじゃないかと思った。 河盛 うーん、そうかもしれませんね。河上さんのお母さんって立派な方でしたね。 井伏 立派でしたね。お酒つけて、いつまでも相手をしているし、女中さんがいろんなのを運ぶ。お母さんがちょっと立つとポコンとそこ抜けたようで……。例えば先代歌右衛門が「先代萩」に出て座ってるくらいなもんですが、居なくなるとポコンと抜けるような、そういう感じでした。 河盛 河上君もお母さんを大事にしてましたね。 井伏 ええ。あれこそ本当のたらちねという感じでした。うらやましかったなあ。僕のおふくろは、まあもうろくする前ですが、「鱒二」「はい」。「小説書いてるそうだが何を見て書いてる」。「そりゃいろいろ本も読むし、他人から聞いた話や自分でこさえた話を書いてんだ」というと、「それはそれでいいかもしらんが、間違った字を書いちゃいかん」と(笑)。当たり前ですわね。 普通、おふくろっていうのは愚痴っぽいですからね、幾つになっても。 河盛 「集金旅行」ですか、映画になったことありますね。瀬戸内海のきれいな映画だったですね、カラーの映画ね。あれにご郷里のほうが出てきますね。あのとき誰かに聞いたんだけれども、井伏さんのお母さんが来る人に「『集金旅行』を見たか」と。「見た」というと「下らん映画でしょうが」。しかしご機嫌いいんだそうだ。ところが「見ない」というとひどく機嫌悪かったそうですがね。やっぱり気にしてられたわけでしょう。 井伏 いや気にするというよりも、兄嫁からうちの家内宛の手紙によると、青年団が映画を映写した後、みんな来て「集金旅行」を見たというと、そんなものはつまらんというような顔してる。ところが「集金旅行」の話をしないで帰る人があると、「あの人見なかったんじゃないんか」という。そんなもんだという話。 河盛 それはそういうもんです。九十三まで生きられたらもうおめでたいほうですね。 (昭和四十四年八月二日、NHKラジオ第一放送)   「山椒魚」まで 井伏 今晩は、どうも……。 河盛 きょうはむずかしい話じゃなしに気楽にいきたいと思います。まず井伏さんの文学は、井伏さんのご郷里と深い関係があると思いますので、そのお話からうかがいたいと思います。井伏さんご自身は、郷里の影響ということを強くお感じになりますか。 井伏 それは、文体がね。つまり僕の郷里の田舎弁というんですか、文体がそうじゃないかと思います。東京風でない。外国風でない。文体というものは、たとえば人それぞれの歩き方のようなもので自然に身についたもので、どうも僕の文章は田舎の言葉と関連があるような気がする。河上(徹太郎)君なんか、僕の広島地方のひなたくさい何かがあるというんですが、広島地方のひなたくさいというのは、他国の人から見てどういう意味かしら……。暗いということとは違うんでしょうね。 河盛 むろん違いますね。明るくて生き生きしている野性的という意味かしら。井伏さんのご郷里には暗いところないでしょう。 井伏 そうですね、山も高くないし、木も平凡な、たいてい赤松の木でしてね、変化がなくて、はげ山が多くて……。 河盛 しかし水はいいでしょう? 井伏 水はいいです、花崗岩台地ですからね。 河盛 井伏さんの文学も水のいい感じですね。 いつか、永井(龍男)君と二人であのへんを旅行したことがあります。山陰からでしたかな、広島まで。川に沿って汽車が行くでしょう……。 井伏 府中というところ通ってですか。山陰から福山へ出るなら府中経由です。 河盛 そのとき井伏さんの生まれた加茂村というのはこのへんだろうというので、永井君が汽車の窓から、熱心に眺めていました。私の印象では豊かな農村の感じですね。家はみな白壁で、どっしりと落ち着いています。関東みたいに壁のかわりに板なんていうんじゃないんです。 井伏 実際はそう豊かでもないんでしょう。 河盛 しかし、東北なんかとはまったく違いますね。 井伏 東北は暗いですが、風景の明暗と貧富というものは大して関係ないでしょう。私が子供のころ、私の村では、夏なんか雨戸しめないで障子だけで寝ているうちが多かったようです。旅行にきた人は、どろぼうがいない平和な村だろうと思うんですが、実際は普請が悪くて雨戸がしまらないうちがあったんです(笑)。 海岸の鞆ノ津とか、糸崎、松永方面の漁村にも白壁のうちがありますが、潮風でいたむから白壁にしなきゃいけないんです。家の中にはそうりっぱなものは置いていません。やっぱり漁村は漁村ですね。 河盛 井伏さんのほうは農村で、漁村じゃありませんね。あのへんは風は強いですか。 井伏 大風はあまり吹きません。僕の生まれたところは、川の底がナメラといって、花崗岩の一枚岩です。川下へ行くと砂がたまっていますけれど。地震もたいして感じないです。 河盛 なるほど、井伏さんが地震をお嫌いなはずですね。 井伏 しかし家が多過ぎるんです。夏冬とも作物ができるんで、昔から逃散百姓がいなくて家が多過ぎます。それに耕地が狭い。それがいけないですな。 河盛 あのへんがね、そうですかなあ、適当に家がある感じだったけれど。 井伏 いや、多いんです。 河盛 植物なんか豊富ですか、あのへんは。 井伏 いや、地層も三紀層というんです。それの頽齢期になっていますから殆ど赤松だけです。ですから松茸は生えます。 河盛 果樹なんかどうですか。桃とか……。 井伏 桃なんか大量にやっていませんから。ああいうものは一軒作だけじゃ商売にならない、大ぜいでやらなければ。出荷するのがむずかしい……。自分が食べるくらいのものでしょう。 河盛 そうすると酪農なんかはやらないわけですか、もっぱらお米ですか。 井伏 花崗岩台地ですから、お米はわりあいうまいですね。それに日陰の畑はコンニャクのいいのが出来ます。上州の下仁田の有名なコンニャクよりも上等です。コンニャク玉一つで、一家七人が食べきれないほど。コンニャクをつくるとき、そんなに大きくふくれるんです。 河盛 水がいいし、お米がいいから当然いいお酒ができるというわけですね。 井伏 酒はいいのがありますね。僕が子供のころ、灘なんかから買いにきました。税金納めるシーズンに灘の酒屋の番頭が二人きまして、利き酒して買っていきました。いまはどうか知りませんけれども。 河盛 そうすると、ご郷里のほうにも造り酒屋があるわけですか。 井伏 ええ、あります。昔から村に一軒あります。なかなかいい酒を出しますよ。川下の福山あたりにも凄くいいのが出ています。よほど前、酒仙といわれていた田中貢太郎さんが福山の銘酒を一とくち飲んで、ああ甘露甘露と、涙をこぼしたことがありました。しみじみ泣きました。 河盛 人情はいかがですか。 井伏 さあ、人情は……まあ人によりますわね(笑)。 河盛 それはそうでしょうが、一般的にいって……。 井伏 覇気がないようですね。いまは変わってきましたが、僕たちの時代まででは、作家だと、広島県では、鈴木三重吉、細田民樹、倉田百三、童謡詩人の葛原しげる。戦後では、詩人の木下夕爾、劇作家の小山祐士。みな一脈の詩情と甘さがあるようですね。 河盛 だいたい山陽地方はみなそうじゃないんですか。 井伏 そうですね。でも岡山県へ行くと、正宗(白鳥)さんとか、内田百〓さん……。 河盛 そう、岡山県はちがいますね。あすこの人は鋭い。 井伏 晴耕雨読、勉強家が多いしね。岡山県では田圃の稲でも色がいい。広島県にはいると、気のせいかちょっと黄色っぽいような気がしますよ(笑)。 河盛 しかし、みなあんまりがつがつしないんじゃないですか。おうような感じです、景色を見ていても……。 井伏 景色はおっとりしていますが、どうも規模が小さくて……。信州とか九州とか。あっちのほうの大きな風景とは……。 河盛 こういう説があります。井伏さんのご郷里は古代から早く、ひらけていた。ところが、そのうちに大和地方がひらけだして、瀬戸内海を通って中国から船がきて文化の交流が始まると、そんな船はみな大阪、京都のほうへ行っちゃってご郷里のほうは山のなかに取り残されてしまった。そのかわり古代の文化がそのまま形をくずさずに残っているというんです。 井伏 大昔のことは、まるでわかりませんが、戦国時代に荒らされすぎたのではないでしょうか。しかし、縄文式でなくて弥生式土器の出る横穴古墳はたくさんありますよ。子供のころですが、近所の石屋が古墳の石を石材にするので、掘るのをよく見ていましたが、簡単な土器がよく出ましたね。たまに刀が出ることもあるし、勾玉も出る。埴輪はぜんぜん出ませんでしたが。昔から人が住んでいたことは確かですが、戦国時代に毛利が攻めて来て、僕の家のすぐ裏の山城を攻めて、全滅さしてしまったんだそうです。これは明治以後出版の歴史年表にも出ています。そのとき、村の人はみんな府中というところの川上地帯に共同疎開して、当分のうち村にはまったく人がいなくなったということです。空白の時代があったらしいです。 河盛 子供の時分に古墳を掘ったことがおありですか。 井伏 よく掘るのを見ました。横穴式ですから左右と上に平たい石がある。その石を掘って石垣なんかに使う。昔の人が、よくあんなに平たく石を割ったものですね。かなり大きいのもあります。僕のうちの裏にまだ一つ残っています。僕は疎開中、掘ったら何か出るだろうと思っていたんですが、それはかなり大きな横穴古墳です。いつか考古学の西村真次さんが、白い服にパナマ帽でその古墳を見にきたことがありました。 河盛 井伏さんの小説に古墳がでてくるのは、子供の時分の思い出につながっているわけですね。 井伏 僕は子供のときには、土器や勾玉が好きでした。今ではそうではないですが。尋常五、六年のころ、夏休みに、勾玉を掘って来て池のほとりで洗っていたら、兄貴にぶんなぐられた。今からそんなことで小説家になれるか……と。僕は、なにも小説家になろうと思ってはいなかった(笑)。兄貴は四つ上ですが、子供のときはうんと大きく見えましてね。 河盛 そうしますと、井伏さんのお宅は代々地主さんですか。 井伏 地主というほどでもないし、山持でもなし、金持でもなくて、兄貴が家屋を改悪するまでは古めかしい家でした。初代は嘉吉二年という年に今のところへ家を建てたそうです。墓は、裏山に小さなものがたくさんありますが、墓というものは、大きさがそろっているといいんだそうですね。 河盛 そろっているというのは……? 井伏 ずうっと代々そろっていると……、それがいいんだそうです。うんと大きなのがあったり、うんと小さなものがあったりしないで。それでゆかしさが出るんだそうですね。 河盛 栄枯盛衰が激しくないということですね。 井伏 ところが、うちのはそろってないんだ(笑)。 おやじに叱られたとき以外のものでは、おふくろが部屋を掃除するとき、おやじが炬燵にあたって新聞かなんか見ていて動かない。おふくろは無言で、おやじのぐるりを掃いていく。おやじは無精だなと思った記憶がありますよ。 河盛 あなたも動かないほうじゃないですか。 井伏 そうです、残念だが、そういうところです。それからもう一つ、おやじが接ぎ木をしていたのを覚えています。ミカンの木を接いでいました。 河盛 お父さんはなにをお仕事にしてられたんですか。 井伏 婿にきたのですから、おじいさんがなにもさせないんです。家督も譲らないで、おじいさんがうんと年とって、もうろくしてから、今度は兄貴に譲ったんです。こんなとき、相続税はどうなるのかしら。 河盛 しかし井伏さんはおじいさんに大変かわいがられた。兄さんのほかに姉さんもおいでになるんでしょう? 井伏 姉はいました。田舎じゃ、僕らのころ女はもう問題外でした。 河盛 おじいさんが兄さんよりも井伏さんを可愛がった、というのは、幼い時分にお父さんがなくなられたためでしょうね。 井伏 土器なんかいじったり勾玉洗ったりすると、おじいさんは、満寿二はいまから骨董が好きだ、と喜んだ。骨董好きのおじいさんだから。 河盛 井伏さんの随筆にも出てきますが、お父さんの漢詩の翻訳、あれをみますと、お父さんも文学をお好きだったようですね。 井伏 しかし遺言には「文学させるな」とありますよ。「実業をしろ」と。漢文でね。 河盛 漢文の遺言ですか。これは大したものだ。 井伏 僕は、そういうおやじのことを戦後「つかぬこと」という題で書いて『新潮』に二回連載しました。もしぼく自身が東京へ出て、学校も優秀で、田舎の評判がよければ、田舎に帰って婿にいくだろう。そういう想定で、僕の見聞したおやじの生活を書きました。おやじのことを僕自身の身の上と仮定して書いたんです。 河盛 お母さんは、井伏さんがものごころついてからお父さんの話なんかされたことありますか。 井伏 おやじがえらかったと思っていたようです。僕の小さいとき、おまえが大きくなって、お父さんの書いたものがせめて読めるくらいになればいいといった……。 河盛 尊敬してられたんだな。いいお話です。 河盛 兄弟は兄さん、姉さん、井伏さんの順ですか。 井伏 弟がいたんですが、幼いときぽっくりなくなりました。それでおじいさんもおばあさんも、よけい僕を可愛がったんです。 河盛 姉さんはご健在ですか。 井伏 将棋の大山名人の村へお嫁に行って、子供は男の子が一人います。 河盛 もうそうとうなお年でしょうね。 井伏 子供は大山さんより一つ上か下です。大山さんと同じ小学校で……。 河盛 井伏家はご長命の筋ですな。 井伏 しかし、おやじと兄貴は早く死んだ。 河盛 兄さんは戦争中でしたね、なくなられたのは。 井伏 六日わずらって死にました。僕が陸軍徴用でマレー半島にいたときでした。 河盛 井伏さんは、おじいさんやお父さんのことは書いてられますが、兄さんのことあんまりお書きになりませんね。 井伏 「釣宿」という随筆で書きました。それから「半生記」で日経新聞にかなり詳しく書きました。 河盛 私いつもふしぎに思うんですが、われわれの若い時分は小説家になるなんていうと、父兄の強い反対を受けたものでしょう。それを井伏さんの兄さんにかぎって、おまえは小説家になれという。これはどういう……? 井伏 自分がなりたかったんですよ。歌つくったりしてね、うまくはなかったろうと思うけれども、自分がなりたかったんで、僕を身代りにしたんです。 河盛 井伏さんは小さいときから本を読むのがお好きでしたか。 井伏 そうでもなかった。雑誌では『少年世界』と『少年』です。『少年』というのは、たしか時事新報社から出ていた。 河盛 僕の時とあまり変わらない……。 井伏 河盛さんとそう違わないでしょう。村に本屋がないので東京から直接……。 河盛 そこのところが違うわけですね。僕は本屋で買いました。 井伏 僕は本屋まで四里です。博文館の『少年世界』に巌谷(大四)君のお父さん(小波)が少年読物をよく出していました。それから押川春浪。あの冒険小説こわいでしょう。夜、ランプを消して寝るときに枕もとへ冒険小説をおくとこわいから、部屋のすみへほうり出して寝ました(笑)。 河盛 『日本少年』というのがありましたね。これは有本芳水の詩が毎号、夢二のさし絵で出ていて、愛読しました。 井伏 あれは中学校へ行ってから。そうです、あれがなかなか魅力的でしたね。 河盛 それから僕は姉のとっている雑誌をこっそり読んだですな。『女学世界』とか。 井伏 『女学世界』はおふくろが読んでいました。 河盛 『女学世界』になってくると文語体だったのと違いますか。まだ言文一致じゃなかったんじゃないですか。『学生』なんていうのがあったでしょう、大町桂月の……。 井伏 『学生』は知りませんでした。 河盛 井伏さんは投稿のようなことはなさったですか。 井伏 僕はしないですが、中学へはいってから兄貴が僕の名前で短歌を出すんです(笑)。『秀才文壇』なんかの天・地・人とあるうちで、天か、地か、人にはいる。ほかの雑誌にもぼくの名前で投稿する。僕は寄宿舎にいるから、舎則としてそんなことしちゃいけないんです。先生は見ないのでおこらなかったですがね。いまでもその歌を一つ覚えている。 河盛 小学校は加茂村ですか。 井伏 ええ、そうです。 河盛 中学校は福山へ行かれたわけですね。 井伏 福山中学です。いまは誠之館高校といっています。誠之館というのは、昔、福山の藩侯、阿部正弘がこさえ、誠之館という名前は水戸烈公がつけたんです。阿部正弘は烈公とタイアップして老中をしていたそうですが、そのときにこさえたといいます。何年前か十何年か前に、誠之館創立百年祭がありました。 河盛 誠之館というのは非常な名門校ですね。 井伏 そうかもしれませんが、高校野球は弱いですね(笑)。僕たちのころはテニスが強かった。 河盛 井伏さんがはいられたときは福原(麟太郎)先生は入れ違いですか。 井伏 もう卒業されて、高等師範……。あのころ僕たちのほうでは、秀才というのは高等師範へ行ったんです。僕は上級生たちから、この学校には福原の麟さんという秀才がいたという話を聞かされました。非常な秀才だったらしい。だから福原の麟さんという名前だけは中学時代からよく知っていた。 河盛 福原先生のお話によりますと、井伏さんも秀才だったそうですよ。 井伏 いや、それは大きな大きな大間違いです。僕は成績がどんどん落ちて、一年に入学したときからだんだん落ちて、上がったこといっぺんもない。一年の二学期、三学期、二年の一学期と……。もし中学が六年制であともう一年あったら落第だ(笑)。 河盛 中学校生活はおもしろかったですか。 井伏 入学早々から、早く卒業できればいいと思っていた(笑)。 河盛 ぼくも五年生のときに、一年生の生徒をみて、これから五年間もこんな学校へ通うのかと思うと、かわいそうな気がしたことを覚えています。 井伏 軍隊のようなものでしたからね。あなたは中学時代、なにか仁徳天皇の陵をかけ足で回ったとか……。 河盛 一週間に一度、毎週、水曜日の体操の時間でした。ぐるっと回ったら一里はじゅうぶんありますね。しかし、ああいうことをやったおかげで健康になったのかもしれません。 井伏 体操の先生は軍人でしょう? 河盛 在郷軍人。 井伏 僕らもそうでした。 河盛 中尉か、せいぜい大尉ですな。佐官はいませんね。しかし僕のときは、日露戦争に従軍した人で、戦争の話はおもしろかったです。 僕らのときには学校に寄宿舎がありました。私たちははいりませんが、田舎からきている生徒のためでした。 井伏 僕なんか、寄宿舎も軍隊式でした。三年修了まではメガネをかけちゃいけないという。困ったな。それでポケットに近眼鏡の玉を入れておいて、ときどき教室でとり出して黒板を見た。そのせいかどうか、黒板へ書いて教わる学科は全部だめだった。 河盛 僕らの時分にはメガネかけると、なまいきだといって鉄拳制裁をくいかねませんでしたよ。 井伏 スパルタ式といってね。スパルタ人は眼鏡かけなかったというんです(笑)。 河盛 だから近視の度が非常に進んだのです。それに教室が暗いんです、実に暗い。監獄みたいなものですよ。それですっかり目を悪くした。小学校のときは明るい校舎でしたが。 井伏 僕のいた寄宿舎には、図書室の外にユーカリの木があって夾竹桃が茂っていた。部屋がほの暗いので目を悪くしたのでしょう。しかし通学生は一年から眼鏡をかけても誰も何ともいわなかった。 河盛 福山中学はスポーツが盛んだったんですか。さっきテニスとおっしゃいましたが……。 井伏 わりあい盛んでした。僕はテニスはしないけれども、テニスの選手は対校試合で何度も優勝しましたよ。 河盛 中学校の学科ではなにがお好きでしたか。 井伏 図画でした。絵かきになりたかったんです。 河盛 絵が好きなのは小学校時分からですか。 井伏 小学校の時分は手工(工作)が好きだった。算術はにが手でした、ぜんぜんやる気ないんですもの。なにになろうという気持もなく、中学へはいって最初のころは小説家になろうというぼんやりした気持がありました。文章書く人になりたい。そんな気持は、一年間ぐらいありましたが、あとは絵かきになろうと思っていた。 河盛 絵の先生にいい人がおったんですか。 井伏 おりました。自由に、なんでもさせる。だいたい福山というところは画家を大事にします。そのせいかどうか、上級生のうちには美術学校や研究所へ行ったのがずいぶんいました。優秀なのがいた。しかし画壇というところは、素人には知れない苦しい何かがあるようですね。 河盛 絵かき志願はいくつぐらいまででしたか。 井伏 中学出た直後まで。出てから高野とか、奈良をスケッチして回って、京都へ一カ月ばかり下宿して。丸太町橋のたもとの愛国婦人会本部がポツンと建っているそばの和泉屋という千本格子のはまった旅籠屋へ泊まっていたんです。 そうして橋本関雪先生の弟子を介し、スケッチを名刺代りにして入門を頼みました。それがだめだった(笑)。 河盛 日本画の絵かきになりたいと思ったんですか。 井伏 そうです、日本画。当時、洋画家は食えないということを知っていましたからね(笑)。それに関雪というのは、いちばんの売れっ子らしかったですから。 河盛 あの時分は京都では、栖鳳、関雪と並んだライバルでね。 井伏 京都で、しかるべき人に紹介してもらっていたら、弟子になれたかもしれなかったでしょうね。 河盛 しかし日本文化のためには小説家になってもらったほうがよかったですな(笑)。 井伏 いや、僕は何度もいうんですが、もし関雪画伯が入門させていたら、勉強してフランスへ行くでしょう。そして今や、レオナルド・藤田か、アンリ・井伏か……(笑)。僕は六十のとき盲腸の手術をして、腹膜炎で死にかけた。それで回復期になって、自分はなにをすればよかったか、そうだ、絵をかかなきゃいけなかったと気がついた。それで画塾へ行ったんです。六年行きました。しかし、かくほどへたになる(笑)。高校の学生なんかが美術学校を受けようとするとデッサンやらされるでしょう、それでデッサンの勉強に画塾へ来るんだが、一年、二年である程度うまくなる。それから上にはなかなかあがらない。しかし、そのある程度までが、僕たちにはもうついていけないんだ。高校生は上達が早いですね。必死にかいている。 河盛 学校卒業は三月ですね。大学は? 井伏 僕たちは中学卒業が四月だったかしら。 河盛 四月初めでしょう。それから早稲田なんかの大学の入学試験は、あの時分は七月です。ですから三月からそれまでひまがあります、そのあいだに京都へ行かれたわけですね。 井伏 夏休みごろまで京都にいました。家に帰って関雪画伯に断られたというと、兄貴が、小説家になれというんです。早稲田の文科を出れば小説家になれるから……。当時はそういっていましたからね、どこの学校を出ればなにになれると。そんな定説がありました。それですぐ応募して、予科が二年ありましたが、その一年に編入試験ではいったんです。 河盛 そうしますと、中学校を卒業されたときは絵かきになることであって、早稲田のことは考えておられなかった。 その絵かきさんのほうがだめになったものだから、兄さんが早稲田へ行けといった。 井伏 兄貴のいうままに敵前迂回したわけです。当時、兄貴は僕という人間を少しあきらめていたようですね。成績が下がる一方でしたし、成績で人格をきめますからね。 河盛 昔はね。しかし法科へ行けなんていわれるよりよかったじゃないですか。 井伏 法科へはちょっとはいれないですよ。 とにかく早稲田の予科一年にはいったのですが、クラス全部で二百何十人いましたよ。Dクラス、Eクラスとありまして、ほとんど全部が小説家志望と劇作家志望です。あまり多いのでおれだめだと思った。 河盛 こんなに多いと……(笑)。 井伏 それから文壇のことをぜんぜん知らないし、志賀さんのことでも、僕は『新潮』で「謙作の追憶」を初めて読んで知ったほどでした。同級生に高安月郊の子供の高安君というのがいまして「志賀直哉というのはえらいぞ」といったら「おめえ、いまごろそんなこというようじゃだめだよ」といわれた。ぜんぜん東京のこと、ジャーナリズムのこと知らなかった。 河盛 こんなに多くちゃとてもだめだろうと思っても、なおかつ文学に……? 井伏 おふくろに気がねもありましたしね。兄貴は僕をかばってくれますが、おふくろは、とにかく僕が早く自分で身過ぎ世過ぎできればいいと思っているのです。兄貴が、満寿二のは仕事が違うのだから、といって、しかし内心は困っていたようです。それでも僕は半分も真剣にならなかった。懦夫をして立たしめるという言葉があるが、懦夫は懦夫であって勇猛心を起こさない。 河盛 そのときに早稲田で一緒だったのは横光(利一)さんですか。 井伏 あの人は法科から文科のほうへはいってきました。僕らが本科一年を終わるころ、新大学令というのができて、僕らのクラスはまた一年を繰返してやるんですが、横光さんは新大学令のほうで一年に転科してきたから、一級下でも教室では一緒になったわけです。僕は何度か総合教室で見ていますよ。でも、僕は壺井繁治と横光利一を間違えていたことが後になってわかってきました。ちょっと似ていますからね。やせて、髪を長くして……。そのクラスに和田伝がおりました。 河盛 中山義秀なんか一緒ですね。 井伏 義秀は覚えないんですが、和田伝はそのころから『早稲田文学』へ年に三回ぐらい小説を書いていました。彼はクラスのホープだった。 河盛 あの時分は坪内逍遥先生がおられたんですか。 井伏 週一回、特別講義で「真夏の夜の夢」を教わりました。坪内先生はテキストを暗記していますから、テキストを見ないで芝居みたいに訳して行かれる。僕は、うっとりして坪内さんの顔みているんです(笑)。 河盛 井伏さんご自身は学校にはいらしたほうですか。 井伏 だんだんと怠けるようになった。僕はいろんなことで……、青春の悩みというのがあった(笑)。 河盛 広津(和郎)さんも書いているんですけど、増田藤之助という、えらい英語の先生がいたそうですね。 井伏 僕は、エリオットを習いました。軽い訳でね、うんと軽い……。あんまりえらすぎたな。たいした人だった。 河盛 あの人の作った字引があります。いまは絶版ですが、とてもいい字引だそうです。広津さんは、翻訳をやるようになってから、こんなことなら増田さんの講義をもっと聞いておけばよかったと思ったと書いています。 井伏 僕もそう思います。 河盛 吉田絃二郎さんも、あなたは書いてられますが、あの人も学生に人気があったんでしょうね。 井伏 人気ありましたよ。でもなかには、向こうのテキストのコンマがとんでいたりしているとき、吉田さんをいじめるのがいましたよ。 河盛 どこの学校にもいるものですね、先生をいじめるやつが。 井伏 いまから考えれば、学校ではクラシックをやらしたんですね。教室ではそれがおもしろくなかったんですが、吉田さんはそうじゃなくて、新しいものをやって、ブレークなんかけんらんたる講義でしたよ。 河盛 ブレークは一時はやりましたね。それからシモンズ、イェーツなんかの全盛時代ですね。 会津八一さんはどうですか。 井伏 会津さんはそのころ早稲田中学の先生でした。しかし、美術鑑定家としては、間違いないといわれていた。道具屋なんかも尊敬していましたね。 河盛 尾崎士郎さんなんか一緒でしょう。 井伏 士郎さんは文科でなくて、政経です。僕が二学期からはいったとき、ちょうど大騒動があった。いわゆる早稲田騒動です。士郎さんはその騒動に関係していて退校になったから、僕と入れ違いです。 河盛 そうしますと、有名な早稲田騒動には井伏さんもおあいになったわけですか。 井伏 九月に入学早々ですよ。初登校の日に、僕はまだ学生服も制帽もできてなかったから、和服を着て行くと、門のところに柔道部の学生のようなのが大ぜいいる。「どこへ行く」というから「学校へ行く」といったら「とんでもない。うん、おまえは受験生だな。もし学生なら命がないぞ。早く引返した方がいいよ」なんていわれましてね。それで下宿へ帰りました。 河盛 ストライキをやったわけですね。 井伏 一週間ぐらい物騒で行けなかった。当時の学校の正門というのが後の文科の門ですが、その門の前で教授が雨の降るなかで演説していました。それは造反のほうです。夜も演説会がありました。僕は石橋湛山が早稲田劇場で造反の大演説するのを聞きに行きました。湛山さんが大きな声で抑揚つけてやりましたよ。(尾崎)士郎さんは湛山さんの方です。士郎さんの「人生劇場」に書いてあります。 河盛 だんだん学校へ行かなくなったのはいつごろからですか。 井伏 ぜんぜん行かなくなったのは、三年生の一学期ごろから。いやなことがあってね……。 河盛 そのへんのことは「〓肋集」にくわしく出ていますね。 井伏 そのころ青木南八というのがいまして、僕が学校へ行かないと下宿に呼びにくる。この学生のことは「半生記」に詳しく書きました。「〓肋集」にも書きました。短篇にも実名で書きました。 河盛 その青木南八を、永井龍男君はごく最近まで井伏さんのフィクションだと思っていたそうです。 河盛 僕はだいたい昭和三年、四年、五年と日本にいなかったんです。フランスにいまして。あの時分はプロレタリア文学の猖獗をきわめた時代です。ところが僕が帰ってきたときはプロレタリア文学はすでに下火でした。ですから僕が日本に帰ってきた頃から、そろそろ井伏さんが芽を出したというと失礼な言いかたになりますが、文壇に地歩を占め出されたわけですね。僕がパリでのらくらと遊んでいる時代に井伏さんは日本でつらい目をしてられたわけで、申しわけないような気がしています。 井伏 僕は文学青年やつれ、しかるにあんたはマロニエの木蔭でボードレールを口ずさみ……。 河盛 しかし日本へ帰ってからのことを思うと、僕も不安な気持でいっぱいでした。もとよりあなたの御苦労に及ぶべくもありませんが。 井伏 『作品』にはいるまで。『作品』にはいってからはなんとか気持の上だけでも……。 河盛 『作品』は五年? 井伏 四、五年ごろです。 僕は永井(龍男)君と出会ったことが非常によかったと思いますよ。自分によくしてくれた編集者は、いい編集者だったと思いがちですね。 河盛 いや、その通りだと思います。 それで、井伏さんの文壇登場にはいりますが、私がいままで調べたかぎりでは、井伏さんの雌伏時代は長いですね。あの名作「山椒魚」でも正当に評価されるまでには相当に永くかかっています。 井伏 あれは予科二年か、本科一年の夏休みに郷里で書いた。青木南八に送るために七つ書いた習作の一つですが、あれは大震災の年の八月、同人雑誌の創刊号に載せました。「幽閉」という題でした。それから大震災。僕は郷里に行ったり来たりして、その後、結婚しました。昭和二年です。その前に、聚芳閣という出版所につとめましたが、つとめたって、奥付を忘れた本出したり(笑)、ぜんぜんだめだ。 河盛 その本は辰野さんの本でしょう? 井伏 いや、辰野さんのは『サ・エ・ラ』という題の本ですが、これは無事に出しました。奥付を忘れたのは松前でつかまったロシア人、ゴロヴニンの『日本幽囚記』という本。 河盛 あの本屋は当時はわりあい大きい本屋だったんですか。 井伏 徳田(秋声)さんのお弟子さんが社長で、いい本を出しましたよ。 河盛 私はいつも思うんですけれど、田中貢太郎さん、あなたに力こぶを入れてられましたね。 井伏 聚芳閣に僕が勤めていたころ、小島徳弥という評論家が売文の仕事をさがしていて、僕の同級生で土佐の人でいま出版所を経営していますが、その人の紹介で小島君と一緒に田中さんへ行ったんです。とても田中さんがよくしてくれました。その後、田中さんのところを訪ねるようになったのです。 河盛 田中さんに『博浪沙《はくろうさ》』という同人雑誌がありましたね。尾崎士郎さんなんかが同人で……。 井伏 田岡典夫君の編集で、同人は尾崎士郎、富田常雄、佐藤惣之助、榊山潤、宮地嘉六……。 河盛 井伏さんも当然はいってられたと思いますが、尾崎さんがいってました。田中さんは実に井伏をかわいがっていたって。 井伏 あるとき田中さんに「先生、なぜ僕にそんなによくしてくれるんですか」といったら、土佐弁で「おまえは酒の飲みっぷりがいいきに。さあ、ちくと飲みに行こう」(笑)。 河盛 井伏さんがなかなか文壇へ出られないので、田中さんが「どうしておまえの小説は売れぬのかね」といった話を井伏さんが書いてられますね。あの言葉、実に情がこもっている。井伏さんの書かれたもので田中さんが出てくるものはみな実にいいですね。ジーンとくるものがあります。 井伏 今、かりに田中さんのうちで飲んでいるとしますね。そうすると、ふとその場に間が出来る。そんなとき、二度か三度か「どうしておまえの小説は売れないんだろうね」といった。実際、売れないんだもの。 それで、「わしは小説がわからんきに、小説のわかる小説家を紹介してやろう」といって、佐藤(春夫)さんに紹介状を書いてくれた。一人で行くのは何だから富沢(有為男)君に連れていってもらった。富沢君はその前から佐藤さんのところに行っていましたからね。 河盛 井伏さんを編集者として発見してくれたのはやっぱり永井龍男君ですか。 井伏 編集者としては、そうです。永井君が『モダン日本』やっているころ。それから永井君が『文藝春秋』『オール読物』と移るにしたがって、いろんな人にぼくのものをずいぶん推薦してくれた。最初『文藝春秋』に書いたのは、三田の水上滝太郎さんが菊池さんにいって下すったからです。また水上さんが僕のことを案じて下さったのは富沢君が何かと吹聴してくれたからです。僕のものが『三田文学』へ載ったのも、そのせいです。そのあくる年、昭和四年正月には、『新青年』や『新潮』にも書いた。昭和四、五年ごろ、僕はよく文藝春秋社へ出入りして、あのころは楽しかったな。僕が銀座のグラウスという店で飲んでいると、谷崎精二さんと加能作次郎さんがはいって来て、加能さんが「君たち、いまいちばんうれしいときだ。そういううれしさは一年と続かないから、うんと飲んでおけ」というんです。先輩、よけいなこというと思ったけど、やっぱりそのとおりだった(笑)。少しでもジャーナリズムにのった当時はうれしいものですね。もっとうれしがったほうがよかったな。 河盛 さきほども話が出ましたが、左翼文学が猖獗をきわめていた頃、井伏さんのまわりの連中はことごとく左傾するわけでしょう。そういう仲間におはいりにならなかったのはどういうわけですか。 井伏 僕は「〓肋集」という半自伝に、その理由は「気不精のため」と書いたけれども、マルクスの「資本論」を一、二ページ読んでみたら、文学論じゃないでしょう(笑)。 河盛 なるほどね、これはおもしろい。 井伏 その後、小林(秀雄)君と街を歩いていたとき、小林君が、おれはマルクスを読んでみるというんです。「じゃ、おもしろいところにアンダーライン引いて、それを僕に貸してくれ」といったら「ばかやろう」といった(笑)。昭和四、五年でしたかね。神楽坂の坂を池谷(信三郎)さんの自宅の方に向かって登りながら。そのころ蝙蝠座を池谷さんがやっていました。 河盛 三好達治君も左傾しなかったほうです。が、わけをきくと、いやなやつばかり左傾するからおれはやめたといっていましたよ。 井伏 それは三好の造反性でしょうね。 河盛 しかし、あの時分は井伏さんのいちばんつらかった時代じゃないですか。 井伏 つらい、つらい。月末と年末がありますから。田中貢太郎さんが僕に辞書編纂の下請仕事をくれて、毎月五十円ずつくれた。それで助かった。 河盛 あの時分の五十円というのはそうとうなものですね。私立大学の卒業生が月給三十円ぐらいのときですよ。不景気のどん底でしたから、僕ら大学を卒業した頃は……。 河盛 文壇では、井伏さんを、最初はユーモア・ナンセンス作家とかいっていましたが、井伏文学を正当に評価して、ちゃんとした批評を書いたのは小林秀雄君が始めです。『改造』の文芸時評でね。 井伏 「鯉」という短篇の批評でしょう。 河盛 小林君からきいた話ですが、井伏さんが南方に徴用で行っておった頃、小林君はこちらで『文学界』に日本の古典について書いています。「徒然草」とか、「実朝」とか、それが戦地へ送られます。井伏さんは向こうでそれを読む。どうせ月おくれでしょうけど……。 井伏 いや、十日目か二十日目ぐらいで……(笑)。 河盛 井伏さんは愛読されたんでしょう。戦地で鉄かぶとをもらったようにうれしかったと、そういう手紙をよこしたと小林君がいっていました。 井伏 戦争が激しくなっていた頃です。僕は帰還してから、ある日、“エミコの店”で小林君に会った。よしずばりのような店ですが、小林君に「『文学界』の連作、戦地で読んで助かったよ」といったら「うん、おれは三年骨董やったから。骨董やると文学わかるね」なんて冗談いった(笑)。 河盛 井伏さんが、これでおれも一人前になった、文壇的にこれでまあやっていけるということを感じられたのは、いつごろからですか。 井伏 僕は戦争直後だと思いますよ。 河盛 そんなことないでしょう(笑)。 井伏 ほんとうに身過ぎ世過ぎでしたから。 河盛 それはそうでしょうが、これで職業としてやっていけると自信を持たれたのは? 「さざなみ軍記」頃からでしょうか……。 井伏 戦争中に「多甚古村」が売れたんです。僕は疎開中の三年半それで生活したな。 河盛 なるほど「多甚古村」がありましたね。 井伏 「多甚古村」のときから、文章で何とか食えると思った。——こんなの、気楽な話じゃないですね。いずれにしろ、やっていけなくても、やっていかなくってはいけないんです。 (昭和四十七年五月、毎日新聞社刊・現代日本のエッセイ『人と人影』)   夕すずみ縁台話 河盛 旅の話から始めましょうか。いつかうかがった、あなたがお母さんといっしょに、お父さんが亡くなられたとき親戚めぐりをされたというのが初めての旅行ですか。 井伏 それは、おもしろくない旅ですが、僕はその旅さきで、味の素というものが発明されていると聞いたのをおぼえています……。 河盛 お父さんが亡くなられた年ですか。 井伏 ええ、その年でした。とにかく六つのとき。備中の親戚のうちで寝小便して、それが最後の寝小便だから、六つのときだったことは確かです。僕の寝ている枕元で、親戚のうちのおばさんとおふくろが何か話をしていて、このごろ新発明の味の素というものを使うと料理が早くくさるからいけないそうだと、おばさんがいってました。味の素というものがあることを、僕はそのとき初めて知った。むろん、まだ見たことも食べたこともなかったけれど。 河盛 そうすると、明治何年ころになりますか。 井伏 (ちょっと考えて)三十六年ごろ。 河盛 すると味の素が売り出された直後でしょうね。 井伏 そうでしょう。そういう風評があったんでしょう。僕らの田舎なんかでは、大正時代に入っても使ってませんでしたがね。 河盛 僕のおぼえているのは、味の素はヘビからつくるというデマがとんでいたことです。 井伏 僕もうわさできいたことがあります。 河盛 それほど、味の素というのは、驚異だったんでしょうな。 井伏 そうでしょう。その初めての旅で印象的だったのは、備中の高屋という小さなふんどし町を通ったとき、その町の子供がひじょうに勇ましく歩いていたことです。サッサッサッと。僕はね、それがうらやましかった。 河盛 はあ、なるほど。 井伏 僕は町というものを、そのとき初めて見たのです。僕らの村では子供はぶらぶら歩くか駆けだすかですが、町の子供はきびきびして活発でしたね。それから、いとこの家へ行ったとき、いとこにふとんむしにされたことをおぼえています。ふざけてそんなことをしたのです。 河盛 …………。 井伏 いとこは二つか三つ年上ですが、子供のときは二つか三つ上というのは、大変な差ですからね。 河盛 井伏さんの小学校のときには、修学旅行ありましたか。 井伏 ええ、日帰りで。 河盛 遠足ですね。 井伏 そうです、遠足です。 河盛 あのへんは、どこへ行くんですか。 井伏 皿山という海岸の窯場です。徳利をつくるところです。福山という町まで歩いて行き、そこから一と丁場さきの大門というところまで鈍行の汽車で行きました。 河盛 なるほど。 井伏 村から福山の町まで、学校からなら三里、僕のうちからは三里半です。それを歩いて福山の町まで行くんです。僕のクラスに、ひとり朝寝する子がいて、遅れて来ていると、女の教師が後から車できて、その子を乗っけてやろうといってね。女の先生と相乗りできましたよ。みんなの羨望の……。 河盛 的で? 井伏 それから帰りはまた三里か四里、歩いて帰るんです。それが初めての遠足でした。 季節は春のことです。レンゲ畑があるので、喜んで田のなかに転がって道草をくう子がいました。これは、そこの百姓にしかられました。だいたい、まあ、しかられたことはおぼえている。 河盛 まあ、そうですね。子供のときの思い出には、ほめられた記憶はあまりありませんね。 井伏 あなたは何年生のとき? 河盛 わたしの小学校のときの遠足といったら堺の海岸へ行くとか仁徳天皇の御陵へ行くくらいでした。そのほかでよくおぼえているのは、明治天皇さまが亡くなられて、大正天皇になったころ……。 井伏 じゃ、あなたは一年生か二年生でしょう。 河盛 いや、もう四、五年でした。近畿地方で秋に陸軍の大演習がありまして大正天皇が大阪の大本営へ来られたのです。それを私たちは奉迎に出かけました。朝早く起きてね、郷里の堺から汽車に乗って行くんです。ずいぶん待ちましたが、やがて天皇さまが馬に乗ってお通りになる。たしかに馬だったとおぼえています。そのあとに偉い将軍たちがたくさんついてくるんですが、そのなかに大山元帥のいるのを見つけて興奮しましたね。 井伏 そうでしょう。 河盛 「あれ、大山元帥や」というわけです。絵はがきやなんかで顔を知っていますから。 井伏 僕の場合は、あるとき、大正天皇さまが福山をご通過というのでね、もう中学のころですが、駅へ奉迎に行きました。僕らの中学の体操の先生が号令かけると、各学校の生徒も同時に最敬礼することになってました。そこで、この体操の先生が、「最敬礼」と号令をかけたから、みんな最敬礼したんです。それが貨車だった(笑)。お召列車は、それからしばらくたって通りました。体操の先生、男を下げたんだそうです。気の毒でした。 あなたは、飛行機はいつ見ました。 河盛 飛行機というのは、僕らの子供のときは稲垣足穂氏がよく書く武石浩玻というのが有名でした。深草練兵場で墜落して死んだ人。しかしそれは、新聞で知っていたので、本ものの飛行機を見たのは、ずっとあとです。 井伏 僕は中学三年か四年のとき、初めて。 河盛 飛行機ね。 井伏 ええ。竹でこさえてあった。 河盛 へえ、それはどういうんですか。 井伏 飛ばないんですがね、見せ物として、練兵場に展示されたので、たくさんの見物人があつまりました。 河盛 自動車はどうですか。 井伏 福山の町に一台あるそうでしたが、ぼくは見たことないです。商店主が赤い洋服をきて、宣伝のため自動車で街を通るということでした。 河盛 そうですか、僕はわりあい早く見ています。小学生のころ、学校の前に自動車をもってるヤツが車庫をつくりましてね。今でいうオーナー・ドライバーです。中古を買ったんじゃないかと思うんですが、しょっちゅう修繕ばかりしていました。なんでも華族だというんですが、極道息子みたいな男でした。その弟が、僕と小学校が同級なんです。たまには車庫から車を出して町を走りまわっていましたね。オープンの自動車でしたな。あの時分の自動車はみなオープンじゃありませんか。 井伏 それは、大阪で? 河盛 いや、堺です。大阪ではむろんそのまえから自動車は走っていたでしょうね。 井伏 大阪は、合理的なものは早く取り入れるところですね。 河盛 自動車といえば、思い出す話があります。松平信子さん、秩父宮妃殿下のお母さんですね。あのかたからうかがった話です。あのかたは鍋島直大侯のお姫さまですが、明治三十五年かに当時イギリス公使館三等書記官だった松平さんと結婚するために、単身ロンドンに出かけるんです。日本郵船の船で。行くまえに皇后さま、つまりのちの昭憲皇太后さまに拝謁するわけですが、そのとき皇后さまは、大和なでしこの名誉を汚さないようにしろと、おっしゃったそうです。 井伏 日露戦争のちょっと前ですね。 河盛 さて、マルセイユに着くと、当時フランス公使館付海軍武官だった一条実孝公爵が迎えにこられたそうです。一条公爵には後年私がフランスへ行ったとき同じ船に乗っていられてお話したことがあります。大変気さくなかたでした。 それからパリへ行ったら、あのころパリに、カーンというユダヤ財閥がありまして、その当主が、自動車で松平さんたちにパリの町を案内したそうです。むろん松平信子さんは初めて自動車に乗ったわけですね。二十世紀の初めですからパリでも自動車は珍しかったんじゃないでしょうか。 それから信子さんがロンドンに行くと、そのときまだ日本は公使館ですね。 そのときの公使は、小村寿太郎です。その小村さんの媒酌で公使館で結婚式をあげたのですが、公使館には日本人の料理人がいて、それが腕をふるって、結婚料理をつくったそうです。鍋島直大侯は式部長官をしていたので、外国のお客さまとの接触が多く、したがって信子夫人も子供の時分から、英語を習っていられたんでしょうが、ロンドンでは最初からやり直すつもりで小学校へ入って英語の勉強をしたといっておられました。 井伏 うん。感心なものですね。 河盛 そのころは若い外交官で家庭を持っているのは少ないので、同僚たちがしょっちゅう松平さんのところへお酒を飲みにくるんだそうです。そして、すきやきをやる。ところがおしょうゆがないんですな。そこで松平夫人が福神漬のカン詰をたくさんあけて、その汁をしぼっておしょうゆをこしらえ、大いにほめられたというような話をしておられました。 それから、もっとおもしろかったのは、あのころイギリスのコンノート殿下が明治天皇にガーター勲章を奉呈しにやってきたことがありましたね。ガーター勲章というのは、脛のところにつけるんだそうですが、それをつけるとき、さっと足を出された明治天皇の威厳に打たれて、コンノート殿下の手がふるえ、とめ針であやまって明治天皇のすねを刺して、血を出したという話があるそうです。 井伏 なるほどね。 河盛 それで、そのガーター勲章の答礼のために日本から皇族がイギリスに派遣されることになった。たしか伏見宮さんが、妃殿下といっしょに行かれたように思います。そこで日本の公使館ではレセプションをやって、イギリスの王室をはじめ朝野の貴顕を招待することになった。日本の公使館でそういう大レセプションをやるのはそのときが初めてなんだそうです。 井伏 ことは、慎重を要しますね。 河盛 しかし公使館では狭いので、ロンドンの大きなホテルを借りることにした。 ところが、この種のレセプションにいちばん大切なホステスがいない。一般に大、公使の夫人がそれを勤めるのが慣わしですが、小村侯は奥さんを連れてきていない。そこでホステスを誰にするかということが大問題になったわけですが、そのころ外交官夫人の第一号として知られていた女性に、井上幾之助夫人というのがいました。 井上幾之助というのは「教育勅語」を書いた井上毅の養子さんで当時ドイツ公使でした。 その夫人の名前を忘れましたが、文字どおり才色兼備のすばらしい女性で、とてもカイゼルのお気に入りでした。ほかの国の大使館ではカイゼルを招待してもなかなかやってこないのに、日本公使館だと悦んでやってくる。それほどカイゼルのお気に入りだった——そうです、欧州戦争を始めたカイゼルです。それで、宮内省ではこの人をホステスにすることにきめて、ロンドンへ行くように命令を出しました。ところが小村公使は、いや、ホステスはこちらできめるといって、信子夫人に、あなたがやりなさいと命令しました。いずれあなたのご主人は公使になる人だから、いまからその練習しておいたほうがよい、いろいろなエチケットは自分が教えようというわけです。信子夫人はまだ二十そこそこでしょう。しかしそのはなやかな才知に小村さんは早くも感心していたのですね。その眼がねにたがわず、信子夫人はりっぱに勤めて、レセプションは大成功に終わり、それと同時に彼女の存在はイギリスの宮廷に深い印象を残しました。信子夫人とイギリス王室との深いつながりはこれから生じたのですね。 井伏 これ、歴史だね。 河盛 その時分の日本など、まだ小さな国だったでしょうからね。 井伏 ロシアに対しての提携だから、イギリスのほうでも。 河盛 自動車から話が変なところへとんじゃった。 井伏 いや、やむをえない。 井伏 ところで、それは当時ロンドンにいた上流階級者の日英親善風景ですが、ところが、当時ロンドンにいた労働者階級の日本人の動きはどうだったか? ぼくはつい先日、当時ロンドンにいた労働者階級の一日本人の手記を手に入れました。 河盛 それはぜひ聞かせてください。 井伏 その人は今、九十何歳でロンドンで健在です。名前は伏せますが、一九〇〇年(明治三十三年)の十二月長崎からゲルマンシップに水夫として乗組んでロンドンに行き、アメリカ通いの英国船の水夫になって、一九一三年まで船乗り生活していたそうです。その間のロンドンの生活、航海中のことを書いている。日露戦争のときだけは、英国船が雇ってくれないので(ロシアの軍艦に見つかると、日本人が乗り組んでいては全乗組員が危ないので)ロンドンで英人のサーカスに入っている日本人の手品師の通訳を兼ねて雑役をしていたそうです。明治三十八年一月一日朝のことを、こんな風に書いています。やはり片仮名で、「アサ、大ナルユメミテ、ヨクネテイタガ、ソノユメハ、リョズンコノ(旅順港の)ヲチタト、ミチヲ、オランデトヲル(叫んで通る)コドモノコエ。ハット目ガサメ、ネダイノウエニ、スワッテイルト、ナンデモナイ。スルト、マタ、ジブンハネムル。ココロヨクネムリマス。スルト、マタ、ゼンノゴトク、オランデトオリマス。マタモ目ガサメテ、スワリマスト、ハヤ、キコエマセン……」おかしな夢もあるものだと、また眠っていると、また「リョズンコノオチタ」と叫《おら》んで通る。それは夢ではなくて、叫んでいるのは新聞売子の声だとわかった。で、すぐ新聞を買って見ると、「マチガヒナク、リョズンコワ、(たぶんカットか挿絵でしょう)日ノ丸ノコッキニナリテオリマス。ソレカラ、ウレシクテ、ネレマセン。スグト、トモダチニユキ、シラセマスルト、ミナヨロコビ、大ナル、ユカイデス」と書いています。 河盛 いい話ですな。泣かせます。 井伏 それにつづいて、こう書いています。その日、一月元日にはロンドンに、日本の「レンタイキ」が幾らも揚がり、(レンタイキでなくて日の丸の旗か軍艦旗かと思いますが)街を歩くと行きずりの英国人が、口々に「ザャパン人、バンザイ」と声をかける。ある人は、こちらを大なるホテルに連れて行ってご馳走をしてくれる。また、居酒屋に連れて行って、飲みたくない酒を飲ませ、仕事師のような者や汚ない身なりの者まで「ザャパン人、バンザイ」と叫ぶ。これには困った。それでこちらも飲ませようというと、こちらの金では飲まぬという。「今日ワ日本ガ、リョズンヲヲトシタカラ、ソノユカイニ、ココロヨリ、ユワッテ(祝って)ヤルトイイマス。ショーガナイ。ソンナニ、エイコクワ、日本ヲ大セツニオモイマス。其ノ日ワ、私ノウレシサ、ココニワ、カケマセン」と書いています。英国人は朝野をあげて日本人に喝采を送り、また、この手記を書いている日本人は、ただ夢見心地になっていたようです。 たぶん当時の日本人一般はそうだったのでしょう。ところが昭和の戦争では、ぼくは捷報を聞いても不安が濃くなる一方でしたがね。 河盛 井伏さんは中学校を卒業して、早稲田へ行くまえに、京都や奈良へ旅行されたでしょう。もう上の学校へ行くお気持はなかったのですか。 井伏 僕は学校ぎらいになっていました。画家の弟子になって日本画をやるつもりでした。それで橋本関雪の弟子になりたいと思って、奈良、高野、吉野へ行きました、スケッチに。それから京都でひと月ばかり丸太町橋の和泉屋という古びた宿屋に泊まって、毎日スケッチに出ました。千本格子のはまっている薄暗い二階に寝起きして。 河盛 季節はいつごろ。 井伏 初夏。 河盛 京都のいちばんいいときです。 井伏 丸太町橋の下でスケッチして友禅をさらしている人を描いたこともあります。雨が降るとあの橋の下へ行って川岸の家をスケッチする。降らないと植物園とか清水のほうへ行って、ずいぶんかきました。 河盛 橋本関雪をマークされたのは何か理由がおありですか。 井伏 橋本関雪は、当時ジャーナリズムでは大変だったですから。中学を出たてのころで、画壇の真相はわからない。竹内栖鳳と関雪がいちばん偉いと思っている。それで宿のおかみさんに相談したら、荒物屋に下宿している関雪さんの弟子をよく知っているというので、僕のかいたスケッチをその人に持っていってもらったんです。入門さしてくださいと、関雪先生のところへ。そしたら、ダメだった。 河盛 絵をですか、あなたの絵をねえ、関雪には目がなかった(笑)。 井伏 いや、どうにもしようがないスケッチです。絵は、やはり正式にデッサンから学ばなくちゃダメです。 河盛 関雪の家へはいらっしゃらなかったですか。 井伏 家は糺の森のほうでしたが、訪ねる元気なんかありません。 河盛 のちに銀閣寺の近くに、大きな家ができました。 井伏 いま、関雪美術館ができているそうです。 河盛 そのようですね。関雪は、栖鳳とライバルで、これは吉川(英治)さんから聞いたんですけれども、吉川さんは戦争のときに南方へ行ってられて、帰りの飛行機でちょうど関雪といっしょになったんだそうです。飛行機のなかに日本の新聞があって、それをあけると、栖鳳が死んだという記事が出ている。すると、関雪が、「栖鳳が死んだ」といって、そのうれしさをかくすのに骨を折っていたそうです。 井伏 戦争中、僕がシンガポールに行っていたとき、関雪が献納画をかきに来たことがあります。 河盛 その帰りでしょう、きっと。 井伏 僕ら徴用員の班長のところへ関雪さんが訪ねて来て、たまたまそこへ新聞記者が同席していたそうです。僕は見なかったが、関雪の献納画の画材は、ジョホール水道を日本の兵隊が渡るとき、鉄舟がひっくり返って重油のなかを泳ぐ兵隊の顔がまっ黒になっている場面にするといったそうです。それで新聞記者が、そんな事実はなかったといい、しかし関雪さんはどうしてもその画材にするといって、大変なケンカになったそうで、班長の中佐が困ったということでした。それが記憶にあったので、徴用解除で日本に帰ってから上野の展覧会で見ると、関雪さんはその画材にしていなかった。芋の葉のような広い葉の草が茂るなかで、日本兵の鉄兜かぶった顔がちょっと見えているところがかいてある。 河盛 遠慮したんですね。 井伏 遠慮したんでしょう。当時、日本軍が負けているところを画家はかきません。軍が怒ります。 河盛 関雪はドイツから若い女の子を連れて帰って、評判でした。僕らの高校生時分じゃないかな。 井伏 竹内栖鳳も西洋へ行きましたね。 河盛 そうです。イタリアへ行きましたね。あの時分、栖鳳の絵は大変でしたね。雀が得意でしょう。 井伏 魚では鯖。 河盛 鳥では雀でね。 井伏 猫がうまい。技術の上からいって、あの猫は藤田嗣治の猫に負けないな。 河盛 ちょうど第一次欧州大戦のあとで、成り金が続出した時分で、栖鳳の雀は一羽百円とか千円とかいう相場でした。雀の数が多いほど幅がきくわけで。 井伏 あのころ、日本画は京都でした。 河盛 山村春挙、竹内栖鳳、橋本関雪。 井伏 日本画家、二百人ぐらいいた。 河盛 ひと月も京都にいて、退屈しませんでしたか。 井伏 いや、毎日かいてました。宿で隣の部屋に、網元をして、失敗した人が泊まってましたが、その人、僕を京極へ散歩に連れだして、僕をまいて逃げちゃったのです。宿銭を踏みたおして逃げたのです。僕は宿に対してよくなくてね。 河盛 宿屋を逃げたわけですか、それは困る。 井伏 隣の部屋に一週間ばかりいましたよ。 河盛 あなたはその時分のことをまだ詳しくお書きになってないでしょう。 井伏 高尾にも寂光院にもいかない。ほとんど同じところばかりくりかえしてかいていたのですから。 河盛 あまり詳しく書けないことがあるんですか。 井伏 いや(笑)。そういう話だったら、こんなことがありました。植物園へ行く電車のなかで、雨上がりでしたが、きれいな女の人が高ゲタをはいて吊皮へブラ下がってました。あの植物園へ行く電車、ずいぶん速いでしょう、それが、ガタンといって、とまった。女の人がひっくり返って、両足を上に向け、広げたんです。当時のことですから、いかにも艶なるもので深い印象を与えられました。一生、忘れません。あなた、そういう話が好きなんでしょう(笑)。 河盛 ええ大好きです(笑)。それでどうなりました? 井伏 僕の隣にすわっていたオッさんが、急に腕ぐみをして、「けったいなまねしよる」といった(笑)。それで京都弁、そのときまた一つおぼえた。女の人は、その次の停留場で降りて行きましたが、当人も一生忘れないでしょう。 河盛 好んでけったいなまねしたわけじゃないでしょうにね(笑)。 井伏 あるとき電車のなかで道をきくと、女の人が二人いましたが、わざわざ電車を降りて教えてくれました。「練塀に沿っておいでやして」とか、上がるとか、下がるとかいって、親切なもんでした。 河盛 あすこは昔から観光都市だから、旅の人には親切ですね。 井伏 いまはそんなこと夢ですね。あのころ、植物園なんて、斬新なもんでしたね。新しくできた電車でした。 河盛 その時分できたんでしょうね。 井伏 四条か五条の橋のたもとに、大きな文房具屋があって、文展に出た油絵や彫刻を並べていました。ショーウインドーに、満谷国四郎の「仙酔島」の絵があった。ぼくはそれがほしかったが高いだろうなと、じっと見てたら、その絵を気に入ったかと、おかみさんがいうんです。丸髷に結ったおかみさん。「高いでしょうな」「高いですよ」あなたもどうせ絵かきになるんだろう——スケッチ鞄もってますからね——あの絵が好きならいい絵かきになるだろうから、絵かきになったらここへもっていらっしゃい、買ってあげますよ、という。その後、何十年か経過して、戦争中シンガポールから帰ってきて、毎日新聞から伏見稲荷の参拝記をかけというんで、伏見稲荷を見に行きました。そのとき京都で一泊しましたが、絵を買ってやろうといった家は、強制疎開か何かでなくなってた。小さい文房具屋ならありましたが……。それはまあ、わびしく、しかしロマンチックなことではないですか(笑)。しかし、あのころの京都は静かな町だったなあ。奈良なんか、お寺、仏像ずいぶん多いですが、どうしてあんなに多いんですか。 河盛 さあ、どうしてですかねえ。 井伏 亀井(勝一郎)君が奈良のことを書いてた。『大和古寺風物誌』かなんかで、仏像が多すぎるので驚くと書いてたが、あんなにたくさん必要なんですか。僧兵なんか、よそを襲撃して、もって来たんでしょうか。 河盛 戦利品ですね。 井伏 仏像一組あればいいでしょう。 河盛 寺が多いからじゃないですか。 井伏 その一つ一つのお寺にたくさんある。 河盛 火事で焼けたほかのお寺からもってくるんでしょうな。 井伏 坊さん自身、かえって気が散って困るんじゃないでしょうか。 河盛 井伏さんは東京へ出られたのは何年ですか。 井伏 大正六年の八月下旬です。 河盛 僕は大正五年に初めて東京へ行ったのですがね、中学二年生のときです。夏休みに友だち五、六人といっしょに旅行しようということになりまして、どういうわけですか、北陸へ行ったんです。堺から、金沢、富山を通って、上野駅へ出たわけです。そのとき富山の町で氷水屋に入ると、あのへんは冬雪を固めて床下にしまっておくんですね。それが氷みたいになっています。 井伏 氷室《ひむろ》ですか。 河盛 それが珍しかったのをおぼえてますね。それから、売薬屋の並んでいる町を通ったことをおぼえています。 井伏 大旅行ですね。そのころは製氷会社なんかなかったんでしょうか。 河盛 なかったようですね。それから親不知を通って直江津で東京行の汽車に乗りかえるわけですが、上野へは朝早く着きました。宮城へはきっと行ったはずですが、おぼえているのは三越だけです。あの時分三越は畳敷きでした。クツにはカバーをかけました。帰るときにカバーをはずすのを忘れて、とび出して下足番に叱られました。 井伏 そら、叱られるわ。 河盛 大正五年です。その翌年にこられたわけですね、あなたは。 井伏 そうです。そのころは、郊外の道なんか、野良道が発達したものですから、四ツ角でなくて三ツ角が多かった。そこにたいていお地蔵さんがありました。 河盛 その時分、東京にどなたかお知り合いがあったんですか。 井伏 ないのです。ぼくの村から理工科へ来てる人に紹介されて、学校のすぐ前の下宿屋に入りました。学校では例の早稲田騒動が起こっているときでした。尾崎(士郎)君が「人生劇場」に書いている騒動です。 河盛 島村抱月さんは……。 井伏 もうやめてた。 河盛 劇団をやっている時分ですね。 井伏 そうです。僕が大正六年に京都へスケッチ旅行に出るまえ、福山に抱月さんの劇団が来ました。そのとき松井須磨子のカチューシャ見ましたよ。大黒座という芝居小屋でやった。そのときのポスターが、よほど後まで福山の友だちの家の風呂場にかけてありました。沢田正二郎がネフリュードフです。ぼくはそれをほしかったんですが、空襲で焼けちゃいました。はじめぼくは須磨子をみて、あまり感心しなかったなあ。なんか、ペンキ画のような気がして。 河盛 芝居は。 井伏 カチューシャですよ。須磨子の「生ける屍」は東京へ来てから見ましたがね。それから須磨子が、有島武郎さんの「死と其の前後」を神楽坂の芸術座でやった。震災の何年か前ですか、それは相当よかったようでした。僕らの同級生に川口君というのがいましたが、その学生が松井須磨子をよく知っていましてね。楽屋へいこうというので、ついて行きますと、須磨子は和服を着て、きちんとすわっていましたが、ふとっているから膝がこんなに厚い感じだったな。川口君が、今日の芝居、ひじょうに感銘ふかく拝見したといったら「ありがとうございます」といいました。世間では、あばずれだっていうけれど、おとなしい感じの奥さんふうに見えたなあ。それが須磨子を見た最初で最後です。その楽屋で死んだんでしょう。わりあい地味に見える着物を着て、大きな柄だけど地味な感じの着物。 河盛 田舎者の、野性的な……。 井伏 都会ふうではないが、おとなしい女性のようでした。それも芝居かな。抱月さんはいませんでした。 河盛 死んでからですか。 井伏 いや、まだ、だと思ったな。死んでからかな。 河盛 抱月さんはスペイン感冒で死んだんでしょう。僕の中学校二年のときだから、大正六年ですね。 井伏 戸板康二さんが須磨子のことを芝居に書きましたね、その芝居で、あの日のところを見ました。紀伊国屋のホールで。あの芝居は事実どおりだということですね。 河盛 「カチューシャ可愛や」は、小学校六年生ぐらいのときにはやりました。全国津々浦々まで。中学に入ってからは「行こか戻ろか……」だった。 井伏 僕が中学校の寄宿舎にいるとき、野球の選手がよその学校に試合にいって、おぼえてきて流行らせました。ぼくはあの歌、きらいでした。 河盛 カチューシャ、ですか。 井伏 ええ、不良性があると思ったな(笑)。 河盛 これは、恐れ入りました。しかし、その時分の東京はよかったでしょうね。 井伏 ちょうど欧州大戦で、成り金ができたころです。下宿は四畳半で、洋間ふうで、食事がついて七円五十銭でした。学校の近くで。それから少しずつ上がって、二十何円ぐらい。それが当分は横這いでしたね。それでも、僕は小づかいが足りなかった。 河盛 僕ら高等学校へ入ったのは大正九年ですけれども、その時分の下宿は月三十五円ぐらいですね。 井伏 京都は贅沢なもの食わすから。 河盛 いやいや……三十五円は上等のほうで、二十円ぐらいからありましたね。 井伏 それは大正七、八年でしょう。 河盛 九年ですよ。三十円前後ですね。 井伏 東京もだいたいそうでしたでしょう。牛込鶴巻町あたりの魚屋なんか、下宿屋用は魚がべつなんです。しもた屋へ持って来るのとちがってるんだ。下宿屋のものばかり食べてたら、誰だって栄養失調になる。 河盛 井伏さんはお酒をのみ出したのはいつごろからです。 井伏 大震災後、田中貢太郎さんのところへ出入りするようになってから。僕が文学青年やつれしてたころ。 河盛 学校を卒業してからですね。 井伏 学校を止してからです。飲まなきゃ俗物だといわれるので、飲まなくてはしようがない(笑)。どうしても飲まされた。田中さんは小説を書くときでも、作中人物に酒を飲ませなくては、筆がはかどらないというのです。河盛さん、このごろからでしょう。 河盛 そんなことないですよ。あなたとつき合うようになってからです。井伏さんが飲まなきゃ俗物だというから。 井伏 まさか、そんな(笑)。終戦直後三年目ぐらいかな。座談会などしたあと、サヨナラするとき「ちょっと、飲みませんか」「いや、あす学校があるから」さっさと帰っちゃう。こっちはよけい飲みたくなる。 河盛 でも、井伏さんの酒量が衰えないのは、たいへんなものですね。 井伏 わたしは浮世の義理で飲んでるんです(笑)。 河盛 いや、義理がたいことで。 井伏 旅行といえば、河盛さんの西洋行きは何年ごろ……。 河盛 僕が西洋へ行ったのは昭和三年ですね、最初は。一九二八年。 井伏 ずいぶん早いな。好況から不況にかわるころ。僕が荻窪に定住したあくる年だ。 河盛 ようやくフランスが戦争の痛手から回復したときですね。ヒトラーがそろそろ頭を持ち上げだしたとき。 井伏 一フラン三十五銭ぐらいじゃないですか。 河盛 いや、もっと安いですよ。フランが平価切下げがあって、金解禁して、やっと平常にもどったときでした。十一銭ぐらいじゃないですか、一フラン。 井伏 そんなでしたか。丸善が三十五銭でしたよ。 河盛 それはだいぶまえですよ。三十五銭というのが、だいぶ長くつづきましたね。あなたの仏文の学生時分でしょう。 井伏 いや、僕はフランス語の本は買わなかったが、友人がそういってました。 河盛 三十五銭がずっと長くつづきました。 井伏 月給や原稿料とちがって、物価の横這いというのは悪くないですね。 河盛 フランスは十九世紀中ほとんど物価が上がらなかったといわれます。 井伏 政治がいいんだな。日本の米が、ひところの明治はそうでしょう。ときどき変動があるが。 河盛 物価の変動の少ない、昔のほうが暮らしよかったわけですね。これは伊藤整君の説ですが、昔は東京で下宿して、下宿料を半年ぐらい滞らしても、追い立てをくったりしなかった。 井伏 中島直人なんか下宿料を三年ためました。一文も払わないで、とうとうアメリカへ行きましたが。 河盛 つまり、昔は東京というパトロンがあったから、田舎から出てきても一文なしでも暮らせたんだと伊藤君がいうんです。 井伏 鶴巻町の下宿屋なんか、三十人、三十何人もいるでしょう。毎月、二人夜逃げする人を計算に入れてるそうでした。それが払うやつにかかってくる(笑)。僕は下宿料払ったけれど。 河盛 それはそうでしょう。宇野浩二さんは夜逃げしたそうです。 井伏 夜逃げしたといえば、僕は中学校時代に同級だった慶応の学生と、二人で素人下宿にいましたが、その家の人が夜逃げしたんです(笑)。僕は引越しするといったんだが、こういうときに見捨てちゃいかんと、慶応の学生がいうんですね(笑)。 河盛 それで? 井伏 それで、近所の店に迷彩をほどこすために炭を買ってくる。一俵買うと邪魔だから、少し買ってきて、帚やハタキなど買って来る。近所にカモフラージュするのです。そうして、あくる日ぐらいに引っ越しです。田端の崖上にある空家に泊まることにして、そこでトラックの荷を下ろして一泊し、あくる日、べつのトラックよんできて、中根岸へ逃げました。 河盛 そうすると、いっしょに夜逃げしたわけですか。 井伏 いっしょにトラックで逃げたんです、真夜中ちょっとまえに(笑)。 田端で別のトラックに荷物をつみかえました。夜逃げはつらいものですね。めんどくさくて。しかし、僕の友人は律義な男ですから、僕もそれに便乗し、ちゃんと家主の面目を保ってやりました。その友人は今も健在です。 河盛 新しく逃げた家でまた下宿するわけですか。 井伏 そうです。引越しやつれで学校へ行くどころじゃない(笑)。 河盛 義理固かったわけですね。 井伏 それが義理固いから、僕だけよそへ行くわけにはいかないでしょう。その道へさそわれたわけ。家主は日光のほうの人で、米の現物相場をする人。米俵にサシを刺すとき、あの刺す音で何等米かわかるといってました。その奥さん、きれいな人でね。 河盛 それでいっしょに逃げたんじゃないんですか。 井伏 いや、ちゃんとした人でしたよ。僕らが学校から帰ってくると、りっぱな茶器でお茶を立ててくれるんです。それが、だんだん落ちぶれてきて、着物は着たきりですから、“裏長屋の九条武子姫”という仇名を近所の人がつけました。世の中が不況な上に、ご亭主さんがヘマをしたんですね。奥さんは、着物はヨレヨレでも、いいものを着てましたよ。村松梢風さんが着てたようなものを着てた。小紋染めというのかな。そのころ、僕たちは、貧乏して裏長屋へ住まなければ小説書けないといっていましてね、妙なセンチメンタリズムでした。 河盛 貧乏して、病気で、女に苦労する。これをやらなければ小説は書けない。 井伏 苦労な上に、かならず失恋しなければならない。 河盛 ではこれで。 (昭和四十八年八月、『潮』)   文学七十年 河盛 私はあなたにはしょっちゅうお目にかかってお話を伺っていますが、公の場所で対談をするのは、以前、あなたの『人と人影』という随筆集が出たときに、解説代りに対談(「『山椒魚』まで」)して以来ですね。あれは当時、なかなか好評でした。 井伏 その前ラジオの座談会のとき会いました。 河盛 そのほか三、四回ありましたが、『人と人影』のときがいちばんまとまっていました。郷里のお話を聞いたときです。 井伏 そうそう。永井(龍男)君が……。 河盛 そう、一緒に加茂村の近くを汽車で通った話ね。 井伏 あれは覚えている。 河盛 それからNHKのラジオ対談(「緑蔭対談」)で録音したのが僕のところにあります。三十分ぐらいですが、これは僕が死んだときお通夜の晩に流してもらおうと思っています(笑)。 井伏 それはどうせ僕が死んだ後だな。 河盛 いや、残念ながら、僕のほうがお先きに失礼します。ところで、今日は何の話から始めたらいいのでしょうか。 井伏 あれを話してください、ロンドンに行った話。 河盛 それはあとで話しますが、それよりも今日は井伏さんからいろいろお話を聞かなくちゃいけないので……。 今度、永田書房から『定本「夜ふけと梅の花」』が出ましたね。 井伏 ええ。 河盛 それで、ひさしぶりに拝見したんですが、あの本には思い出があるんです。僕は昭和五年の秋にフランスから帰り、初めて東京へ出て、それ以来ずっと東京にいるわけですが、或る晩、神楽坂を散歩していたら、本屋に新興芸術派叢書というのが並んでいて、そのなかに『夜ふけと梅の花』というのがあるんです。僕はそれまで井伏鱒二という作家は知らなかったんですが、『夜ふけと梅の花』という題に引きつけられて買って帰り大いに感心しました。それ以来、僕はあなたの愛読者なんです。ですからあれは私にとってとても懐かしい本なんです。 井伏 あの頃お宅は僕の北側の裏ですね。 河盛 いや、その時はまだ荻窪に行ってません。昭和五年には神楽坂の下に下宿していました。 井伏 ああそうですか。 河盛 それでよく神楽坂を散歩したわけですが、もう五十年以上も昔の話ですね。 井伏 あそこの家を僕はいっぺん訪ねたことがありますね、お宅に。 河盛 あれは荻窪に行ってからでしょう。 井伏 いや、清水町時代。 河盛 清水町時代? ああ、片山敏彦君の家の側にいた時分ですね。そんなことがありましたかね。私は昭和九年の春に清水町の、四面道の側に行きました。 今の天沼に来たのは昭和十五年です。清水町に行ったときはほんとにお近くでしたから、あのときに初めてお伺いしたのじゃなかったかと思います。 井伏 何かのことで僕は行っているんだけれどもね。 河盛 あなたのすぐ近くに、片山敏彦君の家がありましてね。片山君とはよく会ったものだから……。 井伏 僕が家を建てる頃、片山さんがもう建てていて、その頃なにが来ていた、倉田百三。 河盛 そう、友達でしたね。 井伏 それで初めて知ったんだ。一緒にその頃建てた、本望さんという右隣の人が、あれは倉田百三だと教えてくれたから、それで気がついた。 河盛 倉田百三さんは片山君とあまり年が違わないんですかね。倉田さんのほうが上でしょう。 井伏 上です。妹さんから手紙が来て、片山さんの知り合いだったということを、妹さんが教えてくれたんです。 河盛 百三の妹でしょう、菊池(寛)さんが一高を退学になった事件の原因になったのは。菊池さんは友人の罪を背負って退学になったのですが、その友人というのは……。 井伏 そうそう、南アメリカへ行った人ですよ。 河盛 佐野碩ですか。いや、あれじゃなしに、佐野文男です。その佐野が百三の妹とランデブーするのに着てゆくマントがない。それで友達のマントを無断借用していって、しかもそれを質屋に入れた。当時佐野と非常に親しかった菊池さんがその罪をひっかぶって退学になるんです。その妹さんですね、あなたに手紙をよこしたというのは。 井伏 ああ、そうですか。 河盛 (片山は明治三十一年生まれ、倉田は明治二十四年生まれである。後記) 井伏 僕は知らなかったけれども、田舎で大きな山椒魚が路上を歩いてたんで、それを捕えたと。その手紙をもらった。長い手紙でした。ハンザキ(オオサンショウウオ)が捕まったという話。 河盛 それは誰の手紙ですか。 井伏 倉田百三の妹さんという人。それで初めて知った。 河盛 お会いになったことありますか。 井伏 会ったことはない。何か大きなのがとれたらしいですよ。 河盛 それで話は元に戻りますが、『夜ふけと梅の花』のなかに「岬の風景」というのがある。あれは色っぽい小説ですね(笑)。 井伏 そうですか。それは恥ずかしいがわからなかった。 河盛 ドキドキしますよ、読んでいると。こういうふうな恋愛場面はその後のあなたの作品にあんまりないんじゃないですか。 井伏 ないですね。 河盛 初々しい小説ですね。いつ頃のものかな。 井伏 まだ学生だった頃でしょう。 河盛 大正十五年……。 井伏 発表したのはその頃ですね。 河盛 年月不明とありますから、書かれたのはそれ以前ですね。 それから「休憩時間」というのがあるでしょう。 井伏 あれは覚えてる。あれは『新青年』に書いた。 河盛 そのようですね。この早稲田大学の教室は今でも残っていますか。 井伏 あの教室が今は下井草のほうの早稲田高等学院の運動場の脱衣場かなんかになっている。移築してこさえたんですね。最初にできた早稲田の校舎らしいですよ。坪内(逍遥)さんや島村(抱月)さんなんかが講義していた。 河盛 こういう由緒ある教室は、外国の大学ならちゃんと後まで残しておきますがね。 井伏 外国ならあまり壊さないから。 河盛 早稲田大学英文科の歴史を誰か書いておかなくちゃいけませんね。小沼丹君なんか適任じゃないかと思うけれども。 井伏 うん……。 河盛 井伏さんは仏文科に入られたわけでしょう。 井伏 青木(南八)が入るから真似て入ったんです。 河盛 それだけですか。ほかに何か動機がありませんでしたか。 井伏 青木が入るから、同じ教室にいたいから入ったんです。フランス語をしようという気持はなかったんですよ。 河盛 フランス語面白かったですか。 井伏 面白くなかった。 河盛 先生は誰でしたか。 井伏 最初は安藤忠義さんという人がやった。そのうちに辰野(隆)さん。それから吉江(喬松)さんが帰ってきて……。その前は英文科でした。 河盛 そうするとフランス語の手ほどきは安藤さんがやられたわけですか。 井伏 安藤忠義という人。荻窪に自宅がありました。会津八一さんの弟子の安藤更生のお父さん。 河盛 ああそうですか。どういう方なんですか、その安藤さんというのは。 井伏 非常に粋な人でした。 河盛 どこでフランス語を勉強されたんでしょう。 井伏 フランスへ行った人で、よく当時のいろんなフランス語を訳した人がいますね。非常によくできた人。その人の弟子です。何とかという人で、桂太郎なんかについて行ったりした人だそうですよ。その人の子分の人、政治のほうに関係している人じゃないかと思うのですけれどもね。名前は僕は度忘れした。いろんな翻訳をしている人ですよ。尾崎紅葉の代訳とか……。 河盛 長田秋濤じゃありませんか。 井伏 長田秋濤。長田秋濤の弟子だ。 河盛 それならわかります。 井伏 長田秋濤の名前はよく聞いた。 河盛 僕らがフランス語を習った先生は、だいたい由緒ある人が多かったですね。 辰野先生が習ったフランス語の先生は、辰野さんが小説を読んでいると、そういう人情本を読んだらいかんと言って叱られたそうです。 井伏 辰野さんは、最初の日に安藤さんと並行に講義を始めた。吉江さんがいないから、吉江さんの代わりに出たんですが、最初の時間、いきなり厚い本を読み出した、滔々と。どうも聞いたことがあるようだと思ったら、鴎外の「即興詩人」を日本語で読んだんです。 河盛 それはどういうわけなんでしょう。 井伏 その後辰野さんに会って、『随筆サンケイ』の座談会のときに、なぜ読んだんですかと僕が聞いたら、支度もしてないしするから、体裁が悪いから読んだと言いました。本当は、どういうわけか知らないけれども……。 河盛 アガッたんでしょうな、先生も。それからこれはあなたに伺ったんだけれども、ヴィクトル・ユゴーの「イル・ネージュ」(雪降りしきる)ですか。あれを読んだそうですね、辰野さんが。 井伏 いきなり読んだ。最初日本語を読んだあとに、その次の週かなんかに、いきなり読んだのは「イル・ネージュ」です。 河盛 ナポレオンがモスコーから退却するのを歌った有名な詩ですね。 井伏 ええ。 河盛 ところで、「夜ふけと梅の花」をひさしぶりに読んで、僕が強く感じたことは、実に表現や文体に苦心していられることですね。これまでの文壇小説とは違った言い方、書き方をしようと苦心惨憺してられることが非常によくわかりますね。 井伏 どうしていいかわからなかったから、翻訳調にしてみたりなんかしたり、それから田舎弁で会話をしてみたり、いろいろ苦労していじり回していた。 河盛 あの時分に一緒にものを書きはじめたあなたの仲間たちは、みんなそうでしたか。 井伏 みんな朗読するんですね、お互いに。発表するところがないですから。それで朗読する。学校の先生も二、三人そばにいまして、朗読して、それを先生も聞くんです。先生が批評して、こっぴどくやられると、さっと飛び出して行って、バーへ行って飲んできて、そのまま学校をやめた人がある。 河盛 それでは、朗読のうまいやつが得みたいですね。 井伏 そうなんです。上手な人は、アクビするときなんか、自分でわざとアクビして、アクビしたと読むわけです。そういう人はいいんですね。 河盛 なるほど。同級生はほとんど小説家志望でしたか。 井伏 ええ。八割が小説家志望。二割は演劇志望。舞台監督するとか、それから劇作家になるとか。 河盛 俳優になるというのは……。 井伏 それはなかったな。俳優は僕らの下の友田恭助なんかいましたがね。 河盛 あなたは演劇志望はなかったですか。 井伏 うん、それはなかった。何書いていいやらわからないから、手探りばかりしてた。 河盛 あの時分、井伏さんたちの世代の人が、最も影響を受けた文壇作家というのは誰ですか。 井伏 志賀(直哉)さんはあんまり知らなかったんです。田舎にいるときには小説読んじゃいけないというから、読まなかった。中学校出ると読んでもいい。志賀さんを初めて読んだのは予科二年生のとき。 河盛 それは大正何年ぐらいになりますかな。 井伏 大正末年。 河盛 大正末年ね……。 井伏 非常に感心してね。「謙作の追憶」だったかな。 河盛 『暗夜行路』の序章ですね。 井伏 序章ね。あれはよかったな。 河盛 あの時代の志賀さんの書かれたものはよかったですね。 井伏 よかった。ほんとよかった。うん。 河盛 実際目を洗われるような気持でしたね。 井伏 ええ。志賀さんの名前、全然知らなかったしね。『白樺』という雑誌なんか田舎の本屋に来てませんでしたからね。 河盛 尾崎一雄さんも志賀さんを初めて読んでびっくりしたところが、仲間はみんな知っていたということを書いていますね。 井伏 尾崎君は得をした。いきなり志賀さんに入ったから……。 芝居を志望する人が多かったのは、坪内(逍遥)さんの影響もあったでしょうね。 河盛 そうでしょうね。島村(抱月)さんがおられたし……。 井伏 島村さんはやめてました。島村さんが学校へ帰ってくればいいとは思っていたけれども、一向に帰らないでぽっくり死んだしね。僕なんか本科二年か三年になったときだ。 河盛 あれは流行性感冒ですから、欧州戦争がすんだ年じゃありませんかね。大正四、五年ですね。 小説を書き出すときには、何か人とは違ったものを書かなくちゃならんとは、誰もの思うことですが、そのときのお手本というのは、井伏さんの場合は誰だったんでしょうか。 井伏 それはとにかく盲滅法に書いていたな。自然主義と反対のことを。翻訳調にしたり。 河盛 あの時分は鴎外の『諸国物語』ですか、あれをみんな読んだと言いますね。 井伏 あれはみんな読みましたね。 河盛 そうらしいですね。佐藤春夫さんもそうでしょう。 井伏 そうそう。佐藤さんは、これ一つ読めばもう読むものはないなと言って、谷崎(潤一郎)もこれで勉強したんだって言ったそうですよ。案外、新しい作品も訳していますしね。 河盛 そうでしたね。堀口大学さんの『月下の一群』は日本の若い詩人に非常に影響を与えたわけですけれども、あれに匹敵するのは、小説のほうでは『諸国物語』かもしれませんね。 井伏 そうかもわからない。 河盛 あれは今読んだって面白いですものね。 井伏 外国人のものよりは、日本人のものを僕は読みたかった。書いている調子も親しみがあったし。 河盛 自然主義の三大家、藤村、白鳥、秋声はいかがですか。あの人たちからも影響を受けられたですか。 井伏 僕はそうでもなかった……文壇へ出ている人は、文壇へ出ている人として尊重してましたよ。マーケット・プライスというものを尊敬していたから。間違いであったかもわからないが、先輩を非常に尊敬したから。 河盛 そうでしょうね、あの時分は。 井伏 目白台の素人下宿から早稲田に通ってくるのに、毎朝、幼稚園の女の子がいるんです、二人姉妹で。それを誰言うともなく、あれは夏目漱石の娘だと聞いた。それで二人が通るところは遠慮して通っていた。毎朝見るんで。 あとから聞いたら、早稲田の商学部長かなんかの娘さんだった。何だと思ったね(笑)。 河盛 この間僕はバルセロナで堀田善衛君に会いましてね。堀田君は立派なマンションに住んでいるんですよ。あの人はゴヤを書いているので、スペインでも大事にされているんです。バルセロナでは、日本の偉い小説家だというんで、堀田君が外を歩くと、小学生なんかがマエストロと言ってお辞儀するそうです。こんなことは、鎌倉の小林(秀雄)さんにも永井さんにもないでしょう、と言ってましたよ(笑)。 井伏 スペインはそうなんですか。 河盛 今でもスペインはそうらしいですよ。日本の文壇も当時はスペイン並みだったわけですな。 井伏 ああ……。 河盛 だから作家というよりも、文壇の大家として尊敬していたわけなんですね。 私が以前から伺いたいと思っていたのは、あなたが最初に大家の先輩の家に行かれたのは岩野泡鳴でしょう。どうして岩野泡鳴に……。 井伏 あれは三年上級で、僕の田舎の人でしたが、その人と同じ下宿にいたから。それで泡鳴さんを紹介してやろうと言われて、月評会というのに行きました。女の人が三人と、あと年寄の人もいました。いろんな風変りな人がたくさんいましたよ。 河盛 どういう人ですか、岩野泡鳴というのは。 井伏 例の生長の家の大将、谷口雅春、山羊鬚はやしたやせた人。その人と、それから医学博士で羽太鋭二、あの人がいました。それから……江部鴨村……。 河盛 女流作家はいなかったですか。 井伏 女流作家はいましたよ。黒い羽織を着て……縮緬の黒い羽織が当時はやった、それを着た人、いましたよ。作家としての名前は僕なんか知らなかった。 河盛 それは井伏さんの学生時代ですか。 井伏 ええ。本科一年生のとき。 河盛 あの時分、泡鳴は詩も書いていたでしょう。 井伏 詩を書いていた。それから一元描写論を唱えて、みんなと論戦やってましたね。 河盛 そうそう。一元描写論というのがありましたね。 井伏 それに凝ってたときは、学問したことのないような人のことを書くときには、だんだん描写までまずくならなければいけないって言うんです(笑)。そういうふうに凝ってたですよ。 彼は本をたくさん持っていて、本箱に本をいっぱい持っているというふうに書いた人がいたんです。月評会に来ている人がそれを指摘したんです。そうしたら、いや、これはいけないというので、本をたくさん入れた箱をたくさん持っていたと書かなければいけない。そう書き直すように言いました。その人はすぐ直してました。 河盛 魅力のあった人ですか。 井伏 優しい人だったな、僕には。論敵の人にはうんと言ってましたがね、大きな声で。誰かと戦っていなければいけない人らしい。 河盛 大学生までが自分のところに来ることを喜んだのじゃないですか。 井伏 喜んだかもしれない。 河盛 と思いますね。 井伏 クリスマスに写真を写すときにね、カナリヤの籠が傍にあると、それをはずして工夫してくれましたね、自分も写るときに。 河盛 泡鳴というと、われわれのゼネレーションの人間は、アーサー・シモンズの『表象主義の文学運動』の翻訳を思い出します。 井伏 ああ、あれはもう訳していた。 河盛 あれは今から見れば目茶苦茶な翻訳だけれども、ずいぶん影響を与えたものらしいですね。 井伏 そうらしいな。 河盛 ちょうどみんなが象徴主義的なものを模索しておった時代だからじゃないでしょうか。 井伏 あの影響でスペインの旅行記なんかも読んだりしましたね。 河盛 シモンズのね。 井伏 ところどころ覚えているようなところがある。学校でシモンズやりましたからね。 河盛 ああ、なるほどね。 井伏 吉田絃二郎さんが、アルルの町というのをやったし……。 河盛 大正二年ですものね、『表象主義の文学運動』が出たのは。 あの本は巻末にランボオとかヴェルレーヌなんかの訳詩も載っているでしょう。その訳詩がまた面白いですね。 井伏 ヴェルレーヌなんかベルレンと言う。それからボドレル。ああいうふうな訳。 河盛 そうそう。マラルメもあるしね。メーテルリンク。 井伏 あのフランス語は、英語はうまかったのだけれども、大杉栄から習った。 河盛 大杉栄というのは幼年学校でフランス語やって……だから三好(達治)君と同じですね。 井伏 そうらしい。 河盛 非常にできたそうですね、あの人のフランス語は。大杉栄が日本を脱出して、パリへ着いたら、ちょうどメーデーなんです。彼は早速労働者街へ行ってアジ演説をやって投獄されます。こんなことは、よほどフランス語ができるのでなければありえないことです。 井伏 そうでしょうね。三好と一緒のクラスの人で阿野さんというのは僕の隊長でした。宣伝部の隊長で、中佐でした。陸大出た人で騎兵中佐。しかし騎兵隊がなくなったものだから、普通の歩兵に入って、宣伝班の隊長してた。シンガポールが陥落してすぐのときなんか、僕の部屋に十一時になると遊びに来て、パンツ一つの素っ裸になって、少年兵にウイスキーを持ってこさせて飲んでた。僕はジョニーウォーカーをずいぶん御馳走になった。三好君の話をしたり、大杉の話をしたり。大杉のことをよく話していました。同じクラスかどうか知らないけれども、上のほうじゃないですか。 河盛 そうでしょうね、大杉のほうが。泡鳴はこのほか、大正四年に『悪魔主義の思想と文芸』という本を出していますが、これには「泥棒殺人詩人ギヨンの一生」とか「パルナソス派のテオフィルガウチェ」とか、「ルコントドリルとフロベル」とか、「悪魔主義本尊としてのボドレル」という論文などがのっています。 井伏 河上(徹太郎)と小林(秀雄)が高等学校のとき、二人でこのサンボリズムの勉強するのは岩野さんのでやったんです。英文でなしに、だそうです。 河盛 僕もこの本を買ったことを覚えています。尤も僕が買ったのは後年ですが。 井伏さんがサンボリズムに興味を持ち出したのは、この頃からですか。 井伏 これですよ。それから絵はカンジンスキー。 河盛 カンジンスキー、これは表現派ですな。絵のほうがさらに新しかったわけですね。 井伏 最初は表現主義でした、油絵で「雪」なんか描いた頃は。ドイツかなんかに行っていた。ロシア人ですか、あれは。 河盛 そうです。のちにドイツに、次にフランスに帰化します。 井伏 最近の絵で立体派的になっているのは、パリへ行った安岡(章太郎)君が買ってきてくれた。それを持っているんです、僕は。 河盛 四、五年前に回顧展覧会をやってましたよ、パリで。 井伏 そうですか。だんだんわからなくなってきたな、こういうのが。 河盛 つまり井伏さんの時代の文学青年は、いかにして自然主義文学から逃れるべきかということに苦心したのですか。 井伏 それがタコの足に捕まったようになってしまったな、僕は。脱却できなかった。それと左翼運動、これはどうしても駄目だった。舟橋君なんかと紀伊国屋書店から出した『文芸都市』に入る前には、元の同人は全部共産党になってます。 河盛 そうでしたね。 井伏 一人や二人が党員になってない。 河盛 僕は日本で左翼運動が猖獗をきわめていた時代は日本にいなかったんですよ。昭和三年、四年、五年と。 井伏 つまり亡命したんだな(笑)。 河盛 亡命なんて気の利いたものではなく、何も知らなかったのです。だから全然その影響を受けなかったことは、今から考えてみるとよしあしでしたね。 井伏 よかったですね。 河盛 僕はいつか今(日出海)君に、僕はマルクスというものを読んだことがないから、何も知らないんだと言ったら、ダメじゃないかと言うから、君は読んだことあるのかと言ったら、いや俺も読んでないと言ってましたけれどね。 井伏 小林秀雄が蝙蝠座の芝居の応援をしていたときに、池谷信三郎宅へ行く道で神楽坂を歩いていて、俺、マルクスを読むんだと言っているんですね。それで、いいところがあったらアンダーラインを引いておいてくれって言った。そうしたら、馬鹿野郎と言って、怒られたけれどもね(笑)。 河盛 その話は面白いですね。 井伏 あいつ怒ったな。 河盛 それで井伏さんは読まにゃいかんと思って「資本論」を読みかけたけれども、文学のことが一つも書いてないのでやめたという話も面白い(笑)。 井伏 ほんと、あれはむずかしい。これは最高だと言えばよかったんだと思うな、早く言えば。 河盛 全く、あの時分は大変でしたね。僕が大学を卒業した年か、その次の年でしたね。京大学生事件が起こって、林(房雄)君なんか捕まったのは。 井伏 そうそう。女に金を払ったんでしょう、あれは。 河盛 よく知りませんが、本当に服役して刑務所に入ったのは俺だけだと言ってました。 井伏 刑務所を出るときに、小林が迎えに行ったら、俺のしたことが悪かったかなと、一人で言うんだって。あいつはボヤキながらまだ気がつかない、俺のしたことが悪かったかなと言って、それだけしかわからないんだって言ってた。 河盛 なるほど。そのとき、迎えに行ったのは自分だけで、以前の左翼の仲間は一人も来ていなかったと小林君が言ってました。 井伏 そのあと新宿で……新宿は少し月日がたってからだが、林が自分の生まれた村の小学校の校長さんと飲んで回っていた。それで、ここで飲もうよと林君に言ったら、ここは青野(季吉)さんが来るから、怖くて駄目だって。大丈夫だ、青野さんは足を折ってからは、ここからこっちに絶対こないんだから大丈夫、俺、責任を持つと言って飲んでたら、青野さんが入って来た。困ったね。 そうしたら、林がさっと立って、青野さんがまっすぐに来て、二人が論戦。 河盛 あれは死ぬまでそうでしたね。 井伏 そうして、青野さんがかなり林君をやっつけたら、小学校の校長さんが立って、ポケットに手を入れ、腕を振って演説やりましたよ、左翼運動のような演説を。林先生においては、絶対にそういうことはないと弁護していました。青野さんはそれを聞いていましたが、僕に向って、君はこういう人とつき合うのかと怒りました。相当しゃべる演説ですよ。 河盛 それは戦後ですか。 井伏 戦後。ハモニカ横丁の頃。ハモニカ横丁のほうに行けばよかったのに、反対側の二幸裏に行ったから。あれはまずかったね。 河盛 ところで、あなたは『文学界』の同人だったでしょう。 井伏 ええ、ええ。僕はあとから入ったんです。 河盛 あの『文学界』の編集会議でも、よく林と青野さんとやったそうですな。 井伏 そうです。それで青野さんは別れたんです。その前は宇野(浩二)さんや広津(和郎)さんがいた。 河盛 宇野さんや広津さんと言えば、あなたが早稲田の学生時分には、もう宇野さんや広津さんの名前は知られておりましたか。 井伏 僕が二年か三年の頃、広津さんが新聞に連載小説を書きました。その前は『中央公論』に正宗白鳥の紹介で出した中篇、それはすごかったですよ。 河盛 広津さんですか。 井伏 ええ。また一方、谷崎(精二)さんは、豊島与志雄さんと同じころに出て、ああいったずっと変らない小説を書きましたね。 河盛 文壇に出たのは谷崎さんのほうが早かったですね。 井伏 早かった。 河盛 僕は中学生の時分に谷崎さんの小説を『早稲田文学』で読んだ覚えがあります。夜、アルバイトに発電所に行く。そういう小説がありましたね。 井伏 そうそう。 河盛 僕はあの頃の谷崎精二さんの小説は好きでした。 井伏 あれはよかったな。 河盛 学校ではお習いにならなかったですか、精二さんには。 井伏 習わない。 河盛 あの人は秀才で、卒業するなりすぐ、早稲田の先生になったのじゃないんですか。 井伏 いや、大震災のときにはまだ先生になっていなかった。日夏(耿之介)さんが先生になって、その次ぐらいに谷崎さんがなったですよ。その頃の谷崎さんの教え子は小沼君です。初期の教え子。 河盛 早稲田のときの先生で非常に印象に残っているのは、坪内さんですか。 井伏 坪内さん、それから吉田絃二郎さん。たまに随筆書くと、吉田さんは講義する前に一時間か半時間くらい、その随筆に書いたことをしゃべる。そのおしゃべりがとてもよかった。感激させたですね。あの人は内ヶ崎作三郎さんの関係で、副牧師で、「牧師」という小説もあるけれども、牧師をやっていて内ヶ崎さんが牧師なものですから、それで早稲田に入れたんですね。僕なんかとても吉田さんの講義が好きだった。 河盛 吉田さんのものは、われわれも中学生時代に愛読しましたね。 井伏 随筆がよかったね。 河盛 新潮社のドル箱だったのでしょう。 井伏 ドル箱だった、ええ。親交があったのは新潮社の佐藤さんの下の妹婿。 河盛 中根駒十郎さん。あの方はずいぶん吉田さんに努められましたね。 井伏 あの人と晩年まで仲よかった。吉田さんの書いたものをずいぶんあの人は持っているらしい。 河盛 そうらしいですね。原稿もほとんどあそこにあるっていいます。それから手紙なんかね。 井伏 どうもそうらしい。僕も手紙を二幅、吉田さんの書いたものを表装してかけていました。 河盛 『小鳥の来る日』という随筆集があったですね。 井伏 『梅の咲くころ』もあった。 河盛 『小鳥の来る日』は僕も愛読したな。 井伏 その読者は堀辰雄の読者になりました。 河盛 そうですね。今から思えば、哲学者で随筆を書く、串田孫一さんと同じような人気のあった人ですね。 井伏 あの人もそうだ。いいな。 新潮社の若い社員は、中根駒十郎さんと言っても、誰だろうって知らないんだ。中根さんも淋しかったろうな。 河盛 中根駒十郎さんというのは、僕が新潮社におったとき、あの方に向って、たとえばこの間、長与(善郎)さんにお会いしたら、中根君によろしくと言ってられましたよと言うと、そうですかと言って、丁寧にお辞儀されるのですが、それがあたかも長与さん自身に対するようなお辞儀の仕方でしたよ。 井伏 中根駒十郎さんや佐藤義亮さんは僕たちに会ってくれない。人で会うのは広津さんまで。会うと金貸せと言うから。そういうこと以外に用事ないんだもの(笑)。駄目。だから僕らの年齢で会った人ないんです、一人も。 河盛 これはいつか書いたことがありますが、広津さんが『女の一生』を翻訳して、すぐ発禁になったことがありますね。 それからしばらくして中根さんが広津さんのところへ来て、先生の『女の一生』を新潮社から出させてくれませんかというんです。それで広津さんが、いや、あれは発禁だから駄目だよと言ったら、いや、内務省の検閲課に行って、どういうところが悪いか聞いて、それを伏字にして、もし許されたら出させてくれますかと言う。それで、君の思うようにしろと言ったら、ちゃんと出版の許可を取ってきた。あの時分は翻訳は印税でなくて全部買い取りです。新潮社は『女の一生』を百円かで買い取りました。 ところがこれが猛烈に売れたんですね。広津さんはそんなことを知らないわけですよ、ところが或る日神楽坂の本屋で何気なく『女の一生』を取り上げてみると、何十版と重版しているんですね。そこで広津さんはすぐ新潮社へ行って、佐藤義亮さんに会い、あれは買い取りだから自分には何の権利もないが、あんなに売れているなら、少しは色をつけたらどうかと言うと、義亮さんが、いや、実は私のほうもそう思っていたところです、と言って二百円か三百円かくれたそうです。 そのうちに例の円本全集の合戦が始まったとき、新潮社にはそれまでに買い取った翻訳がたくさんあったので、すぐに『世界文学全集』五十巻の計画ができ上ったのです。しかも、それが大当りを取ったので、こんどもまた広津さんが新潮社に出かけて、たとえ買い取りでもこんどは多少の印税を出すべきじゃないかと交渉して、それが実現したんだそうです。これは広津さんから直接伺った話ですが、小説にも書いてられます。 いずれはそうなったんでしょうが、最初に翻訳にも印税を払わなくちゃならんということを主張して実現したのは広津さんだということをわれわれは知っておくべきでしょう。 井伏 買い切りというのがあったですね。一枚五十銭とか。僕は昔、小説を書き始める頃、それをやりました、一枚幾らというのを。一枚五十銭だったな、僕は。 河盛 五十銭ならいいほうじゃないんですか。 井伏 三十銭のは、佐々木金之助という人の名前で書いている。二つばかりやりましたね。 河盛 あの時分、アカギ叢書というのがあったでしょう。 井伏 それは東大の卒業生たちがしていた。そういう先生に僕は中学生のとき習いました。 河盛 また島村抱月が監修で、実業之日本社から、梗概文庫みたいなものが出ています。鴎外先生が推せん文を書いて、梗概を馬鹿にしちゃいかんと言っています。その文庫にはいろいろありましたよ。正宗白鳥の「オデュッセイ」とか。 井伏 正宗さんがあのことを昔の話に書いている。ごく初期でしょう、あれは。 河盛 僕はあれで、ゾラの「パリ」を読んだ覚えがあります。 梗概を書くのは、論文を書くよりむずかしいですよ。大学なんか学生に卒業論文を書かせるより、日本にまだ翻訳されていないちゃんとした大作の梗概を書かせたほうがいいと僕は思っています。 井伏 梗概だけ書いている辞書がありますよ。山本有三の秘書をしている……。 河盛 高橋健二さんですか。 井伏 いや、そうじゃなく……。 河盛 吉田甲子太郎さんですか。 井伏 いや、キネさんでなく、阪中正夫の友達で酒ばかり飲んでいるのが、辞書だけ見て筋書を書いていたら、山本有三が怒ってやめさせられちゃった。職にありつけなくなった。たしかに梗概だけの辞書がある。 河盛 鴎外も梗概をたくさん書いていますね。あの人は梗概博士と言われたほどでしょう。「シラノ・ド・ベルジュラック」の詳しい梗概もありますね。あれを読んで辰野さんは「シラノ・ド・ベルジュラック」を翻訳する気を起したんでしょう。 井伏 ああ、いいなあ、あの訳は。 河盛 うまい訳ですね。 井伏 楽しそうだな、あの訳は。 河盛 あの時分、外国の二流作家でずいぶん読まれたのがありますね。 井伏 何か模倣するには二流作家がいいというな。 河盛 ロシアの文学にはいろいろあるでしょう。ザイツェフだとか……。 井伏 ええ。あれもまたいいな。 河盛 それからアルチバーセフとか、ガルシンとか、彼らはみなそうですね。 井伏 ガルシン、そうだ。 河盛 二流作家と言えば、今あなたのおっしゃるように、模倣するのにいいためか、荷風がやっていますね。荷風はフランスの自然主義文学時代の二流作家のものを相当読んでいますね。いつか僕は、古本屋で「荷風書屋」と判が押してあるフランスの小説を十冊ばかり買ったことがあります。絵入の文庫本です。当時の有名な作家ですけれども、フローベールとかゾラといった偉いのじゃないんです。二流もしくは三流作家なんです。たくさんいますね、あの時分。アンリ・ラウダンとか、オクターヴ・ミルボーとか。そういう人たちの小説なんです。荷風はああいう作家のものを相当に読んで、材料を取ってきたんじゃないかと思いますね。 井伏 筋が面白いからな。 河盛 なるほど、二流作家を模倣するというのは面白いですね。 井伏 僕たちの時代の人でそういうことを言っている人がありましたよ、その人はもう亡くなったけれども。事実それをやっていましたね。それで成功していたわけなんですね。 新潮社で思い出したが、宇高(伸一)さんの『ナナ』は売れたらしいな。 河盛 あのシリーズ覚えていますよ。『赤と黒』なんかあのシリーズで初めて出たわけでしょう。あれは佐々木孝丸さんの訳です。今から見れば問題の多い翻訳ですが、あれで僕は最初に『赤と黒』を読んだのです。 井伏 そうですか。僕はそれは読んでない。 河盛 新潮社は翻訳でもって産をなした出版社ですね。これは僕は佐藤義亮さんの卓見によるのだと思います。むかしの翻訳は学校の先生の手によるものが多いのですが、彼らがいちばん恐れたのは誤訳指摘ということなんです。それをやられたら、立つ瀬がないわけで、下手をすると教職を棒にふることにもなりかねない。そのために翻訳が実に堅くなる。語学的に正しいかもしれないけれども読みづらい。 井伏 直すのは加藤武雄さんなんか直したのじゃないですか。 河盛 そうかもしれません。ところが義亮さんは、誤訳があってもかまわない。読んでわかるような翻訳を出したい。ちゃんとした日本語になった訳を出したいと考えたのです。それでもってエルテル叢書を始めたわけでしょう。秦豊吉の『エルテルの悩み』などは相当にひどいものだそうですけれども、われわれは楽しんで読んだですものね。『カルメン』でも『マノン・レスコー』でもそうですね。読んで分るということが第一ですよ。だから世界文学全集が出たときにも、義亮さんは全部校正で読んだそうです。そしてわからないところがあるとすぐ訳者に原文に当って貰う。たいていこちらの誤訳だったと山内義雄さんが言ってられました。山内さんは『モンテ・クリスト伯』を一日八十枚ぐらい訳したそうです。 井伏 わからないところは誤訳が多いといえば、僕の訳した本について、東京の子供はこういう訳ではどうかと質問してくるんです。意味のわからんところは誤訳と思ってくださいと返答した。そうしたら、あとよこさなくなった。 河盛 翻訳を読んでわからないところは全部誤訳だと思って間違いないですね。 井伏 東京の子供は英語がうまいから、誤訳を見つけて来る。学問させられる(笑)。 河盛 井伏さんは、外国文学ではロシア文学ですか、いちばん影響を受けられたのは。 井伏 僕は初め図書館で徳田秋声訳の『大尉の娘』を読んで感激してね。 河盛 ああ、プーシキンの。徳田さんにそんな訳があるんですか。 井伏 感激して、こんなものがあるのかと驚いてね。こんないいものがあるとはね。あれが文学を僕に勧めたようなものです。あれはいいね。構成もいいし。 河盛 そういうことは今までお書きになったことないのじゃないですか。初めて伺いますね、僕は。 井伏 そうですね。あれには驚いた。図書館を出てからもいい気持でした。読んだ、勉強したなという感じで、いい気持だった。 河盛 ゴシップによれば、井伏さんが『戦争と平和』を読みあげたとき、さあ、矢でも鉄砲でも持ってこい、誰が来ても怖くないぞと言ったという話ですが(笑)。 井伏 いや、そんなこと言わないけれどもね。あれを読むと自分が八年か何年か生活した知恵がつくそうですね、そういうことをロシア人が言ったとかいうんだ。あれは最初にアンドレイ公爵の夫人が出てくるところがある。最初の書出しに。あれだけの大作家があんな退屈な文章を書くはずがないと思う。自分ふうに書き直したほうがいいと思う。それを僕はやろうかと思うが、もう間に合わないような気がする。年取ったから。 河盛 話が変りますが、あなたに「雨のいろいろ」という随筆がありますね。そのなかに「都に雨の降るごとく」で始まるヴェルレーヌの有名な「雨の歌」のことが出てきて、あなたの友人の中山鏡夫という詩人が、あの雨は、静かに降りそそぐパリの夏の雨だと思うといっていたが、どう思うかということを僕に問い合わされたことが出ています。そのとき僕は、あれはパリの夏の雨ではなくて、ロンドンの十月頃の雨だということになっている。その根拠は、一八七二年十月にヴェルレーヌがロンドンからパリの細君に送った手紙のなかに、「雨が降っている。残念ながら、お前にはよく分らないある種の心を引き裂くような雨が降っている」という文句が見出されるからだと、あなたにお答えしたことが記されています。ところがあの詩の中に、「恋も憎しみもないのに自分の心はかくも悲しい」という文句がありますね。しかし当時は彼が細君から離婚訴訟を起されていて、妻のマチルドを烈しく恋いかつ憎んでいた時代です。もし一八七二年十月に書かれたとすればそうなります。したがって、そんなときに恋も憎しみもない、というような詩を書くはずはないという説のあることを最近僕は読みました。そうなると、この雨は必ずしもロンドンの十月の雨とは断定できないことになります。 したがってパリの夏の雨だというあなたの友人の説も頭から否定できないわけです。このことをあなたに報告しようと思いながら、今まで機会がありませんでした。 ヴェルレーヌは一生涯別れた細君に、未練がありました。大へんな恋女房でしたから、それまでは身持ちも悪く、大酒飲みだった彼も、結婚してからは家庭生活を大事にして、役所からも早く帰るし、飲酒も慎むというふうでした。 ところがそのうちに普仏戦争が始まって、フランスが敗北します。パリはプロシャ軍に囲まれて、国民軍兵士になったヴェルレーヌも夜は歩哨に立たなければならなくなる。十月頃まではまだよかったが、だんだん寒くなってくると、歩哨がすんで帰る途中、居酒屋に寄って一杯飲まずにはいられない。そのために結婚と同時に慎んでいた飲酒癖が、また戻ってくる。酒に酔うと彼は前後の見境がつかなくなるんですな。そのために、細君に乱暴したり土足のままベッドに寝たりする。それが細君の両親の家なんですね。ヴェルレーヌの母親は別の家で暮らしています。細君は我慢に我慢を重ねていますが、だんだんひどくなる。 井伏 友達はどうしたんですか。何にも言わないんですか。 河盛 細君は両親にもそれをかくしているので、友達は知らないわけですよ。それでいて、酔いが醒めると細君に謝るのです。なにしろ恋女房だし、子供も生まれています。 そのうちにアルチュール・ランボオが居候するようになると、彼の乱行は、ますますひどくなる。ランボオには家を出て貰いますが、こんどはランボオとつるんで家を外にして飲みまわる。細君に対する乱暴もひどくなり、生命の危険を感じるまでになった。全く目茶苦茶なんですよ。 井伏 それで、堀口(大学)さんの裁判官のおじいさんが、そんなものを勉強に来たって駄目だと言って怒ったそうですね。 河盛 そうだそうですね。しようがない詩人だったわけですね。細君のたっての願いにも拘らずどうしてもランボオと別れることができないので、結局細君を捨ててベルギーに行くわけです。彼がフランスから逃げ出したもう一つの理由は、パリ・コンミューンに参加していたので、警察の追及を恐れたこともあります。 井伏 しかし政治と関係があるというのは、偉いな(笑)。これは偉いわ。 河盛 そしてブリュッセルから、ロンドンへ渡るわけです。というのは、ロンドンにはコンミューンの残党、以前の同志がいたからです。 ロンドンではフランス語を教えたりして、窮乏生活を送りますが、そのうちにランボオはヴェルレーヌに飽きちゃうんですね。愛想をつかしたと言ってもよい。そしてひとりで、フランスに帰っちゃいます。ヴェルレーヌは彼なしではいられないので、その後を追っかけてブリュッセルに行き、よりを戻してくれと懇願するわけですね。 井伏 情けないね(笑)。 河盛 しかしどうしてもきいてくれないので、ランボオをピストルで撃ち、捕まって監獄に入れられるのは御存じの通りです。そのときの裁判の書記をしていたのが、堀口大学さんの継母のお父さんなんですね。 井伏 あれはしようがない男だと言っていた。それは怒るのが普通だ。 河盛 監獄には二年おります。ベルギーのモンスという町にあります。僕はこの町に行ったことがありますが監獄は見ませんでした。静かないい町です。その監獄では、彼は改宗して、「知恵」という詩集を書くわけですね。河上君の訳した「叡知」です。 彼の服役中に、離婚の判決が下り、出獄した翌年の一八七五年一月二日にそれが確認されます。二月に彼はパリに行き夫婦和解を試みますが成功しません。それで彼は再び三月二十日にロンドンに行くことになります。三十一歳です。今度はロンドンで仕事を見つけなくちゃならない。 イギリスのリンカーン州にボストンという町があります。ロンドンから二百キロぐらい北のほうにある町ですが、そこの近くに、スティックニーという村がある。人口六百ぐらいの小さい村で、そこのグラマー・スクールに口のあることが分った。彼は三月末にそこの教師になります。グラマー・スクールというのはラテン語の初歩を教える学校ですが、彼はラテン語を教えたのでしょうか。もっともヴェルレーヌでも、ボードレールでも、ランボオでも、ラテン語ができたんですね。日本で言えば漢文がよく読めたというようなものですね。とくにボードレールやランボオはよくできたらしいです。ヴェルレーヌはそれとデッサンを受け持っています。ヴェルレーヌは絵はうまかったですからね。 井伏 ふうん。絵もね。 河盛 非常にいい教師だったらしいですね。そこに一年ほどおって、お母さんを呼び寄せたりしていますが、彼はそれから一度フランスへ帰って、一八七九年にもう一ぺん、今度は教え子で寵愛していたリュシアン・レティノワという美少年をつれて出かけます。しかしごく短期間です。 そのスティックニーという町を僕はいっぺん見たいと思っていました。しかし、あんな辺鄙な町は、誰か日本人で知っている人がいなければ、案内してくれません。ところが幸いなことに僕の甥が今年(一九八四年)の三月から細君と二人でロンドンにおり、ぜひ遊びに来てくれというので、連れて行って貰うことにしました。ボストンはアメリカのボストンのルーツです。そこから移民した連中がアメリカのボストンをつくったのですね。 そのイギリスのボストンという町は、汽車で行きますと、急行でロンドンから二時間ぐらいかかります。 井伏 ずいぶんかかるね。 河盛 バスでしたら、正午に出て、夕方の四時か五時頃につきます。バスのほうがずっと安いというので、甥夫婦と一緒に九月七日に出かけました。日帰りはできそうにないので、宿屋があるのかとききますと、ホテルを予約してあるといいます。ちゃんとした町で、イギリスで一番高いという塔をもった教会があります。ボストンには五時頃に着き、町はずれの奇麗なホテルに泊まりました。相当に寒くてベッドには電気毛布が入っていました。明くる日はタクシーを雇って十時前に出かけました。十四、五キロのところですから、すぐに行けるわけです。運転手にその村にはグラマー・スクールがあるかと聞くと、小学校ならあると言うんです。 井伏 あ、まだ残っているんですか。 河盛 そうらしいのです。それはよかったというので、その学校の前に車をとめますと、折り悪いことに土曜日で、門がぴたりと締まっているんです。人影が全くないんです。イギリスでは部屋の窓にカーテンを閉めないところが多いので、往来に面した教室を端のほうから覗いて行きますと、教室のなかがまる見えなんです。机の上にいろんなものが置いてあります。 順々に見ていって、いちばん端まで来ますと、その最後の教室の壁にヴェルレーヌの肖像がかかっています。 井伏 ふーん……。 河盛 しめたと思いましたね。この学校がグラマー・スクールに違いないことがわかって、実に嬉しかったです。その肖像というのは、ファンタン・ラトゥールの有名な「食卓の一隅」のなかのヴェルレーヌなんです。ランボオと並んでテーブルの、端っこに坐っているあの肖像なんです。その彼の部分だけを切りとって、額に入れてあるんです。 この群像を描くときにも、ランボオなどと同席するのはいやだと言って、最初ファンタン・ラトゥールが一緒に描くつもりだったある詩人が断ったという話があります。それほどランボオはみなにいやがられたんですね。 教室の中に入りたいのは山々ですが、誰一人もいないでしょう。窓ガラスを破るわけにも行きませんし、写真は撮りましたけれども。そうこうしておりますうちに、学校の横にある立派な教会の横の墓地に、中年の女の人が二人いて、珍しそうにこちらを見ているのに気がつきました。そこで早速甥が聞いてくれました。 彼女たちはヴェルレーヌのことを知っているんですね。彼がこの学校の先生だったことも、その教会の向い側にある校長さんの家にしばらく厄介になって、それから近くの家に下宿していたことなどみな知っているんです。その通りなんです。私の読んだ伝記にちゃんとそう書いてあるんです。彼女たちは校長さんの名前までちゃんと知っていました。アンドリューというんですが。 井伏 いいなあ。教え子はいないんですか。 河盛 教え子はいない。もう百年ほど前のことですから。 井伏 ああ、もう死んでいるわけだな。 河盛 なにしろ小さな村で、家なんかも、ぽつぽつと並んでいるだけです。そこでヴェルレーヌが下宿していた家というのを訪ねることにしましたが、その家の門は固く閉まっています。ところが裏へ回りますと、ピアノ売りたしと書いてあるんです。で、その売りたいというピアノを見せてもらえませんかといって訪ねたら、戸を開けてくれるだろうと考えて門のベルを押しますと、すぐ奥からおかみさんが出てきて、ヴェルレーヌといったら、ヴェルレーヌなら隣の家だといって、すぐ連れていってくれました。 井伏 ああ、そう。 河盛 そうしたら、若いおかみさんが出てきて、そういうことを聞いているが、自分たちがこの家を買ったのは四年前で、ヴェルレーヌのことなど何も知らないといいます。結局応接間を見ただけで、出て来ましたが、大した家じゃありません。帰るとき、入口にヴェルレーヌ・ハウスと書いた小さな板がかかっているのに気がつきましたから、彼がその家に下宿していたことは確かなんでしょうね。そういうことです。 井伏 そうですか。それはいい話だな。 河盛 ですから、ヴェルレーヌのことをスティックニーの人たちが未だに覚えていることは確かですね。だからその頃のヴェルレーヌは幸福だったんじゃないですか。生活も安定して、ランボオとも手を切ったし。ただ細君に復縁して貰いたいということだけが彼の願いだったわけなんでしょう。 井伏 その頃だな、「巷の雨」は。 河盛 「巷の雨」はそうじゃなしに最初のロンドン時代です。 井伏 ああそうか。あれはいい唄だ。 河盛 あれを「都に雨の」としたのは、ロンドンの雨だというので、鈴木(信太郎)さんが「都に雨の」としたらしいのです。 井伏 鈴木さんが「都に雨」だ。タウンだからな、あれは。 河盛 西条八十の「都に雨の降る夜は」という流行歌もこの詩の焼き直しですね。以前は全部「巷の雨」でした。 井伏 最初に「巷の雨の」と訳したのは柳虹だね。 河盛 そうかも知れません。 井伏 あの訳、いいと思うな。 河盛 僕は都というほど大袈裟なものでなくて、単に町ということだと思いますね。巷というのがいいんじゃないですか。 井伏 英語だとタウンだな。 河盛 タウンですね。 井伏 ヴェルレーヌを最初に読んだのは中学三年のとき。兄貴が買っていたから。ああいうようなことは田舎でもわかったんでしょうね。 河盛 僕たちが最初にヴェルレーヌを知ったのは上田敏の「秋の日のヴィオロンの」じゃないでしょうか。 井伏 それを僕は知らないんですよ。『海潮音』を。 河盛 あれは教科書にも載っていました。 井伏 そうですか。僕らはなかったもの。全然知らなかった。 河盛 日本に初めてヴェルレーヌを紹介したのは上田敏ですね。 井伏 そうですよ。 河盛 それが『海潮音』に、「いつもよく見る夢ながら」という詩と一緒に載ったのですね。 井伏 とてもいい訳かもわからないが、上田敏の文章になっていますね。同じ人の書いた歌のようになってしまうのでね。 河盛 そういうことですね。 井伏 堀口さんのもいい訳だろうが、使い分けることできないものでしょうか。みんなそうだな。 河盛 ヴェルレーヌの詩というのはむずかしいですよ、学校で教えてそう思いました。実にむずかしいと思いました。 井伏 そうでしょうね。 河盛 ところで『海燕』で中断されている「鞆ノ津日記」をまとめて拝見しましたが、あの続きはどうなりますか。 井伏 今度、僕は十枚書いてます。それで目を手術するが、手術が終ったら、今度二号目を書いて、そのときは再開一号目を出している。二十八日に手術するんです。 秀吉が名護屋に出陣するでしょう、博多の近くに。とても大袈裟な城をこさえるのです。みな誰も朝鮮出陣はいやなんですね。せっかく治まっている国ですから。だから加藤清正も福島正則も黙ってしまうんです、朝鮮出兵について。 そうすると、しばらくして、家康だけがそれは非常にいいことですと言う。それで秀吉が出兵にきめるんですが、あれはいけないね。 河盛 家康のおだてに乗ったわけですか。 井伏 そうなんです。すごい城をこさえているんです。伏見城や大阪城に似せて、奥の部屋があるような家もこさえて、すごい家をこさえている。ああいうことは当時の小瀬甫庵でも、あれはいけないと書いている。ちらっと書いている。また秀吉に弾圧されるから、秀吉の死んだあと書くんですけれどもね。みんな嫌ってたんです、朝鮮に出兵しようというのは。僕はそれを書こうと思う。 それは田舎の鞆ノ津で茶の湯の会をするときに、帰ってくるんだ。安国寺恵瓊が田舎の人と一緒に。そのときに茶の湯をする。その日のことを書く。恵瓊は一同が平気でいるのを見て、秀吉が非常に悪いということをいう。みな悪いと言わないんだ。茶の湯では人の悪口は言わないことになっているのだそうだ。だけれども、書こうと思う。あれはいけないことだ。みんな黙っているんだから。 河盛 茶の湯というのは大名を威すためにあんなにはやったんですか。 井伏 それはたいへんなものだったでしょう。陶器なんか高いんですね。南方でできる……ほんとは支那の南のほうでできるんだが、それを南方で薬なんか売る、それを日本でお茶を入れる大きな茶壺にするんですね。たいへんな値段になるんですね。残っているのを僕は初めて宇出津の宿で珍品堂に教えられて見た。ほとんど見れないですが、何でもない壺ですよ。 河盛 茶の湯のときに彼らは機密の話をしたんですか。 井伏 葉茶ですよ。葉茶をいれるんですよ。葉茶をいれて挽くんですよ。隣の部屋でゴーゴーと音をさせれば、それが御馳走になる。このくらい(三十センチ)の茶臼がありまして、それでこう挽くんですよ。隣の部屋で挽かせる。 河盛 しゃべってもわからない……。 井伏 みなそういうふうにするわけですね。上林家(文藝春秋社長の上林吾郎君の先祖)などで、極《ごく》を挽かせると書いているな、神谷宗湛なんか。いちばんいい極上を挽かせるのね。同じ葉茶でもいいやつを挽かせる。小早川隆景と宗湛が飲むときは極と書いていますね。 それから朝鮮の戦争の一日のことを書いて、これはどうもこういう戦争をするのはいけないということを書いて、それから秀吉が死んだときに局部的だが暴動が起こるんだ。船をつぶし沈める。その船は貿易によって南方のほうで稼いでいる。沈んでいる船から海揚りの品を買う人がいるんだ。その末孫の人に僕は会っている。他にもそういう人があるらしい。しかし最近にいう海揚りではない。 暴動のときは船ごと沈めるんだ。そのとき船長も殺す。他にも秀吉が死んだということで、いい気持になって暴動を起こすのがいる。大きく言って、その暴動は成功しないんだけれどもね。それでおしまいにしようと思う。面白くなかったかも知れない。 河盛 いや、面白いですよ。 井伏 ぼやっとした筋書だけれどもね。 河盛 コンポジションに骨を折ったものですね。なかなか手のこんだ小説です。 井伏 茶の湯でこさえたわけね、一つの歴史を。 河盛 この茶の湯に出てくる食べ物は原文にあるんですか。 井伏 いや、ボラの水炊きというのは冬でなければ駄目。それから黒鯛の刺身なんか、真冬でなければ駄目なんだ。四月になると駄目。そういうことは研究しているんだけれどもね。 河盛 この食べ物は今でも食べられる。おいしそうですね。 井伏 ボラでも真冬でなければいけないんだ、水炊きは。あれは食べたことがあるんだけれども、それを知らないような顔をして書かなくちゃ。この間僕に「鞆ノ津茶会日記」は食べ物が多すぎると言う人がいた。 河盛 僕もそう思いましたけれどもね。茶の湯にしては食べ物が御馳走だと。 井伏 多すぎるという(笑)。 河盛 そうですか。僕はまたこれは原文にそうあるのかと思った。 井伏 その頃咲かない花なんか書いたりしたら駄目だな。それも気をつけなければ。 河盛 そうでしょうね。 井伏 もっと時間があれば、もう少し長生きして楽しく書かなければいけないや。死ななければいけないというのがほんとにいやだよ、それは(笑)。どうも、ひょっとそれがかすめて来るんだ。 河盛 大丈夫ですよ。僕らは井伏さんはいちばん長命だと思っていますからね。 井伏 長生きするかなあ。何にも病気はしないんだけれども、腰が痛いのね。 河盛 そうですね。年をとるとどうしてもね。 井伏 そうね。寝たきりになるのもいいかもわからない(笑)。 河盛 いや、僕は寝たきりなんて御免だなあ。 井伏 僕のうちの女房なんか、僕が生きているのに飽き飽きしているのじゃないか。そう思う(笑)。 河盛 ちょっとヴェルレーヌのことをもう少し伺いたいんですけどね。 井伏さんが初めて読んだヴェルレーヌの詩というのは「巷に雨の降るごとく……」ですか。 井伏 うん。それはヴェルレーヌって知らなかったころです。かっちりした本で、このくらいの小型の。 河盛 あの川路柳虹の本、僕のところにあります。 井伏 そうですか。あれで読んだ。 河盛 それからあなたの小説に、南方に従軍して、日本へ帰るときに、飛行機を待つために、サイゴンかどこかにいる。晩に町を歩いていると、ストリートガールがうるさくつきまとうので、あなたは「巷に雨の降るごとく」をフランス語で言ったら、その淫売婦が逃げていった。ヴェルレーヌは偉大であるという(笑)のがありましたね。あれはどこに載っていましたかしら。 井伏 あれは村上(菊一郎)君が知っている、サイゴンのおしゃべり岬っていうところです。あそこは売笑婦が多い。デルタの一本の川岸に、おしゃべり岬のレストランがあるんです。そこの飲み屋に行ったんです。その晩です。菊さんがいるかと思ったら、菊さんはもう日本に帰って駄目。 河盛 それを私はあなたが書かれたもので読んだんですけれども。あれは随筆ですか、小説ですか。「花の町」ですか。 井伏 いや、「花の町」じゃないです。 河盛 随筆ですね。 井伏 随筆です。 河盛 あの随筆はどの本に入ってますかな。 井伏 僕は随筆はみな本当を書くんです。小説はうそを書くんです(笑)。 河盛 これは特筆大書しなくちゃ(笑)。 井伏 安岡君もそうだ。小説はうそを書く。だから小説は苦労するわけだ、随筆は本当を書けばいいんだから。 河盛 そうすると随筆集を探せばありますね。井伏さんの書かれたもので、全集にも出ていないものがいろいろありますからね。さっきの「雨のいろいろ」も全集に入ってないんです。やっと『ななかまど』のなかで見つけました。 井伏 おしゃべり岬を暇でしようがないから歩いていたら、ズックの靴をはいて、白いドレスを着た子が、ムッシュ・オテルという、フランス語で。そして、こうして指を出して二円と言うの。円は知っている。ピアストルじゃないんです。二円と言って、ムッシュ・オテル、二円と言う。日本人たちはホテルの部屋で洋服を脱いだり着たりしているのがたくさんいるんです。僕はおしゃべり岬のレストランへ行ったんです。そうするとフランス人がたくさん食事に来ている。そこへ女はついて来るんですよ。入って行くと、売笑婦は僕について来る。お嬢さん、あなたには用がないってことを、僕はフランス語で言えないんです。それで僕は、ノン・マドマゼール、と言うだけなんだけれども、女はついて来るんです。そして僕が料理を注文すると、僕の注文したのと同じものを頼む。そして料理が来ると、僕を真似て食べる。僕が払わなければならない。 僕が出ると、親分らしい売笑婦がいるんです。その親分らしいのと会ったとき、僕はヴェルレーヌを口ずさんだ。詩を一つ暗記しているから。イル プルール ダン モン クール コム イル プルー シュール ラ ヴィールと言ってやった。そうしたら売笑婦はスーッといなくなった。 河盛 ヴェルレーヌがおまじないになった(笑)。 井伏 ヴェルレーヌが女を走らせた。 河盛 ヴェルレーヌが売笑婦を走らすというのは大いなる逆説ですね。 (昭和六十年一月、『海燕』)   自選を終えて 河盛 こんどの『自選全集』十二巻の収録内容をカタログで拝見しましたが、ずいぶん思い切って傑作を切り捨てられたんですね。 井伏 傑作はないんです。読み直してみても。 河盛 「漂民宇三郎」などはあのまま収録されてもいいんじゃないかと思いますが……。 井伏 いや、いったん切り捨てたらだめなんだ……。 河盛 カタログの著者のことばに「もしこれが盆栽なら、鋏を入れなくてはならない枝だと思ふこともあり、太枝だが伐り落さなければいけないと思ふこともあつた。これが自分の体力を消耗させる元凶であると思ふこともあつた」とありますが、太枝は書く時にはずいぶん骨が折れたでしょうに。 井伏 しかし、体力を消耗させることもないだろうな。そんなの伐ったって(笑)。 河盛 この自選は何時ごろからお考えになったのですか? 井伏 筑摩の全集が出たとき。もう二十年以上も前……。 河盛 井伏さんは、雑誌に作品が出たとたんに、全集では落そうとお思いになるんではありませんか(笑)。だから単行本にまとめたいと名乗り出る出版社が現れても、なかなか許されない。連載されたままで、まだ単行本になっていないものがいろいろありますね。ぼくの愛読した「七本の白樺の木」。あれもそのままですね。 井伏 あれは後半、史実がわからなくなって書きかけのまま。 河盛 もったいないな。 井伏 突然、僕は投げてしまうんです。おもしろくなくなるんだね、途中で。 河盛 それから私は「花の町」という新聞連載を愛読していましたが。 井伏 あれは文藝春秋社から出ました。戦時中、徴用になった人たちを東京に残っている人たちはよく心配していたでしょう。ところが、徴用の人たちの方は結構呑気にやっているということを書いたわけです。 河盛 いわば戦場便りみたいなものですね。 井伏 あの中に中島健蔵が出てくるでしょう。あれなど「中島が演説してるよ」って一回分書いたんですが、その時はもうこっちに帰っていました。 河盛 こんどの全集の手直しで最も力点をおかれたのは何ですか? 井伏 まず、持って回った言い方のところですね。 河盛 若い時には持って回った表現が新しいと思うんですね。小説家のみならず評論家も。持って回った文章は力が弱まってくるし、それに年寄ってから読みかえすと、ばかなことに骨を折ったもんだ、これは若気の過ちだと自己嫌悪を感じる元凶になるんではないでしょうか。 井伏 そうかもしれない。 河盛 しかし、持って回ったことを言うと文学青年が喜ぶ。 井伏 ああいうのは流行があるんでしょう。 河盛 絶えず流行しているんじゃないですか。持って回りかたにいろいろ新しい工夫があるようですが。ファンのつく作家は大体みなそうですよ。逆に、持って回ったことを書かなかったのは菊池寛だった。 井伏 いい文章だったな、あの人は。 河盛 持って回った小説で、いま読んでも面白いのは宇野浩二ですね。あの人の持って回った表現は話術の面白さみたいなものですね。持って回りかたには、自分本位のものと、読者を楽しませようというのと、二つあるわけですが、宇野さんの場合は後の方でしょうね。だから入り易く読んで面白い。しかし大抵の場合は読者にはおかまいなしに何か自分を偉くみせようとか、格調高くみせようとかしています。 井伏 昔からそういうような傾向がありますね。しかし、あの人たちはボキャブラリーが豊富だな。 河盛 志賀さんも持って回った言いかたはしない人でした。しかし、「僕はボキャブラリーが少ない」と自分で言ってられました。 井伏 志賀さんのところへ、僕は正宗白鳥さんと行きました。僕の方が少し早めに行ったような記憶ですが、志賀さんは独りごとを言ってた。「正宗白鳥は文章しかないじゃないか」って。 河盛 僕も聞きました。「正宗白鳥というのはいろいろ人の悪口を言うけれども、文章はうまいね」と。 井伏 そうですか、僕には「文章しかない」と言った。 河盛 その次に力点をおかれたのは何でしょう。僕はテニヲハではないかと思いますが。いつか、お宅にお訪ねしたら、井伏さんは志賀さんの生《なま》原稿を御覧になっていましたね。 井伏 そう。あの時は、ある人からいただいた志賀さんの原稿が奇麗に表装が出来上ってきたので、一日中それとにらめっこしていました。 河盛 すぐに僕は何を御覧になっているんですかと伺うと、原稿の直しのところを見ている、テニヲハに苦心してられるとおっしゃった。 井伏 あれは勉強になった。志賀さんは三度くらい直してる。ちゃんと読み直してるんだな。 河盛 原稿を書くとすぐにはお渡しにならないで、机の引き出しに入れておいて、しばらくたってから、もう一度読み直し、手直ししてからようやく編集者にお渡しになったそうです。志賀さんは晩年は御自分の小型の全集をいつも座右において読み返し、手を入れてられたそうです。ですから、『志賀直哉全集』(死後、岩波書店から刊行された決定版)はその手直しされたものが底本になったときいています。晩年の河上徹太郎君もそうだったらしい。ある日、だれかが「先生はこのごろ何をしてられますか」って聞いたら、奥様が「本ばかり読んでいます。但し自分の書いた本ばかりです」とこたえられたというゴシップがあります。僕にはよく分りますね。年が寄ると、自分の昔書いたものをときどき読み返したくなりますね。 井伏 とにかく枚数をふやすためにフラフラ書いているようなところは削った。どうも、そういうところはいけない。 河盛 枝葉末節といったら語弊がありますが、そういうところに重点をおいて直された? それとも、盆栽のように全体をながめて、その姿を直された? 井伏 とにかく余計なところを取ろうとしたんです。 河盛 しかし、例えば「山椒魚」の最後のところの対話で終っているのを十数行ほど削られたそうですが、それはどういうことだったのですか? 井伏 どうしようもないものだもの。山椒魚の生活は。 河盛 それは、大変に決断を要することだったでしょうね。 井伏 ずいぶん迷ったですよ。 河盛 井伏さんは、小説を書いてられるときに途中で寄り道して遊ばれることがありますか? 井伏 ちゃんと書けばいいのに、楽しむというか……何かまじめになる気持を遊びで物書きしてしまう。ちょこちょこと。 河盛 その遊んでおられるところが、僕のような読者には非常に魅力的なんですが。そういえば、永井龍男さんが井伏さんの将棋を評して、井伏はいいかげんにもう詰めればいいのに詰めようとしない。遊んで楽しんでいるんだ。そのために勝っている将棋を詰め損なうことがあるといってましたが、小説を書いているときも遊びすぎて詰め損なうようなことがあるかもしれませんね。でも、井伏さんの文学の魅力は寄り道して遊んでいるところにもある。 井伏 僕は「駅前旅館」の中でも、結末のところで書きたい挿話があるのに、それを後にとっといて、途中は楽しんで余計なことを書いてしまっていた。心にもないようなことをね。それで、とっといた方は書けなくなってしまっていた。だから、今度その終りのところをみんな削ってしまって、結末を着けた。 河盛 新しく結末をお着けになったわけですか。 井伏 いや、前から着けてはいたんですが、とにかく余計なことばかり書いていたからね。 河盛 ところで、作家には、幾らでも書けるという時期があると思うのですが、井伏さんが最も脂がのって、何枚でも書けたというのは何時ごろだったですか? 井伏 戦前ですね。戦前は幾らか書けた。でも、今度はそういうところを削ることになりますね。 河盛 幾らでも書けるというのは、非常に大事なことだと思いますね。作家の一生のうちで、大事な時代で、その時期に彼のゆるぎのない骨組が形成されていくのではないでしょうか。 井伏 たくさん書ける時代があることはあったんですね。 河盛 後になってから読み返して、直すところがあるにしても、そういう一種のバイタリティというふうなものには手がつけられないんじゃないでしょうか。しかし、今度手直しされていても、もう手をつける必要はないという完成度の高い作品も、たくさんあったと思いますが。 井伏 短篇は、そう書き直さなかったですね。しかし、長いものはだめなんだ。僕はどうも長篇は下手くそだな。 河盛 新聞小説が一番失敗するとおっしゃっていますが、井伏さんの長篇小説は雑誌に連載されたものが多く、新聞連載は割合に少なかったのですね。 井伏 新聞に連載して、成功したためしがなかったんですよ。 河盛 それはどういうわけだったのですか? 井伏 どういうものか、堅くなるんだろうと思うんです。それに、なかなか題も決まらない。何を書こうかということもはっきり決まらない。だから前の日になって題を決めるようなことになる。堅くなるのは、成功しようと思うからでしょうね。 河盛 満都の子女の紅涙をしぼらせようと……(笑)。 井伏 正宗さんも新聞に書く時はよほどちゃんと計画して始めたようなんですが、題名はなかなか決まらなかったんですね。 河盛 正宗さんは、新聞小説には意欲を持ってられましたね。あれこそ作家の仕事だといって。つまり、新聞小説はあらゆる階級の人が読んでくれる媒体だと信じておられた。しかし、正宗さんも成功する自信はなかったようですね。注文がないのは自分には向いていないからだろうとおっしゃっていました。 井伏 あの人は非常に考え込むんだな。なんとかして今度は、大きないいものを書こうと思うんですね。『日本脱出』など、よほど大きなものをやろうと思ったんでしょうね。 河盛 空想小説でも書きたいと思ったんじゃないでしょうか、正宗流の。 井伏 正宗さんは細かい断簡零墨とか短篇がいい。僕はこのごろよく読んでいます、正宗さんの短篇を。 河盛 この間、司馬太郎さんに会ったら、井伏さんの作品を読むと意表を突かれることが多い、日本によくもこんな偉い作家が存在しているものだ、と言ってられました。 井伏 僕はあの人と電話で話したことがある。文藝春秋社の上林吾郎さんの先祖である上林家は宇治のお茶を家光のときからずっと毎年、江戸城へ持っていくんですが、そのときのいろんないきさつを聞いた。くわしく調べて話してくれたんですが、途中で僕の速記が間に合わなくなってしまった。僕はこっちの耳がよく聞こえないからこうして片方の耳で懸命に聞くんですが、間に合わなかった。 河盛 司馬さんのような人が井伏さんの作品に魅かれるのは、井伏さんの歴史観とか、例えば明治維新についてどのように考えているかとか、そういう興味ではないと思います。作家としての井伏さんの手腕に対してでしょう。井伏さんは歴史小説もお書きになるけれども、歴史上の人物を、何の先入観もなしに、現実の人間を見るのと同じ眼で見ることができるということ、それが偉い作家の目なんです。私たちには信長にしろ秀吉にしろ家康にしろ、自分の気のつかないうちに一種の先入観が出来上っている。ところが井伏さんは、彼らを何か町内のおやじさんみたいに見ておられる。井伏さんには歴史上の人物に敬意を払うようなことはあまりない。 井伏 僕はうそを書くのが歴史。必ずうそを書く。その人とおぼしきことでうそを書く。本当のことを書けばいいが、空想で本当らしいことを書く。もっと歴史のことをよく知ってなきゃいけないけれども、よく知らないもんだからいい加減に書くんだな。 河盛 歴史上の人物を知るというのは難しいことでしょう。結局なにか残っている記録みたいなもので空想し、造形していくしかない。 井伏 昔ある会場で、正宗さんにその相談をしたら、正宗さんは「うん、わかるもんか」って言った。あの人は結論を一言で言ってくれるからいい。正宗白鳥さんが食事のあとで、「君、苦労してるな」と言うから僕は正宗さんに相談した。「中世の言葉がわからない」って言ったら「うん、わかるもんか」って。また別の機会に、中世の言葉の権威だというので、寿岳文章さんのお嬢さんに聞いてみた。「おはようございます」はどう言ったのかと。そしたら、日本は農業の国だから農業に関係する言葉だった。それは「いよいよ朝ぼらけでおじゃる」というそうだ。そこで、次に「おやすみなさい」を聞いたら、結局はわからない。そのことをまた正宗さんに「わからないもんですね」と言ったら、正宗さん、即座に、「うん、わかるもんか」って(笑)。 河盛 私には、今までの長篇で、井伏さんが書きなぐったという印象の作品はありませんが……。 井伏 とにかく長篇は書きにくい。これからはちゃんと長篇を書けばしゃんとするかもわからないが、もう遅い、長篇は……。早く考え直せばよかったな……。 河盛 それから、こういうことはありましたか? なにかハイカラな言葉を使っていて、それが気になるというようなことが。 井伏 ありました。余計なことしてるな、やりつけないことをやってるなというようなところ。 河盛 しかし、書いているうちに、必然的にそういう言葉を使わなきゃならないことはあったんでしょうね。 井伏 ええ、ずい分苦労して使った。でも、それは余計なことだった。 河盛 以前、私は、井伏さんのお母さんが、すでに大家になってられた井伏さんに「お前、小説を書くときに字引を引いているかい」って言われたという話に、大変感銘をうけたことがあります。井伏さんには、大きくなってからも、庭訓《ていきん》があったみたいですね。 井伏 それは……。知恵おくれだからな、僕は……(笑)。 河盛 井伏さんは今年は米寿ですが、その老大家が、生涯の全作品に新しく眼を通して自分で納得のゆく自選全集を出されるということ——これは日本の、いや世界の文壇でも稀有のことだと思います。どの作品が削られ、また選ばれた作品にどんなふうに手が入っているかを見ることは私たちファンには大きな楽しみです。どうか井伏さんも楽しみながらおやり下さい。 井伏 早くやればよかったんだが、こんなにおくれちゃって。 (昭和六十年十月、『波』)   2 井伏鱒二小伝  井伏鱒二氏の人と文学について論じるに当って、まず氏の経歴について述べなくてはならないが、幸いに氏には自伝的随筆「〓肋集」(昭和十一年)と「半生記」(昭和四十五年)の二つの貴重な記録があるので、それを中心にして、井伏文学の理解に必要な事柄を述べておきたい。  井伏氏は明治三十一年(一八九八)二月十五日に広島県深安《ふかやす》郡加茂村粟根《あわね》八十九番邸(現在は加茂町粟根)に生れた。井伏家の先祖は嘉吉二年(一四四二)まで溯ることのできる旧家で、家号を「中ノ土居」といい、代々地主であった。この生家を昭和四十二年に訪問した安岡章太郎氏は次のように書いている。《建物はおそらく徳川末期のころのものが、そのまま残っているのだろうが、古い家にありがちな陰惨な影がすこしもなく、きわめて明るい感じがするのは、設計が合理的だからだろう。大きく、どっしりとはしているが、ムダな飾りや、威圧的な道具立ては全然ない。ひと口に言って、じつに豊かな、内福な暮らし向きを感じさせるお住まいだった。》  井伏氏は次男で、五歳のとき父君を失い、祖父と母堂の手で大切に育てられた。  この祖父は書画骨董を愛し、応挙、一蝶、竹田その他のコレクションを誇っていた。これらの蒐集品はすべてニセモノであったらしいが、井伏氏に書画骨董に親しませるのには役立ったにちがいない。  祖父にくらべて母堂のほうは井伏氏の教育にきびしかったようである。氏に、《私の母は八十六歳だが、まだ割合と達者である》という言葉で始まる「おふくろ」(昭和三十五年)という名随筆があるが、そのなかで氏と母堂は次のような問答を交わしている。 《「ますじ、お前、東京で小説を書いとるさうなが、何を見て書いとるんか」 「何を見て書いとるかと云つても、いろんな景色や川や山を見て、それから、歴史の本で見た話や、人に聞いた話や、自分の思ひついたことや、自分が世間で見たことや、そんなの書いとるんですがな」 「それでも、何かお手本を置いて書いとるんぢやなからうか」 「それは本を読めば読むほど、よい智慧が出るかもしれんが」 「字引も引かねばならんの。字を間違はんやうに書かんといけんが。字を間違つたら、さつぱりぢやの」》  このとき井伏氏はすでに六十二歳で、日本芸術院会員になったときであるが、母堂の庭訓がどのようなものであったかを推察することができよう。  氏の少年時代の経験で特筆しておくべきことは、十二歳のとき、夜半に強盗が現われて、井伏家の雨戸のそとから「明けろ、戸を明けろ」と怒鳴ったことである。「明けろ、明けろ」という口舌は後日まで井伏少年にとっては《幽霊のやうに気持が悪かつた。いづれにしても私の初めてきいた東京弁は、「戸を明けろ」とか「文句を云はねえで明けろ」といふ物騒な言葉である。したがつて東京弁に対する私の最初の印象は非常に感じが悪かつた。》  しかしそんなに感じの悪い東京弁でも、その後七年たって中学を卒業し、その年の八月に初めて上京するときには、《一日も早く東京弁を使ひこなせるやうになりたいと思つてゐた。》幸いにその東京行の汽車のなかでは、差向いの座席に東京弁を使う紳士がいたので、井伏氏はその人の口のききかたに注意し、《言葉の抑揚、助詞の「ね」の使ひかた、感動詞としてのそれの使ひかた、それの配置の仕方など、早く会得しようと心がけた。》  ところが東京駅に着いて降車口に出ると、客待ちの車夫が四、五人いて、そのなかの一人がいきなり《「旦那、参りませう。お安く参ります」》と威勢よく声をかけた。 《その歯切れのよさに私はびつくりした。同時に、今まで張りつめてゐた気持に水をかけられたやうな心地がした。この大東京では車夫馬丁でさへも歯切れのいい東京弁を使ふ。……私はその車夫の俥に乗つて、「東京弁のことなんぞ、もうどうだつてよい。蛙の子は蛙の子ぢや」と考へた。だが、豁然として悟つたといふやうな爽やかなものではない。しぶしぶながらさう思つた。》  この東京弁のエピソードは井伏文学を理解する上に重要である。氏はその後小説家となって作中人物に、初印象では《感じが悪かつた》東京弁をいろいろしゃべらせなければならなくなるが、そのために作家としての抵抗と苦心がいろいろあった筈である。言葉にとりわけ敏感な氏のような作家にあっては特にそうである。氏の作品には郷土や、そのほかのさまざまの地方の方言が実に巧みに、時としては深い親しみをもって使用されているのはこの東京弁との闘いを示すものであろう。  氏は名門福山中学に入学するが、学校の内庭に畳一枚ぶんほどの大きさの浅い池があり、そのなかに二疋の山椒魚が飼われてあった。《寄宿舎にゐた私は、どこかで雨蛙を見つけると、かまはず掴まへて来て山椒魚に食べさしてゐた。》これを見ると、氏は幼少の頃から生きものに興味を持ち、その生態を観察することを悦んだことがよく分る。氏の処女作「山椒魚」にはこのときの観察が生かされていることは言うまでもあるまい。 《私は中学三年ごろから、自分の志望を人に諮かれると画家になりたいと答へるやうになつた。絵が好きだから、そんな返事をするやうになつてゐただけで、画家として生きる決意を貫かうなどといふのとは違つてゐた。それにしても私の兄やお袋が、よくも私のぐうたらぶりを許したものだと思ふ。》  氏は大正六年三月福山中学校を卒業すると、四、五、六月にわたって、奈良、京都を写生旅行し、そのスケッチを持って京都の橋本関雪に入門を頼んだが断わられた。《その翌日、郷里に帰つた。京都で散々だつたことを兄に報告すると、画家にならうとするよりも、初めから兄が私に希望してゐた通り、小説家になる道を辿つた方がいいだらうと云つた。》《兄が私を小説家か詩人にしたいと思ひついたのは、いつごろのことであつたか私には思ひ当るところがない。中学時代の私の受持の先生に、お伺ひでも立てた上のことかもわからない。易を見てもらふやうなことはしなかつたらう。いづれにしても兄貴としては、出来の悪い舎弟が八方塞がりにならないうちに、どこか一つ息の出来る穴を確保さしてやりたいと思つてゐたのだらう。私自身にしても、さうさしてもらひたいといつたやうな気持であつた。》  その結果、その年の九月に早稲田大学予科一年に入学した。当時小説家になるには早稲田の文科を卒業するのが早道だと一般に考えられていた。それにしても小説家や詩人が異端視されていた当時、自分の弟に小説家になることをすすめたということは異例中の異例にぞくする。井伏氏には、小説家を志したために父兄と烈しい衝突をするということはなかったのである。氏は早稲田大学に通学するかたわら、大正十年には日本美術学校別格科に入学して、週に一、二度絵の勉強に通った。また戦後は新本燦根《にいもときらね》画伯の画室に通って油絵の勉強を始めたり、硲伊之助氏の指導で陶器を作ったりしている。これは氏の美術好きの根の深いことを物語るものである。これについては安岡章太郎氏は次のように書いているが、全く同感である。 《井伏氏が、文学よりも絵が好きだったというのは、その作品の傾向からみてもウナずける。『風貌・姿勢』その他、スケッチ風の人物論の無類のうまさや、魚や鳥や生きものの描写の的確さ、豊かさ、をみても井伏氏に写生の才能のあることはすぐわかる。とくに初期の短篇は、絵を文字でつづったものだと言えるぐらいだ。(中略)しかし井伏氏が文学よりも絵を好んだというのは、何よりも絵が手にとって見られるモノだからでもあるだろう。百姓が自分の収穫を掌に受けて眺めるように、仕事や作業の成果は一個の現物でないと気がすまないという、いわば即物的なリアリズムが井伏氏の資質の根本にありそうな気がする。自分の眼で見てたしかめたものだけしか信じないという現物主義が、井伏氏の心底には多分よほど頑固に根を張っている。》  井伏氏は大正十一年に事情があって早稲田大学を中途退学するが、この年の五月に無二の親友青木南八を喪っている。《私は今までに、たびたび青木南八のことを書いた。随筆や半自叙伝のほかに「青木南八」といふ題で思ひ出を書いたこともある。「鯉」といふ小品で、南八に対する感慨を一匹の鯉に托して書いたこともある。もう書きすぎるほど書いたので重複することしか書けなくなつた。学生時代の私を強く庇護してくれたのは南八だ。》青木の井伏氏に与えた影響は大きく、ルイ・フィリップの名を初めて氏に教えたのも青木であった。フィリップは氏の愛読する作家である。  井伏氏は早稲田を退学してからも大学の界隈を離れなかった。《私は学生時代の六年間、ときには例外もあるが殆ど早稲田界隈の下宿屋で暮し、学校を止してから後の四年間もこの界隈の下宿屋にゐた。したがつて青春時代の十年間、この界隈の町に縁があつた。云ひなほせば私は青春をこの辺のどぶのなかに置き忘れてしまつた。いまでもこの町の裏通りを歩いてゐると、見覚えのあるどぶのなかに自分の青春が落ちてゐるやうな気持がする。》しかし氏の初期の名作「屋根の上のサワン」や「夜ふけと梅の花」などはみなこの学生町を舞台にしており、このどぶのなかから大空いっぱいに立った壮麗な虹である。この日本のカルチェ・ラタンを抜きにして井伏文学は考えられない。  井伏氏はあり余るほど豊かな才能と資質に恵まれながら、文壇的にはきわめて不遇であった。処女作「山椒魚」が「幽閉」という題で同人雑誌『世紀』(大正十二年八月)に発表されたときも、ある評論家から「古くさい」という意味の短評で新聞の文芸欄で片づけられただけであった。井伏文学が正当な評価を受けたのは昭和六年二月号の『改造』に発表された「丹下氏邸」についての小林秀雄氏の批評が初めであった。  大正十二年の関東大震災を境にして左翼文学が擡頭し始め、大正末年から昭和初頭にかけてその旋風は文壇を吹きまくった。左翼にあらざれば文学者に非ずというような時代の風潮であった。《私が左翼的な作品を書かなかつたのは、時流に対して不貞腐れてゐたためではない。無器用なくせに気無精だから、イデオロギーのある作品は書かうにも書けるはずがなかつたのだ。生活上の斬新なイズムを創作上のイズムに取入れるには大きく人間的にも脱皮しなくてはならぬ。勇猛精進なくしては出来得ない。第一、私は「資本論」も読んでゐなかつた。未だに読んでゐない。》これは井伏氏の小説家としての態度、姿勢、心構えを知るための重要な言葉である。こんどの戦争では氏は陸軍の徴用を受け、シンガポールでつぶさに辛酸を嘗めたが、戦争に際しても平常心を決して失わなかった数少ない作家の一人である。このいかなる場合にも平常心を失わないのは井伏氏の特筆すべき特色であって、それが氏の作品を、永井龍男氏の言葉を借用すれば、《大黒柱も、厚い梁も、黒光りがしている》がっしりした建物たらしめている。《この主人は、他人の邪魔になるようなことは決してしなかったが、そのかわり自分の喜びや悲しみについて、余計な口をきかれることも好まなかった。大げさなことは、すべて嫌いだった。世間に事がなかったのではないが、激しい西風や北風が吹きまくっても、裏の林や竹藪まかせで、家のうちは静かなものだった》と永井氏は更に書いている。  以上で井伏文学を味わうための大切なポイントをあらまし述べたつもりであるが、これだけでは作家論の体を成していないと云う人があるかもしれない。しかし氏の作品を抽象的もしくは概念的な言葉で解説することはほとんど不可能なのである。そのような試みを氏の作品は一切拒否している。私たちのなしうることは、氏の個々の作品を取りあげて、それを隅々まで丁寧に味わい、その苦心の跡を辿り、その面白さを自分自身で会得する以外にはない。このところはこんな風に解釈するのだとか、この作品の面白さはここにあるのだとか教えて貰っても、一向に興が乗って来ないのが井伏文学である。しかし素直な心で、素直に読み、素直に味わう読者には、氏の作品は心ゆくまで語ってくれ、どこまでもつき合って楽しませてくれる。その資源の豊かさはおどろくばかりである。井伏文学を正しく理解するためには、誠実な生活者であるだけで充分であって、いかなる種類のさかしらも必要ではない。  また文学は結局文章に尽きることを教えてくれるのも井伏文学である。文章を味わい、楽しむことを知らない人には井伏文学は全く無縁であるといってよい。文章の名匠として聞えている永井龍男氏は書いている。《この頃の井伏さんの文章は、井伏という木の花のようなものであり、木の枝や樹皮のようなもので、井伏さんその人が文章をなしている。作者が大成して、人柄と作品が一つに結晶する例は、画家の場合にみられるようだが、文章家には稀なことだと思う。井伏さんが如何に文章を愛して生き抜いたかの証拠だと思う。》(昭和四十七年)最後に数多い井伏氏の短篇のなかで、私の選んだ極めつきの名作として、左の六編をあげて置く。これは井伏氏の同意をえたものである。「夜ふけと梅の花」「屋根の上のサワン」「へんろう宿」「白毛」「遙拝隊長」「開墾村の与作」。長篇としては「さざなみ軍記」と「黒い雨」の二つをあげておきたい。 (昭和四十九年二月、新潮文庫『黒い雨』・解説)   作品ノート  井伏鱒二という作家は、端倪すべからざるところを持っている、と言ったのは上林暁であるが、私も約四十年にわたる井伏さんの業績を見て、なんという豊かな天分に恵まれた、芸域の広い作家であろうと、今さらのように感歎を久しくした。  私は井伏文学の多年の愛読者であって、その断簡零墨をも珍重する人間であるから、冷静な批評眼を働かせて井伏文学の解説をするようなことはとうていできない。しかし井伏文学について語り始めたら倦むことを知らない者である。したがってこれから書くことは、解説とはずいぶん違ったものになるかと思うが、それはあらかじめ諒とされたい。  井伏さんの一ばん古い記憶は窪田さんといううちの老先生が亡くなって、伊十という子守の男に負ぶってもらってその葬式に参列したとき、《窪田さんのうちの庭さきには梅の花が咲き、或は桜の花であつたかもしれないが、花が咲きそろつてゐた》のを見たことだという。井伏さんは花卉草木や鳥獣をはなはだ愛し、またそれについて深い知識を持っているが、その萌芽がすでに幼少のときから現われているのを注意すべきである。  その窪田家には美しい姉妹がいて、あるとき井伏さんが乳母車にのせられて窪田家を訪問したとき、彼女たちはもっと遊んで行けと言ってなかなか帰してくれず、乳母車を押して行った男衆が隙をねらって逃げだすと、彼女たちも裏門からまわって井伏さんたちの行手に現われたので、井伏さんはとうとう泣き出してしまった。《私は恥かしさのあまりおそろしかつた。窪田さんのうちの人たちは、田舎の子供にとつては刺戟的な東京言葉をつかつたのにちがひない》と書かれている。これも面白い。井伏さんが幼少の時から言語感覚の鋭かったことを示している。  話は前後するが、井伏さんは明治三十一年二月十五日火曜日先勝の日に広島県深安郡加茂村に井伏郁太の次男として生まれた。兄と姉があった。本名は満寿二《ますじ》である。母堂は家附きの娘で、したがって厳父は養子である。大安とか仏滅というような生まれ日の吉凶はもとより迷信であるが、井伏さんの尊敬し、その影響を受けることの少なくない森鴎外も志賀直哉も先勝の日に生まれていることは興味がある。なお同じ年に生まれた作家に尾崎士郎、横光利一がある。  三好達治君はいつか、「井伏の文学には先祖の余徳のようなものがある。代々善根を積んだ旧家でなければ、あんな文学は生まれない」と言ったことがあるが、傾聴すべき意見である。  井伏さんは五歳の時に父君を失っているが、この人は、いまの言葉でいえばそのころの文学青年であった。しかし途中でいや気がさしたものか、この田舎に帰り、愛児の養育に没頭することになったのだという。《父はたいていは寝ころんで書物を読んでゐた。父の病気の原因は、鉄亜鈴のためであつた。その鉄亜鈴は東京の友人が送つてよこしたもので、説明書を参考に亜鈴体操をしてゐたのが健康を悪くする原因であつたといふ。当時、東京では鉄亜鈴が流行してゐたのにちがひない。父は東京で流行するものをすべて尊重してゐたやうである。東京で林檎を食べることが流行してゐるのを新聞か雑誌で見ると、さつそく郵便で林檎を売る店を問ひあはして東京に註文した。木箱に入れた林檎が送られて来て、私もそのとき初めて林檎といふものを食べることができた》と書かれている。  井伏さんは後年、このお父さんに夢で肩車に乗せてもらうことを書いた「肩車」という名随筆を書いている。 《父の死後、母は私たち兄弟に対してきびしくなつた。そして雑誌類を耽読し、ことに『女学世界』を耽読するやうになつた。その代り祖父が私たちを無闇に可愛がつてくれた。祖母はその中庸であつた。》この祖父はとくに井伏さんを可愛がったようである。また《祖父の主張によると、漢学を習はなくては人間が出来ないといふのである。》そのために井伏さんの兄さんは福山市の門田杉東先生に弟子入りをさせられていた。井伏さんは漢学が好きで、「三好(達治)の偉いのは漢文を勉強しているからだ」とよく言っていた。これは祖父さんの影響であろうか。  井伏さんは中学は、福山中学校に学んだ。福山市を中心にすると井伏さんと生家があまり離れていない福原麟太郎氏もこの中学の出身である。このお二人は《実に似たものがある。その見かけ以上の人情の深さ、必要以上のはにかみ性と、その結果受動的に鋭く働く感受性に至るまで》と河上徹太郎氏は書いている。私もまったく同感である。  井伏さんが上京して、早稲田大学の予科学生のとき、女子美術普通部の生徒に失恋して、その鬱積した気持を転換させるために、一カ月ばかり学校を欠席して木曽福島を旅行したことがあった。大正七年の秋である。《私は木曽に旅行して以来、旅行好きになつた。徹頭徹尾、旅行が好きになつた。その翌年の夏休みには、山陰道から隠岐の島に旅行した。その翌年の夏休みには日向に旅行した。その翌年の夏休みには近江、伊賀、志摩に旅行した。木曽に旅行した惰勢によるやうなものであつた。》  井伏さんのこの旅行好きはその後も嵩じるばかりで、井伏文学と旅とは切っても切れぬ深い関係がある。これについて太宰治が次のように書いている。《人間の一生は、旅である。……この旅にもまた、旅行上手というものと、旅行下手というものと両者が存するようである。……井伏さんは釣道具を肩にかついで旅行なされる。井伏さんが本心から釣が好きということについては、私にもいささか疑念があるのだが、旅行に釣竿をかついで出かけるということは、それは釣の名人というよりは、旅行の名人といった方が適切なのではなかろうかと考えている。  旅行は元来(人間の生活というものも、同じことだと思われるが)手持ち無沙汰なものである。朝から晩まで、温泉旅館のヴェランダの籐椅子に腰かけて、前方の山の紅葉を眺めてばかり暮すことの出来る人は、阿呆ではなかろうか。  何かしなければならぬ。  釣。  将棋。  そこに井伏さんの全霊が打ち込まれているのかどうだか、それは私にもわからないが、しかし、旅の姿として最高のもののように思われる。金銭の浪費がないばかりでなく、情熱の浪費もそこにない。井伏さんの文学が十年一日のごとく、その健在を保持している秘密の鍵も、その辺にあるらしく思われる。  旅行の上手な人は、生活においても絶対に敗れることはない。いわば、花札の「降りかた」を知っているのである。  旅行において、旅行下手の人の最も閉口するのは、目的地へ着くまでの乗物における時間であろう。すなわちそれは、数時間、人生から「降りて」いるのである。それに耐え切れず、車中でウイスキーを呑み、それでもこらえ切れず途中下車して、自身の力で動き廻ろうともがくのである。  けれども、いわゆる「旅行上手」の人は、その乗車時間を楽しむ、とまでは言えないかも知れないが、少なくとも、観念出来る。  この観念出来るということは、恐ろしいという言葉をつかってもいいくらいのたいした能力である。人はこの能力に戦慄することにおいて、はなはだ鈍である。  動きのあること。それは世のジャーナリストたちにしばしば好評をもって迎えられ、動きのないこと、その努力、それについては不感症ではなかろうかと思われるほど、盲目である。  重ねて言う。井伏さんは旅の名人である。目立たない旅をする。旅の服装も、お粗末である》云々。  さすがによく見ている。見事な井伏論である。井伏さんの作家的態度、もしくは人生に処する態度が、鮮かに捉えられている。河上徹太郎氏のつぎの言葉は、これと同じことを言っているのではあるまいか。いわく、《私が今度拾ひ読みして井伏の全作品について感じたことは、あへて誤解される危険を冒していへば、彼は「冷たい」作家だといふことである。これは彼が人間的に温かい人だとか、その文章の現実への肉薄ぶりが、直接鋭く切り込むのではなく、柔かく抱くやうな筆触であるのに対し、反対な表現のやうであるが、私はことさら異を立ててゐるのではない。私のいふ「冷たい」といふのは「冷酷」の「冷」ではなく、「冷厳」や「冷徹」の「冷」である。武田(泰淳)氏の例を借りれば、北斎は冷たい。あの冷たさである。》  大正末期から昭和初期にかけて猖獗を極めたプロレタリア文学の退潮の後を受けて擡頭した、いわゆる「新興芸術派」の一人として井伏鱒二が文壇に登場した、というのが昭和文学史の常識になっている。井伏さんの最初の作品集『夜ふけと梅の花』は「新興芸術派叢書」の一編として新潮社から刊行されたものである。この「新興芸術派」という呼称はきわめて便宜的な、曖昧なものであるが、それをこれまでにかつて見られなかった新しい文学という意味に解するならば、井伏文学はその新しさにおいて群を抜いていた。  処女作「山椒魚」が大正十二年に同人雑誌『世紀』に発表されたとき、当時、青森の中学一年生だった太宰治がそれを読んで「坐っておられなかったくらいに興奮した。……私は埋もれたる無名不遇の天才を発見したと思って興奮した」というのは、決して誇張の言葉と思われないほど、この作品は現在読んでも天才を感じさせる名作である。この処女作について井伏さんは伴俊彦君に次のように話している。(以下、井伏さんの言葉として紹介するのは、すべて筑摩書房版『井伏鱒二全集』の月報に連載された伴君の「井伏さんから聞いたこと」からの引用である。)「『山椒魚』はチェーホフの『賭』を読んでから書いたんだ。『賭』は賭に負けて閉じ込められた一人の男が、絶望から悟りにはいる筋なんだが、『山椒魚』は悟りにはいろうとして、はいれなかったところを書きたかったのに、尻切れとんぼになっちまったね。動物ばかり書いたのは何の影響かなあ。たぶん、そのころ、絵でも詩でもそうだったが、シンボリズムが流行っていたので、それを手さぐりしたわけだったんだろうが、失敗だったな。いまから見ると固くてね。」  しかしこれは作者の謙遜であろう。作者は意識して翻訳調の固い文体を使い、あの新しさを生み出そうとしたのだと思われる。私は最後の「それでは、もう駄目なやうか?」「もう駄目なやうだ」「お前は今、どういふことを考へてゐるやうなのだらうか?」という問答の面白さに驚嘆する。井伏さんはこの作品で日本語の新しいシンタクスを作り出したといっても言いすぎではない。だが、この新しさはなかなか理解されなかった。(井伏さんは『自選全集』ではこのところを削っている。) 「鯉」 この作品について作者は「徹夜で、一晩で書き上げた。このころは、みな一晩で書いたもんだよ。……『鯉』は後で、飛込台に昇っていくところを書き足して、『三田文学』に発表したんだ。プールに燕が飛んで来るのは本当だよ。プールのほとりに羽状葉の大きな木があって、これがセザンヌの『水浴』の絵のようなんだなあ。それを意識して書いたね。出だしの『十数年前から』はデフォルメ。青木南八が死んで、本当は一年目だもの。下宿の窓の欄干へハンカチを乾している時、鯉を持ってきてくれたなんていう書き方は、フローベルに心酔していた影響だね。聚芳閣という出版社に勤めていたころで、何か寂しい時だったんだ」と話している。  青木南八は井伏さんの莫逆の友で、この夭折した秀才と井伏さんの関係は、ラ・ボエシとモンテーニュの交友を私に思わせる。井伏さんは今でも南八の話をするときには懐旧の情に堪えないような言葉つきになる。 「丹下氏邸」 初期の井伏文学の代表作であろう。私は久しぶりに読み返して、その彫りの深さと密度の濃さに感歎した。《丹下氏は男衆を折檻《ぎようぎ》した》という書き出しから、大きな赤い月が《谷底に立ち込めてゐる霧の上層を、その真上の空から照してゐた》という結末に至るまで、寸分の隙もなく精巧に組み立てられた作品で、いかにも強靱な頭脳を思わせる。井伏鱒二を単なる抒情詩人と見なすことのいかに誤りであるかを教えてくれる名作である。  この小説が昭和六年二月号の『改造』に発表されたとき、当時『文藝春秋』で文芸時評の筆を執っていた小林秀雄氏が、これを激賞し、「井伏の作品は、小市民的根性の表現に過ぎぬ」とか、「彼の文学はナンセンス文学だ」とかいう定説を斥けて、次のように書いた。《井伏鱒二の作品は、みな洵《まこと》に平明素朴な外観を呈してをります、かういふ外観を呈してゐる作品は、深く辿る余地がない様に思はれ勝ちなもので、事実、彼の作品に対する世評はみなこの平明素朴とみる世界に展開されてゐるのです。  彼の文章は決して平明でも素朴でもありません。大変複雑で、意識的に隅々まで構成されてゐるものです。若い作家のうちでは、彼は文字の布置に就いて最も心を労してゐるものの一人です。彼は文章には通達してをります。瑣細《ささい》な言葉を光らせる術も、どぎつい色を暈《ぼか》す術も、見事に体得してゐます。  人々は、彼の文章の複雑を見ないのでせうか。それや見ないことはありません。少し注意すれば、否応なく眼に映るのですから。併し、つまり見ないのと同じ事になるのです。と言ふのは、彼が文字をあやつつてゐる手元を少しも見ようとしないからです。手元をみないから、彼の文章の独特な機構をナンセンスと断じて了ふのです。もつと簡明な言葉で言ふなら、彼の独特な文字を彼の心の機構として辿らずに、単なる装飾とみて了ふのです。一般に作品の技巧を、作者の意識の機能としてみる時に、作品は非常に難解なものとなるのが定めでして、彼の作品をナンセンス文学だなどと言つてゐるうちは、彼の作品はいかにも平明素朴なのです。》  井伏文学ははじめて正当な評価を受けることができたのである。このとき井伏さんは三十三歳で、「山椒魚」を発表してから八年目であった。 「さざなみ軍記」 昭和五年に改造社から出た「新鋭文学叢書」中の一巻『なつかしき現実』の中に、「逃げて行く記録」と題してこの作品の冒頭が収録されて以来、「逃亡記」「西海日記」「早春日記」などと標題を変えながら、一部分ずつ発表、昭和十三年四月に完成して単行本『さざなみ軍記』として河出書房から刊行されたものである。このように期間をあけて書き継がれたについては理由があった。作者は話している。 「戦陣にある少年が、だんだんませてくるところを書こうと、執筆もわざと期間をあけて書き続けてみたのだが、少年が本当にませていたかどうかはわからない。友人の妹の同級生に五箇ノ荘から来ていた人があったが、他人にしゃべってはいけないという都落ちの記録係の後裔だったらしい。その記録にある都落ちをする以前に木曽の兵が乱暴をしていたところから書きはじめ、最後に少年が、生野の棚田に逃げ、都会の戦争から離れて隠遁生活をするところで、終りにしようと思ったが、長過ぎるので途中で切ってしまった。全部空想で書いたが、風景は、鞆ノ津を意識に入れて室の津としたもの。地名も架空のものだから本当の室の津ではない。……下士官出身みたいな宮地小太郎をつい戦死させてしまったのはまずかった。あれは生き残しておきたかった。」  全部空想で書いたというのだから、この物語の舞台は作者の熟知する瀬戸内海の沿岸地方であるにしても、その空想力の豊富さは驚嘆に値する。この小説には愛好者が多く、井伏文学第一等の傑作と推す人もあるようである。武田泰淳氏が、作者に向って「『さざなみ軍記』は、いいですねえ。アレには色気がある」と言うと、作者も「そうだ、アレには色気がある」と同意したというが、例えば室の津に上陸した主人公が、砂浜で少女とあいびきをするところの場面、《私は彼女に、潮のしぶきが私の衣服をぬらしてもかまはないと告白した。彼女も彼女の衣服が波にぬれてもかまはないと言つた。さうして二人はお互に相手の肩に手を載せた》や、主人公が室の津を船で出るときの、《私は砂浜に立つてゐる彼女にむかつて何かの合図をしたかつたが、それを我慢した。そのかはり具足の一本の紐を結びなほすやうにみせかけて、手を肩まであげた。砂浜の彼女は五六歩ほど前に走り出て、彼女も手を肩まであげた》などというところは本当に清潔な色気がにじみ出ている。 「集金旅行」 『文藝春秋』や『新潮』に分載、昭和十二年四月に単行本になったもの。「空想で、旅行をして見ようと思い、全国をやるつもりだったが、筋書がないので、あそこまでで切ってしまった。博多の言葉は、伊馬春部君のお母さんに直してもらった。主人公の小松さんの性格はモデルがある。彼女の首をガックリするような派手な動きは、花柳章太郎を思い浮べながら書いた」と作者は語っている。旅行好きの作者が楽しみながら書いたような楽しい作品。戦後カラー映画になった。 「ジョン万次郎漂流記」 書き下しで発表したもの。ジョン万次郎についての記録を並べてみただけだから、これは小説ではなく、「記録小説」だと作者は言う。井伏さんは漂流ものが好きで、戦後も芸術院賞を受けた「漂民宇三郎」を書いている。思うに漂流物語を書くとき、井伏さんの空想力の翼は最も大きく羽ばたくのにちがいない。 「多甚古村」 井伏文学をポピュラーにした最初の作品である。作者によれば、《徳島の町外れの街道沿ひにあつた駐在所の巡査が、会つたこともないのに、どういふつもりか、毎月、五、六十枚宛自分のことを書いた日記を送り届けてきた。それが何年間かのうちに二尺くらゐの高さになつた。時々眼を通してみたが、そのうちに書いてみようかといふ気になつた。駐在の巡査に独身者はゐないのだが、さういふことは無視して書いてみたし、終りのはうは大分ウソがまじつてゐる》とある。「さざなみ軍記」にくらべて、文体がうんと下世話になっているが、これはむろん作者の工夫であって、作品の内容によって文体に自在に変化を与える作者の芸域の広さは素晴しい。この駐在さんは律義で、親切で、暖かい心の持主で、まことに好もしい青年であるが、それでいてなかなか皮肉なところがあるのは、「恋愛・人事問題の件」の章で、彼がカフェ横町の入口の饂飩屋で、もとの同僚で現在は特高になっている森山君と顔を合わせるところなどによく出ている。《森山君は天ぷら饂飩を註文したが、この店の天ぷらはちつともうまくないのである》という言葉はなかなか辛辣である。甲田巡査にとっては特高の仕事をしている同僚などはうとましい存在なのにちがいない。またこの作品は日中戦争が始まって非常時体制に入った当時の世態人情をよく伝えている。  この小説のように、一つの職権を持っている人間を、いわば狂言まわしにして、その人物の目を通して世態風俗人情を描く方法は、その後の井伏文学の慣用手段になり、「本日休診」「駅前旅館」などの名作を生んでいる。 「二つの話」「追剥の話」 井伏さんは昭和十六年十一月、太平洋戦争直前に陸軍報道班員に徴用され、一年間シンガポールに滞在、解除帰国後は戦火に追われて甲府や郷里に疎開、つぶさに辛酸を嘗めた。井伏文学はもともと辛口の文学であったが、戦後の作品は一層その辛味を増したように思われる。《小説家といふものは、一般に人生の裏表に通じ、生活の苦労を知り尽した人であるべきものだが、井伏は中でもいはゆる苦労人の資格を十分持つた人である。彼の作品の涙も笑ひも、自ら額に汗して獲《え》たものである》とは、河上徹太郎氏の言葉であるが、その涙と笑いの味わいが一層濃くなったのである。  井伏さんは昭和二十二年七月に帰京するまで、郷里でいくつかの作品を書いているが、「二つの話」と「追剥の話」はそれにぞくする。 「二つの話」は戦後はじめての作品で、戦争に対する井伏さんの憤りと、敗戦国日本についての憂苦のにじみ出た作品である。 「白毛」 私の好きな短篇である。この作品を、老醜に対する辛辣な自己嘲笑と解する解釈もあるが、私は戦後の身のほどを知らぬ厚顔無恥な青年を描いた辛辣な戯画と見たい。彼らの愛用するアロハを「垂らしワイシャツ」と書いている言葉一つを取ってみてもこのことは明瞭である。これは最も上質なユーモア文学である。この小説に限らずイギリス風の上質なユーモアを豊かにたたえている点では、井伏文学に追随するものはあるまい。 「かきつばた」 この作品について作者は「広島が空襲された日にでかけた福山で見かけたことを冒頭に書いた。安原薬局、平井歯科、小林旅館はみな実名そのままである。あのころのざわざわして、落着かない情景を書いた色気のない風俗小説になってしまったが、ざわざわして、半ばやけになった気分はどうも出せなかった」と話しているが、この冒頭の一節は一種の妖気を孕んでいて、もう一歩で人間の気が狂い出しそうになる、原爆投下直後の息づまるような天地の雰囲気が見事に描かれている。このときの体験が四十一年七月に完成した原爆小説「黒い雨」となって結実したことを思うと、そのあいだの作者のたゆみのない精進に脱帽しないではいられない。 「武州鉢形城」「開墾村の与作」 井伏さんは空想力の豊かな、その点、天才的といってもよい作家であるが、一方、歴史が好きで、古い史実を徹底的に調べる旺盛で執拗な好奇心の持主でもある。むしろ、そうして調べ上げた堅固な地盤の上に空想力の花を咲かせたのが井伏文学ともいえるのである。「武州鉢形城」などはその代表的なものであるが、「開墾村の与作」にも作者の強い探求心がよく現われている。その学問的正確さによって、旧幕時代の農民の悲惨な生活と、無智ゆえに大罪を犯す彼らの哀れさが一層に読者の心を動かすのである。なおこの作品について作者は次のように書いている。《「開墾村の与作」は、「阿武畿の御陵記」を読んで思ひつきを得て書いた。小畠領の開墾村に御陵の石室があるわけではない。昨年(昭和二十九年)あたり私はしばらく出土品に興味を持つて近県の古墳を見物して歩いた。この趣味を棄てるためには、この趣味の上で何か書くのがいいと思つて書いてみた。出土品などは小説よりも、私には刺戟が強すぎる。》この言葉は含蓄が深い。この作者を理解する一つの鍵になろう。 「珍品堂主人」 昭和三十四年一月号から九月号まで『中央公論』に連載されたものであるが、この小説を執筆中、井伏さんは、さる有名な古美術商の某氏とたびたび会って、時にはテープレコーダーを持ち込んでその話を聞いていたのを私は知っている。例によって井伏さんの勉強ぶり、用意周到ぶりを示すものであるが、出来上った作品では、その種の骨董上の知識が珍品堂主人の血肉のなかにとけこんで、逆にその知識が読者を骨董の世界に引きずり込んでゆくのはなんとも見事な手腕である。  珍品堂主人はいわば一種の美の探求者であるが、相手が骨董だけに必然的に物欲がこれに伴う。彼は古美術にのめりこむにつれてますます物欲に迷わされてゆく。しかし自分流に美の世界を作り上げようとする点では蘭々女よりは純粋であるといえるかも知れぬ。だがこの純粋さが甘さとなって、彼は蘭々女に完全にしてやられるのである。最後の珍品堂の《風が吹かないのに風に吹かれてゐるやうな後姿》はきわめて象徴的である。この作品はカラー映画になったとき、珍品堂には森繁久弥が扮したが、「あの後姿がうまく出ていたらこの映画は成功です」と試写会のときに彼は話していた。  この小説は井伏文学のレパートリをさらに拡げたもので、井伏文学のなかで特別の位置を要求する名作である。 「コタツ花」 井伏文学の大きな特色の一つである描写の妙が最高度に発揮された名作である。この作品については河上徹太郎氏の次の名評に尽されている。曰く《深山でマムシを取る話や、ことに颱風《たいふう》の日にヤマカガシが風に揺れる枝から枝へ沢渡りする話なんか凄絶である。初期の動物短篇の角を丸くしたやうな文章から、この骨つぽい、滝つ瀬をなす文体に辿りついたことは、筆触の奔放といふ修辞の問題だけでなく、それこそ井伏の「冷たさ」といふことが、そのままスタイルを得て仙骨を帯びて来た観がある。これはもはや北斎的なデフォルメされたカメラ・アングルであるよりも、足利期の水墨画の趣がある。画材もナマズや猿の飄逸ではなく、蛇だといふことが似つかはしい、渓谷の霊気が漂つてゐる。》 「厄よけ詩集」 井伏さんは、小説を書いて一休みした時とか、小説の中に挿入しようとする時に、詩がすらっと書けて、いきなり詩を書こうとした時にはできないそうである。これらの詩は独特の風格があって、措辞も実に巧みである。とくに俗謡調の漢詩訳は天下一品といってよかろう。 (昭和四十一年十一月、中央公論社刊『日本の文学』第五十三巻・解説)   * 「屋根の上のサワン」 主人公が傷ついた雁を池のなかから両手で拾いあげたとき、彼は言葉に言い現わせないほどくったくした気持でいたことをまず注意しなくてはならない。すなわちこの傷ついた雁は彼にとっては救いの神であった。そのために彼は雁の治療に専念する。電燈を五燭の暗さにして手当を加えるほどの慎重さである。  雁の傷が治ると彼はそれを庭で放飼いにして、サワンという名をつけ、野道や沼池の散歩につれ出す。このサワンという名が秀逸である。涼しくて、軽やかで、しかも親しみぶかい。《サワンよ、月明の空を、高く楽しく飛べよ》という呼びかけにいかにもふさわしい名前である。サワンと名づけられたときから、この雁はいつか天上に帰ってしまうことが予定されているようにさえ思われる。それにしても、夜になると元気になるサワンが、眠そうな足どりで主人公の後について歩いている格好はいかにもユーモラスである。雁を犬のように飼い馴らすという着想もすばらしい。  ところでサワンは春が来ても北国に帰ることができず、飼主のあまり広くもなさそうな庭でくったくした毎日を送らねばならなかった。彼が水面に浮かぶのを好み、時としては水中にひそんでいたりするのはその現われである。しかし飼主はこの忠実なサワンに満足していて、秋の木枯のはげしく吹き去った夜更けにサワンが屋根の頂上に立って、夜空を高く飛び去る三羽の雁と力を込めて鳴き交す甲高い鳴声をきくまで、それに気がつかなかった。そのとき飼主たる「私」が、寝間着の上にドテラを羽織って、乾ききらない足袋を火鉢の炭火であぶっていたという情景はまことに巧みである。《ここに囚はれてゐる雁はあくまで月明の澄んだ秋空の産物だが、書割は正しく早稲田鶴巻町あたりの陋巷(失礼!)である。そこへ雁を引きずり降したからこそ、雁の歎きの透明度が増すのである》と河上徹太郎氏は見事に指摘している。  このあたりから作品の味わいは一層に深まってくる。《サワンは、屋根に登つて必ず甲高い声で鳴く習慣を覚えました》から《それは聞きやうによつては、夜更けそれ自体が孤独のためにうち負かされてもらす溜息かとも思はれて、若しさうだとすればサワンは夜更けの溜息と話をしてゐたのでありませう》に至る一節は、この短篇のさわりの個所で、秋の夜の抒情が身にしむ思いがする。  サワンが飛び去った翌朝、狼狽した「私」が沼池までサワンを探しにゆくが、《水底には植物の朽ちた葉が沈んでゐて、サワンは決してここにもゐないことが判明しました》という結末も余韻が深い。 「『槌《つツ》ツァ』と『九郎治《くろツ》ツァン』は喧嘩して私は用語について煩悶すること」 この長い標題からしてすでにユモリスティックである。一般に家風や階級は肉親のあいだの呼称に端的に現われるものであるが、それを巧みに捉えて、ある農村の情景を描き出そうとする着想はまことにすばらしい。一方が大阪弁を移入して上品がろうとすると、その競争相手が東京弁で応戦し、結局どちらもモノにならず、もとの田舎言葉に戻るところが実に面白い。諷刺もよく利いている。 「無心状」 さらりと書かれた作品であるが、作者の青春回顧であって、青春時代のはにかみ、初々しさ、屈託した気持などが鮮かに描かれている。  意中の女性が、《この御本、あたしが頂きますわ、せつかくですから》と云って、十銭銀貨を何枚か古びた帳場机の上に置いたのをよく覚えていて、それから四十何年か後に、同じ古本屋で、彼女が買ったのと同じ本を見つけて、《この御本、頂きます。せつかくですから》と同じ文句を云って紙幣を帳場机の上の硝子板に置いた、というところなど、心にくいうまさである。作者のおのろけを聞かされているようでもある。 「へんろう宿」 十五枚足らずの短篇であるが、この作者の作品のなかでも屈指の名作である。珠玉の名篇とはこのような作品を指すのであろう。この短篇について作者は次のように話している。「田中貢太郎さんが病に倒れ、お見舞いに四国に出かけた時、室戸岬に行くバスの中から、二階建ての小さな宿屋に、へんろう宿、一泊三十五銭と書いてあるのを見て、空想で書いてみたもので、むろん泊ったわけではない。土佐ホテルで書いている時、田岡(典夫)君がやってきたので、土佐弁を直してもらった。あの辺の浜木綿の色が何ともいえない良い色だったのに感心したりして、抒情で書いた」云々。  天才を感じさせる空想力といってよいが、旅を好み、釣を好む作者の、それまでに泊った数知れぬ旅宿の記憶が重なり合って、この名作を産んだのであろう。まず冒頭の《大体において用件も上首尾に運んで何よりだと思つてゐる》という書き出しが大切である。作者の気持が上機嫌とまではいかなくとも、おだやかで寛大であることが読者をくつろがせて、安心させる。そしてこの気持は、この小説をじっくりと味わうために非常に大切なのである。「へんろう宿、波濤館」という名前もぴったりである。こういう用意はこの作者は実に細心で慎重である。  この短篇の眼目は、この「へんろう宿」が三人のお婆さんの手で経営され、しかも彼女たちはみな、ここの宿に泊った客の棄て児だったというところにある。これは相当に深刻な事実であるが、作者は隣室の客と、その婆さんの一人との酒を飲みながらの対話で、その深刻な事実を巧みに、さりげなく、読者に知らせている。その上、この宿屋には、まだ二人の少女がおり、彼女たちもまた棄て児である。しかしこの行儀のよい、なかなか利口そうな子供は、むしろこの宿屋の明るい希望と救いになっている。そのことを、戸口の柱に二つ仲よく並んだ彼女たちの名札によって作者は暗示している。最後の《黒い浜砂と、浜木綿の緑色との対象が格別であつた》という結びも実によく利いている。読者は、この「へんろう宿」から広い人生に連れ出される。あるいは悠久な時の流れを感じさせられる。この深い味わいは無類である。 「乗合自動車」 私はこの短篇を読みながら、なんとはなしに、モーパッサンの「脂肪の塊」を思い出した。あれとこれでは乗客は全く違うが、敗戦時代の人心を描いた点ではどことなく似たところがあるような気がした。戦中、戦後を通じて、農村の乗合自動車の運転手の身の上にも幾変転のあることが面白い。《あの業突張りの客に、いつぱつ喰らはしてやつた。運転手の職を辞職しさへすれば、わしも庶民の一人ぢやらう。それだによつて、わしは一個の庶民として、いつぱつ喰らはしたのぢやね》といってバスの運転をやめた運転手の言動など、戦後風景の一面を巧みに描いている。 「開墾村の与作」 一種の推理小説である。例によって実に緻密に構成されている。与作が二人の仲間と一緒に大和の岩室を発《あば》いたときの陳述は思わず読者の息をはずませる。とくに御内陣の描写はまことに見事であって、読者自身が古墳の発掘に立ち会っているような思いをさせられる。与作がどのような処分を受けたかについて語られていないのもよい。そしてセンヨウガ原の開墾村の百姓一同が集団で一夜のうちに逃亡してしまったという結末は更に面白い。《もとより何物もこれなく候》というのはこの物語全体の結末であって、岩室の御内陣の話も本当は一場の夢物語であったかも分らない。そう思わせるような縹渺たる興趣に富んだ、これは物語である。 「鐘供養の日」 これは戦争中に、軍隊慰問雑誌『陣中読物』に発表されたものであることを特記して置きたい。《ゴオン、ン、ン、ンンンン……》と余韻をひいて鳴るべき釣鐘がコツンとしか鳴らなかったという痛烈な諷刺が、検閲の目をかすめたのは、作者の恐るべき芸の力であろう。住職と檀徒総代の高田さんが、供出梵鐘の銘や願文を一つずつ読んでゆくうちに、《末代の当山の僧、末代の檀徒一党にこれを告ぐ。末代、もし一朝国難に際し》云々の願文を見つけて、《願文にも、末代の僧や末代の檀徒のことを心細く思つてゐるところがありますからね。いまにこの風潮では、村のものも困ることだらう。さういふ不安を覚えてゐたのかもしれませんね》と住職に云わせているのは、作者の韜晦であるが、《高田さんと住職は、今月今日の自分たちは面目ないことだつたといふやうに、お互に頭をかいた》という結末は、この二人の胸中を代弁した反語であろう。まことに端倪すべからざる作品である。 「ミツギモノ」 作者が《天上の神秘が宿つてゐるかもしれない》と思ってかねがね欲しがっていた隕石を、《何とかストーンのお客さん》として親しまれていた鰻屋の女中と、酒ぐせの悪い飲屋の亭主からミツギモノとして献上されたものの、それを膝の上に載せていると必ず下腹が冷え、またそれを美術品として見れば、まるで零以下の代物であることが分って、もとの持主に返そうと思うこの物語は好個のユーモア文学である。ここには上質のユーモア文学に必須の自己否定がある。またこの作品から作者の素顔を読みとることができよう。 「遙拝隊長」 名作である。作者の戦争体験と戦争批判が完全に芸術化されて、渾然たる作品に結晶している。この小説は、人から、「戦争帰りの頭のおかしい曹長がいて、発作を起すと、棒切れを持って、九十九里浜に行っては、突撃進めとやって、まだ戦時中と思っているらしいという話を聞いて、これを材料としたもの」であり、「隊長は、徴用の時の輸送指揮官を思い出して性格習性を採った」と作者は語っている。  遙拝隊長を批判する作者の目の厳しさはおそろしいほどであるが、しかし作者は彼のお袋や村長、校長先生などを点出することによって、彼もまた憐むべき時代と環境の犠牲者であることを暗示し、読者の目を、もっと重大な問題のほうに指向させている。これはのちに「黒い雨」において作者が試みたのと同じ方法である。なお作中、野戦病院で、仏桑華の生垣を、一人のマレー人が三尺柄の鎌で刈りこんでいる場面があるが、これは作者が戦時中徴用されてシンガポールにいた当時属目した実景に相違なく、豊富な体験を僅か一、二行にしてしか生かさないのもまたこの作者の作家的態度であることを読者は銘記すべきである。 (昭和四十三年三月、筑摩書房刊『日本短篇文学全集』第三十六巻・解説)   * 「黒い雨」 雑誌『新潮』に昭和四十年一月号から翌四十一年九月号まで、最初は「姪の結婚」、途中で「黒い雨」と改題して二十一回にわたって連載、十月に単行本となり、その年の野間文芸賞を受賞した、作者六十八歳のときの作品である。  この作品については先ず作者自身の次の談話を紹介しなくてはならない。これは作者に多年私淑した亡き伴俊彦氏の聞き書きである。(筑摩書房版『井伏鱒二全集』第十三巻・月報) 「終戦直後、疎開中に神石《じんせき》郡(広島県)の小畠《こばたけ》に昔の代官所の跡が残っていて、蔵に慶長年間から幕末までの書類がいっぱいあるので、見たければ、紹介してあげようという織物屋さんがいたので、見に行って、重松さんと知り合いになった。その後、東京へ戻って、また郷里に帰った時に、釣宿で重松さんと出会ったら、原爆をうけた姪の話が出て、その病床日記が二冊あるので、それを送るから是非書いてくれと云われた。『新潮』に記録を書く調子で五十枚ばかり書きはじめ、これに、その日記を載せようと思って、送ってくれといったら、遺族があの日記は見るのも涙の種だから燃してしまったというんだ。だから、どんなことが書いてあったかは判らない。あの娘さんは、実際は嫁に行って、子供も二人生れたんだが、子供がふざけて、母親の髪の毛を引張ったら、ポコッと脱けたので愕然《がくぜん》としたというんだね。それじゃ、かかりつけの医者のカルテだけでもと云ったら、これも患者が死んで、三年経ったので燃してしまったという。書きはじめた途中で、病床日記がないことが判ったので運びの雲行きが変ってね。あの時、県内の一つの村から、二十人くらいの救援隊を広島へ送ったんだが、今でも残っている人は、一村に一人くらい。こういう人ばかり五、六人集まってもらい、その体験談を録音したんだけど、録音を間違って、録音されてなかったりして……。重松さんも、広島へ出かけて、当時の被爆者を看護した人や、救援隊の人達に宿舎を提供していた海軍士官の家をさがしてくれたりしたが、住居地も判らないし、皆死んでしまっている。だから、ほかの被爆者を訪ね歩いたり、後にまた広島へ出かけて行ったりして、いろんな人から取材した。原爆患者が書いたものも集めた。あんな前例のないことは空想では書けないからね。小説を書くというより、色々熊手で掻き集めるように資料を集めたね。ただ、皆どういうものか話したがらないんだ。それに話しているうちに、ある場面にくると、すっと息を吸い込んで絶句してしまう。下を向いて黙り込んでしまうので、ノートをとるのが遠慮で止めたりしたことがある。事件が事件だから、書いていて、事件そのものに対して真面目な気持になる。作品を書く真面目とは違う事件そのものの真面目だね。体験者から見れば、あれに書かれていることは、あの出来事のほんの一部分で、もの足りないだろう。もっともっと物凄いものだ。」  これだけでもこの作品の見事な解説になっている。作者が実際に会って取材した被爆者だけでも五十人を上廻るそうである。  この作品は閑間《しずま》重松の「被爆日記」が主軸になり、それに姪矢須子の日記、妻シゲ子の「広島にて戦時下に於ける食生活」同じく「高丸矢須子病状日記」、重症の原爆病から九死に一生をえた軍医予備員岩竹博の手記、同夫人の回想などがそれを補強しているが、これらの材料を被爆者の体験談や手記から得たにしても、作品全体が作者の創作になるのは驚嘆すべきことではないだろうか。  このなかには、《背中の皮膚が両肩から下へすつかり剥《は》げて、タブロイド判の新聞紙が濡れたやうにだらりとぶらさがつてゐる》とか、《身に一糸もまとはず黒こげの死体となつて、一升枡《ます》に二杯ほどもあらうと思はれる脱糞《だつぷん》を二人とも尻の下に敷いて》いる《仰向けになつて両足を引きつけ膝を立て、手を斜に伸ばしてゐる男女》とか、《かさぶたを被つてゐる耳朶から耳穴の入口まで、いつぱい蛆が湧いてゐる。小さな一ミリほどの蛆が二百匹ぐらゐ》などという、被爆者の目撃談としか考えられないような身の毛のよだつ描写が随所に見られるが、それと同時に、《閃光を浴びた屋根瓦などに至つては、小豆色に変色してゐるばかりではなく、泡を吹いたやうに表面にぶつぶつが出来てゐる。古伊部の茶入の灰釉のやうな趣になつてゐる》というような作者の目で濾過された美しい描写もある。  また、《顔はフットボールの鞠《まり》のやうに脹れあがつて、顔の色もそれに近く、頭の毛も眉毛も消えてゐた。誰だかわかる筈がない》少年が、偶然に道で出会った鉄兜の青年の前で立ちどまって、《お兄ちやん、僕だよ。ねえ、お兄ちやん》と叫ぶ悲惨な場面でも、警戒心を解かない兄に対する、《お兄ちやん、僕を認めてくれよ》という弟の言葉によって一抹のユーモアをただよわせて、場面の緊張をゆるめている。爆風のために傾いて、どの部屋も襖が菱形になって動かない自分の家に帰った重松が、隣家から飛びこんで風呂場の板張の上にころがっていた一枚の鯣烏賊《するめいか》を、《口の栄耀のためでなくて、記念のために》と口実をつけて救急袋に入れたり、姿見が倒れて毀れている六畳の茶の間の柱の日ぐりを見ると、当日の標語は《「撃ちてし止まん」》という言葉であったという個所にも読者は思わず頬をゆるめる。  いうまでもなくこの作品に描かれているのはピカドンのもたらした目を被うばかりの地獄絵図であるが、作者は悲惨な場面ばかりを積み重ねて、却って原爆の残酷さから読者の目をそむけさせる従来の原爆小説のマンネリズムを排して、数々の美しい、もしくは悲しい人間愛のエピソードを極めて効果的に物語のなかに織り込んで、戦争への憎悪を一層強烈にかき立てている。  八月六日の朝、疎開地へ帰りがけに、戦死した父親の形見の脚榻《きやたつ》を庭の柘榴《ざくろ》の枝の下に据え、それに登って、柘榴の実の一つ一つに口を近づけて、ひそひそ声で、《今度、わしが戻つてくるまで落ちるな》と言い聞かせていたときに、光の玉が煌いて、大きな音が轟き、爆風が起って塀が倒れ、脚榻がひっくり返り、塀の瓦か土かに打たれて即死した少年の話などは読者の涙をそそらずにはいないだろう。  姪の矢須子が原爆症というあらぬ噂を立てられていることに重い責任を感じて、それの反証をあげるために精魂を傾けている重松夫婦の深い愛情と、わが身の不運を忍耐強く忍んでいる矢須子の可憐な健気さは、読者を深く感動させると同時に、原爆のような悪魔の凶器を必然的に生み出さずにはいない戦争の恐ろしさを、そしてその犠牲になるのは常に罪のない民衆であることを心の底から納得させられるのである。  また戦争というものが、いかに人間を愚劣にし、悪質にするものであるかについても読者はつぶさに教えられる。《大きな戦禍があつた地域では、百年たたないと住民の悪ずれが払拭されないと昔は云はれてゐたさうだ。それは本当のことだらうか》と重松は「被爆日記」のなかで書いているが、その実例は随所に示されている。とくにこの期に及んでの軍人たちの悪あがきは作者の強い怒りをこめて活写されている。  被爆地における猛烈な人蠅の発生は読みながら身の毛のよだつ思いをさせられるが、《光線とか音響とか熱の衝撃などで植物が徒長することは知らなかつた。今度の爆弾は植物や蠅などの成長を助長させ、人間の生命力には抑止の力を加へてゐる。蠅や植物は猖獗を極めてゐる。昨日、ここの通りにある饂飩屋《うどんや》の焼跡では、裏庭の芭蕉が新芽を一尺五寸ぐらゐも伸ばしてゐた》というのは、この作者ならではの観察であろう。  終戦の重大放送のあった日に、重松が工場の裏庭の透き徹《とお》った清冽な感じの水の流れる用水溝を、無数の小さな鰻《うなぎ》の子の群が、行列をつくって、いそいそと遡ってゆくのを、《「やあ、のぼるのぼる。水の匂がするやうだ」》と云って眺めている場面も感動的である。人間の世界に、どれほど悲惨な出来事が起っていようと、時の流れの悠久であることを物語っている。この作品について河上徹太郎氏が、《凄惨さと同時に、それよりもしみじみと人生永遠の哀愁の籠った、戦争文学の傑作である》と評しているのは至言であろう。 「駅前旅館」 『新潮』に昭和三十一年九月号から三十二年九月号まで十三回にわたって連載、同じ年の十一月に単行本として刊行された、作者五十九歳のときの作品である。その際、全体にわたって相当な量の加筆、削除、訂正等が行われた。この作者は絶えず自作に手を加えて完璧を志していることを読者は忘れてはならない。  駅前旅館というのは云うまでもなく高級な旅館ではない。修学旅行の半人前の学生や、安っぽい地方の団体客のほかに、旅商人や、時としては家出や駈落ちをして来た人目を忍ぶ男女の泊る旅館である。総じて、旅の恥をかき捨てるのに最もはばかるところのない旅行者の安息の場所である。したがって、そこに永く勤めている番頭は男女関係の機微に通じ、人間や都会生活の裏面に詳しく、客に媚びたり、おだてたり、時としてはその弱味につけ込む、こすっ辛くて、金銭に卑しく、また好色な連中が大部分である。この小説の主人公生野次平もその一人で、自分で告白するように、《実際、ろくな人間ではない》。しかし彼には素人女や友人の身内の女には絶対に手を出さないという律義さがあり、また当人さえその気になればいつでも自分のものにできた芸者の小菊とも、辰巳屋のおかみさんとも、女中のジュコさんとも最後まで綺麗な仲でおり、自分に許された特権を行使するよりも、それを放棄する方が心の保養になると納得している。  次平のような人物はこの作者にいつも好意を寄せられる市井の小市民で、作者は次平や彼の番頭仲間たちを通じて、これまた作者にとっては興味津々たる彼らの世界を楽しみながら描いている。この楽しみは読者にも真直に通じ、途中で巻を置くことができない。私はひそかに井伏文学を硬派と軟派に分け、「本日休診」「珍品堂主人」などを軟派のなかに数えているが、「駅前旅館」も軟派の秀作である。作者がこの作品を書くために、いかに綿密な調査をしたかは更めていうまでもあるまい。 「琴の記」 昭和三十五年二月号の『別冊週刊朝日』に掲載され、のちに随筆集『昨日の会』に収められた。亡友に離別された薄倖のいじらしい女性に対する作者の鎮魂歌で、古川さんの弾く琴の音が読者の心にもしみ渡ってくる。いつか、この随筆をラジオ・ドラマにして桜桃忌にNHKから放送したことがあった。《最後の晩スタジオで録音していると、井伏さんの役を演じていた山田清君の声に、どうしたことか将棋盤の横っ腹を叩く駒の音が入ってきた。早速調べてみたがなぜそんな音が入ったのかまるで見当がつかなかった。それが三度もつづいた。演出の堀賢次さんが、「きっと井伏先生を慕って、太宰さんが将棋を指しにきたのでしょう」というと、一瞬スタジオに鬼気が漂い、出演者たちは顔を見合わせて息を呑んだ。無論いまだにわけがわからない。わたしは何びとのどれほど強烈な説得に遭遇しようとも、『琴の記』が死者を還魂させたと信じていたい気持がする》と、そのときの脚色者田代継男氏が書いている。(筑摩版『井伏鱒二全集』第五巻・月報) 「おふくろ」 昭和三十五年七月号の『小説中央公論』に掲載、原題は「お袋」であった。のちに『昨日の会』に収められた。なんとも見事な名品で、八十六歳の老母の風貌が神彩奕々《しんさいえきえき》として描かれている。末尾の《あたしやもう、えつと生きたやうな気がするが》という言葉には千鈞の重みがある。 「釣宿」 昭和四十五年四月号から六月号まで『新潮』に連載、のちに随筆集『早稲田の森』に収録。これは随筆というよりも、立派な短篇小説である。釣師の世界と釣宿の生態が、手で触れることができるように生き生きと描かれている。井伏文学に占める釣りの重要さについても更めて教えられる。作者の感興の流露した、その感興がこちらにも乗り移ってくる、なんとも楽しい作品である。 「軍歌『戦友』」 昭和五十一年七月号の『新潮』に掲載。この集に収められるに当って相当の加筆、訂正がある。西大佐のような高雅でダンディな将校がいて、それが硫黄島《いおうじま》で玉砕したという物語は一種のさわやかさを感じさせる。軍歌の「戦友」が巧みに用いられて、作品を固めるにがりになっている。 「半生記」 昭和四十五年十一月から十二月にわたって『日本経済新聞』に「私の履歴書」と題して連載、のちに『早稲田の森』に収められた文章である。このとき作者七十二歳であるが、この作品は、昭和十一年(三十八歳)に書かれた「〓肋集」と共に、井伏鱒二の人と作品を理解するために欠くことのできない重要な文献である。読者もまず「半生記」から読み出すことを希望したい程である。この文章によって読者はいろいろのことを教えられるが、この作者の郷里の風土について、その住民について、作者の幼少年時代、とりわけ祖父との関係について、郷里の言葉と、作者と東京弁の関係について、作者の中学生活について、最初は画家として立つ志であったことについての記述などはとりわけ重要である。またこのなかには関東大地震に遭遇したときの見聞記もあるが、このときの経験は、「黒い雨」を書くときに多少役立ちはしなかったであろうか。《当時の避難民は優しく扱はれたのだ。戦争で空襲騒ぎのときとはまるで違ふ》というような注意すべき指摘もある。  永井龍男氏は随筆集『早稲田の森』を評して、《井伏さんの文章は、円熟などという言葉では言いあらわし難い。文章の端々が血にも肉にもつながってしまい、自在に花を咲かせるように思われる。井伏さんの使う活字は、すべて井伏さんだけ用の、別あつらえのように見えてくる。(中略)自伝風の「半生記」にいたっても、少しも調子の乱れるところはなく、独自の世界が展開されるのに感嘆した》と書いている。 (昭和五十四年六月、『新潮現代文学』第二巻・解説)   「ドリトル先生」ききがき 「まず井伏さんとドリトル先生の出会いから話して下さい」 「御存知の石井桃子さん、石井さんは岸田国士さんの亡くなられた奥さんたちと一緒に文藝春秋社の第二期の婦人記者でした。菊池大学の優等生は第一期が永井龍男、第二期が石井桃子、第三期が池島信平だというのは僕の説ですが、その石井さんが文藝春秋社をやめた直後だったと思います。その頃、日本にはろくな子供の読物がないので、石井さんはお友だちと一緒に、児童ものの出版をやり、別に犬養木堂の書庫のあとを借りて子供のための図書館を開こうとしたのです。そのとき出版の最初に選んだのが、石井さんが前々から愛読していた『ドリトル先生アフリカゆき』なのです。  石井さんは最初僕に訳させるつもりだったのですが、僕がなかなか手を着けないので、自分でまず訳して僕んとこへ持ってきました。いい翻訳でしたが、例えば、書き出しに《むかし、むかし、それよりずっとむかし》というような新しい表現がある。子供というものは耳なれない調子にはなかなかついてこないものなので、それを『むかし、むかし、そのむかし』という風に更めるなどして、ともかく全巻を丁寧に見て石井さんに返しました。石井さんはそれを更に原文につき合せて訂正し、また僕のところへ廻してきたのを、もう一度僕が念入りに加筆して、白林書房という本屋から出版したのが、『ドリトル先生』の出た最初です。  この本はたいへんに評判になって、講談社で、次の『航海記』を出すことになり、また僕が翻訳を頼まれたのですが、三分の一ばかり訳したとき、戦争が始まって僕が徴用されてしまいました。で、残りをほかの人が訳して『少年倶楽部』かに連載されていましたが、作者が英国人だというので、いろいろ面倒なことがあったそうです」 「僕は翻訳家の端くれとして、この翻訳にはずいぶん感心しているんですが、ドリトル先生に飼われている動物のダブダブとかトートー、ガブガブ、チーチーなどの名前は、原文でもあの通りですか」 「そうです。あれはみなオノマトッペですね。ただ、頭二つに、からだは一つというオシツオサレツだけは僕の創作です。あれは原文ではプッシュ・ミー・プルーとなっています」 「あれは実にうまい名前だと思いましたが、あれは『差しつ、差されつ』から思いつかれたのではありませんか(笑)。それはともかく、どういう点にいちばん苦心されましたか」 「まず文章の調子です。僕は小説では、調子のついた文章を絶対に避けることにしていますが、子供の読物ではむしろ調子のあるほうがいいのではないか、それに原作そのものが調子のついた文章なので、ドリトル先生調を出しました。次に原作のパンクテュエーションを訳文で生かすのに苦労しました。原文そのままを踏襲すると日本文にならない。しかしそれを無視すると、うまい具合に幕が降りてくれない。むつかしいものです」 「しかし僕はなかなかそれに成功していると思いますね。例えば『アフリカゆき』の最後に、ポリネシアが、あのえらい人は、《たぶんおいでになる。たぶん、おいでになるかもしれない。おいでになればいいのになあ!》とかん高い声で云いますが、あの言葉の切りかたは実にうまいと思う。こんどの新版では、《おいでになるでしょう——おいでになると思いますわ——おいでになればいいのになあ!》となっていますが、僕は前のほうがいいと思います。そのほかでは」 「原文には《そうして》という接続詞が非常に多い。ロフティングの癖ですね。あれも厄介でした。それから俗語が多くて、水兵の俗語などは、辞書にもないし、苦労しました」 「ひと口に云って、『ドリトル先生』の魅力と云ったらなんでしょうか」 「それは先生が動物の言葉を解するということでしょうな。僕は子供のとき、小鳥の言葉のわかる人のことを書いた童話を読んで、その人が実に羨ましかったものです。また、子供のとき、近くに池があって、そこに鯉などが泳いでいる。誰もいないときは、その鯉が水面に浮んでいます。しかし人が近づくと、すぐ水の底にかくれてしまう。だから浮んでいる鯉を見るには、そっと足音を忍ばせて近づかなくてはならない。そんなときに、鯉の言葉が話せたら、どんなにいいかと思った。こちらから呼びかけられますからね。まあ、そういったわけでドリトル先生が、あらゆる動物の言葉がわかるというのは子供たちにとっては非常な魅力だと思います」 「なるほど。ときにこんなフランス小咄《こばなし》を読みました。犬の子供が初めて小学校へ上って、家に帰ってきたので、母親が、今日はなにを習ったのときくと、外国語を習ったと云う。どんな外国語なのときくと、《ニャオン》と答えたと云うのです(笑)。では、また質問をつづけます。作者のロフティングは動物の生態に相当詳しかったようですね」 「そうだと思います。カナリヤの生態など実によく知っていると思いました。それからジャングルの描写なども精彩を放っています。僕は南方へ徴用でいったとき、マングローブを初めて見て、ロフティングの描写がいかに正確であるかを知っておどろきました。それにロフティングは動植物について書くときには昂奮していますね」 「そういう点にも原作者と井伏さんの興味の一致があるわけですね。話の筋立のうまいのにも感心しますが」 「そう、読者をぐんぐん引っぱってゆくための話の設定が実にうまい。それからドリトル先生が、いろいろの動物をなだめすかす技術もなかなか上手でしょう」 「この作者は女性にきびしいような気がしますが、いかがですか」 「そういうところはありますね。ロフティングは家庭運が悪くて、奥さんを二度も病気で失っていますが、現在の未亡人はなかなか気むずかしいひとらしい。ドリトル先生の妹のサラというのは、もしかしたら奥さんがモデルかもしれない」 「僕は『ドリトル先生と秘密の湖』をこんど初めて読んだのですが、これは『アフリカゆき』にくらべると、長さも三倍近くあるし、スケールもなかなか大きい。とくにアフリカにいってからの先生の大ガメ探しの旅と、大ガメ、ドロンコの語る『太古の大洪水物語』は息もつがせぬほど面白いと思いました。このなかでも《女というものは、いつでも、いとこだとか、伯母だとか、生まれた赤ん坊だとか、そんなものを見に行かないとさびしいのです》とか《女と申すものは、何ごとにつけ、じぶんの目で見るのではなくては、本当だと思いません》とか、女の悪口を書いています。一体にこの『秘密の湖』には小言が多いようですね。《人間てものは、いつだって、おまえがいなかったらどうしたろうって、心配ばかりしているんだ。——おまえが役に立つ間はね。ところがそのおまえが役に立たなくなると、“お前をどうしてくれよう”って考えるのさ》など、作者も年を取ってだんだん気むずかしくなったんでしょうか」 「もともとこの作者は正義派ですが、彼の正義感が、この本では日常茶飯事に対する現実批判となって現われています。その点、『アフリカゆき』のように、物語に夢中になって、ほかのことは忘れているというところはない。やっぱり年のせいかもしれません。  しかしドリトル先生の性格は、僕たち東洋人にはついてゆきやすいですね。それから、十二巻のどれを取っても性根の坐っているのが僕の好きでもあり、感心するところです。ただ、翻訳は楽じゃない。若いときにもっと英語を勉強しておいたらよかったと思います。それから、これは僕の想像ですが、作者のロフティングが第一次大戦に従軍したとき、戦地で日本人に会っているのではないかという気がして仕方がないのです。彼の書くものが日本人によくわかるのはそのためじゃないでしょうか。そういうロフティングを想像すると、それで一つの童話になりますね」  以上は某月某日、井伏鱒二さんから聞いた話を取りまとめたものである。もっといろいろなことを聞いたようにも思うが、記憶にあるのはこれだけで、それも私が少なからずデフォルメしているかもわからない。したがって文責はもちろん私にある。全巻刊行のあとで、井伏さん自身に翻訳苦心談を書いて頂けると、われわれ翻訳家にはずいぶんためになるのではないかと思う。また井伏文学とドリトル先生の関係について考察することも比較文学研究家の好題目たるを失わないであろう。この会談には最初石井桃子さんにも参加して頂くつもりだったが、折悪しく石井さんはアメリカへ出かけて留守だったために、画竜点睛を欠く結果になった。 (昭和三十六年十一月、『図書』)   名山を見る  僕は久しく井伏さんと同じ町内に住んでいたので、いつのまにか親しくなったのであるが、井伏さんのなかにとびこんで、その人柄に一段と深い敬愛の情を抱くようになったのは、太宰治君が死んだときからである。しかし、このことについてはまた別の機会に書くことにしたい。  作家は一代にして成らないと言われるが、井伏さんも旧家の出である。井伏さんの話によると、二百年ほど前の井伏家の先祖の一人が、熊蜂に刺されて二十歳で夭折したという記録が残っているそうである。また井伏さんの『田園記』という随筆には次のような記述がある。《私の親父は青年時代に、いまの言葉でいへばそのころの文学青年であつたといふことであるが、途中で厭気がさしたものかこの田舎に帰り愛児の養育に没頭することにしたといふけれど、愛児の一人である私がまだ六つのときに、親父は死んだのである。》そのために井伏さんは、兄さんと一緒に、祖父さんの養育を受けたのであるが、その祖父さんに幼少の時から可愛がられ、大事にして育てられてきたので、なかなか練れた人である反面、非常に気むずかしいところがあって、怒り出すと手がつけられない。行儀の悪いこと、折目の正しくないことは大嫌いで、その点では非常に古風である。だから今のような時代は、井伏さんには一番厭な時代にちがいないが、その代り井伏さんの謂わゆる「わる者」がいろいろ活躍するので、小説の種は沢山あるに違いない。  井伏さんは名だたる文章家だけに、言葉の吟味については実に細心である。新作『本日休診』のなかに、八春老先生が、若い娘の患者に向って、「では、診察。パンツとって」と言うところがある。ある女性の読者がこれを読んで、女のものはズロースといってパンツとは言わない、井伏先生は多分御存じではないのではないかと注意したが、井伏さんは笑って、「パンツと言わせることによって、この老婦人科医の人柄を出したのですよ」と答えた。また同じ小説のなかに「垂らしワイシャツの青年」という言葉があるが、「アロハシャツ」という言葉をわざと避けて、「垂らしワイシャツ」と書いたところに、この種の青年に対する井伏さんの嫌悪の気持がよく出ている。  井伏さんは自ら第八流の小説家と称しているが、読者は概ね第一流であるということを僕はいつか書いたことがあるが、辰野隆先生も井伏さんの愛読者で、「井伏君の小説を読んでいると、身体がむずむずしてくるようなおかしいところがあるね」と言われた。それを井伏さんに伝えると、井伏さんは恐縮して、「蚤のようなものだなあ」と答えた。  いつか拙宅に辰野先生の御来駕を願って、井伏、上林暁の両兄にも加わって貰って小宴を張ったことがある。御両所ともすっかり辰野先生に感心して、先生を荻窪の駅までお送りしてから、また三人で飲み出したが、われわれは若い連中ばかり対手にしないで、時々は名山を眺めるようにしなければならんということになった。そこで両兄とも多年宿望の志賀直哉先生をお訪ねしようということになり、僕がその東道の役をつとめることになった。井伏さんは、「何しろ怖い先生だから一眼でこれはにせものだと見破られたらどうしよう。たとえにせものと思われても、この年になってもう小説家をやめるわけにはゆかんからなあ」と言って僕らを笑わせたが、ともかく日をきめて出かけることになった。今年の三月の初め頃だったと覚えている。その日は上林さんに差し支えがあって、井伏さんと二人で伊豆山のお宅に出かけた。  志賀先生のお宅ではいろいろおもてなしに与り、先生はとくに酒好きの井伏さんのためにウィスキーの用意までして下さって恐縮したが、井伏さんは、『暗夜行路』に書かれてある、むかし志賀先生が尾道にいられた頃仮寓していられた家のことを話題に上せた。この家のことを井伏さんは「志賀直哉と尾道」という随筆のなかに書いているが、あれは井伏さんの思い違いだという説が村上菊一郎君あたりから出ているので、井伏さんは自説を確めたかったに違いない。そこで、当の志賀先生も今ではおぼえていられないほど細かいところまで、その家のことを井伏さんは話したが、たしかにその家に違いないことが分って、井伏さんは大いに満足気であった。井伏さんはもともと文壇の先輩には礼儀の正しい人であるが、この日の対手は多年尊敬する大家であるだけに、その態度は非常に敬虔で、僕はすっかり感心した。  夕飯を頂いて夜遅くお暇をしたが、井伏さんは二十年来の宿望を果したと言って悦んでくれ、僕も東道の甲斐があったと思って嬉しかった。井伏さんはまた志賀さんがお酒をたしなまれないことを言って、荷風でも白鳥でも、偉い作家はみな酒を飲まないなあ、と感慨ぶかげであった。その夜は志賀先生の紹介して下さった宿屋に泊った。その翌日の夕刻、帰りの汽車が新橋に近づくと急に井伏さんはそわそわし始め、これから荻窪まで帰ると電車が込んで不愉快だから、“はせ川”へ行って一ぱいやろうと言い出した。そして、少してれて、「なに、溺れなければよかろう」とつけ足した。まだ宵の口だったが、“はせ川”には先客に石川淳さんがいて、もう大分御機嫌だった。そこで僕らも楽しく飲み出したが、名山を仰いだためにやっぱり緊張していたに違いない、急に疲れが出て、その晩は僕はすっかり酔ってしまった。 (昭和二十四年十一月、『展望』)   阿佐ヶ谷会のこと  阿佐ヶ谷会のことを書いて欲しいという注文である。しかし昭和四十六年の暮に青柳瑞穂君が亡くなってから、会場を失ったこの会は自然消滅の形で開かれなくなり、また会員のなかには既に物故した人が少なくないので、阿佐ヶ谷会は、現在の私にとっては、遠い思い出になり、その記憶も薄れてしまった。  幸いに村上護氏の好著『阿佐ヶ谷界隈』(昭和五十二年・講談社)に、この会についての詳細な記述があり、また木山捷平『酔いざめ日記』(昭和五十年・講談社)のなかには、私も席を共にした阿佐ヶ谷会の記述が頻繁に出てくるので、それを頼りにして、私のささやかな思い出を書いてみたいと思う。  私が阿佐ヶ谷会に入会を許されたのは、太宰治君が自殺をしたあとであるから昭和二十三年以後である。そのとき、あの男は大酒飲み(これはとんだ誤解である)だから、あんな男を会員にしたら、われわれの飲み量が少なくなる、といって反対する会員があったということを聞いた。それほど会員は酒豪揃いで、その上、当時は酒を手に入れることがきわめてむつかしかったのである。《飲み会だから酒呑みの集まりであるのに不思議はないが、いつかそれをAクラスとBクラスに分けてみようとしたところ、Bクラスに入ると思はれるのは辛うじて伊藤整君ただ一人で、あとは全部Aクラスであつた。これには少々驚いた》と上林暁君も書いている。 『酔いざめ日記』を見ると、《二十四年十月六日、木、雨。阿佐ヶ谷会。会費七百円。幹事河盛好蔵、上林暁、井伏鱒二氏。》という記載がある。これは私が会員になって二回目か三回目の阿佐ヶ谷会である。その前日私と上林君が各自一升瓶を二本ずつ抱えて、虎ノ門近くの酒屋へ買出しに出かけ、途中都電のなかで奥野信太郎さんに会って、「やあ、買出しですか。お精が出ますね」と冷やかされたことをよく覚えている。  同じ年の十一月十日の阿佐ヶ谷会では、《幹事、古谷綱武、原二郎、小田嶽夫。古谷に満座の中で侮辱され、苦しむ。その夜は酔って、小田と青柳邸にとまった。(腸が煮えくり返るような気持)》という記述があるが、私には全く記憶がないのは、多分、欠席したのであろう。しかしこんなことはめったになく、阿佐ヶ谷会はいつも和気藹々としていた。  翌二十五年には、六月二十八日に、阿佐ヶ谷会ではないが、井伏鱒二氏読売文学賞受賞祝賀会が、東京美術倶楽部で、会費千円で開かれている。これは戦後最初のこの種の祝賀会で、戦争中永い間顔を合わせなかった文壇人の久しぶりの会合であったために、非常な盛会であった。『酔いざめ日記』には、会費を調達するために、《松坂質屋に行き千円借りる。岩屋書店に立ちより『詩学』七月号の稿料三百六十円をもらった》という記述があり、また七月二十一日には、《井伏鱒二氏来訪。菊正一本持参。先日妻の作った桃を送りし御礼の意ならん。将棋三戦三敗。街の「笹の屋」で二人で飲む。この頃、一人の生活の苦しさ、収入少く死ぬほど寂莫、近日又田舎に帰らんと欲す》と記されている。阿佐ヶ谷会の七百円の会費も木山君には楽でなかったにちがいない。  翌二十六年三月に催された阿佐ヶ谷会については、上林暁君に興味深い記述がある。この頃の会の空気がよく出ているので、ところどころ引用してみよう。  会場は例によって青柳邸。幹事は、新宿の「みち草」と「竜」のマダム。二人はいつも給仕にやって来た。部屋には、主人の好みで、椿の一輪挿しと古い書幅が架っていた。集まったのは井伏、木山、浅見、外村、亀井、中島、臼井氏ら十八名。不参は三好、伊藤の二人だけ。《会費八百円で酒五本と、ビール十本の支度があつたほかに、中島健蔵氏から酒一本、中央公論社から二本の寄贈があつた。それで足りなくて、百円づつ追徴せねばならなかつた。いつもの通り、談論、放歌、席は乱れに乱れた。この喧騒をよそに、卓に俯伏して眠つてゐるのは、亀井勝一郎氏一人であつた。亀井氏はいつもおとなしくて、眠り込むのが常である。(中略)  この晩の圧巻は、幹事である「みち草」のマダムの挨拶だつた。当日の幹事の役目が気になつて、前の晩夢を見たといふのである。家を出ようとすると、コップを誰かに投げつけられて、足を怪我してしまつた。医者へ飛び込むと、そこに井伏氏が坐つてゐたといふ夢である。みんなが拍手をし、井伏氏は大分煽られて、照れ笑ひをしてゐた。  私は平島君(秀隆・日大二高理事)と組み合つて、出鱈目に踊つてゐた。尻餅をつく拍子に、卓の上の皿鉢をひつくり返して、壊してしまつた。それと同時に、すつかりしよげてしまつた。普通の皿なら何んでもないのであるが、骨董通である青柳邸の什器は、何れも古器で、皿一枚も凝つたものばかりなのである。私は端《はした》ないことをしたと思つて、自分が悔やしくてならなかつた。私が浮かぬ顔をしてゐるのを見ると、青柳氏がそばに来て、『壊して悪いやうなものは、初めから出してないよ』と慰めてくれた。》  この年の五月十三日の阿佐ヶ谷会には『週刊朝日』が来て写真をとっているから、阿佐ヶ谷会もそろそろジャーナリズムに注目され出したことが分る。十二月九日の会では《会費七百円(百円追加)》と木山日記にあるのは足が出たのであろう。また《中島健蔵夫人が会費をとどけに来訪》とあるのは、出席の通知を出しながら欠席したからであろう。中島君の心遣いで、私たちがぎりぎりの会費でやっていたことをよく知っていたからである。伊藤整君もいつも無断欠席したときはあとから会費を送ってくれた。  翌二十七年六月十五日の会には火野葦平君が入会して出席している。そのために、翌二十八年三月十日の会は、火野葦平新築邸で催された。《瀧井さん他大勢で会場せまし。長谷健と初対面。火野夫人、長谷夫人亦同様。病後のことゆえ、酒を余り飲まず早く帰宅。浅見淵、伊藤整氏と一緒であった》とある。この夜も、会費七百円を徴収したが、火野君の大盤振舞で大へんな御馳走であったことを覚えている。十月十七日の会には、毎日グラフの写真班が来て写真を撮っている。  こんなことを書いているときりがないが、『酔いざめ日記』の説明によれば二十九年五月某日の阿佐ヶ谷会に辰野隆先生と蔵原伸二郎氏がゲストとして出席されている。この時のスナップが私の手元にあるが、この頃からいろいろの人がゲストに呼ばれ始めたのは、会員たちのふところも暖かくなりだしたからであろう。  私はその夜、初めて蔵原さんにお会いして、いっぺんに親しくなった。それが縁で、四十年二月に読売文学賞を受賞した第六詩集「岩魚」が、蔵原さんの死後『定本岩魚』として棟方志功の装丁挿絵をもって刊行されたとき、その序文を書く光栄を与えられたのである。またこの夜、火野君が十八番の豊後浄瑠璃を語って私たちを抱腹絶倒させたことは、井伏さんの随筆に見えている。  それにしても、その写真に写っていた十三人の人たちのなかで、生き残っているのは井伏さんと私の唯二人だけであることを思うと、感慨無量というも愚かである。これらの人たちの誰についても、私は楽しい、なつかしい思い出を持っている。これらの人たちから私は多くのことを教えられ、また多くの恩を受けた。  青柳君によると、井伏さんの好きなものは、酒は別にして、釣り、将棋、恋愛、骨董の四つだそうであるが、阿佐ヶ谷会の夜は、井伏さんは、青柳君が最近手に入れた焼きものを鑑賞して主人と骨董談に耽るのを楽しみにしていたようである。意見の相違から、時として、河上徹太郎君の言う「早慶戦」に発展することもあったが、それを横で聞いているのがまた私たちの楽しみであった。 (昭和六十年十一月、新潮社刊『井伏鱒二自選選集』第二巻・月報)   常に新らしく 《御多忙のことと思ひます。原稿うまく出来ない上に延引しました。間にあはないのでしたら取捨いづれにても御都合よろしいやうにお願ひいたします。随筆といふ形式、僕にはこのごろ不向きなやうな気がして来ました。さうかといつて小説の形式も不向きのやうな気がします。詩は、これまた却つて不自由な気がします。いまに誰か新しい形式のものを発明するといいですね。デカメロンの作者がいま日本にゐたらと思ひます。当地附近のいろいろの話をきくと恰度デカメロンを読んでゐるやうな、いや、へたくそなデカメロンです。  新聞ラヂオがまたもや民衆と離れて来たと百姓が云ひます。なぜだと聞くとまたもや配達が悪くなつたからと云ひました。これは百姓のユーモアです。勘でわかることはわかるが、それを説明できないときには話を他のことで結びます。これは今日の実記録です。こんな風にいま手紙の形式で表現のさぐりをしてゐますが手紙形式もたいくつでせう。ではこれで止します。  御自愛のほど。お宅へよろしく仰有つて下さい。拙宅もみな無事です。不一。》  これは昭和二十年十二月十一日発信で、広島県福山市外加茂村の郷里に疎開中の井伏さんから、原稿と一緒に頂いた手紙である。当時私は『新潮』の編集を手伝っていたので、新年号に井伏さんの随筆をお願いしたのである。このとき頂いたのは「消息」という五枚ばかりの随筆で昭和二十一年新年号の『新潮』に出ている。  それは、十年ばかり前に、そのときから数えて約十年後の井伏さん自身の身の上を想像して書いた昔の随筆を、ふと思い出して読み返し、《十年前の私は十年後の私について、知つたかぶりをしながら何ひとつとして正しい観察(想像)を下してゐない。(ざまを見ろ)帰農してゐるといふ想像は、まぐれあたりにすぎない。友人についての観察にいたつては、事実と喰ひちがふこと甚だしい。世情についてもまた申すまでもない》という感慨を述べたものである。  この年の十二月に鎌倉文庫より刊行された単行本『佗助』の後記に、《敗戦の年——昭和二十年度には私は五枚の随筆を一つ発表しただけで、但し日記だけは殆んど毎日つけてゐた》とあるが、その随筆というのは、この「消息」にちがいない。してみると編集者としての私は、井伏さんから戦後最初の原稿を頂いたことになる。これは誇りとしてよいことではあるまいか。  井伏さんは翌昭和二十二年七月に約三カ年の疎開を切上げ、東京に帰っているが、それまでにもときどき上京はしていられた。そんなある晩、井伏さんのお伴をして、荻窪のヤミ市場のなかの飲屋で飲んでいると、アメリカの兵隊が、二、三人どやどやと、その狭い飲屋に入ってきたことがあった。別に乱暴はしなかったが、そのわがもの顔な言動に井伏さんはムッとしたらしく、こんなところは出ようといって、さっさと出ていった。怒りが全身から発している感じだった。  その頃井伏さんから頂いた手紙に、ちか頃はシンボリズムを勉強しようと思っている、と書いたものがあった。冒頭に紹介した手紙といい、この頃の井伏さんは文学表現の方法について、いろいろと思いをこらしていたらしい。それは、この頃発表された作品(たとえば「二つの話」)にいろいろの試みがなされていることを見ても推察することができよう。  第三巻(筑摩版『井伏鱒二全集』)の月報に藤原審爾君が書いていたように、井伏さんはなかなかの勉強家で、自分の作品がマンネリズムに陥ることを常に警戒している。いつか志賀直哉先生の消しのある原稿を半日かかって研究して、志賀さんはテニヲハの使いかたに実に苦心してられると、話していたことがあった。  それでいて、井伏さんの書斎というか、仕事部屋には本が一冊も置いていない。井伏さんの家で私は書棚というものを見たことがない。井伏さんはいったい本をどこにしまってあるのだろうか。そういう疑問を起すのは私一人ではないようである。  ひとつの仕事に取りかかるときには、必要文献を丁寧に調べるらしいことは、井伏さんの作品を読めばすぐわかるが、作品ができ上ると、そんな文献はすぐどこかへ処分されてしまうらしい。そして全く新らしい気分で次の作品に取りかかるのであろう。ここにも渋滞を嫌う井伏さんの心構えがうかがわれる気がする。 (昭和四十年三月、筑摩書房刊『井伏鱒二全集』第五巻・月報)   高森訪問記 《八ケ岳の東裾野に、「境の高森」といふ集落がある。信州と甲州の境だから境と云ひ、北東の沢に国界橋といふ小さな橋がある。  ここは過疎村だといふことで、まだ森が荒されてゐないから小鳥がたくさんゐる。鶯や郭公は六月から七月にかけて、晴れた日には一日ぢゆう鳴き続けてゐる。沢では行々子《よしきり》が鳴き、夜は夜つぴて夜鷹が鳴く。》  右は井伏さんの随筆「馬」(昭和四十七年四月)の冒頭の一節であるが、井伏さんはこの高森の古い大きな農家を買い取って、それに大改造を加え、七年ほど前から毎年その山荘で暑を避ける慣わしになっている。  東京から高森へ行くには、中央線の信濃境で降りるのがいちばん便利であるが、その次の駅は富士見である。富士見には戦後しばらくまで正木不如丘の作った結核療養所のあったことは知っている人も多いであろう。私は人に奨められて八年ほど前から、この町の油屋という古い旅館でときどき夏を過しており、また富士見から高森まではタクシーで二十分ばかりの距離であるから、富士見に来ると、いつも井伏さんの山荘をお訪ねすることにしている。  昨年も八月二十三日に富士見へ行くと、油屋の老主人は、一昨日の晩、井伏先生が雑誌社の人とお酒を飲みに見えました、相変わらずお強いですなあ、と言った。私はすぐにも高森まで出かけたかったが、まず仕事をすませてからと思い、一週間ほど我慢をすることにした。  二十九日の朝、仕事が一くぎりついたので、井伏さんに電話をかけて都合を伺うと、今日は二時に『海』の塙君が校正を持ってきてくれるので、四時までにそれをすませるから、その頃に来て欲しいということだった。丁度旅館の若主人が高森の先きまで出かける用事があるというので、その運転する車に、家内と一緒に乗せて貰うことにした。  井伏さんの山荘の特色は、土間の非常に広いことであるが、私たちが着いたときは、その土間の一隅の長いテーブルの上で、すでに校正をすませた井伏さんは、ウィスキーのグラスを前に置いてくつろいでいられた。  まもなく『海』の編集長の塙君も散歩から帰ってきて、一緒にウィスキーを頂きながら、四方山話が始まった。家内は、微恙《びよう》で伏ってられたのをわざわざ起きてこられた奥さんを相手におしゃべりを始めていた。  井伏さんは目下『海』に「徴用中のこと」という作品を連載中で、さっき校正をすませたのは、十月号に出る、その第十四回目である。このなかに、第二次徴用員としてシンガポールにやってきた中島健蔵君が、毎日午後五時になると、宣伝班附の一人の中尉が兵隊一同を整列させて点呼を取り、そのあとで、宣伝班員のことを口ぎたなく罵るのに腹を立て、あるときその中尉の首を片腕で締め、その中尉に、「すみません、中島先生、すみません。私が悪うございました」と謝まらせる話が出てくるが、井伏さんはその昔話をくり返して中島君の勇気に感心していた。 「徴用中のこと」には、これまで井伏さんが小説や随筆のなかで書いた話がときどき出てくるが、その度ごとに新鮮で面白いのは、徴用中の体験がよほど深く井伏さんのなかにしみ込んでいるからにちがいない。井伏さんも、あのときのことはできるだけ詳しく、また正確に書いておきたい。そして戦争は絶対に起してはならぬことを徹底して置きたいと言ってられた。  塙君は五時何分かの国鉄で東京へ帰らなくてはならないので、まもなく井伏邸を辞し、私と家内は井伏さんの案内で庭を見せて頂いた。植物、とりわけ樹木について井伏さんがいかに詳しいかは、井伏さんの読者には周知のことであるが、庭木の好きな家内は井伏さんにいろいろ教えて頂いていた。合歓《ね む》の老木があって、お隣の庭にまで伸びてうっとうしいので、伐採しようと思うんだが、植木屋は、もったいないからといって賛成しないのだという話だった。また雑草が繁殖しすぎてそれを刈り取るのに苦労するという話が出た。庭には大きな柿の木が何本もあり、秋に実のなるときは、さぞ見事だろうと思われた。  私たちは六時すぎにタクシーを呼んで頂いて油屋へ帰ったが、そのとき、明日は油屋の隣の中野屋という鮨屋のおやじさんに会う用事があって出かけるから、あなたの仕事が終る頃に電話をかけて欲しいと言われた。  このおやじさんというのは、井伏さんの名作『スガレ追ひ』に出てくる、ヂバチ取りの名人、中野屋の隠居のことである。  あくる日は、五時頃に井伏さんを油屋にお迎えして夕飯を差し上げた。そのときこんど講談社から刊行される『木山捷平全集』の推せん文を頼まれているという話から、木山君の話になり、井伏さんは、木山君と田中貢太郎さんには共通するものがある、田中さんの説によると、男の胸のなかには婦女子にわからない磊塊《らいかい》というものがあり、酒はこの磊塊にそそぐものだそうだが、木山君の胸のなかにもこの磊塊があったように思うと言われた。私は成程と思い、木山君には確かに一片耿々《こうこう》の志といったものがあったことを更めて考えた。  井伏さんはまた、近頃外村繁君の小説を読み返して、外村君の小説をもっと重んじなければならぬと思った、晩年の外村君は小説家として相当大型になっている、と言われた。これも傾聴すべき意見であろう。  油屋での食事は七時頃に切り上げて、隣の中野屋に席を移した。この鮨屋は隠居の息子が兄弟で経営しているのだが、井伏さんの顔を見るなり大悦びで、おやじがお待ちしていますと言って、すぐ二階の隠居の部屋に招じられた。私には初対面であった。  すぐ酒になった。年を聞いてみると、隠居は明治四十一年生れだというから当年七十歳である。私は三十五年、井伏さんは三十一年で、いずれも明治生れだから、もっぱら昔の話になった。  富士見は、政友会の領袖《りようしゆう》小川平吉の勢力下にあったから、犬養木堂の別荘のあったことはよく知られている。この別荘はこんどの戦争中高射砲部隊か何かの兵舎になっていたので散々に荒され、犬養健がその後始末に困った話、政友会が政権を握っていた頃には、総選挙のときの買収が大へんで、一票何円かで運動員が警官と同道で買収に民家を歴訪した話、関東大震災のときは、富士見からも東京の空が夜は真っ赤に見えた話、正木不如丘が艶福家だった話、戦争中この町に疎開していた尾崎喜八の話(尾崎さんの色紙が壁にかかっていた)、その他いろいろで時間の経つのを忘れた。井伏さんは隠居にヂバチについて何か質問があったのかもしれなかったが、おしゃべりの私が邪魔をしたのではないかと、あとで後悔した。  私は翌三十一日の夕方帰京したが、井伏さんはまだ高森に滞在の筈である。  井伏さんは甲州が好きで、甲州の地理には実に詳しいが、高森の土地を選んだのも、甲州に近いからに違いない。ともかく高森では井伏さんは実に元気で、神彩奕々としていられる。 (昭和五十三年十月、『青春と読書』)   荻窪五十年  井伏さんの『荻窪風土記』が評判である。私も『新潮』に連載されている時から、毎号待ち兼ねるようにして愛読した。私にはあの作品の舞台も登場人物も永い間のなじみであるから、一般の読者より何層倍も楽しめたのではないかと思う。  私が荻窪に居を定めたのは昭和九年五月だった。六年二月に上京した私は、八年に世帯を持ち、勤め先の立教大学に近い長崎町に住んでいた。ひどい借家普請で、春一番が吹き荒れる季節になると、家のなかでもマスクをしていなければならないほどで、風のおだやかな関西生れの私たち夫婦には全く閉口だった。ところが幸いなことに、現在の八号環状線に面した、四面道に近い、清水町十六番地に、親戚の医者の持家があって、主人がしばらく北海道の病院に勤務するので、留守の間貸してくれることになった。渡りに舟とはこのことである。二階建のしっかりした家で、庭も広かった。小さな借家が一つついていて、その家賃を取り立てるのが私の仕事だった。あの頃は借家の数が多かったから、うちの借家も借り主がよく変った。後年、地震学の大家になったK氏が、大学の助手時代に一年ばかり住んでいたのを覚えている。  私が荻窪に来たのは井伏さんより七年あとだから、その頃は《当時の荻窪駅は、電車が今ほど頻繁に来なかつた。乗降客も一人か二人である》というようなことはなく、相当ににぎやかな町になっていた。しかし現在ほど家が建てこんでいなかったから、散歩する場所はいくらでもあった。そういう散歩の途中で偶然私は井伏さんのお宅を見つけたのである。それが私の家から歩いて十分とはかからない近くであるのにびっくりした。むろん私は井伏さんの名は知っていたし、フランスから帰った昭和五年秋に、偶然に読んだ、新興芸術派叢書の『夜ふけと梅の花』以来、井伏さんのファンであったから、私はすぐに井伏家に飛び込んで、こんどお近くに引越してきた河盛というものでフランス文学を勉強して居りますと挨拶した。誰の紹介もなしに、だしぬけに飛び込んだのであるから、それに私の名前などむろん御存じでなかったろうから、さぞ無礼な男と思われたに違いない。しかしすぐ座敷に上げて話相手になって下さった。どんなことを話したか全く覚えていない。  例の二・二六事件のときは、わが家も渡辺大将の家からそんなに遠くなかったから、この本を読んで久しぶりにいろいろなことを思い出した。  昭和十三年の春に、親戚の医者が帰ってきたので、私は同じ清水町の三十八番地に移った。こんどの家は井伏家に更に近く、歩いて五分とはかからなかった。ところが、もっと近くの、手の届くようなところに片山敏彦君の家があることを発見した。こんどもすぐに私は挨拶に参上したが、片山君は私のことを知っていた上に、共通の友人が多かったからすぐ親しくなった。片山君は奥さんを病気で亡くして独り暮らしをしていた頃で、それにとても人懐っこい人だから、私の訪問をいつも歓迎してくれた。私は片山君からそれまで私の最も不案内だったロマン・ロランを中心とするフランスのゲルマニストの文学者のことを詳細に教えられて実に勉強になった。このことを私は今でも深く感謝している。ロランについての片山君の造詣はさすがに大したものであった。この本では、アナトール・フランスの研究家ということになっているが、片山君のために訂正して頂けると有り難い。  片山君の家で私は初めて竹山道雄さんに紹介された。ナチの大嫌いな竹山さんは終始一貫してヒットラーを攻撃していた。当時のわが国のドイツ文学者は殆んどがナチに色眼を使っていたが、片山、竹山の両氏はその点実に立派だった。  そのうちに戦争が始まって、井伏さんは報道員として徴用されることになるが、その頃私は清水町から現在の天沼へ移っていた。井伏さんの徴用を聞いて、すぐお見舞に行ったが、まもなく、「必ず元気で帰ります。お国のために死んだりはしない積りです」という意味の手紙を頂いた。井伏さんの筆法を借りると、「そんなこと、ないしょ、ないしょ」と言うべきところだが、私は強く打たれたことを忘れない。そしてその言葉通り元気に帰国された。それから戦後までのことは私の記憶には全くないが、戦争が始まってから、確か十八年頃に、この本に出てくるおかめの店で、お酒の最後のストックをはたいて飲ませてくれる会があり、そのとき初めて私は太宰治君に紹介された。当時東北大学に勤めていた桑原武夫君が仙台へ帰る途中、わが家を訪ねてくれたのを幸い、その会に同道したことを覚えている。  私が井伏さんと本当に親しくなったのは戦後になってからである。それからのことは私の生涯の大切な部分と重なり合っていて、とても簡単には書くことができない。のみならず、戦後すでに四十年近くなる現在では、記憶もとみに薄らいでいる。ただ言えることは、この長い歳月、文学についてはもちろんだが、諸事百般について、井伏さんから実に多くのことを教わったということである。とりわけ酒を飲む楽しさと、酒飲みの作法を教えて貰ったことは大きい。そのために私の人生がどれだけ潤沢になったか測り知れない。  井伏さんは文学論などめったにしないが、どんな作家を尊重し、どんな作品を高く評価されるかを注意していることは実によい勉強になる。全く井伏さんの文学に対する趣味の良さは無類である。井伏さんとおしゃべりをしていると、目からウロコの落ちる思いのすることはしょっちゅうである。これも有り難いことである。  それにしても、年が寄って、何もかも弱くなり、以前のように夜を徹して酒を酌むことのできなくなったのは寂しい。それでも井伏さんにはいつでも会うことはできるが、この『荻窪風土記』に出てくる阿佐ヶ谷会の、幽明境を異にした親愛な酒友たちとは、もう二度と談論風発することができないと思うと、自分の住んでいる世界が実に味気のないものに思えてくる。しかしこの『荻窪風土記』を読んで、久しぶりに彼らのにぎやかな笑い声を耳もとで聞いたような気がして本当に懐しかった。「冬の夜や、いやです、だめです、いけません」というのは井伏さんの名句だが、そんな寒々とした冬の夜を暖めてくれるのがこの本である。 (昭和五十八年二月、『文学界』)   あとがき 『井伏鱒二随聞』と題したように、本書の主体は言うまでもなく対談の部分にある。 「聞くに随って記す」を意味する「随聞記《ずいもんき》」という言葉から、「記」を外して「随聞」だけにするのは意味をなさないことになるが、フランスには《En ?coutant××》(××に耳を傾けて)という標題の本があるので、それに当る日本語として「随聞」を思いついたのである。すでに田中隆尚氏に『茂吉随聞』という先蹤がある。それに『随聞記』とすると、道元禅師の高弟懐弉《えじよう》が師の垂示を忠実に記録した『正法眼蔵随聞記』を連想して、高僧の法話でも聴聞するようで、井伏さんの雰囲気にそぐわないからである。  私は五十年来、井伏さんと同じ町内に住み、しばしば置酒閑談して高教を仰ぐことのできる稀有の幸福に恵まれてきた。本書はその貴重な収穫である。本書の刊行を許諾された井伏さんの御好意に更めて深く感謝したい。   昭和六十一年六月 河 盛 好 蔵   この作品は昭和六十一年七月新潮社より刊行された。 Shincho Online Books for T-Time    井伏鱒二随聞 発行  2001年7月6日 著者  河盛 好蔵 発行者 佐藤隆信 発行所 株式会社新潮社     〒162-8711 東京都新宿区矢来町71     e-mail: old-info@shinchosha.co.jp     URL: http://www.webshincho.com ISBN4-10-861105-5 C0893 (C)Yoshiko Kawamori・Setsuyo Ibuse 1986, Corded in Japan