風船魔人・黄金魔人 横溝正史 [#表紙(表紙.jpg)]  目 次   風船魔人   黄金魔人 [#改ページ] [#見出し]  風船魔人    空行く天馬  世《よ》のなかにはときどき、妙《みよう》なことが、起こるものである。これからお話しする、変な事件《じけん》も、のちになってそれが風船魔人《ふうせんまじん》の最初の実験だったとわかるまでは、誰《だれ》が、何《なん》のためにやったいたずらなのか、さっぱりわからなかった。  それは桜《さくら》の花も満開《まんかい》の四月の半《なか》ばのことである。  上野公園《うえのこうえん》ではちょうどその頃《ころ》、産業博覧会《さんぎようはくらんかい》が開かれていた。そして、その博覧会の呼物《よびもの》として、天馬《てんま》サーカスというサーカス団《だん》が客《きやく》を集めていたが、そのサーカスの楽屋《がくや》から、とつじょ、変なものが、舞《ま》い上がってあっとばかりに、ひとびとを驚《おどろ》かせた。  それは一|頭《とう》の馬《うま》である。天馬サーカスにぞくする馬が、とつぜん、空に舞い上がったのだから、さあ大変だ。 「あっ、どうした、どうした。プリンス号《ごう》が空に舞い上がったぞ」  と、それを一番はじめに見つけたのは、ライオンの調教師《ちようきようし》だった。  その声にそばにいあわせたサーカス団《だん》のひとびとが、思わず空を見あげると、プリンス号はすでに、七、八メートルの上空《じようくう》へ舞い上がっているではないか。  プリンス号はじぶんでも驚《おどろ》いているのか、 「ヒヒン……ヒヒン……」  と、悲しげな泣《な》き声をあげながら、しきりに四本の足をバタつかせている。  見ると誰がつけたのか、プリンス号の腹《はら》から背《せ》なか、さては首《くび》のまわりまで、浮袋《うきぶくろ》のようなものが巻きつけてあり、おまけに一つ、二つ、三つ、四つ、五つ……  ぜんぶで七つの風船《ふうせん》が、からだの要所要所《ようしよようしよ》にゆわえつけてあるのだ。  それにしても馬《うま》一|頭《とう》、空《そら》へ舞い上がらせるとは、なんというものすごい浮揚力《ふようりよく》だろう。  博覧会につめかけていたひとはいうにおよばず、公園でお花見《はなみ》をしていたひとたちも、それを見つけると、夢《ゆめ》かとばかり目を疑《うたが》ったが、そういううちにもプリンス号は、ぐんぐん高度《こうど》をあげていって、サーカスのその名《な》のとおり、まるで空行く天馬《てんま》である。    バベルの塔 「あっ、馬だ、馬だ、馬が空へ舞い上がったぞ」 「あれ、あれ、馬が空を飛んでいく」  プリンス号が悲しげに、四本の足をバタつかせているのが、まるで宙《ちゆう》を蹴《け》って走っているように見えるのだ。  からだのあちこちにゆわえつけた、色《いろ》とりどりの風船が、春の日ざしに輝《かがや》いて、まるで、おとぎばなしのさしえのようにきれいである。  プリンス号はじぶんで走るわけではないが、折《おり》からの微風《びふう》に流されて、次第次第に不忍池《しのばずのいけ》の方へ流れていく。高度《こうど》は約《やく》百メートル、それ以上《いじよう》の浮揚力《ふようりよく》はないらしい。 「どうしたんだ。ありゃ、何かの広告《こうこく》かい」 「広告としても、馬《うま》一|頭《とう》、空へ舞い上げるとは、大変な力ではないか」  と、花と人とにうずもれた上野公園は、思いがけない空《そら》の見世物《みせもの》に、やんやとばかりわき立っていた。  と、このときだ。  サーカスのなかから顔色《かおいろ》変えて飛びだしたのは、肉《にく》に食いいるような黒いタイツを身《み》につけて、腰《こし》と胸《むね》のまわりには金《きん》ピカのかざりをつけた美青年《びせいねん》だった。年は三十|前後《ぜんご》だろう。この人こそ天馬サーカスの人気者《にんきもの》、ジョージ・広田《ひろた》という射撃《しやげき》の名手《めいしゆ》である。  見るとかたわきに銃《じゆう》をひっさげ、まっしぐらに人混《ひとご》みをかきわけて走っていく。  やがてジョージが駆《か》けつけたのは、この博覧会《はくらんかい》のかたすみにある、バベルという名《な》の高い塔《とう》、これは地方《ちほう》から見物《けんぶつ》にきたお上《の》ぼりさんに、ひと目で東京見物《とうきようけんぶつ》をさせるためにできた塔で、高さは、やく百メートル。  ジョージ・広田はバベルの塔へ駆けつけると、エレベーターへとびこんで、 「早く、早く、展望台《てんぼうだい》へ……展望台へ……」  エレベーター係りは、面くらったが、ジョージの剣幕《けんまく》に恐れをなして、すぐエレベーターにスイッチを入れる。  塔のてっぺんにある展望台は、それこそ黒山《くろやま》の人だかり。  と、見れば天馬プリンス号は、展望台と同じ高さに高度をたもち、百五十メートルほど横を流れていく。  ジョージ・広田は人をかきわけ、胸壁《きようへき》のそばへ駆け寄ると、銃《じゆう》をかまえて、プリンス号めがけて、きっとばかりに狙《ねら》いを定《さだ》めた。    七つの風船  プリンス号こそはジョージ・広田の愛馬《あいば》である。ジョージ・広田はプリンス号を駆けさせながら、馬上《ばじよう》から標的《ひようてき》を射《い》るのを得意としている。  ジョージ・広田は自分の愛馬を射《う》ち殺《ころ》す気なのか……。いや、そうではなかった。  一|瞬《しゆん》、二瞬……。  呼吸《こきゆう》をはかって、狙《ねら》いをさだめたジョージ・広田が、やがて引金を引いたかと思うと、ズドンという音とともに、パッと風船《ふうせん》の一つが爆発《ばくはつ》した。  これに気がついた見物は、わっとばかりに歓声《かんせい》をあげる。  ジョージ・広田は心配そうに、愛馬のようすを見ていたが、ふたたび銃を取りなおすと、二|発《はつ》、三|発《ぱつ》……。狙いはあやまたず、二つの風船が爆発する。  七つのうち三つまで風船を射ち破られたプリンス号は、からだを斜めにささえながら、しだいに高度《こうど》を下げていく。 「しめた!」  とばかりにジョージ・広田は、あと二つ風船を、爆発させた。  わかった、わかった!  ジョージ・広田は一つ一つ風船を射ち破っていくことによって、少しずつ浮揚力《ふようりよく》を落としていって、愛馬プリンス号を助けようとしているのだ。  ジョージ・広田は残る二つの風船を、射撃《しやげき》したものかどうかと思案している。もし風船をぜんぶ射ち破って、プリンス号がつぶてのように落下《らつか》したら、それこそ生命《いのち》は助からない。  ジョージ・広田は燃《も》えるような目で、塔の上からプリンス号を見まもっている。  公園をうずめつくしたひとびとも、ようすいかにと手に汗《あせ》にぎっている。  プリンス号の高度は次第次第に下がっていって地上《ちじよう》から約二十メートルほどのところまで降りてきた。ちょうどその下でお花見をしていたひとびとは、わっとさけんで逃《に》げまどう。  だが地上から、十五メートルほどまで高度が下がると、プリンス号はぴったり宙に止ってしまって、 「ヒヒン……ヒヒン……」  と、悲しそうにいななきながら、しきりにあしで宙を蹴っている。    探偵小僧 「プリンス、プリンス、しっかりしろ!」  そこへ駆けつけてきたのは、サーカス団の団員たちだ。  口に手をあて、下からプリンスの名を呼ぶと、それとわかったのか、プリンス号は四本の足をバタつかせながら、悲しそうにいなないている。  と、このとき、人混みをかきわけて、つかつかと前へ出てきたのは、三十五、六の青年と、十五、六|歳《さい》の少年だ。 「いったいあれは、どうしたんですか」  と、サーカスの人に尋《たず》ねると、 「いや、何が何やら、さっぱりわけがわからないんです」  と、サーカスの人も目をパチクリ。 「だけど、誰《だれ》があんな風船をくっつけたんです」 「いや、それがわかるくらいなら……。まるで夢《ゆめ》みたいな話で……」  と、調教師《ちようきようし》は目をこすっている。 「三津木《みつぎ》さん、あれだけの重量《じゆうりよう》の馬を、あの程度の大きさの風船で浮きあがらせるなんてガスが、はたしてこの世にあるんですか」 「だから、それがおかしい。探偵小僧《たんていこぞう》、こりゃ、ただごとではないぜ」  と、目を開かせたこの人こそ新日報社《しんにつぽうしや》の腕《うで》きき記者《きしや》……と、いうより名探偵《めいたんてい》のほまれもたかい三津木俊助《みつぎしゆんすけ》……。と、こういえば連《つ》れの少年が探偵小僧とあだ名のある、御子柴進《みこしばすすむ》であることがわかるだろう。  そこへジョージが駆けつけてきた。 「ジョージ、これからどうする気だ」 「いや、もう一つ、風船を射ち破ってみよう」  と、狙い定《さだ》めたジョージ・広田が、もう一つの風船を射ち破ると、プリンス号はぐんと高度を下げてきて、地上すれすれのところで、棒立《ぼうだ》ちになる。  首に風船がまだ一つ残っているからである。 「プリンス、しっかりしろ!」  すばやく馬の背にまたがったジョージ・広田が、全身《ぜんしん》にしばりつけてある浮袋《うきぶくろ》のガスを抜き、最後に首の風船を解《と》きはなすと、プリンス号はやっと地上にぴったり降りた。  だが、そのときだ。  右手《みぎて》に風船を持ったまま、左手《ひだりて》に馬の首を抱いていたジョージ・広田が、うっかりその左手《ひだりて》をはなしたかと思うと、なんと、そのからだが四、五メートル、フワリと宙に浮きあがったではないか……。    畔柳博士《くろやなぎはくし》 「はなせ! はなせ! その風船《ふうせん》をはなせ!」  と、下から躍起《やつき》となって叫《さけ》んだのは、三津木俊助《みつぎしゆんすけ》と探偵小僧《たんていこぞう》。  その叫び声《ごえ》に気がついたのか、ジョージ・広田《ひろた》はあわてて風船を手からはなした。  と、そのとたん、風船はぱっと空に舞い上がり、ジョージ・広田のからだはどさりと、馬の背におちた。  ジョージの顔《かお》はまっ青だ。  ジョージ・広田の手をはなれた風船は、まるで矢《や》をいるような勢いで、大空《おおぞら》高く飛んでいく。ひとびとはただ、あれよあれよと手に汗《あせ》をにぎって大空を見あげていたが、そのときだ。 「きみ、きみ、この騒《さわ》ぎは、いったいどうしたんじゃね」  と、しゃがれた声をかけられて、三津木俊助と探偵小僧がふりかえると、そこに立っているのは、腰《こし》が弓《ゆみ》のようにまがった老紳士《ろうしんし》。  ごましおまじりのどじょうひげと山羊《やぎ》ひげをはやし、左《ひだり》の目に片《かた》眼鏡《めがね》をかけているので、顔《かお》がおそろしくひんまがってみえる。古びたようかん色のモーニングをきて、シルクハットをかぶり、銀《ぎん》のにぎりのついたステッキをついている。  探偵小僧は、気味わるそうにあとずさりしたが、三津木俊助ははっとしたように、 「ああ、あなたは畔柳剛三先生《くろやなぎごうぞうせんせい》ではありませんか」  と、声をかけた。 「ああ、わしは、畔柳だが、君は?」 「はあ、ぼくはこういうものですが……」  と、三津木俊助は名刺を渡して、 「先生、先生もいまのをごらんになったでしょうが、馬一|頭《とう》、空に舞い上げるような、そんなすばらしい浮揚力《ふようりよく》をもつガス体《たい》が、はたしてこの世《よ》にあるものでしょうか」 「いや、それが不思議だから、ここへきたのだ」  と、老人《ろうじん》はプリンス号のからだをなでながら、 「これだけの馬をねえ。三津木君、これはただごとではないぜ。いまにきっと、何か持ちあがるにちがいない」  と、ぶつぶつ小声《こごえ》でつぶやいていたが、この片眼鏡の老紳士《ろうしんし》こそ有名《ゆうめい》な工学博士《こうがくはくし》、ガス体の研究では世界的学者《せかいてきがくしや》といわれる畔柳剛三博士である。    第二回目の実験  上野公園《うえのこうえん》のこの騒ぎは、テレビや新聞《しんぶん》で報道されて、どこへいっても、この噂《うわさ》でもちきりだった。  あの七つの風船とからだに巻きつけた浮袋《うきぶくろ》。ただ、それだけにつめたガス体で、馬一頭、百メートルの上空《じようくう》までひっぱりあげる浮揚力をもつ気体とは、いったいいかなるものかと、たくさんの学者が集まって、研究した。  しかし、誰《だれ》にもそのガス体の正体《しようたい》はつかめなかった。  天馬サーカスの団員《だんいん》は、警察《けいさつ》の人たちに厳重に調べられたが、誰もこれという返事《へんじ》はできなかった。だしぬけにプリンス号が浮き上がったので、びっくりしたというばかり。  思うに誰かが、プリンス号のつないであるところへ忍びより、それを裏《うら》の広場《ひろば》へ引きだして、浮袋《うきぶくろ》をつけ、風船をゆわえつけたにちがいないが、それが何者《なにもの》だか、プリンス号がものいわぬかぎり、見当《けんとう》もつかなかった。  ところが、それからひと月たった五月二十日のこと、東京のある夕刊《ゆうかん》に次のような広告《こうこく》が出て、あっと世間を驚かせた。 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]   皆さん、皆さんはこのあいだ上野公園《うえのこうえん》で、サーカスの馬《うま》が空《そら》高く舞い上がったのを御存じでしょう。あれこそは、私《わたし》の第一回の実験でした。あの実験が見事に成功《せいこう》したので、きたる五月二十五日の夜、第二回目の実験を行なう予定《よてい》であります。なにとぞ、その晩《ばん》は、銀座《ぎんざ》、日本橋方面《にほんばしほうめん》の空《そら》に気をつけていてください。 [#ここで字下げ終わり] [#地付き]風船魔人《ふうせんまじん》    これを読んで驚かぬ人はなかった。ああ、風船魔人とはいったい何者?  そして、第二回の実験とは、いったいどんなことをするのだろうと、ひとびとは非常に好奇心《こうきしん》にとらわれていたが、さて、約束《やくそく》の五月二十五日の晩のこと。 「畔柳先生、風船魔人は、ほんとうに約束《やくそく》をまもるのでしょうか」  そこは新日報社《しんにつぽうしや》の屋上《おくじよう》である。  このあいだの騒ぎ以来《いらい》、近づきになった畔柳博士を迎えて、三津木俊助と探偵小僧ははりきっている。二人とも飛行服《ひこうふく》に身をかため、そばには新日報社|自慢《じまん》のヘリコプターが待機《たいき》している。いざとなったら、いつでも出動《しゆつどう》できるかまえである。  畔柳博士はあいかわらず、弓《ゆみ》のようにまがった腰《こし》にステッキをつき、片眼鏡を光らせて、あたりを見まわしている。  そのへんのビルディングというビルディングの屋上は、黒山《くろやま》のような人だかりで、風船魔人の実験を、いまや遅《おそ》しと待《ま》ちかまえている。  と、夜の九時|頃《ごろ》のこと。  とつぜん、向こうのビルディングの屋上から津波《つなみ》のようなさわぎが、どっと起こった。    空行く魔人  すわ、なにごとと進と三津木俊助は、あわてて双眼鏡《そうがんきよう》を取りなおした。  畔柳博士も片眼鏡をかけなおし、声のする方へと目をむける。  と、このとき、北の空《そら》よりかすかに爆音《ばくおん》のようなものが近づいてきたかと思うと、双眼鏡のなかに現われたのは、世にも変てこなものだった。  それは人間《にんげん》の形をしていた。  そして、大きさも人間と同じくらいだった。人間が潜水服《せんすいふく》を着て、潜水ヘルメットをかぶったような恰好《かつこう》をしているのだった。  そして、からだのどこかに推進機《すいしんき》のようなものが、取りつけてあるに違いない。全身《ぜんしん》を水平《すいへい》にして、まっしぐらにこちらの方へ飛んでくるのだ。  しかも、全身に夜光塗料《やこうとりよう》を塗《ぬ》ってあるらしく、暗い夜空《よぞら》のもとを、まるで夜光虫《やこうちゆう》のように、きらきらと輝いている。 「あっ、あれが風船魔人の第二回目の実験なんだ!」 「ああ、人間が飛んでいく! 飛んでいく!」  と、あちらのビルディングでも、こちらのビルディングでも、わっとばかりにどよめき声が起こった。  それをしりめにかけて空行く魔人は、まっしぐらに新日報社の上空めがけて飛んできた。  その姿勢は、両手《りようて》をきちんと横腹《よこはら》につけ、からだを一直線《いつちよくせん》に保ったまま、うつむけになって飛んでいるのだ。それがちょうど頭《あたま》の上に飛んできたとき、魔人のかぶった潜水ヘルメットのようなかぶりものの、ちょうど顔《かお》の部分に当たるところに、ガラスかプラスチックのようなものが、はめてあるのに気がついた。  高度は約《やく》百メートル。  この魔物《まもの》のような光《ひか》りものが、頭《あたま》の上を飛び過ぎていくのを見送って、進と三津木俊助、さては片眼鏡の畔柳博士も、しばらくは声もなく、ただ呆然《ぼうぜん》と立ちすくんでいた。  だが、すぐ気をとりなおした三津木俊助、いそいでヘリコプターに乗りこむと、 「探偵小僧、なにをぐずぐずしているんだ。畔柳先生、あなたもどうぞ」 「ふむ、よし、それじゃ、わしも乗せておくれ」  進のうしろから、畔柳博士もよちよち乗りこむ。  こうして三人が乗りこむと、新日報社ご自慢《じまん》の新日報号は、爆音《ばくおん》高く、ふわりと屋上をはなれていく。  それを見ると付近《ふきん》のビルディングの屋上から、わっという叫び声《ごえ》が爆発した。    空の追跡  その夜、この奇怪《きかい》な空行く魔人を見た人は、それこそ、気が狂《くる》いそうなほどの驚きに打たれた。  魔人のからだからはなつ光《ひかり》は、しだいに強くなってきて、まるでネオンのように輝いた。 「先生、先生!」  と、三津木俊助はヘリコプターの前方《ぜんぽう》の窓《まど》から、食いいるように空行く魔人を見まもりながら、興奮《こうふん》した叫び声をあげた。 「あれはほんとうの人間でしょうか。それとも人間の形をした、機械《きかい》でしょうか」 「さあ、それはどちらともわしにもわからんが、ああして正確《せいかく》に同じ高度をたもっていくのが不思議じゃて」  畔柳博士は山羊《やぎ》ひげをふるわせている。 「三津木さん、三津木さん、あの魔人は方向転換《ほうこうてんかん》ができないらしいですね。さっきから同じ方向へ、一直線に飛んでいます。あっ、あれはなんです」  進が叫んだとき、魔人のからだの一部分から、ぱっと紫色《むらさきいろ》の火花《ひばな》が散った。  と、思うと魔人はぐうんと墜落《ついらく》していく。 「あっ、ガスが爆発《ばくはつ》したんじゃありませんか」 「ふむ、そうらしい。しかし……」  魔人の高度は急にぐうんと下がっていったが、約八十メートルほど上空までくると、そのまま、あいかわらず一直線に飛んでいく。 「ああ、ガスの一部分が爆発したらしい。しかし、まだまだガスが残っているんじゃね、あっ!」  博士の言葉と同時に、またもや紫色の火花が散って、ふたたび魔人のからだは急に落下《らつか》しはじめた。  しかし、六十メートルほどの高度になると、それきりまた、同じ高度を保って一直線に飛んでいく。 「わかった、わかった、三津木くん!」  と、畔柳博士は興奮に声をふるわせた。 「あの潜水服みたいなやつは、たくさんの風船からできているんだ。それが爆発するごとに、高度が下がっていくんじゃ!」 「操縦士《そうじゆうし》君、もっと魔人のそばへ近寄《ちかよ》れんのかね」  三津木俊助はもどかしそうに叫んだが、あいにく魔人とヘリコプターの最大《さいだい》スピードが、同じくらいだと見えて、いつまでたってもそばへ寄れない。  気がつくといつのまにやら、魔人と新日報号は、海の上へさしかかっていた。    風船爆発《ふうせんばくはつ》  探偵小僧《たんていこぞう》の御子柴進《みこしばすすむ》は、まるで夢《ゆめ》でも見ているような気持だった。  潜水《せんすい》ヘルメットに潜水|服《ふく》の風船魔人《ふうせんまじん》が、全身《ぜんしん》からあやしい光《ひかり》を放ちながら、まっ暗な海の上を一直線《いつちよくせん》に飛んでいく。それはまるで、おとぎばなしにでてくる魔法使《まほうつか》いのようである。  ヘリコプターのなかから進と三津木俊助《みつぎしゆんすけ》、畔柳博士《くろやなぎはくし》の三人が、手に汗《あせ》にぎって風船魔人を見ていると、やがてまた第三回目の爆発が起こって、高度はいま四十メートル。 「先生、先生、あの爆発は事故《じこ》で起こるのでしょうか。それともあらかじめ、爆発するように仕掛《しか》けてあるのでしょうか」  と、三津木俊助は興奮《こうふん》に声をふるわせている。 「いや、あれはあらかじめ計算《けいさん》されているらしい。時計仕掛《とけいじかけ》かなんかで、自動的《じどうてき》に爆発するようになっているんじゃないかな」  と、畔柳博士はさっきから、なにやらしきりにメモを取っている。 「先生、それはどうしてですか。どうしてそんな仕掛がしてあるんですか」  と、今度は進が質問《しつもん》した。 「いや、それはわしにもわからんが、ひょっとすると、風船一つに、どれくらいの浮揚力《ふようりよく》があるか、確かめているんじゃないかな。これが第二回目の実験だというんだから」 「しかし、先生」  と、三津木俊助がそばから口をはさんで、 「実験するなら実験するで、実験者がいなければならぬはずでしょう。実験者はどこにいるんです」 「三津木さん、ひょっとすると、あの潜水ヘルメットと服の中に実験の主《ぬし》がいるんじゃないですか」 「まさか……この前は馬で実験したんだ。それからいきなり人間を使うような、危険《きけん》な真似《まね》をするはずがない。先生、いかがでしょうか」 「そう、わしも三津木君の説《せつ》に賛成《さんせい》だね」 「しかし、先生、それでは実験の主はどうして、実験の結果《けつか》を知るんでしょう」 「それは、三津木君、君が新聞《しんぶん》に書くだろう。実験の主《ぬし》はその報告《ほうこく》を待っているんじゃないか」 「あっ、ちきしょう!」  と、進と三津木俊助が、思わず口の中で叫んだとき、またもや第四回目の爆発が起こって、高度は今《いま》や、海上二十メートル。 「ああ、三津木君、やっぱりわしの思ったとおりだ。爆発は、さっきから正確に、三分置きに起こっている。こんど爆発が起こったら……」  三人が時計片手にかたずをのんで、風船魔人をみつめていると、それからきっちり三分のちに、さっと紫色《むらさきいろ》の光が走ったかと思うと、それから続いて起こった大爆発で、風船魔人はこっぱみじんと砕《くだ》けて海面《かいめん》に飛んだ。    海上|捜査《そうさ》  風船魔人の第二回目の実験ほど、世間を驚かせたものはない。  このことは翌日《よくじつ》の新聞《しんぶん》を待つまでもなく、テレビのニュースで放映《ほうえい》されたので、その次の日の東京湾《とうきようわん》の海上は、やじうまの船《ふね》でいっぱいだった。  爆発した風船魔人のかけらでも、拾《ひろ》おうというのである。  警視庁《けいしちよう》でも等々力警部《とどろきけいぶ》が先頭に立ち、ランチをしたてて海に乗りだした。  新日報社《しんにつぽうしや》でも山崎《やまざき》 編集局長《へんしゆうきよくちよう》をはじめとして、三津木俊助に探偵小僧、それから畔柳博士その他《た》のひとびとが、同じランチをしたてて、海面探しを手つだった。  畔柳博士は山崎編集局長にたのまれて、風船魔人の事件《じけん》について、新しく新日報社の客員《きやくいん》となったのである。  やがて、爆発の現場《げんば》へ着くと、風船魔人のかけららしいものが、あたり一面に浮かんでいる。  それはゴムの切《き》れはしやゼンマイのかけら、プラスチックの破片《はへん》などだった。  警視庁のランチでは、等々力警部の命令《めいれい》で、それらの破片を片《かた》っぱしから、かき集《あつ》めていたが、そのうちに、探偵小僧の御子柴進が、おびえたような声をはりあげた。 「あっ、あそこに人間の足《あし》が浮いている!」  探偵小僧の叫び声《ごえ》に、一同《いちどう》がはっとその方を見ると、なるほど、ゆらめく海草《かいそう》の間《あいだ》から、人間の足らしいものが、にょっきりのぞいている。  新日報社のランチは、すぐその方へ進んでいった。そして、三津木俊助が熊手《くまで》のようなものをさしのべると、海草の間から、その片足《かたあし》をかき寄せた。  甲板《かんぱん》の上では、進をはじめとして、一同が手に汗にぎって、熊手の先《さき》を見つめている。片足はぶかりぶかりと海草の中を、浮いたり、沈《しず》んだりしながら、次第にこちらへ寄ってくる。 「なあんだ、人形《にんぎよう》の片足かあ」  その片足が目の下まで流れ寄ってきたとき、進は思わず、はっとしたように、溜息《ためいき》をもらした。  なるほど、俊助が甲板の上にすくいあげて見ると、それは蝋《ろう》でこさえた人形の足だ。 「畔柳博士、これで見ると、風船魔人は、蝋人形を使って実験したんですね」 「そう、そしてこの、蝋人形はおそらく日本人《にほんじん》のおとなの標準体重《ひようじゆんたいじゆう》にしてあったのだろう」 「しかし、先生、風船魔人はなぜ、その実験材料《じつけんざいりよう》を爆発させてしまったのでしょう」  と、山崎編集局長が尋ねた。 「それはもちろん、ガス体の秘密《ひみつ》を知られたくないからでしょうな」  と、どじょうひげの畔柳博士は、片眼鏡をはずして、ハンカチで拭《ふ》きながら、 「ほんに一かけらでも、風船《ふうせん》が残《のこ》っていたら……」  と、いかにも口惜《くや》しそうだったが、海上《かいじよう》の捜査《そうさ》の結果《けつか》によると、風船は完全に爆発したらしく、ガス体の秘密はとうとうわからなかった。    俊助の心配  二回にわたる風船魔人の実験ほど、世間を驚かせたものはない。  いやそれは、日本《にほん》のみならず、世界的《せかいてき》の話題《わだい》になった。  あの潜水服《せんすいふく》のような服は、おそらく、ガス体をつめた、たくさんの風船の寄り集まりからできているのだろう。  しかし、わずかあれだけの容積《ようせき》で、人間ひとり、空を走らせるというのは、いったいどのようなガス体なのであろうと、それが世界中《せかいじゆう》の学者の問題となった。  そして、とつじょ東京の空にあらわれた風船魔人は、いまや空とぶ円盤以上《えんばんいじよう》に、世界中から注目《ちゆうもく》されるようになったのだ。  警視庁では躍起《やつき》となって、風船魔人がどこから飛んできたのか調《しら》べたが、いまのところ、皆目《かいもく》わからない。  風船魔人がまっすぐに、北から南へ飛んだことは明らかだったが、全身から、ネオンのような光をはなちだしたのは、神田《かんだ》の空あたりかららしい。  それより北に住《す》む人びとは、空に爆音のような音を聞いたけれど、別に気にもとめなかった。また飛行機《ひこうき》が飛んでいるのだろうくらいに思っていたのだ。  ただ、ひとり本郷《ほんごう》に住む少年が、夜学《やがく》からの帰《かえ》りがけ、爆音のようなものを耳にして、ふと、空をあおいで見たところが、人間の形をした、まっ黒なものが、神田の方へ飛んでいくのを見たという。  少年はびっくりして、騒《さわ》ぎたてたが、高度があまり高くなかったので、少年の声を聞いた人びとが、家の中から飛びだしてきた時には、もう姿は見えなかった。  そこで、その少年は夢《ゆめ》でも見たのだろうと、さんざん、みんなにひやかされたが、それから一時間《いちじかん》もたたぬうちに、実際《じつさい》に風船魔人が飛んだと聞いて、その少年は大いばりだったという。  さて、本郷から、さらに北へ行くと、もう誰《だれ》も風船魔人を見たものはなかったし、また、爆音に気がついたものも稀《まれ》だった。  これでみると、風船魔人がどこから飛びだしたにしろ、それが東京都内《とうきようとない》であることだけは確かだった。 「それにしても風船魔人は、なんだってこんな人騒がせをするのでしょう」  と、新日報社の会議室《かいぎしつ》では、畔柳博士をまじえて、風船魔人について会議をしている。  いま発言《はつげん》したのは、社長《しやちよう》の池上三作《いけがみさんさく》だ。 「あれだけのガスを発明《はつめい》したのなら、それを学界《がつかい》に発表《はつぴよう》すれば、大変な名誉《めいよ》だし、また、お金《かね》がほしいのなら、いくらでもパテント料が取れると思うのだが」 「社長さん、それなんですよ」  と、三津木俊助もからだを乗りだして、 「ぼくも、この風船魔人のやりくちには、なんだか犯罪《はんざい》のにおいがあるように思えてならない。畔柳先生、いかがです」 「わしもそう思う」  と、畔柳博士も同意《どうい》して、 「これを発明した男は、天才的《てんさいてき》な頭《あたま》の持《も》ち主《ぬし》にちがいないが、いっぽう頭がおかしくなっているのではないか」  と、度《ど》の強い片《かた》眼鏡《めがね》を拭《ふ》きながら畔柳博士は溜息《ためいき》をついたが、のちになって、この時の俊助の心配《しんぱい》が、事実となって、現われたことに気がつくのである。    第三回目の実験  こうして、風船魔人の正体もつかめぬうちに、一月《ひとつき》ほどたったが、すると六月二十日の夕刊《ゆうかん》に、またしても風船魔人の予告《よこく》が現われて、あっと世間を驚かせた。 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]   みなさん。   みなさんは私の第一、第二の実験を御存じでしょう。私の研究《けんきゆう》は、あれから、さらに進みました。そこで、近く第三回目の実験を行《おこ》ないます。どうぞ来たる六月二十五日の夜《よる》の、東京《とうきよう》の空《そら》に気をつけていてください。 [#ここで字下げ終わり] [#地付き]風船魔人    さあ、これを読んで、驚かないものはなかった。このまえ予告が出たとき、その対策《たいさく》を講《こう》じていたのは、新日報社だけだった。  ほかの新聞社はいうにおよばず、警視庁まで、高をくくって、問題にしなかった。  そのため、警視庁はあとになって、世間から、ごうごうたる非難《ひなん》の声を浴びせられた。  だから、こんどはどこでも手ぐすねひいて、準備万端《じゆんびばんたん》おこたりなく、あちこちのビルの屋上には、サーチ・ライトまで用意された。  さて、いよいよ、六月二十五日の夜のこと。東京の空にはいたるところで、飛行機やヘリコプターが待機《たいき》していた。  そして、あちこちのビルの屋上から、サーチ・ライトが空に向けられ、まるで、敵機《てつき》の空襲《くうしゆう》にそなえるような、ものものしさである。  地上は地上で、どの屋根の上にも人が立っていて、ビルディングの屋上など、鈴《すず》なりの人だかりだった。  新日報社の上空には、新日報号がゆるく旋回《せんかい》している。この前は、風船魔人の姿《すがた》を見てから飛び出したので、とうとう追いつくことができなかった。  そこで、今度は空で待機しているのだ。  機上《きじよう》の人は探偵小僧の御子柴進と三津木俊助、それから畔柳博士の三人である。 「三津木さん、風船魔人は研究が進んだといってますが、いったい今度は、どんなことをやるんでしょう」 「さあ、それはぼくにも、わからないよ。畔柳先生、あなた、何《なに》か心当たりは……?」 「いや、わしにもわからんな。風船魔人は天才《てんさい》なんじゃ。とてもわしごとき者のおよぶところでない」  と、畔柳博士はどじょうひげをふるわせたが、その時だ、麹町《こうじまち》へんの空を旋回《せんかい》していた飛行機の動きが、急に活発《かつぱつ》になってきた、と、思うと、サーチ・ライトが激しく動いた。 「あっ、来た!」  新日報号の機上では、一同思わず手に汗をにぎる……。    空のダイビング 「それ、操縦士《そうじゆうし》君、たのむぜ」  と、勇み立った三津木俊助《みつぎしゆんすけ》の合図《あいず》に従い、新日報号《しんにつぽうごう》は爆音高く、麹町《こうじまち》の方へ向けて移動《いどう》する。  風船魔人《ふうせんまじん》やいずこ……。  と、ヘリコプターの機上《きじよう》では、三津木俊助と探偵小僧《たんていこぞう》の御子柴進《みこしばすすむ》、畔柳博士《くろやなぎはくし》の三人が双眼鏡《そうがんきよう》をにぎりしめ、うの目たかの目で、サーチ・ライトのうごきを追《お》っている。  やがて、進が、 「あっ、あそこだ!」  と、かなきり声をはりあげた。  と、見れば、サーチ・ライトとサーチ・ライトのむすびめにかっきりとらえられて浮《う》きあがったのは、やはり、このあいだと同じように潜水《せんすい》ヘルメットと潜水服に身をかためた風船魔人《ふうせんまじん》だ。  魔人はあいかわらず、ネオンのような光《ひかり》を全身《ぜんしん》から放っている。  しかし、この前の風船魔人は、両手《りようて》をきっちり両わきにたれていたのに、今夜《こんや》の風船魔人は、両手を高く上にさしあげている。しかも、このあいだの風船魔人は、同じ高度《こうど》を水平《すいへい》に走《はし》っていたのに、今夜の風船魔人は、斜め上方《じようほう》に上《のぼ》っていくのだ。 「先生、先生!」  と、三津木俊助は興奮《こうふん》した声で叫《さけ》んだ。 「今夜の風船魔人の動きは、この前と少し違うようですね」 「ふむ、それだけ研究《けんきゆう》が進んだというわけじゃろう」  やがて、風船魔人はある高度まで達すると、急に全身からパチパチと、小さい火花《ひばな》を散らしはじめた。  と思うと、くるりと頭《あたま》を下にして、斜め下方《かほう》へもぐりはじめる。  それはちょうど水泳《すいえい》の、ダイビングの選手《せんしゆ》のような恰好《かつこう》だった。 「あっ、三津木君、わかった、わかった」  と、畔柳博士も興奮に声をふるわせて、 「あの、パチパチと火花が散るのは、小さいガス袋《ぶくろ》が連続的に爆発するんだ。そして、それだけガスが減るにしたがって、風船魔人は下降《かこう》していくにちがいない」  ダイビングする風船魔人は、全身からパチパチと、小さい火花を散らしながら、ある高度まで下がってきた。  と、急に火花の散るのがぴったりやんだかと思うと、そこでまた、風船魔人はおもむろに姿勢《しせい》を立て直しはじめた。    空の投網《とあみ》 「あっ、風船魔人が上《のぼ》りはじめた。風船魔人が上りはじめた!」  探偵小僧の御子柴進は、夢中《むちゆう》になって叫んでいる。  三津木俊助も夢《ゆめ》でも見ているのではないかと、双眼鏡をにぎりなおした。  しかし、夢を見ているのではなかった。さっきまで下降していた風船魔人は、いまやまた、斜め上方に向かって上りはじめたのだ。 「先生、先生、これはいったいどうしたんです。いったん降《お》りはじめた風船魔人が、ふたたび上っていくなんて……」 「三津木君、それはこうとしか考えられん。あの潜水服のなかには、非常に精密《せいみつ》にできたガスの補充機関《ほじゆうきかん》があって、そこで新しいガスを製造《せいぞう》し、それが、いったんぬけたガスを自動的《じどうてき》にうずめているのだと……。ああ、この研究がもっともっと進んだら……」  と、畔柳博士は声をふるわせた。 「先生、先生、この研究がもっともっと進んだら、いったい、どうなるとおっしゃるんですか」  進が、心配そうに尋《たず》ねた。 「ふむ、そのあかつきは、人間《にんげん》は自由自在に空を飛び、空を歩くことができるのじゃないか。風船魔人はそれを目的《もくてき》として、こういう実験を重ねているのじゃないか」  そういえば風船魔人の実験は、回を追うごとに複雑《ふくざつ》になっている。  第一回は馬を空へ吊《つ》りあげるだけだった。  第二回目はそれから見ると少し進歩《しんぽ》して、自動的《じどうてき》に高度《こうど》を下げることを行《おこ》なった。  そして、第三回の実験では、いったん下がった高度を、ふたたび上げることに成功《せいこう》したのだ。  あれ、見よ。風船魔人の全身から、ふたたび火花が散りはじめて、頭を下に、またもや、ダイビングをはじめたではないか。  こうして、東京都民《とうきようとみん》の恐怖《きようふ》の目にさらされた風船魔人は、ジグザグと、あるいは高く、あるいは低く、いくつかの山形《やまがた》をえがきながら、またしても、東京湾《とうきようわん》の空にむかって飛んでいく。  その前後左右《ぜんごさゆう》には、たくさんの飛行機やヘリコプターが、すさまじい爆音をたてながら飛んでいく。新日報号もそのうちに、まざっていたことはいうまでもない。  あちこちのビルの屋上から照らされるサーチ・ライトが、この奇怪《きかい》な行列《ぎようれつ》をとらえようとして、前後左右に入《い》り乱《みだ》れる。 「あっ!」  と、とつぜん、探偵小僧の御子柴進が、双眼鏡にしがみついたまま叫んだ。  それも無理《むり》はないのである。ちょうど風船魔人の真上を飛んでいた飛行機《ひこうき》から、いましもパラリと網《あみ》のようなものが投《な》げおろされて、それがスッポリと、魔人のからだを包《つつ》んだのである。    怪《かい》ヘリコプター 「あっ、しめた!」  三津木俊助はおもわず椅子《いす》から、からだを乗りだす。 「先生、先生、どうやら風船魔人はとらえられそうですぜ。そうすると、すべての秘密《ひみつ》が明るみに出る」 「ふむ、三津木君、それは有難《ありがた》いが、それにしてもあの飛行機は……?」 「アメリカ軍《ぐん》の飛行機のようですね」 「ふむ、アメリカもこのガス体の秘密を知りたいのじゃな」  飛行機から投げおろされた大きな網はまるで投網《とあみ》のようにひろがって風船魔人の上におおいかぶさった。そして、網のすそについている、たくさんのおもしの作用《さよう》によって、スッポリと風船魔人をくるんでしまった。  風船魔人は投網にとらえられた魚のように、ブルン、ブルンと奇妙《きみよう》な音《おと》をたてながら、あっちこっちとはねまわる。それは、怒《いか》りにくるった大魚《たいぎよ》のようだ。  しかし、飛行機から投げられた大きな網はきっと鉄線《てつせん》で作られているに違いない。  あばれまわる風船魔人をくるんだまま、機首《きしゆ》を転《てん》じて北のほうへ引き返そうとする。  と、その時である。  さっきから風船魔人のまわりを飛《と》んでいた一|台《だい》のヘリコプターの窓《まど》から、さっと青白《あおじろ》い火花《ひばな》が走《はし》ったかと思うと、しばらくして、ズドンという銃声《じゆうせい》が聞えてきた。  誰かが、ヘリコプターの機上から、風船魔人を狙撃《そげき》したのだ。狙《ねら》いはあやまたず、風船魔人の爆発|点《てん》に命中《めいちゆう》したのに違いない。  さきほどからきらきらと、ネオンのように輝《かがや》いていた風船魔人は、とつぜん、大きな物音《ものおと》とともに、木《こ》っぱみじんと砕《くだ》けて飛んで、さすがに頑丈《がんじよう》な鉄《てつ》の投網もズタズタにさけて破れた。 「あっ!」  新日報号の機上で一同が手に汗にぎったとき、奇怪《きかい》なヘリコプターは明りを消《け》して、はや、闇《やみ》のなかに呑《の》まれていた。    探偵小僧《たんていこぞう》の活躍《かつやく》  こうしてせっかくのアメリカ軍の苦心も、まんまと水の泡となってしまった。  風船魔人を首尾《しゆび》よく投網の中にとらえたと思ったのもつかのま、奇怪《きかい》なヘリコプターの機上から狙撃されて、風船魔人は木っぱみじんとなって、砕け飛んだ。  そして、あとにはなんの痕跡《こんせき》も残らない。不思議なガス体の秘密は、またしても、闇《やみ》から闇と葬《ほうむ》りさられた。  これからみると風船魔人の仲間《なかま》のものがヘリコプターに乗って、ひそかにあとをつけてきたことがわかるのだ。そして、大切な証拠《しようこ》の品《しな》が、明るみへ出るのを恐れて、爆発させてしまったのだろう。  その次の日の新聞《しんぶん》で、こういうニュースを読んだひとびとは、風船魔人の一味《いちみ》が、思いのほか大仕掛なのに気がついて、いまさらのように驚き、恐れた。  風船魔人は、こういう実験を重ねていって、いったい、何をやらかすつもりなのだろう。  それはさておき、風船魔人の三回目の実験があってから三日目の正午《しようご》過ぎのこと。  目黒駅《めぐろえき》のプラット・ホームへいましも電車《でんしや》から降りてきた一人の少年がある。いうまでもなく、それは探偵小僧の御子柴進だ。  進はプラット・ホームに貼《は》ってある、大きなポスターに気がつくと、思わずきらりと目をひからせた。  それは、天馬《てんま》サーカスの広告《こうこく》だった。  天馬サーカスといえば君たちもおぼえているだろう。風船魔人が第一回目の実験に利用《りよう》した、名馬《めいば》プリンス号《ごう》のいるサーカスだ。  ポスターの上には横《よこ》に天馬サーカスと書いてあり、その下に名馬プリンス号の上に突っ立っている、ジョージ・広田の颯爽《さつそう》たる姿《すがた》が写真《しやしん》で出ている。  ジョージ・広田といえば名射撃手《めいしやげきしゆ》で、プリンス号を吊《つ》りあげた風船をものの見事《みごと》に狙撃《そげき》して、愛馬プリンス号を救った青年《せいねん》である。  その天馬サーカスが、今日から目黒駅の近くで興行《こうぎよう》しているのだ。進は、さりげない顔をして、ポスターの下に書いてある興行の場所《ばしよ》を読みとると、そのまま駅《えき》から出ていった。  そして、それから五分の後《のち》、やってきたのは天馬サーカスのテントの前である。  その日はちょうど日曜日だったので、サーカスの前にはいっぱい少年少女が並んでいる。サーカスが切符《きつぷ》を売《う》り出すのを待っているのだ。  探偵小僧の御子柴進も、なにくわぬ顔をして、その行列《ぎようれつ》のなかに加わった。  進のうしろにも、見ているうちに行列が長くのびていった。もちろん、大人《おとな》の人たちも大勢まざっていた。 「ジョージ・広田はすごいんだってな」 「すごく、じょうずな射撃手だそうだよ」 「映画《えいが》に出てくる人のようにね」  などと、待っているうちから、みんなは興奮しているようだ。  そうした周囲《しゆうい》のさわぎの中に、進は、ただ一人、賑《にぎ》やかに貼《は》りめぐらされたポスターなどを眺《なが》めて、ボンヤリと開場《かいじよう》するのを待っていた。  いや、決《けつ》してボンヤリしているわけではあるまい。なぜって、進ほどの少年が、なんの目的《もくてき》もなしに、風船魔人の事件で忙《いそが》しい最中《さなか》に、ノンビリと、サーカスなどを、見にくるはずがないではないか。  ああ、探偵小僧の御子柴進は、いったい、何を狙《ねら》って、ワザワザ、このサーカスにやってきたのだろうか。    風船《ふうせん》を持った男  天馬《てんま》サーカスは大入《おおい》り満員《まんいん》である。お客《きやく》さんの大部分《だいぶぶん》は、子供たちだったが、なかには大人《おとな》もまざっている。  進は、丸太《まるた》で組《く》みたてた桟敷《さじき》の一番うしろに陣取《じんど》っている。そして、目の下の円形広場《えんけいひろば》で、次から次へと演《えん》じられる、いろんな曲馬《きよくば》や曲芸《きよくげい》を、ただぼんやりと眺《なが》めていた。  進は、何《なん》のためにここへやってきたのか、自分でもはっきりわからないのだ。ただ、はじめて風船魔人《ふうせんまじん》の実験の行《おこ》なわれたのが、このサーカス団だったことが、なんとなく気にかかっているのである。  それと、このあいだの晩《ばん》、ヘリコプターから、たった一|発《ぱつ》のもとに風船魔人の発火点《はつかてん》を射撃《しやげき》した、あのすばらしい腕《うで》まえが、ただごとでないような気がしてならないのだ。  それはさておき、次から次へと演じられる、ハラハラするような曲芸や曲馬に、子供たちは大喜《おおよろこ》び。また、曲芸や曲馬のあいまあいまに飛び出してくるピエロの奇妙《きみよう》なそぶりに、満場《まんじよう》ゲラゲラ大笑《おおわら》い。  このピエロは顔をまっ白に塗《ぬ》って、顔じゅうべたべたにトランプのハートやダイヤが書いてあるので、どんな男だかわからないが、そうとう、年寄《としよ》りらしく思われる。プログラムを見ると、   ピエロ……ヘンリー・松崎《まつざき》  と、ある。  このヘンリー・松崎と、名射撃手のジョージ・広田《ひろた》が、天馬サーカスでの人気者《にんきもの》なのだ。  さて、プログラムもおいおい進んで、いよいよジョージ・広田の曲馬と曲芸が、はじまろうとする、少し前のことである。進のすぐそばへやってきた一人の男がある。  進はなにげなく、その男のようすを見たが、思わずギョッと息《いき》をのんだ。  大人《おとな》のくせにその男、子供のように風船を手に持っているのである。子供の連れでもあるのかと思って、進はあたりを見まわしたが、それらしい姿《すがた》も見あたらなかった。  その男はキョロキョロあたりを見まわしていたが、そこが気にいったのか、進のすぐ隣《となり》へ腰《こし》をおろした。  大きな黒眼鏡をかけ、ニヤニヤと、笑っているのがうす気味わるい。  しかも、その男の持っている風船が、ときおり、ふらふら顔をなでにくるので、進は、いよいよ気味がわるくてたまらない。  しかし、あいにく大入り満員の桟敷《さじき》のうえ、どこにも逃《に》げていく場所《ばしよ》はない。  進は仕方なく、そのままそこに我慢《がまん》をしていたが、やがて、ワッとわきあがる叫《さけ》び声《ごえ》は、いよいよ人気者のジョージ・広田の登場《とうじよう》である。    怪風船《かいふうせん》  パン、パン、パン! と、にわかに聞こえるピストルの音は、ジョージ・広田登場の合図《あいず》だ。  愛馬《あいば》プリンス号《ごう》にまたがって、ジョージ・広田は二丁ピストルから、空砲《くうほう》を五、六発ぶっぱなすと、さっそうとして、円形広場《えんけいひろば》へ乗りだした。  ジョージ・広田にとって、プリンス号は下駄《げた》か靴《くつ》のように、はきものも同様なのだ。手綱《たづな》も取らずに両手《りようて》のピストルをぶっぱなしながら、ゆうゆうとして円形広場をまわっている。  金ピカの衣装《いしよう》が美しく、ニコニコと笑いをたたえたその顔に、こぼれるような愛嬌《あいきよう》がある。子供たちをはじめとして、大人《おとな》までがその姿《すがた》を見ると、ワッと声をあげて手をたたいた。  ジョージ・広田はゆうゆうと、円形広場をひと回りすると、腰にピストルをしょいこみ、それからいよいよジョージ得意《とくい》の曲乗《きよくの》りである。  あるいは馬の上に逆立ちしたり、あるいはプリンス号の腹《はら》にぶらさがったり、なみ足、駆け足、自由自在《じゆうじざい》に馬を走らせる。  この曲乗りがようやく、終りに近づいてきた頃《ころ》、ヒョコヒョコと、円形広場へ飛びだしてきたのは、ピエロのヘンリー・松崎だったが、その姿を見ると、見物《けんぶつ》はワッとばかりに笑いころげた。  それもそのはず、ジョージ・広田のまたがるプリンス号にひきかえて、ヘンリー・松崎の乗っているのは、やせっこけたろば[#「ろば」に傍点]である。  背《せ》のヒョロ高い松崎は、まるで足も地《ち》にひきずらんばかりにして、ヒョコリヒョコリと出てきたのだから、これでは見物が笑いころげるのも無理《むり》はない。  ここでジョージ・広田とヘンリー・松崎の、腹の皮《かわ》もよじれるようなこっけいなやり取りがあったのち、やがて、ろば[#「ろば」に傍点]に乗ったヘンリーの手から、トランプのカードが投《な》げられる。  カードはまるで生《せい》あるもののごとく、キリキリと虚空《こくう》に回転《かいてん》しながら飛んで行く。と、ジョージ・広田がやにわにとりだしたのは二丁ピストル。  ヘンリーの手から放《はな》れて、次から次へと飛んで行くカードを、ズドン、ズドンとかたっぱしから撃《う》ち落《おと》していく、その手並《てな》みのあざやかさ。  見物席《けんぶつせき》から嵐《あらし》のような拍手《はくしゆ》がわきおこったが、その時である。  さっきから、探偵小僧《たんていこぞう》の鼻《はな》さきで、ブラブラ、ブラブラゆれていたあのゴム風船が、突然《とつぜん》、パーンと爆発《ばくはつ》した。  進は思わずはっとしたが、そのとたん、風船の中から、なんともいえぬ甘《あま》ずっぱいガスが、探偵小僧の鼻さきへ流れてきた。  進は思わず一|息《いき》、二息、それを吸《す》ったが、すると、急に頭《あたま》がクラクラとして、いつのまにやら前へつんのめっていた。 「おや、坊《ぼう》や、どうかしたのかい、気分《きぶん》でも悪いのかい」  と、風船を持っていた黒眼鏡の怪《あや》しい男は、進を抱き起《お》こすと、あたりを見まわし、ニヤリとうす気味わるい笑いをもらした。  しかし、ジョージ・広田の曲芸に、夢中《むちゆう》になっている見物たちは、誰《だれ》ひとりとしてこのことに気がついたものはなかったのである。    ライオンの檻《おり》  それから、いったい、どれくらい時間がたったのか……。  探偵小僧の御子柴進《みこしばすすむ》は、なんともいえぬ息苦《いきぐる》しさと、プーンと鼻をつくへんな臭《にお》いに、ふと目をさました。  あたりを見まわすと、まっ暗《くら》なうえに、からだ全体《ぜんたい》が、妙《みよう》にきゅうくつである。  進は、ギョッとして、からだをむずむずさせていたが、そのうちに、目の前に明りのさす穴《あな》があるのに気がついた。  進はその穴へ目をやって、しばらく外《そと》をのぞいていたが、突然《とつぜん》、きもったまもひっくりかえるような、大きな驚《おどろ》きに打たれたのである。  なんと、進はいつのまにやら、ライオンになって、ライオンの檻《おり》のなかにねているのだ。  いやいや、人間《にんげん》がライオンに早変りするはずはない。  進は眠《ねむ》っているまに、ライオンの皮《かわ》をかぶせられ、ライオンの檻《おり》のなかにほうりこまれていたのだ。  あまりの驚きに進は、思わずなにか叫《さけ》んだが、そのとたん、言葉のかわりに、 「ウォーッ!」  と、ライオンの叫び声《ごえ》が口から出た。  探偵小僧の御子柴進は、その時はじめて、さるぐつわをはめられて、口をきくこともできなくなっているのに気がついた。  そして、口をきこうとして息《いき》に力《ちから》をいれると、 「ウォーッ!」  と、ライオンのうなり声のような、笛《ふえ》が鳴る仕掛けになっているのである。  ああ、進はいまこそはっきり、悪者《わるもの》の落し穴におちたことに気がついたのだ。あの黒眼鏡の男が持っていた風船の中には、人を眠らせるガスがつめてあったに違いない。  そして、あの風船が破れたとき、風船からもれたガスを、進は思わず吸《す》ったのだ。  そして、眠りガスの作用《さよう》によってコンコンと眠っているあいだに、悪者のとりこになってしまったに違いない。  そして、ここはいったい、どこなのか? それはあらためて考えるまでもない。  こうして、ライオンの皮をかぶせられ、ライオンの檻に入れられているからには、てっきり、天馬サーカスのテントの中に違いない。  ああ、それではやっぱり、探偵小僧が目をつけたとおり、風船魔人の一味というのは、この天馬サーカスの連中《れんじゆう》だったのではあるまいか。  探偵小僧の御子柴進は、思わず大きく息をもらしたが、そのとたん、 「ウォーッ!」  と、ふたたび笛が鳴る。  その声を聞きつけたのか、 「あっはっは、探偵小僧、目がさめたか」  と、檻の外から人の声が聞こえたので、進がギョッと顔をあげると、そこにはピエロのヘンリー・松崎、その左右《さゆう》にはジョージ・広田と、それからさっきの黒眼鏡の男が立って、ニヤニヤと、檻の外から笑《わら》っている。  黒眼鏡の男はライオン使いの、トム・高田《たかだ》という男であった。  この天馬サーカスの連中は、ジョンだのヘンリーだのトムだのと、みんな西洋人《せいようじん》みたいな名前を持っているのだ。    生きた実験台《じつけんだい》 「トム、探偵小僧に少し聞きたいことがある。ライオンの頭をはずしてやれ」  そう命令《めいれい》したのはピエロのヘンリー・松崎だ。  客《きやく》の前へ出ると、おどけた芸《げい》でひとを笑わすのを役目《やくめ》としているピエロだが、その実、この天馬サーカスではいちばんのボスらしい。 「はっ」  と、答えてトム・高田が檻のなかへ入ってくると、進の顔からライオンの頭をはずしてくれた。  その頭は外とうについているフードのように、うしろへはねのけることができるようになっているのだ。  それから、トム・高田が、さるぐつわをはずしてくれたので、探偵小僧の御子柴進は、やっと大きく息をすることができるようになった。 「探偵小僧、おまえはここへ何しにきた。誰の命令でここへやってきたのだ」  檻の外に立っている、ヘンリー・松崎の声は、尋問《じんもん》するような調子《ちようし》である。  進はその声に、どこか聞き覚《おぼ》えがあるような気がして、おやっと、相手《あいて》の顔を見なおした。  しかし、なにしろ、顔じゅうまっ白にぬたくったうえに、トランプのハートだのダイヤだのを、べたべたと一面に書いてあるので、どんな顔だかさっぱりわからない。 「ぼく、誰の命令できたのでもありません。通りかかったら面白そうなので、ちょっと入ってみる気になったんです」 「うそつけ。きっと、三津木俊助《みつぎしゆんすけ》の命令でこのサーカスを探《さぐ》りにきたのだろう」 「ちがいます。ちがいます。三津木さんはなにも知らないのです。ぼくひとりの考えで、ここへようすを見にきたんです」 「なに、三津木俊助は知らないのだと……?」  と、ピエロはにやりと笑ったが、おお、その笑い顔《がお》のうす気味わるいこと。 「団長《だんちよう》、この子をつかまえて、いったい、どうするつもりですか」  と、ジョージ・広田がそばから尋ねた。 「なあに、風船魔人の第四回の実験に、この子を使ってみようと思うのだ。いつまでも人形《にんぎよう》じゃはじまらない。こんどはひとつ、生《い》きた人間《にんげん》を実験台《じつけんだい》にしようと思っていたところだ。わっはっは!」  ああ、探偵小僧の御子柴進は、はたして、どのような、実験台にされるのだろうか。    卓上《たくじよう》日記  探偵小僧《たんていこぞう》の御子柴進《みこしばすすむ》が、ゆくえ不明《ふめい》になってからはや三|日《か》たつ。  新日報社《しんにつぽうしや》では、はじめのうち、日《ひ》ごろ元気《げんき》な進も、珍《めずら》しく、病気《びようき》で休《やす》んでいるのだろうと、軽く考えていたのだが、家からの連絡《れんらく》で、ゆくえ不明とはっきりわかったのは、水曜日の朝のことだった。 「三津木《みつぎ》君、それじゃ、探偵小僧は、誰《だれ》かに誘拐《ゆうかい》されたというのかい」  山崎《やまざき》 編集局長《へんしゆうきよくちよう》も、心配《しんぱい》そうな顔色《かおいろ》である。 「そうです、そうです。そうとしか思えません。日曜日の朝、家を出たきり、いまもって帰ってこないというのですから、何者《なにもの》かにさらわれたとしか思えません」 「しかし、あの子がむざむざ、人さらいにあうような子供だとも思えないが……」 「そうですとも。それですから、ぼくはいっそう心配しているんです。ひょっとすると、何かを探りだそうとして、あべこべに、悪者《わるもの》たちの罠《わな》に落ちたのではありますまいか」 「何か探りだそうとして……? 三津木君、探偵小僧は近頃《ちかごろ》、何に一番、興味《きようみ》を持っていたんだね」 「それはいうまでもなく、風船魔人《ふうせんまじん》の事件《じけん》です」 「風船魔人の事件……?」  と、山崎編集局長は、デスクから身を乗りだして、 「それでは、探偵小僧は、風船魔人の秘密《ひみつ》について、何か気がついたらしいというのかね」  と、思わず声を張《は》りあげたときである。 「風船魔人がどうかしたかね」  と、ドアの外《そと》から声をかけて入ってきたのは、片《かた》眼鏡《めがね》に、山羊《やぎ》ひげと、どじょうひげをはやした畔柳博士《くろやなぎはくし》だ。あいかわらず腰《こし》が弓《ゆみ》のようにまがっていて、銀《ぎん》のにぎりのついたステッキをついている。 「あっ、畔柳博士、大変なことが起こったのです」 「山崎《やまざき》さん、大変なことと言うと、風船魔人が何かまたやらかしたのかね」 「いや、それはまだよくわからないんですが、探偵小僧がゆくえ不明になったんです。しかも、三津木君の説《せつ》によると、風船魔人の一|味《み》の者《もの》に、とらえられたんじゃないかというんです」 「探偵小僧が風船魔人の一味の者に?」  と、畔柳博士はギロリと目を光《ひか》らせ、 「三津木君、何かそのような証拠《しようこ》でもあるのかね」 「いや、証拠というほどのことはありませんが、探偵小僧のデスクの上の卓上《たくじよう》日記に、こんな走《はし》り書《が》きがしてあったんです」  と、三津木俊助《みつぎしゆんすけ》が取りだしたのは、引きちぎられた卓上日記の一ページ。それは風船魔人が第三回目の実験を行《おこ》なった翌日《よくじつ》、すなわち、六月二十六日のページで、そこには次のようなことが書いてある。 『名射撃手《めいしやげきしゆ》——ジョージ・広田——天馬《てんま》サーカス——目黒《めぐろ》——風船魔人?』  それを見ると山崎編集局長と、畔柳博士は、はっと顔を見合わせた。    サーカスの変  目黒にある天馬サーカスは、今夜《こんや》も大入《おおい》り満員《まんいん》である。  その満員のお客《きやく》さんの中にひそかにまぎれこんでいるのは、三津木俊助《みつぎしゆんすけ》と警視庁《けいしちよう》の等々力警部《とどろきけいぶ》。警部は目立たない平服《へいふく》である。 「三津木君、それじゃ、このサーカスの中に、風船魔人がひそんでいるというのかね」  警部はひそひそ声《ごえ》である。 「いや、ぼくにもはっきりわかりませんが、探偵小僧《たんていこぞう》はそうにらんだんですね。そして、それから二日《ふつか》ののちに、ゆくえ不明《ふめい》になってるんですから、何かそこに関係《かんけい》があるんじゃないかと……」  満員の客の中には、俊助や等々力警部だけでなく、大ぜいの刑事がまぎれこんでいて、警部の命令一下《めいれいいつか》、いつでもとび出せるように待ちかまえているのである。  サーカスの円形広場《えんけいひろば》では、いましも猛獣使《もうじゆうつか》いのトム・高田《たかだ》が、ライオンに曲芸《きよくげい》をさせているところである。トム・高田の振《ふ》る鞭《むち》に、ピシリピシリとたたかれながら、ライオンがはしご渡《わた》りや逆立ちや、玉乗《たまの》りの曲芸を見せ終ると、次がいよいよ呼《よ》び物《もの》の、ジョージ・広田の名射撃手《めいしやげきしゆ》。  例によってピエロの、ヘンリー・松崎相手のこっけいなやり取りがあったのち、カードの射撃がはじまったが、その百発百中《ひやつぱつひやくちゆう》の名射撃ぶりを見て、三津木俊助がささやいた。 「警部さん、探偵小僧はこの射撃ぶりに目をつけたんですよ。ほら、風船魔人の第三回目の実験《じつけん》のさい、ヘリコプターの機上《きじよう》から、もののみごとに風船魔人の実体の、発火点《はつかてん》を射撃したその腕前《うでまえ》。……それに、風船魔人の第一回目の実験は、いまジョージの乗っている、プリンス号によって行なわれたんですからね」 「なるほど、しかし、ただそれだけのことで、あの男を、とらえるわけにもいかんが……」  ジョージ・広田の曲芸が終ると、かわいい少女《しようじよ》のブランコ乗《の》り。少女の名《な》はマリー・宮本《みやもと》といって、年《とし》はまだ十三、四だが、ジョージ・広田とともにこのサーカスの人気者《にんきもの》だ。  いましもマリー・宮本は、見上げるような大テントの空を、ブランコからブランコへと、小鳥《ことり》のように飛んでいる。  見物《けんぶつ》はみんな手に汗《あせ》にぎって、この妙技《みようぎ》に見とれていたが、その時、サーカスのなかで大変なことが起こったのだ。 「火事《かじ》だ! 火事だ!」  と、どこかで叫ぶ声。それとともにきなくさい煙《けむり》が、楽屋《がくや》の方から吹《ふ》きこんできたから、さあ、大変。見物はワッとばかりに総立《そうだ》ちになった。    大混乱《だいこんらん》  なにしろ、大入り満員のテントの中での火事騒ぎだ。その上、サーカスのこととて、大人《おとな》より子供の見物の方が多《おお》いのだから、あちらでもこちらでも、黄色《きいろ》い子供の救《すく》いを呼《よ》ぶ声が哀《あわ》れである。  そのうちに、メラメラメラとテントに火《ひ》が燃《も》え移ったから、騒ぎはいよいよ大きくなった。 「しまった」  と、見物席《けんぶつせき》より立ちあがった、三津木俊助《みつぎしゆんすけ》と等々力警部《とどろきけいぶ》。 「落ち着け! 落ち着け! だいじょうぶだ! だいじょうぶだ!」  声をからして叫びながら、子供たちに逃《に》げ道《みち》をつくってやる。  三津木俊助と等々力警部も、刑事たちにまざって大活躍《だいかつやく》、大ぜいの子供をテントの外に逃がしてやったが、その時、聞こえてきたのは、 「助《たす》けてえ! 助けてえ!」  と、世《よ》にも悲しげな少女の声だ。  その声に、ふと上をあおぐと、マリー・宮本はまだブランコにぶらさがっている。しかも、メラメラとテントをなめる焔《ほのお》の舌《した》は、次第に上へ燃《も》えひろがっていくのである。 「あっ!」  と、俊助は思わず両手《りようて》をにぎりしめた。 「サーカスの連中はどうしたんだ。あの子を見殺《みごろ》しにする気なのか!」  俊助は夢中《むちゆう》になって叫《さけ》んだが、サーカスの連中は、誰《だれ》ひとりとして飛びだしてこないのだ。  マリーはブランコからぶらさがったまま、悲しげな声を張《は》りあげている。赤い焔の舌は、いよいよそのまわりに近寄《ちかよ》っていく。 「警部さん、警部さん、何かあの子を受《う》けるようなものはありませんか」  俊助がやっきとなって叫んでいる時、楽屋《がくや》のほうから刑事が二人、大きなカンバスを持って飛び出てきた。 「警部さん、これで……」 「ようし。三津木君、君もこのカンバスを持ってくれたまえ」  ブランコの下に立った四人が、四|方《ほう》からカンバスを持ってひろげると、 「さあ、君、思いきってそこから飛びたまえ」  俊助が叫ぶと同時《どうじ》に、マリー・宮本はブランコから手をはなした。  そして、つぶてのようにカンバスの上に落ちてきたのを、四方からくるむようにして、一同がテントの外へ飛び出したせつな、焔はテントのてっぺんまで燃え移って、それからまもなく、大きな火だるまとなって焼けくずれた。    人間ライオン 「それにしてもサーカスの連中はどうしたんだ」  それからまもなく、消防自動車《しようぼうじどうしや》が駆けつけてきて、消火活動《しようかかつどう》に励《はげ》んでいるのを眺《なが》めながら、等々力警部《とどろきけいぶ》は不思議《ふしぎ》そうにつぶやいた。 「警部さん、ひょっとすると、今の火事はあやまちではなく、われわれが張《は》りこんでいるのを知って、わざと火をつけたのではないでしょうか」 「しかし、それじゃ、マリーという子をどうするつもりだったのだろう」 「だから、あの子を犠牲《ぎせい》にして、火事騒ぎのすきに逃げだしたのでは……」  それは世《よ》にも恐《おそ》ろしいことである。  しかし、サーカスの連中はもとより、プリンス号の姿まで見えないところを見ると、俊助の疑いがあたっているとしか思えない。  少女のマリーはカンバスへ落ちたとたん、いったん気を失《うしな》っていたが、まもなく息《いき》を吹《ふ》きかえすと、シクシクと泣《な》きだした。 「マリーちゃん、マリーちゃん、あんた、このサーカスに十五、六の少年《しようねん》が、とらえられていたのを知らない?」  三津木俊助が尋ねると、マリーはぎょっとしたように泣きやんだ。  そして、ちょっとためらったのち、 「あの……、ライオンのなか……」  と、泣きじゃくりながら返事《へんじ》をした。 「え! あのライオンって、さっき曲芸《きよくげい》をしたライオンなの?」  マリーは泣きじゃくりながらうなずいた。 「なんだ、それじゃあのライオンは本物ではなく、中に人間が入っていたのか」 「しまった! そ、そして、そのライオンは……」  と、三津木俊助が叫んだ時、向こうの暗《くら》がりから、 「ライオンだ! ライオンが檻《おり》からでたぞオ!」  と、誰かの叫ぶ声がした。  それを聞いて、一人の警官が、さっと腰《こし》からピストルを取り出したが、その時である。  焼《や》け跡《あと》のそばへ、よろよろとよろめくようにやってきたのはライオンだが、なんと、そのライオンは二本足で立っているではないか。    ライオンの中  燃《も》えくずれた天馬《てんま》サーカスのテントのまわりには、消防団《しようぼうだん》や警官《けいかん》のほか、サーカスから危うく逃《に》げだした見物《けんぶつ》が、まだ黒山《くろやま》のようにたかっている。  火事《かじ》はもうおさまったが、それでもあちこちにまだ炎《ほのお》が、チロチロと燃えていて、そのあいだを黒い人影《ひとかげ》が駆けまわっている。  そういう騒《さわ》ぎのなかへ、二本足のライオンが、よろよろとよろめくように出てきたのだから、一同がきもをつぶしたのも無理《むり》はない。 「あっ! ライオンだ! ライオンだ!」 「ライオンが二本足で歩いている!」  やじうま[#「やじうま」に傍点]たちの騒ぎを聞いて、気の早い警官は、さっと、腰からピストルを抜《ぬ》きだしたが、その時、大声で叫《さけ》んだのは三津木俊助《みつぎしゆんすけ》だ。 「あっ、射つな、そのライオンの中には人間が入っているんだ。射っちゃいかんぞ」  と、叫びながら俊助は、ライオンのそばへ駆けよると、 「探偵小僧《たんていこぞう》か!」  と、ライオンの肩《かた》に手をかけた。  そのとたん、人間ライオンは気がゆるんだのか、 「あ、あ、あ、あ……」  と、奇妙《きみよう》なうめき声をあげたまま、骨《ほね》を抜かれたように、くたくたと焼《や》け跡《あと》の中《なか》に倒《たお》れてしまった。 「探偵小僧、しっかりしろ」  と、三津木俊助は夢中《むちゆう》になって、ライオンの肩をゆすっている。  等々力警部《とどろきけいぶ》もそばへ駆け寄ってきた。  火事《かじ》のなかから救われた、マリー・宮本《みやもと》もおどおどと、俊助のうしろからライオンをのぞきこんでいる。 「探偵小僧! 気を確《たし》かに持つんだ。おまえはもう救われたんだぞ」  しかし、気を失《うしな》っているのか、人間ライオンは返事《へんじ》もしない。 「三津木君、そうからだばかりゆすっていないで、とにかく、そのライオンの皮《かわ》を脱《ぬ》がせたらどうかね」  そばから、等々力警部《とどろきけいぶ》が注意《ちゆうい》をする。 「いや、ぼくもそう思っているんですが、どこから脱がさせてよいかわからないものですから……」  と、そこまで言って気がついたように、 「ああ、マリーちゃん、君、この皮の脱がせ方知っちゃいない?」 「はい。知っています」 「そう、それじゃ、ひとつ、脱がせてくれたまえ。ぼくも手伝《てつだ》うから」 「はい」  マリーはライオンのそばにひざまずくと、しばらくのどのあたりをいじっていたが、やがて頭巾《ずきん》を脱ぐように、ライオンの頭をすっぽりうしろへはねのけた。  と、そのとたん、ライオンの皮の下から現われた顔を見て、三津木俊助と等々力警部、さてはマリー・宮本まで、思わず、あっと驚《おどろ》きの声を張りあげた。  なんと、ライオンの中に入っていたのは、探偵小僧の御子柴進《みこしばすすむ》ではなかった。それは、山羊《やぎ》ひげの畔柳博士《くろやなぎはくし》だったのだ。    畔柳博士のはなし 「あっ、こ、これは畔柳先生!」  と、三津木俊助は思わず声を張りあげたが、その声が耳に入ったのか、博士はぼんやり目を開いた。  そして、まるで夢《ゆめ》でも見るような目つきでぽかんとあたりを見まわしている。 「先生、畔柳先生、気をしっかりもってください。ぼくです。三津木俊助です。おわかりになりませんか」 「三《み》……津《つ》……木《ぎ》……俊助《しゆんすけ》……」  と、畔柳博士は山羊ひげと、どじょうひげをもぐもぐさせながら、口のうちでつぶやいた。  少し頭がぼんやりしているらしく、それに片眼鏡がないので、はっきり俊助の顔が見えないらしい。 「先生、しっかりしてください。先生はどうしてここへこられたのですか。また、どうして、ライオンの皮の中へ入れられたんですか」 「ライオン……の……皮……?」  畔柳博士はまたもぐもぐとつぶやくと、ぼんやり自分のからだを見まわしていたが、 「あ、こ、これはどうしたんだ!」  と、びっくりしたように起きなおった。 「いや、どうしたとは、こちらがお聞きしているんですよ。先生、ぼくです。三津木俊助です。等々力警部もここにいますよ」 「ああ、三津木くん。……等々力警部も……」  と、畔柳博士は目をしょぼしょぼさせながら、ふたりの顔を見くらべて、ひくい声でつぶやいた。 「先生、しっかりしてください。先生はどうしてここへこられたんですか」  俊助はまた同じことをくりかえした。  畔柳博士は、ぼんやり首をふっていたが、それでもだんだん頭がハッキリしてくるらしく、 「わしも、探偵小僧のことを心配して、このサーカスの……」  と、言いながら、きょときょとあたりを見まわしたが、サーカスがすっかり焼けくずれているのに気がつくと、 「あっ!」  と、叫んで目を見張った。 「先生、サーカスは焼けてしまったんですよ。それで、このサーカスの……」 「ふむ、このサーカスの見物《けんぶつ》の中にまじっていたんだ。ところが、すぐ隣《となり》へ風船を持った男がやってきた」 「ふむ、ふむ、風船を持った男が……」 「その風船がわしの鼻《はな》のさきでふらふらしていた。わしはそれが邪魔《じやま》になるので、何度も払《はら》いのけたんだ。ところが、そのうちに……」 「ところが、そのうちに……」 「ジョージ・広田《ひろた》の射撃《しやげき》がはじまったんだ。その射撃の最中《さいちゆう》に、ゴム風船がわしの鼻さきで爆発《ばくはつ》した……」 「ふむ、ふむ、ゴム風船が爆発して……?」 「すると、そのとたん、妙《みよう》な臭《にお》いのするガスが、すうっとわしの鼻をなでた。……と、おぼえているのはそこまでだ。それきりあとのことはわからない……」  と、畔柳博士はまだ頭がふらふらするらしく、しきりに首をふっている。  ああ、そうすると、畔柳博士も、探偵小僧の御子柴進と同じように、催眠《さいみん》ガスを嗅《か》がされて、天馬《てんま》サーカスの一|味《み》の者に、とらわれていたのであろうか。    空行くサーカス  風船魔人の第一回の実験が行なわれた、天馬サーカスこそ、風船魔人の一味の者であるらしいと、わかったときの世間《せけん》の驚《おどろ》きといったらなかった。  それにしても、あの火事《かじ》のあと、天馬サーカスの一行は、いったい、どこへ消《き》えたのだろうか。  天馬サーカスには、馬が一|頭《とう》、ろば[#「ろば」に傍点]が一頭、それからライオンが一頭いた。その三頭の動物のうち、ライオンは偽物《にせもの》だったにせよ、馬とろば[#「ろば」に傍点]は本物だったはずである。  その二頭の動物を連れ、いったい、どこへどういうふうにして逃《に》げたのか、天馬サーカスの行方《ゆくえ》は、かいもくわからないのである。  ただ、わかっているのは、マリー・宮本《みやもと》を犠牲にして、そのあいだに逃げだしたということだけだ。すなわち、警官《けいかん》たちがマリー・宮本に気を奪われているうちに、まんまとテントから逃げだしたのだ。  それにしても、こうも首尾《しゆび》よく逃げだしたところをみると、天馬サーカスでは、あの晩《ばん》警察の手が入るということを、知っていたのではないかと思われる。  それではいったい、誰がそれを知らせたのか。  それはさておき、天馬サーカスが焼けおちた晩、馬のようなものが空高く、飛んでいたのを見たという人が二、三あった。  あいにく、その晩は曇っていたので、はっきり正体《しようたい》はつかめなかったが、確《たし》かに、馬のような形をしたものが、目黒《めぐろ》の方角から、東京湾《とうきようわん》の方へ飛んでいったと、それを見たという人は、口を揃《そろ》えて主張《しゆちよう》した。  それらの噂《うわさ》は次から次へと言い伝《つた》えられて、はては天馬サーカスの一味の者は、みんな空を飛んで逃げたのだろうと、次第に話が大げさになってきた。  ああ、空行くサーカス!  なんとそれは、ロマンチックな空想《くうそう》ではないか。  しかし、また一方、それはこの上もなく恐《おそ》ろしいことでもある。天馬サーカスの一味の者が、いったい、なにを企《たくら》んでいるのか、それがわからない現在《げんざい》、なんともいえぬほどうす気味悪《きみわる》いことである。  しかも、そのうす気味悪い天馬サーカスの一味に、探偵小僧はとらわれの身となっているのだ。それを考えると、三津木俊助は、はらわたもちぎれんばかりに心配だった。  むろん、マリー・宮本は警察からいろいろとり調《しら》べをうけた。  しかし、天馬サーカスの一味の者が犠牲として置き去りにしていったくらいだから、マリーは何も知っていなかった。  こうして、警視庁《けいしちよう》が躍起《やつき》となって捜《さが》したにもかかわらず、天馬サーカスの行方はわからず、ただいたずらに日がすぎていった。  そして、第三回目の実験が行なわれた日から、約|一月《ひとつき》たった七月二〇日、またしても風船魔人の実験の予告が新聞紙上に発表されたのである。 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]   われわれは過去《かこ》三回にわたって、貴重《きちよう》な実験を行なってきたが、その結果《けつか》は、いつもたいへん満足《まんぞく》であった。さて、その後《ご》も研究《けんきゆう》は着々《ちやくちやく》と成果《せいか》をあげているが、ここに、七月二五日の夜を期《き》して、第四回目の実験を行なうことを予告《よこく》する。なおいままでの実験においては、危険《きけん》をおもんばかって模型人形《もけいにんぎよう》を利用《りよう》してきたが、今回《こんかい》の実験においては、はじめて人間を実験|材料《ざいりよう》として用《もち》いることをつけくわえる。 [#ここで字下げ終わり] [#地付き]風船魔人      第四回目の実験  風船魔人の予告は、いつも世間を驚かせたが、それでも、今度の予告ほど、深刻《しんこく》なショックを世間にあたえたことはなかった。  生きている人間を実験に使う? もし、この実験に失敗《しつぱい》したら、この人間の命《いのち》はないのだ。そして、ひょっとしたら、その実験材料に使われるのは、探偵小僧の御子柴進ではないか……。  そう考えてくると、風船魔人のやりくちが、いかに非人道的《ひじんどうてき》であるかがわかる。彼等は、仲間|以外《いがい》の人間の命を、ちりあくた[#「ちりあくた」に傍点]のように思っているのにちがいない。  世間は怒《いか》った。いきどおった。  そして、いつまでたっても、風船魔人をとらえることのできぬ警視庁《けいしちよう》にたいして、ごうごうたる非難《ひなん》の声が浴《あ》びせかけられた。  こうして、世間が大騒《おおさわ》ぎをしているうちに、ついに七月二五日の夜はやってきた。  東京ならびにそのまわりの地方《ちほう》の、その夜の緊張《きんちよう》といったらなかった。  東京の空には、ありとあらゆる種類《しゆるい》の、飛行機《ひこうき》やヘリコプターが舞《ま》っていた。  自衛隊《じえいたい》の飛行機もいた。アメリカ軍《ぐん》の飛行機もいた。民間会社《みんかんがいしや》の持っているヘリコプターも総動員《そうどういん》だ。  こうして、空をうめんばかりの飛行機やヘリコプターが待機《たいき》しているところは、なんと戦争《せんそう》のようであった。  それらのヘリコプターのなかに、新日報号《しんにつぽうごう》がまじっていたことはいうまでもない。  そして、そのヘリコプターの中に乗っているのは、三津木俊助と畔柳博士。それから、いつもは探偵小僧がいるのだが、今夜はそのかわりに、マリー・宮本が乗っている。  マリー・宮本は、緊張の目を光らせて、風船魔人の現《あら》われるのを、いまかいまかと待っている。マリーは今夜、重大使命《じゆうだいしめい》をおびているのだ。  空から見れば、東京じゅうのビルというビルの屋上には、サーチ・ライトがすえつけられて、ゆきかう光が、まばゆいばかりに空をかけめぐる。 「マリーちゃん。いいね。だいじょうぶだね」  三津木俊助はいたわるように、マリーの肩をたたいた。 「ええ、先生、だいじょうぶです。あやうい命を助けられた、ご恩《おん》返しはきっとします」  マリーはりりしく答えた。  マリーはマントでからだをくるんでいるが、そのマントの下は、曲芸《きよくげい》をする時のように、タイツ一|枚《まい》の身軽《みがる》さである。 「命がけの仕事だが、まあ、しっかりやってもらいたい」  と、畔柳博士がもぐもぐとつぶやいた時、突然《とつぜん》、あちこちからけたたましいサイレンの音が聞こえてきた。 「あっ、来た!」  新日報号の機上《きじよう》では、マリー・宮本がきっと唇《くちびる》を噛《か》みしめる……。    網《あみ》の少女 「マリー、用意だ!」  三津木俊助《みつぎしゆんすけ》の合図《あいず》に、 「はい!」  と、答えて立ちあがったマリー・宮本は、さすがに緊張《きんちよう》のため、まっ青な顔をしていた。  立ちあがったマリーは、マントを脱《ぬ》ぎすてる。軽業《かるわざ》をする時のような身軽さだ。 「それじゃ、この中へお入り」  と、三津木俊助の声。 「はい」  マリーは不思議《ふしぎ》なものの中へもぐりこむ。  それは目の荒い鋼鉄《こうてつ》の網《あみ》である。いや、網というより袋《ふくろ》なのだ。その線は太いコイルに巻きつけてある。 「さあ、マリー、おろすよ」 「はい、どうぞ」  マリーは鋼鉄の網の中から答えた。 「だいじょうぶかな」  畔柳博士《くろやなぎはくし》は心配そうに、片《かた》眼鏡《めがね》の奥《おく》で、目をショボショボさせている。 「先生、だいじょうぶです。ブランコからブランコへ飛《と》び移《うつ》ることを考えたらこれくらいのこと、平気《へいき》です。ちゃんと網の中へ入っているんですもの」  と、マリーは網の中からニコニコ笑《わら》った。 「いや、マリーの勇敢《ゆうかん》なのには感心《かんしん》した。さあ、それでは……」 「はい。三津木先生、おろしてください」 「よし」  三津木俊助は、鋼鉄の網に入ったマリーのからだを、静《しず》かに機上《きじよう》からおろしていく。  こうして、三津木俊助は、今度《こんど》こそ、空飛ぶ風船魔人《ふうせんまじん》の実験材料《じつけんざいりよう》をつかまえようというのである。  それが探偵小僧《たんていこぞう》であるにしろ、ないにしろ、風船魔人の実験材料を手に入れるということは、魔人の正体《しようたい》を突きとめるためにも、ぜひとも必要《ひつよう》なのである。  しかし、こういう危険《きけん》な方法《ほうほう》で決行《けつこう》しようとは、まさか俊助も考えていなかった。それを言いだしたのはマリーなのである。 「先生、あたしをヘリコプターからぶらさげてください。そうすれば、なんとかして風船魔人の実験材料に、網《あみ》を結びつけてみせますわ」  と、マリーのほうから言いだしたのだ。  むろん俊助もいったんは断《ことわ》った。  まかり間違えば命がけの仕事だからだ。しかし、一度言いだしたマリーは、なかなかあとへはひかなかった。けなげなマリーは、なんとかして、命を救《すく》われたご恩がえしをしようと思っているのだ。  その熱心《ねつしん》さにほだされて、考え出されたのが、鋼鉄の網である。  マリーをその中へ入れてぶらさげる分には、それほどの危険もあるまいと思われたのだ。  いまや鋼鉄の網にいれられたマリーのからだは、次第にヘリコプターからおろされていく。こうして機上から十メートルほど下にぶらさがって、マリーが静かに待機《たいき》している時、とつじょ、向こうから目を射るような光りものがまっしぐらにこちらへ飛んでくるのが見えた。    空の競輪選手《けいりんせんしゆ》  その夜《よ》、その不思議な光りものを見た人は、みんな一瞬《いつしゆん》、頭がおかしくなったか、自分《じぶん》の目がどうかしたのではないかと疑《うたが》ったという。それもそのはず、それは自転車《じてんしや》に乗った競輪選手であった。  競輪選手が自転車に乗って、まっしぐらに空を走っていくのだ。  むろん、ふつうの競輪選手よりは厚着《あつぎ》をしていた。競輪選手は頭にヘルメットのようなものをかぶり、目に水中《すいちゆう》眼鏡《めがね》のようなものをかけている。  そして、ほんものの競輪選手のように、背中《せなか》をまるくしてハンドルをにぎっている。しかも、ああ、なんと、両足でかわるがわるペダルを踏んでいるではないか。  おまけにその両足の使いかたというのが機械的《きかいてき》ではなかったのだ。  それは確《たし》かに人間の足の運動《うんどう》のようであった。  ああ、こんどこそ、風船魔人の実験体は、いままでのような人形《にんぎよう》ではないらしい。それは確かに人間なのだ。しかも、その全身《ぜんしん》からは、鋼鉄《こうてつ》が燃《も》える時のような光を放《はな》っている。  この奇怪《きかい》な空行く競輪選手の姿《すがた》を見て、東京じゅう蜂《はち》の巣《す》を突ついたような騒《さわ》ぎになった。  サーチ・ライトというサーチ・ライトの光が、この空行く競輪選手に集中された。飛行機《ひこうき》という飛行機がこのほうき星のような競輪選手を追っかけた。  ヘリコプター新日報号からぶらさがったマリー・宮本も、向こうから近づく、この奇怪《きかい》な実験体を目にしたとき、思わずギョッと息《いき》をのんだ。  マリーが一番おそれたのは、あの強烈《きようれつ》な光である。ひょっとしたら、その光には高い熱がともなっていて、とてもそばへ近寄れないのではないかと思われた。  しかし、こうなれば、もういきつくところまでいくよりほかに仕方がない。  マリーは鋼鉄《こうてつ》の線《せん》を引っぱって、こちらは用意ができているむねを機上に知らせた。  やがて、空行く競輪選手はマリーのそばまで近づいてきた。高度《こうど》からいうとマリーの位置《いち》が、約二十メートルほど上である。  競輪選手はマリーの目の下を、まっしぐらに飛んでいく。新日報号はそれと同じスピードで、同じ方向《ほうこう》へ飛びながら、次第に鋼鉄の線をコイルからほぐして、マリーの高度を下げていく。  距離《きより》が次第に近づくにつれ、マリーは目をサラのようにして、競輪選手の姿を眺めた。  そして、競輪選手の着ているものが普通のきれではなく、なにかしら、薄い金属《きんぞく》らしいことを確かめた。また自転車のタイヤが普通の自転車より太く、それがガスをつめる、袋のかわりになっているらしいこともわかった。  いまや、マリーの入った鋼鉄の網《あみ》は、競輪選手の頭上《ずじよう》すれすれまでおろされた。  その時、はじめて競輪選手は、ギョッとしたようにマリーの方をふり返ったが、つぎの瞬間《しゆんかん》、マリーは網の目から手をのばして、しっかりと競輪選手に抱《だ》きついていた。    空の格闘《かくとう》  マリーがあとで語《かた》ったところによると、その競輪選手は人形ではなかった。確かに血《ち》のかよった人間だったといっているが、さてどんな顔をしていたか、そこまではマリーにも突きとめられなかった。  それというのが、奇怪《きかい》なその競輪選手は、大きなちりよけ眼鏡の上に、プラスチックでできた、マスクのようなものをかぶっていたらしい。それはお能《のう》の面《めん》のようにツルツルとしていた。  だが、顔は見えなかったとしても、その奇怪な競輪選手は、おそらく探偵小僧《たんていこぞう》の御子柴進《みこしばすすむ》ではあるまいというのが、マリーの意見《いけん》である。  なぜといって、しがみついた相手《あいて》のからだは、とても子供とは思えなかった。りっぱな大人にちがいなかったと、マリーは断言《だんげん》した。  それともう一つ、マリーがあとになって不思議《ふしぎ》がったのは、あれだけ強烈《きようれつ》な光線《こうせん》を放《はな》ちながら、競輪選手のからだからは、格別《かくべつ》の高温も感じられなかったということである。  それはさておき、だしぬけにマリーに抱《だ》きつかれて、相手もびっくりしたらしく、顔をうしろにねじむけてなにか叫《さけ》んだ。しかし、その声は、プラスチックのマスクにへだてられて、マリーの耳に入らなかった。  マリーは無我夢中で相手に抱きつくと、競輪選手のからだに、鋼鉄線《こうてつせん》の輪《わ》を巻きつけようとする。  むろん、相手はそうさせまいとからだをもがいた。しかし、両手をハンドルからはなすと、からだの重心《じゆうしん》がとれないらしく、しかも、うしろむきのままなので、思うようにマリーにさからうことができなかった。 「はなせー、は、はなせ!」  マリーの耳に切れ切れな男の声が聞こえた。 「ばか! はなさないか。危ない!」  競輪選手《けいりんせんしゆ》が躍起《やつき》となってもがくのも無理《むり》はない。  ガスの浮揚力《ふようりよく》は、競輪選手の体重とにらみあわせて、計算されていたらしい。左右にぐらぐら傾《かたむ》いて、競輪選手はいまにも、自転車からふり落とされそうになる。 「ばか! ばか! あぶない! おまえはおれを殺《ころ》す気か!」  競輪選手は躍起となって、空飛ぶ自転車にしがみついている。  恐怖《きようふ》におびえたその声から判断《はんだん》すると、競輪選手の着ている着物《きもの》の中のガスだけでは、浮揚力がたりなかったのではないか。  自転車の太いタイヤにつめられたガスの力をかりなければ、空に浮《う》くことができなかったのではないか。だから、自転車からふり落とされると、きっとつぶてのように墜落《ついらく》して、競輪選手は命を落とさなければならなかったのだろう。  だが、それはさておき、空行く自転車の上で格闘している競輪選手と網の中の少女の姿。それはなんともいいようのない、世《よ》にも不思議《ふしぎ》な眺《なが》めだった。    袋《ふくろ》の鼠《ねずみ》  この思いがけないできごとに、競輪選手を取り巻いて飛んでいる、飛行機やヘリコプターに乗った人々は、ただあれよあれよと手に汗《あせ》にぎって、なりゆきいかにと眺めている。 「しめた!」  と、競輪選手の腰《こし》にしがみつき、しばらくもぞもぞしていたマリーは、やがておもわず心の中でそう叫んだ。  マリーは首尾よく競輪選手の胴《どう》に、鋼鉄《こうてつ》の輪《わ》を巻きつけたのだ。  その輪はちょうど手錠《てじよう》のように、ガチャンと錠がおりるようになっていて、カギがなければあけることができないのである。  マリーはやっと競輪選手の腰から離《はな》れた。それから、鋼鉄の線をひいて合図《あいず》をした。  奇怪《きかい》な風船魔人の実験体、競輪選手はいまや袋の中の鼠《ねずみ》も同じだ。腰に巻きつけられた輪には、太い鋼鉄線がついて、それが新日報号《しんにつぽうごう》まで続いているのだ。ヘリコプターの機上では、 「しめた。マリー、でかしたぞ」  と、三津木俊助は思わず喜《よろこ》びの叫びをあげた。 「畔柳先生《くろやなぎせんせい》、とにかくマリーを引きあげましょう。それから、あの浮揚体《ふようたい》を引きあげるのです」 「ふむふむ、これで、風船魔人《ふうせんまじん》のガスの秘密《ひみつ》も、すっかり暴露《ばくろ》するわけだな」  畔柳博士も山羊ひげをふるわせ、きりぎりすのような両手をこすりあわせながら、興奮にぶるぶるふるえている。  ヘリコプターの機上には、二つのコイルがそなえつけてある。そのひとつに巻きついているのは、マリーのぶらさがっている鋼鉄線である。  そして、いまひとつは、いうまでもなく、首尾よくマリーが競輪選手《けいりんせんしゆ》の胴《どう》に巻きつけた、あの鋼鉄の輪につながっているのである。  三津木俊助と畔柳博士は左右から、コイル第一号についたハンドルを回しはじめた。こうしてマリーは無事に新日報号まで引きあげられた。 「やあ、マリー、よくやった。そして、あの競輪選手はどういうやつだ。ひょっとすると探偵小僧では?」 「いいえ、先生、御子柴《みこしば》さんではないようでした。御子柴さんならもっとおとなしくしているはずですのに、とても抵抗《ていこう》しました」 「あの人……それじゃ、マリーや。あれは人間にはちがいないのだね」  と、畔柳博士がそばから叫んだ。 「はい、確かに人間にちがいありません」 「よし、三津木君、コイル第二号を巻いてあいつをここへひっぱり上げよう」    脱《だつ》 走《そう》  ヘリコプター新日報号《しんにつぽうごう》を取り巻いて飛ぶ、各種各様《かくしゆかくよう》の飛行機やヘリコプターの乗組員《のりくみいん》は、この奇怪《きかい》な冒険《ぼうけん》を、なりゆきいかにと、手に汗《あせ》にぎって眺《なが》めている。  新日報号の機上《きじよう》では、三津木俊助《みつぎしゆんすけ》と畔柳博士《くろやなぎはくし》、それにマリーも手伝《てつだ》って、みんな一生懸命に、コイル第二号を巻いている。それにつれて、奇怪な競輪選手《けいりんせんしゆ》は自転車ごと、じわり、じわりと、新日報号の方へ引き寄せられていく。  三津木俊助は、興奮《こうふん》のために、ひたいにぐっしょり汗をかいている。山羊《やぎ》ひげの畔柳博士も、片《かた》眼鏡《めがね》を光らせて、おがら[#「おがら」に傍点]のような手で、コイルを巻いている。  自転車にしがみついた競輪選手は、十メートル、八メートル、五メートルと、次第次第に新日報号の機体に近く引き寄せられた。  だが、その時だ。  ヘリコプターから下をのぞいていたマリーが、 「あっ、あの人、針金《はりがね》を切ろうとしている。三津木先生、早く! 早く! コイルを巻いて!」  と、金切り声を、張りあげた。見れば、なるほど、片手でしっかり自転車のハンドルにしがみついた競輪選手は、片手に懐中電灯《かいちゆうでんとう》のような円筒《えんとう》を握《にぎ》っているが、その円筒の突っ先から、青白い炎《ほのお》がほとばしっている。  しかも、その炎が鋼鉄線《こうてつせん》にぶつかると、そこからものすごい火花《ひばな》が散《ち》って、見る見るうちに、鋼鉄線が溶けていくのがわかるのだ。 「あっ!」  と、叫《さけ》んで、畔柳博士は、思わずコイルのハンドルから手を放《はな》した。  そのとたん、向こう側のハンドルを握っていた三津木俊助も同じように、 「あっ!」  と、叫んで手を放した。  畔柳博士が手を放したひょうしに、コイルがものすごい勢《いきお》いで逆回転《ぎやくかいてん》をはじめて、俊助の手がしびれたのだ。  コイルの逆回転にしたがって、競輪選手はまたぐんぐんと降下《こうか》する。 「しまった! 先生、早く! 早く! そちらのハンドルを……」  三津木俊助と畔柳博士は、ものすごい勢いで回転する、コイルのハンドルにとっつかまった。  だが、その逆回転のためにせっかく五メートルまでちぢまっていた距離《きより》が、また十メートルとひき離《はな》された。しかも、競輪選手の握っていた円筒は、ますます激《はげ》しく炎を放ち、鋼鉄線はいよいよ細くなっていく。  コイルはふたたび巻かれはじめて、競輪選手と機体の距離は、ふたたびぐんぐんちぢまってきた。だが、その距離、約二メートルまでちぢまったとき、とうとう鋼鉄線がぷっつり切れた。と、同時に、いままでこうこうと輝《かがや》いていた競輪選手のからだから、拭《ぬぐ》うように光が消えてしまったのだ。    内通者《ないつうしや》 「あっ、しまった」  鋼鉄線《こうてつせん》がぷっつり切れた時、勢《いきお》いあまって、前のめりになった三津木俊助はやっとコイルにつかまると、ヘリコプターから外をのぞいてみた。  しかし、今夜《こんや》はあいにくの曇《くも》り空《ぞら》、外は墨《すみ》を流したような暗闇《くらやみ》で、競輪選手の姿はどこにも見えない。その中をサーチ・ライトの光が、まばゆいばかりに右往左往《うおうさおう》と回転《かいてん》する。 「あっ、三津木先生! あそこへ行きます!」  マリー・宮本が叫んだ時、なるほど一瞬《いつしゆん》、サーチ・ライトの光の中に、空行く競輪選手の姿がちらと浮かんだが、すぐまた闇の中へ呑《の》みこまれた。 (それにしても)  と、その時、三津木俊助の頭にふいとかすかな疑念《ぎねん》が浮かんだ。  その時、三津木俊助の頭に浮かんだ、疑惑《ぎわく》というのはこうである。  今夜の競輪選手は、針金《はりがね》を切る道具《どうぐ》を用意していた。ひょっとすると相手は、こちらにこういう計画《けいかく》のあることを、あらかじめ知っていたのではないか。  では、競輪選手はどうしてそれを知っていたのか。それには、誰《だれ》か内通《ないつう》したものがあるのではないかと考えられる。  では、いったい誰が内通したのか。  この計画をもちだしたのはマリーである。しかも、マリーはかつて天馬サーカスにいたものだ。ひょっとすると、このマリーが……?  いや、いや、そうではない。この前、天馬サーカスを、警官隊《けいかんたい》が襲撃《しゆうげき》したときも、サーカスの方ではあらかじめ、それを知っていたらしい。マリーがそれを知るはずはない。  では、この前の天馬サーカスの襲撃といい、今夜のこの計画といい、いったい、誰が相手に内通したのか。  三津木俊助の心の中には、その時、突然《とつぜん》、恐《おそ》ろしい疑《うたが》いの雲《くも》がまき起こって、思わず、ぶるぶるからだをふるわせた。さて、鋼鉄線《こうてつせん》を絶ち切ると同時に、全身から放《はな》つ光を消して、暗闇の中にのみこまれた競輪選手はその後《ご》どうしたか。  彼は、あるいは全身からガスを抜《ぬ》き、あるいはまた、携帯用《けいたいよう》のガス補充器《ほじゆうき》で、ガスを補充《ほじゆう》することによって、まるで、蝶々《ちようちよう》が飛ぶように、ひらりひらりと、暗闇の空を飛んでいくのだ。そして、それによって、巧みにサーチ・ライトの光をさけると、次第次第に海の方へ出ていった。  この空行く競輪選手は、ごくかすかな音しかたてない。だから、音響《おんきよう》によって地上の捜索隊《そうさくたい》に、感づかれるおそれは少ないのである。  競輪選手の左腕《ひだりうで》には、夜光時計《やこうとけい》のようなものが光っている。しかし、それは時計ではなく、精巧《せいこう》な羅針盤《らしんばん》なのである。それによって、競輪選手は、暗闇のなかでも、おのれの進むべき方角を知ることができるらしい。  左の手首にはめた夜光羅針盤をにらみながら、競輪選手は次第にスピードを増していったが、やがて、東京湾《とうきようわん》のなかほどまできたとき、一瞬、全身から、またこうこうたる光を放った。  そして、それがふたたび、暗闇のなかに消えたとき、向こうの海面から光の輪《わ》が、三度ばかり空中にゆれた。そして、光はそのまま、宙《ちゆう》に止っている。  競輪選手はその方向《ほうこう》へ進んでいく。そして、眼下《がんか》にうかんでいるランチの姿《すがた》をみとめると、ぴったり空中に停止《ていし》した。  と、全身のあちこちや、自転車のタイヤからガスが抜《ぬ》けていくらしく、競輪選手のからだは、次第次第に降下《こうか》していく。 「だいじょうぶか」  競輪選手のからだがランチから三メートルほど上空まで降下したとき、デッキから声をかけたのは、天馬《てんま》サーカスの猛獣《もうじゆう》使い、トム・高田《たかだ》である。 「ああ、だいじょうぶだとも」  競輪選手はボタンを押《お》して、気嚢《きのう》からガスを抜きながら元気に答える。その声はいうまでもなく、天馬サーカスの人気者《にんきもの》、射撃《しやげき》の名手《めいしゆ》ジョージ・広田《ひろた》であった。 「しかし、危なかったじゃないか。こっちはハラハラ手に汗《あせ》にぎったぜ」 「どうして知ってる。ああ、テレビで見たんだね」 「いや、もうビッグ・ニュースだったぜ。全国のテレビ・ファン、さぞ喜《よろこ》んだことだろう」 「じょうだんじゃない。こっちは命《いのち》がけの仕事《しごと》だ。それにしても、マリーのやつの勇敢《ゆうかん》なのには、驚いた」 「置き去りにされたのを、恨《うら》んでいるんだね。なんとか、仕返ししようというんだろう」 「なにしろ、火あぶりの刑《けい》にあうところだったからな」  と、無事《ぶじ》にランチのデッキに降下したジョージ・広田はヘルメットと、プラスチックのマスクを取ると、 「やあ、なんだ、探偵小僧《たんていこぞう》、おまえもいっしょにきていたのか」  と、トム・高田のうしろへ声をかけた。  いかにもそこには探偵小僧の御子柴進《みこしばすすむ》が目をさらのようにして、この奇怪《きかい》な冒険家《ぼうけんか》を眺めている。    空魔団《くうまだん》 「あっはっは、なにをきょときょとしてるんだ。これは、おまえがやるはずになっていたんだぜ」  と、トム・高田が探偵小僧の肩《かた》をたたいてせせら笑《わら》った。 「そうとも、そうとも。それをマリーのやつが裏切《うらぎ》りやがったばっかりに、おれにおはちがまわってきたんだ。おかげで寿命《じゆみよう》が三年がとこ、ちぢまった」 「あっはっは、ジョージ。おまえみたいな命知らずでも、やっぱり恐かったかい」 「そりゃ……おやじさんの頭を信用していても、そこはねえ。どういう計算違いがあるかもしれないからね」 「まあ、いいや、なかへ入れ。気付《きつ》け薬に、一ぱいやるがいい。おお、サム、ランチをやってくれ」 「オーケー」  梶《かじ》をにぎっていた男が、スターターを入れると、ランチは、かすかな音をたて、まっ暗な東京湾を去《さ》っていく。  ジョージとトムはキャビンへ入った。キャビンの中のテーブルには、ブドウ酒《しゆ》とサンドウィッチが用意してある。 「だけど、だいじょうぶかなあ、トム」 「なにが……?」 「さっき、おれのからだから光を放ったろう。誰かに、あれを見られやしなかったかなあ」 「いいじゃないか。見られたって、いつまでもここにいるんじゃなし」 「それもそうだが、ゆくゆくは、基地《きち》と無線連絡《むせんれんらく》がとれるようにしなきゃ、いかんな」 「いずれ、おやじさんのことだ。それも考えているだろう」 「おじさん」  その時、キャビンのドアの外から、声をかけたのは探偵小僧の御子柴進である。 「おじさんたちは、こんな偉大《いだい》な発明を、どうして世間《せけん》に発表しないんです。そうすれば、うんとお金《かね》になるでしょうに」 「あっはっは、ところが、これを発明したおやじというのが、いささか変り者でね。これを、もっともっと完成《かんせい》させて、そのうちに空魔団《くうまだん》というのを組織《そしき》しようというのだ」 「空魔団……?」 「手っ取り早くいえば、空《そら》からの強盗団《ごうとうだん》だな。どうだ、探偵小僧、おまえも仲間《なかま》にはいらないか。新聞社の給仕《きゆうじ》をしているよりよっぽどいいぜ」  ああ、空魔団!  この偉大な発明家は気でも狂《くる》っているのだろうか。そうだ、天才は考え方が異常だというが、この偉大な発明家は、きっと頭がおかしくなっているに違いない。  このようなすばらしい発明を、有益《ゆうえき》に使おうとはせず、強盗団を組織しようとは、いったい、なんということだろうか。進は、心中《しんちゆう》からむらむらとこみあげる怒《いか》りを、押《お》さえることができなかったが、次《つぎ》の瞬間《しゆんかん》、ざんぶとばかり身をおどらせて、海の中へ飛びこんだ。 「あっー、しまった、飛びこみやあがった!」  ジョージ・広田とトム・高田が、キャビンの中から飛び出した時には、探偵小僧の姿は暗い波間《なみま》に呑《の》みこまれて……。    九死《きゆうし》に一生《いつしよう》  パン、パン、パン!  まっくらな東京湾《とうきようわん》の沖合《おきあ》いで、とつじょ、ピストルが火を吹いた。ランチのうえから、トム・高田《たかだ》が、海中めがけてめちゃくちゃに、ピストルのたまをぶちこんだのだ。驚《おどろ》いたのはジョージ・広田《ひろた》で、 「おい、よせ、トム!」  と、あわててトムの腕《うで》をおさえると、すばやくあたりを見まわした。 「なあに、こんな海の沖合いで、だれに聞かれるものか。あの小僧《こぞう》はわれわれの秘密《ひみつ》のいったんを知っている。生かしておいちゃ、やっかいだ」  と、またもや二、三発やみくもに海中めがけて、ピストルのたまをぶちこんだ。 「うーむ、いまいましい小僧だ……」 「おい、よせったら、よせ! ほら、むこうからなんだか、船《ふね》がくるようじゃないか」 「あっ!」  と、トム・高田もピストルを射つ手をやすめて、 「おお、明《あ》かりを消《け》してやってくる……。海上自衛隊《かいじようじえいたい》のランチかもしれねえ」 「いわねえこっちゃねえ。おい、トム、こっちもあかりを消して逃走《とうそう》だ」 「よしっ!」  そのランチが遠ざかってからまもなく、ポッカリと波間《なみま》から首をだしたのは、探偵小僧《たんていこぞう》の御子柴進《みこしばすすむ》だ。フーッと大きく息《いき》をくちへ吸《す》いこむと、ぶるるっと首をふりながら、 「危ない! 危ない! 九死《きゆうし》に一生《いつしよう》、もう少しのとこでうち殺《ころ》されるところだった!」  そして、ゆらりゆらりと両手《りようて》で水をかきながら、さて、あらためてあたりを見まわしたが、すると、その目に映《うつ》ったのは、向こうから明かりを消してやってくるランチの姿《すがた》だ。じつをいうと、進は、さっき、そのランチの姿に気がついて、それをたよりに海の中へとびこんだのだ。しかも、そのランチは進の方へ進んでくる。    救《きゆう》 助《じよ》  明かりを消して近づいてきたのは、はたして海上自衛隊のランチであった。 「元橋《もとはし》、さっき、ピストルの火花《ひばな》らしいものが見えたのは、たしかこのへんだったと思うが……」 「ああ、そうだったな。たしかこの位置《いち》だったよ。おや、安藤《あんどう》、誰《だれ》かが呼《よ》んでるようだが……」 「えっ?」 「ちょっとエンジンをとめてみろ」 「オーケー」  と、エンジンをとめたとたん、まっくらがりの海の上から聞こえてきたのは、 「助けてくれえ! 助けてくれえ!」  と、救《すく》いを求《もと》める進の声である。 「おや、誰かが助けを呼んでるぜ。おい、安藤、サーチ・ライトを照射しろ」  言下《げんか》にサーチ・ライトが照射されて、ランチは静かに用心ぶかく、声のするほうへ進んでいく。 「あ、あそこだ、あそこだ」 「さっきのランチから、飛びこんだんだな」 「おや」 「どうした。元橋」 「ありゃあ子供じゃないか。大人《おとな》じゃなさそうだぜ」 「おい、それじゃ、ひょっとすると、いつか風船魔人《ふうせんまじん》の一味にさらわれた、新日報社《しんにつぽうしや》の探偵小僧、御子柴進という少年じゃないか」 「そうかもしれない。おうい、待ってろう。すぐ行くぞう」  このランチは、さっき、ジョージ・広田が心配していたように、競輪選手《けいりんせんしゆ》が一瞬《いつしゆん》はなった光を認《みと》めて、この場へ、かけつけてきたのである。  やがて、ランチが進から三メートルほど離《はな》れたところにとまると、 「そうら、浮《う》き輪《わ》を投げるぞ。だいじょうぶか」 「ぼく、だいじょうぶです」  元橋自衛|隊員《たいいん》が浮き輪に綱《つな》をつけて投げおろすと、探偵小僧は勇躍《ゆうやく》それにとりすがる。元橋は綱をひきよせながら、 「君はひょっとすると、新日報社の探偵小僧、御子柴進じゃないか」 「そうです。おじさんたちは海上自衛隊のひとたちですね」  ああ、こうして、探偵小僧の御子柴進は、海上自衛隊のランチによって、無事《ぶじ》に助けられたのだが、彼の口からもれたニュースが、テレビに新聞に伝《つた》えられた時、日本じゅうの人々が、どんなに驚《おどろ》き、かつ、恐《おそ》れたことだろう。    空魔団  ここに偉大《いだい》な発明家がいる。  かれは何人《なにびと》も企《くわだ》て、およばなかった、不思議《ふしぎ》なガス体《たい》を発明した。  そのガス体は、ひじょうに少ない容積《ようせき》で、人間を空に浮きあがらせるだけの浮揚力《ふようりよく》をもっているのである。  そのことは風船魔人《ふうせんまじん》のたびたびの実験によって、すでに試験《しけん》ずみである。  ところが、探偵小僧の口からもれたところによると、この偉大な発明家は精神に異常をきたしているというのである。そして、この偉大な発明によって、文化の発展《はつてん》につくそうとしないばかりか、空魔団《くうまだん》という、空の強盗団《ごうとうだん》を組織《そしき》しようというのだ。  これを聞いて、驚かぬものが世《よ》にあろうか。恐れぬものがあるだろうか。  こうして、風船魔人の目的《もくてき》はようやくわかった。  しかし、わからないのはその正体《しようたい》である。探偵小僧やマリー・宮本《みやもと》の話によると、道化師《どうけし》のヘンリー・松崎《まつざき》が、天馬《てんま》サーカスの団長《だんちよう》だということである。  しかし、不思議なことには、団員《だんいん》だったマリーでさえ、ヘンリー・松崎の素顔《すがお》を見たことがないという。  ヘンリー・松崎はいつもサーカスにいるわけでなく、ときおり思いだしたようにやってくるのだが、いついかなる時でも、顔をまっ白にぬりつぶし、トランプのダイヤだのハートだのを、べたべたといちめんに書いているので、どんな顔をしているのかさっぱりわからないという。  それにしても、そのヘンリー・松崎というのが、偉大なる発明家なのだろうか。  その団長は、たまにしか、サーカスへやってこないというが、それでは、ふだんどこにいるのか。  さて、警視庁《けいしちよう》では御子柴進の話によって、関東地方《かんとうちほう》の海岸地帯をくまなく調べた。進の話によると、天馬サーカスの一味のものは、岩《いわ》のわれ目を利用した、奇怪《きかい》な地下工場に住んでいるというのである。  しかし、御子柴進はそこへつれていかれる時も、そこから連れだされる時も、いつも眠り薬を嗅《か》がされていたので、そこがどこやらさっぱりわからないというのである。  いずれにしてもジョージ・広田やトム・高田がランチによって海上はるかに逃走したところをみると、きっと、海岸地帯にちがいないと、しらみつぶしに捜索《そうさく》したが、いっこう、手がかりもつかめぬうちに、とうとう恐ろしい事件がもちあがったのだ。  そして、人々は、いよいよ空魔団が活躍《かつやく》をはじめたことを知って、それこそ日本じゅう、恐怖《きようふ》のどん底《ぞこ》にたたきこまれることになったのである。    空の誘拐《ゆうかい》  それは空《そら》行く競輪選手《けいりんせんしゆ》の騒《さわ》ぎがあってから、三|月《つき》ほどたった十月|下旬《げじゆん》のことである。  新日報社《しんにつぽうしや》の社長、池上三作《いけがみさんさく》の娘、由紀子《ゆきこ》は日比谷《ひびや》の音楽堂《おんがくどう》へ、外国の有名なピアニストの演奏《えんそう》を聞きに行った。  こんな時いつもお供《とも》をするのが、探偵小僧の御子柴進だ。進は、近ごろ、社長のうちから社へかよっているのである。  その演奏会が終ったのが夜の九時ごろ。由紀子と進は、つれだって外へ出たが、そこに待っているはずの自動車が見えない。  あたりを見まわしていた進は、 「お嬢《じよう》さん、ぼく、ちょっと探《さが》してきます。お嬢さんはここに待っていてください」  と、由紀子をひとりそこに残して、きょときょと、あたりを見まわしながら、人ごみの中へまぎれこんだ。  すると、それと入れ違いにやってきたのは、三十前後の紳士である。洋服の上にマントのようなインバネスをはおっている。  帽子《ぼうし》を取って、ていねいにおじぎをすると、 「池上さんのお嬢さんですね」  と、にこにこ笑った。  これこそジョージ・広田なのだが、由紀子はもとよりそんなことは知らなかった。 「はい」 「お嬢さんのお車は、向こうに待っています。ご案内《あんない》しましょう。ぼく、新日報社の記者で山本五郎というものです」 「あら。そう、それでは……」  と、由紀子はなにげなくジョージ・広田のあとについていったが、突然《とつぜん》、広田がなにかにつまずいたように、よろよろとよろめいて、由紀子のからだにもたれかかった。 「あれえ!」  と、由紀子が叫《さけ》んだとたん、広田の片腕《かたうで》ががっきりとその腰《こし》をだきしめた。  と、思うと、なんと、由紀子のからだをだいたまま、広田のからだが、ふわりふわりと宙《ちゆう》に浮《う》いていくではないか……。    宙に浮く 「あら!」  と、由紀子《ゆきこ》は叫んだが、はじめのうちは、何が何やら、わけがわからなかった。  ただ、妙《みよう》にからだが軽《かる》くなったような気がして、思わず、きょろきょろあたりを見まわしたが、ふと気がつくと足が地面から離《はな》れている。  からだが宙に浮いている!  そう気がついたとたん、由紀子はなんともいえぬ恐《おそ》ろしさを感じて、思わずきゃあっと悲鳴《ひめい》をあげた。 「誰《だれ》か来てえ!」  由紀子の足は地上から、すでに五十センチくらい浮きあがっていた。その両足をじたばたともがきながら、 「あれえっ。誰か助けてえ!」  と、もう一度、絹《きぬ》をさくような悲鳴をあげた時、もうひとりの男が、ばたばたと由紀子のそばへ駆《か》けよってきた。  そして、 「お嬢《じよう》さん、どうかしましたか」  と、言いながら、その男もまたジョージ・広田の反対側から、がっちりと由紀子のからだをだきしめた。  そのとたん、由紀子はからだが前より、いっそう軽くなるのが感じられた。 「あれ、おじさん、放《はな》して……放して……」  と、左右からがっちり両腕《りよううで》をとられた由紀子が、両足をバタバタさせながら叫んだ時には、三人のからだは、もう地上数メートルの上空に浮いていた。  あとから来たのはいうまでもなく、天馬サーカスのトム・高田である。トム・高田も洋服の上にインバネスをはおっていて、ジョージ・広田とそっくりおなじ姿《すがた》をしている。  その時、由紀子のまわりには、一人も人がいなかったわけではない。いやいや、音楽堂を出た人が、まだそうとうたくさん歩いていたのだ。  しかし、誰もとっさのうちに起こったそのできごとの意味を、はっきり知ることができなかったのだ。  人のからだが、宙に浮く……。  いったい、そんなことが信じられるだろうか。  しかし、いま眼前《がんぜん》にその不思議《ふしぎ》なできごとが、じっさいに起こっているのだと気がついた時、あたりにいあわせた人々は、 「わっ!」  と、叫んで、あわてふためき、くもの子をちらすように、四|方《ほう》八|方《ぽう》へ逃《に》げまどった。 「あれ、あれ、ひとのからだが宙に浮いていく。三人のからだが宙を飛んでいく……」  誰かが大声で叫んだ時には、左右から由紀子のからだをかかえた、ジョージ・広田とトム・高田は、すでに音楽堂の屋根《やね》より高く浮きあがっていた。 「空魔団《くうまだん》だ! 空魔団だ! 空魔団がとうとう活躍《かつやく》を開始《かいし》したぞ!」 「そうだ、そうだ、風船魔人《ふうせんまじん》がとうとう空の強盗団《ごうとうだん》を組織《そしき》したのだ!」 「そうだ、それに違いない。そして、空から人をさらっていくのだ」 「あれ、あれ、人間が空を飛んでいくう!」  日比谷公園《ひびやこうえん》の中は上を下への大騒《おおさわ》ぎである。  興奮《こうふん》して口々にわめき、叫び、逃《に》げまどう声を聞きつけて、はっと足をとめたのは、自動車《じどうしや》を探しにいった探偵小僧《たんていこぞう》の御子柴進《みこしばすすむ》である。ぎょっとして空をあおぐと、折からの星空のもと、こうもり[#「こうもり」に傍点]のようなふたりの男にはさまれて、空に浮かんでいるのは、どうやら女の子のようだ。  進ははっとあやしい予感《よかん》に胸《むね》をふるわせた。 「おじさん、おじさん、あれ、ど、どうしたんですか」  と、ふるえる声で、そばを走っていく人にたずねると、 「ど、どうしたも、こうしたもあるかい。ふたりの空魔団が、十三、四のかわいい女の子をひっさらって、空へ舞い上がっていったんだ。兄ちゃん、まごまごしてると、おまえも空へひっさらわれるぞ」  十三、四の女の子……?  探偵小僧の御子柴進は、突然《とつぜん》、頭から冷《つめ》たい水でもぶっかけられたような恐怖《きようふ》をおぼえた。  もしや、由紀子さんでは……?  と、さっき由紀子を待たせておいた場所までひきかえしてきたが、むろん、そこに由紀子のいようはずがない。 「おじさん、おじさん、さっきここにいた、十三、四のかわいいお嬢さんを知りませんか。まっかなオーバーを着《き》た……」 「ああ、君は、あの女の子の連れなのか! その女の子が、いま空へひっさらわれたのだ!」 「あっ!」  進はそのとたん、全身の血がこおるような恐怖をおぼえた。  ガクガクとひざがふるえて、いまにもそこへ、へたばりそうになった。  しかし、すぐに勇気《ゆうき》をふるいおこすと、 「しまった! ちきしょう、ちきしょう!」  と逃げまどう人々をかきわけて、日比谷公園から外へ飛びだしたが、その時、ふと彼の目をとらえたものがある。  そこにとまっている自動車の窓《まど》から首だけだして、空を仰《あお》いでいる一人の老紳士《ろうしんし》があった。それはまぎれもなく畔柳博士《くろやなぎはくし》である。  進は思わず声をかけようとしたが、そのとたん、博士の顔にうかんだ、世《よ》にも奇妙《きみよう》なうすら笑いに気がつくと、声がそのまま、のどのおくで凍《こお》りついてしまった。  それは、してやったりというような、世にもうす気味悪い、笑顔であった。    臨時《りんじ》ニュース  その晩《ばん》の東京の騒《さわ》ぎといったらなかった。  空魔団《くうまだん》がいよいよ活躍《かつやく》を開始《かいし》した。ふたりの空魔団の団員が、ひとりの少女をひっさらって、空へ舞い上がっていったというニュースが、各《かく》テレビ局《きよく》から放映された。それを見た家庭《かてい》では、どこの家でもふるえあがって、あわてて雨戸を閉めるやら、ドアに鍵《かぎ》をかけるやら、なかには布団《ふとん》をひっかぶって、ぶるぶるふるえている人もいる。  新日報社《しんにつぽうしや》の会議室《かいぎしつ》でも、山崎《やまざき》 編集局長《へんしゆうきよくちよう》をはじめとして、三津木俊助《みつぎしゆんすけ》に探偵小僧《たんていこぞう》の御子柴《みこしば》進。それから山羊《やぎ》ひげの畔柳博士《くろやなぎはくし》もまじえて、一生懸命、テレビのニュースに目を向けた。 「それでは次に、この恐《おそ》ろしい事件の目撃者《もくげきしや》、山田春雄《やまだはるお》さんに実見談《じつけんだん》をうかがうことにいたします。山田さん、さぞびっくりなすったでしょう」  アナウンサーにつづいて、 「いや、もう、驚《おどろ》いたのなんのって、それこそ、キモッ玉《たま》がでんぐりかえってしまいました。ちょうど、わたしの五、六歩前を、インバネスを着た男と、十三、四のかわいいお嬢《じよう》さんが歩いていたのです。ところが、突然《とつぜん》、女の子が、何やら小さい声で叫んだので、ひょいと見ると、男の方のからだが一メートルほど宙《ちゆう》に浮いていて女の子のからだをひっぱりあげるようにしているんです……」 「びっくりなすったでしょう。その時には……」 「いや、その時にはまだ、びっくりするまでにはいたりませんでした。何が何やらわけがわからず、ただポカンとしていたんです。  そしたら、そこへ、もう一人、男がやってきたんです」 「そうそう、空魔団《くうまだん》は二人だったそうですね」 「空魔団か何か知りませんが、とにかくもう一人の男がやってきて、お嬢《じよう》さん……とかなんとかいいながら、これが左のほうから、女の子の腰《こし》か腕《うで》に手をかけたんです。そしたら、みるみるうちに、三人のからだが宙に浮いていったんです」 「まっすぐに、宙に浮いたんですか」 「そうです。そうです。音楽堂の屋根あたりまでは、垂直《すいちよく》にのぼっていきました。それから少し方向《ほうこう》をかえて、ななめに上昇《じようしよう》していきましたが、それから水平《すいへい》に走り去ったようです」 「スピードはどのくらい……」 「そうですね。たいして速《はや》くはなかったんですよ。のろのろ走るくらいのていどでしたね。だけど、あれ、飛行機《ひこうき》で追《お》っかけるには、高度《こうど》が低《ひく》すぎると思うんです。というと、これはどういうことになるんです。ピストルの射程距離《しやていきより》をたくみにさけて飛ぶとすれば……いや、恐いことです、恐いことです」  アナウンサーの質問《しつもん》に答えてきた山田春雄さんは、ここまでしゃべってくると、声をふるわしてためいきをついた。    トランクの中  臨時《りんじ》ニュースが終った時、探偵小僧の御子柴進は、いまにも泣《な》き出しそうな顔をして、ふらふらと、椅子《いす》から立ちあがった。 「山崎さん、三津木《みつぎ》さん、ぼくこれから社長の家へ帰ります。さっそくこのことを社長さんに報告《ほうこく》しなければ……」 「探偵小僧、それじゃ、空魔団にさらわれたのは、由紀子さんに違《ちが》いないというんだね」 「はい、そんな気がしてならないんです。ぼくが、そばを離《はな》れたのがいけなかったんです」 「まあ、そういちがいに、気をおとすことはない。由紀子さんはいま、うちへ帰る途中《とちゆう》かもしれない」  山崎編集局長が慰《なぐさ》めたが、そんな気やすめで落ちつくはずはなかった。 「とにかく、ぼく帰ります。畔柳先生は……?」 「いや、わしはまだここにいる。いろいろ、打ち合わせることがあるからな」  畔柳博士はそういうと、大変だ、大変だ、大変なことが起こったと、口のなかでつぶやきながら檻《おり》の中のライオンのように、部屋の中を歩きまわっている。 「それではおやすみなさい」  探偵小僧の御子柴進は、しょんぼり首をうなだれて、会議室《かいぎしつ》から出ていったが、いったん、外からドアを閉めると、急にいきいきと目を輝《かがや》かせた。  探偵小僧は、急ぎ足で廊下《ろうか》を走ると、写真部《しやしんぶ》の部屋へとびこんだ。 「川本《かわもと》さん、さっきお願《ねが》いしておいたもの、用意できておりますか」 「ああ、ちゃんと用意をしておいたよ。だけど、これどうするんだい」 「何でもいいから、貸してください」  川本写真部員の手から、進がひったくるように受け取ったのは、万年筆《まんねんひつ》のキャップくらいの筒《つつ》である。  進は、それから自分の椅子へかえると、小さなバスケットをとりあげた。そして、それを小わきにかかえると、おお急ぎで社から飛び出した。  新日報社の横のうす暗い道端《みちばた》に、一|台《だい》の自動車が停っている。さいわい、運転手の姿《すがた》は見えない。  しめた!  と、心の中で叫んだ進は、すばやくあたりを見まわしたのち、自動車のうしろについているトランクを開《ひら》いた。さっき、そのトランクが、から[#「から」に傍点]であることを確《たし》かめておいたのだ。  進はもう一度あたりを見まわしたのち、するりとトランクの中へすべりこみ、中からそっとトランクのふたをしめた。  それにしても、進が後生大事《ごしようだいじ》にかかえているバスケットの中には、いったい何がはいっているのだろうか。  今まで、風船魔人《ふうせんまじん》の一味のために、さんざん、ひどいめに合わされてきた探偵小僧の御子柴進が、何か、風船魔人の正体《しようたい》についての秘密《ひみつ》を発見《はつけん》したのであろうか……?  それにしても、この自動車にだれが乗って行くのか、進は、すべてを知っているようであったが、その行き先はどこなのだろう。    畔柳博士《くろやなぎはくし》の正体  探偵小僧《たんていこぞう》の御子柴進《みこしばすすむ》が、自動車の後部についているトランクの中へ、身《み》をひそませてから三十分ほどのちのこと。新日報社《しんにつぽうしや》の中から出てきたのは、山羊《やぎ》ひげの畔柳博士である。  進の隠《かく》れている自動車に近づくと、運転席《うんてんせき》をのぞいてみた。運転席にはだれもいない。  畔柳博士はあたりを見まわしながら、 「ちぇっ、どこへいきおった。恩田《おんだ》! 恩田!」  畔柳博士がいらいらしたように叫《さけ》ぶと、むこうにある喫茶店《きつさてん》から、運転手の恩田がかけだしてきた。 「あっ、団長《だんちよう》」 「しっ、ばか!」  と、畔柳博士の目がギョロリと光った。 「いや、どうも。それじゃ、先生、さあ、どうぞ」  畔柳博士はなんとなくあたりを見まわすと、自動車の中に乗りこんで、 「七|号根拠地《ごうこんきよち》まで」  と、低い声でつぶやいた。 「はっ、承知《しようち》しました」  運転手の恩田も低い声で答えると、そのまま自動車は走りだす。  それにしても、不思議《ふしぎ》なのは畔柳博士のそぶりである。  なんとなくあたりをはばかるような目つきといい、運転手との言葉のやりとりといい、なんだか合点《がてん》がいかないようだ。  いや、いや、それよりもっと不思議なのは、運転手の恩田という男である。探偵小僧の御子柴進は、その男に見おぼえがあったのだ。いつか東京湾《とうきようわん》の沖合《おきあ》いで、あやうくトム・高田《たかだ》に撃《う》ち殺《ころ》されようとした時、あのランチを運転していたのが、確かにあの男であった。  トム・高田とジョージ・広田はこの男をサムという名で呼んでいたが。  それはさておき、サム・恩田も畔柳博士も、進が、トランクの中にひそんでいるとは夢《ゆめ》にも知らない。  三人を乗せた自動車は、それからまもなく、東京の町を西へ出はずれると、甲州街道《こうしゆうかいどう》を西へ西へと走っていく。  そして、その夜も真夜中《まよなか》を過ぎた頃《ころ》、やっと自動車がやってきたのは、山梨県《やまなしけん》の山の中である。  深い谷の流れの左右に、切りたったような断崖《だんがい》が、屏風《びようぶ》をつらねたように立っている。  自動車はその流れに沿《そ》って、うねうねとまがっている道を走っていたが、やがて河原《かわら》へ降りる道をすべり降りていった。 「先生、ここでよろしゅうございますか」 「うむ、よし。あたりに誰《だれ》もいないな」 「はい、だいじょうぶです」  運転手が答えると、自動車の中から一人の男が降りてきた。  見ると、それはまっ黒なトンガリずきんをすっぽりかぶって、顔を隠《かく》した人物である。  しかも、からだにも裾《すそ》の長い、まっ黒なだぶだぶのマントのようなものを、着ている。頭からすっぽりかぶったずきんには、ふたつの穴《あな》があいていて、そこから鋭《するど》い目がのぞいているのだ。  ああ、この怪《あや》しい人物こそ、畔柳博士の正体《しようたい》なのか……。    伝書鳩《でんしよばと》かえる  さて、それから一週間のちのこと。新日報社《しんにつぽうしや》には深い暗雲《あんうん》がたれこめていた。  それは、社長の池上三作の娘|由紀子《ゆきこ》が、ゆくえ不明《ふめい》になったからである。やはり探偵小僧の言葉があたっていたらしく、由紀子が空魔団《くうまだん》に誘拐《ゆうかい》されたらしいとわかって、池上社長の心配と嘆《なげ》きは、ひととおりや、ふたとおりではなかった。  それと、もう一つ、山崎《やまざき》 編集局長《へんしゆうきよくちよう》と三津木俊助《みつぎしゆんすけ》が心を痛めているのは、同じ晩《ばん》から探偵小僧の御子柴進が、ゆくえ不明になっていることである。  しかし、このことは川本写真部員《かわもとしやしんぶいん》の注意で、山崎編集局長と、三津木俊助のほかには、新日報社の社員ですらも知らなかった。 「探偵小僧のいうのに、ひょっとすると、二、三日か四、五日、自分は帰らないかもしれないけれど、絶対そのことを誰《だれ》にもいわないように……って、そういって出かけたんですがね。さあ、ぼくにもどこへ行くとはいいませんでした」  と、川本写真部員も心配そうに小首《こくび》をかしげていた。  だから、ある日、畔柳博士が新日報社へやってきて、 「ときに、近ごろ探偵小僧の姿《すがた》がみえないようだが、どうかしたのかな……」  と、尋ねたときも、 「ああ、探偵小僧ですか。あれは由紀子さんが誘拐《ゆうかい》されたということについて、ひどく責任《せきにん》を感じたとみえて、神経衰弱《しんけいすいじやく》になって寝込んでしまったんです」  と、三津木俊助も答えておいた。  ところが、探偵小僧がいなくなってから八日めのこと。 「山崎さん、三津木さん、戻ってきました。戻ってきました。ほら、この伝書鳩《でんしよばと》!」  と、川本写真部員が興奮《こうふん》の顔色で編集局長のへやへ飛びこんできた。  見るとその胸《むね》には一|羽《わ》の伝書鳩が抱かれている。 「ほら、ここに手紙がついています。それからこのカメラ……」  伝書鳩の足《あし》には通信《つうしん》を入れるアルミの缶と、それから、いつか川本写真部員が探偵小僧に手渡した万年筆《まんねんひつ》のような小さな管《くだ》が結《むす》びつけてある。  それは小さな小さな映画の撮影機械《さつえいきかい》である。三津木俊助が取る手遅《ておそ》しと、通信筒《つうしんとう》から手紙を取り出して読んでみると、そこにはこんなことが書いてあった。 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]   ぼくはいま、自分がどこにいるか知りません。どこかの山の中の崖《がけ》に掘られた地下《ちか》工場の中です。伝書鳩《でんしよばと》につけたフィルムで、ここがどこだか判断《はんだん》してください。なお、来たる十日の夜八|時《じ》、大仕掛《おおじか》けな空魔団《くうまだん》がここから飛び立つ予定《よてい》です。しかし、そのことは畔柳博士《くろやなぎはくし》には知らせないように。由紀子《ゆきこ》さんは無事《ぶじ》です。 [#ここで字下げ終わり] [#地付き]探偵小僧《たんていこぞう》      三津木俊助様《みつぎしゆんすけさま》  ああ、これでわかった。探偵小僧の抱《かか》えていたバスケットには、伝書鳩が入っていたのである。    カメラに写《うつ》る  伝書鳩の足につけられた自動式の顕微鏡式撮影機《けんびきようしきさつえいき》は、みごとに成功《せいこう》していた。  川本写真部員《かわもとしやしんぶいん》によってそれが拡大《かくだい》されると、一同は目をサラのようにしてフィルムをのぞきこむ。  それはいま探偵小僧《たんていこぞう》のいるところから、新日報社《しんにつぽうしや》まで、伝書鳩の飛んだあいだの道中《どうちゆう》を、空から撮影《さつえい》したものである。 「あっ、三津木さん、これは明治神宮《めいじじんぐう》の外苑《がいえん》じゃありませんか」 「そうだ、そうだ。こいつは新宿駅《しんじゆくえき》だぜ」 「あっ、ここに帯《おび》のように写《うつ》っているのは甲州街道《こうしゆうかいどう》じゃないかな」  山崎編集局長も、興奮《こうふん》のために息《いき》をはずませている。 「そして、由紀子《ゆきこ》はこの伝書鳩が飛び立ったところに、いまでも無事《ぶじ》でいるんだね」  と、ふるえる手でフィルムをめくりながら池上社長《いけがみしやちよう》は涙《なみだ》ぐんでいる。  こうしてフィルムは新日報社《しんにつぽうしや》から、逆に調べられていく。三津木俊助《みつぎしゆんすけ》と川本写真部員《かわもとしやしんぶいん》のふたりは、フィルムと東京近郊《とうきようきんこう》の地図《ちず》を見くらべている。 「これで見ると、伝書鳩は東京の西の方から飛んできたんですね。ああ、ここに写っているのは八王子市《はちおうじし》らしい」 「ああ、探偵小僧の手紙によると、どこかの山の中とありますが、これはおそらく甲州《こうしゆう》の山の中ですぜ」 「あっ! 社長さん、こ、これは猿橋《さるはし》じゃありませんか」 「ああ、そうだ、そうだ、猿橋だ。すると、この川は桂川《かつらがわ》だな」  ああ、こうしてついに風船魔人《ふうせんまじん》の根拠地《こんきよち》は、桂川の上流《じようりゆう》の、とある山の中らしいと推定《すいてい》された。  しかし、もちろんフィルムと地図を見くらべただけでは、くわしい地点はわからない。 「どうでしょう、社長さん。この地図を道しるべに、飛行機《ひこうき》で飛んでみたら……?」 「しかし、そんなことをして、風船魔人の一味にさとられたら……。なにしろ、由紀子さんを人質《ひとじち》にとられているのだから……」  と、山崎編集局長には、それがいちばん心配《しんぱい》なのだ。 「いいさ、それはかまわん。風船魔人の根拠地を知ることがなにより大切だ。三津木君、君、やってくれたまえ」  と、池上社長は断固《だんこ》として言った。  こうして、社長の命令《めいれい》で飛行機で飛んだ三津木俊助は、とうとうその地点のあらましをつきとめることができたのである。    空の投網《とあみ》  さて、探偵小僧の手紙に示された十日の夜、八時頃のことである。  その夜はさいわい月のよい晩《ばん》だったが、もし、人が桂川の上流の、とある崖の上を注意《ちゆうい》深く見まもっていたら、そこに、世《よ》にも不思議《ふしぎ》なものを見たことだろう。  まず、一つ、崖《がけ》の上の林の中から、ふわりと一つの人影《ひとかげ》が浮きあがった。その人影はこうもりのように、インバネスの袖《そで》をはためかしながら、まっすぐに空に昇《のぼ》っていく。  と、また、それに続《つづ》いて一つの人影……。さらに、次から次へと、同じようにインバネスを着た人影が、空へ昇っていくのである。  これらの人影は百メートルくらい上昇《じようしよう》すると、やがて方向《ほうこう》を変えて、東の空へ飛んでいく。 「ふうむ」  と、崖下《がけした》の岩陰《いわかげ》からこれを見て、思わずうめき声をあげたのは、いわずとしれた三津木俊助。 「社長、これは大した発明《はつめい》ですね。これだけの発明を社会《しやかい》の為《ため》に使《つか》おうとせず強盗団《ごうとうだん》に利用《りよう》するとは」 「三津木くん、あの人は頭がおかしくなっているのだよ」  と、池上社長は暗《くら》いため息《いき》である。  崖の上から飛び立った人数《にんずう》は、ちょうど十六人だった。  彼らはいっせいに東の空へ飛んでいったがその時、とつじょ聞こえてきたのは、けたたましい飛行機の爆音《ばくおん》だ。  付近《ふきん》の飛行場で待機《たいき》していた十数|機《き》の飛行機は、空魔団《くうまだん》が飛び立つとの現地《げんち》からの報告《ほうこく》をうけると、いっせいに飛行場をとび立ったのだ。そして、空行く空魔団を見つけると、飛行機からパッと投げ降ろされたのは、かつてアメリカ空軍《くうぐん》が使用したと同じような投網《とあみ》である。  これには空魔団の連中《れんちゆう》もあわてた。驚《おどろ》いた。  列《れつ》をみだして逃《に》げまどうのを、金属製《きんぞくせい》の投網《とあみ》ががっきりくるんで、そのまま飛行場へひいていく。  これらの状況《じようきよう》は、暗いところでも写《うつ》る赤外線撮影機《せきがいせんさつえいき》で撮影され、テレビによって全国《ぜんこく》で放映《ほうえい》されたが、この時の視聴率は記録的だった。  さて、捕《とら》えられた空魔団の団長が、畔柳博士であったことは、いうまでもあるまい。  博士は天才《てんさい》であった。と、同時に狂人《きようじん》でもあったのだ。しかも、博士は捕えられた瞬間《しゆんかん》に、とうとうほんとうに精神に異常を来《きた》してしまった。  しかし博士の残した業績《ぎようせき》は大きい。いまや、日本の科学者《かがくしや》たちは、全力をあげて博士の発明した、超高度浮揚力《ちようこうどふようりよく》をもったガス体の秘密《ひみつ》を解《と》こうと努力《どりよく》している。  なお、今度《こんど》の事件《じけん》の殊勲第《しゆくんだい》一|人者《にんしや》として、探偵小僧の御子柴進は近く総理大臣《そうりだいじん》から、表彰《ひようしよう》されるということである。 [#改ページ] [#見出し]  黄金魔人    尾行《びこう》する足音  それは木枯《こがら》しの吹《ふ》きすさぶ、去年の十二月以来のことである。  東京《とうきよう》には不思議な噂《うわさ》が流れ始めた。全身黄金でできた人間が、時折、東京のあちこちに出没《しゆつぼつ》するというのである。  それを初めに言い出したのは伊東伊津子《いとういつこ》という、今年十六|歳《さい》になる少女であった。  伊東伊津子は渋谷《しぶや》にある、東京デパートという百貨店の売子であった。  十二月も半ばを過《す》ぎると、どこのデパートも年末の大売出しで忙《いそが》しい。ふだんは五時に閉《し》める東京デパートも、年末大売出しの期間だけは、閉店時刻《へいてんじこく》が八時まで延《の》ばされている。  だから、その夜、店が閉まって、売場の後始末《あとしまつ》をした後に、伊東伊津子が東京デパートを出たのは八時半をとっくに過ぎていた。  伊東伊津子の家は久我山《くがやま》にある。久我山というのは、渋谷から吉祥寺《きちじようじ》まで走っている、井《い》の頭《かしら》線という郊外《こうがい》電車の途中《とちゆう》に駅のあるところである。  だから、乗り換《か》えなしに約二十分の通勤距離《つうきんきより》だが、伊津子の家のあるあたりは、たいへん淋《さび》しいところなので、いつもはお母さんが駅まで迎《むか》えに来ることになっている。  伊東伊津子のお父さんは、新宿《しんじゆく》の映画館《えいがかん》で映写技師《えいしやぎし》をしているのだが、伊津子の下に弟や妹がたくさんあるので、伊津子も働かねばならないのである。  伊津子はその春、中学校を卒業すると、東京デパートの売子|募集《ぼしゆう》に応《おう》じて、何百人という競争者の中から目出たく選ばれて仕事にありついたのである。  それだけに、伊津子はたいへん可愛《かわい》い、頭のよい、しかも勇気のある少女であった。  さて、その夜九時ごろ、伊津子が久我山の駅に降《お》り立つと、いつも迎えに来ているお母さんの姿《すがた》が見えなかった。  伊津子はしばらく駅の前で待っていたが、お母さんの姿は見えなかった。  そのうち伊津子はふと、今朝出がけに、お母さんが風邪《かぜ》をひいたのか、少し頭が痛《いた》いと言っていたのを思い出した。  ひょっとすると、その風邪が悪くなって熱でも出たのではないか。  お母さんが寝《ね》ているとすると弟や妹たちはまだ幼《おさな》くて、とても迎えには来られないのである。それに、お父さんはまだ新宿の映画館で働いている時刻である。  前にも言ったように、伊津子はたいへん勇気のある少女であった。  夜道を恐《こわ》いとも思わなかった。毎日通い馴《な》れた道である。  いつまでもここでぼんやり待っているより、一人で帰ろうと決心して歩き出した。いつもの道を通って帰れば、もしお母さんが迎えに来ても、途中で行き違《ちが》いになる気遣《きづか》いはない。  伊津子は急ぎ足に歩き出した。片手《かたて》にアルミの弁当箱《べんとうばこ》、片手にこうもりがさを持って、うつむきかげんに歩いて行く。  まもなく商店のある明かるい町を通り過ぎて、畑や林のある淋しい道にさしかかった。  それでも、ところどころに街燈《がいとう》がついているので、全然真暗というわけではない。  伊津子の家は、向こうに見える林のそばを通り過ぎたところにある。  伊津子は突然《とつぜん》、ぎょっと息をのんだ。  さっきから同じ間隔《かんかく》を隔《へだ》てて、後からついて来る足音に気がついたからである。  コツ、コツ、コツ……。  不完全ながらも舗装《ほそう》してある道に、固い金属性《きんぞくせい》の音をたてながら、足音の主《ぬし》はつけて来る。    黄金人間《おうごんにんげん》  こんな場合、かえって一人の方が恐くない。夜道に、誰《だれ》か後からついて来るというのは、まことに気味が悪いものだ。  伊津子は後から来る人をやり過ごそうとして、少し歩調をゆるめてみた。すると、その足音も同じように、歩調をゆるめるのである。  伊津子は、ゾーッと全身から冷たい汗《あせ》が吹きだすのを感じた。  伊津子は再《ふたた》び歩調を早めた。すると、後の足音も、同じように歩調を早めてついて来るのだ。  ああ、もう間違《まちが》いはない。後から来る人は、偶然《ぐうぜん》同じ道を行くのではない。明らかに、伊津子の後をつけて来るのだ。  伊津子は後を振り返ろうかと思ったが、とてもその勇気は出なかった。  また走り出そうかと思ったが、それではかえって、相手を怒《おこ》らせはしないかと、ただひたすら足を急がせて行く。  やがて、伊津子は林のそばの道にさしかかった。  そこは片側《かたがわ》が学校の塀《へい》になっており、片側が相当広い林になっている。駅から家へ帰りつくまでの間でも、一番淋しい場所である。  突然、後から来る足音が、コツ、コツと大股《おおまた》に伊津子の方へ近づいてきた。  伊津子の心臓《しんぞう》はガンガン踊《おど》って、全身から吹き出す汗で、こうもり傘《がさ》の柄《え》を握《にぎ》ったてのひらもぐっしょりである。  とうとう伊津子は夢中《むちゆう》になって走り出した。いや、走り出そうとしたといった方が正しいかもしれない。  そのとたん、後ろから追いついた人物が、 「伊津子サン、伊津子サン、アナタ、伊東伊津子サンデショ」  妙《みよう》な声だった。  まるで外人の話す日本語のように、鼻にかかって、アクセントもおかしかった。  伊津子はまたゾーッとした。全身の毛という毛が逆立《さかだ》つ思いで、夢中になって駆《か》け出そうとした時、後から来た男が、むんずと伊津子の手首を掴《つか》んだ。 「あれえっ!」  と、悲鳴をあげながらも、握られた手首の冷たさに、はっと相手の手を見ると、それは金色に輝《かがや》いて、しかも、その手の冷たさは金属性の冷たさであった。  はっとして、伊津子が後を振り返ると、相手の顔は能面《のうめん》のようにつるつるしていて、しかも、これまた金色に輝いていた。 「あれえっ!!」  今度こそ、伊津子はのども裂《さ》けんばかりに悲鳴をあげた。 「誰か来てえっ!!」  と、叫《さけ》ぼうとする伊津子の口を、奇怪《きかい》な男は片手でふさいだ。  その手も金色に輝く金属性の冷たい手だった。 「シッ、静カニ。ワタシ、黄金人間、ワタシノ体、黄金デデキテイマス。ワタシトイッショニクル、面白イモノ見セテアゲル」  そう言いながら黄金人間は、伊津子の体を横抱《よこだ》きにした。  伊津子はそのとき、恐怖《きようふ》のどん底にたたきこまれた。  それでも目を上げてみると、奇怪な黄金人間はつばの広い山高帽《やまたかぼう》をかぶっていて、その下に、表情《ひようじよう》のない能の面のような金属性の顔が、つるつると金色に輝いていた。  そして、体にはすっぽりとかかとまで届《とど》きそうなマントを巻《ま》きつけているのだが、マントの下は裸《はだか》らしく、固い金属性の感じである。  足を見ると、靴《くつ》もはいていなくて五本の指が金色に輝いて、しかも、身動きするたびに、コツ、コツと固い金属性の足音がする。 「だ、誰か来てえっ!!」  と、伊津子はひと声高く叫んだきり、とうとう奇怪な黄金人間の腕《うで》に抱かれたきり、気を失ってしまった。    異常者あつかい 「おい、きみ、きみ、どうした。さっきの叫《さけ》びはきみだったのか」  ゆすり起こされて伊津子がはっと気がつくと、パトロールの警官《けいかん》が、懐中電燈《かいちゆうでんとう》の光を、まともに伊津子に向けている。 「ああ、黄金人間……」 「えっ、黄金人間……?」 「はい、今、体じゅう黄金でできた人があたしの後を追っかけて来て……」  伊津子の奇怪《きかい》な言葉に、警官は目を丸《まる》くした。 「きみ、きみ、頭がどうかしてやあしないか。体じゅう黄金でできた人間なんて馬鹿馬鹿《ばかばか》しい。さあさあ起きたまえ、きみの叫び声を聞きつけて駆《か》けつけて来たんだが、誰《だれ》もその辺にはいなかった。一体、どんなやつに襲《おそ》われたんだい」 「はい、それですから、黄金人間に……」  と、道に倒《たお》れていた伊津子は、よろよろしながら起き上がった。  まだ膝頭《ひざがしら》が、がくがく震《ふる》えている。 「ば、馬鹿なことを言っちゃいかん。本当のことを言いたまえ。一体、どんなやつだったんだ。きみを脅《おど》かしたのは……?」 「いいえ、本当のことなんです。顔も、手も、足も、いいえ、体全体が黄金でできてる恐《こわ》い人なんです。自分でも、黄金人間だと言っていました」  パトロールの警官はあきれかえったように、伊津子の顔を見ていたが、きっと頭でもおかしいのであろうと諦《あき》らめたのだろう。 「きみの家はどの辺だい。なんなら、ぼくが送って行ってあげよう」 「はい、この林を通り過ぎたところです。おまわりさん、後生《ごしよう》ですから送って……あたし恐くて、恐くて……」  伊津子はゾーッとしたように、林の中を見回したが、そこにはもう、さっきの怪人《かいじん》の姿《すがた》は見えなかった。 「ああ、そう、よし、送って行ってあげよう。ああ、これ、きみの弁当箱《べんとうばこ》だね」  親切な警官は、道に落ちている弁当箱とこうもりがさを拾ってくれた。  それから、伊津子と並《なら》んで歩きながら、もう一度、伊津子を襲った人間について聞きただした。  しかし何度聞いても、伊津子の返事が変わらないので、警官もそれ以上、聞きただすのを諦めた。きっと、気が狂っているか、それとも少し頭が足りないのかもしれないと思ったのだろう。  親切な警官は、伊津子を家まで送り届けると、お母さんに伊津子の精神状態《せいしんじようたい》を聞いてみた。  伊津子のお母さんは、はたして熱を出して寝《ね》ていたのだが、警官の話を聞くと、決して伊津子は頭に異常《いじよう》を来してはいない、小学校から中学校にかけて、ずうっと首席で通して来たと断言《だんげん》した。  顔を見ても、伊津子はいかにも利口《りこう》そうである。警官は小首をかしげた。 「だけどね、伊津子ちゃん、さっきの黄金人間の話ね。あれ、誰にも言わないほうがいいぜ。ぼくでなくったって誰だって、きみの頭がおかしいに違いないと思うからな。あっはっは……」  警官は、笑《わら》いながら帰って行ったが、それでも気になったのか、本署《ほんしよ》の方へは、伊津子の話した通りに報告書《ほうこくしよ》を出しておいた。  これが警察《けいさつ》の書類の中に、初めて黄金人間なる名前が現《あら》われた最初だった。むろん、本署でも問題にしなかった。  そんな報告書を提出《ていしゆつ》した園部巡査《そのべじゆんさ》を、かえって馬鹿にしたくらいである。  伊東伊津子はこの事件《じけん》のために、熱を出して三日ほど店を休んだが、その後は元気に通っている。    ローズ・蝋山《ろうやま》  さて、伊東伊津子が奇怪な黄金人間に襲われたのは、去年の十二月|中旬《ちゆうじゆん》のことだったが、それから十日ほど経《た》って、またもや、黄金人間が出現《しゆつげん》した。  黄金人間に襲われた二番目の犠牲者《ぎせいしや》というのは、ローズ・蝋山《ろうやま》というミュージカルの踊子《おどりこ》で、伊東伊津子と同じ年の十六|歳《さい》の少女であった。  ローズ・蝋山は丸《まる》の内《うち》の帝都劇場《ていとげきじよう》というミュージカルの劇場に出ているのだが、その年の春、中学校を出て入団《にゆうだん》したばかりの、ほんのまだ駆《か》け出《だ》しの踊子だった。  その晩《ばん》ローズ・蝋山は、真夜中の二時|頃《ごろ》まで、踊りのレッスンに熱中していた。なにしろ、普通興行《ふつうこうぎよう》が終った後で正月のミュージカルのレッスンをするのだから、どうかすると、徹夜《てつや》になることもある。  そんな時には、幼《おさな》い少女に夜道を歩かせて、もし悪者に襲われてはいけないというので、みんな劇場の楽屋に泊《とま》ることになっているのである。  その晩もローズ・蝋山は、激《はげ》しいレッスンの後、一緒《いつしよ》に入団した友達と一緒に、楽屋の大部屋でざこ[#「ざこ」に傍点]寝をした。  大部屋というのは、下っぱの役者たちが一緒に化粧《けしよう》をしたり、衣裳《いしよう》をつけたりする部屋である。  ざこ[#「ざこ」に傍点]寝というのは、雑魚《ざこ》がほしてあるように、大勢同じ部屋へ寝ることだ。  さて、ローズ・蝋山は明け方の四時頃ふと目を覚ました。寒くて、よく寝つかれなかったのである。  ローズ・蝋山は薄《うす》いせんべい[#「せんべい」に傍点]布団《ぶとん》から抜《ぬ》け出すと、階下にあるトイレットへ行った。  劇場というものは、舞台《ぶたい》で幕《まく》が開いている間は、まことに陽気で、華《はな》やかなものだが、そうでない時はいかにもがらんとして、薄気味悪《うすきみわる》いものである。  ローズ・蝋山は大急ぎで用を足《た》すと、楽屋の階段《かいだん》を上ろうとした。  と、その時、上からコツ、コツと、固い金属性《きんぞくせい》の音をさせて、降《お》りて来るものがあった。 「おや、誰かトイレへ行くのかしら?」  そう思いながら、ローズ・蝋山はなにげなく上を見た。  そのとたん、ローズ・蝋山はシーンと体中の血《ち》が凍《こお》るような恐《こわ》さを感じた。  階段の上にはほの暗い、裸《はだか》電球がぶら下がっている。  その裸電球の下に、雲つくばかりの大男が立っていた。  いや、実際《じつさい》はそれほどの大男だったかどうだかわからないのだが、階段の下から見上げたローズ・蝋山にはそう見えたのだ。  その男はふちの広い山高帽子《やまたかぼうし》を目深《まぶか》にかぶって、かかとまで届《とど》きそうな裾《すそ》の長いマントを体に巻《ま》きつけていた。  そして、首を深くたれているので、顔はさっぱり見えなかったが、その恰好《かつこう》がいかにも気味悪く感じられたのだ。 「誰……? そこにいるのは……?」  ローズ・蝋山はがたがた震《ふる》えながら、それでも勇気を奮《ふる》って声をかけた。  すると、相手は首をたれたまま、 「ローズ・蝋山ダネ」  と、妙《みよう》に鼻にかかった、だみ声で尋《たず》ねた。 「ええ、あたしローズ・蝋山だけど、あなたはだあれ?」  ローズ・蝋山が重ねて質問《しつもん》したとき、 「ワタシ、黄金人間デス」  と、きっぱり言うと、相手はさっと顔をあげ、マントの前をパッと開いた。  そのとたん、ローズ・蝋山は、 「キャーッ!」  と叫んで、両手で顔を押《おさ》えた。  つばの広い山高帽子の下には、能面《のうめん》のように表情《ひようじよう》のない顔が、つるつると金色に光っていた。  そして、マントを開いたその下は、金色のパンツをはいただけの裸だったが、その全身がピカピカと黄金色に輝《かがや》いている。  しかも、靴《くつ》をはかぬ裸足《はだし》の足の五本の指も爪《つめ》も、これまた金色に輝いていて、 「ワタシ、黄金人間デス」  と、もう一度言った。  そして、一歩一歩、階段を降りて来る時、それは、固い金属性の音を立てるのである。    楽屋の怪《かい》  蛇《へび》に見こまれると蛙《かえる》は身動きができなくなるという、そのときのローズ・蝋山がちょうどそれだった。 「ワタシ、黄金人間デス」  と、妙《みよう》な声でつぶやくようにそう言って、黄金人間は一歩一歩階段を降りて来る。  金属性のその足音を聞きながら、ローズ・蝋山は逃《に》げ出すことはおろか、声を上げることすらできなかった。両手で顔を押えたまま、ただぶるぶると震《ふる》えているばかり。  黄金|魔人《まじん》はとうとう階段の下まで降りて来た。そして、小鳥のように震えているローズ・蝋山の手を握《にぎ》ると、 「ワタシノ顔、ゴランナサイ。ワタシノ体、黄金デデキテイマス。ワタシトイッショニクル。面白イモノ見セテアゲル」  氷のように冷たい手だった。その手で手首を握られて、ぐいと腕《うで》をねじ上げられたとたん、ローズ・蝋山は思わず相手の顔を見た。  その顔は能面《のうめん》のように、つるつると金色に輝いて、瞳《ひとみ》がキラキラ鬼火《おにび》のように光っている。  そして、くわっと大きく口を開いた時、ローズ・蝋山は鋸《のこぎり》のようにギザギザと尖《とが》った歯が、全部金色に光っているばかりか、舌《した》さえ黄金色に輝いているのを見た。 「キャーッ!」  そのとたん、ローズ・蝋山の唇《くちびる》から思わず悲鳴がとび出した。 「だ、誰《だれ》か来てえ! 人殺しぃ……」  そこまで叫《さけ》ぶのがせきの山だった。  ローズ・蝋山は氷のように冷たい黄金人間の体温を寝巻《ねまき》の上から感じながら、とうとう気を失ってしまった。  黄金人間は、にったりと薄気味悪《うすきみわる》い笑《わら》いを浮かべると、ローズ・蝋山を抱《だ》いたまま、楽屋へ行こうとした。  だが、その時だ。  ローズ・蝋山の悲鳴が聞こえたに違《ちが》いない。にわかに二階の方が騒《さわ》がしくなったかと思うと、どやどやと階段を降りて来る足音がする。  黄金人間はローズ・蝋山を抱いたまま、さっとマントをひるがえして、真暗な舞台裏《ぶたいうら》を走っていたが、突然《とつぜん》、ぎょっと立ちすくんだ。目の前にパッと明りがついたからである。 「だ、誰だ!」  と、宿直室から飛び出したのは、若《わか》い元気なガードマンだった。 「黄金人間!」  と、奇怪《きかい》な黄金の男は、相変らず低い、妙なだみ[#「だみ」に傍点]声である。 「黄金人間……?」  と、さすがにガードマンも息をのんで、相手の姿《すがた》を見直した。 「おい、馬鹿《ばか》な真似《まね》はよせ。今何時だと思っているんだ」  と、そのまま宿直室へ入ろうとした時、どやどやと二階から降りてきたのは、少女たちに取り囲まれたミュージカルの北川《きたがわ》先生である。  北川先生も黄金人間を見ると、ぎょっとばかりに立ち止った。その後には少女たちが恐《おそ》ろしそうにしがみついている。 「おい。古田《ふるた》くん、そこにいる妙な男は一体誰だ!」 「あっ、北川先生、これ、ミュージカルの役者じゃないんですか」 「そうじゃない。さっき誰か人殺しと叫んだぞ」 「ああ、あれ……その人に抱かれてるの、ローズちゃんだわ」  少女の一人が恐ろしそうに叫んだとたん、黄金人間はローズ・蝋山を抱いたまま、身をひるがえして、舞台裏からさっと舞台へ飛び出した。    黄金のやもり 「おい、古田くん、電気だ、電気だ! 劇場《げきじよう》中の電気をつけろ!」  北川先生の叫び声に、ガードマンの古田も、初めて相手がただ者でないことに気がついた。  配電室へ飛びこむと、次から次へとスイッチを入れて、劇場中の電気をつけた。 「おい、どうしたんだ。どうして今ごろ電気をつけるんだ」  劇場の入口の方にも宿直室がある。今夜の宿直は青田《あおた》という事務員《じむいん》だった。  青田事務員は寝《ね》ぼけ眼《まなこ》をこすりながら、宿直室から飛び出したが、舞台から飛び降りて来た黄金人間を見ると、 「や! おまえは何だ!」 「ああ青田くん、泥棒《どろぼう》だ! 泥棒だ! 怪《あや》しいやつだ。そいつをつかまえてくれたまえ」  と、叫びながら北川先生と古田ガードマンが、舞台裏から飛び出して来る。 「ようし!」  青田事務員も若くて元気者だった。  大手を広げて黄金人間に突進《とつしん》して行く。  なにしろ椅子《いす》と椅子との間の狭《せま》い通路だ。  しかも黄金人間は、ローズ・蝋山を抱いている。これでは不利だと思ったのか、黄金人間はローズの体を椅子へ降ろすと、身をひるがえして、横の通路へ逃げ出した。 「おい、君たち、外へ出ておまわりさんを呼《よ》んで来い。恐《こわ》けりゃ、五、六人かたまって行け」  北川先生が声をからして叫んでいる。この帝都《ていと》劇場のすぐ表に交番があって、いつも警官《けいかん》が二、三人いる。  北川先生の命令で、勇敢《ゆうかん》な少女が五、六人、舞台から土間へ飛び降りると、ひとかたまりになって表へ飛び出した。  こちらは黄金人間だ。  横の出口から廊下《ろうか》へ飛び出すと、すぐ目の前に二階へ上がる階段がある。黄金人間はこうもりのように、ひらひらと黒いマントをひるがえしながら、大股《おおまた》にその階段を昇《のぼ》って行く。  その後から、北川先生と青田事務員、古田ガードマンが追っかけた。  黄金人間は二階から、さらに三階へ上って行く。  そして、追跡《ついせき》する三人が、三階まで辿《たど》り着いた時には、黄金人間はバルコニーから飛び出して、柱を伝ってするすると円型の屋根へ昇って行った。  ああ、なんという大胆《だいたん》さ。  お椀《わん》を伏《ふ》せたような円型の屋根を、黄金人間は四つん這《ば》いになって昇って行くのだ。まるで足の裏《うら》に吸盤《きゆうばん》でもついているかのように、巧みによちよち昇って行く。  バルコニーの三人は、呆《あき》れかえって手に汗《あせ》握って見つめていたが、その時やっと、三人の警官が駆《か》けつけて来た。 「どこだ、どこだ。怪しいやつは?」 「あそこにいます。あの屋根の上……」  北川先生に指さされて、屋根の上へ目をやった警官は、思わずあっと息をのんだ。  黄金人間はいま避雷針《ひらいしん》のそばに立っている。邪魔《じやま》になると思ったのか、いつかマントをかなぐり捨《す》てて、全身はパンツ一つの裸《はだか》である。  ああ、その姿、その怪しさ。不思議さ! 折からの月の光に照らされて、全身がきらきらと黄金色に輝いて、それこそ金色《こんじき》のやもり[#「やもり」に傍点]である。 「おのれ! 化物!」  警官の一人が、黄金人間めがけてズドンと一発ピストルをぶっ放したが、ああ、何ということだ。  カチッと冷たい音を立てて、ピストルの弾丸《たま》がはね返されたではないか。 「ワッハッハッ、ワタシ、黄金人間。ピストルノタマ、ダメ、ダメ!……」  そう叫んだかと思うと、黄金人間は手を振《ふ》ってさっとダイビングの姿勢《しせい》になった。  帝都劇場のすぐ横には相当深い堀《ほり》がある。 「あっ!」  と、一同が手に汗握って叫んだとき、黄金人間は金色の線を描いて、真暗な堀の中へまっ逆《さか》さまに……。    探偵小僧《たんていこぞう》 「三津木《みつぎ》さん、黄金人間て、一体何を企《たくら》んでるんでしょうねえ?」  新日報社《しんにつぽうしや》の会議室では、さっきから黄金人間のことが話題にのぼっていたのだが、その話の切れめを待って、そう口をはさんだのは、探偵小僧《たんていこぞう》の御子柴進《みこしばすすむ》である。  みずから黄金人間と名のる怪物《かいぶつ》が、この東京のどこかにいることは、帝都劇場《ていとげきじよう》の事件《じけん》があって以来、誰《だれ》ももう疑《うたが》う者はなくなった。  黄金|魔人《まじん》は帝都劇場の屋根の上から、堀《ほり》へ飛びこみ、そのまま行方をくらましたのだが、大勢の人が黄金人間の姿《すがた》を見ていた。また、黄金人間とみずから名乗る言葉も聞いた。  伊東伊津子の場合には、伊津子のほかに誰も黄金人間を見たものはいなかった。だから園部|巡査《じゆんさ》も、伊津子の言葉を信じなかった。  また、念のために提出《ていしゆつ》しておいた園部巡査の報告書《ほうこくしよ》も、本署《ほんしよ》の方で問題にされなかった。  しかし、ローズ・蝋山の場合には、たくさんの人が黄金人間を見ているのだ。  また、みずから、黄金人間と名乗るのを聞いているのだ。  だから、ローズ・蝋山が正気に返って、恐《おそ》ろしかった話をした時、誰もその話を疑う者はなかった。  そして、この事件が大きく新聞に載《の》った時、園部巡査の報告書が初めて問題になってきた。  そこで、伊東伊津子は改めて、警視庁《けいしちよう》に呼《よ》び出され、等々力警部《とどろきけいぶ》からあの恐ろしかった晩《ばん》の出来事を尋《たず》ねられた。  こうして二人の少女が、奇怪《きかい》な黄金魔人に襲《おそ》われたということがわかると、世間の騒《さわ》ぎは大変なものだった。しかも、その怪物はピストルの弾丸《たま》さえはね返すのだ……。  そんなことが毎日のように新聞に書きたてられ、口から口へと語り伝えられるものだから、親たちの心配は大変なものだった。  ことに十五、六の娘《むすめ》を持った親たちは、心配のために夜も眠れぬくらいだった。この世間の恐怖《きようふ》をしずめるためには、一日も早く、黄金人間をとらえるよりほかに方法はない。  そこで、新日報社では名探偵そこのけという腕《うで》きき記者、三津木|俊助《しゆんすけ》を中心に、今日も対策《たいさく》を練っているのである。 「それだよ、探偵小僧」  と、三津木俊助も眉根《まゆね》にしわを寄《よ》せながら、 「相手の目的がわかれば、正体も半分わかったようなものだが、それがわからないだけに、警視庁でも困《こま》っているのだ」 「ほんとに変ですねえ」  と、探偵小僧の御子柴進も、大人のように思案くさい顔をして、 「伊東伊津子の場合も、ローズ・蝋山の場合も、黄金魔人は失敗しています。だけど、どこかほかで成功して、十五、六の少女を誘拐《ゆうかい》している……と、いうようなことがあるのですか」 「いや、警視庁でもそれを心配して、東京中の警察《けいさつ》で調べてみたんだが、ここのところ、行方不明になっている少女は一人もいないのだ」 「いよいよもって、変ですねえ」  と、そういう探偵小僧の顔色には、気にかかる、何かしらがあるらしかった。    長谷川花子《はせがわはなこ》  中央線の吉祥寺《きちじようじ》で電車を降《お》りて、南口の改札口《かいさつぐち》から外へ出た時、長谷川花子はしまったと思った。  調布《ちようふ》行きの終バスが今出たばかりなのに気がついたからである。そのバスに乗り遅《おく》れると、淋《さび》しい夜道を三十分ばかり、歩かなければならないのだ。 「いいわ、歩くわ。恐《こわ》くなんかないわ」  花子は自分で自分に勇気づけるようにつぶやくと、すたすたとうつむきかげんに歩き出した。  しかし、行手にあの淋しい井《い》の頭《かしら》公園のそばの道が待ち受けていると思うと、ちょっと心が重くなる。 「嫌《いや》だわ、御子柴さんたら……今夜にかぎって、なぜあんな嫌なことを言いに来たのかしら」  長谷川花子と探偵小僧の御子柴進は同い年で、今年|一緒《いつしよ》に中学を出た。  そして進は新日報社に入り、長谷川花子は有楽町《ゆうらくちよう》の喫茶店《きつさてん》、スプリングという店に勤《つと》めることになった。  進と花子は学校時代から仲《なか》よしだった。しかも、勤め先もつい近所なので、進はちょくちょくスプリングへお茶を飲みに行く。  その進が今夜も来て、 「花ちゃん、気をつけなきゃあいけないぜ」  と、もったいらしく言うのである。 「気をつけろって、なんのこと?」  と、花子があどけなく尋ねると、 「ほら、あの、黄金人間のことさ。花ちゃんは十六だろう。だから……」 「うっふっふ……」  と、花子は思わず笑い出した。 「何のことかと思ったら、そのことなの。だけど、あたしなんか大丈夫《だいじようぶ》よ」 「どうしてさ」 「だって、あたしを誘拐してどうするの。誘拐って、たいてい身のしろ金[#「身のしろ金」に傍点]とやらを要求するためでしょう。あたしみたいな貧之人《びんぼうにん》の娘を……」 「だって、伊東伊津子だって、ローズ・蝋山だって、金持ちじゃないんだよ」 「あら、そうお」  と、花子はあどけなく首をかしげて、 「じゃ、そのかわり、きっときれいな人なんでしょう。あたしなんか……」 「きれいだの、きれいでないなんて問題じゃないんだ、花ちゃんは、黄金人間に狙《ねら》われる可能性《かのうせい》があるんだ」 「あら、どうして……?」  と、花子が目を丸くすると、 「ううん、つまりきみが十六だからさ」 「だって、十六の女の子なら、東京に何万、いや、何十万いるかもしれないわ。なにもあたしにかぎって……」 「うん、うん、そういえばそうだが……まあ、よく気をつけたまえ」  と、進はそう言って、帰って行ったが、花子は今そのことが気になってきたのである。 『でも、なんでもないことなんだわ。御子柴さんは親切だし、前から仲よしだから、心配してくれただけのことなんだわ。なにもわたしにかぎって、黄金人間に狙われるわけってないわ……』  だが、そのとたん、長谷川花子は全身の血が凍《こお》りついたように、その場に立ちすくんでしまったのである。  気がつくといつの間にやら、一番淋しい、井の頭のそばの道まで来ていた。そして、薄暗《うすくら》がりのどこかから、 「花子サン、花子サン、アナタ、長谷川花子サンデショ?」  と、気味の悪い声が聞こえて来たからである。    花子|襲《おそ》わる  長谷川花子もその年頃《としごろ》の少女としては、大胆《だいたん》な方である。  一旦《いつたん》は全身の血が凍りつくような恐怖《きようふ》を覚えて、その場に立ちすくんでしまったが、すぐに勇気を取り戻《もど》した。 「誰《だれ》? 今、あたしの名を呼んだのは?」  そう言いながら、花子はあたりを見回した。  誰か知り合いの人が、からかっているのだろうと思ったのである。 「ワタシダヨ」  気味の悪い声は、また、どこからともなく聞こえて来た。 「どこにいるのよ。こっちへ出ていらっしゃいよ」 「ホラ、ココダヨ、頭ノウエヲゴラン」  その声にはっと上をあおいだ花子は、今度こそ気が遠くなるような恐《おそ》ろしさに、体中がしびれてしまった。  道ばたに生えている大きな欅《けやき》の木が、からかさのように枝《えだ》を広げて、その枝の一つが花子の頭の上までのびている。  その枝の上に誰かいるのだ。  欅の葉はすっかり落ちている上に、空にはいっぱい星が輝《かがや》いていた。  それに五メートルほど向こうに街灯《がいとう》がともっている。だから、下からあおいだ花子の眼にも、枝の上にいる人影《ひとかげ》が、かなりはっきり見えたのだ。  その人影はつばの広い、大きな帽子《ぼうし》をかぶっていた。その上、全身を黒いマントで包んでいるようだった。  マントの袖《そで》がひらひらとこうもりのように揺《ゆ》れている。おまけに帽子の下からのぞいているのは、キラキラと金色に輝く顔ではないか。  黄金人間だ! ああ、御子柴さんが言った通り、黄金|魔人《まじん》が自分を狙《ねら》っているのだ! 「…………」  花子は声を出して叫《さけ》ぼうとした。  しかし、からからにのどが乾《かわ》いて、声が出なかった。逃《に》げ出したいと心があせった。しかし、足がしびれて一歩も動けなかった。  突然《とつぜん》、黄金人間はひらりと身をひるがえして、花子の前に飛び降《お》りた。アスファルトの上に飛び降りた時、黄金人間の足は、ガチャリと金属性《きんぞくせい》の音を立てた。 「長谷川花子サン、サッキカラ待ッテイマシタ。サア、ワタシトイッショニ、オモシロイトコロヘ、イキマショウ」  そう言いながら、むんずと花子の手首を握《にぎ》った黄金人間の手は、氷のように冷たかった。  その気味悪い冷たさが、ゾーッと体中に滲《し》みわたった時、花子は初めて、はっと自分に立ち戻った。 「あれえっ。離《はな》してえ!」  花子は夢中《むちゆう》になって、黄金人間の手を振《ふ》りほどこうとした。  しかし、黄金人間の冷たい手は、がっきりとやっとこのように花子の手を握ったまま離さなかった。 「花子サン、ナニモコワイコトハナイ。ワタシ、黄金人間デス。アナタニ、トテモオモシロイモノ見セテアゲル」  そう言うと、黄金人間はやにわに花子の体を横抱《よこだ》きにした。  黄金人間の体の冷たさが、オーバーの上から滲みとおるように、花子には感じられた。 「あれえっ、助けてえーっ。誰か来てえ!」  花子が足をバタバタさせているところへ、運よく、駅の方から二つの人影が近づいて来た。  それを見ると、花子は地獄《じごく》で仏《ほとけ》に会ったように、のども裂《さ》けよとばかりに大声で叫んだ。 「助けてえーっ、助けてえっー、黄金人間です。黄金魔人がここにいます。助けて下さあい」    またまた失敗  花子の声が聞こえたのか、向こうから近づいて来た二つの人影は、にわかに足を早めて走り出した。しかも、二つの人影のうちの小さい方が、 「なに、黄金人間だって?」  と、少年の声で叫んだかと思うと、 「そこにいるの、花ちゃんじゃない?」  と、そう言う声は意外にも、探偵小僧《たんていこぞう》の御子柴進ではないか。 「ああ、御子柴さん、助けてえーっ。あなたの言った通りよ、黄金人間があたしを狙っているのよ。黄金人間があたしをどこかへ連れて行こうとするのよ」 「ようし!」  と、叫んだのは、新日報社《しんにつぽうしや》の腕《うで》きき記者、探偵小僧が先生とたのむ三津木俊助だ。  黄金人間は、思いがけなく、邪魔者《じやまもの》が現《あら》われたと気がつくと、 「チッ!」  と、するどく舌《した》を鳴らして、花子の体を突《と》き飛ばした。  そして、さっき飛び降りた欅の木にスルスルと昇《のぼ》ると、さっきとは反対側の枝を伝って這《は》って行く。  ちょうどそこは井の頭自然文化園の塀《へい》の外で、その枝は文化園の中へ突き出している。 「黄金人間! 待てえ!」  三津木俊助と探偵小僧が、欅の木の根元まで駆《か》けつけて来たとき、黄金人間はこちらを振り返ると、 「サヨナラ、アバヨ。アッハッハ!」  と、あざ笑うような声を残して、ひらりと文化園の中へ姿を消した。 「ちくしょう!」  と、三津木俊助も欅の木を昇ろうとしたが、靴《くつ》をはいていては昇れない。  大急ぎで靴をそこへ脱《ぬ》ぎ捨《す》てると、黄金人間の後を追って木を昇って行く。  探偵小僧の御子柴進は、そこに倒《たお》れている花子のそばへ駆け寄ると、 「花子さん、花子さん、しっかりしたまえ。どこにもけがはなかった?」 「ああ、御子柴さん!」  と、花子はその手にすがりついて、 「今、突き飛ばされた拍子《ひようし》に膝《ひざ》をすりむいただけ……でも、あの人……黄金人間はどこへ行って?」 「文化園の中へ飛びこんだよ。三津木さん、大丈夫《だいじようぶ》ですか」 「うん、大丈夫だ。探偵小僧、おまえはそのお嬢《じよう》さんを家まで送り届《とど》けて、そのついでに、おまわりさんに知らせてこい」  そう言ったかと思うと、三津木俊助も黄金人間の後を追って、文化園の中へ飛びこんだ。  だが、ここで三津木俊助は大きな失敗をやったのだ。  それは靴を塀の外へ脱いで来たことだ。  文化園の中には熊笹《くまざさ》がいっぱい生えている。靴下だけではとても痛《いた》くて、思うように歩けなかった。  その間に、黄金人間はまんまと姿をくらまして、それからまもなく、探偵小僧の知らせによって、警官《けいかん》が駆けつけて来た時には、黄金人間の姿はどこにも見えなかった。  それにしても黄金人間は、またしても少女を誘拐《ゆうかい》することに失敗したのである。    探偵小僧の推理《すいり》 「いいえ、ねえ……」  と、ここは武蔵野警察《むさしのけいさつ》の一室である。  署長《しよちよう》の指図《さしず》によって、黄金|魔人捜索隊《まじんそうさくたい》が出発した後で、三津木俊助が署長に向かって説明している。 「この探偵小僧《たんていこぞう》が、今夜ひょっとすると黄金人間が、井の頭の辺に現われるのではないかと言うので、念のため一緒《いつしよ》にやって来たんです。ただし、探偵小僧がどうして今夜、黄金人間があそこに現われることを知っていたのか、それはぼくにもまだわからないのです」 「ふふん」  と、署長も目を見張《みは》って、 「探偵小僧、きみはどうして黄金人間が、あそこへ現われることを知っていたんだね」 「はあ、あの、それはこうなんです」  と、探偵小僧は、はにかんでもじもじしながら、 「ぼく、今度黄金人間に狙《ねら》われるのは、花ちゃんじゃないかと思ったものですから……」 「どうして、花ちゃんが狙われると思ったんだね」  と、三津木俊助も不思議そうな顔色である。 「はい、それはこうです。一番初めに狙われたのが、伊東伊津子という字でしょう。苗字《みようじ》も名前もイで始まってます。それから二番めに狙われたのは、ローズ・蝋山という子でしたね。苗字も名前もロで始まっています。しかも、二人とも十六です。だから、今度狙われるのは、苗字も名前もハで始まっていて、しかも十六の女の子じゃないかと思ったんです」 「な、なんだって!」  署長と三津木俊助は、思わず大声を上げていっせいに叫《さけ》んだ。 「それじゃ……黄金人間はイロハ順に女の子を襲《おそ》うと言うのか」 「ええ、ぼく、なんだかそんな気がしたんです。伊東伊津子のつぎがローズ・蝋山ですから……だから、今度はハの番じゃないかと思ったんです」 「それで、長谷川花子が狙われると思ったんだね」 「ええ、そうです。花ちゃん、今年十六です。それは東京中に十六の女の子はたくさんいるでしょう。しかし、苗字も名前もハで始まっていて、しかも、十六の女の子はそうたくさんはいないと思うんです。いえ、たとえいても、家にいる子、学校へ行ってるだけの子なら、黄金魔人にもわからないんじゃないかと思ったんです。そこへいくと、伊東伊津子もローズ・蝋山も、外へ出て働いているでしょう。花ちゃんも喫茶店《きつさてん》で働いていて、お客さんがたくさんやってきますから、苗字も名前もハで始まっていて、しかも十六だってことが、黄金魔人に知れてるんじゃないかと思ったんです」 「しかし、なぜまた黄金魔人は、イロハ順に女の子を襲うのだ」 「それは、ぼくにもわかりません」  探偵小僧にもそこまでは謎《なぞ》が解《と》けなかった。  しかし、現《げん》に探偵小僧の予想は見事に当たって、長谷川花子が襲われたのだ。  一体、黄金魔人は何を目的としているのだろう……。  三津木俊助は呆然《ぼうぜん》として、署長と顔を見合わせていた。    丹羽虹子《にわにじこ》  黄金魔人はイロハ順に、ことし十六になる女の子を狙《ねら》うのではないかという、進の推理が、その次の朝の新日報《しんにつぽう》に載《の》せられると、世間の人々は、あっとばかりに驚《おどろ》いた。  もし、それが本当だとすると、次に狙われるのは、苗字と名前がニで始まっている、今年十六の女の子ということになる。  ニで始まっている苗字といえば、新田《につた》、西田《にしだ》、西野《にしの》、西井《にしい》とたくさんあるが、ニのつく名前というのは一体何だろう……。  新日報社の会議室では、山崎《やまざき》 編集局長《へんしゆうきよくちよう》を中心として、三津木俊助と探偵小僧、それから幹部《かんぶ》の人たちが集まって、いろいろ評議《ひようぎ》をしていたが、その時、デスクの上の電話のベルがけたたましく鳴り出した。  山崎編集局長は、すぐに受話器を取って耳に当てると、 「何、探偵小僧に会いたいといって人が来てる……? 何て人……? 丹羽安麿《にわやすまろ》さん……ええ、何? それから丹羽|虹子《にじこ》というお嬢《じよう》さんが一緒だと……?」  電話を聞いていた一同は、思わずぎょっと息をのむ。  丹羽虹子……苗字も名前もニで始まっているではないか。 「ふむ、ふむ、それで虹子さん、今年十六だというんだね。ああ、そう。それじゃすぐにこちらへご案内してくれたまえ」  ガチャンと受話器を置くと、山崎編集局長は興奮《こうふん》した目つきで一同を見回した。 「探偵小僧、やっぱり君の推理が当たっているらしい。丹羽虹子という少女に何か思い当たるところがあるというのだ」  一同がさっと緊張《きんちよう》しているところへ、受付けの女の子に案内されて入って来たのは、五十ばかりの紳士《しんし》と可愛《かわい》い少女である。紳士はそろそろ髪《かみ》が白くなりかけていて日本人には珍《めずら》しい片《かた》眼鏡《めがね》をかけている。 「いや、突然押《とつぜんお》しかけてまいりまして失礼ですが、今朝のおたくの新聞を見て、この子が妙《みよう》なことを言い出したもんですから……」 「ああ、どうぞおかけなすって……それで、そのお嬢さんは、あなたのお子さんで……」  山崎編集局長が尋《たず》ねた。 「いや、これは私《わたし》の姪《めい》でして……つまり兄の忘《わす》れ形見《がたみ》なんですが、両親とも死んでしまったので、私が面倒《めんどう》を見ているんですが……」 「ああ、なるほど。それで虹子さんがどんなことをおっしゃるんですか」  三津木俊助が尋ねると、 「虹子、さあ、おまえから話をしなさい。何も恐《こわ》いことないよ。こうして、皆《みな》さんがいらっしゃるんだから……」 「はい」  虹子は可愛い肩《かた》をすぼめると、次のような話を始めたのである。  それは今から一週間ほど前のことである。  四、五人の友達と一緒に虹子は銀座《ぎんざ》を歩いていた。その時、友達が丹羽さんだの、虹子さんだのと苗字で呼《よ》んだり、名前で呼んだりしていた。  すると、虹子たちのそばを歩いていたサンタクロースのみなりをしたサンドイッチマンが、突然《とつぜん》足を止めて虹子の友達に尋ねた。 「そのお嬢さん、丹羽虹子という名前かな」 「ええ、そうよ。おじさん、それがどうして?」 「そして、年はいくつだね」 「十六よ」 「ふうむ。それで学校は……ああ、桜《さくら》ガ丘《おか》女子学院だね」  と、サンタクロースはそう言うと、にやりと薄気味《うすきみ》の悪い微笑《びしよう》を浮《う》かべたと言うのである。    万有還金《ばんゆうかんきん》 「ところが、その次の日……」  と、丹羽虹子は脅《おび》えたように肩《かた》をすぼめて、おずおずと山崎編集局長から三津木俊助、それから探偵小僧《たんていこぞう》の顔を見回した。 「ふむ、ふむ、その次の日……? どうしたの? お嬢《じよう》さん」  と、山崎編集局長が、励《はげ》ますように後をうながす。 「さあ、虹子、何もびくびくすることはないんだよ。何もかも、皆さんに聞いていただきなさい」  と、片《かた》眼鏡《めがね》をかけた丹羽安麿も、優《やさ》しく虹子の肩を叩《たた》いた。 「はい……」  と、虹子は乾《かわ》いた唇《くちびる》をなめながら、 「その次の日、学校へ電話がかかって来て、誰《だれ》かがあたしのところを尋《たず》ねたそうです。三年生の丹羽虹子の住いはどちらかって……」 「誰がその電話に出たの?」  と、今度は三津木俊助が口を出した。 「はい、あたしの受持ちの宮崎《みやざき》先生です」 「それで、宮崎先生は虹子さんのところを教えたの?」 「いいえ、宮崎先生は相手の名前を尋ねたんです。そしたら、向こうが名前を言わなかったもんだから、怪しんでところを教えなかったんです。でも、そのことを先生は、念のためあたしに話して下さいました。あたし、変だなあと思ったんですけれど、別に気にも止めなかったんです。そしたら、今朝の新聞に、イロハ順に女の子が襲《おそ》われると出てたもんですから、なんだか急に恐《こわ》くなって……」  と、虹子はさすがに自分の取《と》り越《こ》し苦労《ぐろう》が恥《はず》かしくなったのか、ちょっと頬《ほお》を赤らめた。 「それで、学校へ電話がかかって来てから、今日までに何か怪しいことがあった? ひょっとすると、黄金人間の仕業《しわざ》じゃないかと思われるようなことが……?」  と、三津木俊助の質問《しつもん》に対して、 「いいえ、今までのところ、別に……」  と、虹子はきっぱりと頭を左右に振《ふ》った。 「ところで、丹羽さん」  と、山崎編集局長が、デスクの上から身を乗り出して、 「このお嬢さん、ご両親がおありでないとかおっしゃったが、お父さんはどういう方だったんですか」 「ああ、それは、ひょっとすると、皆さんもご存《ぞん》じじゃないかと思いますが、丹羽式真空管の発明者の、丹羽|武麿《たけまろ》というのが、これの父なんです」  山崎編集局長と三津木俊助は、思わず、あっと顔を見合わせた。  丹羽式真空管というのは、世にも偉大《いだい》な発明で、その発明のおかげで武麿は、すばらしい財産《ざいさん》ができたはずである。  しかも、この偉大な発明家の夫婦《ふうふ》が、去年旅客機の墜落《ついらく》で同時に死亡《しぼう》したということは、当時、痛《いた》ましい事故《じこ》として新聞に報道《ほうどう》された。 「それで、このお嬢さん、ほかに肉親は……?」 「ところが、これはひとりっ子なので……肉親といえば、私のほかにこれの叔父《おじ》、すなわち私にとってはたった一人の弟、丹羽|文麿《ふみまろ》があるだけです」 「その文麿さんというのは、何をなさるかたですか」  山崎編集局長は尋ねた。 「それが……」  と、安麿は、困《こま》ったような顔をして、ちょっと口ごもった後、 「頭が狂《くる》っているんです」 「狂っている?」 「いや、狂っているといっても本当の精神異常者《せいしんいじようしや》じゃありません。つまり、兄の武麿が偉大な発明で財産を作ったものだから、自分も発明で金もうけをするんだと言って、愚《ぐ》にもつかん発明にこりかたまっているんです」 「何を発明しようというんですか」 「万有還金《ばんゆうかんきん》……つまり、鉛《なまり》を金に変えようというんですね」  万有還金……黄金人間……  山崎編集局長と三津木俊助、それから探偵小僧の三人は、思わずはっと顔見合わせた。    陰気《いんき》な研究室  万有還金……すべての金属《きんぞく》を黄金にする。  これは人間が昔《むかし》から持っている夢《ゆめ》である。西洋ではその昔、いろいろな人がこれを試みて失敗した。  そのうち科学の進歩につれて、そのようなことができるものでないということが、今でははっきりわかっている。  それにもかかわらず、鉛を黄金にかえようと苦心しているその丹羽文麿とは、頭がどうかしているのに違いない。 「そうなんです。見たところ普通《ふつう》の人間と変らないんですが、本当は気が狂っているんですから、皆さんもそのつもりで、気をつけてください」  丹羽安麿は、三津木俊助と探偵小僧の御子柴進を、弟の文麿の研究室へ案内する途中《とちゆう》、くれぐれもそう言って注意した。  一緒《いつしよ》について来た虹子は、なんだか不安そうである。  丹羽文麿の研究所は、小田急沿線《おだきゆうえんせん》の経堂《きようどう》にある。経堂の駅からかなり離《はな》れた、淋《さび》しい一|軒家《けんや》である。  武蔵野の雑木林《ぞうきばやし》に取り囲まれて、いかにも陰気《いんき》な建物である。 「文麿さんは、財産を持っているんですか」  と、三津木俊助が尋ねた。 「ええ、兄の武麿が丹羽式真空管でもうけたとき、私や弟にも財産を分けてくれたんです。それを弟のやつ、くだらない研究に使い果《はた》して、しょっちゅう虹子のところへ金をねだりに来るんです。それが心配で、心配で……」  と、安麿はいかにも心配そうである。 「虹子さんの財産は、誰が管理しているのですか」 「それはもちろん、私なんですが……」  と、そう言いながら片眼鏡の安麿は、研究所のベルを押した。  陰気な建物の奥《おく》の方で、ジリジリと灼《や》けつくようなベルの音がする。  しかしそれ以外は、家の中はシーンと静まり返って、人の気配はさらにない。もちろん返事もなかった。 「使用人か誰か、いないんですか」 「それが変り者でしてねえ。一人で住んでいるんですよ」  そう言いながら安麿は、なに気なくドアのノブをひねって押したが、意外にもドアはみんな向こうへ開いた。 「こういうやつです。不用心な……しかし、ちょうどいい具合だから、中へ入ってみましょう」  窓《まど》を閉《し》めきった研究所の中は、薄暗《うすぐら》くて、ほこりっぽく、まるで空き家のようだった。  安麿は勝手をよく知っていると見え、スイッチをひねって、廊下《ろうか》の電気をつけながら、先に立って三人を案内する。 「ほら、ここが研究室なんですよ」  と、ある部屋のドアを開いて、壁《かべ》のスイッチをひねったとたん、一同は思わずぎょっと息をのんだ。  ごたごたと研究用具がいっぱい並《なら》んだ部屋の中央に、アーム・チェアが一つ置いてある。  そのアーム・チェアに一人の少女が縛《しば》りつけられ、がっくりと首を後にたれているではないか。    うり二つ  少女は目隠《めかく》しをされ、その上さるぐつわ[#「さるぐつわ」に傍点]までかまされている。だから初めは、それが誰《だれ》だかわからなかった。 「文麿のやつ……、文麿のやつ……あいつはやっぱり気が狂っているんだ!」  一瞬《いつしゆん》の驚《おどろ》きからさめると、一同はなだれをうったように、部屋の中へ飛びこんだ。 「み、三津木さん、死んでいるんですか!」  と、探偵小僧《たんていこぞう》は息を弾《はず》ませる。  虹子は真青になって、ブルブル震《ふる》えている。  三津木俊助は、だらりとたれている少女の手を取って、脈を改めると、 「いや、死んじゃいない。気を失っているだけだ。探偵小僧、目隠しやさるぐつわ[#「さるぐつわ」に傍点]を取ってやりたまえ」  言下に探偵小僧の御子柴進は、少女の顔から目隠しとさるぐつわ[#「さるぐつわ」に傍点]を取りのけたが、そのとたん、思わず大きく絶叫《ぜつきよう》した。 「やあ、やあ、これは!」 「御子柴君、きみはこの子を知っているの?」  と、片《かた》眼鏡《めがね》の安麿は、目玉も飛び出さんばかりの顔色である。 「伊東伊津子です! 一番初めに黄金人間に襲《おそ》われた、あの伊東伊津子という少女です」 「それじゃあ、これがイロハのイの字の伊東伊津子か!」  と、三津木俊助もいまさらのように、息をのんだ。 「それじゃあ……それじゃあ……黄金人間というのは、文麿おじさま……?」  と、虹子は今にも気を失いそうである。  三津木俊助も探偵小僧も、それには答えなかったが、ここに伊東伊津子がいる以上、そうとしか思えない。 「伊津子を一体、どうするつもりでいたのだろう」 「いや、それはとにかく、この子を介抱《かいほう》しなければ……」  さいわい部屋の隅《すみ》に、粗末《そまつ》なソファが置いてある。  伊津子の体をそこへ運んであおむけに寝《ね》かせると、三津木俊助が人工呼吸《じんこうこきゆう》だ。  一同が息をこらして見つめているうちに、やがて伊津子の胸《むね》が大きく波打って来た。 「さあ、大丈夫《だいじようぶ》だ。もう少し……」  三津木俊助が汗《あせ》をたらして、なおも人工呼吸を続けているうちに、伊津子の唇《くちびる》から苦しそうな吐息《といき》がもれた。 「伊津子さん! 伊津子さん。しっかりして!……」  探偵小僧が声をからして叫《さけ》んでいると、やがて伊津子の目がぱっちり開いた。  伊津子はぼんやり三津木俊助から探偵小僧と顔を見回し、最後の安麿に視線《しせん》を止めたが、そのとたん、さっと恐怖《きようふ》の色が走った。 「あっ、黄金人間! この人が黄金人間です。あれからまたデパートの帰りに夜道をつけられて、むりやりここへ連れてこられたんです」  伊津子は震える指で、真正面から片眼鏡を落した安麿の顔を指さした。 「な、な、何を馬鹿《ばか》な!」  安麿はびっくりして、目を丸くする。 「いいえ、この人が黄金人間です!」  と、躍起《やつき》となって伊津子が叫んでいる時、 「誰だ! 人の研究室へ無断《むだん》で入って来たやつは!」  ドアの方で、雷《かみなり》のような声が爆発《ばくはつ》した。  その声にはっと後を振り返った三津木俊助と探偵小僧は、またまたぎょっと息をのんだ。  怒《いか》りの色を満面に浮《う》かべて、ドアのところに仁王立《におうだ》ちに立っている男の顔は、なんと、片眼鏡を落した丹羽安麿の顔に似《に》たりも似たり、うり二つではないか。    狂える発明家 「文麿、おまえは気が狂ったのか。このお嬢《じよう》さんをどうする気だ」  安麿は片眼鏡を拾いあげて、左の目にはめながら、強い調子で弟をなじった。 「そのお嬢さん……? そのお嬢さんがどうしたのだ」  と、怒りの色をたぎらせながら、それでも文麿は不思議そうな顔色である。 「とぼけるな。おまえがこのお嬢さんをさらって来たんだろう。一体、このお嬢さんをどうする気だ」 「知らん、知らん。そんなことはおれは知らぬ。それよりきさまら、おれの研究を盗《ぬす》みに来たな」  ぎらぎらと怒りに震えて、一同の顔を見渡《みわた》すその目つきは、確《たし》かに正気の人ではない。 「文麿さん」  と、三津木俊助が一歩|踏《ふ》み出して、 「あなたは何を研究していらっしゃるんですか」 「そういうきさまは、何者だ」 「私ですか、私は新日報社《しんにつぽうしや》の記者で三津木俊助」 「おのれ、おのれ」  と、文麿は獣《けだもの》のように歯ぎしりして、 「さては、いよいよ兄きの安麿の手先になって、おれの研究を盗みに来たな」 「だから、その研究というのは?」 「鉛《なまり》から黄金を作る方法だ。そして、それはもう完成に近づいているんだ。おのれ、イヌめ、これでもくらえ!」  文麿は、突然《とつぜん》手にした太いステッキを、さっと頭上に振りかぶった。 「あっ、危《あぶ》ない!」  と、探偵小僧の御子柴進が叫んだせつな、さっと振り下ろされたステッキは、床《ゆか》を叩《たた》いて、カラカラと文麿の手から離れて飛んでいた。 「何をする!」  と、危《あや》うく体をかわした三津木俊助が、きっと立ち直ったとたん、文麿もくるりと身を立て直していた。 「来るか!」  歯ぎしりをするように叫んだ文麿の手には、いつの間《ま》にやらピストルが握《にぎ》られている。  文麿は、さっと廊下《ろうか》へ飛び出すと、外からバタンとドアを閉めて、ガチャリと鍵《かぎ》を回す音。  ああ、それではやはり黄金人間とは、あの気の狂った発明家、丹羽文麿なのであろうか?    三つ児《ご》兄弟  黄金|魔人《まじん》とは、はたして丹羽虹子の叔父《おじ》の、丹羽文麿なのであろうか。  もし、文麿が黄金魔人であったとしても、彼《かれ》は一体、何を企《たくら》んでいるのであろうか。  文麿の兄の安麿の話によると、文麿は発明に熱中し過ぎたあげく、半ば気が狂《くる》っているのであるという。  鉛《なまり》を黄金に変えるという、途方《とほう》もない発明に熱中した文麿は、そのために気が狂って、自分の体が黄金からできているという、夢《ゆめ》みたいな考えを抱《いだ》くようになったのだろうか。  それにしても、イロハ順に十六|歳《さい》の少女ばかりを狙《ねら》うというのは、一体、どういうわけだろう。これはやはり、頭の異常《いじよう》な人間の途方もない考えからだろうか。  ただ、その後、伊東伊津子が警官《けいかん》の前で話したところによると、黄金魔人は伊東伊津子を、自分と同じように黄金でできた人間にしてやると言ったという。  それでは、黄金魔人は黄金の少女を作り上げようとしているのではあるまいか。  ああ、何ということだ。 「三津木さん」  と、それを聞いた時、探偵小僧《たんていこぞう》の御子柴進は思わず声を震《ふる》わせた。 「それでは、黄金魔人はイロハ順に、四十七人の黄金の少女を作るつもりではないでしょうか」  馬鹿《ばか》なことを……と言いかけて、しかし、三津木俊助は言葉をひかえた。  なにしろ、相手は半ば頭に異常をきたしているのである。  普通の人間では、とてもそんな変質者《へんしつしや》の気持は想像《そうぞう》もつかない。 「それにしても、丹羽さん」  と、三津木俊助は丹羽安麿に尋《たず》ねた。  実験室の出来事があって数日後のこと、三津木俊助と探偵小僧の御子柴進は、麻布《あざぶ》の丹羽虹子の家を訪《たず》ねたのだ。虹子は学校へ行って留守《るす》だった。 「失礼なことお尋ねするようですが、あなたの弟さんは、あなたとうり二つ[#「うり二つ」に傍点]というほど似《に》ていましたが、あなたがたは双生児《ふたご》ですか」 「はあ、亡《な》くなった兄、武麿と三人は三つ児《ご》なのです」  と、安麿はちょっと口ごもった。 「なに? 三つ児ですって?」  と、三津木俊助と探偵小僧の御子柴進は、思わず顔を見合わせた。 「ええ、そうなんです。武麿と私と文麿とは、三つ児として生まれたのです。そして、この三人とも、とてもよく似ていたんです。ところがねえ、三津木さん」  と、安麿は片《かた》眼鏡《めがね》をはずして、そわそわとハンケチで拭《ふ》きながら、なんだか不安そうな面持《おももち》で、 「昨日の男ですね。経堂の実験室で会った男……あれ、なんだか、弟の文麿じゃないような気がしてきたんです」 「弟の文麿さんじゃないというと……?」 「はあ、それが……」  と、安麿はいよいよ不安そうに、ハンケチでごしごし、額《ひたい》の汗《あせ》を拭《ぬぐ》いながら、 「昨日の男は文麿より、どちらかというと、兄の武麿の方によく似ていたような気がするのです」 「だって、そんな馬鹿な……武麿さんは去年|死亡《しぼう》なすったじゃありませんか」 「そ、そうです。そういうことにはなっています。しかし、旅客機は伊豆沖《いずおき》へ墜落《ついらく》したんですよ。そして、姉の死体は発見されたが、兄の武麿の死体は、いまだに見つからないのです。だから……」  と、そこまで言って、丹羽安麿は片眼鏡をかけ直すと、ゾーッとしたように肩《かた》をすぼめて、まじまじと三津木俊助の顔を見ていた。    灯台守りのむすめ  丹羽安麿は妙《みよう》なことを言い出した。  去年旅客機で遭難《そうなん》した、兄武麿が生きており、それが昨日のあの半分頭がおかしな男ではないかと言うのである。  それはさておき、話変わって、ここに細田星子《ほそだほしこ》という少女がいる。  星子の父は細田|源三《げんぞう》といって東京|湾《わん》の、とある岬《みさき》の灯台守りである。  三津木俊助と探偵小僧の御子柴進が、麻布の丹羽安麿を訪ねて行ったその晩《ばん》、星子は一人で勉強していたが、どういうものか今夜は勉強に身が入らない。  父の細田源三は、近くの村へ使いに行ったまま帰ってこない。  なんだか、天気が荒《あ》れ模様《もよう》になってきたらしく、波の音がだんだん高くなって来る。 「おじさん」  と、星子はとうとう机《つくえ》から立ち上って、隣《とな》りの部屋をのぞいてみた。  狭《せま》い灯台守りの一室には、いろりが切ってあって、そのそばに髪《かみ》も髭《ひげ》もぼうぼうと生やした男が、こっくりこっくり居眠《いねむ》りしていた。  その目はとろんと濁《にご》っていて、とんと生気というものが感じられない。  まるで夢でも見ているような目つきである。 「なんだか、嵐《あらし》が来そうよ。あたし、心細くなってきたわ」 「嵐……?」  と、髭男は小首をかしげたが、相変わらずその目つきには、生気がなかった。 「嵐といっても、名なしのおじさんにはわからないのね。びゅうびゅう吹《ふ》く風、ざあざあ降《ふ》る雨を嵐というのよ。今にうんと波が高くなって来るわ」 「風……? 雨……? 波が高くなる……?」  髭男は額に手を当てて、何かを思い出そうというふうだったが、やがて、困《こま》ったような顔をして、首を左右に振《ふ》った。  そして、ボロボロの服を着た両手を、いろりの火の上にさしのべた。 「ほんとにおじさんには、何もわからないのね。でも、あたし、嵐よりももっともっと恐《こわ》いものがあるのよ」 「恐いもの……?」  と、髭男はまたショボショボと目をしょぼつかせる。 「そうよ。黄金魔人よ。あたしの名、細田星子でしょ。しかも、十六よ。だから、黄金魔人に狙われるのではないかと、あたしそれが恐いの。それで一昨日《おととい》、新日報社《しんにつぽうしや》の御子柴進さんという人に、手紙を出しておいたのだけど……なんだか、今夜あたり、黄金魔人がやって来そうな気がして……あら、おじさん、どうしたの?」  髭男の妙な目つきに気がついて、ふと後を振り返った細田星子は、そのとたん、唇《くちびる》の色まで真青になった。  なんと、ドアから中をのぞいているのは、新聞で何度も読んだ黄金魔人!!    らせん階段《かいだん》 「あっ、来た!」  星子は思わず、いろりのそばから立ち上ると、 「おじさん、おじさん、助けてえ! あれが黄金魔人よ。あたしをさらいに来たのよ」  星子はロビンンン・クルーソーのような、髭男《ひげおとこ》の後に回って、その背中《せなか》にしがみついたが、髭男ははりこ[#「はりこ」に傍点]の虎《とら》のように、ぼんやり首を振るだけで、たよりのないことおびただしい  この男、体は生きているけれど、魂《たましい》は死んでいるのも同じらしい。 「星子サン、星子サン」  と、黄金魔人はいつものように、舌足《したた》らずの鼻にかかった声である。 「ナニモ、コワイコトアリマセン。ワタシ、イマ、ヒョウバンノ黄金人間。サア、イッショニクルヨロシイ」 「嫌《いや》よ、嫌よ。おじさん、お髭のおじさん。名なしのおじさん、助けてえ! 助けてえ!」  しかし、名なしの髭男は、ただ不思議そうにまじまじと、奇妙《きみよう》な黄金魔人を見ているだけで、ただ、ぼんやりと坐《すわ》っている。  黄金魔人はのっしのっしとそばへ寄《よ》って来ると、いきなり星子の腕《うで》をむんずと掴《つか》んだ。ああ、その手の冷たいことといったら、まるで氷のようである。 「いや、いや、離《はな》して!」  星子は夢中《むちゆう》で、黄金魔人の手をふりほどくと、身をひるがえして後のドアから飛び出した。  ドアの外は灯台の内部である。 「アッ、オマチナサイ。星子サン」  黄金魔人が星子の後を追おうとすると、いろりのそばに坐っていた髭男が、いきなりその右足を引っぱった。  不意をつかれて黄金魔人は、思わず板の間に四つん這《ば》いになった。 「あっはっはっ!!」  髭男はゆるんだ顔で、よだれをたらして笑《わら》っている。 「この馬鹿者《ばかもの》め!」  黄金魔人は起き上ると、痛《いた》そうに腰《こし》をなでながら、嫌というほど、髭男の頭を蹴《け》とばした。  だが、その言葉はいつものように、舌足らずでもなく、鼻にかかってもいなかった。  固い黄金魔人の足で蹴とばされても、髭男はただえへらえへらと笑うばかりだ。  がらんとした灯台の塔《とう》の内部には、壁《かべ》の内側に沿《そ》ってらせん[#「らせん」に傍点]型の階段《かいだん》がぐるぐると上に向かってついている。  黄金魔人が髭男を蹴とばして、ドアから外へ飛び出すと、階段伝いに上へ上へと逃《に》げて行く、星子の後姿《うしろすがた》が見えた。 「星子サン、星子サン、マチナサイ。チョット、マチナサイ」  黄金魔人も階段の手すりに手をかけると、これまたいちもくさんに星子の後を追って行く。  星子は、やっと階段を昇《のぼ》りきった。そこに海上を照らす灯台の部屋がある。  星子はその部屋へ飛びこむと、ドアを閉《し》めて、中からピーンと掛金《かけがね》を下ろしたが、そのとたん、黄金魔人が駆《か》けつけて来たらしく、 「星子サン、星子サン、ココヲアケナサイ。イイ子ダカラ、ココヲアケテクダサイ」  と、どんどんとドアを叩《たた》きながら、黄金魔人の薄気味悪《うすきみわる》い猫《ねこ》なで声《ごえ》である。    |S《エス》・|O《オー》・|S《エス》  それを聞くと星子はまた、ゾーッと冷たい水を浴びせられたような、薄気味悪さを覚えた。  あたりを見回すと、ぴったり閉まったその部屋は、ドアのほかにどこにも逃げ出す隙《すき》はない。  しかも、そのドアの外には黄金魔人が立っていて、ドンドン、ドアを叩くのだ。 「コレコレ、星子サン、ココヲアケナサイ。サア、ナニモコワイコトハナイ。ココヲアケテ……」  と、初めのうちは猫なで声で言っていたが、次第にその声が荒《あら》っぽくなって来る。 「コラッ、星子! ココヲアケヌカ。アケヌト……ウヌ!」  怒《いか》りに声を震《ふる》わせると、体ごとドシン、ドシンとドアにぶっつけて来る。  その度に、ドアがみしみしと音を立てて、きしんだかと思うと、やがてちょうつがい[#「ちょうつがい」に傍点]がミシリ、ミシリと気味悪い音を立て始めた。 「ああ、どうしよう。どうしよう。あのドアが破《やぶ》れたらそれっきりだわ。あたしは黄金魔人にとっつかまって、絞《し》め殺されてしまうに違いない」  塔の窓《まど》から外を見れば、真暗な海上には次第に風と雨がつのって来る。  窓から外をのぞいてみると、下の崖《がけ》まで約二十メートル、しかも、この灯台は岬《みさき》の突《と》っ鼻《ぱな》に立っているので、そこから飛び降りたが最後、木《こ》っ葉微塵《ぱみじん》となって、死んでしまうに決っている。  しかも、ドアを叩く音はますます激《はげ》しく、今にもちょうつがい[#「ちょうつがい」に傍点]が外れそうだ。  だが、その時、星子の頭に、さっと一つの名案が浮かんだ。  星子の今いる部屋は灯台の光源室《こうげんしつ》(光の出る部屋)である。  したがって、そこには明かるい電灯がついており、電灯の前には強烈《きようれつ》なレンズが取りつけてある。  真暗な海上を行く船は、この灯台の光を目印にして、進路と方向を定めるのだ。  しかも、そこには光源となる電灯をつけたり、消したりするスイッチがついている。  星子はそのスイッチに飛びついた。  そして、星子がスイッチを入れたり切ったりする度に、光源の明かりがパチパチと、ついたり消えたりするのである。  ああ、星子は何をしているのだろうか。  危《あぶ》ない命のせとぎわに、星子はなんだってそんな悪戯《いたずら》をするのだろうか。  いや、いや、星子は悪戯をしているのではないのだ。  君たちは|S《エス》・|O《オー》・|S《エス》という言葉を知っているだろうか。  難破《なんぱ》した船が無電《むでん》で助けを求めるとき、電信記号の長さの組合せで、S・O・Sの符号《ふごう》になるのである。  S・O・Sとは、「救いを求む」という意味なのだ。  今、星子がスイッチを入れたり切ったりしているのは、それによって、S・O・Sを海上へ送っているのだ。  ああ、誰《だれ》かがその符号に気がつくだろうか。  しかし、その時、ミリミリと激しい音を立てて、ドアのちょうつがい[#「ちょうつがい」に傍点]がゆるみはじめた。    嵐《あらし》の東京|湾《わん》 「あっ、三津木さん、妙《みよう》ですね。あの灯台、どうしてあんなについたり、消えたりするのでしょう」  細田星子が灯台の光源室《こうげんしつ》で、必死となって電灯《でんとう》のスイッチを切ったり、入れたりしている頃《ころ》、今しも、東京|湾《わん》を行く汽船の甲板の上で、思わずそう叫《さけ》んだ少年がある。  言うまでもなく、探偵小僧《たんていこぞう》の御子柴進である。 「ふむ、おれもさっきから、少し変だと思っているんだが……」  と、探偵小僧のそばに立って、食いいるように向こうの灯台を見ているのは、言わずと知れた三津木俊助。二人とも、防水帽《ぼうすいぼう》にレインコートを着て、降《ふ》りしきる雨の甲板に立っている。  嵐《あらし》はいよいよ激《はげ》しくなって、汽船は今、木の葉のように波にもまれている。  ビュー、ビューと吹《ふ》きつのる風はいよいよ凄《すご》く、うっかりしていると、甲板から吹き飛ばされそうな勢いである。  降りしきる雨は、滝《たき》のようにザーザーと二人の頭上から落ちて来る。  おりおりさっと、大きな波が二人の足元を洗《あら》って行った。 「探偵小僧、難船岬《なんせんみさき》の灯台というのはあれじゃないか」 「三津木さん、確《たし》かにそうですよ。ほら向こうに見えるのが鷲《わし》の巣山《すやま》ですから」  と、進は灯台の後にそびえている、真黒な山の蔭《かげ》を指さした。  海の上は墨汁《ぼくじゆう》を流したように真暗だが、それでも、ついたり消えたりする灯台の灯で、黒々とそびえている山が、鼻をつくように見えるのだ。 「すると、細田星子という少女はあの灯台の中にいるのだな」 「そうです、そうです。きっとそうに違いありません。ぼくに手紙をよこした女の子があの灯台の中にいるんです。それにしても、どうしてあんなに灯台の灯が、ついたり、消えたりするのでしょう」  二人が不安そうに甲板の手すりにもたれて、灯台の灯の明滅《めいめつ》を見つめているところへ、にわかに騒々《そうぞう》しい足音が聞こえてきたかと思うと、二、三人の船員が、ドヤドヤと甲板へ飛び出して来た。  船員たちも嵐の中に立ったまま、食いいるように消えたり、ついたりする灯台の灯を見つめていたが、 「やっぱりそうだ。あれは|S《エス》・|O《オー》・|S《エス》に違いない!」  と、嵐の中で一人の船員が大声で叫んだ。 「なに? S・O・Sだと……?」  俊助が思わずその言葉を聞きとがめる。 「そうです。そうです。お客さん、あの灯台の明滅の仕方はS・O・Sの符号《ふごう》になっているんです。誰かがきっとあの灯台の中で危険《きけん》におちいり、外部に向かって救いを求めているんですぜ」 「あっ三津木さん、それじゃ、もしや細田星子という女の子が、黄金人間に襲《おそ》われているんじゃ……」  探偵小僧の御子柴進は、船の手すりにつかまったまま、思わずガチガチ歯を鳴らした。 「ああ、きみ、すまないが、それじゃ、すぐにボートを降《お》ろしてくれないか。ぼくたち、あの灯台へ出かけるところなんだ」 「ええ、ようがす、お客さん。しかし、もう少し待って下さい。この船がもう少し灯台に近づいてから……おおい、皆《みん》な気をつけろ、暗礁《あんしよう》に乗り上げるな」  吹きつのる風、滝のように降りしきる雨、大荒《おおあ》れに荒れ狂《くる》う東京湾の波を蹴《け》って、汽船は次第に問題の灯台へ近づいて行く……。    絶体絶命《ぜつたいぜつめい》  一方、こちらは灯台の光源室だ。  さっきから、必死となって細田星子が、スイッチを切ったり、入れたりしている部屋の外では、黄金|魔人《まじん》が獣《けだもの》のようにたけり狂っている。 「コラ、星子、ココヲアケンカ。アケヌナ、ヨシ、ソレジャ、コノドア、破《やぶ》ッテシマウカラ、ソノツモリデイロ!」  と、体ごと、ドシン、ドシンとドアにぶっつけてくる。  その度に、ドアがミシミシ音を立て少しずつ、ちょうつがい[#「ちょうつがい」に傍点]がゆるんでくるのだ。 (ああ、もうだめだ!)  と、細田星子は全身から力が抜《ぬ》けてしまいそうになる。  だが、その時だ。窓《まど》の外から聞こえて来たのは、  ポー、ポー、ポー……  と、意味ありげな汽笛《きてき》の音。  星子が、はっと窓からのぞくと、墨《すみ》を流したような嵐の海面に、一艘《いつそう》の汽船が停っている。  そして、その汽船が何か合図をするように、さかんに汽笛を鳴らしているのだ。  なおも星子がよく見ると、たけり狂う海上を、木《こ》の葉のように揺《ゆ》れながら、こちらへ近づいて来る灯が見える。  真暗なのでよくわからなかったが、どうやらそれはボートらしかった。  星子はそれを見ると、スイッチから手を離《はな》した。そして、窓から半身乗り出すと、 「助けてえ! 助けて下さい。人殺しです! 黄金人間です!」  と、めちゃくちゃに両手を振った。  むろん、どんなに叫んでも、呼んでもこのひどい嵐の中である。とても、その声が向こうに届《とど》こうとは思えなかった。しかし、声は届かなかったにしても、姿《すがた》が見えたに違いない。  真暗な海上から、何か合図をするように、光が宙《ちゆう》にくるくる舞《ま》って、嵐の中に輪を描く。今行くぞという合図であるらしい。  しかも、その光はもう既《すで》に、難船岬の突《と》っ鼻《ぱな》まで来ているのだ。 (ああ、助かった!)  と、そう思うと、星子は急に気のゆるむのを覚えたが、その時だ。  メリメリメリと激しい音を立てたかと思うと、とうとう、ドアのちょうつがい[#「ちょうつがい」に傍点]が外れてしまった。 「星子サン! 星子サン! ナニモコワイコトハナイ。サア、ワタシトイッショニイキマショウ」  斜《なな》めにかしいだドアを肩《かた》で押しのけながら、例によって黄金魔人は猫《ねこ》なで声《ごえ》である。  そして、あの能《のう》面のようにつるつる光る金色の顔から、気味の悪い目つきでジロジロとなめるように星子を見ながら、のっしのっしと、部屋の中へ入って来る。  もうこうなったらこちらのものと思ったのか、あわてず騒《さわ》がず、一歩一歩、窓のそばへ寄って来る。星子はゾーッと全身の毛が逆立《さかだ》つ思いだ。 「嫌《いや》! 嫌! そばへ寄っちゃ嫌よ! それ以上おまえがそばへ寄ってきたら、わたしは、この窓から飛び降りてしまう!」  星子は絶体絶命《ぜつたいぜつめい》なのだ。窓がまちの上に飛び上ると、今にも飛び降りそうな姿勢《しせい》を示した。    髭《ひげ》 男《おとこ》  これには、さすがの黄金|魔人《まじん》もドキッとしたらしい。 「イケナイ! 星子サン! ソ、ソンナ、乱暴《らんぼう》ナ……」 「乱暴でも何でもいいのよ。おまえにつかまるくらいなら、死んだほうがよっぽどましよ。さあ、それ以上、一歩でも近づいてごらん、星子はここから飛び降りてしまうんだから」  と、金切り声を上げながら、星子がそっと窓《まど》から下を見ると、ボートは難船岬へ着いたらしい。  今しも嵐《あらし》をついて灯の色が、灯台の方へ走って来る。その灯の光で見るとどうやら、四、五人いるらしい。  しかし、あの人たちが駆《か》けつけてくれるまで、黄金魔人をこれ以上、そばへ近寄《ちかよ》せないようにできるだろうか。  黄金魔人はちょっと様子を窺《うかが》うように、帽子《ぼうし》のひさしの下からジロジロと星子の顔を見ている。そして、少しずつ、少しずつ窓のほうへ寄って来るのだ。 「いけない! それ以上、寄ってはいけない。もしそれより一歩こちらへ寄ったら……あっ!」  星子は、思わず金切り声を張《は》り上げたが、しかし、その時は遅《おそ》かったのだ。  猫《ねこ》が鼠《ねずみ》に飛びつくように、背中《せなか》を丸《まる》めてさっと窓のそばへ飛び寄った黄金魔人は、いきなり星子の足を掴《つか》んだ。 「あっ、いけない! 離《はな》してえ! 離してえ!」  星子は窓の上で身もだえした。  手足をバタバタ、ばたつかせながら、躍起《やつき》となって暴《あば》れ回った。  しかし、そうはいうものの人間として、星子はやっぱり命が惜《お》しいのだ。窓から外へ落ちるのは恐《こわ》いのだ。  黄金魔人はしめたとばかりに、窓の下から星子の両足を抱《だ》きすくめると、そのままずるずる引きずり下ろした。 「あれえ、堪忍《かんにん》してえ……、誰《だれ》か来てえ……」  薄気味悪《うすきみわる》い黄金魔人に抱きすくめられ、星子はしばらく躍起となって暴れていたが、もうこうなったら、蜘蛛《くも》の巣《す》につかまった蝶《ちよう》も同じことである。  さんざんもがいたあげく、星子はとうとう気を失ってしまった。  恐怖《きようふ》のあまり、気が遠くなったのである。 「ウッフフフ、トウトウ、気ヲウシナッタヨウダ」  と、黄金魔人は気味の悪い声で低く笑《わら》うと、 「そうだ。そうだ。その方がいい。そうしておとなしくしている間に、よいところへ連れて行ってやるからな」  黄金魔人は軽々と星子の体を両手に抱いた。  そして、ちょうつがい[#「ちょうつがい」に傍点]の外れたドアの方へ向き直ったが、その時、思わずぎょっとしたように立ちすくんだ。  いつのまに帰ってきたのか、ドアの外には星子のお父さんの細田源三と、あの名なしの髭男《ひげおとこ》が立っている。 「き、き、きさま……」  と、灯台守の源三は歯をガチガチ鳴らしながら、地団駄踏《じだんだふ》んで叫《さけ》んだが、あまりの気味悪さにそばへは寄れない。  それを見ると黄金魔人は、 「ウッフッフ……」  と、あざけるように低く笑って、 「サア、コノオジョウサンハ、ワタシガモラッテイク。ソコ、ノキナサイ。ジャマダテセズト、道、ヒラキナサイ」  と、例によってふくみ声で、それでも命令するように強く叫んだ。  源三はそれを聞くと、まるで催眠術《さいみんじゆつ》にでもかかったようにそっと体を横へよけたが、その時である。  ぼんやりそばに立っていた髭男が、突然《とつぜん》、背中を丸くしたかと思うと、さっとばかりに黄金魔人に飛びついた。    悪魔《あくま》の煙幕《えんまく》  まさか、蝉《せみ》の抜《ぬ》けがらのようなこの髭男が、飛びついて来るとは思わなかったに違《ちが》いない。 「アッ、シマッタ!」  と、叫んだかと思うと、黄金魔人は星子の体を突《つ》き離し、髭男と取っ組んだまま、もんどりうって床《ゆか》に倒《たお》れた。 「オノレ! オノレ!」  黄金魔人はなんとかして髭男を引き離そうとするのだが、相手はむしゃぶりついたまま、がっきり四つに組んで、ごろごろとまりのように、床の上を転げ回る。  灯台守の源三は、あっけにとられてしばらくこの様子を見ていたが、急にはっと気を取り直すと、急いで部屋の中へ飛びこんだ。  そこには星子が気を失ったまま、ぐったりと床の上に倒れている。 「星子……星子……」  叫びながら源三は、急いで娘《むすめ》を抱き上げる。 「オノレ! オノレ!」  それを見ると黄金魔人は、躍起になって、髭男を突き離そうとするのだが、馬鹿力《ばかぢから》とでもいうのだろうか。  相手は食いついたまま、離れないのだ。  その間に灯台守りの源三は、星子を抱いて光源室《こうげんしつ》から逃《に》げ出した。  そして、あのくるくる回る、らせん階段《かいだん》の途中《とちゆう》まで、降りて来た時である。  どかどかと、灯台の中に飛びこんで来たのは、いわずと知れた探偵小僧に三津木俊助、それに船員が三人ついて来ている。 「あっ、助けて下さい。上に……上の部屋に変なやつがいるんです」 「変なやつとは……?」  と俊助が一番になって、らせん階段を駆け昇《のぼ》って来ると、息せききって源三に尋《たず》ねた。 「ええ、変なやつです。体じゅうが金ぴかにぴかぴか光っている化物です。あれ、ひょっとすると、今、新聞で評判《ひようばん》の黄金人間では……?」 「そして、そして、おじさん、そのお嬢《じよう》さん細田星子さんではありませんか」  と、俊助に続いて昇って来た、探偵小僧の御子柴進が、灯台守に抱かれている星子の顔をのぞきこんだ。 「そうです。そうです。星子は気を失っているのです。とにかく、あの化物をつかまえて下さい」 「ようし!」  と、叫んで一同は、どやどやとらせん階段を昇って行ったが、あの壊《こわ》れたドアの前まで来た時である。  黄金魔人は、むしゃぶりついてくる髭男にものの見事にアッパー・カットを食らわせた。 「あっ!」と叫んで髭男が、あおむけざまにひっくり返るのを尻目《しりめ》にかけて黄金魔人は、ひらりと窓に飛び上った。 「おのれ、黄金魔人、待てえ!」  俊助がそばへ駆け寄ろうとした時、突然、黄金魔人の右手が上った。 「あっ、危《あぶな》い!」  一同が思わず床につっぷしたとたん、黄金魔人の右手から飛んだのは、梅《うめ》の実ほどの小さい玉だ。  それが床へ当たったと思ったせつな!  ドカーン!  と音がしたかと思うと、稲妻《いなづま》のように紫色《むらさきいろ》の光が走って、あたり一面、もうもうたる煙《けむり》が立ちこめて……何もかもいっさい、煙の中に包まれてしまったのである。  悪魔《あくま》の煙幕《えんまく》なのである。    毒ガスぜめ  目も口も開けておれないほど強い臭気《しゆうき》、いがらっぽい煙がのどに滲《し》みて、一同はゴホンゴホンと咳《せき》こみながら床《ゆか》の上を這《は》いずり回る。  毒ガス[#「ガス」に傍点]のような黄色い煙が目に滲《し》みてポロポロと滝《たき》のように涙《なみだ》が流れる。 「ああ、ちくしょう! ちくしょう! 黄金|魔人《まじん》め!」  と、三津木俊助は床を叩《たた》いて口惜《くや》しがったが、なにしろ、目を開けておれないのだからどうにもならない。  いや、いや、目を開けておれないどころではない。後から後から出る咳に、はらわたもよじれるような苦しさである。 「わあ、わあ、わあ、ああ、苦しい。……何とかしてくれえ……」  三津木俊助や進について来た三人の船員たちも、七転|八倒《ばつとう》、ゴホンゴホンと咳こみながら、横腹《よこつぱら》を抱《かか》えてのたうち回っている。 「三津木さん! 三津木さん! 黄金魔人は?」  進も目からポロポロ涙を流して、床の上を這いずり回りながら、それでも黄金魔人のことを気にしているのである。 「ちくしょう! ちくしょう! ああ、この煙……」  三津木俊助は床からよろよろと立ち上ったが、後から、後からこみあげてくる咳に、またよろよろとうずくまった。  こうして、地獄《じごく》のような苦しみが、およそ五分ほど続いたろうか。  キラキラと部屋の中に立ちこめていた毒々しい悪魔《あくま》の煙も、ようやく薄《うす》れて、やっと目を開けられるようになった時には、黄金魔人の姿《すがた》は、もちろんもうその辺には、見当たらなかった。 「ああ、ひどい目に合わせやがった」  と、船員たちは、まっ赤に充血《じゆうけつ》した目をこすりながら、きょろきょろあたりを見回して、 「三津木さん、さっきの、あの化物《ばけもの》のようなやつは、何者ですか」 「あれが、近頃評判の黄金魔人なんですか」 「どっちにしても驚《おどろ》いた。おれはあまり苦しくて、もう少しで、死ぬかと思ったよ」  およそものに驚かぬ海の勇者たちも、今の毒ガス攻《ぜ》めには、よほどこりたのだろう。  気味悪そうに、互《たが》いに顔を見合わせている。  一番先頭に立っていた三津木俊助は、それだけ一番多く毒ガスを吸《す》ったわけである。  まだ、ポロポロ涙を流しながら、 「ちくしょう、ちくしょう!」  と、ただそればかり、地団駄踏《じだんだふ》んで、口惜《くや》しがっている。 「三津木さん、しっかりして下さい。まだ、目が開きませんか」  と、やっと目が開くようになった探偵小僧《たんていこぞう》の御子柴進は、心配そうに三津木俊助の顔をのぞきこむ。 「いや、いや、大丈夫《だいじようぶ》だ。もうじき元通りになるだろう」  俊助は両手で目をこすりながら、やっとよろよろ起き上ったが、その時である。  灯台のすぐ下あたりから、けたたましいエンジンの音が聞えて来た。  モーター・ボートの音らしい。 「おや!」  と、叫《さけ》んで窓《まど》のそばへ駆《か》け寄《よ》った船員の一人は、そこから下をのぞきこんで、 「あっ! あそこへ黄金魔人が行く……。ああ、女の子も一緒《いつしよ》だ!」 「誰《だれ》か……」    髭男の正体 「な、な、なんだって?」  と、窓のそばへ駆け寄った探偵小僧御子柴進。下をのぞくと、今しも嵐《あらし》にもまれる崖下《がけした》の、波をついて走り出したのは、一|艘《そう》のモーター・ボート。  その時、一瞬《いつしゆん》、稲妻《いなずま》がパッと海面を照らしたが、その稲妻の光で見れば、モーター・ボートに乗っているのは、確《たし》かに黄金魔人ではないか。  それだけならばまだよかった。ここで黄金魔人を逃《にが》しても、またつかまえる機会もあるだろう。  だが…… 「三津木さん、大変です。大変です。黄金魔人が……黄金魔人が……」  と、進が、金切り声を張《は》り上げたというのは、モーター・ボートの中に確かに、もう一人乗っているではないか。 「どうした、どうした。探偵小僧、黄金魔人がどうしたというのだ」  三津木俊助も、ようやく目を開けられるようになって、あわてて窓のそばへやって来た。 「黄金魔人が誰やら連れて行くのです。ひょっとしたら細田星子という子では?」  進の、その言葉も終らぬうちに、またさっと青白い稲妻が、荒《あ》れ狂《くる》う嵐の海面を照らしたが、ああ、もう間違《まちが》いはない。  モーター・ボートの中に倒《たお》れているのは、確かに十五、六の少女である。 「しまった! それではわれわれが目つぶし[#「目つぶし」に傍点]を食らって苦しんでいるうちに……」 「細田星子がさらわれたのです。三津木さん、なんとかしてあげてください」 「ようし!」  と、叫んで身をひるがえした三津木俊助、灯台の光源室《こうげんしつ》から飛び出そうとしたが、その時である。  そこに倒れている髭男《ひげおとこ》の横腹を、嫌《いや》というほど蹴《け》とばした。  さっき、黄金魔人のアッパー・カットを食らって、そこに長くのびていた髭男は、三津木俊助に蹴とばされて、それが自然と活を入れられたことになったらしい。 「ううむ」  と、うめいて、夢中《むちゆう》で俊助の脚《あし》にすがりつく。 「離《はな》せ、離してくれたまえ! 大急ぎで海上自衛隊《かいじようじえいたい》に連絡《れんらく》せねばならんのだ。きみきみ離してくれたまえ」  しかし、髭男はまだ夢《ゆめ》うつつの状態《じようたい》で、ただ、むやみに取りすがって、三津木俊助の脚から離れない。  探偵小僧の御子柴進は不思議そうにつらつらと髭男の顔を見ていたが、なに思ったのか、 「あっ、三津木さん」  と、いなごのように俊助に飛びついた。 「ど、どうした。探偵小僧……?」 「このおじさん……このおじさん、髭を剃《そ》り落としたら、丹羽安麿や文麿のおじさんとそっくりです!」    丹羽武麿 「何?」  ぎょっとした三津木俊助、身をかがめて自分の足にすがりついている髭男《ひげおとこ》の顔をのぞきこんだが、なるほど、探偵小僧《たんていこぞう》のいう通りだ。  顔一面、熊《くま》のように生えている髭を剃り落としたら、きっと丹羽安麿や文麿とそっくり同じ顔になるに違いない。  丹羽武麿!  丹羽安麿や、文麿と三つ児《ご》の兄弟の一番上の兄で、偉大《いだい》なる発明家の丹羽武麿、飛行機|事故《じこ》で死んだと信じられていた虹子の父……。  ああ、ひょっとすると、その人ではあるまいか。 「丹羽さん、丹羽さん、あなたひょっとすると、丹羽武麿さんじゃありませんか」  三津木俊助が試みに声をかけると、髭男は、ぼんやりと顔を上げた。  そして、不思議そうにきょろきょろとあたりを見回し、それから三津木俊助を始めとして、探偵小僧の御子柴進、三人の船員の姿《すがた》を、かわるがわる見ていたが、いかにも合点がいかぬ、というふうに、小首をかしげて、 「こ、ここは一体どこだね。それから君は一体|誰《だれ》だね」  と、低いながらも、はっきりした声である。 「あなたは、ここがどこだか、ご存《ぞん》じないのですか」 「知らん、こんな場所見たこともない」  と、また不思議そうに首をかしげる。  ああ、わかった。わかった。  丹羽武麿博士は飛行機事故に遭《あ》った時、そのショックで、まったく記憶《きおく》を失ってしまったのだ。  そして、どういうはずみでかこの灯台へ辿《たど》り着き、名なしのごんべえとして養なわれていたのを、さっき、黄金魔人に、アッパー・カットを食わされて、一旦気絶《いつたんきぜつ》しているうちに、再《ふたた》び記憶が甦《よみがえ》って来たのではあるまいか。 「先生、先生!」  と、三津木俊助は興奮《こうふん》して、大声で叫《さけ》んだ。 「先生は、虹子さんというお嬢《じよう》さんを覚えていますか」 「虹子……虹子……?」  丹羽博士の眼《め》に、次第に輝《かがや》きが増《ま》してくる。 「おお……虹子……虹子というのは私の娘《むすめ》だが……」 「ああ、それじゃ、やっぱり丹羽先生ですね。しっかりして下さい。先生、先生は飛行機事故に遭《あ》われたのです。飛行機で遭難《そうなん》されたのです。おわかりですか」 「飛行機事故……飛行機……? おお!」  突然、博士の顔色にさっと恐怖《きようふ》の色がつっ走った。 「そうだ、そうだ、飛行機……墜落《ついらく》……」  と、大きく呼吸《こきゆう》を弾《はず》ませると、 「そして、千代子《ちよこ》は? 千代子は……?」  千代子というのは、おそらく丹羽博士の奥さんだろう。  探偵小僧と三津木俊助は、思わずはっと顔を見合せた。 「先生、千代子さんというのは……?」 「わたしの妻《つま》だ。虹子の母だ。その千代子は……?」 「先生、お気の毒ですがその奥さまは、あの事故の時お亡《な》くなりになりました」 「おお……」  と、丹羽博士は両手で頭を抱《かか》えたが、その時だ。  よろめくようによろよろと、光源室《こうげんしつ》へ入って来たのは、灯台守の細田源三。 「おお、助けてくれえ。娘を……娘を……」  それだけ言って、源三はその場にばったり倒れると、床《ゆか》にひれふしおいおいと声をあげて泣《な》き出した。  泣いていては、どうにもならない。みんなは、一生懸命《いつしようけんめい》落ち着かせようと、つとめた。    会いに来た人  それから、難船岬の近辺が、大変な騒《さわ》ぎになったことはいうまでもない。  嵐《あらし》の中を、村の青年|団《だん》が総動員《そうどういん》で浜辺《はまべ》の警戒《けいかい》に当たることになった。  ひょっとすると黄金魔人が、引き返して来るかもしれないと思ったからである。  また、ただちにこのことが海上自衛隊《かいじようじえいたい》に報告《ほうこく》されたから、東京|湾《わん》一帯の海岸には、続々として、自衛隊のランチが出動した。  しかし、何といっても、吹《ふ》きすさぶ風、降《ふ》りしきる雨……海上の捜索《そうさく》も思うにまかせず、とうとう黄金魔人のモーター・ボートは、細田星子を乗せたまま、いずこともなく消えてしまったのである。  さて、こちらは灯台の内部だ。  悲しみに沈《しず》んでいる細田源三を慰《なぐさ》めて、話を聞くと、だいたい次の通りである。 「はい、これはもう今から三か月も前になりましょうか。ある日の夕方、この方が、ぼんやりここへ入って来たんです」  と、細田源三は、丹羽博士を指さした。 「今から三か月前……?」  と、三津木俊助は聞き返す。  丹羽博士が飛行機で遭難したのは、それよりもずっと前のことだった。 「ええ、そうです。そうです」 「それで、その時先生のみなりは……?」 「はい、今と同じでした。髭《ひげ》をぼうぼうと生《は》やして、やっぱりこの浮浪者《ふろうしや》みたいななりをして……」  ああ、すると丹羽博士は、飛行機の遭難から助かって、ここへ辿り着くまでに、あちこちをさまよい歩いていたに違いない。 「なるほど、それで……?」 「それで、私と星子とが、いろいろ尋《たず》ねたんですが、何を聞いてもぼんやりと首を振《ふ》るばかり、それでいて、ひどく腹《はら》が減《へ》っているらしいんです。そこで夕飯を御馳走《ごちそう》したんですが、様子が変でしょう。追い出すのもお気の毒なような気がしたんです。ことに星子が同情《どうじよう》して、ここへ置いてあげましょうと、それで、今までお世話をしていたんです」 「なるほど、それじゃ、今まで、この方のご身分を、全然知らなかったんだね」 「はい、この方、何を聞いてもぼんやりしていらっしゃるものですから……。そうそう、それでも一人だけこの方に、会いに来た人があるんです」 「それはどういう……?」 「いや、それはこうです。この方の腹巻《はらまき》の中から、くちゃくちゃになった名刺《めいし》が一枚《いちまい》出て来たんです。それで、ひょっとすると、この方の知合いかなんかじゃないかと、星子がそこへ手紙を出したんです。そしたら、その人がやって来て、この方をごらんになったんですが、全然、知らない人だと言って、帰って行ったんです」 「それは、どこの、何という人……?」 「さあ……」  と、細田源三は小首をかしげて、 「星子が手紙を書いたので、ところは忘《わす》れましたが、確か丹羽安麿という人へ手紙を書いたのです。そしたら、会いに来たのは片《かた》眼鏡《めがね》をかけた紳士《しんし》でしたが……」 「なに——丹羽安麿が……?」  と、三津木俊助と探偵小僧の御子柴進は思わず顔を見合せた。 「なに、安麿が会いに来て、私を見ながら、知らぬと言って帰ったのか」  丹羽武麿博士も、思わず、大きく目を見張《みは》った。  ああ、会いに来たのが、丹羽安麿だとしたら、安麿は、一体何を企《たくら》んでいるのだろうか。    白髪の老人  東京は今や大騒《おおさわ》ぎだ。  黄金|魔人《まじん》がとうとう大活躍《だいかつやく》を、開始したからである。  難船岬の灯台から、細田星子が誘拐《ゆうかい》されたという報告《ほうこく》があったので、東京の警視庁《けいしちよう》でも、次は苗字《みようじ》と名前のイニシアルにヘの字のつく少女ではないかと、さっと緊張《きんちよう》していた矢先《やさ》き、黄金魔人にまんまと、裏《うら》をかかれたのだ。  何ということだろう。警視庁が次の被害者の発見に気をとられている隙をついて、黄金魔人は迅速《じんそく》な行動に移った。  これまで何度か失敗を重ねながら、あれからまたもや警官たちを出し抜《ぬ》いて、伊東伊津子を手はじめにローズ・蝋山、長谷川花子に丹羽虹子と、今まで目をつけていた四人の少女を改めて片端《かたつぱし》からどこかへ誘拐していたことがわかったのである。  それに難船岬からさらわれた、細田星子を合わせると、つごう五人の可愛《かわい》い少女が、黄金魔人に誘拐されて、今や行方不明になっているのだ。  新聞では毎日毎日、じゃんじゃんこのことを書き立てた。  万有還金《ばんゆうかんきん》という途方《とほう》もない夢《ゆめ》を抱《いだ》いている変質者《へんしつしや》が、今や罪《つみ》もない五人の少女を誘拐して、金メッキにしようとしているのだ。  なぜ早くこの危険《きけん》な変質者をつかまえて、刑務所《けいむしよ》へぶちこむなり、精神病院《せいしんびよういん》へ入れるなりしないのかと、新聞という新聞が、さんざん警視庁をやっつけた。  警視庁では等々力|警部《けいぶ》を始めとして、刑事《けいじ》たち一同が、あわてふためいたのも無理《むり》はない。  そこで、さっそく小田急|沿線《えんせん》経堂にある万有還金|論者《ろんしや》、丹羽文麿の研究室を調べてみたが、そこはいつか三津木俊助や探偵小僧《たんていこぞう》に発見されて以来、もぬけのからになっているのだ。  そして、あれ以来というのは、丹羽文麿も行方が、わからないのである。  さて、五人の少女が行方不明になってから、一週間ほど後のこと、幽霊屋敷《ゆうれいやしき》みたいに荒《あ》れ果《は》てた丹羽文麿の研究室を、訪《おとず》れて来た三人連れの人物がある。  あらかじめ通知してあったのか、研究室には丹羽安麿が先に来て待っていた。 「やあ、三津木さんに、探偵小僧、ようこそ。  聞けばこの間はまた、難船岬で大変だったそうですね」  と、安麿は心よく三津木俊助と、進を出迎《でむか》えたが、もう一人の人物を見ると、思わず片《かた》眼鏡《めがね》をかけた目をひそめて、 「こちらのご老人は……?」  と、不思議そうに尋《たず》ねた。  安麿が不思議がるのも無理はない。  その人は頭に雪のような白髪《しらが》をいただき、頬《ほお》から顎《あご》から鼻の下から、これまた雪のように真白な髭《ひげ》を生やしている。  そして、よほど目でも悪いのか、大きな黒眼鏡をかけた老紳士《ろうしんし》である。 「いや、こちらは金属学《きんぞくがく》の大家の山田正雄《やまだまさお》先生ですよ。文麿さんの研究にいたく興味《きようみ》を抱かれて、ぜひ一度、研究室を見学したいと、そうおっしゃるものですから、今日、こうして御案内《ごあんない》して来たんです」 「おや、おや、文麿みたいな変質者の、万有還金なんてたわごとに、興味を持つ学者もあるんですかねえ」  と、安麿はひどく馬鹿《ばか》にした口調である。  しかし、山田先生はそんな言葉は耳にも入れず、いとも熱心に一時間あまり、研究室の隅《すみ》から隅まで調べていたが、時々、ほほ……と、感心したような溜息《ためいき》をもらした。 「山田先生、こんながらくたな研究室でも、何か参考になることがありましたか」  丹羽安麿は、せせら笑《わら》うように尋ねたが、山田先生は何とも答えなかった。  しかし、研究室を出て行く時、山田先生の目は黒眼鏡の奥《おく》で、なにやらギラギラ光っているようであった。    幽霊屋敷《ゆうれいやしき》  さて、三人を送り出してから、二時間ほど後のこと。  研究室のドアを開いて出て来たのは、例の片眼鏡の安麿である。  腕時計《うでどけい》を見ると六時|過《す》ぎ。そろそろ日が暮《く》れようという時刻《じこく》である。  安麿はギロリと片眼鏡を光らせると表に置いてあった自動車に飛び乗った。  そして自分で自動車を運転すると、経堂から甲州街道《こうしゆうかいどう》へ出て行った。  そして、そこから街道を、まっしぐらに、西へ走り出したのである。  丹羽安麿の家は、東京の麻布にあるはずである。  それにもかかわらず安麿は、こんなに日が暮れてから、一体どこへ行くのであろうか。  それはさておき、安麿が無心《むしん》に自動車を走らせているうちに、自動車の後部にあたって、妙《みよう》なことが起こった。  普通《ふつう》トランクを入れている、自動車の後の物入れの蓋《ふた》が、突然《とつぜん》、そっと動いたのである。  いやいや、その蓋は初めから、ぴったり閉《し》まっていなかったのだ。  空気が流通するように、ほんのわずかだけれど、隙間《すきま》ができていたのだ。  さて、その蓋がこっそり開いて、あたりの様子を窺《うかが》うように、中から顔をのぞかせたのは、何と探偵小僧の御子柴進ではないか。  進はなんだって、そんなところに隠《かく》れているのであろうか。  それはさておき進は、そこが甲州街道であることを確《たし》かめると、またそっとトランクの蓋を中から閉めた。  それから半時間ほど後のこと。甲州街道を西へ西へと走った自動車は、多摩川《たまがわ》を渡《わた》り、小高い丘《おか》の上の曲がりくねった道をくねくねと走り回った末、やっと辿《たど》り着いたのは、山の中に一|軒《けん》ぽつんと建っている、不思議な洋館の前である。  もと、その洋館は東京のさる金持ちが建てたのだけれど、後に事業に失敗したとやらで、気が狂《くる》って、この洋館の中で首をくくって死んだのである。  それ以来、この洋館の中には、首くくりの幽霊《ゆうれい》が出るのだの、お化けが真夜中に、うろうろ廊下《ろうか》から廊下へと、歩き回るなどと、嫌《いや》な噂《うわさ》ばかりあって、今ではそれこそ幽霊屋敷みたいに荒れ放題になっているのだ。  自動車がこの幽霊屋敷の後へ入って行くと、それこそ車もうずまるくらいに、草ぼうぼうと生えていて、自動車を隠しておくには、おあつらえむきの荒れ方だ。  丹羽安麿はこの草の中に自動車を隠すと、あたりの様子を見回しながら、幽霊屋敷へ入って行く。  幽霊屋敷にはドアもなければ、窓《まど》にはガラスもはまっていない。  もう日はとっぷり暮れ果てて、幽霊屋敷の中は真暗だ。  それでも安麿はよく勝手を知っていると見えて、懐中電灯《かいちゆうでんとう》の光をたよりに、腐《くさ》った階段《かいだん》をみしみしと、気味の悪い音を立てながら、二階の方へ昇《のぼ》って行く。  二階にはそれでも、ドアのついた部屋があった。  安麿はあたりを見回し、その部屋の中へ入って行ったが、それから五分もたたぬうちに、ドアの中から出て来たのは、なんと黄金魔人ではないか。    魔人《まじん》の最後  黄金魔人はドアから出て来ると、まるで昆虫《こんちゆう》のように両手をこすり合わせて、 「うっふっふ、これからいよいよ黄金魔人の大活躍《だいかつやく》だ。五人の少女が生きながら、黄金になってしまうのだ。うっふっふ、うっふっふ」  気味悪いつぶやきをもらしながら、黄金魔人はまたしても懐中電灯《かいちゆうでんとう》の光をたよりに、今度は三階の階段《かいだん》を昇《のぼ》って行く。  三階はまるで塔《とう》のようになっており、もとはそこに西洋風の吊鐘《つりがね》が吊《つ》ってあったのだが、今はもちろん吊鐘もなく、塔もボロボロに朽《く》ち果《は》てている。  この塔まで上って来た黄金魔人は、そこからそっと下界を見ていたが、見えるものといっては山また山、遠くに谷川のせせらぎが聞こえるだけで、人の気配はさらにない。  黄金魔人は満足そうな溜息《ためいき》をもらすと、床《ゆか》に腹《はら》ばい、何やらガチャガチャいわせていたが、やがて、やっこらさと持ち上げたのは、重いコンクリートのあげ蓋《ぶた》である。  見るとそこには真黒な穴《あな》があいており、コンクリートの階段《かいだん》が、突《つ》き落とすようについている。 「うっふっふ、この家を建てたやつは、初めから気が狂《くる》っていたのだ。そして、いたるところに、こんな仕掛《しかけ》をしておいたのだ。黄金魔人の隠《かく》れ家《が》として、これ以上、結構《けつこう》なところはないじゃないか」  ぶつぶつと、得意《とくい》そうにつぶやくと、黄金魔人は急な階段を降《お》りて行く。  階段を降りると、そこには窓《まど》一つない円型の部屋がある。  部屋の中は真暗だったが、黄金魔人がランプをつけると、やがてボーッと明かるくなった。  と、見ればそこに五つの椅子《いす》があり、五つの椅子には五人の少女が眠《ねむ》れるごとく腰《こし》を下ろしているではないか。  ああ、哀《あわ》れな五人の少女は、人里|離《はな》れたこんな幽霊屋敷《ゆうれいやしき》の中に閉《と》じこめられていたのだ。  これでは警察《けいさつ》が、いかに躍起となっても、わかる道理がない。 「うっふっふ! よい子たちだな。さあ、さあ、今に苦しみも、悲しみもなくしてあげるぞ。ほら、向こうに黄金の液体《えきたい》が一杯《いつぱい》たまったタンクがあるだろう。その中へ潰《つ》けて、黄金少女にしてあげる」  ああ、見れば部屋の隅《すみ》には、西洋のバスのようなタンクがあって、その中に、黄金色をした液体が、ふつふつとたぎっているのである。  タンクの下には強烈《きようれつ》なヒーターが仕掛けてあるらしい。 「どれ、誰《だれ》からにしようかな。やはり、恨《うら》みっこなしに、伊東伊津子にしようなあ。うっふっふ」  黄金魔人は薄気味《うすきみ》悪い笑《わら》い声を上げ、一番手近の少女を抱《だ》き上げようとしたが、そのとたん、 「わー、わー、わー、こ、こりゃどうしたのじゃ、人間じゃない! いつの間にやら人形に変っている!」  黄金魔人はあわてふためき、次から次へと五人の少女に触《さわ》ってみたが、五人の少女が五人とも、なんと人形に変っているではないか。 「しまった! 文麿のやつが逃《に》げたのではないか」  この円型の部屋の隅には、長持《ながもち》のように大きなトランクが置いてあった。  黄金魔人はあわててそのトランクの蓋を開いたが、そのとたん、中からヌーッと立ち上ったのは、何とピストル片手《かたて》に持った三津木俊助ではないか。 「丹羽安麿さん、あなたの悪企《わるだく》みは全部|暴露《ばくろ》しました。おとなしく警察のお世話になるんですね」 「お、お、おのれ!」  と、逃げようとして、振《ふ》り返った安麿《やすまろ》の目《め》に写ったのは、等々力|警部《けいぶ》や、探偵小僧の御子柴進とともに、入口に立った二人の人物。一人は片《かた》眼鏡《めがね》こそかけていないが、安麿とそっくり同じ顔をした人物、そして、もう一人は、さっき会った山田老先生ではないか。 「き、きさまは一体何者だ!」 「安麿、私だよ。おまえの兄の武麿だよ」  そう言いながら白髪《はくはつ》の老人が、かつらを取り、髭《ひげ》をむしり取ると、その下から現《あらわ》れたのは、これまた、片眼鏡こそかけていないが、安麿とそっくり同じ顔をした人物だった。  黄金魔人はしばらくあたりの顔を見比《みくら》べていたが、突然腹《とつぜんはら》をゆすって笑い出した。 「わっはっは、わっはっは、これは大笑いだ! わっはっは! わっはっは!」  黄金魔人は突然床にぶっ倒《たお》れると、まるで丸太《まるた》ん棒《ぼう》のように、そこら中を転げ回って、 「わっはっは! わっはっは! わっはっはっは!」  ああ、こうして黄金魔人の丹羽安麿は、とうとう本当に気が狂ってしまったのである。    五人姉妹 「丹羽安麿さんの考えではこうだったんですね」  こうして黄金魔人が滅《ほろ》んだ後、関係者一同が集った席で、三津木俊助は、次のように説明した。 「お兄さんの武麿さんは、実際《じつさい》に遭難《そうなん》されたのじゃなく生きていられた。しかし、記憶《きおく》を失って自分が誰だかわからない。また、世間でも武麿さんが生きているとは夢《ゆめ》にも知らない。だから虹子さんを殺してしまえば、虹子さんの財産《ざいさん》は全部自分の物になると思ったんです」  と、三津木俊助は、ひと息入れると、 「しかし、虹子さん一人を殺したのでは、すぐ叔父《おじ》である自分に疑《うたが》いがかかってくる。ところが難船岬へ訪《たず》ねていった時、そこに細田星子さんという少女がいるのに気がついた。名前も苗字《みようじ》もホの字で始まっている。しかも、じぶんの狙《ねら》っている虹子さんも、丹羽虹子で名前も苗字もニの字で始まっている。そこで、伊東伊津子さんとローズ・蝋山さん、長谷川花子さんという、虹子さんと同じ年で、しかも、苗字も名前も同じ字で始まっている少女を探《さが》し出したんです。そして、誰か変質者《へんしつしや》みたいな人間がいて、イロハ順に少女を狙うのだと……安麿さんはそう世間に思いこませようとしたんです。それだと、虹子さんがやられても自分に疑いは、かからないだろうと思ったんですね」 「そして、その変質者を文麿だと思わせようとしたんですね」  と、武麿が言った。 「そうです。そうです。一つにはそれによって文麿さんを亡《な》きものにして、文麿さんの偉大な発明の権利《けんり》を横取りしようとしたんですね」 「いや兄貴《あにき》が、私を変質者にしたてようとしたのも、無理《むり》はありません。発明に熱中するあまり、私はとかく、異常《いじよう》な行動が、多かったのですからね」  文麿もいまさら後悔《こうかい》するようにつぶやいた。  それにしても、文麿の発明とは……それは今まで世界に知られなかった新しい合金である。  合金とは、違《ちが》った種類の金属《きんぞく》を二つ以上合わせて、新しく作り出された金属のことである。  文麿の作り出した合金は、今までのどの金属よりも延展力《えんてんりよく》(薄《うす》く平たく広がる性質《せいしつ》)に富んでおり、まるで繊維品《せんいひん》みたいに、軽くて、また自由に形が作られる。  しかもピストルの弾丸《たま》もはね返すほど、堅牢《けんろう》にできているのだから、これほど偉大な発明はなかった。  安麿はその合金を盗《ぬす》んで、黄金魔人になりすましていたのである。  さて、伊東伊津子を始め、イロハ順の五人の少女だが、この事件《じけん》以来、すっかり仲《なか》よしになった。  丹羽武麿も自分の弟の悪心から、恐《おそろ》しい目に遭《あ》った少女たちをふびんがって、四人の少女を自分の手元に引き取った。  そして今では五人姉妹として、仲よく育てているのである。  そして、この五人の少女が、一番|感謝《かんしや》の念を捧《ささ》げているのは、探偵小僧の御子柴進だということである。 本書には今日の人権意識に照らして不当・不適切と思われる語句や表現がありますが、作品執筆時の時代背景や作品が取り扱っている内容などを考慮しそのままとしました。作品自体には差別などを助長する意図がないことをご理解いただきますようお願い申し上げます。 [#地付き](角川書店編集部) 角川文庫『風船魔人・黄金魔人』昭和60年7月10日初版発行