青い外套《がいとう》を着た女 他八篇 横溝正史 [#表紙(表紙.jpg)]  目 次   白い恋人   青い外套《がいとう》を着た女   クリスマスの酒場   木乃伊《ミイラ》の花嫁   花嫁|富籤《とみくじ》   仮面舞踏会   佝僂《せむし》の樹   飾窓《かざりまど》の中の姫君   覗機械倫敦綺譚《のぞきからくりろんどんきだん》 [#改ページ] [#見出し] 白い恋人  映画女優|須藤瑠美子《すどうるみこ》が、あの奇怪なサーカスの一寸法師を刺殺して、返す刀で自刃《じじん》して果てた理由については、誰一人知っている者がないようである。  どう考えてみても、これは狂気の沙汰《さた》としか考えられないような事件だった。  瑠美子があの悲劇的な瞬間よりまえに、一寸法師を知っていただろうという、あらゆる可能性はその知人たちによってことごとく打ち消されている。彼女の親兄弟、友人たちは口をそろえていうのである。今までかつて彼女が、その薄気味の悪い一寸法師と一緒にいるのを見たこともないし、また彼女がそのような不具者の噂《うわさ》をするのを聞いたこともないと。  そしてこれはまた、一寸法師の側においても同様だった。彼の尊敬すべきサーカスの朋輩《ほうばい》たちの言葉によっても、蜘蛛安《くもやす》——これがあの奇怪な一寸法師の名であったが——が瑠美子を個人的に知っていただろうという疑いは、ことごとく否定されている。  これを要するに、瑠美子はその瞬間まで一度も蜘蛛安に会ったことがなかったように見える。それにもかかわらず事実はこうなのである。  ある晩、瑠美子は数人の友人たちとダンスホールで踊っていた。その時、彼女がいくらか酔《よ》っていたことは確かだけれど、それとても、正気を失うほどでなかったことは、周囲にいた人々のことごとくが証言している。ところが、そこへあの蜘蛛安が、名前の蜘蛛のようにのろのろと入って来たのである。すると瑠美子はまるで十年の仇敵《きゆうてき》に出会ったごとく、いきなりその蜘蛛安に躍《おど》りかかると、隠し持った匕首《あいくち》で相手《あいて》を刺し殺し、その場を去らず自分も咽喉《のど》をついて死んでしまったのである。  あっという間もなかった。周囲にいた人のことごとくが「まるで夢のような出来事」と語っているのをみても、いかにそれが思いがけない、咄嗟《とつさ》の出来事であったかわかるだろう。  発作《ほつさ》的発狂による凶行。——これが瑠美子の行為について下された最後の断案だった。そして、事実まあそれよりほかに考えようがなかったのである。  しかし、瑠美子はほんとうに気が狂っていたのであろうか。いやいや、一見|奇異《きい》に見えるこの事件の裏には、何かしら、人の知らない深い秘密があったのではなかろうか。  そうなのだ。そして世の常ならぬ、この不可思議な秘密をお話ししようというのが、私のこのささやかな物語の目的なのである。 「先生」  ある時、瑠美子は私のところに来て、とつぜんこんなふうに話を切り出した。断わっておくが、それは彼女があの凶行を演じるより一週間ほどまえのことであった。 「私は近いうちに死ぬのではないかと思いますわ。よく世間で言うじゃありませんか。自分の死ぬところを夢に見た者は、遠からず命を落とすと。——そうなんです。私は自分の死ぬところをまざまざと見たんです。いいえ、それも夢なんかではありませんの、もっとはっきりとあからさまに——それでいて、夢よりも怪しい幻として」  瑠美子はそこで憑《つ》かれたような妖《あや》しい目つきをして、はげしく身震いすると、やがて次のような、奇怪な話をはじめたのである。  ——それがどこだったか、私はっきりと思い出すことができませんの——。  いえいえ、たとえ思い出すことができるとしても、私とうていその場所をお話しするわけにはまいりませんわ。なぜって、もし先生がもちまえの好奇心から、その場所を探検してみようなどと思いたたれては、私ほんとうに困るんですもの。私が見たものを、もし先生に見られたら、まあどんな恥ずかしいことでしょう。だから先生、その場所をお訊《き》きにならないで、そして、ただ私のいうところを信じて下さい。先生、信じて下さいますわね。  ——それは雨催《あまもよ》いの、へんに陰気な暗い晩でした。私久しぶりに体がすいたものだから、二、三人の友人と銀座《ぎんざ》でお茶を飲んだのです。ええ、その時飲んだのはお茶だけでした。けっしてアルコールには手をつけなかったのですよ。だからその晩、いくらか疲れていたとはいうものの、けっして酔っていなかったことを忘れないで下さいまし。ええ、それがこれからお話しする私の奇妙な冒険に、たいへん大きな関係があるんですもの。  ——友人に別れてから、通りかかった自動車を拾ってそれに乗ったのは、たぶん十一時ごろのことでしたでしょう。私自動車に乗ると、すぐうとうとと眠ってしまったのです。いいえいつでもそうだというわけじゃありませんの。なんしろその時分、徹夜徹夜でろくすっぽ眠る時間もあたえられなかったものですから、その疲れが急に出たのだと思われますわ。とにかく自動車に乗るや、私すっかりいい気持ちになって眠ってしまったんですの。ところが、今度目がさめてみたら、いったいどこにいたとお思いになって。なんだか薄暗いがらんとした部屋のなかですの。私、その部屋の中央にある椅子《いす》に腰をおろしたまま、まるでズリ落ちそうな格好で寝ていたじゃありませんか。  ——≪まあ、私どうしたというんでしょう≫そう思って私きょろきょろとあたりを見回したんですのよ。みょうに窒息《ちつそく》するような、息苦しい空気なんです。それが私にすぐ、会社にある試写室を思い出させました。そうなんですの。四方を白い壁に包まれた、窓といってはひとつもない、縦に長いその部屋の格好が、そっくり試写室と同じなんです。そしてそれはやっぱり試写室だったんですわ。  ——私ともかくびっくりして、はっとして椅子から立ち上がろうとしました。するとその時ふいに、しっと暗闇《くらやみ》の中からおさえつけるような声がするんです。  ——静かにしていらっしゃい。いまにおもしろい映画がはじまるところですから。そうその声が言います。  ——私その声の主を見きわめようとして、闇の中に目を見張りましたけれど、どこにも人の姿は見えませんの。なんだか私、急に怖《こわ》くなって立ち上がろうとすると、  ——動いてはいけません、瑠美子さん。と相手はちゃんと私の名前まで知っているんです。ほら、始まりましたよ。見ていてごらんなさい。この映画はきっと、あなたのお気に召すにちがいないと思うんですけれどね。  ——私はそういう声になんだか聞きおぼえがあるような気がしました。むろん、男の声なんですの。しかし、どうしてもその人を思い出すことができません。なんだか非常に身近いような声でそれでいて、遠い昔の霞《かすみ》に隔てられているような声なんですわ。私じりじりしました。知っていて思い出せないということはずいぶんはがゆいものですわ。  ——あなたはいったいどなたです。なんのために私をこんなとこに連れて来たのです。  ——相手はそれに答えないで、  ——ほら、ごらんなさい。おもしろい映画がはじまっているじゃありませんか。あなたはこれに興味がないんですか。  ——私その声に釣り込まれるように、向こうの壁を見たんです。すると、なるほどそこには白い四角な光のなかに、何やら奇妙な影像がもくもくと動いているじゃありませんか。私、いまから思えば、あんなもの見なければよかったと思いますわ。でも、その時はなんとなく引き入れられるような気持ちで、その映画を見てしまったんです。  ——先生、私のお話ししたいというのは、その映画のことなんですの。ああ、今思い出しても、あまりの気味悪さにゾッとしますわ。でも、でも、私やっぱりお話ししなければなりませんわね。  ——最初、私の目についたのは、恐ろしい嵐《あらし》の場面でした。海のうえに黒い旋風《せんぷう》が渦《うず》のように舞っていて、坩堝《るつぼ》のように白く泡《あわ》立った海の中に、外国の船らしい大きな汽船が、マストを折られ舷側《げんそく》をもぎ取られて今にも沈没《ちんぼつ》しようとしている光景なのです。私それを見ると、これはてっきり外国の映画にちがいないと思ったのですが、ほんとうはそうではありませんでした。  ——その次の場面になると、たぶんその翌朝《よくちよう》なのでしょうか、からりと晴れた美しい海岸の景色なんです。なんでもそこは、日本《につぽん》のずっと南の方にある離れ小島の海岸らしく、けわしい巌《いわ》が至るところにそびえていて、昨夜の嵐の名残りの、大きなうねりを持った波が、その巌の麓《ふもと》に白い波頭《なみがしら》を見せて、寄せては返しています。そういう海岸の波打際で、奇妙な風態《ふうてい》をした、でも確かに日本人とわかる漁師たちが、打ち寄せられた難破船の破片を、嬉々《きき》として拾い集めているのです。ところがこの漁師たちの中に一人の一寸法師がいました。  ——ああ、今思い出してもゾッとしますわ。なんといういやらしい顔をした一寸法師なのでしょう。鉢《はち》の開いた頭はまるで蜘蛛そっくりで、胴ばかりがいやに長くて、そして手足ときたら、よくあんな大きな頭や胴を支えていて、折れないものだと思われるくらい、短くて細くて、しかも曲がっているんです。私あれから後、毎晩のようにこのいやらしい、蜘蛛のような一寸法師を夢に見ます。そして、ひと晩だってうなされないことはありませんわ。  ——この一寸法師はただ一人、漁師の群をはなれて、けわしい巌のうえへ登っていきます。至る所に海藻がこびりついて、小さな蟹《かに》がはい回っている岩のうえを。——やがて、一寸法師は高い巌頭《がんとう》まで来ました。そして腕組みをして、じっと海のうえを見つめているんです。長い、おどろの髪がばさばさと風に乱れて、腰にまとった簑《みの》のようなものがひらひらとひるがえるところは、とんと怪《あや》しい鳥かなにかのよう。  ——そのうちにふと、一寸法師は下を向いて、巌の麓に渦を巻いている深い淵《ふち》を見おろしました。見るとその淵の中には、何やら白い、奇妙なものがゆらゆらと、海藻にもつれて浮かんでいるんです。碧《あお》い、深い色をたたえた淵の中に、みょうにしらじらとした肌を陽にさらしながら、ブカブカと浮かんでいるのは人間のように見えます。  ——一寸法師のドキリとしたような顔。  ——次の瞬間、その男は鹿のような敏捷《びんしよう》さでその巌を下《お》りていき、ほとんど一跳《ひとと》びの速さでその淵へたどりつくと、奇妙な白い人間を、水の中から抱きあげました。  ——ああ、先生、こうして話をするさえ、私気持ちが悪くなりますわ。だって、だって、……一寸法師が抱きあげたその白いものというのは、人間ではなく、ゴムで作った女の人形《にんぎよう》なのですもの。私、そのような人形を何に使うのかよくは存じません。でも、それは確かに、昨夜難破したあの外国船の中にあったものにちがいないのです。先生、船の中にはいつでもあのような女のゴム人形があるのでしょうか。もし、あるとしたら、それはいったいなんのために備えつけてあるのでしょう。  ——それはさておき、そのゴム人形を抱きあげて、しばらく、その顔を眺《なが》めていた一寸法師の顔には、間もなく恍惚《こうこつ》とした表情が浮かんできました。一寸法師はそのいやらしい唇《くちびる》で、人形の額に接吻《せつぷん》します。頬ずりをします。そして、必死となってそれを掻《か》き抱《いだ》きます。  ——さて、ここで人形の顔の|大 写《クローズアツプ》。  ——ああ!  ——私は呼吸《いき》がとまりそうでした。私はその時、試写室の中の重苦しい空気が、ふいに火となって、私を焼くのではないかと思いました。  ——だって、その人形の顔というのが、私にそっくりなのですもの。いえいえ、私にそっくりというより、私自身だったと言いなおしたほうが適当だったかもしれませんわ。白い動かない瞳《ひとみ》、ほんのりと微笑をふくんだ唇、肩から胸へかけて、乱れてべったりと吸いついている髪の毛——ああ、先生、私が死んで石になったら、きっとああいうふうになるにちがいありませんわ。しかも、しかも、人形のうえに、あの蜘蛛のような一寸法師が、やたらに醜い唇を押しつけるのです。ああ、その気味悪さ!  ——私はその暗い試写室の中で、ほんとうに蛭《ひる》にでも吸いつかれたように、じっと身震いをして、体じゅうに粟《あわ》立って、そのまま気が遠くなりそうでした。  ——でも、その映画はそれでまだ終わったわけではありませんでした。いえいえ、それはまだほんの発端《ほつたん》なんです。その後《あと》には、もっともっと、恐ろしい、気味の悪い場面が幾つも幾つもあるのです。  ——一寸法師は間もなく、その人形を抱いて、自分の家にかえりました。そして一間《ひとま》しかない、むさくるしいあばら家《や》の押入れの中に、そっと、人知れずその人形を隠しておいて、夜ごと日ごと、これを取り出してはにたにたと気味の悪い微笑をもらします。はては狂気のように、その白い体を掻き抱き、頬ずりし、しまいには、物言わぬ唇、動かぬ瞳に向かって、ポロポロと涙をこぼして怨言《うらみごと》をくり返します。  ——ところが、どうでしょう。その涙が人形の唇にはいったとみると、ふいに、今まで動かなかった人形の目が、くるくるとまたたきました。それから、唇がかすかにほころびたかとみると、にっと白い歯を出して笑いました。それから、両手でそっと、醜い一寸法師の頭をかかえて、胸に引き寄せたのです。  ——ああ、それから後のことはもうきかないで下さいまし。人形は今やまったく血の通った人間になりました。そしてその人間とは誰あろう、かくいう私なんですもの。先生、私は今までこんな大きな辱《はずかし》めをこうむったことはございません。私にははっきりと、その写真の欺瞞《ぎまん》がわかるのです。私はいままでそんな気味の悪い一寸法師を見たことも聞いたこともありません。だから、私がそんな男と共演して、映画を作ったことなど、絶対にないのですわ。それのみならず、私は巧《たく》みに継ぎ合わされたそのフィルムのトリックをはっきり指摘することもできます。人形から徐々に人間になる時の私の|大 写《クローズアツプ》は、『君と共に』という映画の中で、気絶した私がよみがえってくる場面なのです。それから、一寸法師とふざけ回る場面は、『新しき天地』のなかで、Kさんを相手に鬼ごっこをする場面をとってきたのです。それから最後のシーンのところは、『死の饗宴《きようえん》』の中で私の死んでいく場面なのです。ああ、私はその時とつぜん、さっき暗闇のなかで聞いた男の声を思い出しました。そいつは、ずっとまえに、私と同じ撮影所にいた、そして『君と共に』や『新しき天地』や『死の饗宴』を撮影した技師——そして私に失礼なことを働いて、馘《くび》になったMという男なのです。  ——私にはすっかり、このいまわしい映画の欺瞞がわかりました。それにもかかわらず、この巧妙《こうみよう》に継ぎ合わされたフィルムを見た時、私は真実、あの醜い一寸法師の毛むくじゃらな手が、私の肌を刺したような恐ろしい身震いをかんじました。いつか私は、ああして本当に、一寸法師の手に抱かれ、自由に翻弄《ほんろう》されたのじゃなかろうか。ああ、私のこの体の中には、あの頭の大きい、手足の寸の詰《つ》まった、蜘蛛のような男の血が、流れているのではなかろうか。  ——ああ、先生、その映画の最後においては、結局、私の扮《ふん》した女がその一寸法師を刺し殺して、自殺することになっているのですけれど、現実の私も、あの男を見つけたら、この言おうようない冒涜者《ぼうとくしや》をみつけたら、いつかひと思いに刺し殺して、自分も死んでしまいたい。  ——先生、先生、私いつかきっと、そのとおりにする日があるにちがいないと思いますの。  ——先生、どうか、私を気違いだなどとお思いにならないで。私。……私。……。  ——先生……きっと私は近いうちに死ぬ日が来るにちがいないと思いますわ。先生。…… [#改ページ] [#見出し] 青い外套《がいとう》を着た女     一  さあッと一雨、烈しい夕立ちが通りすぎたあとの、さわやかな宵《よい》の銀座だった。雨に出足がにぶったのか、あまり人通りも多くないその舗道を、土岐陽三《ときようぞう》はいかにも楽しげに歩いていた。  仕立てのいいタキシード、ピカピカ光るエナメル靴、胸にさした黄色い薔薇《ばら》。知らない人が見ると、どこの貴公子かと疑われるばかり、水際立った風采《ふうさい》だったが、いずくんぞ知らん、そのポケットには今や、わずか十枚足らずの銀貨がじゃらついているばかり、あわれ、その銀貨が彼にとっては全財産なのだ。  しかし、たとえ嚢中乏《のうちゆうとぼ》しくとも、陽三の楽しさには依然として変わりはない。十何年振りかでフランスから帰朝したばかりの、この無名画家にとっては見るもの聞くものすべて珍しく、故国にかえって、かえって異国の風物に接するような心地さえされるのだ。長いあいだ故国を離れていた陽三には、広い東京に親戚《みより》もなければ友人もない。さればこそ、今朝横浜へ着いて、案内人《ガイド》の案内で渋谷《しぶや》にある手頃のアパートに落ちついて、一ヵ月分の部屋代を前納すると、あとに残ったのは四円なにがし、つまり財布《さいふ》も軽く身も軽いというのは、今の陽三のような境涯をいうのであろう。  ふいに水溜りの上を、ザアーッと沫《しぶき》をあげて自動車が通りすぎたので、陽三の楽しい瞑想《めいそう》はふと破れた。 「おっとととと」  陽三は危《あやう》くとびのいたが追いつかない。見ると大事な靴先に、べっとりと泥《どろ》がはねかかっているのだ。陽三はちょっと眉《まゆ》をしかめたが、それでも別に憤ったけしきはない。相変わらずにこにこと笑いながら、明るい飾窓《シヨーウインド》のそばへ寄ると、ポケットから紙をつかみ出して靴のよごれをふこうとしたが、 「おや」  軽く口のうちでつぶやいて、そのまま身を起こしてしまった。靴をふこうとしたその紙片に、何やら妙な文字が見えたからである。 [#ここから2字下げ] 日比谷公園の入り口で、青い外套を着た女に会いたまえ。今宵の幸運が君を待つ [#ここで字下げ終わり]  白い西洋紙に達筆で書いた筆の跡。 (はてな、いつこんな物を手に入れたろう)  陽三は本能的にポケットに手をやると、もう一枚の紙片を出して見た。それは某喫茶店の宣伝ビラだったが、二枚の紙を重ねてみると、大きさも同じだったし、折目も皺《しわ》もピタリと符合する。陽三はすぐこの奇妙なご託宣《たくせん》が、どこから舞いこんだか覚った。  さっき通りすぎた尾張《おわり》町の角に、トンガリ帽子《ぼうし》におどけた仮面《かめん》をかぶった男が立っていて、道行く人にビラを渡していた。陽三もその男の手から、二、三枚のビラを渡されたが、よくも改めずにポケットの中に突っ込んで来たのである。 (はてな、喫茶店の宣伝ビラの方はわかるが、青い外套を着た女というのは、いったい何んのことだろう。これも何かの広告かしら)  しかし広告にしては筆で書いてあるのが変だった。陽三はふいにはっとしたように顔色をかえてあたりを見回したのである。  これは一種の街頭レポではあるまいか。あのトンガリ帽の男は、喫茶店の宣伝ビラの影にかくれて、巧妙に仲間と通信し合っているのではなかろうか、ひょっとすると、これはすばらしい犯罪団体の一味かもしれないぞ。そうだ、そういえばあの男が、奇妙な仮面で顔をかくしていたのからして怪しいではないか。しかし、それにしても、一味でもない自分にどうして、このようなレポを手渡したのだろう。人違いをしたのであろうことはうなずけるが、撰りに撰って、なぜ自分を間違えたのだろう。  そこまで考えてきた陽三は、ふとタキシードの胸にさした黄色い薔薇の花を見て、はっとした。そうだ、この薔薇なのだ! レポを受け取るべき男は、目印にこれと同じ薔薇をさしていることになっていたのにちがいない。  陽三はふいに、血がカーッと頬にのぼるのを感じた。よし、行ってみよう、いって、青い外套の女に会ってみてやろう。——陽三はそこでつと、暗い横町へ曲がったが、しかしみちみち彼はこうも考えるのである。  ——お前はどうも物事をロマンチックに考える癖《くせ》があっていけない。なあに、これはなんでもありゃしないのだ。おそらくストリートガールの新戦術かもしれないじゃないか。こういう風変わりな方法で、猟奇癖《りようきへき》にとんだ好色の徒を釣り寄せようという新手なんだ。「青い外套を着た女」——つまりそいつが街の天使なのだ。——  だが、陽三にとってはどちらでもよかった。さしあたり彼には、しなければならぬ仕事など何一つないのである。青い外套を着た女がどんな女であるか、それを見とどけるだけでも一興ではないか。——そこで彼はそのまま日比谷の方へ足を向けたのである。     二  角に建っている映画館のネオンサインが、雨に洗われてすがすがしく明滅していた。お濠《ほり》の水も、夏らしい涼しさをたたえて、街灯の灯をさかしまに刻んでいる。しかし、陽三はそんなものには目もくれず、日比谷公園の入口から中へ入っていったが、と、いくばくも行かずして彼はハッと足をとめたのである。  いた! ピカピカと真青に光るレインコートを着た女、薄暗い木陰に、人目を忍ぶようにたたずんでいるのがたしかにそれに違いない。  陽三は何食わぬ顔で、女の側《そば》を一度通りすぎたが、すれちがいざま相手の顔をのぞいてみて、あまりの美しさに思わず胸をときめかした。  これが街の女かしら。もしそうだとしたら、こいつ、すばらしい掘り出しものだぞ。  陽三はすぐ女の側へとって返した。 「君ですね。僕を待っていてくれたのは?」  女は美しい瞳《ひとみ》をあげて、いぶかしげに陽三の顔を見たが、すぐ何もかものみこんだように、 「あら、じゃあなた、古川さんのお友達?」  ——あ、するとあのレポを受け取るべき男は古川という男だったのにちがいない。 「え、そ、そうです。その古川の友人ですよ」 「古川はどうしまして? どうしてここへ来ませんの」 「古川君はその、ちょっと具合が悪くて」 「あら、そう」  女は美しい眉をあげて、 「やっぱりそうなのね。いざとなって急に怖気《おじけ》づいたのね。いいわ、あんな卑怯な奴」  吐き出すように言ったが、陽三に気がついて、 「あら、ごめんなさい、あなたのことじゃないの。それであなた、わたしをどうして下さるの」 「その、どうしようって、つまりその古川が——」  言いよどむのを女はすばやくさえぎって、 「つまり古川があなたに万事まかせたというんでしょう。まかされなさいな。さあ、お願いだからあたしを連れてって!」 「連れていくって?」 「いいのよ、あたしからもお願いするんだわ。とにかくこんなところでぐずぐずしてちゃ危険だから、早くあたしをどこかへ隠してちょうだい」  女は右手にかかえていた鞄を、左に持ちかえると、陽三の腕に手をかけて、ぐいぐいと公園の奥へ引きずっていく。陽三は仕方なしに、女のするままにまかせながら、さてこれは一体どういう種類の女だろうと考えるのだ。  どうもこれは、陽三が最初考えていたような種類の女ではないらしい。美しくて気品があって、そういうところは大家の令嬢かとも思われるが、それにしては態度《ものごし》があまりさばけすぎる。十年あまり留守にしている間に、日本にもこういう令嬢が出現するようになったのかしら。だが、どちらにしても陽三は悪い気がしないのだ。どうせ乗りかかった舟なのだ。ひとつ行けるところまで行ってやれ。——  根が楽天家の土岐陽三、そんなことを考えながら、思わずにやにやと笑ってしまった。 「あら、どうなすったの。変な方、思い出し笑いなんかなすって」 「いや、これは失礼。あなたのような綺麗な方と、こうして公園の中を歩くなんて、なんだかくすぐったい気がしたんですよ」 「いやな方ね、あたしの身にもなってちょうだい。死ぬか生きるかって場合じゃないの」 「ほい、これは失礼」 「ほほほほほ、まあいいわ。堪忍《かんにん》してあげるわ。でもあなた随分|暢気《のんき》な方らしいわね、お名前なんておっしゃるの」 「土岐陽三、貧乏画工ですよ」 「あらそう、古川みたいな奴とどうしてお友達におなりになったの。あら、そんなことどうでもいいわ。あたしの名|美樹《みき》というの。ご存じでしょう」 「ああ、そうそう美樹さんでしたね」  こんなふうに書くと、いかにも暢気らしく見えるが、なかなかそうではなかった。女はおしゃべりをしながらも、始終おどおどと不安らしくあたりを見回していて、人影が見えると、おびえたように陽三のかげに隠れたりした。  やがて二人は公園を抜けて外へ出たが、折よく通りかかった空車を見つけると、女はすぐ手をあげて呼びとめた。  ところが二人がその自動車に乗り込もうとした時だ。ふいに一台の自動車が来てとまったかと思うと、中からどやどやと降りて来た数名の荒くれ男、美樹の姿を見るとあっと叫び声をあげて、 「おい、美樹さん、どこへいく」 「あ、しまった」  女はさっと裾《すそ》をひるがえして車にのると、 「あなた、あなた、早くいらっしゃい」  続いて乗ろうとする陽三を、 「小僧、女をどこへ連れていく」  引きとめたのは、四十五、六の人相のよくない男だったが、まるで結婚の式場へのぞむ花婿のように、デカデカとめかしこんでいた。 「どこでもいいじゃないか。僕は友人の古川君に頼まれて、この婦人を保護しなければならぬ義務があるんだよ」 「なに、古川だと?」  男はあきれたようにうしろへ振り向くと、 「おい、古川、貴様こいつを知ってるのかい」  しまった! 古川もこの中にいたのか! 「いいえ、親方、俺アこんな野郎、見たこともありませんやね」  のっぺりとした男が口をとがらせる。 「小僧、聞いたか、なんでもいい、しゃれた真似をせずと女をこちらに渡しな」 「いいえ、いいえ、あなた後生だからあたしを助けて。古川さん、あなたあたしを裏切ったのね。覚えていらっしゃい」 「なんでもいい、美樹さん、車から降りるんだ。変な真似をするとためにならないぜ」 「待ちたまえ」 「何よ、野郎!」  つかみかかって来るのを、ひらりとかわした土岐陽三、拳固を固めて下から力いっぱい、突き上げたのが見事きまったからたまらない。俗にいうアッパーカット、男がよろめくすきに、さっと自動車へとびのった陽三、 「野郎!」  と、とびかかって来る手下の面部《めんぶ》へ、パンパンと小気味のよい音を立てて平手打ちを食わせると、バターンと扉をしめて、 「運転手君、早く、早く!」  運転手も心得たもの、自動車ははやフルスピードで走り出していた。     三 「大丈夫?」 「大丈夫ですよ、とうとう向こうの自動車を撒《ま》いてしまいましたよ」  バックウインドウから外をのぞいていた陽三は、くるりと向き直ると愉快そうに笑い出した。 「運転手君、頼むぜ」 「ようがすとも旦那、これでもこの自動車はすばらしいスピードが出るんですからね。だが旦那、さっきはいい音がしましたね。一体あいつら何者です。暴力団《ギヤング》ですかい」 「ふむ、まあね。美樹さん、そうでしょう」  美樹は不思議そうに陽三の顔を見ていた。 「おや、どうかしたのですか」 「あなた。——あなた嘘《うそ》をおつきになったのね。あなた古川のお友達じゃないのね」 「ははははは!」 「あなた、いったいどなた?」 「僕ですか、僕はさっきも申し上げたとおり、土岐陽三という貧乏画工ですよ」 「いったい、どうしてあたしをご存じなの」 「それが僕にもわからないのですよ。まあいいじゃありませんか。これも何かのご縁ですよ」  美樹はあきれたように、陽三の姿をながめていたが、急に気をかえたように、 「いいわ、見たところあなた悪い人らしくも見えませんもの」 「そうですね、僕は今までばかだといわれたことは随分あるが、悪党だといわれたことは一度もありませんね」 「暢気な方ね」  女はそれきり黙りこんでしまった。  陽三は考えれば考えるほど不思議でならない。一体この女は何者だろう。さっきの花婿然たる男はこの女の何に当たるのだろう。それにわからないのは尾張町の角で渡されたあのレポだ。一体この女とどういう関係があるのだろう。  だが、元来あまり物を考えることが得意でない陽三は、そんなふうに考えていると、たちまち頭がもやもやとしてくる。なあに、そんなことどうでもいいではないか。この美しい女とこうして一緒に、自動車を走らせているだけでも、結構なことじゃないか。 「旦那、いったいどこへやるんですか」  ふいに運転手が尋ねた。 「おっと、そうそう、どこへ行きますか」 「どこでもいいわ。あなたのおすまいどちら?」 「僕は渋谷のアパートにいるんです」 「そのアパート人目につかないところ?」 「さあ、今日はじめて部屋をとったばかりだからよくはわかりませんが、まあ静かでしょうね」 「じゃ、そこへ連れてっていただこうかしら。あなたお一人なんでしょう」  陽三はいくらなんでもびっくりした。この女、ひょっとしたら気でも狂ってるのじゃないかしらと思ったくらいである。 「ほほほほほ、そんな妙な顔をなさらなくてもいいの。いずれわかるわ。とにかくあたし、そこへ泊めていただくことにきめちゃった」 「じゃ君、渋谷へやってくれたまえ」  女はそれから、しばらく無言のまま窓の外をながめていたが、何を思ったのか、 「あ、運転手さん、ちょっととめて」 「え?」  運転手があわててブレーキをかけたので、自動車がガタンと大きく揺れてとまった。 「どうかしたのですか」 「そこにあるの写真屋さんじゃない? そうね。あなたいらっしゃい。いいからいらっしゃいよ。運転手さん待っててね」  あきれてきょとんとしている陽三を、せきたてるようにおろした美樹は、そのままずんずんと大きな写真館の中へ入っていった。 「いったい、どうしようというのですか」 「写真を撮っていくのよ。記念写真を。あなたタキシードを着ていらっしゃるわね。ねえ、あたしたち似合いの新郎新婦とは見えないかしら」  言いながら応接室で、青い外套を脱いだ女の姿を見て、さすがの陽三も思わずあっとどぎもを抜かれてしまった。  外套の下から現われたのは目もさめるばかりの、純白の花嫁《ウエデイング・》衣装《ドレス》!     四  その夜から渋谷のアパートで美樹と陽三の不思議な同棲生活がはじまったのである。毎晩美樹は陽三のベッドへもぐり込む。そして陽三は仕方なしに床のうえに寝るのである。  最初の晩女は、花嫁《ウエデイング・》衣装《ドレス》がしわくちゃになるのも構わずに、そのまま寝てしまったが、翌日になると、鞄の中から手の切れるような百円紙幣を出して陽三に渡した。 「これで、あたしの身に合いそうな服を買って来てちょうだい」  そう言ったかと思うと、謎《なぞ》のような微笑を洩《も》らして、 「あたし、すっかりこの部屋が気に入ったのよ。だから当分あなたと一緒に暮らすことにするわ。他人にきかれたら、愛人だとでもいってちょうだいな。細君でもいいわ」  陽三が銀座の店を駆けずり回って、彼女の身に合いそうな服を買って来てやると、女は彼の好みのよさを褒《ほ》めてくれた。そしてそれを着てかいがいしく立ち働くのである。  女は金持ちだった。鞄《かばん》の中からいくらでも金を出して、陽三にいろんな買物を命じた。 「だって、この部屋あまり殺風景だと思わない? あたしたち形の上だけでも新婚の夫婦なんだもの、もっと華やかに飾りましょうよ」  女の言葉どおり陽三の部屋はしだいに美しく飾られた。そして女はここが自分のうちででもあるかのように落ち着きすましている。  ある日陽三がたまらなくなって女に尋ねた。 「一体、君はいつまでここにいるつもり?」 「あら、あなた迷惑になったの。いいわ。それならいつでも出ていくわ。でもね、一週間だけここにおいて。今月の二十七日の晩の十二時。——それまであたしをかくまってちょうだい」 「いいよ、僕のほうはいつまでもいてもらいたいぐらいなんだが、しかし、その二十七日までというのは、何か意味があるのかい」 「ええ、あるの、とても重大な意味が」  そう言った時、日頃の陽気さにもかかわらず女の顔には深い憂愁《ゆうしゆう》のかげがあった。しかし女はその重大な意味というのを語ろうとはしない。 「いったい君はどういう人なんだね。君には親戚《みより》というような者はないのかい」 「あるのよ、お父様が一人」 「それじゃ、さぞ心配しているだろう。知らさなくてもいいのかい?」 「ああ、そうそう忘れてたわ」  女はそういうと、手帳の紙に、    渋谷、花園アパートにいる。  と書いて、 「これを、日々新聞の案内欄へ出して下さらない?」 「なんだ、そんなことをするより、お父さんのところへ電話でもかけたらどうだね」 「ところが、父の居所がわからないのよ。お父さんも姿をかくしているの。逃げているのよ」 「逃げる? 誰から?」 「黒岩——ほら、この間の暴力団の親方よ。あたしたち、どうしても二十七日の晩の十二時まで、あの男から逃げてなきゃならないの」  そう言って美樹がぼつぼつ話したところを総合すると、大体次のようなことが察せられた。  美樹の父というのは、あの暴力団の首領の黒岩に、何かしら弱い尻《しり》をつかまれているらしい。黒岩はそれを種に、強制的に美樹と結婚しようとしたのだが、その晩、美樹は父としめし合わせて、別々に姿をかくすことにしたのである。美樹は黒岩の手下の古川という男を籠絡《ろうらく》して、その男の手で二十七日の晩までかくまってもらおうとしたのだが、相手が土壇場になって裏切ったところへ、妙な羽目から陽三がとびこんで来たというわけだった。  そこまではわかるが、しかし美樹の父の弱点というのが何であるか、またそれが二十七日の晩になると、なぜ解消するのか、そこまでは陽三にもわからなかった。 「しかし、僕と一緒に写真を写したの、あれは、一体どういうわけなんだい?」 「ああ、あれ? ほほほほほ!」  女は急におもしろそうに笑うと、 「あたしも随分気紛れな女ね、あたし黒岩との結婚は気に食わなかったけど、あの花嫁《ウエデイング・》衣装《ドレス》とても気に入っていたの。だからまあ記念に写真だけでも撮っておきたかったのよ、それにあなたのタキシード姿、とても立派に見えたんですもの」  美樹はそこで陽気な声を立てると、 「ねえ、あきれた、ずいぶん妙な女だとお思いになるでしょう。でもね、後生だから一週間だけここへおいてちょうだい」  そう言ったかと思うと、今度は急に涙ぐんで見せるのだった。なんとも得体の知れない女だった。     五  こうして一週間たった。二十七日の晩のことである。陽三はふと思い出したように、 「そうだ、今日はあの写真のできる日だっけ。僕、これから行ってとって来ようか」 「そうね」  女はなんとなく不安らしい顔をして、 「でももし、黒岩の一味に見つかったら?」 「大丈夫ですよ、僕の顔なんか覚えてるもんですか」 「そうね、じゃいってらっしゃい。あたしもあの写真を早く見たいのよ」  そこで陽三が、この間の写真館へ出かけていったのは夜の八時ごろのことだった。ところがその写真館のまえまで来て、陽三がハッとしたことには、そこの飾窓に彼らの写真が麗々《れいれい》しく掲げてあるではないか。 (しまった! もしあいつらの目にこの写真がとまったら?)  陽三の危懼《きく》はけっして杞憂《きゆう》ではなかった。彼が写真を受け取って帰るとき、ひそかにそのあとをつけている男があったのだが、さすがの陽三もそこまでは気がつかなかったのである。 「どうだい、この写真?」 「あら、すてき!」  美樹もひとめその写真を見ると手を拍《う》って、 「こうして見ると、まるでほんとうの新郎新婦みたいね」 「そうさ。だからさ美樹、いっそこの写真を本物にしてしまう気はない?」 「あら、本物にするってどうするの?」  美樹がわざと空とぼけて言うのを、陽三はしっかり抱きしめると、 「ねえ、僕は床のうえに寝るなんてもう真平御免だよ。ねえ、いいだろう、今夜から——」 「あら、だって、だって——」  言いながらも美樹は陽三の抱擁《ほうよう》を拒《こば》もうとはしなかった。陽三の顔がしだいに美樹の方へ近づいていった。もし、その時、あの荒々しい足音がにわかに聞こえてこなかったら、おそらく二つの唇《くちびる》は重なり合っていただろう。 「あら、あの足音は?」  ふいに美樹が陽三の腕から離れたとたん、荒々しい足音と共に扉がさっと開いて、現われたのは黒岩をはじめ、手下の面々なのだ。 「あ!」  美樹はふいによろめいた。荒くれ男の腕の中に、押し潰されそうに抱《かか》えられている老人の姿が、痛々しく陽三の目にもとまった。 「お父様!」 「おい、美樹さん」  黒岩が物凄いせせら笑いを浮かべながら、 「さあ、親爺《おやじ》をつかまえて来たぜ。今度こそ否《いな》やはあるまいな」 「美樹!」  老人が悲痛な声で、 「いいから、おまえこんな男と結婚するんじゃないよ。俺はもうあきらめた。運が悪いのだ。俺はやっぱり行くべきところへ行くよりほかにしようがない」 「だって、だってお父様。今になって、今になって、そんなこと。——」 「運がないのだ。やっぱりこれが神様の思《おぼ》し召しなんだ」 「いや、いや」  美樹の目からふいに涙があふれてきた。 「いまさらそんなこと。——ああ、あと三時間だのに。しかたがないわ。あたしこの人と結婚するわ」 「美樹、いけない、そ、そんなこと、おまえをこんな獣にくれるくらいなら、俺はやっぱり牢屋《ろうや》へいった方がいい」  老人がうめくように言った。 「その年で? その体で? いけません! そんなことをすれば、自殺するのも同じことだわ。黒岩さん、さあ、あたしあなたの思し召ししだいよ、だから——だからお父様を宥《ゆる》して」 「ふうむ、いい覚悟だ、そうこなくちゃ嘘だ。なあ、美樹、そうきらったもんじゃねえぜ。俺だってまんざら捨てた男じゃねえ。一緒になってみな、好くて好くてたまらなくなるさ」  黒岩が気味の悪い舌なめずりをしながら、美樹の手をとろうとするのを、いきなり陽三が間に割って入った。 「いけないよ、僕が不承知だ」 「何よ、小僧」 「美樹は僕の妻だ。見たまえ、ここに結婚の写真もある」 「陽三さん!」 「美樹、おまえは黙っておいで。なあ、黒岩とやら、どこの世界に、女房を他人にとられて指をくわえている奴があるもんか。貴様、それくらいのことは知っているだろうな」 「ふうむ、しゃらくせえことを。一体どうしようというのだ」 「こうするのだ!」  言葉と共に、いつの間に用意していたのか胡椒《こしよう》の粉《こ》が、パッと黒岩の目にとんだ。 「あ、畜生!」  黒岩が両眼おさえて尻ごみした時である。陽三は机のうえにおいてあった青銅のヴィーナス、こいつを逆手《さかて》につかんで、当たるを幸い、むちゃくちゃに振り回したからたまらない。相手には多勢を頼んでの油断があった。鼻血を出す奴、腕を折られる奴。大変な騒ぎだ。 「美樹さん、この間に早くバルコニーから」 「陽三さん、ありがとう、お父様」  美樹と美樹の父が、バルコニーから廂《ひさし》を伝って外にとびおりる。 「野郎、逃がすな!」  声とともに、黒岩の手からキラリ、大きなナイフがとんだ。 「何よ」  手足まといがなくなったから陽三は百人力である。青銅のヴィーナスを捨てると今度は椅子だ。こいつを振り回して当たるを幸いなぎ倒していたが、やがてほどよい頃を見はからって、これまたさっと窓から外へとびおりる。  狭い路地を抜けて、大通りへ出ると、目のまえに一台の自動車が来てとまった。 「陽三さん、早く、早く」 「あ、美樹さん」  陽三もすばやくその自動車にとびのると、夜の闇をついてまっしぐらに。—— 「陽三さん、でも、もうだめだわ。あいつらきっと警察へ報らせるにちがいないわ。非常警戒が張られたら、とても遁《のが》れっこないわ」  ハンドルを握った美樹の顔は真青だった。うしろのクッションにいる老人も、放心したように無言だった。 「美樹さん、あなたはいつも言ってましたね。今夜の十二時が過ぎれば何もかもいいのだって」 「ええ、そうよ。でもそれまでにはまだ二時間あまりあるわ。とても、それまで逃げおおせることできやしないわ」 「大丈夫、美樹さん、ハンドルを僕にかしなさい。そして、あなたはお父さまとこの自動車をおりるんですよ」 「おりてどうするの?」 「もいちど、僕のアパートにかえるんです。いいですか、東京中で、あそこが一番安全な場所なんですよ、誰が、逃げ出したもとの場所へ帰って来るなんて思うもんですか」 「そして、あなたは?」 「僕はこの自動車で、十二時まであいつらを引きずり回してやります。十二時が鳴ったらアパートへ帰りますからね。それまで待っていて下さいよ」  暗い路地で、美樹と美樹の父をおろした陽三は、それからまた気違いのように自動車を駛《はし》らせていったのである。  それから、二時間あまり陽三はどんなに胸をわくわくさせたことだろうか。行く先々から警官がとび出して彼の自動車を止めようとする。うしろからは、あの暴力団《ギヤング》をのせた自動車が、だにのようにくっついて来る。  追跡者の数は次第に多くなってきた。非常線が張られたのだ。しかし、幸い美樹たちがすでに自動車をおりたことは、誰一人気づく者はなかったらしい。  一時間たった。さらにまた半時間たった。陽三の神経は綿のようにつかれてくる。それでも彼はハンドルを離そうとはしない。東京中が彼の周囲でぐるぐると躍っているのだ。  あと二十分、十五分、十分、五分。—— 「しめた!」  陽三はふたたび渋谷へかえって来る。アパートのまえでクタクタになって自動車をとめた時、陽三の腕時計はピッタリと十二時をさしていた。  陽三が自動車からおりると、すぐ後から、バラバラと例の暴力団《ギヤング》の一味が駆けつけて来た。暴力団のほかに十数名の警官もいた。 「この野郎」  黒岩が陽三の腕を捕らえた時である。アパートの正面玄関から、美樹と美樹の父が悠然《ゆうぜん》として現われたのである。 「ありがとう、ありがとう、土岐君!」  そういう美樹の父の態度には、さっきまでのあのおびえたような様子は微塵《みじん》もない。昂然《こうぜん》として胸を張ると、並いる警官をズラリと見渡して、 「警官、ご苦労でした。しかし、私はもうあなたがたの手で、どうにもされませんよ。なぜといって、今夜の十二時で、私の時効期間が満了になったのだから」  美樹の父は美樹と陽三の手をとって、 「さあ、二十年振りで私は家へ帰ろう、忠実な私の下僕《しもべ》は、今日の日をよく覚えていて、大門をひらいて私を待っていてくれるはずだから。警官、私はもう逃げもかくれも致しません。もとの照井慎介《てるいしんすけ》になっていますから、ご用があったら、いつでも麹町《こうじまち》の屋敷までやって来て下さい」  唖然《あぜん》としている一同を尻目にかけて、三人は自動車にのった。そしてふたたび夜の闇をついて、しかし、今度は悠然と、麹町にある照井慎介の宏壮《こうそう》な邸宅へ帰っていったのである。     六  美樹の父が犯した罪というのが、はたしてどのような種類のものであったか、それはこの物語に直接関係のないことだから、ここに書くのは控えよう。  しかし、それは慎介の側に十分同情されるべき筋合いのものであった。もし法律というものが、もう少し人情の機微《きび》を尊重するならば、慎介の罪はむしろ賞揚されていいぐらいの種類のものだったということである。  しかし、罪はやっぱり罪だった。慎介は当然、幾年かを囹圄《れいご》の人として送るべきだったが、彼は身をもってこの判決に抗議したのだ。当時生まれたばかりの美樹を抱《いだ》いて、彼はアメリカへ逃げのびたのである。  美樹はそこで大きくなった。そしてつい一年ほどまえ、時効期間が満了するその間際に、彼らは名前をかえ、身分を包んでひそかに故国へ帰って来たのだが、その秘密を暴力団の親方、黒岩に観破《かんぱ》されたというわけであった。 「ねえ、あなた、だけどあたしにただ一つわからないことがあるのよ」  その晩、麹町の邸宅でくつろいだ時、美樹が思い出したように陽三に尋ねた。 「あの晩、ほら、あたしたちがはじめて日比谷であった晩、あなたの方からあたしに話しかけていらっしゃったわね。あなた、どうしてあたしをご存じだったの」 「ところが、僕にもそのわけがよくわからないんだよ。でも、美樹、そんなことどうでもいいじゃないか。それよりね、さっき黒岩に邪魔されたあのことね、ここで完成させちゃいけないかい。その方が皆さんお喜びになるよ」 「あら」  美樹は思わず顔をあからめて、 「いいわ。どうぞ、ご随意に」  と、いくらかくすぐったそうに言った。  それから三日ほど後のことである。  陽三と美樹ははればれとした顔で、銀座を歩いている。  尾張町の角まで来ると、今夜もまたあのトンガリ帽の男が立ってビラをくばっていた。  陽三はつかつかとその側へよると、二、三枚奪うようにビラを受け取ったが、おやというふうに顔をしかめた。 [#ここから2字下げ] 日比谷公園の入り口で、青い外套を着た女に会いたまえ。今宵の幸運が君を待つ [#ここで字下げ終わり]  あの時と同じ文句だった。 「ねえ、美樹」  陽三はそのビラを美樹に見せながら、 「あの晩、僕を日比谷に誘《おび》きよせたのは、このビラなんだよ。そして、あの時、君は青い外套を着ていたからね」 「まあ」  美樹は美しい目を見張って、 「これ、いったい、なんでしょう。ねえ、あなた、もう一度日比谷へ行ってみない」 「O・K」  そこで二人は銀座から日比谷の方へ歩いていったが、やがてその四つ角まで来た時、美樹がふいに大きな声を出して笑い出した。 「どうしたんだね、美樹」 「だって、だって、あなたあれをご覧になって」  美樹が指さしたところを見ると、ちょうど日比谷の入口と真向かいになっているところに、映画館があって、その映画館の正面に、大きさにして十丈ぐらいもあろうかと思われる、大きな人形の立看板が飾ってあった。  その人形はたしかに、青い外套を着た女の形をしていたが、その胸のところに、一字一字が方三尺もありそうな大きな文字で、   『青い外套を着た女』     大好評につき一週間日延べ  と、書いてあったのである。  美樹と陽三はそれを見ると、思わず顔を見合わせた。そして、それから爆発するような声をあげて笑うと、やがて二人は切符を買ってこの『青い外套を着た女』という映画を見るために、中へ入っていったのである。  何しろこの映画こそ、彼らにとっては縁結びの神だったのだから。 [#改ページ] [#見出し]  クリスマスの酒場     一 「やあ、クリスマスというのに、みんな、なんて不景気な面《つら》してるんだい」  すでに、かなり酒がはいっているらしいのである。  濁声《だみごえ》でそう叫びながら、重いドアを排《はい》して躍るようにこの薄暗い酒場へとびこんで来たのは、年のころ三十二、三、顔もからだも目も鼻も、赤ん坊のようにくりくりとして、ちょっと熟《う》れきった水蜜桃《すいみつとう》を思わせるような、そういう血色のいい男なのだ。 「おお、冷てえ。ひでえ雪だ。よく降りやがるな」  誰にともなくそういいながら、肩をすぼめて、地団駄《じだんだ》を踏むような格好で、外套《がいとう》につもった雪をバタバタと払いおとすと、 「おお、緒方《おがた》、いいから、ともかく入って来いよ。大丈夫だったら、もういっぱいここでやっていこう」  と、ドアの外に向かって叫ぶのである。 「ふむ、でも……」  と、ドアの外では煮《に》えきらない声で、 「もうあんまり時間がないぜ」 「大丈夫ったら、そうくよくよしなさんな、ちゃんとこの栗林《くりばやし》がついていらあ」  半びらきにしたドアの隙《すき》から、水蜜桃がそういう言葉の尾について、ストーブの側から立って来た縮《ちぢ》れっ毛の女が、 「お入りなさいな、緒方さん、そんなとこに立ってらしちゃ、お体の毒ですわ」 「おや、こん畜生」  水蜜桃は目をまるくして、 「こいつめ、こいつめ、いつの間に名前をおぼえやがった。油断《ゆだん》のならねえ女だ」 「ほほほほほ、いまあなたがおっしゃったじゃないの。こちらが緒方さんで、あなたが栗林さん、そしてあたしがお久美《くみ》ちゃん、ほほほほほ、わかって? さあ、ともかく緒方さん、こちらへお入んなさいよ。そう焦《じ》らすもんじゃないわよ」  緒方はしかたなく、苦笑しながら、まっしろにくるめく吹雪《ふぶき》の街路から、薄暗い土間のなかに入って来た。 「あらあら大変、じっとしてらっしゃいよ。ひどい雪ね、いったい、この雪のなかを、どこをうろついていらしたのよ」  お久美ちゃんに手伝ってもらって、雪を払いおとしながら、緒方ははじめて酒場のなかを見回した。  ほのぐらい間接照明、あまり広からぬ土間の中央には、樽《たる》型のストーブがかっかっと燃えていて、冷えきった街路から入って来ると、いちじに、ジーンと血が逆上しそうな暖かさ。なるほどさっき、栗林が不景気な面《つら》をしてるといったのも無理はない。土間の隅っこにただ一人、奇妙な仮面《かめん》——どうやらポパイの仮面らしい——をかぶった男が、混血児《あいのこ》まがいの女を相手に、しずかに酒を飲んでいるほかには、蜘蛛手《くもで》にはられた、銀いろのクリスマス・デコレーションも妙にわびしく、ストーブのそばで、ひとり所在なさそうに、カルタを切っている夜会服《イブニング》の女の耳輪が、ひそやかな光をはなって、さやさやと揺れているのも、なんとなく、哀れを誘うような風景なのである。  横浜の、波止場《はとば》にちかい、うらぶれた酒場だった。  緒方は白い手袋をとりながら、静かにこの酒場のなかを見回していたが、何を思ったのか、ふと、端麗《たんれい》なその面《おもて》を動かすと、いまさらのように、床、天井、壁紙と、いちいち子細らしくあらためながら、 「君、君」  と、お久美ちゃんを振り返って、 「この酒場、なんていうの?」  と、訊ねた。 「あら、心細いのね」  と、お久美ちゃんは横浜《はま》おんな特有の、大袈裟《おおげさ》な表情で、 「こちらは、ばあ・チンナモミ——よく憶えといて、これからはちょくちょく贔屓《ひいき》にしてちょうだい」  チンナモミ。——その奇妙な名は、緒方の胸を征箭《そや》のごとく貫いた。  彼は思わず、さっと顔色《がんしよく》あおざめたが、すぐ苦っぽろい微笑をうかべると、すでにテーブルについている栗林のそばに、つかつかと近づいて、 「栗林、そいじゃ僕もついでに、いっぱい飲んでいくよ」  吐きすてるようにいったその頬には、なにゆえか、燃えるような興奮が、白い皮膚《ひふ》の下に抑圧《よくあつ》されているのであった。     二 「ああ、飲みたまえとも。お久美ちゃん、あの時計は間違っちゃいないだろうね」 「ええ、合ってるつもりだけど、あなたの腕時計は何時?」  緒方は華奢《きやしや》な腕にはめた時計をすかすように見ながら、 「僕のは七時五十分。ああ、ありゃ五分ほど進んでるね」 「君、君、ここから波止場まで、自動車で十分もあればいけるねえ」 「あら、あなた、どっかへいらっしゃるの」 「ううん、俺はどこへもいきやしないがね、こっちが今夜、九時に出るT丸に乗るんだ。つまり、お別れのいっぱいというところだから、大いにサービスをよくして、さあさあ、酒を運んだり、運んだり」 「おっと承知、何がいいの、あなたはウイスキー、こちらは?」 「僕はシェリーかなにかくれたまえ、船に乗ってから苦しくなると困るから」  ちょっと燃えあがった興奮が、そのまま滓《おり》のように、腹のそこに沈んでしまった、妙にちぐはぐな、侘《わ》びしいような、腹立たしいような気持ちだった。緒方がそういうこじれた気持ちを持てあますようにいうのを、お久美は委細《いさい》構わず、ウイスキーとシェリーを、瓶ごとかかえて来ると、 「門出のお祝いだわ、さあ、陽気に騒ぎましょうよ」  二つのグラスにそれぞれ酒を注いでやりながら、 「行くさきはパリ? ロンドン?」 「まあ、そんなところさ」  栗林が代わってこたえた。 「わかった。パリでしょう? こちらは画家《えかき》さんね。そうでしょう」 「ふむ、その辺の見当でしょう」 「いいわね、クリスマスに船出するなんて。それにこの雪、ロマンチックね。あなた、おめでとう」 「ところがさにあらずさ。これでなかなか先生、おめでたくないんだよ」 「あら、どうして。こちら、勉強にいらっしゃるんでしょう。それがどうしておめでたくないのよ」 「勉強は勉強だがね、それは口実さ、じつはちと、この日本にいたたまれない節《ふし》がございましてね、それでつまり、草鞋《わらじ》をはこうて寸法さ」 「おい、栗林、つまらない話はよせ」  緒方が沈んだ調子でさえぎった。彼はまだ注がれたシェリーに口もつけていなかった。 「つまらない? 何がつまらない。それがつまらねえと思うんなら、くだらねえ洋行《ようこう》なんか止せ。ねえ、お久美ちゃんよ」  ストーブの暖かさに、カアーッと宵からの酔いが出たところへ、たてつづけに二、三杯、ウイスキーを咽喉《のど》へつぎこんだので、栗林は水蜜桃のような頬をいよいよてらてらと輝かせ、はっはっと、いかにも血圧の高そうな息遣いをしながら、 「お久美ちゃん、君、君イ、恋人を持ってるかい」 「ないわ、そんなもの」 「そんなものは情けない。そんなものはないでしょう。あるならあるとおっしゃい。あるでしょう。ねえ、なくても仮りにあるとしときなさいよ。でないと話がしにくいから」 「じゃ、あることにしとくわ、臨時に」 「臨時か。ははははは、臨時はよかった。臨時雇いの恋人か、エキストラ・ラバー、おい、緒方、できたぞ、できたぞ、うちの今度のオペレッタに、エキストラ・ラバーというのはどうだい」 「あら、こちら、レビューに関係してらっしゃるの」 「ほい、しまった」  栗林はあわてて、ウイスキーを吸いこみながら、 「あきれたね、すぐに地金を現わしやがる。これまったく商売熱心のしからしむるところ、治《ち》にいて乱《らん》を忘れずとはこのことさ。ありがたし、かたじけなし、ところでと、お久美ちゃん、いまなんの話をしていたっけ」 「あら、いやだ。あたしに恋人があったら、どういうことになるのよ」 「ああ、そのこと! そのこと! お久美ちゃんよ」  と、栗林はけろりとして、 「つまりだね、つまりその恋人を大事にしなさいということさ」 「なあんだ、つまらない」 「つまらない? つまらないとはなんだ。僕はいま、もっとも高遠なる、ええ——と、なあんだ、つまり、その女の道を説ききかせているんだぜ。つまらないとはなんだ。それは君が、女に裏切られた男というものを知らないからそんなことをいうのだ。そんなあさはかなことをね。お久美ちゃん、女に捨てられた男というやつが、どんなにみじめなものか、そのもっとも手近なモデルを君に見せてやろうか」 「おい、止せ、つまらない話はよせ」  緒方がとつぜん、青白い頬をふるわせながらさえぎった。 「それだ! その声だ、その顔だ! それがすなわち女に捨てられた……」 「ばか、止さないか!」 「ばか? そうさ、俺はどうせばかさ。だが手前《てめえ》はなんでえ。女に裏切られてよ、怨言《うらみごと》のひとこともいうことか、のめのめと指をくわえて、外国に逃げていきやがる。俺ア、情けなくて涙が出らア。なんでえ、なんでえ、その面《つら》ア、くやしかったらなぜ女を引っさらって来ねえ。なぜ、女を連れて外国へ逃げねえ」  どーんと、テーブルのうえに肘《ひじ》をついた拍子に、グラスが倒れて、ウイスキーがさっと膝のうえにこぼれた。 「あら、危いわ。いやね、こちら、酔っぱらって」  お久美が立って、栗林の膝をふこうとするのを、邪慳《じやけん》に振りはらって、 「いいよ、いいよ、構わねえで放っといてくれ。お久美ちゃん、まあ聞けよ。こいつを捨てた女というなア、今夜さる金持ちの茶瓶親爺《ちやびんおやじ》と、結婚式を挙げることになっているんだ。いまごろはさぞ、高砂《たかさご》やア——はて、洋式だから高砂やはねえかな、ま、どっちだっていいや。つまり、その、いまいましいホルモン爺《じじい》と偕老同穴《かいろうどうけつ》の契りをお結びあそばそうてんだ。そいつを日本にいて、見ちゃいられねえてんで、わざわざフランスくんだりまで草鞋《わらじ》をはこうという、かわいそうな失恋男、お久美ちゃん、参考までによく面を拝んでおきねえ」 「あら、ずいぶんおにぎやかなことねえ」  さっきから、ストーブのそばで、ひとりカルタを切っていた女が、その時とつぜん立ち上がると、蜥蜴《とかげ》の腹のようにさやさやと光る、イブニングの裾《すそ》をならしながら、三人のテーブルのほうにちかづいて来た。 「あたしも仲間に入れていただいていいでしょう。緒方さん、ずいぶんしばらくねえ」  女は牝鹿のようにすんなりとした足を組むと、栗林のシガレット・ケースから、遠慮なく、スリー・キャッスルを一本抜きとった。     三  そもそもこの緒方、栗林なる二人の人物を何者かというのに、彼らはともに、帝都のさるレビュー劇場の演出家で、今宵、緒方が遠く外国へ鹿島立とうというのを、横浜まで見送って来た親友の栗林が、しばしのお別れとばかり、緒方を引っ張ってクリスマスの街を飲み歩いているのであった。  緒方は親友のその厚情をうれしく思わないではなかった。しかし、今みたいに、いかに酒のうえとはいえ、彼がひそかに労《いた》わっている胸の傷を、無遠慮につつき回されると、思わずカアーッとするような腹立たしさを感じずにはいられなかった。  栗林がいった言葉はでたらめではない。緒方の外遊の動機の幾部分かが、胸にうけた痛手にあることは否《いな》めない事実だった。彼を裏切った女というのは、同じレビュー劇場に属しているスター女優のひとりで、二人のなかはずいぶん久しいものであったのに、突如、女のほうから裏切って、さる年配の実業家のもとへ走ってしまった。しかも、今宵がその結婚式の当夜なのである。緒方が一刻も早く、日本の土から離れたく思っているのも、無理ではなかったであろう。  彼はさっきから、眉をひそめて、何度舌打ちをしたかしれない。出帆の時刻は刻々として迫っているのに、栗林の毒舌はなかなかやみそうもない。腹立たしさと、焦立たしさに緒方はいっそ、この酔っぱらいを放っておいて、早く船へ帰ろうと、すでに腰をあげかけていた。  あのイブニングの女が彼らのなかへ割りこんで来たのは、ちょうどその時で、これがまた、心ならずも緒方の腰を落ち着けさせてしまったのである。 「おやおや、こいつはお安くねえぞ。緒方、君はこの美人を知ってるのかい」  緒方は思わず女の顔を見なおした。年はおそらく十九か二十であろう、こういう場所にいる女としては珍しく荒《すさ》んでいなかった。卵がたをした顔の色|艶《つや》もよく、眸といい唇といい、まだ健康のそうひどく毀《こわ》されていないことを示している。黄色っぽいイブニングといい、黄金の鈴のついた耳輪といい、とかくいや味になりがちなものだが、すらりと背の高いこの女には、それがいかにもよく似合っている。——しかし、緒方はどう考えても、この女を思い出すことができなかった。 「思い出せません?」  女は謎のような微笑をうかべながら、フーッと煙を吐き出して、 「無理ないかもしれないわね。もう随分ふるいことですもの。あれは、たしかあたしが十四の時でしたものね。でもね、緒方さん、あたし、あれからずうっとあなたをお待ちしてたの」 「おやおや、おい、緒方、こいつはいよいよただじゃすまねえぞ」 「黙ってらっしゃいよ、栗林さん、あんただって同類よ、あなたもその時一緒だったんだけど、あたしを憶えてらっしゃらないでしょう」 「はてね」 「失礼だが、君、なんて名なの」 「あたし? 黄枝《きえ》」 「黄枝さん? そうだね、栗林、君知ってるかい?」 「知らんよ、俺《わし》ゃ、残念だけどね」  栗林は吐き出すようにいった。  黄枝はふたたび謎のような微笑をうかべながら、 「あなたがた、この酒場《バア》へいらしたの、今夜はじめて? そうじゃないでしょう」 「はじめてだよ、僕ア」 「いいえ、そんなはずないわ。ねえ、緒方さん、あなた憶えてらっしゃるでしょう。五年まえの、そう、やっぱりクリスマスの晩だったわ。そして、今夜のように雪が降ってた。その時、やっぱりお二人でここへいらしたわ」 「そんなことがあったかなあ」 「栗林、ほら、佐伯《さえき》がフランスへいくので送って来たときだよ。僕はさっきから気がついていたんだ。しかし、黄枝さん、君はその時分からここにいたの」 「あら、かわいそうに」  黄枝は大袈裟に肩をゆすると、優しい目で緒方をにらむようにして、 「その時分あたし十四だったといったじゃないの。十四やそこらで、まさかちゃぶ[#「ちゃぶ」に傍点]屋勤めはないでしょう」 「ソ、そう、そう言えばそうだね。しかし、君はどうして僕を——?」  緒方は黄枝の口ぶりに、しだいに引きこまれていく自分をかんじた。 「あの晩、ここでちょっとした事件があったの、憶えてらっしゃいません?」 「僕は憶えとらんぞ。僕は——」 「あなたはだめよ、あなたはすっかり酔っぱらっていらしたんだもの。でも、緒方さん、あなた憶えていらっしゃるでしょう」 「はてね、どういうことだったか」  緒方はなぜか、じっと黄枝の眸のなかをのぞきこみながら、心の騒ぐふうでいった。 「まあ、情けないのね。これだけいっても思い出して下さらないの。ほら、ここでかわいそうな花売娘が、酔っぱらいのマドロスに殴《なぐ》られたのを。——そしてあなたが、その花売娘を救けて下すったじゃありませんか。あの時の花売娘がこのあたしよ」 「ば、ばかな?」  緒方がふいに、びっくりしたような大声をあげたので、さっきからひとり、隅のほうでちびりちびりとウイスキーをなめていた男が——あのポパイの仮面をかぶった男が——驚いたようにこちらを振りかえった、いやいや、驚いたのはポパイばかりじゃない。黄枝もお久美も、栗林でさえも、あまり激しい緒方の剣幕に、しばらく呆気《あつけ》にとられてポカンとしていた。 「いや、失敬しました」  緒方は気がつくと、きまり悪そうにシェリー盃《グラス》をなめながら、 「君があまりひどい冗談をいうもんだから」 「あら、冗談? まあひどい。じゃあなた、そんな憶えはないとおっしゃるんですの」 「いや、たしかにそういうことはあったよ。ここでかわいそうな花売娘が、酔っぱらいにとっつかまって、さんざんこづき回されているのを、見るに見かねて仲裁に入ったのを憶えている」 「でしょう」  黄枝は勝ち誇ったように、 「そればかりじゃないわ。あなたはその時、花売娘の花をみんな買ってやったうえに、帰りにはその少女の薄着をあわれんで、着ていたジャンパーを脱いで、花売娘に着せておやりになったわ。あたしが——あたしがその時の花売娘よ」 「ほ、ほんとうですか」  じっと黄枝の目のなかをのぞきこんでいた緒方の眸《ひとみ》には、その時、一種不可思議な表情が動いていた。 「おわかりにならないのも無理はないわね、あの時分から見ると、あたし、ずいぶん変わったんですもの。でもね、緒方さん」  黄枝はにわかに語気を強めると、 「あの時から、あたしズーッとあなたをお待ちしていたのよ。あたしがこんなところに勤めているのも、いつかはあなたにおめにかかれる日があるにちがいないと思ったからなの。だって、あたし今夜まで、あなたのお名前もご身分も知らなかったんですもの」  黄枝は目をふせると、紅々《あかあか》と燃えあがっているストーブを見た。それから、泪《なみだ》ぐんだ目をつとあげると、 「あたし、毎日毎日、カルタの人待ちをしてあなたをお待ちしていたわ。そして、今夜——」  黄枝はつと両手をあげると、あっという間もない、緒方の顔を両手にはさんで、稲妻のようにすばやい接吻《せつぷん》をあたえた。 「さあ、これであの時のお礼はすんだわ」  黄枝はガッカリとしたように、腰をおとしたが、にわかにまたシャンと立ち直ると、 「だけど緒方さん、ほんとうをいうと、あたしがこんなにあなたをお待ちしていたのは、お礼をいいたかったばかりじゃないの。恩は恩、怨《うら》みは怨みよ。ほんとうはあたし、あなたに深いふかい怨みがあるのよ」  黄枝はそういうと、細い銀の鎖で頸《くび》にかけていた黄金の小金盒《ロケツト》をイブニングの胸の下から取り出すと、 「緒方さん、あなたこれに見憶えがあって?」  そういった黄枝の眸《ひとみ》は、烈々《れつれつ》と燃えていて、その言葉は火箭《ひや》のように鋭いのだ。     四  一瞬間、黄枝の気魄《きはく》にみんなは圧倒されたかたちだった。栗林さえ、冗談をやめてこのなりゆきをながめていた。  緒方は驚くというよりも、むしろ好奇心にかられた面持ちで、黄枝の掌にのっている楕円型のロケットに目を見張った。すべすべとした黄金の肌に、細かい勿忘草《わすれなぐさ》の彫があって、相当の品物であることは、ひとめでそれと知れるのである。 「いいや、そんな物、憶えがないね」 「憶えがないとは言わせませんわ。これ、あなたの恵んで下すった、あのジャンパーのポケットの中にあったのよ」 「ほほう、それで?」  緒方はすっかり度胸をさだめてしまったらしい。何をこの女が言い出すか、むしろ楽しむような口ぶりでさえあった。  黄枝は躍起となって、 「いいえ、このロケットばかりじゃないの。あのポケットのなかには、女持ちのハンドバッグが入っていたのよ。鞄のなかには、指輪だの、襟飾《ブローチ》だの、金目のものがいっぱい入ってた。そして、それがあたしたちの一家を破滅させてしまったのです」  黄枝はぽっと瞼際《まぶたぎわ》を染《そ》めると、挑《いど》みかかるような早口で、 「あたし、そのハンドバッグを見ると、すぐ警察へとどけなければならぬと思ったんです。だけど、そのまえに一応父に見せました。それがいけなかったんですわ。父はそんなもの、届けるに及ばないといって、そして、その翌日、中にあった襟飾《ブローチ》を売りにいったんです。父はそのまま帰って来ませんでした。捕らえられて監獄へぶち込まれてしまったんです。あたし、その時分、まだ小さくてよく事情がわからなかったけれど、なんでもそのハンドバッグは、あのクリスマスの朝、横浜駅でさる貴夫人が掏摸《すり》に掏《す》られたものだとかいう話、あたしたちがどんなに弁解したってはじまりやしませんわ。事実、その頃父は、そんなことをやりかねまじい程、困窮していたんですもの」  黄枝は急に泪《なみだ》ぐんだ目を、緒方のほうに向けると、溜息をつくように、 「父は監獄のなかで死にました。おわかりになって? その時ハンドバッグは警察の手から、その持ち主に返されたのですけれど、あとになって調べて見ると、このロケットがひとつだけ家のなかに残っていたんです。あたし、わざとこれだけは警察へ持っていきませんでした。そして、こうして肌身離さず持っているというのも、つまりはもう一度あなたに会って、お怨《うら》みがいいたかったからなんです。緒方さん」  黄枝はそこでじっと緒方の目を見ると、 「あたし、今日までどんな複雑な気持ちで、あなたをお待ちしていたでしょう、あの時のあなたのご親切を考えると、あたし胸のなかが熱くなるの、それでいてあなたは、あたしにとって父の敵《かたき》なんです。あんな親切な様子をしていて、あの人は掏摸の仲間なんだろうか。——いやいや、そんなばかなことが——と、あたしどんなに苦しんできたでしょう。でも、今夜おあいしてすっかりその疑いは晴れたわ。あなたは掏摸なんかなさるお人じゃない。だから緒方さん、あたしが今お伺いしたいのは、誰があなたに、そのハンドバッグを渡したのか、あたしそれが聞きたいのです。その人こそ、父の敵なんですもの」  のしかかってくるような黄枝の勢いに、気をのまれたように、緒方はパチパチと瞬《まばた》きをしながら目を反《そ》らすと、かたわらにいる栗林の方を振りかえった。栗林は平然として、相変わらずグラスの縁をなめている。  それを見ると、緒方はふと奇妙な微笑をうかべ、さて改めて黄枝のほうを向き直ると、何かいいかけたが、その時、ふいに彼の言葉をさえぎったものがある。 「あ、それはこの方を責めても無理だよ、黄枝さん、こちらは何もご存じなかったのだから」  隅のほうからふらふらと立ち上がってやって来たのは、さっきからひとりで酒を飲んでいた男。——ポパイの仮面をかぶった男。     五 「いや、失敬失敬、話の腰をおってすまないが、私もまんざら、この事件に関係はないことはない。黄枝さん、私にひとつ話しさせておくれ」  かなり酩酊《めいてい》しているらしい、ポパイはどーんと音を立てて、黄枝とお久美の間に割りこむと、仮面もとらずに、そういってぐるりと一同を見渡した。  緒方はしだいに焦々《いらいら》としてくる。出帆の時刻はだんだん迫ってくるのだ。しかし、まさかこの仮面劇を捨ておいて、外へとび出すわけにもいかないし、それに、この劇《ドラマ》の進行に対して彼は好奇心を抱いていないでもなかった。  栗林の方を見ると、彼は悠然《ゆうぜん》として、いかにもおもしろそうに、意外なこの発展を見守っている。緒方はちょっと時計に目をやったが、そのまま、ふたたび腰をすえてしまった。 「黄枝さん、なるほどお前さんがこちら——緒方さんといったかな——この人を怨むのも無理はない。しかしなあ、黄枝さん、こちらにゃ少しも罪はない。というのは、緒方さんがお前さんにジャンパーを恵んで下すった時には、こちら、そんな空恐ろしいものが、ポケットの中にあろうなんて、夢にもご存じなかったんだよ」 「どうして、あなたに、そんなことがおわかりですの」  黄枝が冷たい、厳《きび》しい調子でいった。ちょっと反噬《はんぜい》するような調子だった。 「というのはな、俺はこの方のポケットの中に、そっとあのハンドバッグを忍ばせた男を知っているからだ。とんでもない、こう言ったからって、俺ゃけっして掏摸の仲間なんかじゃないぜ。いや、むしろ俺ゃその被害者なんだ」 「え?」 「黄枝さん、お前いま、あのハンドバッグは横浜駅でさる夫人から掏られたものだといったね、その夫人というのがつまり俺の女房なんだよ」  一同は思わずあっと呼吸《いき》をのんだ。あまりといえばあまり意外な邂逅《かいこう》だったからである。それにしても、これは果たして偶然なのだろうか。いやいや、偶然と見ゆるこの出来事の裏に、何かしら重大な意味があるのじゃなかろうか。  と、果たして、ポパイ紳士は、 「こういうと、話があまりうまくできているのに驚くだろう。いや、疑うかもしれんな。しかしな黄枝さん、俺が今夜、ここに居合わせたというのはけっして偶然じゃないのだ。なぜって、俺は、今夜のこの邂逅を待ちかねて、毎晩のようにこの酒場に足を運んでいたんだから」 「言ってちょうだい。あなたは一体なにが目的なんですの。そしてあたしたちにどういうご用がございますの」 「黄枝さん」  ポパイはふいと、仮面の奥から沈んだ声でいった。 「俺の用事というのはね、お前のよりもっともっと重大なんだ。俺の用事というのは、じつに人殺しに関係しているんだよ」  あっと一同が驚くのを尻目《しりめ》にかけて、紳士はぐいと仮面のままウイスキーをあおると、 「話そう、何もかも話してしまおう。そうすればここにいる人たちが、いつの間にやら、世にも不思議な因縁の糸でつながれているのがわかるだろう」  紳士はほっと吐息《といき》をつくと、 「あのハンドバッグが女房のものであることはさっきもいった。そして、そのハンドバッグが無事に女房の手に戻ったことは、黄枝さん、さっきお前がいったとおりだ。ただ、ひとつ、そのロケットを除いてはね。その時分、俺たち夫婦も、すでにロケットが紛失している事に気づいていたんだが、女房は女房で、ある理由から、強いてそれを探そうともしなかったし、俺も大して気にとめなかった。そのロケットが後日あんな重大な意味を持ってくるとは、その時、夢にも知らなかったからね。 「ところで諸君、この俺をいったい幾つだと思いますね。俺はこれで、今年五十二になる。だからその時分、四十七だったわけだ。そして俺のかわいい女房ときたら、その時分やっと二十三にしかならなかったんです。当然俺は女房の素行に対して、どんなに心を苦しめなければならなかったかしれない。女房は派手好きな、そしていつも周囲に若い男の取り巻きをおいては喜んでいるというふうだったからな。俺はその取り巻きの一人が、たしかに女房とある埒《らち》を踏みこえていることを知っていた。しかし、残念なことに、それが数人の男のうちの誰だかわからないんだ。 「ある晩、俺は商用で大阪へいくと称して家を出ると、その真夜中、そっと引き返して来たんだ。と、どうだろう、女房が朱に染まって殺されているじゃないか。いやいや、女房はまだ死にきっちゃいなかったんです。俺が抱き起こしてやると、 『堪忍《かんにん》して、堪忍して、あたしあいつにだまされていたの。堪忍して』  喘《あえ》ぎ喘ぎ、そういうんです。 『誰だ、誰がこんなことをしたんだ』  俺はききました、すると、女房はしばらく黙っていましたが、やがて、最後の力を振りしぼって、 『あのロケットに——あのロケットの中にあいつの写真が。——』  それが女房の最後の言葉でした。女房はそれきり、がっくりとこときれてしまったんです。  さあ、黄枝さん、それでそのロケットがどんなに重大なものになってきたか、あんたにもわかったろう。黄枝さん、お前さんはもう忘れたかもしれないが、その当座、俺は二、三度お前さんのところへ出向いて、ロケットのことを尋ねたはずだね」 「あ」  黄枝は驚いて口に手を当てる。ポパイはじろりとそれを尻目にかけながら、 「お前はその時、あくまで知らぬ存ぜぬで、ロケットのことを俺にいってくれなんだ。俺はしかたなしに、今度はあのハンドバッグを掏りとった掏摸を探し出した。こいつはすぐ見つかったが、しかし、その男もロケットのことを知らぬという。そういう物があったかどうか知らぬが、ともかく、あのハンドバッグなら、この酒場のなかで、さる客のポケットへねじこんだという話だ。なんでもあの晩、ここへ顔見知りの刑事が入りこんでいたので、危いと思って、とっさの間に、隣の人のジャンパーに押しこんだのだそうだ。 「さて、その掏摸も知らねば、黄枝さん、お前も知らぬという以上、ロケットはその客が持っているとしか思えない。しかし、その客を俺がどうして探せよう。掏摸もおまえも、その客人を知らないのだから。ところが、そうしているうちに、俺はふと、黄枝さん、お前がこの酒場に勤め出したことを知った。すると俺にはちゃんとお前の目的がわかったのだ。お前もあの客を探しているのだ。だからお前を監視していれば、いつかはきっとその客にあえる。——そう思って黄枝さん、俺は年甲斐もなく毎夜のようにこの酒場に足を運んでいたんだ。おい、黄枝さん、今こそ、俺は憎い女房の敵を知ることができる」  突然、ポパイが手を伸ばしてそのロケットを取りあげた。震える手で、パチッとそれを開いた。息づまるような興奮のひととき。——  が、その瞬間、とつぜん緒方がすっくと椅子から立ち上がると、 「おい栗林、もういいかげんにしたらどうだ。いったいこのお茶番はどういう意味なんだ」  と、にべもなく言い放ったのである。     六 「あ」  瞬間、ポパイも黄枝も栗林も、呼吸をつめて、緒方の顔を振り仰いだ。あおざめた緒方の面《おもて》には、憤《いきどお》りと軽蔑《けいべつ》が複雑なかげを作って、冷たく微笑《わら》っている。  しばらく、栗林と黄枝とポパイとは、じっと目を見交わしていたが、 「ははははは!」  突然、栗林が腹をかかえて哄笑《こうしよう》すると、それにつれて、今まで熱演していたポパイも、思わずプッと噴き出してしまった。 「だめじゃないの。笑っちまっちゃ。あああ、折角のお芝居もすっかり尻が割れちゃった」  黄枝がガッカリしたように言う。 「いいよ、いいよ、大成功だよ。緒方、ともかく、もう一度掛けたまえ」 「いいや、まっぴらだ。すぐ出かけなきゃ時間がない」 「時間はもうとっくになくなってるぜ」 「緒方、さっきホテルで飯を食う時、僕はちょっと君の時計を借りたね。あの時、少し針をあとへ戻しておいたんだ。ここの時計かね、ありゃもう、はじめから黄枝君がおくらせておいてくれたんだ。つまり今の狂言はね、君にその時間の誤差《ごさ》を気づかれないために、書いたお茶番さ。T丸はとっくに出帆してしまってるぜ」 「栗林!」  緒方の顔がさっと紫色になった。思わず拳を固めてつめ寄ろうとするのを、 「おっと、待った、待った。なるほど君を欺《あざむ》いて、船に乗りおくらせたのは僕が悪い、しかし憤るなら、まあちょっと、うしろを見てからにしてもらいたいね」  緒方はその言葉にふとうしろを振りかえったが、そのとたん、まるで幽霊をでも見たように、たじたじと二、三歩うしろへよろめいた。 「藍《らん》子!」  目に泪をいっぱいたたえて、酒場の入口に立っているのは、まごうべくもない、彼を裏切って、今宵、他の男と結婚するはずの鮎川藍子。緒方は夢かとばかり、 「君は——君は——」 「堪忍して、堪忍して、あたし昨日はじめて栗林さんに聞いたの。あたし誤解してたのだわ。あなたに捨てられたと思って、自暴自棄《やけくそ》になってあんな男と結婚しようとしたの。さあ行きましょう、急がなきゃ時間がないわ」 「行くってどこへ行くんだ」  緒方はまるで夢を見ているような声だった。 「T丸で、あたしも一緒にフランスへいくの。見てちょうだい」  外套のまえを外すと、藍子はその下から純白の結婚衣装をちらとのぞかせて、 「この衣装は、あの男のためじゃないの、あなたのために着て来たのよ。さあ、パリへ新婚旅行をするのよ」 「だって、だって、船は——船は——」 「緒方君、安心したまえ、君の時計は間違っちゃいないんだ。大丈夫、まだ十分間にあうよ。はははは、かえすがえすも君をだましてすまないが、なにしろ藍子君がね、あたしのいくまで、どんなことをしても君を船に乗らさないでくれと頼むもんだから、ああいうお茶番で、今まで君を引きとめておいたんだよ」 「栗林!」  緒方は思わず咽喉《のど》がつまったように、 「ありがとう。それから黄枝さん、ポパイ君、ありがとう、ありがとう。お礼はいずれパリから」 「よし、話がわかったら諸君、この幸福な一対のために乾盃しようじゃないか」  乾盃がすむと、緒方と藍子は手を取り合って、大急ぎで酒場の外へとび出していった。折からますます吹きつのってくる吹雪の中に、藍子の乗って来た大きなパッカードが待っていた。二人がそれに乗りこんだ時である。 「あ、ちょっと待って!」  黄枝がそばへ走り寄ると、 「緒方さん、あたし一つ聞きたいことがあるの」 「なんですか」 「あたし、ずいぶんうまく芝居をしたつもりなのに、どうしてあなた、あの話が嘘だとおわかりになったの?」  それを聞いたとたん、緒方は思わず意味ふかい微笑を唇のはしにうかべた。 「黄枝さん、あなたのお芝居は満点でした。それからポパイ氏も。——だけど、あの狂言には根本的に誤謬《ごびゆう》があったんです」 「はてね、それは作者として聞き捨てならんね」  乗り出して来た栗林を振り返って、 「栗林、君はあの花売娘がその後、どうなったかよく調べなかったんだろう。あのかわいい花売娘というのは」  と、緒方はにこやかに微笑っている藍子を抱きよせると、 「ほら、ここにいるよ」 「こん畜生!」  とたんに、自動車は警笛《サイレン》を鳴らして、吹雪の中を、波止場へ向かってまっしぐらに、——どこかの空で、赤いネオンの横文字が、降りしきる雪のなかに、まるでシグナルのように楽しく明滅している。  Merry Christmas—— [#改ページ] [#見出し]  木乃伊《ミイラ》の花嫁    木乃伊《ミイラ》の口紅  大学教授、鮎沢《あゆさわ》医学博士の令嬢|京子《きようこ》と、博士の愛弟子《まなでし》である鷲尾《わしお》医学士の結婚式は、十月のある黄道吉日《こうどうきちじつ》を選んでとり行なわれることになっていた。  京子は博士の一人娘なのだ。したがってこの縁組は京子が鷲尾医学士のもとへ輿入《こしい》れするのではなくて、鷲尾医学士のほうから、婿養子《むこようし》として鮎沢家へ入籍するのである。  時節柄、式はできるだけ簡単に挙げることになっていた。式場なども博士の主張によって、紀尾井町《きおいちよう》にある博士の邸宅があてられ、ごく内輪《うちわ》の者だけが、その席に連なることになっていた。  このように万事簡単に簡単にと心掛けたのには、前にも言ったとおり、時節柄のせいもあったが、ほんとうをいうと、それはただ表向きだけのこと、裏面にはある複雑な事情が伏在していたのだ。そしてそのことが間もなく、このめでたかるべき式典を、世にも恐ろしい破局に導いていったのである。  その夜、花嫁の介添《かいぞえ》に頼まれた玉城《たましろ》夫人が、後になって人に話したところによると、この結婚式には最初から、なんともいえぬほど妙な出来事がつきまとっていたというのだ。  まず最初にこんなことがあった。  結婚式は父なる鮎沢博士の意見によって、純日本式に行なわれることになっていたのだが、その花嫁の着用すべき白無垢《しろむく》の晴衣が、袖《そで》の部分だけすっかり糸を抜かれて、ボロボロになっていたのである。玉城夫人によってこれが発見されたのは夕方の四時頃のことだった。  式はだいたい、八時に挙げられることになっている。  だからこれを発見した玉城夫人が、誰にも内緒《ないしよ》で、そっとその繕《つくろ》いをするのには、大変な苦労をしなければならなかった。ところがその繕いもやっと終わって、やれひと安心とばかり、今度は花嫁の頭飾を出して見たところが、これはまたどうしたというのだ、どの櫛《くし》も、どの簪《かんざし》も、全部根元から真二つに折れていたではないか。 「まあ!」  ここに至ってさすが気丈《きじよう》な玉城夫人もあいた口がふさがらなかった。かえすがえすのこの変事に、夫人はたとえようもないほどの気味悪さを感じたということである。 「あれまあお気の毒な! この婚礼には何かしらよほど恐ろしい呪《のろ》いがかかっているのだわ。こんな忌《いま》わしい前兆《ぜんちよう》のあった婚礼で、末始終うまくいった例《ためし》なんかありゃしない」  夫人は思わず身を慄《ふる》わせて、そう独語《ひとりごと》を洩《も》らしたというのだが、後になってわかったところによると、こういう変事のあったのは、花嫁のほうばかりではなかった。当夜の花婿《はなむこ》たるべき鷲尾医学士には、それよりももっと妙なことがあったのだ。 「先生、先生にちょっと内緒でお話ししたいことがあるのですが」  と、思い迫った鷲尾医学士の面持《おもも》ちに、 「どうしたのだね、鷲尾君、ひどく顔色が悪いが、何か変わったことでもあったのかね」  と、日頃の温顔に、一抹《いちまつ》の不安と懸念《けねん》の表情《いろ》をうかべて、この愛弟子の顔を凝視したのは鮎沢博士。小鬢《こびん》に少し霜をおいて、澄みきった双眸《そうぼう》はいかにも名利《めいり》に恬淡《てんたん》とした学者らしく、美しく冴《さ》えていた。  挙式をあと半時間の後にひかえた、華《はな》やかにもあわただしい博士邸の、奥まったひと間なのだ。黒紋付《くろもんつき》の正服を着て、端然《たんぜん》と向かいあったこの師弟のあいだには、しかし、間もなく一生の盛時をむかえる人間とも思えないほど、妙に切迫した空気がわだかまっていた。 「先生、また例の手紙がやって来たのですよ」  折目正しい袴《はかま》の膝《ひざ》を、そっと畳《たたみ》のうえに滑らせるようにしながら、鷲尾医学士は声を落としてささやいた。 「今日。——しかもたった今家を出がけに」 「ふむ」  博士は思わず髭《ひげ》をかむような唸り声をあげた。それから額に八の字を刻みながら庭のほうへ目をやると、吐き出すようにいった。 「緒方《おがた》からだね」 「そうなんです。それに今日は手紙と一緒に妙なものを送って来たんですよ」  言いながら、黒紋付の懐中《ふところ》から取り出した二品《ふたしな》を、しかし博士はすぐには手が出せないといったかおつきでながめている。できることなら読まずにおきたいといった表情《かおいろ》なのだ。 「ご覧になりますか」 「よし、読んでみよう」  博士は決然として、くわえていた煙草を灰皿《はいざら》に投げすてると、鷲尾医学士が封筒のなかから抜きとった一枚の紙片を手にとって、そのうえに目をおとした。 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]   鷲尾君、   思いかなっていよいよ今宵晴れの祝言というわけだね。おめでとうといいたいが、どっこいそうはまいらぬ。   鷲尾君、   これが最後の警告だ。悪いことは言わぬ、この結婚は取り罷《や》めにしたまえ。でないととんでもないことが起こるぞ。京子さんは誰も手を触れてはならぬ神聖な木乃伊《ミイラ》の花嫁だ。これを冒涜《ぼうとく》する者には、神罰たちどころに至ると知るべし。 [#ここで字下げ終わり] [#地付き]あなかしこ    読み終わった博士の眉間に、さっと黒い稲妻がひらめいた。しかし、博士は強《し》いてそれをおさえつけるように、 「署名がないね」 「署名はなくても、その筆跡は緒方君にちがいありませんよ」 「ふむ。それで妙なものを送って来たというのは?」 「これなんです」  それまで掌《て》のなかにおさえていたものを、鷲尾医学士が取り出して見せた時、さすが冷静な鮎沢博士も、思わず、 「ほほう」  と、目をすぼめてしまった。  それは世にも奇妙な紙人形だった。大きさにして二、三寸もあったろうか、紙でこさえた花嫁衣装に角かくしをした人形なのだが、その顔は真黒に墨《すみ》で塗りつぶしてあった。しかもその色が紙を丸めてこさえた顔の、無数の皺《しわ》と対応して、さながら木乃伊のように見えるのだ。しかも、その木乃伊の唇《くちびる》には、まっかに朱で口紅がさしてあった。  それはじつに拙《つたな》い、滑稽《こつけい》なほど稚拙《ちせつ》な素人細工《しろうとざいく》なのだ。しかし、この場合、その出来が拙ければ拙いほど、一層、へんてこな現実感をもって、ひしひしと見る者の身にせまってくる。 「畜生!」  博士は思わず拳《こぶし》を握りしめた。 「失敬な奴だ。そうすると緒方の奴、あくまでこの結婚を妨害しようというのだな。あの人非人《にんぴにん》、恩知らずめ!」  さすが温厚な博士も、この性質《たち》の悪いいたずらは、よほど腹にすえかねたらしい、その時さっと激昂のいろが頬にのぼるのが見えたのである。    したたる血潮  さてここで話をできるだけわかりよくするために、一体緒方とはいかなる人物か、そのことを簡単に述べておこうと思うのだ。  医学士緒方|代助《だいすけ》というのは、鷲尾医学士とともに、博士が目に入れても痛くないほどかわいがっていた秘蔵弟子だった。幼い頃、両親に死別し、孤児になったのを引きとって、中学から大学まで出してやり、学校を出てからも引きつづき自分の研究室の助手として、なにかと面倒を見てやったのは、ほかならぬ鮎沢博士だった。いわば緒方代助は博士にとって子飼いの弟子なのだ。  良家《りようか》にそだって、どこかお坊っちゃんらしく鷹揚《おうよう》な鷲尾医学士とちがって、代助のほうは一種天才的ともいうべき鋭さと奔放《ほんぽう》さがあり、どうかすると気違いじみた行動さえあったが、それはそれで博士にとってはまたとなくたのもしく思われ、また鷲尾医学士にとっても畏敬《いけい》の的となっていた。  実際代助は博士にとって最も忠実な助手であると同時に、鷲尾医学士とは心のそこまで許しあった親友だった。少なくとも京子がフランスから帰って来るまでは。  ところが間もなく事態は一変してしまった。彼らのあいだへ、花のように美しい京子が、十年ぶりでフランスから帰って来たのだ。まるで嫉妬《しつと》ぶかい女神《めがみ》が投げつけた不和の林檎《りんご》のように。  そこでどんなことが起こったか、いまさらくだくだしく述べるまでもあるまい。京子をめぐってふたりの親友のあいだには、激烈な競争がおこった。恋ほど人の心を物狂おしくするものはない。親友変じてたちまち深讐綿々《しんしゆうめんめん》たる仇敵《きゆうてき》と化したのだ。  それこそ血みどろの競争なのだ。そういう競争が六ヵ月ほど続いているうちに、京子の心はしだいに鷲尾医学士のほうへ傾いていった。つまり代助は敗れたのだ。それと見るや代助は、ある日物狂おしい手紙を残したまま、忽然《こつぜん》として姿をくらましてしまったのである。今から三ヵ月ほどまえのことだった。  一時は気が狂った揚句《あげく》、自殺でもするのではなかろうかと、鮎沢博士も鷲尾医学士もともに心配して百方手をつくして捜索してみたが、代助の行方は皆目わからなかった。  ところがそういうある日、突然一通の脅迫状《きようはくじよう》めいた手紙が鷲尾医学士のもとへ舞いこんだ。名前は書いてなかったけれど、明らかに緒方代助からなのだ。  文面は京子さんとの結婚を断念しなければ、必ずよくないことが起こるぞというようなことが、いかにも気違いじみた調子で、執念ぶかく綿々と書きつらねてあるのだ。 「ばかな、あいつよっぽどどうかしているな」  鷲尾医学士も始めのうちは一笑に付していたが、脅迫状はそれから後、頻々《ひんぴん》として舞いこんでくる。ある時は嘆願するような調子で、またある時は威嚇《いかく》するような調子で、そうかと思うと、気違いじみた罵詈雑言《ばりぞうごん》をならべて来ることもある。  さすが温厚な鷲尾医学士もあまりの執念深さに、つい腹にすえかねてこれらの手紙を鮎沢博士に見せた。そしてそれがすっかり博士を憤《おこ》らせてしまったのである。  それまで内々不幸な弟子のこころを思いやり、鷲尾医学士と京子との結婚に承諾をあたえることを躊躇《ちゆうちよ》していた博士も、これですっかり腹がきまってしまったのだ。緒方代助に対する当てつけの意味もあって、急に結婚の日取りを早めさえしたのである。  こういういきさつがあった折からだけに、いまこの奇妙な手紙と人形を見せられて、博士がさっと憤《いきどお》りに頬をふるわせたのも無理ではなかったのだ。 「あいつ、ぎりぎりの土壇場までわれわれを脅迫するつもりだな。鷲尾君、それで君はいったいどういうつもりだ」 「どうといって」  と、鷲尾医学士は秀才らしい端麗《たんれい》な面《おもて》を、こころもち曇らせながら、 「何しろあまり執念ぶかいものですから、私もいくらか不安になってきたのです。いや、自分の身は構いませんが、先生や京子さんの身に、もしものことがあってはと……」  言わせもおかず博士は激した調子で、 「ばかな、なんのことがあるものか。なに、こけおどしさ、あいつに何ができるものか。どんなことがあろうとも、君は俺《わし》の婿だ。そのことはよくわかっているだろうね」 「は、先生にそうおっしゃっていただくと、私もこんなうれしいことはありません」 「よしよし、それじゃ万事|俺《わし》にまかせておきたまえ。さあ、そろそろ式がはじまる時分だから、君も支度をしなくちゃ」  と、言いかけたが、ふと気味の悪いあの花嫁木乃伊を見ると、思わず眉をひそめて、 「あ、君、この人形を保管しておきたまえ、後日また、何かの役に立つかも知れないからね」 「は」  鷲尾医学士は博士のこころを計りかねたように、しばらくその気味の悪い人形を見つめていたが、やがてしかたなさそうに、薄らさむい微笑をうかべながらそれを受け取ると、大事そうに懐中《ふところ》へしまいこんだのである。  あの恐ろしい祝言の式がはじまったのは、それから間もなくのことだった。  あとから思えばそれはじつに妙な空気だった。  今宵を晴れと着飾った花嫁の京子は、白|無垢《むく》の裲襠《うちかけ》も気高く、端麗な花婿と向かいあったところは、じつに似合いの一対と思われたが、それでいて二人とも妙に落ち着かぬ、不安な影をどこやらに宿しているのだ。花嫁の父たる博士も、花嫁の付き添いの玉城夫人も、どうかするとハッとしたように、おびえたような目を見交わす。思いなしか銀燭《ぎんしよく》まばゆく照り映える金屏風《きんびようぶ》のうえにさえ、何かしら一抹《いちまつ》の暗雲がたゆとうているかのごとく見えるのだ。  と、この時つと、銀の提子《ひさげ》を捧げた雄蝶雌蝶《おちようめちよう》が、しとやかな摺《す》り足《あし》で現われた。白木の三方がまず花嫁のまえに捧げられる。京子は静かにその杯をとりあげた。  と、この時である。  玉城夫人がふいにあっと低い叫び声をあげたのだ。見よ、穢《けが》れに染まじと洗いあげた花嫁の純白の裲襠のうえに、その時、滴々《てきてき》として赤い血潮がしたたってきたではないか。 「あっ!」  座に連なるほどの人々の目は、一様に花嫁のうえに注がれる。したたる血潮はいよいよその勢いを増し、花嫁の裲襠から角隠しから、さらにまた、背に負うた金屏風のうえにさえ、やがて真紅《まつか》な滝となって降りそそいで来たのだ。 「あ、あれ、あの天井《てんじよう》に!」  雌蝶の声にはっとしてうえを見れば、こはいかに、花嫁のまうえなる天井の檜板《ひのきいた》に、その時血潮の汚点《しみ》が雲のようにひろがっていくのが見えたのである。 「わっ!」  人々が思わず総立ちになった時、花嫁の白魚《しらうお》の指から、ポロリ、杯が転がった。哀れ京子はそのまま「ううむ」とばかりのけぞってしまったのである。    屋根裏の鬼 「よし、私が見てきましょう」  一瞬の驚きから覚めた鷲尾医学士が、決然として立ち上がるのを、 「待ちたまえ、君は今夜の花婿だ。よろしい、よろしい、俺《わし》がちょっと見てくる」  制しておいて鮎沢博士、袴《はかま》の裾《すそ》を踏みしだいて、あわただしく座敷を出ていったが、しばらくすると、ゴトゴトと天井裏を踏みならす音、つづいてあっという低い叫び声が、座敷にいる人々の耳にきこえてきた。 「先生、先生、どうかしましたか」 「あ、鷲尾君、すまないが君、懐中電灯を持ってきてくれないか。何しろ、これは……」  さすが冷静な博士もよほど動顛《どうてん》しているらしい。語尾がかすかにふるえていた。 「は、承知しました」  女中から懐中電灯を借りた鷲尾医学士が、次の間の押入から天井裏へのぼってゆくと向こうのほうに鮎沢博士がうずくまっているのが見えた。天井裏は灰汁洗《あくあら》いをしたばかりと見え、わりに綺麗《きれい》なのだ。下の座敷から逆にさしてくる光線が、幾筋もの銀の箭《や》をつくって、そこはまるで夢の王国のような、気味の悪い秘密境だった。 「せ、先生、どうかしましたか」  懐中電灯をかざしながら、はいよっていった鷲尾医学士が、ふるえ声でそう尋ねると、 「鷲尾君、これを見たまえ」  振りかえった博士の顔は、光線のかげんか、頬がいやにでこぼことして、まるで悪鬼のように見えた。その顔から、視線をふとかたわらに落とした鷲尾医学士、そのとたん、思わずあっとばかりに呼吸をのみこんだ。  人が倒れているのだ。いや、おそらく死んでいるのであろう、全身を海老《えび》のように硬直させて、霜降りのズボンをはいた二本の脚が、針金のようにピンと彎曲《わんきよく》していた。 「だ、誰です。ま、まさか緒方君じゃ……」 「わからない。見たまえ、今|頸動脈《けいどうみやく》をかききったばかりらしいが、もうとても助かるまいな。どれ、顔を見るから、懐中電灯をもっとこちらへよこしたまえ」  いいながら、博士が俯向《うつむ》けになっていたその死体を、ごろりと横にころがした、その顔へ、さっと懐中電灯の光を浴びせかけたとたん、 「や、や、これは!」  さすがの二人も思わず声を立てて、二、三寸うしろへたじろいだのである。  ああ、なんということだ。その顔はまるで熟柿《じゆくし》の皮をむいたように、目も鼻もとけて流れて、一面にぶよぶよとした赤黒い肉塊、その中に、唇のない歯茎《はぐき》だけが、真白にニューッと突き出しているその恐ろしさ。  まるで鬼だった。いやいや、血の池地獄にのたうち回る亡者《もうじや》だった。  鷲尾医学士は思わずツーッと、全身に鳥肌の立つような恐ろしさをかんじたのである。  さあ、それから後の騒ぎは、いまさらここに申すまでもあるまい。  もはや祝言どころの騒ぎではなかった。報告《しらせ》によってただちに警官が来る、刑事が来る、新聞記者が来る。歓楽の宴《うたげ》変じてたちまち世にも恐ろしい修羅場と化してしまった。  警官たちの手によって、屋根裏の死体がすぐさま下に担《かつ》ぎおろされたことはいうまでもない。死体検案の結果は、さっき鮎沢博士が洩らした言葉と一致していた。つまりひと思いに頸動脈を掻き切って死んでいるのだ。見ると硬直した右の掌《て》には、生ま生ましい血潮を吸った鋭利な剃刀《かみそり》をしっかりと握っており、したがって自殺であることは疑う余地もない。  だが、しかし一体この恐ろしい死体は何者であろう。その点に関する限り、当局は少なからず頭を悩ませなければならなんだ。なぜというに、前にもいったとおり、そいつの顔はおそらく硫酸《りゆうさん》か何かで焼いたのであろう、相好もわからぬまでにくちゃくちゃに崩《くず》れており、おまけに両手の指紋さえ、ひどい火傷《やけど》のためにすっかり皮がむけ、なんとも得体の知れぬ海盤車《ひとで》のようになっているのだ。つまり、この死体の正体を知るにたる証拠となるようなものは何一つなかったのである。  だが、それがなんであろう。  顔はわからずとも、そして指紋は不明であろうとも、その恐ろしい死体が何者か、鷲尾医学士だけはちゃんと知っていた。  緒方代助なのだ。代助のほかに、どうしてこのような恐ろしい自殺を決行する者があるだろう。  失恋《しつれん》のため、執念の鬼と化した代助は、恋敵《こいがたき》の婚礼の当夜、しかもその祝言の座敷のまうえの天井裏で、世にも恐ろしい自殺を遂げたのだ。彼の血は花嫁の晴衣を真紅にぬらし、婚礼の席を怨みと憎しみの血で唐紅《からくれない》に塗りつぶしたのだ。  ああ、なんという恐ろしい執念、世の中にこれほど物凄い復讐《ふくしゆう》がまたとあるだろうか。  警察でも鷲尾医学士や、鮎沢博士の説明をきいているうちに、だんだん前後の事情がのみこめてきたらしい。間もなく死体は緒方代助と決定し、事件は嫉妬による狂気の自殺ということで一段落ついた。  しかし、はたして緒方代助は死んだのであろうか。いやいや、彼の肉体は滅んだとしても、その執念はいまだこの世にさまよっているのではなかろうか。そしてあくまでも鷲尾医学士と京子の結婚を呪おうとするのではなかろうか。    湖畔の怪  事件の日からひと月たった。  そして、ここは信州《しんしゆう》の山中《やまなか》にある、とある湖畔《こはん》の別荘なのだ。あの恐ろしい衝動《シヨツク》からいまだ覚《さ》めやらぬ京子は、人目をさけてこの別荘に心|利《き》いた婆やとふたりで、傷ついた魂を養っていた。  言い忘れたが、幼い頃母を失った京子は、まるで母の顔というものを知らなかった。おまけに小学校を卒業するとすぐ、音楽の勉強とやらで、フランスの知人のもとへ送られたので、父博士のあいだにも、なんとやらそぐわぬ愛情がわだかまっていたのだ。  博士はむろん、こよなく京子を愛してくれた。京子のいうことならどんなことでも聞いてくれた。しかし、愛されれば愛されるほど、京子は身がひけるような遠慮《えんりよ》を感じるのだ。多分それは、あまり長く別々に住んでいたために、いつしか親子としての微妙な感情に融和を欠いてしまったのであろう。こんなことではいけないと、自分で自分を叱りながらも、その感情はどうすることもできない。  東京に忙しい仕事を持っている博士は、それでも一週間に一度ずつぐらい、この不便な湖畔の別荘に京子を見舞いにやって来る。どうかすると、鷲尾医学士も一緒に来ることもあった。二人の結婚は、あの恐ろしい事件のため、一時延期ということになっているのである。  こうして十一月になった。湖を取り囲む山々は美しく紅葉し、湖水をわたってくる風は冷たかった。  こういうある日、京子は鷲尾医学士とただ二人きりで湖水にボートをうかべていた。鷲尾医学士はその前夜、博士と一緒にこの別荘へやって来たのだが、博士だけ急用を思い出して東京へ引きあげた後、ただひとり居残って京子のお相手をつとめることになったのである。  澄みきった湖水のうえにオールが快く躍って、ボートはスイスイと流れていく。天気がよいので湖水のうえにいてもそう寒くはなかった。しばらくあちこちと漕《こ》ぎまわった後、鷲尾医学士はふと、ある岩陰でボートを止めた。そこは三方を岩で囲まれているうえに、岸に生えた柳が長い枝を水面に垂らしているので、どこからも見られる心配はなく、恋人同士が語りあうのには絶好の場所だった。 「鷲尾さん」  さっきから物思わしげに、くるくると日傘《ひがさ》を回していた京子は、この時ふと、物におびえたような目をあげて鷲尾医学士の顔を見る。 「あたし、あなたにお話ししたいことがありますの」 「なんですか。じつは僕もぜひあなたに聞いていただきたいと思うことがあるのですよ」 「あら、どういうことですの」 「いや、それよりあなたの話のほうから先きに聞かせてもらいましょう」 「ええ」  京子はかるくうなずいたまま、しばらく黙りこくっていたが、やがてつと、思いあまったような目をあげると、 「鷲尾さん、緒方さんはほんとうに死んでいるのでしょうか」 「なんですって!」 「いいえ、いつかのあの恐ろしい死体は、ほんとうに緒方さんだったのでしょうか」 「京子さん!」  鷲尾医学士がびっくりしたような声をあげた。 「あなた、いったいどうしてそんなことを言い出したのです」 「だって、だって、鷲尾さん、あたし恐ろしくてたまりませんのよ。あの人はまだ生きています。そしてあたしの身のまわりにつきまとっているんですわ」  いったかと思うと、京子の長い睫毛《まつげ》のあいだから、ふいにどっと涙があふれてきた。鷲尾医学士は驚いてその肩に手をおくと、 「京子さん、どうしたというのです。何をばかな、あいつが生きているなんてそんなばかなことがあるものですか。それとも、あなたはあいつの姿でも見たのですか」 「いいえ、そうじゃありませんけれど」  京子が口ごもりながら話したところによるとこうだ。この湖畔の別荘へ来て以来、京子は始終、誰かに監視されているような気がしてならないのだ。何者ともわからない、まるで影のような姿、それが始終、彼女の身辺にしつこくつきまとっている。散歩をすればその行く先々で、家におればその庭の周囲《まわり》を、たえず怪しい姿がついてまわるのだ。どうかすると、夜、彼女の寝室のすぐ外に、怪しい足音をきくことも珍しくなかった。 「そして、そいつは一体どんな男です」 「それがよくわかりませんの。いつも黒い二重廻しの襟《えり》を立てて鳥打帽《とりうちぼう》を目深《まぶか》にかぶっているんですもの。いちど顔を見てやろうと思っているんですけれど、いつでもすばやく逃げてしまうんですの」 「ははははは、それは京子さん、大方《おおかた》不良ですよ、あなたがあまり綺麗なもんだから、つけまわしているんです」 「でも——でも、変なことがありますのよ」 「変というのは?」 「緒方さんは、ほら、緊張するとよく、くすん、くすんと鼻を鳴らして咳払いをする癖があったでしょう。あたしそれと同じ咳払いを、何度も夜、家の周囲《まわり》で聞いたんですわ。ええ、あれ緒方さんの声とそっくり同じだったわ」  京子はそういうと、いまさらのように、ゾーッとばかりに肩をすぼめるのだ。鷲尾医学士も思わずそれに釣り込まれたように、身を震わせた。なるほど、そういわれてみると、あの死体が緒方代助だったという証拠は、何一つなかったのだから、あるいは京子の言うように、代助が生きていると考えられないこともない。  いやいや、あの執念ぶかい代助のことだ。ひょっとすると、身替わりを立てて世間の目を欺《あざむ》き、自分はひそかにどこかへ隠れていて、もっともっと恐ろしい復讐の機会を待っているのではなかろうか。まさか、そんなことが——と、打ち消してみても、なんとも言えない恐ろしい不安と疑惑が、その底から頭をもたげてくる。 「京子さん」  ふいに鷲尾医学士が、きっと京子の顔を見た。 「もしそういうことなら、私はいよいよ自分の思っていることをお話ししなければなりません。京子さん、われわれはなぜ、このように結婚を延ばしていなければならないのでしょう」 「え?」 「あの男の行動が、われわれの結婚を妨げるためだとすれば、こうして結婚を延ばしていることは、とりも直さずあの男の思う壺《つぼ》にはまるわけじゃないでしょうか。京子さん」  鷲尾医学士はふいに手を伸ばして京子の体を抱きすくめると、 「京子さん、僕はもうこれ以上待てない。われわれは当然、あの夜結婚していたはずなんです。あなたはもう、身も心も僕のものであってよいはずなんです。京子さん」 「あれ、いけません、だって、あなた……」  身をもがく京子の顔のうえに、とつぜん、汗ばんだ鷲尾医学士の顔がのしかかってきた。情熱に燃える目が、唇が、いまにも京子の顔を押しつぶしそうになった。  と、その時、とつぜん、 「あれ!」  と、魂消《たまぎ》るような叫びをあげて京子が顔を覆《おお》うてしまった。 「ど、どうしたのですか」 「あれを、——ああ、恐ろしい、あんなものが」  顔を隠しておののきながら、京子の指さすところを見れば、ああ、なんということだ、ボートのすぐそばの水面に、枯藻《かれも》に混じって、一個の奇怪な人形が——角隠しをして、紅《あか》い口紅をさした、等身大の花嫁人形が、まるで幽霊藻のようにゆらゆらと浮かんでいる。しかも、その花嫁人形の胸のうえには、ぐさりと一本の短刀がぶちこんであるのだ。  さすがの鷲尾医学士も、そのとたん、ツーッと全身の血が凍るような恐ろしさをかんじた。それがほんとうの土左衛門でなく、人形であればあるだけ、一層得体の知れぬ無気味さをかんじるのだ。 「京子さん、京子さん」  夢中になって鷲尾医学士が京子の肩をかき抱《いだ》いた時である。ふいにそばの崖《がけ》のうえから、世にも奇妙な笑い声がふってきたのだ。 「ふふふふふ、ふふふふふ」  あたりをはばかるような、それでいて二人を嘲弄《ちようろう》するような、敵意と憎しみに充《み》ち満ちたその笑い声。——京子はふっとその声に顔をあげたが、そのとたん、 「あれ!」  と、叫んで鷲尾医学士の胸にしがみついたのだ。京子が驚き怖《おそ》れたのも無理もない。  その時、崖のうえの小暗い繁みのなかから、ぬっと体を出して笑っていたその顔の恐ろしさ、おぞましさ。目も鼻も唇もない。骸骨《がいこつ》のようにまっしろな顔なのだ。そいつが大きな歯茎をガクガクとかみあわせて笑っている、その得体の知れぬ物凄さ!  鷲尾医学士も、その瞬間、髪の毛がシーンと逆立つばかりの恐怖のとりこになってしまったのである。    白髪の紳士 「どうかしましたか。いま婦人の叫び声が聞こえたようですが。おや、ご気分でもお悪いのじゃありませんか」  声にはっとして振り返ると、水のうえに枝垂《しだ》れた柳の向こうに、一艘のボートが止まっている。漕ぎ手は不思議そうな顔をして、まじまじとこちらをながめていた。  この際であったけれど、さすがに鷲尾医学士はパッと頬《ほお》を紅《あか》らめながら、 「いや、なに、じつはここに妙なものがうかんでいたものですから、この人がびっくりして」  と、いいながらおそるおそる崖のうえを振り仰《あお》いだが、そこにはもう、怪物の姿は見えなかった。 「なんですか。妙なものって」 「人形なんです。さっきまでたしかにこんな物なかったのですが、ふいに浮かびあがってきたものですから」 「人形? どれどれ」  その人もよほど閑人《ひまじん》か、それとも好奇心の強い人だったにちがいない。そういうとオールを動かして、ボートを淵のなかに漕《こ》ぎ入れて来る。見るとこれは、ちょっと奇妙な人物だった。顔や体つきを見ると、まだ四十そこそこの年配と見えるのに、頭を見るとまるで七十の老爺《ろうや》のように真白なのだ。 「なるほど、こいつは——」  不思議な人物も、一目その花嫁人形を見ると、思わず顔をしかめて、 「これが急に浮かびあがってきたのですか。変ですね。ちょっと待って下さい。もっとよく調べてみましょう」  その人はしばらくこまめにその辺を漕ぎ回っていたが、急にうれしそうな笑いをうかべると、 「わかりました。この崖の根元のところに、大きな下水が流れこんでいるんですよ。ほらご覧なさい、そこんとこに渦《うず》が巻いてるでしょう。この人形はきっと、その下水から流れこんできたにちがいありません。しかし、おや、婦人がどうかなさいましたね」 「いや、じつはあまりびっくりしたものですから気を失ったらしいのです。京子さん、京子さん」  呼ばれてふと目をひらいた京子は、 「あれ、あ、あの化物《ばけもの》は——? 骸骨みたいな顔をしたあの怪物は——?」  と、呼吸《いき》を弾《はず》ませていいかけたが、ふとそばの人物に気がつくと、はっとしたように口をつぐんでしまった。 「怪物? 骸骨みたいな顔をしたお化《ば》け?」  白髪の紳士はきっと目をすぼめて、 「どうかしたのですか。何かそのような怪しい奴が出たのですか」 「いや、なんでもないのです。京子さん、もうそろそろ引き揚げようじゃありませんか」 「ええ」  鷲尾医学士はそこでオールをとると、ボートをもとの岸のほうへ漕ぎ戻した。そのあとから、例の不思議な白髪の人物も、無言のままでついてくる。  やがて三人はボートからあがった。そして分かれ路《みち》までやってきたときである。ふと白髪の紳士は鷲尾医学士を呼びとめて、 「こんなことをいっちゃ失礼ですが、あなたがた、何か——ええ、いま恐ろしい災難のなかにいられるのじゃありませんか。いや、間違っていたら許して下さい。私はどういうものか、こう、何か得体の知れぬ事柄にぶっつかると、黙っていられないほうでしてな、ははははは」  笑いながら、洋服のポケットから名刺《めいし》を出すと、 「向こうの鶴遊館《かくゆうかん》という宿に泊まっている者ですが。こういう者です。もしお話しになりたいことがありましたら、ここしばらく逗留《とうりゆう》していますから、いや、何もなければそれでいいのですよ」  鷲尾医学士がふと目を落としたその名刺には、ただ簡単に、由利麟太郎《ゆりりんたろう》と五文字。 「あ!」  医学士は思わず低い叫びをあげると、 「あなたがそれじゃ、あの有名な」 「いや、有名でもなんでもありませんが、半ば道楽半分に、私立探偵みたいなことをやっている者です。では、いずれまた」  にこやかな微笑をうかべながら、飄々《ひようひよう》と立ち去っていくこの白髪の紳士のあとを、鷲尾医学士はしばらく呆然《ぼうぜん》として見送っていた。  ああ、この白髪の紳士こそ、いま東京で売り出しの有名な私立探偵だったのだ。そして、鷲尾医学士が偶然ここで、この有名な由利先生に邂逅《かいこう》したということは、彼の将来に、非常におおきな関係を持ってくることになったのである。  それはさておき、京子を別荘まで送りとどけた鷲尾医学士は、その日一日中、とつおいつ思案をしていたが、とうとう、その夕方意を決して、鶴遊館に由利先生を訪ねていったのである。  その時由利先生はくつろいだ褞袍《どてら》すがたで、縁側の籐椅子《とういす》によりかかっていたが、鷲尾医学士の顔を見ると、すぐ人なつこい微笑をもってこれを迎え入れた。 「よく来ましたね。きっとあなたがいらっしゃるだろうと思っていましたよ。じつは、あれから宿《やど》の者《もの》に、あなたがたのお名前をうかがって、大いに食指《しよくし》を動かしていたところなんです。で、ご用というのはあの緒方代助という男の、自殺に関する事件でしょう」 「そうなんです。あの事件に関しては、新聞でよくご存じのことと思いますが、その後、いろいろと妙なことがあったものですから」  鷲尾医学士はそこで日頃思い悩んでいることを、すっかり由利先生に打ち明けた。由利先生は慣れていると見えてなかなか聞き上手《じようず》なのだ。時々、要領のいい質問を放っては、相手に忘れていたことや、いい落としたことを思い出させた。そしてすっかり聞き終わってしまうと、 「いや、よくわかりました。これはなかなか複雑な事件らしいですね」  由利先生はしばらく瞑想《めいそう》するような目を、じっと湖水のほうへ向けていたが、やがてその目を鷲尾医学士のほうに戻すと、 「ところであなたはどうお考えになりますか。緒方代助という人物が、まだ生きているとお思いですか」 「それがよくわからないのです。あの死体を見たときは、てっきり緒方だと思って、よくも調べなかったのですが、今日のようなことにぶつかると。……」 「しかし妙ですな。そのように恐ろしい顔をした男が出没するとすれば、誰かの目にとまらないはずはありません。それがいっこう、そういう噂《うわさ》もないところをみると、そいつはきっと変装しているんですよ。いや、ひょっとすると、仮面をかぶっているのかも知れない。しかし、いずれにせよ、あなた方を狙《ねら》っている者のあることは確かですね。そいつが緒方であるにしろ、ないにしろ」  言ってから由利先生は急に思い出したように、 「時にあなたは、その緒方という人物から送ってきた、木乃伊の花嫁というのをお持ちですか」 「は、じつは偶然トランクの中に入れて持ってきていたものですから、今ここに持参いたしました」  鷲尾医学士が取り出した、例の不細工な木乃伊《ミイラ》人形を手にとると、由利先生はしばらく珍しそうにいじくり回していたが、 「これ、しばらくお預かりしておいてもいいでしょうな。ちょっと調べてみたいことがありますから」 「ええ、どうぞ」 「では、今のところ私にも見当はつきませんが、しかし、これだけのこと申しておきましょう。あなた方は十分自分たちの身辺を警戒していなければいけませんよ。特にあなたご自身は……」  そういいながら由利先生は、目のなかにいっぱいの危懼《きく》をうかべて、鷲尾医学士の顔を見つめるのだった。    洞窟《どうくつ》での出来事  まっくらな洞窟のなかなのだ。  すでに冬眠期にはいった蝙蝠《こうもり》が、どうかするとにわかの光に驚いて、ばたばたと三人の頬をかすめてとんだりした。 「あれ、気味の悪い。お父さま、もうそろそろ引き返しましょうよ」  泣き出しそうな声でそう叫んだのは京子だ。 「ナーニ、大丈夫さ。なに怖いことがあるものか。折角《せつかく》ここまで来たんだもの、奥まで極めなきゃ探検に来たかいがない。ねえ、鷲尾君」 「ええ」  しかし、そう答える鷲尾医学士の声も、なんとなく気が進まないらしかった。  まえに述べたような出来事があってから、三日ほどのちのことなのだ。東京からやってきた鮎沢博士が、つれづれのあまり、ふとこの洞窟の探検をいい出したのである。  湖畔から二里。  人里離れた山中にあるこの洞窟は、言い伝えによるとかつてこの湖畔に栄えた先住民族の遺跡とやら、夏期にはよくこの辺へやってくるハイカーたちが、慰み半分に探検に出かけることもあったが、時候外《じこうはず》れの今時分にはさすがにそういう物好きは一人もいなかった。  洞窟の中はまっくらで、しっとりと湿気を帯びた空気は肌を刺すように冷たいのだ。そのなかを、鮎沢博士を先頭に立て、京子、鷲尾医学士の三人が、黙々として続いてゆく。  博士の携えた懐中電灯が、時々、露出した石板の層や、崩《くず》れかけた赤土を無気味に照らし出す。奥の深い洞窟は、しだいに狭く、空気さえなんとなく重苦しくなってきた。  と、この時である。  先頭に立っていた鮎沢博士が、ふいに、 「しまった」  と叫んだかと思うと、はるか地底のほうから、ガチャンと懐中電灯の壊《こわ》れる物音。あっという間もない、博士の姿は忽然《こつぜん》と闇のなかに消え去って、あたりは黒白《あやめ》も分《わか》ぬ真の闇。 「あれ、お父様!」 「京子さん、危ない」 「だって、だって、お父様が……」 「待っていらっしゃい、動いちゃいけません。今マッチをつけます」  あわただしい鷲尾医学士の呼吸《いき》づかいのうちに、シューッとマッチを擦《す》る音、めらめらと風に揺れるマッチの炎に、あたりを見回した二人は、突然、おびえたように呼吸《いき》をうちへ吸いこんだ。  見よ、いま京子の立っているすぐその足もとに、真黒な竪孔《たてあな》の口が、それこそ物の怪の顎《あご》のようにパックリとひらいているのだ。 「あっ!」  叫んだ拍子にマッチの灯が消えた。 「鷲尾さん、どうしましょう、どうしましょう。お父様この中に落ちたのよ、お父様、お父様」 「先生、先生!」  叫んでみたが答えはなかった。冷たい風がスーッと噴水のように吹きあげてきて二人の頬を撫《な》でる。京子は黒白《あやめ》も分《わか》ぬ暗黒のなかで、ゾッと身震《みぶる》いをすると、狂気のように、 「あなた、なんとかして。お父様を助けて」 「待ってらっしゃい。もう一度マッチを擦ってみましょう」  鷲尾医学士がふたたびマッチを擦ろうとした時だ。どうしたはずみか、とつぜん足を踏みすべらした鷲尾医学士、もんどり打って底知れぬ、竪孔の闇のなかへ顛落《てんらく》していったから、驚いたのは京子である。 「あれ、あなた!」  穴のふちにしがみついて、夢中になって連呼する京子の体を、その時ふいにうしろからしっかりと抱きしめた者がある。 「あれ」  叫んで振りほどこうとするが、相手はなかなかの強力なのだ。京子の体を抱きしめたまま、ズルズルと洞窟の奥へ引きずっていこうとする。暗さは暗し、恐ろしさで、京子は歯の根も合わぬぐらいおびえきって、 「だ、誰です。あなたは一体誰です」  叫んだが相手は無言、ハッハッと犬のように荒々しい呼吸を吐きながら、ねっとりと汗《あせ》ばんだ手で京子の腕を握りしめ、遮二無二《しやにむに》、奥へ引きずり込もうとするその恐ろしさ。何かしら、動物的ともいうべき体臭が、圧迫するように彼女の体にのしかかってきて、汗ばんだ掌《て》がぬらぬらと全身をはいずり回るその気味の悪いこと。 「あれ、助けて! 誰か来てえ!」  思わず悲鳴をあげたとたん、どこからともなくさっと一道の白光が暗闇を破ってこの怪物の顔を照らした。 「あ、あれえ!」  京子はそのまま気をうしなってしまったのである。なぜといって、その怪物こそは、いつか湖畔の崖のうえで見た、あの目も鼻も唇もない、骸骨のような化物《ばけもの》だったからである。  それからどのくらい経ったか。——京子は夢現《ゆめうつつ》のあいだに、もみあう二つの肉団を、闇のなかで見ていた。それからその中の一つがとつぜん、世にも物凄い叫びをあげて、竪孔の中へ顛落していくのをハッキリと知っていた。  それは生涯彼女が忘れることのできないような、恐ろしい悪夢の一瞬だった。いやいや、悪夢より、もっともっと恐ろしくもいまわしい現実の出来事であることを、京子は間もなく気がついたのである。  それはさておき、その時、 「京子さん、京子さん」  と、懐かしい、聞き覚えのある声が聞こえてきたので、ふと目を開くと目のまえには死んだと思った鷲尾医学士と、いつか湖畔で遇《あ》った白髪の紳士が、いかにも気遣わしげな顔をしてのぞき込んでいるのだ。 「あ、鷲尾さん、あなた生きていらしたのね、あなた助かって下さったのね」 「はい、京子さん、僕は穴の中途に出っ張っている岩につかまって、ようやく命拾いをしたところを、由利先生に救いあげられたのですよ」 「そして、そして、お父様は?」 「はい、その先生は」  鷲尾医学士は、由利先生と顔を見合わせながら、何かしら苦いものでものみ下すように、 「お気の毒に、さっき足を踏み外《はず》して、そのまま死んでしまわれました」  言ったかと思うと、暗然として顔をそむけてしまったのである。    恐ろしき真相 「由利先生、私にはどうしてもわかりません。なぜ鮎沢先生は私を殺そうとしたのでしょう。なぜあのような恐ろしい仮面をかぶって、私や京子さんを脅《おびや》かしたのでしょう」  信州の山中《やまなか》で不慮の死を遂げた博士の葬式が、東京の本宅で盛大に行なわれてから一週間ほど後のことである。数々の疑問に思い悩んだ鷲尾医学士が、ある日蒼白の面《おもて》をして由利先生のもとを訪《おとず》れた。 「あの竪孔の底で、奇妙な仮面の下にかくれていた博士の顔を見た時の、私の驚きはまあどんなだったでしょう。先生、博士はなんだってあんな恐ろしいまねをしたのでしょう」  由利先生はそれに答えなかった。答える代わりに、黙っていつかの木乃伊《ミイラ》人形を取り出した。 「鷲尾君、君はこの人形を覚えているでしょうね」 「あ」鷲尾医学士は思わず呼吸《いき》をのんで「それはいつか緒方から送ってきた……」 「そうです。その人形です。しかし君はこの中に、どんな恐ろしい秘密の曝露《ばくろ》があったか知らないでしょう。鷲尾君、緒方代助はこの中に、君に対する真実の忠告状を隠しておいたものですよ」  言いながら由利先生は、その人形を毀《こわ》すと中からしわくちゃになった一枚の紙片を取り出した。 「どうです。読んでみますか」 「先生」  鷲尾医学士はおびえたような目つきをして、 「私にはとてもその勇気はありません。先生、あなたの口から話して下さいませんか」 「よろしい、お話ししましょう」  由利先生は考えぶかい目つきをして、 「まず第一に、京子さんは博士の真実《ほんとう》の娘ではなかったのです」 「な、なんですって!」 「まあまあ、黙ってしまいまでお聞きなさい。博士は若い頃死ぬほど恋した一人の婦人があった。しかし不幸にしてこの恋は遂げられず、婦人は他の男と結婚したのだが、京子さんはその昔の恋人の遺児なのです。その婦人は京子さんを産むと間もなく亡くなった。いや婦人ばかりでなく、その良人《おつと》なる人もほとんど同時に死んでしまったのです。そこで博士の一片の義侠心《ぎきようしん》から、京子さんを引き取って、自分の娘にして育てあげたのですが、これがすべての災いのもとだった。わかりますか。京子さんは昔の恋人の娘、そして年頃になってフランスから帰ってきた京子さんは、当然、その母なる人に似ていたでしょう。いや、おそらくあまり似すぎていたのが、博士の心を狂わせてしまったのです」 「ああ!」 「博士は誰にも京子さんを渡したくなかった。遂げられなかった昔の恋の面影を、京子さんのうえに発見した博士は、その瞬間、日頃の理性を失ってしまわれた。それに気がついたのが緒方代助なのです。緒方君は博士の秘密を発見した。そこで自分も身を引き、君にも京子さんを思い切らせようと思ったのだが、あからさまには、その理由をいうことができない。そこであのような脅迫状の形で、君たちの結婚を妨害《ぼうがい》しようと思ったのだが、一方、その切々たる衷情《ちゆうじよう》を、いつか君が発見することもあろうかと思って、この木乃伊人形の中に封じた手紙の中に書いておいたのです。鷲尾君、緒方君は君の仇敵どころか、じつに、君にとっては無二の親友だったのですよ」 「しかし、それならばなぜ緒方は、あのように当てつけがましい自殺をしたのでしょう」 「鷲尾君!」  急に由利先生はきっと目をすぼめると、 「君はあれを自殺だと思っているんですか」 「なんですって!」 「あれはね、博士の細工なのですよ。今になってみれば、どうして緒方君を殺したのか、詳しい手段はわからないが、恐らく時計仕掛けか何かで、時間が来れば自然に短刀が頸動脈《けいどうみやく》を切るようにしておいたのでしょう。あの時、博士が一番に屋根裏へあがっていったのは、そういう仕掛けや、おそらく縛《いまし》めの綱《つな》や猿轡《さるぐつわ》を隠すためだったにちがいありませんよ。つまりこうして博士は、秘密を嗅《か》ぎ知った緒方君を殺すと同時に君たちの結婚式を流産にしようという、一石二鳥の計画だったのです」  ああ、なんという恐ろしい秘密、なんといういまわしい犯罪だろう。鷲尾医学士は思わず歯をくいしばって苦しげなうめき声をあげた。 「緒方代助はこの手紙にこう書いています。読んでみましょうか。——鷲尾言、僕はとうとう先生に居所《いどころ》を嗅ぎつけられた。先生はひそかに僕を自宅へ連れていこうとする。恐らく僕はそこで先生に殺されるのだろう。先生は恐ろしい人だ。幼い時から先生に育てられた僕は、先生の性質をよく知っている。恐らくこれが君に書くことのできる最後の手紙だろう。気をつけたまえ、鷲尾君、君が僕の脅迫状をまに受けて、京子さんとの結婚さえ思いとどまってくれたら!——これで見ると、緒方君は、君に最後の脅迫状を送った直後に博士に捕らえられたと見えるね」 「しかし先生、博士はなぜ、緒方君の顔をあのようにめちゃめちゃにしておいたのでしょう」 「それが博士の最も奸悪《かんあく》なところなんだよ。博士はひょっとすると、緒方君がまだ生きているかもしれないという、一点の疑惑を後日に残しておきたかったのだ。その疑惑をどういうふうに利用しようとしたか、あの洞窟の出来事がよく説明しているじゃないか。あの時博士は竪孔へ落ちはしなかったのだ。落ちたふりをして、後から君を突き落とし、京子さんを拉致《らち》しようとしたのだ。幸いそこへ僕が駆けつけたために今度こそ、本当に落ちて死んでしまったのだが。……」  由利先生はそういって、世にも陰惨な出来事を思いうかべたように思わず身をふるわしたのである。  京子は未《いま》だにこの真相を知っていない。  あの洞窟で出会った怪物のことを、彼女は一場の悪夢と信じるように、鷲尾医学士からいつの間にやら教育されてしまった。たとえ、そこにかすかな疑念をかんじたとしても、彼女のように、若く、美しい女にとっては、それはしだいに過去の出来事として忘れらるべきであったろう。要するに、その後の彼女は鷲尾医学士と共にたいへん幸福だったのである。 [#改ページ] [#見出し]  花嫁|富籤《とみくじ》     一  花嫁|富籤《とみくじ》。  奇抜な花嫁富籤、怪奇な花嫁富籤、滑稽《こつけい》な花嫁富籤。——あの種々様々な悲喜劇をうんだ花嫁富籤の噂《うわさ》が、東京中に大センセーションを巻き起こしたのは、たしか昭和八年の暮から、その翌年の春へかけてのことだったと思う。  当時、東京中どこへ行っても、寄ると触るとその噂で持ち切りだった。若い男が二、三人集まると、必ずその間に持ち出される話題というのは、その花嫁富籤だった。それはだいたい、次のような塩梅《あんばい》なのである。 「おい、上塚《うえづか》君、ひょっとすると、君があの花嫁富籤を持っているのじゃないか」 「ふふふ、残念ながら僕は持っていないんだよ、水谷《みずたに》君、こんなことと知ったら、僕ももっと精出して銀座を歩くんだったがなあ」 「お互いに損しちゃった。それにしてもひどく焦《じ》らせるじゃないか。持ってる奴《やつ》はさっさと名乗り出ればいいに」 「僕は思うんだがね、ひょっとするとあの当たり籤の半分は、もうこの世に存在しないんじゃないかな。誰かが反古《ほご》と一緒に焼き捨てるかなんかしたんじゃないかと思うんだ」 「ふふふ、そうなるとかわいそうなのはあの娘だな。あたら一万円の夢もふいというわけか、やれやれ」  等々と、この花嫁富籤の噂は、語っても語っても、尽きせぬ興味を人々に提供してくれるのだ。  ところでこの花嫁富籤というのは、いったいどんなものか、まさか富籤で花嫁を買おうというわけではあるまい。そんな不道徳なことがこの昭和の御代に許されるはずがないから。ここでちょっと、その花嫁富籤なるものの性質を述べておこう。  年末になると、どこのデパートでも売り出しに苦労するのである。一人でも多くの顧客《こかく》を吸収しようと、宣伝に広告に、血みどろな合戦が演じられる。この花嫁富籤というのは、そういうデパートの宣伝戦からうまれた新戦術で、これは銀座に老舗《しにせ》を誇《ほこ》る大黒屋《だいこくや》デパートの考案によるものであった。  どこのデパートでも年末の大売り出しには、きまって景品をつけるものだが、その景品の一種として、その年大黒屋が提供したのが、問題のこの花嫁富籤なのだ。 「十円以上お買い上げの方には、当デパート独特の花嫁富籤を提供いたします」  こういう奇抜な広告が新聞に現われたのは、たしかその年の十二月の半ばごろ、物見高いは世間の常、花嫁富籤とはなんだろうとばかりに、これが巧みに人々の好奇心を刺激したからたまらない、断然その年は大黒屋デパートがすばらしいヒットを飛ばしたのである。  しかし、その内容をよくよく聞いてみると、案外これが奇抜でもなんでもない。  つまり十円の買い物ごとに、一枚の富籤を客に渡しておき、新年の十五日にその富籤の抽籤《ちゆうせん》が行なわれる。そして一等の当たり籤には、それが紳士なら花婿衣装、淑女の場合には花嫁衣装がひと揃い、そしてどちらの場合にも、副賞として一万円提供するというのである。  なるほど、一万円の副賞というのは大きかった。しかし、これをもって花嫁富籤というのは、世間を欺《あざむ》くも甚《はなは》だしいというべきだったが、それにもかかわらず、この花嫁富籤が、当時あんなにも世間を騒がせたというのは、じつは、次に述べるような、世にも不思議な事件が、その花嫁富籤をめぐって、持ちあがったからである。     二  わびしいアパートの一室で、十時頃、目をさました甲野絹代《こうのきぬよ》は、あああ、今日も一日、当てもない職を求めて、町をさまよい歩かねばならないのかと、思わず腹のしこりを吐き出すように、やるせない溜息《ためいき》をついたが、しかし、すぐ思い直して、パッと元気よく寝床から跳ね起きた。  絹代はことし二十一、目の丸い、いつもびっくりしたような唇《くちびる》をしている、小鳥のように快活な娘だったが、さすがに近頃では意気消沈して元気がなかった。彼女は震災で親兄弟を失くしてしまったあわれな娘、去年の暮までは、新橋のさるダンスホールでダンサーとして稼《かせ》いでいたのだが、不況とあってそのダンスホールが閉鎖されてしまってからは、それきり職にありつくこともできず、今日はお正月の十五日だというのに、彼女はさむざむとして、自《みずか》ら紅茶をいれ、固いパンをかじらねばならなかった。  しかし根が快活な娘のこと、たとい固パンにしろ腹がくちくなり、熱い紅茶で体があたたかくなると、スーッとさきほどよりの憂鬱《ゆううつ》も吹っ飛んでしまう。  艱難《かんなん》になれた彼女は、どんな悲境のどん底におちても、あまり悲観しないように習慣づけられている。踏みにじられた草が、すぐピンと起き直るように、どんなにたたきのめされても、彼女はあまり希望を失わない。 「いいわ、構やしないわ。人間|七転《ななころ》び八起《やお》きっていうじゃないの。それに禍福《かふく》はあざなえる縄のごとしって、諺《ことわざ》だってあるんだもの」  彼女はできるだけたくさん、自分に都合のいいような格言を思い出しながら、今にも、とんでもない幸運が転がりこんでくるような夢想に、いつも胸をふくらませているのである。  ところが、その一月十五日の朝、いつものように熱い紅茶をすすりながら、新聞を読んでいた絹代は、突如、その夢想がすばらしい現実となって現われたのを発見して、思わず、わーっと叫んでとびあがったのである。何しろあまりえらい勢いでとびあがったので熱い紅茶が膝のうえでひっくりかえって、彼女はもう少しで大《おお》火傷《やけど》をするところだった。 「あら、大変大変、あら、大変だわ、あたしどうしよう、あたし困っちゃったわ。困っちゃったわ」  口では困った困ったを連発しながらも、しかし、その顔はいっこう困った様子もなく、むしろ歓喜にふるえながら、紅茶茶碗を片手に持ったまま、まるで独楽鼠《こまねずみ》みたいに、部屋のなかをうろうろしているのである。  絹代が、そんなにまで狼狽《ろうばい》したというのも無理ではなかった。  いったい、失業していると、誰でも新聞を隅から隅まで読むものなのである。絹代もその例に洩れず、まず当面の問題たる求職欄よりはじめて、社会面から政治経済欄、さては小説から映画の広告に至るまで、およそあますところなく目を通す習慣であったが、いま、何気なく広告面をながめていると、そこに、あの花嫁富籤の当たり籤番号の広告が大きく出ているのである。  一等当籤番号、はノ八八八八番。  絹代がわっと叫んで、跳びあがったのは、じつにその瞬間だった。  はノ八八八八番。  間違いはない。わかりやすい番号だから、絹代ははっきりと覚えているのだ。その幸運なる当たり籤の持ち主こそ、誰あろう、じつに絹代自身なのである。さてこそ、あら大変大変がはじまったというわけだった。  絹代はしばらく紅茶茶碗を持ったまま、うろうろと部屋のなかを歩き回っていたが、やっと気を鎮めると、もう一度、おもむろにあの新聞を手に取りあげた。  はノ八八八八番。  まるで活字が躍っているように見えるが、しかし夢を見ているのでもなければ、狐《きつね》につままれたのでもなかった。はノ八八八八番はあくまでもはノ八八八八番で、けっしてそれ以外の番号ではない。  絹代はしばらく虚脱したみたいに、べたんと部屋の中央にへたりこんでいたが、にわかにぶるぶると胴顫《どうぶる》いをすると、急に気がついて机のほうへはいよった。  ごくお粗末《そまつ》な一閑張《いつかんば》りの机なのである、絹代はその抽斗《ひきだし》をひらくと、わななく指で、中をかき回していたが、あった、あった、まるで勧業債券みたいにいかめしいあの花嫁富籤、しかもそのうえにはまぎれもなく、  はノ八八八八番。  と丸ゴジックの数字が印刷してある。 「ああ、一万円、ああ、一万円だわ」  ——さてそれから、絹代がどんなすばらしい夢想をあたまの中に描いたか、どんなに大きな喜びに胸をふるわせたか、それらのことはあまり管々《くだくだ》しくなるから、一切省略するとして、彼女が大急ぎでお化粧《けしよう》をすまし、大急ぎで着物を着かえ、あの花嫁富籤を鷲《わし》づかみにして、今しも一散に部屋のなかからとび出そうとした時である。  出合い頭《がしら》にばったりと突き当たった青年があった。 「や、絹代さん、血相かえて、ど、どこへ行くんだ」 「あら、桑原《くわばら》さん、一万円よ、一万円よ」 「げっ、一万円? き、絹代さん、一万円がどうしたというのだ」 「一万円が当たったのよ、大黒屋の花嫁富籤よ、はノ八八八八番よ」 「絹代さん、絹代さん、ちょっとお待ち、絹代さんたら。話がある」 「だめよ、話ならあとのことにしてちょうだい。あたし今それどころじゃないのよ。これから大黒屋へいって一万円もらってくるの。あなたなんかに用はなくってよ、さよなら!」  後から思うと、絹代はその時、その青年に対してそれほどすげなくするつもりは毛頭なかったのである。  桑原というのは、ついこの近所にあるガレージに働いている、貧しい自動車の運転手で、まえからひとかたならぬ好意を、絹代に寄せていたし、絹代のほうでも内々《ないない》、憎からず思っていたのだから、これがほかの場合だと、大いに歓待を惜しまなかったのであろうが、なにしろ、今は一万円で気が立っている折柄《おりから》なのだ。彼女は何か話があるらしい桑原の手を振り切って、まっしぐらにアパートからとび出してしまったのである。  さて、ここで絹代が無事に、あの花嫁衣装と一万円を手に入れることができれば、あのような騒ぎも起こらず、したがって、ここにお話しするような物語はなかったわけであるが、それが次のようにこんがらがってきたから、事が面倒になったのである。     三 「甲野絹代さんとおっしゃいますか」 「はあ」 「あなたがあの当たり籤の幸運者なのですね」 「はあ」 「番号は間違いなく、はノ八八八八番でしょうね」 「はあ、間違いはございません」 「そこに、富籤をお持ちでしょうか」 「はあ、持ってまいりました」  大黒屋デパートの重役室なのである。  社長、専務、常務、課長などといった、大黒屋の重役連にずらりと取り囲まれた絹代は、上気した頬を真赤にほてらせながら、わなわなとふるえる手でお粗末なハンドバッグを開くと、中から例の勧業債券みたいな富籤を取り出して、正面に座っている磯野《いその》専務にうやうやしく手渡したが、その時である。磯野専務はその富籤を手に取るより早く、おやと眉をひそめた。 「なるほど、はノ八八八八番にちがいありません。しかし、どうしたのですか。この富籤は半分しかありませんね」 「あっ、半分ではいけないのでございましょうか」  絹代は思わず声をふるわせる。  ああ、磯野専務が眉をひそめ、絹代が声をふるわせたのも無理ではない。絹代の持って来た富籤は、まん中からビリビリと真二つに引き裂かれた、その左の半分しかないのである。  むろん、籤番号は、紙面の両端に印刷してあるから、左の半分だけでも、はノ八八八八番だということは十分わかるのだが、半分はあくまで半分である。磯野専務が眉をひそめたのも無理ではなかった。 「いったい、誰がこんなに富籤を破いたのですか。右の半分はどこにあるのですか」 「それが、あたしにもよくわかりませんの」 「わからない? 妙ですね。まさか当店でお受け取りになった時から、こういうふうに破れていたわけじゃありませんでしょう」 「はあ」  と、絹代は思わず真赤になって、 「あの、それ、あたし自身でお店で戴いたわけじゃありませんの」 「ははあ、すると誰からかもらわれたのですね。ところで、その人は半分だけあなたにお贈りしたのですか」 「ええ、そうですの」 「ほほう、そいつは妙ですね」 「あの、ほかから戴いたのだと、だめなんでございましょうか」 「いやいや、そんなわけはけっしてございません。どこから手に入れられたにしろ、これは間違いもなく当店から出たものですから、ちゃんと一枚整っていれば、即座にでも景品は差しあげます。どうでしょう、今からその方のところへ行って、あとの半分をもらってこられては」 「それが、あの、あたしその人をどこの誰だかちっとも存じませんの」  絹代は消え入りそうな声でいった。  磯野専務は思わず、ほかの重役連と顔を見合わせたが、事態容易ならずと見てか、ぐいと体をまえに乗り出すと、 「甲野さんとおっしゃいましたね。いったい、それはどういうわけなのです。あなたはどうしてこの半分を手に入れられたのですか。そこんとこの経緯《いきさつ》を詳しく話してくれませんか。万一のことがあると、これは当店の信用にも関する問題ですから」 「はあ、あの、それは——」  と、さんざん口ごもったあげく、絹代がやっとそこで話したのは、次のような、まことに不思議な話だった。     四  それは暮の二十五日の夕方だった。  その日、わずかばかりの解雇《かいこ》手当てとともに、新橋のダンスホールを馘《くび》になった絹代は、途方に暮れた面持ちで、芝口《しばぐち》のほうから京橋のほうへ向かって歩いていた。  師走《しわす》の風が寒く、暗くて、さすが陽気で快活な絹代も、その時ばかりは、まことに暗澹《あんたん》たる表情《かおいろ》をしていたのにちがいない。  世間の人々は新年の買い物に忙しいのに、自分ばかりは職をうしなって、いったい、これから先どうして暮らしていけばいいのだ。アパートにだって部屋代は溜まっているし、こんな涙ほどの手当てなんて、すぐなくなっちまうわ。ああ、いやだ、いやだ、いっそ首でもくくって死んじまおうか、だけど、首くくりって色消しなものね、それより橋のうえから身投《みな》げをしようか、ぶるぶるぶる、こんなに寒いのに身投げなんてまっぴらまっぴら、それに第一《だいち》、土左衛門だって、あんまり色っぽいもんじゃないわ。ああ、そうだ、眠り薬。——眠り薬にかぎるわ。  などと、我れにもなくとつおいつそんなことを考えながら、尾張町《おわりちよう》の角まで来た時なのである。ふいにあの奇妙な紳士が呼びとめたのは。 「もしもし、お嬢さん、君は何をそんなにくよくよしているんです。ははあ、わかった。暮の支払いに切羽《せつぱ》つまって、どうしようこうしよう、さてどうしよう、ええい面倒くさい、いっそ死んじまえ、だけど首つりは色消しだし、身投げは寒いし、そこで眠り薬とおいでなすったね。どうだ、お手の筋だろう」 「まあ、失礼な」  絹代は思わず柳眉《りゆうび》を逆立てたが、しかし、考えてみると、あまりうまく心の中を言い当てられたので、おかしくなって思わずぷっと吹き出してしまった。見ると相手は年輩《ねんぱい》四十五、六の、そろそろ頭の禿《は》げかかった、風采《ふうさい》のいい紳士なのだが、まるで酒にでも酔《よ》っているように、ふらふらと足もとも危なかった。 「ははあ、笑ったね。よし大いに笑いたまえ、笑って憂鬱を吹きとばしたまえ。なあに、世の中は気の持ちよう一つさね。僕を見たまえ、僕を。僕はこれで、あとひと月持つまいと医者に宣告された体なんだぜ。だけど、こんなににこにことうれしそうにしている。どうだ、感心したか」 「ええ、感心したわ。そしてお礼を申し上げるわ。あたしあなたのご忠告にしたがって、くよくよするの止しちまうわ。眠り薬だなんて、ああ、まっぴらまっぴら」  絹代が足早にいきすぎようとすると、いきなり紳士がその肩をとらえた。 「偉い、感心だ。お嬢さん、君はなかなか素直な娘さんだね。よし、褒美《ほうび》にいいものをあげよう。大事にしていたまえ、いつか幸運が君のもとへやって来るかもしれないからね」  紳士は紙片《かみきれ》のようなものを絹代の手に握らせると、そのまま、躍るような歩調《あしどり》で雑踏のなかに姿をくらませてしまったのである。  その時、絹代の握らされた紙片というのが、つまりこの当たり籤の半分なのである。 「というわけで、あたしその人がどこのなんという方やら、また、なんのためにあたしにこんなものを下すったのやら、少しもわかりませんの。いいえ、第一《だいち》、今日あの広告を見るまでは、すっかり、そのことを忘れていたぐらいなんですもの」  聞くとひとしく、重役連は思わず顔を見合わせる。なかでも磯野専務は苦《にが》りきった表情《かおいろ》をしていたが、やおら身を起こすと、 「どうもそいつはますます妙なことになってきましたね」  と、困《こう》じ果てたように、 「お話をうかがってみると、なるほど、あとの半分を探すのはなかなか容易なことじゃなさそうだ。といって、今あなたに景品を差し上げる。さてそのあとへ、あとの半分を持った人物が現われたとする。そうなるとこちらも始末に困りますからね」 「あの、半分ずつというわけにはまいりませんでしょうか」 「さよう、あとの半分を持った人物が現われて、合意のうえなら、そうしてもよろしいが、もしあとで、その人物に異議を申し立てられると厄介な問題になりますからね。それに金は半分にわけることはできても、衣装のほうの問題もありますし」 「だめでしょうか」  絹代は思わず絶望のうめき声をあげた。  それを見ると、さすがに重役連も気の毒になったか、額をあつめてしばらくひそひそ話をしていたが、やがて磯野専務が向き直ると、 「では、こういうことにいたしましょう。一週間だけ待つことにしましょう。一週間も待てば、きっとあとの半分を持った人物が現われますよ。そうすればお二人でご相談のうえ、金を分けるなりなんなりしていただくことにしましょう」 「はあ、で、もし一週間たっても、その人が出てこなかったら」 「その時は、お気の毒ですがあきらめていただかねばなりません」 「え? あきらめるというのは?」 「こういう不完全な奴を、当籤《とうせん》とするのは困りますから、はノ八八八八番は棄権ということにしていただいて、改めて、抽籤《ちゆうせん》のやり直しということにいたします」 「あ」  絹代が真青《まつさお》になってしまったのも、まことに無理からぬ話というべきであったろう。     五  さあ、このことがいつしか外部へ洩れたからたまらない。新聞ではすばらしい話題とばかり、 「はノ八八八八番の右半分は今いずこ」  というような表題のもとに、でかでかとこの滑稽ないきさつを書き立てる。巷《ちまた》では冒頭に掲げておいたとおり、さかんにこの問題が論じられる。大黒屋デパートでも信用問題とばかりに、失われたはノ八八八八番の右半分の捜査広告を新聞に出す。騒ぎはしだいに大きくなり、しまいには絹代の肖像入りで、 「今や、危く一万円をつかみそこないそうになった女性」  なんて記事が新聞に出る始末、おかげで絹代は一躍《いちやく》、人気者となったが、失われた右半分はいまだに出てこない。  と、そこへある日、東京の新聞という新聞のこらずに、次のような奇妙な投書が掲げられたのである。 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]  ——余はここに、このたびの当籤騒ぎを惹起《じやつき》した責任者として、深く遺憾の意を表するものである。余はけっして、このような騒ぎを起こすことを最初から目的としていたものではなかったのである。事実を告白すれば、余は昨年末医者より、不治の胃癌《いがん》なる旨の診断を受け、そして余命一ヵ月と持つまいと宣告された。そこで余は最後の思い出とばかりに、財産の一部分をもって大黒屋デパートの買物に費やし、得たる富籤を某日、銀座街頭において、なるべく不幸らしく見える人々に頒《わか》ったのである。その時、余はふとした気まぐれより、富籤を全部二つに裂き、右半分を男性に、左半分を女性に頒ったのが、そもそもこのたびの騒ぎを惹き起こす原因となった。今にして余は、不幸にもその当たり籤の半分を手にされた甲野絹代嬢に対して、なんとお詫《わ》びを申し上げてよいやら、余の気紛れを責めるのみである。こいねがわくは、余より、はノ八八八八番の右半分を受け取られし男性よ、すみやかに出でて甲野嬢とともに景品ならびに副賞を受けられよ。医者より宣告された一ヵ月の期限のまさにつきんとするに当たりて、これのみが余の心残りとなっているのである。 [#ここで字下げ終わり] [#地付き]城南の奇人    さあ、こういう投書が、投書欄ではなくて、社会面のトップに大々的に掲げられたから、そうでなくても人々の好奇心をそばだてていたのが、いよいよ、騒ぎは大きくなってきた。 「そういえば、僕もじつは、暮にあの富籤の半分をもらったのだよ。きまりが悪いから今まで黙っていたがね」 「ああら、そう、じつはあたしもなのよ。だけど、お互いに当たり籤でなくて倖《しあわ》せね。今度みたいなことになるとがっかりですもの」 「ほんとに甲野絹代って娘、かわいそうだね。城南の奇人氏も罪なことをしたものさ。やるなら一枚そっくりやればいいのに」 「だけど、そこが奇抜じゃないの。どうせ、最後の思い出というわけでしょう。あたしこの趣向、ずいぶん突飛《とつぴ》で気に入ったわ」 「そりゃ、そうだが、ただかわいそうなのは甲野絹代という娘だということさ」 「あまり、欲の皮がつっ張ってるからよ、ほほほほほ」  まったくかわいそうなのは、甲野絹代だった。  今日はもう、約束の一週間目だというのに、いまだに右半分の持ち主は現われない。そして彼女は世間から、いい笑いものにされているのである。     六  絹代は、もうだめだと思った。  約束は一週間目の午後五時限りというのに、今はすでに三時過ぎである。もしデパートの方へ、あとの半分の持ち主が現われたら、すぐ電話をかけてくれるはずになっているが、その電話もまだかかってこない。  おおかた、あとの半分は泥溝《どぶ》へでも捨てられたのだろう。それとも、焼きすてられてしまったのかもしれない。どちらにしても、一万円、いや、五千円の夢はどっかへ消しとんでしまった。  それにしても怨《うら》めしいのは城南の奇人氏、あの人の気紛れから、こんな味気《あじき》ない気持ちを味わわねばならぬかと思えば、つくづく、あの頭の禿《は》げかかった、陽気な紳士が憎らしくなってくる。 「ああ、つまらない、つまらない」  絹代が思わずそう溜息を吐《つ》いた時である。ホトホトと軽くドアをノックする音。 「どなた、お入り下さいな」  声に応じて、ドアをそっと押しひらいて、顔を出したのは、二十五、六の、色の生白《なまじろ》い、どっか油断のならぬ顔つきをした青年だった。 「甲野絹代さんというのはあなたですか」  青年はいやにねちねちとした口調でいった。 「ええ、あたし。どういうご用?」 「じつは、あの、大黒屋の当たり籤のことで来たのですが、はノ八八八八番の右半分を持ってる人が、至急あなたにお目にかかりたいといってますので」 「なんですって」  絹代はやにわに、その青年にとびついていくと、 「その方——その方——いったい、どこにいますの。そして、どうして、今まで出てこなかったんですの」  絹代の剣幕《けんまく》があまり激しかったので、青年は思わず、眼をパチクリとさせながら、 「じつはその人、病気で寝ているんです。今まで、新聞を読むことができなかったのです。それがさっき、ふと付き添いの者から話をきいて、そこで急に騒ぎ出したのです。その人、自分で出てこれないものだから、ぜひあなたに来ていただきたいというのです」 「ええ、まいりますわ。まいりますわ。どこへでもまいりますわ」  時計を見ると三時半である。ぐずぐずしていると、折角、あとの半分が手に入っても、間に合わなくなってしまう。大黒屋デパートでは、ちゃんとこの期限のこと、抽籤のやり直しのことを、新聞に発表してしまったので、たとい、一分一秒おくれてもだめになるのだ。 「待っててちょうだい。いま電話で自動車を呼びますから」  電話をかけると、すぐガレージから自動車がやってきたが、運転手はほかならぬ桑原である。 「桑原さん、桑原さん、喜んでちょうだい。一万円。いよいよ一万円よ、あとの半分の持ち主が見つかったの」  桑原はそれを聞くと、びっくりしたような表情《かお》をしたが、すぐふふんと軽蔑《けいべつ》するように肩をそびやかす。あの日以来、桑原はすっかり気を悪くしているのである。 「あなた、さあ、早く乗って。そして行先はどこなの?」 「行先は築地《つきじ》なんです」  青年はなぜかおどおどした調子でいった。  しかし、うれしさに有頂天になっている絹代は、そんなこととは気がつかず、 「桑原さん、築地よ、わかって? 急いでね。もうあまり時間がないのだから」  桑原は不機嫌そうにむっつりとしてハンドルを握ったが、それでも、間もなく自動車は、まっしぐらに砂塵《さじん》を巻いて走り出した。  やがて、青年の指図《さしず》によって、自動車のとまったのは、新橋演舞場からほど遠からぬ、ゴミゴミとした路地の一角。 「さあ、この家ですよ」  青年はいち早く自動車からとびおりると、ガタビシと立てつけの悪い格子戸をひらいて、 「さあ、君、もういいから帰ってくれたまえ」  と、桑原にいった。  これはまことに不思議な言い分といわねばならぬ。どうせ富籤《とみくじ》が首尾よくそろえば、すぐまた、大黒屋へ駆けつけねばならないのだから、そのまま待たせておいた方がよかりそうに思える。  しかし、気の顛倒《てんとう》している絹代には、そんなことさえ気がつかなかった。彼女が急いで家の中へとびこんでみると、見すぼらしい家の中はまるで空家《あきや》のようにがらんとしているのだ。 「ああ、病人は二階に寝ているんですよ。さあ、僕がご案内しましょう」  青年はそういいながら、そっと格子に鍵《かぎ》をかけたが、絹代はそれにも気がつかなかった。  やがて青年に手をひかれて、ぎちぎちと鳴る危っかしい階段を登っていくと、雨戸をとざした二階の部屋はまっくらである。絹代はそれでもまだ気がつかなんだ。病人のことだから、わざと雨戸をしめて暗くしてあるのだろうと思ったのである。  が、そのとたん、青年がいきなり彼女の体を抱きすくめると、ぐいと側へひき寄せたから、絹代は思わずあっと低い叫び声をあげた。 「な、何をするんです。そして、ご病人というのは、いったい、どこにいるんです」 「ふふふふふ」  青年は急に腹をかかえて笑い出す。と、 「病人なんか、どこにもいやしねえよ。君はまだ気がつかねえのかい。さっきの話は、ありゃ、みんな嘘だ」 「なんですって!」 「ははははは、だましてお気の毒だったな。ご愁傷《しゆうしよう》さま」 「いったい、あなたは——あなたはどなたです。なんのために、こんな悪戯《いたずら》をなさるんです」 「俺かい、俺はね、マドロスの史郎《しろう》といって、銀座じゃ少し顔の売れた男さ。俺には妙な癖があってね、世間の評判になった女があると、妙にそいつに手を出したくなるのさ。だから、この間も仲間の奴と賭《か》けをしたのよ。甲野絹代というこの女を、必ず俺のものにしてみせるとな。だからさ、じたばたしずにおとなしくしていねえ」  マドロス史郎は、暗闇の中で爛々《らんらん》と不気味な目を光らせると、スラリと抜いたのは白刃の短刀、絹代はそれを見ると、思わず足もとの床がひっくり返るような恐怖にうたれた。 「あなた、あなた、堪忍《かんにん》して。この富籤の破片《きれはし》がいるならあげます。どうぞ、許して、許して」 「ばかをいいねえ、そんな反古《ほご》みたいなものをもらったところで、何になるものか。俺の欲しいのは君の体さ。そいつを俺のものにしなけりゃ、仲間の連中に顔が立たねえ」  ぐいと手を握られて、絹代はもうだめだと思った。男の荒々しい息遣いが、情欲に燃える体臭《たいしゆう》が、くらやみの中から嵐《あらし》のようにいどみかかってくる。 「あれ」  絹代は男の手を振り払って、階段の方へ二、三歩いきかけたが、すぐうしろに引き倒された。跳ね起きて、奥のほうへ逃げようとすると、 「こん畜生、この刃物が目に入らねえのか」  焼刃の臭いにつーんと鼻をつかれて、絹代はくたくたとその場にへたばってしまった。それを見るとマドロス史郎、にやにやと薄気味の悪い北叟笑《ほくそえ》みをうかべて躍りかかってきたが、その瞬間、不思議なことがそこに起こったのである。  ピシャッ!  と、小気味のいい平手打ちの音。とたんに、マドロス史郎は、もんどり打って畳をなめた。 「誰だ、どいつだ、邪魔しやがるのは!」  起きあがろうとするところを、暗闇の中から、靴のまま、いやというほど脾腹《ひばら》を蹴《け》られたところが、あいにく、階段のうえだったからたまらない、がらがらがら、物凄い家鳴りをさせて、階段を転げおちると、そのまま、踏みつぶされた蛙《かえる》みたいに動かなくなってしまった。 「絹代さん、絹代さん、僕だよ、どうも様子が変だから、裏口から忍びこんできたんです」  暗闇の中から、聞きおぼえのある、あの懐しい声。それを聞いたとたん、絹代の双眸《そうぼう》から、どっと熱い泪《なみだ》があふれてきた。 「ああ、桑原さん、桑原さん!」     七 「桑原さん、あたしばかだったのね。あんな富籤に執着を持っていたから、ああいう悪い奴につけこまれたのね」  それから間もなく、自動車で銀座を走っている二人だった。運転台に、桑原と並んで座っている絹代は、いくらか寂しそうに溜息を吐《つ》いた。 「あたし、もうあきらめるわ。あんな富籤のことなんか、どうなっても構やしないわ」 「絹代さん、君はそんなにあの金が欲しいのかい」 「そりゃそうだわ。あたしお金が手に入ったらと、すばらしい計画を立てていたんですもの」 「いったい、どんな計画なんだい?」  桑原が苦りきって聞くと、絹代は思わず頬を紅《あか》らめながら、 「あたしね、あら、だってあたし恥ずかしいわ」 「何、恥ずかしいことがあるものか、言いたまえ」 「ええ、じゃ思い切って言っちまうわ。あたしね、一万円、いや、五千円でもいいわ。それだけあれば、自動車が、二、三台買えるでしょう。そしたら、あんたに、そんなによその雇人《やといにん》じゃなくて、自分でガレージの経営をしてもらおうと思ってたのよ」 「なんだって!」  桑原が声を立てた拍子に、ハンドルの手もとが狂ったものだから、危く人を轢《ひ》きそうになった。 「気をつけろい」 「あら、すみません。あなた気をつけなくちゃだめよ、あたし、まだ話が残っているのに」 「ど、どんな話が残っているんだ」 「そいからね、ついでに花嫁衣装ももらえるでしょう。そしたら、それを着て、あなたさえいやでなかったら、あたし、あたし。……」 「よし、わかった!」  桑原が叫ぶと、自動車は疾風《しつぷう》のごとく銀座を走り抜け、やがてピタリととまったのは、大黒屋デパートの表口。 「あら、あら、あなたどうしたのよ」 「なんでもいいから、早く、早く」  絹代の体を引きずるようにして重役室へ躍り込んだ桑原は、折から新聞記者に取りかこまれて時計と睨《にら》めっこをしていた磯野専務に向かって、 「専務さん、専務さん、あの景品を戴きにまいりました」  言いながら、自分のポケットからつかみ出したのは、間違いもない、はノ八八八八番の右半分。  絹代はそれを見ると、うーむとばかりに気を失ってしまったのである。     八 「桑原さんたらきらい、あなた随分意地悪ね」  無事に花嫁衣装と一万円を専務の手から受け取り、幸福な一対として、重役連や、新聞記者諸君から祝辞の雨を浴びせられ、写真班に取りかこまれた時、絹代はそういって桑原を睨むようなまねをしたのである。 「ごめん、ごめん、あの日ね、当たり籤を新聞で見た時、君を喜ばそうと思って、すぐ君んとこへとんでいったのだよ。ところが、君自身があとの半分を持ってるばかりか、僕をあんな風に、鼻であしらうんだもの、女って奴は金が入るとなると、掌《てのひら》を返すようにつれなくなるもんだといまいましくなって、君を焦《じ》らしてやったんだよ。ほんとうにごめんね、君があんなつもりだとは夢にも知らなかったもんだから」  桑原はペコペコと頭を下げて謝ったことであった。  さて、この幸福な結末に、さらに意外な蛇足《だそく》をつけるなら、あの城南の奇人だが、あの人の胃癌というのは、とんでもない医者の誤診であることが、それから間もなくわかったのである。一ヵ月どころか、おそらく彼は、今後少なくとも二十年は生きるだろうという、他の医者の保証に、喜び勇んだその人は、自ら桑原と絹代の仲人《なこうど》の役を買って出たばかりか、その人はたいへん金持ちだったので、今後二人の保護人《パトロン》になることを誓ったのだ。  結婚式の費用は一切大黒屋デパートで受け持って、いたって盛大に行なわれた。そして絹代があの花嫁衣装を着ていたことはいうまでもないが、花婿《はなむこ》である桑原のほうにも、改めて、大黒屋から式服一切が贈られた。  大黒屋はそれくらいのことをしてもよかったのである。なぜといってこの事件が大宣伝となって、一時、その経営を危ぶまれていた大黒屋デパートは、それ以来すっかり持ち直したという噂《うわさ》があるくらいだから。なんと皆さん、三方、四方こんなめでたい話はないじゃありませんか。 [#改ページ] [#見出し]  仮面舞踏会     一  数年以前、毎年秋に開催される上野の美術展覧会に出品されて、非常に評判になった絵に、「仮面舞踏会」というのがあった。  鹿鳴館《ろくめいかん》時代における仮面舞踏会を描いたもので、その珍しい風俗と、絢爛《けんらん》たる色調が、あっと人々を驚かせたものであった。  一体、鹿鳴館時代の風俗というものは、わが国の風俗史のなかでも一種独特なもので、そこには極端な欧化趣味の権化《ごんげ》が見られると同時に、一方ではまた、まだ消えやらぬ江戸風俗の残紅《ざんこう》が、幻のように尾をひいている。この二つがあい交錯《こうさく》しながら、しかも一種整然たる統制を保ちつつ織り出したその時代の風俗というものは、現今《いま》から見ると、それよりずっと古い時代の風俗よりも、かえって、われわれの目には物珍しくかんじられるのである。 「仮面舞踏会」はこういう物珍しいその時代の風俗を、絢爛たる色彩で、たくみにうつしたものだった。  画面にはヴィクトリヤ朝時代の、あの襞《ひだ》の多い、長いスカートを引きずった三人の女と、同じ時代の宮廷使臣みたいな服装をした美貌《びぼう》の青年と、ほかに稚児輪《ちごわ》に結った二人の童女が巧みに按配《あんばい》されている。青年は三人のなかでも、一番美しい婦人の手をとって、いままさに踊り出そうとしていた。そして、二人の童女を除いたほかの全部は、みな顔に黒いビロードのマスクをつけている。——と、だいたい、そういった場面なのである。  当時、この絵は非常に世評が高かったにもかかわらず、不思議なことには、肝腎《かんじん》の筆者については、柚木静馬《ゆのきしずま》というその名前以外に、ほとんど知られるところがなかった。ましてや、この絵にからまる一場の因縁噺《いんねんばなし》にいたっては、ごく少数の当事者のほか、誰ひとり知る者はなかった。私がこれからお話ししようというのは、世にも不思議なその因縁噺、一種の復讐綺譚《ふくしゆうきだん》ともいうべき物語なのである。  それはこの絵が世評にのぼった年の夏のはじめ頃《ごろ》、——詳しくいえば昭和×年五月下旬の、とある午後のこと、折しも新緑にてり映える日比谷《ひびや》公園のかたすみで、さっきから熱心に、ひそひそ話をつづけている二人の青年があった。 「それじゃこうだね、なんでもいいから、だしぬけにその馬を驚かせる。馬車がいきなり疾走《しつそう》する。——と、こういう具合にやればいいのだね」 「ええ、そうなんです。ひとつそういう運びに願いたいのです」 「なある。そこであれよあれよという騒ぎになったところで貴公《きこう》が颯爽《さつそう》ととび出して、車上の佳人《かじん》を救けるという寸法か。チェッ、うまくやってやがる。しかし、この筋書きは少々古いぜ」 「ええ、古いことは古いのですけれど、さしあたりそれより他に方法が見当たらないものですから。——どうでしょう。手伝っていただけるでしょうか」 「それはまあ、お前の頼みとあれば、どうでも片肌ぬがざなるまいが。——しかし、相手というのはいったい何者なんだね」 「それは……」  と、言葉をにごして、もの静かな微笑をうかべたのは、年の頃《ころ》はそう、二十二か三か、のびのびとした姿態はまるで女のように華奢《きやしや》でいながら、しかも、その華奢な筋肉のどこやらに、不思議な強靭《きようじん》さを秘めている。——とそういったふうな、世にも類いまれな美青年、艶々《つやつや》とした黒ビロードの洋服に共色のベレー帽、大きく結んだボヘミアン・ネクタイ。無造作《むぞうさ》ななかにも、好みのいい統一がほの見えて豹《ひよう》のようにもの静かな底に、何やら得体の知れぬ鋭さを持った青年だった。  それに較べるともう一人のほうは、年も五つ六つ上なのだろう、色浅黒く、体つきもずんぐりとして、つぶれた鼻、ちぎれた耳、——この男は水原謙三《みずはらけんぞう》といって、銀座でもちょっと顔の売れた拳闘家くずれ、世間では不良というが、根はいたって善人で、義侠心《ぎきようしん》にとんだ男だという評判がある。  水原はしきりに爪をかみながら、 「そりゃどうせ、お前ほどの男が目をつけようという相手とあれば、凄いような美人にゃちがいなかろうが、いったい、どういう素性《すじよう》の娘なんだい。馬車に乗ってるてえからにゃ、いずれ金持ちの娘にゃちがいないだろうが、どこかのお姫様かい」  拳闘家くずれの水原は、探るように相手の顔を見たが、相手は依然として、物静かに微笑《わら》っているばかり、若葉に映えた顔のいろが、まるで草色水晶のように美しい。 「おいおい、いやに出し惜しみをするじゃないか。なにも向こうさまの素性を聞いたからって、タカろうの、強迫《ゆす》ろうのって心算《つもり》じゃない。憚《はばか》りながら静《し》イちゃん、こんないやな役目に片肌脱ごうというのも、俺あけっして欲得ずくじゃないぜ。お前に対する友情からだということは、お前もよくわかっていてくれるだろうね」 「ええ、それはよくわかっているんです」 「わかっててもらえばありがたい。じつはね、静イ公、俺あさっきから心配でたまらないんだ。お前のような日頃からおとなしい男がよ、こんな性質《たち》の悪い狂言を書いてまで、その娘とやらと懇意にならなきゃならぬというのにゃ、よくよくの事情があると思われる。そいつが俺にゃ気になってたまらないんだ」  水原に顔をのぞきこまれて静イ公という青年は、ボーッと頬を赧《あか》らめたが、すぐキラキラと輝く瞳《ひとみ》をあげると、 「水原さん。それについては、いずれお話しする時機もあると思います。しかし今は。——あまり詳しく言いたくないのです」  と、何事か深く思い込んだ様子。  水原も相手の決心の動かし難いと見るや、半ばあきらめた様子で、 「そうか、お前がそんなに考えこんでいるんじゃ、よくよく深い事情があるのだろう。俺はもう何もいわねえ。よしよし心配するな、万事は俺が引き受けた」 「水原さん、それじゃ、やってくれますか」 「フム、大丈夫ってことよ。お前の望みどおりうまく筋書きを運んでみせらあ」 「ありがとう」  ホッとしたように軽く溜息《ためいき》を吐《つ》く青年の肩に手をおいて、 「ばか、礼なんか聞きたくはねえ。それよりお前うまくやんなよ」  と、力強く言ったが、ふと向こうに目を走らせると、 「あ、来た、あれじゃねえか」 「あ、そうです!」  さすがに青年の顔色もさっと変わる。 「よし、引き受けた、お前はどっかいいところで待ち伏せていねえ」  二人はさっと左右に別れたが、それにしてもこの青年、いったい何をたくらんでいるのだろう。  折からドカーンと花火があがって、公園の新緑がさやさやと風にゆれる。     二  その日は日比谷公園のなかで、盛んな慈善市《バザー》が開かれていた。  この慈善市の主催者というのが、貴婦人たちからなる、ある有名な団体だったので、当日の客にも名家の子女が多く、公園の入口には主《あるじ》を待つお抱《かか》え自動車がめいめいその豪奢《ごうしや》を競《きそ》っている中に、ひときわ目立って人の注意を惹《ひ》いたのは、近頃珍しい一台の馬車。  金の定紋《じようもん》も由緒ありげに二頭の栗毛《くりげ》も手入れがよく行届《ゆきとど》き、その垢《あか》抜けのしたすがたかたちは、月並みな自動車の群のなかにあっていかさま燦然《さんぜん》と異彩をはなっているのである。  今しもこの馬車に向かって急ぎあしで近寄って来たのは二人づれの女、一人は年頃十八、九の、それこそどこかのお姫様かと思われるばかりの臈《ろう》たき娘、洋装の胸に花束を抱えて、ほんのり頬を上気させているのは、おおかた慈善市の買物につかれたせいであろう。  もう一人は、ひと目で付き添いと知れる中年の、いかつい顔をした女。 「婆《ばあ》や、慈善市ってほんとに疲れるものね。あたしあんまり皆さまが、やいやいおっしゃるもんだから、すっかりのぼせちまって。……」 「それはお嬢様、あなた様があまりお美しいからですよ。随分きょうは綺麗《きれい》なかたもお見えでしたが、お嬢さまほど美しいかたは一人だってございませんでしたものねえ」 「あれ、婆や、そんな、はしたないことをいうものじゃないわ」  二人はそんなことをささやきながら、件《くだん》の馬車に近づいてきたが、それと見るより馭者台《ぎよしやだい》から、ひらりと飛び下りた馭者がうやうやしく扉《ドア》をひらく。 「ありがとう」  軽くつぶやきつつ娘は乗った。それにつづいて付き添いの婦人も乗ろうとしたが、その時である、ふいに物陰から現われたひとりの男が、よろよろと馬の鼻面へ近寄って来たかと思うとやにわにポケットから取り出したのは一|挺《ちよう》のピストルだ。こいつをズドンとぶっぱなしたからたまらない。  馬という奴は元来物に驚き易くできている。  このふいの襲撃に、ヒヒーンと前脚高く宙を蹴った二頭の栗毛は、そのまままっしぐらに駆け出したから、驚いたのは車上の娘だ。 「あれ、誰か来てえ」  と、狂気のように叫んだが、一旦狂った二頭の栗毛は、そんなことで止まろうはずがない。咄嗟《とつさ》の出来事に呆然《ぼうぜん》として立ちすくんでいる、馭者と付き添いを路傍《ろぼう》にのこして、お濠端の柳の下をまっしぐらに。—— 「あれ。誰かお嬢様を助けてえ。お嬢様、お嬢様」  ようやく気がついた付き添い婦人が、日頃のたしなみも忘れたか、地団駄踏《じだんだふ》みながら泣き叫ぶ。馭者もあわてて、しばらく馬車のあとを追ってみたが、もとより人間の脚で追いつこうはずがない。  にわかの椿事《ちんじ》に、公園付近から濠端《ほりばた》へかけて、はや黒山の人だかり。 「そら、危い、蹴殺されるな」 「かわいそうにあのお嬢さん、大怪我《おおけが》をしなけりゃおさまりがつくまい」  等々と口々にわめきながら、手に汗握《あせにぎ》っている者はあっても、誰ひとり救いにとび出そうとする者はない。  こういう騒ぎにまぎれて、いつしかさっきの怪漢は姿をかくしてしまったが、こちらは気違い馬車だ。  危く人を二、三人蹴殺しそこなった馬は、人の悲鳴を聞くたびに、いよいよ神経を昂《たか》ぶらせて、今はもう無我夢中、鬣《たてがみ》をふるわせ、口から白い泡《あわ》を吹きながら、この分だと、何かに衝突して大怪我をするか、お濠へでも落ちて死ぬか、二つにひとつ、行くところまで行かないことには、なかなか止まりそうな気配は見えない。  車上の娘もすでに観念したのか、もう泣き叫ぶことはやめた。じっと歯をくいしばり、瞳《ひとみ》をすえたところは、まるで恐怖の権化《ごんげ》のよう、解けた髪の毛がさっとうしろになびいて、顔色は蝋《ろう》のように真白だったが、それでもよっぽど気丈な性質《たち》と見える。気も失わないで、しっかと馬車にしがみついているのだ。  ——と、この時である。  ふいにバラバラと濠端の、柳の下から飛び出したひとりの青年、あっという間もない、ひらりと飛鳥の早業《はやわざ》で馬車へ飛び乗ったから、驚いたのは逃げまどうていた人々だ。 「あ、危ない」  思わず叫んだその刹那《せつな》。  青年は馬車からさらに、一頭の栗毛の背へと、ひらりと飛び移るとピタリと体を伏せた。振り落とされぬ用心であろう。よほど心得のあるものでなければこうはできない。 「叱《し》っ、叱《し》っ、叱《し》っ!」  青年の体はしばらく、柳の鞭《むち》のようにしなやかに、馬上で揺れていたが、叱《しか》るような、なだめるような、言いきかせるような穏やかな声音《こわね》、さらに優《やさ》しく鬣をたたかれて、不思議や、さしもの荒馬も、しだいに蹄《ひづめ》の勢いがくじけていく。それにつれて、ほかの一頭もだんだん気が落ち着いてきたらしい。  馬にしたってそうむやみにあばれ回りたくはなかったにちがいない。騎虎《きこ》の勢い、自暴自棄《やけくそ》になって疾走していたものの、上手《じようず》に制《と》めてくれる者さえあれば、制めてもらいたかったにちがいないのだ。  かっかっと土を蹴る音が、しだいに穏やかになってきたから、どうなることかと手に汗握っていた人々のあいだから、思わず拍手の音がわき起こった。  やがて馬車はピタリと立ち止まる。青年は背をこごめて、何やら馬の耳にささやいていたが、やがて、にっこりとうしろの娘を振り返った。 「お嬢さん、もう大丈夫ですよ」  そう言って微笑《わら》ったその青年の美しさ。  令嬢は青年が飛び乗った刹那から、身動きもしないで、じっと後姿を見つめていたが、いま振り返ったその顔を見たとたん、どうしたのか、ふいにぎょっとしたように息をのみこんだ。そしてなおも一心に、瞳をこらして青年の顔を見つめていたが、やがて、その頬にはさっと紅《くれない》の色がひろがっていった。  何かよほど感動したらしいのである。 「随分、びっくりなすったでしょう」  青年は美しくほほえんでいる。 「ええ、ありがとうございました」  令嬢の頬にも、はじめて微笑がのぼった。 「でも、あなた、今馬の耳に何をささやいていらっしゃいましたの」 「ははははは、なあに、なんでもありませんよ。それより——あ、ちょうどいい。向こうへいらしたのはお連れのかたじゃありませんか」  青年の言葉どおり、折からタクシーをかった付き添い婦人と馭者の二人が、血相かえて駆けつけてきた。 「まあ、お嬢様」 「婆や、よかったわ。こちらのかたに助けていただいたの」  抱きつく婦人に、明るくほほえんでみせた令嬢は、何やらすばやくその耳にささやいたが、すると付き添い婦人もびっくりしたように、青年の顔を振り返ると、 「あら、まあ、本当に」  と、孔《あな》のあくほど、青年の顔を見つめている。青年は照れたように顔を紅《あか》らめると、 「いや、それでは僕はこれで失礼します。じゃ、気をつけていらっしゃい」 「あれ、あなた!」  付き添い婦人は思わず馬車から体を乗り出すと、 「私としたことがお礼も申し上げないで、とんだ失礼をいたしました。せめてお名前でも」 「僕ですか。なあに、僕は柚木静馬《ゆのきしずま》という貧乏画家ですよ」  青年は無造作《むぞうさ》に言い放ったが、その名は征矢《そや》のように令嬢の心臓をつらぬいた。  彼女はあっと口に手をあてると、見る見る真青《まつさお》になっていったのである。     三  緒方《おがた》将軍というのは、維新《いしん》の功臣《こうしん》のなかで、現在まで生きのびているごく少数の一人である。当年とって九十何歳かになる老将軍は、今もなお赤坂《あかさか》にある邸宅の奥ふかく、静かな余生を送っていられるが、この数十年間というもの、老将軍はついぞ一度も外へ出られたことがなかった。どんな会合の席にも、将軍は姿を現わさなかったし、また、どんな噂《うわさ》も将軍の身辺から洩《も》れることはなかった。まるで貝のように頑固な隠遁《いんとん》生活をつづけていられるので、ひょっとすると、将軍は気が狂っていられるのではなかろうかというような、はしたない取り沙汰さえ、世間に流布《るふ》しているくらいだった。  それはさておき、赤坂にあるこの将軍の邸宅には、将軍のほかに三人の孤独な婦人が住んでいる。将軍の一人娘の澄枝《すみえ》という老女と、将軍の孫にあたる鷺子《さぎこ》という中年の婦人と、もう一人将軍の曾孫《ひまご》にあたる千晶《ちあき》という、今年十八になる美しい令嬢である。  この千晶という名は、ずっとずっと前に亡くなられた将軍の奥さんの名をそのままもらったもので、不思議なことには、代々緒方家には、娘が一人ずつしか生まれなかった。しかもこの娘たちの養子が、皆若死にをしてしまったので、今では将軍には曾孫、澄枝夫人には孫、鷺子夫人にはわが子にあたる令嬢の千晶が、緒方家の唯一の希望として取り残されているのである。  千晶は母夫人祖母夫人の手で、掌中《しようちゆう》の珠といつくしまれ、世にも美しい令嬢となったが、夢見がちなその年頃の常として、彼女はどうかすると、自分の家はどうしてこうも、暗くて陰気なのだろうと、時々はがゆく思われるのである。  母の鷺子夫人も、祖母の澄枝夫人も、この上もなく優しい気性のいい人であったが、彼女たちは話をするにも、ほとんど大きな声を立てたことがない。  この赤坂の邸というのは、あの大震災《だいしんさい》の厄《やく》もまぬがれ、今では五、六十年も経った古いものであるという話だが、ちょうどこのお屋敷のように、母も祖母も古めかしく、物静かで陰気だった。さらに曾祖父の老将軍にいたっては、離れの一室に閉じこもったきりで、千晶ですら、年に何度と数えるほどしか、顔を合わせることはないのであった。  かつてはこの屋敷でも、にぎやかな園遊会が開かれたこともあるという話だ。また高貴なかたや、外国の使臣をお招きして大広間ですばらしい舞踏会がひらかれたこともあるという。しかし、それはすべて、千晶のまだうまれない、ずっと昔の話で、そんなことを聞いても、千晶はとうてい信じられぬくらいであった。  もっともいまでも年に一度は、この邸内でささやかな舞踏会がひらかれる習慣《ならわし》になっている。しかし、それはなんという惨《みじ》めな舞踏会だろうか。——千晶はそれを思うさえ、ぞっとするような肌寒さをかんじるのである。しかも、恒例《こうれい》のその舞踏会は、明後日の晩に迫っているのである。  千晶は今もそれを考えると、ホッとやるせなげな溜息をつきながら、青葉の鬱陶《うつとう》しい庭に目をやった。彼女の体内には、母夫人や、祖母夫人から受け継いだ物静かな血と、若い頃の将軍の体内にたぎりたっていた、あの強い嵐《あらし》のような血とがいつも執拗《しつよう》にたたかっている。そしてどうかすると、若い彼女は後者の本能に打ちまかされそうになるのだった。  千晶は今も、数日まえに起こった、あの日比谷におけるスリリングな出来事をうっとりと回想している。疾走《しつそう》する奔馬《ほんば》、木《こ》の葉のように動揺する馬車、嵐のようなその激情と、それから突如として現われた、若い美貌《びぼう》の英雄と。—— 「柚木静馬」  ひくい声でつぶやいて、彼女は思わず頬を紅《あか》らめる。それから彼女は、卓上に伏せてあった小型の額を、目のまえに立てかけてみた。  ——と、なんということだろう。その額の中にはまぎれもなく、あの青年の凜々《りり》しい半身像がにっこりと微笑《わら》っているのだ。しかも、その写真の一隅には、  ——千晶さんへ、柚木静馬  という署名さえあるではないか。  しかし、諸君、早合点をしてはいけない。あの青年がいつの間にやら、千晶嬢に写真を贈ったものだろうなどと考えたら大間違いである。なぜなら、この写真は千晶や静馬がまだうまれない前、ずっと昔に撮影されたものだからである。  もしこの写真を子細《しさい》に調べてみたら、明治二十三年撮影と打ち抜いた文字と、今はもうなくなっているはずの写真館の名前とが発見されるはずだった。  なんという不思議なことだろう。  明治二十三年頃にも、千晶という女性と、柚木静馬という青年が、この世に存在したのだ。しかも、その柚木静馬は、現在生きているあの柚木静馬と、そっくり同じ顔かたちをしている。…… 「まあ、お嬢様、こんなところにいらしたのですか」  その時、せかせかとした足どりで入って来たのは、この間の付き添い婦人である。令嬢はそれを見ると、バッタリと額をテーブルの上に伏せた。 「まあ、何をご覧あそばしてたのですか」  付き添い婦人は容赦をしない、令嬢の伏せた額をとりあげると、別に驚きもしないで、 「ほんとうに不思議ですことねえ。名前ばかりか顔かたちまでそっくりそのままなんでございますものねえ。ねえ、お嬢様、あたし、やっとあのかたをここへお招きする口実を見つけましたのよ」 「まあ、婆や」 「何もそんな顔をなさらなくてもようございますわ。悪いことするというのじゃありませんもの。ほら、いつか祖母《おばあ》様が、嬢の肖像を誰かに描かせたいとおっしゃったでしょう。あたしそれで、ちょっとあのかたのことを調べてみましたのよ。なんでもまだ無名なかたですけれど、大変有望なんですって。そういう有望な画家の後援をなさることは、少しも悪いことではありませんわ。それにこの間救けていただいたご恩もあるんですしね。お祖母様がただってきっと賛成なさいますわ」 「まあ、婆や、そんなことができて?」 「できるもできないもありませんわ。私ちゃんとあのかたにお願いしてまいりましたの。柚木さんも大変乗り気でいらっしゃいましたわ」 「まあ、じゃお前あのかたにおめにかかったのかい」 「ええええおめにかかりましたとも、お嬢さんのご肖像ならぜひ画かせていただきたいと、それはそれは大喜びでございましたわ。それにねえ、お嬢さま」  と、付き添い婦人はふいに声を落とすと、 「ほら、明後日の仮面舞踏会ですわね。あれにもあのかたに出席していただいたらどうかと思いますの」 「まあ、そんなこと!」 「いけませんか、いいじゃございませんか。いかに緒方家の儀式とはいえ、毎年のようじゃあまり陰気ですもの。今年はぜひ若い男のかたにも一人ぐらい——と、私まえから思っていたのですよ。あのかたはあんなにご上品でいらっしゃるし、それに何かしら、ご当家に縁がつながっているんじゃないかと思いましてねえ。まあ、万事私にまかせておおきあそばせよ」  付き添い婦人は何もかものみこみ顔に、ひとりでべらべらとまくしたてるのである。     四  世の中に何が陰気だといって、緒方邸において年に一回催される、あの仮面舞踏会ほど陰気なものはほかになかったであろう。  舞踏会というよりも、これは一種の儀式であった。招待客といってはひとりもない。ただ緒方老将軍の血をひいた三人の女性のみが、古めかしい鹿鳴館時代の衣装を身にまとい、踊るというよりも、ただひそひそとささやき交わしながら、だだっぴろい、陰気な大広間をそぞろ歩きするだけのことなのである。  いつごろから、こういう儀式の習慣がはじまったのか知らない。しかし、千晶がもの心ついた時分からそうであった。  若い千晶はこの陰気な舞踏会を何よりもきらった。そして時々母夫人に向かって、不平を洩らすことがあったが、そういう時、鷺子夫人の返す言葉はいつもこうである。 「これはお祖父《じい》様のおいいつけなのです。お祖父様が生きていらっしゃる限り、この儀式はつづけねばなりません」  なぜそうしなければならないのか、何かこれには深い子細があるのかないのか、それすら、千晶にはわからないのであった。  さて、その年の仮面舞踏会も、例年にたがわず至極陰気にはじまった。  千晶は毎年着せられる、古い、古風な夜会服を着せられて大広間の中央に立たせられた。千晶はこの夜会服を着ると、いつもゾーッと総毛立つような肌寒さを感ずるのだが、かつて曾祖母——彼女と同名の千晶夫人が着たという、この夜会服は、ぜひとも彼女が着用しなければならないものであった。  祖母の澄枝夫人も、母の鷺子夫人も、似たり寄ったりの古風な夜会服の裾《すそ》を引きずって、世にも物うげに大きな羽根扇《はねおうぎ》を使っていた。千晶はそういう祖母の、しなびた肩や腕を見ると、いつも涙が出そうなほどやるせなくなってくる。  かつては高貴のかたをお迎えしたこともあるという大広間には、年に一度の大装飾燈《だいシヤンデリア》が灯《とも》されているが、それとても、ちっともあたりを引き立てる役に立ちはしない。いやいや、あたりが明るければ明るいほど、一層、名状することのできないわびしさが、ひしひしと身に迫ってくる。  やがて、祖母の澄枝夫人が、 「しっ」  と、扇を唇にあてると千晶の手をとった。 「お祖父様のお出ましですよ」  なるほど、その時大広間の一隅から、さっと重い帳《とばり》を排《はい》して現われたのは、六尺豊かな老将軍だった。長い隠遁《いんとん》生活にもかかわらず、将軍の顔色は壮者のような瑞々《みずみず》しさにあふれている。髭《ひげ》も髪も真白だったが、しかし金ピカの大礼服を着て、シャンと突っ立った将軍の姿には、とうてい九十幾歳の高齢とは思えない頑健さがあった。  将軍は広間《ホール》の入口に立ったまま、三人の女性を順繰りにながめている。やがて、その視線が千晶の面《おもて》にとどまった時、ごくかすかな微笑がその唇のはしにのぼった。 「千晶!」 「はい」  澄枝夫人と鷺子夫人からうながされて、千晶は消え入りそうな声で答えた。  老将軍はそれを聞くと満足そうに、 「うむ、お前はやっぱり生きておったのだな。俺《わし》の思うとおりだった。あれはやっぱり夢だったのだ」  老将軍は額に手をおいて、何か考えこんでいるふうであったが、やがて、きっと目をすぼめると、にわかに不安らしく、きょろきょろとあたりを見回しながら、 「だが、——あれはどこへ行った。あの男はどこへ行った。——柚木静馬は。——」  ふいに澄枝夫人と鷺子夫人が、ゾーッとしたように身震いをした。ふたりは不安そうに目を見交《みか》わすと、ホッとやるせなげに溜息をつく。老将軍の瞳にはさっと恐怖のいろが燃えあがった。 「ああ、あれはいない。あの男はいない。やっぱり俺《わし》はあの男を殺してしまったのだ」 「いいえ、閣下」  その時、思いがけなく低いさわやかな声が、ホールの一隅からきこえてきたのである。 「柚木静馬はここにおります」  あっというような叫びが、澄枝夫人と鷺子夫人の唇からもれた。二人はふいに冷水でも浴びせられたように、ゾーッとして振り返ったが、そのとたん、紙のように真青になってしまったものである。  ホールの隅には、画家の柚木静馬が、古い宮廷使臣の礼装を身につけて、にっこりと微笑《わら》っている。その輝くばかり美しい姿を見たとき、二人の婦人はもう一度恐怖の叫び声をあげた。  しかし、老将軍の様子はそれと少しちがっていた。将軍はしばらく、息をつめ、歯をくいしばり、孔《あな》のあくほど相手の顔をみつめていたが、ふいにつかつかと静馬のそばへ近寄っていって、その肩に手をかけた。 「おお、君か、やっぱり君は生きていたのか」 「はい、閣下」  静馬がかるく頭をさげると、将軍の面にはさっと歓喜の色がもえあがった。 「ありがたい、俺はやっぱり夢を見ていたのだ。それもいやな夢だった。柚木君、柚木君、君はそこにいるね」 「はい、閣下、ここにおります」 「柚木君、俺は君におわびを言わねばならぬ。君を疑ったのは俺のあやまちだった。柚木君、許してくれい」 「閣下」 「千晶、ここへおいで」 「はい」 「おまえにも俺は謝罪しなければならぬ。よしない嫉妬《しつと》からお前たちを疑ったのは、重々、俺のあやまちだったのだ。悪い鬼めが俺の理性を食いあらしおったのだ。さて柚木君」 「はい」 「俺は改めて君にお願いがある。聞いてくれるか」 「閣下の仰せなら何事でも」 「肯《き》いてくれるか、ありがたい。願いというのはほかでもない、千晶と結婚してもらいたいのだ」 「閣下」 「何もいうな、君がさからえば俺はまた物狂わしくなる。千晶は今日限り離婚する。どうか、この女と一緒になってくれたまえ」  老将軍は静馬の手をとって、千晶の腕を握らせると、はじめて満足そうににっこりと微笑った。 「ああ、これで俺も安心した。随分長いあいだ俺も迷うたように思う。今日のこの決心がつきかねたから、俺は苦しんだのだ。柚木君、わらわんでくれい」  老将軍はいとも満足げに二人の顔をながめていたが、その時ふたたび何やら名状のできない懐疑《かいぎ》のいろが、さっと将軍の面をくもらせた。  すると将軍は胸を射抜かれたように、よろよろとよろめいたが、ふいに背を向けると、すたすたとホールを横切って出て行こうとしたが、そこでくるりとまた振り返ると、 「柚木君、こちらへ来て見い、千晶もおいで」  言いすててまたゴトゴトと歩き出す。  千晶と静馬は思わず顔を見合わせたが、二人の婦人にうながされて、将軍のあとへついていった。  将軍の日常|起臥《きが》する離れの一棟は、そこから長い廊下でつづいている。  将軍は四人の男女を案内して、その離れへ来ると、ふと一隅の床板をあげた。見るとその床下にはすり減らされた石段がついていて、その下には暗い地下室があった。  将軍が黙々としてその地下室へ入っていくので、四人の男女もそのあとから続いて入っていった。 「灯《あかり》を」  暗い地下室の底で老将軍がつぶやいたので、静馬がすぐに点火器《ライター》を取り出してカチッと鳴らせた。暗がりの中でかすかに揺れる点火器《ライター》のあかり。そのあかりの中で、ふと地下室の一隅に目をやったとき、ふいに千晶は、 「あれ」  と、叫んで静馬に取りすがった。  彼女が驚いたのも無理はない。そこには白い二つの骸骨《がいこつ》が抱きあうようにしてよこたわっているのだ。しかも、それはなんという奇妙な骸骨だったろう。白い骨ばかりになっているのに、二つとも、黒いビロードのマスクを着けている。そして、一つのほうは千晶と同じような夜会服を、そしてもう一つのほうは、静馬が着ているのと寸分ちがわぬ礼服を身につけているのだった。 「ああ——」  老将軍はふたたび額に手をやると、よろめくようにしてうめいた。 「俺はやっぱり夢を見ているのだろうか。千晶と静馬はここにいる。そしてこれは俺が手にかけたのだ」 「いいえ、閣下、われわれはここにいます」  静馬の声はいちじるしくふるえていた。 「閣下はまだ悪い夢を見ていられるのです。いえいえ、屍《しかばね》はよみがえったのです。閣下、われわれはここにいます」  老将軍はふたたびひくいうめき声をあげてよろめいた。それからひざまずいて、わななく指で男の骸骨から指輪を抜き取ると、それを渡しながら、 「柚木君、これを千晶の指に——千晶は——千晶は——君のものだ。——」  静馬がそのとおり、千晶の指に指輪をはめたとたん、老将軍は朽木《くちき》のごとくその場に倒れた。澄枝夫人と鷺子夫人があわてて側へかけ寄った時には、老将軍はすでに息絶えていた。——     五 「柚木さん」  澄枝老夫人は、すでに将軍の鼓動が停止しているのを見ると、深い悲しみのいろをうかべながらも、物静かな声で静馬を振り返った。 「あなたはいったい、どういうかたなのですか。ここに白骨となっていられるかたと、どういうご関係がおありなのでしょうか」 「奥さん、私はその人の孫なのです。そして祖父と同じ名をつけられた男なのです。私は幼い時分から、祖母や母から祖父のことを聞かされていました。祖父は緒方老将軍の仮面舞踏会へ出席したまま、失踪《しつそう》したという話でした。ですから、いつかは僕がその真相をつきとめるために、このお邸へあがらねばならぬように教訓されていたのです」  澄枝老夫人はそれを聞くと、ほっと深い溜息をついた。 「やっぱりそうでしたか。今はもう老将軍もご他界されたのだから、何もかもお話しいたしましょう。将軍はあなたのお祖父さまと、私の母のあいだを疑われて、ある仮面舞踏会の夜、二人をここで殺してしまわれたのです。むろんそれはいわれもない疑いでした。そしてそのことがすぐ後からわかったのです。それ以来、将軍は気が狂ってしまいました。そして長い長い間、気の狂った将軍は、毎年その日が来ると、ありし日の仮面舞踏会を思い出し、そうして自分の手にかけた妻と、妻の結婚以前の愛人との面影をその席に探すのでした。しかし、しかし——」  澄枝老夫人は老いた目をしばたたきながら、 「その呪《のろ》いももう解けました。静馬さん、あなたは千晶と結婚して下さるでしょうね。さっき老将軍にお誓いになったように」 「はい」  静馬と千晶は、一種不可思議な運命の厳粛さを感じながら思わず首をうなだれた。 「それがあなたのお祖父様と、千晶の曾祖母——そのかたは将軍に対して非常に貞淑《ていしゆく》ではあったが、初恋の人を忘れかねていた哀れな私の母なのです——の遺志なのです。さあ、二人で将軍の目をねむらせてあげて下さい。そしてこの邸に長いあいだ覆《おお》いかぶさっていた、呪いの雲を吹き払ってしまいましょう」 [#改ページ] [#見出し]  佝僂《せむし》の樹    ことづけ  後から考えると、慎介《しんすけ》とその青年との間には、何かしら目に見えぬ糸、不思議な因縁とでもいうようなものが、結ぼれているように思われてならないのだ。この恐ろしい物語において、慎介が異常な熱心さを示したというのも、むろん、事件そのものの怪奇さにもよるが、一つには、はからずも彼がその最期に立ち合った、あの不幸な青年との間に結ばれた、因縁の糸の怪しさに心を打たれたからである。  それは伊豆《いず》の伊東から、熱海《あたみ》へ向かう乗合自動車での出来事であった。その時、乗合《バス》の中には慎介をのぞいて、たった一人しかほかに乗客はなかった。その一人というのが、いま言った青年なのである。  時刻はかれこれ七時頃、乗合《バス》はその時、八時幾分かに熱海を出る汽車をつかまえようと、まっしぐらに山腹の険所を縫うて駛《はし》っていた。日はすでに暮れ果てて、おまけに夕方から降り出した雨が、ひとしお烈しさを加えて、自動車のフロントグラスを打つ音が、まるで機関銃のような響きを立てていた。  慎介は窓ガラスに額をこすりつけて、帽子の縁が反《そ》りかえるのも構わずに、一心に外の闇を凝視していた。折々ザーッと音を立てて銀色の雨が横なぐりに窓ガラスを襲った。  しかし慎介がいま凝視しているのは、その雨脚でもなければ、断崖の向こうに拡がっている漆黒《しつこく》の闇でもなかった。じつはさっきから彼が一心に凝視《みつめ》ているのは、その窓ガラスに映っている青白い青年の横顔なのであった。 (どこかで見たことのある青年だ。どこで、いつ会った青年かしら)——  慎介は非常に身近かにかんじながら、しかもどうしても思い出せない焦立《いらだ》たしさに、さっきからあらゆる記憶の抽斗《ひきだし》をつつき回しているのだ。——その青年は慎介のすぐ筋斜《すじかい》の席に黙然として座っている。伊東で一緒に乗った時から一言も口を利《き》かない。普通こういう天候のこういう事情のもとに乗り合わせた客の誰でもが交わすような、ごく簡単な挨拶《あいさつ》すら、その青年の唇《くちびる》からは洩れなかった。  目を閉じ、歯をくいしばり、青白んだ額には、何かしら人をゾーッとさせるような陰鬱《いんうつ》さがあって、その顔を正視していると、ひしひしと心の苦悩が乗り移ってきそうな気がした。 (たしかに見た顔だ。一体どこだったかしら)  その時、自動車のタイヤがスリップしたらしい。ふいにガクンと大きな動揺が起こって、慎介も青年も思わず前にのめりそうになった。 「畜生ッ!」  運転手がいまいましそうに舌を鳴らした。  じつにその瞬間だった。慎介が忽然《こつぜん》として記憶の抽斗からその青年の顔を探《さぐ》りあてたのは。——  人はどうかすると長い間忘れることのできない、他人《ひと》の表情を記憶の底にしまい込んでいるものだが、いまその青年の示した、あのおびえたような目の色と、狼狽《ろうばい》した頬の痙攣《けいれん》——その表情がそれだった。慎介は最近——それもたった三日前に、同じ青年の同じ表情をあるところではからずも目撃したのである。 (ああ、そうだったのか、あの時の青年だったのか)——  慎介はあまりの奇遇に驚きながら、目を閉じて三日前の小さな出来事を回想した。後になって考えれば、その一見|些細《ささい》な出来事こそ、はからずも彼に結ぼれついてきた、世にも恐ろしい事件の最初の鎖《くさり》だったのだが。——  里見《さとみ》慎介はちかごろようやく知られてきた若い小説家だった。そして今はちょうど一ヵ月あまりの関西旅行の帰途なのである。この旅行の途次、彼がうまれ故郷の須磨《すま》のほとりに、中学時代の友人、磯貝謙三《いそがいけんぞう》を訪問したのは、つい三日前のことだった。  最初の予定では、彼はそこで三日ほど逗留《とうりゆう》するつもりだったが、あいにく磯貝の子供が疫痢《えきり》で寝込んでいるところだったので、わずか一泊しただけで早々に引き上げねばならなかった。 「どうもすまなかったね。悪い時に子供が病気になったりして。——」 「いや、僕こそ取り込みのところを失敬した」 「そんなこと。——家内も重々恐縮している。そのうちまた出かけて来てくれたまえ」  雨あがりの朝だった。トランクを提げていく慎介と、それを見送っていく磯貝とは、屋敷町の綺麗な土をさくさくと踏んでいた。 「もう、四、五日もしたら桜が咲くんだがね、それまでいてもらいたかった」  磯貝はそんなことをいって残念がった。 「いや、桜なら四国でいやというほど見て来たよ。あちらはもう満開だった。こちらだってもうチラホラ咲いているじゃないか」  慎介は立ちどまって路のうえに枝をのべている桜の老樹を指した。その枝にはうす桃色の花がボツボツと開きかけている。 「吉野だね。ずいぶん見事な樹だ。誰のうちだい。この辺もすっかり変わってしまったが」  慎介は今通って来た路を振り返る。その道の片側に長い土塀がつづいていて、桜の樹はその塀の中から太い枝をさしのべているのである。 「これか、これは空家」  磯貝はフーッと暗い顔をして、 「近所では幽霊屋敷だといっている」 「幽霊屋敷——? 何かあったのかい?」 「ふむ、君に話せば喜びそうな事件だが、今は止そう。子供が悪い時にそんな話は思い出したくない」  磯貝は急に足を早めたが、あの青年が忽然《こつぜん》として、空家の裏木戸から現われたのは、ちょうどその瞬間だった。その目の中にはただならぬ光——取り憑《つ》かれたような鋭さがあった。  何しろいまいやな噂《うわさ》を聞いたその空家の中から、ふいに人がとび出して来たので、慎介も驚いたが、相手もよほどびっくりしたらしい。  一瞬ぶるぶると手脚をふるわせて立ち止まったが、ふいに顔をそむけると、すたすたと春風を剪《き》って歩き出した。——  その時の青年の、物におびえたような目の色、狼狽《ろうばい》したような頬の痙攣。——慎介は今まざまざと、それと同じ表情《かおいろ》をこの乗合《バス》の中で見たのである。慎介は奇遇に驚くというよりも、一種不可思議な神秘さに打たれた。  恐らく相手も同じころ神戸をたって、東京への帰途、この伊豆の温泉地に立ち寄ったものにちがいない。それにしても相手は自分を覚えているだろうか。もしいま、自分があの時のことを話せば、この青年はいったいどんな表情《かお》をするだろう。——  自動車はいよいよ、この街道における最大の難所にさしかかっていた。数十丈の絶壁のうえを縫うている九十九折《つづらお》り、その曲がりくねった険阻を、嵐にもまれもまれて、木の葉のように大きな図体をゆすぶりながらはっていく。  一年に一度か二度は、必ず事故を起こすというこの難所。しかも今夜のこの嵐。——さすがに慎介もしだいに心細くなってくる。窓ガラスを打つ雨の音は、さっきから見るとまた一段と烈しくなってきた。断崖の下では、岩をかむ怒濤《どとう》の音が、折からの嵐に抵抗するように、物凄い唸り声をあげている。  青年も同じ思いであったらしい。窓越しに、まっくらな外の闇をのぞいていたが、 「どうもひどい嵐ですね」  こちらを向いてはじめて口を開いた。豊かなかんじのする、教養に富んだ口の利《き》きかただった。 「いや、まったく。——」  慎介はそれに相槌《あいづち》を打とうとしたが、その声は折からどっと横なぐりに吹いてきた風の音にもみ消されてしまった。 「こりゃひどい」  二人は思わず顔を見合わせて微笑《わら》ったが、この微笑が、二人のあいだの垣を取りのけてくれた。慎介は急にこの青年に対して、一種の親しみをかんじてきたのである。 「失礼ですが、前にも一度お目にかかったことがありますね」 「え?」  青年はびっくりしたように慎介の顔を見た。はたして彼は、あの時のことを覚えてはいなかったのだ。 「三日ほど前、ほら、須磨のあの空家の側で——」  慎介はいってしまってから、自分の舌をかみきってしまいたいような後悔をかんじた。  その瞬間、青年の顔が白蝋《はくろう》のように真白に強張《こわば》るのを見たからである。その表情《かお》は恐怖と混乱と猜疑《さいぎ》のために、何かしら無気味な仮面のようにツツーッと冷たく凝縮していった。いや、実際に凝縮してしまったのである。  なぜなら、慎介があわててその失言を取り消そうとした時だ。ふいにドカーンとすさまじい音響が爆発した。くるくると体が宙に躍るのをかんじた。青年の顔と、車内の電燈と、暗い闇と、銀色の雨脚と、それから、何やらパッと炸裂《さくれつ》する青白い火が、まるでフラッシュバックのように彼の眼底に旋回した。噴きあげられるような大きな衝動《シヨツク》、百千の火華の渦《うず》、ついで暗闇の中に引きこまれるような墜落感。——  慎介はどのくらい長く気を失っていたのか知らない。気がついて見ると、自分のすぐ側に、あの青年がうつ伏せに倒れていた。自動車は木《こ》っ端微塵《ぱみじん》に砕けて、二、三間向こうの雨の中に残骸を横たえている。 「大変だ!」  慎介は心の中で叫んだ。 「自動車が崖にぶつかったのだ。運転手は——?」  しかし、運転手のことをそれ以上考えている暇はなかった。その時、泥濘《ぬかるみ》の中から苦しげなうめき声がきこえてきたからである。慎介はズキズキと痛む体を起こして、やっとその青年の側にはい寄った。 「君、君、しっかりしたまえ」  抱き起こした拍子に、青年の白い頬にタラタラと血がしたたった。その血は慎介自身の唇からしたたっているのである。 「ムーム!」  青年は苦しげに頭を左右にふった。それから、ポカーッと目をひらいて慎介の顔を見たが、はたしてその瞳に慎介の姿がうつっているのかどうかわからなかった。 「君、しっかりしたまえ、大丈夫だ。大丈夫だよ」 「フーム!」  青年はまた苦しげに頭をふった。それから必死となって身をもがくと、 「あなた、——お願い——」  出血がすでに肺を冒しはじめたにちがいない、青年の咽喉《のど》が無気味にゴロゴロと鳴った。  物慣れない慎介の目にも、この青年がいまや死にかけていることがはっきりとわかった。  なんということだろう! たった今まで元気に話していたあの青年が。—— 「お願いです。——お願い——」  青年の咽喉がまたもやゴロゴロと鳴った。 「なんですか。言ってみたまえ」 「ポケットの中にある包みをとどけて。——」 「よし、引き受けた。どこへ届けるんだ」 「小石川《こいしかわ》——小《こ》日向台《ひなただい》町——人見《ひとみ》——人見|千絵《ちえ》——人見千絵——誰にも言わずに——内緒で——内緒で——」 「よろしい、わかった。小石川小日向台町、人見千絵さんですね、きっと届けますよ」 「アリ——ありがとう!」  ふいに青年の目が真赤に充血してきた。ヒクヒクと全身が烈しく痙攣《けいれん》した。と思うと、ふいにガーッと血を吐いた。青年はそれきり、篠《しの》つく雨に打たれながら、動かなくなってしまったのである。    花かんざし  その時のことを考えると、慎介はまるで夢のような気がする。まったく一瞬の出来事だった。覗き機械《からくり》の絵板を一枚、カタリと落とすとすっかり世界が変わってしまったのだ。運転手も車掌も死んでいた。慎介だけが奇跡的に——彼はほんのちょっぴり唇の端をかみ切っただけなのだ——助かったのである。そして今彼は、青年の最後の頼みを果たすべく、江戸川から小日向台町の方へと足を急がせている。  あの時慎介は、折よく通りかかった、ほかの自動車によって救われたのである。三つの死体も熱海の病院へ担ぎ込まれた。青年のポケットには投函するばかりになっていた絵葉書があった。その絵葉書から、慎介はその青年が日下部辰夫《くさかべたつお》という名であることを知った。宛名は神戸で日下部|耕平《こうへい》様となっていたが、どうやらそれは青年の兄であるらしかった。慎介はその兄のもとへと、伊東の宿でしらべてもらった、東京の宿泊先へととりあえず電報を打った。東京からは叔父にあたる人が駆けつけてきた。それから半日おくれて、神戸からも兄の耕平が駆けつけてきた。……  こうして慎介ははからずも、このなんの縁故もない青年の仮葬式に参列し、お骨上げにまで立ち合った。そして、叔父や兄にあたる人たちから、いろいろ感謝の言葉をうけて、ようやく東京へ舞い戻ってきたのである。そしてその夜さっそく、あの気がかりな使命を果たすべく、小日向台町へと出向いていったのであった。  彼のポケットの中には、青年から受け取った小さな包みがある。それは長方形のボール紙の箱に入ったもので、その上にハトロン紙をかけ、四手紐《しでひも》で丁寧《ていねい》にしばってあった。慎介はむろん、その中に何が入っているか知る由もなかった。しかし、そんなことはどうでもいいのだ。彼はただその包みを、人見千絵なる人物に手渡しすれば使命は終わるのだ。——と、彼はその時考えていた。後から思うと、それは大きな間違いだったけれど。—— 「人見さん、そうですね、ちょいとお前さん、この辺に人見さんてお宅のあるの知ってる?」 「人見さん——? ああ、あれじゃないか。ほら、いつもお琴《こと》の聞こえる。——あそこの門にたしか人見と書いてあったように思うよ。それならあなた、ポストのあるところを左へ入った一番奥のうちですよ」 「ありがとう」  酒屋の夫婦が教えてくれた、ポストのある角を左へ入っていくと、間もなく忍びやかな琴の音が、折からの朧月夜《おぼろづきよ》に洩れてきた。 (あれだな!)  慎介はその琴の音を目当てに、暗い夜道を進んでいく。その辺はどこかの寮だの、大きなお屋敷だのがずらりと並んでいて、軒燈もまばらで、夜道にはじめての家を訪ねていくにはまことに不便な土地だった。 (ここだな)  慎介はやっと琴の音のする家を探りあてた。表札を見ると、なるほど古めかしいお家流で人見寓と書いてある。門のうちがわから、白いこぶしの花が、綿のように咲き乱れて外にこぼれていた。  慎介は耳門《くぐり》をひらいて、玄関に立った。目の細い、華奢《きやしや》な格子戸をひらくと、チリチリチリと、澄んだ鈴の音がして、その拍子に琴の音がハタと止まった。 「どなた様でしょうか」  出てきたのは、四十五、六の、男のように体のがっちりした醜《みにく》い女である。しかし、その服装《みなり》は悪くなかった。それに口の利きかた、態度《ものごし》などの垢抜《あかぬ》けして、洗練されているのが彼女の容貌の醜さを救っていた。 「人見千絵さんはおいでになりますか」 「はあ、あのどなた様で」 「僕は里見慎介というものですが、ちょっと千絵さんにお目にかかりたいのですが」 「あの、どういうご用でございましょうか」  女は露骨に警戒するような表情《いろ》を見せた。 「じつは日下部辰夫君に頼まれたことがあって、——千絵さんという方にあって、じかにお渡ししたい物があるのです」  あっというような低い叫びが女の唇から洩れた。醜い女の容貌が、いっそう醜くゆがんだ。この名は彼女にとって、けっして快いものではなかったらしい。一瞬、烈しい敵意が彼女の目のなかにひらめいたが、すぐ、元通りの、人をくったような平静にかえると、 「ちょっとお待ち下さいまし。お嬢さまにおうかがいしてまいりますから」  女は奥へ引っ込んだが、すぐまた出てきて、 「さあ、どうぞ、お目にかかりたいと申しておりますから」  言葉つきは丁寧だったが、その目のなかに、露骨に警戒の表情《いろ》がうかんでいるのが、慎介には不愉快だった。ともあれ、彼はこの女を虫が好かなかった。  慎介が通されたのは八畳の客間だった。その客間から鉤《かぎ》の手になって、二間つづきの離れ座敷がつづいており、その離れの向こうに白い土蔵の壁が見えた。  女が座蒲団をすすめているあいだ、慎介は何気なくその離れのほうへ目をやっていたが、その時こちらをのぞいている若い娘と目があって、思わずハッとした。それは娘の風態があまりにも異様だったからである。異様といっても、奇怪というのではない。ただ慎介の予想とあまりかけ離れていただけのことなのだ。  その娘はまるで、浮世絵から抜け出した、古い幻のような姿をしていた。パッと目を射るような長い振袖《ふりそで》と、真紅な帯と、結綿《ゆいわた》の頭に挿した大きな花簪《はなかんざし》のビラビラとが、押絵のように美しく慎介の目にうつった。——と、つぎの瞬間、女はハタと障子をしめてしまった。 「しばらくお待ち下さいまし。お嬢様はすぐいらっしゃいます」  女は座蒲団をすすめると、男のように太い声でいった。それからのしのしと離れ座敷のほうへ消えていった。  慎介は呆然としてその座蒲団のうえに腰をおとす。いまちらと垣間見た姿が、幻のように彼の眼底にこびりついている。あの娘が千絵という女なのであろうか。そうだ、それにちがいない。そして琴の音の主もやっぱり彼女だったのだろう。なんという名前にふさわしい女だろう。  しばらく待たせた後、さやさやと衣《きぬ》ずれの音をさせて、さっきの娘が入ってきた。彼女は敷居のうえで手をつくと、何やら消え入りそうな声でいった。そしてふたたび顔をあげたところを見ると、目のふちがボーッと紅らんで、たった今まで泣いていたことがわかった。 「夜分に突然失礼いたしました。でも、できるだけ早くこの使いを果たしたかったものですから。——」 「はあ」  娘はちらと慎介の顔を見たがすぐ瞼《まぶた》を伏せた。いかにもやるせなげな、握ればそのまま、淡雪《あわゆき》のように消えてしまいそうな可憐な娘だった。 「日下部君のことはご存じでしょうか」 「はあ、あの新聞で——」  と、いったが、見る見るうちにその目の中に泪《なみだ》がひろがってきたかと思うと、彼女はつと顔を伏せてしまった。 「僕もあの自動車に乗っていたものです。そしてこの品をあなたに渡してくれるよう頼まれたのです」  千絵ははっとしたように顔をあげると、慎介の顔とその包みとを等分に見較べた。 「誰にもいわずに、あなたに直接渡してくれと、そういう頼みでした」  千絵はけげんそうにその包みを受け取ると、袂《たもと》を重ねてその上にそれをおいた。そしてわななく指先で、四手紐をまさぐっていた。 「あの、それだけでございましょうか」 「はあ、それだけでした」 「ほかに何も申しませんでしたでしょうか」 「何も聞きませんでした。いいたいことがあったかもしれませんが、何しろ突然のことで——」  ポトリと娘の膝に涙が落ちた。 「それでは僕は失礼いたします。それをお渡しすれば僕の用事はすんだのです」 「はあ」  千絵は泪《なみだ》のいっぱい溜まった目をあげて、すがるように慎介の顔を見た。そうして、彼女の細い指は無意識のうちに、あの包みを解いていた。彼女はもっと慎介を引きとめたいのだ。引きとめて、日下部辰夫の最期のさまを、もっと詳しく慎介の口から聞きたいのだ。  慎介はそれを思うと、むげに立ち去りかねた。彼は中腰になったまま、千絵が膝のうえで解いている包みをぼんやりとながめていた。千絵はいまようやくその四手紐を解いたところだった。彼女はハトロン紙を取りのけると、白いボール紙の蓋《ふた》をとりのけた。  ——と、中から出てきたのは、古びた一本の花簪《はなかんざし》——ちょうど今千絵が頭に挿しているのと同じような花簪——だった。  千絵はそれを見ると、ぎょっとしたように呼吸をうちへ吸った。それから、あわててその花簪をつまみあげたが、ふいに、 「あれ!」  と、叫ぶと、何か恐ろしい物ででもあるようにその花簪を投げ出すと、ひしとばかりに袂《たもと》で顔を覆うて、その場につっぷしてしまった。  その拍子に、彼女の膝から投げ出された箱の中から、ひらひらと舞い落ちたのは、五ひら、六ひらの桜の花弁。——    怪しのもの  慎介は何が何やら、わけのわからぬ索莫《さくばく》とした気持ちで、小日向台町から鼠《ねずみ》坂のほうへおりていた。  千絵がつっ伏した刹那《せつな》、彼はあわてて家の者を呼んだ。しかし、ひろい家の中は森《しん》として人の気配もない。さっきいた女もどこかへ出かけてしまったらしかった。幸い千絵はすぐ顔をあげると、自分のはしたなさを謝りながら、あまり悲しかったものだから——と、低い声で言いわけをした。しかしその声には妙に力がなく、美しい瞳は濁って、何かしら唯ならぬ恐怖の表情《いろ》が見られた。  いったい、あの女は何をあのように驚いたのだろう。あの花簪にはいったいどんな意味があるのかしら。——そしてあの桜の花弁は——?  そこまで考えてきて、慎介はふいに、ぎょっとしたように足をとめた。この間、須磨の幽霊屋敷で見た桜の老樹を思い出したからである。ひょっとすると、あの花弁は、あの桜のものではなかったかしら。——  慎介がそんなことを考えている時である。ふいに背後の方からハタハタと軽い足音が聞こえてきた。慎介が何気なく振り返った時である。ふいにプスというような音がしたかと思うと、慎介は思わずあっと叫んで、傍《そば》の生垣によろめきかかった。  プス!  ふたたび異様な物音がして、何やら熱いものが、ヒューッと彼の耳もとをかすめてうしろへとんだ。向こうを見ると暗い路上に、何やら異様な姿がうごめいている。 「ダ、誰だ!」  慎介はいきなり身をかがめて、黒い影におどりかかっていった。そのとたん、相手はくるりと身をひるがえすと、滑るように暗闇の中をとんでいった。一瞬その姿が、ほの暗い街燈の灯に照らされたのを見た時、慎介はジーンと血管がしびれて、二度と後を追う勇気はくじけてしまった。それは、なんともいえない異様な姿だった。身の丈は子供ほどしかなかった。そして背中には大きな瘤《こぶ》を背負っているのである。佝僂《せむし》だったのだ。しかもその佝僂の脚の速さ。まるで風を巻くように、暗い路地をかけ抜けて姿を隠してしまった。  慎介は呆然としてそこに立ちすくんでいたが、すると、にわかに左の腕にチクチクと激しい痛みをかんじてきた。気がつくと、手の甲にタラタラと生温かい血がたれている。彼はやっと相手の持っていた武器が、消音ピストルであったことに気がついた。  むろん、その時慎介は早速交番へ届けるべきであった。しかし、彼の心には、なんとやらそうしたくないものがあったのだ。今の佝僂が千絵という娘に関連していることは、どんなに頭脳《あたま》の悪い者にでも想像できる。いやいや、それはずっと前の、彼がはじめて須磨のほとりで、日下部辰夫に会った時から、尾を曳いてきた一連の事件なのだ。彼は今や、なんとも名状できない、奇怪な事件の中に巻き込まれている自分に気がついたのである。  慎介が痛さをこらえて、やっと原町にある自分の下宿へ帰ってきたのは、それから半時間あまり後のことだった。 「あら、どうなすったの? 真青《まつさお》な顔をして」  自分の部屋へ入っていくと、思いがけなく、派手な洋装の女が立って彼を迎えた。 「あ、桑野《くわの》君、いつ来たんだ」 「さっきからお待ちしていたのよ。あらあら大変、血が流れているわ」 「なあに、ちょっと怪我をしたんだ。君すまないが、そこの戸棚にオキシフルがあるから取ってくれたまえ」  慎介は上衣を脱ぐと、手早くその傷の手当てをすませた。幸い弾丸《たま》は少しばかり肉をかすめただけで医者に見せる必要はなさそうだった。桑野と呼ばれた少女は、黙って慎介のすることをながめていたが、ふと上衣の腕にあいた、小さな穴を見つけると、 「あら、これピストルの跡じゃない?」  と、さっと顔色をかえる。 「しっ! 誰にもこんなこというんじゃないよ。なに、大したことはないんだ。それより、君はなんの用事があって来たんだね」  桑野はふと目を伏せると急に悲しげな顔をして、 「あたし、あなたにおうかがいしたいことがあって来たんだけど、今夜は止《よ》すわ。だって、あなたはそれどころじゃないんですもの。喧嘩《けんか》でもなすったの」  桑野|百合枝《ゆりえ》というのは、京橋にあるダンスホールに勤めているダンサーだった。慎介とはかなり長いなじみで、いつも少年のように無邪気で快活な少女なのだが、それが今夜に限って妙に沈んでいるのが慎介の気になった。 「いいよ、僕のことは心配しなくてもいいんだ。それより君の話というのを聞こう」 「ええ」  桑野は屈託《くつたく》ありげにうなずいたが、 「あ、そうそう、あたしお見舞いも申し上げないで、この間は大変だったのね」 「ありがとう。何しろ悪運が強いものだから」  慎介は微笑《わら》ったが少女は笑わなかった。 「あたしそのことで、おうかがいしたのよ。新聞で見たの、日下部さんとご一緒だったってことを」 「何?」  慎介は思わず相手の顔を見直して、 「それじゃ君は、あの男を知っているのか」 「ええ、あたし、あたし——」  と、桑野はふいにせぐりあげると、 「しばらくあの人と一緒に暮らしていたの」  と言って、それから急に声を立てて泣き出した。  慎介はあまりの意外さにすっかりめんくらってしまう。なじみとはいえ、それはダンスホールや喫茶店だけのことで、たまに女のほうから遊びに来ることはあっても、慎介は一度も彼女の住居を訪れたことはなかった。どこかのアパートに住んでいるということを知っているぐらいのもので、したがって彼女がどんな男と同棲《どうせい》しているか、そんなことを知る由もなかった。 「君があの男と——? そうか、それはちっとも知らなかった。それは意外な話だね」 「ええ、あたしも新聞を見た時、あまりの意外さに驚いたのよ。それであたし、おうかがいしたいのですけれど、あの人、死ぬ時何かいやあしなかった?」  むろん慎介は日下部からことづかっていることはあった。しかしそれはこの女に対してではない。ほかの女なのだ。 「いいや、別に——何しろ突然だからね」 「そうね」  桑野は悲しげに溜息をつく。慎介はふと、この女に聞けばわかるかもしれないと思った。 「それはそうと、君は人見千絵という人を知っているかい」 「あら」  ふいにさーっと百合枝の面に青白い炎がもえあがった。 「それじゃあの人、その方に何か言いのこしたのね。いいえ、わかってるわ。ここのお主婦《かみ》さんが、あなたの行先は小日向台町だといってたわ。日下部のことづけを持って——あっ!」  百合枝はふいに腕の繃帯《ほうたい》に目をやった。 「あなた——その傷はもしや——もしや——佝僂に——佝僂に撃たれたのじゃない?」 「なに! それじゃ、君は——君は——あいつを知っているのかい」 「いいえ、知らないの、でも日下部に聞いたことがあるのよ。あの方には佝僂がとりついてるんですって。日下部も幾度かそいつに殺されかけたことがあるんですって。そいつは恐ろしい人殺しなのよ。神戸で二人の人を殺したまま行方をくらましているのよ」 「いったい、それはなんの話なのだ」 「なんの話かあたしにもよくわからない。でも千絵という女《ひと》は日下部の昔の許婚者なのよ。二人が一緒になるって間際《まぎわ》に、何かしら恐ろしい事件が起こったらしいの。でも、でも、あたしくやしいわ。日下部はあたしより、やっぱりその方のほうを想っていたのね。いったい、どんなことづけだったの?」 「それは、——他の人には言えないね。そういう約束を日下部君としてきたんだから」 「くやしい! いいわ、あたし聞かないわ。あの女《ひと》から聞いてやる。いいえ、あの女《ひと》はどこかに人殺しをかくまっているのに違いないわ。あたし——あたし——」  百合枝はハンケチで顔を覆うと、ふいに立って部屋を出ていきかけた。 「どこへ行くのだい。無鉄砲なまねはよせよ」 「放っておいてちょうだい。愛する人の最後の幻に、ほかの女の影がうつっていたなんて、どんなくやしいことだかおわかりになる」  慎介は呆然として、百合枝の後姿を見送っていたが、急に思い出したように机に向かうと、須磨にいる友人の磯貝謙三宛てに手紙を書き出したのである。    狂える呪詛《のろい》  ——お尋ねの幽霊屋敷につき、小生の知るところを簡単に申し上げ候。——磯貝謙三からそういう返事が来たのはそれから三日後のこと。慎介はその手紙を読んで、思わず真青になった。ゾーッとするような悪寒《おかん》にうたれた。それはなんともいいようのないほど、気味の悪い物語だったのだ。今その手紙の内容をごくかいつまんでお話しすることにしよう。  あの幽霊屋敷にはもと、人見弘介《ひとみひろすけ》という裕福な官吏の一家が住んでいた。家族は弘介と一人娘の千絵と、波岡《なみおか》ぎんという醜い家政婦と、ほかに女中二人に書生一人、この書生は鵜飼静馬《うかいしずま》といって亡くなった弘介の夫人の遠縁に当たる者とやら、彼は幼い時から骨軟化症になやむ哀れな佝僂だった。  当時千絵は十七になったばかりの人形のように美しい娘、いつも波岡ぎんを相手に琴の稽古《けいこ》をしていた。波岡ぎんはもと琴の師匠だったのだが、千絵の母が死後、家政婦代わりに同居していた。醜いけれど垢抜けのした婦人で、彼女は千絵を自分の子供のようにかわいがっていた。——というよりもむしろ、偶像のように崇拝していたという評判。  さて今から三年ほど前、この千絵に一つの縁談が持ち上がった。むろん婿養子《むこようし》で、相手は神戸の資産家の次男で日下部辰夫という。話はとんとん拍子に進んでやがて結納という運びになったが、そこに一つの事件が起こった。  かねてより千絵に想いを寄せていた佝僂書生の鵜飼静馬が突如、姿をくらましたのだ。と、同時に人見、日下部の両家へ、世にも恐ろしい手紙がやってきた。むろん静馬からで、それは一種気違いじみた手紙だった。  ——千絵は自分の妻になるべき女だ。いや、事実上彼女はすでに自分の妻である。もし千絵が他の男と結婚するようなことがあったら必ず恐ろしい事件が起こるだろう。俺は永久に千絵の影身に付き添うて、彼女の縁談を片っぱしから打ちこわしてやる。——そんなことが、恐ろしい呪詛《のろい》と執念とをもって綿々と書き連ねてあった。  縁談というものはほんのちょっとした陰口ででも、破れることのあるものだが、ましてやこれは花嫁の貞操に関する問題だから、日下部の方では急に二の足を踏み出した。どうやらこの縁談は、佝僂の思い通り破れそうに見えた。そこへ乗り出したのが波岡ぎんである。  千絵の嘆きを見るに見かねたのか、男まさりの彼女は、自ら日下部へ出向いて静馬の手紙の事実無根なることを滔々《とうとう》と説いた。この弁舌に動かされたのと、当の本人辰夫がしきりに望んでいるのとで、日下部の両親ももう一度考え直すことになったが、そこにはからずも恐ろしい事件が突発したのだ。  人見の邸のあの老桜《ろうおう》が、パッと美しく咲きそろったある朝、いつまでたっても玄関が開かなかった。しかも家の中から気味悪いうめき声の聞こえてくるのをご用聞きがききつけた。騒ぎはたちまち大きくなって、中に勇敢なのが雨戸をこじあけて踏み込んで見ると、果たして大変なことが起こっていた。  主の弘介と女中の一人がたった一太刀で斬り殺されていたのである。波岡ぎんも左肩に重傷を負うていたが、これはかろうじて生命を取りとめた。ただ不思議なのはこういう騒ぎの中にあって、千絵だけがかすり傷一つ受けずに昏々《こんこん》と眠りつづけていたことだった。彼女はどうやら麻酔薬をかがされたらしい。  他にもう一人、十六になる女中が物音を聞きつけていちはやく押入の中へ潜り込み危く難をのがれたが、彼女はそこで朝まで気を失っていたのである。この女中と瀕死の波岡ぎんが証人だった。二人ともハッキリ顔を見たわけではないが、姿形からして犯人は佝僂書生の鵜飼静馬にちがいないと申し立てた。  静馬は果たしてあの恐ろしい警告状を実行したのだ。しかし、なぜ千絵だけを傷つけなかったのだろう。なぜ、千絵に麻酔薬をかがせたのだろう。——そこに恐ろしい疑惑が湧き起こる。あの血みどろの中で、睡っている千絵と、佝僂との間にどのような地獄絵巻が繰りひろげられたのだろうか。——むろん、日下部との縁談はそれきりになった。  千絵はそれから間もなく、傷の快癒《かいゆ》した波岡ぎんと共に、人目を避けて東京へ行ってしまった。人見の家は今では草|蓬々《ぼうぼう》と生いしげって、近所の人々から幽霊屋敷と恐れられている。佝僂の静馬はそれからどうしたか、生きているのか死んでしまったのか、警察の必死の努力も空しくいまだに消息をきかない。——  ——以上が磯貝謙三の手紙の大要であった。慎介は読み終わると、もう一度烈しく身震《みぶる》いをした。はからずも己れの巻き込まれた事件の、あまりの恐ろしさに彼は、この暖かさにもかかわらず、ガチガチと歯の鳴るのを禁じ得なんだ。  彼はふと、あの空家の中から現われた日下部辰夫の、幽霊に憑《つ》かれたような眼眸《まなざし》を思い出した。それから、自動車事故で死んでいった時の、苦悩にみちた彼の表情《かおいろ》、奇怪なことづけ、——さらにあの花簪と桜の花弁を見た時の千絵の恐怖、その直後に受けた恐ろしい襲撃。——  そうだ、この奇怪きわまる事件はまだ終わったわけではないのだ。恐ろしい大団円は、いま徐々に眼前に迫りつつある。しかも、自分は避けがたい因縁の絆《きずな》にひかれて、いやが応でも、その大団円に何か一役演じなければならないだろう。——それにしても、桑野百合枝はどうしたろう。先日、嫉妬に狂い立った彼女は、千絵に会うといってここを出ていったが、それから彼女はどうしたろう。——  慎介は卒然と夢からさめたように、電話室へ走っていった。そして京橋のダンスホールへ電話をかけてみたが、百合枝は二、三日前から姿を見せぬという。さらに、百合枝のアパートを尋ねて、そこへも電話をかけてみたが、ここでも同じような返事、一昨々日の夜、出かけていったきり百合枝は帰ってこないというのだ。しかもその一昨々日といえば、百合枝がここへ訪ねてきた晩ではないか。  慎介はふと、あの夜見た恐ろしい佝僂の姿を思いうかべ、すると、いまにも嘔吐《おうと》を催しそうな恐怖にうたれたのである。    瘤《こぶ》のある桜  それから二、三日、慎介は躍起となって百合枝の行方を探しまわったが、誰に尋ねても彼女の消息を知っている者はない。この上はもう、警察へとどけるか、それとも、じかに、人見千絵に当たってみるか、二つに一つしか方法はない。——慎介がそう心をきめたある朝のことである。  彼のもとへ、差出人不明の一通の封筒が、郵便でやってきた。封を切ってみると、中から出てきたのは、ちょうどいま、上野で開かれている、さる美術展覧会の入場券なのである。  ほかの場合なら、むろん慎介は、そんな物に対して、そう心を動かされなかったのにちがいない。職業柄、彼のもとへそういう招待券や入場券がとどけられるのは別に珍しいことではなかった。  しかし、今は場合がちがう。彼の神経はピーンと針のようにとがっているのだ。自分の身の周囲《まわり》に起こる、どんな些細なことがらも、一つ一つ、意味があるように思われてならない。しかも、この封筒には送り主の名がまったく書いてない。 (よし、行ってみてやろう。ひょっとすると、これは、あいつから送ってきたのかもしれないぞ!)  あいつとはむろん、佝僂書生の静馬のことである。あんな怪物のことだから、何を企んでいるか知れたものじゃないと思うと、慎介は気おくれを感ずるどころか、かえって心のはやるのを覚えるのだ。  それは花時に珍しくない、どんよりと曇った日であった。上野の桜もようやく八分ほど咲きそろって薄桃色の霞《かすみ》が、うっとうしい鉛《なまり》色の空の下におもく沈んでいた。  そういう、なんとなく気をいらだたせるような騒々しさを横に見ながら、一歩展覧会へ入っていくと、そこはなんという静けさだろう。  汗ばみそうな、むしむしとした天候にもかかわらず、そこばかりはシーンと肌に浸みいるような冷たさがあった。時間がまだ早いせいか、会場にはほんの、ちらりほらりとしか人影は見えなかった。  さて、慎介はいったい、何から見ていくべきだったろう。その時彼は、絵を見たいなどという興味は少しも起こらなかった。それでも彼はピーンと神経を緊張させながら、二つ三つ、部屋を見て回ると、急にガックリとしたような疲労をおぼえたので、場内にある喫茶室へ入っていった。  そのとたん、彼は思わずぎょっと、そこに立ちすくんでしまったのである。 「あら!」  目を輝かせて、ひくい声で叫んだのは、まごう方もない千絵だった。  むろん、この間のように古風な服装《みなり》はしていなかった。鮮やかな紫色のコートを着て、髪を無造作にうしろになでつけている。相変わらず、人形のような、どこか頼りなげな美しさであったが、しかし、この間から見るといくらかいきいきとして見えた。 「おや、——」  慎介は思わず目をすぼめて、彼女の姿を見守りながら、 「お一人ですか」 「ええ」  千絵は飲みかけていた紅茶を下におくと、 「こちらへいらっしゃいません?」 「それじゃご一緒にお願いしましょうか」  慎介は彼女と同じテーブルに腰をおろすと、 「時々、こういうところへいらっしゃるのですか」 「いいえ。——あたしほとんど外へ出ることはありませんの。でも、この展覧会には、あの方の絵が出ているものですから。——ああそうそう、お礼があとになってしまって、——この間はありがとうございました」 「いやなに、そんなこと。——あの方というのは日下部君のことですか」 「ええ」  千絵は消え入りそうな声でいって、ほんのりと頬をあからめる。そのあどけない美しさは、どうしても、あんな恐ろしい秘密を持っている女とは見えないのであった。 「そうですか。日下部君は絵を画くのですか。ちっとも知りませんでした。で、もうご覧になりましたか」 「いいえ、まだですの。なんだか気おくれがしちゃって」  彼女は寂しげに微笑《わら》いながら、カタログを取り出すと、 「ほら、これですの」  彼女の指さすところを見ると、なるほど、  桜——日下部辰夫、  と、そんな字が印刷してある。 「桜——ですね」  慎介はふと須磨の老桜を思いうかべながら、 「なんなら一緒に見にいきましょうか。第十一号室ですね」 「ええ」  千絵は言葉少なに身づくろいをしながら、すぐ慎介のあとについて立ち上がった。  日下部辰夫の遺作、「桜」はほかの人が見たのでは、ほとんどなんの変哲もない絵だった。あれ果てた庭の一隅に、人知れず咲き誇って、人知れず散っていく桜の老樹——ただそれだけの絵にすぎなかった。しかし、その絵を見た時、千絵が非常な感動にうたれたらしいのを、さっきから注意していた慎介は見のがさなかった。彼女の頬は一瞬|白蝋《はくろう》のように色|褪《あ》せた。唇まで血の気を失って、なんだか五つも六つも年が寄ったように見えた。 「この桜をご存じですか」 「え? ええ——」  千絵はふいに身をふるわせると、 「知っています。これは昔あたしが住んでいた家の、庭にある桜なのです」 「須磨でしたね」 「え?」  千絵はふいにぎょっとしたように息をつめて、慎介の顔を見た。 「ご存じですの?」 「ええ、僕も一度この桜を見たことがありますよ。そしてこの桜のある家から、日下部君が出てくるところを、はからずも見たのです。この間日下部君のことづけた花弁というのは、この桜なのじゃありませんか」 「先生!」 「あ、ちょっとお待ちなさい。この桜はちょっと妙ですね。ほら、幹に大きな瘤《こぶ》があるでしょう。なんだか、遠くから見ると、佝僂みたいな格好をしているじゃありませんか」  慎介はけっして千絵をおどかすために、そんなことを言ったのではなかった。実際、日下部辰夫の画いた絵がそう見えたのである。背中に大きな瘤を背負って、前かがみに両手をひろげている佝僂、——その桜は、そっくりそういう格好《かつこう》をしているのである。  千絵もはじめてそれに気がついた。すると、彼女は食い入るような眼差《まなざ》しでそれをながめていたが、急に、サーッと全身から血の色がひくと、彼女は、ふらふらと慎介のからだによろめきかかってきたのである。 「あ、どうかしたのですか。気分でも悪いのですか」  慎介はあわててその体を抱きとめると、真青になって歯をくいしばっている女の顔をのぞきこんだ。 「いいえ、あの——先生——」  千絵が何かいいかけた時である。  ふいに静かな場内にただならぬざわめきが起こってきた。あわただしく廊下を駆けていく人々の口から、警官だの、人殺しだの、裸像だのというような無気味な言葉が洩《も》れるのが聞こえた。それを聞くと、千絵はなぜかしら、弾かれたようにハッと身を起こした。 「セ、先生!」 「ど、どうかしましたか」 「あたしと一緒に来てみて、——もしや、——もしや!」  慎介の指をつかんだ千絵は、まるで憑《つ》かれたようにぐいぐいと、彫塑部《ちようそぶ》のほうへ彼を引きずっていく。その彫塑部の室の入口は、早いっぱいの人だかりだった。 「いつの間に、あんな物が運び込まれたのかねえ。昨日締める時までは、確かにあんなものはなかったのだが——」  幹事らしいモーニング姿の男が、いかにもいまわしげに眉をひそめて、つぶやいている。慎介と千絵の二人は、その肩越しに、そっと部屋の中をのぞいてみた。  見ると部屋の中に群立している塑像の中に、一際目立って大きな石膏像があった。それはどう考えても、素人《しろうと》の手で、ただむやみやたらと石膏を積み重ねたものとしか見えなかったが、ふと気がつくと、その顔面部だけポカーッと石膏が剥げおちて、そこから、青黒い人間の顔——たしかに人の顔がのぞいているのだ。  その顔をひとめ見た刹那《せつな》、慎介はジーンと耳鳴りがするような恐怖をかんじた。それはまぎれもなく、桑野百合枝ではないか。 「先生!」  その時、彼の耳もとで、千絵のすすりなくような声音が聞こえた。 「黙ってて——黙っててちょうだい——あたし——あたしもう覚悟をきめたわ」  千絵の顔はそこにある石膏像よりも、もっと真白だった。    人食い桜  真暗な夜だった。  宵《よい》から降り出した雨が、急にはげしくなって、暗い屋敷町の瓦《かわら》をたたいていた。慎介はいまその雨の中を、まっしぐらに千絵の家へ急いでいる。彼はまだ、さっき下宿で読んだ手紙を鷲づかみにしていた。  それは千絵の書いた手紙だった。  今日、展覧会場であの恐ろしい惨事を発見したとき、彼は千絵の懇願によって、やっと沈黙を守った。 「先生、この埋め合わせは必ずしますわ。今夜まで待ってちょうだい。今夜まで待って、あたしからなんの音沙汰もない時には、その時こそ、先生のご存じのことを、何もかも、警察へとどけてちょうだい」  彼は相手の必死の懇願にしたがって、そのまま千絵と別れた。すると、果たして、日暮れごろに千絵から一通の速達がとどいたのである。慎介はそれを読んで、はじめて事の真相を知ったのである。それはなんともいえぬほど、恐ろしい事実の暴露だった。その手紙の中では、誰も彼もが気が狂っていた。その気違いじみた情熱の恐ろしさに、慎介自身、憑かれたような気持ちになって、今一散に、千絵の家へ駆けつけている。  ようやくその表へたどりつくと、門も玄関も開けひろげたままだった。それだけでも慎介は、早くもプーンと変事の匂いを嗅いで、急いで家の中へ駆け込んだ。しかし、そこには何もない。千絵の姿もなければ、波岡ぎんという女の影も見当たらない。慎介は部屋という部屋を片っ端から調べて回ったあげく、ふと奥の土蔵に気がついた。  土蔵の扉もあいたままになっている。慎介はすぐ中へとび込んだ。 「あっ!」  慎介はそこで、世にも恐ろしいものを見たのである。土蔵の中には、一面に石膏の破片が飛び散っていた。それは、あの桑野百合枝の体を封じ込めた、恐ろしい石膏像が、そこで作られたものであることを示しているのだ。  しかも、その石膏の破片の中に、一人の男——、まぎれもない、あの佝僂が、胸にぐさと短刀を突き立てたまま倒れているのだ。慎介はそれを見ると、一瞬、ブルブルと体をふるわせたが、すぐ勇を鼓して、その醜い佝僂の顔をのぞきこんだ。 「ああ、やっぱりこいつだったか」  慎介は思わず唇をかんでうめいた。  それは、背《せ》中に大きな籠《かご》を背負って、佝僂をよそおっている、家政婦の波岡ぎんにちがいなかったのである。——  さて、この恐ろしい物語の真相を打ち明けるためには、千絵の手紙をそのまま紹介するのが、最も適当であろう。それは次のような恐ろしい告白書だった。 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]   ——先生、あたしは今日、展覧会場で先生にお目にかかって、何も彼も打ち明け、ぜひとも先生に救っていただこうと思っていたのです。そのために、わざわざ、先生のお手もとまで入場券を差し上げたのでした。しかし、あの恐ろしい石膏像を見たとき、あたしはもう万事終わったことを知りました。どなたにおすがりしても、自分のもう、とても救われない体であることを悲しくも覚《さと》ったのです。   ——先生、あたしの父を殺したのは、佝僂の静馬ではございません。あたしはそれを最初からよく知っていたのでございます。なぜといって、あの恐ろしい惨事《さんじ》の起こる三日まえに、静馬は死んでいたのですもの。   ——あの時のことを考えると、あたしは思い出してもゾッとします。その日、あたしはただひとり、お座敷で琴をひいておりました。家の中には父も女中も、家政婦のぎんもおりませんでした。そこへ、飄然《ひようぜん》として佝僂の静馬が庭のほうから入ってきたのです。静馬はあの桜の樹のしたに立って、じっとあたしをながめておりましたが、やがて、苦しげな、切々とした声でこういうのでございます。   ——お嬢さん、あなたは誰のお嫁にもなることはできませんよ。私は生涯あなたの側にとりついて、けっしてあなたを誰にもやりません。さあ、私の顔をよく見ておきなさい。これは今死にかけている男の顔ですよ。私はたった今、毒をのんできたのです。   ——そういったかと思うと、ふいにガーッと血を吐いて——ああ、あの時の恐ろしさ、あたしは思わずそのまま気を失ってしまいましたが、その次に気がつくと、いつの間に帰ってきたのか、ぎんが桜の根元を掘って、佝僂の体を埋めているところでした。   ——お嬢様、こんなことを誰にもしゃべるのじゃありませんよ。しゃべればお嬢様の恥になるばかりです。さあ、ここにこの男を埋めておけば、誰にもわかりゃしません。でも、お嬢様、この男を少しでもかわいそうとおぼしめすなら、その花簪を一緒に埋めておやりあそばせ。   ——ぎんはそういって、あたしの花簪を一緒に埋めてしまいました。それはじつに恐ろしいことでした。しかし、けっして夢でも幻でもなかったのです。佝僂の静馬はあたしの面前で死んで、桜の根元に埋められたのです。   ——それだのに、その静馬がふたたび姿を現わして、父を殺したといいます。あたしはむろん、その間違いであることを知っていました。しかしそれを言おうとすれば、勢い、静馬のほんとうのありかを明かさなければなりません。そんな恐ろしいことがどうしてあたしにできましょう。それに、あたしには静馬のふうをして、父や女中を殺した人間が、誰だかさっぱりわかってはいませんでした。つい、最近まで。——   ——先生、あたしは今急いでいます。だから、詳しく申し上げるひまのないのを残念に思いますが、あたしがその佝僂の正体を知ったのは、じつに、この間先生が、あの恐ろしい花簪を持ってきて下さった晩のことでした。あたしははじめて、ぎんこそ、父を殺した佝僂であることを知ったのです。では、ぎんはなぜそんなことをしたのでしょう。   ——お嬢様、いいえ、千絵様、あたしは千絵様を誰にもやりたくなかったのです。人形のように美しい千絵様を、いつまでもいつまでもあたしの側におきたかったのです。   ——ああ、なんということでしょう。それが狂おしいぎんの告白でした。ぎんのゆがんだ愛情、あたしに対するいまわしい思慕、それこそ事件のうらにかくされていたすべての秘密だったのでございます。   ——先生、あたしは自分でぎんを罰します。そして、自分も、辰夫様の後を追ってまいります。辰夫様はきっと、あの桜の根元にかくされた秘密を発見なすったにちがいございません。そして、人知れず土の中から掘り出したあたしの花簪をとどけて下すったのでした。先生、さようなら。どうぞあたしの行方を探さないで下さいまし。—— [#ここで字下げ終わり]  以上が千絵の乱れた筆の跡であった。  おそらく彼女は、ぎんの告白をきいたあとでも、まだ自分の救われる途があると思っていたのであろう。あの恐ろしい百合枝の死にざまを見るまでは。——あの石膏像を見たとき、彼女はすぐに、それがぎんの仕事であることに気づいたにちがいない。そして、それが彼女に最後の決心をさせたのであった。  慎介は彼女の懇願に従って、強いてその行方を探ろうとはしなかったが、しかし、数日後意外な方面から彼女の消息が入ってきたのである。それは須磨に住んでいる友人の磯貝謙三からであった。彼の手紙にはこう書いてあった。 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]   ——里見兄。   ——幽霊屋敷にはまた新しい怪談が一つ殖《ふ》えたよ。昨日、あの屋敷の桜の根元で、振袖姿の美しい娘が自ら咽喉をかき切って死んでいるのが発見されたのだ。娘は人見千絵だった。   ——僕もちょっとした好奇心からそれを見にいったが、じつに綺麗な死にかただったよ。千絵はまるで、芝居の物狂いのような姿で、柔らかい土のうえに倒れていた。そして、彼女の死体の上には、いっぱい桜の花弁がつもっていた。—— [#ここで字下げ終わり] [#改ページ] [#見出し]  飾窓《かざりまど》の中の姫君     一  間違いの原因はすぐわかった。  和子《かずこ》は自分が有名な男爵令嬢《だんしやくれいじよう》と、瓜《うり》二つといっていいほど、似ているのだそうだと聴かされたとき、一時は腹も立ったが、いくらなんでも、主家の大事なお嬢さんと見違えるなんて、随分そそっかしい家扶《かふ》や女中もあったもんだと、あまりのばかばかしさに、おかしいやら、気の毒なやら、すっかり挨拶《あいさつ》に窮してしまった。 「ははははは、いや、君も果報者だ。あんな有名な人の令嬢に似ているなんて」  滑稽《こつけい》な間違いのいきさつがすっかりわかって、家扶や女中が平蜘蛛《ひらぐも》のようにあやまって帰っていったあと、専務は大きな腹をゆすって笑いこけたが、和子は別に、自分を果報者だなんて少しも思わなかった。  男爵の令嬢に似ていようと、子爵のお嬢さんに生き写しであろうと、そんなことを光栄に感じてありがたがるほど、和子は甘ちゃんではなかった。ディアナ・ダービンに似ているとでもいわれたら、ヒョイとするとうれしかったかもしれないけれど。  しかし和子はやっぱり、今日の出来事をいくらかうれしがったほうがいいのかもしれない。なぜといって、彼女のようにいつも飾窓《かざりまど》のなかに立っている宣伝嬢が、専務とこんなに馴れ馴れしく口を利くなんて機会は、めったにあるべきはずがないのだから。 「だって、随分そそっかしい話ですわ。いかに他人の空似ということがあるにしても、面とむかって、まだあんなに強情をはるんですもの。あたし、いきなりあのお爺《じい》さんに、お姫《ひい》様ってすがりつかれた時には、びっくりして胆《きも》をつぶしてしまいましたわ」 「ははははは、あいつは滑稽だったね。ああいう家庭では、いまごろでもやっぱり、お姫《ひい》様なんて言葉を使わせているんだね」  この小事件が、退屈な専務にはすっかり気に入ったらしい。上機嫌でもっとこのいきさつを話していたいらしい素振りに、和子も悪い気はしなかった。 「なんだか存じませんけど、いい年をしてほんとうに恥ずかしい話ですわ。お陰で主家の秘密、すっかり明るみに出てしまったじゃございませんの」 「なにね、あれはあの爺さんや女中ばかりの責任じゃないんだ。お母さんさえ、すっかり見違えてしまったんだそうだから」 「あらまあ!」 「これもあの爺さんの話だがね、出入りの者の注進で、男爵夫人も昨日こっそり検分に来たんだそうだぜ」 「あらまあ、そしてお母さんまでお間違えになりましたの」 「そうさ、だから人違いときいて、今頃はさぞガッカリしてることだろう。それにしても、現に腹をいためた産みの母親が見違えるくらいだから、君はよっぽど、そのお嬢さんによく似ているんだね」  専務はいまさらのように、こんな娘がうちの店に働いていたのかといわんばかりにジロジロと、しかし、好意のこもった目で、和子のすがたを見直すのだ。  和子は特別に並|外《はず》れた美人というのではなかったが、くるくるとした愛嬌《あいきよう》のある容貌《かおだち》が男にも女にも好かれた。柄も大柄のほうではなかったが、すらりとした体の線が美しく、それに歯切れがよく、言葉の調子が綺麗だったので、デパートの宣伝係などにうってつけだった。いつでも新柄の売り出しなどがあると、彼女は一番に飾窓の中に立たされるが、ちかごろでは、スフ入り浴衣《ゆかた》の宣伝に大童《おおわらわ》である。 「皆様、スフ入り、スフ入りと申しましても、これは当店が特別に調製いたさせましたものでございまして、すぐによれよれになるの、洗濯が利かないだろうなどの心配は絶対にございません。一時は汗《あせ》を吸収いたしませんから、健康に悪いだろうなどと取り沙汰もございましたが、三割ぐらいの混織でございますと、そういう懸念はむしろ取り越し苦労でございまして、お洗濯のほうも、ほんのちょっとしたお手加減でございます。何しろご承知のとおり、国家非常時の折から——」  と、まずざっとこんな具合である。  ところが、その和子に今日たいへんなことが起こった。  いつものとおり彼女が、飾窓の中で一通りスフ入り浴衣の宣伝を終わって、控室でほっとひと息ついていると、専務室からご用があると呼ばれたのである。  こんなことは彼女がこの店へ入ってからはじめてだった。宣伝のしかたが悪いといって、課長や部長から叱言《かす》を食《く》うことは再々だったが、専務が直接、用事をいいつけるなんて、いったいなんだろうと、恐る恐る擦りガラスのドアをひらくと、いきなり、 「お姫《ひい》様」  と、いうわけである。 「あなたはまあ、あなたはまあ」  相手は一見大家の三太夫《さんだゆう》と見える、品のいい老人と、同じくこれも品のいい老女だ。これが左右からいきなりすがりついたかと思うと、最初がお姫様で、その次が、あなたはまあ、あなたはまあなんだから、さすが陽気で、物おじしない和子も、びっくりして肝をつぶしたのも無理ではなかった。  落ち着いて話をきいてみると、この二人は有名な某男爵家の者で、数日まえに家出をした令嬢の弥生《やよい》というのと、和子がそっくりそのまま、生き写しなところから、この騒ぎが起こったのだそうな。 「それにしてもお嬢様、なんだって家出なんかなすったのでしょうね。あんなに皆様が心配していらっしゃるのに」 「なに、ああいう家庭にゃいろいろと複雑な事情があるもんさ。それに近頃チョクチョク、大家のお嬢さん家出事件というのがあるようじゃないか。はやっているのか」 「なんだか存じませんけど、ほんとに人騒がせな話ですわ。なんにも知らないあたしにまで迷惑をかけて」 「迷惑なことはないさ。店のいい宣伝になる」 「あら、宣伝ですって」 「そうさ、見ていたまえ、今に新聞記者が押しかけてくるから。そうすると、男爵令嬢に瓜二つの宣伝嬢というので、ワンサワンサと見物が押しかけてくる。君、せいぜい腕に撚《よ》りをかけて、当店独特のスフ入り浴衣を宣伝してくれたまえ」 「あらまあ、するとあたしのことが新聞に出ますの」  和子は急に悲しくなった。 「いやだわ。いやだわ。あたし男爵令嬢に似てることなんてちっともうれしかありませんわ。それに、それに——」 「それにどうしたんだね」 「いいえ、なんでもありませんけれど……」  啓介《けいすけ》がこのことを知ったらどう思うだろう、顔ばかりは男爵令嬢に似ていても、懐中《ふところ》具合はちっとも似ていないことを残念がりはしないだろうかと、和子はそれが不安になってきた。     二  専務の予言は当たっていた。  それから間もなく、ひっきりなしに新聞記者が来るやら、写真班が来るやら、専務には思う壺《つぼ》と見えてひどくご機嫌だったが、和子にはすっかり憂鬱《ゆううつ》の種だった。  おまけにその日の夕刊には、和子と、男爵令嬢弥生姫との写真入りで、三段抜きかなんかで、弥生の家出|顛末《てんまつ》から、和子が間違えられたいきさつまでデカデカと出てしまったので、和子は穴へでも入りたいような気持ちで、こんな恥ずかしい想いをさせる弥生姫とやらが憎らしくてならなかった。  しかし、彼女が心配していた啓介は、幸い、この滑稽ないきさつに手をうって興がっただけで、別に彼女が真実の男爵令嬢でなかったから、以後交際はごめんこうむるなんていわなかったので、和子はやっと胸が落ち着いた。  啓介というのは和子の住んでいるアパートの、すぐ近所に二階借りをしている、某軍需工場の職工で、ちかごろは検定とやらをとるんだといって、しきりに勉強をしているたのもしい青年である。和子とは小学校時代からの友達で、彼女が以前いた叔父の家にいられなくなった時、このアパートを世話したのも啓介である。爾来《じらい》、勉強の余暇をさいて、毎晩一時間くらい、和子の部屋でむだ話をしていく習慣になっている。 「だけど、あんたはそういうけど、やっぱりあたしなんかより、男爵令嬢のほうがいいでしょ。ずいぶんお金持ちだっていうんですもの、すばらしい自家用かなにか乗り回してさ、ウビガンかなにかの香水をプンプンさせながら、おっしゃることだって違っててよ、お姫様ですもの」 「麿《まろ》がとでもいうかい」  啓介は煎餅《せんべい》をボリボリほおばりながら、彼女自身宣伝中のスフ入り浴衣をせっせと縫っている和子の手つきをながめている。 「ばかばかしい、女が麿なんていうもんですか。あなた」 「なんだい。気味の悪い声を出すね」 「お姫様の台詞《せりふ》よ、これ。何々をあそばせっていうわよ、きっと」 「それで俺はどうなるんだい。お姫様のお情で、庭番かなにかに使われるのかい、チョッ、まっぴらだよ、そんなこたあ」 「そうね、お姫様と職工じゃ、ちょっと釣り合わないわね。すっとやっぱり、あたしのような、スフ入り浴衣の宣伝嬢のほうがうってつけかしら」 「スフ入りのお姫様っていう寸法かね」 「あら、憎らしい」 「おっとと、ごめんごめん。じゃまけといて純綿《じゆんめん》ということにしといてやろう、おっと、またか、その二尺《にしやく》ざしは向こうへひっこめておけよ。危いお姫様だ。しかし、スフ入りで思い出したが、俺もひとつ浴衣を買おうかな」 「お買いなさいな。縫ったげるわ。あたしが買えばいくらか安く買えるのよ。スフ入り、スフ入りと申しましても、これは当店が特別に調製いたさせましたものでございまして、すぐによれよれになるだろうの、洗濯が利かないだろうの心配は絶対にございませんから——ひとつお買いあそばせ」 「おっと、スフ入り、スフ入り」 「あらまた」  と、その晩ははなはだなごやかな風景だったが、それから二、三日して、彼女の身辺にたいへんなことが起こったのである。  というのは、あの夕刊が出てから三日目の夜のこと、彼女の部屋へひとりの婦人客が訪ねてきた。その女《ひと》は名前も名乗らず、部屋に入っても顔をかくしているので、和子はなんだか怖いような気がしたが、間もなく相手が面《おもて》を包んでいるベールを取ったのを見たとき、和子は思わずハッといきをのみこんだ。 「あら、まあ」 「ごめんなさい、びっくりさせて。でも、あたしが誰だかおわかりになったでしょう」  これがわからなくてどうしよう。その女《ひと》は姿からかたちから、そういう言葉の調子まで、ソックリそのまま和子なのだ。この間のいきさつから、和子があらかじめ、自分と瓜二つの令嬢がこの世に存在しているということを知っていなかったら、彼女はきっと驚きのあまり気を失ってしまったにちがいない。 「あなた——あなたでしたの?」 「ええ、そうよ、この間はうちの者がとんだ失礼をしたそうね。ごめんなさい。でも不思議ね。これじゃ、お母さまがお間違えなさるのも無理ないわ」 「まあ、それじゃあなた、お屋敷へお帰りになりましたの?」 「ウウン、まだ」  男爵令嬢弥生姫は、洒々《しやあしやあ》として笑っている。彼女も陽気で屈託《くつたく》のない性質と見えて、そういうところまで和子と同じだった。しかしこれもあながち不思議ではない。現代の骨相学によると、すべて人の性格というものは、骨相によって決定されるのだそうだから、瓜二つといっていいほど、よく似た骨相を持っている二人の娘が、性質まで似通っているのも別に不思議はないのかもしれない。和子はしだいにこの男爵令嬢に親愛を感じてきた。 「まあ、いけない方ね、なぜまた家出なんかなさいましたの」 「ちょっといざこざがあったのよ」 「で、今までいったいどこにいらっしゃいましたの」 「お友達のうちを方々。ところがそのお友達も心配して、家へ密告しそうになってきたから、飛び出してきたのよ。それであなたにお願いがあっておうかがいしたのよ、聴いて下すって」 「どんなことなんですの」 「びっくりしちゃいやよ。とても妙なお願いなんだから。あたしね、あなたの身替わりをしばらく勤めたいのよ」 「え?」 「だからびっくりしちゃいやといってあるじゃないの。あたしね、もう十日、いいえ、一週間でもいいからこのままがんばっていたいのよ。そうすると、家のほうで折れてくれると思うの。いま帰ると、あたし無理矢理に結婚させられてしまうのよ。それも見たこともない人と。いやだわ。いやだわ。あたしそれぐらいならいっそ死んでしまうわ。今まで、会ったこともない人と結婚するなんて。ねえ、同情してよ」  自分とそっくり同じ声、同じ抑揚で話している男爵令嬢の言葉を聞いているうちに和子は大発見をした。お姫様とて、必ずしもあそばせとは言わないらしい。 「それで、あたしの身替わりになって、お屋敷から隠れていたいとおっしゃいますの」 「そうよ、物を隠すのには、隠さないのが一番安全な方法なのですって。それから泥棒《どろぼう》が物を隠す時には、探偵が一度探した場所へ隠すんですって。これ、探偵小説で読んだのよ」  お姫様は探偵小説の愛読者だった。 「あなたは一度、うちの者が調べた——あら、調べたなんて失礼ね。でも、とにかく、ほら当たってみたあとでしょう、それからいつも飾窓の中に立っていらっしゃるんですもの、これつまり、物を隠さないでおくってことになるでしょう、だから、探偵小説の法則にたいへんよく適《かな》っているわけなのよ。ね、お願いよ」 「でも、その間、あたしはどうしますの」 「あなた、ご旅行をなさりたくはない? 田舎《いなか》に親類か何かありません? お金のことなんかいっちゃ失礼だけど、あたし少しは用意があるのよ」 「ええ、あたし、秋田のほうに母がいますの、一度来てくれ来てくれって、何度も手紙をもらうんですけれど」  和子はふと、父の死後、複雑な事情で別れた母のことを悲しく思い出した。 「あら、すてき、じゃしばらくの間お母さまのところへ行ってあげなさいよ。大丈夫よ、あたし十分あなたのお役目を勤めてあげてよ。ほら、こういうんでしょう。スフ入り、スフ入りと申しましても、これは当店が特別に調製いたさせましたものでございまして、すぐによれよれになるとか、洗濯が利かないだろうなどの心配は絶対にございません。ええと、それからなんだっけ」 「あら、まあ」  和子はほとほと、この陽気な家出人にどぎもを抜かれてしまったのだった。     三  それからどういうふうに、和子をくどき落としたのか知らないけれど、とうとう男爵令嬢弥生姫は、その翌日から和子の代わりに、飾窓の中に立って、スフ入り浴衣の宣伝をすることになった。ただし、これは絶対に秘密で、啓介にさえ話すことができなかったので、これが和子の心配の種である。  ほかのことなら、できるだけ上手に自分の身替わりを勤めてもらいたかったけれど、こればかりはあまり上手にやられては困るのだ。現代の骨相学によると、同じ骨相を持った二人の娘は、結局同じ人間が好きになるかもしれないのであるが、そうなられては、はなはだ困るので、和子は最後におずおずとそのことを切り出した。 「あらまあすてきね、で、その方どういう方?」  男爵令嬢は和子の話をしまいまで聞こうともせず、手をうって喜んだ。 「なんでもありませんの、ただお友達というだけのことなのよ。それに毎晩遊びに来るもんですから」 「お友達にもいろいろあるわ。でもまあ、そんな詮索《せんさく》よしにしましょう。で、何をなさる方なの」 「職工なのよ、つまらない男よ、だからあまり。……」 「あら、あんなこといって。そんなに警戒なさらなくても大丈夫。いいから安心してらっしゃい。うんと大事にしてあげるわ」  それそれ、それが困るのだ。 「いえ、あの、そんなに大事になさらなくても。——あまり大事にするとつけあがって。——」 「つけあがってどうするの?」 「いえ、あの。——」  話がいよいよ機微に触れてきたので、和子は顔を紅《あか》らめて、すっかり狼狽《ろうばい》してしまった。  男爵令嬢はさとりがいい。ははアという表情《かおつき》をして、 「ああ、わかった。つまりその、接吻《せつぷん》をなさるんでしょ」 「ええ、あの、時々」 「いいわ、もし、そんな素振りを見せたら、あたし顔をひっぱたいてやるわ」 「あら、だって、だって、そんな乱暴なこと」 「だって困ったわね。あたしそこまで身替わりは勤まらないわ。あたしはいいとしても、あなたお困りでしょう」 「ええ、それがただ一つ、心配の種なんですのよ。とてもおこりっぽい人ですもの」 「そう、じゃ、まあなんとかごまかしとくわ。でも随分むずかしいわね。あまり大事にしてもいけないし、といって、喧嘩をしてしまっても困るんでしょ」  弥生はスフ入り浴衣の宣伝より、この方がよっぽどむつかしいと思ったが、結局、お兄様のように大事にすること、それから、彼女が拒んだ分だけは、和子が帰ってから埋め合わせすること、ということで、さしものこの難問も決着したのである。  その晩、和子は秋田へたった。  そして弥生はいよいよ、飾窓の中に立って、スフ入り浴衣の宣伝を開始したわけである。  幸い和子が微に入り、デパートのエチケットから同僚の名前、あるいは自分自身の習慣まで話してくれたし、弥生はいたって機転が利くほうなので、思ったより、この身替わりは成功しそうだった。 「スフ入り、スフ入りと申しましても——」  と、飾窓の中に立って、ひと晩かかって暗誦した宣伝文句をしゃべっていると、弥生はなんともいえぬ楽しさを感じるのだ。デパートの中にはひとつの人生がある。弥生はいまそれを身をもって体験している。たとい、それがステープル・ファイバーのように代用品の人生であるとしても。  しかし、弥生にとってはおもしろいことばかりではなかった。彼女が飾窓の中に立つようになってから三日目、彼女はハッとして思わず口慣れた宣伝文句をトチるような驚きにうたれた。ズラリと飾窓を取りまいた群集の中に、彼女は自分の母の姿を発見したのである。  お母様は顔をかくすようにして、一心に弥生の姿を見ながら、その声に耳を傾けている。彼女はどうやらまだあきらめきれぬらしく、人違いとわかっていても、愛する娘の面影を、そこに求めているのだろう。つまり男爵夫人も、当分代用品で満足するつもりなのである。     四  ところがそれから間もなく、 「和子さん、専務さんがお呼びよ、あらいやだ。和子さんてばさ」  和子に狸《たぬき》という仇名《あだな》があると教えられた、芳子《よしこ》という同僚に、突然耳もとでわめかれて弥生ははじめて、自分のことかと気がついた。 「そうそう、あたしだっけ」 「あらいやだ、和子さんどうかしたの」 「え? あたしいま何か言って?」 「まあ、あきれた。今日はよほどどうかしてるのね。朝からヘマばかりやってさ。さっきも文句を間違えたじゃないの」 「ええ、少し変ね」 「変ねもないもんだわ」 「で、何かご用?」 「まあ、あれだ。あなた大丈夫? この二、三日ほんとうに変よ。いえね、専務さんがご用っていうのよ」 「そう、ありがとう」  スーッと立っていく弥生の後姿を見送って、芳子は思わず小首をかしげた。 「だめだわ。やっぱりどうかしてるんだわ」  芳子が心配したのも無理はない。  幸い専務室というのも、和子が教えておいてくれたので、弥生はまごつかずにすんだが、ただ、専務に呼ばれるということが、どんな心理的影響を、彼女のいま勤めている身替わりの少女たちに与えるか、そこまではさすがに研究がいきとどいていなかったので、その時の彼女の態度はたしかに変だった。  専務はただ専務だ。もっと偉い人だっていつもお屋敷にいればペコペコと彼女の前に頭をさげる。  で、弥生は平然と専務室へ入っていった。 「何かご用でございましょうか」 「ああ、よく来た、まあ、そこへ掛けたまえ」  専務は上機嫌だった。見るとその部屋には、見知らぬ一人の男が、専務とさし向かいに腰をおろしていた。色白の、まだ年若い、ちょいとロバート・テーラーに似た、それでいてちっとも気障《きざ》でない好男子だった。  好男子は弥生の顔を見ると、にっこりと目で微笑《わら》って、軽く頭をさげた。 「君、どうだね、ひとつ映画女優にならんかね」  専務はだしぬけにいった。こんなことはだしぬけにいうに限る。突然であればあるだけ、よけいに相手は喜ぶものである。果たして弥生はびっくりして、 「あの、あたしがでございますか」 「そうさ、君がだよ。じつはね、こちらにいらっしゃるのはS・P映画会社の常務さんだが」 「あ」  弥生が思わず顔色をかえたのを、勘違いした専務はひとりで悦に入りながら、 「じつはこの間の騒ぎがあってから、はじめはちょっとした好奇心で君を見に来られたそうなんだが、一瞥《ひとめ》見て、すっかり君が気に入ったとおっしゃるんだね。ひとつスターに仕立てて、大いに売り出したいとこういうお話なんだ。どうだい、いつか君を果報者だといった俺の言葉には間違いはなかったろうが」  だが、折角の専務の言葉も、弥生の耳にはほとんど入らなかった。専務の前においてある名刺を、ちらと横目で見ると、宇佐見慎作《うさみしんさく》。 《あ、やっぱりこの人だわ!》  弥生はにわかに頬がほてって、胸がドキドキとしてきた。 《ひどいわ、ひどいわ、そうならそうとお母さま、おっしゃって下さればいいのに。常務だなんとおっしゃるもんだから、あたしどんなお|爺《じい》さんかと思って、写真も見ずに家を飛び出したのに》  つまり、S・P映画会社の常務、この宇佐見慎作こそ、彼女が無理矢理に押しつけられようとした[#「無理矢理に押しつけられようとした」に傍点]結婚の相手なのであった。 「君なら十分天分があると、宇佐見さんはおっしゃるんだ、で、もしそういうことになって、君がジャンジャン売り出してくれるなら、宣伝にもなることだし、我々としても後援を惜しまぬつもりだが」 「いかがでしょう。ぜひ一度テストさせていただけませんか。なに、テストといってもほんの形式だけなんで、あなたなら大丈夫と、私はにらんでいるんですが」 《ああ、なんという深味のあるいい声だろう。そしてその口の利きかたの穏やかなこと!》  弥生は膝頭が思わずガクガクふるえてきた。  ところで、それ以来腹の虫がおさまらないのは啓介だ。  この一週間あまり、和子の態度がすっかり変わってしまった。以前のように素直に自分の要求をいれないばかりか、どうかすると夜おそくなることがあると思ったら、ある日、意外な人の訪問をうけて驚いた。それですっかりムシャクシャしているところへ、その晩も十時すぎに和子が、ウットリとしたまなざしで帰ってきたので、さっきから彼女のアパートで、しびれを切らして待ちうけていた啓介は、とうとう癇癪《かんしやく》を爆発させてしまったのだ。 「今頃まで、いったい、どこへいっていたのだい」 「あら、びっくりした。あなた、そこにいらしたの?」 「いたよ、いて悪かったね、スフ入りの男爵令嬢」 「あら、それ何のこと」 「畜生、この間のことも忘れてしまいやがったのだな。フフン、スターになれると思って、いばるない」 「あら、あなた、そのこと知っていたの」 「うん、今日聞いたよ。宇佐見とかいう色の生白《なまじろ》い男がやってきて、ぜひ、君の口からくどき落としてくれって頼んでいきやがったぜ」 「まあ、あなたのところまで来たの。じつはあたし、この間からあなたに話そう話そうと思ってたのだけれど、和子さん——いえ、あたし、ほんとに困るのよ。無断で承諾するわけにもいきませんものね。ね、あなたどう思う。和子さん——いえ、あたしが映画女優になるの、いけなくって」 「そんなことはいいさ。映画女優だろうがなんだろうが、まじめに身を持っててくれさえすりゃ、俺はあえて反対しないさ。しかし」 「あら、そう、それじゃ、和子さん——いえ、あたし映画女優になれるわね。で、あなた、何をおこっていらっしゃるの」 「それはいいんだ。それはいいが、宇佐見というあの男が気にくわねえ。聞けば君をくどくために、毎晩、ほうぼうへ引っ張り回したというじゃないか。それに近頃の君の目のいろったらないぜ、まるで新しい恋人でもできたみたいだ」 「あら、そのこと。だってそりゃしかたがないわ。あの人、あなたと同じ骨相をしているんですもの」 「な、なんだって?」 「なんでも、骨相学によると、同じ骨相をしている人間は、どうしても趣味も嗜好《しこう》も同じなんですって。だけどあたしあなたを好きになるわけにはいかないでしょう」 「すると、君は俺が好きじゃないのかい」  この思いきったご託宣に啓介が弱々しい声で尋ねた。 「ええ、そうよ、そりゃ和子——は好きだけど」 「変だね。少し」 「ちっとも、変じゃないわ。で、あの方あなたと同じ骨相をしてるでしょう。だから和子——が、あなたを好きみたいに、あたしもあの方が好きになるのも無理ないのよ。あたし、あの方と結婚しちまうわ」 「畜生、そして俺はどうなるんだい」  啓介が蚊《か》のなくような声で尋ねた。 「あなた? あなたはきまってるじゃないの和子——ああ、あたしだっけ、つまり結婚するんだから安心していらっしゃいよ」 「おいおい、どっちなんだよう」 「ええ、じれったい、どっちでもいいじゃないの、みんな骨相学のせいなのよ。ね、わかって、骨相学よ、骨相学よ」  と、そこで彼女は、啓介の目から見ると、恐るべき自己分裂の徴候を顕《あら》わしたのである。 [#改ページ] [#見出し]  覗機械倫敦綺譚《のぞきからくりろんどんきだん》    一 相乗車《あいのりぐるま》は地獄と極楽|境界《さかいめ》のこと  監獄といえども分け隔てをすることを知らぬ、輝かしい太陽が、醜い灰色の壁にも惜しみなくその光を頒《わか》ち始めた夏の朝まだき厳《いか》めしい門衛に守られた重い鉄の扉がギイと開《あ》いて、どやどやと五、六人、一塊りとなって吐き出されたのは、無事に刑期満ちて今日《こんにち》めでたく出獄する人々と見られたが、めいめい守衛に愛嬌《あいきよう》を振り撒《ま》きながら、思い思いの方角にいそいそと立ち去った後から、ただ一人|悠然《ゆうぜん》として出て来たのは、白粉《おしろい》の濃い、華美《はで》な服装《みなり》の年増《としま》女。それと見るより先ほどから、人待ち顔にぶらぶらしていた、色の生白《なまじろ》い、下卑《げび》た様子の一青年、つかつかと早足に近づいてきたかと思うと、男「おめでとう、シャーロッタ。私《わたし》ゃさっきからどれほど待ちこがれていたか知れやしない。それにしてもいつに変わらぬお前の美しさ、以前とはまた一段と立ち優ってみえるようだ」とても懐しそうに側へ寄るのを、女はうれしげにもなくつんと澄まして、女「おやまあ、お前さんわざわざ迎えに来ておくれかい。だけどあまり側へ寄ってもらうまいよ。私ゃもうお前さんには用のない体、いまいましい、考えてみてもおくれ、お前さんがヘマをやったばっかりに、私は十八ヵ月もお酒のない所で窮命《きゆうめい》させられてきたのじゃないか」とにべもない挨拶《あいさつ》は、よほど男の失策が癪《しやく》にさわっているとみえる。男「まあ、そう憤《おこ》らないでおくれ、あの時は私が悪かったのだから、今度からはきっと気をつけるよ。だからさ、そう腹を立てないで機嫌よく私と一緒に帰っておくれ」女「まっぴらだよ。誰がお前さんなんかと一緒に行くものか」と出獄早々の痴話喧嘩《ちわげんか》、二人が声高に言い争いながら立ち去った後、今日《こんにち》の出獄者はもうこれだけかと、門衛が扉を閉めようとした時、うなだれがちに悄然《しようぜん》として出てきたのは、服装《みなり》こそいやしけれ、二十一、二歳のすばらしい美人、門衛が待っているのを見ると、女「すみません」と低声《こごえ》に礼をのべながら、顔をそむけて足早に、通り過ぎようとするのをふと呼び止めた門衛、門「お嬢さん、気をつけて行きなさいよ。二度ともうこんなところへ来ることのないように、神様にお祈りしますよ」と優《やさ》しく言われて娘心の気も弱く、はや涙さしぐみながら、娘「ありがとう、さようなら」も口の中《うち》、十ヵ月振りに娑婆《しやば》の空気は吸ったものの、さて運が北やら南やらどちらへ行ってよいのか途方に暮れた面持ち。それというのも無理ならぬ、この娘の名はブレンダ・ローズといって、元は相当の家庭に生まれ、一人娘の愛らしく、蝶《ちよう》よ花よといつくしまれ、人並以上の教育も受けていたが、打ち続く不幸に両親が相次いで亡くなってからというもの、わずかの財産も腹黒い人手に横領され、まだ十八というかよわい身を、つらい浮世の波にもまれねばならぬ身となったが、さりとてはまた運命の苛酷な、よしない人に冤《むじつ》の罪を負わされて、血涙を揮《ふる》っての弁解も、検事判事の取り上げるところとならず天涯孤独のみなし児なれば、誰一人弁護に立つ人とてもなく、うたてやな、とうとう何千何百何号と、数字を以って称《よ》ばれる身とはなったのである。その時の恨み、嘆き、くやしさ、父母いまさばいかに思《おぼ》し召《め》すらんと天を仰ぎ地に伏して泣きに泣いたが、それも昔の夢。判事の申し渡したのは一ヵ年の懲役であったが、在監中の行状神妙なりしとて、二ヵ月期間を短縮され、今し監獄の正門から放たれたブレンダの懐中には、入獄中の作業の手当てにと与えられた十シリングの金と、倫敦《ロンドン》までの乗車券の引換切符、泣くも笑うもこれだけが彼女の全財産であった。先ほどこの二品を渡す時、これを資本《もとで》に身を立てる工夫をせよと典獄はおっしゃったが、たった十シリングの金でどうしてこのセチがらい世の中に、娘一人が立て過ごしてゆけようか。そうでなくても世の中は鬼千|疋《びき》、切符のあるのが幸いに、とりあえず倫敦へ行ってみるつもりだけれど、そこへ行ったところで親戚があるというではなし、知人友人とて一人もない身の、それから先はどうなることかと、思えば思うほどわが身のはかなさ、胸に屈託があれば足も進まずようやくたどりついたのが村の停車場、典獄からもらった引換券を、ここで乗車券に換えねばならぬが、さりとては麗々《れいれい》しく監獄の印の据《す》わったものを、どうして人前に出されようか。やあこんなしおらしい顔はしていても、これが恐ろしい前科者かと、切符売りも面《おもて》を見ようし、駅夫《えきふ》も後指を指そう、それを思えばなかなかにこの引換券がいっそ恨めしく、とつおいつ思案の折柄、大声にわめきちらしながら入ってきたのは、さっきの年増女と情夫《いろおとこ》、どこかの酒場で仲直りに、はや一杯ひっかけてきたと見えて、ほろ酔い機嫌に熟柿臭《じゆくしくさ》い呼吸《いき》を吐きながら、早くもブレンダの姿を認めて、女「おや、お前さんはまだこんなところにうろうろしているのかい。そして切符は引き換えておもらいだったかい」となれなれしく側へ寄ってくるおぞましさ。ブレンダはいまわしげに面をそむけて、ブ「あすこにいる時とはこと違い、外へ出れば赤の他人、これから先もなれなれしく、言葉をかけて下さるな」と聞くより女は柳眉《りゆうび》を逆立て、女「ヘン、生意気なことをお言いでないよ。お上品ぶっていてもどうせさきは知れている。一度あそこの門を潜った者を、何で世間が相手にするものか。いつかはまた私のことを姉さんだの、相棒だのと称《よ》ぶ日が来るにきまっている。その時のしゃっ[#「しゃっ」に傍点]面《つら》が見たいよ」と嵩《かさ》にかかって辺りはばからずわめき散らすあさましさ、ブレンダは人目の関もはずかしく、耳を押さえて遁《に》げ出すと、人なき小陰にほっと胸をなでおろすのも不憫《ふびん》である。間もなく汽車は着いたけれど、あの女と一緒になろうと思えば空恐ろしく、なかなか乗る気にもなれなんだ。その中《うち》に汽車は出た様子、次の列車はいつごろ出るのやらと、辺り見回しそうそうと駅へ入って行けば、思いがけなく前のを追いかけるように着いたのは急行列車、折からプラットフォームに人影もなく、降りる客とてなさそうなので、駅長ははや発車の合図をしようとしたが、ブレンダの姿を見るより双手《もろて》をあげ、早く早くとせきたてて、戸惑いしている彼女の体を、無理矢理に押し込んだのは一等客車、後の扉をピッタリ締めると、呼笛を口に当ててピリピリピリ、汽車ははや動き出した。駅長にせきたてられたブレンダは、切符を引き換えるいとまとてなく、我にもあらず一等車に乗り込んだが、車掌にとがめられたら何と言いわけしようかと、気もはやそぞろに、途方に暮れた面持ちで、車の中を見回せば、彼女の他に乗客とてはただ一人、それも同じ年頃の容色こそは劣《おと》ったれ、すばらしい服装をした娘、先ほどから新聞にも雑誌にも読み飽きて、相手欲しやと思っていた折柄、ブレンダの顔を見るとにっこり笑って、手招ぎして側の座席をたたくのは、多分ここへ来いとの謎《なぞ》か。ブレンダは何となく顔|紅《あか》らめながら、ブ「この汽車は倫敦《ロンドン》へ行くのでございましょうね」娘「ええそうよ。そして倫敦まではどこへも停まりません。あなたよろしかったら私の側へいらっしゃいな。もうもう退屈で退屈で……」と他意ない様子ですすめられ、ブレンダは落ち着かぬ腰を向かいの座席におろした。娘「あなたどちらから?」ブ「私? 別にどこといって……」口ごもるのを娘は別に怪しいとも思わず、娘「倫敦へいらっしゃるのね。倫敦にはご両親がいらっしゃるのでしょう」ブ「いいえ、私両親なんてありませんの」娘「おやまあ、それではご兄弟でも」ブ「いいえ、兄弟も親戚《みより》もない独りぽっち、第一私はこんな一等なんかに乗る身分ではございませんの。車掌に調べられたら叱られますわ。追加料金を支払えなんて言われたらどういたしましょう。私そんなお金は持っておりませんものを」と溜息《ためいき》を吐《つ》くのを娘は屈託のない調子で、娘「それでは何払わないまでのこと。大丈夫、調べになんか来るもんですか。倫敦へ着いたらそ知らぬ顔で、お持ちになっている切符を渡してお下りなさいましよ」その三等切符さえ持ってはおらぬものを。持っているのはいまわしい、監獄の印の入った引換券ばかり。それと知ったらこの娘、どんな顔して驚くことだろう。ブレンダが打ち沈んでいるのを見て相手は慰《なぐさ》め顔に、娘「何もそうご心配なさることはございませんのよ。車掌がとやかく申しましたら失礼ながら私がお立て替えしてもよろしゅうございますもの」ブ「あれ、めっそうもない、見ず識らずの貴女様にそんなことをしていただいては……」娘「何ご遠慮に及びますものか。旅は伴侶《みちづれ》とやら申すではございませんか。それでは倫敦へお出でになって何をなさるおつもり」ブ「何といって当てはございませんけれど、譬《たとえ》にも言うとおり、都へ出れば食いはぐれはないとか申しますので」娘「それではまったくお友達もおありなさらないので」ブ「ハイ、初めてといってもよいくらいでございますもの」娘「おやまあ、それでは私と同じこと、私も倫敦は初めてなんでございますよ」ブ「してどちらから?」娘「濠洲《ごうしゆう》から参りましたの」ブ「あのまあ、遠い遠い海の向こうのあの濠洲から」娘「ハイ、その遠い遠い濠洲から」ブ「そしておつれもなく」娘「ハイ、つれもなく」ブ「お独りで」娘「ハイ、独りで」ブ「おや、まあまあ」とブレンダが目をみはってあきれ返るのを、娘はさもおかしげに打ち笑いながら、娘「でも、そんなこと何でもございませんのよ。あなただって父に死に別れて、他に頼る者が一人もなくなったら、汽船の一人旅くらい、ほほほ、何でもありませんのよ」ブレンダはいよいよ感に耐えた面持ちで、ブ「そして倫敦はどちらの方へ」娘「ケンシントン区ですの。ご存じありません」ブ「ハイ、噂《うわさ》には聞いております。大層お金持ちばかり住んでおりますところだそうで」娘「おやまあそうですか」娘は手提鞄を開くと男持ちのような大型の紙入を取り出し、娘「ほら、ここにございました。ケンシントン区シャラード広場《スクエヤー》三番地、ダーウェント・テート。これが父の従兄弟《いとこ》になりますの。生前父はもうけたお金を皆この人に預けておいてくれましたので、言ってみれば私の財産管理人兼保護者、なんでも奥さんと息子《むすこ》さんとの三人暮らしだとのこと、でも私は一度も会ったことがございませんのよ」ブ「おうらやましいこと、貴女のようなお方ならきっと倫敦がお好きになりますわ」娘「いいえ、倫敦こそ私が好きになりましょう。お金を費《つか》うことより他に何の能もないわがまま娘、都には随分こういう娘を虜《とりこ》にしようと、てぐすね引いて待っている人々があるというではありませんか」ブ「本当にあなたはすぐ、倫敦でも有名な婦人におなりでしょう」娘「あなたもそうお思いになって、私も随分そのつもり、じつを言えば私、一昨日もう倫敦へ着いておらねばならないはずのところ、サザンプトンで上陸以来観るもの聴くものおもしろく、つい二日も道草を食ってしまいました。さっき電報を打っておいたけれど、従兄弟はさぞ心配しておりましょう」ブ「きっとウォータールー駅まで迎えに来ていらっしゃいますわ」娘「ところが貴女、お互いに一度も顔を見たことのない同士でしょう。私どういうものか幼い時から写真がきらい、ですから従兄弟が駅へ来てくれても、浜の真砂《まさご》から真珠を探すようなもの、それよりこっちから乗り着けた方が万事雑作がなくていいと思ったので、迎えには及ばないと申してありますの」ブ「それじゃ倫敦には一人もご存じの方はおありなさらないので」娘「倫敦どころか英吉利《イギリス》中に私の顔を知っている人はございません。ホープ・デーアも、あなたと同じ独りぽっち、ほんとうに頼りない身なんでございますよ。でも私こういう性分ですから、寂しいなんて思ったことございません。何、すぐお友達もできましょうもの」陽気な相手の様子につけても、しみじみと振り返って見られるのは己《おの》が身の上、ブレンダはやるせなげに溜息を吐きつつ、ブ「それじゃあなたのお名前はホープ・デーアさんとおっしゃるので」ホ「ええ、そうなの。父の名はジョージ・デーア。ほほほ、私としたことが調子に乗って自分のことばっかり。……ごめんなさい。でも私、あなたにおめにかかれて本当に嬉しいわ。だってサザンプトンに上陸以来、随分|沢山《たくさん》のご婦人をお見受けいたしましたけれど、あなたのように綺麗なお方初めてですもの」ブ「おやまあ、何で私がそんなに綺麗なものですか。友達も、親戚《みより》も、お金も、そして名誉もない私のようなものが……」と、ふたたび胸に支《つか》えてくる屈託に、思わず顔をそむけて溜息を吐けば、ホープはさも腑《ふ》に落ちぬ面持ち、ホ「そんなこと私信じられませんわ。英吉利人の言うレディーとはきっと貴女のような方に違いないと、さっきからつくづく敬服しながら見ておりますのに、私なんか及びもつかぬ美人でいらっしゃるし、あなたのような方がそれほどお困りだとは……」と言いさしてホープ・デーアの顔色が、その時ふいに変わったからブレンダは驚いた。ブ「おや、どうあそばして、大層お顔の色が……」ホ「ス、すみません、——あの鞄の中に——ク、薬が——壜《びん》に入った薬が——」と言う声さえもきれぎれにいよいよ切なげな様子だから、ブレンダはますます驚きあわて、ブ「しっかりなさいまし。まあどうしたらよかろうね。はいはい、いますぐお薬を探して差し上げましょう」と、鞄の中を探るブレンダの指に、ふと触れたのはおびただしい金貨の山、どれほどあるかわからぬけれど、何でも余程の高に違いないと、思わず生唾《なまつば》を飲み込むかなたでは、ホープ・デーアが瀕死《ひんし》の息使い。ホ「あなた——私はもうだめ——父も母もこの病気で死にました。——今度|発作《ほつさ》が起これば危いという医者の言葉——ああ苦しい」と言う声さえもはや虫の息。ブレンダはますます狼狽《ろうばい》。ブ「何をおっしゃるやら、お気の弱い。ほら、ほら、お薬ですよ」娘はかすかに目をみひらき、ホ「ありがとう。でももうだめ。——さようなら。——私のものみんな——みんなあなたに差し上げます」と言った言葉がこの世の別れ、がっくりとうなだれたかと思うと、はや息は絶えていた。げに人生は蜉蝣《かげろう》の朝《あした》あって夕《ゆうべ》をはかられぬ生命《いのち》のはかなさ、つい今まであれほど元気に語っていたものを、地獄と極楽の境界《さかいめ》はほんに覗機械《のぞきからくり》の絵板一枚、カタリと落ちる転瞬《てんしゆん》の、その間に変わるこの世の有様、ブレンダ・ローズはしばし夢に夢見る心地であったが、ふたたび覚《さ》むれば己が身の屈託、一旦|捺《お》された前科者の烙印《らくいん》に一生涯嘆きを重ねねばならぬ運命、これから長い将来を生きている限りは年に四度、どこでどうして暮らしていると、いちいち警察へ届けねばならぬ体、ああいやだいやだと溜息まじりに身|震《ぶる》いした途端、ふと思い出されたのがホープの言葉である。私のものはみんな貴女に差し上げると彼女は言ったが、みんなとあるからには身分姓名までもらったとて何悪いことがあろう。英吉利中に誰一人、私を知っている者はないとホープの語った言葉こそ勿怪《もつけ》の幸い、ここは一つ思いきって、ブレンダ・ローズの殻を脱ぎ捨て、他人の靴をはいてみようかと、めぐらす思案の我ながら恐ろしく思わずあたりを見回したがさりとては悪い料簡《りょうけん》。    二 灯《ともしび》に焦《こ》がす翼は蛾《が》の無分別  手早く着物をぬぎかえたブレンダのしらせによって、駆け着けた車掌医者、誰一人彼女を疑う者とてはなく、医「なるほど、途中からお乗り合わせになったまったく未知のご婦人で……それが突然苦しそうに……いや、そうでしょう。心臓|麻痺《まひ》ですからね」ブ「それで私、証人としてどこかへ出なければなりませんでしょうか。何しろ倫敦は初めてのこと、勝手がわかりませんものですから」医「何、心臓麻痺ということが明らかである以上、それには及びますまい」ブ「でも、もしものことがありましては何ですから、ここへ名刺《めいし》を置いてまいりましょう」医「ははア、ホープ・デーアさんとおっしゃるので」ブ「はい、濠洲《ごうしゆう》からはじめて参りました者、当分ケンシントン区の親戚《みより》のもとに滞在いたすつもりでございますから、ご用の節は何時《なんどき》でも……」医「いや、これはご丁寧《ていねい》に痛み入ります」これで第一の難関は無事突破、ブレンダはほっと一息、ホープさん堪忍《かんにん》しても口の中、そそくさと列車を降りると、手提鞄の中から見つけ出したチッキ三枚、これでホープ・デーアが預けておいたトランクも受け出し、馬車に乗って駆け着けたのがケンシントン区、シャラード広場《スクエヤー》三番地というのを探させると、これは思ったよりも貧弱な構え。いや、これでも元は相当立派であったろうと思われるけれど、手入れが行き届かぬかして何となくくすんで[#「くすんで」に傍点]貧乏臭く、ブレンダはすっかり予想を裏切られた感じであったが、それだけにまた気も軽く呼鈴を押せば出てきた女中の間抜け面。ブ「テートさんの奥様はおいでになりまして、私ホープ・デーアです。濠洲から参りましたホープとそうおっしゃって下さいません」女「おやまあ、あなたがホープ様で、さあさあお待ちかねですからどうぞ」ブ「すみませんけれどそれでは誰かに言って、荷物を中へ運ばせて下さいましな」女「はいはい、承知いたしました」通されたのは広い応接間、一通り道具もそろい、掃除も行き届いて埃《ほこり》も塵《ちり》もとどめぬけれど、地のすりきれたカーテン、塗りのはげた椅子《いす》テーブルから、鼻の欠けた置物の胸像に至るまで、金を費《つか》うことより他に能のないという、かのホープ・デーアの財産管理人のすまいとしては、いちいち合点のゆかぬ節ばかり、何となくいぶかしげに、眉をひそめて辺りを見回している折しもあれ、扉《ドア》を開いて入ってきたのは、痩《や》せた体を黒衣に包んだ小柄の婦人、無愛想な顔に強《し》いて作り笑いをうかべながら、婦「まあお懐かしい、あなたがホープさんで。どんなに心配をしましたことやら、何か途中で変わったことがあったのではないかと、ダーウェントともうそればっかり」と言いながらブレンダの手を握った掌《てのひら》の冷たさ、気味悪さ、口ほどにもなく一向懐かしそうにも見えないのは心|臆《おく》しているブレンダの気のせいか。ブ「すみません。サザンプトンでつい道草を食っていたものですから。それではあなたが叔母様で」婦「そうですよ。叔母のローラ・テートですよ。ほんとうにね、遠いところをよくこそまあ、あいにくダーウェントは外出しておりますけれど、晩御飯までには帰ってまいりましょう。それから、ああそうそう、貴女のお友達のマースデンさん」ブ「え?」ハッと驚くブレンダ・ローズ。ロ「おやまあ、ホープさんのあの驚きよう。ほほほ、マースデンさん、もう二日も前からこちらに逗留《とうりゆう》なすって、貴女のお見えを待ち焦がれていらっしゃるのですよ」ブ「まあ、マー、マースデンさんが」とブレンダの声の怪しく震うのを、ローラは一向それと気がつかず、ロ「はい、そうですよ。今はお留守ですけれど、晩には帰って見えましょう。まあ、ホープさんのあのお顔ったら!」ブ「はい、あの少し疲れているものですから」とつぶやくように言うのも口の中、ブレンダは今にも床に大穴が開いて、自分の体をひとのみにしはせぬか、四方の壁が倒れてきて、この体を木《こ》っ端微塵《ぱみじん》にたたきつぶしてくれればいいと願ったがそんな奇跡も起こらなんだ。ロ「おや、ほんとうにお顔の色が優れませんこと」ローラも初めて気がついたように気遣わしげに眉をひそめたが、それさえも何も彼も承知の上で、わざと自分を嘲弄《ちようろう》しているのではなかろうか。ブレンダはこの時初めて、恐怖もあまり劇《はげ》しいと、体も震えねば動悸《どうき》も打たぬことを知った。できることなら、このまま何も言わずに逃げ出してしまいたかったがいまさらそれもならぬくやしさ、悲しさ。ああ、何という無分別なことをしてしまったのだろうと、今になってくやんでも後の祭とはまったくこのこと。ブ「叔母様、私少し頭痛がして……」ロ「それはいけませんねえ。きっと、旅の疲労《つかれ》が出たのですよ。さあ、お二階に部屋の用意がしてありますから晩まで少し横になっていらっしゃいな」ブ「それでは失礼ですけれどそういうことに」ロ「何のご遠慮がいりますものか。これからも自分の家同様にしてもらわねば困りますよ」ブレンダは部屋の扉《ドア》をしめて一人きりになると、思わずわっと泣き伏した。おのが無鉄砲もさることながら、一言このことを言ってくれればこんなへま[#「へま」に傍点]はやらないものと、いまさらホープ・デーアを恨んでみたのも、狭い女の愚痴である。それにしてもマースデンとはそも何人ぞ、ホープ・デーアとはいかかる間柄ぞ、単なる友達か恋仲か、どちらにしてもこのままではよも済むまい。おやこの人は誰とけげんな顔で問われたら、どうして言いわけの言葉が出よう。たちまち贋物《にせもの》よ、騙《かた》りよと嘲《あざけ》られ、ふたたび突き出されるのはあの恐ろしい法廷、身は前科者のしかも今日出獄したばかり、何で世間が赦《ゆる》すものか、またもや暗い監獄へ送られるのは火を見るよりも明らかなこと、思えば我ながら、この無分別が口惜《くちお》しい。ええ、情けないと歯をくいしばり身をふるわせて、ひとしきり涙に袖《そで》を濡《ぬ》らしていたが、泣くだけ泣いてしまうと人間というもの、不思議に度胸が定《き》まってくるとみえ、ええいッ、何ぼ泣いたとて悔やんだとて、いまさら詮《せん》ない還らぬこと、こうなった上からは一か八か、行くところまで行ってみる分のこと、相手の出ようによっては、またその時の分別もあるかも知れず、どうせ乗りかかった船じゃもの、溺《おぼ》れようが沈もうが運賦天賦《うんぷてんぷ》、そうじゃそうじゃと浮かぬ心を強いて励まし、溶く白粉も薄情け、涙を隠す頬紅は、冷たい浮世の習慣《ならわし》かと、人の見ぬ間の隠し化粧。トランク開いて取り出だす、これも我が身のものならぬ、他人《ひと》の衣装のゆきたけ[#「ゆきたけ」に傍点]も身には合えども心には、合わぬ色彩《いろめ》ぞ是非もなき。折から階下に当たってローラの声。ロ「ホープさん、降りていらっしゃいな。皆様お待ちかねですよ」  階段の上に現われたブレンダの姿を見た時、ローラはその美しさに胆《きも》をつぶしたが、また顔色の悪さにも驚いた。驚いたはずだ、階段を降りる一歩ごとに、地獄へ臨むようなブレンダの心地、虎の尾を踏む気持ちとは、まったくこの時の彼女の心であろう。ロ「まあ大層お顔の色が悪いように見えますけれど、それともお召物の具合でしょうか」ブ「いいえ、何ですか頭痛がして少し体がふらふらいたしますの」とやるせなげに眉根に皺《しわ》を寄せるその美しさ、純白の衣装が身に合って、それこそ天使のような神々しさだったけれど、心の中は雪と墨、やがて広間の入口にまで来ると、ブレンダははや雷《いかずち》に撃たれたように、手足がしびれて動かなんだ。が、そうとは知らぬローラ夫人の手柄顔。ロ「さあ、お待ちかねのお嬢さんをお連れしてまいりましたよ」声に振り向いたのは二人の男に一人の少年。年長《としかさ》の方がダーウェントであろう、赫顔《あからがお》の縮れ毛、頬髯《ほおひげ》のもじゃもじゃとした、何となく怖《こわ》らしい大男。ダ「やあやあ! これがジョージの娘さんかえ。さても美しいよい娘《こ》じゃ。鳶《とんび》が鷹《たか》を生んだとはまったくこのことかえ」という言葉さえぞんざいに、額に唇を当てられた時には、何やら毒虫《どくむし》にでもさされたよう、思わずゾッと総毛立ちながら、ブ「叔父さま、初めまして……」も口の中、折から恥じらいがちな微笑をうかべて、少「お姉さま、よくいらっしゃいました」とおずおずと進み出た少年こそ、時にとっては何よりの救いの舟、ブ「おお、まあおかわいらしい、これがあの……」と名前を知らぬからためらうのを、横からローラが引き取って、ロ「アーチーですよ。これが家の一粒種《ひとつぶだね》。これから先も仲よくお頼み申しますよ」ブ「ああ、そうそう、アーチーさんでしたね。ほんとうにおりこうそうな」とここまでは無事に済んだが、済まぬのはいよいよこれから、マースデンとやらいう男、さっきから幽霊でも見るように、息を詰《つ》め目をそばだててこの有様をながめていたが、この男の一言が生命《いのち》の瀬戸際と思うから、ブレンダは全身の媚《こび》を集めて、哀願するごとく男の面《おもて》に目を注げば、その美しさにゾッとしたように、思わず相手は目をそらすのをダーウェントはそうとは知らぬから、ダ「マースデン君も人の悪い、ホープがこんなに美しい娘《こ》じゃと一言いっておいてくれれば、こんなにめんくらいはせなんだのに」と言われてマースデンは初めて己《おのれ》に還り、マ「いや、今夜ほど美しい姿を見たのは私も初めてです」とこれで気を取り直したのであろうか、つかつかとブレンダの側に寄ると、腰を抱いて唇の上に熱い接吻《くちづけ》、ああ、ホープとマースデンは恋仲と見えた。この思いがけない接吻《せつぷん》と気のゆるみに、ブレンダが思わずよろよろとすれば、男はたくましい手でしっかと体を抱きしめ、マ「ホープ、何だか顔色が悪いようだが」ロ「ハイ、ホープさんは先ほどから旅の疲労《つかれ》で頭痛がするとおっしゃいます。あなたせいぜい慰めてあげて」マ「なるほど、誰だってこういう場合には頭痛がするものさ」男の軽い一言にブレンダははや胸を射抜かれる思い。ロ「さあ、それではお食事にいたしましょう。マースデンさんはホープさんに腕を貸してあげて下さい」と主人役に先に立てばその隙にブレンダの早口、ブ「すみません。どうぞ堪忍《かんにん》して。これにはいろいろ理由《わけ》のあること、今夜ばかりは見のがして」という声が耳に入ったのか、入らぬのか、男はいかにもいぶかしげな顔。やがて食卓についたけれどブレンダは多く物を言わぬ。言わぬのではない言えぬのだ。言えばどんな尻尾《しつぽ》が出ようも知れぬ恐ろしさ、さりとて恋人に向かって一言も口をきかぬのは、これまた異なもの。ブレンダはやっと度胸を定め、ブ「あなたのお名前をおっしゃって」と低声《こごえ》に頼めば、マ「ゴッドフレー」と男も低声《こごえ》の応答《うけこたえ》。どうやらさっきの頼みをきいてくれたらしいと思えばブレンダは気も落ち着き、ブ「ゴッドフレー、あなたはいつからこちらに来ていらっしゃったの」マ「一昨日《おととい》からですよ。あなたはひどい。船の中であんなに固くこちらでの再会を約しておきながら、二日も私に待ちぼうけを食わせましたね。私はもう船中であなたとご懇意《こんい》になってからというもの、どういうわけかあなたのことが忘れられず、サザンプトンでお別れしてから後の寂しさ。用事もそこそこに済ませて取るものも取りあえずこちらへおうかがいしたのですよ」かんで含めるような怨言《うらみごと》も、多分己れとホープとの関係を、それとなく相手に飲み込ませよう親切からであろう、ブレンダは何となくうれしく、それにつけても思い出されるのはさっきの接吻のこと、横目でよくよく見れば男らしくひきしまったなかなかの美丈夫、こんな人に思われるとはホープさんは何という果報者、それに引き換え我が身のはかなさ、この人は自分のことを一体まあ何と思っているだろうと後めたさに気味悪さ、心がここにないものから、とかく、応答《うけこたえ》のトンチンカンになるのに自ら気がつき、これ以上ぼろを出さぬうちにと頭痛を口実に立ち上がれば、先ほどから彼女があまり親しくマースデンと語らうのが何となく気に入らぬ様子のローラ、ロ「おやそれじゃ一刻《いつとき》も早く部屋へ退《さが》ってお休みなさい。話ならこれから先、いつでもできますもの」ブレンダはこれ幸いと食堂を抜けて己が部屋へ帰ったが、張りつめた気の緩《ゆる》むにつけて、もうもう心のくるしさ、彼女は思わず長椅子に身を投げ出して、半時あまりさめざめと心ゆくばかり泣いた。泣いたとてどうなる身というではなし、ややあって心を鎮めたブレンダは、熱した頭を冷やそうとバルコニーへ通ずるフランス窓を押し開けば、そのとたん、ズイと入って来たのはゴッドフレー・マースデン、あなやと驚くブレンダを制し、マ「声を立ててはいけません。いちいち合点のゆかぬは今晩の仕儀、これには何か深い仔細《しさい》がありましょう。表《おもて》から訪《と》うのはたやすいけれど、この家の主人の思惑《おもわく》もあれば、わざとこうしてバルコニーから訪《と》いました。まず第一に聞きたいはホープ・デーアのこと、あの人はどうしました。どうしてここへ来ないのです」ブ「ホープさんは死にました」マ「ええ、死んだ。そしてどこでどのように」ブ「ハイ、サザンプトンから来る列車の中で」ブレンダが今朝ほどよりの一伍一什《いちごいちじゆう》を物語れば、マ「ああ、それでは先ほど夕刊に載っていた、身許不詳の変死人というのはホープのことでありましたか。それでどうやら話の一端はわかったようだが、合点がゆかぬは貴女《あなた》のこと、見ればこんな大それたことを企む女《ひと》とも思われないが」と優《やさ》しく問われてブレンダははや涙、ブ「私はこの世に誰一人、頼りに思う人もなく、世間から見捨てられた哀れな女、行くところのないままに、悪いこととは知りながら……」マ「行くところがないといって、ハテ、それでは今日までどこで何をしていました」ブ「ハイ、監獄に」マ「ええっ、監獄に」ブレンダは心を定めて冤《むじつ》の罪に落ちた身の不運から、今日ホープと列車に乗り合わせた経緯《いきさつ》まで落ちもなく物語り、ブ「こうして何も彼もお話しした上からは、どうぞ許して下さいまし。明日といわず今夜でも、出て行けと言われれば出てゆきます。その代わり警察へ突き出すことだけはどうぞ堪忍《かんにん》して」と涙片手に物語るブレンダの不憫《ふびん》さ。マ「なるほど、それで万事飲み込めましたが、さりとてここを出てゆこうというのは悪い料簡」ブ「あれまあ、どうして」マ「まあ、考えてもごらんなさい。貴女もこんな大それた悪事を企む女なら、大概私の目的もわかっていようものを」と打って変わった男の言葉つきにブレンダははや胸をわくわく、ブ「そしてその目的というのは」マ「ハテ私が何でホープのような田舎《いなか》臭い娘に惚《ほ》れるものか。惚れたのは女の財産、うまく蕩《たら》し込んで結婚し女の金で栄耀栄華《えいようえいが》に暮らそうというのが私の魂胆《こんたん》、肝腎のホープが死んでしまっては、折角の名案も|※[#「易+鳥」、unucode9D8D]《いすか》の嘴《はし》だが、貴女のような別嬪の身替わりができたのはもっけの幸い、ここは何でもホープに仕立てて、財産すっかり横領した上、何が何でも私と結婚してもらわねばならぬ。いやだと言えば不愍《ふびん》だが、恐れながらと訴えて出る。ブレンダさん、いやさホープさん、ここは一つ度胸を定めて、一芝居打った方がお互いのためでしょうよ」初めて明かす男の本心、聞くよりブレンダは二度びっくり、一目見たその時から、好いたらしい頼もしそうなと、秘かに胸を焦がしていたのに、恐ろしやここにも鬼のいたことよ。    三 片棒を担《かつ》ぐ女に蟻《あり》の一穴《いつけつ》  人の往復《ゆきき》も繁からぬ、ケンシントン公園の朝まだき、鬱蒼《うつそう》と生い茂る樟《しよう》の樹影に、先ほどから人待ち顔にたたずむ美人は、言わずと知れたブレンダ・ローズ。清楚《せいそ》な浅緑の衣服に包んだ身のとりなしは、途行く人の足を止めるくらいの美しさ。葉影|洩《も》る夏の太陽は、黄金の箭《や》のように彼女の上に降りそそいでいたが、その光さえもブレンダの心には、埋火《うもれび》ほどの暖かさも与えぬ。冷え切ったおびえた心で待っている人は、今しも馬車から降りて急ぎ足にこちらへ。マ「大層待たせましたか」ブ「いいえ、それほどではございません」ブレンダの声は消えも入りそう。マースデンも今朝は一段と立ち優った男振り。仕立下ろしの洋服が、ピッタリと身に合って、どこへ出しても恥ずかしからぬ風流紳士。げに計られぬのは人の心。このりゅうとした美丈夫の中に、あんな卑劣な企みがひそんでいようとは誰が知ろう。マースデンがテート家を出て、一流ホテルに住むようになってから今日でちょうど三日目。その間二人は一度も会わなんだから、それでも幾分懐かしそうに寄りそって、マ「その後何か変わったことはありましたか」ブ「いいえ、別に何もございません」マ「ダーウェントはまだ、ホープの財産のことについて何も申しませんか」ブ「ハイ、一向に。こちらから鎌をかけてみても、とかく言葉を濁して、はかばかしく返事をいたしませんの。私の思うのに、ダーウェントはもう金を費《つか》い果たしてしまったのではありますまいか」マ「そんなばかなことがあるものですか。費うといっても一年や二年で費い切れるほどの、そんななまやさしい金高じゃありませんよ。それに今ダーウェントが関係しているという、事業の方も調べさせていますが、その方で損をした形跡もありません。どんなに少なく見積っても三十万ポンドという金がなければならぬはず」ブ「まあ、そんなことまでお調べになって」マ「それはそうですとも。相手の手札も知らずに勝負をするわけにはまいりませんからね」ブレンダは何となく空恐ろしげに身をすくめて、ブ「だけどその金は、誰のものになるのが本当なのですの」マ「さあ、それはホープが死んでしまった以上、ダーウェントから息子のアーチーに行くのが至当でしょうね」ブ「まあ、アーチー、あのかわいいアーチー、あの子のものを横取りしようなんて」マ「ブレンダさん、いやさホープさん、あなたはいまさら後生気を出したのではありますまいね」ブ「ああ、その後生気とやらが出せたら。……テート家の人々は主人も奥さんも随分気味の悪い恐ろしい人ですけれども、アーチーばかりは私によく馴れついて、あんなに親切にしてくれますものを」マースデンは急に厳しい顔つきになって、マ「いけません、いけません、そんな弱い心でどうします。三十万ポンドという金が自分のものになるかならぬかという境ですよ」ブ「いいえ、いいえ、私にはその金もいりません。マースデン様、ここに三千ポンドという金があります。これもホープさんのトランクの中にあったものですけれど、テート家の人々に見られたら、奪られるかも知れないと思ってこれ、こうしていつも肌身離さず持っております。これを貴郎《あなた》に差し上げます。その代わりこんな大それた企みはどうぞふっつり思いきって」マ「ばかな、三千ポンドばかりのはした金がどうなるものですか。あんな贅沢《ぜいたく》なホテルに泊まって、湯水のごとく資本《もとで》を費《つか》っているというのも三十万ポンドという金の目的《めあて》があるばっかり、もしこの計画が齟齬《そご》すれば、責《せめ》はみんな貴女にあるのだから、このままではすましませんよ」ブ「このままにすまさないとは」マ「胸に手を置いてよく考えてごらんなさい。……とさあ、こんな冷酷《れいこく》なことは言いたくないが、どうせ人間らしい魂は、とうの昔に悪魔にくれてしまった私のこと、貴女がいかに泣いて頼んだとて思い切るような私ではありません。女の涙で心を動かしたのは、それはもう随分昔のこと、今では私の心は冷たい、堅い金色《こんじき》の夜叉《やしや》も同然。ブレンダさん、そのつもりで付き合ってもらいましょう」とにべもなく言い放ち、そらうそぶいて煙草を吹かしているマースデンの横顔をながめ、ブレンダは思わずはらはらと不覚の涙、しばしハンケチで面を被い声を忍んですすりないていたが、ややあって顔を上げると、ブ「いたしかたありません。これも私の不運とあきらめ、何でも貴郎《あなた》の命令《いいつけ》通りにいたしますから、あまりひどいことは言わないで」と男の膝《ひざ》に手を置いて、哀願するごとく面を仰げば、マースデンもようやく顔色を柔らげ、マ「いや、そうおっしゃれば私も好きこのんで、こんないやなことは言いたくありません。それでは今日から思い切って私の計画に力を貸しますか」ブ「はい、どんなことでもいたしましょう」マ「それではこれから帰って早速ダーウェントに強談判《こわだんぱん》してごらんなさい。それでも埒《らち》があかぬ時はいよいよ私が出馬することにいたしましょう」ブ「ハイ」と答えてブレンダは手早く涙を押しぬぐい、直す化粧もままならぬ、身をかこちつつ男に連れられ、公園を出て行く折しもあれ、ぎょっとしたようにかたわらのベンチから立ち上がったのは、浮浪人態の一人の男。ブレンダの後姿を穴の開くほどながめていたが、やがてポケットに手を突っ込み、口笛を吹きながら後をつけてゆく、それとは知らぬマースデンは、待たせてあった馬車にブレンダを扶《たす》け乗せると、マ「さようなら、ホープ、用事があったらホテルの方へ電話をおくれ」ブ「ハイ、さようなら。——それではシャラード広場《スクエヤー》三番地まで願います」ブレンダが馭者《ぎよしや》に命ずる行先を、小耳にはさんでにったりと笑ったのは件《くだん》の浮浪者、馬者のうしろを見送ったその目付きのすごいこと、ブレンダが気づいたらそれこそ竦毛《おじけ》を振るって驚いたことだろうが、気がつかなんだから是非《ぜひ》もない。家へ帰ってみるとあいにくダーウェントもローラも留守。帰る途々ああも言おうこうも訊《たず》ねようと意気込んでいたのに、その鋒先《ほこさき》を折られたから、ブレンダはがっかりもしたが、また一方では少しでも生き伸びたような気持《こころもち》。己が部屋へ還ると帽子を取る間も遅しとばかり、がっくりと長椅子の上に投げ出した身体の怠《だる》さやるせなさ。心配と苦労とで今日このごろは、ろくろく夜も眠られぬものから、ついうとうととまどろんでしまったが、ふと扉《ドア》を叩く音に目が覚《さ》めてみれば、時刻ははやよほど移っている様子、驚いて椅子から起き上がり、夢に流した涙の痕《あと》をぬぐいながら扉を開いてみれば女中が手紙を持って入ってきた。女「さっき使いの者がこの手紙を置いてまいりましたが」ブ「おや、手紙、どちらからだろう」と手に取ってみれば表にホープ・デーア様とばっかり、差出人の名前もないが、何となく怪しくてブレンダははや胸騒ぎ。ブ「そしてこの手紙を持ってきた使いというのはまだいるのかえ」女「いいえ、ただお渡し下さればと言ってすぐに帰りましたが」ブ「そう、それでは用事があったらまた呼びますよ」女中が立ち去るのを待ちかねて、ふるえる指先で封を切ってみて驚いた。驚いたはずだ。——打ち絶えての御無沙汰おん許し下されたく候《そうろう》、おん許《もと》さまの打って変わった御出世振りを陰ながら拝見いたし、お顔に似合わぬ腕の凄《すご》さにつらつら敬服仕り候。本日公園にて睦《むつま》じくおん語らいの紳士は、大変なお金持ちとお見受け申し候えども、果たしておん許さまの前名をご承知の上にやとまことに審《いぶか》しく存じ候。それはさておき妾《わたし》ことはする事なす事へま続きにて、目下たいへんな世話場、おん許さまの御出世を見るにつけても羨しく、昔の誼《よしみ》に、この急場をおん救い下さるまじきやと、回らぬ筆にてこの文|認《したた》め申し候、あの厚い壁の中にて楽しく暮らし候日のことをおん思い出され候わば、よもこのままおん見捨てなさるまじく、必ず必ず次の所へ御|来駕《らいが》あらんことと、首を長くしてお待ち申し上げ候、かしこ。シャーロッタ・クレイトン。読み終わるなりブレンダは色を失い、毒虫にさされたようにはげしく身体をふるわした。かわいそうなブレンダ、狼《おおかみ》のようなマースデンと豹《ひよう》のごときテートの間にはさまれて、それでなくても身も心も細る思いの今日このごろ、またもや現われたのは牝獅子《めじし》のようなシャーロッタ。いつか出獄の日に停車場で会った時、どうせ一度は汚《けが》れた身、どうして世間が相手にするものか、いつかは必ず私たちの仲間に落ちて来る時があろうと言った、あの女の恐ろしい予言がとうとう現実となって表われたいまいましさ、あさましさ、ブレンダは歯をくいしばり、髪の毛をかきむしって、いくら後悔しても悔い足りぬ心持ち、ああ、いまさらこれがどうなろう、手を引こうと言えば、マースデンが承知せぬ、進もうとすれば意外な障害、ええもうこうなれば破れかぶれ、どうなることか行き着くところまで行ってみようと、憂《うれ》いに慣れた身の涙も溜息もかれはてて、身支度もそこそこに訪れたのはウォータールー街の裏通り。狭い危い階段をガタピシと上がって行けば、その足音に扉《ドア》を開いて迎えたのは、だらしない格好をしたシャーロッタ。相も変わらず熟柿臭《じゆくしくさ》い息を吐いていたのが、彼女の顔を見るなり相好《そうごう》を崩《くず》して、シ「おやまあブレンダさん、お呼び立てしてすみませなんだわねえ」とお追従《ついしよう》笑いの軽薄さ、ブレンダはゾッと鳥肌の立つのを覚えながら部屋の中を見れば、さっきちらと公園で見かけた浮浪人態の男、ああそれではこの男がと初めて気がついたが後の祭とはまったくこのこと、ブ「シャーロッタさん、そして用事とは何のことですの」シ「まあ、いいじゃありませんか、そうお急ぎにならなくても、一杯いかが?」ブ「いいえ、お酒は戴きません。それより用事というのを言って下さい。一体いくら欲しいとおっしゃるの」とはや手提鞄を開きにかかれば、シャーロッタは満面に笑い崩れながら、シ「まあ、ブレンダさんのわかりが早い、ほんとうにお前さんにそれだけの器量があろうとは、私は夢にも知らなんだよ。だもんだからいつかはねえ、心にもない悪態をついて、ほんとうにすみませんでしたよ。いいえね、こんなことは言いたくはないのだけれど、ここんとこへ来て世話場続きなもんだから……」なおもくどくどとしゃべり続けようとするのをブレンダはすばやくさえぎって、ブ「一体いくらですの、欲しいとおっしゃるのは」シ「それがね、いろいろな都合があってね、まことに言いにくいんですけれど三十……」ブ「三十——三十ポンドですか」と言えば男がすばやく横から口を入れ、男「おい、おい、それじゃ約束が違うじゃないか。三十ポンドばかりじゃ足りやしねえぜ、どうしても五十ポンド……」ブ「五十ポンド? それでよろしいのですね」シ「お黙り。お前さんは引っ込んでおいで。ほほほ、何もわからないくせに差出口をして困るのでございますよ。どうしてもここ百ポンド——ハイ、百ポンド、百ポンドでございますよ。それだけなければ越せませんのですよ」ブレンダはもう一刻も早く、この罪悪の巣窟《そうくつ》から遁げ出したい一心。ブ「百ポンド、それだけ差し上げれば、向後《こうご》一切私のことに嘴《くちばし》を入れませんか」シ「何でまあ、そのような胴欲《どうよく》なことを申しましょう。それだけあれば二人で亜米利加《アメリカ》へ渡って当分楽に暮らせますもの」亜米利加へ渡るという言葉に、ブレンダは幾分|安堵《あんど》の思い。ブ「それではここに百ポンドあります。これであなたと私とは、今後一切赤の他人、道で会っても知らぬ同士ですよ。わかっているでしょうね」シ「それはもう、貴女のご都合次第ですよ。知らぬ顔をしている方が都合がよいとおっしゃるなら、随分知らぬ顔もしておりましょう。しかしまあ、お前さんは本当にお羨しいご身分。とんだ出世をしたものだねえ」首さしのべてブレンダの開く手提鞄をのぞく眼《まなこ》のものすごさ、何でこの女が一旦擒《いつたんとら》えた餌を指の間から逃すものか。肉を啖《くら》い骨までしゃぶろうとするのは知れたこと、思えばおぼつかないブレンダが身の上。    四 子に迷う親の心は六道の闇  何の手強《てごわ》いといったところでたかが素人、少し強面《こわもて》に談判すれば、兜《かぶと》を脱いで往生するのは知れている。そうなった暁《あかつき》はめでたくブレンダと結婚して、濡手《ぬれて》で粟《あわ》の三十万ポンド。これだけあれば生涯を、栄耀栄華《えいようえいが》に暮らせると獲らぬ狸《たぬき》の皮算用、算盤《そろばん》の上ではうまく割り切れているのに、どっこいこいつがなかなか一筋縄でゆかぬ相手と、わかってみると、マースデンは今日このごろのひどい焦《じ》れよう、これというのも一つにはブレンダの弱腰からと思えば、あのかわいらしい顔がいっそ憎らしく、今度会ったら思いきり言ってやらにゃとてぐすね引いて待っているのだが、さて次に会った時彼女のしおらしい顔、憂《うれ》わしげな眼差《まなざし》を見れば、思ったことの半分も、三分の一も言えないのは我ながら驚くばかり。これは一体どうしたことと、このごろでは自分で自分にあきれるばかりであった。今日はブレンダがこのホテルへやってくる日とさっきから、ロビーで立ったりすわったり、吸いもしない煙草に火をつけたり、盛んに焦れ切っているところへ、息も絶え絶えにまろぶがごとく入ってきたブレンダの顔の青さ。マースデンが思わずはっと腰を上げるのを、女は待たずにぐったりと身を投げ出し、ブ「貴郎《あなた》水を——水を——」と切なげに求むれば、マースデンはいよいよ驚き、マ「どうかしましたか、大層お顔の色が悪いが、何か途中で変わったことでも」ブ「はい変事も変事、あなた、私はもう少しで殺されるところ」マ「ええッ、殺されるところとは、そしてまた誰に」言葉|忙《せわ》しく詰め寄るマースデン、ブレンダは男の注いでくれた水をぐっと飲みほし、それで幾分気もおさまったのか、さも恐ろしそうに身震いしながら、語りだしたのは次の一条。ブ「貴郎《あなた》があんなにおっしゃるものだから、昨夜《ゆうべ》からもうダーウェントと膝詰談判、貴郎はご存じありますまいけれど、あのご夫婦の恐ろしさ、旦那様はまだそれほどでもありませんけれど、奥さんの空世辞《からせじ》の気味悪さ、思い出してもふるふる厭《いや》、それがどうでしょう、私が旦那様に話があると言えば必ず側へ来てじっとすわって、ジロジロ私の顔を見詰めているのですもの、もうもう厭なことだと思ったけれど、それでは貴郎にすまないと、昨夜から今朝へかけての手詰めの談判、するとどうでしょう、いつもこのことを言い出すと機嫌の悪いダーウェントが今朝は打って変わってにこにこ顔の気味悪さ。ホッポや、お前そんなに気になるのなら、お前の財産一切委任してある、弁護士のところへ今日連れて行こう、そして何も私が横領しているわけではないという確かな証拠をよくお前に見せてあげよう。いいえ、私何も叔父様が横領していらっしゃるなんてそんな、だからさ、それでいいではないか、でも私いつまでもこのお邸にご厄介になっているわけにもまいりませんので。だから財産はお前に渡すよ。だけどその前に一応弁護士に会って、よく相談してごらんと、それからまるで足もとから鳥が立つような急《せ》かしよう。出かける時に奥様のローラと何やら目配せをしているようでしたが、こちらは何しろうれしさが一杯、深くも気に止めませなんだが、表へ出るとそれがどうでしょう、いつも馬車に乗る人が、今日は地下鉄で行こうというわけ、私はもとより倫敦《ロンドン》の地理に明るくありませんもの、さんざん方々引っ張り回されて、乗った駅がどこやら見当もつきません、まだそれだけならいいんですけれど、地下鉄へ乗ってからも、何遍も何遍もの乗り換え、貴郎、シャラード広場から市部《シテイー》とやらへ行くのには、あんなにたびたび乗り換えをしなければならないのでしょうか。随分妙なことをすると思ったけれど、いちいち尋ねるわけにもゆきませんので、黙って後からついてゆくと、最後に乗り換えたのが寂しい停留場、ええ、プラットフォームにだって一人も他《ほか》の人はいやあしません、私とダーウェントの二人きり、しばらく待っていると向こうから電車がやってきます、プラットフォームには相変わらず私たち二人きり、するとどうでしょう、ふいに何かに滑《すべ》ったような格好でダーウェントがよろよろ、そしてどしんと私の体にぶつかって」マ「ええッ、危いッ、それからどうしました」ブ「どうもこうもありゃしません。あんな大きな体ですもの、私は線路の方へケシ飛んで……電車はすぐ目の前に迫っています。私はもう轢《ひ》かれたことと観念して」マ「観念して、それからどうしました。まさか轢かれやしなかったでしょうね」と言葉|忙《せわ》しく尋ねるマースデンの声は、我ながらいぶかしいふるえよう、ブレンダはあきれたように男の顔を見て、「まさか、ほほほ、轢かれてしまったら、今頃こんなお話はできませんわ。観念して目をつむった瞬間誰やらしっかりと私の体をつかまえてくれた者がありましたの」マ「誰です、ダーウェントですか」ブ「何の私を殺そうとするぐらいの人、何であの人が私を救ってくれるものですか。それがじつに意外な人物で……アーチーなのですよ」マ「アーチー、それじゃあの子も一緒だったですか」ブ「いいえ、そうじゃないから不思議なのです。いつの間についてきたのかまったく思いがけないことなので、私は夢に夢見る心地、アーチーは偶然、そこに居合わせたのだと弁解しておりましたが、あの子がいなければとくの昔に私は轢殺《れきさつ》されているところ、それを思えばもうダーウェントの側にいるのは一刻も恐ろしく、馬車を雇ってその場から、こうして駆け着けてきたのです。一体私はこれから先、どうしたらいいのでございましょうね」瞑目《めいもく》しながら考え込んでいたマースデン、激情の嵐がおさまるにつれて、もたげてくるのは日頃の冷静な思慮分別《しりよふんべつ》、しばらくあって目をひらくと、マ「何、そりゃきっと過失でしょう」ブ「ええ、過失とは」マ「そうですとも、あやまってよろけるということは誰しもありがちなこと、それを貴女が日頃から、怖い怖いと思っているから、何となく意味ありげに思えたまでのこと、何、ダーウェントだってまさかそれほど深い企みがあるものですか」ブ「まあ、それじゃ貴郎はこの出来事をまったくの偶然とおっしゃるので」マ「そうとしか思えませんねえ」ブ「それじゃアーチーがその場に居合わせたのも」マ「そうですとも。だから何も心配することはありません。機嫌を直してもう一度シャラード広場へお帰りなさい」ブ「それじゃ貴郎は私がこのまま殺されてもよろしいとおっしゃるので」マ「何のそんなことがあるものですか。みんな貴女の疑心暗鬼」ブ「いいえ、殺されます、はい、私はきっと殺されます。口ではうまく言えませんけれど、もうもうあの家の中の恐ろしさ、気味悪さ、私はもう二度とあすこの閾《しきい》はまたぎません。どうぞお願いですから貴郎の側において」と言えばマースデンは急に恐ろしい顔になり、マ「ブレンダさん、いやさホープさん、貴女はこの間あれほど固く約束したのを忘れましたか。よろしい、そんなに聞き分けがない貴女なら、私の方にも考えがあります」とはや呼鈴を押しそうにするのを、ブレンダはあわてて押し止め、ブ「まあ人を呼んでどうなさるおつもり」マ「ハイ、警察へ届けさせるばかり、ここに前科者の騙《かた》りがいると言って」ブ「あれまあ」と言ったがブレンダははらはらと涙を落とし、ブ「貴郎という人はなんという恐ろしい人でしょう、血も涙もない鬼のような人間とはまったく貴郎のこと」マースデンはあざ笑い、マ「そうですとも、血や涙というものはとかく金儲《かねもう》けの邪魔、私の血はとっくの昔に冷えて、涙も涸《か》れてしまいました。さあブレンダさん、貴女はシャラード広場へ帰るのですか、帰らぬのですか」ブレンダは涙をぬぐいながら恨めしげに男の顔をながめ、ブ「ハイ、帰ります。そしてもうどんなことがあってもこんなわがままは言いませんから、警察へ届けることだけはどうぞ堪忍して」と悄然《しようぜん》と立ってゆく後姿の哀れさ、マースデンは何となく胸騒ぎがして、思わず呼び止めようとしたけれど、ええッ未練なと自分で自分の心を叱りつける。それにしても不思議なは男の心情《こころ》。ちょうどその頃シャラード広場《スクエヤー》のテート家では奥の一間で夫妻が額を集めてのひそひそ話。ダ「どう考えてもあすこへアーチーが飛び出したのは不思議だよ。あの子さえいなければ今頃は万事うまく片がついているのに」ロ「本当に親の心子知らずとはあの子のこと、何も彼もみなあの子のため、ホープさえ亡きものにすれば、あの莫大な財産が、手もなくアーチーの懐中《ふところ》に転げ込み、生涯安穏に生活できると、私たちが夜の目も寝ずに苦労しているのに、あの子のまあ、お姉様お姉様とばかな憬《した》いよう、それをまたよいことにしてホープの奴がてなずけているのだから憎らしいじゃありませんか」と自分の非は棚に上げ、なにかにつけて他人《ひと》の憎らしいのが小人の常、ダ「それで何かい、あの子はもう眠っているのかい」ロ「はい、さっき寝室へさがりましたけれど、そういっても油断はできませんよ。今朝なんかもどうしてあの計画をかぎつけたのですかねえ」とそれよりは一層声を落としての密談、折々亭主が反対するのか、おさえつけるようなローラの声、ロ「なにもかもアーチーのためですよ」とそれ一点張りに説き伏せる、げに恐ろしきは女の心、雌鶏奨《めんどりすす》めて雄鶏《おんどり》ときを作るとかや、しぶしぶダーウェントの承諾したのは、一体どんな計画ができあがったのであろうか。折から玄関の開く音して、ブレンダが帰ってきた様子に二人は急に面をつくろい、ロ「おや、ホープさんかえ、さあこちらへお入りな」といつもの作り声にブレンダは辞《いな》みもならず、虫唾《むしず》が走るほどもいやで恐ろしかったがしぶしぶ中へ入ってみれば、ダーウェントはさっきからの独酌《どくしやく》ではやかなり酔いが回っている様子、ダ「ホープや、今日はすまなかったねえ、ほんとうにさぞ驚いたことだろうと私もあれから心配でねえ」ロ「ほんとうにダーウェントがとんだことをしでかしたんだってねえ、この人はそそっかし屋だからほんとうに困ってしまうのだよ。だけど悪気があってしたことじゃないのだから、どうぞねえ。堪忍してやってちょうだいよ、そしてさっきから済まない済まないと言いつづけて、ほれ、あんなにお酒を飲んでしまってさ」ブ「叔父さん、叔母さん、そのことなら済んだことですもの、もう何も言わないで、そして私は頭が痛んでなりませんから、二階へ上がって横になりましょう」とはや出て行きそうにするのをダーウェントはすばやく呼び止め、ダ「ホープや、それじゃ仲直りにこれを一杯やっておくれ」ブ「あら叔父さん、私はお酒を飲めませんもの」ロ「いやかい、それともこのお酒の中に毒でも入っているとお思いかい」ブ「あれまあ、そんなこと」ロ「それでは飲んでおくれ、私も一つお相伴《しようばん》をしますよ」となみなみと注がれた杯を前に置かれ、やむなくブレンダは毒でも仰ぐような思い、舌をしびらせ咽《のど》を焼くような液体を、目をつむって、ぐっと一息、ロ「ああ、みごとみごと」ブ「叔母様、これでもう部屋へさがってもよくって」ロ「おお、いいともいいとも、それでは明日までぐっすりと寝ておくれ」と言う言葉の中には、何やら毒々しい響きがこもっていたが、それとは気づかぬブレンダ・ローズ、慣れぬ酒とて頭はくらくら、頬はあかあかと燃え上がり、足はふらふらよろめくのを、踏みしめ踏みしめ階段を登れば、うれしくようやく自分の部屋、出がけにはたしかとざしておいた扉《ドア》がなんなく開《あ》いたのも深くは気にも止めず、転げ込むように部屋の中へ入れば、つんと鼻をつくガスの匂い、酔ってはいてもさすがにあなやと驚き、ふたたび扉を開かんとすれば、誰がとざしたのか開かばこそ、露台の方へはい寄ればこれも外からピタリと錠《じよう》、とかくするうちガスの匂いは濛々《もうもう》と襲ってくる。救いを求めんにも舌がもつれて声は出ず、無慙《むざん》やブレンダはばったりそこに倒れてしまった。強いことを言ってブレンダを帰したものの、マースデンはいつにない胸騒ぎ、悄然《しようぜん》として立ち去ったブレンダの、物思わしげな瞳が目の前にちらつき、じっとしていられぬほどの不安に、我にもなくホテルを飛び出し、やってきたのはシャラード広場《スクエヤー》、さりとては、この夜更、約束もないのに表から案内も乞《こ》われず、そうかといってブレンダの無事な顔を一目でも見なければおさまらぬ胸の安心、ふと思い出したのはいつぞやのバルコニー、そうだ、あすこから忍《しの》んでいって、そっとブレンダに会ってこようと、塀《へい》乗り越えてバルコニーに掻き登れば、こはいかにガラス扉《ど》の隙《すき》から濛々と洩れてくるのは窒息《ちつそく》しそうなガスの匂い、見れば部屋の中に誰やら倒れている様子、チェッ、遅かったかとマースデンははや気も動顛、ナイフを取り出し扉《ドア》をこじ開ける間もまどろかしく、部屋へ跳び込みブレンダの体を引き抱え運び出したのは庭のかなた、ガラス扉《ど》がひとりでに、ピッタリ閉まる。マ「ブレンダや、しっかりしておくれ、許しておくれ」と狂気のごとくかきくどき、そそぐ涙は熱湯の、腸《はらわた》もまたちぎれんばかり、ブレンダはこの声にようやく気がつき、ブ「あなた」とうれしげにすがりつけば、男は、マ「ブレンダや、許しておくれ、もうもうこんな恐ろしい企みは断念して、二人で亜米利加《アメリカ》へでも渡って、たとえ貧しくとも正直に心楽しくこの世を送ろう、ブレンダ、お前も行っておくれだろうね」げに弱くて強いは女の力、さしもに猛《たけ》き男の悪心も春の氷と解けゆくうれしさ、もとより好いたらしいと思い初《そ》めたマースデンのこと、ブレンダに何の異存があろう、男の首を抱きしめて、ブ「貴郎《あなた》——うれしいわ」どこやらで 鶯《ナイチンゲール》 の声、チュンチュンチュン。 [#中央揃え]*  それから半時間ほど後のこと、ウイスキーを一本傾け尽くして、陶然と酔いの回ったダーウェント、時分は好しと蹣跚《まんさん》たる足を踏みしめながら、上がっていったのはブレンダの部屋の前、扉《ドア》を開いた。扉を開いてから気がついたのは、口にくわえたまま立ち消えになった葉巻、酔漢《よつぱらい》の悲しさには前後の分別もなく、ポケットからマッチを取り出して、チュッとすったが天なるかな。——この世の決別《わかれ》。 本書には今日の人権意識に照らして不当・不適切と思われる語句や表現がありますが、作品執筆時の時代背景や作品が取り扱っている内容などを考慮しそのままとしました。作品自体には差別などを助長する意図がないことをご理解いただきますようお願い申し上げます。 [#地付き](角川書店編集部) 角川文庫『青い外套を着た女』昭和53年11月20日初版発行