TITLE : 金田一耕助の冒険2 金田一耕助の冒険2 横溝正史 ------------------------------------------------------------------------------- 角川e文庫 本作品の全部または一部を無断で複製、転載、配信、送信したり、ホームページ上に転載することを禁止します。また、本作品の内容を無断で改変、改ざん等を行うことも禁止します。 本作品購入時にご承諾いただいた規約により、有償・無償にかかわらず本作品を第三者に譲渡することはできません。 目 次 夢の中の女 泥《どろ》の中の女 柩《ひつぎ》の中の女 鞄《カバン》の中の女 赤の中の女 夢の中の女 夢見る夢子さん 一  金田一耕助のような職業に従事するものは、おそらく、ことの意外だとか、予想外のおどろきなどということには慢性になっているだろうことが予想される。  かれのように社会の奸《かん》智《ち》とたたかっている男が、いちいち、とほうもない、あるいは死にもの狂いの犯罪者たちの狡《こう》智《ち》に驚嘆していては、心身ともにすりへらされてしまうであろうことは疑いをいれない事実である。  それにもかかわらず、これからお話しする『蛍《けい》光《こう》灯《とう》の女』の事件では、かれは冒頭から世にも異常なサープライズを味わわなければならなかった。  それは盛夏の七月下旬のことだった。  朝早く、警視庁の等々力警部の電話におこされた金田一耕助は、ちょっと妙な事件が起こったが、それについてぜひお尋ねしたいこともあり、かつまたご相談申し上げたいこともあるから、至急、本庁までおはこびねがえないかという警部の丁重な要請をうけて、いささか不審の小首をかしげた。  いままでにもこういう要請をうけたことは珍しくない。しかし、それはいつの場合でも、ご相談申し上げたいとか、お知恵を拝借したいとかいう意味の要請で、お尋ねしたいことがあるというようなあいさつは珍しかった。  いったい、なにを尋ねたいというのかと、金田一耕助はちかごろ警部が頭をなやましている事件のあれこれをかんがえてみた。最近において、等々力警部のみならず、警視庁全体がいちばん頭をなやましている問題といえば、なんといっても百円紙幣の贋《がん》造《ぞう》事件である。それは警視庁のみならず、もはや大きな社会問題になっていた。  贋造された百円紙幣はじつに巧妙にできていて、素人目には本物と区別がつかない。それに、千円紙幣をさけて百円紙幣に目をつけたところにも犯人の賢明さがあった。  千円紙幣にくらべると、それより少額の百円紙幣が比較にならぬほど流通量の多いことはいうまでもない。それだけに、千円紙幣にくらべるとたいせつにされることも少なく、消耗やいたみかたもはげしい。  百円紙幣の贋造者はそれに目をつけたのである。発見された贋造紙幣はじつにおびただしい数にのぼっているが、それらはいずれも相当いたんでいるものばかりだった。だから、犯人は贋造紙幣を使用するまえに相当くちゃくちゃにしておくらしく、そのためにいっそう本物との区別がむつかしくなっているのである。  このことがいま警視庁の大きな関心事になっているのだが、しかし、さっきの警部の口裏から察すると、そのことではなさそうに思える。そうすると、なにか新しい事件が起こったのだろうか。  しかし、それにしてもじぶんに尋ねたいことがあるというのは、いったいどういうことだろうと、金田一耕助はふしぎに思いながら、しかし、さしせまってはほかに用事もなかったので、警部の要請に応じて出かけることにした。  そのときの金田一耕助の服装といえば、小《お》千《じ》谷《や》縮みの白《しろ》絣《がすり》に夏《なつ》袴《ばかま》をはき、頭にはまあたらしいパナマをかぶり、かれとしては珍しく男振りをあげているつもりで、内心大いに得意だったが、等々力警部はてんでそんなことは目にもはいらぬほど興奮していた。  「やあ、金田一さん、お呼びたてして申し訳ありません。ちょっと妙な事件が起こったんですが、あなた、本《ほん》多《だ》美《み》禰《ね》子《こ》という女をご存じですか」  警視庁の第五調べ室、等々力警部担当の部屋へはいっていくと、頭からこう浴びせかけられて、金田一耕助も面食らわずにはいられなかった。  「本多美禰子……? そ、それはいったいどういう婦人ですか?」  金田一耕助は目をパチクリとさせたが、  「ご存じじゃありませんか。新橋にある『大勝利』というパチンコ屋の看板娘なんですがね」  と、等々力警部に注意されて、  「ああ、あの〓“夢見る夢子さん〓”」  と、おもわず息をはずませた。  「えっ、夢見る夢子さんとは……?」  と、こんどは等々力警部が目をみはる。  「いや、そういうアダ名があるんですよ、あの娘には……夢見る夢子さんというのは、だれかの漫画の女主人公らしいんですが、あの美禰子というのがひどく空想的な娘でしてね、いつもなにかこう夢想しているというふうなので、そういうアダ名がついてるんですがね。それで、なにかあの夢見る夢子さんが……?」  と、金田一耕助はふいと不安そうにまゆをひそめる。じつをいうと、金田一耕助は夢見る夢子さんの美禰子からある調査を依頼されながら、まだ果たしていないことを思い出したのである。  「ああ、それじゃ金田一さんはやはりあの娘をご存じなんですね。ところで、あなた、あの娘に手紙をおやりになったことがおありですか」  「手紙……? いいえ」  「しかし、あなたはなにかあの娘から依頼されていらしたんじゃないですか」  「ああ、それは……」  と、金田一耕助はパナマ帽をぬいでもじゃもじゃ頭をかきまわしながら、ふしぎそうに警部のひとみをのぞきこんだ。  「じつは、この春ごろからちょくちょくとあの『大勝利』といううちへいくようになって、看板娘の夢見る夢子さん、すなわち美禰子という娘とも心やすくなったんですが、そのうちにあの娘、だれからかわたしの職業をきいたとみえて、ある調査をわたしが、まあ、依頼されたというわけです」  「その調査というのは、三年まえに殺害されてそのまま迷宮にはいっている美禰子の姉、いわゆる黒衣の女、本多田鶴子の事件についてじゃないんですか」  「そうです、そうです、警部さん」  と、金田一耕助はせわしくうなずいて、  「しかし、そのことでなにか……」  「いや、それについて、金田一さんはあの娘になにかいってやったことはありませんか。手紙やなにかで……?」  「いいえ」  と、金田一耕助はいよいよ驚いたような面持で、  「それはいまも申し上げたとおり、あの娘に手紙なんか出したおぼえはありませんが……」  「ところが、金田一さん、ここにこのような手紙があるんですがね」  と、警部が紙ばさみのあいだから取りあげた五、六枚の便《びん》箋《せん》をみると、金田一耕助はおもわずまゆをつりあげた。  それは、新聞あるいは雑誌類の印刷物から必要な文字をきりぬいて、便箋のうえに張りつけた手紙である。  金田一耕助もいままでたびたびこういう手紙を見てきたが、このような手紙のつねとして、筆者の名前がないか、たまたまあっても匿名にきまっているのに、その手紙にかぎって、  「ほら、金田一さん、ここにこの手紙の差し出し人の名前が……」  と、等々力警部の指さすところをみると、金田一耕助はおもわずぎょっと大きく目をみはった。  そこにはちゃんと、  『金田一耕助』  という名前が、印刷物から切りぬいた大小ふぞろいの文字で張りあわせてあるではないか。  金田一耕助はしばらく唖《あ》然《ぜん》として、じぶんの名前を見つめていたが、急にぷっと吹きだすと腹をかかえて笑いだした。  「いやあ、これはどうも。こいつはどうも。あっはっは、愉快ですなあ。匿名の手紙に、こともあろうにこのぼくの名前が利用されようとは……」  だが、しかし、等々力警部のむつかしい顔色に気がつくと、金田一耕助はとつぜん笑いの発作から立ちなおった。  「警部さん、それでこの手紙にはどんなことが書いてあるんですか」  「どうぞ、ごじぶんでお読みになって」  警部のおしやる便箋を金田一耕助はデスクごしにうけとると、最初の一枚から読みはじめたが、たちまちにしてかれはこのロマンチックな手紙に魅了されたのである。  それはつぎのような世にも奇妙な内容だった。   拝啓、過日、あなたよりご依頼をうけたあなたの姉上、本多田鶴子氏殺害事件につき、その後、調査を進めておりましたところ、この度ようやく犯人をつきとめることが出来ました。   しかし、なにぶんにも三年という時日が経過しておりますことゆえ、たしかな証拠をあげることが出来ないのをイカンに思います。さりとて、このまま犯人を放置しておくのも残念センバン。このうえは犯人にショックをあたえ、自供を強いるよりほかに方法はないと思うのですが、それについて、つぎのような指令にしたがっていただければ幸《こう》甚《じん》と思うのであります。   すなわち、来る明後日、七月二十五日は、あなたのお姉様、田鶴子氏のメイ日であります。その夜、あなたはお姉様のかたみのイブニングドレスを着て、これまたお姉様のかたみの真珠のクビ飾りを胸にかけてください。そうすれば、あなたは黒衣の美女といわれたお姉様にそっくりに見えましょう。   さて、そういう服装をして、あなたはきっちり夜の九時に、新宿駅の正面入り口へいくのです。そうすると、そこにわたしの部下が待っていて、あなたにホタルのいっぱいはいったランタンを渡すでしょう。このことがどんなに大事なことか、あなたにもおわかりでしょう。さて、それからあなたはまっすぐに代々木上原にあるかつてお姉様の住んでいられた家、すなわち、お姉様の殺害された家へいくのです。   (注意、あなたはレインコートかなにか着て、イブニングをきていることをかくさねばなりません。また、ホタルのランタンもふろしきにくるんで、ひとにしられないようにするのです。出来れば顔も他人の注意をひかないように)   さて、代々木上原の家は、事件の後、焼けてしまって、いまは廃《はい》墟《きよ》になっております。しかし、あなたはなにも恐れることはないのです。あなたの背後にはわたしの部下が忠実な番犬のようについておりますから。しかし、部下に話しかけたりしてはなりませんぞ。   さて、あなたはお姉様の殺害された場所をしっておりますね。お庭のあの日時計のそば……あの日時計はいまもそのままありますから、あなたはそのそばの暗やみのなかに立って、だれかがくるのを待つのです。その時あなたはレインコートをぬいで、イブニング姿でいなければなりません。ただし、ホタルのランタンはまだふろしきにつつんでかくしておくのです。   やがて、九時半から十時までのあいだにだれかが……それが犯人なのですが……やってくるでしょう。あるトリックを使って、そいつがやってこずにはいられないようにわたしがたくらんでおいたのです。さて、その男が日時計のそばへやってきたら、あなたはふろしきをといて、いきなりホタルのランタンを相手の顔につきつけるのです。そして、出来るだけ恨めしそうな声で、つぎのようにいってください。   「三年まえにわたしを殺したのはあなたでしたね」   と。   それで万事オーケーです。   勇気をもって、しっかりと。決して、恐れたり、心配したりすることはないのです。わたしとわたしの部下が、いつもあなたのそばについて見マモっております。 金田一耕助      本多美禰子様   追記。この手ガミをこのような活字のハリアワセにしたには、たいへん大きなイミがあるのです。そのことについては、いずれあとで説明しましょう。   なお、このことはゼッタイにだれにも言ってはなりません。犯人はいま、とても神経質になっておりますし、それにカベにミミある世の中ですからね。  金田一耕助はこの興味ある手紙を読んでいくにしたがってしだいに興奮をおぼえてきた。そして、興奮したときのこの男のくせとして、バリバリ、ガリガリ、めったやたらともじゃもじゃ頭をかきまわしていたが、やがて、すっかり読みおわると、ぼうぜんたる目を警部にむけた。  「で……?」  「で……?」  と、等々力警部もおうむがえしに金田一耕助とおなじ言葉をくりかえした。  「いや、警部さん、この手紙はいったいどこから発見されたんですか。夢見る夢子さん……いや、失礼、本多美禰子がもってきたんですか」  「いいや、そうじゃありません」  と、おさえつけるようにいう警部のほおに、とつぜん怒りの色がもえあがった。  「本多美禰子はその手紙の指令にしたがって行動したんです。そして、代々木上原にある焼け跡の廃墟のなかで、すなわち姉が殺されたとおなじ場所で殺害され、死体となって発見されたのです。その手紙は、美禰子の死体の胸のなかから出てきたのです」  金田一耕助はとつぜんイスのなかでずり落ちそうになっていくじぶんを意識した。  すぐ目のまえにいる等々力警部の顔が、まるで一里も二里も遠方にみえるような感じであった。 二  「つまり、こういうことになるんですね」  代々木上原へ自動車を走らせる途中である。等々力警部は腹立たしげにきっと前方に目をすえながら、ポキリポキリとまるで木の枝でも折っていくような調子で語っている。  「昨夜……というよりけさ、すなわち七月二十八日の午前一時ごろのこと。所轄警察のパトロールが焼け跡の付近を巡回していたところ、こわれた塀《へい》のあいだからなにやらボーッと光るものが見えたんですね。それで、ふしぎにおもってなかへはいったところが、そこにホタルのランタンと死《し》骸《がい》がころがっていたというわけです」  「しかし……」  と、金田一耕助はさっきの奇妙な手紙の文句を思い出しながら、  「被害者があの手紙の指令にしたがって出向いていってそこで殺害されたとしたら、それは二十五日の夜のことになるんでしょう。けさまでどうして発見されなかったものか……」  「いや、それがね、金田一さん」  と、警部はそういう質問を予期していたかのように、  「わたしもけさはやく現場を見てきたんですが、それはもうひどい雑草でね、その雑草のなかに埋まっているんですから、ゆうべ……いや、けさだってホタルの光が見えなかったら、パトロールは気づかずにすましていたかもしれないんです」  「しかし、そのホタルはきのうもおとといも光っていただろうに……」  「それはそうです。しかし、それが見えるのは、パトロールがひょいとのぞいた塀のこわれめ、そこからだけしかみえないんですね。だから、きのう、おととい、そこを巡回したパトロールは、ついうっかりと見のがしてしまったんでしょう。それに、一昨日……すなわち二十六日の夜おそくから二十七日の朝へかけてひと降りあったでしょう。それでホタルが生色を取りもどしたんだろうといってるんですがね」  金田一耕助はしばらくだまって考えていたのち、  「それで、被害者が『大勝利』の美禰子だとわかったのは……?」  「ああ、それは死体のそばにレインコートがぬぎすててあったんですが、そのポケットに『大勝利』の宣伝マッチがはいっていたんですね」  美禰子はタバコを吸わなかったはずだが……と、金田一耕助はちょっとかんがえる。しかし、そのことについてはなにもいわなかった。  「そこで『大勝利』へ電話をかけたところが、マダムの一枝というのが駆けつけてきて、うちの事務員の美禰子にちがいないということになったんです。金田一さんはあのマダムに会ったことがありますか」  「それはもちろん、夢見る夢子さんと交替で玉売り場に座ってるんですから……なかなかあいきょうのあるべっぴんでしょう」  「ええ、びっくりして泣いてましたがね。あれが『大勝利』の経営者なんですか」  「いや、経営者というのは花井達造って男で、ほかにも二、三〓所パチンコ屋をもってるんですが、一枝というのはつまり花井達造のめかけなんですね」  「あっはっは、金田一さんはなかなか通なんですね。よほどしげしげお通いだとみえますな」  「ええ、まあ、足場がいいもんですからね」  と、金田一耕助はにこりともせずに答えた。  「それで、マダムにはさっきの手紙のこと話しましたか」  「いや、まだ……しかし、マダムはあの家のことをしっていて、三年まえにここで殺された黒衣の歌手、本多田鶴子の妹だってんで、俄《が》然《ぜん》、代々木のほうでも緊張したってわけです」  「マダムはそりゃしってるでしょう。ぼくもいちど夢見る夢子さんにあの焼け跡へつれていかれたことがありますからね」  「金田一さんが……?」  と、等々力警部はびっくりしたように金田一耕助の横顔をみて、  「美禰子という娘は金田一さんになにをもとめていたんですか。つまり、姉を殺した犯人をさがしてほしいと……?」  「そうです、そうです。それに、あの娘は妙な夢をもってましてね。つまり、姉を殺した犯人が、姉を殺した代償として、いまにじぶんを幸福にしてくれる。じぶんはいつまでもこんなパチンコ屋の売り子なんかしてる身分ではないと……一種のシンデレラを夢見てたんですね」  「なるほど、そこが夢見る夢子さんなんですな」  「ええ、そう。それに、あの娘、ごくわずかなあいだながら、姉のかなり豪《ごう》奢《しや》な生活をしってるでしょう。だから、じぶんにだってあのような生活ができないはずがない。いつかじぶんにもああいう運命がめぐってくるにちがいないと、そういう夢想をもってたんですね。そして、だれにでもそんな話をするもんだから、いつのまにやら夢見る夢子さんにされちまったというわけです」  「そういえば、かなりかわいいことはかわいい顔立ちをしてますね」  「ああいうのが親兄弟もなくひとりぽっちで、都会のまんなかにおっぽり出されていて、しかも奇妙な夢をもっているんですから、危なっかしいといえばいちばん危なっかしい存在だったわけでしょうな」  その危なっかしい夢見る夢子さんから相談をうけながら、親身になって考えてやらなかったじぶんというものを、金田一耕助はいまつよく責めているのである。  「しかし、被害者がそういう夢想家だとすると、金田一さんの名前をかたったあの手紙は、被害者を誘い出すのにおあつらえむきの形態をそなえてたわけですな。イブニングドレスだの、真珠の首飾りだの、ホタルのランタンだのと、大いに夢見る夢子さんのハートの琴線にうったえたというわけですな」  「そういうことですね。夢子さんはときどき姉のかたみのイブニングをきてパチンコ屋の店頭にすわってましたからね」  金田一耕助は思いにしずんだ顔色で、  「ときに、警部さん、こんどの事件は三年まえの本多田鶴子殺しから尾をひいてるんでしょうかねえ」  「それはもちろんそうでしょうよ」  と、等々力警部はいくらか奇異な目で金田一耕助の横顔をぬすみ見ながら、  「被害者はああいう手紙で誘い出されているんですからね」  「そうすると、三年まえに本多田鶴子を殺した犯人が、ちかごろになってなにか美禰子を生かしておけぬ理由をもつにいたったというわけですか」  「ひょっとすると、犯人は美禰子にしっぽをにぎられたのかもしれない。つまり、美禰子に証拠になるような品をにぎられて……」  「しかし、それだと美禰子も警戒するでしょう。ああいう手紙につり出されるのおかしいとお思いになりませんか」  「いや、ところが……」  と、等々力警部はいちはやくさえぎって、  「美禰子のほうではそれが有力な証拠だとはまだ気がついていなかった。しかし、見るひとが見たら……たとえば金田一さんのようなひとが見たら、すぐにしりがわれてしまう。犯人はそれを恐れて、いちはやく美禰子をやってしまったんじゃあないですか」  「なるほど」  と、金田一耕助の返事はなんとなく気がなさそうである。  「どちらにしても、あなたの名前をかたったところをみると、犯人は被害者があなたに事件の調査を依頼したことをしってたことはたしかですからね」  「それはそうでしょう。だいたい、夢見る夢子さんというのが、夢想家にありがちなおしゃべりで、思ったことを胸にためておけない性質でしてね。だれにでもべらべらしゃべってしまう。また、ぼくに事件の調査を依頼したとなると、それだけでもう解決したようにきめてかかるという、なんというか、無邪気というか、楽天家というか、そんな女でしたね」  「なるほど。あの手紙の作成者は、そういう被害者の性癖にたくみにつけいったというわけですね」  自動車はそろそろ代々木へさしかかっている。明治神宮の森がしたたるような緑の色をにじませて、セミの声がかまびすしく自動車のなかまで聞こえてくる。きょうも暑くなりそうな炎天が、緑のマスの背後にひろがっている。  「ときに、金田一さんは三年まえの本多田鶴子殺しについて研究してごらんになりましたか」  「はあ、夢見る夢子さんにたのまれて以来、ひととおり当時の新聞の切り抜きに目はとおしてみましたがね」  と、金田一耕助はあいかわらずもの思わしげなまなざしで、  「当時の捜査当局の見解では、流しの説が有力だったようですね」  「いや、もう面目ない話で……なにしろ、関係者の証拠がためがかたっぱしからくずれていってしまったもんですからね。そういえば、田鶴子という女にも夢想家らしいところがあったんでしょうな。ああしてホタルのランタンをもって、夜おそく庭を徘《はい》徊《かい》してたところなんざ」  「ええ、そう。あの夢見るようなまなざしと、いつも黒い衣装をつけていたところから、黒衣の歌手だの、なぞの女だのと騒がれたんですね」  いまここに話題にのぼっている本多田鶴子というのは、かつてかなり人気をもっていたシャンソン歌手だった。彼女の歌いぶりは、歌うというより語るような、語るというよりつぶやくような、つぶやくというよりはささやくような、ささやくというよりはすすり泣くような……だから、悪口をいうものは彼女のことを、雨ショボ歌手だの、さみだれ歌手だのと非難したが、しかし、彼女の人気もそういう哀切な歌いぶりからきていることはたしかだった。  田鶴子はそういう歌いぶりをより強調するために、いつも黒以外の衣装は身につけなかったし、アクセサリーといえば真珠の首飾りだけ。そして、舞台でもテレビでも、いつも夢見るようなまなざしをしているのが特徴でもあり、ひとつの魅力にもなっていた。  田鶴子には四年まえにパトロンができた。パトロンは太陽光学の社長で、猪《い》場《ば》栄《さかえ》という人物だった。猪場氏は、田鶴子と関係ができると、代々木上原にある友人の家をかりて、そこへ田鶴子をすまわせた。それまでアパートでひとり暮らしをしていた田鶴子は、家ができると郷里から妹の美禰子をよびよせて東京の学校へいれた。そのとき、美禰子はまだ十五歳で、中学の二年生だった。  ところが、それから一年もたたぬある夏の朝、すなわち三年まえの七月二十六日の朝、田鶴子が庭の日時計のそばで、何者にともしれず絞め殺されているのが、静《しず》乃《の》というばあやによって発見されたのである。  そのとき、彼女は黒のイブニングを身につけ、真珠のネックレスを胸にかけていた。そして、そばにはホタルのいっぱいはいったくもりガラスの円筒型のカンテラのようなものがころがっていた。  当時、このホタルのランタンが、大いに問題にされたのである。  あるひとはそれを、あいびきの合図に使っていたのではないか、すなわち、ホタルのランタンを見かけたら、パトロンに内緒の愛人が忍んでくることになっていたのではないかと憶測した。しかし、彼女をよくしっているひとたちはそれを打ち消し、田鶴子はなにか新しい演出効果をねらっていたのだろうと主張した。  キャバレーなどで歌うばあい、彼女はいつも照明のうすぐらいのをよろこんだ。そのほうが彼女の歌いぶりにマッチしていたからである。だから、田鶴子は新手として、すっかり明かりを消したステージへホタルのランタンをもって登場するというようなことをかんがえて、その練習をしていたのではないかというのである。  それはいかにもありそうなことで、彼女はよく夜おそく庭をそぞろ歩きしながら歌の練習をしていたそうである。  捜査当局は、しかし、はじめのうち以上ふたつの場合を折衷してかんがえていた。なるほど、田鶴子は舞台効果をねらってホタルのランタンを用意していたのかもしれないが、それをあいびきの合図に使用しなかったともいえないのではないか、という考えかたである。  そこで田鶴子の素行が調査されたが、どちらかというと彼女は内気でじみなほうで、パトロンのほかに愛人があるとも思えなかった。ばあやの静乃も、うちのおくさまに限って……と、愛人うんぬんのことはぜったいに否認した。ただ、ときどき、近所のアパートに住む来《くる》島《しま》武《たけ》彦《ひこ》という学生があそびにくることはきたが、それも田鶴子のファンというにすぎず、それ以上の関係があったとはぜったいに思えないと主張してゆずらなかった。  しかし、来島武彦はいちおう厳重に取り調べられたが、かりにかれと田鶴子と肉体関係があったとしても、田鶴子を殺害しなければならぬような動機はすこしも発見されなかった。ふたしかながらもアリバイもあった。  さて、パトロンの猪場栄氏だが、このひとは当時大阪へ出張していたので、これまた問題にならなかった。ただ、猪場氏の夫人の康子というのがそうとう嫉《しつ》妬《と》ぶかいひとで、夫と田鶴子との関係を苦にやんでいたという説があるので、そのほうへいささか疑惑の目がむけられたが、しかし、犯行はあきらかに男の手によってなされたものであった。しかも、猪場氏と康子夫人のあいだには和子という娘がひとりあるきりで男の子はなかった。  そのほか田鶴子の職業上の知り合いなどがつぎからつぎへと調べられたが、だれひとり田鶴子を殺害しそうな人物はなかった。まえにもいったように、じみで、内気で、どちらかというと孤独を愛するふうがあった田鶴子に命までねらう敵があろうとは思えぬというのが、彼女を知っているひとたちの一致した意見であった。  結局、こうしてこの事件は迷宮入りをしてしまった。その後の捜査当局の意見では、流しの強盗が忍びいり、田鶴子に見とがめられたので絞め殺してしまったが、急に怖くなり、なにも盗まずに逃走したのではないかというのが、しだいに有力になってきていた。  ここに哀れをとどめたのは美禰子だった。その家が田鶴子の名義になっていれば、それは当然、彼女の財産になったはずである。しかし、あいにくそれは借家だった。そこで、家財道具を売り払った金と、田鶴子の貯金だけが姉の遺産として美禰子にのこされた。  しかも、猪場栄氏はこの事件にこりたのと、夫人の康子がよろこばないので、後始末のいっさいがおわると、美禰子を郷里へ送りかえした。しかし、いちど東京の味をおぼえた美禰子に、とても田舎住まいはできなかった。それに、姉からのこされた金がまだそうとうあったので、一年ほどすると彼女はばあやの静乃をたよって上京してきた。そして、昨年『大勝利』に職を見つけて看板娘になったのだった。 三  午前十一時。  金田一耕助と等々力警部をのっけた自動車はやっと現場へ到着したが、みるとあたりは黒山のひとだかりだった。気がつくと、きょうは日曜日である。そのひとだかりをかきわけて、ふたりは廃墟のなかへはいっていった。  「警部さん、この家は田鶴子の事件があってから半年ほどのちの冬に焼けたんでしたね」  金田一耕助は、雑草におおわれた廃墟のなかを見まわしながら、物思わしげな口調だった。  「そうです、そうです。なにしろ、ああいう事件があったので住まいてもなく、空き家のままほうってあったんですが、それが自火を出して焼けたので、なにかあの事件に関係があるのじゃないかとわれわれもちょっと緊張したんですが……」  「結局、空き家をねぐらにしていた浮浪者の失火ということになったのでしたね」  「その点はもうまちがいないと思っていたんですが、しかし、こんどのようなことが起こってみると、なんだかまたいろいろと……」  と、等々力警部は渋面をつくっている。  哀れな美禰子の死体は、まだ日時計のそばの雑草のなかに埋もれたままおいてあった。夢想家にありがちな、華《きや》奢《しや》で繊細で、色の白いすきとおるような膚の色さえ、こわれもののビードロ細工を思わせるようである。うまれつきまつげのながい黒目がちの大きな目をしていたが、それがいまくわっと恐怖の表情をたたえて見開かれているのが、このうえもなく哀れである。  手紙に指定されているように、美禰子はくろいイブニングをきて、首に真珠のネックレスをまきつけているが、その細いのどのあたりにくっきりと大きな親指のあとがふたつなまなましくきざまれているのをみると、金田一耕助は鼻をすすって、おもわず顔をそむけずにはいられなかった。  かれはいま、この哀れな娘のために力になってやれなかったことについて、ふかくおのれを恥じているのである。  その金田一耕助の目にうつったのは、草むらのなかにころがっている乳白色をしたガラスの、太くみじかい円筒である。それは蛍光灯のなかみをぬいて容器のいっぽうにひもをとりつけたもので、これならどこででも手にはいるから、大した証拠になりそうもない。乳白色のガラスの内部を、ガサゴソと音を立てて小さい虫がはっていた。ホタルである。  「西村君、その後、なにか発見したかね」  「いやあ、それが……なにしろ長いあいだの炎天つづきのあとへ、一昨夜からきのうの朝へかけて土砂降りでしょう。足跡がのこっていたとしても、あの雨ではねえ。せめて一昨夜の宵《よい》のうちにでも気がつきゃあよかったんですが……」  いまいましそうに舌打ちをしているのは、所轄北沢署の捜査主任、西村警部補である。刑事たちは雑草をかきわけてうの目たかの目のていたらくだったが、これという目ぼしい発見もないらしい。  「ただね、警部さん」  と、西村警部補が声をひそめて、  「あそこで『大勝利』のマダムと話をしているわかい男がいるでしょう。あれが三年まえの事件のときいちばん黒いとにらまれた来島武彦なんです。やっこさん、ちょくちょく『大勝利』へ出向いて、きょうの被害者とはその後もつきあっていたらしいんですよ」  等々力警部はギロリと目を光らせて、  「その来島がどうしてここへ……?」  「いや、ここで人殺しがあったと聞いて駆けつけてきたというんです。やっこさん、いまでもすぐむこうにあるヨヨギ・アパートにいるんです」  なるほど、それはまだたぶんに学生臭をおびているわかい青年で、ギャバのズボンにアンダーシャツ一枚、素足にサンダルをひっかけていた。  「マダムのそばにいるもうひとりの男は……?」  「あれがマダムのパトロンで、花井達造という男ですよ」  金田一耕助がすばやくこたえるのを小耳にはさんで、  「あっ、それじゃマダムというのは二号なんですか。わたしゃまた、うちの主人ですと紹介されたから、亭主だとばかり……」  西村捜査主任の言葉をあとに聞きながして、金田一耕助は雑草のなかをかきわけていった。  「やあ、マダム、とんだことがもちあがったねえ」  金田一耕助が声をかけると、焼けくずれのコンクリートに腰をおろして花井や来島と話をしていたマダムの一枝が、はじかれたように立ちあがった。  「あら、金田一先生、とうとうこんなことになってしまって……」  と、マダムはそうとう赤く泣きはらした目へまたハンカチを押しあてた。  「とうとうって、マダムはこういう事態を予測してたんですか」  「あら、いえ、そういうわけじゃありませんが、あたしせんからあの娘に忠告してたんです。姉さんの事件なんか忘れてしまいなさいって。あの娘、先生にもなにかお願いしてたんじゃありません?」  一枝は三十二、三という年ごろだろう。やせぎすの、目の大きな、どちらかというと日本風の和服の似合いそうな女で、せんにはどこかで芸者をしていたという話である。  「ええ、たのまれたことはたのまれてたんですがね、なにしろ三年もまえの事件で……マスターもごいっしょにいらしたんですか」  だしぬけに声をかけられて、麻の夏服にヘルメットをかぶった二重あごのでっぷりふとった男がびっくりしたように目をみはって、  「一枝、こちらさんは……?」  「はあ、あの、金田一耕助先生とおっしゃって、なにやかやと調査をなさるかた。うちのごひいきさんで、美禰ちゃんともご懇意でしたの」  「ああ、それはそれは……」  と、くびれるような二重あごの汗をぬぐいながら、花井はにこにこわらって、  「いや、わたしはさっきこれからの電話で駆けつけたというわけで、なにしろ、こういうことになれんものですから、これもすっかりとまどってしまって……」  「あの、失礼ですが、金田一耕助先生ですね」  と、そのときそばから口を出したのは来島武彦である。武彦の目には一種異様なかぎろいがうかんでいる。  「はあ、ぼく、金田一耕助ですが……」  「先生にはもうこの事件の犯人はおわかりになってるんでしょう」  「まさか……でも、どうして?」  「だって、美禰ちゃんを殺したのは、三年まえに田鶴子さんを殺したやつでしょう。ところが、美禰ちゃんの話では、金田一先生がとうとうお姉さまを殺した犯人を見つけてくだすった、いま証拠を集めていらっしゃるから、とおからず犯人もつかまるでしょうと、そんなことをいってましたよ」  「それはいつのことですか」  と、西村警部補が口を出した。  「あれは……そうそう、サラリー・デーでしたから、二十五日の夕方でした。ぼく、美禰ちゃんといっしょに晩飯をたべたんです。そのとき、美禰ちゃんがとてもおびえたり、興奮したり、ようすが変なんできいてみたら、あたし、そのうちに殺されるかもしれないなんていうんです。それでぼくがつっこんだら、いまいったようなことを打ち明けたんです。ぼく、美禰ちゃんの性質をしっていますから、そのときは大して気にもとめなかったんですが、いまになって考えると……」  と、武彦は手の甲で額の汗をぬぐった。  「来島君、君は偶然『大勝利』へいくようになったの」  と、これは等々力警部の質問である。  「いいえ、美禰ちゃんのほうからぼくのアパートへあいさつにきたんです。こんどここで働くことになったから遊びに来てくださいって。そういえば、田鶴子さんのパトロンだった猪場氏なんかもちょくちょく『大勝利』へきてたようです」  等々力警部と金田一耕助は、おもわずはっと顔見合わせる。  田鶴子と縁のふかかった男がふたりまで『大勝利』の客だというが、これでみると美禰子はなにか画策していたのではなかろうか。そして、それに深入りしすぎたがために、ぎゃくに犯人にやられたのではないか。  そこへ私服が汗をふきながら野次馬をかきわけてやってきた。  「ああ、主任さん、猪場栄氏は、目下大阪へ出張中だそうです。今晩か明朝帰京する予定だという夫人の話なんですが……」  「あの男、また旅行中か」  とおもわずつぶやいて、西村主任は等々力警部をふりかえった。  あの男、なにか事件があるといつも旅行しているとそういいたかったのを、さすがにひかえたという顔色だった。 姉のあずかった物 一  「やあ、昨日は失礼いたしました。飛行機で夕方かえってきたんですが……」  その翌日、等々力警部にひっぱり出されて、金田一耕助もいっしょに丸の内にある太陽光学の本社を訪れると、猪場氏はこの来訪をあらかじめ期待していたようだった。愛想よくふたりにイスをすすめながら、  「こちら、金田一先生じゃありませんか。夢見る夢子さんから話は聞いておりました」  と、目じりにしわをたたえてにこにこしているところをみると、知性もあり、なかなかよい男振りである。髪もひげもごま塩まじりだが、これがちかごろはやるロマンス・グレーというやつか。やせすぎず、太りすぎず、ゆったりとした人柄である。  「夢見る夢子さん……いや、美禰子という娘は、金田一さんのことをあなたに話しましたか」  「ええ、聞きましたよ。なんべんも。いまに金田一先生が姉のかたきをとってくれるって……しかし、それにしてもあの娘が殺されたのには驚きましたよ。ゆうべ家内からきいてびっくりしてしまいました」  猪場氏はさすがに顔色をくもらせた。  「あなたが『大勝利』へいくようになったのは、やっぱりあの娘に勧誘されたので……?」  「そうです、そうです。ああ、来島君にお聞きになったんですね。あの娘はちょっと妙な娘でしてね、どうやらわたしと来島君に目をつけていたらしく、いろいろと気をひくようなことをいって反応をためすんですね。まあ、たったひとりの姉を殺されたのだからむりもないが、アリバイなんてことをぜったいに信用せんのですね」  猪場氏はちょっとしろい歯をみせてわらったが、すぐまた心苦しそうに顔色をくもらせた。  「それで、あの娘に最後におあいになったのは……?」  「さあ、半月ほどまえでしょうか。ただし、二十五日の正午過ぎ、電話で話したことは話したんですが……」  「電話……? あの娘からかけてきたんですか」  「ええ。どっかの自動電話からだといってましたが、なんだかひどく興奮してまして、いまにもだれかに殺されそうなことをいうんです」  等々力警部はちらと金田一耕助の顔をみて、イスから大きく乗りだした。  「つまり、田鶴子を殺した犯人にですね」  「もちろんそうでしょうねえ。それで、ぜひ会って話したいというんですが、あいにくわたし、その日の二時の飛行機で大阪へたつことになってたものですから断ったんです。そのときはあの娘がなにをいうことやらと問題にもしなかったんですが、いまから思えばかわいそうなことをしました」  と、猪場氏はちょっと鼻をつまらせて、  「そういえば、いつものシンデレラ的空想談ではなくて、話がいささか具体的だったことに、いまになって気がつくんですがね」  「具体的というのは……?」  と、金田一耕助もおもわず体を乗り出した。  「いやあ、なんでも、たしかな証拠をつかんだ……と、そこまではよかったんですが、それをお姉さまにあずけてある。だから、ぜひお兄さま……というのがわたしなんですがね、このわたしに相談にのってほしいというんです」  「たしかな証拠をお姉さまにあずけてある……?」  「そうです、そうです。それですから、またれいのシンデレラかと思ったわけです。しかし、証拠というような言葉をつかったところをみると、なにかあの娘はあの娘なりに具体的なものを握ったんじゃないでしょうかねえ」  「あなたはそれを来島君に不利な証拠だとお思いになるんですか」  と、これは等々力警部の質問だった。  「来島君? とんでもない。むしろ、わたしと来島君があの娘にいちばん信頼をはくしてたんじゃないでしょうかねえ。あの『大勝利』へは田鶴子の旧知のご連中がほとんど漏れなくやってくるんですよ。夢見る夢子さんはそういう点では敏腕家でしたよ」  「猪場さんは」  と、金田一耕助がとつぜんよこからおだやかながら痛烈な一矢をむくいた。  「かつての愛人の妹がああいうところで働いていることにたいして、良心の呵《か》責《しやく》をおかんじになりませんでしたか」  それを聞くと猪場栄氏は、ぎくっと体をふるわせていたが、みるみるその目に涙がにじんできた。  「それは、もちろん。わたしもなんとかしてやりたかったんです。あんまりけなげでもあり、いたましくもありましたからね。だけど、あの娘さんがあまり田鶴子に似てくるものだから……わたしは家庭を破壊することを好まなかったんです。家内は……家内は……めかけの腹に子供……それも男の子がうまれることをおそれるんです。ご存じかどうか、うちには娘ひとりきゃいないもんだから……家内にもずいぶん苦労をかけましたからね」  猪場氏はそっとハンカチではなをかんだが、いまの言葉はかれが美禰子を愛していたことを告白しているのもおなじではないか。そして、ひょっとすると、美禰子の夢想していた貴公子もこの猪場氏ではなかったか……。  金田一耕助が等々力警部と顔見合わせているところへ、卓上電話のベルがジリジリ鳴りだした。猪揚氏は受話器をとって、ふたことみこと話していたが、すぐ等々力警部のほうへむきなおると、  「警部さん、あなたにお電話です。西村さんというひとから……」  「ああ、そう。いや、どうも……」  西村といえば、北沢署の捜査主任、西村警部補にちがいない。  等々力警部は受話器をとって、ふたことみこと話をしていたが、  「な、な、なんだって! そ、そ、それじゃ来島武彦が……」  といいかけて、はっと気がついたように言葉をのむと、ふむ、ふむ、ふむと、あとはいっさいふむ、ふむの一点張りで話をきいていたが、  「よし、わかった。こちらのほうの話はだいたいおわったから、すぐこれから出向いていく」  と、がちゃんとはげしい音を立てて受話器をおいた警部のほおは真っ赤に紅潮していて、ひとみには凶暴とさえおもわれる光がやどっていた。  「警部さん、来島君がなにか……?」  と、ふしぎそうに質問する猪場氏の顔を警部はにらむようにみて、  「いや、いずれこんやの夕刊に出るでしょう。たいへん失礼いたしました。そのうちに、本庁のほうへおいで願うかもしれませんから、その節はよろしく。金田一さん、いきましょう」  表へ出て自動車にのると、金田一耕助がはじめて口をひらいた。  「警部さん、来島武彦がどうかしたんですか」  「死んだ!」  と、ひと声いった警部の口調は、血がたれそうなほどきびしかった。  「死んだあ……?」  さすがに金田一耕助もぎょっとしたように警部の顔をふりかえったが、  「殺されたのですか」  と聞きかえした声は、案外落ち着いたものだった。  「いや、それはまだはっきりしないそうです。れいの焼け跡の廃墟に首をくくってぶらさがってるのが、さっき発見されたというんです。自殺したのか、だれかに自殺をよそおわされたのか」  金田一耕助はゾクリと体をふるわせたが、ふと自動車の外に目をやると、  「あっ、君、君、ちょっと自動車をとめてくれたまえ」  と、あわてて運転手に声をかけた。  「金田一さん。ど、どうしたんですか」  と、等々力警部がびっくりしたように尋ねると、  「警部さん、ここに交番があります。ここの電話をかりて、本庁へ電話をかけておいてください。猪場氏をげんじゅうに監視するようにって。それから、ついでのことに、猪場氏の本宅へひとをやって、夫人もげんじゅうに見張っているようにって」  「き、金田一さん、そ、それじゃ夫婦共謀で……?」  「いいえ、わけはあとで話しましょう。さあ、どうぞ」  と、金田一耕助はみずから自動車のドアをひらいて通路をあけた。 二  代々木上原の焼け跡の周囲は、きのうにまさる黒山のひとだかりである。この静かな郊外の住宅地は、どうやら殺人鬼にとりつかれたらしい。あいつぐ怪事、惨劇に、おそらくその付近に住むひとびとはやすき思いもなかったろう。  金田一耕助は等々力警部とともに焼け跡へはいっていったが、ひとめむこうをみると、おもわず慄《りつ》然《ぜん》として足をとめた。きのう美禰子の死体のよこたわっていた日時計のすぐそばに、大きなサルスベリの木が烈日のなかに真っ赤な花をひらいている。  そのサルスベリの太い枝から、来島武彦の死体がぶらさがっているのである。武彦はギャバのズボンに開《かい》襟《きん》シャツをきていて、足にはきのう見たようにサンダルをひっかけているのではなくて、ちゃんとくつをはいていた。  等々力警部もさすがに顔をしかめて、  「どうだ、自殺か、他殺か」  と、真っ赤に顔を紅潮させている西村警部補に尋ねた。  「いえ、まだはっきりしたことはいえないんですが、自殺よりも他殺の可能性のほうが大きいらしいんです」  「すると、ここで殺されたのかね。それとも、どこかほかの場所で殺されて、ここまで運んでこられたのか」  「それもいまのところはっきりしないんですが、どちらかというと、あとの場合じゃないかというんですね。というのは、ついこのさきの横町に、ゆうべの夜中の一時ごろ自動車がおいてあったのを見たものがあるというんですね。その自動車がはたしてこんどの事件に関係があるのかどうか不明なんですが……」  等々力警部はいまいましそうに舌打ちして、  「いったい、だれだい、そいつは……? 真夜中にへんなところに自動車がおいてあったら、なんとか交番の注意くらいうながしたらよかりそうなものに……きのうもああいう事件があったやさき……」  「いや、ところが、その男がなにげなく見のがしたのも無理はないんですね。このへんにゃやたらに外人がすんでるんですが、その連中ときたらガレージももたずに道路へパークしておくんですね。自動車がとまっていた横町にも外人が住んでるんで、その自動車だろうと思ってなにげなく見のがしたが、あとから考えると少し型がちがっていたようだというし、いま外人のところへ聞きあわせたら、ゆうべ自動車でかえってきたのは二時すぎだというんです。だから、やっぱりその自動車で……」  そこへ医者がやってきたので、死体がサルスベリの枝からおろされた。医者はひとめ首のまわりについているくびられた跡をみると、  「悪党め!」  と、吐き出すようにつぶやいた。  「先生、するとこれは自殺では……?」  「自殺か他殺かこれを見てごらん」  医者が指さしたのはのどのまわりについている細いひものあとである。しかも、サルスベリの枝からぶらさがっているのは、その跡よりもはるかに太いロープだった。  「被害者はこのロープよりもっと細い強《きよう》靭《じん》なひもでくびられたのだろうが、そのひもをこのサルスベリにぶらさげておくと、足のつくうれいがあったんだろうな。小刀細工をしやあがって……」  「警部さん」  とつぜん、そばから金田一耕助が等々力警部のそでをひいた。  「ここは西村さんにまかせておいたらよろしいでしょう。ちょっとぼくといっしょにいらっしゃいませんか」  「金田一さん、どこへ……?」  「いえ、どこでもいいです。ぼく、ちょっとたしかめたいことがありますから」  「ああ、そう」  金田一耕助のやりくちをよくしっている等々力警部は、多くは聞かず、西村警部補に適当な指令をあたえると、すぐ自動車にとびのった。  「金田一さん、自動車、どこへやりますか」  「目白……椎名町まで」  「あっ、美禰子のアパートですね」  金田一耕助は無言のままうなずいた。  「美禰子のアパートになにか……?」  「いや、それより、警部さん、美禰子の死体はもう解剖からかえっていますか」  「ああ、それは新橋の『大勝利』のほうへ送りかえすことになっています。花井とマダムがそう申し出たんです。あっちのほうでお通夜をするんだそうで」  「それはまた殊勝なことですね」  金田一耕助の声にちょっと皮肉なひびきがこもった。  「金田一さん、美禰子の死体になにか用でも……」  「いえ、ぼくの用があるのは死体じゃないんです。ちょっと美禰子の部屋をのぞいてみたいんですよ」 三  アパートへ着くと、管理人がおどおどしながら美禰子の部屋へ案内した。それは六畳のひとまきりだが、部屋に似合わぬりっぱな洋服ダンスがおいてあるのは、きっと姉のかたみだろう。  金田一耕助はくるりと部屋のなかを見まわすと、にっこり笑って、管理人を立ち去らせた。  「金田一さん、なにか……?」  と、等々力警部の息がはずんだ。  「ええ。あれ」  と、金田一耕助が指さしたのは、壁間にかかげてある黒衣の歌手の写真である。  「なるほど、美禰子に似てますね。これじゃ猪場夫人が美禰子を警戒したのもむりはない」  金田一耕助はつぶやきながら机を写真のしたにもってくる。  「金田一さん、その写真がなにか……」  「いや、夢見る夢子さんがお姉さまにどのような証拠の品をあずけておいたか……」  と、金田一耕助は机のうえへあがって写真をなげしから取りおろすと、裏の板をはずしにかかる。さすがに金田一耕助の顔も緊張し、等々力警部の息はいよいよはずんだ。  金田一耕助が裏板をはずすと、写真のうしろに古新聞が折ってかさねてある。耕助はその新聞をひろげていったが、するとなかから現れたのは数枚の百円紙幣である。そのほかにはべつになにもかくしてなかった。  「金田一さん、証拠というのは……?」  と、等々力警部はふしぎそうな目を耕助にむけたが、百円紙幣をとりあげてすかしはじめた相手の一種異様なつよい目つきに気がつくと、等々力警部は思わずぎょっと両のこぶしをにぎりしめた。  「金田一さん、そ、それじゃ、これはいま問題になっている贋造紙幣だと……」  「警部さん」  と、金田一耕助は警部のひとみのなかをのぞきこみながら、きびしい声で語りはじめた。  「あなたにお説教するようで恐縮ですけれど、美禰子は夢想家ではあったが、バカじゃなかったのですよ。いえ、いえ、夢想家にありがちな、いたって頭のするどい娘でした。そしてねえ、警部さん、夢想家というものはじぶんでいろんな場合を空想することは好きだが、他人の夢想には乗らないのがふつうだと思うんです」  「と、おっしゃるのは……?」  等々力警部はまだ金田一耕助の言葉の意味を捕《ほ》捉《そく》しかねて、さぐるように相手の顔色をながめている。  「いえねえ、警部さん、夢想家というものは空想力が発達しているでしょう。だから、ふつうの人間ならそのままうのみにすることでも、夢想家はもうひとつその裏を考えてみる。——これがふつうだと思うんです。だから、夢想家はふつうの人間より本能的に警戒心が強いものです。だから、あんなへんてこな活字の張りまぜ手紙を受け取ったばあい、ふつうの人間ならその指令どおり行動したかもしれませんが、夢想家の美禰子は当然その裏を考えてみるはずなんです。これにはなにかトリックがありはしないか……じぶんをおとしいれようとしているわなではないかと……そうすると、美禰子は当然ぼくのところへ真偽の問い合わせを電話ででもいってきたはずです。美禰子はぼくんちの電話番号もしってるし、まえにも二、三度電話をかけてきたことがあるんですからね。それもやらないで、ああいういかがわしい手紙の指令どおり動くには、美禰子はあまりにも空想力がありすぎ、あまりにも警戒心が強すぎたろうと思うんです。つまり、それが夢想家というものなんですよ」  「金田一さん、つまり、あなたのおっしゃるのは、美禰子があの焼け跡へ出向いていったのは、あの手紙とは関係がなかった。なにかもっとべつの理由か動機で出向いていったのだろうとおっしゃるのですか」  金田一耕助は首を左右にふりながら、悩ましげな目をして、  「警部さん、さっきの医者の話では、来島武彦はあの場所で殺されたのじゃない、ほかの場所で殺されてあそこへ運んでこられたのだろうということでしたね。美禰子もやっぱりそうだったろうと考えてはいけないでしょうか」  「金田一さん!」  「美禰子を殺してしまえば、イブニングでもネックレスでもぞうさなく手にいれることができましょう。美禰子はいつもこの部屋のカギを身につけていたでしょうからね」  「ふむ、ふむ。それで……?」  等々力警部にはまだ金田一耕助のいおうとすることがよくわかっていないのである。しかし、金田一耕助がこういう話しかたをするときは傾聴に値するということを、だれよりもよくしっている警部なのである。  「つまり、美禰子はどこかで殺されたが、そのとき彼女の身につけていたものは、あんなドラマチックな衣装ではなかった。ふつうのふだん着であった。ところが、そのあとで犯人がこの部屋へ忍んできて、イブニングやネックレスをもち出して、それを美禰子の死体に着せて、それからああいうへんてこな手紙を胸におしこんでおいて、ホタルのランタンといっしょにあの焼け跡へ運んでいったと考えちゃいけないでしょうか」  「しかし、金田一さん、犯人はなんだってそんなややこしいことをする必要があったんですか。なんだってそんな手数のかかることを……」  「動機をカムフラージュするためですよ、警部さん。それと、殺人の現場だってごまかせますからね。ああしておけば、美禰子はあの焼け跡で殺されたと思われますし、またその動機だって、三年まえの田鶴子殺しと関係があると信じられますからね」  「じゃ、こんどの美禰子の殺害事件は、三年まえの田鶴子殺しと関係はなく、動機はべつにあったと……」  といいかけて、等々力警部はじぶんの手にある贋造紙幣に目を落とすと、  「き、き、金田一さん!」  と、警部の血管はとつぜんいまにも破裂しそうなほどふとく大きく額にふくれあがった。  「そ、それじゃ、美禰子はこの贋造紙幣のために殺されたとおっしゃるんですか」  金田一耕助は暗い目をしてうなずいた。  「そ、そ、それじゃ猪場夫妻が……」  金田一耕助はうすく微笑すると、もじゃもじゃ頭をペコリとさげて、  「失礼しました。ぼくが猪場氏夫妻を監視していただきたいとお願いしたのは、あのふたりが犯人であるからではなく、紙幣偽造団の凶手からあのふたりを守っていただきたいと思ったからです。猪場氏自身がいってたでしょう。来島武彦とじぶんとが、いちばん美禰子に信頼されていたと……げんに、美禰子はそのことで猪場氏に相談しようとしたくらいですからね。しかも、美禰子にはんぶん事実を打ち明けられた来島武彦が殺害されたとすると、ひょっとするとこんどは猪場氏と、猪場氏の後につながる夫人じゃないかと思ったものですから……」  等々力警部は大きく息をうちへ吸い込むと、まるで相手をにらみ殺しそうなほどすさまじい目で金田一耕助の顔を見すえながら、  「承知しました。金田一先生、猪場氏夫妻はわれわれの手で保護しましょう。しかし、紙幣偽造の犯人は……?」  金田一耕助はしばらく黙っていたのちに、  「警部さん、これはぼくの推理の勝利ではないのですよ。むしろ、経験の勝利とでも申しましょうか……」  「経験の勝利とおっしゃると……?」  「ぼくは『大勝利』で、四度偽札をつかまされました」  「だ、大勝利……? あのパチンコ屋!」  等々力警部が大きくうめいて歯ぎしりをした。  「そうです、そうです。おなじ店で四度というのは、いささか確率がたかすぎると思ったのです。だが、考えてみると、パチンコ屋というのは偽札をバラまくのにはうってつけの商売ですね。そこではしじゅう小銭が動いているし、客は血まなこですからね。そこで、ぼく、花井達造経営するところの他の三軒のパチンコ屋を、ものはためしと三度ずつまわってみたところが、はたしてどの店でもつかまされましたよ、偽札を……だから、そろそろ警部さんのご注意を喚起しようと思っていたやさき持ち上がったのがこんどの事件でした」  しいんと骨に食いいるような沈黙が、おもっくるしく金田一耕助と等々力警部のあいだにながれた。しかし、それは不愉快な重っくるしさではなく、このふたりにだけ理解される味の濃い友情と感謝の沈黙なのである。  やがて、等々力警部は消防自動車のサイレンのように大きな音をたててため息をつくと、  「金田一先生、ありがとうございました。これでながいあいだわれわれを悩ましていた紙幣偽造団も一掃されましょう。だが、さいごにお聞きしたいんですが、それじゃこんどの事件は、三年まえの田鶴子殺しとぜんぜん関係がないのですか」  「もちろんないでしょうね」  「ち、畜生!」  「あの事件はやはり捜査当局の見込みどおり、流しの犯行じゃなかったでしょうかねえ。たまたま偽札つくりの犯人を見やぶった人物、美禰子という娘があの事件の被害者の妹で、しかも口癖のようにあの事件の話をしていたものだから、犯罪現場と動機をカムフラージュするために、犯人、あるいは犯人たちにたくみに利用されたんでしょう」  「そして、来島武彦もあの事件にいささか関係があったので、これまた動機と現場転換のために、死体をあそこへ運びやがったんですね」  「たぶんそうだろうと思いますね」  「そうすると、猪場夫妻もあの事件に関係があるのだから、危ないと思ったら犯人たちは、夫妻を殺してあの焼け跡へ……」  「そうです、そうです、警部さん。だから、この凶暴な紙幣贋造団を検挙してしまうまであの夫婦を保護していただきたいのですが、もうひとり警察の手で保護していただきたい人物がいるんです」  「だれですか、それ?」  「金田一耕助」  そういって、金田一耕助は警部のまえにペコリとひとつ頭をさげた。 泥《どろ》の中の女 一  立花ヤス子はすっかりとほうに暮れてしまった。くつのつまさきで小刻みに貧乏ゆすりをしながら、さっきからなんべん玄関のベルを押したかわからない。しかし、返事もなければ、だいいち家のなかは真っ暗である。どうやらだれもいないらしい。  ヤス子はその晩どうしても西条氏に会っておかねばならぬ用件があった。その晩のうちに西条氏に会って了解を求めておかねばならぬ重大問題があったのだ。現在の夫に関する問題である。  だから、こうして暗い夜道をたずねて三鷹の牟《む》礼《れ》までやってきたのに、西条氏の一家は今夜ぜんぶ留守らしい。  「困ったわ、どうしよう」  ヤス子はいまにも泣き出しそうな顔色である。  さきほどからボツリボツリと落ちてきた雨は、しだいに勢いをましてくるようだ。しかし、ヤス子はどうしても今夜のうちに西条氏に会う決心でいる。まさか家族そろって外泊するわけでもあるまい。  「いいわ、お帰りになるまでがんばるわ」  ヤス子はみすぼらしいオーバーの肩をすくめて、かたい決心をそそけだったほおにしめしている。  暖かい冬だった。  しかし、いかに暖かい冬とはいえ、二月下旬の夜も更ければ、さすがに冬の冷気がくつのつまさきから全身にしみとおる。しかも、しだいにはげしくなってきた雨はみぞれをまじえて、夜の温度をいっそうきびしいものにする。  オーバーのそでもすりきれ、くつのつまさきが少しわれている。ヤス子はことし二十歳、若い貧しい人妻なのだ。  ヤス子は貧乏ゆすりをするようにからだを小刻みにゆすぶりながら、玄関さきをいったり来たり、おりおり思い出したように腕時計に目をおとす。  時刻はまさに九時。  夜の冷気と心の寒さが重なりあって、ヤス子は心身ともに凍りつきそうである。  「あら」  とつぜん、ヤス子のくちびるからよろこばしげな声がほとばしった。  庭のおくから、灯の色が木の間がくれに見えるのに気がついたからである。たしかにおなじ屋敷のなかのようだ。ヤス子は木の間かくれにすかして見ながら、おなじ屋敷内に離れのような別《べつ》棟《むね》の小家屋が建っていることに気がついた。その離れにいま灯がついているところを見ると、だれかいるにちがいない。  とにかく、ヤス子は寒かった。破れたくつのつまさきが凍りつきそうだった。火の気がむしょうに恋しかったのである。  離れの住人にたのんで、からだを温めさせてもらえないものか。  玄関の横に建《けん》仁《にん》寺《じ》垣《がき》があり、その建仁寺垣に枝折り戸がついている。枝折り戸をそっと押してみると、いいあんばいになんなく開いた。  その枝折り戸のなかから離れにむかっていちめんに霜よけの砂利が敷きつめてある。離れの灯がそうとうむこうに見えているところを見ると、その砂利道はかなりながいらしい。ヤス子は急ぎ足でその砂利道を踏んでいった。  以前は茶室でもあったのか。この離れにも小さな玄関がついている。ヤス子はその玄関のまえで肩をすぼめて、  「ごめんくださいまし。おもての西条さまのお宅はお留守でございましょうか」  しかし、ここでも返事はなかった。だが、たしかにだれかいるのである。屋根や植え込みをたたくみぞれの音にまじって、ガサリと身動きをするような気配が感じられた。  「ごめんくださいまし。おもての西条さまの……」  ヤス子はすこし声をはりあげて、もういちどおなじ言葉をくり返した。しかし、依然としてなかから返事はなかった。しかも、気配でたしかにだれかいるらしいことはわかるのである。  寒さがヤス子を駆りたてた。恥も外聞もなかったのである。とうていこのままでは辛抱できない。  「ごめんくださいまし……」  ヤス子はおなじ言葉をくり返しながら、小家屋の裏側へまわっていく。武蔵野の原始林をそのまま庭内にとり入れたとみえて、ナラ、クヌギ、ケヤキの大木が、葉をふり落としたはだかの枝をまじえている。  その木々の枝や幹をつたってすべり落ちるみぞれまじりの雨が冷たくヤス子のほおをうって、彼女はいまにも泣きだしたいような気持ちだった。  その林をくぐりぬけていくと、灯のついている部屋はぬれ縁つきの四畳半だった。雨戸がなくて、ガラス戸だけがしまっている。  格子のつまったガラス戸の中央だけが透明ガラスで、あとは全部すりガラス。四枚ぴったりしまっているが、短冊がたの透明ガラスをとおしてなかをのぞくと、長火ばちのうえに鉄びんがたぎっている。ヤス子はむしょうにその長火ばちが恋しかった。  「ごめんくださいまし」  と声をかけながら、ヤス子がガラス越しになかをのぞくと、机のうえに乱雑に本が散らかっているのが見えたが、人影はどこにも見当たらなかった。  「ごめんくださいまし、どなたもいらっしゃらないんでしょうか」  またいちだんとヤス子が声を張り上げると、ぴったりしまったふすまの奥でなにやらガサリという音がして、  「はあ、あの……」  と、ふくんだようなだみ声が小声に聞こえて、やがてふすまが細目に開いた。  そして、真っ赤なレインコートにフードをすっぽり頭からかぶった女が、ふすまのすきまからはんぶん顔をこちらへのぞけた。色白の、鼈《べつ》甲《こう》ぶちの眼鏡をかけた女で、耳から耳へと防寒用のマスクをかけながら、  「なにかご用でございましょうか」  と、あいかわらずこもったような声である。  「はあ、あの、おもての西条さまはお留守なのでございましょうか」  「はあ、あの……よくはわかりませんが」  と、妙にあいまいな声である。  そこでヤス子は、こんやどうしても西条氏に会わねばならぬものであるということ、帰りを待っていたいのだが寒くてたまらないということを、二十歳の女としてはわりあい要領よくのべて、  「まことに恐縮ですが、しばらくここで休ませてはいただけないでしょうか」  あとから思えば、よくもあんなあつかましいことがいえたものである。  しかし、ヤス子は気がたっていたのだ。どうしてもその晩のうちに西条氏に会っておかねばならぬというかたい決意が、ヤス子をいくらかデスペレートな勇敢さに駆りたてていたのだ。こんや西条氏に会っておかぬと、夫が失職するかもしれないのである。  だから、レインコートの女がしごくあっさりと、  「さあ、どうぞ。おあがりになって、長火ばちにでもあたってお待ちになったら……」  と承諾してくれたのを、べつに意外とも怪しいとも思わなかった。いや、たすかったとも思い、うれしくもあったのである。  「はあ、ありがとうございます。それでは……」  と、ガラス障子をひらいて上半身を部屋のなかにさしいれたとき、ふすまのむこうに寝床が敷いてあって、だれか寝ているらしいのに気がついた。  さすがにヤス子はちゅうちょして、  「あら、どなたかおやすみですの」  「はあ。あの、ちょっと……」  レインコートの女はふすまのむこうへひっこんで、なにかガサゴソしていたが、例によってマスクの奥のこもった声で、  「妹が風邪をこじらせて……わたくしこれからちょっと医者へ……お留守番をおねがい……すぐ帰ってきま……」  急いでいるとみえて、言葉もとぎれとぎれである。  ああ、そうなのか、じぶんがここへきたことは、かえってこのひとにも好都合だったのかと思い、ヤス子はいくらか気がらくになった。  「さあさあ、どうぞ行っていらっしゃい。お留守はおあずかりしますわ」  と、ヤス子が長火ばちのそばへすり寄ったとき、玄関の格子のあけたての音につづいて、いそぎ足に砂利道をふんでいく音が遠ざかっていった。  ヤス子は凍えた両手を長火ばちのうえでもみながら、  「お気分はいかがでいらっしゃいますか」  と、細目にひらいたふすまのむこうへ言葉をかけた。しかし、寝床のなかに寝たひとは身動きもしなければ返事もなかった。  「なにかご用があったらおっしゃってください」  しかし、依然として返事はない。  眠っているのか、それとも気分が悪くて返事をするのもおっくうなのか、それならばうるさく声をかけないほうがよかろうと、ヤス子はオーバーのポケットから週刊誌をとりだした。  三十分ほどして、ヤス子はいちどおもての西条氏の玄関へいってみた。西条氏の一家はまだ帰っていなかった。家のなかはあいかわらずまっくらである。重い胸を抱いて裏の離れへ帰ってきたとき、表札をみて、ヤス子ははじめてそこが近ごろ売り出しの探《たん》偵《てい》作家、川崎龍二氏の仕事場であるらしいことに気がついた。そういえば机のうえに原稿用紙がちらかっていたっけ。  もとの四畳半へ引き返してきて、ヤス子はまた長火ばちのそばへすり寄った。鉄びんのたぎりかたがだいぶん緩慢になっているので、そっと五徳のなかをのぞくと、火がもう燠《おき》になりかけている。  さいわい長火ばちのそばには炭かごがある。勝手にこんなことをしてよいものかと思いながらも、ヤス子は鉄びんをとりのけて五徳のなかに炭をつぐ。  その炭をかるく吹きながら、ヤス子はふっと気がついた。  となりの部屋に寝ている病人が、身動きひとつしなければ、また息遣いの音さえ聞こえないのである。  さっきは週刊誌を読むことと西条氏の宅の気配に心をうばわれていたので気がつかなかったが、なんとなく妙な感じが胸にせまった。  ヤス子は火ばしを長火ばちのすみにつっ立てると、つと立ち上がって細目に開いたふすまのそばへ立ち寄った。  「おじゃまをしております」  と、ヤス子はふすまのむこうへ声をかけ、  「ここをしめておいたほうがよろしいんじゃございません」  といいながらとなりの部屋をのぞいたとたん、ヤス子は棒をのんだようにその場に立ちすくんでしまった。  掛けぶとんの柄からして男ものの寝床のようである。  その寝床のまくらもとに、ほの暗い電気スタンドがついている。電気スタンドのすぐそばのくくりまくらに、断髪の若い女の頭ががっくりと仰むけにのけぞっており、白いのどのまわりになにやらベルトのようなものが巻きついている。掛けぶとんからはみ出した女の上半身はシュミーズ一枚のようである。  あとから思えば、あんな勇気がどうしてあったのかといぶかしくなるくらいなのだが、ヤス子はとなり座敷にふみこんだ。そして、おそるおそる寝床のそばに近寄ると、掛けぶとんの下からはみだしている女の腕にさわってみた。女の膚は妙な冷たさをおびていて、脈もぴったりとまっている。  「ひ、人殺し……!」  それから十五分ののち、たずねたずねてもよりの交番へ駆けこんだヤス子は、それだけいって失神してしまった。 二  「そのご婦人、夢でも見たか、それとも家でもまちがえたのじゃありませんか」  と、探偵作家の川崎龍二はぼうぜんたる顔色である。  戸外の雨はいよいよ本降りになり、雨脚がはげしく小家屋の屋根がわらや雑木林のこずえをたたいているが、部屋のなかには鉄びんがしゅんしゅんたぎっていて、快い温度にぬくめられている。  どてら姿にくつろいだ探偵作家の川崎龍二は、まるで相撲とりのような大きなからだをどっかりとその長火ばちの前にすえている。その長火ばちひとつをへだてて友人の松本梧《ご》朗《ろう》が、これまたけげんそうな目をそばだてている。  ふたりともそうとうアルコールがはいっているらしく、テラテラとほてりかえった顔が電気の光で脂ぎっている。  川崎龍二は折からたずねてきた松本梧朗とチーズをかじりながらウイスキーをのんでいたのだが、そこへだしぬけにやってきた立花ヤス子と根上巡査の言葉を聞いて、目をまるくして驚いているのである。  気絶した立花ヤス子の介抱に手間どったので、根上巡査がおっとり刀で駆けつけてきたのは、もうかれこれ十一時ちかかった。  「いいえ、ぜったいにそんなこと……」  と、立花ヤス子はいきりたつように、  「この奥の六畳の寝床のなかに、わかい女のひとがしめ殺されていたんです。あたしはたしかにこの目で見ました。この手でさわってみたんです。たしかに、たしかに」  語尾を強めて、たしかに、たしかに、をくり返しているうちに、立花ヤス子の目はしだいにヒステリックにつりあがってくる。  「そ、そんなバカなこと、そんなバカげたことが」  と、相撲とりのような川崎龍二は、あきれかえってものもいえないという態度である。  「それ、何時ごろのこと……?」  と、松本梧朗もまゆをひそめて、ぬれ縁のむこうに立っている立花ヤス子と根上巡査を不思議そうに見くらべている。  川崎龍二の相撲とりのように堂々とした体格に反して、松本梧朗はきゃしゃで色の浅黒い、ちょっとした好男子である。  「さあ……」  立花ヤス子がいいよどむそばから、  「このご婦人が交番へ駆けつけてきたのは、九時四十分ごろのことでしたが……」  と、根上巡査がたすけ舟をだした。  根上巡査も、落ち着きはらったふたりのようすや、またこのあたたかい四畳半のふんいきを見ると、いまさらのように半信半疑で、とがめるように立花ヤス子をふりかえる。  「それじゃ家をまちがえたんじゃないかな」  と、松本梧朗は川崎龍二をふりかえって、  「ぼくがここへきたのは何時ごろのことだっけ?」  「さあ、ぼくもよく覚えていないが、九時半ごろじゃなかったかしら」  「そのとき、きみはそうとう酔っぱらっていたね」  「だって、ぼく、きょうは思うように仕事がはかどらなくってむしゃくしゃするので、宵から一杯やっていたんだからね」  「うそです! うそです! そんなこと……」  と、立花ヤス子はいきりたつようにじだんだをふんで、  「あたしはこの目で見たんです。この手でさわってみたんです。そうそう、玄関の表札も見ました。ちゃんと川崎龍二と書いてあったんです。この家です。この家にまちがいございません」  「そ、そんなバカな」  と打ち消しながら、川崎龍二はふと思いだしたように、  「そうそう、そういう君をぼくは知らないんだが、いったい君はどうしてここへはいってきたんだい」  「わたしは表の西条さんのところへ用事があってきたんです。そしたら、西条さんのお宅がお留守なので、こちらで休ませていただこうと思ってやってきたんです、そしたら、その奥の六畳に、赤いレインコートを着て、鼈甲ぶちの眼鏡をかけた女の人がいたんです。そのひとが、あがって待っていてもいいといったので、わたしはこちらへあがったんです」  「そして、その女のひとというのはどうしたんだい?」  と、松本梧朗はつっこむような調子である。  「ええ。そのひとは、妹が病気だから医者を呼んでくる、留守番をしていてほしいといって、玄関から出ていったんです。そのあとで、あたしは奥の六畳に寝ているひとが殺されていることに気がついたんです」  「そんなバカな、そんなバカな」  と、川崎龍二はやけ気味に髪の毛をかきむしりながら、ぐいぐいとウイスキーをあおっている。  「川崎さん、川崎さん」  と、そばから松本梧朗が言葉をはさんで、  「なんなら、このお巡りさんとご婦人に家のなかを調べてもらったらどうです。こんな押し問答をしているより、そのほうがいちばん早道じゃありませんか」  「そうだ、そうだ。お巡りさん」  と、川崎龍二はからだをのりだして、  「かまいませんから、うえへあがって、家のなかをすみからすみまで調べてみてください。そのご婦人もどうぞ」  「いいですか?」  「いいですとも。こんな疑いをかけられちゃぼくだって気持ちがわるい。さあ、そのご婦人、君も気がすむまで家のすみを調べてみてくれたまえ」  と、川崎龍二はどっこいしょと大きなしりをもちあげると、ぬれ縁のそばまでやってきた。  「それじゃあ失礼ながら……あんたがたの言葉を疑うわけじゃありませんが、訴えが訴えだけにね、念のために調べさせてもらいます。君、君、君もいっしょにきたまえ」  「はい」  こうなると立花ヤス子も意地なのである。根上巡査のおしりにくっつくように破れたくつをぬぎ捨てた。  川崎龍二の案内で、根上巡査と立花ヤス子は離れのなかをくまなく調べまわったが、どこにも異状は認められなかった。離れのなかといったところで、四畳半の茶の間に六畳の居間、小さな玄関がついているだけで、便所はあったが台所もないという小家屋なのである。  根上巡査は押し入れのなかまでさがしてみたが、ここで殺人が演じられたという痕《こん》跡《せき》はどこからも発見されなかった。  「警官、どうです。どっかから死《し》骸《がい》がころがりだしてきましたか」  と、茶の間でひとり手《て》酌《じやく》で飲んでいた松本梧朗がからかうような声をかける。  「だって、たしかにここに……この六畳に寝床がしいてあって、シュミーズ一枚の女のひとがベルトでしめ殺されていたんです。あたしはその手にさわってみました。その手の冷たさをいまでもはっきり覚えています。脈も握ってみたんです。ええ、脈もとまっていました」  と、立花ヤス子はいまにも泣きだしそうな声である。  「じゃあ、その死体が煙のように消えてしまったとでもいうのかい」  あいかわらず、松本梧朗はあざけるような調子である。  「だって、だって」  といいながら、立花ヤス子はしだいに自信を失っていくのを感じずにはいられなかった。  今夜の自分はたしかにふだんの自分ではない。夫が失職するかしないかという大事な瀬戸ぎわで、自分はすっかり混乱しているのだ。精神的な大きなショックにまいっているのだ。ひょっとすると、この男たちがいったように、自分はありもしない幻想にだまされたのではなかろうか……。  立花ヤス子のそういう顔色を根上巡査もいちはやく見てとると、がっかりしたように肩をゆすって、  「いや、どうも。これは失礼しました。このひとがあまり真顔でいうものだから、ついわたしも真にうけて……君、君」  と、立花ヤス子のほうを振り返って、  「君、立花ヤス子といったね。立花君、君はどうかしているんじゃないか。どうも顔色がおかしいよ。このひとたちがいうように、やっぱり君はなにか勘ちがいをしてるんだろう」  立花ヤス子は涙が出そうになるのをぐっとおさえて、だまってそこに頭を下げた。  「いや、どうも失礼申し上げました。しかし、念のためにいっておきますが、なにかかわったことがあったら、すぐ交番へしらせてくださいよ」  「そりゃもちろんですとも。ぼくがいかに探偵作家だって、家のなかにむやみに死体がころがっていたんじゃ気持ちがわるいですからね。あっははは」  川崎龍二は腹をゆすって笑いあげたが、立花ヤス子の感じではなんとなくその笑いかたにはそらぞらしいものがあったようだ。  「じゃ、これで失礼を」  立花ヤス子は悔しいことは悔しかったのだが、しかし、自信がくじけていくのをどうしようもなかった。  それに、考えてみれば、こんやの自分には西条氏に会わねばならぬというもっと緊急な用向きをひかえているのだ。しかも、西条氏の一家はこのどさくさのあいだに帰宅しているらしい。寝てしまうまえに会わねばならぬ。  彼女の調子はしだいに弱くなり、しまいにはとうとう腰くだけにおわったのもやむをえなかったであろう。  根上巡査は不審そうに首をかしげながらかえっていったが、本署へ報告書を出すことだけは忘れなかった。  立花ヤス子はその晩しゅびよく西条氏に会って、哀訴嘆願の結果、夫を救うことに成功したが、これはこの事件に直接関係のないことであるから省略しよう。  二月二十三日の晩の出来事で、それから一時間ののち、冬にはめずらしい大豪雨が東京都西部一帯をおそったのであった。 三  「それで、立花ヤス子というその女、べつに精神に異常はないんですね。夫の失職のショックで、一時的にでも精神錯乱をおこしていたとか……?」  「いや、それは大丈夫らしい」  と、等々力警部はデスクのうえからピースの箱を金田一耕助のほうへおしやりながら、  「だから、問題はその女がとんでもない勘ちがいをしているのか、それとも探偵作家の川崎龍二と友人の松本梧朗という男は口を合わせてうそをついているのか……そのどちらかということになるんですな」  「警部さんはそれについて、どういうお考えなんですか」  「いや、いまんところ、どちらがどちらともわたしにははっきり断定出来ないんですがね.それでまあ、先生にこうしてご相談してるんですが……」  「ところで、立花ヤス子というその女が離れをとびだしてまたひきかえしてくるまで一時間あまりもかかったとおっしゃいましたが……」  「ええ、そう。交番へかけつけて、人殺しとひとことさけんだきり失神してしまったんだそうです。しかも、あいにく、そのとき交番には根上巡査ひとりしかいなかったものだから、介抱やなんかにてんてこまいで、ついてまどったんですね。それで、まあ、一時間もかかったというわけです」  「一時間もあればどんな細工でもできる……」  金田一耕助は等々力警部のすすめた箱からピースを一本ぬきとって口にくわえながら、ぼんやりと口のうちでつぶやいた。  「ええ、そう、一時間あればどんな細工でもできますね。それで、金田一先生、あなたはどちらのほうにより多くの真実性をお感じになりますか」  等々力警部はデスクごしに金田一耕助の顔を見まもりながら、ポキポキと木の枝でも折るようなきびしい語調である。  警視庁捜査一課、第五調べ室のなかでむかいあっている等々力警部と金田一耕助なのだ。  三鷹署から本庁へ奇妙な報告がとどいてからきょうでもう七日になる。いまのところ立花ヤス子の供述以外に殺人が演じられたという確証はどこにもないのだけれど、等々力警部にはみょうにこの問題が気になっている。だから、いま、金田一耕助がやってきたのをさいわいに、ふとこの問題を討議にのせてみる気になったのである。  「さあねえ」  と、金田一耕助は五本の指でスズメの巣のようなもじゃもじゃ頭をかきまわしながら、  「ただそれだけの話じゃあなんとも申し上げかねますが、つまりそこは探偵作家川崎龍二氏の住まいではなくて、仕事場として借りている場所なんですね」  「ええ、そう。住まいは吉祥寺のほうにあるんです」  「川崎龍二氏、家族は……? まだ独身……?」  「いや、妻も子もあるんですがね。家では客が多くて仕事ができないというので、西条氏のその離れを借りているんだそうです」  金田一耕助はしばらくタバコの煙のゆくすえをぼんやりと見つめていたが、ふとその視線を等々力警部のほうへもどすと、  「ところで、立花ヤス子はその晩ふたりの女をその離れのなかに見ているわけですね。寝床のなかにしめ殺されていたというシュミーズ一枚の女と、それに赤いレインコートに鼈甲ぶちの眼鏡をかけた女と……」  「ええ、そう」  「川崎龍二氏の知り合いで、そのふたりに該当するような女はいないんですか?」  「それがねえ、金田一先生」  と、等々力警部はいまいましそうにまゆをしかめて、  「それがまた無数にあるんですよ」  「無数……? 無数というのは……?」  と、金田一耕助はさぐるように等々力警部の顔を見ている。  「いや、無数というのはおおげさですがね。川崎龍二というその男、じつに女出入りの多い人物でしてねえ。かくべついい男というのでもなく、相撲とりみたいなからだつきをしているんだが、どこかあいきょうがあるというのか、つまり、ひとくちにいってみれば、女好きがするというんでしょうね。あまりいろいろ女が出入りをするので、西条家でも出ていってもらおうかという話がしばしば出ているくらいだそうですよ」  「つまり、そうすると、そこは仕事場兼あいびきの場所になっているというわけですか」  「たぶんにその傾向があるらしいんですね」  「ところで、無数にあるというその愛人たちのなかから、ちかごろゆくえをくらましているというような女は……?」  「それがいるんですよ、金田一先生。しかも、ひとりならずふたりまで」  「ふたり……?」  と、金田一耕助は思わずまゆをつりあげて、  「それはどういう……?」  「ひとりは新宿のキャバレー『丸』に出ているダンサーで浅《あさ》茅《じ》タマヨという女で、これが二十三日の晩……すなわち立花ヤス子が事件を目撃したという晩ですね、その晩から姿を消しているんです。住まいは池袋のアパートなんだが、二十三日の晩からゆくえがわからないんです」  「なるほど、キャバレーのダンサーね。それから、もうひとりの女というのは……?」  「これは小学校の女教員なんですが、久保田昌子といって猛烈な探偵小説ファン、したがって川崎龍二の崇拝者なんですがね。つまり、この女じゃないかといっているんです、立花ヤス子をおきざりにして逃げだしたというのは……」  「鼈甲縁の眼鏡?」  「ええ、そう。それに、赤いレインコートもね。ふだんいつも赤いレインコートを着、いつも鼈甲縁の眼鏡をかけているんです」  「すると、こういうことになりますかね。女教員の久保田昌子と恋敵の浅茅タマヨがそこでかちあって、なにかいざこざがあったあげく、久保田昌子が浅茅タマヨをしめ殺して逃げだそうとするところへ立花ヤス子がやってきた……ということになるわけですか」  「もし、立花ヤス子という女の供述が真実だとすればですね。しかし、そうすると、立花ヤス子がそこからとびだしていってから、いったいどういう事態がもちあがったのか……立花ヤス子が見たという死体はいったいどうなったのか……」  「川崎龍二があとからかくしたんじゃありませんか」  「なぜ?」  「ふたりの共犯とは思えませんか、川崎龍二と久保田昌子の……」  「しかし、金田一先生、そりゃおかしい。そうだとすると、久保田昌子という女は立花ヤス子という目撃者があることをしっているんだから、そのことを川崎龍二に話さないはずはありませんね。そうなると、死体をかくしたところで無意味な話だとは思いませんか?」  「なるほど」  と、金田一耕助は首をひねっていたが、  「しかし、こういうことも考えられましょう。久保田昌子と川崎龍二はすれちがいでうまく連絡がとれなかった、というような場合は考えられませんかねえ」  「なるほど。つまり、金田一先生のおっしゃるのには、あらかじめうちあわせておいた共犯ではなくて、川崎龍二が久保田昌子をかばおうとして、浅茅タマヨの死体をかくした……」  「ええ、そう。つまり、川崎龍二はその晩外出していた。そして、家へ帰ってみると浅茅タマヨが殺されている。川崎龍二にはすぐその犯人がわかったんじゃないでしょうか。それとも、なにかもっとほかに都合のわるいことがあって死体をかくしてしまった。つまり、事後共犯ということですね」  と、金田一耕助はそこまでひと息にしゃべったが、しかし、自分でも納得がいきかねたのか、不思議そうに首をかしげて、  「それにしてもおかしいですね、警部さん。久保田昌子……いや、久保田昌子にしろだれにしろ、その鼈甲縁の眼鏡に赤いレインコートの女ですがね、そいつどうして立花ヤス子をうえへあげたんでしょう。死体がころがっているというその鼻先へ……?」  「それなんですよ。常識からいってちょっと考えられませんねえ。それに、わざわざその女、隣の部屋から顔を出して、ふたことみこと立花ヤス子と話をしている。そんなことせずと、そっと逃げ出すのがほんとじゃないか。そういうところから考えて、やっぱり立花ヤス子という女の幻想じゃないかということも考えられるわけです」  と、等々力警部はふとい首をひねっているが、かれはこの事件を幻想で片付けてしまうのが惜しいらしいのである。立花ヤス子の供述を真実として、これをひとつの事件と認め、それを解決してみたいという欲望を、この野心家の警部はつよく持っているのである。  「どうもへんな話はへんな話ですねえ」  これまたなにかひどく考えこんだ金田一耕助は、指のあいだにはさんだタバコの灰がこぼれ落ちるのもしらずに、  「それはそれとして、そのときいっしょにいた松本梧朗という人物ですがねえ、それはいったい川崎龍二とどういう関係があるんですか」  「ああ、松本梧朗……その男、これもやっぱり探偵小説ファンなんですね。S大学の助教授……とまではいかない、助手というんですか、とにかく学校の先生なんです。川崎龍二とは古い友達で、川崎のほうが探偵作家として売りだしたもんだから、小説の材料調査などをやって、ちょくちょく小遣いかせぎなどをやっている人物らしいんですがね」  金田一耕助はきゅうに気がついたように、  「あっはっは、警部さんはなかなか詳しく調べていらっしゃる。すると、あなたはやっぱり立花ヤス子という女の供述に真実性を認めていらっしゃるんですね」  「いやいや、まあそういうわけではありませんが、なんとなく気になるもんですからねえ」  と、等々力警部はいささか照れかげんで、やおら卓上電話の受話器をとりあげた。けたたましく電話のベルが鳴りだしたからである。  等々力警部は受話器を耳にあてて、ふたことみこと話をきいていたが、とつぜん受話器をにぎっていた指に力がこもってきたかと思うと、  「ええ? な、なに? 桜上水に女の死体……? 二十四、五のシュミーズ一枚の女だって……? それで、死後何日くらい……? ああ、まだ医者の検視がすんでいないの。でも、見たところ死後七日ぐらい……? 場所はどこ……? 桜上水の下高井戸付近……? ああ、そう。いや、よし、すぐいく。が、ちょっと待ちたまえ」  と、等々力警部は受話器をにぎったまま金田一耕助のほうへ意味ありげな目くばせをすると、ふたたび受話器にしがみついて、  「それについてこちらにこんな話があるんだがね。君のほうに報告がはいっているかどうか……」  と、等々力警部は二十三日の晩の牟礼における一件を語ってきかせると、電話のむこうではひどく驚いているらしい。  「あ、そうそう、そういえば桜上水は牟礼をとおっているね。それに、二十三日の晩大豪雨があったはずなんだ。だから、やっぱりこの一件と結びついているんじゃないかな。だから、君、さっそく三鷹のほうへ連絡をとってみてくれないか。それから、その川崎龍二という探偵作家の住まいは吉祥寺なんだ。さらにもうひとり目撃者の立花ヤス子というのは西荻窪に住んでいる。だから、その方面へも連絡をとって、とにかく参考人として、川崎龍二と立花ヤス子、それから根上巡査なんかにもきてもらったらどうかね……ああ、よし。それじゃ、これからすぐいく」  等々力警部が目を真っ赤に充血させながらガチャンと受話器をおいたとき、金田一耕助はもう立ちあがって、よれよれの着物と袴《はかま》のうえに二重回しをひっかけて、すぐにもとびだしそうな気配を示していた。 四  桜上水の沿道でも、下高井戸付近はとくに寂しい場所である。ちょっとものすごいとさえいえるだろう。付近に寺院が五、六軒あって、土《ど》塀《べい》のうちからにょきにょきと、雨にうたれてすすけた卒《そ》塔《と》婆《ば》がのぞいているというような場所である。  等々力警部と金田一耕助の一行が駆けつけてきたときには、付近いったいにものみだかい野次馬がいっぱいたかっていて、私服や制服の警官の往来もものものしく、わびしいあたりの風物とも照応して、なにかしら陰惨な事件のにおいが強かった。  「ああ、警部さん、ようこそ」  と、野次馬をかきわけて出てきたのは、高井戸署の捜査主任、山口警部補である。  「ああ、山口君、三鷹署や武蔵野署のほうへは……?」  「はあ、ありがとうございました。さっそく連絡しておきました。びっくりしましたよ、そんな事件があったとは夢にもしらなかったもんですからね」  「それとこれと一致するかどうか……一致すればしめたもんだがね」  「やっぱり、それじゃないでしょうかねえ。死後の経過時間やなんか……とにかく、武蔵野署や荻窪署のほうにも連絡をとって、川崎龍二や立花ヤス子をここへつれてきてもらうように手配をしておきました」  「ああ、そう。それは手まわしがよかったな」  等々力警部と金田一耕助は群集をかきわけて霜枯れの桜上水の土手へ出る。  白ちゃけてすがれた枯れ草の土手のうえに菰《こも》がいちまいかぶせてあり、その菰のしたから、どろにまみれたシュミーズと、白くふやけた女の脚がのぞいている。その脚も粘土をこすりつけたようにどろがこびりついて乾いていた。  等々力警部の姿をみると、警官のひとりがうやうやしく菰をまくってみせた。  菰の下によこたわっているのは、二十四、五と思われる女である。シュミーズがべっとりと体に吸いついているので膚の曲線まる出しで、全裸といってもかわりはなかった。  冬のことだから腐乱の度はそれほどひどくはなかったが、長くどろのなかにつかっていたとみえて、白くふやけた皮膚は寒天のようにフワフワしていて、なんともいえぬ薄気味悪い様相を示している。  柄はそれほど大きいほうではない。いや、どちらかといえば小柄なほうだが、くりくりと堅く太った女ではなかったろうか。身長は五尺あるかないか、太い短い脚をしていて、死後どろのなかに長くうまっていて、相好もかわっているのであろうが、それにしてもあんまりよい器量とはいえなかった。  等々力警部の考えかたがあたっているとすると、この女は立花ヤス子が目撃した被害者ということになり、したがって新宿のキャバレー『丸』のダンサー浅茅タマヨに相当するはずなのだが、それにしてもスタイルの悪いダンサーもあったもんだと、金田一耕助は首をひねった。  山口捜査主任の説明をきくまでもなく、死体はどこか上流から流されてきて、どういうかげんかそこにある橋の下のどろのなかに数日うずもっていたものらしい。それが胎内に発生した腐敗ガスのためにきょうひょっこり浮かびあがってきたもののようである。  「警部さん、これが川崎龍二の仕事場の一件と……?」  「じゃないかと思うんですが……年齢にしろ、死後の経過時間にしろ、それにシュミーズ一枚というところやなんかがね。ああ、あそこへやってきたのが立花ヤス子じゃないか」  ヤス子は青白くそそけだったような顔をひきつらせて、警官とともに自動車からおりてきたが、それとほとんど同時に到着したのが三鷹署の根上巡査である。根上巡査の顔を見ると、ヤス子はまたどきりとしたように目をとがらせたが、しかし、元来度胸のよい女とみえて、思いのほか落ち着いていた。  根上巡査といっしょに駆けつけてきた三鷹署の古谷警部補は、しばらく高井戸署の山口警部補と立ち話をしていたが、やがて根上巡査をふりかえると、  「根上君は二十三日の晩、死体を見ていないんだね」  「はあ、わたしが駆けつけてきたときには、川崎龍二氏が松本梧朗という男をあいてに酒をのんでいるところだったんです」  「すると、そのとき被害者の顔を見たのは、立花ヤス子さんだけなんだね」  「はあ、そういうことになります」  事件が思いがけなく発展してきたので、まだ若い根上巡査はすっかりかたくなっている。  「ああ、そう。それじゃ立花さん」  「はあ」  「ちょっとここへきて、死体の顔を見てくれませんか」  「はあ」  立花ヤス子は青白くこわばった顔をして、いっしゅんちょっと目をとじたが、それでもおそるおそるまえへ出て、死体の顔に目をやった。そして、しばらくまじろぎもせずふやけた顔を見つめていたが、やがて大きく息をうちへ吸いこむと、  「ええ……あの……ずいぶん変わっているようですけれど……なんだか、あの……あの晩の女のひとのような気がして……」  「間違いありませんか。よく注意して見てくださいよ」  山口捜査主任から念をおされて、立花ヤス子はいっそう青ざめたが、  「はあ、あの、間違いはございません。やっぱり、あの晩のひとのようでございます」  キッパリいいきったものの、立花ヤス子はそこでとつぜんめまいでも感じたのか、ふらふらと二、三歩よろめいたので、  「おっと、危ない」  と、うしろにいた根上巡査が抱きとめた。  「あら、すみません。もう大丈夫です」  と、ヤス子はハンカチを出して顔の汗をぬぐいながら、  「ああ、あそこへ川崎さんがきたようです」  立花ヤス子のその声には多分に敵意がこもっていたが、彼女の注意でその場の空気がさっとひとしお緊張した。金田一耕助は等々力警部と目を見かわせたのち、いま自動車から降りてきた男のほうへ視線をむけた。  武蔵野署の刑事につきそわれた川崎龍二の顔はおそろしくひんまがって、どこかしら追いつめられた野獣のように目がとがっている。相撲とりのような大きな体も、空気の抜けた風船みたいにしぼんでみえた。  「川崎さんですね。探偵作家の川崎龍二氏ですね」  山口警部補の質問に、  「はあ……ぼく……川崎です」  と、川崎の声はすっかりしゃがれて、内心の恐怖がまざまざととがりきった目にあらわれている。  「あなた、ここにいるご婦人をご存じでしょうねえ」  川崎龍二はヤス子のほうへちらっと視線を走らせて、  「はあ……」  「このご婦人、すなわち立花ヤス子さんは、二十三日の晩、三鷹にあるあなたの仕事場で女の死体をみたといっているんですが、そのことはあなたもご存じでしょう」  「はあ……」  「あなたはそのとき、そのことを一笑に付されたそうですが、いま立花ヤス子さんの証言するところによると、そこによこたわっているその死体が、すなわち二十三日の晩あなたの仕事場によこたわっていた死体だというのですが、ひとつあなたもよくごらんになってくださいませんか」  川崎龍二の額から滝のように汗がしたたりおちる。かれはもうその死体を見なくともそれがだれであるかわかっているらしい。  「川崎さん、ひとつ、どうぞ……」  「はあ……」  川崎龍二はやっと死体のほうへ視線をむけたが、すぐすすり泣くような声を立てて顔をそむけた。  「だれですか、その死体は……?」  川崎龍二はすぐには答えないで、ますますはげしくしたたり落ちる汗を手の甲でぬぐっている。  「川崎さん、その女をしっているんでしょうね」  「はあ……あの……しっております」  「それで、だれですか、なんという名前なのですか」  警部補にたたみかけられて、川崎はやっと重い口をひらいた。  「久保田昌子……小学校の教師です」  「えっ、久保田昌子……それじゃ浅茅タマヨじゃないのか……」  と、等々力警部は思わず大きな声を爆発させた。 五  「不思議ですねえ。どうもがてんがいきませんねえ。ぼくにはなにがなんだかさっぱりわからなくなりました」  久保田昌子の死体が発見されてから三日目のお昼ちょっとまえのことである。  警視庁の捜査一課第五調べ室へきょうもまたふらりとやってきたよれよれ袴の金田一耕助は、どっかと警部のまえのイスに腰をおろしたかと思うと、またぷいと立ちあがり、しきりに、不思議ですねえ、がてんがいきませんねえ、をくり返しながら、檻《おり》のなかの猛獣のように、部屋のなかを行きつもどりつ。むやみやたらとスズメの巣のようなもじゃもじゃ頭をかきまわして、なんとなく落ち着きのないようすである。  「まあ、まあ、金田一先生」  と、等々力警部は渋面をつくって、  「あなたのようにそうウロチョロされちゃ、こっちまで気が変になってくる。いったい、なにが不思議なんです。なにがそんなにがてんがいかぬというんです。牟礼のあの一件のことですか。あれならだいたいつじつまがあっていると思うんですがねえ。あとはもう、川崎龍二の自供を待つばかりですよ」  「つじつまがあってるんですって?」  と、金田一耕助はすっくと警部のまえに立ちはだかると、らんらんと輝く目できっとばかりに警部の顔をにらみすえ、  「いったい、ど、どういうふうにつじつまがあっているというのです」  と、まるでかみつきそうなけんまくである。  そばできいていた新井刑事もいささかあきれかえったように、  「だって、金田一先生、あなたはあれでいちおう満足なすったようじゃありませんか。いまになって、なにをまたそのように……不審の点があったら、なぜあのときおっしゃらなかったんですか」  「あのときはあのとき、きょうはきょうです。世のなかは時々刻々として移り変わっていく。そうあんたがたのようにのんびり構えていちゃ、真犯人に足もとをひっさらわれてしまいまさあ」  と、金田一耕助は警句のような言葉をはきながら警部のデスクのまえにイスをひきよせ、どっかとそれに馬乗りになると、いたずら小僧のように警部と新井刑事のほうへかわるがわるあごをしゃくってみせた。  「あなたがたのあっているというつじつまはこうなんでしょう。つまり、あの晩、すなわち二十三日の晩、川崎龍二氏はどっかへ外出していた。そのあとへ被害者の久保田昌子がやってきて、寝床を敷いて愛人の帰りを待ちわびていた。そこへ恋敵の浅茅タマヨがやってきて、やきもちげんかのあげく久保田昌子をしめ殺した。そして、逃げだそうとするところへ、あいにく立花ヤス子がやってきたので、浅茅タマヨはふたことみこと立花ヤス子に応対したのち逃げ出した……と、こういうふうにつじつまがあっているとおっしゃるんでしょう」  「金田一先生」  と、等々力警部はデスクのうえから体をのり出すと、にやにや笑うような顔をつきだして、  「金田一先生、それはあなたご自身がいいだしたことじゃありませんか」  「そりゃそうです。そこが凡愚のあさましさでね」  と、金田一耕助はケロリとして、スズメの巣のようなもじゃもじゃ頭をかきまわしながら、  「だから、ぼくはきょう不明をおわびにきたのです。どうも、この金田一耕助という野郎、とんでもないのろま野郎でさあ」  「金田一先生、どうしたんです。いまあなたのおっしゃったことに不合理な点でもできてきたんですか」  と、等々力警部は、はんぶんからかい顔に、しかし、はんぶん真剣な面持ちで、金田一耕助の面を見まもっている。  新井刑事もなにか金田一耕助がつかんできたらしいことに気がついて、にわかに緊張の色を濃くすると、まじまじとあいての顔を注視している。  そういえば、等々力警部にしろ、新井刑事にしろ、いま金田一耕助がいったような浅茅タマヨの行動に、多少の疑惑を持たないわけでもないのである。  「じっさいぼくはまぬけでしたよ、警部さん。だいいち、浅茅タマヨは鼈甲縁の眼鏡をかけていなかった。第二に、立花ヤス子の目撃した赤いレインコート、すなわち浅茅タマヨだと信じられている婦人が着ていたレインコートも被害者のものであった……警部さん、新井さん、あなたがたはそれをいったいどう説明するんです」  「だから、つまり、その……浅茅タマヨがとっさのあいだに被害者のレインコートを着、鼈甲縁の眼鏡を借りて変装したんじゃありませんか」  だが、そういいながら、等々力警部は自説の根拠の薄いことを感じずにはいられなくなってきた。  金田一耕助は憤然としたように、  「なぜまた、そんなことをする必要があるんです。そんなことをするまにゃあ、なぜこっそりと玄関から逃げ出さなかったんです。あの離れの間取りを見てもわかるとおり、そのほうが犯人にとってよほど有利じゃあありませんか」  「しかし、金田一先生、それじゃ、なぜ浅茅タマヨはそんなことをやったとおっしゃるんです」  と、新井刑事は切りこむような調子である。  「だから、不思議だ、がてんがいかぬと申し上げているんですよ」  と、金田一耕助は得意満面、にやりとうすきみ悪い微笑をもらすと、  「さらにもうひとつの不思議というのは、ヤス子が立ち去ったのち川崎龍二氏が帰ってきた。そして、そこにじぶんの情婦が絞殺されているのを見て、びっくり仰天、死体を桜上水へ流してしまった……」  「その点についちゃあもう疑いはないようですが……げんに、近所の人で、川崎龍二らしい男が桜上水のほうから帰ってくるのを見た証人があるんですからね」  「しかし、それはなぜ……? なぜ、川崎龍二氏はあっさりと訴えてでなかったのか。自分が殺しもしない死体を、どうして流したりするんですか。それがいかに危険な行動であるかということくらい、あの男も探偵作家だ、わかっているはずじゃあありませんか。たとえ立花ヤス子に死体を見られたということをしらなかったとしてでもですね」  「だから、先生はこの間おっしゃったじゃありませんか。川崎はひょっとするとそれが浅茅タマヨの犯行だとしって、女をかばうつもりじゃなかったかと……」  「ええ、あのときはそういいましたよ。ぼくがのろまだったからですね。しかし、どうもあの男がそれほどナイト的だとは思われなくなってきましたからねえ」  「そうおっしゃれば、先生」  と、そばから新井刑事が身を乗り出して、さぐるように金田一耕助の顔を見守りながら、  「あの男……川崎龍二がナイトであるかどうかは別として、浅茅タマヨが犯人でないとすると、どうして姿をかくしているんです」  「さあ、それなんですよ。それだからこそ、あのときはあのとき、きょうはきょうだと申し上げたんです。あっ、警部さん、電話がかかってきましたよ」  等々力警部は卓上電話の受話器に手をおいたままものすさまじい目つきをして金田一耕助をにらみつけた。  金田一耕助のその語調には、電話のかかってくることを予知していたようなひびきがあったからである。  「金田一先生!」  といいかけたが、等々力警部は思いなおしたように受話器をとりあげて耳にあてた。そして、しばらくのあいだ、おだやかにふたことみことしゃべっていたが、やがて、みるみる両のこめかみにミミズのような血管がふくれあがってきた。  「な、な、なんだって……? このあいだのところへ、また死体が流れよったと……? そして、こんども女の死体だというんだね。あ、そう。それで、いったいだれが発見したんだ……え? なに? よれよれの袴をはいた男……? スズメの巣のようなもじゃもじゃ頭をした男が、付近の交番へしらせて、そのままどこかへ立ち去ったと……よし、すぐいく」  ガチャリと力まかせに受話器をおいた等々力警部は、もし視線が人を殺すなら金田一耕助はそのままその場で成仏したであろうようなものすさまじいまなざしで、金田一耕助のスズメの巣のようなもじゃもじゃ頭をにらみすえた。  「金田一先生」  と、新井刑事もすっくと立ちあがって、うえから金田一耕助のそらとぼけた顔をにらんでいる。  「偶然なんですよ、警部さん」  と、よれよれの袴をはいた金田一耕助は、どっかとまたイスに腰をおろすと、みすぼらしい羽織の肩をすくめて、  「なんだか気になるもんだから、けさがた、もういちど現場へ行ってみたんです。そしたら、またぞろ死体が浮いてるじゃありませんか。たぶん浅茅タマヨだと思います。それでこうしてお迎えにあがったというわけです。さあ、いっしょにお供いたしましょう」 六  その日の夕刊は、ハチの巣をつついたようなさわぎであった。  「探偵作家の二重殺人」  だの、  「川崎龍二氏服毒自殺を企つ」  だの、  「秘密のカギを握るものはだれか」  だのと、ありとあらゆる扇情的な文字をつらねて、各紙各様大々的にこの事件をとりあげていた。  その朝、金田一耕助が桜上水の下高井戸橋付近で発見したふたりめの死体は、はたして浅茅タマヨだった。探偵作家の川崎龍二氏のみならず、キャバレー『丸』の連中もはっきりそれを認めた。  浅茅タマヨは、さすがにダンサーらしく、久保田昌子とちがって、すくすくとのびたしなやかな四《し》肢《し》をもっており、器量もまんざらではなかった。  ところが、不思議なことには、犯人の唯一の目撃者であるところの立花ヤス子の証言によると、それは、彼女が二十三日の晩、川崎龍二氏の仕事場で目撃した赤いレインコートの女とはちがっているというのである。  立花ヤス子の説によると、浅茅タマヨに鼈甲縁の眼鏡をかけてみたところで、とうていあの夜の女ではありえないと主張してやまないのである。  事件はここに急転回した。  そうすると、久保田昌子でもなく、浅茅タマヨでもない第三の女が、大きくクローズ・アップされてくるわけである。  それは、おそらく無数にあるという川崎龍二氏の情人のひとりであろうが、そこを追及されているうちに、すきを見て、川崎龍二氏は服毒自殺を企てたのである。  川崎龍二氏が嚥《えん》下《か》したのはストリキニーネであったらしい。さいわい気がつくのがはやく、手当もゆきとどいたので命はとりとめるかもしれないといわれているが、M病院へかつぎこまれたこの奇怪な探偵作家は、目下重態であると伝えられている。  しかし、このこと……立花ヤス子が目撃したという女が浅茅タマヨではなかったという事実が、この奇怪な女が立花ヤス子にじぶんの姿を見せたというなぞを説明するのではないか。  すなわち、その女は、まだ世間にしられていない川崎龍二の情婦のひとりではないか。そして、自分の本当の姿を見られるのを恐れて、変装した姿をわざと立花ヤス子に見せたのではないか。しかし、おかしい。それだけでは、そのなぞは納得されないようでもある。  それはともかく、もし川崎龍二氏がこのまま死亡してしまうような場合、第三の女の正体がやみからやみへと葬り去られてしまうおそれがあった。ということになると、この秘密のカギを握っているものはいったいだれか。それはとりもなおさず、犯人の唯一の目撃者立花ヤス子ということになってくる。  T紙ではその点を強調して、立花ヤス子と記者との一問一答をつぎのように大きく扱っていた。  記者「あなたは、二十三日の晩、川崎龍二氏の仕事場で会った鼈甲縁の眼鏡の女の顔をはっきり覚えていますか」  ヤス子「はい。かなりはっきり覚えています」  記者「しかし、あなたは、このまえ警察で質問されたとき、なにしろ眼鏡をかけ、マスクをしていたので、あまりはっきり顔は覚えていないといったそうじゃありませんか」  ヤス子「はい。あの当座は動揺しておりましたし、自分自身にも問題があったので、はっきりとは思い出せなかったんです。しかし、記憶というものは、日が経るにしたがって、かえってなまなましくよみがえってくることがあるものです。いまでは、わたしはまぶたをつぶるとそのひとの顔をかなりはっきりと思い出すことができます。幸か不幸か、最初に顔を会わせた瞬間、そのひとはまだ防寒マスクをかけおわっていなかったのですから」  記者「なるほど。それでは、それはどのような風《ふう》貌《ぼう》でしたか」  ヤス子「いいえ、それが口ではよくいいあらわせませんの。いまも申し上げたとおり、まぶたをつぶるとかなりはっきりそのひとの面差しが網膜にうかぶんですけれど、それを口で説明しようとすると、幻のように消えてしまうんです」  記者「そうすると、犯人をあなたのまえにつれてきて、その女に鼈甲縁の眼鏡をかけさせたら、あなたははっきり認識することができますか」  ヤス子「はあ、それはできると思います」  あとから思えば、この一問一答こそ、この事件のなぞをとく重大なポイントになったものである。  さて、川崎龍二氏のかつぎ込まれたM病院は、この事件の捜査本部と定められた三鷹署のすぐそばにあった。その捜査本部につめきった等々力警部は、病院から刻々ともたらされる患者の容態の一進一退に、文字どおり一喜一憂のありさまだった。  ことに、いちど快方にむかっていた患者の容態が、夜にはいってきゅうに重態におちいったという報告をうけたときには、等々力警部のみならず、捜査陣一同手に汗にぎる気持ちだった。  「しかしねえ、警部さん」  三鷹署の捜査主任、古谷警部補は、いまいましそうに渋面をつくって、  「自殺はもっとも雄弁な告白とみなすことはできやしませんかねえ。やっこさん、ああして久保田昌子の死体が発見されたときあくまでシラを切りとおそうとしてきたが、やっぱり共犯者のひとりだったんですぜ」  「つまり、久保田昌子を殺したのは、浅茅タマヨと、川崎龍二の共犯だったというのかね」  「ええ、そうです、そうです。浅茅タマヨが久保田昌子をしめ殺した。そのあとから帰ってきた川崎龍二が、久保田昌子の死体を桜上水へ流したというわけでさあ。しかし、それがばれるといけないというので、こんどは浅茅タマヨも殺してしまったにちがいありませんぜ」  「ふん、ふん。こんどの自殺未遂一件から、わたしもその考えが強くなっているんだが……金田一先生、あなたのお考えはどうです?」  等々力警部はひどく用心深くなっている。けさがた金田一耕助からなぞのような暗示をうけたので、もうひとつはっきり踏みきって古谷警部補の説に同調することが出来なかった。  金田一耕助の脳裏になにかまた警抜な思いがひらめいているらしいことを、ものなれた警部は見ぬいているのである。その金田一耕助は、さっきから例によって檻のなかのライオンのように部屋のなかを行きつもどりつしていたが、警部に声をかけられてもその行動をうちきろうとはせず、  「え? なに? 警部さん、なにかおっしゃいましたか」  「いや、いま古谷君がいうんですがね、つまり、久保田昌子の事件の場合、浅茅タマヨと川崎龍二に共犯関係があった。そして、川崎龍二は、それが暴露するのを恐れて、共犯者の浅茅タマヨも殺してしまったと、こういってるんですが、あなたのお考えはどうです」  「それは、もちろん、自分になにかやましいところがあればこそ、ああいう自殺というようなデスペレートな行動に出たんでしょうがねえ。その点に関するかぎり、わたしも古谷さんの説に賛成です。しかし……どうも、もうひとつわたしにはがてんのいかぬところがある」  「がてんのいかぬところがあるというと?」  古谷捜査主任の調子には、いささか挑《ちよう》戦《せん》的《てき》なひびきがあった。  この老巧な警部補にとっては、等々力警部ともあろうものが、このような門外漢の、しかも、小柄で、貧相で、いっこう風《ふう》采《さい》のあがらぬ男にいちもくおいているらしいのからして、少なからずいまいましいのである。  「それはこうです」  と、さすがに金田一耕助も古谷警部補に対して失礼だと思ったのか、檻のなかのライオン的行動を停止してふたりのほうにむきなおると、  「立花ヤス子の目撃した人物、すなわち犯人とおぼしき鼈甲縁の女と川崎龍二氏との間に、あらかじめ打ち合わせがあったとは思われませんね」  「そりゃあそうです」  と、古谷警部補もあいづちをうち、  「もし打ち合わせがあったのなら、川崎龍二も立花ヤス子という目撃者がいることをしっているんだから、死体を流すようなバカなまねはしなかったでしょうからねえ」  「そうすると、こういうことになりますね」  と、金田一耕助はまるで暗唱するような目つきで、  「川崎龍二氏は外出先から帰ってきた。すると、そこに死体がよこたわっている。しかも、被害者は自分と関係のある久保田昌子である。そのうえ、川崎龍二氏は立花ヤス子という目撃者のあることをしらなかったから、死体を上水に流してしらぬ顔の半兵衛をきめこもうとした……ということになるんですが、それが少し子供っぽい……大人げないと思うんです。けさも警部さんに申し上げたとおり、自分にやましいところがないなら、なぜあっさり恐れながらと訴えて出なかったんでしょう」  「だから、川崎龍二がくさいといっているんじゃありませんか」  「金田一先生」  と、等々力警部がからだを乗り出し、  「その点については、けさも討論しましたね。先日あなたはこうおっしゃった。これは同じ共犯でも事後共犯、偶然の共犯じゃないか。つまり、川崎氏は殺されているのが久保田昌子としって、てっきり犯人は浅茅タマヨだとにらみ、浅茅タマヨをかばうために死体を流したんじゃあないのか……というような意味のことをさいしょにいいだされたのは、先生、あなたなんですよ」  「ええ。ですから、けさもいったとおり、あのときはあのとき、きょうはきょうだというんです」  「金田一先生、いったいあなたはなにを考えていらっしゃるんですか」  「つまり、問題はこうなんです。立花ヤス子があの離れへいったとき、川崎龍二氏がそこにいなかったということはたしかなようです。つまり、川崎龍二氏はそのとき外出していたんですね」  「ええ、それはそうです」  「それじゃ、川崎龍二氏はアリバイを立証することも出来るはずです。それにもかかわらず、川崎龍二氏は外出先をいわないんでしょう」  「はあ、それはもう、終始一貫、宵から仕事場にとじこもって一歩も外へ出なかったの一点張りなんです……」  「そうでしょう。それがおかしいと思うんです。すなわち、川崎氏は外出先をいいたくなかった。というよりも、外出先をいえなかった。ということは、外出先で川崎氏はなにかひとにいえないことをやってきたのではないか……」  「ひとにいえないことというのは……?」  「さあ、それがぼくにもまだわからない」  と、金田一耕助はなやましげな目で、  「ときに、主任さん、浅茅タマヨの絞殺されたのは、久保田昌子よりあとなんですね」  「ええ、少なくとも二日あとということになっているんですがね」  「そこんところが、ぼくにもがてんがいかないんです。浅茅タマヨのほうが久保田昌子よりさきに殺されているんならばねえ……」  等々力警部も古谷警部補もぎょっとしたように金田一耕助の顔を見なおすと、  「金田一先生、それはいったいどういう意味なんです」  「いや、いや、いや」  と、金田一耕助は首を左右にふりながら、あいかわらずなやましげな目で、またしても部屋のなかを行きつもどりつしていたが、急に等々力警部のまえで立ち止まると、デスクのうえにおいてあったT紙の夕刊をとりあげた。  「警部さん、古谷さん、あなたがたはこの立花ヤス子と記者との一問一答をお読みになりましたか」  「ええ、それは読みましたが」  と、古谷警部補にその夕刊の紙面を指し示しながら、  「しかし、どうもこの記事はおかしい。T紙の与太じゃないかと思う。立花ヤス子はぜんぜん犯人の顔を覚えていないというんだが……」  「金田一先生」  と、等々力警部はとつぜんなにかに思いあたったように、  「先生、それじゃこの記事はあなたが……?」  「ええ、こりゃぼくがはったりをかけてみたんです。さいわいT紙の社会部にぼくのしった男がいたので、その男に頼んで、こういう記事を大きく取り扱ってもらったんです。犯人にとっていまや唯一のじゃま者は立花ヤス子ひとりであるという点を、とくに強調してもらったんです。その意味がおわかりでしょうねえ。じゃま者は殺せというじゃあありませんか」  金田一耕助はギクリッとして自分の顔を凝視している等々力警部と古谷警部補に、なにかの暗示を与えるようにまじまじとあいてのひとみを見かえしていたが、  「じゃ、今夜はこれで……いずれまた明日ここへやってきます。しかし、警部さん」  「はあ?」  「とにかく、立花ヤス子に気をつけてくださいよ。あの重大な証人の身に、万一のことがあるとたいへんですからねえ」  と、ペコリとひとつもじゃもじゃ頭をさげたかと思うと、金田一耕助はそのまま飄《ひよう》々《ひよう》としてその殺風景な部屋から出ていった。 七  立花ヤス子が省線電車の西荻窪の駅を出たのは、もうかれこれ十二時ちかかった。  駅の改札口を出るとき五、六人の連れがあったが、その連れもまもなくどこかへ散ってしまって、ヤス子はすぐにひとりぽっちになってしまった。  駅の近所には商店街がつづいているが、その商店街も十時になるとガラス戸をしめ、カーテンをおろしてしまう。その商店街をすぎると寂しい住宅街である。立花ヤス子は毎晩その道を十分ほど歩いて、夫とともに間借りをしている大宮前にある材木屋の離れへ帰っていくのだ。  西条氏に対する時宜をえた彼女のとりなしで、ヤス子の夫の過失はつぐなわれた。夫は失職からまぬがれたのである。しかし、まだ二十三にしかならないヤス子の夫の信吉は、なにかにつけて頼りなかった。全面的に夫に頼りきれないヤス子は、自分も働いて収入のみちをはからなければならなかった。  ヤス子は器用なほうである。編みものの手内職でも相当の収入をあげることができる。しかし、編みものの注文は季節によってずいぶんちがう。  そこで、ヤス子がちかごろえた職業というのは、丸の内にある某ビルディングの掃除婦である。夕方そこへ出勤すると、ビルに働く人たちが帰ってからオフィスの掃除をしてまわるのだ。  はやい事務所は四時にはひけてしまうが、なかには八時、九時ごろまで働いているオフィスもある。だから、それらの掃除をすますと、たいてい十時をすぎている。それから仲間の掃除婦たちとお茶を飲んだりおしゃべりをしたりしていると、かえりはいつも十一時をすぎる。こんやはとくに遅くなって、西荻窪の駅をでるとき時計を見たら、十二時十分まえだった。  また、信ちゃんのきげんが悪いわ……。  と、彼女はそれを案じながら、足をいそがせている。  信吉にはヤス子のこの新しい職業が気にいらないのだ。かねてからはやくやめろといっている。編みものだけでも結構だし、外へ出て働くにしても、もっと適当な仕事がありそうなものだというのである。信吉にとっては毎晩妻の帰りがおそいということが不平の種だった。  しかし、そういう信吉にしてからが、このあいだのような不始末をしでかし、あやうくクビになりかけたのだから、強く主張することもできなかった。  それだけに、信吉はちかごろいつもいらいらしている。ヤス子は出ていくとき夕食の支度をしていってくれるが、つかれて外から帰ってきてひとりで晩めしをもそもそくうのは、男としてはやりきれない気持ちがするのも無理はない。  しかも、夜おそく帰ってきたとき、ヤス子はいつもかなり疲労していた。いっしょになった当座のような新鮮さが若い妻の肉体から失われていくのが、信吉にはものたらず、また残念だった。しかも、信吉は仕事の関係で朝がはやいのである。  共かせぎの夫婦によくあることだが、このすれちがいみたいな夫婦関係が、ちかごろしばしばふたりの間に物議をかもした。しかし、ヤス子はいまのところこの仕事をよす考えは毛頭ない。  一日家に閉じこもって編みものをしていると肩がはるし、気もふさぐ。オフィスの掃除婦というのは、たいてい自分よりも年とった中年の女たちだが、それでも掃除がすんだあとでそのひとたちの身の上話を聞いたり世間話に興じていると、いくらか気もはれるというものである。  それに、きまった俸《ほう》給《きゆう》のほかに、気前のよい中年の男から思いがけないチップにありつくこともある。  信ちゃんはそれをやいているんだわ。だけど、じぶんさえしっかりしていれば、信ちゃんの心配するようなことはありっこないわ。誘惑はどこにいたってあるんだもの。家で編みものしていたって、ときどき変な男がやってくるのを信ちゃんは知らないけれど。  たまにキスぐらい仕方がないじゃないの……うっふっふ……と、ヤス子はひとりでひくく笑うと、思わず手の甲でくちびるをぬぐった。  きょうとつぜんキスされた某貿易商のマネージャーのねばっこいくちびるの味を思い出したからである。  いやらしいと思う半面、そのときすばやく握らされた三枚の百円紙幣が、どこか彼女の心をゆたかにしていることも争われない。  信ちゃんに見つかったら、また根掘り葉掘りされるわ。どこかへうまくかくしとかなきゃあ。  これを要するに、ヤス子には、きのうT紙の夕刊に出た記者との一問一答から、いまじぶんがどのような危険な立場におかれているかという自覚がぜんぜん欠けていたのだ。夫の信吉もまだ子供だからそんなことには気がつかない。  かえって自分の妻の名前が大きく新聞に出たことをまるでなにか名誉なことのように考えて、彼女に注意をあたえるような神経はぜんぜん持ち合わせていなかったのも仕方がない。  ヤス子が大宮前の間借りをしている材木屋の近くまでさしかかったのは、ちょうど十二時である。  空は曇っているが、どこかに月があるらしく、ほんのりとした明るさが道をさむざむと照らしている。材木屋の材木おき場の外には、材木が道端に沢山立てかけてある。その材木のたてかけてある角を曲がると、材木屋の裏口である。その裏口を入ると、ふたりが間借りをしている離れなのだ。  ヤス子がその材木おき場へさしかかると、材木のかげから男がひとりつと出てきて、  「ヤス子……?」  と、ひくいこもったような声で呼びかけた。にぶい光を背におったその男の姿を見たとき、ヤス子はてっきり夫の信吉がそこまで迎えに出てくれたものとばかり早合点した。  「信ちゃん……?」  と、ヤス子はよろこばしげな声をあげてそのほうへ駆け寄ると、両手をあげて男に抱きつこうとした。と、その瞬間、わけのわからぬ事態がもちあがったのである。  「危ない!」  とだれかが叫んで、ヤス子をつきとばしたようだった。いや、ようだったではない。ヤス子は、事実、だれかの強い腕につきとばされて、二、三メートルよろめいたのち、そこにあった電柱にいやというほど背骨をぶつけたのだ。  いっぽう、ぼうぜんとしている彼女の眼前で、彼女が信吉とまちがえた男と三人の男がなにかけわしい怒号とともにもつれあっていたが、しかし、その格闘もすぐ終わった。だれかが……もじゃもじゃ頭をして、よれよれの袴をはいた男だったが……そばへきて、  「危ないところでしたねえ」  といいながら、その男が電柱のスイッチをひねるとパッと街灯に灯がついた。  立花ヤス子はそのときはじめて、その街灯が故意に消されていたのだということに気がついた。  「ほら、あの男の足もとをごらんなさい」  立花ヤス子はぼうぜんとして、じぶんのそばに立っているもじゃもじゃ頭でよれよれの袴をはいている男の姿から、手錠をはめられた男のほうへ目をうつした。その男の足もとに、鋭いきっさきをしたナイフが、ものすさまじい色を光らせてころがっていた。  ヤス子はそれから手錠をはめられたその男の顔を見た。  それは、二十三日の晩、探偵作家の川崎龍二といっしょにウイスキーを飲んでいた松本梧朗だった。  ヤス子にはまだ事情がよくのみこめなかったが、さっき信ちゃんとまちがえてその男に抱きついていたら、あの鋭いナイフがじぶんをえぐっていたのだということだけはうなずけた。  ヤス子は急に胸が悪くなり、気がとおくなりかけたが、そこへ材木のうしろからもうひとりの人影があらわれた。その男はなにごとが起こったのかときょろきょろあたりを見まわしていたが、街灯のしたに立っているヤス子を見ると、  「ヤス子! そこにいるのはヤス子じゃないか」  「信ちゃん!」  ヤス子は信吉のそばに駆け寄ってその胸にすがりつくと、とつぜん堰《せき》を切って落としたように涙があふれた。  「信ちゃん、信ちゃん、わたし殺されかけたのよ」 八  「つまり、あの晩、川崎龍二氏は外出先で人殺しをしてきたんですよ」  緑ガ丘町にある高級アパート緑ガ丘荘の二階に、金田一耕助はフラットをもっている。そのフラットの快適な応接室のなかで、この探偵談の記録者であるところの筆者は、金田一耕助とむかいあっていた。  金田一耕助は大きな安楽イスのなかにふかぶかと体をうずめて、ものうげなまなざしをしながら、この事件の解説をしてくれるのである。それを後生大事にメモにとるのが筆者の役目なのであった。  「外出先で人殺しを……? いったい、だれを殺したんです」  「浅茅タマヨをですね」  「浅茅タマヨを……」  と、筆者はおもわず目をみはって、  「だって、浅茅タマヨが殺されたのは、久保田昌子より二日あとだったということじゃありませんか」  「そうです、そうです、そのとおり」  と、金田一耕助はもじゃもじゃ頭をかきまわしながらにやにや笑って、  「だから、つまり、川崎龍二が早合点をしたんです」  「早合点とおっしゃると……?」  「それはこうです。あの晩、川崎龍二はタマヨのアパートへ遊びにいっていたんです。ところが、そのうちに痴話げんかがこうじて、川崎がのどをしめたところが、タマヨがぐったり失神してしまった。川崎龍二という男は相撲とりみたいな体をしていたが、案外肝っ玉の小さな男で、タマヨが失神すると周《しゆう》章《しよう》狼《ろう》狽《ばい》、いろいろ手当をしてみたが、息をふきかえすもようがないので、てっきり死んでしまったものと早合点したんですね。そこで、タマヨのアパートをとびだして仕事場へ帰ってきた。さいわい、その晩かれがタマヨを訪問したことをしっているものはひとりもいなかったので、川崎氏のさいしょの計画では、宵のうちから仕事場に閉じこもっていて一歩も外出しなかったということにして、アリバイをつくるつもりだったんですね。ところが、あにはからんや、仕事場へかえってみると、そこにもひとつ死体がころがっている……」  筆者は唖《あ》然《ぜん》として金田一耕助の顔を見なおした。  「それがつまり、久保田昌子の死体だったとおっしゃるんですね」  「そうです、そうです」  と、金田一耕助はにやにやしながら、  「運命は皮肉なもんですねえ。外出先で情婦を殺してそのアリバイをつくろうと仕事場へかえってくると、そこにも死体がころがっている。しかも、その死体というのも、かれの数多い情婦のひとりである。このほうの殺人に関するかぎり、川崎龍二はぜんぜん無関係であった。しかし、はたして世間でそれを信じてくれるかどうか。かれの情人のひとりが、かれの仕事場のなかで寝床を敷いて殺されている。しかも、わたしはぜんぜんしりませんじゃことがすみそうにない。それをことをすまそうと思えば、いやがおうでも外出先をいわねばならぬ。外出先をいうと、そこにも情婦が殺されている。しかも、こっちのほうはしんじつかれがやったことですから、これは絶対にいえませんね。そこで、まさかその死骸をぜんぜん事件に関係のない立花ヤス子という女に見られたとはしらなかったもんですから、近所の桜上水へ流して、しらぬ顔の半兵衛をきめこもうというわけで、いや、そのときの川崎先生の心中たるや察するにあまりありだったでしょうねえ」  筆者はあきれてしばらく口もきけなかったが、  「それで、久保田昌子を殺したのは松本梧朗という男だったんですか」  「ええ、そう。ところが、こっちのほうも、もののはずみだったそうです」  「もののはずみというと……?」  「いや、あの晩、松本梧朗が仕事場へ訪ねていくと、久保田昌子が勝手に夜具をひっぱりだして、シュミーズ一枚という姿で寝ていたそうです。おそらく、昌子女史、ちかごろ川崎先生がいささかつめたくなったので、今夜こそいやおういわせぬつもりで、まあ、そういう扇情的なシチュエーションをつくりあげ、手ぐすねひいて川崎先生の御帰館を待っているところへ、やってきたのが川崎先生ではなく松本梧朗だったので、ことがまちがってきたんです」  筆者もやっと事態がのみこめてきた。  「なるほど。そうすると、松本が犯人だというわけですか」  「ええ、そう。あとで久保田昌子の写真を見ましたが、ボチャボチャとした、ちょっとかわいい顔立ちでしたよ。そこへもってきて、そういうあらわな姿態をみせつけられちゃねえ……若いもんにとっちゃ目に毒です。冗談でいどんでいるうちにおいおい真剣になってきて、つい手がまわったか……というわけです」  「そこへ立花ヤス子がやってきたわけですな」  「ええ、そう。ですから、そのとき、松本梧朗君、こっそり逃げだしゃよかったんです。それがなまじっか芝居気を出したのがいけなかった。松本があとで告白したところによると、数多い川崎の愛人間における恋の鞘《さや》当《あ》てによる犯行……と、こう思わせたかったんだそうです。と、そういう裏には、はじめのうちは松本梧朗君、川崎先生に罪をきせたくなかったらしい。川崎のおかげで小遣い銭にありついているてまえ、かれが罪に問われることは困るので、そこでとっさに犯人は女性と思わせるために、昌子のもっていたコンパクトのおしろいを顔にぬりたくり、これまたおなじく昌子の赤いレインコートを着用におよんで、フードで頭をかくすと同時に、鼈甲縁の眼鏡でまんまと女になりすました、というわけです」  「そして、いったんそこを逃げだしておいて、あとでまた松本梧朗にかえってようすをうかがいにきたわけですね」  「ええ、そう。これは犯人がよくやる手ですね」  「犯人は後日、かならず犯行の現場へもどってくる……」  「まあ、そういうところでしょうねえ。ところが、ようすを探りにくると、川崎先生が死体をどこかへ始末して、しらん顔の半兵衛で原稿かなんか書いている。いや、書いているかのごときふりをしている。これには松本梧朗も驚きもし、不思議にも思ったが、まあ、なにかと調子をあわせているところへ、立花ヤス子がお巡りさんをつれて引き返してきたというわけです。そこで……」  「ああ、ちょっと待ってください」  と、筆者はあわてて金田一耕助をさえぎると、  「そのとき立花ヤス子はそこにいる松本がさっきの赤いレインコートの女だとは認識できなかったんですか」  「ええ、そう。松本にしても、さっきの女……すなわち、立花ヤス子がまだそこにいても看破される気づかいはないという自信があったからこそ、引きかえしてきたんでしょう。なにしろ、レインコートのフードに鼈甲縁の眼鏡、それのみならず、かなり大きなマスクをかけていたんですからね」  「それにもかかわらず、T紙に出たヤス子と記者との一問一答は……?」  といいかけて、筆者はおのれの愚問に気がついた。犯人というものは、強い自信をもっていても、ああしてハッキリ新聞に書き立てられると、やはり不安を感ずるものなのであろう。  「それじゃ、さいごに浅茅タマヨについて聞かせてください。タマヨはだれに殺されたんですか」  「やっぱり松本ですよ」  「それはどういういきさつで……」  「いや、川崎が逃げだしてからまもなく、タマヨは息を吹きかえしたんですね。ところが、その晩おそく訪ねていった先が、こともあろうに松本のところだったんです。なんといっても、松本が川崎にとってはいちばん古い友達ですからね。そこで川崎のことについて相談にいったんですが、その話を聞いて、松本ははじめて、川崎がなぜ久保田昌子の死体をかくしたかその理由をはっきりしったわけですね。そこで、松本は浅茅タマヨに入れ知恵をした。川崎は君が死んだものと思っているらしいから、しばらく姿をかくして川崎をいじめてやりなさいとかなんとかけしかけて姿をかくさせているうちに、とうとう殺してしまったんですね。もうそのころにゃ、利害関係もへったくれもない。なんとかして川崎を罪に落とすことによってじぶんがまぬがれようと、ただそれ一心だったわけです」  「なるほど」  と、筆者はもういちどこの複雑な事件を頭のなかで整理しながら、  「それにしても、妙な事件ですね」  「いや、まったく」  「それで、川崎はその後どうしました」  「浅茅タマヨの殺されたのが久保田昌子より二日ほど後らしいということを聞かされて、はじめて安心したんでしょう。すぐ、なにもかもベラベラしゃべりましたよ。いや、まったく妙な事件でしたね。あっはっは!」 柩《ひつぎ》の中の女 壺《つぼ》をもつ女 一  上野の美術館の裏門からはいっていった赤星運送店の店員白井啓吉は、受付らしいところをのぞいて、  「もしもし、ちょっとお尋ねいたしますが、落選作品を受け取るのはこちらですか」  と、二、三度おなじことばをくりかえしたが、だれもこちらをふりかえってくれるものはいない。それでいて、むこうのほうにはおおぜいひとがいて、てんやわんやとやっているのだが、あまりいそがしすぎるのか、運送店の店員などにかまいつけてくれるものはだれもいなかった。  「もしもし、ちょっとお尋ねいたしますが……」  と、白井啓吉はおなじことばをくりかえしながら、それにしてもこいつは見ものだとばかりに、きょろきょろあたりを見まわしている。  毎年春にさきがけて開催される春興美術展の招待日を一両日ののちにひかえて、館内が戦場——といってはおおげさだが、それに似たふんいきにつつまれているのが、裏口の受付の外に立っていてもわかるのである。  審査員らしい先生がたが出たり入ったり、ときどき大声で怒鳴る声がきこえたり、そうかと思うと、すぐむこうのドアのおくを、大きな額ぶちや、あるいは等身大の人形のようなものをかついで、えっちらおっちら通りすぎたり……ほら、まただれかが怒鳴りつけられている。  それはいいとして、受付のすぐ周辺にある作品だ。絵画だの彫刻だのが、雑然、乱然とならんでいるのだが、いそがしそうに出入りする先生がたも、それらの作品には一顧もあたえない。まるで路傍の石みたいに完全に無視されている。  「あれ、みんな古垣先生とおんなじで、落っこっちゃった連中なんだな」  そういえば、さっき裏門からみずから大八車に作品をつんでえっちらおっちらとかえっていく長髪の画家のたまごらしいすがたも見受けられた。  白井店員はいささか笑止らしいかんじもしたが、しかし、いまはそんなことをいってる場合ではない。  「ああ、もしもし、受付のひと、だれもいないんですか。こちら、西荻窪の古垣敏雄先生の使いのもんですが……」  ちょうどそのとき、どういうものか受付がからっぽになっていて、いくら呼んでも叫んでもいっこう応答がなかったので、とうとう業をにやした白井啓吉が、もういちど、  「もしもし、こちら古垣敏雄先生の使いのもんですが……」  と、やけに大声を張りあげたとき、  「なあんだ、古垣君の使いかい」  うしろのほうで声がしたので、びっくりして振り返ってみると、長髪にベレー帽をかぶった男が、大きな黒眼鏡のおくからこちらをみている。ほおからあごから鍾《しよう》馗《き》様みたいにひげをはやした男である。いま裏口からはいってきたばかりらしいのだが、白井啓吉は渡りに舟と、  「ええ、ぼく、古垣先生に頼まれて、落っこっちゃった人形を受け取りにきたんですけど、いくら呼んでも返事がないんで弱ってるんです」  「ああ、運送屋だな。どれどれ、おれが見てやろう。受付番号もってるかい」  「ええ、これなんですけれど……」  「古垣君のはたしか塑《そ》像《ぞう》だったね」  「なんだかしりませんが、女が壺《つぼ》かなんか頭のうえにのっけてる石《せつ》膏《こう》人《にん》形《ぎよう》だって話です。うちの親方が搬入したんですけれど……」  「ああ、そうか。どれどれ」  と、黒眼鏡の男は受付番号をもってそこらにならんでいる作品のあいだを探しながら、  「君は古垣君と懇意なの」  「いえ、ぼくはつい最近、赤星運送店へきたばかりですから……でも、うちの親方の話によると、あの先生どこへ出しても通ったためしがないんだそうで……」  「あっはっは、古垣君はそんなにあちこちに出品するのかい」  「そうだって話です。ですから、うちの親方なんかもいってます。へたな鉄砲も数撃ちゃ当たるって。あの先生だってそのうちに日の目をみることなきにしもあらずだって」  「あっはっは、そんなこといってると、おとくいを一軒しくじるぜ」  「いやあ、いまのは内緒。だけど、あの先生、ほんとにゲイジュツにいそしんでんのかな。それとも、女のオッパイやおケツが触りたいんであんなしょうばいしてんじゃないかなんて、うちの権ちゃんなんかいってまさあ」  「権ちゃんてだれだい」  「いえ、ぼくの先輩、おなじ赤星運送店の店員ですけれど……古垣先生たら、しょっちゅうモデルと問題をおこして、とうとうこないだ奥さんに逃げられちまったんですって……」  「あっはっは、赤星君、君はけさなにを食ってきたんだい。いやに舌がまわるじゃないか。あっはっは、それにしても、古垣君の作品は……?」  と、黒眼鏡の男はあちこち探していたが、  「ああ、あった、あった。なあんだ、もうこんなところに持ち出してあるじゃないか」  と、探しあてた作品は、裏口のドアのかげの薄暗いところに裸のままで立っていた。 二  それは等身大の塑像で、なるほど髪をうしろへ垂らした裸婦が頭のうえに壺のようなものをささげている。左脚をちょっとまげてはいるものの、ほとんど直立不動の姿勢だから、見上げるばかりの巨大な作品である。  「あれ、古垣先生のつくったものにしちゃ、わりによく出来てるじゃありませんか。ぼく、もっとへたくそなんだと思ってたけど……」  「あっはっは、古垣君にそういっておやり、よろこぶだろうぜ。少なくともひとりは賛美者があらわれたってな」  「だけど、先生、ほんとにこれ、よう出来てると思うんですがね。これでもいけないんですかね」  「ちかごろはね、まっとうな作品はだめなんだとさ。月並みてえわけだな。なにがなんだかわけのわからんのがいいんだよ」  「そうそう、そういえば、絵でもこんな人形みたいなやつでも、わけのわからんのがたくさんありますな。指だけみたいなんがあるかと思うと、目がひとつきゃねえ顔みたいなもんがあったり……あんなの、ぼくなんかにはちっともわかりませんが……」  「あっはっは、赤星君、君の美術批評はいずれまたきくとして、そろそろこいつを運んだらどうだね」  「そうそう。だけど、弱ったな。こんなでっけえもん、ひとりで運べとは殺生ですぜ」  「くるまはもってきてるんだろう」  「へえ。そりゃくるまは持ってきてますが、くるままで運ぶのがたいへんでさあ」  「やれやれ、そですりあうも他生の縁っていうから、それじゃおれが手伝ってやろう」  「先生は古垣先生のお知り合いですか」  「ああ、多少な……」  どういう知り合いだかわからないが、白井啓吉が中型トラックにつんできた大きな木箱をおろす手伝いからしてくれた。  「これはまたやけに大きな箱をつんできたじゃないか。こんなかへあの塑像をつめこむのかい」  「へえ、古垣先生のご注文だそうで」  「それじゃ、まるでお葬式だね。まるで、これ棺《かん》桶《おけ》みたいじゃないか」  「縁起のわるいこといわねえでくださいよ」  「あっはっは、お葬式にゃちがいないさ。落選してやみからやみへと葬られる作品だからな。やれやれ、かわいそうに」  白井啓吉があとから述懐するところによると、黒眼鏡の男がそのとき、やれやれ、かわいそうに、とつぶやいた言葉には、いやに実感がこもっていたそうで、それを思いだすたびに、かれはゾーッと全身にあわだつのをおぼえるのである。  それはさておき、そんなむだ口をたたきながら、用意の布で『壺をもつ女』をぐるぐる巻きにすると、棺桶みたいな大きな木箱につめこんで、トラックへつみこんだのが三月十八日の午後一時過ぎ。  「やあ、先生、ありがとうございました。それで、お名前は……?」  「名前なんかどうでもいいよ。鍾馗さんみたいなひげを生やした男といえば、古垣君にもわかるだろうよ」  「ああ、そう。それじゃ先生にそう申し上げておきます」  と、白井啓吉はそのままトラックを運転して上野の美術館をはなれたが、かれはまっすぐに西荻窪へかえったであろうか。  いやいや、そうではなかった。  それから約一時間ののち、丸の内の警視庁へのりつけた白井啓吉は、まるで幽霊に出会ってきた男のように、くちびるまで血の気をうしなった顔色で、  「た、たいへんです。ひ、ひと殺し……」  と、受付にむかってひとこといったきり、まるで骨をぬかれたようにくたくたとその場にへたばってしまった。 三  「あっ、金田一さん、ちょっと」  いましも用件をすませて、警視庁の捜査一課、第五調べ室を出ようとしていた金田一耕助は、卓上電話に出ていた等々力警部から鋭い声で呼びとめられた。  「えっ!」  と、金田一耕助が立ちどまると、等々力警部はなおふたことみこと電話にむかって話していたが、  「よし、いますぐいく」  と、ガチャンと受話器をそこへおくと、  「金田一さん、ムクドリがむこうからとびこんできたらしいですぜ」  「ムクドリがむこうからとびこんできたとは……?」  「トラックが他殺死体らしきものを運びこんできたそうです。いま表にいるそうですから、いってみようじゃありませんか」  「トラックが他殺死体をはこびこんできたあ……?」  金田一耕助がれいによって目をしょぼしょぼさせながら等々力警部のあとについて警視庁の表玄関へ出てみると、車寄せにトラックが一台とまっていて、そのまわりをはや野次馬がいっぱい取りまいている。  「やあ、警部さん、金田一先生もごいっしょですか。春にさきがけて、とんだ事件がまいこんできましたぜ」  と、野次馬のなかから出てきた顔なじみの新井刑事も、緊張の面持で目を血走らせている。  「新井君、他殺死体らしきものとは……?」  「あれです。金田一先生、いかにもあなたのお好みにかないそうな事件ですぜ」  みると、中型トラックのうえに棺桶みたいな大きな木箱がのっかっている。その木箱はどうしたのか一部分ひどく破損していて、パッキングのあいだから布くずみたいなものがはみ出していた。  金田一耕助が等々力警部のあとについてトラックのうえへのぼってみると、棺桶のあいだからのぞいた布くずがぶきみな粘液でじっとりとぬれている。  等々力警部がその布くずをかきわけたとき、金田一耕助はおもわずぎょっと息をのんだ。  全体からみると、その箱のなかにおさまっているのは等身大の石膏像らしいのだが、木箱が破損したとたんその石膏像の一部がこわれたらしく、その下からのぞいているのは、あきらかに人間……それも、女の肉体の一部分らしかった。  「金田一先生……」  と、等々力警部も息をのむような声で、  「女を石膏づめにしておいたんですね」  金田一耕助が無言のままうなずくのをみて、等々力警部はあたりを見まわした。  「ああ、新井君、このトラックを運転してきたのは……?」  「ええ、むこうにいます。逃げないように望月君に監視してもらっていますが、まるでもうすっかり興奮してしまって……」  「ああ、そう。それじゃ、さっそくこの箱を鑑識のほうへ運んで、よく調べてもらってくれたまえ。いや、そのまえに石膏像の写真をとっておくことを忘れないように。金田一先生、それじゃひとつ、運転手の話をきいてみようじゃありませんか」  ふたりが第五調べ室へかえってくるとまもなく、望月刑事が白井啓吉をつれてきた。  新井刑事もいったとおり、まだわかい白井啓吉は思いがけない事件にまきこまれて一種の精神錯乱におちいっているのか、まるでキツネ憑《つ》きみたいな目つきをしている。  等々力警部の質問を待つまでもなく、啓吉はべらべらしゃべりはじめた。  じぶんは西荻窪の駅前にある赤星運送店に勤務している白井啓吉というものであること。きのうおなじ西荻窪の住人、古垣敏雄なる人物から、上野の美術館へ落選作品を受け取りにいくことを依嘱されたこと。そこで、古垣敏雄氏からことずかった木箱をもって、きょう上野の美術館へ出向いていったこと。  「それで、あの人形を受け取って、新宿のガード下までさしかかったんです。そしたら、そのときむこうから大型トラックが猛烈な勢いでやってきたもんですから、それをよけようとしたはずみに、ハンドルをきりそこなって、ガードの壁にトラックをぶっつけたんです。そしたら、あいにく後部の枠《わく》がうまくはまっていなかったとみえて、あの木箱がトラックからすべり落ちましたんで……」  「ふむ、ふむ、なるほど。そのとき、あの箱が破損したんだね」  「へえ、そうなんです。そのとき、ぼく、しまったと思ったんです。こわれもんだから、くれぐれも注意するようにって親方からいわれてたもんですから……それで、箱のこわれめから手をつっこんでなかを調べると、なにやらにちゃっとするもんが手についたでしょう。そいで、へんに思って布をかきのけてみると……」  「ふむ、ふむ。それで、君はまっすぐにここへきたのかね」  「へえ、ぼく、もうすっかりおったまげてしまって……うっかりあんなもん持っていって、どんなめにあうかと思うと怖くなって、それでいろいろ思案のすえ、こっちへやってきたんです」 四  「えっ、なんですって? ぼくの作った石膏像のなかに女の死体が塗りこめられているんですって?」  と、もうかれこれ午後四時だというのに、窓も雨戸もしめきって、いままで女と寝ていたらしい古垣敏雄は、新井刑事から話をきくといまにも目玉がとびだしそうな顔をして、  「そ、そ、そんなバカな……いえ、あの、それは、たしかにきのう赤星のほうへ、上野へいってぼくの作品を受け取ってくれるように依頼しときましたよ。しかし、そのなかに女の死体が塗りこめられているなんて、そ、そんなバカな……」  古垣敏雄というのは三十七、八、色の青黒い神経質そうな人物で、どんより濁った双のひとみといい、その年ごろに似合わぬ膚の色の悪さといい、どこかに病気でももっているのか、それとも不健全な生活がそうさせるのか、いかにも病的なかんじの強い人物である。  古垣のそばには二十前後のどこかコケティッシュなかんじのするわかい女がついているが、このほうも新井刑事の話をきくと目をまるくして、半信半疑の顔色である。  「いや、とにかく、うそかほんとかわたしといっしょに警視庁まできてくれませんか。そうそう、先生の作品というのは、裸の女が頭のうえに壺をささげているポーズでしたね」  「ええ、それはたしかにそうだが……」  「それで、あの、刑事さん、そのなかに塗りこめられている女って、いったいどんなひとですの」  と、そばから尋ねる女の語気はなんだかこの事件を面白がっているようでもあり、その目は好奇心をかくしきれなかった。  「古垣さん、このご婦人は……? 奥さんですか」  「いや、これは江波ミヨ子といってモデルなんですが……」  「ああ、そう、ところが、江波君、まだ石膏はぜんぶ落としてないんですよ。下半身だけ落として、なかに人間……女がいるにちがいないってことをたしかめて、こちらへお伺いしたんです。上半身は古垣さん立ち会いのうえで……ということになってるんですがね」  「それじゃ、そのなかに女がいるってことはもう間違いがないのね」  と、ミヨ子はいよいよ好奇心がうごくらしく、いやにあどけない口のききかたで、  「ねえ、先生、そんなバカな話ありっこないってことはあたしが保証するわ。だって、あの『壺をもつ女』はあたしがモデルなんですものね。でも、先生、これからちょっといってみない? 刑事さん、あたしがいっちゃいけません?」  「さあ、どうぞ、どうぞ。あんたがモデルだとすると、ちょうどいい証人だから、ぜひいっしょにきてください」  それから約半時間ののち、警視庁へ到着したとき、古垣敏雄と江波ミヨ子も緊張していたが、かれらがくると電話できいて待っていた等々力警部や金田一耕助、その他の係官も、緊張に顔をこわばらせていた。  石膏像のおいてある鑑識のほうへはいっていくと、問題の『壺をもつ女』の下半身は黒い布でおおってあった。  「これなんですがね。これ、たしかにあなたがお作りになったものにちがいないでしょうねえ」  『壺を持つ女』は、頭のうえに壺をのっけて、左手で壺をかかえているが、そのひじのところが少しいたんで、そこからなまなましい人間の膚がのぞいている。  江波ミヨ子は恐れげもなくこの石膏像を見つめていたが、とつぜん、強い声で叫んだ。  「ちがうわ! これ、先生が作った『壺をもつ女』じゃないわ!」  ミヨ子の声があまり確信にみちていたので、一同はぎょっと顔見合わせたが、  「ちがうって、どこが……?」  と、等々力警部もちょっととまどいした顔色である。  「だって、あたしがモデルになった『壺をもつ女』は、右手で壺をもってたのよう。だのに、これ左手でもってるじゃないの。だけど、ふしぎねえ。そのほかはそっくりだわねえ」  一同はまた顔を見合わせたが、そのとき柿崎捜査一課長がきっぱりといった。  「どうだね。ここで上半身も石膏をとってしまって、ついでになかの女の顔をこのおふたりに見ていただこうじゃないか」  だれもそれに反対するものはなく、あらためて上半身の石膏が落とされていったが、やがてぶきみな顔があらわれたとき、古垣敏雄も江波ミヨ子もぎょっとしたように両手をかたく握りしめた。  「どうです。古垣さん、あなた、こういう婦人をご存じじゃありませんか」  と、柿崎捜査一課長はふたりの顔色をみくらべながら、  「ああ、おふたりともご存じなんですね。ミヨ子君、これだれ……?」  「せ、先生の奥さん……」  「えっ、古垣先生の奥さん……?」  と、一同はまたぎょっと顔見合わせる。  「そ、そ、そうです、そうです。それ、先月わかれたわたしの妻の和子……」  と、古垣敏雄はまるでのどをしめつけられるような声である。  そのとたん、ミヨ子が気ちがいのような声を立ててわめきはじめた。  「森先生よ、これ。きっと、森先生のしわざよ。あたし、こんなことになるんじゃないかと思ってたのよう。あたし、しらない、あたし、しらないわよう!」  と、まるでこどもがだだをこねるようにじだんだをふんで叫んでいたが、だしぬけにひとみがくるりと回転したかと思うと、  「危ない!」  とさけんでそばへかけよった新井刑事の腕のなかに倒れかかって、そのままぐったりと気をうしなってしまった。  「古垣先生、いまそのひとがいった森先生というのは……?」  「ああ、いや、まさか……」  と、古垣敏雄は額からしたたりおちる汗をぬぐいながら、  「いまのはミヨ子の間違いですよ。森君がまさか……森君がそんな……」  「古垣先生、森先生というのは……?」  と、もういちど等々力警部がおなじことばをくりかえして念をおした。  「はあ、あの……森君というのは……」  と、古垣敏雄はペロリとかわいたくちびるを舌でなめると、  「ぼくの旧友なんですが、先月ぼくが家内の和子をゆずった男なんです」 もうひとつの『壺《つぼ》をもつ女』 一  三月十八日午後六時。  金田一耕助はあんまりうまくない仕出し弁当をたいらげたあと、れいによってれいのごとく、眠そうな目をショボショボさせながら、警視庁の捜査一課、第五調べ室のすみにしょんぼりと座っている。  刑事が出たり入ったり、等々力警部が電話でどなりつけたり、ひとしきり戦場のようなさわぎがあったあとで、いま、警部の機関銃のような質問と、古垣敏雄の妙に煮えきらない応答が、のらりくらりと展開されている。  「すると、その森君……森、なんというんですか」  「森富士郎というんです」  「あなたとの関係は……?」  「関係といいますと……?」  「いや、どういうお付き合いなんです? いつごろからのお知り合いなんです?」  「ああ、そのこと……」  と、古垣敏雄は気のない調子で、  「美校以来の付き合いですがね」  「すると、やっぱりあなたとおなじ美術家なんですね」  「ええ、そう」  「それで、あなたが奥さんを譲られたというのは……?」  「先月のことです。先月の終わりでしたね」  「いや、その、譲られたいきさつというのをおききしているんですが……」  「ああ、そのこと……」  と、古垣はあいかわらず生気のない語気で、  「それは、つまり、和子が森君のほうがよくなったからです」  「円満裏に奥さんを譲り渡されたんですか」  「それはもちろん」  「あなたは奥さんに未練はなかったんですか」  「さあ、それは……」  「さあ、それは……とおっしゃるのは、未練があったと解釈してもよろしいか」  「それは、多少は……ね」  「それで、さっきモデルの江波ミヨ子君の口走ったことばをなんと解釈したらいいんでしょうね」  「江波の口走ったことばというと……?」  「ほら、森先生よ、これ、きっと森先生のしわざよ、あたし、こんなことになるんじゃないかと思ってたのよう、あたし、しらない、あたし、しらないわよう……と叫んだことば……」  「それは、おそらく江波のヒステリーの結果でしょう」  「古垣さん」  さっきからじりじりしていた等々力警部は、とつぜん鋭い語気できめつけた。  「あなた、もう少し捜査に協力的な態度をとってくださいませんか。江波ミヨ子はあれを森先生のしわざだといっている。しかも、こんなことになるんじゃないかと思ってた……つまり、ああいう悲劇、惨劇を予期していたような口ぶりでしたね。それに、あたし、しらない、しらないわよう……というのは、裏を返せば、じぶんになんらかの責任があるのを回避したいという気持ちのあらわれじゃないでしょうかねえ。いずれにしても、それをあなたがご存じないはずがない。その点、もっとはっきりおっしゃってくださいませんか」  古垣敏雄はしばらくだまっていたのちに、  「江波が手伝ったんですよ」  と、投げ出すような調子である。  「江波が手伝ったあ……? 殺人を……?」  「いやいや、そうじゃない。つまり、その、なんなんです。森が和子を酒で盛りつぶしたんですな。そのうえ、和子を犯したんです。それを江波が手伝ったんです。森の目的をしっていて、和子を盛りつぶすのをね」  等々力警部ははっと金田一耕助と顔見合わせると、しばらく無言のままあいての顔を凝視していたが、  「すると、森富士郎というのは、そういう理不尽な人物なんですか」  「いや、理不尽というのでは……」  「しかし、友人の細君を盛りつぶして犯すというのは……」  「いや、つまり、森というのは英雄なんです。行くとして可ならざるはなき秀才、天才なんですな。欲しいものはなんでも手にいれる。どんな手段をつくしてでも……つまり、ぼくみたいな無能無才の人間からみれば、モラルを超越してる男なんですね」  「それで……奥さんを譲られたんですか。友人にけがされた不潔さゆえに……」  「いや、そうともいえませんね」  「そうともいえないとは……?」  「いや、つまり、女というものはそういう思いきったことをする男が好きになるんです。一種の英雄崇拝主義ですな」  「しかし、ミヨ子君のいった、こんなことになるんじゃないかと思ってたというのは……?」  「さあ、それは……江波にきいてみなければわかりませんが、たぶん長つづきしないんじゃないかと思ってたんじゃないでしょうか。森というのは英雄ですから、欲するものはなんでも手にいれる。したがって、執着というものが薄い。そこへもってきて、和子がすこしほれすぎたというところじゃないでしょうかねえ」  「すると、やっぱりあなたも森氏のしわざだというお考えなんですね」  「いやいや、ミヨ子がそう考えてるんじゃないかということです。ぼくはいっさい白紙です。あなたがたにいっさいおまかせしますよ」  およそ冷淡なその態度に、等々力警部はあきれかえってあいての顔をにらんでいたが、そこへどやどや入り乱れた足音とともに搬入されたのはもうひとつの『壺をもつ女』である。なるほど、これは右手で壺をもっている。  「警部さん、ありましたよ、美術館にこれが……」  古垣敏雄はちらとその作品に目をやると、  「ああ、それがぼくの作ったケッサクですよ。あっはっは」  と、うつろにかわいた笑い声である。 二  森富士郎。年齢三十六歳。身長五尺四寸弱。体重十四貫。色白で柔和な面持ち。つのぶちの眼鏡をかけ、頭は無造作なオールバック、ただし長髪にはあらず。つねにルパシカ様の特別仕立ての上着を一着……。  と、そういう記事が写真とともに東京都下の各新聞に掲載されたのは、三月二十一日の朝刊以降であった。  ということは森富士郎の失《しつ》踪《そう》が決定的となったことを意味している。  森富士郎は帝都沿線の久我山にアトリエをもっていた。家族は、古垣敏雄から略奪した和子と、池田アイ子というばあやの三人きり。森は、三月十三日の夕方、東京駅からだと称して、池田アイ子に電話をかけてきたきり消息不明になっている。三月十三日というのは、春興美術展の出品作の最後の受付日である。電話の内容は、当分旅行するから家へはかえらないということであったそうな。  和子が久我山の家からみえなくなったのはその前日の三月十二日以来のことだが、彼女がいつ家を出たのか、池田アイ子もしらぬという。  電話の内容ではふたりで旅行するとはいわなかったが、池田アイ子は当然そうであろうときめてかかって、和子の失踪をべつに気にもとめていなかったという。  「先生は……」  と、池田アイ子が出張した刑事にたいして答えたところによると、  「お仕事をするところをひとに見られるのがおきらいなかたですから、あたしはめったにアトリエをのぞいたことはございません。お掃除などもごじぶんでなさいますし……といって、一週間に一度か、十日に一度くらいでございますが……それですから、あのアトリエのなかでどういう作品をおつくりになっていたか存じません」  森が召し使いのアトリエへはいることを好まなかったのは、制作の尊厳をたもとうとしていたこともその理由のひとつであろうが、それとはべつに、女関係のだらしなさ、無軌道さをのぞかれるのを好まなかったということも、重大な理由であるらしい。  アトリエのなかにはカーテンで仕切った閨《けい》房《ぼう》がしつらえてあって、そこにダブル・ベッドがそなえつけられていた。  江波ミヨ子の申し立てによると、和子が酒に盛りつぶされて森に犯されたのもそのダブル・ベッドで、そのときミヨ子はカーテンの外でほかの女と酒をのんでいたという。むろん、カーテンの外にいたふたりの女も、森と情交があったらしい。  「そうですねえ、和子さんとの仲はべつにこれといって……」  と、池田アイ子はあいまいな調子で、  「まあ、可もなし不可もなしといったところでしょうか。いったいに先生というかたは、ご婦人にたいしてとくに執着心というものがおありでないようでした。わたしはあしかけ八年このお宅につかえておりますが、正式に奥さんをおもちになったのは一度きりで、それも半年くらいしかつづきませんでした。ええ、そのとき、このお宅とアトリエをお建てになって、わたしがやとわれてきたんですの。その最初の奥さんでこりごりしたとおっしゃって、二度と結婚しようとはなさいませんでした。ええ、それはときどき奥さんらしきかたがむこうから押しかけていらっしゃいますが、まあ、三月とはつづかないのがふつうでした。先生はご婦人のほうからのぼせていらっしゃると、いやになる……つまり、うるさくなるらしいんです。それは世間さまからみるとずいぶん無軌道とおもわれますでしょうが、先生というかたをよくしってみると、なんだかあたりまえのことのようで……なにしろ、お若いときから天才の評判のたかかったかただそうですから、やはり、こう、孤独なところがおありでしたわねえ」  森富士郎が天才といわれたのは美校在学中以来だそうで、かれは春興美術の重要メンバーであり、彫刻もやれば絵もかいた。また、詩壇でもわかい世代に多くのファンをもっていたという。  さて、問題の『壺をもつ女』だが、受付を調べても、審査員の意見をきいても、おなじような作品が二点も搬入された形跡はなかった。  審査員の先生は七人いたが、そのなかの三人までが、じぶんたちの審査したのはたしかに右手で壺をもっていたと記憶していた。ほかの四人の先生がたは、右手だったか左手だったか記憶がないというのである。そして、古垣敏雄の作品なら、三月十二日、すなわち和子が失踪したとおなじ日に搬入されているのである。  してみると、あの死体のはいっていた問題の『壺をもつ女』は、三月十八日のどさくさまぎれに美術館の裏口からもちこまれたものらしい。しかも、赤星運送店の白井啓吉にあの塑像をさがしだしてわたした鍾馗ひげの人物だが、春興美術の関係者のなかにそのような風貌をもつ人物は見当たらなかった。  いまどき野球の応援団の団長じゃあるまいし、そんなヤボな人物はここのメンバーにはいませんよと、調査にいった係員は協会の幹部に冷笑された。とすると、その怪しげな風貌の男が問題の『壺をもつ女』をあの日のどさくさまぎれにもちこんでおき、それを赤星運送店の店員にわたしたということになりそうだが、それではそいつは何者だろう。  大きな黒眼鏡に鍾馗ひげといえば変装におあつらえむきの小道具だが、それだけに、それはだれにでもあてはまる。白井啓吉の記憶によると、黒眼鏡と鍾馗ひげという以外には、中肉中背で、いたって快《かい》活《かつ》磊《らい》落《らく》な話しっぷりというのが印象に残っていた。そして、快活磊落な話しっぷりというのは、森富士郎に共通していた。  しかし、そうかといって、森の写真に黒眼鏡をかけ、鍾馗ひげをはやしてみせても、白井啓吉ははっきりそれとはいいかねた。  「似ているような気もしますが……ほんの五分か十分のことですし、それにそんなに注意して顔を見たわけではありませんから……」  と、責任を回避するような返答だった。  さて、和子の死体だが、解剖の結果、死因は絞殺、そして、絞殺された時日はだいたい三月十二日ごろと推定された。すなわち、彼女は失踪したと信じられているその日あたりに殺害されているのである。  なお、古垣と森の交友は、和子の譲渡事件があったのちも以前とかわらずつづけられており、森はしばしば古垣のアトリエを訪問しているから、古垣敏雄がどのような制作をしていたかよくしっており、またモデルの江波ミヨ子も両者のあいだを往来していたから、彼女の口からも制作の進行状態を森はつねにしりうる便宜をもっていたのである。 三  三月二十五日。  森富士郎の消息はその後も依然としてつかめない。  三月十三日の正午ごろ久我山の家を出て、その夕方池田アイ子に旅行をすると電話をかけてきているが、はたしてその電話のぬしが森じしんであったかどうかも確証はなかった。ごくみじかい電話だったし、それにいやにガアガア雑音がはいっていたので、先生とハッキリいいきる自信はないと、池田アイ子もいっている。  しかし、十八日に上野の美術館へあらわれた鐘馗ひげの男が森富士郎だったとしたら、かれは失踪後数日はまだこの東京にいたわけである。  「やあ、そこへいくの江波ミヨ子さんじゃない?」  西荻窪で省線電車をおりた江波ミヨ子は、だしぬけにうしろから声をかけられてふりかえると、見おぼえのある等々力警部と、もじゃもじゃ頭の和服に袴《はかま》をはいた小男がならんで歩いてくるところだった。声をかけたのはもじゃもじゃ頭の小男のほうで、いやになれなれしくわらっている。等々力警部は平服であった。  「あら、警部さん、このあいだは……」  と、江波ミヨ子は薄気味悪そうに金田一耕助のほうを見ながら、それでも警部にたいしてはあいきょうをわすれない。  「ミヨ子さん、これから古垣先生のところへいくところ……?」  金田一耕助はあいての黙殺にたいしていっこう平気で、あいかわらずにこにこ笑っている。  「ええ」  と、あいてが警部といっしょなのであんまり黙殺もできないと思ったのか、無愛想ながらも返事だけはする。  「ミヨ子さん、こないだね、ほら、三月十八日のことさ。あの死《し》骸《がい》が発見された日ね」  「ええ」  「あの日、あんた何時ごろに古垣さんとこへいったの」  「三時ごろ」  「まえから約束があったの?」  「ええ」  「三時に来るようにって?」  「そう」  「それで、君がいったとき、先生なにをしてた? 寝てたの?」  「ううん、起きてたわ」  「起きて、なにしてた?」  「家具を塗りかえるんだって、ニスを塗ってたわ」  「ニスを塗ってたあ?」  と、金田一耕助は目をまるくして、  「まさか、そんな……あの先生、とても無精ったらしいじゃないか」  「あら、ほんとよ。そりゃ、あの先生、無精もんよ。横のものをたてにするのもきらいな性よ。それだのに、いやに殊勝な心がけを起こしてニス塗りなんかやったもんだから、体中ニス臭くなってたわよ」  「あっはっは、そいつはいい」  と、金田一耕助はどうしたのか、いやにうれしそうに笑っている。  「江波君」  と、こんどは等々力警部が声をかけて、  「森富士郎から連絡はないかね」  「ありません。あのひとどこかで自殺したんじゃないかって、みんなでいってるんです」  「自殺でもしそうな男かね」  「さあ……でも、あんなことやっちまっちゃあねえ」  「ミヨ子さん、森氏はどうしてあんなことやったんでしょうねえ。和子というひとを殺すのはいいとして、それを石膏づめにして以前のだんなさまに送りとどけるなんて……」  「わからないわ。でも、天才は狂人と紙一重というじゃないの」  「そういってしまえばそれまでだが……それはそうと、古垣先生はあの『壺をもつ女』をどうしました」  「いまでもアトリエのすみにかざってあるわ。未練たらしく……あんなものたたきこわしてしまえばいいのに……」  「あっはっは、そんな残酷なことをいっちゃいけません。じぶんの作品に愛着をもつのは芸術家の良心ですからね」  「芸術家の良心かもしれないけれど、いまさらあちこち手を入れるなんておかしくって」  「それ、それ、それこそ芸術家の良心というもんですよ」  それから数分ののち、三人は古垣敏雄の玄関に立っていた。  さすがに古垣も等々力警部の顔を見るとぎょっとしたような顔色だったが、  「ああ、このあいだの警部さんですね。なにかまたご用でも……?」  と、れいによって気のない応対である。  等々力警部はどうあいさつをしようかととまどいしたふうだったが、すかさず横からことばをはさんだのは金田一耕助である。  「いえね、古垣さん」  と、いたってなれなれしい呼びかけかたで、  「きょうはひとつもういちどあなたの傑作を拝見しようと思いましてね」  「わたしの傑作というと……?」  「ほら、あの『壺をもつ女』ですよ」  「『壺をもつ女』がどうかしたというんですか」  「いえさ、『壺をもつ女』のなかに、『壺をもつ男』が失踪してるんじゃないかと思ってね」  これで勝負はきまったのである。 四  「いや、動機は痴情じゃなかったんです」  と、れいによってれいのごとく、金田一耕助の絵解きである。  「それよりももっと高遠なもの、すなわち、芸術家の嫉《しつ》妬《と》だったんですね」  「とすると、森を殺すのが目的だったんですか」  というこの記録の記述者の質問にたいして、  「ええ、そう」  と、金田一耕助はいつもこういうときにみせるゆううつそうな暗い目をして、  「しかし、森を殺したんじゃすぐじぶんに疑いがかかってくる。和子を奪われた直後だけにね。そこで、森が和子を殺して失踪したというふうに見せかけようとしたんですね」  「そして、森の死骸は古垣がつくった『壺をもつ女』のなかにはいっていたんですか」  「ええ、そう」  「だって、それは不可能じゃありませんか」  「どうして?」  「だって、古垣が作品を搬入したのは三月十二日、しかも、その翌日まで森は生きていたじゃありませんか」  「あっはっは」  と、金田一耕助はかわいた笑い声をあげると、  「そこが古垣のつけめなんですよ。三月十八日までは、だれも森のゆくえを追及するものはありませんね。まだ事件が明るみに出ないんだから。だから、死体をじぶんのアトリエの押し入れのなかへかくして平気でいられたんです。ところが、三月十八日に事件が明るみへ出ると同時に、論理的に古垣の死体のはいっているはずのない『壺をもつ女』がじぶんの手もとにかえってくる。そこで、その晩かえってきた『壺をもつ女』をこわして、それとそっくりおなじ『壺をもつ男』をこさえておいたというわけです」  この事件の記録者は、おもわず大きく目をみはった。  「そうすると、『壺をもつ女』は三つあったというわけですか」  「ええ、そう」  「ところで、鍾馗ひげの男というのは……?」  「もちろん古垣ですよ。三月十八日の午後三時ごろミヨ子が訪ねていったとき、古垣がニスを塗っていたというのが、それを証明してるじゃありませんか」  「というと……?」  「つけひげはニスでつける場合がありますね。だから、ひげをとったあとニスのにおいが残るといけない。どうせミヨ子と接《せつ》吻《ぷん》やなんかいろいろとやるでしょうからね。だから、柄にもなくニス塗りに精を出して、体中ニスのにおいだらけにしておいたというわけです」 鞄《カバン》の中の女 人形の殺人 一  「ああ、もしもし……金田一先生のおたくでいらっしゃいましょうか……ああ、先生でいらっしゃいますか。どうも失礼申し上げました……はあ、あの、いいえ、こちら、まだ先生にお目にかかったことはないものでございますけれど……はあ、あの、それはかようでございますの……先生、きのうの夕刊をごらんになりまして……? はあ、あの、ほんの小さな記事でございましたけれど……ほら、あの、街を走ってる自動車の後尾トランクから、女の脚がのぞいてたっていう………ええ、ええ、さようでございます……つまり、それで、それを目撃したひとのとどけによって、警視庁でも緊張して、全都に手配りをした……ってところまで、きのうの夕刊に載っておりましたわね……はあ、はあ、さようでございます。ところが……けさの新聞を見ますと、トランクからのぞいていたのは、脚は脚でも石《せつ》膏《こう》像《ぞう》……つまり人形の脚だったってことで、けりがついておりますでしょう……はあ、はあ、さようでございます。ところが、あたくし、その件について、とても心配なことがございまして……と申しますのは、あたくし、その自動車を運転しておりました片桐ってかたを存じ上げておりますの。それに……いえ、あの、とても電話では申し上げかねるんでございますが、これから先生のところへお伺いしたいんですが、いかがでございましょうか……ああ、そう、ありがとうございます。先生のおたくは、緑ガ丘のどのへんでございましょうか。緑ガ丘の駅をおりて、進行方向にむかって左側……? ああ、そう。それでは、渋谷からバスでまいりまして、線路よりてまえでございますわね……緑ガ丘荘と聞けばすぐわかる……? はあ、ありがとうございます。それでは、いまから一時間ほどかかると思いますけれど……ええ、そうでございますわね。五時までにはきっとまいりますから……では、また、のちほど……」  ながいながい電話をきると同時に、テープレコーダーのスイッチをきり、金田一耕助はほっと額の汗をぬぐった。かれははじめての人物から電話がかかるとテープレコーダーに録音することがあるが、こんどの事件ではそれがのちにものをいったのである。  陽春の妙に生暖かいけだるい午後のことである。時計を見ると四時過ぎ。  金田一耕助は受話器をにぎっていた手のひらのねばつくのを気味わるそうにハンカチでゴシゴシぬぐうと、安楽イスにからだをそらして、ふうっというように息を吐いた。  金田一耕助が渋谷からも新宿からもバスや電車で半時間ほどかかるこの郊外の静かな住宅地、緑ガ丘町に引っ越してきたのは、つい最近のことである。  さる知人の世話で、緑ガ丘荘というこのしゃれた高級アパートにかれが落ち着いてから、まだ三〓月とはたっていない。それだけに、ガラスをたくさんつかったこの近代的な建物と、れいによってスズメの巣のようなもじゃもじゃ頭とよれよれの袴《はかま》といういでたちの金田一耕助とでは、なんとなくそぐわぬ感じの強いのもむりはない。  本人もそれを意識しているので、はじめての客があるということになると、いつも妙に照れくさいような落ち着きのないぎごちなさをかんずるのである。  いまもやっぱりそのとおりで、安楽イスにふんぞりかえったまま、やたらにタバコの煙を吹かしていたが、急に思い出したようにぴょこんとイスから立ち上がると、部屋のすみからもってきた新聞のとじ込みをデスクのうえにひろげてのぞきこんだ。  きのうのきょうのことだから、さっきの電話の記事はすぐ見つかった。それはだいたいつぎのような事実である。  きのう、すなわち四月五日の午前九時ごろのことである。神楽坂付近にある三河屋という酒屋の小僧、安井友吉君というのが、自転車にのって御用聞きにまわっているとちゅう、飯田橋付近で自家用車とおぼしい大型のセダンとすれちがったが、なにげなくその後部をみて、おもわずぎょっと息をのんだ。  自動車の後尾トランクのなかから、ヌーッと、白い女の脚がつきだしているのである。その白い女の脚はくつ下もくつもはいていなくて、すれちがった一瞬うけた印象によると、やわらかいうぶ毛が生えていたようにさえ見えたという。  安井友吉君はおもわず大声をあげて叫んだ。と、その声がきこえたのか、運転台から運転手が顔を出してうしろをのぞいたが、安井友吉君が気ちがいのように自動車の後部を指さしているのをみると、急にスピードをはやめて肴町のほうへ消えていった。  安井友吉君はしばらくぼうぜんとして自動車の消えた方向を見送っていた。そこにはうすい茶《ちや》褐《かつ》色《しよく》をした砂煙が舞っているだけで、あたりは人影も見えなかった。  安井友吉君にも、それがほんとの女の脚であったかどうかはたしかでなかった。ひょっとすると人形かなんかだったかもしれなかった。しかし、安井友吉君はわりに空想力にとんだ少年だった。かれは探《たん》偵《てい》小説が好きだったし、新聞の社会面にトランク詰めの死体の記事でも出ようものなら、目をさらのようにして読むほうだった。  自動車の後尾トランクに詰められた裸女の死体……そんなことを考えると、安井友吉君は胸がワクワクするほど興奮するのだ。しかも、じぶんが唯一の目撃者である……。  しかし、そうはいうものの、安井友吉君もいまじぶんが見たものについて、たぶんに半信半疑だった。つまり、十分な確信がなかったのである。それに、かれには御用聞きという用事もあった。  そこで、一時間ほどかかっておとくいさんをひとまわりしてかえってくると、話のついでに、ふとさっき目撃したものについて主人に話した。  三河屋の主人は、さいわい防犯ということについてたいへん熱心だったし、それに、すぐちかくにある交番のお巡りさんとも懇意だった。  そこで、三河屋の主人が安井友吉君をつれて交番へ出頭したことから、俄《が》然《ぜん》、事件が明るみに出て、警視庁では目下その怪自動車のゆくえを追及中である、うんぬん……。  というのがゆうべの夕刊にのっていた記事で、金田一耕助も昨夜これを読んだとき、ちょっと興味をそそられたのだった。  ところが、けさの新聞を見ると、この事件は一編の笑い話として片付けられている。  この怪自動車にはほかにも目撃者があった。しかも、この目撃者は安井友吉君よりも気がきいていて、自動車のバックナンバーを記憶していた。  そのナンバーから調べていくと、自動車の持ち主というのが、阿佐ガ谷に住む彫刻家の片桐梧郎という人物であることがわかった。そこで、すぐに所轄警察から刑事が出向いていくと、片桐梧郎氏は笑って刑事をアトリエへ案内した。そのアトリエには片脚の折れた女の裸身像が壁にむけて立てかけてあった。  片桐梧郎氏の説明によるとこうである。  その裸身像は上野の春の展覧会に出品したものだが、みごと落選したので、きょう受け取りにいってきたものである。大きさからいってちょうど自動車のトランクにおさまったが、ポーズの関係から片脚だけがはみ出す結果になった。  片桐梧郎氏はしかし委細かまわず自動車を走らせていたが、あちこちでひとを驚かせるはめになったので、やむなく片脚を折ってしまったものであると……。  そこで、こんどは上野のほうへ照会してみると、片桐梧郎氏の言葉にまちがいのないことがわかった。  というわけで、このひとさわがせなトランク詰めの死美人事件も、一編の笑い話としてけりがついたのである。 二  それにもかかわらず、いまあの事件について大きな不安におそわれている女がここにひとりいるわけである。金田一耕助はいまの電話の女の声のかくしきれない深刻な不安と恐怖を、左の耳の鼓膜にいたいほど感じたのである。  いったい、あの女はなにをあのように恐れているのであろうか。  そこまで考えてきて、金田一耕助はとつぜん愕《がく》然《ぜん》としたようにがっくりとあごをおとした。  かんじんの電話のぬしの名前を聞きおとしていたことに、いまになって気がついたのである。  こちらが名前を聞いたとき、まだお目にかかったことのないものでございますという答えだった。それに、いずれのちほど訪ねてくるという話だったので、あらためて聞かずにすましてしまったが、用心ぶかい金田一耕助としては、こんなことはめったにないことだった。  (あっはっは、陽気のせいか、おれもよっぽどどうかしている)  金田一耕助は苦笑しながら、それでも思い出したように受話器を取りあげると、警視庁の第五調べ室を呼び出した。  さいわい、等々力警部がいあわせたので、問題の事件を問いあわせると、  「あっはっは、いや、あれはとんだ人騒がせでしたよ」  と、警部も言下に笑殺した。  「いや、もう、きょうの朝刊に載っているのがほんとうです。片桐梧郎という男のきのうの朝の足取りもはっきりしているんです。上野の展覧会から引きとってきた人形の脚にちがいありませんよ」  「しかし、それにしちゃ、警部さん、上野から阿佐ガ谷へかえるのに飯田橋付近をとおるというのは、ちとおかしいじゃありませんか。新聞の記事だけじゃくわしいことはわかりませんが、飯田橋から肴町のほうへ消えたというんじゃ、少し道順がちがうような気がするんです」  「いや、それも理由があるんです。やっこさん、上野からのかえりがけ、江戸川アパートへ立ち寄っているんですよ」  「江戸川アパートへ……?」  「ええ、そう。江戸川アパートに望月エミ子という女がいるんです。なんでも、その女が落選した石膏像のモデルかなんかだったらしい。あるいは、片桐とそれ以上の関係があったのかもしれません。ところが、片桐が訪問したとき、望月エミ子は不在だった。つまり、ひと晩アパートをあけていたんですね。そこで、やっこさん、少なからずふきげんで自動車を走らせているうちに、酒屋の小僧をおどろかせた。そこですっかり業をにやして、ポキンと、せっかくの傑作の脚を折っちまったというわけらしい。あっはっは」  と、等々力警部もこのところ難事件にもぶつからないのか、けさはなかなかのごきげんらしいが、しかし、そのことがどういうわけか、かえって金田一耕助をゆううつにするのである。  やはり、耕助にはさっきの電話の女の妙にうわずった語気が気になっているのである。それと、うかつにも名前を聞いておかなかったということが……。  「だけど、金田一さん、どうかしたんですか。あの事件について、なにかまた……?」  「いやいや、べつに……ただ、ゆうべの夕刊を読んだとき、こいつは面白そうな事件だと思っていたんですが、それがすっかり当てが外れたもんだから……」  「そうやたらに面白そうな事件が頻《ひん》発《ぱつ》されちゃたまりませんよ。ここんところいたって天下泰平、清閑を楽しんでるんですからね」  等々力警部はあくまでもごきげんらしい。  「ところで……」  と、金田一耕助はもうひと押し押してみる。  「片桐梧郎という男ですがね、自家用車をもってるところを見ると、相当の金持ちなんですね」  「そうそう、親の遺産をたんまりもらって、道《どう》楽《らく》三《ざん》昧《まい》に世を送ってる男だそうです。美校を出てることは出てるそうですが、彫刻家なんて世をしのぶ仮の姿で、女の裸を翫《がん》賞《しよう》したいからやってるんだろうって説があるくらいだそうです。変わりもんで、独身で、召し使いもおかず、自炊してるそうですがね」  「ところで、江戸川アパートにいる望月エミ子という女に、どなたかお会いになりましたか」  「いやあ、それはいまもいったとおり、一昨日の晩からアパートを明けているもんだから……」  と、そこまでいってから、等々力警部は急に不安をおぼえたように、  「しかし、金田一さん、どうかしたんですか。あなた、この事件についてなにか……」  「いやいや、べつに……なにかあったらまた連絡しますから……」  等々力警部はまだなにか話したそうだったが、金田一耕助は聞くだけのことを聞いてしまうと、ガチャリと受話器をかけてしまった。 三  約束の五時を一時間すぎて、六時になっても電話の女は現れなかった。  待たされるということは、どんなばあいでもいらだたしいものである。ことに、さっきの電話でたぶんに好奇心をそそられているだけに、金田一耕助はいっそう腹立たしいものをかんじずにはいられなかった。  六時半になっても女はやってこなかった。  だまされたかな。だれかがいたずらにからかってきたのかもしれない……。  ちょっと気負いたっていただけに、金田一耕助は苦笑しながらひとりで夕食を終わったところへ、受付から電話がかかってきた。  「駒《こま》井《い》泰《たい》三《ぞう》さんてかたがいらっしゃいましたが……」  「駒井泰三さん……? しらんねえ。どういうご用件か聞いてみてくれませんか」  しばらく待たせたのち、  「さきほどお電話でご面会のお約束をなすったご婦人のご主人になるかただそうですけれど……」  「ああ、そう。それではすぐにこちらへ……」  金田一耕助はちょっと緊張した目つきになる。  どういうわけか、金田一耕助はさっきの電話のぬしをまだ独身の女だとばかり思いこんでいたのである。結婚している女ならば、当然、主人に相談すべきだという考えがあったのかもしれない。  しかし、どちらにしても、さっきの電話がいたずらでなかったことがわかって、耕助もほっと安《あん》堵《ど》の吐息をついた。いたずらにひっかかって興奮したとあっては、金田一耕助たるもの大いにプライドをきずつけられるわけである。  金田一耕助のフラットは二階にあって、寝室と書斎と応接室の三間になっている。その応接室へはいってきた駒井泰三というのは、三十前後の、とくにこれという特徴のない男だった。  しいていえば、きびしいほおの線をもった、いくらか目つきの鋭い、一見紳士風の人物である。  「やあ、はじめまして……」  と、駒井泰三は金田一耕助の風《ふう》采《さい》をけげんそうにまじまじ見ながら、  「あなたが、あの、金田一先生で……?」  「はあ、さようで。さきほどのお電話、奥さんでしたか」  「はあ、いや、たいへん失礼しました」  と、駒井はちょっととまどいしたような目つきで金田一耕助のスズメの巣のようなもじゃもじゃ頭を見ながら、  「昌子がたわいのないことで騒ぎ立てるものですから……昌子というのが、さきほどお電話したわたしのワイフなんですがね」  「たわいのないこととおっしゃいますと……?」  「いえね、さっきも電話でお話ししていたようですが、あの自動車のトランクのなかからのぞいていた脚……あれはもうあきらかに石膏像の脚にちがいないんです。ところが、昌子はそれにたいして妙な妄《もう》想《そう》をいだいてるんですね」  「妙な妄想とおっしゃると、それがやはりほんものの女の脚ではなかったかと……?」  「そう、そうです、そうです。それというのが、望月のやつが悪いんですね」  「望月さんとおっしゃると……?」  金田一耕助は内心ドキッとしたのをやっと制して顔色には出さなかった。望月といえば、江戸川アパートに住む望月エミ子ではないか。  「はあ、望月エミ子といって、モデルかなんかしてる女の子なんですがね。こいつが昌子の顔に妙な妄想を吹きこんだんですね」  「それはどういう意味で……?」  「つまり、望月がそもそも、いつか兄貴に殺されるんじゃないかという妄想を抱きはじめたんです」  「兄貴とおっしゃいますと……?」  「ほら、新聞に載っておりましたでしょう。あの怪自動車の運転手、片桐梧郎ですね」  「ほほう。すると、あなたと片桐さんとはご兄弟なんですか」  「いや、わたしじゃなく、ワイフの昌子が片桐の妹になるわけです」  金田一耕助はあいての顔を見なおして、  「しかし、望月エミ子さんがなんだってそんな妄想をえがきはじめたんですか」  「いやあ、望月は昌子の学校友達でしてね。これがヌードモデルをはじめたもんだから、昌子が兄貴に周旋したんですね。ところが、いつのまにやら兄貴と関係ができてしまった。ところが、この望月というのが、まあ、そうとうの浮気もんときてるところへ、兄貴というのがおそろしいやきもちやきなんですね。まえにもいちど結婚したことがあるんですが、あまりやきもちがはげしくて、とうとうワイフに逃げられてしまった経験があるんです。やき出すと気ちがいみたいになって手がつけられない。ぶったり、殴ったり、寒中に素っ裸にして水をぶっかけたり……そりゃ正気の沙《さ》汰《た》とは思えないんです。そういう過去があるもんだから、望月なんかも恐れをなして、いつか兄貴に殺されるんじゃないかって……」  「なるほど。それで、奥さんはきょうの新聞をごらんになって、きのう自動車のトランクからはみ出していた女の脚を望月エミ子さんの死体の脚ではないかと……?」  「そうなんです。そんなバカなことはないといくらいっても聞かないんです。そこへもってきて、江戸川アパートへ電話で聞きあわせると、望月がおとといからかえらないというでしょう。だから、先生にあんなバカなお電話をしたんです」  「それで、奥さんはどうしてここへいらっしゃらなかったんです」  「そんなつまらない心配をするひまにゃ、阿佐ガ谷へいって兄貴のようすをたしかめてこいと、そっちのほうへやったんです。しかし、先生にはお約束もあることですし、こうしておわびにあがったんですが……」  駒井泰三の話のとちゅうで、卓上電話のベルがけたたましく鳴りだした。金田一耕助が受話器をとりあげると、  「ああ、そちら金田一先生でいらっしゃいますか。あたくし駒井昌子というものですが、主人がそちらにまいっておりますでしょうか」  と、女の声はなぜかひどくふるえていた。 四  「ああ、駒井さん、奥さんからお電話ですよ」  と、金田一耕助が受話器をわたすと、  「わたしに……? 家内から……?」  と、駒井はびっくりしたように受話器をとりあげたが、話をきいているうちに、みるみる顔から血の気がひいていった。  「な、なんだって? アトリエのカギ穴からなかをのぞくと、ソファーのうえに裸の女が……? 昌子、昌子! そ、そりゃほんとうか……それで、兄貴はいないの? うん、よし、わかった。それじゃ、金田一先生にお願いして、いっしょにいっていただこう。バカ! 交番へなんてとどけるもんじゃない! だって、まだはっきりわからないじゃないか。うん、よし……え? なに、怖い……? ああ、そうか。そりゃそうだ。それじゃおまえ、駅前の喫茶店へでもいってるか、それともそのへんをぶらぶらしておいで。すぐいく!」  受話器をおいた駒井泰三の額には、ビッショリと汗がうかんで、目がギラギラと凶暴な光をおびている。  「き、金田一先生!」  「ああ、駒井さん、阿佐ガ谷のアトリエのほうで、なにか変わったことがあったようですね」  「ええ、そうらしいんです。電話ではまだはっきりわからないんですが、女房のやつひどくおびえているようです。先生、ごいっしょにお願いできませんか」  「承知いたしました。それじゃちょっとここでお待ちになっていてください。いますぐ支度をしてまいりますから」  支度といっても、もみくちゃのお釜《かま》帽《ぼう》を頭にたたきつけ、合いの二重まわしを肩にひっかけるだけのことなのである。  「お待たせいたしました。それじゃお供しましょう」  「やあ、恐縮です。それじゃ、表に自動車をおいてありますから……」  駒井泰三という男もそうとう羽振りのよい男とみえて、豪《ごう》奢《しや》な自家用車が表においてあった。金田一耕助がその客席へのりこむと、駒井は運転台へとびのって、みずからハンドルを握った。  自動車のなかではふたりともほとんど口をきかなかったから、金田一耕助にもまだこの駒井泰三という男がなにをする男なのかわからなかった。きびきびした態度や口のききかたは小気味がよかったが、どこかあいてをひやりとさせるような鋭さを身につけた男である。  それから十五分ののち着いたアトリエというのは、阿佐ガ谷もずっと外れの寂しい場所で、付近にはまだいくらか武蔵野の面影をとどめている。  『片桐梧郎』という表札をはめこんだ古びた大《おお》谷《や》石《いし》の門をはいると、玄関まではそうとうの距離がある。アトリエはその母屋のななめ背後についていて、その北側にはうっそうと武蔵野の雑木林がつづいていた。  「ずいぶん広いお屋敷ですね」  「はあ、親譲りなんですよ」  「あの雑木林なんかもこちらの……」  「そうです、そうです。あの雑木林までがこちらの敷地なんです」  「いったいどのくらいの面積がありますか」  「そうですね……千六百坪といったか、七百坪といったか、よく覚えておりませんが、だいたいそんなところでしょう」  駒井泰三はいかにも面倒臭そうな返事だったが、このへんで千六、七百坪の地主といえば、それだけでもそうとうの財産であると、金田一耕助は考えずにはいられなかった。  玄関のまえで自動車からおりると、  「どうぞこちらへ」  と、駒井泰三はかたわらの建《けん》仁《にん》寺《じ》垣《がき》についている古びた枝折り戸をひらいて、みずからさきに立ってなかへはいっていった。  アトリエはもちろん母屋とも廊下つづきになっているのだが、庭からもなかへはいれるようになっている。そのアトリエのひろい窓という窓は全部半透明のガラスになっているうえに、内側に黒いカーテンが垂れているのでなかはのぞけなかったが、電気がついているとみえて、黒いカーテンがほんのりと灯の色に染まっていた。  腕時計をみると七時十分。あたりはもうそうとう暗くなっていて、背後にある雑木林のなかで鳴く山バトの声が妙にいんきさを誘うのである。アトリエの入り口はその雑木林のがわ、すなわち建物の北側についていた。ドアをはいるとくつ脱ぎの玄関がついていて、その玄関から母屋へ通ずる廊下が右側へ走っている。  「昌子……昌子……」  と、玄関へはいると駒井泰三は大声をあげたが、どこからも返事はきこえなかった。  「奥さんは喫茶店かどこかへいかれたんじゃないんですか」  「ああ、そうそう」  と、駒井も思いだしたように、  「なにしろ、このとおり寂しい場所だもんですから……」  と、前方にあるドアに目をつけると、取っ手をにぎってガチャガチャやっていたが、カギがかかっているとみえて、ドアはびくともしなかった。  「昌子はこのドアのカギ穴からなかをのぞいたというんですが……」  と、駒井も身をかがめてカギ穴からなかをのぞいていたが、しばらくすると、ゾーッとしたような目をあげて、金田一耕助をふりかえった。  「金田一先生、ここをちょっと……」  駒井にかわって金田一耕助がカギ穴に目をあててみると、アトリエのなかはそうとう広くて、ずうっとむこうにフロア・スタンドが立っている。  その電気スタンドの下に、背のひくい、幅のひろいソファーがひとつすえてあるが、そのソファーのうえに奇妙な裸身がふたつ、絡みあうような姿勢でよこたわっている。  うえになっているのは、膚のざらざらとした感触からどうやら石膏像らしいが、その石膏像に抱きすくめられている下の裸身は、たしかに人間らしかった。体つきや肉付きからして、あきらかに女のようである。  裸身の女はソファーのうえに仰向けにねて、片手と片脚がだらりとソファーから垂れている。その女のうえにのしかかるようにしてうつ伏せになっているのは、片脚をうしなった石膏像らしい。ほおとほおとをくっつけるようにしているので、女の顔はわからなかった。  金田一耕助がカギ穴から身を起こすと、  「金田一先生!」  と、駒井は声をうわずらせて、  「下になっている女……あれはたしかに人間のようですね」  「ええ、そう。ぼくもそう思います」  と、金田一耕助も額の汗をぬぐうている。  「畜生ッ、兄貴のやつ、ど、どうしたんだろう」  駒井は取っ手を握ってがたがたいわせたが、むろんカギのかかったドアがたやすく開くべきはずがない。  「だれだい? そこにいるのはだれなんだ!」  と、二、三度呼んでも返事はなかった。  「先生! 金田一先生!」  「駒井さん、このうちお電話は……?」  「はあ、以前はあったんですが、兄貴が売っちまったんです。電話があるとうるさいとかなんとかいって……」  「ああ、そう。それじゃあなたここで見張っていてください。ぼく、ひとっ走りしてお巡りさんを呼んできましょう。むりにドアをこじあけたりなさらないで……」  「はあ。すみません」  それから十分ののち、金田一耕助が警官と大工をひとりつれてかえると、駒井は気の狂ったような目をしてドアのまえに立っていた。  「先生、やっぱりあの女死んでるんですぜ。いくら呼んでも返事がないんです」  「とにかく、棟《とう》梁《りよう》、なんとかしてこのドアを開いてくれたまえ」  「はっ、承知しました」  棟梁がドアをはずすのにたっぷり十五分はかかった。  ドアをひらくと、一同は注意ぶかくアトリエのなかへ踏みこんだ。  カギ穴からはみえなかったが、ソファーのむこうに脚つきの乱れ箱がおいてあり、そのなかに若い女のスーツがひとそろい、ズロースからブラジャー、くつ下までまじえて脱ぎすててあった。そして、一糸まとわぬ全裸のすがたで石膏像に抱きすくめられているのは、たしかに人間の女である。  「あっ、駒井さん、人形を動かさないで。そっと女の顔をみてください」  金田一耕助の注意で駒井泰三はおそるおそる女の顔をのぞきこむと、  「き、金田一先生!」  「だれ? ご存じのひとですか」  「望月エミ子!」  「ああ、やっぱり……」  金田一耕助は口のうちでつぶやくと、そっとエミ子の顔をのぞいてみた。エミ子は扼《やく》殺《さつ》されたものらしく、のどに大きな親指の跡がなまなましい印章となって残っている。  そして、そのうえにのしかかった裸身の石膏像の片腕がエミ子の首をまくようにしているのが、いかにも薄っ気味悪いのである。  「あなた……」  そこへ青ざめた顔をした女がおずおずとドアの外から声をかけて、  「自動車がついているので、あなたがきていらっしゃると思ったのよ」  駒井の妻の昌子である。 もうひとりの女 一  被害者望月エミ子は、両手でのどを絞め殺されているのである。たとえ相手が女とはいえ、ひとひとり絞め殺すその力といい、また、咽《いん》喉《こう》部《ぶ》にのこるなまなましい親指の跡の大きさといい、犯人が男であることはいうまでもあるまい。  そして、その時刻は六時半から七時までのあいだだろうという医者の意見である。  六時半ごろから七時までのあいだといえば、駒井泰三が金田一耕助のアパートへ訪ねてきた時刻と前後している。ということは、泰三の妻の昌子が兄のアトリエへ到着する直前ででもあったろうか。  昌子は、駆けつけてきた等々力警部の質問にたいして、つぎのように答えている。  「あたしがここへついたのは、ちょうど六時半ごろのことでした。玄関があいていたので、兄がうちにいることだとばかり思って、なかへはいってきたのです。ところが、家じゅうさがしてみても、どこにも兄のすがたが見えません。しかし、兄は気まぐれで、よく戸締まりもしないでふらりとそのへんを歩いてくることがあるので、きょうもそのでんだろうと思って、むこうの母屋の居間で待っていたのです。ところが、そのうちに、このアトリエに明かりがついていることに気がつきました。兄はお金持ちのくせにとてもしまり屋で、むだなことが大きらい、電気なども不用なときには片っぱしから消してしまうのです。そういう点、じつに神経質で、まえの義《あ》姉《ね》の由紀子さんがとびだしたのも、ひとつはそういう口うるさいところも原因だったんです。まあ、それはさておき、明かりがついているところをみると、てっきり兄はこのアトリエにいることだとばかり思って、こっちのほうへやってきたのです。ところが、ドアの外からいくら呼んでも返事がないので、うたた寝でもしているのかしらと、カギ穴からなかをのぞいてみると……」  と、そこまで語って、昌子はごくりとつばをのみこむと、さむざむと肩をすぼめる。  年齢は二十六、七だろう。大柄の、ぱっと目につく容色で、毛皮のオーバーにくるまり、真っ赤につめをそめた指にもダイヤの指輪が光っているが、どこか体の線にくずれたところがみえるのは、どういう夫婦生活をしているのだろうかと、金田一耕助は小首をかしげた。  「あなたはここにいらっしゃる金田一先生にお電話したそうですね」  という等々力警部の質問にたいして、昌子はちらりと耕助のほうをながし目に見ると、  「はあ……」  と、小声に答えて目を伏せる。  「あれはどういう意味だったのですか。あなたはこういう犯罪が起こるだろうということを予知していらしたんですか」  金田一耕助の目にはつつみきれない好奇心の色が光っている。  「いえ、あの、そういうわけではなく、きのう自動車のトランクの中から突きだしていた脚が、なんだか本物の女の脚じゃないかというような気がしたものですから……」  「しかし、それはまたどうして……?」  と、げんざいの兄を誣《ぶ》告《こく》するようなこの不謹慎な妹にたいして、等々力警部は目をまるくする。  「いやあ、それはこうなんです」  と、そばから夫の泰三がひきとって、  「これは金田一先生にもさきほどお話ししたんですが、以前からエミちゃん……すなわち、むこうで殺されている女ですね、あのひとが、いつか義《あ》兄《に》に殺されるんじゃないか、そんな気がしてならないと、おびえてよくそんな話をこれにしていたんですね。そこへもってきて、場所が飯田橋……つまり、江戸川アパートの近所でしょう。だから、そんな連想がわいたというわけなんでしょう」  「はあ、あの、主人のいうとおりでございますの」  と、昌子も夫の言葉に相づちをうって、  「しかし、あとで主人にそのことを申しますと、主人が一笑に付して、そんなバカなこと……それほど心配なら阿佐ガ谷へいってごらん、金田一先生のほうへはじぶんがいってお断りしてくると申しますものですから……」  「それで、あなたがた同時にお出かけになったのですか」  「はあ、ほとんど同時でした」  「お宅はどちら……?」  「渋谷の羽沢町でございます」  「失礼ながら、駒井さん、あなたご職業は……?」  「はあ、西銀座でキャバレーを経営してるんです。『金色』というんですがね」  なるほど、この男の目つきの鋭さはそういう職業からくるのだろうかと、金田一耕助もうなずいた。  「それで、奥さんもちょくちょくお店へ……?」  「いや、これは以前店でダンサーをしていたんですがね」  と、泰三はうすら笑いをうかべて、  「しかし、結婚してからは店へ出さないことにしております」  なるほど、キャバレーのダンサーをしていたのかと、金田一耕助は心のなかでうなずいた。それでこの女の体の線のくずれもうなずけるような気がするのである。  「ところで、被害者がこの家のご主人を恐れていたというのは、どういう……」  こんどは等々力警部が金田一耕助にかわって質問した。  「はあ、これもさきほど金田一先生にお話ししたんですが、兄貴というのがとても嫉《しつ》妬《と》ぶかい男なんでしてね。これは別れたまえの義《あ》姉《ね》に尋ねてくだすってもわかりますが、やきもちをやきだすときりがないんです。それが昂《こう》じてくると、寒中でも義《ね》姉《え》さんを素っ裸にして縛りあげ、ザーザーと水をぶっかけるという騒ぎで、せんの由紀ちゃんなんかもなんど半殺しのめにあったかわからないくらいなんで……エミちゃんなんかも、おおかたそんなめにあいかけた経験があるんじゃないですか」  「それで、せんの奥さんの由紀子さんというのは、いまどこに……?」  「さあ……昌子、おまえはしらない?」  「はあ、なんでも浅草へんのバーかなんかで働いてるって話でしたけど、どちらにお住まいだかちょっと……」  「名字はなんというんですか」  「緒方というんです。緒方由紀子といって、やはり以前、うちのキャバレーに出ていたひとなんですがね」  泰三の言葉もおわらぬうちに、ちょうどそこへはいってきた刑事のひとりが、  「緒方由紀子というんですって? それ、どういうひとですか」  と、ちょっと声をはずませた。  「ああ、山口君、どうかしたの? 緒方由紀子という名字になにか心当たりがあるの?」  「いや、じつは警部さん、いまそこのアトリエの窓の外で、こんなものを拾ったんです。ほら、ちっとも湿りけのないところをみると、ごく最近だれかがそこへ落としていったものと思われるんですが、ほら、こういうイニシアルが……」  と、刑事がひろげてみせたのは桃色のハンカチだったが、その片すみにはY・Oというイニシアルが……。  それを見ると、泰三と昌子はおもわずぎょっとしたように顔見合わせた。  「それじゃ、由紀子さんが……」  といいかけて、泰三はそのまま口を閉ざしてしまった。  泰三はいったい由紀子がどうしたというつもりだったのだろうか。  昌子も真っ青に血の気のひいた顔色で、わなわなと肩をふるわせている。 二  この奇怪な殺人事件ほど当局を困惑させた事件はなかった。  医者の検視によると……いや、医者の検視をまつまでもなく、最初事件を発見した金田一耕助の熟練した観察眼によっても、犯行が演じられてからそれほど多くの時間がたっていないことはよくわかったが……エミ子が絞殺されたのは、四月六日の午後六時半から七時までのあいだということになっている。  とすれば、あの前日、飯田橋付近で三河屋の小僧の安井友吉が目撃した脚は、まったく被害者と関係がなかったことは明らかだ。  だが、そういう騒ぎがあった翌日、片桐梧郎氏がほんとうに人殺しをしたというのは、これは単なる偶然か暗合なのだろうか。  あの自動車のトランクのなかからのぞいていた女の脚が、なにかこんどの事件の前奏曲をなしていたのではあるまいか……。  金田一耕助にはそのことが脳裏にこびりついて、なんとなくいらいらと落ち着かぬ気持ちのうちに三日とすぎ、五日とたっていった。  当局ではもちろんやっきとなって片桐梧郎氏のゆくえを捜索していたが、いまにいたるもまったく消息がない。  いや、いや、片桐梧郎氏のみならず、かつてはかれの妻であった緒方由紀子も行方をくらましているのである。  ふたりの姿がいちばん最後に他人に見られているのは、五日の晩と、六日の夕方だったらしい。すなわち、自動車のトランクのなかからのぞいていた女の脚の一件から、五日の晩、所轄警察から海野という刑事が出向いていって片桐梧郎氏にあっている。  そのときの片桐氏の態度には、たぶんに不《ふ》遜《そん》で横柄なところはあったものの、べつに変わったところは見られなかったという。  いま世間でしられているかぎり、この海野刑事が片桐氏にあった最後の人らしい。  というのは、六日の朝の新聞に片桐梧郎氏の名前が出たので、近所の人も好奇心をもっていたから、かれの姿を見れば記憶しているはずだが、六日以後、だれもかれを見たというものはなかった。  いっぽう、片桐氏のアトリエのすぐ近所にあるタバコ屋のおかみさんが、六日の夕方、緒方由紀子の姿を見ている。いや、由紀子の姿を見ているのみならず、由紀子と話もしているのである。  「あれは新聞に片桐さんの名前が出た日の夕方のこと……さあ、だいたい六時半ごろのことでしたろうか。あたしがお店に座っていると、奥さん、いえ、別れたせんの奥さんが、表から声をかけたんですの」  その由紀子のくちぶりからすると、彼女もけさの新聞を読んで、なんとなくそのことが気になったらしい……というよりも、新聞に名前が出たことで、由紀子は別れた男のことを思い出したらしいのである。  「そのとき、あたしがどうして夫婦わかれをしたのかとお尋ねすると、奥さんはさびしそうな顔をして、だって追い出されたんだもの、しかたがないわ……と、そんなふうにおっしゃってました」  由紀子はそれからふたことみこと、片桐氏の近況、ことに女関係のことなどを尋ねていたが、おかみさんも立ちいったことはしりもしないし、しっていても言いたくもなかったので、いいかげんにお茶をにごしていると、由紀子はまもなくアトリエのほうへむかって立ち去ったという。  「たぶん片桐さんのところへおいでになったんだと思いますけれど、それから姿を見ませんので、いつおかえりになったのかは存じません」  このタバコ屋のおかみ以外には、だれも由紀子の姿を見たものはなかった。  阿佐ガ谷といっても、そこは町はずれの寂しい場所で、片桐氏の家じたいが千坪をこえる広い敷地のなかにあり、敷地の北側には武蔵野の原始林がうっそうとしてしげっている。  いかさま奇怪な殺人事件でも起こりそうないんきで不気味なたたずまいであった。片桐梧郎氏はそういう広いいんきな家で、由紀子とわかれて以来、召し使いもおかずに、ただひとりで自炊していたのである。  当然、ご用聞きやなんかのあいだで、いろんないまわしい取り沙汰がされていた。  それらの取り沙汰のなかで、もっとも当局の注目をひいたのは、片桐氏がサディストであるらしいということである。よく夜など由紀子の悲鳴のようなものがきこえていたし、また、由紀子の膚に縦横にみみずばれの跡があるのを見たものがあるという評判もあった。  だから、由紀子が片桐氏とわかれたとき、あれでは奥さんがつづかないのもむりはないと、近所でも取り沙汰をしていたという。  しかし、六日の夕方、タバコ屋のおかみさんが由紀子じしんの口から聞いたところでは、逃げ出したのは由紀子じしんではなく、由紀子はかえって追い出されたのだという。  「ええ、奥さんはたしかにそうおっしゃいました。そして、片桐さんにとても未練がおありのような口ぶりでした」  と、タバコ屋のおかみはキッパリと断言している。  いずれにしても、由紀子が片桐氏のもとを訪れたのはエミ子が殺される前後であるとすると、彼女は犯行を目撃したのではないか。  そして、犯人である昔の夫といっしょに姿をくらましたのか、あるいは片桐氏に脅迫されていずくへか拉《ら》致《ち》されたのではないか。とすれば、彼女の命もまた危ういのではなかろうか……捜査当局のこういう懸念は的中した。  四月十二日……すなわち、事件後五日のことである。緑ガ丘にある金田一耕助のもとへ、あわただしく電話がかかってきた。  「あっ、金田一さんですか。こちら、等々力……あなた、これからすぐ駒形にある昭和アパートへお出向きになってくださいませんか。ええ、そう、緒方由紀子のアパート……駒形橋のすぐそばですから……はあ、はあ、予測されたとおり、由紀子の死体が出てきたんです。しかも、由紀子の部屋の押し入れの中から……それじゃのちほど」  それから一時間ほどのちのこと、アパートの一室で絞殺されている由紀子の死体を見せられたとき、金田一耕助はおもわずぎょっと息をのんだ。  被害者の膚にはいちめんになまなましい傷跡が残っていて、別れた夫の片禍梧郎氏がサディストであったらしいことをはっきり示しているようだ。  「警部さん、それで由紀子が殺されたのはいつ……?」  金田一耕助は死体から発する異臭に顔をしかめて、ハンカチで鼻をおさえながら、  「これじゃ、もうそうとう時が経過しているようですが……」  「金田一さん!」  と、等々力警部は怒りにみちた目をギラギラさせながら、  「こればっかりはわれわれの手抜かりでしたよ。由紀子はおそらく望月エミ子が殺されたその晩あたりにやられたんじゃないかと思うんです」  「で、動機は……?」  「片桐がエミ子を殺す現場を目撃したんじゃないでしょうか。それで、片桐が阿佐ガ谷からここまで由紀子を尾行してきて……」  「なるほど」  と、金田一耕助はうなずくと、  「それで、だれがこの死体を発見したんですか」  「いや、きのうあたりから、この部屋のまえを通ると変なにおいがするといい出したんですね。そこで、きょう管理人がなかを調べてみたらこのざまで……こればっかりはわれわれの大黒星でしたよ」  と、等々力警部はじぶんでじぶんのうかつさにたいして憤《ふん》懣《まん》が去りやらぬ顔色だった。 三  金田一耕助のフラットの壁にかかっている大きなカレンダーは、一枚めくれてもう五月をしめしている。  しかも、きょうは五月の五日、すなわち、阿佐ガ谷のアトリエで望月エミ子が殺害されてからもうかれこれひと月になるというのに、いまもって容疑者と目されている片桐梧郎氏のゆくえはわからない。  新聞に出た片桐氏の写真は、そうとう特徴のあるものである。  かなり長くのばした髪はもじゃもじゃにちぢれていて、首のうしろで波打っている。鼻がワシのくちばしみたいにまがっており、ギョロリとした目、大きな口……それはいかにも女を責めさいなむことによってしかセックスの満足をえられないサディスト的な印象をひとにあたえる。しかも、身長は五尺九寸にちかいといわれている。  こういう特異な風《ふう》采《さい》の持ち主であるにもかかわらず、どこへもぐりこんだのか、片桐氏は犯行後ひと月ちかくも姿をくらましたまま、いまもって居どころがわからないのである。  等々力警部をはじめとして、捜査当局の焦燥のほども思いやられる。  金田一耕助はもの悩ましげな目をして、じぶんの部屋の外にあるせまいバルコニーに立っていた。いちにちおきにやってくる掃除婦のおばさんが部屋のなかを掃除しているので、かれはほこりをよけてバルコニーへ出ているのである。  あたりはもう新緑につつまれて、さわやかな五月の空にはいくつかのこいのぼりがへんぽんとしてひるがえっている。  とつぜん、部屋のなかでわかい女の声がきこえたかと思うと、掃除婦のおばさんのキャッというような悲鳴がきこえた。  金田一耕助はおどろいて部屋のなかをのぞくと、  「杉山さん、どうしたの、だれかお客様……?」  「い、いいえ、先生、これ、いったいなんですの? 蓄音器なんですの? はたきをかけていたら急に鳴りだして……」  「ああ、それ、テープレコーダー……」  金田一耕助は部屋のなかへはいっていくと、小卓のうえにあるテープレコーダーのふたをひらいた。おばさんがはたきをかけているうちに、どうしたはずみかスイッチがはいったらしく、テープレコーダーが回転している。  金田一耕助はそのスイッチを切ろうとして、急に思いなおしたようにその手をやめて、テープの発する声に耳をかたむけた。  「……はあ、あの、いいえ、こちら、まだ先生にお目にかかったことはないものでございますけれど……はあ、あの、それはかようでございますの……先生、きのうの夕刊をごらんになりまして……? はあ、あの、ほんの小さな記事でございましたけれど……ほら、あの、街を走っている自動車の後尾トランクから女の脚がのぞいてたっていう……」  そこまで聞いてから、金田一耕助はパチッとスイッチをきって、掃除婦のおばさんをふりかえった。掃除婦の杉山さんはあっけにとられたような顔をして、金田一耕助とテープレコーダーのほうを見ていたが、  「先生、それがちかごろはやりのテープなんとかいうものでございますの」  「ああ、そう。杉山さん、もう掃除すんだ?」  「いえ、あの、まだなんですけれど……」  「ああ、そう。でも、ここはいいから、むこうの部屋を掃除するか、それとも洗たくをしてくれるか……とにかく、ぼく、ひとりでここにいたいんですが……」  「ああ、さようでございますか。それじゃお洗たくをさきにすませてしまいましょう。せっかくのよいお天気でございますから」  杉山さんが部屋を出ていくとまもなく、浴室のほうから電気洗たく機の回転する音がきこえてきた。  金田一耕助はなかからドアをぴったりしめきると、もういちどテープレコーダーのスイッチをいれた。  四月六日の夕方、見知らぬ女から電話がかかってきたとき、金田一耕助がその声をテープに録音したことはまえにもいっておいたが、かれはいままでそれをあらためて聴いてみようとも思わなかった。  ということは、電話の話とその後起こった事件とのあいだに矛盾があろうとは考えられなかったからである。  ところが、いま杉山さんのはたきのいたずらから思いがけなく女の声を聞いたせつな、金田一耕助は急にそれを聴いてみる気になったのである。  金田一耕助がスイッチをいれると、テープはさっきのつづきから語りはじめる。  「……ええ、ええ、さようでございます……つまり、それで、それを目撃したひとのとどけによって、警視庁でも緊張して、全都に手くばりをした……」  金田一耕助はアームチェアに体をうずめて、無言のままそれを聴いていたが、テープがある個所までくると、かれはぎょくんとしたように安楽イスから身を起こした。  そして、無心で回転をつづけているテープを食いいるようにながめていたが、それがすっかりおわると、かれはもういちどおなじテープを掛けなおした。掛けなおすとき、金田一耕助の額にはうっすらと汗がにじみ、指がかすかにふるえていた。  なにかに興奮している証拠である。  金田一耕助はもういちど安楽イスにもどると、そのテープをはじめからおわりまですっかり聴いたが、聴きおわったとき、かれの額はぐっしょりと汗ばんでいた。  「畜生ッ!」  かれは小さく口のうちでつぶやくと、テープをとめて、いそいで卓上電話の受話器を取りあげた。  金田一耕助が呼び出したのは、警視庁の捜査一課、第五調べ室、等々力警部担当の部屋だった。  ちょうどさいわい等々力警部はじぶんの部屋にいた。 四  「やあ、金田一さん、さきほどはお電話をありがとう。阿佐ガ谷のモデル殺しについて、なにか発見をなすったとか……」  金田一耕助が重いテープレコーダーをぶらさげて第五調べ室へはいっていったとき、部屋のなかはちょっと色めき立つような空気につつまれた。  捜査が難航したときの係官ほどみじめなものはない。世論でたたかれることは覚悟のまえとして、職業的なプライドが担当員の心を傷つけるのである。  きょうもここへ所轄警察の捜査主任、池部警部補なども集まって、こんごの方針などを打ち合わせているところだったが、そこへ金田一耕助から電話がかかってきたので、一同は俄然、希望をもちはじめていたのである。  「いや、警部さんも、そちらの主任さんも、たいへん失礼いたしました。ぼく、たいへんなことを見落としていたもんですから……」  と、金田一耕助がペコリとひとつもじゃもじゃ頭をさげるのを、池部警部補はもどかしそうに、  「いやいや、そんなことはどうでもいいですが、金田一先生、そのたいへんなことを見落としていたとおっしゃるのは……?」  「いや、これなんですがね」  と、金田一耕助はデスクのうえにどさりとおいたテープレコーダーのうえをたたいた。  「それ、なんですか、金田一先生」  と、おなじみの新井刑事もデスクのそばへよってくる。  「これ、テープレコーダーなんです」  「テープレコーダー……?」  「はあ。ぼく、はじめての依頼人から電話がかかってきたような場合、電話の声をテープにとっておくことがあるんです。いつもそうだというわけじゃありませんがね。ところが、先月の六日の午後、すなわち、阿佐ガ谷のアトリエでモデル殺しがあった当日、女の声でぼくのところへ電話がかかってきたということは、みなさんもご存じでしょう」  「はあ、駒井泰三の細君、昌子からですね」  「ええ、そう」  「それで……?」  「はあ、そのとき、電話の声の調子がひどく取り乱しているようなので、ぼく、ついそれをテープにとっておく気になったんです。ところが……」  「ところが……?」  「その後起こった事件と電話の話とのあいだに、べつに矛盾するところはなかった……いや、なかったと愚かにもわたしはひとり決めに決めていて、きょうまでついぞこのテープを聴こうともしなかったんですね。ところが、さっきふとしたはずみに聴いてみると、たいへんな矛盾を発見したんです」  「たいへんな矛盾とおっしゃると……?」  と、一同の顔色には極度の緊張があらわれている。部屋全体の空気がピーンと張りつめた針金のように、強く、きつく切迫していた。  「いや、それはいまテープをかけてみますから、みなさんで気がおつきになってください。そのまえにあらかじめ申し上げておきますが、この電話は駒井泰三の妻の昌子……したがって、片桐梧郎の妹からかかってきた電話ということになっているんです。そういったのは駒井じしんで、昌子もそれを認めているんです。それでは……」  と、金田一耕助がスイッチをいれると、回転するテープから切迫したような女の声が漏れはじめる。  「ああ、先生でございますか。どうも失礼申し上げました……」  一同は無言のまま、無心に語りつづけるテープの回転を凝視している。第五調べ室の空気はいよいよ緊迫してきて、だれもかれも息を吐くのさえ苦しそうであった。  「……はあ、はあ、さようでございます。ところが、あたくし、その件について、とても心配なことがございまして……」  と、無心のテープがそこまで語ってきたとき、  「みなさん、ほら、このあとの一句に注意してください」  と、金田一耕助のことばもおわらぬうちに、テープはつぎのような言葉を叫んだ。  「……と申しますのは、あたくし、その自動車を運転しておりました片桐ってかたを存じあげておりますの」  「あっ!」  というような一同の叫びをきいて、金田一耕助は満足そうにスイッチを切った。  「みなさん、どうやらおわかりになったようですね」  「金田一先生、しかし、それはどういう……?」  と、池部警部補はまだはっきりと納得がいかないらしく、金田一耕助を見つめる目玉はいまにもとびだしそうである。  「いや、池部さん、それはこうです。なんならあとでこのテープをなんどでもお聴きくだすって結構ですが、この電話のぬしは、はじめからしまいまで、じぶんの名前を名乗らずじまいなんです。そのことは電話が切れたときぼくも気になっていたんですが……まあ、それはともかくとして、それからまもなくやってきた駒井泰三の言葉によると、さっきの電話はじぶんのワイフだというんです。しかも、駒井の説明をきいてみるとべつに矛盾もかんじなかったので、ついきょうまでうっかりしていたわけですが、警部さん」  「はあ」  「妹がじぶんの兄のことを話すばあい、片桐ってかたを存じあげておりますの……というようなていねいな言葉をつかうでしょうか。兄であるということはいわないにしても、片桐ってひとをしっておりますの……とでもいうのがふつうじゃないでしょうか」  「それじゃ、金田一さん」  と、等々力警部は目を光らせて、  「この電話のぬしは、駒井の家内の昌子じゃないとおっしゃるんですね」  「そうです、そうです。警部さん、それにもかかわらず、駒井ははっきりと、さっき電話をかけたのはわたしのワイフだといいきり、昌子は昌子でそれを自認しているんです。なぜでしょう」  「駒井夫婦になにか暗いところがあるんだな」  と、渡部警部補も歯ぎしりをするような調子である。  「しかし、金田一先生」  と、新井刑事も身を乗りだして、  「この電話のぬしが昌子でないとすると、この女はいったいだれなんです」  「新井さん」  と、金田一耕助はきびしい顔をして、  「この電話の声がひどくおびえているらしいことは、あなたにもおわかりでしょう。片桐梧郎氏の運転する自動車の後尾トランクから女の脚らしいものがはみ出していたという新聞記事を読んで、いちばんおびえるのはだれでしょう。もっと言葉をかえていえば、片桐氏がサディストであり、こういう凶悪犯罪もやりかねない人物だということをいちばん身にしみてしっているのはだれでしょう」  「由紀子か……それともエミ子ですね」  「そうです、そうです。しかし、由紀子は当時すでに関係をたっていましたから、さしあたっていちばん身の危険をかんじたのはエミ子じゃないでしょうか」  「金田一先生、それじゃこの電話のぬしはエミ子だとおっしゃるんですか」  「そうじゃないかと思うんです」  「しかし、駒井夫婦がその電話のことをしっていたのは……?」  「だから、この電話は駒井の宅からかけてきたんじゃないでしょうか。片桐のサディストぶりにおじけをふるっていたエミ子は、いつか被害妄想狂になっていた。そこへあの新聞記事をみ、しかもその自動車がじぶんのところへ訪ねてきているのですから、いよいよ恐怖と不安にふるえあがった。そこで駒井夫婦のところへ相談にいった。その結果、ぼくに電話をするということになったんじゃないでしょうか」  「しかし、金田一先生」  と、新井刑事が抗弁をするような身振りをして、  「それほど片桐を恐れていた望月エミ子が、電話をかけたあとでのこのこと阿佐ガ谷へ出向いていったというのはおかしいじゃありませんか」  それにたいして、金田一耕助はしばらく無言のままひかえていた。しかし、その無言が返事に窮したあげくの沈黙でないことを、そこにいるひとたちはみんなしっているのである。  金田一耕助の頭には、いまひとつのセオリーが組み立てられているのだ。新井刑事でさえがそれをしっていた。だから、いまの刑事の反《はん》駁《ばく》はほんとの意味の反駁ではなく、それによって相手を刺激し、あいての組み立てたセオリーをここで発表させようというひとつの手段なのである。だから、だれも金田一耕助の沈黙をさまたげようとするものはなく、みないちように手に汗握るような思いで金田一耕助の発言を待っているのである。  「新井さん」  よほどしばらくたってから、金田一耕助が口をひらいた。  「望月エミ子があの日、阿佐ガ谷のアトリエへみずから出向いていったというたしかな証人がありますか。だれかエミ子のすがたをあの付近で見かけたものがあったでしょうか」  新井刑事はあいての真意をはかりかねるようにまじまじとその顔を見まもりながら、  「いや、そういえば、そういう証人はひとりもなかったんだが……」  「しかし、なにしろあんな寂しい場所だから、そういう証人がいなかったとしてもあえて異とするに足りないと、そうお思いになったのでしょう。いや、これはあなたを責めているのではなく、わたしじしんもそうたかをくくっていたんです。しかし、池部さん」  「はあ」  「望月エミ子ははたしてあのアトリエで殺されたのでしょうか。ひょっとすると、ほかの場所で殺されて、死体となってからあのアトリエへはこびこまれたのじゃないでしょうか」  「き、金田一さん」  と、等々力警部もおどろきを露骨に表情と声音にあらわして、  「そ、それ、ど、どういう意味なんですか」  「警部さん、とにかく、駒井夫婦が電話のことについて重大なうそをついていることはお認めになるでしょう。夫婦そろってそのような重大なうそをつくからには、それそうとうの理由がなければなりませんね。その理由とはなにか。——そこであらためてこの事件におけるあの夫婦の立場を考えてみたんです。望月エミ子は男の手によって扼《やく》殺《さつ》されている。したがって、駒井昌子ははじめから問題にならない。問題になるとすると亭主のほうですが、その亭主には確固たるアリバイがあった。すなわち、エミ子が殺された時刻には、駒井はわたしと対座していたか、あるいはわたしのところへ駆けつけてくる自動車のなかだったということになっていますね。池部さん、そうじゃなかったですか」  「はあ、それは先生のおっしゃるとおりですが……」  「しかし、駒井にそういうアリバイが成り立つというのも、エミ子があのアトリエで殺されたのだという仮定があってのことですね。だから、もしエミ子がアトリエで殺されたのではなく、どこかほかの場所、たとえば、わたしのところへ駆けつけてくる自動車のなかで殺されたとしたらどうでしょう」  「しかし、しかし、金田一先生」  と、新井刑事が目をむきだしていきまいた。  「そ、そりゃむちゃでさあ。だって、げんに先生が駒井といっしょにアトリエへかけつけたときにゃ、エミ子は死体となってソファーのうえに横たわっていたんじゃありませんか」  金田一耕助はペコリと頭をひとつさげて、  「新井さん、たいへん失礼いたしました。しかし、わたしがあの死体を見たときの状態は、あなたもご存じでしたね。わたしはただカギ穴から、全裸の女が石膏像に抱きすくめられてソファーのうえに横たわっているのを見ただけなんです。それが死《し》骸《がい》であったか、生きている人間だったか、また、その女がエミ子であったか、それともべつの女だったか、カギの外にいるわたしにはわかりようはなかったんです」  「き、金田一先生!」  「池部さん」  と、金田一耕助はまたペコリとひとつお辞儀をして、  「だから、この事件の捜査をあやまらせたものがあるとすると、それはこのぼくなんです。いたって不確かなことを確からしく申し上げてしまったんじゃないかと、いまになって自責の念にかられているんです。だから、ここであらためてじぶんの証言を訂正させていただいて、みなさんの捜査方針に再検討を加えていただこうと思ってるんです」  「しかし……しかし……金田一先生」  と、池部警部補があえぐように、  「それじゃ、先生がカギ穴からごらんになった裸体の女というのは……?」  「昌子があの時刻にあのアトリエの付近にいたはずですね」  「畜生ッ!」  と、等々力警部が鋭く舌打ちをして、  「それじゃ、あとで昌子とエミ子の死体をすりかえたんだとおっしゃるんだな」  「そうじゃないかと思うんです。こののろまなメイ探偵は、そんなこととはつゆしらず、のこのこお巡りさんを探しにいきましたからね。お巡りさんのみならず、大工を探すのにひまどったんです。ですから、ぼくがそのアトリエをあとにしてふたたび引き返してくるまでには、たっぷり十分はかかっていました。そのあいだに、自動車の後尾トランクに詰めてきたエミ子の死骸を裸にして昌子とすりかえるのには、充分に時間的余裕があったはずなんです」  「金田一先生」  と、池部警部補は興奮に声をふるわせながら、  「駒井夫婦が共謀してエミ子を殺したとして、その目的はどこにあるんです?」  金田一耕助はしばらく無言でいたのちに、  「池部さん」  「はあ」  「片桐梧郎がとつぜん失《しつ》踪《そう》すれば、遺産継承者であるところの昌子ならびにその配偶者に、当然疑惑の目がむけられますね。しかし、片桐が人を殺したとなると話はちがってくると思うんです。ですから、こんどの事件は片桐の失踪を理由づけ、正当化するための犯罪じゃないでしょうか」  「金田一さん!」  と、等々力警部が大きく息をはずませて、  「そ、それじゃ片桐も殺されていると……?」  「新井さん」  「はあ」  「あのアトリエはその後もひきつづいて監視されているんでしょうねえ」  「それはもちろん、いつ片桐が舞いもどってこないとも限らないので、昼夜張り込みはつづけております」  「それはちょうど幸いでした。死骸というやつは、なかなか運搬がやっかいなものです。エミ子の場合はうまく成功しましたがね」  「金田一先生、それじゃ片桐の死体はあのアトリエのどこかにあると……?」  「はあ、いずれはどこかほかへ移すつもりなんでしょうが、張り込みがつづけられていちゃあねえ。まあ、むだ骨をおる覚悟で探してごらんになったら……」  金田一耕助はそこでまたペコリと一同にむかって頭をさげた。 五  「片桐の死体はやっぱりアトリエの背後にある雑木林のなかから掘り出されましたよ。これでまあ、わたしの面目も立ったようなもんです」  と、後日、金田一耕助はこの事件簿の記録者なる筆者にむかって、しみじみとした調子で語ってくれた。  「事件の発端は、その前日、片桐の運転している自動車のトランクから人形の脚がのぞいていたこと、それについてエミ子がひどくおびえて……つまり、じぶんにたいする一種の示威じゃないかというおびえかたをして、駒井夫婦のところへ相談にいったところに根ざしているんですね。のちに昌子が自供したところによると……」  と、金田一耕助は顔をしかめてまずそうにタバコの煙を輪に吹きながら、  「エミ子がぼくにかける電話をきいているうちに亭主が思いついたというんですが、まえまえから駒井には片桐をなんとかしてその財産を横領しようという腹はあったんでしょうねえ。そこへおあつらえむきのむくどりがとびこんできた。しかも、エミ子がとうとうじぶんの名前を名乗らなかったところを利用しようと考えたわけです」  「それで、片桐が殺されたのは……?」  「それはこうです。電話がかかってきたのは四時でしたね。そして、五時にやってくるという約束なんですが、これは妥当な時間ですね。ところが、駒井がじっさいにやってきたのは六時半でした。いかに夫婦のあいだで小競り合いがあったにしても、一時間半もおくれるのは少しおだやかでない。それくらいなら、むしろすっぽかしてもいいんですからね。ですから、このおくれた一時間半のあいだになにかあったんじゃ……という疑いは、わたしもまえから漠《ばく》然《ぜん》とながらももっていたんです」  「じゃ、エミ子の電話があってから、駒井が阿佐ガ谷へおもむいて片桐をやったわけですか」  「ええ、そうです、そうです。四時から六時半まで二時間半あれば充分ですね。ここでは申し上げませんが、死体のかくし場なんかもなかなかうまいところを考えたもので、それなんぞもまえからいちおう計算にいれていたんだろうと思うんです。そのあいだ、こうして亭主が片桐をかたづけ、舞台装置を点検しているあいだ、昌子がなにかと口実をもうけてエミ子をひきとめておいたんですね」  「なるほど。そうして阿佐ガ谷のほうの舞台装置ばんたんが出来上がったところで、あらためて駒井がエミ子を自動車でつれだし、その途中で殺してトランクにつめてここへやってきたというわけですか」  「そうです、そうです。いや、途中というより、出発直前、自動車の車庫のなかでやって、そのときすでに素っ裸にしてあったそうです」  「なるほど。あとの手間を少しでも省こうというわけですね。しかし、そうすると、金田一さん」  「はあ」  「あなたが阿佐ガ谷へかけつけるとき、エミ子の死体はすぐあなたのおしりのうしろにあったわけですね」  「それなんですよ、先生」  と、金田一耕助は顔をしかめて、  「それを考えるとその当座おしりがムズムズしたもんで、あんまり目覚めがよくありませんでしたね」  金田一耕助も筆者もしばらく無言でひかえていたが、筆者がふと思い出して、  「ときに、由紀子はなんのために殺されたんですか」  「ああ、由紀子……」  と、金田一耕助はまた顔をしかめて、  「由紀子は犯罪の現場を目撃したがために殺されたんじゃなくて、なんにも目撃しなかったがために殺されたんです」  「ああ、なるほど」  と、筆者もその一言でわかったような気がしたので、  「そうすると、なんにも目撃しなかったということは、犯罪の現場を目撃したとどうよう、危険な場合がありうるわけですね」  「そう、ときと場合によってはね」  「怖い世の中ですね」  「ええ、そう。まったく怖い世の中です」  ふたりはそれっきり長いあいだ口をきかなかった。 赤の中の女 二組みの邂《かい》逅《こう》 一  「あら! ちょっと……」  「はあ」  「失礼ですけれど、あなた榊《さかき》原《ばら》さん……榊原史郎さんじゃございません?」  「はあ、あの……ぼく榊原史郎ですけれど、あなた、どなたでいらっしゃいましたかしら」  「あら、お忘れになって? いつか川奈のゴルフ・リンクで、北里さんにご紹介をいただいた安西恭子でございます」  「ああ、安西恭子さん、あのときドライブをごいっしょした……」  「まあ、うれしい……おぼえていてくださいまして?」  「これはこれはお見それいたしました。その後、お元気でいらっしゃいますか」  「あいかわらず、風来坊みたいな生活をしておりますの。きのうは東、きょうは西……というわけですわね」  「それは、まあ、おうらやましいご身分ですね。さしずめメリー・ウイドーというところですかね」  「あら、憎らしい。あんなことをおっしゃって……それより、ご紹介ねがえません? そちら奥さまでいらっしゃいましょう」  「はあ、いや、あの、これは失礼いたしました。この春結婚したワイフの恒《つね》子《こ》です。恒子、こちらはいつかゴルフ・リンクでおちかづきになった安西恭子さん、陽気な寡婦でいらっしゃる」  「はじめまして……あたしいまご紹介いただいた安西恭子でございます。こんごなにぶんよろしく……」  「はあ、あの……はじめまして……」  以上のような会話が、きくともなしに金田一耕助の耳にはいったのは、H海岸の海水浴場、H海岸ホテルのテラスであった。  金田一耕助はそのとき、テラスに張ったビーチ・パラソルの下へ籐《とう》の寝イスをもち出して、うつらうつらと午睡の夢をむさぼろうとしているところへ、以上のような会話が耳にはいってきたのである。  ときは八月五日の午後二時ごろ。海水浴場のもっともたてこむ季節で、しかもその日は土曜日だったから、H海岸ホテルも満員だった。テラスから目をあげて浜辺をみると、キノコのように生えたビーチ・パラソルが色とりどりにうつくしく、波打ちぎわはまるで芋を洗うような混雑である。  この海岸は東西を絶壁にかこまれていて、浜は南へむかって約五町ほどしかない。しかも、絶壁の下には無数の岩が突出しているので、ヨットを走らせるにも水泳にもそうとう危険な個所になっているのだが、そのかわり五町ほどの浜辺は遠浅で、せまいことはせまいけれど、理想的な海水浴場になっていて、近年とみに都会の客を吸引するようになったのである。  金田一耕助は先月の末からこのホテルに滞在しているのだが、ここならあんまり客も来まいと思っていたのに、案に相違の繁栄ぶりにいやきがさして、そろそろ逃げ出そうかと思っていたやさき、きょう東京の等々力警部から電報がきて、この週末を利用してあそびにいくといってきたので、それではもう二日ほど滞在をのばして、等々力警部といっしょに帰京しようと、さっきから警部の到着を心待ちにしているところだった。  「それじゃ、またのちほど……」  「バイバイ……」  と、そういうさっきの会話のつづきを耳にしたので、金田一耕助がそのほうへ目をおとすと、そこは金田一耕助のいるテラスから約一間ほどさがったテラスで、ホテルの外壁ぞいに設けられた階段をつたって、直接浜辺からあがってこれるようになっている。  会話のぬしの三人のうち、この春、結婚したという榊原史郎と妻の恒子はあとにのこって、まだしたのテラスのテーブルについている。ふたりとも水着すがただが、妻の恒子は真っ赤な水着に真っ赤なケープをはおり、しかも真っ赤な大きな麦わら帽子をかぶっているので、うえからではむろん顔はみえない。  この新婚の夫婦と、はからずもここでめぐりあった安西恭子は、階段を五、六段おりたところで、もういちど夫婦のほうをふりかえって手をふったので、わりにはっきり顔が見えたが、このほうも水着すがたで、まるい浮き輪を右手にぶらさげている。  安西恭子の水着は平凡なグリーンだった。  ところが、このとき、金田一耕助が妙に思ったのは、かれのいるテラスの客のひとりが、食いいるように赤い水着の女のすがたを見つめているのに気がついたのである。  それはとしごろ二十三、四のスマートな青年だった。しょうしゃな白麻の服をきて、上品な顔立ちの、いかにもお坊ちゃんお坊ちゃんした青年だったが、胸壁のそばに立って、赤い水着の女を見おろすその目つきには、限りない憎悪の色がうかんでいる。 二  金田一耕助はそっと寝イスから立ちあがった。そのテラスから直接下のテラスへはいけないのである。そこで、いったんホテルを出て、外側の階段をのぼっていくと、うえからふたりづれがおりてきた。ひとりは赤い水着の女である。赤い水着に赤いケープ、しかも、帽子まで真っ赤なので、まるでホオズキの化け物が歩いているようだ。  階段の途中ですれちがうとき、ながし目にふたりをみると、女は五尺そこそこというところだろうか、つばのひろい麦わら帽子をまぶかにかぶっているので、はっきりとはみえなかったが、ちょっとかわいい顔立ちである。としは二十五、六というところか。  女の小柄なのにはんして、男はゆうに五尺七寸はあろう。水泳パンツをはいて、肩にタオルを巻きつけただけの裸体だが、露出した筋骨のたくましさは、金田一耕助のような貧弱なからだをもった男にはうらやましいくらいである。日焼けした顔も男らしくりっぱであった。としは三十二、三というところだろうか。  このふたりづれとすれちがって、金田一耕助が屋上テラスまでのぼってきたときである。  「やあ、恒子さんじゃないか」  という声が階段の下できこえたので、おやと思ってふりかえると、これまた水着の男が、赤い水着の女のまえに立ちはだかっている。  「あら、まあ、永瀬さん」  と、赤い水着の女は息をはずませるような調子で、  「あなた、いつこちらへ……?」  「きのう着いたばかりなんだが、恒子さんもこのホテルに……?」  「ええ、あたしどももゆうべ着いたばかりなんですの。それで、あなたおひとり……?」  「ああ、ぼくはひとり……」  「あんなことをおっしゃって……どなたかいいひととごいっしょなんでしょう」  「いや、ところが、ほんとにひとりなんだ。だけど、恒子さん、紹介しろよ。こちら、だんなさまなんだろう」  「はあ、あの、ほっほっほ、ちょっと、あなたあ」  と、赤い水着の女は甘ったれ声で、  「こちら永瀬重吉さんとおっしゃって、あたしの昔なじみ。ほら、あたしが享楽座にいたじぶんのお知り合いなの。永瀬さん、こちら榊原史郎って詩人なの。まあ、詩人のたまごなのね」  「ああ、そう。ぼく、永瀬です。舞台の背景などかくことをしごととしてるもんですがね。こんごよろしく」  「はあ、いや……」  と、こんどは夫の榊原史郎のほうがいくらかかたくなっている。  「ところで、恒子さん、いつ結婚したの」  「この春……」  「ああ、そう。それじゃまだ新婚ほやほやというところだね。あんまりおじゃまもできないな。あっはっは、これから海……?」  「ええ」  「それじゃ、また」  通せんぼをするように女のまえに立ちはだかっていた男が、ちょっと体をひらいたので、  「じゃ、いずれまた」  と、赤い水着の女は夫と手を組んで、浜のほうへ歩いていく。永瀬重吉はちょっとそのうしろすがたを見送っていたが、やがてこちらのほうへのぼってくる。  金田一耕助はさりげなく階段のそばをはなれて、すぐそばにある空いたテーブルに腰をおろしたが、そのときなにげなくうえのテラスをみると、白麻の青年のすがたはみえなかった。  永瀬もテラスへあがってくると、ほかのテーブルがみんなふさがっているので、しかたなしに金田一耕助のまえへきて座ると、いぶかしそうな目の色で、金田一耕助のもじゃもじゃ頭と、よれよれの白がすりや袴《はかま》をながめていたが、そこへボーイが注文をききにきたので、オレンジ・ジュースをあつらえた。  金田一耕助がそれにならっておなじ品を注文すると、永瀬はまたじろじろとその顔をみて、それから視線をほかへそらせた。  これまた五尺七寸はあろうという筋骨のたくましい男だが、としは榊原より食っているらしく、額がすこしはげあがっている。どことなく狡《こう》猾《かつ》そうなかんじのする男だ。  それにしても……と、金田一耕助は心のなかでかんがえている。……ここにこの春結婚したばかりの夫婦がきている。夫は詩人のたまごで、妻は享楽座で女優のたまごかなんかだったらしい。ところで、夫は夫で昔なじみの陽気な寡婦に邂《かい》逅《こう》した。すると、その直後に妻は妻でこれまた旧知の男にめぐりあう。すなわち、ふた組みの邂逅がここにおこなわれたのだが、はたして、これは偶然なのだろうか……。  金田一耕助はなんとなく興味をそそられるものをかんじたが、そのとき、なにげなくうえのテラスに目をやると、また白麻の青年が胸壁のそばに立っていて、焼けつくようなその視線が永瀬の背後にそそがれている。その視線のなかにあるもえるような憎悪と同時に、くらいおびえの影をよみとったとき、金田一耕助は怪しく胸がおどるのをおぼえずにはいられなかった。  ひと組みの新婚夫婦と旧知の男女、それにこの白麻の青年とのあいだに、いったいどのような運命的なつながりがあるのだろうか。 三  永瀬重吉はオレンジ・ジュースをいっぱい飲むと、しばらくなにか考えるふうで、防水布の袋からとりだしたタバコを一本、ゆっくりくゆらせていたが、それを一本吸いおえると、そそくさと階段をおりていった。  金田一耕助がうえのテラスに目をやると、白麻の青年のすがたはみえないで、大きなビーチ・パラソルだけが二、三本、胸壁のうえからにょっきりと頭をのぞかせていた。  金田一耕助がテラスから下へ目をやると、永瀬はだれかをさがすようにきょろきょろあたりを見まわしながら歩いていく。そして、その背後からそうとうの間隔をおいてつけていくのは白麻の青年である。  金田一耕助はそれをみると、おもわずにっこり白い歯をみせて、頭のうえのスズメの巣をやけにもじゃもじゃかきまわした。いま、このH海岸でなんらかのドラマが進行中なのである。それは悲劇であろうか、喜劇であろうか。  時計をみると、もうそろそろ三時である。  永瀬と白麻の青年のすがたは、まもなく、おびただしいビーチ・パラソルのむこうにかくれたが、そのかわりに駅のほうから古ぼけたヘルメットをかぶった半ズボンの男がやってくるのに目をとめて、金田一耕助はテラスのうえから手をふった。それをみつけたのか、開《かい》襟《きん》シャツの等々力警部も、小さいボストンバッグを持ちかえて右手をふった。  「やあ、どうも。この海岸もおもったより混雑しますね」  「ごらんのとおりでね。ぼくもいやになって、そろそろ引き揚げようかと思っていたところへ、電報をちょうだいしたというわけです」  「それじゃ、ご迷惑でしたか」  「とんでもない。友遠方よりきたるですからね。警部さんはいつまで……?」  「はあ、月曜日の午後登庁すればいいようにしておきました」  「ああ、そう。それじゃ、月曜の朝、ぼくもいっしょに東京へかえりましょう。ときに、なにか飲みますか」  「ああ、いや、それよりさっそく海へはいりたいですな。あんたはあんまり日に焼けとらんようだが……」  「あいかわらず、のらりくらりとしているだけですからな。それじゃ、さっそく支度をしてきますから、ここで待っていてください」  それから五時半ごろまで海にいて、海水着のままふたたびテラスへもどってきたふたりが、果《か》汁《じゆう》でのどをうるおしていると、海岸のほうから榊原史郎と妻の恒子が手を組んでかえってくるのが目についた。恒子はあいかわらず赤い水着に赤いケープをはおって、つばのひろい赤い帽子をかぶっている。  ふたりがホテルのなかへはいっていくのを見送って、金田一耕助は浜のほうを目でさがしたが、永瀬重吉も白麻の青年のすがたもみえなかった。  「金田一先生、だれかしったひとでも……?」  「いやあ、さっき、ちょっとおもしろい寸劇をみたもんですからね」  「寸劇とおっしゃると……?」  「いや、まあ、人生の断片とでもいいますかな。それとも、すれちがい劇とでもいうべきですかね」  と、さっきのふた組みの邂逅と、白麻の青年のあやしい目つきの話を語ってきかせると、  「そいつはちょっとおかしいですね。夫婦づれが夫の昔なじみと出会うというのは、べつにめずらしいことではなさそうですが、その直後にこんどはまた妻が旧知の男に邂逅するというのはね」  「しかしねえ、警部さん、安西恭子という未亡人も、永瀬重吉という背景画家も、どっちもひとりでここへきてるらしいんです。こんなところ、めったにひとりでくるもんじゃないでしょう。ぼくみたいな朴《ぼく》念《ねん》仁《じん》はべつですが……」  「そして、その白麻の服の青年が、赤い水着の女と永瀬という男をしってるらしいというんですね」  「どうもそうらしいんです。しかし、まあ、あんまり他人の秘事をのぞくのはよしましょう。それより、そろそろ食事のはじまる時間じゃないかな」  金田一耕助はやおらテラスのイスから立ちあがった。 四  食事をおわって七時ごろ、金田一耕助と等々力警部が、ホテルの正面入り口にちかいロビーでタバコをくゆらせていると、とつぜんおくのほうから、けたたましい女の金切り声がきこえてきた。  「しらない! しらない! もうかってにして!」  そういう声に、ロビーにいた客がいっせいにそのほうをふりかえると、真っ赤なワンピースをきた女が、ハンカチを目におしあててとびだしてきた。  「恒子! 恒子! バカ! バカ! 誤解だよ、誤解だってば! 待たないか」  女のあとを追って出たのは榊原史郎である。ズボンに腕もあらわなアンダー・シャツ一枚、さすがにロビーにいるひとたちの注目をあびて、はっとその場に立ちすくんだ。  そのあいだに、赤いワンピースの恒子は、まるで赤い弾丸のようにロビーをよこぎり、ホテルの正面入り口から外へとびだした。この女、よほど赤い色がすきとみえる。  榊原はロビーのおくに立って、ちょっとちゅうちょをしていたが、やがて舌打ちするような顔色で、こそこそ奥へひきかえしていく。しかし、ものの三分とたたぬあいだに、こんどはワイシャツにネクタイをしめ、上着もきこんでロビーへ出てきた。そして、ホテルの正面入り口を出て、あちこち見まわしているようだったが、さがしにいくのはあきらめたのか、勝手にしやあがれという顔色で、ロビーへかえってきて、イスのひとつに腰をおろすと、そこにある新聞を手にとりあげる。  金田一耕助は等々力警部に目くばせすると、  「ふた組みの邂逅をもった新婚夫婦」  と、ひくい声でささやいた。  「陽気な寡婦があらわれたので、さっそくトラブルがもちあがりましたな」  と、等々力警部がのどのおくでわらった。  金田一耕助はロビーのなかを見まわしたが、永瀬重吉も白麻の青年も、安西恭子という陽気な寡婦のすがたもみえない。  榊原史郎は新聞に目をとおしながらも、気になるようにときどき入り口のほうへ目をやっていたが、七時半ごろホテルのボーイがやってきて、なにやらいうと一通の手紙を渡した。  榊原はふしぎそうな顔をして、封筒の封をきり、なかの便《びん》箋《せん》に目をおとしたが、そのとたん、大きなおどろきの色がそのおもてを走った。榊原はボーイをつかまえて、なにやらはやくちに尋ねていたが、そこへホテルの入り口からはいってきたのは安西恭子である。  榊原のすがたに目をとめると、  「あら、榊原さん、どうかなすって?」  と、かろやかな足どりでちかづいてくる。このほうはグリーンのワンピースをきているが、その女がそばをとおるとき、金田一耕助はつよい潮のにおいをかいだ。  「ああ、安西さん」  と、榊原はぎょっとしたように便箋を封筒におさめると、そそくさとうちポケットのなかにおさめて、ボーイをその場から立ち去らせた。  「榊原さん、なにをそんなにきょときょとしてらっしゃるの。奥さんはどうなすって?」  「いや、いや」  と、榊原はハンカチを取り出して額の汗をぬぐいながら、  「恒子はちょっと散歩に出かけたんだが……」  「あら、まあ、それであなたはおいてけぼり? 新婚早々、どうなすったのよう」  「いや、いや、いいです。むこうへいっててください。あんまりぼくに接近しないで……」  「あら、どうして? せっかくこうしてお目にかかれたのに、そんなにひどいことをいうもんじゃなくってよ。それにしても、奥さん、どうなすったんでしょうねえ。あら!」  安西恭子はとつぜん気がついたように、  「あら、ごめんなさい。そうでしたの? あら、ま、ほっほっほ」  安西恭子がはなやかな笑い声をたてたとき、正面入り口からはいってきたのは永瀬重吉である。昼とちがって、これまた白っぽい背広をじょうずに着こなしている。  榊原史郎はそのすがたをみつけると、つかつかそばへちかよっていった。そして、なじるような調子でなにやらふたことみこといいながら、ポケットから取りだしたのはさっきの封筒である。なかみを出してあいてに読ませた。  永瀬もそれに目をとおすと、さっとおどろきの色が顔にはしって、あきれたようにあいてのひとみを見かえしていたが、やがて首をよこにふりながら、にやりとわらうと、便箋を榊原史郎にかえした。そして、そのままロビーをよこぎり、おくの廊下へ消えていった。  金田一耕助は等々力警部に目くばせをして、  「新婚夫婦に邂逅した男と女……」  「それにしても、あの便箋にはなにが書いてあるんだろう。やっこさん、ひどく動揺しているようだが……」  じっさい、榊原はなんどもその便箋を読みかえしてはポケットにしまい、ホテルの入り口までいってはもとの席へもどり、なんだかひどくかんがえこんだふうである。  安西恭子はそれからすこしはなれたところに腰をおろして、これまた気になるように、榊原のすがたとホテルの正面入り口を見くらべている。  赤いワンピースの恒子は、その晩とうとうかえってこなかった。  かえってこないはずである。その翌朝、彼女はH海岸の沖合いで、死体となってうかんでいるのが発見された。  しかも、彼女は溺《でき》死《し》したのではない。のどのあたりに大きな親指の跡がふたつついており、水はのんでいなかったのである。 結婚詐欺 一  所轄警察の捜査主任、浅見警部補のまえに出た榊原史郎は、動転しきった顔色で、目もうわずり、くちびるもわなわなふるえて、はじめのうちは返答さえもろくにできない状態だった。  そこはH海岸ホテルのマネージャーの部屋で、かりにそこを捜査本部とさだめたのである。金田一耕助と等々力警部は、一種の参考人としてこの聞き取りに立ちあった。  窓の外にはけんらんたる海水浴場の歓楽が展開されているのだが、部屋のなかにはおもっくるしい緊張の気がみなぎっている。  「それで、奥さんは恒子さん……榊原恒子さんというんですね」  「はあ……」  「結婚前の名字は?」  「氏《うじ》家《いえ》といいました」  「氏家というのがおさとの姓なんですね」  「いえ、そうではなく、さとの姓は山本というんです」  「というと……?」  「いえ、あの、家内はいちど結婚したんです。氏家勝《かつ》哉《や》という男と……ところが、その氏家勝哉というのが昨年の冬死亡したので、そのまま未亡人として氏家姓を名のっていたんです」  「なるほど。それでは、氏家勝哉氏と結婚なさるまえは、山本恒子でいられたんですね」  「ええ、そうです、そうです」  「そのじぶん、なにをしていられたんです。なにかご職業でも……」  「はあ、享楽座という新劇の一座にいたんです。それが、氏家と結婚すると同時に、舞台をひいたんです」  「なるほど。それで、未亡人となられてから、なにかご職業でも……」  「いえ、べつに……氏家が多少の財産をのこしたものですから」  「ああ、なるほど。それで、氏家氏の一周忌のすむのを待って、あなたと結婚なすったわけですね」  「はあ……」  「それでは、ゆうべのことを聞きましょう。奥さんは七時ごろここをとび出していかれたんですね」  「はあ、それが……恒子はへんに誤解したんです。というのは、きのうここで、昔なじみの女のひとに会ったもんですから、なにかそのひととわけでもあるように誤解して……はじめての夫婦げんかがこんな結果になろうとは……」  と、榊原史郎もしだいに落ちついてきたようだが、そのかわり、こんどはひどく沈みこんだ調子になった。  「昔なじみのご婦人とおっしゃるのは……?」  「いや、昔なじみといっても、ゴルフ場でいちど会ったきりのひとで、むこうから声をかけられても、すぐには思い出せなかったくらいですから……」  「お名前は……?」  「安西恭子さんというんです。くわしいことはなんにもしりません。じぶんではメリー・ウイドーといってましたが……」  「ここで会ったということですが、このホテルで会ったんですか」  「はあ……」  「まだこのホテルにいますか」  「さあ、さっきロビーで見かけましたけれど……」  捜査主任が目くばせすると、すぐに私服のひとりが捜査本部をとびだしていった。  「ところで、あなたはこの事件をどうお思いになりますか。奥さんを殺した人物について、なにか心当たりは……?」  「さあ……暴行された形跡があるとすると、このへんのぐれん隊のせいじゃないでしょうか。ほかに心当たりといっては……」  榊原恒子の死体は、検視の結果、絞殺されるまえに犯されたらしい形跡があるのだった。犯行時刻はこのホテルをとび出した直後であろうといわれている。  「警部さん、あなたなにかご質問は……?」  浅見警部補に水をむけられて、  「ああ、そう、それじゃ……」  と、等々力警部はちょっと体をのりだして、  「榊原さんにちょっとお尋ねしたいんですが、ゆうべここのロビーでボーイがあんたになにか手紙のようなものをわたしましたね。あれはだれからきた手紙ですか」  榊原史郎はぎょっとしたように、上着の胸のポケットをおさえた。  「あなた、あの手紙を読んでひどく狼《ろう》狽《ばい》してたようだが……」  「はあ、あの、はあ、あの……」  と、榊原史郎は酸素の欠乏したコイのようにやけに口をパクパクさせながら、  「ぼくにもさっぱりわけがわからんのです。差し出し人の名前もなく……それにこんなバカなことが……だれかのいたずらにきまってるんです」  「失礼ですが、その上着のポケットのなかに持っていらっしゃるとしたら、ちょっと見せていただけませんか」  榊原史郎は上着のポケットを強くおさえて、まるで追いつめられた獣のような目つきで等々力警部の顔をにらんでいたが、やがてむしりとるようにポケットから一通の封筒をとりだした。 二  それはあきらかにこのホテル専用の封筒と便箋だった。なるほど、差し出し人の名前のないのをたしかめて等々力警部はなかの便箋をとりだしたが、みじかいその文章に目を走らせると、おもわず大きくまゆをつりあげた。  「金田一先生、これ……」  金田一耕助もひとめで文章を読みくだすと、ぎょっとしたように目をみはる。それはつぎのような奇怪な警告状だった。    あなたの奥さんは危険です。結婚詐欺の常習犯ではないかと疑われる節があります。なにとぞ身辺をご警戒ください。  浅見警部補もその手紙に目をとおすと、これはというふうに目をみはった。手紙はつぎからつぎへと刑事の手にわたったが、一同のあいだに回覧がおわったとき、そこには当然、息づまるような緊張の気がみなぎった。  「榊原さん、これは……?」  「いや、浅見君、そのまえにボーイを呼んできいたらどうかね。どういう客がこの手紙をことづけたか……」  「ああ、そう」  すぐに刑事のひとりが立ちあがったが、  「ああ、ちょっと、刑事さん」  と、金田一耕助が呼びとめて、  「ついでに宿帳をかりてきてくださいませんか。ひょっとすると、その手紙に符合する筆跡が見つかるかもしれませんから」  「はあ、承知しました」  やがて刑事といっしょにはいってきたのは、たしかにゆうべ榊原に手紙をわたしたボーイである。浅見捜査主任の質問にたいして、  「はあ、その手紙をわたしにことづけたのは、白麻の服をおめしになったお坊ちゃんみたいなかたでした。としは二十三、四でしょうか」  「やっぱりこのホテルの客かね」  「そうだと思いますが、お名前はしかとおぼえておりません」  「君にこの手紙をことづけたのは何時ごろ?」  「きのうの夕方の五時ごろでした。それをわたしにおことづけになると、そのまま外出されたようで、ゆうべはお姿を見かけませんでした」  そのとき、金田一耕助が腕で小突くので、等々力警部がふりかえると、  「ほら、これ……」  と、金田一耕助が指さした宿帳には、「氏家直哉」という文字が、あの警告の手紙とおなじ筆跡でおどっていた。捜査本部にまたひとしきりざわめきが起こったことはいうまでもない。  「それでは榊原さんにお尋ねしますが……」  と、ボーイを去らせたあとで浅見警部補は緊張のために熱い息をはいて、  「奥さんの先夫氏家勝哉さんには、弟さんかなにかありましたか」  「はあ、直哉君という弟がひとりあったそうです。ぼくは会ったことはありませんが……」  「それで、先夫は奥さんにどのくらいの遺産をのこしたんです?」  「さあ……ぼくもくわしいことはしりませんが……小田急沿線の成城にある八十坪ばかりの地所付き家屋……建坪はたしか二十五坪とかいってましたが……それと、なんやかんやで、あわせてせいぜい二、三百万円のものじゃないでしょうか」  「ところで、あなたの財産は……?」  「とんでもない。ぼくは貧乏詩人ですからな。あっはっは」  「しかし、あなた生命保険やなんかは……?」  「あっ!」  とつぜん、榊原史郎はのどのおくでするどく叫ぶと、まるで深《しん》淵《えん》をのぞくような目つきになって、ぼうぜんと一同を見わたした。  「はいってらっしゃるんですね。いくら……?」  「だって、だって、そんな、そんな……」  「いくらですか、契約額は……?」  「い、一千万円……」  榊原の額にはいっぱい汗がうかんでいる。  「奥さんのおすすめではいったんですか」  「はあ……でも、でも……」  「榊原さん、奥さんも生命保険にはいっていらっしゃいましたか」  「いいえ、恒子ははいりませんでした。恒子のすすめで、ぼくだけ契約したんです。しかし……」  と、榊原がなにかいいかけたとき、とつぜん外のロビーが騒々しくなってきたかとおもうと、マネージャーが満面に朱をそそぎ、それでもできるだけ落ちつこうとするかのようにはいってきて、  「浅見さん、またひとり殺されています。永瀬重吉というお客さんが、ごじぶんの部屋のべッドのうえで……」 三  永瀬重吉は、二階の八号室のべッドのうえで、絞殺されているのである。派手なタオルのパジャマをきた両手と両脚が、うんとふんばったまま硬直している。そして、その首には太い組みひもがきつく巻きついている。組みひもはこの部屋のカーテンをしぼるひもだった。  ここで注目すべきは、被害者は絞殺されるさい、そうとう格闘したらしいことである。べッドのまくらもとに小卓があり、小卓のうえに香水びんがおいてあったのが、格闘のさいひっくりかえったのを、だれかがあやまって踏んだとみえ、マットのうえでびんがこわれて、香水のにおいがこのものすごい惨劇の場を馥《ふく》郁《いく》としてくるんでいるのである。マットにはじっとり大きく香水のしみができている。  そういえば、絞殺された永瀬重吉のパジャマの上着のすそからパンツの腰のあたりにもじっとりとぬれたあとがあって、そこからも馥郁たる香りがただようている。  「この男、よっぽどおしゃれだったとみえるね。ひとりもののくせに、べッドのそばに香水の用意をしておくとは……」  等々力警部がつぶやいたが、金田一耕助は四つんばいにならんばかりに上体をかがめて、小卓の下をのぞいてみた。このホテルはどの部屋もリノリューム張りで、絨《じゆう》緞《たん》は敷いていないのだが、それではあまり殺風景にみえるので、べッドのまえだけ畳一枚くらいの大きさのグリーンのマットが敷いてあり、そのマットのうえに小卓がおいてあるのだが、だれかが最近その小卓をうごかしたとみえ、マットについた軽い四つのくぼみと、小卓の四本の脚がくいちがっている。  やがて医者がやってきて、検視の結果、犯行はゆうべの深夜二時ごろであろうと断定された。  というと、これはいったいどういうことになるのだろう。被害者はドアにカギをかけないままでねていたのだろうか。いやいや、それは信じられないことである。このように素姓もしれぬ客がいっぱいたてこんでいるホテルで、カギもかけないでねる客があろうとは信じられない。  とすると、深夜の二時ごろ、被害者みずからカギをひらいてだれかをみちびきいれたことになるが、すると犯人は被害者のしっている人物ということになる。  金田一耕助は窓のそばへよってカーテンを調べた。カーテンをしぼるひもは、窓わくのいっぽうにしっかりと固定されていて、カーテンをひきしぼるとひものはしについている輪を窓わくの飾りくぎにひっかけることになっている。そのカーテンのひもが鋭利な刃物で窓わくから切断されているのである。  金田一耕助はくちびるをつぼめて、ちょっと口笛を吹くまねをした。これはかれがなにか会心の事実に気がついたときにやるくせである。やがて階下の支配人室へかえると、ふたたび榊原の聞き取りがつづけられた。  「あなたはきのう永瀬という男にこの匿名の手紙をみせていたようだが、あれはどういうわけですか」  と、これは等々力警部の質問である。  「はあ、いや、このホテルで恒子のことをしっているものがあるとしたら、あの男しかないと思ったものですから……」  「奥さんと永瀬という男はどういう関係で……?」  「さあ……なんでも、恒子が舞台に立っていたじぶんの知り合いだとか……背景やなんかかく画家だといってましたが……」  「あなたは奥さんがこんなところで昔の知り合いに会ったのを妙に思いませんでしたか」  と、これは金田一耕助の質問である。榊原はふしぎそうに金田一耕助のもじゃもじゃ頭に目をやりながら、  「べつに……恒子は女優なんかしてたもんですから、女としては顔のひろいほうです」  「あなたの部屋は……? このホテルの……?」  「二階の十二号室です。いちばんはしっこの……」  さて、榊原史郎についで安西恭子が呼び出されたが、このほうはほとんどなにもきくことはなかった。榊原とは去年、川奈のゴルフ・リンクで会って、十国峠をドライブしたことがあるが、それもふたりきりではなくて、ほかにも五、六人つれがあったくらいだから、とくべつにこれという関係はない。はからずもここで再会したので、なつかしかったから声をかけたまでのことだが、それが奥さんの感情を害したとしたら、まことに申し訳がないと思っていると、神妙に、しかもよどみなく答えた。  「ところで、あなたおひとりのようですね」  という金田一耕助の質問にたいして、  「はあ。でも、いまに連れがまいりますの」  と、安西恭子ははじめてあでやかににっこりわらった。  「失礼ですが、どういう関係のかたが……」  「はあ、あの……」  と、恭子はほおに朱を走らせながら、  「婚約者……と申したらよろしいのでしょうか。この秋、結婚することになってるひとですの」  「ああ、いや、これは失礼いたしました」  金田一耕助はペコリとひとつ、恭子のまえにもじゃもじゃ頭をさげた。 四  疑問のひと氏家直哉は、ゆうべ五時ごろホテルを出たきりまだかえっていないというので、金田一耕助は等々力警部とともに浜へ出てみた。  時刻はちょうど十一時、いまがいちばん干潮時とみえ、波打ちぎわははるかかなたに後退している。  「金田一さん、いったいどこへいくんですか」  「いやね、きのうの夕方、榊原夫妻はこっちの方角からかえってきましたからね」  まえにもいったように、この浜辺は東西へわたって五町ほどしかない。しかも、ホテルはその中間にあるので、ちょっと歩くと海水浴場を出はずれる。  「警部さん、あんたそのくつとくつ下をぬぎなさい。ぼくも下《げ》駄《た》をぬいではだしになります」  「金田一さん、いったい、ど、どうするんです」  「なあに、ちょっと洞《どう》窟《くつ》探検といくんです」  金田一耕助は下駄をぶらさげ、袴《はかま》のすそをたかだかとつまみあげると、じゃぶじゃぶと水のなかへはいっていく。  まえにもいったように、そのへんにはいちめんに岩がにょきにょき出ているうえに、絶壁のすそにはあちこち洞窟があいている。洞窟には大きなのもあれば小さいのもあり、高いところにもあり、低いところにもあった。  金田一耕助は水平線をふりかえりながら、じぶんの胸のたかさあたりの洞窟をさがしていたが、どうやら手ごろなのを見つけたらしい。  「警部さん、この洞窟の高さなら、夕方の五時ごろにはまだ水面上に出ているでしょうね」  「金田一先生、それが……?」  「まあ、なかへはいってみましょう」  洞窟へはいあがってみると、なかはカギの手にまがっており、奥へはいると海のほうからみえないようになっている。高さはおとなが背中をまるめて歩けるくらいしかないが、広さは畳二枚しけるくらいあり、しかも海草が女の髪の毛のようにもつれて生えているので、ふかぶかとしたおあつらえむきのベッドができている。  「警部さん」  と、金田一耕助はうすくらがりのなかでにっこり白い歯をだして笑うと、  「水泳のあいまにこういうところでランデブーをたのしむというのはどうです。おや、これはなんだ」  よじれた海草のあいまから金田一耕助が拾いあげたのは、小さなグリーンのハンカチだった。グリーンに白い水玉模様が染めだしてある。  「ほら、ほら、警部さん、やっぱりだれかご婦人がここへきた証拠ですぜ」  「しかし、金田一先生、いかにご婦人でも、水泳中にハンカチはもっておりますまいよ」  「あっはっは、警部さんはいいことをおっしゃる。まさにそのとおり、そのものずばりでさあ」  金田一耕助はその洞窟を出ると、絶壁を見まわしていたが、  「警部さん、こんどはこの絶壁をつたってかえりましょう。二度と足をぬらすのはいやだから」  ちょうどその洞窟の入り口のあたりから小さな道がななめについていて、絶壁につかまりながらそれをつたっていくと、五十メートルほどにしてもとの砂浜へ出ることができた。その絶壁の途中には、まるで軽石のように大小さまざまな穴があいている。  それからふたりがホテルへかえると、いま汽車が着いたところとみえ、氏家直哉ともうひとり、安西恭子の婚約者里見純蔵が到着していた。里見純蔵というのは、中年のでっぷりふとった男である。 五  榊原恒子と永瀬重吉が殺害されたときいて、氏家直哉はぼうぜんたる顔色だった。はじめのうちはまともに信じられないという顔つきだったが、それがまぎれもない真実だとわかったとき、かれはことの意外に圧倒されてしまったようだ。  「ぼく……ぼく……」  と、浅見警部補の質問にたいして、氏家直哉はまるで嗚《お》咽《えつ》するような調子で語った。  「兄が冬山で遭難したとき、姉……いや、恒子さんの電報でかけつけたんです。兄は夫婦で、去年の冬、蔵王へスキーにいっていて、そこで兄だけが遭難したんです。しかし、ぼく、そのとき、なんだかたんなる遭難ではなく、遭難をよそおうた他殺じゃないかって、そんな気がしてならなかったんです。つまり、恒子のやつがだれかと共謀して兄をやったんじゃないかって、そんな気がしてならなかったんです。それ以来、ぼくはしじゅう恒子の行動に、注目してきたんですが、ことしの春、恒子は榊原さんと結婚しました。ところが、これはほんとの偶然なんですが、榊原さんが一千万円の生命保険に加入したことをしったんです。そこで、また……と思って、ここまで榊原さんと恒子を尾行してきたんですが、ここではからずも永瀬という男にあって、それこそ天地がひっくりかえるほどびっくりしたんです」  「というのは……?」  「蔵王で兄が遭難したときも、おなじホテルにあの男がひとりで泊まっていたんです」  金田一耕助はまたくちびるをつぼめて口笛を吹くまねをした。それからのっそり立ちあがると、浅見警部補の耳になにやらささやいて、  「警部さん、ちょっと外の空気を吸いに出ようじゃありませんか」  と、唖《あ》然《ぜん》たる顔色の捜査主任や刑事たちをあとに残して、金田一耕助は飄《ひよう》々《ひよう》として部屋を出ていく。等々力警部は心得たもので、いそいそとしてそのあとにしたがった。金田一耕助がなにかをつかんだらしいことを、警部はしっているのである。  それからまもなく、浅見警部補の要請で、榊原史郎と安西恭子が捜査本部へ呼びこまれるのを見定めて、金田一耕助と等々力警部は榊原の部屋へはいっていった。むろん、支配人にたのんで、ドアをひらいてもらったのである。  この部屋にもベッドの下にグリーンのマットがしいてあり、マットのうえに小卓がおいてある。マットのうえには四つのかるいくぼみがあったが、ここでも小卓の四本の脚とくいちがっている。  金田一耕助はべッドの下にあるスリッパのうらをしらべたが、そこにキラキラ光るものを認めると、にっこりわらって、それを等々力警部のほうへさしだした。  等々力警部は大きく目をみはって、  「それじゃ、ゆうべ永瀬の部屋へはいっていったのは、榊原史郎だったとおっしゃるんですか」  「いいえ、それはあべこべでしょう。永瀬のほうからここへやってきたんです」 六  「つまりねえ、これは結婚詐欺がかちあったんですよ」  と、金田一耕助はこのシリーズの記録者にむかって、いまにも吹き出しそうな顔色で、つぎのごとく解説するのである。  「恒子のほうでも、永瀬と共謀して、なんらかの方法で榊原を殺そうとしていたんでしょう。保険金を詐取するためにね。ところが、そこを榊原のために一歩先を越されたというわけです」  「しかし、榊原がいつ恒子を……?」  「いや、五時半ごろ榊原といっしょに浜からかえった赤の中の女は恒子じゃなかったんです。恒子はそのじぶん、もうあの洞窟のなかで榊原に絞め殺されていたんです。ランデブーの法悦にひたっている最中にね。そして、その衣装いっさいを身につけてかえってきたのは、共犯者の安西恭子なんです。ああいう混雑したホテルでは、顔より衣装のほうが印象的ですからね。しかし、恒子を以前からしっている人間には、このトリックはききません。永瀬だけが、五時半すぎ榊原といっしょにかえってきたのが恒子でないことをしっていた。しかも、おのれもおなじ種類の犯罪者だけに、榊原のこのトリックを看破して、その後の動静を注目していると、安西恭子が恒子をよそおうて、ハンカチで顔をかくしてホテルをとびだすのをみた。そこで、あとを追っかけて、恭子が恒子の死体に赤いワンピースを着せて海へながすのを目撃したんです。恭子はべつの穴のなかへグリーンのワンピースをかくしておいたんですね」  なるほど、それであの晩、恭子が外からかえってきたとき、強い潮のにおいがしたのである。  「なるほど、それでこんどは永瀬が榊原を恐《きよう》喝《かつ》しようとしたんですか」  「そうです、そうです。永瀬のほうから榊原にたいして、深夜の会見を申し込んだ。そこで、榊原が恭子に応援を要請したというわけです。永瀬は、あいては榊原ひとりだとばかり思って、ゆだんをしているところを背後から恭子にひもをまきつけられたんですね」  「それで、マットはどうしたんです」  「いや、それは永瀬がもがくはずみに小卓のうえにあった恒子の香水びんがひっくりかえって、永瀬のパジャマをぐっしょりぬらすと同時にマットにこぼれた。これが香水だけに困ったんですね。香水はにおいがあとにのこる。そこで、死体は八号室へはこぶと同時に、ふたつの部屋のマットをとりかえておいたんですが、小卓のサイズがちがっていたところにかれらのミスがのこったわけです」  「結婚詐欺二重奏ですか」  「あっはっは、怖い世の中ですね」  金田一耕助は白い歯を出してわらったが、  「しかし、榊原と恭子をあのままほっとくと、恭子の婚約者、里見純蔵氏なども、将来どうなっていたかわかりませんね」  金田一耕助がくらい顔をしてそうつぶやいたとき、記録者は慄《りつ》然《ぜん》として、膚にあわだつのをおぼえずにはいられなかった。 金《きん》田《だ》一《いち》耕《こう》助《すけ》の冒《ぼう》険《けん》2 横《よこ》溝《みぞ》正《せい》史《し》 ------------------------------------------------------------------------------- 平成14年4月12日 発行 発行者  角川歴彦 発行所  株式会社  角川書店 〒102-8177 東京都千代田区富士見2-13-3 shoseki@kadokawa.co.jp (C)Seishi YOKOMIZO 2002 本電子書籍は下記にもとづいて制作しました 角川文庫『金田一耕助の冒険2』昭和54年6月10日初版発行