TITLE : 金田一耕助の冒険1 金田一耕助の冒険1 横溝正史 ------------------------------------------------------------------------------- 角川e文庫 本作品の全部または一部を無断で複製、転載、配信、送信したり、ホームページ上に転載することを禁止します。また、本作品の内容を無断で改変、改ざん等を行うことも禁止します。 本作品購入時にご承諾いただいた規約により、有償・無償にかかわらず本作品を第三者に譲渡することはできません。 目 次 霧の中の女 洞《ほら》の中の女 鏡の中の女 傘《かさ》の中の女 瞳《ひとみ》の中の女 檻《おり》の中の女 霧の中の女 イヤリング 一  ひどい霧だった、その晩の東京は。ことに九時から十一時までがひどかった。  天気予報では「曇り、後、雨」と発表されていただけで、濃霧の予報は出ていなかった。それだけに、交通機関関係の狼《ろう》狽《ばい》はひどかった。  なにしろ、数メートルさきをいくひとのすがたが見えないほどの濃霧が、すっぽりと東京都をつつんでしまったのである。ことに山の手よりも下町がひどく、電車も自動車も、その他のあらゆる交通機関も、牛の歩みのような徐行を余儀なくされた。それでもあちこちに事故が起こり、汽車のダイヤにまでそうとうの混乱が起こった。  銀座方面でこの霧が濃くなりだしたのは、八時ごろだったといわれている。八時半になると、もう西の歩道から東の歩道をいくひとのすがたは見えなかった。店頭の灯がすすけた茶色ににじんで見えるだけだった。そのあいだを、都電が神経質にサイレンを鳴らしつづけて徐行していった。  八時半ごろ、銀座四丁目にある宝飾店『たから屋』へ、ひとりの女がはいってきた。  この『たから屋』というのは、間口二間、奥行き四間ばかりの小さな店だが、銀座では古い店で、よい顧客をたくさん持っているので有名である。  そのとき、店員の牧野康夫は、気むつかしい塚本夫人の応対に弱りきっていた。塚本夫人は、このあいだあがなったダイヤ入りの腕時計が狂ってこまると、苦情をいいにきたのである。ありようは、ひどい近眼でそそっかし屋の塚本夫人は、腕時計をはめたまま入浴して、しかもしばらくそれに気がつかなかったのだが、そのことはかくしておいて、苦情のほうだけ盛大にならべたてていた。  女店員の川崎和子は、その時計を持って、店のうしろにある修理工場へいっていた。修理工場では職人の安井政雄が腕時計のうらぶたをひらいてみて、すぐ塚本夫人の過失を看破した。  「あら、そうなの」  と、川崎和子は目をまるくして、  「まあ、ひどい奥さん。そんなことはひとこともいわないで、さんざん牧野さんをとっちめてるのよ」  と、いまいましそうにくちびるをとんがらせた。  「いいよ、ほっとけ、ほっとけ。いいたいだけのことをいわせておけばいいんだ。よいおとくいさんだから、おこらせちゃ損だ」  「長いものにはまかれろというわけね。うっふっふ」  川崎和子は下くちびるをつきだすと、思いだしたようにコンパクトを出してルージュをなおしながら、  「それにしても、安井さん、ずいぶんひどい霧ねえ。こんなところまではいってきてるじゃないの」  安井政雄はそれにたいして返事をしなかった。かれはすでに塚本夫人の過失でくるった時計の修理に熱中していたのである。  と、いうわけで、そのとき『たから屋』の店頭には、近眼の塚本夫人とその犠牲者、牧野康夫のふたりしかいなかった。  そこへ問題のあの女が入ってきたのである。  はじめのうち牧野康夫はその女のことを気にもとめずに、塚本夫人のお相手をしていた。おとくいさんではなかったし、よくふらりと店の中へはいってきて、ケースの中の時計だの、装身具だのを見まわしたのち、またふらりと出ていく客が多かったからである。  だが、その女はこごえで牧野を呼んでケースの中を指さした。表のほうへ背をむけていた塚本夫人は、それではじめてその女に気がついた。女はストールを頭から首へまきつけて、そのうえ色眼鏡をかけていた。ストールもオーバーもぐっしょり霧にぬれているらしかった。塚本夫人はすぐその女に興味をうしなって、じぶんも立って女と反対側のケースをのぞきこんだ。  牧野は女の注文でケースの中からダイヤの指輪をとりだした。女はそれを光線にすかしてみていたが、やがてケースのうえへおくと、またケースの中を指さした。こんど牧野がとりだしたのは真珠のイヤリングだった。女はそれを手のひらにのせていたが、そこへ奥から川崎和子が塚本夫人の腕時計をもって出てきた。  「牧野さん、これ」  「ああ、そう。ちょっと失礼します」  なにしろ、気むつかしくやかまし屋の塚本夫人である。なおざりにしておいて、またごきげんを損じてはと、牧野はストールの女をそこにのこして、カウンターのほうへとってかえした。  「それでは、奥さん、これをどうぞ。こんどはもう大丈夫ですから」  と、お愛想に時計のねじを巻きながら、なにげなくむこうを見ておもわずぎょっとした。  ストールの女が足ばやに店を出ていこうとしている。しかも、ケースのうえには指輪もイヤリングもない。  牧野康夫は腕時計を塚本夫人におしつけて、いそいで女を追っかけると、ショーウインドーのまえでつかまえた。塚本夫人も川崎和子も入り口まで追って出た。  「お嬢さん、お嬢さん、ご冗談なすっちゃこまります。いまのものをこちらへ返して……」  と、そこまでいったかとおもうと、牧野はきゅうに体をエビのようにねじまげて、骨を抜かれたように霧にぬれた歩道にくずおれた。  女は身をひるがえして霧の中へ消えていった。  とっさのことで、塚本夫人も川崎和子も、何事が起こったのかよくその意味がのみこめなかった。  「牧野さん、どうしたのよオ。いまのひと、万引きなの」  と、川崎和子は牧野のうえに身をかがめたが、とつぜん、のどのおくからこわれた風琴のような声がとびだした。  「血が……血が……」  牧野康夫はへそのあたりを鋭い刃物でえぐられていた。 二  「ああ、ひどい目にあっちゃった。だれかベンジン持ってない?」  そこは『たから屋』と背中合わせの位置にある『サロン・ドウトンヌ』である。『サロン・ドウトンヌ』はガレージの二階になっている。階段をかけのぼってきた女の子が、店の中へはいってくるなり、とんきょうな声でみんなにうったえた。  「どうしたのさ、ユキ」  女の子をふたりそばにひかえて、ジン・カクテルをのんでいた肥満型のロマンス・グレーが、度の強そうな近眼鏡のおくで目をしわしわさせながらわらった。  「どうもこうもないわよ、ハーさん。霧の中でもろにポストに抱きついちゃったら、憎らしい、そのポストというのがペンキ塗りたてじゃないの。ほら」  村上ユキは霧にぬれたストールをとりながら、オーバーのまえをみんなに見せた。  半照明のほのぐらさのうえに、ユキのオーバーは赤系統の色なので、みんなにはよくわからなかったが、  「どれどれ」  と立ってきた島田アキ子が、オーバーのまえを指でなでてみて、  「あらあら、たいへん、せっかく新調したばかりのオーバー、台なしじゃないの」  「だから、これ、トラジェディー(悲劇)よ。だれかベンジン持ってない?」  「なんだってまた、ポストなんかに抱きついたんだ。おまえに抱きつかれたいやつはいくらでもいるのに。ほら、ここにも……」  と、ハーさんの長谷川善三はそばにいる宇野達彦の肩をたたいた。長谷川善三はさる保険会社の専務で、宇野達彦はその秘書である。  「いや、ハーさんたら憎らしい。冗談いってる場合じゃないわよ。だれかなんとかしてよう」  「ユキちゃんたらバカねえ。鼻を鳴らしてるひまに、奥へいってマダムに聞いてらっしゃいよ。マダムならベンジンくらい持ってるわよ。用心ぶかいひとだから」  もうひとりの女の子、花井ラン子が、脚を十文字に組んだ気取ったポーズで、タバコをくゆらしながら姉さんぶって注意した。  「なにさ、仰山そうにいって……まただれかにオーバーをねだろうという寸法だろう」  宇野達彦がどくどくしい調子でうそぶいた。  宇野は女のようなやさ男なのだが、口に毒があるので女の子から敬遠される。長谷川善三の秘書といっても、伯父が親会社の重役をしているので、無遠慮な口のききかたをするのである。長谷川善三はにやにやしながら、ジン・カクテルをなめている。  村上ユキが憎らしそうに宇野を横目でにらみながら、プイとドアのなかへはいっていくと、  「ベンジンならここにあるけど。バカねえ、ユキは……ポストにかこいがしてなかったの」  と、マダム雪枝の声がする。  「あとで気がついたらあったのよ。ところが、なにしろこの霧でしょ。ついまたいでしまったの。しゃくだわ。プンプン」  そういうふたりの会話をききながら、長谷川善三がにやにやわらっているところへ、またひとり、女の子が階段を駆けのぼってきた。  「たいへんよ、たいへんよ、ちょっとみんないらっしゃいよ」  「どうしたんだい、キミ子。こんやはいやに〓“たいへんよ〓”がはやるじゃないか」  「ハーさんたら、そんなのんきなこといってる場合じゃないわよ。いま人殺しがあったのよう」  江藤キミ子はじだんだを踏むようにいって、霧にぬれたストールもとらない。  「人殺しってどこで?」  と、島田アキ子と花井ラン子がはじかれたように立ちあがる。  「ついそこよ。ほら、表の『たから屋』のまえよ。あそこに牧野さんてひとがいたでしょ。この店へもちょくちょく来ていた……あのひとがいま殺されたのよう」  「牧野さんが殺されたって?」  と、奥からマダムとユキが駆けだしてきた。ユキはオーバーを胸に抱いたまま、青白んだ顔をこわばらせている。  「キミちゃん、それ、ほんと?」  と、ユキの声はうわずっていた。  「ほんとよ。しかも、たったいまのことよ。死《し》骸《がい》、まだ道にころがってるわよ。警察からひとがくるまで、そのまんまにしとくんですって」  「いったい、どうして殺されたの、けんかでもしたの」  「ううん、そうじゃないの。万引き女をつかまえたんですって。そしたら、その女がいきなり刃物で牧野さんの下腹をえぐったんですって。出血がひどくって、医者が駆けつけてきたときにはもういけなかったんですって。そいで、医者の注意で死骸はまだそのまんまにしてあるの。ひょっとすると、あたし、その女と霧の中ですれちがったかもしれないのよ」  と、江藤キミ子はまたじだんだをふんだ。  たぶんにヒステリー気味である。  「あたしいってくるね」  と、マダムが奥からオーバーとストールを持って駆け出してきた。  「牧野さんならちょくちょくごひいきになってたんだし、ユキちゃん、あんたもいかない? 牧野さん、いちばんあんたにご執《しゆう》心《しん》だったんじゃない」  「あたし、いや」  ユキがすねたようにそっぽをむいたひょうしに、宇野と視線がバッタリあって、その意地悪そうな笑顔に気がつくと、  「オーバーがないんだもの、いけないわ。マダム、いってきて」  ユキはそのまま奥へかけこんだ。  「あたしもいくわ」  「マダム、待って、あたしもいくから」  「宇野さん、あなたもいかない」  「さあ、どうしようかな。専務さん、あなたは……?」  「おれはよすよ、バカバカしいから。君、いってきたまえ」  「それじゃ、ハーさん、お留守番たのみます。宇野さん、それじゃいきましょう」  こうして、『サロン・ドウトンヌ』の連中は、長谷川とユキのふたりをのこして、みんな霧の中へ出ていった。ヒステリーの発作にとりつかれたような江藤キミ子をせんとうに立てて……。  十月二十三日の晩のことである。 三  霧の夜のこの殺人事件は、銀座かいわいに大きなショックを投げかけた。ことに、犯人が女だけに、その思いきった行動からうけるショックのかんじは深刻だった。  しかも、この事件はたぶんに迷宮入りしそうなにおいがつよかった。ただふたりの目撃者、塚本夫人も川崎和子も、ほとんどその女を見ていなかった。  その女が『たから屋』の店先へはいってきたとき、塚本夫人は表のほうへ背をむけていた。牧野がそのほうへいったとき、夫人ははじめてその女に気がついたが、ストールを頭から首へまきつけて、色眼鏡をかけた女……という印象しかのこっていない。オーバーの色さえおぼえていなかった。  川崎和子も同様だった。彼女が奥からでてきたとき、その女はすでに店から出ていこうとしていた。塚本夫人とふたりで入り口まで追ってでて、犯行の現場を目《ま》のあたりに見ていたのだが、それは濃い霧の中での出来事で、影絵のようにふたりがもつれるのを見ていただけだった。彼女もまた、オーバーの色もストールの形も識別してはいなかった。  なんにんかの人物が、銀座の歩道でこの女とすれちがったにちがいない。しかし、それはすべて霧の中の出来事である。この恐ろしい女は、霧の中へ、霧のように消えてしまったのである。  ただ、警察が唯一の頼みとするところは、女が贓《ぞう》品《ひん》を始末した場合のことである。さいわい女が持ち去った指輪もイヤリングも店の帳簿に記載されていて、その形状がはっきりわかっていた。  指輪のほうは四分の一カラットのダイヤをちりばめた十八金だが、ダイヤを抱いた台座のデザインに特徴があった。イヤリングのほうはさらに印象的で、大、中、小と三つの真珠をプラチナ製の朝顔の蔓《つる》がつないでおり、そういうデザインはちょっとほかに類がないだろうと思われた。  このふたつの贓品の出現だけが、警察にとって犯人捜査の唯一の頼みの綱だった。しかし、犯人が賢明ならば、おそらくこれは出てこないだろう……と、そう思われたにもかかわらず、案外これがはやく出現したのである。しかも、思いもよらぬ場所で、思いもよらぬ状態のもとに……。 四  十一月七日……それは木曜日だったが、正午ちょっとまえに金田一耕助が、警視庁の捜査一課、第五調べ室、等々力警部担当の部屋へ、れいによってれいのごとく、二重回しのまえをはだけたまま、飄《ひよう》々《ひよう》としてはいっていくと、  「あっ、金田一さん、ちょうどよいところへ……あなたもいっしょにいきませんか」  と、警部は興奮の色をおもてに走らせて、いましも出掛けようとするところだった。  「警部さん、なにか事件でも……」  「ええ、銀座の『たから屋』の店員殺し……あの事件の端緒がつかめそうなんです」  「ああ、あの霧の夜の事件ですね」  「ええ、そう。いま報告がはいったばかりで、これから出掛けようとしていたところなんです。あなたもいっしょにいらっしゃい」  「ああ、そう。それでは……」  と、表に待たせてあった自動車にのったとき、  「それにしても、そいつはラッキーだったですね」  と、金田一耕助はおもわずひくい声でつぶやいた。  金田一耕助も、あの事件については、新聞で読んでそうとうくわしくしっている。そして、犯人がヘマをやらないかぎり、こういう事件の捜査がいちばんむつかしいだろうと思っていただけに、いまの警部の言葉にはちょっとおどろいたのである。  「いま、『たから屋』事件の端緒がつかめたとおっしゃいましたが、ということは、犯人の目星がついたということですか」  「いや、そうじゃなく、あのときの贓品らしいものがあらわれたんです」  「どこから……?」  「いや、それが意外なところからなんですがね。とにかく、むこうへいってじぶんの目でみてください。わたしもいま電話で報告をうけとったばかりなんですが、『たから屋』の犯人がまたひとりやったらしい……」  「またひとりやったって?」  と、金田一耕助は目をみはって、  「それじゃ、また殺人事件……?」  「ええ、そう、その現場から『たから屋』事件の贓品らしきものがあらわれたという報告なんですがね」  「それは……」  自動車は吾妻橋をわたって向島へはいっていった。吾妻橋をわたったところに、所《しよ》轄《かつ》の警官がオートバイをとめて待っていた。自動車をとめて、等々力警部がふたことみこと話をすると、オートバイがすぐせんとうに立って走りだした。  まもなく自動車が横付けになったのは『みよし野荘』と嵯《さ》峨《が》ようで書いた虫食いの看板のあがったしゃれた門のまえである。温泉マークこそはいっていないが、待ち合いか連れ込み宿といった種類のうちらしい。  表にはそうとう野次馬がむらがっており、警官たちの出入りもあわただしかった。  等々力警部と金田一耕助の一行が門のなかへはいっていくと、  「ああ、警部さん、こちらへ……」  と、玄関で立ち話をしていた所轄の刑事がよってきて、玄関わきの枝《し》折《お》り戸のなかへ一行を案内した。枝折り戸のなかには石畳が敷きつめてあって、それを踏んでいくと、広い庭のなかに点々として、庵《いおり》づくりの風雅な離れが建っている。  これらの離れはみな母屋から独立していて、まわりを竹やぶでかこまれている。竹やぶでかこまれているのは、夏場障子をあけ放っていても外部からのぞかれないためと、もうひとつは笹の葉ずれの音によって、そのなかで演じられるところの男女の演技から発するさまざまな物音や音声を消そうという趣向だそうである。  金田一耕助がかぞえてみると、これらの離れはつごう五つあり、どれもひと間かふた間のほかに、小玄関と湯殿と便所がついているらしい。  つまり、男と女が忍び会うにはおあつらえの構造になっており、そこへ閉じこもってしまえば、女中の足音を気にする必要もなく、また、さっきもいったとおり、まわりをとりまく竹やぶの葉ずれの音がものの気配を消してくれるから、どんな大胆な遊戯にもふけることができるという寸法である。  金田一耕助と等々力警部が案内されたのは、その離れのうちのいちばん奥まった一《ひと》棟《むね》である。  「被害者の身元はわかったかね」  と、みちみち等々力警部がたずねると、  「はあ、わかりました。Y生命の専務で長谷川善三という男なんです。この家とはそうとう以前からのおなじみで、かわるがわるいろんな女をつれこんでいたというから、まあ、四十八歳の抵抗族とでもいうのか、そうとう道楽者なんですね」  小玄関からうえへあがると、表の四畳半のちゃぶ台におつまみものの用意がしてあり、ビールが二本からになってころがっているところは、あきらかに男と女が差しむかいで飲んでいたことを示している。ふたつのコップにそれぞれビールが半分ほどのこっていて、気が抜けた色をしてにごっている。  「やあ、どうも」  と、さっき電話をかけてきた所轄の捜査主任、河本警部補があいさつをして、  「どうぞこちらへ」  と、あいのふすまをひらくと、そこも四畳半になっていて、なまめかしい夜具にまくらがふたつ、まくらもとの電気スタンドのそばの銀盆に水差しとコップと灰ざらと、万事用意ができていて、灰ざらのなかにはピースの吸いがらが一本。  だが、それはあとで気がついたことで、河本警部補がふすまをひらいたとたん、金田一耕助はおもわずぎょっと息をのんだ。  掛け布団をひきめくった白いシーツのうえに、寝間着姿の男が大の字にふんぞりかえって、はだけたまえから太《ふと》股《もも》まで露出しているが、その下腹のあたりから恐ろしい血が噴きだして、ぐっしょりと寝間着をそめている。  「刺されたんだね」  「『たから屋』の事件とおなじ手口ですよ」  と、そこに居合わせた刑事がつぶやいた。  「それで……?」  と、等々力警部が河本警部補をふりかえると、  「はあ、女中の話によると、男のほうがさきにきたそうです。あらかじめ電話があったので、この離れを用意しておいたんですね。すると、八時ごろに男がやってきて、すぐにどてらに着かえて、ビールとつまみものを注文し、女中がそれを運んでくると、あとから女が訪ねてくるから、すぐにこちらへ通すように命じて、女中を遠ざけたそうです。すると、それから半時間ほどおくれて、女がこの男を名ざしてやってきたので、女中がすぐにこちらへ案内したが、それからあとのことはしらないといってるんですがね」  「この男、ここの常連だそうだが、ここへくるといつも泊まっていくの」  等々力警部の質問はもっともだった。こういう場所は事を行なうだけが目的で、用事をすますと男も女もさっさとかえっていくのがふつうである。ことに、Y生命の専務といえば、社会的にもそうとうの地位である。そういう人物がむやみにこんな場所で一泊するとは思えない。  「いや、泊まっていくということはめったになかったそうです。たいていは用事をすますと十二時ごろまでにはひきあげていったそうですが、それでもごくまれには泊まることもあったそうです。ですから、ゆうべなども、こんやのおあいてのご婦人は、よっぽどお気に召したらしいわねえなどと、このうちでも気にもとめずにひと晩過ごしてしまったんだそうです。ところが、今朝、何時になっても起きてくる気配がないので、女中がのぞきにくるとこの始末で……」  河本捜査主任も顔をしかめている。  「ところで、どんな女だったの、それ?」  「さあ、それなんですよ」  と、河本捜査主任はいよいよ顔をしかめて、  「ストールで頭から首をまいて、色眼鏡をかけた女……と、ただそれしかわかっていないんです。なにしろゆうべもひどい霧でしたからね」  そうだ、ゆうべもひどい霧だった……と、金田一耕助もうなずいている。  「じゃ、女中も顔をおぼえてないというのかい」  「はあ、なんしろ、ここ一軒建ての離れになっておりましょう。だから、その女が玄関へ顔を出して、長谷川さんは……というと、女中がすぐに出てきて枝折り戸から庭づたいに、こちらのほうへ案内したんだそうです。ですから、ストールをとらなくともべつに怪しいとも思わず……なにしろ、商売が商売ですからね、女が顔をかくしたがるのも当然だし、また女中のほうでも、なるべく客の顔をみないように訓練されているんでしょう。そこへもってきてゆうべのあのひどい霧ですから、ぜんぜんといっていいくらい顔を見ておらんのですよ」  と、河本警部補の話しぶりをきいていると、女中の不注意とうかつさを弁解しているようである。  等々力警部は内心苦笑しながら、  「それで、女をここへ案内すると、女中はすぐにひきかえしたんだね」  「そうです、そうです。飲みものやなんかはさきにきた男が注文していますし、お支度のほうもととのえておいたので、女がきても女中にはもうすることはなかったので、玄関さきまで女を案内すると、そのままひきさがったといってるんです」  「で、犯行の時刻は……?」  「ゆうべの八時半から九時ごろまでのあいだだろうという話ですから、女がやってくるとすぐのことらしいんですね」  「それで、なにかね」  と、等々力警部はむつかしい顔をして、  「事を行なった形跡は……?」  「いや、ところがそれがないんですね」  と、警部補は顔をしかめて、露出したみにくい男の太股に目をやりながら、  「さっき柳井先生にそこを調べていただいたんですが……それに、この裏にバスがあるんですが、バスを使った形跡もないんです」  「それで、紛失しているものは……?」  「はあ、紙入れがありません。紙入れにどのくらいはいっていたか、これは長谷川家に聞き合わせてみなければわかりませんが……それから、女中の話によると、金側の腕時計をしていたそうですが、それも紛失しているようです」  「すると、目的は物取りかな」  「ということになりそうですね。素姓もしれぬ女にひっかかって、こんなところへ食わえこんだのはよかったが、いざというときぐさりとひと突き……色好みの男にゃよい教訓になりそうです」  と、警部補は慨嘆するようにつぶやいたが、急に思いだしたように、  「そうそう、紛失してるといえば、妙なものが紛失してるんですよ」  「妙なものって……?」  「この男のズボンとオーバーとくつが見えないんです」  「ズボンとオーバーとくつがない……?」  と、等々力警部はまゆをひそめ、金田一耕助もふしぎそうに目をしょぼつかせた。  「ええ、そうなんです。ほら、シャツからももひき、さるまた、上着やチョッキやワイシャツの類はあのとおり乱れ箱のなかに残ってるんですが、ズボンとオーバーとくつがどこを探しても見当たらないんです。これ、いったいどういうわけでしょうねえ」  「ズボンとオーバーとくつがねえ」  金田一耕助はぼんやり口のなかでつぶやいたが、その目がきゅうにかがやきだしたところをみると、この事件にたいする興味がにわかにたかまってきたのではないか。  等々力警部もふしぎそうにまゆをひそめていたが、急に思いだしたように、  「そうそう、ときに、河本君、『たから屋』事件の贓品らしいものが出てきたというのは……?」  「ああ、そうそう、失礼しました。こんなものがまくらの下から出てきたんですが……」  と、警部補がポケットの封筒から取りだしてみせたのは、大、中、小と三つの真珠をプラチナ製の朝顔の蔓《つる》でつなぎあわせたイヤリングの片方だった。 脅迫者 一  霧の中の女の二度目の犯行ほど、異常なセンセーションをまきおこした事件は近来まれだった。  彼女はまず十月二十三日の晩、銀座の『たから屋』へあらわれて、ダイヤ入りの指輪とイヤリングと……ただそれだけの品物を手にいれるために、ひとりの男の生命を奪うことも辞さなかった。彼女はじつに平然として刃物をふるった。そこにはみじんの感傷も良心のうずきもないかのようだった。  しかも、彼女はそれから二週間のち、問題のイヤリングを身につけて、向島の『みよし野荘』へあらわれて、またしてもおなじ手口で凶刃をふるっている。そして、そこに、はからずも重大な証拠となるべき問題のイヤリングをのこしていったのだ。  まえにもいったように、被害者のズボンとくつとオーバーが紛失していたが、上着やチョッキはのこっていたのだ。ところが、その上着やチョッキのどこからも、紙入れやがまぐちは発見されなかった。  被害者長谷川善三氏夫人みさ子の証言によると、長谷川氏はいつも上着のポケットに紙入れを、バラ銭をいれておくがまぐちをズボンのポケットにいれておく習慣があり、五万円はかかさず身につけていたという。その紙入れやがまぐちが紛失しているうえに、左の指にはめていた十八金のエンゲージ・リングと、ロンジンの金側腕時計が紛失していた。  だが、それらの品を総合しても、十万円とちょっとの価格のものである。霧の中の女にとっては、かくも人命は安価なものであろうか。それとも、彼女のかんがえかたでは、被害者の口を封じておくことがもっとも効果的な完全犯罪だと思っているのだろうか。  しかし、それにしてもおかしいのは、犯人はなぜズボンとくつとオーバーを持ちさったのか、なぜ上着やチョッキはのこしていったのか。彼女がもしオーバーや洋服類まで贓品のうちに勘定しようというのならば、上着とチョッキをのこしておいては意味がないのではないか。  だが、いずれにしても、それが女性の犯罪だけに、その冷酷無惨な鬼畜性が多くの問題を投げかけた。  しかし、捜査当局にとって第二の事件は非常にありがたかった。第一の事件ではひろい東京の霧の中からただひとりの女をさがしださねばならなかったのだが、第二の事件によって捜査範囲がうんとしぼられることになったわけである。  色好みの長谷川善三氏には女出入りが多かった。この『みよし野荘』へもとっかえひっかえいろんな女をつれこんだというが、ちかごろかれがもっとも熱をあげていたのが、『サロン・ドウトンヌ』だとわかると、俄《が》然《ぜん》、捜査の焦点はこのアルバイト・サロンにむけられた。  ことに、第一の事件のあった夜、しかも牧野康夫が刺されたとおもわれる時刻の直後、ペンキ塗りたてのポストに抱きついたといってオーバーのまえを赤いものでよごしてかえった女があると聞き込んで、等々力警部は俄然緊張した。  「ああ、君だね、十月二十三日の晩、霧の中でペンキ塗りたてのポストに抱きついたというのは……?」  「はい……」  村上ユキはすっかり血色をうしなっていた。  もともと彼女は色白の膚のきれいな女で、『サロン・ドウトンヌ』でもピカ一だが、警視庁捜査一課、第五調べ室へ出頭を要請されたとき、ユキの膚は恐怖にあわ立ち、ひとみはものに憑《つ》かれたようにあやしくとがっていた。  金田一耕助はかたわらから興味ふかげに彼女の左の耳たぼをながめている。そこには新しいかすり傷のあとがある。  「村上ユキさんというんだね。ひとり? だんなさんは……?」  「はあ、主人はあります」  「だんなさん、職業は……?」  「鉄道のほうへ勤めております。S駅の手荷物一時預かりの係で……」  「それで君をアルバイト・サロンに勤めさせておくの?」  「はあ。子供が病身なうえに、母……あたしの母がいるものですから」  「なるほど。ところで、十月二十三日の晩、『たから屋』で人殺しがあった晩、君はペンキ塗り立てのポストに抱きついたというが、それはどこのポスト?」  「銀座四丁目の角のポストでございます」  警部の合図にすぐひとりの刑事が部屋を出ていった。はたして、そこのポストが最近、塗りかえられたかどうか調べにいったのだろう。  「しかし、君はあの霧の中をどこへ出かけていったの?」  「はあ、母にたのまれておりましたので、表通りの薬局へ粉乳を買いにまいりましたので……」  「しかし、『サロン・ドウトンヌ』の連中の話じゃ、かえってきたとき君はなにも持っていなかったというが……」  「はあ。いってみると、薬局はもうしまっておりましたものですから……」  「そのかえりにポストに抱きついたの?」  「はい。深い霧でかこいが見えなかったものですから……」  「いま着てるそのオーバーがそれなの?」  「はあ」  等々力警部はおもわず金田一耕助と顔を見合わせた。ユキは気がついているのかいないのか、赤系統のオーバー地のまえにくろずんだ汚点がうすくかすかについているのを……。  「ところで、もうひとつ聞くが……」  と、等々力警部は緊張のためにうわずりそうになる声をおさえて、  「一昨々日の晩、すなわち十一月六日の晩だがね、君はサロンをやすんだということだが、どこへいってたの。家は三時ごろ出たというのに……」  ユキのおもてはとつぜん追いつめられた野獣のように恐怖にゆがんだ。彼女はあやうく失神しそうになる体をやっとデスクのはしを両手でつかんで支えると、  「なにもかも正直に申し上げます。あたし……あたし……だれかにわなにおとされたんです」  「わなに……それ、どういう意味……?」  「はい」  と、ユキは火を吹くような目できっと警部の顔を見すえながら、  「十月二十三日の晩……つまり、あの事件のあった晩、みんな『たから屋』さんの事件を見にいって、あとにはあたしとハーさん……長谷川さんのふたりきりになったんです。そのとき、ハーさん、いえ、長谷川さんから、ふたりきりでどこかへいかないかと誘われたんです」  「ふむ、ふむ。それで……」  「あたし、いままでいちども、お客さんとそんなことをしたことはありません。謙ちゃん……主人に貞操を守りとおしてきたんです。しかし、さしあたり子供の病気のことでとてもお金がいることがあったものですから、つい、ハーさんと約束したんです」  「どういう約束……?」  「水曜日の晩は主人が宿直になります。その晩だったら、多少おそくなっても謙ちやんに疑われずにすみます。十月二十三日は水曜日でした。しかし、すぐその晩は決心がつきかねたので、来週の水曜日の晩と……」  「そのつぎの水曜日というと、十月三十日ということになるね」  「はあ」  「その晩、長谷川氏とどこかで会ったの?」  「いえ。ところが、それがいけなかったんです」  「いけなかったとは……?」  「はあ、あの、あたしの体のつごうが……」  ユキは蒼《そう》白《はく》のおもてに朱を走らせた。  「ああ、生理休暇……?」  と、金田一耕助がくちびるをほころばせた。  ユキはちらとそのほうへ目をやって、屈辱のために紫色になった。  等々力警部はそんなことにはお構いなしに、  「すると、そのつぎの水曜というと、すなわち一昨々日、長谷川氏が殺害された六日ということになるわけだね」  「はい。それですから、あたし、わなにおとされたんです」  と、ユキはとつぜん両眼から涙をたぎらせたが、すぐぐいとおもてをあげると、  「六日の晩、あたし、ハーさん……長谷川さんと『みよし野荘』で会う約束をしていたんです。ところが、五日の日、長谷川さんからサロンのほうへ手紙がきて、歌《か》舞《ぶ》伎《き》座《ざ》であおうといって、六日の夜の部の切符を一枚送ってきたんです。あたしそれをまにうけて歌舞伎座へいったんです。そしたら、いつまで待っても長谷川さんはこなかったんです。しかも、あたしのすぐ隣の席がしまいまであいていたので、あたしはそこへ長谷川さんがくることだとばかり思って、お芝居がはねるまで待っていたんです」  「座席番号をおぼえていますか」  と、金田一耕助がそばから尋ねた。  「はあ、はの二十三番でした。二十四番がしまいまであいていたんです」  「その手紙はどうしました」  「それは破いてしまいました。うっかり謙ちゃんに見つかるといけませんから……」  と、涙がかわいて放心したような目つきになったユキは、意味もなくデスクのうえを見つめながら、うつろにひびく声で、  「あたし、ほっとしたような気もしました。危うい瀬戸際で助かったとも思ったんです。それで、そのままうちへかえったのですが……もうご承知と思いますが、あたし小田急沿線の経堂で間借りをしております。駅からかなりはなれて寂しいところです。ところが、うちのそばまでくると、暗がりの中からいきなりどすんとひとがつき当たって、あたしのイヤリングをもぎとっていったんです」  と、ユキは左の耳たぼをかるくおさえる。そこにあるかすり傷の跡をみて、金田一耕助と等々力警部は顔を見合わせ、警部は口をゆがめてウウムとうめいた。 二  ユキの供述には一部分真実性が認められた。  銀座四丁目の角にあるポストは、十月二十三日の正午過ぎに塗りかえられ、しかも、たしかにそこにだれかが抱きついたらしい跡がのこっていた。  また、十一月六日の夜の歌舞伎座の「はの二十四番」の切符は、売れていながら回収されていなかった。しかし、「はの二十三番」の客がはじめからしまいまでいたかどうか、それがどういう人物であったかということは、だれも証言するものがいなかった。  ちなみに、長谷川善三氏が『みよし野荘』へやってきたのは八時ごろ。したがって、ストールの女がやってきたのは八時半ごろのことである。そのころ、歌舞伎座の「はの二十三番」にユキがいたかどうか、不幸にしてだれも証言しうるものはいなかった。  ことに、ユキのオーバーから検出されたのが血《けつ》痕《こん》であることが証明されるにおよんで、彼女にたいする容疑は決定的なものとなった。ただ、ふたりの被害者、牧野康夫も長谷川善三氏もともにO型だったので、それがどちらの血痕であるかわからなかったが、その新しさからいって、おそらく後者のものだろうと思われた。  村上ユキが逮捕されたという報道は、銀座かいわいを震《しん》撼《かん》させた。  ユキは金にこまっていた。ユキの子供は入院を必要とするほど重体だった。ユキは入院費をかせぐ必要に迫られていた。子供にたいする愛情が、ユキをデスペレートな行為に駆りたてたのだ……。  しかし、ユキの子供は入院していない。彼女がさいきんまとまった金を手にいれたという形跡はどこにもなかった。いったい、ダイヤの指輪やロンジンの腕時計を、ユキはどう処分したのか……。  いや、ユキはまだそれをどこかに隠匿しているのだ。ほとぼりのさめるのを待って持ちだすのだ。それとも、凶行のあとになって、いまさらのようにじぶんの行為がおそろしくなって、それを利用する勇気をうしなったのかもしれぬ……。  こうして、ごうごうたる世論のうちにひと月たって、十二月八日のことである。  世間をはばかってしばらく勤めをやすんでいたユキの夫の村上謙治は、しばらくぶりにS駅の手荷物一時預かりの係へ出た。  だれもかれも、謙治の顔をまともに見るのを避けた。謙治も必要以外に口をきかなかった。  だが、かれは心の中で叫びつづけている。  「負けるもんか。負けるもんか。おれの女房は潔白なんだ。おれの女房は人殺しなんかしやあしない。おう、かわいそうなユキ! おれが意気地がないばかりに……畜生! 畜生! おう、ユキ! ユキ!」  かれはうんと積んである一時預かりの荷物をぶん殴った。床においてあるスーツケースをけとばした。  だれも謙治をとめるものはいない。かれの形相のあまりのすさまじさに恐れをなしたからである。  とうとう謙治は声を立てて叫んだ。  「ユキ! ユキ! しっかりしろ! おれがついてるぞ。おれという亭主が……」  謙治の目から涙があふれ、かれの凶暴さはいよいよ手がつけられなくなった。  「おい、よせ、よさないか」  見るに見かねて同僚がとめにかかったが、  「なにを!」  と、最後にふるった謙治の一撃に、荷物の山ががらりとくずれて、その中のスーツケースのひとつがパックリとふたをひらき、なかから男のくつの片方がとびだした。  「それ、見ろ、乱暴なまねをするな」  同僚はぶつぶついいながら、錠前のこわれたスーツケースへ中からこぼれ出したものをしまいかけたが、とつぜん、  「あっ、血だ……」  と、たまげたような声をはなった。  「えっ!」  「おい、村上、これ、見ろ! これ、血じゃないか、このストールについているの」  「ス、ストール……?」  村上謙治はぼうぜんとして、同僚の手にあるストールをぐっしょり染めている赤黒い汚点をながめていたが、なに思ったのか床にころがっている錠前のこわれたスーツケースにおどりかかってなかを引っかきまわしていたが、そこから出てきたのは、男物のオーバーとズボンと一足のくつ。上着とチョッキは見当たらなかった。 三  十二月十日の晩八時ごろ。  『サロン・ドウトンヌ』のマダム雪枝が、日比谷の角にある公衆電話から、どこかへ電話をかけている。  「こちら、だれだっていいじゃあないの」  と、マダムはわざと声をかえて、  「とにかく、あたしは見たのよ。十月二十三日の晩、あんたが銀座四丁目の角で、霧にぬれた歩道からなにかを拾いあげるのを……あたし、それをたしかにイヤリングだとにらんだの。あたし、声をかけようとしたんだけど、あわててそれをポケットへつっこんだあんたの素振りがおかしかったので、おやと思ってあたしは顔をそむけてしまったの。また、だれだって聞くの? だれだっていいじゃないの、そんなこと。ほっほっほ」  口では笑っているものの、雪枝は左の指にまきつけたハンカチでしきりに額の汗をこすっている。くちびるがかさかさにかわいて、ともすれば声がふるえそうになる。  「ところが、翌日の新聞を見ると、万引き女が指輪とイヤリングを盗んで逃げたとあるでしょう。だから、あんたが拾ったもの、てっきり万引き女が逃げる途中、落としていったんだとにらんだのよ。だから、あんたがいまに届けて出るか出るかと心待ちにしていたのよ。ほとんど毎日顔を合わせながら、あんたの顔色ばかりうかがっていたのよ。そしたらどうでしょう、それから二週間たって『みよし野荘』の事件……そこに盗まれたイヤリングが落ちてたって刑事さんから聞かされたとき、あたし気が狂いそうになったわよ。恐ろしいひとね、あんたってひとは……? え? なに……ほっほっほ」  と笑いながら、マダムはかさかさにかわいたくちびるをなめた。しかし、その目は獲物をねらう野獣のようにかがやきはじめた。  「そんなこと、だれにもしゃべりゃあしないわよ。ひとにしゃべったら元も子もなくなるじゃないの。え? なに? ええ、ここ日比谷公園のすぐまえの公衆電話よ。えっ、すぐ来てくれる? 大丈夫、大丈夫、ひとにしゃべったら、金の卵をうむ鶏を殺しちまうようなものじゃないの。そうね、できるだけ人目につかないところがいいわね。そいじゃあね、交差点のところから公園へはいってまっすぐに、『松本楼』のほうへいらっしゃい。あたし途中で待っている。あんたの姿を見たら、暗がりんなかから懐中電灯を三回明滅させるわ。できるだけたくさん用意してくるのよ。ほっほっほ。じゃあ、のちほど」  雪枝はガチャンと受話器をおくと、ボックスの壁にもたれて、しばらくはあはあとあえぐような息づかいだった。  それから半時間のち、すなわち十二月十日の八時半ごろのことである。  日比谷交差点の入り口から『松本楼』へむかう道の途中の小暗い植え込みのなかに、ストールをかぶった女がひとり、ひと待ちがおに立っていた。  『松本楼』ではこんや宴会でもあるのか、さっきからひとしきり自動車の往復がはげしかったが、それもぴったりとだえると、あとはほとんどひとどおりもない。わかいアベックがひと組み手をとりあって、なにか小声でささやきながら、そこよりいっそう暗い方角へ消えていったかと思うと、あとはしいんとした静けさにつつまれてしまった。  『松本楼』の方角から潮《しお》騒《さい》のようにきこえてくるさんざめきや、公園のわきをとおる電車のきしる音などが、かえって女のひそんでいる植え込みのあたりの静けさを強調しているようにも思われる。  とつぜん、『松本楼』の方角から、コツコツと舗道をふむくつの音がきこえてきた。そのくつ音は、なにかをあさるように、ときどき歩調がはやくなったり、おそくなったりする。  植え込みのなかの女は、それを聞くとちょっと体をかたくした。女はあきらかに公園の入り口のほうへ気をとられていたのだが、どうやら彼女の待ち人は反対の方角からやってきたらしい。そのくつ音の、はやくなったり、おそくなったり、あるいはときどき停止したりするところをみると、くつ音のぬしはいまあきらかに大きな不安と逡《しゆん》巡《じゆん》にとらわれているのである。  そのくつ音が二、三メートルほどてまえまできたとき、植え込みのなかの女は、こころみに手にした懐中電灯を二、三度明滅させて合図をしてみる。  と、くつ音のぬしはぎょっとしたように立ちどまり、すばやくあとさきを見まわした。さいわいあたりに人影はない。それでもくつ音のぬしは用心ぶかく、植え込みのなかをすかしていたが、あいてが女ひとりと安心したのか、のろのろそのほうへちかづいていった。  「君かい? さっき電話をかけてきたのは……?」  低い、しゃがれた声がすこしふるえているようである。  「ええ、そう……」  ストールのおくで女がこれまた小声でこたえたとたん、ふたりの影がさっともつれて交錯した。  「なにをする!」  叫んだのはストールの女だったが、それはあきらかにふといさびのある男の声である。  「あっ!」  と、あとからきた男が叫んだとたん、その体はたたらをふむようにまえのめりになり、やっと体勢をたてなおしたとき、右の手首にぴしりと唐《から》手《て》の痛撃をくらって、手にした短刀をとりおとしていた。  たたかいはそれで終了したのである。つぎの瞬間、唐手の一撃で骨折した男の右手は、左手とともに手錠のなかにあった。  「やあ、山田君、ご苦労、ご苦労」  植え込みのおくの暗がりからばらばらととび出してきたのは、等々力警部と金田一耕助。ほかに私服がふたりいる。  等々力警部が女装の山田刑事の労をねぎらいながら、手錠をはめられた男の顔に懐中電灯の光をむけると、それは金田一耕助が予想していたとおり、長谷川善三の秘書宇野達彦だった。達彦の目には、わなにかかった獣の凶暴さがギラギラとかがやいている。 四  「村上ユキが赤いペンキのポストに抱きついたこと、それから霧の路上でイヤリングを拾ったこと……このふたつが宇野達彦を誘惑して、ああいう犯罪を思いつかせたんですね」  そこは緑ガ丘町緑ガ丘荘にある金田一耕助のフラットである。その快適な応接室で、金田一耕助は後日、この探偵談の記録者であるところの筆者にむかって、この事件についてつぎのように解説してくれたのである。  「ちかごろじゃ女も打算的になってますから、若いものが女にもてるとは必ずしもいえなくなってますからね。そこへもってきて、口に毒のあるうえにどこか陰険なかんじの宇野達彦は、どこへいっても女にもてなかった。それにはんして、ロマンス・グレーの長谷川専務は、的中率百パーセントを誇っていました。そのことと、ユキを口説いてこっぴどくひじ鉄砲をくらったことが、宇野のプライドをきずつけ、心のなかでいつまでも執念ぶかくどすぐろい炎となってもえつづけていたんですね。だから、長谷川専務を殺害してその罪をユキになすくりつけようというのが、陰険な宇野達彦の計画だったわけです」  「なるほど。そうすると、敵は本能寺というわけで、宇野のねらいは長谷川よりむしろユキにあったんですか」  筆者の質問にたいして、金田一耕助は暗い目をしてうなずいた。  「そうです、そうです。一石二鳥といいたいところですが、達彦のねらったのはむしろユキにあったようです」  「すると、『みよし野荘』へやってきたストールの女というのは宇野だったわけですね」  「ええ、そう。宇野は秘書ですからね、注意していれば長谷川の行動が手にとるようにわかるわけです。そこで、あの晩、長谷川が『みよし野荘』でユキとあいびきすることをしった宇野は、先手をうってユキを歌舞伎座へおびきだした。これはユキの身代わりをつとめようという意味と、もうひとつはユキのアリバイを不《ふ》明《めい》瞭《りよう》ならしめようというふたつの目的をもっていたわけですね」  「なるほど。それじゃ殺害された長谷川が女と事をおこなった形跡がなかったのは当然ですね。あいてが女装の男じゃあねえ。しかし、金田一さん」  「はあ」  「長谷川の紙入れやロンジンの腕時計を盗んだのは、金にこまっているユキに罪をきせるつもりだったとしても、オーバーやズボンやくつがなくなったのはどういうわけです。それに、S駅の一時預かりから出てきたオーバーやズボンというのがそれだったんですか」  「そうです、そうです。宇野達彦の陰険な計画は九分九厘まで成功したんですね。もし、長谷川専務が刺されたとき、あいてのストールをむしりとらなかったら……長谷川は宇野のかぶっていたストールをむしりとると、苦しまぎれにそのストールでじぶんの傷口をおさえたんです。おかげでストールは血だらけになってしまいました。いかに達彦がだいたんな男でも、血だらけのストールをかぶって歩くわけにはまいりませんや。といってストールの下は男の地頭である。スカートにかかとのたかいくつでは歩けません。そこで、長谷川専務のズボンと、くつと、オーバーが必要になってきたわけです」  「なるほど。長谷川のズボンとくつをはき、そのうえからオーバーを着て、男にかえって逃げだしたというわけですね」  「そうです、そうです」  「そして、それらのズボンやオーバーのしまつにこまって、S駅へ一時預けに預けっぱなしにしておいたというわけですか」  「ええ、そう。だけど、それがユキの亭主によって発見されたというのはいささか小説めいておりますが、世の中にはままこういうこともあるもんですね。ぼくはそのスーツケースのなかから血まみれのストールが出てきたとき、犯人は女装の男だったんじゃないかと、はっきりしるにいたったというわけです」  「そうすると、ユキに歌舞伎座の切符を一枚送ったり、ユキの帰途を待ちぶせてイヤリングをむしりとったりしたのも宇野なんですね」  「そうそう。そして、そのとき、さっき『みよし野荘』で殺してきた長谷川の血をユキのオーバーになすくりつけておいたんですね。ところで、歌舞伎座の切符ですが、二枚買って一枚をロスにしたところがうまいですね。それによって、ユキをいまくるかいまくるかと終演まで歌舞伎座にひきとめておくことができたんですからね」  「そうすると、宇野のところへマダムの雪枝が脅迫の電話をかけたのは……?」  「いや、あれは等々力警部と相談のうえ打ったお芝居なんです。ああでもしなければきめてがなかったもんですからね。宇野があの霧の晩にイヤリングを拾ったのであろうというのは、たんにぼくの想像にすぎなかったんですから」  筆者はちょっと唖《あ》然《ぜん》として金田一耕助の顔を見ていたが、  「ところで、金田一さん、『たから屋』の万引き殺人はどうしたんです。いまのお話じゃ、第二の事件と関係はなかったんですか」  「あっはっは、いや、おっしゃるとおりで……」  と、金田一耕助は白い歯を出してわらいながら、  「だから、さいしょに申し上げたとおり、霧の路上でイヤリングを拾ったことが宇野達彦を誘惑して、こういう犯罪を思いつかせたんですね。あのイヤリングを利用して『たから屋』の事件と関連性をもたせておけば、たとえユキを罪におとすことに失敗しても、じぶんに疑いがかかってくることはあるまいというのが、宇野の考えかただったんです。『たから屋』の事件のばあい、宇野はりっぱなアリバイがありますからね。ところが……」  と、金田一耕助は渋い微笑をうかべて、  「ここにおもしろいのは、この事件が箴《しん》をなして、『たから屋』の事件もそれからまもなく解決しましたよ。つまり、第二の事件の犯人が意外にも女装の男だったので、ひょっとすると『たから屋』の事件もそうじゃないかってことになり、その方針で捜査していったところが、とうとう鉄火のテッちゃんという男《だん》娼《しよう》がつかまりましたよ。そいつが『たから屋』のほうの犯人だったんです」 洞《ほら》の中の女 一筋の毛髪 一  その家は半年あまりも空き家になっていた。  月に四、五回は家を探しているひとが周旋屋の案内で見にくることはくるのだが、値段が折り合わないのか、それとも日当たりでもわるいのか、あるいはどこか使い勝手の悪いところでもあるのか、いつも話がまとまらずに、去年の八月ごろからこの二月まで、空いたままになっていた。  去年の八月までこの家に住んでいたのは、日《ひ》疋《びき》隆介といって、銀座裏で『ドラゴン』というキャバレーを経営している男であった。  やせぎすの、目つきの鋭い、男っ振りは悪くはないが、腕のどこかに彫り物でもありそうな、ちょっとすごみな人物であった。キャバレーへ出入りする客の話によると、もと満州ゴロかなにかであったという。  日疋隆介がこの家を売りに出したのは、べつに子細あってのことではない。  だいたい、かれはこの家が気にいって買ったわけではなく、終戦直後の昭和二十二年ごろ、満州から引きあげてきたかれは、家でさえあればどこでもよく、またどんな家でもかまわなかった。だから、多少いんきで、使い勝手の悪い家だと思ったが、そのかわりに値段も安かったので手にいれたのである。  その後、かれは何度もこの家に手をいれたが、家というものはさいしょの設計が間違っていると、手をいれればいれるほどかえってへんになるものである。妻の兼子のごときはそれをしっていて、いつも夫をいさめていたが、日疋にはちょっと普請道楽みたいなところがあって、口では面倒くさがりながらも、毎年かならず一度は大工がはいって、家のどこかをいじっていた。  ひとつには子供のいない夫婦のさびしさから、せめて家のふんいきにでも変化を求めていたのかもしれない。  ところが、とつぜん、去年の春、妻の兼子が心臓マヒで急死してから、日疋はにわかにこの家にいやけがさしてきた。かれはかくべつ感傷家ではなかったから、その家のすみずみに亡妻の思い出がこびりついているのを苦痛にかんじたというのではない。  ただ、妙にいじくりまわしたこの家が急に醜くかんじられたらしい。ちょうど小じわをかくすためにいやにおしろいをぬたくった四十女の顔でも見るような嫌《けん》悪《お》感《かん》をいだきはじめたのである。  それに、まだ四十八歳にしかならぬ日疋は、そのまま独身でとおすわけにはいかなかった。キャバレーというような派手なしょうばいをしているかぎり女に不自由はしなかったが、やはり家庭をもつ以上、妻というものが必要だった。  それには、居は気をうつすともいうし、さいわい手ごろな家も見つかったので、しんきまきなおしで出直すつもりで、吉祥寺のほうへ移っていった。そして、そこへ移るとまもなく、『ドラゴン』のナンバー・ワン、珠子という女を妻として家へいれた。むろん、珠子とは兼子が生きているじぶんから関係があり、そのために、兼子ともちょくちょく問題を起こしていたようである。  さて、問題の家というのは、小田急沿線の経堂のはずれ、赤堤というところにあるのだが、キャバレーのほうで収益がたくさんあるのか、日疋はその家をそれほど売りいそぎはしなかった。ひとに足元を見られるのがきらいな日疋は、安くたたかれると意地にでも手放す気にはなれなかった。  それでも、とうとうその家に買い手がついた。  その家を買ったのは根岸昌二という小説家で、周旋屋を通じて商談が成立したのだから、それまでぜんぜん日疋と交渉のない男だった。根岸の一家は、三月のはじめごろ、霜解けの道をぬからせて引っ越してきた。昌二の妻は喜美子といって、夫婦のあいだにことし七つになる和子という娘がひとりある。根岸はこの二、三年急に売りだしてきた大衆作家である。  根岸の一家が移ってきてから半月ほどたってから、喜美子の友だちの岡沢ハルミが遊びにきたが、喜美子の顔を見るなり、  「ああら、やっぱりこの家だったわ。あたし、この家なら、まえにも二、三度あそびにきたことがあるのよ」  と、まゆをひそめるようにしていった。 二  ハルミのそのいいかたに妙にかげがあったので、喜美子はなにかドキリとしたものをかんじずにはいられなかった。それでもさりげなく座敷へとおすと、  「ハルミちゃん、それじゃあんた、この家のまえの持ち主しってるの」  「ええ、ちょっとね」  と、ハルミは鼻の頭へしわをよせると、妙にてれくさそうな笑いかたをする。ハルミと喜美子は、昭和二十五、六年ごろ、銀座裏のおなじバーに働いていたことがある。  喜美子はその後、根岸という男をつかまえて、当座は生活にも困ったけれど、ちかごろでは流行作家の妻として一軒の家までもてるような身分にもなったが、ハルミのほうはいまもって、バーへ出てみたり、人のめかけになってみたり、不安定な生活をしている。  ちかごろはまた男と別れて、銀座裏のバーへ出ているのである。  「この家のまえの主人、『ドラゴン』というキャバレーの経営者だったって話だけど、そんな店、銀座にあったかしら」  「そうね、あんたはしらないかもしれない。あんたが働いてたころはちっぽけな店だったからね。ちかごろは隣を買って店をひろげたり、そうとう盛大にやってるわ」  「あんた、そのひとしってるの。ここへ二、三度遊びにきたことがあるっていうと……?」  「うん」  と、ハルミはまた鼻のうえにしわをよせ、  「泊まってったこともある」  「まあ。それじゃ奥さんなかったの」  「奥さんあっても、心臓が弱くて、寝たり起きたりだったからね」  「あんた、そのひととなにかあったの?」  と、喜美子はべつにひとの情事にふかい関心をもっているわけではない。わけても、この友達の無軌道にはもう慢性になっている。しかし、一応好奇心はうごくのである。  「ひどいやつよ、日疋って。ひどいっていうより、すごいやつかな」  「うっふっふ、食い逃げされたのね」  「まあ、そんなもの。それがさ、二度あそびにきて三度目よ。しかも、そのときは友達と三人、つまりマージャンに誘われたのさ。おそくなって泊まってけでしょう。友達と三人だから大丈夫と思ってると……」  「なにかあったの……?」  「三人が順繰りよ」  「まあ」  「ひどいやつ、あさましいやつと思いながら、それがどうにもならないのさ。なんだかすごくて……まあ、いってみれば春の突風に襲われたみたいなものね。あれよあれよというまに、三人ともおもちゃにされちまったの」  「それで……」  と、さすがに喜美子は息をのんで、  「奥さんはそのときどうしてたの。なんにもしらずに寝てたの?」  「さあ……ほら、そのむこうに離れがあるでしょ」  「ええ。いま主人が書斎にしてるわ」  「そのはなれでの出来事よ。奥さんはこの座敷に寝てたはずなんだけど、そんなに遠方というわけじゃなし、三人がなにされるあいだしらないというはずはないわ。やはり亭主が怖かったんじゃないかしら」  「それで、ほかのふたりはどういうひと」  「うっふっふ」  と、ハルミはまた鼻のうえにしわをよせてわらうと、  「そのうちのひとりがいまの日疋の奥さまよ。それを機会に因縁をつけていったのね。日疋としては、もうひとりのほうに興味があったようだけど」  「もうひとりというのは……?」  「田《た》鶴《ず》子《こ》って、そのひと、だんなさまのあるひとだったの。あたしたちの仲間、だんなさまがあったってそんなこと案外平気だけど、そのひとはそうじゃなかったらしく、それからまもなくお店をよしたわ。それが打撃だったらしく、だんなさまとも別れたっていってたけど……」  「いつごろのこと、それ?」  「去年の春の話よ。それからまもなく、奥さんが心臓マヒかなんかで死んだって話」  そこへ娘の和子がけたたましい声で庭先へやってきた。  「ママ、ママ、ちょっときてごらんなさい。へんなとこから毛が生えてるわよ」 三  この家の庭のすみっこには、三抱えもあろうと思われる大きなケヤキの木が、からかさをひろげたように枝を張っている。  いまはまだ春も浅いから、枝ははだかのままだが、太い根はタコのように三間四方にまで脚をひろげている。しかも、その根元は大きなうつろになっているのだが、そのうつろにはギッチリとセメントがつめこんである。  この家を下見にきたとき、根岸昌二は周旋屋にむかっていった。  「これはまたずいぶん無粋なことをやったもんだね。洞《ほら》にしておいたほうがよっぽど風流でよかったろうに」  「いや、まあ、ものをお書きになるようなかたはそんなふうにおかんがえになるでしょうが、風でも吹いたら危ないですからね。それで、せんのだんながそんなふうにセメントをつめこんだんでしょう」  「風が吹いたら危ないからって、これだけ根を張ってるんだもんな」  と、根岸昌二はとんとんと大地を踏んでみたが、むろんそんなことでびくともすることではなかった。  「そんなにこのセメントが気におなりになるんでしたら、お取りこわしになったらいいじゃありませんか。なんなら、そのうちにわたしが仕事師をつれてきてこわしてあげてもよろしゅうございますよ」  周旋屋はこの土地のもので、当然この経堂へんでは顔役だった。  「じゃあ、そのうちにそうしてもらうかもしれない」  根岸昌二はじっさいそのセメントは掘りかえしてしまうつもりだったが、移ってきてからまだ半月、なにかと身辺がごたごたしているので、そこまでは手がまわらなかったのである。  いま、このセメントづめにされた洞のまえに、ふたりの女とひとりの少女が、漂白されたような顔をして凝然と立ちすくんでいる。  なにかしら不吉な思いが喜美子とハルミの頭をかすめるらしく、ふたりとも息をひそめて、まじまじとその薄気味わるいものを見つめている。まだ七つにしかならない和子には、そのことのほんとの恐ろしさは理解できなかったけれど、母と母の友達の凝結したような表情におびえて、これまた体をかたくして、喜美子の腕にまつわりついている。  ふたりの女のおびえているのは、洞をつめたセメントの表面から、一本ふわりとはみ出した黒い長い髪の毛である。それはたしかに人間の髪……それも、その長さからして、女の黒髪にちがいなかった。  そのまがまがしい黒髪は、おりからの微風をうけて、ふわりふわりとそよいでいる。  「喜美子さん!」  と、ハルミは息をのむように、  「この洞のなかに、だれか女の死体がつめられているんじゃない?」  「いや、いや、そんなこと! ハルミちゃんのバカ!」  「だって、セメントから髪の毛が生えるはずがないじゃないの。きっと、だれか殺されて、この洞のなかにつめこまれているのよ。どうせ日疋のことだもの」  「そんな、そんな……ハルミちゃん、あんた、あたしたちの家にけちをつける気?」  「まさか、そうじゃないけどさ。でも、いっぺんこのセメント掘りかえしてみる必要があるわ」  「ええ、そりゃ根岸もそういってるんだけど……」  その一本の髪の毛のむこうに女の死体がつながっているという連想は、喜美子をこのうえもなくおびえさせて、彼女はくちびるの色まで真っ青になっていた。  ちょうどそこへ外出さきから根岸昌二がかえってきた。  根岸もふたりの女から話をきき、げんにセメントから生えている一本の髪の毛をみると、さすがにぎょっと顔色をかえた。  「あなた、周旋屋さんとこのセメントの話をしたとき、この髪の毛に気がつかなかったの」  「いや、あのときは雨あがりで、このセメントがぬれていたから、おそらく髪の毛もぴったり吸いついていたんだろうね。それに、このとおり薄ぎたなくよごれているからな」  じっさい、その髪の毛は、ふわりふわりと風になびいていなければ、ちょっと気がつかなかったであろう。  「とにかく、喜美子、おまえすぐ原田に電話をおかけ。セメントをこわすんだから、すぐ仕事師をつれてくるようにって」  原田というのは周旋屋のことである。  その日の夕方、原田がつれてきた仕事師が洞のなかからセメントを掘り出したとき、怖いもの見たさでうしろからのぞいていた喜美子は、きゃっと叫んで夫の腕に倒れかかった。彼女はただ人間の手らしきものを見ただけだったが……。  それに反して、岡沢ハルミはなにか思いあたるところでもあるのか、しいんとひとみをこらして、そのまがまがしいものを凝視していた。  セメントづめのうつろのなかから掘りだされたのは、一糸まとわぬ全裸の女の死体であったが、顔はもとより、体のほうも発掘作業がおわるまでにはそうとう毀《き》損《そん》されてしまって、どこのだれとはっきり断定することはむつかしそうであった。 四  「ところがねえ、警部さんも金田一先生も」  そこはこの事件の捜査本部となった所轄警察の取り調べ室なのである。捜査主任の下山警部補がデスクのうえから顔をしかめて身をのりだした。  「その家の以前の持ち主日疋隆介という男ですがね、そいついまもいったとおり満州がえりだそうですが、これがそうとうすごいやつらしいんですね」  「すごいというと……?」  「いえね、警部さん、そいつがまだ問題のうちに住んでいるじぶんの話だそうですが、こんなことがあったというんです。日疋の家内というのは、そのころながの病気で寝こんでいたそうですが、ある晩、マージャンにことよせて招いた三人の女を、病気の細君が寝ているおなじ棟《むね》の下で、日疋のやつが順繰りに犯したというんですね」  「ほほう」  と、等々力警部は目をまるくして、  「で、いったいどういう連中なんだい、その……順繰りに犯された女というのは……?」  「それがいずれもキャバレーやバーの連中だそうですが、マージャンでおそくなったもんだから、日疋が、まあ泊まってけとかなんとかいって引き止めたんですね。女連中にしてみれば、こっちは三人だし、奥さんもいることだから、まあ大丈夫くらいに思ってたんだそうです。それで、離れにまくらをならべて寝てたところが、真夜中ごろ日疋のやつがはいこんできて、三人の女を順繰りに席《せつ》巻《けん》しちまったというんだから、まあ、そうとうすごいやつにはちがいありませんね」  「しかし……」  と、金田一耕助はれいによってスズメの巣のようなもじゃもじゃ頭をかきまわしながら、  「いったい、だれがそんなこといってるんです。まさか日疋隆介じしんがみずからそんなこと吹《ふい》聴《ちよう》してるわけじゃないでしょうねえ」  「いや、そのとき犯されたひとりに岡沢ハルミというのがいて、それがきのう問題の家へあそびにきたんです。問題の家のげんざいの住人は、さっきも申し上げたとおり根岸昌二という小説家なんですが、その小説家の細君というのがやっぱりもと銀座裏のバーかなんかに出ていて、そのじぶんハルミと朋《ほう》輩《ばい》かなんかだったらしいんです。それで、ハルミがきのう遊びにきてみると、かつてじぶんたちがおもちゃにされたことのある家だもんだから、つい小説家の細君にむかって問わず語りに話したのを、ご亭主の小説家がなにかの参考にもとわれわれに報告してくれたってわけです」  「なるほど」  と、等々力警部はうなずいて、  「で、そのときおもちゃにされたあとのふたりというのは……?」  「いや、それがおもしろいんですよ。そのとき犯されたあとのふたりのうち、ひとりは珠子というんだそうですが、そいつがいまでは日疋隆介夫人だそうです」  「ふうむ」  と、等々力警部は思わず太い吐息をもらすと、金田一耕助のほうをながしめに見て、  「それで、もうひとりのほうは……?」  「いや、もうひとりのほうはまだよくわからないんです。名前は田鶴子といって亭主もちだったそうですが……それ以上のことは小説家の細君もハルミから聞いていないんですね。だから、そのへんのところはもういちどハルミという女によく聞いてみようと思ってるんですが……」  「なるほど」  と、等々力警部はおもっくるしくうなずくと、  「それじゃハルミの話はそれくらいにしといてと……被害者の身元はまだよくわからんといったね」  「はあ……推定年齢二十四、五歳……と、ただそれだけなんです。さいわい、セメントづめにされていたので、すっかり腐乱しつくしているというわけではなかったんですが、相好の識別はもちろんむりです」  「それで、死後どのくらい……?」  と、これは金田一耕助の質問である。  「だいたい半年くらいではないかといってるんですがね」  「それじゃ、肉体的になんかひととかわった特徴があったかなかったか、ちょっと調査するのはむりでしょうなあ」  「ところがねえ、金田一先生、盲腸を手術した跡があるんです。つまり、盲腸が切りとってあるんですね」  「しかし、ちかごろじゃ盲腸の手術はざらだからな。そいつはあんまり決めてにはならないんじゃないか。もちろん、大いに参考にはなるだろうがね」  「はあ。ところがね、警部さん」  と、下山警部補はデスクから乗りだして、  「ここにもうひとつ、これが被害者の身元を決定するんじゃないかと希望がもてる節があるんです。それというのが、医者の話によると、被害者の両脚の中指が両方ともふつうの人間より少しながいというんです。ここらあたりから被害者の身元が割り出されるんじゃないかと楽しみにしてるんですが……」  「なるほど。それと盲腸の手術の跡と……ふたつ結びあわせればね」  と、等々力警部もいくらか納得がいったらしかった。  「ところで、死因は青酸カリとかおっしゃいましたね」  「はあ、これはもう間違いないそうです。青酸カリの痕《こん》跡《せき》がれきぜんと残っているそうで、かなり強い反応があったそうです」  「そうすると……」  と、等々力警部が小《こ》鬢《びん》をかきながら要約した。  「被害者がだれであるにしろ、犯人はその女に青酸カリをのませて、ころして、素っ裸にしたあげく、ケヤキのうつろにセメントづめにした……と、そういうことになるんだね」  「はあ、いまのところそういうことになっております」  「それで、日疋じしんはそれについてどういってるんだね。日疋のほうにもだれかやったんだろうねえ」  「はあ、それはもちろん。春《かす》日《が》刑事がいったんですが、春日君の話によると、日疋はこの話をきくとひどくびっくりしたそうです。思いもよらぬといわぬばかりにね。ただし、それが真実のおどろきであったか、それともお芝居であったか、それは保証のかぎりにあらずというんですが……それはともかく、日疋のいうのに、じぶんがあの家をひきはらうまでケヤキの洞はセメントづめになんかされていなかった、洞のまんまだったというんです。だから、だれかが空き家をさいわいに、死《し》骸《がい》をもってきてセメントづめにしていったんだろうって……なにしろ、半年以上も空き家のまんま放置してあったもんですから、そういう逃げ口上もいちおう成り立つことは成り立つんですね」  「しかし、日疋が引っ越すとき、その洞がからっぽだったという証人はありますか」  「ところがね、金田一先生」  と、下山刑事がまゆをしかめて、  「そこがむつかしいところでしてね。日疋があの家をひきはらったのは、去年の八月十五日のことなんです。ところが、その当時の女中がいまも日疋の家にいるんですが、その女中の証言によると、去年の七月の終わりごろまではたしかにうつろのまんまだった。しかし、それ以後はしらないというんです。そうとうひろい庭のすみっこで、ちょっと用のない場所ですからね。それじゃ去年の七月の終わりごろにはうつろのまんまだったということをどうしてしっているかといえば、そのじぶんケヤキの木のすぐ外にある板《いた》塀《べい》が倒れたので、大工がはいって修繕したことがあるんだそうで、それで覚えているんだそうです。これは大工を調べればすぐわかりましょう。しかも、それ以来、だんなさまはいうにおよばず、だれもうちのなかでセメントいじりをしたものはなかった……と、この点、日疋にとっては有利な証言なんですがね」  金田一耕助もうなずいて、  「じっさいまた、そんな物騒な証拠をあとにのこして引っ越すというのもどうですかね」  「いや、とにかく、金田一先生、そのケヤキのうつろというのを、これからひとつ見にいこうじゃありませんか」  「ああ、そう。それじゃご案内しましょう」  と、下山警部補が席を立ちかけたときである。受付が面会人をつげてきた。  「品川良太さんてかたが、経堂赤堤の事件について、担当者のかたにお目にかかりたいといっておみえになっておりますが……」  「赤堤の事件について……?」  下山警部補ははっと等々力警部や金田一耕助と顔見合わせると、  「いくつぐらいの男……?」  「はあ、三十前後のひとですが……」  「ああ、そう。それじゃともかくこちらへ通してくれたまえ」  受付が出ていくと、下山警部補はふたりに目くばせをした。  「ひょっとすると、被害者の身元がわれるかもしれませんよ」 五  受付の案内でその殺風景な取り調べ室へはいってきたのは、ぼさぼさの髪を額に垂らして、もみあげをながく伸ばした男である。  真っ赤なとっくりセーターのうえにコールテンの上着をきて、ラバーソールのくつをはいているところは、いかにもキャバレーやバーに縁のありそうな男だが、用心棒としては肉体的に貧弱だし、ぐれん隊としては目つきに鋭さが欠けている。  青白い皮膚の底に不健康な生活のよどみが沈潜していて、長いもみあげや薄化粧しているのではないかと思われる顔が、たぶんに女性的な倒錯を思わせる。  「ああ、品川良太君かね。ぼくが経堂赤堤の事件の捜査主任、下山警部補だが……」  と、警部補はあいての頭のてっぺんから足のつまさきまでじろじろ観察しながら、  「まあ、そこへ掛けたまえ」  と、デスクのまえのイスを指さした。  「はあ」  品川良太と名乗る男は、ちらと上目づかいに部屋のなかを見まわしたのち、下山警部補の指さすイスに腰をおろした。なんとなく座り心地が悪そうである。  「品川良太……というんですね。それで、君、失礼ながら職業は……?」  「はあ、あの……」  良太はちょっともじもじしたのち、  「艶《えん》歌《か》師《し》なんですけれど……」  「エンカシイ……?」  下山警部補はとっさにその意味がわからなかったらしく、まゆをひそめて聞きなおすと、  「はあ……キャバレーやバーを流して歩く……」  「ああ、あの艶歌師……ギターやアコーディオンをもって歌って歩く……?」  「はあ」  良太はおずおずと顔をあげたが、そこにはなんとなく女性的な卑屈さがあった。  「ああ、そう。いや、これは失敬した。ときに、なにか経堂赤堤の件についてわれわれに聞かせてくれることがあるとか……」  「はあ、あの、それが……」  と、良太はさぐるように三人の顔を見くらべながら、  「まだはっきりしないんですけれど……」  「はっきりしないとは……?」  「はあ」  と、良太は上目づかいにちろちろ警部補の顔を見ながら、  「あの……それより、ケヤキのうつろにセメントづめになってたってひと、そののち身元がわかったんでしょうか」  「いや、それがわからなくって弱っているんだが、君のほうになにか心当たりでも……?」  「はあ、それが……」  と、良太はなんとなく気になるふうで、まぶしそうに目をすぼめて金田一耕助のもじゃもじゃ頭を見やりながら、  「ひょっとすると、その女、山本田鶴子という女じゃないかと思うんです」  下山警部補はちらと等々力警部や金田一耕助のほうに目くばせすると、  「山本田鶴子……? 山本田鶴子というのはどういう婦人なんだね」  「はあ、銀座裏のキャバレー『ドラゴン』というのに勤めていたダンサーなんですが……」  下山警部補はまたふたりのほうに目くばせすると、  「それで、君とはどういう関係……?」  「はあ」  良太はまたちらと上目づかいにあいての顔をぬすみ見ると、すぐまたその視線をほかへそらせて、  「いちじ同《どう》棲《せい》していたことがあるんです。もちろん、ほんとの夫婦ではありません。内縁関係というやつですが……」  「なるほど」  下山警部補は目をすぼめて鋭くあいてを凝視しながら、  「しかし、君はこんどの事件の被害者を、どうして山本田鶴子という女だと考えるのかね」  「はあ、ぼく、今朝の新聞を見てなんだか気になったもんですから、ちょっとあの家を見にいったんです。死骸が発見された経堂赤堤の家というのを……そしたら、ぼくの思ってたとおり、あの家、もと日疋隆介というひとの家だったんです。そして、その日疋隆介というのがキャバレー『ドラゴン』の経営者なんです」  「なるほど、なるほど」  と、下山警部補はうなずいて、  「しかし、ただそれだけの理由で、あの家から出てきた死体を山本田鶴子と断定するのは、根拠がうすいように思うが……」  「はあ。いや、ところが……」  と、良太はうすいくちびるを舌でなめながら、またちらりと上目づかいに一同の顔色をさぐっている。女性的な卑屈さの裏側に、なにかしら油断のならぬものを感じさせる目つきである。  「日疋さんと田鶴子とがひところ関係ができていたんです。なにしろ、日疋さんというひとは、女にかけてとても強引なひとですから、ぼくなどとてもかないませんや。それで、ぼく、あきらめて田鶴子とキッパリわかれたんです」  「つまり、田鶴子という内縁の妻を、日疋隆介氏に譲ったというわけかね」  「譲る……?」  と、良太はちょっと目をまるくしたが、すぐくすんというような微笑をうかべて、  「そんなおおげさなもんじゃありませんけど……とにかく、お互いに面白くありませんから、田鶴子と話し合いのうえで別れたんです。今後お互いの行動についてはいっさい干渉しないという約束で……」  「そのとき、君は日疋氏に会ったかね」  「いいえ、そのことで特別に会ったことはありません。会ったところで、とてもぼくなど太刀打ちできるあいてではありませんから」  「そりゃまたひどくあっさりあきらめたもんだね」  「はあ……」  と、さすがに良太も屈辱をかんじたのか、ちょっとほおをそめて、恨めしそうに警部補の顔をみると、  「あなたはそうおっしゃいますけれど、ぼくにとってはあいては大物です。もし、日疋さんが同業者に手をまわして、品川良太という男を店へ入れちゃいけないなどということになったら、それこそ、ぼく、おまんまの食いあげですものね」  「なるほど、長いものには巻かれろというわけか。それで、その後、田鶴子君はどうしたんだね」  「それがちょっとおかしいんです」  ここではじめて良太はきらりといくらかすごみをみせて目を光らせると、  「ぼくたちが別れてからまもなく、日疋さんの奥さんが亡くなったんです。それでてっきり田鶴子が日疋さんの奥さんになるんだろうと思ってたんです。そしたら、意外にも珠子……さんといって、やっぱりキャバレー『ドラゴン』で働いてたひとが日疋さんの奥さんになっちゃったんです。そのときはぼくもおやおやと思ったんです」  「それで、その後、田鶴子君は……?」  「そうそう。去年の九月ごろでした。日疋さんが珠子さんといっしょになってからですね。日疋さんに会ったとき、田鶴子のことを聞いてみたんです。そしたら、大阪のほうへいってるはずだというんです。ぼく、それ以上聞きませんでした。田鶴子はどちらかというと内気なほうでしたから、日疋さんに捨てられて、友達やなんかに顔を合わせるのもきまりが悪いとか、面目ないとか、とにかくそんなことから大阪へ落ちていったんだろうくらいに、きょうまで、まあ、思っていたわけです。ところが……」  「それが、こんど以前日疋氏の住んでいた家から女の死体がでてきたと聞いて、ひょっとすると田鶴子という女じゃないかと思ったんだね」  「はあ……だれがそんなことをしたのかしりませんが、なんだかそんな気がしてならなかったもんですから……」  「いや、わざわざありがとう。それじゃもうひとつ尋ねるが、田鶴子という女の体に、どこか目印になるようなところはなかったかね。手術をした跡があるとか……」  「ああ、そうそう」  と、良太は目をかがやかせて、  「ぼくと同棲しているじぶん、田鶴子は盲腸の手術をしたことがあるんです」  「ああ、なるほど。そのほかにもなにか特徴はなかったかね。たとえば、足の骨がどうかしたとか……?」  「あっ!」  と、良太はひとみをすえて、  「それじゃ、やっぱりあの死体は田鶴子なんですね」  「いや、まあ、いいから……足の骨についてなにか心当たりがあるんだね」  「はあ。そういえば……」  と、良太は落ち着きのないようすで薄いくちびるをペロペロ舌でなめまわしながら、  「田鶴子のくつ下は、いつも中指のところから破れるんです。それで、田鶴子もいつかいってましたけれど……あたし、中指が少し長過ぎるのかしらんて……」  どうやら、被害者というのは、いま日疋の妻となっている珠子や岡沢ハルミとともに犯されたもうひとりの女、山本田鶴子であるらしかった。 毒殺二重奏 一  経堂赤堤の根岸昌二の住まいまできてみて、金田一耕助も、なぜこの家が住宅不足のきょうこのごろ去年の八月から半年あまりもふさがらなかったか、その理由がわかるような気がした。  敷地はちょうど三百坪だそうだが、となりは寺の墓地になっており、反対がわは孟《もう》宗《そう》の竹やぶ、もういっぽうは畑である。閑静といえば閑静だが、寂しいことにかけてはこのうえもない。そのうえに、経堂の駅からもかなり距離があった。  となりに墓地があるのも平気でこの家へ移ってきた喜美子だったが、おなじ邸内からむごたらしい女の変死体が出てきたとあっては話はべつとみえる。  金田一耕助と等々力警部が、所轄警察の捜査主任、下山警部補の案内でケヤキの洞を見にきたとき、喜美子は布団をひっかぶってふせっていた。  ちょうどさいわい、死体発見に立ちあったというところからこの事件に強い好奇心をもっているらしい岡沢ハルミが見舞いにきて、そのまくらもとに座っていた。  「いやあ、とんだものがとび出したもんで……」  と、大衆作家の根岸昌二は面白そうに笑っているが、しかし、かれがいかに作家とはいえ、多少うすきみわるくないはずはない。  「根岸さんは探《たん》偵《てい》作家でなかったことをくやしがっていらっしゃるんですよ。じぶんが探偵作家だったら、さっそくこれを材料に傑作をものするんだがとおっしゃってね」  と、下山警部補が紹介した。  「いやあ、主任さん、はじめはああいって強がってみせましたがね。やはり夜ともなると多少気味が悪いですよ。それに、ワイフが気味悪がりますからね、出来るだけはやくあの木をきり倒したいと思っています。主任さん、一日もはやく事件を解決して、犯人をつかまえてくださいよ」  「はっ、承知しました。それでは警部さん、金田一先生、ご案内いたしましょう」  「それじゃ、あたしもいっしょにいこうっと」  すでにいちど下山警部補に会っている岡沢ハルミは、面白いものでも見にいくように立ち上がった。主人の根岸昌二もついてきた。  ケヤキの洞はさんたんたる様相を呈している。洞の内部にはまだセメントがひとかたまり大きくこびりついているが、ところどころどすぐろいしみがにじんでいる。  洞の周囲にはセメントのかけらの山ができているが、そのかけらにもおなじしみがこびりついている。  「ちょいと、あんた」  と、岡沢ハルミはなれなれしく金田一耕助の肩をつついて、  「あのしみがなんだかわかる? みんな死骸からしみ出した脂なのよ。あんた気味悪くない?」  「いや、大いに気味が悪いですな」  金田一耕助は洞の中をのぞいてみたが、べつだん新しい発見もなかった。かれもこの洞は新聞の写真でみているのである。  「ところで、岡沢君、ちょっとあんたと話をしたいんだが……根岸先生、恐れ入りますが、あなたちょっと……」  下山警部補の要請に、  「ああ、そう。どうも失礼いたしました」  根岸昌二が立ち去るうしろ姿を見送って、  「岡沢君、きのうあんたが話してた山本田鶴子という女ね、去年の春、この家であんたやなんかといっしょに日疋という男にいたずらされたという……」  「ええ、田鶴子さんがどうかして?」  「いや、その田鶴子という女、その後どうしたかしりませんか」  「さあ……」  とハルミは、首をかしげて、  「あのことがあってからまもなくお店をよしたんで、てっきり日疋さんにどこかへかこわれているんだろうくらいに思ってたんですの。だんなさんの品川良太ってひと……そのひと、バーやキャバレーへまわってくる艶歌師なんですけれど、そのひととも別れたって話でしたから。ところが、去年の秋、珠子さん……そのひともいっしょにいたずらされたひとりですわね……その珠子さんが日疋さんの奥さんになったんで、おやおやと思ったんですの」  「それで、八月以後、田鶴子という女にあったことは……?」  「いいえ、五月ごろお店をよしてからいちども」  といってから急に不安そうに、  「田鶴子さんがどうかしたとおっしゃるの。まさか、あの死骸、田鶴子さんだったんじゃ……」  「いや、あんた、田鶴子さんの体になにか特徴があったのを気づいちゃいなかった? 指が長かったとか短かったとか……?」  「いいえ、べつに……」  と、ハルミは首をかしげたが、  「あら、あそこへ日疋さんと珠子さんがやってきたわ」 二  「あら、ハルミちゃんじゃないの。あんたその後どうしてるの?」  いまや日疋夫人におさまっている珠子の調子にはどこか傲《ごう》然《ぜん》たるところがあり、ハルミを眼下に見くだすような口ぶりである。器量からいっても、また服装からいっても、いまやふたりのあいだには格段の相違がうかがわれる。  ハルミはくやしそうにちょっと肩をそびやかして、  「あいかわらずよ。日疋さん、その後しばらく」  「なあんだ。ハルミか」  と、日疋はまゆげひと筋うごかさず、冷然たる調子で、  「いや、主任さんも警部さんもご苦労さま。きょうはこちらへお見舞いかたがた様子を見にきたので……いやはや、どうもとんだおみやげをおしつけたもんで……」  日疋は皮のジャンパーを着て、おなじく皮の防寒帽をかぶっているが、いかにもひとくせありげな面魂である。眉《み》間《けん》にうすく傷あとがのこっているのは、満州時代の冒険のなごりだろうか、いっそう人相を険悪にしている。  「いや、日疋さん、ここでお目にかかったのはちょうどさいわい。あなた山本田鶴子という女をご存じでしょうねえ」  「山本田鶴子……?」  と、日疋はじろりとハルミを見ると、  「ええ、その女なら去年までうちのキャバレーで働いていた女ですが……」  「あなた、その女と交渉……つまり、肉体的交渉をもっておられたそうだが……」  日疋はまたじろりとハルミの顔を見て、  「ええ、まあ、そういうこともありましたな。男と女のことですからな。あっはっは」  と、不敵な笑いに腹をゆすると、  「しかし、田鶴子がどうかしましたか」  「その婦人は、去年の五月ごろおたくのキャバレーをよしたそうですが、その後どうしてるかご存じじゃありませんか」  「そうですなあ」  と、日疋はあきらかに珠子の目をはばかるらしく、腕組みをした右手であごをかきながら、  「あの女はどういうものかわたしを怖がりましてね。たしか去年の七月のおわりごろでしたか、もう二度と会わないという手紙をわたしのところへよこしたきり、姿をくらましてしまったんです。たしか、上方のほうへいくというような意味のことが書いてありました」  「それじゃ、キャバレーをよしてからもあなたと関係はつづいていたんですね」  「ええ、まあね」  日疋はまぶしそうに珠子の視線をさけているが、その珠子は冷然としてうつくしい。  そのとき、金田一耕助がそばからくちばしをさしはさんだ。  「失礼ですが、そのときの田鶴子さんの手紙というのをいまでもお持ちでしょうか」  日疋はジロリと不《ふ》遜《そん》なまなざしを金田一耕助にむけると、  「だれが女からきた愛想づかしの手紙をだいじに持っているもんですか。その場でズタズタに破いてしまいましたよ」  「いや、ごもっとも」  金田一耕助がペコリと頭をさげたのを、小バカにされたとでも誤解したのか、日疋はギロリと凶悪な目を光らせた。しかし、金田一耕助はすました顔で、  「それじゃ、こんどは奥さんにちょっとお尋ねいたしますけど、あなた品川良太君というひとをご存じでしょうね」  「品川良太さんとおっしゃいますと……?」  と、珠子はいぶかしげにまゆをひそめたが、そのときそばからハルミの痛烈なことばがとんだ。  「あらまあ、珠子さんも白ばっくれるのがお上手ね。田鶴ちゃんがお店をよしてから、あんたしばらく品川と関係がつづいてたじゃないの。かくしてたってちゃんとしってるわよ」  珠子のほおには一瞬さっと怒気がのぼって、つめたいひとみに凶暴な火花がちったが、すぐまたもとの冷然たる調子をとりもどすと、  「しかし、警部さん、田鶴子さんがいったいどうしたとおっしゃるんですの」  「いえねえ、このあいだこのケヤキの洞から出た女の変死体ですがね、かつて同棲していた品川良太君の訴えによると、どうやら山本田鶴子らしいんですがねえ」  珠子のひとみは一瞬大きく見開かれた。  その目はなにをきいたのか理解に苦しむというふうだったが、とつぜん、さっと恐怖の色が走ったかと思うと、反射的に夫のそばから二、三歩うしろへとびのいた。 三  その日、かえりに所轄警察へ立ちよった金田一耕助と等々力警部は、その後部下の調査によって判明した事実を下山警部補からきいた。  「これは根岸家のとなりにある寺の寺男、益田源一という男の話なんですがね。去年の八月の何日だか、益田は日まではおぼえていませんでしたが、たしか日疋が引っ越していった日の夜だったそうです。引っ越しのトラックが出払ったあと、八時ごろから九時ごろまで、一台の自動車がいまの根岸家のまえに止まっていたそうでず。そして、庭のほうにあかりが見えて、セメントをこねるような音がきこえていたというんです。しかし、なにしろ昼間の引っ越しさわぎのあとだし、それがあまりおおっぴらだったので、益田もべつに怪しみもせず、なにかまだ引っ越しの仕事がのこってるんだろうくらいに思っていたが、そういえばその音はたしかにケヤキの根元からきこえていたというんですね」  金田一耕助と等々力警部はおもわず顔を見合わせた。  「それで、その寺男は自動車のぬしは見なかったんだね」  「はあ、べつに怪しみもしなかったくらいですから、すがたを見に出ようともしなかったんですね。第一、いつきていつかえったのか、それさえもはっきりしらないで、ただ一時間ほど自動車が止まっていたこと、セメントをこねるような音がケヤキの根元からきこえていたこと、ただそれだけしかしらないんです」  等々力警部と金田一耕助はまた顔を見合わせた。  「金田一さん、そうすると、犯人は日疋の転宅していった直後をねらって、死骸をはこんできたということになるんでしょうか」  「とすると、犯人は、日疋の転宅することと、転宅の日をしっていたことになりますね。しかも、あのケヤキの根元に大きな洞があるということまで」  「あのケヤキは庭のすみっこにあり、ちょっと用事のない場所だから、座敷へあそびにきたくらいの客では気がつかないでしょうから、そうすると、犯人は日疋とそうとう密接な関係があるということになりますね」  「警部さん」  と、下山警部補は身を乗りだし、  「それ、日疋じしんだったとかんがえたらどうでしょう。日疋なら自家用車をもっておりますし、きょうなんかもじぶんで運転してきたじゃありませんか」  金田一耕助はかんがえぶかい顔つきになって、  「日疋はさっき、去年の七月のおわりごろ田鶴子から絶縁状がやってきて、それきり田鶴子にあわないといってましたね」  「だから、そのときやったんですぜ。そして、死体をいったんどこかへかくしていたのを、そこじゃ危ないというので空き家へはこんできて……」  「主任さん」  と、金田一耕助はうなずいて、  「田鶴子がその前後に殺されたのだろうというおことばには賛成です。だから、七月のおわりから八月十五日まで、田鶴子の死体がいったいどこにかくされていたか、それをさがしだすのが先決問題ですね」  「金田一さん、それについてなにかおかんがえは……?」  という等々力警部の質問に、  「さあ、いまのところべつに……」  と、金田一耕助はぼんやりともじゃもじゃ頭をかきまわしている。  「それにしても、珠子はなぜ品川良太のことを白ばっくれようとしたんでしょう。やっぱり、亭主のまえでばつが悪かったせいでしょうかねえ」  「それに、あの女、変死体が山本田鶴子だとわかると、とても亭主を恐れていたじゃありませんか」  「とにかく、日疋というやつはすごみなやつだな。満州ではそうとう荒っぽいことをやってきたにちがいありませんぜ」  と、等々力警部は憮《ぶ》然《ぜん》としてあごをなでていた。 四  そこは中央線の沿線、吉祥寺のおくで、もはや練馬にちかいあたりである。  終戦直後には、まだこのへんは、あちらに一軒、こちらに二軒というふうに、ちらりほらりとしか家がなく、武蔵野の面影をとどめる防風林や竹やぶがまだあちこちに残っていたものだが、この二、三年ですっかりかたちを改めた。  防風林や竹やぶはきりはらわれたうえに、整地された土地はこまかく分割されて、土地会社の手によって分譲された。そして、そこに建ったのは主として、リビング・キッチン風のしゃれた小型の近代住宅で、どの家にもサロンエプロンをかけた若奥様ふうの近代女性の姿が見られるようになった。  しかし、その日——正確にいえば山本田鶴子の死体が発見されてから五日のち、すなわち三月二十五日の夕方ごろ、等々力警部が金田一耕助とともにふたりの部下をともなって訪れたのは、そういう戦後出来のしゃれた小型住宅ではなくて、そうとうどっしりと時代のついたお屋敷である。  大《おお》谷《や》石《いし》を組みあわせてつくった門柱には、高井啓三という表札があがっている。  高井啓三というのは戦前さる大財閥の幹部だった人物だが、戦後はパージで第一線を退いたうえに、昭和二十二年ごろ脳出血で倒れて、いまも病床についたきりである。したがって生活も苦しいらしく、奥さんがお茶やお花の先生をしているうえに、裏の離れをひとに貸している。  甲野珠子は去年の九月に日疋と結婚するまでここの離れで暮らしていたのである。  「さあ、甲野さんのところへどういうお客さんがこられたかとおっしゃっても……」  高井啓三の妻の千代子は、思いもよらぬ警察官の訪問をうけて、玄関へひざをついたまま、いかにも当惑そうな顔色である。  腐ってもタイというが、さすがに大財閥の重役だったひとの邸宅だけに、広い玄関にはひんやりとした空気がただようていて、夫人の背後にある一枚板に花鳥の彫りのあるついたても、おそらく由緒あるものなのだろう。  「あのかたに離れをご用立てするとき、裏のほうにべつに入り口をつくりましたから、みなさんそちらのほうから出入りなさいますし、それに子どもたちにもできるだけ、離れのほうへいったり、また、のぞいたりしないようにと申しつけておきましたものですから……」  千代子夫人は五十前後か、しぶい結《ゆう》城《き》のきもののよく似合う人柄で、細面の眼鏡をかけた顔に一種の気品があり、いかにもお茶やお花の先生にふさわしいものごしである。しかし、そのおもてはいま恐怖と警戒心のためにきびしくひきしまっている。  「ところで、いまその離れにはどなたか……?」  「はあ、小堀さんとおっしゃって、高校の先生をしてらっしゃるかたのご夫婦がお住まいでございますけれど……」  「妙なことをお尋ねするようですがねえ、奥さん」  と、等々力警部は玄関に立ったまま、かんがえぶかい目つきを千代子夫人の眼鏡をかけた顔にそそぎながら、  「去年の夏の七月のおわりごろから八月の十五日ごろまでにかけて、離れのほうでなにか変わったこと……これはおかしいとか、これは妙だとかいうような、なにかそんな気配をお感じになったことはなかったでしょうか」  「さあ、これといってべつに……」  と、千代子夫人の不安とおびえの色はいよいよふかくなってくる。夫人は眼鏡のおくでひとみをすぼめて等々力警部と金田一耕助の顔を見くらべていたが、思い出したように、  「さあ、さあ、どうぞお掛けになって……立ち話もなんでございますから」  「いや、いや、どうぞお構いなく……」  と、金田一耕助も立ったまま、  「ときに、奥さん」  「はあ」  「妙なことをお尋ねするようですが、このへんのお宅にはゴミ箱が見当たらないようですが、塵《じん》芥《かい》はどういうふうに処理していらっしゃるんでしょうか」  「まあ!」  と、千代子夫人はあきれたように目をみはって、  「それはあの……」  と口ごもりながら、  「みなさん、お庭のすみへ穴を掘ってそこへ捨ててらっしゃいます。そして、それがいっぱいになると埋めてしまって、またべつのところへ掘るわけで……こう申し上げるとまことに非衛生的だとお思いになるでしょうけれど、ゴミ箱をそなえつけてもなかなか清掃にきてくれませんし、それに、まあ、都心とちがってどちらさまでもわりと敷地が広うございますから……」  「ああ、そう。それじゃ、こちらさんや離れにお住まいのかたも、やっぱりそうしていらっしゃるんでしょうねえ」  「はあ、それはもちろん……」  「それじゃ、もうひとつお尋ねしたいんですが、去年、裏の離れにお住まいだった甲野珠子さんですがね、そのひと、去年の七、八月ごろゴミための穴を掘りなおすとかなんとかそんなことはなかったでしょうかねえ」  「まあ!」  と、眼鏡のおくで大きくみはった千代子夫人のひとみには、いよいよおびえの色がふかくなる。  「それ、あの、どういう意味でございましょうか」  「いや、どういう意味といって……」  と、等々力警部もはっとしたような顔色で、そばから体をのりだした。  「いまのところまだはっきりとは申し上げかねるのですが、いまこちらがおっしゃったような事実があったかどうか、ひとつ思いだしていただきたいんですが……」  「はあ、あの、そうおっしゃれば……」  と、千代子夫人はおどおどとたもとのはしで額の生えぎわをおさえながら、  「あれはたしか七月のおわりごろでございましたわね。ほら、去年はつゆが長くて、七月の二十日ごろまでびしょびしょと降りつづきましたでございましょう。そのつゆが明けてからのことでございますけれど、ゴミためがくさくてかなわないからとおっしゃって、お友達にお頼みになって……もちろん男のお友達でございますけれど、そのかたにお頼みになって、古いゴミためを埋めておしまいになったんです。それから、こんどはわたしどものほうでお世話した植木屋さんがまた新しくゴミためを掘っていたようでございますけれど……」  等々力警部はちらと金田一耕助のほうに目くばせをすると、するどく千代子夫人の顔に目をそそぎながら、  「それが去年の七月のおわりごろだとおっしゃるんですね」  「はあ。でも、それがなにか……」  と、千代子夫人はくちびるの色まで白くなっている。  「いや、それより、奥さん、あなたそのとき……つまり、甲野珠子の男の友達がゴミためを埋めているところをごらんになったんですか」  「はあ、ちょうどそのとき離れにちょっとご用があったものでございますから……ふだんは女中をやることにしているんですけれど、ちょうどそのとき女中が留守だったもんですから、あたくしが出向いていったんでございますの。そしたら、おふたりでゴミためを埋めていらっしゃるものですから、ずいぶんご精が出ますのねえ、そんなこと植木屋にお頼みになったらよろしいのに……と、あたくしがそう申し上げますと、あんまり臭くてかなわないからとおっしゃって……でも、結局全部は埋めきれないで、あたくしが頼んでさしあげた植木屋にあとはおまかせになったようでございますけれど……」  「奥さん!」  と、等々力警部は鋭い、しかしあたりをはばかるような声で、  「あなたそのゴミためのあったあたりをおぼえておいでになるでしょうねえ」  「はあ、それはだいたい見当がつくと思いますけれど……」  「それじゃ、ひとつわれわれにそこを掘らせてくださいませんか。表に部下をふたり待たせてあるんですが……」  「まあ……」  千代子夫人はいよいよ顔色をうしなって、  「いったい、甲野さんがどうしたとおっしゃるんですの。いえ、あの、それはあたくしは構いませんですけれど、小堀さんの奥さまがなんとおっしゃるか……」  「ですから、小堀さんの奥さんにあなたからお言葉添えをお願いしたいんですが……」  「いますぐでございますか」  「はあ、なるべく早いほうがいいんですが……」  「それじゃ、ちょっとお伺いしてまいりましょう」  千代子夫人が立ちあがろうとするのを、  「ああ、ちょっと、奥さん」  と、金田一耕助が呼びとめて、  「警部さん、奥さんに写真を見ていただいたらいかがです。ひょっとすると、警部さんの持ってらっしゃる写真のなかに、去年ゴミためを埋めるのを手伝った甲野珠子さんの男友達というのがいるかもしれませんよ」  「ああ、そうそう。それじゃ、ちょっと奥さん」  と、警部が取りだした数枚の写真のぬしというのは、いずれもなんらかの意味で山本田鶴子と交渉のあった男たちで、むろん日疋隆介や品川良太の写真もそのなかにまじっていた。  「奥さん、いかがでしょう。このなかにゴミためを埋めるのをてつだった甲野の男友達というのはまじっておりませんか」  「さあ、そうおっしゃられても……」  と、千代子夫人は当惑したように顔をしかめて、  「たったいちどお目にかかったきりのかたでございますから……」  「でも、この写真をごらんになると思い出されるかもしれませんよ。いや、ぜひとも思い出していただきたいんですがね」  千代子夫人はよんどころなさそうに一枚一枚写真を手にとってながめていたが、案外簡単に、  「ああ、このかただったんじゃなかったでしょうか」  と取りあげたのは、品川良太の写真であった。 五  「さいわい、離れの住人の小堀夫人というひとが案外ものわかりのよいひとでしてねえ」  と、例によって、それからさきは金田一耕助のなぞの解明である。  「ものわかりもものわかりだが、好奇心も大いに手伝ったんでしょうねえ。古いゴミためのあとを掘らせてほしいというわれわれの申し出にたいして、しごくあっさり許可をあたえてくれたんですよ」  「それで、そのゴミためのあとからなにか出てきたんですか」  と、これはこの記録を担当している筆者の質問である。  「はあ、まあ、いろいろとね」  と、金田一耕助は顔をしかめて、  「珠子という女も大胆なやつです。いったん埋めたゴミためは、ゴミが腐ってしまうまで掘りかえされることはないと思ったんでしょうねえ。殺されたとき田鶴子の着ていたワンピースがズタズタに切りきざまれてゴミの底から出てきましたよ。田鶴子が殺されたのは七月十八日の晩だったそうですから、着ていたものも薄地の布でしたからね。ゴミが腐るじぶんには、布地もくさってしまうだろうとたかをくくっていたんでしょうねえ。その布地から田鶴子とおなじ血液型の血《けつ》痕《こん》や、青酸カリ反応のある汚物の跡などが発見されたので、一も二もなかったんです」  「すると、田鶴子は珠子の借りているその離れで殺されたんですか」  「ええ、そう。なにか口実をもうけて田鶴子を呼びよせ、青酸カリをのませて殺してしまったんですね。とにかく、珠子という女はすごいやつでしたよ」  「それで、動機は……?」  「もちろん、物質的な強い欲望……日疋の妻になりたいという欲望からですね。三人まくらをならべて日疋にもてあそばれた珠子と、田鶴子と、岡沢ハルミ。その三人のその後のなりゆきが、そのまま三人の性格を反映しているようです。あんまり利口でないハルミはおもちゃにされっぱなし、おとなしくて、ああいう稼《か》業《ぎよう》の女としては珍しく良心的だった田鶴子は、亭主に捨てられたうえ殺されてしまう。いちばんすごい甲野珠子が、田鶴子を殺して日疋の妻の座を獲得したというわけです。ということは、去年の春のケース以来、日疋の関心は田鶴子にいちばん注がれていたので、珠子がいちはやく競争者を倒してしまったというわけです」  「そうすると、日疋が受け取った田鶴子の絶縁状というのは……?」  「それはやっぱり田鶴子の筆だったらしいんです。日疋と妙な関係になって以来、田鶴子はたえず品川にすごまれていたので、いちじ東京を離れようと思っていたらしいんですが、この品川の脅迫というのがやっぱり珠子の使《し》嗾《そう》によるものらしい……」  「なるほど、品川に脅迫させて、田鶴子を東京にいられないようにしむけ、田鶴子が日疋に別れ話の手紙を書いたところをすかさずじぶんの住まいへ招いて毒殺したというわけですか」  「そういう順序になるようですね」  「それで、死体をいちじじぶんの住まいのゴミためのなかにかくしておいたというわけですね」  「ええ、そう」  「それを掘りだして赤堤へはこび、ケヤキの洞にセメント詰めにしたのは……?」  「むろん、品川良太ですよ。つまり、珠子と品川のあいだにはこういう契約ができていたそうです。日疋がじぶんと結婚してくれなければ、復《ふく》讐《しゆう》のために日疋を罪におとしてやろう。もしまた日疋がじぶんと結婚しても、いつか日疋を罪におとして、死刑にでもなったら日疋の財産をすっかりじぶんのものにして、そこであらためて良太と結婚しようという相談なんです」  「そりゃまた遠大な計画ですね」  「といってまあ良太をつってたわけでしょう。どちらにしても、犯罪もだんだん手がこんできますね」  「ああ、なるほど」  と、筆者ははじめて気がついて、  「そうすると、一本の毛髪がセメントからはみだしていたというのも、過失や偶然ではなく、それまた日疋を罪におとすための計画の一部だったわけですか」  「そういうこともいえるでしょうねえ」  「それで、品川良太もつかまったんでしょうね」  「いや、ところが、それがつかまりませんでした」  「どうして?」  「警察の手がのびたとき、青酸カリをのんで死んでいました。珠子は自殺したんだろうなんてうそぶいていましたが、むろん一服盛ったんですね。変死体を田鶴子であると証言させると、あとに用事はなかった。そこで、ちかごろはやりことばの、じゃま者は殺せ、というわけですな。あっはっは」 鏡の中の女 リップ・リーディング 一  「増本先生、どうかしましたか」  増本女史の一種異様な視線に気がついて、金田一耕助はけげんそうに紅茶をかきまわすスプーンの手をやすめた。  「いえ、あの、ちょっと……」  と、増本女史は青白くこわばったほおをひくひくけいれんさせながら、卓上にある花《か》瓶《びん》にさしたダリヤの花ごしに、一心に前方を見つめている。  金田一耕助が不思議そうにその視線をたどっていくと、増本女史が見つめているのは、向こうの壁に張りつめた大きな鏡であるらしかった。いや、その鏡にうつっているふたりの男女の映像らしかった。  男と女は、白布におおわれたテーブルを中に、額をつきあわせるようにして話をしている。女は豪《ごう》奢《しや》なテンの毛皮らしいオーバーにくるまり、帽子から鼻のうえまでベールをたらしているので、顔はよくわからなかった。しかし、姿かたちからして、年齢は二十代だろう。  タバコをつまんだ右の指にダイヤらしいものがきらめいている。  本物のダイヤとすると、相当高価なものだろう。男はでっぷりとした肥満型のからだをあらいスコッチの背広にくるんでいるが、これはうしろ姿なので顔はもちろん見えなかった。  ときどき、猪《い》首《くび》の頭をふりながら、なにか熱心に女と話をしている。いや、話をしているというよりは、ふたりのかっこうからして、ささやきかわしているらしいといったほうが当たっているだろう。  金田一耕助は思わずうしろのほうをふりかえった。しかし、鏡にうつったふたりの男女の実体そのものは見えなかった。  そこは『アリバイ』という妙な名のついたカフェの中なのである。  時刻は夜の八時ごろ、あらかたのイスは客でふさがっているが、鏡にうつった男女の席は、金田一耕助のいるテーブルからは、突き出した壁でさえぎられて直接見ることはできなかった。  金田一耕助はまたその視線をもとにもどして、鏡面にうつったふたりの男女と、その男女を見まもっている緊張した増本女史の顔を等分に見る。鏡にうつった焦げ茶色のオーバーの女は、いまイスから半身乗り出すようにして、なにか熱心に男に話しかけている。  とつぜん、増本女史は、  「あっ!」  とひくくつぶやくと、胸のポケットからシャープペンシルを抜きとった。そして、あちこちポケットをさぐっていたが、適当な紙が見当たらなかったのか、テーブルのうえに立てかけてあるメニューをとって、それを裏返しにしてじぶんの目のまえへおいた。  そして、食いいるようなまなざしで鏡面の女の顔を凝視しながら、まず、  「ストリキニーネ」  と、ふるえる指でメニューの裏に書きとめた。  金田一耕助はぎょっとしたような顔色で、増本女史の指先から、むこうの鏡に目を走らせる。  わかった、わかった。  増本女史はベールの女のくちびるの動きを読んでいるのだ。増本女史は聾《ろう》唖《あ》学校の先生なのである。彼女にはリップ・リーディングができるのだ。すなわち、声をきかなくともくちびるのうごきによって話している言葉がわかるという読《どく》唇《しん》術《じゆつ》を心得ているのだ。いま、その特異な才能を利用して、ただならぬ鏡面の女の不穏な言葉を読みとろうとしているのである。  金田一耕助はきっと緊張した目をとがらせて、鏡面の女のくちびると増本女史の指先を交互に見くらべている。  しばらく間をおいて、女のくちびるがまた動いた。と、増本女史の指先がすばやく動いて、  「ピストル? だめよ、音がするから」  金田一耕助はテーブルをおおった白布の端を握りしめたまま、まじろぎもせずに鏡面の女のくちびるを見つめている。いつかその手のひらがぐっしょりぬれているのにも気がつかなかった。  それでいて、その晩は五月としてはかなり寒かったのだ。女が毛皮のオーバーにくるまっているのでもわかるように……。  女のくちびるがまた動いて、増本女史のペンシルがメニューの裏にかそけき音を走らせる。  「やっぱり、ストリキニーネね」  それからしばらくの間をおいて、  「ジュラルミンの大トランク」  増本女史はそう走り書きをすると、シャープペンシルを握った指をけいれんするようにわなわなとふるわせる。  「金田一先生」  と、おしひしゃがれたような声をのどのおくにひっかからせながら、  「なんのことでしょう、あのひと、たしかにこんなことをいってるんですけれど……あっ、ちょっと」  増本女史はまたいくらかとび出した目を光らせながら、一心不乱のまなざしで鏡の中の女のくちびるを見つめていたが、やがて息をはずませながら、  「三鷹駅がいいわ」  と、ふるえる指でそこまで書くと、  「もういや! もうよすわ、こんなこと!」  と、思わずヒステリックな声を甲走らせたので、隣のテーブルにいた中年の婦人がびっくりしたようにこちらをふりかえった。 二  金田一耕助はさっきから気がついていたのである。その婦人も、さっきからそれとなく視線を走らせて、おりおり鏡の中の女をぬすみ見ているのを。そして、その視線のなかにただならぬ憎悪の色がかぎろうているのを……。  婦人は金田一耕助と視線があうとすぐにはっと目をそらして、スプーンをとって卓上の紅茶カップをかきまわすまねをする。しかし、金田一耕助はしっているのだ。そのカップはさっき鏡の中の女を見ながら底までのみほしたはずである。  栄養のよさそうな、あごが二重にくびれるほども小太りにふとった女である。これまた豪奢な毛皮のオーバーにくるまり、無意味にカップをかきまわす赤ん坊のようにまるまるとした指にもダイヤがきらきら光っている。髪の毛にいくらか白いものがまじっているところを見ると、もう年齢は五十ちかいのだろう。しかし、小じわひとつ見えない膚はつやつやとして、まだ衰えぬ女の精力を示している。  その女が金田一耕助をはばかるようにしてまたちらりと鏡に目を走らせたとき、鏡の中では男と女が立ちあがった。このカフェから出ていくには、いやでも金田一耕助のテーブルのそばを通らねばならぬ。  増本女史はすばやくメニューを裏返し、栄養佳良の精力婦人はテーブルのうえに右ひじをつくような姿勢で出てくるふたりから顔をかくした。  ベールの女の手をとるようにして突き出した壁のむこうからきた男は、一見して好色な重役といったタイプである。帽子はかぶらず、左の腕にスプリングをかかえている。年齢は五十五、六というところだろう。きちんと左分けにした顔の小《こ》鬢《びん》にちらほらと白いものをまじえて、これまた栄養のよさそうな、つやつやとしたあから顔である。  男は金田一耕助の視線にたいしてギロリと鋭い一《いち》瞥《べつ》をくれると、無言のままテーブルのそばを通りすぎ、入り口のレジスターに金を払って、そのまま女とともに『アリバイ』から出ていった。  金田一耕助はとなりの女がどうするかとそれとなく様子をうかがっている。  増本女史も金田一耕助の素振りからとなりの女の存在になにか異様なものを感得したのだろう、無言のまま体をかたくこわばらせている。  となりの女はちょっとためらいの色を見せたが、それでも卓上の伝票をとりあげると、オーバーのまえをつくろいながら、わざと落ち着き払って立ち上がった。  増本女史はその女が『アリバイ』から出ていくのを見送って、  「金田一先生」  と、おしひしゃがれたような声でつぶやいた。  「あのひと、さっきのふたりを尾行しているのでしょうか」  「どうもそうらしいですね」  ロマンス・グレーの抵抗族とその愛人、それから嫉《しつ》妬《と》に狂うロマンス・グレー氏の奥さんと、月並みな三角関係を想定してみて、金田一耕助は苦笑した。  「だけど、増本先生」  と、金田一耕助は卓上にあるメニューをとって裏返すと、  「これ、どういう意味なんですか」  と、いくらか詰問するような調子である。  「さあ……」  と、増本女史はハンカチをひきちぎらんばかりに両手でもんでいる。  「あなた、あのふたりをご存じないんですか」  「いえ、あの、全然……」  「あなた、あの女……ベールの女のくちびるの動きを読んだんですね」  「はあ、あの、つい習慣になっているものですから……」  金田一耕助はもういちどメニューの裏に目を落とす。  「ストリキニーネ」  「ピストル? だめよ、音がするから」  「やっぱり、ストリキニーネね」  「ジュラルミンの大トランク」  「三鷹駅がいいわ」  五行にわけてふるえているシャープペンシルのあとを見ると、金田一耕助はなにか背筋が寒くなるようなものをかんじずにはいられなかった。  これではまるで人殺しの相談のようではないか。だれかを殺して、ジュラルミンの大トランクに詰める。そして、それを三鷹駅から発送する……。  いや、いや、ひょっとすると三鷹駅へ送りとどけようというのかもしれない。  「あっはっは!」  と、金田一耕助はのどのおくでかわいた声をおしころすと、  「まさか……」  と、もじゃもじゃ頭をかきまわす。  「まさか……? なんでございますか?」  と、増本女史はある種の金魚のようにとびだした目で金田一耕助を凝視する。このひとは相当ひどい近眼なのだ。それにもかかわらず、容《よう》貌《ぼう》をそこなうことを気づかって、眼鏡をかけることをおそれている。だから、なにかを見つめるとき、怒ったような目つきになるのだ。  「まさか、銀座のまんなかで……」  「まさか、銀座のまんなかで……?」  と、増本女史は押しかえす。しんねり強い調子である。  「……の相談でもないでしょう」  「なんの相談とおっしゃいますの?」  「人殺しの……」  と、金田一耕助はちょっとあたりを見まわしたのち、ひくい声でささやいた。  増本女史はかすかに体をふるわせると、  「もちろん、あたしもそう思います」  と、キッパリといいきったあとで、  「しかし、あのひと……ベールの女はたしかにそういう言葉を吐いたんですのよ」  金田一耕助はいつかの事件で増本女史に協力を仰いだことがある。それはリップ・リーディングの技術を身につけたひとの協力が必要だった事件である。そのとき、金田一耕助は、増本女史の協力で、みごとに事件を解決したのだ。だから、かれはこのひとの読唇術の能力について疑いをさしはさむものではない。  しかし、今夜、銀座の舗道でばったりあって、お茶でものみません? と誘われて入ってきたこの『アリバイ』で、このような奇妙な会話の断片を拾いあげようとは思わなかった。  「先生、もう出ましょう、ここを……」  増本女史はなにかふきげんらしい様子である。卓上においたハンドバッグをとりあげると、プイとイスから立ち上がった。金田一耕助がじぶんの技術を信用しないらしいのに、誇りを傷つけられたのかもしれない。  金田一耕助は当惑したようにもじゃもじゃ頭をかきまわしながら、テーブルのうえにあるメニューの裏を見ていたが、やがてそれをメニューを立てる金具にかえして、伝票を手にじぶんもイスから立ちあがった。  それから三分ほどのちのことである。金田一耕助と増本女史が『アリバイ』から出ていくのを見送って、さっきの栄養満点夫人が入ってきた。  彼女はなにか忘れものでもしたようにきょろきょろしながら、金田一耕助と増本女史のいたテーブルへくると、すばやくあたりを見まわしたのち、メニューをとって裏をながめた。  「ストリキニーネね……ピストル? だめよ、音がするから……やっぱり、ストリキニーネね……ジュラルミンの大トランク……三鷹駅がいいわ」  メニューを持つ女の手がぶるぶるふるえて、色つやのいい顔面から血の気が退潮のようにひいていった。 三  それから二週間ほどのち、すなわち五月十六日のことである。  金田一耕助はとほうに暮れた面持ちで、いま目のまえによこたわっているジュラルミンの大トランクのなかをにらんでいる。  ジュラルミンの大トランクの中には女の死《し》骸《がい》がきゅうくつそうな姿勢をつくっているのだが、ミンクのオーバーにくるまっているその女は、たしかにこのあいだの鏡の中の女、すなわちベールの女なのである。服装もだいたいこのあいだとおなじらしかった。  しかも、ここは三鷹駅ではないか。  「金田一さん、あなた、なにかこの女についてご存じなんですか」  と、等々力警部はさっきからトランク詰めの死体よりもむしろ金田一耕助の顔色に注目している。それほどそのときの金田一耕助のようすには異様な動揺があらわれていた。  三鷹駅でトランク詰めの死体が発見されたという報告が入ったとき、金田一耕助は警視庁捜査一課、等々力警部担当の第五調べ室に来合わせていたのだが、それが三鷹駅であり、しかもそのトランクがジュラルミン製だときいたとき、金田一耕助は電撃的なショックをうけたといってもいいすぎではなかったようだ。  「金田一さん、金田一さん」  と、等々力警部が強い調子で、  「あなたはこのトランク詰めの女をご存じなんですか」  と、重ねて念をおすように尋ねると、  「えっ? ええ、はあ、ちょっと……」  と、はっと気がついたようにあたりを見まわす金田一耕助の顔には、まるでベソをかく子供のような表情がうかんでいる。  そこは三鷹駅の宿直室で、部屋の中央にひらかれたジュラルミンの大トランクがギラギラとまだまあたらしい底光りを放っている。その大トランクを取りまいて、鑑識課の連中がしきりにパチパチ写真機のシャッターを切っている。  三鷹署の捜査主任古谷警部補をはじめとして、私服や制服の警官が数名、緊張した目をとがらせて、トランクのなかの女の死体と、金田一耕助の顔を見くらべていた。  「金田一先生」  と、古谷警部補もきびしい顔色で、  「ご存じだったらお教えねがえませんか。どういう女なんです、これは……?」  「いえ、あの、ほんのちょっと行きずりの女で……もちろん名前もしらなきゃ、どういう身分素姓のものであるかもしらないんです。でも、そのことはあとで申し上げましょう」  金田一耕助はまだこの事態が信じきれないようすである。  ジュラルミンの大トランク……三鷹駅……鏡の中の女……と、ただそればかりをくりかえしながら、金田一耕助の返事はうわのそらだった。  それにしても、これはどこかで間違っている。事件全体がどこかで食いちがっているとしか思えない。人殺しの相談をしていたのはこの女なのである。共同謀議者のそのひとりが、あべこべに死体となって現れるとは……?  金田一耕助は『アリバイ』の夜のことを思い出している。この女となにか熱心に話しこんでいた重役タイプの五十男と、少しはなれてそのふたりを監視していたらしい栄養満点夫人と……。  「警部さん」  と、金田一耕助は遠くのほうから死体を見ながら、  「それにしても、死因はなんでしょうねえ。こうみたところ出血の跡も見当たらないようですが……」  「絞殺でもなさそうですね。のどのまわりになんの痕《こん》跡《せき》もない」  「毒殺じゃありませんかねえ。ストリキニーネかなんかで……」  「金田一さん」  と、等々力警部はまたきびしい視線を古谷警部補ととりかわして、  「あなた、どうしてそんなことがいえるんです。ストリキニーネなどと……あなたこの事件についてなにかご存じなんですか」  「いや、いや、いずれいつかお話ししますが、ぼくにももうひとつがてんがいかんので……」  と、そこで金田一耕助は古谷警部補をふりかえると、  「ときに、どうしてこのトランクあけてみる気になったんですか」  「いや、その答えならわたしからしましょう」  と、そばから返事をひきとったのは、駅長の制服を着た恰《かつ》幅《ぷく》のよい人物である。  「この荷物、牟《む》礼《れ》の山口良雄さん行きとなってるんですがね、ところが、該当番地にそういう人物がいないんです。それで、配達するにも配達ができず、といってすぐ送りかえすのもなんだからと、しばらくようすを見ていたんです。そのうちに引き取り人があらわれやあしないかと思って……ところが、二、三日まえからいやな臭気が立ちはじめたので、そこできょう交番へとどけてでて、お巡りさんやなんか立ち会いのもとに開いてみたってわけなんです」  「発送駅は逗《ず》子《し》ですね」  と、金田一耕助がトランクに結びつけられた名礼を見ているうちに写真の撮影もおわって、いよいよ死体がトランクのなかから取り出されることになった。  はたして、女の死体には外傷はなく、すでに腐敗をはじめている膚に薄気味悪い斑《はん》点《てん》が点々としてくろずんでいるところをみると、死因はあきらかに毒殺らしい。断末魔の苦《く》悶《もん》を表現して、顔はおそろしくゆがんでいるが、その顔はやっぱりこのあいだのベールの女、鏡の中の女にちがいない。これはひとつ増本女史にも鑑定してもらわねばならぬと、金田一耕助は心のなかで考えている。  「主任さん、これいったい何者でしょうねえ。そうとう豪《ごう》奢《しや》な服装をしておりますが、シロウトじゃありませんね」  「キャバレーのダンサーかなんかじゃありませんかね。このまゆのそりかたやなんか……」  金田一耕助も刑事たちの品定めに同感だった。まゆをほそくそりこんで口紅の濃いその化粧は、『アリバイ』で会ったときもただのねずみではないとにらんでいたのである。美人であることはいうまでもない。  「なにか身元を証明するようなものを持っていないかね。よく調べてくれたまえ」  古谷警部補に命じられるまでもなく、刑事たちはものなれた手で女の着衣をしらべている。オーバーの内ポケットから女持ちの紙入れがでてきた。紙入れのなかから出てきた名刺に、   ○△産業専務取締役     河  田  重  人  と、いうのがあり、名刺の左下に住所と電話番号が刷りこんである。住所は吉祥寺であった。  「しめた! だれかここへ電話をかけてくれたまえ。かんたんに事情を説明して、すぐだれかにここへきてもらうんだね」  言下に刑事のひとりが部屋からとび出していった。  「ほかになにか……?」  「べつにこれといってありませんね。金を八千円ほど持っているところをみると、物取りではありませんね」  しかし、金田一耕助は気がついていた。このあいだ鏡の中で見たときには、この女は大きなダイヤの指輪をはめていたのだが、それがいまはないのである。どの指にも指輪は一本もはめていなかった。指輪ばかりではない、装身具らしいものは一《いつ》切《さい》紛失しているらしい。  それに……と、金田一耕助が小首をかしげているところへ、遅ればせに医者の川口先生がかけつけてきた。  医者はひとめ女の死体をみると、ふうむとくちびるをへの字なりにまげている。  「先生、これ、毒殺でしょうねえ」  と、古谷警部補がそばから尋ねると、  「そうさな。ほかに死因が見当たらんとすると、まあ、そういうところだろうかな」  「毒殺としてどういう毒が用いられたか、これだけじゃおわかりにならんでしょうなあ」  と、金田一耕助を横目に見ながら質問するのは等々力警部である。  「そりゃ解剖の結果を見なければはっきりいえんが……」  「金田一先生」  と、等々力警部は金田一耕助の耳に口をよせて、  「もし、これがストリキニーネだったら、あんたただではすみませんぜ」  と、にやりと笑った。  なお、ついでにここでいっておくが、解剖の結果判明したところによると、死因はやはりストリキニーネによる中毒死だったのである。  それはさておき、刑事の電話によって河田家からひとが駆けつけてきたのはそれから三十分ほどのちのことだったが、自家用車らしいのを乗りつけて、運転手とともにこの宿直室へ顔をのぞけた人物の顔を見ると、金田一耕助は俄《が》然《ぜん》、がりがりばりばり、めったやたらと頭のうえのスズメの巣をひっかきまわしたものである。  それが興奮したときのこの男のくせなのだが、なんとそこへ駆けつけてきた人物というのがだれあろう、このあいだカフェ『アリバイ』でみかけた二重あごの、あの栄養満点夫人ではないか。  夫人の背後には三船敏郎ばりの、若い、いい男の運転手がつきそっていた。 条件がそろい過ぎていた 一  二重あごの栄養満点夫人は、ひと目女の顔を見ると、  「あっ、やっぱり倉持タマ子!」  と、大きく息をはずませて、思わずそばにいた私服のそでにしがみついた。  「奥さん、この女をご存じですか」  三鷹署の捜査主任、古谷警部補は、さっと緊張した目つきになる。  金田一耕助は等々力警部とすばやく目を見かわすと、大きく騒ぐ女の乳房の隆起を見ている。このあいだとちがって派手な和服姿の夫人の胸は、きつく締めた帯のために乳房がくびれて、いっそう大きくふくらんで見える。夫人が切なくあえぐたびに、乳房の隆起がブルンブルンとふるえて躍った。  金田一耕助はまじろぎもせずに夫人の顔色を見ているが、おおげさなその身振りがこのひとの身についた習性なのか、それともそこに技巧的なものが加わっているのかわからなかった。  「はあ……あの……以前、たくに奉公していたもので……あたしの遠縁にあたる娘でして……」  夫人の顔の生えぎわやこめかみには、ぐっしょりと汗がうかんでいる。その汗のひとつぶひとつぶが窓からさしこむ日をうけてきらきら光るのが印象的だった。  「あなたは河田重人さんの……」  と、古谷警部補が名刺を出してみせると、  「ああ、それをこの娘が持っていたんですね」  といってから、すぐその視線を警部補の顔にうつして、  「はあ、あの、河田の家内でございます」  ようやく落ち着きをとりもどしたのか、かなりキッパリとした調子でいい、それからはじめて気がついたように、  「あら、失礼しました」  と、取りすがっていた刑事の腕から手をはなし、一歩うしろへさがると、いそいで衣《え》紋《もん》をつくろい、すそをなおした。しかし、赤ん坊のようにまるまるとふとった指はまだわなわなとふるえており、二つのひとみには恐怖の色がみなぎっている。  「失礼ですが、お名前は……?」  「トキ子と申します」  「トキ子とは時間の時ですか」  「いいえ、登はノボル、喜はヨロコブでございます」  「ああ、なるほど。ところで、この娘の名は倉持タマ子というんですね」  「はあ」  「あなたの遠縁のもので、おたくに奉公していたとおっしゃいましたが、それはいつごろまで……?」  「はあ、あの、一昨年の秋まで……」  「自分のほうから出ていったのですか、それともおたくのほうからお暇を出されたのですか」  「はあ、あの、それが……」  登喜子夫人は追いつめられたような目つきをして警部補の顔を見つめていたが、その視線を部屋の入り口にうつすと、観念したように目を閉じた。  金田一耕助はさっきから気がついていたのだけれど、そこには若い美《び》貌《ぼう》の運転手が、蒼《そう》白《はく》にこわばった顔をして立ちすくんでいる。年齢は三十前後だろう。三船敏郎ばりの苦み走った好男子である。  しばらく目をつむっていたのちに、登喜子は苦痛と恐怖にみちた目をあげると、  「それは、こちらから暇を出したのでございます」  「なにか不都合なことでもあって……?」  「はあ、あの、それが……」  夫人は運転手のほうへ一《いち》瞥《べつ》をくれると、いよいよ切なげに指でまいたハンカチで額の生えぎわをこすっている。  「奥さん、どうぞこれへお掛けなすって」  刑事のひとりが気がついたようにイスをすすめると、  「はあ、それでは……」  と、ギーッとそれをきしらせて腰をおろすと、  「主人とのようすがなんだかおかしいように思えたものですから……」  と、消え入りそうな声を聞いたとき、一同の目にさっと緊張の色が光った。  「ご主人と関係があったと……?」  「はあ……」  「それで、タマ子というこの婦人はおたくを出てからなにをしていたのですか」  「はあ。銀座かどこかでキャバレーのダンサーかなにかしていたようで……元来がそういうたちの娘でしたが……」  「それで、その後もご主人との関係は……?」  「つづいていたようでございます」  そういう声は切なくふるえ、しかも、深刻な憤りと怨《えん》恨《こん》が心をえぐるようにもえていた。  「奥さんはそれをどうしてご存じだったのですか。ご主人が告白なすったんですか。それとも、この娘にあわれたのですか」  「いいえ、うちを出てからタマ子にはいちども会ったことも見たこともございません」  どういうわけか登喜子夫人はここでひとつうそをついた。 二  「それでは、どうしてそのことをご存じだったのですか」  「それは……」  と、夫人はまた切なそうに息をあえがせて、  「杉田さん、あんたから申し上げて」  と、そのままハンカチのなかに顔を埋めて嗚《お》咽《えつ》する。  「はっ」  と、兵隊のようにしゃちこばった運転手の返事に、なかにははじめてかれの存在に気がついたものもあった。  古谷警部補などもそのひとりで、  「ああ、君は運転手だね。名前は……」  美貌の運転手もようやく落ち着きをとりもどしていたらしく、杉田豊彦、年齢は三十歳とテキパキと答えたのち、  「それはこうなんです。奥さまがご主人のようすを怪しく思われて、このぼくに尾行を命じられたのです」  「ああ。すると、ご主人はべつに自動車を持っていられるのかね」  「いいえ、そうではございません」  「というと?」  「はあ、それはこうなんです。ご主人の外出のとき、以前はいつもぼくが運転していたんです。ところが、去年の春ごろから、ちょくちょくごじぶんで運転していかれることがあるんですね。だんなも免許証を持っていらっしゃいますから……つまり、奥さまはそれをおかしいと思われたんです」  「ああ、なるほど。それで、そういうときのご主人を君が尾行したわけだね」  「はあ、さようで」  「それで、女と会っているところをつきとめて、奥さまにご報告申し上げたというわけか」  古谷警部補の口ぶりは、吐きだすようなにがにがしさである。  「はあ、それはもちろん。奥さまがあまりお気の毒ですし、タマ公のやつが憎らしかったものですから」  すっかり落ち着きをとりもどした運転手の杉田は、しゃあしゃあした口ぶりだった。  「タマ公……? ああ、そうか。君も倉持タマ子をしっていたんだね。で、どこのキャバレーで働いていたんだね」  「西銀座の『ランターン』というキャバレーでしたね、その当時は……」  「すると、いまは……?」  「だんながよさせて囲っておいたんでさ、渋谷の『松声館』という高級アパートに。ぼく、いちどその『松声館』へいって、奥さまがお気の毒だから別れたらどうかって忠告したことがあるんですが、大きなお世話だと鼻のさきでせせらわらやあがった。とにかく、悪い女です。恩をあだでかえすとはあのこってすね」  杉田の声には真実憎悪のひびきがこもっている。紫色に変色したタマ子の死体の横顔に目をやると、ちょっと口のうちで舌を鳴らした。  古谷警部補は杉田の顔からその視線をハンカチに顔を埋めている登喜子のほうへうつすと、  「奥さん、ご主人のほかにご家族は……?」  「はあ……」  どういうわけか、家族のことを聞かれると登喜子夫人はいよいよ切なげにせぐりあげて、  「娘がひとりございます」  と、なぜか悲痛にひびく声だった。  「お名前とお年をどうぞ」  捜査主任はけげんそうにまゆをひそめて、それでも質問をつづけていく。  「はあ、名前は由美、年はかぞえで十九でございます」  「かぞえで十九とおっしゃいますと、いま高校三年ですね」  「はあ、あの、ところが、去年の秋、学校をよして……」  「どこかお体でも悪くって……?」  「いえ、あの、退校になりまして……あまり不行跡が目にあまるものですから……」  「それというのも、タマ公のせいなんです。以前はそんなお嬢さんじゃなかったんです」  るるとつづく夫人の悲痛のむせび泣きに、一同が一瞬しいんと静まりかえったとき、杉田豊彦が吐き出すようにつぶやいた。火のように熱いものが、憤りにもえる声音のなかにこもっていた。  金田一耕助はそこに悪いひとりの女のために破壊された家庭の見本を見せられたような気がして、暗然たる気持ちだった。等々力警部もおなじ思いなのだろう、無言のまま、しきりに耳たぼを引っ張っている。  「ときに、このトランクは逗子から発送されてるんですが、なにかお心当たりは……?」  「逗子……?」  はっと顔をあげて杉田と顔を見合わせた夫人の目には、またさっと恐怖の色がつっ走った。杉田もギクッとした顔色だった。  「ああ、なにかお心当たりがあるんですね。どういう……?」  「はあ……杉田さん、あなたから申し上げて……」  「逗子にはうちの……河田家の別荘があるんです。しかし、夏場しか使わないので、ふだんは奉公人もいず、閉鎖されているんですが……」  「ところで、ご主人はいまどちら……会社のほうにいらっしゃるんですか」  「それが……それが……」  と、夫人の声はいよいようわずって、  「五日ほどまえからかえらないんです。あちこち問い合わせてみてもいどころがわからないので、きょうあたり捜索願いを出そうかと思案をしているところへ、さきほどこちらからお電話がございまして……」  一同はまたさっと緊張したように顔を見合わせる。  「五日ほどまえとおっしゃいましたが……」  と、金田一耕助がはじめてそばから言葉をはさんだ。  「正確にいうと何日ですか。きょうは五月十六日ですが……」  「五月十一日でした」  と、杉田運転手が答えをひきとって、  「その朝、ぼくが会社まで運転していったんです。ところが、夕刻お迎えにあがると、もうすでにおかえりになったとかで……それきりおかえりにならなかったんです」  「ちかごろではそういうこと珍しくございませんので、一日、二日、三日ぐらいまでは気にしなかったんですけれど……でも、タマ子……タマさんもアパートにいないようだと杉田が申しますものですから、いっしょに旅行でもしているのか、それともどこかでただれた生活でもしているのかと、捜索願いを出すのもはばかられて……」  五月十一日といえば、増本女史がリップ・リーディングであの恐ろしい会話を読んでから約十日後のことである。あれはたしかに五月二日の晩だったから。  「ときに、奥さん」  金田一耕助はのどのおくの痰《たん》を切るような音をさせると、  「失礼ですが、あなた銀座の『アリバイ』という妙な名前のカフェをご存じじゃありませんか」  登喜子夫人はそのとたんはじかれたように顔をあげると、金田一耕助の顔を見た。  そして、もじゃもじゃ頭によれよれのセル、ひだのたるんだ袴《はかま》をはいた特異な姿に、彼女もあの夜のかれを思い出したにちがいない。  「あっ!」  というような短い鋭い叫びをあげると、つとイスから腰をうかしかけたが、つぎの瞬間、  「危ない!」  と叫んで駆けよった杉田豊彦の腕に抱かれて気をうしなっていた。 三  ジュラルミンのトランク詰めの死体事件は、逗子にある河田家の別荘を捜索するにおよんで、俄然、大事件の面《めん》貌《ぼう》をおびてきた。  夫の失《しつ》踪《そう》後《ご》、登喜子夫人ももしやと思って、いちおう運転手の杉田をやって別荘のほうを調べさせたという。  すると、十一日の晩に河田重人氏と愛人の倉持タマ子が別荘へやってきたらしいことはわかったが、それからあとの消息がわからなくなっていたのである。登喜子夫人にしろ杉田にしろ、こんな恐ろしいことになっていようとは思わなかったから、別荘のなかを掘りかえそうなどとはゆめにも思わなかったといっている。  ところが、トランク詰めの死体の一件から、ひょっとするとここで殺人が行われたのではないかという想定のもとに、警察の手で入念に別荘の内部が調査されたところが、庭のすみの落ち葉だめの底から、なんと河田重人の死体が掘り出されたのである。  河田の死因もタマ子とおなじくストリキニーネだった。そこで、逗子の警察で調べたところが、だいたいつぎのような事実が判明したのである。  いったい、河田家の別荘は、べつに留守番というようなものはおいてなかった。すぐ背中合わせの位置にSホテルというのがあって、管理は万事そこに一任してあった。だから、別荘へ出向いて泊まるときには、あらかじめSホテルへ電話しておけば、夜具一切の準備をしておいてくれることになっているし、食事などもホテルのほうから取りよせることになっている。  五月十一日午後四時ごろ、そのSホテルへ、東京の河田重人氏から電話がかかってきた。こんやふたりづれでいって一泊するから、別荘のほうを万事よろしくとのことだった。だいたいそちらへ着くのは八時ごろになるだろうが、軽い食事とウイスキーぐらいを用意しておいてほしいという注文であった。  このへんまでは杉田豊彦の調査でもわかっていたというのだが、それからさきを警察の手で入念に調べていったところが、つぎのような妙な事情がわかってきた。  午後八時ごろ河田氏からSホテルへ電話がかかってきて、いまついたから用意の食事をもってきてほしいということであった。この電話へ出たのはホテルの支配人高山嘉助という人物だったが、電話の声はたしかに河田重人氏だったとのちに証言している。  ところが、問題はそれからあとなのだ。高山支配人の命令で別荘へ食事をはこんでいったのは、藤本文雄というまだわかいボーイだったが、このSホテルと河田家の別荘は背中あわせに建っている。だから、裏木戸をあけると庭つづきになっていた。庭はどちらも相当広いのである。  ところが、藤本ボーイが岡《おか》持《も》ちをさげて庭木戸のところまでいくと、そこに若い女が懐中電灯をもって待っていたというのである。  八時すぎのことだから、もうあたりはまっくらであった。だから顔かたちはよくわからなかったけれど、頭にネッカチーフをまき、大きな鼈《べつ》甲《こう》ぶちの眼鏡をかけ、風邪でもひいているのかマスクをかけていた。しかし、サロンエプロンをかけ、サンダルをはいているその風体からして、ボーイの藤本はてっきり河田氏が東京からつれてきた女中であろうと思ったというのである。  わかい女は藤本の手から岡持ちをうけとると、明日午前十時ごろ取りにくるように、岡持ちは台所のほうへ出しておくからというのである。  そのとき藤本が、だんなはいったいだれときているのだ、またあのキャバレーのダンサーといっしょかというような意味のことを尋ねると、ネッカチーフの女はただうっふっふと笑っただけで、岡持ちをさげてさっと別荘の勝手のほうへいってしまった。そこで藤本もそのままホテルへひきかえしたのである。  さて、その翌朝、すなわち五月十二日の午前十時ごろ、別荘の台所へいってみると、はたしてそこに岡持ちが出してあり、なかのさら小ばちなどきれいに洗ってあった。  しかも、別荘にはもうだれもいないらしいので、念のために座敷へいってみると、きのう昼間河田氏から電話があったのちホテルから運んでおいた夜具やねまきの類がていねいにたたんですみのほうにつんであり、河田氏はもとよりのこと、倉持タマ子もネッカチーフの女の姿もみえなかった。そこで、藤本はホテルから女中をよんで、夜具の類をもって帰った……というのである。  なお、ホテル側の証言によると、以上述べたようなことはいままでたびたびあったことなので、だれもべつにおかしいとは思わなかったのだが、ただ問題は藤本が会ったというネッカチーフの女のことである。  藤本はそれを、河田氏が東京からつれてきた女中か、あるいは愛人の倉持タマ子のお供できた女中であろうくらいに考えていたのだが、これだけが従来なかったことであった。  そこで、河田家の本宅のほうを調べてみると、登喜子夫人はもちろんそんな女に心当たりはなかったし、また殺された倉持タマ子はアパート住まいで、もちろん女中などいなかった。第一、男と女があいびきをするのに女中づれというのはおかしいと、あとになって藤本文雄をはじめとしてホテルの連中も気がついたのである。  では、そのネッカチーフの女とはいったい何者か。いや、いや、彼女がいったい何者にもあれ、河田重人と倉持タマ子に毒を盛るチャンスをもっていたのはその女しかないと思われる。  おそらく、彼女は藤本にたいして河田家の女中のごとく振る舞っていたと同様に、河田重人や倉持タマ子にたいしてはSホテルの女中のごとくよそおっていたのではあるまいか。そして、ホテルから取り寄せた料理のなかにストリキニーネを盛って、ふたりを殺害したのではあるまいか。  もしそうだとすると、ネッカチーフの女はホテルの女中として、河田重人と倉持タマ子のふたり……いや、少なくともそのひとりと顔をあわせているはずである。それでいてあいてがなんの疑惑もいだかなかったとすると、ネッカチーフの女はふたり、あるいはそのうちのひとりにとってまったく未知な人物だったということになる。ここにこの事件のむつかしさがあった。  それはさておき、犯人はその晩被害者のひとりを庭のすみに埋め、あとのひとりをジュラルミンのトランクに詰めて運び出しているのだが、それを運び出した運転手もすぐわかった。  それは五月十三日の朝のこと。駅前にある逗子ガレージへひとりの女がやってきた。女はレインコートを着てフードをまぶかにかぶり、鼈甲ぶちの大きな眼鏡をかけ、おまけに感冒よけの大きなマスクをしていたので顔はほとんど見えなかった。  女はじぶんといっしょにきてトランクを運びだしてほしいというのであった。そこで女を乗っけていったのが河田家の別荘であった。せまい町なので運転手もその別荘のことはよくしっており、主人がときどき女をつれて泊まりにくることも聞いていた。  さてはこの女なのか、ひとつ顔を見てやろうと思ったが、あいてもさるもの、とうとう最後まで顔を見せなかった。  河田家の玄関には大きなジュラルミンのトランクがおいてあった。女の指図でそれを自動車につみこむと、女もいっしょに乗って逗子駅までいった。  女はそこからトランクを三鷹市牟礼の山口良雄あてに発送して、それきりいずくともなく立ち去っているのだが、駅員のなかにもその女のことをおぼえているものがあった。ただし、はっきり顔をみているものはだれひとりなかったのだが……。  さて、いっぽう、この事件に関係があると思われる自動車がもう一台発見されている。  河田家の別荘から大きなジュラルミン製のトランクが運び出されたその前日、すなわち五月十二日の夕方、鎌倉駅前にあるK・Kタクシーの車に、女がひとりジュラルミンのトランクをもって乗っている。その車は逗子の河田家の別荘へ乗りつけたが、女の外《がい》貌《ぼう》風《ふう》采《さい》は、その翌日、河田家からトランクを運びだした女とそっくりで、しかもそのときのトランクは、重さからいって明らかにからであったと運転手が証言している。  以上のような事実をつなぎあわせてみると、だいたいつぎのようなことになるらしい。  五月十一日の夜、正体不明の女は、Sホテルのボーイ藤本文雄にたいしては河田家の女中になりすまし、河田重人や倉持タマ子にたいしてはSホテルの女中をよそおうて、たくみにふたりに一服盛った。そして、河田氏の死体のほうは庭の落ち葉だめのなかへ埋め、タマ子の死体はいったんどこかへかくしておいた。  そうしておいて、その女はいったん逗子を立ち去ると、その翌日、どこからかジュラルミンの大トランクを手に入れてきて、鎌倉から逗子へ運んだ。そして、その翌朝、倉持タマ子の死体をそのトランクに詰め、逗子駅から三鷹あてに発送し、じぶんはどこかへ姿をかくした……と、だいたい以上のような順序になるらしいのである。  だが、そうなるとわからないのは、なぜタマ子の死体だけを運びだしたのか。それには大きな危険が伴うであろうのに、なぜ危険を冒してまでタマ子の死体だけ運びださなければならなかったのか。タマ子の死体も河田の死体と同様に、庭のすみへ埋めておいてはなぜいけないのか……。  それはさておき、三角関係のふたつの角が殺害されたとなると、当然、疑惑の目がむけられるのは、残るひとつの角である。残るひとつの角とはいうまでもなく登喜子夫人だ。しかし、ジュラルミンのトランクを運んだ女の体つきや年ごろからして、それが登喜子夫人であるらしい可能性はうすかった。  となると、つぎにうかびあがってくるのは、タマ子によって家庭の平和を破壊され、それがもとでぐれてしまったという娘の由美はどうなのか……。  逗子と三鷹の両地区にまたがる捜査活動は、こうして俄然活発になってきた。 四  五月十八日——すなわちこの事件が発見されてから二日のちの夕方のこと。  三鷹署にもうけられた捜査本部にはなにかしら異様な緊張の気がみなぎっていた。金田一耕助がこの事件に関する重要な証人をつれてくるという電話が、さっき捜査主任の古谷警部補にかかってきたからである。  「警部さん、あなた金田一先生のつれてくるという重要証人なる人物をご存じですか」  「いいや、わたしはまだなにも聞いていない」  「金田一先生は、しかし、なにかこの事件についてご存じなんですね」  「いや、しっているというよりはこういう事件が起こるであろうということをあらかじめ予測していたんじゃないかね」  「ほほう」  というように一同は耳をそばだてて、  「それはまたどうして……?」  「いや、どうしてだか、それをきょうは聞かせてもらおうと思ってるんだ」  「しかし、警部さん」  と、小沼という敏腕の刑事はいくらかおもてに朱をそそぎ、いささか憤然とした調子で、  「あらかじめこういう事件が起こるとしっていたら、なぜひとことわれわれにそれを耳打ちしておいてくれなかったんです」  「だから、それをきょうは聞かせてもらおうじゃないか。金田一先生、何時にくるという電話だった?」  「きっちり五時にこちらへくるというお電話でしたが……」  「もうかれこれ五時だが……」  その金田一耕助は約束の時間より五分ほどおくれて捜査本部に到着した。  連れというのは四十前後のじみなグレーのスーツを着た婦人で、髪がおそろしくちぢれている。容貌もあんまり美しいとはいえず、ことに目がある種の金魚のようにとび出しているのが印象的だった。  「こちら増本克子先生、聾唖学校で読唇術を教えていらっしゃるかたです」  「ドクシン術……?」  と、古谷警部補が目をみはったので、  「くちびるを読む術……すなわちリップ・リーディングですね」  と、金田一耕助が説明を補足すると、  「ああ、その読唇術……」  警部補もやっと了解したようだったが、なおけげんそうにまじまじと増本女史の顔を見まもっている。  金田一耕助はそこにいるひとりひとりを増本女史に紹介すると、  「それじゃ、増本女史、恐れ入りますが、あなたから、今月の二日の晩、銀座のカフェ『アリバイ』で見聞なすった事実について、みなさんに説明してあげてくださいませんか」  「はあ」  さすがに増本女史も一同の視線を浴びてちょっともじもじしていたが、それでも持ちまえのひとにものを教えるときのような調子で、カフェ『アリバイ』でリップ・リーディングをしたときのいちぶしじゅうを語ってきかせたが、それを聞いた一同の驚きは非常なものであった。  「それじゃ、そのとき男と女が殺人の相談をしていたというんですか」  と、古谷警部補は目を細めて、鋭くあいての顔を見すえた。  「いいえ、あたしそうはっきりと断言することはできませんの。男のほうのくちびるの動きはぜんぜん読めなかったんですから」  「しかし、女はいったんですね。ピストル? だめよ、音がするから……やっぱり、ストリキニーネね……ジュラルミンの大トランク……三鷹駅がいいわ……と」  「はあ」  と、増本女史はあいかわらず出目金のような目をしわしわさせながら、古谷警部補にむかって正面を切っている。  「金田一先生、まちがいはございませんね」  「ああ、いや、それは……」  と、金田一耕助はちょっとのどの痰《たん》をきるような音をさせながら、  「その女がそういったかどうかぼくにはわかりませんよ。残念ながら、ぼくにはリップ・リーディングというような特殊技能はないんですから。しかし、あの晩、増本先生が女のくちびるのうごきを見ながらそう書きとられたことはたしかです。それに、ぼくは増本先生のリップ・リーディングの技能については絶対に信頼をおいてるんですが……」  「なるほど」  と、等々力警部はむつかしい顔をして、  「それで、増本先生、その会話をしていたふたりの男女というのをあなたはご存じですか」  「いいえ、そのときまでは全然」  「というと、いまでは……?」  「はあ、ちかごろ新聞にのっているジュラルミンのトランク事件のふたりの被害者……あのふたりじゃなかったかと思うんですけれど」  「しかし、増本先生」  と、古谷警部補はデスクのうえから身を乗りだして、  「それじゃ、なぜもっとはやくそのことをわれわれにしらせてくださらなかったんですか」  「はあ、それと申しますのが……」  と、増本女史もあらかじめそういう質問があることを予期していたかのように、ぐっと上体を反らせると、  「新聞をみましたとき、あたしはっとしました。三鷹でしょう。それにジュラルミンのトランクでございましょう。でも、もうひとつあたしのふに落ちないのは、被害者としてそこに写真ののっている倉持タマ子さんというのが、あの晩の女のひとのように思えたんです。それももうひとつ写真がハッキリしなかったんですけれど……しかし、こうなると話が全然あべこべになってまいりますわねえ、殺人を計画してたひとが殺されるなんて……それと、もしこんどの事件がほんとうにあのリップ・リーディングの会話に関係があるようだと、きっとここにいらっしゃる金田一先生からなにかお話があるだろうと思ったものですから……」  「なるほど、よくわかりました」  と、等々力警部が会話をひきとって、  「ところで、今朝の新聞をごらんになったでしょうが、河田重人という倉持タマ子のパトロンの死体が逗子の別荘から発見されているでしょう。河田の写真も新聞にのっておりますが、いかがですか。『アリバイ』でタマ子といっしょだった男というのは初老の男だったとあなたはいまおっしゃったが、もしやそれ、河田重人じゃ……」  「ところが、あたし……」  と、増本女史は例によって出目金のような目をしわしわさせながら、  「男のかたのほうはあんまりよく見ていなかったんです。鏡の中ではこちらに背をむけておりましたし、かえりにあたしどものテーブルのそばを通ったときには、あたしなんだか悪いことをしたような気持ちで、ろくに顔もあげられなかったもんですから……」  「金田一先生、あなたいかがですか」  「はあ、たしかに河田氏でしたよ、あのときタマ子といっしょだったのは……」  「そうすると、金田一先生」  と、古谷警部補が身をのりだして、  「今月の二日の晩、河田重人と倉持タマ子は、銀座のカフェ『アリバイ』で、だれかをストリキニーネで毒殺してその死体をジュラルミンのトランクに詰めて三鷹駅へ送る……と、そういう相談をしていたとおっしゃるんですね」  「いや、明確にそういえるかどうかわかりませんが、増本先生が読みとられた会話の断片から推していくと、そういうことになってきますね」  「ところが、そこになんらかの手違いがあって、殺人を計画していたふたりのほうが、ぎゃくにじぶんたちの計画どおりに殺されたというわけですか」  「いや、ところが、主任さん、ここにこういう話があるんですがね」  と、金田一耕助がカフェ『アリバイ』で倉持タマ子と河田重人氏を監視していたらしい婦人のことを話し、しかものちにその婦人というのが河田夫人の登喜子であることに気づいたことを打ち明けると、一同の興奮は絶頂に達した。  「金田一さん」  と、等々力警部もきびしい目をして、  「それじゃ、河田夫人はじぶんの夫とその愛人が殺人計画をもっていることをしっていたのではないかとおっしゃるんですか」  「はあ、じつはそれについてもお話があるんですが……」  と、金田一耕助はそこで増本女史をふりかえると、  「増本先生は覚えていらっしゃるでしょうが、あの晩、鏡のなかにうつっていたふたりを監視していた婦人がありましたね。よく肥えた、いかにも金持ちの奥さんらしい女が……」  「はあ……」  「あれが河田重人氏の奥さんだったんですよ」  「まあ!」  「ところが、あなたはご存じですかどうか。われわれはカフェ『アリバイ』を出るとすぐわかれましたね。だから、あなたお気づきになったかどうですか。われわれと入れちがいに河田氏の奥さんがひきかえしてきて、あなたがメニューの裏に書きつけたあのリップ・リーディングの会話の断片、あれをひそかに読んでいたんですよ」  「まあ!」  と、増本女史はおびえたように目をすぼめる。  「あなた、それに気がおつきじゃございませんでしたか」  「いいえ、あたくし存じません。カフェのまえであなたにお別れすると、あたくしまっすぐかえりましたから……」  「金田一さん!」  と、古谷警部補は息をはずませて、  「それじゃ、河田夫人はほんとにカフェにひきかえして、メニューの裏を読んでいったんですか」  「ええ、そう。河田夫人はちょうどわれわれのとなりのテーブルに座っていたんですね。そして、そこから鏡にうつる夫と倉持タマ子のようすを監視していたらしいんですが、そのうちにわれわれのようすに気がついたらしいんです。増本先生がリップ・リーディングをなすったということを……夫人はわれわれよりひと足さきに店を出たんですが、われわれがあとから店を出ると、なにか忘れものでも探しにかえったようなかっこうで引き返してきて、増本先生がリップ・リーディングして書きつけたメニューの裏の会話の断片を読んでいましたが、いや、そのときの夫人の顔色ったらなかったですねえ」  「わかった!」  と、テーブルをたたいて叫んだのは古谷主任だ。  「河田夫人は増本女史のリップ・リーディングを読んで、夫が倉持タマ子と共謀してじぶんを殺そうとしていることをしったんだ。そこで先手をうって、あべこべにふたりを毒殺したにちがいない!」 五  「じっさい、これはむつかしい事件でしたねえ」  金田一耕助はふかぶかと安楽イスに体をうずめて、いかにもものうげな顔色だった。  「むつかしい事件とおっしゃると……?」  と、例によってこの事件簿の記録者である筆者が質問すると、  「いえね、河田夫人の登喜子はたしかにメニューの裏を読んだと告白したんです。そして、夫が情婦と共謀してじぶんを殺そうとしているのではないかという疑いをもったこともじじつだというんです。しかし、それだからといって、じぶんのほうから先手をうったなんて、そんな覚えはぜんぜんないと否定するんですね」  「あなたはさっき、河田夫人は栄養満点の肥満型だとおっしゃいましたね。それで、Sホテルのボーイの藤本文雄や、ふたりの運転手が目撃した鼈《べつ》甲《こう》ぶちにマスクをかけた女はどうなんです」  「いや、藤本文雄とふたりの運転手が目撃した女ですがね、これは完全におなじ女らしいんです。ところが、三人の証言によると、河田夫人とはぜんぜんタイプがちがっているというんですね。背の高さはだいたい河田夫人くらいで、女としてはいかり肩のがっちりとした体をしていたが、河田夫人ほどぶくぶく太ってはいなかったし、それに、たしかにもっと若い女だったと、これは三人が三人とも口をそろえていっているんです」  「それじゃ、娘の由美はどうなんです。タマ子のために家庭を破壊されて、それがもとでぐれてしまったという……」  「いや、ところが、このほうは河田氏に似たんでしょうかねえ。背が五尺三寸五分もあって、すらっとした姿をしているんです。ところが、問題の女は五尺二寸あるかなしだったろうというんです。つまり、全然体つきがちがっているうえに、由美にはれっきとしたアリバイがあったんです。十一日の夜も、十二日の晩も、彼女は数名のボーイフレンドとキャバレーやバーを飲み歩いていた。しかも、それには多くの証人もあったんです」  「とすると、運転手の杉田豊彦という男は……? 三船敏郎ばりの好男子とすると、女装はちょっとむりでしょうが、その男か、あるいは夫人の知り合いの女が夫人の依頼をうけて……」  「いや、捜査当局もその線がいちばん臭いとねらいをつけていたんです。それというのが、由美の口から、夫人と杉田とのあいだにいまわしい関係があることが漏れたんですね」  筆者は思わず息をのみ、金田一耕助の顔を見つめた。  金田一耕助は暗いため息をついて、  「いや、狂いはじめるとどこまで狂うかわからないものですね。夫が夫人の親《しん》戚《せき》の娘に手をつけて、いつまでもそのくされ縁を断とうとしない。むしろ首ったけになっている。それが夫人を狂わせて、つい杉田の誘惑にのってしまったというわけです。ひとつバランスが狂うとなにもかもめちゃめちゃですね」  「なるほど。それじゃ娘がぐれるのもむりはありませんね」  「ええ、そう。娘も杉田と関係があったんですよ」  筆者はまたぎょっと息をのんで、金田一耕助の暗い顔を見なおした。  「しかし、ねえ、先生」  と、金田一耕助はちょっと体を乗りだすと、  「河田夫人が杉田と共謀して、あるいはそれに娘も荷《か》担《たん》して河田重人とその愛人を殺害したとしても、なんのためにタマ子をトランク詰めにして三鷹駅へ送りとどけたんです。しかも、ごていねいにジュラルミン製のトランクで……それこそ野球でいえば無用の投球というやつと同じじゃありませんか。まさか、夫やタマ子がじぶんを殺してジュラルミンのトランク詰めにしようとしているから、その腹いせというのじゃ、少し児戯に類するとはお思いになりませんか」  「とおっしゃると……?」  「いえね、先生、まずつぎのことを考えてみてください。カフェ『アリバイ』で河田重人と倉持タマ子がストリキニーネを用いてひとを殺し、ジュラルミン製のトランクに詰めて三鷹駅へ送ろうと相談していたということをしってた人間は何人ありますか」  「そうですね。まず相談していた河田重人と倉持タマ子、それからあなたに増本女史、あとから引き返してきた河田夫人、河田夫人から聞いて運転手の杉田豊彦もしってたかもしれませんね」  「そう、だいたい先生のおっしゃるとおりですね。ところが、以上のなかから河田とタマ子は被害者だから問題ないとして、河田夫人と杉田豊彦を容疑者の群れから除外すると、あとにだれが残りますか」  「それはあなたと増本女史ですが……」  「そのなかからわたしを除外すると……?」  「な、なんですって?」  と、わたしは思わず驚きの声を放った。  「そ、そ、それじゃ増本女史だったんですか」  「ええ、そう。わたしははじめから増本女史に疑いをもっていたんですよ」  「とおっしゃると……?」  わたしはまだ驚きの覚めやらぬ目で金田一耕助を見つめていた。  金田一耕助は暗い顔をして、  「鏡にうつった倉持タマ子のくちびるの動きは、わたしでさえハッキリとは見えなかったんですよ。そこはそれほど薄暗くて、また、わたしたちのテーブルからかなり距離があったんです。だから、相当ひどい近眼の増本女史に見えるわけがなかったんです。しかも、増本女史はじぶんの近眼をかくしていましたし、わたしがそれをしっているということを女史はしらなかったんです」  「金田一さん、そ、それはどういう意味なんですか。もっとはっきりおっしゃってくださいませんか」  「はあ、それはこうなんです」  と、金田一耕助は遠くを見るような目つきをして、  「倉持タマ子のくちびるの動きは見えなかったとしても、その女があいての男となにか重要な相談をしていたらしいことは、鏡にうつったふたりの姿勢からでもわかったんです。それから、われわれのテーブルのとなりにいる婦人がどうやらふたりを監視しているらしいことも、われわれに察しがついていたんです。当然、そこに三角関係が想定されたわけです。夫と若く美しい愛人と、その愛人に夫の愛をうばわれて瞋《しん》恚《い》のほむらを燃やしている妻と……これはわたしのみならず、増本女史にも察しがついたんですね。しかも、女史はわたしの職業をしっている。だから、ひとつ金田一耕助をからかってやろうというわけで、倉持タマ子がしゃべりもしないことをメニューの裏に書きとめたんです。ひとつにはそれを読ませて嫉《しつ》妬《と》に悩んでいる妻をいっそう苦しめてやろうという悪魔的な気持ちも手伝っていたかもしれません」  「そ、それじゃ、増本女史がリップ・リーディングをしたというのはうそだったんですか」  「そうです。第一、読めっこないんですよ。さっきもいったような状態だったし、それに増本女史の視力ではね」  「ふむ、ふむ。それで……?」  「ところが、そのときわたしがもっと驚いてみせればよかったんです。いや、わたしが増本女史のいたずらにのって、真剣にその事件に乗りだせばよかったんです。そうしたら、さんざんわたしにむだ骨を折らせたあげく、じつは先生、あのリップ・リーディングはうそだったんですのよ、ほっほっほ、ぐらいですませたかもしれないんです。ところが、わたしが全然それを信用しなかった。増本女史の近眼をしってますからね。いや、いちおう信用したような顔はしてみせましたが、内心問題にしていないことをしっていたので、それが彼女のプライドを傷つけたというわけです」  「そ、それじゃ、あなたが信用してくれないので、ヒョウタンから駒《こま》を出してみせようというわけで、そういう犯罪をやってのけたとおっしゃるんですか」  「まあ、そういっていえないこともありませんね」  「しかし、それじゃ増本女史は河田夫妻をしっていたのですか」  「いや、それが全然未知の仲だったんです。それが捜査当局を悩ませ、それだからこそ増本女史も安心していられたんですね」  「しかし、それじゃどうして……?」  「それはこうなんです。五月二日の晩、われわれが河田夫人よりひと足おくれてカフェ『アリバイ』を出たことはさっきも申し上げましたね。『アリバイ』を出るとわれわれはすぐ右と左にわかれたんですが、わたしは河田夫人が引き返してくるのに気がついて、ウインドーの外からようすを見ていたんです。ところが、そういうわたしを増本女史が道路をへだてたむこうから見ていました。わたしはそれに気がついていましたが、わざとしらん顔をしていたんです。ところが、河田夫人がびっくり仰天したような顔色でカフェ『アリバイ』から出てくると、増本女史がひそかにそのあとを尾行していったんです。それもわたしは気がついていましたが、わざとしらん顔をしていたわけです。さて、河田夫人のあとを尾行した増本女史は、河田家の乱脈、スキャンダルをすっかりしった。なにしろ、倉持タマ子がいちじ河田家で女中奉公みたいなことをしていて、近所でもしられていただけに、このスキャンダルは話題になりやすかったわけです。つまり、河田家に犯罪ロマンスを構成する条件がそろいすぎていた。それが増本女史を誘惑して、ああいう恐ろしいことをやらせてしまったんです。ひとつは、河田家とじぶんとが全然未知の間柄であるという一種のかくれみのも彼女の犯罪を刺激したといえましょうね。五月三日以来、彼女はしつこく河田氏の行動を監視したあげく、とうとう十一日の晩、じぶんの筋書きどおりにことを運んだんですね」  「しかも、その動機たるや、あなたにじぶんのリップ・リーディングの技術を過小評価されたくなかったというところにあるんですね」  「それと、じぶんの近眼をかくすためにね」  筆者は唖《あ》然《ぜん》として、しばらく言葉も出なかった。  「しかし、金田一さん、この事件証明されましたか、増本女史の犯罪であるということが……」  「それがなかなかむつかしかったんです。なにしろ、Sホテルの藤本文雄も、ふたりの運転手も、顔をハッキリ見ていないんですからね。しかし、やっぱり女ですねえ。殺されたとき倉持タマ子が身につけていたダイヤの指輪ほか高価な装身具、それが決め手になりました」  「増本女史が持っていたんですか」  「ええ、そう。そんなものが目的の犯罪ではなかったんですが、いざとなったとき急に欲が出たんですね。それに、じぶんは絶対に大丈夫という確信もあったんでしょう。なにしろ、河田とタマ子を殺してしまえば、増本女史のリップ・リーディングはうそだったと証明できるものはひとりもいないわけですからね」  「だが、そのリップ・リーディングを真実化するために、ただそれだけのために、なんのゆかりもない男女を……」  「ええ、そう」  金田一耕助はゆうぜんとして、  「現代はそういう時代なんですよ。ストレス時代なんです。ひとがなにをやらかすかわからんということは、先生も毎日の新聞でいやというほど読んでいらっしゃるでしょう。先生のように筆のさきでしょっちゅう人殺しをしていらっしゃるかたは大丈夫でしょうがね。あっはっは」 傘《かさ》の中の女 赤い水玉のビーチ・パラソル 一  「あらあ、いやだあ……うっふっふ。それじゃまるで生き埋めじゃないの。身動きもできないわ」  「いいさ、いいさ、いい子だからおとなしく寝んねしていらっしゃい。これ、とっても神経痛だのリューマチだのに効くんだっていうぜ」  「いやよう、神経痛だのリューマチだのって、あたし、それほどのおばあちゃんじゃなくってよ」  「あっはっは、いまのは失言、失言、ごめんなさい。でも、どう? 胸のほう、重っくるしくない?」  「ええ、そうね。少しは……でも、とってもいい気持ち。なんだか眠くなってきちゃったわ」  「じゃ、ここでとろとろひと眠りするといいよ、今晩、また、なんだからな」  「うっふっふ、いやなひと……でも、あんた、どうする?」  「ぼく……? ぼくはそのまにもうひと浴びしてこよう」  「そうお? じゃ、あたし、ほんとうに寝てしまうかもしれないわよ。水からあがってきたら起こしてね」  「ああ、いいよ」  「あんた、すみません、ストロー、顔のうえにのっけていって……なんだかまぶしくて目がちかちかするのよ」  「うん。だが、そのまえにちょっと」  「うっふっふ、ひとが見てやあしない?」  「大丈夫さ」  それからしばらくしいんとしていたのち、  「じゃ、いってくるよ」  「ええ、でも、できるだけはやくかえってきてちょうだいな。これじゃ、とてもじぶんひとりじゃ起きられやしない」  「ああ、いいとも」  それは燃えるような真っ赤な地にあらい黄色の水玉模様のついた大きなビーチ・パラソルだった。  焼けただれた海岸の砂のうえに、パンツひとつの赤裸でさっきから甲らをほしていた金田一耕助は、二、三メートル鼻さきに立っているそのビーチ・パラソルのなかからもれてくる甘ったるい男と女のささやきに悩まされつづけていたのである。ことに、女の作り声の甘ったるさたるや、恐れいるくらいのものであった。  そんなに悩ましいのなら、ひろいこの海岸である、どこかほかへ場所をうつせばよいのに、それをしないところが金田一耕助の金田一耕助たるゆえんである。  事件のないときの金田一耕助は、およそ無精をきわめるのである。無精をきわめるというよりは、無精をエンジョイしているのである。ネコのようにのらりくらりとして、閑暇を楽しんでいるのである。  この無精者の耕助が、それでも海水浴をする気になったのだから感心である。もっとも、それも自発的にその気になったのではない。  「先生、少しは海へもおはいりになったらどう? この海岸に一〓月ちかくも滞在していて、先生みたいに色の白いひとっていないわよ。これじゃ、先生おひとりの恥辱じゃなくて、鏡ガ浦ぜんたいの恥辱みたいなもんよ。きょうは東京から先生のいいひとがいらっしゃるんだから、少しは膚を日にやいといて、男らしいところを見せてあげてちょうだい」  と、そうホテルの女中にそそのかされて、それもそうかいなとやっとお神《み》輿《こし》をあげ、かくは金田一耕助、海水浴の図とはあいなったわけである。  もっとも、金田一耕助のは文字どおり海水浴であった。およそスポーツライクなことはふえてな男のことだから、水泳なんていさましいことは思いもよらない。  寄せては返す波打ちぎわで、子供のようにボチャボチャやってみたが、それもすぐにつまらなくなったとみえて、水からあがると、やれやれと腰をすえた場所がわるかった。  いまいったとおり、赤地に黄色の水玉模様のついたビーチ・パラソル、喃《なん》々《なん》 喋《ちよう》 々《ちよう》 組《ぐみ》のすぐ鼻先だったというわけである。  そのビーチ・パラソルは傘《かさ》のはしが砂すれすれに立ててあるので、金田一耕助には喃々喋々組の姿は見えず、むこうはむこうで傘の外にひとがいると気がつかなかったらしい。  だから、いまそのビーチ・パラソルの中から男がはいだしてきたときには、やれやれこれで助かったかと、金田一耕助は安《あん》堵《ど》の胸をなでおろしたが、男のほうでは思いがけなくビーチ・パラソルのすぐ外にひとがいたので、ちょっとどぎまぎしたらしかった。  金田一耕助と視線があったとき、意外なところに伏兵を発見した落ち武者みたいな表情になった。  しかし、すぐに顔をそむけると、波打ちぎわまで走っていってざんぶと水へとびこむと、あざやかなクロールをみせて沖へ出ていく。ひがむわけじゃないけれど、金田一耕助にはそれがなんだかこれみよがしに見えたことである。  二十七、八の、たくましいというほどではないにしても、色の浅黒い、均《きん》斉《せい》のとれた体をした男だった。男振りも悪くない。  金田一耕助はしばらくその男の赤い水泳帽を目で追っていたが、すぐまた砂のうえに仰向けに寝ころがった。  さっきとちがって、赤地に黄色の水玉模様のあのビーチ・パラソルのむこうはひっそりしている。身動きひとつする気配もない。それもそのはずであろう。さっきの喃々喋々から察すると、女は身動きもできぬほど砂に埋められているらしいのである。  いったい、どんな女なのだろう。さっきの甘ったるいあの作り声は……?  金田一耕助にも多少好奇心がなくもなかったが、すぐそんなことを考えるのもバカバカしくなって、麦わら帽子を顔のうえにのっけると、いつのまにかうとうとしていた。  ——それからどのくらいたったのか。あとから考えてみると半時間くらいらしいのだが、金田一耕助は夢のなかで一種異様な叫びを聞いた。ただし、それが男の声だったのか、女の声だったのか、あとから考えてみてもわからなかった。  とにかく、金田一耕助は一種異様な叫びを聞いて、はっと目がさめたのである。と、そのとたん、れいのビーチ・パラソルのむこうから砂をけるような音がして、男がひとりとび出してきた。  金田一耕助の寝ぼけ眼にも、その男が防暑用のヘルメットをかぶり、麻の夏服を着て、きちんと蝶《ちよう》ネクタイをしめているところがうつった。大きなサングラスをかけ、鼻下にひげをたくわえていることもとっさの印象として目にのこった。  しかし、文字どおり、それはとっさの印象でしかなかったのである。  男はすぐに顔をそむけると、あしばやにビーチ・パラソルのそばをはなれ、すぐ海岸の雑踏のなかに姿を消してしまった。 二  おやおや、あの男、どうしたのかな。ひどくあわてていたようだが……。  と、金田一耕助は胸のうちでつぶやきながら、雑踏のなかへ消えてしまったヘルメットの男からその目を例のビーチ・パラソルのほうへうつした。ビーチ・パラソルのなかはあいかわらずしいんとしずまりかえっている。  それは当然のようで、また当然でないような気もするのである。  さっきの叫び声はたしかにそのビーチ・パラソルの中から聞こえてきたような気がする。それが男にしろ(男だったらあのヘルメットの男にちがいない)女にしろ(女だったとしたら砂に埋まっている女だろう)ビーチ・パラソルのなかではもう目がさめていなければならぬはずである。それにしてはあまり静かすぎはしないだろうか、いかに砂に埋まっているにしろ……。  金田一耕助はよほど立ってビーチ・パラソルのむこうをのぞきにいこうかと思った。  しかし、それもなんだかおとなげない気がしたので、砂のうえに起きなおったままタバコに火をつけると、ゆっくりそれをくゆらしながら、さっきヘルメットの男の消えた方角をなんとなく目でさがしていた。  時刻は午後の四時過ぎ。  東京から汽車で五時間というこの鏡ガ浦海水浴場は、いま、砂浜も波打ちぎわも、芋を洗うような混雑である。沖にはヨットが無数にうかび、浜辺にはビーチ・パラソルが妍《けん》をきそうて、まるで五色のキノコが花咲いたようである。  金田一耕助はその強烈な色彩に眩《げん》惑《わく》されたように目をしょぼしょぼさせていたが、そのとき、むこうからヘルメットがひとつぶらぶらこちらへやってくるのに気がついた。  おや、さっきの男がかえってきたかな……?  しかし、そうではなかった。さっきの男は麻の上着をきて、きちんと蝶がたのネクタイをしめていたのに、その男は開《かい》襟《きん》シャツだけである。しかも、ズボンのひざがたるんだところも、さっきの男ほどスマートではない。それに、サングラスもかけていないし、鼻下にひげもはやしていないようだ。  そのうちにその男の顔かたちがやっと視覚の焦点まではいってきたとき、とつぜん、金田一耕助の顔はにやっとうれしそうに笑みくずれた。  けさホテルの女中にいわれた金田一耕助のいいひと、すなわち警視庁捜査一課の等々力警部なのである。  警部は金田一耕助をさがしているにちがいない。寝そべっている男があると、ひとりひとり顔をのぞきこみながら、しだいにこちらへちかづいてくる。  金田一耕助は警部にたいする懐かしさが急に腹の底からこみあげてきた。と同時に、いたずら心がむらむらと頭をもちあげてくるのを覚えた。どこかへかくれていて、だしぬけにバアとやってやろうか、それとも、水のなかからおいでおいでをしてやろうか……。  しかし、どうせ無精者の耕助にはそんなマメなまねができるはずがない。そこで、できるだけすまして、スパリスパリとタバコの煙を吹いていた。  とうとう警部のほうから金田一耕助のすがたを見つけた。警部も満面笑みくずれながら、  「なあんだ、こんなとこにいたんですか」  と、足早にちかづいてくる。  「なあんだとはなんです、失敬な」  「いやあ、あっはっは。でも、さっきからわたしの姿に気がついてたんですか」  「もちろん、だいぶまえから」  「それじゃ、どうして呼んでくれなかったんです。だいぶさがしましたぜ」  「まさか、熊《くま》谷《がい》じゃあるまいし、おうい、おういと呼べもしないじゃありませんか。だいいち、あなたは敦《あつ》盛《もり》って柄じゃない」  「あっはっは。どうしたんです。いやにおかんむりですな」  と、警部は委細かまわず、どっこいしょと大きなおしりを砂のうえにおとす。  「そうですとも。警部さんはずいぶん金田一耕助という男をけいべつしていらっしゃるんですね」  「ほほう、それはまたどうして……?」  「だって、ぼく、さっきから警部さんの一挙手一投足に注目してたんでさあ。警部さん、ぼくをさがしてたんでしょう。ところが、警部さんが注意を払う相手たるや、ひとりぽっちの男に限ってたじゃありませんか。どうしてたまにゃビーチ・パラソルの中やなんかをのぞいてくれないんです。ビーチ・パラソルなんてしゃれたしろもんは、金田一耕助やからにとってははじめっから縁なき衆生だと思いこんでらっしゃるんでしょう」  「いやあ、わっはっは。そうすると、金田一先生にとってもなにかビーチ・パラソル・ロマンスの思い出がおありなんですか」  「大ありでさあ。ただし、悩まされるほうのね。さっきもじつは……」  と、れいの赤地に黄色の水玉模様のビーチ・パラソルのほうへ目を走らせようとしたところへ、むこうからパンツひとつの男が、きょときょとしながら、砂浜づたいにこちらのほうへやってきた。  その男は金田一耕助のもじゃもじゃ頭に目をとめると、  「なあんだい、ここだったのかあ。すっかり方角を間違えちゃった」  と、ひとりごとをいいながら問題のビーチ・パラソルのなかへはいりこんでいった。  「あれ、カズ子、まだ寝てるのかい。おれな、バカみちゃったよ。これとおんなじビーチ・パラソルがむこうにもひとつあんのさ。しかも、そこに砂を掘った跡があるもんだから、てっきり君が勝手に起きだしてどこかそこらを歩いてんだろうくらいに思って、いい気になって寝ていたら、なんとそれが他人さまのビーチ・パラソルだったじゃないか。とんだ恥かいちゃった。あっはっは。それにしても、君、もう起きろよ。いつまで寝てんだい。みっともねえぜ。いかにいっしょになりたてのホヤホヤだってさ」  大声にしゃべる声がつつぬけに金田一耕助と等々力警部の耳にはいってくる。  等々力警部は思わずにやにやと笑いをかみころしていたが、そのとき、とつぜんビーチ・パラソルのむこうからあわてふためいて砂をかきまわすような気配がきこえてきたかと思うと、  「あっ、カズ子 カズ子……」  と、ちょっと息をのむような気配があって、つぎの瞬間、  「わあっ、ひ、ひとごろしだあ!」 三  金田一耕助と等々力警部は、息をのんで、いま足元によこたわっているそのむごたらしいものを凝視している。ことに、金田一耕助の目は怒りのためにギタギタとぬれたようにかがやいていた。  むりもない。さっきかれの横たわっていたところから三メートルとはなれないところで、もののみごとに殺人が演じられたのだ。金田一耕助の鼻先で、しかも、おそらくかれが見ているそのまえで……。  砂のなかから首だけだして仰向けに寝ているのは、どうわかく踏んでも三十五より下ではないだろうと思われる大年増だった。体つきは砂のなかにあるのでわからない。しかし、砂のなかから出ている顔の化粧からみて、まんざらの素人でないことがうかがわれる。長くひいたまゆ、赤くぬったくちびる、小じわをかくす厚化粧……海岸へきて水へつからない種類の女のひとりである。  女の目はかっと大きく開かれて、下からビーチ・パラソルの水玉模様をにらんでいる。くちびるがすこしねじれて、そこからくろずんだ舌がのぞいている。そして、砂からのぞいた首のまわりには細い真っ赤な絹ひもが食いいるようにまきついているのである。  金田一耕助はまたむらむらとこみあげてくる怒りをおさえることができなかった。  さっき夢うつつにきいた叫び声……あのとき、この女は殺されたのだ。じぶんはこの女の断末魔のうめき声をきいたのだ……。  「ああ、みんな、あんまりそばへよっちゃいかん。それから、だれか医者と警官を呼んできてくれたまえ」  いっときのぼうぜん自失からさめると、等々力警部はさっそくもちまえの職業意識をとりもどした。変事をきいて群がりよってくる野次馬をほどよくさばきながら、そこに立ちすくんでいる男のほうをふりかえった。  「これは君の細君かね」  と、おもわず職業的な調子になったが、すぐ気がついたように、  「失敬、失敬。ぼくは東京の警視庁のものだがね、たまたまここへ遊びにきていたのだ」  警視庁のものと聞くと、男の目にさっとおびえの色がうかんだが、すぐ悄《しよう》然《ぜん》とうなだれて、  「はあ。これ、ぼくの家内です」  「奥さんのほうがだいぶん年上のようだが……ああ、いや、これは失敬。ときに、君、住所は? この土地のものじゃないだろう」  「はあ、東京から遊びにやってきたんです、家内といっしょに」  「失礼だが、姓名と職業を……」  「名前は野口……野口誠《せい》也《や》、職業は銀座裏のキャバレー『フラ』のトランペット吹き」  「奥さんの名はカズ子さんというんだね。さっきそう呼んでいたようだが……」  「はあ」  「カズ子のカズは……?」  「昭和の和の字です」  「ああ、そう。で、奥さん、べつに職業は……?」  「いいえ、それが……キャバレー『フラ』のマダムなんです」  等々力警部は相手の美《び》貌《ぼう》を見直したのち、金田一耕助のほうへすばやい意味ありげな視線を送った。  「ところで、君たち、いつこちらへやってきたの?」  「ゆうべ……今夜もうひと晩泊まって東京へかえるつもりだったんです」  「それでは、この事件のことを聞こう。君は奥さんを砂のなかへ埋めてどこへいってたの」  「はあ、それはこうです」  と、野口は急に興奮してきたのか、いきいきとした目の色になって、  「カズ子をここへ埋めておいてから、ぼくひと浴びあびにいったんです。いまから一時間ほどまえでした。ぼく、三十分か、いや、もうちょっと海の中にいたでしょう。それで、沖から引き返すときあの松の木……」  と、砂浜の背後にある松を指さして、  「あれを目標にしてかえってきたんです。いや、目標にしてかえったつもりだったんです。ところが、むこうのほうにもこれとおんなじような松の木があり、それと間違えてかえってきたんです。ところが、そこにこれとちょうどおなじ赤地に黄色の水玉模様のビーチ・パラソルがあったんです。しかも、パラソルのなかを見ると、だれかを埋めてあったような跡があります。で、ぼく、てっきりカズ子がじぶんでかってに砂からはい出し、そこらを散歩してるんだろうくらいに思って、いい気になってそこに寝ていたんです。ええ、少しうとうとしていたんです。そしたら、ひとに揺り起こされて……気がついたらちがうパラソルだったんです。それでほうほうの体でこちらへかえってきたら、このしまつで……」 四  等々力警部が野口にむかってなお二、三の質問をしているところへ、知らせを聞いて土地の警官があたふたと駆けつけてきた。  警官は野口の口からひととおり話を聞くと、ふしぎそうに金田一耕助と平服の等々力警部のほうを振り返って、  「あなたがたは……?」  「わたしはこういうものだがねえ」  と、等々力警部が警察手帳を出してみせると、わかい土地のおまわりさんははっとしたように姿勢をただして、  「いや、これは失礼いたしました。わたしは山村というものですが、警部さんはなにかこの事件についてこちらへ……?」  「まさか」  と、警部はにこにこしながら、  「こんな事件が起ころうとはゆめにも思っていなかったよ。そうそう、君に紹介しとこう」  と、金田一耕助をふりかえると、  「こちら金田一耕助先生といって、君はしってるかどうか、犯罪捜査にかけては天才的手腕をもっていらっしゃるかただ。わたしもいろいろご助力をいただいていて、まあ、仲よしなんだな」  「はあ……」  と、山村巡査はあっけにとられたような顔色で、金田一耕助の頭のてっぺんから足のつまさきまで見上げ見下ろしたあげく、それでもいとも丁重に頭をさげた。この蚊トンボみたいな脛《すね》をもった小男にそんな手腕があろうとは、とても信じられなかったのかもしれない。  「ところで、この金田一先生がひと月ほどまえからむこうにある望海楼ホテルに滞在していらっしゃるんだ。ぼくは先生のご招待で週末静養にやってきて、いまこの海岸へついたばかりのところで、この事件にぶつかったというわけさ。山村君といったね」  「はあ」  「それじゃ、君、まあ、しっかりやりたまえ」  「それで、警部さんはいつまでご滞在でございますか」  「そうさねえ。今晩ひと晩泊めていただいて、あしたの夕方立つか、それともあしたの晩も泊まってあさっての朝はやくここを立つことになるか……いまのところはっきりしないが、それじゃこれで……」  そのとき等々力警部は、ほんとにこの事件から手をひいて、あとは万事土地の警察にまかせるつもりだったのである。  せっかく週末の静養にきていながら、事件事件で追い立てられてはたまらない。殺人事件といったところで、それに食傷している等々力警部なのである。  金田一耕助も等々力警部のあとについて歩きかけたが、ふと思いだしたように砂のうえに足をとめると、  「ああ、そうそう、山村さん」  「はあ……」  「あとでホテルへいらっしゃいませんか。この事件について、ちょっと参考になることを聞かせてあげられるかもしれない」  「ああ、そうですか。それじゃきっとのちほどお伺いいたします。望海楼ホテルにいらっしゃるんですね」  「ええ、そう。十七号室ですが、フロントで金田一耕助といってくださればわかります」  「ありがとうございます。それじゃまたのちほど……」  等々力警部はぶらぶら現場から離れると、  「金田一先生」  「はあ」  「あなたこの事件に首をつっこむつもりでいらっしゃるんですか」  「いや、それほどのつもりもないんですが、義を見てせざるは勇なきなりですからね。それに、あの若いおまわりさん、なかなか真《しん》摯《し》で、好感がもてるじゃありませんか」  等々力警部はわざと意地悪そうにジロリと金田一耕助の顔を見ながら、  「あきれたもんだ」  と吐き出すように、  「それにしても、金田一さん、あなたなにかこの事件についてご存じのことがおありなんですか」  「そりゃあね、警部さん、あなたがおみえになるまで、ぼくはあそこで一時間あまりねばっていて、さんざんマダム・カズ子の甘ったるい作り声に悩まされていたんですからね」  「いや、もうあきれ返ったもんですね」  「なにが……?」  「人間至るところ青山ありというが、これじゃまるで金田一先生のいらっしゃるところ必ず犯罪ありというみたいじゃありませんか」  「おっしゃいましたね、警部さん。ひと聞きの悪いこといわんでくださいよ。それ、案外警部さんのことじゃありませんか」  「とんでもない。わたしはいたって後生のいいほうですよ。あなたみたいに前世でそんなに罪をつくっていませんからね。あっはっは」  とにかく仲のよいふたりなのである。それに、東京をはなれて避暑地へきているという気安さから、ついふたりとも口が軽くなる。冗談口をたたきながら、現場のビーチ・パラソルからおよそ二百メートルほどきたときである。  「ああ、あれですね」  と、金田一耕助が足をとめたので、  「え、なんのこと?」  と、等々力警部もつられたように立ちどまった。  「いや、野口誠也君がさっき間違えて目標にしたという松……」  「ああ、なるほど」  野口誠也がまちがえたのもむりはない。むこうのビーチ・パラソルの背後にある松とそっくりおなじかっこうをした松が、ビーチ・パラソルがいちめんに花をひらいた海岸の背後にそびえている。  等々力警部はそのビーチ・パラソルのなかを目でさがしていたが、  「ああ、金田一さん、あれじゃありませんか。ほら、真っ赤な地にあらい黄色の水玉模様のビーチ・パラソル……」  「ああ、なるほど。野口青年がまちがえてはいりこんでいたというやつですね」  「ちょっとのぞいてみましょうか」  「あっはっは、警部さん、あなたこそいやに商売気を出すじゃありませんか」  「いや、まあね、義を見てせざるは勇なきなりですからな。あっはっは」  そのビーチ・パラソルも、むこうにある野口のビーチ・パラソルとおなじように、傘《かさ》のふちを砂のうえにおくようにななめに立てかけてあるので、水打ち際のほうへまわらなければ傘のなかは見えなかった。  等々力警部と金田一耕助は浜辺をぐるりとまわりみちをして、パラソルのなかをのぞいてみると、水着姿の女がふたり砂のうえに腹ばいになっている。  どちらも二十二、三という年ごろだが、水着姿だからちょっと見ただけではどういう種類の女なのかわかりようはない。しかし、水商売の女ではなく、どっかオフィス・ガールというかんじだったが、ひとりのほうはなかなかの美人である。  「警部さん、ほら、ごらんなさい」  「え? なに?」  「いや、さっき野口君もいってたとおり、あそこに砂埋めにした跡がありますよ」  「ああ、なるほど。それじゃちょっとあの連中に会って、さっき野口のいってたことについてたしかめてみましょうか」  「あっはっは、いよいよ商売気をお出しになりましたね。しかし、まあ、およしなさい」  「どうして?」  「ほら、むこうから山村巡査が野口君をつれてやってきますよ。田舎のおまわりさんだってぬかりはない。まあ、万事山村君にまかせておおきになるんですね」  山村巡査は野口をつれて問題のビーチ・パラソルへやってくると、ふたりの女に声をかけた。  あの殺人騒ぎもまだこのへんまでは聞こえていないとみえて、のんきに砂のうえに寝そべっていたふたりの若い女は、おまわりさんに声をかけられて、びっくりしたように立ちあがった。  山村巡査はそのふたりをつかまえて野口のことを尋ねていたが、それにたいしてふたりの女の答えるところはどうやら野口青年の言葉を裏書きしているらしい。  「警部さん、いきましょう。どうせ今夜山村君が訪ねてくるでしょうから、そのときくわしい話をきかせてもらおうじゃありませんか」  「ああ、そう」  ふたりが足を踏みだしたときである。  「あら、早苗さん、むこうから川崎さんがいらしたわ」  と、若い女の声がきこえて、  「川崎さあん。ここよ、ここよ。あなたどうなすって? ずいぶん遅かったじゃない?」  と、ビーチ・パラソルのなかから手をふっているのは、きわだって美しいほうの女である。  金田一耕助はなにげなく女の手をふっているほうへ目を走らせたが、そのとたん、おもわずギクッと息をのみこんだ。  むこうからにこにこと手をふりながらやってくるのは、白麻の背広に蝶ネクタイをしめ、防暑用のヘルメット、大きなサングラスをかけて、鼻下に手入れのいきとどいたひげをはやした男である。  金田一耕助はおもわず五本の指でバリバり、ガリガリと、頭のうえのスズメの巣をかきまわしはじめた。これが興奮したときのこの男のくせであることは、諸君もすでにご存じであろう。 二人の目撃者 一  その夜、山村巡査の案内で望海楼ホテルへ等々力警部と金田一耕助を訪ねてきたのは、この事件の捜査主任、坂口警部補であった。  山村巡査とちがって坂口警部補は金田一耕助の名前をしっており、したがって大いに好奇心をもやしてきたらしかった。  あいさつがあったのち、  「ときに、金田一先生、あなた今度の事件についてなにかご存じだそうですが、それはどういうことなんでございましょうか」  と、言葉つきこそ慇《いん》懃《ぎん》丁《てい》重《ちよう》だったが、そう切り出した警部補の口ぶりには、たぶんに相手を試すようなところがあった。  「ああ、そのこと……いや、それをお話しするまえに山村さんにお伺いしたいんですが、野口がまちがえてはいりこんだビーチ・パラソルですね、あのビーチ・パラソルのぬしはわかいふたりの女のようでしたが、あれはどういう連中なんですか」  「ああ、あれ……あれ、ちょっと妙なんです」  といいかけたが、山村巡査は坂口警部補に気がねしたのか、  「それについては主任さんに報告しておきましたから……主任さん、あなたからどうぞ」  「いや、いいから君から話したまえ。また聞きよりも直接のほうがいいだろう」  「はっ」  と、山村巡査はポケットから手帳を取り出すと、ちょっと緊張の面持ちで、  「ふたりのうちのひとりは川崎早苗といって、そうとう金持ちの娘らしいんです」  「ああ、あの娘、川崎というんですか」  と、金田一耕助は聞きかえす。  きょう昼間、ふたりのうちの美人のほうが、ああ、むこうから川崎さんがやってきたと、ヘルメットの男にむかって呼びかけていたのを思いだしたからである。しかも、いま金田一耕助が深《しん》甚《じん》な興味をよせているのは、そのヘルメットの男なのだ。  「ええ。それがなにか……?」  「いや、いいです、いいです。あとをおつづけになってください」  「はあ……」  と、山村巡査はちょっとさぐるように金田一耕助の顔を見ていたが、促されるままに、  「で、その川崎早苗という娘がこの土地に別荘を借りて女中とふたりでやってきてるんです。ふたりといっても、東京からかわるがわる友達がやってくるので、そう寂しくはないわけですね。そこで、もうひとりの女というのがそういう友達のひとりで、このほうは職業婦人なんです。名前を武井清子といって、学生時代川崎早苗と同級だった関係でいまでもつきあいがあり、まえにも二、三度、週末の休暇を利用して遊びにきてるんです」  「なるほど」  「さて、問題の野口の供述ですが、ビーチ・パラソルをまちがえてあそこでうたた寝をしていたというのは間違いないようです。早苗も清子も海からあがってくるとしらぬ男がうたた寝をしているので起こしたら、さんざんあやまって出ていった。そして、そのひとはたしかにこのひとにちがいないと、野口をさしていうんです。ところが……」  「ああ、ちょっと」  と、金田一耕助がさえぎって、  「あのよく似たふたつのビーチ・パラソルですが、あれは各自じぶんのものなんですか、川崎と野口の……」  「いや、川崎のはじぶんのものです。野口のは貸しボート屋から借りたものなんだそうで」  「なるほど。それからもうひとつ……川崎のビーチ・パラソルの中にもだれかを埋めたような跡がありましたが、あれはだれを……?」  「さあ、そこまでは……」  と、山村巡査も坂口警部補もちょっとびっくりしたような顔色だった。  「なにか、それが……?」  「いや、なに、いいです、いいです。べつに大したことではありません。それより、山村さん、あなたの妙だとおっしゃるのは……?」  「それはこうなんです。われわれ……わたしが早苗や清子と話しているところへ、早苗の兄の慎吾という男が、いま東京から着いたといってやってきたんです。慎吾はむろん関係がないので、ただわれわれの話を聞いていました。ところが、あとで野口がいうのに、その男を野口はしってるというのです」  「しってるって……?」  と、金田一耕助の顔もちょっと緊張する。  「そうなんです。川崎慎吾という男はキャバレー『フラ』の常連だった。いや、常連だったのみならず、マダムの和子にそうとうしつこくいいよっていた男だというんです」  金田一耕助はおもわず口笛を吹きそうになり、等々力警部も目を光らせる。  「それで、川崎のほうでは野口をしらないの?」  と、等々力警部がはじめて口をはさんだ。  「はあ、気がつかぬふうでした。ほんとにしらないのか、しっていて気がつかぬふりをしていたのか、そこまではわかりませんが……」  「ところで、金田一先生、あなたのご存じだとおっしゃることは……?」  と、坂口警部補がもどかしそうにそばから尋ねる。  金田一耕助はちょっとためらいを感じずにはいられなかった。これを話すと、川崎慎吾という男にたいする嫌《けん》疑《ぎ》は決定的になるであろう。しかし、いわずにすませることでもなかった。  そこで、かれは、きょう昼間、野口のビーチ・パラソルの外で見聞したいちぶしじゅうを話してきかせた。  女の甘ったれた作り声に悩まされた顛《てん》末《まつ》から、異様な叫び声にうたた寝の夢を破られたこと、そして、そのとき逃げるように野口のビーチ・パラソルからとび出していった男の人相風体を語ってきかせると、坂口警部補と山村巡査は、俄《が》然《ぜん》、緊張を通り越して興奮状態におちいった。  「それだ、それだ。主任さん、それじゃ、あの川崎というやつがやったにちがいありませんぜ。そういやあ、川崎のやつ、いま東京から着いたばかりだといっていましたが、駅からまっすぐ浜へきたにしちゃ少し時間がおかしいと思っていたんです」  「そうすると、金田一先生、こういうことになるんじゃないでしょうか」  と、坂口警部補も興奮に目をぎらつかせ、  「つまり、川崎のほうでもやっぱりビーチ・パラソルをまちがえて野口のほうへいったのじゃないか。すると、そこに女がひとり砂埋めになっていて、顔に帽子をのっけている……これは野口の供述によるんですが、野口はビーチ・パラソルから出ていくまえに、女の顔に麦わら帽をかぶせてやったといっているんです……で、その帽子をなにげなくとってみると、これが思いがけなくじぶんのほれてるマダムだった。そこで、恋のかなわぬ意趣晴らしとばかりに……」  「しかし……」  と、等々力警部はまゆをひそめて、  「人間てそう単鈍に人殺しをするもんじゃないだろう」  「それに、坂口さん、あの絹ひものこともありますからね。犯人ははじめから殺意をもってやってきたんでしょうね」  「ところで、金田一さん、あなたの目撃なすったのは、たしかに川崎にちがいありませんか」  「ところが、警部さん、それをいま申し上げようと思っていたんですが、その点についちゃ確信がないんです。川崎という男にも昼間浜であいましたが、あの男だったとハッキリいいきる自信はありません。ただ、ぼくにいえることは、防暑用のヘルメットと麻の白服に蝶ネクタイ、サングラスに鼻下のひげ……と、ただそれだけのせつなの印象しかないんです」  しかし、それだけで十分じゃないかと、坂口警部補と山村巡査は目を見かわした。 二  金田一耕助の目撃談によって、事件は急展開をしたらしかった。  その夜のうちに川崎慎吾が挙げられたという話を聞いて、金田一耕助もあんまり寝覚めがよくなかった。  かれの目撃したヘルメットの男が川崎慎吾だったというハッキリとした認識がなかっただけに、よしないことをいい出して無《む》辜《こ》の人物に迷惑をかけたのではないかという自責の念も弱くなかった。  それだけに、その夜の金田一耕助の夢見はよくなかった。ひと晩じゅう、かれはマダムの甘ったれた作り声に悩まされつづけた。虫酸の走るような甘ったれた裏声が、耳について離れなかった。  その翌日は日曜日で、鏡ガ浦のにぎわいはきのうにもまさる勢いで、海上も砂浜も文字どおり人で埋まってしまったといってもいいすぎではあるまい。  午後、金田一耕助は等々力警部に促されて浜へいったが、もとより運動神経の点においては遠く警部におよぶところではない。かれはぼんやり砂浜で甲らを干しながら、警部の練達な水泳ぶりを見ているばかりだった。もっとも、等々力警部の泳ぎというのも、ちかごろの海水浴場ではあんまり自慢にならない。  「なにしろ、わたしどもの学生時代には、クロールなんてあんまりはやらなかったんでね」  と、等々力警部もおもわず年のしれそうな述懐をもらしたが、金田一耕助はいつものようにそれをからかう気にもなれなかった。  「どうしたんです。いやに元気がないじゃありませんか」  「そう見えますか」  「ゆうべの目撃談を気にしてるんじゃないんですか。そんなに気になるんなら、どうです、ごじぶんで乗り出してごらんになっちゃ……」  といってから、等々力警部はあわててそれを打ち消して、  「まあいいですよ。警察にまかせておきなさい。田舎の警察だって、そう盲ばかりじゃないでしょう。川崎という男が無実なら無実で、そのあかしは立てるでしょう」  その日の夕方、坂口警部補がまた山村巡査をつれてやってきた。  「やあ、金田一先生、ありがとうございました」  と、警部補は喜色満面という顔色で、  「おかげで事件も一挙解決でさあ」  「それじゃ、川崎という男が自供したんですか」  と、金田一耕助もぎょっとした顔色になった。  「いや、犯行はまだ自供していません。しかし、あのビーチ・パラソルへ迷いこんだということは認めたんです。もっとも、こちらのほうにたしかな目撃者があるんだぞということをほのめかしたので、やむなくどろを吐いたんですがね」  「それじゃ、もう十中八九間違いはあるまいね」  と、等々力警部も安心したような顔色だったが、金田一耕助はなんだか片付かぬ面持ちで、  「それで、川崎はなんといってるんですか。ひとつ、あの男のいったとおり、ここでおっしゃってくださいませんか」  「承知しました。あの男のいいぶんによるとこうなんです。駅を出ると、あの男はまっすぐにあのビーチ・パラソルへいったというんですね。というのは、妹……つまり、早苗という娘は、いつもあの場所にビーチ・パラソルを張ることにきめているんだそうです。しかも、模様もおなじビーチ・パラソル、てっきりじぶんのうちのものだとばかり思っていた。ところが、そこにだれか砂埋めになっている。顔はストロー・ハットをかぶせてあるので見えなかったが、砂からはみ出している左手のふとりかたからいっても、指にはめてる指輪からいっても、早苗ではもちろんないし、友達の武井清子でもなさそうだ。それでは、ぜんぜんじぶんのしらぬ早苗の新しいお友達かしら。それじゃ、寝てるのを起こすのも失礼だが……と、あたりを見まわしているうちに、ビーチ・パラソルに縫いつけてある『ちどり屋』……というのが貸しボート屋なんですが……そのマークに気がついた。そこではじめて、パラソルちがいだったということに気がついて、あわててそこをとび出した。そして、さんざん浜辺をさがしまわったあげく、やっとじぶんのビーチ・パラソルをさがしあてた……と、こういうんですがね。どうもこりゃあね」  「すると、川崎という男は、ストロー・ハットの下の顔は見なかったというんですね」  「ええ、そうです、そうです。だから、あれが『フラ』のマダムだったとは夢にもしらなかったし、またその女が殺されているとはぜんぜん気がつかなかったというんです」  「ところで……」  と、金田一耕助はぼんやり頭をかきまわしながら、  「早苗という娘はいつもあの場所へビーチ・パラソルを張るときめているというのに、場所をなぜまたきょうにかぎってかえたんでしょうねえ」  「さあ。それは……」  と、坂口警部補もちょっとつまって、  「この場合、そんなことが必要でしょうか」  「さあ。なにか気になるもんですから……」  「ところがねえ、金田一先生」  と、警部補は金田一耕助のその心配も吹きとばすような勢いこんだ調子で、  「先生は、先生の目撃した人物が川崎であったかどうか、そこに確信がおありじゃないので、そう心配なさるんでしょうが、ここにもうひとり目撃者がいるんですよ。川崎がビーチ・パラソルからとびだしてきたところを見たものが……しかも、その男は川崎慎吾としっていて、たしかに川崎のだんなが人殺しのあったビーチ・パラソルからとび出してきたと、むこうから届け出てくれたんです」  「それはどういう男ですか」  「この町の肉屋の店員で、加藤という男なんですが、川崎家の出入りで、慎吾という男をよくしっているんですね。その男が、川崎のだんながあのビーチ・パラソルからとび出して岬《みさき》のほうへいくのを見たと、じぶんのほうから届け出てくれたんです」  「な、な、なんですって?」  とつぜん、金田一耕助がびくっとしたように体をふるわせた。  「岬のほうへいったんですって? み、岬といえば、問題のビーチ・パラソルからみると西の方角になりますね。ねえ、そうじゃありませんか」  「ええ、そうです、そうです。しかし、それがなにか……?」  「それじゃ、肉屋の加藤君が目撃した人物と、ぼくの見たヘルメットの男とはちがっている!」  「な、な、なんですって?」  と、こんどは坂口警部補のほうが驚くばんだった。  「金田一先生、それはまたどういうわけですか」  「だって、ぼくの見たヘルメットの人物は、ビーチ・パラソルからとび出すと、岬とははんたいの方角、すなわち東のほうへ消えていったんです」  「金田一先生、それ、ほんとうですか」  と、金田一耕助の顔をのぞきこむ坂口警部補の目つきには、なんとなくうさん臭そうな色が光っている。  「いや、ぜったいにまちがいありません。ぼくがそのほうを見送っているところへ、おなじ方角から警部さんが、やはりおなじヘルメット姿でやってこられたんです。だから、ぼく、はじめはちょっとビーチ・パラソルから出ていった男がまた引き返してきたのかと思ったくらいですからね」  「そうすると、金田一さん、ヘルメットの男がふたりいるというわけですか」  「そうですねえ。おなじ男が二度ビーチ・パラソルへ出たりはいったりしたのでないとすると、そういうことになりそうですねえ」  金田一耕助の考えぶかそうな顔を見て、等々力警部がそばから坂口警部補に注意した。  「坂口君、こりゃもういちど調査しなおしたほうがいいのじゃないか。念には念をいれよということがあるからね」 三  坂口警部補と山村巡査がかえっていったあとで、金田一耕助と等々力警部は食堂へ出ると、ふたりでビールを三本飲んで食事にした。  等々力警部は酒豪のほうだが、金田一耕助はビール一本がちょうどよいところである。  食事のあと、ふたりはバルコニーへ籐《とう》イスを持ちだすと、酒にほてったほおを快く海岸の涼風になぶらせていたが、  「ときに、警部さん」  と、とつぜん、金田一耕助がいたずらっぽく目をしわしわさせながら声をかけた。  「はあ」  「あなたいやに落ち着いていらっしゃいますけれど、今夜東京へおかえりになるご予定じゃなかったんですか」  「いや、ところがねえ、金田一さん」  と、等々力警部もひとを食ったようににやにやしながら、  「わたしゃどういうものかこの鏡ガ浦というところがすっかり気にいってしまいましてな。ぜひとももうひと晩お世話になりたいと思ってるんです」  「それはそれは……そうおっしゃられると、ご招待申し上げた金田一耕助としても、これ以上の面目はございませんな」  「いや、まったく」  と、等々力警部はなにに感じいったのか、太い猪《い》首《くび》を張り子のトラのようにふりながら、  「わたしもいろいろひとさまからご招待にあずかったことがありますが、こんどのようにご親切なご招待にあずかったのははじめてでございますな」  「とおっしゃいますと……?」  「なにせ、白昼、衆人環視のなかの殺人事件てえお景物までお添えくだすったですからね。こいつはいちばんもうひと晩ねばってでも、金田一先生のお手並み拝見といかなきゃ、先祖のルコック探《たん》偵《てい》に申し訳ございませんからね」  「こん畜生! おっしゃいましたね」  「あっはっは」  と、等々力警部が腹をかかえて笑っているところへ、坂口警部補がボーイに案内されてやってきた。  「ああ、坂口君か。君ひとり……?」  「はあ、わたしひとりですが……なにか……」  「いや、山村君はどうしたんだい」  「山村もおっつけあとからまいりましょうが、あの男がどうかしましたか」  「いやね、金田一先生は山村巡査がお気に召したらしいんだ。あの男の真摯で実直なお人柄がな。それで、ひとつこの事件に力こぶをいれてみようという気におなりなすったんだね。だから、あの男がくるとこないとでは先生の気のいれかたがおのずからちがってくると思うんだがね」  「それはそれは……」  坂口警部補はなんと返事をしてよいものか困ったように、手持ちぶさたでそこに立っている。  金田一耕助はいささかてれぎみで、  「坂口さん、冗談ですよ。警部さん、お神《み》酒《き》がはいったので浮かされていらっしゃるとみえる。それじゃここではなんですから、わたしの部屋へいきましょう」  金田一耕助の部屋は二階の北側にめんした洋風のふた間で、夏場としてはいちばん上等の部屋である。トイレもバスも部屋に付属していた。  金田一耕助はボーイに命じてつめたい飲み物を取りよせると、  「ところで、坂口さん、その後の模様は……?」  「いや、それがねえ、金田一先生、肉屋の加藤の証言にはまちがいはなさそうなんです。かれが見た川崎慎吾は、ビーチ・パラソルを出るとまっすぐに岬のほうへいったというんです。ビーチ・パラソルからとびだしてきたときはひどくあわてたようすだったが、それからあたりを見まわしながら、いそぎ足で岬のほうへいったというんです」  「それで、そのことについて川崎という男に当たってみたかね」  「はあ、それはもちろん」  「で、川崎はどういってるんだね」  「いや、川崎じしんもあのパラソルを出ると岬のほうへ妹たちを探しにいったといっているんですがね。それから、パラソルをとびだしたとき、あわてたふうにみえたのは当然だろう、じっさい、まちがったパラソルへはいりこんだんだから、あわてるのはあたりまえじゃないかとうそぶいているんです」  「川崎という男は、そこに砂埋めになっている女の麦わら帽はとってみなかったんですね」  「はあ、金田一先生、その点についてももういちど念をおしてみましたが、パラソルをまちがえたと気がついた以上、そんな失礼なまねができるはずがないじゃないかといきまいているんです」  「すると、川崎はそこに砂埋めになっている女がキャバレー『フラ』のマダム和子とは気づかずに、ビーチ・パラソルをとびだしたわけですね」  「じぶんではそういってます。第一、あのマダムがこの海岸へきていることすらしらなかったといってるんです」  「ところで、どうでしょう。ふつう砂埋めになってる人間が、顔のうえに帽子をかぶせられて視界をさえぎられているような場合、だれかがそばへやってくると、だあれとか、あなた……? とか声をかけそうに思うんですが、そのときマダムは川崎にむかって声をかけるとかなんとか……?」  「いや、それもわたし聞いてみました。ところが、砂に埋められた女は、声をかけるどころか、身動きひとつしなかった。だから、てっきり眠っているんだろうと思っているうちに、パラソルのまちがいに気がついたというんです」  「いったい、その川崎慎吾という男はどういう男なんだね。東京のほうへ照会してみたんだろうねえ」  「はあ、その照会にたいする返事がついさっきあったんですが、川南商会という商事会社の専務をしているんですね。その川南商会というのは、慎吾、早苗きょうだいのおやじと、おやじの親友の南田という男が合資でつくりあげた会社で、H製作かなんかの子会社だそうです。それで、おやじの死後専務のイスについてるんだそうですが、本人のくちぶりによると、そうとうの道楽もんらしいんですね」  「道楽者というと、殺されたカズ子ともなにか関係が……?」  「いや、その点について追及してみたんです。すると、本人が笑いながらいうのに、そりゃなるほど二、三度どこかへ遊びにいかないかと誘ったことはある。しかし、どうしてもじぶんのものにしなきゃならぬというほどの執心でもなし、うまく話に乗ってくればもうけものというていどだから、それを体よく断られたからっていちいち殺してちゃ、いままでなんにん女を殺していたかしれやあしないって笑ってるんです」  「なるほど」  と、等々力警部は苦笑して、  「それで、女房子供はあるんだろうねえ。見たところもう三十二、三だが……」  「はあ、細君とのあいだに子供がふたりあるそうです。おやじは一昨年死んだそうですが、おふくろはまだ元気で、妹の早苗やなんかといっしょに暮らしてるんです。なんでも自宅は成城にあるそうです」  「しかし、細君や子供があるものが、なんだってじぶんひとりでこんなところへやってきたんでしょう」  「さあ、それです。その点も突っこんで尋ねてみたんですが、どうやら武井清子という女ですね、あれにおぼしめしがあるんじゃないかと思うんですよ。げんに、川崎家の別荘は軽井沢にあって、おふくろや女房子供はそっちのほうへいってるそうですからね」  「その清子というのは早苗の学校友達だとか……」  「はあ、K大学でいっしょだったそうです。早苗の口ききで川南商会へ勤めてるんですよ」  「なんだ。それじゃ慎吾の会社に勤めてるのかい」  「そうです、そうです。あのとおりきれいな娘ですからね、ネコにかつお節もおんなじことだとお思いになりませんか」  「なるほどねえ」  等々力警部は猪首をふってしきりに感心していたが、坂口警部補は金田一耕助のほうへ身を乗りだして、  「ねえ、金田一先生、先生のお考えではどうなんです。やっぱりヘルメットの男はふたりいるんですか。わたしゃどうもひとりじゃないかと思うんですが……」  「ああ、そう。それじゃ、坂口さん、あなたのお考えというのをまず聞かせてください」  「はあ」  と、こうして開きなおって聞かれると坂口警部補もちょっと鼻白んだが、  「じつは、肉屋の加藤にしろ、金田一先生にしろ、ヘルメットの男をごらんになった時刻というのがもうひとつ正確でないのでわたしも困るんですが、これはこうじゃないかと思うんです。金田一先生が眠っていらっしゃるあいだに、川崎慎吾がやってきた。そして、そこに眠っているのが『フラ』のマダムだと気がついて、びっくりしてそこをとびだすと、いったん岬のほうへ立ち去ったが、考えてみるといまこそ絶好のチャンスというわけで引き返してきて……」  「絞め殺したとおっしゃるんですね」  「はあ」  「しかし、そうすると、被害者の首にまきついていた絹ひもですがね、川崎慎吾は岬のほうをさまようているうちに、あの絹ひもをどこかで手にいれてきたということになりますね。あれはふつう男が身につけているようなしろものじゃありませんから」  「あの絹ひもは被害者のものじゃないでしょうかねえ。それがあのビーチ・パラソルのなかにあったので、そいつをうまく利用した……」  「なるほど。しかし、それなら野口に聞けばわかることですね」  「はあ」  「ときに、早苗がビーチ・パラソルを張る場所をいつもとちがった場所を選んだというのは……?」  「ああ、それなら山村が調べているはずですが、まもなくここへやってくるでしょう」  その山村巡査はそれから半時間ほどしてやってきたが、かれの報告によるとこうである。  「早苗がいつもの場所とちがったところへビーチ・パラソルを張ったというのは、いつもの場所に先客があったからだそうです。しかも、それがおなじ模様のビーチ・パラソルときている。それじゃまぎらわしいというので、ずっと離れたきのうの場所へ張ったんだそうです」  「なるほど。しかし、それで早苗がきのうの場所を選定したんですか」  「いや、それは武井清子だそうです。清子がこのへんでいいじゃないかというので、あそこへビーチ・パラソルを立てたというのです。それから、あのビーチ・パラソルのなかで砂埋めになっていたのも清子だそうで、清子がみずから穴を掘って、埋めてくれというので、早苗が埋めてやったそうですが……」  金田一耕助は急にイスから立ち上がった。そして、びっくりしている坂口警部補と山村巡査に目もくれず、なにか考えこみながら、部屋のなかを行きつもどりつ歩きはじめる。等々力警部はなれているので、びっくりしているふたりを目で制しながら、金田一耕助を見守っている。  金田一耕助は悩ましげな目をして、しばらく部屋のなかを歩きまわっていたが、やがてふとその足をとめると、坂口警部補のほうをふりかえった。  「坂口さん」  「はあ」  「これはひょっとするとむだ骨になるかもしれません。しかし、いちおう手をつけてみる価値はあると思うんです。きのう事件があってからいままでのあいだに、この鏡ガ浦の駅から発送された荷物を、ひとつ調べてみてくれませんか。だれがどこへどういうものを送ったか、控えがとってあるでしょう。その控えの写しがほしいのですが……ただし、これは駅員以外にはだれにもしれないように……」  坂口警部補と山村巡査はびっくりして、さぐるような目で金田一耕助の顔をみていたが、  「坂口君、さっそく金田一さんのおっしゃるようにしてみたまえ」  と、そばから等々力警部の注意をうけて、  「承知しました。それくらいのことなら半時間もあれば用がたせましょう。控えの写しができたら、ここへ持ってまいりましょうか」  「はあ、ご面倒でもそう願えたら……」  それから五十分ののち、坂口警部補は鏡ガ浦駅からの小荷物発送伝票の写しをもってひきかえしてきた。  金田一耕助はひととおりその写しに目をとおすと、  「坂口さん」  「はあ」  「ここに武井清子がボストンバッグをひとつ両国駅止めで発送しておりますね。受け付けがきのうの午後六時になっておりますが、もうそのボストンバッグは両国へついているでしょうねえ」  「はあ、それはもうとっくに着いておりましょう」  「それで、武井清子はまだこちらに……?」  「はあ、それは川崎慎吾が拘引されているので、まだこちらにとどまっていますが……」  「それじゃ、いささか非合法的かもしれませんが、至急東京へお電話なすって、両国駅止めになっている武井清子のボストンバッグのなかみをお調べになったらいかがですか」  「金田一先生!」  と、山村巡査が目をみはって、  「武井清子がなにか……?」  「山村さん、すこし偶然が多過ぎるとお思いになりませんか」  「偶然が多過ぎるとは……?」  「いや、いつも早苗がビーチ・パラソルを立てる場所を、野口がさきに占領した。しかも、そのパラソルが早苗のとぜんぜんおなじ模様であった。そこで、早苗と武井清子はべつの場所をさがしたが、武井清子の選んだ場所というのが、野口が占領している場所の背後にある松の木とおなじようなかっこうをした松の木のまえであった。さらに、早苗のビーチ・パラソルのなかには、キャバレー『フラ』のマダムを砂埋めにしたとおなじような跡があったが、それは武井清子がみずから掘って砂埋めになったものであった……と、これでは偶然がすこし多過ぎるとお思いになりませんか」  「金田一先生!」  と、話をきいているうちにしだいに興奮してきた坂口警部補は、おもわず息をせきこんで、  「それじゃ、武井清子がこの事件になにか関係しているとおっしゃるんですか」  「坂口さん」  「はあ」  「ボストンバッグなんてものは、それほど荷になるしろものじゃありませんね。かえるときじぶんで提げていってもよさそうなものを、なぜまたひと足さきに送りだしたんでしょう。そこになにか意味がありそうじゃありませんか」  「坂口君」  と、そばから等々力警部が言葉をはさんで、  「金田一先生にはもうそのボストンバッグのなかになにがはいっているのかわかっていらっしゃるんだ。しかし、決定的な線が出るまでは、この先生ぜったいにおっしゃらないかただ。とにかく、先生のご注意にしたがって、いま両国駅にある武井清子のボストンバッグを調べてみたまえ」 四  「で、そのボストンバッグのなかからなにが出てきたとお思いになります?」  と、金田一耕助はいたずらっぽい目を、この事件簿の記録者なる筆者にむけた。  いつものとおり、緑ガ丘町緑ガ丘荘にある金田一耕助のフラットの、居心地のよい書斎でむかいあっているふたりなのである。  「いったいなにが出てきたんです」  「白麻の夏服一着とワイシャツに蝶ネクタイ。防暑用のヘルメットとサングラス。それからもうひとつ面白いものが出てきましたよ」  「面白いものってなんです」  「つけひげなんです。あっはっは。ヘルメットや夏服だけならば、清子にもなんとかいい抜けができたでしょうが、つけひげとはねえ」  筆者はおもわず目をみはって、  「それじゃ、いったい犯人は……?」  「むろん野口ですよ。和子の財産めあての犯罪で、しかも、その罪を川崎慎吾におっかぶせようというわけです。手のこんだといえば手のこんだ、間が抜けたといえば間の抜けた犯罪でしたねえ」  「というと、それ、いったいどういうことになるんですか。ひとつはじめから順序を追って話してください」  「あっはっは、つまりこうなんです。和子をのこして海へとびこんだ野口は、岬のほうへ泳いでいって、岩の穴のなかにかくしておいたボストンバッグのなかの衣類その他で川崎慎吾に変装して、じぶんのビーチ・パラソルへ引き返してきた」  「ああ、なるほど。そして、そこでマダムを絞め殺したんですね」  「いや、まあ、待ってください。そこでわざと変な声を立てて、ビーチ・パラソルのすぐ外でうたた寝をしている間抜けづらをした男……すなわちこのぼくですね、そのぼくの目をさまして、大いに注意を喚起しておいて、わざと岬から反対のほうへ逃げ、それからまもなく裸になって岬へひきかえし、ボストンバッグのなかへ変装用具をいっさい詰めておいた。それをあとから共犯者の武井清子が取りにいって駅から発送しておいたんですね」  「そうすると、武井清子と野口はなにか関係があったんですか」  「そうです、そうです。清子の告白によると、彼女は川崎慎吾に処女をうばわれたんだそうです。川崎という男は、女房子もあり、なかなか子《こ》煩《ぼん》悩《のう》な男なんだそうですが、うまれながらの御《おん》曹《ぞう》子《し》で、あちこち女出入りがたえない男だったんですね。それはともかく、川崎は清子をつれて二、三度キャバレー『フラ』へも出かけているんです。そのうちにマダムの和子に目をつけて、二、三度箱根かなんかへ連れ出したこともあるそうです。野口にしちゃおもしろくありませんや。そこで、そのしっぺ返しというわけで、川崎の愛人清子を口説いてじぶんのものにしたってわけです」  「ああ、なるほど。恋愛合戦というわけですね」  「そうです、そうです。野口というのが色男で、そうとうのドン・ファンなんですね。そこで、清子と関係が出来るとじゃまになるのがマダムの和子、それを殺害するのに清子が片棒かついだというわけです」  「なるほど、わかりました。しかも、その罪を川崎におっかぶせようというのは、清子としてみればじぶんの処女をうばった男にたいする復《ふく》讐《しゆう》心《しん》もてつだっていたわけですか」  「まあ、そういうところでしょうねえ。こうしてふたりが計画をねりにねったわけですが、ここにふたりに誤算があったというのは、川崎がほんとうに間違って野口のビーチ・パラソルへいったということですね。しかも、それを川崎をよくしっている肉屋の店員が目撃していたということ……だから、あのとき肉屋の加藤君の証言と、ぼくじしんの目撃したところの事実とのあいだに食いちがいがなかったら、ぼくじしんもじぶんの見たヘルメットの男をあっさり川崎と思いあやまったかもしれないんです。それともうひとつ……」  「それと、もうひとつ……?」  「ビーチ・パラソルのなかから聞こえていたあの甘い虫酸の走るような女の作り声……」  「作り声がどうかしたんですか」  金田一耕助はいよいよいたずらっぽい目つきになって、  「あれは女の甘える作り声じゃなかった。男が女の声色をつかう裏声じゃなかったかと気がついたんです」  「な、な、なんですって、それじゃ、マダムが殺されたのは……?」  「そうなんです。そのときすでに女は殺されていたんです。それを野口が一人二役で声色を使っていたんですね。ということは、ビーチ・パラソルの外にいる間抜けづらをした男を後日の証人として役立てようというわけですが、あにはからんや、その間抜けづらをした男がこの金田一耕助だったというわけです。あっはっは!」  金田一耕助はいたずらっぽい目をくりくりさせながら、さもおかしそうに声をあげて笑った。 瞳《ひとみ》の中の女 記憶喪失者 一  やかましいラウドスピーカーの叫び、けたたましい発車のベル。  いずこもおなじ喧《けん》騒《そう》と人間のうずにうずまった中央線吉祥寺駅の北口から、いましもひとりの青年がうしろからの人の波に押し出されるようによろよろ出てきた。  ときは入梅をまぢかにひかえた五月も下旬の二十八日、どんよりとくもった午後四時ごろのことである。  午後四時といえばちょうど主婦の買い出しの時刻と学校の退出時間とぶつかっている。戦争中から戦後にかけてめちゃめちゃに人口がふくれあがったわりには町の整備のいきとどいていない吉祥寺駅の北口付近では、道路いっぱいに人の波があふれてうず巻いている。  いま、駅の北口から押し出されるように出てきた青年は、駅前広場の片すみへ身をよけるようにして立ちどまると、茫《ぼう》然《ぜん》たるまなざしでしばらくその雑踏をながめている。  年は二十六、七だろうか。身長五尺六寸くらい、すらりと華《きや》奢《しや》なからだつきで、グレーの背広にネクタイもきちんと結んでいるが、無帽の頭は電車のなかの混雑でかなり乱れている。色白の、どこか腺《せん》病《びよう》質《しつ》らしい容《よう》貌《ぼう》だが、ことに印象的なのはその目つきである。  きっとすわってとがったまなざしは、底に沈痛な光をたたえて、なにものかに憑《つ》かれているのではないかと思われるほど強い決意を秘めている。  二分、三分……。  青年はきっとくちびるをかみしめたまま目のまえの雑踏を見つめていたが、やがて二、三度つよくうなずくと、一歩まえへ踏み出そうとした。  しかし、そこで急に気がついたように立ちどまると、こっそりと盗み見るような目でじぶんの周囲を見まわした。だれかあとをつけてくるものはないかというふうに……。  しかし、青年の周囲には走馬灯のように人のうずがかけめぐるばかりで、だれもとくにかれの挙動に注意を払っている人間はなさそうだった。ただ、ひとり駅の構内で汽車の時間表をながめている男のうしろすがたが、ちょっと青年の目をひいたが……。  ただし、それとてもその男にたいして青年が疑惑の念をいだいたというわけではない。いまどきちょっと珍しい和服に袴《はかま》といういでたちが、青年の視線のはしをいっしゅんとらえただけのことである。その男と少しはなれたところに、これまたむこうむきに立っている背広すがたの大男のことは、その青年も気づかなかったらしい。  やがて、じぶんの周囲を一《いち》瞥《べつ》しおわった青年は、やっと安心したのか、ぐいと右肩をいからせると、勇敢に駅前の雑踏のなかへ切りこんでいった。  「金田一先生」  と、和服に袴の金田一耕助のそばへそのときそっとよってきたのは、大男の等々力警部である。等々力警部もきょうはひとめにつかぬ平服である。  「やっこさん、歩きだしましたぜ」  「ああ、そう」  と、にっこりと白い歯を出してわらった金田一耕助は、駅を出ると眼前の雑踏を目でさがしながら、  「ああ、あそこへいきますね。あとをつけていきますか」  「金田一先生はおよしなさい」  「どうして?」  「だって、やっこさん、先生のうしろすがたに目をとめたとき、いっしゅん、おやというような顔をしていましたからね」  「あっはっは、このレッテルはちょっとひとめにつきやすいですかね」  と、金田一耕助はあらためてじぶんの服装を点検しながら苦笑する。あいかわらずスズメの巣のようなもじゃもじゃ頭である。  「ええ、そう、こんなばあいにはね」  「じゃ、どうしましょう。いっそぼくはさきまわりをしましょうか」  「先生はやっぱり、やっこさん、沢田潔《きよ》人《と》のところへいくとお思いですか」  「たぶん。そこを振り出しにして、あの夜の記憶をたどっていくんじゃないでしょうか」  「ああ、そう。それじゃここでわかれましょう。あっ、やっこさん、こちらを振り返りましたよ」  しかし、さいわい金田一耕助は等々力警部の大きなからだのかげにかくれていたので、青年の目にはうつらなかったらしい。  「それではのちほど……」  「じゃ、また」  と、青年のあとを追っかけていく等々力警部のうしろすがたを見送って、金田一耕助は飄《ひよう》々《ひよう》とべつの道を歩きだした。 二  いま、金田一耕助と等々力警部に尾行されているその青年は、べつに悪人というのではない。むしろ、たいへん気の毒な青年なのである。  杉田弘は大学教授杉田直行博士の次男である。一昨々年の春、大学を出ると同時にT新聞社へ入社した。お定まりの警察まわりからはじまって、去年のいまごろは文化部に配属されていた。  ところが、去年の春の三月二十四日、とつぜん世にもいたましい災難が、この善良な杉田弘を見舞ったのである。  その夜、芝公園の付近をパトロール中の山下敬三巡査は、道路上にひとりの男が倒れているのを発見した。  警官はさいしょ酔っぱらいであろうと思って声をかけた。しかし、うつぶせに倒れた男の後頭部にどすぐろい血のかたまりがこびりついているのを懐中電灯の光でみとめると、おどろいてその男を抱きおこした。  その男は死んでいるのではなかった。ただ後頭部を強打されて昏《こん》倒《とう》しているのであった。山下巡査は通りかかったひとの協力をえて、その男を交番にはこびこんだ。そして、懐中の名刺や記者手帳によって、その男がT新聞社文化部記者、杉田弘であることをしった。  電話によって新聞社と家庭からそれぞれひとが駆けつけてきた。杉田弘はただちに東大の付属病院へかつぎこまれて手当をうけた。病院へかつぎこまれてから四十八時間のちに、杉田弘は意識を回復した。しかし、過去の記憶はいっさいうしなわれたままもどってこなかったのである。  杉田弘は父の直行博士を認識することができなかった。母の秋子もわからなかった。兄の久《ひさし》も妹の尚《なお》子《こ》もわからなかった。もっと致命的だったのは、婚約者の斎田愛子をさえ識別することができなかった。弘と斎田愛子とは秋に結婚することになっていたのである。  当然、かれの記憶をよびもどすべく、あらゆる努力がはらわれた。それは家族をはじめ斎田愛子の世にもいたましい努力であった。  杉田弘は記憶をうしなったというだけで、白痴になったというわけではない。父がじぶんが父であるといい、母が母であると名乗ると、弘はすなおにうなずくのである。しかし、それは新しくえた知識としてうなずくだけで、当然そこには過去の記憶につながる愛情にかけていた。  後頭部をいったい何者に強打されたのか、そのしゅんかんから杉田弘の過去の記憶は空の空に帰してしまったのである。周囲からよってたかって詰め込む知識は、まるで虚空にむかって文字や文章をかくのもおなじであった。  あらゆる場所、あらゆる知人のもとへつれていって、いついっか、おまえはここでこのひととこういう記念すべきことがあったのだと教えても、弘はただうなずくだけで、それらの事実は脳裏によみがえってこなかった。  こうして、あらゆる記憶をうしなった杉田弘のひとみの中に、ただひとつ、いとも鮮明にきざみこまれているのは、ひとりの女性の面影らしかった。  弘の告白するところによると、目をひらいていても閉じていても、絶えずその女性がじぶんのひとみの中にやきつけられているという。しかも、不思議なことには、その女性というのが、弘の周囲にいるひとたちにとって全然未知の女性らしかった。  弘の描写するところによると、それは三十前後のかなりの美人らしい。イヤリングをつけているのをはっきりおぼえているという。それでいて、弘はその女の服装を描写することができなかった。ただ、顔だけがじつにはっきりといまもなお見えているらしい。  弘の家族や斎田愛子、さては友人たちの努力によって、いろんな女性の写真が弘のまえに持ち出された。しかし、そのどれもが弘のひとみの中にある女性ではなかった。  弘はあらゆることばをついやしてひとみの中に住む女性を描写しようとする。しかし、ことばだけで人間の容貌を完全に描き出すことは困難である。弘はまたペンをとり鉛筆をとって、その女の肖像をえがいてみせようとする。しかし、残念ながら、小学校時代から図画をいちばん苦手とした弘には、女の顔らしいものを描くことだけで精いっぱいだった。  むろん、災難にあった夜、すなわち三月二十四日の夜の弘の行動は綿密に調査されていた。  その夜、かれは吉祥寺に住む沢田潔人という声楽家を訪問している。沢田潔人は当時外遊からかえったばかりで、弘はインタビューをとりにいったのである。沢田潔人ならびにその家人の話によると、弘がそこを出たのは夜の八時ごろのことで、そのときべつにかわったことはなかったという。その夜の弘の消息がわかっているのはそこまでで、それからのち、芝公園のそばの道路で発見されるまでの四時間あまり、かれはいったいどこで過ごしたのか、それが全然わかっていないのである。  芝公園の付近にも、弘が仕事の関係で訪ねていきそうな文化人が二、三住んでいた。げんにそのなかのふたりまで弘をしっていた。しかし、三月二十四日の夜、弘が訪ねてくるという約束はなかったという。  ちなみに、沢田潔人の周囲にも、また芝公園の付近に住む文化人の関係者のなかにも、弘のひとみのなかに住む女はいなかった。  弘の記憶をよびもどそうとしてあらゆる努力がはらわれたのち、かれはとうとう東京郊外にあるK精神病院へ収容された。そこでもK博士のいろんな実験がおこなわれたが、いずれも水《すい》泡《ほう》に帰して、家族や婚約者斎田愛子の悲嘆のうちに、一年二〓月という歳月が流れた。  ところが、その弘の記憶が最近忽《こつ》然《ぜん》としてよみがえってきたのである。しかも、皮肉なことには、それはK博士の治療の結果によってではなく、むしろ病院側の過失が、うしなわれたかれの記憶をよびもどしたのだ。  五月八日の深夜、K病院のまかない室から発した火は、みるみるうちに全《ぜん》病《びよう》棟《とう》をつつんでしまった。  この病院に収容されているのがいずれも精神異常者であることを思えば、この火事がいかに危険なものであったか想像されよう。それにもかかわらず犠牲者のかずが案外少なかったのは、主として弘の英雄的行為の結果であったといわれている。  弘は炎と煙のなかから多くの患者を救出することに成功した。そして、さいごにかれじしんそうとうのヤケドをおって昏倒しているところへ、消防署員によって救出された。数時間の昏《こん》睡《すい》ののち、家族や斎田愛子にみまもられながら意識を回復したとき、かれはなぜじぶんが精神病院に収容されていたのか、理解することができなかったのである。 三  声楽家沢田潔人の宅は吉祥寺の十一小路にある。ちょうど家並みのはずれにあたっていて、すぐとなりが武蔵野の原始林をおもわせる林になっている。  金田一耕助が袴のすそをたくしあげてその林のなかへもぐりこんだのは、かれこれ午後四時半ごろのこと。案じられた空からは、はたしてポツリポツリと細かな雨が落ちはじめた。  このへんは吉祥寺のなかでもとくに落ちついた住宅街だから、あたりはしいんと静まりかえって、どこにもひとのすがたは見当たらない。金田一耕助が林のなかの切り株に腰をおろしてゆっくりタバコをくゆらせていると、すぐとなりの沢田家から発声の練習をしているのがきこえてくる。おりおり音程がくるうところをみると、沢田潔人氏ではなく、だれか弟子がきているのだろう。  金田一耕助がその林へもぐりこんでからものの五分もたたぬうちに、はたして杉田弘がやってきた。弘の目はあいかわらずものに憑かれたようにとがっていて、しかも、その底にはなにかしら燃えるような願望が一種不気味な光をたたえている。  記憶をとりもどした杉田弘は、どういうわけか災難にあった去年の三月二十四日の夜の出来事に関してがんとして口をわらなかった。また、ひとみの中にやきつけられた女に関しても、言を左右にして語らなかった。ただ、斎田愛子を安心させるために、あとにもさきにも、その夜たったいちど会ったきりの女で、名前もしらねば境遇もしらない女だと、ただそれだけしか語らなかった。しかし、その女のことに触れると弘の顔に深刻な恐怖の色のうかぶのが、斎田愛子を不安にしたのである。  「これはあたしの邪推かもしれませんけれど……」  と、金田一耕助のアパートへ相談にきた斎田愛子が、不安におもてをくもらせながら語るのである。  「弘さん、去年の三月二十四日の夜、なにかの犯罪にまきこまれたんじゃないかと、そんな気がしてならないんです。あたしどもがひとみの中の女のことを切り出すと、なにかを思い出したらしく、さっと恐怖の色をうかべるんです。そして、看護婦さんにたのんで去年の三月の新聞のとじこみをとりよせ、なにやら熱心に調べていたそうです。ところが、期待したような記事がそこに出ていなかったらしく、ひどく考えこんでしまって、それ以来、ひとみの中の女のことを絶対に口にしなくなってしまいまして……」  「なるほど」  と、金田一耕助はうなずきながら、  「すると、弘君というひとは、去年の三月二十四日の夜、なにかの犯罪にまきこまれた。ところが、その犯罪にひとみの中の女が関係していたとおっしゃるんですね」  「はあ、なんだかそんな気がつよくして……」  「ところが、その事件は当然新聞に出ていなければならぬはずだと当時の新聞のとじこみを調べてみたところが、案に相違してそういう事実は報道されていなかった。そこで考えこんでいらっしゃるというわけですか」  「はあ。それで、ひょっとすると、起きられるようになったら、じぶんでその事件を調査してみようという気持ちでいるんじゃないかと思うんです。もし、そうだとすると、またあのひとに危険が迫りはしないかとそれが心配で、心配で……」  と、青ざめた愛子は両手のあいだでハンカチをよじきりそうにもんでいる。婚約者が記憶を喪失していた一年間の心労が、ありありとうかがわれるようなしょうすいの色がそこにある。  「ところで、弘君、容態は……?」  「はあ、もう二、三日ですっかり包帯もとれることになっておりますの。思ったよりも軽かったのはよかったのですけれど、さて、包帯がとれたあとが心配で……」  「それはごもっともです」  と、金田一耕助はちょっと考えこんだのち、  「ときに、そのひとみの中の女のことですがね」  「はあ」  「弘君、顔のことだけしかいわなかったそうですね。どういう服装をしていたというようなことは……?」  「はあ、そのことは記憶をとりもどしてからも尋ねてみました。ところが、あのひとのいうのに、服装はぜんぜん見なかった。ただ顔だけしかみなかった……と、そういいながら、とても恐ろしそうに身ぶるいをするんですの」  金田一耕助はまたしばらく考えこんだのち、  「弘君はそうしてインタビューやなんかのために、ときどき夜おそく郊外の文化人やなんかを訪問されるわけですね」  「はあ」  「そういうさい、懐中電灯やなんかお持ちですか」  「はあ。だいたい、杉田のうちというのが小田急沿線の成城にございますの。しかも、ちょっとおくのほうになっておりますし、それにお仕事の関係で夜おそくなることが多うございましょう。ですから、ちょうど万年筆くらいの大きさの懐中電灯をいつも持っているようですけれど……」  「ああ、なるほど」  金田一耕助はそこでまたちょっと考えたのち、  「承知しました。それではこうしましょう。弘君が起きられるようになって、外出でも出来るようになったら、さっそくわたしにしらせてください。弘君はきっと、去年の三月二十四日の夜、災難に遭遇した現場へ出向いていくにちがいないでしょうから」  「はあ、それではなにぶんよろしくお願い申し上げます」  と、こういう応対のあったのが五月二十五日のこと。そして、けさ斎田愛子から連絡があって、医者から外出の許可があったといってきたのである。そこで、金田一耕助が杉田家へ張りこみをかけるつもりでアパートを出ようとしているところへ、平服の等々力警部があそびにきたという寸法である。  弘はいったん沢田家の門のまえまでやってきたが、かくべつそこを訪れようともしなかった。すぐまたくるりときびすをかえすと、もときた道へととってかえす。当然、あとを尾行してきた等々力警部とすれちがったが、べつに気にもとめずにいきすぎた。  等々力警部はそのまま沢田家のまえをとおりすぎると林の中の金田一耕助に気がついて、  「ああ、金田一先生、こんなところにもぐりこんでいたんですか」  「あっはっは。どれ、そろそろはい出しましょう。ところで、やっこさん、どちらへ……?」  「いま、むこうの角を曲がりましたよ。なにやらきょろきょろ探しているようです」  「そう、それじゃわれわれも尾行しようじゃありませんか」  弘は町角までくるごとに立ちどまって、きょろきょろあたりを見まわしていたが、やがてむこうに森が見えてきた。あとでわかったところによると、それは八《はち》幡《まん》様《さま》の森らしかったが、その森を背景として、アトリエのような建物が弘の眼前にあらわれた。  と、弘の歩調が急に不安定になってくる。  雨はしだいに本降りになってくるのだが、弘はそれにも気がつかないらしく、いちどそのアトリエのまえを通りすぎてからむこうの町角のポストのそばまでいって立ちどまると、なにやらしばらく思案をしていた。  金田一耕助と等々力警部がこちらからようすをうかがっていると、アトリエのかきねにはツルバラの花がいちめんに紅白の模様をつづっている。しかし、そのかきねのひどい荒れようといい、門から玄関へいたるまでの道が雑草におおわれているところといい、どうやらそのアトリエはいま人が住んでいないのではないかとおもわれる。  とつぜん、等々力警部がうしろからギュッと痛いほど金田一耕助の肩をつかんだ。  「金田一先生、思い出しましたよ」  と、ひくいしゃがれたような声で、  「去年、吉祥寺のアトリエで妙なことがあったんです。わたしの担当ではなかったし、それに結局事件がうやむやになってしまったので、あのアトリエかどうかしりませんが、たしかに去年の三月の下旬でした。それじゃ、あの男、その事件に……」  等々力警部がふかい息をすっているとき、むこうの町角に立っていた弘が、ポケットに両手をつっこんだまま、肩をすくめるようにして、急ぎあしにアトリエのほうへ引きかえしてきた。  アトリエのバラのかきねの内側から、からかさのように枝をひろげたケヤキのしげみが道のうえまで張り出している。雨はいま音を立てて、そのケヤキのこずえに落ちている。  弘は雨宿りをするようにそのしげみの下へかけこんで、さりげないようすであたりを見まわしていたが、やがてカメの子のように首をすくめると、なかばこわれたアトリエの門のなかへ駆けこんだ。そして、玄関に立ってなにやらおとなっていたが、返事がなかったのか裏のほうへまわっていく。  金田一耕助と等々力警部が顔を見合わせているとき、紫色の稲妻がにぶく光って遠くのほうでゴロゴロと雷鳴がきこえたかと思うと、とつぜん、盆をくつがえすような雨が落ちてきた。 アトリエの首 一  「やあ、こりゃたいへんだ」  金田一耕助は和服だけあって、雨にはいつももろいのである。軒下に身をちぢめるようにしても、吹きつけるしぶきと跳ねっかえるどろ水は防ぎきれない。  「金田一先生、こうなったらしかたがない。いっそあのアトリエへ避難しようじゃありませんか」  「そうですねえ。これじゃぬれねずみになってしまう」  金田一耕助は頭にハンカチをひろげてのっけると、袴の股《もも》立《だ》ちをたかだかととりあげ、カメの子のように首をすくめて走り出す。夕立はいよいよはげしく、路上にはみるみるうちにドスぐろい流れができて、薄白いあぶくを立てながらうず巻いていく。  ふたりがやっとアトリエの玄関の軒の下へかけこんだとき、とつぜん、さっと紫色の稲妻が走ったかと思うと、ほとんど間髪をいれず、ものすごい雷鳴がとどろきわたった。  「ひゃあ!」  と、金田一耕助は首をすくめると、  「だいぶんちかくなってきましたな」  「あっはっは、金田一先生は雷がおきらいですか」  「テンカンを起こすほどじゃありませんが、まあ、好きなほうじゃありませんな」  「そりゃだれだって……」  とつぶやきながら、等々力警部は金田一耕助の腕をにぎって目くばせする。  「ああ、いや……」  と、金田一耕助もうなずいた。  かれも気がついているのである。アトリエのなかをだれかが歩いている気配を……だれかとは、いうまでもなく杉田弘にちがいない。杉田弘がアトリエのなかにいるとすれば、どこかに入りこむすきがあるはずなのだが……。  「警部さん」  と、金田一耕助は目のまえを滝のように落ちる雨のすだれに目をやりながら、  「さっきおっしゃった変なこととは、どんなことなんです。去年の三月吉祥寺のアトリエで起こった事件というのは……?」  「ああ、それ……」  と、等々力警部はちょっと玄関のなかに目をやったが、この大夕立のさなかでは、よほど大きな声を立てないかぎり、会話を立ちぎきされるような心配はないだろう。  「いや、正確な日付はおぼえておりませんがね。たしか三月ごろだったと思う。ある朝、吉祥寺のアトリエのまえの道路に、ひとかたまりの血の滴が落ちていたというんですね。それを牛乳配達夫かなんかが見つけた。しかも、血の跡は点々としてアトリエのなかへつづいている。いや、アトリエのなかへつづいていたのか、アトリエの建っている屋敷のなかへつづいていたのか、そこまでは正確にきいていないんですが……」  「ああ、なるほど、それで……?」  「それで、牛乳配達か新聞配達か、とにかくそれを見つけたのが交番へとどけて出たんですね。そこで警官がかけつけてみると、たしかに血の跡がつづいている。それで、あるじをたたき起こしてたずねてみたところが、ゆうべ自転車でかえってきたところが、表でころんであいにく車輪の針金がいっぽん太《ふと》腿《もも》へつっ立った。それで出血したんだと、包帯でしばった太腿と、針金のいっぽんはずれた車輪を出してみせたというんです」  「なるほど、つじつまがあってますね」  「ええ、そう。しかし、その警官というのがなかなか仕事熱心なやつだったとみえて、その傷口を見せてほしいと要求したんですね。そしたら、しぶしぶあるじというのがそれでも傷口を出してみせた。みると、なるほどケガをしているんです。しかし、それでもその警官がもうひとつ納得のいかなかったのは、どうも路上におちている血《けつ》痕《こん》が多すぎやあしないかということなんですね。そこで、傷口をみせてもらったとき、そっと血のついたガーゼの一片をかくしておいて、路上からしゃくりとった血染めの土といっしょに警視庁の鑑識へおくりとどけてきたんです。それでわたしの耳にはいったというわけですね」  「なるほど、血液型をしらべてほしいというわけですね」  「ええ、そう」  「ところで、その血液型はどうだったんです」  「いや、それがちがってたら事件はもっと進展したんでしょうが、それが一致していたんですね。何型だったか忘れましたが、とにかくおなじ血液型だったので、それきりうやむやになってしまったようです」  「しかし、偶然の一致ということも考えられるわけですね」  「ええ、そう。だから、それほど仕事熱心な警官のことだから、おそらくその当座、問題のアトリエに注目してたんでしょうが、そのご、これといった事件らしいことも耳にしていないところをみると、結局、怪しい聞きこみも、これというたしかな証拠もなかったんでしょうねえ」  ふたりの会話のあいだにも稲妻はさかんに空をひきさきめぐり、雷鳴はおどろおどろととどろきわたる。夕立はいくらか小降りになったようだが、それでもまだなかなかやむけしきはない。  アトリエのなかに耳をすますと、歩きまわる気配は消えてしいんとしている。金田一耕助と等々力警部は、とつぜんふっと不安にとざされた。  「警部さん、うらへまわってみようじゃありませんか」  「ええ、そうしましょう」  滝のように落ちる雨のなかを首をすくめてうらへまわると、アトリエのドアが風のなかにはためいている。なかをのぞくと、そうとう薄暗くはなっているが、それでもぜんぜん見えないということはない。それにもかかわらず、がらんとしたアトリエのなかにひとのすがたは見えなかった。 二  「おや、やっこさんどこへいったろう」  等々力警部はきょろきょろあたりを見まわした。  このアトリエの建っている屋敷はそうとうひろくて、あきらかにまえにはこのアトリエのほかに住宅が建っていたのであろう。それをとりこわしたあとの土台石が草のなかに埋まっている。そのおくにはちょっと武蔵野の原始林をおもわせるような林があり、その林はそのまま八幡様の森につながっているらしい。すなわち、この屋敷はそうとうふところのひろいことを示しているのである。  「警部さん、ちょっとなかへはいってみましょう」  「金田一先生、なにかありますか」  「ほら、あのすみになにか胸像みたいなものがありますよ」  なるほど、アトリエのすみっこに高い台が立っており、そのうえに薄白いものがおいてある。土足のままふたりがなかへ入ると、ぬれたくつ跡が点々とついているのは杉田弘の足跡だろう。その足跡も胸像のまえまでつづいていた。  ふたりがそばへちかよってみると、それは胸像というより女の首だけの像である。石《せつ》膏《こう》像《ぞう》のことだから、年齢などはっきりわかりようもないが、それでも三十前後ではないかとおもわれる。ふくよかなほおをした美人だが、ふたりの目をつよくひいたのは、両の耳にぶらさがっているイヤリングである。そのイヤリングだけが本物だった。  「金田一先生!」  と、等々力警部は息をはずませて、  「杉田弘のひとみの中の女というのは、この胸像じゃないでしょうか」  金田一耕助も無言のままうなずくと、  「あるいはそうかもしれません。しかし、この像がなぜそんなに強く杉田弘君の印象にのこったか……」  金田一耕助は女の首から目をはなすと、あらためてあたりの床を見まわした。  杉田弘はそうとうながくこの像のまえに立ちすくんでいたにちがいない。そこだけぐっしょりぬれている。かれはまだそれほどひどくぬれていなかったはずなのだが……。  「それにしても、やっこさん、どこへおいでなすったかな」  「うらの林へでもいってるんじゃ……」  といいかけて、金田一耕助はおもわずぎょっと息をのんだ。足の下のどこかでバターンととびらのしまるような音がしたからである。  「金田一先生」  と、等々力警部は息をころして、  「どこかに地下室があるんですぜ」  「そうらしいですね。しかし、杉田君はどうしてそれをしっているか……」  「あの晩、ここへ忍びこんだんじゃ……」  「血の跡を見てね」  ふたりはおのずと足音をぬすむ歩調となり、風にあおられているドアのそばまできて外をのぞくと、いましも雑草におおわれた地下の階段からあがってきた杉田弘が、軒下に立っておくの林のほうをみている。雨脚を見はからっているのか、それとも、林のなかになにかとくべつの関心でももっているのか。  夕立雲はもう吉祥寺の空をとおりすぎたのか、名残の雨がおりおりパラつくくらいで、あたりはだいぶん明るさをましてきている。武蔵野の原始林をおもわせる林の緑が鮮やかだった。  杉田弘は地下の階段をおおう軒下から出ると、なにかをさぐるような挙動で林のほうへ歩いていく。ときどき立ちどまって足の下をけってみたり、ズボンのすそのぬれるのも委細かまわず、雑草をかきわけたりするところをみると、弘の関心は地下にあるらしい。  等々力警部はとつぜんぎょっと息をのんで、  「金田一先生、やっこさん、なにか地下に埋められたものをさがしているんですぜ」  「どうもそうらしいですね」  まもなく弘のすがたがみえなくなるのを待って、  「警部さん、あの地下室のなかを調べてみようじゃありませんか」  等々力警部は無言のままうなずくと、みずからさきにアトリエのなかから踏みだした。  その地下室というのは防《ぼう》空《くう》壕《ごう》として掘られたものらしく、セメントでかためてあることはあるが、かなり粗末なものである。広さはそれでも三畳敷きくらいもあろうか。床にもセメントが塗ってあったらしいが、いまはところどころはげて、ひょろひょろとした草が生えている。  「先生、ここでなにを発見しようとしたのかな」  「去年の三月二十四日の晩、なにかをここで見たんでしょう。それをたしかめてみようとしたんですね」  「ひょっとすると、それは死体でなかったか」  薄暗い地下室のなかでふたりはしばらく顔を見あわせていたが、  「とにかく出ましょう。杉田君が林のなかでなにを発見しようとしているか」  外へ出てみたが、杉田弘のすがたはどこにもみえない。ふたりが足音をしのばせるようにしてさっき杉田のたどっていった道をふんでいくと、まもなく林のおくから土をかくような音がきこえてきた。  「やっこさん、いよいよ掘りはじめましたぜ」  「どうして探しあてたのかな」  土をかく音をめあてに林のおくへ進んでいくと、杉田弘は犬のように四つんばいになり、ひざも胸もどろだらけにして両手で土をかいていた。穴はもうそうとう掘れているようである。  金田一耕助がわざとせき払いをしてみると、弘は顔もあげずに穴を掘りつづけながら、  「失礼ですが、金田一先生じゃありませんか」  と、息をきらしながらもハッキリいったのには、金田一耕助もおどろいた。  「ええ。ぼく、金田一耕助です。しってらしたんですね」  「はあ、斎田君からききました。失礼ですが、お連れのかたは?」  「警視庁の等々力警部ですよ」  「杉田君、いったいなにを掘ってるんですか」  「ああ、警部さん」  と、杉田弘はやっと体をまっすぐになおすと、洋服の腕で額の汗をこすりながら、  「よいところへおいでになりました。ほら、ここに女の死体が埋まっていますよ。草の生えかたがここだけちがっているので見当をつけたんです」 三  「あれは去年の三月二十四日の晩でした」  と、ゆっくりとひとくちにいってから、弘は急によわよわしい微笑をうかべて、  「いや、ぼくの現在の実感からすると、とてもあれが去年の出来事とは思えないんですがね。あっはっは」  と、それでもなにか重荷をおろしたような顔色である。  「すぐこのさきの沢田先生……沢田潔人先生のところへインタビューをちょうだいにあがって、このアトリエのまえをとおりかかったんです。すると、ここに中型のトラックがとまっていて、だれもひとは乗っていなかったんです。ところが、これはほんの偶然だったんですが、ぼくの懐中電灯の光が路上にたまっているドスぐろいものをとらえたのです。ぼくいっしゅんガソリンかなにかだろうといきすぎたのですが、ふとした空想力がぼくの足をひきとめました。二、三歩いきすぎていたのをひきかえして、そっと指でさわってみると、明らかに血ではありませんか」  等々力警部と金田一耕助は無言のままできいているが、それでもおりおりあいてをはげますようにうなずくことは忘れない。  「ぼくはおどろいて、懐中電灯の光でそこらをさがしてみると、血の跡が点々としてこの家の門のなかへつづいています。だが、そのとたん、この家のおくのほうからひとの足音がきこえてきました。ぼくはあわてて懐中電灯を消すと、むこうのかげへかくれたのです。出てきたのはふたりづれの男でした。ひそひそ話しているところをきくと、日本人ではなく中国人らしかったのです。あるいは朝鮮人だったかもしれません。とにかく、日本語ではなかったのです。ぼくはふたりが自動車にのって立ち去るのを待って、こっそりものかげからはい出しました。そして、点々とつづいている血の跡をつたって、このアトリエの下の地下室へ入っていったんです。そうそう、申しわすれましたが、その当時はアトリエのほかに和洋折衷風の住宅が建っていたんですが、アトリエも住居のほうもまっくらで、だれもいないようでした。それで……」  と、杉田弘はそこでひと息いれると、  「地下室へおりていくと、そこに棺《かん》桶《おけ》みたいな大きな木箱がおいてあったんです。しかも、その木箱をしらべてみると、一《いち》隅《ぐう》から血がにじみ出ています。ぼくは興奮のために心臓がいまにもやぶけそうな気がしました。さいわいぼくはポケットに小さいながらもナイフをもっていたので、それで棺桶のふたをこじあけました。そして、懐中電灯の光でなかを照らし出したのです。そしたら……」  「そしたら……?」  「懐中電灯の光の輪のなかに、女の顔がうきあがったのです。イヤリングをつけた女の顔が……ぼくはまじろぎもせずにその女の顔を見つめていました。いや、懐中電灯をもった手が凍りついたように女の顔からうごかないのです。いきおい、ぼくは女の顔以外にはなにも見えなかったんです。イヤリングをつけた女の顔以外には……」  「そこをだれかに襲撃されたんですね」  「ええ、そう。後頭部をひどく強打されて、それからあとのことはなにもわからなくなってしまったんです」  「君を襲撃したのをだれだと思うね」  と、これは等々力警部である。  「ええ、それなんです。こんど正気にかえってから、いろいろそのことについて考えてみました。世間にとっては一年ですけれど、ぼくにとってはきのうもおなじことですからね、はっきり記憶にのこっているんです。それで得た結論というのは、ふたりの中国人か朝鮮人は、あのままトラックで立ち去ったんじゃなかったんでしょう。おそらく、ぼくの足音をきくか、懐中電灯の光をみとめて、くらがりのなかからようすをうかがっていたんでしょう。そして、ぼくが血の跡に気がついたらしいのをみて、いったんわざと立ち去るようにみせかけて、ぼくを家の中へおびきよせたんじゃないか。そして、昏倒しているぼくをあのトラックで芝公園のそばまで運んでいったんじゃないかと思うんです」  「なるほど」  と、金田一耕助はうなずいて、  「それで、あなたはさっきこの女の首をそうとうながいあいだ見つめていたようですが、これが……?」  「ええ、そうです、そうです。ぼくが棺桶のなかで見た女の顔です。そして、そこに使われているイヤリングは、そのとき女の耳にはめていたイヤリングにちがいありません」 四  「結局、この事件は完全には解決されずじまいだったんですよ」  と、金田一耕助はれいによってこのシリーズの記述者にくらい顔をして語ってきかせた。  「それというのが、そのアトリエの主人であった灰《はい》田《だ》太《た》三《ぞう》というのがその前年死亡していたこと。それから、その女の正体がモンタージュ写真やなんかで川崎不二子という中国人のめかけであったことはわかったものの、その不二子のだんなであった陳隆芳というのが香港へかえってしまっていてそれきり行方がわからないことなどで、捜査がうまくいかなかったんですね」  「でも、あなたにはなにか考えがあるんでしょう。女を殺したのは陳なんですか、灰田なんですか」  金田一耕助はちょっとの間無言でいたのち、  「いや、無責任な想像でよいのなら話してみましょう。灰田が不二子と通じていたことは事実らしいんです。灰田は麻薬患者で、そういうところから陳とちかづき、陳のめかけと交渉ができたらしいんですね。そこで陳と不二子のあいだにいざこざが起こって、陳が不二子を刺し殺したんでしょう。それを箱につめて灰田のアトリエへ運んできた……」  「そして、杉田弘に見つけられたのち、林の中へ埋めたとおっしゃるんですか」  「いや、それだと、翌日、灰田がケガをしていたことが納得できない。だから、死《し》骸《がい》をアトリエへのこしておいてかえった。灰田にはそれを訴えて出られないなにかがあったか、それともじぶんに疑いがかかるかもしれぬというところから、林のおくへ埋めたのではないか。そして、そのあとで血の跡に気がついて、死体をいったん埋めただけに、いっそうじぶんにかかる疑いの可能性の強さにおそれをなして、みずから傷つけて警官をあざむいたのではないかと思う……」  「しかし、女の首をつくっておいたのは……?」  「さあ、そればかりはわたしにもわからない。だいいち、生きているうちに作ったのか、死んでから制作したのか……どうもイヤリングがぴったりはまっていたところをみると、死んでから制作したもののように思われるんですが、それではなぜそれだけアトリエにのこっていたのか……」  金田一耕助は暗い目をしたまま、  「まあ、たいへんあいまいな事件で申し訳ありませんが、ひとつくらいこんな話もいいではありませんか。ああ、そうそう、杉田君は完全に快復したばかりか、この事件では大いにスクープしましたよ」  と、そこではじめて金田一耕助は、はればれとした笑顔を見せたのである。 檻《おり》の中の女 濃霧の中から聞こえる鈴の音 一  「おや、警部さん、あの音はなんでしょう」  「えっ、なに、金田一さん?」  「ほら、あの、リーン、リーンと鳴る音……あれ、鈴の音じゃありませんか」  「鈴の音……」  と、等々力警部もデッキのうえで首をかしげて、ふかい夜霧の壁のむこうに耳をすました。  それは秋のはじめにはめずらしい霧のふかい晩だった。山の手方面はそれほどでもなかったが、江東方面一帯から隅田川にかけては厚い壁のような霧の層だった。ことに隅田川一帯は、川《かわ》面《も》から立ちのぼる川霧もまじえて、咫《し》尺《せき》も弁ぜずといってもいいくらいの濃霧の層におそわれた。  その夜、等々力警部は江東方面の川筋にちょっとした捕り物があって、水上署のランチで出かけていった。ちょうど金田一耕助も本庁のほうへ来合わせていたので、警部とともに同行したのだ。  捕り物はヒロポンの密造関係のものだったが、このほうは案外かんたんに片付いたが、さて、そのかえりにぶつかったのがこの霧である。  隅田川を上下する船は、牛の歩みのように徐行しながら、ひっきりなしに霧笛や警笛を鳴らしつづけた。翌朝の新聞を見ると、それでも相当の衝突事故があったということだが……。  霧のなかから浮きあがってくる光が、病める月のようにボーッとにじんでみえたりした。  金田一耕助があの鈴の音をききわけたのは、そうして鳴りつづける警笛の音の切れ目の、ちょっとした静寂の一瞬だった。それはまるで墓場の底からでもきこえてくるように、リーン、リーンといんきにふるえているのである。  等々力警部もやっとその鈴の音をききわけたらしく、  「なるほど、鈴の音らしいですね」  「霧笛のかわりに鳴らしているのかな。それだともっと騒々しく鳴らしたほうが効果的だが……」  「上手のほうからのようですね」  「だんだんこちらのほうへちかづいてきますね」  その鈴をつけた舟も、おりからの濃霧に警戒しているのか、最大限の徐行で川を下っているらしく、ほんの少しずつしかランチのほうへちかよってこない。  ランチはいま駒形橋の下のあたりをほぼ直角に川を横切り、いましも河心にちかいあたりを牛の歩みで徐行していた。  時刻は夜の十二時ちかく……。  霧はますます濃くなるばかりで、金田一耕助や等々力警部をのっけたランチのちかくには一《いつ》艘《そう》の船のけはいもかんじられなかった。  遠くのほうからきこえてくる都電や省線電車のきしる音も、なにかしら別の世界から聞こえてくるようにかんじられる。周囲はただ厚い霧の層と、満々とふくれあがった水ばかり。その水のうえをはうように、  リーン、リーン……。  と、いんきな鈴の音がふるえるようにきこえてくる。  金田一耕助は、しかし、その鈴の音にとくべつふかい意味があろうなどと考えたわけではなかった。かれはむしろ、この濃霧につつまれた隅田川上で鈴の音をきくということに、一種の詩情をかんじていたのだ。  だが……。  その鈴の音がランチとすれすれのところまでちかづいてきたとき、  「やっ! ありゃなんだ!」  と、水上署員のひとりが叫んだので、思わずそのほうへ目をむけた。  「なに? なにかあったかい?」  と、等々力警部もちょっと声をとがらせる。  「警部さん、なんだかへんなものが流れてきますぜ」  「なに? 流れてくる……?」  「ええ、ほら、あの鈴の音……船頭のすがたも見えないようですが……」  水上署員のひとりが懐中電灯の光《こう》芒《ぼう》をそのへんなもののほうへむけたが、それはかえって視角を攪《かく》乱《らん》するばかりだとわかったので、かれはあわててボタンをおして灯を消した。  一同がぐっしょり霧にぬれたデッキに立って、いま懐中電灯の光をむけた方角へさらのようにみはった目をむけていると、やがて、数メートルむこうの水のうえに、あつい霧の層をやぶって、なにやらえたいのしれぬものがおもむろに姿をあらわした。  それは舟のようでもあったが、船頭のすがたは見えなかった。船頭のすがたのかわりに、大きな箱のようなものが見えた。しかし、それは箱でもなさそうだった。  しかも、あの鈴の音はたしかにこのえたいのしれぬ舟のうえからきこえてくるのだ。リーン……リーン……と、霧にふるえて……。  「おい、だれかその舟に乗っているのか」  こちらから水上署員のひとりが声をかけたが、返事はなくて、返事のかわりにまた、リーン、リーンと鈴の音がきこえた。  「おい、方向転換をして、サーチライトの光であの舟を照らしてみろ!」  等々力警部が大声で怒鳴ると、言下にランチは方向転換をはじめた。  ランチのへさきが舟のほうへむかうと、強いサーチライトの光芒が濃い霧の壁をさっとじょうごがたにつらぬいた。と同時に、一同はおもわずあっと手に汗をにぎった。金田一耕助も一瞬全身に電流を通じられたようにはげしい感動にうたれたのである。  舟そのものはなんのへんてつもないボートだった。どこの貸しボート屋にでもありそうなボートだった。  しかし、そのボートのうえにへんなものがのっかっているのである。それは箱ではなくて檻《おり》だった。太い鉄格子にかこまれた檻なのである。しかも、その檻の中にからだをエビのようにねじまげて、人間が入っているのである。  その人間の身にまとっている長《なが》襦《じゆ》袢《ばん》らしい派手な色彩が、パッと目を射るように霧のなかからうかびあがった。 二  ランチからそのボートに飛びうつって、檻のなかをのぞきこんだとき、等々力警部は思わずううんとくちびるをねじまげた。  檻の中には長襦袢いちまいのわかい女が、膚もあらわに押しこまれているのである。いっしょに乗りこんだ水上署員が照らし出す懐中電灯の光でみると、二十五、六の髪をアップに結った相当の美人であったが、うつくしい顔がどこか内臓の苦痛をうったえるようにゆがんでいる。  「警部さん、し、死んでるんですか」  と、金田一耕助がランチのうえから尋ねると、  「いや、ちょっと……」  と、警部は格子のあいだから手をつっこんで女の膚にふれ、それから女の脈にさわってみたが、よわよわしいながらも脈は正確にうっている。  「しめた! まだ生きている。おい、木村君」  と、等々力警部は水上署員をふりかえって、  「この檻、開かないかね」  「ええ、ちょっと……」  と、水上署員の木村刑事は檻のあちこちを懐中電灯で調べていたが、すぐ、なんなく格子の一部をうえに引きあげた。  「あっ、警部さん、これ、犬の檻ですぜ。ほら、これ……」  なるほど、木村刑事の照らし出したところをみると、檻の正面に木札がぶらさげてあり、  「猛犬につきご用心」  と書いてある。  「畜生ッ、ひどいことをしやがる。犬の檻に入れて流しやがった」  警部が檻のなかから女の体を引きずり出そうとすると、リーン、リーンとけたたましく鈴の音が鳴りひびいた。それではじめて警部も気がついたのだが、女の体には犬の鎖がまきついており、その鎖のはしが天井にからみついている。そして、その鎖のはしに鈴がぶらさがっているのである。  この鈴が舟の動揺につれて、さっきから、リーン、リーンと鳴りわたっていたのである。  金田一耕助もおもわず目をみはってくちびるをかんだ。  警部が鎖をといて女を檻からひきずり出しているあいだに、ランチのうえでは水上署員が問題のボートをランチのうしろに結わえつけた。  「木村君、君はこのボートに乗っていたまえ。ランチで曳《えい》航《こう》してやる」  「承知しました」  警部は長襦袢一枚の女を抱いてランチのほうへとびうつると、  「どこかちかくに病院はないか」  「駒形河岸に駒形堂病院という大きな病院がありますよ」  と、ボートのうえから木村刑事が答えた。  「よし、じゃ、そこだ」  ランチはまた霧をついて徐行をはじめる。  金田一耕助は船室のベンチのうえに正体もなく倒れている女のなまめかしい姿態をながめながら、  「警部さん、この女、気絶しているだけなんでしょうか。それとも……」  と、金田一耕助がいいかけたとき、  「あっ、き、金田一さん、こ、これ……」  等々力警部のかすれたような叫び声にはっとふりかえってみると、警部の服のまえになすったような血の跡が……。  金田一耕助はあわてて女の長襦袢を調べてみた。薄暗かったのと、派手な長襦袢の真っ赤な色彩の保護色で、いままで警部も気がつかなかったのだけれど、そこにはかなり多量の血《けつ》痕《こん》が認められた。しかも、ふたりの入念な検査にもかかわらず、女のからだにはどこにも傷はないのである。  金田一耕助と等々力警部は思わずドキッとした目を見交わした。  「金田一さん!」  と、等々力警部はしゃがれた声で、  「これでみると、もうひとつ死《し》骸《がい》がなきゃならんということになりますね」  金田一耕助もいんきな目をしてうなずいた。  駒形堂病院へかつぎこまれた女は、医者の綿密な診察をうけた結果、たんに気絶しているのではなく、強い毒物の作用によって意識不明になっているのであろうことが判明した。毒物の種類はおそらくストリキニーネであろうといわれる。  「それで、先生、大丈夫ですか、命のほうは……?」  等々力警部が心配そうにまゆをひそめると、  「いままでもっていたところをみると、たぶん大丈夫だろうと思うが……とにかく、吐かせてみましょう」  医者は応急の処置をほどこしながら、  「それにしても、はやく発見されたのがなによりでしたね。このまま数時間放置されたら、手おくれになっていたかもしれませんね」  「このまま数時間ほっといたら、絶対にだめだったでしょうか」  金田一耕助がそばから尋ねた。  「さあ……絶対とはいえないかもしれないが……致死量に足りなかったんでしょうから……しかし、発見ははやいに越したことはありませんからな」  ということは、この女、あの鈴の音に救われたということになる。もし、あの鈴の音をきかなければ、檻をつんだあのボートはそのまま東京湾へ流れていって、そのあとはどうなったかしれたものではなかったのだ。  金田一耕助はもじゃもじゃ頭をかきまわしながら、黙ってしいんと考えこんだ。 三  金田一耕助はちかごろ緑ガ丘町へ転居して、緑ガ丘荘というかなり高級のアパートに住んでいる。その耕助のもとへ等々力警部から電話がかかってきたのは、その翌日の午後二時ごろのことだった。  「金田一さん、わかりましたよ、ゆうべの一件の犯罪現場が……」  等々力警部の声はかなりはずんでいた。  「あっ、ど、どこですか」  「浅草の今戸河岸です。すぐいらっしゃいませんか。われわれはもうきているんですが……」  「今戸河岸のどのへん?」  等々力警部はかんたんに地理を説明して、  「とにかく、このへんへいらっしゃればすぐわかりましょう。野次馬がいっぱいたかっていますから……」  「じゃ、すぐいきます。おっと、それで、なんといううち……?」  「おお、そうそう、それをいい忘れちゃいけませんな。緒方静子という表札があがっているうちです」  「緒方静子というのがあの女なんですか」  「そうです、そうです。二号さんなんですね、それが……」  「それが?」  「いやいや、とにかく早くいらっしゃい。こいつ、大事件に発展していくかもしれませんよ」  「承知しました。それじゃさっそく出かけましょう」  金田一耕助が今戸河岸へ車で駆けつけたのはそれから一時間ほどのちのことだったが、なるほど、あまり長くさがす必要はなかった。惨劇のあった家のまわりはいっぱいの人だかりだった。  緒方静子と表札のあがっているこの家は、木の香もまだ新しい二階建てで、ちょっと料理屋かお茶屋さんかといったかんじのしゃれた造りの家だった。  玄関であった顔見知りの新井刑事が、  「ああ、金田一先生、いらっしゃい。あなたがいらっしゃるまでといって、現場はそのままにしてあります。はやくこちらへきてください」  係官がごったがえしている玄関をあがって奥へとおると、  「ああ、金田一さん、こちらへ……」  と、座敷のなかに立っていた数名の係官のなかから等々力警部がふりかえった。  金田一耕助はなにげなく座敷のなかへ入っていったが、ふと足元をみると、  「やっ、こ、これはどうしたんです!」  と、思わず悲鳴にちかい声をあげてとびのいた。  そこに人間の死体がよこたわっていたのなら、それがいかにむごたらしい状態であろうとも、そうまで金田一耕助をおどろかせはしなかったであろう。  金田一耕助が足元に発見したものは、人間ではなく犬だった。子牛ほどもあろうという大きなシェパードの死骸だった。しかも、そのシェパードはからだじゅうに突き傷をうけていて、おびただしい血だまりのなかにぐったりと死体となってよこたわっているのだ。  「これは……」  と、金田一耕助は息をのみ、あらためて座敷のなかを見まわした。  この家は隅田川のすぐ河岸ぶちにたっていて、座敷の外にはまんまんとふくれあがった川の面がひろがっている。その川のうえにも野次馬をのせたボートがうろうろしていた。そのなかには捜査隊の警官たちをのせた舟もまじっていた。  さて、問題の座敷というのは、隅田川を見晴らすいきな好みの八畳で、そこになまめかしい夜具がしいてあり、まくらもふたつころがっていた。まくらもとにはカット・グラスの水びんとコップ、それに灰ざらとライターをのっけた銀盆がおいてあり、銀盆の下にはふたつに折ったひとしめの柔らかい和紙がおいてある。  すべてのたたずまいが男と女が寝ていたらしいことを示しており、げんに座敷のなかには、男の洋服から膚のもの一切、くつ下までそろっているし、寝るまえにぬぎすてたらしい男ものの浴衣なんかも衣《い》桁《こう》にかかっている。また、あの長襦袢の女の着ていたらしい女の薄物も浴衣といっしょにかかっていたが、それでいて、男のすがたは見えなかった。  あるのは、まくらもとにころがっている巨大なシェパードの死体と、白いシーツのうえに散っている凄《せい》惨《さん》な血の跡ばかりである。それはちょっとひとくちにはいいにくいほどなまなましくもむごたらしい情景だったが、そこに犬以外の死体の見えないのが妙に空虚なかんじであった。  「男が……きていたんですね」  と、金田一耕助はまくらもとの灰ざらにつっこんである二、三本のピースの吸いがらに目をやりながら、しゃがれた低い声で尋ねた。  「そう、だんながやってきてたんだね」  「そして、そのだんなは……?」  「いや。だから、いまああして水の中を調べているんだが……」  と、等々力警部は縁側のむこうにひろがっている隅田川の川面をあごでしゃくった。  「すると、だんなも殺されているのではないかという見込みなんですね」  「そう。この布団のうえの血は、犬の血ばかりではあるまい」  「犬がなんだってこんなところで……?」  「さあ、それがよくわからない。猛犬につきご用心という札をぶらさげなければならぬほどの犬が、どうしてこうむざむざと殺されたのか……」  金田一耕助はもういちどむごたらしい犬の死体に目を落とすと、思わずゾクリと体をふるわせた。  「それで、だんなというひとはどういう人物なんですか」  「さあ、それなんですよ。ほら、この名刺が洋服のポケットから出てきたんですが、何枚もあるところをみると、これがだんなの名前なんでしょう」  その名刺には、   進藤啓太郎  という名前が刷ってあったが、そこに書かれている肩書きをみて、金田一耕助はおもわず目をみはった。  それは政府のある省の名前だった。そして、その省は戦後たびたび疑獄を起こすので有名になっており、しかも最近も内々で捜査の手がのびていると、いつか等々力警部にきかされたその省の、しかも、いちばん問題になっている係の係長だった。  そこへとなりの部屋から山崎鑑識課員が入ってきた。  「警部さん、寝るまえにむこうの茶の間で、このシューマイをさかなにふたりでビールをのんだらしいんですが、どうもこのシューマイが臭いんです」  「臭いというと……?」  「いえ、このなかにストリキニーネがしこんであるんじゃないかと……」  「あっ」  「しかも、このシューマイ、新橋の『たから屋』で買ってきたらしいんです。むこうに包装紙がありますがね。とすると、このへんからわざわざ新橋までシューマイを買いにいくはずがありませんから、これは男のほうが持ってきたんじゃありませんか」  金田一耕助はもういちど進藤啓太郎の名刺に目をおとした。  住所を見ると大森である。  のちにわかったところによると、ストリキニーネはたしかにそのシューマイに仕込まれており、しかも、その前日の夕方、新橋の『たから屋』でシューマイを買っていった客のなかに、たしかに進藤啓太郎とおぼしい人物がいるのであった。  しかも、この事件から俄《が》然《ぜん》捜査が発展していったところによると、そこに億にちかい不正事件が発覚し、そのうち数千万円の金の使途が不明になっていた。  その使途は進藤啓太郎以外にはわからないのだが、肝心の進藤の死体はこの後数日たっても発見されなかった。  いっぽう、駒形堂病院へ収容された静子は、三日のちに質問に答えられるまでに快復したが、彼女はただこういうだけである。  「わたしが進藤とあいしったのは一昨年の秋でした。当時、わたしは銀座裏の料理屋で働いていたのです。進藤があの家を建ててわたしをかこってくれたのは、去年の秋のおわりごろでした。あのひとの地位や身分でそんな金のできるはずがありませんから、なにかやってるんだろうとは思いましたが、わたしはわざとしらぬ顔をしていました。なんだか怖いような気がしたので……あの晩、進藤がシューマイをみやげにもってきてくれたので、それをさかなにビールをのんで、あのひとといっしょにお床へ入ったのですが、きゅうに苦しくなって……それきり気がとおくなって、それからあとのことはいっさい存じません」 二重底 一  「ねえ、金田一さん」  そこは警視庁の第五調べ室、等々力警部担当の部屋である。  警部は気むつかしそうな渋面をつくって、  「例の今戸河岸の事件なんですがね、どうも擬装殺人の疑いが濃厚になってきたんですが、金田一さん、あんたのご意見ではいかがですか」  「そうですねえ」  金田一耕助は五本の指でぼんやりともじゃもじゃ頭をかきまわしながら、  「その可能性はたぶんにかんがえられますが、そうすると、進藤啓太郎はまだ生きているとおっしゃるんですね」  「ええ、そう」  と、等々力警部はまじまじと金田一耕助の顔を見ながら、  「しかも、これを最初にサジェストしたのはあなたなんですよ」  「わたしが……? わたしがなにかいいましたか」  金田一耕助はわざとそらとぼけた。  「ええ、おっしゃいましたよ。あの事件の現場が発見されたその翌日、あなたはここで現場写真を点検しながら皮肉をおっしゃった。大山鳴動してネズミ一匹ということがあるが、この現場は少し深刻すぎる……死体も見つからないのに、流された血が多過ぎる……と、意味ありげにおっしゃった」  「そんなことがありましたかねえ」  と、金田一耕助はなにかほかのことを考えているらしい調子だった。  「ええ、そう、たしかにそうおっしゃいましたよ。それから、あの犬がああむざむざと突き殺されるのはおかしい。犬の死体も解剖してみたらどうかと……」  「そうそう、それはぼくもおぼえていますよ。じっさい、あの猛犬が突き殺されるのはまだしもとして、その騒ぎを近所でしらなかったというのはおかしいですからね」  「そう。それで解剖してみたら、胃の中から少量のストリキニーネと多量の睡眠剤が発見された……」  「そこが意味深長ですね」  と、金田一耕助はにやりと笑った。なんとなく皮肉とあざけりをふくんだ微笑だった。  「そうです、そうです。ストリキニーネで殺してしまうと、突き刺してもそうたくさんは出血しない。そこで、眠らせておいて、まだ生きているとこを突いたんですね」  「しかし、警部さん、それならばなぜストリキニーネを混ぜたのでしょう。なぜ、睡眠剤だけじゃいけなかったのでしょうね」  「それはおそらく……」  と、警部はさぐるように金田一耕助の顔を見まもりながら、  「睡眠剤だけならば、突き刺したとき目をさましてあばれだしては困るというので、ストリキニーネで弱らせておいたのじゃないか。といって、ストリキニーネが過ぎて死んでしまうと心臓の鼓動がとまって、したがって、突いて刺しても出血をうながすところが少ない……」  「はなはだ微妙なところですね」  金田一耕助はまたにやりとわらった。あいかわらず皮肉とあざけりをこめた微笑である。  「しかし、そんなにまで手数をかけて、なぜあのシェパードを殺す必要があったんでしょう」  「それは、たぶん、あの現場をできるだけ凄《せい》惨《さん》にいろどっておきたかったのでしょう。あの現場が刺激的であればあるだけ、凶行の印象が強くなる。つまり、擬装殺人とは思えなくなる。そこがやっこさんのねらいじゃなかったか……」  「それで血液の鑑定もおやりになったわけですね」  「もちろん、やりましたよ。ところが、現場に地獄絵巻きをえがいている血液の大部分は犬の血で、人間の血もまじっていたことはいたけれど、それは大した量でもなかったんです」  「血液型は……?」  「血液型はO型でした。そして、これは推定犠牲者の進藤啓太郎の血液型と一致しているんです」  金田一耕助は五本の指でもじゃもじゃ頭をかきまわしながらしばらくぼんやり考えていたが、  「擬装殺人とするとずいぶん手のこんだいきかたですが、すると、緒方静子という女は、擬装殺人の真実性を強調するために、巻き添えをくってやり玉にあげられたというわけですか」  「まあ、そういうところでしょうねえ。シェパードといい、現場の血潮といい、緒方静子といい、あらゆる点で殺人の真実性を強調しようとしたんでしょう」  「しかし……」  と、金田一耕助は考えぶかい目つきで等々力警部を見やりながら、  「緒方静子という女は大丈夫ですか。擬装殺人だとして、あの女も共犯だというふうには考えられませんか」  「もちろん、その可能性は大いにあります。しかし、男がきて、いっしょにビールをのんで寝床へ入るまでの経過、それから、ストリキニーネの効果があらわれて苦痛をかんじはじめてから失神するまでの症状、それらが医学的にもマッチしているので、まんざらうそをついてるとも思えないんです。もちろん、十分身辺は警戒させてありますがね」  「擬装殺人とすると、進藤啓太郎を探し出すことが第一ですが、汚職のほうはどうなってるんです。いったい、どのくらい穴があいてるんですか」  「正確なことはわからないが、八千万円くらいの公金がめちゃくちゃに消費されていて、そのうちの三千万円のゆくえが完全にわからなくなってるんです」  「つまり、その金を進藤が現金でにぎってるんじゃないかというんですね」  「だいたいその見当なんですがね。だから、いっそう擬装殺人の疑いが濃厚だというわけですね」  「緒方静子にゃほかに男は……?」  「いや、いまのところ以前働いていた銀座裏の料理屋、『花清』というんですが、そこの亭《てい》主《しゆ》の中村清治というのがちょくちょく出入りをするくらいでほかにこれといって……」  「静子はあの家にいるんですね」  「ええ、いまんところ……あの家は静子の名義になってるんですが、それが汚職による金でできたとははっきり証明できないんですね。進藤啓太郎が出てこないかぎりは……でも、静子はあの家を政府にかえしたいとはいってるんです」  だいたい擬装殺人であろうとは思うものの、金田一耕助はそこに一《いち》抹《まつ》の不安をかんじずにはいられなかった。なにかしら奥歯にもののはさまったようなもどかしさが、なぜかしらかれの心を重くするのだ。 二  事件発生後、十日とたち、二十日とたっても、進藤啓太郎のゆくえはわからなかった。といって、進藤啓太郎に符合するような死体発見も、どこからも報告されなかった。  新聞はまたごうごうとして政府を非難する。こういう場合、いつもやっつけられるのは捜査当局である。全国に写真を配布された指名手配人がなかなか発見されぬということは、一種のスリルである。しかも、こんどの場合、三千万円という大金がさらにスリルを盛りあげて、いろんな揣《し》摩《ま》臆《おく》測《そく》が連日のように新聞の紙面をにぎわわせて、その刷《は》毛《け》ついでにやり玉にあげられるのが捜査当局である。  相当そういうことにはなれっこになっているとはいうものの、等々力警部もいくらか神経衰弱気味になっていた。  ところが、事件発生後、二十日めのことである。捜査がはかどらぬのでいらだちぎみの第五調べ室へ、れいによってれいのごとく、飄《ひよう》々《ひよう》として入ってきたのは金田一耕助である。  「ああ、金田一さん、いらっしゃい」  とはいったものの等々力警部もいそがしかった。ひとしきり部下から報告をきいたり、また別の部下に指令をあたえたり、金田一耕助にかまいつけるひまはなかった。  金田一耕助はそのあいだ部屋のすみに腰をおろして、所在なさそうにタバコを吹かしている。どんな場合でもおよそ退屈ということをしらぬような顔色をしているのがこの男のくせである。いや、これをべつのいいかたで表現すれば、いつも退屈したような顔色をしているのがこの男のくせであるといってもよいかもしれない。  ひとしきり卓上電話の応対をすませた等々力警部は、そこでさっと金田一耕助のほうをふりかえった。  「金田一さん、なにか変わったことがありましたか」  「いや、べつに……」  と、金田一耕助はあいかわらず眠そうな目をしょぼしょぼさせているが、等々力警部はその目を見たとき、思わずはっと緊張した。長年の経験で、等々力警部にはわかるのである。金田一耕助のひとみのなかに一種のかぎろいが揺《よう》曳《えい》しているのが……そして、そのかぎろいこそ、かれがなにかをかぎつけた証拠であるということを……。  「金田一さん、なにかあったんですね」  と、等々力警部はあいての目のなかをのぞきこみながら言葉をつよめて、  「なにかあったのならいってください。今戸河岸の事件ですか」  「さあ、あの事件にはたして関係があるかどうか……」  「あってもなくってもかまいません。あなたはいったいなにをかぎつけたんですか。それをわたしに教えてください」  「いや、かぎつけたというのじゃなくて、聞き出したんですがね」  「聞き出した……? なにを聞き出されたんですか」  「米びつのことなんです」  「米びつ……?」  と、等々力警部は思わずまゆをつりあげた。  「金田一さん、それ、なんのことですか」  「いえね、警部さん」  と、金田一耕助はあいかわらずぼんやりとした声で、  「終戦後はいろいろ物資が窮乏したでしょう。ことに米の配給なんかひどかったそうですね、東京あたりは……そこで、どこでも米を買いあさる。買いあさるばかりではなく買いだめる。ところが、米というやつは虫がつきやすい。そこでまあ、いろいろ工夫をして、そこであるところでは鉄の米びつが用意してあったんですな」  「あるところとおっしゃると……?」  「いや、銀座裏の『花清』ですがね」  「『花清』……? 『花清』ってあの『花清』ですか」  と、等々力警部の顔色にはさっと緊張の色がみなぎった。  「ええ、そう、あの『花清』なんです」  「それで、『花清』の米びつがどうかしたというんですか」  「いえ、それがね、ちかごろになって『花清』の台所からその米びつがなくなったんです。それで、女中のお仲というのが亭主に聞くと、物資も豊富になったし、米の買いだめも必要がなくなったからしまつをしたという返事だったそうです。ところが……」  「ところが……?」  「それから二、三日して、そのお仲が今戸河岸へあそびにいったんですね、緒方静子のところへ……そしたら、『花清』にあったその鉄の米びつが、今戸河岸へきてるんだそうです。お仲がへんに思って静子にきいたら、虫のつきやすい毛のものやなんかを保存するのに便利だから、ほかへ譲るのならじぶんがほしいと譲ってもらったというのです。それがあの霧の夜のまえの日のことだったそうです」  「ふむふむ。それで……?」  「ところが、われわれがあの事件を発見したとき、鉄の米びつなんてどこにもなかったように思うんですが……」  「金田一さん」  と、等々力警部はまゆをひそめて、  「その米びつがどうしたというんです? そのなかに札束でもかくしておいたと……?」  金田一耕助はペコリとひとつお辞儀をして、  「いや、失礼しました。かんじんなことをいいおとして……問題はその米びつの大きさなんですがね。お仲の説によると、人間ひとりゆうに入るくらいの大きな鉄の米びつだというんですがね」  「人間ひとり入るくらいの鉄の米びつ……?」  等々力警部は張り裂けんばかりに目をみはって金田一耕助をにらみつけると、  「き、金田一さん、そ、それはいったいどういう意味なんです?」  「いえね」  と、金田一耕助はわざと警部の視線から目をそらせて、  「ここにひとり人間がゆくえ不明になっている。その人間は擬装殺人を企ててどこかへ姿をくらましているのかもしれない。しかし、また、いっぽうから考えれば、擬装殺人を企てて姿をくらましているように見せかけて、ほかの人物が殺したのかもしれない。とにかく、ここに人間一匹消えている。しかも、それと同時に、同じ家から人間一匹いれるにたる大きな米びつが消えている。それが単なる暗合かどうか、そこんところを警部さんに研究していただこうと思ってご報告にあがったというわけですがね」  金田一耕助はそれだけいうと、唖《あ》然《ぜん》たる顔色の等々力警部をあとにのこして、飄々として部屋から出ていった。 三  捜査当局はあまりにもはやく擬装殺人と見込みをたてすぎたのだ。その結果、死体捜査のほうははやくから打ちきっていた。  ところが、金田一耕助のサジェストによって擬装殺人をよそおった殺人かもしれないという可能性がうきあがってくると、ここにまたあらためて死体捜査が開始されることになった。と同時に、『花清』の亭主の行動についてふかい注意が払われることになってきた。  死体を収容したものが鉄製の米びつだとすると、それは当然、水中へ沈められたと想像される。これには捜査当局も困惑した。隅田川だけでもひろい面積である。ましてや、河口にひろがる東京湾を勘定にいれると、この死体発見はほとんど不可能視されるにいたった。  しかし、天は捜査当局にさいわいしたのだ。それに、あの霧の夜という特殊な条件をともなった晩のできごとであることもよかった。  水上生活者のある家族が、あの晩、勝《かち》鬨《どき》橋《ばし》より少し下ったところの地点で、なにかを水中に投げこむような物音を聞いたというのを、刑事のひとりが聞きこんだ。それはあの霧のふかい晩のことで、投げこまれたものの形ははっきりわからなかったけれど、大きな箱のように見えたというのである。  そこには勝鬨橋というかっこうの目印があたえられていた。そこで、さっそく水陸両警察が呼応して、水中へ潜水夫をもぐりこませることになった。  幾度かの失敗をくりかえしたのち、潜水夫のひとりがやっと鉄の箱を発見したのは、事件発生以来、じつに三十七日目のことだった。  箱が発見された。これから引き上げ作業にとりかかるからすぐ来るようにとの等々力警部の招きに応じて、金田一耕助が出向いていったのは、水底に箱が発見された翌日のことである。  捜査当局はこのことを極秘に付しておいたはずだのに、はやくも新聞記者の耳に入ったとみえ、金田一耕助が等々力警部とともに水上署のランチで現場へ出向いていったときには、あたりには報道陣がズラリとカメラの放列をしいていた。  いま、水のうえには二艘のモーターボートが、水の上から出ている二本の綱をそれぞれ後尾に結びつけている。このモーターボートが反対の方向へ走ることによって、水底の鉄の箱を引っ張りあげようという寸法なのだ。  「鉄の箱には鉄の鎖ががんじがらめに結わえつけてあったそうですよ」  等々力警部が説明した。  「よほど鉄の鎖の好きなやつですな。緒方静子といい……」  「こうなると、緒方静子は……?」  「もちろん、共犯なんでしょうな。それにしても、大胆な女ですな。ストリキニーネをのんだり、霧の中を流されたり……」  「三千万円という大金の魔力にとりつかれたとでもいうんですかね。とにかく、最近の犯罪はだんだん手がこんでくる傾向がある……」  等々力警部が慨嘆するようにつぶやいたとき、準備万端ととのった。  二艘のモーターボートはいっせいに反対の方角へ走りはじめる。はじめ二本の綱は八の字をさかさにしたかたちで水の中から出ていたが、それがしだいに一の字にちかづいていったかと思うと、やがて、その中心にうきあがってきたのは、大きな鉄の箱だった。  そのとたん、わっと歓声があがり、報道陣のカメラがいっせいにシャッターをきって、この事件のもっとも劇的な瞬間をフィルムにとらえた。 四  「鉄の箱からはやはり進藤啓太郎の死骸が出てきましたよ」  金田一耕助はそういって、いつものようにこのミステリーの記録者なる筆者に語ってくれるのである。  「たとえ鉄の箱に入っていたとはいえ、ながく水中につかっていたものですから、相好はかなり変わっていました。しかし、あらゆる角度から調査された結果、進藤啓太郎にちがいないことが立証されたのです」  「死因はなんでしたか」  と、筆者の質問にたいして、  「ストリキニーネでした」  と、金田一耕助が答えてくれた。  「しかし、それはシューマイに入っていたものではなく、ほかの食べ物のなかに用意されていたのです。ぼくもはじめは、あの血みどろな凄惨きわまりない現場にもかかわらずかんじんの死体が発見されないと聞いたとき、すぐ擬装殺人を連想したんです。しかし、シューマイを買ったのが進藤啓太郎であったと、あまりにもあっけなく立証されたとき、こいつは変だと思ったんですね。進藤が擬装殺人の企画者なら、あくまでもじぶんは犠牲者の立場におくべきで、じぶんが買ってきたとすぐわかるようなシューマイに毒をしこむのは変だと思ったんです」  「犯人はやはり『花清』の亭主と緒方静子でしたか」  「そうです、そうです。『花清』の亭主の中村清治と静子とは、静子が『花清』にいるじぶんから関係があったんですね。『花清』の主人にはむろん女房も子供もありました。年齢は四十前後でしたね」  「それで、三千万円の大金は……?」  「つまり、問題はそれなんです。その大金をげんなまで進藤が静子にあずけたのが運のつきでした。それを横領しようというところから、ふたりのあいだにそういう巧妙な計画がたてられたというわけです。擬装殺人をよそおうた殺人……ちょっと新手でしたね」  「それでふたりはどうしました」  「奥多摩の山中で自殺しましたよ。『花清』が静子を殺しておいて、じぶんもピストルでこめかみをつらぬいたんです。つまり、鉄の箱があがったので、わがこと終われりとばかりに、ふたりで逃避行と出たんですね。それを警官隊に追いつめられて……じつは、そのときぼくも等々力警部とともに警官隊のなかにいたのです。『花清』の主人はヘルメットに土建屋みたいな半ズボン姿で黒眼鏡をかけていました。それが警官隊に追いつめられて、女をこわきにかかえてピストル片手に仁王立ちになっている姿が、いまでも目にうかぶようですよ。女はおびえて男の腕に抱かれたまま、もうはんぶん死んだようになっていました。やがて、男の手にしたピストルが火を噴いて……」  と、そこまで語ると、金田一耕助はいったん口をつぐんだが、  「奥多摩の山々の木々のこずえが、ようやく色づきはじめたころのことでしたね」  と、ポツンとあとへ付け加えた。  本書中には、今日の人権擁護の見地に照らして、不当・不適切と思われる語句や表現がありますが、作品発表時の時代的背景と文学性を考え合わせ、著作権継承者の了解を得た上で、一部を編集部の責任において改めるにとどめました。 (角川書店編集部) 金《きん》田《だ》一《いち》耕《こう》助《すけ》の冒《ぼう》険《けん》1 横《よこ》溝《みぞ》正《せい》史《し》 ------------------------------------------------------------------------------- 平成14年4月12日 発行 発行者  角川歴彦 発行所  株式会社  角川書店 〒102-8177 東京都千代田区富士見2-13-3 shoseki@kadokawa.co.jp (C)Seishi YOKOMIZO 2002 本電子書籍は下記にもとづいて制作しました 角川文庫『金田一耕助の冒険1』昭和54年6月10日初版発行