蔵の中・鬼火 横溝正史 [#表紙(表紙.jpg)]  目 次   鬼 火   蔵の中   かいやぐら物語   貝殻館綺譚   蝋 人   面影双紙 [#改ページ] [#見出し]  鬼 火     一  桑畑と小川にはさまれたせまい畔路《あぜみち》が、流れに沿うて緩やかなカーブを画いているあたりまで来た時、私はふと足を止めた。今まで桑畑にさえぎられていた眼界が、その時|豁然《かつぜん》とひらけて、寒そうな縮緬皺《ちりめんじわ》を刻んだ湖水が、思いがけなく眼前に迫ってきたせいもあるが、もう一つには、妙に気になるあの建物が、一叢《ひとむら》の蘆《あし》の浮《う》き洲《す》の向こうに、今はっきりその姿をあらわしたからである。 (はてな、やはりアトリエのようだが)  と、ステッキを斜めに構えて凝然と立っている姿をはたから見れば、あるいはかかる場所にアトリエのあることを憤《いきどお》っているように見えたかもしれぬが、事実は必ずしもそうではない。その時分、長い患《わずら》いの後だった私は、少し根を詰めて歩行するとすぐ息切れがする、脈が早くなって動悸《どうき》が切迫する。俗に心悸高進《しんきこうしん》というやつだが、それにもかかわらずこんな危なっかしい路を選《よ》って歩いていたというのは。——この間から散歩のつど私は、桑畑のかなたにぎらぎら光っている屋根のあるのを認めて、少なからず気にしていたのが、今日は幸い天気もよし風も穏やかなので、思いきって散歩のついでに出向いたというわけである。  案内記によると桜貝を伏せたような形をしているという諏訪《すわ》の湖は面積ににあわぬ浅さで、いちばん深い箇所でなおかつ五尋《ごひろ》に足りぬという。ちょうど巨大な皿に水を盛ったようなものだが、近ごろではまた、天竜川の改修工事とやらでどんどん排水するのに、東側からは泥や芥《あくた》が盛んに流れ込んでくるしまつで、湖水は年々浅くなる一方である。今私の前にある地盤などもそのいい例で、かつては湖水の底だったのが、長い年月の間に泥や芥が積もり積もって三角洲となり、さらにそれが今日のごとき岬《みさき》にまで発展したのであろう。今私が目指しているアトリエというのは、そういう岬のしかも突端に、兀然《こつぜん》としてそびえているのだった。  近づくに従ってスレートぶきの屋根や、バンガロー風の玄関や、烏貝《からすがい》の殻《から》を塗りこめた壁や、白いでこぼこの石畳などがようやく明瞭に見えて来たが、ずいぶん荒れるに任せてあるところを見ると、夙《とく》に人は住んでいないらしい。路はその辺まで来るといよいよ細くなって、その先はいやが応でも蘆の中に潜り込まねばならない。蘆といっても私の背より高いやつが、蕭条《しようじよう》と風になびいているのだが、私は委細かまわずその中に潜り込むと、間もなく白く舗装した石畳の上に出て来た。問題の建物はすぐ鼻の先にそびえている。さて、こうして間近《まぢか》に迫ってよく見ると、この建物の荒廃のしかたはいよいよ尋常ではない。窓も雨戸ももぎ取られたように跡形もなく、柱を引き抜かれた軒は思案しているようにがっくりと首をかしげ、のぞいてみると障子も襖《ふすま》もない家の中には、陰森たる空気と共に、麹室《こうじむろ》のような酸っぱいにおいがいっぱいに立てこめている。すみの方に重ねてある畳は、湿気と温気《うんき》のために、妊婦の腹のようにふくれあがって踏めばそのままずぶずぶとめり込みそう、おまけによく見るとこまかい真っ白なきのこが一面にむらがり生えていて、その腐朽と退廃のさまはとても筆紙に尽くすべくもない。私は顔をしかめると、思わずペッペッと唾《つば》を吐きながら、そこを離れて、湖水に向かって建っているアトリエの方へ回って行った。  昔はこのアトリエのベランダから直接水に下りるようになっていたものらしいが、今ではそこに広い浮き洲が出来て、汀《みぎわ》までにはかなりの距離がある。浮き洲の上には青い、房々とした生毛《うぶげ》のような藻《も》が一面に生い茂り、その間を点綴《てんてい》している水たまりの中からは、赤黒くよどんだあぶくと共に、腐臭をおびた古沼の瘴気《しようき》が、その辺一帯にめらめらと立ちあがっているのだった。  私は、その浮き洲をわたって、こわれたベランダからアトリエの中へ入って行った。ここは陽当たりがいいせいか、あまり腐朽のにおいはしないが、その代わり床も天井も蜘蛛《くも》の巣だらけ、壁の上にはそれこそ真っ黒になるほど、湖水に発生する小さい羽虫がしがみついている。私が入って行くと羽虫どもは一斉にわんと壁から飛び立ったが、いや、その羽音《はおと》のすごいことといったら、平家の大軍を走らせたという水鳥の音もこうであったかと思われるばかり、眼も口も開けていられたものではない。しかもその羽音と共に、魚のはらわたの腐ったようなにおいがつうんと鼻へきたからたまらない。私はすっかりへきえきして、あわててベランダの外へ飛び出した。羽虫どもは一しきり広いアトリエの中を舞い狂っていたが、やがて次第に壁の方へ吸い寄せられてゆくと冬のはえのように、じっと動かなくなった。  こわごわのぞいてみると、天井からぼろのように下がっている蜘蛛の巣に、おびただしく引っかかってもがいている。中には半分参りかけたのもいるが、元気のいいのが羽を動かすたびに、他のやつも思い出したようにバタバタやり出す。するとそれにつれてまた、せっかく壁の上に羽を休めていたやつまでが飛び出すというしまつで……そんな事を幾回となく繰り返しているのだった。  これでは気味が悪くてとても中へ入れないからあきらめてそろそろひきあげようとした時、ふと私の眼についたのが、すみの方に立てかけてある大きなカンバスである。大きさは百二十号ぐらいもあろうか、黒い布がかかっているのが何となく曰《いわ》くがありそうで妙に気になる。こいつはただでは帰れない。といって羽虫は気味が悪いし——と、しばらく躊躇《ちゆうちよ》していたが、とうとう思いきって足袋《たび》はだしになると、抜き足差し足、いやもう竜王の珠玉《たま》を盗もうとする蜑《あま》のごとく、そっとカンバスのそばに近寄るとこわごわ、静かに黒い布をまくりあげてみた。  カンバスはすっかり日にやけて、色があせ、ほこりまみれになって、ただもう不透明な色彩が雲のように重なり合っているばかりで、はじめのうちは何が何やら見当も付かなかったが、それでもしばらく面《おもて》もふらずに凝視を続けているうちに、やがてはれゆくもやの中から姿を現わす山脈《やまなみ》のごとく、朦朧《もうろう》と私の眼の前にせり出して来たのは、一個奇怪なる裸形《らぎよう》の女であった。  それは生きながら湖水の底に沈められた、裸体の美女を画いたもので、セピア色に塗りつぶしたカンバスの上に、ほの白く浮き出した女の乳房には、その先に大きな分銅のついた太い鉄の鎖が、痛々しいばかりに食い入り、その下肢から下腹部へかけては、何やら蒼黒《あおぐろ》いものが、一面にぬらぬらとからみついている。初めのうち私は、そのぬらぬらを単なる水藻だとばかりに、何の疑いもさしはさまなかったけれど、よくよく見ているうちに中に一条《ひとすじ》、蛇《へび》とも竜ともつかぬ、一種異様な醜い動物のいることを発見した。怪物は鋭い蹴爪《けづめ》をもった一本の肢《あし》で女の乳房を引き裂かんばかりに握りしめながら、蜥蜴《とかげ》の肌のように底光のする全身に波打たせて、べったりと女の腰に吸い付いている。そして女のうしろから肩の上にもたげた醜いかま首からは、二つに裂けた舌をペロペロと吐き出して、何事かを女の耳にささやいているがごとくである。女はその言葉を聞いているのかいないのか、あたかも甕《かめ》を担うがごとく左の手で怪物のかま首を抱え、右手は高く水中にかざしている。彼女の暗緑色の髪の毛は海藻のようにゆらゆらとただよい、もだえ、逆立ち、長くさしのべた項《うなじ》には、泡がかたまって真珠を連ねたようである。ただ不思議なのは女の表情で、その面には少しも恐怖や苦痛の色は見えないのだ。大きくみはった瞳は燐のようにまたたいているけれど、それは苦痛や恐怖のためではなくて、ある謎のような喜びと嘲笑を溶かしているがごとくである。軽く閉ざした唇《くちびる》からは満足の溜め息がもれ、薔薇《ばら》色の頬《ほお》に柔らかく刻まれた片《かた》えくぼには、微妙に錯綜《さくそう》した嫌悪と歓喜の不可思議な感激が読み取られるのであった。  この奇怪な人獣|相剋図《そうこくず》に、時のたつのも忘れて、呆然《ぼうぜん》とみとれていた私の念頭《あたま》には、その時さまざまな想念が去来した。こういうグロテスクな画題を選んだ画家というのは、いったいどんな男だったのだろう。そしてこの画のモデルになった女とどういう関係であったのだろうか。この人里離れた岬の突端で、彼等はまあ、どういう奇怪な生活を営んでいたことだろう。……我にもなくそれらの場面を想像しているうちに、私はぞっとするような悪寒《おかん》に襲われた。一瞬間私は、画面の女が口を開いて、今にも話しかけそうな錯覚を感じて、思わずかすかな身震いをすると、祈るように眼を閉じ、やがて元のごとくカンバスの上におおいをかけると、追われるようにこのアトリエから出て行った。  外へ出てみると空には依然として太陽がくるめき、はるかかなたの入り江の汀には、洗髪の女が水鏡をしているように首うなだれた、美しい楊柳《やなぎ》の並み木があり、並み木の下には数十羽のあひるが嬉々として群がり、餌をあさっている。空はビードロ細工のように玲瓏《れいろう》と晴れ渡り、澄明な空気は時々水晶のように光るかと思われた。私はこの明るい、平和な景色に向かって、あえぐように二、三度大きく息を吸い込んだが、さて一度|眼《まなこ》を転じて岬の上を見れば、そこには暗澹《あんたん》たる妖気が低く垂れこめ、索寞《さくばく》たる蘆叢《ろそう》の中からは、啾々《しゆうしゆう》として哀怨《あいえん》悲愁の声が、道行く人の肺腑《はいふ》に迫ってくるかと思われた。私は足を早めて、逃げるがごとくこの場を立ち去ったのである。     二  その翌日私は、久し振りで湖畔にささやかな草庵《そうあん》を営む、俳諧師《はいかいし》の竹雨《ちくう》宗匠を訪れた。宗匠はもとこの地方の警察に長く奉職していた警部だったが、数年前|糟糠《そうこう》の妻に先立たれてから、いたく世をはかなみ、間もなく恩給がつく身分となったのを幸いに、職を辞すると、この湖畔に形ばかりの庵《いおり》を結んで、今では春の花、秋の月を友として発句三昧《ほつくざんまい》に日を送っている。私はごく浅い、最近のなじみであったが訪れるといつも快く迎えてくれるし、また持ち前の話上手《はなしじようず》で、この地方に伝わるさまざまな物語を、諄々《じゆんじゆん》と語って聞かせてくれるのである。 「よくいらっしゃいました。二、三日急に寒くなったので、慣れない方にはどうかとお案じ申し上げておりました」  私が訪れたとき、宗匠は経机《きようづくえ》に向かって、何か書き物をしていたが、私の顔を見るとすぐ筆をおいて、暖かそうな炬燵《こたつ》のある部屋に招じ入れた。宗匠というといかにも老人じみるが、その実、五十にはまだ二、三年間があろうという年輩の、血色のいい、どっしりとした人柄で、かつて警部などというはげしい職務にあった人とは思えないほど、柔和な容貌《かおつき》をしているが、それでもどうかすると、まゆと眼の間に精悍《せいかん》そうな気が動くのは、さすがに争えないものである。私はすすめられるままに、遠慮なく炬燵の中に潜り込んだ。締め切った障子には西陽が白くあたって、部屋の中には鉄瓶《てつびん》が松風の音《ね》を立てている。床には寒山拾得《かんざんじつとく》の掛け軸の前に、白菊が二、三輪無造作に活《い》けてあって、その花弁からこぼれるにおいがほんのりと部屋の中に漂うている。万事淡彩趣味の中に、炬燵にかけた友禅の掛け布団のみが、眼も覚めるばかりなまめかしい。 「今日はぜひ、あなたにお話していただきたいと思うことがあって参りました」 「はあ、何ですか、今どきこの老人に話をさせようというのは」 「実は昨日私は、散歩のついでに向こうの岬にあるアトリエへ行ってみたのです。そしてその中で妙な絵を見ました。帰って宿の者にその話をすると、それなら竹雨先生にお伺いするのがいちばん近道だ。先生ほど詳しくこの話をご存じの方はなかろうと、こういう話なので、それで今日はお邪魔にあがったわけなのです」  私の言葉を聞いているうちに、それまでにこやかな微笑を含んでいた宗匠は、次第に眼を伏せ火桶《ひおけ》の縁を撫《ぶ》しながら何事か打ち案じているようであったが、やがてつと身をくねらせるとうしろざまに縁側の障子を押し開いた。と、見れば、入り江を隔てたかの岬の上に、粛殺たる蘆叢《ろそう》に包まれたアトリエが、今日もものうい紺碧《こんぺき》の空に、屹然《きつぜん》とそそり立っている。宗匠はしばらくじっとそれをながめていたが、やがて私の方へ向き直ると、血色のいい顔をつるりとたくましい手のひらでなで上げた。 「いや、失礼いたしました。私がこうしてしぶっているのは、けっしてもったいぶっているわけではなく、実は私はこの話をすることをあまり好まないのです。これが聞いてうれしくなる話だとかまた、優にあわれな話ならば格別、この話はどこまでも陰惨で、何となく憑《つ》かれたようなところのある話ですから、私はなるべくしゃべらないことにしているのです。しかし……」と宗匠はここで忽然《こつぜん》として、のどの奥までひらいてからからと打ち笑うと、「しかし、あなたもせっかく、意気ごんで来られたのですから、聞かずにはお帰りなさるまい。ようがす。お話ししましょう。その代わり今夜は私に付き合わなければいけませんよ。幸い今夜は十三夜ですから、後で月見としゃれようじゃありませんか」  私が承諾の旨をのべると、宗匠はただちに手を鳴らして下婢《しもべ》を呼び、夕餉《ゆうげ》の支度を命じた。その間も彼はあまり気持ちのいい話ではないからと、繰り返し、繰り返し念を押すことを忘れない。陰惨もとより大いに私の好むところである。憑かれたような話に至っては私の狂喜するところだ。私がその旨をのべると宗匠は仕方なしに苦笑しながら、一つまみの香を桐《きり》火桶の中にくべたので、ものさびたにおいが縹渺《ひようびよう》として部屋の中に立ちこめたのであった。 ————————————————————————————————————————  この湖畔に長く住んでいるほどの者なら、だれ一人この話を知らない者はありますまい。しかし昨日、私に聞くのがいちばん確かであるとあなたにお伝えした人は間違っていないので、お話ししてゆくうちにわかりますが、私ほど詳細にこの話を語りうる者は他にありえないのです。  あのアトリエを建てたのは漆山万造《うるしやままんぞう》という、向こうに見える豊田村出身の画家ですが、御記憶ではありませんか。今から十数年以前にはそれでもちょっと、中央画壇に知られていた男でしたよ。さよう、昨日あなたがご覧になったあの不気味な絵というのも、この男と、この男の従兄弟《いとこ》で、同じく漆山姓を名乗っていた漆山代助という男、この二人の画家の共同制作なのです。漆山代助……この男も従兄弟の万造とほとんど同時に中央画壇に名を知られ、そしてまた、ほとんど同時に忘れられて行った男ですが、これからお話ししようとする話というのは、この二人の画家の生涯に纏《まつわ》る、深讎《しんしゆう》綿々たる憎念と、嫉妬《しつと》と、奸策《かんさく》の物語なのです。  この土地の者で私ぐらいの年輩の人間ならだれでも知っていますが、漆山家というのは、当時諏訪郡きっての豪家で、万造はその本家の一人息子、代助は分家のこれまた一人息子で、二人は同年の生まれでした。私は両方の親達を知っていますが、あんなに仲のいい善良な兄弟を親に持ちながら、どうしてこんな恐ろしい子供達が生まれたのか実に不思議でなりません。二人はまるで互いに仇敵となり、憎み合い、のろいあい、陥れ合うためにのみ、この世に生まれてきたようでした。それはすでに、彼等ががんぜない子供の時分からそうなので、それについて私は次のような出来事をお話しすることができます。  これは彼等がまだやっと小学校の一年か二年生時分のことでありますから、今からざっと三十二、三年前のことですが、冬のことで湖水には一面に氷がはりつめていました。間もなくあなた御自身で御覧になることができましょうが、湖水に氷がはりつめると、子供たちの天下で、学校へ通うにもふだんならば半時間も一時間もかかるのが氷の上を滑って来ると十分か十五分で来られる。朝などは大変で、頬っぺたを杏《あんず》のように真っ赤にふくらました、もんぺ[#「もんぺ」に傍点]姿の子供たちが、めいめい五、六尺ぐらいの青竹を横に持って滑って来るのが、ちょうど秋空に飛ぶ蜻蛉《とんぼ》のように、それこそひきも切らず、中には一本の青竹に、小さいのを挟んで五、六人もつかまって滑ってくるのがあります。この青竹を持っているのは、過《あやま》って氷の亀裂《きれつ》に落ち込んでもこれが閂《かんぬき》のように引っかかって、にわかに氷の下へ飲み込まれるのを防ごうという寸法、大人ならここで機械体操の要領ではい上がることができるし、それのできない女子供でも救いを呼ぶいとまがあろうというわけです。  さてその朝、万造と代助の二人もおのおの青竹を一本ずつ携えて今アトリエの建っているあの岬、その時分は今ほど出張ってはおりませなんだが、あの岬の向こう側まで滑って来たとき、万造の方がどうしたはずみか過って氷の裂け目へ落ち込んだのです。幸い青竹が役に立って沈んでしまいはしなかったけれど、子供のことですから一人ではい上がることができない、もがもがやりながら救いを求めたのを、その時半丁ばかり向こうを滑っていた代助が聞きつけて、すぐに引き返してきました。この時代助が素直に青竹を出してやれば何事もなかったのでありますが、ふだんからどちらが偉い、代助より万造のほうが少し利口なようだ、いや、やはり代助のほうがはしこかろうと、絶えず周囲からおだてられ、競争するようにしむけられていることが、ふと念頭《あたま》に浮かんできたからたまらない。代助はその時万造のほうへ伸ばそうとしていた青竹を、つと二、三寸手もとへ引くと、  ——万ちゃん、助けてやる代わりにお前、今日から私《あたい》の家来におなり。  子供のことですから他愛はありません。この時、万造の方でも、うん、家来になるから助けておくれ、と、言ってしまえば何でもないことでしたが、これを聞くと万造は、嫌悪の色を一杯にうかべてついと顔をそむけ、伸ばしていた手をあわててうしろへ引くと、そばにいる代助を無視してしまって、遠くの方へ向かってあてもなく、助けてくれえ! 助けてくれえ!……この様子を見ると代助はさっと顔色を変えました。冗談で出発したことが、にわかに真剣味を帯びて来たのです。代助はぷいと青竹を小脇《こわき》に抱えると、くるりときびすを返してそのまま氷の上をスイスイスイ。  しかしいかに子供とはいえ、このまま見殺しにするのが恐ろしい罪悪だぐらいのことは心得ておりますし、良心もとがめます、しばらくしてまた万造のそばへ引き返して来た代助の顔色は、むしろ万造よりも蒼白いくらい、きっとかみ締めた唇は憤りのためにぶるぶると痙攣《けいれん》していました。それでも彼は持っていた青竹をたたきつけるように万造の方へ伸ばすと、  ——さあ、助けてやるから早くつかまれ。と、言いました。  万造はこの時すでに、岑々《しんしん》と身に浸み入る寒気のために、唇は紫色になり、眼はつり上がり、今にも気が遠くなりそうになっていましたが、それにもかかわらず彼が従兄弟に報いたものは依怙地《いこじ》な嘲るような笑いばかり、相手が差し出した青竹の方へは見向きをしようともしないのです。  ——万ちゃん、早くおつかまりな。代助がきめ付けるように言うのも、耳に入らないかのごとく、万造は依然としてほかに救いを求めているのですが、無残にも声はしゃがれ、今にも息が絶え入らんばかりの有様です。  ——馬鹿だなあ、早くおつかまりったら。そう意地を張ってたら凍え死んでしまうよ。代助は幾分優しい声で、なだめるように言いましたが、万造は依然として態度を改めない。こうなると代助の方では、しゃくにさわるやら、心配やら、いまいましいやら、かわいそうやらで、とうとうこの方が先におんおんと泣き出してしまったのです。  幸い折よく駆けつけて来た他の子供達によって、万造は無事に救われましたけれど、その時彼の掌は青竹に膠着《こうちやく》してしまって、それを放すだけでも大変だったそうで、彼はそれがもとで一と月ほどひどい熱病を患いましたが、治ってから初めて代助と顔を合わせたとき彼がいきなり代助に向かって念を押すように言ったというのは、  代ちゃん。お前に助けてもらったんじゃないから、私《あたい》は何もお前に恩に着る筋はないよ。わかっているだろうね。     三  こういうエピソードをお話しすれば際限がありません。双方の両親もほとほと持てあましていましたが、しかし後年に至って、このために二人とも生命《いのち》を失うほど、恐ろしい運命に遭遇しようとは、その時分、夢にも気付かなんだし、かえって二人とも勉強に励みが出て、学校の成績なども、いつも首席を争っていたというのも事実なので、つい馬鹿な親心から、誤ってこの恐ろしい敵愾心《てきがいしん》を刺激し、奨励しなかったとはいえないのです。しかし次にお話しする事件が起こってからは、さすがに双方の両親とも、幾分、考えをあらためなければならぬことに、気が付いたようでした。  それは二人が高等小学校の二年生、今でいえば尋常小学校の六年生ですが、その年の夏休みに、二人して蓼《たで》の海の近辺へ写生に出かけたことがありましたが、さてその帰途、俗に七曲《ななまがり》と言って、一方が高い崖《がけ》、一方が深い谷になっている、そういう羊腸たる坂路へさしかかった時、先に立って歩いていた万造が、  ——あ、あんなところに蛇がいる。と、叫んで立ち止まりました。  蛇は信州の名物、全国から蛇捕りが集まるというくらいだから子供たちも馴れている。万造といえども、一匹や二匹の蛇ならあえて驚きはしなかったのでありましょうが、その時ばかりは特別でした。谷の上へ斜めにせり出した松の梢《こずえ》に、どういうわけか蛇が無数にからみあって、松の根っこほどもあろうという太い蛇綱になって、そいつがまた蠕々《ぜんぜん》と蠢動《しゆんどう》しているのだから、どうかすると、松の梢その物が蛇行《だこう》しているように見える。万造でなくったって、これじゃ驚くのが当然でしたが、後からやって来た代助は、これを見ると鼻の先であざ笑いながら、吐き捨てるように、  ——何だい、あんなもの。と、言いました。  万造はこれを聞くと早くも顔色を変えながら、  ——それじゃ代ちゃんはあれが怖くないのかい。と、詰め寄ります。  ——何が怖いもんか。たかが蛇じゃないか。  ——だって一匹じゃないぜ。  ——一匹でなくったってさ。  ——それじゃお前、あれがつかめるかい。  ——つかめるとも、平気さ。あんなもの。  ——一匹じゃないぜ。みんなつかむんだぜ。  ——何匹だって同じことさ。何ならつかんで見せようか。  ——おお、つかんでみせな。だけど後で怖くなって泣いたって私ゃ知らないよ。  ——何が。……売り言葉に買い言葉とはこのことでしょう、代助は早くも松の幹に足をかけましたが、何を思ったのかふと振り返ると、  ——万ちゃん、その代わりお前、私《あたい》の言うことを何でも聞くかい。  万造はちょっと躊躇したが、これもその場の勢い、今更後へ引けません。  ——うん、何でも聞いてやるよ。だけどみんなつかまなくちゃいやだぜ。  ——それじゃ、私《あたい》の家来になれ。  ——なる。  代助はにっと笑うと、するすると松の幹をよじ登って、蛇が一塊りになってのたくっているそばまで行くと、あなやという間もあらばこそいきなり右手をその中に突っこみました。  ——どうだ。  代助は平然と笑いながら、御丁寧にも蛇の中を掻きまわしたからたまらない。蛇は怒って無数のかま首をもたげると、きりきりと代助の腕へ尻尾《しつぽ》をまき付ける。肩から首のほうへはい上がって来るやつもあれば、袖口《そでぐち》から懐へ入るやつもある。中にはもんぺ[#「もんぺ」に傍点]の間から頭を突っこんで、太股《ふともも》をねらうやつもあるというしまつ、見る見るうちに代助は、蛇責めの浅尾みたいに、体中蛇だらけになってしまいましたが、それがまたいかにも得意そうに、からからと打ち笑いながら、蛇の頭をなでたり、ほお擦《ず》りしたり、果ては調子に乗って接吻《せつぷん》したりするのに、見ている万造の方がかえって真《ま》っ蒼《さお》になってしまったくらい。  ——どうだ、万ちゃん、これくらいでいいだろうな。と、言うと代助は、手ごろのやつを一本抜き取りそいつを火縄《ひなわ》のように、きりきりと宙に打ち振りながら、おお臭《くさ》、おお臭、と、言い言い松の幹から降りて来ました。  ——万ちゃんどうだ。約束通り私《あたい》の家来になるだろうな。  万造はしかし、自分が蛇であって、相手のために侮辱されたような気がしていた折からですから、ただ一言、吐き出すように、  ——いやだ! と、鋭く言いました。  ——いや? それじゃ約束が違うじゃないか。  ——約束が違っても何でも、お前みたいな野蛮人の家来にだれがなるもんか。  ——お前それでも男かい。私《あたい》だって何も蛇が好きなわけじゃないが、お前が家来になると言うから、いやなのも辛抱してやったのじゃないか。それを今更、いやだなんて、お前それは卑怯じゃないか。  ——卑怯でも何でも、いやなものはいやさ。  二人はしばしはげしく言いつのっていましたが、そのうち、代助がにやりとせせら笑うと、  ——いいよ、いいよ。家来になるのがいやなら、その代わりお前にも蛇をつかませてやるばかりさ。待っといで、あの松の枝にうじゃうじゃしているやつを持って来て、お前の頭からぶっかけてやるから。  ——お待ち、代ちゃん、お待ちったら!  ——何だい。家来になると言うのかい。  ——……。  ——いいよ。構わないよ、今に見ろ。蛇を持って来てやるから。  そう言いながら早くも、根元にうごめいているやつを、二、三匹懐に入れている姿を見た万造は、絶体絶命、蛇は気味悪いし、家来になるのはなおさらいや、逃げるのは自尊心が許さないとなると、残された手段はただ一つしかありません。今しも蛇に夢中になっている代助の後ろ姿を、物すごい眼でにらんでいた万造は、ふいに蛇がはい寄るように、つつつつつと背後に迫ると、  ——何をする、万ちゃん! という代助の絶叫も耳に入らばこそ。えいとばかりに突き出した万造の腕の下に、もんどり打って代助は、谷底深く落ちてゆきました。  この時代助がまともに、谷底へ落ちていた日には、これからお話しするような事件も、起こらずにすんだことでありましょうが、幸い谷底に根を張っている椎《しい》の大木の上に落ちたので、腰骨を少々くじいただけで、不思議にも生命《いのち》は助かりました。もっとも腰の打ち傷はその後永らくたたって、それと知っている人が気を付けて見なければわからないほど、ごくかすかではありましたけれども、代助は生涯びっこをひいていました。  さてこのいきさつを後に聞いた漆山の両家では、今更のごとく二人の憎念の執念深さに悚毛《おぞげ》をふるって、向後《こうご》なるべく彼等を一緒にしないことを申し合わせたのですが、何がさて、陰が陽に慕い寄るごとく、憎み合い、のろい合いながら、常に相寄る魂を持った二人のことゆえ、いつかはまた、問題をひき起こさずにはおかない、因果といえば因果、宿縁といえば宿縁でもあったのです。     四  事件はそれから数年の後、彼等がともに中学五年に進んだ年に起こりましたが、この時分になると、二人の性格なり、体質なりの、相違はようやく顕著になって、代助が陽性で、多血質で交際好きなのに反して、万造の方は陰性で、胆汁質《たんじゆうしつ》でいつも孤独でした。体質においても、代助の方が色浅黒く、引きしまったきびきびとした体付きをしているのに反して、万造は色白でぶよぶよと肥って、動作などものろのろしているので、クラスでも牛というあだながあったくらい、ただ一つこの二人に共通している点といえば、相も変わらず反発し合う熾烈《しれつ》な感情と、猛烈な勉強家であるということばかりでありました。彼等は依然としてクラスのトップを競い合っておりましたが、自己を優位に保つためには、必ずしも fair play であることを必要としない、小股《こまた》すくい、背負い投げ、裏切り、密告等々、あらゆる卑劣なる手段をもあえて辞せぬ。つまり彼等は、悠々と大空に輪を画きながら、すきあらば躍りかかろうと身構えている二羽の荒鷲のようなもので、油断をしていれば、いつ何時《なんどき》、鋭い爪と嘴《くちばし》によって引き裂かれるかもしれないのでした。  さてその当時、この町に湖月という汁粉屋《しるこや》があって、中学生などがよく集まったというのは、そこにお美代ちゃんというちょっとかわいい娘がいて、お世辞の一つもいう。みんなこれに夢中になっていたものですが、中でも代助と万造の執心ぶりはだんだん露骨になってきました。後になって、代助が人に語ったところによると、格別彼はこの娘が好きというわけではなかったが、ぐずぐずしていれば、万造に先手を打たれそうで、そうなるとくやしいから機先を制したまでだと言いますが、とにかく、この競争では代助が従兄弟を出し抜いてまんまと娘を手に入れてしまいました。さあ、それと気がついた万造はくやしくてたまらない。これが他の男なら娘が何人|情人《おとこ》をこしらえようが、別に痛痒《つうよう》を感じないのでありますが、相手が従兄弟で、そいつに出し抜かれたと思うと、残念で残念でたまらない。何とかしてこのしかえしをしてやらなければ腹が癒えないのですが、さんざん考えあぐんだあげく、編み出した一計というのは、ある日湖月へ行って、お美代というその娘をそっと物陰に呼ぶと、  ——お美代ちゃん、お前、代ちゃんとどうかしたのじゃない? え、そうだろう、隠さなくったっていいよ。私ゃちゃんと代ちゃんから聞いて知っているんだから。  ——まあ、代さんがそんな事を言ったの。  こんな単純な女を欺《だま》すのはわけはありません。  ——おお、言ったともさ。お前も知っての通り、私と代ちゃんは従兄弟だもの。何だって打ち明けてしまうんだ。それで何かい。このごろでもやっぱりちょくちょく逢っているのかい。  ——いいえ。それがね。……お美代はぽっと赤くなりながら。それきり一度もお見えにならないので、私どうなすったのかと思って。……  ——一度も来ない。それはいけないね。それじゃ薄情だよ。よし、私から一つ言っといてやろうよ。  ——ええ、お願いしますわ。私一度会って話したいことがあるのよ。だけど、こんなことあなたにお願いして、後でしかられやしないかしら。  ——そんな事あるもんか。ほかの者じゃなし。私と代ちゃんの仲だもの。  ——ほんとうにそうなら、私ご恩に着るわ。だまされたんじゃないかと思って、私この間から心配で、心配で、……  ——そんなことはあるまいよ。万造はかきむしられるような嫉妬の情をおさえながら、代ちゃんだって会いたいんだろうけれど、まだ学生だしねえ、人眼をはばからなきゃならないもの。だからさ、ああ、そうだ、お前手紙をお書き、ここは何といってもお前から手紙を出さなきゃうそだよ。そうすれば私が人知れず代ちゃんに渡して、きっとここへ連れて来てやろうじゃないか。  ——だって、私どう書いていいかわからないんですもの。  ——何、わけはありゃしないよ。わからないところは私が教えてやろうよ。お前の手紙もないのに、何ぼ私だって、でしゃばり過ぎるようでそんなこと、代ちゃんに言えやしないものね。  ——いいわ。書くわ。だから万造さん、あなたそばにいて教えてちょうだいよ、ね。  万造はまんまと首尾よく、女に手紙を書かせてしまいましたが、何しろ腹に一物あるのですから、その手紙というのは実に露骨なもので、だれが読んでも顔を赤らめずにはいられないような、言語道断なことが書いてあったということです。  さて万造がこの手紙をどういう風に利用したかというと、学校でもいちばん口やかましいという評判の、体操教師の前にわざと落としておいたのですからたまりません。急に騒ぎが大きくなって、ちょうど県視学の巡回があるという、評判のあった折からでもあったりするので、前例にない程の厳罰主義で、湖月組の学生たちは、いっせいに一週間の停学を申し渡された中に、代助一人放校処分を受けました。万造も無論、停学組の中に入っていましたが、これは無論覚悟の前で、皮を斬らせて肉を斬るというのが、その時の彼の作戦だったのです。  漆山両家の親達は、重ね重ねの息子達の不始末に、あきれ果てて涙も出ない有様でありましたが、ほうっておくわけにも参りませんので、汁粉屋の娘の方は金をやって片を付け、代助はひとまず、東京の親戚に預けてそこから学校へやるという事に話が決まりました。実際、これら善良な親達が、それから四、五年の間に相次いでばたばたと死亡したのは、自他の為にどれほど幸福だったかしれません。もう十年も生きていたことなら、それこそ人の親として最大の悲嘆を味わわねばならないところでしたから。  代助が東京へ発《た》つという日は、冷たい五月雨《さみだれ》がびしょびしょと降っている、陰気な五月の下旬でしたが、この時駅まで見送りに来た、ごく少数の友人たちの中に、万造の姿が見られたというのは、まことに不思議な話ではありませんか。彼はただ一人離れて、プラットフォームの柱の陰で、にやにやと笑いながら立っていましたが、やがて汽車が着いて、代助が乗り込むと、ふいにつかつかと窓のそばへ寄って来たかと思うと、  ——代ちゃん、あばね。と、さも名残り惜しそうに信州《こちら》の言葉で言ったのです。  すると代助も急に眼を輝かせて、  ——万ちゃん、覚えておいで。今度はお前の番だよ。と、言いました。  そして二人顔を見合わせると、いかにもわだかまりのない声で、昂然《こうぜん》と笑いましたが、いや、実に妙な従兄弟もあったものです。  東京へ着き代助は、ひとまず神田の某中学に籍をおきましたが、秋になると、さる私立の美術学校の編入試験を受けて、そこへ通うようになりましたが、この通知を受け取ったとき、万造は何ともいえぬ不安と焦燥を感じました。自分が陥れた相手が案外不幸でなく、いや不幸どころか、希望に燃えているのを発見して、万造は背負い投げを喰わされたような気になり、結局、田舎の中学に残された自分の方が、はるかにつまらぬものであると思うようになりました。そこで残りの学期を倉皇《そうこう》としてすますと、両親を説いて自分も上京し、この方は正規に中学課程をおえているのですから、堂々と官立の美術学校へ入学したのです。元より好む道ではありましたけれど、あくまでも同じ道で雌雄を決しようという意地の方が、半分以上手伝っていたことは疑うべくもありません。両親もそれを知っていながら、あえて反対しようとしなかったのは、多分親らしい慈愛をもって、この無謀な思い付きから反省させようとするほども、この息子を愛することができなくなっていたからでありましょう。     五  それから数年の間、私達はこの二人のうわさを聞くことはありませなんだ。むろん、小さな小競り合いや葛藤《かつとう》は始終続けられていたことでしょうが、学校が違っているので、信州《こちら》まで響いてくるほどの大事件は起こさずにすんだとみえます。その間に漆山両家の親達は、相次いでこの世から去り、間もなく彼等は学校を卒業し、それから二人の絵が同時に、同じ美術展覧会に入選したということ、中野と高円寺におのおのアトリエを建築したということ、その翌年にはまた二人同時に、同じ美術展覧会の同人に推薦されたということ、それらのうわさを、私達は絶えず新聞で読んだり、人伝《ひとづ》てに聞いたりして知ることができました。これを要するに彼等は、あいかわらず猛烈な競争を続けながら、次第に社会的に名声を高めつつあったのですが、間もなく二人とも三十歳の声を聞くに至りました。そして再び恐ろしい大衝突の緒《いとぐち》は、その年の夏の終わるころに切られたのであります。  中野に住んでいた代助は、その時分、少々薄のろの女中の他に、お銀というモデル女をアトリエに引っ張り込んで同棲《どうせい》していました。お銀というのは、虚栄心の強い、自堕落な、浮気っぽい、うそつきの、どこに一つ取り柄のない女でしたが、古い言葉にもある通り、有為な才幹を持った高尚な男子の運命を左右するのは、常にすぐれた女性であるとは限りません。こういう何の取り柄もない女が、しばしば男を破滅の淵に導くものです。  不思議なことには、お銀という女は代助と同棲する以前に、かつて一ヵ月ほど、万造のアトリエでモデルとして働いたことがありまして、その時彼女は、この女らしいあさはかな媚態《びたい》の限りを尽くして、万造を誘惑しようと試みたのですが、彼女の性質をよく知っていた万造は、頑強にそれを拒み通して来ました。ところがその女が今、従兄弟と同棲を始めたとなると、万造の彼女を見る眼はまた違ってくるので、自分のものにしようと思えば、いくらでもその機会があったにもかかわらず、ついにそのことがなく、むざむざと従兄弟に渡してしまったことが、今となっては何とも言えぬほど無念である。不思議なものでそうなると、今更のごとく燐を塗りこめたようななまめかしい輝きを持つお銀の肌が、世にも尊いものに思いなされ、近ごろ喧伝《けんでん》される白痴美とは、取りも直さずお銀のような女を言うのであろうと惜しまれ、はてはいかにもして、あの女を一度自分のものにせずにはおかぬと、よこしまな肝胆を砕くにさえ至ったのです。  そうこうしている中に、秋のシーズンが近付いて参りましたが、万造と代助にとっては、会員に推薦されてから最初のシーズンですから、最も大切な時期で、二人ともそれですから、よほど慎重に構えて、例年よりはずっと早目に制作にかかりました。そういうある日、万造がふと代助のアトリエを訪ねて来たのです。いつものことですが、万造は代助一人に目標を置いているので、他の連中にはいかに負けてもかまわないが、代助だけには負けたくないという気持ちが強く働いている彼は、どうしても一度、代助の制作ぶりを見ておかないと、気になっておちおちと自分の仕事が進められないのでした。万造が訪ねて行った時、代助は留守だったが、お銀がただ一人日当たりのいい縁側に鏡台を持ち出して、洗い髪を束ねていました。  ——おや、代さんは留守かい。勝手知った家のこととて、枝折《しお》り戸《ど》から縁先へ回った彼は、お銀のだらしないといえばだらしない、しかしどことなく艶冶《えんや》な姿をいきなり見せつけられて、まぶしそうに眼を細めながら立ち止まりました。  ——ええ、留守よ。まあお掛けなさいな。お銀はにっこりと微笑《わら》いながら、横坐りになったまま、薄物の肌をわざとくつろげて見せます。だれかれの見境なしに、こういう風をしてみせるのがこの女の得意でした。  ——どうしてだろう。この忙しい時期に。  ——だってそういう万造さんだって、あまり忙しいという風じゃないじゃないの。  ——ふふふ。万造は気取った笑い方をしながら縁側に腰を下ろします。  お銀は二本の腕を、惜し気もなくまるだしにして洗い髪を束ねるのですが、彼女が頭を振るたびに、仄《ほの》かなにおいが万造の鼻を打つのです。  ——それで何かい。代さんもそろそろ、制作を始めたのだろうね。  ——ええ、十日程前から、だからこのごろ、気むずかしくてしようがないわ。  ——やはり裸婦だろうね。  ——ええ、むろん。お銀はこの美しい肌を見てくれと言わぬばかりに、あたしがモデルですもの。でも今度はむずかしくてしようがないのよ。毎日けんかばかりしているわ。  ——そんなにむずかしいポーズなのかい。  ——ええ、黒猫を抱いている女なのよ。だけどそれがなかなかね。  お銀はちゃんと万造の訪問の目的を知っているものですから、わざとじらせるように、思わせぶりな口の利き方です。  ——並み並みのポーズじゃないってどうさ。  ——それがね。口では言えないけれど、この間もあの人に言ってやったの。そういうのは素人《しろうと》を驚かすのにはいいかもしれないけれど、正道を尊ぶ芸術家のやることじゃないってね。あの人かんかんにおこったわ。あれで自信だけは猛烈なんですものね。だけどああいうの、成功すると玄人《くろうと》でも案外引っかかるかも知れないわね。  お銀はもとより取るに足らぬ女ではありますが、長い間この稼業をやっているだけあって、一見識持っていることは争えませんから、万造は何となく不安になって参りました。  ——猫を抱いた女といえば、僕もそれに似た画題を選んでいるんだが、困ったなあ、また衝突するかな。  ——おやそう。いいじゃありませんか。一つ競争して、代助の高慢の鼻をへし折っておやんなさいよ。  ——ふふふ。万造は自信ありげに笑いながら、それはいいけれどね。やはり衝突しない方がいいよ。お互いのためにね。  ——それはそうね。  ——どうだろう。代さんの絵をちょっと見せてもらえないかしら。そうすればなるべく気を付けて画くからさ。  お銀は急に、意地悪そうな微笑をうかべると、ジロリと万造の顔に流し目をくれながら、  ——だめよ。だって画きかけの絵を人に見られるのを、ひどくいやがることは、万造さんだってよく知っているでしょう。  ——ああ、そうかい。何、無理にとは言やしないよ。万造は取って付けたように笑うと、それきり打ち沈んでしまいました。  お銀の言葉によって、妙に不安をかき立てられた彼は、どうあっても、一度その絵を見ずには帰りたくないのでありますが、無理にといえばいかにも足元を見られそうで、いや、現に見られているのですが、これ以上器量を下げたくない。万造はそこで取り付く島のないような、いらだたしい気持ちでむっつりと黙り込んでいました。お銀はさっきからにやにやしながらそれを見ていましたが、ふいに立ち上がると、バタバタと足音をさせながら、奥の方へ行ってしまったので、万造も仕方なく未練らしく縁側から腰を上げましたが、その時奥の方から、万造さんとお銀の呼ぶ声がしたのです。  ——何だい、お銀さん。  ——ちょいと来てちょうだいよ。代助のやつがあんないたずらをしちゃって、私困るのよ。  万造が座敷に上がってみると、開け放しになったアトリエの中で、お銀が椅子の上に背伸びをしながら、手を伸ばして何か取ろうとしているのが見えます。  ——何だい。どうしたのだい。  ——今朝、けんかをしたら、代助がおこって、私の扱帯《しごき》をあんな所へ引っ掛けて行ってしまったのよ。後生だから取ってちょうだいな。  渡りに舟とばかりアトリエの中へ入って行った万造の眼に、飛び付くように入って来たのは画架の上に立てかけたカンバス。それはまだほんのデッサンでしかありませなんだが、いかさま不自然なポーズで、一見滑稽にさえ感じられる。何だ、こんなものだったのかと、万造はいささか拍子抜けの気味もありましたが、まだ何となく気にかかる節もあるので、もう一度しげしげとながめているうちに、ふいに彼は、何とも言えぬ強い力でぐいと脾腹《ひばら》を突かれたような気がしました。代助が試みようとしているのは、非常に危険率の多い、大胆な逆手段ではありましたが、その代わりいったん成功した暁には、すばらしい効果を生む事ができる、と、そういう風な絵でした。さすが幼時よりはげしく競い合って来た相手だけに、万造はその簡単なデッサンの中に、代助のたくましい企図と、太々《ふてぶて》しい意志を看取して、思わず圧倒されたごとくうめきました。  ——あら、こすいわ。それを見ちゃいけないのよ。早くこっちへ来てちょうだいてば。よう。よう。  お銀の甘ったるい声にふと我にかえった万造は、酔えるがごとく蹌踉《そうろう》と彼女の方へ近付く。お銀はさっきからにやにやしながらわざとらしく椅子の上で地団駄を踏んでいましたが、彼の体が間近まで来た時、ふいによろけたように万造の肩につかまりました。  ——まあ、ひどいわ。  薄物を通して、お銀のむっちりとした肉置《ししおき》が、からみつくように万造の体を圧迫します。洗い髪がさらさらと頬に触れます。灼《や》けつくような女の呼吸《いき》と、むせるような体臭が万造の神経を昏迷させます。万造はふいに女の体を抱き寄せると、ああ、人間の心は何という複雑さを持っているのでしょう、瞳はかのデッサンの上に釘着けにされたまま、唇は、低い、勝ち誇ったような笑い声を立てている女の唇の上に、しっかりと押しつけてしまったのです。     六  それから後の数日を、万造は地獄のような嫉妬と苦悩のうちに過ごしました。彼の眼底には、おびやかすようにあのデッサンがこびりついていて、毎夜のように彼は、彼と代助の絵が並んで展覧会場に掲げられている夢を見ました。その絵の前に群がっている人々は、口々にこんな事を言って笑っているのです。  ——おい、見ろよこの二枚の絵を、大した相違じゃないか、これでこの二人は従兄弟なんだってさ。しかもこの下手くその方の絵かきときたら、自分が凡庸をも省みず、従兄弟と競争するつもりだというから、笑止な話じゃないか。  万造はもはや、安閑としてカンバスに向かうことができなくなりました。描かんとすれば今更のごとく、モデルの貧弱な肉体と、疲れたような肌の色が、彼の心をいらだたせるばかり、それにつけてもお銀の、あの輝かしいぴちぴちとした肢体が思い出され、自分はどうしてあの女を手離したのだろう、ただこの一事だけをもってしても、自分は画家としての資格において、代助に劣っているのではなかろうか、と、悔んだり、絶望したりするのでした。  しかし彼はまたこうも考える。自分は代助を買いかぶりすぎやしないだろうか、代助を買いかぶるばかりではなく、自己の才能についても見くびりすぎる傾向があるようだ。どういうものかおれは代助と比較される場合に限って、昔から、いつも被害|妄想《もうそう》にとらわれる傾向がないとはいえない。今までにだってこういうことは度々あったが、結果から見ると、それほど自分が劣っていたことは一度だってなく、常に自分達二人は同等の成功をかち得ているではないか。今度の場合だって何も恐れることはないのだ。むしろ恐れすぎるために自信を喪失することの方が、はるかに危険である。そういう風に気を取り直し新たなる勇気をふるってカンバスに向かうのですが、不安は依然として彼の心底から去りません。万造はそこでとうとう、自分を安心させるために、もう一度あの絵を検分して来ようと決心するに至りました。  万造が再び代助のアトリエを訪れたのは、前の日から一週間ほど後のことでありましたが、その時彼はアトリエを囲んでいるからたちの垣のそばで、たった今そこから出て来たと思われる、見すぼらしい風体をした男にバッタリ出会いました。あかじみた詰め襟の洋服を着た男で、くしゃくしゃに形の崩れたお釜帽《かまぼう》の下からは、長く伸びた不潔な乱髪が、ぼうぼうとしてはみ出していましたが、その男が何となくうさん臭い眼付きで、万造の方をぬすみ見しながら行き過ぎようとするのを、すれ違いざま万造は、何ということなく呼び止めてしまったのです。  ——何か御用ですか。  男はおこったような、ぶっきらぼうの調子で言いました。  ——あなたは漆山君の所から出て来られたようですが、漆山君はいましたか。  ——いますよ。  男はそっけなく答えると、何だ、それだけの用事かと言わぬばかりに、肩をそびやかして行き過ぎましたが、その様子が走り出したいのを、しいて我慢しているという風に見えました。万造は何となくいまいましげに舌打ちをすると、すぐにそばの門を潜って例によって案内も乞わず、庭の方へ回って行きましたが、するとその足音に驚いたものか、ぎょっとしたように、押し入れの襖をピシャリと締めて、こちらを振り返った代助の、ただならぬ顔色が眼に映りました。  ——ああ、万造君か。おれはまたお銀が帰って来たのかと思ったよ。  代助はそういってそらぞらしい笑い声を付け加えましたが、その態度のうちに、ある妙な白々しさを見のがすような万造ではありません。でも、彼はさり気なく、  ——お銀さんはいないのかい。と、尋ねました。  ——うん。もう帰って来るだろう。  ——今、この家から出て行った男ね。あれはいったい何者だい。  ——う、うん、あの男か。  ——失敬な奴だね。いやにじろじろおれの顔をにらみながら行きやがったぜ。  ——ははは、何、あれはああいう男さ。神田の中学にいた時分交際していた男だが、久し振りにやって来て、金を貸せと言いやがったからはねつけてやったよ。  代助はいかにもわだかまりのない調子で言いましたが、どうもその言葉の裏にはうそがある、魚の骨がのどへでも引っかかっているような、一種妙な、釈然としないところがあります。だが、ちょうどそこへお銀が帰って参りました。  ——おや、いらっしゃい。お銀はにっこりと笑うと、万造の方へパチパチと瞬きをして見せておいて、あなた、まだお出掛けにならないの。ぐずぐずしていると、今日の間に合わなくなるわよ。と、鼻を鳴らして甘えるように言います。  ——うん、今出掛けようと思ってたところだ。  ——どこかへ行くのかい。  ——何、銀行さ。お銀、明日じゃいけないのかい。  ——あら、明日じゃ困るわ。どうしても今夜要るお金なんですもの。あなたがおいやなら、あたしが行って来てもよくってよ。  ——そいつは真っ平、お前に通帳を任したなら、どんなことになるか知れたものじゃない。  ——なら、早く行って来てちょうだいな。  ——よしよし。代助は元気よく立ち上がりながら、万さん、君もそこまで行かないかい。  ——いや、僕は少し休ませてもらおう。  ——そうかい。それじゃお銀、晩には牛鍋か何かで、久し振りに万さんに付き合ってもらおうじゃないか。  ——いや、僕はすぐ帰るよ。  ——まあいいやな。ゆっくりして行き給え。  代助が支度をして出て行くのを待ちかねたように、お銀は万造のそばに寄り添うと、手をとってねっとりと指をからませながら、——憎らしい。帰る帰るって、いやよ。  ——何、あれは擬装《カモフラージユ》さ。ほんとうはこうして、お銀の方と……。  お銀は口をふさがれたような笑い声を立てていましたが、しばらくしてつと男の腕から離れると、おくれ髪をかきあげながら、  ——そうそう、あたし忘れないうちに牛肉を買って来とくわ。いつも晩の支度を忘れるってお目玉をもらうのよ。  ——うん、行って来給え。  ——帰っちゃいやよ。すぐだから。  ——ああ、待ってるとも。  しかし、それから間もなく、お銀が日和《ひより》下駄をカラカラと鳴らせながら、生垣の向こうを通り過ぎるのを見送った彼の表情は、ふいにガラリと変わりました。吸いかけの煙草をジュッと灰皿の中でもみ消すと、立ち上がって台所をうかがい、薄のろの女中が洗たくをしているのを確かめておいてから、そろそろと押し入れの襖を開けにかかりました。見ると足元に、厳重に綱で結わえた小さい柳行李がありました。さっき代助がただならぬ様子で隠したのは、確かにこの柳行李に違いないと思われます。兎《うさぎ》を呑んだ蛇の腹のように丸々とふくれあがり、持ち上げてみるとかなりの重味で、結《ゆわ》え目を調べてみると、外観の物々しい割には造作なく解けそうでありました。万造はそこで、お銀が帰って来やしないかと玄関へ出て見、もう一度台所をのぞいてみてから、やっと安心してゆっくりと、柳行李の結え目を解きにかかりましたが、やがて綱を解き、ぎっちり食い込んでいる蓋《ふた》を音のしないようにそろそろと取りのけると、その下から出て来たのは、山のように盛り上がった古新聞、これをまた、上から順々にのけてゆくうちに、万造は何を見付けたのか、にわかにぎょっとして息を止めました。彼はあわてて行李の上に蓋をのっけ、呼吸《いき》を整えるようにしばらくじっとあたりの様子をうかがっていましたが、それでもまだ安心ができないのか、立ち上がって縁側から外をのぞいて、だれも見ている者のないのを確かめてから、そろそろと、どろぼうのようにもう一度行李のそばへにじり寄ると、かみ付きそうな表情で、新聞紙の下をじっとのぞき込んでいましたが、やがてその顔には、物すごい微笑が、静かに静かにひろがって行ったのです。  それから間もなくお銀が帰って見ると、万造の姿はもはやどこにも見当たりませんでした。     七  代助のアトリエへふいに刑事が踏み込んで、厳重な家宅捜索の結果、押し入れの中からかの古行李を押収すると共に、寝耳に水と驚いている代助をはじめ、お銀から薄のろの女中に至るまで、厳重な警戒のもとに検束して引き上げたのは、それから二日目の早朝のことでした。たった三人の男女を捕えるにしては、あまり物々しい警戒だったので、近所の人々は何事が起こったのかと、開けかけていた戸を再び締めて、家の中へ潜り込むというしまつ、一時はかなりの騒ぎだったといいます。お銀と薄のろの女中の二人は、それでも二日警察へ留めおかれただけで、三日目には釈放されましたが、代助だけは警視庁へ送られ、そのまま地下の留置場へほうり込まれてしまいました。代助の上に降りかかって来た災難のもとというのはこうなのでした。  そのころ警視庁では、社会の安寧と秩序とを紊《みだ》るような、ある危険な陰謀が一部の不逞《ふてい》な連中の間に計画されている事実を探知して、熱心に捜索を続けていたのですが、肝心の本拠並びに主要人物の目星がつかないので困《こう》じ果てているところへ舞い込んだのが一通の密告状。それによると中野にアトリエを構えている漆山代助という画家こそ危険人物である、彼の宅の押し入れにある柳行李に注意せよ、ある危険な陰謀の指令書と、某国製作所のマークの入ったピストル十数丁をそこに発見するであろうというようなことが、書体をくらますためにでしょう、わざと稚拙な金釘流で書いてあるのでした。無責任な無記名の投書ではありましたが、警視庁首脳部でこれを根拠あるものとして取り扱ったというのは、既に知られている事実と符合する点を多々そこに見いだしたからで、さてこそかの大仰な、中野襲撃の一幕となったわけであります。代助はむろん、かかる事情を深く知るよしもなかった。理不尽にも(代助はそう思ったのです)寝込みを襲われ、抗弁の余地もなく引き立てられ、そのまま暗い留置場へほうり込まれたのですから、彼は、すっかり興奮してしまってその結果大変まずいことをやりました。彼の性格としてこういう取り扱いを受けると、妙に依怙地《いこじ》になり、警官の訊問《じんもん》に対しても素直に答えることができない。何でもないことをわざと隠してみたり答えても妙に言葉を濁してみたりする。そうして自分ではひそかに鬱憤《うつぷん》を晴らして快をむさぼっているつもりなんですが、こういう態度が警察官にいかなる印象を与えるか、そしてひいてはおのが身にいかなる報いとなってあらわれてくるかということを落ち着いて考えてみようとしなかったのは、まことに残念な次第でした。  いったい代助はこの事件にどういう関係を持っていたのか、後になって彼が申し立てたところによるとこうでした。昔、神田の中学にいたころ、かなり心安くしていた山崎某という男、当時はだいぶ親しく往来していたのですが、その後代助が美校へ転校するに及んで、次第に交際もうとくなり、このごろでは打ち絶えて、ほとんど手紙の往復すらしたことのないという間柄であったが、先ごろふいに訪ねてきて、今度下宿を追い出されて困っている、仕方がないから一時友人の下宿に同居するつもりだが、ついては荷物が邪魔になって困るから、しばらく行李を一つ預かってくれないかという話です。聞いてみると何でもないことなので、快く引き受けると、それから二、三日たって持ち込んだのが問題の行李、むろん、あんな恐ろしいものが入っていようとは夢にも知らなんだから、無造作に押し入れに突っ込んでおいたまでのことなのです。ただし、山崎某なる男がある種の運動に関係しているということは、まんざら知らないでもなかったし、従って預かった行李が、秘密に保管されるべきものであろうことは、うすうす感じていないではなかった。しかしそれがこんなに重大な性質のものであったろうとは、神かけて知るよしもなかった。……と、代助は、これだけのことをもっと早く、素直に申し立てていれば、大したことにならずにすんだかもしれないのですが、彼が自分の態度の非なるを覚った時分には、すでに遅過ぎたのです。官憲の取り調べに対していちいち反抗するがごとき態度、言を左右にしてとかく率直さを欠く答弁、それに彼一流の豪然たる容姿と、精悍《せいかん》な面魂《つらだましい》が、いかにも大物らしく見え、係官の心証をすっかり悪くして、いつの間にやら彼は、運命の罠《わな》の思いがけない深みへはまり込んでいる自分を発見して、恟然《きようぜん》としました。  そういうある日、従兄弟の万造が参考人として召喚されました。そこで彼がどんな申し立てをしたか知るよしもありませんが、すくなくともその申し立てによって代助にかかる疑惑が、少しでも軽くなったと思われるような事実は、微塵《みじん》もありませなんだ。あるいははれかかっていた雲でさえ、このためにさらにまた深められたかもしれないのです。ともかく、万造が警視庁から出て来たところを見れば、その口元に、妙に渋い微笑が刻まれていたことを人々は発見したでしょう。万造はしすましたりという面持ちで、その足で中野へ立ち寄りましたが、その時代助の留守宅では、雨戸も繰らない薄暗い茶の間で、お銀がただ一人、寝そべったままつまらなそうな顔をして新聞を読んでいましたが、万造の顔を見るとちょっと色を変え何を思ったか、やがて妙な笑い方をすると、  ——ひどい人ね。と低い声でなじるように言いました。  ——何さ。万造は懐手《ふところで》をしたまま、にやにや笑いながらお銀の顔を見下ろしています。  ——あんたでしょう。あんないたずらをしたのは。  ——何のことだね。さっぱりわからんが。  ——憎らしい! だめよ、白ばくれたって。あたしちゃんと知ってるわよ。どうも変だと思ったのよ、このあいだ待っていらっしゃいと言っといたのに帰ったでしょう、あの時行李の中を見たのでしょう。きっと。  ——知らんね、一向、……何の事だね。  ——うそ吐《つ》き! 悪い人ね。代助にもしものことがあったらどうしてくれるの。  ——ところがちゃんとそうなっているんだよ。  ——あら、どうなの。  ——実は今、警視庁からの帰りなんだがね、どうもいけないらしいよ。代さんはほら、例の頑固さで、警官の訊問に対して率直に答えることを拒むらしいんだね。それですっかり心証を悪くしているらしいから、あの調子だと、まだまだ帰れそうにないね。ひょっとすると、今年いっぱいはだめかもしれんぜ。  ——あら、それじゃ困るわ。お銀もさすがに寝ていられないという風に起き上がると、あたし新聞にも出ないくらいだから大したことじゃないとばかり思っていたのに。  ——新聞に出ないのが曲者《くせもの》さ。悪くすると二、三年|喰《くら》い込むことになるかもしれないよ。  ——あら、いやだわ。姐《ねえ》やは逃げてしまうし、近所では妙に警戒するらしいし、第一、あの人が帰って来なきゃお小遣いにも困るわ。  お銀のすっかり困じ果てた顔を、万造はあいかわらずにやにや懐手をしながら見ています。  ——笑いごとじゃないわよ、憎らしい。あたしの身にもなってちょうだいよ。元はと言えばみんなあなたからよ、悪い人ね、ほんとうに。  ——だからさ、その相談に来てやったんじゃないか。どうだい、一つ旅行しないかい。  ——旅行。お銀はすぐ眼を輝かせたが、でもまた考えるように、どこへさ。  ——一、二ヵ月関西方面で遊んで来ようかと思うんだ。どうせ今年は仕事なんかできやしないし、それになにかと面倒な事が起こりそうだからね、お前もその気があるなら連れてってやるよ。  ——まあ、うれしい。お銀はいきなり万造の首っ玉にかじりついて、ところかまわずめちゃくちゃに唇を押しつけていましたが、ふと気がついたように、だけどこの家はどうするのさ。  ——ほっとけばいいじゃないか。どうせお前の家じゃないんだろう。  ——それもそうだけど、随分薄情な話ね。  ——薄情はお互いさまさ。今更そんなことが言えた義理かい。最初おれに水を向けたのはだれだっけね。  ——ほほほほ! お銀は得意そうに眼を輝かしながら、それじゃあんたがこんなひどいことをしたの、やっぱりあたしのため?  ——御推量に任せます。この性悪女《しようわるおんな》め!  それからしばらく、お銀のくすぐったそうな笑いが、締め切った家の中に断続していましたが、やがてそれもふっと切れると、何をしているのか後は空家のようにしんと静もり返ってしまいました。  二人が大阪へ旅立ったのは、その翌日のことでありましたが、後になってこの時のことを思えば、万造にとってはこの旅行こそ人生における歓楽の最後でありました。自分のものにしてみると、お銀は実に得難き宝玉で、彼女のすばらしい肉体、あくことを知らぬ歓楽の追求、それは万造の官能を麻痺させずにはおかぬものでしたが、それよりもさらに彼を喜ばしたのは、彼女のこれっぱかしも反省や悔恨を持たぬ、でたらめきわまる魂でした。彼女には過去もなければ未来もありません、ただもうめちゃくちゃな現在の歓楽への追求があるばかりなのです。  万造はこの関西旅行の二ヵ月の間を、我から求めてそれに赴いた傾きもありますが、完全に彼女の捕虜《とりこ》となり、おぼれ呆《ほう》けて、苦い思い出の呵責《かしやく》を、粘っこい彼女の唇の感触によって忘れることができたのです。もしこのままの人生が万造の上に続けば、彼の星はまことに恵まれたものといわねばなりません。しかし運命というものは、ともすれば、人間の最も有頂天になっているころを見計らって、最も残酷な陥穽《おとしあな》を用意しているもので、神が彼の上に下し給うた天譴《てんけん》こそ、彼自身が代助の上に加えたよりも、数十倍も恐ろしい、残酷なものであったのです。     八  あなたは大正××年十月下旬、名古屋駅付近で、東海道線上り急行列車が、脱線転覆したあの大惨事を御記憶ではありませんか。転覆と同時に機関車から発した火が、折からの烈風にあおられて、全客車は一瞬のうちに猛火に包まれてしまったものですから、三百余名の乗客中、生存した者はわずか十七名という、あれは確か、鉄道省創始以来の大惨事として、当時喧伝されたものです。  万造とお銀はこの列車に乗っていたのです。奇跡的にも彼等は、たった十七名の生存者の中に数えられていましたが、しかし今となって思えば、彼等がこの時生命を全うしたということが、果たして幸福であったかどうか、私一個人としては、むごいことを言うようでありますが、あの時、ひと思いに死んでいたら、自他ともに、どれほど幸福だったかしれないと思わざるを得ないのです。  それはさておき、昏々《こんこん》として人事不省の間を彷徨《ほうこう》していたお銀が、名古屋の鉄道病院の一室でようやく意識を回復したのはあのすさまじい転覆の瞬間から、数時間の後のことでありました。十七名の生存者の中でも、彼女ときたら一番の軽傷、踝《くるぶし》を捻挫《ねんざ》したのと、太股のあたりに小さいやけどを負うた以外には、実に奇跡的に肉体を全うすることができたのですが、精神的にはさすがに恐ろしい衝撃を受けて、意識を回復してからもしばらく、はげしいヒステリーの発作を、幾回となく繰り返していましたが、その間にも彼女がひっきりなしに口にしていたのは万造の身の上のことでした。  ——あの人はどうしました。あたしと一緒に乗っていた人は……? あの人も助かりましたか。お銀は看護婦や医者の顔を見るたびに、繰り返して尋ねましたが、だれ一人、それに対して明答を与えようとはしないで、すぐ言葉をそらしてしまうのです。  ——ああ、あの人は死んだのですか。お願いですからはっきりおっしゃって下さい。あたしはけっして驚いたり取り乱したりするようなことはございません。これ以上、どうして驚くことができましょう。お願いです、どうぞ本当のことをおっしゃって下さい。  ——御安心なさい。お連れの方はけっして死んでいらっしゃいません。しかし、今あなたはそんなことを気にかけていらしちゃいけないのです。さあ、できるだけ安静にして下さい。若い医者がある時親切にそう言いました。  ——生きているのですか。本当ですか。それならお願いです、ひと目でよろしゅうございますから、あの人に会わせて下さい。お願いです。お願いです。お銀は身をもだえ、必死となって医者に懇願しましたが、それ以上はだれも取り合おうとする者はありませなんだ。  その結果、お銀はだんだんと万造を死んだものとあきらめるようになり、医者はああ言っているけれど、やっぱりあの災難からのがれることができなかったのであろうと、人知れずさめざめと枕を濡らすようなこともありました。しかし、万造はやっぱり死んではいなかったのです。彼の傷は大変重く、数日の間は医者といえども、生死を明言し難いような状態でありましたが、一週間ほどすると、漸次、危険期を脱しつつあることが明瞭になり、あの災害の日から十日目の朝、はじめてお銀は彼の病室に入ることを許されたのです。  ——お銀がはじめて見た万造は、全身を白い包帯に包まれ、露出している部分といえば、二つの眼と、黒い鼻の孔と、唇とだけでありました。それを見るとお銀は思わず、何かしら熱い塊りを飲まされたように、ぎょっとしてその場に立ちすくみましたが、万造がかすかに手招きするのを見てやっと勇気をふるって、ベッドのそばに近寄って行きました。  ——お銀。万造は低い、不明瞭な声でいいました。お前は無事でよかったね。  ——あなたも、……あなたも御無事で。……お銀はそれに続いて何か言いかけましたが、ふいに胸が迫ってわっとその場に泣き伏すと万造の方でも、包帯に包まれた頭を、かすかに振っていましたが、やがて白い布の裂け目にある二つの孔から、ポロポロと熱い涙がこぼれ落ちて参りました。  ——お銀。だいぶたってから万造は、あいかわらず不明瞭な声音でボツボツと途切れ途切れに言いました。お前どこへも行かずにそばにいてくれるだろうね。  ——あたし、どこへも行きやしません。ですからあなたも早く快《よ》くなってちょうだいね。そして一緒に東京へ帰りましょう。  お銀が泣きじゃくりながら言いますと、包帯の切れ目の孔からは、ますます熾《さか》んに涙がこぼれ落ちてくるのでした。お銀は袂《たもと》からハンケチを取り出してそれを拭いてやりましたが、この時ほど彼女は男をいとおしく感じたことはありませなんだ。お銀の生涯において後にも先にも人間らしい魂が宿ったのは、この時限りでありましたが、これはたぶん、あの未曾有《みぞう》の災難が、一時的にしろ彼女の魂を浄化させたためでありましょう。人間というものは、驚天的な災害に直面すると、その災害をわかち合ったというだけの理由で固く結び付く魂を感じ合うことがあります。よく生き埋めにされて、数日間を地底の闇に生死の間を彷徨した数名の坑夫が救い出されてから兄弟も及ばぬほど親密になったという話や、同じ難破船から同じボートによって救われたという、ただそれだけの理由で、ある金持ちの未亡人が、それまで一度も見たこともなかった、貧しい娘を養女にしたなどという話は、人間の心の機微をよくうがっているといわねばなりませんが、その時のお銀がちょうどそれでありました。彼女は万造と相談の結果、病院のすぐ近所に宿をとり、そこから毎日通って来ては、それこそ、どんな貞淑な細君も及ばないほどの熱心と愛情とをもって、万造を慰め介抱してやったのであります。  何といっても内臓の病気と違って外傷は、治りかければ後は早く、万造の傷は日一日と快くなり、間もなく脚の方から、順々に包帯が取れて行きましたが、やがて両腕の包帯が取れた時、お銀は思わずまあと眼をみはり、  ——ずいぶんひどいことになったものね。と、言って痛々しそうに涙ぐみました。  お銀の驚いたのも道理、万造の両手からは合計三本の指が、左の人差し指と親指と、それから右の小指が失くなっているのでした。万造もしげしげとその両手を眼の前に広げてみながら、  ——これでもまだ、右の方の親指と人差し指が残っているのがせめてもの幸せだよ。これだけあれば絵を画くのに、不自由はしないからね。と、そう言って泣き笑いのような声をあげて笑いました。  ところがそれからまた一週間ほどたって、いよいよ後二、三日で、顔の包帯が取れるという時分になって、万造は突然、お銀に一足先に東京へ帰っていてくれと言い出しました。  ——あら、どうして。せっかく今まで一緒にいたんだから、あたしあなたがすっかり快くなって、退院するまでここにいますわ。  と、お銀がそう言っても、万造はどうしても承知しないで、包帯が取れてもまだ後二、三週間かかること、正月を控えて東京の留守宅では、婆やと姐《ねえ》やの二人きりでまごまごしているだろうから、一足先に帰ってよろしく頼むということ、それらのことを繰り返し熱心にのべたあげく、それでもまだお銀が渋っている様子を見ると、しまいには声を荒らげて怒鳴りつけそうにさえするのでした。これにはお銀も仕方なく、  ——だってあたし、婆やさんが妙に思やしないかと思って、何だか変だわ、と言うと、  ——何、それは私から手紙を書くから大丈夫だよ。だれが何といってもお前は私の奥さんなんだからね。と言って、万造は不自由な手で婆やあてに長い手紙を書きました。  この手紙を持ってお銀が名古屋を発ったのは、明日万造の包帯がすっかり取れるという日で、それは師走《しわす》の十九日のことでした。思えば随分長く、彼等は名古屋に滞在していたものです。  東京へ帰って見ると、婆やも姐やも思ったより丁寧にお銀をもてなしてくれましたが、これはたぶん主人とともに生死の境を潜って来たという、ただそれだけの理由で、何となくお銀が尊いものに見えたからでありましょう。お銀はすっかり居心地よく落ち着くことができたにつけても、いよいよ万造がいとおしく、これからは心掛けを改めて万造一人を大切に、貞淑な妻になって見せようとけなげにも決心を定め、旅の空に呻吟《しんぎん》している万造にあてて、毎日のように長い手紙を書きましたが、それはまことに愛情のこもった、立派な、美しい手紙であったということです。  そうこうしているうちに年も改まり、七草も過ぎ、お銀が名古屋を発ってから、はや三週間になりますが、その時分万造からいよいよ帰京するという便りが参りましたが、それがまことに奇妙なというのは、その手紙の一節に、 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]  ——十三日の深更十一時頃に帰宅|致《いたす》心算にて有之《これあり》候え共、婆《ばあや》を始姐《はじめねえや》の出迎は無用に被致度《いたされたく》、御前様唯一人御迎|被下様《くださるよう》、此事|呉々《くれぐれ》も間違|無様《なきよう》お願申上候。万一誤りて婆や姐が起きて居申候時は、御前様を深く御恨《おうらみ》申上候。 [#ここで字下げ終わり]  とあることでした。  お銀はこの妙な手紙に何となく肚胸《とむね》を突かれるような気がしましたが、ああいう大きな災難の後だから、幾分気が変になっているのかもしれない。何事も病人にさからわぬことが肝心と、その晩は婆やや姐やにもよくその旨を言い含め、早くから寝間へ引き取らせると、自分は奥座敷に寝床を二つ敷き並べ、炬燵を暖かく、火鉢にも火種を絶やさぬよう、万事に気を配りながら、外の足音に耳を澄ましていると、ちょうど茶の間の時計が十一時を打ち始めた時、突然玄関の戸がガラガラと開く物音がいたしました。  それお帰りだ、それにしても足音が聞こえなんだのが不思議と、飛び立つように玄関へ出て見ると今しも黒い二重回しの襟を深々と立てた万造が、後ろ向きになって玄関の鍵を下ろしているところでした。  ——お帰り遊ばせ。お銀が玄関に手をつかえながら言うと、  ——ああ。と、まだ向こうを向いたまま、婆やや姐やは寝ているだろうね。  と、そういう声は洞穴《ほらあな》を抜ける風のように不気味でした。  ——ええ、宵から寝かせてありますわ。  ——それじゃだれもいないね。お前一人だね。  と、幾度も幾度も念を押した末、やっとこちらを向いた万造の顔を見た時、お銀は思わずゾッとばかり、冷水を浴びせられたような寒さと怖ろしさとを感じました。それも道理、万造は気味の悪い面をかぶっているのでありました。  ——まあ、あなたは。……  ——しっ。万造はお銀が何か言おうとするのをいち早く制しながら、そそくさと玄関へ上がるとそのまま勝手知った我が家のこととて、足早に奥座敷へ入って行きました。その後からついて行くお銀の心の中《うち》からは、先程までのあのけなげな、しおらしい気持ちはぬぐわれたように失われてしまって何とも名状しがたい、恐怖と不安があるばかりでした。万造は座敷に二つ並べて敷かれた夜具と枕を見ると、思わずかすかに身震いをしましたが、すぐその眼をそばに震えているお銀の方に向けると、  ——お銀、お前はなぜそう震えているのだ。ええ、何とか言っておくれ。どうしてそう私の顔ばかり見ているのだい。そう言いながら万造は、立ったまま二重回しの袖をバタバタとさせましたが、何となくそれが、巨大な蝙蝠《こうもり》が羽搏《はばた》きをしているように見えるのです。見るとその両手にも、巧みに指の形をこしらえたゴムの手袋をはいているのでした。  ——だって、あなた……そんな面をかぶって……気味の悪い……と、お銀はおびえたような声で途切れ途切れに言います。  実際万造のかぶっている面というのは非常にうまくできていて、たとえばギリシャ神話に出てくる稀代《きだい》の美青年アドニスのごとき、端麗な容貌をしているのですが、それが端麗であればあるほど何となく不調和で、そして不気味に見えるのです。  ——お銀や、この面はね、お前を怖がらせないためにかぶっているのだよ。もしこの面をとったらお前はきっと怖がって逃げ出してしまうに違いないよ。  ——いいえ、いいえ、そんなことはありません。どんなにあなたの顔がひどいことになっていてもあたしはけっして恐れたり逃げたりしやしません。どうぞその面をとって。……  ——それじゃ今面を取ってみせるがね。しかしその前に一言言っておくが、私の顔はお前が想像したよりも、数倍も数十倍も恐ろしくなっているのだよ。それでもかまわないかい。  ——ええ、ええ、どんな顔だって、その面の奥からジロジロ見られるより気味の悪いことはございますまい。  万造はとうとう、思いきってちょっとその面を取って見せましたが、すぐに彼が後悔したというのは、そのとたんお銀がぎゃっと叫んで炬燵に突っ伏してしまったからです。我々——万造の顔を見たことのない我々は、お銀がそこに、どんな恐ろしいものを見たか知るよしもありませんが、おそらくそれは、想像に絶したひどい不気味なものであったに違いありません。万造はお銀の様子に、あわてて再び面をつけると、いきなりパチッと電気を消し、猿臂《えんぴ》を伸してむんずとお銀の手をつかみました。  ——お銀や、お銀や、ええ、なぜお前はそんなに泣くのだね。  ——いいえ、いいえ、そこを放して下さい。ああ、恐ろしい……逃げやしませんから、そこを放して。……  しかし万造は放しませなんだ。反対に彼はお銀の体をしっかと抱きしめると、暗闇の中でかの不気味な面をかぶった頬を、お銀の涙に濡れた頬にこすりつけながら、その夜一晩、次のようにお銀をかき口説《くど》くのでありました。  ——お銀や、お銀や、どうぞそんなに怖がらないでおくれ、そしていつまでも私のそばにいておくれ、お前に逃げられたらどうしてまあ私は生きていられよう。だれだってこんな恐ろしい、化け物よりも気味の悪い顔をした男を、愛することができようか。お前に逃げられたら、それこそ私は自殺するよりほかに途《みち》はない。しかし私はただでは死なないよ。お前を殺して私も死ぬ。ねえ、これはうそや冗談ではないよ。私のようなこんなみじめな化け物になった男が何でうそや冗談を言うものか、どうぞ私に人殺しをするような勇気がないなどと思わないでおくれ。こんな生きがいのない体になった私だ、どんなことをするか知れたものじゃないよ。そう言ったかと思うと、急にまた彼は優しい声になって、お銀や、お銀や、私はね、こんな体になっては、もう一日も東京にいるのはいやだから、郷里の諏訪へ帰るつもりだ。あの美しい湖の畔《ほとり》に、アトリエを建てるつもりだから、お前も私と一緒に行っておくれ。いいえ、けっして前のように、愛してくれなんてぜいたくなことは言やしないよ。ただ私と一緒に暮らしてくれさえすればいい。陰では、私の見ていないところでは、どんなに悪いことをしようが、情人《おとこ》をこさえようが浮気をしようがかまわない。ただ私の前ではその美しい顔できげんよく笑っていておくれ。その代わりお前にはどんなぜいたくでも、どんなわがままでも、私の力でできることなら何でも、させてあげる。お銀や、お銀や、お前はきっと私と一緒に行ってくれるだろうね。  万造はそういう言葉を繰り返し、繰り返しお銀の耳にささやきながら、ますます激しく彼女の体を抱きしめます。男の熱い呼吸《いき》はお銀の頬を打ち、どうかしたはずみに面の外にあふれ出した男の涙は、灼けつくようにお銀の肌に浸み通ります。お銀はただもう、恐怖と嫌悪のために身を固くして、上の空で男の愚痴を聞いているのでありました。     九 「おや、大変な煙のこもりようですね。少し障子を開けましょうか」  竹雨宗匠はふと気がついたようにそういって炬燵から抜け出すと、静かに縁側の障子を開け放った。もうもうと部屋の中にこもっていたたばこの煙は、にわかにさっと吹き込んで来た風に、しばし戸迷いしたようにあたりに立ち迷っていたが、やがてからみ合う無数の竜となって、軒から戸外へ逃げ出して行く。それまで話に夢中になって恍惚《こうこつ》としていた私は、冷たい夕風に上気した頬を撫でられてふと、夢から覚めたように戸外《そと》をながめた。陽《ひ》はすでに重畳たる山のかなたに落ちていたが、空はいよいよ明るく、湖水のある部分は、それこそ金粉でもバラまいたように真っ赤に炎え上がっていた。しかしそれも刻々にうつろう束《つか》の間《ま》の栄華で、間もなく、逶《い》|※[#T-CODE SJIS=#E162 FACE= 秀英太明朝0212 ]《い》として湖水の周囲に連なる山脈《やまなみ》のふもとから、蒼茫《そうぼう》としてはい出してきた夜色が、夕焼けの後を追って次第に水の上を縫い縮めて行く。 「おや」  開け放った縁側に立って、暮れゆく湖水の上を茫然として眺めていた竹雨宗匠は、この時、ふと首を縮めると、ようやく暮色の濃くなりまさって行く空を振り仰いだ。家じゅうの障子といわず唐紙《からかみ》といわず、地震のようにビリビリと震わせて、その時突如、鼕然《とうぜん》たる筒音が、たそがれの空気を貫いたからである。 「花火ですね」  炬燵から首を差し伸べて見れば、銀鼠色《ぎんねずいろ》に暮れゆく空に、柔かい羊の毛をちぎったような、白い、一握の煙が、縹然《ひようぜん》として浮かんでいるのだった。 「何があるんでしょう、今日は——」 「そうそう、東京から三百人からの団体の遊覧客があるんだそうで、歓迎のために今夜、花火を打ち揚げるというような事を、町で言ってましたっけ」 「おや、そうですか。それならなおのことゆっくりしていらっしゃい、湖水の花火を観るには、ここは特等の桟敷《さじき》も同じことです」  障子を細目に開けたまま、静かにまた炬燵にかえって来た宗匠は、ひとつまみの香を桐火桶《きりひおけ》のなかに投げ込むと、しばし、馥郁《ふくいく》たるその香気を楽しむように、眼をとじ、首をかしげてきき澄ましていたが、やがてその唇からは、再び陰々たる物語のつづきが、妖《あや》しき蜘蛛の糸のように、縷々《るる》として繰りひろげられて行くのだった。 ————————————————————————————————————————  代助の巻き添えを食った××事件の全貌が、ようやく記事解禁になって、全国の新聞にいっせいに掲げられたのは、あれは確か、万造が奇妙な仮面をかぶって帰京してから間もなくのこと、確か二月上旬のことであったと覚えています。それから後約十年程の間に、引き続き数度にわたって摘発された、同じ種類の事件の中でも、これはいちばん最初であっただけに、世間の驚きもひとしおでしたから、あなたもたぶん覚えておいでになりましょう。新聞全紙を埋めたあの大げさな報道の中に、漆山代助の名前と写真を発見した時の、郷里の驚き、諏訪町の騒動、また代助を出した小学校や中学校の恐惶《きようこう》——それらのことはまあ、あまりくだくだしくなりますから、一切省略することにいたしますが、新聞の記事によると、代助は事件そのものには直接関係はないが、情を知りながら彼等にある種の庇護を与えたということになっていました。事件が公にされてから間もなくのこと、代助の妹婿というのが一度上京して、当時まだ未決にいた代助に面会して来ましたが、その男が帰って来ての話に、代助は極度の神経衰弱の結果、理性をすっかりうしなってしまって、だれかれの見境もなしに、人さえ見ればかみ付くという有様、彼に向かっても何やらわけのわからぬ議論を、例の激越な調子で滔々《とうとう》と一席弁じ立てたそうで、あれではせっかく軽くなろうとする罪でも、ますます重くなって行くばかりであろうということでした。  こうして代助が、蟻地獄《ありじごく》へ落ちたかわいそうな蟻のように、もがけばもがくほど、運命の深みへはまり込んで行きつつあった時、一方では、彼を陥れた万造のほうでも、それに劣らぬ地獄の呵責をなめつつあったのです。以前から陰性な男で、何を考えているのか、何を企んでいるのか、肚の中がさっぱりわからないという人間でありましたが、あの危禍《きか》に遭遇してからというものは、その傾向がますます顕著になり、ことに目立って来たのは、著しく嫉妬深くなってきたことでした。彼は片時もお銀をそばから離しません。お銀の姿がちょっとでも見えなかったり、台所の方で御用聞きを相手に冗談でも言っていようものなら、たちまち、  ——お銀、お銀と、あの世にも不思議な、てっきりどこからか空気が洩れているとしか思えないような、不気味な声で気違いのように呼び立てます。  家には気の利いた婆やと姐やとが二人までいるのですが、身のまわりの世話万端、何から何までお銀でなければ気に入りません。お銀はもとより、そんなこまごまとした事に気の付くような女ではありませんから、婆やか姐やに頼んだ方がよっぽど早手回しなんですが、あの災難以来万造は、お銀以外の人間には、絶対に顔を見られる事をいやがるのです。考えて見ればそれも無理ではありません。その顔。——おお、それは何という奇怪な顔でありましたろうか。柔かい、スベスベとしたゴムでこしらえてあるその仮面というのは、世にも精巧にできておりまして、ちょっと見るとほんものの顔と間違えるくらいでありました。しかもその顔と来たら、前にも言いましたとおり、この世のものとは思えないほど、端正に、艶麗《えんれい》に、そして妖冶《ようや》にさえできていまして、心持ち開いた唇からは今にもにおやかな笑い声がこぼれるかと思われるばかり、白い、ふくよかな両の頬には、いつも小指の先で突いたほどのえくぼが刻まれていまして、そのえくぼときたら、万造が怒っていようが、泣いていようが一切かけかまいなしに、いつでも嫣然《えんぜん》として美しい微笑を含んでいるのです。そういう蝋《ろう》のような仄白い顔が、薄暗い奥座敷のすみっこに坐ったまま、朝から晩まで同じ表情でもって、じっと部屋の一点を見つめているところを、まあ一つ、想像して御覧なさい。お銀でなくてもだれだって、ゾッとするほど気味悪くなるじゃありませんか。それにもう一ついけないことは、お銀はその仮面の下に隠れている、それよりもさらに数倍も恐ろしい顔を、ちゃんと知っているのです。彼女はその恐ろしい顔を想い出すことなしには、万造の奇妙な仮面を見ることができません。  お銀が他人《ひと》に語ったところや、その後たった一度、その恐ろしい顔をすきみ[#「すきみ」に傍点]する機会を持った、婆やの話などを綜合して考えてみますのに、それは世の常のけがややけどとは全く類を異にした、お話にならないほど、物すごいもののようであったようです。さあ、何と言って形容したらいいのか、たとえて言ってみれば、泥でこしらえた人形の首を、土がまだよく乾ききらないうちに、いたずら小僧がやって来て、濡れ雑巾か何かでめちゃめちゃに引っかき回したあげく、パレットの上の絵具をべたべたとでたらめになすり付けたような顔——とでもいえば、幾分なりとも髣髴《ほうふつ》とさせることができるのかもしれません。ともかくそれは、顔というよりも、かつて顔のあった廃墟といった方が正しいようで、くちゃくちゃに縮れた、赤黒い一個の肉塊にしか過ぎなかったのです。  お銀のような女に、こういう化け物のお守りが勤まるはずがありません。あの災難にあった当座、たとえわずかの間にしろ、人間らしいしおらしい感情をもって、この男をいとおしんだことが、今になってみると、いまいましいくらいで、男のそばにいるのはもうふるふるいや、あの無表情な仮面を見ただけでも、彼女はゾッと鳥肌が立つような恐怖を感じるのでした。そういう風でしたから、この諏訪のような寂しい処まで、万造について来たからといって、お銀を貞淑な女だなどと考えてはいけません。いよいよこの諏訪へ引き揚げて来るまでの、わずか四ヵ月の間に、お銀が逃亡を企てたのは二度や三度ではありませなんだ。逃げたとてこの世に親戚《みより》という者を一人も持たないお銀のことですから、たいてい昔の友人や知人などを頼って、かくまってもらっていたのですが、その度にあの出ぎらいな、他人《ひと》に顔を見られることすらいやがる万造が、まるで人間が変わったように方々を駆けずり回り、驚くべき根気と執念とをもって、最後には必ずお銀の隠れ家を突き止め、おどしたり、すかしたり、なだめたり、嘆願したりして、いやがるお銀をむりやりに連れて帰るのです。彼はまたお銀をかくまった人々に対しても、一本釘を刺しておくことを忘れませなんだ。  ——今度お銀が逃げて来たら、すぐに私の方へ知らせて下さいよ。いいですか。万造はあの空気の洩れるような声に、不思議な情熱をこめて何度も何度も念を押しました。なまなかお銀の言葉に動かされて、かくまったり、逃亡の手助けをされたりすると、私はあなたをお恨みいたしますよ。よく覚えておいて下さいよ。私はもうお銀なしでは生きてはいられないのです。お銀を奪われたら私は死ぬより他に途《みち》はありません。しかしただでは死にませんよ。お銀を殺して私も死にます。ひょっとすると、お銀を私から奪おうとした敵を皆殺しにしなければ腹の虫が承知しないかもしれません。あなたは私の言葉を冗談だと思いますか。うそだと思いますか。ああ、私のような男がコケ脅《おど》しや空威張りをしたとて何になりましょう。よろしい、それでもまだ信じられないというのなら、私の顔を見せてあげましょう。驚いてはいけませんよ。逃げてはいけませんよ、ほら、ほら、ほら!  それだけでもう十分でした。万造はあのゴムの仮面をちょっとまくり上げて、ほんのちょっぴりあごの先を見せるだけなのですが、赤黒い、ドロドロとした、何やら得体《えたい》の知れぬ薄気味の悪い肉塊を、ただひと目見ただけで、たいていの人はゾッと怖気《おじけ》をふるい、眼をつむって降参し、お銀の事については今後一切、関わり合いを持つまいと神かけて誓うのでした。お銀は今や、だれ一人として、相手にしてくれる者がなくなりました。まるであらぶる神の前に供えられた人身御供《ひとみごくう》のように、泣いてもわめいても、だれ一人救いに来てくれる者はありません。しかもこの化け物のお供をして、遠い信州とやらの山奥へ連れて行かれねばならぬ日は、だんだんと間近く迫って参ります。いったいそういう寂しい山の中の湖畔の一軒家で、自分はどうなって行くのだろう。肉をくわれ、骨までしゃぶられ、さてそのあげくは、いったいどうされるのであろう。  ところがそうしているうちに、ふっとしたことから、お銀の考えが幾分変わるような出来事が起こりました。ある日のこと、何を思ったのか万造は、あの災難の日以来はじめてアトリエへ入ると、不自由な手に絵筆を握り、久し振りにカンバスに向かって絵を描いていましたが、ものの半時間もたたぬうちに、ただならぬ物音がそのアトリエから聞こえて来たので、お銀がびっくりして駆け着けて見ると、今しもアトリエの中に仁王立ちになった万造は、長い髪を逆立て、パレットを踏みしだき、描きかけのカンバスを振り回し、あの不可思議な声で何やらわけのわからぬことをわめき散らしながら、気違いのように部屋の中を暴れ回っているところでした。いやその時のお銀の眼から見ると、てっきり気が狂ったものとしか思えませなんだ。今まで抑《おさ》え抑えしてきたあの災難の打撃が、時候の加減でとうとう爆発したのに違いない。お銀は何となくほっとしたような気がしましたが、まさか、そのままほうっておくわけにも行きませんので、そばへ寄るとできるだけ、優しい態度で万造の肩に手をかけました。  ——あなた、どうしたのよゥ。あらあら、こんな乱暴なことをしてさァ、しようがないわねえ。  お銀の言葉が耳に入ったのか、万造はそのせつな、雷に撃たれたようにピリピリと体を震わせて立ち止まると、ゼイゼイと肩で荒々しく呼吸をしながら、仮面の背後からじっとお銀の顔をにらんでいます。お銀はその眼を見ると、ああ、やっぱり気が狂っているのだわ、あの気味の悪い眼付き! そしてまた、どうしてああジロジロと私の顔を見ているのだろう。私をどうするつもりかしら、ああ! お銀は突如けたたましい悲鳴をあげました。その時ふいに万造が、こわれたカンバスを投げ捨てると、あいかわらずわけのわからぬことをわめきながら、猛然としてお銀をめがけて躍りかかって来たからです。万造はあの、ふにゃふにゃとしたゴムの手袋をはめた両手でしっかりとお銀の細い首っ玉をつかむと、ぐいぐいと壁の方へ押しつけて参ります。お銀はもう声を立てることもできず、やっと部屋のすみにあったテーブルに身を支えると、万造はその上にお銀の体を仰向けに押し倒して、なおもぐいぐいと、お銀ののどを絞めつけて参ります。必死になって抵抗しているお銀の眼に、その時ふと映ったのは、暴れ回るはずみに、面がどこかへケシ飛んだと見えて、むきだしになったあの万造の、世にも物すごい形相でした。お銀はいつかの夜、ちらとこの顔をすきみしたことはありますが、かくのごとくしげしげと正視したのは、その時が初めてでした。ああ、そのいやらしさ、おぞましさ、不気味さ、こわさ、それは想像に絶したものがありましたけれども、不思議なことには、その時のお銀には、これが全く別の効果を及ぼしたのです。あなたは柔道でいわゆるオトシ、あれにかけられた経験をお持ちではありませんか。のどを絞められる時の、何とも言えぬ快感。——お銀は今あの肉のうずくようなあの快感にうたれたのです。  ——ああ、私は殺される、この男に、この化け物のような男に、絞め殺される。ああ、何というかわいそうな私だろう。ああ、ああ、ああ! お銀はしかし、それが少しも苦痛や恐怖ではなく、眼の上におおいかぶさってくる、万造のあの物すごい形相を呆然と凝視しながら、夢見るごとく意識を失って行きました。     一〇  かねてから万造の設計によって、あの岬《みさき》の突端に建築を急いでいたアトリエがいよいよ竣成して、それと同時に万造がお銀と婆やの二人を引き連れて倉皇として移って来たのは、この湖畔の町にようやく春風の吹き初めた、四月下旬ごろでした。不思議なことには、お銀は一度万造に殺されそこなってからというものは、以前ほど彼をこわがりもいやがりもしなくなり、こちらへ引っ越して来る時も案外素直について来たようでした。たぶんあの事件を一転機として、彼女の性情には、自分でもそれと気付かないほど、微妙ではありましたけれども、それと同時に一種根強い変化があったのでしょう。  さてこちらへ引っ越して来てからの万造は、せっかく立派なアトリエを建築しながら、ついぞ絵筆をとろうともせず、そうかといって昔なじみの友人や知人が訪れても、めったに面会することもなく、まるで蝸牛《かたつむり》のように引きこもったまま、鬱々《うつうつ》としてその日を送っていました。そのうちに彼は一艘のモーター・ボートを買い入れると、気違いのように湖水の上を駆けずり回ったり、またお天気のいい日には、湖心にボートを浮かべて、余念もなく釣りをしていることもありました。しかし彼が本当に魚を釣ろうとしていたのか、だれ一人知っている者はありませなんだ。実際あの無表情な、不断の冷嘲をうかべているかのごとき白い仮面は、どうかすると一種の凶々《まがまが》しい兆《しるし》とも見え、彼の周囲には魚さえ集まらぬように思われ、漁師達は彼の姿を見ると、疫病神《やくびようがみ》のように顔色を変えて逃げ出したものです。言い伝えによると、化石したごとく身動きもしないで、一心に釣り糸を垂れていた万造の仮面の上には、しばしば数条の涙が流れているのが見られたということです。ああその時彼の胸をかんでいたのは、いったいどういう感情であったのでしょうか。  それはともかく、彼は己《おの》が存在の、漁師たちにいかなる印象を与えつつあるかを、よく心得ていたのに違いありません。それが証拠に彼は間もなく、あのカトリック教の坊さんが着るような、だぶだぶとした襞《ひだ》のついた、真っ黒な袍衣《ほうい》を着ることによって、自分の不吉な印象を、一層強めようとした事でも看取できるではありませんか。その袍衣の肩のところには、同じ色をした三角のとがった頭巾が縫いつけてあって、彼はいつでもそれを、すっぽりと頭からかぶっていました。そして手には細い斑《まだら》竹の笞《むち》を持っていて、何か気に入らないことがあると、それをビュービューと振り回すのでした。そういう姿をした男が、身動きもしないで釣り糸を垂れているところを、まあ一つ想像して御覧なさい。私も二、三度見掛けたことがありますが、とんとそれは外国の銅版画にある、死神のような格好でありました。  万造がそういう生活をしている時、一方お銀は何をしていたかというと、彼女はこちらへ引っ越して来る時、万造にねだって買ってもらった、一匹の狆《ちん》を相手に所在ないその日その日を送っておりました。  ——ロロや、ロロや。と、彼女はアトリエの長椅子に寝そべったまま、愛する動物の名を呼びます。旦那様はどこへ行ったのだろうね。あの化け物のような旦那様は、本当にあの人がいないとせいせいするね。おや、お前もそうかい。全く邪慳《じやけん》な人ったらありゃしないねえ。お前を見ると足蹴《あしげ》にしたり投げつけたり、私ゃたいていお前が不憫《ふびん》でならないよ。  そんなことを人間に向かって言うようにかき口説きながら、冷たい鼻の頭に接吻したり、仰向けにしてお腹をくすぐってやったりします。小さいロロは、たぶんこの愛撫に酬《むく》いるためでしょう。このごろでは片時もお銀のそばを離れようとはいたしません。御飯をたべる時でも、お風呂へ入る時でも、寝る時でも、甚だしきは彼女が厠《かわや》に行く時でも、絶え間なく小さい銀の鈴をチロチロ鳴らせながら、彼女の裾《すそ》に身をすりつけ、愛撫の手欲しさに甘えます。そしてちょっとでも彼女の姿が見えないと、クンクンとうるさく啼き立てながら、気違いのように家じゅうを駆けずり回っては、その度に万造に癇癪《かんしやく》を起こさせるのでした。  お銀はしかし、そういつまでも、この小さい動物のお相手を勤めてはおりませんでした。だんだんこの土地に慣れて来るに従って、日ごと夜ごと彼女は美しく着飾っては出歩くようになり、間もなく本町通りにある某喫茶店に、いささか不良性を帯びた青年を集めては、すっかり女王になりすましてしまいました。万造もあまりやかましく言って、東京へでも逃げ出されたら厄介だと思ったのでしょう。この町ですることなら、たいていのことは大目に見ているという風でしたから、お銀はますます図に乗って、町の劇場に何か興行があると、一番に姿を見せるのは彼女で、ずいぶん下らない旅役者をひいきにしたり、活弁に色眼を使ったりしていましたが、そのうちにとうとう、紅梅亭|鶯吉《おうきち》といって、田舎《いなか》回りの浪花節《なにわぶし》語りとしてはまず真打ち株の、ちょっと苦味走った男にひっかかってしまいました。万造はこれを知っていたかどうか、それについてはこういう話があります。これは当時、まだアトリエに奉公していた婆やの話なのですが、彼女は、この話の直後あまり気味が悪いからと言って、とうとう暇をとって東京へ帰りました。これは東京に帰る前に、ある人に向かって話した言葉なのです。  ——それがあなた、そういうことは東京にいる時分から珍しいことじゃありませんでしたけれどね、その時は何だか、あまりはげしいようですから、またいつぞやのように、お銀さまが絞め殺されているんじゃないかと思って、それにお銀さまのヒイヒイ泣く声だって、普段とは違っておりましたもの、日ごろからのぞいてはいけないと言われておりましたけれど、つい鍵穴からのぞいてみたんですよ。のぞいてみて胆をつぶしました。私が驚いたというのは、お二人の妙な御様子で、お銀さまは床に突っ伏したまま、ヒイヒイと泣き声をあげています。その左の手をむずと握って旦那様が、お銀さまの上にのしかかるようにして何か低い声でボソボソとおっしゃると、お銀さまは激しく身を震わせながら、堪忍《かんにん》して、堪忍してとおっしゃるのです。それから顔をあげて、旦那様の白い面を見ながら、その面をとるのだけは——ああ、堪忍して——私が、——私が悪かったのです。——はい、何もかも正直に言ってしまいます。  ——大変悪いことをしてしまいました。——鶯吉のやつにだまされたのです。もうもう、けっしてあんなことはいたしません、——ですから、ああ、その面をとるのだけは堪忍して——いいえ、いいえ、けっしてうそではありません。だから、ああ、その面をとるのだけは、——あれえッ! お銀さまの魂消《たまぎ》るような声にぎょっとして、旦那様の顔を見た私は、ああ、それから後のことは、聞かないで下さいまし。その夜から私は安らかな夢を結んだことがありません。こうしてお話ししていても、何だかゾクゾクして参ります。それにしても不思議なのはお銀さまの素振りでした。逃げようと思えばいくらでも逃げる暇がありそうなもの。それにまた、その声というのが言葉の意味とは大違いで、何やらいやらしく、いちばんしまいに旦那さまが面をおとりになった時でも、逃げるどころか、あれえッ! と叫んで、いきなり旦那さまの首っ玉にかじり付いたのには私もびっくりいたしました。とにかく私はもうこれ以上御奉公しているわけには参りません。はい、明日はおいとまをいただいて東京へ帰ります。  万造とお銀が、こういう妖《あや》しい夢を繰りひろげているころ、東京の代助の身にもまた一つの変事が起こりました。代助が未決でひどい神経衰弱にかかっていたことは、前にも申し上げた通りですが、六月から七月のあの梅雨期にかけて、これがますます高じてきて、果ては食べ物もろくろくのどを通らぬという状態なので、公判を前に控えてこれではなるまいと、特別の計らいをもって、未決を出て入院することを許されたのが七月十六日のこと、ところがそれから二日目の夜、彼は病院から逃走してしまったのです。  前からそういう計画があったのか、あるいはまた発作的にやったのか、手引きする者があったのか、なかったのか、それらのことは一切不明でしたが、とにかく彼の行く方は杳《よう》として知れなくなってしまいました。  このことはただちに新聞に大きく報道されましたから、万造も必ずそれを読んだのに違いありませんが、読んで彼はどういう感想に打たれたでしょうか。驚いたか、恐れたか、いずれ安からぬ気持ちを抱いた事は想像に難くありませんが、もとよりたやすく感動を外に表わすような万造ではありません。お銀に対しても、一言もそれについては語りはしませなんだが、不思議なことにはその記事を読んだ日から、絶えて久しき絵筆を握り、しかも百二十号という大作にとりかかりました。  昨日あなたが御覧になった絵というのがすなわちそれで、モデルは言うまでもなくお銀、あの湖底に繋がれた女というのは、つまり現在のお銀の境遇を象徴していたのかもしれません。もしそうだとすれば女にからみ付いているあの醜悪な怪物は、さしずめ万造自身ということになりましょうが、そういう詮議はどうでもいいとしてデッサンも出来上がりいよいよ下塗りに着手したその日のことです。思いがけなくも町の警察から、警部が一人このアトリエを訪れて来たのです。  この警部というのは町の者で、昔から万造や代助を知っており、現に万造がこの湖畔へ引っ越してからも二、三度遊びに来たこともあり、一度などは万造としては珍しく、半時間あまりも話し込んで、つくづくと、自身の不幸を述懐したことさえある間柄でしたが、その時訪ねて来たのには別に重大な要件があったのです。  ——おや、お仕事ですか。万造がカンバスに向かっているのを見ると、警部は意外そうに眼をみはりながら、しばらくその絵をのぞき込んでおりましたが、お銀さんですね。しかし、何だか、これは随分変わった画題ですね。  万造は無言のまましきりに絵筆を動かしています。彼が答えないのは必ずしも無愛想なのではなく、発声器官の完全でない彼は、なるべく多く口を利かないようにしているのです。お銀はその間にモデル台から下りると、薄いガウンのようなものを引っ掛け、例のロロを抱いて窓のそばへ行くと、向こう向きに腰を下ろしました。  ——万造さん、今日来たのは大変な要件があるのですがね。警部はじっと相手の態度を注視しながら、代さんがこのごろこちらへやって来はしませんでしたか。  万造はそれを聞くとギクッとしたように絵筆を止め、しばらくじっと考えている風でしたが、ややあってやおら警部の方へ向き直ると、ゆっくりと首を左右に振りながら、  ——何か、そんな、形跡でも、あるのですか。と、切れ切れな声で言いました。  ——そうらしいのです。昨夜東京から通牒《つうちよう》があったのですがね、調べてみるとやっぱりそれらしい人物を見かけたものがあるという、それで豊田村の方を調べてみたのですが、どうもあちらへはまだ立ち回っておらぬらしい。それでもしやこちらへと思って。……  万造は絵筆を握ったまま、黙って首を振っていましたが、お銀の方へ振り向くと、  ——お銀、お前知らないだろうね。  ——私? いいえ。お銀は向こうを向いたまま冷ややかな声で答えました。  ——そうですか、それならいいのですが、もしこちらへ立ち回るようなことがあったらすぐ私の方へ知らせて下さいよ。なまじ隠したり逃がしたりされると、かえって代さんのためになりませんよ。警部はちょっと沈んだ声になって、代さんも困ったことをしてくれたものです。実はね、このあいだ手を回して代さんのことを調べてみたところが、最近非常にうまく行っている模様で、この分なら悪く行っても、執行猶予ぐらいですみそうだという情報が入ったので、大変喜んでいたんですが、これで何もかもめちゃくちゃです。せめて今どこかへ自首でもしてくれるといいのですがね。  警部はなおもくどくどと、代助が立ち回ったら、けっして隠し立てをしたり、逃がしたりしないで早速警察の方へ知らせてくれるようにと、何度も何度も念を押して帰って行きましたが、その姿が向こうの、桑畑の陰に見えなくなったころです。  ——お銀、媼《ばあ》さんはまだいるか。と、万造が低い沈んだ声で言いました。  ——いいえ、媼さんはさっき帰りました。  言い忘れましたが、東京から来た婆やが、暇を取って帰った後、何人女中を置いても長続きがしないので、このごろでは近所の媼さんを頼んで、午前中手伝いに来てもらうことにしていたのです。万造はお銀の返事を聞くと、黙って床から笞《むち》を取りあげ、静かに立ち上がりました。  ——お銀、お前も来い。  お銀はさっと顔色をかえ、わなわな震えながら何かいおうとしましたが、万造の鋭い眼付きを見ると、そのまま言葉を飲み込んでしまいました。  ——怖いのか。ええ、そんなにこのおれが怖いのか。  万造はいらいらするように笞を振り回しながらあざ笑いましたが、お銀の化石したような顔を見るとそのまま足音も荒々しくアトリエを出て行きました。  ——あなた、ああ、あなた、ちょっと待って!  お銀がおびえたような声で叫びながら、後を追っかけて行った時、万造はお銀の化粧部屋になっている、奥まった四畳半の、押し入れの唐紙に手をかけていました。  ——あなた、どうするのよ、あなた。  お銀がすがり着くのを突きのけて、ガラリと押し入れの唐紙を開いた万造は、手にしていた笞でそわそわと畳の上をたたきながら、  ——代さん、出て来たまえ、代さん、と、駄々っ児のような調子で言いました。     一一  普通、どこの押し入れにもあるように、上と下と二段に分かれている、その上の方に布団を敷いて寝ていた代助は、その時蛇のようにむっくりとかま首をもたげておりました。ああ、彼らは実に一年ぶりの対面でありましたが、その一年の間に、二人とも何という激しい変わり方をしておりましたろう。万造の方はむろん言うまでもありませんが、代助とても、また長い獄舎の生活に、頬は落ち、眼はくぼみ、髪も髯《ひげ》もぼうぼうと伸び、かつての熱情漢らしい秀麗な面影は、もはやどこにも認められませなんだ。ただ落ちくぼんだがためにいよいよ大きく見える眼が、烈々たる熱を帯び、その中に無限の痛恨と悲痛と憎悪とが読み取られるようでありました。その時彼等の胸には、どういう思いが去来したことでしょうか、それはおそらく、世にも複雑にしてかつ激烈な感情の闘いであったろうと思われますが、こうして五分間あまりも無言のままにらみ合っていた後、万造の方がまずほっと太い溜め息をつきました。  ——代さん、やせたねえ。そう言った万造の声は思いがけなくしみじみとしていました。お銀、外から見えないように、アトリエのカーテンを下ろしておいておくれ。代さん、だれもいないから出て来たまえ。  代助は激しく瞬《まばた》きをすると、むせび泣くような節のある長い溜め息をついて、もぞもぞと押し入れから出て来ると、それでもまだ幾分警戒するように、しっかりと唇を結んだまま、万造についてアトリエへ入って行きました。  それからお銀を混えて、彼等の間にいったいどういう話があったのか、詳しいことは伝わっておりませんが、それはおよそ我々の予想とは反対に、至って和やかなものであったことだけはわかっています。万造はその時、従兄弟のやつれた面差しを痛々しそうにながめながら、しみじみとした調子でこういう風に言ったということです。  ——代さん、お前はさぞ私のことを憎らしいやつだと思っているだろうね。いいえ、隠さなくてもいいよ。お前が何のために諏訪まで帰って来たのか、私にはその心持ちがよくわかるよ。代さん。私はもう逃げも隠れもしやあしない。どうかお前の思う存分にしておくれ、お前にとっては八つ裂きにしてもあきたらぬような気がするであろうけれど、お願いだからひと思いに殺しておくれ。思えば、思えば代さん、我々は何という凶《わる》い星の下に生まれて来たのだろうね。私には何の理由もなしにお前が憎らしかった。だれに負けてもかまわないけれど、お前一人にだけは死んでも負けたくなかった。おそらくお前の方でも同じことだったろう。ああ、こののろわしい競争心、理由のない敵愾心《てきがいしん》。私は常々どんなにこれを悲しんでいたろう、悲しみながらどうすることもできないでズルズルと深みへはまり込んで行くうちに、とうとう二人ともこんな羽目になってしまった。だれが悪いのでもない。皆私が、いや、私たちの回り合わせが悪いのだ。代さん、どうか、私をお前の腹の癒《い》えるようにしておくれ。私に何の希望や光明があろう。このような化け物になった私に何の生きがいや功名心がのこっていよう、代さん、お願いだからお前の手で、このかわいそうな私を、ひと思いに殺しておくれ。お前の手で殺されたら私はもう本望だよ。  万造はそう言って代助の手をとりさめざめと泣きました。涙は滂沱《ぼうだ》として仮面よりあふれて、冷たい蝋のような頬を濡らし、息の漏れるようなあの不明瞭な音声は、嗚咽《おえつ》のためにしばしば途切れ、それを聞き取るためには、一方ならぬ困難を感じたくらいでした。いつわり多い万造ではありましたけれど、この時ばかりはどうして彼の言葉を疑うことができましょう。握り拳をじっと膝のうえに置いたまままじろぎもしないで、万造の面を打ち見守っていた代助は、相手の言葉のおわるのを待って、ほっと太い溜め息を吐きながら、  ——万さん、よく言っておくれだった。と、感きわまったように彼は言いました。お前も言うとおり、私はそりゃどんなにお前を恨んでいたかしれやしないよ。一寸刻み五分試し、いいえズタズタに引き裂いても腹に癒えぬくらい、この土地へ帰って来たというのも、他に望みはなかったけれど、ひと目お前に会って恨みが言いたい、敵《かたき》を討ちたいとただそればっかりだった。ところがどうだろう。一昨日《おととい》の夜おそく、そこの窓から私はこのアトリエをのぞいたのだよ。その時お前はやはりその椅子に坐って、ただ一人両手で頭を抱えてじっとうなだれていた。その時お前を殺そうと思えば造作《ぞうさ》はなかったのに、なぜか私にはそれができなんだ。なぜできなんだろう、悄然とただ一人|燈《ひ》の下に坐っていたお前の寂しそうな姿、お前がひどいけがをして面をかぶっているということは、いつか見舞いに来た妹婿の口から聞いて知っていたけれど、初めて見る、その横顔の言いようのない淋しさ。侘《わび》しさ。それにその真っ黒な着物だろう、一層お前の姿がしみじみとして、また悵然《ちようぜん》として見えたよ。その時かすかに聞こえたのがすすりなくようなお前の溜め息だった、ああお前も泣いている、お前も苦しんでいると、そう感じたせつな今までの燃えるような怨恨《えんこん》も深讎《しんしゆう》も、氷のように一時に冷え切ってしまった。それから間もなくお前がボートに乗って、気違いのように湖水の沖へ出て行った後で、私はこっそりお銀——いやお銀さんを呼び出して、あの押し入れの中へかくまってもらったのだが、体を横にすると同時に、どっとあふれてきたのは熱い涙。万さん、その時なぜか私は泣けて泣けてしようがなかったよ。  ——それでは代さん。しばらくしてから万造がおずおずと言いました。お前私を許してくれるのかい。  ——許すも許さないも、私がお前の立ち場にいたら、きっと同じようなことをしたかもしれないのだ。さっきのお前の言葉を聞いて私は本望だよ。万さん、それじゃこれで潔く別れよう。  ——別れると言って、お前これからすぐに行くのじゃあるまいな。  ——いや、行こう。せっかくこうして仲直りをしたのに、顔を突き合わせているうちに、またつまらない考えを起こしちゃ馬鹿馬鹿しいから。  ——そうかい、それじゃ別に止めやしないが、お前どこへ行くつもりだい。  ——ひとまず大阪へ落ちのびよう。大阪へ行けば知人があるから、そこで何とか工夫をして、上海《シヤンハイ》へでも飛ぶことにしようよ。  ——それにしてもそのなりじゃすぐつかまってしまうよ。こうしたらどうだね。もう五、六時間しんぼうして、髪も苅《か》り髯も剃《そ》り、着物は幸い私の古いのがあるからそれを着てゆきたまえ。そして夜になったら私がボートで天竜川の口まで送っていってあげよう。中央線は危険だから少し道は難渋でも、辰野《たつの》から飯田《いいだ》へ出て、川沿いに遠州へ出るのがいちばん安全だと思うよ。ねえ。悪いことは言わないからそうしたまえよ。  ——そうかね。それじゃお言葉に甘えてそういうことにしようか。  ——それがいいよ。それじゃお銀、いつも私にしてくれるように、ちょっと早幕に代さんの髪を刈ってあげたらどうだね。  ——そうね。そうしましょう。  ——お銀さん、すまないねえ。  舞台の造作《つくり》こそ違っておりますが、とんと「双蝶々《ふたつちようちよう》」の「引窓《ひきまど》」といったあんばい。代助はさしずめ濡髪長五郎《ぬれがみちようごろう》といった役回りで芝居でするとここにめりやす[#「めりやす」に傍点]が入りますが、私のお話はそう意気事には参りませんから、ここはうんとはしょってさてその夜のこと。時刻はすでに十時をまわっておりましたろう、月のある夜でしたがあらしを呼ぶようなちぎれ雲が片々と飛んで、湖水のうえは明暗二つの色に塗り分けられていました。やがて用意万端整えて、アトリエの外に繋いであったボートに飛び乗ったのは万造、続いて代助、これはすぐボートの底に腹ばいになります。  ——さようなら、お銀さん。  ——さようなら、気を付けて行ってらっしゃいね。  お銀の声もさすがに湿っていたようです。  アトリエの近辺はまだ水が浅くてエンジンが回転しないので、しばらくは棹で押して行かねばなりません。お銀は長い棹を操って行く万造の姿が、岬の向こうに見えなくなるまで露台に立って見送っていましたが、やがて何となくぞっと身震いをするとあわててアトリエの中へ引っ込みました。その時、闇の向こうから聞こえて来たのはタタタタタと水を切って回転するエンジンの響き。ボートはしばらく小暗い岸に沿って湖水の縁を迂回して進みます。ザワザワと鳴るのは蘆《あし》の葉を渡る風の音、黒々と岸にそびゆるすずかけのてっぺんでくくと鳴くのは、ボートの音に夢破られた小鳥でありましょう。代助も万造ももう一言も口を利きませなんだ。ボートの底にごろりと寝込んだ代助は、冷たい夜風に頬をなぶらせながら、天を仰いで星の数を一つ二つ三つ……と、七つまで数えた時です。ふいに一揺れがくんとボートが大きく揺れると、けたたましく空回りをするエンジンの音、ボートはぴったりと止まってしまいました。  ——しまった。いまいましげに舌打ちをするのは万造です。  ——どうしたかね、万さん。代助は舟底から少し体を起こしました。  ——浅瀬へ乗り上げたのだ。なに、大丈夫だよ。  なるほど水面からかすかに隆起している蘆の浮き洲にボートの舳《へさき》ががっちりと食い込んで、万造がいろいろと手を尽くしているけれども、なかなか動き出しそうにありません。  ——代さん。万造が振り返って言いました。すまないがちょっとボートから降りて押して見てくれないか。コン畜生、泥の中へがっちり食い込んでいやがるんで。  ——そうかい。代助は恐る恐るボートから身を起こして、あたりをながめました。  湖水の表面はいぶし銀のような鈍い光をたたえて、遠くの方は朦朧として、白い夜霧の中に溶け込んでいる。岸はただ真っ暗で、聞こゆるは蘆の葉ずれと樹々の梢のそよぐ音ばかりです。むろん見る人とてあろうはずがないので、代助は心を安んじて、柔かい浮き洲の泥のうえに足をおろしました。  ——それじゃね、私が棹を突っ張るから、その拍子にボートを押してくれたまえ。  万造は棹を取って立ち上がったが、この時彼に今少しの落ち着きがあったら、さしも奸悪なその譎謀《きつぼう》も、見事成功していたのでありましょうが、残念ながら彼は少し功を急ぎすぎた。いかに陰険な万造といえども、その場に当たってはさすがに、よく興奮を制することができなんだとみえて、突如嘲るようなけたたましい笑い声と共に、さっと振り下ろした棹の先は、手もと狂ってわずかに代助の肩をかすめたきりで、舷《ふなべり》に当たって戛然《かつぜん》と跳ねっ返りました。  ——何をする! 代助は絶叫しました。  第一の襲撃に失敗した万造は、きりりと奥歯を鳴らしながら、再びさっと振りかぶった水棹。険悪な空模様を背に負うて、すっくと舷に立った姿の物すごさといったら、無表情なあの白い仮面といい、蝙蝠《こうもり》のように風にバタバタと羽ばたく真っ黒な袍衣といい、地獄の鬼といえどもこの時の万造ほど、物すさまじい悪相を持っていようとは思われません。代助は恐怖のために、総身の毛根ことごとく逆立たんばかりでありました。  ——何をする!  代助が再び絶叫した時うなりを生じて落ちて来た棹が、この度も危うくねらいが外れたのは、代助にとってはもっけの幸いだったけれど、万造にとってはこれより大きな不運はなかったのです。力余って万造がよろよろと舷によろめく、そのすきが、代助にとっては何よりのつけ目でありました。棹を握ってえいと渾身の力をこめて引けば相手は何しろ腰がくだけた折からとて、このひと引きによろよろと、はずみをくらって舷から浮き洲のうえにすぐとびました。  こうなれば勝負は五分五分です、足場の悪い泥のうえで必死となって争う二人は全く無言でしたが、無言なだけに一層恐ろしいのです。どういうわけか万造の方では、この時代助をやっつけようというより、遮二無二、ボートへかき上ろうと、その方に、多く気をとられている様子でしたが、そうはさせぬと争う代助、舷を叩く手と手がピッシャリピッシャリと鳴るのは、とんと芝居でするいたちごっこのだんまりといったあんばいですが、二人の身にとってはなかなかそんなのんきなさたじゃありません。全身の膏血《こうけつ》ことごとく凝《こ》って汗にならんかと疑われるばかり、いや、講釈師じゃありませんから、修羅場を読むわけには行きませんが、そうしているうちにどうしたはずみか、代助の力が少しまさったのでしょう、背後から武者振りついて来る万造の脾腹を、片脚あげてどんと蹴ると、すばやくボートに掻き上りましたが、その時ふと手に触ったのはかの水棹でした。こいつを斜めに構えて、万造や来たるときっと振り返った。振り返って驚きました。驚いたはずです。  ボートから一間ほど離れた蘆の茂みのなかに、相当広い窪みがあって、濁った水が溜まっているのですが、万造は今、その水溜まりの中に腰の辺までつかって、しきりにもがいているのです。そのもがきようが尋常ではありません。もがけばもがくほど、だんだん泥の中にめり込んで行く様子なのです。ちょうどその水溜まりの周囲二間ほどというものは、蘆の茂みも途切れ、体を支えることのできるような何物もありませんから、ただいたずらに泥の上を引っかき回すばかりで、そうしているうちに万造の体は、はや胸の辺までつかってしまいました。  代助はこの時はじめて、万造の陥っている恐ろしい自然の罠に気が付いて、髪の毛も白くなるほどの恐怖にうたれたのです。万造が今はまり込んでいるのは、世にも恐ろしい底なしの泥々地獄ではありませんか、一度はまり込んだが最後、金輪際抜け出すことのできない泥濘の蟻地獄——もがけばもがくほど、地底の泥に吸い込まれて行くばかりなのです。ああ、万造の計画によれば、代助をこの底なしの泥濘地獄に突きおとそうという考えであったのでしょうが、それが反対に、自ら過ってその中へおち込んだというのは、何という皮肉なことであったでしょう。代助は雷に撃たれたように、しばし呆然としてこの成り行きを見ていましたが、やがて相手の陰険極まりない計画に気がつくと勃然《ぼつぜん》として激しい憤怒を感じましたが、しかしこの憤怒のうちにも代助は、一抹の不愍《ふびん》さを感じないわけには行きませなんだ。  ——万さん、この棹におつかまり!  そう言ってとっさに差しのべたのは手に握っていた棹です。万造はこの時すでに、乳の辺まで泥の中につかっていましたが、溺れる者の本能で夢中になって棹の先を握りました。このまま救われていれば何事もなかったのですが、悪いことにはこの時ふいに、|※[#T-CODE SJIS=#9B5A FACE= 秀英太明朝0212 ]然《ゆうぜん》として雲が月の道から離れ、あたりは朦朧と明るくなって参りましたが、代助はこの月明かりで、見るべからざるものを見てしまったのです。不幸な万造は、格闘のはずみに仮面をどこかへ落としてしまったのでありましょう、あのふた目とは見られぬ醜悪な顔、化け物よりもさらに恐ろしい、くちゃくちゃに崩れた、のっぺらぼうの肉塊、世にもすさまじいその容貌を折からの月明かりに代助は、まざまざと眼の前にながめたのです。  ——あっ! と叫んで、代助が思わず棹を手許へ引いたのと、万造がひしとばかり両手で顔を覆うたのと、ほとんど同時でありました。代助はすぐに気を取り直して、  ——万さん、早くおつかまり、早く早く!  しかし万造は再び顔をあげませなんだ。何人《なんぴと》にも見られたくない醜い顔を、撰《よ》りに撰《よ》ってこの世の中で、いちばん見られたくない相手に見られたこの恥辱、このいまいましさ、この無念さ、万造にとっておそらくそれは、体をズタズタに寸断されるよりも、さらにさらに、忍び難いことであったに違いありません。  ——万さん、お前は……お前……  刻々として泥中に吸い込まれてゆく、従兄弟の姿を目前に見て、代助の恐怖はどのようでありましたろう、心臓が今にも口からとび出し、舷をつかんだ指は、そのまま木の中に食い込むかと思われるばかりでした。  ——万さんが沈んでゆく、沈んでゆく。……  すすりなくようにうめく代助の脳裡に、その時|忽如《こつじよ》としてよみがえってきたのは、今からざっと二十二、三年以前の、あの幼時の出来事でした。いつか万造が過って氷の亀裂に落ち込んだのを、代助が救おうとして棒を差しのべたが、万造はお前に救われるくらいなら死んだ方がましだといって、棒の先につかまることを肯《がえん》じなかったが、思えば場所もちょうどこの辺でした。二十数年を距てて再びめぐって来た同じような情景、同じような葛藤《かつとう》、あまりにも恐ろしい運命の偶然に夢かとばかり代助が怪しんだのも、まことに無理ではありませなんだ。  万造はその時すでに、肩の辺まで泥中に呑み込まれ、もはや正念も失われたであろうと思われたのに、ふいに白い眼をかっ[#「かっ」に傍点]とみひらくと、悲痛な声を振り絞って、息も絶えがてに代助に向かって絶叫したというのは、  ——代ちゃん……代ちゃん……あばね!  この別れのあいさつを最後として、次の瞬間万造の全身は泥中に没し去り、後にはうたかたも残らぬあさましさ。折から雲が再び月の行く手をさえぎったのでありましょう、湖水の上は幽然と暗くなって参りました。     一二  舷から半身乗り出した代助は、ゴーゴンの首を見たボリデクテス王のように、そのまま石人と化し果てるかと疑われるばかり、立ち騒ぐ波、蘆の穂を吹く風の音も、彼の注意を奪うことはできませなんだが、ややあってふと気が付いたというのは、舷を握りしめた手の甲に、ポタリと落ちて来た何やら温かいものがありました。と見れば、蜘蛛が脚をひろげたような、黒い斑点が、ポッチリと手の甲に着いています。おやと思う拍子に又一つ、さらに続いて二つ三つ四つ。……  代助は幼い時分から何かにひどく興奮すると、よく鼻血を出す癖がありましたが、今彼の手の甲を斑々《はんぱん》として紅《あけ》に染めているのは、その鼻血でありました。しかもその時の鼻血たるや、いまだかつて代助が経験したこともないほどのすさまじさで、縷々《るる》として、滾々《こんこん》として、滴々《てきてき》として鼻孔の奥より湧き出ずる生温かい血潮は、ほとんど止まる時がないのではないかと思われるばかりです。代助は恟然《きようぜん》と眼をみはって、斑々として彩られて行く舷をながめていましたが、やがて名状しがたい恐怖を感じると、あっと叫んで舟底に打ち倒れました。  ああ、あの時彼の胸中を吹き荒《すさ》む|※[#「(犬/犬+犬)+風」、unicode98C6]風《ひようふう》は、真黒な旋風を作って、暗澹《あんたん》たる絶望のかなたに彼の思いを運んで行きます。恐ろしい従兄弟の断末魔の光景は、執念《しゆうね》く彼の眼底に灼きつけられ、悲痛な従兄弟の最後の声は、いまだ嫋々《じようじよう》として彼の耳底に鳴っているかと思われます。しかも代助はその時さめざめと涕《な》いている自分に気が付いて愕然《がくぜん》としました。何のための涙なのか。何人のための嘆きなのか、代助自身にもわかりません。万造の死を悲しんでいるのであろうか、否! 否! 自分を陥れ自分の生涯をめちゃめちゃに叩きつぶしたばかりか、今また自分を計らんとして、かえって自らその罠に落ちて死んだ万造のことですから、手を拍《う》ってその死を嘲るとしても、一滴たりとも彼のために流す涙があろうとは思われません。しかし、しかし、ああ、胸を打つこの寂寥《せきりよう》、魂を揺すぶるこの悲愁は、いったい何のためでありましたろうか。……  ややあって代助は鼻血も止まり、涙もようやく乾いたので、蹌踉《そうろう》として起きあがりましたが、その時ふと眼に付いたのは舟底に落ちていた白い仮面です、万造はいま湖底の泥濘の中に呑み込まれてしまったのに、皮肉にも彼の仮面ばかりは、こうして代助の手許に残ったのです。おそらくあの死に物狂いの格闘の際に万造の面《おもて》から落ちたのでありましょう。代助はひと目見るよりいまわしそうに、湖水の上に投げ捨てようとしましたが、また思い直して手に持ったまま力なく棹を取りあげました。代助と万造を送り出したお銀は、あれからアトリエのソファに寝そべって、狆《ちん》ころのロロを相手にふざけておりましたが、折からバルコニーの下にボートが止まった様子に、はて、天竜川の口まで行って来たにしては少し早いがといぶかりながら半身を起こしたところへ、蹣跚《まんさん》としてアトリエの入り口に現われたのは、思いがけない代助の姿でありました。ただならぬ顔色といい、かつまた胸から腹へかけて点々として滴っている血潮といい、お銀は思わず真っ青になると、棒をのんだようにその場に立ちすくんでしまいました。  ——まあ、あなたでしたの。……そしてあの人は……万造はどうしました。  ——死んだよ。と、代助はただ一言そういうと、傍の椅子にガックリと体を落として両手でひしと頭を抱えてしまいました。  ——死んだ? 万造が?……お銀は憑《つ》かれたような声で聞き返しましたが、やがてたたきつけるような早口で、ああ、あなたが殺したのね。そうだわ、きっとそうだわ。ああ、恐ろしい。その血……、その胸の血、……ああ、あなたが万造を殺したのだ。あんなに前非を後悔して謝っていた万造を。……  ——違うよ。私が殺したんじゃないよ。  ——うそ! うそ! じゃその血はどうしたのです。その恐ろしい血のしぶきは。……  ——まあ、お聞き、どうして私が万さんを殺すものか。私こそ万さんに危うく殺されかかったくらいなのだよ。  鞭《むち》のように鋭いお銀の舌がやむのを待って、代助はぼつぼつと一部始終を語って聞かせましたが、それを聞いているうちに、お銀にもどうやら一切の事情が呑み込めて来たようでありました。  ——まあ! 間もなく彼女はうめくように言いました。それじゃ万造は自分の計画した罠に自分からおち込んでしまったのね。そして代さん、あなたこれからどうなさるおつもり。  ——仕方がないよ、自首して出ることにしようよ。  ——そう。ああ! だけど代さん、あなたの持っていらっしゃるその白い物はいったい何?  ——これかい、これは万さんの面《めん》だよ。舟の中に落ちていたから拾って来たのだ。  ふいにお銀がけたたましい声をあげて笑いました。それがあまり突然であったので、代助はぎょっとして彼女の顔を打ち見守っておりましたが、お銀はどうしたものか、まるで七笑いの時平公のように、とめどもなく打ち笑いながら、  ——ごめんなさい。……ああ、だけど世の中って何て面白いんでしょう。……自分の作った罠に落ちて死ぬ人もあるし、そうかと思うとまた、……  お銀は何を思ったのかつと立ち上がると、アトリエを出て行きましたが、間もなく引き返して来た彼女を見ると、何やら黒い着物のような物を持っていました。  ——さあ、これを着てごらんなさい。そしてここに万造のはめていた手袋もあります。あの人が一つずつ余分に作っておいてくれたのは、何という有難いことでしたろう。この黒い袍《ころも》を着て、この手袋をはめて、そしてその面《めん》をかぶっていたら、だれがあなたを万造でないと疑う人がありましょう。あなたはだれとも口を利かず、歩く時には少し猫背の気味に背を曲げて、そしてああ、そこにある笞でピシピシと床を叩く癖さえ忘れなかったら、そのまま万造に化けることができます。何というこれはすばらしいお芝居ではありませんか。そう言ってお銀は再び笑い転げるのでありました。  女の知恵はしばしば悪魔の知恵よりも恐ろしいといいますが、この時のお銀の言葉がそれでしたろう。この邪悪な誘惑を退けて、最初の決心通り自首さえしていたら、代助はこれからお話しするような、あの世にも凄惨《せいさん》な場面に直面しなくてすんだのでしょうが、女の思い付きの異常さに、つい心を惹《ひ》かれたのが彼にとっては千載の痛恨事でありました。  その翌日警部が再びアトリエを訪ねて来た時には、あのダブダブの袍衣に身を包み、頭からすっぽりと頭巾をかぶった仮面の男が、やや前こごみに、黙然として窓際に坐っていました。  ——どうですか。代さんはまだやって来ませんか。  警部の質問に対して、かすかに首を左右に振ってみせるその男こそ、現に彼の尋ねている代助その人であろうとは、どうして彼にわかりましょう。警部がつづいて何か言おうとする前に、ロロを相手にふざけていたお銀がすばやく口をはさみました。  ——代さんは本当にこちらへ来たのかしら。いえ、本当にこちらへ来たとしても、とてもこの家へは参りますまいよ。だってあの人、とても万造とは仲が悪いんですもの。ねえ、あなた。  お銀に言葉をかけられた時、代助は思わず黒い袍の中で戦慄《せんりつ》しましたが、警部はもとよりそれと知ろうはずがありません。  ——いや、それは私も知っていますがね。とにかく来たら引き止めておいて下さい。おや、この絵はもう中止ですか。  警部がさしたのは昨日、万造が絵筆《ブラシ》をふるっていたかのカンバスです。  ——いえ。お銀がいち早くさえぎると、今日は少し気分が悪いと言って考え込んでおりますの。ほほほ、やはり代さんのことが気になるとみえますのね。  だが、警部が何の疑いも抱かずに帰って行った後、お銀はいきなり代助に向かってこう言いました。  ——あなただめよ、警部は当分毎日様子を見に来るにきまっているわ。いつまでたっても絵が進行しないとなると、そのうちにはきっと怪しみ出すに違いないわ。さあ、あなた絵筆をおとりなさいよ。そしてこの絵の続きを描かなきゃいけませんわ。  お銀がこうして代助をかばい立てをするのは、果たしてどういう心事であったのか私にもよくわかりませんが、彼女がもし今の代助に昔日のごとき闊達《かつたつ》さと明朗さを期待していたとしたら、彼女は非常な失望を味わわねばならなかったでありましょう。突如起こった身辺の激変と、まだ生々しく脳裡にこびりついている、あの悲惨な従兄弟の最後の場面は、彼をして、お銀から顔をそむけさせるに十分なほど、強い、激しい印象を投げかけていました。  それでも彼は、お銀の言葉のもっともらしさに、つい彼女をモデルとしてのあのいまわしい絵を続けて行くことになりましたが、そうしているうちにも次第に彼の胸中にはびこって来るのはお銀に対する言い難き憎悪の感情でありました。二人の男の生涯をめちゃめちゃに叩きつぶしておきながら、なおかつ恬然《てんぜん》として嬌笑を泛かべているお銀の顔を見ると、代助は勃然として激しい憤怒に襲われ、もし己れの困難な立場さえ自覚していなかったなら、片時もこの罪悪の巣に足を止めていることを肯《がえん》じなかったでしょう。  こういう熾烈《しれつ》な感情がお銀に感染せずにいるはずがありません。彼女はようやく自分の期待の的外れであったことを覚ると、これまた猛然として代助を憎みはじめたのです。今やこの湖畔のアトリエは救い難き二人の男女の、無言の、しかし無言なだけに一層気味の悪い、激烈な闘争の渦の中に投げ込まれてしまいました。私はずっと後にこの当時の心境を切々たる文章で書き綴った代助の日記を、このアトリエの中から発見しましたが、それによって見るも、当時の彼がいかに大きな苦悩の中に生活していたか、想像するに難くありません。この日記は今でも持っておりますから、何でしたら後でお見せしましょう。あなたもすでに想像されたでありましょうが、こういう男女の間は早晩|破綻《はたん》を来たさずにはおきません。しかもこの終局たるや、案外早く、万造が亡くなってからわずか三週間しかたたぬにやって参りました。  代助はこの二、三日、お銀の態度の著しく変わってきたことに気が付きました。一週間ほどほとんど口も利かずににらみ合っていたお銀が、どういうものか、心にもないお世辞をならべ、とかく代助のきげんを取り結ぼうと努めているように見える。代助は昔の経験からして、お銀がこういう態度に出る時には必ず、彼女の胸中に、恐ろしい裏切り行為が醗酵しつつあることをよく知っていましたから、それとはなしに気を配っていると、その日の午後に至って、彼女の態度はますます軽躁を極めます。朝から何となく、落ち着きがなくソワソワとして、試みに代助が二言三言話しかけてみても、ほとんどそれに正当な応答を与えることすらできない。そうかと思うと、急にゲラゲラと笑い出し、むやみやたらに話しかけて来る。  夕方代助はお銀が風呂に入っている間にこっそりと彼女の居間を調べてみましたが、まず第一に眼についたのは、押し入れの中に突っ込んであった風呂敷包み、開いてみると二、三の着替えの他に、指輪だの耳輪だの宝石類の入った函《はこ》が、さも大事そうに衣類の中にたたみ込んであります。この風呂敷包みの他にもう一つ注意を惹いたのは、銀鎖のついた派手な手提鞄《てさげかばん》で、驚いたことにはギッチリと中に詰まっているのは、およそ四、五百円はたっぷりあろうと思われる紙幣の束でした。しかし代助を真実驚かし、また怒らせたのは、この手提鞄の中に入っていた二通の手紙でありました。一通は例の浪花節語り、紅梅亭鶯吉から来たもので、今松本に来ているから遊びに来ないかというようなことが、歯の浮くような調子で書いてありました。さてもう一通の手紙というのは、紛《まご》うべくもなくお銀の筆跡でしたが、何とそれはこの町の警察署にあてたもので、内容は今更ここに申すまでもありますまい。お銀はたぶん、行きがけの駄賃として、代助を警察の手に引き渡してやろうくらいに考えていたのでしょう。  代助はこの手紙を読むとさすがにかっ[#「かっ」に傍点]として、思わず全身がブルブルと震えました。前後の考えもなく二通の手紙をわしづかみにしてアトリエへ引き返して来ると、ちょうど今しも、お銀が風呂から上がって来たばかりのところでした。  ——お銀! 代助の声は著しく震え、興奮のために舌が回りかねるくらいでした。  ——なあによ。  湯上がりのほてった体を、燃ゆるような緋縮緬《ひぢりめん》の長襦袢《ながじゆばん》に包んだ彼女の姿は、またとなく艶冶《えんや》たるものでありましたが、かわいそうに彼女はまだ、代助が口も利けぬほど興奮していることに気が付きませなんだ。無理もありません。あの無表情な仮面の下に隠れた代助の顔色は、さすが鬼のようなお銀といえども、見通すわけにはいきませんでしたから。  ——これは何だ!  いきなり目前に差しつけられた手紙を見たお銀は、はっとしたように眼をみはると、しばらく気が遠くなったような表情を示しました。賢い彼女はこうなってはもはや、どのような弁解も、どのようなごまかしも一切無用であることをよく知っていたのでありましょう。ふいに身を翻して、二、三歩バタバタと逃げかけました。  ——待て!  お銀はしかしこの鋭い言葉に従う代わりに、そこにあった紙切りナイフをいきなり代助の方へ投げつけました。幸い代助が素早く身をかわしたので、ナイフはわずかに彼の腕をかすめて飛んだに過ぎませなんだが、この事がかっ[#「かっ」に傍点]と代助を逆上させ、前後の分別をも忘れさせるに十分でありました。彼はいきなり手に触れたものを、思わずはっしとお銀の背後から投げつけてしまったのです。代助の手に触れたもの——不幸にもそれはかなりの重量を持った青銅製のヴィナス像で、これをまともに後頭部にくらったのですからたまりません。お銀はくらくらとめまいがしたように一度その場に膝をつきましたが、すぐ起き直ると、また二、三歩ふらふらとドアの方へ行きかけました。と思うと絨毯《じゆうたん》の端につまずいたのでしょうか、彼女はまたガックリとその場にのめりましたが、非常な努力をもって起き上がろうとするらしく、二、三度泳ぐように虚空《こくう》を引っかき回していましたが、ふいに鼻と口からどっと血を吐くと、そのまま崩れるようにその場に突っ伏してしまいました。その周囲を狆ころのロロが気違いのように啼き立てながら躍り狂っているのを、代助は何かしら遠い夢でも見るような心持ちで、茫然とながめているのでありました。  その晩の真夜中過ぎのことでありましたろう。河沿いにあるあの遊廓、——あなたもたぶん通りがかりにご覧になったことがおありでしょうが、この町の女郎屋には一つだけ他の土地にないものがある。何かというと屋上にある六角形の展望台で、どういうわけであんなものをこしらえたのかわかりませんが、知らない者が遠くから望むと、よく教会の塔と間違えるそうです。その晩の二時過ぎのこと、この塔の上から、ぼんやりと湖水の方をながめている男がありました。別に目的があってながめているわけではなく、何といいますか、遊びの後の妙な物憂さ、胸をかむようなやるせなさ、大方そういう気分をまぎらせるためでしたろう、ただ一人塔にのぼって深夜の風に吹かれていましたが、そういう彼の眼をふと捉えたというのは、河下の岬の陰から、今しも箭《や》のように漕ぎ出した一艘の小舟の姿でありました。  どこかに月があると見えて、絖《ぬめ》のように鈍く光っている湖水の表面を、スイスイと水虫のように流れてゆくのが手に取るように見えます。乗っているのはどうやら一人らしいのですが、間もなく岬の手前の蘆の浮き洲のところまで来ると、ふと舟を停《と》めて、何やら舟底から抱きあげた様子です。それがどうやら人間のようにも思えたので、塔上の男はおやとばかり、思わず体を前に乗り出しました。  ちょうどその時湖水の方では、例の人間らしいものを抱きあげた不思議な人物が、やおら舟から浮き洲の上へ降りようとしましたが、どうしたはずみか舟がくらりと傾いて、その拍子にかの男はもんどり打って水の中へ落ちました。もとより浅い所ですからすぐに起き直りましたが、そのとたん塔上の男は、ゾッとばかりに全身に鳥肌が立つのを覚えました。無理もありません。今水より起き上がった男の体は、まるで燐を塗ったように煢々《けいけい》として光りを放ち、その妖しい光の中で彼はハッキリとあの無気味な白い仮面と、胸に抱いている人間の形を識別することができました。そしてそれらのものからポタポタと落ちる滴は、あたかも人魚の涙ででもあるかのように、閃々《せんせん》として金色に輝いています。塔上の男はむろんこの土地のものでしたから、諏訪の湖に夜光虫のいるということは知っていましたが、このように綺麗な、そしてまたこのように恐ろしい風景はいまだかつて見たことがありませなんだ。何となくそれはこの世のものというよりは、遥かに悪夢の世界の出来事とも思え、全身から燃え上がるような燐光を放っている、奇怪な仮面の男は、人間というよりも地獄の底からはい上がって来た悪鬼のようにも見えるのでありました。  この男がもう少し展望台にがんばっていたら、彼はその後で起こったさらにさらに奇怪な事実を目撃したのでありましょうが、遺憾ながら彼はゾッと身にしみる臆病風に、それ以上この恐ろしい景色を見ている勇気がなくなり、そそくさとして自分の敵娼《あいかた》の部屋に逃げて帰ったということです。そしてこの男が目撃したあの不思議な場面が、夢でもなく幻でもなく、世にも恐ろしい事実であったことを知るに至ったのは、それから数日後のことでありました。     一三  その翌日は朝から妙にむしむしとする陰鬱《いんうつ》なお天気でありましたが、午《ひる》過ぎに至って古綿のような雲が、いよいよ低く垂れて来たかと思うと、下界は突如として日蝕にあったように、暗澹《あんたん》たる悪気の中に閉じこめられ、何となく不安な予感があたりを圧し、湖畔に住む人々の心を脅かすようでありました。  湖水は巨大な鉛の坩堝《るつぼ》と化して、死のような静寂をたたえています。風はひねもすうち絶えて、湖畔の蘆の葉も、樹々の梢も、化石したように黙して動かず、万物ことごとく凝って、大磐石《だいばんじやく》になったのではなかろうかと思われるなかに、悠々とひくく輪を画いて飛ぶ黒い鳶《とび》の影だけが、凶兆を知らせる不吉の使者のように見えました。空気は蝋のように重く、息苦しく、日ごろは千変万化の情趣を見せる湖畔の山々も、今日はただ灰色の塊りとなって、混沌《こんとん》たる雲のかなたに打ち沈んでいます。人も犬も牛も鶏も、生きとし生けるものはことごとく、窒息したようにねぐらの奥深く閉じこもっていると見えて、湖畔は一瞬、廃墟のようなわびしさに包まれました。  そういう銅版画のような寂寞《じやくまく》のなかを、あえぐように自転車を操って、今しも岬の突端にあるかの万造のアトリエを訪ねて来たのは、いうまでもなく例の警部でありましたが、その時アトリエの中では代助がただ一人、ようやく完成に近づいて来たかのカンバスに向かって、しきりに絵筆をふるっているところでありました。  代助は例によって、警部の姿を見ても、会釈をしようともせず、無言のまま仕事を続けています。警部の方でも彼の無愛想には慣れっこになっていることとて、別に気を悪くした風もなく、しばらく代助の背後に立って、画かれてゆく、カンバスの面を見つめていましたが、その顔には、何やら妙に釈然としないところがあります。何となくこの絵は妙である、腑に落ちないところがある。しかしどこが妙なのか、何が腑に落ちないのか、それを思い出すことができない、と、そういった風な表情であります。  ——お銀さんはいないそうですね。警部は相変わらずカンバスのうえに眼をやったまま、妙に上ずった声でそう言いました。どこへ行ったのですか。  代助はそれを聞くと、ゆっくりと体をよじらせて、無言のまま絵筆で机のうえをさしました。警部が何気なくその方を見ると、そこには封を切ったままの手紙が一通のっかっているのです。  ——この手紙ですか。  ——……  代助は無言のままうなずいてみせながら、中身を取り出して読んでみろというような仕草をして見せます。  ——ああ、これを読めというのですか。  代助がうなずくので警部は封筒の中から、墨のにじんだ巻き紙を取り出しましたが、それがあの浪花節語りの紅梅亭鶯吉から、お銀に宛ててよこした手紙であったことは言うまでもありません。警部は二、三度それを読み返すと驚いたように、  ——なるほど、それじゃお銀さんは、この男の所へ逃げて行ったのですね。どうもけしからん話ですね。何でしたらこちらで手配をして連れ戻してあげましょうか。  代助はそれを聞くと激しく首を左右に振りながら、低い、ボソボソとした声で、切れ切れにこう言いました。  ——いいえ、いいえ、……それには及びません。……どうせ……金がなくなったら……帰って来るにきまっています。  ——そうですか。警部は代助の狼狽ぶりにちょっと妙な気がしましたが、それ以上のことは何も気が付かず巻き紙を封筒におさめると、それを机のうえに戻しながら、それじゃまた来ましょう、ああ、それからこんなことはもういう必要もありますまいが、代さんが訪ねて来たら、必ず私の方へ知らせて下さいよ。  無言のままうなずいている代助の後ろ姿を、何の気もなく見つめていた警部は、それからまたかのカンバスの方に眼をやると、どうも腑に落ちないという風に、しきりに小首をかしげていましたが、やがて奥歯に物がはさまったような気持ちを抱いたまま、それでも幾分思いきったように、そのアトリエから出て行きました。外へ出ると通いの媼《ばあ》さんが、風のない河縁で何か洗いものをしていましたが、その姿を見ると警部は、何ということなしに足を止めてしまいました。  ——媼さん、奥さんは昨日何時ごろお出かけになったのだね。  ——さあ、何時ごろですか。媼さんは腰を起こすとあわてて襷《たすき》を外しながら、何しろ私は通いのことですから、ちっとも存じませんのでございますよ。  ——何かそのような話が前からあったのかね。  ——いいえ、一向承ってはおりませんでしたが。……  ——昨日、奥さんの素振りに何か日ごろと違ったところがあったかね。  ——さあ、何ですか、一向。……私はぼんやりなもんですから。媼さんはなるべくあたりさわりのない言葉を選みながら、軽い薄笑いをうかべています。  警部といえどもその時はまだそれほど深く、お銀のゆくえを怪しんでいたわけではないのですが、さっきから心にわだかまっている滓《おり》のようなものが気になって、何となくその場を立ち去りかねていたのです。  ——どうも、妙だね。  ——そうでございますかしら。媼さんはそう言いながらふいにギョッとしたように向こうを向くと、おや、あれは何でございましょう、ロロの声ではございませんか。  成程どこやらですすり泣くような犬の啼き声がする。重い空気をゆるがして、何事か訴えるような、世にも悲しげな、陰々たる犬の啼き声が長く尾をひいて、湖水の方から聞こえてくるのです。  ——ああ、向こうです、向こうです、まあどうしたのでございましょう。  媼さんの後について岬の突端まで出て見ると、なるほど、向こうの蘆の浮き洲のうえを悲しげな声をあげてわめきたてながら、躍り狂うように跳ね回っている、白い動物の姿が見えました。  ——ああ、やはりロロでございますわ。どうしてまあ、あんな所へ参りましたやら。おや! 旦那さま、あれはいったいどうしたのでございましょう。  媼さんが今にも絶息しそうな声を立てたのも無理ではありませなんだ。さっき浮き洲のうえの、ドロドロとした水溜まりのまわりを跳ね回っていたロロが、ふいに脚を取られたようにズルズルと泥の中に滑り込みました。すると何かしら巨《おお》きな生き物がその中に潜んでいて、脚を持って引きずり込むように、ロロの体は次第に水溜まりの中へ沈んで行きます。ロロは必死となって、前脚で泥のうえをかき回していますが、そうするうちにも全身は刻一刻と泥の中に呑まれて行き、今ではもうもがく気力さえなくなって行く様子です。  ——ロロや! ロロや! どうしたの、早くこちらへおいで!  媼さんの声が耳に入ったのでしょう、ロロは狂気のようにわめきたてながら、ひとしきり泥のうえをバタバタやっていましたが、間もなくすすり泣くような一声を湖水のうえに残したまま、その体は全く泥濘の中に呑み込まれてしまいました。  ——ああ! あれはどうしたのでしょう。あの気味の悪い水溜まりは、……そしてあのかわいそうなロロ! 奥さんがお聞きになったらどんなにお嘆きになるでしょう。あんなに奥さんを慕って、片時もそばを離れようとはしないほど、よくなついていましたのに!  媼さんの最後の言葉を聞いたとたん、警部の頭にさっとひらめいた何物かがありました。  人間の頭脳というものはずいぶん妙な仕掛けになっているものです。何かしら解《げ》せない、腑に落ちないことがあって、いったいそれが何であるか、何が腑に落ちないのか、何が解せないのか、それすらも判別がつかずに、ただもう、もやもやとした暗霧に閉ざされているような、不愉快極まる気持ちにあるとき、何でもない、ほんのちょっとしたきっかけから、一時にその暗霧がからりと晴れわたることがあるものですが、今の警部の気持ちがすなわちそれでした。片時もお銀のそばを離れぬという狆ロロが水の上を渡るような危険を冒してまで、あの浮き洲へ行ったのは何のためであろう、気違いのように吠えたてながら、彼女はいったい何をあの水の中に求めていたのだろう、さらにまた、一瞬にして狆ロロの体を呑みつくしたあの気味の悪い水溜まりは、いったいどういうわけであろう。  ——そういうことを考えているうちに、警部は、もつれた糸がほぐされてゆくように、さっきから胸中にわだかまっていた疑問が、次から次へと氷解してゆくのを感じました。  ああ、それはあまりにも恐ろしい、あり得べからざる事柄のようにも思えましたが、それと同時に、どうしてもっと早く、そのことに気付かなんだろうと思われるほど、明瞭にして、かつ動かし難い事実でもありました。警部は思わずさっと色青ざめ、わなわなと体を震わせながら、憑かれたようにあの蘆の浮き洲をながめていましたが、やがて容易ならぬ決心を定めたように、眼をせばめ、息をのみこみ、蹌踉《そうろう》たる足どりで、もう一度アトリエへ取って返して参りました。ちょうどその頃、代助も窓際に立ってあの浮き洲のうえをながめていました。おそらく彼もまたロロの悲鳴を聞き、そして悲惨なその最期の模様を目撃したのでありましょう、何となく打ち沈んでいるようでありましたが、警部の足音に何気なく振り返ると、ぎょっとしたようにそこに立ちすくんでしまいました。たった今出て行ったばかりの警部が、どういうわけで引き返して来たのか、そしてまた、相手の容易ならぬ面持ちが何を意味しているのであるか。代助はとっさの間にその恐ろしい意味を読み取ったのに違いありません。二人はしばらく石になったように、じっと互の眼の中をのぞき込んでいましたが、やがて魂も潰《つい》えるかと思われるばかりの、悲痛なうめき声をあげたのは、代助ではなくてかえって警部の方でありました。  ——万さん、あなたはほんとうに万造君ですか。それとも、ああ、この間から私があれほど尋ねていた、もう一人の人物ではありませんか。そういって警部はどっかとそこにあった椅子に腰を落としましたが、それを聞いたとたん、黒い袍衣に包まれた代助の体は、まるでつむじ風にあった木の葉のようにチリチリと震えあがりました。警部はそれを見ると思わず両手で頭を抱え、肺腑を貫くような深い深い溜め息をつきましたが、それでもようやく気を取り直して頭をあげると、絶望的な眼差《まなざ》しで、今自分の眼前に立っている男の姿を見つめながら、息も絶え絶えに次のようなことを言ったのでありました。  ——万さん、あなたがほんとうの万造さんなら、かつて私に向かって、こういうことを打ち明けられたのを覚えているでしょうね。あれは確か、あなたがこの湖畔へ引き揚げて来られてから間もなくのことでした。あまりに傷心しきったあなたの様子の痛々しさに、なぜ絵を描くことに精進しないのだ、なぜそれに魂を打ち込んで、すべての憂さを忘れようとしないのだと、私がお勧めすると、その時あなたはこう言われたではありませんか。私はもう二度と絵を描くことはできないでしょう。これは私以外には何人も——お銀でさえも知らない秘密なのですが、神様はあの大惨事の折、自分の顔と、自分の三本の指を持って行かれただけでは満足せず、無慙《むざん》にも私の眼から、色彩を判別する官能まで奪ってしまわれたのです。あの大惨事のせつなの、炸裂《さくれつ》する火焔と、灼熱《しやくねつ》する金属の閃光《せんこう》とは、私の脳髄に致命的な衝撃を与え、あの日以来私は、完全に色彩を識別する能力を失ってしまったのです。私は今、物の形を見ることはできますが、物の色を見ることはできません。私の住んでいる世界は、冷たい灰色の壁に包まれていて、そこには私の心を慰めてくれるような、美しい色彩《いろどり》を持った物象は何一つありません。むろん私は、何とかしてこの恐ろしい味気ない、呵責《かしやく》から逃れようと、ずいぶんいろいろな医者に相談してみました。しかし一人として自信をもって治癒に当たろうとする医者はいなかったのです。ある一人の医者は私に次のようなことを言いました。欧州戦争に出征した兵士の中から、二、三こういう実例が報告されているけれども、まだそれを治療し得る方法は、どこの国の学者からも報告されていないというのです。従って私のこの病気もいつかは自然に回復するものやら、それとも永遠にこの冷酷な、そして暗澹たる世界に住んでいなければならないのやら、今のところそれすらもわからないのです。色彩に対する感覚を失ったものに、どうして絵を描くことができましょう。思えば私はあの大惨事の折にいっそひと思いに死んでいた方が、どんなによかったか知れないのです。実際私はずっと後になって、はじめて絵筆をとったとき、絶望のあまりお銀を絞め殺して、自分も死のうとまで思ったくらいでした。ああ、私は畢竟《ひつきよう》美の女神から見放されたみじめな人間なのです。そういって万造さん、あなたは私の手をとってさめざめと哭《な》いたではありませんか。万造さん、ああ、あなたがほんとうに万造さんであるなら、私は今この絵を見て、あなたの回復に対して心からの祝福を申し上げます。この絵の色彩の配合には、少しも不自然なところや、盲目的なところがありませんから。しかし、もしそうでないなら、……ああ、あなたがもし万造さんでないなら。……警部はそこで嗚咽の声を嚥《の》みました。あなたはいったいだれです。そしてまた、どういうわけで万造さんになりすましているのです。いやいや、それよりほんとうの万造さんやお銀さんはどこにいるのです。もしやもしや……今ロロを呑み込んだ、あの薄気味の悪い、浮き洲の上の泥々地獄の中にでもいるのではありませんか。  警部はそこで言葉をきると、きっと代助の方を凝視しました。あいにく白い仮面をかぶっているので彼がその時どういう表情をしていたか、知るよしもありませんが、警部はこの時ほど、人間の体が激しく痙攣《けいれん》する姿を見たことがありません。さっきから窓際のテーブルの上に両手をついたまま、上体を前に乗り出し、呆然として警部の話に耳を傾けていた代助は、警部の話が進むにしたがって、次第次第に全身を細かく震わしはじめたが、やがて錐《きり》でもみ込まれるように、あるいはまたとめどもなく回転する電気|独楽《ごま》のように、震えて震えて、あるいはこのまま震え死にに死んでしまうのではなかろうかと思われるほど、激しく、チリチリと戦慄して歇《や》みませんでしたが、やがてふと見れば、あの白い仮面の下から何やらポタリとテーブルの上に滴下したものがありました。  ——ああ、血が! そう叫んだ警部は、てっきり代助が舌を噛み切ったのであろうと、思わずギョッとして腰を浮かしました。  しかし、警部の考えは間違っておりました。代助はけっして舌を噛み切ったのではありません。再び異常な興奮が、彼の鼻粘膜を破壊して、止めようとしても止まるべくもあらぬ鼻血が、縷々《るる》として、滾々《こんこん》として、滴々《てきてき》としてテーブルから床のうえに降りそそぎ、斑々《はんぱん》として彼の胸をべにがら色に染めました。代助はしばらく恟然《きようぜん》として眼をみはりそれを見つめていましたが、やがてひくい冷嘲するような笑い声を立てると、ふいにくるりと身を翻して、蹣跚《まんさん》たる足どりでバルコニーの方へ出て行きました。その時彼は警部の手からのがれようと試みたのでしょうか、いいえ、逃げようとするには、あまりにも蹌踉《そうろう》たる足どりでありました。それはあたかも、すばらしい神の摂理の啓示に、酔えるもののような姿でありました。おそらくその時彼は、何もかも打ち忘れて、一種恍惚たる忘我の境を彷徨していたのでありましょうが、その後ろ姿を呆然として見送っていた警部は、ふいにハッとするような事実を発見したのです。万造のために霧ケ峰の中腹から、谷底へ突き落とされた代助が、生涯軽いびっこをひいていたということは、たしか先程申し上げましたが、警部は今、自分の眼の前を飄々《ひようひよう》として歩いてゆく男の姿に、はっきりとそれを認めることができたのです。警部が今の今まで抱いていた疑惑の、最後の鎖はこれによって見事に粉砕されてしまいました。警部は思わず絶望したように、  ——代さん! と一声鋭く絶叫しました。  代助はそれに対して、軽く振り返ると二、三度手を振ってみせましたが、そのまま蹌踉としてバルコニーに繋いであった小舟に乗り移りました。私は——ああ、すでにお察しのことと思いますが、その警部というのはかく言う私でありましたが、私はその時、彼を引き止めようと思えば引き止めることができたはずなのです。それにもかかわらずなぜそうしなかったか、自分でもはっきりその時の気持ちがわかりませんが、おそらく私は、あまり大きな悲しみのために、あらゆる思考力と判断力を打ちひしがれてしまって、ただもう白痴のように手をつかねているよりほかにしようがなかったのでしょう。なぜまた私がそれほど大きな悲しみに打たれたか、それは私だけの秘密ですが、簡単にいえば私は何物にも換え難いほど、深く深く代助を愛していたのです。ああ、少年時代から私達はどんなにお互いに愛しあっていたでしょう。二人は五つ違いでありましたが、それはほんとうの兄弟も及ばぬほどの、強い、深い愛情が私たちを結びつけていたのです。  こういえば私があんなにも熱心に代助を捜していた理由もおわかりでしょう。むろんそれは職務からでもありましたけれど、もっと大きな理由としては、彼をあの危険な途から、もとの平穏な生活に引き戻してやろう、それにはぜひとも彼を説いて自首させなければならないと、ただそればかりを考えていたのです。  しかし、今となってはその努力も、すべて水泡に帰したことを悟らねばなりませんでした。代助はもはやいかなる手段をもってしても償うことのできない大きな罪、殺人の罪、しかも二重殺人の罪を背負っているのではありませんか、ああ、その時の私の悲痛、懊悩《おうのう》、絶望、——それはとても筆紙にも尽くせません。よくたとえにいう腸《はらわた》を断つ想いとは、全くこの時の私の心でありましたろう。  私はしばらく両手で顔をおおったまま、胸をえぐられるような悲しみに打たれていましたが、ようやく気を取り直してバルコニーへ出てみると、湖水のうえはいよいよ冥《くら》く、水は白い泡をあげ、すさまじいうねりを作って岸をかもうとしています。その中を代助の操る小舟が、木の葉のように揺すぶられながら進んで行きます。  ——危ない、代さん。  私はバルコニーのうえから声を嗄《か》らして叫びましたが、それが聞こえたか聞こえなかったのか、代助はなおも棹を操って進んでゆきます。その時にわかに真っ黒な風がさっと吹きおろして来たかと思うと、岡谷《おかや》、下諏訪あたりは見る見るうちに濃い水滴の層に包まれ、湖水のうえには濃淡二つの竪縞《たてじま》が織り出されました。と、見れば斜めに水面を打つ太い雨脚が、すさまじい勢いでこちらへ近付いて来るのが見えます。湖水はますます怒り猛って、泡立った浪頭《なみがしら》は、数千の水蛇がかま首をもたげたようです。  ——危ない、代さん!  再び私が絶叫したとき、今しもかの恐ろしい浮き洲の辺を漕ぎ進んでいた代助の舟は、故意でありましたか、それとも偶然でありましたか、その時突如ぐらりと傾いたと見るや、代助の体は、かの人をも物をも呑み尽くさずにはおかぬ泥濘地獄の中に、真っ逆様に落ちて行きました。あなや! と、私が息を飲み込んだせつな、黒い風を捲いて、沛然《はいぜん》と襲って来た湖畔の驟雨《しゆうう》が、紗《しや》のベールを懸け連ねたらんがごとく、模糊《もこ》として湖水の上を包んでしまったのでありました。 ————————————————————————————————————————  竹雨宗匠はこの長い物語を終わると、涙を呑むがごとく、しばし暗然とした面持ちで桐火桶の中を見つめている。長物語の疲労のためか、それとも悲しい想い出のためか、何となく憔悴《しようすい》したように見える、淋しそうな横顔の陰影を、私はしばらく無言のまま打ち見守っていたが、ふと眼を転じて見れば、湖水の上はいつしか濃い夜色に包まれてしまって、美しい宝玉をちりばめたような対岸の町の灯が、遠く芝居の書割《かきわ》りのようにしめやかに明滅しているのであった。竹雨宗匠はしばらくして口をひらくと、次のような言葉をもって、この長い物語に結末をつけたのである。 「夕立は須臾《しゆゆ》にしてやみましたが、再び湖水の上が明るく晴れ渡ったときは、代助の姿はすでにどこにも見られませなんだ。のこっていたのは主のない捨小舟《すておぶね》の中に、投げ捨てられた絵筆がただ一本代助の血にまみれて紅に染まっておりました。言うまでもなく湖水の上は、その後幾度となく捜索されましたけれど、ついに、三人の屍骸《しがい》を発見することはできませんでした。もっともそれからだいぶ後に蜆舟《しじみぶね》の熊手《くまで》の先に一度あの気味の悪いゴム製の仮面がかかったことがあるそうですけれど、漁師の迷信から、怖気《おじけ》をふるって再び湖水の底に沈めてしまったそうです。それから間もなく、あの関東の大震災で、この辺もかなりの打撃をこうむりましたが、不思議なことにはその地震のために、湖水の底にも地層の変動があったとみえて、いつの間にやらあの恐ろしい泥濘地獄も姿を消してしまったようです。したがって今ではだれも、この不気味な事件の起こった場所を、的確にそれと示すことのできる者は一人もいないのです。いわんや代助と万造とお銀の三人が、現世の怨讎《おんしゆう》から解脱《げだつ》して三位一体の仏となり、不生不滅の涅槃界《ねはんかい》に入ることができたか、それともあの泥の中から、地下数千|由旬《ゆじゆん》の底にあるという地獄へ堕ちて、永遠にいがみ合う一身三頭の獣身となり果てたか、そこまではこの私にもわからないのです」  さきほどから窒息しそうな気持ちでこの物語に聴きとれていた私は、竹雨宗匠の最後の言葉が切れるのを待って、静かに立って縁側へ出た。と、この時機を待ちかねていたかのごとく、数千の竹の節を一時に吹き貫《ぬ》くような爆音が、闇の中で炸裂《さくれつ》したかと思うと、あれ観よ、湖水の空高く大きな花提灯《はなぢようちん》を点じたように、花火が七彩の星をまたたかせながら、美しい花を開いた。そしてそれが一瞬の光芒《こうぼう》を誇りながら、再び闇の底に沈んで行った後には、ただ一団の青白い焔が、鬼火のように閃々《せんせん》と明滅しながら、飄々《ひようひよう》として、湖水の闇の中を流れて行った。 [#改ページ] [#見出し]  蔵の中  雑誌『象徴』の編集長磯貝三四郎氏が、いつものように午前十一時ごろ出勤してみると、校了になったばかりの編集室には、婦人記者の真野玉枝がただ一人、所在なさそうによその雑誌のページをパラパラとめくっているところだった。 「やあ、これは閑散だね。君一人留守番かい」  給仕に帽子とインバを渡しながら、磯貝氏は真っ白な歯を出して愛嬌《あいきよう》のいい笑顔を見せた。 「お早うございます」恰幅《かつぷく》のいい磯貝氏の体を、玉枝は笑顔で迎えながら「皆さん先ほどお出かけになりました。私もそろそろ出かけようかと思ったのですけれど、先生がお見えになってからと思って。……」 「そう、それはすまなかったね。何か用事?」 「ええ、先ほどまた蕗谷《ふきや》さんからお電話がかかって参りましたの」と言いかけて玉枝は驚いたように、「おやまあ大変な汗ですこと。木村さん、ちょいとお茶番の小母さんのとこへ行って、おしぼりをもらって来てちょうだいな、先生、お羽織をお取りになっちゃどう?」 「うん、そうしよう。何しろこれじゃやり切れん。歩いているうちはそうでもないのだが」  流れる汗を拭きながら磯貝氏が羽織をとるのを、玉枝はうしろに回って手伝ってやりながら、 「まあ、随分ひどい脂性ね、先生は、——これじゃお召し物がたまりませんわね」 「うん、亡くなった嬶《かかあ》にもしょっちゅうそう言って愚痴をこぼされたものだよ。やあ、タオルか、有難う、有難う。ほほう、これは冷たいや」  髭《ひげ》のあとの青々とした顎《あご》から太い首筋、たくましい腕から幅の広い胸のあたりまで拭き終わると、磯貝氏は初めてホッとしたように、回転椅子をギュッときしらせて大きなおしりを下ろした。五月はじめの事だからまだそれほど暑いという季節でもないのだが、八丈島の低気圧がどうしたとか、不連続線が何とやらで、この二、三日朝から電気をともさねばならぬほどの鬱陶《うつとう》しさ。 「蕗谷さん? 蕗谷さんてだれだっけな」  磯貝氏ははやデスクの上にあった手紙を取りあげると、不器用な手付きではさみを使って、チョキチョキと封を切りながら、真野女史にさっきの話の続きを促した。忙しい編集者というものは、たいてい同時に二つぐらいの用を足す術《すべ》を心得ているものである。 「あら、先生この間お会いになったじゃございません? ほら、あの筆で書いた原稿を持っていらした方よ」 「ああ、あの美少年……、そうそう、すっかり忘れていたがあの原稿はどうしたろう」 「先生のお机の中にありません?」 「そうだったかな。それは失敬した。やっこさん、さぞおこっていたろう」 「そんな事ありませんけれど、何しろ三度目なものですから、私何とあいさつをしていいか困りましたわ。後ほどお見えになるそうです」 「そうかい、それじゃ早速読んどく事にしようよ」  磯貝氏はその間に、デスクの上にあった二通の手紙と三枚の葉書を読んでしまったが、別に大した用件でもなかったと見えて、無造作に状差しに差すと、早速ひきだしをひらいて原稿を捜しはじめた。 「墨で書いた原稿だと言ったね。ああ、あった、あった、蕗谷笛二——と、これだね」 「ええそれ、『蔵の中』という題でしょう」 「そうそう、いやに古風な題だな。よし、今日は幸いひまだから早速読んでみよう」  蕗谷笛二なんて今まで一度も聞いたことのない名前だった。むろんこちらから頼んだわけでもなく、向こうから勝手に持ち込んで来た原稿だったから、磯貝氏がもう少しずるい編集者であったら、何とか難癖をつけて、突き返してしまうのは何の造作もないことであった。しかし、日ごろからどんな無名な作家の持ち込む原稿でも、必ず一応は眼を通してみるということを第一の信条とし、また自慢ともしていた磯貝氏は、この原稿だけに例外を設けるということは潔癖な氏としてとうていできないことだった。 「じゃ先生、私出かけてもよござんすね」  鏡に向かって五、六度帽子をかぶり直したあげく、やっと気に入るようにかぶれたので真野女史が満足の微笑《えみ》をうかべながら振り返ってみると、磯貝氏はすでにはれぼったい眼差《まなざ》しで食い入るように原稿に読みふけっているところだった。真野女史はそこで、なるべく靴音を立てないようにそっとその部屋を出て行った。編集室の中は静かである。給仕の木村はさっきから宿題の代数に夢中になっているし、訪問者もなければ電話もかかってこない。つまり磯貝氏の心境をかきみだすような事件は何一つ起こらないのだ。されば我々もこの間に、蕗谷笛二なるこの無名作家の、いささか風変わりな小説を読んでみようではないか。 ————————————————————————————————————————  四年振りに私はこの懐かしい、小さい私の王国に帰って参りました。  四年といえば私のような病気を持っている人間にはけっして短い月日ではありません。四年以前この蔵の中で姉と二人、無心に遊びふけっていたころの私は、まだ十四になったばかりのほんの子供でありましたのに、今ではすっかり背丈が伸び、骨組は固くなり、のどぼとけはあさましくとび出し声さえも昔の美しい響きを失って、我ながら嫌悪を感ずるような大人になってしまいました。かつては羽二重のようにすべすべとしていた頬も、何となく肌理《きめ》があらくなり、光沢を失い、頬骨は尖るし唇は色あせ、しかも鼻の下には若草のような房々とした髭さえ生えようとしているのです。しかし成長したのは私の肉体ばかりではありません。私のこの胸に巣くっている、生命の根を枯らす恐ろしい病気は、さらにそれ以上のすさまじい速度で、私の肺臓を食い荒してしまいました。四年間というものを私は退屈なあの房州の海辺で、気もめいるような物憂い、味気ない療養生活を続けて来たのですが、病気よりも前に私自身の方が、その寥《さび》しさに打ち負かされ、再びこうして壊れかかった肉体を引きずったまま、昔懐しいこの蔵の中に帰って来たのです。  それにしてもここは何という安らかな静けさでしょう。四年間起居していたあの海辺の漁村も、静かといえばずいぶん静かでしたが、その静けさはかえって人の心をかきみだすかと思われたのに、それに比べてこの蔵の中の、どんよりと澱んだようなほこりっぽい空気や、小さい窓から差し込む乏しい光線や、乱雑に積み重ねられた箪笥《たんす》や長持ちや古《ふる》葛籠《つづら》や、その他さまざまな古びた調度の醸《かも》し出す仄暗《ほのぐら》い陰は、傷ついた私の体をいたわるようにかき抱いてくれます。  この間初めて蔵の中へ入った私は、婆やにせがんで、その昔姉と二人で愛玩《あいがん》したお人形や時計や、その他さまざまな古い玩具や本を出してもらって、所狭きまでに床の上に並べたので、あたりの様子は四年前と少しも変わってはおりません。私のまくら元にはネジを回せばゴトゴトと動き出す機械《からくり》人形が立っていますが、これは若いころさるお大名の奥勤めをしていたことのある、私たちの曾祖母に当たる人が、お上から頂戴《ちようだい》したものだということで、千鶴さんという名がついていました。紫繻子《むらさきじゆす》の紋付きに緋《ひ》の袴《はかま》をはき、立て膝《ひざ》をして二丁鼓を調べている、稚児髷《ちごまげ》のかわいい人形で、背中のネジを回すと顫《ふる》えるような手付きでかわるがわる二丁の鼓を打つのでしたが、今久し振りに私の顔を見ると、千鶴さんは手垢《てあか》に汚れた頬をにっこりとほころばせながら、こんなことを言っているように見えるのです。 「笛二さん、あなたはやっぱりここへ帰って来ましたね。ここよりほかにあなたの住む所はないということがようやくわかったとみえますね。ずいぶんあなたは私達に御無沙汰《ごぶさた》をしましたが、私達は少しもおこったり気を悪くしたりしないで、昔と同じように仲好く遊んであげますよ」  私はまたつれづれのあまりに古い目覚まし時計を巻きます。これは瓦解《がかい》以前に祖父が長崎から買って帰ったもので、普通のベルの代わりに高い山から谷底見ればというあの古風な唄をいかにも所在ない調子で繰り返すのですが、今私が久し振りにその音《ね》に耳を傾けていると、やがてそれは次のような言葉となって私にささやきかけるのでした。 「笛二さん、笛二さん、あなたはなぜそのように悲しげな顔をしているのですか。あなたはまた亡くなったお姉さんのことを考えているのですか。それとも御自分の病気のことを思い悩んでいるのですか。あなたはそれほど死ということが恐ろしいのですか。ああ、死とは何です。そして生とは何ですか。生命《いのち》とは果てしなき闇《やみ》から闇へ飛ぶ白羽箭《はくうせん》の、一瞬の電撃をうけてチラと矢羽を光らせた、その瞬間のようなものではありませんか。箭《や》はどこから来たのです? 闇の中から来たのです。そしてまた箭はどこへ飛んでゆくのです。同じく闇のなかへ飛んでゆくのです。それ以上のことをだれが知りましょう。また知る必要もないのです。すべては闇から闇へと流れてゆくはかない駒のあがきにしか過ぎません。たとえ十年二十年生き延びたところでそれが何でしょう、この広大無辺な宇宙の闇に比べたら、葉末に結ぶ白露よりもなおはかなく脆《もろ》いものではありませんか。さあ笛二さん、その眉根《まゆね》に刻んだしわをお取りなさい。そしてもう一度昔のような浮き浮きとした気持ちで私達と遊ぼうではありませんか」  涙のにじんだ私の瞳《ひとみ》にその時|朦朧《もうろう》と浮かびあがったのは、窓より差し込むぼやけた光の縞の中に、花簪《はなかんざし》をひらめかし、友禅の振り袖を膝の上に重ね心持ち首をかしげてにっとほほ笑んでみせる美しい姉の姿でありました。その唇はあたかもこう言っているように見えるのです。 「笛二さん、今日は何をして遊ぼうかねえ」  思えばいとけなきころよりの私の記憶にして、この美しい姉と仄暗い蔵の中の光景に結びついていないものはありません。物心ついたころより私は、常にこの姉と二人きりで静かにおし黙ったまま蔵の中でお手玉をしたり千代紙を折ったり、紅《あか》い絹糸に美しい南京玉《ナンキンだま》を通したり、お人形に着物を着せたり、そしてそれらの遊びに飽きると、古い草双紙や錦絵を出して仲好くながめていたものです。姉はよくそれらの絵本の中に美しいお小姓や若衆の姿を見付け出しては、からかうように私の頬ぺたを指でつついたものですが、たぶんその意味はお前はこの絵のように美しいよというのであったでしょう。そこで私がお礼心に、美しいお姫様や腰元の絵を見付け出して、姉の頬ぺたをつついてやると、さすがにちょっとうれしそうに頬を染めましたが、すぐ淋しそうに長い睫《まつげ》を伏せて首を左右に振るのでした。  かわいそうに姉の小雪は生まれついての聾唖でありました。本郷で『ふきや』といえば昔から人に知られた小間物店で、その有名な老舗《しにせ》の一人娘と生まれながら、耳が聞こえず口が利けないばかりに、姉は淋しく蔵の中で春にそむいて日陰の生活を送らねばならなかったのです。それも醜い生まれつきででもあることか、人一倍優れた美しさでしたから、両親の不愍《ふびん》さはどんなでありましたろう。何もわからない子供の私でさえも、姉が溜め息をつくのを聞くとついほろほろとやるせない涙がこぼれてくるのでした。不具者とはいえ姉はこうして家じゅうの寵《ちよう》を一身に集めていましたので、ちょっともひねくれたところや意地悪いところはなく、ことに私には特別に優しい姉でしたのに、それが急に人が変わったように気が荒くなり、ちょっとした事にもおこって物を打ちつけたり、涙ぐんだりするようになったのですから、あの時分私はどんなに悲しかったでしょう。  忘れもしないあれは四年前の、ちょうど今と同じように物憂い春のことでした。私達は長持ちの中から古い錦絵を出してながめていましたが、その中に何代目かの豊国の画いた弁天小僧の一枚絵がありました。それは家橘《かきつ》時代の五代目菊五郎の似顔を画いたもので、緋縮緬《ひぢりめん》の長襦袢《ながじゆばん》を着た弁天小僧が、明け荷へ腰をかけ、抜き身の刀を畳に突き差し、銚子で酒を飲んでいるところでしたが、横に崩れた島田髷《しまだまげ》といい、ダラリと下がった緋鹿子《ひがのこ》の布《きれ》といい、凄味《すごみ》があって美しく、色気の中に凄味が利いて、しかも五代目特有の愛嬌がこぼれるばかり、実に何とも言えぬほど綺麗でした。聞くところによると後に河竹新七が五代目にはめて弁天小僧を書きおろしたのは、この一枚絵の見立てからヒントを得たものだということです。  姉はしばらく眼動《まじろ》ぎもせずにこの絵をながめていましたが、やがてぼっと上気した頬をあげると、うるみを帯びてキラキラと光っている眼でにっと笑いながら、つと私のそばにすり寄り、腕をとって袖《そで》をまくしあげると、何か言いたげにしきりに弁天小僧の絵と見比べています。私にはその意味がよくわかりましたが、姉はきっとこう言いたかったのでしょう。 「まあ随分綺麗じゃないか。笛二さん、お前もこの人のように刺青《ほりもの》をするといいねえ」  私は何の気もなく薄笑いを浮かべたままうなずいて見せましたが、その翌日姉が本当に隠し持った針でプッツリと私の腕を突き刺したのには、肝をつぶしてとびのきました。見ると白い腕《かいな》には南京玉ほどの血がポッチリと噴き出しています。姉は興奮のために真っ白になった顔をきっと引きつらせおとなしくここに坐っておいでという風に、しきりに自分のそばの床をたたいていますが、その時ばかりはさすがの私も、どうしても彼女の言葉に従う気にはなれませんでした。血走った眼といい、ブルブル震えている唇といい、まるで人間が変わったようで、日ごろ美しい女だけに一層凄味に見えるのです。  姉はいくら言っても私がきかないので業《ごう》をにやし、きりりと柳眉《りゆうび》を逆立てると、いきなり私の帯をとってそこへ俯向《うつむ》けに引き倒しました。そして赤い蹴出《けだ》しをちらつかせながら左腕を組み敷くと、はっはっと荒い息使いをもらしながら、何やらもぞもぞと取り直している様子に、私はもう抵抗する勇気もうしない、今にも鋭い針が突き刺さって来るかと、首をすくめて待っていましたが、そのうちにどうしたものか、腕を押えていた姉の膝から次第に力が抜けて行ったかと思うと、ふいにその場にがばと突っ伏した様子。私はびっくりして首をもたげてみました。見ると姉は両の袂《たもと》でしっかと顔をおさえたまま、床の上に俯伏していやいやをするように頭《かぶり》を振っています。その度に頭に插《さ》した花簪のビラビラが艶《なま》めかしくも震えるのです。 「姉さん、どうしたの」  私はしばらく、あっけにとられてその様子をながめていましたが、いつまでたっても姉が顔をあげないので、次第に不安になって来て、 「姉さん、おこったのかい、堪忍《かんにん》しておくれよう、ねえ、それじゃお前のいうことをきくからさ、さあ刺青《ほりもの》をしておくれ。お前の気のすむようにしておくれ。だけどあまり痛くないようにしておくれよ、ねえ」  むろんこんな事を言ったところで姉に聞こえる道理がありません。そこで私はいやがる姉にむりやりに顔をあげさせると、力ずくでその顔から両の袂をひっぱぎましたが、そのとたん思わずあっと息を飲み込みました。それもそのはず姉の唇には絹糸を引いたように美しい血の筋が垂れているのです。そして雪兎《せつと》に南天をあしらった友禅の膝のあたりには、ちょうど時ならぬ牡丹《ぼたん》の花が咲いたように、ガップリと一つ大きな血の塊りがこびりついているのでありました。  その日以来私たちはこの蔵の中へ入ることを禁じられ、姉は間もなく付き添いの婆やと共に海辺の別荘へ送られましたが、それから半年ほど後のある秋の朝、淋しくそこで息を引きとりました。そしてそのお葬《とむら》いのすむかすまぬかのうちに、再び私が同じ病気で、同じ別荘へやられることになったのです。  しかし、こんな風にお話ししていてはきりがありませんから、もうこれ以上姉のことを語るのはよしましょう。私にとっては、それは綿々として尽きぬ懐かしい思い出に綴られているのですけれど、皆さんにとっては、こういう話をいつまでも続けられることは、さぞ退屈なことであろうと思われますから。  それにしても、思えばまあ何という物憂い、味気ない世の中でしょう。私はもう千鶴さんの鼓の音にもあきあきしましたし、軒を伝う雨垂れのような、あのものうげな目覚まし時計の、高い山からの唄も、今では私に溜め息をつかせるばかりです。私はしょうことなしにひとり、手ずれのした双六盤《すごろくばん》に向かって筒を振ってみたり、糸のゆるんだ筑紫琴《つくしごと》に向かってうろ覚えの曲を奏でてみたりいたします。しかし、白い骰子《さいころ》がコロコロと盤上を転がってゆくひそやかな音を聞くとき、あるいはまた、金属性の琴の音が、しめやかな蔵の中の空気を顫わして反響するのを聞くとき、私は耐え難いやるせなさをかんじて、思わずふかい、深い溜め息をつきます。  ある時は、あまりの味気なさに長持ちの底から捜し出した古い鏡を、ひねもすのぞきこんで暮らしました。おそらくこの鏡というのも、前に言った曾祖母の遺品《かたみ》でありましたでしょう。古風な唐金《からかね》造りなのですが、よほど性《たち》がいいとみえて、長いあいだ磨きもしないのに、少しの曇りもなく、深淵《しんえん》のように碧《あお》い、澄み切った光をたたえています。私は昔からこの鏡を見るのが好きでした。というのはほかの鏡でみるよりも、この鏡で見るときが、いちばん自分の姿が美しく見えるからなのですが、今私は久し振りに、おんもりとした鏡の光沢の中に、すがすがしく写った自分の美しさに、思わずもしばし時のたつのも忘れてみとれてしまいました。蚕の腹のように青白く透きとおった肌の色といい山陰の谷間に湧き出ずる岩清水のうえに、ふと影を宿した空の色のように、はろばろとした瞳のかがやきといい、病気のためとはいえ、ぼっと上気したようなくれないの頬といい、さてはまた、よく熟《う》れた果実《くだもの》のようにあでやかな唇といい、我ながらまあ、何という美しさであろうと、ほれぼれとせずにはいられません。  ある時私はふと思いついて、お店からこっそり持って来た白粉《おしろい》や口紅や眉墨で、自分の顔をさまざまにお化粧してみました。冷たい白粉の感触がさわやかに肌にしみとおって、その時ばかりはさすがの私も、こし世の憂さを忘れ果てたかのような、楽しいときめきを感じましたが、さていよいよお化粧も終わって、鏡のなかに写し出されたわが顔を、改めてつくづくと見直した私は、思わず感嘆の声を放たずにはいられませんでした。ああ、何という美しさ、艶めかしさでしょう。この蔵の中に蓄えられている数多い錦絵のなかにも、こんな美しい顔が果たして画かれてあるでしょうか。私は軽くほほ笑んでみます、おちょぼ口を作ってみます、ながし眼を作ってみます、眉根にしわをよせて憂い顔をしてみます。そうしていやが上にも美しい表情を工夫しては、時のたつのも忘れて楽しんでいましたが、そのうちにこれではまだ満足できなくなって、長持ちの中から、姉の形見の振り袖を取り出すと、それを自分の身につけて見ました。さやさやと鳴る紅絹裏《もみうら》の冷たい感触が、熱っぽい肌をなでて、くすぐるようなその快さ。私はなおそのうえにふとした思いつきから、小豆《あずき》いろの帛紗《ふくさ》をさがしだすと、野郎帽子のようにそれを額に当ててみました。するとああ、鏡の中には忽然《こつぜん》として一個不可思議な人物が浮かび出してきました。それは男とも女ともつかぬ、世にも妖《あや》しく、また美しい面影でありましたが、争えないもので、こうして見ると私の顔は、おそろしいほど亡くなった姉の小雪に似ています。しかもなおそれよりも数等の美しさなのです。昔からよく白蛇は若衆に化けるといい伝えられていますが、あるいは蛇の化けた若衆ならこうもあろうかと思われるほど、全く類《たぐ》いまれな美しさでありました。  私はしばらく驚嘆の眼をみはって、ぼう然としてこの美しい、一種異様な怪物の顔を見守っていましたが、そのうちに何とも言えぬほどの寂しさに打たれました。ああ、私は何だって男になど生まれて来たのであろう。女に生まれていたら、毎日こうしてお化粧もでき、色美しく肌触りのいい着物を着てくらせるのに、男に生まれたばっかりに、こんなゴツゴツとした、くすんだ色の着物よりほかに着ることもできず、お化粧をするわけにも参りません。何というもったいないことであろうと私は思わず、ふかい溜め息をつくのでしたが、さらにまたもう一つ突っ込んで考えると、男でもいいからせめてもっと違った時代に生まれたら、これほど味気ない思いをせずともすんだのであろうと、残念でたまらないのです。私はしばしば草双紙で読んだ時代加賀見の藤浪《ふじなみ》由縁之丞《ゆかりのじよう》や、白縫物語の青柳《あおやぎ》春之助のように、曙染《あけぼのぞめ》の振袖に、茶宇《ちやう》の袴をはいた前髪立ちの、美しいお小姓姿をした自分の面影を夢や幻に見ることがあります。ああ、天下三美童と謳《うた》われ、世間からもてはやされたあの名古屋山三や不破伴作といえども、果たして私の夢にしばしば現われる美しいお小姓姿の自分より美しかったであろうかと思うと、私はこういう殺風景な時代に生まれた自分が残念でたまりません。はては『恐怖時代』の伊織之介のように、美しいお部屋様と共謀《ぐる》になって、愚かな殿様や、野蛮な御家老たちを翻弄《ほんろう》することができたら、どんなに生きがいのあることだろうと考えているのでした。  しかしどんな名画といえどもあまりいつまでも同じものばかり見つづけていたら、いつか次第に感興が薄らいで来るように、私のその楽しい空想も、日数がたつに従ってだんだんつまらなく色あせて参りました。それに私は、ナルシサスと違っていつまでも自分の姿に見惚れ、はては自分の美しさに焦れ死ぬわけには参りません。つまり私はもうこの蔵の中で独り考えつづけているのには飽き飽きしてしまったのです。そこで、今度は古い遠眼鏡を持ち出して、こっそりと窓から外の世界をのぞいてみることになったのですが、ああ、この古風な、まるで伊賀越《いがごえ》の芝居にでも出てくるような、時代おくれの遠眼鏡が、これからお話するような恐ろしい事件に私をひき込もうとは、その時どうして考え及びましょう。  言い忘れましたが『ふきや』の店は皆さんも御存じの通り本郷の表通りにありますが、本宅は西片町の外れにあって、いま私のいるこの蔵というのは、小石川一帯を見下ろす崖《がけ》の上に立っており、見渡せば崖の下には家々の屋根が浪のような起伏を作って連なっています。そしてその向こうに伝通院の甍《いらか》や植物園の森などが手に取るように見えています。時はあたかも四月《うづき》中旬《なかば》の事とて日増しに濃くなってゆく樹々の梢や、漣《さざなみ》のように燃えあがる陽炎《かげろう》が暈《ぼや》けた遠眼鏡の焦点の中で、刷り損じた三色版のように色がずれて見えるのです。柳町の通りを行く人も電車も自動車も犬ころも古着屋の暖簾《のれん》も舞いあがるほこりも、一切の物すべてが虹のように赤と紫と黄色とに輪郭がぼやけて見えるのを、退屈し切った私はどんなに深い興味をもってながめたことでしょう。しかし私がこの遠眼鏡にあんなにも心を惹かれたというのは、ただそれだけの理由からではありませんでした。ある日偶然のことから、次のような不思議な事実を発見したからなのです。  私が今いるところから一丁ほど離れたところに、岬《みさき》のように突出した崖があって、その崖の下に一軒の家が、ちょうど清水《きよみず》の舞台のようにせり出しているのが、谷一つ隔てて真正面に見えます。いつもは雨戸のしまっているその奥座敷が、今日は珍しく開いているので何気なく遠眼鏡をその方に向けてみると、偶然障子をひらいて顔を出した、三十格好の粋《いき》な年増《としま》とピッタリと視線があいました。視線があったと言っても向こうではむろんご存じのないことで、ただ外をのぞいた拍子に偶然にも、その顔が遠眼鏡と真正面に向きあったというだけのことなのですが、おかげで私は思う存分にその容貌《かお》を拝見する機会を得たわけでした。色の抜けるほど白い、小柄の、粋で仇っぽい年増でしたが、どこかヒステリックな感じのする女で、崩れかけた銀杏《いちよう》返しの根を左手で邪慳《じやけん》に揺すぶりながら、空を見上げてチョッと舌打ちをすると、 「いやンなっちゃうねえ。どうしてこうはっきりしないお天気だろう。これじゃ今夜もあの人は来てくれやしないよ」  と、いかにもじれったそうに言うのがはっきりと遠眼鏡の中に映ったのです。  ああ、その時の私の驚き!  むろん一丁も離れたところでやるせない独言をもらしている女の言葉が、私の耳に届きようもありませんが、それにもかかわらず彼女のつぶやきがはっきりとわかったというのは、私には読唇術《どくしんじゆつ》ができるのです。しかもこの時まで私は、自分の体得しているこの技能に全く気がつかずにいたのでありました。  姉の小雪が聾唖であったことは前にも申しましたが、彼女は一時読唇術の先生について、唇の動きによって言葉を判断する法を、習っていたことがありました。しかし生まれつき非常に内気な彼女は、学校へ通うなどということは思いもよらず、わざわざ教師に家まで出張してもらっていたのですが、それでもなお一人ではいやがるので、やむなく私がお相伴《しようばん》として一緒に習うことになりました。むろん私は単なるお相伴に過ぎず、それに耳の方がよく聞こえるものですから、憶えこむのになかなか骨が折れましたが、それでも根気よくやっているうちに、どうやら時候の挨拶ぐらいは耳をふさいでいてもわかるようになったのです。ご存じの通り読唇術というのは唇の動きを見て言葉を判断するのですが、唇の動きの見えるような場合では、たいていそれより先に声の方が聞こえてしまうものですから、私のように耳に不自由のない者は、いつとはなしに自分がそういう不思議な能力を持っているということすら忘れがちだったのです。それが今この遠眼鏡のおかげでふいと私の頭によみがえって来たのですから、何かしら奇跡でも見るような驚愕に打たれると同時に、こみあげてくるような面白さ。それからというもの、私が前にも倍した熱心さで遠眼鏡のぞきに憂き身をやつし始めた事は今更お話しするまでもありますまい。  私には柳町の通りで時候の挨拶を交わしているお内儀《かみ》さん達の言葉もわかりますし、どこかの小僧が自転車をぶっつけておまわりさんに叱られているその言葉もわかります。そうかと思うと向こうの洋食屋の二階で女給さんと運転手が取り交わしている甘ったるい睦語《むつごと》を盗み聴くこともできるのです。  しかしそういううちにも私の注意が、自然と最初私にこのすてきな楽しみのいとぐちを教えてくれた仇者《あだもの》の住んでいる、かの清水の舞台のような座敷に向かうのは当然でありましたでしょう。  彼女が嘆じていた通り、その晩は果たして待ち人来たらずと見えて、家の中は真っ暗に静まり返っていましたが、それから二、三日後の夜のこと、開けっぴろげた座敷の中に煌々《こうこう》と電気がついているので何気なくのぞいてみると、果たしてそこには旦那と覚しいでっぷりと肥った、恰幅のいい四十がらみの男が、ちゃぶ台の向こうにヤニ下がって酒を飲んでいるところでした。髭の濃いはれぼったい眼をした男で、すでにだいぶ酒がまわっているとみえて真っ赤になった顔を電燈にテラテラと光らせながら、暑そうにはだけた胸を平手でピシャピシャとたたいては、女の方に向かって何かしきりに冗談を言っています。笑うと歯が真っ白でとても愛嬌があります。ところで女の方はと見ると、この間あのように恋い焦れていたにもかかわらず、今夜は一向浮かない調子で、お銚子の底をなでながら、とかく渋りがちな受け答えをしています。そのうちにおあつらえ向きに男の顔がふいとこちらを向いたので、言っている事がはっきりと遠眼鏡に映りました。 「まあそう言うなよ。この二、三日とても雑誌の方が忙しかったもんだからね」  それに対して女が何か言ったのでしょう、男はニヤニヤと笑いながら、 「そりゃお静さんのおっしゃるように、おれだって雑誌なんて止しちまって、始終こうしてそばでお酌をしていてもらいたいさ。しかし人間てそうはゆかないよ。そりゃお金のことなら何とでもして下さるというお静さんのお言葉は有難いが、世の中は金ばかりじゃゆかないものさ、まあさ、話さ、そうおこんなさんな、第一私がよすったって世間でよさしちゃくれないよ。大きなことをいうじゃないが『象徴』も今じゃ私一人の雑誌じゃない。世間さま御一統のいわば公器みたいなものさ」  むろんこれらの言葉はこううまく順序立ってしゃべられたわけではなく、何度にもわけて語られたのを便宜上一つにまとめたのですが、これだけでもずいぶんいろいろなことが推察されるではありませんか。まず第一にこの人はあの有名な雑誌『象徴』の編集者とみえます。それから女の名前がお静さんということ、二人の関係が普通の旦那とお妾《めかけ》さんの間柄ではなく、反対に女の方から貢《みつ》いでいるらしいこと、女はなおそれでもあきたらずお金ならいくらでもあるから、雑誌なんて忙しい職業はよしてしまって、始終そばにいてくれと申し込んでいるらしいこと、それに対して男の方がそうもなりかねると異議を申し立てているらしいこと等々々です。  私はあの有名な雑誌の編集者の私生活がのぞけるということに大変興味を感じたので、その翌日早速婆やに頼んで『象徴』を一冊買って来てもらうと、奥付けによって、この人が磯貝三四郎という名前であることを知りました。  磯貝氏は一週間に二度か三度ずつやって来て泊まってゆくらしく、いつもは墓場のようにしんとしているその家が、彼のやって来た晩に限って、雨戸を全部開けひろげ、電燈の光も浮々とみえるのですぐわかりました。ちょうど陽気が次第に暑さに向かっていたのと、磯貝氏という人が随分暑がり屋さんとみえて、そんな晩には障子から襖《ふすま》から何もかも開け放してしまうので、私にとっては大変都合がいいわけで、そうして根気よく遠眼鏡をのぞいているうちに私はずいぶんいろんな事実を知ることができたものです。まず第一に磯貝氏は去年か一昨年《おととし》奥さんを失って、今では不自由な鰥《やもめ》ぐらしをしているらしいのです。そしてお静さんとはまだその奥さんと結婚しない以前になじんでいたらしいのですが、その後いろんな事情から一切手を切り、十年あまりも互いに相手の消息をきくこともなしに過ごしてきたのが、磯貝氏が奥さんを失ってから間もなく、どうかした拍子に撚《よ》りが戻ったらしいのであります。そのころ女の方でも久しく世話になっていた旦那に死に別れ、もらうだけのものはもらって今では何をしようと勝手というもったいないような御身分、そこへもって来てその昔、飽きも飽かれもせぬ仲を泣きの涙で引き裂かれた当の磯貝氏が、これまた奥さんを失って男鰥《おとこやもめ》でいるところへ撚りが戻ったそのうれしさ、なおこの上の欲はと言えば、一日も早く磯貝氏の正妻としてその家へ入り込みたいというのが彼女の無理ならぬ願望なのですが、それがなかなかそううまく運ばないところに口説《くぜつ》の種があるらしいのです。 「まあ、もう少しお待ちよ。お前さんのようにそう足下から鳥が立つように言っても仕方がないじゃないか。今に万事片がつくからさ、そうしたら晴れて一緒になろうじゃないか」  お静さんがあまりしつこいので、今夜はさすがに磯貝氏も多少持てあまし気味らしい。 「片がつくってどう片がつきますの」  と、そういう声は聞こえませんけれどたぶん巽上《たつみあが》りに癇走《かんばし》っているのでしょう、細い眉がきりりと釣り上がっているのは、例によってヒステリーが昂じかけている証拠で、こんな時には前後《あとさき》の分別もなくあることないことベラベラしゃべりまくるのが彼女の癖ですから、私にとってこんな有難い機会はまたとありません。今夜はいったいどんなことを言い出すだろうかと、私はもう襟元をゾクゾクさせながら、一生懸命で彼女の唇の動きをながめていました。 「いいえ、わかりませんよ。そうですとも、どうせ私はわからずやですよ。ああくやしいッ」  ソーラ始まった。 「あの時あなたは何とおっしゃって? とにかくあの女が死ねば財産はみんなこちらのものになるのだから、それまで辛抱しろとおっしゃって……それから間もなく奥さんはお亡くなりなすったじゃありませんか。それもただの死に方ではありませんよ。ええ、ええ、あたしはちゃんと知っています。体中に紫の斑点ができて、そして血をたアくさん[#「たアくさん」に傍点]お吐きなすったとか……」  私は思わずゾッとして磯貝氏の方を見ました。  磯貝氏は何か言いながら、いきなり猿臂《えんび》を伸ばしてその口をふさごうとしましたが、その前にすらりとすり抜けたお静さんが、電燈のすぐ下に立ったので、私には前より一層はっきりと彼女の言葉がわかるのです。それはとても早口で、私のような不完全な読唇術者には、とうていそのままを紙のうえにうつすことはできませんが、大体のところを翻訳してみると、次のような意味になるのです。 「ああ、私はどうしてあなたのような恐ろしい人に惚れたんだろうねえ。自分で自分がわからない。このごろ私はよくあなたに絞め殺される夢を見るのですよ。あなたのその太いたくましい指先で。……いずれは私も前の奥さんみたいに毒をのまされるか絞め殺されるかするに違いないわ。それがわかっていながらあなたのことが忘れられないなんて、ああ、何という因果なことでしょう」  女はそこまで言うとふいにちゃぶ台の端に泣き伏してしまったので、それから後の言葉はわかりませんでしたが、この時以来私の好奇心がますます熾烈《しれつ》にあおり立てられたろうことは皆さんの御想像に任せます。とりわけさめざめと泣き伏した女の傍らで冷然と盃をふくんでいる男の眼差しの恐ろしさは、私の骨の髄まで凍らせ、その後しばしば夢となって私を脅かしたくらいでした。  それから後の毎日を、私がどんなに深い興味と期待とをもって、この不思議な男女を監視していたか、今更申し上げるまでもありますまい。私はあたかもこの奥座敷に取りつかれたように、暇さえあれば遠眼鏡のぞきに浮き身をやつしていたものですが、その後別に大したこともなく、案外|睦《むつま》じそうに酒を酌み交わしている晩などもあって、少なからず失望させられましたが、するとそれから半月ほどたったある夜のことです。  たぶん十一時も過ぎていましたろう。蔵の中でうとうとと浅い眠りをむさぼっていた私は、突然けたたましい叫び声を聞いたような気がして、がばとばかりにはね起きるといきなり遠眼鏡に飛びつきました。ああ、私はまだ夢の中にいるのでしょうか。それともとうとう気が狂ってしまってありもしない幻を見るようになったのでしょうか。いつもの座敷のあの白い障子に、ありありと世にも恐ろしい影が映っているではありませんか。周囲が真っ暗なのにそこだけが枠に切ってはめたように明るいのですから、その声のない影絵の動きが、ちょうど幻燈をでも見るようにはっきりと見ることができます。髪を振り乱して逃げ回っているのは確かにお静さんに違いありません。それから裸身《はだか》のような格好で、大手をひろげてその後を追っかけ回している大入道はまぎれもなく磯貝氏です。二人はしばらく無言のままこの恐ろしい鬼ごっこを続けていましたが、やがて大入道のたくましい腕がお静さんの髪にかかったかと思うと、いきなりそこへ引き倒しました。ハッとして思わず息を呑み込んだのと同時に、だれかが電燈のスイッチをひねったのでありましょう、部屋も障子も一瞬にして真っ暗になってしまったのです。しかし私が今見たのが夢でも幻でもなかった証拠には電気を消してから間もなくのこと、ふいにメリメリと障子が内側から破られると、その穴の中からニューッと白い女の手が突き出して来たのを、折からの朧月《おぼろづき》にはっきりと見ましたが、その手は全身の苦悶《くもん》の表情を全部そこに集めたかのごとくしばらくのたうち、もがき回っていましたが、やがて次第にその指先から力が抜けてゆくと、花が凋《しお》れるようにぐったりと折れた障子の桟の上にうなだれてしまったのです。息を殺し、生唾を呑み込み、瞬きせずにその断末魔の表情を見守っていた私の全身からはその時滝のような汗が流れ、自分の吐くこの荒い息づかいが、向こうの座敷まで届きはしないかと気遣われたくらいでありました。  するとその時です。ふいに内側から障子がそろそろと開いたかと思うと、その隙間《すきま》から、恐る恐るあたりを見回している磯貝氏の顔が、折からの月明かりにはっきりと見えました。磯貝氏はしばらく気遣わしげな面持ちで折れた障子の桟をながめていましたが、そのうちにどうした拍子かふいとこちらを向いたかと思うと、何となく腑に落ちぬという顔付きでじっと遠眼鏡の方をのぞいているのには、私は思わずゾッとして震えあがりました。充血した男の顔が遠眼鏡の視野いっぱいにひろがって、恐怖に怯えた眼から、わなわなと震えている唇、さては顔中の毛穴までがブツブツと数えられるような気がしました。ひょっとすると私の姿を見付けたのではないかと思われるほど、磯貝氏はまじろぎもしないでしばらくこちらを見つめていましたが、やがて激しく身震いをするとピタリと障子を閉ざして中へ引っ込んでしまいました。  それから間もなく私は裏庭の方に当たってちらちらと明滅する提灯《ちようちん》の燈《ひ》と、その明かりの中に薄白くひらめく鍬《くわ》の光を見ることができましたが、それが何を意味するものであるかはあらためてここで申し上げるまでもありますまい。不思議なことにはそこまで見届けた私は、長い間の重荷をおろしたかのように、ほっとした気持ちでその夜は絶えて久しい熟睡をむさぼることができたのであります。  さあこれで私の知っている事は全部申し述べました。それから二、三日後、私が重い体を引きずってかの崖上の家まで出向いて行ったこと、そしてすでに空き家となっていたその邸の奥庭の柘榴《ざくろ》の木の下で、私が何を発見したか、それらのことは今更くだくだしく付け加えるまでもありますまい。私は自分でもなぜこんなものを書きあげたのかよくわかりません。私には他の善良な市民のように、知っていることを警察へ届けなければならないというような殊勝な心掛けの毛頭ないことだけは確かです。私はただ磯貝氏に思い知らせてやりたいのです。お前はだれも知らぬと思ってヌクヌク澄まして通るつもりだろうが、そうは行かぬぞということを、あの面憎い男に知らせて、その狼狽する様子を見て嗤《わら》ってやりたいのです。それに私には、この事件はただこれだけで終わったのではないというような気がしてならないのです。物には初めがあれば終わりがあるものですが、さてこの物語が果たしてどういう風に終わるか、私にはどうやらそれがわかるような気がします。磯貝氏はこの原稿を読めば、きっともう一度あの空き家へ引き返してくるでしょう、犯人はだれでも一度は必ずその犯行の現場へ帰って来ると言われているではありませんか。あの男が空き家へ引き返して来たら、ああ、その時こそ私ははっきりとこの物語がいかに結末を告ぐるべきであるか、あの男に教えてやりたいと思うのです。  磯貝氏は奇妙な終わり方で結ばれているこの原稿を読み終わると、しばし呆然として虚空をながめていた。原稿が進んでいくにしたがって次第に紅潮を呈していた氏の頬は、今ではかえって紙のように真っ白になって、凝然とある一点に静止した両眼だけが、西洋皿のような固い光沢をもってギラギラと光っている。やがてゴクリと大きく音を立てて生唾を呑み込むと磯貝氏は無意識のうちに額に垂れかかった髪の毛を掻きあげていた。髪の根は冷たい汗でビッショリと濡《ぬ》れていた。  ただこの場合磯貝氏にとって幸いだったというのは、折から無人の編集室ではだれ一人氏の様子に注意をしている者のなかったことである。だから磯貝氏はだれに妨げられる心配もなく、ゆっくりとこの善後策を講ずることができるのだ。磯貝氏はそこでまず袂《たもと》から敷島の袋を取り出すと、ゆっくりとその一本に火をつけ、さて改めてこの風変わりな、恐ろしい原稿を吟味しようとかかった。たばこの火はすぐ立ち消えになってしまったが磯貝氏はそれにも気がつかない様子で、原稿のページをあちこちとめくっていた。こうして原稿を何度も何度も繰り返して読んでいるうちに、今度は幾分|安堵《あんど》の色が磯貝氏の面上にうかんできた。そこで氏は初めて立ち消えになったたばこに気がつき、改めて二本目に火をつけた。しかし間もなくこの二本目も半分も吸わないうちに消えてしまったことに気がつくと、さらに三本目のたばこを袋から探り出そうとしていた磯貝氏は、この時急に気が変わったように時計を見上げて立ち上がった。 「木村君、帽子とインバを取ってくれ給え」 「お出掛けですか」 「うん、ちょっと広瀬さんとこまで行って来よう」  とっさに思いついた寄稿家の名前をでたらめに言いながら、さてこの原稿はどうしたものかと、磯貝氏はしばらく躊躇《ちゆうちよ》していたが、インバのボタンをかけ終わると同時に急に決心がきまったとみえて、無造作にそれを懐にねじ込むと、できるだけ落ち着いた足どりを作りながら編集室を出ていった。  さて、晩春の街を二、三度自動車を乗り換えた磯貝氏がやっと本郷のあの崖上の家に近付いて来たのは、それから約一時間ほど後のことだった。ついこの間生涯に二度と通るまいと決心したこの道を、再び過ぎゆく自分の影に、さすがの磯貝氏も何となく不安な脅かされるような気持ちだった。  そこは昔の組屋敷の跡とおぼしき、武者窓のついた殺風景な長屋が片側に立ち並び、他の一方は小石川を一望に見おろす崖になった淋しい一本道で、めったに人と会うようなことのないのはよく知っていたが、それでも磯貝氏はできるだけ人眼を避けながら、貸し家を捜すような格好で目指す邸の表までたどりつくと、素早く道の前後に眼をくれた後軒の傾いた冠木門《かぶきもん》の中にとび込んだ。十日ほど見ない間に庭樹の繁みがすっかり深くなって、湿った土の匂いと草いきれがむせるように鼻を襲って来る。磯貝氏はそろそろと玄関の格子をひらくと、足音に気を兼ねるように、用心深く畳のうえへ上がった。締めきった家の中は濃い闇に包まれていて、戸の隙間から差し込む白い光がびっくりするほど鮮かな縞目を織り出している。磯貝氏はミシリミシリと浮き足で畳のうえを踏み渡るとようやく奥座敷のそばまで近付いてきたが、さすがにそこの唐紙を開くのにはよほどの勇気がいるとみえてしばらく躊躇の色を見せていたが、その時ふいに部屋の中から、くすぐられるような低い笑い声がきこえてきた。 「お入りなさいな、磯貝さん」  磯貝氏はそれを聞くと何か痛いものにでも刺されたように、ビクリと眉を動かしたが、それと同時に反射的に合いの襖を押しひらいていた。見ると崖の方へ向いている雨戸を一枚だけひらいてそこから流れ込んで来る白い光の中に、見覚えのあるあの少年が、ピッタリと畳に腹をくっつけて寝そべっているのだった。 「よくいらっしゃいましたね、磯貝さん」少年はいかにもうれしそうな声を立てて笑いながら、 「この間から私は、どんなにあなたのいらっしゃるのをお待ちしていたことでしょう。むろんあなたがいつかはお見えになるだろうことは、少しも疑いませんでしたよ。ただ心配だったのは、それまで私の体が持つかどうかということでしたけれど……」  蜥蜴色《とかげいろ》をした少年の眼は急にうるみを帯びてキラキラと輝き、頬にはポッと赤味がさし、その唇は何かしらいまわしい物をでも吸った後のように真っ紅に濡れていた。なるほどこの少年はたしかに美しかった。しかしその美しさはみずみずとした美しさではなく、何かしら日陰の湿地で熟れ崩れた果実《くだもの》のようにすえたにおいのする美しさだった。あの蚕の腹のように青白く透き通った肌の下には、どんな不潔な、恐ろしい病気が巣食っていることだろうと思うと、磯貝氏はゾーッと総毛立つような気味悪さを感ずるのだ。 「君が蕗谷笛二君だね」磯貝氏は乾いた唇を舌でしめしながら、やっとこれだけのことを言った。「いったい、私をここへ呼び寄せて君はどうするつもりだね」  笛二はそれを聞くとフフフフと含み声の低い笑いを立てると、 「それはあなたの方がよく御存じのはずじゃありませんか。あなたこそいったいここへ何をしにいらしたのです」  磯貝氏はそれには答えないで、なるべく外からのぞかれないように、そっと暗い座敷のすみの方へ体をずらせた。笛二は黙ってその様子を見ていたが、やがてニヤリと気味の悪い笑みをもらすと、 「ああ、あなたは外から見られたくないのですね。そうでしょう、あなたはだれにもこの家へやって来たことを知られたくないのでしょう。それはいったい何のためでしょう。むろん、この間あなたの演ぜられたあの恐ろしい犯罪が明るみへ出る日のことを考えて、できるだけ用心深く振舞おうというのもその一つの理由でしょうが、それよりもさらに切実な、根強い理由が他にあるはずです。ね、あなたもそのことを御存じでしょう。いいえ、御存じですとも。ただあなたはなるべくそのことを考えまいとしていられるだけのことです。よろしい、それでは私が代わりに言ってあげましょうか。あなたはつまり、これから演じられるかもしれない、もう一つの犯罪の場合のことを考えて、なるべく用心をしなければならないのでしょう」  磯貝氏はそれを聞くと、心の底の秘密をのぞかれたように、ギョッとして相手の顔を見直した。しかし笛二は依然として畳のうえに腹ばいになったまま、ニヤリニヤリと気味の悪いほほえみを浮かべている。 「磯貝さん、何も御心配されるようなことはありませんよ。だれもあなたを見ている者はありません。いやあなたばかりではありません。私がここにいることさえ、だれ一人知っている者はないはずなのです。だからここでこれからどんな事が演じられようとも、少なくとも当分は何人《なんぴと》にも気付かれずにすむことができます。もっともそれは、それから先のあなた御自身の行動にも大いにかかっておりますけれど」 「ねえ、蕗谷君」磯貝氏は自分でも気付かないうちに、だんだんと笛二の方へにじり寄りながら、 「これはいったいどういう意味なのだ。何か罠《わな》でもあるのかね。ねえ、そうだろう。だれかがこの邸を見張っている。そして何か私が下手《へた》なことでもしゃべろうものなら、やにわに躍り出して取って抑えようという、つまりそういうたくらみなんだろうね」 「御冗談でしょう」笛二は幾分むっとしたような声で言った。 「私を見損っちゃいけませんよ。そんな馬鹿馬鹿しいことをするような私であるかないか、あなたも名編集者といわれるくらいの人です。ひと目見たらわかりそうなものじゃありませんか」 「それもそうだが、どうも私にはよくわからないよ。まあ聞き給え、笛二君、私は恐ろしい人殺しだよ。そして殺人犯人というものは、第一の犯罪を隠蔽《いんぺい》するためには、どんな非常手段をもいとわないものだということぐらいは、君もよく知っているはずだと思うがね。現に私は最初の女房殺しを知られているばかりに、第二の女をついこの間手にかけた。忘れもしないこの同じ座敷で。……君もその現場を見ていたはずだね。こうして殺人犯人という奴は一つの罪の発覚を防ぐために、次第に罪に罪を重ねて行かねばならないのだ。さて私は今、前の二つの殺人事件の露見を防ぐためには、いったいどういう手段をとればいいのだろうね」  磯貝氏はそういいながら、次第に笛二のそばににじりよると、なるべく相手に気付かれないように、静かにその手を取りあげた。笛二はその気配を感じると、濡れているような眼をあげてニッと微笑《わら》うと、 「ああ、そのことをあなたは聞きにいらしったのでしたね。それでは私が教えてあげましょう。あなたのとるべき手段はただ一つしかありません。そしてその手段というのは、この原稿の中に詳しく書いてあります」  そう言いながら笛二は懐中を探ると、先ほど磯貝氏が読んでいたと同じ原稿紙に書いた、十枚あまりの短い原稿を取り出した。 「ああ、それがつまり小説『蔵の中』の後編なんだね」 「ええ、そうですよ。これにはあなたがあの前編を読まれてから後の物語が書いてあります。ちょっとその中の二、三行を読んでお眼にかけましょうか」  笛二はそう言ってパラパラと原稿紙を五、六枚めくると、細いふるえを帯びた、かなりいい声で読みはじめた。  ——私の予想に間違いはありませんでした。磯貝氏は果たしてあの原稿を読むと、早速空き家へ駆け着けて来ました。ああ、私たちの会見、それは何という妙な場面であったでしょう。磯貝氏は私の顔を見るといきなりこう言ったのです。  ——(君が蕗谷笛二君だね、いったい私をここへ呼び寄せて君はどうするつもりだね)—— 「おやおや、この台詞《せりふ》は先ほどあなたのおっしゃったのとそっくりそのままじゃありませんか」  笛二はいかにもうれしそうに低い声をあげてくすくすと笑った。 「それからね、私とあなたとの間に二、三の押し問答があって、とど私が原稿を読むことになっています。つまりこういう風にね。——私の予想に間違いはありませんでした。磯貝氏は果たしてあの原稿を読むと、早速空き家へ駆けつけて来ました。ああ、私たちの会見、それは何という妙な場面でありましたろう。——おや磯貝さん、どうかなさいましたか」 「妙だね、その原稿は、原稿の中にまた原稿があるのかい」 「そうなんですよ。そしてまたその原稿の中で原稿を読む事になっているんです。つまり何ですね、ほら、よく少年雑誌の表紙なんかにあるじゃありませんか。一人の少年が雑誌を持っている、ところがその少年の持っている雑誌の表紙というのが、その雑誌と……どうも話がはなはだ面倒ですが……同じなんです。つまりやっぱり少年が雑誌を持っている。ところがその雑誌の表紙というのがまた……、いや、私どものような肺臓の弱いものにはうまくしゃべれませんが、つまり無際限に拡大できる虫眼鏡で見ると、そこには無際限に同じ表紙があるわけなんですが、私の小説というのがやっぱりそれなんですね。しかしここは少し面倒ですから、二、三枚飛ばして読むことにしましょう。よござんすか。読みますよ」  ——(笛二君、ここの雨戸が開いているのははなはだ妙じゃないかね。一つこれを締めようじゃないか)  ——磯貝氏はそう言いながら立ち上がると開いていた一枚の雨戸を締めました。—— 「つまり、あなたが雨戸をお締めになったというのですね」 「なるほど、それじゃ私も一つその原稿にならって雨戸を締めることにしようか」 「ええ、それがよござんすよ」  磯貝氏は立ち上がって雨戸を締めた。座敷の中はたちまちむっとするような、厚い暗闇の層に包まれ節穴や隙間から差し込んで来る陽の光だけがびっくりするほど鮮かで、何かしら鍾乳洞へでも入ったような気がするのであった。磯貝氏は再び笛二のそばへ引き返して来ると静かに、しかししっかりと力を入れて相手の腕をとった。 「よござんすか。それでは続きを読みますよ」  ——(よござんすか。それでは続きを読みますよ)そう言いながら私はあたりを見回しました。  ——(しかし、こう暗くちゃ原稿も読めませんね。磯貝さん、すみませんが一つあなた代わりに読んで下さいませんか)  ——(そうかい、それじゃ私が読むことにしよう)  ——磯貝氏はそう言って私の手から原稿を受け取ると、闇の中にそれを透かしながらボツボツと読み始めたのです。—— 「磯貝さん、つまりこれから先はあなたが読むことになっているんですよ」 「そうかい、それじゃ私が読むことにしようか」 「ええ、そう願いましょう」  磯貝氏はそう言って、笛二の手から原稿を受け取ると、闇の中にそれを透かしながら読みはじめた。  ——ああ、私の思っていた通りでした。あたりが真っ暗になって、だれも見ている者のないことがわかると、磯貝氏はいきなり私の体に躍りかかり、その太い、たくましい掌でギュッと私の首っ玉をつかまえました。と、磯貝氏はその原稿を読みながら。  ——(なるほど、それじゃ私もこの原稿の通り君の首っ玉をつかまえようか)  ——と、そう言いながら、磯貝氏はやにわに猿臂《えんび》を伸ばして、むんず[#「むんず」に傍点]と私の首っ玉をつかまえました。—— 「なるほど、すると私も君の首っ玉をこうつかまえなければいけないようだね」  そう言いながら磯貝氏はやにわに猿臂を伸ばして、むんず[#「むんず」に傍点]と笛二の首っ玉をつかまえた。  ——そして、ぐいぐいと私ののどを絞めつけます。  ——(なるほど、それじゃ私も絞めつけようか)—— 「なるほど、それじゃ私も絞めつけようか」  この不思議な、そしてまた不気味な、謎のような原稿は、あたかも磯貝氏にむかって、避けがたい一つの殺人を示唆《しさ》しているもののようである。 「なるほど、それじゃ私も絞めつけようか」  磯貝氏は冗談めいた口調でもう一度同じことを繰り返して言ったが、少年の首をつかんだその指先には、とても冗談とも思えないほど、強い、真剣な力がこもっていた。  それに対して笛二はちょっと、白い眼をみひらいて、磯貝氏の面をみやったきりで、あえて抵抗を試みようともせず、聖者のように黙したまま、虚空の一方を凝視している。その面には何かしら、妙《たえ》なる音楽にでも聴きとれているような、安らかな、恍惚《こうこつ》とした表情がうかんでいた。  それを見ると磯貝氏は名状しがたい心の惑乱と動転とを感じた。ぎゅっと少年の首っ玉をつかんだ大きな掌の中で、笛二の軟かい肉塊が、海綿のように収縮してゆく、その不可思議な感触、少しの抵抗を試みようともしないで、夢見るような眼差しで、じっと暗闇の中を凝視しながら、欣然として死んでいく少年の、生温かいゴム人形のような肉体。——磯貝氏は恐怖におびえたような眼でそれを見守りながら、しかも一方ではこの奇妙な原稿から眼を離すことができないのだ。  磯貝氏は乾いた唇を幾度となく舌でしめしながら、低い、嗄《しやが》れた声で次のように原稿を読んで行くのだった。  ——磯貝氏の太い指は次第に私の肉の中に喰い入ってきます。そうでなくとも破れ腐れた私の肺臓に貯えられた乏しい酸素は、たちまち欠乏してしまい、全身の悪血がことごとく頭にのぼって、ガァーンと割れるような耳鳴りの中に、私は殷々《いんいん》としてとどろく大砲の音を聞きました。私の眼の前には、赤い血の筋の無数に走っている磯貝氏の野獣のような瞳と、噴火口のようにふくれあがった鼻孔と、赤くただれたような唇のしわと、それから月の表面のようにブツブツと突起している無数の毛孔が、おおいかぶさるように迫ってきましたが、間もなくそれが朦朧とぼやけてゆくと、後にはただ暗澹《あんたん》たる夜空の中に飛び交う無数の流星が私の前をよぎりました。ああ、今こそ私の生命は茫漠《ぼうばく》たる一団の焔と化し、わが肉体より離れて遥々《ようよう》たる天空のかなにに飛び去ろうとしているのです。しかしこれが果たして『死』というものであろうか。もしそうだとすると死ぬということは何という楽なことであろう。ああ、全身に浸みわたるようなこの快さ。阿片の夢にも似たるこの陶酔境。  ——やがて私の眼前に飛び交う無数の流星は、次第に化して燦爛《さんらん》と降りそそぐ散華《さんげ》となり、私の耳底にはあの殷々たる砲声の代わりに、どこやらで誦《ず》する静かな陀羅尼《だらに》の声と、えも言われぬ妙なる鈴の音《ね》が響いてまいりました。その鈴の音の美しさといったら、それに聞き恍《と》れているうちに、いつしか胸の苦しさも打ち忘れ、清涼なる一陣の気の、わが魂を乗せ、飄《ひよう》|※[#T-CODE SJIS=#E4C0 FACE= 秀英太明朝0212 ]《よう》として虚空遥かに飛び去って行くかと思われるばかりです。  ——その時私はふと、降りそそぐ散華の中に玲瓏《れいろう》と冴《さ》え渡った美しい姉の面影を認めました。姉は普賢菩薩《ふげんぼさつ》の如く白象に打ちまたがり、琅《ろう》|※[#T-CODE SJIS=#9674 FACE= 秀英太明朝0212 ]《かん》を貫いて成せるかと思われるその浄衣は、触れ合う度に珊々《さんさん》として響きを発し、馥郁《ふくいく》たる芳香をあたりに撒き散らします。私が先ほど、鈴の音と聞き誤った妙音は実に琳琅《りんろう》たるその響きでありました。行願の表現にして慈悲を司り給うとか聞き及ぶ普賢菩薩はやがて玉の如き腕《かいな》を私の方に差しのべると、さしまねくがごとくおっしゃった。  ——(笛二さん、笛二さん。何をあなたはそんなに遅疑しているのです。さあ、早く私のそばへおいでなさい。あなたをあの悩みの多い穢土《えど》からこの玉の浄土へお迎えしたのは、みんなこの私の業ですよ。ここにはあなたを苦しめる病気も、あなたを困らす人間もありません。さあ私と一緒にいつまでも、綾取りをしたり、お手玉をしたりして遊びましょう)  ——私はあまりの有難さ、かたじけなさに思わずハラハラと落涙いたしました。そしてのどにからまる痰火をふっ切らんものをと、喝然《かつぜん》と声をあげて叫んだのです。  ——(お姉さん、お姉さん、私もすぐに参ります)—— ————————————————————————————————————————  磯貝三四郎氏はようやく原稿『蔵の中』を読み終わった。磯貝氏の額には今、何とも言えぬほど不愉快そうなしわが数条刻まれている。  不愉快なのは自分が殺人犯人に擬せられているということでなく、自分の私生活がかくも奇妙な方法でのぞかれていたかということである。この小説の中には半分のうそと半分の真実がある。磯貝氏が夫人を毒殺したの、愛人を絞殺したのというようなことは、むろん途方もないでたらめであるが、昨年夫人を失った氏が、近ごろお静さんという女となじんで、一週間に二、三度その家へ泊まりに行くということ、それからお静さんの境遇、磯貝氏との関係、それらのことはだいたい間違いはない。磯貝氏は今本郷の崖の上にある『清水の舞台』のようなというお静さんの家の座敷と、その座敷から見える有名な『ふきや』小間物店の土蔵の白壁とをはっきりと眼の前に思いうかべた。あの土蔵の小さい窓から、肺病患者特有の奇怪な妄想《もうそう》と、異常な幻想とをもって、自分たちの情痴の世界をのぞかれていたかと思うと、磯貝氏は何かしらいまわしい物にでも刺されたような悪寒を全身に感ずるのだった。しかしそれはまだ我慢ができる。磯貝氏のとうてい我慢できないのは、こういう原稿を麗々しく自分の眼の前につきつけようとする相手の不可思議な心事である。そればかりはさすがの磯貝氏もとうてい了解する事ができなかった。磯貝氏はふと、この間応接室で会った少年の、蜥蜴の腹のようにギラギラと光っている三方白の眼を思い出すと、何かしらゾーッとするようないまいましさを感じた。 「木村君、この原稿を大急ぎで送り返しといてくれ給え」  磯貝氏は給仕の木村にそう命ずると、自分は記事|輻輳《ふくそう》につき云々《うんぬん》という、きまり文句の印刷してある葉書を取り上げて、それに相手の所書と名前とを書いて出させた。そして蕗谷笛二がやって来たら、こっぴどく叱りつけてやろうと身構えしていたが、どうしたものかその日はとうとうやって来なかった。いや、その日ばかりではなく、次の日もその次の日も何の音沙汰もなかった。さては原稿を送り返されてあきらめてしまったのかと、安心すると同時にいささか拍子抜けを感じていると、それから一週間ほど後のある朝のこと『ふきや』小間物店のせがれが『長の病気を苦にした結果』自宅の蔵の中で自殺を遂げたという記事が新聞に出ていたので、磯貝氏は再び愕然《がくぜん》とした。  笛二は生前彼があんなにも愛していた千鶴人形や、オルゴールのついた時計や、遠眼鏡や、草双紙や、その他さまざまな過去の幻や魑魅魍魎《ちみもうりよう》に取り囲まれ、姉の形見の友禅の振り袖を身にまとい、最初に発見した婆やの言葉を借りていえば『敦盛《あつもり》さまのように美しくお化粧』して、物の見事に頸動脈をかき斬って自殺を遂げていたのである。その姿自体がちょうど蔵の中いっぱいに繰りひろげられていた、錦絵の中から抜け出したように綺麗だった。どこかで遠雷の聞こえるような、物憂い味気ない午下りのことで、床の上に溜まったおびただしい血が、晩春の陽を吸って的《てき》|※[#T-CODE SJIS=#97C4 FACE= 秀英太明朝0212 ]《れき》と光っていたということである。 [#改ページ] [#見出し]  かいやぐら物語 [#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]   われ月明の砂丘にまろびて蜃気楼《かいやぐら》を観たり、楼上に一女仙ありてわれにくさぐさの恠《あや》しき物語などなしけり [#ここで字下げ終わり] [#地付き]——西洋赤縄奇観——    狂気を意味する lunatic なる語《ことば》は luna (月)という語からきているのだそうである。西洋人の考えかたによると、あの青白く澄んだ月光というものは、一種、神秘玄怪な作用をもっていて、あまり長くこの光にさらされていると、精神錯乱を起こし、さまざまな奇怪な幻像に悩まされたあげく、ついには発狂するに至ると信じられているのである。わたしがこれからお話ししようとする不可思議な物語も、あるいはこの例えにもれず、月光の醸しだした怪しい幻であったかもしれない。少なくともその時、わたしが一種奇妙な、つまりいうところの lunatic な気分に支配されていなかったとは、断言することができないのである。  その時分わたしは、ある南方の海辺に傷ついた体を養っていた。その年の春の終わりごろより、ふと安定感を失ったわたしの神経は、梅雨《つゆ》から夏にかけて、まるで研《と》ぎすました剃刀《かみそり》のように異様に尖り、ささらのように荒らくれて、ほとんど生きているのが耐えがたいような倦怠を覚ゆるに至った。わたしは終日外出することもなく、深く雨戸をとざした座敷のなかに、ひとり閉じこもって、さまざまな妄想や恐迫観念に脅かされながら、あるにかいなきその日その日を送っていた。わたしの心臓はしばしば薄い胸郭を押し破って、今にも外にとび出しはしないかと懸念されるほど、激しい、不規則な鼓動を打つのだった。じっとベッドの上に仰臥したまま、その心臓の鼓動を数えていると次第にそれは全身にひろがっていって、やがて足の爪先から頭髪の先端まで、脈々として激しい、乱調子な動悸《どうき》を打ちはじめるのだった。わたしは書を繙《ひもと》き物を思いて、終夜一睡もしないで、暁に至ることがまれではなかった。食欲は極度に減退し、体から最後の肉の一片まで削《そ》ぎ落とされてしまった。わたしは文字通り、骨と皮ばかりになって、しかもなお、生への執着と死の恐怖にさいなまれていたのである。  ついに医者は断乎《だんこ》としてわたしに転地を命じた。わたしもほとほと病いに倦《う》みはてていたので、思いきって医者のこの忠告に従うことにした。親切なわたしの友人たちはこれを聞くと、温暖な南の海辺に、格好の空き別荘を見つけて、そこをわたしの療養の地と定めてくれたので、秋のはじめごろよりわたしは、人里はなれた孤独の境地で、医者の定めてくれた日課を鉄則として、厳重な規則的生活をはじめることになった。医者はわたしのために、読書の時間と、散歩の時間を極端なまでに制限してしまったので、わたしは一日の大半を砂上に絵を画いては消し、画いては消しするような、物憂い、やるせない日課によって時間を数えてゆかなければならなかった。それでもつとめてこの日課を遵守したおかげで、二ヵ月ほどのうちにわたしの体は眼に見えてよくなってきた。わたしはもう、前のように取りとめもない不安におびえながら、心臓の音に心耳をすましているようなことも少なくなり、肉もいくらかつき、頬に紅味もさして来たように思えた。しかしそれにもかかわらず、なおかつ、あの不愉快な発作が突如頭をもたげては、わたしの散歩を妨げることが少なくなかった。散歩はわたしの好まざるところではない。しかし闇中の独居に慣れたわたしの神経には、明るい日中の直射光線は、ともすると耐えがたく強い刺激であった。ある日の午後、わたしは薄陽の下にたたずんで海のうえをながめていた。すると突如として足下の砂がザラザラと崩れてゆくような不安とともに、蒼い濤《なみ》が一面にふくれあがって、わたしの体に襲いかかってくるような幻覚を感じた。わたしは恐怖のあまり、思わず砂の中に頭を突っ込んでしまったが、その日以来わたしは、日中の散歩を日没後におきかえた。  わたしはまたしばしば不眠に悩まされねばならなかった。孤独なひとり寝の枕に通う濤の音は、眠ろうといらだてばいらだつほどわたしの神経をかきみだし、防風林の梢を渡る風の音は、しばしば雨かとばかり、浅いわたしの夢をおどろかした。わけても雨の夜の寂しさはいうばかりもなかった。わたしは終夜|輾転《てんてん》しながら、|秋 夜 長《あきのよながし》、|夜  長  無  眠《よながくしてねむることなければ》  |天 不 明《てんもあけず》、 |耽 々 残 燈《たんたんたるざんとうの》  |背 壁 影《かべにそむけたるかげ》、 |蕭 々 暗 雨《しようしようたるあんうの》| 打 窓 声《まどをうつこえ》、という古人の詩を思い出し、はてはまどろみかねる秋の夜長に倦み果てて、寝間着の上に羽織を重ねると、狂気のごとく深夜の海辺にさまよい出ることもあった。そのころの天気ぐせとして、浜辺は海夜深更から暁にかけて白い霧が立ちこめた。霧はわたしの頭髪《かみ》を濡らし、頬を湿し、襟をうるおしたが、頭の熱したわたしにはかえってその方が気持ちがよかった。さくさくと湿り気を帯びた砂を踏み崩す音も、いきり立ったわたしの神経にはさわやかにひびくのだった。砂上三十分の散歩は、平地の二時間にも相当するというが、そのせいか間もなくわたしは、ぐったりと疲労を感じてくると、かろうじて暁までの短い眠りをむさぼることができるのであった。  その晩もわたしは、こうしてあてどもなく深夜の砂浜にさまよい出ていた。珍しく霧のない晩で、膠礬水《どうさ》を引いたような目のつんだ明藍色の空には、満月に近い月が白く澄んでかかっていた。それがあまり清く、あまり明らかなので、ほとんど球状をなしているとは信じられないくらいで、叩けばボアーンと音のしそうな、薄っぺらな円盤か何かのような気がした。そういえば表面に見える薄白い斑点なども、銅鑼《どら》に彫ってある模様かなんぞのように見られる。古代中国人の空想はこの月の中に兎とともに蟾蜍《ひきがえる》を棲《す》ませているのだが、果たしていずれが兎で、いずれが蟾蜍であろうか。砂丘のうえを見れば、ちょうど水路《すいろ》凝霜雪《そうせつをこらす》という句の通り、水のように真っ白にいぶっていて、その上に散らばっている大小の貝殻類が、一際白く、螺鈿《らでん》をちりばめたように銀色に輝いている。海のうえにもほとんど濤らしい濤は見られなかった。この海を鏡ケ浦というのは偶然ではない。全く研ぎすました一枚の板であるかのように、青く柔かに、粘着力をもって盛りあがっていて、手ですくいあげれば、そのまま水銀のように玉となって、ころころと転がりそうな気がするのである。ただ岸の方には幾分波があって、月光をうけた波頭が無数の黄金の小蛇のように、チロチロと楽しげに戯れている。  わたしはふと砂丘のうえに腰をおとすと、しばらく放心したように、この雲母刷《きららず》りの風景画をながめていた。風は甘い潮の香を含んで、いくらか濡れているようであったが、少しも冷たくはなかった。砂の中に指を入れてみると、表面はひやりとしていたが、中の方にはまだ昼のほとぼりが残っていた。そのほとぼりを楽しみながら、何気なく掌《て》のなかで砂を弄《もてあそ》んでいると、その時ふと、どこからかかすかな笛の音が聞こえてきた。それはあたかも二枚の貝殻をすり合わせるような、キイキイとした、鋭い、単調な音色であったが、それにもかかわらずじっと耳を傾けていると、思わず気が滅入ってくるような、やるせない響きを帯びている。わたしはしばらく、かつ絶え、かつ続き、むせび泣くがごとく嫋々《じようじよう》として砂丘をはってくる笛の音に、聞くともなく耳を澄ましていたが、そのうちに耐えがたい寂寥《せきりよう》と、胸をかきむしられるような悲愁とに誘われた。 [#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]   |吹 笛《ふえをふく》 秋《しゆう》 山《ざん》 風《ふう》 月《げつの》 清《きよきに》   誰《たが》 家《いえか》 巧《たくみに》 |作 断 腸 声《だんちようのこえとなす》   風《かぜは》 |飄 呂 律《りよりつをひるがえして》 相《あい》 和《わして》 切《せつなり》   月《つき》 |傍 関 山《かんざんにそうて》 | 幾《ゆく》 | 処《ところ》 |明 (あきらかなり) [#ここで字下げ終わり]  何人がかくのごとき風流をもってわが胸を傷《いた》ましむるかと、半ば怪しみ、半ばおどろきながら、わたしは砂丘を下って笛の音の方へちかよって行った。わたしはよほど足音に気をつけたつもりであったが、それでもこの風流人のすさびを、心なく妨げることを防ぐことはできなかった。足下に崩れる砂の音を聞くと、その人は突如として笛を吹くことをやめて振りかえったが、その姿を月光の下に正視したときには、わたしの驚きの方がよほど大きかった。思いがけなくもその人は女だったからである。わたしは自分のぶしつけを後悔しながらこう言って謝った。 「お邪魔でしたかしら。あまり笛の音が見事だったものですから。……どうぞ御遠慮なくお続け下さい」 「いいえ、笛ではございませんの」  女はそう言って夜目にもしるき黒い瞳を、にっとほほ笑ませながら、右の掌《て》をひろげてみせたが、そこには桜の花弁のようなうす桃色の貝殻が二|片《ひら》のっかっていた。その時の女の様子をわたしはいったいどういって形容したらいいだろう。砂の上に無造作に横坐りになった彼女は、全身に水のような月光をまとって、ポーッと琥珀《こはく》いろに濡れ輝いているように見えた。そして彼女が身動きをする度に、月の雫《しずく》がかけらとなって、あたりに飛び散るように思える。わたしはその寒いような、一種異様な美しさに、思わず肌着の下で戦慄《せんりつ》した。 「これをこうして二枚合わせて吹きますと、ああいう音がしますの。吹いてみましょうか」  女は怖れを知らぬ性質とみえて、人懐っこい調子で誘うように言った。 「どうぞ」  女はふたたび貝殻を口に当てて吹きはじめる。笛の音は砂丘を越え、海を渡り、遥か月の世界まで届いたであろう。わたしは女の傍に坐して恍惚として耳を傾けていたが、まるでそれは地中海を航行する水夫たちを、海に誘わずにはおかぬという siren の唄《うた》の如く、物憂く、やるせなく、わたしの腸をかきむしるのであった。 「いかが?」  しばらくして女はふと笛を吹くのをやめると、こちらを向いて嫣然《えんぜん》としてわらった。わたしはその時、はじめて彼女の顔を正視することができたのである。女はまるで西洋紙のようにつるつるとした卵色の顔をしていた。そしてあの黒い、特徴のある瞳には、驚くほど長いまつげがかぶさっていて、それが常に味のふかい陰翳《いんえい》を顔全体にあたえている。唇はいくぶん受け口で、それが、妙に蠱惑的《こわくてき》な情感をそそる。頸《くび》は片手で握られるほど細い。着物の色はよくはわからなかったが、月光の下でみた限りは、それは清楚《せいそ》な青磁色であるらしかった。どうかするとそれが、月の光のなかで昆虫の翅《はね》のようにきらきらと、薄く、しなやかに光って見えることがあった。 「有難うございました。そういう風に貝殻を吹くというのははじめてです。貝殻を聴くということなら知っていましたけれど」 「貝殻を聴くのですって? それはいったいどういうことですの?」  女はちょっとおどろいたように、黒い瞳をあげてわたしの顔をのぞきこんだ。 「それはね、こうして貝殻を耳に当てると、濤の音が聞こえるというのですよ」  女はそれを聞くとふと、風琴のような声をあげてかすかにほほ笑んだ。 「どうかしましたか」 「あら、御免なさい。その話ならずっと前に、やはりあなたのような方から、聞いたことがあるものですから」 「そうですか」わたしはちょっとはにかみながらいった。 「この話は外国の偉い詩人によって書かれてからというもの、いろんな詩や小説に引用されていたのですから、だれでも知っているのです」  女は無言のまま、砂をつき崩しながら遥かな、遠い沖合いに眼をやっていた。卵色の頬にぼっと紅味がさし、特徴のある黒い瞳が星のようにきらきらと瞬《またた》いている。わたしたちの周囲は、まるで水銀燈にでも照らされたようにくまなく晴れわたっているのだが、ずっと向こうの方にはいくらか霧があると見えて、黛《まゆずみ》いろに突出している岬の鼻のあたりには、漁船の篝火《かがりび》が不知火《しらぬい》のように、蒼く、にじんだような色に燃えているのだった。風も幾分出てきたのであろうか。濤の音がさっきより高まってきたようだ。 「何を考えていらっしゃるのですか」 「あら」  女は夢からさめたような瞳《め》をしてにっこりとわらった。 「今のお話でふと、その人のことを思い出しましたの、あたしに貝殻を聴くことを教えてくれたその青年のことを。……かまいませんでしたらお話ししましょうか。その人のことを、……それはとても哀れなお話なんですの」 「ええ、どうぞ」  わたしの連れは笛のように音を立てて、甘い潮風をすった。それから美しい蚕が糸を吐くように、次のような話をはじめたのだった。月光が女の横顔を滑って、彼女が話すとき、そこに燐光のような妖《あや》しい隈を作り出したのを、わたしはハッキリ憶えている。 ————————————————————————————————————————  その青年というのは、ほら、向こうに、暗い、小さな洋館が見えるでしょう、この辺ではあれを化け物屋敷だと言っていますわね。ほほほほほ、全くそうかもしれません。でもその時分にはまだそんな評判はありませんでしたの。青年はしばらく、あの洋館にたった一人で暮らしていましたのよ。  医学生だとかいう話でした。年齢はそう、その時分二十三か四だったでしょうね。どうしてそういう学生が、ただ一人こんな寂しい、海辺の洋館に孤独な生活をしていたかといいますと、それはね、その人もあなたと同じように健康を害していらしたのですわ。いいえその人の病状は、とてもあなたとは比較にならないほど悪かったのです。  たとえば、学校で屍体の解剖なんかするでしょう、胃の内容物を調べたり、盲腸をきりとったり、肝臓を剔出《てきしゆつ》したり、そうかと思うと、ドロドロとした肉いろの瘡《もがさ》を切開して、まるで美しい西洋花の標本をでも作るように、アルコール漬けにしたり、……そういうことばかりしているうちに、その人の神経は少しずつ狂っていったらしいのです。鋭いメスが、ぐさりと屍体の肉の中につきささる時、どうかするとその人は、まるで自分の体が抉《えぐ》られるような苦痛を感ずるのだそうです。  だんだんその人は、解剖の時間が怖くなって参りました。いえ、解剖が怖くなってきたばかりでなく、メスを見ることさえがその人を恐ろしがらせたのです。そしてそれが次第に昂じてくると、メスばかりでなく、メスに類似したあらゆる尖ったもの、鋭いものがその人の神経をつつくということでした。たとえば窓ガラスが割れて、ギザギザとした破れ目が、陽に光っているでしょう、そういうものを見ただけでもその人は真っ蒼になるのだそうです。そうして、こんな物が恐ろしいということが、さらにまたその人を怖がらせるのですわ。というのは、その人の血筋には——代々発狂者があるとかいう話で……現にその人の兄さんという人も、少し以前に気が変になって自刃したのだという話なんですの。その人がにわかに死体や刃物を恐れだしたというのも、つまりこういう事件があったかららしいんですわ。  とうとうその気の毒な人は学校を休学しなければならなくなりました。そして医者や友人の熱心な勧告に従って、この海岸へ半ば狂いかけた神経を養いに来ることになったのです。  こちらへ来てからというもの、それでも大変調子がいいように見えました。甘い潮の香と、紫外線に富んだ日光と、新鮮な肉類や、野菜や、それからいつも単調で、物憂いような静けさや、そういうものがその人の体に大変よく作用したとみえるのですね。二、三ヵ月もするうちに見違えるほど血色もよくなり体重も増え、それに何よりもうれしかったことは、今まで頭のうしろに鉄壁でもかぶさっているような感じが、全くなくなって、秋晴れのようにカラリとした気分がすることでした。こういう良好な状態が、態度や言葉つきに現われないはずがありませんわね。その人は日増しに陽気になり、気軽になり、今までろくすっぽ挨拶もしなかった村の人にも、どうかすると、こちらから口を利いたりすることもありました。そうかと思うと、また朝早く浜辺へ出て、地曳《じび》き網の手伝いなどをして、にこにこと喜んでいることもございましたの。  これを要するに、その人の神経は次第に回復の域へ足を踏み入れていたのに違いありませんわ。おそらくもう三、四ヵ月もこういう状態がつづけば、その人はきっと昔のような健康を取り戻すことができたに違いないと思われるのです。  ところがちょうどその時分、もう一人この村へ新しくやって来た人がございました。東京の有名な資産家のお嬢さんで、その時分年齢は二十一でした。髪の黒い、卵色の貌《かお》をした、眼の人一倍大きい、ちょっと見たところでは、別に弱々しそうでもありませんでしたけれど、近くへ寄ってよくよく見ると、静脈のういた薄い皮膚のいろといい、少し長すぎると思われるような睫《まつげ》といい、小鼻の肉の薄さといい、どこかやはり病人じみて見える令嬢でした。あら? 何ですって、大変あたしに似てるとおっしゃるの。ほほほほほ、そうかもしれませんわね。  令嬢は軽い呼吸器病を病んでいるのでした。医者の診断によると、それはまだごく初期の、全く心配のない程度の症状で、この海辺で半年も気楽に遊んでいれば、十分、元気な体になれるだろうとのことでしたが、それでもやっぱりその宣告は、令嬢の弱い魂を打ちくだくに十分なほどの強いショックだったのです。あなたもたぶん、すでにお察しの通り、この令嬢と青年とは、いつしか懇意になりました。そしてふたりの仲は急に進行してゆきましたが、と思うと間もなく、この人たちの間に、一緒に死のうという約束が成り立ってしまったのです。  こう申しあげると、話があまり突然なので、さぞびっくりされるでしょうね。全く人間というものが、こんなに簡単に死にたがるというのは、まるでうそのような話ですが、しかしこれは全くほんとうの話なのです。実際よくよく考えてみれば、この人たちの間にはちっとも死ななければならぬというような、差し迫った理由はないのです。しかし、あなたがたがお考えになって、無動機ということは、彼らの死を引き止める力には少しもならないのです。人間は時によって、全くなんらの理由なしに死ぬことがあります。いえいえ、人間の死に一々その動機を考えなければ納得できぬ人々こそかえって間違っているのかもしれませんわ。ましてや、この令嬢や青年のように、恋を恋するように、死を恋する年ごろの人々の考えは、とても世間並みの考えかたでは解釈しきれないかもしれませんわね。  ——それでは万事お任せ下さい。けっして失敗のない手段を考えてご覧にいれますから。  かなり詳しい打ち合わせの後、青年は決然としてそう申しました。その時分、この青年の頭脳《あたま》は、突如訪れた熱情のために、またいくらか狂いかけていたのでしょう、そういいながらじっと令嬢の瞳をのぞきこんだ眼のなかには、相手をちょっと寒がらせるような、そういう光があったということです。  さてその自殺の手段ですが、これは青年のお手のものの薬を選ぶことにしました。できるだけ苦痛が少なく、できるだけ失敗の少ない薬を、青年はその豊富な薬剤の知識の中から選択することになり、やがてそれらの準備万端がととのいました。そしてある日二人は仲よく、しめきった洋館の一室に、安らかなその体を横たえると、かねて青年の用意しておいた薬を、半分ずつあおったのです。二人とも少しも死の恐怖や、孤独の悲哀を感じませんでした。そして、青年は非常に注意して薬を選択していたので、少しの苦しみもなく、二人とも眠るようにあの世とやらへ旅立つことができた……ように見えました。いや、少なくとも令嬢に関する限りは、その薬は理想的に働いてくれたのです。  ところが、それから数時間たって、そう、ちょうど真夜中ごろのことでしたろうか、青年はふとこの戯れの死から目覚めたのです。まあ、この時の青年のおどろきはどんなだったでしょうかねえ。傍を見ると、令嬢はまるで美しい人形ででもあるかのように、安らかな顔をして死んでいます。触ってみると胸も腹も完全に冷たくなって、どんなに手を尽くしても、もはやどうにもならないことが、そこは専門家だけに、青年の眼にはじきにわかりました。しかも、どちらかといえば、令嬢以上に死を切望していたはずの青年の方は、無残にも冥府《めいふ》の鬼から締め出しを食ってしまっているのです。  あたしは詩人でも小説家でもありませんから、あまりくだくだしく、その時の青年の心持ちを推測するのはよしましょう。ただ簡単にいって、それから数時間のあいだは、青年にとって最も恐ろしい生と死との争闘でした。青年は海へ身を投げて死のうとしました。ナイフで頸動脈を切断しようとしました。それから梁《うつばり》に帯をブラ下げて首をくくろうとしました。しかしどの方法にも失敗してしまったのです。昔の人はこういう場合のことを、大変上手に言ってますわねえ。つまり青年の体からは全く死神が離れてしまっているのです。  夜明けごろ、青年は疲れたような、興醒めたような顔をして、白けた気持ちで美しい令嬢の屍体を見つめていました。そうしているうちに青年は、なぜ自分は死ななければならぬ理由があるだろう、考えてみれば死ぬなんて随分馬鹿らしいことだ、このまま生きていたってちっとも不都合なことはないじゃないか、と、そういう風に考え出したのです。こうなってはもうとても死ねるものではございませんわ。  全く青年が考えた通り、そのまま彼が生きているということに、ちっとも不都合なことはありませんでした。なぜといって、令嬢と青年とのあいだが、それほど進んでいようなどということは、ちっとも村の人たちは知りませんでしたし、その前日、令嬢が青年の住んでいる洋館の門をくぐったところを見ていた人は、一人もありませんでしたから。……それに青年の様子ときたら、家の中にそんな恐ろしい秘密を持っていようなぞとは考えられぬほど、朗かで、愛嬌がよくて、元気なのです。第一、令嬢の住んでいた貸別荘の方で、付き添いの乳母《ばあや》や女中が、令嬢の姿が見えないのに騒ぎ出した時も、一番になって心配し、いろいろと奔走していたのもこの青年なんですからね。  令嬢の捜索は数週間にわたって熱心に続けられました。しかしその結果は全く徒労に帰してしまったのです。そのうちに、令嬢の所有品の二、三が、潮に濡れて浜辺に打ちあげられたのを絶好の口実として、結局彼女は、病身をはかなんで投身自殺を遂げたのであろうということで、この捜索はけりになってしまいました。  この悪賢い青年は、こうして完全に世間を瞞着《まんちやく》することができたのですが、ではそのあいだ令嬢の屍体はどうなっていたかというと、それは依然として、締めきったあの一室のベッドの上に、まるで観音様のようにうやうやしく安置されてあったのです。ああ、人々が一眼でもこの部屋の中をのぞくことができたら! 人間というものが、あんなに完全に二つの仮面を使いわけることができるというのは、まことにおどろくに耐えない話ではありませんか。外ではあんなに愛嬌よく、あんなに元気に振舞っている青年が、一度この部屋のなかに閉じこもると、たちまちその眼の色からして変わって来るのでした。  青年の熱い涙は日ごと夜ごと、令嬢の頬を濡らし、唇をうるおし、そしてその白い手足に注ぐのでした。青年はいくどもいくども令嬢の屍《しかばね》を抱き、およそ次のような意味のことを、訴えるようにくどくどとかき口説くのでした。  ——おお、美しい私の恋人よ。われわれは何という不幸せなことでありましたろう。われわれは一緒に生きることを許されなかったばかりか、一緒に死ぬことすらできなかったのです。何という無慈悲な、そして絶対的な手によって、われわれは隔てられてしまったことでしょう。しかし、私はもうあまり嘆くことをやめましょう。それによく考えてみれば、私一人が生き残ったということは、それほど悪いことではなかったかもしれないのです。なぜといって、われわれ二人が一緒に死んでいてごらんなさい。どんなに乱暴な、そして冷酷な手によってあなたの体がけがされるようなことがあったかも計りがたいのです。私がこうして、一人生き残ったのも、きっとそういういまわしい手より、あなたのその美しい体を守れよという、神の御心であったかもしれません。さらば私の美しい恋人よ、私は聖母に仕えるように忠実にあなたに侍《かしず》き、あなたの体を護りましょう。今後、私以外には何人の眼も、何人の手も、あなたの体に触れることはないでしょう。そしてあなたは永遠に、美しく、安らかに、私の手に護られて、このベッドの上に眠りつづけることができるでしょう。……  この約束を守るために、青年は白粉《おしろい》や紅《べに》や、黛をもって、令嬢の顔を美しく化粧してやりました。そしてどうにも仕様のない二つの眼のためには、青年はわざわざ町まで出向いて、有名な眼科医のもとから、二つのガラスの義眼《いれめ》を買ってくると、それを令嬢の眼に入れてやりました。死顔を化粧するということはこの国でも珍しいことではありません。歌舞伎の若い女形《おやま》などが死んだ場合には、たいていこうして最後の薄化粧をしてやるのです。ただ、義眼《いれめ》をしてやるということだけが、青年の思いつきでしたが、これとても彼の創案ではなく、外国ではこういう場合、多くそうするのだということです。むろん、あの固い、うるおいのない、無機的なガラスの眼のことですから、とうてい肉眼のようなわけには参りませんでしたけれど、それでもなおかつ、あの濁った、薄ぼやけた死人の眼よりは、どれくらいましだったかしれないと、手術ののち青年はひそかに満足の微笑をもらしました。なるほど、小麦色の肌色化粧をし、ガラスの眼をじっと見開いている令嬢の顔は、生前と同じくらいの美しさに輝いているように見えました。  しかし、これはほんの二、三日だけのことで、そうしているうちに間もなく令嬢の体は、いかに献身的な愛情を捧げている青年にとっても、耐えがたいほどの臭気を放ちはじめました。青年はむろん、審美的見地から言っても、この臭気にはほとほと困《こう》じはてましたが、さらにそれよりも彼がおそれたのは、この臭気によって彼の秘密が発見され、ひいて彼の崇拝おくあたわざる偶像が奪取されるような羽目になりはしないかということでした。そこで彼はさんざん頭脳《あたま》を絞ったあげく町へ行って蒼朮《そうじゆつ》や白檀《びやくだん》やその他いろいろな香りの高い線香の類を買ってくると、それを日となく夜となく火桶《ひおけ》の中にくすべ、そして無知な村の人々には、書物の虫のつかぬように整理しているのだと言い触らしました。幸い村の人々はこうして巧みに欺くことができましたけれど、しかし欺くことのできないのは昆虫の鋭敏な嗅覚なのです。蠅《はえ》はまるで大軍のごとくこの小さな西洋館めがけて押しよせ、間もなく窓ガラスという窓ガラスは、真っ黒になるほどその眷属《けんぞく》どもによって埋められてしまいました。しかしこれらの苦闘も少しの間で、やがてそれが終わると、そこには完全な平和がやってきたのですわ。ああ、今こそ令嬢の体は永遠に変わることのない、美しさと安らかさのうちに、青年の手に残ったのです。その顔はいくぶん骨ばり、その手はいくぶん細くなりましたけれど、それでも昔の美しさを失ってはおりません。青年は今こそ自分の大芸術が完成したような、誇らしさと満足とを感じたのでした。  やがて、冬去り、春|逝《ゆ》き、夏はててふたたび秋がめぐって参りましたが、その年はとても気候が不順で、いくにちもいくにちも雨が降りつづきました。雨ははまひるがお[#「はまひるがお」に傍点]の花を散らし、コスモスの花を打ちくだき、諸所に洪水さわぎをひきおこしましたが、やっとこの雨があがって、幾日ぶりかで輝かしい太陽を仰ぐことができた時には、あの小さな洋館の扉《と》は、もはや長い間、ひらかれることはなかったのです。村の人が怪しんで、むりに扉をこじあけて中へ入ってみたのは、それから二、三日後のことでしたが、その時青年は、まるで糸のように痩せ細って、ベッドのうえに死んでいました。しかもその青年の傍には象牙のように白く晒《さら》された白骨がもう一つ横たわっていたのですが、みるとその落ち窪んだ醜い眼窩《がんか》のなかには、一双のガラスの眼が宝石をちりばめたようにしっかりと食い入っていて、物憂い秋の日ざしのなかに、きらきらと冷たく輝いていたというのです。…… ————————————————————————————————————————  いつの間に霧が出たのであろう。わたしたちの周囲には、乳灰色の水滴が厚い層をなして渦を巻いているのだった。 「ねえ、この話にも一つの教訓があるとはお思いになりません?」だいぶたってから女はそう言った。「つまり人間というものは生きている間が花なのですわ。死んでしまえばどうなるか知れたものじゃないのです。その令嬢が生前、どんなにつつましやかで身を持すること謹厳であったにしろ、死んでしまえば、青年の思慕の対象となって、醜骸《しゆうがい》を白日の下にさらすことをどう防ぎようもなかったではありませんか」  わたしはすぐには答えなかった。わたしはその時霧の中におぼろげな月の所在をさがしていたのである。この女はわたしに教訓を垂れるつもりでこんな話をしたのであろうか。  わたしは何か言おうとして振りかえってみた。しかしそこにはすでに女の姿はなかった。何やら得体の知れぬ朱鷺色《ときいろ》の渦が、靄《もや》のように激しい速度で旋回しているのが見えたきりだった。わたしはしばらく呆然としてこの靄をみつめていたが、ふと見ると、女の坐っていたあとの砂丘の上に、何やらきらきらと光るものが二つ落ちているのに気がついた、礫《こいし》かと見れば礫でもなく、貝殻かと見れば貝殻でもなかった。わたしは怪しみながらそっと身をこごめてそれを拾いあげると、左の掌《て》のうえに載せてみた。そして琥珀《こはく》いろの弱い月光の中にすかしてみて、初めてそれが、世にも精巧にできている二|顆《か》のガラス製の義眼《いれめ》であることに気がついたのである。 [#改ページ] [#見出し]  貝殻館綺譚 [#改ページ]  もしあなたがI半島の南端にあるR温泉をたって、海沿いに西の方へ旅行することがあったら、きっと『鷲《わし》の巣』の絶景について耳にするでしょう。『鷲の巣』というのはS湾の入り江の西側に、南へ向かって天狗《てんぐ》の鼻のように突出している、斫《き》りたてたような断崖《だんがい》のことを俗にそういっているのですが、海から観たこの断崖ほど、変化に富んだ、美しい眺望をもった景色は、そうざらにあるまいというのが、付近の人々の自慢です。まず朝海から陽が昇るときには、その最初の光の箭《や》を浴びてこの断崖は金色に輝きます。それから日が高く昇るに従って、金色の箔《はく》が次第に薄れてゆくと、今度は温かそうな代赭色《たいしやいろ》に濡れ輝き、午《ひる》過ぎになると鮮かな紫紺から黛色《まゆずみいろ》となり、そしていよいよ陽が崖の向こうに落ちるころになると、王冠を戴いたように真っ赤に燃えあがり、どうかするとその時分、靄とも霞ともつかぬ細い黄金の帯が、肩のあたりに一文字にたなびいて、金モールの衿《えり》飾りをしているように見えることもあります。雨の日、霧の日は、さらに別の趣もあり、とにかく、いつ見ても見飽かぬ景色を見せるのがこの崖です。しかしこういうすてきな眺望も、海の方のそれもずっと沖からでなければ、十分鑑賞することができないというのは、何といっても残念なこと。というのはこの崖の付近は潮流が非常に激しい上に、いたるところ、暗礁や浅瀬が隠れていて、近づく物を一口に呑んでやろうと身構えをしているのですから、よっぽど物慣れた漁師でもこの付近へ舟をやることを恐れるのは非常なものです。  さて今からざっと八年前のとある黄昏《たそがれ》ごろのこと、この鷲の巣岩の沖を通る船の上から、望遠鏡か何かで、折から濃い夕闇につつまれてゆく岸の上に眼をそそいでいる人があったとしたら、その人はきっと、暗緑色の岩の中腹に、蛇苺《へびいちご》のような紅い斑点がチラチラしているのを発見したことでしょう。  いったいこの鷲の巣岩というのは、遠くから見ると、白い怒濤《どとう》が逆巻いている麓《ふもと》から、いつもレースの肩掛けをまとっている頂に至るまで、少しの罅裂《かれつ》もない一枚板のように見えたかもしれませんが、よくよく見ればそうではなく、この断崖を巨大な半身像と仮定すると、その乳房に相当するあたりに、せまい、くねくねと曲がった岨径《そばみち》が、一条の襞《ひだ》となって中腹を縫っていることに気がついたでしょう。今いった赤い斑点というのは、この岨径から崖の端にぶらさがった、若い女の毛糸ジャンパーだったのですが、もしその人の望遠鏡が、さらに精密なものであったなら、この女の頭のへんに、もう一人、腰のしまった黒いビロードの洋服を着た女が、傲然《ごうぜん》として突っ立っていることに気がつき、彼がさらに正確な観察者なら、黒衣美人の頬にある痛々しいみみずばれといい、兇暴な燃ゆるような眼つきといい、そこに容易ならぬ事態の発生しつつあることに気がついたに違いありません。  この女たちというのは、二人とも岸の向こうの入り江のほとりに、近ごろ新しくできた貝殻館という、奇妙なお邸の客で、いま断崖にぶらさがって気違い踊りを踊っている方を月代といい、もう一人は美絵というのですが、いったいどうしてこんな恐ろしい事態が発生したかというと、それはこうなのです。月代は相手の美絵に比べると年齢も三つ四つ上だし、貝殻館の客としても先輩の地位にあり、現に美絵が出現するまでは、数人の男たちに取り囲まれて、女王のように振舞うことを許されていた上に、遠からず館の主人公である貝殻貝三郎氏より結婚の申し込みがあるだろうという、確固たる自信を持っていたのです。ところが美絵の出現によって彼女は、一朝にしてそれらの希望と自信を無残にもふみにじられたばかりか、近ごろではどうやら、貝三郎に結婚を申し込まれるのは自分ではなくて、美絵であるらしいことがわかってきたので、憤懣《ふんまん》に耐えかねた彼女は、この強敵を人知れず崖の上からつき落として殺してしまおうと計ったのですが、過って自ら足を踏み滑らせたがために、逆にこういう死地に陥ったというのが、現在に至るまでの簡単な経過なのです。 「助けて、美絵さん、後生だから」遥か下の方で渦を巻いて岩を噛んでいる濤《なみ》の響きを聞くと、月代は恥も外聞もない。さっきから何度となくそういって哀願しているのだが、この瞬間美絵はきっと気が触れていたに違いありません。相手の鋭い爪によって引き裂かれたみみずばれからは、火のような激痛を発し、それが美絵の兇暴な心臓に拍車をかけます。野獣の爪に毒がある以上、人間の爪にだってそれがないとは限らぬと私は思うのですが、美絵はこの毒のために前後の分別をうしなってしまったのに違いありません。 「助けて、美絵さん、ああ、恐ろしい」月代の声は次第に弱り、繊弱《せんじやく》な腕はおいおい疲れ、ほうっておいても彼女が遠からず、死の淵《ふち》へ転落してゆく運命にあることは明らかだったのです。しかも美絵は、この自然の成り行きにさえ任せようとはせず、ありあう石を拾いあげると、いきなりはっしとばかり相手の面部をなぐったのですからたまりません。月代はあっと叫んで手を放すと、もんどりうって渦巻く激流と、その渦の中から鋭い頭を突き出している、ぎざぎざの岩の真っただ中へ落ちて行きましたが、それから後の事はいうまでもありますまい。何しろ岨径《そばみち》から波打ち際まで十丈あまりもあるのですから。……  美絵は果たして自分の行動を意識しているのかいないのか、しばらく気が遠くなったような眼つきをして、そこに立ちすくんでいましたが、ふと気がつくと、しっかと握りしめた石の角に、血にまみれた髪の毛が二、三本くっついている恐ろしさ。美絵は急に現実的な恐怖をひしひしと胸に感ずると、あわててその場から逃げだし、せまい岨径を伝って曲がり角までやって来ましたが、その時ふと向こうをみるとだれやら人が……夕闇の中にはっきりと眼に映ったのは、茶色の服に同じ色の鳥打ち帽、それから剃刀のような鋭い顔です。これはやはり貝殻館に滞在している客で、緑川大二郎という男なのですが、どういうものか美絵は日ごろから、得体の知れぬ底の深さをもったこの男を虫が好かないのです。もっとも今の美絵は、よしや相手が大好きな恋人だったとしても、やはり隠れぬわけにはいかなんだでしょう。彼女は思わず叫び出しそうになるのを、やっとの思いで押し殺して、もと来た径《みち》へ取って返しましたが、さて隠れるといっていったいどこへ隠れたらいいのでしょう。このいまいましい岨径ときたら、枝のない一本路で、先は断崖の途中で袋のように断ちきられているのです。美絵は絶望的な恐怖を眼いっぱいに浮かべ、素早く前後を見回していましたが、ふと思い出したのは、今自分の立っている岩の下が小さな洞《ほこら》になっていて、危険さえおそれなければ十分隠れることができるということでした。現在の美絵に、どうして躊躇などしているいとまがありましょう、それに彼女は女として決断力の強い方でしたから、そう気がついた瞬間には、すでに半分その方へ降りかけていたが、それはようやく間に合いました。彼女がその危険な隠れ場所へ辛うじてはい込むかはい込まぬうちに、緑川大二郎の姿が、あの崖の曲がり角に現われたのです。  次第に近付いて来たその男の足音が、美絵の頭の上を通り過ぎ、また次第に向こうの方へ消えてゆくのを、美絵はどんなに恐ろしい気持ちで待っていたでしょう。時間にしてそれはわずか二、三分のことでしたけれど、美絵にはその間が二、三時間のようにも思え、ことにその男が美絵の頭のうえで、煙草の火をつけかえるために、少し歩調を緩めた時には彼女はもうこれまでかと思わず観念の眼《まなこ》を閉じたくらいでした。しかしとうとうその男は行ってしまいました。  そしてその足音が聞こえなくなると同時に、美絵は大急ぎで隠れ場所から飛び出し、夢中になって、第一、第二の曲がり角を通り過ぎ、第三の曲がり角まで来てようやくいくらか落ち着くと、少し歩調を緩めかけましたが、そのとたん彼女は、ゾーッと全身に総毛立つような衝動を感ずると、思わずそこに立ちすくんでしまいました。  今美絵が歩いている岨径の、ずっと右手の方に当たって、鶏の蹴爪《けづめ》のように細い岬《みさき》の鼻が海に向かって突出しているのですが、その岬の突端のところに小さい丸太小屋があって、その丸太小屋の窓から一つの頭がのぞいているのです。しかもその人間は手に双眼鏡を持っていて、それを眼に当てては、美絵の姿と、あの断崖の下に横たわっている月代の屍体の方とを、かわるがわる見比べています。ああ、どんな夢魔といえども、双眼鏡を眼に当てたこの人物ほど、深く美絵を脅かすことはできなかったでしょう。  いったいどうしてそんな岬の突端に、一軒ポツンと小屋が建っているのかというと、これは黒潮に乗って寄せて来る魚群を看視するためなのです。そこには番人がいつも交替で、一刻の油断もなく、双眼鏡で海の上を見張っており、ちょっとでも海の色が変わるのを発見すると、ただちに銅鑼《どら》を叩いてこの由を村に報告します。美絵も一度、この丸太小屋を訪れたことがあるので知っていますが、そこには年寄った漁師と、十三、四になる息子が二人きりで住んでいるのです。その息子というのは頭の鉢《はち》の妙に開いた、眼のぎょろりとした、頬の尖った、いかにも奇型的な感じのする少年でしたが、ああ、いま丸太小屋の窓から双眼鏡を眼に当ててまじまじとこちらを見ているのは確かにその少年ではありませんか。  美絵はその時、周囲の岩が雷に撃たれて真っ二つに裂け、海の水が、地震のために干上がってしまったとしても、これほど大きな驚きに打たれることはなかったでしょう。彼女はふいに全身がジーンと痺《しび》れ、心臓が空っぽになり、顎がガクガクと釣りあがって、今にも斃《たお》れそうな気がしましたが、急に低い叫び声をあげると、夢中になって駆け出しました。  さてこの辺で、美絵や月代や緑川大二郎が滞在している貝殻館という建物について、一応説明しておかねばならぬ必要に迫られましたが、それにはちょうど幸い、今私の手許にあるS温泉案内記の中にそれに触れた一節があるので、それをちょっとここに抜萃《ばつすい》してみましょう。  ——貝殻館ハS湾ノ絶景ヲ一望ノウチニ俯瞰《フカン》スル入リ江ノホトリニアリ、東都ノ画家貝殻貝三郎氏ノ建築スル所、モト邸内ニハサマザマナル不可思議ノカラクリ仕掛ケアリテ、見ル人ヲ驚カセシモ、後|故《ユエ》アリテ廃セラレテヨリハ、今ハタダ白堊ノ残骸ノ徒《イタズラ》ニ風雨ニ曝サルルヲ見ルノミ——云々《うんぬん》。あまり上手な文章とはおもえないが、これでも貝殻館の一半が知られなくはありますまい。  私もこの不可思議な館の主人公、貝殻貝三郎というのを知っていましたが、この男は画家というよりも、画家のパトロンといった方が当たっていたでしょう。私はついぞこの男の画いた絵というのを見たことがありません。おそらく私以外のだれだってそうでしょう。それにもかかわらずこの男の名がひどく有名だったのは、彼が莫大な資産の持ち主であり、しかもその資産を散ずるに少しも躊躇しない性格によるものであったでしょう。実際彼は驚くべき浪費家で、画家の仲間に何かあると、いつも先頭に立って音頭をとるのがこの男、それをまたいいことにして、彼を扇動して次から次へと馬鹿馬鹿しいお祭り騒ぎを計画する悪い仲間もあるというわけで、真面目な人々の間ではいい笑い物にされていましたが、この男には少しもそれが苦にならぬ様子でした。  S湾のほとりにあんな馬鹿馬鹿しい、子供欺しのようなからくり[#「からくり」に傍点]仕掛けの家を建てたのも詮ずるところ、彼の奇抜な浪費癖の現われで、彼はそこで気に入った仲間を集め、王様になるつもりだったのですが、その怪奇好み、異常癖がとうとう、これからお話しするような、妙な事件を生む原因になってしまったのです。  それはさておき、貝殻館へ逃げて帰って来た美絵は、その夜一晩まんじりともすることができませんでした。幸い月代の失踪については、のんきな貝殻館の住民たちの間には、大して問題も起こりませんでした。滞在客のうちの一人が、だれにも挨拶をせずに、突然引き揚げてしまうというようなことは、この邸の中ではあえて異とするに足りないところなのです。なに、あの女のことだから、何か気に入らぬことがあって、プイと東京へ帰ってしまったんだよ。心配することなんかありやしない。二、三日もすると、またバアとやって来るにきまっているさ。この調子だと月代の屍体が発見されるまでには、かなりの時間があると見ていいのですが、美絵が何より恐れたのは、あの看視小屋の少年のことです。少年の訴えによって、今にも警官が踏みこんで来はしまいかと、美絵はそう考えることによって、幾度、生命の縮むような思いをしたことかわかりませんでしたが、不思議なことには、その夜のうちにもやって来そうに思えた逮捕の手は、翌朝に至っても何のしるしも見えません。  そうなってくると美絵はいくらか気も落ち着き、そして改めて善後策を講じてみるほどの余裕も生じてきます。どういうわけであの少年が沈黙しているのかわからないけれど、今まで黙している以上、これから先だって黙らせておくことは必ずしも不可能ではあるまい、美絵はその方法について、あれかこれかと忙しく頭の中で思案を練っていましたが、これは何をおいても、一度あの少年に会って気をひいてみなければならぬと、そこで大急ぎで朝のお化粧をすませ、ことにあのみみずばれに至っては念にも念を入れて、十分白粉で塗り隠し、特別に着飾って貝殻館をとび出したせつな、バッタリと出会ったのはまたしてもあの緑川大二郎です。  美絵の方へジロリと鋭い一瞥《いちべつ》をくれると、どこへとも言わず、ムッツリとしたまま追い越してゆくその面憎さ。美絵はちょっとの間、激しい憤怒と共に、腹の底が固くなるような、何やら得体の知れぬ不安を感じ、この男に出会ったことをもって、これから自分の演じようとする役割りが、結局、失敗に終わるという前兆ではあるまいかと、そんな弱い気持ちになるのでしたが、すぐ、何を、あんなやつと、しいて気を取り直すと、わざと足音も荒々しく浜の方へ下りてゆきましたが、間もなく彼女は、岩の間で蟹《かに》を追っかけている少年を捕《つか》まえました。頭の鉢の開いた、眼のぎょろりとした、いかにも奇型的な感じのするかお、かたち、昨日小屋の中から見ていたのは、確かにこの少年に違いないと思うと、美絵は何となく、無防御な少年に対して、生唾が湧いてくるような感じで、思わず前後を見回しながら、用心深く近付いて行きました。 「何をしているの。そんなところで」  美絵はできるだけさりげない様子で言ったつもりだけれど、それでも声のふるえるのを防ぐことができませなんだ。少年はさっきから妙に落ち着きをうしなって、ソワソワとしていましたが、彼女にそう声をかけられると、びっくりしたように、白い素早い視線を彼女の方へくれたきり、黙り込んでいます。 「ねえ、何をしているの、蟹をつかまえているの、おっしゃいよ。あなた、向こうに見えるあの小屋にいる人でしょう」 「うう」 「あなた、昨日の夕方、あの小屋の中から双眼鏡で外をのぞいていたわね。ねえ、そうじゃない」  少年は驚いたように美絵の顔を見直し、何か言おうとするように口を動かしたが、すぐまた思い直したようにそのまま黙り込んでしまいました。 「ねえ、隠さなくてもいいのよ。はっきり言ってごらん、あなた昨日、小屋の窓から外をのぞいてたでしょう」  この答えが運命の岐路だと思ったから、美絵は全身を鋼鉄のように緊張させ、じっと少年の顔を見守っているのに、相手は相変わらず含羞《がんしゆう》の色をうかべたまま、オズオズと砂の上をかきまわしている。ちっとも驚いたり怖がったりしている風は見えないから、美絵はひょっとすると、この少年は白痴か、それとも低能者ではあるまいか、もしそうだとすれば、自分はちっとも懸念する必要はないのだが……と、そんな風に考えていると、何を思ったのかふいに少年は熱心の色を眼にうかべ、 「ねえ、小母さんは貝殻館にいるんだろう」  と、別の事を言い出した。 「ええ、そうよ、それがどうかして」  美絵は何となく胸をとどろかせたが、相手はまたもや、それきり黙っている。 「あなた、何てお名前?」 「僕?——僕、次郎」 「そう、それじゃ次郎さん、はっきりおっしゃいよ。あなた昨日、双眼鏡で向こうの鷲の巣岩の方を見ていなかった?」 「うう、僕、いつだって見ているんだよ」 「だけど昨日は何か特別に変わったことを見たでしょう、あの崖の方で……」 「ねえ、小母さん、小母さん貝殻館の人なら僕お願いがあるんだけど」  少年はまた別なことを言い出しました。このいささか智能の低いらしい奇型児から、必要な答えを得ることの、なかなか容易でないことを覚った美絵は、何ともいえない焦躁を感じながら、 「お願い? お願いって何よ」 「貝殻館にはずいぶん、不思議なものがたくさんあるんだってね」 「ええ、あるわ、それで次郎さん、あなた昨日見たことだれにも言やしなかった」 「僕見たいんだよ。小母さん、ねえ後生だから僕を一度貝殻館へ連れてっておくれよ」 「貝殻館、そうね」  美絵は何気なく次郎の顔を見ましたが、その顔を見て驚いたのです。強い願望と、激しい情熱と、そしてまた今迄あきらめきっていたところの願望が、ひょっとすると遂げられるかもしれないという希望のために、醜い歪《いびつ》な顔は一倍歪となり、落ちくぼんだ双の眼は、気味悪いほどの熱を帯びて輝いています。美絵はそれを見ると驚きもしましたが、それと同時に悪賢い彼女は、また一種異様な、残酷ともいうべき計画を忙しく頭の中で組み立てました。彼女は急に優しい微笑をうかべると、 「次郎さんは貝殻館の中を見たいの」 「うん、僕、見たいんだよ」 「そう、でもそれはむずかしいことだわ」 「だめ——? だめなの、小母さん」 「そりゃ不思議なものがあそこにはあるのよ。次郎さんなんか想像もつかないくらい、不思議な、そして綺麗なものが、あの中にはいっぱいあるのよ。それはとてもとてもすばらしい、お伽噺《とぎばなし》にだってめったにないような、それこそ次郎さんなんか見たら、胆をつぶして気絶してしまうかも知れないような、そういう珍しい仕掛けがいっぱいあるのよ」  美絵がそういう言葉の醸し出す効果を見極めることができたのは、実に即座でした。次郎はそれを聞くと、ふいに声をあげて泣き出し、砂のうえに身を投げ出すと、ちょっとでもいいから、そのすばらしい、不思議な仕掛けというのを見せてくれといって、彼は砂まみれになって、その辺を転げ回るのでした。それは全く気違いじみた、恐ろしいような熱心さでしたが、それを見ているうちに、美絵の頭には今まで漠然として渦を巻いていたある考えが、次第にはっきりとした、一つの計画に凝固してき、そしてその恐ろしい考えのために美絵はわれながら、ゾッとしたように身震いをしました。 「およし!」  美絵はふいに鋭い声でそういいましたが、すぐ言葉を和らげると、 「さあ、およしといったらおよしなさいね。もし次郎さんが小母さんとの約束を守ってくれるなら、きっと貝殻館へ連れてってあげますからね」 「ほんと?」 「ほんとですとも。だけど昼の間はだめよ。昼の間は怖い小父さんたちが番をしていて、だれも入れないんですからね。今夜こっそり、だれにも内密でいらっしゃい。そうすれば小母さんがきっと中へ入れてあげる。その代わり、次郎さん」美絵はそこで急に怖い顔になり、きっと次郎の面《かお》をにらみつけると、 「その代わり、昨日あなたが見たことを、だれにもしゃべるんじゃありませんよ。よござんすか。もししゃべったら、小母さんは次郎さんをひどい目に遭わせますよ。わかりましたか」  次郎は何となく、おびえたような顔をしながら、それでも何度となく、こっくりこっくりとあの大頭を振ってうなずいてみせるのでした。  その晩、次郎に対して美絵が行なったような、ああいう悪賢い、人でなしの犯罪の例が他にもあるかどうか、私はよく知りませんが、おそらくは、どこにでもあり得るという性質のものではなかったでしょう。実にそれは犯罪者が美絵のような女であると同時に、犠牲者がまた次郎のような異常な少年でなければ、とうてい演じられないような、一種特別な、それだけにまた奸智《かんち》に長《た》けた、恐ろしい犯罪であったということができます。  それはさておき、その晩次郎が貝殻館に忍んで来たのは、夜ももう十一時過ぎ、十二時近くのことで、月も星もない空は暗澹として低く垂れさがり、嵐の前触れを思わせるような波の音が、鷲の巣岩のあたりで物凄い唸《うな》りをあげていました。いかに海に慣れているとはいえ、こういう晩に人知れず、気味の悪い貝殻館へ忍んで来たというだけでも、次郎の願望というか、憧《あこが》れというか、とにかく彼の熱心さが異常なものであったということがわかるでしょう。あらかじめ美絵が開いておいてくれた窓から、俗に『月光の間』と呼ばれている部屋の中へ忍び込んだ次郎の体が、震えに震えて、ほとんど立っているのも耐えがたいほどに見えたというのも、恐ろしさばかりではなく、むしろ非常な興奮のためであったのです。次郎はまず、その部屋の何とも得体の知れぬ微妙な明るさにどぎもを抜かれました。それはちょうど、貝殻の内側のような、美しい真珠色の光線に包まれており、そしてそれらの光線がすべて錫《すず》を塗った四方の鏡の壁に由来することを知ったとき、次郎の驚きはどんなだったでしょう。いやいや、その美しいものは壁ばかりではなかったのです。跣《はだし》の足の真の冷たさに、ふと床のうえに眼をやった次郎は、そこにもはっきりと自分の姿が倒《さかしま》に写っているのを見て、彼は果たして、自分のかねがね憧れていたところのものが、それだけの価値に富むものであったことを発見し、非常な満足を覚えると同時に、一層の興奮を感じたのでした。 「まあ、次郎さんはいったい何をそんなに震えていらっしゃるの」  真珠色に燻《くすぶ》っている光沢の奥から、ふいにそういう声がしたので、次郎がハッとして眼をあげると、ああ、いったいどういう仕掛けになっているのだろうか、眼の前にあった銀色の靄《もや》が、ふいに二つに裂けたかと思うと、そこに紗《しや》のような軽羅《けいら》をまとった美絵の姿が朦朧として浮きあがってきました。 「今からそんなに震えているようじゃだめですよ。さあ、しゃんとして、私の後についていらっしゃい」  美絵が口の中で何やら呪文《じゆもん》のようなものを唱えると、その錫鏡が蓮《はす》のようにさっと八方にひらいてそこに現われたのは実に、何ともたとえようもないほどの、美麗な真珠色の夢幻境でありました。周囲はただもう、夢のような銀白色に包まれ、壁といわず天井といわず床といわず、一面に眩《まばゆ》いばかりの乳色に輝き、空に虹のような白銀の蜘蛛《くも》の巣がかかり、足下には天上の星をもみくだいたかと思われるばかりに、七色の宝石が燦然《さんぜん》として蛍光を発しています。そしてその中央にはきらきらと白銀の小蛇を躍らせている噴水の美しさ。銀色の池、銀白の沙《いさご》、銀白の橋、さてはあたり一面にかかっている銀色の瓔珞《ようらく》や銀色の総飾《ふさかざ》り、それはとてもこの世のものとは信じられぬ、恍惚とするような妖しい、美しいながめでした。 「さあ、こちらへいらっしゃい。もっと不思議なものを見せてあげましょう」  美絵は震えおののいている次郎の手を握って、この不思議な銀色のパノラマの中へ入って行きましたが、やがて大理石でできた大きな水盤のまえに立ち止まると、 「ちょっとこの中をのぞいてごらんなさい」  次郎がのぞいてみると、その中には水銀のような水がドロリとよどんでいるばかりで、一向何も見えません。 「何か見えますか」 「ううん」 「ではもう少しのぞいていてごらんなさい。そのうちに何か見えて来るでしょう」  その言葉が終わらぬうちに、さっと大きな波紋が起こったかと思うと、何だかぼんやりとした白いものが次第に明瞭にそこに現われて来ました。何だろう? 次郎は好奇心にふるえながらじっとそれを凝視していましたが、突然あっと叫んでそこから飛びのきました。 「何か見えましたか」 「首が……。首が……」 「首ですって? どんな首なの」 「血まみれになった、恐ろしい、女の生首!」 「女ですって? 間違いじゃありませんか。次郎さんの顔が映っていたのでしょう。ねえ、そうでしょう、もう一度よくのぞいてごらんなさい」  次郎は怖々《こわごわ》もう一度そっとのぞき込みましたが、今度は前よりもはるかに大きな声をあげてうしろに飛び退《すさ》ったのです。 「やっぱり女です。そして……そして……」 「そして、どうかしましたか」 「そして、それは小母さんの首です」 「あらいやだ。おお気味の悪い、うそでしょう、そんなこと。次郎さんは意地悪ね。そんなこと言って小母さんをからかってるんでしょう」 「ううん、本当だよ。うそだと思うならのぞいてごらんよ。本当に恐ろしい、小母さんの生首……」  次郎は真実恐ろしさに耐えぬもののように、歯の根をガタガタいわせながら、美絵の指をつかんで激しく振ります。美絵は肩をそびやかすと、眉根にしわを寄せて、 「いやよ、そんな気味の悪いもの。それより、向こうの方にもっと面白いものがあるから行ってみましょう」  やがて彼等は銀色のとまり木のうえに止まっている、不思議な銀色の鸚鵡《おうむ》の前で立ち止まりました。 「ねえ、珍しい鳥でしょう、どう、ちょっと羽をなでてごらんなさい」  次郎はいわれるままにおずおずと手を出しましたが、そのとたん何に怒ったのか、不思議な銀色の鸚鵡はさっと毛を逆立てたかと思うと、とまり木を蹴っていきなり次郎の方へ飛びかかって来ました。 「あれッ」次郎は気も動転し、たまぎるような悲鳴をあげて逃げ回るのを、鸚鵡はますますいきり立って羽搏《はばた》きの音も荒々しく、真一文字に躍りかかってくる勢いの恐ろしさ。美絵はその様子を傍にあって、冷然と見やっているばかりで、手を下して助けてやろうともしません。光線の加減もあったでしょうが、その時の彼女の顔は、妙にギスギスとした陰影に隈取られ、そうして無言のまま突っ立っているところは、何となく西洋の妖婆《ウイツチ》のように気味悪いのでした。次郎はそれを見るといよいよ恐ろしくなり、 「小母さん、助けて」と必死になって叫びながら、彼女の足元へがばとばかりに突っ伏しましたが、その時、思いがけないことがそこに起こったのです。今まさに次郎めがけて躍りかかろうとしていた鸚鵡が、罠《わな》にでもかかったようにふいにバタバタともがき始めたので、何事が起こったのかと次郎が怖々頭をもちあげてみると、これはまた何ということだ! 傍の人造石の岩の上からむっくりかま首をもたげた真珠色の大蛇が、今しも鸚鵡の片羽根をくわえてひと呑みにしようとしているのです。しばらく鸚鵡の激しい羽搏きの音が、静かなこの夢幻境の空気をゆるがし、銀色の羽毛が雪のようにあたりに飛び散りましたが、やがてその騒ぎもおさまると、大蛇はふくらんだ腹を波打たせながら、再び人造石の岩の陰に入ってしまいました。ああその光景の物すごさ、次郎はこの重ね重ねの恐ろしい異変にすっかりどぎもを抜かれて、最初の勢いもどこへやら、一刻も早くこの恐ろしい場所から逃げ出したいと思いました、美絵はその様子を早くも見て取ったものか、ふいに次郎の手をぎゅっとつかむと、相手の体をそのまま吸い取ってしまいそうな、大きな瞳で、じっと次郎の眼の中をのぞきこみながら、 「まだまだ、こんな事ではすまないのですよ。ほら向こうを見てごらんなさい。もっともっと恐ろしいものが見えてきましたから」  次郎はもうこれ以上恐ろしいものを見たくないと思いましたが、それにもかかわらず、美絵の言葉の不可思議な魔力に惹かれて、おずおずとその方へ眼をやると、さっきまで銀色に輝いていた向こうの鏡の上に、その時一面にあやしげな黒雲がかかったかと思うとやがてそこにさざなみのような緩やかな光の波紋が起こり、そしてその中から、異様な風体をした群集が、手に手に棍棒を振り回し、フットボールのようなものを空高く投げ合いながら、わめきつ叫びつ、次第にこちらへ近付いてくるのが見えました。しかもこの気味の悪い群集は、単なる鏡の上の影像だけではなく、ちょうど昔流行した飛び出す活動のように、今にもこちらへやってきそうに見え、その声のないどよめきといい、荒くれた形相といい、その恐ろしさときたら、ほとんど形容する言葉にも苦しむくらいでした。 「ほらあのフットボールをよくごらんなさい。あれが何だかわかりますか」  その言葉に次郎は半ば放心しかけた瞳を、もう一度よく定めて見ると、彼等が空高く投げ合っているフットボールというのは、実に人間の生首——それもさっき水盤の中で見たと同じ、血にまみれた美絵の生首でありました。  次郎は思わず「あっ」と叫ぶと、ふいに体がシーンとしびれ、眼の前が朦朧としてぼやけて来るのを感じました。おそらくそれが、彼の脆弱《ぜいじやく》な神経の耐え得る最大限度であったのでしょうが、さらにその時美絵のささやいた恐ろしい言葉の数々が、根こそぎ彼の生命の樹をゆすぶる事に役立つのでした。 「さあ次郎さん、あなたはここで小母さんと一緒に死んでくれるでしょうね。あなたも見たように、昨日私は鷲の巣岩で人殺しをしたのですから、とてもこのまま生きてはいられないのです。もしこのまま生きていたら、きっと今見たあの恐ろしい幻のように、小母さんの首は斬り落とされ、その生首はフットボールのように、空中高く投げられるでしょう。いやです。いやです。そうなる前に小母さんは自分で死んでしまいたいのです。でも一人じゃいや、一人じゃ淋しいんですものね。ねえ、次郎さん、後生だから小母さんと一緒に死んでちょうだい。いやなの、あら、だめ! 逃げようたってだめなのよ!」美絵はちょいと怖い声をしたが、すぐまた優しい声になって、 「何も恐ろしい事や苦しいことはないのよ。ちょっとも苦しまずに死ねる方法を小母さんは知っているのです。ねえ、次郎さんはいい児だから、きっと小母さんのいうことをきいてくれるわね。まあ! このはげしい震えようたら! 御免なさいね、あまりいろいろなことを言って怖がらせてすまなかったわね。さあ、それでは今すぐに、この恐怖から解放してあげましょう」  そう言って美絵は、恐怖のために半ば知覚を失いかけている次郎に素早く目隠しをすると、軽々とその体を抱きあげ、真珠色の水を満々とたたえた、大きな大理石の浴槽の方へ行きました。  その夜、I半島一帯を襲った暴風雨は夜が明けると同時に、二つの大きな驚きを貝殻館にもたらしました。『月光の間』に発見された次郎の屍体のほかにもう一つ、あの暴風雨のために近くの浜辺に打ちあげられた、見るも無残な月代の惨死体が発見されたのです。さすがのんきな貝殻館の住民も、東京へ帰ったこととばかり思っていた月代が、このような意外な姿となって現われたのですから、一時はかなり驚きましたが、しかし何事につけても、一つの事に長く興味を持ち続けることのできない連中です。間もなく月代のこの不幸を、日ごろ彼女の好んでいた鷲の巣岩散歩の犠牲になったのであろうと、至極簡単に結論を下してしまいました。一方また『月光の間』に発見された次郎の屍体ですが、この方は一層問題がありませんでした。この少年が日ごろから並み並みならぬ好奇心を貝殻館に対して抱いていたということは、だれでも知っていることでしたので、恐らくその哀れな好奇心の犠牲となって、驚死したのであろうというのでした。事実次郎の屍体には何等の外傷も、暴力の痕跡も発見することができなかったのですから、ここにたといシャーロック・ホームズやオーギュスト・デュパンのような名探偵があったとしても、果たしてこれ以上の事実を推定することは困難だったのに違いありません。これを要するに万事は美絵の思う壺《つぼ》にはまったのです。だれ一人この恐ろしい二重殺人に対して疑惑の眼を向けようとする者はありません。美絵は心ひそかに自分の賢明さに対して祝福の言葉を贈らないではいられませんでした。すくなくともその翌日の夕方、食堂において次のような議論に花が咲いているのを、ちらりと小耳にはさむまでは。……「実際、われわれが生と呼び死と称しているこの事柄ほど、頼りない、漠然としたものはないのですよ。いったいどこまでを生といい、どこから先を死というべきか、果たしてだれが明瞭に、この限界をわれわれに教えてくれるでしょう。だれ一人それを明確に指摘することのできるものはいないのです」  黒いパイプを口にくわえたまま、にこりともしないでそう言っているのは緑川大二郎でした。鑿《のみ》で削ったようなその鋭い横顔に、ちらりと眼を注ぎながら、おやおや、この哲学者さん、いったい何を言い出すことだろうと、美絵もひそかに部屋の一隅に席を占めましたが、やがて相手の論旨が次第に、ある一つの方向をたどりつつあることを悟ると、さすがの彼女も、思わずハッと胸をとどろかせたのです。 「私は、七度死んで七度|蘇生《そせい》した男を知っていますがね」と緑川大二郎はおもむろに続けるのです。 「七度とも医者は死亡診断書を書くのに少しも躊躇しなかったのですが、それにもかかわらずその男は、七度とも無事に生き返ったのです。むろんこの男の場合はいささか極端ですが、仮死の状態から再び蘇生したという例は無数にありますよ。その中で最も有名なのは、一八一〇年パリで死んだラホセードという人妻の事件です。この女はラホセードという男と結婚して三年目に死んだのですが、生前にひそかに彼女に懸想《けそう》していたジュリアン・ポシウという男が、恋情に耐えかね、せめてその髪の毛なりとも手に入れようと墓を発《あば》いたところが、意外にも女が蘇生したのです。そこでそのまま手を携えてアメリカへ渡り、夫婦気取りで暮らしているところを先夫の友人に発見され、医学上、並びに法律上の大問題として欧米を騒がせたことがあります。それからもう少し極端なのは、アメリカのバルチモア選出の下院議員の細君の例ですが、この女は死亡後数日たって、屍体がすでに腐敗しかけたところを葬ったのですが、これまた墓の中で蘇生したという例があります。仮死の埋葬という事実は、空想力に富んだ作者にとって好題目なので、今までしばしば小説のなかに書かれていますが、そこには必ずしも荒唐無稽《こうとうむけい》なこしらえごととして、排斥してしまうことのできない真実があるのですよ」 「なるほど、それでどうだとおっしゃるのですか。まさかあのズタズタに骨の砕けた月代君が、ひょっとすると生き返るかもしれないなどとおっしゃるのじゃありますまいね」  貝殻館の主人貝殻貝三郎が、この時はじめて、幾分好奇心を動かされたごとく、にこやかな微笑をうかべながら反問しました。 「いや、月代君の方はおそらくだめでしょうね。しかし、ひょっとするとあの少年の方はどうにかならないかと思うのですが」 「あなたはそれを本気で言っているのですか」 「無論ですとも。御承知の通りあの少年の体には少しも外傷が見られませんでしたね。医者の診断によると、何か非常に恐ろしい衝動を受けたために心臓に故障を起こしたのだろうということでした。ところで私は最近ドイツのさる医学雑誌に、同じような原因で死亡した男に、ある特殊の電流を送ることによって蘇生させたという記事を読んだことがあるのです。ところであなたは、私がかつてさる医科大学の研究室に潜り込んで、しばらく勉強していたことのあるのを御存じでしょう。そこで一つ、この珍しい実験をして見ようと思うのですがねえ」 「実験を?」さすが物に動ぜぬ貝殻館の連中も、この大胆な提案には驚かぬわけにはいきませんでした。 「どうしていけないのですか。失敗したところで結局もともとじゃありませんか。それがもし成功してごらんなさい。人の生命を一つ救うことができるうえに、われわれはすばらしくショッキングな経験をすることができるのですよ。ここにいられる皆さんは、世にも優れた猟奇の徒でいらっしゃるから、私のこの提案に対して、反対される人は一人もいないことと思いますが」 「ええそりゃ大変結構ですがね。しかしあの児の父親というのが承知しますかね」 「その心配なら御無用、父親もすでに承諾して、自ら進んで少年の屍体を、あの『月光の間』へ運んできているのですよ」  これには美絵も、思わずぎょっといたしました。この男は本気でこんなことを言っているのであろうか。この、一見馬鹿馬鹿しく見える言葉の裏には、何か恐ろしい罠が秘められているのではなかろうか。美絵はその隠された意味を読み取ろうとするかのように、じっと緑川大二郎の横顔を見つめていましたが、石のように冷たい仮面からは、ついに何物をも発見することはできませんでした。 「それじゃ、『月光の間』で、そのすばらしい実験をおやりになるのですか」 「そうです。配電装置などあの部屋がいちばん理想的なんですがね。……いかがですか。皆さんがいらっしゃればすぐにでも始められるように、ちゃんと用意がしてあるのですが。ああ、これは失礼、御婦人はこの実験はちょっとどうかと思うのですが」 「いいえ」美絵は大きな瞳の中に、相手の姿を呑み込んでしまおうとするかのように、じっと緑川の顔をながめていましたが、やがて静かな、落ち着きはらった声音でこういいました。 「私もぜひ見せていただきますわ」  そういいながら美絵は、軽いめまいをこらえるように、きっと唇を噛みしめていました。  それにしてもいつの間にこのような恐ろしい準備がしてあったのでしょうか。『月光の間』のあの銀色の噴水のかたわらには、大きなガラス製の寝榻《ねだい》が用意してあって、その上に横たわっている裸形の屍体は、確かにあの次郎ではありませんか。ああ、あの鉢のひらいた大きな頭といい、やせこけた頬といい、くぼんだ眼窩といい、それから尖った顎といい、どうしてこれを見違えることができようか。美絵はちょっとの間、気が遠くなりそうな気がしましたが、すぐ気を取り直すと、その屍体に向かって挑戦するように肩をそびやかし、眉をあげ、そして心の中ではしきりに「何でもない、何でもない……」と繰り返し、繰り返しつぶやいていました。それにしても、見れば見るほど気持ちの悪いのはこの屍体です。やせこけた胸には、肋骨《ろつこつ》が一本一本突出していて、そのために今にも皮が破けそう、腹は瓢箪《ひようたん》のようにくびれていて、その下にぶらさがっている二本の脚は、まるで針金のように外に曲がっています。ちょっと脂をしぼり取ったあとの鯡《にしん》といった面影のあるのがこの屍体で、しかもそういう茶褐色《ちやかつしよく》に黝《くろ》ずんだ手頸や足頸、さてはくぼんだ胸のあたりにはめてあるものものしい金属の輪の、ピカピカとした輝きが、むしろ滑稽なほど無気味な情緒を添えています。それらの金属の輪には、いうまでもなくそれぞれ針金がつながっていて、それが銀砂のうえを蛇のようにはいながら配電室の方へ続いているのです。 「それでは始めますが、あまりそばへお寄りにならないように、危険なことはないつもりですが、どういう不意の事故が起こらないとも限りませんから」  ああ、この『月光の間』がいかに不思議なからくりによって埋められているとするも、いま緑川大二郎の手によって、スイッチを入れられたこの瞬間ほど、世にも恐ろしく、また怪しげな光景を呈したことは、後にも先にもなかったでしょう。人々はまずそこに、流星のように飛び交う無数の火花を見ました。火花はしばらく枝珊瑚《えださんご》か妖蛇の舌のごとく、数条にもわかれて冷たい少年の体を包むかと見る間に、やがて湖水の表面に立ちのぼる瘴気《しようき》のように、朦朧と燃えあがり、その中から無数の蛍光を発しました。やがてこれらの炎は次第に凝って、しばらく虹のように少年の屍体のうえにかかっていましたが、それと同時に、人々は何ともいえぬほど気味の悪いことをそこに見ました。あのかさかさとした少年の屍体に、にわかに紅味がさしてきたかと思うと、やがてその全身から仄白い燐光が、ぼーッと、霧ににじんだ不知火《しらぬい》のように燃えあがって来たのです。と、同時に、今まで石のように静止して動かなかったあの落ちくぼんだ少年の胸が、その時ふいに、風琴のような音を立てて大きく呼吸するのを人々は見ました。と、思うと、少年はふいにパッチリと眼を開き、跳ね出すようにガラスの寝榻に起き直ったのです。 「ああ」  さすが物に驚かぬ貝殻館の住人も、この意外な出来事に、思わず息をのみこみましたが、その時さらに思いも設けぬ大椿事《だいちんじ》がそこに起こったのです。人々は背後に当たって、突如細い、ふるえを帯びた声が、何やらくどくどとつぶやいているのを聞き、驚いて振りかえりましたが、見るとそこには、美絵がべったりと床のうえに坐って、きらきら光る銀色の礫《こいし》をもてあそびながら、次のようなことをとりとめもなくひとりでしゃべっているのでした。 「——次郎さん、どう、苦しい、ちっとも苦しかないでしょう。ほら、ほら、あなたの手頸の血管から流れだした血のために、お湯のなかは次第に赤くなっていきますよ、だめ、見ちゃいけないの、目隠しをしたまま静かにしてらっしゃい。血は次第に湯の中に溶けて行きますよ。そしてああ、あなたの心臓の働きはだんだん弱くなっていきます。まあ、この脈搏の少なくなったこと! もうすぐ! もうすぐあなたは死ねますよ。苦しいの、ああ、よしよし、も少し我慢してね。小母さんもすぐ後から行きますからね。ああ、浴槽の中のこの赤くなったこと。おや、もう口が利けないのね。かわいそうに、かわいそうに。……」  この気の狂って美しい妖女を哀れむように、あたりには人工の星がいっぱい瞬いているのでした。 「美絵のように優れた空想を持った女から、告白を引き出すためには、結局、その空想を逆に利用するほかに仕様がなかったのですよ」  貝殻館の主人に向かって、緑川大二郎がこう話したのはそれからだいぶ後のことでした。 「いったいどうして彼女が、あのように次郎を死に至らしめたか、それは私にもよくわかりません。しかしあの最後の告白によって、いくらか推察されないこともありませんね。おそらく彼女は次郎に対して避けがたいほど強い死の暗示を与えたのでしょう。それにはあの少年の異常にもろい神経と、『月光の間』の不思議な空気を見のがすことはできませんが、それにしても、同じ不可思議な空気が、今度は逆に自分を陥れる武器になろうとは、さすがの彼女も思わなかったでしょうね。私の吐いたあのもっともらしい『仮死よりの復活』説と、子供だましの電流の遊戯が、ああまで完全に美絵を眩惑《げんわく》し、彼女を空想の虜《とりこ》にすることができたというのも、あの『月光の間』の妖気があったればこそです。ただ美絵のために惜しむらくは次郎に瓜二つの双生児《ふたご》の兄弟のあることを彼女が知らなかったことですよ。しかも彼女の最初の殺人の目撃者は、兄の方の太郎だったのに、美絵は間違って弟の次郎を殺しているのです。この些細な間違いさえなかったら、彼女こそは、今世紀における最も完全な犯罪の創始者としての、赫々《かくかく》たる栄誉を担うことができたのでしょうがねえ」     付・死活の神秘  本篇に述べたところの『仮死よりの復活』なる事実は、単に緑川大二郎のトリックに過ぎなかったことはご覧の通りであるが、かかる事実は全くなきにしもあらず、たまたま余が所蔵にかかる一八八二年ロンドンにて発兌《はつだ》された『死活の神秘』なる小冊子には、このような例が無数に列挙してあるが、今その中の最もショッキングな事件をここに掲げて読者諸君の参考にしよう。  十九世紀の中葉ロンドンの社交界において、白髪貴公子、あるいは幽霊貴公子というあだなのもとに持てはやされていた一貴公子は齢《よわい》まだ三十に満たざるに雪のごとき頭髪を戴き、一見奇異の感を抱かしめたがその不可思議な身の上話を聞くに及んでは、何人も恐怖のために、背《そびら》に汗をしないものはなかったという。すなわち公子の母なるレディ・ギルラアという婦人は、公子を分娩《ぶんべん》する間際にチブス熱で死亡し、祖先累代の墓窖《はかあな》に葬られたが、葬式より二日後、遺族の邸に客あり老僕が酒蔵を開こうとしたのに鍵が見当たらない。はじめて葬式の砌《みぎり》棺側にそれを置き忘れたことを思い出した老僕は、主人の許しを得て再び墓窖の扉を開いたが、その時新しい柩《ひつぎ》の中より孩児《がいじ》の泣き声が聞こえた。この報告に驚いた主人が柩を打ち砕いてみるに、レディ・ギルラアの屍骸は柩の中で孩児を分娩し、しかもその面は納棺の際とは打って変わって、物すごい苦悶の表情を呈していた。おそらく夫人はいったん柩の中で蘇生し、無事に分娩したが、恐怖と絶望のために再び悶死したのであろうといわれ、この時産み落とされた赤ん坊が生まれながらにして雪のごとき白髪を頂いていたのは、分娩時の母親の苦悶がそのまま小児の上に宿ったのであろうと人々を畏怖させたということである。あの有名なマリー・コレルリの伝奇小説『ヴェンデッタ』はこの事実を脚色せしならんかと伝えられている。 [#改ページ] [#見出し]  蝋 人     一  珊瑚《さんご》がはじめて今朝治《けさじ》とあい見たのは、湖の氷もあらかた解け、城址のさくらがようやくちらほらとほころびそめたころのことでありました。  桜桃梅李一時に開く。——そういう言葉の通り、遅い梅の花がやっと開いたかと思うと、それを追っかけるようにして、桃、李《すもも》、桜という順に、矢継ぎ早にパッと開いて、そしてようやくこの地方には春がくるのです。  珊瑚はその時、まだやっと十七になったばかりでした。その前の年、半玉《はんぎよく》から一本になったばかりで、肩や腰のあたりに、まだ一人前になりきらぬ肉の薄さが残っていて、抱きしめればひとたまりもなく、腕の中で消えてしまいそうな、可憐というよりは、むしろ痛々しいと言った方があたっていたでしょう。  しかし当人にしてみれば、そんなことは考えてもみたことはなかったでしょう。じっさい、われわれの眼から見て、もう少し小児《こども》でいたら……と、思うような場合でも、この社会ではしばしばその反対のことが言われています。半玉たちにきいてみても、彼女たちの夢想の第一番に来るものは、一日も早くよい旦那がついて、一本のお披露目《ひろめ》をしたいということなのだそうですから、たとえはたの者がいじらしさに眼をうるませたとしても、珊瑚にとっては、その本当の意味を了解することはむずかしかったに違いありません。  全くその時分まで珊瑚は、不幸せという言葉を知らずに過ごしてきたようなものでした。越後《えちご》生まれとかいいます。あのへんの女の特徴として、肌理《きめ》が細かく詰んでいて、手足がすんなりと伸び、五本の指をそろえて出すと、弓のように反りました。凜々《りり》しい、冴々《さえざえ》とした眼と、ひきしまった感じの唇とを持った勝気な妓《こ》で、半玉の時分から踊りにかけては、諏訪《すわ》きっての名手といわれていたような妓でした。  旦那は——こういう女の身の上話をする以上、旦那のことを除外するわけにはいきません——旦那というのは山田|惣兵衛《そうべえ》という繭《まゆ》の仲買いを商売にする男で、俗に山惣の旦那と呼ばれてこの町きっての資産家でした。年齢《とし》はさよう、その時分すでに五十を一つ二つ出ていましたろうか、胡麻塩の毛のかたそうな、顔も体もゴツゴツとした、気性の激しい、一口に言って信州タイプをそのまま人格化したような男でした。いったいこの年ごろになると、同じ遊ぶにしても普通の若い妓を相手では満足できなくなるとみえます。山惣の旦那が珊瑚の世話をしようといい出したのは、実に彼女が十四の時だったといいますから、ずいぶん早くから眼をつけたものではありませんか。 「珊瑚さんは幸せだ。あんな太っ腹な旦那がついているんだもの」  というのが、当時におけるその社会の評判でしたが、じっさい、よい器量と人にすぐれた芸と負けじ魂とを持っていて、その上に金放れのいい旦那がついていれば、この社会では不幸ということはないも同じです。少なくとも、今朝治に会うまでは、珊瑚自身もそう考えていたのに違いありません。  後になって私は、このかわいそうな二人の話を、いろんな人から聞き集めてみましたが、それによると彼等がはじめて会ったのは、だいたい次のような場面であったようです。  毎とし花時にこの地方では、芸者たちの温習会がありますが、たぶんその稽古《けいこ》帰りでしたろう、稽古扇を胸に抱いて珊瑚が、劇場の楽屋から小走りに、大手町の欅《けやき》並み木にさしかかると、何に驚いたのか、いきなりその鼻先で、ピンと跳ねあがったのは一頭の白馬。何しろふいのことですから、珊瑚は胆をつぶして欅の根元へ逃げこむと、そのままうつぶせにかがんでしまいました。馬上にまたがっていたのは、まだ若い青年でしたが、それを見るとあわてて馬から飛びおり、珊瑚のそばへ駆けよると、 「どうかしましたか、どこかけがでも……」  と、気づかわしそうにうしろからのぞきこみます。珊瑚は激しく首を振りながら、 「いいえ……いいえ、何でもありませんの」  といいましたが、じっさい、けがといっては別になかったが、驚きのあまり動悸《どうき》がまだ浪のように立っているのでした。 「とんだことで……どうか勘弁して下さい。日ごろは至っておとなしい馬なんですがねえ」  珊瑚は男の真摯《しんし》な言葉に、かえってきまりが悪くなり、うしろから抱き起こそうとする相手の手を払いのけると、よろよろと土のうえから起きあがりましたが、そのとたん、心配そうに眉をひそめた男の白い横顔がちらと眼に入りました。するとなにゆえか彼女は、急にかっと耳の付け根まで真っ赤になると、眼のやりばにも困るという風に、しばらくもじもじしていましたが、ふいに男の手を強く払いのけると、そのままものも言わずに駆け出してしまったのです。  それからしばらくして、ふと彼女がふり返って見ると、憎らしいその人は、雪のように真っ白な馬上豊かにまたがって、参差《しんし》として枝を交えた欅並み木の下を、春霞に包まれて静々と向こうの方へ立ち去ってゆくところでしたが、赤と紫の派手なダンダラ縞のスウェターを着た、いきなその騎手のうしろ姿が、なにゆえか珊瑚の瞳のなかに強く残ったらしいのでした。     二  それまで富士見で行なわれていた競馬が、諏訪に移ることになったのは、その年の春からで、その競馬場びらきというのが、ちょうど珊瑚があの美しい騎手に会ったその翌日のことでした。  この競馬場びらきには山惣の旦那も、むろん町の有力者として出席していましたが、その席には珊瑚もほかの姐《ねえ》さんたちにまじって侍《はべ》っていたのです。そして祝賀会もすんで、いよいよ第一競馬がはじまるころ、彼女は山惣の旦那や、ほかの旦那衆と一緒にスタンドに陣取って、はじめて競馬というものを見物することになりましたが、ほんとうをいうとその時彼女は、生まれてはじめて見る競馬より、もっと他に楽しい目的があったのです。 「まあ綺麗だ! ねえ、あの真っ白な馬、実に綺麗じゃないの。あれ、何という馬なの?」 「あれですか。あれはアドニスというのです」  世話係りの男にそう教えられて、プログラムに眼を落として見ると、アドニスの騎手の名は鮎川《あゆかわ》今朝治というのでした。今朝治さんというのだわ、あの方。……そこで珊瑚は旦那に向かってこういってすすめたのです。 「旦那、アドニスをお買いなさいよ。きっと勝ってよ。あたしが保証するわ」  もとより草競馬のことですから、勝っても負けても大したことはありません。しかしこの時、諏訪の旦那衆のあいだでは、馬券とは別に大きな賭けが秘密で行なわれていたのです。五人の旦那衆がめいめい一頭の馬を買って、それに百円賭ける。そして第一着になった馬に賭けたものが、賭け金の全部をとるという約束でした。何しろ今と違って繭の高い、景気のいい時代で、そういう無謀な賭けが方々で行なわれていたということです。  山惣の旦那は別に珊瑚の言葉を信用したわけではありませんが、言われるままにアドニスに賭けました。どうせ素人《しろうと》ばかりのことだから、どれに賭けても同じことだと思っていたのでしょう。ところが結果はというと、珊瑚の予想は見事的中したのです。じっさい、群がる馬どもを次第に抜いて、見事第一番にゴールへ躍りこんだアドニスの勇姿は、確かに当日のもっとも目覚ましい観物《みもの》の一つでした。 「や、や、これはどうも!」  興奮した時の癖で、山惣の旦那は子供のように真っ赤な顔をして躍りあがったものです。 「南無、諏訪大明神!」 「いや、御運の強い方にはかないませんな!」 「何しろあんな美しい軍師がついていらっしゃる!」  しかしその美しい軍師である珊瑚は、その競馬の終わりごろより、じっとしていられない興奮を感じていました。そして、いよいよアドニスが第一番にゴールへなだれ込んだせつな、彼女は思わず二、三段、スタンドを飛びおりていたのです。 「ああ、何という美しい男だろう。あの男こそ本当にアドニスだ!」  だれかが彼女のそばで大声でそうつぶやくのが聞こえました。珊瑚はその言葉の意味をはっきり理解することはできませんでしたが、それが今朝治に向けられた賛美の言葉であることを、推察するのはそう困難なことではなかったのです。  実際その時、馬上豊かにまたがって、帽子をとって風に吹かれている今朝治の姿ほど、美しい存在は広い世間にもあまりたくさんはなかったでしょう。いったい、競馬の騎手に大男はありませんが、今朝治とくると、とりわけ、少女のような華奢《きやしや》な体格をしているのでした。顔も肩も腰も、体ぜんたいの線がなんというか、柳の鞭《むち》のようにしなやかで、そしてそのしなやかさの中に、一種異様な粘着力を持っている、そういった風な体つきでした。  皮膚は蝋《ろう》のように白くて滑らかで、それが快い運動のために軽く汗ばみ、ぼっと紅味をおびたその艶めかしさ。房々と額のうえに垂れかかった、軟かそうな栗色の髪の毛が、春日《しゆんじつ》をうけて金色に輝いているその美しさ。なおその上に、この少年の持っている最も大きな美点というのは、往々美少年などに感じられる気取りや、気障《きざ》さというものが微塵《みじん》もないことでした。彼はまるで、自分の備えている天賦の麗質に、全く気が付いていないかのごとく、きわめて無邪気に、そしてまた無造作に振舞うのです。終始かれはにこにこと微笑をうかべながら、馬上より身をこごめて、自分の周囲に集まってきた賛美者の握手に応えていましたが、やがてそれも一通りすむと、体をシャンと起こし、ゆったりとした身のこなしで、静々とこちらへやって参りました。  珊瑚はそれを見ると、急に胸がわくわくとし、切ないほどの動悸を感じました。眼のふちがぼっと赤くなり、眸《ひとみ》がうるんで濡れた星のようにきらきらと光りました。まったく彼女のような素性の女が、男に対してこのような気臆《きおく》れを感ずるというのは、うそのような話ですが、この時の珊瑚はまったくこの通りだったのです。彼女は幾度かつばきをのみこみのみこみしましたが、いよいよ今朝治がその前を通り過ぎようとするのを見ると、ふいにたまらなくなったように、 「今朝治さん」  と呼びかけ、そしてそのまま、石のように身を固くして、そこに立ちすくんでしまったのでした。     三  それから一月ほどたって、山惣の旦那が商用で東京へ行くことがありました。  いったい、繭の仲買いというものは、一年のうち三分の一ぐらいは旅で暮らしているもので、信州は申すに及ばず、山梨、群馬、栃木、茨城というような、養蚕の盛んな土地を始終歩いているものです。そしてそれらの仲間の落ちあう本部みたいなものが東京にあって、一年のうちに二、三度は、是非ともそこへ顔を出さねばならぬことになっています。  珊瑚はいつもなら、どんなに口を酸っぱくして、旦那から勧誘されても、けっしてそのお供に応ずるようなことはなかったのですが、その時ばかりはどういう風の吹き回しか、 「そうねえ、一度ゆっくり東京見物をしたいわねえ」  と、まんざらでもない返事で、まずもって旦那を有頂天にしておき、それからしばらく、行きたいような、行きたくないような、煮え切らない態度で、さんざん旦那を焦らせておいたあげく、 「そんなにあなたがおっしゃるのなら……」  お供をしましょうということになりました。  どんなに駄々をこねられても、どんなにわがままをいわれても、とどのつまりは自分の言い分が通ったわけですから、旦那は天にも昇る心地であったようですが、もしこの時、山惣の旦那に、繭の売買をする時のような、あの鋭い明察があったなら、珊瑚のこの有難い気まぐれの裏に、どのような魂胆があるか読めないはずはなかったのですが、さても商売と情事《いろごと》とは一つにならぬものとみえます。  珊瑚の魂胆というのはいうまでもありません。東京行きが決まってから、いよいよ旅立つまでの五、六日のあいだに、彼女はきっと、あの美貌《びぼう》の競馬騎手と手紙の往復をして、十分打ち合わせをしておいたのでありましょう。ひとまず神田の宿へ落ちついて、それからどうしても顔を出さねばならぬ得意先へ、旦那が出向いていったあと、彼女はすぐにどこかへ電話をかけていましたが、それから半時間ほどの後には、銀座通りを仲よく肩を並べて歩いている、珊瑚と今朝治の姿が見られたのです。  いったい、繭の仲買いというものは相場師も同じことで、寸刻を争うような場合が度々ありましたから、山惣の旦那も、せっかくかわいい女を連れて来たものの、彼女に十分満足をあたえてやることができないような場合がしばしばありました。昼は昼で仕事のために、夜は夜で派手な交際《つきあい》のために、しばしば珊瑚をひとり宿へおいてけぼりにするのやむなきに至るのを、旦那はどれほど本意なく思ったか知れませんが、いずくんぞ知らん、この留守中こそ珊瑚にとっては書き入れ時だったわけです。  ちょうどそのころ今朝治は、地方の草競馬と草競馬とのあいだに、三日ほど暇があったものですから、珊瑚の手紙によって急遽《きゆうきよ》東京へ出て来ていたのです。三日のあいだ二人はだれにはばかることもなく、それこそ新婚の若夫婦のように、そのはかない、夢のような天国を味わうことができました。あるいは井ノ頭公園を散策したり、あるいは鶴見の花月園で遊んだり、あるいは百貨店の買い物で時間を惜しんだり。……しかし、彼等の行動がついにそれらの平凡な東京見物以上に出なかったというのは、まことに不思議な話ではありませんか。十七とはいえ珊瑚は、色の諸分けを知りつくした巷《ちまた》に育った身ではあるし、一方今朝治といえども、年中旅から旅を回っている体で、それまでに女の肌の一人や二人、知らぬはずはなかったのですが、それにもかかわらず彼らに、円宿《えんじゆ》ホテルのドアを内部《うち》がわから締めきろうという知恵の出なかったのは、うそのような話ですが、でもそれが本当のところだったのです。  とうとう二人が別れねばならぬ三日目になりました。今朝治は次の競馬の都合で、どうしてもその日のうちに上野を発たなければならなかったので、珊瑚はしばしお別れの記念に今朝治にカフス・ボタンを買ってやりました。 「ねえ、二人の頭文字を入れてもらいましょうよ、あなたは今朝治さんだからKね」 「それじゃKとSの組み合わせですね」 「ううん、Sじゃいや、あたしの本当の名はマユミというのよ。これからあたしのことをそう呼んでちょうだいね。あなたにだけは珊瑚とよばれたくないのよ」  今朝治はそのカフス・ボタンのお礼に、銀の脚のついた美しい花簪《はなかんざし》を買って珊瑚に贈りました。それはカフス・ボタンに比べるとお話にならぬほど、貧しい贈り物でしたが、それでも珊瑚はたいそう喜んで、生涯この花簪を大切にするだろうと約束して、今朝治を満足させました。ああ、彼らが間もなく自分たちの身に振りかかってくる、数々の恐ろしい出来事をその時予知することができたら!  こうして幸福な買い物をすませた二人が、とある百貨店の前まで来た時です。大きな|飾り窓《シヨウ・ウインド》のまえで、ふいに珊瑚が立ちどまると、 「まあ! あれを御覧なさい。あの蝋人形を……」  と、そういって今朝治の指をつかんで激しく引っ張りました。今朝治は怪訝《けげん》そうな顔をして、 「あの人形がどうかしましたか」 「まあ、おわかりにならないの。よく御覧なさいな、あの顔を。……あなたにそっくりじゃありませんか」 「そうでしょうか、なるほど、そう言えばなんだかそんな気もしますね」 「そんな気がするって? あなたにはまだよくおわかりにならないのね。あの眼、あの口許、顔の輪郭といい髪の色といい……」珊瑚はおびえたような微笑をうかべながら「まるであなた御自身が|飾り窓《シヨウ・ウインド》のなかに立っているようですわ。うそだとお思いになるなら、そこに鏡がありますから、御自分の姿と見比べて御覧なさいよ」  それはハイキング用具売り出しの宣伝と見えて、リュック・サックを背負った青年が、キャンプのそばに立っている人形でしたが、なるほど、そう言われてみるとその蝋人形の顔というのがたいへん今朝治に似ているのです。 「なるほど、そういえば大変よく似ています」  今朝治はなんとなく寒そうに肩をすぼめました。 「ねえ、似ているでしょう。顔ばかりじゃないわ、体の大きさから格好まで、そっくり今朝治さんそのままよ。ほら、あの房々とした栗色の髪を、額に垂らしているところなどのよく似ていることといったら!」  そう言って珊瑚は、今朝治に帽子をとらせると、二、三歩離れて、驚嘆したようにこの人と人形との、不思議な相似について見入っているのでありました。     四  その次に珊瑚が今朝治に会ったのは、その年のお盆のことでした。この辺のお盆は上方流に一月おくれの八月ですが、その時分から朝夕はめっきり冷気を覚えるようになります。  お盆の十三日、その夕方珊瑚は、受けているお座敷があるので、早目に身仕舞いをととのえると、ふと思い出して、小女《こおんな》の小菊というのに命じて、門口へ焙烙《ほうろく》を持って来させると、自らお迎え火を焚《た》きました。この辺の習慣《ならわし》でお迎え火には白樺《しらかば》の皮を焚きます。雀いろの夕闇《ゆうやみ》のなかに、軒ごとにたく白樺の火が、ちょうど藪《やぶ》の小陰に色づいているほおずきのように、はかなくも美しく燃えあがります。珊瑚は焙烙のそばにしゃがんだまま、しばらく夢のようにうっとりとそれをながめていましたが、その時|忽然《こつぜん》として、代赭《たいしや》いろの焔の向こうに今朝治の姿が浮きあがったのです。まったく、それがあまりだしぬけだったので、まるでお迎え火の煙のなかからでも出て来たような、なんとも言えないほど、不吉な、いまわしい予感が珊瑚の胸をふるわせました。 「まあ、あなたでしたの、今朝治さん」珊瑚はおびえたように、「あたし幽霊かと思ってびっくりしたわ」  しかし、それは幽霊でも幻でもありませんでした。正真正銘の今朝治だったのです。今朝治はその時、新潟の競馬がすんで、これから西の方へ行かねばならなかったのですが、そのあいだに一週間ほど暇があったので、矢も楯もなく珊瑚に会いたくなってやって来たのでした。  珊瑚はうれしいにはうれしかったけれど、一方心配でもありました。もしこんなことが山惣の旦那の耳にでも入ったらと思うと、なんとなく心もとない気がするのですが、さりとてこのまま追いかえすわけにも参りません。とにかく今朝治を家へあげると、どうしても抜けられない、義理のあるお座敷へ彼女は大急ぎで出かけました。  ところが、それから半時間ほどして、彼女がやっとの思いでお座敷を抜けて帰ってみると、驚いたことには山惣の旦那と今朝治の二人が差し向かいで、さも打ち解けた様子で話をしているではありませんか。珊瑚はそれを見ると、はっと肚胸《とむね》をつかれたような思いがしましたが、旦那はむしろ上機嫌で、 「珊瑚や、いまお前のお友達に、せめて燈籠流《とうろうなが》しまで逗留《とうりゆう》していらっしゃいと勧めていたところだよ。お前からもお引き止めしたらよかろう」 「ええ? ええ——」  旦那の心を計りかねた珊瑚は、至極あいまいな返事しかできませんでしたが、それでも旦那の上機嫌につり込まれて、つい、いくらか心を許しましたが、後から考えてみるとこの時珊瑚は、まだまだ山惣の旦那という人をよく知らなかったことがわかったのです。  燈籠流しはお盆の十六日、この地方のもっとも大きな年中行事の一つです。山惣の旦那はその晩、二艘の舟を買い切って、お気に入りの芸妓や取り巻き連中と見物に出かけました。ところがいざみんなが舟に乗りこんだところを見ると、故意にかそれとも偶然そうなったのか、今朝治と珊瑚は別々の舟に分けられ、そして珊瑚や旦那の乗っている方には、芸妓や雛妓《おしやく》がたくさん乗りこんでたいへんにぎやかなのに反して、今朝治の乗った方の舟は男ばかり、しかもその男たちの顔つきに、何とやら油断のならぬものを感じて、珊瑚ははっと激しい、胸騒ぎに似た不安を感じました。  しかし、人の好い今朝治は一向そんなことに気がついた様子もなく、始終にこにこと愛嬌のいい微笑をうかべながら、周囲から寄ってたかってすすめられるままに、思わずも杯の数を重ねました。その夜は急に温度が下がって、湖水の上は八月とは思えぬほど冷気を覚えたので、何の気もなく薄着をして来た彼は、酒でも飲まなければとてもしのぎがつかなかったからです。  やがて二艘の舟は真っ暗な水のうえを滑って次第に湖心へと進んでいき、間もなく先頭に立った珊瑚の舟からは、にぎやかな三味や太鼓の音が洩れはじめました。  と、この時です。こちらの騒ぎも圧倒するような、にぎやかな太鼓の音が突如、はるかかなたの岬のあたりから聞こえてきたかと思うと、燃えあがるような万燈を掲げたお題目舟が二艘、数間の間隔をおいて、岬の陰から漕ぎ出して参りました。このお題目舟のうしろには一艘ずつ平底舟がついていて、これが水のうえに燈籠を流して行きます。舟が進むにしたがって、湖水の上に点々として明滅する燈籠はしだいにその数を増してゆき、この流燈会《るとうえ》を見物しようと岸に群がった人々の口からも、一斉にお題目を唱える声が洩れて来ました。  万燈を掲げたお題目舟は、いったん湖水を斜めに突っ切ると、そこから左右にひらいて、さらに今来た道を直角に燈籠を流してゆきます。こうしてまたたく間に、今朝治たちの乗った舟の周囲は、無数にもゆる狐火《きつねび》をもって包まれてしまったのです。  今朝治はしばらく恍惚《こうこつ》としてこの美しい湖水の御神火をながめていましたが、そのうちにどうしたのか、それらの火が次第に網膜のうえでぼやけていったかと思うと、やがてそこら中が一団の大きな焔の塊となって、彼のほうへどっとばかりのしかかってくるような危険を感じました。  と、思うと、ふいに頭の芯《しん》がジーンとしびれ、杯を持った手が岩のように重いのを感じました。今朝治はその時、自分を取りまいている男たちの顔に、奇妙な表情がうかんだのを見て、思わずはっとしたが、その時にはすでに、奇怪な麻酔は全身のすみずみまでも行きわたっていました。手にしていた杯を、ふいにポロリと水のうえに落としたかと思うと、今朝治はそのまま、舷《ふなべり》のうえにガックリと首を垂れてしまったのです。耳を圧する太鼓の音と、岸に群がる見物が唱える高らかなお題目の声を、遠い、はるかな子守唄と聞きながら。……     五  今まで和やかな、むしろ坦々たるコースをとっていたこの物語が、突如、一種底気味の悪い面貌《めんぼう》をおびてきたのは、実にこの燈籠流しの夜からでした。燃えあがる湖水のうえで、怪しげな薬を盛られた今朝治が、それから後の、夢とも現《うつつ》ともつかぬ不可思議な夢幻境の記憶を、後になって人に語ったところによると、それは次のような奇怪なものでした。  暗い虚無の世界から、彼がふたたび飄《ひよう》|※[#T-CODE SJIS=#E4C0 FACE= 秀英太明朝0212 ]《よう》として現実の世界に戻ってきたとき、まず第一にその神経を刺激したのは、なんとも得体の知れぬ甘酸っぱいにおい、ついで、濡れたタオルか何かでピッタリと鼻孔をふさがれたような息苦しさ。それから眼瞼《まぶた》を通して、拡大した瞳孔《どうこう》をいらいらと刺激する強烈な白熱燈の光。  今朝治はその光線の眩しさに顔をそむけようとして、そのとたん、思わずもポッカリと眼をひらきました。気がつけば何やら固いものの上に仰臥していて、頭のすぐ上には漏斗《じようご》を伏せたような大きな白熱燈がぶらさがっている。——というようなことが、おぼろげながら次第に彼の意識のなかに吸いとられてきました。白熱燈は末広がりの白い光の縞を作っていて、その光の外はびっくりするほど濃い闇。  今朝治はしかし、次第に眼が慣れてくるにしたがって、その闇のなかにうごめいている、一種異様な風体をした人物を認めることができました。その人は真っ白な縁なし帽をかぶり、真っ白なマスクをかけ、真白な衣服を着て、黙々として何やら手を動かしているのです。  いったいこの男は何をしているのだろう。あの緊張した、というよりはむしろ、おびえたような眼つきをしていったい何をしているのだろう。今朝治はもっとよくその人を見ようとして体を動かしかけましたが、その時、そこにもう一人、別な人間が暗闇のそこにたたずんでいることに気がつきました。  この男は前の人物のように、白い帽子もマスクもつけていませんでしたが、何にしても激しい息づかいです。今にも心臓が破裂しはしないかと思われるような、聞いている方で切なくなるような、せわしい、切迫した息づかい。いったい何をそのように興奮しているのだろう、今朝治はその物々しさにふきだしたくなるような滑稽さを感じましたが、そのとたん何やら激しい痛みが、体の一部からぐぐんと強く脳に響いてきたのです。  今朝治はハッとして手足を縮めました。いや、縮めようとしたが、実際はいつの間にやら、手も足もバラバラにされてしまったように、自分で自分の肉体が自由にならぬことに気がついただけだったのです。おや、おれはいったいどうしたというのだ。おれの魂はすでに肉体から脱却してしまったのだろうか。ここに横たわっているのはおれの肉体ではないのか。……  だが幸か不幸か、今朝治はそれ以上混迷の淵にさまよっていなくてもよかった。というのは、その時ふたたび、冷たく濡れたタオルがピッタリと鼻孔をふさぎ、胸の悪くなるような芳香がツーンと鼻から脳へ抜けたかと思うと、彼の意識はふたたび、茫漠たる虚無のかなたにさまよい出たからでありました。     六  流燈会の夜以来、まったく姿を消してしまった今朝治について、珊瑚はなんとも名状しがたいような不安を感じました。だれに聞いてみても、彼の消息を知っている者はありません。今朝治と同じ舟に乗っていた男達の言葉によると、途中で気分が悪くなったというので、舟を岸へつけてやるとそのまま陸《おか》へあがってしまったというのですが、さてそれから先の消息はだれ一人知っている者はないのです。  もっともその夜の終列車か翌日の一番列車で出発しなければ、次の競馬の間にあわぬといっていたので、急に思いたって出発したのかもしれませんが、そんならそれで、ことづけぐらいしてくれてもよかりそうなもの。……  珊瑚はなんとなく落ち着かない、いらいらとした気持ちで、その後の五、六日を暮らしましたが、今朝治からは依然としてなんの消息もありません。ハガキぐらいくれてもよかりそうなものだのに……と思うと、消息のないことが無言の愛想づかしのようにも思え、一時の立腹は、次第にふかい、取りかえしのつかぬような悲哀にかわって行きました。どうしたものか、山惣の旦那も、あの夜以来珍しく遠のいて、それがこういう際のことだから、いっそ気安くもあったけれど、また何となく不安でもあり、寂しくもありました。  するとそれから半月ほどたったある夜の、真夜中ちかくのことでした。旦那の来ぬ夜の、気楽なような、わびしいような独りねの床で、輾転と物思いにふけりながら、わが兄子《せこ》のくべき宵なりささがに[#「ささがに」に傍点]の……と、そんな古い歌をなんとなく口ずさんでいると、どこか遠くの方で半鐘の音が聞こえました。おや、火事かしらと枕からひょいと頭をもたげた時、突然激しく表の戸をたたく者がありました。そして格子のすきに口を当てるような声で、マユミさん、マユミさんと低く呼ぶのは、思いがけなくも今朝治の声。  珊瑚はそれを聞くとがばと布団から起きあがり、寝着《ねまき》すがたのしどけなさも打ち忘れ、急いで表のくるる[#「くるる」に傍点]を外しましたが、するとその時、半鐘の音をのせた風と共に、さっと転げ込んで来たのは、ああ、何という惨めな姿だったでしょう。 「まあ、今朝治さん!」  珊瑚がおびえたような声をあげてとびのいたのも、けっして無理ではなかったのです。  今朝治の様子はまったく日ごろの彼ではありませんでした。髪は乱れ、洋服はすりきれ、泥にまみれ、袖口には血さえ付いている。血走ってぎらぎらと光る眦《まなじり》は裂けるかと思われるばかり、噛みしめた唇から血が流れ、それにまあ、たった二週間あまりのあいだに、この激しい変わりようはどうでしょう。美しかった頬はげっそりと肉が落ち、皮膚はザラザラとけば立って、髯《ひげ》がもじゃもじゃと伸び、落ちくぼんだ眼窩は、まるで何か悪い病気にでも悩んでいる人のようです。それが珊瑚の袂《たもと》をとらえ何か言おうとするのですが、興奮のためか舌がもつれて口が利けないのです。 「まあ、今朝治さん!」  珊瑚はもう一度そう叫ぶと、隣の部屋まで起きて来て、ぶるぶると震えている小菊に向かって水を、水をと命じました。小菊がガラスのコップに汲んで来た水を、今朝治はやっと半分ほど飲みました。というのは、コップを持っている珊瑚の手も、それを飲もうとする今朝治の体も、共に倶《とも》に著しく震えていたので、半分以上は土間のうえにこぼしてしまったからです。  それでもこの半杯の水によって、今朝治はいくらか元気が出たと見えて、のど仏をごくごくと動かせながら、何か言おうとしましたが、それが言葉となって口を出る前に、ふいに涙がどっとばかりに両の眼からあふれてくると、珊瑚の手を握ったまま激しく泣きじゃくりをはじめました。珊瑚はまったく途方に暮れてしまったのです。これはいったいどうしたというのだ。何事が起こったのだ。あの流燈会の夜から今まで、今朝治はいったいどこにいたのだろう。問いたいこと、訊きたいことがいっぱいありながら、珊瑚もただわくわくするばかり。今朝治はやっと顔をあげて、 「マユミさん」  と、何やら必死の面持ちで言いかけましたが、その時、ふいに表の方からドカドカと入り乱れた足音が聞こえてきたかと思うと、荒くれ男が五、六人。 「やあ、やっぱりここにいやがった」 「太い野郎だ、袋叩きにしてしまえ」  と、そういったかと思うと、ピシャッと平手で頬を打つ音、今朝治が思わずよろよろとするところを、だれかが足をあげて蹴ったからたまらない、土間のうえにうつぶせになるところを寄ってたかってなぐる、打つ、蹴る。……  珊瑚がびっくりして割って入った時には、今朝治はすでに半死半生となって、土間のうえにぐったりと丸くなっていました。 「まあ、お前さんたち、この人をどうするの」 「どうもこうもあるもんですか。太い野郎だ。火を放《つ》けやがったんです」 「火を……? この人が……?」 「そうですよ。あの半鐘の音が聞こえませんか。山惣の旦那の宅は全焼《まるやけ》ですよ」  珊瑚はふいに胸をつかれたようによろめきました。あたかも解きがたい謎に出会ったように、しばらく彼女はじっと土間の一点をながめていましたが、やがてつぶやくように、 「今朝治さん、あれ本当のことなの」  と、ゆっくりとした調子で訊きました。しかし今朝治はそれに答えなかった。いや、答えることができなかったのです。血の気を失った頬は蝋のように冷えびえと澄みきって、右の鼻孔から流れだした血が、顳《こめ》|※《かみ》を伝って耳の方へ、静かに赤い糸を引いていました。     七  さて物語はしだいに急調子になって参りますが、この土地の裁判所が今朝治に対して、十八ヵ月の懲役を申し渡したのは、それから二ヵ月ほど後のことでした。審理がこのように進捗《しんちよく》したというのは、今朝治が少しも悪びれるところなく、犯行の一切を明確に自供したからなのですが、ただ不思議なことには、その犯罪の動機に至っては、なにゆえか彼はかたく口をとざして何事も語ろうとはしませんでした。  その結果当然、いろいろな揣摩臆測《しまおくそく》が行なわれ、山惣の身辺に関して、さまざまな風説が伝えられましたが、それはいずれもごく取るに足らぬうわさに過ぎませんでしたから、ここには一切触れないことにいたしましょう。  ただ一つ、ぜひとも申し上げておかねばならぬことは、この判決があってから間もなく、小口という大変評判のいい若い医者が、突然自殺したという事件がありました。この小口医師というのは、幼い時分両親をうしなって孤児になったのを、頭脳《あたま》がいいものだから、山惣の旦那がひきとって、本人が希望するままに中学から医専までの学資を出してやり、開業する際にも多額の資金を出してやったのは、山惣の旦那だったという話です。後になって事件の真相が明るみへ出てからというもの、人々は山惣とさえいえば、鬼のような人間を想うようですが、彼にはこういう侠気《おとこぎ》のある半面もあったのです。今になってはじめて我々は、この小口医師の自殺と、今朝治の事件との間に、ふかい関係があったことに気付くのですが、その当座はだれ一人、夢にもそのようなことを思うものはありませんでした。  それはさておき、今朝治の審理が続けられている間じゅう毎日ほど裁判所へは呼び出される、町の人々からは妙な眼で見られる、それやこれやですっかり腐りきっていた山惣の旦那は、判決がすむと間もなく、骨休めに珊瑚を連れて渋《しぶ》温泉へ湯治にでもゆこうといいだしました。山惣の本宅はあの火事で全焼《まるやけ》となったのですが、人のうわさによるとかえって焼け肥りだろうという評判もあったぐらいで、かたがた、新築ができるまで、人眼を避けてほとぼりを冷ましたかったのでありましょう。  珊瑚はしかし、旦那のこの申し出に応じませんでした。自分でもはっきりとした理由はわからないままに、彼女は猛然たる反感を旦那に対して抱きはじめていたのです。今朝治をこういう羽目に陥れたのは、すべて旦那のからくりに違いないということを、彼女は女性特有の鋭さと執拗《しつよう》さとをもって、信じて疑いませんでした。彼女はほとんど捨て鉢になって、すみれ[#「すみれ」に傍点]という日ごろ仲好しの朋輩芸者の許へ逃げて行ったまま、三日も四日も旦那のもとへ帰らないようなこともありました。  しかし旦那に楯つくことはできたとしても、この社会には旦那以上に強力な勢力をもった存在がずいぶんたくさんあります。日ごろ世話になっているお茶屋のおかみさんに泣きつかれ、半玉の時分から面倒を見てもらっている姐さんたちに口説かれ、なおその上に仲好しのすみれ[#「すみれ」に傍点]から懇々と意見をされると、それでもいやだとはどうしても押し通すことができなくなります。  結局彼女は不本意ながらも、すみれ[#「すみれ」に傍点]の許から、いったん自分のやかたに引き上げてくると、改めて旦那のお供をして、行きたくもない湯治に行かねばならなくなりました。ところがいざ出発という間際になって、そこにちょっと妙なことが起こって、結局この温泉行きはおじゃんになってしまったのです。妙なことというのはこうです。  その日は朝から風邪《かぜ》ごこちで、珊瑚はなんとなく気分がすすまなかったのですが、旦那が迎えの自動車をよこしたものだから、仕方なく表へ出てふと見ると、昨日まで厄介になっていたすみれ[#「すみれ」に傍点]の家の前に、赤十字病院の大きな自動車が停まっています。 「おや、すみれ[#「すみれ」に傍点]さん、どうかしたの?」  何気なく彼女はそう尋ねました。 「すみれ[#「すみれ」に傍点]さん腸チブスなんですってさ。避病院《ひびよういん》へ入れられるなんてずいぶんいやね」  迎えに来たお茶屋のおかみさんがつい何の気もなくそういったのですが、それを聞くと珊瑚の顔はみるみる真っ蒼になってきました。  そういえば二、三日すみれ[#「すみれ」に傍点]は、何となく気分が重く、体がけだるい、風邪かしらなどといっては振り出し薬を飲んでいたが、すると、あれがチブスの前兆だったかしら。そうすると、自分もいまちょうどそれと同じように、体がだるくて寒気がするが、ああ、ひょっとするとチブスがうつったのではあるまいか。……  珊瑚はそう気がつくと急に恐ろしくなって来ました。が、そのなかにも彼女はある一つの喜びをはっきりとつかんだのです。チブスになれば旦那と一緒に温泉などへ行かなくてもすむ、ああ、避病院のほうがどんなにいいかしれやしない。…… 「おかみさん、あたしきっとチブスに違いないわ。ほら、この体の熱いこと!」  おかみはそれをきくと、ぎょっとしたように、二、三歩うしろへ飛びのきました。なるほどそういえば頬が真っ赤に燃えあがり、眼がぎらぎらとうるんでいるくせに、唇はかさかさに乾いている。 「珊瑚ちゃん、お前さんはまあ……」  と、おかみさんが遠くの方からおびえたようにいうのを、珊瑚は尻目にかけながら、急にげらげらと笑い出しました。 「ほほほほほ、おかみさん驚かなくてもいいのよ。何てまあ気の利いた、情《じよう》知りのチブスでしょう。旦那と一緒に温泉なんかへ行くぐらいなら、あたしゃ避病院のほうがよっぽどうれしいよ。さあだれでもそばへ寄ってごらんな、旦那であろうがおかみさんであろうが、こうなったら容赦はない。みんなチブスをうつして道連れにしてやる。さあ、これでもあたしを温泉へ連れてゆく勇気があって? いえさ、あたしを抱いてくれる勇気があって?」  いくらか熱のせいもあったでしょうが、珊瑚はまるで気違いのように、そこにいない旦那をののしりながら、あげくの果てには土の上に身を投げ出し、肩をふるわせ身も世もなく泣き叫ぶのでありました。     八  珊瑚のチブスは彼女が希望したであろうより、はるかに重いものでした。おかげで彼女は旦那のお供からは逃がれることができましたが、しかし神様は、このかわいそうな女のわがままをお許しにならなかったのでしょうか、実に思いがけないほど大きな代償を、その代わりとして支払わねばならなかったのです。  入院してから一月ほどたち、さしもの高熱も下り坂となり、そろそろ回復期へ入ろうとする時分のことでした。珊瑚はふと、眼の前に赤い斑点が見えると言い出したのです。はじめのうち、医者も大して気にかけなかったのですが、彼女の訴えは次第に頻繁《ひんぱん》になってくる。はじめは単にぼや[#「ぼや」に傍点]とした雲のような斑点であったのが、次第に明瞭となり、しまいには血のように鮮かな赤色をした球状や棒状様のものが見えると言い出し、そして医者がはじめてことの重大さに思い至ったときには、彼女の症状はすでに取りかえしのつかぬほど悪化していたのです。  壮年性網膜ガラス体出血といって、ほとんど治癒の途がないと言ってもいいくらい困難な病気なのだそうです。おそらくチブス熱による極度の体の衰弱が、この惨めな病気の原因となったのでありましょうが、ともかくそれから三月ほど後に退院したとき、かわいそうに珊瑚は完全に失明していました。  ああ、彼女は実に一時の激情から生涯とりかえしのつかぬ大きな不幸を招いてしまったわけでした。盲目となった彼女はふたたび芸者をすることもできなかったでしょうし、もしこの時山惣の旦那の寛大な処置がなかったら、おそらく彼女は乞食をするか、のたれ死にをするより他に途はなかったでしょう。  実際、この時山惣の旦那のとった態度は世にも賞賛すべきものでした。彼はあんな手ひどいやりかたで自分を裏切り、そのためにこのような不幸に陥った女を、けっして突き放してしまおうとはせず、昔通り世話をしようといい出したのです。そして芸者をよした彼女のために、蔵つきの立派な家を買ってやったばかりか、にわか盲目の不自由な女の身を思いやって、気に入りの小菊さえそばにつけておいてやったのです。もっともこういう行きとどいた旦那のやりかたも、必ずしもその寛大さ、ないしは犠牲的精神の発露とのみは見られなかったというのは、失明こそしたものの、珊瑚の美しさには少しも昔と変わらぬものがあったからです。  まったく珊瑚は、盲目となったことによって、少しもその美しい容貌を毀損《きそん》されはしませんでした。なるほどあの冴々《さえざえ》とした瞳は二度と見ることはできませんでしたが、その代わりふっさりと長い睫毛《まつげ》を伏せた頬には、言うに言えない細かい陰翳《いんえい》ができ、そのためにいくらか老けはしましたが、それだけに落ち着きも備わってきたという寸法。しかも変わったのは外貌ばかりではなく、性情においても、あの事件を一転機として彼女はおどろくべき変化を示したのです。  あの闊達《かつたつ》な女が、打って変わって気の弱い、どうかするとじき涙ぐむような女になってしまいました。この変化だけでも旦那にとっては悪くなかったのですが、さらに彼を有頂天にしてしまったのは、彼女が実に驚嘆すべき柔順さを示しはじめたことでした。珊瑚は今や、旦那のいかなる命令に対しても、ただ盲従することを知って、けっして逆らおうとはしなかったのです。こうして彼女は、今や山惣の旦那にとって、何物にも換え難きぺットとなり、この初老の、しかしまだまだ十分精力|旺盛《おうせい》な旦那のこよなき愛撫の対象となったのです。  しかし珊瑚はこの時分、心から旦那に傾倒し、かつては彼女の心臓のなかに、あれほど重大な部分を占めていた今朝治のことを、全く忘れてしまったのでしょうか。いえいえ! もし山惣の旦那がそういう風にうぬぼれていたとしたら、それこそ大間違いと言わねばなりません。それらのことは、その時分珊瑚の側に侍《かしず》いて、なにかと面倒を見ていた小菊という少女が、ずっと後になって人に洩らした、次のような挿話《エピソード》をもってもうかがわれるのです。  それは珊瑚が山惣に囲われるようになってから、二、三ヵ月も後のことだといいますから、多分前の事件のあった翌年の春ごろのことでしたろう、その時分珊瑚は、どうかすると薄暗い納戸《なんど》の中に閉じこもって、一時間も二時間もひっそりとしていることがありました。そしてそこから出て来た時の彼女の様子を見ると、いかにも疲れたような、しかしまたいかにも満足そうなほほ笑みも見えるのです。  そういうことが度重なるに従って、いったい姐さんはあの薄暗い納戸の中で何をしていなさるのだろうと、まだ年若いだけに小菊は、好奇心も一層旺盛だったのでしょう、ある日とうとう、珊瑚より一足さきに、その納戸の中へ忍び込んだのです、いったいこの納戸というのは、広さにして十畳敷きぐらいもありましょうか、板敷きの床の上には、箪笥《たんす》だの鏡台だの古《ふる》葛籠《つづら》だの、古びた調度類が何の秩序もなくごたごたと詰めこんであります。前にもちょっと言ったように、この家には別に立派な土蔵がついているのですが、その方は旦那の商売物である繭《まゆ》を貯えるために使用しているので、家庭向きの調度類はすべてここに置いてあります。  さて小菊がそれらの調度の陰に身を忍ばせていようとは、夢にも知らぬ珊瑚は、いつものように探り足で、静かにこの納戸の中へ入って参りました。小菊がそっと見ていると、盲《めし》いたその白い顔は、まるで石のように固く緊張しており、ほっそりとした肩のあたりには、何かしら幻を誘うようなわびしさと気味悪さが、ゆらゆらとたゆとうているのです。小菊は思わずゾーッとして首を縮めました。  盲目の悲しさ、こういう不逞《ふてい》な目撃者があろうとは夢にも知らぬ珊瑚は、さて部屋の中央にある古い黒塗りの長持ちのそばへ探り寄ると、赤錆《あかさび》のついた鉄の錠前をピンと外し、蓋《ふた》をとって中から抱きあげたのは、一個の等身大の人形でした。それを見たとたん、小菊は思わずぎょっとばかりに息を呑みこみ、がたがたと震え出したということです。無理もありません、その人形というのが、小菊の知っているあの今朝治の顔に生き写しだったのですから。  我々はこの物語のはじめの方で、珊瑚と今朝治が東京に遊んだとき、百貨店の飾り窓の中で、今朝治に生き写しの蝋人形を発見したことを知っていますが、今珊瑚が長持ちの中から取り出したのは、実にその蝋人形だったのです。  いつの間にそれがどうしてこの家の中に持ち込まれていたのか、それは小菊でさえも、その時まで全く気が付かなかったと言います。  さて珊瑚はこの人形をしっかと胸に抱きしめ、何やらくどくどとかき口説きながら、あるいは頬ずりをし、あるいはしなやかな指で、つるつるとした頬をまさぐっていましたが、そのうちに次第に興奮の度を増してきたのでありましょう、怖さと気味悪さのために、石のように固くなっている小菊の耳に、だんだんそのつぶやきの意味が聞き取れるようになってきましたが、それは大体次のような意味であったということです。  ——今朝治さん、さぞ淋しかったでしょうね。長い間独りぽっちにしておいて御免なさいね。でもあなたは何という心の寛《ひろ》い人でしょう。ちっともお憤《おこ》りにならずいつもにこにこと笑っていらっしゃる。いいえ、よくわかっていますわよ。あたしの眼は見えなくともあたしの指は眼よりもずっとよく物を見ることができるのですもの。ほら、ほら、笑っていらっしゃるわ。まあ、何がうれしくてそんなに笑っていらっしゃるのでしょうね。あたしがそばにいることがそんなにお気に召して? ええ、ええ、それはあたしだってうれしいのよ。ねえ、あなたあたしを不幸せだとお思いになって? もしそうだと大違いなのよ。あたし眼が見えなくなったことを、ちっとも悲しいなんて思ったことはありませんわ。だってあたし眼が見えなくなったおかげで、いやなもの、醜いものを見ずにすむことができるのですもの! そして始終あなたのお顔ばかり見ていることができるのですもの! 本当なのよ、あたしの瞼《まぶた》のうちにはあなたの面影だけが美しい瞼花《けんか》となって焼きつけられ、寝ても覚めても、そしてまた旦那の腕に抱かれている時だって、あたしが見続けている物は今朝治さん、あなたのお顔よりほかには何もないのです。ねえ、恋しい人の顔よりほかに、何も見ないですむあたしは、何という幸福な女でしょう。今朝治さん、あなたもそうお思いにならなくって? ね、ね、そう思って下さるでしょう。そう思ったら今朝治さん、何とか言って、何とか言ってちょうだい!  上ずった声でしだいに物狂おしくそんな事をつぶやきながら、やがてこの和製女ピグマリオンは、人形の首を胸に抱き寄せたまま、潸然《さんぜん》とその美しい蝋細工の頬のうえに、熱い涙をそそぐのでありました。     九  ハムレットの台詞《せりふ》にもある通り、世の中には我々の哲学を超えた不可思議な現象、理外の理というものがしばしばあるものですが、その年の終わりごろ、珊瑚の産み落とした男の子というのがそれだったのです。私は一度もその赤ん坊というのを見たことがありませんから、うわさの真偽は知る由もありませんが、人の話によると、それは実に今朝治の面影をさながらに伝えた、文字通り玉のようにかわいい子供だったということです。  当然そこには珊瑚の行状について、いろんな取り沙汰が行なわれました。しかしそれらの臆測がいずれも取るに足らぬものであったことは、その赤ん坊の誕生と今朝治の懲役になった時日との間に、非常に大きな食い違いがあったことでも明瞭なのです。実際、刑務所というものは最も信頼するに足る現場不在証明の製造機関ですが、それにもかかわらず、この赤ん坊と今朝治との恐ろしいほどの相似は、いったい何といって説明したらいいのでしょう。結局ハムレットの台詞のほかに、この不可思議な現象を説明する言葉はないのでしょうか。それとも、もっと科学的に説明する方法があるのでしょうか。  それはとにかく、古い諺《ことわざ》にもある通り、山惣の旦那だけは夢にもそのようなことは知らなかったのです。山惣にはそれまで男の子というものがなかったので、この時、彼の喜びというものはたとえようもないくらいで、おそらくこの前後が彼にとっては最も得意な時代であったでしょう。しかし人間の幸運というものは、それがあまり不相応に大きな場合、しばしば次に来たるべき破局の前兆となるものです。それはちょうど蝋燭《ろうそく》の消えなんとする一|刹那《せつな》、ちょっとの間パッと明るく燃えあがるように、山惣が有頂天になって踊っているその足元から、眼に見えぬ経済的な圧迫がじわじわと、彼ののどを扼《やく》しつつあったのです。  珊瑚が久し振りに舞台に立つことになったのはその時分のことでした。  たぶんそれは、彼女がはじめて今朝治と相見た時から数えて、三年目の春のことでしたろう。この物語の冒頭において申し上げたように、土地の花柳界では毎年花時分に温習会を催しますが、珊瑚も人からすすめられるままに、久し振りに舞台に立って隅田川を踊ることになったのです。  芸の力というものは恐ろしいもので、この時の舞台を見た人の言葉によると、盲人とは思えないほどしっかりしていたことはいうまでもないとして、視覚を失って以来彼女に備わってきた、いうにいわれぬ淋しさ、憂わしさ、そういう味がこの踊りの持つ幽婉《ゆうえん》な振りによく合って、ちょっと大げさにいえば、鬼気迫るといった風な舞台だったということです。  この時分山惣の懐の苦しさは次第に顕著になっていました。そして町でもとかくの風評が絶えませんでしたが、このうわさに反抗するつもりだったのか、それともこれを最後の栄華として、後々までの思い出にするつもりだったのか、この時彼が珊瑚のために添えてやった、前代未聞の景気の華々しさは、おそらく長い間この土地の語り草となることでしょう。しかもこの思いきって華やかな大尽の一夜が、後から思えば、彼のために用意されていた運命の落とし穴だったのです。全くあの団子《だんご》つなぎの紅提灯《あかぢようちん》や、華やかなシャギリの音や、艶《なま》めかしい妓《おんな》たちの会話や、そういう燃えあがらんばかりの明るい雰囲気《ふんいき》のかたすみから、あのように人の悪い陰謀が顔を出していたというのは、何という不思議なことだったでしょう。  それはいよいよ隅田川の幕が開こうとする直前のことでしたから、八時ごろのことであったでしょう、その前にちょっと楽屋をのぞいた旦那が表のほうへ帰ってみると、どうしたはずみか彼の買いきった広い枡《ます》の中が一瞬間がら空きになっていて、にぎやかな場内でそこだけが無人島のように妙に空虚な感じがしました。  山惣の旦那はちょっといやな顔をしてそこに坐りましたが、その時ふと毛氈《もうせん》のうえを見ると、一通の艶めかしい結び文が置いてあります。旦那は何気なくそれを開いて読みました。  世の中にはずいぶんおせっかいな人間があります。他人の幸福がしゃくに触ってたまらぬという人間もあります。何とかして他人を不幸や悲劇の方へ追いやろうと苦労している人間もあります。この結び文が何人の仕業であったか、だれも知っている者はありませんが、とにかくそれはそういう性質のものだったのです。その中には、最も下劣な意地の悪い調子で、珊瑚の産んだ子供が山惣の子でないこと、あの子の顔が今朝治に生き写しであるのを、お前は気がつかないのかということ、珊瑚が今朝治の亡霊と婚礼しているということ、うそだと思うなら、納戸の奥にある長持ちの中を調べてみろ。……と、いうようなことが、どのように冷静な人間をも動揺させずにおかぬような、悪意に満ちた調子で書いてあるのでした。  この手紙の効果には、おそらく中傷者の期待以上のものがあったでしょう。読んでゆくうちに山惣の顔にはかっ[#「かっ」に傍点]と血の気がのぼってきましたが、すぐそれが引いて真っ蒼になったかと思うと、手紙を持った手がぶるぶると震えだしました。彼は二、三度それを読み返すと、やがてズタズタに引き裂いて袂の中へほうり込み、それからそこにあった燗冷《かんざ》ましの酒を五、六本、たてつづけにぐびぐびと呷《あお》ったのです。  私は山惣という男をかなりよく知っていましたが、この男はけっして腹から悪い人間ではありませんでした。剛腹で人に譲ることを知らず、無理を承知のうえで押し通すような場合があるので、とかく誤解されていましたが、芯は至って涙もろい、そしてまた情誼にも厚い人間だったのです。ただいけないのはこの男の酒癖でした。酒乱というのでしょう、酔うと前後の分別がなくなります。だからそばにお銚子の五、六本も転がっていようものなら、もうこの男は信用ができないのです。  またたく間に五、六本の酒を片付けた彼は、血走った眼を据えたまま、ふうふうと枡から立ちあがりました。そしてちょうどその時、報《し》らせの柝《き》が入ったのですけれど、そのほうへは見向きもせずに、幕開きのごたごたに、止める者もなかったのを幸いに足袋《たび》はだしのまま劇場から外へ飛び出してしまったのです。  その時分楽屋では、狂女の扮装《こしらえ》のまま出を待っていた珊瑚が、おやというように首をかしげると、しばらくシーンと闇の底に耳をすましていましたが、やがてぼっと上気したような頬を小菊の方へ振り向けると、 「小菊ちゃん、あれは何だろう。ほら、あのカポカポというような音は……」 「なんですの」  小菊も耳を傾けましたが、別に変わった音も聞こえませんでした。 「私には何も聞こえませんけれど」 「そう、それじゃ私の空耳だったのかしら、私アドニスが来たのかと思ったのだけれど……」  珊瑚はちょっと淋しく笑って、 「小菊ちゃん、すまないけれどそこの窓をあけて外を見ておくれな。何だか今夜、あの人がどこか間近に来てるような気がする」  小菊はちょっと気味悪そうに肩をすぼめましたけれど、すぐ素直に立ちあがって窓をひらいて外を見渡しました。 「姐さん、何も見えやしませんけれど。……」  全く小菊の言葉通り、そこには朧《おぼろ》に染め出された湯の街の、ほのかな闇があるばかりでした。     一〇  足袋はだしのまま劇場を飛び出した山惣の旦那が、湖柳町《こやなぎまち》の妾宅《しようたく》へやって来たのはそれから間もなくのことでした。妾宅にはいうまでもなくだれもおりませんでしたが、山惣にとってはその方が好都合だったのです。彼はふらふらとした足どりで、座敷から納戸のほうへ入って行きましたが、じき出て来ると、押し入れの中から古風な燭台《しよくだい》と蝋燭をさがし出し、それを持って再び納戸の中へ入って行きました。納戸には電気がついていなかったからです。  山惣はその蝋燭の光でじき大きな長持ちを発見しました。彼はいまだかつてこの納戸の中へ入ったことがなかったので、長持ちを見るのも実に初めてでした。それを見ると彼は何ともいえぬほど激しい妬《ねた》ましさと憤りを感じ、今飲んだ酒が、血管のなかで火のようにふくれあがってくるのを感じました。彼は燭台をそばにおき、ふらふらする指で掛け金を外すと、長持ちの蓋をとって中をのぞき込みました。そしてその中に、紅い友禅の布団を敷いて、仰向きに寝ている人形を発見すると、ちょっとの間拍子抜けがしたようにぼんやりしていましたが、すぐ気がついたように燭台を掲げて、人形の顔をながめました。すると今まで真っ赤だった山惣の顔から、さっと血の気がひき、呼吸がにわかに切迫して、その眼の中には何ともいえないほど、兇暴な光が現われてきました。  彼はいきなり長持ちの中からズルズルと人形を引き出すと、燭台の脚で二、三度激しくその美しい頭をなぐったのです。人形はぐゎらぐゎらと、骨の崩れるような音を立てて床のうえに転がりましたが、そのとたん、山惣はジーンと津波が押し寄せてくるような耳鳴りを感じ、身内に燃ゆるような熱さを覚え、それと同時に心臓がふくれあがって、今にも息の根が止まりそうな気がしました。  無理もありません、蝋燭の火のゆらめくほの暗い闇の底から、突然むくむくと人形が起き出してくるのを見たからです。山惣はさっと北風に吹かれたような恐怖を感じましたが、それと同時に、彼の心臓のなかからは、火のような凶暴さが頭をもたげて参りました。 「ああ、お前はやっぱり今朝治だな!」  今朝治は無言のまま、闇の底からじっと山惣の顔をみつめていましたが、その瞳《め》はまるで二つの星のように瞬《またた》き、何ともいえないほどのふかい怨《うら》みを蔵している。さすがの山惣も、それを見ると射すくめられたように思わずたじたじとしましたが、すぐ肩をそびやかし反噬《はんぜい》するように言いました。 「ああ、やっぱりお前はここに隠れていたのだな。お前が監獄にいると思って安心していたのは私《わし》の大きな間違いだった。お前はここに隠れていて、夜ごと日ごと、思うさま珊瑚と逢い曳きをすることができたのだ。私は何という馬鹿だったろう」  今朝治はそれを聞くと、ちょっと驚いたような顔をして、山惣の面《おもて》を見直しましたが、やがて低い、悲しげな声でいいました。 「旦那、あなたは気が狂ったのですか。いや、あなたはひどく酔っている。よもや本気でそんなことを言っているのではないでしょうね」 「そうだよ、私《わし》は気が狂っているのかもしれない。珊瑚は私の生命だった。私はもう何もかも失ってしまったけれど、珊瑚とあの子供さえあれば、私は何も悔やむまいと思っていた。しかし、その珊瑚さえ私のものではなかった。そしてあの子供も……ああ、私が今まで自分の子供だとばかりうぬぼれていたあの子供も、やっぱり私の子供ではなかった。あれはお前の子供だったのだね」  山惣の旦那はそういって、まさか泣きはしませんでしたけれど、息をのみ、鼻をつまらせ、そして大きな溜め息をつきました。今朝治は不思議そうな顔をしてそれを聞いていましたが、やがて低い、のどにひっかかったような笑い声をあげ、そして次のようなことを、くどくどと訴えるように言ったのです。 「旦那、山惣の旦那。あなたはそれを正気でいっているのですか。私に珊瑚を愛する力があるというのですか。私に子供を生ませることができるというのですか。私から男の誇りを奪い、新しい生命を育《はぐく》む力を無残にも苅りとったあなたの口から、そのように馬鹿らしい恨み言をきこうとは私は夢にも思わなかった。ああ、あなたのいうようなことが真実だったら! 私はどのようにうれしかろう。私に珊瑚を愛することができたら、そして珊瑚の体の中に、私の新しい生命の芽を植えつけることができたら! その時こそ私はどのようなあなたの恨み言をも受けましょう。どのような制裁にも甘んじましょう。しかし私にそれができないことは、だれよりもあなた御自身がいちばんよく知っているはずではありませんか。あの燈籠流しの夜、私の体に恐ろしい手術をさせたあなたが、いちばんよくそれを知っているはずではありませんか。私にもう一度若さの生命を返して下さい。もし私に男の誇りを返して下さるなら、今あなたがこの人形にされた通り、私のこの美貌《びぼう》をめちゃめちゃにされても、私はけっして不服は申しません。旦那、山惣の旦那、私にもう一度、逞《たくま》しい青春の歓《よろこ》びと男性の誇りを返して下さい」  仄暗《ほのぐら》い納戸のかたすみに、燭台の灯がかすかにゆらめいている。     一一  珊瑚が愛する蝋人形のうえにただならぬ異常を発見したのは、その翌日のことでした。いつものように、見えぬ眼の手探りで、あの長持ちの中から人形を抱き起こした珊瑚の指は、まず最初に無残にうちくじかれた頭部を探りあてて、のけぞるばかりに彼女を驚かせました。  無理もありません、珊瑚にとってはもはやその人形は、いのちなき蝋細工ではなくて、一個血の通った美しい人間も同じであり、この物憂い、暗黒のとしつきを、さしたる憂さもなく、いつも楽しく過ごすことができたのは、実にこの人形があったからではありませんか。 「まあ、今朝治さん、これはいったいどうしたというの。だれがこのようなひどいことをしたのです」  彼女は狂気のごとく人形の首をかき抱き、ちょうど母が傷ついたわが子の看護をするよう、優しい、おののく指先で傷口をまさぐりまさぐりしていましたが、そのうちに何を思ったのか、突然ぎょっとしたように彼女の指は蝋製の頬のうえで止まったのです。それから、何かしら非常に重大なことにでも出会ったように、そろそろと慎重に、人形の頬っぺたを撫でまわしていましたが、とつぜん、 「小菊ちゃん、小菊ちゃん」  と、甲高い声で呼び、そしてびっくりしてやって来た小菊をつかまえると、 「小菊ちゃん、ちょっとここを見て、ほら、お人形の頬っぺたのところを見て……」  小菊は不思議そうな顔をして、おずおずと指さされたところをのぞき込みましたが、別に変わったところも見られませんでした。 「まあ、わからないの」珊瑚はじれったそうに、「ほら、ここのところよ。ここに何か引っかいたような傷があるでしょう。これ、何か字になってやしない」  そう言われてよくよく見れば、なるほど肉色に染められた滑らかな頬のうえに、何か引っかいたような新しい傷があるのです。 「そうですね。上の字は片仮名のマという字のようですわね。それから下の字は何でしょう。ユでしょうか、コでしょうか」 「マ、ユ、——小菊ちゃん、それに違いないかい。マ、ユとただそれだけ? その下にもう一字何か書いてありやしない?」 「いいえ」小菊は不思議そうに女主人の狂態をながめながら、 「マ、ユ、とただ二字だけでございます。ユの字の終わりの方が何だかぼやけておりますけれど。……マユって何のことでしょうね。お蚕の繭のことでしょうか。それとも繭蔵《まゆぐら》のことでしょうか」  いいかけて小菊はハッとしたように、 「そうそう、繭蔵といえばあたくし今朝、土蔵の入り口のところでこんなものを拾ったのですけれど……」 「なに? 何を拾ったの?」  珊瑚はよくも聞いていないような声で言いました。ああ、彼女の頭脳《あたま》はいまもっとほかの、重大な考えで忙しかったのです。むろん、このマ、ユという二字が繭蔵を意味しているのでないことを、彼女はちゃんと知っています。これはマユミという、彼女の本名の上の二字だけが書かれたのに違いない。そして彼女をそういう呼びかたで呼ぶのは、今朝治よりほかに一人もないことを彼女はよく知っています。そうすると昨日今朝治がここへやって来たのだろうか。  彼女はふと昨夜《ゆうべ》きいた蹄《ひづめ》の音を思い出しました。そして改めて、「ああ!」と魂の抜けてゆくような叫び声を出したのです。  小菊はしかし、そのようなことは夢にも気づきませんでした。 「これ、カフス・ボタンというものじゃありません? 何だか上に英語のような字が彫ってあるんですけれど」  珊瑚はそれをきくとはじかれたように顔をあげ、それから泳ぐような手つきで小菊のほうへにじり寄ると、 「見せて、見せて……」  それはまぎれもなく、いつぞや彼女が今朝治に贈った、あのカフス・ボタンに違いなかったのです。 「小菊ちゃん、このボタンの上に彫ってあるという字、こんな字じゃない」  珊瑚はおののく指に唾をつけると、床の上にKとMとの組み合わせを書いてみせました。 「はい、その通りでございます」 「ああ、それじゃ今朝治さんはやっぱりここへいらしたんだわ。そして小菊ちゃん、お前さん、これを繭蔵のまえで拾ったとお言いだったわね」 「はい、そうですの。だれか昨夜《ゆうべ》あの蔵の中へ入った者があるんじゃありませんかしら。だって、戸前の土の上に、何か引きずったような痕がついているのですもの」  珊瑚はもうそれ以上聞いている必要はなかったのです。鋭い女の本能からとっさの間に、昨夜ここで演じられたであろう悲劇を悟ると、やにわにすっくと立ち上がり、座敷をぬけて足袋はだしのまま庭へおりました。そして見えぬ眼の手探りで蔵の前までたどりついたとき、 「珊瑚、何をしている!」  と、鋭い旦那の声をうしろに聞きました。     一二  珊瑚はその声を聞くと、ちょうど背後から袈裟がけと一太刀浴びたように、ピリリと全身に鋭い痛みを感じましたが、すぐその次の瞬間には、自分でも不思議に思うくらいの落ち着きが、シーンと腹の底からわいてきたのです。彼女は石のように固い表情をうかべたまま、 「あなた、今朝治さんをどうなさいましたの」  と、詰問するような調子でいいました。 「今朝治に会いたいのか」 「はい、会いとうございます」  後になって小菊がひとに語ったところによると、この時興奮していたのは、珊瑚よりもむしろ山惣のほうだったそうです。彼はちょっと、珊瑚の冷静さに気臆《きおく》れがしたように見えましたが、じき勇気を取り戻すと、 「よし、会わせてやろう」  と、懐から大きな鍵を取り出し、それで蔵の戸をひらきました。そして心配のあまり怖さも忘れてついて来る小菊のほうを振り返ると、 「来ちゃいけない!」  と、恐ろしい顔をしてどなりつけ、荒々しく珊瑚の手をとって蔵の中へ入ると、中からピッタリと戸をしめてしまったのです。  この時、蔵の中は白い蚕の繭でいっぱいでした。繭は四方にうずたかく積みあげられた籠《かご》のなかからあふれだし、雪のように美しく床のうえに盛りあがっているのです。ああ、これらの繭の思惑《おもわく》のために、山惣の旦那はいまや一文無しの身になり果ててしまったのでした。 「お前の恋人はそこにいるよ。ほら、その白い繭の中に埋まっている」  山惣はそういって珊瑚の体を荒々しく繭の山の方へ突き倒しました。珊瑚はよろよろとそこへ膝をついた拍子に、繭のなかからニョッキリ出ている冷たい手に触りましたが、すると彼女は気違いのように、 「今朝治さん、今朝治さん」  と、連呼しながら、繭の中から今朝治の屍体を掘り起こしたのです。繭に埋もれた今朝治は、ちょうどあの蝋人形と同じように頭を割られて、その白い頬には二筋三筋、太い血の運河が流れていました。 「ああ、今朝治さん、それじゃ私が昨夜《ゆうべ》きいたあの蹄の音は、やっぱりあなただったのね。私がもっと早くそのことに気付いていたら、こんなことにはならなかったのに……」  珊瑚はそういって今朝治の首を抱くと、さめざめと泣きました。その間、山惣の旦那はかたわらの籠のうえに腰を下ろしたまま、じっと彼女の狂態をながめていましたが、やがて珊瑚が泣くだけ泣いてしまうと、うしろからそっと優しく抱き起こしやりました。 「珊瑚、お前はやっぱりこの男に惚れているのか」  珊瑚は答えませんでした。しかし、山惣の旦那は格別その返事を期待していたのでもなかったとみえて、すぐ言葉をつぐと次のように言ったのです。 「考えてみれば、私はこの男を殺す必要はなかったのだ。お前たちがどのように愛し合い、燃えあがる情熱のままに、二つの魂を一つの歓喜の中に熔けこませようとあせったところで、所詮、その目的を達することのできないのを、私はよく知っていたのだ。お前はこの男を本当に愛することはできないし、この男もまた、お前を本当に喜ばせることはできなかったのだ。この男は男であって男でない。この男は人形も同じだ。そうだお前が愛していた蝋人形も同じなのだ。この男は蝋人《ろうじん》だ。珊瑚、それでもお前はこの男を愛すると断言することができるか」 「愛します」  珊瑚はひくいがしかしよく響く声でいいました。彼女にはまだ、山惣から今きいた言葉の意味がはっきりとはわかりませんでした。けれど、それでも彼女は、おぼろげながらも、今朝治のうえに降りかかった異常な災難の本体を知ることができたのでした。 「愛します」  珊瑚はもう一度繰り返しました。それからしばらく、じっと自分の心の中を見つめるように首を傾《かし》げていましたが、何を思ったのか、突然|狼狽《ろうばい》したような色をうかべながら、 「愛します」  とあわててつぶやきましたが、その声には最初《はじめ》ほどの強さはなかったのです。彼女はその時、思いがけない自分の本心を知って駭然《がいぜん》としたのでした。珊瑚が今まで愛しつづけていたのは、果たして現実の今朝治その人だったろうか。今朝治のまぼろしそのものを彼女は愛していたのではなかったろうか。いやいや、ひょっとすると、彼女がほんとうに愛していたのは、その美しい幻によって修飾され、擬装された山惣自身ではなかったでしょうか。  珊瑚はしかしそれ以上考えつづける事はできませんでした。その時旦那が懐から短刀を取り出すと、ぎらりとその鞘《さや》を払ったからです。珊瑚は盲人特有の鋭い本能で、ぷんと焼刃の匂いをかぐと、ぎょっとしたように身を退こうとしましたが、すぐ思い直したように、きちんと膝をそろえて坐り直すと、見えぬ眼でじっと旦那の方へ向かいました。 「珊瑚、それじゃいま、お前の好きな男と添わせてやろう。祝言の席はおかいこぐるみだ。ははははは」  そう言って旦那は、左の手で珊瑚の髷《まげ》をつかむと、右の手でぐさりと一突き、乳房を抉《えぐ》りました。珊瑚はその一突きで前の方にのめりそうになりましたが、すぐ体を起こすと、 「坊や……坊や……」と低い声でつぶやきました。 「心配するな、坊主は悪いようにはしない。だれかたしかな人間に頼んで、立派に育ててもらってやる」  そう言って旦那はもう一突き、珊瑚を抉りました。その一言に安心したのか、珊瑚はふたたび口を利こうともせず、繭の中に埋もれた、蝋細工の仮想愛人のうえに折り重なって倒れました。 [#改ページ] [#見出し]  面影双紙  この物語は大阪時代の私の友人R・Oが、数年以前、彼自身の部屋の中で語ってくれたところのものである。私はこの話をききおわったとき、それが盛夏の八月であったにもかかわらず、ぞっとするような肌寒さに襲われたことをおぼえている。R・Oは生粋の大阪人であるから、その語りくちの持っている上方人一流の言葉の甘さと、粘りっこさが、この物語にひとしおの古めかしさと、夢のような物すごさを添えていた。私はこの話をきいたときの情景を、いまでもはっきり思い出すことができる。それは大阪特有の掘割りに面した土蔵の中の一室で、あまり広くない座敷の中は、歌舞伎役者の似顔絵だの写真だの、これもまた役者の似顔を押し絵にした大きな羽子板だの、五色の薬玉《くすだま》だの、朱色にくすんだ厨子《ずし》だの、緋緞子《ひどんす》の座布団だので、まるで小娘の部屋のように艶めかしく彩られていた。しかもそういう座敷の中に端然と坐っていたR・Oの姿がいかにも周囲とよく調和していたのを、私はいまでもはっきりおぼえている。彼はその時の暑さにもかかわらず、襟もくつろげず、ちゃぶ台にむかってきちんと端坐したまま、ときどき華奢《きやしや》な手で私の杯に酒をついでくれながら、大阪弁と標準語をちゃんぽんにした話しかたで、ぼつぼつとこの物語をしてくれたのだった。風を入れるためにあけはなった障子のそとには、次第に夕闇がひろくはびこってくるころおいで、どろんと死んだようによどんだ掘割りのうえには、どこか近所にある広告燈の明滅が、次第にその明るさをましていた。  いっておくがR・Oというのは、大阪でも有名な古い売薬問屋の若主人で、その当時は、家伝の売薬のほかに、医療器械のようなものも扱っているらしかった。私とは学校時代の友人なのである。  この話は私が十か十一のときのことで、その時分世間はちょうど、日露戦争のあとの戦勝気分で、沸きかえるようなにぎやかさでした。私はいまでもはっきりその時分のことを思い出すことができますが、大阪中の町という町は、毎日みたいに提燈行列があったり、旗行列があったり、なかにはお祭り気分で山車《だし》を引っぱり出すこともあったりして、そらもう大変な騒ぎでした。この道修町《どしようまち》での露助降参の作り人形の山車を出そやないかということになって、その山車の曳《ひ》き子《こ》に、日本の兵隊と露助の兵隊の服装《なり》を、半分ずつしてもろうたらどうやという話でしたが、だれも露助になりてがないので、くじ引きにしたところが、今度は露助のくじにあたったもんから、苦情が出るというしまつで大変なごたごたが起こったのを覚えています。  なんしろ日本もこれで一等国になった。これからはなんでも外国と対等に取り引きが出来《でけ》んねやと何もわからんもんまでがえらい鼻息で、それには今までみたいに古くさい商売のやりかたをしてたらあかん、なんでも西洋流のことを西洋流にやらんならんというので、どこでもかしこでも新規の商売をはじめるようなしまつだしたが、私の家が先祖伝来の奇明丸《きみようがん》のほかに、医療器械を扱いだしたのも、その時分からのことで、これをはじめたのは私の父でした。  ここで私の家のことをちょっとお話ししとかんなりませんが、私の父というのは、この家にとっては養子で、養子になるまえにはここの手代やったそうです。私の祖父母には私の母になる娘が一人きりで、その娘が年ごろになっても後が出来《でけ》そうにないので早《はよ》養子をしなければならないが、それには気心もわかっているし、おとなしゅうて働きもんの手代の公吉《こうきち》——この公吉というのが私の父の名だすが、その公吉がよかろうというので母と一緒にしたのやそうです。その時父は二十八、母はやっと肩揚げがとれるかとれんの十七で、私の口からいうのもおかしいですが、道修町の小町娘といわれただけあって、それはそれは綺麗やったという話です。私もうろ覚えに覚えとりますが、私の物心ついた時分の母は、人妻というよりもまだほんの娘で、娘にしては少しませすぎているという風でした。どちらかというと丸顔のほうで、笑うと白い頬に小指で突いたようなえくぼができました。美人というても、ですから、すごいという方ではなく、どこまでも娘々した美人でしたが、それでいて、今から思えばなかなか蓮《はす》っ葉《ぱ》な方だったようです。  そういう風だったから、他人からお家《いえ》はんといわれるのが何よりもきらいで、自分はどこまでも嬢《いと》はん気取り、したがって、自分の都合のいいときしか、私をかわいがってくれなんだようでした。その時分私の家にはつるという女中がいましたが、私はものごころついてから大ていこのつると遊んでいたようで、しまいには母のほうから遊びにつれていってやろうというようなときでも、私は尻込みをするようなしまつでした。そんな時母はいつも、 「奇体《けつたい》な子やな、この子は。他所《よそ》の子は遊びに連れていったろちゅうたら喜んでくるのに、この子は何んでこないに陰気なんやろ」  と、ただ笑っているだけで、自分の子が母の愛からだんだん遠ざかって行くのを、別に気にもかけないようでした。こういうと、私がいかにも母をきらっていたように聞こえますが、そうではありません。私はこの陰気な、引っ込み思案な性質がその時分からあったのだっしゃろ。どうしてどうして、私は母をきらうどころか、母のきげんのええ顔を見ると、なんともいえんほどうれしいような、懐かしいような気がしたものです。それでいて、母のほうから声をかけられると、内心ぞっとするほどうれしいくせに、一方では恐ろしいような、恥ずかしいような気持ちが先にたって、思わず尻込みをしてしまうのでした。こういう性質は六つになり七つになり、十になり、だんだん年がゆくにつれて一層はげしくなって行ったようです。  ああ、父の話をするつもりで、思わず母の話ばかりしてしまいましたが、どうも私は、母のことを思い出すと父のことがそっちのけで、父のことを考えると、とかく母を忘れてしまうのです。つまり父と母とを一緒に思い出そうとするのはなかなか骨が折れるのです。それほど父と母とは表面夫婦らしくない夫婦でした。そうかというて、別に口喧嘩をするわけでもなし、だれからもお前の両親は仲が悪いぞなんて聞かされたわけでもないのですが、それでいて子供心にもはっきりと感じていたくらいですから、まあおよそ想像がつきましょう。  もっともいま考えてみると無理もないことで、母は至って派手好きなほうで、道頓堀の芝居は変わりめごとに欠かしたことはありませんし、このまた芝居見物が大へんで、茶屋や座方への祝儀はいうに及ばず、ときには贔屓《ひいき》役者に座布団や引き幕を贈るというようなこともありました。こういう場合一切の采配《さいはい》は、出入りのお嶋《しま》さんという長唄《ながうた》の師匠がやっていたようです。こういうと、いかにも苦々しい家庭のようですが、大阪のこういう家庭ではこれがそう大して珍しいことやありませんので、私の家では祖父も祖母もみんな芝居好きで、しょっちゅう家へ出入りしてた役者もあったくらいだったさかいに、母のこういう派手なやりかたも、当たりまえのこととして別に口をはさむもんもありませなんだ。  しかし父にしてみると、父は至って物堅い、商売《あきない》で凝りかたまっていたような人だしたから、口に出しては何も言わぬようなものの、なんぼうか苦々しく思っていたことだっしゃろな。それでいて、ついぞ父がそんな気振《けぶ》りも見せませなんだのは、よっぽど辛抱強い人だったとみえます。もっとも、まえにもお話ししましたように、父は手代あがりの養子のことですから、すこしは気兼ね遠慮もあったかはしれませんが、もうその時分には、祖父も祖母も亡くなっておりまして、だれにはばかるところもありまへんし、親類でもとっくに父の働きに納得して、その時分では、父のすることに嘴《くちばし》をいれるものは一人もありませんでしたから、すこしぐらい母のすることをたしなめたり、叱ったりしてもよかったように思われます。しかし、父はもう母のことなんかどこ吹く風かというように、ただもう商売が第一で、あんたはあんたで勝手なことをしなはれ、わて[#「わて」に傍点]はわて[#「わて」に傍点]でこの商売が肝心やというような風がみえました。結局母にとってはこのほうが気楽らしく、まあ当たらず触らずというような態度、特別にきげんをとりもしない代わりに、別に逆らいもしない、と、いった風な夫婦仲のようでございました。  いまから考えますと、父と母とは十一も年が違っておりますうえに、母が年よりもずっと若くみえるのと反対に、父は元来地味な、実直な人でしたから、どうしても年よりは三つ四つ老けて見えます。ですから父にしてみれば、母はまあいつまでたっても若い、わがままなお嬢《いと》はんであり娘であるようにも思われ、一々|叱言《こごと》をいうのも面倒やったのではございますまいか。もっとも父のこういう態度は、私が相当物心ついてからのことで、婿に成りたての時分には、精出して母のきげんをとっていたもんやという話です。そらまあ無理もない話で、まえにもいうた通り、母は小町といわれたほどの美人だしたし、きっと手代をしていた時分でも、母に心をひかれていたに違いおまへんさかい、それが思いがけなくも、その嬢《いと》はんをわが女房と呼ぶことが出来《でけ》るようになったのですから、天にも登る心地で、精々母のごきげんとりに浮き身をやつしていたに違いございません。  しかし母のほうにしてみると、別に父がきらいやということもおまへんなんだやろが、なんしろ物堅い一方の朴念仁《ぼくねんじん》で、母のほうから遊びに誘うても、両親に気兼ねして首を縦に振らんような亭主は、一向面白のうて、いつの間にやら、そんならあんたはあんたで勝手にしなはれ、わてはわてで好きなことをさせてもらいまっさ、妻として勤めるべきところはちゃんと勤めておりますのですから、何も文句をいうことはあらしまへんやないか、というような気持ちになったのでしょう。  私はよく、まえにいった長唄の師匠のお嶋さんと母がこんな話をしていたのを覚えております。 「そない言やはりますけんど、あんたはんみたいに幸せな方おまへんで、旦那はんはあない堅いお人で、御商売は繁盛する一方ですし……」 「そら、うちのはもう物堅い一方で、その点はよろしゅうおますけど、あんな朴念仁頼りのうて仕方がおまへんわ」 「そんなもったいないこと言やはったらあきまへん。××さんとこ見てみなはれ、養子さんが道楽もんでこの間もどことかに女子《おなご》はんが囲ってあるとやらで大悶着《おおもんちやく》でしたがな」 「うちのも少し、それぐらいのことしてくれるとよろしのだすけれどなあ」 「まあ、阿呆《あほ》らしい。そんなむちゃなこと言やはったらあきまへん」 「ほほほほほほ、それはまあ冗談だすが、わてかてそやさかいに、うちのに逆ろうたことおまへんがな」  そういう母がただの一度だけ、えろう父に逆らったことがございました。それがこのお話のいちばんはじめにいうた、日露戦争のあとのことで、父がこの医療器械を扱いはじめたときのことです。ほかのものはともかく、この医療器械の中に、人体模型というのがありました。あんたも御承知の通り、人間の骨格の模型で、作りものもありますけれど、中には本当の人間の骨もあるということで、作りものにしたところがあんまり気持ちのええもんではありません。はじめてこれが家へ持ち込まれたとき、母は血相かえてびっくりしてましたが、その晩、私が物心ついてからはじめての大悶着でした。 「あんな気味の悪いもんと同居せんならんくらいなら、あていっそ死んだほうがましだす」  頭痛がするというて、早くから寝床へはいっていた母は、その晩、父が店をしまって奥へ入ってくると、いきなり恨めしそうな声でそんなことを言っておりました。 「なんや、あの骸骨《がいこつ》のことか、奇体《けつたい》な人やな、別に何もこわいことあらへんやないか」 「そら、男のあんたはそれでよろしおますけど、わてにしたら気味が悪うてよう見まへん。なんでまたあんなもん置きなはるね。うちにはちゃんと奇明丸ちゅうて立派な薬がおますやないか」 「そらまあそうやけど、奇明丸奇明丸ちゅうてても、こう新しい薬が後から後からと出てくる世の中や、いつ何時《なんどき》売れんようになるやわからへん。今のうちに何か変わったことをしとかんと後が思いやられるでなあ」 「そら商売のことは、あんたが上手だすさかいに、わては今まで何もいうたことおまへんけど、そんならほかのもんだけにしておくれやす。わて、あの骸骨をみると気味が悪うて気味が悪うて、いまにも気違いになりそうやわ」 「阿呆なこというもんやない。たかが骨やないか、何怖いことあるもんか。そない見るのがいややったら、お店のほうへ出て来なんだらええやないか」 「そんならあんた、あてが気違いになってもよろしいと言やはりますのか」  母の声はだんだん昂《たか》ぶっていくようでした。それを父は何かくどくどとなだめているようでしたが、 「まあまあ、今夜はえろう神経が昂ぶっとるようやさかい、何もいわんと寝なはれ。なあに、今にすぐ慣れるがな」  と、そんなことをいっているのが聞こえました。  母がそんなにいやがったのも、まことに無理もない話で、子供の私なども、はじめのうちはずいぶん怖かったもんです。店の作りを、まだ今みたいに改築せんまえのことで、その時分のことですから、軒の低い、奥行きのむちゃくちゃに深い店構えで、奥のほうというたらろくに日も当たることはなくて、いつも寒いように薄暗いのです。そんなとこに、五体のそろうた白い骸骨が二つも三つも壁にぶら下がっているところを見ると、だれでもあまりええ気持ちはしません。ことに大家に育って、怖いもんというたら芝居のお化けよりほかに見たことのない母が、それ以来、熱を出したり、うなされたりしたのもまことに無理もない話です。しかしこの商売はよっぽど収入《みいり》があったとみえて、父は母がどんなに泣いて訴えても、こればかりは頑として取り合わんようでした。いっておきますが、この人体模型というのは、このごろではもう島津製作所の一手専売になっていまして、ほかのもんは手がつけられんようになっておりますが、その時分には方々に職人がありました。その中でも難波の大芳《だいよし》という職人がもってくるのは、みんな本当の人間の骨やというので、この大芳がお店へくると、私はまるで鬼が来たように怖がって、奥へ逃げ込んだもんだす。  母の芝居通いが一層はげしくなったのは、確かにこの商売をはじめてからのように覚えております。私は最初、この骸骨がお店へ来たのを見たとき、なんとなく、いやあな不吉な感じがしたもんですけれど、後から考えてみるとやっぱりそうでした。私のうちに、あの数々の恐ろしい不幸が襲うてきたのは、確かに父がこの商売をはじめてからのことでした。  その時分、私が十か十一のことでしたから、母は二十八か九になっていたはずですか。が、それはもう水の垂れるような美しさで——。昔のような初々《ういうい》しさの代わりに、大家のお家はんとしての落ち着きと風格が加わり、身のこなし、物の言いようなどにも、ちゃんとした工夫が出来《でけ》てましたから、子供の私などでもほれぼれするようなことがあったのを覚えております。その母が、当時道頓堀に出ていました嵐福三郎という若《わか》女形《おやま》が大の贔屓《ひいき》で、福三郎が出ている芝居というたら、欠かさずに見に行ったものです。ちょうど、戦争の間中火の消えたように寂《さび》れていた道頓堀の各座が、戦後の好景気で毎日割れるような客を呼んでいたころのことでしたが、この嵐福三郎というのが、また長い間東京で修業していたのが、久し振りに帰って来てお目見得をするというので、福三郎の出る小屋はいやがうえにもすばらしい人気でした。私はこの福三郎の舞台を度々見たことがありますが、時姫や顔世御前の美しさ、小春や三勝のしおらしさなど、まだこの眼に残っているように思われます。私はこの役者の舞台ばかりではなく、素顔も度々見たことがありましたが、そのいちばん初めは、やはり母に連れられて一緒に行ったときのことでした。その日はどういう風の吹きまわしか、母が一緒に行こうというと、私がすぐにそれに応じたわけでして、母と私と、例の長唄の師匠のお嶋さんとの三人連れでした。  私は何遍もいうように、その時分から至って陰気な、引っ込み思案でしたが、別ににぎやかなとこがきらいというわけではなく、どうしてどうして、祖父母や母の血が、やはり私の体の中にも流れているとみえて、芝居の華やかな空気は何んともいえず私を惹きつけるのでした。その時も一番目がすむと、長い幕合を私はただ一人、廊下|鳶《とんび》をしておりましたが、そのうちに柝《き》がはいったので、あわてて枡《ます》へ帰ってみますと、どうしたものか母の姿がみえません。お嶋さんがただ一人杯を舐《な》めながらお重をつついているのです。 「お母はん、どこ行きやはってん」 「ああ、坊んち、お母はんはすぐ帰って来やはります。あんたも何かたべなはらへんか。卵焼きはきらいだすか」  お嶋さんが卵焼きをつまんでくれましたが、私はもうそれをたべる気にもなりませなんだ。というのは、まえの幕の一番目の終わりに、役者の男衆らしい奴が、母のそばへきて何かささやいていたのが、気になってたまらなかったからです。私はもうじっとしておれないような気がして、思わずふらふらと立ち上がりました。 「坊んち、どこ行きはりますね」 「ううん、小便」 「そう、もうすぐ幕が開きますさかい、早《はよ》帰っといなはれや。今度は坊んちの好きな踊りや」  私はお嶋さんの言葉を聞き流して、ふらふらと茶屋のほうへ歩いていきました。中幕のはじまるころというたら、茶屋のいちばんせわしい盛りですから、だれも私のことなど気をつけているものはありません。私はだれにもとがめられずにそのまま二階へあがっていって、細目障子をなんの気もなくがらりと開いたのですが、そのとたん子供心にも思わずはっとしました。せまい座敷の中には母が若い男と差し向かいで酒を飲んでいるのです。二人ともほんのりと眼の縁を赤くして、それがまたなんともいえず綺麗なのでした。私が障子をひらいたとたん、二人はぱっととびのいたような気配でしたが、しばらく、いかにも、ばつの悪そうに私の顔をみています。私はもう、それを見ると耳の付け根まで真っ赤になって、子供心にも引っ込みのつかないような恥ずかしさでした。すると、母がようやく気を取り戻してやっと、 「竜ちゃん、あんたなんでこんなとこへ来やはったの」  と、尋ねました。すると、母の向かいに坐っていた男もはじめて気がついたように、 「ああ、坊んちだすか。よう来なはったな、御馳走あげまひょ。坊んちこっちへ入っておいなはれ」  と、いかにも気軽い調子でいうのです。そのとき私ははじめて、その男が福三郎だったことに気がついたのでした。 「この子はあきまへんね。影弁慶だしてな。他人《ひと》まえに出たら口が利けしまへん。竜ちゃん、そんなところへ立ってんとこっちへ入って来なはれ」  母にそういわれて私はやっとのことで、座敷の中へ入って行きました。そばで見ると福三郎は、舞台でみたほど美しくはなく、白粉《おしろい》のせいか眼の色が濁って、歯が黄色にみえ、なんとなく怖いようでした。 「坊んち、あんた幾つだす、十だすか、十一だすか、ほんまにお母はんに似て器量よしやな」  そういって福三郎は私の頭を撫でてくれましたが、私はなんといわれても、一切黙りこんだまま、ときどき偸《ぬす》み見るように、母とその男の顔を見るばかりで、なんとなく怖いような、嫉《ねた》ましいような気がするのでした。が、それでいて一方なんともいえぬほどうれしいのです。  これがはじめてで、それから私は度々福三郎を見たことがあります。あるときなどは、母につれられ、住吉さんにお参りにいったところが向こうの料理屋に、ちゃんと福三郎が待っていたので驚いたことさえありました。そのときは、やはり一緒だったお嶋さんに料理屋から連れ出されて二時間あまりも住吉公園で遊ばされたことを今でもよう覚えとります。こんなときはいつもきまって固く口止めをされるのでしたが、口止めをされるまでもなく、これがどんなにようないことかは、子供心にもちゃんとわかっておりましたので、私はだれにもしゃべる気にはなれませなんだ。私は、大げさにいうと薄氷を踏むような思いをしながら、それでいて母と福三郎とが一緒にいるのを見るのが好きでした。父のお供ですと、気は楽ですけれど少しも面白いところがない。ところが母のお供のときは、いつも何かしら恐ろしさで胸がわくわくするのだすけれど、それがまた何んとも言えぬほど楽しいのでした。  父も私をようかわいがってくれました。どっちかというと、母は自分の勝手なときだけしか私をかわいがってくれませなんだが、父はいつでも同じでした。父はほかに道楽がないので外へ出るとおいしいものをたべるのが何よりの楽しみらしく、中でも芝藤《しばとう》の鰻《うなぎ》がいちばん好物で、私はよくそこで御馳走されたものでした。 「竜ちゃん、おまえなんでも正直にいわなあかんぜ」  ある日、父に連れられてこの芝藤へ行ったとき、珍しく酒をあつらえた父は、二、三杯の酒ではや眼をすえながら、じっと私の顔をみるのです。そのとき私は子供心にも来たなという感じで思わず眼を伏せてしまいました。 「お前、このごろちょくちょく、お母はんと一緒に出るようやが、お母はんが出先で何をしとるかよう知っとるやろな」  私が黙ってうつむいていると、 「お母はんはいつも福三郎と一緒やろ。隠さんでもええ、お父さんはちゃんと知ってんね。この間住吉さんへ行ったときも、福三郎が来とったやろな」  私が仕方なしにうなずくと、 「それでお前はどうやった。はじめからしまいまでお母はんのわきについていたか」  私は仕方なしにお嶋さんと二人で二時間程、公園で遊んでいたことを話すと、父はまるで噛みつきそうな顔でじっと私を睨んでいましたが、やがて苦しそうにぐっと杯をあおると、 「そうか、やっぱりそうか」  と、いって、それきりしばらくは石のようにじっとしていました。私はそのときぐらい父の恐ろしい形相を見たことがありません。私は今にも泣き出しそうな顔をしながら、それでいてそのとき考えていたのは、あの福三郎の濁った眼と、黄色い歯と、艶めかしい唇でした。するとこの父がいかにも惨めで、かわいそうな気がして、思わず涙ぐまれてくるのでした。  父が家出をしたのはそれから間もなくのことでした。私はこの前後の記憶がどうもはっきりしませんのですが、ある雨の晩おそく、母が幌車《ほろぐるま》で帰ってきたかと思うと、そのまま寝床へ入ってしばらく泣いていましたが、夜中に私の体を強く抱きしめて声を立てて泣き出したのをよう覚えとります。父の姿が見えなくなったのはどうもその晩からではないかと思うのです。というのは父はよく商用で旅行することがありますので、父の不在には慣れていたからだっしゃろ。その時も、後から親類中の騒ぎが大きくなったので、はじめていつもの旅行とは違うことに気がついたのです。なんでもかなり多額の金を持ち出して、満洲《まんしゆう》へ行ったというような話でしたが、子供まである仲をあんまりだという風に、親類中でもだいぶごたごたがあったようです。とにかくそれきり父には会うたことはありません。しかし、父のこの失踪ぶりは、結果としては親類中の同情を母の一身に集めることに役立ったようで、それ以来、母の不身持《ふみも》ちに対しても、あまり口喧《くちやかま》しくいわんようになったのでしょう。父がいなくなってしばらくすると、役者の福三郎が大ぴらに家へ出入りするようにさえなったのです。福三郎がくると、いつもお嶋さんが呼ばれて、奥座敷で酒盛りがはじまりました。あるときはお嶋さんが三味線をひいて福三郎が歌ったり、あるときは福三郎の三味線で母が歌ったりしました。そんな時私はいつも、怖いような、恥ずかしいような、世間様に対して合わす顔がないような気がしながら、それでいて、その座敷のすみに坐っているのが何よりの楽しみでした。はじめのうちは、私がそばにいると、みんなで寄ってたかって何か歌わせようとするのでしたが、私がいつも恥ずかしがって尻込みをしてしまうので、しまいには、まるで置き物かなんぞのように私のことは忘れてしもて、みんなで勝手に飲んだり歌《うと》たりふざけたりしていました。それでも私は、その席にいることが何よりの楽しみで、学校の帰りなど表に、べにがら色に塗った定紋入りの車がとまっているのを見ると、私は思わず胸をわくわくさせたものです。  あの無気味な人体模型が私の店へとどいたのは、ちょうどその時分のことだったと思います。いや突然こんなことをいうてもわかりまへんやろけど、さっきたしかお話ししたと思いますが、難波の大芳という職人、その職人の作った模型だけはどれでもけっして石膏《せつこう》などの作りものでなくて、ほんとうの人間の骨やというので、その時分、だいぶ慣れてきた店の者なども、大芳の作った分だけは気味悪がって、いちばん用のない、薄暗い中三畳の壁へつるしておくのです。ちょうど家がこんな状態にある時分に、撰《よ》りに撰って、大芳の作った骸骨が一体とどけられてきたのです。私はそのときのことをはっきり覚えておりますが、いつものように学校から帰ってくると、表に朱色の車がとまっているので、私は大急ぎで鞄《かばん》を投げ出して、奥座敷のほうへ行こうとしました。すると、その時ふいに後ろから、女中のつるにぎゅっと手を握られたのです。 「坊んちちょっとこっちへおいなはれ、あんたに見せたいものがありまんね」  と、つるは何かしら物すごい形相をしています。まえにもいいましたが、私はこのつるが好きで母などより一層なついていたのだすけれど、このごろになって急にきらいになりました。というのは、つるは福三郎がこの家へ出入りするのを何よりもいやがっているのだすさかいに、そこへ私がいつも顔出しをするものだから、このごろはけっしていい顔をしないのです。それに目をかけてくれた父がいなくなってからというもの、めっきり陰気な女になって、だれともずけずけと喧嘩をしたりするので、子供心にも私は、後ろめたいやら怖いやらでなるべくこの女をさけるようにしていたのです。そのつるが物すごい形相をして私の手をとらえたのですから、私は思わずどきっとしました。つるはいやがる私を引きずるようにして、昼でも薄暗い中三畳に連れこみました。 「さあ、坊んち、そこに下がってる骸骨の足をみなはれ。左の足の指を見なはれ。あんた、それでもなんともおまへんか」  私はつるが何をいうのかと思って、怖々ながら薄暗い壁にぶら下がっている人体模型の左の足を探ってみました。しばらく私は、つるがなぜそんなことをいうのか、さっぱりわけがわかりまへんなんだが、そのうちにぼんやりと意味がわかりかけてきました。すると、私は思わずわっと叫んで、骸骨のわきを離れると、つるの胸元にしがみついたものです。 「なあ、わかりましたか。あれはあんたのお父さんの骨だっせ。大芳のこしらえたものだったさかいに作りものやあらしまへん。本当の人間の骨だす。本当の人間やとしたら、旦那はんのほかに、あんな足指を持っとる人がありますやろか」  言い忘れてましたが父は左の足の中指とその次の指がくっついていて、ですから左の足だけは指が四本しかないのです。父はそれを恥ずかしがって、どんなときでも足袋をぬいだことがないので、それを知っている者は、ごく内輪の少数しかありませなんだが、今見ると、そこにつるしてある骸骨の指はたしかに四本しかないのだす。しかも中指とその次の指の骨がくっついているところまで、すっかり父とおんなしでした。 「そやかて、そやかて、お父さんは満洲へ行きやはったちゅう話やないか」  私はぶるぶる震えながら、訴えるようにつるにそういいました。 「そんなことわかりますか。だれがそんなこといいましてん。お家はんやおまへんか。お家はんよりほかに、旦那はんが満洲へ行きやはったことを知ってる者《もん》おまへんねんで。坊んち、よう考えなあきまへんで。あんたのお父さんは満洲へ行きやはったのやおまへん。殺されやはったのだっせ。そしてその殺した奴は今奥にいる福三郎と……」 「おつる、おつる、そんな怖いこといわんといて、いわんといて……」  その晩のことだす。私はそれはそれは怖い夢を見ました。今でもはっきり覚えとりますが、あの綺麗な顔をした福三郎が豆絞りの手ぬぐいか何かで、父の首を絞めているところでした。そしてそのわきには、母が妲己《だつき》のお百みたいに、にんまりと笑いながら、立て膝をして酒を飲んでいるのです。するとそこへ、大芳という男が、大きなどきどきするような出刃を振りかざして入って来たかと思うと、みるみるうちに父の体を料理してしまうのです。私はあまりの恐ろしさに、思わず声を立てた拍子に眼がさめました。すると今見た夢の恐ろしい実感がひしひしと胸に迫ってきて、もういても立ってもいられないような気持ちなのです。私は思わずふらふらと立ちあがると、引きずられるようにあの中三畳へ入って行きました。昼でも薄暗いその部屋は、もう漆《うるし》のように真っ暗で、壁伝いにすり足で中へ入って行くと、いきなりその骸骨にぶつかったと見えてカタカタと激しい音を立てて骨が鳴りました。しかし、私は一向平気で、左の足指を探ると、それを愛撫するように撫でていたのです。なぜ、私がそんなことをしたのかわかりません。今から考えて、何かに憑《つ》かれていたとしか説明がつかないのです。私はまるで石のように頬をこわばらせながら、骸骨の手といわず、足といわずそこらじゅうに接吻をしました。その度に、無気味な骨がカタカタと鳴って、それがまた、私には竜吉、竜吉と呼んでいるように聞こえるのです。その時です、ふいに壁のうえがぽっと明るくなってきました。最初のうち私は、少しもそれを不思議なこととも思いませなんだ。なんだか神秘的な作用で、そんなことが起こるのは当たりまえだという風に思っていたのです。するとその時ふいに、うしろの方から「竜吉!」という鋭い声が聞こえました。その声にはじめて夢からさめたようにうしろを振り返ってみると、そこには長襦袢《ながじゆばん》一枚の母が、ランプを片手にもって、まるで石のように突っ立っているのでした。その顔は、なんというたらよろしいやら、蝋のように白うて、大理石みたいに固うて冷たそうなのです。いっぱいに見開いた眼には、この世の者とも思えんほどの恐怖と殺気とが漲《みなぎ》っているのでした。 「竜吉、おまえそこで何してんね」  そういうた母の声は、とうていこれが母親が子供に向こうていう言葉とは思われんほど、荒々しく残酷でした。私ははじき返すようにその眼を見返すと、心の中では熱病やみみたいにこう叫んでいたのです。 「知ってるぞ、知ってるぞ、知ってるぞ、知ってるぞ、知ってるぞ……」  R・Oはここまで話すと、疲れきったように言葉を切った。蒼白《あおじろ》い面はいよいよ白さをまして何かしら心の騒ぐのを押えつけているようにみえるのだった。私はその時、ふと彼の白い眼を見ると、思わずぞっとするような悪寒を覚えたのである。それは、あの時母親を見た時の眼もこうであっただろうかと思われるような、無限の恨みと憎悪と、恐怖とをこめた眼差《まなざ》しだった。しかし、R・Oはすぐそれに気がついたものか、あわてて二、三度|瞬《まばた》きをすると、静脈の浮いている細い手で頬を撫でながら、淋しく笑ってみせた。 「これから先の話は、私としてもあまり辛うおますさかい堪忍《かんにん》しとくなはれ。ただこれだけのことは言うときます。それからしばらくして母は蔵の中で焼け死にしました。福三郎と一緒にです。実をいうと、その時私が助けようと思たら、あるいは助けることも出来《でけ》たかもしれまへん。というのは蔵が燃えだした最初から私は知ってたのだす。母屋《おもや》の二階からそれを見てたのだすさかいな。違います、違います。火をつけたのは私やあらしまへん。おつるだした。おつるはその次の日、井戸へ身を投げて死んでいるのが見つかりましたよ」  R・Oはそういって、いかにも苦しそうに眼を閉じた。その時私は、もう一度背中のうえをさっと流れる冷気を感じたのである。  この男は母が、そして母とその情人が燃えさかる焔の中から狂気のように救いを求めているのを冷淡に見下ろしていたのに違いない。  それは復讐《ふくしゆう》だったろうか。それとも子供らしい嫉妬《しつと》だったのだろうか。 「それで、お父さんの消息はそれきりないのですか」  私はふと思いついてそう尋ねた。 「ありません。しかし、父が満洲へ行ったことはどうやら本当らしいのです。その後、私は向こうから帰って来た人から、父に会うたという話をきいたことがあります。しかし、父が生きていたとしたら、あの骸骨はどうしたのだっしゃろ。あの足指の特徴は偶然の一致やったのだっしゃろか。よしまた、おつるの想像通り殺されたとしても、では大芳はそのお芝居でどんな役目をつとめていたのでしょうか。父と知っていて、あんな人体模型を私の家へ持ち込んできたのでしょうか。私にはわかりません。何もかもわからないのです」 「しかし、こういうことはいえますね。少なくともお父さんが生きていたとしたら、君に何か消息がありそうなものだということを……。お母さんは憎んでいても、君は自分の子なんだから」  R・Oはそれを聞くと、急にきらりと眼を光らせた。彼は黙って傍の手文庫を開くと、その中から二枚の写真を取り出した。 「これを見とくなはれ」  私はその写真を手に取ってながめた。二枚とも四つ切りぐらいの大きさで、そのどちらにも、同じ人物の写真が写っていた。  たぶん、鎌倉三代記の時姫なのだろう。若い女形の舞台顔を写したものだったが、ポーズといいつくりといい明らかに一枚の乾板から焼きつけられたもののように見えた。 「同じ人の写真ですね。時姫ですか」  と、私は二枚の写真を見比べながらいった。 「そうです。その一枚の方が嵐福三郎ですよ」 「そうだと思っていました」 「そして、もう一枚の方はこの私なのです」  私はふいにぐゎんと頭をなぐられたような気がして、思わず相手の顔を見直した。R・Oはその時、薄い唇に今にも泣き出しそうな笑いを刻んで、低い声でつぶやくように、いったのだった。 「似てまっしゃろ。これで私はやっと長年の謎が解決されたような気がしたのです。父から消息のない理由も、母がいかに大家の一人娘とはいえ、十七という若い身空であわてて婿をとったことも、その婿に家に使っている手代を選んだことも、一切合財これでわかりました。そして、父と母に対する私の不思議な臆病さや、恐怖も。……このごろ私は調べてみたのですが、嵐福三郎が最初大阪の舞台から東京へ去ったのは、ちょうど私が母のお腹にいる時分のことでしたよ」  彼はそういって、今にも泣き出しそうに頬っぺたを痙攣《けいれん》させていた。  私は黙って二枚の写真をちゃぶ台のうえにおくと、窓のそばへ行って張り出しに腰を下ろした。  黒い掘割りの水のうえには、広告燈が赤に青に美しく明滅しているのが見えた。  本書には今日の人権意識に照らして不当・不適切と思われる語句や表現がありますが、作品執筆時の時代背景や作品の文学性などを考慮しそのままとしました。 [#地付き](角川書店編集部) 角川文庫『蔵の中・鬼火』昭和50年8月10日初版発行