TITLE : 羽子板娘 羽子板娘 自選人形佐七捕物帳1 横溝正史 ------------------------------------------------------------------------------- 角川e文庫 本作品の全部または一部を無断で複製、転載、配信、送信したり、ホームページ上に転載することを禁止します。また、本作品の内容を無断で改変、改ざん等を行うことも禁止します。 本作品購入時にご承諾いただいた規約により、有償・無償にかかわらず本作品を第三者に譲渡することはできません。 目 次 羽子板娘 恩愛の凧《たこ》 浮世絵師 石《いわ》見《み》銀山 吉様まいる 水芸三姉妹 色《いろ》八《はつ》卦《け》 うかれ坊主 羽子板娘 辰《たつ》源《げん》のお蝶《ちよう》   ——羽子板になった娘がつぎつぎと——  七《なな》草《くさ》をすぎると、江戸の正月もだいぶ改まってくる。つじつじ回ってあるく越《えち》後《ご》獅《じ》子《し》、三《み》河《かわ》万《まん》歳《ざい》もしだいに影をけして、ついこのあいだ、赤い顔をしてふらふらと、回礼にあるいていたお店の番頭さんが、きのうにかわるめくら縞《じま》のふだん着に、紺《こん》の前掛けも堅《かた》気《ぎ》らしゅうとりすました顔もおかしく、しめ飾り、門《かど》松《まつ》に正月のなごりはまだ漂《ただよ》うているものの、世間はすっかりおちついてくる。  このころになって、そろそろ忙しくなるのが、しばい、遊《ゆう》郭《かく》、料理屋さん。いまでは暮れも正月もない、遊びたいやつは遊ぶが、昔はげんじゅうだから、新年は家にいて年賀をうけたり、旧知、懇《こん》意《い》のあいだがらを回ってあるくから、遊ぼうにも遊ぶひまがない。  その七草のばん、小石川音《おと》羽《わ》にある辰《たつ》源《げん》という小料理屋では、江戸座の流れをくむ、宗《そう》匠《しよう》連の発《ほつ》句《く》の初《はつ》会《かい》があるというので、宵《よい》から大忙しで、てんてこ舞いをしていた。  おかみのお源というのは、もと岡《おか》場《ば》所《しよ》でかせいでいたといううわさのある女だが、鉄五郎という板場と夫婦になり、ふたりでかせいでいまの店をきずきあげたというだけあって、なかなかのしっかりもの。先年、亭《てい》主《しゆ》の鉄五郎が亡《な》くなってからも、女手ひとつでビクともしないところは、さすがだという評判である。  そのお源が座敷へ出て、さかんにあいきょうをふりまいていると、水《すい》道《どう》端《ばた》にすむ梅《ばい》叟《そう》という宗匠が、ふとそのそでをとらえ、 「そうそう、おかみさん、お蝶《ちよう》ちゃんはどうしましたえ」  と尋《たず》ねた。 「お蝶ですか、あいかわらずですよ」 「少しは、客の席へ出したらどうだえ。お蝶ちゃんもこんどはたいした評判だねえ。なにしろ、羽《は》子《ご》板《いた》になった江戸小《こ》町《まち》、なかでも、お蝶ちゃんの羽子板が、いちばんよく売れるというから豪《ごう》気《き》なもんだ」 「なんですか、あんまり世間でさわがれるもんですから、当人はかえってポーッとしているんですよ」  といったが、お源もさすがに悪い気持ちではないらしい。 「あんまりだいじにしすぎると、かえってネコになってしまうぜ。少しは座敷へ出して、われわれにも目の保養させるもんだ」 「いえね、だんな、わたしもあの娘がてつだってくれると、少しは、からだが楽になるんですけれど、ねっからもうねんねでね」 「そうじゃあるめえ、おかみさん」  と、横合いから口を出したのは、俳名春林という町内のわかい男。 「うっかり客のまえへ出して、あやまちでもあったらたいへんだというんだろう。なにしろ、このおかみときたらすごいからねえ。われわれなんぞ、てんで眼中にないんだから。いずれそのうち、ご大《たい》身《しん》の殿様にでも見染められて、玉のこしという寸法だろう」 「まあ、こちら、お口が悪いのねえ」  といったが、さすがにお源はいやな顔をする。  お源のひとり娘——といっても養女にきまっているが、お蝶というのは、まえから音《おと》羽《わ》小《こ》町《まち》とさわがれたきりょうよしだったが、ことしはとうとう、神《かん》田《だ》お玉が池《いけ》の紅《べに》屋《や》の娘、お組や、深川境《けい》内《だい》の水茶屋のお蓮《れん》とともに、江戸三小町とて、羽子板にまでなった評判娘。  きりょうのいい娘をもった、こういう種類の女の心はみんなおなじで、お源も内々、そういう下心のあったところへ、ちかごろではさる大藩のおるすい役から、おそば勤めにという下交渉もあるおりから、ずぼしをさされて、お源はいっそう不《ふ》愉《ゆ》快《かい》なかおをするのである。 「そうそう、それで思い出したが、深川のお蓮はかわいそうなことをしたねえ」  と、話のなかへ割りこんできたのは、伊《い》勢《せ》徳《とく》といって、山《やま》吹《ぶき》町《ちよう》へんのお店のあるじ、俳名五楽という。 「さようさ。せっかく羽子板にまでなって、これからおおいに売り出そうというおりから、春をも待たで、あんな妙な死にかたをしたんだから、親の嘆《なげ》きもさることながら、当人もさぞ浮かばれめえな」  梅叟はキセルをたたきながら、暗然としたかおをした。  お蓮というのは、お蝶とともに羽子板になった江戸三小町のひとり。深川に水茶屋を出している八《はち》幡《まん》裏《うら》の喜《き》兵《へ》衛《え》というものの娘だが、暮れに柳《やなぎ》橋《ばし》のさるごひいきのうちへ、ごあいさつにいったかえりがけ、どういうものか大川ばたあたりで、土《ど》左《ざ》衛《え》門《もん》になってその死体がうかんだ。なにしろ、羽子板にまでなった評判のおりから、お蓮の死は読み売りにまで読まれて、うわさはこの音羽にまできこえていた。 「なにしろ、柳橋のひいきのうちで、たいそうもなくごちそうになって、当人したたか酔っていたというから、おおかた、足を踏みすべらしたんだろうという話さ」 「大川ばたもあのへんはあぶないからね。しかし、ひいきもひいきじゃねえか、わかい娘を盛《も》りつぶすさえあるに、それほど酔っているものを、かごもつけずにかえすというのは、いったい、どういう了《りよう》見《けん》だかしれやアしねえ」 「ところが、だんな、さにあらずさ」  と、若い春林がにわかにひざをのり出すと、 「ここにひとつ、妙な聞きこみがありやす。たしか、お蓮の初《しよ》七《なの》日《か》の晩だといいやすがね、しめやかにお通《つ》夜《や》をしている八幡裏の親もとへ、変なものを、投げこんでいったやつがあるんですとさ」 「変なものって、なにさ」 「それが、だんな、羽子板なんです。お蓮の羽子板なんです。しかも、押し絵の首のところを、グサリと、こうまっぷたつに、ちょんぎってあったということで」 「ほほう」  一同、おもわずまゆをひそめると、 「すると、お蓮が死んだのは、あやまちじゃなかったのか」 「あっしもそう思うんで。押し絵になるほどの娘だから、なんかといろの出入りも多かったろうじゃございませんか。絞《し》め殺しておいて、川へぶちこんじまやアわかりゃしません。こんなことがあるから、小町娘を持った親は苦労だ。おかみさん、お蝶さんも気をつけなくちゃいけませんぜ」 「あら、いやだ。正月そうそうから縁《えん》起《ぎ》でもない」  お源はいまいましそうに、青いまゆをひそめたが、そのときにわかに、内《ない》所《しよ》のほうでワアワアというさわぎが起こったかと思うと、ころげるようにはいってきたのは、女中頭《がしら》のお市。 「おかみさん、たいへんです、たいへんです、お蝶さんが、お蝶さんが……」  と、敷《しき》居《い》のきわでべったりとひざをつくと、 「うらのお稲荷《 い な り》さんの境内で、ぐさっと乳のしたをえぐられて——えぐられて——」  きくなり、お源は、ウームとばかり、その場にひきつけてしまった。 鏡の合い図   ——赤ん坊も三年たてば三つになる—— 「こんにちは。親分はおいででござんすかえ」  護《ご》国《こく》寺《じ》わきに、清《きよ》元《もと》延《のぶ》千《ち》代《よ》という名札をあげた、細め格《ごう》子《し》をしずかにあけて、ものやわらかに小腰をかがめたのは、年のころまだ二十一、二、色の白い、役者のようにいい男だった。 「おや、だれかと思ったら、お玉が池の佐七つぁんじゃないか。さあ、さあ、お上がんなさいよ」 「これは、ねえさん、明けましておめでとうございます」 「ほっほっほ、佐七つぁんの、まあ、ごていねいな、はい。おめでとう。さあ、お上がんなさい。親分もちょうどおいでなさるから」 「佐七じゃねえか、まあ上がんねえ」  奥からの声に、 「それじゃご免こうむります」  ていねいにあいさつして佐七があがると、あるじの吉《きち》兵《べ》衛《え》はいましも長火ばちのまえにあぐらをかいて、茶をいれているところだった。  女房に清元の師匠をさせているが、この吉兵衛、またの名をこのしろといって、十《じつ》手《て》捕《とり》縄《なわ》をあずかる御用聞き。音羽から山吹町、水《すい》道《どう》端《ばた》へかけてなわ張りとする、岡《おか》っ引《ぴ》きのうちでも古顔の腕ききだった。 「もっと早く、ご年始にあがるところでございますが、なにせここんところへきて、ばかにとりこんじまいまして」 「どうせそうだろうよ。若いうちはとかく楽しみが多くて、こちとらのような年寄りにゃ御用はねえもんだ。しかしまあ、よくきてくれたな。お千代、茶でもいれねえ」  この佐七というのは、神田お玉が池あたりで、親の代から御用をつとめている身分。先代の伝次というのは、吉兵衛と兄弟分の杯《さかずき》もした、腕ききの岡っ引きだったが、せがれの佐七はあまり男振りがいいところから、とかく身が持てず、人形佐七と娘たちからワイワイいわれるかわりに、御用のほうはおるすになるのを、いまでは親代わりのつもりでいる吉兵衛は、日ごろからにがにがしく思っているのであった。 「おふくろのお仙《せん》さんは達《たつ》者《しや》かえ」 「はい、あいかわらずでございます。そのうち、いちどお伺いすると申しておりました」 「いや、それはどうでもいいが、おまえもあまりお仙さんに、心配かけるようなまねはよしたがいいぜ。このあいだもきて、さんざん愚《ぐ》痴《ち》をこぼしていったっけ。おまえ、明けていくつになる」 「へえ、あっしは寛《かん》政《せい》六年、甲《きのえ》寅《とら》のうまれですから明けて二になります」 「二になりますもねえもんだ。おまえのおとっつぁんの二のとしといやア……いや、もう、よそう、よそう。いうだけ愚痴にならアな」 「面目しだいもございません」  佐七は頭をかきながら、 「ときに、親分、ゆうべむこうの辰源で、とりこみがあったというじゃございませんか」 「なんだ、佐七、おまえその話でわざわざやってきたのか」 「いえ、そういうわけでもございませんが、ひょっとすると、あっしのなわ張りのほうへも、かかりあいができてくるんじゃねえかと思いましてね」 「こいつはめずらしい。お千代、みねえ。赤ん坊も三年たてば三つになるというが、佐七もどうやら身にしみて、御用をつとめる気になったらしいぜ」 「なんだえ、おまえさん、そんな失礼なことを——」 「よしよし、おめえがそういう了《りよう》見《けん》なら、おれもおおきに力こぶの入れがいがあらア。なるほどなあ、羽子板娘のもうひとりは、お玉が池の紅屋の娘だったな」  と、吉兵衛はしきりに感心していたが、やがて、ぐいと大きく、ひざをのりだすと、 「佐七、まあ、聞きねえ、こういうわけだ」  と、吉兵衛が話したところをかいつまんでしるすと、辰源のひとり娘お蝶はその晩、ただひとり、奥の内《ない》所《しよ》で草《くさ》双《ぞう》紙《し》かなにかを読んでいた。すると、そのとき、どこからか、きらり、きらりと光がさしてくる。お蝶はそれをみると、ポーッとほおをあからめて、草双紙から顔をあげた。  というのは、お蝶にひとつの秘密がある。辰源の裏側に、富《ふ》士《じ》留《とめ》という大《だい》工《く》の棟《とう》梁《りよう》の家があって、そこに紋三郎というわかいものがいるが、お蝶はいつか、この紋三郎と深いなかになっているのだ。しかし、なんといってもあいてはしがないたたき大工、欲のふかいお源がこの恋をゆるそうはずがない。ふたりはひとめをしのんで、はかない逢《おう》瀬《せ》をつづけているのだが、このあいびきの合い図になるのは、一枚の鏡なのである。  富土留の物干しに立って、ろうそくのうしろでこの鏡を振ると、こいつがちょうど、辰源の内所へ反射することになっている。恋するふたりはいつか、こんなはかない手段をおぼえていたのである。  お蝶は壁にうつる光をみると、もうやもたてもたまらなかった。  ちょうどさいわい、母のお源は表の座敷につきっきりだし、女中たちもてんてこ舞いをしているおりから、だれひとり、お蝶の挙動に目をつけているものもない。彼女はそっと、庭げたをつっかけたが、そのとき、 「お蝶さん、どこへおいでなさいますえ」  と、うしろから呼びとめたのは、お燗《かん》を取りにおりてきた女《じよ》中《ちゆう》 頭《がしら》のお市だった。 「あの、ちょっと」 「いいえ、いけませんよ、お蝶さん。わたしはちゃんと知っていますよ、また、紋さんに会いにおいでになるんでしょう」 「あれ、お市、そんなこと」 「かくしたっていけませんよ。おかみさんはごまかされても、このお市はだまされやしませんよ、むこうの物干しから鏡の合い図で……ね、そうでしょう」 「お市、おまえ、そんなことまで知っているのかえ」 「それはかめの甲より年の功、いまもむこうで見ていたら、きらきらとその壁に映《うつ》っていたじゃありませんか。ほっほっほ。それじゃお蝶さん、おかみさんの目がこわいから、なるべく早くかえっておいでなさいよ」 「あれ、それじゃお市、おまえこのまま見のがしておくれかえ」 「わたしだって鬼じゃありませんのさ」 「お市、恩にきるよ」  いきなお市のはからいに、お蝶はいそいそと出かけていったが、それからまもなく、客を送りだしたお市が、なにげなく表をみると、お蝶と会っているはずの紋三郎が、ふろ帰りだろう、手ぬぐい肩に友だちとワイワイ話しながら通るではないか。  おや、とまゆをひそめたお市が、 「ちょっと、ちょっと、紋さん」  と、低《こ》声《ごえ》で呼びこむと、 「おまえ、お蝶さんといっしょじゃないのかえ」 「お蝶さん?」  紋三郎が、さっと顔色かえるのを、 「いいのよ、あたしゃなにもかも知っているんだから。しかし、変だねえ、さっきたしかに鏡の合い図があって、お蝶さんは出かけたよ」 「鏡の合い図? そ、そんなはずはありませんよ。おいらアいままで、兼《かね》公《こう》とお湯へいってたんだもの——」  お市はようやく、ことの容易でないのに胸をとどろかせた。 「紋さん、いったいおまえさんたち、いつもどこで会っているの」 「どこって、たいてい裏の駒《こま》止《ど》めの稲荷《 い な り》だけど」 「それじゃおまえ、すまないが、ちょっといってみてきておくれ、なにかまちがいがあるといけないから」  紋三郎も、もとよりほれた女のことだ、異議なくお市の頼みをひきうけたが、それからまもなく、血《けつ》相《そう》かえてとびこんでくると、 「お市つぁん、たいへんだ。お蝶さんが、お蝶さんが殺されて……」 「……と、まあいうようなわけだ。そこで、大騒ぎがもちあがって、駒止め稲荷へ出かけてみると、案《あん》の定《じよう》、お蝶はひとつき、乳のしたをえぐられて死んでいるんだが、ここに妙なのは……」  と、このとき吉兵衛、とんとキセルをたたくと、 「そのお蝶の死体のうえに、だれがおいたのか羽子板がいちまい。むろん、お蝶の羽子板だが、こいつが、プッツリ首のところをちょんぎってあるのさ」  佐七はだまってきいていたが、 「それで、紋三郎という野郎はどうしました」 「まあ、さしあたり、ほかに心当たりもないので、こいつを番屋へあげてあるが、人殺しのできるような野郎じゃないさ。それに、お蝶が出かけていったじぶんには、ちゃんとふろンなかで、鼻歌かなんかうたっていやがったという、聞きこみもあがっているんでの」 「それにしても、ふたりのほかにだれしる者もねえはずの、鏡の合い図があったというなアおかしゅうございますね。どうでしょう、親分」  と、佐七はキッとおもてをあげると、 「親分のなわ張りへ手をいれようなぞという、だいそれた了見じゃございませんが、ちょっと気になります。ひとつ、辰源のほうへお引きまわしを願えますまいか」 「よし、おまえがその気になってくれりゃ、おれもおおきに張り合いがあらあ。ちょうどこれから出かけようと思っていたところだ。望みならおまえもいっしょにきねえ」  佐七より吉兵衛のほうがはりきっている。 鬼がわらの紋所   ——残りの羽子板娘も行くえ不明——  正月というのに、忌《き》中《ちゆう》の札をはった辰源は、大戸をおろして、お源はまるで気も狂乱のていたらく。ことに、女《じよ》中《ちゆう》 頭《がしら》のお市は、お蝶を出してやった責任者だけに、お源からさんざん毒づかれたり、くどかれたりして、病人のように青い顔をしていた。 「おとりこみのところ恐れ入りますが、ちょっとお内《ない》所《しよ》を見せていただきとうございますが」  お蝶の死体にも羽子板にも目もくれず、いきなりそういった佐七は、半病人のお市に案内されて、うす暗い奥の座敷へとおった。 「なるほど、むこうにみえるのが、富士留さんの物干しでございますね」  佐七は裏べい越しにみえる物干しと、座敷の壁を見くらべていたが、 「もし、お市さん、ゆうべおまえさんが見た鏡の影というのは、どのへんに映《うつ》っていましたかえ」 「はい、あのへんでございます」  お市が裏のほうの砂壁を指さすと、 「そりゃおかしい、お市さん。富士留さんのほうから照らしたのなら、こっちのほうへ映らなきゃならんはずだ。ねえ、親分、そうじゃございませんか」 「なるほど、こいつは気がつかなかった。お市、まちがいじゃないかえ」 「いいえ、まちがいじゃございません。たしかにそっちの壁でした。表からはいってきて、すぐ目についたんでございますもの」 「なるほど、おまえがそういうんなら、そのとおりだろう。ときにお市さん、おまえ懐《かい》中《ちゆう》 鏡《かがみ》を持っちゃいませんかえ」 「はい、これでよろしゅうございますか」 「けっこうけっこう。それじゃ、親分、それからお市さんも、ちょっとここで待っていておくんなさい」  なにを思ったか、人形佐七は、鏡をもってスタスタと座敷をでると、やがて内所をはすに見おろす二階座敷の小窓をガラリとあけて、 「お市さん、ちょっと見ておくんなさい」  と、キラキラ鏡をふりかざして、 「ゆうべおまえさんの見た影というのは、そのへんでございましたかね」  お市は壁に映る影を見ながら、 「はい、たしかにそのへんでございました。でも……」  佐七はにっこり笑うと、すぐまたもとの内所へかえってきて、 「お市さん、ゆうべあの二階座敷には、どういうお客がありましたえ」  お市はさっと顔色を失うと、 「それじゃ、ゆうべのお客さんが……」 「さようさ、そこの壁へ影をうつすなア、あの二階座敷よりほかにゃねえ。お市さん、その客というのはどういうひとですえ」  お市も、しかし、その客を知らなかった。紫色のずきんをかぶったお武家で、この家ではじめての客だという。 「そういえば、お蝶さんを送り出して、座敷へあがっていくと、そのお武家が窓のところに立っていなさいました。それから大急ぎで勘《かん》定《じよう》をすませると、お出かけになりましたが……」 「親分」  佐七は意味ありげに、吉兵衛のほうをふりかえると、 「このぶんじゃ、どうやら紋三郎に、かかり合いはなさそうでございますねえ」 「佐七、おまえ、なにか心当たりがあるのかい」 「いいえ、いまのところはからっきし。しかし、お市さん、おまえそのお侍《さむらい》の顔に見覚えがあるかえ」 「さあ……」  と、お市は困ったように、 「なにしろ、はじめてのお客でございますから。しかし、ああ、思い出しました。そのお客さまのお羽《は》織《おり》の紋《もん》所《どころ》というのが、ひどく変わっているのでございますよ。鬼がわらのご紋なので」 「鬼がわら?」  と聞いて佐七はちょっと顔色をうごかしたが、 「いや、親分、いろいろありがとうございました。それじゃこのくらいで」 「佐七、もうかえるのか。それじゃおれもそこまでいこう」  と、表へ出ると、 「おい、佐七、おまえなにか心当たりがあるんじゃねえかえ。あるならあるで、いってもらわにゃ困るぜ」 「いや、もう、いっこう……」 「でも、おまえ、鬼がわらの紋所の話を聞いたときにゃ、顔色をかえたじゃないか」 「はっはっは、さすがは親分だ。かぶとをぬぎやした。親分え、それじゃちょっと神《かん》田《だ》まで、お運びねがえませんかえ」 「よし、おもしれえ、おれもひとつ、おまえのてがらをたてるところを見せてもらいてえもんだ」  ふたりは連れだって神田までかえってきたが、すると、佐七の顔を見るなり、母のお仙が、 「佐七、どこをうろついていたんだえ。おや、これは護国寺の親分さんですかえ」 「おっかあ、るすになにかあったのかい」 「なにかどころじゃないよ。紅《べに》屋《や》のお組さんがゆうべからかえらないというので、大騒ぎだよ」  聞くより、佐七はさっと顔色をうしなった。 山の井数《かず》馬《ま》   ——それじゃ、昨夜の辰源の客とは——  神田お玉《たま》が池《いけ》で、古いのれんを誇っている質店、紅屋の娘お組は、きのう本《ほん》郷《ごう》にいる叔《お》母《ば》のところへ遊びにいってくると、供《とも》もつれずにひとり出かけていったが、晩になってもかえってこなかった。  神田と本郷じゃたいして遠くもないことだし、それにお組は叔母のところへいくと、よくむだんで泊まってくることがあるので、紅屋では気にもかけずに寝てしまったが、朝になってきくと、ゆうべ、音《おと》羽《わ》の羽《は》子《ご》板《いた》娘《むすめ》が殺されたといううわさ。  にわかに気になりだして、本郷へ使いを出してみると、使いといっしょに叔母のお葉が、血相かえてやってきた。  お組はきのう、お葉のもとへはこなかったのだ。 「ねえさん、これはどうしたというんです。それならそれと、なぜ、ゆうべのうちに使いをくれなかったんです」  と、お葉にきめつけられて、後《ご》家《け》のお園はまっさおになった。  お葉は先年死んだお園の亭《てい》主《しゆ》甚《じん》五《ご》右衛《え》門《もん》の妹で、本郷でも有名な小間物店、山城屋惣《そう》八《はち》にとついでいるので、主人なき紅屋にとっては、もっとも有力な親類筋なのだ。そこへ変事をききつけて、お葉の亭主惣八もかけつけてくる。  番頭の清《せい》兵《べ》衛《え》もくわわって、あれやこれやと、お組の立ちまわりそうなところを相談しているところへ、だれか帳場へ羽子板をおいていったものがあると、小僧の長吉が持ってきた。  みるとお組の羽子板で、しかも例によって、その首がプッツリとちょんぎられているのだから、さあ、たいへん、紅屋の一家はまっさおになった。  佐七は親の代から紅屋へ出入りし、かつはしじゅう、ひいきにあずかっているだいじなお店だから、おふくろのお仙からその話をきくと、さっと顔色かえたのもむりはない。 「親分」  佐七は人形とあだなをとった秀《しゆう》麗《れい》なおもてに、きりきりといなずまを走らせると、 「あっしがへその緒《お》切って、はじめての捕《とり》物《もの》でございます。なわ張りちがいじゃございましょうが、どうか助けておくんなさいまし」 「ふむ、おもしろい。それでなにか心当たりがあるのかえ」 「まんざら、ねえこともございません。それじゃおっかあ、ちょっと紅屋さんへ、顔を出してくるぜ。親分、お供ねがいます」  外へでると、佐七はなにを思ったのか、矢立てと懐紙を取りだして、さらさらと、一筆書きながすと、つじ待ちのかごを呼びよせた。 「おめえ、ちょっとすまねえが、これを名あてのところへ届けてもらいてえ。それから、向こうのおかたをかごでお迎えしてくるんだ。いいかえ。わかったかえ。御用の筋だからいそいでくれ」 「へえ、承知いたしやした」  かごかきは、あて名を見ながらいっさんにかけだした。 「佐七、どこへ使いを出したんだ」 「なあに、ちょっと——親分、じゃ、まいりましょう」  と、さきに立ってあるきだしたが、ふと思いついたように、 「親分、紅屋へ顔出しするまえに、ちょっと見ていただきてえものがあるんで、この横町をまいりましょう」  吉兵衛には、佐七のすることがさっぱりわからないが、なにしろ、日ごろぐうたらな佐七が、にわかにテキパキ、ことを運ぶのがうれしくてたまらない。  目を細くして、佐七のいうままに従っている。  やがて、佐七がふと立ちどまったのは、 「無念流剣道指《し》南《なん》、山の井数《かず》馬《ま》」  と、看板のかかった町道場のまえである。 「親分、ちょっと武《む》者《しや》窓《まど》から、けいこのもようをのぞいてまいりましょう」 「なんだえ、いまさら、やっとうのけいこをみたところが、しようがねえじゃないか」 「いえ、そうじゃございません。ほら、一段高いところにすわっていらっしゃるのが山の井数馬さま。親分、りっぱなかたじゃありませんか」  吉兵衛も、しかたなしに苦《にが》笑《わら》いしながらのぞいたが、みると、わかい連中が盛んにたたきあっているむこうに、道場のあるじ、山の井数馬が、いかめしく肩いからせてひかえている。まゆの濃《こ》い、ひげの黒い大男だ。 「親分、ちょっとあの先生の、ご紋を見てくださいまし」  いわれて吉兵衛、山の井数馬の羽織をみたが、そのとたん、思わずあっと叫んだ。山の井数馬の紋《もん》所《どころ》は、世にもめずらしい鬼がわら。 「さあ、親分、まいりましょう」  佐七はすましたもので、武者窓のそばを離れると、先に立ってあるきだした。 「佐七、おい、どうしたんだ。それじゃ、ゆうべの辰源の客は、山の井数馬というあのお武家かえ」 「さあ、どうですか」  佐七は笑いながら、 「なんしろ、あの先生も変わりもんでさあ。近所のものが鬼がわらの先生とあだ名をしたのをいいことにして、紋所まで、じぶんから鬼がわらにかえてしまったんですよ。さあ、紅屋へまいりました」  吉兵衛がまだ、なにか聞きたそうにするのもかまわず、佐七は黒いのれんをおしわけると、ぐいと紅屋の帳場へ顔をのぞかせた。 証拠の羽織   ——佐七これより大いに売り出す—— 「おや、長吉どん、精が出るねえ、なにかえ。番頭さんはうちにいるかえ」 「はい、奥にいなさいますが、ちょっと取りこみがございまして」 「わかっているよ。お組さんの居どころはまだわからないのかい。ああ、お葉さん、しばらくでござんした」  奥からちょっと顔を出したお葉は、幼なじみの佐七の顔を見ると、さすがにうれしげに、 「おや、佐七つぁん、よくきておくれだったね、お組ちゃんのことできてくれたのかえ」 「そう、そう、お組坊がいなくなんなすったのだそうですね。さぞご心配でございましょう。しかし、きょうまいったのは、さようではございませんので。ちょっとお調べの筋があって、質ぐさを見せていただきにあがったのでございます」 「おや、そう」  お葉はむっとしたように、 「それなら、長どんに蔵《くら》へ案内してもらって、かってにお調べなさいな」  と、そのまま奥へすがたを消していった。 「長どん、すまないね」  吉兵衛に目くばせをした佐七は、長吉をさきに立てて蔵へはいっていくと、うず高くたなにつみあげた質ぐさを、あれかこれかと捜《さが》していたが、やがて、 「これだ」  と、ふろしき包みの結びめをとくと、 「親分、これはいかがでございます」  ひろげてみせた羽織を見て、吉兵衛は思わず息をのんだ。  まさしく鬼がわらの紋所。 「親分、ここにずきんもあります。ほら、こんなにぬれているところを見ると、ゆうべ着ていったものにちがいありませんねえ」 「佐七、それじゃ、ゆうべの侍は、この家のもんかえ」 「おおかた、そうだろうと思います。だが、まあ、表へまいりましょうか」  羽織とずきんをくるくるとふろしきに包んだ佐七は、蔵から外へ出たが、あたかもよし、そこへさっきのかご屋がかえってきた。 「お玉が池の親分、わざわざのお迎えは、いったいどういうご用でございます」  と、不安な面《おも》持《も》ちでかごのたれをあげたのは、意外にも辰源の女中頭お市だった。 「あ、お市さん、ご苦労ご苦労。ちょっとおまえに用があったのだが、おいらが呼ぶまでここで待っていておくれ。親分、それじゃ奥へまいりましょう」  いましも山城屋夫婦に後家のお園、番頭の清兵衛が額《ひたい》をあつめて相談している奥座敷へ、ズイととおった人形佐七。 「ええ、みなさんえ、ちょっとお話があってお伺いいたしました。ご免くださいまし」 「ああ、これはお玉が池の親分、いま少しとりこみ中でございますが」  と、山城屋惣《そう》八《はち》がいうのを、 「はい、そのおとりこみのことで、まいりました。番頭さん、ちょっと顔をかしてくださいまし」 「へえ、わたしになにかご用で」 「そうさ、おまえさんでなければいけねえことなんで。ちょっとこの、羽織とずきんを着ておもらいしたいんで」  包みをといて取りだした羽織とずきんをみると、番頭の清兵衛、おもわずくちびるまでまっさおになった。 「親分、それはいったいどういうわけで」 「どういうわけもこういうわけもあるもんか。てまえがいやなら、この佐七が着せてやらあ。このしろ親分、ちょっと手を貸しておくんなさいまし」 「よし、きた」 「それはご無《む》体《たい》な」  すっくと立ち上がった清兵衛が、やにわに店へ逃げ出そうとするのを、左右から抱きすくめた佐七と吉兵衛、むりやりに羽織とずきんを着せると、 「お市さん、お市さん、ちょっと、見ておくれ。ゆうべのお武家というのは、この男じゃなかったかい」  かけこんできたお市は、ひとめ清兵衛の顔を見ると、 「あ、このひとです。このひとです」  それを聞くと、清兵衛は、にわかに力も抜け果てて、がっくりと畳のうえに顔を伏せてしまった。 「おい、清兵衛、辰源の羽子板娘を殺したのはおまえだろう。お組はどこへやった。お組坊も殺してしまったのか」 「はい」  と、観念してしまった清兵衛は、がっくりと首をうなだれ、 「お組さんは、下《した》谷《や》総武寺裏のお霜という、女《ぜ》衒《げん》ばばあのうちに押しこめてございます」  といったが、それきりウームといううめき声、にわかにがばと畳につっぷしたので、あわてて抱き起こしてみると、舌かみ切って死んでいた。  番頭清兵衛の悪事の子《し》細《さい》というのはこうなのだ。  亭《てい》主《しゆ》に死なれてから後家のお園は、いつしか番頭の清兵衛とひとめをしのぶ仲になっていたが、こうなると清兵衛もにわかに欲が出てきた。いっそ、お組を手に入れて、そっくりこの紅屋の家を横《おう》領《りよう》しようという魂《こん》胆《たん》、それとなくお組に当たってみたが、むろんあいてはうんとはいわぬ。それのみか、ひそかに母との仲をかんづいていたお組は、いまのうちに切れてしまわねば、本郷の叔《お》母《ば》さんに告げるという。こいつを告げ口されちゃもとも子もない話だから、にわかにお組を殺そうと思いたったが、それではじぶんに疑いがかかるおそれがある。  おりもよし、おなじ羽子板娘のお蓮が溺《でき》死《し》したといううわさを聞いたので、初七日の晩に羽子板を送り、なんとなく、お蓮の死に疑いをかけておいて、さてそのあとでお蝶まで殺してしまったのだ。  そして、かんじんのお組は、女衒のお霜のもとへあずけ、いずれ、ゆっくりなぐさみものにでもしたあげく、殺してしまうつもりだったのだろうが、そこをひとあしさきに、人形佐七に見あらわされてしまったのである。 「あっしゃ、羽子板娘が順々に殺されるということを聞いたとき、すぐ胸に浮かんだのはお組さんのこと、すると、ふいに思い出したのは番頭の清兵衛のことで。あっしゃいつか清兵衛が、おかみさんとあいびきをしているとこを見たことがあるんで。ああ、後家とはいえ主人の女房と、ひとめをしのぶとは悪いやつだと、こう思うと、なんだか清兵衛のやつが怪《あや》しく思われてならねえんです。そこで、音羽まで出向いて、あの鬼がわらの紋のことを聞いたときにゃ、こいついよいよ清兵衛だと思いました。というのは、山の井先生というのは大酒のみで、飲みしろに困ると、羽織でもなんでも紅屋へ持っていくんです。だから、紅屋なら鬼がわらの羽織もあるわけ。それに、ずきんで顔をかくしていたなア、町人まげをかくすためと、まあ、こう思ったわけです。野郎、お蝶《ちよう》からさきに殺すつもりで、あのへんをうろついているうちに、ふとあるところで、大工の紋三郎が酒のうえから、あの鏡の合い図のことを口走ったのを聞いていやがったんでしょうね。それにしても、辰源の娘はかわいそうだったが、かねてごひいきにあずかっていた紅屋のお組坊を救い出すことができたので、あっしも肩身が広うございまさあ」  このしろ吉兵衛は、このあっぱれな初《うい》陣《じん》の功《こう》名《みよう》に、おふくろのお仙といっしょに目を細くしてよろこんだが、これが人形佐七売り出しのてがら話。文化十二年乙《きのと》亥《い》の春のことである。  紅屋の後家は、その後、尼になったという。 恩愛の凧《たこ》 凧《たこ》を持った怪しい非《ひ》人《にん》   ——あいつはたしかに入れ墨者—— 「ええ、親分、あねさんも、明けましておめでとうございます。旧年中はいろいろと、おせわになりました。けちなやつでございますが、ことしもどうぞお見捨てなく、よろしくお引きまわしのほど、お願い申し上げます」 「はいはい、これはこれは、親分さんもあねさんもおそろいで。まことにけっこうなお正月だすな。日はうららかと風おだやかに、これぞ泰《たい》平《へい》のご瑞《ずい》兆《ちよう》。兄《あに》い同様、この豆六もどうぞよろしゅう、お願い申し上げまっさ」  と、まかりでましたは、おなじみのきんちゃくの辰《たつ》五《ご》郎《ろう》にうらなりの豆六、さすがにけさはよたもとばさず、神《しん》妙《みよう》にひざっ小僧をそろえると、ゆうべ夜っぴて寝ずに考えたという、とっときの御《ご》慶《けい》を、がらにもなく、しかつめらしく申し述べたが、にんまりわらってこれを受けたのは、いわずとしれた人形佐七だ。 「おお、これは辰に豆六か。いや、おめでとう。まあ、そうあらたまったあいさつをされちゃ、この佐七もいたみいるが、ことしもひとつ、みんな元気ではたらこうぜ。お粂《くめ》、おまえからもなんとか、いってやんねえな」 「あいよ、辰つぁんも、豆さんもおめでとう。こんながさつなあたしだが、まあ、なにぶんよろしくお願いしますよ」 「いや、めでたい、めでたい、去年あたりゃ、ずいぶんきわどい橋もわたったが、みんなこうして、達者に年がこせたのがなによりだ。これというのも、神仏のお加護、さあ、みんなそろって、お礼を申し上げようじゃねえか」  と、これより四人、ずらりと神だなのまえにならんで、ポンポンと柏《かしわ》手《で》をうって、去年のお礼やらことしのお願い。  ついでに筆者よりも、読者諸君にたいして永《えい》当《とう》永《えい》当《とう》のごひいきをお願いするしだいだが、さてこれがすむと、いよいよ四人そろって、お屠《と》蘇《そ》ということになる。  まことにけっこうなもので、元日の朝ばかりは、尊いも卑《いや》しいも、富《ふ》者《しや》も貧《ひん》者《じや》もない。  なんとなく気分あらたに、うちくつろいでさわやかなものだが、ましてや、この四人、きってもきれぬ親分子分のむつまじさ。  なにはなくとも、お粂の心尽くしの重《じゆう》の物《もの》かなにかで、めでたく新年のお祝いをすませると、佐七はなにをおいても、八《はつ》丁《ちよう》堀《ぼり》のだんな衆のところへ年始まわり。  また、きんちゃくの辰五郎とうらなりの豆六は、親分の名《みよう》代《だい》で、町《まち》方《かた》のお年始へとでかけたが、さて、あらかた回礼をすましたふたりが、ぶらりぶらりとやってきたのは、丸の内、桜田御門外のお濠《ほり》端《ばた》だ。 「こう、豆六、みや、豪《ごう》気《き》なものじゃねえか。いくらおめえがお国自慢でも、このありさまにゃかぶとをぬがざあなるめえよ。天下の諸《しよ》侯《こう》から旗《はた》本《もと》衆《しゆう》を、一堂にあつめてきょうのお祝《しゆう》儀《ぎ》。なんと威《い》勢《せい》のいいもんじゃねえか」  と、れいによって辰五郎は、お江戸自慢のとくいの鼻を、ヒクヒクとうごめかしはじめたが、さすが口の達者な豆六も、きょうばかりは返すことばもない。 「ほんまやなあ。たいしたもんやなあ。さすが公《く》方《ぼう》さまのおひざもとや、えらいもんやなあ」  と、はじめてみるお江戸の春に、ただもう、感嘆するばかりだ。  むりもない、そのじぶんの丸の内のお正月といえば、いやもうたいした威勢だったそうで。  まずこの朝は、いつもなら、明け六つ(六時)に打つお城太《だい》鼓《こ》を、寅《とら》の半《はん》刻《とき》(五時)より打ちはじめ、これを明け六つの鐘まで打ちつづける。  その音がお城の松から、お濠《ほり》までひびきわたって、じつにもって勇ましかったもの。  すると、ご老《ろう》中《じゆう》、若《わか》年《どし》寄《より》のご登城になる。  供《とも》の者はいずれもきざみ拍《びよう》子《し》というやつで、ハタハタと早足に歩かれる。  つづいてご登城されるのがご三家はじめ、十八松《まつ》平《だいら》のかたがた、あとにご譜《ふ》代《だい》、外《と》様《ざま》の大名諸侯が、ハオー、ハオーと、掛け声もいさましく、あとからあとからひきもきらず、ご三家はじめ三《さん》位《み》のかたがたは、衣冠で轅《ながえ》に乗っているが、その他の諸侯もきょうを晴れと、装《よそお》いをこらした供ぞろえだから、その美《び》々《び》しいこと、威勢のいいことは目をうばうばかり。  それをまた、見物しようと町人どもが、集まってくるので、丸の内いったいつめもたたぬにぎわいで。  さすが口の達者な豆六も、この豪気な初春風景には、とくいの悪口もすっかり封じられたかたちで、ただもう、えらいもんやなあ、たいしたもんやなあを連発するばかり。  そのうちに諸侯ご退出ということになるが、これがまたたいへんな混雑で。  だが、それがおわると、見物もおいおい散ってしまって、あたりはだんだん静かになる。きんちゃくの辰はべつに珍しいことでもないから、ソロソロたいくつしはじめたのか、なまあくびをかみころしながら、 「こうこう、豆六、おめえいつまで、こんなとこにがんばっている気だえ。大名衆が退出してしまえば、あとはお旗《はた》本《もと》だが、これはたいして威勢のいいもんでもねえ。いつまでこんなとこに立っていてもきりがねえから、ソロソロ出かけるとしようじゃねえか」  と、そでをひかれて豆六は、夢からさめたように目をパチクリさせながら、 「あ、これはえらいすんまへん。あんまりみごとなもんやさかい、つい夢中になってしもた。おかげで、すっかり、お屠《と》蘇《そ》の酔いがさめてしもたがな。ハークショイと。そんなら兄い、ソロソロいきまほか」  と、いきかけたふたりが、ふとかたわらをみると、いつのまにやってきたのか、お菰《こも》がふたり、お濠《ほり》端《ばた》の土手のうえの、松の根っ子にござを敷いてやすんでいる。  いや、そんなところへ、ござを敷いてすわっているから、お菰にみえたまでで、みたところ、べつにそでごいをするふぜいもないから、これもやっぱり、丸の内のにぎわいを見物にきたいなか者どうしかもしれなかったが、それにしても、かおかたちから服装まで、どうやらうさんくさいところがある。  ひとりは年ごろ四十二、三か、月《さか》代《やき》はのび、顔じゅう、くまのようなひげだらけ。  おまけに、その右ほおには、大きなやけどのあとがあろうというすごみな男だ。  目つきのすごさからいっても、ひと癖もふた癖もありそうなつら魂《だましい》。継《つ》ぎはぎだらけの着物をきているところは、非《ひ》人《にん》からおつりのきそうなかっこうだが、非人こじきとしても、こいつはただのねずみではない。  もうひとりは、これより五つ六つ年《とし》若《わか》の、これまた衣類こそそまつだが、どこか小《こ》意《い》気《き》なところのある男。ところが、ここに妙なのは、こいつがひとつの凧《たこ》を持っている。  もっとも、正月だから、凧は珍しくないかもしれぬが、場所が場所、ひとがひと、なんとなくいわくありげにみたはひが目か。  きんちゃくの辰と豆六は、なにげなくズイとそのまえを通りすぎたが、 「おい、豆六、おめえ、いまのふたりを見たか」 「ああ、見た、見た、なんやしらん、妙にすごみのある男やおまへんか」 「そうよ。おめえ気がついたかどうかしらぬが、あの年上のすごい男な。あいつはたしかに入れ墨《ずみ》者《もの》だぜ。おいらあ、いま、ちらりと通りがかりにみたんだが、右の手首に墨のはいったあとがあったぜ」 「あ、さよか。やっぱり兄いや、目がはよおまんな」 「それに、あの年下のほうだって、ただのねずみじゃねえぜ。おいらの顔をみると、きゅうに下をむきやがった。どこかで、みたような顔だとおもうんだが、どうも、おもいだせねえ」 「それにしても、あいつら、あんなところでなにしてまんねんやろ。凧を持ったりして、なんやおかしなそぶりやおまへんか」  と、さあこうなると、さすがは佐七のお仕込みだけあって、そのままいき過ぎてしまう気にはなれない。ふたりはたがいに目くばせすると、ほどよい松の木《こ》陰《かげ》へ身をかくし、じっと怪《あや》しのふたりづれのほうをうかがっている。 たもとに舞い込む舞《まい》鶴《づる》凧《だこ》   ——かごの中からみていた女——  そんなことと知るやしらずや、こちらはくだんの怪しいふたりづれだ。ござのうえにすわったまま、じっとみつめているのは桜田御門。  諸侯はすでに退出して、いましもボツボツさがってくるのは、いずれもお目《め》見《み》得《え》以上の旗本たち、なかにはかごでかえるのもある。  なかには徒《か》歩《ち》でいくのもある。  めいめいひとりふたりの供を召《め》しつれて、おもいおもいに散っていくが、そのたびに怪しのふたりづれは顔見合わせて、あれでもない、これでもないといった面《おも》持《も》ち。  と、そのとき、御門のなかからあらわれたは、年ごろ十七、八の、水のたれそうな若《わか》 侍《ざむらい》だ。前髪を落としてまだ日も浅いとみえ、そり跡《あと》のあおい月《さか》代《やき》は春がすみのようににおやかに、目もとの涼しさ、口もとのりりしさ。  それこそ、堺《さかい》町《まち》の舞台でも、なかなか見にくいほどのいい男ぶり。  それをみると、くだんの怪しいふたりづれの年若なほうが、いきなりぐいと、連れのそでをひっぱった。 「ふうむ」  と、大きくうなずいたはやけどの男。  鋭い眼光がいよいよ熱をまし、まるで食いいるように、若侍のかおかたちから、足のつまさきにいたるまで、見上げ、見おろし、まるで、なめまわすような目つきなのだ。 「こう、豆六、ちょっと見ねえ。あの目つきは、ただごとじゃねえぜ」 「けったいやなあ。兄い、ほんならあいつら、あのお侍を知ってんねんやろか」 「さあ、なんともいえねえが、いいからもうすこし様子をみていようよ。こいつなんだか、妙な雲行きになってきやアがったぜ」  と、なおも、様子をうかがっていると、そんなこととは夢にもしらぬくだんの若侍、若党と中《ちゆう》間《げん》をお供につれて、すたすたと、怪しいふたりづれのまえまできかかったが、そのときだ。  年若のほうが持っていた凧《たこ》が、にわかにさっと風にあおられ、ころころと路上をころがっていったかとおもうと、いきなり、若侍のそでにきりきりとからみついたから、さあたいへん。 「おのれ、無《ぶ》礼《れい》者《もの》」  お供の若党が、腰のものを抜く手もみせず、プッツリ凧の糸を切った。 「あ、これは、どうぞごめんくださいまし。粗《そ》忽《こつ》でございます。あやまちでございます。つい、風にあおられて……けっして意《い》趣《しゆ》あって、いたしたことではございませぬ」  若党のけんまくにおどろいた凧の男は、ござのうえに、額《ひたい》をこすりつけてあやまっている。 「いうな、いうな。これがあやまちですむとおもうか。粗忽ですむとおもいおるか。晴れのご登城のおかえりに、不《ふ》浄《じよう》の凧を投げつけられたとあっては、お供についたこの専蔵が、ご主人にたいして申しわけない。それ、松助」 「おっと、合《がつ》点《てん》だ」  と、中間も引っ込んではいない。 「みれば非人こじきのぶんざいで、よくもわれらのだいじな若殿に、けがらわしいものを投げつけやがった。おのれ、どうしてくれよう」  と、左右からかさにかかって、つかみかかろうとするのを、 「これよ、専蔵、控《ひか》えおろう。松助も待ったがよいぞ」  と、うしろから声をかけたのは、くだんの若侍。  その声のさわやかさ。りりしさ。やけどの男はピクリとまゆをふるわせると、わきめもふらずに、そのおもてを凝《ぎよう》視《し》している。 「それじゃと申して、若殿さま」 「これ、控えろと申すに。初春そうそう、愚にもつかぬ腕だてはにがにがしい。なにも風のいたずらじゃ。そこのご仁《じん》の知られたことではない」 「じゃと申して、晴れの衣《い》装《しよう》に、それ、そのようなけがらわしいものを投げつけられて……」 「専蔵、そなたはこれを、けがらわしいと申しやるか。拙《せつ》者《しや》はそうはおもわぬぞ。これみよ、この凧の紋《もん》所《どころ》、こりゃ舞いづるじゃぞ。元《がん》旦《たん》そうそう、つるがたもとに舞いこむとは、これほど、縁《えん》起《ぎ》のよいことがまたとあろうか。これ、そこなご仁」 「はっ」  と答えて、ござのうえに手をつかえた、やけどの男のおもてに、なにかしら、はげしい感動のいろがほとばしった。 「この凧はそなたのものか」 「は、さようでございます」 「みればなかなかみごとな細《さい》工《く》。べにがら骨のしなやかさ、また、この舞いづるのみごとさ。おそらく名人の作とおもうがどうじゃ」 「恐れながら、お目ちがいでございます。その凧はなかなか、そのようなりっぱなものではございませぬ。わたくしめが手なぐさみに、作ったものでございます」 「なに、そのほうが作じゃと?」 「はっ」 「それにちがいないか」 「なにゆえ、いつわりを申しましょう」 「ふうむ」  若侍は、じっと、あいての顔を凝《ぎよう》視《し》していたが、 「なにやら子《し》細《さい》ありそうな」 「え?」 「いや、なんでもない。ときに、そこのご仁、もしこの凧がそなたの作といたしたら、拙者ちと無心のすじがある」 「は、無心のすじとおっしゃいますと?」 「この凧をもらいうけたい」 「え、なんとおっしゃいます」  やけどの男はおもわずひざをすすめた。 「さればさ、せっかく拙者のふところに舞い込んだこの舞いづる、この福運をのがしとうはない。のう、所《しよ》望《もう》じゃ。なんとこの凧、拙者にゆずってはくださらぬか」 「もったいないことをおっしゃいます。ご無礼をおゆるしくださるばかりか、そのようなお手厚いおことばをいただいては、わたくしほとほと痛みいります。なんのそのようなそまつな凧、お気に召しましたら、ご随《ずい》意《い》にお持ちかえりくだされませ」 「おお、それでは譲《ゆず》ってくださるか。かたじけない。しかし、ただもらってまいるわけにはいかぬが、いかほどまいらせたらよいか」 「いえ、もうそれには及びません。あなたさまのようなおかたに、もらっていただければ凧もしあわせ、身の冥《みよう》加《が》、どうぞご遠慮なく、お持ちかえりくだされませい」 「と申して、むざむざこのまま……」 「いえ、そのご心配にはおよびませぬ。だが、もしそれでお心がすみませぬなら、金《きん》子《す》よりも、なにかあなたさまのおはだにおつけになったものをひと品、ちょうだいいたしとうございます」 「おお、さようか」  若侍はじっと、あいての顔をみつめていたが、やがて腰の印《いん》籠《ろう》をとると、それをやけどの男にあたえたから、おどろいたのはきんちゃくの辰と豆六だ。 「豆六、みや、あんちくしょう、うめえことをしやアがったぜ。えびでたいをつるとはあのことだ。どう安くみたとこで、あの印籠は五両や十両はするしろもの。それをやるやつもやるやつなら、おい、見ねえ、あいつ、平気でもらっているぜ」 「ほんまにいな。こんなことやったら、わても凧をうんと仕入れてきたらよかったなあ」  と、大坂者の豆六は、さっそくお里をだしたものだが、こちらはくだんの若侍、凧と印籠を交換すると、そのまま供をつれてかえっていく。  やけどの男はしばらく、感《かん》慨《がい》ふかげな面《おも》持《も》ちで、そのうしろ姿を見送っていたが、これまた連れの男をうながして、こそこそ、その場を立ち去った。  その様子から察すると、ふたりがさっきからそこにがんばっていたのは、どうやらあの若侍を待っていたらしい。  どう考えても怪しいこの仕《し》儀《ぎ》、きんちゃくの辰はしばらく小首をかしげていたが、やがて豆六をひきよせて、なにやらボソボソ耳にささやく。 「はあ、はあ、なるほど。そんならわてが、あのふたりづれのあとをつけていきまんのンか」 「そうよ。正月そうそう大《たい》儀《ぎ》だが、まあひとつ当たってみてくれ」 「そして、兄いは」 「おれか。おれゃ、あの若侍をつけてみる」 「よっしゃ。なあに、細工は流《りゆう》々《りゆう》や。きっと首《しゆ》尾《び》よく、あのふたりづれの身もとを洗ってお目にかけまっさ」  と、そこでわかれわかれになった辰と豆六が、めいめい尾行をはじめたところまでは上できだったが、じょうずの手から水のたとえ、ましてやあまりじょうずでもない辰五郎のことだから、そこに手抜かりがあったのはぜひもない。  その手抜かりとはほかでもない。  こうして一同が四方にちった直後のことだ。  小半町ほどはなれた土手ぎわに、さっきからおろしてあった一《いつ》挺《ちよう》の辻《つじ》駕《か》籠《ご》から、たれをひらいてブラリとあらわれた女がある。  三十五、六のうばざくらながらも、小《こ》股《また》の切れあがったいい女。これがあたりをみまわし、にっと伝《でん》法《ぽう》にわらうと、 「新さん、新さん」  と、むこうに立っている男をよんだ。呼ばれてちかづいてきたのは、まだ年若い小ばくちでもうちそうな男。 「お仙《せん》さん、どうだえ、当たりはついたかえ」 「ああ、ついたとも、ついたとも、上《じよう》首《しゆ》尾《び》だよ。それじゃおまえさん、さっきもいったとおり、あのふたりづれのほうをつけておくれ。そしてね、あたしがいったとおりするんだよ」 「おっと、合《がつ》点《てん》だ。しかし、お仙さん、おまえさんはこれからどちらへ」 「わかってるじゃないか。あたしゃ、あの若侍のほうをつけていくんだよ。さあ、大急ぎで駕籠屋を呼んでおくれ」  と、お仙はいかにもうれしげに息をはずませている。それをみると新さんという男、ちょっと気になるいろをみせ、 「お仙さん、おまえ豪《ごう》気《き》に、気をたかぶらせているが、まさかあの若侍に、変な気をおこしたんじゃあるまいね」 「バカをおいいよ。としをごらんな。親子ほどもちがうじゃないか」 「そんなことにかまったおまえさんかえ。おいらすこし心配だぜ。だって、あいては、あんなにいい男だもの」 「ほっほっほ、やきもちもいいかげんにして、ほら、早くいかないと見失っちまうよ」 「おっと、合点だ。じゃ、ついでに駕籠屋を呼んでくる」  と、新さんが立ち去るといれちがいに、やってきたのはふたりの駕籠屋。それをいそがせ、お仙という奇怪な女も若侍のあとをつけだした。 お礼のお酒の中に毒   ——やけどの男は風をくらって——  そんなこととはもとよりしらぬ、こちらはうらなりの豆六だ。  根気よく怪しのふたりづれをつけて、やってきたのは鮫《さめ》ガ橋《はし》の裏長屋。  その長屋の一軒へふたりがずいとはいったから、しめたと心にうなずいたのは豆六だ。  みまわすと、さいわい、かどののり屋のまえに、梅干しばばあが立ってお天気をみている。  豆六はそのほうへちかづき、 「ちょっとお尋《たず》ねいたしますが、この路《ろ》地《じ》の突きあたりは、たしか源助さんのお宅やったとおもいますが、ちがいまっか」  と、でたらめの名でかまをかけてみる。豆六もちかごろではなかなかどうして、探《たん》索《さく》にも腕があがった。はたして、ばあさんはふかくも怪しまず、 「源助さん? ちがいますよ。あすこは介《すけ》十《じゆう》郎《ろう》さんのお宅だあね」 「おや、さよか。こうっと、介十郎さんちゅうたら、そやそや、あの顔にやけどのあるおひとやおまへんか」 「またちがったよ。そのひとなら、ちかごろ介十郎さんとこへ身を寄せているお客《きやく》人《じん》でさあね。介十郎さんというのは、もっと小《こ》意《い》気《き》なひとですよ。なに商売するひとかしらないけどね」 「ああ、さよか。へえ、おおきに」  あまりくどく尋ねて、怪しまれてもつまらないと、いいかげんにお茶をにごした豆六は、そのままばあさんと別れたが、これだけでもどうやら来ただけのかいはあった。  まずだいいちに、あの若いほうは介十郎といい、そして、顔にやけどのある男は、ちかごろそこへ身を寄せている寄食《かかり》人《うど》——と、これだけのことを頭にとめると、さて、これからどうしたものだろう。  もっと様子を見ていたものだろうか、それとも、ここらが切り上げどきかと、とつおいつ思案しているところへ、むこうから急ぎあしにやってきた男とバッタリ会った。 「もし、ちょっとお尋ねいたします。このへんに、顔にひどいやけどのあるかたが、お住まいのはずですが、どちらかご存じありませんか」  と、そう尋ねたのは、さっきの新さんという男だが、豆六はむろん知らない。  みると、新さん、どこで調達してきたのか、酒だるをさげているのである。 「へえ、そのおかたやったら、この路地の突きあたりだす」 「おや、そうですか。これはどうもありがとう」  おじぎをしていく新さんのうしろすがたを見送って、豆六ははてなと首をかしげた。  どうもおかしい。  あの男、いったい何者だろう。なんとなく気にかかる。  そこで、くるりと足をかえした豆六は、みえがくれにその男のあとをつけると、突きあたりから二、三軒てまえの家の軒《のき》下《した》にピタリとこうもりのようにすいついた。そんなこととは気づかぬ新さん。おしえられた家のまえに立ち、 「ちょっとお尋ねいたします」  とおとなうと、おおと答えて顔を出したのは、凧《たこ》をとばした介十郎だ。 「おお、やっぱりあなただ。よかった、よかった。見失ったかとおもって、どんなに心配したかしれやしません」  と、汗をふいている新さんの顔をみて、介十郎はふしぎそうに、 「そういうおまえさんは、いったいだれだえ。どこから来なすった」 「へえへえ。わたくしはさるお侍に頼まれましたので。そのかたのおっしゃるには、なんでもさっき凧をいただいたお礼に、この酒を差し上げてくれと、こういうわけで、わたくしは桜田御門のそばから、あなたさまのあとをつけてまいったのでございます」  これをきいて、はてなと小首をかしげたのは、介十郎のみならず、豆六もなんとなくふにおちなかった。 「いかにも凧を差し上げたのはあっしだが、お礼はあのときちょうだいした。なにもその酒をいただくすじはねえが」 「いえもう、わたくしはただ使いのものゆえ、詳《くわ》しいことは存じません。それでは、たしかにお酒はここへおきますから、どうぞお納めなすってくださいまし」  と、新さんという男、上がりがまちに酒をおくと、あたふたと逃げるように立ち去ったが、その目つきが尋《じん》常《じよう》でないから、豆六はいよいよ心に怪しさがきざしてくる。  ひとつあいつをつけてやろうか、いや、待て、もうすこし様子をみていようと、ソロソロ軒下からはいだすと、こんどは介十郎宅の裏口へまわってきき耳立てる。  そんなこととは知らず、家のなかでは、 「兄い、さっきのお侍から、酒をとどけてきたが、おめえ飲むかえ」  と、こういっているのは、介十郎らしい。 「いや、せっかくだがおれはよそう。おれは生《しよう》涯《がい》酒は断《た》っているんだから、おめえ遠慮なく飲むがよかろう」 「そうかえ。じゃひとつごちそうになろうか」  と、それからごとごと茶わんを出す音。  あとはしばらく無言で、どうやら介十郎ひとり茶わん酒をあおっているようすに、豆六もつまらなくなり、ここらでひとつ引きあげようかと、裏口を離れかけたときである。  だしぬけに、家のなかから、どすんばたんという物音、つづいてウームと苦しげなうめき声。  はっとした豆六がおもわず息をつめて聞いていると、 「おっ、ど、どうした、介。うわっ、こ、こりゃ血……」  と、のけぞるような声で、 「介、しっかりしろ、やい、気をたしかに持ってくれ。そ、それじゃいまの酒のなかに毒」  はっとおどろいた豆六が、急いでなかへとび込もうとしたひょうしに、どぶ板を踏みぬいたからたまらない。  がらがらどすんと、ものすごい音をたててひっくりかえった。  それをきくと、家のなかではにわかにしいんと鳴りを静めたが、やがてだれやらバタバタと表のほうへ逃げていく様子。豆六がやっとどぶからはいあがって、裏口からとびこんだときには、やけどの男は影もかたちもなく、家のなかには介十郎が、血へどを吐いて、はや冷たくなりかけていた。 島抜けの吉五郎   ——首筋に権現さまの彫り物—— 「おお、それじゃなにかえ。その酒をもってきた男てえのが、たしかに桜田御門外のお侍《さむらい》に頼まれて、その酒を持ってきたといったんだな」 「へえ、さいだす、さいだす。たしかにこの耳で聞きましたさかいに、まちがいはおまへん」 「ふむ」  と、腕こまぬいた人形佐七だ。  あれから小《こ》半《はん》刻《とき》ほどのちのこと、宙をとんでかえってきた豆六の口から、一部始終の話をきいた佐七は、なにかおもいあたる節もありげに、美しいまゆをひそめて考えこんでいる。 「それじゃ、なんだな。そのお侍のほうは、辰《たつ》のやつがつけていったというんだな」 「へえ、さよで。兄《あに》い、なにしてんねんやろな。もうソロソロかえるじぶんやが。それにしても、親分、鮫《さめ》ガ橋《はし》へはいかいでもよろしのんかいな」 「まあ、よそう、介十郎というやつの息の根が絶えてしまっちゃ、いまさらじたばたしてもはじまらねえ。あとは自身番のおやじが、なんとか始末をつけてくれるだろうよ」 「しかし、あのやけどの男は?」 「それよ、豆六、じつはその男についちゃ、おれにいささか心当たりがあるのよ。しかし、その話は、辰の野郎がかえってきてからすることにしようよ」  いっているところへ、ふらりとかえってきたのは辰五郎。  このほうは、まさかこんな大事件になっているとはしらぬから、鼻歌まじりにしごくのんきに構えていたが、佐七の口から、豆六の話をきかされると、すっかり肝《きも》をつぶして、 「え、なんだって? それじゃあのお侍が毒酒で人をあやめたって? ぶるる、めっそうな。あのおかたにかぎって、そんなべらぼうなことがあってたまるもんですか」  と、のっけからたいした意気込みだ。 「辰、おめえいやにその侍の肩をもつようだが、してして、あいてはどういうご仁《じん》だえ」 「へえ、それがでさ。まあ聞いておくんなさいよ。豆六に別れて、あれからずっと若侍のあとをつけたとおおもいなせえ。すると、若侍がはいったのは、麻《あざ》布《ぶ》三《み》河《かわ》台《だい》の田宮さまというお屋敷でさ。そこで近所できいてみると、そのお侍は田宮さまのご嫡《ちやく》男《なん》で縫《ぬい》之《の》助《すけ》さまとおっしゃるんで、年は十八だが、これがもう武芸十八番は申すにおよばず、学問のほうもたいしたもんだそうで。それでいて、すこしもいばったところはなく、だいいち、ただひとりの母には孝行、しもじもにはやさしく、それはそれはけっこうな若殿とやらで、近所でも田宮さまの若殿といやア娘っ子の目のいろが変わるという騒ぎ。昨年、先殿さまがおなくなりあそばしてからは、すぐ跡《あと》目《め》相続して、なんでも近く、大《おお》目《め》付《つけ》跡《あと》部《べ》下《しも》総《うさの》守《かみ》さまのお嬢《じよう》さまと、ご婚礼なさるというはなしでございますぜ」 「ふうむ。たいした能書きだな」 「そうですとも、だから、そんなけっこうな若殿が、毒酒で人を殺そうなんて、おおべらぼうな話があるもんですかい。豆六なんかのいうことを、いちいち取りあげてちゃお話になりませんや」 「おや、えらいけったいなことをいやはりまんな。わてはただ、聞いたことをありのまんまにお話ししただけだっせ。へん、くそおもしろくもない」 「だからよ、てめえの耳は腐《くさ》っているんだ」 「こら、おもろい、わての耳が腐っているか、腐ってえへんか、そんならここで調べてもらお」 「これこれ、よさねえか。新年そうそうみっともねえ。それより、辰、豆六もききねえ。おらあじつは、やけどの男というのに、心当たりがあるんだ」 「そう、そう、その話きかしてもらおとおもてたとこや。いったい、あれは何者だす」 「まあ、聞きねえ。きょう八《はつ》丁《ちよう》堀《ぼり》の神《かん》崎《ざき》のだんなへお伺いしたとおもいねえ。すると、だんなのおっしゃるにゃ、新年そうそう大《たい》儀《ぎ》だが、ひとつ大物があるというお話だ。聞いてみると、去年の暮れ、佐渡を破った島抜けの重罪人が、江戸へはいりこんだらしいから、できるだけはやくあげろというご命令よ」 「へえ、なるほど」 「さて、その島抜けだが、これが権《ごん》現《げん》の吉五郎という、そのむかし江戸で鳴らした大悪党だそうだ。なんでも、音《おと》羽《わ》のこのしろ親分のわけえじぶんに、御用になって、すでに首になるところを、そいつめ、りこうなやつじゃねえか。首筋に東照大権現という入れ墨《ずみ》をしてやアがる。これには役人もおどろいたそうだ。いかにあいてが悪人でも、権現さまのお名まえに刃《やいば》はあてられねえ。それでやむなく、死一等を減じて、島送りということにしたのだそうよ」 「なある。東照大権現といやア、公《く》方《ぼう》さまのご先祖だ。こいつは理屈だ。うめえことを考えやアがったもんだな」 「まあ、そうよ。そこで、佐渡の金《きん》山《ざん》へ送られたが、それが十六、七年まえのこと、なにしろふるい話だ。爾《じ》来《らい》、吉五郎のやつ、仲間の手本といわれるまで、神妙につとめていたそうだが、それが去年の秋に島を抜けだしやアがった。ところが、その吉五郎のむかしの仲間に、介《すけ》十《じゆう》郎《ろう》という男がある」 「あ、なある!」 「介十郎というなあ、小悪党でたいしたこともしでかさねえから、まあ墨《すみ》がはいったぐらいで許されているんだが、吉五郎がかえってきたら、きっとその男のもとに身を寄せるにちがいねえから、大急ぎで、介十郎の居どころを捜《さが》してみろ、と、こうまあ神崎さまのお話よ。それからもうひとつおもしろい話がある」 「へえ」 「この吉五郎というなあ、もとはご家《け》人《にん》くずれの、いい男だったそうだが、そいつにひとつの名人芸がある。凧《たこ》を作らせたら、万人およぶものがねえという話よ」  あっとばかりに、辰と豆六はおどろいた。 「それじゃもうちがいはねえ。親分、やけどの男というのが、たしかにその吉五郎にちがいございません」 「それやったら、あんた、捕えるのにぞうさおまへん。あのやけどがなによりの目印や」 「うっぷ、だからてめえたちはあきめくらよ。やけどなんて世を忍ぶ仮の名、いつまでそんな目印をつけているもんか。いまごろは絵の具を落として、いい男になっていらあな」 「あ、さよか」 「ざまあみやがれ。しかし、親分え。その吉五郎と田宮の若殿とのあいだにゃ、いってえどういう関係があるんでしょうねえ」 「さあ、そこまではわからねえが、そんな悪党のことだから、なにかまたたくらんでいるにちがいねえ。しかし、そこがこっちのつけめだ。ただぼんやりと捜《さが》していたんじゃ、あいてもはしっこいからなかなかほねだが、そういうめぼしがついているならもっけのさいわい、辰、豆六もよく聞け。これからゆだんなく、田宮のお屋敷を見張っているんだぜ」 若殿は押し込め隠居   ——金づかいのあらいご後室さま——  なるほど、佐七が予言したとおり、江戸じゅうの岡《おか》っ引《ぴ》きが血《ち》眼《まなこ》になって捜しているにもかかわらず、権現の吉五郎は、なかなかつかまらない。  八丁堀でもいささかあせりぎみで、佐七にもたびたびの催《さい》促《そく》だが、佐七はいっこうそのほうに取りかかろうとはしないで、毎日張りこんでいるのは麻《あざ》布《ぶ》三河台付近。  なにしろ、あいてがかりにも直《じき》参《さん》のお旗《はた》本《もと》だから、じかにのりこむわけにはいかぬ。  くつをへだててかゆきをかくおもいはあっても、外部から様子を探《さぐ》るよりほかに、手はなかった。  こうして十日たち、二十日たち、やがて正月も残りすくなくなったが、と、ある日。  三河台にある駿《する》河《が》屋《や》という居酒屋へ、ぶらりとはいってきた男がある。亭《てい》主《しゆ》はその顔をみると、 「おや専蔵さんじゃありませんか。お珍しい。久しくおみかぎりでしたねえ。なにかお屋敷に変わったことでもありましたかえ」 「そうよ、変わったといえば、変わったことだらけだ。とっつぁん、まあ、ひとつ熱くしてくれ」  はいってきたのは、いうまでもなく、田宮の若党専蔵だ。 「へえ、おまえさんのそういうところをみると、よっぽど変わったことがあったとみえますね」 「そうよ、それもこれも、若殿がつまらねえ凧《たこ》なんか持ってかえるからよ」 「凧?」 「そうよ、ほら、いつかもとっつぁんに話したじゃないか。ことしの元日に、ほら、あれよ」 「ああ、あのことですかえ」 「なんでも、若殿は三つか四つじぶんに、あれとおなじような凧を持って、遊んだことがおありなんだそうだ。それでついなつかしく、譲《ゆず》りうけておかえりになったということだが、そのあとがたいへんよ。屋敷へかえってご後《こう》室《しつ》さまにそれをおみせすると、どうしたわけか、これがたいしたご立腹でね」 「へえ。あのやさしいご後室さまが?」 「そうよ、おかげでこちとらまでとばっちりを受けて、とんだ災難さ。それだけならまだいいのだが、そのあとが妙なのさ。翌日から若殿の縫《ぬい》之《の》助《すけ》さま、ご病気と称してひと間から一歩も出ねえ。ところが、それがほんとのご病気かとおもうとさにあらず、女中の話によると、ピンピンしていらっしゃるんだが、ご後室さまの命令で、外へお出にならねえんだそうだ。まるで押し込め隠《いん》居《きよ》というかっこうよ。なにしろ、ああいう気《き》性《しよう》のやさしい、親孝行なかただから、ひとこともおさからいにならずに、じっとしんぼうしていなさるんだが、考えてみればわかい身ぞらにむざんな話よ」 「ごもっともで」 「ところが、おかしいのはまだそれだけじゃねえ。ちかごろ、ご後室さまが、とても金づかいが荒くおなりあそばした」 「それは妙ですねえ。近ごろは、ちょっとも、外へお出ましにならぬと聞いておりますが」 「だからおかしいのよ。金の出し入れは万事ご用《よう》人《にん》が取りしきってるんだが、その話によると、三日にあげず、五両、十両とおせびりになる。外へ出るでもなく、まただれが来るというでもないのに、どこへ消えていくんだろう。まさか埋めておしまいになるわけじゃあるまいにと、ご用人の青《あお》息《いき》吐《と》息《いき》。いや、世のなかにゃ妙なこともあればあるものよ」  と、酒にまかせて問わず語り、べらべらしゃべる話をきいて、ズイと奥から出てきた三人づれがある。専蔵はおどろいて口にふたをしたが、あとの祭りだ。  その姿をジロリとみて、三人づれは表へ出ると、 「辰、豆六、いまの話を聞いたかえ。こりゃどうでも、今晩は寝ずの番よ」 「え、それじゃ親分」 「わかってるじゃねえか。金が消えてなくなるのは、ひとめをさけてよる夜中、取りにくるやつがあるにきまっている」 「そいつが、もしや、権《ごん》現《げん》の吉五郎やおまへんか」 「おおかた、そんなところだろう。ご後室さまというのも、とんだたぬきだ。そのむかし、吉五郎のやつになにか、しっぽを押えられているにちがいねえ。だから、あの凧をみておどろいたのだ。てっきり吉五郎が島を抜けて、かえってきたにちがいないと、青くなっているところへ、吉五郎がやってくる。むかしの傷をえさにゆすられる。よんどころなく、五両、十両と渡しているにちがいねえ」  と、佐七の推定はうがっていたが、こんどばかりはまちがった。  人形佐七も正月そうそう、とんだ黒星をちょうだいしたものだが、これもまたいたしかたのない話。 ご後室情けの死に水   ——たまにゃしくじるのもいいのよ——  その夜ふけ。  三《み》河《かわ》台《だい》の田宮屋敷の塀《へい》外《そと》へ、あとさきみまわし、すたすたと、近づいてきたふたりづれの影がある。  どちらも黒いずきんをかぶっているが、まぎれもなくひとりは女。 「新さん」  と、女は声をひそめて、 「それじゃおまえさん、ここで待っておいでな。あたしゃちょっとなかへはいって、またお金を掘ってくるからさ」  と、そういう声はまぎれもなく、このあいだのかごの女だ。  名まえはたしかお仙《せん》といった。 「あいよ。だけど、あまり待たしちゃいやだよ。この寒空にいつまでも待っているのはまっぴらだ」 「ぜいたくおいいでないよ。あたしがこれほど苦労して、お金のくめんしてやるのにさ」 「苦労だか、お楽しみだか、へん、わかったものじゃありゃしない。なかにゃ業《なり》平《ひら》のようないい男の若殿がいらっしゃるんだから」 「また、それをいう。あたしがお金をせびるのはご後室さまだと、あれほど念を押してあるじゃないか。おまえもうたぐりぶかいねえ」 「それがおかしいのさ。ご後室さまがなんの因《いん》縁《ねん》で、おまえみたいな人間に、金をみつがねばならないのか、それがわたしにゃのみこめない。おまえもハッキリいえばよいじゃないか」 「まあ、いいから待っておいでよ。こんないい金のつるはないんだもの」  と、お仙が木戸を押すと、なんなくひらく。  そのままお仙はなかへ消えたが、あとには新さんというわかい男が、つまらなそうに、足でのの字を書いている。  と、そのときだ。  ばらばらとやみのなかから近づいてきた黒い影が、いきなり新さんという男を、がっきりうしろから抱きしめたかとおもうと、あっという間もない。  さか手にもった短刀で、力まかせに胸をえぐったからたまらない。  新さんはうわっとひと声、虚《こ》空《くう》をつかんで悶《もん》絶《ぜつ》する。  と、間髪を入れず、 「権《ごん》現《げん》の吉五郎、御用だ!」  という叫び。  しかも、意外なところから降ってきた。あっとぎょうてんしたくせ者が、上をあおぐと、田宮の屋敷からせりだしている松の幹に三人の男のすがた。 「しまった!」  と叫んだくせ者は、ひらりと身をひるがえすと、いまお仙の消えた塀のなかへまっしぐらに駆けこんだが、その直後、松の幹からとびおりたのは、いうまでもなく人形佐七に、きんちゃくの辰《たつ》とうらなりの豆六の三人。  豆六は、殺された男の顔をみると、 「あ、親分、こいつや、こいつや、あの毒酒を持ってきよったのは」 「ふうむ」  と、佐七は夢からさめたようなかおをした。 「辰、豆六、面《めん》目《ぼく》ねえが、こんどこそおれもかぶとを脱《ぬ》いだぜ。いまの女の話をきけば、金をゆすっていたのは吉五郎じゃねえらしい。それにしても、このお屋敷、こいつがお旗《はた》本《もと》の屋敷でなかったら、踏みこんで、男も女もふんじばるんだが」  と、じだんだを踏むようにして、木戸をにらんでいるおりから、ばたばたと乱れた足音がちかづくと、 「お仙、覚悟!」 「あれえ、吉つぁん、待ってえ、あれえ、あっ!」  叫び声とともに、あけに染まったお仙のからだが、がっくり、のめるように木戸のなかからころがり出た。みると、背中から乳ぶさへかけて、もののみごとにえぐられている。 「おのれ、吉五郎、御用だ、神妙にしろ」  佐七が叫ぶと、 「親分、お手向かいはいたしません。これで島を抜けだしたかいはありました。ごめん」  木戸のなかからつづいてよろよろとよろめき出たのは、みごとに腹かっさばいた権現の吉五郎。なるほど、やけどの跡《あと》もなく、月《さか》代《やき》をそり、ひげを落としたその顔は、年こそよったれ、にがみ走ったいい男だ。 「親分、親分、このお屋敷にゃなんのかかわりもございません。どうぞ、どうぞお騒がせした罪、おまえさんからもよくおわびをしてくださいまし」  それだけいうと、吉五郎はお仙のうえに折り重なって、倒れたのである。 「と、いうわけで、こんどこそはこの佐七も、すっかり当てがはずれたばかりか、とんときつねにつままれたような感じでございます」  と、にが笑いをしたのは人形佐七だ。  ここは佐七が親ともたのむ、音羽のこのしろ吉《きち》兵《べ》衛《え》の家、みすみす吉五郎を殺した面目なさ、そのあいさつにきたのである。  吉兵衛はにんまり笑いながら、 「はっはっは、これもなにかの縁だな。あの権現の吉五郎というやつ、かつては、おれの手で島へ送られ、こんどはおめえの手にかかって自害する。世のなかは広いようでも狭いもんだな」  と、福々しいほおに、感慨深いいろをきざんだ。 「それにしても、わからねえのは田宮のご後室だ。どういうわけで、あのお仙という女にゆすられてたんでしょうね」 「佐七、おめえ、それがわからねえのか」 「へえ。すると、親分にはおわかりで?」 「そうさ、おめえにわからねえのもむりはねえな。むかしのことを知らねえのだから。佐七、吉五郎とお仙はむかし夫婦だったのよ」 「へえ、そりゃあらかた察していますが」 「あのお仙という女は、人魚を食ったみたいにいつまでも若いが、あれが希《き》代《だい》の毒婦での。吉五郎が道を踏み迷ったのも、あの女のためだ。ところで、吉五郎が御用になったとき、ふたりのあいだに子どもがひとりあったはずなんだ」 「へえ?」 「その子どもを、吉五郎がどう処分したのか、おれも知らず、お仙も知らぬ。いよいよ吉五郎が島送りになるという日、お仙が会いにきてな。子どもはどうしたと、気違いみてえに責《せ》めたてたものよ。おれはそのとき、吉五郎の答えたことばをいまでもハッキリおもいだすことができる。おめえのような女にゃ、子どもをまかしておくことはできねえ。介十郎のやつに頼んで、子どもはさるお屋敷のまえに捨てさせた。おれが心をこめて作った凧《たこ》のうえに、そうっとのっけて。——とな、吉五郎はそういったのよ。わかったか」 「あっ。それじゃ、あの縫之助さまは……」 「これ、大きな声でいうものじゃねえ。人間は氏《うじ》より育ちだ。あんなりっぱな若殿になっているのをみて、吉五郎はさぞ満足だったろう。それをみたいばっかりに、島を破ったかとおもうと、やっぱり親だなあ、涙がこぼれる」 「わかりました。わかりました。それで、あの晩、騒ぎを聞きつけて起きていらしたご後室さまは、お仙と吉五郎の姿をみると、すぐ若殿を呼びおこして、死に水をとらせておやりなさいましたが、ありゃそれとなく、親子の別れをおさせなすったのですねえ」 「ふむ、よくできたひとだそうだからの。それにしても、憎いのはお仙だ。わが子の居どころを捜《さが》してわからず、そこで吉五郎の島破りをきくと、以来介十郎に目をつけていたんだろうが、桜田御門の一件から、はじめてわが子のありかを知ると、その出世をよろこぶどころか、それを種に金をゆすったばかりか、じゃまになる吉五郎を毒殺しようとさえしたのだ。わるい女よ」 「それがあるから、吉五郎も島にいられなかったのかもしれませんねえ。わが子のために、わるい女親をかたづける。わが子が大《おお》目《め》付《つけ》下《しも》総《うさの》守《かみ》さまの娘ごと縁談がきまったと聞き、どうでもそのまえにお仙を殺すつもりで、それもひとつの目的だったかもしれません。いや、いい話です。これじゃあっしも、しくじったのがいっそうれしいくらいですよ」  佐七はしみじみとした調子でいった。吉兵衛もおだやかにわらって、 「たまにはしくじるのもいいのよ。いつもてがらばかりたてていると、ひとに憎まれる。まあ、のんびりとやるんだなあ」  日当たりのいい縁側には、うぐいすがいい声でさえずって、どうやら江戸も春めいてきた。 浮世絵師 猫《びよう》 々《びよう》 亭《てい》独《どく》眼《がん》斎《さい》   ——上方からくだってきた浮世絵師——  上野山下に軒《のき》をならべた見《み》世《せ》物《もの》小屋。そのなかでも、ちかごろとくに人気をあつめている女役者、市川鶴《かく》寿《じゆ》の小屋のまえで、どくどくしい絵看板をながめている奇妙なふうていの男があった。  もう秋もたけた十月二十日、筑《つく》波《ば》おろしが身にしむころだが、お天気のよいせいか、山下の盛り場はかなりの人出をみせている。  市川鶴寿の小屋のまえには、 「市川鶴寿さんへ」  とか、 「市川鶴《つる》代《よ》さんへ」  とか染めぬいたのぼりが五、六本、いきおいよく風にはためいているが、よくみると座がしらの鶴寿ののぼりはただ一本、あとはぜんぶ鶴代ののぼりであるところをみると、鶴代というのが一座の花形らしい。  いまこの小屋のまえに立っている奇妙な人物というのは、としのころは五十前後、青い頭《ず》巾《きん》を頭にかぶり、独《こ》楽《ま》散《ち》らしのはでな着物に、縞《しま》の裁《たつ》着《つけ》、おなじく派手な甚《じん》平《べい》をきていて、からだはおそろしくねこ背である。  顔をみると、ふとい鉄ぶちの眼鏡《 め が ね》のしたで、左の目がつぶれている。  鼻はおしつぶしたように平ぺったくて、それにおそろしく反《そ》っ歯である。  それでいて、講釈に出てくる水《み》戸《と》の黄《こう》門《もん》さんみたいに、白いひげをはやしているのがこっけいである。  奇妙なねこ背の老人は、しばらく絵看板をみていたが、やがて、ノロリノロリと小屋をまわって、うらがわの楽屋口のまえに立った。  楽屋口といっても葭《よし》簀《ず》掛《が》けの小屋のことだから、通路にいちまいむしろが垂れているだけ。  ねこ背の老人は、その垂れをまくりあげると、薄《うす》暗《ぐら》い小屋のなかへ顔をのぞけて、 「ごめんよ、だれかいないか」  と、妙に鼻にかかった声である。  しかし、舞台ではいま立ちまわりの場面らしく、はげしいツケの音にまぎれて聞こえないのか、小屋のなかから返事はなかった。 「ごめんよ、だれかいないかい。返事がなかったらはいっていくよ」  と、一歩なかへ足を踏みいれたとき、 「だれだえ、そこへはいってきたのは……?」  丸太組みのうえの板の間から顔をのぞけたのは、この一座の頭《とう》取《どり》だろう。  二十五、六ののっぺりとしたやさ男だったが、うえとしたとで顔と顔があったそのとたん、頭取はおもわず色をうしなった。  ことほどさように、そのねこ背の老人というのが、薄《うす》気《き》味《み》わるかったのである。 「だ、だれだえ、おまえさんは……?」  と、男は総《そう》毛《け》立《だ》つような声である。  この男は米《よね》三《さぶ》郎《ろう》といって、座がしら市川鶴寿の亭《てい》主《しゆ》というより、若きつばめといったほうがあたっている。  同時に頭取もやっているのである。 「ああ、わしかな。このわしはな、猫《びよう》 々《びよう》 亭《てい》独《どく》眼《がん》斎《さい》というてな、ちかごろ上《かみ》方《がた》からくだってきたばかりの浮《うき》世《よ》絵《え》師《し》じゃがな」 「へえへえ、その独眼斎先生がなにかご用で……?」 「さいな、この一座の花形役者、市川鶴代という娘《こ》に、ちょっくら会わせてもらいたいのじゃが」 「いえ、そりゃいけませんよ。この一座じゃ、芝《しば》居《い》の幕があいているあいだは、だれも役者に会わさないことになってるんで……」 「まあ、そう邪《じや》慳《けん》なことをいわずにな。頼むけんさ。これはほんの些《さ》少《しよう》だが……」  鼻紙につつんだものをてばやくあいてに握らせると、効果はてきめん。米三郎は破顔一笑、にわかにペコペコ頭をさげると、 「これはこれは恐れいります。鶴代ちゃんならちょうど役があがって、いま楽屋で休息しているところで。さあさあ、こちらにおあがりなすって」  と、しりのきれた草《ぞう》履《り》をそろえてだす現金さ。  地面から七段ほどのそまつな階段がついており、そのうえが楽屋というより舞台裏。  むろん、こういう芝居に大道具などあろうはずはなく、背景の幕のまえにちょっとした飾りつけをしただけで、そこで芝居が演じられるのだが、いま猫々亭独眼斎という浮世絵師が顔をだした楽屋というのは、その背景の幕のうらがわである。  そこには薄《うす》縁《べり》がしいてあり、もあいで使う塗りのはげた鏡台がふたつ三つ、衣《い》装《しよう》小道具のさんじらかしになったなかに、出をまつ女役者がふたり、差し入れかなんかのすしをつまんでいる。  その楽屋のかたすみに、しょざいなさそうな、ころび寝の手まくらで、ぷかりぷかりと、鶴寿かだれかの長ギセルをくゆらしているのは、このへんいったいの用心棒、諸《もろ》口《ぐち》数馬という浪人者。  としのころは三十前後、骨《ほね》太《ぶと》の肉付きもゆたかで、いつも無《ぶ》精《しよう》ひげをはやしてにやにやしているが、いかさま、ひと癖もふた癖もありそうな面《つら》 魂《だましい》。 「ああ、ちょっと、鶴代ちゃん。こちら、猫々亭独眼斎先生とおっしゃって、上方くだりの絵かきさんだそうなが、なにかおまえさんにご用がおありだとか……」  米三郎のあいさつに、そのほうへ目をやった一同は、おもわずギョッと顔見合わせた。  諸口数馬もニョッキリと手まくらからかま首をもちあげてこちらをみる。 「あら、まあ、わたしにご用とは……?」  さすがに一座の花形だけあって、鶴代ははしたなく差し入れのすしなどつまむようなまねはしない。  鏡台のまえでおしろいを落としていたが、鏡のなかで猫々亭の顔をみると、おもわずゾーッと、おそわれたように肩をすぼめた。  としのころは二十か一、二、おしろいやけこそしているが、まず極《ごく》上《じよう》のべっぴんでとおる器量。そこにとぐろをまいているほかの役者にくらべると、掃《は》きだめにつるというか、鶏《けい》群《ぐん》の一《いつ》鶴《かく》というところだろう。 「さいな。わしはちかごろ上方からくだってきたばかりの浮世絵師じゃけんど、こんどこのお江戸で、ひと旗あげようと思うてな」 「はあ、はあ、それで……」 「それには、なにかすばらしい絵をかいて、世間にパッと売り出さにゃならん。それについて、絵の手本になるようなべっぴんをさがして歩いていたんじゃけんど、さすがにひろいこのお江戸にも、これはと思うべっぴんはおらんもんじゃ。なあ、頭取さん」  だしぬけに声をかけられて、座がしらの若きつばめ米三郎はヘドモドしながら、 「そ、そりゃ京大坂にゃべっぴんが掃いて捨てるほどいるでしょうからね」 「それよ、上方で飽《あ》きるほどべっぴんを見てきたこの目には、江戸の女は土臭うてどもならんがな。わしもがっかりしたやさき、ふと目についたのが、鶴代ちゃん、おまえさんの器量じゃ。これぞ弁天さんの再来かと、わしゃ見物席からおまえさんの姿を伏しおがんだぞな」 「あれ、まあ、仰《ぎよう》山《さん》な」 「いや、ほんまのことじゃがな。おまえさんこそ鶏群の一鶴、掃きだめのつるじゃ」 「おいおい、とっつぁん」  と、そのときむこうから声をかけたのは、まだ寝ころんだままの諸口数馬だ。 「おまえ、鶴代をほめるのはいいが、ちょうしにのって鶏群の一鶴だの、掃きだめのつるだのといってると、ほかの連中にひっかかれるぜ。なあ、桃蔵」  と、数馬に声をかけられたのは、鶴代とおなじとしかっこうだが、鼻筋がうらへとおったというご器量、一座では三枚目どころらしい。 「うっふっふ。どうせわたしたちはニワトリよ。そうすると、この楽屋は、さしずめ掃きだめというところかしら。ねえ、寿《す》恵《え》次《じ》さん」  と、そばにいる、これはまたいやにツーンととりすました二十五、六の年《とし》増《ま》に声をかければ、 「掃きだめなら掃きだめでいいじゃアないか。ニワトリならニワトリになっていようよ。こういう掃きだめのニワトリがいなければ、いかにお鶴ちゃんが人気者でも、ひとりで芝居はできないんだからね」  と、にくにくしげにいいはなち、猫々亭をにらんだ目には険がある。  さしずめ、寿恵次は敵《かたき》役《やく》とうかがわれた。  ここにおいて、あたりがちょっとしらけかけたので、猫々亭はあわてたように、 「まあ、まあ、まあ」  と、両手で一座を制しながら、 「わしゃそういうつもりでいうたんじゃないぞな。ほんに口がすべっただけじゃ。悪かったらあやまるほどに、どうぞかんにんしてくだされや」  と、その場に手をつき、頭をさげると、 「ときに、鶴代ちゃん、さっきの話じゃけんどな。わしゃおまえをお手本にして、絵をかきたいんじゃよ。その絵でパッと売り出して、花のお江戸でひと花咲かせてみたいんじゃ。謝礼はたんまりするほどに、ひとつ、お手本になってくださらんか」 「それは、こととしだいによっては、お手本になってもよろしゅうございますけれど……」  鶴代もそれよりほかに返事のしようがない。  猫々亭はたちまち満面笑《え》みくずれ、 「そうか、そうか、それじゃきいてくださるか。やれ、まあ、ありがたや」 「あれ、まあ、まだはっきりとは……」 「いや、はっきりもへちまもありゃアせん。それではもう少しこまかい約束を……」  と、猫々亭がひとひざまえへゆすりだしたとき、舞台ではまた立ちまわりがはじまったらしく、はげしいツケの音で話もできない。 「ええ、もう、うるさい……というたら頭取さんはじめみなさんにしかられよもしらんが、これでは落ちついてはなしもできん。鶴代ちゃん」  と、猫々亭ははや中《ちゆう》腰《ごし》になり、 「ちょっとそこまで顔をかしてくださらんか。一杯飲みながら、こまかい約束をきめよじゃないか。なんなら手金をわたしてもええが……」  と、ふところから取り出したずっしり重みのありそうな縞《しま》の財《さい》布《ふ》をみせつけられ、一同の目が思わずキラリと怪《あや》しく光った。  鶴代もなんとなく心がうごいたところへ、 「こりゃア鶴代ちゃん、ここはいちばんお師匠さんに、ぜひともかいておもらいなさいまし。おまえさんの絵が、パッと売り出してごろうじろ、この一座の人気にもなるというものさ。どこかそこまでお師匠さんのお供をしておいでなさいましよ」  金がいわすか米三郎がお追《つい》従《しよう》たらたらそそのかせば、はじめはちょっと気《き》後《おく》れしていた鶴代も、とうとうその気になったかして、それではということになり、猫々亭といっしょに出ていった。  あとでは寿恵次があざわらうように、 「お鶴ちゃんもあれでそうとう欲の皮がつっぱってるじゃないか。財布の重みに目がくらむなんて、江戸の女の風《かざ》上《かみ》にもおけないよう」  これは大いにやけるらしい。 「でも、一枚絵にかいてもらって売り出されるなんて、素《す》敵《てき》じゃない」  とはいうものの、 「だけど、あのじいさん、ほんとに絵なんてかけるのかしらねえ」  と、桃蔵もいささか心細そうである。  こうして衆議まちまちのところへ、 「どうした、どうした、おめえらなにをそのように浮かぬ面《つら》アしてるんだ」 「諸口先生、なんぞ変わったことでもおましたんかいな」  と、楽屋口からとびこんできたのは、いわずとしれた神《かん》田《だ》お玉《たま》が池《いけ》の辰《たつ》と豆六。うしろには佐七がさえた額《ひたい》を光らせながら、例によってにこにこ笑っている。 地獄のさたも金次第   ——はて怪しやなあ、いぶかしやなあ—— 「あら、お玉が池の親分さん、もう少しはやくいらっしゃればよかったのに……」 「なんだ、なんだ、桃蔵、なんかおもしれえことがあったのかい」 「ええ、辰五郎兄さん、いましがた、変なじいさんがやってきたのよ」 「変なじいさまがきやはって、桃さん、ちょっとと口《く》説《ど》かはったんかいな」 「いやな豆六さん」  辰と豆六があらわれると、どこでも俄《が》然《ぜん》にぎやかになるからふしぎである。  佐七は笑いながら、 「諸口先生、しばらく。先生はよっぽどこの楽屋がお気に召してるとみえますね」 「お玉が池、会うとそうそう皮肉かえ。しかし、なんといわれてもしかたがねえ。くま娘の見《み》世《せ》物《もの》や、いかさまのろくろ首、やれ突けそれ突けの楽屋よりはいいからな。それより、お玉が池、ひと足ちがいだ。もちっとはやくくれば、おもしろいものが見られたのに」 「先生、そのおもしろいものとは……」 「なんだんねん」 「いやな、辰、豆六、いま、おかしなじいさまがやってきての、これこれしかじか」  と、諸口数馬がにやにやしながら、おもしろおかしくさっきの話を語って聞かせると、 「へえ。それで、鶴代はみもしらぬそのじいさまといっしょに出ていったんですかい」 「そこはそれ、地獄のさたもなんとやら、お鶴ちゃん、財布のふくらみに目がくらんだのよウ」  と、寿恵次はあくまでも敵役である。 「だって、いいじゃないか。もしお鶴ちゃんの一枚絵がパッと評判になってみねえ、この小屋にだって客がつかあ。それに、お鶴ちゃんだっていくらかご祝《しゆう》儀《ぎ》にありつけりゃ、これすなわち一《いつ》石《せき》二《に》鳥《ちよう》」  米三郎はうすいくちびるをなめながら、あくまでも実利主義を主張している。  市川鶴《かく》寿《じゆ》という大《おお》年《どし》増《ま》の若きつばめにあまんじて、そのしりにしかれているだけあって、色男は色男だが、軽《けい》薄《はく》のそしりはまぬがれない。 「そんなこと、わかるもんですか。そんなこと、うそよ。あのじいさん、絵なんかかけやしないわよ。あのじいさんのねらっているのは、鶴代ちゃんのからだよ。鶴代ちゃんを見るときのあの目つきったら……」 「うっふっふ、まるで舌でからだじゅうをなめまわすみたいな目つきだったわね。しかも、片目でさあ」 「そうよ、そうよ、わたしゾーッとしたわ。だから、上《かみ》方《がた》もんはきらいだというのよ」 「こら、えらいいわれようやな。桃蔵はん、ここにもひとり上方もんがひかえてまっせ」 「あら、ごめんなさい。豆六さんはべつだけど」 「あっはっは、桃蔵、失言したな、しかし、豆六うじ、ご安心めされ、いまのじいさまだがな、ありゃ上方もんかどうか怪しいもんだ」 「あれ、諸口先生、どうしてです?」  と、米三郎はいぶかるように、 「だって、じぶんでちゃんと、上方くだりの浮世絵師だといったじゃありませんか。ことばだって上方なまりまるだしだったし」 「その上方なまりが気にくわねえよ。妙にわざとらしくってさ、ここにいる豆六うじとは、だいぶんちがっていたようだからな」 「こら、残念なことしましたなあ。そんなけったいなじいさまがあらわれるとしってたら、わてももっとはよくるんやった。そして、上方もんの名誉にかけて、わてがぐっとひとにらみ、はて怪しやなあ、いぶかしやなあ!」 「ちっ、なにをいってやアがる。下《へ》手《た》な声《こわ》色《いろ》よしてくれ。ここはこれでも芝居小屋だぜ」 「あっはっは、これは辰のいうとおりだ」  と、佐七も笑いながら、かたわらの用心棒のほうへむきなおり、 「諸口先生、その猫《びよう》 々《びよう》 亭《てい》独《どく》眼《がん》斎《さい》というのは、そんなに胡《う》乱《ろん》なやつなんですか」 「さあ、どうだかな」  諸口数馬は無《ぶ》精《しよう》ひげののびた平家がにのような顔から白い歯をむきだしてにやにや笑うと、 「頭取、おまえさんはどう思う?」 「わたしはべつに……そりゃ、たしょう薄《うす》っ気《き》味《み》は悪うはございましたが、この先生のおっしゃるほど、そう胡乱とは思えませんでしたね」 「あっはっは、そんならそれでもいい。お玉が池の、なにもそう気をもむことはねえのさ。鶴代も生《き》娘《むすめ》じゃあるめえし、金でからだをおもちゃにされたところで、そう騒ぎ立てるほどのことはあるめえよ」 「あら、先生、それじゃいけませんのよ」 「桃蔵、なにがいけねえんだ」 「だって、先生はご存じなかったんですの、鶴代ちゃんはちかぢか車坂の兄さんと……」  いいかけて、桃蔵ははっとしたようにあたりを見まわし、口をつぐんだ。 「桃蔵、車坂の兄さんというのは、こちとらの仲間の長吉つぁんのことか」 「はい……」  桃蔵はこまったようにひざをなでている。 「それじゃ、鶴代は車坂と言い交《か》わしていると……?」 「はい、なんでもちかく芝居をよして、車坂の兄さんと夫婦になるという話です」 「なんだ、なんだ、車坂の兄い、そんなうまい話になっているのか。畜《ちく》生《しよう》、あんなおとなしやかな顔をしていながら、はやいことおやりあそばしたな」 「兄い、おたがいにご愁《しゆう》傷《しよう》さまやな。ああいうのを、泣かぬねこがねずみとるちゅうんだっしゃろ」  と、辰と豆六はおおがっかりだったが、ここに名前のでた車坂の長吉というのは、下《した》谷《や》車坂にすむ御用聞きだが、ついこのあいだ、おやじの長《ちよう》兵《べ》衛《え》がみまかったので、跡《あと》目《め》をついで十《じつ》手《て》捕《と》りなわを許されたばかりの、いわば駆け出し、としは鶴代とおなじ二十二歳。 「なあんだ。それにしても、車坂の兄いもいい気なもんじゃねえか。それで、親分にここで落ちあおうといってきなすったんだな」 「辰つぁん、それじゃ車坂の親分さんは、こちらの親分さんとここでお会いになるお約束になっていたんでございますか」  頭取の米三郎はふしぎそうな顔色だったが、うわさをすれば影とやらで、その車坂の長吉が、鶴代といっしょに楽屋口からやってきた。 「あら、お鶴ちゃん、さっきのへんなじいさんはどうしたのさア」  寿《す》恵《え》次《じ》に声をかけられると、鶴代はいきなりそこへ笑いころげて、 「おっほっほ、あっはっは、ああ、おかしい、いいかげんなことをいってやったら、手金だといって、ほら、この小《こ》判《ばん》をくれたわよ」  鶴代が笑いながらそこへ投げだしたのは、山《やま》吹《ぶき》色《いろ》の小判で一両。  一同はそれを見ると、ハッとしたようにたがいに顔を見合わせたが、車坂の長吉はなにがなにやらわけがわからぬ顔色で、 「お玉が池の兄い、お待たせいたしました。辰つぁん、豆さん、なにかあったんですか」  と、目をパチクリさせながら、ふしぎそうに一同の顔を見まわしている。  月《さか》代《やき》の跡《あと》のあおあおとした、たしょう癇《かん》性《しよう》らしいところがあるにしても、色白のいい男振り、これから売り出そうというとしごろである。 浮世絵師と相撲《 す も う》取り   ——絵師は絵師でも奇特の絵師じゃ——  その翌日、すなわち十月二十一日の夜の五つ(八時)ごろ、おりから降りだした雨のなかを、根岸はお行《ぎよう》の松《まつ》のほとりへさしかかった一挺の駕《か》籠《ご》がある。 「ちょっと、駕籠屋さん」  と、駕籠のなかから女の声で、 「ずいぶん寂しいところだねえ。あたしなんだか気《き》味《み》がわるくなってきたわ」 「なにさ、色《いろ》事《ごと》にゃ寂しいところのほうがいいもんでさ。なあ、後《あと》棒《ぼう》」 「そうとも、そうとも。色にはなまじつれはじゃまってね。えっへっへ」 「あら、失礼ねえ。わたしゃそんなんじゃないんだよ。絵をかいてもらいにいくんだから」 「えっ? 絵を……?」 「そうよ、猫々亭独眼斎って、ねこ背で片目のじいさん、あれでも上《かみ》方《がた》くだりの絵かきだとさ」 「へえ、あのじいさんがねえ。それはねえさん、どうも失礼いたしました」 「へえん、ひとは見かけによらねえもんですね。あんな片目のじいさまがねえ」 「おっと、おしゃべりをしているうちにやってきた。へえ、ねえさん、このうちですよ」 「あら、そうお」  と、垂れの窓から外をのぞいたのは、お高《こ》祖《そ》頭《ず》巾《きん》で顔をつつんだ女である。  そこはどこかの寮《りよう》といったかまえで、萱《かや》葺《ぶき》の門も風流といえば風流だが、町育ちの女にとっては、時刻が時刻だけに心細かった。 「ええ、お待ちどおさま、もしえ、お客さまをおつれいたしましたよ」  と、声をかけると待ちかねたように、雪《ぼん》洞《ぼり》かかげて奥からでてきたのは、猫《びよう》 々《びよう》亭《てい》独《どく》眼《がん》斎《さい》である。 「やあ、ご苦労じゃったな。さあ、さあ、お鶴ちゃんや、はようこっちへ出てきさっしゃれ」 「あい」  と、お高祖頭巾の女は駕籠を出ると、気味悪そうにあたりを見まわしている。  かなり広そうなお屋敷は、どこにもあかりの色がみえず、森《しん》閑《かん》としずまりかえっているのは、陰気をとおり越して、ちょっと空《あ》き屋敷を思わせるような薄気味悪さである。  ホー、ホーとどこかで鳴くふくろうの陰気な声、それに唱《しよう》和《わ》するような犬の遠ぼえも身にしみて、責《せ》め道具もそろっているようだ。  薄気味悪いあるじから、たんまりと駄《だ》賃《ちん》にありついた駕籠かきが、あと白《しら》浪《なみ》とかえっていくと、猫々亭は鉄ぶちの眼鏡《 め が ね》のおくから怪しく片目を光らせながら、 「さあ、さあ、お鶴ちゃんや、はようこっちへござらっしゃれ。駕籠の道中はさぞ寒かったであろうに。いまにしっぽり、ひと汗もふた汗もかかせてあげようほどにな。いっひっひ」  いやな笑いかたである。  お高祖頭巾の女は、 「おや」  というように、あいての顔を見なおしたが、すぐ、 「ふふん」  とせせらわらったのは、はじめっから猫々亭の腹のなかを読んでいるからであろう。  表から見たとおり、そうとう広いお屋敷だった。それにしても、饐《す》えたような、カビ臭いにおいがするのは、やっぱり空き屋敷なのだろうか。  なにしろ、明かりといえば、さきに立って案内する猫々亭のかかげた雪洞の灯だけだから、もうひとつあたりのようすが判然としない。  それでも、うねうねと曲がりくねった廊下を幾曲がりかしていくと、やっとむこうに、ボーッと灯の色のにじむ座敷が見えてきた。どうやら離れ座敷という位置にあるらしい。  渡り廊下をわたっていくとき、またしてもホー、ホーと鳴くふくろうの声、犬の遠ぼえも陰《いん》にこもって、お高祖頭巾の女はおもわず肩をすぼめた。  やがて通された離れ座敷は、六畳と四畳半のふた間つづき。  わざとこれ見よがしにふすまを開けっぱなした奥の四畳半に寝床がしいてあるところまでは、女の想像していたとおりだが、そこにもうひとつ、世にも意外なものを発見して、女はおもわず驚きの声をはなたずにはいられなかった。  手前の六畳にわかい男がひとり、太《ふと》股《もも》もあらわに大あぐらをかき、一《いつ》 升《しよう》 徳《どつく》 利《り》をひきよせて、ぐびりぐびりと茶わん酒をあおっている。  女がはいっていったとき、男は待ちかねたようにこちらを見たが、その目があやしく燃えているのを見て、女はハッと胸をつかれた。 「お、お師匠さん、こ、このひとは……?」  女の声はふるえている。 「なにさ、なにさ、なにも心配することはないわさ。おまえさんもそこへ座って、一杯おあがり。さっさ、関《せき》取《とり》、一杯差してやっておくれ。床《とこ》 杯《さかずき》というやつをな。いっひっひ……」  猫々亭にあとからどんと背中をつかれて、女はおもわずよろよろよろ、たくましい股もあらわに大あぐらをかいた男のそばへべったりひざをついたが、まだ猫々亭のいったことばの意味をハッキリつかむことはできなかった。  男は猫々亭にいわれるままに、女に茶わんをさしだしたが、女がいやいやをするように首を左右にふると、むっつりとして、じぶんで一升徳利から茶わんにつぐと、ぐびりぐびりとひとりで飲んでいる。  根が無口な性《しよう》分《ぶん》とみえる。  しかし、その目はかたときとして女のからだから離れない。  むっちりとした胸のふくらみから下っ腹、腰の曲線から太股のあたりまで、舌なめずりをせんばかりに見まわす目つきの気味悪さ。  女はまたあらためてゾーッとした。 覆面とった猫々亭   ——絵師は絵師でもまくら絵師——  いま猫々亭はこの男のことを関取とよんでいたが、頭に結った大《おお》銀《いち》杏《よう》といい、仁《に》王《おう》様《さま》のようにたくましいからだといい、なるほど、相撲《 す も う》取りかとおもわれたが、人《にん》気《き》稼《か》業《ぎよう》の相撲取りとしては、はなはだもってうすぎたない。  お粗《そ》末《まつ》千《せん》万《ばん》である。  年は二十五、六であろうか。上《うわ》背《ぜい》はそれほどでもないが、肩幅のひろい、胸板の厚い、巌《いわお》のようなからだをしているのはよいとして、モジャモジャのびた無《ぶ》精《しよう》ったらしいひげが気にくわぬ。  それに、あらい滝《たき》縞《じま》の素《す》袷《あわせ》をきているが、その素袷も、なんど水をくぐったかと思われるような、洗いざらしもいいところである。  その素袷のまえもあらわに、そでを肩までたくしあげ、男はあいかわらずことばもなく、片手でぐびりぐびりと茶わん酒をあおっている。  なんとなく薄《うす》のろの鈍牛みたいなかんじだが、ただ、うわめづかいに女のからだをなめまわすその目つきだけが燃えに燃えている。  いや、燃えに燃えているのは、その目つきだけではない。  からだ全体がはち切れそうな欲情を露骨に発散していて、まえをはだけた大あぐら、たくましい太《ふと》股《もも》の奥のあたりに、欲情のかたまりがはや隆《りゆう》々《りゆう》と脈打っているらしいのを、この男は恥じらうようすもなく、したがって隠そうともしないのである。 「お、お師匠さん」  さすがに度胸のよい女も、あまりの薄気味悪さにおもわず声がふるえた。 「わたしを……いったい、このあたしを、どうしようというのさあ」 「だからさ、この関取といっしょに寝てもらうのさ。そして、いろいろとな。いっひっひ」 「えっ? こ、このひとと……?」  女はあきれたように、 「そ、そして、おまえさんはどうするのさ」 「だからさ、そこをわしが絵にうつすのじゃ」 「そこを絵にうつすとは……?」 「わしはな、浮世絵師というても、ただの浮世絵師じゃないぞな」 「ただの浮世絵師でないというと……?」 「まだわからんかな。男と女の至上の悦《えつ》楽《らく》、つまり、男と女ががっきり四つに絡《から》みあって、歓喜にのたうちまわるさまざまな姿、つまり四《し》十《じゆう》八《はつ》手《て》のうら表を、正《しよう》にうつして世にひろめ、善男善女の法楽を、いやがうえにもたかめて進ぜようという奇特な絵師じゃ。さ、さ、関取といっしょに寝て、わしの手本になっておくれ。そのかわり、たっぷり祝《しゆう》儀《ぎ》をはずむほどにな」  女はあきれたように、あいての顔を見直した。  こうしてあいての正体がわかってくると、かえって女も度胸がすわり、それならそれで覚悟もできた。  そうすると、この関取という男も、祝儀を目当てに、万事承知のうえで、そんなあさましい役どころを引きうけたのだろう。  とすると、あんまり利《り》口《こう》な男のすることではない。  そういえば、この男、どこかで見たことがあるような気がするのだが……。  どうせ女の身で、単身こうしてやってきたからには、あいてに身をまかせるくらいのことは覚悟のまえだったのだろうが、いまの猫々亭の要求は、あまりにもバカバカしくて話にならない。 「バカにおしでないようッ!」  とつぜん、お高《こ》祖《そ》頭《ず》巾《きん》のしたから、黄色い女の啖《たん》呵《か》がほとばしった。 「わたしをだれだと思っているんだい。お鶴ちゃんみたいなおとしなまくじゃないよ。おまえさんひとりなら、きように抱かれて寝てやろうと思っていたんだが、そんなあさましいことされてたまるもんか」  バラリとお高祖頭巾をとった女の顔をみて、猫々亭の顔がさっと驚きと怒りにもえた。  思いきや、女は鶴代にあらずして、似ても似つかぬ寿《す》恵《え》次《じ》であった。 「おのれ、おのれ、それじゃ鶴代め、まんまといっぱいわしをはめおったか」  バリバリと歯ぎしりをする猫々亭をしり目にかけ、 「おっほっほ、お気の毒さまみたいだわね。バカな考えはやめたほうがいいよ」  憎々しげにいい放って、寿恵次がすそをはらって立ちあがったときである。  いままでだまって杯をふくんでいた男が、やにわに寿恵次にとびかかってきた。いままでの鈍牛のようなかんじとはうってかわって、ひょうのような敏《びん》捷《しよう》さで女のからだを抱きすくめると、つぎの間の寝床のほうへ引きずっていこうとする。  この男にとっては、あいてが鶴代であれ、寿恵次であれ、そんなことはお構《かま》いなしで、女でさえあればよいらしい。 「そうだ、そうだ、関取、おまえさえそれでよけりゃ、こんやはその女でまにあわせておけ。いずれ鶴代も取りもってやるほどにな。いっひっひ……」 「あれ、お放し、お放し、お放しってば、お放し……」  しかし、しょせんは男と女である。ましてや、あいては関取とよばれるほどのバカ力。わしにつかまった子すずめとはこのことだろう。  荒れくるう寿恵次のからだをかるがるとひっかかえ、男が奥の四畳半へはいっていくと、あとからついてきた猫々亭が、ニタリニタリとわらいながら、ぴったり合いのふすまをしめた。  寿恵次はもがいた。  あらがうた。  精《せい》かぎり根《こん》かぎり抵抗した。  しかし、しょせんは隆《りゆう》車《しや》にむかう蟷《とう》螂《ろう》の斧《おの》とやらである。  またたくまに身ぐるみはがれて、あさましい生まれたときのままの姿で、寝床のうえに押しころがされた。  それでもなおももがこうとすると、むっちりとしたふたつの乳《ち》房《ぶさ》の隆《りゆう》起《き》のあいだを、男は仁王様のような片《かた》脚《あし》でふんまえ、声を立てなば、踏みも殺さんけんまくに、さすがの寿恵次も、はっと恐怖に身がこわばった。  声を立てようにも、のどのおくで凍りついて、恐怖にほおがひきつっている。  男はそのまになにもかもかなぐり捨てて裸になった。  巌《いわお》のような肉づきをしていることはまえにもいったとおりだが、へそからした逆三角にひろがったくまのように真っ黒な巻き毛におおわれた下っ腹にしめているボロボロのまわしを見て、寿恵次ははっと、あいてがだれであるかを思い出した。  さっきから、どこかで見たことのあるような男だと思っていたが、それもそのはず、ちょくちょく山下へんへもまわってくるひとり相撲《 ず も う》の関取である。  ひとり相撲の関取というのは、こじき物もらいもおなじことで、あちらの辻《つじ》、こちらの町かどでひとを集め、締め込みいっぽんの丸裸、木彫りの仁王様のような隆《りゆう》々《りゆう》たる筋肉をみせて、ひとりで四十八手のうら表、おもしろおかしく相撲の型をやってみせ、一文二文のお鳥《ちよう》目《もく》にありつこうという、まあ、からだが売りものの物もらいである。  いま片脚で寿恵次の胸を踏んまえているひとり相撲の関取は、たしか名前を捨《すて》松《まつ》といった。  白《はく》痴《ち》にちかい魯《ろ》鈍《どん》なところをよいことにして、山下へんの白《しろ》首《くび》がひそかに家へひっ張りあげて、目くされ金《がね》で仁王様のようなそのからだをおもちゃにすることもあるという。  なにしろ、あいては白痴どうようの男だから、どんな恥しらずの要求でも持ち出せた。捨松のほうでもよろこんでそれに応じた。  捨松は巌のようなからだの示すとおり、くめどもつきぬ精の泉を身内にたくわえているらしい。  滝《たき》つ瀬《せ》のような勢いで、なんべん竜《りゆう》吐《ど》水《すい》を噴《ふん》出《しゆつ》しても、春の潮《うしお》はあとからあとからと満ちあふれてくるのである。  ある女のごときは、興にのって、捨松のからだをおもちゃにしているうちに、とうとう逆に捨松にとっつかまってしまった。なんべんめかの竜吐水に、からだをめちゃめちゃに満たされて、さすがに淫《いん》蕩《とう》なその女も、 「やめて! やめて……! もうかんにんして……」  と、あえぎあえぎ絶叫したが、捨松はがっきりあいてを抱いてはなさなかった。  女はとうとう男の腕のなかで失神してしまったが、捨松はそれでもなおかつ、雄《お》牛《うし》のような咆《ほう》哮《こう》をあげながら、たけり狂いつづけていたという。  いや、捨松をおもちゃにするのは、いたずらな女だけではなかった。  物好きなだんな衆のなかには、捨松を庭へひっぱりこんで、地べたにあぐらをかかせ、じぶんでじぶんのからだをおもちゃにさせて、それを縁先からながめながら、目の保養にするのがいるという。  捨松の行動がしだいに物狂わしくなり、仁王様のようなからだが躍《やく》動《どう》し、けだもののように息がはずみ、やがて、物すさまじい怒号とともに、はげしいたつまきがまきおこるとき、縁先からそれを見ているだんな衆には、よい回春の妙薬となるらしい。  捨松にはあとくされがなかった。  あいてが男にしろ、女にしろ、そんなことがあったからといって、あとねだりをしないところがよかった。  あとねだりをしようにも、捨松はいちいちあいてをおぼえていないらしい。  あいての誘《ゆう》惑《わく》におうじて、そのとき、そのせつなの衝《しよう》動《どう》のおもむくまま行動しているだけのことであって、それを根にもってあとあとまでねだりがましいことをいったりしたりするほど、捨松は記憶力がよくなかった。  だから、物好きな男や、いたずらな女にとっては、かっこうの玩《がん》弄《ろう》物《ぶつ》なのだった……。  ……寿恵次もいままざまざと、そんな話を思い出していた。  畜生! チキショウ、こんなさかりのついたこじき物もらいに、自由にされてたまるもんか! 「捨松、およし、およしったらおよし。変なまねをすると承知しないよ」  寿恵次は金《かな》切《き》り声を張りあげたが、もうそのときは遅かった。  手早く締《し》め込《こ》みをかなぐりすてた捨松の太くたくましい大《おお》砲《づつ》は、さっきから勃《ぼつ》然《ぜん》ともえにもえて脈打って、雲を呼び、あらしを巻かんばかりの勢いである。  捨松は寿恵次のうえにからだをたおすと、しゃにむに、いやおうなしに、あいての下半身をこじあけた。 「あれ、およし! およしったらおよし! あれ、あ、ああ、あああ……」  そばでは、あの薄気味悪い猫々亭独眼斎というじじいが、あやしく片目を光らせながら、紙と絵筆をとりだして、からみあった男と女の肢《し》態《たい》を見守っている。  その夜、この離れ座敷の雨戸の外に立って、もし聞くひとあらば、飽《あ》くことしらぬ男の叱《しつ》咤《た》、鞭《べん》撻《たつ》、怒号のようなうなり声、はてはさいごに放つかちどきのけだもののような咆《ほう》哮《こう》にまじって、絶えいるような女のあえぎとうめき声が、深《しん》更《こう》におよぶまで、繰りかえし、繰りかえし展開されたのをしったであろう。  女体の悲しさ、哀れさは、とうとう寿恵次も、この仁王様のような男の巨大な肉《にく》塊《かい》と、その獰《どう》猛《もう》な攻撃のまえに屈服し、どうやら、あいての術中におちいってしまったらしい。  いくどか失神するような金切り声を張りあげていた。  ふくろうの鳴く声しきりにして、陰火のもえるような夜であった……。 帰らぬ寿恵次   ——また鼻薬でもかがされたんだろ——  ちかごろ、親の跡《あと》目《め》一式を相続して、いちにんまえの御用聞きになったばかりの車坂の長吉が、上野山下にある市川鶴《かく》寿《じゆ》の芝居の楽屋へ顔を出したのは、十月二十二日の昼下がりのことである。 「あら、親分、いらっしゃい」  きょうはからだが空いているのか、座がしらの鶴寿もいあわせて、さっそく愛《あい》想《そ》をふりまいた。 「いやだよ、師匠、おらアまだひとさまから親分だなんていわれる柄じゃねえよ」 「あら、まあ、親分のお気のよわい。長兵衛親分の跡目一式、めでたくご相続の手つづきもおわったそうですから、もう押しも押されもせぬりっぱな親分さんじゃありませんか。しっかりしてくださいよう」  座がしらの市川鶴寿、としのころは四十二、三、亭《てい》主《しゆ》の米《よね》三《さぶ》郎《ろう》より十以上もとしうえだが、いかにも立て役にふさわしい男のようにかっきりとした目鼻立ちが、座がしららしい貫《かん》禄《ろく》をみせている。 「あんまり、親分、親分とおだてないでおくんなさいよ。十《じつ》手《て》捕《と》りなわをあずかったとはいうものの、まだこの手でこそどろひとりだってひっ捕らえたことはないおいらなんですからね」 「そりゃ、ものには順序ということがありますからね、あんまりあせらないほうがようございますよ。まあ、おひとつどうぞ」 「おっと、すまねえ」  と、鶴寿から吸いつけタバコを受けとった長吉は、そばにひかえているわかい娘に目をとめると、 「ときに、師匠、そこにいる娘さんは、ついぞ見たことのねえ顔だが、どういう……?」 「ああ、そうそう、この娘《こ》、こんどこの一座へはいってもらうことになった中村玉《たま》枝《え》というんです。玉枝ちゃん、こちら車坂の長吉親分」 「はじめてお目にかかります。なにぶんよろしく」  三つ指ついてあいさつをする玉枝というのは、鶴代とおなじとしごろだが、きりょうも鶴代にまけず劣《おと》らずうつくしい。 「こいつは美しいや。師匠、とんだ掘り出しものだなあ。いまに、鶴代とはげしい人気争いになるぜ」  長吉がしきりに感心していると、そばから三枚目の桃蔵が口をだして、 「なにをいってるんですよう。とぼけないでよ」 「なにをよう。おれがなにをとぼけてるんだ」 「うっふっふ、わかってないのねえ」 「わかってねえって、なんのことさ」 「あれまあ、それじゃわたしがひとつ能《のう》書《が》きをいってあげましょう」  そばからひざを乗りだしたのは、市川花代という、顔をみれば三枚目だが、これでも舞台ではりっぱに娘形でとおるのである。 「鶴代ちゃんはね、いまに親分に持っていかれそうだから、その後《あと》釜《がま》にとお師匠さんが玉枝ちゃんをつれてきたんじゃありませんか」 「な、なあんだ、そ、そんなこと……」  と、火がついたように真っ赤になる長吉に、一同がどっと笑いころげているとき、舞台のほうで柝《き》がはいって、背景の幕のそでから役者が二、三人かえってきた。  なかのひとりは鶴代だが、 「あら、兄さん、いえ、あの、親分さん」  と、あわてていいなおして赤くなる。 「ようよう、ご両人、おやすくないわねえ」 「いやよ、桃蔵さん、こっちはまじめな話なんだから。親分さん、ちょっとお顔をかしてください。きいていただきたい話がございますの」  と、そういう鶴代の顔を見ると、どういうわけか目がすわっている。 「どういう話だえ。ここではいけないのか」 「そうね。いいわ、ここできいていただくわ」  と、一昨日ここへやってきた猫々亭独眼斎と名乗る奇妙な浮世絵師のことを話したあとで、 「それで、ゆうべ約束どおり、迎えの駕《か》籠《ご》がきたんだけれど、あたしなんだか気味が悪かったもんだから、寿恵次さんにたのんで、かわってもらったんですの。そしたら、その寿恵次さんがいまだにかえってこないので、あたしなんだか心配で……」  と、きいて驚いたのは長吉よりも鶴寿だった。そばにいる米三郎をふりかえると、 「米さん、あたしゃちっともしらなかったが、おとといこの楽屋で、そんなことがあったのかい」 「ええ、そうよ、お師匠さん」  そばから口を出したのは、三枚目の桃蔵である。 「そりゃ薄っ気味悪いじいさんなの。鶴代ちゃんを一枚絵にかきたいなんていってたけど、あんなじいさんに絵なんどかけるもんですか。ねらいは鶴代ちゃんのからだにきまってるわ。いまごろ、寿恵次さん、鶴代ちゃんの身代わりにされて、さんざんおもちゃにされてるわよ」 「米さん」  鶴寿の声が巽《たつみ》あがりに跳《は》ねあがって、そうでなくとも険のある顔がいっそうけわしくなった。 「おまえさん、なんだってそんな胡《う》乱《ろん》なものを楽屋へいれたんだい。ふだんからいってあるじゃないか。ここはたくさん若い娘をあずかっているんだから、滅《めつ》多《た》なものをいれちゃいけないって」 「すみません、師匠、あんまりしつこく頼むもんだから、つい、その……」 「つい、そのじゃないよ。おまえさんのことだから、また鼻《はな》薬《ぐすり》でもかがされたんだろ。ここは売色《じごく》宿《やど》じゃないんだから、そのつもりでいておくれと、ふだんからあれほどいってあるのに……」  と、頭ごなしにしかられて、若きつばめの米三郎が、平《へい》身《しん》低《てい》頭《とう》、ヘドモドしているのを見るにみかねて、そばから車坂の長吉が口を出した。 「まあ、まあ、師匠、できてしまったことはしかたがねえやな。それより、鶴代、その猫々亭とやらいう男はどこに住んでいるんだ」 「さあ、それがよくわからないんだけれど、駕《か》籠《ご》屋《や》が寿恵次さんにはなしているところをかげできいていたら、なんでも、根岸のお行《ぎよう》の松《まつ》のちかくらしいの」  と、心配そうな鶴代の話のあいだに、いつのまにはいってきたのか、 「あの猫々亭ってへんなじじいが、どうかしたのか」  と、だしぬけに声をかけたのは、浪人者の諸《もろ》口《ぐち》数馬、例によって皮肉な笑いをうかべている。 無残絵根岸の寮   ——血のひと筆がきで片目のねこが—— 「お行の松のちかくとだけじゃわからねえな」  それから半《はん》刻《とき》ほどのちのこと、お行の松のほとりをうろついている三人づれとは、いうまでもなく車坂の長吉に、浪人者の諸口数馬と米三郎。 「さっきの鶴代の話では、迎えにきた駕籠屋というのは土臭くて、どこかこのへんのものじゃないかといっていたが、どこかこのへんに辻《つじ》駕《か》籠《ご》の宿はないか、きいてみようじゃありませんか」  ひとに聞くとすぐにわかった。そこから二、三町いった森かげに、駕《か》籠《ご》寅《とら》とかいた看板のぶらさがっている辻駕籠の宿がみつかった。 「ごめんよ、ちょっとききてえことがあるんだが、だれもいないのかえ」  奥をのぞいて長吉が声をかけていると、 「あいよ、駕籠のご用かね」  と、声はかえってうしろのほうからかえってきた。  振りかえってみると、すぐそばを流れている小川で、菜っ葉を洗っていたおかみさんが、前垂れで手をふきながら立っている。 「ああ、おまえさんがここのおかみさんかえ」 「あいよ、わたしが駕籠寅《とら》の女房だが……」 「それじゃおまえさんに尋《たず》ねるがね、きのうの晩、ここからだれか、上野の山下へ女役者を迎えにいきゃアしなかったかえ」 「ああ、権《ごん》太《た》さんに助《すけ》三《ぞう》さんだね」  長吉はしめたというように、用心棒の諸口数馬や米三郎と顔を見合わせ、 「ああ、その権太さんと助三さんに、ちょっと尋ねたいことがあるんだが、いま出払っているのかえ」 「いいえ、ふたりともきょうは野《の》良《ら》だが……」  なるほど、このへんの駕籠かきは、片《かた》手《て》間《ま》に百姓をしているとみえる。 「じゃ、すまないが、おかみさん、権太さんでも助三さんでもいいから、ここへ呼んできてくれないか」 「親分さん、おまえさんの聞きたいのは、あのねこ背で、片目で、反《そ》っ歯のじいさんのことじゃないのかね」 「おかみさんはその男に会ったのかね」 「会ったとも、会いましたとも。わたしが応対したんですもの。へんなじじいだと思っていたが、やっぱりなにかあったんですね」 「それじゃ、おかみさん、権太と助三が女役者をかつぎこんだ家というのを、おまえさんしってやしないかえ」 「さあ、そのことですよ、親分さん。ありゃきのうの昼過ぎでしたね。そのへんなじいさんがここへやってきて、こんやこれこれの時刻に、これこれこういうところへ迎え駕籠をやって、これこれこういう女を、これこれこういうところへ連れてきてくれというでしょう。ところが、その、これこれこういうところというのが、このへんじゃ化《ば》け物《もの》屋敷でとおっているうちですからね」 「おかみさん、その化け物屋敷というのはどこだえ。この近所かえ」 「近所といっても十町くらいはありますけれどね。根岸の化け物屋敷といやあ、このへんでだれしらぬものはありませんのさ。ああ、ちょうどさいわい、娘がかえってきた。なんなら、わたしが案内してもいいですよ」  駕籠寅のおかみさんもこの一件に大いに好奇心をもやしているのである。  それからまもなく、娘に留《る》守《す》番《ばん》をめいじておいて、駕籠寅のおかみさんはみずから案内役をかって出たが、みちみち語るところによるとこうである。  その化け物屋敷というのは、いぜんは吉《よし》原《わら》の大黒屋という店の寮《りよう》だったが、その大黒屋というのが吉原でも音に聞こえた因《いん》業《ごう》な店で、女郎を酷《こく》使《し》するところから、しばしば病人を出した。  病人が出ると根岸の寮へ出《で》養《よう》生《じよう》をさせるのだが、それはかならずしも親切ごころではなく、少しでも快方にむかうと、まだ十分でないからだでも、情け容《よう》赦《しや》なく吉原へつれもどして、荒かせぎをさせるのである。 「それがつらくて、その寮で首をくくったものもあれば、かみそりでのどをついた妓《こ》もあるんです。そんなことが二、三度つづいたあとで、吉原のほうの店が自火を出し、それがもとでつぶれてしまったんです。寮はもちろん売りに出てますが、そんな縁《えん》起《ぎ》の悪いものをだれが買うもんですか。長いこと買い手もつかず、立ちぐされみたいになっていて、いつかのどを突いた女郎の幽《ゆう》霊《れい》が出るの、首をくくった花《おい》魁《らん》が化けて出るのとうわさが立って、すっかり化け物屋敷にされてしまったんです」 「なるほど。それで、ねこ背のじいさんは、その化け物屋敷のことについて、どういってたんだね」 「わたしがびっくりして聞きかえすと、なにさ、それだからしごく格安に手に入れたのさ、と、うそぶいていましたよ。ああ、そうそう、それから、迎えにいく駕籠かきには、かたくこのこと口止めしてほしいって」 「それで、おかみさん、権太や助三にも、口止めしておいたんだね」 「すみません。だって、べつに怪しい素《そ》振《ぶ》りもなかったんですもの」  怪しい素振りがないどころか、夜《よ》更《ふ》けに女を化け物屋敷へつれこもうというのだから、これいじょう怪しい素振りはないはずだが、おおかたたんまり口止め料でももらったのだろう。  長吉はいまいましそうに舌打ちしたが、そのとき米三郎がむこうを見て、 「おや、車坂の親分、あそこへくるのはお玉《たま》が池《いけ》の辰《たつ》つぁんと豆さんじゃありませんか」 「えっ?」  と、長吉もそのほうへ目をやって、ふたりのすがたに気がつくと、不快の色がおもてをかすめた。  いかに若いからとはいえ、長吉には長吉のプライドがある。先《せん》輩《ぱい》づらをして、あんまりよけいなくちばしを入れてもらいたくないのである。  しかし、さすがに、ふたりがちかづいてきたときには、さりげない笑顔になっていた。 「辰つぁんに豆さん、おまえさんたち、いまごろどうしてここへ」 「いえね、車坂の兄い。さっき、ちょっと親分と山下の小屋へ顔を出したら、師匠がひどく気をもんでいましてね。ぜひたのむというもんだから、豆六といっしょにやってきたんです。よけいなお節介だとおまえさんにいわれるかもしれませんがね」 「ほんまや、ほんまや、うちの親分なんかも、車坂のももう一人前やさかい、よけいなお節介やめとけいわはったんやけんどな」 「いいえ、辰つぁんも豆さんも、その斟《しん》酌《しやく》は無用にしておくんなさい。どうせこちとらは駆け出しだから、だれにも信用してもらえねえのさ」 「車坂の兄い、そないなこといわはったらあきまへん。だアれもあんさんを信用せんとはいうてえしまへんで。あんさんのおつむのええことはよう知ってます。そやけど、ここんとこ、わてら暇なもんやさかい」 「豆さん、ありがとう。あんまりお土《ど》砂《しや》をかけないでくださいよ。あっはっは」  長吉はかわいたような笑い声をあげたが、辰はそれにとりあわず、 「先生、頭取さんもご苦労さまで」 「あっはっは、辰、さぞ物好きなやつと思うだろうが、おれも猫々亭というじじいに会っているだけに、寿恵次のことが気になってな」 「なるほど。ときに、車坂の兄い、寿恵次がかつぎこまれた家というのはわかりましたか」 「いま、このおかみさんに案内してもらってるところなんです」 「ああ、さよか。ほんなら、兄い、わてらもお供してもよろしおまっか」 「さあ、どうぞ、どうぞ。おかみさん、その家というのは、まだ遠いのかえ」 「いえ、もうすぐでございます」  それからまもなく、駕籠寅のおかみさんの案内で、一同がたどりついたのは、とある陰気なひとかまえ。  もし、真昼の明るいところでこの家のたたずまいを見ていたら、いかに大《だい》胆《たん》な寿恵次でも、なかへはいるのをちゅうちょしただろう。 「こいつは……」  軒《のき》は傾き、ペンペン草の生えた屋根を見上げたとき、一同はおもわずそこに足をとめた。 「兄い、こらまるで化け物屋敷だんな」 「豆さん、こりゃ根岸でも化け物屋敷でとおっているうちだそうですよ」 「とにかく、なかへはいってみようじゃないか」  諸口数馬をせんとうに立て、一同は萱《かや》葺《ぶき》の門のなかへはいっていったが、そのとき、なかから一匹のねこがとび出してきて、一同のすがたを見ると、ふうっとばかりに毛を逆《さか》立《だ》てた。  数馬はそれを気にもとめずにいきすぎようとしたが、万事によく気のつく豆六が、 「わっ、兄い、車坂の兄いもあれ見なはれ。ほら、あのねこの口、べったり血に染まってるやおまへんか」 「あっ!」 「おい、辰、豆六もここを見ろ。このねこの足《あし》跡《あと》は、べっとりと血に染まっているぜ」  なるほど、桜の花びらを散らしたように、まっ赤なねこの足跡が、点々としてつづいている。 「せ、先生!」  米三郎ははやガタガタとふるえている。 「豆六、こい。寿恵次の身に、なにかまちがいがあったんじゃねえか」  こんどは辰をせんとうに立て、一同は屋敷のなかへなだれこんだ。  あのねこの足跡がなによりのよいみちしるべ、それを伝って奥座敷へ踏みこんだ一行五人、おもわずわっと、そこに立ちすくんでしまったのである。  寝床のうえに仰《あお》向《む》きに倒れているのは、一糸まとわぬ寿《す》恵《え》次《じ》の死体だ。  その惨《さん》憺《たん》たる状態からして、ゆうべそこで、いかに激烈にしてえげつない凌《りよう》辱《じよく》が寿恵次のうえに加えられたかうかがわれる。  しかし、それよりもっと残忍な冒《ぼう》涜《とく》が、寿恵次の死体にくだされている。  むきだしになった双《そう》の乳房のひとつが、まるでけだものの鋭い歯でかみ裂《さ》かれたように大きくえぐられて、なくなっているのである。そして、そこからまっ赤な血が、川のようにあふれている。  一同はシーンとそのすさまじい死体をながめていたが、とつぜん頭取の米三郎が、 「あ、あ、あ、あれ……」  と、舌の根のぬけたような声をあげると、へたへたとその場にへたってしまった。  一同が米三郎の指さすほうへ目をやると、まくらもとに立っている二枚折りの屏《びよう》風《ぶ》のうえに、血のひと筆がきで、ねこのかたちが描いてある。  しかも、それは片目のねこだった。  長吉はぼうぜんとして立ちすくみ、諸口数馬は唖《あ》然《ぜん》として口あんぐり。 お玉が池一家   ——紅のひと筆がきで片目のねこが—— 「いや、もう、親分、そのむごたらしい殺されようったら、目もあてられねえんで」  その夜おそくお玉が池へかえってきた辰と豆六、いまさらのように身ぶるいをしている。 「すると、寿恵次はさんざんおもちゃにされたあげく、乳房をかみ切られて死んでいたというのか」 「さよ、さよ。わても商売がらで、いままでいろいろむごたらしい死《し》骸《がい》を見てきましたが、きょうみたいなんははじめてだすわ」 「それで、その血をとって、まくら屏《びよう》風《ぶ》に片目のねこの絵が、ひと筆がきでかいてあったというんだな」 「へえ、寿恵次のからだから流れ出る血を、手ぬぐいかなんかににじませてかいたらしいんで」 「しかし、下《げ》手《しゆ》人《にん》はなんだってそんな絵をかきのこしていったんだろう」 「そら、親分、下手人のみえ、虚栄心ちゅうやつやおまへんか。むかしのシナの大《おお》盗《ぬすつ》人《と》の自《じ》来《らい》也《や》はんは、どろぼうをしていったあとへ、きっと、自《みずか》ら来る也《なり》と、書いていきやはったちゅう話だっさかいにな」  さすが草《くさ》双《ぞう》紙《し》通の豆六はガクがある。 「そうすると、豆さん、おまえさんの見込みでは、こういうむごたらしい一件が、こののちも引きつづいて起こるというのかえ」  お粂《くめ》もそばで薄《うす》気《き》味《み》悪そうである。 「いや、あねさん、そりゃア豆六ばかりじゃなく、あっしなんかもそんな気がするんです。じじいめ、寿恵次で味をしめやアがったからな」 「しかし、辰、諸口先生はその猫《びよう》 々《びよう》 亭《てい》独《どく》眼《がん》斎《さい》とやらいうじじいに会っていなさるんだろう」 「いや、親分、諸口先生だけやおまへん。頭取の米三郎も会うてまんねん。そのことでえろう座がしらの鶴《かく》寿《じゆ》に油をしぼられたちゅう話だす」 「しかしねえ、親分、諸口先生もそのじじいがこんなだいそれた事件をひき起こすたア、思ってもいなかったらしいんです。寿恵次の死体を見たときの驚きようたらなかったですからね」 「そら、車坂もおんなじことや。茫《ぼう》然《ぜん》自《じ》失《しつ》、なすところを知らずやな」 「そうそう、その車坂で思い出しましたが、親分、この一件、親分は深入りなさらねえほうがいいんじゃないでしょうかねえ」 「どうしてなの、辰つぁん」 「いやね、あねさん、親分ははなからこの一件に手を出すつもりはなかったんです。ところが、鶴寿の師匠におがみたおされて、しかたがなく、それではというんで、とりあえずあっしと豆六とふたりで車坂を追っかけたんですが、お行《ぎよう》の松《まつ》へんで追いついたときの車坂の顔色ったらありませんでしたよ」 「そうそう、だアれもわいを信用せえへんなんて、いやみいうてはりましたな」 「そりゃ、車坂さんはまだお若いから……おまえさん、よけいなお節介はよしたほうがいいんじゃないかえ」 「お粂《くめ》、おれははなからそう思ってるんだ。車坂の気《き》性《しよう》はよくしっている。ありゃ小さいときから、人一倍負けぬ気がつよいうえに、目から鼻へぬけるような男だからな。しかし、聞くだけのことはきいておこう。辰、豆六、その猫々亭というじじいのほんとのお目当ては、寿恵次じゃなくて鶴代だったんだな」 「そうです、そうです」 「それが、どうして寿恵次に変わったんだ」 「いや、鶴代のやつ、ゆうべになって急に気味が悪くなり、もらった一両すっかり寿恵次にくれてやり、身代わりになってもらったというんです」 「いったい、あの連中、鶴代や寿恵次はどこに住んでいるんだい」 「みんな下《した》谷《や》一丁目、二丁目あたりに間借りしてまんねん。座がしらの鶴寿だけは亭《てい》主《しゆ》もちだっさかいに、一軒、所帯をかまえてまっけどな」 「それで、ゆうべ芝居がはねると、鶴代が寿恵次をじぶんの家へつれてきて、じぶんの衣《い》装《しよう》をきせ、お高《こ》祖《そ》頭《ず》巾《きん》で顔をかくさせ、待ってるところへ駕《か》籠《ご》屋《や》が迎えにきたというわけですが、寿恵次も欲の皮がつっぱってますからね、猫々亭が楽屋でみせた財《さい》布《ふ》のおもみに目がくらんだんだろうと、桃蔵なんかいってます」 「それで、連れこまれた家というのが、先年自火をだしてつぶれた吉《よし》原《わら》の大黒屋の寮《りよう》だというんだな」 「さよさよ、ところが、それがおかしおまんねん。猫々亭独眼斎たらいうけったいなじいさまが、駕籠寅さんのおかみにいうたところでは、その家、捨て値で買《こ》うたちゅうとったそうです」 「ところが、きょう根岸からのかえりがけ、吉原のほうへまわって聞いたところが、自火を出したさい、亭主は逃げおくれて焼け死んだが、女房のお鉄というのはまだ生きていて、馬道の裏長屋に逼《ひつ》塞《そく》しているというんでね。それで、豆六とふたりでそのほうへまわってみましたが、お鉄のいうのに、とんでもない、その寮は、まだだれにも売ったおぼえはないというんです」 「そこで、お鉄に猫々亭独眼斎たらいう男の人相をくわしく話してみましたけんど、お鉄にも心当たりがないいうてます」 「しかし、お鉄に心当たりがないとしても、猫々亭独眼斎というその男が、その寮を大黒屋のものとしっていたところをみると、なにか大黒屋とつながりがあるんじゃねえのかな」 「つながりがあるかどうかはべつとして、とにかく、上《かみ》方《がた》からくだってきたばかりだといったというのは、大うそでしょうねえ」 「そら、そうやがな、兄い、上方もんがあないなむごたらしい殺しかたしますかいな。女を殺すにしても、もっといたわって殺しまんがな」 「あら、まあ、豆さん、いたわって殺すって、どういう殺しかたなんだえ」 「ほら、あねさん、よういいまっしゃないか。ひとめでころりと女を殺すちゅうてな。このわてが江戸のあっちゃこっちゃで女を殺してるみたいにや。こうみえても、わしは女《おんな》殺《ごろ》し男《おとこ》地《じ》獄《ごく》や」 「ちっ、なにをいやアがる。女殺し男地獄たア、このおれのことじゃねえか」 「あら、まあ、ふたりとも、それ、女殺し油《あぶら》地《じ》獄《ごく》のまちがいじゃないかえ」  気のあった親分子分のこの四人、凄《せい》惨《さん》な話がいつか冗《じよう》談《だん》におちていって、ワイワイいっているところへ、表の格《こう》子《し》のひらく音がして、 「兄い、お玉が池の兄い」  と、あわただしく呼ぶ声をきいて、一同はハッと顔を見合わせた。 「あっ、ありゃ車坂の声じゃないか」 「あっ、そう。じゃ、あたしが出てみましょう」  やがて、お粂のあとにつづいて、ころげるようにはいってきたのは車坂の長吉である。 「ああ、車坂の、またなにかあったのか」 「兄い、辰つぁんも、豆さんも、これをひとつ見てください」  と、長吉がふところからつかみ出したのは、しわくちゃになった紙一枚、佐七がひらいてみると、紅《べに》のひと筆がきで、片目のねこがかいてある。 「車坂の、これはいったいどうしたんだえ」 「山下の小屋の鶴代のつかう鏡台にはってあったんです。鶴代はかどわかされたらしいんで」  長吉は藍《あい》をなすったような顔色で、目をうわずらせ、両手で鬢《びん》の毛をかきむしっている。 「車坂の、そう気ばかりあせらずと、もっと落ちついて話しねえな。鶴代ちゃんがかどわかされたとは、いったいどういうわけだえ」 「すみません。兄い、おいらまだわけえもんだから、すっかり取り乱しちまって……」  長吉はお粂がくんでだす茶を飲みほすと、やっと落ちついて話せるようになってきた。 「兄いもきょうの根岸の一件は、辰つぁんや豆さんからお聞きのことと思いますが……」 「ああ、いまそれをこのふたりから、いろいろ聞いていたところだが……」 「辰つぁんと豆さんは、あれから吉原へいくといって出掛けましたが、あっしはご検視がおりるまで、寮のほうにいたんです。ご検視は暮れ六つ(六時)ごろにすみました。それで、諸《もろ》口《ぐち》先生と頭《とう》取《どり》の米《よね》さんは死体といっしょに山下のほうへかえったんですが、あっしはあとに残って、いろいろ聞き込みをやっていたんです」 「ふむ、ふむ。それで……」 「まあ、そんなことで手《て》間《ま》どって、車坂へかえってきたのが五つ(八時)ごろ。大急ぎで飯をかきこんで、鶴代のところへいってみたんです。そうしたら、鶴代がいないんです。いないばかりか、宿のおかみの話によると、鶴代は六つ半(七時)ごろ、芝居からいったん宿へかえったが、あっしから使いがあったから出向いていくと、そういいのこして宿を出ていったそうです」 「それで、兄いにはそんな使い出したおぼえはおまへんのんかいな」 「豆さん、あっしゃそれどころじゃありません。根岸のほうで駆けずりまわっていたんですから」 「ところで、車坂の、鶴代ちゃんは寿恵次が殺されたのをしってるんだろうね」 「そりゃもちろん、諸口先生と頭取の米さんが、寿恵次の死体を戸板にのせて連れてかえったのを見ているんですから」 「それで、この片目のねこの絵が楽屋の鏡台にはってあったというのは……?」 「それはこうなんで。あっしゃ宿で話をきいてびっくりしました。そこで、なにはともあれ、芝居へよってみたんですが、寿恵次のさわぎで楽屋はまっくら。そこで、すぐ出ようとしたところへ、桃蔵がやってきたんです。寿恵次のうちではせまいので、楽屋でお通《つ》夜《や》をするんだそうで、桃蔵があかりをつけて掃《そう》除《じ》をはじめたんですが、そのとき、これに気がついたんです」  語りおわった長吉の目は、また、ものに狂ったようにうわずってきた。 「そうすると、猫々亭というじじいが、鶴代をかどわかしていったうえに、かどわかしたという目印に、楽屋へ忍びこみ、この絵を鏡台へはりつけていったということになるのか。辰、豆六」 「へえ、へえ」 「この絵をどう思う。根岸の寮の屏《びよう》風《ぶ》にかいてあったのと、おなじ人間の筆だろうか」 「そうですねえ。車坂の兄い、かたちは根岸のとおんなじですねえ」 「そやけど、兄い、根岸の屏風にかいてあったんは、もっと上《じよう》手《ず》やったんとちがいまっか」 「それに、この紅は役者が顔をつくるのにつかう紅じゃねえのかな」 「兄い、あっしもそれに気がついたから、鏡台のひきだしにあった鶴代の紅筆を調べてみたんですが、そいつがべっとり紅でぬれてるんです」 「ふうむ。それじゃ、猫々亭のじじい、わざわざ楽屋まで片目のねこをかきにきたのか」 「そやけど、親分、そないなことしたら、すぐひとめにつくやおまへんか」 「ときに、車坂の、こんや楽屋で寿恵次のお通夜があるということだが……」 「はい、あっしが楽屋を出ようとするとき、寿恵次の死体がかつぎこまれてきました」 「ああ、そう。それじゃ、おいらもこれから出向いていって、お通夜の席につらなろうか。なにかまた気がつくこともあるかもしれねえ」 「兄い、そうしてくださりゃ、あっしもどんなに心《こころ》丈《じよう》夫《ぶ》かしれません」  きょうの昼間とうってかわって、車坂の長吉が神妙にその場へ手をついたから、辰と豆六はおもわず顔を見合わせた。 帰ってきた鶴代   ——数馬は底意地の悪いせせら笑い——  いまとちがって、むかしのお通夜は義理がたい。  文字どおり、夜を徹して、仏の供《く》養《よう》に名をかりて、飲みあかし、語りあかすのである。  だから、佐七が長吉の案内で山下の小屋へやってきたのは、夜ももう四つ(十時)過ぎだったが、それからでもじゅうぶんまにあうのである。  ところが、四人が楽屋口までさしかかったとき、なかをうかがっていたらしい人影が、パッとそこをはなれると、むこうのほうへバタバタバタ。 「だれだッ、待てッ」  長吉が声をかけると、あいてはいっそう足をはやめて、山下のくらがりを逃げていく。 「怪しいやつ。豆六、こい!」 「おっとがってんや」  辰と豆六はあと追っかけた。  そのあとから、佐七と車坂の長吉が、ちょうちんの灯をかばいながら追っていく。  くせ者は案外逃げ足のはやくない男で、ものの一町もいったところで、辰と豆六が追いついた。  なんだかひき臼《うす》みたいなからだをした男である。 「おい、ちょっと待て待て、待てといったら、おい、待たねえか」  と、辰はふとい腰にむしゃぶりついたが、あいては委《い》細《さい》かまわず、辰のからだを引きずったまま、二、三間《げん》ズルズルズル。いや、たいへんな力である。 「わっ、こ、こ、こりゃえらい力だ。ま、豆六、おまえも手伝ってくれ」 「なんや、兄い、だらしがないやおまへんか。どれ、そんならわてが手《て》捕《ど》りにしたろか。くせ者、覚悟!」  と、これまた腰にむしゃぶりついたが、そのとたん、くせ者の左の腕で首をまかれ、 「わっ、く、苦しい。息がつまるウ、助けてえ……助けておくれやす」  いやはや、このほうがよっぽどだらしがない。そこへ佐七と長吉が駆けつけてきて、左右からくせ者の顔へちょうちんをさしつけたが、 「あ、お、おまえは……」 「車坂の、おまえこの男をしっているのか」 「は、はい……辰つぁん、豆さん、そこをはなしてやっておくんなさい。こいつなら、べつに怪しいやつじゃございません。ちょくちょくこのへんへまわってくる男で……」 「なにをするやつだ」 「なあに、ひとり相撲《 ず も う》の関《せき》取《とり》なんで。なんでも、名前は捨《すて》松《まつ》とかいいましたっけ」  なんとそいつは、ゆうべ根岸の化《ば》け物《もの》屋敷で寿恵次のからだを抱いて、うえになり、したになり、狂態のかぎりをつくした男である。 「しかし、ひとり相撲の関取が、なんだっていまじぶん、こんなところをうろついているんだ」 「なあに、お通夜があるときいて、残りもんでもあさりにきたんでしょう。少し足りないほうですからね」  そういえば、辰と豆六に左右から両手をとられた捨松は、うわめづかいに一同の顔色をよむように見まわしているのだが、その表情には、どこかタガのゆるんだところがある。 「よし、辰、豆六、車坂のがああいってるんだから、その手をはなしてやれ」 「へえ」  辰と豆六が手をはなすと、捨松はのっそりとむきをかえたが、やがて、脱《だつ》兎《と》のごとくといいたいが、のろのろとやみのなかへ駆けこんだ。 「バカなやつ!」  車坂の長吉は舌打ちすると、 「さあ、兄い、お供しましょう」  一同が楽屋のなかへはいっていくと、酒はもうじゅうぶんまわっていて、なかにはそろそろ管《くだ》を巻いているやつもある。  なかでも酒癖のわるいのは、頭取の米三郎である。  ふだんはいたっておとなしやかで、鶴寿のしりにしかれっぱなしでいる男だが、酔うと青くなるほうで、妙にひとにからんでくる。こんやは長吉にからみはじめた。 「ときによう、車坂の親分、こうして寿恵次が殺され、いままた、一座の花形役者、鶴代ちゃんがかどわかされたというのに、おまはん、こんなところでのんきらしく、線《せん》香《こう》くせえ煙を吸っていていいんですかえ」  長吉はにが笑いをしながら、 「ほんとに、頭取、おまえさんのいうとおりだ。おいらも心中やきもきしてるんだが、鶴代がどっちの方角へつれていかれたものか、かいもく見当せえつかねえんだから、それで弱りきっているんだ。頭取、おまえさん、なにかしってやアしないか」 「ちっ、そんなことおれがしるもんか。猫々亭の相《あい》棒《ぼう》じゃあるめえし」 「それじゃ動きようもねえんでな」 「そんなのんきなことをいっていて、いまごろはかわいそうに、鶴代ちゃん、猫々亭たらいうじじいにさんざんおもちゃにされたあげく、あんぐり乳房をかみきられ、朱《あけ》にそまってあえない最《さい》期《ご》……」  なるほど、悪い酒である。 「これ、米さん」  たまりかねたように上座からヒステリックな声をかけたのは、座がしらの市川鶴《かく》寿《じゆ》。  まゆねのあたりがピリピリと怒りにふるえている。 「そんな不吉なことをいうもんじゃないよ、車坂の身にもなっておあげな」 「へえッ!」  つるのひと声とはこのことだ。  米三郎はかめの子のように首をすくめて、それきり黙りこんだかと思うと、青い顔をますます青くして、しきりに手《て》酌《じやく》でのんでいる。  一座はちょっとしらけかかって、みんなおたがいに、不安そうな顔を見合わせている。  場合が場合だけに、さすがの辰や豆六も、得意のだじゃれもとび出さない。  ただ神妙にのんでいる。  こうして、しばらく一座はしいんとしずまりかえっていたが、その沈黙を破って、むこうから佐七に声をかけたのは、用心棒の諸口数馬だ。 「ときに、お玉が池の」 「へえ」 「おまえさんは惜しいことをしたよ。おとといはひと足ちがいで猫々亭に会いそこなったが、ありゃおまえさんに会わせたかったな」 「先生はこのあいだもそんなことおっしゃいましたが、なにか気がおつきになったことでも……?」 「いやなあ、いまから思えばおかしいことだらけだ。しかし、われわれ素《しろ》人《うと》の目じゃ、ただおかしいと思っただけだが、おまえさんみたいなそのみちでも腕《うで》利《き》きの御用聞きが会っていりゃ、もっとはっきりしたことがわかったんじゃねえかと思うんだ」 「もっとはっきりしたこととおっしゃいますと……?」 「たとえば、猫々亭というじじいがなにをたくらんでいるのかというようなことだな。上《かみ》方《がた》からくだってきたばかりだといっていたが、いまから思うと、あいつの上方ことば、なんだか妙にギコチなかった。それに、根岸の寮《りよう》のことをしっているのもおかしい」 「いや、そのことなら、さっきここにいる辰と豆六が調べてきたんですが、猫々亭独眼斎という男、そうとう江戸の事情に明るいやつのようですね」 「米さん!」  と、そのときまた上座からかみつきそうな声をかけたのは、座がしらの市川鶴寿である。 「その男をこの楽屋へ通したのはおまえさんだろ。おまえさん、なにか気がつかなかったかえ」 「へえ、いっこうにどうも。わたしゃこのとおりのぼんやりですから」  さっき長吉にからんでいた勢いはどこへやら、この男、女房のまえへ出ると青《あお》菜《な》に塩である。 「おまえさん、それで頭取の役目がすむと思っているのかい。ことの起こりは、みんなおまえさんだよ。わずかの鼻薬に目がくれて、素《す》性《じよう》もしれぬあやしい男を女ばかりの楽屋へ通すからこんなことになるんだ。このうえ、鶴代ちゃんの身にもしものことがあったら、わたしゃ世間に会わせる顔がありませんよ」 「まあ、まあ、師匠、過ぎ去ったことはしかたがねえ。それに、鶴代がまだどうしたともわからねえんだから、あんまりきつくいわぬがいい。それより、先生、先生はきょう根岸からこちらへかえってから、このひとたちに片目のねこのことをお話しになりましたか」 「ああ、そりゃもちろん話したよ。絵もかいてみせた。こんご気をつけなきゃいけないからな。だけど、お玉が池の、それがどうかしたのかな」 「いえ、ちょっとお尋《たず》ねしただけのことで」  佐七はなぜかことばをにごした。  こうして、佐七と辰と豆六がこの席へつらなってからでも、もう一《いつ》刻《とき》(二時間)。時刻はすでに九つ(十二時)を過ぎている。  これだけ義理をはたせばもうよかろうと、佐七が座を立とうとしているやさきである。  楽屋口に足音が聞こえたかと思うと、 「ええ、ちょっとお尋ねいたしますが、市川鶴寿さんの小屋はこちらでございますか」 「あいよ、鶴寿の小屋はこちらだが、どなただえ」  米三郎が声をかけると、 「あっしは駕《か》籠《ご》屋《や》でございますが、ここにひとり若いお女中をおつれしてるんですが……」 「えっ、若い女?……」  と、一座ははじかれたように総立ちになったが、そのせんとうに立ったのは車坂の長吉。バラバラと表へとび出すと、一挺の駕籠がとまっており、駕籠のなかには市川鶴代が、すっかり取り乱したかっこうで、ぐったりと首をうなだれている。 「こ、こ、殺されているのか」 「そうじゃございません。駕籠にのると、すぐ気を失っておしまいなさいましたんで。よっぽど怖《こわ》い目におあいになったようですね」  駕籠屋のことばを待つまでもなく、鶴代がこんやどんな目にあわされたのか、取り乱したそのかっこうからしても想像がつく。  鬘《かつら》下《した》地《じ》の髷《まげ》はぐらぐらにかたむいて、衣《え》紋《もん》の乱れたきものにはところどころかぎ裂きができ、しかも足もどろだらけの足《た》袋《び》はだし。  佐七はふっとそばに立っている諸口数馬をふりかえったが、そのときの数馬の表情には、ひじょうに印象的なものがあった。  それは文字どおり、あっけにとられた顔色だった。  とても信じられないという表情なのである。  しかし、その顔色のうらには、なにかしら底意地の悪いせせら笑いのようなものが秘められているのが、佐七の胸をつよく打った。 怪異蛇《じや》骨《こつ》長屋   ——鼻から口から血を吹き出して—— 「駕《か》籠《ご》屋《や》、どこからあのひとを乗っけてきたんだ」  なにはともあれ、鶴代を楽屋へはこびこむと、駕籠屋にむかってこう切り出したのは佐七である。 「へえ、あっしどもは、黒門町の裏《うら》店《だな》にすんでいる駕籠屋で、あっしは太《た》吉《きち》、こいつは仁《に》助《すけ》というんですが、こんや本《ほん》郷《ごう》まで客を送っていったかえりがけ……」 「湯島の切り通しまでやってくると、天《てん》神《じん》さんの裏門のあたりから、ふらふらっと、あのねえさんがとび出してきて……」 「ちょうど裏門の外に常夜灯が立ってるんですが、もしもし、駕籠屋さん……と、声をかけながら、常夜灯のあかりのなかから出てきたんで」 「なるほど。それで……?」 「へえ、あっしどもがギョッとして、立ちすくんでおりますと、悪者に追われております、後《ご》生《しよう》ですから山下の市川鶴寿の小屋まで送ってくださいと、それだけいうと、そのまま気をうしなってしまったんです」  佐七はそれからしつこく質問をつづけたが、ふたりともそれ以上のことはしらないらしく、ただ頭をかくばかりである。  酒《さか》手《て》をはずんで駕籠屋をかえすと、佐七は車坂の長吉といっしょに楽屋へかえってきたが、鶴代はまだ気をうしなったまま、正《しよう》体《たい》もなくよこたわっている。  そばで頭取の米三郎が、としうえ女房の市川鶴寿からまたガミガミとあたまごなしに小《こ》言《ごと》をくらって小さくなっている。  佐七はもうとりなそうともせず、鶴代の寝顔を見まもっていたが、そのときとつぜん、鶴代がはげしく手足をふるわせたかと思うと、そのくちびるをついて出たのは、恐怖にふるえるうわごとである。 「いや、いや、かんにんして! そ、そんないやらしいこと、かんにんして!」  と、必死の声で口走ったかと思うと、 「そ、そんなあさましいところを絵にかくなんて……猫々亭さん、そ、それじゃ約束がちがいますよ。捨松! お放し、お放しったらお放し! あたしに指一本触れると承知しないよ。あれ、あれ、あ、あ、あ……」  そのとたん、長吉がなに思ったのか猿《えん》臂《ぴ》をのばして、あわてて鶴代の口にふたをした。  捨松……ときいて、佐七ははっと辰や豆六と顔見合わせる。  捨松といえば、さっき楽屋の外をうろついていた男ではないか。すると、鶴代はあの薄《うす》汚《ぎたな》いこじき物もらいといっしょだったのか。  ひょっとすると、鶴代はその男に犯《おか》されたのではないか。そして、鶴代が犯されているところを、猫々亭と名のる浮世絵師が絵にかいていたのではないか。  中村玉枝や市川桃蔵、それから花代の三人にも、だいたいおなじことが想像されたらしく、おびえきった顔色で、たがいに手を握りあっていた。  諸口数馬はあいかわらずちびりちびりと茶わん酒のふちをなめながら、ひとをくったような顔色で一同の顔を見まわしている。  長吉の手で口にふたをされた鶴代は、しばらく苦しそうに顔を左右にふっていたが、やがてがっくり肩をおとすと、また昏《こん》々《こん》と眠りはじめた。  長吉は沈痛な顔をあげると、 「お玉が池の兄い、こんやはこのままお引きとりねがえませんか。鶴代もあけがたごろまでには気を取りもどしましょう。そしたら、いろいろ事情をききとり、またごあいさつにあがります」 「ああ、そうしよう。いや、われわればかりじゃなく、師匠、諸口先生。これだけ勤めりゃ寿恵次にも義理はすんだというもの。あとは車坂のにまかせて、ここらでお開きにしようじゃありませんか」  それは一同も望むところであった。  こうして、長吉と鶴代を仏のそばにのこして、一同が鶴寿の楽屋を出たのは、夜ももうよほど更《ふ》けて、九つ半(午前一時)ごろのことだった。 「ねえ、親分」  お玉が池へのかえりのみちみち、辰はがらにもなく考えぶかそうな顔色で、 「さっきの鶴代のうわごとからかんがえると、猫々亭のかく絵というなア、ふつうの一枚絵じゃなく、男女和合のまくら絵じゃねえんですか」 「そやそや、ゆんべは寿恵次が槍《やり》玉《だま》にあげられ、こんや鶴代が人《ひと》身《み》御《ご》供《くう》にされよったんや。そして、男の役を捨松が勤めよったんやおまへんやろか」  佐七もふっと、さっき出会った捨松という男の脂《あぶら》切《ぎ》ったからだを思い出していた。  あいつなら、そんなあさましいことをやってのけないものでもない。 「しかし、辰、豆六、捨松がこんや鶴代といっしょだったとしたら、さっき楽屋口から逃げ出したあのまえかえ、それともあとか」 「そりゃまえでしょう。途中で鶴代に逃げられたので、猫々亭のいいつけで、こっそりようすを見にきたんじゃありますめえか」 「いや、あのあとかてかましまへんやないか。捨松が楽屋口から逃げ出してから、鶴代が駕籠でかつぎこまれてくるまで、たっぷり一《いつ》刻《とき》(二時間)はおましたさかいにな。そのまに、鶴代は猫々亭の目のまえで、さんざん捨松におもちゃにされよったんやおまへんやろか」 「しかし、辰、豆六、この話はしばらくおあずけとしておこうよ。いずれ、鶴代が正《しよう》気《き》にかえって、もう少しくわしい事情がわかるまではな」  佐七はなんとなくおもい胸を抱いて、その晩はそのままお玉が池へかえったが、さて、その翌日のこと、おもわず朝を寝過ごした三人が、朝昼兼帯の飯を食っていると、表にあたっておとなうひとの声。 「こちらお玉が池の親分さんのお住まいだときいて伺いました。ちょっと顔をかしておくんなさいまし」 「あいよ、どなた……?」  立って表の格《こう》子《し》をひらいたお粂《くめ》は、おもわずギョッと顔色かえた。  ボロボロの墨《すみ》染《ぞ》めの衣に、ふとい丸《まる》絎《ぐけ》のたすきを十字にあやどり、坊《ぼう》主《ず》頭《あたま》にむこうはち巻きの弁慶が、つくりものの鉄棒に、張り子のつり鐘を背負うて立っている。  そのころ、こういういっぷうかわったこじき物もらいのたぐいがいたもので、比《ひ》叡《えい》山《ざん》建《こん》立《りゆう》とか称して、一文二文ともらって歩くのである。  お粂はまゆをひそめて、 「なんだねえ、おまえさん。物もらいのくせに、仰《ぎよう》山《さん》そうに声をかけるなんて」 「ねえさん、そうじゃねえんで。あっしゃ車坂の長吉親分のお使いでめえりましたもんで」 「車坂の長吉さん……?」  筒《つつ》抜《ぬ》けにきこえてくる弁慶のどら声に、家のなかでは三人が、ふっと箸《はし》をやすめて耳をかたむけた。 「へえ、こちらの親分さんに、これからすぐに浅草の蛇《じや》骨《こつ》長屋へおいでくださるようにとのおことづけで。それではこれで……」 「あれ、ちょいとお待ちよ」  お粂がいくらかひねってわたすと、 「これはこれは、ありがとうございます。それでは、いまのこと、親分さんによろしくお伝えくださいまし。比叡山建立、比叡山建立」  張り子のつり鐘をかついだ物もらいの弁慶は、大声に呼ばわりながら、足ばやにいってしまった。 「お粂、いまの使いは、たしか浅草の蛇骨長屋とかいったな」 「あいよ、おまえさん、しっておいでかえ」 「おお、しっている。先年長屋を建てなおすについて、土を掘りくりかえしたところが、大きなへびの骨が出たとかで有名なところだ」 「親分、なんでもこじき物もらいみてえな連中ばっかり巣食ってる長屋だそうですよ」 「そやそや、ひょっとすると、ひとり相撲《 ず も う》の捨松が見つかったんやおまへんやろか」 「ようし、辰、豆六、はやく飯を食っちまえ」  と、それからまもなく、お玉が池をとび出した三人が、浅草の蛇骨長屋へかけつけたのは、それから小《こ》半《はん》刻《とき》(小一時間)ほどのちのこと。  長屋の入り口につくと、素《す》膚《はだ》にボロボロのひとえを着て、荒なわを腰にまいた太っちょが立っていた。  はだけた胸から、腕から脛《すね》から、くまのような毛がいちめんに密生している。  これが物もらいに出るときは、からだじゅうに鍋《なべ》墨《ずみ》をぬり、腰に菰《こも》をまき、丹《たん》波《ば》篠《ささ》山《やま》でとれた荒ぐまでござアいと、町中をねりあるくのである。 「これは、お玉が池の親分さんでございますか。車坂の親分さんがお待ちかねで」 「いったい、なにごとがあったんだえ」 「いえ、それは親分さんの目でごらんください」  迷路のようにせまい、ぬかるんだ路《ろ》地《じ》へはいると、プーンと、異臭が鼻をつく。  雨戸も障《しよう》子《じ》もない両側の小屋では、老若男女、ほとんど腰のもの一枚きりである。  やがて、奥まった小屋のまえまでくると、非人のかまぼこ小屋のようなむしろの垂れをまくって、車坂の長吉がひきつったような顔を出した。 「あっ、お玉が池の兄い、よくきておくんなすった。猫々亭のじじい、ひどいことをやりゃアがった」  小屋のなかは四畳半のひと間っきりで、すみのほうに鍋《なべ》釜《かま》七《しち》輪《りん》に炭《すみ》俵《だわら》。  やっと身をよこたえるに足《た》るむしろのうえに、せんべい布《ぶ》団《とん》がまくれあがっていて、そこに首に荒なわをまきつけられた捨松が、鼻から口から血を吹きだして、虚《こ》空《くう》をつかんで死んでいた。 空き屋敷の一夜   ——女というものはあさましいもので——  いままでに車坂の長吉が調べておいたところによると、捨松が殺害された顛《てん》末《まつ》というのは、だいたいつぎのとおりらしい。  けさははやくこの長屋で猫《びよう》 々《びよう》 亭《てい》の姿を見かけたものが四、五人あった。猫々亭がこの長屋へ姿をあらわしたのは、けさはじめてではなく、まえにも二、三度、捨松を訪ねてきたことがあるそうである。  猫々亭がけさやってきたのは、五つ(八時)ごろのことで、働き手の男たちはもう出払ったところだったが、ちかごろみいりのいいらしい捨松は、垂れをおろしたまま、朝寝坊をきめこんでいたらしい。  猫々亭はその垂れのなかへはいりこんで、しばらくそこにいたようだが、やがてなかから出てくると、居合わせた隣《となり》のおかみさんにむかって、 「捨松のやつ、またゆうべ、どこかで女とふざけてきたにちがいない。いくら起こしても起きないから、またのちほどやってくる」  と、そういいおいて、猫々亭はコトコトと長屋を立ち去っていったというのである。 「あっしもときどきこの男が山下のほうへもまわってくるので、ひとり相撲の関取で、名まえも捨松と、そこまではしっておりました。しかし、どこに巣くっているのか、そこまではしらなかったんです。それをけさになってやっとつきとめ、訪ねてくるとこのしまつで……兄《あに》い、すまねえ。こんなことなら、ゆうべあのとき取りおさえてしまえばよかったんだが……」 「なあに、過ぎ去ったことはしかたがねえ。そう気にしねえほうがいい。それより、猫々亭はこの男を、いったいどうしようとしていたんだろうな」 「さあ、それなんですがね。それについて、ここにいる丹《たん》波《ば》篠《ささ》山《やま》の荒ぐまがうすうすきいているそうです。荒ぐま、おまえの口から申し上げろ」 「へえ、それがおかしな話なんで……」  丹波篠山の荒ぐまが、捨松からきいた話だといって打ち明けたところによると、だいたいゆうべ辰や豆六が想像したとおりだったらしい。  猫々亭独眼斎というのは、浮世絵師は浮世絵師でも、ふつうの浮世絵師ではなく、男女の秘《ひ》戯《ぎ》をえがくのを専門とする絵師らしい。  ところが、かれの主張するところによると、世間に流《る》布《ふ》するそれらの絵には、男と女の手《て》脚《あし》のからみあいに、どうも不自然なところがある。  だから、じぶんは正《しよう》の場面をうつしとって、もっと自然にえがきたいと、さてこそ、男のモデルとしてえらばれたのが捨松らしい。 「だから、捨松のやつ、うれしがって、のろけていやアがったんです。女といろいろうめえことをさせてもらったうえ、たんまりご祝《しゆう》儀《ぎ》がもらえるんだから、こんなうまい商売はねえって……」  佐七は、そこにあおむけの大の字になってくびり殺されている捨松の死体に目をやった。  捨松はふんどし一本の裸でねているところを、荒なわでくびり殺されたのである。  したがって、たくましい全身が露出している。  ふとい首、ひろい肩幅、厚い胸板、がっちりとした腰から臀《でん》部《ぶ》の肉付き、胸から下っ腹へかけて密生しているくまのような巻き毛も、そういう扇《せん》情《じよう》的《てき》な秘画の主人公にはうってつけだったかもしれない。  だいいち、使いべりしないからだがいい。  このからだなら、猫々亭独眼斎とやらいうあやしげなじじいの要求にこたえて、いくらでもよろこんで酷《こく》使《し》にたえたことだろう。ただし、あいてをつとめる女こそ災難だったろうけれど。 「いえ、ところが、女のほうでも承知のうえだったというんで」 「なんだ、それじゃ捨松がほんとうにそんなあさましいことをやってのけたのを、おまえはあいつからきいているのか」 「へえ、あっしのきいてるだけでも、いままでに三度はあります」 「そうして、あいてはどういう女だ」 「初《しよ》手《て》は本《ほん》所《じよ》吉《よし》田《だ》町《ちよう》の夜《よ》鷹《たか》宿《やど》、二度めは小《こ》塚《づか》っ原《ぱら》のすべた女《じよ》郎《ろう》、三度めはおもむきをかえて苫《とま》舟《ぶね》のなか、あいては舟《ふな》饅《まん》頭《じゆう》だったそうですが、いつも多分の祝儀をはずんで、納《なつ》得《とく》ずくだったという話で」  いま荒ぐまのあげた吉田町といい、小塚っ原といい、さては舟饅頭というのは、当時の江戸ではもっとも下等な売《ばい》女《た》たちである。 「わかった、わかった。親分、猫々亭のやつ、さいしょはそうして納得ずくの女をあてがい、捨松のやつを安心させておいて……」 「そやそや、それからだんだん奥の手出して、鶴代に手をのばしてきよったんや」  といいかけて、豆六はあわててはたと口をつぐんだ。車坂の長吉の顔色のあまりにも険《けわ》しいことに気がついたからである。 「ときに、荒ぐま、おまえはこんど猫々亭に会ったらわかるだろうな」 「ところが、あっしは話にきいているだけで、いままでかけちがって、いちどもそのじいさんに会ってねえんで。親分、そいつのいどころがわかったら、まっさきにこの長屋へしらせておくんなさい」 「しらせたらどうするんだ」 「捨松の敵《かたき》を討ってやります。ねえ、親分、世間のやつら、蛇骨長屋に住んでるってえだけで、あっしらにうしろ指をさしゃアがる。しかし、この長屋にゃ悪いやつはひとりもおりません。貧乏こそしておれ、悪人はいやアしません。とりわけ捨松はいいやつでした。少し抜けてるくらいかわいいやつでした。それがさんざんあさましい道具につかわれ、おもちゃにされたあげくのはてにゃ、野《の》良《ら》犬《いぬ》みてえに荒なわでくびり殺されたとあっちゃ、あっしゃ腹の底が煮《に》えくりかえるほどくやしゅうございます」  それがこういう底辺に住んでいる男たちの友情というものだろうか。  丹波篠山の荒ぐまは、鬼の目にも涙というやつで、握りこぶしで鼻をこすった。 「よし、わかった。おまえの気持ちはよくわかる。しかし、敵討ちならお上《かみ》の手にまかせておけ。おめえたち、かってに手を出すな。どれ、それじゃ、車坂の、ボツボツここを出ようじゃねえか」  と、異臭鼻をつく蛇骨長屋を出ると、人形佐七と辰と豆六は、おもわず大きく息を吐いた。 「ときに、車坂の、鶴代はそのごどうだえ」 「はい、兄い」  目を血走らせた長吉は、きっとくちびるをかみしめた。 「車坂の兄い、鶴代ちゃんはゆうべ捨松にさんざんおもちゃにされたんじゃ」 「これ、辰、口を慎《つつし》まねえか」 「いいえ、兄い、いいんです。どうせゆうべのうわごとで、みんなにしれてしまいました。とんだやつに魅《み》入《い》られて、あいつもかわいそうなことをしました」 「いま、どうしてる」 「下《した》谷《や》一丁目の宿にふせっているはずです。兄い、すみませんが、ひとつ見舞ってやってください。あっしゃちょっとまわらねばならぬところがございますから、きょうはこれで失礼を」 「まわらねばならぬところがあるって、おまえなにか当てでもあるのか」 「鶴代がゆうべ連れこまれたのは、どうやら本郷へんの空き屋敷らしいんです。あっしゃゆうべから脚を擂《すり》粉《こ》木《ぎ》にしてその空き屋敷をさがしてるんですが、これからもちょっといってまいります」  長吉はひとに顔を見られるさえなんとなく気がさすのか、顔をそむけるようにして立ち去っていく。そのうしろ姿を見送って、 「どれ。それじゃひとつ、鶴代を見舞ってやろうじゃねえか」  鶴代は下谷一丁目の荒物屋の離れをかりて、ひとりで住んでいるのだが、三人が訪れたとき、彼女は両のこめかみに頭《ず》痛《つう》膏《こう》の白梅をはって、ひとりでボンヤリ寝床のなかで、うつろの目をみはっていた。  さすがに三人がはいっていくと、鶴代は寝《ね》間《ま》着《き》の上にかい巻きをはおって、寝床のうえに起きなおったが、なにを尋ねても、はじめのうちはただ恥ずかしいとか、あさましいとか、舌かみ切って死んでしまいたいとか、身をもみにもんで泣きむせぶばかり。  ただ、かどわかしにあうまでのいきさつは、こういうことだったらしい。  寿恵次のお通《つ》夜《や》が楽屋で催《もよお》されるときまったので、なにかの支《し》度《たく》をしてこようと、鶴代はいったんこのうちへかえってきた。  すると、十四、五くらいの女の子が、とちゅうで鶴代を待ちぶせしていて、車坂の親分からだといって手紙をわたした。  読んでみると、不忍《しのばずの》池《いけ》のお花畑のそばで待っている、この手紙読みしだいすぐくるように、そして、だれにもこのことをいっちゃいけないと、くどいほど念を押してあったというのである。 「ふむ、ふむ。それで、その手紙というのを、おまえそこに持っているかえ」 「いえ、あの、それが、けさ車坂の兄さんにも聞かれたんですけれど、あたしその手紙を帯にはさんで出たんです。ところが、むこうで、あのけだものに、むりむたいに裸にされたもんですから……」  鶴代はそこで火がついたように真っ赤になり、たもとをかんで泣きむせんだ。 「なるほど。それで、その手紙にだまされて、お花畑へ出向いたんだね」 「はい、まさか、偽《にせ》手紙とは気がつかずに……」 「お花畑へ着いたのは何《なん》刻《どき》ごろ?」 「五つ(八時)少しまえじゃなかったかと思います」 「それからどうした?」 「お花畑のそばは真っ暗でしたけれど、常夜灯がひとつついていたので、そのそばに立って兄さんを待っていました。すると、そこへ見知らぬ駕《か》籠《ご》がやってきて、これへ乗れというんです。わたし寿恵次さんのことを思いだし、急に怖くなってきて、逃げ出そうとしたんですけれど、駕籠かきがいきなりわたしに躍《おど》りかかって……あっというまに、うしろ手に縛りあげられ、目かくしに、さるぐつわまでかまされて……親分さん、それからあとのことは、どうぞお聞きにならないで……」  鶴代はまたわっとそこへ泣き伏した。 「そりゃア、なるべくならば、このままそうっとしておいてやりてえが、これも御用だ、きかにゃならねえこともある。それじゃ、連れこまれた空き屋敷に、猫々亭というじじいと捨松がいたんだな」 「は、はい……」 「おまえ、捨松をしっていたのか」 「はい、ときどき、このへんへも物もらいにまわってまいりますから」 「そこで、おまえが捨松にどんなことをされたか聞かずともよい。それより、おまえがそこを逃げだすまで、捨松はずうっとおまえのそばにいたのか」 「親分さん」  鶴代はくやし涙のいっぱい浮かんだ目をあげて、きっと佐七の顔を見すえると、 「女というものはあさましいものでございます。心のなかではくやしさが一杯でも、あの手この手と、男にいろいろされると、つい……なんどか気が遠くなってしまって……だから、あいつがずうっとわたしのそばにいたのか、とちゅうで座を外《はず》したのか、わたしにはとんとおぼえがございません」 「しかし、それにしても、どうしておまえはぶじに抜け出せたんだ」 「それが、あたしにもよくおぼえがございません。ただわかっていることは、捨松がその場にいなかったらしい、ということだけでございます。あいつがいたら、とても、とても……なんどめかに気をうしなって、やがてまた正気にもどると、そばに猫々亭のじいさんが畳にはいつくばって、なにかかいておりました」 「じじいめ、捨松とおまえのからみあいを、絵にかいていやアがったんだな」 「さあ……そうかもしれません。あたしはそのすきに大急ぎで身支度をはじめましたが、猫々亭はすぐに気がついて、あたしに躍りかかってまいりました。あたしとしては、捨松のバカ力はそら恐ろしゅうございましたが、あんなよぼよぼのじいさんなんか、それほど怖くはございません。しばらくもみあっているうちに、打ちどころでも悪かったのか、じいさんが悶《もん》絶《ぜつ》してしまったので、そのまにやっと逃げ出してきたのでございます」 「それでおまえ、その空き屋敷というのがどのへんだか、おぼえてねえのか」 「はい、それについて、けさも車坂の兄さんにしかられましたが、なにしろ逃げ出すのがせいいっぱい、あとはどこをどう歩いたのか、走ったのか、それすらさっぱりおぼえておりません。あたしゃあの捨松のやつのために、ふぬけのようにされてしまって……」  鶴代はまたあらためて、たもとをかんで泣きに泣いて、泣きむせんだ。  三人はいたましそうに鶴代の項《うなじ》を見守っていたが、やがて辰が慰めがおに、 「鶴代ちゃん、おまえもとんだ災難だったが、しかし、もう安心しなせえ。おまえにとって憎いかたきの捨松は殺されたぜ」 「えっ」  鶴代はギョッとしたように顔をあげると、 「辰つぁん、そ、それはどういうこと……?」 「どういうことちゅうて、猫々亭のじいさんが、生かしておいたら後日の妨《さまた》げとばっかりに、ぐいとひと絞め荒なわで捨松のやつをくびり殺しよったんやがな」  鶴代はあきれたような顔をして、辰と豆六の顔を見くらべていたが、 「あの、親分さん、いま、辰つぁんや豆さんのおっしゃったことは、ほんとのことでございましょうか」 「ああ、ほんとうだ。捨松はけさ、くびり殺された死体となって発見された。下《げ》手《しゆ》人《にん》は猫々亭らしい」 「あの猫々亭が捨松を……あの猫々亭が捨松を……」  鶴代は恐怖におののく目をみはって、あらぬかたを見つめていたが、やがて、 「鶴代、ど、どうした」  左右からつめよる三人の見守るなかで、 「ウーン」  とばかり取りつめてしまったのである。 逢《あい》状《じよう》片目のねこ   ——老人性変質者病いうんだっしゃろ——  この一件はその翌日、読み売りにまでうたわれて、江戸中にパッとひろがったから、さあたいへん、寄るとさわるとこのうわさ。  猫《びよう》 々《びよう》 亭《てい》独《どく》眼《がん》斎《さい》と名のる片目で反《そ》っ歯でねこ背のじじいが、上野山下の女役者をさんざんおもちゃにしたあげく、乳《ち》房《ぶさ》をかみきって殺したばかりか、すぐ翌日、またべつの女がおそわれて、これまたあやうくかみ殺されそうになったというのだから、江戸中の娘《むすめ》新《しん》造《ぞ》がふるえあがったのもむりはない。  このうわさには尾ひれがついて、いや、じっさいに女をおもちゃにするのは、猫々亭というじじいではなく、仁《に》王《おう》様《さま》のようなくっきょうの男が、夜っぴてあの手この手と女をもてあそぶのだそうな。  そこを猫々亭というあやしげな浮世絵師が絵にかきうつすのだそうなというのだから、娘新造がますますふるえあがったのもむりはない。  じっさい、猫々亭というあやしげなじじいが、捨松という白《はく》痴《ち》にちかい男を使って、男女和合の絵を描こうとしていたことはほんとうらしい。  蛇《じや》骨《こつ》長屋の荒ぐまのはなしから、佐七は辰や豆六をつかって、本《ほん》所《じよ》は吉田町の夜《よ》鷹《たか》宿《やど》、小《こ》塚《づか》っ原《ぱら》の岡《おか》場《ば》所《しよ》、さらに、もっぱら水上をかせぎ場としている舟《ふな》饅《まん》頭《じゆう》のもとじめなどを調べさせたが、たしかに、このひと月ほどのあいだに、そういうあやしげなひと組みの客が出入りをしていたというのである。  そういう場合、女といっしょにねるのは、年のわかい相撲《すもう》取《と》りのようにくっきょうなからだをした男のほうで、そいつが女のからだを好きほうだいにむさぼりくらう。  片目で反《そ》っ歯で、ねこ背のじいさまのほうは、いつもそのかたわらで、あやしげな片目を光らせながら、絵筆を走らせているというのである。  むろん、それにはあいかたはいうまでもなく、抱えぬしにも莫《ばく》大《だい》な祝《しゆう》儀《ぎ》が支払われたにはちがいないが、それでいて、その猫々亭独眼斎と名のるあやしげなじじいがほんとうに男と女のからみあいを絵にかいていたかどうか、だれもしるものはない。 「ねえ、親分、猫々亭というじじいは、ほんとにそんな絵をかいていたんでしょうかねえ」 「辰、おまえはそれをどう思う」 「男女和合の絵をかくというのは、世をしのぶ仮の名で、捨松みてえな仁王さまの申し子のような男に女がさんざんおもちゃにされ、絶えいるばかりに取り乱しているところをまぢかに見て、ただそれだけで悦《えつ》に入ってたんじゃねえんでしょうかねえ」 「えらい、兄い、よういやはった。わてもこないだから、そないに思てたとこだすわ。とかく、人間としをとって、あのほうがおとろえてくると、趣味もえげつのうなってくるちゅう話や。こういうのんを、老人性変質者病いうのんとちがいまっか」  豆六はガクがあるから、いうことにもとかく含《がん》蓄《ちく》がある。 「そうだ、そうだ、こりゃ豆六のいうとおりだ。ところが、猫々亭め、だんだん増《ぞう》長《ちよう》しやアがって、からだを売るのが商売の女があいてじゃ、あたりまえすぎて食い足りなくなってきたんでさあ。そこで、すこしは上《じよう》玉《だま》をと、鶴代に目をつけたところが……」 「あにはからんや、やってきたんは鶴代やのうて寿恵次やった。鶴代と寿恵次じゃ、二の町過ぎて三の町、器量もダンチだっさかい、そこで、バカにさらすなとばっかりに、オッパイをあんぐり……」 「かみ切ったのは猫々亭か、捨松か」 「そらどっちでもよろしおまっしゃないか。猫々亭と捨松は、一心同体だったさかいにな」 「しかし、一心同体のその捨松を、なぜまた猫々亭がくびり殺したんだ」 「そりゃ親分、わかってまさあ、下《げ》郎《ろう》は口さがないもの、生かしておいちゃ露《ろ》顕《けん》のもとと……」  佐七はだまって考えこんだ。  佐七もだいたい辰や豆六とおなじ意見なのである。  しかし、ただそれだけのことであろうか。そこにもうひとつ裏があるのではないかと、それが佐七の心にひっかかっているのである。  裏があるとすればなんだろう。  それからもうひとつ、佐七の心にひっかかっているのは、鶴代が誘《ゆう》拐《かい》されて辱《はずかし》めにあった晩、捨松が山下の小屋の楽屋口でウロウロしていたことである。  捨松はなんだってまた、じぶんの思うままになるはずの鶴代のからだをその場に投げ出して、とちゅうで座を外《はず》したのだろうか。  さて、いっぽう、根岸の寮《りよう》の付近はいうまでもなく、鶴代がつれこまれたと思われる本郷から小石川へんへかけての空《あ》き屋敷がかたっぱしから調べられたが、さて、これはと思う線も出なかった。  こうして十日と過ぎ、二十日とたって、時候はもう十一月もなかばを過ぎ、ときおり白いものがちらつく季節になっていた。  十一月十五日、その日はお昼前からチラチラと白いものがちらついていたが、そのなかを傘《かさ》をななめに、上野の山下へやってきたのは佐七である。  例によって例のごとく、辰と豆六がいっしょであることはいうまでもない。  市川鶴寿の小屋の楽屋口から三人がなかへはいっていくと、桃蔵と花代がつまらなさそうに火ばちにしがみついており、車坂の長吉がぼんやり腕組みをしてかんがえこんでいた。  鶴代はあれいらい、世《せ》間《けん》体《てい》を恥じて芝居を休んでおり、そういうところから、ちかごろ長吉との仲にもヒビがはいったらしいといううわさがある。  心なしか長吉も元気がなかった。 「きょうは芝居は休みかえ」 「あら、お玉が池の親分さん、いらっしゃい」  桃蔵はいくらか元気を取りもどした顔色で、 「この雪じゃ、とてもお客さんはいりゃしないわ。しかたがないからお休みにしたの」 「ああ、そうか。車坂の、あいかわらずおまえさん、ここへつめているのかえ」 「お玉《たま》が池《いけ》の兄い、おいら寿《す》恵《え》次《じ》殺しの下《げ》手《しゆ》人《にん》をつかまえねえうちは、夜もおちおち眠れません」 「そりゃまあ、稼《か》業《ぎよう》熱心なのはけっこうなことだが、若いもんが夜も眠れぬようじゃ困るな。ときに、桃蔵、諸《もろ》口《ぐち》先生はきょうは……?」 「きょうはまだお見えになりません」 「玉枝ちゃんはどうしたえ」 「どこからかお座敷がかかってきて、さっき出かけていきました。まあ、みなさん、立っていないで、これでもお敷きなさいまし」  と、桃蔵はそこにあった薄《うす》い座《ざ》布《ぶ》団《とん》をひっくりかえしたが、そのとたん、 「あら!」  と、小さくさけんだので、一同なにげなくそのほうを振りかえってみると、布団のしたに落ちていたのは、一通のふみである。 「あら、まあ、玉枝ちゃんとしたことが、そそっかしい。こんなところへ逢《あい》状《じよう》を落としていったわ。どれ、ひとつ読んでやりましょう」 「桃蔵、そんな罪なまねはよせ」  長吉がとめたが、三枚目の桃蔵はいさいかまわず、おもしろそうに手紙をひろげて読んでいたが、さいごまで巻き紙をひらいたとたん、 「キャーッ!」  と叫んで、巻き紙をそこへ投げ出した。 「ど、どうした、どうした、桃蔵」 「えらい仰《ぎよう》山《さん》な声を出すやないか。なんぞその手紙に、こわいことでも書いておまんのんかいな」 「だって、だって、辰つぁんも豆さんも見てください。これ、ここに片目のねこが……」  桃蔵のことばに、一同がギョッとしてそのほうへ目をやると、 千の字より     玉枝さままいる  と書いた巻き紙の、それからふた折り三折りしたはしっこに、小さくかいてあるのは、紅《べに》のひと筆がきの片目のねこ……それを目にしたとたん、佐七はゾーッと背筋が寒くなるのをおぼえた。 「あ、兄い、お玉が池の兄い」  と、車坂の長吉もひとみをうわずらせて、 「玉枝はこの片目のねこに気がつかなかったんでしょうかねえ」 「玉枝はあて名のところまでしか巻き紙をひらかなかったんだな。ほら、これを見ねえ」  あて名のところまで、ふた折り三折り巻き紙を折ってしまうと、片目のねこは見えないのである。佐七は急いでその手紙を読みなおすと、 「桃蔵、この千の字とはどういう男だ」 「それはおおかた、千太郎さんでございましょう」 「千太郎とはどういう男だ」 「ほら、池《いけ》の端《はた》の生《しよう》薬《やく》屋《や》さんで、柊《ひいらぎ》屋《や》さんの若だんなでございます」  桃蔵にかわって答えたのは花代だが、その顔は藍《あい》をなすったようにおびえてふるえている。 「車坂の、この手紙におびき出されたとすると、玉枝はここに書いてある柳《やなぎ》橋《ばし》の浮《うき》舟《ふね》屋《や》という舟宿へ出向いていったにちがいねえ。おい、桃蔵、花代、玉枝はいつごろここを出かけたのだ」 「はい、ほんのちょっとまえ、いまから四《し》半《はん》刻《とき》(半時間)ほどまえで……」 「ようし、それじゃまだ間にあうかもしれねえ。これからひとつ、追っかけてみようじゃねえか」 「兄い!」  悪い予感でもするのであろうか、車坂の長吉ははやガチガチと歯を鳴らしている。  こうして、人形佐七と辰と豆六、それに車坂の長吉の四人が、一団となって市川鶴寿の楽屋から表へとび出してみると、外はいつか大雪になっていた。 凌《りよう》 辱《じよく》 雪の屋形船   ——猫々亭はこれ見よがしに得々と—— 「あの、柊《ひいらぎ》屋《や》さんの若だんなは、お見えになっていらっしゃいましょうか」 『御舟宿、浮舟屋』  と、行《あん》灯《どん》のかかった店先へ小声でよんではいってきたのは、いうまでもなく中村玉枝だ。  小豆《あずき》色《いろ》のお高《こ》祖《そ》頭《ず》巾《きん》で顔をくるんでいるのは、寒さをよけるためばかりではないであろう。 「ああ、これはようこそお越しでございました。さあさあ、どうぞおはいりくださいまし」  帳場のなかに座って、ぼんやり外の雪を見ていたおかみのお篠《しの》は、帳場から外へ出てくると、 「その若だんなからは、たったいましがたお使いがございました」 「えっ? お使いが……?」 「いえ、いえ、ご心配なことではございません。さいわいこの雪になったによって、趣向をかえて、向《むこう》島《じま》で会おうというお使いでございました。いまちょうど舟が出払っておりますが、おっつけもどってまいりましょう。どうぞこちらへあがってお待ちくださいまし」 「それじゃといって……」  玉枝は心細そうに肩をすぼめて、思わず外をふりかえったが、乗ってきた駕《か》籠《ご》はもうそのへんにすがたも見えず、紛《ふん》々《ぷん》として降りしきる雪が、見つめていると目もくらみそうになる。  みるみるうちに川筋いったい、道も、屋根も、木の枝も、雪の厚さをかさねていって、このようすではどうやら大雪になりそうだ。 「さあさあ、そんなところに立っていらっしゃるとお風《か》邪《ぜ》をめします。こちらへあがって、おあたりなさいまし。いまに舟がもどってまいりましたら、置きごたつの用意もさせますほどに、ぬくぬくと、ほどよう暖まったおからだで、若だんなのところへ会いにいらっしゃいませ。さあ、さあ、どうぞこちらへ……」  商売柄とはいえ、よくしゃべるおかみだが、ちょうどそこへ、舟が一《いつ》隻《せき》かえってきた。 「あれ、ちょうどよい都合でございました。それでは、置きごたつに火をつぎますほどに……」  お篠が外へ出ていくと、雪をつんだ屋《や》形《かた》船《ぶね》は、川へつきだした歩み板にどんと突きあたった。  みると、菅《すげ》笠《がさ》をかぶった船頭は、蓑《みの》を背中にうつむいて、川の水でじゃぶじゃぶ手を洗っている。蓑にも雪がつもっている。 「だれだえ、源どんかえ。ちょうどよいところだったねえ。さっそくですまないが、またひとりお客さんを向島の花月さんへ送ってあげておくれ。大急ぎでたのむよ。わかったかえ」  と、例によってべらべらと浮舟屋のおかみはしゃべりながら、屋形船のなかの置きごたつに火をどっさりとつぎこむと、 「さあさあ、お嬢《じよう》さん、こちらへおいでなさいまし。あれ、この雪のよく降ることわいな」  まったく、目も口もあけておられぬほどの大雪になってきた。  いざなわれるままに中村玉枝も歩み板をわたって、ついなにげなく、屋形船のなかへ乗りこんだ。 「それじゃ、気をつけていっておいでなさいまし。源どん、気をつけてあげておくれ」  これが舟宿のおかみのあいきょうというやつである。おかみが艫《とも》に手をかけて、ぐっとひと押し、 「おお」  と、ことばすくなにこたえて船頭が竿《さお》をさすと、舟はゆらりと歩み板をはなれて、まっしろな雪の舞い狂う大川の中心へ流れていく。  船頭はやがて竿をおいて櫓《ろ》を取りなおしたが、河岸からものの十間《けん》ばかりも離れると、あたりのようすを見まわしたのち、のっそりと屋形のなかへはいってくる。 「船頭さん、なにか用かえ」  玉枝がなにげなく振りかえると、 「ああ、用とも、用とも」  と、船頭は頭にかぶった菅笠からポタポタと雪のしずくを垂らしながら、 「おれはもう、寒くて寒くてしかたがないわ。ひとつおまえのその柔《やわ》膚《はだ》で、ちょっくらわしのからだをあたためておくれでないか」  と、あつかましくものそのそと玉枝のほうへはいよってくるその気味悪さ。 「あれ、おまえさん、なにをいうのです。変なまねをすると、おかみさんにいいつけるよ」 「いいとも、いいとも、いくらでもいいつけるがいい。おれはおまえのそのからだを、骨も砕《くだ》けるばかり抱きしめて、思うぞんぶん柔膚を楽しみたいのだ。なにも逃げることはないわさ」  と、じりじりと玉枝のほうへはいよると、 「逃げようたってこの川のうえ、どこにも逃げる場所はないぞえ。さ、さ、おまえのむっちりしたその乳房を、思うぞんぶんなぶらせておくれ」  と、菅笠とったその顔を見て、玉枝は、 「キャーッ」  と悲鳴をあげた。  その悲鳴は、ちょうどそのときいそぎあしで河岸を通りかかった人形佐七や、辰と豆六、さては車坂の長吉の耳にとどいた。  立ちどまって、おもわずそのほうを振りかえった四人が四人とも、そのとたん、ゾーッと、全身がしびれるような恐怖をおぼえた。  彼《ひ》我《が》の距離約十間《けん》。  舟はいま上《あ》げ潮《しお》に乗っているとみえ、流れもしないで一点に静止している。  障《しよう》子《じ》をあけはなった屋形のなかは、大雪の暮れるにはやく、お篠が気をきかして点じた行《あん》灯《どん》の灯があかあかとあたりを照らしている。  悲鳴をあげたとたん、玉枝は気をうしなったらしい。ぐったりとした玉枝の顔からお高《こ》祖《そ》頭《ず》巾《きん》をむしりとり、醜《みにく》いほおをぴったりよせ、片手をうちぶところふかく差し入れて、わがもの顔に悦《えつ》にいっているのは……。 「お、親分、あれはたしかに、猫《びよう》 々《びよう》 亭《てい》独《どく》眼《がん》斎《さい》という気ちがいじじいだ」 「そや、そや、親分、はよせな、玉枝のやつはあの気ちがいにおもちゃにされてしまいまっせ」 「そうだ、そうだ、猫々亭のやつ、ひょんなことから捨松を殺してしまったので、こんどはじぶんで乗りだしゃアがったんだ」  辰と豆六は、地団太踏んでくやしがったが、あいにくあたりには一隻の舟もない。  車坂の長吉は歯を食いしばって、食いいるように屋形船のなかを見つめている。  まさかこの情景におびえたわけでもあるまいが、全身が石になったように硬《こう》直《ちよく》している。  こうして、河岸にいる一同の凝《ぎよう》視《し》を浴びながら、片手で女の背中を抱いて、片手を女のうちぶところふかく差し入れて、ゆうゆうとして女のだいじなところをもてあそんでいる不《ふ》敵《てき》のくせ者。  鉄ぶちの眼鏡《 め が ね》といい、片目のつぶれたところといい、またおそろしい反《そ》っ歯といい、さらにまた、ずり落ちた蓑《みの》の下からあらわれたねこ背といい、うわさにきいた猫々亭独眼斎にちがいない。 「いっひっひ! いっひっひ!」  猫々亭もこちらの四人に気がついたのか、河岸のほうをふりかえると、気味のわるい声をあげて笑いながら、玉枝が気をうしなっているのをよいことにして、なにもかもむしりとり、全身の膚《はだ》をむきだしにすると、じぶんもすばやく裁《たつ》着《つけ》をぬいだ。  そして、もえにもえた下半身をこれみよがしに露出すると、玉枝を抱いてわがものがおに、得々として無残な凌《りよう》辱《じよく》をくわえはじめた。 「親分、親分、これ以上は見ておれません。あの気ちがいじじい、ほうっておけば玉枝ちゃんをさんざんおもちゃにしたあげく、またあんぐりとオッパイをやりゃアがるにちがいねえ。あっしゃ凍《こご》え死んでも……」  と、辰がすばやく帯をといて、ふんどしいっぽんの裸になったとき、 「やれ、待て、辰、それにゃおよばぬ」  うしろから声をかけられて振りかえると、いつのまにやってきたのか諸口数馬が、おっ取り刀で汗びっしょり、口から白い息を吐いている。 「あっ、おまえさんは諸口先生」  車坂の長吉は、どうしたことか、諸口数馬のすがたをみると、のけぞるばかりに驚いた。  そして、はじかれたように屋形船のほうを振りかえったが、そこには猫々亭がうえからがっきり玉枝を抱いて、気がくるったように躍《やく》動《どう》している。 「車坂の、どうしたんだ。おれの顔をみて、まるで幽霊にでも出会ったような顔をしてるじゃないか。お玉が池、いさいは小屋できいてきた。ここはいちばん、おれにまかせておけ」  それからきっと屋形船のほうへ目を注《そそ》ぐと、 「やい、猫々亭、この色気ちがい。ちょっとこっちを見てみろやい」  数馬の声がきこえたのか、いままで女の胸に顔をうずめていた猫々亭。  ふっと顔をあげてこちらを見たが、とたんに一同、ゾーッと全身に鳥《とり》膚《はだ》が立つような恐怖をおぼえずにはいられなかった。  猫々亭の口からあごへかけて、ぐっしょりと血にまみれてまっ赤である。 「おのれ、化《ば》け物《もの》!」  諸口数馬の右手がさっとおどったかと思うと、猫々亭がわっと叫んでのけぞった。  諸口数馬はおそらくあいてののど笛をねらったのであろうが、いささかねらいが外《はず》れたのか、左の肩にグサッと小《こ》柄《づか》が突っ立っている。  猫々亭はおそろしい顔をしてこちらをにらんだが、こうなると女どころではない。  あわてて裁《たつ》着《つけ》をたくしあげ、情欲にぬれたからだを押し込むと、よろばいながら屋形船のなかからはい出した。  見ると、屋形船の艫《とも》には、舟脚のはやい猪《ちよ》牙《き》舟《ぶね》が一隻もやってある。  はじめからこの男、屋形のなかで目的をとげたら猪牙舟で逃げ出すつもりだったのだ。  猪牙舟に乗りうつった猫々亭が、屋形船とのもやいの綱をといたとき、 「猫々亭、覚悟!」  諸口数馬の右手から、第二の小柄が矢のようにとんだかと思うと、 「ギャーッ」  と、ひきがえるを踏みつぶしたような声を立てて、猫々亭はくなくなと骨を抜かれたように舟底につっぷした。  こんどはどうやら、みごと急所ののど笛に命中したらしいのである。  こうして、屋形船と猪牙舟は、ともに船頭をうしなって、ゆらりゆらりと隅《すみ》田《だ》川《がわ》を漂《ただよ》うていく。  屋形船とそれにもやった猪牙舟と、この凄《せい》惨《さん》な二隻の舟をとりまいて、霏《ひ》々《ひ》として、紛々として、白い雪が舞い狂っていた。 おこもり堂の女   ——鶴代はなぜうそをついたのか——  大雪の一夜があけたその翌朝の、江戸っ子の驚きようといったらなかった。  またしても女がひとり、男におもちゃにされたそのあとで、乳房をかみ切られて殺されたのだ。  しかも、こんどのこの大犯罪は、五人の男の見ているまえで遂《すい》行《こう》されたというのだから、娘、新《しん》造《ぞ》がふるえあがったのもむりはない。  じっさい、あれからまもなく舟を仕立ててただよう屋形船に追いつき、それに乗りうつったとき、人形佐七に辰と豆六、諸口数馬も、車坂の長吉も、おもわず顔をそむけずにはいられなかった。  あの怪物の顔を見たとたん、恐怖のあまり気をうしなってしまったのが、玉枝にとっては仕合わせだったかもしれない。  夜《よ》目《め》遠《とお》目《め》、それにくるめく雪のなか、さっきはハッキリわからなかったが、こうして現場をのぞいてみると、玉枝はほとんど裸にされていた。  しかも、下《げ》手《しゆ》人《にん》はそのからだに、このうえもない暴行をくわえながら、そのさなかに女の乳房を食いちぎっているのだ。  つまり、玉枝はたとえ気をうしなっていたとはいえ、生きながらにしてかみ殺されているのである。 「辰《たつ》、豆六」  と、諸口数馬は血ぶるいをするようなかっこうで辰と豆六をふりかえると、 「おまえたちは、根岸の一件も見たはずだが、こりゃ寿《す》恵《え》次《じ》のときとすっかりおんなじ手口だなあ」 「へえ、先生。あっしもいまそれを考えていたところなんですが、それじゃ、先生」 「寿恵次もおもちゃにされたあとでかみ殺されたんとちごて、おもちゃにされてるさいちゅうに……?」 「こんどのことから判断すると、そういうことになってくるな。車坂の、おまえさんも寿恵次の死体を見たはずだが、それについてどう思うな」 「おいらにゃ、な、なにもわからねえ。おいらにゃ、なんにもわからねえ」  長吉は両の手で鬢《びん》の毛をかきむしっている。目はつりあがり、くちびるはわなわなふるえ、全身があらしのまえの木の葉のようにそよいでいる。  佐七はおもわず辰や豆六と顔見合わせて、 「まあ、まあ、車坂の、そうおめえのように気ばかり高ぶらせてもしかたがねえ。それより、先生、猫々亭はどうしたでしょうねえ」 「猫々亭か。あいつはいまごろ猪《ちよ》牙《き》の舟底で冷たくなってのびているにちがいねえ。二本目はたしかにのど笛へ命中したからな」 「よし、辰、豆六、ここはこのまま町のお役人衆にまかせておいて、われわれはひとつ、猫々亭のゆくえを探そうじゃねえか」  だが、その夜はとうとう猫々亭をのせた猪牙舟は見つからなかった。  それが見つかったのは、大雪の一夜が明けた翌十一月十六日の朝のこと。  その猪牙舟は、永《えい》代《たい》橋《ばし》より少ししもての葭《よし》の浮《う》き洲《す》にのりあげて、ゆらりゆらりと揺《ゆ》れているのを、佃《つくだ》の漁師が発見したのである。  知らせをきいた人形佐七が、永代橋ぎわから舟を仕立てて、葭の浮き洲へこぎよせていくと、ちょうど上《かみ》手《て》から、車坂の長吉も舟でやってきた。 「おお、車坂の、ちょうどよいところへやってきた。いっしょに死体を調べようじゃねえか」 「あ、兄い」  車坂の長吉は、はやもう目がつりあがっている。  見ると、葭の浮き洲にのりあげた猪牙舟の舟底にうつぶせに倒れているのは、見おぼえのある独《こ》楽《ま》散《ち》らしの甚《じん》平《べい》をきたねこ背の男。 「辰、豆六、あの死体を調べてみろ」 「おっと、がってんだ」  辰と豆六はむこうの舟に乗りうつると、 「親分、諸口先生がこんなみごとなお手並みとは、まったく恐れいりましたね。ほら、ごらんなせえ。もののみごとにのど笛を……」  と、辰が死体を抱きおこしたとき、頭《ず》巾《きん》と鉄ぶちの眼鏡《 め が ね》がとれたばかりか、水《み》戸《と》の黄《こう》門《もん》さんみたいなあごひげが半分もげて落ちそうになった。 「あれ、親分、こらつけひげだっせ」  豆六はすばやくつけひげをむしり取って、あらためてあいての顔を見直したが、とたんに辰と豆六のくちびるから、世にも意外なおどろきの声が突っ走った。 「わっ、お、親分、こ、こ、こりゃ……」 「頭《とう》取《どり》の米《よね》三《さぶ》郎《ろう》や!」 「なに?」  佐七がこちらの舷《ふなべり》からぐっとばかりに身を乗りだしてのぞいてみると、辰と豆六に左右から抱きおこされているその男こそ、たしかに市川鶴《かく》寿《じゆ》の若きつばめ、あの頭取の米三郎ではないか。  さあ、なにがなんだかわからなくなってきた。  頭取の米三郎といえば、はじめて猫々亭独眼斎が市川鶴寿の楽屋へ訪ねてきたとき、その場に居合わせた男ではないか。  げんに、わずかの鼻《はな》薬《ぐすり》に目がくらんで、素《す》性《じよう》もしれないあやしい男を女ばかりの楽屋へ通したというところから、女房の座がしら鶴寿にさんざん油をしぼられてきた男である。  しかし、いま現実に猪牙舟のなかに倒れているのは、米三郎にちがいなかった。  鬘《かつら》のうえに頭巾をかぶり、鉄ぶちの眼鏡をかけ、片目を蝋《ろう》でぬりつぶし、鼻の穴につめものをして大きくひろげ、白いつけひげをして、猫々亭になりすましているのは、たしかに頭取の米三郎。  しかも、そののど笛に突っ立っているのは、たしかにゆうべ諸口数馬が投げつけた手《しゆ》練《れん》の小《こ》柄《づか》にちがいないのだから、そうするとゆうベ一同の目のまえで中村玉枝を犯《おか》したばかりか、乳房をかみ切って殺した男も、米三郎ということになるのではないか。  しかも、ゆうべの手口は、このあいだの根岸の寮《りよう》の手口とおなじとみられているのだから、そうすると、寿恵次殺しの下手人も米三郎ということになる。 「車坂の、こりゃアいったい、どういうことなんだ」 「兄い、おいらにもわからねえ。おいらにゃなにがなんだかわからねえ」  車坂の長吉は両手で小《こ》鬢《びん》をかきむしって、まるで気が狂ったような目つきであった。  こうして、この一件は、おおくの疑問をはらんだまま、解決は後日にとりのこされた。  中村玉枝を殺したのが米三郎だときいたとき、女房の市川鶴寿は、 「そんなバカな! そんなバカな! あの意《い》気《く》地《じ》なしの米さんに、そんな大それたことができるもんか」  と、狂気のごとくいきり立ったが、しかし、現実の事態はどうしようもなかった。  しかし、それではほんものの猫々亭はどうしたのだろうか。  いや、いや、いや。  はたして、猫々亭独眼斎などと名乗る浮世絵師が、ほんとにこの世に存在するのであろうか。  それとも、あれもだれかの扮《ふん》装《そう》ではなかったのか。  こうして、さすがの佐七もとほうにくれたまま、三日とたち、五日とすぎ、やがて十一月二十日の夜の五つ(八時)ごろ。  辰と豆六をひきつれた佐七がお玉が池へかえってくると、お粂《くめ》がいそいそ出迎えて、 「あら、おまえさん、よいところへおかえりだった。さっきからお客さまがお待ちかねですよ」 「お客さま?」  佐七がふしぎそうに居間へとおると、山《やま》伏《ぶし》姿《すがた》の法《ほう》印《いん》が、数《じゆ》珠《ず》つまぐって座っていた。 「こちらは湯島の天《てん》神《じん》様《さま》のほとりで不動さんのおこもり堂の堂《どう》守《も》りをしていらっしゃる法印さんで、日《にち》道《どう》さんとおっしゃるおかただそうですが、なにかおまえさんに、だいじな話をもってきてくだすったとかで、さっきからお待ちかねでございますよ」  日道法印は四十前後、まゆげのふさふさとした、でっぷり太った実直そうな人《ひと》柄《がら》である。 「へえ、あっしが佐七でございますが、してして、だいじな話というのは……?」 「さあ、それじゃ」  と、日道法印は数珠つまぐりながら、小山のようなひざをのりだし、 「じつは、先月の二十二日の晩のことじゃった。そう、時刻は五つ(八時)ごろか、それより少しはやかったかもしれぬ。若い女が、わしのおこもり堂へやってきて、九つ(十二時)過ぎまでおこもりしていった。わしのおこもり堂は、だれでも賽《さい》銭《せん》をあげさえすればおこもりをすることができるわけじゃ」 「なるほど、それで……?」 「いや、その晩おこもりをしたのは、そのお女中ひとりきりじゃったので、わしも奇《き》特《とく》なお女中もあるもんじゃと、ちょっと奥からのぞいてみたが、なかなかあか抜けのしたべっぴんじゃったので、ほの暗いおこもり堂でも、なんとなく目についた。ところが、その女がかえった翌日、おこもり堂の縁の下をのぞいてみたら、こんな下《げ》駄《た》がのこしてあった」  と、ふろしき包みから取りだしてみせたのは、黒塗りの女下駄である。 「へえ、しかし、それがどうかしましたか」 「いやさ、そのときはへんに思ったものの、たいして気にもしていなかったが、そののち、猫々亭たらいう化《ば》け物《もの》のうわさがえろうたこうなってきたので、きょうは山下のほうへ出向いていったついでに、なにげなく市川鶴寿の小屋をのぞいてみたと思わっしゃれ。ところが、なんと、先日の二十二日の晩おこもり堂にこもっていた女が、ちゃんと舞台に出ているじゃないか」 「だ、だれです、その女は……?」 「見物のもんにきいてみたら、市川鶴代という一座の花形役者じゃそうな」 「市川鶴代……」  佐七ははじかれたように、辰や豆六と顔見合わせた。  そういえば、二、三日まえから、鶴代は病《やまい》がなおったと称して、舞台に立っているのである。 「法印さん、そ、それに間違いありませんか」 「わしの目に狂いはないぞな。それに、そのときわしは見物の衆に、けしからん話を聞いた。なんでも鶴代という娘《こ》も先月の二十二日の晩、猫々亭たらいう化け物にかどわかされて、どこかの空《あ》き屋敷につれこまれ、さんざんおもちゃにされたという話じゃが、とんでもないこと、先月の二十二日の晩なら、鶴代はたしかにわしのおこもり堂にこもっておったぞな」 「法印さん、法印さん、それ、間違いねえでしょうねえ。その女がおこもり堂にこもっていたなア、先月の二十二日の晩だったってことにゃ」  辰がそばからひざを乗りだすと、 「そりゃまちがいない。じつは、わしの身のまわりのめんどうをみてくれるばあさんがいる。すぐ近所に住んでいてかようてくるのじゃが、せがれがたたき大《だい》工《く》をやっている。その晩……市川鶴代という女がおこもり堂にこもった晩、せがれの嫁《よめ》が子供を産んだのじゃな。そこで、さっき念のためにばあさんに孫の生まれた日をきいたら、先月の二十二日の晩じゃったというている。まさか、初孫の生まれた日を取りちがえるやつもあるまいがの」 「親分、ほんなら鶴代のやつ、うそをついて、世間をだまくらかしていよったんだっしゃろか」  どうやら、そういうことになりそうだが、しかし、鶴代はなんだって、そのようなとほうもないうそをついたのだろう。  じぶんをきずものにするような、世にもとほうもないうそを……。  法印の話がほんととしたら、鶴代はだれかをかばっているにちがいないが、いったいだれをかばっているのか……。 「それでは、ここへ下駄をおいていくからな。とにかく、山下の小屋へいってしらべてごろうじろ。鶴代の下駄にまちがいないと思うがの」  それからまもなく日道法印が証《しよう》拠《こ》の下駄をおいていったあと、佐七は腕こまねいて考えこんでいたが、そこへ表のほうからあわただしい叫び声。 「親分、親分、はやくきてください。鶴代のようすが少しおかしい」 「あっ、だれだ、豆六、出てみろ」 「おっとがってんや」  と、表へとび出した豆六の声で、 「あれ、おまえは蛇《じや》骨《こつ》長屋の荒ぐまやないか、鶴代がどないかしたんかいな」 「ああ、豆六兄い、鶴代がずらかるんじゃねえかと思うんです。いまこちとらの仲間が、こっそりあとをつけてるんですが、とにかくこちらの親分におしらせしてこいと諸口先生のおいいつけで」  家のなかでそれを聞いていた人形佐七、 「よし、お粂《くめ》、支度だ」  と、はやすっくと立ち上がっていた。 愛憎小《こ》塚《づか》っ原《ぱら》   ——目的のためには手段を選ばぬ男—— 「もし、兄さん、どうしたものでございます。奥《おう》州《しゆう》の三本松に知り合いがあるから、そこまで行こうとのお誘《さそ》いゆえ、こうしてここまできたけれど、それならそれで、はやく千《せん》住《じゆ》まで落ちのびたほうがよいのではないかえ」 「まあ、そう急ぐことはねえ。ここまで来れば大丈夫だ。ちょっとひと休みしていこうよ」 「あれ、そんな悠《ゆう》長《ちよう》なことをいっていていいのかえ。追っ手がついたらどうするのさ」 「なにか追っ手のつくような覚えでもあるのか」 「いえ、あの、あたしのほうは大丈夫だけれど……それにしても、ここはずいぶん寂しいところだけれど、兄さん、ここはいったいどこですえ」 「なあに、小《こ》塚《づか》っ原《ぱら》のお仕置き場よ」 「あれ、兄さん」  女は、二、三歩男のそばからとび離れると、 「いやだよ、兄さん、あたしゃこんな怖いとこはいや。お仕置き場なんて縁《えん》起《ぎ》でもない。どっかもっとにぎやかなところへ連れてっておくれよ」 「その怖いところがこっちのつけめよ。鶴代、おまえ、よけいなことをしてくれたなあ」 「兄さん、よけいなこととはえ」 「先月の二十二日の晩の一件よ。猫々亭にかどわかされて、捨松にさんざんおもちゃにされたなんて、よくもあんなあさましい芝《しば》居《い》が打てたもんだな」 「だって、兄さん、それもこれも兄さんのためを思えばこそ。根岸の寮で寿《す》恵《え》次《じ》さんがかみ殺されたときいたときのあたしの驚き。兄さんや捨松さんがそんなことをするはずはなし、てっきりだれか兄さんのたくらみをしったやつがあとから乗り込み、そんな無残なことをしたのにちがいないが、さりとて、このままうっちゃらかしておいて、猫々亭が兄さんだとわかったら、兄さんに疑いがかかってくるのはひつじょう。そこで、兄さんを救うつもりでとっさに打ったひと芝居。根岸の寮で寿恵次さんがかみ殺されたまくらもとの屏《びよう》風《ぶ》のうえに、片目のねこが血でかいてあったと諸《もろ》口《ぐち》先生からきいたものだから、とっさの思いつきで片目のねこのひと筆がき、鏡台のうえにはりつけてのあの夜の狂言。兄さん、悪かったらかんにんしておくれ」 「悪くもわるくねえも、万事あれでぶちこわしよ。あの晩、捨松は山下の小屋のまわりを、うそうそと、うろついていたんだ。しかも、そこをよりによって、お玉が池に見られている。だから、お玉が池はあたまから、おまえの話など信用してやアしねえんだ」 「だって、仕方がないわ。まさか、あの晩捨さんがのこのこと小屋のまわりへやってくるとは思わないじゃないか」 「あいつも寿恵次を抱いて、すきほうだいなことはやってのけたが、まさか殺したおぼえはねえ。その寿恵次がかみ殺されていたときいて、バカはバカなりに、ふしぎに思ってやってきたのさ」 「だけど、そこまではあたしゃわからなかった。あたしゃおまえを助けたい一心に……」 「それが、出過ぎたまねというものよ」 「に、兄さん」 「それに、だいいち、てめえはいったいどういう了《りよう》見《けん》だ。捨松にさんざんおもちゃにされた身で、この長吉の女房になるつもりだったのか」 「だって、そんなことうそだってことは、兄さんがいちばんよくご存じのはず」 「しかし、世間じゃそうは思わねえ。おまえがあの晩捨松にさんざんおもちゃにされたってことは、世間じゃみんなまにうけている。あんなうすぎたねえこじき物もらいに好きかってなことをされた女を、この長吉が女房にできると思っているのか」 「それじゃ、兄さんはあたしをどうする気?」 「死んでもらうよ」 「えっ?」 「おれゃアな、おまえがよけいなお節《せつ》介《かい》をしたばっかりに、殺さずともよい捨松を殺してしまった。毒食わばさらまでとはこのことだ。おまえをここで絞め殺し、オッパイをかみ裂《さ》いておけば、猫々亭がとうとう思いをとげたと世間では思うだろう。猫々亭はそれっきりこの世から消えてしまうからせわはねえ」 「ほっほっほ」  とつぜん、鶴代がヒステリックな声をあげて笑ったので、長吉はギヨッとしたように、暗やみのなかであいてを見すえた。 「車坂の兄さん、いやさ、長吉さん、おまえさんもほんとうに青《あお》二《に》才《さい》だねえ。猫々亭がこのままぶじに、この世から消えてなくなれると思ってるの」 「なによ」 「米さんは猫々亭が楽屋へきたとき、すぐその正体を見破ったにちがいない。だから、あんな大《だい》胆《たん》なまねができたのさ。米さんでさえそれだもの、ほかにも猫々亭の正体を見破ったものがあるかもしれないよ」 「だ、だれだ、それは……」 「諸口先生だよ」 「げっ」 「諸口先生は猫々亭独眼斎というじいさまを、しょてから車坂の長吉と見破っておいでなすったのさ。そして、おかしなことをすればするものと、おまえのでかたを見守っておいでなすったんだそうだよ。そしたら、根岸であの騒ぎ。しかし、いかに功《こう》名《みよう》心《しん》にもえているおまえでも、まさか人殺しまでやるはずはあるまいと、むしろおまえさんに同情していなすったんだとさ。ところが……」 「ところが……?」 「ところが、こんどは捨松が殺された。捨松が殺されたとき、米さんは師匠といっしょにいたことがハッキリしている。だから、捨松を殺した猫々亭は、おまえよりほかにないと、諸口先生ははじめからしっていなすったんだ。だから、あたしが芝居に出るようになったとき、車坂の長吉というやつは、目的のためには手段をえらばぬやつらしい。こんどはおまえの番かもしれないから、よっく気をつけるようにと注意をしてくだすったのさ。そのやさき、おまえにもちかけられたのが駆け落ちの相談。あたしゃピンときたもんだから、諸口先生にお願いして、こっそりあとをつけていただいたんだよ。それ、諸口先生」  車坂の長吉が骨を抜かれたようにくたくたとその場にひざをついたところへ、あちらのやみ、こちらの物《もの》陰《かげ》からバラバラと現われたのは、丹《たん》波《ば》篠《ささ》山《やま》の荒ぐまや、張り子のつり鐘の弁慶を先頭に、蛇《じや》骨《こつ》長屋のものすごい連中である。いずれも憎しみにみちた目で、長吉の顔をにらんでいる。  その背後には、諸口数馬のほかに、人形佐七と辰と豆六の姿もみえていた。 策士策におぼれる   ——こんどは断然男上位らしい—— 「親分、わかりませんねえ。車坂のがいったいどうしたというんです」  車坂の長吉は、蛇骨長屋の連中にとりかこまれて、絶体絶命、舌かみ切って自害した。  場所はおあつらえむきの小《こ》塚《づか》っ原《ぱら》。もし、生きながらえていたら、引き回しのうえ、獄《ごく》門《もん》にかけられたかもしれない場所である。  こうして、一件ことごとく落《らく》着《ちやく》したものの、辰や豆六には、まだなにがなにやらわけがわからないことばかり。  そこで、れいによって佐七にむかってなぞ解きをせまるのである。  佐七は暗い顔をして、 「おまえたちにゃまだわからねえのか。さいしょ市川鶴《かく》寿《じゆ》の小屋の楽屋へ猫々亭独眼斎と名のってやってきたじいさまは、そのじつ車坂の長吉だったのよ」 「えっ、そ、そんなら猫々亭というのは、車坂の兄いだったんで」 「そやけど、親分、車坂の兄いがなんでまたそないなあほなことやりやはってん」 「車坂は小さいときから、目から鼻へ抜けるような才子だった。野心家でもあり、功名心にもえていた。そういう男が、あの若さで親の跡《あと》目《め》を相続して、一人前の御用聞き。しかし、あの若さじゃ、だれも本気であいてにしちゃくれめえ。うわべは親分だの、兄いだのと立てていても、内心では、なんだこの若《わか》僧《ぞう》がとせせら笑っているんじゃねえかと、車坂はじぶんで勝手にひがんだんだな」 「なるほど、そりゃアありそうなこってすね。ことに、車坂はあのとおり、癇《かん》癖《ぺき》の強いほうですからね」 「だから、なにか手《て》柄《がら》をあらわして、江戸中をあっといわせてやろうと考えたんだ。しかし、そうおあつらえむきに事件は起こってくれねえから、じぶんで勝手に事件をデッチ上げようとしたんだ」 「なるほど、それが根岸の一件ですかえ」 「そやけど、親分、いかに車坂が功名心にもえてたからちゅうて、まさかじぶんで人殺し……」 「まあ、待て、豆六、よっく聞け。車坂がいかに功名心にもえてたからって、まさか人殺しまでしようたあ思わなかったろう。車坂のさいしょのもくろみは、こうだったにちがいねえ。ここに猫々亭独眼斎という怪しげな浮世絵師がいて、捨松という男に女を抱かせ、その情景をうつしとって男女和合の絵をかこうとしている、つまりそういう怪しげなじじいがこの江戸のどこかにいるということを、まず世間に信じこませたかったんだな」 「なるほど、それで捨松をつれて岡《おか》場《ば》所《しよ》をほっつき歩いていたんですね」 「そやけど、捨松はしらなんだっしゃろか。猫々亭が車坂の長吉ちゅう御用聞きやいうことを」 「それはしらなかったにちがいない。ただ、女を抱かせてもらえるうえに、たんまり祝《しゆう》儀《ぎ》にありつけるというところから、猫々亭のいうがままになっていたんだな」 「つまり、それだからこそ、車坂は、わざと薄《うす》のろの捨松に白羽の矢を立てたんですね」 「そうだ、そうだ、これは辰のいうとおりだ。こうしてまんまとお膳《ぜん》立《だ》てはできあがったが、ただそれだけじゃ事件にゃならねえやな。そこで、いよいよ鶴寿の小屋へ乗りこんだんだな」 「鶴代ははなからぐるだったんですか」 「もちろん、そうよ。あの猫々亭のこしらえなども、さいしょは鶴代が手伝ったんだろう。かわいいおとこにくどかれて、いやいやながらもぐるにされちまったんだな」 「それで、まず鶴代と約束をとりつけたがいざとなって寿恵次を身代わりに立てたというのも、さいしょからそういう筋書きになっていたんですね」 「そら、そうだっしゃろな。まさか、じぶんのおんなを捨松みたいな物もらいにおもちゃにさせるわけにはいかんやろさかいにな」 「そうだ、これは辰や豆六のいうとおりだ。ところが、欲の皮のつっぱった寿恵次が、まんまと鶴代の口《くち》車《ぐるま》に乗ってしまった。どうせしがない女役者、そういうお座敷へは、しょっちゅう出てたにちがいねえからな」 「それからどうなったんです。車坂や捨松が寿恵次を殺したのでねえとすると……?」 「いや、車坂のさいしょのもくろみはこうだったにちがいねえ。捨松をけしかけて、寿恵次のからだをおもちゃにさせる。そこを猫々亭になりすまし、あやしげな絵をかいているようにみせかける。さて、そのあとで寿恵次をがんじがらめに縛りあげて、捨松といっしょにその場を立ち去る。さて、その翌日、こんどは車坂の長吉になり、いろいろ探《たん》索《さく》のすえ、あの寮《りよう》をつきとめ、首尾よく寿恵次を助け出す。そして、寿恵次の口から話をきいて、捨松をひっ捕《と》らえ、あっと世間をおどろかすというのが、おそらく、車坂のが書いた筋書きだったにちがいねえ」 「そやけど、その場合、猫々亭はどないするつもりだったんだっしゃろ。まさか、じぶんでじぶんを縛《しば》るわけにはいきまへんやろがな」 「だから、そのときはそのまんま猫々亭を消しちまうつもりだったんだ。捨松という手先がいなくなったんで、このあやしげな仕事から手を引いたんだろうと世間に思わせてな」 「そりゃ捨松をひっ捕らえただけでも、たいした手柄でしょうからね」 「ところが、土《ど》壇《たん》場《ば》になって、そのもくろみが狂うてきよったんだんな」 「そうよ、それを狂わしたのが、男めかけみてえな頭《とう》取《どり》の米《よね》三《さぶ》郎《ろう》よ」 「親分、すると、米三郎は猫々亭を車坂の長吉と見破ったんですね」 「そやそや、それでおかしなことをしくさると、ようすをうかごうていると、寿恵次が鶴代の身代わりになって出掛けていきよった。それでこっそりあとをつけていきよったんやおまへんか」 「そうだ、そうだ。そうして、猫々亭と捨松が寿恵次をおもちゃにしているところのいちぶしじゅうを見とどけたうえ、ふたりが立ち去ったそのあとで、寿恵次ががんじがらめに縛られているのをこれさいわいと、じぶんもおこぼれにあずかったうえ……」 「あんぐり寿恵次をかみころし、その血でまくら屏《びよう》風《ぶ》に片目のねこをかいていきよったんだんな」 「まあ、そこいらが真相だろうな」 「しかし、親分、米三郎はなんだってそんなだいそれたまねをやりゃアがったんです」 「さあ、それよ」  佐七はくらい顔をして、 「それにはいろんな事情が積み重なったんじゃねえか。まずだいいちに、年上の女にかわいがられているのはいいが、ああひとまえをもはばからず、しょっちゅうガミガミやられちゃ、ウップンがうちにこもるだろう。また、一座のものにもあたまからバカにされてきたんだろうから、そのくやしさもひととおりやふたとおりではなかったろう。そのウップンとくやしさが、いちじにあそこで爆発したんだ。それと、もうひとつ考えられることは……」 「もうひとつ考えられることは……?」 「じぶんがここでなにをやらかしても、絶対ひとにわかりっこねえということよ。寿恵次を連れだしたのは、猫々亭とわかっている。その猫々亭はじぶんでございと、車坂もいうわけにはいくめえ。とすると、すべての罪や疑いは、猫々亭というこの世にありもしねえ幻みたいなじじいに降りかかっていくと考えたんだな」 「それでいちど味をしめたもんだから、こんどはみずから猫々亭になりすまし、これ見よがしに玉枝を血祭りにあげやアがったんだな」 「そやそや、猫々亭が楽屋へきたとき、米三郎もその場にいたんやさかいに、猫々亭はじぶんやない。そやさかい、猫々亭の姿を見せておけばおくほど、じぶんに疑いはかからんちゅうわけで、わざとわてらに見せつけて、あないなあくどいことをさらしよったんやな」 「つまり、米三郎にとっちゃ、猫々亭の存在とあのすがたが、ひとつのかくれ蓑《みの》になっていたんだ。また、猫々亭のこしらえがあまり凝《こ》りに凝って変わっていたもんだから、かえってだれにでもまねができやすかった」 「それにしても、諸口先生の腕も大したもんじゃありませんか。さいしょはいささかねらいがはずれたが、二度目はドンピシャリでしたからね」 「あればっかりは、米三郎の誤算だったろうな。あのまんま猪《ちよ》牙《き》で逃げていてみろ。いまだに、あのときの猫々亭が米三郎だったとはわからなかったかもしれねえぜ」 「そうしたら、第二第三の玉枝が、つぎからつぎへと出たかもしれまへんな」 「そうよ、それを思うとゾッとするぜ。それもこれも、日ごろ年上の女に頭をおさえられ、みんなにバカにされていたウップンが爆発したんだろうな」  佐七は慨《がい》嘆《たん》するようにいった。 「ところで、親分、諸口先生もはじめから猫々亭を車坂だと……?」 「そりゃ米三郎が見抜いたくらいだからな。だから、鶴代のかどわかし一件のときも、すぐに鶴代のひとり芝居だと見破ったんだ。そしたら、すぐそのあとで捨松が殺されたろう。そこで、諸口先生も車坂がいかに危険な男だかってえことに気がついたんだ。そこで、それとなく鶴代を見守っていなすったんだな」 「それにしても、おまえさん」  さっきから三人のそばで春の晴れ着の仕立てものによねんのなかった女房のお粂《くめ》が、そのとき思い出したように口を出し、 「こんなことをいうとむごいようだが、車坂さんが舌かみ切って死んでくれたのはようござんしたね」 「おれもそう思う」  佐七もしんみりとした面《おも》持《も》ちで、 「あれで、江戸中引き回しのうえ獄《ごく》門《もん》にでもなってみろ、江戸中の岡《おか》っ引《ぴ》きのいい面《つら》汚《よご》しだあな」 「親分、ああいうのを目的のためには手段をえらばずというんでしょうねえ」 「そやそや、あんなんが一人前の御用聞きになってみなはれ。町人ども、えらい災難だっせ」 「車坂さんもばかに功をあせったもんだが、あのひとたしか、二十二だったわねえ」 「そうよ。しかし、お粂、それがどうした」 「いいえ、おまえさんが『羽《は》子《ご》板《いた》娘《むすめ》』の一件でパッと世間に売り出したのも、二十二のとしだときいていますが、そのじぶん、おまえさんはどうだったのさ」 「どうだったとは……?」 「いいえさ、おまえさんもやっぱり、功をあせっていなすったかときいているのさ」 「うんにゃ、おらあいたってノンキな性《たち》だから、べつにあせっちゃいなかったねえ」 「そうかねえ、ほんとかしら、ほっほっほ」 「あれ、お粂、へんな笑いかたをするじゃないか」 「おっと、そうだ、そうだ」  辰もやっとお粂のいう意味がわかったらしく、ガゼン、ひざをのり出して、 「こりゃお亡《な》くなりなすったおっかさんにお聞きしたんだが、親分もそのじぶん、ずいぶん功をあせっていなすったというじゃありませんか」 「はてな、このおれが……?」 「ええ、そうですよ。しかも、親分は車坂とちがって、いつも大《おお》手《て》柄《がら》だったと、さんざんおっかさんが愚《ぐ》痴《ち》をこぼしておいでなすった」 「そや、そや、そや!」  と、豆六もすっとんきょうな声をあげ、 「ただし、親分のうき身をやつしていやはったんは、捕《と》り物《もの》のほうやのうて、おなごはんのほうとちがいまっか」 「そうよ。しかも、親分は、いつも大手柄で、『色《いろ》暦《ごよみ》浮《うき》名《なの》勝《かち》鬨《どき》』というやつさ」 「この野郎!」  佐七はトンと長火ばちのふちにキセルをたたきつけると、 「やい、やい、やい、お粂、てめえ、辰や豆六にそれをいわせるために、こんな話を切り出したのか」 「ほっほっほ、どうやらお心当たりが、たアくさんおありのようですねえ」  と、お粂がすまして縫《ぬ》っているのが、亭《てい》主《しゆ》の正月の晴れ着の絆《はん》纏《てん》らしいから、佐七もぐっとつまって、二の句がつげない。辰と豆六はすっかり喜んで、 「こら、この勝負、どうやらきまったようですね」 「そやそや、こら親分の負けえ!」 「なにをいやアがる」  佐七はにが笑いをしながら、やけにトントン、キセルで長火ばちのふちをたたいている。  お粂はあいかわらずせっせと針を運びながら、すましかえって、 「ときに、辰つぁん、豆さん、その諸口先生とやらは、鶴代ちゃんにほれてるんじゃないのかえ」 「あねさん、そりゃほれてもいいんですよ。ありゃアいい殿《との》御《ご》です。だけど、あの先生、鶴代にほれてるならほれてるで、もう少しおめかしでもすりゃアいいのに、いつも無《ぶ》精《しよう》ひげをモシャモシャ生《は》やしてさあ」 「おまけに、鶴代のまえで平気で、よんべどこそこで女を買《こ》うてきたが、なかなかええ妓《こ》やった、あっはっは、なんていいよりまんねん」 「だから、鶴代のやつも車坂みたいな男に目うつりするんですよ」 「あら、まあ、そんなことおっしゃるの。だけど、こんどの一件で、鶴代ちゃんというひとも男をみる目が肥《こ》えてくるんじゃないかしら。ねえ、おまえさん、そう思わない?」 「う、う、う……」  と、佐七は目をシロクロさせながら、 「それじゃ、なにか、お粂、たしょう浮気をしても、いざとなったとき頼りになる男がいいというのか」 「そうよ、あたしのいいたかったのは、そのことなのよウ!」  仕立て物をひざから投げ出した女房お粂、ぴったり佐七に寄り添って、辰と豆六にこれみよがしに亭主のひざにしなだれかかったから、 「わっ、こら、わて、よういわんわ」 「こんどの勝負は、辰つぁんと豆さんの負けえ!」  とばかりに辰と豆六、しりに帆《ほ》あげてその場を逃げだしたという。  お粂の予言は当たったらしく、市川鶴寿の芝居はそのままつぶれてしまったが、その翌年の初春早々、おなじ場所で、市川鶴代を座がしらとした女芝居の一座が旗《はた》上《あ》げして、山下一《いち》円《えん》の人気をさらったが、その一座の太夫《たゆう》元《もと》兼、頭《とう》取《どり》兼、用心棒というのが諸口数馬。  辰の憤《ふん》慨《がい》にもかかわらず、諸口数馬はあいかわらず無精ひげをモシャモシャ生やして、いつもにやにやしているが、それにもかかわらず鶴代の数馬を見る目つきには、とろけるようなものがあるとやらで、こんどはダンゼン男上位らしいという評判だった。 石《いわ》見《み》銀山 さげ重の女   ——あ、た、た、痛ッ、痛ッ——  ちかごろ、ものすごい事件といえば帝《てい》銀《ぎん》事件。  なにせ、十数人の銀行員が、青酸カリをのまされて、バタバタ倒れたというのだから、いや、もう、おそろしい話で、おそらくこんな事件は、世界犯罪史上にも、類例があるまいといわれているが、江戸時代にも、これとよく似た事件があった。  このとき、宮《みや》地《ち》しばいの女役者、一座ひっくるめて十三人が、石《いわ》見《み》銀《ぎん》山《ざん》のねずみ取りをのまされて、そのうち、助かったのはわずか四人、あとの九人は血ヘドを吐いて死んだというのだから、じつもっておそろしい話で、当時、前《ぜん》代《だい》未《み》聞《もん》の大事件と、さわがれたのもむりはない。 「おや、かわいいさげ重《じゆう》さんだこと。いままでついぞ見たことのない顔だけど、与作さんはきょうはどうかしたの」 「はい、おじいさんは持病のぜんそくでねてるんです。それで、あたしがかわりにきました。お師匠さん、おすしを買ってください」 「ああ、それじゃ、おまえ与作さんの孫かえ。与作さんに、こんなかわいい孫があるとは知らなかった。あのひといつも、天にも地にもひとりぼっち、たよりのない身の上だといってたのに……」 「はい、わたしは小さいじぶんから、とおいところへ、里子にいってたものですから……」 「ああ、そうだったの。それにしてもいい器量だね。おまえ名まえは、なんというの」 「はい、あの、名まえは……」  と、娘はちょっと口ごもって、 「お里——と、申します」 「お里ちゃん? ほ、ほ、ほ、すし屋の娘にゃアにあいの名だよ。それじゃ、弥《や》助《すけ》といういいひとがおありだろう。ほ、ほ、ほ、かわいいよ、この子は。あんなに顔を赤くしてさ。ちょいとみんな、ごらん。これが与作さんの孫だってさ。おじいさんが病気だから、かわりにすしをさげてきたって。かわいいじゃないか。みんな食べておやりよ」  江戸時代には、公許のしばいは三座しかなかったが、ほかに神社仏《ぶつ》閣《かく》の境《けい》内《だい》に、宮しばいと称して、小屋掛けのしばい興《こう》行《ぎよう》が黙認されていた。  これらのしばいは、土地の繁《はん》栄《えい》策《さく》として許されているのだが、寺や神社にことがあると、取り払わねばならぬから、丸太組みにむしろ張り、見せ物小屋どうようの、まことにおそまつなものである。  しかし、それでも、見るもののすくなかった当時にあっては、そうとう繁《はん》盛《じよう》したもので、わけても、ちかごろ湯島の境内にかかっている中村梅《ばい》枝《し》という女役者の一座は、腕《うで》達《だつ》者《しや》がそろっているのと、きれい首が多いのとで、この春から、かいわいの人気をさらっていた。  その女役者の一座へ、すしを売りにきたのは、まだ十三、四のかわいい娘。  肩につぎのあたった着物をきているところは、貧にやつれたすがただが、目鼻だちのきりりとした、色白のさかしげな面《おも》だちは、人の目をひくにじゅうぶんである。 「おや、これが、与作さんの……とびがたかを産むとはこのことだねえ。もう二、三年もすると、男がただじゃおかないよ」 「二、三年も待つものか。おまえさんなんざ、このじぶんにゃ、ちゃんと男があったろう」 「ちがいない。あたしゃいろっぱやかったからねえ。あたしが男を知ったのは……」 「おい、おい、なにをのろけてるんだい。つまらないこといわないで、すしをつまんでおやりよ。ちょっと、そっちで手なぐさみしてる連中も、こっちへきてつままないか。きょうはあたしのおごりにするよ」 「えっ、お師匠さんのおごりだって? そうきいちゃアあとへはひけない。ちょいとちょいと、そこどいておくれ。お、こはだだね。すしはなんといってもこれにかぎるね」 「あれ、花助さんのあつかましい。おごりときいたらとびついてきたよ」 「三《み》津《つ》江《え》さん、あんたもこっちへきておあがりな。小梅ちゃん、おまえ、なにをそんなに浮かぬ顔をしてるんだね。こっちへきて、ひとつおつまみよ」  楽屋といってもどうせ小屋掛け、座がしらも、中《ちゆう》通《どお》りも、大べやもない。  舞台うらの薄《うす》縁《べり》のうえに、はげっちょろけの鏡台をならべ、おしろいをぬたくっているもの、寝そべって、書き抜きを読んでいるもの、そうかとおもうと女だてらに、車座になって花札をめくっているやつもある。  ちょうどいま、ひと興行打ち出したところで、つぎの幕あきまでまがあった。  座がしらのおごりときくと、それらの連中、わっとさげ重のまわりにあつまって、てんでにすしをほおばりながら、 「お師匠さん、ごちそうさま。これだからお師匠さんが好きさ。気まえがいいからね」 「は、は、は、おだてちゃいけない」 「あれ、お師匠さん、ごきげんだね。きょうはなにか、うれしいことでもあるんですかえ」 「紫《し》幸《こう》さん、おまえ案外ボンヤリだね。お師匠さんのうれしいことというのは……」 「これ、これ、花助、殿《でん》中《ちゆう》だぞよ。つまらないことをいうもんじゃない。さあ、食べたり、食べたり。お里ちゃん、すしはここで総じまいにしてあげるよ。三津江ちゃん、お湯《ぶう》をとっておくれ。小梅ちゃん、なんだねえ、なにをボンヤリしてんだ」  阪《ばん》東《どう》三津江というのは一座の書き出し。  二十七、八の目の大きな女だが、女だてらにばくちがすきで、いまも花札をひいていた。  小梅はことし二十一、役者とは思えないおとなしやかな女だが、きょうは妙に沈んでいる。  座がしらの中村梅枝は、もう四十ちかい大《おお》年《どし》増《ま》。  おしろいやけのした膚《はだ》は、赤黒くすさんでいるが、それでも男のように、かっきりとした目鼻だちは、さすがに座がしらの貫《かん》禄《ろく》じゅうぶん。厚《あつ》化《げ》粧《しよう》をして若くつくると、まだまだ男をひきつける魅力はある。  きょうは、どういううれしいことがあるのか、大浮かれの、大陽気で、一座のものにすしをふるまい、じぶんも二つ三つつまんだが、そのうちに、 「あ、痛っ、あ、たたたたッ」  と、畳のケバをむしって苦しみだしたのが、いちばん食い意地のはった紫《し》幸《こう》で。 「おや、紫幸さん、どうしたのさ。おまえ、あんまりあわててて、ほおばりすぎるから……あ、た、た、た、たッ、あ、痛ッ、痛ッ」  と、あちらでもこちらでも苦しみだして、はては総勢十三人、ことごとく薄縁のうえを、のたうちまわりはじめたから、おどろいたのはすし屋のお里で、 「あれ、どうなすったのですか。お師匠さん、みなさん、しっかりしてください」  と、おろおろと立ち騒いでいたが、そのうちに、あちらでも、こちらでも血を吐きはじめたから、 「あ、こ、こりゃ、毒……」  と、ひと足うしろへとびのいて、わなわなふるえながら、この場のようすをながめていたが、やがて、楽屋口からいちもくさん、さげ重片手に、あと白《しら》波《なみ》と、とび出していったのである。 血を吐く犬   ——獣ながら苦《く》悶《もん》の形相ものすごく—— 「たいへんおそくなりました。ちょっと、遠出をしておりましたものですから……きけばたいへんな騒ぎがもちあがりましたそうで」  事件のあった翌日のことである。  湯島の境《けい》内《だい》、騒《そう》動《どう》のあった中村梅《ばい》枝《し》の小屋へ、うつくしい片えくぼをのぞかせたのは、いわずとしれた佐七である。  うしろには、例によって辰《たつ》と豆六がひかえている。  佐七は用事があって、八王子へ出むいていたのが、けさ早くかえってきて、一件をききこむと、とるものもとりあえず、駆けつけてきたのである。  いったい、神社仏閣でおこった事件は、寺社奉《ぶ》行《ぎよう》のかかりで、町《まち》方《かた》には手が出せないことになっているが、それも事件によりけりで、こういう犯罪事件になると、やはり、町方の手をかりるほうが便利である。  ことに、この一件のかかりとなった寺社同心の寺尾玄《げん》蔵《ぞう》というひとは、日ごろから、佐七をたかく買っているところから、とくに、出馬を懇《こん》望《もう》したというわけである。 「おお、佐七か。よくきてくれた。あっはっは、あいかわらず、辰と豆六もいっしょだな」 「だんな、どうもたいへんな騒ぎでしたねえ。それで、命をとりとめたのは?」 「わずか四人よ。座がしらの中村梅枝に、書き出しの阪東三津江、それに、ちかごろ梅枝に弟《で》子《し》いりして、たちまち一座の人気者となった中村小梅。ほかに市川花助という三枚目が、どうやらいのちをとりとめた。花助はともかく、ほかの三人は立て者だけに、さすがにがつがつすしをほおばらなかったので、それでまあ、あやうく難をまぬかれたんだろうという見込みだ」 「へえ、すると、やっぱりすしのなかに……?」 「そうよ。食いのこしたすしをしらべたところが、そのなかの三つに、毒が仕込んであった」 「すしはいくつのこっていたんです」 「つごう八つだ」 「そのなかの三つに、毒が仕込んであったというんですね。すると、どのすしにも、毒が仕込んであったわけじゃねえんですな。そして、その毒というのは?」 「石《いわ》見《み》銀《ぎん》山《ざん》よ」 「石見銀山? へえ、ひでえことをしやアがる。ひとをねずみとまちげえたわけじゃあるめえに」  石見銀山というのは、石見の国、大森町にある銀山から産する砒《ひ》石《せき》で、当時、流行の殺《さつ》鼠《そ》剤《ざい》であった。 「ところで、すしを売りにきた小娘ですがね、それについてなにか当たりがつきましたか」 「それがおかしいのよ。佐七、まあきけ。座がしらの中村梅枝、これがいちばん軽くて、どうやら口がきけるようになった。そこでたずねてみると、すしを売りにきたのは、いつもくる与作じいの孫で、お里とみずから名のったという。そこで与作をしらべたところ、とんでもない、お里もなにも、じぶんには、孫と名のつくものはひとりもない、と、こういうんだ。近所できいてみても、これはほんとうらしく、与作はひとりもので、身寄りと名のつくものはないようだという話だ。してみると、あやしいのはその小娘で、与作がぜんそくで寝ているのを知って、孫といつわりのりこんで、一座をみな殺しにしようとはかったんだな」  それが十三か四の小娘だったというだけに、佐七も身ぶるいせずにはいられなかった。 「そうすると、なにをおいても小娘を捜《さが》しださにゃアなりませんが。ときに、与作の住まいというのは?」 「妻《つま》恋《こい》稲荷《いなり》のうらだそうだ」 「そうですか。それではあとで当たってみましょう。ときに、だんな、ここは事件のときのまんまでしょうね」 「うむ、死《し》骸《がい》だけはとりかたづけたが、あとはなにひとつ、手をつけぬよう申しつけておいた」  ほのぐらいむしろ張りの楽屋は陰《いん》惨《さん》そのものである。  乱暴にぬぎすてられた衣《い》装《しよう》、楽屋着、花札がいちめんにちらかっており、さら小ばちが五、六枚、こびりついた飯《めし》粒《つぶ》に、残りのはえが二、三匹たかっている。  火ばちの上には、冷えきった大やかんがひとつ、薄《うす》縁《べり》の上にはどびんがひとつ、湯飲み茶わんが十いくつ、あちこちにごろごろころがっている。  そして、そのあいだには、女たちの吐いた血が、当時の凄《せい》惨《さん》なありさまを物語るように、いちめんにべたべたと、こびりついているのがおそろしい。  佐七はするどいまなざしで、その場のようすをながめていたが、なに思ったのか、湯飲みをひとつずつ取りあげた。  どの湯飲み茶わんも、きれいにのみほしたのか、それとも、ころがった拍《ひよう》子《し》にこぼれたのか、一《いつ》滴《てき》の茶ものこっていない。  どびんをみると、これまた一滴の茶はおろか、茶カスさえものこっていなかった。  佐七はチカリと目を光らせて、 「だんな、だんなはいま、だれもこの場に手をつけたものはねえとおっしゃったが……」 「うむ、手をつけてはならぬと、げんじゅうに申し渡してある」 「しかし、だんながたが駆けつけるまえに、だれか手をつけたやつがありゃアしませんか」 「いいえ、そんなことはございません」  おずおずと、うしろから口を出したのは、表の札《ふだ》場《ば》にいる熊《くま》吉《きち》という男である。 「うめき声をききつけて、いちばんに駆けつけてきたのは、あっしとこの丑《うし》松《まつ》ですが、ひとめみると、これは一大事と思ったので、むやみに手をつけるなと申しましたので……」 「それじゃここは、おまえさんたちが駆けつけてきたときのまんまだというんだね」 「へえ、さようで。万一のことがあっちゃならぬと、だんながたがおみえになるまで、げんじゅうに見張っておりましたんで」 「そうか、そりゃアよく気がついた。しかし、そうだとすると……あっ、ありゃアなんだ」  佐七がギクッとふりかえった。  むしろ張りの楽屋のすみに、ただひとところ、小さなあかりとりがあったが、そのあかりとりの外で、なにやら、異様なうめき声がするのである。  辰と豆六はそれをきくと、つとあかりとりのそばへ寄って、外をのぞいたが、 「あっ、親分、犬ですよ。犬めがゴミだめをあさっているんですが」 「わっ、親分、こらおかしい。犬めが赤い血を吐きよった」 「なに? 犬が血を……」  辰と豆六をおしのけて、佐七があかりとりから外をのぞくと、なるほど、すぐ目の下に、大きなゴミだめがおいてある。  そして、そのそばには一匹の赤犬が、四《し》肢《し》をもがいて、七《しち》転《てん》八《ばつ》倒《とう》していたが、やがてがっぷり、大きな血のかたまりを吐きだすと、そのまま硬《こう》直《ちよく》したように、動かなくなったのである。  けだものながら、苦《く》悶《もん》の形《ぎよう》相《そう》ものすごく……。  佐七はふっと、辰や豆六と顔見合わせた。 勘《かん》十《じゆう》郎《ろう》のしばい   ——相手はかわいい女でございます——  なにしろ、いちどに九人という女が、毒殺されたというのだから、江戸じゅうは鼎《かなえ》のわくような大《おお》騒《そう》動《どう》。  よるとさわるとこのうわさで、それについて、いろんな憶《おく》説《せつ》が流《る》布《ふ》されたが、なかでいちばんもっともらしく語りつたえられたのは、つぎのようなひょうばん。  そのころ上野山下に、嵐《あらし》勘十郎という、これは男役者だが、小屋掛けの一座がかかっていて、以前はそうとうさかったものだが、湯島の境《けい》内《だい》に中村梅《ばい》枝《し》の一座がかかってからは、人気をすっかりそちらにさらわれ、火のきえたも同然のていたらく。  そこで、これではいけないと、嵐芳《よし》三《さぶ》郎《ろう》という美《び》貌《ぼう》の若手をひっぱってきて一座にくわえた。  この芳三郎というのは、芸はまずいが、なにせ油つぼから出てきたような男ぶり。  これがうわき娘の人気をあおって、いちじはわっとかぶってきたから、これで勘十郎のしばいももちなおすかと思われたが、すると、梅枝のほうでも黙ってはいない。  これまたどっからか、小梅というわかい美貌の女役者をつれてきて売り出したから、勘十郎のしばいはまたしても、人気を湯島へもっていかれた。  こうなると、おもしろくないのは勘十郎のしばいで、尋《じん》常《じよう》では、たち打ちできぬと思ったのか、ならずものをやとって木戸をやぶらせる。場内をさわがせる。  はては、なぐり込みをかけるというひょうばんまでたつにいたって、梅枝も腹にすえかねた。  女でこそあれ中村梅枝、腹のすわった人物で、いままで、勘十郎がわのイヤがらせを歯《し》牙《が》にもかけずすましてきたが、たびかさなるあいての無法に、これ以上、ひっこんではいられなかった。  あいてがあいてならこっちもこっちと、これまたならずものをおおぜいやとって、あわや血の雨、というところで仲《ちゆう》裁《さい》がはいったのである。  この仲裁というのが、かいわいきっての顔役だから、勘十郎もたてつくわけにはいかなかった。  梅枝はもとより、このんで仕掛けたけんかじゃないから、むこうが折れてでればいうことはない。  そこで、山下の鶏《とり》料理で、仲直りの手打ちの式がおこなわれたのが七日まえだが、さて、ひとの心はわからない。  そのごも不入りつづきにつけ、勘十郎はおもしろくないにちがいない。そこでひとを使って、梅枝一座をみなごろしにしようとしたのではあるまいか……。  と、これが当時、語りつたえられたひょうばんである。  湯島のしばいで小屋のものから、こういう話をきくと、佐七は辰と豆六になにやら耳打ちして、じぶんひとり、山下の勘十郎のしばいへやってきた。  なかへはいると、不入りときいたにもかかわらず、思ったよりもかぶっていて、座がしらの勘十郎も、それほど無法な男とはみえなかった。 「いや、どうも。世間の口に戸は立てられぬと申しますが、あまりへんなうわさをたてられるには弱りきります」  薄《うす》縁《べり》じきの楽屋で、にが笑いをしながら、茶をすすめる勘十郎は、としごろ四十五、六の、すいも甘いもかみわけたという人がらだった。 「へんなうわさって、親方、火のないところには煙はたつめえ。おまえさんも、そうとう梅枝のしばいへ、キザなまねをしたというじゃねえか」  佐七が単《たん》刀《とう》 直《ちよく》入《にゆう》につっこむと、勘十郎はほろにがく笑いながら、 「親分、それだから、世間の口は恐ろしゅうございます。どこでどう、話がまちがってくるかわからない。ええ、そりゃアうちの若いもんが、二、三度むこうのしばいへげんじゅうに談じこんだことはあるそうです。それを知らなかったのは、わたくしの不《ふ》行《ゆ》き届《とど》き、面《めん》目《ぼく》しだいもございませんが、それだって、むこうの繁《はん》盛《じよう》をねたんで、なんてことじゃございません。そんないやみなことをしなければならぬほど、こっちのしばいが不入りというわけでもございませんので……」 「そういえば、思いのほかの入りにおどろいたが、いつもこんなかえ」 「いえ、こんどのことで人気が落ちたか、きょうは入りがわるいようで、ふだんはもっとはいります」  佐七はふしぎそうにまゆをひそめて、 「それじゃ、なぜ若いものが……」 「さあ、それなんで。こんなことをいうと、ひとさまに傷をつけるようですが、むこうに阪《ばん》東《どう》三《み》津《つ》江《え》という役者がおります」 「うむ、うむ、書き出しの人気役者。こんどはどうやら、命をとりとめたらしいが……」 「ええ、その女ですが、これがまことに、手に負えねえ莫《ばく》連《れん》女《おんな》で、うちの若いやつはみんなひっかかって、身ぐるみはがれておりますんで。いえ、うちのもんばかりじゃアなく、しろうとのだんな衆にも、あいつのために身《しん》上《しよう》をはたいた、店をしまったというのが、ままあるそうで。すご腕といえばすご腕ですが、あんまりやりくちがあくどいから、若いもんがくやしがって、二、三度、小屋へ押しかけていったんです。ところが、三津江というのが悪知恵の働くやつで、それをあたかも、こっちが不入りなもんだから、いやがらせにくるんだと、そんなふうに吹《ふい》聴《ちよう》し、むこうの師匠も、すっかりそれにだまされていたんです」 「それがほんととすれば、三津江というやつは憎いやつだな。しかし、梅枝も梅枝じゃないか。座がしらとしてそれくらいのこと……」 「いえ、それが……」  と、勘十郎は手をふって、 「あっしも師匠とあって話をしたのは、このあいだの手打ちのときがはじめてですが、ありゃアまた、男のようにサッパリした気《き》性《しよう》で、こまかいところに気がつくような女じゃありません。だから、三津江にいいように、ひっかきまわされていたんです。役者子どもといいますが、師匠はまるで、子どものように罪のない女です」 「はてな。おまえ、いやにむこうの肩をもつが、はっはっは、なにかあったな」  佐七がニヤリと笑うと、勘十郎はつるりと顔をなであげた。 「あっはっは、恐れいりました。問うにおちず、語るにおちるとはこのことですね。じつはゆうべ、あっしは師匠とふたりっきりで会う約束になっていたんです。それが、あんな騒ぎになったものですから……」 「師匠とふたりっきりで……? どういう用で?」 「親分、おまえさんもひとが悪い。たいがい察しておくんなさい。このあいだの手打ちの式で、会って話をしてみると、つまらねえ誤解もとけるし、だんだん話をしているうちに、むこうもこっちもひとりもの。酒の酔いもありまさア。ついこっそりと手を握ったり……どっかひとめのないところで、しんみり会って話をしたいと、師匠のほうからいいだしたんです。あっしのほうでも憎かあねえ。きのうの騒動をきいたときにゃ、じぶんの命がちぢまるかと思ったくらいです。そののち、一命をとりとめたときいて、いまでも見舞いにとんでいきたいくらいなんだ。ねえ、親分、そんな仲になってる女に、なんで毒など盛《も》りますものか」  佐七は大いにあてられぎみだったが、なるほど、これでは勘十郎のことばにも一理はあった。 小梅芳《よし》三《さぶ》郎《ろう》   ——小梅はあたしをうたぐってるんです—— 「師匠、うちかえ」  それからまもなく、勘十郎のしばいを出た佐七が、道のついでにやってきたのは、切り通しのちかくにある中村梅枝のうちだった。  みがきこんだ細め格《ごう》子《し》をひらくと、 「あら、親分、いらっしゃいまし」  と、笑《え》顔《がお》でむかえたのは弟《で》子《し》の花助。  たすきがけのしりはしょりで、たたきのそうじをしているところだった。  佐七は目をまるくして、 「なんだ、花助。おまえも毒にあてられたときいたが、もう起きてはたらいているのか」 「親分、あたしはきっと不《ふ》死《じ》身《み》なんですね。ゆうべはちょっと苦しかったんですが、けさはもうなんともないんです。そのくせ、すしをいちばんたくさん食べたのはあたしだのに」  花助はいかにも三枚目らしく、のんきな顔をして笑っている。 「それはよかった。なんにしても、軽いにこしたことはねえ。ときに、師匠は?」 「お師匠さんももうだいじょうぶです。寝床のうえでおきていらっしゃいます。お師匠さん、お師匠さん、お玉《たま》が池《いけ》の親分さんが」  花助が声をかけると、ふすまのむこうから、 「あいよ。聞いてるよ。親分さん、むさくるしゅうしておりますが、どうぞこちらへ、おあがりくださいまし」  どうせ、しがない宮《みや》地《ち》しばいの女役者、家はいたって手《て》狭《ぜま》だが、それでも、いかにもきれいずきらしく、きちんとかたづいた六畳の居間に、中村梅枝は寝床をしいて、そのうえに、はでな掻《かい》巻《まき》をはおって起きていた。 「親分さん、ごめんくださいまし。こんなうまいなりをして……」 「いいとも、いいとも。かげんの悪いところへ押しかけてきてすまねえ。ちょっとおまえに尋《たず》ねたいことがあるもんだから」 「はい、なんなりと……親分、どうぞお当てくださいまし。花ちゃん、お茶なりと……」 「いいんだ、いいんだ、かまわねえでくれ。ときに師匠、こんどはとんだ災難だったが、それについて、おまえなにか心当たりは……?」 「親分さん、それがあるくらいなら、あたしもこんなに心配しやアしません。恐れながらとすぐ下《げ》手《しゆ》人《にん》を訴えます。しかし、どう考えても、一座ひっくるめて十三人、みんながみんな毒を盛られるほど、深いうらみをうけるような覚えはございません」 「ほんに、一座ひっくるめて毒を盛られるなどとは、前《ぜん》代《だい》未《み》聞《もん》の大《だい》椿《ちん》事《じ》だが、それにしても、おまえと花助、それに三津江と小梅の四人だけ助かったというのは、どういうわけだろう」  佐七はあいての顔色を読みとろうとするように、じっと見つめている。  梅枝はしかし、べつに狼《ろう》狽《ばい》したいろもなく、 「それについては、あたしもゆうべから考えてますが、花ちゃんはべつとして、あたしも小梅も三津江さんも、あんまりすしを食べなかったんです。あたしゃアこれでも座がしらですから、そうがつがつ食べるわけにはまいりません。小梅はきのう、なんだか妙に沈んでいて、ほんのひとつかふたつしか、つままなかったようです。三津江さんはちかごろなんだかじれているようで、これも、あんまりほおばらなかったんです」 「すると、師匠の見込みでは、毒の仕込んであったのは、やっぱりすしのなかだというんだね」 「だって、それよりほかに、みんなが、口へいれたものはなんにもないんですもの」 「しかし、そうすると、花助はどうなるんだえ。あの娘《こ》はじぶんで、いちばんたくさん食べたといってるが」 「ほ、ほ、ほ、あの娘はべつです。あの娘は、じぶんでもいってるとおり、きっと不死身なんでしょうよ。根がのんきなたちだから」  いかにのんきなたちとはいえ、毒は毒である。  毒の効果は、それをのんだ人間の、性質のいかんにかかわらず、のんだ量によって左右されるべきはずである。  それにもかかわらず、いちばんたくさんすしをつまんだ花助が、いちばんピンピンしているのはふしぎであった。  佐七はちょっと考えたが、すぐ気をかえるように、 「ときに、師匠、こんどのことについて、世間にいろんなうわさがとんでるのを知ってるか」 「いろんなうわさといいますと……?」 「たとえば、勘十郎のしばいとのいざこざだが、世間じゃ、勘十郎があやしい小娘をつかって、おまえさんの一座を、みな殺しにしようとはかったんだといってるぜ」  佐七が気をひくようにそういうと、梅枝の顔色がさっとかわった。夜具のはしから乗りだすようにして、 「親分さん、そ、それはちがいます。葉村屋の親方は、そんなおひとじゃありません。あのひとは、気の大きな、さばけたかたです。それに、いざこざったって、もうみんなすんでしまったことなんです。葉村屋の親方が、そんなそんな、……親分、それはちがいます」  やっきとなっていいつのる梅枝の顔を、佐七はまじろぎもしないで見つめていたが、やがてニヤッと笑うと、 「師匠、おおきにごちそうさま」 「え?」 「いまも山下で葉村屋の親方に、さんざんきかされてきたところだ。おまえさんたち、うれしいことになってるんだってねえ」 「あれまあ、葉村屋の親方が、そんなことを申しましたか」 「いったもいったも、手ばなしの大のろけさ。いまでも見舞いにとんでいきたいくらいです、そんな仲になってる女に、なんで毒など盛りましょうと、手ばなしにのろけられちゃ、御用聞きもちとつらい」 「まあ、葉村屋の親方が、そんなことをいったんですか」  梅枝は小娘のように、パッとほおにもみじをちらした。  四十にちかい大《おお》年《どし》増《ま》、ましてや女役者などしていれば、男のかずもずいぶん重ねてきたであろうに、この道ばかりはかくべつとみえて、勘十郎の情のこもったことばをきかされると、梅枝は小娘のように、胸をわくわくさせているのである。  佐七はなんだかいじらしくなったが、わざとおひゃらかすように、 「師匠、いやだぜ。おまえさんの年になっても、ほれたとなると、そんなものかねえ」 「親分さん、察してください」 「あっはっは、まあ、いいや。おまえゆうべ葉村屋と、会うことになっていたんだってねえ。そうすると、あのすしの大《おお》盤《ばん》ぶるまいも、そのまえ祝いのつもりだったんだね」 「そうなんです。ところが親分、それをへんに勘《かん》違《ちが》いしてるひとがあるんです」 「勘違いとは……?」 「親分さん、聞いてください。こうなんです」  と、梅枝が語るところによると、こうである。  このあいだの手打ちの晩のことである。  双《そう》方《ほう》の役者ぜんぶがその席につらなったことはいうまでもないが、そのなかには、勘十郎一座の嵐《あらし》芳《よし》三《さぶ》郎《ろう》もいた。  芳三郎はまえにもいったとおり、芸はまずいが、水の垂れるようなよい男だから、梅枝一座の女役者が、ほうっておくはずがなかった。  太夫《 た ゆ う》さん、太夫さんと、よってたかって芳三郎のとりっこをする。  ほうっておいたら、なにしろ女どうしのことだから、どんな遺《い》恨《こん》があとに残らないものでもない……。 「と、そう思ったものですから、あたしが座がしらの威《い》光《こう》をかさにきて、太夫をそばへひきつけて、わざとふざけてみせたりしたんです。それをすっかり勘違いして、あたしが太夫にほれてるんだと思いこみ、きのうあたしがうきうきして、すしをふるまったりなんかしたのも、太夫に会いにいくためだと、そうかんぐって、しょげきってるものがあるんです」 「だれだえ、それは……」 「うちの小梅なんです」 「なるほど、それじゃ小梅は芳三郎に……?」 「そうなんです。それだからこそ、手打ちの席で、小梅と太夫をいっしょにしないように、あたしゃいっそう気を使ったんです。小梅はうちの人気者、そうでなくても、ほかのものから憎まれてるのに、太夫とへんなうわさがたったら、どんなに憎まれるかしれやアしません。それがかわいそうだからと、あたしが、気をつかっているのもしらないで、まるで、あたしが毒を盛りでもしたように……」 「え、それじゃ、小梅はおまえを疑ってるのか」 「そうらしいんですよ。あの娘はずっとうちにいるんですが、けさはいのちをとりとめると、伯《お》母《ば》のうちで養《よう》生《じよう》すると、まるで逃げるように出ていったんです」  梅枝はいくらか不満そうに口をとがらせた。  佐七はだまって考えていたが、思い出したように、 「ときに、きのう、すしを食ったあとだがねえ。おまえさん、湯飲みを洗やアしなかったかえ」 「湯飲みを……? いいえ、とてもそれどころじゃございません。大苦しみでございましたから」 「おまえが洗わなくても、だれかほかのものが、洗っているのに気がつかなかったかえ」 「さあ……なにしろ夢中でございましたから」 「花助はどうだろう。あの娘がなにか知ってやアしねえか」  そこで花助をよんできいてみたが、彼女も湯飲みを洗ったりなんかしなかったし、また、七転八倒していたのだから、だれかが湯飲みを洗ったとしても、気がつかなかっただろうとつけくわえた。  佐七はまた、だまって考えた。 銀山を買った娘   ——黒門町のにしてやられた——  その晩、佐七がひとあしさきに家へかえって待っていると、湯島でわかれた辰と豆六のうち、まず豆六がかえってきて、 「親分、わかりました。やっぱりあのゴミだめのなかには、石《いわ》見《み》銀《ぎん》山《ざん》がおましてん」 「おお、そうか。良《りよう》庵《あん》先生がしらべてくだすったのか」 「へえ、親分のいやはるとおり、ゴミだめのなかのゴミを、どんぶりにいっぱいほどすくって、良庵先生のところへ持っていきましてん。良庵先生がそれを調べて、こら、たしかに石見銀山がまじったアるちゅう話だす」 「そして、そのゴミのなかに、すしの食べのこしがまじっていたか」 「ところが、それがおかしおます。すしはちっともおまへなんだが、茶カスがいっぱいおましてん。そして、その茶カスに石見銀山が、ぎょうさんまじったアるちゅう話だす」 「茶カスになあ……」  佐七はにんまり、会《かい》心《しん》のえみをもらして、 「ところで、お里という小娘のほうはどうだ。妻《つま》恋《こい》稲荷《いなり》の、与作じいのところへいってきたか」 「いえ、それは兄《あに》哥《い》の役目や。わては小屋にのこって、一座のもんの素《そ》行《こう》をきいてきましたが、三《み》津《つ》江《え》という女は、とてもひょうばんがわるおまんな」 「ひょうばんがわるいって、どういうんだ」 「まるで鼻つまみだす。女だてらに大のばくち好き。それに、ちょっとお面がいいので、男をだましては金をまきあげる。ところが、その金を、かたっぱしからばくちですってしまいよる。そして、一座のもんに、ちょっと貸せ、ちょっと貸せで、ちかごろは、首もまわらんちゅう話だす」  豆六の話はどうやら、勘十郎の意見と一致している。  佐七はだまって考えていたが、そこへきんちゃくの辰もかえってきた。 「親分、いけねえ。どうもよくわからねえ」 「わからねえって、お里のこと」 「そうです、そうです。妻恋稲荷のうらの、与作のところへいってみたんですが、与作はたしかにぜんそくで寝てました。そこで、お里という小娘のことを聞いてみましたが、与作はとんでもないと打ち消すんです。じぶんには子どもというものはひとりもない、子どもがないくらいだから、孫などあろうはずがないといい張るんで。念のために、近所でもきいてみましたが、みんな与作さんのいうとおりだといやアがる。あのひとに、親《しん》戚《せき》があるって話は聞いたことがないと、口をそろえていうんです」  佐七はちょっと考えて、 「与作はいつも、すしをどこで仕入れるんだ。まさか、じぶんのうちで握るんじゃあるめえ」 「へえ、そりゃア外《そと》神《かん》田《だ》の清ずしです。あっしも抜かりゃアありません。清ずしへもいってきいてみました。すると、きのうの朝、お里とおぼしい小娘が、与作のつかいだといって、すしを仕入れにきたというんです。そこで、そのとき小娘のさげていたさげ重《じゆう》のことをきいてみたんですが、与作さんのものだと思ったが、気をつけていたわけじゃねえから、よくわからねえ、あるいは、ちがっていたかもしれぬといやアがる」 「梅《ばい》枝《し》の楽屋に、さらやなんかのこっていたが……」 「親分、あれはいけません。与作のつかってたのも、たしかあれとおなじさらですが、あのさらならどこにでも売ってるしろものなんで、とても証《しよう》拠《こ》にゃなりません」  佐七はしばらく考えていたが、 「辰、与作というじじいをもうすこし洗ってみろ。おりゃアそいつが、なにかかくしているように思われてならねえ。それから、豆六」 「へえ、へえ、わての役はなんだす」 「おまえは小梅をひとつ洗ってみてくれ」 「へえ、小梅がどないかしましたか」  そこで、佐七が梅枝にきいた話をすると、 「親分、それじゃ、ひょっとすると、小梅のやつがやったんじゃありますめえか」 「そや、そや、座がしらの威光をかさにきて、ひとの情人《 お と こ》を横取りする……と、いちずにそう思い込んで、師匠を殺すつもりで、あんなことをやったんやおまへんやろか」 「そんなことがねえともかぎらねえ。だから、そのへんのところを洗ってみろ」 「がってんです」  こうして、二、三日はまたたくうちに過ぎ去ったが、辰と豆六の探《たん》索《さく》は、いっこうはかばかしくすすまなかった。  小梅は本《ほん》所《じよ》にいる伯《お》母《ば》のところへいってから、また容《よう》態《だい》がぶりかえしたらしく、寝たっきりでひとにも会わなかった。  豆六はやっとのことで、ちょっと会って話をしたが、小梅はただ泣くばかりで、はかばかしいうけ答えはしなかった。  ただ、ことばのはしばしから、梅枝をうらんでいるらしいことはうけとれたが、さりとて、そのために、あんなだいそれたことをしでかそうとは思えなかった。  かえって、梅枝もいったとおり、彼女は師匠をうたぐっているらしかった。  辰のほうの探索も、あれっきり行きなやみになって、こうしてはやくも七日は過ぎた。  そして、非《ひ》業《ごう》に死んだ九人の女のお弔《とむら》いが、あす下《した》谷《や》の竜泉寺で執《と》り行なわれるということが、江戸じゅうの大ひょうばんになった、そのまえの日のことである。  血《けつ》相《そう》かえて、とび込んできたのがきんちゃくの辰で。 「親分、いけねえ。やられた。黒《くろ》門《もん》町《ちよう》の弥《や》吉《きち》親分に、まんまとしてやられました」 「なに、黒門町のにしてやられたと? 辰、そりゃアいったい、どういう話だ」 「どうもこうもありません。面《めん》目《ぼく》なくて、おまえさんにあわす顔もありませんが、きいてください、こうなんです。与作め、お里などという孫は、知らぬ存ぜぬとシラをきっていやアがったが、それはまっかなうそで、あいつにゃア、ちゃんと孫娘があるんです。もっとも名まえはお里じゃなく、お品《しな》というんだそうです。なんでも与作がわかいじぶん、親知らずで、里子にやった娘にできた孫だそうで。ところで、お品の両親というのが、三津江のために、メチャメチャにやられてるんです」  辰の話によると、こうである。  与作の娘のお袖《そで》というのは、幼いじぶん、親知らずで里子にやられたが、その後、養家さきの不運つづきから、柳《やなぎ》橋《ばし》の芸者屋へ下《した》地《じ》っ子として売られた。  ところが、これが長ずるにおよんで、たいへんな美人になり、柳橋でも指折りの売れっ妓《こ》となった。  それが横山町の地《じ》紙《がみ》問《どん》屋《や》、近江《おうみ》屋《や》の若だんな、万《まん》之《の》助《すけ》というものに見染められ、嫁になってお品をうんだ。  そこまではよかったが、ちかごろになって、この万之助に天魔がみいったのか、ばくちの味をおぼえてしまった。  そして、あちこちの賭《と》場《ば》へ出入りをしているうちに、知りあったのが阪東三津江である。  三津江という女は、いったい、どういう手をつかうのかしらないけれど、いちど関係をつけると、その当座、男の性《しよう》根《ね》を、根こそぎぬいてしまうすべを知っているらしい。  万之助もこの雌《め》ぎつねの手《て》管《くだ》にのって、たちまちのぼせあがってしまった。  家をそとに放《ほう》埒《らつ》三《ざん》昧《まい》。  なにしろ、ばくちと女と、三道楽のうち二道楽そろったのだから、家のなかがまるくおさまるはずがない。  それを苦にして、女房のお袖が、たびたび三津江を訪れて、わかれてくれるようにたのんだが、そんなことをききいれるような三津江じゃなかった。ぎゃくにさんざん毒づかれて、お袖はちかごろ血の涙でくらしているという。 「そこで、子ども心に胸をいためたお品が、三津江さえなきものにすればと思って、じいさんのかわりにはいりこんで、だれかれの見《み》境《さかい》もなく、毒を盛ってしまったんです。ええ、黒門町の井《い》筒《づつ》屋《や》で、石見銀山を買ったことまでわかってるそうで。親分、こんどこそは、黒門町の親分にしてやられました。あっしゃ、こんなくやしいことはありません」  辰はポロポロ涙をこぼして、男泣きに泣きながら、佐七のまえにあやまった。 尾行する薬売り   ——匕《あい》首《くち》口に、女はざんぶと大川へ——  非《ひ》業《ごう》の最《さい》期《ご》をとげた九人の女の弔《とむら》いは、その翌日、下《した》谷《や》の竜泉寺で執《と》り行なわれた。  九人のなきがらはすでにお骨《こつ》になっていたが、弔いは座がしらの回復するのをまっていたのである。  佐七も辰や豆六をひきつれて出むいていったが、なにせ、ひょうばんの事件だから、竜泉寺はたいへんな人出だ。 「ちょっとみや、むこうにいるのが座がしらの梅《ばい》枝《し》だ。もう四十ちかいとしだというが、こうみたところが三十そこそこ。あの目つきのいろっぽいこと、たまらねえなあ」 「よせやい。いかに器量がよくっても、座がしらじゃとしをくいすぎてら。おら、やっぱりいま売りだしの小梅がいい。ああして、しょんぼりすわっているところなんざ、雨になやめる海《かい》棠《どう》ってふぜいだ。おっ、ありがてえ。小梅がおれのほうをみて、にっこり笑ったぜ」 「バカ野郎、おめえなんかが小梅に熱をあげるがらかい。おめえに似合いの女というのは、ほら、いた、いた、あそこにいる三枚目の花助よ」 「この野郎、いわせておけば……」 「おい、よせ、よせ。それだからおまえっちは、まだくちばしが黄色いというんだ。小梅はなるほどよい器量だが、あんなのをいろにして、なにおもしれえもんか。いろごとをするならあの三津江よ。みろ、あのもみあげのなげえところを。ありゃアいろぶけえ証《しよう》拠《こ》よ。あんなのといちど寝てみろ、それこそ地位も身分もいらなくならア」 「ちぇっ、地位や身分がきいてあきれる。桶《おけ》屋《や》の下《した》職《しよく》になんの地位があるんだよ」  場所がらもわきまえず、若いものがあつまって、わいわい品《しな》定《さだ》めをしているところへ、 「ああ、もし、それでは二番めにすわっているのが、三津江という女でございますか。そして、あれもやっぱり女役者で……?」  と、なんとなく思いつめた口のききかたを、ふと小耳にはさんだ佐七が、なにげなくふりかえると、二十五、六の若いもの。  日焼けした顔といい、なりから、ものごしといい、たしかに薬の行商人である。  佐七はなんとなく、はっと胸をとどろかせたが、そのまま、さりげなく耳をすましてきいていると、 「そうよ、一座の書き出し、人気役者よ。もっとも、小梅がはいってからは、人気をさらわれて、以前ほどじゃなくなったが……」 「そして、あの女もやっぱり、石見銀山をのまされたんで……?」 「そうとも。あやうく命をひろったひとりだ」 「さようで……ございますか」  男はごくりとつばをのみ、ふしぎそうに首をかしげたが、そのまま無言で、あとは食いいるようなまなざしで、三津江の横顔を見つめている。  佐七は辰や豆六と顔見合わせた。 「辰、豆六、あの男から目をはなすな」 「おっと、がってん。親分、なにかいわくがありそうですぜ」  三人はそれとなく、男のようすに気をくばっていたが、そのうちにお弔いもすみ、やじうまも散ってしまうと、まもなく梅枝をはじめ一同が、ゾロゾロと寺から出てきた。  梅枝の一行は寺のまえから駕《か》籠《ご》にのったが、ただひとり三津江だけが、ほかに用事があるのか、駕籠にものらずに歩いていく。  それをみると、さっきの男が、見えがくれにあとをつけはじめた。佐七と辰と豆六が、さらにそのあとをつけたことはいうまでもない。  こうして追いつ追われつ、三つどもえの尾行がしばらくつづけられたが、やがてせんとうの阪《ばん》東《どう》三津江が、さしかかったのは大《おお》川《かわ》端《ばた》。  もうそのころは日も暮れかけて、ひろい大川の上には、すずめ色のたそがれがひろがっていた。  と、このとき、あたりを見まわしていた男が、きゅうに足をはやめると、三津江に追いついてよびとめた。  佐七をはじめ辰と豆六は、少しはなれたものかげにたたずんで、ふたりのようすをながめている。  はじめのうち、三津江にはあいてがわからなかったらしいが、ふたことみこと、男がなにかささやくと、のけぞるばかりにおどろいて、バタバタと、すそをみだして逃げだした。  男はすぐに追いついて、うしろから三津江のたもとをがっきととらえる。  三津江がそれを、振りはなそうと、もがくはずみに、ビリビリと、たもとがさけて、男の手にのこった。  三津江は片そでになったまま、こけつまろびつ、大川端を逃げていく。男がまたうしろから追いすがって、こんどは三津江の髷《まげ》をつかんだ。  と、そのときである。  満面に朱《しゆ》をそそいで、きッとふりかえった三津江の右手に、なにやらきらりと光ったかと思うと、男はわっとさけんでその場にしりもちをついた。 「ひ、人殺しだア!」 「しまった! それ、辰、豆六!」  佐七の声にバラバラと、ものかげからとびだした辰と豆六が、 「御用だッ、阪東三津江、神妙にしろ!」  もうひと突き、男を刺そうとしていた三津江は、それをきくと、ひらりと身をひるがえして、  匕《あい》首《くち》を口に、ざんぶとばかり大川のなかへとびこんだ。 「ちぇっ、手《て》間《ま》をとらせるあまだ。豆六、男のほうはたのんだぜ」  くるくると帯をとくと、ふんどしいっぽんのあかはだか。辰が女のあとをおうて、川のなかへとびこむのを見送っておいて、佐七は男のそばへかけよった。 「これ、しっかりしなせえ。傷はあさいぞ」  じっさい、傷はあさかったのである。  さて、物語もここまでくるとおしまいである。  その男は繁《しげ》造《ぞう》といって、佐七がにらんだとおり、旅の薬売りだったが、十日ほどまえに、目黒の不動様のほとりで、道連れになったのが阪東三津江である。  三津江はその日、不動様へおまいりにいったのだが、道連れになった薬売りが、石《いわ》見《み》銀《ぎん》山《ざん》を持っているときいて、れいのいろ仕掛けで、あやしげな茶屋へつれこんだ。  そのころの目黒不動の付近には、そういう男女の出会い茶屋が、たくさんあったものである。  さて、まえにもいったとおり、三津江は男にたいして、ふしぎな手をもっていた。  繁造はまた血《けつ》気《き》の若者。  ましてや、ここしばらく女房のもとをはなれて、旅から旅をつづけている身の、女の肉に飢《う》えていた。  秋の西日のすすけた障《しよう》子《じ》にカーッと明るい、薄《うす》ぎたない三流茶屋の奥座敷で、ふたりはまるで二匹のけだもののように、からみあって、うむことを知らなかった。  しかし、さすが頑《がん》健《けん》な繁造も、秘術をつくした三津江の技巧のまえには、かぶとを脱《ぬ》がざるをえなかった。  まもなくかれは、精《せい》も根《こん》もつきはてて、ヘトヘトになって、眠ってしまった。  そして、日が暮れて目がさめたときには、胴《どう》巻《まき》から商売ものの薬箱まで、いっさいがっさい、女に持っていかれていたのである。 「あっしだって、ただで遊ぼうたア思いません。あれだけ夢中にさせてもらったんだから、胴巻の金のほうは、まくら代としてあきらめますが、困ったことには薬箱のなかには、商売ものの鑑《かん》札《さつ》がはいっております。それがなけりゃア、こののち商売をつづけることもできません。そこで、なんとかして女をさがしだし、鑑札だけでも返してもらおうと、江戸じゅうをさがしまわっているうちに、耳にはさんだのが、湯島のしばいの大騒動です」  あの大騒動で下《げ》手《しゆ》人《にん》がもちいた薬を石見銀山ときいて、繁造はもしやと思った。  そういえば、あのときの女にも、女役者らしいところがあったと、そう気がついた繁造は、きょうのお弔いに一同があつまるときいて、そっとようすを見にきたのだが、はたしてそのなかから、あのときの女の、阪東三津江を発見したのである。  阪東三津江はせっぱつまって、川のなかへとびこんだものの、泳ぎを知らないから、アップアップしているところを、きんちゃくの辰に救いあげられた。  さすがあばずれの三津江も、繁造とつきあわされると、恐れいって白状せずにはいられなかった。  三津江はちかごろ、ヤケになっていたのである。  小梅がはいってきてから、人気もしだいに落ちめである。  一座のものには借金借金で鼻つまみ。  そこへもってきて、こういう女にかぎって面食いなもので、彼女もかねてから、嵐《あらし》芳《よし》三《さぶ》郎《ろう》にぞっこんほれていたのだが、その芳三郎も、どうやら座がしらのものらしい。  と、そうかんちがいした三津江は、なにもかもおもしろくなかった。座がしらもにくけりゃ小梅もにくい。わずかの借金をたてにとって、いやみをならべる一座の連中もしゃくにさわる。 「そこで、みんなを道連れにして、いっそ死んでしまおうと思ったのでございます」  と、三津江はお白《しら》洲《す》で申し立てたが、それはうそで、湯飲みやどびんの茶をすてたところをみると、じぶんだけたすかっても、疑いがかからぬように、用心していたのである。  九人の女をころした石見銀山は、すしのなかにしこまれていたのではなかった。  三津江がどびんの中へほうりこみ、そして、みんながもがきはじめると、すきをみて、てばやくどびんや湯飲みのなかをゴミだめにあけ、すしのなかへこっそりと、のこりの石見銀山を、押しこんでおいたのである。  近江《 お う み》屋《や》のお品《しな》は、子どもごころのひとすじに、三津江をころしてしまおうと、石見銀山を買ったものの、さすがにそれをつかう勇気はなく、あの日はただ、三津江という女を見とどけにいったのだという話で、井《い》筒《づつ》屋《や》で買った石見銀山は、まだ手つかずで持っていた。  九人の女をころした三津江は、むろん重罪で、引きまわしのうえ獄《ごく》門《もん》。これじゃ大川へとびこんだまま死んだほうが、どれだけましだったかしれないだろう。  近江《 お う み》屋《や》の万之助も、あいてがこんな恐ろしい女とわかれば、目がさめずにはいられない。  以来、ふっつり心をいれかえ、ばくちとも縁をきり、稼《か》業《ぎよう》にはげんだということだから、かたむきかけた近江屋の身《しん》代《だい》も、もちなおしたことだろう。  いっぽう、梅《ばい》枝《し》と勘十郎、小梅と芳三郎は、思いがかなって、まもなく二組みの夫婦ができあがったが、これでいよいよ、湯島名物女役者のしばいも、むかしの夢と消えてしまった。  しかし、これはむしろ、めでたい結末だったろう。 吉様まいる 情夫の名   ——名乗って出たのが三人あります——  佐七も商売がら、おりおり妙な事件をもちこまれることがあるが、その日もちこまれた一件ほど、へんてこな捜《そう》索《さく》を頼まれたのははじめてだった。  そもそも、この一件をもちこんできたのは、紅《べん》殻《がら》屋《や》伊《い》左《ざ》衛《え》門《もん》といって、日本橋通三丁目に漆《しつ》器《き》塗《ぬ》り物の店をもっている江戸でも屈《くつ》指《し》の大だんなだが、その伊左衛門が三月なかごろ、みずから出向いてきて、涙ながらに語るところを聞けばこうである。 「ほんとにかわいそうなことをいたしました。それほど娘が思いこんだ男なら、たとえあいてが非《ひ》人《にん》こじきでも、夫婦にしてやりましたのに、いまとなってはかえらぬ繰《く》りごと。せめては娘のわすれがたみ吉《きち》太《た》郎《ろう》を、りっぱに育てて店を譲《ゆず》りたいと思いますが、なにをいうにもわたしもこのとし、吉太郎が成人するまで生きていられるやら、それを思うと心細くて……」  年寄りのつねとして、愚《ぐ》痴《ち》ばかりおおいその話を、そのまま写していてはきりがないから、かいつまんでお話しするとこうである。  伊左衛門夫婦にはお七《しち》という娘があった。  お七は夫婦が老境に入ってからできた子どもで、あとにもさきにも、たったひとりのひと粒《つぶ》種《だね》。されば、伊左衛門夫婦が、このお七をかわいがることといったら、古いことばだが、掌《しよう》中《ちゆう》の珠《たま》とばかり愛《め》でいつくしんできたかいあって、お七もことしはや十七。さいわい虫の気もなく育って、照りかがやくばかりの美しい娘となったから、夫婦の喜びたとえようもない。  一日もはやくよい婿《むこ》とって、初孫の顔を見たいばかりに、去年のうちから婿選びによねんがなかったが、そのうちに大変なことが起こった。  去年の秋のはじめころから、お七が妙に酸《す》っぱいものを好むようだと思っていると、だんだんおなかがせり出してきて、まぎれもなく妊《にん》娠《しん》——とわかったときの夫婦のおどろき、怒り、嘆《なげ》きは、ことあたらしく申すまでもあるまい。 「あまりのおどろきに、そのときつい取りのぼせまして、お七をつよく責《せ》めすぎたのがいけなかったので、元来が気のよわい娘でしたから、おびえきってどうしても男の名をいおうといたしません。そのうちにおなかのほうが容《よう》赦《しや》なくせり出してまいります。世《せ》間《けん》体《てい》もありますので、お袖《そで》という気にいりの女中をつけて、小梅の寮《りよう》へやりましたが……」  その家で、お七は十日ばかりまえに、玉のような男の子を産んだが、産後の肥《ひ》立《だ》ちがわるく、桃の節句をまえにして、それから三日目に死んだのである。 「へえ、それはまたご愁《しゆう》傷《しよう》さまでございます」 「はい、ありがとうございます」 「そして、お七さまのそのあいて、つまり赤ちゃんの父《てて》御《ご》というのは……?」 「それがわからないのでございます。お七はとうとうなにもいわずに……」  と、伊左衛門がいまさらのように泣きむせんだから、佐七をはじめ辰に豆六、さてはお粂《くめ》まで、おもわず顔を見合わせた。 「はじめにつよく責め問うたのがいけなかったのでございます。うまれてから十七年、わたしの怒り顔をみたことのない娘は、それがよほど胸にこたえたのでございましょう。もしも男の名を明かしたら、わたしがどうかするとでも思ったのでしょう。その後、手をかえ品をかえ、しまいにはきっと夫婦にしてやるからと申しましても、ただ泣くばかりで……」  ついに秘密を抱いたまま、お七は、はかなくあの世へ旅立ったというのである。 「それはまたとんだことで……しかし、お七さまの口からおっしゃらずとも、見当ぐらいつきそうなもの。親御様にはわからずとも、奉公人などは案外そんなことをよくしっているものでございますが……」 「ところが、よほどうまく首《しゆ》尾《び》をしていたとみえ、店のものは申すにおよばず、奥でもみんな心当たりがないと申しますので……知っているとすればお袖ですが、そのお袖さえ、まったく知らぬと申します。ところが……」 「ところが……?」 「ここにただひとつ、それを知るよすがになろうかと思われるのは、これ、この手紙でございます。これはお七が死にましてから、まくらの下から出てきたのですが、亡くなるまえの日あたりに、お七が書いたらしいのでございます」  と、伊左衛門が出してみせた手紙というのは——   ひと筆かきのこしまいらせ候《そうろう》。このたび産後のわずらい、とても本《ほん》復《ぷく》おぼつかなく存じられ候まま、書きのこし申し候。じゃけんな父さんにへだてられ、その後のおうせかなわず、恋しくすごしそうらえども、うまれし子供はそもじ様の、おんたねにちがいこれなく候まま、なにとぞなにとぞ、ゆく末おたのみ申し上げまいらせ候。名前の儀はつねづね語りあい候ときの、そもじ様のおん名にちなみ吉太郎とつけ申し候まま、吉太郎のゆく末、くれぐれもお願い申し上げ候、かしこ お七より      吉《きち》様《さま》まいる 「なるほど……しかし、だんな、こういうものがあれば、およそ見当がつきそうなものではございませんか。吉という字のつく男……」 「ところが、親分、それがいけませんので。こっそり詮《せん》議《ぎ》をすればよかったものを、ついはやまって通《つ》夜《や》の席で、わたしがこの手紙のことを披《ひ》露《ろう》したのでございます。それのみならず、そのあとで、お七はなくともこの吉様、孫吉太郎の父にちがいないゆえ、養子にむかえてゆくゆくは吉太郎の後《こう》見《けん》を託《たく》したい……と、こういうことをつい漏《も》らしたのでございます。そういたしますと……」 「そういたしますと……」 「さっそくつぎの日になって、われこそ吉様と、名乗って出たものがあるのはよろしゅうございますが、それがひとりならずふたり三人……」  伊左衛門がほっとため息をついたから、これには、一同あっとばかりにおどろいた。 三人吉様   ——世にも変な一件を背負いこんで——  佐七はにわかにひざをすすめて、 「そして、その三人といいますのは……」 「まずさいしょに名乗ってでたのが、雷《かみなり》 門《もん》前の鱗《うろこ》形《がた》屋《や》という絵《え》草《ぞう》紙《し》屋《や》の三男で、吉松という若者」 「なるほど、吉の字がつきますね」 「この鱗形屋というのは、もとは縁つづきになっておりますし、それにお七は、まことに絵草紙の好きな娘でございましたから、観《かん》音《のん》様《さま》へのお参りのせつなど、よく立ち寄っていたようでございます。それでついねんごろになった、と、こう吉松は申すのでございます」 「なアるほど、筋はとおっておりますね」 「はい、いちおうはもっともらしくみえます。ところが、この吉松と申しますのが、親でさえももてあましているほどの、放《ほう》蕩《とう》無《ぶ》頼《らい》の若者で、お七などもつねづね怖《こわ》がっておりましたほどですから、それと契《ちぎ》るというのは少し……」 「しかし、だんな、ものはとりようで、そういう放蕩者だから、お七さまをくどきおとすか、あるいはまた、むりやりに手《て》込《ご》めにしたとも思われますね。生《き》娘《むすめ》というものは、手込めでもなんでも、いちど男にそんなことされると……」 「はい、わたしもそれを考えました。それですから、半信半疑ながら、むげにもはねつけるわけにもいかず、当惑しておりますところへ、またぞろ、第二の吉様があらわれたのでございます」 「して、その第二の吉様というのは……」 「これは同町内に住んでいる金子吉《きち》之《の》丞《じよう》という謡《うたい》の師《し》匠《しよう》でございます」 「吉之丞——なるほど。浪人者ですね」 「さようで。としは三十前後でございますが、色の白い、ちょっとすごみなよい男振りでございます。これが去年の夏ごろから、お七といい交《か》わしていたお七の書きおきにある吉様とはすなわちじぶんであると、こう申し立てるのでございますが、このほうには証人まであるので……」 「証人と申しますと……」 「常磐《 と き わ》津《ず》の女師匠で文《も》字《じ》房《ふさ》という、これも同町内のものでございますが、お七もひところ、この文字房のところへけいこにかよっておりました。ところが、その後、文字房という女には、いろいろよくないうわさがございますので、やめさせましたが、まだけいこにかよっているじぶん、お七のほうからたのまれて、吉之丞さんをお取り持ちした。お七のいいひととは、この金子さんにちがいないと、そう文字房がいい張るのでございます」 「なるほど」  佐七はだんだんおもしろくなってきた。ずいとひざをすすめると、 「そして、もうひとりの吉様というのは……」 「それがまた、とほうもない話で、宅の一番番頭の吉《きち》兵《べ》衛《え》なのでございます」  佐七は辰や豆六と顔見合わせて、 「一番番頭と申しますと、もうそうとうのとしでございましょうが」 「はい、吉兵衛はことし厄《やく》の四十二、それがお七の男だと名乗って出たものでございますから、わたしゃもう腹が立つやら、情《なさ》けないやら」 「なるほど、吉兵衛さんなら吉がつく。それに、としのちがいといっても、このみちばかりはまた格別、お半《はん》長《ちよう》右衛《え》門《もん》のためしもあります」 「はい、吉兵衛もそう申すのでございます。あれのいうのに、去年、お七は江《え》の島《しま》見物にまいりましたが、そのせつ女ばかりは不安だし、といって若い者はつけられず、そこで吉兵衛をつけてやったのでございます。ところが、江の島の宿についた晩、ひどい大雪で、お七が吉兵衛の蚊《か》帳《や》へ逃げこんでまいりましたそうで、そこでつい、手がさわり、足が触れ……」 「なんや、そら、お半長右衛門の浄《じよう》瑠《る》璃《り》やおまへんか」 「はい。吉兵衛のやつ、帯屋の段を一段語って大のろけ、あげくの果てにはお七のいろはこの吉兵衛、紅《べん》殻《がら》屋《や》の身《しん》代《だい》はじぶんのものだといきまきます。わたしはあきれはてて涙も出ません。情けないやら、あさましいやら……」  と、伊左衛門は思案投げ首の青《あお》息《いき》吐《と》息《いき》だ。 「いったい、その吉兵衛さんというのは、日ごろはどういうかたでございます。おかみさんはないのでございますか」 「はい、吉兵衛は子《こ》飼《が》いからの奉公人でございますが、これが、もういたっての堅《かた》物《ぶつ》で、いままでどんなに勧《すす》めても、女房を持とうといいません。女房を持つと、勤めのほうがおろそかになる。それではご主人に申し訳がないと申しまして……それほど忠義者の吉兵衛が、どう狂ったのか、とんでもないことをいい出して、わたしはもう腹が立って、腹が立って……」  伊左衛門はとうとう手ばなしで泣き出した。かれがくやしがるのもむりはない。  はたからみればかなりこっけいな事件だが、当事者の身になれば、こっけいどころの騒ぎではない。  いかにかわいい娘の婿《むこ》とて、いっときに三人も出てきちゃたいへんだ。しかも、この三人が三人とも、ひとりとして満足なやつはいないのだから情けない。  吉松は道楽者、吉之丞は素《す》性《じよう》のしれぬ浪人者、吉兵衛は死んだお七と親子ほどもとしのちがう奉公人、どれがほんとの吉様にしろ、紅殻屋の養子としては、ずいぶん外《がい》聞《ぶん》になりそうな連中ばかり。伊左衛門が思案にくれるのも、むりはなかった。 「とはいえ、わたしも男でございます。お七の通夜のまくらもとではっきりいったからには、きっとその男を養子にするつもりでございますが、三人も養子があっちゃアやりきれません。それで、おまえさんにお願いというのは、だれがほんとの吉様か、それを見定めていただきたいのでございます」  というわけで、佐七は世にもへんてこな一件を背負いこむことになったのである。 お袖《そで》駒《こま》太《た》郎《ろう》   ——お粂は吉之丞に弟子入りしろ—— 「どうだ、おまえたち。いったい、だれがほんとの吉《きち》様《さま》だと思う」  伊左衛門がかえったあとで、佐七はにやにや笑いながら、お粂《くめ》や辰《たつ》や豆六を振りかえった。 「そうさねえ。あたしゃやっぱり吉松だと思う。色っぽい絵《え》草《ぞう》紙《し》なんかみせつけて、お七さんがぼうっとしているところをくどき落としたのさ」 「なるほど。辰、おまえはどうだ」 「あっしゃちがいますね。あっしの考えじゃ吉《きち》之《の》丞《じよう》だ。といってお七も、しょてから吉之丞にほれてたわけじゃねえ。こりゃきっと、文《も》字《じ》房《ふさ》のやつが、筋を書きゃアがったにちがいありませんぜ。紅《べん》殻《がら》屋《や》じゃ文字房の素《そ》行《こう》に難《なん》癖《くせ》つけてお七をよさせた。こうなりゃだいじな弟子を失うばかりじゃねえ。外聞にもかかわりますからね。そこで、文字房がくやしがって、その返報にお七を傷《きず》物《もの》にするつもりで、吉之丞をけしかけて手込めどうよう、お七をものにしたにちがいねえ」 「なるほど、これもうがった見方だな。豆六、おまえはどうだ。だれがほんとうの吉様だと思う」 「わてはまた、おふたりともちがいまんな。わてのにらんだところでは、こら、やっぱり吉兵衛やな。つい手がさわり足が触れ……へっへっへ。操《あやつ》りでするとええとこや。やんがて長《ちよう》右衛《え》門《もん》がお半を負うて、桂《かつら》川《がわ》連理のしがらみ。それにしても、吉兵衛のやつ、お七が死んだのに生きのこって、紅殻屋の身《しん》代《だい》横《おう》領《りよう》しようとは、いけずうずうしいやつや。吉様ならお七が火あぶりになったあと、坊《ぼう》主《ず》になって遍《へん》国《ごく》する」  豆六のいうことは、なにがなんだかわからない。  ひとの災難を、慰みの種《たね》にするわけではないが、なにしろあまりれいのない事件だから、一同おもしろがって、しばらくわいわいいっていたが、そのうちに辰がひざをすすめて、 「しかし、親分、おまえさんの考えはどうなんで。吉松、吉兵衛、吉之丞、どれがほんとの吉様で……」 「そうよなあ。おれの考えは、もう少し伏せておこうよ。ときに、こんなところで評議をしていたってはじまらねえ。辰、豆六、おまえたちこれから出向いて、紅殻屋の奉公人を調べてこい。店に何人、奥に何人、どんなやつがいるかよくみてこい。とりわけ、お袖《そで》という女中だが、こいつによく注意してみろ」 「へえ、お袖がどうかいたしましたか」 「紅殻屋のだんなの話じゃ、お袖はお七のいちばんのお気にいりだったという。親にいわねえかくしごとでも、気にいりの女中などには、ずいぶん打ち明けるもんだ。それから、お粂」 「あら、おまえさん、わたしにも役がつくのかえ」 「すまねえが、おまえきょうから謡《うたい》のけいこをはじめてくれ」 「吉之丞の弟《で》子《し》入《い》りをするのかえ」 「はっはっは、さすがは佐七の女房だ」 「のみといえばつち」 「カーといえばツーやな」 「ほっほっほ、からかわないでよ。しかし、おまえさん、このなりでいいのかえ」 「いや、それじゃいけねえ。雉《き》子《じ》町《まち》へいって、損《そん》料《りよう》を借りてこい。旗《はた》本《もと》のご後《こう》室《しつ》様《さま》というふれこみだ。髪もついでに結いかえてきな」 「あいよ」  さあ、たいへんなことになったものだが、お粂もがんらい、こんなことが大好きなのである。それからまもなく、髪をあらため、借りてきた損料の衣《い》装《しよう》を一着におよぶと、なにがさて、その昔、吉《よし》原《わら》で全盛をうたわれた女だけあって、水の垂れそうなご後室様ができあがったから、さあ、辰と豆六が気をもんだのもまないのって。 「親分、いいんですかえ。こんななりで野放しにして、ねこにかつお節とはこのことだ」 「あいてはなにしろ、すごいようなええ男やいう話だっせ。あねさん、あんたが謡の手ほどきを受けるのはよろしおまっけど、変な手ほどきを受けたらあきまへんで」 「ほっほっほ、どうだかわからないよ。それじゃおまえさん、いってきますよ。辰つぁん、豆さん、おまえさんたちは出かけないのかい」 「おっとしょ。それじゃあねさん、途中までいっしょにまいりましょう」  わいわいいいながら、三人いっしょに出かけていったが、さて、その晩かえってきた辰と豆六の報告によるとこうである。  紅殻屋には表に五人、奥に三人奉公人がいる。  表の五人は、一番番頭が吉兵衛で、その下にいる二番番頭の与《よ》兵《へ》衛《え》というのは、これはもう女房も子供もあり、白木の横町に店借りして、かよいでお店を勤めている。その下に初三郎という手代がひとり、こいつはおりおり夜ぬけ出して、深川あたりになじみがあるらしい。  ほかに駒《こま》太《た》郎《ろう》に亀《かめ》吉《きち》という丁《でつ》稚《ち》がいるが、駒太郎は吉兵衛の甥《おい》だそうで、とって十七、亀吉は十三の、ともに前髪の小僧である。  表はこれだけで、奥のほうはまず筆頭がお寅《とら》という四十いくつかの大《おお》年《どし》増《ま》、伊《い》左《ざ》衛《え》門《もん》の女房のお組が病気がちだから、これが家事取り締まりというかっこうである。  ほかのふたりは、お鉄という飯たきのばあさんに、女中のお袖。お袖はおかみさんの縁つづきにあたるとやらだが、ことし十八、ちょっとふめる器量である。 「なるほど、それじゃ、お七が寮《りよう》へいくのに、お袖よりほかについていく者はなかったわけだな」 「へえ、そうなんで。もっとも、寮のほうには、弥《や》助《すけ》にお霜という年寄り夫婦がおりますがね」 「ところで、お店と寮とのあいだの使い走りは、だれがしていたんだ」 「それは丁稚の駒太郎がやっていたそうです。この駒太郎とお袖とは、お袖のほうが一つうえなんですが、ゆくゆくは夫婦と、だんなの取り持ちできまっているそうです。つまり、ふたりを夫婦にしてのれんをわけて、それへ吉兵衛をつけてやる。だんなのほうではそこまで考えていなさるのに、ふといやつは吉兵衛で……」 「お主《しゆう》の娘を傷《きず》物《もの》にして、あわよくばお店を乗っ取ろうちゅう言《ごん》語《ご》道《どう》断《だん》な黒ねずみや」 「なるほど……ときに、お粂、おまえのほうはどうだえ」 「わたしのほうは、そう簡単にらちはあかないよ。しかし、ねえ、おまえさん。吉之丞と文字房とは、どうやらふつうの仲じゃないらしい」 「文字房がやってきたのか」 「ええ、けいこのさいちゅうに……ところが、文字房のやつ、わたしの姿をみると目に角《かど》立ててね、そりアやきもきするんだよ。わたしゃそれがおもしろかったから、いっそう吉之丞に色っぽくしてやると、こいつがまた、まんざらでもない顔色でね。すると、文字房がまたむこうでやきもき、ほっほっほ、ほんとにおまえさん、おもしろかったよ」  お粂はいかにもおもしろそうに、けろけろ笑っていたが、あぶない、あぶない、あまり調子に乗りすぎて、なにか間違いがなければよいが。 締め切り座敷   ——きょうはわたし酔いそうですよ——  こうして、紅《べん》殻《がら》屋《や》のようすもあらかたわかったし、吉之丞と文字房の仲も、だいたい想像されるのだが、さりとて佐七にもこの一件、どこから手をつけてよいかわからない。  なにしろ、かんじんのお七が死んでいるのだから、関係があったの、なかったのといったところで、しょせんは水かけ論である。ひょっとすると、三人とも関係がないのかもしれないし、また悪くとると、三人とも関係があったのかもしれなかった。そうなると、吉太郎がだれのタネだか、これは死んだお七にもわかるまい。 「仕方がねえ。まあ、気長にようすを見ていてやろうよ。辰、てめえはあすから吉《きち》兵《べ》衛《え》を張っていろ。豆六は雷門前へ出向いて、絵草紙屋の吉松をさぐれ。それから、お粂はご苦労だが、いましばらく謡《うたい》のけいこをつづけてくれ」 「あいよ、わたしもこのままじゃさがれないよ。もう少し、文字房のやつをじらしてやらなきゃ……」  これが女の意地というものか、お粂はむろん、吉之丞などに毛《もう》頭《とう》気のあるわけじゃなかったが、文字房がじぶんを目して、すわ強敵と、瞋《しん》恚《い》のほのおをもやしているのを感ずると、からかい気分も手伝って、それからのちは、いよいよめかしにめかし立てて、吉之丞のもとへかよっていたが、そのうちに、とうとうひと騒動持ちあがったのである。 「ご免くださいまし。おや、きょうはおけいこはお休みでございますかえ」  日本橋通裏三丁目の通り、浪人者の住まいとしてはこいきにできた金子吉之丞の浪宅へ別あつらえの駕《か》籠《ご》をおろしたのは、いうまでもなく佐七の女房お粂だが、こってりとした厚《あつ》化《げ》粧《しよう》といい、紫色の被《ひ》布《ふ》といい、さてはまた、少し長目に切って落とした髪といい、どうみても院号でもついていそうな女である。  旗《はた》本《もと》のご隠居なんのなにがしのおそば勤めをしていたが、ご隠居がおなくなりあそばしたについて、家屋敷、大《たい》枚《まい》の金《きん》子《す》とともにおいとまが出て、いまでは気楽なひとり者の身分、名まえはお蓮《れん》というが、それ以上、くわしいことは打ち明けられぬというふれこみなのである。  ところが、吉之丞だが、どういうわけか、きょうは雨戸もあけず、奥のひと間でふてくされたように寝そべっていたが、お粂の声をききつけると、むっくりとかま首をもちあげた。  なるほど、いい男だ。  抜けるほど白い顔、ひげのそりあとが、藍《あい》をなすったようにあおあおとして、水《みず》髪《がみ》の五《ご》分《ぶ》月《さか》代《やき》。それに、きょうはいつもの素あわせに、博《はか》多《た》の帯を無《む》造《ぞう》作《さ》にしめているのが、なんとなくなまめかしい。  ねそべっていたまくらもとをみると、一《いつ》升《しよう》徳《どく》利《り》と茶わんがひとつころがっていて、吉之丞の目には赤い血の網《あみ》が走っている。 「おお、これはお蓮どの、よくおいでなされた。さ、さ、お上がり下されい」 「でも、おけいこがお休みでは……」  お粂はまゆをひそめてためらってみせたが、そういう仕《し》草《ぐさ》にもあふれるような色気がある。 「ま、ま、よろしいではございませぬか。きょうはいささか、むしゃくしゃすることがあったゆえ、けいこは休みにいたしましたが、そなたなれば子《し》細《さい》はない。さ、さ、お上がりなされというに」  上がりかまちまで立ってきて、手をとらんばかりのようすに、お粂はほほほと笑いながら、 「それでは、せっかく参ったのですから、ちょっとおじゃまをさせていただきましょうか。おけいこはこのつぎといたしましても……」  鷹《おう》揚《よう》にうえへあがると、被布をぬぎながら、 「まあ、暑いこと……」 「はっはっは、締め切りでは蒸《む》しまする。雨戸をあけましょうか」 「さあ、どちらでも」  花のたよりもとっくに過ぎて、もうそろそろ苗《なえ》売《う》りの声もきかれようというきょうこのごろ。  お粂はいつものけいこ座敷にきっちり座ると、帯のあいだから扇《せん》子《す》を出して、すましてあおいでいる。  ほの暗い座敷のなかに、お粂の水色の着付けと、白い顔がうきあがって、プーンとただようおしろいのにおい。吉之丞はごくりと生つばをのみこむと、へびのように目を光らせた。  お粂はそしらぬかおで、それとなく家のなかを見回しながら、 「お師匠様、それにしても、どうしてきょうは、おけいこをお休みあそばしたの。どこかお加減でもお悪いのではございませぬか」 「なに、ちと、不快なことがございましてな」 「ですから、そのご不快とおっしゃるのは……」 「なに、たわいのないことでござる」  と、吐き捨てるようにつぶやきながら、台所をごたごたいわせていたが、やがてお膳《ぜん》に酒《しゆ》肴《こう》、案外ととのっているところをみると、ひょっとすれば、お粂のくるのを待っていたのではあるまいか。  お粂はわざとまゆをひそめて、 「あれ、そのようなことをなすっては……」 「とおっしゃるほどの物ではございませぬよ。男やもめにうじがわくと申しましてな。さ、さ、一《いつ》献《こん》いかがでござる」 「あれ、よろしいんでございますの」 「なにが」 「このようなところを、いつものかたに見つかっては……それそれ、なんとかおっしゃった。文字……そうそう、文字房どの。どういうわけか、あのかたは、たいそうわたしをお憎しみ。もしこんなところを見つかっては……」 「なにがあんなやつ!」 「ほっほっほ、あんなことおっしゃって……ずいぶんきれいなかたではありませんか。ああいうかたを持ちながら、男やもめだなどと……ほっほっほ、お師匠様もずいぶんいい気なかたでございますことねえ」 「な、なにをバカな。それより、さ、さ、お重ねなされい、お蓮様。そもじはなかなかいける口とみえますな」 「あれ、いやですよ。そんなことおっしゃっちゃ……でも、考えてみると、文字房どのもお気の毒な身の上でございますね」 「ど、どうしてでござる」 「でも……世間のうわさでは、お師匠様はちかく、紅《べん》殻《がら》屋《や》とやらへご養子にはいられるとやら。ああいう物《もの》堅《がた》い町家へはいれば、まさか文字房どののようなお女中を、お内《ない》儀《ぎ》にいれるわけにはまいりますまい。いずれはれっきとしたところから、かわいいお嫁さまがまいりましょう。あ、ああ、もっと早くこのことを聞いていたら、わたくしもこう、足しげくかようのではございませんでしたのに。それを思えば、かわいそうなのは文字房どのばかりではございませぬ。こういうわたしも……」 「ええ……?」 「きょうはわたくし……酔いそうですよ」  女というものはだれでも多少、心のおくに悪魔の魂を持っているものである。  お粂がこうして、吉之丞をもてあそんでいるのは、むろんかわいい亭《てい》主《しゆ》の佐七に手《て》柄《がら》をさせたい一心だが、しかし、もうひとつ心のおくをのぞいてみたら、本質的な女の悪魔が、男をじらす快感を味わっているのではあるまいか。  だが、あぶない、あぶない、策《さく》を弄《ろう》するものは策におぼれる。  吉之丞の目が異様に血走って、息づかいがけだもののように荒くなったことに気がついて、お粂がはっと居ずまいをなおしたときはおそかった。  それからまもなく、締めきった座敷のなかで、がちゃんともののぶっ倒れる音がすると、 「あれ……なにをなさいます」  と、押し殺したようなお粂のさけび。 「うそでござる。偽《いつわ》りでござる。お蓮どの。お七とわけがあったなどとはまっ赤なうそ。かつて文字房のやつが紅殻屋に恥をかかされた返報に、拙《せつ》者《しや》をけしかけ、こんな狂言を仕組んだのでござる。紅殻屋などどうでもよい。文字房とはきょうけんか別れをいたした。されば……されば……お蓮どの……」 「あれ、あなた、なにを……無《む》態《たい》な……」 「ええい、こうなったら腕ずくでも……」  薄《うす》暗《ぐら》い、むんむんするような座敷のなかから、男と女のもみ合う音と、はげしい息づかいが漏《も》れてくる……。  ところが、ちょうどそのころ、べつのところで、また、ひと騒動持ちあがっていたのである。 吉松とお房   ——これじゃたなからぼたもちみたいで—— 「うふふ、それでおまえ、牛を馬に乗り換えようというわけかえ」 「というわけじゃないが、あんまりくやしいから、寝返りをうつことにきめたのさ」  と、そういうふたりの男女をだれかとみれば、なんと、これが、絵《え》草《ぞう》紙《し》屋《や》の吉松と常磐《 と き わ》津《ず》文字房。そこは浅草奥山の、怪《あや》しげな茶屋の奥座敷で、ふたりとももうかなり酒がまわっている。 「だからさ、吉之丞のほうは、わたしの口ひとつでどうにでもなる。もともと、わたしがけしかけて仕組んだ筋なんだから。いままで申し上げたことはみんなうそでございました。お七さまと吉《きち》之《の》丞《じよう》がわけがあったなんてこと、まっかな偽りでございました……と、こうわたしが申し上げれば、あとはおまえさんのひとり天下さ。紅殻屋の身《しん》代《だい》は、おまえさんのひとりじめ……」 「ふっふっふ。そううまくいくか。吉之丞はそれで片づくとしても、まだあとに吉兵衛というやつがある」 「あんなやつ……だれがあんなやつのいうことを、まに受けるもんかね。紅殻屋のだんなだって、信用していなさりゃアしないんだよ。だけど、おまえさんのはほんとうだろうねえ」 「ほんとうって、なにがさ」 「お七とのことだよ。おまえさん、ほんとうにお七とわけがあったのかえ」  どこかまむしをおもわせるような文字房のひとみに、じっと射すくめられて、吉松はのっぺりとした薄《うす》手《で》の顔に、さっと狼《ろう》狽《ばい》のいろを浮かべた。 「そ、そりゃほんとうだとも。だれがうそなどいうものか」 「どうだか怪しいもんだわねえ」  文字房はくちびるのはしに、あざけるような薄笑いをうかべながら、 「考えてみると、お七のようなおとなしい生《き》娘《むすめ》が、おまえのような札つきの道楽者の手に乗るはずがないからねえ。だけど……そんなことはどうでもいい。うそかまことかしらないけれど、おまえさんも乗りかかった舟だ。途中でよしちゃいけないよ」 「だけど、師匠……」  と、吉松はうすいくちびるで杯《さかずき》のはしをなめながら、 「おまえ、こうしておいらのうしろ立てをして、ゆくゆくどうするつもりなんだ」 「そりゃわかってるじゃないか。魚《うお》心《ごころ》あれば水《みず》心《ごころ》……」 「魚心あれば水心……というと」 「吉松つぁん、わたしそんなに捨てた女かえ」 「師匠……それじゃおまえ、このおれと……」 「吉松つぁん、わたしゃなにも紅殻屋のおかみさんになって、帳場のまえへ座りたいというんじゃないよ。だけど、紅殻屋ぐらいの身代を自由にできりゃ、お囲《かこ》い者のひとりやふたりあったところで、世間じゃなにもいうまいじゃないか」 「ありがてえ、師匠、こいつはまるでたなからぼたもちというかっこうだ。ふふふ、師匠、もちっとこっちへ寄んねえよ」  と、あとはひそひそ、妙にしいんとしずまりかえったそのとなり座敷には、さっきからひとりぼっちで、つまらなそうに杯をなめている男がある。  豆六なのである。  探《たん》索《さく》もいいが、こんなときには、まことにつらいものである。それも、となりの座敷から話し声がきこえているうちはまだよかったが、それがぱったり途《と》絶《だ》えてしまって、妙にしいんとしてしまうと、さあ、豆六は気になってたまらない。  生つばをのみこみのみこみ、立ったり座ったり、畜《ちく》生《しよう》ッ、畜生ッ、いっそ踏みこんでやろうか……だが、いまのところふたりとも、これという罪状があるわけではない。恋の男女があいまい茶屋の奥座敷で、酒を飲もうが手を握ろうが、御用の口《こう》実《じつ》にはなりかねる。  豆六がくやしがって、ひとりやきもきしているときである。だしぬけに廊下にあたって、ばたばたとひとの足音がしたと思うと、がらりと、となりのふすまをひらく音。あっと離れるふたりの気配……はてな、だれか飛び込んできたなと思ったしゅんかん、わっーとのけぞるような男の悲鳴。  人殺しだ……と、女のさけび。  さあ、こうなっちゃ十分御用の口実になる。 「御用や、御用や、神妙にしくされ」  豆六があいのふすまをおしひらいて飛びこんだ瞬間、廊下からまた躍《おど》りこんできたひとりの男が、 「御用だ、駒《こま》太《た》郎《ろう》、神妙にしろ!」  そういう男をだれかとみれば、なんとこれがきんちゃくの辰。その辰五郎におさえられているのは、まだ前髪の丁《でつ》稚《ち》姿《すがた》、手に血に染まった刀をひっさげている。  吉松は土《ど》手《て》っ腹《ぱら》をえぐられて、そばには文字房が、紙のようにまっさおになってふるえている。  そこで豆六、なにがなんだかわからぬなりに、あらためて声張りあげて、 「御用や! 御用や! 文字房も吉松も、どいつもこいつも御用や、御用や……」 ゆかりのおとずれ   ——吉様の正体がわかりましたよ—— 「……と、そういうわけで、あっしが吉兵衛を見張っていると……」  と、それからまもなく、お玉《たま》が池《いけ》の佐七の家では、きんちゃくの辰が口からあわをとばしてしゃべっていた。 「こっそり、裏木戸から抜け出したのがお袖《そで》駒太郎、その顔色がただごとじゃねえから、ふたりのあとをつけていくと、お袖のほうは吉之丞の家へしのんでいきました。だが、このほうはあねさんから聞いてください。あっしは駒太郎のほうをつけていったんですが、するとやっこさん、絵草紙屋のまえをうろうろ。やがて吉松が出てくると、そのあとをつけて奥山の茶屋へいったんです。そして、吉松と文字房が会っているところへ飛びこんで……それからあとは、さっきもお話ししたとおりでございます」  と、これが辰の話である。  お粂もそのあとにつづいて、 「わたしもあのときは驚いた。だしぬけにお袖さんが飛びこんできて、吉之丞を剃《かみ》刀《そり》でえぐったんだから……でも、おかげでわたしは助かったんです。あのとき、お袖さんがきてくれなかったら、わたしは吉之丞のために、どんなことをされたかわかりゃしない。ほんとにあぶない瀬《せ》戸《と》際《ぎわ》だったんですよ。ねえ、おまえさん、どういう子《し》細《さい》があるのかしらないけれど、お袖さんが罪にならないようにねえ」  そういうお粂や辰のまえに、しょんぼりうなだれているのはお袖駒太郎。佐七はにんまりふたりの顔を見比べながら、 「それで、手《て》負《お》いのほうはどうした」 「へえ、どっちも自身番へ預けてきました。なに、急所ははずれて、吉松も吉之丞もいたって薄手。死ぬ気づかいなんかありませんから大丈夫です。文字房のやつも、町内のものに預けてきました」  といっているところへ、豆六の案内で、どやどやとやってきたのは、紅殻屋のあるじ伊左衛門に、一番番頭の吉兵衛である。みちみち、豆六からいちぶしじゅうを聞いたとみえて、ふたりとも青くなってあわてていたが、佐七はにっこり振りかえると、 「だんな、ふたりをおしかりなさらないように……これもお店を思えばこそ。それから、だんな、お七様のいろ、吉様の正体がわかりましたよ。その吉様というのは、それ、そこにいる駒太郎さんでございますよ」  しょんぼりと首うなだれていたお袖駒太郎、それを聞くとはっと顔をあげたが、みるみる土色になっていくと、ふたりともふたたび畳に額《ひたい》をこすりつけた。  伊左衛門と吉兵衛はあきれかえって顔見合わせていたが、やがてふたりはひざをすすめると、 「しかし、親分、お七のかきおきには……」 「たしかに、吉様まいると書いてあったではございませんか」 「それはそうにちがいございませんが、それはあなたがたの読みかたが足りねえんでございます」 「と、おっしゃいますと……?」 「あのかきおきには、こういう文句がございましたね。名前の儀はつねづね語りあい候《そうろう》ときの、そもじ様のおん名にちなみ……吉太郎と命名するとございました。あいてがほんとの吉様なら、なにも語りあい候ときのそもじ様のおん名……という文句はいらねえはず」 「あっ、なるほど」 「そこであっしゃ考えました。お七さまはじぶんの名前がお七だから、八《や》百《お》屋《や》お七の狂言になぞらえて、恋のあいてを、芝居のお小《こ》姓《しよう》吉《きち》三《ざ》に仕立てて、つねづね、吉さま、吉さまと呼んでいたんです」 「なるほど、なるほど、そうおっしゃれば……」 「とすると、お七さまの恋人は、ほんとは吉の字なんかついちゃいねえ……と。ところで、あのかきおきにはひとつ、こういう文句がございます。じゃけんな父さんにへだてられ、その後のおうせかなわず……と、この父さんにへだてられたというのは、寮《りよう》へやられたことをいうんでしょうが、これがまたおかしいじゃアございませんか」 「おかしいとおっしゃいますと……」 「あいてが吉之丞、吉松なら、ひとめのおおいお店より、寮のほうがよっぽど、おうせにつごうがよいはず」 「あっ、なるほど」 「だから、あいてはお店にいる。それも、吉兵衛さんのようにわりに自由の利《き》くひとじゃアなく、もっと窮《きゆう》屈《くつ》な身分、つまりまだ前髪の丁《でつ》稚《ち》じゃないか。お小姓吉三も前髪ですからね。とすると、駒太郎さんよりほかにいねえわけですし、それではじめてお袖さんが、お七さんの恋のあいてを知らぬ存ぜぬで押しとおしているわけもわかるわけです」 「と、おっしゃいますと……」 「だって、だんなはお七さまの恋のあいてを探して、紅殻屋の養子にしようとおっしゃる。そうなると、どこか大《たい》家《け》からお嫁がくるにちがいない。つまり、じぶんは捨てられるにちがいないと、それが悲しかったから、いっさい知らぬ存ぜぬで通していた。駒太郎さんにしてみれば、物《もの》堅《がた》い叔《お》父《じ》の吉兵衛さんがなにより怖いから、これまただんまりでとおしている。しかし、吉松、吉之丞のような悪党があらわれちゃ、お店の難《なん》儀《ぎ》を見ているわけにゃいかねえ。そこで、ふたりで手分けして、吉松、吉之丞をほろぼして、いずれ心《しん》中《じゆう》でもする気だったにちがいございませんよ」  佐七の説明をきいているうちに、お袖駒太郎のふたりは、声をあげて泣き出した。  番頭の吉兵衛は両手をついて、 「だんな、申しわけございませぬ。憎いやつはこの駒太郎。そんなこととはつゆ知らず、わたしはまた、吉之丞か吉松か、ふたりのうちのどちらかが、お七さまのあいてだと思っておりました。しかし、どっちにしても、あんなやつが乗り込んできちゃ、紅殻屋の屋《や》台《たい》骨《ぼね》はめちゃめちゃになる。そう思ったものですから、なんとかしてことをこんがらかそうと思い、年がいもなくあんなことを申し上げました。駒太郎同様このわたしをも、どうぞ存分にしてくださいまし」  涙をのむ吉兵衛の手を、しかし、伊左衛門はとって押しいただいた。 「吉兵衛どん。なにをいう。いつもながらのそなたの志、けっして悪くは思いませぬ。また、駒太郎なればうちの大黒柱吉兵衛どんの甥《おい》、紅殻屋の養子にしてもなに恥ずかしかろう。いままで黙っていたのがうらめしい。また、お袖、そなたも、なにも気づかうことはないぞ。そなたはうちの家内の縁のもの、約束どおり駒太郎と、きっと夫婦にしてあげる。そのかわり、みんなのものも、あの吉太郎の行く末を頼みまするぞ」  紅殻屋伊左衛門、そこでちょっと息をのんだが、やがて、晴れやかに佐七を振りかえると、 「親分、このさばきはどうでございましょうね」  佐七はひざをうって、 「いや、けっこうでございますとも。吉様まいるゆかりのおとずれ——だんな、おめでとうございます」 水芸三姉妹 からくり独《こ》楽《ま》   ——これに見おぼえがござろうの——  博《はか》多《た》家《や》三姉妹が、とくいの博多流 曲《きよく》独《ご》楽《ま》に、手《て》品《じな》のからくりをとり入れて、これを水芸と称し、西両国で、大当たりをとったのは、文政四年夏のことである。  博多独楽というのは、木《もく》胴《どう》鉄《てつ》軸《じく》の独楽で、ふつう直径二寸五分《ぶ》、投げ取り、その他曲回しによく、はじめは九州博多よりのぼってきた曲独楽師によって演じられた。  これが江戸で人気を博して、のちには松井源水などという名人があらわれ、大《だい》道《どう》薬売りの人寄せには、なくてはならぬ秘芸になったが、しかし、曲独楽の秘術には限界があって、笹《ささ》渡《わた》りの投げ独楽、いかにたくみなりとはいえ、だんだん、客にあかれてくるのは当然である。  このときあらわれたのが、小松、小竹、小梅の博多家三姉妹、かねてならいおぼえた博多流曲独楽の妙技に、水からくりを応用して、名づけてこれを、 「竜《りゆう》宮《ぐう》の玉取り」  なにしろ、三姉妹が天地人をかたどって、舞台であやどる十数個の独楽のなかから、いっせいに水をふきあげようというのだから、これほど夏向きの曲芸はない。  しかも、三姉妹というのが、いずれおとらぬ非常な美人で、これが厚化粧に花かんざしをひらめかし、すずしそうな水色の肩《かた》衣《ぎぬ》をつけて、舞台からあいきょうをふりまくのだから、その夏の江戸の人気が、博多家三姉妹の水芸に集まったのもむりはなかった。 「おい、熊《くま》公《こう》、てめえ見たかい。博多家三姉妹の水芸を」 「おお、見たとも見たとも、あれを見のがしてたまるもんか。おれは二十六ぺん見た」  なんて、熱心なやつがあるかと思うと、 「いかに、徳田氏、あの博多家三姉妹というものは、じつになんとも申しようのないほど、みごとなものではござらぬか。三姉妹、いずれおとらぬ花あやめじゃが、わけてもたまらんのは、小松という姉娘じゃ。あいつににっこり秋《しゆう》波《は》をおくられると、身内がゾクゾクするようじゃ。いや、もう、どうも、どうも……」 「いやあ、犬《いぬ》養《がい》氏《うじ》はそう仰《おお》せられるが、拙《せつ》者《しや》のひいきは、なかの娘の小竹じゃな。あの口もとのほどのよさ。いやもう、たまったものではござらぬ。のう、片山氏」 「いや、徳田氏や犬養氏はそう仰せられるが、拙者はなんといっても末娘の小梅じゃ。あのむっちりとした腰つきはどうじゃ。いや、もうたまらん、たまらん」  などと、勤《きん》番《ばん》 侍《ざむらい》なども、よるとさわると、よだれをたらして三姉妹の品定め。  いやもうたいへんな人気で、錦《にしき》絵《え》には売り出される、大《だい》名《みよう》、旗《はた》本《もと》、大町人からのお座敷はひきもきらず、近来、これほど当たった芸人はないといわれたが、好《こう》事《じ》魔多し、ここに三姉妹をとりまいて、ひとつの事件が持ち上がったのである。  それは七《たな》夕《ばた》の笹《ささ》もようやく取りはらわれた七月九日の夕まぐれ。  江戸時代では、七月といえばもう秋で、俳句でも、七夕は秋の季題に入っているくらいだが、秋とはいえ、まだまだ残暑のきびしいなかを、西両国、博多家三姉妹の小屋は、きょうも錐《きり》の立てようもないほどの大入り満員。  その大入りの小屋の楽屋へ、なんとなく、ようすありげな顔色で、おとずれてきた若侍がある。 「拙者は北尾小六と申すもの。博多家三姉妹に、ちとおたずね申したいことがあってまいった。取り次いでくださるまいか」  と、いう楽屋番の取り次ぎの口上をきいて、いましも楽屋で、出の支《し》度《たく》をしていた小松と小竹は、はっと目を見合わせた。  末の妹の小梅はいま舞台らしく、にぎやかなおはやしの音にまじって、おりおり見物のどよめきの声がきこえてくる。 「小竹さん、どうしましょう。きっとあの話よ」 「そうねえ、北尾さんというからには、きっと左市さまの身寄りのかたにちがいない。しかし、姉さん、なにもびくびくすることはないじゃあないの。会ってみましょうよ」 「そうねえ。べつにかかりあいってわけでもないんだものねえ。じゃアねえ、喜平さん、むさくるしいところですが、どうぞこちらへって」 「承知しました」  と、楽屋番がひきさがったあとで、おおいそぎで衣《い》装《しよう》をつけ、鏡台のまわりを片付けているところへ、のれんをわけて入ってきたのは、まだ十六、七の前髪の若侍。しかし、柄の大きな、どことなく不《ふ》敵《てき》の面《つら》 魂《だましい》をもつ若者だった。 「はじめて御《ぎよ》意《い》得申す。拙者は北尾小六と申すもの。お見知りおきくだされ」 「これはこれは、ごていねいなごあいさつで恐れ入ります。さ、さ、むさくるしいところでございますが、どうぞこちらへ。はじめてお目にかかります。わたしが小松で、こちらが小竹、末の小梅はいま舞台で……小竹さん、麦湯でも差し上げたら……」 「いや、どうぞおかまいくださるな。ときに、おふたかた、拙者が本日まいった用件について、だいたいのところは、お察しくだされたであろうと思うが……」  小松と小竹は、そこでまた、ふっと顔を見合わせた。小松はやがて、ひざをすすめて、 「はい、北尾様とお名前をうけたまわって、もしやと思っておりました。それでは、あなたさまは北尾左市さまの……」 「舎《しや》弟《てい》でござる」 「それはそれは……うわさはききましたが、お兄上さまには、とんだことでございましたね」 「拙者いかにも無念でござる。なんとかして、兄の敵《かたき》を討ちたいと思いますが、それについて、そなたにお尋《たず》ね申したいことがあって……」  と、ふところをさぐってなにやら取り出すと、 「小松どの、小竹どの。そなたはこれに見覚えがござろうの」  と、きっとふたりのおもてに目をそそぎながら、北尾小六がたたきつけるように、薄《うす》縁《べり》のうえにおいたのは、黒の漆《うるし》に金《きん》蒔《まき》絵《え》で、波に千鳥をえがいた博《はか》多《た》独《ご》楽《ま》。  軸に工夫がしてあって、水を通すようになっているところから、ひとめでしれる水芸からくり独楽。 北尾左市   ——死体は沢井の印《いん》籠《ろう》をにぎって——  小松と小竹ははっと顔を見合わせた。小竹はなにかいおうとして、ひとひざまえへゆすりでたが、姉の小松が目顔でおさえて、 「はい、たしかに見覚えがございます。それはわたしどもの、水芸につかう独楽でございます」 「しかとさようじゃな」 「ほっほっほ、ご念にはおよびませぬ。しかし、北尾様、その独楽がどうしてあなたさまのお手に……」 「一昨夜、鍋《なべ》屋《や》堀《ぼり》のほとりにおいて、やみ討《う》ちにおあいなされた兄上の死《し》骸《がい》のそばに落ちていたのじゃ。小松どの、小竹どの」  小六はギラギラ血走った目で、ふたりの顔を見くらべながら、 「そなたがたはそれについて、なんと説明なさるぞ」  と、きっと刀をひきよせたが、小松はまゆ毛ひとすじ動かさず、しずかに長ギセルをひきよせると、ゆっくり一服すいつけて、 「これは思いがけないことを 承《うけたまわ》 りまする。なるほど、死体のそばにその独楽が落ちていたとあらば、いちおうお疑いはごもっとも。しかし、あの晩わたしどもは、鏑《かぶら》木《ぎ》の御《ご》前《ぜん》のおはからいで、河筋を舟で送っていただきました。もしお疑いならば、船頭衆をお取り調べくださいまし」 「いいや、拙者はなにも、そなたが兄上を殺したとは思うておらぬ。しかし、この独楽が、兄上の死体のそばに落ちていたからには、そなたがなにか、知っているのではないかと思うてまいった。河筋を舟でかえったものならば、どうしてこの独楽が鍋屋堀のほとりに落ちていたのじゃ」  そのとき、そばから小竹がひざをすすめて、 「小六さま、それはおおかた、かようでございましょう。あの晩、鏑木様のお屋敷から立ちかえって、道具調べをいたしますと、独楽がひとつ足りなくなっているのに気がつきました。それで、たぶんお屋敷へ忘れてかえったのであろうと、姉や妹と話したことでございます」 「それじゃ、鏑木殿のお屋敷へ忘れてきたといわれるか」  小六の顔には、まだ疑いのいろがある。 「はい、ごらんのとおり、これは仕掛けのある独楽で、どこにもあるという品ではございません。ひとつ欠けても難《なん》渋《じゆう》しますが、さりとて鏑木様のお屋敷へ、独楽ひとつちょうだいにあがるというわけにもまいりません。どうしたものかと、三人で相談していたところでございます」 「しかし、鏑木殿のお屋敷へ忘れてきたものが、どうして兄上の死体のそばに……」 「それはどなたかが、わたしどもに返してくださるおつもりで、たもとにいれておいでになったのを、鍋屋堀のほとりで、お落としなされたのではございますまいか」  筋のとおった小松のことばに、小六はううむと腕を組んだ。  さて、ここで、さっきから三人のあいだで問題になっている小六の兄、北尾左市横《おう》死《し》のてんまつというのを、ごくかいつまんでのべておこう。  一昨夜、すなわち七夕の夜のことである。  御書院番頭、鏑木大《おお》炊《い》之《の》介《すけ》の下屋敷で、七夕の宴《えん》が催《もよお》された。招かれたのは主人の同役はじめ組下のもの大勢。  ふだんならば、同席もかなわぬ軽《けい》輩《はい》の士も多かったが、年に一夜のこの宴は、無《ぶ》礼《れい》講《こう》ということになっていて、上役下役ひざをまじえて酒くみかわした。  この席へ、余興として招かれたのが博多家の三姉妹である。これは鏑木家のお出入りの蔵《くら》前《まえ》の札差し、駿《する》河《が》屋《や》重《じゆう》兵《べ》衛《え》というものが、かねてから三姉妹のひいきであったところから、その肝《きも》いりで、酒宴に興《きよう》を添えたのだった。  むろん、重兵衛も町人ながら、末席につらなっていた。  さて、とくいの水芸で、やんやの喝《かつ》采《さい》を博したのち、三姉妹も酒間にはんべって、芸者たちとともに、あちこち、お酌《しやく》にいそがしかった。  ところが、そのうちに、ちょっとした悶《もん》着《ちやく》がおこったのである。  大勢あつまって酒を飲むと、どうしても、ひとりやふたり、酒癖の悪いやつがいるものだが、北尾左市がそれだった。  飲むほどに、酔うほどに、北尾左市は駿河屋重兵衛にからみだした。  それには当時の下級武士の共通のひがみもまじっていた。  武士の俸《ほう》禄《ろく》は先祖代々ほとんど変わらない。  それに反して、諸式は年《ねん》々《ねん》歳《さい》々《さい》あがっていく。  下級武士は俸禄だけでは、どうにも食っていけない一線まで追いつめられていた。  多くのものは恥をしのんで内職した。  それに反して、町人でも蔵前の札差しなどは、武士の受ける俸禄米を抵《てい》当《とう》として金を貸すことによって、莫《ばく》大《だい》な利益をあげている。  かれらのぜいたくには、目にあまるものがあった。  つまり、江戸時代も中期以降になると、政治上の権力は武士にあっても、経済的な面になると、すっかり町人に頭をおさえられていたのである。  日ごろからそういううっぷんのあるところへ、こういう席になると、どうしても芸人や芸者たちは、羽《は》振《ぶ》りのいい上役や、景気のよい町人のまわりに集まりがちだから、そうでなくとも、酒癖のわるい北尾左市のかんしゃくが爆発したのもむりはない。  左市のからみかたはしだいに露《ろ》骨《こつ》になってきて、さすが太《ふと》腹《ばら》をもって知られている駿河屋重兵衛ももてあました。  みるにみかねて、止め男を買ってでたのが、沢井源三郎という人物。  沢井源三郎も北尾左市とおなじく軽輩の士だったが、いたっておだやかな人物だから、みるにみかねて、左市をなだめにかかったのだが、これが逆に左市の気持ちをこじらせた。  左市は重兵衛をすてて、源三郎にむかってくってかかった。へつらい武士の、きつね侍のと、口でののしっているあいだはよかったが、いきなり杯《はい》洗《せん》をとって投げつけた。  沢井はそうとうできる男だが、その夜はかなり酔っていたので、これを避ける才覚がなかった。  杯洗は沢井の額《ひたい》にあたって砕《くだ》けた。  額はやぶれて血が流れた。  沢井もこれには堪《かん》忍《にん》ぶくろの緒《お》が切れた。  庭へとびおりて、あわや果たしあいというところまでいったが、同《どう》僚《りよう》の菅《すが》井《い》嘉《か》門《もん》の仲《ちゆう》裁《さい》で、やっとその場はおさまった。  しかし、こんなことから座が白《しら》けて、まもなくおひらきになり、いちばんに北尾左市がかえっていった。  それから沢井源三郎がかえり、菅井嘉門がかえっていった。  駿河屋重兵衛も気まずい顔をして立ち去った。  博多家の三姉妹も、殿様から舟をちょうだいして屋敷を出た。  鏑《かぶら》木《ぎ》大《おお》炊《い》之《の》介《すけ》の下屋敷は、中川のお舟番所の近くにあった。  ところが、それからまもなく、おなじ屋敷を出た客人によって、北尾左市の死体が発見された。  左市は小名木川のほとり、五本松のしたで切り殺されていた。  うしろから袈《け》裟《さ》がけの一刀、下《げ》手《しゆ》人《にん》は手《しゆ》練《れん》のものと思われた。  しかも、左市のにぎっていた印《いん》籠《ろう》によって、その下手人もすぐにわかった。  印籠は沢井源三郎のものであった。  鏑木大炊之介はこの報告をうけると、烈火のごとくいきどおった。  ただちに輩《はい》下《か》のものを源三郎の長屋へむけた。  源三郎もはじめのうちは、追っ手のものに陳《ちん》弁《べん》していたが、やがて問答無益と思ったのか、いきなり刀をぬいて、追っ手のひとりに薄《うす》手《で》をおわせ、かこみを破って逃走した。  そして、それきり、いまもってゆくえがわからないのである。 「そういうわけゆえ、下手人は沢井源三郎とわかっているが、死体のそばに独楽の落ちていたのがふしぎだから、かくはお尋ねにまいった。それじゃ、そなたたちは、ほんとになにも知らぬといわれるのじゃな」  小六の目には、どこか執《しつ》拗《よう》なうたがいのいろがある。  それでも、小松と小竹が、あくまで知らぬ存ぜぬで押しとおすと、小六はあきらめたように、すごすごと帰っていった。  そのあとで、ほっとしたように、顔見合わせた小松と小竹。 「姉さん、きょうはどうやらあれですんだが、いつまでも知らぬ存ぜぬで通せるだろうか」 「通せるも通せぬもない。あたしたちさえしゃべらなければ、下手人のほうで、そんなことを名乗ってでるはずもなし……しかし、ねえ、小竹さん」 「なによ、姉さん」 「北尾さんを殺したのは、ほんとうに沢井さんだろうかねえ」 「あら、姉さん、どうして?」 「だって、沢井さんというひとは、おだやかそうなお人柄だったじゃないか、ひとをやみ討ちにするなんて、そんなひきょうな……」 「あら、いやだ、姉さん、おまえさん、あのひとにおかぼれしたんじゃないの」 「なにをいってるんだえ。バカバカしい。たったいちど会ったきりの人に……」  と、口ではいっても、小松の顔に、ポッと紅葉《 も み じ》の散ったのを、妹の小竹は見のがさなかった。  ところが、そのときである。  にわかにわっと、客席のほうが騒《そう》々《ぞう》しくなった。  小松と小竹が、すわ何《なに》事《ごと》と立ち上がったところへ、ころげるように楽屋へとびこんできたのは、お蝶《ちよう》という前芸の小娘だった。 「姉さん、たいへんです。たいへんです。小梅姉さんが舞台で殺されて……」 豆六知恵者   ——孔《こう》明《めい》楠《なん》氏《し》真《さな》田《だ》もはだしの豆六や—— 「な、な、なんだって、博多家三姉妹が殺された? 三人が三人とも、舞台で芋《いも》ざしになって殺されたと? わっ、そ、そりゃたいへんだ。え、なに、そうじゃねえ? 殺されたのは小松と小竹で、ふたり刺しちがえて舞台で死んだ? どうやら色のもめごとらしい? な、なんだって、それも間違い? な、な、なにをいやアがる。いったい、どれがほんとうなんだ。殺されたのはだれなんだよう?」  わっとわきかえる西両国の群集のなかを、あわをふき、血《ち》眼《まなこ》になって駆けずりまわったあげく、やっとほんとうらしいところをつきとめ、汗をふきふき、そのころ両国にならんでいた水茶屋の一軒へ駆けこんできたのは、いわずとしれたきんちゃくの辰《たつ》。 「親分、わかった、わかった。やっとわかった。殺されたのは、三人ぜんぶだなんてのはうその皮でさ。小竹と小梅が色男の取りあいから、刺しちがえたというのもうその皮、殺されたのは小梅ひとり、舞台で水芸をやってるうちに、どっからか飛んできた小《こ》柄《づか》に、ぐさっとのどをつらぬかれ、キュッともいわずに死んだそうです。ああ、くたびれた」  と、意気ごんできた鼻先へ、 「なんや、それだけのことを聞き出すのに、そないに大汗かきはったんかいな」  と、ぐさっと辛《しん》辣《らつ》な一言を投げつけられて、辰はあっと目をしろくろ。 「なんだ、なんだ、豆六、てめえいつのまにここへ来た」 「いつのまに来たやあらへんがな。親分も兄《あに》いも殺《せつ》生《しよう》やな。きょうはわてを出し抜いて、おもしろいとこ行こと相談ぶちなはったやろ。あかんで、そないなこと。天《てん》網《もう》カイカイやがな。あねさんが聞いてなはって、えらいご立腹や。親分にまた、ええのんができたんにちがいない。豆さん、あとをつけてみておくれ……」 「げっ。それじゃ、けさの相談を、あねさんがきいていなすったのか」 「そやがな。それでえらいお腹立ちや。そういうても、親分はじぶんの甲《か》斐《い》性《しよう》でしやはることやさかいに、しよがないが、辰つぁんはなんや。親分に変なことがあるんなら、こっそり知らせてくれるのんが人情やないか。それをなんぞや、親分をたきつけて、じぶんもええ目をしようとは、義理も人情も知らんやつや。かえってきたらどないしてくれようと、キリリと柳《りゆう》眉《び》を逆《さか》立《だ》てはって、そらもうえらい剣《けん》幕《まく》や。兄い、どないすんねん」  豆六にきめつけられて、辰はわっと頭をかかえた。 「豆六、そ、そりゃほんとか」 「だれがうそをいいますかいな。わてがこうして、ここへ来てるのんがなにより証《しよう》拠《こ》や。兄い、わては知らんで」 「豆六、そ、そんな不人情なこといわねえでよ。おら、なにも親分をたきつけたわけじゃねえ。ちかごろ評判の水芸の三姉妹、見てえものだと親分がおっしゃるから……」 「そんならなんで、わてに内《ない》緒《しよ》にすんねん」 「そりゃ、おまえはおしゃべりだから……」 「そら、わてはおしゃべりや。しかし、おしゃべりやいうて敬遠するのは、なにかうしろ暗いところがある証《しよう》拠《こ》やろ。兄い、どや」 「豆六、そ、そんな……おまえまで、そういきりたたなくてもいいじゃねえか」  豆六にギュウととっておさえられ、辰はすっかり青《あお》菜《な》に塩。  そもそも、お玉《たま》が池《いけ》の佐七というのは捕《と》り物《もの》にかけちゃ並ぶものなしという名人だが、持ったが病《やまい》でいささか女にだらしがない。  そこへもってきて、女房のお粂《くめ》が人一倍のやきもちやき。そこで風雲お玉が池、ときおり急をつげることがある。  きょうはかくべつそんなんじゃなく、水芸三姉妹に会っておきたいことがあると、佐七は辰をつれてやってきたが、小屋があまりいっぱいなので、少しすくまで待っていようと、この水茶屋で休んでいるうちに、水芸の小屋がわっという騒ぎ。  そこで、辰がようすを見にいって、さて、かえってみると佐七のすがたが見えないで、豆六がやにさがっているばかりか、へんにからんでこられたので、辰はすっかりあわてた。  べつにうしろ暗いことがあるわけじゃないが、おきざりにされた腹いせに、豆六がどんな告げぐちをしたかと思うと、辰は正直者だから、平気ではいられないのである。 「豆六、てめえあねさんに、よけいなことをいやアしねえだろうな」 「わてはなんにもいわへんがな。ただ、あねさんのいいつけを守って……」 「おいらのあとをつけてきたのか。そりゃいいが、親分はどうした?」 「親分、親分なら奥にいやはるがな」 「奥に? 奥でなにをしていなさるんだ」 「なんでもええがな」 「いいことはねえ。いま水芸の小屋で大変なことが起こったんだ。おら親分を呼んでくる。親分、親分……」 「まあ、待ちなはれ。やぼな声を出しなはんな。親分、いまお楽しみのさいちゅうやがな」 「げっ、お楽しみ? お楽しみたアなんだ」 「あんたもわからん人やな。親分のお楽しみちゅうたら、たいがいわかったるやないか。べっぴんあいてに、いま、その……さいちゅうやがな」 「げっ、豆六、そ、そりゃほんとか」 「だれがうそをいうもんかいな。わてがお取り持ちしたんや。そら、もうええ女やさかい、親分、すっかり喜びなはって……」 「この野郎!」 「あ、痛ッ、た、た、兄い、なにすんねん。なんでわての首を絞《し》めんなりまへんねん」 「なんでもくそもあるもんか。てめえはなんだ、あねさんに頼まれてきたんだろ。とすれば、親分に間違いがあったら、止めだてするのが役目じゃないか。それをなんぞや、じぶんから親分に女を取り持つとは……」 「わっ、く、苦しいッ、兄い、離して、親分、あねさん、助けとくれやす」 「な、な、なに、あねさんだと?」 「ほっほ、辰つぁん、もう堪《かん》忍《にん》しておやりよ」  つるの一声とはまさにこのことである。  辰がはじかれたように振り返ると、奥のひと間からいそいそと、佐七とともにでてきたのが、なんとお粂だから、辰はあいた口がふさがらない。 「あ、おまえさんはあねさん、それじゃ豆六、おまえのいった女というのは……」 「あねさんやがな。どや、べっぴんやろ」 「そんならそうと……しかし、あねさんがどうしてここへ……?」 「そこがわての計《はか》りごとやがな。ちかごろ親分とあねさんが、なんやおもしろない顔をしてなはる。ははあ、こら、倦《けん》怠《たい》期《き》やな思たもんやさかい、きょうはちょっとたきつけてみた。そしたら、あねさん、悪鬼の形《ぎよう》相《そう》ものすごく、ここまで追いかけてくると、いきなり親分の胸ぐらをとり、おまえはなあというわけや。そこをむりやり奥へおさめて、仲直りさせたこの豆六の知恵ちゅうもんは、孔《こう》明《めい》楠《なん》氏《し》真《さな》田《だ》もはだしや。へっへっ、あねさん、おめでとう」 「知らないよ、豆さん、あたしをまんまとかついだね。おぼえておいで」  といいながらも、うれしそうにおくれ毛をかきあげているところなんざ、辰と豆六にとっちゃいい面《つら》の皮《かわ》である。  佐七はいくらかおもはゆげに、 「あっはっは。まんまと豆六にはかられて面《めん》目《ぼく》ない。ときに、辰、水芸の騒ぎはどうしたんだ」 「あっ、そのことだッ、親分、昼間っからあねさんとうだうだしている場合じゃありませんぜ。三姉妹の末娘、小梅が舞台で殺されたんだ」  これでやっと、本筋へかえったようである。 見覚えの小《こ》柄《づか》   ——それじゃやっぱり沢井源三郎が—— 「おっ、なるほど、こりゃべっぴんだね」  それからまもなく、お粂をかえした佐七が、辰と豆六をひきつれて、三姉妹の小屋へ来てみると、表も楽屋もうえをしたへの大《おお》騒《そう》動《どう》。  その楽屋へとおされて、薄《うす》縁《べり》のうえにねかされた小梅のむざんな死体を見ると、佐七は感にたえたようにうなっている。 「ちっ、親分、そんなに顔ばかり見てちゃいけませんや。もっとほかに、調べるところがありそうなもの」 「あっはっは、まあ、そういうな」  小梅ののどにはふかぶかと小《こ》柄《づか》が突っ立っていて、血はほとんどでていなかった。  佐七はううむとうなって、 「こりゃたいした腕前だな。ときに……おっ、おまえさんが小松に小竹か。なるほど、こりゃア聞きしにまさる……」 「わっ、またあれや。これやさかい、あねさんが気イもむのんもむりあらへん。親分、しっかりしとくなはれや。あんたここへべっぴんの品定めに来たんとちがいまっせ」 「わかっているよ。静かにしろい」  佐七はにが笑いをしながら、 「もし、小松さんに小竹さん、いま聞きゃこの小柄は、見物席からとんできたということだが……」 「はい、さようでございます。わたしどもはそのとき楽屋にいましたので、くわしいことは存じません。これ、お蝶《ちよう》さん、おまえの口から申し上げておくれ」 「はい」  と、お蝶がおろおろしながら語るところによるとこうである。  小梅がそのとき舞台でやっていた曲芸は、題して、 「虹《にじ》の掛《か》け橋」  高《たか》足《あし》駄《だ》をはいての綱渡り、片手に日《ひ》傘《がさ》をさしながら、片手で独《こ》楽《ま》をつかうのである。  そして、その独楽が日傘のろくろにとまったところで、独楽のしんから、水を吹きあげるという趣向。  いつもここで手が鳴るのだが、きょうもわっと見物席からほめことばがかかった。  と、このときである。  綱のうえの小梅のからだが、ふいにぐらりとかたむいたかと思うと、あっというひまもない。まっさかさまに舞台へ落ちた。見物はわっとどよめく。  おどろいたのは後《こう》見《けん》にでていたお蝶だ。 「あれ、ねえさん」  と、かけよって、小梅のからだを起こしてみると、のどにふかぶかとこの小《こ》柄《づか》。  そこで、きゃっ、人殺し……  と、いうことになって、満場総立ちになったのである。 「そういうわけで、どの方角から小柄がとんできたものやら、ちょっとも存じません」 「ふうむ。そうすると、騒動が起こってから、外へ逃げだしたものも相当あろうな」 「へえ、それについちゃ、まことに申しわけがねえんでございますが……」  と、小《こ》鬢《びん》をかきながら表《おもて》方《かた》がいうことには、まさかこんなこととは知らなかったから、逃げだす見物をとめる才覚もでず、したがって、見物はあらかた逃げだしてしまったと……。 「いや、それもしかたがあるめえ。木戸をとめてみたところで、どうせこんなよしずっ張りじゃ、どこからでも逃げだすことができらアな。ときに、この小柄だが……」  と、小梅ののどに突っ立った小柄をそっと抜いてみて、 「雲に竜《りゆう》……ううむ、みごとな彫《ほ》りだが、だれかこの小柄に見覚えのあるものはねえか」 「えっ、雲に竜でございますって?」  と、はじけるような声をあげて、左右からにじりよったのは小松に小竹だ。 「親分さん、ちょっとその小柄を……」  と、ふたりは手にとってながめていたが、 「姉さん、それじゃやっぱり……」 「畜《ちく》生《しよう》!」  ふたりの顔色に、さっとくやしさがひろがった。 「おお、するとおまえたち、この小柄に見おぼえがあるとみえるな。いったい、それはだれの小柄だえ」 「親分さん、こうなったらなにもかも申し上げます。どうぞ妹の敵《かたき》を討《う》ってやってくださいまし。その小柄は……」 「うむ、その小柄は……」 「一昨夜、北尾左市さまを討ち果たして逐《ちく》電《でん》した沢井源三郎の小柄にちがいございませぬ」 「なに、あの、沢井源三郎……?」  北尾左市の一件は、むろん佐七もきいていた。  それゆえにこそ、いちど水芸三姉妹に会ってみたいと思っていたのだが、思いがけなくその一件が、こちらへ飛び火をしてきたので、佐七はきらりと目を光らせて、 「しかし、おまえたちはこの小柄が沢井源三郎さんのものだと、どうして知っているんだ」 「はい、それはかようでございます」  一昨夜の鏑《かぶら》木《ぎ》屋敷の宴会では、武士の持ち物調べがあった。  刀、小柄、印《いん》籠《ろう》などを見せあって、品評会みたいなことをやったのである。  博多家三姉妹もその座の取りもちをしたので、はっきりこの品を覚えているという。 「ううむ。しかし、沢井源三郎さんが、どういう遺《い》恨《こん》で、小梅の命をねらったのだろう」 「さあ……」  と、小松と小竹は顔見合わせて、 「そればかりは、わたしどもにもわかりません」  と、青白い顔をしてうなだれた。  そして、それきりいかに責《せ》めても尋《たず》ねても、ふたりはひとことも口を利《き》かなかったのである。 若後家おりゅう   ——小六殿が迎えに行ったのですが—— 「親分、親分、どうしたんです。どうしてもう少し突っこんで、あいつらにどろを吐かさなかったんです。あの顔色じゃ、小松に小竹、なにか知っているにちがいねえのに」 「そやそや、親分。あんた少しヤキがまわったんとちがいまんのか。あんまりあねさんをかわいがりすぎたんで、ボーッとしてなはんのやおまへんか」 「それみろ、てめえがいらねえことをするもんだから、親分、いかれちまったじゃねえか。ちっ、親分も親分だ。いかに豆六が気をきかせたからって、昼ひんなかから、あねさんの髷《まげ》の根がゆるむまでかわいがるこたアねえじゃありませんか」  いや、もう、やかましいことである。  辰と豆六にとっちゃ、こんなときがいちばん楽しみなんで。 「親分、あんたこれからどこへ行きゃはりまんねん。お玉が池へかえるんなら、ちょっと方角がちごとりまっせ」 「おやおや、豆六、親分は返事もしねえぜ。ひょっとすると、あんまりいかれすぎて、頭がどうかしたんじゃねえか。親分、もし、親分、大丈夫ですかい」 「やかましいやいッ」 「ひえッ」 「思案があるんだ。黙ってあとからついてこい」 「へえ……」  辰と豆六は顔を見合わせて、にやッと首をすくめている。  佐七にはどうやらなにか当たりがつきはじめているらしいのである。 「おい、辰、豆六」  しばらくすると、だしぬけに、佐七が立ちどまってあたりを見回した。 「このへんに、北尾左市さんの住まいがあるはずだ。ちょっとそこらできいてみてくれ」  気がつくと、そこは本《ほん》所《じよ》緑町である。 「へえ、それじゃ親分、やっぱりあの一件と、きょうの小梅殺しに、なにかつながりがあるというんですかえ」 「なんでもいいから探してみろ」 「へえ」  北尾左市の住まいはすぐにわかった。  組屋敷のなかにあって、表にたつと線香のにおいが鼻をつく。  訪《と》うと、でてきたのは小六である。  うさんくさそうに佐七のようすを、ジロジロ見ていたが、用件をきくと、いったん奥へひっこんだのが、すぐにでてきて、 「それじゃ、こっちへあがるがよい」  と、まるでかみつきそうな調子である。  奥のひと間……といったところで、どうせ組屋敷のことだから、ごくおそまつな一室にとおされると、仏のまえに、まゆのあおい若女房と、侍がひとり座っていた。  侍はみずから、おなじ組屋敷にいる菅《すが》井《い》嘉《か》門《もん》であると名乗った。  若女房はいうまでもなく、亡くなった北尾左市の後《ご》家《け》おりゅうだが、佐七はまず、おりゅうのあまりの美しさに、目をみはらずにはいられなかった。  おりゅうの年齢は二十二、三だろう。  むっちりと肉付きのいい体から、ムンムンとした色気がにおいこぼれるばかり。  しかも、気品と落ち着きと、それに夫をうしなったうれいがそうて、博多家三姉妹とはまた別種の趣《おもむき》があった。  小六は佐七を案内すると、それきりどこかへ姿をかくした。  さて、佐七はあらためてあの晩のことを尋ねると、それについて、菅井嘉門がつぎのような話をした。  あの晩、おひらきになると、左市がいちばんに屋敷をでた。  ひどく酔うているので、嘉門が付き添ってかえるつもりだったが、左市はそれを振りはらうようにして、とびだしたのである。  嘉門もいそいであとを追うたが、途中で忘れものを思いだして、屋敷へひきかえした。  その途中で、沢井源三郎にすれちがったが、べつに気にもとめずにやりすごした。  屋敷へとってかえして忘れものを受け取り、ほかの客人といっしょに鍋《なべ》屋《や》堀《ぼり》までやってくると、そこに左市が倒れていたのである。 「あのとき、拙者が左市どのに付き添うていたら、こんなことにはならなかったのに……」  嘉門は悄《しよう》然《ぜん》としていた。 「いいえ、あなたばかりが悪いのではありませぬ。小六殿がもう少しはやく、迎えにいってくれていたら……」  おりゅうもまゆをくもらせてため息をついた。 「え? 小六さんとおっしゃいますのは?」 「亡くなった左市の弟でございます。主人は日ごろ、いたっておだやかなほうですが、酔うと気があらくなりますので、あの晩も心もとなく、小六殿に迎えにいってもらったのでございます。しかし、ひとあしちがいであんなことになりまして……」 「小六さんとおっしゃるのは、いまここにおいでになったかたでございますね」 「はい、兄の横《おう》死《し》をくやしがりまして、きのうも鍋屋堀の、主人の死体のあったほとりへ出向いていきましたが、そこに博《はか》多《た》独《ご》楽《ま》が落ちていたとやらで、さっきも両国の、なんとやらいう水芸師のところへ出向いていきましたが……」  それを聞いて、佐七ははてなと小首をかしげた。  小松や小竹が、少しもそのことにふれなかったのはどういうわけだろう。 「へえ、死体のそばに博多独楽が……ときに、つかぬことをお尋ねいたしますが、左市さまがお亡くなりあそばしてから、どなたかお悔《く》やみに来られましたか」 「はい、組のひとはみんな来てくださいましたが、なかにひとり、妙なひとが香《こう》典《でん》をくださいました」 「妙なひとというと……?」 「蔵《くら》前《まえ》の駿《する》河《が》屋《や》さんでございます。こんなことになったのも、もとはといえばじぶんからだと、たくさんの香典をよこしたので、どうしたものかと、いまも菅井さんとご相談していたところでございます」  佐七はまた、はてなと小首をかしげた。 機転の投げ独楽   ——左市は鏑《かぶら》木《ぎ》のほうへ歩いていた—— 「親分、親分、あやしいのは小松に小竹だ。死体のそばに、博多独楽が落ちてたてえのからしておかしいのに、きょう、小六が訪ねてきたことも、ひたかくしにかくしていやアがった。これにゃきっといわくがあるにちがいねえ。もういちど、博多家三姉妹の小屋へひきかえし、こんどこそ、どろを吐かせてやろうじゃありませんか」 「兄い、あかん。なにいうたかて親分にはこたえまへん。やっぱり、あねさんがこたえたらしい。あの精のない顔をみなはれ」 「うっふ、豆六のいうとおりよ。きょうはもうなにをするのもいやだ。あすまた、出なおしてくるとしようよ」  と、佐七は冗《じよう》談《だん》をいいながら、その日はそのままひきあげたが、鉄は熱いうちに打てであった。  たったひと晩、手遅れになったがために、佐七は後悔の臍《ほぞ》をかむことになったのである。 「親分、た、たいへんだ、たいへんだ。だからいわねえことじゃねえ。おいらのいうことを聞かねえばっかりに、と、とんだことができちまった。いったい、こりゃどうするんです」  その翌朝のことである。  はやく起きて、両国へようすをみにいった辰と豆六が、血《けつ》相《そう》かえてとびこんできたから、このところ、いささかタガのゆるんだ感じの佐七も、びっくりしてはね起きた。 「ど、どうした、辰。豆六、なにが起こったのだ」 「どうしたも、こうしたもあらへんがな。おまえさんがあねさんばっかりかわいがっているあいだに、またひとり、殺されよったがな」 「えっ、またひとり殺されたと。そして、だれが殺されたんだ」 「小竹ですよ。ゆうべ両国の小屋んなかで、小竹はむざんに切り殺されたんです」 「げっ」  とたんに、佐七は立ちあがっていた。 「お粂、支度だ、支度だ」  それからまもなく、お玉が池をとび出して、西両国へむかう途中、辰と豆六が、みちみち語るところによるとこうである。  博《はか》多《た》家三姉妹には、ゆうべもお座敷がかかっていた。  人気稼《か》業《ぎよう》の悲しさには、妹が殺されたからといって、きまったお座敷をけるわけにはいかなかった。  それでも、なんぼなんでも、妹の死《なき》骸《がら》ひとりのこしていくのはかわいそうだと、小竹ひとりがのこって、お通《つ》夜《や》をすることになった。  ほかのものは、みんな小松についてでていった。  ところが、お座敷をすまして一同が夜おそくかえってくると、小竹のすがたがみえないのである。  ほうぼうさがしているうちに、あちこちに血の跡《あと》があるので、一同はぎょっと息をのんだ。  小竹は舞台のすのこのうえで、むざんに切り殺されていたのである。 「どうもふびんなことをしましたよ。小竹は楽屋から舞台へと、さんざん逃げまわったあげく、力つきて、とうとう切り殺されてしまったんですね」 「ううむ、そいつはかわいそうなことをした」  佐七はほっとため息をついた。  それからまもなく、西両国の小屋へつくと、さすが気《き》丈《じよう》者《もの》の小松も、まっかに目を泣きはらしていた。 「親分さん、くやしゅうござんす。小梅ばかりか小竹まで、こんなことになってしまって……どうぞふたりの敵を討ってください」 「そりゃア、もういうまでもねえが、それにしてもおまえたち、だれかに恨《うら》みをうけるおぼえがあるのか」 「はい、それでございます。これはもっと早く打ちあけて、申し上げればよかったのですけれど、かかりあいになるのがいやだったものですから……」  と、そこではじめて小松が打ちあけたのは、まことに意外な話であった。  あの晩、博多家三姉妹は、北尾左市が殺されるところを、舟のなかから目撃したのである。  むろん、夜のことだから、下《げ》手《しゆ》人《にん》がだれとも、また、殺されたのが北尾左市であることも、翌日うわさをきくまで知らなかった。  鏑木大《おお》炊《い》之《の》介《すけ》から舟をもらって、鍋屋堀までやってくると、五本松のしたあたりで、ギャッというような男の悲鳴。  みるとだれかが、切られて倒れるところだった。  それをみると、博多家小松は、とっさの機転で、もった博多独楽を下手人めがけて、舟のうえから投げつけた。  独楽はたしかに下手人の肩にあたって、あいてはあっとよろめいたが、すぐ、肩をおさえて逃げ去った。  博多家三姉妹はそのときよっぽど、舟からあがって殺された人物を、あらためようかと思ったが、かかりあいになると面倒だからと、船頭をいそがせて立ち去った。  そして、船頭にもかたくこのことを、口止めしておいたのである。  いまでもそうだが、江戸時代にはかかりあいになることを、ひどくおそれたものである。 「それですから、北尾さまを殺した下手人の肩には、独楽をぶっつけられたあとが残っているはずでございます。きのう、北尾さまの弟御が持ってこられた独楽のしんには、血のついたあとがのこっておりました。だから、独楽のしんが下手人の左の肩の肉につきささったにちがいございませぬ。そして、そのことを知っているのは、わたしたち姉妹三人……下手人はそれを恐れて、わたしたちの命をねらうのでございましょう」  佐七はしばらく考えて、 「ときに、殺された北尾左市さんだがねえ、あのひとは緑町へかえる途中だったんだが、そっちの方角へ歩いていたかえ」 「さあ、それがふしぎなのでございます。左市さまは反対に、鏑木さまのお屋敷のほうへ歩いていらっしゃったようでございます。ですから、わたくしどもも、殺されたのをその夜のお客人とはつゆ知らず、おおかた切りとり強盗のたぐいであろうと思うていたのでございます」  佐七はまた、なにやらじっと考えこんだ。 灯《とう》籠《ろう》流し   ——ふたつの黒ずきんが浮きつ沈みつ——  博多家三姉妹のうちふたりまで、つぎつぎと非《ひ》業《ごう》の最《さい》期《ご》をとげてから三日目の夜、隅《すみ》田《だ》川《がわ》の上《かみ》手《て》、言《こと》問《と》いの渡しのあたりで、世にもあわれな灯《とう》籠《ろう》流《なが》しが行なわれた。  灯籠流しのぬしは博《はか》多《た》家小松で、非業に死んだ妹たちの冥《めい》福《ふく》をいのって、屋《や》形《かた》船《ぶね》から千鳥の灯籠を百八つ、隅《すみ》田《だ》川《がわ》にながすのである。  それらの費用はいっさい、三姉妹のひいきであった蔵《くら》前《まえ》の札差し駿《する》河《が》屋《や》重《じゆう》兵《べ》衛《え》がうけもった。  このうわさははやくもパッと、江戸中にひろがっていたから、その晩は灯籠流しをみようという見物で、陸も川もうずまるばかり。  その見物を当てこんで、物売りの舟まででようという景気であった。  灯籠流しは夜の五つ(八時)ごろからはじまった。  屋形船から身をのりだした小松の手から、灯籠はひとつ、ふたつ、三つ四つ五つ……と、水のうえにはなたれて、あわれにもはかないまたたきを放ちながら、ゆらりゆらりと流れていく。  それはさながら、古き昔の絵物語のような情景だった。  屋形船のなかには、小松のほかに、ひいきの駿河屋重兵衛もいる。  重兵衛のほかに、かれが日ごろからひいきにしている芸者や芸人も乗っている。  灯籠流しがおわったら、わっとさわいで、小松をなぐさめてやろうという趣向であった。  そのほかにもひとり、だれやら乗っているのだが、黒いずきんでおもてを包んでいるので、どこのだれやら、小松でさえも知らなかった。  みなりをみると武士である。 「南《な》無《む》阿《あ》弥《み》陀《だ》仏《ぶつ》……」  小松は念仏をとなえては灯籠を水のうえへ流していく。  水のうえにはもう百ちかい千鳥の灯籠が点々として、はかない光をはなっている。 「南無阿弥陀仏……」  小松がまた舟べりからのりだしたときである。 「危ない!」  同船していた黒ずきんの侍《さむらい》が、叫ぶと同時に刀の柄《つか》を小松のまえに差し出した。  その柄にあたって、カチッ! と、つめたい音を立てて、なにやら小松のまえに落ちたものがある。  小柄だった。 「あれッ!」  おどろいて、身をふせる小松には目もくれず、黒ずきんの武士ははっと立ち上がると、それが合《あい》図《ず》ででもあったのか、一《いつ》隻《せき》の小舟がスルスルそばへよってきた。  黒ずきんはひらりとそれにとび乗ると、 「それ、むこうへ逃げるあの舟だ。取り逃がすな」 「合《がつ》点《てん》です」  小舟はすぐに屋形船をはなれて、川下さしてこぎ出したから、おどろいたのは屋形船の芸人たちだ。 「だ、だんな、こりゃいったいどうしたことでございます」 「あっはっは、なにも気をもむことはねえ。小松、けがはなかったか」  駿河屋重兵衛、ゆったりしたものである。 「はい、あのお武家さまが、刀の柄でかばってくださいましたので……でも、だんな、これはいったいどうしたことで……」 「なに、小梅や小竹を殺したやつをおびきよせようと、こうして筋を書いたのさ。今夜こうしておまえさんが灯籠流しをすると知ったら、きっと下《げ》手《しゆ》人《にん》がちかよろう……と、なに、おれの書いた筋じゃねえ。お玉が池の親分が書いた筋よ。おれが沢井源三郎さんをかくまっていることを知っていて、その沢井さんに、北尾殺しの下手人をとらえさせようと書いてくだすったのが、今夜の筋、こりゃとても、ほかの御用聞きにゃできねえことよ」 「えっ、それじゃもしや、さっきのずきんのお武家さまが、沢井源三郎さまでは……」 「そうよ、おまえにとっちゃ命の恩人だ。うれしいか。あっはっは、あのうれしそうな顔はどうだえ」  ちょうどそのころ、追いつ追われつ、川下へくだっていく、二隻の舟のいく手にあたって、突《とつ》如《じよ》、五、六隻の小舟がバラバラとあらわれた。  いずれも御用ぢょうちんをかかげて、 「御用だ、御用だ、神妙にしろ」  その声にあっとひるんだのは、さきなる舟の男である。  これまた、黒ずきんでおもてを包んでいる。  まえには御用ぢょうちん、うしろからは黒ずきんの武士が追ってくる。 「御用だ、御用だ!」  御用ぢょうちんはしだいに数をまし、やがて二隻の舟は、ずらりと御用舟にとりかこまれた。  しかも、しだいに包囲の網は、しぼるようにせばめられていくのである。  進退ここにきわまったというのは、こういうときにもちいることばであろう。  まえなる舟の黒ずきん、しばらく絶望的な目で、あたりを見まわしていたが、やがてざんぶとばかり、水のなかへとびこんだ。 「や、とびこんだぞ。それ、逃がすな」  舟のうえからくちぐちに叫ぶ声。  と、そのときふたたび、ざんぶと水にとびこむ音がきこえたのは、あとなる舟の黒ずきんである。 「や、またひとりとびこんだぞ」  いったん、水底ふかく沈んだふたつの黒ずきんが、やがてポッカリうかんでくると、水中ではげしい格《かく》闘《とう》である。  浮きつ、沈みつ、しぶきをあげて、水のなかでもつれあっていたが、それも、いっとき、まもなく勝負がついたらしい。  やがて、ひとりの黒ずきんが、もうひとりの黒ずきんを抱きかかえて、泳ぎついた舟には、佐七が辰や豆六とともに乗っていた。 「おお、沢井さん、ご苦労さまでございました。どれ、それじゃ下手人のつらを、拝ませてもらいましょうか。それ、辰、豆六」 「へえ」  と答えて、辰と豆六が、水をのんでぐったりしている黒ずきんの、ずきんをとったせつな、 「や、こ、これは……」 「親分、親分、こ、こら左市の弟の小六やおまへんか」 「そうよ、おめえたちはまた、いったいだれだと思っていたんだ」  月はいま待《まつ》乳《ち》山《やま》のうえにある。  隅田川のうえには点々として、千鳥灯籠がながれて、そのもの悲しい明滅のなかに、佐七の微笑は、世にもうつくしく照りかがやいていたのである。 なぞ解き印《いん》籠《ろう》   ——大バカ野郎の大トンマの佐七め—— 「小六のだいいちのしくじりは、左市の手に、沢井さんの印《いん》籠《ろう》をにぎらせたことにあるのよ。わかったか」  その翌朝、お玉が池では辰と豆六をまえにおいて、例によって例のごとく、人形佐七のなぞの絵解きがはじまっていた。 「へえ、印籠をにぎらせておいたのが、なぜいけませんので」 「つもってもみねえ、左市はうしろから袈《け》裟《さ》がけの、一刀のもとに切り倒されたんだ。そいつが下手人の印籠をもぎとるひまなんかあるはずがねえ。だから、これはだれか余人が、沢井さんに罪をかぶせるためにやった仕事にちがいねえ。ところで、その印籠はたしかにあの晩、沢井さんが持っていたものだから、それを手に入れることができるのは、あの晩の会にでていたやつということになる。そこで、おれはまず菅井さんに目をつけたが、菅井さんじゃどうしても納《なつ》得《とく》できねえ節がある」 「どうしてです、親分。菅井さんは左市を追って屋敷をでた。そして、途中で忘れものを思いだし、ひきかえしたといっているが、ひょっとするとそのときバッサリ……そうしておいて、あとからまた、ほかの連中とやってきて、はじめて死《し》骸《がい》にぶつかったようなつらをした……ということになりゃア、菅井さんだっていいじゃありませんか」 「おれもそれを考えたんだが、いけねえことにゃ、ひきかえす途中で沢井さんに会っている。そのまえに、左市をバッサリやったのなら、沢井さんがまずだいいちに死体にぶつからなきゃならねえはずだ」 「あ、なるほど、そういえばそやな」 「さあ、こうして、沢井さんも菅井さんも下手人でねえとすると、ほかに下手人らしいやつはひとりもねえ。おれもそれには弱ったが、そのとき耳にしたのが、小六が兄を迎えにいったということだ。こいつがおれにゃドキーンと来たな」 「はてね。あっしにゃドキーンもポキーンも来なかったがね」 「は、は、は、そりゃしかたがねえや。それがおれとおまえの脳みそのちがいよ。あっはっは、まあ、おこるな」 「えっへっへ、おこりゃしませんよ。それがあっしにわかるくらいなら、なにも冷《ひ》や飯《めし》くって、おい、辰、こら、辰なんていわれちゃいませんや」 「そやそや、あねさんみたいなべっぴんを嫁さんにもろて、ときどき胸ぐらをとられたりかみつかれたり、そして、おい、佐七、こら、佐七、この大バカ野郎の、大トンマの佐七めなアんていいまんがな。なあ、兄い」 「なにをいやアがる」  佐七はにが笑いをしながら、 「ところで、おれがもうひとつふしぎにおもったのは、屋敷へひきかえす菅井さんと、途中ですれちがった沢井さんは、どこかで左市に会わなきゃならねえはずだ。会えばただではすまなかったろう。ところが、そんなこともなく、沢井さんがまっすぐにじぶんの家へかえったところをみると、左市がどこかでひそかに、沢井さんをやりすごしたにちがいねえ。なぜ、そんなことをしたのか……それともうひとつ、小松の話じゃ、左市は切られたとき、鏑《かぶら》木《ぎ》屋敷のほうへむかって歩いていたという。それやこれやを考えると、左市はその晩、なにかたくらみがあったのじゃねえか。たくらみがあったとすると、沢井さんの印《いん》籠《ろう》や小《こ》柄《づか》を、こっそり手に入れてたなア、左市自身じゃあるめえか」 「な、なアるほど。しかし、親分、左市はいったいなにをたくらんでいたんです」 「そこよ。これはおれの当て推量だが、左市はかねて女房と菅井さんの仲をうたがっていたんだ。そこで、菅井さんを殺して、その罪を沢井さんにおっかぶせようと思ったんだ。あの晩、沢井さんにからんだのは、はじめからその魂《こん》胆《たん》で、あの場の遺《い》恨《こん》から沢井さんが左市を殺そうとして、まちがって菅井さんを殺したのだと、世間のものに思わせるつもりじゃなかったか」 「な、なるほど、そら、大きにそうかもしれまへんな」 「そこでいちばんに鏑木屋敷をとび出した左市は、ものかげにかくれて待っていた。ところが、そこへ折りあしくやってきたのが弟の小六だ。兄貴のようすをあやしんで詰《きつ》問《もん》すると、そこは兄弟、つい左市がこれこれこうと自分のもくろみをうちあけた。そこへ沢井さんがやってきたから、ものかげへかくれてやりすごす。そのあとで、菅井さんを待ちぶせするつもりで、左市が鏑木屋敷のほうへ歩きだしたところを、小六のやつがあとからバッサリ」 「そりゃまた、親分、どういうわけです」 「そやそや、なんで、小六はげんざいじぶんの兄貴を殺さんなりまへんねん」 「おまえたちは、左市の女房のおりゅうを見たかえ」 「あっ、あの若《わか》後《ご》家《け》……」 「ムンムンするよな肉体美人や」 「親分、それじゃあの若後家が原因ですかえ」 「あのお色気じゃ、小六のような子供でも、煩《ぼん》悩《のう》を起こすのもむりはねえや」 「な、なアるほどねえ」 「いささかお色気過《か》剰《じよう》やもんな」  辰と豆六はため息ついた。 「小六のやつも、まさかまえから兄貴を殺す機会をねらっていたわけじゃあるめえ。しかし、あの晩、兄貴のもくろみをきくと、これぞ究《くつ》竟《きよう》の機会とばかり……いや、そう思ったかどうかしらねえが、やっぱり魔がさしたというんだろうなあ」 「そうすると、親分、北尾左市は自分がつくったそのわなへ、われとわが身で落ちていったというわけですねえ—— 「人をのろわば穴ふたつちゅうのんは、ほんまにこのことだんなあ」 「ということになるようだなあ」  佐七は慨《がい》嘆《たん》するようにつぶやいて、それきり、この一件にはふれなかったという。 色《いろ》八《はつ》卦《け》 湯島の富突き   ——千両当たったら役者を買う——  現今でも、競馬、競輪、富《とみ》くじとばくちばやりで、まるで地方の自治体がばくちの胴《どう》元《もと》をしているようなものだが、これは諸事停《てい》滞《たい》して、経済的に八方ふさがりになった時代の特徴らしく、江戸時代でも、富くじはなかなかさかんだった。  そのころの富くじは、多く、寺社修復の財源にあてるというのが名目だったから、興《こう》行《ぎよう》元《もと》はたいてい寺か神社で、なかでも有名なのは谷《や》中《なか》感応院、目黒不動、湯島天神の三〓所で、これを江戸の三富といった。だから、この三〓所で富興行、すなわちくじ引きが行なわれるという日は、たいへんなにぎわいで、富札をかった連中が、われもわれもと押しかけて、かたずをのんで当たりくじの番号が発表されるのを待ったものだ。  くじ引きの方法は、大きな箱に売りさばいた富札と同じかずだけの木札をいれ、それをがらがらまわしながら、箱の側面にあいている小さな穴から錐《きり》をいれ、その錐につきささった木札の番号を当たりくじとしたもので、だからこれを富突きという。  これはなかなか威《い》勢《せい》のよかったものらしく、世話人によって、たからかに当たりくじの番号が読みあげられるごとに、場内はわっわっという騒ぎ。一の富の千両にあたったものなんざ、たいていはポーッとするという。 「親分、きょうは四月十八日ですね」 「それがどうした。おまえだれかいいのと会う約束でもあるのか」 「そうじゃねえんで。きょうは湯島の富突きですよ」  ここは神《かん》田《だ》お玉が池は人形佐七の住まい。  どこへいったか女房のお粂《くめ》が、昼過ぎからでかけたるすで、大の男が三人、しょざいなさそうに、体をもてあましている。表をとおる定《じよ》斎《さい》屋《や》の薬売りの声ものどかである。 「ああ、そうか。おまえ、札を買っているのか」 「買っちゃいませんよ、親分。札を買ってちゃ、いまごろこんなところにまごまごしてやアしませんや。湯島へかけつけ……」 「胸をドキドキさせてるとこやな。ねえ、親分」 「なんだえ、豆六」 「兄《あに》いときたらな、そらもうたいへんだすわ。札をわしづかみにして、目を血走らせ、小鼻をひくひく、フーフーいいながら汗びっしょりや。それで当たったためしがないんやさかい、ほんまにええ面《つら》の皮《かわ》だっせ」 「なにをいやアがる、てめえはどうだ。一の富の当たりくじと、たった一番ちがいだったと、わっと泣き出しやアがったのは、いったいどこのだれだ。あっはっは、ざまアみやがれ」 「あっはっは。あのときゃ豆六、かわいそうだったな。あれが当たってりゃ、いまごろは、さしずめ豆六お大《だい》尽《じん》で、こちとら、へへえてなもんだったんだがな」 「そうだす、そうだす。これ、辰や、ちょっと腰をもんでんか。祝《しゆう》儀《ぎ》に一朱《しゆ》やるさかいに、おっほん、てなもんやったんに」 「あっはっは、こりゃまた、けちなお大尽もあったもんだ」  と、三人がわいわいいっているところへ、 「ただいま」  と、かえってきたのは女房のお粂。いくらか上気しているらしく、ポーッとまぶたを染めているのが色っぽい。 「お粂、どこへいってたんだ」 「ほっほっほ」  と、お粂は佐七のそばにべったりすわって、 「わたしもバカだねえ」 「あっはっは、じぶんのバカがいまわかったか」 「まあ、憎らしい。もうすこし、あいさつのしようがありそうなもんじゃないか。こちらはがっかりしてかえってきたのに……」 「あねさん、あねさん、なにをがっかりなすったのさ。男でもくどいて振られたんですかえ」 「なにをつまらないこといってるのよう。これなのさ」  と、お粂が帯のあいだからつまみ出して、ひらりとそこへ投げ出したのは、なんと、いま三人がわいわいいってた湯島の富札。 「あっはっは、お粂、それじゃおまえ、湯島の富突きにいってたのか」 「あねさん、まさかあたったんやおまへんやろな」 「豆さん、そりゃなんというあいさつだえ、まさかあたったんじゃないだろうなんて。うっふっふ。あたりまえだよう。あたってたら、いまごろこんなに落ちついていられるもんかね。このひとにかじりついて、そこらじゅうはねまわってるさ。ほっほっほ」 「だけど、あねさん、あねさん」 「なんだえ、辰つぁん、ひざのりだして」 「おまえさん、親分にもないしょでこっそり札をかって、あたったらどうするつもりだったんです。役者買いでもする気でいたんで?」 「バカなことをおいいでないよ。ちかごろうちのひと、すこし体がだるそうだから、あたったら箱根へでも湯《とう》治《じ》にいくつもりだったのさ。ほっほっほ」 「わっ、こらまた、貞女のかがみやがな」 「それで、われわれもご一緒に……?」 「だれがおまえさんたちみたいなうるさいの、つれていくもんかね。このひととふたり水いらずで、ねえ、おまえさん」 「なあ、お粂」 「こん畜《ちく》生《しよう》、あたらなくていい気《き》味《み》だ」 「ほっほっほ、それは冗《じよう》談《だん》だが、役者買いといやア、きょうおもしろいことがあったよ」 「おもしろいってどういうんだ」 「おもしろいといっちゃなんだけど、ほら、いつか豆さんが、あたりくじと一番ちがいだって泣いたことがあったっけね」 「うむ、いまもその話をしていたところだ」 「ところが、きょうも、わたしの知ったひとが一番ちがいでね。一の富、千両のあたりくじは梅の四千六百九十二番なんだけど、そのひとの持ってるのは、梅の四千六百九十三番なのさ」  富くじのかずはぼうだいなものだから、たいていは、松竹梅とかつるかめ、あるいは雪月花と、組分けがしてあったものである。 「こんどはそでがねえのか」  そでというのは、あたり番号の両どなりの番号で、ときによると、両どなりの番号に心ばかりの賞金がつくのである。 「ああ、それがあればそのひともいくらかにありつけるんだが、豆さんのときとおんなじで、こんどもそでがないもんだから、一番ちがいで紙くずさ。くやしがってねえ。そのひとが……」 「そりゃそうだろう。お気の毒に」 「それであたしが、千両あてたらどうするつもりだったのかと聞いたところが、そのひとがいうのに、ほら、いま湯島の境《けい》内《だい》に出てる瀬《せ》川《がわ》三《さん》之《の》丞《じよう》、なかなかきれいな役者だというじゃないか。あれを買って夫婦になるつもりだったんだってさ。ほっほっほ、まじめなのか冗談なのかしらないけれど」 「ああ、それじゃそりゃ女ですね」 「あたりまえさ、辰つぁん、男どうし夫婦になってたまるもんか。ほら、おまえさんたちも知ってるでしょう。いま湯島の境内でひょうばんの茶くみ女、三《み》日《か》月《づき》茶屋のお富って娘《こ》さ。ほっほっほ、あの娘もそうとうなもんだねえ」  他人の不運をよろこぶのではないが、お粂のはなしにそれからそれへと一同興にいっていたが、いずくんぞしらん、このはなしこそ、のちに起こった事件のなぞをとくかぎになったのだ。 女易者妙見堂梅枝   ——辰や豆六にとっちゃ目に毒だ—— 「親分、たいへんだ、たいへんだ。殺しだ、殺しだ、人殺しだア!」  と、辰と豆六が奴《やつこ》凧《だこ》のように、キリキリ舞いをしながらとびこんできたのは、それから三日目の昼さがり。  縁側でお粂に髷《まげ》の刷《は》毛《け》さきをなでつけさせていた佐七は、ギョッとしたようにふりかえると、 「殺しだと? そして、いったいだれが殺されたんだ」 「親分もご存じでしょう。ちかごろ上野の山下に店を出しているひょうばんの女易《えき》者《しや》、妙《みよう》見《けん》堂《どう》梅《ばい》枝《し》が殺されたんです」 「あらまあ、あの妙見堂さんなら、わたしもいちど手相を見てもらったことがある。なかなかべっぴんだったけれど……」 「あれ、あねさん、あんた、なんで手相なんか見てもらはったんや」 「うっふっふ、うちのひとが浮気をしてるかどうかってね」 「そしたら、あねさん、なんて卦《け》が出ましたえ」 「気をつけなきゃあぶないってさ。ほっほっほ」 「つまらねえこというない。それより、辰、妙見堂はいつ殺されたんだ」 「親分、それがよくわからねえんで。きのうから雨戸がひらかねえので、近所のものが怪《あや》しんで、けさがた表の格《こう》子《し》に手をかけると、これがなんなくひらいたので、ふしぎに思ってなかへはいると……」 「妙見堂が殺されてたのか」 「いや、そやおまへんねん。座敷には寝床がしいておますし、妙見堂の着物もぬぎすてておますのやが、妙見堂はどこにもみえまへん。それであっちゃこっちゃ探してると……」 「親分、親分、そんなこと聞いてるひまにゃ、いっしょにきておくんなさい。ひとめ見ればわかるこった。あねさんもいつまで親分の刷《は》毛《け》さきをいじってるんです。いいかげんにしなせえよ。ええい、じれってえ」 「よし、お粂、もういい。そして妙見堂の住まいはどこだ」 「下《した》谷《や》車坂です」  下谷車坂には蓮《れん》光《こう》院《いん》という寺があるが、その寺の墓地つづきに、ゴミゴミとした長屋がある。  妙見堂梅枝の住まいは、その長屋のいちばんおくで、裏もよこもさびしい墓地。女の身で、しかも女中もおかずに、よくまあ、こんな気味のわるいところへひとりで住んでいたものと思われるくらいである。  長屋の路《ろ》地《じ》口《ぐち》から妙見堂の家のまえへかけて、いっぱい野《や》次《じ》馬《うま》がむらがっている。それをかきわけて、佐七の一行が家のなかへはいっていくと、むろん、もう町役人が出張していた。  妙見堂の住まいはたったふた間で、表が四畳半のおくが六畳、その六畳になまめかしい夜具がみだれており、まくらがふたつならんでいる。  まさか女どうしで寝るはずはないから、男が来ていたにちがいない。 「それで、妙見堂の死体というのは……?」 「親分、あれをごらんください」  町役人に指さされて、佐七はギョッといきをのんだ。  押し入れの上段につみかさねられた布《ふ》団《とん》のあいだから、なまめかしい素《す》膚《はだ》の女が、ぐったりと乗り出している。紫のひもでむすんだ切り髪がすこしみだれて、まゆそりおとした顔がなまめかしい。  むっちりとした乳《ち》房《ぶさ》のふくらみ、もえるような緋《ひ》縮《ぢり》緬《めん》の腰巻きがすこしくずれて、白いふくらはぎのちらちらするのが、辰や豆六の目に毒だ。  妙見堂梅枝は、腰のものいちまいだけのあらわな姿で、押し入れの布団のあいだにつっこまれているのである。 「絞《し》めころされたんですね」  梅枝ののどから首へかけて、ありありのこる紫色のひものあとをみながら、佐七はまた息をのんだ。 「そうです、そうです。絞めころしたのは、ひょっとすると、このひもじゃ……」  なるほど、夜具のまくらもとに、おあつらえむきのしごきがいっぽん、へびのようにのたくっている。 「なるほど。それで、このしごきは……?」 「梅枝のものだそうです。ねえ、親分」  と、町役人はまくらもとを指さしながら、 「まくらもとに一《いつ》升《しよう》徳《どく》利《り》と、茶わんがふたつころがってるでしょう。梅枝は寝床のうえで、男と酒をのんだにちがいございませんよ。寝床に酒のにおいがしみついてます。さて、そのあとで男とねて……よくねているところを、じぶんのしごきで……」  なるほど、町役人のいうとおりだ。  まくらもとには一升徳利がころがっており、茶わんがふたつならんでいる。徳利には一《いつ》滴《てき》も酒がなく、夜具のまくらもとをかいでみると、ぷうんと酒の香りがする。 「それで、男とふざけた形《けい》跡《せき》が……?」  佐七がちらと、もえるような腰巻きからのぞいている白いふくらはぎのほうへ目をやると、 「へっへっへ、それがね、たしかに男といろいろあったらしいんで」  と、町役人はくすぐったそうに笑いながら、うすく染まったほっぺたを、つるりと逆になであげる。  どうやら、男はさんざん女をうれしがらせて、女がむがむちゅうになっているところを、うえから絞《し》めころしたらしいのである。 「それじゃ、妙見堂にゃいろがあったんですね」 「へえ、そりゃもう、近所でもひょうばんだったんです。つぎからつぎへといろんな男が……そうとうのすご腕だったようですね」  佐七はまた、押し入れの布団からのぞいているむっちりとした乳房のふくらみに目をやった。としは三十前後だろうが、いかにも男の好きごころをそそりそうな肉《しし》置《お》きだ。  切り髪にしているのも色っぽい。 「それで、殺されたのは……?」 「だいたい、おとついの晩からきのうの朝へかけて……ということになっております。おとついの晩、梅枝がじぶんで、むこうの酒屋へ、酒を買いにきたそうですから」 「おとついの晩来た男というのが、どんな男だかわからないんですか」 「いや、それはわかっているんです。なんでも、二十四、五の、お店《たな》の手《て》代《だい》……といったふうな男で、まえからちょくちょく来てたそうですが、ただ困ったことには、だれもそれがどこのどういう男だかしらないんです」 「表があいてたそうですね」 「いえ、表ばかりじゃありません。裏木戸もあいてましたよ。ひょっとすると、その男、梅枝を殺してから、裏へ逃げたんじゃないかと思うんです。表へ出るとひとにあうおそれがあるが、裏だとすぐ墓地ですからね」  町役人のことばに、六畳のおくにある台所をぬけ、裏木戸をぬけてみると、なるほど外はさびしい墓地で、風雨にさらされた墓石が、累《るい》々《るい》としてならんでいる。なるほど、人殺しをしたあとで、下手人が逃げ出すにはかっこうの場所だ。 「辰、豆六」 「へえ」 「おまえら、この墓場をよくさがしてみろ。なにか証拠になるようなものが見つかるかもしれねえ」 「おっと、がてんです」  辰と豆六が墓地へとび出すのを見送って、佐七がもとの六畳へとってかえすと、中年の夫婦ものらしいのが、町役人になにやらひそひそ話をしていた。おなじ長屋のものらしい。  町役人は佐七をみると、 「親分、ちょいと」 「はい」 「ここにいるのは、となりにすむ与次郎にお兼《かね》という夫婦もんで、おとついここへ訪《たず》ねてきたわかい男を見たというのもこのお兼さんなんですが、なにか親分におはなしがございますそうで」 梅の四六九二番   ——お梅のヨロコブとおぼえていて—— 「ああ、そう。それで、与次郎さんにお兼さん、話というのは……?」  実直者らしい与次郎はもじもじしながら、 「合い長屋のことをとやかくいうのはなんですが、おとついの晩おそく、お兼がふろからのかえりがけ、この家からひとつの影が……」 「ひとつの影って……?」 「はい、あの、それが、親分さん」  と、お兼ももみ手をしながら、 「暗がりのことですから、よくわからなかったんですが、まだ若い娘さんのようでした。それがこの家からとび出して、筋向かいの弥《や》平《へい》さんのところへとびこんだんです」 「弥平さんというのは?」 「山下の見《み》世《せ》物《もの》小屋の木戸番をしているじいさんですが、そこにお梅さんという、ことし十八になる娘がございますんです」 「それじゃ、ここからとび出した影は、弥平の娘のお梅だというのかえ」 「そうじゃないかと思います。というのは、おとついの晩、まだ宵《よい》の口のことでしたが、この家の弥平さんと妙見堂さんが、なにやらえろういい争ってるのが聞こえたんです」 「あっ、ちょっと待った。それはお兼さんが見たという男のくるまえのことだね」 「いえ、親分さん、妙見堂さんはその男と、つれだってかえってきたんですよ。はい、山下のお店からのかえりのようでした」 「それじゃ、弥平と妙見堂がいさかいをしているとき、男もここにいたわけだね」 「そうだと思います。そんなに早くかえっていくはずはございませんから」 「ふむ、ふむ。それで、与次郎さん、それからどうしました。話をひとつつづけてください」 「はい、あの……なにやら長いこといい争いをしていましたが、やがて弥平さんが目にいっぱい涙をためてとび出してきたんです。それで、わたしが、どうしたのかと尋《たず》ねると、湯島の富のあたりくじ、しかも一の富、千両のあたりくじを、妙見堂さんにかたりとられたと……」 「なに、一の富のあたりくじ……?」  佐七はぎょっと息をのむ。 「へえ、そうなんです。わたしどもには、くわしい事情はわかりませんが、弥平さんは目にいっぱいくやし涙をためておりました。それですから、お梅ちゃんが夜おそく、この家からとび出したのも、その話できたんじゃないかと……」  佐七はちょっと考えて、 「それで、なにかえ。弥平というのは、人殺しでもしそうなおやじか」 「とんでもございません、親分」  と、町役人が言下にうち消し、 「あれはもうごく正直な、それになかなか世話好きな男で、よくひとの面倒をみていたようです」 「そうです、そうです。親分さん」  と、お兼もその尾について、 「せんだっても、この妙見堂さんが、風《か》邪《ぜ》をひいてねているとき、弥平さんとお梅ちゃんとで、それはそれは親切に面倒をみておりました。それにねえ、親分さん」  と、お兼はちょっと声をおとして、 「お梅ちゃんにはいま、とてもけっこうな縁談がございますんですよ。ほら、広徳寺前に松前屋さんという大きな米屋さんがございますでしょう。あそこの若だんなの、米三郎さんとおっしゃるかたが、お梅ちゃんを見染めなすって……お梅ちゃん、こんなところへおいとくと、掃《は》きだめにつるみたいな器量でございますからね。それに、親孝行で気だてがやさしく、なんでもよくおできになりますからね。松前屋さんのご両親も、すっかりお気に召して、この秋にはおこし入れと、だいたい話がきまってるやさきでございますから、なんぼなんでも人殺しなど……ただ、ちょっと、こんなこともございましたとお耳にいれておけば、またなにかのお役に立つかとおもいまして……」  お兼は立て板に水である。  おおかた、この弁舌をきかせるために、佐七のくるのを手ぐすねひいて待っていたのであろう。 「いや、わかった、わかった、おかみさん、それは親切にありがとう。ところで、親切ついでに、もうひとつ聞かせてもらいたいが、おとついの晩、ここへやってきたという男だがね。若い手代ふうの男とばかりじゃよくわからないが、なにかこう、目《め》印《じるし》になるようなものはなかったかね。ほくろがあるとか、あざがあるとか……」 「ああ、ございました。ございました。そのひと、なかなかいい男なんですよ。色白のね。ところが、右のまゆじりに、うすい傷《きず》跡《あと》がございまして、そのために、ちょっと顔に険《けん》がございましたわね。それがなければ申しぶんのないよい男ぶりなんでございますけれど」 「いや、どうもありがとう。それじゃ、用事があったらまた呼ぶから……」  と、まだしゃべりたりない顔色のお兼と与次郎をそとへ出すと、 「だんな、それじゃここへ、弥平とお梅を呼んでくださいませんか。まさか逃げやアしないでしょうね」 「いや、逃げちゃいない。さっき顔がみえてたようだが……」  町役人に呼ばれて、それからまもなく、妙見堂のおもての間へおずおずとはいってきたのは、六十ちかい白髪のおやじと、まだ十七、八のかわいい娘。なるほど、さっきお兼が、掃きだめにつるといったのもむりはない。  お梅のかがやくばかりの美しさには、佐七も目をみはったくらいである。 「ああ、とっつぁん、わざわざ来てもらってすまなかったが、おまえにちょっと聞きたいことがあるんだ。おとついの晩、おまえここで妙見堂と、富くじのことでなにかいさかいをしたというじゃないか。そりゃどういうんだえ。おまえの口からくわしい話を聞きたいんだが」 「はい、あの……恐れいりました」  と、弥平は実直らしい頭をさげると、 「こんなことなら、もっと早く申し上げればよかったんですが、なにぶんにも、かかりあいになるのを恐れたもんですから……」  と、弥平はちょっと息をいれ、 「おとついの夕刻のことでした。山下の小屋の木戸番をしておりましたわたしは、おんはなしを見たのでございます」  おんはなしというのは、あたりくじを触れあるく、いまの号外のようなものである。 「するとなんと、一の富にわたしの持ち札があたっているじゃございませんか」 「ふむ、ふむ。それで……?」 「わたしはすぐにもかえりたかったんですが、なにぶんにも木戸番の代わりをするものがございませんから、小屋のはねるまで辛《しん》抱《ぼう》しておりました。そして、小屋をしまうとそうそうにかえってきて、ここへまいったのでございます」 「ここへ来た? ここへ来たというのは、どういうわけだ」 「はい、あの、それはかようで……わたくしその富札を、まくらびょうぶにはっておいたのでございますが、せんだって、妙見堂さんが風邪をひかれたとき、そのまくらびょうぶをかしてあげて、そのままになっておりましたので、それを取りもどしにまいったのでございます」 「ああ、なるほど。それを妙見堂がかえさぬというのか」 「いえ、さようではございません。びょうぶは素直にかえしてくれましたが、うちへかえって富札をはがそうとすると、番号がちがっているじゃございませんか。わたしもうびっくりしました。しかも、よくよく見ると、その富札、のりもまだなまがわきで、いまはったばかりのもようなんで……」 「つまり、おまえのはっておいたあたりくじをひっぺがえして、そのあとへべつの富札をはっておいたというんだな」 「へえへえ、そうとしか思えません。それで、わたくし妙見堂さんに、札をかえしてくださいと、ここへお願いにあがったんです。そうすると、妙見堂さんは、それはおまえさんのおぼえちがいであろう。たった一番の番号ちがいだから、おまえさん、間違っておぼえていたんだろうとおっしゃるんで……」 「おまえの番号は……?」 「梅の四千六百九十二番で、わたしはそれを、お梅のヨロコブとおぼえておりましたので、けっして間違いはございません」 「お梅のヨロコブか。なるほど」  佐七はわらって、 「すると、それと一番ちがいの札といえば、四千六百九十一番かえ」 「いいえ、四千六百九十三番でございます」  佐七はおもわず目をみはった。  梅の四千六百九十三番といえば、三《み》日《か》月《づき》茶屋のお富が持っていたはずではないか。 「とっつぁん、そりゃほんとうか。間違いじゃあるまいな」 「いいえ、間違いじゃございません。その札とってございますから、なんならあとでお目にかけましょう」 「よし、見せてもらおう。それからどうした」 「どうしたといって、妙見堂さんに白《しら》をきられると、けっきょく水かけ論でございます。だれもわたしの富札の番号をしってるかたはございません。一番ちがいに血迷ったのだろうとののしられて、泣く泣くここをひきさがりましたようなわけで……」  弥平はいまさらのように、くやし涙をそででぬぐう。  なるほど、弥平のはなしが事実とすれば、くやしがるのもむりはない。そして、そのくやしさのあまり、ひょっとすると、無《む》分《ふん》別《べつ》なまねをしたのではあるまいか……。  佐七はふびんそうな視線を弥平にむけ、 「ときに、とっつぁん、そのときここに若い男がいたはずだが、おまえそいつを知らないかえ」 「いいえ、親分」  弥平はけげんそうな目をあげて、 「ここにはどなたもいらっしゃいませんでしたよ。妙見堂さんがひとりで酒をのんでいらっしゃいましたので……」  佐七はふとまゆをひそめる。  お兼のはなしによると、その男は妙見堂とつれだってかえってきたというのだが、それでは弥平のくるまえにひきあげたのか。それとも、なにかわけがあって、どこかにかくれていたのではあるまいか。かくれたとすれば、どういうわけか……。  佐七の胸はあやしく乱れた。 「それで、とっつぁん、おまえその後、妙見堂に会わなかったかえ」 「いいえ、いちども……」 「ひょっとすると、あたりくじをうばわれたくやしさに、ここへ忍んできて、妙見堂をぐっとひと絞《し》めやったんじゃねえのか」 「と、とんでもございません。そんなこと……」 「それじゃ、なぜあの晩おそく、お梅がこの家からとび出したんだ」  そのしゅんかん、弥平とお梅はまっさおになり、たがいに顔を見合わせてふるえていたが、やがてお梅がくずれるように手をついた。 「親分さん、申し訳ございません。あのときすぐに長屋のみなさんにおしらせすればよかったのでございますが、父さんが、かかりあいになっちゃいけないとおっしゃって……」 「親分、親分、お梅にはなんのとがもございません。わたしがあんまりくやしがるもんですから、もういちど、妙見堂さんに頼んでみようと、ここへやってきたところが……」 「ここへやってきたところが……? お梅、おまえの口から聞きてえ。どうしたんだ」 「はい、妙見堂さんは寝床のなかで、首にしごきをまきつけて……」  それを聞くと、佐七はギョッと町役人と顔見合わせた。 「そ、それじゃ、そのとき妙見堂は、寝床のなかで殺されて、死体はそのまんまにしてあったんだな」 「は、はい……あまりの恐ろしさに、わたしはすぐにここをとび出しました。そして、うちへかえってその話を父さんにしますと、嫁入りまえのだいじな体、かかりあいになってはいけないからとおっしゃって、きょうまで黙っていたのでございます」 「親分さん、お梅をだまらせたのはこのわたくし、それが悪ければわたしを縛《しば》ってください。お梅には縁談がきまっております。むこうさまで支《し》度《たく》万《ばん》端《たん》してくださろうとおっしゃいますが、それではお梅の肩身がせまかろうと、苦しいときの神頼み、富くじを買ったところが、その番号がお梅のヨロコブ、こいつは縁《えん》起《ぎ》がいいと思っていたのに、あべこべにこんなことになってしまって、わたしゃくやしいやら、悲しいやら……」  弥平が白《しら》髪《が》頭《あたま》をかきむしってなげくのももっともだった。  そこへ、辰と豆六がかえってきた。裏の墓地は、たしかにちかごろ、だれかとおった跡《あと》があるが、これという証《しよう》拠《こ》も見つからぬという。  それからまもなく、佐七は弥平から、梅の四千六百九十三番をあずかって、車坂の長屋をでた。  弥平とお梅は、当分町内あずけである。 まゆに傷のある男   ——まんまと千両持って逃げられた—— 「あっはっは、お富、いつ見てもあでやかなことだな」 「あら、いらっしゃい、親分さん。いやですよ、会うとそうそうおからかいなすっちゃ……」  片だすきに赤前垂れという茶くみ女のユニフォーム、湯島境《けい》内《だい》三日月茶屋のお富は、さすが評判女だけあって、歌《うた》麿《まろ》えがくとでもいいそうな、すがたのよい女である。 「まあ、いやな兄さん、辰《たつ》つぁんも豆六さんも、なんでそんなにじろじろわたしの顔をごらんになるの。わたしの顔になにかついてて?」 「あっはっは、お富ちゃん、このあいだはご愁《しゆう》傷《しよう》さまだったね」 「あら、辰つぁん、それなんのこと?」 「白ばっくれちゃいけない。おまえたった一番ちがいで、千両の富をとりそこなったというじゃないか」 「ああ、そのこと……その話ならもうよしてください。わたしやっと、あきらめがつきかけているんですから。あのときは、ほんとにくやしいっちゃなかったわ」 「そらそうやろな。一番ちがいで瀬川三《さん》之《の》丞《じよう》を買いそこのうたんやさかいな」 「あら、おっほっほ、ねえさんからお聞きになったのね。あれは冗《じよう》談《だん》だけど……」  と、お富もさすがにほおをそめて、 「でもねえ、親分、女だてらにお金の力で男を自由にしようというのは間違ってるわね。そんな心掛けだから外《はず》れたんだと、わたしはもうあきらめてますのよ。それよりも、わたしのおもいであのひとを……」 「きっと射《い》落《お》としてみせまするか。あっはっは、こりゃそうとうの熱だな」  と、佐七はわらっていたが、急に思い出したように、 「ときに、お富、一の富のあたり番号と一番ちがいだということだが、するとおまえの持ってた札は、梅の四千六百九十一番かえ」 「いいえ、九十三番でございました」  なにげなくいってのけるお富のことばに、佐七はギョッと辰や豆六と顔見合わせる。  富札におなじ番号が二枚あるべきはずはない。しかも、梅の四千六百九十三番は、いま佐七のふところにある。 「それで、お富、おまえその富札をどうした。破ってすてたか」 「ああ、そうそう、親分さん、それについて妙なはなしがございますのよ。わたしなんだか気になって仕方がないんです。きいてください。こうなんです」  と、お富はひざをのりだして、 「お宅のおかみさんにわかれてから間もなくのことなんです。妙な男がわたしの肩をたたいて、その札を二分で売ってくれというんです」 「その札を売ってくれ? くじはずれの札を買ってどうするんだ」  きんちゃくの辰が目をまるくした。 「ええ、そう。だから、わたしも、いま辰つぁんがいったようにきいたんです。そしたら、あたりくじにすこしでもちかい札を持っていたら、このつぎはほんとにあたるかもしれないと、真顔になっていうんです。わたしあんまりバカバカしいから、そんなに欲しけりゃあげましょうと、ただでくれてやったんですが、あとになってみると、なんだか気になって……あれ、どういうんでしょうね……」 「そして、お富、そいつはいったい、どういう男だ」  佐七はおもわず身をのりだした。 「どういう男って、わたしもはじめて会った男ですからよくわかりませんが、どこかのお店《たな》者《もの》でしょうねえ。二十四、五か、五、六……そんな年ごろでしょう。色白のちょっといい男で、そうそう、右のまゆじりに、うすい傷跡のようなものがあったわねえ」  佐七はギョッと辰や豆六と顔見合わせると、 「お富、ちょっとみてくれ。おまえがその男にくれてやった札というのは、これじゃねえか」  佐七がとりだした梅の四千六百九十三番を見ると、お富ははっと目をみはり、それから、みるみる顔色をくもらせた。 「親分、いやだわ。なにかあったんですの。わたし、かかりあいになっちゃ困るわ」  現今でもそうだが、その時代には、とくにかかりあいになるということを恐れたものである。 「なあに、大丈夫だ。おまえは札をくれてやっただけのことだから……ちょっと見てくれ」 「は、はい……」  お富は気味悪そうに札をとって裏をかえすと、そこにくっついている紙を見て、 「あら、これ、なにかにはりつけたのかしら」  と、日にすかしてみて、 「ああ、親分さん、これです、これです。ほら、ここにおとみと、紅《べに》筆《ふで》で書いてあるでしょう」  びょうぶからひっぺがすとき、びょうぶの上紙がやぶれてくっついたので、いままで佐七も気がつかなかったが、なるほど、透《す》かしてみると、おとみという字がぼんやりみえる。 「ああ、お富、ありがとう。よくいってくれた。これでだいたい話はわかった」 「親分さん、話というのは……?」 「いまに知れよう。だが、気にすることはねえ。おまえをかかりあいにするようなことはねえから安心しろ」  三日月茶屋をとび出すと、佐七はすぐその足で、富くじがかりのところへいってみた。 「ああ、一の富ですか。あれはきのうの朝はやく、あたりくじを持って、受取人がやってきたので、渡しました」  世話人の話をきいて、佐七はしまったとくちびるをかむ。 「それで、その受取人というのは……?」 「さあ、どこかのお店《たな》者《もの》でしょうね。名前は聞いてくれるな。ひとにたかられると困るからと申しまして……なにかご不《ふ》審《しん》の点でも……」 「いえ、あの、ちょっと……それで、そいつは右のまゆじりに傷跡がある男じゃございませんでしたか」 「ああ、そうそう、よくご存じですね」 「それで、そいつはひとりでしたか。ひとりで千両運ぶというのは……」 「いいえ、つれがふたりありましたね。男と女で……どちらも頭《ず》巾《きん》で顔をかくしておりましたから、どういうひとかわかりませんが、その三人でわけて持っていきました。千両といっても、いろいろさっぴかれますから、七百両とちょっとでございますけれど……」  こうして、右のまゆじりに傷跡のある男は、まんまと一の富をうばって逃げたのである。 落ち葉の死体   ——さあ、わからなくなってきた—— 「そうすると、親分、こりゃこういうことになるんですね。まゆに傷のある男は、一の富のあたりくじが披《ひ》露《ろう》されたとき、すぐその富札なら妙見堂のびょうぶにはってあることを思い出したんですね」 「そやそや、梅のヨロコブでおぼえやすかったんやな」 「おまけに、そのびょうぶが借りものだということを知っていたから、なんとかごまかして、まきあげるくふうはないかと思案をしているところへ、お富が一番ちがいの札を持っているとしって、それをまきあげていったんですね」 「ふむ、そういうことになるようだな。それから、そいつは、その足で、山下の妙見堂の店へよってわけを話した。妙見堂もわるいやつだから、それに同意して、いっしょにつれだって車坂の家へかえると、あたりくじをひっぺがし、そのあとへお富の札をはっておいたんだな」 「そやそや、おまけに、そいつはそのときもう妙見堂を殺す腹やったさかいに、弥平がやってきたとき、見られたらめんどうやと、押し入れかなんかのなかにかくれていよったにちがいおまへん」 「そうだ、そうだ、そして、妙見堂がしゅびよく弥平をおっぱらったあとで、前祝いとかなんとかいって、妙見堂に酒を買ってこさせ、ふたりで一升倒したあとで、いっしょに寝やアがった。そうしてあいてにゆだんをさせ、妙見堂がうれしがって夢中になっているところをぐいとひと絞めころして、まんまと、一の富のあたりくじを持って逃げたんですね」 「そやそや、そやさかい、親分、お梅が妙見堂の家へいったとき、そいつはまだあの家にいよったにちがいおまへん。そして、お梅がたちさるのんを待って、死体を押し入れへつっこみよったんや」 「しかし、豆六、そりゃまたなぜに……」 「そら、親分、わかってますがな。千両受け取るまでは騒《さわ》がれたらこまると……」 「騒がれたらこまるといって、お梅は死体を見ているんだぜ。お梅が騒がなかったからよかったものの、下《げ》手《しゆ》人《にん》にそんな度胸はあるまいよ」 「ほんに、そういやアそうですね」  辰もちょっと小首をかしげたが、 「しかし、親分、どっちにしても、下手人はまゆに傷のある男にちがいねえ。げんに、きのう富を受け取っているんですから」  妙見堂梅《ばい》枝《し》の死体を押し入れのなかへ突っこんでいったことについては、佐七もちょっとふにおちなかったが、その他の点では、辰や豆六と同意見だった。 「よし、それじゃ、その男を洗ってみろ。ひょっとすると、そいつ、ただのお店者じゃアねえかもしれねえ」  佐七のカンはあたっていた。  まゆに傷のある男というのは、札つきの入れ墨《ずみ》者《もの》で、業《なり》平《ひら》紋《もん》三《ぞう》という悪党らしかった。  そいつなら、としはもう三十を出ているはずだが、業平というあだ名があるくらいちょっとした男前で、二十四、五に見えないことはない。  それに、右のまゆじりに傷のあるところといい、いつもお店者に化けていたところといい、湯島で富突きがあった日から、だれもそいつの姿を見たものがないというところからみても、妙見堂梅枝を殺して、千両の富をうばったのは、てっきりそいつとあたりがついた。  しかし、あたりがついただけではなんにもならない。当人をつかまえなければ話にならぬが、どこへどうもぐったのか、業平紋三のゆくえはもとより、紋三といっしょに千両の富をうけとりにいったという男と女がどういうやつか、それもかいもくわからなかった。  こうして、佐七のいらだちのうちに、三日とすぎ、五日とたったが、すると、ある日、外出をしていた女房のお粂《くめ》が、妙ににやにやしながらかえってくると、 「ちょいと、おまえさん、三《み》日《か》月《づき》屋のお富ちゃんね」 「ふむ。お富がどうした」 「あの娘、とうとうおもいをとげたらしいわよ。さっき池《いけ》の端《はた》をとおりかかると、役者らしい男ともつれるようにして、出会い茶屋へはいっていくのがみえたが、あれがきっと瀬川三《さん》之《の》丞《じよう》という役者にちがいない」 「それがどうした。おまえうらやましいのか」  捜《そう》査《さ》がうまくはかどらないので、佐七も中《ちゆう》っ腹《ぱら》なのである。おもわず毒づくと、お粂はわらって、 「なにをいってるんだねえ。ただ、お富ちゃんのすご腕に感心してるのさ。うわさによると、瀬川三之丞という役者、じぶんはけっして色には迷わぬ。欲いっぽうだ。じぶんをなんとかしようと思うなら、金を山とつんでこいといってるそうじゃないか。なんでも、昨年もお静というどこかの矢取り女が、さんざん三之丞にみついだあげく、板場かせぎまではたらいて御用になって伝《てん》馬《ま》町《ちよう》入り、さいわいお慈《じ》悲《ひ》がかかって、半月ほどで出てきたのはよかったが、金の切れ目が縁の切れ目、三之丞がはなもひっかけないもんだから、くやしがって、大川に身投げをしたというはなしがある。そんな男を射落としたんだから、お富ちゃんもたいしたもんじゃないか。それとも、お富ちゃん、どこかで金を手にいれたのかしら」 「つまらねえこと気にするない。お富のことなぞ知ったことかい」  佐七がむかっ腹を立てているところへ、 「親分、えらいこっちゃ、えらいこっちゃ。はよきとくれやす。妙見堂の裏の墓地から、またひとつ死体がでてきよった」  と、キリキリ舞いをしながらとびこんだのは豆六だ。 「なに? 死体が出てきた。そ、そして、そいつはいったいだれだ」 「なんでもええさかい、はよ来とくれやす。むこうに兄いが待ってます。ひとめ見たらわかるがな」 「よし」  と豆六の案内で、蓮《れん》光《こう》院《いん》の墓地へかけつけた佐七は、ひとめ死体をみると、おもわずあっと目をみはった。 「親分、そいつの右のまゆじりをごらんなせえ。うっすら傷跡がありますぜ」  辰の注意をうけるまでもなく、佐七もそれに気がついていた。  お店《たな》者《もの》ふうのつくりといい、この死体こそ、このあいだからやっきとなって探していた業平紋三にちがいない。 「辰、こ、この死体はどうしたんだ」 「そこにある落ち葉だめの底から、野《の》良《ら》犬《いぬ》がくわえ出したんです。親分、この死体のくさりかたからみると、紋三もあの晩、梅枝がころされたとおなじ晩に殺されたんじゃありますまいか」  紋三も細ひものようなもので、絞めころされているのである。  佐七はおもわずううむとうなったが、そのとたん思い出したのは、いましがた家を出がけにお粂からきいたことばだ。 「うわさによると、瀬川三之丞という役者、色には迷わぬ欲いっぽうだ。おれをなんとかしようと思うんなら、金を山とつんでこいといってるそうだが、お富ちゃん、どっかでお金を手にいれたのかしら……」  佐七ははっと夢からさめたように、 「豆六」 「へ、へえ」 「てめえはこれから湯島へいって、千両の富を手渡した世話人をここへつれてこい。それから、辰」 「へえ、へえ、あっしの役回りはなんですい?」 「三日月茶屋のお富をおさえろ。あいつがなにかしってるにちげえねえ」 「おっと合《がつ》点《てん》だ」  しかし、それからまもなく駆けつけてきた湯島の富の世話人にみせると、落ち葉だめから出てきた死体と、一の富をうけとりにきた男とは、右のまゆじりに傷跡がある以外、似てもにつかぬ別人だという。  しかも、落ち葉だめのなかから出てきた死体こそ、妙見堂のもとへ出入りしていたお店者、そのじつ業平紋三にちがいないという生き証人がたくさん現われるにおよんで、佐七はぼうぜん自失のてい。  お富はそれきりゆくえがわからない。 道行き鈴ガ森   ——まだ三百両はございましょう—— 「もし、太夫《 た ゆ う》さん、そんなに急がなくてもいいじゃありませんか。わたしゃ足に豆ができて、もう一歩もあるけやしない」 「ああ、そう。それじゃここらで一服しましょう。さいわい、あたりにひともなし」 「えっ?」 「いやさ、落《お》ち人《うど》にひとめは禁《きん》物《もつ》ですからねえ」 「もし、太夫さん、ここはいったいどこですの。ずいぶんさびしい場所ですね」 「そりゃさびしいもあたりまえ。すぐむこうが、鈴ガ森のお仕置き場ですから」 「あれッ!」  と、男の胸にすがりついたのは、三《み》日《か》月《づき》茶屋のお富である。こういえば、あいてがだれだかわかるだろう。色にゃころばぬ、じぶんがほしけりゃ金持ってこいと放言している瀬川三之丞。  ふたりとも旅ごしらえである。  夜はもうよほど更《ふ》けて、鈴ガ森の松並木を吹く風がものすごい。おりから五月雨《さみだれ》時《どき》のひくく垂れこめた空から、いまにも雨が落ちてきそう。どこかで犬の遠ぼえがするのもきみわるい。 「太夫さん、太夫さん、はやくここを通りぬけましょう。わたしゃこんな怖《こわ》いところはいや」 「まあ、いいやね。おまえさん、足に豆ができて、一歩もあるけぬといったじゃないか。まあ、ゆっくりと休んでいこうよ」 「だって、太夫さん」  お富はさぐるようにあいての顔を見ながら、あおい顔をしてふるえている。  瀬川三之丞、なるほどうわきな女が血道をあげるだけあっていい男だ。しかし、涼やかなその目つきの底には、へびのようなつめたさと、残忍さがひめられている。 「ときに、お富さん、おまえ、あのとき山分けにした金をそこにお持ちかえ」 「は、はい……だいぶおまえにみついだので、残りすくなになっているけど、まだ三百両はございましょう」 「その金こっちへおよこしなさいよ。いえさ、金を身につけてると体が冷える。女はひえるのがいちばん毒だからねえ。うっふっふ」  気《き》味《み》のわるい笑いかただ。お富はそっとあいての顔をのぞいて、 「太夫さん、おまえあたしの金をまきあげて、どうしようというの」 「べつにどうもしないけど、冷えるといけないと思ったからさ」 「いいえ、いいえ、そうじゃない。おまえはわたしを殺す気なんだ。はじめからそのつもりで、わたしをここまで連れ出したんだ」 「これ、お富」 「いいえ、わたしはしっている。お金とくるとおまえは目のないひとなんです。業平紋三の身代わりをつとめて千両の富をうけとったおまえの仲間の雁《がん》八《ぱち》さんも、おまえに殺されたにちがいない。わたしゃなにもかも知っている」 「ええい、それしられたからは……」  ふところに秘《ひ》めた匕《あい》首《くち》を、抜く手もみせずに突いてでた三之丞の鋒《ほこ》先《さき》を、お富はひらりとかわしてとびのくと、 「おっほっほ、太夫さん、おまえもよっぽどとんまだね。さっきから、お玉が池の親分さんがかけつけてきて、そこで聞いていなさるのを知らないのかえ」 「な、な、なんだと?」  これには三之丞もおどろいたが、すこしはなれた暗がりにひそんでいた佐七をはじめ、辰や豆六も、どぎもを抜かれた。 「おお、お富、それじゃおまえ知っていたのか。三之丞、逃げるか!」  その一《いつ》喝《かつ》に、くたくたと、骨をぬかれたようにへたった三之丞に、 「瀬川三之丞、御用だ!」  と、辰と豆六がおどりかかっていた。お富はそれを小《こ》気《き》味《み》よげに見やりながら、 「親分さん、お手《て》数《かず》をかけてすみません。わたしは逃げもかくれもいたしませぬ。にくいにくい三之丞を、死出のみちづれにすることができるんですから、もうこれで本《ほん》望《もう》です」  佐七はあきれて、お富の顔を見なおした。 「お富、おまえはこの三之丞をにくんでいたのか」 「はい、にくんでいました。金のためには女の心をちりあくたのように踏みにじる男、こいつは女のかたきでございます。去年もこいつのためにお静という娘《こ》が、骨の髄《ずい》までしゃぶられたあげく、かわいそうになわ目の恥までうけ、大川に身投げをしたことがございます」 「あっ!」  と、佐七は心のなかで叫んで、 「お富、おまえはお静という娘をしっているのか」 「お静は……お静はわたしのかわいい、たったひとりの妹でございました」 「あっ!」  と、さけんだ三之丞、みるみる顔が土色になる。  佐七は佐七で、お粂《くめ》のやつ、さてはこんどの一件の真相を見破っていやアがったんだなと、心のなかで舌打ちしている。 「わたしにとってはこの男、八《や》つ裂《ざ》きにしてもあきたらぬやつでございます。業平紋三とやらを手にかけたのは悪うございますが、あいつも妙見堂さんを殺して、千両の富をひとりじめにしようとしたわるいやつ、どうせ畳のうえでは往《おう》生《じよう》できぬ身と、わたしがひと絞め、引《いん》導《どう》をわたしてやりました。そのかわり、親分さん」  お富は世にも凄《せい》艶《えん》な笑《え》みをうかべ、 「わたしはずいぶん面《おも》白《しろ》い思いをさせてもらいましたよ。こいつは金のためなら、どんなあさましいことでもするけだもの。犬かねこかをあつかうように、さんざんこいつの体をおもちゃにしたあげく、冥《めい》途《ど》の旅までさせるんだから、わたしゃ思いのこすことはございません。これ、三之丞、かわいそうだが、どこまでもおまえを抱いていくから覚悟をおし」  意《い》気《く》地《じ》のないのは三之丞で、にくしみにみちたお富のことばに、もうなかば放心したような顔色だった。  うの花くたしといわれる雨が、どうやら本降りになってきたようだ。 卍《まんじ》 巴《ともえ》 色と欲   ——梅枝は卦《け》を読みそこなったんだ——  この事件のさいしょの立案者は、業《なり》平《ひら》紋《もん》三《ぞう》だった。  妙見堂のうちのまくらびょうぶにはってある富札が、一の富を突きあてたとしってからまもなく、お富が一番ちがいの富札をもっていることをはからずしった業平紋三は、ここに悪法を思いついた。  そこで、ことばたくみにお富をあざむき、からくじをまきあげると、そのあしで上野の山下で店をはっている妙見堂のところへかけつけると、わけをはなして店を早じまいさせ、ふたりつれだって、下《した》谷《や》車坂の妙見堂の長屋へかえった。  紋三もあのまくらびょうぶがかりものであることを、妙見堂にきいてしっていたのだろう。そこで、てばやく本《ほん》物《もの》と偽《にせ》物《もの》とをはりかえてしまった。  だから、弥平がびょうぶをとりもどしにきたときも、それから偽物にすりかえられていると気がついて、血《けつ》相《そう》かえて談じこんできたときも、紋三はうちのなかにいたはずだが、弥平にすがたを見せなかったのは、そのときすでに妙見堂を殺して、千両の富をひとりじめにするつもりだったのだろう。  だから、妙見堂をしめころして、一の富のあたりくじをうばって、裏木戸から外へぬけだしたところまでは、ばんじ紋三の計画どおりにいったのである。  ところが、そのあとで運命の駒《こま》がくるってきた。  からくじを買おうという紋三の挙動をあやしんで、あとをつけていったお富は、妙見堂の裏木戸からしのびこんで、かれらの悪だくみをのこらずきいた。  それのみならず、妙見堂と紋三がはだかのままで抱きあって、上になり、下になり、痴《ち》態《たい》のかぎりをつくすのをのぞき見させられては、お富の血もくるわずにはいられなかった。  妙見堂もわるい女だが、まさかあいてがじぶんを殺そうとしているとまでは気がつかなかったろう。さりとて、十六、七の娘ではあるまいし、まんまとあいての手にのって、とうとう無我夢中にされてしまうまでには、男はそうとうあの手この手と、えげつない手を使ったにちがいない。  そういういちぶしじゅうを見てしまったお富は、男にたいする憎《ぞう》悪《お》の念をいっそうつのらせたにちがいない。  まんまと妙見堂をしめころした紋三が、しすましたりと裏木戸からこっそり出てくるところを、こんどはお富が商売もののたすきでしめころした。因《いん》果《が》応《おう》報《ほう》とはこのことだろうか。  さて、こうしてまんまと首《しゆ》尾《び》よく、梅の四千六百九十二番をうばって逃げたお富は、その足で瀬川三之丞を訪れると、いまじぶんのやってきたことをつつまず打ち明け、あたりくじをえさに三之丞をくどいた。  お富はおそらくこの一瞬に、じぶんの運命をかけたのだろう。妹の復《ふく》讐《しゆう》がなるかならぬか、じぶんの命をかけて惜しまなかったのだろう。  欲に目のない三之丞は、このかけに負けた。まんまとお富の誘いにのったのである。  そればかりではなく、悪知恵にかけてはひといちばいの三之丞は、死《し》骸《がい》をそのままにしておいては千両受け取るさまたげになるやもしれぬと、ばくちなかまの雁《がん》八《ぱち》をやって、妙見堂や紋三の死体をかくさせ、翌日、雁八を紋三にしたてて、千両受けとりにいったのである。  こういう話にのるくらいだから、雁八というやつもあんまり利《り》口《こう》とはいいかねたが、のっぺりとした、ちょっとふめるご面相のところへ、三之丞が商売柄、お富にきいたとおり、右のまゆじりの傷跡をつくっておいたのである。  この雁八は、のちに三之丞に殺されて、隅《すみ》田《だ》川《がわ》へ沈められたらしい。  いや、そろいもそろって悪いやつばかりだが、当時の千両といえば、現今の千万円くらいだろうから、これくらいの悪法をかくやつがいても、ふしぎはないかもしれぬ。  三之丞は江戸を立ちのくつもりはなく、お富をころして金をまきあげ、江戸へもどってすずしい顔をしているつもりだったから、雁八やお富からまきあげた金はほとんど手つかずで、自宅の床の下に埋めてあった。  それらの金は、ぶじに弥平の手にもどり、お梅もりっぱな支度ができて、めでたくその秋、松前屋の米三郎と祝《しゆう》言《げん》したという。  これでお梅のヨロコブという弥平の八《はつ》卦《け》はあたったようだが、あたらなかったのは妙見堂の八卦で、易者じぶんの身知らずというが、色と欲にこりかたまった妙見堂梅枝、どうやら、じぶんの卦《け》を読みそこなったらしい。 「それにしても、お粂」  と、一件落《らく》着《ちやく》ののち、佐七はお粂をふりかえり、 「おまえにゃかぶとをぬいだぜ。おまえ、こんどの一件で、どのていどまでしっていたんだ」 「あら、まあ、わたしがなにをしるもんかね」 「だって、あねさん、おまえさん三之丞というやつが金に目のねえやつだってこと、ちゃんとしってたというじゃアありませんか」 「そやそや。それに、お静ちゅう娘の身投げの一件もやな。おぼえておいでやす。ようわてらを出しぬきやはったな」 「あらまあ、たいへん」  お粂はちょっと沈んだ目の色をして、 「わたしゃお富ちゃんてえひとの気《き》性《しよう》を、わりによく知っていただけのことなのさ」 「お富の気性というと……」 「あのひとは商売柄、口でははすっぱなこといってるけれど、根はしっかりとした娘だと思っていたのさ。けっして役者狂いなどするひとじゃアないとね。そのお富ちゃんと三之丞が、もつれるように出会い茶屋へはいるのをみたとき、ハッと思い出したのが、お富ちゃんのもっていたからくじが、こんどの一件に一役買っているって話。そこで、わたしはわたしなりに、三之丞のことについて聞きあわせてみたのさ。そしたら、お金の亡者みたいなやつだというし、それに去年身投げしたお静という娘《こ》のあわれな話……そこはわたしも女だもの、つい身につまされたんだけど、まさかその娘がお富ちゃんの妹だったとはねえ」  お粂はしんみりあごをえりにうずめていたが、きゅうに心配そうな目をあげると、 「お富ちゃんはどうなるの。まさか、死罪にゃなるまいねえ」 「そこはお上《かみ》にもお慈《じ》悲《ひ》というものがあらあな。殺された紋三のやつが、どうせお仕置きもんだからな」  佐七もしんみりいったが、そこできゅうに気をかえるように、 「それにしても、ひとの人相をたしかめるということは、やさしいようでむつかしいもんだ。あの場合、右のまゆじりに傷跡があるというたしかな目印があるだけに、かえってだまされてしまったんだ。傷跡なんかつくろうと思やアいくらでもつくれる。ことに、役者が一枚かんでいるんだからな。いや、よく気をつけなきゃアと思ったよ」  佐七はこうして、いつも反省を忘れないのである。 うかれ坊主 お化け早《はや》桶《おけ》   ——片棒をかつぐ夕ベのふぐ仲間—— 「親分はうかれ坊《ぼう》主《ず》の死んだのをご存じですかえ」  と、こう切り出したのは、きんちゃくの辰《たつ》の伯《お》母《ば》さんで、お源という女である。  季節はもう十一月の声をきいて、お玉《たま》が池《いけ》のせまい庭に、佐七が丹《たん》精《せい》こめた黄菊白菊も、日いちにちと、霜枯れていく朝な朝なであった。  お源は両国の小屋掛けしばいで、下《げ》座《ざ》の三《しや》味《み》線《せん》をひいている女だが、そこは辰の伯母さんだけあって、地《じ》獄《ごく》耳《みみ》をもっている。  いろんな聞き込みをしては、佐七のところへ持ってくるが、佐七もこの女の情報には、信用をおいているのである。 「おや、あのうかれ坊主が死んだかい」 「はい。ところが、それがおかしいので、死んだのか、生きてるのか、はっきりしないんです」 「なにをいってるんだ、お源さん。おまえいま、死んだといったじゃないか」 「はい、死んだことは死んだんです。ところが、そのあとがおかしいんで。親分、聞いてください、こういうわけで……」  と、なんだかおもしろそうな話なので、となりのへやでなまあくびをかみころしていた辰と豆六も、のこのこ出てきて謹《きん》聴《ちよう》する。 「うかれ坊主は相《あい》生《おい》町《ちよう》の、金《きん》兵《べ》衛《え》さんの長屋に住んでるんですが、おとといの晩、ふぐを買ってきて、長屋の衆といっぱい飲んだところが、きのうの朝、何《なん》刻《どき》になっても、表戸があかないんです。そこで、長屋の衆がのぞいてみると、つめたくなって死んでたそうです」 「すると、伯母さん、うかれ坊主はふぐにあたって死んだのかい」 「そうらしいんだよ、辰。いっしょに食べたほかのひとはなんともなかったのに、これもやっぱり寿命だろうね」 「あっはっは、ふぐにあたって死ぬとは、いかにもうかれ坊主らしいな」  たとえあいてが何者にもせよ、人間ひとり死ぬということは、厳粛な事実でなければならぬ。  笑ってすませることではない。  佐七もそれくらいの心《こころ》得《え》のない男ではなかったが、あいてがあいてだけに、ついおかしさがこみあげた。  うかれ坊主というのは、そのころ江戸の名物男であった。  いがぐり頭に赤いふんどし、夏でも冬でも、素はだに紺《こん》のはっぴの着流しで、帯もしめない。  そういうすがたで町から町へと、踊りながら、飴《あめ》を売ってあるくのである。  物売りというと、いかにもうろんらしいが、うかれ坊主にかぎって、そうではなかった。  うかれ坊主は大《だい》兵《ひよう》肥満の大男で、げじげじのように太いまゆに、無《ぶ》精《しよう》ひげこそはやしているが、いつも身ぎれいにして、ひとに不快の念を、あたえるようなことはない。  それに、だいいち、大兵肥満のそのからだにあいきょうがある。  飴が売れても売れなくても、陽気にひとさし踊ってみせる。  即興の歌に即興の振りだが、いかにもたのしそうだから、踊りのうまいまずいは、問題にならない。  買ってくれないからといって、悪《あく》態《たい》をつくようなこともなく、踊ってさえいれば、楽しいというふうだから、ひとにかわいがられた。  としは四十前後だろう。  物売りにしては人がらがいいので、もとは、由《ゆい》緒《しよ》あるものにちがいないというひょうばんだが、だれも前身を知るものはない。  一説によると、女《によ》犯《ぼん》のために寺を追われた坊主だというが、あるいはそんなところかもしれぬ。  名まえは風《ふう》羅《ら》坊《ぼう》艮《こん》斎《さい》。  さて、お源の話をつづけると——。 「これには長屋の衆もおどろきましたが、なにしろ身よりのない、ひとりもののことですから、だれもあと始末をするものがない。けっきょく、長屋の衆があつまってお弔《とむら》いを出すことになりましたが、あいつはまあ、だれにでもかわいがられるやつですから、長屋の衆もいやな顔もせず、ゆうべお通《つ》夜《や》をして、けさはやく、さしにないで、早《はや》桶《おけ》をかつぎだしたんです」  その早桶をかつぐ役にあたったのが、おなじ長屋にすむかごかきの権《ごん》三《ざ》と助十。片《かた》棒《ぼう》をかつぐゆうべのふぐ仲間で、しかたがないとはいうものの、ふたりはまことにおくびょう者だった。  おまけに、月番としてただひとり、付き添っていく利《り》兵《へ》衛《え》というのが、これまた、ふたりに輪をかけたようなおくびょう者。  しかも、夜明けまえに、小《こ》塚《づか》っ原《ぱら》の焼き場へかつぎこもうというので、長屋を出たのが七ツ(四時)ごろ、まだまっくらな時刻だから、三人のおくびょう者は、はじめから、おっかなびっくりだった。 「それでもまあ、こわいのをがまんして、やっと小塚っ原のおしおき場、あの大地蔵の前までくると、早桶のなかから、おいおいという声が聞こえたというんです」 「ほほう、そいつはおもしろいな」 「いえ、もう、三人にとっては、おもしろいどころではございません。腰をぬかしそうになっているところへ、こんどははっきり、うかれ坊主の声で、おれをどこへつれていくんだい……」 「はっはっは、いよいよ出たな」 「そうなんです。そら、出たというわけで、三人はなにもかもおっぽりだして、長屋へとんでかえると、これこれこうだと話をしたが、だれもほんとにするものはありません。早桶をかつぐのがこわいから、そんなことをいうんだろうと、はじめはあいてにしなかったんですが、三人が、あまりにいうもんだから、とにかく行ってみようということになり、大《おお》家《や》の金兵衛さんと、威勢のいいのが二、三人、いっしょになって行ってみたところが……」 「なにかあったのかい」 「いえ、べつに……さいわいだれにも拾われず、早桶はもとのところにありましたそうで」 「あたりまえやがな、伯母さん、だれが早桶なんど拾っていきますかいな」 「ほ、ほ、ほ。それでみんなして、外から早桶にむかって呼んでみたが、べつに返事もございません。それみろ、なんにもいわないじゃないか、おまえたち、きつねにからかわれたんだろうというわけで、権三と助十が、またかついでいくことになりました。ところが、しばらくいくと、ふたりがおかしいというんです」 「なにが……」 「ご存じのとおり、うかれ坊主は大《だい》兵《ひよう》 肥満の大男。権三と助十も、重くて弱っていたのに、それが急に軽くなったというんです。いくら死人だって、そんなに急に、目方がへるはずがない、どうもおかしいと、ふたりがあまりいうものだから、早桶をあけてみたところが……」 「早桶をあけてみたところが?」 「中身がかわっていたそうです」 「中身がかわっていたたア、伯母さん、いったいなににかわっていたんだい」 「それがね、死人は死人なんです。ちゃんと経《きよう》帷《かた》子《びら》も着ているし、頭にも三角の紙をつけてるんですが、うかれ坊主とは似てもにつかぬ男だったそうで……」  佐七をはじめ辰と豆六、それを聞くと、おもわず大きく目玉をひんむいた。 下《した》剃《ぞ》り吉《きち》奴《やつこ》   ——死《し》骸《がい》のわき腹にはなまなましいあざが—— 「大家さん、妙なことがあったそうですね」  その日の昼過ぎ、佐七が辰や豆六をひきつれて、相《あい》生《おい》町《ちよう》の長屋へ出むいていくと、 「おや、お玉が池の親分、もうあのことが、お耳にはいりましたか」  と、金兵衛さんも目をまるくした。 「あい、ちょっとほかから聞いてきました。早桶のなかで、死《し》骸《がい》がかわっていたということですが、うかれ坊主のほうは、どうなったかわからねえんで?」 「それがねえ、中身がかわっていると気がつくと、そこらあたりをさがしてみたんですが、どこにも落ちていないんですよ」 「あっはっは、子どもが銭《ぜに》を落としたんじゃアあるめえし……ねえ、大家さん、小塚っ原の大地蔵といやア、焼き場のすぐちかくだ。だれかほかの早桶と、まちがえたんじゃありませんか」 「それはわたしも考えた。しかし、早桶もこの長屋から出たもんだし、仏の着ている経帷子も、ゆうべ長屋のおかみさん連中が総がかりで縫いあげたものなんです」 「はてな。すると、うかれ坊主め、死んでからどろんと、ほかの人間に化《ば》けやアがったか」  辰は小首をかしげている。 「バカなことをいっちゃいけねえ。すると、大家さん、うかれ坊主は生きかえって、ほかの死《し》骸《がい》を身代わりに、早桶のなかへ突っ込んでおいたってことになりますか」 「さあ、それはよくわかりませんが、ふしぎなのは身代わりの死骸で。いくら場所がおしおき場でも、むやみに死骸のころがっているはずはありませんがねえ」 「いったい、死骸というのはどんなやつです」 「その死骸なら、捨ててかえるわけにもいかず、かついでかえって、うかれ坊主のところへおいてあるんですが、親分、そいつ凶《きよう》状《じよう》 持ちらしいんです。腕に墨《すみ》がはいっているんですよ」 「なんだ、入れ墨者ですって?」  佐七はちょっと目をまるくして、 「大家さん、うかれ坊主というやつは、入れ墨者にかかりあいのあるようなやつですか」 「とんでもない。ありゃアしごく気のいいやつで、そりゃア酒も飲むし、どこかに情《い》婦《ろ》があって、ちょくちょく会いにいくようですが、入れ墨者につきあいのあるような男じゃございません」 「それじゃとにかく、死骸というのをみせてもらいましょうか」  金兵衛の長屋というのは、どうせうかれ坊主が住むくらいだから、あまり上等の長屋ではない。  住む連中も、大《だい》道《どう》易《えき》者《しや》やつじ芸人、門《かど》づけの親子に、かごかきなどといったところだが、みんな気のいい連中ばかりで、それが、うかれ坊主のうちにあつまって、見知らぬ死骸をとりまいて、ただわいわいと騒いでいる。 「いったい、大家さんの気がしれないよ。どこの馬の骨だか、牛の骨だかわからねえ死骸をひきとって、どうしようというんだろう」 「そうだ、そうだ。入れ墨者の死骸などひきとって、どうせろくなことはありゃアしねえ。かかりあいになるとうるさいぜ」 「だからいわねえことじゃねえ。おらア小塚っ原のすみっこにでも捨ててこようといったんだ。それが大家のとうへんぼくめ、なんのかんのといやアがって、とうとうここまでかつがせやアがった。あんな知恵のねえやつはねえ」 「あいあい、その知恵のないのがやってきましたよ」 「あっ、大家さん、聞こえましたか」 「さいわいとな、わしゃ年はとっても、耳のほうだけは達者でな。よう聞こえますのさ」 「あんなことをいっているよ。つごうの悪いときにゃア、ちかごろとんと耳が遠くなって、などといってるくせに」 「そりゃアそうさ、つごうの悪いことは聞かぬが得さ。ときに、いま表で聞きゃア、この死骸をひきとったのに文句があるらしいが、そういうことをいうから、おまえたちはバカだといわれるんだ。こうして、うかれ坊主の早桶にはいっているからにゃ、どうせ、かかりあいはまぬがれぬ。それを恐れて、死骸をうっかり捨てでもしてみろ。あとでどのようなおとがめを食うかしれたものじゃねえぞ。おまえたち、それでもいいのか」 「あっ、なあるほど。すると、大家さんはやっぱり知恵者だ」 「つまらねえところで感心するな。さあ、さあ、親分、どうぞおはいりなすって。お玉が池の親分がおいでなすったんだから、おまえたちどいてろ」  お玉が池の親分ときいて、一同が顔見合わせながら、しりごみをしているところへ、はいってきたのは佐七である。  辰と豆六もついている。 「みなさん、ごめんくださいまし。ちょっと死骸をあらためますから」  北まくらに寝かされた死人をみると、それはまだ二十五、六のなまわかい男だった。  佐七はつくづくその顔をみて、 「おい、辰、豆六、ちょっとみろ。こいつどこかで見おぼえのある顔だぜ。どこのだれだっけ」 「どれどれ」  と、佐七のそばからのぞきこんだ辰と豆六、死骸の顔をしげしげとみて、 「あっ、親分、こりゃア材木町へんのお店をまわる回り床、髪結い銀次の下《した》剃《ぞ》りで、吉《きち》奴《やつこ》ってえ野郎ですぜ」 「そや、そや、こら吉奴にちがいない。あいついつも、入れ墨を自慢にしてましたがな」 「あっ、そうか。それで思いだした。しかし、こいつ、いつ死んだのか」 「親分、こりゃアおかしい。吉奴なら、あっしゃきのう千鳥橋のきわで会いましたが、ぴんぴんしていて、死ぬけしきなんかみえませんでしたぜ」 「きのう会った? 何《なん》刻《どき》ごろだ!」 「へえ、もうかれこれ日暮れどきでした」 「ふうむ。それから死んだとしても、お弔《とむら》いを出すにゃア早すぎる。おい、辰、豆六、その経《きよう》帷《かた》子《びら》をぬがせてみろ」  辰と豆六が経帷子をぬがせたとたん、一同はおもわず目を見はった。  死骸の右の脾《ひ》腹《ばら》のあたりに、大きなあざがなまなましく……。 「親分、こりゃ脾腹を打って死んだんですね」 「ふむ、そうらしいな」 「親分、するとこいつ、殺されたとおっしゃるんですか」  金兵衛はいまさらのように、長屋の連中と顔見合わせる。 「そういうことになるかもしれませんね。まさか、あやまちで脾腹をうって死んだものが、じぶんで経帷子を着て、のこのこ早桶へはいるはずがありませんからね。大家さん、こりゃたしかにうかれ坊主の経帷子にちがいございませんか」 「へえ、そりゃもうまちがいございませんが、しかし、まさかうかれ坊主が、なんのゆかりもねえものを殺して身代わりにしようたあ思われません。はて、こりゃまあいったい、どうしたというんでございましょうねえ」  一同はきつねにつままれたような顔色である。 髪結い銀次   ——こりゃ吉奴の野郎にちがいない——  それにしても、死人の身もとがわかったのはなによりだった。髪結い銀次なら、深川の黒江町へんに住んでいるはずだという辰のことばに、すぐ長屋のものがすっとんだが、そのあとで辰と豆六は声をひそめて、 「親分、こりゃアひょっとすると、おもしろくなるかもしれませんぜ。髪結い銀次といやア、殊《しゆ》勝《しよう》な顔してお店を回っておりますが、そうとうの悪《わる》だということですぜ」 「そや、そや、目のよるところに玉がよるちゅうて、下《した》剃《ず》りの吉奴が入れ墨もんなら、親分の銀次のやつも、やっぱり入れ墨もんやいう話だす」 「ふむ、銀次のうわさならおれも聞いている。辰、豆六、その死人の右手をみろ」 「へえ」  みると、吉奴の右手の指には、ながい髪の毛が二本からみついている。 「いかに商売が下剃りだって、そういつもいつも髪の毛を指にからめているわけじゃあるめえ。それに、だいいち、その髪の毛は、男のものじゃねえ。ながさからいって女だな」 「親分、すると吉奴のやつ、脾腹をいかれるまえに、女ともつれあったんですかえ」 「まあ、そういうことになりそうだな」  待つまほどなく髪結い銀次が、長屋のものの案内で、あたふたと駆けつけてきた。  年ごろは三十二、三、めくら縞《じま》の筒《つつ》っぽに平ぐけの帯、黒い前だれをしているところは殊勝だが、どこかひとくせありげなつら魂《だましい》である。  銀次はひとめ死人の顔をみると、 「あっ、こりゃ吉のやつにちがいございません。どうしてまあ、こんな姿になりゃアがったのか」  と、あきれかえった顔色に、うそいつわりがあろうとは思われなかった。  佐七はじっとその顔色をみながら、 「おい、銀次さん。おまえこれについてなにか、心当たりはねえかえ」 「とんでもございません、いや、これはお玉が池の親分、ご苦労さまでございます。いまもみちみち、こちらのかたから話を 承《うけたまわ》 ったのでございますが、まるで寝耳に水で、ただもう、びっくりしてしまいましたんで、心当たりなどあろうはずがございません」 「吉奴はゆうべどこにいたんだ」 「さあ」  と、銀次は小《こ》鬢《びん》をかいて、 「くわしいことは存じませんが、早桶へ入れかわったのが小《こ》塚《づか》っ原《ぱら》といたしますと、こつへでも遊びにいってたんじゃございますまいか。なんしろ、わけえもののことでございますから」 「おまえが吉奴を最後に見たのはいつごろだえ」 「ゆうべの五ツ(八時)ごろでございましたろうか。なんにもいわずに、ふらりと家を出ましたんで」 「おまえはゆうべうちにいたのか」  銀次はちょっと佐七の顔を見ると、 「いえ、あの、ちょっと用事があって、千《せん》住《じゆ》の知りあいのところへまいりまして、おそくなったので、そこで泊まりましたんで」 「吉奴が出かけてから家を出たのか」 「へえ、あの、さようで……急に用事を思いだしたもんですから」 「千住のなんといううちだ」  銀次はまたジロリと佐七の顔を見ると、くちびるのはしにうす笑いをうかべて、 「親分、どうしたんでございます。それじゃまるで、わたしがお調べをうけているようじゃございませんか。なんでもないうちなんで」 「なんでもないうちなら、いったらいいじゃねえか。べつにおまえを疑って、どうのこうのというんじゃねえんだ。こういうことははっきりしておかねえと、かえってあとがめんどうだからな」 「恐れ入りました。千住の掃部《かもん》宿《じゆく》、へっつい横町に住んでおりますお舟という女のうちでございます」  佐七は辰や豆六と顔を見合わせた。 「掃部宿のお舟といやア、からくりお舟じゃねえのか」 「ご存じですか」  銀次の顔はいくらか青白んだ。 「名まえは聞いている。なにしろ名だかい女だからな。おまえ、そこへ泊まってきたのか」 「へえ、ついおそくなりましたもんですから……それで、けさかえってまいりまして、おとくいをまわろうとしたんでございますが、吉《きち》の野郎が、いつまで待ってもかえってまいりません。下剃りがいなくちゃ商売になりませんので、途方にくれているところへ、こちらさんから使いのかたがおみえになりましたんで」 「そうか、わかった。それじゃ最後にもうひとつ聞くが、おまえ、うかれ坊主を知ってるだろうな」 「そりゃアもう、名物男ですから」 「それだけか。なにかほかに因《いん》縁《ねん》はねえか」 「とんでもない。うかれ坊主が死んだことさえ知らなかったんですから、その早《はや》桶《おけ》に吉の野郎がはいっていたときいて、まったく、肝《きも》をつぶしてしまいましたんで」  そういうことばに、いつわりがあろうとは思えなかった。佐七はうなずいて、 「そうか。よし、わかった。それじゃ、ご検視がすんだら死《し》骸《がい》をひきとり、おまえのほうで、ねんごろに弔《とむら》ってやれ。これじゃ、こちらのかたがたがご迷惑だ」 「へえ、承知いたしました」 「親分、ありがとうございます。これでどうやら、死骸のほうはかたづきましたが、うかれ坊主は、どうしたんでございましょうねえ」 「そうさなあ、あいつのことだから、どこかでまたうかれているんじゃねえか。あっはっは、こりゃ冗談だが……大家さん、またくる」  金兵衛の長屋を出ると、きんちゃくの辰が、 「親分、こりゃアなにかありそうですぜ。ゆうべ銀次が泊まったという、お舟というのはしたたか者だ。たしか、江戸払いをくって、よんどころなく、千住に巣くっている女ですぜ」 「そうよ、からくり賽《さい》のいかさまばくち、それに、かどわかしなどもやるという話だ。そんな女とつきあいがあるようじゃ、銀次もひと筋なわでいくやつじゃねえぜ」 「それに、親分、小塚っ原いうたら、千住大橋のすぐてまえや。吉奴もゆうべ、銀次といっしょやったんとちがいまっしゃろか」 「そうかもしれねえよ。とにかく、小塚っ原までのしてみよう」  小塚っ原では、しかし、べつになんの発見もなかった。  千住大橋をわたると、奥州街《かい》道《どう》、奥日光街道の出口になっている。  だから、そのあたり、昼間はそうとうの人通りである。  佐七はその道を、大橋までやってきたが、すると、顔見知りの舟宿から、 「あっ、親分、ちょっと、ちょっと……」  と、呼びとめたものがある。 与兵衛だんな   ——川上から若い男が流れてきました—— 「おや、為《ため》公《こう》か、なにかおれに用かえ」 「へえ、ちょっと親分のお耳にいれておきたいことがございますんで。さいわいだれもおりません。ちょっとこっちへおはいりになりませんか」 「そうか、それじゃおじゃまをしようか」  さがみ屋——と、軒《のき》行《あん》灯《どん》のあがったその舟宿は、佐七が千住方面へくるたびに、かえりに舟を仕立てさせるので、船頭の為吉も知っているのである。 「為公、話というのはどんなことだ」  佐七が店先に腰をおろすと、為吉は茶をくんで出し、 「兄《あに》哥《い》たちもお掛けなさい。親分、じつはゆうべ、妙なことがございましたんで」  と、為吉の話によるとこうである。  大橋からほどとおからぬ三《み》河《かわ》島《じま》村に、井《い》筒《づつ》屋《や》与《よ》兵《へ》衛《え》という大百姓がある。  代々名《な》主《ぬし》をつとめるくらいの家がらで、上野のお山ともとくべつの因《いん》縁《ねん》があり、百姓とはいえ大金持ちだ。 「そのだんなの与兵衛さんとおっしゃるのが、だいのつり好きで、わたしどもよくごひいきになるんです。ゆうべも、夜づりのお供を仰《おお》せつかりまして、ここからしもの、御殿跡のあたりへ舟を出したんです。ところが、ゆうべは、おもしろいほどさかなが食いましたので、だんなもつい夢中で、とうとう夜明かしになりました。それで明けがたの七ツ半(五時)ごろになって、やっと引きあげようということになり、舟をかえしておりますと、川上からひとが流れてくるんです」 「ほほう。それでどうした?」 「だんなはいたってお慈《じ》悲《ひ》ぶかいですから、見てみぬふりはできません。救いあげてみろとおっしゃるので、舟へひっぱりあげました。すんでのことで、こごえ死ぬところでございましたが、さいわいまだ息があるようすなので、水を吐かせたりなんかしておりましたが、そのうちに、だんなが顔をごらんになって、あっ、おまえは忠七じゃないかとおっしゃったんです」 「ほほう。すると、与兵衛というだんなは、その男を知ってたんだな」 「そうらしゅうございます」 「そして、忠七というのはどういう男だ」 「お店《たな》者《もの》でございましょう。二十《 は た ち》くらいの、色のなまっちろい、いい男でしたが、それが二、三〓所、からだに薄《うす》手《で》をおうているんです。つまり、切られているんですね」 「ふむ、ふむ。それからどうした」 「それから、いったんここへ連れこんで、手当てをすると、まもなく、忠七が息をふきかえしたので、だんなは人払いをして、なにか話をしていらっしゃいましたが、やがて、駕《か》籠《ご》をよんでおかえりになったんで」 「忠七はどうした?」 「いえ、忠七を連れておいでになりましたんで。出がけに、このことはだれにもいうなとおっしゃいましたが、なんだか気になるもんですから……」 「いや、よく知らせてくれた。ところで、その与兵衛というだんなだが、いったい、どういうお人がらだ」 「それはもう、けっこうなだんなで。おとしは三十七、八ですが、先年お内《ない》儀《ぎ》さまがなくなられて、いまじゃおひとりなんです。いえ、子どもさんもございますので、それでまあ、よけいに、つりにこってらっしゃるわけですが、それでも、ちかぢかにお嫁がくるという話です」 「あいては、どこのおひとだえ」 「へえ。なんでも材木町へんの、大《おお》店《だな》のお嬢《じよう》さんとか 承《うけたまわ》 っております。名まえは存じませんが、それがまだ生《き》娘《むすめ》なんだそうで、与兵衛のだんなも、大乗り気だそうでございます」  材木町ときいて、佐七は辰や豆六と顔見合わせた。材木町といえば、髪結い銀次のなわ張りである。うかれ坊主とこの一件と、なにかつながりがあるのではあるまいか。 「ときに、為公、おまえ、掃部《かもん》宿《じゆく》のお舟という女を知らないか」 「知っておりますとも。たいへんな女で」 「ちょくちょく、こっちへやってくるかい」 「とんでもない。あいつは江戸お構《かま》いですから、この橋を渡ったら御用でさあ。それにねえ、親分、あれくらいの女になると、むこうからくることはねえんです。江戸のほうからいろんなやつが、仕事を持っていくようですよ」 「どんなやつがいくんだい」 「さあ、わっしもよく存じませんが、どうせ、ろくなやつじゃありますまいよ」 「お舟にゃ男があるかい」 「いえ、それがねえ、きまったやつはねえんだそうで。いきあたりばったり、だれとでもね」  と、為公は妙なわらいかたをして、 「だから、いろと欲と、ふたみちかけて、おおかみみてえな野郎が押しかけるんです。お舟はそうとうべっぴんですからね。そうそう、お舟にゃ弟がひとりあって、江戸で髪結いの下剃りかなんかしてるって話ですよ」  佐七はまた、辰や豆六と顔見合わせた。 黒木屋お露   ——手代の忠七と駆け落ちして—— 「親分、わかりました。銀次のやつァ、やっぱりきのう、お舟のところにいたそうですよ」  その晩のことである。  佐七がひとあしさきにかえって待っていると、まず、きんちゃくの辰がかえってきて、 「これはとなりのおかみさんの話なんですが、ふたりは夜っぴて酒を飲んでたそうです。そして、そのあいだに、ふたりがかわるがわる表へ出て、ようすを見てたところをみると、だれかがくるのを、待ってたらしいというんですね」 「ふむ、そして、その待ちびとはついにきたらずか」 「どうも、そうらしいんです。それで、銀次のやつはけさ早くかえっていったというんですが、親分、ふたりが待っていたのは、吉の野郎じゃありますまいか」 「おおかたそうだろうが、しかし、吉ひとりじゃあるめえな。ほかになにか、お目当てがあったにちがいねえ……がときに、お舟は吉奴の死んだのを、まだ知らねえのか」 「いえ、あっしがかえろうとするところへ、江戸から使いがきたんです。それであとで、となりのおかみに、ようすをみに行ってもらったんですが、お舟のやつ、とてもくやしがって、もし吉が殺されたのなら、このままじゃおかない、きっとかたきを討ってやると、そりゃものすごい形《ぎよう》相《そう》だったそうです。あんなやつにも、きょうだいの情愛はあるんですね」 「ふうむ、そいつは物《ぶつ》騒《そう》なことになったな。ときに、銀次のほうはどうだ」 「へえ、それからあっしゃ引き返して、黒江町のほうへ回りましたが、ちょうど吉奴の死《し》骸《がい》を引きあげてきたところで、なんでもこんやはお通《つ》夜《や》で、あすお弔《とむら》いを出すそうです」 「すると、こんやはまあだいじょうぶだな」 「なにが?」 「いや、まあ、こっちのことだ。ときに、豆六はおそいな」  いっているところへ豆六が、 「親分、わかりました、わかりました。これでだいたい、しばいの筋書きはわかりましたぜ」  と、あいかわらずのっそりとして、よだれのたれそうな口のききかたである。 「おお、筋書きがわかったとはたいしたもんだな。じゃ、与兵衛のところへくる嫁というのがわかったんだな」 「へえ、わかりました。新材木町の材木屋、黒木屋の娘で名はお露、まだ十七やそうだす」 「そして、そこに忠七という手《て》代《だい》がいるんだろう」 「へえ、親分、あんさんのおっしゃるとおり」 「そのお露、忠七、ゆうべから姿がみえねえので、黒木屋じゃ大騒ぎをしてやしねえか」 「なんや、親分、みんなご存じやがなあ」 「それから、髪結い銀次が、その黒木屋の出入りだろう」 「そのとおり、そのとおり。なんや、こんなことやったら、わて、なにもほねおって調べてくることなかったがな」 「いや、そうじゃねえ。しかし、豆六、黒木屋じゃ、なんだってかわいい娘を、二十もちがう男のところへ、しかも、後妻にやろうというんだ」 「それがな、親分、表と裏はおおちがい。黒木屋も表向きはりっぱにやってるが、内《ない》所《しよ》は火の車で、千両という結《ゆい》納《のう》に目がくれたんやいう話だす」 「結納千両……?」  佐七は目を丸くして、 「それじゃ、与兵衛はよほどご執《しゆう》心《しん》なんだな。ところで、お露のほうじゃ……」 「そら、もちろんいやだすがな。二十も年がちがううえに、いくら金持ちやいうたかて、あいては土くさい百姓、それにお露には、忠七ちゅうええ男がおまんねんやもん」 「なるほど、わかった」  きんちゃくの辰もひざをすすめ、 「銀次のやつがそこへつけこみ、ふたりをそそのかして駆け落ちさせ、それを途中で待ち伏せして、忠七をかたづけ、お露を掃部《かもん》宿《じゆく》へつれこんで、お舟の手でどこかへ売りとばすつもりだったんですね」 「あっはっは、辰、豆六。おまえたち、きょうはいやにカンがさえてるじゃねえか。まあ、だいたいそんなところだろう。ところがそこへ、なにか手ちがいが起こったんだな」 「手ちがいというのが、うかれ坊主ですか」 「そうじゃねえかと思うが……豆六、お露は黒木屋へかえってるふうはねえか」 「そんなけはいはおまへんな。そんならおやじやおふくろが、あないに青い顔しているはずがおまへん。黒木屋では千両という結納のてまえ、ふたりの駆け落ちをできるだけないしょにしとこうちゅう腹らしいが、かんじんの玉がいよらへんさかい、大弱りやいう近所の評判だす」 「すると、うかれ坊主め、お露をどこへつれていきゃアがったのか」  佐七はだまって考えこんだ。 押しかけ女房   ——いまいましいやおまへんか——  その翌日の日暮れまえ、辰と豆六が外からかえってきて、 「親分、吉奴のお弔《とむら》いはいますみました。銀次のやつは火葬寺からその足で、千《せん》住《じゆ》のほうへまいりましたが、どうしましょう」 「そうだな。まだなんの証《しよう》拠《こ》もねえのに、つかまえるわけにゃいかねえし……ときに、黒木屋のほうはどうだ。お露のいどころは、まだわからねえようすか」 「どうもそうらしいんです。おやじもおふくろも、いっぺんに年をとったようですよ」  佐七はだまって考えていたが、 「よし、それじゃ出かけてみよう」 「へえ、どちらへ……?」 「どちらでもいい、むだになるかもしれないが、ほかに手がかりがねえからな」  それからまもなく、三人がやってきたのは相《あい》生《おい》町《ちよう》、大家の金兵衛さんの宅である。 「大家さん、おまえさんにぜひ、打ちあけてもらいたいことがあるんですがねえ。ほかでもねえ、うかれ坊主にゃ情《い》婦《ろ》があって、ときどき会いにいくようだと、きのうおまえさんはおっしゃったが、その情婦というのは、どういう女で、どこに住んでいるんです」  佐七に問われて、金兵衛はちょっと顔色を変えた。 「じつはな、親分、そのことについちゃ、おまえさんにも聞いてもらおうと思っていたところなんです。うかれ坊主というのは、もと静岡のほうの、りっぱなお寺の住職だったそうだが、それがふとしたことから、門前の花屋の娘とねんごろになったんですな。それで寺を追い出され、江戸へ出てきて、ああいう商売をはじめたが、すると、その花屋の娘というのが、あと追っかけて江戸へ出てきたんです。情婦というのはその娘なんですよ」 「へへえ。すると娘のほうでも、うかれ坊主にほれてるんだな」 「そりゃアもう、首ったけなんで」 「それで、その娘の名はなんというんです」  金兵衛さんはにやりと笑って、 「名まえをいやア、おまえさんたちみんな知ってる。ほら、両国の並び茶屋、銀《いち》杏《よう》屋《や》の看板娘で、お光《みつ》というのがそれなんです」 「ぎょ、ぎょ、ぎょうッ!」  これには佐七もおどろいたが、辰と豆六は目をしろくろ。それもそのはず、銀杏屋のお光といえば、一枚絵にまでなった江戸の名物女。としは二十二、三、いささか薹《とう》が立っているが、水のたれそうな美人である。 「大家さん。そ、そりゃアほんとうですか」 「ほんとうですとも」 「しかし、それじゃどうして、いっしょにならないんです」 「いや、お光のほうじゃなりたがって、おまえさんひとりぐらい、りっぱに立てすごしてみせるというんです。ところが、うかれ坊主の先生は、おれはこの商売がおもしろいんだ。それに、おれが江戸の町からすがたを消したら、ぼっちゃん、嬢ちゃんがたががっかりなさる。と、いってどうしても承知しねえ。といって、うかれ坊主がいるとわかっちゃ、お光の人気にさわりますから、それでまあ、ごく内《ない》で会いつづけているんです」 「ちくしょう! うかれ坊主め、うまいことしやアがった」  いや、辰と豆六のくやしがること。  ふたりとも、だいぶお光にお賽《さい》銭《せん》を奉納した口らしい。 「それじゃ、もしやうかれ坊主は、お光のところにかくれているんじゃ……」 「へえ、わたしもそう思ったもんだから、ゆうべそっと、お光のところへいってみたんです。お光は知らぬといってましたが、どうもおかしいんです。あれほどほれた男が死んだと聞きゃア、もっと悲しそうな顔をしなきゃならねえはずだのに、お光のやつ、けろりとして、かえってうれしそうなんですよ。ですから、きっと、なにか知っているにちがいないんです」 「うちへかくまっているんじゃありませんか」 「そうかもしれませんが、しかし、うかれ坊主はなんだって、身をかくさねばならぬわけがあるんです。ありゃア、とてもひとのいい男ですがね。ああ、そうそう、それについて、わたしはちょっと心配なんだが、お光のところからかえりがけに、ばったり銀次のやつに会ったんですよ」 「銀次って、髪結い銀次ですか」 「ええ、そう。どうも銀次のやつ、わたしのあとをつけてきたらしいんだが、なんでそんないやなまねをするのか、わたしゃそれが気になって、おまえさんのお耳に入れておこうと思っていたんです」  佐七はおもわず辰や豆六と顔見合わせた。 「それで、お光のすまいというのはどちらなんです」 「亀《かめ》沢《ざわ》町《ちよう》の馬場わきで、銀杏屋のお光といえばすぐわかります」 「よし、それじゃさっそくいってみよう」  相生町から亀沢町といえば、すぐ目と鼻のあいだである。  三人が駆けつけたときには、もう夜もだいぶふけていたが、馬場わきで家をたずねて、教えられた路地へはいろうとすると、出会いがしらに、ばったり出会ったのはお光である。 「あっ、お光じゃねえか」  お光は佐七をすかしてみて、 「あっ、親分さん、助けてください」  と、すがりついてきたから、佐七もおどろいた。 「おお、お光、どうした、どうした」 「お預かりしていたお嬢さまを、だまされて、迎えにきた駕《か》籠《ご》屋《や》にわたしたんです。あとからうちのひとがかえってきて、駕籠のあとを追っかけていったんですが、いまもってかえりません。もしやふたりの身に、まちがいがあったんじゃあるまいかと……」  佐七は辰と豆六と顔見合わせた。 「お光さん、うちのひととはうかれ坊主か」  と、これは辰。 「はい……」 「お光さん、あんた、よう、わてらをだましやはったな」  豆六め、いやなところでいやみをいっている。 「あっはっは、つまらねえことをいうな。お光、心配するな。駕籠の行き先はわかっている。きっとふたりは助けてやるから、安心して待ってろ」  お光をのこして路地を出ると、 「親分、掃部《かもん》宿《じゆく》ですね」 「おう、お舟のところに決まっている。辰、豆六、急げ」  お露とうかれ坊主は、はたして、お舟のところに捕《とら》えられていた。  じっさい、それはあぶないせとぎわで、佐七がもうひと足おくれていたら、お露は駕籠でいなかへ送られるところであった。  うかれ坊主はだらしなく、はだじゅばんにふんどし一本、さるぐつわをはめられたまま、柱にしばりつけられて、目をしろくろさせながら、さるぐつわのなかで、 「ハ、ハ、ハックション、ハ、ハ、ハックション」  どうやらかぜをひいたらしい。  お舟と銀次は刃《は》物《もの》をふるって抵抗したが、これはすぐに取りおさえられて、宿役人に引きわたされた。  お露とうかれ坊主の話によって、すべては明らかになった。それはだいたい、佐七の想像していたとおりであった。  お露忠七は銀次にそそのかされて、駆け落ちすることになったが、落ちゆくさきは掃部宿。銀次の知りあいで、親切なおばさんのうちと聞いていた。  そして、その道案内に立ったのが吉奴である。  こうして三人が小《こ》塚《づか》っ原《ぱら》へさしかかったのが七ツ半(五時)ごろ。ちかくに通称こつとよばれる岡《おか》場《ば》所《しよ》があるとはいえ、この季節にこの時刻では、人通りなどあろうはずがない。  わざとこの時刻をねらったらしい吉奴は、ここまでくると、急に毒《どく》牙《が》をむきだした。  どうせひとのおもちゃになるなら、そのまえに毒味をしておこうというわけで、やにわにお露にいどみかかったのである。  おどろいたのは忠七だ。  とめにかかろうとしたが、吉奴にかみそりをふりまわされ、二、三〓所かすり傷をおわされると、いくじなくもお露をすてて逃げだして、恐怖のあまり川へとびこみ、あやうく凍死するところを、与《よ》兵《へ》衛《え》だんなに救われたというのだから、いやはや、いろ男だいなしである。  あとに残されたお露こそ哀れであった。  いかに抵抗したところで、しょせんは男と女である。逃げまわるうちにお露はいつか、帯を解かれておびひろ裸、凍《い》てつくような大地のうえに、あおむけにおしころがされ、きものも長じゅばんも腰巻きも、むざんに左右にかっさばかれた。  そのうえからのしかかってくる吉奴のからだはもえにもえて、吐く息はけだもののようである。すんでのことに、ふたりのからだは、ある一点でひとつになろうとしている。  それでもお露はまだあきらめなかった。夢中でひっかいた大地は、霜に浮いてあんがい柔らかだった。右手でつかんだひと握りの土を、下からはっしと投げつけると、これがまんまと命中しておあつらえむきの目つぶしになった。  思いがけないこの不《ふ》意《い》討《う》ちに、吉奴がハッとひるむところを、お露は渾《こん》身《しん》の力をこめてはねのけた。  一度ならず二度までのこの不意討ちに、吉奴はおもわずうしろへしりもちついた。 「おのれ、おのれ、このあま!」  吉奴は怒り心《しん》頭《とう》に発していた。立ちあがって、お露につかみかかろうとしたが目がみえない。お露はすらりとすりぬけると、うしろへまわって、ひょろつく吉奴の弱腰を、力いっぱい突きとばした。 「わっ!」  吉奴は鉄砲玉のように吹っとんだが、はずみというものは恐ろしい。石地蔵の台座のかどに、いやというほど脾《ひ》腹《ばら》をぶっつけ、そのまま悶《もん》絶《ぜつ》、息が絶えてしまったというのは、いかにも小悪党の最《さい》期《ご》らしかった。  ところが、それがちょうどおき捨てられたうかれ坊主の早《はや》桶《おけ》のそばでのできごとだった。  息吹きかえしたうかれ坊主は、早桶をやぶって出てきたが、お露から事情をきくと、死んでいる吉奴にじぶんの経《きよう》帷《かた》子《びら》を着せて、これを早桶につっこんだのである。 「しかし、どうしてまた、そんなことをやったんだ」 「へえ、それは……」  と、うかれ坊主は頭をかきながら、 「たとえあやまちとはいえ、下《げ》手《しゆ》人《にん》はお露ちゃん。お露ちゃんがひどくそれを恐れますので、ええい、かまうことはねえ、いっそじぶんの身代わりとして、火葬にしてしまえば、だれもあの男の死んだことを知るものはあるまいと、思いましたんで」  ずいぶんむちゃな話だが、当時の法律では、たとえば屋根がわらがすべり落ちて、下をとおりかかった人間の頭にぶつかり、打ちどころが悪くてあいてが死んだとなると、その家の主人が下《げ》手《しゆ》人《にん》の罪にとわれたというから、お露がひたすら恐れたのもむりはない。 「なるほど」  佐七もそれにはすなおにうなずいたが、すぐまたひらきなおって、 「しかし、おまえはどうしてお露さんを、黒木屋へ送りとどけなかったんだ」 「親分、そりゃアむりですよ」 「むりというのは……?」 「だって、お露ちゃんがどうしても、じぶんの家をいわねえんですもの」 「あっ、なるほど」 「じぶんはもう家へはかえれぬ身と、ほうっておいたら自害でもしかねまじき顔色でしょう。それにあっしも、火葬にされたことになっちゃ、うっかりひとに会えませんや。そこで、お露ちゃんをなだめすかして、お光のところへつれてったんですが、そのあいだにあっしゃすっかりかぜをひいちまって……ハ、ハ、ハックション!」  そりゃそうだろう。あの寒《さむ》空《ぞら》に経帷子いちまいで、半《はん》刻《とき》(一時間)あまりも、小塚っ原みたいなところへおっぽりだされていちゃ、うかれ坊主がいかにのんきな男でも、かぜをひくのはあたりまえ。佐七はおもわず吹きだした。  さて、こうしてみると、悪いやつは吉奴に、銀次とお舟、お露にはおかまいなしということになり、うかれ坊主にもおとがめはなかった。  その後お露は、忠七とのなかも承知のうえで嫁にもらおうという、与兵衛だんなの太っ腹にほだされて、年が明けるとそうそう、おこし入れすることになった。おそらくお露は、危急のさい、じぶんを捨てて逃げだしたいろ男に、あいそもこそもつきはてたのだろう。 「ところが、親分、ここにひとつ、いまいましい話があります」  それからまもなくのある日、憮《ぶ》然《ぜん》としていったのはきんちゃくの辰。 「なにがって、お光のあまでさあ。あの一件で、うかれ坊主とのなかが露《ろ》見《けん》したのをいいことにして、相《あい》生《おい》町《ちよう》へ押しかけ女房、はいりこんじまったということですぜ。あの破《は》戒《かい》坊《ぼう》主《ず》め、よっぽどいいとこがあるとみえますね」  と、辰が口をとんがらせば、豆六がまたすぐそのしり馬にのるやつで、 「そのいいぐさがええやおまへんか。このひとひとりでほっといたら、いつまたふぐやなんか食うて、あないなことになるやもしれへん、わてという女房がそばについとらんと、あぶのうてしようがないちゅうんやそうで。おかげで、ちかごろ長屋のもん、当てられどおしやいう話だっせ」  辰と豆六、口さきでこそいまいましがっているが、内心では喜んでいるふうである。  そのうかれ坊主と女房のお光、そのごも共かせぎで、いままでどおり商売をつづけているが、人気が落ちるどころか、かえって江戸っ子の気《き》性《しよう》にかなったのか、ますますひとに愛されて、うかれ坊主はあいかわらず、うかれうかれて、陽気にひとを笑わせている。      本書には今日の人権意識に照らして不当・不適切と思われる語句や表現がありますが、作品執筆時の時代背景や作品の文学性などを考慮しそのままとしました。 (角川書店編集部) 羽《は》子《ご》板《いた》娘《むすめ》 自選人形佐七捕物帳1  横《よこ》溝《みぞ》正《せい》史《し》 ------------------------------------------------------------------------------- 平成15年3月14日 発行 発行者  福田峰夫 発行所  株式会社  角川書店 〒102-8177 東京都千代田区富士見2-13-3 shoseki@kadokawa.co.jp (C) Seishi YOKOMIZO 2003 本電子書籍は下記にもとづいて制作しました 角川文庫『羽子板娘』昭和52年 4 月30日初版発行