空蝉《うつせみ》処女《おとめ》 横溝正史 [#表紙(表紙.gif)]  目 次   空蝉《うつせみ》処女《おとめ》   玩具店の殺人   菊花大会事件   三行広告事件   頸飾《くびかざ》り綺譚《きだん》   劉《りゆう》 夫人の腕環《うでわ》   路傍《ろぼう》の人   帰れるお類《るい》   いたずらな恋《こい》 [#改ページ] [#見出し]  空蝉《うつせみ》処女《おとめ》     一  今宵《こよい》は中秋《ちゆうしゆう》名月である。  そして新聞のつたうるところによると、今日はあたかも二百|二十日《はつか》に当たっているという。しかし、天われら日本人をあわれみ給《たも》うたか、軽羅《うすもの》のような雲、空になびいてはいるけれども、颱風《たいふう》の余波とてもなく、まったくおあつらえ向きのおだやかな中秋名月である。  いまともし火を消して茅屋《ぼうおく》の障子《しようじ》をあけはなてば、松の影畳《かげたたみ》に落ちて、 [#ここから改行天付き、折り返して3字下げ]   名 月 や 畳 の う へ に 松 の 影 [#ここで字下げ終わり]  という其角《きかく》の秀句が思い出され、さらにまた、山ふところに抱《いだ》かれたわが家《や》の縁側《えんがわ》に立って、稔《みの》りゆたかな吉備《きび》の平野を見渡せば、 [#ここから改行天付き、折り返して3字下げ]   明 月 に 麓《ふもと》 の き り や 田 の く も り [#ここで字下げ終わり]  という、芭蕉《ばしよう》の名句さながらの景色がそこにあるのだった。  私はふたたび灯を点じて、月に向かって筆をとる。と、忽然《こつぜん》として私の耳にひびいて来るかと思われるのは、あの、美しい歌声であった。   山のあなたの空遠く    幸《さいわ》い住むと人のいう。   ああ、われひとととめゆきて    涙さしぐみかえりきぬ。   山のあなたになお遠く    幸い住むと人のいう。  これは皆さんもご承知のごとく、上田敏《うえだびん》訳すところの、カール・ブッセの詩である。  去年の今月今夜中秋名月のもと、私はある場所でゆくりなくもこの歌をきいた。その時の一種異様な印象は、いまなおあざやかに私の脳裡《のうり》に生きており、そしてその時の感興が、いま私をかってこの一文を草《そう》せしめているのである。  去年の今夜もよい月であった。終戦によって、ようやく人間らしい感情を取り戻していた私は、幾年ぶりかでしみじみと、中秋名月を賞《め》でる気になった。ひとつには、その年の五月にこちらへ疎開《そかい》して来たばかりの私にとっては、はじめて住む農村の風物がことごとに物珍《ものめずら》しく、田舎《いなか》で見るこの名月を、長く記憶にとどめておきたいと、ステッキ片手にふらりと家を出たのであった。  いったい、岡山県というところは、西日本の穀倉《こくそう》といわれているが、わけても吉備郡はその岡山県の穀倉といわれるだけあって、よく耕された田が、毛細管《もうさいかん》のように複雑な地形をつくっている低い山脈《やまなみ》のあいまあいまに喰《く》いこんで、見渡すかぎりつづいている。そしてそういう低い山——というよりも人工の丘《おか》にも似た平地の突起部には、いたるところに灌漑《かんがい》用の池が掘ってある。私の家のちかくにもそういう池が二、三あるが、その夜私の足を向けたのも、そんなふうな池の一つであった。  そこは私の家から五分あまりの距離《きより》で、周囲の水田のなかに、摺鉢《すりばち》をさかさに伏せたように盛りあがった丘があり、その丘の一部に、このへんとしては珍《めずら》しく大きな池が掘ってあるのだった。そこはおりおりの散歩の途次《とじ》、かよいなれた路《みち》であったし、名月は昼のように明るかったので、私はなんのためらいもなく、丘へ通ずるだらだら坂を登っていった。  坂を登りきるとすぐ池がひらけ、とっつきに濡《ぬ》れ仏が立っている。濡れ仏の額《ひたい》も眉《まゆ》も唇《くちびる》も、しっとりと夜露《よつゆ》と月光に濡れて光っていた。左を見ると池の中に小さな島が突出していて、その島にまつってある祠《ほこら》が、水のうえにあざやかな影を落としていた。  私はいつもこの池のほとりへ散歩に来ると、その祠で休むことにしているのだが、今宵はそこを後まわしにして、まず池をひとめぐりして来ようと、右のほうへ路をとった。そして約半分あまり池をまわった時であった。私はふいにあの歌声をきいたのであった。   山のあなたの空遠く    幸い住むと人のいう……  私は思わず池のほとりに足をとめ、声するかたへ眼をやった。月はいま沖天《ちゆうてん》にさしかかり、池のおもては絵絹《えぎぬ》のようになめらかな光につつまれている。その池をわたって歌声は、小島のうえのあの祠からきこえて来るのであった。   ああ、われひとととめゆきて    涙さしぐみかえり来ぬ……  声はまだうら若い女性のものであったが、その旋律《せんりつ》のなかにある、一種異様なものがなしさが、強く私の胸をうった。それは月にうかれての即興《そつきよう》ではない。さくりあげる魂《たましい》の叫《さけ》びのようであった。悲哀《ひあい》と痛恨《つうこん》のほとばしりのように思われた。   山のあなたになお遠く    幸い住むと人のいう。……  月光のなかに長くふるえて尾をひいて、嫋々《じようじよう》と消えていくその歌声のなかに、私は魂を破るような、若い女のすすり泣きがきけるように思われた。  歌声がとぎれるとともに、あたりはふたたび静かな名月の夜にかえった。私はロマンスの世界から、突如《とつじよ》として俳句の世界にかえったような心易《こころやす》さをおぼえながら、またぶらぶらと歩き出した。 [#ここから改行天付き、折り返して3字下げ]   岩 ば な や こ こ に も 一 人 月 の 友 [#ここで字下げ終わり]  これは芭蕉の弟子の去来《きよらい》の秀句であるが、今宵の月の友は、俳句の点景人物ではなさそうだと、私は微苦笑《びくしよう》される心持ちだった。むろん私はその歌声の主に対して、かすかな好奇心をおぼえていた。しかし、皆さんが考えているほども、その人に会いたいとは思わなかった。私はもう四十を越している。しかも困難な戦争の数年は、私の心からいっそう若々しい弾力《だんりよく》をうばっていた。好奇心というものは、この弾力から生まれるものである。だから私は五、六歩もあゆまぬうちに、もうその人のことは忘れかけていたくらいである。  さて、池をひとめぐりして、あの小島のところへ行くには、どうしても途中|竹藪《たけやぶ》の中を通り抜けなければならない。それは大して広い藪ではなかったが、池のすぐ水際から堤《つつみ》いっぱい塞《ふさ》いでいるので、そこをよけて通ろうとすれば、土堤《どて》をおりてしまわなければならない。幸いその竹藪の中には、兎《うさぎ》の通い路ほどの小径《こみち》のついていることを私は知っていたし、月の光は藪の中までさしこんでいるので、怪我《けが》をするような心配はまずなさそうであった。  そこで私はステッキの先で、下草をわけながら藪の中へ踏みこんでいった。ステッキの先に草の露がほろほろこぼれて、すぐ私は素足《すあし》の爪先《つまさき》から着物の裾《すそ》まで、ぐっしょりと濡れそぼれた。それにもかまわず竹藪の中を進んでいくと、ふいにその時、向こうのほうでがさがさと草を踏む音がした。  私がちょっと驚いて立ち止まると、向こうのほうでも立ち止まったらしく、足音がやんで、 「あら。……だれか来るのね」  と、ひくいつぶやくような女の声がきこえた。その声で私はすぐに、それがさっきの歌声の主であることをさとった。そこでまた私は五、六歩藪の中を突き進んでいったが、急にはたとしてその場に立ち止まったのである。  その時、私が眼前に見た光景は、今もなおあざやかな瞼花《けんか》となって、私の瞼《まぶた》のうらに残っている。それはいかに四十を越して、若々しい心の弾力をうしなっている私でも、なおかつ立ち止まらずにはいられないほど、強い美しい印象であった。  私の行く手数歩のところで、藪は一段小高くなっていた。その小高い段のうえに、彼女《かのじよ》は立っていたのである。その人はゆるやかなワンピースを着ていた。そのワンピースにはなんの装飾《そうしよく》もなく、また色合もさだかにわからなかったが、月の光でそれは銀色にかがやきわたっているのだった。そしてその銀色の地のうえに、竹の葉影が斑々《はんぱん》として、美しい斑《ふ》をおいていた。  しかし彼女の肩からうえは、すっくと月光の中にぬきんでていた。そして、ああ、その横顔の神秘なまでの美しさ! 彼女は片手でかるく青竹の幹《みき》を握《にぎ》り、それに頬《ほお》をよせるようにしてうっとりと月を仰《あお》いでいる。少し長目にカットした髪《かみ》が、ふさふさと肩のあたりで渦《うず》を巻いている。そういう姿勢のためでもあろうが、白い頸《うなじ》は髪の重さにも耐《た》えかねるほど長かった。  私はまた一歩足をはこんだ。と、女はゆっくり瞳《ひとみ》を転じて、私のほうを見下ろすと、 「あら……だれか来たのね」  さっきと同じことをつぶやいたが、その声にはほとんどなんの感動もふくまれていないようであった。いや、声ばかりではない。まじまじと私を見下ろす瞳にも、こんな場合、若い女として当然持っていなければならぬはずの、危懼《きく》も懸念《けねん》も警戒も見られなかった。それは赤ん坊のように無心——というよりは感情と理性のうつろを示しているように思われた。それでいて美しいことはこのうえもなく美しい。……  私は間もなく女のそばを通りぬけ、竹藪から外へ出た。  と、この時、藪の背後にある丘のうえから、また別の女の声がきこえて来た。 「タマキさん……タマキさんどこ……?」  私は立ち止まって藪のほうを振り返った。さっきの女が返事をするかと思ったのだが、藪の中からはなんの声もきこえて来なかった。女はさっきの姿勢のまま、向こう向きに立っている。 「タマキさん、タマキさんどこなのよ」  ばたばたと軽い足音がきこえて、若い女の姿が丘のうえに現われた。少女は丘のうえから私の姿を見下ろすと、 「あら」  と、叫《さけ》んで立ちすくんだが、すぐ快活な声で、 「あの、ちょっとお訊《たず》ねします。このへんで若い女の方、お見かけじゃありません?」  私は無言のままステッキをあげて竹藪の中を指さした。 「あ、そう、有り難うございます」  少女は身軽に丘のうえから滑《すべ》りおりると、私にちょっと会釈《えしやく》をして、すぐ竹藪の中へかけこんでいった。 「まあ、タマキさん、こんなところにいらしたの。あたしさっきから探していたのよ。だれかがお池のほうで歌声がするというものだから……さあ、帰りましょう。あらあら、大変、髪がぐっしょり濡れているわ。風邪《かぜ》をひくといけませんから帰りましょうね」  見たところ、後から来た少女のほうが、二つ三つ若いように思われた。それにもかかわらず口のきき方をきいていると、まるで妹をあやしているようであった。私は不審に思いながら、しかし、しだいに藪からはなれていった。……     二  私がこの二人の少女のことをはっきり知ったのはその翌日のことで、それを話してくれたのは私の娘である。私の娘は、こっちへ疎開《そかい》して来るとすぐ、村役場へ勤務していたので、村の様子は私や私の妻などよりも、よほどよく知っていた。  彼女の話によると、その若いほうの少女は名を祥子《さちこ》さんといって、池の向こうに大きなお屋敷《やしき》のある本堂《ほんどう》家のお嬢《じよう》さんであろうということであった。そしてタマキさんというのは、その本堂家へ寄食している娘さんで、タマキとは珠生《たまき》と書くらしかった。 「珠生さんという方、ほんとうにお気の毒な方なのよ。珠生と名前はわかっていても、苗字《みようじ》はなんというかわからないんですって」 「苗字がわからない?」  私は驚《おどろ》いてきき返したが、すると娘はそれについて次のように説明してくれた。  あの本堂家というのは近在きっての物持ちだが、御主人はずっとまえに亡くなって、後には未亡人《みぼうじん》の綾乃《あやの》さんという人と、啓一《けいいち》祥子という二人の子供が残っていた。この啓一という青年は数年まえに応召して、まだ復員していない。祥子さんは神戸《こうべ》にある有名なミッションスクールの高等部に席があって、戦争中もずっとそこに頑張《がんば》っていた。むろん戦争がしだいに苛烈《かれつ》になっていくにしたがって、どの学校も勉強どころではなく、それぞれもよりの軍需《ぐんじゆ》工場などへ動員されていったが、祥子さんの学校では、学校の建物全体を一種のセツルメントみたいにして、戦災者《せんさいしや》や戦災|孤児《こじ》などの面倒を見ることになった。学生たちはノートや教科書を捨てて、保姆《ほぼ》兼見習看護婦みたいな役に早変わりした。  祥子さんのお母さんはそれをとても心配して、一日も早く帰郷するようにと、幾度《いくど》となく祥子さんにいってやったが、彼女《かのじよ》は頑《がん》としてきかなかった。お友達や気の毒な戦災孤児を見捨てて帰郷するなんてこと、絶対にできないと頑張りつづけていた。  ところがそこへはじまったのが、一昨年の三月十日の東京|大空襲《だいくうしゆう》を皮切《かわき》りとして、いよいよ切って落とされた一聯《いちれん》のあの本格的空襲であった。十二日には名古屋がやられ、十四日には大阪がやられたときくと、祥子さんのお母さんはもう居ても立ってもいられなかった。そこで自分の弟の妹尾《せのお》さんという人に頼んで、むりやりにでも祥子さんを連れてかえるようにと、出発してもらったのが三月十五日であった。  妹尾さんはこの村で開業しているお医者さんであったが、神戸へ急行すると姪《めい》にあって、姉の心配をうったえた。そして言葉をつくして帰郷するようにとすすめたが、祥子さんはそれでもまだ帰郷するとはいわなかった。妹尾さんはその日のうちに祥子さんをつれてかえるつもりだったが、議論をしているうちに遅くなったので、仕方なしに一晩神戸へ泊《と》まることになった。そしてその晩、あの大空襲に見舞《みま》われたのである。 「それで祥子さんと叔父《おじ》さんが、火の粉《こ》を浴びて逃《に》げまわっているうちに、あのタマキさんという方を見付けたんですって。あの方、気を失って路傍《みちばた》に倒《たお》れ、防空服にも火がついていたそうです。それをもみ消して、やっと安全な場所まで、お連《つ》れしたのですが……ほら、あのとおり記憶《きおく》をうしなっていらっしゃるでしょう。御自分がどこのどういう方か、それさえ憶《おぼ》えていらっしゃらないのよ」  私は思わず呼吸《いき》をのんだ。 「それじゃ、あの娘さん、記憶喪失者《きおくそうしつしや》なのかい?」 「ええ、空襲のショックと、それに頭脳《あたま》にひどい怪我《けが》をしていらしたそうなのよ。それで三月十五日以前のことはまるで憶えていらっしゃらないの。身のまわりの持ち物もすっかりなくなっているし、それにねえ、防空服に縫《ぬ》いつけてあった名札の布も半分焼けて、御住所も苗字《みようじ》もわからなくなっていたんですって。ただ焼け残った布の端《はし》から、珠生というお名前だけがわかったんですって」  私は昨夜あったあの少女のうつろな瞳を思い出した。私がその少女から神秘な感じをうけとったのは、必ずしもあのときの月光のせいばかりではなかったのである。彼女のあの美しい肉体の中には、魂が宿《やど》っていなかったのだ。それは空蝉《うつせみ》にも似《に》た、哀《あわ》れな、はかない、やるせない宿命の象徴《しようちよう》だったのだ。  私は深い溜息《ためいき》をついた。 「それで、本堂さんで引きとってお世話をしているんだね」 「ええ、そういう頼りない方を、見捨ててしまうわけにはいかないでしょう。それに祥子さんがとても離《はな》さないのよ。あんな綺麗《きれい》な方だから、祥子さん、すっかりチャームされていらっしゃるのね。でも、あの方決して気違《きちが》いじゃないのよ。ひとのいうことよくわかるし、ふだんはちっともふつうの人と変わりはないわ。ただ、あの空襲よりまえのことがわからないだけね。ただ……ただちょっと妙《みよう》なことがあるの」 「妙なこと?」 「お父さま、あの方、お嬢さんに見えて? それとも奥《おく》さんに見えて?」  私は娘の顔を見直した。 「それじゃ、あの人奥さんらしいと思われるようなところがあるのかい」 「ええ。ふだんは少しもふつうの人とお変わりないんですけれど、ときどき発作《ほつさ》を起こすと、それはそれは淋《さび》しそうになるんですって。そんなときにはきまって、赤ちゃんをあやすような真似《まね》をなさるし、それから、坊《ぼう》や……坊や……って泣くんですって。その声の悲しそうなことったら、きいてても、腸《はらわた》がちぎれるような気がするって、本堂さんの女中さんがいってたわ」 「それじゃ空襲で坊やを失った、若いお母さんかもしれないね。そしてその悲しみのために、いっそう気が変になったのかもしれないね」  日本全国にそういう哀れな母がずいぶんたくさんあることだろうと思うと、私は暗澹《あんたん》たる気持ちになったが、しかしなぜか私には、月下の竹藪《たけやぶ》であったあの少女が、人妻《ひとづま》であるとはどうしても思われなかった。魂は抜《ぬ》けていても、空蝉のはかない身ではあっても、処女《おとめ》のみずみずしさと美しさは、まだ失われていないように思われてならなかった。     三  十月から十一月になると、この村にも外地からの復員《ふくいん》者がしだいに多くなってきた。それは主として朝鮮《ちようせん》からの復員であった。父や良人《おつと》や兄弟を朝鮮へ送っている人々は、よるとさわるとその話で持ち切りだった。どこのだれそれは昨日《きのう》かえって来たそうだが、家《うち》のはまだかえらない。南は大丈夫《だいじようぶ》だが北はいつになるかわからないなどと、戦争中はなかばあきらめていたけれど、こうなると一日が千秋《せんしゆう》の思いであるらしかった。私の家へもよく、朝鮮のなんとか道《どう》というのは、南か北かなどとききに来る人があった。  本堂さんの啓一君がかえって来たのは十一月も終わりにちかいころだった。それを最初に私につたえてくれたのは、やはりその時分まだ役場へ勤務していた娘であった。 「お父さま、本堂さんの啓一さんがかえっていらしたわ。あの方東京の商大《しようだい》なんですって。そしてきいてみると吉祥寺《きちじようじ》の、うちのすぐ近所に下宿していらしたらしいのよ」  この奇遇《きぐう》に昂奮《こうふん》したのか、役場からかえって来た娘は、いきを弾《はず》ませて私の部屋へかけこんで来た。 「なんだ、お前話をしたのか」 「ううん、そうじゃないけど、あの方おかえりの途中役場へお寄りになったのよ。あたし知らない顔でしょう? じろじろ私の顔を御覧になるのよ。とてもきまりが悪かったわ。そしたら助役さんが紹介《しようかい》してくだすったの。あの方お父さまのお名前よく知ってらしたわ。それからお家《うち》吉祥寺だと申し上げると、とても懐《なつ》かしがって、……快活な、ひょうきん[#「ひょうきん」に傍点]な愉快《ゆかい》な方よ」  娘はそのあとでふふふふと思い出し笑いをしながらこんな話をした。  啓一君が役場を出ていったすぐ後《あと》で、娘は配給のことで、本堂さんへお伺《うかが》いしなければならぬ用事のあることを思い出したというのである。おおかた少女らしい好奇心《こうきしん》から、だしぬけに息子を迎《むか》える本堂家の幸福な騒《さわ》ぎを見たかったのであろう。彼女は啓一君のすぐ後ろからついていった。 「ところが、本堂さんのお屋敷のよこまで来ると、珠生《たまき》さんが竹箒《たけぼうき》をもってお玄関《げんかん》のまえを掃いていらっしゃるのよ。あたしにはすぐ珠生さんだとわかったけれど、後ろ姿だったから啓一さんにはわからなかったのね。あたしの方を御覧になると、黙ってらっしゃいというふうに、ふいと首をすくめると、そっと珠生さんの後ろによって、両手でこう目隠《めかく》しをなすったのよ。きっと妹さんの祥子さんと間違《まちが》えたのね。あたしはっとしたけれど、いうわけにはいかないでしょう。黙《だま》って見ていると、当ててごらん、だれだかわかる……なんていってらっしゃるの。でも、そのうちに変だってことがわかってきたのね、手をはなして顔をのぞきこんだんですけれど、そのときのお顔ったら……うっふふふ、人違いよりもあまり綺麗な方なので、びっくりなすったのね。狐《きつね》につままれたようにきょとんとしていらっしゃるのよ。珠生さんのほうでも、真赧《まつか》になって、箒もなにもそこに投げ出して、お家《うち》の中へかけこんでおしまいになったわ。その騒ぎに祥子さんがひょっこり出ていらして……でも、あのときの啓一さんの顔、あたしいまでも忘れられないわ。ふふふふふふ!」  箸《はし》がころげてもおかしいという年ごろの娘は、そういって腹をかかえて笑っていたが、私はそのときふと、このことが将来どういうふうに発展していくだろうかと、かすかな懸念《けねん》のようなものを感じたのであった。本堂さんの未亡人は、たいへん優《やさ》しい人ではあったが、気位《きぐらい》の高い、そして家柄自慢《いえがらじまん》の人ときいている。……     四  啓一君はその後間もなく私の家へ遊びに来るようになった。娘のいったとおり、気さくな、人懐《ひとなつ》っこい性質で、うちの者ともすぐ心やすくなった。かれは学業の途中で応召したので、一日も早く上京したいのだが、食糧や住宅の関係で思うようにいかないとこぼしていた。しかし、啓一君の上京をさまたげているものは、都会の食糧事情や住宅問題のほかにもあるのではないかと私は危ぶんだ。  あるとき、私がそれとなくその問題にふれると、正直な啓一君は太い首筋《くびすじ》まで真赧になった。そしてこんなことをいうのであった。 「先生、先生はどうお思いですか。あの人、処女でしょうか、それとも……奥さんだったことがある人でしょうか」 「さあ……」  私は言葉を濁《にご》していた。よけいなことをいってこの青年をたきつけるような破目《はめ》になってはならぬと思ったからである。  啓一君はまた顔を赧《あか》くして、 「叔父さんはあの人の体を見て、どうも子供をうんだ人のようには思えないというんです。しかし、母はあの人のおりおり示す素振《そぶ》りや言葉から、きっと赤ちゃんがあったにちがいない、だから……」  啓一君はすっかりしょげ切っていた。珠生というあの美しい不思議な存在をとりまいて、ちかごろ本堂さんのお家がしだいにむつかしくなっているらしいということは、私もほかから耳にしていた。私はそれを啓一君や珠生さんのために悲しむとともに、お母さんが危ぶむのも無理はないと思われた。 「珠生さんの病気はどうなんです。よくなる見込みはないのですか」 「それについては岡山や倉敷《くらしき》の病院でもみてもらったんですが、いまのところ適当な療法《りようほう》はないというのです。あの人の過去《かこ》を知っている人が、ゆっくり昔を憶《おも》い出させるように指導していくよりほか、みちはないというんですが、それが問題で、あの人の過去を知ってる人があるくらいなら、こんなに心配しやあしないんですがねえ」 「それにしても妙ですねえ。神戸のほうをききあわせてみたんですか」 「ええ、それはもう、終戦後手をつくして、ほうぼうききあわせているんですが、どうもはっきりした情報が得られないんですね。僕《ぼく》が思うのにあの人は神戸の者じゃないらしい。言葉などすっかり東京|弁《べん》ですからねえ。東京から神戸へやって来て、そこをやられたとしたら……これは調べるのになかなか骨が折れますねえ」 「どうでしょう、一度珠生さんを、あの人が倒《たお》れていたところへ連れていってみたら? そうすれば何か憶い出すかもしれない」 「それもやってみたんですよ。この間も祥子の発案で、あの人を神戸へ連れていったんですが、いっこう反応がないのです。何も憶い出せないというんですよ。そういうときのあの人の、悲しそうな、絶望したような眼付《めつ》き……あのへん一帯焼け野原になっていて、まるで様子がかわっていますから、考えてみると無理《むり》もないのです」  啓一君は暗いかおをして溜息をついた。私もこの青年の心中を察すると、暗然《あんぜん》とせずにはいられなかった。この青年のためにも、珠生さんの記憶がよみがえるか、それとも彼女の過去を知った人物の現われることの、一日も早からんことを祈《いの》らずにはいられなかった。  ところがそういう日は思いのほか早くやって来たのである。しかもそれはかなり劇的な場面をもって。……     五  去年の秋から今年の春の農閑期《のうかんき》へかけて、農村|慰安《いあん》演芸団と称する芸能人の団体が、この村へもたびたびやって来た。はじめのうち私は、どうせろくなのはやって来まい、三流か四流か、あるいはそれ以下のもあるのだろうとたかをくくっていたが、よくよくきいてみると、一流とまではいかずとも、二流の上ぐらいの人たちがしばしばまじっていることがあるらしかった。  おそらく都会の食糧事情におわれたそういう人たちは、慰安かたがた農村から農村へと「白い飯《めし》」を食ってまわっているのだろう。だが、その人たちの動機が何にせよ、娯楽《ごらく》の少ない農民たちの喜びようにかわりはなかった。映画館も劇場も持たない農村のことだから、そういう人たちを迎えると、いつも国民学校の講堂が開放される。そして当然プログラムとして、いつも村の青年男女ののど自慢《じまん》競演会や、舞踊《ぶよう》が演じられるのである。  今年《ことし》の三月十四日にもそういう演芸団の一行がやって来た。私の家ではだれもいかなかったが、その翌日の昼過ぎになって、娘が少なからぬ昂奮《こうふん》の面持《おもも》ちでかえって来ると、いきなりこんなことをいうのである。 「お父さま、珠生さんが昨夜からいなくなったんですって!」 「珠生さんがいなくなった?」 「ええ、あたしいまそこで啓一さんと祥子さんに出会ったのよ。二人とも顔色がかわっていて、とても急いでいらっしゃるようなので、どうなすったのかと思ってお訊《たず》ねしたら、これから神戸へ珠生さんを探しにいらっしゃるんですって」 「ふうむ、それはまた急だね。昨夜、珠生さんに何かあったのかね」 「ああ、そうそう、お父さまは昨夜のこと御存じないのね。昨夜とうとう珠生さんの素性《すじよう》がわかったんですって」  娘がきいてきたところによると、それはこういう事情らしかった。  珠生と祥子の二人も昨夜の演芸会を見物に出かけた。その時二人は、別にのど自慢競演会に加わろうなどとは思っていなかったらしいのだが、村の青年たちが二人を見つけると、むりやりに舞台にひっぱりあげてしまった。 「そこで珠生さん仕方なしに、祥子さんにオルガンを弾《ひ》いてもらって、シューベルトのアヴェ・マリヤをお歌いになったんですって。するとその歌をきいて楽屋《がくや》から、歌謡曲《かようきよく》の浅原芳郎という人が……お父さま、浅原芳郎という人、御存じ?」  名前だけなら私もその男を知っていた。ひところは相当人気のあった流行歌手だが、無軌道《むきどう》な生活のために咽喉《のど》をいためて、すぐ凋落《ちようらく》してしまった。素行《そこう》のうえでもとかくよくない噂《うわさ》のあった男なのである。 「ほほう、浅原が来ていたのかい」 「ええ、その浅原さんが舞台へとび出して来て、珠生さんをつかまえ、あなたは村上さんじゃないかというわけなのよ。珠生さんのこと、村の人たちみんな知ってるでしょう? だもんだから、いっとき会場の中は、水を打ったようにしいんとしずまりかえったという話よ、そこで啓一さんがすぐとび出していって、ともかく楽屋へ行って話をきこうというわけで、……で、はじめて珠生さんの過去がわかったのよ」  娘はそこで急に悲しげに面《おもて》を伏《ふ》せると、 「あの方……珠生さん、やっぱり人の奥さんだったんですって。なんでもあの方、官吏《かんり》かなにかのお嬢《じよう》さんで、お父さまがお亡《な》くなりになった後、未亡人になったお母さまと二人で素人《しろうと》下宿みたいなことをしていたのね。そのうちに下宿していた学生さんと恋におちて、……でも、その学生さんのお家《うち》というのが、どっか田舎《いなか》の、しっかりした家だもんだから、御両親が承知なさらなかったんですって。そうしているうちに、その学生さんというのが応召してしまって、……しかもその後で珠生さん、赤ちゃんができたんですって」 「ふうむ」  私はなにか苦いものでも嚥《の》まされたような感じだった。 「それで珠生さん、あの家にいられなくなったんだね」 「ええ、そうなの。祥子さんのお母さまに何かいわれたらしいのよ」 「しかし、そのことはほんとうだろうか。いえさ、浅原という男の話だがね、かりにその男がでたらめをならべているとしたところで、珠生さんには弁明できないのだからね」 「まあ。……そういえばそうね。だけど、そうすると珠生さん、いよいよお気の毒だわ」  娘はいたましさに顔をくもらせた。 「しかし、啓一君や祥子さんが神戸へ行ったのはどういうわけなの。なにか心当たりがあるのかしら」 「ああ、それはこうなの。今日は三月十五日でしょう。珠生さんが神戸であの大空襲《だいくうしゆう》にあったのは今夜のことなのよ。自分が倒れていたところは、この間啓一さんや祥子さんにつれていってもらって知っているはずでしょう。だから、ひょっとするとそこへ行きやしないかと……」  なるほどそれは筋道《すじみち》の立ったかんがえかただった。だが、同時にそれはなんという悲しいことだろう。私は珠生さんという少女の薄倖《はつこう》な運命に、胸をしめつけられるような気持ちだった。  その夜は春の朧月夜《おぼろづきよ》であった。     六  珠生さんは実際に、その夜神戸の焼け跡《あと》を彷徨《ほうこう》していたのである。しかし、運命というものはわからないものだ。悲痛《ひつう》と傷心《しようしん》のどん底から来た、彼女の無心の彷徨が、やがて彼女を思いがけない方向へ持っていったのである。そのことについては、後日、啓一君からきいた話を、そのままここに書きとめておくことにしよう。 「汽車の都合で祥子と私が神戸へ着いたのは、その晩おそくなってからでした。私たちはすぐに目的の焼け跡へかけつけたのですが、なにしろ夜のことでしょう。道に迷《まよ》ってずいぶん、あちこち探してまわりました。ところがそのうちに、ふときこえて来たのが……ああ、先生もいつかおききになったとおっしゃいましたね。ほら、『山のあなたの空遠く』というあの歌なのです。『ああ、われひとととめゆきて、涙さしぐみかえり来ぬ』……そこを聞いたとき、私は思わず泣きました。珠生さんは焼け跡の煉瓦《れんが》に腰をおろして、両手で顔をおおい、つぶやくように歌っているんです。淡《あわ》い月の光でその姿を見つけると、私たちはすぐに駆け出しました。ところが、珠生さんの歌をきいて、その場へ駆け着けたのは私たちばかりじゃありません。もう一人あるんです。 「ねえ、先生。先生も浅原芳郎という流行歌手が珠生さんについて語った話というのを御存じでしょう。あの話は半分ほんとうなのですが、半分は嘘《うそ》だったんです。珠生さんのお父さんが官吏であったこと、その人の亡き後《あと》、お母さんと一緒に素人下宿みたいなことをしていたこと、下宿していた学生と、未亡人の娘さんが恋におちたこと、学生の出征《しゆつせい》後、その娘さんが赤ちゃんをうんだこと、それはみんなほんとうなのですが、その娘さんというのは珠生さんではなく、珠生さんの姉さんの瑞穂《みずほ》さんという人だったんです。浅原という男が、なぜあのような悪意にみちた嘘をついたのか、その理由もたいていわかりました。そいつ瑞穂さんに恋をしていて、こっぴどくはねつけられたことがあるんですね。瑞穂さんという人は音楽学校を出ていたそうですが、つまり姉に対する恨《うら》みを、妹で晴らそうとしたんですね。 「さて、こういえば珠生さんの歌をきいて、その場へ駆け着けて来た人がだれであるかおわかりでしょう。それは瑞穂さんの御主人になる人、つまりさっきお話しした学生なのです。その人は加藤順吉《かとうじゆんきち》といって同じ岡山県の津山《つやま》の人でした。では加藤君がなぜそんなところにいあわせたかというと、それにはこういうわけがあるんです。 「珠生さんの姉さんの瑞穂さんという人は、去年の三月十日の東京の大空襲で亡くなったのだそうです。珠生さんのお母さんという人はそれよりだいぶまえに亡くなっている。だから珠生さんは姉さんの赤ちゃんと二人きりでこの世にとり残されたわけです。珠生さんは途方《とほう》にくれたあげく、加藤君のお父さんのところへ手紙を書いたのです。瑞穂さんの亡くなったことを述《の》べ、こういう事情だから赤ちゃんをひきとってもらえないか、それがいやならばせめて情勢がよくなるまで預かってもらえないかと、それはそれは涙の出るような手紙だったそうです。その手紙を出しておいて、二、三日してから、珠生さんは赤ちゃんを抱いて、東京を出発した。返事なんか待っていられなかったんですね。ところが不幸にもその汽車が三《さん》の宮《みや》で動かなくなったんです。そして珠生さんは赤ちゃんを抱いたまま、神戸の町へ放《ほう》り出され、途方にくれて深夜の町をさまよい歩いているうちに、あの空襲にあったわけです。そのときの珠生さんの淋しい、心細い気持ちをかんがえると、私はいまでも泣けそうですよ。珠生さんは焼夷弾《しよういだん》の火の粉《こ》におわれてあちこち逃げまどうているうちに、破片に頭をやられて倒れてしまったんです。 「しかし、先生、捨てる神あれば助ける神ありとはよくいったものですね。ある親切な人が赤ちゃんの泣き声をきいて駆け着けて来てくれたのです。しかしその人は珠生さんはもう駄目《だめ》だと思った。そこでせめて赤ちゃんだけでも助けようと、抱いて逃げてくれたんです。その人はその足で播州《ばんしゆう》へ避難《ひなん》していったんですが、後で赤ちゃんの着物をしらべると、所と名前が書いてある。その所というのは津山にある加藤君のお父さんのところなのです。それでその人はわざわざ津山まで赤ちゃんをつれて来てくれたそうですよ。 「ところで、加藤君のお父さんのほうではどうしていたかというと、珠生さんの手紙を見て、今日来るか明日来るかと、首を長くして待っていたというのです。その時分にはお父さん、すっかり気が折れていたんですね。だから赤ちゃんが来たことをとても喜んだのですが、つれて来てくれた人の話をきくと、赤ちゃんを抱いて倒れていたというのが珠生さんらしい。その人の話では、とても助からなかったであろうということなので、お父さん、涙をこぼして泣いたそうです。 「さて加藤君も、今年の一月に復員して来ました。そしてお父さんから話をきくと、三月十日の妻の命日には東京へ行き、瑞穂さんの焼死したであろうと思われる跡をとむらい、三月十五日には神戸へ来て、珠生さんの倒れていたというあたりをとむろうていたんです。ところがそこへきこえてきたのがあの歌で……あれは瑞穂さんが一番好きな歌で、姉妹してよく歌っていた歌なのだそうです。 「先生、これでなにもかもお分かりになったことと存じます。珠生さんはいま、加藤君のところにいます。加藤君が責任をもって、珠生さんをもとどおりにしてみせるといってくれたのです。私も珠生さんを送って津山まで行って来ましたが、早くも希望の曙光《しよこう》は見えて来たのですよ。あの赤ちゃんを見せると、珠生さんが急に泣き出しましてね。あの人、記憶《きおく》を失っていても、赤ちゃんをなくした責任感だけは、強く脳裡《のうり》にのこっていたんですね」  以上が啓一君の話であるが、それからまた半年たった。そして今度は私がはじめて、あの藪《やぶ》かげの月光のもとで、珠生さんに出会った日である。私はいま、二、三日まえ訪《たず》ねて来た啓一君が、欣然《きんぜん》として語った言葉を思い出す。 「先生、先生のおっしゃる空蝉《うつせみ》処女《おとめ》はもう空蝉ではなくなりましたよ」  そのとき、私は啓一君の顔を見ながらにこにこして、こういったのである。 「そして、間もなく処女《おとめ》でもなくなるんじゃないのですか」 [#改ページ] [#見出し]  玩具店の殺人     一 「おもちゃ[#「おもちゃ」に傍点]屋の店というものの持っている、なんとなく神秘的な、妙《みよう》に薄気味《うすきみ》悪い雰囲気《ふんいき》をあなたは御存じですか」と、こんな話をはじめたのは堀井《ほりい》君である。堀井君という人がどういう人であるか、この話を読んでいただければわかる。 「いいえ、戦争前までは私だってこんなこと、考えたことはありませんでしたよ。おもちゃ[#「おもちゃ」に傍点]屋なんてどこにだってありましたから、よしそこにどんな奇妙《きみよう》なおもちゃ[#「おもちゃ」に傍点]がならんでいたところで、ははあ、おもちゃ[#「おもちゃ」に傍点]屋か——ぐらいで通りすぎたもんです。ところが戦争がすんで、東京じゅうが焼け野原になって、右を見ても左を見ても殺風景《さつぷうけい》な焼け跡《あと》ばかりという時代に、忽然《こつぜん》としておもちゃ[#「おもちゃ」に傍点]屋の店がひらいたとしてごらんなさい。こりゃ大人だって眼を瞠《みは》らずにはいられませんよ。そしておもちゃ[#「おもちゃ」に傍点]という物の持っている不思議な魅力《みりよく》を、改めて見直さずにはいられませんよ。実はそういうおもちゃ[#「おもちゃ」に傍点]屋の店をひらいたのはわれわれなんです。場所は上野《うえの》の山下《やました》で、そこがまだいちめんの焼け野原だった時分に、いちはやくわれわれがおったてたのがそのおもちゃ[#「おもちゃ」に傍点]屋のバラックなんです。名前はイロイロ玩具《がんぐ》店とつけました。  いいえ、あなたも御承知のとおり、どうせ画家《えかき》くずれのわれわれ仲間に、そういう才覚《さいかく》の出るわけがありません。才覚は出ても実行力のある奴《やつ》なんて一人もありません。正直いって戦争中のわれわれの困りかたってありませんでしたよ。同じ画家《えかき》でも少し才気のある奴あ、軍だの情報局と結託《けつたく》して、わが世の春を謳《うた》ってましたが、われわれ仲間にゃそんな器用な真似《まね》のできる奴はひとりもない。みんな困ったあげくに、軍需《ぐんじゆ》工場なんかで慣《な》れない仕事をしていたんですが、戦争がおわったとたんに、そのほうもあぶれちまって、さあその日から食う心配をしなきゃならなくなった。  昔ゃあわれわれ仲間、どんなに生活力のない奴だって、食うことぐらいはどうにかやっていけたもんです。いつもだれか景気のいい奴がいて、そいつにたかっていればどうにかしのげた。われわれ仲間はみんなだらしのない連中ばかりですが、そんな場合、物おしみする奴は、ひとりだってありませんからねえ。ところがこんどはそういうわけにはいかない。みんな焼け出されてすっからかんなんですから、たかっていいような奴は一人もない。そこで連中、顔を合わせるごとに何かしなきゃ……何かはじめなきゃ……と、口癖《くちぐせ》みたいに言ってるんですが、さて、何をやってよいやら、そういう才覚の出る奴あ、まえにもいったとおり一人もありません。  ところがそこへ、三年ぶりかで復員《ふくいん》して来たのが、あなたも御存じでしょう、武田《たけだ》武雄なんです。あいつはえらい男ですよ。昔からわれわれ仲間の中心人物だったんですが、それがかえって来て、われわれの窮状《きゆうじよう》を見ると、こんなことをいうんです。みんな遊んでちゃ駄目《だめ》だ、いい若いもんが働きもせずに、愚痴《ぐち》ってばかりいるのみっともねえぞ——と、そこであいつが考えついたのが、いまいったイロイロ玩具店なんです。  もっともこれにはわけがあって、事変のはじまるまえ——ですから、十年ほどまえになりますね。やっぱり武田の音頭とりで、イロイロ人形ってのを作って売り出したことがある。もっともそのころは必ずしも金儲《かねもう》けが目的じゃなかった。どうも世間に出てる人形なんておよそ俗悪でいかん、ひとつわれわれ仲間で、もっと芸術的な人形を作ろうじゃないかというので、土焼きの人形をこさえて、それをイロイロ人形と命名して売り出したことがあるんです。ところがその時分はなにしろ、おもちゃ[#「おもちゃ」に傍点]や人形に不自由しなかった時代だし、それにわれわれの作る人形は、あまり芸術的[#「芸術的」に傍点]でありすぎたんでね。結局、士族《しぞく》の商法で、まんまと失敗したことがあるんです。  ところが当時の工房《こうぼう》、——これは田端《たばた》にあったんですが、そいつが不思議に焼けのこったんです。しかもそこには昔の材料がすっかりそのまま残っている。窯《かま》もあるし、絵の具や染料も、これは慾《よく》ばって相当たくさん仕入れてあったんですが、それがそのまま残っている。そこでもう一度人形をつくって、おもちゃ[#「おもちゃ」に傍点]店を出そうじゃないか、しかしこんどはまえみたいに、あまり芸術的[#「芸術的」に傍点]でないほうがよろしい、相当妥協することにしよう、また、土焼きだけじゃ変化がないから、木彫りやきれ[#「きれ」に傍点]や紙の人形もつくろう、いや、人形ばかりではなく、ほかのおもちゃ[#「おもちゃ」に傍点]も作ろうじゃないか。——と、こうして音頭をとって動く奴があると、われわれ仲間だって、そう無能じゃない、いや、風変わりな思いつきや、奇抜《きばつ》な細工《さいく》にかけちゃ、人後《じんご》に落ちぬ才物《さいぶつ》ぞろいです。それが面白《おもしろ》半分に、しかし今度は道楽じゃなく、なんとかこれで食っていこうというんですから、みんな一生懸命《いつしようけんめい》で、だからずいぶん面白いものができましたよ。自慢《じまん》じゃないが、ふつうの職人じゃ思いつけないような、奇抜な、風変わりな、魅力にとんだおもちゃ[#「おもちゃ」に傍点]がつぎからつぎへとできたんです。  さて、そういうふうに商品もできたから、こんどは売店をつくらなきゃというので、そこでわれわれがおったてたのが、上野山下のバラックなんです。あなたは御存じかどうか知りませんが、昔そこに紅屋《べにや》という化粧品《けしようひん》店があった。江戸《えど》時代からの古い老舗《しにせ》なんですが、これが武田武雄の親戚《しんせき》になっている。紅屋の一家は戦災をうけるまえから、田舎《いなか》に疎開《そかい》していて、まだ当分、東京へかえる意思はないというので、その敷地《しきち》を武田武雄が交渉《こうしよう》して、借りることになったんです。  バラックの材料なんかもほうぼうからかき集めてきたんですが、そこはズブの素人《しろうと》とはちがって、なかなか気のきいたのができましたよ。赤や青のペンキで塗《ぬ》り立ててね。ちょっと子供の絵本にある、きのこ[#「きのこ」に傍点]のお家《うち》といった感じなんです。中は店と奥の二間になっていて、奥のほうは武田武雄が寝泊《ねとま》りすることになりました。そして店のほうにはわれわれ仲間のつくったおもちゃ[#「おもちゃ」に傍点]や人形をずらりと並べたんですが、そこはお手のもので、飾《かざ》りつけや陳列《ちんれつ》なども気がきいていて、中へはいるとバラックなんて気はちっともしない。そこでパッと開店したんですが、いや、これは大当たりでしたよ。なにしろ、どちらを見ても灰色の、殺風景な焼け跡ばかり、だれしもうるおいの欲しいところです。そこへ色彩《しきさい》の豊かな、いっぷう変わって趣味《しゆみ》のあるおもちゃ[#「おもちゃ」に傍点]が売り出されたのですから、みんな大喜びで、羽根が生えて飛ぶように売れましたよ。  同人ははじめ六人でした。そのうちの武田武雄だけが、販売係りで、山下のバラックに寝泊りする。むろんかれもそこで試作品なんか作ってましたが、ほんとうの商品を作るのはあとの五人で、これが毎日田端の工房に集まって、大童《おおわらわ》でおもちゃ[#「おもちゃ」に傍点]や人形をつくったもんです。なにしろ景気がいいからみんな張り合いがある。それに気のあった同志ですからね、面白おかしく、仕事に励《はげ》みも出て、一同これで、ほっと蘇生《そせい》の思いをしたもんです。  ところがそのうちに同人が一人ふえることになりました。それが古谷布留三《ふるやふるぞう》なんです。いったい、古谷布留三を仲間に入れることについては、田端組の五人はみんな反対したんです。それというのが、こいつ昔のイロイロ人形の仲間にゃちがいないが、われわれ仲間としちゃできそこない——と、いうのは妙に世才《せさい》にたけている。戦争中どういうつてがあったのか情報局へもぐりこんでたいそう羽振《はぶ》りをきかしていた。それはまあいいとして、仲間のうちに困ったものがあって助力をこいにいくと、古谷布留三め、大きな椅子《いす》にふんぞりかえって、君たち、いまの時局をなんと心得とるんじゃ、ああん、なんてことをいやあがって、洟《はな》もひっかけなかった。  そのときの遺恨《いこん》があるもんだから、かれが同人となることにゃ、みんな反対したんですが、武田という男はさすがに一方の旗頭《はたがしら》になる人物だけあって、どこか大きなところがある。まあ、そういうな、困るときは相身互《あいみたが》いだ。それに商売がうまく図にあたってくれば、ここにどうしてもひとり、算盤《そろばん》のはじける奴がいる。失礼ながら君たち、人形やおもちゃ[#「おもちゃ」に傍点]を作るのは上手《じようず》だが、それをいくらに売れば採算《さいさん》がとれるのやら、材料をどこで仕入れてきてよいのやら、わかる奴はひとりもあるまい。おれだってわからない。だからそういう仕事を古谷布留三にしてもらおうと思うのだ。なにも君たちと鼻つきあわして仕事をするというわけじゃなし、連絡係り——と、いえば上品だが、まあ小使《こづかい》のつもりで使ってやれ。と、こういわれると、根《ね》が気のいいわれわれ仲間、それでもいやだという奴は一人もありません。そこでとうとう古谷布留三も同人のひとりにしたんですが、なるほど武田武雄はえらい、と、その当座みんな感服しましたね。なにしろ古谷布留三が入ってきてから、商売がちゃんと軌道《きどう》に乗ってきたからえらいもんです。それまではうわべの景気だけは上乗《じようじよう》だが、果たして儲《もう》かっているのかいないのかだれにもわかっていなかった。それが古谷布留三の入ってきたおかげで、収支がはっきりしてきたんだから、それだけでも大したもんです。  そういうわけでイロイロ玩具製造会社は、いよいよますます前途有望《ぜんとゆうぼう》となってきた。ことに新円《しんえん》になってからは、われわれどんなにこの商売でたすかったかしれやしません。おかげで同人七人、大ほくほくで仕事にはげんでいたんですが、好事魔多《こうじまおお》しとはよくいったもんで、そのうちにたいへんなことが起こった。人殺しが起こったんですよ。しかもイロイロ玩具店の店先で……」     二  堀井君もいうとおり、おもちゃ[#「おもちゃ」に傍点]屋の店先ほど神秘的なものはない。そこには種々《しゆじゆ》雑多な色彩で化粧された、人形や、動物のおもちゃ[#「おもちゃ」に傍点]や、仮面《かめん》がならんでいる。お姫《ひめ》様もいれば黒ん坊《ぼう》もいる。象《ぞう》もいればカンガルーもいる。悪魔《あくま》の仮面もあれば、おどけたピエロの仮面もある。ひょっとすると、それらのお姫様や黒ん坊や、象やカンガルーや、悪魔やピエロは、昼のあいだこそああして神妙《しんみよう》にとりすましているけれど、夜になると、ひそかに唄《うた》いかつ踊《おど》り、おもちゃ[#「おもちゃ」に傍点]の国の饗宴《きようえん》をひらくのではあるまいか、と、こういう幻想《げんそう》をいだくのは、必ずしもアンデルセン一人とは限るまい。  真夜中のイロイロ玩具店の店先は、ことに神秘的であった。なぜならば、周囲はまだ整理《せいり》されない焼け跡のがらくたの堆積《たいせき》であるのに、一歩このバラックの中へ入れば、そこにはおもちゃ[#「おもちゃ」に傍点]の国の宮殿が、香《かお》りたかい壮麗《そうれい》さをほこっているのであったから。  ところがある夜。——  それは時候はずれの、妙になまあたたかい真夜中の三時ごろのことだったが、このおもちゃ[#「おもちゃ」に傍点]屋の店先《みせさき》へ、そうっと、しのびこんで来たものがあった。妙におどおどとして、バラックをなでていく風の音にも、いちいちぎくりと、とびあがるところを見ると、世の常の来訪者《らいほうしや》とは思えない。  泥棒《どろぼう》——? そうなのだ。いま時分、あんなにそっと入って来るのは、盗人《ぬすびと》以外にあるはずがない。それにしてもこの泥棒の、なんとビクビクしていることよ。暗がりのなかでひっきりなしにふるえているのが見えるし、はあはあという息づかいが、本人に気の毒なほど、バラックのなかに響《ひび》きわたるのである。この泥棒、きっと新米《しんまい》にちがいない。  それに——この泥棒、たいへん柄《がら》が小さいのである。背伸《せの》びして、やっとおもちゃ[#「おもちゃ」に傍点]の陳列棚《ちんれつだな》にとどくかとどかぬくらいである。脚《あし》をまげて、腰《こし》をかがめて、わざとあんなふうをしているのであろうか。いや、どうやらそうではないらしい。……  おもちゃ[#「おもちゃ」に傍点]屋の店先は暗かった。店も奥《おく》も電気が消えていた。しかしそこはあやめもわかぬ真っ暗がりというわけではない。昼間こそ気がつかないが、夜になるとよくわかる。バラックは節穴《ふしあな》や隙間《すきま》だらけで、そこから表の月光が、滝《たき》のようにあらい縞目《しまめ》をつくって降りそそいでいる。外はよい月夜なのである。  泥棒は陳列棚のそばにうずくまって、しばらく呼吸《いき》をととのえているふうだったが、気もようよう落ち着いてきたのか、じりじりとはうように二、三歩身動きした。と、そのとたん、ひと筋《すじ》の月光が、矢のように顔をさしつらぬいたが、なんと、その顔を見るとこの泥棒、まだやっと十二か十三の子供なのである。柄が小さいのも道理であった。そしてまた、おもちゃ[#「おもちゃ」に傍点]屋としてはまことにふさわしい泥棒だった。  少年の眼《め》はおびえていた。小鼻がたえずぴくぴくふるえていた。しかしかれがおびえているのは、おもちゃ[#「おもちゃ」に傍点]屋の主人に見つかりはしないかという懸念《けねん》からではなかった。かれはこよいここの主人が留守《るす》であること、したがっていまこのイロイロ玩具店にはだれもいないことをよく知っていた。  かれがおびえているのは、われとわが影におののいているのである。自分で自分の冒険《ぼうけん》にスリルを味わっているのである。  だからそのスリルが去っていくと、少年の眼からはしだいにおびえの色が消えていった。そしてそれにとってかわって現われたのは熾烈《しれつ》な渇仰《かつごう》のいろである。少年は、いつもそこにこの家の主人が、腰をおろして店番をしている腰掛《こしか》けに腰をおろすと、生意気《なまいき》にも脚《あし》を組み、膝《ひざ》のうえに頬杖《ほおづえ》ついて、ゆっくり店のなかを見廻《みまわ》している。はじめのうちは、まだなんとなくぎごちなく、落ち着かないふうであったが、だんだん慣《な》れて大胆《だいたん》になってきたのか、その眼には幸福に酔《よ》ったもののような、よろこびがあふれてくる。  間もなく少年は、ポケットから煙草《たばこ》とマッチを取り出した。いまどきはこんな少年でさえ煙草を喫《す》うと見えるのである。闇《やみ》煙草らしい手巻きの一本を口にくわえると、少年はマッチをすりかけたが、そのときになってはじめて、この無断侵入者に気がついたのか、奥から小さな動物が、足音もなくやって来た。形から見ると猫《ねこ》らしい。しかしこの猫は、無断侵入者のすがたを見ても、別に怒りもしなければ、怪《あや》しみもしなかった。反対に少年の脚にからだをこすりつけると、ゴロゴロと咽喉《のど》の奥で甘《あま》えている。 「ああ……トマ公……」  少年は膝のうえに猫を抱《だ》いてやる。それで猫のすがたがはっきりと、月光のなかに浮きあがったが、なんと、その猫は見事に赤と黄色のだんだら縞《じま》に染《そ》めわけられているのである。 「トマ公……おまえ、きょう、毛を塗《ぬ》りかえてもらったんだね」  少年は猫のからだに頬《ほお》ずりしながら、咽喉の奥でかすかに笑った。  このトマ公は、イロイロ玩具店の招き猫で、おもちゃ[#「おもちゃ」に傍点]屋の猫らしく、いつも色美しく化粧《けしよう》されている。今日はまた塗りかえられたばかりとみえて、赤と黄と、染めわけられた毛並みが、とくに美しく鮮《あざ》やかだった。  このおもちゃ[#「おもちゃ」に傍点]の猫を膝に抱いて、少年の心はいよいよ得意《とくい》にふくれあがった。かれはきっと、おもちゃ[#「おもちゃ」に傍点]の国の王様になった気持ちなのだろう。胸をはって、煙草を口にくわえて、気取った手付きでマッチをする。マッチの焔《ほのお》がめらめらと、一瞬《いつしゆん》、ねっとりとした暗闇《くらやみ》をひきさいた。  少年がきゃっと叫んでとびあがったのはその瞬間《しゆんかん》なのである。トマ公が膝からふり落とされて、不平らしくニャーゴと啼《な》いた。 「ト、ト、トマ公、あ、あ、あれはなんだい。あれも、あれも、あれも、に、人形かい」  とびあがった拍子《ひようし》にマッチは消えて、またもとのねっとりとした薄暗《うすくら》がり、その薄暗がりのなかに、さまざまな人形や仮面《かめん》が並《なら》んでいる。だが、そのなかにただ一つ、人形でも仮面でもない顔が、髪《かみ》ふりみだした白い女の首が、宙《ちゆう》にうかんで、ギロリとうえから、少年をにらんでいる。しかも、片眼《かため》だけが異様なかがやきをもって……。  少年の眼はおびえておののいた。薄い鼻翼《びよく》がぶるぶると痙攣《けいれん》した。 「わっ、首つりだア!」  少年の心臓は咽喉《のど》のところまでふくれあがった。かれはすぐにも表へ跳《と》び出しそうな恰好《かつこう》をした。それにもかかわらず、もういちどかれがそこに踏みとどまったのは、恐怖《きようふ》のために足がすくんだせいばかりではない、好奇心《こうきしん》がかれの脚に鎖《くさり》をつけたのだ。  あの眼は……あの片眼はどうしたのだろう。もう一方の眼は薄白くにごっているのに、片眼だけが宝石のように、キラキラ光っているのはどういうわけだろう。——少年はまた一歩あとへ引き戻す。腰掛けをひき寄せて、そのうえに爪先《つまさき》立って背伸《せの》びをする。好奇心が恐怖に打ち克《か》ったのだ。少年のおののく指が、宝石のようにキラキラ輝く片眼にふれた。……  それから間もなく。  トマ公を抱いた少年が、こけつまろびつ、月下の廃墟《はいきよ》に逃《に》げていったあとのおもちゃ屋の店先には、あいかわらず、髪ふりみだした女の顔が、ねっとりとした薄闇《うすやみ》のなかにうかんでいたが、不思議なことには、さっきまで宝石のように輝いていたあの片眼は、もうそこには見られなかった。その眼のあった跡《あと》には、ぞっとするような薄気味悪い、醜《みにく》い洞穴《ほらあな》があいている。……  お姫様や道化師《どうけし》や、黒ん坊や悪魔が、眼《め》ひき袖《そで》ひき、声のない忍《しの》び笑いをクスクス笑った——と、見えたのは、月光の魔術《まじゆつ》であったろうか。     三 「——で、今朝《けさ》この店へかえって来た僕《ぼく》が、表の戸をひらこうとして、なにげなくひょいと店の隅《すみ》を見ると、そこにユカリのからだがブランと天井《てんじよう》からぶら下がっているではないか。そのとき僕がどんなに驚いたか、いまさらいうだけ野暮《やぼ》だ。僕はすぐに警察へとどけなければならぬと思った。事実僕はあの屍体《したい》を見ると、すぐさま表へ飛び出して、お巡《まわ》りさんを探しにいったのだ。ところがその途中《とちゆう》でふと僕の考えがかわった。というのは、ユカリは果たして、みずから縊《くび》れて死んだのであろうか。いやいや、ひょっとするとだれかが絞殺《こうさつ》して、首縊《くびくく》りの真似《まね》をさせておいたのではあるまいかと、そういう疑問が起こったからだ。もし後の場合だとすると、これはうかつに警察へとどけられぬ。なぜならば、昨夜僕はユカリとここで逢《お》うているのだ。そして喧嘩《けんか》同様に、あの女をここへおっぽり出して、僕は飛び出していったのだ。他殺とすれば当然疑いは自分にかかってくる。——と、そう気がついたから、僕はもう一度ここへ引き返し、首をくくっているユカリの咽喉《のど》のまわりを、調べてみたのだ。すると果たしてユカリの咽喉には、ありありと紫《むらさき》色の指の跡《あと》がのこっていた。ユカリはやはり、自ら縊れて死んだのではなかったのだ。だれかに絞殺されて、あそこにブラ下げられたものなのだ。そこで僕は警察へとどけることは止《や》めにして、その代わり、君たちにここへ集まってもらったのだ」  焼け跡に一軒ポツンと建っているイロイロ玩具店は、今日は朝から表があかない。いや、表のみならず、裏の木戸《きど》までぴったり閉《し》めてあったから、ひとが見たらだれもいないと思ったろうが、実際は閉めきったイロイロ玩具店の奥の間《ま》では、いま、七人の若者が集まって、濛々《もうもう》と渦巻《うずま》く煙のなかに、蒼白《あおじろ》い緊張《きんちよう》が、研《と》ぎすました剃刀《かみそり》のように冴《さ》えかえっていた。  もし諸君が、この奥の間から中仕切《なかじき》りをとおして、表の玩具店を見られたら、そこにはまだ若い女の首つり死体が、ブランとブラ下がっているのに気がついたろう。その女は粗末《そまつ》な、くたびれたワンピースを着ていた。断髪《だんぱつ》の髪が乱れて、白粉《おしろい》のはげた肌《はだ》の色が、薄気味悪い鉛色《なまりいろ》をしていた。そして、片眼は依然《いぜん》として、黒い、醜《みにく》いうつろとなって、どんな奇怪《きつかい》な仮面よりも、十層倍も気味悪い相貌《そうぼう》を呈《てい》していた。  七人の若者の中央に陣取《じんど》っていた、この玩具店のあるじの武田武雄は、ギラギラするような眼で、他の六人を見廻《みまわ》すと、ふたたび言葉をついで語りはじめた。 「ユカリの死が自殺でなくて、他殺とわかると、なぜ警察へとどけないで、君たちに来てもらったか、それを話すまえに僕はいちど君たちに、僕とユカリの昔の仲を思い出してもらいたいと思う。  三年以前僕とユカリは恋仲《こいなか》で、しばらく同棲《どうせい》していたくらいだ。ところが今度|復員《ふくいん》してみると、ユカリは行方《ゆくえ》不明になっている。しかもどういうわけか君たちは、ユカリのことを話したがらなかった。消息《しようそく》不明——と、ただそれだけで、妙《みよう》に奥歯《おくば》に物のはさまったような口ぶりだった。君たちの話したがらない風情《ふぜい》を見て、僕もあえて追及せず、あきらめたようなふうを示していた。しかし、君たちも知ってのとおり、僕という人間は、物事を中途半端《ちゆうとはんぱ》にできない性質なのだ。よし、君たちが話してくれないなら、ほかの方面からでもきっと突き止めてみせると決心したのだ。そこで僕は、昔ユカリがつとめていた喫茶店《きつさてん》の朋輩《ほうばい》に手をまわして、だんだんききこんでみたのだが、その結果わかったところは……なるほど、これじゃ君たちが話したがらないのも無理はないと思った。  ユカリは僕が応召してから、三月《みつき》とたたぬうちに、豚《ぶた》のような軍需《ぐんじゆ》会社の親爺《おやじ》の思いものとなって、わが世の春を謳歌《おうか》していたという。なるほどこれじゃ君たちが言葉を濁《にご》すのも無理ではないと思った。いや、むしろ沈黙《ちんもく》を守りつづけてくれた君たちの友情に、僕はどんなに感謝したか知れない。自分でもこんなこと、骨を折って調べるのじゃなかったと悔《く》やんだくらいだ。  だから僕はユカリの妾宅《しようたく》が空襲《くうしゆう》で焼けたことや、終戦後のショックで戦争|成金《なりきん》の旦那《だんな》が脳溢血《のういつけつ》を起こして死んだことや、また、それ以来ユカリの消息がわからないということをきいても、もうなんの感動も起こらなかった。豚の餌《えさ》になった女に、僕はもうなんの未練《みれん》もなかった。彼女のみちは彼女自身がえらんだのだ。よし現在、彼女がどんな不幸な境遇《きようぐう》におちているとしても、それは僕の知るところではない。  君たちも知ってのとおり、僕はかなり情にもろいほうだが、一方、あきらめも悪いほうではない。縁《えん》なき衆生《しゆじよう》とわかってみれば、僕はもうユカリのことに心を悩《なや》まされるようなこともなかった。それに幸い仕事のほうが忙しくなってくれたのでユカリのことは忘れるともなく忘れていたのだ。ところがそこへ、昨夜ユカリがやって来た。荒《すさ》んで、くたびれて、野良犬《のらいぬ》のようによれよれになって。……  ユカリが来たのは、むろん昔どおりになってくれというのだった。それに対して僕は太公望《たいこうぼう》みたいな返事をした。事実、僕はひとめ見て、もうこの女はいけないと思ったのだ。昔、僕が愛した純真さはあますところなく失われている。変にすれて、図々《ずうずう》しくなって、エロ仕掛けで僕を籠絡《ろうらく》しようとするのが、なんともいえず不愉快《ふゆかい》だった。ところが僕がとりあわないのを見ると、ユカリは今度は手をかえて、泣きながらこんなことをいうのだ。  自分が軍需成金に靡《なび》いたのは決して心からではない。暴力をもってむりやりに征服《せいふく》されたのである。しかも、それには橋渡しをした男がある。その男が変な家へ自分をつれこみ、酒で自分を盛りつぶした。そして今度気がついたときには、自分は豚のような戦争成金の腕にいだかれ取りかえしのつかぬ体にされていた。それ以来、自分は自暴自棄《じぼうじき》におちたのだと。……それでもまだ僕が相手にしないのを見ると、ユカリはまたこんなことをいった。  その橋渡しをした男、自分を欺《あざむ》き、豚の餌に供した男はあなたの親友である。そしてその男は、いまもイロイロ玩具《がんぐ》組合の仲間になっている……」  武田武雄はそこでまた、熱っぽい、ギラギラする眼で六人の仲間を見渡した。六人の若者たちは、シーンと押し黙《だま》ったまま、むやみやたらと煙草を吹かしている。狭《せま》い部屋のなかには、お互いの顔も見えないほど、濃《こ》い煙の幕が立てこめていた。 「僕はむろん、そんな言葉を信じようとは思わなかった。……」  武田武雄はまた言葉をついだ。 「女という奴は自分に不利だと見ると、どんな嘘《うそ》でも吐《つ》くものだ。だから僕は鼻の先でせせら笑っているつもりだったが、ことが友人諸君に関するだけに、もう聴《き》いているに耐《た》えなかった。そこで僕が座を立って出ていこうとすると、ユカリは僕にむしゃぶりついて、最後にこんなことをいったのだ。  その男、自分を売った男は、自分が昔の秘密を打ち明けはしないかと思ってビクビクしている。もしそのことをしゃべったら、自分を殺してしまうとおどかした。だから、自分はいつ殺されるかもしれない。もし、自分が殺されたら、どうか自分の体を隈《くま》なく調べてくれ。自分は体のある部分に、その男の名前を書いてかくしてある——」  六人の男のあいだに、突然、電流をかけたような衝撃《しようげき》がおこった。一瞬ザワザワとした動揺《どうよう》が若者たちを不安にさせ、ぎごちない疑惑《ぎわく》がかれらの顔を強張《こわば》らせた。みんなおびえたような眼で、互いの表情を探りあっている。 「さあ、それだけいえば、僕がなぜ、警察へとどけないで、君たちに来てもらったかわかるだろう。僕はそのとき、ユカリの言葉に耳をかそうともしなかった。ヒステリー女の囈言《うわごと》と嘲笑《あざわら》い、すがりつく彼女をふりはなして、ここを飛び出すと、田端の工房へいってそこで寝たのだ。だから、今朝かえって来て、あの死体を発見したときも、てっきり、僕を籠絡《ろうらく》することに失敗したので、悲観のあげく、自ら縊《くび》れて死んだのだと考えた。ところが、お巡りさんを呼びにいった途中、ふと考えたのはくり抜かれたあの片眼のことだ。諸君も見られるとおり、あの眼窩《がんか》のうつろには、肉眼をくり抜いたような傷は少しもない。昨夜は僕も気がつかなかったが、いまから思えば、どうも片方の眼だけが、その輝きや瞳《ひとみ》のぐあいに尋常でないものがあったように思う。そのとき僕は、ヒステリーのせいだとばかり考えていたのだが、ひょっとすると、あれは義眼《ぎがん》ではなかったか。……そう気がついたから僕は急いでとってかえしたのだ。それが義眼であったにしろなかったにしろ、自分の眼玉《めだま》をくり抜いてから自殺する奴もない。殺してからだれかがくり抜いたにちがいない。と、そう気がついたからだ。そして引き返して調べた結果は、やはり明らかに他殺だった。……  さて、こうなってくるとおのずから問題がちがってくる。ユカリが義眼をはめていたとしたら、だれが、なんのためにそれをくり抜いていったか。……そこで思い出すのはユカリが昨夜最後にいった言葉だ。自分を欺いた男は、いまイロイロ玩具組合員のなかにいる。そしてそいつは自分を殺すとおどかしている。自分はそいつの名を書いて、体のある部分にかくしてある……と、ユカリはそういった。体のある部分……それは義眼の中だったのではないか」  武田武雄はそこで言葉を切ると一人一人、若者の顔を見ていった。それから咽喉の奥でかすかな、気味悪い笑いをあげると、 「さあ、白状したまえ。君たちのなかに昨夜、ここへ来た人物があるはずなのだ。君は? 君は? 君は? 君は……? はははは、だれも昨夜ここへ来た奴はないというのだね。古谷君、君も昨夜ここへ来なかったというのだね」  特別名をさされたので、古谷布留三はぎくりとしたように顔色をかえた。 「むろん、……僕は来やあしない……。僕はもう二、三日、ここへ足踏《あしぶ》みしたこともない」 「はははは!」  突然、さしとおすような鋭《するど》い、皮肉な笑い声を武田武雄があげたので、一同はぎょっとしてかれの顔を見直した。古谷布留三の顔色は、真《ま》っ蒼《さお》をとおり越《こ》して土色になっていた。武田武雄は一句一句に力をこめて、 「古谷君、君は昨夜ここへ来なかったという。いや、二、三日ここへ足踏みもしなかったという。それだのに、どうして君のズボンに、赤と黄色の猫の抜《ぬ》け毛がついているのだ。赤と黄色の猫なんて、世界じゅう、どこを探したってトマ公よりほかにはいないはずだぜ。昨夜君はここへ来てユカリを殺した。そのとき、無心のトマ公が、君の脚に体をこすりつけたのだ。しかも、昨日までのトマ公は緑の一色に塗《ぬ》ってあった。その緑が剥《は》げてきたから、昨夜ユカリが来るまえに、僕が赤と黄色に塗りかえてやったのだ。……」  古谷布留三は自分のズボンに眼をやったが、そこについている二、三本の猫の抜け毛を見ると、突然がっくりと、朽木《くちき》を倒《たお》すように前にのめった。……     四 「私の話はこれだけですが……」  と、堀井君は語るのである。  ただ、妙なことには古谷布留三、かれが後に白状したところによると、ちゃんと代わりの義眼を用意していて、それをユカリの眼玉にはめていったんだそうです。さらに妙なことには、古谷が持ちかえったユカリの義眼は、別になんのからくりもない、あたりまえの義眼だったそうです。では、ユカリはどこに犯人の名を書いていたかというと、足の裏の土踏《つちふ》まずに、墨《すみ》くろぐろと書いてありましたよ。靴下《くつした》をはいていたから、古谷も武田もそれに気がつかなかったのですが、それよりも第一に、古谷布留三、あまりロマンチックに考えすぎた。そりゃあ、義眼のなかに秘密がかくしてあったほうが、話としてはたしかに面白《おもしろ》いが、ユカリはそれほどロマンチックじゃなかったんですね。それを古谷は一途《いちず》に義眼と眼をつけたから、足の裏まで調べなかったんです。ははははは、これも探偵《たんてい》小説中毒のせいかもしれませんね。  ところで、古谷が折角《せつかく》用意してきた代わりの義眼はどうなったか、それは二、三日してわかりましたよ。上野《うえの》にたむろしている戦災|孤児《こじ》の史郎《しろ》ちゃんというのが、トマ公を連れて来てくれたんです。史郎ちゃん、別に盗みが目的でなく、ただもう一途におもちゃ[#「おもちゃ」に傍点]の王国に憬《あこが》れて、あの晩、店へしのびこんだのですが、そのとき、ユカリの義眼にさわってみた。そしてそれをいじくっているうちに、ポロリと眼玉が抜け出してどこかへ転《ころ》がったので、史郎ちゃんびっくりして飛び出してしまったんですね。その話をきいてから、一同総動員で店のなかを探したところが、なんとその義眼は、売り物のビイ玉のなかにちゃんとおさまってましたよ。ははははは。史郎ちゃんはいま武田武雄に引き取られています。そして憬れのおもちゃ[#「おもちゃ」に傍点]の王国の番人として、大得意でハリ切っていますから御安心下さい。 [#改ページ] [#見出し]  菊花大会事件    燃える自動車  赤坂見附《あかさかみつけ》から三宅坂《みやけざか》へぬける、さびしい舗装《ほそう》道路の途中《とちゆう》だった。  新日報社の記者|宇津木俊助《うつぎしゆんすけ》は、霧《きり》にぬれたアスファルトのうえに、コツコツと単調な靴音《くつおと》を立てながら、外套《がいとう》のポケットに両手をつっ込《こ》み、背中《せなか》をまるくして歩いていた。  道の片側《かたがわ》は清水谷《しみずだに》公園の森だ。ふかい夜霧《よぎり》のなかにじっとりぬれて立っている。  夜の十時。下町の空には、まだ夜霧をこがすちまたの灯《ひ》が、遠火事のようにうるんでいたが、このあたりときたら、真夜中も同様の淋《さび》しさだ。  事変以来、交通機関がしだいに逼迫《ひつぱく》してくるとともに、市民全体に早寝の習慣がついたのは、悪い傾向《けいこう》ではない。今ごろ、こんな場所をコツコツ歩いているなんて、おそらく新聞記者のほかにはあるまいな。——宇津木俊助はそんなことを考えながら、べつに急ぐふうもなく、暢気《のんき》そうにコツコツと歩いている。  それにしても物凄《ものすご》い霧だった。まるで不透明《ふとうめい》な白玉の世界を歩いているように、霧は一歩ごとに深くなった。しまいには乳色《ちちいろ》の霧が渦《うず》を巻いて俊助の周囲をながれた。帽子《ぼうし》のひさしからポタポタと滴《しずく》がたれはじめた。 「わっ、こらたまらんぞ。まるで霧のなかを泳いでいるようなもんや」  感嘆《かんたん》したときのくせで、俊助はおもわず大阪|弁《べん》でつぶやきながら、ふと、一昨年|中支《ちゆうし》作戦に報道班として従軍したときのことを思い出した。  匪賊《ひぞく》に後方を遮断《しやだん》されて、本隊に合するために、同僚《どうりよう》とともに、何里も何里も迷いあるいた泥濘《でいねい》。——あのときはしかし霧ではなかった。糠雨《ぬかあめ》だった。方何百キロという曠野《こうや》を覆《おお》うて、いくら歩いても、いくら歩いても切れ目のない糠雨の密雲《みつうん》。 「ふむ、兵隊さんたちは、いまでもあんな困苦を嘗《な》めているんやなあ」  俊助が思わず、感慨《かんがい》ぶかげにそんなことをつぶやいたときである。うしろからさっとヘッドライトの光が、俊助の体をはいて、 「あっ!」  思わずとびのいた拍子《ひようし》に、一台の自動車がけたたましく警笛《けいてき》を鳴らしながら、俊助のそばを通りぬけるとすぐ向こうのカーヴを曲がって見えなくなった。 「畜生《ちくしよう》ッ。いまいましい奴《やつ》や。いまになって警笛を鳴らしたって何になるもんか」  路傍にたたずんで、俊助がいまいましそうにつぶやいているときだった。またもやうしろからやって来た一台の自動車が、ヘッドライトの光でゴーッと霧をかきまぜながら、これまた燕《つばめ》のように俊助のそばを通りぬけるとまえの自動車を追《お》うように、まっしぐらに向こうのカーヴに姿を消した。 「なんだい、ありゃア……まるで競走《きようそう》してるみたいじゃないか」  俊助はあとを見送って、呆《あき》れたようにつぶやいたが、そのときだった。パン、パーンと、ふかい夜霧を震《ふる》わせてひびいてきたのは鈍《にぶ》い爆音《ばくおん》だ。しかもいま、自動車が曲がっていった向こうのカーヴからだ。  俊助はそれを聞くと、一瞬《いつしゆん》ぎょっとしたように立ちどまったが、すぐつぎの瞬間《しゆんかん》、発作的に五、六歩走り出した。  と、そのとき、またもやドカーンという物凄《ものすご》い爆音がしずかな屋敷町《やしきまち》をふるわせたかと思うと、向こうの曲がり角がパッと明るくなった。 「わっ、こら、どないしたんや」  俊助がびっくりしてその方角まで駈《か》けつけてみると、一|丁《ちよう》ほど向こうの路傍に、自動車が一台、物凄《ものすご》い焔《ほのお》をふきながら停《と》まっていた。    片腕《かたうで》の男  こうなると宇津木俊助、何もことを好むわけではないが新聞記者の本能がじっとさせておかない。  宙をとんで現場へかけつけると、折りから向こうから走って来たひとりの男、はずみをくらって二人はいやというほど正面|衝突《しようとつ》をした。 「やっ、こら失礼」 「いえ、なに、僕のほうこそ」  と、そういう男の顔をみると、たしかにさっき俊助のそばを通りぬけていった、二台の自動車のうち、あとの奴に乗っていた男だ。  年のころは俊助と同じぐらいだろう。帽子を目深《まぶか》にかぶり外套《がいとう》の襟《えり》を立て、妙《みよう》に人眼《ひとめ》をさける風情《ふぜい》だったが、俊助がそれと気づいたのは後のこと、何しろ、そのときは燃えあがる自動車に気をとられていたものだから、相手の怪《あや》しい挙動にもとんと気がつかなかったのである。 「こりゃいったいどうしたんです」 「ガソリンに火がはいったんでしょう」 「乗っている連中は?」 「あそこに倒《たお》れている。これはとても駄目《だめ》です。手がつけられない」  手がつけられない——と、いう言葉を聞くと同時に、俊助ははっとした様子で、相手の左|腕《うで》に眼をやった。さっきいやというほどぶつかった拍子に、何やら胸にこたえた固い感触《かんしよく》。俊助はそれをいま思い出したからである。  見ると相手は左手を、外套のポケットに入れたままだったが、どうやらそれは義手《ぎしゆ》らしかった。  片腕の男。——何しろ場合が場合、時が時だ。俊助は一種異様な感じだったが、そのとき、爆音をききつけて、寝間着《ねまき》のままでバラバラと、とび出して来たのは附近《ふきん》の人々。 「やっ、これはどうしたんです」 「衝突《しようとつ》したんですか」 「ともかく、このまま放《ほ》っとくわけにはいかない」  口々に叫びながら、しかし、こういうときにこそ日ごろからの防空訓練がものをいうのである。騒《さわ》ぎの正体を見とどけると、すぐさまそこに、防火群の一隊が組織された。  バケツがリレーされる。砂嚢《すなぶくろ》がとぶ。ぬれた蓆《むしろ》が持ち出される。  ふかい夜霧も何のその、屋敷町《やしきまち》はうえを下への大|騒動《そうどう》、俊助もむろんその中に加わって、大童《おおわらわ》の奮闘《ふんとう》だったが、幸い一同の活躍《かつやく》よろしきをえて、それから間もなく、大事にも至らず消しとめることができたのは何よりのことだった。 「いや、どうも御苦労さま」 「うまく消しとめることができてしあわせでしたね」 「これというのも日ごろの訓練の賜《たまもの》でしょう」 「いや、なんでも物事は稽古《けいこ》をつんでおくもんですな」  日ごろの訓練が実をむすんだので、みんな満足だった。焼け落ちた自動車の残骸《ざんがい》をとりまいて口々にしゃべっていた。 「それにしても大変でしたね。いったいどうしてこんなことになったのでしょう」 「ガソリンに火が入ったのだというが妙《みよう》ですね。そうむやみにガソリンタンクに火がつくはずはありませんがね」 「それですよ。ガソリンに火が入ったくらいで、こんな爆発《ばくはつ》はしやしません。御覧なさい。自動車の屋根があんなところまで吹っとんでいる」 「そういえば妙でした。最初パン、パーンというような物音が聞こえましたよ。それからちょっとしてドカーンという音がしたんです。あとのがガソリンの爆発としても、まえの音はなんだったんでしょう」 「そう、そういえば私も聞きましたよ。もしや、これは」  と、いいかけて一同は、はっと顔を見合わすと、思わず口をつぐんでしまったのである。  人々は思わず不安そうな眼を見交わしたが、そのとき早くも俊助は、新聞記者らしい、キビキビとした活躍を開始していた。  まず、焼けくずれた自動車の中にはい込むと、そこに倒《たお》れている男をしらべてみる。客も運転手も、ガソリンの火で焼かれて、相好《そうごう》の識別《しきべつ》もつかぬくらいひどい有様になっている。  さすが暢気《のんき》な俊助も、思わず顔をそむけたが、すぐ気を取り直して、客のポケットを探《さぐ》ってみた。幸か不幸か、客はうつ向けに倒れていたので、胸のほうは大して焼けていなかったのだ。  さて、ポケットを探ると、なかから出てきたのは蟇口《がまぐち》が一つ、ハンケチが一枚、どちらも客の身許《みもと》を証明するようなものではなかったが、ほかに紙片が一枚。  取りあげてみると、いま国技館《こくぎかん》でひらかれている、菊花《きつか》大会の入場券だったが、何気なく裏をかえしてみると、そこに奇妙《きみよう》なことが書いてあるのである。   赤[#横書き。以下すべて]赤赤白白赤赤赤赤 赤赤赤白赤白[#「赤赤赤白白赤赤赤赤 赤赤赤白赤白」は太字]…… 「おや」  俊助は思わず眼を瞠《みは》ったが、そのとき自動車の外から、 「こら、何をしている。出て来ないか」  ようやく警官がやって来たのである。    菊花《きつか》大会 「——と、いうわけで宝の山に入りながら、手をむなしくして引きあげたというのは全くこのことです。なんとも申し訳ありません」 「ふむ。すると君《きみ》は、その片腕の男が怪《あや》しいというんだね」 「そうなんですよ。警官によび出されて、事件を最初に発見したのは君かと聞かれたものだから、へえ、私と片腕の男ですといいながら、あたりを見廻《みまわ》すと、奴《やつこ》さん、いつの間にやら煙のように消えてしまっているじゃありませんか。まったくとんだ大しくじりでした」  その翌日のことである。いま警視庁からかえって来たばかりの宇津木俊助は、寝不足《ねぶそく》の眼《め》をショボショボさせながら、編輯長《へんしゆうちよう》のまえで、逐一《ちくいち》昨夜の事件を報告していた。 「いまから考えればそいつ怪しいことだらけなんです。奴さん、たしかにまえの自動車を追跡《ついせき》していたんですよ。それに、燃えあがる自動車のそばへかけつけて来たときも、妙に落ち着いていやがってね、何もかもわかっているという顔つきでした。あのときどうしてそれに気がつかなかったのかと今から考えると残念でなりませんや。下司《げす》の智慧《ちえ》はあとからというが、まったくこのことですな」  日ごろ敏腕《びんわん》をもって知られているだけに宇津木俊助、昨夜の失敗にすっかり悄気《しよげ》たかたちだったが、編輯長はそれを慰めるように、 「まあ、いいさ。義手をはめた男という、大きな特徴《とくちよう》があるんだから、そのうちに警視庁であげるだろう。ときに、惨死体《ざんしたい》の身許《みもと》はわからないのかね」 「分かりっこありませんや。何しろすっかり焼け崩《くず》れているんですからね。もっとも運転手の身許はわかったらしいですが、何しろこれも死んでいるので、どこでその客を拾ったのか、どこまで送っていく途中だったのか、これまたさっぱり分からぬときています。何から何までぐれはま[#「ぐれはま」に傍点]ですよ」 「ふむ。ときに、その自動車の爆発というのが、爆弾《ばくだん》によるものだということは間違いないんだね」 「へえ、そのほうは間違いありません。警視庁でもそれで大分|緊張《きんちよう》しているようですが……ときに編輯長、今日ひとつ、一日ひまを戴《いただ》けませんか。何しろ昨夜から一睡《いつすい》もしないで眠《ねむ》くてしようがありませんや」  一見《いつけん》無理もない話だが、しかし宇津木俊助としては、はなはだ似合《にあ》わしからぬ申し分なのである。事件に取っ組むと、二日でも三日でも不眠《ふみん》不休で活動するこの男、昨夜の事件くらいでへこたれるような人物でないことは、だれよりもこの編輯長がよく知っている。 「よしよし、一日でも二日でもゆっくり休養するがいい。その代わり、たんまり土産《みやげ》を頼《たの》むぜ」 「へえ」 「わかっているよ。何かあたりがついているんだろう。まあいいや。眼鼻《めはな》がつくまでは、絶対にしゃべらぬ君のことだ。せいぜい活躍したまえ。これは一社の問題ではない。国家にとって大事件だからな」 「へえ、それじゃいずれ後《のち》ほど……」  と、そのまま新聞社を飛び出した宇津木俊助、下宿へかえって寝るのかと思うと、案《あん》の定《じよう》そうではない。すぐその足でやって来たのは両国《りようごく》の国技館。  昨夜、死体のポケットから発見したのは、たしかに昨日の切符《きつぷ》だった。しかも鋏《はさみ》が入っていたところを見ると、その切符は昨日使用されたものにちがいないのだ。無駄《むだ》になったそういう切符を、他人からもらうはずがないとすればあの当人こそ、昨日この国技館の菊花大会をみに来た本人でなければならぬ。  爆弾事件と、優《ゆう》にやさしき菊花大会。  この取り合わせは一見はなはだ似合わしからぬが、それだけに何か大きな秘密《ひみつ》がありそうに見える。いやたとえ深い秘密はないにしても、あの死体の男の昨日の足どりを知るうえからでも一応見物してみる必要があるのだ。  国技館へ来てみると、まだ昼まえにもかかわらずかなりの入りだ。考えてみると今日は日曜日、房州《ぼうしゆう》へんのお百姓《ひやくしよう》が弁当持参での見物だった。  そういう群集にもまれながら、俊助が中へ入ってみると、ある、ある。大輪、小輪、乱れ咲き、狂い咲き、いろさまざまの菊の花が、団子つなぎの紅提灯《べにぢようちん》のしたに飾《かざ》られている。赤いのもあった。黄色なのもあった。白いのもあった。幾百と知れぬ菊の鉢《はち》が、せまい廻廊《かいろう》の雛段《ひなだん》に、ずらりとならんだその見事さ。そしてその菊花のあいだあいだに点綴《てんてつ》されたのが、眼《め》もさめるような菊人形《きくにんぎよう》。  俊助は、うかうかとしまいまで廻《まわ》って、 「こいつはいけねえ。いまは花の見事さに感心している場合じゃなかったんだ。仕方がない。もう一度見て廻ろう」  螺旋《らせん》形の廻廊を、もう一度逆にとってかえした宇津木俊助、三階まで来ると、世話人の男衆がブツブツとつぶやいているのが耳に入った。 「チェッ、仕方がねえな。だれかが菊の鉢を並べかえやがった」  ピンと神経をハリ切っている俊助、どんな些細《ささい》なことでも見のがしはしなかった。 「どうしたんだ、爺《じい》さん、だれかが菊の鉢を並べかえたというのかい」 「そうなんですよ。いったいなんのためにこんな悪戯《いたずら》をしやがるんでしょうな。昨日《きのう》の朝も並べかえてありましたよ。いや昨日ばかりじゃありません。そのまえにも二、三度こんなことがありましたので」 「ふうん。妙な悪戯をするもんだな。しかし、並べかえたのが不都合《ふつごう》なら、もう一度もとどおりにすればいいじゃないか」 「なあに、面倒《めんどう》だからそのままにしておきますのさ」  余計なお世話だといわぬばかりに、男衆はジロリと俊助のほうを見て、そのまま向こうへ行ってしまったが、その後ろ姿を見送っているうちに、突然俊助ははっとした。心臓がにわかにドキドキ鳴り出した。   赤[#横書き。以下すべて]赤赤白白赤赤赤赤 赤赤赤白赤白[#「赤赤赤白白赤赤赤赤 赤赤赤白赤白」は太字]……  昨夜、死体の男が持っていた、菊花大会の入場券の裏にかいてあった奇妙な文句。そしてここにある菊の鉢は、すべてこれ、赤と白ばかりの大輪《たいりん》ではないか。    逃《に》げる女  俊助は、急いであたりを見廻した。ちょうど幸い、そのへんに人《ひと》の姿は見えなかった。いま余興がはじまったとみえ、みんなそのほうへ急いで行ったのである。  俊助はポケットから手帳を取り出すと、急いでそこにならんでいる赤と白との菊花の排列《はいれつ》をうつしとった。   赤[#横書き。以下すべて]  赤赤白白赤[#「赤  赤赤白白赤」は太字]   赤赤白白赤赤赤赤[#「赤赤白白赤赤赤赤」は太字]   赤赤白赤赤 赤赤[#「赤赤白赤赤 赤赤」は太字]  鉛筆《えんぴつ》を走らせながら、俊助はまたもや、ドキドキと心臓を躍《おど》らせた。  赤と白とのこの菊の排列に、何か意味があるとすれば、これはきっと暗号になっているにちがいない。 「もしや……あっ、そうだ、そうにちがいないぞ」  俊助はその排列をうつし終わると、大急ぎで入り口までかけつけ、電話をかけて新聞社の電信技師を呼び出した。 「もしもし、こちらは宇津木俊助だが、いま僕《ぼく》のいうとおりにうつし取ってくれたまえ。いいかい、赤、赤赤白白赤赤赤白白赤赤赤赤……いいかね、うつしたね。うつしたらね、その赤をトンにするんだ。そして白をツーにする。トン、トントンツーツートン……どうだ。それで電信|符号《ふごう》になってやしないか」 「待って下さい。トン、トントンツーツートンですね。駄目《だめ》です。こんな符号は電信符号にありませんね」 「ない? そんなはずはないんだが。そうだ。それじゃ赤をツーにして白をトンにすれば……ツー、ツーツートントンツー……」 「駄目です。やっぱりいけません。そんなのは電信符号にありませんよ」 「いけないかい」 「いけません」  がっかりとして受話器をかけた宇津木俊助、肩《かた》をすぼめてもう一度、さっきの雛段《ひなだん》のほうへ取ってかえしたが、とたんにぎょっと立ちどまった。  俊助の足音に、スーッと雛段のまえをはなれた女、見れば洋装《ようそう》の、まだうら若い美人だったが、あわててポケットへ捩《ね》じこんだ手に握《にぎ》っていたのはたしかに鉛筆と手帳ではないか。どうやら女も、菊花の記号をうつしとっていたらしいのである。  女は静かに顔をそむけた。そして、手摺《てす》りによりかかるようにしながら、人気《ひとけ》のない廻廊を、落ち着いた歩調で歩いていく。 「畜生ッ、空《そら》とぼけてたって騙《だま》されるもんか」  俊助は帽子の縁《ふち》をぐいとおろした。外套《がいとう》の襟《えり》を立てた。そして菊をみるような恰好《かつこう》をしながら、油断なく女のあとをつけていく。女はそれに気がついているのかいないのか依然《いぜん》として悠々《ゆうゆう》たる歩調で歩いていたがやがて余興場の雑踏《ざつとう》へまぎれ込むと、にわかに足を速《はや》めるのである。むろん俊助がそのあとをくっついていったことはいうまでもない。  やがて国技館を出ると、女はすぐに新宿《しんじゆく》行きの電車に乗った。俊助もつづいて乗った。須田町《すだちよう》まで来ると、女は三《み》ノ輪《わ》行きに乗りかえた。俊助も乗りかえた。上野広小路《うえのひろこうじ》で女はふたたび大塚《おおつか》行きに乗りかえた。俊助も乗りかえた。  女の態度からはしだいに落ち着きが失われてくる。ソワソワとして、いかにも不安らしい様子が現われた。明らかに俊助の尾行《びこう》に気がついているのである。  俊助はしだいに面白《おもしろ》くなってきた。 「へん、お嬢《じよう》さん。じたばたしたってもう駄目だぜ。いったん喰《く》いついたからにゃ、だに[#「だに」に傍点]の性《しよう》で金輪際《こんりんざい》はなれやしないのだから」  女は大塚行きの途中でおりると、またもや広小路へとってかえした。そして満員の松坂屋《まつざかや》へとび込むと、一階から八階までぐるりと歩いて、また外へとび出した。見ると真《ま》っ蒼《さお》になって、いまにも倒れそうな恰好《かつこう》をしている。 「可哀《かわい》そうに、どんなにあせったところで駄目だっせ。それより早く、おまえさんの行くところへ案内しなはれ」  俊助は、ますます面白くなってくるのである。  こうして三時間あまりも、追いつ追われつしたあげく、精《せい》も根《こん》もつき果てたような恰好《かつこう》で、女がたどり着いたのは麹町《こうじまち》の六番町《ろくばんちよう》、|市ケ谷《いちがや》のお濠《ほり》を見晴らす土堤際《どてぎわ》の洋館である。そこまで来ると、女はふいに中へとび込んだ。  俊助が急いでその表まで駈《か》けつけると、表札にはただ簡単に兵頭寓《ひようどうぐう》。  俊助はいったんその家のまえを行きすぎた。だれか近所の人に聞いてみようかと思ったが、ぐずぐずしていると籠抜《かごぬ》けされる憂《うれ》いがある。それに鉄は熱いうちに打てというではないか。  俊助は思い切って扉《とびら》をひらくと、 「今日は、ごめんください」  返事はない。しかし玄関をみると女の靴《くつ》が脱《ぬ》ぎすててある。たしかにさっきの女の靴だ。 「ごめんください。お留守《るす》ですか」  依然として返事はなかった。俊助の胸はいよいよ激しく躍《おど》りはじめる。こうなると新聞記者の臆面《おくめん》なさだった。 「ええ、かまへん、踏《ふ》みこんだろ」  靴をぬいで上へあがると、とっつきの部屋をのぞいた。だれもいない。廊下《ろうか》づたいに奥の部屋をのぞいた。カーテンがおりた薄暗《うすぐら》い部屋だ。しかし、その中を一瞥《いちべつ》したとたん、俊助は思わずぎょっと呼吸《いき》をのんだ。  なんともいえぬ変梃《へんてこ》な部屋なのである。壁ぎわのガラス戸棚《とだな》には気味の悪い標本が、ズラリと瓶《びん》づめになって並んでいる。大きなデスクの上には、ガラス管《かん》が蛇《へび》のようにのたくっている。ブンゼン燈《とう》に大きなレトルト、ビーカー、顕微鏡《けんびきよう》、そしていろいろ様々な薬品の瓶。あきらかに、ここは化学実験室なのである。  俊助は一瞬《いつしゆん》迷った。何か罠《わな》がありはしないかと部屋のなかを見廻した。家の中は依然《いぜん》として森《しん》としている。  俊助は、とうとう思い切って中へ入った。内心少なからずおっかなびっくりだったが、それでもそろそろデスクのほうへ近寄っていった。  爆弾《ばくだん》——そんなものが、どこかそこらにありはしないかと見廻した。と、眼についたのはデスクのうえの状差《じようさ》しである。手紙が五、六通さしこんである。のぞいてみると、 [#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]   兵頭|麟太郎《りんたろう》様。 [#ここで字下げ終わり] 「あっ!」  俊助はそれを見ると、何を思ったのか、どすんと大きな安楽椅子《あんらくいす》に腰《こし》を落としたが、そのとたんうしろの扉がさっとひらいた。  片腕《かたうで》の男——昨夜の男がそこに立っているのである。右手にはしっかりピストルを握って、秀麗《しゆうれい》な面《おもて》には一抹《いちまつ》の殺気がみなぎっている。そのうしろから、さっきの女が真っ蒼《さお》なかおをしてのぞいていた。  しばらく無言のまま時刻が流れた。六つの瞳《ひとみ》が、お互いに探りあうように絡《から》みあっていたが、突然、俊助が大声をあげて立ち上がった。 「やっぱりそうや、兵頭君、君は兵頭麟太郎君やないか」  いかにも嬉《うれ》しそうな声だった。 「何?」 「僕や、わからんか。中学で君と同じ級だった宇津木俊助やがな」  とたんに、女がくるくると眼《め》がくらんだようによろめいた。これは安心したせいである。    戦いはこれからだ 「ああ、びっくりした。しかし奇遇《きぐう》だったねえ。どうもどこかで見た女《ひと》やと思ったが、兵頭君の妹さんの三千代《みちよ》さんやとは気がつかなんだぜ」 「あたしこそお見それして……でもほんとによかったわ。宇津木さんにお眼《め》にかかれるなんて、兄さんも嬉しいでしょう」 「とはおっしゃるものの三千代さん、さっきはだいぶびくびくものだったじゃありませんか。おおかた僕を悪党の仲間やと思っていたんでしょう。怪《け》しからん」 「あら、あなたこそ私をそう思って、つけてらしたんでしょう。ほほほほほ」  まったく奇遇だった。兵頭麟太郎と宇津木俊助は二年ほど大阪の中学で同じ級にいた。兵頭の父というのが、いわゆる浮草稼業《うきぐさかぎよう》の官吏《かんり》で、地方を転々としているあいだに麟太郎は二年ばかりその中学へ通っていたのである。  その後、父が東京へ引き上げると同時に、麟太郎も東京の学校へ転校したので、当時の同窓ともしだいに縁がうすくなったが、いまこうして遇《あ》ってみるとやっぱり懐《なつ》かしい。  それに麟太郎と俊助は当時、いちばん親しいあいだがらだった。当時宇津木俊助は腕白《わんぱく》の旗頭《はたがしら》で大いに睨《にら》みをきかせていたものだが、そのかわり学業のほうは香《かんば》しくなく、どうかすると現級留置《げんきゆうとめおき》、手っ取りばやくいえば落第の憂《う》き目《め》に遇《あ》いそうだった。  それをどうにか切り抜《ぬ》けてきたのも、ひとえに兵頭のおかげで、試験が切迫すると、よく蒼《あお》くなって兵頭のもとへ駆《か》けつけたものだ。  その時分から兵頭麟太郎は、精密《せいみつ》な頭脳《ずのう》の冴《さ》えをみせてまれにみる秀才と謳《うた》われていたものである。 「いや。君だとわかって安心した。君ならスパイの手先になるような気遣《きづか》いはあらへんからな」 「失敬なことをいうな」  兵頭麟太郎は愉快《ゆかい》そうに笑っている。 「いや、ごめんごめん。しかし、兵頭、君はその左腕をどうした」 「ああ、これか……」  麟太郎が言い渋《しぶ》っているのを、妹の三千代が横から引きとって、 「兄はね、事変がはじまると間もなく応召して、上海《シヤンハイ》へ行ったものですから……」 「あっ、そうだったのか」  さすが暢気《のんき》な俊助も、思わず坐《すわ》りなおすと、厳粛《げんしゆく》なかおをした。 「失敬した。ここが帰還《きかん》勇士の家とは知らなかったよ。それをかりそめにもスパイの一味だなどと疑うなんて……」 「いや、それはお互いだ。われわれも君の中支作戦従軍記には敬服しているんだよ」 「いや、それはどうも……」  俊助はペコリとお辞儀《じぎ》をした。  そこに短い沈黙《ちんもく》が流れた。それは温かみのある、うつくしい感情の交流だ。湧然《ゆうぜん》としてよみがえってきた昔の友情と新しい親愛の情が、言わず語らずのうちに三人の胸をあたためるのだ。  やがて、俊助は膝《ひざ》をすすめると、 「さあ、こうしてお互いに身許がわかったら、もう何もかくすことはない。兵頭君、昨夜《ゆうべ》からの一件は、あれはどうしたんだね」 「さあ、そのことだ。実は僕も偶然《ぐうぜん》この事件にまきこまれたんだが、これがかくも容易ならぬ一大事だとは、昨夜はじめて気がついたんだよ」  兵頭はにわかにひらき直ると、 「僕がそもそもこの事件に頭をつっ込んだのは五、六日まえのことだ。僕はなんの気もなく両国の国技館へ菊花大会をみにいったのだが……」  すると、そのときちょうど、今日俊助が出会ったと同じようなことにぶつかった。世話役の男衆が、だれかが菊の排列をかえたといって、ブツブツとぼやいているのを聞いたのである。 「ただそれだけのことなんだ。しかし、君も知ってのとおり、僕はうまれつき非常に好奇心《こうきしん》が強いときてる。どんな些細《ささい》なことでも見遁《みのが》せない性分《しようぶん》なんだ。だれかが菊の排列をかえた? なんのために? そんなことをかんがえているうちに、僕はふと、赤と白との菊の排列によって、これが暗号になりうると気づいたんだ」 「ふむ、ふむ。そこまでは僕も気づいたが……」 「むろん、そのときには僕も、これがこんな大事件に関係があるとは思わなかった。むろん自分の物好きから面白《おもしろ》半分に菊の排列をうつしてかえった。そして家へかえると、こいつが暗号なら解《と》いてみようとやってみたんだ」 「で、解けたのかい?」 「解けた」 「なんと出たね」 「シナガワと出たんだ。そのときには、まだ気がつかなかった。むしろ、偶然そういうふうに解けたんじゃないかと思おうとした。しかし、やっぱり気になるもんだから、昨日また出かけてみた。するとなんと今度はシンジュクと解けるように、菊が排列されているじゃないか」 「ふむ。ふむ」 「僕ははっとした。こうなると偶然とはいえない。明らかに何者かがこの菊花大会を利用して暗号通信をしているにちがいないのだ。しかし、新宿というだけでは雲をつかむような探しものだ。しかも相手が何をたくらんでいるかそれもわからぬ。しかし、そのままではどうでもすまされぬので、ともかく新宿駅を見張っていることにしたんだ。すると……」 「すると……」 「すると、昨夜の男が現われたんだ。僕がなぜその男に眼をつけたかというと、新宿駅の混雑にまぎれて、変な奴と街頭連絡をやるのを見たからなんだ。はてなと眼をつけると、あいつ一時預かりから鞄《かばん》をうけとった。どうやらさっきの街頭連絡でチッキを受け取ったらしいんだ。で、こいつ怪《あや》しいぞとばかり、自動車であとをつけていったのだが」 「わかった、わかった。するとその鞄の中に、爆弾《ばくだん》が仕掛けてあったんだね」 「どうもそうらしい。そして、そいつが予期せぬ時刻に爆発したので、ああいう破目《はめ》になったのだ」  俊助はにわかに膝をのり出した。 「そしてその暗号だが、君はどういう鍵《かぎ》で解いたんだね」 「なに、至って簡単さ。電信記号だよ」 「電信記号?」  俊助は唖然《あぜん》とした。 「電信記号なら僕も気がついて、さっきうちの技師に問いあわせたんだが……」 「ははははは、それは駄目だよ。あいつらだって現行の電信符号を使うはずがないじゃないか。僕もはじめは迷ったんだが、調べてみると日本には、現行の電信符号のまえに、二種類の符号があったんだ。そのひとつは安政《あんせい》二年にオランダ人が制作したもので、勝海舟《かつかいしゆう》もこれを使用したとある。鍵はそれなんだ。三千代、きょうのやつを持っておいで」  と、それで兵頭がその日の暗号を解いたところによると、   赤[#横書き。以下すべて][#「赤」は太字]            ・    イ[#横書き]   赤赤白白赤[#「赤赤白白赤」は太字]     ・・−−・   ケ[#横書き]   赤赤白白赤赤赤赤[#「赤赤白白赤赤赤赤」は太字] ・・−−・・・・ ブ[#横書き]   赤赤白赤赤赤[#「赤赤白赤赤赤」は太字]    ・・−・・   ク[#横書き]   赤赤[#「赤赤」は太字]         ・・     ロ[#横書き]  俊助の唇《くちびる》から思わずあっという叫《さけ》びが洩《も》れた。 「池袋《いけぶくろ》だ。池袋駅だよ。さて宇津木君、こうなったらあとはもう警察の領分だ。どうしたらいいか、君のほうがよく知っているはずだよ」 「よしきた!」  俊助は急いで受話器を取りあげたのである。  その夜、池袋駅にはずいぶんたくさんの人がいたが、だれ一人その中で行なわれた大捕物《おおとりもの》に気がついた者はなかった。それほど事件は秘密のうちに行なわれたのである。  一人の男がこっそりと他の男からチッキを受け取った。そして一時預かりから鞄を受け出した。その鞄を提《さ》げて駅から外へ出ようとすると、すうっと二人の男が左右から寄って来て腕《うで》をとらえた。そしてそのまま自動車へのせて警視庁まで送りこんだのである。チッキを渡した男もむろん捕えられたことはいうまでもない。二人とも非常に日本人によく似ていたが、その実、日本人でなかったことも間もなくわかったのである。 「いや、驚いたね。危ないところだったよ。それにしても君の頭脳《あたま》には相変わらず敬服のいたりやな」  事件の後に宇津木俊助が口を極めて褒《ほ》めると、この隻腕《せきわん》の勇士は、にこりともせず、厳粛《げんしゆく》な顔色でこうこたえたのである。 「宇津木君、褒めてもらうのはまだ早いよ。われわれの捕えたのは、ほんの下っ端《ぱ》だ。かれらの背後にはもっと大物がいるはずだ。戦いはこれからだ。ねえ、宇津木君、戦いはまだこれからだよ」 [#改ページ] [#見出し]  三行広告事件    謎《なぞ》の三行広告 「なるほど、君《きみ》の言葉にも一応の理屈《りくつ》はある」  由利《ゆり》先生はゆったりと、煙草《たばこ》をくゆらしながら、おだやかな眼付《めつ》きで愛弟子《まなでし》の三津木俊助《みつぎしゆんすけ》を見やった。 「君はこういうのだね。かれらがいかに謀略《ぼうりやく》に長《た》けているとはいえ、眼色毛色《めいろけいろ》が変わっている以上、むやみにスパイを内地へ潜入《せんにゆう》させることはできない。したがってこと防諜《ぼうちよう》に関する限り、日本はかなり有利な立場にある。——つまり君の意見はこうなのだね」 「そうです。どんな変装の名人だって、白人が日本人に化けることは不可能ですからね。そんな怪《あや》しい奴《やつ》がいたら、すぐふんづかまえてしまいますよ」 「それはそうかもしれない」  由利先生は灰皿《はいざら》のなかで、ジューッと喫殻《すいがら》を揉消《もみけ》すと、少し体を乗り出すようにして、 「しかしね、三津木君、かれらが謀略という点にかけて、ひとかたならぬ曲者《くせもの》だということは君も知っているだろう」 「ええ、それはもちろん知っています」 「じゃ、それほどの曲者が、眼色毛色が変わっているという、ただそれだけの理由で手をつかねているだろうか。いや、それほど悪賢《わるがしこ》いかれらが、あらかじめ今日《こんにち》あるを予想して、何か備えをしておかなかっただろうか」 「というのは——先生のおっしゃることはよくわかりませんが」  俊助《しゆんすけ》は不思議そうな眼をして、由利先生の美しい白髪《はくはつ》を眺《なが》めている。由利先生はにわかに熱っぽい眼つきになって、 「まあ、聞きたまえ、こうなのだ。潮《しお》がひいた跡《あと》をみると、そこには塵芥《じんかい》がいっぱい残っているだろう。なるほど、米英の勢力は退潮《ひきしお》のように東亜《とうあ》から一掃《いつそう》された。しかしそのあとには、まだまだたくさん塵芥が日本人と同じ皮膚《ひふ》と同じ眼の色をもち、日本人と同じ言葉を話し、われわれの生活のなかにまぎれこんでいるとしたらどうだろう」 「すると、先生、先生はこの日本人のなかにそういう塵芥がいるというのですか」  俊助は思わず気色《けしき》ばんだが、由利先生はそれをおさえるように、 「いや、そう早合点をしては困る。わたしのいいたいのはこうなのだ。去年わたしが某《ぼう》方面の要請《ようせい》で上海《シヤンハイ》へ行ったことは君も知っているだろう。そこで活動《かつどう》しているうちに、わたしはある方面から非常に驚《おどろ》くべき情報をつかんだのだ。というのは、重慶側《じゆうけいがわ》のスパイがかなりの多数にわたって、日本内地へ潜入しているというのだよ。しかもかれらは予《あらかじ》め、今日あるを予想して養成された連中で、非常にたくみに日本語を話し、日本人として、何|喰《く》わぬ生活をしているというのだ。なかには戸籍《こせき》さえたくみに偽造《ぎぞう》して、完全に日本人になりすましている奴さえあるという。これがつまり、米英という大きな退潮が、あとに残していった塵芥だが、どうだ、三津木君、これで君は安心していられるかね」  由利先生はそういうと、椅子《いす》に背をもたせて、じっと俊助の眼を見詰めた。  由利先生というのは、麹町《こうじまち》の土手三番町《どてさんばんちよう》に事務所をもっている一個の奇人《きじん》だった。  別に看板《かんばん》をかかげているわけではないが、敏腕《びんわん》な私立|探偵《たんてい》として、かなり世間に知られている。五十にまだ間《ま》のある年ごろだのに、全頭雪のような白髪《はくはつ》に覆《おお》われているのが異彩を放って、世間では白髪の名探偵と呼んでいる。三津木俊助は東都《とうと》新聞に席をもつ新聞記者だが、同時にまたこの白髪の名探偵の愛弟子でもあり、協力者であった。 「先生、それが事実とすればまことに由々《ゆゆ》しき一大事ですが……先生はそれについて何か手懸《てがか》りをもっていられるのですか」 「ところが目下《もつか》のところ、それ以上のことはわからないのだ。しかし、いまわたしがいったことを知っているだけでもためになる。われわれはもっと要心《ようじん》ぶかくならなければならない。そして、どんなささいなことでも、不審《ふしん》なことがあれば、一応|詮議《せんぎ》してみなければならない。たとえば、この三行広告などもそうだが……」  と、そこで由利先生が取り出したのは新聞の切り抜き帳だった。俊助ははじめて覚《さと》った。由利先生がいままで述べた言葉は、すべてこの三行広告を見せるための冒頭《ぼうとう》だったのだ。俊助は眼を光らせながら、 「先生、この三行広告がどうかしましたか」 「ふむ、そこに赤|鉛筆《えんぴつ》で印をつけてあるだろう。その広告をよく見たまえ」  俊助が見ると、それは五月六日付のA紙の三行広告で、次のようなものだった。 ———————————————————————————————————————— [#ここから改行天付き、折り返して4字下げ]  買度《かいたし》 蒲田《かまた》方面に住宅を求む。間数広さを不問。高価にて譲《ゆず》り受度《うけた》し      京橋区|南紺屋《みなみこんや》町  津村 [#ここで字下げ終わり] ———————————————————————————————————————— 「先生、これには別に怪《あや》しい点はありませんが……」 「ふむ、じゃ、次の奴を見たまえ」  次のは六月二十日のM紙で、 ———————————————————————————————————————— [#ここから改行天付き、折り返して4字下げ]  借家 蒲田K町、間数六、六、四半、家賃二十五円、少人数家族に貸し度し、環境《かんきよう》良      京橋区南紺屋町  津村 [#ここで字下げ終わり] ———————————————————————————————————————— 「はてな」  と、俊助もはじめて眉《まゆ》をひそめると、 「どちらも京橋の津村《つむら》という男の広告ですね。するとなんでしょうか。この男はまえの広告で買った家を、すぐまた他人に貸そうというわけでしょうか」 「そうじゃないかと思うんだ。もっともそれだけならばなんでもない。借家を買ってひとに貸す。そういうことを商売にしている男はざらにある。ところが、この二つを見たまえ」  由利先生の指さしたのは次の二つである。 ———————————————————————————————————————— [#ここから改行天付き、折り返して4字下げ]  買度 深川《ふかがわ》方面に住宅を求む。間数広さを不問。高価にて譲り受度し      神田区|淡路町《あわじちよう》 角丸商会 [#ここで字下げ終わり] ———————————————————————————————————————— ———————————————————————————————————————— [#ここから改行天付き、折り返して4字下げ]  借家 深川区S町、間数、四半、四半、三、賃二十円、少人数向き、環境良      神田淡路町 角丸商会 [#ここで字下げ終わり] ————————————————————————————————————————  前のは五月十日付Y紙で、後のは六月二十五日のN紙だった。 「君も気がついているだろうが、この広告文案を見れば、津村というのとほとんど同じだ。しかもこの二件のみならず、ほかにも同様なのがたくさんある。近ごろは借家|払底《ふつてい》だから、広告を出さないまえに、借りてのついたのもあろう。いま、この切り抜きから怪しいと思われるのを探してみると、本所《ほんじよ》方面、小石川《こいしかわ》方面、品川《しながわ》方面と、ほとんど全市にわたる。三津木君、君はこれをどう思うね」 「さあ。……僕《ぼく》にはよくわかりませんが、しかし先生、これは詮議するのに造作《ぞうさ》ないと思いますがね。これらの広告主へ直接にあたってみたら……」 「それは君の言葉を待つまでもない。わたしは実際に当たってみたのだ。ところが津村といい、角丸商会というのもすでにそこの所番地にはいないのだよ。近所で聞くとどうやら広告を出すあいだだけ、そこに住んでいたらしい。どういう人間なのか、それさえ近所の人たちはよく知っていないのだ」 「それはどうも……いささか妙《みよう》ですね」  俊助が思わず肩をすくめたとき、呼《よ》び鈴《りん》の音が激《はげ》しく聞こえた。だれか客がやって来たらしい。間もなく、婦人助手の森山三千代《もりやまみちよ》が部屋のなかへ入って来た。    鏡面《きようめん》の影《かげ》 「先生、お客様です。椎名《しいな》さんとおっしゃる方で、昨日お手紙を下すったそうですが……」 「ああ、椎名|弁造《べんぞう》さんだね。よろしい、いつものところへ通しておいてくれたまえ」 「承知いたしました」  森山三千代がひきさがると、由利先生は俊助のほうを振りかえって、 「昨日手紙をくれてね、是非とも相談したいことがあるから、今夜来るといってきたのだが……文字を見るとあまり教育のある男ではないらしい。どれ、どういう人物かひとつ見てやろう」  由利先生が立って壁際《かべぎわ》のスイッチをひねると書斎《しよさい》の正面にある大きな姿見《すがたみ》がパッと明るくなって、そこに訪問客の姿がありありと映った。由利先生はいつもこうして、訪問客に会うまえに、一応相手の人柄《ひとがら》を研究しておくのだ。由利先生はじっと鏡のうえを凝視《ぎようし》していたが、 「おや、奴《やつこ》さん、酒にでも酔《よ》っているのかな」  と、眉をひそめた。  鏡のなかに映っているのは、六十ばかりの胡麻塩《ごましお》頭をした、どこかの門衛《もんえい》といいたげな老人だったが、見るとなるほど真っ赤な顔をして、いかにも苦しげな息づかいをしている。そして、何か気にかかることがあるらしく、そわそわと部屋のなかを見廻《みまわ》したり、わしづかみにした手紙の端《はし》で汗《あせ》を拭《ふ》いたり、それから立ちあがって、そっと窓の側へよって外をのぞいたりした。 「はてな、だれかに尾《つ》けられているのかな」  由利先生がつぶやいたときだった。  突然、老人がキョロキョロとあたりを見廻した。それから手の甲でしきりに額《ひたい》をこすっていたが、ふいにかっと眼を見ひらいた。皺《しわ》のふかい顔がぎゅっとゆがんで、唇《くちびる》のあいだから黝《くろ》ずんだ舌がのぞいた。  そして、両手でしきりに咽喉《のど》をひっかいていたが、だしぬけに激しく体をふるわせたかと思うと、朽木《くちき》を倒《たお》すように床《ゆか》のうえに顛倒《てんとう》したのである。 「しまった!」  これを見て驚《おどろ》いたのは由利先生と三津木俊助だ。書斎をとび出し応接室へかけつけると、老人はいましも蛇《へび》のように体をのたうたせながら、バリバリと床《ゆか》の絨毯《じゆうたん》をひっかいている。全身の皮膚《ひふ》にはいちめんに、紫《むらさき》色の斑点《はんてん》が浮きあがっていた。 「しまった! 何か嚥《の》まされたのだ。三津木君、書斎に鞄《かばん》があるからもってきてくれたまえ」  俊助が大急ぎで、書斎から鞄をもってくると、由利先生は手早く中から注射器《ちゆうしやき》と注射液を取り出した。由利先生は医者としての素養《そよう》も十分もっているのである。  由利先生が注射をすると、老人の瞼《まぶた》がかすかに動いた。そして、間もなく眼を見開くと由利先生の顔を見て、 「おお、……」  何かいおうとしたが、舌がもつれて言葉が出ない。由利先生ははげますように、 「御老人、しっかりなさい。何かいいのこすことがあったら聞きますよ」 「おお……わしは……わしはもう駄目《だめ》だ。やられた……おでんやで酒をすすめた義足《ぎそく》の男……あいつにだまされて……あいつの口車《くちぐるま》にのって一服盛られた、こ、この手紙を……これを見て、せがれの行方《ゆくえ》を探して……」  そこまでいったかと思うと老人はがっくりと首をうなだれた。こと切れたのである。由利先生はかすかに首をふって、 「もういけない。手おくれだ」  と、いいながら老人の口を嗅《か》いでみて、 「ふむ、酒の匂《にお》いがする。ここへ来る途中、どこかへ寄っていっぱいやって来たのだな。おそらくそのとき、毒を嚥《の》まされたのだろう。そして毒を嚥ました奴は義足の男だ。ところで、老人のいいのこした手紙だが……ふむ、これだな」  老人は断末魔《だんまつま》の苦しみにも、しっかと手紙を握《にぎ》りしめている。由利先生と三津木俊助は、硬直した老人の指を一本一本ひらいて、その手紙を取り出したが、それはつぎのような文面だった。 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]   お父さん、このまえの手紙でも申し上げましたとおり、僕はこのごろなんだか不安でたまりません。この家へ引っ越して来てから、しじゅうだれかに尾《つ》けられているような気がするのです。友達に話すと神経|衰弱《すいじやく》だろうといいます。僕は決して神経衰弱などではありません。それに昨日僕は家の中に、大変|妙《みよう》なことを発見いたしました。これが何を意味するのか、僕にもよくわかりませんが、一度、お父さんにもご相談いたしたいと思っております。二、三日うちにお伺いいたしますから待って下さい。それから最後に、お節ちゃんに会ったらよろしく。 [#ここで字下げ終わり]  読みおわると由利先生は封筒《ふうとう》の裏をかえして、差出人《さしだしにん》のところを見たが、とたんにはっと顔色をかえた。差出人の名前は椎名|勝一《かついち》とあって、文面からでもわかるとおり、明らかに弁造老人の息子《むすこ》らしかったが、問題はその住所だ。深川区S町二丁目三番地——おお、深川区S町といえば、ひょっとすると、さきほど問題にしていた、あの奇妙《きみよう》な三行広告、角丸商会の借家ではあるまいか。  由利先生と三津木俊助は、思わずぎょっと顔見合わせたのである。    押《お》し入《い》れの中  深川区S町というのは、工場にちかい狭《せま》いゴタゴタした町で、表通りには古着《ふるぎ》屋や鋳掛《いか》け屋がならび、裏へまわると労働者の住居が、雑然乱然《ざつぜんらんぜん》と軒《のき》をくっつけている。由利先生と三津木俊助の二人が、そういう路地《ろじ》の奥《おく》に、やっと椎名勝一という表札《ひようさつ》を見つけたのは、その翌日の昼過ぎのことだった。  二人が格子《こうし》のまえに立って訪《おとの》うていると、隣《となり》の家からお主婦《かみ》さんらしいのが、前だれで濡《ぬ》れ手をふきながら現われた。 「ああ、椎名さんならお留守《るす》ですよ」 「お留守? 勤めにでていかれたのかね」 「いいえ、どうもそうじゃないらしいんです。二、三日まえからお留守で……たぶん、お父さんのところへでも行かれたんでしょう。なんでも本所のほうにお父さんがいるという話でしたから」 「しかし、勝一さんはいないとしても、ほかにだれか留守番はいないんですか」 「いいえ、勝一さんはまだ独身者《ひとりもの》ですからね。もっとも近くお嫁《よめ》さんをもらうことになっていて、それでこの家を借りられたんですが、いまのところ独りで自炊《じすい》してるんですよ」 「で、勝一さんが出ていかれたのはいつのことですか」 「さあ、いつですか。……いつも留守にするときは後を頼《たの》んでいくんですが、今度は何もいっていかなかったのでね。でも、ひょっとすれば昨夜《ゆうべ》かえって来たんじゃないでしょうか。なんだか家の中でゴソゴソという物音がしてましたよ」  それを聞くと由利先生と俊助は思わず顔を見合わせた。 「お主婦《かみ》さん、ともかく一度中へ入ってみたいのだが、どこかに入るところはないかね」  それを聞くとお主婦さんは、二人を警察の者とでも間違《まちが》えたらしく、いささか顔色をかえて、 「ええ、それなら裏の木戸があくと思いますが、ちょっとお待ち下さい。私が裏からまわって、格子をひらいてあげましょう」  お主婦《かみ》さんはいったん自分の家へひっこんだが、そこから勝一の裏木戸へ入りこんだらしく、薄暗《うすぐら》い家の中でゴトゴトと格子をひらく音がしていたが、どうしたのか、だしぬけにきゃっという叫びがきこえた。 「どうした、どうした。お主婦《かみ》さん、何かあったのか」  ふたりが格子にとびつくと、家の中ではお主婦さんのふるえ声。 「だれか——だれか来てえ。ああ、怖《こわ》い、わたしゃどうしよう。あなた——あなた——」  由利先生と俊助は、もうそれ以上ぐずぐずしてはいなかった。隣の庭へとび込むと、そこから勝一の住居《すまい》の裏木戸へまわったが、と見ると、薄暗い四畳半《よじようはん》に、お主婦さんがべったり坐《すわ》って、わなわなふるえながら手ばなしで泣いている。 「お主婦《かみ》さん、ど、どうした……」  と、いいかけて、由利先生ははっと口をつぐんだ。四畳半の押し入れの中から、ニューッとのぞいた白い脚《あし》。 「あっ」  由利先生と俊助、いきなり上へ上がると、がらりと押し入れの襖《ふすま》をひらいたが、ああ、無惨《むざん》、そこには十八、九の可愛《かわい》い娘《むすめ》が、首をしめられて死んでいるのである。 「お主婦さん、こ、この娘さんは……?」 「お節ちゃんです。はい、勝一さんのお嫁《よめ》さんになるはずだったお節ちゃんでございます」    恐《おそ》ろしき家主《やぬし》  椎名老人の怪死《かいし》事件とS町の絞殺《こうさつ》事件、それらの事件も時節柄《じせつがら》、新聞にはごく簡単にしか報道されなかった。そして、どの新聞にも、犯人は行方不明の勝一だろうというふうに書いていたが、事実はその裏面において、警視庁の活躍《かつやく》が目ざましく行なわれているのである。  しかし何をいうにも勝一の行方はわからず、老人とお節は死人《しにん》に口なしで、いったいどういう深い事情があるのか、捜査《そうさ》の糸はそこでプッツリ切れた感じだったが、それから半月ほど後の黄昏時《たそがれどき》のことである。  折から催《もよお》されている防空演習のなかを、新聞片手にうろうろとたずねまわっている二人づれの男女があった。ところは小石川のO町付近である。 「三千代さん、たしかこの辺だと思いますが、安藤治作《あんどうじさく》という表札が見えませんか」 「そうね、ああ、向こうから洗濯《せんたく》屋の小僧《こぞう》さんが来たからあの人にきいてみましょうよ」  折から自転車でやって来た小僧に聞くと、 「安藤さん? ああ、そうそう、ついこの間|横町《よこちよう》の洋館へひっ越《こ》してきたのが安藤さんだと思います。ほら、そこの煙草《たばこ》屋の角を右へ曲がったところです」 「ああ、そう、そしてその安藤さんというのは、ちかごろ越してきたばかりなの?」 「ええ、一週間ほどまえに越してきたんです」  小僧さんはそれだけいうと、口笛《くちぶえ》も勇ましく、軍艦《ぐんかん》マーチを吹きながら走り去った。その後ろ姿を見送って顔見合わせた二人というのは、いうまでもなく三津木俊助と由利先生の女助手森山三千代だ。  二人は間もなく、煙草屋の横町に、安藤治作という表札を見つけると、軽くうなずきあいながら、呼び鈴を押した。すると軽いスリッパの音をさせて、中からドアをひらいたのは、度の強い眼鏡《めがね》をかけた四十男で、洋服のうえにどてらをひっかけていた。 「ああ、あなたが安藤さんですか。夕方で失礼ですが、今日のM紙の三行広告を見ましたので……本所のほうに借家がございますそうで……」  俊助がとり出したのは次の三行広告である。 ———————————————————————————————————————— [#ここから改行天付き、折り返して4字下げ]  借家 本所 緑町《みどりちよう》、間数八、六、四半、賃五十円、環境良 [#ここから改行天付き、折り返して5字下げ]      小石川区O町 安藤治作 [#ここで字下げ終わり] ————————————————————————————————————————  安藤氏は度の強い眼鏡の奥から、ひきつった眼で、ジロジロ二人を見較《みくら》べたが、やがて、 「どうぞ」  と、いって二人を中へ通した。そしてあとのドアをしめながら、すばやく表を見廻した眼つきが尋常でなかった。 「や、どうも、失礼。なにしろ燈火管制《とうかかんせい》で……」 「いえ、こちらこそ。明るいうちにお伺《うかが》いすればよかったのですが、つい遅《おそ》くなって……」 「どう致《いた》しまして。まあお掛《か》け下さい」  安藤氏にすすめられた椅子に腰をおろしながら、俊助はすばやく部屋を見廻した。八畳|敷《じ》きぐらいの洋間だが、窓《まど》という窓が遮光《しやこう》してあるので、なんとなく陰気《いんき》だ。 「で、早速ですが家のほうはもうきまりましたか」 「いや、今朝《けさ》からだいぶお見えになりましたが、まだどなたともお約束《やくそく》はできておりません。どうです。ひとつおあがりになりませんか」  安藤氏は、なれた手つきでコーヒーを入れる。 「いえ、もうお構《かま》いなく、いかがでしょう。是非われわれにお貸し下さるわけには……」 「そうですね。いずれどなたかに入っていただかねばならんのですが、で、お勤めは?」 「ああ、これは失礼いたしました」  俊助が取り出したのは、わけを話して友人から借りてきた名刺《めいし》である。 「沢田謙介《さわだけんすけ》さんとおっしゃるのですね。本所の××電機へお勤めですか、で、御家族は」 「これと二人きりなのです。実は最近|結婚《けつこん》したばかりで叔母《おば》のところにいるのですが、家がなくて弱っているのです」 「ほんとにお貸し願えれば……」  と、三千代もまことしやかに口を添《そ》えるのであった。 「そうですね。それはお困りでしょうねえ。どうです。冷たくならんうちにおあがりになりませんか。近ごろコーヒーなど珍《めずら》しいでしょう」 「ほんとに、では頂戴《ちようだい》します」  二人がコーヒーをすするのを、安藤氏はじっと見ながら、 「こちらもなるべく御家族の少ない方に借りていただきたい肚《はら》なのですが、あの家があなた方のお気に入りますかどうか」 「いえもう、どんな家だっていいんです。それに本所といえば通勤《つとめ》先に近いし、ねえ、三千代」 「ほんにこの際、家がどうのこうのといっていられませんわ。雨露《あめつゆ》をしのぐことさえできれば有り難いんですもの、あら、こういったからとて、こちら様のお家がそ……ん……な……」 「ははははは、いや、そう思っていれば間違《まちが》いないかもしれませんよ。おや、どうかしましたか」 「いえ、あの……」  三千代は何かいおうとしたが、舌がもつれて、なんともいえないけだるさが全身にのしかかるように這《は》ってきた。 「ははははは、どうです。そのコーヒーの味は? ジャヴァですよ。お気に召しましたか」 「はい、あの……」  三千代は襲《おそ》いかかってくる睡魔《すいま》に抵抗《ていこう》しながら、ふとかたわらを見たが、そのとたん、思わずゾッと総毛《そうけ》だった。いつの間にやら三津木俊助が、椅子からずり落ちそうな恰好《かつこう》で睡《ねむ》りこけている。あんぐり開いた口からは、だらしなく涎《よだれ》がだらだら流れている。 「あら、……ああ……あなた……あ……な……」 「はははは、御主人はひどくお疲《つか》れと見えますな。そしてあなたも……ははははは!」  嘲《あざけ》るような安藤氏の声が、爆発《ばくはつ》するように三千代の耳にひびいたが、それきり彼女《かのじよ》はフーッと気が遠くなった。安藤氏はにやりと笑うと、 「フフン、小僧ッ子のくせに生意気な。おまえたちにだまされてたまるもんか」  憎々《にくにく》しげにつぶやいて、窓から外をのぞいていたが、だしぬけにあっと叫んで後ろを振りかえった。そしてそのまま棒立《ぼうだ》ちになってしまったのである。  いつ入って来たのか、そこには白髪《はくはつ》の由利先生が幻《まぼろし》のように立っている。いやそればかりではない。椅子の中で睡《ねむ》りこけていたはずの三津木俊助も、にやっと笑いながらつっ立っていた。 「あ、ち、畜生《ちくしよう》ッ!」  それを見ると安藤氏は、やにわにかたわらにあった電気時計に手をかけたが、そのときには早くも俊助が、豹《ひよう》のように背中を丸めて、相手のからだに猛然《もうぜん》と躍《おど》りかかっていたのだ。……    銃後《じゆうご》の戦闘《せんとう》 「どうだ、三千代さん、気がついたかね」 「あら、あたし……」  三千代が、パチパチと眼《め》をひらくと、窓の外には、明るい陽《ひ》がいっぱいに照っていた。  ここは三番町の由利先生の住居《すまい》だった。 「三千代さん、すまん、すまん、あのコーヒー、君にも注意しようと思ったのだが、相手に気取《けど》られちゃと思ってひかえていたんだ」 「まあ……じゃ、三津木さんは御存じだったのね。そしてあの男どうして?」 「つかまえたよ。でも危ないところだった。電気時計の中に恐ろしい爆弾《ばくだん》を仕込んでいたんでね。すんでのことに木《こ》っ端微塵《ぱみじん》となるところだったよ」 「まあ……」  三千代はまだ、覚《さ》めきらぬ頭で、遠い幻を追うような眼つきをしながら、 「一体あの男は何をたくらんでいたんですの」 「それだよ、三千代さん、よくお聞き」  由利先生は粛然《しゆくぜん》とした顔をして、 「こうして米英相手に戦っている以上、われわれは当然|空襲《くうしゆう》を覚悟《かくご》しなければならぬ。むろんわが空の精鋭《せいえい》は、十分な用意をもって守っているが、航空戦の性格として、絶対に敵機の侵入《しんにゆう》を防ぎきるということはできん。さて、敵機が来襲《らいしゆう》したとあれば厳重《げんじゆう》な燈火管制が行なわれる。一瞬《いつしゆん》にして帝都《ていと》はまっくらになるだろう。だがその際、もし東京のあちこちから火事が起こったとしたらどうだろう」 「まあ、そんなことがあっては大変だわ。それこそ敵機の好目標《こうもくひよう》になるわ」 「そこだ。きゃつらの企《たくら》みは。——きゃつらは東京市中の要所要所に家を求め、その床下《ゆかした》に一種の爆弾を装置《そうち》しておいたのだ。それらの爆弾は好《この》むときに、電波によって爆発《ばくはつ》させることができる。むろん、かれらはそれらの家を、そのまま空き家にしておきたかったのだが、それじゃ世間に怪《あや》しまれる。そこでなるべくぼんやりした、あまり悧巧《りこう》でない借家人を物色《ぶつしよく》して貸していたんだ。こうして必要な時期が来るまでそういう装置を発見されないようにしていたのだが、はからずも椎名勝一青年が発見したのだ。勝一青年にもそれが何を意味するかハッキリわからなかったが、不安を感じてそのことを、父の弁造老人と許婚者《いいなずけ》のお節さんに話したのだが、その結果が、ああいう惨劇《さんげき》となって現われたのだよ」 「まあ、すると勝一という人も……」 「いや、勝一青年だけは助かった。某所《ぼうしよ》に監禁《かんきん》されていたのを昨夜|救《たす》け出した。警視庁ではいま大騒《おおさわ》ぎだよ。なにしろ三行広告に現われた家は、全市に無数に散在しているのだからね」 「まあ、でも、未然《みぜん》に防げてようございましたわ。でも先生、あの安藤という人はどういう人なの? あれでも日本人?」 「それだよ、三千代さん、三津木君もよく聞きたまえ」  由利先生は厳粛な顔をして、 「この間わたしのいった事が事実となって現われたのだ。日本人の仮面《かめん》をかぶった敵国人、米英という退潮《ひきしお》があとに残していった塵芥《じんかい》、安藤と名乗っていた男も、そういう塵芥のひとりなのだ。われわれの捕えたのはほんの下っぱにすぎない。大物《おおもの》が——かれらを手足《てあし》のごとく使っている大物が、まだまだどこかに隠れているはずなのだ。戦いはこれからだ。いや、これからますます深刻な様相をおびていく。われらは銃後《じゆうご》の治安のためまた国家保全のため、かれらを根絶するまで戦わねばならんのだ。わかったかね」 [#改ページ] [#見出し]  頸飾《くびかざ》り綺譚《きだん》  山名耕作《やまなこうさく》は妻の頸飾《くびかざ》りをとうとう入質《いれじち》してしまった。  さしあたって彼《かれ》は、二千円という金がどうしても必要だった。  山名耕作といえば若いけれどかなり腕《うで》のある仲買人《なかがいにん》として相当人に知られている。その彼が、これならばという見込《みこ》みをつけた儲《もう》け仕事があった。当たることは分かりきっていたし、当たればかなり大きな仕事になりそうだった。  ところが、それにはどうしても二千円という資本が要《い》るのである。しかしその二千円さえ注《つ》ぎこんでおけば、一か月とたたぬうちに、その十倍にもなって返ってくることは分かりきっていた。 「だいじょうぶですよ、あなた。二、三日うちには必ず、これと寸分違《すんぶんちが》わぬ頸飾りをお届けしますから、なアに、素人《しろうと》にはちょっと分かりっこありませんよ。それでしばらく奥《おく》さんをごまかしておいて、そのうちに融通《ゆうずう》がおつきになったら真物《ほんもの》をお出しになるんですな」  質屋の主人はそういって受け合ってくれた。山名耕作はそれで安心すると二千円の金を受け取った。  彼は頸飾りを入質するについて、どうしてもそれを妻に打ち明けて相談する気になれなかった。打ち明ければ反対するのは分かりきっている。いわばこれは一種の投機だった。耕作には必ず当たることは分かっていたが、妻にそれを納得《なつとく》させるのはかなり骨が折れる。  ちょうど幸い妻が実家《さと》のほうへ帰っていたので、だから、彼はとうとう無断で頸飾りを持ち出したのだった。 「じゃ、間違《まちが》いなく二、三日うちに贋物《にせもの》を届けてくれたまえね。なんしろ妻が帰って来るまでに箪笥《たんす》の中へ入れておかなきゃ、一騒動《ひとそうどう》起こるからね」 「かしこまりました。決して間違いはありませんから安心していらっしゃい」  山名耕作はそういって贋《まが》い物《もの》の頸飾り代として二十円置いて帰った。  質屋の主人の言葉に間違いはなかった。  それから三日目に届けられた頸飾りを見ると、山名耕作は思わず感歎《かんたん》の声を放った。 「ほウ、なるほどこいつは素敵《すてき》だ。これじゃ素人にゃちょっと分かりっこないな」  耕作は大いに安心した。  実際それは素人の眼《め》にはちょっと鑑別《みわけ》がつかないくらいうまく出来ている。真珠《しんじゆ》の光沢《こうたく》といい、粒《つぶ》の大きさといい、二つ較べて見てもどちらが真物《ほんもの》か贋物《にせもの》かちょっと見当がつかぬくらい上手《じようず》に出来ていた。  これなら充分《じゆうぶん》妻を欺《だま》せるだろうと彼はほくそえんだ。  それから四日目に妻の類子《るいこ》は帰って来た。  何かのはずみ[#「はずみ」に傍点]に彼女《かのじよ》は箪笥を開けて頸飾りを取り出したが、少しも気がついた様子は見えなかった。 「ねえ、あなた、近いうちに帝劇《ていげき》へ連れて行ってちょうだいな。あたし長いことこの頸飾《くびかざ》りをかけて出ないんですもの。久しぶりでちょっとかけてみたいわ」 「ああいいとも、二、三日すればおれも暇《ひま》になるから……」 「そう、嬉《うれ》しい!」  類子は頸飾りをかけてみて独《ひと》り喜んでいた。  耕作はそれを見るとおかしくてしようがなかったが、強《し》いてそれをかみ殺していた。  妻は何も気がついていないのだ。二十円の頸飾りをかけて、得々《とくとく》と帝劇の廊下《ろうか》を歩いている彼女のことを考えると、彼はふき出したいほどおかしかった。  何もかもうまくいっている。  妻は頸飾りの贋物《にせもの》であることに気づかない模様だし、金を注《つ》ぎ込んだ仕事のほうもどうやらうまくゆきそうだった。もうしばらく辛抱《しんぼう》していれば、入質した真物のほうが受け出せるくらいの見込みはついていた。  それから一週間ほどして、耕作は妻を伴《ともな》って帝劇見物に出かけた。  ところがその帰途《きと》のことである。大変なことが起こった。  雇自動車《タキシ》を降りて、自分の宅《たく》の玄関《げんかん》へあがってホッとしたときである。 「アラ!」  と類子は突然《とつぜん》大声をあげて叫《さけ》んだ。 「アラアラ、大変だわ。あたしどうしましょう」彼女は今にも泣き出さんばかりの声で叫んだ。 「どうしたのだい、おい?」 「頸《くび》飾りを——、頸飾りを——」  見ればなるほど、夕方頸にかけて出て行った頸飾りが見えない。 「おい、どうしたんだ」 「落としたのよ、きっと、あたし困るわ。大変だわ」 「落としたって?」 「そうよ。きっとあの自動車の中よ。帝劇を出るときには確かにあったんですもの」  頸飾りが贋物だということを知らない妻の類子はおろおろしていた。 「あなた、なんとかしてちょうだいな。あたしあれがなくちゃ困るわ」 「なんとかするって、困るじゃないか。どこへ落としたのか分からないし……」 「きまってるわ。自動車の中にきまってるわよ」 「それにしたって、どこの自動車だか分からないし……」 「だから、なんとかしてそれを探すのよ!」  妻の類子は良人《おつと》があまり平然《へいぜん》としているので、もどかしそうに地団駄《じだんだ》を踏《ふ》んだ。 「探すったって、おまえ……」 「新聞に広告すればいいわ。ね、広告費だってそうかからないでしょう。だって、あの頸飾りは買うときには五千円もしたんですもの。少しぐらいかかったってかまわないわ」 「うむ、そうすればいいね」  耕作は煮え切らない返事をした。 「そして、うまく頸飾りを持ってきてくれれば、どのくらい礼をするんだね」 「そうね、一割だから五百円よ。ね、五百円礼をするからって新聞に広告を出してちょうだいな。ね、お願いよ」  耕作は腹の中で困ってしまった。考えてみると、たった二十円の贋物《にせもの》の頸飾りに五百円の礼をかけるなんて、どう考えてみても馬鹿馬鹿《ばかばか》しいことである。しかし、それを打ち明けて妻を安心させることもできない。今さらになって、あの頸飾りが贋物だったなんていえば、妻がどんなにヒステリーを起こすか分かったものじゃない。 「ね、そうしてちょうだいってば!」 「うん、いいよ、いいよ」  耕作はついにそう返事をしなければならなかった。  さて、新聞にその広告を出してから三日目のことである。  事務所にいる彼のところへ、人相のよくない運転手ふうの男が会いに来た。 「頸飾りのことでおうかがいしたのですが」 「ああ、なるほど……」  耕作は相手の顔を見守りながら答えた。 「この間、夜|晩《おそ》く車庫へ帰って車を掃除《そうじ》していたら、この頸飾りが落ちていたんですが、なんしろどなた[#「どなた」に傍点]がお落としになったものか分からないし、それにあまりたいしたものでも……」  そういって運転手はにやりと笑った。 「それじゃ君《きみ》はこの頸飾りが贋物であることを知っているんだね」 「存じておりますとも。だれの眼にだって、すぐ分かりまさア。だから新聞にあんな広告が出たとき不思議に思ったんですよ。こんな贋物にどうして五百円も賞金がついているのかと思いましてね」 「実際馬鹿馬鹿しい話だ。君だから打ち明けるがね、妻にそのことを知られたくなかったもんだから」 「おおかたそんな事だろうと思っていました」運転手はにやりと狡《ず》るそうな微笑《びしよう》を浮かべながら、「しかし、お約束《やくそく》のものだけは頂《いただ》けるでしょうな」 「君は、じゃこの贋物で五百円の金を取るつもりなのかい?」  耕作はちょっと顔色をかえた。 「お約束だから仕方がございません。そりゃわたしもこいつが二、三十円ぐらいの贋物であることはよく存じております。しかし、約束は約束でございますからな」 「そりゃ、君|酷《ひど》いよ。こんな物に五百円も出せるもんか」耕作は怒鳴《どな》るようにいった。「だけど、約束だから仕方がない。百円だけ奮発《ふんぱつ》することにしよう。百円だって実際馬鹿馬鹿しい話だがね」 「それは御免蒙《ごめんこうむ》りましょう。お約束だけの額《がく》を戴《いただ》かなければ」 「じゃ、負けないというのかい?」 「ええ、一銭だって……」 「勝手にしろ!」耕作は叫んだ。「じゃ僕はその頸飾りを受け取らないばかりだ。妻には出てこないといってあきらめさせるばかりだ」 「結構でございます」男は慇懃《いんぎん》にお辞儀《じぎ》をした。「それじゃ奥様《おくさま》のほうへおうかがいするばかりです」 「なに? 妻のほうへ?」 「そうです。そして奥さんに何もかもお話しして……」 「待ってくれたまえ、君、そ、そんなことをされちゃ……」 「では、五百円頂けましょうか」 「君は足下《あしもと》へつけ込むんだね。仕方がない二百出そう。ね、それで堪忍《かんにん》してくれたまえ」  男は黙《だま》って立ち上がると、出て行きそうにした。耕作はそれを見るとあわてて止めた。妻にしゃべられちゃ何もかもおしまいである。 「チョッ! 仕方がない。こんなくだらない取引なんてあるもんじゃない」  耕作はしぶしぶながら、小切手帳を取り出すと五百円の金額を記入した。  相手はそれを受け取ると、にやにや笑いながら出て行った。 「チェッ! 畜生《ちくしよう》! まんまと五百円ふんだくってゆきやがった」  耕作は地団駄を踏むようにして口惜《くや》しがった。  ところがこの話はこれでまだ終わらないのである。それから三日目の晩、耕作の妻の類子は友人の相馬《そうま》夫人を訪れた。 「奥さん。これこの間トランプで負けたときの借金よ。三百五十円ね」 「まア、いつでもいいのに……」相馬夫人は金を受け取りながら、「でも、よく出来ましたわね。旦那《だんな》様におねだりしたの?」 「そうじゃないの。こんなこと良人《たく》に言えるもんですか。頸飾りを種《たね》に五百円こしらえたのよ」 「まア、質に入れたの? そんなことして旦那様に知れちゃ……」 「だいじょうぶよ」類子は意味ありげに笑いながら、 「そんな下手《へた》なことをするもんですか、もっと悧巧《りこう》な方法なのよ」  類子はそういうと大声をあげて笑った。  結局彼女は良人《おつと》より悧巧《りこう》だった。頸飾《くびかざ》りが贋物だということを知った彼女は、まんまと一芝居《ひとしばい》打って良人の財布《さいふ》から五百円まき上げたのである。 [#改ページ] [#見出し]  劉《りゆう》 夫人の腕環《うでわ》     一  それはほんの気まぐれからであった。  その日の午後のこと、いつものようにトーア・ロードを散歩していたわたしは、その坂の途中《とちゆう》にある民国人《みんこくじん》協会という建物の壁《かべ》に、真っ赤な紙がはりつけてあるのを見た。  この民国人協会というのは、領事館とはまた別な、いわゆる純民間的な本部であるらしく、そこの壁には、よくいろんな催《もよお》し物の報告などが貼《は》られていた。そのときわたしが見たのは、彼《かれ》らの仲間へ、旅芝居《たびしばい》かなにかの一行《いつこう》が来たらしく、それの報告なのであった。これだけではわたしの好奇心《こうきしん》をあおるほどでもなかったろうが、そこに書いてあった外題《げだい》というのが、   偵探判奇案《ていたんはんきあん》  というのである。  おや! とわたしは思った。  中国の言葉では、探偵《たんてい》というのを、逆に偵探《ていたん》というのかしら。いずれにしても、この五つの文字それぞれが、おのおの探偵小説に縁《えん》のありそうな意味をもっているのである。わたしはてっきりこれは、中国の探偵劇にちがいないと思った。  ちょうどそれは夕方の五時ごろのことであった。  仕事を終《お》えた西洋人たちが、二、三人連れ立って、大股《おおまた》にトーア・ロードのゆるい傾斜《けいしや》を登って行った。足の小さい中国婦人が、ちょこちょことわたしを追い抜いて、近所の横町へ消えたりした。  お伽噺《とぎばなし》のようなこの神戸《こうべ》の町でも、わけてこのトーア・ロードは最もわたしをひきつけるのだ。坂の真正面に建っている、トーア・ホテルからしてが、お伽噺の風景そのままだ。そこでは日本人と同じくらいの数の西洋人が歩いている。自動車のタイヤが、快《こころよ》い弾《はず》みを見せながら、わたしを追い抜いたり、わたしと行き違《ちが》ったりした。  わたしは、さっき見た「偵探判奇案《ていたんはんきあん》」という言葉を、しつこく頭の中でくり返しながら、ゆるい足どりで坂を下りて行った。  今夜八時。  於《おいて》××倶楽部《くらぶ》。  見たいな。とわたしは思った。  そうだ、泰《たい》の奴《やつ》に話せば連れて行ってくれるかもしれない。  坂を下りて三《さん》の宮《みや》まで来ると、そこをまっすぐに、突き抜けて、わたしは埠頭《ふとう》のほうへ足を運んだ。泰というのは中国人と日本人の混血児《こんけつじ》で、そして不良少年である。わたしはふとしたはずみから知り合いになったのだが、彼の親爺《おやじ》の徳泰《とくたい》というのは、神戸にいる中国人の中でも、有名な金持ちだという話だ。埠頭に面した××ビルディングの五階に大きな事務所をもっていて、そこで毛織物の輸入を大がかりにやっている。わたしの知っている不良少年の泰もそこに働いているのだ。 「泰さんいますか?」  と受付にそういうと、背の低い、平たい顔をした中国人が、うさんくさそうにわたしの顔を見ていたが、やがて黙《だま》って奥《おく》へはいって行った。しばらく待っていると、 「やあ!」  と泰が手を拭《ふ》きながら顔を出した。 「ちょっと待っててくれたまえ。今ちょうど帰ろうと思っていたところだ」  一度引っ込んだ彼は、帽子《ぼうし》と上衣《うわぎ》を小脇《こわき》にかかえ込《こ》んで、折り上げたワイシャツの袖《そで》を直《なお》しながら出て来た。 「珍《めずら》しいね。どうしたってぇんだい?」  カフスボタンをはめると、鏡《かがみ》の前へ行ってネクタイを直しながら、鏡の中のわたしの顔を見ながらそんなことをいった。 「いや、ちょっと頼《たの》みがあってね」 「頼み——? そう、どこかへ行こうか。飯《めし》はまだなんだろう?」  わたしたちは行きつけのカフェーへ行くと、そこで簡単な食事をすることになった。 「君《きみ》は知ってるだろう、ほら、今夜××倶楽部《くらぶ》にある君たちの芝居のことさ」  固い肉片をつつきながらわたしがそういうと、 「うん、知ってるよ」  と彼は肉を頬張《ほおば》った口でビールをあおりながら、チラリと上眼《うわめ》づかいにわたしの顔を見た。 「あれを見せてもらいたいと思ってね」 「くだらんよ。あんなもの」 「君にゃくだらないだろうけど、僕ちょっと見たいんだがな」  泰《たい》は食事を終わって口のあたりを拭きながら、 「おやすいことだがね、そりゃ……。ありゃおれんとこの親爺《おやじ》が興行主になってるんだ。だけど、要するに田舎芝居だろう。それに君なんか見たってちょっとも分かりゃしないさ。それこそチンプンカンだ。それより今夜は久しぶりだ。おなじみのを、片っぱしからなで切りしようじゃないか」 「まあいいよ。君にはまたこの次に付き合うから、今夜だけはおれのいうことを聞いておくれよ」     二  そんなことから、わたしたちは××倶楽部《くらぶ》へ行くことになったのである。  なるほど、泰のいったのに間違《まちが》いはなかった。ときどき低い声で彼が説明してくれるにもかかわらず、わたしには何一つのみ込むことができなかった。ただむやみに騒々《そうぞう》しいばかりで、しまいには頭の心《しん》が痛くなってきた。  しかしそうかといって、わたしにはそこにいることが、全然《ぜんぜん》くだらないことでもなかった。自分の周囲にいる人間という人間が、全部中国人なのだ。日本人というのは、おそらくこのわたし一人だったろう。耳なれない彼らのおしゃべりを聞き、目《め》なれない舞台《ぶたい》の光景を見ていると、わたしの頭は阿片《あへん》でも飲んだように、不思議なしびれ[#「しびれ」に傍点]を覚《おぼ》えてくるのであった。  芝居は半時間ほどで終わった。それは実にあっけ[#「あっけ」に傍点]ないものだった。ところが芝居が済んでも、見物の中国人たちはいっこう帰ろうとはしない。彼らは別の控え室みたいな所へ引き上げると、そこで三々五々《さんさんごご》勝手なおしゃべりをはじめた。思うにこれは一種の社交的な集まりであって、芝居などむしろ付け足しなのだろう。 「おい、ちょっと見たまえ」  上気《じようき》した頭で、ぼんやり、あたりの光景を眺《なが》めていたわたしは、ふと泰にそういわれてわれにかえった。 「ほら、あそこに太った大きな男がいるだろう。あれがおれの親爺《おやじ》さ。その親爺と話している女ね、あれがこの一座の座頭《ざがしら》といったところで、さっきも出てたろう? 劉《りゆう》夫人というのだ。舞台で見ていたときはそう思わなかったが、なかなか美人じゃないか」  それから彼は声を低くして、 「今に親爺があれをどこかへ引っ張って行くんだよ。ちょっと行って見てやろうじゃないか」  泰は臆面《おくめん》もなく人々をかき分けてそのほうへ近寄って行った。わたしはなんとなく気が進まなかったけれど、彼に取り残されてしまったら、どうにもならないので仕方なく後《あと》をついて行った。 「お父さん今晩は」  大きな声で彼はそういうと、親爺が顔をしかめているのにもかかわらず、 「お父さん、この婦人を僕《ぼく》にも紹介《しようかい》して下さいな」  といった。  親爺の徳泰は中国語で二言三言《ふたことみこと》、何か小さい声でいったが、すると劉《りゆう》夫人は泰とわたしとに向かってにこやかなお辞儀《じぎ》をした。それから彼らは、わたしには全く分からない言葉をもって、さかんに何かしゃべりはじめた。わたしはすっかりのけ者《もの》にされた気味《きみ》で、泰の後ろのほうに立って、ぼんやりと劉夫人の様子を見ていた。  なるほど、それはなかなかの美人だった。年は二十七、八、あるいはもっといっているのかもしれない。化粧《けしよう》のしかたにしろ、服の好みにしろ、全く中国人ばなれがしていた。このごろの新しい中国婦人は、こんなに大胆《だいたん》なのだろうか? わたしは内心|感歎《かんたん》の声を放ちながら、眼《め》も離《はな》さずに、彼女の様子をみていたのであるが、そのときふと、彼女の左の腕《うで》にはめている、大きな腕環《うでわ》が目についた。それは幅《はば》二|寸《すん》ぐらいもあろうか、実に奇妙《きみよう》な腕環だった。幾つもの腕環を並べてはめているように見えていて、その実、それは一つのものにちがいなかった。わざとそういうふうに、細工をしたのか、それとも偶然《ぐうぜん》そうなったのか、五|匹《ひき》の蛇《へび》が並んでとぐろ[#「とぐろ」に傍点]を巻いているところが、見ようによってはちょうど五本の腕環のように見えるのだった。むろん金《きん》に違《ちが》いなかろうが、あれだけの太さがあれば、さぞ高価なものだろうな——、ぼんやりそんなことを考えていると、突然、眉根《まゆね》に痛いような視線を感じた。はっとして目を上げた瞬間《しゆんかん》、劉夫人の視線があわてて他《た》へ逃《に》げて行くのが見られた。 「おや!」とわたしは思った。  そして彼女の眼《め》の色を追おうとしているとき、泰がぐっと私の腕をつかんだ。 「おいおい、君らしくもない」  とそこで彼はにやりと笑って、「実はこれから飯を食いに行こうというのだがね、親爺《おやじ》が君をどうしようというから、一緒《いつしよ》に行くだろうとそういってやった。構わないから一緒に行こうよ。親爺の奴、君が若くていい男だもんだから心配してるんだよ。それに……」  と彼はわたしの耳に口をつけるようにして、 「劉夫人のほうでもまんざらではなさそうだぜ」  そういうと彼は、急に大きな声を出して笑った。     三  中国人と一緒に食卓《しよくたく》を囲んだのは、わたしにとっては初めての経験であった。  わたしはちょうど劉夫人と向かい合って腰《こし》を下ろしていた。彼女《かのじよ》の左右《さゆう》には、泰《たい》の親子《おやこ》が腰を下ろしている。彼《かれ》らの会話は、すべて中国語でなされるので、わたしにはさっぱり分からなかった。勢い、わたしはほとんど無言で、食卓の上のものをつついているか、でなければ、彼らの顔を順繰りに眺《なが》めているかよりほかにしようがなかった。  なんといっても、わたしの目は劉夫人に一番ひきつけられた。ちょうど正面をきって向かい合っているので、ともすれば二人の視線がかち合って、そのたびにどぎまぎ[#「どぎまぎ」に傍点]しなければならなかった。 「おいおい、何をぼんやり考えているんだい?」  何かの拍子で、わたしが食卓を離れて席を立ったときである。後《あと》から追いかけて来た泰が、にやにやしながらわたしの肩《かた》をたたいた。 「いや——、別に」  わたしは口ごもった。 「さかんに劉夫人と目くばせをしていたじゃないか。なんかいい返事でもあったかい?」 「ナーニ」とわたしは軽くそれを受け流しておいて、 「ときに、妙《みよう》なことを聞くがね。ほら、劉夫人の腕環《うでわ》さ。中国の婦人ってものは、みんなあんな太い腕環をはめているのかい?」 「どうして?」 「どうしてでもないけど、ちょっと聞いてみるのだが」 「そんなことはないさ。たぶん成金の旦那《だんな》にでも買ってもらったんだろうよ」 「そうかね」わたしは廊下《ろうか》にちょっと立ち止まると、「僕《ぼく》にはちょっと不思議だよ」 「何がさ、あの腕環かい?」 「ウン」 「馬鹿《ばか》だね」  泰は大きな声で笑いながら、 「また君一流の物好きが始まったね。ただの腕環だよ。なんでもありゃしないさ」  わたしはそこにあった長い椅子《いす》に腰を下ろすと、煙草《たばこ》に火をつけた。 「そうじゃないんだよ。あれにはきっと秘密《ひみつ》がある。君は気がつかなかったかね」 「なんにさ?」  泰もわたしに並んで腰を下ろすと、足をぴんと前へ出して天井《てんじよう》を眺めた。 「劉夫人はね。何をするときにでも、右の手しか使わない。僕はさっきから気をつけていたんだが、左の手は卓子《テエブル》にのっけたまま、しかもその上にはハンケチを置いて、なるべく腕環をかくすようにしている」 「フン」と泰が鼻の先で笑った。 「それに、僕の目が腕環のほうへ行くたびに劉夫人の眼の色が変わるのだ。僕たちの視線がさかんにかち合っていたのもそのためだ」 「というと、あの腕環にどんな秘密があると君は思うのだね?」 「むろんそこまでは分かりゃしないさ。しかし僕が思うのに、何か秘密結社《ひみつけつしや》かなにかの徽章《きしよう》じゃないかね、あれは?」 「ハハハハハ」  泰は突然面白《とつぜんおもしろ》そうに笑った。「君の話は愉快《ゆかい》だよ。まるで小説そのままなんだもの……」  しかしそのときである。  突然わたしたちがさっきまでいた部屋《へや》から、鋭《するど》い女の悲鳴が起こった。と思うと、どたんばたんと二、三度|格闘《かくとう》するような物音があって、それに続いて、前より一層鋭い女の悲鳴が起こった。  わたしたちは思わず椅子から腰を上げた。 「劉夫人の声だったね」 「ナーニ、親爺がまた、何かいたずらをしかけたんだよ」  口でそうなんでもないようにいいながら、それでも彼の顔色は蒼《あお》くなっていた。部屋の中はそれきり物音がやんで、しーん[#「しーん」に傍点]と静まり返っている。  わたしたちは恐《おそ》る恐《おそ》るそのほうへ近づいて行った。  そして一目その中をのぞいた瞬間《しゆんかん》、わたしははっ[#「はっ」に傍点]と息を内《うち》へ吸いこんだ。心臓が氷のようにかたくなった。  軟《やわ》らかい羽根蒲団《はねぶとん》の中に、劉夫人は正体もなく倒《たお》れていた。その傍《かたわら》に親爺の徳泰《とくたい》があらわ[#「あらわ」に傍点]な姿《すがた》でへたばっていたがその眼《め》は石のようにかたくなって一方を眺めていた。わたしたちを驚《おどろ》かしたのも実にそれなのだ。  そこにはまぎれもない劉夫人の左の手頸《てくび》が生白く床《ゆか》の上に転がっている。あの腕環《うでわ》をつけたまま。  わたしはふいにあることに気がついた。そして急いでその手頸を拾《ひろ》い上げると二人の泰にそれを差しつけながらいった。 「ゴム細工《ざいく》だ。実にうまく出来ている」  すると息子《むすこ》ほうの泰が、何を思ったのか急に跳《と》び上がって、そして気を失って倒れている劉夫人の側《そば》によると、手頸を失った左の腕を検《あらた》めていたが、ふいに、 「金《きん》だ。金にちがいない」と叫んだ。 「金? 金というのは?」 「二、三年前に上海《シヤンハイ》で富豪《ふごう》を殺して宝石を奪《うば》った女なのだ。逃《に》げるときに、富豪に手頸を斬《き》り落とされたので、それを証拠《しようこ》にお尋《たず》ね者《もの》になっている女なんだ。なんという恐ろしい女だろう」 「フン、そんな女なのか、じゃ君ここに待っていてくれたまえ、僕が警察へ電話をかけてきてやろう」  そういって、ゴム細工の手頸を握ったままわたしが部屋を駆け出そうとしたときである。ふいにザクザクという音とともに、おびただしい宝石類がその手頸の中からこぼれ落ちたものである。 [#改ページ] [#見出し]  路傍《ろぼう》の人     一  そのころのわたしは、毎日午後の二時ごろになると、きまってぶらりと家を出た。別にどこへ行くというあてはないのだが、それが習慣になっていた。今日はひとつそれをひかえてみようと思っていても、時計の針が一時から二時のほうへ進むにしたがって、全身がなぜだかじりじりとしてくるようで、どうしても辛抱《しんぼう》ができなくなってしまう。何かの理由でその外出をはばまれたりすると、その日は一日頭がもやもやとして、何か忘れ物をしたように、どうしても仕事が手につかない。さて表へ飛び出しても、さっきもいったように、別にどこへというあてがあるわけではないのだから、ただぶらぶらと一時間なり二時間なりを歩いて来るだけである。たしか漱石《そうせき》の「三四郎《さんしろう》」だったと思うが、その中にそうした意味のない散歩のことを、ロマンチック・アイロニーというのだというようなことが書いてあったが、わたしなどはさしずめそのロマンチック・アイロニストの大家《たいか》なんだろう。今日は一つ新開地の方面へ行ってみようかなと思って家を出ても、(断わっておくがこれは神戸《こうべ》における話である)四つ角までやって来ると、ふいと気が変わって元町《もとまち》のほうへ行ってしまったりする。あるときは電車の乗り場までやって来て、急に電車に乗ってみたくなり、そのままそれに飛び乗って、終点から終点まで二、三時間も乗り廻《まわ》ってみたりすることがある。しかしそんな欲望《よくぼう》の起こることはまあまれなほうで、たいていの場合はどんなに遠くても徒歩で行くことになっている。実際四月から五月へかけて、どんなに、急いでも汗《あせ》にはならず、袷《あわせ》一枚でも寒くはないという時候《ころ》の午後一時ごろを、帽子《ぼうし》をかぶらずにぶらぶら歩きまわる気分はなんともいえないものである。そして疲《つか》れるともよりの喫茶店《きつさてん》へはいる、これがまた楽しみなものだ。喫茶店といえばこの二、三年に急にふえたようだが、この流行はわたしなどには嬉《うれ》しいものの一つである。わたしの畏友《いゆう》N氏の川柳《せんりゆう》に、「勘定器《かんじようき》あいつもコーヒーだけの客」という傑作《けつさく》があるが、カフェーなどだと確かにそのひけめがある。喫茶店となるとその心配がない、コーヒー一杯《いつぱい》でも立派《りつぱ》な客だ。コーヒーに菓子《かし》をとっても五十銭を出るようなおそれはめったにない。それに喫茶店のもう一ついいところは馴染《なじみ》のつかないことである。カフェーなどだと、(どこでもそうだというのではないが)こちらから避《さ》けるようにしていても、あまりしばしば出入りをしているうちには、向こうのほうからなれなれしく言葉をかけてきたりする。わたしにとっては、そうした応接がたまらなくわずらわしいのである。ひとりでいて、だれにも邪魔《じやま》をされずにぼんやりと考えていたいがためにロマンチック・アイロニーをやるわたしなのだから、そうした場所で世俗的な応答をしなければならぬことは耐《た》えられないのだ。だから喫茶店でもできるだけ馴染をこしらえないように、代わる代わる行く先を変えるようにする。そしてどこの喫茶店でも土間《どま》の一番|隅《すみ》っこの卓子《テエブル》に陣取《じんど》って、紅茶一杯で半時間ぐらいぼんやりとしている。こうした楽しみは、実際その経験のない者にとってはとうてい分からないほど味《あじ》のあるものである。  さてつまらないことをだいぶ長々と述べてきたようだが、こうしたことを書いておくのも実は必要だったのである。というのは、これほど気まぐれなわたしの散歩であるのに、いつもきまってどこかで出《で》あう一人《ひとり》の男があった。  一体わたしの散歩というのが、どこか一所《ひとところ》に定まっているのなら、いつも出あう男があるといっても別に不思議ではないわけだが、前にもいったとおりわたしの散歩の範囲《はんい》というのは、実に種々雑多な方面にわたっているので、秋の空よりもその気まぐれははなはだしいのである。今日は元町《もとまち》を歩くかと思えば、明日《あす》は山手《やまて》のほうを歩く、次の日には新開地、その次は突堤《とつてい》の出端《ではな》でぼんやりと海と船を見て時間を消す、そのまた次の日には山へ登って峠《とうげ》の茶屋で紅茶を飲む、(このことは東京や大阪のような広い都会に住んでいる人たちには分からないだろうが、山に近い神戸にはわずか二時間か三時間の散歩に、あつらえ向きの自然山《しぜんざん》があるのだ、そこからは六甲山《ろつこうさん》や摩耶山《まやさん》のほうへも連なっているので、足をのばそうと思えばそれも自由だし、時間がないと思えば三十分ぐらいで切り上げてくることもできる。これは神戸市民にあたえられている一番大きな天恵《てんけい》なのだ)というふうに、自分ではずいぶんとっぴな方面へ散歩をしているつもりなのに、そのつど、やっぱりその男にあう。それがまた、往来《おうらい》ばかりではなく、行きつけの喫茶店で鉢合《はちあ》わせをすることもめずらしくないのだ。パウリスタで熱いコーヒーをすすっていると、よく彼がはいって来ることがある。そうかと思うと、紅茶でも飲もうと思ってエスペロの緑色の掛布《カアテン》をくぐると、いつもわたしの占領《せんりよう》するところの卓子《テエブル》に彼が陣取っていて、わたしがはいって来ても知らぬ顔をしている。もっと酷《ひど》いのになると、市の中央からはるかに離《はな》れた、といってもやっぱり市中ではあるが、郊外《こうがい》電車に乗らなければ行けないはずの、須磨寺前《すまでらまえ》の喫茶店で彼と鉢合わせをしたことがあった。しかもそれが日曜でもなんでもない日である。 「あいつ、一体なんだろう」  わたしは軽い疑惑《ぎわく》を覚えた。  自分と同じような人間がいるということは、一面愉快なことでもあるが、また他面《ためん》から見れば競争者に出会ったようで、なんとなくいらだたしさを感じることでもある。博徒《ばくと》などがよくやる縄張争《なわばりあらそ》いなども、要するにこうした心理なのだろう、と思う。  その男というのは、たぶんわたしと同じ年輩《ねんぱい》であろう、(こういってもわたしの年齢《ねんれい》を御存じない諸君には、お分かりにならぬが、わたしはこれで二十七である)色の白い、細面《ほそおもて》の、鼻筋《はなすじ》の高過ぎない程度に通った、どちらかといえば病弱らしい容貌《ようぼう》で、頭はいつも五|分《ぶ》がり、服装《ふくそう》はわたしと同じように構わない性《たち》らしく、時候外れのものでも平気で着て歩いている。あぶらで汚《よご》れた襟《えり》の合わせ目から、黒ずんだシャツの前がのぞいていようが、金紗《きんしや》の帯の端《はし》が二つに裂《さ》けてだらりと尻《しり》の上に垂れていようが、一向《いつこう》意に介《かい》さないふうである。帽子《ぼうし》など、かぶっているのを見たことがない。その点も、極端《きよくたん》に帽子|嫌《ぎら》いなわたしとよく似《に》ている。そのくせ、彼の家が決して貧しいのでないことは、彼の着ているものを見てもよく分かる。それはいつも本場《ほんば》ものの、筋《すじ》の通った、りゅうとした物であるはずなのだが、いったん手を通すと、家にいるときも、外出するときも、寝るときも起きるときも、着更《きか》えるということをしないものだから、いつもそんなふうになってしまうにちがいないのである。要するにずぼらなのだ。  彼の歩きかたというのが、また変てこなものである。膝《ひざ》から上は竹のようにまっすぐに立っていて、くの字なりに曲がった膝の関節から下だけが、ひょこりひょこりと外輪《そとわ》に歩いて行く。なんのことはない、ポストに脚《あし》が生えたらあんな調子だろうと思う。往来《おうらい》で出会って、行き過ぎてから振《ふ》り返って、その歩きぶりを見ると、思わずにやりと笑ってしまうことがある。ところがその男ときては、決して後ろを振り返ったことがない。いつも、無表情な面《つら》を、まっすぐに立てて歩いて行く。今度出会ったらひとつ挨拶《あいさつ》をしてみてやろうと思っていても、その表情に出会うと、出かけた笑顔も思わずそのまま引っ込んでしまう。そこには、永久に近寄り難《がた》しと思わせる、一種の気品と威厳《いげん》とがあった。 「路傍《ろぼう》の人」  彼はわたしなどより、もっともっと非世俗的な人間にちがいない。     二  ある日、いつもの散歩の時間にわたしは活動写真を見にはいった。  活動写真は以前からわたしの好きなものの一つであったが、昼、それを見にはいるということはめったにないことだった。その日、その習慣を破ったというのも、実は、例の「路傍の人」が念頭《ねんとう》にあったからである。  わたしたちはその三週間ほど、一日も欠かさず出会いつづけに出会っていた。もうそろそろ「やア、こんにちは」とか、「どちらへ」とか、それくらいの軽い挨拶を交わしてもよいはずである。それだのに、わたしたちの間は一向発展していなかった。彼は相変わらず無表情な顔つきで、すたすたとすれちがって行くばかりであった。まるでわたしの存在など眼中《がんちゆう》にないというふうである。わたしはだんだんじりじりとしてきた。苦しくなってきた。ついにはその男が憎《にく》らしくなってきた。あの男と懇意《こんい》になろうなどは、とうてい駄目《だめ》なことだ。いっそ、彼と出会わないようにしてやろう。一週間ほど出会わずにいて、またひょっこり出会ったら、あの男も少しぐらいは心の動揺を見せるだろう。わたしはそんなふうに考えた。でいつもの散歩の時間を、わたしは暗い活動小屋の中で消すことになったのである。  そのときの出し物は、「女性の敵《てき》」というかなりの大作だったが、ちょうどその日がその興行の終わりという日だったので、場内はそう雑《こ》んでいるほうではなかった。わたしがはいったときには、ちょうど呼び物映画の第一巻目をやっていたが、わたしはくらがりの中を、うまく一番左の列の椅子《いす》に割り込むことができた。映画は、亜米利加《あめりか》式にとってつけたような戦争の場面を除いては、かなり感じの好いものだった。出演|俳優《はいゆう》の総《すべ》てが、(それはみなわたしの好きな役者ばかりだったが)地味《じみ》に地味にと演《や》っているのにも好意がもてた。わけても、一番わたしを喜ばしたのは、モンテ・カルロのロケーションの美しさで、わたしはその美しい場面にすっかり酔《よ》わされてしまった。映画はどんどんと進んでいった。そしていよいよ最後の場面になって、戦争から帰ったリオネル・パリモアーのなんとか公爵《こうしやく》が、アルマ・リューベンスのなんとか伯爵《はくしやく》夫人の足下《あしもと》にひざまずいて、その手に接吻《せつぷん》する。そしてENDという字が銀《シルヴア》 板《シイト》の上に大きく映ると、ぱっと場内に明るく電燈が点《つ》いた。そのときである。わたしは思わず「やあ」と声をかけてしまった。くらがりの中とて、気もつかずに席を列《なら》べて見物していた男というのが、実に例の「路傍《ろぼう》の人《ひと》」だったのである。  彼も、わたしの他意《たい》のないその挨拶につりこまれたものか、思わずにっこりと笑ってみせた。わりに人懐《ひとなつ》っこい笑顔であった。  ちょうどそれが一回目の終わりで、大部分の人が出て行くことになるので、狭《せま》い場内は押《お》し合いへし合いに立てこんでいた。したがってわたしと例の男は、当然《とうぜん》その身体《からだ》をもみ合わなければならなかった。彼とわたしとは、背の高さもほとんど同じぐらいだったので、彼の顔はついわたしの鼻先にあった。わたしたちはにらみ合いの気《き》まずさから逃《のが》れるためにも、なんとか口をきかなければならなかった。そうして二言三言《ふたことみこと》、なんでもないことをいいあっている間に、わたしの心にはふいと、相手に対する快い親愛の情が湧《わ》き上がってくるのを覚えた。  表へ吐き出されてからも、わたしたちは惰性《だせい》の力でそのまま肩《かた》を並《なら》べて歩いていた。みちみちわたしの感じたことは、その男は非常に親しみがたい人間であるが、そうかといって別に排他的《はいたてき》なところがあるというわけではなかった。こっちから近づいていこうとしなければ、いつまでたっても親しくなれない性《たち》だが、そうかといって、こっちから近づいていこうとする努力を、むりに反撥《はんぱつ》してしまうというほどではなかった。  わたしたちは初対面の人間らしく、ぽつりぽつり当たりさわりのないことを話しあいながら、新開地を縦に通り過ぎて、いつの間にやら白木屋《しろきや》のエレヴェーターの中に立っていた。そこの五階の食堂で、わたしたちはよく出会ったことがあった。だからこの場合も、口に出していわなくても、お互《たが》いにそこへ行こうとしているのだということを、よく知り合っていたのだ。  エレヴェーターが五階で停《と》まると、五、六人の人々に続いてわたしたちも出た。エレヴェーターの出口がすぐ食堂の入り口になっていた。彼は先に立ってそこへはいって行こうとしたが、何を思ったのかふと立ち止まった。 「どうしたのです」  彼の後《あと》に従《つ》いていたわたしは、同じように足を止めて彼に訊《き》いた。彼はそれに答えなかった。わたしたちの前を、今食堂から出て来た一人の婦人が通り過ぎた。彼女《かのじよ》の姿はすぐ階段のほうへ隠《かく》れた。彼はその婦人に気を取られていたのだ。 「御存じなのですか、彼《あ》の婦人を」わたしは訊いた。  彼はふいにわたしのほうを見て、 「行きましょう、いまに面白《おもしろ》いことが起こりますよ」  そういうと、ずんずんとさっき婦人が降りて行った階段のほうへ歩いて行った。 「どうしたのです、いったい」  わたしはあわてて彼に追いすがると、早口でそう訊《たず》ねた。彼はわたしのほうを振り向きもしないで、 「あの婦人によく注意していらっしゃい、気取《けど》られちゃ駄目《だめ》ですよ。気取られないようによく注意していらっしゃい、いまに面白いことが起こりますよ」  といった。  わたしはなんのことだか訳《わけ》が分からなかったが、ぼんやりとその婦人を眺《なが》めた。三十前後の、山手辺《やまてへん》によく見かける中流の家庭の奥様然《おくさまぜん》とした婦人であった。彼女は、夏物のお召《めし》だの浴衣《ゆかた》だのが出ている呉服部《ごふくぶ》の辺《へん》を、うろうろと歩き廻《まわ》っていた。ときどき顔をしかめて、左の手で横腹をおさえて、身体《からだ》をくねらすような姿勢をした。 「気分でも悪いのじゃないですか、変に青い顔をしていますよ」  わたしがそういうと、彼はしッと小声でそれを制した。  婦人はいよいよ苦しそうに見えてきた。彼女はときどき隅《すみ》のほうへ行って、横っ腹をおさえながら痰壺《たんつぼ》の中へ唾《つば》を吐いたりした。しばらく、そうしてぐるぐると呉服部の辺を廻っていたが、なんと思ったのかやがてまた階段を下りて行った。  三階は雑貨部だった。手巾《ハンケチ》だのタオルだの、ネクタイだのというような類《るい》がごたごたと列《なら》べてあった。例の婦人はしかしそんな物には眼《め》もくれずに、三階へ下りるとすぐ便所へはいって行った。 「おなかでも悪いらしいですね。だいぶ苦しそうです」  わたしは連れの男をかえりみながらそういった。 「いまに分かります。よく注意していらっしゃいよ」  彼は表情のない声でそう答えた。  間もなく例の婦人は便所から出て来た。彼女の顔色は少しもよくなっていなかった。気の毒なほど青い顔をして、右手に、薬指を包むようにしてもっている手巾《ハンケチ》で、たえず額《ひたい》の生《は》え際《ぎわ》ににじみ出《で》る汗《あせ》を拭《ふ》いていた。よく見ていると、面長《おもなが》な顔の頬《ほお》の筋肉《きんにく》が、ちょうど小児《しように》のひきつけのようにときどき痙攣《けいれん》するのであった。 「どうしたんだろう、体の調子が悪いのなら、ぐずぐずせずにすぐ帰りゃいいのに」  わたしはそう思った。しかしその婦人は一向《いつこう》にその容子《ようす》もなく、またそろそろと商品台のぐるりを廻《まわ》りはじめた。  間もなく彼女は、安全剃刀《あんぜんかみそり》を山のように積み上げた商品台の前に立った。ちょうどその隣《となり》には、化粧品台《けしようひんだい》があって、そこに若い芸者が五、六人立って、きゃっきゃっと騒《さわ》ぎながら最前から係りの者をてこずらせていた。わたしたちはその芸者の一群の背後《うしろ》のほうに立って、ネクタイを選《よ》るようなふうをしながら例の婦人を注意していた。彼女は右の手で安全剃刀に触《さわ》ってみたり、そこに置いてある説明書を開いて読んでみたりしていた。そこには少しも怪《あや》しいそぶりは見えなかった。が、しばらくすると、商品台の端《はし》に置いていた左の手が、ふいにすらりと伸《の》びて、そこにあったバレーの一|函《はこ》をつかんだ。それは昆虫《こんちゆう》を捕らえる蛙《かえる》の舌のような早業《はやわざ》であった。「おや」と思う間《ま》には、その手は袂《たもと》の中に隠れていた。 「行きましょう」  ふいに耳許《みみもと》でわたしの連れがそういった。わたしは、自分が悪いことをしているところを見《み》つかったように、ぎょっとして振り返った。いつもは青白く澄《す》んでいる彼の面《おもて》に、何かしら燃えるような輝《かがや》きがちらりと横切った。     三  それから半時間ほど後《のち》のことである。  わたしたちは新開地|筋《すじ》もずっと上手《かみて》の、香具師《やし》だの夜店だのが根拠地《こんきよち》にしている空き地の中を歩いていた。五時少し前であったが、日の長い時分だったのでまだ日中を少し過ぎたぐらいのものであった。空き地の中は相変わらず、いろんな香具師《やし》たちでさかんに賑《にぎ》わっていた。フェノール・ナフタリンを酸《さん》やアルカリで赤くしたり青くしたりして、××丸《がん》の効能《こうのう》と面白《おもしろ》くしゃべっている者、ニコチン中毒の表を大きく書いた紙を敷物《しきもの》にして、その上で怪《あや》しげな水薬《みずぐすり》を売っている者、豊臣秀吉《とよとみひでよし》や徳川家康《とくがわいえやす》や、あるいは犬養木堂《いぬかいぼくどう》や加藤高明《かとうたかあき》を引っ張り出して、姓名判断《せいめいはんだん》について見識《けんしき》ぶった説明をしている者、焼《や》き継《つ》ぎ薬《やく》を売る者、ホローメン金屋《きんや》、活花《いけばな》の師匠《ししよう》、山椒魚《さんしよううお》の干したのを粉にして売っている山伏姿《やまぶしすがた》の男、実に種々雑多な香具師たちが、ほこりっぽいその空き地の中に、ごみごみとした一種の気分をつくり出していた。その香具師の人だかりの合間合間には、一|冊《さつ》五銭、十銭などと書いたボール紙を立てた古雑誌屋があったり、むかつきそうな強《きつ》い臭《にお》いをさせている天ぷら屋の屋台《やたい》があったりした。天ぷら屋の腰掛《こしか》けには、これも香具師か何からしい男が二、三人腰を下ろして、コップ酒《ざけ》をあおりながら、辺《あた》りはばからぬ大声で、昨夜逢《ゆうべお》うたとかいう女のことを露骨《ろこつ》な調子で話し合っていた。まるで切って放たれた駒《こま》のように自由で、奔放《ほんぽう》で、猥雑《わいざつ》な小天地であった。  わたしたちはその空き地を取り囲んでいるバラック建ての、古本屋へ立ち寄って、列《なら》べられた本の背の文字を読みながら何かが起こるのを待っていた。  あの万引き事件を目撃してからすぐ後《のち》のことであった。  わたしたちは五階の食堂で紅茶を飲んだ。眼《ま》のあたり忌《いま》わしい事件を見せられたので、わたしの心はひどく不愉快《ふゆかい》になっていた。わたしの連れはと見ると、彼も青白い顔をしてぼんやりと壁《かべ》のほうを見ていた。  しばらくたってからわたしはいった。 「あの婦人を御存じなのですか」 「いいえ」 「どこかで、やっぱり万引きをしているところを御覧《ごらん》になったことがあるんじゃないのですか」 「いいえ」  わたしは口をつぐんだ。しばらくたってから今度は彼のほうから口をひらいた。 「あの食堂の入り口で出あうまで、わたしは一度もあの婦人を見たことはありません」 「では、どうして——」 「分かるのです。どうしてだか知りません、しかし一目《ひとめ》あの婦人の顔を見たとき、ああ、この女は万引きをやるぞ、と感じてくるのです」  わたしは不思議な思いをした。なんだか夢《ゆめ》を見ている男と話をしているような気持ちがした。わたしは黙《だま》っていた。 「あなたはシャーロック・ホームズの物語をお読みになったことがありますか」  だいぶたってから彼はそう訊《たず》ねた。 「あります」 「ではその中《うち》で、ホームズがしばしばいわゆる推理力なるものを働かせて、友人のワトスンを驚《おどろ》かす場合をお読みになったことがあるでしょう。例えばこんな場合があります。ホームズがワトスンに、君《きみ》とこへ今度来た女中はせっかちだね、というようなことをいいます。するとワトスンが驚いて、どうしてそんなことが分かると訊《き》く。するとホームズが、君の靴《くつ》の磨《みが》きかたがぞんざいだからというようなことをいいます。読者はそこでなるほどとワトスンと一緒《いつしよ》に感心してしまうのです。しかしあれは小説だからああうまくいっているので、実際の場合あんなことがいえるものじゃありませんよ」 「では、君は、いやあなたは、推理力というものの存在を否定なさるんですか」 「いや、そうじゃありません、推理力というものはあります。ホームズがワトスンの女中がせっかちであることをいい当てる、ああいうことはあり得《え》ます。しかし、ワトスンに『なぜ』と訊《き》かれて、君の靴の磨きかたがぞんざいだからというようなことは、全く小説家のでたらめなんです」  彼のいおうとしているところがわたしにはよく呑《の》み込《こ》めなかった。彼は言葉を続けた。 「人間の推理力というものは、ことに天才の推理力というものは、そんなに階段的な、いいかえれば三段論法式なものであるはずがありません。もっと霊妙《れいみよう》な、刹那《せつな》的なものであるはずです。ホームズがワトスンを見たせつな、今度来た女中はせっかちだなと感じる。もちろんそう感じるまでには、靴の磨きかたがぞんざいだという観察が潜在《せんざい》意識の中《うち》にあるにはちがいありません。しかし、ホワイと問われた場合ビコーズとそのことを口に出していえるものじゃないのです。もし小説に書かれてあるように、ああだからこうだ、こうだからああだと、三段論法的に押していかなければ結論に到着《とうちやく》できないようじゃ、ホームズはけっして天才じゃない、ただ熟練家にすぎないのです」 「ではあなたは、ホームズよりむしろリュパンにより多くの人間味を見いだされるわけですね」 「そうです、そうです」  彼は少し早口にいった。 「リュパンはよく直覚というようなことをいいます。読者はそれを、作者が合理的な説明ができないから〈直覚〉で逃《に》げるのだといいます。しかし実際の場合あのほうが本当なんです。わたしがあの婦人を見たせつな、この女は万引きをするぞと直覚しました。その結論に到着するまでには、たぶんわたしの潜在意識は目覚ましく働いて、いろんな観察や推理の過程を経《へ》てきたのでしょう。しかしその過程の順序を口に出して説明しろといわれても、とうていできるものじゃありません。ちょうど光は目に見えていても手でつかむことができないように」  彼はそれを超《ちよう》推理力だといった。わたしには彼の言葉をそのまま信用してよいのかどうか、よく分からなかった。この青白い顔をした服装《みなり》をかまわぬ青年が、その超推理力の具有者《ぐゆうしや》なのだろうか。 「あなたはまだお疑《うたが》いの様子ですが、なんでしたらもう少しわたしと一緒にお歩きになりませんか。そうすればも一度、超推理力の力を実地にお眼《め》にかけます」  食堂を出るとき、彼はこういって誘《さそ》った。 「そうですね」  時間はまだ早かった。その青年と一緒に歩いて、いわゆる超推理力のお手並《てな》みを見せてもらうのも面白《おもしろ》いと思った。 「ではわたしのほうから注文しましょう。どこか思いきり俗悪な所へ行こうじゃありませんか」  彼はうなずいた。     四  古本屋を出るとわたしたちは、一つ一つ香具師をのぞいて歩いた。超推理力を示すべき事件はいまだ起こらないとみえて、彼の様子にはなんの反応も見えていなかった。彼はけっしてあせらなかった。いつも往来《おうらい》ですれちがうときの彼と同じように、無表情な青白い顔をして人々の背後《うしろ》から背伸《せの》びをして中をのぞいたりした。  一体香具師の話を聞いて廻《まわ》るというのも、ときにはなかなか面白いものである。香具師というものはあれでなかなか生やさしいものではないと思う。かれらには人をひきつけるような魅力《みりよく》がなければならない。そのためには与太《よた》も飛ばさなければならないが、それでいてまた見くびられてしまってもならぬ。面白いことをいって人をひきつけると同時に、俗衆《ぞくしゆう》をして信ぜしめるようにしなければならないのである。  ××丸《がん》を売っている男など、この点では最も理想的な香具師だ。堂々とした体格と容貌《ようぼう》とで、押し出しからいえば政党の総裁といっても恥《は》ずかしくないほどである。その話しぶりを聞いているとなんということなしにひきつけられてしまう。自由自在な機智《ウイツト》で時事問題などについて巧《たくみ》な解剖《かいぼう》を試みる。こうなると香具師も一種の芸術だと思わせられることがたびたびある。そのときもわたしは彼の話を聞いていた。その日はなんでも彼は、最近にあった情死《じようし》事件の批判《ひはん》をしていたようだった。露骨な話しっぷりの中へときどきうまくユーモアを織りまぜる。聞いてしまうと結局、性慾《せいよく》というものを讃美《さんび》しているのか罵倒《ばとう》しているのか、さっぱり分からないような調子なのだが、それでいて面白い。露骨なことをいわれるたびに、群集はあはあはと馬鹿《ばか》みたように喜んで笑っている。  そのときである。ぐいぐいとわたしの背中を突《つ》くものがあった。びっくりして背後《うしろ》を向くと四十|格好《かつこう》の薄汚《うすぎたな》い乞食《こじき》女が立っていた。 「おっさん、一銭おくれ」  錆鉄《さびがね》のような声でそういいながら、汚い手を出す。わたしは本能的に体を背後《うしろ》へ引いた。 「ようくれんのかい。けちん、ええ年して一銭もようくれへん、おまえらあくかえ」  乞食女は貝の身のような片方の眼《め》でわたしをにらみながら、二、三歩|背後《あと》へ寄ると、ぺっぺっと唾《つば》をわたしのほうへ吐《は》きかけた。わたしは横へ逃《に》げながら、 「なんだい、ありゃ」  とだれにともなくいった。 「気違《きちが》いだんが。お春《はる》さんいうてこの辺《へん》の名物女だっせ」  わたしのすぐ側《そば》にいた男がそういって教えてくれた。そのお春さんは今度はわたしの連れの男に同じように一銭おくれと強請《せび》っていた。彼は例によって無表情な顔でぽかんと相手を見つめていた。別に逃げようとも避《さ》けようともしなかった。それにはさすがの狂女《きようじよ》もまいったらしく、かえって彼女のほうから照れくさそうに手を退《ひ》いた。 「なんや、こいつ、気違いかいな、阿呆《あほ》」  唾をまたぺっぺっと吐きかけながら彼女は向こうのほうへ行った。まわりにいた人が二、三人へらへらと笑った。わたしもその対照がおかしかったので思わず笑った。  それから二つ三つまたほかの香具師をのぞいて、その空き地から出て行こうとしていると、天ぷら屋の屋台の前に例の狂女が立って、男たちから何やかやとからかわれていた。あまり好《い》い図ではないので、わたしはその側を急いで通り過ぎてしまったが、どうしたものか連れの男はわたしに従《つ》いてこなかった。振り返って見ると天ぷら屋の隣《となり》にある古雑誌屋の前にかがんで、雑誌を選《よ》るようなふうをしながら、それとなく狂女のほうに注意しているようであった。 「何かありますか」  やむなくわたしは彼の側へ引き返して行った。彼は心持ち顎《あご》をしゃくって狂女のほうを示した。 「ははあ、彼の超推理力が働きだしたのだな」  わたしはそう思ったので、彼の側に同じようにかがんで、見たくもない雑誌の頁《ページ》をぱらぱら繰《く》っていた。 「お春さん、こないだの晩、えらいお楽しみやったそうやな」  一人の男がそんなことをいいだした。狂女はにやにやしながら、大きな天ぷらの一きれを下からすくい上げるようにして口の中へ入れていた。 「どないしてん、吉《きつ》ちゃん、お春さんどないぞしたんかいな」  若い、赤ら顔の男が鼻の頭にあぶらをにじませながら訊《き》いた。 「おまえ知らんのかい。お春さんいうてもええか」  その男の眼《め》はみだらに輝《かがや》いていた。 「知らん、知らん」  狂女はむしゃむしゃと天ぷらを頬張《ほおば》りながら、錆鉄《さびがね》のような声でいった。なんといわれても平気らしく、にやにや笑っていた。 「わいが塩梅《あんばい》知らん思《おも》てそないいうとんねんやろ、わいはなんでも知ってんねぜ。助《すけ》やんに何もかも聞いてんさかいな」  それから二言三言《ふたことみこと》聞くに耐《た》えないような言葉が、大声で話された。若い男はげらげらと笑い出した。 「そらええがな、助やんとお春さんやったら似合《にあ》いの夫婦や。どやお春さん、一つわいと浮気《うわき》せんか。わいかてそない嫌《きろ》たもんやないぜ」  若い男はちょっと腰掛《こしか》けから腰を上げて、女の手を握《にぎ》ろうとした。 「嫌《きら》い!」狂女はその手を振《ふ》り払《はら》うと、どろりとした片方の眼《め》で恐《こわ》そうに彼らをにらみつけた。 「助平《すけべい》。なんやその顔。助平面《すけべいづら》さらして。鏡とよう相談してこいよう」  辺りに居合わせた五、六人の男たちが一様《いちよう》にどっと笑い出した。 「えらい嫌われたもんやな三|公《こう》、あかんぜ」 「三公も吉公もみな嫌い、みなみな嫌い」 「好きなんは助やんだけか」 「知らん知らん」 「なんぼ好きやかて、あんまり可愛《かわい》がったりなや。そやさかい、そない眼《め》が悪なんね」  狂女は左の眼にあてている、顔半分|隠《かく》れてしまうほど大きな片眼帯《へんがんたい》に手をやった。 「なんにも知らんくせにつべこべいいな。甲斐性《かいしよう》があったら一銭くれてみい」 「一体なんです、ありゃ」  狂女が向こうのほうへ行くと、その後《あと》を目送《もくそう》しながらわたしの連れの男は古雑誌屋の主人にそう訊《たず》ねた。 「気違いだんが。あれでも元は灘《なだ》のなんとかいう造酒屋《つくりざかや》の娘《むすめ》やったそうだすが、二、三年前に家は倒《たお》れる、親父《おやじ》は首をくくって死ぬ、そのあげく亭主《ていしゆ》に棄《す》てられて、とうとうあんな姿になったんやそうだす。あないになったらもうだれもかもてくれしまへん。親類《しんるい》にはだいぶ好《え》えのがあるんやそうだすがどうせ薄情《はくじよう》なもんだっさかいなあ」 「じゃ、今のところ一人で暮《く》らしているんですか」 「へえ、なんでも荒田《あらた》のほうにいるちゅう話だす。あんじょうは知りまへんけど。あれで、気違いは気違いなりにだいぶ溜《ため》てるちゅう話だっせ」 「眼が悪いらしいですね」 「さあ、このごろときどきあんなもん眼に当《あ》てて来まんな。別に悪いちゅうほどのことはおまへんのやろけど、だれかにまた騙《だま》されたのを真《ま》に受けてまんねやろ」  わたしたちは間もなく肩《かた》をならべてその空き地からぶらぶらと往来《おうらい》のほうへ出た。 「どこへ行きます?」 「あの女をつけてみましょう」  半町ほど先を、例の狂女が通りすがりの人ごとに、一銭おくれと手を出していた。くれないで行き過ぎると、たいていの人はそうであるが、彼女は後《あと》からぺっぺっと唾《つば》を吐きかけながら悪口《あつこう》を吐《つ》いていた。 「何か分かりましたか」 「ありゃ気違いじゃありませんね」 「どうして?」 「どうしてとお尋《たず》ねになっても駄目《だめ》です。そこが超推理力ですから」  彼の青白い顔には、さっき白木屋で万引きを目撃《もくげき》したときと同じような輝きが浮かんでいた。なんとなくそれは陰険《いんけん》で惨忍《ざんにん》で不気味《ぶきみ》だった。 「しかし」  わたしは、ぼろぼろの着物を丸くなるほど着込《きこ》んだ狂女の後ろ姿《すがた》を見ながらいった。 「正気《しようき》とすればよく長い間、化けの皮をはがされずにあんな馬鹿馬鹿《ばかばか》しい真似《まね》ができたものですね」 「さあ」彼も同じく女のほうを見ながらいった。 「たぶんあれは、そのお春さんとかいう女とは違うのでしょう」  わたしは思わず「どうして?」といいかけたが、また超推理力で逃げられちゃつまらないと思ったので、そのかわりに、 「と、いう意味は?」と訊《き》いた。 「お春さんという気違いは本当にいるんでしょう。しかしあの女はそのお春さんじゃありません。まあ身代わりを務《つと》めてるんですねえ」 「どうしてまたそんなことをやるんでしょう」 「さあ、そこまではまだ分かりませんがね、いや、大体《だいたい》の見当はついていますが、その話は結果をよく確かめてからすることにしましょう」  狂女は湊川《みなとがわ》公園を斜《なな》めに突《つ》っ切《き》って、そこにある勧業館《かんぎようかん》の東|側《がわ》に出た。ちょうどK造船所の退出時間《ひけどき》とみえて、そこに店を出している関東煮《かんとうに》屋の屋台に、青い菜《な》っ葉服《ぱふく》を着た三人の男が首を突っ込《こ》んで何か食っていた。 「おい、お春さん、何か食うて行きんか」  一人の男が彼女の姿を見つけて呼びかけた。 「おおけに。今日はえらい気前《きまえ》がええな。ははあさては勘定日《かんじようび》やな」 「ははははははは、いかれてるがな」  三人の職工は歯をむき出して笑った。 「せっかくやけど今日は預けとくわ。わて今日はちょっと急いでまんね」 「まあええがな、だれも待っとるわけやあろまいし」  すると一人の男が横から口を出した。 「そうやないなアお春さん。このごろ好《え》えのができとるちゅう話やがな」 「ほお、そうか、そんならよけいのこっちゃ、惚気《のろけ》でも聞かさんか」 「知らん知らん、みんなしてあんなこといいくさる。助こなんか大嫌いじゃ」  いつの間にやら彼女を取り巻いていた大勢の職工たちが声をそろえて笑い出した。青い菜っ葉服の波がそこにゆらいだ。     五 「どうも受け取れませんね、あの女の真偽《しんぎ》を疑《うたが》う者は一人もなさそうじゃありませんか」  肩を並べて狂女の後《あと》を追いながら、わたしはそう連れの男にいった。彼女《かのじよ》の後《あと》を尾行《びこう》するということはかなり困難なことだった。彼女はいたる所で道草を喰《く》った。そのたびにわたしたちは、耳をおおいたいほどの猥雑《わいざつ》な言葉を聞かなければならなかった。連れの男はわりに平気だった。かえってそうした応答を、一句も聞き落とすまいと耳を傾《かたむ》けているように見えた。 「ここらに住んでいる人たちは、毎日お春さんという女を目撃《もくげき》しているんでしょう。人が変わっていれば気がつきそうなものですね」 「いや、慣《な》れすぎているからかえって気がつかないのですよ」  彼はいった。 「リュパンの話に案山子《かかし》を種にしたのがありましょう。一人の男が案山子に化ける。その村の人たちはそこに案山子のあることをよく知っているから、深い注意を払《はら》おうともせず、かえって看過《みすご》してしまう。ところがよそからやって来たリュパンはその辺の事情にうといものだから一応は何にでも当たってみる。ですぐにその男をつかまえるという話です。紛失物《ふんしつぶつ》を自分で探すとなかなか見つからないものだが、かえって他人に探してもらうと、つい鼻の先から出てくることがあるというのも、同じ理《わけ》です」  そろそろ辺りは小暗《こぐら》くなってきた。狂女は湊川に沿《そ》うて、すたすた砂塵《さじん》を上げながら歩いていた。だいぶ足がはかどってきたので、こちらも助かるわけである。 「それにあの女を御覧なさい、姉《あね》さんかぶりに片眼帯《へんがんたい》に太い首巻き、顔の露出《ろしゆつ》している部分といえば右の眼《め》のふちのわずかな部分だけです。それに体の格好《かつこう》だって、ああぶくぶく丸くなるほど着ていちゃ、ちょっと分かるものじゃありません」  狂女は小学校の角《かど》を右へ曲がると、だらだら坂をしばらく下りて、また左へ曲がった。それから二、三度まるで迷宮《めいきゆう》のような細い道を曲がり曲がりしたが、お終《しま》いにようやく、じめじめとした汚《きたな》い袋陋路《ふくろろうじ》の一番奥の家へはいった。 「わりに立派な家じゃありませんか。電気がついていますよ」  わたしは気違い乞食《こじき》の家だというから、お定まりの蒲鉾小屋《かまぼこごや》のようなものを想像していたので、ちょっと意外だった。わたしの連れは黙《だま》って立っていた。 「少しここらで待っていなければなりませんが、あなたはどうします」 「さあ」  わたしはそういいながら空を仰《あお》いだ。底の底まで澄《す》み切った空には、淡《あわ》い星が二つ三つ輝《かがや》いていた。とてもわたしは帰る気にはなれなかった。 「しばらく、おつきあいをしましょうか」  といった。  陋路《ろうじ》の出口に一|軒《けん》のたばこ屋があった。わたしの連れはそこへはいって敷島《しきしま》を一つ買った。 「ここで友達と合う約束《やくそく》をしてあるんですがね」  彼はそこのお主婦《かみ》さんにそんなことをいった。 「そうやったらあんた、おはいりやしたらどうだす。汚い所だっけど」  お主婦《かみ》さんは親切にそういった。 「有り難う、この店先に立たせていてもらいましょう。気がつかずに行ってしまわれてはなんですから」  この男は、こんな場合になると驚《おどろ》くべきほどの気転をきかすのであった。わたしなど、とてもこんなに如才《じよさい》なく出られようとは思えなかった。彼のその気転で、わたしたちは怪《あや》しまれることなしにその陋路の出口に張り番していることができるのであった。  陋路の奥《おく》はだんだん薄暗《うすぐら》くなってきた。その袋陋路には左右三|軒《げん》ずつの平家《ひらや》が建っているのだったがどうしたものか、狂女のはいった一番奥の家と、その向《む》かい列《なら》びの一番手前の家とのほかは、どの家も電気がついていないで真っ暗であった。 「小母《おば》さん、この陋路の中は真っ暗ですが、空き家があるんですか」  わたしの連れはまたたばこ屋の店の中をのぞきながらそう訊《き》いた。 「そうだす、そうだす、今度電気がつきまんのでな、ここ一月《ひとつき》の間に立ち退《の》かんなりまへんの、ここらで残っているのわたしとことこの奥の二軒だけになってまんのやわ」  店先で一人|茶漬《ちやづけ》をかっ込んでいたお主婦《かみ》さんがいった。  陋路《ろうじ》の奥には何事も起こらなかった。わたしたちが来てからもう二十分になっていた。辺りはもうすっかり真っ暗に黄昏《たそが》れてしまった。わたしは退屈で馬鹿馬鹿《ばかばか》しくなってきた。気違いの後《あと》を追うて、気違いのお供をしてきたのじゃないかしらと思ったりした。何度、もう退《ひ》き上げようかしらと思ったかしれなかった。しかしそのたびに、何かしら確固たる自信がありそうな連れの男の顔色を見ると、未練《みれん》が出てくるのであった。  ふいにがらがらと格子《こうし》を開ける音がした。辺りが静かだったので、それが例の狂女の家であることがすぐに分かった。一人の女が出て来た。暗いのでよく分からなかったが、みすぼらしい服装《みなり》をした三十前後の、そのへんの山《やま》の神《かみ》といったいでたちの女であった。彼女は何かを恐《おそ》れるように、そろそろと辺りを見廻《みまわ》していたが、やがて早足でこちらへ出て来た。わたしたちはすぐたばこ屋の店先へ身をかわして、彼女の視線を避《さ》けるようにした。彼女はちらりとこちらへ眼《め》をくれたが、そのまますたすたと行き過ぎてしまった。何か非常にあわてているふうで、上《うわ》ずった眼《め》を落ち着きなくきょろつかせていた。 「小母《おば》さん、あの女の人を知っていますか」  わたしの連れは訊《き》いた。 「どの人だす」  たばこ屋のお主婦《かみ》さんはちょっと店から膝《ひざ》を伸《の》ばして外をのぞいたが、 「あれだっか、あれはこの奥にお春さんちゅうて気違いが住んでまんね、そのお春さんの親戚《しんせき》やいうてこのごろときどき出入りをする人だすわ」 「行こう」  みなまで聞かずにわたしの連れの男は強い声でいった。 「いくら待っていても来そうにないや、もう行こうじゃないか」  わたしたちはそこのお主婦《かみ》さんに礼を述べてぶらぶらその家の店先を離《はな》れた。二、三軒来ると、ふいにわたしの連れがわたしの腕《うで》に手を触《ふ》れた。 「お願いですから、あなたあの女を見失わないように後《あと》をつけてくれませんか、わたし、ちょっと行って来るところがありますから」 「行くってどこへ行くんです」  わたしは少なからず狼狽《ろうばい》した。なんだか彼と離れるのが心細いような気持ちがした。彼は低い声でささやくようにいった。 「気違いの家へ行ってみるのです。何事かがあすこで起こっているのにちがいないのです」  彼の声は慄《ふる》えていた。ふと見ると彼の青白い頬《ほお》の筋肉《きんにく》が、興奮のために痙攣《けいれん》しているのが見えた。 「すぐ帰って来ます、二分とかかりません。それまで決してあの女を見失わないように」  早口にそういい棄《す》てると、わたしの返事も聞かずに彼は今来た道をもとへとって返した。わたしは当惑《とうわく》した。お春さんの家から出て来た女は、一|町《ちよう》ほど先をうつ向きかげんに足を急がせていた。暗くはあるし煩雑《はんざつ》な道筋《みちすじ》だからいつ撒《ま》かれてしまうとも限らなかった。わたし自身は撒かれないまでも、連れの男とはぐれてしまうかも分からなかった。彼がやって来なければ、わたしはいつまであの女をつけていればよいのだろう。  幼いときに、隠《かく》れん坊《ぼう》でよくそのまま置きざりにされたことがあったが、そんなときの淋《さび》しい頼《たよ》りない気分が胸《むね》の中《うち》に甦《よみがえ》ってきた。  幸い、わたしの連れはあまり待たせることもなく、間もなく後《あと》から追いついた。 「有り難う、で、あの女は?」  やや急《せ》き込んだ調子で彼はいった。  わたしは黙って顎《あご》で女の後ろ姿を示した。恋人《こいぴと》にでもめぐりあったように、なんともいえずそのときの彼が懐《なつ》かしかった。そうした自分の感傷的な気持ちを隠《かく》すために、わたしは強《し》いて落ち着いた声を出すように努《つと》めた。 「早かったですね、で、何かありましたか」  わたしの連れは、さもさもなんでもないことを、なんでもないときにいうような調子で、いった。青白い、表情のない声であった。 「殺されていましたよ。お春さんが」     六  彼の話によるとこうであった。  狂女の家は三|畳《じよう》と四畳半の二|間《ま》になっていた。赤黒く汚れた、じめじめとした気持ちの悪い畳《たたみ》だった。狂女は奥の間《ま》から縁側《えんがわ》へかけて倒れていた。今|脱《ぬ》いだばかりの、まだぬくもりの残っている着物が、表の三畳いっぱいに散らかっていた。狂女はわりにさっぱりとした襦袢《じゆばん》と腰《こし》の物一つになって、縁のほうへ頭を置いて伏向《うつむ》きに倒《たお》れていた。火をつけたらめらめらと燃え上がりそうな赤ちゃけた髪《かみ》の毛が、血汐《ちしお》ともつれあって縁の上を匐《は》うていた。血汐はまだよく乾《かわ》き切っていなかった。ちょっと抱《だ》き起こして見ると、左の額《ひたい》から左の耳の下へかけて、唇《くちびる》のように断ち割られていた。ぶくぶくと、まだなまぐさい血汐が吹き出していて、顔半面は真《ま》っ紅《か》に染《そ》まっていた。薄桃色《うすももいろ》の肉のついた一握《ひとにぎり》の頭髪が、縁《えん》の端《はし》からだらりと垂れ下がっていた——。  こうした聞くさえ恐《おそ》ろしい情景を語って聞かせるのに、わたしの連れは不思議なほど平静だった。まるで日常の茶飯事《さはんじ》について話をしているように、いや、それよりももっと気のない調子だった。わたしなど、平常なら犬や猫の死骸《しがい》を見てさえ心が騒《さわ》ぐほど臆病《おくびよう》だのに、そのときは、いつのまにか彼の気持ちが伝染《でんせん》していたとみえて、わりに落ち着いた態度でいられた。  それにしても、彼のその態度はどうしたというのだろう。人殺しといえば、犯罪事件のうちでも一番重大に見られていることである。それだのに彼は、それを警察へ届けようともしなければ他人に語ろうともしない。だれかほかの者によって発見されるまで放《ほう》っておくつもりだろうか。それでいいことなのだろうか。  彼は、かちゃかちゃといわせて熱いコーヒーをかきまわすと、ぐっと一息に飲みほした。さっきからそれで、三杯目のコーヒーだった。 「できるだけ熱くしてね」  彼はそういって注文していた。 「もう少しのところなのです。いま頭が疲《つか》れてしまっちゃって」  わたしの気持ちを察したものか、彼はそういって弁解した。わたしはソーダ水を吸っていた。  頭の上にある鳩時計が、クックウ、クックウ、クックウ、と八時を打った。わたしたちはもう三十分も、そこでそうして例の女を待っていたのである。  わたしたちの卓子《テエブル》のすぐ傍《そば》がショウ・ウインドウになっている。蛇腹《じやばら》のようになったその硝子《ガラス》をとおして、外からは見えないが、中からはよく外が見える。四|間《けん》ほどの往来《おうらい》を隔《へだ》て向かいに薬局がある。その薬局の隅《すみ》に、すぐ往来から上がれるようになった階段があって、それを上がると薬局の二階へ行けるようになっている。二階は美容館《びようかん》である。下の薬局はあまりはやっていないらしく、きわめて閑散《かんさん》だが、二階へはかなりの人の出入がある。もちろん、たいていは若い婦人である。白いすり硝子《ガラス》の二階の障子《しようじ》は、そこだけが活動写真のスクリーンのように、くっきりと明るく輝《かがや》いている。そこへときどき女の影などが映るのであった。  お春さんの家を出た例の女は、平野《ひらの》から滝道《たきみち》行きの電車にのって、三《さん》の宮停留場《みやていりゆうじよう》で電車を乗り棄《す》てると、まっすぐにその美容館へやって来たのである。わたしたちは、その美容館を見張っているには、あつらえ向きのその喫茶店へはいって、さっきから三十分あまりも彼女の出て来るのを待ち受けていたのだった。  彼女はなかなか出て来なかった。ひょっとすると、わたしたちの監視《かんし》の眼《め》をうまく逃《のが》れて、もうそこを出て行ったのじゃないかしら、とわたしは思ったりした。彼女がそこへはいってから、五、六人の女が盛装《せいそう》をこらしてそこから吐《は》き出されている。その中に彼女も混じっていたのじゃなかろうか。裏長屋《うらながや》の山《やま》の神然《かみぜん》とした女と一流の美容館、どうも調和が変である。わたしがそんなロマンチックな考え方をするのも無理はなかった。 「で結局、わたしたちが今|尾行《びこう》している女が、お春さんを殺した犯人なのでしょうか」  わたしは美容館のほうから眼を離さないでそう訊《き》いた。 「そうです、あの女が殺したのです」  彼は答えた。  わたしはその時間について考えてみる。どうも変である。あの女は、お春さんが帰る前から来て待っていたにちがいない。そしてお春さんが着物を脱《ぬ》いで一休みしているところを殺したのであろう。しかしそれにしては、わたしたちに何かの物音が聞こえてこなければならないはずだ。辺りはあんなに静かだったのだし、わたしたちは体じゅうを耳にしてあの家の様子をうかがっていたのだ。叫《さけ》び声も立てずに殺されたとはどうしても思えない。もっともあの家の近所はほとんど全部空き家になっているし、残っている家でもかなり隔《へだ》たっていることだから、何かほかのことに気を取られていてはその騒《さわ》ぎは分からなかったかもしれない。しかし、わたしたちは前にもいったとおり体じゅうを耳にしてその家にばかり気を取られていたのである。分からなかったというのはどうも不思議である。このことについて、わたしの連れはどう考えているのだろうか。  そのとき、美容館の表に一台の自動車が着いた。だれも乗っている者のない所からみて、だれかを迎《むか》えに来たにちがいないが、その自動車のために、大切な階段の出口がわたしたちの眼界《がんかい》から遮《さえぎ》られてしまった。 「出ましょう」  わたしの連れはいった。彼は銀貨をちゃらちゃらいわせて卓子《テエブル》の上へ投げ出すと少し急ぎあしで表の戸を押し開けて出て行った。わたしもそれに続いた。彼は道を横切って薬局へはいって行った。 「仁丹《じんたん》を下さい」 「はい」  主人が仁丹を出しているとき、階段のほうにがたごとという跫音《あしおと》がして、けばけばしい服装《みなり》をした婦人が、二、三人の女たちに送られて下りて来た。 「では、これで失礼します」  その女がいった。 「また、どうぞ」  美容館の主人らしい四十|格好《かつこう》の女が、相手の腰《こし》の辺りまで頭を下げて、叮嚀《ていねい》な言葉でいった。婦人を乗せた自動車は静かに出て行った。たぶん、トーア・ホテルの舞踏会《ぶとうかい》へでも行くところなのだろうとわたしは思った。 「どうします。またあの喫茶店へはいって待っていますか」  とわたしは言った。  いかになんでも、あの薄汚い服装をした女が自動車を呼んで帰ろうなどという考えからして、間違《まちが》っているのだと、わたしはおかしくなってきた。 「もう、それには及びません」  自動車の後《あと》を見送っていたわたしの連れは、がっかりしたような調子でいった。 「どうして? ではあの女を逃《に》がしてやるのですか」  わたしのその言葉には、いくぶん相手を愚弄《ぐろう》するような調子が含《ふく》まれていた。 「大丈夫《だいじようぶ》です。わたしはもう、しっかりと相手の尻尾《しつぽ》をつかんでしまいました。これからいよいよ敵陣《てきじん》へ乗り込むことになるのですが、少し晩《おそ》くなるかもしれません。それでもあなたいいですか」 「こうなればどこまでもお供します。まさか、泊《と》まりがけというほどのことはありますまい」 「いえ、そんな大袈裟《おおげさ》な仕事じゃありません。危険なこともありますまいから、是非|一緒《いつしよ》に行きましょう」 「しかし、その前に腹をこしらえておきたいですね、さっきからお茶ばかり喫《の》んでいるので、腹がだぶだぶなんです」 「じゃ、パウリスタへでも行きましょうか。なあに、少しぐらい遅《おそ》くなっても、逃げる心配はないから大丈夫です」     七  間もなくわたしたちは、須磨寺行きの電車の中に自分を見いだした。三の宮から兵庫駅前まで市電に乗って、それからまた郊外《こうがい》電車に乗り換《か》えたのである。一体どこまで引《ひ》っ張《ぱ》ってゆかれるのか、わたしにはさっぱり分からなかった。彼に尋《たず》ねようとも思わなかった。その男の極端なまでに自信に満ちた態度は、わたしに不安を起《お》こさせる隙《すき》も与《あた》えなかった。これだけ引っ張り廻《まわ》した以上、何かわたしを満足させるような結果を見せてくれるにちがいないと思った。もし彼が失敗したとしても、それはそれでいいではないか。もう今までのことだけでも、充分《じゆうぶん》一つの面白《おもしろ》い事件になっているではないか。  月見山《つきみやま》でわたしたちは電車を乗り棄《す》てた。 「どこへゆくのです」 「さあ」  彼はちょっととまどいしたらしい様子であったが、すぐに、停留所の側《そば》にある小間物《こまもの》屋のほうへ足を向けた。 「ちょっとお尋ねしますが、この辺りに青野子爵《あおのししやく》の別邸《べつてい》があるはずですが、どちらへ行ったらいいのですか」  小間物屋の娘《むすめ》さんが何かいおうとした。しかしわたしの言葉がそれを遮《さえぎ》ってしまった。 「青野子爵の別邸でしたら、僕《ぼく》がよく知っていますよ」 「ああ、そうですか」  わたしたちは変な顔をしている娘さんを後《あと》に、踏《ふ》み切りを渡って山手のほうへ歩いた。月見山にわたしの友人の宅《たく》があって、そこへときどき遊びに行くが、いつかその友人と散歩の途次《とじ》、ここが青野子爵の別邸だよと教えてもらったことがあった。  わたしたちはその邸《やしき》の玄関《げんかん》に立って、お嬢様に面会したいと申し込んだ。もちろん、最初はうまく断わられてしまった。しかしそんなことにめげる男ではなかった。 「ではもう一度取り次いで下さい。お春さんについてお話ししたいことがありますからといって下されば、きっと承諾《しようだく》して下さるにちがいないのですから」  女中は変な顔をして引っ込んだが、すぐにまた出て来た。 「どうぞこちらへ」  わたしたちは応接室へ通された。  わたしの連れは、青白い顔をいよいよ青白くして、口をへの字なりに曲げていた。だいぶ興奮《こうふん》してきたらしいことが、その眼《め》の色によって分かった。  それは鼠《ねずみ》を弄《もてあそ》ぶ猫《ねこ》のように、残忍《ざんにん》な快《よろこび》をむさぼっているときの輝きであった。そうした眼《め》つきは、わたしをいくぶん不愉快《ふゆかい》にした。  令嬢はなかなか出て来なかった。いったい、この家《うち》の令嬢と狂女殺しとにどんな関係があるのだろう。青野子爵の令嬢|芳子姫《よしこひめ》といえば、素人《しろうと》音楽家として相当聞こえている人である。二、三年前に何かわけがあってこの月見山の別邸に引っ越して来て以来、神戸の社交界に美しい花が殖《ふ》えたと噂《うわさ》をされているくらいである。慈善《じぜん》音楽会などだと、いつもプログラムの中に青野芳子の名前が見えるのであった。そうした社会の第一線に立っている婦人と、あのごみごみとした貧民窟《ひんみんくつ》の一角《いつかく》に起こった事件との間に、何かの引《ひ》っ懸《か》かりがあろうなどと考えられることだろうか。  そんなことを考えているところへ、ようやくのことで令嬢が出て来た。彼女の顔を一目見たせつなわたしの胸はどきっと躍《おど》った。それというのが、そこへ出て来た婦人というのが、実に、三の宮のあの美容館から、自動車に迎えられて帰って行った、見覚えのある婦人だったからである。  わたしは、令嬢だというからもっと年若い婦人を想像していた。ところがそこへ出て来たその婦人は、どう見ても、もう三十に近い年ごろとしか見えなかった。大柄《おおがら》な、健康そうな肉体の所有者だった。 「なんの御用でございますかしら、あなたのおっしゃったお言葉の意味は、一向《いつこう》あたしには呑《の》み込めませんが」  いらいらとした、ヒステリックな調子であった。大儀《たいぎ》そうな体をぐったりと椅子《いす》の中に埋《うず》めて睨《にら》まえるようにわたしたちの顔を見較《みくら》べた。 「少し内密《ないみつ》にお話をしたいことがあるのですが、この部屋《へや》で大丈夫ですか」わたしの連れがいった。 「ええ、ここで承りましょう。外へ洩《も》れる気遣《きづか》いはありません」 「そうですか、では率直《そつちよく》にお尋ねすることにしましょう、奥さん、あなたはなぜ気違いの真似《まね》なんかなさるのです」  令嬢の全身が、電気にかかったようにぴくりと動いた。彼女は敵意に満ちた眼を据《す》えて、凝《じつ》と彼をにらんでいた。 「何をおっしゃるのですか、あたしにはよく分かりませんが——」 「そんなに焦《じ》らしっこをするのは止《よ》しましょう。わたしには何もかも分かっているのですから」  相手を抑《おさ》えつけるような調子で彼はいった。それは氷のような冷酷《れいこく》な声音《こわね》であった。側《そば》に聞いていたわたしでさえ、思わず反感を高まらせないではいられないほどであった。への字なりに曲げられた彼の口角《こうかく》に漂《ただよ》うている微笑《びしよう》には、なんの同情も仮借《かしやく》もなかった。 「それでもまだあなたがおっしゃりたくないようでしたら、わたしのほうからいいましょう。あなたは五、六時間ほど前に、新開地の上の空《あ》き地で、一銭おくれとわたしの前に手を出したじゃありませんか。思い出せませんか。それで思い出せなければもう一ついいましょう。荒田《あらた》の、あの狂女の家《うち》から出ていらしったとき、たばこ屋の前に立っていたわたしたちのほうをちらりと御覧になりました。どうです、まだ思い出せませんか。ではもう一ついいましょう。三の宮のあの美容館から出ていらしって、自動車の踏《ふ》み台に片足をお乗せになったとき、あなたはここにいるわたしの友人の顔をはっきり御覧になったはずです。あのときわたしは薬局の奥のほうで仁丹《じんたん》を買っていましたが、あなたの顔色がちょっと変わったのを見逃《みのが》しはしませんでした。あなたは、荒田のたばこ屋の前に立っていたわたしたちの姿《すがた》を思い出したので、ちょっと吃驚《びつくり》なすったのです。どうです、これだけいえばもはや知らないとはおっしゃりますまいね」  令嬢の顔は紫《むらさき》色になった。しかし彼女はそれでも負けようとはしなかった。 「あたしにはなんのことだが分かりません。あなたがたは夢《ゆめ》を見ていらっしゃるのです」 「奥さん」わたしの連れは叱《しか》りつけるようにいった。「あなたはご自分の今の立場に気がおつきにならないのです。かりにもあなたは、殺人事件の渦中《かちゆう》に立っていらっしゃるのですよ」  令嬢の顔面がぎゅっとゆがんだ。しかし彼女は頑固《がんこ》に黙《だま》り込んでいた。 「もしあなたが、あくまで白《しら》をおきりになるのでしたら、わたしもやむを得《え》ません。警察へ万事を届けて出るつもりです」 「それもいいでしょう」令嬢は毒づくようにいった。「何を証拠《しようこ》にあなたはそんなことをいえるのです。あたしはこれでも子爵の娘です。気違い婆《ばばあ》に化けて新開地を歩いていたといって、だれが信用するものですか」 「そのことであなたはたかをくくっていらっしゃるのですか」  彼は憐《あわ》れむようにいった。 「よくお聞きなさい。わたしがあなたにお眼《め》にかかったのは、新開地のあの空き地が初めてだったのですよ。それからたった五、六時間しかたっていないのに、わたしはこうしてあなたのところへやって来ている。あなたはこうしたわたしを恐《おそ》ろしいとは思いませんか。わたしには今のところ証拠がない。わたしは別にそれを隠《かく》そうとは思いません。わたしにいわせれば証拠とはそも何物ぞやです。もしあなたが強《し》いて要求なさるなら、三十分の間に動かすことのできない証拠を見つけ出してお目にもかけます。それが出来ないわたしだとお思いになるのですか」  二人は凝《じつ》とにらみ合っていた。その間には火花と火花がかち合って散った。それはむしろ凄惨《せいさん》な一騎打《いつきう》ちの光景であった。間もなく、令嬢のほうの息づかいが次第に荒《あら》くなってくるのが感じられた。明らかに彼女が敗れたのである。 「よござんす、お話をしましょう。いったい、あなたがたは何をする人間なのです。刑事《けいじ》ですか、新聞記者ですか。いえ、お答えしなくてもよござんす。お見受けしたところどちらでもなさそうですわね、たとえまた、あなたがたが刑事であろうと新聞記者であろうと、あたし少しも構《かま》いません。べつに悪いことをした覚えはないのですから。しゃべりたければしゃべって下すっても結構です。もちろん社会はあたしを責めるでしょうよ、擯斥《ひんせき》するでしょうよ。だがそれがなんです。あたしはその矢面《やおもて》に立ってやります。自分を罵《ののし》った者に対して罵り返してやります。あたしの罪じゃありません、みんな不合理な人間の作った社会というものの罪なのですから」  彼女は細いきいきい声を振り絞《しぼ》って一気にしゃべりたてた。それは明らかに、彼女が極度のヒステリイであることを示していた。しゃべっているうちに彼女はだんだんと興奮してきて、ほとんどわたしの連れに喰《く》ってかかろうほどの勢いであった。  今ここに、そのときの彼女の言葉をそのまま写すべきであろうけれど、わたしは気の毒で、とてもそんなことが正面から書けないのである。で、彼女の話の要点を、かいつまんで述べることにする。  一口にいえば彼女は立派な変態心理者だった。もう少し詳《くわ》しくいうならばこうだ。  彼女は三度結婚して三度とも不縁になった。いろんな風評が彼女について流布《るふ》された。それは女にとって実に無慈悲《むじひ》な風評であった。その結果は、彼女を独身で暮《く》らすべく余儀《よぎ》なくしてしまった。しかし彼女はまだ若いのだし、人一倍健康な肉体の所有者でもある。満たされない慾望《よくぼう》を持て余す夜が、幾年となく続いた。そうして真正面から享楽《きようらく》することを許されなかった慾望は、へんにこじれてしまって、いつの間《ま》にか彼女は、立派な変態|性慾者《せいよくしや》になっていた。  彼女がお春さんという狂女と馴染《なじみ》になったのは、月見山の別荘《べつそう》へやって来てから半年ほどたった日であった。ある日|聚楽館《じゆらくかん》に音楽会があって、その帰るさに、彼女の自動車が破損《はそん》した。それを修繕《しゆうぜん》する間、彼女は路傍《ろぼう》で待っていなければならなかった。そのとき、彼女の側《そば》を例の狂女が通り過ぎたのである。狂女の周囲《まわり》には若い男たちが群《む》らがって、口々に卑猥《ひわい》な言葉を浴《あび》せていた。狂女は平気でいちいちそれらに応答した。  彼女は、自分の今の身の上に較《くら》べて、その狂女の生活がこの上もなく自由で享楽に満ちたもののように思えた。  その日はそのままで帰ったが、一度狂い出した心は流《なが》れて止《とど》まるところを知らなかった。間もなく彼女は、狂女の身代わりとなって街頭に立っている自分の姿を見いだしたのである。  それはたいして難しい仕事ではなかった。例の狂女は、世間で考えているほど、気が違っているわけではなかったので、金をつかますことによって容易《たやす》く話をまとめることができた。  合議の上で彼らは、世間をごまかすに都合のいいような所へ家を移した。そして彼女は、本当の自分と狂女の家《うち》との間に、もう一つ階段を作ることにした。それが三の宮の美容館であった。そこで彼女はいったん服装《ふくそう》を変《か》えたのち狂女の家《うち》を訪れるようにした。狂女にも自分の本当の身分を知られたくなかったからである。もちろん美容館の主人にも本当のことをいう必要はなかった。新派悲劇まがいの話をでっち上げて、巧《たく》みに相手の同情に付け込んで行けばよかったのである。  十日に一度か一週間に一度くらいずつ彼女はそうして狂女の家《うち》に走った。そして男たちの野卑《やひ》な態度や猥雑《わいざつ》な言辞《げんじ》に取り巻かれることによって、変態的な満足を覚えていたのであった。  狂女の殺されたことについては、だから彼女は少しも知るところではなかった。彼女が狂女の家《うち》に帰ったときには、すでにあの兇行《きようこう》が演ぜられた後《あと》であった。一足違いで彼女は、その犯人とすれちがったにちがいないのである。なぜならば彼女が帰ったときには、狂女はまだ死にきってはいずに、びくびくと身体《からだ》を痙攣《けいれん》させていたところだったから。たぶん、彼女が与えた多額の金子《かね》が犯人を誘導《ゆうどう》したのであろう。その意味で、彼女が狂女を殺したのだといわれても仕方がなかった。     八 「で?」わたしがいった。 「で?」彼がいった。  彼はコクテイルを飲んでいた。少しも酔《よ》わなかった。青白い憂鬱《ゆううつ》な顔をしていた。それはある苦悶《くもん》に近い表情であった。わたしは黙《だま》って彼の顔面に起こる変化を読んでいた。  新開地付近の、安っぽいカフェーの一隅《いちぐう》であった。夜の十一時過ぎであった。 「あなたはわたしをさぞ残酷《ざんこく》な人間だとお思いになったでしょう。いえ、お隠《かく》しになっても駄目《だめ》です」  わたしが何かいおうとするのを制して、彼はべらべらと立て続けにしゃべり始めた。そうしてしゃべっていることが幾分でも内心の苦悶を和《やわ》らげるものかのように見えた。 「これがわたしの病気なのです。わたし自身この病気を持て余して、苦しくて苦しくてしようがないのです。今日の午後、わたしは超推理力ということをあなたにお話ししたでしょう。あんなこと、嘘《うそ》っぱちです。わたしにあるものといえば、超推理力じゃなくて、人一倍|激《はげ》しい好奇心《こうきしん》だけなのです。わたしは好奇心というものの悖徳的《はいとくてき》であることを知っているので、できるだけそれを圧《おさ》えようと努めています。だが一週間も辛抱《しんぼう》していると耐《たま》らなくなってくるのです。そうなると体じゅうがいらいらとして、何をしても手につかない。すると不思議にも、それに伴《ともな》って頭がはっきりとしてくるのです。今日、白木屋《しろきや》で万引き婦人を見たでしょう。あの婦人なども、たぶん良家の奥様なのでしょうが、××か何かの工合《ぐあい》でああした衝動《しようどう》が起こるのでしょう。ところが、ああした衝動が起こると同時に一方にその衝動を満足させてくれるだけの手腕《しゆわん》が伴ってくるのです。あの手際《てぎわ》は実際、とても素人《しろうと》とも思えないほどだったでしょう。わたしのもそれと同じです。激《はげ》しい、苦痛に近いほどの好奇心が起こると、それと同時に、その好奇心を満足させるにしごく都合のいいいわゆる超推理力が生じてくるのです。こんなときわたしの眼《め》に止《と》まった人々こそいい迷惑《めいわく》です。わたしは一目でその人たちの秘密《ひみつ》を見破ってしまうのです。そして冷酷《れいこく》に近い興味で、じりじりとその犠牲者《ぎせいしや》を追いつめてゆくのです。そんなときの快感は、とても他人に話せることじゃありません。さて、そうして充分《じゆうぶん》に犠牲者を苛《せ》めながら、自分の好奇心に満足を与える。そしてすっかり満足してしまうと、今まで尖《とが》りきっていた不自然な好奇心や超推理力は、まるで退汐《ひきしお》のように退《しりぞ》いてしまいます。わたしはそこで初めて蘇生《そせい》したような思いになれるのです。考えてみればわたし自身、立派《りつぱ》な変態心理者なのですね」  間もなくわたしたちはそのカフェーを出て、聚楽館の前で右と左とに別れた。別れるときわたしはいった。 「ところで、肝腎《かんじん》の狂女殺しの犯人はどうなるのです」  彼は首を横に振った。「それは警察にまかしておきましょう。わたしの好奇心は今日は満腹《まんぷく》の態《てい》です。これでここ数日は、わたしも普通の人間の生活ができるわけです」  彼は例によって、ひょこりひょこりとくの字なりに曲がった膝《ひざ》から下を、外輪《そとわ》に向けて歩いて行った。わたしはその後ろ姿が見えなくなるまで見送った後《のち》、自分の家《うち》へ足を向けた。  これがわたしと、「路傍《ろぼう》の人《ひと》」石田徳太郎《いしだとくたろう》とのそもそものなれそめである。 [#改ページ] [#見出し]  帰れるお類《るい》  わたしの友人の山野三五郎《やまのさんごろう》が、どんなに好人物《こうじんぶつ》であるかということを、わたしは前から書いてみたいと思っていた。が、一体どういうふうに書けば、彼《かれ》の好人物さを、諸君に紹介することが出きるのか、実際彼は、好人物であればあるだけに、挿話《そうわ》だの逸話《いつわ》だのというものを一切《いつさい》持ちあわさない男なのである。したがってわたしは、いかにして彼の好人物さを紹介し得《う》るか。山野三五郎は好人物であると、鉦《かね》と太鼓《たいこ》で触《ふ》れ廻《まわ》っても、だから、諸君もそれをどの程度に信用してよいのか、ちょっと困ったことにちがいない。  しかし、最近わたしは、彼について、しかも、彼の好人物さを遺憾《いかん》なく描写《びようしや》しえて、感《かん》に耐《た》えたほどの、ある一つの逸話を耳にしたのである。実際それを聞いたときには、それをわたしたち仲間が、始終集まる、あるカフェーの一隅《いちぐう》で、一人の男が話し出したことなのであるが、話した男も聞いていた仲間のうちの二、三人も、ふいに、酔《よ》っていたせい[#「せい」に傍点]もあるだろう、そして、話した男は、たしかに恋人《こいびと》に逃《に》げられて、そうでなくとも、センチメンタルになっているときだったから、そのせい[#「せい」に傍点]もあるだろう、とにかく、ふいに、カフェーの一隅で、さんさん[#「さんさん」に傍点]と、涙《なみだ》を流して泣き出したことなのである。むろん、かくいうわたしも、泣き出したその一人だったのである。  ……だが、最初に、こんなふうに書くのはいけなかったかもしれない。こんなに大きな前書きを書いておくと、諸君は、どんなに悲しい話だろうと、ある種の期待をもって、したがって、読んだ後《あと》では、著《いちじる》しく期待を裏切られて、失望されるにちがいない。  だが、だが諸君よ、この話こそ、もっともこの話は、このごろ流行《はや》るゴシップとやらで、あの晩話したあの男が、山野三五郎にあてはめて、創作《そうさく》した物語なのかもしれないが、それにしても、この話ほど、如実《によじつ》に山野三五郎の好人物さを、描写しえているものはないと思うのである。だから、たとえ根《ね》のないゴシップにしろ、これをもって、わたしの親友、山野三五郎の好人物さをひとつ、諸君に紹介してみようと思いたったわたしは、まんざら間違《まちが》ったことではないと思うのである。  さて、山野三五郎という男は、この名はむろん、今わたしの書こうとしている男のほんとうの名前ではなく、彼の本名と、きわめて語呂《ごろ》の合った名前として、わたしが勝手につけたのであるが、したがって諸君の中には、その百分の一、あるいは千分の一ぐらいひょっとすると、あの男のことではなかろうかと、思い当たる人があるかもしれないが、そうだ実際、山野三五郎という男は、諸君のうち、百分の一、ないしは千分の一ぐらいに知られているかもしれない、という程度の有名さを持った、それでも、それで飯《めし》を食っているところの小説家なのである。(神よ、彼を憫《あわれ》みたまえ!)だから、ほかに収入の道とてはない彼のことだから始終生活に追われがちなのも無理からぬ話だし、したがってまた、彼の細君《さいくん》が、彼女とて決して、悪い女などではなく、いやいや、むしろその反対なのだが、それほどの彼女が、とうとう彼に愛想《あいそ》をつかして、彼を置きざりにしようとしたのも、これまた、ゆめゆめ無理からぬ話なのである。(神よ、彼女をも共に憫みたまえ!)  そうだ、彼女は、お類《るい》というのが彼女の名なのだが、そのお類は、彼をすんでのことに置きざりにしようとしたのである。いやいや、正しくいえば彼を置きざりにしてしまったのだ。 「さようなら」  と、彼女は、とりあえず原稿紙《げんこうし》に走り書きしたのである。 「さようなら、もう駄目《だめ》よ、遅《おそ》いわ、あたしもう、つくづくとこんな貧乏《びんぼう》ぐらしがいやになったの。今までは、あなたの好人物さに引きずられて、一日一日と自分自身をごまか[#「ごまか」に傍点]してきたけれど、昨日《きのう》今日《きよう》、結局好人物だけでは生活してゆけないことを発見したの。さようなら。このほうがお互いのためよ。あたしBさんが誘《さそ》って下さるので、しばらくあの人と一緒に、塩原《しおばら》へ行ってこようと思います。それから後《あと》はどうなるか、今のところまだ分からないけれど。さようなら。汽車は四時二十分の約束《やくそく》、逃《に》げると思われるのはいやだから、ちゃんと、こう打ち明けておきますけれど、追って来ちゃいやよ。来たって駄目よ。もう、あか[#「あか」に傍点]の他人なんですもの。さようなら!」  こういう文章を、良人《おつと》の万年筆で、良人の原稿紙に、習慣というものは不思議なものだ、彼女もまた、不甲斐《ふがい》ない良人にばかり頼《たよ》ってはおられないので、日ごろ[#「日ごろ」に傍点]、お伽噺《とぎばなし》みたいなものを書いて稼《かせ》いでいたのだが、それらの原稿と同じように、心急《こころせ》きな中を一つ一つ原稿紙の枠《わく》にはめて書き上げた。そして、それを読んだときの、良人の態度を、なるべく想像しないように努めながら、四時二十分の汽車に間に合うようにと、停車場《ていしやじよう》へ急いだのである。  しかし、前にもいったとおり、根が善人の彼女のことだ、停車場が近くなるにしたがって、どうしたことやら、だんだんと不安と心配と後悔《こうかい》とが、雨雲のように、彼女の心の中に拡《ひろ》がるのである。思うまい、思うまいとしても、自分の今書いてきた置き手紙を見、そして取り散らかされた箪笥《たんす》や、部屋の様子を見たときに良人がするであろう態度が、最初は、ちょうどピントの合わぬ写真のように、そしてそれがだんだんはっきりと、彼女の頭脳《あたま》の中に思い浮かんでくるのである。もう三年|越《ご》しにもなる同棲《どうせい》生活を続けてきたのだから、彼女には、良人の癖《くせ》が手に取るように分かっているのだが、そうだ、こういうときにとる良人の態度というのは、いつかも、彼が一番親しく往来《おうらい》していた友人から、ふいに、なんのゆえとも分《わ》からぬ絶交状を(あとで分かったことにはその友人というのは、絶交状を書くのが道楽だったそうな)叩《たた》きつけられたことがあったが、あの場合と今の場合とは、かなりよく似《に》ているようだ、したがって今ごろ、良人の山野三五郎はきっと、あのときと同じように、手紙を見た最初の瞬間、ベソをかくように、眉根《まゆね》をしわしわと顰《ひそ》め、そして、物《もの》をもいわず立ち上がったかと思うと、縁側の柱《はしら》を両手で抱《かか》え、その角《かど》に頭をゴワンゴワンと叩きつけながら、 「おれは……おれは……」  それを思うとお類は、なんだか取り返しのつかぬことをしたような気がしてきたのである。 「あの人は決して悪い人ではない。ただ、ちょっぴりと、意気地《いくじ》なくできているだけなのだ」  しかし、これはなんとしたことであろう。新しい愛人と一緒《いつしよ》に、駈《か》け落《お》ちをしようという間際《まぎわ》になって、前の良人のことに心を占領《せんりよう》されるとは、馬鹿馬鹿《ばかばか》しいことである。こういう自分の心の弱さが、今まで自分を引きずって、あんな貧乏ぐらしの中を泳がせたのだ。そうだ、そうだ、あんな意気地なしの良人なんか、どこかの河の中にさらりと流してしまって……と、彼女の別の心が叫《さけ》ぶのである。  彼女が停車場へ着いたときには、ちょうど四時五分過ぎ、約束《やくそく》の時間より十五分早かった。それにしても、彼女が著しく失望したことには、相手のB——笹木金之介《ささききんのすけ》はまだ来ていないらしいのである。こういう場合、先へ来ている方が恋愛《れんあい》においてより深く進んでいるという言葉がほんとうであるならば、相手の笹木金之介は明らかに、お類が思っているほども、彼女を思っていないことになるのである。お類はなんとも知れぬ不安に、ちょっと心が曇《くも》るのを覚えたことである。  一体笹木金之介とは何者であるか、わたしはまだ彼の素性《すじよう》について、一言《いちごん》も説明らしいことをいわなかったが、ほんとうをいうともともと、山野三五郎の好人物さを、諸君に紹介しようと思い立って筆を執《と》ったこの小説においては、笹木金之介なる人物は、どんな男であろうが、一向《いつこう》差し支《つか》えないことなのである。しかし諸君よ、それでは小説にならないとおっしゃるであろうか。では……。笹木金之介というのは、お類の良人の山野三五郎と同じしょうばい[#「しょうばい」に傍点]をしているところの、しかし、最近めきめきと売り出して、昔は山野三五郎などにも充分迷惑《じゆうぶんめいわく》をかけたこともあったそうだけれども、今ではなかなか、彼などとは較《くら》べものにならないほど、羽振《はぶ》りをきかせている、いわゆる、流行児《はやりつこ》なのである。わたしも彼をよく知っている。そしてこれは、かくいうわたし自身も文筆に志しながら、いまだに、山野三五郎と同じく、いつ芽《め》が出ることやらあてさえなく、したがってその昔、仲間であった、笹木金之介からとかく軽蔑《けいべつ》されがちなのであるが、八百万《やおよろず》の神も照覧《しようらん》あれ、決して嫉妬《しつと》や怨恨《えんこん》からいうのではない、世に笹木金之介ほどいやな男はない、とわたしは声を大《だい》にしていいたいのである。  閑話《あだしごとは》 休題《さておき》、お類は汽車が出る四時二十分まで、つまり十五分間というものを、どんな思いをして待ったことであろうか。希望やら悔恨《かいこん》やら、不安やら夢想《むそう》やら、しかし、これはどうしたことやら、多くの場合、希望三|分《ぶ》に、悔恨七分、不安七分に夢想三分という、その場合にとっては、はなはだ似《に》つかわしからぬ心の状態で、それでも笹木金之介の姿が見えるのを、今か今かと待ち受けていたのである。だが時刻はいたずらに、彼女の悔恨と不安との度合《どあい》を助長させるために過ぎ行き、そしていまや汽車は、無慈悲《むじひ》な汽笛《きてき》を鳴らして発車し、そして後《のち》には、無残に心を打ちひしがれたお類だけが残ったのである。 (諸君よ、かく筆《ふで》を省略せることを、枚数の加減なりと許したまえ)  お類は、塩原《しおばら》行きの切符《きつぷ》を二枚、汗《あせ》ばんだ手に握《にぎ》りしめ、そして呆然《ぼうぜん》と汽車の後《あと》を見送っている自分自身を発見した。それほど馬鹿《ばか》でない彼女は、自分が欺《あざむ》かれていたという事実《こと》をたちどころに覚《さと》ったのである。  とそこへ、車夫らしい男があたふたと構内へはいって来たのであるが、しばらく彼は、何人《なんびと》かを物色するらしく、きょろきょろと辺《あた》りを見廻《みまわ》していたが、やがてお類に目星をつけたらしく、つかつかと彼女のほうへ歩みよった。 「山野さんの奥様とおっしゃるのはあなたさまで……」  と、小腰《こごし》をかがめながら、彼はいうのである。そしてお類がうなずくのを見て、彼は腹掛《はらが》けの丼《どんぶり》の中から、一通の手紙らしいものを取り出して彼女に渡した。 「返事は要《い》らないそうです」  お類は車夫の後ろ姿と、手紙とを五分五分《ごぶごぶ》に眺《なが》めていたが、やがて気のない手付きでその封筒《ふうとう》を開いた。いうまでもなくそれは笹木金之介からの手紙なのである。 「類子さん。まさかあなたは、かりにも近代女《モダンガール》を気取っていらっしゃるあなたは、酒の上の冗談《じようだん》と、真剣《しんけん》とを混同なさりはしないでしょうね。僕があなたにどんなお約束をしたことか、生憎《あいにく》あのとき、僕はひどく酔っていたものだから、はっきりとその内容を覚えていないのですが、なんでも今日の四時二十分に××駅で落ち合う約束をしたように思います。しかし、あなたも近代女《モダンガール》だ、あの冗談を真《ま》に受けて、のこのこと約束の場所へ出かけるようなことはまさかありますまい。だが、万が一にも、万が一にでもですよ、あなたがくだらない勘違《かんちが》いをされているようだと気の毒だから、このお手紙を差し上げます。もし、何遍《なんべん》もいうように、万が一、あなたがこの手紙を受け取られるべく、××駅へ来ていらっしゃって[#「いらっしゃって」に傍点]も、少しも恥《は》じることはありません。なぜならば、僕はこの手紙を、見も知らぬ路傍《ろぼう》の車夫に託《たく》するつもりですし、したがって、あなたに手渡しすることができたかどうかを訊《ただ》すよすがもありません。だから、万一あなたが××駅へ来ていたとしても、大威張《おおいば》りで、素知《そし》らぬ顔をしていてよいのです。しかし、これは僕の取り越し苦労というものでしょうか、近代女《モダンガール》でいらっしゃる[#「いらっしゃる」に傍点]あなたが、冗談と真剣を混同されるはずがありませんから、なお念のため、あなたが見つからぬせつには、勝手に手紙を破りすててよいと、車夫に申し添えておきます」  とおよそこういったふうの意味のことを、こればかりは、笹木金之介でなくては書けないことだ、彼一流の思わせぶりを文章で書いてあるのである。  お類はしかし、それを読んだときには、不思議なほどにも心を動かされなかった。彼女はあたかも、機械のようにそれを読み、機械のようにそれを破り捨てたのである。そして彼女も心はこれを少しハイカラにいうならば、まるで木枯《こが》らしの吹き荒《すさ》む十二月のたそがれ[#「たそがれ」に傍点]のように、灰色で、そして冷たかった。しばらく彼女は、待合室のベンチに携《たずさ》えてきた小さなバスケットに寄りかかって、何をするともなく、また何を考えるともなく、ぼんやりと、いそがしそうに出たり入ったり、見送ったり、見送られたり、そして彼らの中には、あるいは良人を捨てて、他の愛人と逃げる人妻もいるのではなかろうか、しかし、彼女みたいに、その瀬戸際《せとぎわ》になって、背負い投げを喰《く》わされるような、愚《おろ》かな女はいないと見えるのである。二《ふた》汽車も三《み》汽車も、そして、終《しま》いには、中売りの番台に坐《すわ》っていた主人が、そろそろ怪《あや》しむほども、つくねんと、いつまでもそこに腰《こし》を下ろしていたのは、お類たった一人だったのである。  お類はしかし、いつまでも果てしない冥想《めいそう》にふけっているわけにはいかなかった。中売りの主人だの、駅員の少し慣《な》れた男だのは、経験で、お類のような立場にいる人間を、すぐに見抜《みぬ》いてしまうとみえるのだ。あるいは通りすがりに、あるいは遠くの方から、それとはなしに、じろり、じろりと見られることの苦痛に、彼女は間もなく、それでもかなり元気よく立ち上がった。街にはもう灯《ともしび》が入っていた。時間を見ると、六時少し前である。  駅を出た彼女は、あてもなく、綺麗《きれい》に飾《かざ》られた洋品店の飾《かざ》り窓《まど》をのぞいたり、石けりをしている子供にぼんやりと見入ったりすると、そのときふいに道行く人々が、ざわざわと、騒《さわ》ぎ出したのである。見ると空の方を向いているのである。彼女もまた釣《つ》られるように上を向いたことであるが、おお、これはなんということだろう、たそがれはじめた夕空をついて折から一群《いちぐん》の雁《かり》が、静かに、粛々《しゆくしゆく》と、あたかも皇族の行啓《ぎようけい》のように、渡っているのである。人々はそれを、一種の感動なしに見ることができなかった。お類もまた、思わず襟《えり》をかき合わせるような心持ちで、やがて、それが、向こうの高い銀行のビルディングの蔭《かげ》にかくれてしまうまで見送っていたのであるが、ふいに彼女は、そうだ、彼女が小学校の六年生だったときだ、彼女はその級《クラス》の級長だった。そしてその年に明治天皇が崩御《ほうぎよ》されたのだったが、その御大葬《ごたいそう》の日に、全国のどの小学校でもやったことであろうが、彼女の学校でもまた、校庭に祭壇《さいだん》を設けて、遠く東へ向かって(彼女の故郷は岡山だった)遥拝《ようはい》式をしたのであった。そのとき、彼女は女子の側《がわ》からの総代となって、男子側の総代の少年と、(おお、あの少年は今どうしていることか!)二人並んで、祭壇の前に立ったことであるが、その当時まだやっと十四になったばかりの彼女はどんなにその大帝《だいてい》の死をなげいていたことであろうか、二人並んで頭を下げそして柏手《かしわで》をパンパンと小さい音をさせて打ったとき、無限の悲しみが、喰《く》い入るように、全身に染《し》み渡ったのである。そのとき、彼女の後ろに、静かに、つつましやかに、整列していた生徒たちが、ふいにがやがやと騒ぎ出したのである。どうしたのだろうと思いながら、何気《なにげ》なく空を見ると、ちょうどそのとき一群の雁が渡っていたのだった。それがなんと感動的な場面であったことか、町に養《そだ》った彼女が雁の渡るのを見たのは、そのときがはじめてで、そして今日が第二度目なのである。彼女は思わず、そのときのことを思い出して、ホロホロと恥《は》ずかしげもなく涙を流し出したのは、まことに無理からぬ話なのである。  それにしても、彼女は、それによって、なんとなく気分が清々《すがすが》しくなったのを覚えた。迷っていた決心が、なんとなく定まってきたように思えるのである。結局山野三五郎の許《もと》に帰るよりほかに、道はないのだ、そして、あの好人物の良人は、そんなにとがめ立てすることはないであろう。……  それから一時間程|後《のち》のこと、どこをどうしていたのか、お類はひょっこりと家《うち》の前まで帰って来た。見ると彼女は、携えて出たバスケットはどうしたのやら、その代わりに何やら小さい紙包みを持って、それでも、さすがに、すぐにははいりかねて、しばらく、中をのぞいていたが、すると、予期していたことではあるが、家の中が真っ暗で灯《あかり》もついていないのである。しかもだれもいないのでないことは、長い間この家の主婦として暮らしてきた彼女の直覚がよく知っているのだ。なんとなく彼女は心を打たれて、いっそまたもや逃げ出そうか、それとも、これから自分が試みようとする、無反省なでたらめなんか止《よ》すことにして、何もかも打ち明けて、良人《おつと》の許しを乞《こ》おうか、しかし、いやいややっぱり彼女にはそれができない性分《しようぶん》なのである。思いきって、目をつむるようにして、彼女はガラガラと格子戸を開いた。すると、奥の方で、こそこそと寝返りでも打ったらしい物音がするのである。 「どうしたの、だれもいないの?」  女というものは、しかし、なんという生まれながらの名優|揃《ぞろ》いなのだろうか、格子戸を開いた瞬間《しゆんかん》に、彼女は一度何かしら、熱い、固いものでも飲み込むような思いをしたが、それと同時に、しっかりと決心がきまってしまった。彼女はいかにも、よくあるショッピングの帰りらしい明るさをもっていったことである。 「電気も点《つ》けないで、一体どうしたのだろう」  そういいながら、奥の襖《ふすま》を開くと、果たしてそこには、良人の山野三五郎が真っ暗がりの中にだらしなく寝そべっているのである。彼はお類の声を聞きお類の姿を見たとき、何かしら、信じられないものを見たように、しわじわと眼をしばたたきながら、まぶしそうに彼女の方を見上げた。その、例によって、無精髭《ぶしようひげ》の伸《の》びた、くしけずらない髪《かみ》の、もじゃもじゃとした良人の顔を見た瞬間、お類はちょっとの間、ばつの悪さを感じたが、でも、これではならないと、わざとばたばたと足音を高く、部屋の中にはいって、電気のスイッチをひねった。 「また寝てるのね、厭《いや》になっちゃうわ。御飯《ごはん》はどうしたの、まだなの、どうせ、そんなことだろうと思っていた。今|何時《なんじ》だと思って? 八時を廻《まわ》っているわよ」  といったんしゃべり出すと、その言葉がと切れたが最後、何か恐《おそ》ろしいことでも起こりそうに、彼女はただでたらめに、訳の分からぬことをしゃべり散らしながら、そこいらを立ったり坐《すわ》ったり、でも、できるだけ良人の方を見ないようにしていた。山野三五郎はまた、彼は彼で、不思議な物をでも見るように、しばらく妻の姿を眼で追っていたが、やがて、おずおずと、いいにくそうに口を出したのである。 「どうしたのだ、おまえ、行かなかったのか」  お類はどきんと、胸をつかれた思いで、唾《つば》をつっと飲み込んだが、これではいけないと気を取り直した。 「どこへ? あたし?」 「シ、塩原さ」  山野三五郎はまるで、悪いことをしたのは自分の方ででもあるように、顔を紅《あか》らめて、どもりながらいったことだ。 「塩原? いいえ、なんのこと? それは」  お類は、もう度胸がきまったらしく、なんの渋滞《じゆうたい》もなく言葉が喉《のど》から出てきた。山野三五郎は眼をぱちぱちとしょぼつかせながら、妻の顔色を読むように、上半身を起こして、頭をがしがしと五本の指でかいた。そして腫物《はれもの》にでも触《さわ》るように、 「だって、だって、おまえは、笹木と塩原へ行くはずじゃなかったのか」 「あら、いやだ。笹木さんと? 塩原へ? 何をいってるのあなたは?」  お類はそんなことに構ってはいられないというふうに、向こうを向いて、足袋《たび》を脱《ぬ》いだり、鏡台に向かって、髪の形を直したりしていた。 「だって、おまえ、そう書いてあったじゃないか」  山野三五郎はおずおずと、探《さぐ》るように、しかしできるだけ相手の意に逆《さか》らわないように、一体これはどうしたことだろう、笹木と、いざとなって、喧嘩《けんか》でもしたのだろうか、それとも、相手が来なかったのだろうか、いやいや、それにしても、お類はなぜにこんなに平気でいるのだろうか。彼は少なからず不気味にさえ感じながら、訊《たず》ねるのであった。 「書いてあったって? なんのこと? あたしちっとも分からないわ。もっとはっきりおっしゃいよ」  髪の形を直して、今度は着物を着更《きか》えようとした彼女は、ふと、隣の間へ通ずる襖《ふすま》を開いたが、そこで、なんと千両役者でも、真似《まね》のできなそうなしぐさ[#「しぐさ」に傍点]をもって立ち止まった。 「どうしたの? こんなに箪笥《たんす》を引っかきまわして? だれがしたの? あなたがしたの?」  と、これまた、千両役者でも、真似のできなそうな、巧《たく》みなせりふ[#「せりふ」に傍点]をもって叫《さけ》んだのである。 「おれ?」  と、山野三五郎は、お類のヒステリックな声に、早くもおびやかされて、すると、彼自身の不平や、いいたいことなども忘れてしまって、あわてて立ち上がると、彼女の側までやって来たのである。 「おまえが、おまえが、おまえが……」 「あたし? 知らないわ。あたしが……」  彼女はそして、飛びつくように、箪笥の抽斗《ひきだし》を検《しら》べ始めたことだが、やがて、わっという声をもって叫んだのである。 「ないわ、ないわ、お召《めし》も、金紗《きんしや》の羽織も、あら、この間こしらえたばかりのコートもなくなってるわ。どうしたの? どうしたのよ?」  山野三五郎は、いよいよ訳が分からなそうに、くんくんと、癖《くせ》で鼻を鳴らしながら、ぼんやりと、お類に怒鳴《どな》りつけられるべく立っていた。 「何をしてるのよ。さあ、あたしの着物を一体どこへやったのよう。あなたが持ち出したの、そうだ、金田《かねだ》さんがやって来たのにちがいない。やっと、やっと、それだって、あなたからびた一|文《もん》もらったことじゃない、みんなあたしの稼《かせ》いだお金で、やっと、やっとこしらえたと思ったら、すぐにあんたが持ち出してしまうのだ、意気地なし。お馬鹿さん」 「でも、でも」  好人物の山野三五郎は、一体なんといってよいのか、形勢がどの方向に向いているのか、したがって、どんなふうにものをいってよいのか、少しも分からないのだ。彼はどもりながら、哀願《あいがん》するような調子で、 「まあ、そんなに大きな声を出さなくても分かってるよ。だけど、着物のこと、おれはちょっとも知らないよ。おれは、おまえが持ち出したことだとばかり思ってたんだもの」 「あたしが? どうして? なぜ? なんのために?」 「でも……、でも……」  三五郎は、さっきから、懐《ふところ》の中で握《にぎ》っていた、果たして、出していいものか悪いものか、出したら、またもや、一層|機嫌《きげん》が悪くなるのではなかろうか、とつおいつ、思案していた、あの書き置きの紙片を、恐る恐るお類の前にさし出した。 「おまえ、こんな書き置きを残して、だから、おれは、おまえが笹木と一緒に、塩原へ、着物もだから、おまえが持ち出したことだと思っていたんだが」  お類はちょっとたじろぎぎみに良人の顔を眺《なが》めた。彼女のこのお芝居の中で、ここが一番難しい所にちがいなかった。この歴《れき》とした証拠《しようこ》を、まるで、代官所に呼び出された悪賢《わるがしこ》い被告《ひこく》のように、さぎ[#「さぎ」に傍点]をからす[#「からす」に傍点]といいくるめなければならないのである。 「何?」  お類はひったくるようにそれを奪《うば》うと、良人の方に背を向けて、一眼《ひとめ》それをみたが、すぐにくるりと彼の方へ向き直って、そして、さもさも、呆《あき》れ果《は》てて、物がいえぬというほどの意味を、眼《め》の動きによって、しばらく良人に嚥《の》ませることに努力した。  そして、山野三五郎が、いよいよもって、これはどうしたのだ、この証拠を見せても、びくともしない彼女は、鬼か蛇《じや》か、それとも、おれの方がとんでもない勘違《かんちが》いをしているのだろうかと、今さらのようにそわそわと、あわて出したのを見計らって、彼女は、精一杯《せいいつぱい》の努力をもって怒鳴《どな》りつけたのである。 「馬鹿!! やきもちやき[#「やきもちやき」に傍点]!! 意気地なしのくせに、あんたみたいなやきもちやき[#「やきもちやき」に傍点]をあたしはもう見たことがない。呆《あき》れはて物もいえない。これは、これは」とそこで、彼女は身振《みぶ》たっぷりに唾を飲み込んで、 「あたしの創作《そうさく》の原稿じゃないの!」 「原稿?」 「そうよ。考えてもごらんなさい。書き置きを、こんなにていねいに一字一字|枠《わく》に入れて、書くやつがあるもんですか。そうよ。あたしひとつ、ほんとうの、今までみたいなお伽噺《とぎばなし》じゃなしに、ほんとうの創作を書いてみたいと思って、これが最初の書き出しなんだわ。これを見て、じゃ、あんた今まで、やいていたのね。お馬鹿さん、電気も点けないで、真っ暗がりの中で煩悶《はんもん》していたの」 「でも、でも」 「でもも何もないわ。だけど、あたしの着物をどうしたの。その腹いせに、どこかへ隠《かく》したんでしょう、男らしくもない。分かってるわよ」 「知らないよ、おれは。おれが帰って来たとき、やっぱりこんなになっていたんだが——」  彼らはしばらく、そんな押し問答をしていたが、やがて、これはきっと泥棒《どろぼう》がはいったのにちがいない、という結論に到達《とうたつ》した。 「あなたがぼんやりしているからだわ。なぜすぐに交番へ届けて出ないのよ」 「でも、おまえが……」 「あたしじゃないわよ。やきもち[#「やきもち」に傍点]ばかりやいてるからだわ。どうしてくださるの? あたしの着物をさ。駄目よ。今から届けたって遅《おそ》いわ。それにお巡《まわ》りさんがやって来て、いろんなことを聞いたり、おまけに、ろくな着物ってありゃしないのだ。あたし、泥棒にだって恥《は》ずかしいわ」  何もかもうまくいったという安堵《あんど》に、お類はもうそんなに、強いことはいえなかった。これほどにいっても、腹一つ立てない良人の山野三五郎を、平常《へいぜい》の彼女は、限りなく頼《たよ》りないことに感じるのだったが、今日はその反対に、なんともいえない親愛を感じるのである。おろおろと、ほんとうに泥棒がはいったのだと思って、心配している良人の態度をみると、滑稽《こつけい》を通り越して、悲哀《ひあい》を感じさせられるのである。これ以上|苛《せ》めたって仕方のないことだ、それに、悪いのはゆめゆめ良人ではなくこのあたしなのだ、彼女はうっかり涙《なみだ》が出そうになるのを、ようやく耐《こら》えて、そして優《やさ》しい声でいった。 「失《な》くなったものはもう仕方がないわ。それよりその代わり少し奮発《ふんぱつ》して、新しいのをこしらえることだわ。あなたもそのつもりで馬力《ばりき》を出してちょうだい」 「う、う」  山野三五郎は曖昧《あいまい》な声で返事をしながら、上眼《うわめ》つかいにお類の顔を眺めた。そして、 「よかった」  と溜息《ためいき》とともに、心からいった。 「よかったって、何が?」 「いえさ、おまえが帰って来てくれてよかったというのだよ。おれはもう、二度と、おまえがこの家の敷居《しきい》を踏《ふ》むようなことはあるまいと思っていたのに」 「だから、あなたは馬鹿のやきもち[#「やきもち」に傍点]やきだというんだわ」  彼女は、こみ上げてきそうな笑いを飲み込みながら、 「さあ、あの騒ぎですっかり御飯《ごはん》のことを忘れていたわ。あたし急に腹が減った。あなた減らない?」 「減った」 「そう、じゃ、もう今から御飯をたいていちゃ間に合わないから、あなたうなぎ[#「うなぎ」に傍点]でもいってきてちょうだいな、ね」 「それがいい、それがいい」  山野三五郎は立ち上がった。  お類も立ち上がって、着物を脱ぎ始めた。 「あたしね、今日ほんとうは銀座へ行ってたのよ。あんたに、ほら、お土産《みやげ》を買って来たわよ」 「有り難う」  三五郎はまめまめしく、衣桁《いこう》にかけてあるお類の平常着《ふだんぎ》を取って、彼女の背後《うしろ》から着せかけてやろうとした。そのとき、お類が、帯を解《と》くひょうし[#「ひょうし」に傍点]に、パラリと畳《たたみ》の上に落ちた、ああ、それはまちがいもなく塩原行きの二枚の切符《きつぷ》なのだ、早くもそれを見つけた彼は、まるで、自分がお類の立場にいてそれを落としたかのように、真っ赤になって、狼狽《ろうばい》しながら、でも、お類がそれと気がつく前に、右の足でしっかりとそれを踏《ふ》まえつけたのである。 「どうしたのよ」とお類が振り返った。 「いや、なんでもないのだ。でも、でも、よかったねえ」  彼は額《ひたい》に汗をさえにじませながら、好人物らしい笑いとともに、そういった。 [#改ページ] [#見出し]  いたずらな恋《こい》 「君《きみ》は知ってたかしら、ほら、あの五十嵐《いがらし》夫人を——」  と、絵を描《か》くことを職業としているわたしの友人、磯部富郎《いそべとみろう》が、ある晩、あるカフェーの隅《すみ》っこで、例によってコクテイルの盃《さかずき》をなめながら、わたしを前にして語りだしたことがある。  彼《かれ》はたしか、わたしより一つ年上になるのだから、今年《ことし》二十六になっているはずだ。色の浅黒い、眼《め》の三|方《ぽう》白なのがちょっと艶《つや》っぽく見える、口許《くちもと》の可愛《かわい》い、そして——エトセトラ、エトセトラ。  だが、こう一つ一つについて説明するよりも、こういったほうが分かりやすかろう。このごろ、貴族的タイプを売り物にして、たいへん認められてきた活動|俳優《はいゆう》のY・H——、あの男に彼は瓜二《うりふた》つなのである。現にこういう話がある。それはたしか、どこかの学校の運動会であった。友人に誘《さそ》われて彼はそれを見に行ったのである。ところがそこに大勢の女学生たちが来ていた。彼女たちは彼の姿をみるとたちまちに騒《さわ》ぎ出した——。と彼は思ったのである。いや、これは彼のうぬぼればかりではなく、本当だったらしい。そのとき彼と一緒《いつしよ》だった友達も保証したことである。  彼女たちは彼とすれちがうたびにきゃっきゃっと小鳥のように騒ぎ立て、しかも、しばしば彼とすれちがうことを希望しているらしいのである。むろん彼は、孔雀《くじやく》のような誇《ほこ》らしさをもって、悠々《ゆうゆう》とグラウンドの周囲を闊歩《かつぽ》していたにちがいない。  ところが、これにはさすがの彼も驚《おどろ》いたことであるが、模擬店《もぎてん》で休憩《きゆうけい》しているときである。ふとポケットの中に手を突《つ》っ込《こ》むと、そこから数通の、思いもよらぬ艶書《えんしよ》が出てきたのだ。それを彼が、自分一人になるまでこっそりと隠《かく》しておればよかったのだが、まさかそこに、そんな間違いがあろうとは思わなかったものだから、これ見よとばかりに友人の前に取り出してみせたのである。そして二人でそれを披見《ひけん》してみたのだ。ところが、驚いたことには、それらの手紙には、むろん書き方はそれぞれ違っていたことだろうが、その意味はというと、一様《いちよう》に、「わたしを映画女優にして下さい」とあるのだ。そしてさらに驚いたことには、宛名《あてな》のところをみると、これまた一様に、「わたしの恋しきY・H様」だとか「わたしのハートなるY・H様」だとか、とにかくあの活動俳優のY・Hの名がそこに書いてあるのだ。そこで哀《あわ》れな磯部富郎は、たちまちにしてぺしゃんこになってしまったのである。  だが、この話は別としても、こういえばまた彼に憤慨《ふんがい》されるかもしれないが、有名なY・Hと間違えられるほどの彼であるから、好男子であることは論《ろん》をまたないし、それにわたしなどとちがってお金は持っているし、いたって気軽な性質ではあるしするので、それはそれは、わたしなどからみれば、実にうらやましいほどにもよく女から惚《ほ》れられるのである。 「君は知ってたかしら、ほら、あの××嬢《じよう》を——」  と、そんな調子で今までに、彼の口から聞いた艶聞《えんぶん》の数というものは、実に、わたしの両方の手と両方の足の指に、彼の両方の手と両方の足の指を、足してもなお数え切れないほどであろう。ところが、これが人間についている徳《とく》とでもいうのだろうか、彼の口から聞く場合には、それがどんな話であろうとも、決して気障《きざ》に聞こえたり、淫《みだら》らしく感じられたりはしないのだ。それはたぶん、意識して彼が、自分をよく見せようと努力するようなことがないからだろう。  彼にしてみればまた、わたしほど素直に彼の惚気話《のろけばなし》を受け入れてくれる友人はいないので、つまりわたしは、彼のよい惚気台《のろけだい》になっているわけなのだ。  で、例によってその晩彼は、わたしを前に、彼らしいへん[#「へん」に傍点]な艶聞《えんぶん》のお話を始めたのである。 「君は知ってたかしら、あの五十嵐夫人を。なに、知らないって? 知らないってはずはないんだが、ほら、いつか、そうそう、三か月ほど前に、S——館で音楽会があったとき、ふた葉会の幹事だという婦人に紹介《しようかい》されたことがあったじゃないか。あのときたしか君も一緒だったと思うが、思い出した? そうそう、あの婦人さ、君が岡田嘉子《おかだよしこ》にちょっと似《に》ているといった——、そうさ、あの女が五十嵐夫人なんだ。僕が今お話ししようと思っているのも、つまり、あの女と僕との間に最近起こった、へん[#「へん」に傍点]な事件なんだよ。なに? 驚いたって? いや、別に驚くほどの事件でもないんだが、そうそう、君にはいわなかったね、といって、別に隠《かく》していたわけじゃないんだけど、あれ以来、君とは始終かけ違っていて、めったに顔を会わさなかったろう。だから自然、話すチャンスもなかったわけなんだが、実は、あの音楽会があってからしばらくして、僕はまた、偶然《ぐうぜん》ある場所で、あの夫人と落ち合ったんだ。そのときは、前のときと違って、とにかく一度紹介された間柄《あいだがら》だし、それに君という邪魔者《じやまもの》もいなかったし——、いや、失敬! 失敬!」  と、こういうふうにでたらめな、彼一流のおしゃべり[#「おしゃべり」に傍点]をもって、面白《おもしろ》おかしく話すのだ。もし、彼のおしゃべり[#「おしゃべり」に傍点]をそのままここに写しだすことができると、この話は一層《いつそう》面白味があるのだが、それでは長くなりすぎそうだから、でわたしは、柄《がら》にもなく、彼のそのおしゃべりを骨子《こつし》として、ここに一篇の小説を綴《つづ》ってみようと思うのである。読者よ、幸いに終わりまで読んで下さらんことを。  ——でそのとき彼らは、かなり親しく言葉を交わしたのである。話してみると彼女は、相当頭もしっかりしているらしい、それにまた、なかなかコケティッシュな面白さを持った女なのである。 「一度是非、宅《たく》の方へ遊びにいらっしゃいな」  別れ際《ぎわ》に彼女はいうのだ。 「わたしこういう女ですから、宅の方はしょっちゅう[#「しょっちゅう」に傍点]、あなた方のような若いかたの遊び場所になっておりますの、ね、遠慮《えんりよ》のない宅《うち》なんですから是非《ぜひ》いらっしゃいな。月、水、金のこの三日のうちなら、そしてお昼の一時から三時までの間なら、たいてい宅《うち》におりますから、是非、一度ね」  むろん彼は、早速《さつそく》その招待に応じた。そして次の月曜には必ず訪問するという約束《やくそく》をしたのである。  ところが、彼女の宅《うち》を聞くに及んではじめて気がついたことなのだが、そして気がつくと同時に少なからず驚いたことなのだが、彼女の良人《おつと》というのは、有名な船成金《ふななりきん》の五十嵐仙太《いがらしせんた》なのである。一体五十嵐仙太というのは幾歳《いくつ》ぐらいの男だろうか。新聞の写真板などでしばしば見うけるところでは、頑健《がんけん》なようではあるが、五十の坂はとっくに通り越《こ》した年輩《ねんぱい》にちがいない。ところで夫人はといえば、美容術の効果もあろうが、三十にはまだ二、三年|間《あいだ》のある年ごろにちがいないのである。  だから彼女が、好んで華《はな》やかな場所へ出入りをしたり、そしてまた、磯部富郎みたいな若い異性に近づこうとしたりするのも、まんざら同情のできないわけでもない。と、彼、磯部富郎はたちまちにしてそう考えたのである。  さて、次の月曜日には、むろん約束通り彼は夫人の宅《うち》を訪問した。なるほど夫人もいっていたとおり、彼女の応接室というのは、まるで若い男たちの倶楽部《くらぶ》のようなものである。彼はそこに、かねて見知りごしの数人の顔を発見した。彼らはたいてい画家だとか、小説家だとか、そういった芸術にたずさわる仕事をしている人々なのである。彼女はそれらの男性に取り囲まれて、きっと女王みたいな生活をしているにちがいない。  だが磯部富郎はそんな男だから、それらの相当知名な人々の間に混じっても、別に人みしりをするでもなく、ずんずんと自分の思うことを口に出すことができるのである。そしてたちまちにして彼は、その応接室の中での一番おしゃべり[#「おしゃべり」に傍点]な話手になったのだ。  その日を最初として、彼はしばしば婦人の宅《うち》を訪問する。間もなく彼はその応接室での一番熱心な常連になった。そして、初めての訪問の日から数えて、まだ三週間になるやならずに、彼は夫人の好意が、自分にだけ特別に働いていることを感じ始めたのである。  夫人はいうのである。 「わたし次の金曜日には、ちょっとした差し支えがございますの、ですから、残念ながら皆様のお相手をすることはできなかろうと思いますわ」  だが夫人は、別のちょっとした隙《すき》をつかんで、磯部富郎にだけいうのだ。 「あなた、金曜日には何か御用がありまして?」 「いいえ、別に」とむろん彼は答える。 「そう、じゃS——の展覧会へいらっしゃらない。わたしあなたに分からない絵の説明をしていただきたいと思いますの、そして一緒にお茶でも飲みましょう」  おお、恋をする者にとってそれはなんと嬉《うれ》しい好意であろう。経験のある者ならだれでもが知っていることだろうが、そうした好意は、受ける側《がわ》の者にとっては、示してくれる人の思っている、二倍にも三倍にも有り難く感じられるのだ。しかも夫人は、しばしばこうした機会を磯部富郎の前に投げ出してくれるのである。——  だが読者はいうだろう。なんだこれはごくありふれた恋の話ではないか、しかも退屈きわまる恋ではないか——。そうだ、それにちがいない。だが読者よ、話はこれからなのだ。  さてある晩のことである。  磯部富郎は彼の行きつけの玉突《たまつ》き屋で玉を突いていたのである。そこに電話がかかってきたのだ。出てみるとそれはまぎれもなく五十嵐夫人の声なのだ。 「あなた今何か御用がありまして?」 「いいえ、別に」とむろん彼は答えるのだ。 「そう——、わたしたいへん困ったことができまして、弱っておりますの、是非どなたかのお力を借りなければならないような——」 「どんなことです、奥《おく》さん、もし僕のようなものでよろしいのでしたら、どんなことでもいたします」 「有り難う——、でも、でも、御迷惑《ごめいわく》ですわ」 「いいえ、ちょっとも。僕、かえって嬉しいくらいですよ、奥さん」 「どんなお頼《たの》みだか御存じないからそんなことをおっしゃるのです。後《あと》できっと後悔《こうかい》なさいますわ」 「そんなことあるものですか、誓《ちか》ってもいいですよ。僕奥さんのためなら泥棒《どろぼう》でもする覚悟《かくご》でいますよ」 「本当ですか、それは」 「本当ですとも、ですから早く、その用事というのをおっしゃって下さい」 「でもこれは、電話の上では申されない事柄《ことがら》ですの」 「そう、では、これから早速お宅《たく》へお訪《うかが》いしましょうか」 「いいえ、それはいけません。ではこういうことにして下さいな。パリジェンヌ、御存じでしょう。あすこでお待ちしております。それからいうまでもありますまいが、このことはどなたにもおっしゃらないでねえ」 「むろんです」  そして磯部富郎は、子供のように胸をときめかせながら自動車を走らせた。途々《みちみち》彼は考えるのだ。一体頼みというのはどんなことだろう、困ったことというから何か夫人が失策をしたにちがいない。しかしその失策とはどういう種類のものかしら、金銭に関係のあることかしら、それとも——、それとも恋愛事件かしら、いやいや、夫人のようなお金持ちが金で困るということはありえない、それはやっぱり後《あと》の方のことにちがいない。しかし、——と彼は考えるのだ——、後の方のことだと、自分も力の貸しようがないではないか、そうするとやはり前者かな、そうだ、ああいう家庭はかえって金銭問題について厳重なものだ。  そこで彼はふと夫人の良人《おつと》なる五十嵐仙太のことを思い出した。彼はあんなにたびたび夫人の宅を訪問しながら、いまだ一度も彼女の良人に遇《あ》ったことがないのだ。それというのが、彼の訪問するのはいつもお昼だし、彼女の良人が帰宅するのは、いつも八時を過ぎるということだから、顔をあわさないのも無理はないのである。しかし聞くところによると、彼女の良人というのは、一職工から身を起こして、何百万、いや何千万という財産をこしらえた男だけあって、何かにつけてきちょうめん[#「きちょうめん」に傍点]な男なのだが、わけても金銭問題については、一層厳重なのだ、という話を聞いたことがある。だから令夫人の身に起こっている問題というのも、きっとそれに関したことにちがいない。——  ちょうどそのとき、彼の乗った自動車はパリジェンヌの表に着いた。  奥まった一室に通されると、そこにはもう五十嵐夫人が先に来て待っているのだ。彼女はちょっと蒼《あお》い顔をしていたが、さすがに取り乱した様子はなかった。 「よくいらっして下さいましたわねえ」 「ええ、もう飛ぶようにしてまいりました」 「何かおあがりになります?」 「別に何も欲しくはありません」 「そう、じゃ、何か飲みものでも注文しましょうか」 「ええ、どうぞ」  そしてそこに緑色の、きらきらと光った液体が運ばれるのである。 「おたばこを召し上がらない?」 「ええ、持っております」 「いいえ、珍《めずら》しいのがここにありますのよ」  そして夫人の手によって、細巻きの香《か》の高い一本に火がともされるのだ。 「だが奥さん」  と、これは磯部富郎がついに勇を奮《ふる》って切り出した言葉である。 「お話というのを承ろうじゃありませんか、でないと僕、落ち着いた気持ちになれませんから」 「ええ」と、夫人は、でもいつになく煮え切らない態度で、 「わたし、あなたに御迷惑じゃないかと思いますわ」 「そんなことありませんよ、迷惑だと思ったらこんなに飛んで来るはずがないじゃありませんか」 「そりゃ、御好意はよく分かっておりますけれど」 「それならいいじゃありませんか、さあ、早くお聞かせなさいよ」 「でも——」  だが、これらの問答のすえ、結局夫人は打ち明けることになるのだ。 「ではあなた、だれにもおっしゃらないで下さいましね」  と、それを冒頭《ぼうとう》に、そのとき彼女の話した話というのは、つまりこうなのである。これはだれ一人知る者はいないのだが、夫人には一人の秘密《ひみつ》の恋人《こいびと》がある——いや、あったのだ。ところが彼らの間にひそかにやりとりしていた手紙の一通が、最近ふとしたことから、他の男の手にはいったのである。むろんそんな手紙が、良人の知るところとなっては一大事なのだ。その男——手紙を手に入れた男は、それを知っているものだから、それを種にさかんに夫人を強請《ゆす》るのである。それも初めの二、三回は金品を要求してきたものだが、だんだん厚かましくなってきて、とうとう最近夫人の体そのものを要求してきたのだ。いうことをきかなければ、夫人の秘密を彼女の良人の前にあばくというのだ。 「わたし、で、ともかくもしばらく考えさせてくれといって、一週間の猶予《ゆうよ》をとっておいたのですの。それがもう、三日前のことですから、後《あと》四日より期限はありません。むろんわたし、あんな男に自由にされるくらいなら、いっそ死んだほうがましだと思いますわ」  夫人はそういって、平常《ふだん》の彼女にも似《に》げなく、小娘《こむすめ》のようにさめざめと泣くのである。いうまでもなく磯部富郎は、話の始めの間は、あまり事が意外なので、少なからず面喰《めんく》らい、それと同時に、一種の嫉妬《しつと》と腹立たしさとをさえ感じたものだが、そうして夫人に泣かれると、いたって善人の彼のことであるから、たちまちにして心は直るのである。そして彼は考えるのだ。いや、いや、数ある男たちの中から、わざわざ自分といって目星をつけてくれた夫人に対して、彼女を裏切るようなことがあってはすまないわけだ。第一彼女に恋人があるというのを聞いて、急に彼女に不愉快《ふゆかい》を感じるようでは、あまり現金といわなければならないし、それでは自分の男がすたれるわけだ、自分はもっと心を大きく持たねばならぬ、そしてもっと広い意味で夫人を愛さねばならぬ、そうだ、そうだ——、だが、むろんこれは体《てい》のいい自己欺瞞《じこぎまん》なのだ。その証拠《しようこ》には、そういう考えの下から、彼は聞くのである。 「しかし奥さん、あなたの、その——、恋人《リーベ》とおっしゃるのは、だれなのですか」  むろん、それは彼とても平静に聞かるべきものではない。それを聞くとき彼の額《ひたい》にも、少なからぬあぶら汗《あせ》が浸《し》み出ていたにちがいないのだ。 「どうかそれは聞かないでおいて下さいな。しかし、これだけのことはいっておきましょう。それはもう過去の恋なのです。ええ、女学生時代の、ほんの気まぐれな恋なのです。あなたもよく御存じでしょう。若い何も知らぬ時代のちょっとした過失のために、生涯取り返しのつかぬ悲境に陥《おちい》る——、ああ、わたし今になってみれば、つくづくと自分の愚《おろ》かさを後悔《こうかい》しておりますわ」  なんと人間というものは現金なものではないか、この言葉によって磯部富郎の心は、たちまち以前のごとく弾《はず》み出したものだ。 「だが、奥さん」と彼はいうのだ。「その男というのはだれですか、奥さんを脅迫《きようはく》する不都合な男というのは」 「ええ」と夫人は口ごもりながら、「名をいえばきっとびっくりなさいますわ」 「え、では僕の知っている人間なんですか」 「ええ」 「だれです、それは」 「神森《かみもり》さん、ピアニストの、御存じでしょう」  そこで磯部富郎はアッと驚嘆したのだ。  知るも知らぬもない、ピアニストの神森というのは、現に夫人の応接室の常連の中でも、一番古顔なのだ。 「あの男が——?」 「ええ、お驚きになったでしょう」 「だって、あんなに温厚そうな顔をしている男が」 「あれがあの人の仮面なのです。あなたは御存じありますまいが、あの人の脅迫《きようはく》を受けているものは、わたしばかりじゃありませんのよ。ずいぶん有名な御婦人たちで、あの人の毒牙《どくが》にかかって、さんざん悩《なや》まされていらっしゃる方を、わたし五、六人も存じておりますわ」 「だって奥さん、それじゃなぜ、そんな男に弱点を握られるようなことをなすったのです」 「でも、わたしその時分、まだ何も知らなかったのですもの。皆さんと同じように、十分信用の置ける方だとばかり思っていたものですから、つい、だれにも見せられないものを見せてしまったのです。それが一生の不覚だったのですわ」 「そうですねえ」  だが、こうして何もかも打ち明けられたからには、磯部富郎たるもの、いやがおうでも夫人のために力をかさなければならないのだ。しかし一体どうしたらいいのだろう。相手が普通の悪党ではなくて、そんなに奸智《かんち》にたけた男なら、よっぽど要心《ようじん》してかからなければならないのだ。夫人を救《すく》う途《みち》といって、それはただ一つよりない。すなわち、相手がただ一つの武器として頼んでいるその証拠品を、彼の手から取り上げてしまうことだが、しかし、そうするにはどんな手段をとればいいのか、そもそもそれからが問題なのだ。相手が欲《よく》にくらんでいるのなら、話はいたって易《やさ》しいわけだが、何しろ夫人の貞操《ていそう》と交換にしようというのだから、なかなかどうして事が面倒《めんどう》だ。とても尋常一様の手段では、この場合夫人を救うことはできそうにもない。そこで、彼がふと思い出したのは、さっき電話の上で思わず彼の口走った言葉である。 「奥さんのためなら、僕、泥棒だってあえて辞《じ》しませんよ」  なるほど、その言葉どおりに、彼はとうとう泥棒をしなければならなくなったわけだ。彼はきっと、へん[#「へん」に傍点]な苦笑を洩《も》らしたことにちがいない。 「奥さん、だいじょうぶですよ、僕に委《まか》せておおきなさい。決して悪いようにはいたしませんから」  そして、その晩の会見はそれで終わったのである。  だが磯部富郎は根がいたって楽天的な男であるから、そんなふうに、へんてこな責任を背負わされても、別にたいして困らなかったにちがいない。「どうにかなるさ、君——」と、どんなことに出遭《であ》っても、にやにやと薄笑《うすわら》いを洩らしている彼のことだから、そのときだってきっと、例によって「どうにかなるだろう」ぐらいにたかをくくっていたにちがいない。  しかし今度のことだけは、夫人に対して立派《りつぱ》に引き受けた責任があるので、いつものようにべんべんと手をつかねて放《ほ》っておくわけにはゆかなかった。で、ある晩とうとう彼は、決心の臍《ほぞ》を固めて、ピアニストの神森の邸《やしき》に忍《しの》びこんだのである。だがこういえば話が大袈裟《おおげさ》になる。覆面《ふくめん》をし、兇器《きようき》を懐中《ふところ》に忍ばせ、そして窓《まど》をこじあけて抜き足差し足忍びこむような場面を、読者が想像されたらそれは大違いである。何事によらず、そんなふうに真剣になれる男ではないのだ。そのときだって彼は、失敗したらそれまでだ、ぐらいのいたって暢気《のんき》な気持ちで、だから少しも、興奮《こうふん》したり、胸をときめかしたりすることなしに、悠々《ゆうゆう》と、しかも表玄関からはいっていったのだ。たぶん、茶でも飲みに行くぐらいの気分だったのだろう。  ところが、天はかえって彼のような暢気な男に与《くみ》し給《たも》うのだろうか、別に忍びの術を心得ている彼でもないのに、首尾《しゆび》よく磯部富郎は、目《め》ざす書斎《しよさい》へとまぎれ込むことができたのである。  神森という男はまだ独身《どくしん》なので、彼の邸には彼のほかに、年寄った召使いの夫婦が住んでいるだけなのだ。邸の建物はほとんど洋風なのだが、不思議なことにはあのような男だのに、どうしたことか西洋流の寝台《ベツド》で寝ることが嫌いで、だから別に一間《ひとま》だけ日本|座敷《ざしき》をこしらえて、そこで彼は寝るのだ。したがって書斎と彼の寝室の間には、かなりの距離《きより》があるわけだ。暢気といっても磯部富郎は、さすがにそれくらいのことは探《さぐ》ってあるのだ。  で、書斎へ忍び込んだ磯部富郎は、まず義務的に、手近な方から探し始めた。むろんそう容易《やすやす》と見つかるような所に、大切な物を置いてあるはずはなかった。でもしばらく彼は、退屈《たいくつ》そうに口笛《くちぶえ》なんかを低く吹きながら、そうしてこそこそと探していたが、結局それは、錠《じよう》の下《お》りた机《つくえ》の抽斗《ひきだし》に蔵《しま》ってあるにちがいないと見当を定めた。だが、残念ながら彼に、錠前破りの手腕《しゆわん》のあるべきはずがなかった。で、不器用な手つきでガチャガチャとやっていたのだが、そこに廊下《ろうか》の方から足音が近づいて来たのだ。さすがに彼はハッとして、あたふたと部屋の隅《すみ》に立ててあった西洋|屏風《びようぶ》のかげに姿を隠《かく》した。と、そのとたん扉《ドア》が開《あ》いて二人の男女がその部屋へはいって来たのである。 「十時半です、約束の時間より半時間遅れていますよ」 「…………」 「十分遅れると十円の約束でしたねえ、三十分遅れたから、罰金として三十円よけいに頂きますよ」 「だってあなた」女はおどおどとした声でいうのだ。「わたしの方にだっていろいろと都合がありますわ」 「そんなことを僕が知るもんですか、だから、一週間も前からいってあるじゃありませんか」  男は机の前の安楽椅子《あんらくいす》にどっかりと腰をおろした。女の方は、男から二、三歩|離《はな》れたところに、肩《かた》をすぼめてしょんぼりと立っているのだ。磯部富郎が屏風のかげから、こっそりのぞいてみると、男の方はいうまでもなく、この家《や》の主人、ピアニストの神森にちがいなかった。彼はすでに寝床《ねどこ》の中へはいっていたものとみえ、夜着《やぎ》の上からどてらを重ねていた。女の方はというと、若い、美しい、たしかに彼女は女優か何かにちがいなかった。磯部富郎はたちまち好奇心に胸をときめかし、そして全身の注意力を耳の方へ集中するのである。 「だが、まあいい」  女があまり黙《だま》っているので、神森はしかたなくいうのだ。 「三十円のことはなんなら負けておいてもよろしい。だが、約束の金は持ってきたでしょうね」  すると女は、力なくうなずきながら懐中《かいちゆう》から紙幣束《さつたば》を取り出して、それを机の端《はし》に置いた。神森はそれを、いかにも事務的な態度で勘定《かんじよう》するのだ。 「確かに千円あります。では、約束どおり手紙はお返ししましょう」  そして彼は、鍵《かぎ》をがちゃがちゃいわせながら、さっき磯部富郎のいじっていた机の抽斗を開くと、その中からゴムのバンドで縛《しば》ってある、一束《ひとたば》の手紙を取り出すと、しばらくあれかこれかと選《よ》っていたが、やがてその中から一通|抜《ぬ》きとって、それを女の方へ差し出した。 「間違っていると面倒ですから、よく調《あらた》めてから、破るなり、焼きすてるなりしたがいいでしょう」  女はいくぶん興奮した手つきでそれを受け取ったが、男のいうように念を入れて中味を調めた。するとたちまち彼女は、ほっとしたように溜息《ためいき》を洩らし、そして袂《たもと》からマッチを取り出すと、その手紙に、火をつけるのだった。手紙はまたたく暇《ひま》に、めらめらと燃え上がって灰になった。 「では神森さん」女はいうのだ。「もうこれで取引はすっかり済みましたわねえ」 「いいえまだ、少々ばかり——」  神森は椅子《いす》から立ち上がって女の方へ寄って行くと、どうするのかと思っているひまに、女の肩《かた》に手をかけ、すばやく彼女の唇《くちびる》から接吻《せつぷん》を盗《ぬす》んでしまった。そして澄《す》ました顔でいうのである。 「遅刻《ちこく》代三十円の代わりです」  女は烈火《れつか》のごとく憤《いきどお》って、そのままぷいと部屋から出て行った。すると、なんと思ったのか神森も、にやにやと笑いながら、彼女の後《あと》を追っかけて出て行った。  二人の姿が見えなくなると、磯部富郎は屏風《びようぶ》のかげで、思わずくすりと笑いだしたことだ。そしてなおしばらく屏風のかげに隠れて耳を澄ましていたが、別にだれも帰って来そうにないので、こっそりとそこから足を踏み出した。そしてさっきの机の側へ寄って行ったのだが、おあつらえ向きなことには、神森はよっぽどぼんやりしていたとみえて、例の抽斗の鍵穴《かぎあな》には、まだ鍵が突き差したままになっているのだ。で磯部富郎は、天の助けとばかりに早速その抽斗を開くと、中から例の、ゴムバンドで縛ったやつを取り出した。すると五十嵐夫人のは、別に探すまでもなくたちまち見つかった。それというのが、夫人のは特別に大型な封筒だったし、それに、神森の筆蹟《ひつせき》なのだろう、よく目につくように、「五十嵐夫人の件」と表に書いてあるのだ。  磯部富郎はそれをポケットへしまい込むと、悠々《ゆうゆう》としてその部屋から出て行こうとした。ところが扉《ドア》のところでばったりと彼は引き返して来た神森と顔を突き合わせてしまったのだ。 「やあ神森さん」  磯部富郎はハッとすると同時に、思わずそういったものだ。 「さっきはどうも、たいへんな所を見せていただいて」と仕方なしに彼はそうごまかした。  すると神森はさっと顔色を変えたが、たちまち机の抽斗の開いているのに気がついて、つかつかとその方へ歩いて行った。その隙《すき》をみて磯部富郎は、廊下《ろうか》を一跳《ひとと》びにすると、はやもう表の玄関を外へ跳《と》び出していた。ところが、間《ま》の悪いことには、彼が門外へ一歩踏み出したとたんに、すぐ側《そば》の横町《よこちよう》からひょっこりと警官が出て来たのだ。そして彼がはっとしてひるむ間に、背後《うしろ》から神森が彼の腕《うで》を捉《とら》えた。 「どうかしましたか」  警官は彼らの側へ寄って来ると、警官一流のアクセントでそう聞くのだ。 「泥棒なんです、この男は!」  神森は息をぜいぜい切らせながらいった。  すると警官は不審《ふしん》そうな眼で、じろじろと磯部富郎を見まわすのである。こういうときには彼の貴公子然とした風采《ふうさい》が大いに物をいうのだ。で彼は、すかさず口を開いた。 「どういたしまして、警官!」それから彼は神森の方へ振り向いていうのだ。「どうしたのです。神森さん、僕ですよ、磯部富郎じゃありませんか、だしぬけに背後《うしろ》から怒鳴《どな》りつけたりして、びっくりするじゃありませんか」  するとまた、神森はやっきとなって警官に訴《うつた》えるのである。 「嘘《うそ》ですよ、警官! この男は今わたしの書斎《しよさい》から大切な書類を盗《ぬす》み出したのです」  そこで警官は、途方《とほう》に暮れたように二人の顔を見較《みくら》べていたが、結局、彼の手によって磯部富郎は身体検査をされることになったのだ。これにはさすがの彼もはっとした。もう駄目《だめ》だと思った。神森の方を見ると勝ち誇《ほこ》ったような顔をしている。警官は長く探すまでもなく、たちまちポケットの中から例の封筒を取り出したのだ。 「これですか」 「そうです、そうです」 「本当にあなたは、これを盗んだのですか」  この警官は明らかに最初から磯部富郎に好意を寄せていたにちがいない。そういって親切な調子で彼に聞くのだ。 「どういたしまして、それは僕のものですよ」  警官はまた途方に暮れたような顔をした。そしてしばらく考えていたが、やがてこういうのだ。 「では、こういたしましょう、一度わたしが中味を調べてみましょう。それからあなた方のうちのどなたの物か判断いたしましょう」  するとどうしたものか、それには磯部富郎よりかえって神森の方が狼狽《ろうばい》しはじめたのだ。 「それはいけません、警官!」  しかしそのときにはすでに彼は封を開いていた。そして中の物を取り出してしげしげと眺《なが》めていたが、やがてそれを元へおさめると、なんと思ったのかその封筒をまた磯部富郎のポケットの中へ入れるではないか。そして親切そうにいうのだ。 「あなたの物に違《ちが》いありません。たぶんこの方の間違《まちが》いなんでしょう」  そしてあっけにとられている磯部富郎の手をとって、向こうへ行けという合図をするのである。そこで磯部富郎はこれ幸いと、後《あと》をも見ずに逃げて帰ったのだ。だが考えてみると、彼は不思議でたまらなかった。警官は一体、何を勘違いしたのだろうか。一体この封筒の中には、どんなものがはいっているのだろう。するとたちまち彼の心の中には、押《おさ》えきれぬ好奇心が頭をもたげてきた。で、家《うち》へ帰ると早速彼は、夫人には決して中を見ないという約束だったけれど、とうとうその封を開いてみたのだ。とたちまち彼は、あっと驚愕《きようがく》し、次いで呆然《ぼうぜん》とし、ついには喜びのために、部屋の中を躍《おど》り廻ったのである。  読者よ、その中から何が出たと思います? それはまぎれもなく、磯部富郎自身の写真だったのですよ。しかもその写真には、疑《うたが》いもなくS夫人の筆蹟《ひつせき》でこう書いてあるのです。   T.Isobe,my love 「なるほど、素敵《すてき》だ!」  わたしは磯部富郎の言葉のまだ終わらない間《うち》から叫《さけ》んだのである。 「これじゃコクテイル一杯では済まされないぞ!」  すると彼は、なんと思ったのかただにやにやと笑っているばかりだったが、やがて、ふいにぶっと吹き出した。 「どうしたのだい、一体?」 「なにさ、なんでもないんだよ、だがね、話はそれだけじゃないのだ。まだ後日《ごじつ》 譚《ものがたり》があるんだよ」  そして彼は牝鹿《めじか》のような優しげな眼を、ちらちら光らせながら再び話し出したのだ。 「それから一週間ほどしてね、むろんそれまでに、例の写真は何気なく夫人の方へ返しておいたのだが、何しろ嬉しくてしようのないときだろう、だれかにこの話をしてのろけてやろうと思っているときさ、あいにく君はいないし、で、いつも夫人の応接室へやって来る遠藤《えんどう》という男をつかまえて、あの晩、とうとうこの話をしてやったのさ。むろん、だから、お前たちはいくら騒《さわ》いでも駄目《だめ》だぞ、という気持ちも含んでいたのだ。ところが、君、その男は、僕が話をしてしまうと、君のように、『コクテイル一杯じゃすまされないぞ』というようなことはいわないで、その代わり、ただ黙《だま》って笑っているのだ。で僕、奴《やつこ》さんやきもち[#「やきもち」に傍点]を焼いているのだなと思ったものだから、どうです、と一本突っ込んでやったのだ。すると彼は急に気の毒そうな顔になって、そしてなんといったと思う。 『とうとう君もやられましたね』だとさ。僕、なんの意味だか分からなかったものだから、あっけ[#「あっけ」に傍点]にとられてさ、ぼんやりと、ただもう眼ばかりぱちくりさせていたのだ。するとそのとき彼がいってくれたのだがね、それによると、そういう経験に遇《あ》ったものはこの僕ばかりじゃないというのだ。夫人の応接室へやって来る常連のほとんど全部が、一度はきっとそういう経験に遇うんだとさ。つまり夫人は、ほかの女たちなら、『わたしはあなたに好意を持っています』と言葉でいうだろう場合に、そういう代わりに、それを芝居《しばい》にしてみせてくれるのだ。なんと素敵じゃないか。むろん神森というのも、その女も、それから警官もみな知り合いなんだ。もっとも役割は始終変わるそうだがね。ところで、僕の場合に警官の役をつとめたのは、どうやらそれが夫人の良人の五十嵐仙太らしいんだよ。つまり夫婦|共謀《きようぼう》なんだが、これは少々痛いやね」  そういって磯部富郎は、なんの屈託《くつたく》もなさそうに、晴れ晴れとして笑ったのである。 本書には今日の人権意識に照らして不当・不適切と思われる語句や表現がありますが、作品執筆時の時代背景や作品が取り扱っている内容などを考慮しそのままとしました。作品自体には差別などを助長する意図がないことをご理解いただきますようお願い申し上げます。 [#地付き](角川書店編集部) 角川文庫『空蝉処女』昭和58年12月10日初版発行