神隠しにあった女
自選人形佐七捕物帳2

横溝正史







角川文庫

目 次

神隠しにあった女
好色いもり酒
百物語の夜
彫(ほり)物(もの)師(し)の娘
ほおずき大尽
春宵とんとんとん
緋(ひ)鹿(が)の子(こ)娘
三河万歳

神隠しにあった女

春色お千代舟
  ——ぼちゃぼちゃのお千代さんだよ—— 


 下(した)谷(や)御(お)成(なり)街(かい)道(どう)にあるなだいの刀屋、小松屋の手(て)代(だい)宗七は、ある晩、ふしぎな経験をした。それはまったく、世にも奇怪な経験だった。
 その日、宗七は蠣(かき)殻(がら)町(ちよう)のあるお屋敷へ、刀をおさめにいったのだが、値段の点でおりあわず、持っていった刀をそのまま持ってかえる途中だった。
 お屋敷へでむいたのは、夕がたの七つ(四時)ごろだったのに、むこうで、さんざん待たされたあげく、値段の点で、すったもんだとやったので、お屋敷を出たのはもう五つ(八時)過ぎ、さすがに春の日長もとっくにくれて、霊(れい)岸(がん)島(じま)から中(なか)州(す)へかけて、春の薄やみにつつまれていた。
 その晩は、月がありながら雲にかくれて、風もなんとなくなまあたたかく、みょうにわかい血をさわがせるような晩だった。おまけに、宗七はすこし酔っている。お屋敷で待たされているあいだに出た酒が、いまになって、ぼってりとからだをあたため、宗七はいっそなにやら、ひと恋しい気持ちになっていた。
 しかし、それだからといって、宗七はべつにどうしようといううわきごころがあったわけではない。小松屋のかずある手代のなかでも、わかいににあわず堅いというので、だんなの重(じゆう)兵(べ)衛(え)からもとくべつに目をかけられている宗七である。
「いけない、いけない!」
 と、ともすればきざしてくる邪念を追っぱらうように、宗七は足をはやめた。
 だから、そのままなにごとも起こらなければ、宗七は無事に、うちへかえっていたはずだが、運命というやつはとかく、みょうないたずらをするものだ。
 人形町の通りへ出ようとして、浜町河(が)岸(し)を永(えい)代(たい)橋(ばし)のほうへいそいでいる宗七を、くらやみのなかから、ふと呼びとめたものがある。
「にいさん、遊んでおいでなさいまし」
 ふとい男の声である。
「えっ?」
 と、宗七は足をとめると、あわててあたりを見まわしたが、かたがわは大名屋敷、かたがわは大川である。どこにも人影はみえなかった。
「なんだ、そら耳だったのか。だからいわないことじゃない。つまらないことを考えているからだ。つるかめ、つるかめ。さあ、いそぎましょう、いそぎましょう」
 じぶんでじぶんをつよくたしなめながら、小松屋の宗七が足をはやめて、歩きだそうとする耳へ、またしても、男の声がきこえてきた。
「にいさん、こっちですよう。ほら、こっち、川のなかですよう。遊んでいってくださいよ。ぼちゃぼちゃの、お千代さんですよう」
 宗七はぎょっと足をとめると、すかすようにして川の上を見る。なるほど、河(か)岸(し)の柳のしたに、苫(とま)舟(ぶね)が一隻もやってあって、ほおかむりをした船頭が、こちらにむかって手招きしている。宗七はそれをみると、なんということなく、あたりを見まわした。
 宗七もこのへんに、舟まんじゅうが出るということはきいていたのだ。
 舟まんじゅうというのは、いちばん下等な売(ばい)女(た)である。売女のなかで、いちばん下等なやつは夜(よ)鷹(たか)とされているが、その夜鷹がわるい病気かなんかで足腰が立たなくなると、それを舟にのっけて春を売らせる。それを舟まんじゅうといって、そういう舟をお千代舟とよんだ。
 なるほど、そうきけば、夜鷹よりいっそう下等なわけだが、なかには、夜鷹の廃物ばかりではなく、まれには逸物もあったという。
 それはさておき、あいてがお千代舟だとわかると、宗七のひざがしらは、にわかにガタガタふるえてきた。口がからからにかわいてくる。
 かたいといっても二十三、まんざら遊びをしらぬわけではない。朋(ほう)輩(ばい)や、お出入りさきのだんなにさそわれて、吉(よし)原(わら)や品(しな)川(がわ)であそんだ経験はもっている。じぶんでこっそり、夜鷹を買ったこともある。それに、こんやはさっきから、みょうにからだがうずくのだ。お店(たな)者(もの)としては宗七は、かたぶとりのした、たくましい、よいからだをしている。
 しかし、宗七は思いなおした。
「せっかくだが、まあ、よそう、おしろいでしわをぬりつぶしたような女を、買ったところではじまらない。まあ、ごめんこうむろうよ」
「冗談じゃない。おまえさんはなんにも知らないから、そんなもったいないことをいってるんだが、ここにいるお千代さんは、まだ生(き)娘(むすめ)ですぜ」
「あっはっは、バカもやすみやすみいうがいい。舟まんじゅうに生娘があってたまるもんか。こちらが若いといって、バカにするのもいいかげんにしとおくれ」
「うそだと思うんなら、いちど遊んでごらんなさい。こんやがちょうど初見せの、それこそ、ぼちゃぼちゃのお千代さんだ」
「そ、そんなバカな!」
「そんなにいうなら、ひとつ顔をおがませてあげよう。これ、これ、お千代さんや、にいさんにちょっとそのきれいな顔を見せてあげな」
 苫のなかでさやさやと、きぬずれの音がしていたが、女の姿はあらわれなかった。
「これ、なにをしている。にいさんがきついご所(しよ)望(もう)だ。顔をみせろといえば、みせねえか」
 しかりつけるような船頭の声に、苫のなかでまた、さやさやときぬずれの音がした。それからそっと恥ずかしそうに女が上半身をあらわした。あいにくの、春のおぼろのうすくらがり。それに、手ぬぐいを吹き流しにかぶっているので、目鼻だちまではわからないが、におうような白い顔、羞(しゆう)恥(ち)のためにふるえているぽっちゃりとした肉づき、生娘かどうかは疑問としても、わかい女にはちがいない。
 宗七はちょっと胴ぶるいをすると、おもわずぐっとなまつばをのみこんだ。
「それ、お千代さん、さっき、教わったとおりやってみるんだ。おまえの口から、にいさんにおねがいするんだ。そしたら、このにいさんが、かわいがってくださるとよう」
 船頭の声にうながされ、
「あの、にいさん、おねがいですから、ちょっと寄っていってくださいな」
 蚊(か)のなくような声である。かつまた、吹き流しのしたからのぞいている双(そう)のひとみが、星のようにまたたいているのをみると、宗七のわかい血がカーッともえた。
「ようしッ、あそばせてもらうぜ」
 宗七はふらふらっと、身も魂もひきずりこまれるように、舟のなかへのりこむと、女の手をとって、くらい苫(とま)屋(や)のなかへはいっていった。
「あっはっは、にいさんは果(か)報(ほう)者(もの)だ。その妓(こ)は正真正銘、まだ手入らずの生娘だ。しかも、その妓にとっちゃ、はじめての客ですからね」
 船頭はわらいながら櫂(かい)をとって、ゆっくり舟をこぎはじめた。こんなばあい、舟は中州をひとまわりすることになっていて、そのあいだが、客にあたえられた時間になっているのである。
 苫屋のなかは、すわっていても頭がつかえそうな窮屈さである。むろん、あかりなどという気のきいたものが、ついているはずはないから、なかへはいってしまうと、鼻をつままれても、わからぬような暗さである。
 それでも、せんべいぶとんながら、ふとんが敷いてあるらしいことだけは、手ざわりでわかった。宗七はそのふとんの上にあぐらをかくと、すばやく、帯をとき、女の肩に手をかけて、ぐいとこちらへ引きよせた。
「あれえッ!」
 はずみをくらって、女は宗七のひざのうえに、しなだれかかるように倒れてきたが、そのからだは石のようにかたくこわばっており、しかも、しくしくと泣いている。
「これ、なにを泣くんだ。この期(ご)におよんで。な、なにをそんなに泣いているんだ」
 宗七は女のからだを、ひざの上へだきあげると、やにわにうちぶところへ手を差しいれた。女はあいかわらずしくしく泣きながら、さりとて、宗七の手をこばもうともしない。男のなすがまま身をまかせている。しかし、耳ざわりなのは、しくしくと嗚(お)咽(えつ)する声である。
 とうとう、宗七はかんしゃくを爆発させた。
「いいかげんにしねえか。おまえがいかにしおらしくもちかけたって、だれがおまえを生娘だなんて、まにうけるもんか。舟まんじゅうなら、舟まんじゅうらしくしたらどうだ」
 おもわず声がたかくなったから、そとの船頭に聞こえたらしい。船頭はあっはっはと笑うと、
「にいさん、にいさん、その娘はほんとうに生娘なんですぜ。しかし、にいさんに身をまかせる気になってるんだから、ひとつ、しっぽりかわいがっておやんなさい」
 そのあとへ、またあざけるような高笑い、あっはっはという傍(ぼう)若(じやく)無(ぶ)人(じん)の声がつづいたから、宗七はとうとう怒り心(しん)頭(とう)に発して、
「バカにするない、だれがおまえらにだまされるもんかい。だれが、おまえらにだまされるもんかい」
 と、やにわに、女をそこへ押しころがすと、全身の怒りをこめて、その上におしかぶさっていった。それでも女は、ただかすかな悲鳴をあげただけで、土かどろでつくった人形のように、身をかたくしていた……。
 そういう宗七だったのだが、舟がゆっくり、中州のまわりをひとまわりして、もとの浜町河岸へもどってくるころには、まるで魂を抜かれたようになっていた。
 まったく、かれはふしぎでならない。
 ひょっとすると、この女は、さっき船頭がいったとおり、ほんとに生娘だったのではあるまいか。もし、そうだとすると、じぶんはたいへんな罪をつくったのではなかろうか。
 もし、この女がはじめのころ、ほんとに生娘であったとしても、おわりのころにははっきりと、女であることをしめしてくれた。
 宗七の腕にだかれた女は、宗七の興奮がたかまるにつれて、しだいに、われを忘れてとり乱し、はては、力いっぱい宗七のからだを抱きしめると、身をそよがせてあえぎにあえいだ。さっきの羞恥がうそのように、女であることの喜びを、ろこつに表現してはばからなかったばかりか、女のすべてをささげて、おしむところがなかった。それはまるで、堰(せき)を切っておとした激流のようなものであった。
 宗七はこの激流のなかに棹(さお)さして、浮きつ沈みつ、内心のよろこびをかみしめながら、二度、三度、女をつよく抱きつづけたのだが……。
 宗七がほっとわれにかえったのは、よほどたってからのことである。つよい抱擁からやっと解放してやると、女はまだ見果てぬ夢をおうように、ぐったりと目をとじたまま、あらい息づかいをととのえていた。
 このときである。たいへんな罪つくりをしたのではないかと、宗七が気がついたのは。
 いったい、こういう売女というものは、男にからだを提供し、男にすきかってなまねをされても、じぶんは思いをほかに転ずることを、しっているものである。そうでなければ、一夜に、いくにんかの男に抱かれる身がもてない。
 だから、彼女たちは、男がかってに興奮し、かってに歓喜の絶頂に到達しても、じぶんはすずしいかおで、おのれを制することができるように、訓練されているものである。彼女たちの発するあえぎや、息づかいや、身のそよぎは、すこしでもはやく男を喜悦の頂上に、みちびくための作為にすぎない。
 しかし、いま宗七のそばに、息もたえだえによこたわっているこの女だけはちがっていた。
 すべてがほんものであった。あの絶えいるような息づかいも、よじれんばかりの身のそよぎも、はては堰を切っておとしたような奔(ほん)流(りゆう)も……そういえば、さいしょに発した苦痛の悲鳴も、見せかけではなかったようだ。
 宗七はまるで夢に夢みる気持ちで、女になにかきこうとして、もういちど、背中に手をまわそうとしたとき、
「にいさん、着きましたぜ」
 船頭にうながされて、宗七はあわてて帯をしめなおすと、苫屋からそとへ出ていったが、あとに心ののこるのは、どうしようもなかった。女もおなじ思いだったのか、おおいそぎで、きものの乱れをととのえると、苫屋から上半身をのぞかせて、
「もし、にいさん」
「えっ」
「ご縁があったら、またいつか……」
 涙にうるんだ声をかけたが、そのとき、吹きおろしてきた川風が、女のかぶった手ぬぐいのはしをさっと吹きあげた。しかも、ちょうどそのとき、雲をはなれた月の光が、まともに女の顔を照らしたのである。
 宗七ははじめて、はっきり女の顔をみたが、そのとたん、のけぞらんばかりに驚いて、
「あっ、あなたは宝屋のおふくさま……あの、神かくしにあわれたお福さま!」
「しっ、しまった、ちくしょうッ、ちくしょうッ、こいつ、しってやアがったのか」
 船頭はやにわに女を苫屋のなかへつきもどすと、櫂とりなおしていちもくさん、春の夜のやみはあやなし、みるみるうちに水のうえを、遠く、はるかに消えていった。
 ぼうぜんとして、それを見送っていた宗七が、舟のなかへだいじな刀、備(び)前(ぜん)長(おさ)船(ふね)をおきわすれたのに気がついたのは、それからよほどたってからのことである。

宝屋の姉妹
  ——姉のお蝶(ちよう)は女中の子なんです——


「——と、そういうわけで、これがゆうべ買ったその舟まんじゅうの女というのが、宝屋の妹娘お福だった、いや、お福にちがいないというんです」
 と、そうきり出したのは、小松屋のだんなの重(じゆう)兵(べ)衛(え)、うしろには手代の宗七も、よいあとはわるいで、あおい顔をしてひかえている。
 それは宗七が、あのふしぎな経験をした翌日のこと。
 宗七から話をきいた重兵衛は、すててはおけぬと宗七ともども、神(かん)田(だ)お玉(たま)が池(いけ)は佐七のもとへ、相談にやってきたのである。
 佐七はおもわず目をみはって、
「そりゃア、しかし、ほんとのことですかえ。夜目遠目傘(かさ)のうちというが、ひょっとすると、他人のそら似じゃアありませんか」
「いいえ、たしかにお福さまでございました」
 と、宗七はめんもくないやら、恥ずかしいやらで、額(ひたい)に汗をかきながら、
「げんに、わたしがお福さまと声をかけると、むこうでもびっくりしていらっしゃいましたし、船頭もたいそうおどろいて、むりやりにお福さまを苫のなかへおしこむと、逃げるようにこいでいってしまったのでございます」
 佐七はおもわず辰(たつ)や豆六と顔見合わせる。
「そういうわけで、宗七は、しらぬこととはいいながら、主人もどうぜんな宝屋の娘とそんなことをしたかとゆうべから、夜の目もねむれぬくらい、心配しているんです」
「あの、ちょっと……宝屋のお嬢さんが、主人もどうぜんとおっしゃいますのは……?」
「ご存じじゃありませんか。宝屋の家内のお常というのは、わたしのじつの妹なんです」
 佐七はそれをきくと、また目をみはって、
「それはそれは……それじゃ、さぞご心配なことでございましょう。ときに、お福さまが神かくしにあわれたというのは、いつのことでございます」
「あれはひな祭りの晩のことでしたから、きょうで、ちょうど十日になります」
「さっきのお話では、たしかお友だちのところへよばれておいでになって、それっきり、おゆくえがわからなくなったのでしたね」
「はい。大(おお)伝(でん)馬(ま)町(ちよう)の駿(する)河(が)屋(や)さんへ招かれていったんですが、六つ半(七時)ごろそこを出たっきり、ゆくえがわからなくなってしまったんです」
「どなたもお供はなかったんで」
「はい、いつもならば、女中が供につくはずでしたが、あいにくその日は、姉娘のお蝶(ちよう)が持病の発(ほつ)作(さ)をおこしまして、家じゅうまぜくりかえしていたものですから……駿河屋さんのほうでも、だれかに送らせようといってくだすったそうですが、近くのことだからそれにはおよばぬと、お福のほうでことわって、ひとりで出たそうですが……」
 重兵衛はふかぶかと首うなだれて、ほっと暗いため息をついた。
 宝屋というのは久松町の刀屋だが、このほうは、小松屋とちがって新刀ばかり、どちらかというと、町人あいての安物専門の店だが、こういう店のほうがかずでこなすから、かえって利益があるとみえて、小松屋にもおとらぬ身(しん)代(だい)である。
 その宝屋の妹娘のお福というのが、十日ほどまえに、神かくしにあったといううわさは、佐七もかねてから耳にしていた。
 神かくしというのは、とつぜんゆくえ不明になることで、むかしはよく、てんぐがさらっていくのだなどといったものだ。いまのことばでいえば、さしずめ蒸発というやつだろう。
「すると、宝屋のお福さまは神かくしにあったのじゃなく、悪者にかどわかされて、舟まんじゅうに売られているというんですね」
 重兵衛はくらい顔をしてこたえなかった。
 佐七はそこでひざをすすめると、
「ねえ、だんな、宝屋さんではだれかに、うらみでもうけるようなおぼえがございますんで」
「さあ、そのことなんですが……」
 重兵衛がおもい口でいいにくそうにうちあけた話というのはこうである。
 宝屋のあるじ、太(た)郎(ろう)右衛(え)門(もん)には娘がふたりある。姉をお蝶、妹をお福といって、十八と十七のひとつちがい、つまりとし子である。世間でも当人たちも、ほんとの姉妹と思いこんでいるが、じつはこのふたりは腹ちがいであると重兵衛は打ちあけた。
「姉のお蝶というのは、太郎右衛門が、わかいころお吉という女中に手をつけてうませた子どもなんです。そのじぶん、お常がかたづいて七年にもなるのに、いっこう子どもがうまれるけはいもないので、お常がその子をひきとって、じぶんの子どもにしたんです。ところが、よくあることで、お蝶をひきとるとまもなく、お常がみごもり、翌年うまれたのがお福なんです」
 したがって、ふたりは腹ちがいだが、ふしぎにもこの姉妹、うりふたつほどよくにていて、げんざいの親たちでも、とりちがえることがあるくらいだから、世間でもほんとの姉妹と思いこみ、当人たちも、そう信じきっているそうである。
「わたしの口から申すのもなんですが、お常というのがまことによくできた女で、腹はだれにしろ、お蝶は太郎右衛門どのの総領娘にちがいないから、ゆくゆくはそれに養子をとって、宝屋のあとをつがせると申しておりました。ところが、ふしあわせなことには、そのお蝶、去年、大(おお)煩(わずら)いをいたしまして、高熱が半月あまりもつづきましたが、それが治ったかとおもうと、頭がすこしおかしくなったのでございます。なにかこう、ぼんやりしてしまって、とりとめがなくなってしまったのでございます」
 お蝶の病気は、いまのことばでいえば脳(のう)膜(まく)炎(えん)だろう。それまでは目から鼻へぬけるようなりこうな娘だったのに、大煩いをしてからは、白痴にちかい娘になってしまった。
「お常もこれには胸をいためましたが、そこへ、おりもおり、ことしの春になって、お蝶のじつのおふくろがかえってきたんです」
「かえってきたとおっしゃいますと、お蝶さんのおふくろさんは、どこか遠いところへでもいってらしたんですか」
「それが……」
 と、重兵衛はいいにくそうに、
「お蝶の母のお吉というのはわるい女で、宝屋へ女中にすみこんだのも、はじめからその下心があったんです。女中にすみこんでは、主人とひっかかりをつけ、それをたねにゆするんですね。ええ、もうそのじぶん、しょっちゅうそういうことをしていた女で……それで、そのときもそうとう手切れ金をとってわかれたんですが、そのごも悪事がかさなったのか、とうとう島送りになったんです」
 この思いがけない打ちあけ話に、佐七はおもわず辰や豆六と顔見合わせる。
「はい、そういうことがありますんで、いっそうお蝶の素(す)性(じよう)をかくしていたんですが、そのお吉がこの春、おかみのご慶事につき、お赦(ゆるし)にあってかえってきたんです。そういう女でも、やっぱりわが子はかわいいとみえ、うみの子のお蝶がバカになったときくと、たいそうくやしがりまして、これもきっとおかみさんが、毒かなんか盛ったにちがいない。いまにきっとこの返報はしてみせると、宝屋へどなりこんできたことがございますそうで。お福が神かくしにあったのは、それから十日ほどのちのことでした」
 はじめてきいた宝屋のうちまくに、佐七はおもわずかたずをのんだ。
「すると、お福さまをかどわかしたのは、お吉という女だとおっしゃるんで」
「そうじゃないかと思います。お蝶がすたれものになったのを、いちずにお常のしわざとおもいこみ、その返報にお福をかどわかし、そんなあさましい稼(か)業(ぎよう)をさせているんじゃないかと……お吉なら、やりかねない女でございますから……」
 重兵衛はあまりのあさましさに、たまりかねたようにまぶたをおさえる。なににしても奇怪な話だ。佐七もいたましそうに顔をしかめていたが、きゅうに思い出したように、宗七のほうをふりかえり、
「ときに、宗七さん、その船頭というやつだが、いったいどんな男でしたえ」
「さあ、なにしろ暗がりのうえに、ほおかむりをしておりましたので、はっきりとは申せませんが、としごろは四十前後、右のほおに大きな切り傷があったようでございました」
「おまえさん、その舟に備前長船を忘れてきなすったというんですね」
「はい、重々のぶちょうほうで……」
「だんな、その刀が出てきたら、おわかりでございましょうねえ」
「はい、それはもちろん」
「ようがす。とにかく、なんとかして、その舟というのを捜してみましょう」
「なにぶん、よろしくおねがいいたします。ただこのうえのおねがいは、このことを、宝屋の耳にいれないように。娘がそんなあさましい稼業をしているときけば、妹も太郎右衛門も、どんなに心をいためますことか……宗七にも、これだけはかたく口止めしてありますんで」
「ごもっともで。なに、だれにもしゃべりゃアしませんから、どうぞご安心なすって」

お蝶狂乱
  ——ときどきああしてあばれるんです——


「親分、いまの話、ほんとうでしょうかねえ」
 重兵衛と宗七がかえったあとで、辰はなんかふにおちぬ顔色である。
「どうして?」
「だって、舟まんじゅうを買ってみたら、それが主人の姪(めい)だったなんて、話があんまりできすぎてるじゃアありませんか」
「そや、そや、わてかてそう思いますわ。宗七のやつ、舟まんじゅうにうつつをぬかして、だいじな刀をわすれたその言いわけに、神かくしになった娘のことを、かつぎ出しよったんとちがいまっしゃろか」
「いや、宗七のあの顔色では、そんな筋が書けるたア思えねえ。ただ、ふしぎなのはお福という娘だ。いかにお吉や相(あい)棒(ぼう)におどしつけられたとはいえ、そんなにむざむざ、あさましい稼業をするというのがおかしい。助けを呼ぶとか、ひとこと客に耳打ちするとか、なんとか方法がありそうなもんじゃねえか」
「だからさ、やっぱりそれはお福じゃねえんですぜ。宗七のやつがてれかくしに、そんなべらぼうな話をでっちあげやアがったにちがいねえ」
「どっちにしても、ただの神かくしでないとわかれば、捨ててはおけねえ。辰、豆六」
「へえ、へえ」
「おまえたち手わけして、ひとつ心当たりのほうがくから洗ってみてくれ」
「心当たりのほうがくって、親分、どこから手をつけていけばいいんで」
本(ほん)所(じよ)の吉(よし)田(だ)町(ちよう)に夜鷹の巣がある。舟まんじゅうもたいていあのへんから出るようだから、おまえたちいって、右のほおに刀傷のある船頭に、心当たりはねえかきいてみろ」
「おっと合点です。それからほかに……」
「馬道のからすの平太のところへいって、ちかごろ島からかえってきたやつに、右のほおに刀傷のある男はねえか、あたってみろ」
「おっと、わてもそれを考えたとこだす。そんなら、兄い、いきまほか」
 からすの平太というのは、むかし悪党なかまで鳴らした男だが、いまでは足をあらって、一種の諜(ちよう)者(じや)のようなことをしている人物。
 そこへいけば、凶状持ちの動静は、たいていわかることになっているから、御用聞きなかまでは、ちょっとちょうほうな存在になっている。
 こうして、辰と豆六が出かけたあとで、佐七は女房のお粂(くめ)にむかい、
「お粂、おまえにもひとつ頼みがある」
「あい、あたしになにかご用かえ」
「なに、ご用というほどのことじゃねえが、うちへまわってくる女髪結いのおせんは、たしか大伝馬町のほうも、おとくいにしていたな」
「あっそうそう、あたしとしたことが忘れていた。おせんさんはたしか、駿河屋さんのお出入りだよ。いつかもじまんしてたっけ」
「そいつは好都合だ。それじゃおまえ、これからおせんのところへ出向いていって、ひな祭りの晩、駿河屋へ招かれていったお福の様子に、なにか変わったとこはなかったか、ふだんと様子が違ったところはなかったか、そこんところを、なるべく詳しくきき出してくれるように頼んでくれ」
「そのおせんさんなら出向くまでもない。きょううちへまわってくるはずだが、しかし、おまえさん、駿河屋さんになにか……」
「なに、そうじゃねえが、お福という娘もおかしいじゃねえか。大伝馬町から久松町といえば、目と鼻のあいだだ。それに、六つ半(七時)といえばまだ宵(よい)の口、あのへんはにぎやかな場所だのに、どうしてむざむざ、かどわかしになどかかったのか……それについて、駿河屋にいるあいだに、なにか変わったことはなかったか、そこんところをきいてみてくれ」
「あいよ。それくらいのことならわけはない。ときに、おまえさんは……」
「おれはちょっと、久松町までいってみる」
 と、それからまもなく久松町の宝屋のちかくまできてみると、そのへんいっぱいのひとだかり。みると、髪をふりみだしたわかい娘が、気ちがいのようにあばれまわっているのを、乳(う)母(ば)だの、女中だの、お店(たな)者(もの)らしい若者だのがとめている。
 佐七はまゆをひそめて、
「ありゃいったいどうしたんです」
 そばにいる男にきくと、
「あれはむこうの宝屋の姉娘で、お蝶さんというんです。いぜんはしごくおとなしい娘でしたが、去年、大煩いをしていらい、頭がおかしくなって、ときどき、ああしてあばれるんです」
 佐七はそれをきくと、はっと娘の顔をみなおした。
 お蝶はとびきり美人というのではないが、色白のぽっちゃりとして肉づきのいい、いうところの人好きのする顔だちである。
 そのお蝶は、なるほど逆上しているらしく、目にいっぱい涙をうかべ、なにかわけのわからぬことを口走っていたが、やがて奉公人たちにひきたてられて、宝屋の勝手口からなかへつれこまれた。
 佐七はほっとため息をつきながら、宝屋のまえをとおりかかったが、すると、なかからとび出してきた番頭らしいのが、
「もし、親分、おまえさんは、お玉が池の親分さんじゃございませんか」
「はい、あっしは佐七だが、なにかご用で」
「だんながおりいってお願いしたいことがあるとおっしゃってでございます。おそれいりますが、ちょっとお立ち寄りねがえませんか」
 佐七にとっては、それこそ渡りに舟である。無言のまま、番頭のあとからついていった。

お福の手紙
  ——こともあろうにあさましい舟まんじゅうに——


 宝屋のあるじ太郎右衛門は、どっしりとした、恰(かつ)幅(ぷく)のいいだんなだが、姉娘の病気、妹娘の神かくしと、うちつづくふしあわせに、めっきりと年をとっている。おかみさんのお常も、心痛にやつれた顔に、頭(ず)痛(つう)膏(こう)の白梅をはって、あおい顔をしていた。
「親分、おまえさんはひょっとすると、うちの妹娘のお福が神かくしにあったという話をおききになっちゃいませんか」
「へえ、その話ならきいておりますが……」
「ところが、親分、そのお福がこともあろうに、舟まんじゅうというあさましい稼業をやらされているという話があるんです」
 佐七はおどろいて、太郎右衛門の顔をみなおした。
「どこから、そんな話がお耳にはいりましたか」
「この町内の鳶(とび)のもので、紋次というのが、ゆうべ箱崎橋のきわで見かけたというんです」
「まさか、紋次はその女を……」
「いや、はじめから遊ぶつもりはなかったそうですが、箱崎町の河岸っぷちを歩いていると、お千代舟の船頭によびとめられた。そこで、顔だけでもみてやろうと、玉をみせろといったところが、苫(とま)のなかからでてきたのが、お福だったというんです。なんでも、その河岸っぷちに常夜灯が立っていたので、はっきり顔がみえたそうで。それで、紋次がおもわず、おまえは宝屋のお福さん、と声をかけると、船頭がびっくりして、女を苫のなかへつきとばし、そのまま、逃げてしまったというんです」
「それはゆうべの何(なん)刻(どき)ごろのことなんで」
「なんでもまだ宵の口の、六つ半(七時)ごろのことだったそうで」
 小松屋の宗七が、お福らしい女を抱いてねたのは、五つ(八時)過ぎというから、それでは、それよりまえのできごとだろう。
 それにしても、せっかくそのことをないしょにしている重兵衛の苦心もこれでは水のあわである。太郎右衛門夫婦は涙にむせびながら、
「親分さん、わたしども夫婦の心中お察しください。そんな話をきいては、いても立ってもいられません。親分、なんとかしてください」
 お常はこらえかねたように、わっと泣きふす。
「そりゃアもう、あっしだって十(じつ)手(て)捕(とり)縄(なわ)をあずかる身、そんな話をきいちゃ、じっとしてはいられません。ときに、だんな、へんなことをおききするようだが、こちらのお嬢さんのうち、お蝶さんというのは、おかみさんのおなかじゃないそうですね」
「親分はどこから、そんなことを……」
「いえ、それはいえませんが、なんでもお吉という女が、お蝶さんがあんなになったのも、おかみさんがいっぷく盛ったせいだというんで、あばれこんだそうじゃアありませんか」
 太郎右衛門はため息をついて、
「お常がいっぷく盛ったなどとは、とんでもない。これはじぶんが腹をいためたお福よりお蝶のほうをかわいがっておりましたのに、おのれのねじけた根(こん)性(じよう)から、あいつがへんに疑ってあばれこんできたおかげで、いままでかくしていたことが、万事明るみにでてしまって……」
「それじゃ、お蝶さんやお福さんも、そのことをお知りになったんですね」
「お蝶はあのとおりですから、どうかわかりませんが、お福は気がついたようです」
「さっき表で、お蝶さんをお見かけしましたが、ときどき、あんな発作をおこされるんで」
「いえ、あんなことはめったにないんですが、きょうは妹のお福が、舟まんじゅうに売られたということを、うっかり乳母がしゃべったもんだから、あんなことになったんです」
「すると、ああなっていても、お福さんのことは心配しているんですね」
「それはそうでしょう。とてもきょうだい仲がよかったんですから。それに、だいいち、ふたごのようによく似ているもんですから、いままでだれも、腹ちがいなどとしるものはなかったんです」
「ときどき、ご両親でもとりちがえたとか」
「はい、ふたりがわざといれかわって、わたしどもを、からかったりするんです。ただ、姉のお蝶には左の腕にぼたん形のあざがあって、それでやっとけじめをつけるんです。ほんにお蝶はおふくろに似合わぬ、気だてのやさしい娘でしたが、なんの因(いん)果(が)かあんな病気になって……」
 さすが豪気の太郎右衛門も、たまりかねたように涙をおさえたとき、あわただしくとびこんできたのは、お福の乳母のお島である。
「これ、お島、どうしたものだ、お蝶になにか、かわったことでもあったのか」
「はい、あの、お蝶さまの寝床のしたから、こんなものが出てまいりまして……」
 お島が差しだす一通の手紙を、太郎右衛門はふしぎそうに手にとったが、読んでいくうちに、みるみる顔色がかわってくる。
「親分、これを見てください。こりゃまあ、いったいどういうわけでしょう」
 見ると、それはうつくしい女の筆で、

 わたしのこと、くれぐれもご心配なさるまじく、もう十日もたてば、無事におうちへかえれるはずゆえ、かねてよりのお約束のこと、かたくお守りくだされたく候(そうろう)
   三月十日
お福より 
  姉上様

「こりゃアお福さまからお蝶さまにあてた手紙、十日といやアさきおととい、お蝶さまはいつだれから、こんな手紙を受け取ったんです」
「さあ、それがわたしどもにもいっこうに……」
 乳母のお島はおろおろしていて、なにをたずねてもはっきりしない。
「それにしても、かねてよりの約束というのは、なんのことでしょう。また、お福さまの名まえと、姉上様というところにわざわざ三重丸がつけてあるのは……」
 佐七はお蝶の病室へおもむいて、それについて問いただしてみたが、雨戸をしめきったくらい座敷のなかで、お蝶はただとりみだして泣くばかりで、なにをきいても要領をえなかった。

ほおに傷のある男
  ——首をくくってわたしは死にます——


「おまえさん、さっき髪結いのおせんさんがきたので、あの話、きいてみましたよ」
 夕がた、佐七が家へかえってみると、お粂が結いたての大(おお)丸(まる)髷(まげ)をほこらしげにしめしながら、髪結いのおせんからきいた話というのを語ってきかせた。
「駿河屋さんの娘さんは、お久さんというんだそうですが、お福さんが神かくしになってから、おせんさんがいくと、こんなことをいってたそうです。あの晩、お福さんの様子がへんだった。みょうにしずんで口数もすくなく、まるで借りてきたねこみたいに、薄暗い座敷のすみへ、すみへと、寄っていたというんだそうです」
「なに、うすぐらい座敷のすみへ、すみへと……」
「ええ。だから、あのじぶんからお福さんには、魔がさしていたんだろうと、お久さんがいってたそうです。おまえさん。これくらいのことしかきけなかったんだけど、いいかしら」
「けっこうけっこう、上できだ」
 佐七は無言でかんがえこんだが、やがて夜になってから、辰と豆六がかえってきた。
「親分、吉田町のほうはむだでした。だれもそんな船頭に心当たりはねえそうです」
「すると、やっぱりもぐりだな。ところで、馬道のほうはどうだ」
「へえ、こっちは目鼻がつきました。そりゃ不知火(しらぬい)権(ごん)三(ざ)にちがいないというんです。そいつはなんでも浪人者のせがれだそうですが、小さいときから身をもちくずし、悪事をかさねたあげくが、いまから十年ほどまえに、どこかへ強盗にはいったところを捕えられ、あやうく笠(かさ)の台がとぶところを、死一等減じられて、島送りになったやつだそうです」
「なるほど。そうすると、そいつも島からかえったばかりなんだな」
「さよ、さよ。きっと、島にいるあいだに、お吉のやつとねんごろになり、いっしょにかえってきて片(かた)棒(ぼう)かついでいるんだっしゃろ」
「それで、ふたりの居どころは……」
「さあ、そこまでは平太もしらねえんですが、なに、あいつによく頼んできましたから、だいじょうぶ、遠からずわかりましょうよ」
 辰はのんきなことをいっているが、そんな悠(ゆう)長(ちよう)なことをいっている場合ではない。一日のびれば一日だけ、お福のからだに垢(あか)がつくのだ。
 佐七はなんともいえぬあせりをおぼえたが、五つ(八時)ごろになって、ころげるように表からとびこんできたものがある。
「おっ、おまえは小松屋の宗七さんじゃねえか。血相かえて、ど、どうしたんだ」
「親分、親分、いま柳原土手で、ゆうべの船頭が、わたしをとらえて……」
「なに、柳原土手でゆうべの船頭にあったのか。それ、辰、豆六」
「おっと、合点だ」
 ふたりが鉄砲玉のようにとびだしていったあとで、宗七が不審そうに首をかしげながら語るところによるとこうである。
 さっき宗七が、柳原土手をとおりかかると、さっきからあとをつけていたらしい男が急につかつかちかよると、
「おい、若いの。ちょっとおまえに話がある。そこまで顔をかしてくれ」
 ぎょっとして振りかえると、まぎれもなくゆうべの船頭、ほおかむりの下から、すごい目を光らせながら、横っ腹に匕(あい)首(くち)をおしつけた。
「なにもこわがることはねえ。おめえをどうしようというんじゃねえんだ。ちょっとききてえことがあるから、土手のうえまできてくれ」
 宗七が度胸をきめて土手へあがると、男がへんなことをききだした。
「ききてえとはほかでもねえ。ゆうべおまえの忘れた刀は、いったいどこから出たんだ」
「は、はい、あれはうちのだんなの秘蔵の品ですが、お出入りさきの御前が、ぜひ見せてほしいとおっしゃるので、ゆうべ持参したんです」
「おまえのうちはどこだ」
御(お)成(なり)街(かい)道(どう)の小松屋です」
 小松屋ときいて、あいてはしばらくだまっていたが、
「それじゃ、あれは小松屋のだんなの刀か」
「いえ、だんながどなたからかお預かりの品だそうで、そのかたがかえってきたら、おかえししなければならないんです」
「しかし、ゆうべおまえはその刀を、売りにいったんじゃねえのか」
「いいえ、御前のたってのご所望ゆえ、お目にかけはいたしましたが、わざと法(ほう)外(がい)の値段をつけて売れぬように取り計らったんです」
 男はまたしばらくだまって考えこみながら、宗七の顔をみていたが、
「ときに、おまえはゆうべの女を知ってるらしいが、どういうかかりあいがあるんだ」
「はい、あのかたはうちのだんなの姪(めい)御(ご)さんでいらっしゃいます」
「な、な、なんだって!」
 男はのけぞるばかりおどろいて、
「でも、ありゃ宝屋の……」
「ですから、宝屋のおかみさんは、うちのだんなのお妹さんになるんです」
 男はほおかむりの下から、食いいるような目で、宗七の顔をみつめていたが、
「そ、そうだったのか。知らなかった。知らなかった。しかし、それじゃてめえは、主人の姪をおもちゃにしやアがったんだな」
「は、はい、それですから、わたしは今夜、ここへ首をくくりにきたんです」
 男はそれをきくと、ぎょっとしたように、宗七の顔をみつめていたが、
「よせ、死ぬのはよせ。知らなかったんだからしかたがねえ。それより、おまえはあの女をお福とよんだが、ひょっとすると、あれは姉娘のお蝶のほうじゃねえのか」
「な、な、なんですって!」
「まあ、いい。心配することはねえ。お蝶にしろ、お福にしろ、きっとおれが助けてやる。おまえかえって、だんなにこのことをいえ」
 それだけいうと、ほおに傷のあるふしぎな男は、身をひるがえして、こうもりのように、やみのなかに消えていったのである……。
 宗七からいまのような話をきくと、佐七はおもわず目をまるくして、
「すると、そいつはおまえさんのおき忘れた備前長船を知っているのかえ」
「そうらしゅうございます」
「それから、ゆうべの舟まんじゅうだが、おまえはどう思うんだ。お蝶さんか、お福さんか……」
「さあ、わたしにもよくわかりませんが、神かくしにあったのはお福さま。それに、お蝶さまは気がくるって、うちにいらっしゃいますから……」
「そうか、よし、わかった。それじゃ、おまえ、これから小松屋へかえって、だんなに久松町までおいでくださるようにいえ、けっして、死ぬなんぞという了(りよう)見(けん)をおこすんじゃねえぞ」
「は、はい……」
 宗七が悄(しよう)然(ぜん)としてかえっていったあとへ、辰と豆六がぼんやりかえってきた。
「親分」
「権三のすがたが見えなかったんだろう。まあ、いいや、おれゃこれから宝屋へ出向いていくから、おまえたちもいっしょにこい」

因縁の長船
  ——宗七つぁんのほかはきれいなからだ——


「親分、ここへこいとのおことばゆえまいりましたが、なにかご用でございますか」
 そこは宝屋のおく座敷である。佐七を中心として、重兵衛と太郎右衛門夫妻、ほかに宗七が、あおい顔をしてひかえている。
 辰と豆六のすがたはみえなかった。
「いや、そのまえに、だんなにお尋ねしてえことがあるんですが、ゆうべ宗七さんが船におき忘れた備前長船、あれにゃいったい、どういういわくがあるんです」
「ああ、それなら、さっきも宗七にききましたが、親分、きいてください。あれにはこういう話があるんです」
 いまから十年ほどまえ、小松屋へ三人組みの強盗が押しいったことがある。
 強盗は抜き身でおどかし家人をしばりあげると、仕事にかかろうとしたが、さいわい丁(でつ)稚(ち)のなかにひとり、機転のきいたのがあって、すばやく家をぬけ出して、自身番へ注進したので、強盗はその場を去らず、ひとりのこらず取りおさえられたのである。
 さて、その取り調べのさい、重兵衛はつぎのことをいい張った。
 強盗ははじめから、刀をおびてきたのではなく、家人をおどしつけた刀は、みんなうちの商売物で、とっさにそれを腰にさしたのだと。
 つまり、それは重兵衛のなさけであった。
 はじめから刀をおびて押しいったとなると、いわゆる持凶器強盗で、罪もおもく、とうてい死罪はまぬがれぬ。しかし、そこにあった刀でおどしたとなると、たんなる押し込み強盗で、これだといくらか罪も軽くなるのだ。おかげで三人の強盗は死一等を減じられ、島送りとなり、刀は小松屋のものとして下げわたされたのである。
「わたしはけっして刀がほしくて、そんな申したてをしたわけではなく、三人の命をすくいたい一心でしたが、あとで下げわたされた刀をみると、二本はどうにもならぬなまくらでしたが、一本は備前長船の上作じゃございませんか。わたしもびっくりしましたが、いずれ島からかえってきたらお返ししようと、研(と)ぎにかけて、だいじにしまっておいたんです」
「いや、それでよくわかりました。ときに、だんな、そのときの三人の強盗のなかに、権三という男はいませんでしたかえ」
「はい、たしか不知火という異名があり、右のほおに大きな刀傷……」
 といいかけて重兵衛はぎょっと息をのみ、
「あっ、そ、それじゃ、ゆうべ宗七が出あった船頭というのは……」
「そう、その権三なんですよ。だんな、善(ぜん)根(こん)はほどこしておくもんです。お蝶さん、いや、お福さんも助かりましょう。ただ、こんやひと晩がだいじなところで……」
「こんやひと晩とおっしゃいますと……」
「お吉のやつがこんやここへ忍んできやアしないかと思うんです」
「お吉がなにしに……?」
「離れに寝ていらっしゃるお福さん……いいえ、お蝶さんの命をとりに……」
「な、な、なんですって」
 太郎右衛門はびっくりして、
「お吉がなんで、じぶんの娘を……」
「まあ、なんでもようがす。おかみさん、行(あん)灯(どん)の灯(ひ)を消してください。網を張るにゃ、あいてがとびこみいいようにしてやらねばなりません」
 お常が不安そうにあかりを消すと、家のなかはまっくらである。
「みなさん、ようがすかえ。こうなると根くらべです。しんきくさくとも、がまんしてください」
 こうして一同が息をひそめて待つことおよそ一(いつ)刻(とき)。四つ半(十一時)ごろになって、どこかでそおっと雨戸をひらく音。
 やみのなかで太郎右衛門がぎょっとしたように、
「あ、あれはたしかにお蝶の居間……」
「しっ、だまって、だいじょうぶです。辰と豆六が張りこんでおりますから」
 それからまた、骨をさすような静けさだったが、やがて、だしぬけにたまぎるような女の悲鳴、つづいて、どすんばたんと、取っ組みあうような音がきこえたかとおもうと、
「わっ、し、しまった!」
 と、金切り声を張りあげたのはたしかに辰だ。なにかしくじりをやったらしい。
 佐七はぎょっとして雨戸をあけ、素足のまま庭へとび出したが、そのとたん、おもわずそこに立ちすくんでしまったのである。
 庭の石(いし)灯(どう)籠(ろう)を背におうて、夜(や)叉(しや)の形(ぎよう)相(そう)もものすごく、立ちはだかっているのは、三十五、六の大(おお)年(どし)増(ま)である。その足元にはわかい娘がひきすえられていて、あわれ、もう正体もない。大年増は片手に娘の髪をひっつかみ、そののど首にぴたりと匕首をあてている。
「あっ、お、お吉!」
 太郎右衛門が悲鳴をあげた。
「な、なにをするんだ、それはおまえの産んだお蝶じゃないか。おまえはお福を傷ものにしたばかりか、お蝶まで殺す気かえ」
「太郎右衛門さん、いいかげんにしておくれ、おまえよくも、お蝶とお福をいれかえて、あたしをだましておくれだったね。おかげで、あたしゃじぶんの娘を、あたら傷ものにしてしまった。そのかわり、おかみさんの産んだこのお福、命をもらうからよく見ておおきよ」
 お吉は夜叉の形相ものすごく、さっと匕首をふりあげたが、そのとき、
「おっと、待ちねえ。お吉、その成(せい)敗(ばい)ならおれにまかせておくがいい」
 灯籠のうしろから、ヌーッと出てきたのは、ほおにすごみな傷のある、あの不知火権三である。
「おや、権三さん、おまえ、どうしてここへやってきたのさ」
「かわいいおまえのかたき討ちだから、おれもひと太(た)刀(ち)、助(すけ)太(だ)刀(ち)してやろうと思って、おまえのあとからついてきたのさ。お吉、その娘をこっちへよこしねえ」
 正体もない娘のからだをお吉の手から、じぶんのほうへひきとると、
「お吉、ここらが年(ねん)貢(ぐ)のおさめどきだ。神妙に覚悟をしたほうがいいぜ」
 権三のことばもおわらぬうちに、お吉はわっと悲鳴をあげると、まるで骨を抜かれたようにくたくたとその場にくずれていきながら、
「ご、権三さん、お、おまえ、どうしてこのわたしを、こ、こ、殺す……」
「かわいそうだがしかたがねえ。そのかわり、おまえひとりはやりゃアしねえ。おれもあとから追っていくから、冥(めい)途(ど)とやらで待っていろ」
 もうひとえぐりきりりとえぐると、お吉はぐったりその場に倒れた。権三はお吉の脾(ひ)腹(ばら)から血にそまった刀を引き抜くと、
「もし、小松屋のだんな……」
「は、はい、わたしになにかご用かえ」
 ことの意外ななりゆきに、一同ぼうぜんとして立ちすくんでいたが、そのなかから、小松屋の重兵衛がまえへすすみ出ると、
「だんな、これがせめてものご恩返し、せっかくおまえさんの計らいで、笠の台をつないでおもらい申しましたが、しょせんは裟(しや)婆(ば)に縁のねえあっしらしい。お蝶さんはそこへお連れいたしましたから、どうぞお受けとりくださいまし」
 権三は刀を取りなおすと、やにわに、われとわが左の腹に突っ立てた。
「あっ、こ、これは」
「こ、これがあのときお世話になった備前長船、いまあらためて、だんなにおかえしいたします。た、宝屋のだんな、おかみさん……」
「は、はい、わたしども夫婦に、な、なにかご用でございますか」
「これだけはいっておきます。お蝶さんがはだをゆるした男というのは、そこにいる宗七つぁんただひとり、あとはきれいなからだでした。こ、こればっかりはあっしのいうこと、し、信用しておくんなさいまし」
「権三どのとやら、なんにもいわぬ。宝屋の太郎右衛門、このとおりでございます」
「権三さん……」
 宝屋の夫婦が涙ながらに、両手をあわせてふしおがんだとき、権三はきりりと腹かっさばいて、われとわがのど笛をかっきっていた。因(いん)縁(ねん)の備前長船で。
 古いことばだが、性は善とはこのことだろう。
 それにしても、殊勝なのはお蝶であった。お蝶は去年はからずも、じぶんのほんとの素性をしった。お常の腹をいためた娘でないことを知ったのである。そうなると、じつの娘のお福よりかわいがって育ててくれた母への恩、また妹にたいする義理からいっても、宝屋のあとをつぐわけにはいかぬと思った。
 そこで、大煩いをしたのを機会に、にせあほうをよそおうていたのである。
 ところが、そこへとつぜん出現したのが、じつの母のお吉であった。
 お吉はある晩、お蝶のへやへしのびこみ、にせあほうのお蝶をだいてかきくどいた。根性のねじけたお吉は、お蝶のにせあほうを、ほんものとおもいこんだばかりか、これもみな、お常のなせるわざだと思いこんだ。
 きっとこの仕返しにはお福をかどわかして、ひとまえにも出られぬような傷ものにしてやるといきまいた。生(しよう)涯(がい)お嫁にいけぬからだにしてやるとののしった。もし、またそれに失敗すれば、宝屋に火をつけてやると放言した。
 お蝶はそこで身を犠牲にして、妹の身代わりになる決心をした。お福になりすまして、わざとかどわかされた。そしてお福には当分、じぶんの身代わりをつとめるように、いいふくめておいたのである。
 お福はまさか姉にそのような悲しい、おそろしい運命が待ちかまえていようとは知らなかった。小さいときから姉しだいでそだってきたお福は、ひたすら姉のいいつけを守っていた。
 お吉はげんざいのわが娘ともしらず、これを舟まんじゅうにしたてて、客をとらせることにしたが、そのとき、あらかじめ、こう申しわたしたそうである。
 ひと晩にひとりずつ客をとり、十日神妙につとめたら、家へかえしてやる。そして、じぶんはうらみを忘れて、権三とともに、上(かみ)方(がた)へ去るつもりだと……。
 つまり、十人の男にもてあそばせて、お福を傷ものにしようというのであった。そして、このいいつけにしたがわなければ、宝屋のうちに火をつけてやるといきまくこともわすれなかった。
 いずれは尼になるつもりのお蝶は、悲しく思いあきらめて、ゆうべはじめて客をとったが、それが宗七だったというわけである。
 どこのだれともしらぬ男に身をまかせたとき、お蝶はけなげにも、耐えしのべるだけは、耐えしのびとおすつもりでいた。しかし、しょせんそれはむりな相談だった。
 お蝶はしっかり手(た)綱(づな)をひきしめていたつもりだが、さいしょの苦痛が去るとまもなく、手綱はしだいにゆるみはじめた。お蝶はひっしとなってその手綱をひきしめようとかかったが、男のたくましいほこさきにかかっては、しょせんはむなしい努力でしかなかった。
 ゆるんだ手綱は、ついにお蝶の手からはなれた。
 あとは、天馬空をゆくがごとき思いに身をひたして、お蝶はみだれにみだれた。男のあやつる棹(さお)にみちびかれて、お蝶のからだは、激流となってほとばしり、潮となって満ちあふれた。
 憎いはずの男のからだを、力いっぱいだきしめて、お蝶はわれを忘れてあえぎにあえぎ、ひた泣きに泣いた。
 別れるときの月の光で、その憎い男が宗七であったとわかったときのお蝶のおどろき……それは思いなかばに過ぎるであろう。
 権三もまたおどろいた。
 かえりの舟のなかで、権三はきびしくお蝶を責めて、男のことをたずねた。ことに宗七の忘れていった備前長船をみつけたときの権三のおどろき。かれはいっそう強くお蝶を責めたが、お蝶はがんとして口をわらなかった。これ以上、累(るい)を他へおよぼすことをおそれたのである。
 しかし、そのことで、すっかり動揺していたお蝶はうちへかえって盥(たらい)で行(ぎよう)水(ずい)しているとき、ついうっかり左の腕にあるあざを、母のお吉に見られてしまったのである。
 そのときのお吉のおどろきも、また、どんなだったろう。われとわが手で身をけがさせたその娘が、なんと、わが腹をいためたかわいい娘であったろうとは!
 外(げ)道(どう)のうらみはさかうらみとはこのことだ。お吉はこんや、悪(あつ)鬼(き)夜(や)叉(しや)とたけりくるって、ほんもののお福を殺しにきたのであった。
 お蝶の心は複雑だった。
 彼女は宗七を憎もうとした。恨もうとした。また、堅い、堅いといわれながら、かげでこっそり舟まんじゅうなどというけがらわしい女にたわむれる男をいやしいものとさげすもうとした。
 しかし、いっぽう、あの狭い、むさくるしい舟のなかで、力いっぱい抱き合った宗七のたくましいからだやはだの感触を、お蝶はいつまでも忘れかねるのだった。
 と同時に、どこのだれともわからぬ男に身をまかせながら、あんなに乱れに乱れたじぶんのことを、宗七どんはどう思っているだろうと考えると、お蝶は身も世もないほどつらかった。
 ところが、その翌日権三から、宗七がじぶんをけがしたおわびのしるしに、首をくくって死のうとしたと聞いたとき、お蝶の恨みも、憎しみも、はてはさげすみもけしとんだ。あとはもう、宗七恋しさに、身も心ももえにもえた。
 お蝶はそれからまもなく、伯(お)父(じ)重兵衛のはからいで、めでたく宗七と夫婦になって、宝屋ののれんをわけてもらったが、まず、からだとからだで結ばれたふたりのなかは、蜜(みつ)よりあまく、のちまでながく栄えたという。

好色いもり酒

おしゃべりあんま
  ——いもりの黒焼きを頼まれまして—— 


「へえ、へえ、そのいもりのことですがね。それをお話し申すについちゃア、どうしても、いまいった笹(ささ)井(い)さまご夫婦のことからお話ししなければわからないんで。さようでございますか。それじゃお腰をもみながら、ゆるゆるお話しさせていただきましょうか。笹井さま、名前を小八郎といって、としは二十と七、八、そりゃアもう、水のたれるようなよい男っ振りだってことでございますよ。いえ、てまえどもはかけちがって、ごあいさつをしたことはございませんが、ご近所の評判で。笹井さま、小八郎さまと、そりゃアもう、娘っ子たちが大騒ぎなんで。ところで、その笹井さまのご新(しん)造(ぞ)の浪(なみ)江(え)さま、としは三十と一、二、へえ、そうなんですよ。ご新造さんのほうがとしうえなんで。ところがねえ、親分、そのご新造さんというのが、これまた、ふるいつきたいほどのよいご器量でしてねえ。え? なんでございますって? 目がみえねえのに、どうしてそんなことがわかるって? へへへ、そりゃア親分、目が見えなくったって、そこはそれ。ながねん鍛えこんだカンてものがございまさアね。それにね、そのご新造てえのが、おっそろしく凝(こ)り性(しよう)のかたでございましてね。てまえども、よくごひいきにあずかるんでございますが、こうしておからだにつかまっておりますとな、カンてものは恐ろしいもんで、目は見えなくても、たいてい、ご器量がわかるもんでございます。親分なども、こうしてもませていただいておりますと、べつにひとのうわさをきかなくったって、人形と異名のあるくらいいい男っぷりだってことが、ちゃんとわかりますんでございますよ。いえ、あねさん、これはけっしてお世辞ではございませんので」
 口からさきにうまれたような、あんまのおしゃべりをきくともなしにききながら、佐七はうつらうつらとよい気持ちである。
 そばでは女房のお粂(くめ)が、くすくすわらいながら針仕事、むこうのほうでは辰と豆六が、ヘボ将(しよう)棋(ぎ)をさしながら、おりおりこっちに半(はん)畳(じよう)をいれる。
 いや、まことにのどかなお玉が池の風景だが、こうなるまえには、しかし、れいによってれいのごとく、たわいのないひと悶(もん)着(ちやく)があったものである。
 九月の声をきいて、きゅうに涼風が立ちはじめたせいか、佐七はこの二、三日、肩や腰がこってたまらない。そこであんまをよぼうというと、
「およしなさいよ、親分、いい若いもんがあんまをとるなんて、だらしがねえじゃアありませんか。世間へきこえたらふうがわりイや。なあ、豆六」
 と、辰がまず口をとがらすと、豆六がまた、すぐそのしり馬にのるやつで、
「さよさよ、こら、兄いのいうとおりや。親分、これというのも、あんたの心掛けがようないさかいや」
「なんだ、なんだ、なんでおいらの心掛けがわるい」
「親分、まあつもってもみなはれ。その若さで、肩や腰がこるというのも、つまりはあんまり、あねさんをかわいがりすぎるせえやおまへんか。なあ、兄い」
「そうだ、そうだ、こりゃ豆六のいうとおりだ。親分、おまえさんもちとたしなみなせえ。いかにあねさんがかわいいからって、ひまさえありゃア、くっついたり吸いついたり、これじゃ二階のひとりもんはたまったもんじゃありませんや。こっちのほうがよっぽどあんまがとりたくならあ。なあ、豆六」
 と、辰と豆六が調子にのってはやし立てれば、お粂もだまってはいない。
「おや、辰つぁん、豆さん、変なことをおいいだね。なるほど、親分がほうぼうこるのは、あれがもとかもしれないが、あいてはこのあたしじゃないのさ、おおかた、どっかにまた、いいのでもできたんでしょうよ」
「おや、お粂、変なことをいうな」
「あねさん、そうごけんそんなさらなくても」
「けんそんじゃないよ。あたしのほうはちかごろとんとご用なしでね、あんまり寂しいから、ちかいうちに四つ目屋へいって、いもりの黒焼きでも買ってきて、こっそりのませてみようかと思ってるくらいさ」
 とお粂がいえば、佐七が言下に、
「ちっ、このうえいもりの黒焼きなどのまされてたまるもんか」
 と、ついうっかりもらしたもんだから、さあたいへん、辰と豆六はケンケンゴーゴー、口(こう)角(かく)あわをとばして、佐七ならびに女房お粂の、弾(だん)劾(がい)演説と相成ったが、おりからそこへきこえてきたのがあんまの笛。
 そこで、これはあんまをよんで、かれの専門家的意見をきいたらよかろうということになって、ここにはからずも、佐七の希望はみたされたというわけである。
「ねえ、あんまさん、おまえに聞けばわかると思うんだが、親分のこりはあれからきてるんだろ」
「あれって、なんでございましょう」
「おんや、あんまさん、あんたも盲のくせにカンが悪いな。つまり親分があんまりあねさんをかわいがりすぎるさかいやないか、ちゅうてるねんが」
「へへへへ」
「へへへへじゃねえぜ。それだのに、あねさんは、なおこのうえに親分にいもりの黒焼きをのますつもりだというんだから、すこしはこっちの身も察しておくれよ」
 と、辰がおおげさにため息つけば、あんまはふっとまゆをひそめて、
「へへへ、いもりの黒焼きでございますか。妙でございますね。いもりの黒焼きといえば、じつはてまえも、さるおかたにたのまれて、きょう四つ目屋で買ってきたんでございますよ」
 というようなことから、おしゃべりあんまのおしゃべりがはじまったわけだが、そのまえに、いもりの黒焼きなるしろものについて、いちおう説明しておこう。
 いもりの黒焼きというのは、むかしから民間にもちいられた男女和合の薬、ひらたくいえばほれ薬である。
 俗説によると、いもりの雌雄を竹筒の節をへだてていれておくと、三夜のうちに節をやぶって交合する。
 そこを黒焼きにしたやつを粉末にして、思うあいてにふりかけるなり、さらにいっそう効果をつよめようと思うならば、酒にまぜてのませるならば、いかなる石(いし)部(べ)金(きん)吉(きち)的男女でも、たちまちぐにゃぐにゃと相成って、思いをとげることができるという、まことにけっこうこのうえもない代(しろ)物(もの)。
 江戸時代には、薬(や)研(げん)堀(ぼり)の四つ目屋という生(き)薬(ぐすり)屋(や)で売っているやつが、いちばん霊(れい)験(げん)いやちこであるといわれた。
 その四つ目屋の黒焼きを、あんまがひとにたのまれて買ったというのだからおだやかでない。

女(め)敵(がたき)持ち夫婦
  ——そもなれそめはいもり酒とやら——


「ところで、親分、その笹井さんご夫婦というのが、敵(かたき)持ちらしいというんでございますよ」
「敵持ち?」
 辰がむこうで目をみはって、
「そんなにいい男と女とがか」
「へえ、そうなんで。ただし、敵持ちといっても、いたって色っぽいやつで、女(め)敵(がたき)持ちで」
「なるほど。すると、なにか、そのご新造にはほかに亭(てい)主(しゆ)があったのを、小八郎という年下の色男とできあって、国元を出(しゆつ)奔(ぽん)したというのかえ」
「そうなんで。なんでもせんの亭主というのは、茶道役かなんかだったんですが、江戸詰めになってる留守中につい、閨(ねや)寂しさから、表(おもて)小(ご)姓(しよう)の小八郎さんとできちまったというわけですね。だから、いまにせんのご亭主が、女敵討ちにくるだろうという評判でございます」
「なんや、そら、まるで近松の『鑓(やり)の権(ごん)三(ざ)重(かさね)帷(かた)子(びら)』にそっくりやないか」
 敵討ちばやりの江戸時代には、いろいろかわった敵討ちがあったが、女敵討ちもそのひとつである。
 いまでは男女同権とやら、姦(かん)通(つう)罪(ざい)なんてものはなくなったが、江戸時代には有夫の婦人が、他の男とつうずることを、ひときわおもい罪とみなしたもので、ことに武士にあっては、姦(かん)夫(ぷ)姦(かん)婦(ぷ)が手をたずさえて出奔すると、姦通されたご亭主が、君公においとまねがって、女敵討ちに出発したというのだから、まことにもって、勇ましいような、悲しいような話で。
 それのいちばん有名な例が、近松巣(そう)林(りん)子(し)つくるところの『鑓の権三重帷子』草(くさ)双(ぞう)紙(し)通の豆六はこういうことにはいたってあかるい。
「それでなんですかい。ご当人がそんなことをいいふらしているのかい」
 佐七もちょっと利(き)き耳を立てる。
「へへへ、いえ、ま、たぶんそんなことだろうというんで。それというのが、ご新造、茶道にご堪(たん)能(のう)で、去年こっちへうつってきてから、お茶の師匠で身を立てていらっしゃるんで」
「こっちというのは薬研堀だね。そして、こっちへくるまでは、どこに住んでいたんだね」
「さあ、それは……」
「そして、亭主はなにをしていらっしゃるんだ」
「そのかたもお茶をなさいまして、初心のお弟子さんに手ほどきをなさいます。なにしろ、ご新造というのがたいしたご器量ですから、おおぜいお弟子ができましてな。大(おお)店(だな)のだんなから町内の鳶頭(かしら)、大工の棟(とう)梁(りよう)なんててあいまでが、ヤイノヤイノで押しかけるんで」
「ちっ、だらしのねえ、江戸に女ひでりがしやアしめえし、素(す)姓(じよう)のしれねえ他(よ)国(そ)もんに、そんなに夢中になるこたアねえじゃねえか」
 辰はいささか中(ちゆう)っ腹(ぱら)である。
「へへへ、兄いはそうおっしゃいますがね、そのご新造てえのが、ひととおりやふたとおりのしろものではございませんので。てまえどももおりおり、お腰をもませていただきますが、いや、もう、どうもどうも」
「いやだぜ、あんまさん、よだれがたれてるぜ」
「ご、ご冗談を……」
「いや冗談やあらへん。あんまさん、おまえそのご新造になにされたんとちがうのんか」
「と、とんでもない」
「いや、これは図星だ。腰をもむというからにゃア、ご新造さん、寝そべっているんだろ。そこをいい気持ちにもまれちゃ、ついふらふらとへんな気にならアね。あんまさん、おまえいくつだ」
「四十二でございます」
厄(やく)だな。危ねえ、危ねえ。それに、みたところ、こう脂(あぶら)ぎってよ、よく太ってらあ。てめえ、きっとご新造に手をとられ、ズルズル引きよせられて……畜生ッ」
 辰と豆六がおもしろがってからかえば、あんまはむきになって、
「とんでもないこと。てまえがこうして脂ぎっているのは、お色気からではございません。みんな欲から、欲ぶとりでございます。だから、世間でだれひとり、てまえのことを徳ノ市とよぶものはありませんのさ。欲ノ市、欲ノ市、……ええ、ええ、欲のかたまりのこの欲ノ市、ひとの新造にかかりあって、七両二分などふんだくられてたまるもんか。女がほしくば吉(よし)原(わら)へでもどこへでもまいりますのさ」
 むきになってまくし立てるあんまの顔を、一同はあっとばかりに見直した。
 そのころ下(した)谷(や)の練(ねり)塀(べい)町(ちよう)に、徳ノ市というあんまの金貸しがいるということを、佐七もかねてからきいていた。この徳ノ市、小さいときに目がつぶれ、あんまを渡世にしているが、いつか小金をためたとみえ、それを資本に金貸しをはじめたが、いや、その利息のたかいこと。また取り立てのきびしいこと。
 おまけに、こいつとんだ女好きで、借金の返済がおくれると、女房でも娘でもおもちゃにする。
 こいつに金を借りたおかげで、泣きの涙でくらしている男や女が、どれくらいあるかわからない。
「ふうん。すると、おまえが徳ノ市か。たんまり金をためながら、いまだにあんましてるってことはきいたが、なるほどなあ」
「へへへ、てまえがその欲ノ市でございます。どうぞごひいきに。親分、なんならすこし、ご融通をしましょうか」
 お粂のほうへ顔をねじむけ、にたアりとわらう気味悪さ。お粂はゾッと肩をすくめる。辰と豆六もすっかり毒気をぬかれている。
 さすがの佐七も鼻白んで、
「べらぼうめ。おまえに金をかりてたまるもんか。おいらは女房をおもちゃにさせやアしねえよ」
「へへへ、そりゃごもっとも。ほれているうえにもなおほれて、いもりの黒焼きをのまそうというおかみさんでございますからね」
「おお、その黒焼きで思い出したが、さっきの話はどうしたんだ」
「へえ、そのことですよ」
 徳ノ市は小首をかしげ、
「いまいった笹井さんご夫婦ですが、そもそも、ふたりのなれそめというのが、いもりの黒焼きの効(き)き目だというんです。つまり、小八郎さんというのが、浪江さんにゾッコンほれて、いろいろ口(く)説(ど)いてみたが、らちがあかない。そこで、小八郎さん、いもり酒をのませてみたところが、効果てきめん、その場でころりと落ちたというんです。いえ、これはひとのうわさではございません。お酒の席で小八郎さんが、弟子たちにむかって自慢たらたら、吹(ふい)聴(ちよう)なすったということで」
「へへえ、いもり酒ちゅうたら、そないに効き目があるもんかいな。そんならわてもあの娘にひとつ用いてこまそか」
「バカいえ。おまえのようなうらなりが、いくら用いたところで効き目があってたまるもんかい」
「そんなら兄い、いもりの黒焼きちゅうやつは、ひとによってえこひいきするのかいな。そら不公平やがな。民主的やない」
 佐七はにが笑いしながら、
「辰、豆六、だまってろ。ところで、徳ノ市、おまえに黒焼きをたのんだというのは」
「さあ、それなんで。浪江さんにはずいぶんたくさんおおかみがついてるんですが、いちばん熱心なのが、銭(ぜに)屋(や)のだんなの万(まん)右衛(え)門(もん)さん。せんからきついご執(しゆう)心(しん)なんですが、ご新造がなかなかうんといわない。そこへきいたのが小八郎さんの打ち明け話。そんなに効くもんなら、ひとつ試してみようということになって、そこでてまえがたのまれたのでございます」
「そして、それをいつ使うのだ」
「こんやでございますよ」
「こんや……?」
「へえ、こんやはご亭主が留守だそうで、そこへ押しかけいもり酒で、ころりと落とそうという寸法。ときに、いま何(なん)刻(どき)ごろでございましょう」
「もう、かれこれ四つ(十時)だろうよ」
「四つ……? それじゃ、もうそろそろ効き目があらわれて……こりゃたまらん、たまらん」
 と、へんな身振りをするものだから、一同はあきれかえって顔見合わせたが、いずくんぞ知らん、薬研堀の笹井のうちでは、そんな色っぽいさたではなく、たいへんな騒動が持ちあがっていたのである。

毒入りいもり酒
  ——風雲急を告げんとするところで——


「ご免ください。ご近所が騒々しいようで」
 辰と豆六をひきつれて、薬研堀の自身番へ佐七がかおをだしたのは、その翌朝のことである。
「おや、お玉が池の親分、あいかわらずはようございますね。辰つぁんも豆さんもご苦労さま。ときに、現場のほうは……?」
「これからのぞいてみようと思うんですが、そのまえに、あらましの話をきいておこうと思いましてね。なんだかお茶の師匠のうちで、まちがいがあったとか」
「そうなんですよ。いやなことが起こったもんで。親分、きいてください。こうなんです」
 詰めていた町役人の話によると——。
 去年近所へひっこしてきて、お茶の師匠をはじめた笹井夫婦、そろいもそろった美男美女なので、たちまちかいわいの評判になった。
 野郎は新造へ、女は亭主をお目当てに弟子入りするというわけで、この師匠大当たりであった。
 ところが、昨夜四つ(十時)ごろのこと、これまたおおかみのひとりである大工の棟梁伴(ばん)五(ご)郎(ろう)というのが、なにげなく笹井のうちのまえを通りかかると、奥の小座敷にあかりがついて、男の影が障(しよう)子(じ)にうつっている。
 棟梁もその晩亭主が留守だということを知っているからおさまらない。
 いささかやけぎみでみていると、障子の影というのがひどくうろたえたようすで、小座敷と台所のあいだを、いったりきたりしているのである。
 おまけに、なかからきこえてきたのが、絶えいるようなうめき声。
 そこで棟梁がとびこんでみると、小座敷のなかがさあ大変。
 あられもない姿をした男と女が、血へどを吐いてたおれており、のたうちまわる素っ裸の男のほうを、しっかりかかえて、口から水をつぎこんでは、ゲーゲー吐かせているのが、荻(おぎ)野(の)新三郎という浪人者だった。
「あっ、ちょっと待ってください。その男と女というのが、ご新造の浪江さんと、銭屋のだんなだということはきいておりますが、荻野新三郎さんというのはどういうおかたですえ」
「ああ、そのひとは三月ほどまえ、近所へうつってきたご浪人なんですが、これがまたすこぶるいい男ときてるんで、ちかごろかいわいの娘の人気は、笹井さんと荻野さんに二分されて、ご近所の兄い連中かたなしでさあ」
「あっはっは、よく色男のご浪人がまいこむ土地ですね。なにかあるんでしょうか」
「そういうわけでもありますまいが、ま、まわりあわせでしょうな。ところで荻野さんは棟梁のすがたをみると、医者を、医者をというわけで、それから大騒ぎになったんです」
「なるほど。しかし、荻野さんは、どうしてその場にいあわせたんです」
「さあ、それですがね、荻野さんはなにげなく、そこを通りかかったんだそうです。すると家のなかからうめき声がする。とびこんでみるとあの騒ぎで。ひとめみて女はだめだと思ったが、男のほうは息があるので、水をのませて吐かせているところへ、棟梁がとびこんできたというんです。ところで、これは医者の珍石さんの話だが、吐かせるのが早かったから、万右衛門さんは助かったが、もしあのとき荻野さんが、なまじひとを呼びにいったりしていたら、おそらく手(て)後(おく)れになったろうというんです。してみると、万右衛門さんにとっちゃ、荻野さんは命の恩人ということになりますね」
「すると、荻野さんは医術の心(こころ)得(え)がおありとみえますね。その後、万右衛門さんは?」
「もう大丈夫のようです。さっきもちょっと見舞いにいってきましたが……」
「それはよござんした。ところで、毒は?」
石(いわ)見(み)銀(ぎん)山(ざん)ということになっています。酒のなかにまぜてあったんですね。ところで親分、ここに妙なことがあるんですよ。酒のなかにゃもうひとつ、変なものがあったんで」
 佐七は辰や豆六と顔見合わせて、
「いもりの黒焼きじゃアありませんか」
「えっ、親分はごぞんじで……」
「はっはっは、ちと妙な筋からききこみましてな。すると、いもりの黒焼きが石見銀山に化けたわけじゃなく、両方入っていたんですね」
 石見銀山というのは、石見の国の銀山から産する砒(ひ)石(せき)で、当時、殺(さつ)鼠(そ)剤(ざい)として用いられていた猛毒である。
「ところで、いまの話の棟梁ですがね。伴五郎とかいいましたか、そいつはどうなんです。なにげなく通りかかったというが、なにかお目当てがあったんじゃありませんか」
 佐七が念をおすと、町役人はにが笑いをして、
「ま、そうでしょうな。棟梁もご新造に、そうとうきついご執心だったそうですし、それに昨夜、笹井のご亭主が留守だってことは、おおかみ連中、みんな知ってましたからね。そこで、こっそり忍んでいって、あわよくば……と、いう腹だったんでしょうな」
「なるほど、ところで、荻野さんはどうでしょう。これまた、なにげなく通りかかったというが、どうもなにげなく通りすぎるじゃアありませんか。やっぱりこいつもお目当てが……」
「さあ、それはどうだかわかりません。しかし、あのひとがおおかみだってことはきいておりませんね。だいいち、笹井の家へ足踏みをしたこともなさそうだという話ですよ」
「しかし、表を通りかかったぐらいで、奥の小座敷がみえるんですか」
「それはみえます。ひくい生けがきですからね。しかし、障子にうつる影までみえたというのは、棟梁、生けがきをわけてのぞいたんでしょうな」
「なるほど、ところで、笹井さんのご亭主は?」
「それがね、妙なんです。いまもってかえってこないんです」
「どこへいったかわからないんですか」
「それがねえ、ご新造は知っていたんでしょうがねえ」
「いや、ありがとうございます。とにかく、ひとつ、現場をのぞいてみましょう」
 笹井のうちの小座敷は、万右衛門をはこび去っただけで、あとは惨(さん)劇(げき)のままだったが、それはひどく暗示的な光景だった。
 ちゃぶ台にはさら小ばちが食いあらされ、おちょうしが二、三本、うち一本はひっくりかえって、酒がどくどくこぼれたらしい。いわゆる杯(はい)盤(ばん)狼(ろう)藉(ぜき)というやつである。
 そして、座敷のすみには床がとってあって、まくらがふたつ、あちこちにころがっている。
 乱れに乱れた寝床のうえには、赤い腰巻きひとつの浪江が、腰巻きのすそもあらわにたおれている。
 なるほどよい器量だが、断末魔の苦(く)悶(もん)の形(ぎよう)相(そう)ものすごく、腰巻きからはみだした太(ふと)股(もも)のあたりの筋肉の硬直状態のすさまじさが、命をうばった苦悶の深刻さをしめしている。
 まくら下には口から吐いた血が、そこらじゅういちめんにべたべたと……。
 いったんはかおをしかめた辰と豆六、しだいに気がおちついてくると、にやにやしながら、
「なるほど。すると、まずいもり酒がきいてきて、すわ鎌(かま)倉(くら)というところで、こんどは石見銀山がきいてきたというわけですね」
 詰めていた町役人も、妙な笑いかたをしながら、
「そういうこってすな。銭屋のだんなも素っ裸でしたからね」
「ほんなら、納まるもんはちゃんと納まるところへ、納まっとったんだんな」
「さよう、さよう。戦いまさにたけなわにして、これからいよいよ風雲急をつげようとしているところへ、薬の効き目があらわれたということでしょうね」
「それで、銭屋のだんなは、思いをとげるところまでいかねえうちに、女のからだをつきはなし、寝床からはいだして、なりふりかまわずもがき苦しんでいるところへ、荻野さんという浪人がとびこんできたというわけですね」
 辰はいかにもご愁(しゆう)傷(しよう)さまという顔色である。
 佐七はあたりを見まわしながら、
「それにしても、ご亭主はどうしたんだろう、もうそろそろ昼だというのに、いまだにかえらぬというのはおかしいな」
 小八郎がかえらぬのもどおり、かれもまた女房の浪江とおなじ時刻に、いもり酒と石見銀山をのまされて、半死半生になっていたのである。
 しかも、場所が銭屋の寮で、万右衛門の娘のお組がいっしょだったというのだから、世間がわっとわいたのもむりはない。

奇妙なあいびき
  ——お組はなにやら腹にいちもつ——


「佐七、どうした。いもり酒の一件は、まだらちがあかぬか」
「恐れいります。どうもじれってえ事件で。あっしもほとほとかぶとをぬぎやした」
「はっはっは。そちににあわぬ弱(よわ)音(ね)をはいたな。ま、そう気を落とさずにやってくれ」
 あれからもう五日になるのに、いっこう目鼻がつかないのに業(ごう)を煮やした与(よ)力(りき)神(かん)崎(ざき)甚(じん)五(ご)郎(ろう)は、ひいきの佐七を呼びよせて、きょうはこの事件をはじめから見直そうというのである。
「それがねえ、だんな、薬研堀の一件だけならいいんですが、銭屋の寮のことがある。それで話がこんがらかるんです」
「その銭屋の寮の一件だがな。わしはそのほうをよく知らぬ。まず、それから話してくれ」
「承知しました」
 銭屋の娘のお組はことし十八、薬研堀小(こ)町(まち)といわれる美人だが、事件の日の二、三日まえから、体がわるいといって、六(ろつ)間(けん)堀(ぼり)の寮のほうへ出向いていた。そこへ、あの晩しのんでいったのが小八郎である。
 つまり、あの晩小八郎が留守にするといったのは、銭屋の寮へお組にあいにいくことだった。
「すると、なにか、ふたりはできていたのか」
「それが妙なんです。銭屋の寮にはお霜といって、以前、お組の乳(う)母(ば)をしていた女が、いまでは夫婦で番人をしているんです。お組はその女に、小八郎がしのんでくるということを、あらかじめいいふくめておいたそうですが、ここにおかしいのは、好いた同士のあいびきなら、ひとを遠ざけるのがほんとうでしょう。ところが、お組はその女に、小八郎がしのんできたら、あいてにさとられぬように、となりの部屋で待っていてくれ。そして、変なことがあったら、すぐとび出すようにって命じているんです。こんなあいびきってありましょうか」
「なるほど、そいつはちと妙だな」
「だから、あっしが思うのに、お組にゃなにか魂(こん)胆(たん)があったんですね。色と酒とにことよせて、小八郎になにか吐かせようとしたんじゃないかと思うんです」
「なるほど。すると、お組はほれていなかったが、小八郎のほうではお組にほれていたんだな」
「ええ、そりゃアもう……」
 だから、お組からよびだしがかかると、小八郎はいそいそとして会いに出かけたが、それをむかえるお組は色気たっぷり。離れの小座敷へまねきいれ、ふたりきりの差し向かいで、さけさかなというもてなしだから、小八郎は有(う)頂(ちよう)天(てん)になった。お組はあまり飲まなかったが、小八郎はしたたか酔うた。
 そして、酔いにかこつけ、そろそろ奥の手を出しはじめたが、それにたいするお組の態度がなびくような……なびかぬような……そこで小八郎はあせってきた。
 もうこうなればさいごの手段と、お組をだきすくめて、押しころがそうとするところで、石見銀山がきいてきたのである。
「あれ、ばあや、きてえ!」
 小八郎が苦しみだして、ガーッと赤いものを吐くのをみて、お組はあっとおびえた。
 お組の声にとなりの部屋から乳母のお霜がとびこんでみると、小八郎は畳の目をかきむしっている。
 お霜はびっくりして亭主をよぶと、すぐに医者へ走らせたが、するとこんどはお組が苦しみだして、これまた赤いものを吐いた。
 さいわい医者のくるのがはやく、手当がよかったので、ふたりとも命だけはとりとめたが、小八郎のほうは重態で、明け方ごろまでは、どっちへころぶかわからなかった。
「それがやっぱり、いもり酒と、石見銀山だというのだな」
「そうなんで。酒のなかにいもりの黒焼きと、石見銀山がまじっていたんです。しかし、だれが石見銀山をしこんだのかわからねえ」
「いもりの黒焼きをちょうしにいれたのは小八郎だというではないか」
「そうなんです。これは小八郎も白状しましたし、四つ目屋でもあの日小八郎がいもりの黒焼きを買いにきたといってます。小八郎め、お組からよび出しがあったものの、ものにできるかどうかわからねえ。しかし、千(せん)載(ざい)一(いち)遇(ぐう)のこの機会に、やわかのがしてなるものかと、いもりの黒焼きを用意していったんです」
「そして、お組のにえきらぬのに業を煮やして、こっそりもちいたというわけだな」
「そうなんです。ところで、その石見銀山は、いもりの黒焼きのなかにまぜてあったんですが、じゃアだれがそんなことをしたのか。四つ目屋で、そんな危なっかしいものを売るはずはなし、だから、だれかが小八郎の買った黒焼きに、あとからこっそり、まぜたにちがいねえんですが、それがだれだかわかりません。小八郎はじぶんも飲むいもり酒だ。そんなバカなことをするはずはねえし、このことは、薬研堀の一件にもいえるんです。万右衛門もいもりの黒焼きを酒にまぜて、浪江にのませたと白状しているんですが、それにも石見銀山が入っていました。しかし、万右衛門がそんなことをするはずはありませんからねえ」
「万右衛門はいったい、どういってるんだ」
「万右衛門の話によると、あの晩、笹井の家へいったのは、浪江から誘いをかけられたからだというんです。もっともはっきり来いとはいわなかったが、いついっか、亭主が留守になると、味な目付きでささやかれたんですね」
「ふうん、すると、浪江もそうとうなもんだな」
「そうですとも。あの夫婦はしじゅうそんなことをやっていたんじゃないかと思われるんです。ところで、万右衛門だが、女のほうから水をむけられちゃア、こりゃ出向かずにゃいられませんや。そこでいもりの黒焼きを用意していったが、万右衛門のいうのに、じぶんはそんなものを信用しちゃいなかった。しかし、ものは試しだ、べつに害になるわけでもなしと、いわばしゃれっけから用いてみたというんです。万右衛門というなア、色好みでこそあれ、さばけたおもしろい男で、近所でも銭屋のだんなといやア、たいそう評判がいい。それに、銭屋といやア大(おお)店(だな)だ。まさか人殺しをするとはねえ……」
「すると、のこるは徳ノ市だが、あいつはどうだ。四つ目屋からいもりの黒焼きを買ってきて、万右衛門にわたしたのは徳ノ市だが、あいつがもしや……」
「あっしもそれを考えました。そして、こいつがいちばんくさいと思ったんだが、銭屋の寮の一件がある。このほうにまで、あいつが手をのばしていようたア思われませんからねえ」
「しかし、それじゃアいったいだれが……」
「いえ、それについてこういう話があるんです。徳ノ市は四つ目屋からのかえりに、浅草へまわって、柳屋という店でいっぱいやったが、そのとき黒焼きの紙包みを腰掛けのうえへおいた。そこをだれかにすりかえられたんじゃないかというんです。柳屋のおやじも、徳ノ市がきたことはおぼえてましたが、なんしろひどくたてこんでいたので、徳ノ市のそばにどんな客がいたか、そこまではおぼえていないというんです」
 これを要するに、いまのところ、なにがなんだかわからないというのが真相で、これには神崎甚五郎も苦(にが)りきらざるをえなかったが、すると、それから三日目に、またしても、ここにひと騒動持ちあがったのである。

お組の魂胆
  ——小八郎の左の肩には桜のあざ——


「親分、えらいこっちゃえらいこっちゃ。薬研堀でまたひとりやられよった」
「なに、またやられたと。いもり酒か」
「いいや、こんどはいもり酒やおまへん。どびんのなかに石見銀山がしこんであったんやそうだす」
「そして、やられたのはだれだ」
「浪人者の荻野新三郎、親分、はよきとくれやす。兄いがあっちで待ってまっさかいに」
「よし」
 大急ぎで身支度をした人形佐七が、豆六をつれて薬研堀へかけつけたのは、たそがれせまる逢(おう)魔(ま)がどきのことだった。
 みると、荻野の浪宅のまえには、野次馬がいっぱいたかっている。
 それをかきわけてなかへはいると、新三郎のまくらもとには、銭屋万右衛門と娘のお組、それに医者の珍石のほかに、棟梁の伴五郎が、辰に腕をつかまれて、あおい顔してうなだれていた。
「辰、どうした。荻野さんはいけねえのか」
「いえ、親分、荻野さんは助かりそうですが、あやしいのはこの棟梁です」
「棟梁が……いったい、どうしたというんだ」
「まあ、親分、きいてください、こうなんで。さっき棟梁がなにげなく、この家のまえを通りかかると、家のなかからうめき声がする。そこで、とびこんでみると、荻野さんが血へどをはいてのたうちまわっている。てっきり石見銀山と、このあいだの万右衛門さんのときでおぼえているから、さっそく、水をのませて吐かせたというんです。ま、それにゃアちがいねえんで、おかげで荻野さんは助かったんだが、それにしても、こいつ、なにげなく通りすぎるじゃアありませんか。浪江のときもなにげなく、こんどの一件でもなにげなく、ちと、なにげなくすぎると思うんです。親分、こいつ、なにか知ってるにちがいありませんぜ。おい、棟梁、親分のまえでどろをはいちまえ」
 肩をつかれて、棟梁はよろよろと畳にひざをついたが、そのまま首をうなだれて、
「恐れいりました」
「恐れいりました? それじゃ、棟梁、おまえなにか知っているのか。まさか、おまえが毒を盛ったのじゃあるめえな」
「と、とんでもない」
 伴五郎はあおざめた顔をあげると、
「毒を盛ったのはあっしじゃありませんが、だれが毒を盛ったか、あっしゃ知っていたんです。いえ、はっきり知っていたわけじゃアねえが、あいつじゃないかと疑ってたやつがあるんです。しかし、もうこうなればはっきりしました。いもりの黒焼きに石見銀山をまぜたのは、あいつにちがいございません」
 お組と万右衛門は、おびえたように、伴五郎の顔を見直す。荻野新三郎はただこんこんと眠りつづけていた。
「おい、棟梁、もう少しはっきりいってくれ。あいつとはいったいだれだえ」
「小八郎です。笹井小八郎です」
「なに、笹井小八郎」
 佐七は目をみはって、
「冗談いっちゃいけねえ。小八郎は、げんにじぶんも石見銀山をのまされて……」
「さあ、そのことはあっしにもわかりません。しかし、万右衛門さんの持っていたいもりの黒焼きに石見銀山をまぜたのは、たしかにあいつにちがいございません」
 佐七は棟梁の顔を見まもりながら、
「棟梁、そこのところをもっとくわしく話してくれ。おまえどうしてそれを知っているんだ」
「あっしは見たのでございます。浅草の柳屋から、小八郎があたふたととびだしてくるところを……」
 佐七はおもわず辰や豆六と顔見合わせた。
「浅草の柳屋といやア、徳ノ市がいっぱいやった店だな。あの日にか」
「さようでございます。しかも、時刻もおなじなんで……妙なところから小八郎がとび出したんで、あっしはなにげなく柳屋をのぞいてみましたので。そしたら、徳ノ市がすみのほうで、チビリチビリやっていました」
「ふうむ。すると、なにか、小八郎はあの晩、万右衛門さんが黒焼きを使うこと、また、徳ノ市がその黒焼きを買いにいくことを知っていたのか」
「知っていました。あっしが話したんです」
「おまえが……おまえはどうして知っていた」
「徳ノ市からきいたんです。だから、それを小八郎に話して、気をつけなきゃいけねえぜと、注意してやったんです。しかし、まさか、あいつがそんな恐ろしいことをするたアしりませんから、あの晩、いもり酒がどんなにきくかと、そっとのぞきにいったんです」
 なるほど、これで棟梁が、あの晩、なにげなく笹井の家のそばを通りかかったわけがわかった。
「しかし、棟梁、それじゃなぜもっと早く、そのことをいってくれなかったんだ」
「恐れいりました。かかりあいになるのを恐れたのと、もうひとつは、疑っていたものの、きょうまではっきりそれといいきれなかったからなんで」
「すると、いまははっきりいいきれるんだな。おまえ、あいつがこのどびんに、石見銀山をほうりこむところをみていたのか」
「いえ、現場を見ていたわけじゃありませんが、あいつがここの裏木戸から、こっそり出ていくのを見たんです。あっしゃそのとき、荻野さんが角の髪結い床にいることをしっていました。はてな、荻野さんの留守にきて、いったい、なにをしていたんだろうと、なんだか気になったもんだから、そこいらをうろうろしていると、そこへ荻野さんがかえってきました。そして、それからまもなくうめき声がきこえてきたので、びっくりしてなかへとびこんだんです。あいつがこんなことをすると知っていたら、もっと早く注意したんですが、まさかそこまでは気がつきませんでした」
 こうなってはもう疑う余地はない。
「おい辰、豆六」
「合点だ」
 言下に辰と豆六はとび出したが、そのあとで佐七は棟梁のほうにむきなおり、
「しかし、棟梁、小八郎のやつはなんだって、荻野さんを殺そうとしたんだろ。荻野さんになにかよわいしりでもにぎられていたのか」
「ああ、それならばあたしから申し上げます」
 そばからことばをはさんだのは、銭屋の娘のお組だったが、それはまことに意外な話であった。
 笹井小八郎と新造の浪江を女(め)敵(がたき)持ちだろうというのは、近所のものが冗談にいい出したことなのだが、それは真実だったのである。
 浪江には以前、れっきとした亭主があったが、そのご亭主が江戸詰めになっているあいだに、年下の小八郎とできあって、手に手をとって出奔した。
 それをきいて痛憤したのがせんのご亭主、なに面目あって生きられようかと、腹かき切って死んだのである。
 七年前のことである。
 そのご、小八郎浪江の夫婦は、あちこち放浪したあげく、おちついたのが薬研堀。せんの亭主が死んだというので、いくらか胸をなでおろしたが、それでも小八郎といい、浪江というのも偽名であった。
 ところが、せんの亭主は切腹しても、その男には弟があった。
 それが荻野新三郎である。
 この荻野といい、新三郎というのも偽名だったが、かれは兄嫁の不義、兄の横死に憤激して、みずから女敵討ちをかって出たのだ。
 そして、爾(じ)来(らい)七年、かたきを求めて放浪しているうちに、江戸へ出てきて、はからずも耳にしたのが、笹井小八郎夫婦のうわさであった。そこで、近所へこしてきて、それとなくふたりの挙動を見張っていたが、困ったことには、新三郎はいままでいちども、兄嫁にも、不義のあいてにもあったことがなかった。
 それというのが新三郎は、幼いときから他の藩中へ養子にいっていたからである。ただ、わかっているのは、不義のあいての左の肩に、桜がたの小さなあざがあるというだけ。
「あの晩わたしが小八郎を六間堀の寮へよびだしたのも、新三郎さまにたのまれて、そういうあざがありやなしや、それをたしかめるためでございました」
 なるほど、それがあの夜のお組の魂胆だったのだ。
「そして、あざはありましたか」
「ございました。新三郎さまはよろこび勇んで、すぐにも討とうとなさいましたが、なにしろあいてはあの毒で、ひどく体が弱っております。そこを討つのはひきょうだからと、回復するのを待っていたのでございますが、むこうでもわたしのようすから気がついて、せんをこして毒を盛ったのにちがいありません」
 これでだいたいわかったが、おりからそこへ、風のように舞いもどってきたのが辰と豆六。
「親分、いけねえ、小八郎のやつ、風をくらって逃げやアがった」
「なに、逃げたと?」
 佐七もさっと顔色をかえたが、すぐ棟梁のほうへむきなおって、
「棟梁、小八郎は小金をためていたのか」
「とんでもない、あいつはちかごろ火の車で、それだからこそ、万右衛門さんをたぶらかそうとしたんです。あの晩、浪江はいもり酒などのまなくても、万右衛門さんになびくつもりでいたんですよ」
 それをきいて、佐七はにんまり自信ありげな笑(え)みをもらしたものである。

風流万右衛門
  ——いもり酒より三々九度の杯だよ——


 下(した)谷(や)練(ねり)塀(べい)町(ちよう)の裏(うら)店(だな)ながら、徳ノ市の住まいは、さすがにちょっとこいきな家である。
 ひとりものの徳ノ市は、耳のとおい老(ろう)婢(ひ)とふたりで暮らしているのだが、いまはそのばあやも留守とみえて、徳ノ市はひとり茶の間で、長火ばちのそばに行(あん)灯(どん)をひきよせ、チビリチビリとのんでいる。
 秋の天気のかわりやすく、夜がふけるとともに風がでたのか、なんとなくあたりがさわがしい。
 おりおり、天井うらでものすさまじくねずみがさわぐのである。
 徳ノ市は独(どく)酌(しやく)でチビリチビリとやりながらも、なんとなくおちつかぬ顔色で、
「ちえッ、やけにねずみのさわぐ晩だ。これ、静かにしねえか。しっ、しっ!」
 しかってみても、ねずみのさわぐのはやまない。まるで天井板を踏みぬくように、騒々しくかけめぐるのである。
「畜生ッ、やめねえか」
 かきのむき身のような目をひんむき、手にさわった鉄(かな)火(ひ)ばしを小(こ)柄(づか)のように投げつけると、その勢いにおそれをなしたか、天井裏のさわぎはぴたりとおさまったが、そのかわり、表の格(こう)子(し)がガタリと鳴った。
「だっ、だれだ!」
 徳ノ市はどきりとしたように、見えぬ目を表にむけて腰をうかせる。
 返事はなかった。
 しかも、だれかが格子をあけてはいってくるのである、徳ノ市の眉(み)間(けん)に、さっと不安と恐怖のいろがつっぱしる。
 もう一本のこった鉄火ばしを、きっと逆(さか)手(て)に握りしめると、
「だれだッ、ことわりもなしに入ってきやアがって……盲だとおもって白(こ)痴(け)にしやアがると、承知をしねえぞ」
「はっはっは、徳ノ市、ごうきに疳(かん)を立てるじゃアねえか。なにかあったのかえ」
「だれだッ、てめえは。そういう声は……」
「おれだよ。お玉が池の佐七だ。辰と豆六もうしろにいるよ」
「げっ?」
 徳ノ市はさっと紫色になったが、すぐ顔色をなおすと、握っていた鉄火ばしを投げだし、ねこ板のうえにあった杯(さかずき)をとりあげて、
「いやですねえ。親分、おどかしっこなしにしてくださいよ。これでも一軒かまえていれば一国一城のあるじもおなじさ。入ってくるならはいってくるで、一応ことわってくださいよ」
「あっはっは、一国一城のあるじとはおおきく出たな。それじゃさしずめ、おいらは寄せ手の勢か。おい、徳ノ市、大手からめ手から、寄せ手の勢が攻めいったから覚悟をしろ」
「覚悟をしろとは……」
「おい、徳ノ市、なにもかもわかっているんだ。恐れ入りましたと、ありていに白状しろ」
「親分、いやですねえ。この夜更けにおしかけてきて、だしぬけに白状しろはないでしょう。この徳ノ市、小金こそ貸しているが、おなわをうけるおぼえはありませんのさ」
 徳ノ市は杯のふちをなめながらせせら笑った。脂ぎった大男で、ひとすじなわではいかぬ面(つら) 魂(だましい)である。
「おい、徳ノ市、この場におよんでまだしらをきる気か」
「しらをきるもきらねえも、あっしゃなんのこったか、とんとがてんがまいりませんもの」
「ちっ、往(おう)生(じよう)ぎわのわるい野郎だ。それじゃおれが話してやるから、耳をかっぽじってようくきけ」
 佐七も長火ばちのむこうにあぐらをかくと、
「てめえ、浪江にさんざんいたぶられたろう。このあいだ、辰や豆六がなんの気もなくからかったのは、みんな図星だったんだ。冗談から駒がでる。ありゃまんまといい当てていたんだ。浪江の腰をもんでるうちに、手をとってずるずるとひきよせられ、うれしい夢をみやアがったろう。浪江はいったいどういって、おめえをくどいたのかしらねえが、あいつのほんとのお目当ては脂ぎったおまえのその体じゃなかった。おまえがしこたまためこんだ悪銭よ。おい、浪江はいったいどういう手を使ったんだ。おまえのようなごうつく張りが、うまうま女の口(くち)車(ぐるま)に乗せられて、金をまきあげられたのがふしぎでならねえ」
 佐七はあざわらいながら、行灯の灯(ほ)影(かげ)で、あいての顔色をよんでいる。徳ノ市の額には、ビッシリと脂汗がうかんで、杯をもつ手がわなわなふるえる。
 佐七は辰や豆六と顔見合わせながら、またあとをつづけた。
「そうして、さんざんまきあげられたそのあとで、おめえが気がついたときはおそかった。金の切れ目が縁の切れ目よ。水の手が切れたとしると、浪江がはなもひっかけなくなったから、おまえは地(じ)団(だん)太(だ)ふんでくやしがった。なんとか返報しなきゃア、はらの虫がおさまらねえと、執念ぶかくつけねらっているところへ、銭屋のだんなからたのまれたのが、いもりの黒焼きの使いよ。これさいわいと、四つ目屋へ買いにいったそのかえるさ、柳屋へよるまえに、おまえはそのなかへ石見銀山をまぜておいたんだ。柳屋へよったのは、あとで一件が起こったとき、そこで一杯やってるうちに、だれかに薬をすりかえられたにちがいねえという逃げ口上をこさえるためよ」
 佐七はちょっとひといきいれると、
「ところが、そこへ横合いからとび出したのが、小八郎というまぬけ野郎よ。小八郎はお組から、よび出しがかかったから、ゾクゾクするほどよろこんだ。おまけに、その留守中に万右衛門がやってきて、女房といもり酒をくみかわすときいたもんだから、これさいわいとじぶんでも四つ目屋でいもりの黒焼きをかってきて、そのなかへ石見銀山をまぜておき、それとこっそり柳屋で、おまえのやつとすりかえたんだ。だから、どっちのいもりの黒焼きにも、石見銀山がまぜてあったというわけさ。小八郎はお組を首尾よくものにして、いやおうなしに、銭屋の婿(むこ)におさまる腹だが、それにゃアじゃまになるのは浪江と万右衛門。そこで一服盛ろうという腹だが、そんな手数をかけなくても、おまえが殺してくれるたア、あいつはゆめにもしらなかった。だから、その晩銭屋の寮で、なにがなんでもお組を陥落させようと、すりかえてきたおまえの黒焼きをこっそり酒にまぜたところが、あにはからんや、それにも毒が入っていたから、すんでのことにじぶんが命をおとすところよ。あっはっは、人をのろわば穴ふたつとはこのことだが、小八郎め、じぶんが毒にあてられて、はじめておまえの計略に気がついたが、こいつはめったにひとにゃアいえねえ。ひとにいゃア、じぶんが黒焼きをすりかえたこと、そのなかに毒をしこんだことが露見する。あっはっは、痛しかゆしとはこのことだな。おい、徳ノ市、ひとにばかりしゃべらせずと、おめえもなんとかいわねえか」
「親分、そ、それはなんのことで」
「こいつ往生ぎわの悪いやつだな。おい、徳ノ市、さっきここへ小八郎がやってきたろう。あいつは高飛びするのに金がいるんだ。その金をひき出すのはここよりほかにねえ。小八郎がゆすりに来たろう」
「と、とんでもない。親分、そんないいがかりはよしてもらいましょう。だれもここへは……」
「来ねえというのか」
 佐七はせせら笑って、
「だれも来ねえのに、めくらのおまえが、なぜ行灯にあかりをつけているんだ」
「げっ」
「あっはっは、徳ノ市、めくらというものは、さても不自由なものだな。畳のうえにこぼれているのはそりゃなんだ。血じゃねえか。おまえ小八郎に酒をすすめて、まんまと一服盛りゃアがったな。辰、豆六、押し入れをあけてみろ」
「畜生ッ」
 徳ノ市の手から、さっと徳利がとんだ。徳利は佐七の小(こ)鬢(びん)をかすめて、むこうの柱にあたってくだけた。
「徳ノ市、てむかいするかッ」
「なにを、しゃらくせえ」
 ふところにのんだ匕(あい)首(くち)を、やにわに徳ノ市がひきぬいたが、
「バカ野郎、神妙にしろ」
 佐七がどなって、手元へとびこんだなと思うと、はや、その手首にはなわがかかっていた。
 押し入れのなかには、一服盛られた小八郎が、つめたくなってころがっていたのである。
 自業自得とはいえ、こうして浪江小八郎、新三郎の手を待たずして、ほろんでしまったのであった。
 一件落(らく)着(ちやく)ののち、銭屋の万右衛門は以後のみせしめとあって、手錠四十日を申しわたされたが、それがとけた日、にこにこしながら、お玉が池へやってきた。
「あっはっは、親分、こんどはいろいろお世話になったな。いもり酒なんて、つまらねえしゃれっけを起こしたばっかりに、こんなことになったかと思うと、わしも少々面目ない」
 しかし、万右衛門さん、いっこう面目ないという顔色ではない。
「は、は、は、だんなもこれにおこりなすったら、以後はあのほうをおつつしみなさるがいい」
 佐七が意見めかしくいうと、万右衛門は目を丸くして、
「これは驚いた。おまえさんの口から、そんなことばをきこうたア思わなかった。どうしてどうして、あれをよしてたまるもんか。色気がなくなっちゃ人間おしまいだ。わたしゃこれからも大いにやるよ。ただし、いもり酒はよしましょう。だいいち、あんなものの力を借りなきゃ色事ができねえなんて、万右衛門のこけんにかかわる」
 万右衛門さん、ひどく威勢がいい。
「あっはっは」
 佐七も愉快そうに笑って、
「ところで、だんな、わけえ連中はどうしました」
「わけえ連中って、お組と荻野さんのことかね。あの連中にはあきれたね。あきれかえってものがいえねえ。なにがってさ、ふたりがたがいに思い思われてる。こりゃアたしかだ。だれが目にもはっきりしてる。それでいて、おまえさん、ありゃアまだできてねえんだとよ。あほらしくてものがいえねえ。お組もお組だが、荻野さんも男のくせに、意気地がねえじゃねえか。わたしどもの若いころにゃ、あんなもんじゃなかった。これはと思う女があったら、あいてが玄(くろ)人(うと)だろうが、素(しろ)人(うと)だろうが、三言とは口を利かなかったな。二言いったときにはものにしてた。三言目は切れる話さ」
「あっはっは、だんなは勇ましいね。どうです、だんな、あのふたりに、いもり酒をのませてみたら……」
「バカらしい。あんなもんがなにに利くもんか。それよりな、あのふたりにゃア、三(さん)々(さん)九(く)度(ど)の杯ってやつのほうが利くらしい。そいつを明晩やらせることにした。親分、おまえさんもおかみさんといっしょに、ぜひその席へ出ておくれ。聞きゃア、おまえさんたち、いもり夫婦だっていうじゃないか。はっはっは、こら、辰、豆六、なにをゲラゲラ笑ってる。おまえたちもいっしょにおいでよ。わしのわけえころのおのろけを聞かしてやるからな。あっはっは、はい、さようなら」
 万右衛門さんは大きなしりをふりながら、上きげんでかえっていった。

百物語の夜

怪談話十二
  ——いまにも死霊の乗りうつりそうな顔だ—— 


 またしても人形佐七の手柄話。
 しかも、この度は、うまいぐあいにその場に居あわせた佐七が、奇々怪々な事件のなぞをそくざにといてお目にかけようという、胸のすくような捕り物奇談である。
 江戸時代——わけても文化文政年間は、怪談物の全盛時代で、夏場になると芝居であろうが、草(くさ)双(ぞう)紙(し)であろうが、高座の落語であろうが、ヒュードロドロと幽霊が化けてでないことには、いっぱん民衆は承知できなかったものである。
 この流行は、しだいに武家屋敷や町(ちよう)家(か)にまでおよんで、しまいには素人衆のあいだでも、夏の暑(しよ)気(き)ばらいとしょうして、あちこちで百物語というのが催された。
 百物語というのは、つまり、ヒュードロドロの幽霊話の披(ひ)露(ろう)会(かい)である。
 あつまったひとのかずだけろうそくをともしておいて、さて、各自がとっておきのものすごいところを、一席ずつ披露する。
 そして、一席すむたびに、ひとつずつろうそくを消していくという趣向だが、さて、さいごに真(しん)打(う)ちの話がおわって、ろうそくがことごとく吹き消されたときには、なにがさて、さんざ気味悪いところを聞かされたあとのことだから、鬼気凄(せい)然(ぜん)として一座をおおい、どんな肝(きも)っ玉(たま)のふといひとでも、ゾッと身震いがでるという話である。
 さて、これからお話ししようというのは、この百物語の席上でおこった事件だが、ここに赤坂桐(きり)畑(ばた)に篠(しの)崎(ざき)鵬(ほう)斎(さい)翁という旗(はた)本(もと)のご隠居がすんでいる。
 もとは幕府のお納(なん)戸(ど)頭(がしら)かなにかつとめたご仁(じん)で、屋敷は赤坂表町にあり、そうとうのご大(たい)身(しん)だが、いまでは家督を一子光(みつ)之(の)助(すけ)というかたにゆずり、この桐畑で楽隠居。
 根がいたっての風流人ときているので、つきあいもひろく、ときどきかわった趣向をこらしてあそぶのをなによりの楽しみとしているご老人だが、その鵬斎のおもいついたのが、こよいの百物語という催しで。
 数(す)奇(き)をこらした桐畑の隠居所には、主客あわせてすでに九人あつまっているが、予定よりまだ三人足りない。
 あるじの鵬斎翁はまゆをひそめて、
「これこれ、神(かん)崎(ざき)殿。佐七はひどくおそいが、かならずまいるであろうな」
「はい、五つ(午後八時)までにはかならずまいると申しておりましたが、はて、どうしたものでしょうな。なにかさしつかえがあったのかな」
 と、おなじようにまゆをひそめたのは、おなじみの与力神崎甚(じん)五(ご)郎(ろう)。してみると、こよいの百物語には甚五郎や佐七もまねかれているとみえる。
「さしつかえがあったでは困る。こよいの趣向は、怪談十二月というつもりゆえ、ぜひ十二人そろえたい。あの三人が欠けたのでは、せっかくの趣向もおもしろくない」
「いや、その気づかいにはおよびますまい。約束のいたってかたい男ゆえ、まいるといえばきっとまいりましょう。まあ、もうすこしお待ちください」
 といっているところへ、うわさをすればかげとやらで、
「ええ。みなさん、おそくなってもうしわけございません」
 と、その場へ顔をだしたのは、お待ちかねの人形佐七。
 例によって、きんちゃくの辰とうらなりの豆六が太(た)刀(ち)持ち、露払いといったかっこうでくっついている。
「おお、佐七か、おそかったではないか。そのほうの姿がみえぬので、ご主人はだいぶおむずかりだ」
「はっはっは、そういうわけではないが、年をとるとどうも気がみじかくなってな。いや、よいよい、三人の顔さえみればいうことはない」
 と、鵬斎翁もすっかりきげんをなおして、
「さあ、これで趣向どおり、十二月あつまったというわけだが、百物語にはいるまえに、いちおう、みなさんをお引き合わせしておこう。なかにはだいぶ顔見知りでないご仁もあるでな」
 と、そこで鵬斎翁の紹介で、いちいち名乗りをあげた人物というのは——。
 まず、だいいちが鵬斎翁のご子息で、いま篠崎の家督をついでいる光之助。
 当時お納戸方につとめている眉(び)目(もく)秀麗な若(わか) 侍(ざむらい)で、としは二十二、三というところだろう。
 そのつぎは、磯(いそ)貝(がい)秋帆といって有名な剣客。
 年輩は四十前後、妻恋坂にある磯貝道場の名は、天下に喧(けん)伝(でん)されているから、佐七ももちろんその名は知っていた。
 さて、つぎはすこしかわった人物で、これはちかごろとみになだかくなった怪談作者で、宝井喜三治という男。
 年輩は三十二、三の苦みばしった男振りだが、世間では本名より、お化け師匠でとおっている。べつに喜三治のうちにお化けがでるというわけではなく、ヒュードロドロのお化け狂言がとくいだから、ひと呼んでお化け師匠。
 あまりありがたいあだ名じゃない。
 四人目はこれまたかわった人物で、当時なだかい寄(よ)席(せ)芸人、その名を亀(かめ)廼(の)家(や)亀(かめ)次(じ)郎(ろう)といって、声(こわ)色(いろ)の吹き寄せ、百面相、また、夏場になると幽霊話もやろうというしごく器用な芸人だが、むかしは武家屋敷に奉公していたこともあるとやらで、どこかものがたいところもある人物。
 としは五十ちかくだろう。
 以上四人にあるじの鵬斎、それに神崎甚五郎と佐七の一味三人をくわえた九人が男で、あとの三人は女である。
 さて、その女というのは——
 まずだいいちは、綾(あや)乃(の)といって、としのころは十八、九、ひとめで武家屋敷の娘としれるかっこうだが、鵬斎翁の紹介によると、知人の息女であるという。
 それにしても、ものがたい武家の娘が、どうしてこんな会合へでる気になったのか、佐七はちょっと妙な気がした。
 なにかおもしろい話でも知っているのかと思ったが、あとになって、そうでもないことがわかったから、佐七はいよいよ変な気がしたものである。
 それはさておき、第二の女だが、これは佐七もよく知っている。
 小菊といって柳(やなぎ)橋(ばし)でもなうての芸者、としは二十三というから、すこし薹(とう)はたっているが、意地と張りとで、押しもおされもせぬ一流芸者。
 さて、いよいよさいごにのこったひとりだが、おそらくこれが当夜における圧(あつ)巻(かん)だったろう。変わったというもおろかなこと、佐七をはじめ辰も豆六も、この女の姿をみたときには、おもわず目をそばだてたものである。
 女の名は薬(くす)子(こ)といって、巫(み)女(こ)——つまり、死人の口寄せなどする市(いち)子(こ)だ。
 としは五十過ぎだろう。緋(ひ)の長(なが)袴(ばかま)をはき、口寄せにつかうあずさ弓をかたてにもって、端(たん)然(ぜん)とすわっている。顔はさしてみにくくはないが、白(しら)髪(が)まじりの髪をおさげにして、くぼんだ目をギラギラさせているところは、いまにも死霊がのりうつりそう。
 辰と豆六はきみわるそうに顔を見あわせている。

幽霊のことづけぶみ
  ——お化け師匠の顔色がさっと変わった——


 これで一座十二人、あらかた紹介がおわったわけだが、それにしても、よりによってかわった人物ばかり集めたものと、佐七は内心舌をまいて感服していたが、鵬斎翁はこの人選がだいぶとくいらしく、
「さあさあ、これで顔つなぎもすんだから、これからいよいよ百物語だが、こいつはひとつくじ引きで順番をきめることにしようじゃないか」
 と、かねて用意のこよりをひくと、話をする順序はつぎのとおりにきまったのである。

 一 月 人形佐七
 二 月 きんちゃくの辰五郎
 三 月 うらなりの豆六
 四 月 神崎甚五郎
 五 月 芸者小菊
 六 月 お化け師匠宝井喜三治
 七 月 剣客磯貝秋帆
 八 月 落語(はなし)家(か)亀廼家亀次郎
 九 月 娘綾乃
 十 月 篠崎光之助
 十一月 巫女薬子
 十二月 篠崎鵬斎翁

 佐七はこの順番になんだか妙な気がしたが、鵬斎翁もそれに気づいたらしく、
「おやおや、これじゃ今夜の花形、佐七がいちばん前座ということになるじゃアないか。どうだ、もういちどくじをひきなおそうか」
「いえ、これでけっこうでございます。くじというものは、引きなおしたりしないものだそうで」
「さようか。そちがそういうなら致しかたがない。それではみんな、この順番にならんでもらおうか」
 鵬斎のことばに一同は座をたつと、くじの順番に席をこしらえた。
 なんせ十二畳と十畳をぶちぬいたひろい部屋のなかに、十二人の主客がばらりと散ったのだから、ひとりひとりの間隔はかなり開いている。
 やがて、そのあいだへ一本ずつ燭(しよく)台(だい)が持ちだされると、ほかの行(あん)灯(どん)はぜんぶ吹き消された。
 二十二畳の畳数に、ろうそくが十二本、それもボツボツまをひらいて立っているのだから、座敷のなかは怪談がはじまるまえからすでに、おどろおどろしき空気につつまれている。
「さあ、いよいよ席もきまったから、それでは佐七に皮切りをしてもらおうか。おっと忘れていた。あとからきた三人にはまだいわなかったが、話がすむとひとりずつろうそくを吹き消して、それからむこうの離れ座敷へいって、鏡をのぞいてくることになっているんだが、いいだろうね」
 これまた、百物語によくある趣向だから、佐七をはじめ辰と豆六もうなずくと、やがて佐七がおもむろにひざをすすめた。
「それじゃ、わたしがごめんこうむって、前座をつとめることにいたしましょう」
 と、そこで佐七が話したのは、いつか諸君も読まれるだろう『お玉が池』の物語。
「と、そういうわけで、わたしどもの話は、はじめはいくらか怪談じみておりましても、筋を運ぶにしたがって、しりがわれてくるので困ります。わたしの話はまあこれくらいで勘弁していただきとうございますが、ここにもうひとつ妙な話がございます。それも今晩、ここへくる途中でおこったことなので、それをおまけにもうひとつお話しいたしましょう」
 と、佐七がひざをすすめたから、一同はおもわず利(き)き耳をたてた。
「ここへくる途中、わたしどもは溜(ため)池(いけ)のそばをとおりました。みなさまもご存じのとおり、あのへんは昼でも寂しいところでございます。わたしはそこをとおりながら、辰や豆六にむかって、どうだ、ここは怪談におあつらえむきの場所じゃないか。この葭(よし)のなかから、ヒュードロドロとお化けでもあらわれたら、それこそ宝井の師匠の話の種だぜ、などと冗談をいっておりました。ところが、わたしの言葉もおわらぬうちに、葭のなかからぬっとあらわれましたので」
「ひえっ、あらわれたというのはなんですかえ」
 むこうのほうから亀廼家亀次郎が、とんきょうな声であいづちをうった。
「さあ、なんですか、わたしにもよくわかりません。髪をこうさんばらにした若い男で、体じゅう水びたしになっておりました。それがかぼそい声で、親分さん、お玉が池の親分さん、と、こうわたしを呼びとめるのでございます」
「へへえ?」
 こんどはお化け師匠の宝井喜三治が、おもしろそうにひざを乗りだした。
「それからどうしました」
「わたしもこれにはぎょっとしました。おまえさんはなんだいと尋ねましたが、あいてはそれに答えようとはしないで、親分さんはこれから、鵬斎様の百物語においでになるのだろうと、こう尋ねます。そうだと答えると、それではすみませんが、これを宝井の師匠にお手渡しをしてくれと……ほら、この手紙をわたしにわたしますと、そのまままた、葭のなかへ消えてしまいましたので」
 と、ふところから取りだしたのは一通の結びぶみ。
 これには喜三治も驚いて、
「えっ、わたしに手紙ですって?」
「はい、さようで」
「いったい、あいてはどのような男でございました」
「それがいまも言ったとおり、全身水びたしになった若い男で、髪をこうさんばらにして……そうそう、片目がスーッとたてに切られたようにつぶれておりました」
 それを聞くと、喜三治はにわかにガタガタ震えだした。
 佐七はその様子をみながら、
「師匠はそういう男に心当たりがありますか」
「め、滅(めつ)相(そう)もない。そして、その男はどういたしました」
「それがさっきもいうとおり、葭のなかへ消えてしまって、それきり姿はみえません」
「おやおや。すると、さしずめ、幽霊というわけですか。いや、さすがはお化け師匠だ。幽霊とおつきあいがあるなどとはおうらやましい」
 と、これは落語(はなし)家(か)の亀廼家亀次郎、わざとおどけた調子でいったが、だれも笑うものはない。なんとなくしらけたその場の空気に、佐七は頭をかきながら、
「いや、これはよけいなことをいって、みなさんのお話のじゃまをいたしました。それでは、わたしの話はこれだけです」
 と、かたわらのろうそくを吹き消すと、約束どおり、座敷をでて、離れにしつらえた鏡をのぞきにいったが、そのとちゅうで、妙な男からことづかった結びぶみを、宝井喜三治にわたしてやった。
 喜三治の席は、ちょうど離れへいくわたり廊下への出口のそばにある。
 ところが、このときの喜三治のようすというのがまことに妙だった。
 わなわなと震える手先で結びぶみをひらいた喜三治は、ひとめそれをひらいて読むと、ふいにさっと顔色がかわったのである。
 まるで目にみえぬものから逃れようとするように、はんぶん腰をあげたが、ふたたび力なくその場にすわると、それきりがっくり肩をおとしてうつむいてしまった。

やみの中からたまげる声
  ——薬子の梓(あずさ)弓(ゆみ)がブーンと鳴った——


 さて、その後はなにごともなく、きんちゃくの辰からうらなりの豆六、神崎甚五郎から芸者の小菊と、百物語はしだいにすすんで、そのたびにろうそくが一本ずつ吹き消されていく。やがて、いよいよお化け師匠の宝井喜三治の番になった。
 なにがさて、いま評判のお化け師匠、怪談を書かせるとその右にでるものなしとまでいわれた喜三治のことだから、どのようなものすごい話がとびだすかと、一同かたずをのんでひかえていたが、どうしたものか、その夜の喜三治はさっぱり元気がなかった。
「わたしはいたって口(くち)無(ぶ)調(ちよう)法(ほう)なほうで……」
 と、みずから最初にことわったとおり、話をきいてもおもしろくもおかしくもない。
 本で読むとあれほどものすごいお化け師匠も、口でしゃべるとこうも違うものかと、一同いささか興ざめがおだったが、それでもともかく、一席お茶をにごすと、喜三治はろうそくを吹き消して、はなれ座敷へ鏡をのぞきにでていった。
 あとは一同、しらけた気持ちでひかえている。なかでもあるじの鵬斎翁は、喜三治の話にいちばん期待していただけあって、にがりきった顔色だ。
 一席おわるごとにうまく調子をあわせていた亀次郎も、こんどは興ざめがおに茶ばかりすすっている。
 ろうそくはすでにはんぶん吹き消されて、ひろい座敷ははんぶんいんきなやみにつつまれて……。
 ——と、このときだった。
 はなれ座敷にあたって、きゃっとたまげるような悲鳴、たしかに喜三治の声だった。
 さきほどから、なんとなく胸騒ぎをおぼえていた佐七は、それをきくとすわこそと腰をうかしたが、それよりはやく席を立っていたのは亀廼家亀次郎。
「おやおや、お化け師匠め、話があまりまずかったので、お芝居で埋め合わせをするつもりとみえる。どれ、あっしがようすをみてきましょう」
 あざわらうようにそういうと、どたどた廊下へでていったが、それにつづいて立ち上がったのは剣客の磯貝秋帆。
「よし、拙者もいこう」
 と、ふたりづれではなれ座敷のほうへいったが、やがてもどってきたところをみると、喜三治のからだを左右から抱えるように支えている。
「おや、師匠、どうかしたのか」
 鵬斎翁はおどろいたようにこちらから声をかけた。
「いえね、だんな、いまはなれ座敷へいってみると、師匠がひっくりかえっておりますので、びっくりして磯貝様とふたりで連れてまいりました」
 喜三治はふたりにかかえられたまま、うす暗い片すみによろよろとすわると、
「いや、面目しだいもございません。すこし気分がわるくなりまして……」
 と、それきり無言でうつむいてしまった。
 これでまた、一座は少ししらけかかったが、それを救うように磯貝秋帆。
「こんどは拙者の番であったな。ではひとつ、くだらないところを披露しようか」
 と、これは武術修業の途中でであった妖(よう)怪(かい)退治の武勇談をひとくさり演じたが、さてそのあとが亀廼家亀次郎。なにしろ、これは本職だから、身振り手振りもものすごく、おそらくこれが当夜の傑作だったろう。
 これで八人まですんだわけで、そのあとは娘綾乃に篠崎光之助。それから巫女の薬子が、いっぷうかわった怪談を披露すると、いよいよどんじりは隠居の鵬斎翁。
 すでにろうそくは十一本まで吹き消されて、あとには鵬斎のそばに一本残っているきり、ひろい座敷は夢魔のようなやみにつつまれて、人々の顔もしかとはみわけられない。
 一同が期待にみちたひとみをあつめると、鵬斎は咳(がい)一番。
「どうもおれが真打ちというのはおもはゆいが、これもくじ順だからいたしかたがない。それではお話しするが、この話はひょっとすると、さきほど佐七の話したことと関係がありはしないかと思う」
 と、そこで鵬斎翁が話したのは、つぎのような物語だった。
 去年の秋のことである。
 鵬斎翁は溜池へつりにでかけた。つり場のすくない山の手では、溜池ぐらいがせいぜいつりずきの渇(かつ)をいやしてくれるのである。鵬斎翁は葭(よし)のしげみにわけいって、つりざおを垂れていたが、そのうちに、そのころの天気ぐせとしてボツボツ雨が落ちてきた。
 雨具の用意をしていなかった鵬斎翁は、よほど引きあげようかと思ったが、ちょうどそのころから食いにかかったので、なかなか思い切りがつかない。
 もう一尾、もう一尾と、これがつり師のわるいくせで、腰をあげかねていると、そのときどこかで、きゃっというような悲鳴がきこえた。と思うと、ドボーンと水の音。
 鵬斎翁ははっとして立ちあがったが、なにせ、いちめんに茂った葭のなかで見晴らしがきかない。それでも鵬斎翁は立ったまま、じっと利き耳を立てていたが、すると、ゆらゆらと大きな波紋が水面にひろがってきた。ざざざざざと、葭をわけていく足音。
 姿は見えないが、たしかにだれかが近くにいたのだ。
 それにしても、この波紋はどうしたのだろうと、鵬斎翁は水面をみつめていたが、そのうちにぎょっと息をのみこんだのである。
 黒いどろ水にまじって、雲のように流れてきたのは、たしかにあかい血(ち)潮(しお)である。血はあとからあとからわくように流れてくる。鵬斎翁はそれをみると、つり場をすてて、あわてて葭のなかへわけいった。
「ところがなんと、わしがつりをしていた場所から、半町とはなれぬ葭の水たまりに、わかい男が倒れているではないか。わしはあわててそのからだを抱き起こしたが、むざんにも胸をえぐられて、すでに息は絶えている。ところで、いまの佐七の話で思いだしたのだが、その男の片目が縦(たて)にすうっと切られていたので……」
 と、鵬斎翁の話に、佐七はおもわずひざをすすめた。
「ほほう。そして、だんなはその死体をどういたしました」
「どうもしやアしない。掛かり合いになると面倒だから、そのまま葭のなかへほうってきたが、いまでもあのへんに骨になっているかもしれない。なにしろ、あのへんときたら、狐(こ)狸(り)のほかにはめったに通るものもないからな」
「へへえ」
 と、たまげたような声を立てたのは亀次郎。
「すると、さきほどお玉が池の親分がお出会いなすったのは、そのとき殺された男の幽霊というわけですかねえ」
「バカなことをいうものじゃない。さきほど佐七の出会った男は、お化け師匠に手紙をことづけたというじゃないか。幽霊から手紙が来るなんてことがあるものか」
 磯貝秋帆はわらったが、鵬斎翁はまじめな顔をして、
「いや、その判断はおのおのの勝手だが、ともかくおれの話というのはそれきりだ。どうも締めくくりがなくて、お恥ずかしいが、どれ、それじゃ鏡をのぞいてこようか」
 と、鵬斎翁がのこっていたろうそくを吹き消したから、ひろい座敷は鼻をつままれてもわからぬような漆(うるし)のやみ。そのとたん、佐七はなんとも名状しがたい不安におそわれた。
 なにかある!
 この暗やみの底に、なにかしら、あやしい、恐ろしい、血なまぐさい犯罪のにおいがこもっている!
 佐七の直感が、ピーンとそれを感じたときだ。
 どこかでかたりと物の落ちる音、つづいてブーンと鳴ったのは、だれかが薬子の持った梓(あずさ)弓(ゆみ)をはじいたらしい。それにつづいてザワザワと、ひとしきりやみのなかにものの動く気配がきこえていたが、やがて、ウーンという気味悪いうめき声。
 それをきくと、佐七はすっと立ち上がった。
「みなさん、いまのうめき声はなんでございます」
 だれも答えるものはない。それでいて妙にザワザワともののうごめく気配だ。佐七は耐えられなくなった。
「みなさん、その場にじっとしていてくださいまし。辰、豆六、あかりをつけてみろ」
「へえ」
 と、辰と豆六が、用意の火打ち石と付け木で、いっぽん、いっぽんろうそくに灯(ひ)をつけていくと、一同はちゃんと定めの席についている。しかし、その顔には、いちようにおびえたような表情がうかんでいた。
「佐七、どうしたのだ。なにごとが起こったのだ」
「あっ、神崎のだんな、あっしにもわかりませんが、気にかかるのはさっきのうめき声。あっ、あれはどうしたのです」
 佐七のことばに、一同が指さされたほうをふりかえると、そこにはお化け師匠の宝井喜三治が、座ったままくわっと両眼をみはっている。しかも、その首筋からは、たらたらとひと筋の血が。
「あれえ?」
 隣席にすわっていた芸者の小菊がとびのく拍(ひよう)子(し)に、喜三治のからだはがっくり前へつんのめった。
 それをみると鵬斎翁、スーッとながい息をうちへひいて目を閉じた。

怪談薄雪草紙
  ——豆六は鼻高々と手柄顔で——


「佐七、これはどうしたものだ。いったい、だれが喜三治を殺したのだ」
「だんな、それをこれから詮(せん)議(ぎ)しようというのじゃありませんか。なに、下手人はまだ逃げちゃいません」
「それじゃ、下手人はこの百物語の仲間のものだと申すのか」
「それよりほかに考えようはございません。そいつはさいしょから、ろうそくが吹き消されて、まっ暗になるときを待っていたんですよ」
 佐七のことばに、甚五郎をはじめとして、辰と豆六もおもわずすこし青ざめた。
 ほかの連中はひとまず別間へひきとらせて、このひろい座敷には死(し)骸(がい)をとりかこんで四人きり。ろうそくの明滅する光もわびしく、外はどうやら雨になったらしい。びしょびしょという音が、いかにも変事のおこった夜にふさわしかった。
「あっしゃさいしょから、へんな気がしていたんです。なにか起こりそうに思っていたんです。しかし、まさか人殺しをやらかそうとは……」
「ふむ、われわれの面前で、こんなだいそれたことをしてのけようとは、よほど大胆なやつにちがいない。いったい、下手人は何者だろう」
「さあ、それをこれから探し出さねばなりませんが、こよい集まったのは十二人、そのうち殺された喜三治と、ここにいる四人を引いたあとの七人は、みないちおう疑ってかからねばなりません。だが、それより、喜三治のからだから調べてかかろうじゃありませんか。辰、豆六、死骸をはだかにしてみろ」
 辰と豆六はすぐ喜三治の着物をぬがせたが、そのとたん、一同はあっと目をみはった。
 喜三治のうけた傷は、首筋ばかりではなかった。
 背中に二つ、胸に一つ、わき腹に一つと、都合五つ、大小さまざまの突き傷だった。
 そのほかに脾(ひ)腹(ばら)のあたりに黒い痣(あざ)、それにむちでなぐったようなみみずばれが背中に赤くできている。
 あまり無惨なそのさまに、さすがの佐七もおもわず息をのんだ。
「ふうむ、ひどいことをしたもんだな」
「親分、こりゃなんですぜ。くらやみのなかで見当がつかず、目(め)茶(ちや)目(め)茶(ちや)にえぐったものにちがいありませんぜ」
「そやそや、いちどではたよりないので、何度も何度もえぐりよったにちがいない」
 そうかもしれなかった。だが、それだけでは説明しきれぬへんてこなものが、佐七の頭のなかにうずをまいていた。
 佐七はくちびるをかみながら、しばらく死体をながめていたが、そのうちにふと目についたのは、座布団の下からのぞいているなにやらきらきら光るもの。
 佐七がおやっと拾いあげると、それは平(ひら)打(う)ちの銀かんざし。しかも、そのかんざしの脚には、赤黒いものがこびりついている。いうまでもなく血だった。
「あっ、親分、こりゃたしかに綾乃という娘のかんざしですぜ」
「そやそや。わてもたしかに覚えてる。すると、あの娘が……」
 佐七は無言のままかんざしの脚をながめていたが、なにを思ったのか、ポトリとそれを畳のうえに落としてみた。
 かたり。——おもい銀かんざしはかたい音をたてて畳のうえに落ちたが、その音こそ、暗がりになったとき、佐七がさいしょにきいた物音にちがいなかった。
 甚五郎もその音を覚えていたとみえ、
「おお、それじゃやっぱり綾乃どのが……」
「そうかもしれません。この背中にある傷は、たしかにかんざしの脚でさしたものにちがいありませんが、しかし、だんな、首筋の傷は、かんざしじゃありませんぜ。これは、よく切れる刃物でえぐったものです」
「なるほど。すると、下手人はふたりか?」
「そうですね。かんざしの傷と刃物の傷、傷口はふたいろあるところをみると、そう思われますが、まだまだふしぎなことがありますぜ。この脾腹にある痣は、こりゃどうしたものでしょう」
「親分、その脾腹の痣は当て身というやつじゃありませんか」
 甚五郎もそれにちがいないと断言した。
 それはたしかに、こぶしでつよく当てられた跡にちがいなかったが、そうなると疑わしいのは剣客の磯貝秋帆。これだけみごとな当て身の腕を持っているのは、一座のなかに秋帆よりほかになかった。
「親分、すると下手人は三人で、秋帆もその仲間でっかいな」
「ふむ、どうもおかしいな。それに、このみみずばれだ。まだ新しいところをみると、ついいましがたできたものにちがいねえが……」
 と、座敷のなかを見回していた佐七の目に、ふとうつったのは、薬子がおき忘れていった梓弓、佐七がそれを手にとってみると、弦(つる)のところになまなましい血の跡が……佐七はそれをみると、ぎろりと目を光らせて、弓を逆手にしたたか死体のうえに振りおろしたが、とたんに、ブーンと弦が鳴って、死体にはおなじようなみみずばれができた。
「あっ。そうすると、さっきの音は……?」
「ふむ、薬子のやつが死体をなぐりゃアがったにちがいねえ」
 と、これで傷口のいわれはあらかたわかったが、そのかわり、下手人はだれがだれやら、さっぱりわけがわからなくなった。
 当て身をあてたのが秋帆で、みみずばれは巫女の薬子、かんざしのあとは綾乃と、これではまるで七人のうちの三人までが下手人らしく思われるではないか。
「ちょっ、殺されたのが怪談作者だけあって、妙にこんがらがってきゃアがった」
 佐七はいまいましそうにつぶやいていたが、やがて思いだしたように、死骸のたもとをさぐると、取りだしたのはさっき佐七がわたした結びぶみ。佐七はしわをのばして読んでみたが、それはまことに妙な手紙だった。
 巻き紙の裏と表に、べつべつの筆跡で書いてあるのだが、まず表のほうを読んでみると、

  ——之助もそなたにすまぬすまぬと言い暮らしおり候(そうろう)。なんと申すもそなたこそは当家の嫡(ちやく)男(なん)、家(か)督(とく)をつがすべきはそなた以外にはこれなき候まま、だれがなんと申そうとも、気を大きくもって帰宅つかまつるべく候。聞けば、そなたはちかごろ卑(いや)しき芸者と同(どう)棲(せい)致しおり候とのこと、それをききつたえて、綾……。

 と、はじめと終わりの千切れた手紙からは、それだけの文句が読みとれたが、読んでいるうちに甚五郎の顔色がしだいにかわっていった。
「佐七、こりゃたしかに鵬斎翁の筆跡だぜ」
「えっ、それじゃ隠居の……?」
 佐七はおどろいたように辰と豆六と目をみかわしていたが、やがて裏をかえすと、別人の筆跡で、

  ——折しも秋の夕まぐれ、ねぐらにいそぐ鳥の声も物寂しく、宇喜大(だい)尽(じん)はつれづれに、しずの伏(ふせ)屋(や)を立ちいでしが、野(の)辺(べ)のすすきもうら枯れて、吹く風さえも諸行無常の響きあり、大尽の足はおのずから、かの塚(つか)のほとりに向かいしに、そのとき忽(こつ)然(ぜん)としてあらわれしは、夢にもわすれぬ姫の姿。おお、そなたは早(さ)乙(おと)女(め)ではないか。——

 と、この奇妙な文章はそこでプッツリ切れていたが、これをみると、こんどはうらなりの豆六が奇妙な声をあげた。
「あっ、親分、こら『薄(うす)雪(ゆき)草(ぞう)紙(し)』の一節やおまへんか」
「なんだえ、その『薄雪草紙』というのは……?」
「あれ、親分はご存じおまへんのかいな。『薄雪草紙』ちゅうのんは、そこに殺されているお化け師匠がちかごろ著(あらわ)した草双紙、世間ではえらい評判だすがな」
 草双紙通の豆六は、鼻高々といったものだが、さあ、わからなくなった。
 鵬斎翁の手紙のうらに、なんだってまた喜三治の著書の一節が書いてあるのだろう。また、これをみて、喜三治はさっきなぜあのようにおどろいたのだろう。

鏡に映る幽霊の顔
  ——家出をした嫡子又五郎の行方は——


「神崎のだんな、ちょっとこちらへ顔をかしていただきとうございます」
 しばらくしてから佐七がいった。
「ふむ、拙者になにか用事か」
「へえ。少々お尋ねいたしたいことがございますので。はなれのほうへまいりましょう。辰、豆六、おまえたちは死体のそばをはなれるな」
 と、甚五郎をともなって、はなれ座敷へやってきた人形佐七、すこしあらたまった調子で、
「だんな。あなたは鵬斎様とはご昵(じつ)懇(こん)の間柄でございましょうねえ」
「ふむ、長年わけへだてなく付き合いをねがっている」
「それじゃ、篠崎さんのお屋敷のご様子はよくおわかりと思いますが、この手紙はいったいだれにあてて書いたものでございましょうね」
「さればじゃ」
 と、甚五郎はまゆをくもらせて、
「拙者の考えるのに、これはおおかた、又五郎どのにあてたものではないかと思う」
「又五郎さまとおっしゃると?」
「鵬斎翁のご嫡男、世が世であらば、当然篠崎の家督をつぐべきご仁じゃが、数年来ゆくえがしれない。家出をなされたのでな」
「なるほど。すると、光之助さまの兄さんにあたるわけですな」
「さよう、光之助どのには腹違いの兄にあたる。又五郎どのが家出をされたのも、じつはそのことが原因で、当時、光之助どのの生母、つまり鵬斎翁には後妻、又五郎どのには継母にあたるかたが生きていられた。又五郎どのは、そのかたに義理を立てて、家督を弟の光之助どのに譲るために家出をされたと申すこと」
「へへえ、よくあるやつですね。そして、だんなは、その又五郎どのとおっしゃるかたをよくご存じですかえ」
「ふむ。そのじぶん、拙者のもとへもよく遊びにきたものだ。いま生きていれば二十七、八歳にもなろうか、気(き)性(しよう)のやさしい、涙もろい若者だったな。そうそう、草双紙がなによりも好きでな。これには鵬斎翁もにがにがしく思われて、拙者もたのまれてたびたび意見をしたものだ」
「そして、家出をなされたのちは、どうしていらっしゃるかご存じありませんか」
「知らぬな。この手紙でみると、鵬斎翁は居所を知っていられるとみえるが、世(せ)間(けん)体(てい)をはじて内緒にしていられたのであろう。そうそう、家出をされた当座、なんでも下(した)谷(や)のほうにいる昔の乳(う)母(ば)のもとに身を寄せていたということだが、その後はどうなされたか、とんとうわさをきいたことがない」
 甚五郎はそこまで話して、ふと気がついたように、
「しかし、佐七、そのことがなにか、こよいの事件に関係があると申すのか」
「さようで。あっしの考えるのにゃ、その又五郎さんの家出の一件が、こんどの事件に尾をひいているにちがいございません」
 佐七はくちびるをかみながら、じっとしばらく考え込んでいたが、そのときふと目についたのは、座敷のすみにすえてある鏡である。
 それはさっき、百物語がおわったときに、ひとりひとりのぞきにきた鏡だが、佐七の念頭をそのときさっとかすめたのは、宝井喜三治がこの部屋で、きゃっと悲鳴をあげたことだ。喜三治はなにをあのようにおどろいたのだろう。
 喜三治もこの鏡をのぞいたにちがいないが、そこになにか、かれに悲鳴をあげさせるような、かわったすがたでもうつったのだろうか。
 佐七はぼんやり鏡のまえに立ってみたが、べつにかわったこともない。そこに映っているのは、おのれの胸からうえのすがたである。
 佐七はまじまじと鏡のなかをながめていたが、そのとき、ふと目についたのは、そばにブラ下がっている一本のひも。
 佐七はなにげなくそのひもをひっぱったが、とたんにぐらりと鏡がひっくり返ったが、と同時に、佐七と甚五郎のふたりは、あっと叫んでうしろにとびのいた。
 それも道理、鏡のうらもまた鏡になっているのだが、そこにまざまざとうつっているのは、なんと片目のつぶれたさんばら髪の若者の顔。
「や、や、これは又五郎どの」
「えっ、それじゃこれが又五郎さんでございますか。だんな、あっしがさっき溜池で出会ったのも、たしかにこのひとでございましたぜ」
「ふうむ。それにしても、このすがたは……」
 甚五郎はゾッとしたようにあたりを見回したが、どこにも又五郎のすがたはみえない。それでいて鏡のなかにはちゃんと、ものすごいすがたがうつっているのである。
 佐七はわらって、
「だんな、こりゃ寄席などでよくつかう手(て)妻(づま)でさ。鏡のおきかたと黒幕で、よそにあるものがうつる仕掛けになっているんです」
 佐七はあたりを見回していたが、やがて、がらりとかたわらの押し入れをひらくと、そこに立っているのは、ものすごい形相をした等身大の蝋(ろう)人(にん)形(ぎよう)、甚五郎はぎょっとしたように二、三歩あとへとびのいたが、佐七はわらって、
「ごらんなさい。押し入れの天井にも鏡があります。この人形のすがたは、あの鏡にうつって、それからまた屋根うらの鏡にうつり、それがさっきの鏡にうつるのでございます」
「しかし……しかし……だれがこのようないたずらをしたのであろう」
「さあ、だれがしたのか知りませんが、さっき喜三治がこの部屋で悲鳴をあげたのは、こいつのすがたにおどろかされたからですよ。さあ、だんな、向こうへまいりましょう。これであらかたようすはわかりました」
 佐七にはわかったかもしれないが、甚五郎にはさっぱりわからない。きょときょとしながら、もとの座敷へかえってくると、辰と豆六があいかわらず死体の番をしている。
「おお、ご苦労ご苦労。それじゃみなさんにもう一度、この座敷へきていただいてくれ」
 佐七は自信満々たる顔色だ。

七人の容疑者
  ——だれもかも又五郎に関係がある——


 やがて、辰と豆六の案内で、鵬斎翁をはじめとして、光之助、綾乃、秋帆、亀次郎、薬子、小菊と七人の容疑者が入ってくると、
「みなさん、お待たせいたしました。これからすこしお尋ねいたしたいことがございますから、どうぞ先程の席へおつきくださいまし」
 一同は顔を見あわせながら、それでもいわれるままにさきほどの席につく。佐七をはじめこちらの四人も、もとの席に座をしめると、
「ええ、みなさん、このたびはまことにとんだことが出(しゆつ)来(たい)いたしました。みなさんもさぞご迷惑でございましょうが、神崎さまやわたしがこの場に居合わせたのもなにかの因(いん)縁(ねん)、さっそくここで下手人の詮(せん)議(ぎ)をいたしとうございますが、どなたもご異存はございますまいな」
 佐七はずらりと一同を見回したが、だれもそれについて異議を唱えるものはない。無言のまま、探るような目付きでたがいの顔をながめていたが、やがて鵬斎翁がひざをすすめると、
「佐七、するとなにか、宝井喜三治を殺したものは、この一座のなかにいると申すのか」
「はい。喜三治をのぞいた十一人。そのなかからこちらの四人を差し引いて、のこりの七人のなかに、下手人がいるにちがいございません」
 遠慮もなく、ズバリとこういい放った佐七のことばに、一座はにわかにざわざわとざわめいた。
 光之助は青白んだ顔をしてくちびるをかんでいる。綾乃はうつむいたまま、ぶるぶると鬢(びん)の毛をふるわせている。小菊はじれったそうにおくれ毛をかんでいた。
「ふうむ、これはおもしろい。下手人がこの七人のなかにいるとあるからは、ぜひとも詮議してもらわねばなるまい。のう、亀次郎、そのほうはどう思う」
 剣客の磯貝秋帆は傲(ごう)然(ぜん)たるくちぶりだった。
「さようでございますとも。このままうやむやにすまされちゃ、罪のないものが迷惑いたします。親分、ぜひとも下手人をひっくくっておくんなさい」
「佐七、だれも異存はないようだ。さあ、だれからなりと、ひとりひとり詮議してくれ」
「ありがとうございます。それでは、差し出がましゅうございますが」
 と、ずらりと七人の顔を見回した佐七は、
「もし、薬子さん、おまえさんにちょっとお尋ねいたしたいことがございますが」
 名をさされて、巫女の薬子はぎくりとしたように白髪をふるわせた。
「はい、このばばあになんぞ用事がござりますか」
「おまえさんのお住まいはどちらでございます」
「はい、わたしの住まいなら下谷の広徳寺まえ、あのへんで市子の薬子とお尋ねくだされば、だれでもよう知っておりますぞいの」
「なるほど、下谷でございますか」
 佐七はにっこり笑いながら、
「それでは、おまえさんにひとつのお願いがございますが、きいてくださいますかえ」
「はい、わたしにできることならば——」
「できますとも。いえ、おまえさんでなければできぬことでございます。ひとつ、ここで死人の口寄せをしていただきたいので」
「死人の口寄せ——? おお、わかりました。それでは、そこに殺されている喜三治さんの口寄せをするのでございますか」
 なんでもないことといわぬばかりに、薬子が梓(あずさ)弓(ゆみ)を取り直そうとするのを、佐七はいそいで押しとどめ、
「いえ、お化け師匠の口寄せではございません。篠崎又五郎さんの口寄せをしていただきたいのです」
 篠崎又五郎という名前をきいたとたん、七人のあいだでは、またざわざわとざわめきが起こったが、わけても鵬斎翁はまゆをひそめて、
「これ、佐七、なんと申す。篠崎又五郎といえばわしの嫡男だが、それでは又五郎は死んだと申すのか」
「はい、お亡くなりでございます。したが、だんな、そのことはもうしばらくお待ちくださいまし。もし、薬子さん、あっしの願いをおききくださいますかえ」
「それはもう、おききしたいはやまやまですが、なにぶんにもこのばばあは、又五郎さんとやらいうかたをすこしも存じませんので」
「ご存じありませんか」
「はい」
「それでは、ここで又五郎さんのすがたというのをお目にかけましょう。もし、亀(かめ)廼(の)家(や)の師匠」
「へえ」
「ひとつ、おまえさんの百面相の腕前で、又五郎さんに化けてみせてくださいな」
「えっ!」
 亀廼家亀次郎はぎょっとした顔だったが、すぐにこわばった笑いをうかべ、
「親分の、なにをおっしゃるやら。いくらあっしが百面相の名人でも、見ずしらずのひとに化けることはできません」
「そうかえ。そいつはふしぎだな。それじゃどうしてさっき溜池で又五郎さんの幽霊に化けて、このおいらを待ち伏せしていたのだ」
 あざわらうような佐七のことばに、亀次郎はさっと顔色をうしなったが、それをきいて、辰と豆六もおどろいた。
「親分、それじゃ、さっき葭のなかからあらわれた幽霊というのは、この亀次郎さんで——」
「そうよ。さすがは怪談話の名人だけあってうまいものよ。はっはっは、亀次郎さん、おまえさんは昔、武家屋敷へ奉公していたといううわさだが、そのお屋敷の名は」
「えっ?」
 こんどは亀次郎ばかりではなかった。
 鵬斎翁の顔色もさっと紫色になった。佐七はジロリと横目でそれを見ながら、
「そのお屋敷の名は篠崎さま。ねえ、亀次郎さん、おまえもとんだ不忠者じゃないか、大恩うけたお主(しゆう)の若だんなの顔を知らぬなんて。はっはっは、おまえさんも芸人根性になり果てなすったか」
 あざわらうようにそういうと、こんどは綾乃のほうへ向きなおり、
「ようございます。亀次郎さんが知らぬというなら、ひとつお嬢さんにお尋ねいたしましょう。もし、綾乃さま」
「はい。——」
 綾乃の声はもう消えいりそうだった。
「おまえさんはまさか、又五郎さんを知らぬなどと、不人情なことをおっしゃいますまいね。それではおいいなずけにたいしてもうしわけがございますまいぜ」
 綾乃はそれをきくと、わっとばかりに泣き伏した。
 佐七はわざと頭をかきながら、
「ほい、しまった。これはお嬢さんのような生(き)娘(むすめ)にきくのはむりかもしれない。それじゃ小菊にきこう。おい、小菊」
「親分さん、こんどはわたしにおはちがまわりましたかえ」
 さすが意地と張りとで鳴らしたおんなだ。
 佐七を向こうにまわしても、びくともしない度胸である。
「そうよ、そのとおり。おまえの情(い)人(ろ)の又五郎さん、まさか知らぬとはいうまいね」
「ほっほっほ、なんのことかと思えば、またそのことですかえ。親分さん、又五郎さん、又五郎さんて、いったいその又五郎さんが、今夜の一件となんのかかりあいがあるんです」
「おやおや、こいつもまたはぐらかしか。こうなっちゃアしかたがない。もし、磯貝先生」
「はっはっは、佐七、こんどは拙者の番か」
「さようで。ぜひとも先生のお力をお借りいたしたいので。というのはほかでもありません、ここで又五郎さんの口寄せをいたしたいのでございますが、みんなああのこうのと、正直なことを言ってくれません。そこで先生にお尋ねいたしたいのでございますが、先生の愛(まな)弟(で)子(し)で、義兄弟の約束までした篠崎又五郎さん、ひとつそのかたの年かっこうをお教えくださいまし」
 それをきくと磯貝秋帆、にわかにからからと哄(こう)笑(しよう)した。
「佐七、そのほうは聞きしにまさる名人じゃの」
「恐れ入ります」
「しかし、それくらいわかっているなら、薬子と又五郎どのとの関係もわかっていそうなもの」
「はっはっは、これは先生、恐れ入りました。もし、薬子さん、磯貝先生もああおっしゃる。こうなったら又五郎さんをしらぬなどと、へたなしらを切らないで、むかし又五郎さんの乳母をしていたと、いさぎよう白状なさいましな」
 これには神崎甚五郎をはじめとして、辰と豆六もあいた口がふさがらない。
 わけても甚五郎は、あっけにとられて、
「佐七、佐七、それではなにか。ここにいられる七人のご仁は、ことごとく、又五郎どのとじっこんの間柄か」
「はい、いま、お聞きのとおりでございます」
「しかし、親分、それと今夜の人殺しと、どういう関係がございますので」
「そやそや、ここにいる七人が、みな又五郎さんとやらと懇意やとしても、宝井喜三治を殺したんはいったいだれだんねん」
 佐七はにんまり笑って、
「だれかれということはねえ、七人全部が下手人よ」
「げっ?」
「佐七、そ、そりゃまことのことか。しかし、この七人がなにゆえあって——」
「又五郎さんの敵(かたき)討(う)ちをしたのでございますよ。又五郎さんは去年の秋、溜池の葭のなかで宝井喜三治に殺されたんです。鵬斎さんがつりをしていたそのそばで……」
 それをきくと、篠崎鵬斎、老眼に涙をうかべて、黙然と首をうなだれた。むこうのほうでは綾乃の世にも悲しげなすすりなき。それをきくと、さすが強気の芸者の小菊も、意地も張りも抜けはてたように、つと綾乃のそばに立ちよると、
「お嬢さま!」
 肩に手をかけ、これまた堰(せき)を切ったように、わっとその場に泣き伏した。

あっぱれ人形佐七の明察
  ——宝井喜三治は拙者が手討ちにした——


 神崎甚五郎はあっけにとられて、しばらく目をしろくろさせていたが、やがてやっと正気にもどると、
「佐七、佐七、しかし、わからぬではないか。あの暗がりのなかで、七人がかわるがわる喜三治をさしたとしても、そのあいだ、喜三治はなぜ声を立てなかったのだろう」
「はっはっは、そりゃ声を立てるはずはありません。喜三治はあのとき、すでに息がとまっていたんですもの」
「なに、息がとまっていた?」
「さようで。だんなは喜三治のみぞおちに黒い痣(あざ)があったのを覚えておいででございましょう。あれでございます」
 と、佐七は秋帆と亀次郎の顔を見比べながら、
「さきほど、喜三治は、はなれ座敷できゃっと悲鳴をあげましたね。あれはね、鏡のなかにうつっている又五郎さんのすがたにおどろいたからでございますが、そのとき、はなれへかけつけたのは、磯貝先生と亀次郎さん、喜三治がぶるぶる震えているところへ、磯貝先生がどんと一発、当て身で息をとめておいたのです。そして、ふたりで喜三治をこの座敷へかついできたんですよ」
「しかし、あのとき、喜三治はたしか口を利きましたぜ」
「そやそや、すこし気分が悪いとかなんとか言いましたやないか」
「はっはっは、そりゃ亀廼家の師匠の声(こわ)色(いろ)よ」
「げっ、声色?」
「そうよ、亀廼家の師匠のとくいは、百面相のほかに声色の吹き寄せ。それでまんまといっぱい食わしたのよ」
「ふうむ」
 甚五郎はいまさらのごとく七人の顔を見渡したが、だれひとり異議を申し立てるものもないところをみると、佐七の明察はいちいち肯(こう)綮(けい)をうがっているとみえる。
 佐七はなおもことばをつづけて、
「あっしゃそのことから、磯貝先生と亀廼家の師匠が、この一件に関係があるとにらみましたが、それにしてもあの鏡のからくり、あっしがみたときはふつうの鏡でございました。あっしのつぎには辰と豆六、それから神崎のだんなもおのぞきになったはずだが、だれもなんともいわなかったところをみると、あんな幽霊の影なんかうつっていなかったにちがいない。それが喜三治の番になってから、ああいう影がうつっていたとしたら、そのまえに鏡をのぞきにいった小菊が、あのからくりを用意しておいたのにちがいない。そうすると、小菊もこの一件に関係があるということになる。こうして七人のうち三人まで喜三治殺しに関係があるとすれば、あとの四人もやっぱり関係があるのじゃないか、と思っているところへ、神崎のだんなからきいた又五郎さんのこと。さっきの手紙は、どうやら、その又五郎さんへ鵬斎さまがお書きになったものらしく、しかも、そこに又五郎さんが芸者と同(どう)棲(せい)していると書いてございます。その芸者というのは小菊ではあるまいか。また、それをききつたえて、綾——というところで手紙は切れておりますが、これは綾乃さまが悲しんでいるというふうに、文章が続くのではなかろうかと、こう考えてくると、だれもかれも又五郎さんに関係がありそうに思われる。そこでまあ、いささか当てずっぽうながら、さっきのようなことを申し上げたら、それがあたって、とんだお慰みというところでございました」
 淡々として語る佐七の物語に、一同はいまさらのように舌をまいて感嘆した。
「しかし、佐七、喜三治がまたなにゆえあって又五郎どのを……」
 甚五郎にはまだなっとくがいきかねる。ふしんらしくまゆをひそめるのをみて、佐七はにっこり、ふところから取りだしたのはさっきの手紙だ。
「だんな、そのしさいはこの手紙がよく物語ってくれます。この手紙のうらに書いてあるのは、喜三治がちかごろ著した『薄雪草紙』の草稿でございますよ」
「ふむ。しかし、それがどうしたというのだ」
「だんな、考えてもごらんなさいまし。鵬斎さまから又五郎さまへあてた手紙のうらに、喜三治が草稿を書くはずはないじゃございませんか。してみれば、この草稿こそは又五郎さまがお書きになったもの。つまり、『薄雪草紙』のまことの著者は又五郎さま、宝井喜三治はそれを盗んだのでございます」
 豆六はこれをきくとあっとばかりにおどろいた。なにせこの豆六とくると大の草双紙通、それだけに、他人の草稿をぬすんだ喜三治に、はげしく憎悪をかんじたらしい。
「それなら親分、あの喜三治というやつは、まやかしもんだしたんかいな」
「そうよ。この『薄雪草紙』ばかりじゃねえ。ちかごろ評判のよいあいつの著作は、おおかた又五郎さんの筆になったものにちがいねえ。又五郎さんは家出をして、好きな著作で身をたてようとしなすった。しかし、そのみちにつてがないところから、宝井喜三治にその紹介をおたのみになったのだ。ところが、喜三治のやつ、ひきょうにもその草稿をじぶんのものにするために、又五郎さんを溜池へおびきだし、バッサリ殺してしまったのだ。鵬斎さま、あっしの申し上げるところに間違いがございますかえ」
 鵬斎はそれをきくと、はじめてにっこり笑(え)みをうかべた。
「おお、佐七、そのほうはききしにまさる名人じゃの。じぶんのせがれをみすみすそばで殺されたおれの心中察してくれ」
 鵬斎はしばらく息をのみ、
「こんどのことも、おれひとりで処分するつもりだったが、ここにいる六人のものは、ことごとく生前又五郎を愛してくれたひとたちばかり。憎いかたきの宝井喜三治に、一太刀なりと恨みをはらしたいと申さるるゆえ、思いついたのが今夜の趣向。しかし、七人が寄ってたかってひとしれず喜三治を殺すのはあまりひきょうと思ったゆえ、神崎はじめそのほうを招いた。そのほうに見あらわされるか見あらわされぬか、それを運のわかれ目にしたかったのじゃ」
 鵬斎翁は暗然としてことばをのんだが、やがてまた口をひらくと、
「しかし、こうしてまんまと見あらわされたからにはぜひもない。神崎、このうえの情けには、ここにいる六人のものはなにごともしらぬということにしてもらいたい。万事はこのおいぼれひとりの仕(し)業(わざ)じゃとな……」
 そこまでいったかと思うと、あなや、篠崎鵬斎翁は、がっくりまえへ突っ伏した。それとみておどろいた甚五郎、すそをさばいてつつうと老人のそばへ寄ったが、
「おお、こ、こりゃ陰(かげ)腹(ばら)を」
「え、陰腹を?」
 一同がはっとして立ちあがろうとするのを、甚五郎は両手でおさえて、
「これ、みなのもの、騒ぐでないぞ。篠崎鵬斎翁はこよいにわかに頓(とん)死(し)なされた」
 と、意味ありげに喜三治の死体に目をやりながら、
「お化け師匠の宝井喜三治は、無礼のかどあって拙者が手打ちにいたした。よいか、わかったか」
 おさえつけるような甚五郎のことばに、一同ははっと平伏した。
 外ではまだ雨が降っているらしい。ビショビショという寂しい音が、鵬斎翁の最期をいたむかのように。
 夏ももうおわりである。

彫(ほり)物(もの)師(し)の娘

浮世床うわさの種まき
  ——いよいよ真打ちのお出ましだぜ—— 


 式(しき)亭(てい)三馬の『浮世床』をみると、町内の暇(ひま)人(じん)たちが髪結い床におおぜいあつまって、表をとおる新造や娘の品定めやなんかやるところを、おもしろおかしく書いてあることは、みなさんせんこく御承知だろう。
 なるほど、娯楽施設や、社交機関のすくなかった江戸時代では、髪結い床などが、さしずめ、いちばん安直にして、かつ、気のおけない社交場だったにちがいない。
 なにしろ、当時は、女はめいめいてんでにじぶんで髪を結った。
 だから、髪結い床はもっぱら野郎専門、女人禁制の聖地みたいなもんだから、日ごろ、かかあのしりにしかれているようないくじのない野郎でも、ここへくると矢でも鉄砲でも持ってこいとばかりに、大きな口がきけるというもの。
 いい気になって、さんざん女房のたな卸(おろ)しをやってのけ、亭主関白風をふかせて、大いに溜(りゆう)飲(いん)をさげたところまではよかったが、ここに卑劣なる裏切り者ありて、そのことが筒抜けに、かみさんにきこえたから、さあたいへん。
 あわれ、三日三晩、飯もくわせてもらえなかったのは、まだなんとか、てんや物でまにあわせるとしても、夜、臥(ふし)床(ど)をともにしても、くるりとおしりをむけられて、哀訴嘆願もついにおよばず、わかい身空のこととて、そのひもじさ身魂に徹し、いまさらのように山の神の御威光に恐れいったというような、だらしないのもあったそうである。
 さて、ここは神田鎌(かま)倉(くら)河(が)岸(し)のほとり、表の腰高障(しよう)子(じ)に、伊(い)勢(せ)海(え)老(び)が威勢よくはねているところを大きく描いてあるところから、ひとよんで海(え)老(び)床(どこ)というのは、亭主の清七というのがめっぽう愛想がいいところから、いつのぞいてみても、暇もてあました近所の衆が三人や五人、とぐろをまいていないことはないという、野郎どものいいたまり場になっている。
 きょうもきょうとて、町内の熊(くま)さん八つぁんはいうにおよばず、横町のご隠居まであいあつまり、飛鳥(あすか)山(やま)の桜が咲いたそうなが、向(むこう)島(じま)はまだはやいらしいと、いうようなところまではよかったが、そういえば、吉(よし)原(わら)は仲の町の夜桜がみごとだそうな、そのうちみんなで押しかけようじゃないか、ということになってくるから、世の山の神連中たるもの、おさおさ油断がならぬというものである。
 こうして、ひとしきり、わやわや、がやがやと、よからぬ相談に悦にいっていたが、やがて、一同憮(ぶ)然(ぜん)たるかおを見合わせたというのは、ないそでは振れぬ!
 なあに、ないそでが振れぬことぐらいははじめからわかっている。あるそでが振れるくらいなら、だれが髪結い床などにとぐろを巻いているものか。
 さすがに一同、ちょっとシュンとしたが、そこはのんきな熊さん八つぁんのこと、すぐに話題をてんじると、れいによってれいのごとく、表をとおる娘、新造のしなさだめ。
「や、きたぜ、きたぜ。おい、みんな、ちょっとみや。むこうから魚十の娘のお福がやってきたぜ」
「ああ、お福だ、お福だ。しかし、熊さん、そのお福がどうかしたかえ」
「あれ、あんなこといってるよ。それじゃ八つぁんはしらねえのか」
「しらねえのかとは、なんのこった」
「ほら、去年の秋にお福のところへ、河岸から養子がきたってことさ」
「べらぼうめ。それくれえのこと、しらねえでどうするもんか。いいじゃねえか、お福ももう年ごろ、それにひとり娘ときている。ご面相はあんまりゾッとしねえが、たで食う虫もすきずきといわあ。養子がきたってふしぎはあるめえ」
「あれ、あんなこといってるぜ。だから、てめえの目は節穴同然だといわれるんだ」
「なによ、この野郎。なんでおれの目が節穴だ。あんまりひとを白(こ)痴(け)にしやアがると、たとえあいてが熊公でも承知しねえぞ」
「なによ、この野郎!」
 いやはや、たいへんなことになったもので、売りことばに買いことばとは、このことだろう、あわやつかみあいのけんかにならんずけんまくだったが、そこへ割ってはいったのが、あいきょうものでとおっている亭主の清七。
 お客人の髪を結いながら、
「これさ、これさ、どうしたものさ。日ごろ仲よしのおまえさんがたが腕まくりなどして、みっともねえ。それに、熊さんもことばが過ぎるよ。なぜ、八つぁんの目が節穴だえ」
「あれ、親方まであんなこといってるぜ」
「あんなこととは……?」
「ちょっとお福のおなかを見てみろよ。ありゃもう、そろそろ五(いつ)月(つき)だぜ」
 いわれて一同、あっとばかりに目をみはった。
「お、なアるほど。大きい、大きい、たしかに大きい。三(み)月(つき)四(よ)月(つき)はそででもかくすというが、あの大きさじゃ、たしかに五月だ」
「だろう。あの養子がきたなあ、去年の秋の十月のこった。とすると、夫婦(めおと)になって五月たつやたたずにあのおなか……」
「チキショウ、養子め、はええことやりやがった。くそいまいましい」
 ひとの疝(せん)気(き)を頭痛にやむとはこのことか、八つぁん、妙なところでくやしがっている。
「ウップ、あれみねえ。団子っ鼻をまっ白にぬたくってよ。だれにみしょとて紅(べに)かねつけよか。あれで、鼻筋がとおってみえると思っているんだからかわいいよ」
「いや、お福さん、いつみても福々しいな。ふっくらとおふとりあそばして、さぞや養子も抱きがいがあるだろう。あの、まあ、おしりのみごとなこと」
「おしりもみごとだが、あれで腹がせりだしてきてみねえ。まるでふぐだアね」
 口に税はかからぬというが、ほかの客までひざのりだして、てんでかってなたな卸(おろ)し。これじゃ女たるもの、うっかり髪結い床のまえは通れない。
 八つぁんもいまやすっかりきげんがなおったのはよかったが、調子にのって身を乗りだし、
「なるほど、魚屋の娘だけあって、そのお名もおフグとおいでなすったか。ひとつ、からかってやろうじゃねえか。やアい。おフグやあい」
 と、どなろうとするそばから、あわてて口をふさいだのが熊さんで、
「おい、よせよ、よせよ。養子というのが河岸からきたおっそろしく鉄(てつ)火(か)な男だというぜ。うっかりからかうと、向こうはち巻きで、あとからどんなしりをもちこまれるかしれたもんじゃアねえぜ」
「おっと、そいつはおっかない」
 こうして、わいわいいってるところへ、かたわらより声あり、
「えへん、諸君、あれを見たまえ。いよいよ、真打ちのお出ましだぜ」
 さても、真打ちとはなにごとならんか……なアんて気取るほどのことでもないが、かくて海老床の周辺は、ますます喧(けん)噪(そう)の度をくわえていくのである。

ふたりお信(し)乃(の)
  ——まことに珍妙な一件であアる——


「なんだ、なんだ、源さん、真打ちたアなんのこった」
「あれ、八つぁん、おまえさん、あれをしらねえのか。むこうからくるふたりづれ、あれがおまえさん、いま評判のたかい伊(い)丹(たみ)屋(や)のふたりお信(し)乃(の)だ」
「お、なアるほど、あのふたりがそうか」
 八つぁんが身を乗りだしてうなれば、熊さんもそばから相づちうって、
「そうそう、そういやアうわさにゃきいていたが、お目にかかるのはいまはじめてだ。こう見たところが、いずれがあやめかきつばた……」
「そろいもそろってべっぴんだが、あれで、どちらかひとりは偽(にせ)物(もの)なんだってね」
「そうよ、だから、ちかごろ伊丹屋じゃ、だんなも隠居も頭痛はち巻きさあね」
 源さんいよいよ得意になり、
「なにせ、真偽のみわけがつかねえうちは、どっちをたたき出すわけにもいかねえからな」
「そりゃアそうだ。たたき出したほうが本物だったひにゃ、目も当てられねえからな」
「さあ、そこだよ、熊さん。だから、みすみすひとりは偽物とわかっていながら、わけへだてのねえようにと、衣装、持ちもの、髪飾りまで、おそろいにしておくというわけさ」
「そいつは伊丹屋もとんだものいりだアな」
「そりゃア、伊丹屋ほどの身(しん)上(しよう)だから、それくらいのものいりはへっちゃらだろうが、いつまでたってもらちのあかねえのには弱っているとさあ」
「しかし、世のなかもおっかなくなったもんだな。あんなきれいな顔をしていて、ひとりは女天(てん)一(いち)坊(ぼう)たア、これまったく澆(ぎよう)季(き)の世だアな」
「ちっ、お株をいってやアがる」
 などと、源さんを中心に、八つぁん、熊さんその他大勢ががやがや騒いでいるのを、さっきからそれとはなしに利(き)き耳立てているふたりづれ。
 このふたりづれとはそも何者ぞ……。
 なアんて、ひらきなおるほどの人物じゃないが、これぞみなさま先刻ご承知の、神田お玉が池は佐七の身内、きんちゃくの辰と、うらなりの豆六であることは、いまさら、ここで申し上げるまでもござるまい。
 辰と豆六は中仕切りのおくで、しんねりむっつりヘボ将棋によねんがなかったが、わいわい騒ぐ連中の声が耳にはいると、
「おい、ちょっと、源さんや、さっきからきいていると、なにやらおもしろそうな話じゃないか」
「そして、そのふたりの娘はん、伊丹屋はんの娘はんちゅうのんは、どこにいやはりまんねん」
 ヘボ将棋もどうやら一段落ついたかして、中仕切りのおくから立ってくるふたりの顔をみて、
「おや、これはお玉が池の兄さんたち。おまえさんたちもそこにおいでなすったのか」
 と、ふりかえった源さんというのは、このかいわいきっての金(かな)棒(ぼう)引(ひ)き。つまり、いまのことばでいえば、さしずめ放送局みたいな男である。
 なにせ、この男に聞けば、どこそこのかかあは、ことしもまた中(ちゆう) 条(じよう) 流(りゆう)のおせわになって、腹の子を水にしたらしいの、どこそこの嫁は、あんまりわきががひどいので、ちかく離縁になるらしいのと、神(しん)祇(ぎ)釈教恋離別、すべてこれ、たなごころをさすがごとしという人物。
 現代にいきて、三文週刊誌の記者でもやらせておけば、しょっちゅう特(とく)種(だね)賞にありつくこと疑いなしだが、そのかわり、名誉毀(き)損(そん)でうったえられることもまた頻(ひん)々(ぴん)という、まことにけんのん千万なおしゃべり男の子。
「べらぼうめ、からすの鳴かぬ日はあれど、この辰つぁんと豆さんが、海老床に錨(いかり)をおろさねえ日はねえと思いねえ」
「さよさよ。わてらのすがたがここに見えん日は、脛(すね)に傷もつ連中は戦々恐々やと思といておくれやすや」
「そうすると、きょうあたりは、天下の大悪人も、まくらをたかくして寝てるってわけかえ」
 と、そばからだれかが混ぜっかえせば、
「まあ、そう思っていてまちがいはあるめえ。いや、しかし、冗談はさておいて、いまの話の娘というのは……」
 辰は外をのぞいてみて、
「ああ、むこうからやってくるあのふたりづれがそうか」
 と、目をとめたのはふたりの娘である。
 どっちもとしは十九か二十(はたち)、いっぽうは面(おも)長(なが)、いっぽうは丸ぽちゃと、おもむきこそちがっているが、どっちがどっちともいえない器量。
 それが帯から着物から、頭の髪飾りから、履(はき)物(もの)にいたるまで、すんぶんちがわぬなりかたちときているのだから、これじゃ、道行くひとびとが、いちいち目をとめてみるのもむりはない。
 ところで、この二人娘。
 双生児のように、そろいの衣装をきているのだから、さぞ仲がよろしかろうと思いのほか、これがおおきに見当ちがい、ふたりならんで歩きながらも、おりおり顔を見合わせては、下くちびるをつき出して、ピ、ピ、ピイ。いや、いい娘のやることじゃない。
 さて、その娘たちのあとからもうひとり、かわいい娘がついてくる。
 これはとしごろ十四か五、まだ肩(かた)揚(あ)げもとれぬ小娘だが、髪をおたばこ盆に結っているのがあどけなく、おっとりして上品な娘だ。
 さて、衆人環視のうちに三人の娘は、海老床のまえまでさしかかったが、そのとき、どういうわけか面長娘が、石かなんかにつまずいてよろける拍(ひよう)子(し)に、丸ぽちゃ娘にぶつかったからたまらない。
「あれ、なにをおしだえ、けがらわしい」
 と、吐きだすような丸ぽちゃのことばに、面長娘はきりりと柳(りゆう)眉(び)をさかだてた。
「あれ、なんですって? けがらわしいとは何事です。あたしがなんでけがらわしい」
「けがらわしいもいいところじゃありませんか。どこの馬の骨とも、牛の骨ともわからぬぶんざいで、伊丹屋の孫娘がきいてあきれる。大かたりの大ぬすっととは、おまえさんのことだからおぼえておいでよ」
「あれ、まあ、くやしい。大かたりの、大ぬすっととは、おまえさんこそそうじゃないか。伊丹屋の孫娘、お信乃というのはこのあたしだよ。亡くなったあたしのおとっつぁんが、丹精こめてほってくだすった彫り物がなにより証拠。おまえさんこそ、化けそこなった雌(め)ぎつねだよ。雌ぎつねめ、とっとと消えておなくなり」
「なにをいってるのさ。その彫り勝はあたしの父さん、あたしの背中の彫り物こそ、名人彫り勝のかたみなんだよ。ええ、もう、けがらわしい、この大かたりの大ぬすっとめ」
 と、いい娘が往来なかでつかみあいをはじめんばかりのけんまくに、さすがにむらがる野次馬連中も、あいた口がふさがらない。
 そのとき、うしろにひかえていた小娘が、あさましそうに涙ぐんで、
「あれ、まあ、姉さん」
 と、ふたりのあいだに割ってはいった。
「いったい、これはなにごとです。たかがよろけてぶつかったぐらいのことで、あまりといえばあまりのいさかい、さあさあ、きげんをなおして、仲よくあたしといっしょに、かえってください」
「おや、まあ、ほんとにあたしとしたことが……お浜ちゃん、堪忍しておくれ。あたしは胸をさすっている気だのに、この大かたりめが……」
「お浜ちゃん、そんな雌ぎつねのいうことを、ほんとにするんじゃありませんよ。ほんとのお信乃はこのわたし、さあさ、このお信乃と手をひいて……」
「いいえ、お浜ちゃん、お信乃というのはこのあたしだよ。さあ、手をひいてあげましょう」
「いいえ、あたしが……」
「いいえ、あたしが……」
「あれ、また、姉さんとしたことが。それじゃふたりで両方から、あたしの手をひいてください。さあ、少しも早うかえりましょう」
 と、おたばこ盆を中心に、三人手をひいていくすがたを見送って、わいわい騒ぐ野次馬とはべつに、辰と豆六は、あっけにとられた顔を見合わせた。
「おい、兄い、ありゃアいったいなんのざまだ。いまききゃア、ふたりとも背中の彫り物がどうしたとかこうしたとかいっていたが……」
「あんな殊勝な顔をしていて、あいつら背中に入れ墨(ずみ)をしてまんのんか」
 ときかれて、金棒引きの源さんは、ここぞとばかりにひざを乗りだした。
「まあ、兄いたち、きいてください。これにはふかい子(し)細(さい)があるんです」
 と、もっともらしく語りだした話をきけば、これ、まことに珍妙な一件だった。

芳流閣信(し)乃(の)の血戦
  ——あらわれいでたる二人お信乃——


 話はいまから二十五年の昔にさかのぼる。
 鎌倉河岸でも名だかい老舗(しにせ)、伊丹屋市(いち)兵(べ)衛(え)には子どもがふたりあって、姉をお房、弟を徳(とく)兵(べ)衛(え)といったが、当時姉は十八、弟の徳兵衛は十一だった。
 ところで、姉のお房は、かいわいでも評判の器量よしだったが、箱入り娘に虫がつきやすく、いつのまにやら男ができていた。
 しかも、その男というのが、ひとの膚(はだ)に墨を入れるをなりわいとする彫り物師だというのだから、おやじの市兵衛がおどろいたのもむりはない。
 彫り物師といえば、いずれ火消し人足や、駕(か)籠(ご)かきなどの膚に、彫り物をするのがしょうばい。かたぎのあきうどの婿(むこ)としては、これほどふつりあいなものはない。
 そこで、親の市兵衛は泣いてお房をいさめた。かきくどいた。
 しかし、恋にくるった年ごろの娘が、なんで親のいさめなどきこう。
 ある日、とうとう家をぬけだし、男と手に手をとって、駆け落ちしてしまったのである。
 これがいまから二十五年まえの話で、男の名は勝五郎、俗に彫り勝とよばれ、そのじぶん、二十四か五の、苦(にが)みばしったいい若者だったが、彫り物にかけては、日本一とうたわれていたという。
 さて、親もとを駆け落ちしたお房勝五郎、お江戸ばかりに日は照らぬと、旅へでて、あちらに三年、こちらに五年とくらしているうちに、つぎつぎと男子が三人うまれたが、いずれも育たずに死んでしまった。
 そして、さいごにできた女の子、お信乃だけがぶじにそだって、十四のとしに、母のお房は旅の空で、あわれはかなくみまかった。
 それが、いまから六年まえのことである。
 さて、恋女房に死なれてみると、彫り勝もきゅうに旅の空が身にしみた。故郷忘れがたしというやつである。
 そこで、お信乃をひきつれて、江戸へまいもどってきたのがその翌年。すなわち、いまから五年まえ。
 お信乃が十五の春だったが、故郷へかえって、気のゆるみでもでたのか、それからまもなく、彫り勝はどっとわずらいついたらしい。
 そして、命(めい)旦(たん)夕(せき)にせまるというところになって、はじめて、伊丹屋へ手紙を書いたのである。
 そのじぶん、市兵衛は、お店(たな)をむすこの徳兵衛にゆずって、じぶんは気散じな、隠居の身分をたのしんでいたが、忘れようとしても忘れることができないのは、娘お房のことである。
 不孝な子ほどかわいいたとえで、どうかすると、老いのくりごとにでることが多かったが、そこへきたのが彫り勝の手紙である。
 それによると、お房が去年みまかったこと。じぶんも命旦夕にせまっているが、気にかかるのは、お房とのあいだにできたお信乃のこと。どうかそちらで引き取って、養育してはくれまいかというのである。
 それをよんで、市兵衛は、孫かわいさに、とびたつ思いであったが、やれ待てしばしと思いなおした。
 氏(うじ)より育ちということがある。
 うまれ落ちてから、旅から旅へと、さすらいあるいた孫娘である。
 どのような人間になったかと思えば心もとなく、うっかりひとにも語られぬ。
 ここはいちどじぶんの目で、よくにんていを見さだめたうえでのことと、だれにもはなさず市兵衛は、こっそり孫を見にいったが、そこでかれは、肝(きも)をつぶすようなものを見たのである。
 そのころ、彫り勝は、今戸の河(か)岸(し)っぷちに住んでいたが、そのあばら家のうらっかわ、やぶれたかきねからなかをのぞいた市兵衛の目にうつったのは、もろ膚ぬぎで、せんたくをしている小娘のすがたであった。
 暑い夏のさかりのことだから、もろ膚ぬぎはまだよいとして、おどろいたのはその背中いちめん、みごとに彫られた彫り物である。
 それはどうやら当時の評判小説、『八犬伝』の一場面、芳(ほう)流(りゆう)閣(かく)の屋上は、犬(いぬ)塚(づか)信(し)乃(の)と犬(いぬ)飼(かい)現(げん)八(ぱち)の血戦の場の、信乃の絵らしかったから、これを見てものがたい市兵衛が、きもをつぶしたのもむりはない。
 曲(きよく)亭(てい)主人馬琴先生が、『南総里見八犬伝』の稿を起こしたのは文化十年だから、佐七が『羽(は)子(ご)板(いた)娘(むすめ)』の一件で、パッと世間に売り出した文化十二年の前々年に当たっている。
 この『八犬伝』が当たりに当たって、馬琴はついに、読み本界の第一人者にまつりあげられたのだが、それだけに、馬琴がこの大作についやした労苦はたいへんなもので、文化十年に稿を起こし、天(てん)保(ぽう)十二年、全九十八巻、百六冊をもって完結するまで、じつに二十八年の長きにわたっている。
 文化と天保とのあいだには、文政がはさまっている。
『八犬伝』のなかでも、随一の名場面といわれる芳流閣は信乃と現八の血戦の場は、文政二年に発行された第三集に収められている。
 これがやんややんやと、江湖の拍手喝(かつ)采(さい)にむかえられること、あたかも現今においても『金(こん)色(じき)夜(や)叉(しや)』の熱海(あたみ)の海岸の場が、いろんなかたちで、再現されるがごとくである。
 ことに、この場は絵になる場面だから、彫り物師たちにとっては、かっこうの題材だったにちがいない。
 ものがたい市兵衛は、草双紙などにはいたってうといほうだが、それでもふろ屋の流し場などで、信乃と現八の二人立ちや、あるいは芳流閣のいらかのうえで、もろ膚ぬいだ犬塚信乃が、刀を振りあげた一人立ちの場面を色鮮やかに背中に背負った若い衆をたびたび見かけたことがあるから、この場にかんするかぎり、市兵衛も『八犬伝』にたいする知識をもっていた。
 市兵衛が孫娘の背中に、犬塚信乃の一人立ちの彫り物をかいま見たのは文政三年の秋のこと。
 なるほど、お信乃の名にちなんで、彫り勝がこういう入れ墨を彫っておいたのかしらないが、これが男の子であればまだしものこと、女の子ときているから、ものがたい市兵衛が肝をつぶしてびっくり仰天したのもむりではなかった。
 しかし、みればみるほど、その小娘は、娘のお房に生き写しだから、その子こそ孫のお信乃にちがいないとおもったものの、まえにもいったとおり、これが男の子ならばまだしものこと、背中に彫り物のあるような娘を、どうして、かたぎの家にひきとれようか……。
 市兵衛はおもいなやんだ。
 孫かわいさに心はとびたつ思いであった。
 しかし、世間の思(おも)惑(わく)、息子や嫁にたいする義理をおもうと、やれ、待てしばしと、はやる心をおさえずにはいられなかった。
 市兵衛は、あふるる涙をおさえかねながらも、心を鬼にして、そのまま、会わずにかえってしまった。
 立ち去りがたきを立ち去った。
 うしろ髪をひかれる思いであった。
 悲しみのために、はらわたも、心も、千(ち)々(ぢ)に引きちぎられんばかりであった。
 そののち、風の便りにきくところによると、あれからまもなく、彫り勝はこの世を去って、娘のお信乃は、ゆくえがしれなくなったという。
 それがいまから五年まえ、かぞえてみれば、お信乃が十五のとしのことである。
 さて、それからさらに星うつり、月かわり、夢のごとく五年の歳月がながれたが、老いの身の市兵衛、悲嘆に身をやぶったのか、ちかごろ視力をうしなった。目がみえなくなってしまったのである。
 そして、とかくひと間にとじこもるようになったが、そうなってくると、いまさらのごとく思い出されるのは、五年まえにかいまみた、あの孫娘のかわいさ、ふびんさである。
 いかに彫り物があるとはいえ、げんざいのわが孫を見捨ててきた鬼のようなおのれの所業が、あまりにも情けなく、そらおそろしく、かつはまた日増しに孫かわいさが身にせまり、さんざん思い悩んだすえに、とうとう、そのことを、せがれの徳兵衛にうちあけた。
 これをきいて、おどろいたのは徳兵衛と、その女房である。
 徳兵衛にはお里という女房とのあいだに、お浜ということし十六になる娘があるが、そのお浜がなに不自由なく育ってきたにつけても、姪(めい)のお信乃がふびんやと、女房の里にそのことを話すと、お里というのが、これまたきだてのよい女で、そんなことなら一日もはやく、お信乃さんをさがしだして引き取ってください。
 彫り物があろうがなかろうが、義(ね)姉(え)さんのわすれがたみとあれば、伊丹屋の姪、よい婿とって、のれんをわけてあげてくださいと、まことによくわかった話に、徳兵衛もいさみたって、親(しん)戚(せき)中(じゆう)にもわけを話して、手わけをして、お信乃のゆくえをさがすことになったが……。
「それが、いまから半年ほどまえのことなんです」
 と、金棒引きの源さんはことばをついで、
「ところがどうでしょう。ひと月ほどまえに、とうとうお信乃が見つかった。さいしょにそれを見つけてきたのが、伊丹屋の親戚筋にあたる宝屋万(まん)兵(べ)衛(え)というひとなんですが、これこそお信乃にまちがいないと、太鼓判をおして、ひとりの娘をつれてきたかとおもうと、それから五日とたたぬうちに、こんどは槌(つち)屋(や)千(せん)右衛(え)門(もん)といって、これまた伊丹屋の親戚が、いや、そのお信乃は偽物じゃ、これこそ本物のお信乃でござると、またぞろ、娘をつれてきたじゃありませんか」
 源さんの話に、辰と豆六は目をまるくして、
「ほほう、なるほど。それで、お信乃がふたり出現したというわけか」
「そうです、そうです。さきにきたのが面長お信乃、あとからあらわれ出でたるが丸ぽちゃお信乃。しかも、証拠の彫り物しらべをやったところが、どっちも背中に、八犬伝、芳流閣は犬塚信乃の血戦が彫ってあるんですが、なんと、おどろいたことにゃア、図柄といい、色合いといい、敷き写しにしたようにおなじなんです。だから、どっちが偽やらほんものやら見きわめかねて、伊丹屋じゃちかごろ大難渋というわけです」
 と、とくいになってまくし立てる源さんの話をききながら、辰と豆六がさっきから、目ひき、そでひき、それとなく注意をはらっているのは、上がりがまちに腰をおろして、さりげなくタバコをすいながら、こちらの話へいっしんに利き耳を立てているひとりの若者。
 としのころは二十歳前後か。色白のいい男っぷりだが、辰と豆六がそのほうへ目をやるたびに、そっと顔をそむけるそぶりが気にくわぬ。
 若者は、もっと源さんの話を聞きたかったらしいのだが、あまりジロジロふたりが見るので、しりこそばゆくなったのか、スポンとキセルを筒におさめると、だれにともなくあいさつをして、逃げるようにでていった。
 辰はうしろすがたを見送って、
「おい、いま出ていった若い衆な、あいつはこのへんのものかえ」
「あれですか。なに、ありゃア小(お)名(な)木(ぎ)川の舟宿、川(かわ)長(ちよう)の船頭で、篠(しの)太(た)郎(ろう)というんです」
「小名木川……? 小名木川といやア深川だが、そこの舟宿のものが、どうしてわざわざ、こんなとおいところまで、髪を結いにくるんだ」
「いえ、それが、川長というのはむかしから、伊丹屋の隠居というのがだいのつり好きで、それで、ひいきにしていた舟宿で、あいつもかわいがられていたもんですから、ちょくちょく見舞いにくるついでに、この店へよるんですが、そういやア、ちかごろ、月(さか)代(やき)ものびないのに、毎日のようにやってくるようですね」
 源さんの話に、辰と豆六は、なんとなく不審そうに顔を見合わせていた。

彫り若の行方
  ——床の下から白骨死体が——


「……と、そういうわけで、海老床で源さんの話をきくと、あっしは豆六といっしょに、今戸までいって、彫り勝のことをしらべてきたんですが、源さんの話にゃア、だいたいまちがいはねえようで」
「なるほど、すると、親戚のうちの宝屋万兵衛か、槌屋千右衛門のどちらかが、偽物をつれてきた、ということになるんだな」
「さよさよ。それで、どっちが偽物か、みわけがつけば文句はおまへんけんど、それがそうはいかんところに、この一件のややこしさがおまんねん」
 あれからまもなくのことである。
 鎌倉河岸の海老床をとびだした辰と豆六は、念のために、今戸河岸の、かつて彫り勝の住んでいた家の近所をしらべたうえ、お玉が池へかえってきたのである。
 佐七はふたりの話をきくと、まゆをひそめて、
「しかし、辰、豆六、伊丹屋の隠居は五年まえに、いちどお信乃を見てるんだろ。それじゃなんとかみわけがつきそうなもんじゃないか」
「親分、それがあきまへんねん。伊丹屋の隠居、ちかごろ目が見えんようになってしもてまんねん」
「あ、なアるほど。そいつはおあつらえむきだ。うまく考えやアがったな」
 佐七はしばらく考えていたが、
「それでなにかえ。彫り勝の娘のお信乃に、八犬伝は芳流閣、犬塚信乃の彫り物があったことは、まちがいのねえところだろうな」
「へえ、それはもう、まちがいございません。さっき今戸へいって調べてきたんです。なんしろ、五年まえの話だから、どうかと思ったんですが、近所のものは、よくおぼえてましたよ。お信乃さんの背中にゃ、たしかに、芳流閣の彫り物があったといってるんです。なんでもおやじの彫り勝が、余命いくばくもねえとさとったとき、一世一代の腕をふるって、娘の背中に、彫りのこしたもんだそうです」
「それじゃ、五年まえのお信乃をおぼえているやつが、今戸に生きているわけだな。そいつらに首実検をさせてもわからねえのか」
「さあ、それです。伊丹屋でもぬかりなく、彫り勝の住んでいたうちの近所のものをぜんぶあつめて首実検をさせたんだそうですが、あるものは、面長お信乃がそうだというし、またあるものは、丸ぽちゃこそお信乃にちがいねえというんだそうです。いずれは、宝屋万兵衛や槌屋千右衛門の鼻(はな)薬(ぐすり)がきいてるんだと思いますが、けっきょく、これで、てんやわんや、またしても、どっちがどっちともわからなくなっちまったんだそうで」
 佐七はまた、なにやらじっと考えこんでいたが、ふと思い出したように、
「ふたりお信乃の彫り物は、敷き写しにしたように、すっかりおなじにできているというんだな」
「へえ、そうなんです。だから、いっそう、わけがわからねえんで」
「ときに、辰、豆六」
「へえ、へえ、親分、なんだす」
「彫り勝が死んだときだが、いったい、だれがお弔(とむら)いを出したんだ」
「へえ、彫り勝のお弔いですか。さあ、そこまではきいてきませんでしたが……」
「バカ野郎。それだから、てめえたちは抜けてるというんだ。せっかく、今戸まで出向きながら、かんじんのことを聞き落としてくるたア、これがまったく、仏つくって魂入れずよ。もっと身にしみて、御用を勤めなきゃアいけねえ。と、まあ、いまんなってしかってみたところではじまらねえ。よし、それじゃ出掛けよう」
「え? 出掛けるといって、どちらへ?」
「しれたことよ。今戸へいって、だれが彫り勝のあと弔いをしたか、それを調べてこようというのよ」
「親分、そんならあんた、この一件がなにかものになると思てはるのんかいな」
「そうよ。どっちにしても、ちょっと気になる。お粂(くめ)、支度をしてくれ」
 岡(おか)っ引(ぴ)きは、これでなくては勤まらない。思いたったら、待てしばしはないのである。
 佐七はすぐに、辰と豆六をひきつれて、今戸河岸まで出向いていったが、春の日は、長いようでみじかくて、もうそのころには河岸っぷちには、そろそろ暮色がはいよって、千鳥が寒そうに餌(えさ)をあさっていた。
 佐七は二、三軒あたったすえに、そのことなら、大(おお)家(や)の治(じ)兵(へ)衛(え)さんがしっているだろうという話に、その家をたずねてみると、
「ああ、あの彫り勝のお弔いを出した男ですか。それならばよくおぼえていますよ。あれはなんでも彫り勝のむかしの弟分だとかいう男で、おなじ彫り物師仲間の若之助、一名彫り若という男でした」
 大家の治兵衛はよくおぼえていた。
「それじゃ、そいつが彫り勝のあとしまついっさいをしていったんですね」
「へえ、へえ、さようで」
「それで、なんですか。彫り勝の持ちものなんぞは、どうしたんです」
「それもいっさいがっさい、彫り若が持って、お信乃さんをつれていきましたよ。なに、持ちものたって、彫り物道具に図柄の下絵、それくらいのものでしたがね」
 図柄の下絵……ときいて、辰と豆六はおもわずハッと顔見合わせた。どうやら、佐七の心中がわかったらしいのである。彫り若の持っていった下絵のなかには、芳流閣、信乃の血戦もあったにちがいない。
「いや、よくわかりました。ときに、彫り若の住まいだが、おまえさん、ご存じじゃありませんか」
「そうですねえ。ああ、そうそう、ここを引きはらっていくとき、用事があったらここへきてくれと、所書きをおいていったが、しかし、もうかれこれ五年もまえの話ですからねえ」
 それでも、手文庫のなかをさぐっていたが、
「ありました。ありました。浅草田町の二丁目、源(げん)兵(べ)衛(え)長屋というんです。しかし、まだここに住んでおりますかどうか……」
「いや、どうもいろいろありがとう。たいへんお手間をとらせました」
 治兵衛の家をでると、
「親分、これから田町へまわってみますか」
「うむ、ついでのことだ、まわってみよう。なに、引っ越していれば、またそのときのことよ」
 と、今戸から田町へまわったじぶんには、あたりはすっかり暗くなっていた。
 そうでなくても、道幅のせまい、ゴミゴミとしたそのへんの町は、春といってもまだ膚寒く、おりから吹き出したつむじっ風をおそれて、どの家も戸をしめているので、こんなときに、夜も更けた暗がりに、はじめての家をさがすのは不便である。
 それでもやっと、源兵衛長屋というのをさがしあてて、そのほうへ曲がろうとすると、むこうからやってきた男が、いきなりどんと辰の胸にぶつかった。
「やい、気をつけろ」
「すみません。つい、急いでいるものですから……」
 そこはちょうど、そば屋のまえだった。
 おもてにかかっている行(あん)灯(どん)の灯で、いきすぎようとする男の顔をなにげなくふりかえって見た辰は、ギョッとしたように目をみはった。
「おや、おめえは小名木川の舟宿、川長の船頭、篠太郎じゃねえか」
 そう声をかけられて、あいてもハッと辰の顔を見なおしたが、
「あ、おまえさんはきょう、海老床にいた……」
 それだけいうと、篠太郎はひらりと身をひるがえして、暗やみのなかをいちもくさん、あと白(しら)浪(なみ)と逃げ出したが、いや、その逃げ足のはやいこと。
「おい、辰、いまの男をしっているのか」
「へえ、親分、こいつはちょっと変ですぜ」
 と、辰はきょうの一件をかたってきかせると、
「あいつがこのへんをうろついているというのは、おだやかじゃねえ。なにかこんどの一件に、かかりあいがあるんじゃありますまいか」
「親分、ひとつ、あとを追いかけてみまほか」
「まあ、いいや。この夜道じゃ、いまから追っかけてみてもまにあうめえ。それよりとにかく、彫り若の住まいというのをさがしてみろ」
 彫り若の住まいは、それからまもなくわかったが、いくらおとのうても返事がないので、案内に立った大家の源兵衛にきいてみると、
「それが、どうもおかしいんですよ、彫り若というのはひとりもんなんですが、ひと月ほどまえから、行方がわからないんです」
「行方がわからねえ……? どっか、旅へでも出たんじゃねえのか」
「いえ、そんなようすもないんです。彫り若のすがたがみえなくなってから、家のなかをいろいろしらべてみたんですが、商売道具もそろっており、なにもなくなってるものはなさそうなんです」
 佐七はきゅうに、胸騒ぎをおぼえはじめた。
「それじゃとにかく、家のなかを見せてもらいましょうか。なにか手がかりがあるかもしれねえ」
「へえ、へえ、それはよろしゅうございます。ちょっとお待ちなすって」
 大家は家からちょうちんに灯をいれてくると、
「さあ、ご案内をいたしましょう」
 と、さきに立って、やってきたのは彫り若の住まいのまえ、かぎを出して格(こう)子(し)をひらこうとして、
「おや」
「大家さん、どうかしましたか」
「だれか錠をねじきっていったやつがある」
「なに、錠がねじきってある?」
「へえ、どうもおかしい。暮れまえにもいちど見回ったんですが、そのときには、なんの異常もなく、こんなことはなかったのに……」
 ゴトゴトと、立てつけのわるい格子戸をあけて、なかの土間へ踏みこんだ大家の源兵衛は、ちょうちんの灯で、あたりを見まわしていたが、なに思ったのか、きゅうにあっと叫んで立ちすくんだ。
「ど、どうしました、大家さん」
「親分、ごらんください。だれかが畳をめくっていきゃアがった」
 彫り若の住まいは、土間のよこてに三畳があり、その三畳のおくが六畳になっているのだが、その六畳の畳がいちまい、めくったままになっている。
「大家さん、ちょっとちょうちんをかしてください」
 佐七は大家の手からちょうちんをうけとると、ずかずかとうえへあがっていく。
 辰と豆六もあとからつづいた。
 めくりあげた畳の下は、床板もはがしてあって、床下からつめたい風が吹きあげてくる。
 佐七はちょうちんをつっこんで、床下をのぞいていたが、ふいにギョッと息をのんだ。
 辰と豆六もまっさおになって、ガタガタふるえながら、顔を見合わせている。
 それもそのはず、床下の土のなかから、男の死体——というよりも、すでに白骨になりかけたやつが、無気味に上半身をのぞかせているのである。
「大家さん、大家さん、ちょっと見てください。おまえさん、あの着物に見おぼえはありませんか」
「へえ、な、なんでございます。お、親分、床下になにかありましたか」
 大家もうえへあがってくると、おそるおそる床下をのぞいたが、とたんに、わっとしりもちついた。
「わっ、こ、これは……」
「大家さん、大家さん、しっかりしておくんなさい。ふるえてちゃアいけねえ。よくあの着物を見てください。あれに見おぼえはありませんか」
 大家はガタガタふるえながら、もういちど、床下をのぞいてみて、
「や、や、や、こ、こりゃ彫り若だ」
 その彫り若の着物の胸には、匕(あい)首(くち)でついたような穴があり、どっぷりと血に染まっている。
「親分、それじゃ彫り若は、ひと月まえに殺されて、この床下へ埋められたんですね」
「そうらしいな。そして、ちょうどそのころ、伊丹屋へふたりのお信乃があらわれたんだ。こいつは偶然とは思えねえ。おい、豆六、なにか証拠になりそうなものはねえか。そこらじゅうさがしてみろ」
「へえ、へえ。あ、親分、あんなところになにやら切れが……ありゃ手ぬぐいじゃ……」
 なるほど、見ればいちまいめくった畳の下から、手ぬぐいのはしがのぞいている。
 豆六が畳をすこしもちあげて、とり出してひろげてみると、まだまあたらしい手ぬぐいで、まんなかに川長という字が染めだしてある。
「親分、こら、篠太郎の手ぬぐいだっせ」
「そうだ、そうだ、それじゃ、さっきすれちがった篠太郎のやつ、ここから逃げだしたにちがいねえ」
 佐七はその手ぬぐいを手にとって、しばらく考えていたが、やがてその顔には、しだいに、意味ふかい微笑がひろがっていった。

二人信乃彫り物くらべ
  ——雌ぎつねのしっぽをおさえて下さい——


「おお、なるほど、こっちが面(おも)長(なが)のお信乃さんで、そっちが丸ぽちゃのお信乃さんか。いや、いずれを見ても花あやめ、負けず劣らずうつくしいね」
 その翌日のことである。
 辰と豆六をひきつれて、鎌倉河岸の伊丹屋へ乗りこんだのは佐七である。
 ふたりお信乃の真偽のほどを見きわめて進ぜようという佐七の申し入れに、よろこんだのは隠居の市兵衛にあるじの徳兵衛。
 なにしろ、困(こう)じはてていたおりからだけに、すぐにはなれのひと間に招じいれた。
 そこで佐七の注文で、宝屋万兵衛と槌屋千右衛門が呼びよせられる。
 こうして、はなれのひと間にあつまったのは、いじょうふたりをはじめとして、ふたりお信乃に、市兵衛、徳兵衛、ほかに、徳兵衛の女房お里や、娘のお浜も、不安そうな顔をつらねていた。
 佐七はふたりお信乃を見くらべながら、
「辰、豆六、見ねえ。どっちをみても、虫もころさぬつらアしてるが、それでいて、このうちのひとりは大かたりの大ぬすっとだ。これだから女はおそろしい。おい、面長お信乃。かたりというのはおまえかえ」
「とんでもない、親分さん、あたしはたしかに彫り勝のひとり娘、お信乃でございます。かたりというのはむこうの女、あいつこそ雌(め)ぎつねでございます」
「そうとも、そうとも。この万兵衛がさがし出したお信乃こそ、まことのお信乃にちがいございません。むこうにいるのがたしかに偽物」
 宝屋万兵衛がことばをそえる横合いから、いきりたって、ひざを乗りだしたのは槌屋千右衛門。
「これ、万兵衛どの。なにをいわっしゃる。すると、わたしがかたりとぐるになって、伊丹屋の身代をなんとかしようともくろんででもいるといいなさるのか。ええい、なにをいうのじゃ。くそおもしろくもない。そういうおまえこそ、大かたりの大ぬすっととぐるになり、こちらの身代を横取りしようともくろんでいなさるのだ。親分、こっちのお信乃こそ、まことのお信乃にちがいございません。のう、信乃や」
「あい、あい、お玉が池の親分さん、あたしこそ、ほんもののお信乃にちがいございません。親分、お願いでございます。いっこくもはやく、その雌ぎつねの、しっぽをあらわしてくださいまし」
「ええい、なにをいう。おまえこそ雌ぎつねじゃ」
「いいえ、おまえこそ」
「おまえこそ」
 と、女だてらに、またしても、つかみあいになりそうなけんまくを、佐七はにが笑いをしながら見ていたが、
「いや、その真偽は、いまにおいらが、しかと見わけてやろうが、どうだ、そのまえに、おまえさんたちの彫り物を、ひとつ、おいらに見せちゃくれまいか」
 佐七のことばに、ふたりお信乃は、たがいに顔を見ていたが、やがて、面長がすすみでて、
「それはお安いことでございます。さあ、さあ、ご存分にごらんくださいまし」
 と、バラリともろ膚ぬぐのをみると、丸ぽちゃお信乃も負けてはいない。
「いいえ、親分、あたしのほうから、さきにごらんくださいまし」
 と、これまたバラリともろ膚ぬいで、どちらが真か偽かお信乃とお信乃。
 たがいにさきを争いながら、佐七にむかって背中をむけたが、とたんに、辰と豆六、ううんと、うなってしまったのである。
 玉をあざむくふたりの美女の背中いちめん、彫りも彫ったり芳流閣、犬塚信乃の血戦が、一分一厘の狂いもなく、まるで敷き写しにしたように、みごとに彫ってあるではないか。
「なるほどなア」
 佐七はにっこりあごをなでながら、
「これ、お信乃、ふたりともよくきけよ。この彫り物のどちらかは、ちかごろ彫り若という彫り物師に頼んで彫ってもらったものにちがいねえ。おい、お信乃、彫り若という名をしっているか」
 彫り若という名まえをきいて、面長も丸ぽちゃも、はっとしたように顔色かえたが、すぐさりげなく取りすますと、まず面長が口をひらいて、
「とんでもない。彫り若という名まえなど、いままできいたこともございません」
「おい、そっちのお信乃、おまえはどうだ」
「あい、あたしとてもおなじこと。そんな名まえを聞くのはいまがはじめて」
 辰と豆六はそれを聞くと、たがいに顔を見合わせて、おもわず大きく目をみはった。
 佐七の計略、図に当たったのである。
 彫り勝の娘お信乃は、おやじの死後、彫り若にひきとられたはずである。
 それをふたりがふたりとも知らぬというのは、どういうわけだろう。
 偽物のほうは知らぬとしても、ほんもののお信乃まで知らぬというのはなぜだろう。
 佐七は、しかし、にっこり笑って、
「いや、おまえたちが知らぬというならしかたがねえが、その彫り若という彫り物師はな、かわいそうに、ひと月まえにむざんに殺され、床下に埋められているのが、ゆうべはじめてわかったんだ」
 ふたりお信乃は、ギョッとしたように、たがいに顔を見合わせている。
「ところが、天(てん)網(もう)カイカイ悪いことはできねえものだ。彫り若を殺した下手人は、たいへんなものを現場にのこしていきゃアがった」
「え、たいへんなものといいますと」
「親分、なんでございます」
 と、面長お信乃も丸ぽちゃお信乃も、なんとなく不安そうに身を乗りだした。
「それが手形よ。しかも、血に染まったまっかな手形よ。ざんねんながら、その手形はべったり板壁についているので、すぐに取りはずしはできかねるが、いずれ、二、三日うちにゃア、壁をこわして、手形のついた板壁をとりはずして持ってくるつもりだ。こういうたしかな証拠があるからにゃ、彫り若殺しの下手人も、きっと、そのうちにあげてみせるぜ。そうそう、辰、豆六、あの手形は、たしかに女のようだったなア」
「へ、へえ、た、たしかに……」
「おなごはんの手形に、ちがいおまへなんだなア」
 と、とっさにあいづちは打ったものの、辰と豆六は目をしろくろ。
 男にも女にも、彫り若の家には手型などどこにものこっていなかった。

黒装束ふたり
  ——豆六は押し入れのなかで胴ぶるい——


「親分、親分、いったい、どうしたもんです。彫り若の家にゃア手形など、どこにものこっていなかったじゃありませんか」
「まあ、いいってことよ。ああいっておけば、思いあたるやつがあるはずだ」
「親分、思いあたるやつってどっちゃだんねん。面長だっか。丸ぽちゃだっか」
「さあ、どっちだろうな」
「親分、それより、ほんもののお信乃はどっちなんです。彫り物をみただけじゃ、どっちがどっちとも判断がつきませんがねえ」
「なに、それもいまにわかるだろうよ。そう、そう、辰、おまえ、ちょっと使いにいってくれ」
「へえ、どちらへですか」
「小名木川の舟宿、川長だ。ちょっと待ってくれ。一筆したためるから」
 その日の晩方のことである。
 鎌倉河岸の伊丹屋からかえってきた佐七は、しばらく思案をしたのちに、なにやら手紙をしたためると、厳重に封をして、
「いいか、これを川長の若いもの、篠太郎という男にわたしてくれ」
「親分、篠太郎になにか用があるんですか」
「いいってことよ。だまっていってこい。それを持っていけば話はわかる」
「そうですか。それじゃいってまいります」
 辰が出かけると、しばらくして、佐七も身支度をして立ちあがった。
「豆六、さあ、出かけよう」
「へえ、親分、どこへでもお供しまっけど、出かけるちゅうてどこへいきまんねん」
「なんでもいいから、つべこべいわずについてこい。しかし、あんまりおしゃべりするな。なるべく目立たねえように気をつけろ」
 と、佐七が豆六をつれてやってきたのは源兵衛長屋。もうそのころは、日もとっぷり暮れはてて、あたりはまっくらだった。
 佐七は大家の源兵衛を呼びだして、なにやらひそひそささやいていたが、やがて、大家の手から彫り若の家のかぎを受けとると、
「それじゃ、大家さん、たのんだぜ。どんなことがあっても騒がぬように……」
「おっと、親分、がってんです」
 大家とわかれて、佐七が豆六とともにやってきたのは、彫り若の住まいである。
 大家からかりてきたかぎで格子をひらくと、ふたりはなかへすべりこんだ。
 家のなかはむろんまっ暗。
 床下の死体は、検視のために、ゆうべのうちに掘りだされたものの、なんとなく無気味なかんじはあらそえない。豆六はガタガタとふるえながら、
「親分、親分、こんなとこで、いったい、なにがはじまりまんねん」
「なんでもいいからだまってろ。むやみに口をきくんじゃねえぞ」
「親分、しかし、おもての格子は……?」
「わざとああして、かぎをかけずにおいとくのよ。おっと、そうだ。裏木戸もあけておいてやろう」
 手さぐりで台所へ出て、佐七は水口の戸の掛け金をはずすと、
「さあ、これでよしだ。豆六、どこかかくれるところはねえか」
「へえ、そこに押し入れがおますけんど、あそこではいけまへんか」
「いや、結構結構。豆六、それじゃ押し入れのなかへはいろう。くどいようだが、どんなことがあっても、ぜったいに口をきくんじゃねえぞ」
 押し入れのなかはくもの巣だらけ。そうでなくとも、うじのわきそうな男所帯。
 よごれものやなんか、そのままつっこんであるところへ、長いあいだ締めきったままになっていたのだから、男の垢(あか)とカビのにおいで、春の夜(よ)寒(さむ)とはいえ、むっと息詰まるようなかんじである。
 佐七と豆六はそういうなかで、息をころして何者かを待っている。
 岡っ引きとして、なにがつらいといって、こういう張りこみほどつらいものはない。
 待たるるとも、待つ身になるな、ということばがある。が、待ち人がくるときまっていればまだしものこと、くるかこないかわからぬものを待ちうけているのだから、こんなじれったい思いはない。
 そうでなくとも、おしゃべりの豆六は、なにかいいたくてたまらないが、ぜったいに口をきいてはならぬという佐七の厳命に、さっきから口のなかがムズムズして、つばがいっぱいたまるのである。
 だが……。
 そういう難(なん)行(ぎよう)苦(く)行(ぎよう)も、ついに報われるときがきた。
 待つことおよそ三(さん)刻(とき)(六時間)あまり、九つ(午前零時)ごろになって、だれやら裏手のほうへ忍びよる足音に、こくりこくりと舟をこぎはじめていた豆六も、はっとばかりに目をさました。
 足音は水口のまえにとまったきり、しばらく音を立てなかったが、やがてギイと木戸をひらく音。
 気のせいか、つめたい風が、押し入れのなかまで吹きこんでくる。
「お、親分……」
「しっ、口をきくんじゃねえ」
 押し入れのなかで、ふたりの男が、息をころしてうかがっていると知るやしらずや、やがて、だれか台所へはいってきたらしく、ほのかな光がふすまのすきから押し入れのなかへさしこんできた。どうやら、あいては、ふところぢょうちんを用意しているらしい。
 やがて、くせ者は台所から六畳の間へはいってきた。豆六がそっと、ふすまのすきからのぞいてみると、くせ者はくろい筒そでにくろいたっつけ。
 おまけに、くろい頭(ず)巾(きん)をかぶっているので、どこの何者ともわからない。まるで忍びのすがたである。
 さて、黒装束のくせ者は、ふところぢょうちんをかかげて、家のなかを調べてまわる。かれの調べているのは、どうやら、四方の板壁らしいのである。
 あまり、度胸のあるやつではないとみえて、風の音、ねずみのさわぐ物音にも、いちいちびくついているのが笑止なようである。
 豆六はそっと佐七のたもとをひいた。もういいかげんにとび出して、ひっとらえてはどうかという合図である。佐七はしかし、なにか考えるところがあるのか、豆六の合図にとりあわない。
 と、ふいに黒装束があわてはじめた。
 きょろきょろ、あたりを見まわしていたが、気がついたように、ふところぢょうちんを吹き消したから、あたりは漆(うるし)のようなまっくらがり。
 豆六ははてなと首をひねったが、すぐ、黒装束のあわてたわけがわかった。
 そのとき、またもやこの家にちかづいてくる忍びやかなひとつの足音。しかも、こんどは表からである。
 足音は格子のまえにとまって、しばらく、あたりのようすをうかがっているらしかったが、やがて、そろりそろりと格子をひらく音。
 そして、またもや押し入れのなかへ、ほのかな光がさしこんできたので、豆六がふすまのすきからのぞいてみると、なんとそいつも、くろい筒そでにくろいたっつけ。おまけに、くろい頭巾でおもてをつつんで、たかだかと、ふところぢょうちんをかかげているではないか。
 豆六は、あいた口がふさがらなかった。

第三の彫り物
  ——意外とも意外、お信乃の正体——


 第二のくせ者もちょうちんをかかげて、家のなかを調べていたが、そのときである。とつじょ、くらやみのなかからおどり出したのは、くせ者第一号。匕(あい)首(くち)さかてに、いきなりくせ者第二号の、土手っ腹をえぐったからたまらない。
「キャッ」
 とさけんでくせ者第二号がその場にどうと倒れたから、おどろいたのは佐七と豆六。
「くせ者、御用だ」
 と、押し入れのなかからとび出したから、びっくり仰天したのは、くせ者第一号。
「しまったッ」
 とさけんで表のほうへバラバラと逃げだす出会いがしらに、はいってきたのはふたりづれ。船頭、篠太郎ときんちゃくの辰である。
「や、くせ者!」
「畜生ッ」
 死にものぐるいでくせ者が突き出す匕首をやりすごし、二、三合わたりあったかとおもうと、やがて、篠太郎がはっしとばかり、あいての利き腕をたたいたから、
「あっ」
 とさけんで、くせ者が匕首をとりおとすところへ、躍(おど)りかかったのはきんちゃくの辰。
「くせ者、御用だ」
 と、たちまちおなわをかけてしまった。
 こう書いてくると長いようだが、じじつは、これらのことは、一瞬のうちに行われたのである。
 佐七はくせ者第二号のとり落としたふところぢょうちんにあかりをつけると、
「やあ、辰、ご苦労、ご苦労。篠太郎さん、どこもけがはなかったかえ」
「はい、おかげさまで……出会いがしらに突いてこられたので、たいそう肝をつぶしましたが……」
 篠太郎はにが笑いしながら、
「それにしても、親分、わたくしになにか御用でございますか。今夜、こちらへくるようにとのことでございましたが……」
「いや、ちょっとお待ちなさい。いま、わけを話します。辰、そいつを縛りあげたら頭巾をとってみろ」
「へえ」
 辰はくせ者第一号の頭巾をとったが、とたんに、肝がつぶれたような声をあげた。
「親分、こいつは男じゃねえ。こりゃアお信乃だ、面長お信乃だ」
「ふふん。おおかた、そんなことだろうと思ったよ。豆六、そこに倒れてるやつの頭巾をとってみろ」
「へえへえ、どれ、つらを見てやろか。わっ、お、親分、こいつは丸ぽちゃお信乃やがな」
 いかにもそいつは丸ぽちゃお信乃、急所の深(ふか)手(で)でもう虫の息だった。
 一同、これはとばかりに、あきれかえっておどろいていたが、おりからそこへ、駕(か)籠(ご)をとばせて駆けつけてきたものがある。伊丹屋の隠居と、店主の徳兵衛。
 徳兵衛はその場のようすを見ると、あっとばかりに肝をつぶして、
「や、や、こりゃ、これ、お信乃、ひとりは殺され、ひとりは下手人。どっちがほんとのお信乃にしても、こりゃこのままじゃすまされぬ」
 徳兵衛のことばに、隠居の市兵衛もおどろいて、おろおろそこらを手さぐりしながら、
「親分、もし、お玉が池の親分さん、こりゃどうしたことでございます。用事があるから、ここまでこいとのおことばでしたが、殺されたのがほんとのお信乃か。殺したやつが孫のお信乃か。親分、どっちがどっちでございます」
 うろたえさわぐめくらの市兵衛を、佐七はしずかに押しなだめ、
「ご隠居さん、ご安心なさいまし。そのお信乃はどっちも偽物。ほんとのお信乃はべつにおります」
「げっ、どっちも偽物。そ、そして、ほんとのお信乃はべつにあるとは……」
「それ、辰、豆六、篠太郎を裸にしてみろ」
「あれ、なにをなさいます」
 おどろく篠太郎におどりかかって、むりむたいに、ふんどしいっぽんの裸にした辰と豆六は、おもわずあっと目をまるくした。
 なんと、篠太郎の背中にも、まごうかたなき南総里見八犬伝、芳流閣は信乃の血戦が、色もみごとに彫られているではないか。
 徳兵衛も、捕えられた面長お信乃も、あっとばかりにおどろいた。
 佐七はにっこり笑って、
「もし、ご隠居さん、だんなもよくおききなさいまし。彫り勝がわが子にお信乃と命名したのは、八犬伝の信乃の名まえを借りたのだ、ということは、おまえさんたちもお察しでしょうが、では、なぜ、信乃の名まえを借りたのか、それはこうでございます。八犬伝の信乃の父親、犬(いぬ)塚(づか)蕃(ばん)作(さく)には信乃よりさきに男子が三人うまれたが、いずれも夭(よう)折(せつ)して育たなかった。そこで、四番目にうまれた男の子は、十五の年まで女として育てた。それがすなわち犬塚信乃です。彫り勝もお信乃のまえに三人の男子があったが、いずれも夭折したところへ、四番目にうまれたのがこれまた男子。そこで八犬伝の知恵を借り、その名もお信乃、十五の年まで女姿で育てたから、世間のものはみんなお信乃を、女と思いこんでいたんです。どうだ、篠太郎さん、それにちがいあるめえが」
 いわれて、篠太郎はホロリと涙をおとしたが、これをきいて、おどろいたのは市兵衛と徳兵衛。
 わけても、市兵衛は気もくるわんばかりに篠太郎のそばへさぐりより、
「親分、そ、それじゃこれがほんとの孫で」
「ご隠居さま、お懐かしゅうございます」
「おお、そういう声は船頭、篠太郎。そういえば、いぜん目があいていたじぶん、どこやら、お房ににた面差しとおもうていたが、お信乃を女とばかり思いこんでいたから、いままでそれと気がつかなんだが、それじゃおまえが孫であったか」
 隠居の市兵衛は篠太郎の手をとって、見えぬ目をみはりつこすりつ、おろおろと泣きだしたのである。
 篠太郎の親の彫り勝は、手紙をだしても市兵衛がこないところから、きっと外聞をはばかって、わが孫ながら見捨ててしまう気であろう。
 それもむりのないところとあきらめて、息子の信乃にも、その身の素(す)性(じよう)をしらさずに死んだのである。
 お信乃はその後、彫り若にひきとられて養われたが、親の遺言により、十六になると同時にほんらいの男にかえって、その名も篠太郎とあらためて、舟宿、川長に奉公に出たのである。
 ところが、それから五年たって、伊丹屋でこれこれしかじかの娘をさがしているときいて、悪心をおこしたのが、面長お信乃と丸ぽちゃお信乃。
 面長お信乃は本名お勘、丸ぽちゃお信乃は本名お紺。どちらもなだいの莫(ばく)連(れん)娘(むすめ)で、伊丹屋のうわさをきくと、まさか競争あいてがあろうとしらず、彫り若にたのんで芳流閣をせなかに彫らせた。
 彫り若は師匠のうちをしまうとき、師匠のかいた彫り物の下絵を、そっくりそのまま引きとっていたから、お勘やお紺にそういう悪心があるとはつゆしらず、師匠のつくった下絵をそのままお勘とお紺の背中に彫ったのである。
 しかし、けっきょくそのことが、彫り若にとっては命取りになってしまった。
 悪いやつはお勘とお紺で、お勘がまず、お信乃と名乗って宝屋万兵衛をたよっていくまえに、生かしておいては後日の妨(さまた)げとばかりに、彫り若の家へ忍びこむと、出刃包丁でぐさりとひと刺し、これを刺し殺してしまったのである。
 ところが、お勘が死体をそのままにして逃げ出していったすぐそのあとへ、忍んできたのが丸ぽちゃお信乃のお紺である。
 お紺もおなじ目的でやってきたのだが、きてみると彫り若が殺されている。
 まさかじぶんとおなじことをもくろんでいる女がもうひとりここにいるとは気がつかなかったが、死体をこのままにしておいては、後日彫り物詮(せん)議(ぎ)があったばあい、じぶんに疑いがかかろうもしれずとあって、ごていねいにも、死体を床下に埋めてしまった。
 そうしておいて、槌屋千右衛門のところへ名乗ってでたのである。
 だから、ふたりとも、佐七から血染めの手形が彫り若の家の板壁にのこっているときいて、不安をかんじたのもむりではなかった。
 本人は目から鼻へ抜けるほど利(り)口(こう)なつもりでいても、脛(すね)に傷持つ弱みには、まんまと佐七のかけたわなにひっかかり、ああいう騒動が持ちあがったのである。
 お紺はまもなく息をひきとったが、こうなるとお勘は重罪である。
 彫り若とお紺、ふたりまで手にかけているのだから、引き回しのうえ、獄門になったのも当然だろう。
 心がらとはいえ、お勘とお紺のふたりがそろいもそろって非(ひ)業(ごう)の最(さい)期(ご)をとげたのにひきかえ、こちらは船頭、篠太郎である。

愛憎祖父と孫
  ——血は水よりも濃いとはこのこと——


「それにしても、篠さん、おまえさんもこんどの伊丹屋さんの難渋は、うわさにきいていたはずだ。なんでもっとはやく、彫り勝の娘のお信乃とは、かくいうあっしでございますと、名乗って出なかったんだ」
 佐七の質問に篠太郎は、しばらくもじもじしていたが、やがて、きっとおもてをあげると、
「そのおたずねはごもっともでございますが、あっしはじぶんの祖父になるひとを、心のなかで恨んでおりました。いいえ、憎んでいたのでございます」
 そばできいていた隠居の市兵衛、篠太郎のその一言に、ハッと顔をふせると、面目なげに、みえぬ目の涙を両手でおさえている。
「いいえ、ご隠居さま、そのじいさまがご隠居さまとは、こんどの騒ぎがおこるまで、わたしは夢にも存じませんでした。ただ……」
「ただ……?」
 佐七があとをうながすと、
「はい、おやじは亡くなるまえに、じいさまに手紙を差し上げたはずでございます。じいさまからお迎えがあるのを、おやじは、きょうか、あすかと指折りかぞえてお待ち申しておりました。それがとうとうなしのつぶてで、お迎えがないとわかったとき、おやじは、いかにも寂しそうでございました。おまえのじいさまというひとは、いたってものがたいおひとゆえ、おれの手紙を貧ゆえの、ゆすりか、かたりのように思われたのにちがいない……と、そうきいたときのわたしのくやしさ、腹立たしさ……」
「おお、もっともじゃ、もっともじゃ。そう思われてもしかたがない」
 そこにいきちがいがあったとはいえ、げんざい孫を目のまえにみながら、逃げてかえった当時のおのれの所業を思いあわせると、市兵衛が身をもみにもんで泣きむせんだのもむりはない。
 徳兵衛や女房のお里ももらい泣きである。
「みなさまはどうお思いかしりませんが、おやじの彫り勝というひとは、稼(か)業(ぎよう)こそ卑しけれ、ほんとに心のきれいなひとでした。かりそめにも、ゆすりかたりをするような、そんなひとではございませんでした。それだけに、わたしのくやしさ、腹立たしさ。そんな不人情なひとは、じいでもない、孫でもないと……」
「なるほど、わかった。おまえの怒りがあまりはげしいので、おとっつぁんもおじいさんの名をいいかねて死んだんだな」
 佐七の問いに篠太郎もうなずいて、
「いまわのきわに、おやじさまはこう申しました。おまえももう十五歳、ひとりでやっていけぬことはない。いちおう彫り若にたのんでおくが、だれもたよらずひとりでやっていけ。この世に身寄りのものはひとりもないと、そう思えと……」
「おお、かわいそうに、かわいそうに。ふびんなことをしてしもうた。篠太郎、許してくれ。なにもかもわしが悪かったのじゃ」
 市兵衛があまりはげしく泣きむせぶので、見るにみかねた嫁のお里が身をのりだし、
「篠太郎さん、そんなにおっしゃるものじゃございません。おじいさまはどんなにか、あなたさまのことを案じていらしたかわかりませんのよ」
「いいえ、おかみさん、もうお恨みはいたしません。おやじがいけなかったのでございます。もっと詳しくわたしのことを書いておいてくれればよかったものを。なにしろ、筆(ふで)不(ぶ)精(しよう)で、手紙はいたって苦手なひとでしたから……」
「しかし、篠さん、それじゃもういちど聞くが、伊丹屋さんのこんどの騒ぎをしったとき、なぜ器用に名乗ってでなかったんだ」
「親分、そりゃいけませんや」
「いけねえとは……?」
「だって、こちらさんじゃ信乃のことを、女だとばかり思いこんでいらっしゃる。男のあっしが名乗って出たからって、真(ま)にうけちゃもらえますまい。あっしもゆすりかたりと思われたかあございませんからねえ」
「あっ、なあるほど」
 と、辰が感服すると、豆六もその尾について、
「あんたが彫り勝つぁんの息子はんやいうことをしってるのんは彫り若ひとり。それで、彫り若に身のあかしを立ててもらおちゅうわけで、訪ねていきやはったんやな」
「いいえ、豆六兄い、それはそうではございません」
「そやないちゅうと……?」
「あっしゃ彫り若の師匠までゆすりかたりの仲間だと思われるようなことは、してもらいたくはございませんでした。ただ、ふにおちかねるのは、ふたりのお信乃のその膚に、あっしとそっくりおなじ彫り物があるらしいと海(え)老(び)床(どこ)できいて、それについて彫り若の師匠が、なにかしっていなさるんじゃアあるめえかと、それで訪ねていったんです。そしたら、床下からへんなにおいがするもんだから、ひょいと畳を持ちあげてみると……」
「よし、わかった。それでなにもかも判明したが、しかし、篠さん、おまえさん、いまでもこのおじいさんを恨んでいるのか。いやさ、憎んでいるのか」
 佐七のことばに篠太郎は、しばらくちゅうちょしていたが、やがて、きっとおもてをあげると、
「親分、あっしも人の子でございます。心の底では、恨もう、憎もうと思いながら、また、いっぽうでは、じぶんのじいというひとは、どういうひとであろうかと、思わぬ日とてはございません。おふくろを早くうしなっておりますだけに、そのおふくろのおとっつぁんというひとが、つい懐かしく、慕わしく……」
 篠太郎はそこではじめて、ホロリとひと滴(しずく)の涙をおとすと、
「ましてや、こちらのご隠居さまには、いぜんより身にあまるごひいきにあずかっておりまする。そのおひとがじぶんのじいさまとわかったときのあっしの驚き、そのうれしさ、親分、お察しくださいまし」
 それをきいて、市兵衛はまた、ひた泣きに泣きむせんだ。
 そばから徳兵衛も、目がしらをおさえて、ひざをのり出し、
「よういうてくださいました、篠太郎さん、いや、篠太郎と呼ばさせてください。それをきいて、おやじさまもどんなにお喜びかしれません。もし、よかったら、おじいさまと、ひとこと呼んであげてください」
 篠太郎はさすがにちょっと、気おくれしたようにしりごみしたが、徳兵衛夫婦の哀願するような目と、佐七の視線にはげまされると、ひとひざ、ふたひざゆすり出し、市兵衛のひざに手をおくと、とつぜん、思い迫ったように、
「おじいちゃん、おじいちゃん、おいら、会いたかった、会いたかった。ずうっとせんから、会いたかったんだ」
「おお、篠太郎……し、し、篠太郎……」
 血は水よりも濃(こ)いというが、こうしてわだかまりが解けてしまえば、そこは祖父と孫、ふたりはひしと抱きあって、堰(せき)をきって落としたように泣きむせんだ。
 ところで、宝屋万兵衛と槌屋千右衛門だが、かれらに欲がなかったとはいえまい。
 親戚中でもいちばん羽振りのよい伊丹屋に恩を売っておけば、後日なにかにつけて好都合という胸算用があったにしても、偽物のお信乃を利用して、伊丹屋の身(しん)上(しよう)をどうしよう、こうしようというような、ふかい魂胆があったわけではなかった。
 ふたりともお勘、お紺にだまされていただけであるとわかって、ただたんに、しかりおくというだけで、罪をまぬがれたのは、さいわいだったというべきだろう。
 彫り物師の娘、じつは彫り物師の息子であったという、れいによってれいのごとく、人形佐七の手柄話。よって件(くだん)のごとしと作者しかいう。

ほおずき大尽

浅草のほおずき市
  ——思い出すのは木場のほおずき大尽—— 


 たなばたや秋をさだむる初めの夜——
 と、いう芭(ば)蕉(しよう)の句でもわかるとおり、江戸時代のたなばたといえば、いまとちがって、秋の景物になっていた。
 まちまちに、竹いろいろの星祭りがにぎわうと、そでふきかえす風もめっきり秋めいてきて、夜などはゆかたいちまいでは、はだ寒さをおぼえるくらい。ことしの夏は雨がすくなくて、そうでなくても水に不自由な江戸っ子は、だいぶうだらされたが、そのかわり夜ごとにながれる銀河は、空にあざやかで、牽(けん)牛(ぎゆう)織(しよく)女(じよ)の二星も、一年ぶりにおうせを楽しんだろうとおもわれた。
 このたなばたがすむと、七月十日は四(し)万(まん)六(ろく)千(せん)日(にち)、浅草観世音のご結(けち)縁(えん)である。
 この日いちにちお参りすれば、四万六千日お参りしたと同様の仏果がえられるというのだから、りちぎな江戸の老若男女は、われもわれもと、浅草をめざしておしよせる。
 この日は、境内にほおずき市がたつから、お参りしたひとびとは、みんな手に手に、赤いほおずきのはちをもっている。
 神田お玉が池の人形佐七も、べつに信心家というわけではないが、浅草たんぼに、ちょっとした御用があって、そのついでといっては悪いが、かえりに観世音にお参りして、やってきたのはほおずき市。
「辰、豆六、観音様へお参りしたしるしに、ほおずきを買ってかえろうか」
「親分、およしなさいよ。大の男がみっともない。ほおずき持って、道中ができるもんですか」
「いいじゃねえか。これも縁(えん)起(ぎ)もんだ。お粂のみやげに、買っていってやろう」
「へっへ、あいかわらずあねさん思いのこっちゃ。よろしおま。わてが買(こ)うてきてあげまっさ」
 と、豆六は、辰五郎ほどみえぼうではない。
 ほおずき店へよって、赤いほおずきをふたはち買ってきた。
「おやおや、こいつはまた、豪勢に仕込んできやアがった。お粂のみやげなら、そんなにゃいらねえのに」
「ご冗談を。こら、あねさんのみやげばかりやおまへん。裏のお吉坊に、ひとはちわけてやりまんねん」
「あれ、こんちくしょう、いやらしいやつだ。ほおずきでくどくというのは、あのお吉めを、鳴らせてみせようという趣向か」
「へっへっへ、まあ、なんとでもいいなはれ」
 冗談をいいながら、赤いほおずきのはちをかかえて、歌(か)仙(せん)茶屋から雷(かみなり)門(もん)へぬけると、やってきたのは茶屋町。
「ねえ、親分、そのほおずきをみて、思い出しましたが、木(き)場(ば)のほおずき大(だい)尽(じん)は、どうしたんでしょうね」
「そうよ、おれも、いまそれを考えていたところだ。気ちがいに刃(は)物(もの)というが、どうも、あぶないもんだなあ」
「ほんまやなあ。海(え)老(び)屋(や)のほうで、ひたかくしにかくしているので、詳しいわけはわかりまへんけど、はよつかまえんことには、あぶのうてどもなりまへんな」
「そうよ、そのうちになにか、大騒動が起こらなきゃいいがと、おれもそれを心配しているんだ」
 と、そんなことを話しながら、茶屋町から並み木路をとおりすぎて、駒(こま)形(がた)町(ちよう)へさしかかったころには、さしもにながい日も、そろそろ暮れそめて、あすもひよりか、西の空があかね色に染まっていた。
 と、そのときである。
 雷門のあたりから、三人のあとを、みえがくれにつけていた男が、つかつかとそばへ寄ってくると、
「あの、もし」
 と、うしろから呼びかけた。
「あなたはもしや、お玉が池の、親分さんじゃございませんか」
 だしぬけに声をかけられて、おどろいて振りかえってみると、あいてはお店(たな)者(もの)らしい四十がっこうの、人品のよい人物だった。
「はい、あっしゃお玉が池の佐七だが、そういうおまえさんは?」
「途中お呼びとめいたしまして、失礼かとは存じましたが、わたしは木場の海老屋の手(て)代(だい)、久七と申します。親分さんにおりいって、お願いがございまして……」
 と、そういうあいての顔色をみて、佐七をはじめ辰と豆六は、おもわずぎょっと顔見合わせた。
 木場の海老屋といえば、たったいま、三人がうわさをしていた、ほおずき大尽の家である。
「おお、おまえさんが海老屋さんの……そして、だんなのゆくえはまだわかりませんかえ」
「はい、それについて一同、心を痛めております。きょうも観音様へ、願掛けにお参りしたのでございますが、途中で、おまえさんのすがたをおみかけいたしましたから、ここまでお慕いしてまいりました。これも、観音様のお引き合わせでございましょう。親分さん。ちょっとそこまで、おつきあいくださいませんか」
 と、思いこんだ久七の顔色に、
「ああ、ようがすとも。どうせ、これからかえったところで、寝るばかりのこちとらだ。どこへでも、お供いたしましょう」
「ありがとうございます。それではちょっと……」
 と、久七が三人を案内したのは、そのころ、駒形辺でよくはやった、芝(しば)藤(とう)といううなぎ屋。
 なじみとみえて、おくの離れ座敷を注文すると、いいぐあいにあいていた。
 やがて座もきまり、ひととおり酒(しゆ)肴(こう)も出ると、久七は女中を退けて、
「さて、親分さん」
 と、あおじろんだ顔でひざをすすめた。
「おまえさんも、たなばたの夜の騒動は、すでに、お聞きおよびでございましょうねえ」
「へえ、うすうすは聞いております。さっきも、こいつらと話をしていたんですが、気ちがいに刃物、——ずいぶんあぶない話です。なにかそのうちに、大騒動がおこらなければよいが、と……」
「はい、その騒動が、親分さん、ゆうべおこったのでございます」
 と、久七が声をふるわせたから、三人はおもわず、どきりと顔見合わせた。
「なに? ゆうべ騒動がおこったといいますと?」
「はい、親分さん。お聞きくださいまし、かようでございます」

海(え)老(び)屋(や)騒動
  ——世にもあぶない気ちがいに刃物——


 海老屋というのは、そのころ、深川随一の資産家といわれた、木場の材木商だった。
 あるじは万助といって、わかいころは、おなじ木場の河(かわ)津(ず)屋(や)という材木店の手代だったというが、中年ごろに独立すると、めきめき身代をふとらせて、十年もたたぬうちに深川いちばんの、資産家になりあがってしまった。
 現今とちがって、一(いつ)攫(かく)千金というような、ボロイもうけのすくないそのころ、一代で、これだけの身代をたたきあげたのだから、当然、世間ではよくいわない。
 海老屋の万助が身代をつくりあげたのは、もとの主人の河津屋を、丸のみにしたからだ。あれは海老屋ではない、カワズをのんだへび屋だと、むかしをしっている連中は、いまにいたるもよくいわない。
 なにしろ、むかしのことだから、事情はよくわからないが、万助が独立して、海老屋ののれんをあげるとまもなく、それまで全盛をほこっていた河津屋が没落して、一家離散のうきめをみたのは事実である。
 それからのちはとんとん拍子で、いまではお城御用の海老屋といえば、江戸じゅうで、だれしらぬものもないくらい。ところが、どう魔がさしたのか、それまで、かたいいっぽうでとおっていた万助が、二、三年まえからにわかに、遊びの味をおぼえはじめた。
 ことわざにもいうとおり、未(ひつじ)下(さ)がりの雨と四十すぎての道楽は、なかなかやまぬというが、万助はすでに、五十の坂もなかばを越している。
 そのとしになって、はじめておぼえた道楽だから、これほどやっかいなものはない。親(しん)戚(せき)をはじめ、むすこや番頭の意見も馬の耳に念仏で、じぶんのもうけた金を、じぶんでつかうのに、なんの遠慮があろうとばかり、金を持ち出しては、吉(よし)原(わら)で湯水のごとくつかいすてる。
 このまますてておけば、さしもの大身代も、たちまち、左(ひだり)前(まえ)になるのはわかりきっていた。
 そこで、親戚のものが心配して、いろいろしらべてみると、松葉屋の逢(ほう)州(しゆう)というのが、万助の気にいりらしい。さいわいその女は、きりょう気だても申しぶんがないので、これを根引きしてあてがうと同時に、むりやりに、万助を深川の六(ろつ)間(けん)堀(ぼり)へ隠居させてしまった。
 それが一昨年のことで、そのとき万助は五十九歳、まだ老い朽(く)ちたというとしでもないのに、隠居とはもってのほかと、当人は大不服だったが、なにしろ、有力な親戚はじめ番頭たちが、むすこのうしろだてとなって、しっかり土蔵のかぎをおさえてしまったので、さすがの万助も、どうすることもできない。
 それからのちは六間堀の隠居所で、逢州のお国をあいてに、鬱(うつ)々(うつ)たるあてがい扶(ぶ)持(ち)の日をかこっていたが、それがこうじたのか、ことしの春のはじめから、万助はすこし気がへんになってきた。
 はじめのうちは、お国も気がつかなかったが、それとはっきりわかったのは、桃の節句の晩である。
 万助はことし六十一の還暦である。
 そのお祝いをもよおしたのが、三月三日のひな祭り。六間堀の隠居所には、むすこをはじめ親戚のものもあつまってきた。
 万助はおさだまりの還暦衣装。赤いこそでに赤いそでなし、赤いずきんに赤いたびと、うえからしたまで赤ずくめのこしらえで、はじめのうちは、きげんよく酒を飲んでいたが、どうしたきっかけからか、急にあばれだした。
 その晩は、ともかく一同の手でとりおさえたが、それからのちは、どうしても赤い衣装をぬごうとしない。むりにぬがそうとすると、すぐあばれだす。しかたがないからそのままにほうっておくと、こんどは赤い衣装のまま、ふらふらと隠居所をとび出していく。
 そうでなくても、あまり評判のよくない万助のことだから、たちまちこのうわさがパッとひろがって、ちかごろでは、六間堀のほおずき大尽といえば、だれひとりしらぬものはない。
 ほおずき大尽というのは、万助がうえからしたまで赤ずくめの衣装を着ているところから、ひとがつけた悪口である。
 こうなると、本宅のほうでもすててはおけない。世間への外聞もあることだから、隠居所に座(ざ)敷(しき)牢(ろう)をつくって、ほおずきのようにまっかな万助を押しこめてしまった。
 それが、五月ごろのことである。
 ところが、この座敷牢がかえっていけなかった。万助の狂気はしずまるどころか、かえって、ますます激しくなった。
 それまでは、気ちがいとはいえ、ごくおとなしい、陽気な気ちがいだったのに、座敷牢へ入れられてからは、だんだん気(き)性(しよう)があらくなって、座敷牢のなかであばれまわる。むすこをのろったり、親戚のものをのろったりする。お国以外のものの手からは、ぜったいに食事もとらなくなった。
 それでいて、お国にはじつに従順なのである。
 お国のいうことなら、どんなことでもきく。どんなにあばれているときでも、お国が涙ぐんだ目でなだめると、すぐケロリとおさまってしまう。
 こうなると、海老屋のほうでも、お国を手ばなすわけにはいかない。わかい身そらで、気ちがいのおもりというのは、まことにふびんなものだが、因(いん)果(が)をふくめてしんぼうしてもらうことにしていた。
 お国はことし二十二歳、さすが吉原で全盛をうたわれた女だけに、水のたれるようなうつくしさだったが、これがまことに気だてのよい女で、
「これも、なにかの因縁でございましょう。だんなさまがおなくなりになるまでは、おそばでお世話をさせていただきます」
 と、気ちがいのおもりに、いやな顔ひとつしないというのは、えらいものだという評判だった。
 こうして五月から六月と、なにごともなくすぎたが、それがたなばたの晩のことである。六間堀の隠居所では、ここしばらく、万助がおとなしくしているので、よいあんばいだと安心したお国は、小女やばあやをあいてに星祭りをした。
 いろとりどりの、色紙たんざくをむすびつけたたなばた竹を庭に立てて、縁側でふたつ星をながめていると、そのとき、ふいにバリバリと、座敷牢のほうでものすごい音がした。
「あれ、だんなさまが……」
 小女とばあやは、それをきくと、はっと顔を見合わせたが、お国はいつものことなので、あまりおどろいた顔もせず、すっと立って座敷牢のほうへいったが、そのとたん、
「あれ、だんなさま!」
 と、さけんだかと思うと、やがて、ぎゃっという悲鳴。小女とばあやはそれをきくと、ぎょっとして手を取りあったが、そこへ、おくのほうからとび出してきたのは、うえから下まで赤ずくめの万助だった。
 みると、手にぎらぎらするような抜き身をひっさげているから、小女とばあやは、そのままそこへ腰をぬかしてしまった。
 さいわい、気ちがいはふたりに気がつかず、風のように庭から外へとびだしたが、さあそのあとがたいへんである。
 小女とばあやがこわごわ座敷牢のほうへいってみると、気ちがい力というものはおそろしい。座敷牢の格(こう)子(し)をひとところ打ちこわして、そのまえに、お国があけにそまって倒れているのである。
 ほおずき大尽の万助は、その晩からゆくえがわからなくなった。

作事奉(ぶ)行(ぎよう)岩瀬式部
  ——たそがれのやみの中からまっかな影——


「なるほど、そのへんまでは、うすうす話をきいておりましたが、お国さんというのは、いのちにべつじょうはないそうですねえ」
「はい、おかげさまで……しかし、左の指を二本切りおとされて……」
 と、海老屋の番頭久七は、いたましそうにまゆをしかめた。
「それにしても、番頭さん、いまさら、こんなことをいってもはじまらないかもしれないが、気ちがいのおもりに女ばかりとは、ちとぶ用心でございましたね」
「いえ、それが……いつもは又蔵というわかいものが、用心棒に泊まり込んでいるのでございますが、その晩はあいにく用事があって、ちょっと外へ出ていたそうです」
「なるほど、まの悪いときはしかたがありませんね」
「さようで。あの刀なども、どこからひっぱり出してきたものか。あぶないというので、お国さんが、押し入れのおくへかくしておいたものなんですが」
 と、久七は、苦労ありげなため息だった。
「なるほど」
 と、佐七はひざをすすめると、
「それで、ほおずき大尽、いや、だんながとびだした事情はよくわかりましたが、さて、ゆうべおこった騒動というのは……」
「はい、それが……」
 と、久七はうじうじしながら、
「じつは、このことは、かたく口止めをされているのでございますが、どうか、そのおつもりでお聞きねがいます」
「へえへえ、しゃべっていけねえことなら、けっしてしゃべりゃしません。それで……?」
「はい、じつは海老屋のお嬢さま、お菊さまとおっしゃるのが、作(さく)事(じ)奉(ぶ)行(ぎよう)、岩瀬式部様のご総領、弓(ゆみ)之(の)助(すけ)様のところへ、おこし入れになっております。ところが、ゆうべ、そのお舅(しゆうと)の式部様が……」
「どうかなさいましたか」
「はい、おなくなりになりましたので」
「へえ、なくなったとは?」
「おもてむきは、ご病気ということになっておりますが、じつは、お切られなすったので……それも、うちのだんなさまに……」
 佐七はそれをきくと、おもわずぎょっと目をみはった。
 辰と豆六も杯(さかずき)の手をひかえて、まじまじと、久七の顔を見守っている。
 その久七の話によると、こうだった。
 作事奉行岩瀬式部の屋敷は、中橋の近所にある。きのう、式部がお城から退出したのは、夜の六ツ半ごろ(七時)のこと。むろん、式部はかごで、あとさきには、若党とぞうり取りがついていた。
 ところが、そのかごが中橋までさしかかったときである。
 だしぬけにものかげからとびだしてきたまっかな影が、なにやら叫ぶと、いきなりぐさりと、かごの外から、抜き身を突っこんだのである。
 なにしろ、とっさのできごとなので、若党もぞうり取りも、あっとその場に立ちすくんでしまったが、そのあいだに気ちがいは、二、三度ぷすぷすと、かごのなかへ抜き身を突きとおすと、ひらりと身をひるがえして、おりから、逢(おう)魔(ま)が時(どき)の薄やみへ、そのまま、溶けこんでしまったというのである。
「そのあとがたいへんで、変事をききつけてお屋敷から、若殿の弓之助様が、おっ取り刀でお駆けつけになります。ご用人やお小姓も、めいめいくせ者をさがしにとび出しましたが、ほおずきのように赤い影は、どこにも見当たりません。いっぽう、おかごはとりあえず、お屋敷へかつぎこみましたが、なにしろ、急所を三所もえぐられておりますので、式部様はとうとう、おなくなりになったということでございます」
 なるほど、これは椿(ちん)事(じ)にちがいなかった。
 はじめてきいた意外な話に、佐七はいっそうひざをすすめると、
「そして、その下手人が海老屋のご隠居にちがいないというんですね」
「さあ、なにしろ薄やみのことですから、顔ははっきりみえなかったそうですが、ずきんからたびまで赤ずくめの装(しよう)束(ぞく)は、どう考えても、うちのだんなとよりほかに思えません。それに、だんなは日ごろから、式部様をとてもおうらみしていなすったから……」
「ほほう、それはまたどういうわけです」
「はい、海老屋の親戚のなかでも、岩瀬様はいちばんのご大(たい)身(しん)。それでございますから、親戚うちのご相談ごとでも、たいていは、岩瀬様のおっしゃるとおりになります。だんなを隠居させたのも、また座敷牢へ押しこめたのも、みんな岩瀬様のおことばですから、気ちがいながらだんなは、遺恨骨髄に徹していたのでございましょう」
「ふむ、気ちがいというものは、あんがいそんなことを、よく、おぼえているものかもしれませんねえ」
「さようで。それですから、これからさきが心配で。だんながうらんでいなさいましたのは、岩瀬様おひとりではございません。ほかにも二、三ございますから、もしまたまちがいがあってはと……」
 と、久七はまた、おそろしそうな身ぶるいだった。
 ここで久七がうちあけた海老屋の内情というのは、こうである。
 ほおずき大尽の万助は、六年ほどまえにつれあいをうしなって、あとにはお菊、徳(とく)兵(べ)衛(え)という姉(きよう)弟(だい)がのこされた。
 姉のお菊はことし二十五、これはまえにもいったとおり、作事奉行岩瀬式部の総領、弓之助のところへ嫁入っている。
 弟の徳兵衛は当年とって二十二歳、これが昨年、お町という嫁をむかえて、いまでは海老屋ののれんをついでいる。
 しかし、なにをいうにもまだ若年のこと、それにこの徳兵衛というのは、父とちがって気だてのやさしい、内気なうまれつきなので、とても大所帯をきりまわしていく腕はない。
 そこで万助を隠居させると同時に、徳兵衛の母方の伯(お)父(じ)、つまり、万助のなくなったつれあいの兄で、上(かず)総(さ)屋(や)角(かく)右衛(え)門(もん)というのが後(こう)見(けん)となって、ばんじ采(さい)配(はい)をふるっている。
 これが徳兵衛の嫁お町の里親、茗(みよう)荷(が)屋(や)十(じゆう)右衛(え)門(もん)と、一番番頭の治(じ)兵(へ)衛(え)というのを相談あいてに、海老屋では目下、三頭政治がしかれているというわけだった。
「だんなはもちろんこれには不服で、気がへんになってからも、このお三人が海老屋の家を横領しようとたくらんでいると、そう、お考えちがいをしていらっしゃいましたから……なにかまた変なことがありはしないかと……」
 もし、これ以上、重大事件がおこったら、海老屋の没落は、火をみるよりもあきらかだと、それがこの忠義な手代、久七の苦労のたねだった。
「なるほど、それで話はよくわかりました。どちらにしても、だんなのゆくえを、さがし出すのがだいいちですね」
「さようでございます。ご乱心とはいえ、このうえ妙なことがありましては、若だんなやご新造のお町様が、おきのどくでございます」
 久七のくちうらから察すると、この夫婦はまことに気だてのよい好人物らしいが、それに反して、いま、後見役をつとめている上総屋角右衛門や、一番番頭の治兵衛については、久七はとかくことばをにごして、あまり語るのは好まないふうだった。
「お町様のお里親、茗荷屋のだんながにらんでいらっしゃるので、よろしゅうございますが、そうでなかったら、お店は大乱脈でございましょう」
 と、そうため息をつくところを見ると、万助の猜(さい)疑(ぎ)は、かならずしも、根のないところではないらしい。
 久七はそれからなおもくどくどと、一刻もはやく、ほおずき大尽の万助を、さがし出してくれるようにと頼んだが、佐七がそれをひきうけて、芝藤を出たのは五ツごろ。
 長い日も、とっぷり暮れて、空には星がうつくしく、こよいも天の川に、水のましそうなけはいはなかった。
 芝藤のまえで三人は、久七とたもとをわかったが、くらい夜道をとぼとぼとかえっていく、この忠義な番頭のうしろすがたに、なんとやら、海老屋の不吉な運命がみえるようで、佐七も、おもわずため息をはきだした。

角右衛門と治兵衛
  ——さがみ屋の奥座敷でひそひそ話——


 作事奉行、岩瀬式部のお弔(とむら)いは、その翌日おこなわれた。
 おもてむきは、急病ということになっているが、事情はうすうす、しれわたっているので、葬式もいたって質素に、会葬者のかずもすくなかった。
 このすくない会葬者のなかに、海老屋の跡取り徳兵衛や、後見の上総屋角右衛門、一番番頭の、治兵衛らのすがたもみられた。
 その当時の習慣として、旗(はた)本(もと)と町人との縁組みは、おもてむきにはできにくい。
 海老屋の娘お菊も、おもてむきはさる旗本の養女分として岩瀬の家へこし入れしたのだから、姻(いん)戚(せき)関係といっても、公然と披(ひ)露(ろう)はできなかった。
 そこで、お出入り商人という格で、ともかく、葬式の席につらなることができたのである。
 この葬式のあとから、みえがくれについていくのが、人形佐七をはじめとして辰と豆六。
「辰、ちょっと見ねえ。あすこにいくのが上総屋角右衛門だ。なるほど、あれじゃ久七が心をいためるのもむりはねえ。いかさま、ひとくせありげなつら魂をしているじゃねえか」
 その角右衛門というのは、六十前後だろう、しらが頭にあから顔の大男で、じろじろと、あたりを睥(へい)睨(げい)しながらいくところは、とんと矢口の頓(とん)兵(べ)衛(え)が町人に化けたというかっこうである。
「ほんに、ゆだんのならねえ目つきですね。親分、あの角右衛門とならんでいくのが、番頭の治兵衛じゃありませんか」
「ふむ、どうやらそうらしい。辰、豆六もおぼえておけ。主家の土蔵を食いやぶる頭のくろいねずみというのは、おおかた、ああいう男のことだろうぜ」
 その治兵衛というのは、年ごろ四十五、六であろうか、どちらかといえばやせぎすで、色も小白く、ちょっとみるとおだやかな人(にん)体(てい)にみえるが、よくうごく目といい、くちびるの薄さといい、いかにも、ゆだんのならぬ人相だった。
 角右衛門がなにか話しかけるたびに、両手をもんで、追(つい)従(しよう)笑いをうかべるのも気にくわぬ。
 やがて、葬式の一行は、菩(ぼ)提(だい)所(しよ)へついた。
 菩提所は、谷(や)中(なか)の極楽寺である。
 ここで型のごとく、追善の式がおこなわれると、あとは、ごくちかい親戚だけをのこして、会葬者はおもいおもいに散っていく。
 海老屋の一党も、当主の徳兵衛だけをあとにのこして、角右衛門と治兵衛とはかえっていった。
「さて、親分、これからどうします」
「そうよなあ」
 佐七もべつに、目当てがあったわけではないが、考えてみると、徳兵衛のほうは、岩瀬一家のなかにいるのだからだいじょうぶである。
 それに、ほおずき大尽の万助がうらんでいるのは、岩瀬式部についで角右衛門、治兵衛のふたりだったという。
 もしまちがいが起こるとしたら、このふたりにちがいなかった。
「よし、それじゃ、辰と豆六は、あの治兵衛のあとをつけていけ」
「へえ。そして、親分、あんたはんは?」
「おれか。おれは、あの角右衛門のあとをつけていく。ふたりともゆだんするな。いつなんどき気ちがいがとび出さねえものでもねえ。気ちがいとはいえ、あいては白刃を持っているのだから、気をつけなくちゃいけねえぜ」
「おっと、合点です」
 角右衛門と治兵衛は、しばらくつれだって歩いていたが、やがてなにか立ち話をすると、そこでわかれた。角右衛門は辻(つじ)かごをひろって、池(いけ)の端(はた)の方角へ、治兵衛は徒(か)歩(ち)で金(かな)杉(すぎ)のほうへいく。
 佐七もそこで、辰と豆六のふたりにわかれた。
 角右衛門をのせたかごは、池の端から広(ひろ)小(こう)路(じ)へ出て、御(お)徒(かち)町(まち)をすぎて、やってきたのは柳(やなぎ)橋(ばし)。さがみ屋と籠(かご)目(め)行(あん)灯(どん)のあがった小料理店へ、ズイとかごをのりつけたのは、町にちらほら灯(ひ)のはいるころだった。
「おや、野郎、こんなところで精(しよう)進(じん)落としをするつもりかな」
 あいにく、なじみのないうちなので、佐七はすこぶるかってが悪い。
 うっかりへたをやって、あとをつけてきたことを悟られると、あいてに用心をさせるばかりである。ええい、ままよと、佐七は柳橋のたもとに立って、ぼんやり川の水をながめていたが、そこへまたもや、やってきたのは一丁のかご。
 さがみ屋の門の中へ、ズイとかつぎこまれたから、はてなと、小首をかしげていると、そのかごのあとから、みえがくれにつけてきたふたつの影がある。
 佐七はそれをみると、おもわずぎょっとつばをのんだ。
「辰、豆六」
 声をかけると、ふたつの影は、あっとおどろいてふりかえった。
「あっ、親分、おまえさんはどうしてここに……」
「辰、それじゃ、いまさがみ屋へはいったかごは、番頭の治兵衛か」
「へえ、さいだす、さいだす。すると、親分、あの角右衛門もこの家へ……?」
 こうもりのとびかう川ぶちのやみで、三人はおもわず顔を見合わせた。
 そんなこととは夢にもしらぬ、こちらはさがみ屋の奥座敷だ。
「だんな、おそくなりまして……」
 と、敷居ぎわに手をつかえた治兵衛は、独(どく)酌(しやく)でチビリチビリとやっている、角右衛門と顔見合わせると、おもわずにっこり、意味ありげな微笑だった。
「おお、治兵衛どんか。まあ、こっちへはいんねえ。しかし、だれもおまえのここへきたことを、知ってるやつはあるめえな」
「へえ、そりゃもう、そこに如才はございません。とかく、世間はうるそうございますから……しかし、だんな、このうちはだいじょうぶですか」
「ふむ、ここなら、心配はいらねえのよ。おかみというのがおれの古いなじみでな。いわばおなじ穴のむじななのさ」
「へっへ、こいつは、おやすくない。だんな、わたしもひとつ、あやかりたいものですな」
「いいとも、いいとも。いまにきれいなのを、取りもってやるわな。治兵衛どん、まあ、ひとつ飲みなさい」
「へえ、前祝いというわけですかえ」
「まあ、そんなようなものさ」
 ふたりはそこで、また顔見合わせて笑ったが、やがて治兵衛は軽薄らしくひざをすすめて、
「それにしても、だんな、気のきいた気ちがいじゃありませんか。これで茗荷屋のをバッサリやってくれると、大助かりでございますがね」
「ふふん、いずれ、そういうことになるだろうよ。しかし、治兵衛どん。気をつけなくちゃいけねえぜ。相手は気ちがいだ。より好みをしやあしない。おまえさんやおれだって、いつなんどき……」
「あれ、だんな、おどかしちゃいけません」
 と、治兵衛はわざとらしく首をすくめて、
「海老屋にとっては、白ねずみのこの治兵衛、気ちがいにうらまれる筋はありません」
「はっはっは、とんだ白ねずみだ。白ねずみというのは、おおかたあの久七のことだろうよ」
「ほんに久七といえば、じゃまっけでしようがありません。だんなの力で、あいつをなんとか……」
「ふむ、それも、いまになんとかなろうが、それよりもまず、茗荷屋の十右衛門のことさ」
 と、角右衛門は殺気だった目で、じっと治兵衛の顔をにらんだが、その目つきをみると、さすが黒ねずみの治兵衛も、おもわず背筋が寒くなるのだった。
 茗荷屋十右衛門が、ほおずきの化け物におそわれて、深手をおうたのはそれから三日め、お盆のおむかえ火が、家々の門を、ほのあかく染めている晩のことだった。

狂刃永代橋の惨劇
  ——豆六はくせ者にバッサリ切られて——


 茗荷屋の十右衛門が、奇(き)禍(か)にあったてんまつというのはこうである。
 その晩は、海老屋徳兵衛の母の七回忌で、海老屋では、ごくうちうちで、しめやかな法事がおこなわれた。
 なにしろ、万助のゆくえがいまだにわからないおりから、法事どころではなかったが、じつは法事にかこつけて、親族があつまって、善後策を講じようというのだ。
 あつまったのは、茗荷屋をはじめとして、仏の兄の上総屋角右衛門、それに、岩瀬家からは弓之助夫婦が、ひとめをしのんでやってきていた。
 そこで、当主の徳兵衛を中心に、いろいろ相談してみたが、けっきょくは、万助をさがし出すのが、だいいちだということのほかに、たいしてよい思案もうかばない。
 ところが、五ツ半(午後九時)ごろのことである。
 茗荷屋からつかいがきて、うちに急病人ができたから、すぐかえってくれとの口上だった。
 つかいのものは、海老屋ではついぞ見たことのない男だったが、十右衛門のせがれが夏のはじめごろから、病気でねていることを知っているので、だれもべつに怪しみはしなかった。
 そこで、その口上を奥へつたえると、十右衛門も、徳兵衛の嫁のお町も心配して、とるものもとりあえず、いったん家へかえることになった。
 つかいのものは口上を述べると、すぐどこかへ、すがたを消してしまったので、十右衛門は、お供につれてきた長松という丁(でつ)稚(ち)とふたりきりだった。
 茗荷屋は川むこうの茅(かや)場(ば)町(ちよう)にあるので、家へかえるには、永(えい)代(たい)橋(ばし)をわたらなければならない。丁稚の長松に足もとを照らさせながら、その永代橋のうえまできたときである。むこうから、風のようにはしってきた影が、いきなりばっさり、長松のさげているちょうちんを斬(き)りおとした。
「わっ、人殺しイ」
 長松が逃げだすのと、
「なにをする!」
 十右衛門がさけんだのと同時だった。
 だが、その瞬間、なにやらまっかなものが、十右衛門のうえに、のしかかってきたかとおもうと、
「わっ!」
 十右衛門は、左の肩を切りさげられて、橋げたのうえにのけぞっていた。
 もしこのとき、十右衛門のあとを、みえがくれにつけてきたもうひとつの影が、いきなりくせ者に組みつかなければ、十右衛門は二の太(た)刀(ち)、三の太刀を受けて、そのまま、あえなくなっていたにちがいない。
「この、ほおずきの化け物め、御用じゃ、御用じゃ」
 くせ者に組みついたのは豆六だった。御用の声に、さすがの気ちがいもおどろいたのか、
「ええい、じゃまさらすな」
「じゃませえでおくもんか。御用じゃ、御用じゃ、神妙にしくされ」
 豆六はもう夢中である。
 相手の腰にむしゃぶりついたまま、だにのようにはなれない。そのとき、むこうからやってきたのはかご屋のちょうちん。それをみると、くせ者も、もうこれまでと思ったのか、
「これでもくらえ」
 うしろざまにはらった太刀に、
「わっ!」
 と、豆六はあおむけにひっくりかえると、
「御用じゃ。御用じゃ。だれかきてくれえ」
 その声がきこえたのか、かごのちょうちんがぴたりととまった。
 かごは二丁で、さきのかごからとびだしたのは岩瀬弓之助、おっ取り刀でかけだそうとする。うしろのかごから、
「あれ、あなた」
 と、顔を出したのはお菊だった。
「おお、そのほうはこれにて待っていよ」
 さけぶとともにかけだしたが、と、そのとき、うしろから二丁のかごをかけぬけて、弓之助とほとんど同時に、橋のたもとへかけつけたふたりの男があった。
「あっ、親分、ありゃほおずきの化け物!」
 弓之助夫婦をつけてきたのは、人形佐七にきんちゃくの辰。と、みれば十三夜の月あかりのなかに、すっくと立っているのは、うえからしたまでまっ赤な衣装のくせ者だった。
「おのれ、くせ者」
 弓之助はそれをみると、腰の小(こ)柄(づか)をはっしとばかり投げつけたが、それがあたったのか、あたらないのか、くせ者は刀を口に橋の欄(らん)干(かん)をおどりこえて、ざんぶとばかり川のなかへとび込んだ。
 それをみると、辰もくるくると着物をぬいで、これまた川のなかへまっさかさまに。——
「しまった」
 かけつける佐七の足にぶつかったのは十右衛門、急所の深手に正体はなかった。
 そのそばには豆六が、これまたかなりの深手で、
「あっ、親分、ようきとくれなはった……」
 と、いきなり佐七の足にすがりつくと、
「あいつは、あいつは……」
 いったかと思うと、気がゆるんだのか、そのまま気をうしなって倒れてしまった。
「これ、豆六、しっかりしねえ。傷はあさいぞ。いま、かごを呼んできてやるからな」
「いや、そのかごならわれわれが用だてようが、して、そのほうたちは?」
 弓之助はけげんそうな面持ちである。
「はい、あっしは、お玉が池の佐七というもんですが、ここに切られておりますのは、みうちのもので豆六と申します」
「して、その豆六とやらが、どうしてここに……」
「へえ、話せばながいことながら、あっしらはこのあいだから、おまえさんたちのあとをつけておりますのさ。いえ、けっして悪気があったわけじゃなく、また、なにかまちがいが起こってはならねえと、こんやも海老屋さんの近所に張りこんでおりましたが、この茗荷屋のだんなが、ひと足さきにおかえりのようす、なにか途中でまちがいが起こっちゃならねえと、そこで、豆六をつけさせたのでございますが……」
 話しているうちに二丁のかごが、おっかなびっくりちかづいてきた。
「佐七とやら、そのほうの名まえはかねてより聞きおよんでいる。いずれゆっくり話がしたいが、今夜のところはとりあえず、その手負いをこのかごへ……」
 お菊を呼びだして二丁のかごへ、十右衛門と豆六をかつぎ込むと、
「そして、佐七、これからどこへ」
「へえ、とりあえず茗荷屋さんのところへ……」
 そこへ、丁(でつ)稚(ち)の長松が注進したのだろう、茗荷屋からは、急病のはずのせがれをはじめ、番頭手代がむこうはち巻きでかけつけてきた。
 佐七はそれにかごをまかせて、弓之助とふたりで、河(か)岸(し)ぶちへおりてみると、きんちゃくの辰がすごすごと、ぬれねずみになってはいあがってきた。
 くせ者はついにとり逃がしたのである。

江戸のほおずき騒動
  ——こよい徳兵衛夫妻が危うくござ候(そうろう)——


 十右衛門はずいぶん深手だったが、さいわい、あぶないところで急所をはずれていたので、運がよければ助かるかもしれぬという医者の診断。
 豆六のほうはこれにくらべると、はるかに浅手だったが、わるいことには破傷風を起こして、このほうがかえって重態だった。
 さあ、こういううわさが広がったからたいへんだ。本所深川は申すにおよばず、ご府内はいたるところ大騒ぎ。
「ほおずき大尽が、ひとを切ってまわるそうな。海老屋の親戚を、ねだやしにするもくろみだそうだが、あいては気ちがいのことだ、だれかれの見境はあるめえ。うかうかしていてそばづえくうな」
「そうとも、そうとも、気ちがいに刃物とはこのことだ。うっかり夜歩きはできねえぜ」
 と、おじけをふるっているのがあるかと思うと、一方では、われこそそのほおずき大尽を捕えてくれようと、深更におよんで、わざと町を徘(はい)徊(かい)する豪傑もある。
 八(はつ)丁(ちよう)堀(ぼり)でもすててはおけない。
 岡(おか)っ引(ぴ)き手先を督励して、やっきとなってほおずき大尽のゆくえをさがさせたが、杳(よう)として手がかりがない。
 佐七はきょうも、おなじみの神(かん)崎(ざき)甚(じん)五(ご)郎(ろう)のもとへよびつけられて、一刻もはやく下手人を捕えるようにと厳命をうけ、恐れいってお玉が池へかえってくると、家には岩瀬弓之助が待っていた。
「おや、これはよくお越しくださいました」
「おお、佐七、このあいだはご苦労だったな。きけば、豆六がわるいそうだな」
「はい、あいつもふびんなやつで、この二、三日は高熱のために、うわごとばかり申しております。ときに、茗荷屋さんのほうは、いかがでございます」
「うむ、あちらはだいぶよいようだ。きょう家内が見舞いにまいったら、このぶんなら、秋までにはよくなるだろうと、家のものが申していたそうだ。これも豆六どののおかげゆえ、くれぐれも、礼を申してくれということであった」
 その豆六どのは、だれの見舞いもわからぬほどの重態で、佐七もお粂も心痛のために、ここふた晩ほど、ろくにまぶたもあわないのである。
「ときに、佐七。辰五郎と申すはいかがいたした」
「へえ、あれはちょっと、心当たりのほうをさぐらせております。あいつも弟分のかたきだというので、やっきとなっているのでございますが……」
「ふむ」
 弓之助はしばらく、じっと佐七の顔をながめていたが、やがてにわかにひざをすすめると、
「佐七」
「へえ」
「そのほうは、あのくせ者をどうおもう。あれははたして、海老屋の隠居であろうか」
「なんとおっしゃいます。それはもちろん……」
 と、佐七がわざとそらとぼけるのを、弓之助はおっかぶせるように、
「これこれ、佐七、拙者にまでかくすにはおよばぬ。隠居が座敷牢をやぶってから、きょうでもう十日の余になる。気ちがいの身として、そのあいだ人目につかず、かくれていることがかなうであろうか。それくらいのことに、気がつかぬそのほうとは思えぬが……」
「それじゃ、だんなは……」
「いかにも。拙者の考えるところでは、なんびとかが隠居になりすまし、おのがじゃまになる人間を、かたっぱしからとりのけようと、たくらんでいるのにちがいないと思うが、どうであろうの」
「そして、その下手人というのは……?」
「佐七、それは拙者の口からは申せない。しかしの、父上とあの茗荷屋をのぞけば、あとは若年の徳兵衛ばかり。そうなったあかつきには、あの身代はだれの自由になるであろう」
「だんなのおっしゃるのは、あの上総屋角右衛門……」
「これ……めったなことはいわれぬが、佐七、拙者の胸中も察してもらいたい。おもてむきはご病死ということになってはいるが、拙者は無念だ。父のかたきを討ちたい。そのかたきは……」
 上総屋角右衛門と、口に出してはいわなかったが、弓之助、もとよりそれとにらんでいるのだ。
「だんな、それじゃ申しますが、あのくせ者はたしかにご隠居じゃありません。しかし、角右衛門さんでもありませんので」
「なに、それじゃ、角右衛門ではないと申すか。してして、それはどういうわけだ」
「なるほど、角右衛門さんもうしろで糸をひいているのかもしれませんが、直接に手をくだしたのはほかにあります。そのわけというのは……あっ、だんな、あれをおききくださいまし」
 そのとき、隣室から豆六の、苦しそうなうわごとがきこえてきた。
「親分……親分、あいつは、あいつは、万助やおまへん。万助より、もっともっと、若い男だす」
「あれをおききになりましたか、豆六はくせ者の腰にむしゃぶりついたのです。そのはだざわりから、くせ者を万助さんじゃないと察したのですが、角右衛門さんなら万助さんとおなじ年ごろ、だから下手人はほかにあるんです」
「ふうむ。しかし、佐七、下手人がだれにせよ、角右衛門が背後からあやつっていると申すなら、いっそ、あいつをとりおさえて……」
 だが、そのときである。
 風のようにおもてから、舞い込んできたのは、きんちゃくの辰だった。
「親分、親分、たいへんだ、たいへんだ」
「これ、辰、静かにしねえか。豆六が寝ているというのに……」
「おっと、そうだっけ」
 と、辰はあわてて、口をおさえると、佐七のそばへはいよって、なにやらごしゃごしゃ。
 佐七はそれをきくなり、はっとばかりにぎょうてんした。
「それじゃ、角右衛門と、番頭の治兵衛が……」
「へえ、このあいだのさがみ屋の奥座敷で、バッサリやられて……」
「なに? なんと申す? 角右衛門と治兵衛が、殺されたと申すのか」
 弓之助もそばから、話をきいて顔色をかえた。
「へえ。しかも、下手人はまたしても、ほおずきの化け物。女中がさけび声をきいてかけつけると、まっかなすがたが、うらの川へとびこんだと申します」
 佐七と弓之助は、それをきくと、ほとんど同時に立ちあがったが、そのときだった。佐七は上がりがまちに落ちている、紙のまるめたものを拾いあげた。
 なにげなくひらいてみると、

 こよい、徳兵衛ご夫婦に気をおつけなさるべく候(そうろう)。
 またしても、ほおずき大尽のえじきにならぬよう、くれぐれもご用心、ご用心。

「辰、てめえか、これを落としたのは?」
「いいえ、あっしじゃありません。なにか変わったことが書いてありますか」
 佐七はだまってそれを弓之助にみせた。
 弓之助はぎょっとして、佐七の顔を穴のあくほどながめている。かさねがさねの椿(ちん)事(じ)に、石にでもなってしまいそうな顔色だった。

深(しん)讐(しゆう)綿々河津屋一家
  ——意外、海老屋の万助は死んでいる——


 その夜の海老屋の騒動は、いまさら、ここに述べるまでもあるまい。角右衛門と治兵衛と、ふたつの死(し)骸(がい)をかつぎ込まれ、気のよわい徳兵衛は、気も狂乱のていたらくだった。
 さいわい久七がまめまめしく働いてくれるので、ご検視はぶじにすんだが、これからさきのことを考えると、わかい徳兵衛夫婦はいうにおよばず、かけつけてきた姉のお菊も、ただ胸をつかれるばかりだった。
 おりからそこへ、だれが知らせたのか、六(ろつ)間(けん)堀(ぼり)の隠居所から、お国もかけつけてきたが、どういうものか、弓之助はついにすがたをみせなかった。
 いや、弓之助ばかりではない。佐七もやってこなかった。
 では、その佐七と弓之助は、なにをしていたかというと、意外にもこのふたりは、六間堀の隠居所へ、忍びこんでいたのである。
「佐七、どうしたものじゃ。海老屋のほうは、ほうっておいてもよいのか」
「なあに、あちらのほうは、辰をはじめ、八丁堀から手先を張り込ませておきましたから、だいじょうぶでございます。それよりも、この隠居所で、すこししらべたいことがございますので」
 お国が出ていったあと、隠居所には小女とばあやのふたりきり、用心棒の又蔵もどうやらいないらしい。
 隠居所とはいえ、さすが海老屋が建てたものだけに、屋敷はかなりのひろさで、庭のすみの湿地には、葭(よし)がいちめんにしげっている。どこやらで、こおろぎのなく声もさみしく、月はすでにかたむきかけている。
「はてな。たしかに、この庭のなかにちがいないと思うんだが」
 白露のような月光をふんで、佐七は地面のあちこちを調べていたが、やがて、にんまり笑うと弓之助のほうをふりかえった。
「だんな、ごらんなさいまし。ほら、この葭のひと株は、ちかごろ掘り起こしたものでございますぜ」
 なるほど、すこし力をいれると、ひと株の葭が根ごと、ごっそりもちあがる。
 弓之助は、けげんそうにまゆをひそめながら、
「ふむ、それがどうしたというのだ」
「いまにわかります。だんな、恐れいりますが、そっちの葭も、のけてくださいまし。そうそう。さて、これからいよいよ穴掘りでございますが、だんな、けっして驚いちゃいけませんぜ」
 わけはわからないなりに、弓之助もどきどき心臓がおどりだす。ひとめをしのんで深夜の穴掘り、いったい佐七はなにをさぐろうというのだろうか。
 弓之助はしばらく佐七の手もとをながめていたが、やがてごくりとなまつばをのむと、
「佐七、拙者もてつだおうか」
「へえ、恐れいりますが、おねがいいたします」
 ふたりは、どろだらけになって穴を掘った。土はあんがいやわらかで、あきらかに、ちかごろだれかが掘りかえしたらしいことを示している。
 弓之助は、しだいに呼吸がはずんでくる。つめたい汗がたらたらとわきのしたから流れた。
 やがて、三尺あまり掘ったろうか。——と、そのとき、なにやら、ぐにゃりとしたものが、弓之助の指先にさわった。おやと思って、あわてて土をかきのけた弓之助は、そのとたん、のけぞるばかりに驚いた。
 むりもない。土の中からにょっきり出たのは、なんと、人間の足ではないか。
「さ、佐七、これは……?」
 佐七もあわてて月の光で穴の中をすかしてみたが、すぐ一歩さがると、
「だんな、ご苦労でございました。もうこれ以上、掘るまでもございません」
「佐七、それではそのほうは、あの死体が何者だか知っているのか」
「はい、よく存じております」
「いったい、だれだ、何者だ」
「まだおわかりじゃございませんかえ。あの死体こそ、ほおずき大尽、海老屋の万助さんでございます」
 そのとたん、弓之助は棒をのんだように立ちすくんだ。
「隠居どの——? それじゃ、隠居どのは死んでいたのか」
「へえ、もうよほどまえに、あの座敷牢のなかでおなくなりなすったのでございます」
「バカを申せ。その隠居どのは、たなばたの晩に、座敷牢を切りやぶって脱出したというではないか」
「だれがそんなことを申しました。小女とばあやでございましょう。ところが、あのふたりときたら、こわいこわいでろくに顔も見なかったはず、しかも、星をみるとて座敷のなかは、行灯の灯も小さくしてあったと申しますから、赤い衣装をみただけで、だんなとばかり思いこんだのでございます」
「しかし、お国は——よもや、お国が見ちがえるというわけはあるまい」
「もちろん、お国さんは知っておりました」
「知っていながら、なぜそれを……」
「いうわけがありません。だんな、お国さんこそ海老屋の一族をのろう張本人でございますもの」
「あのお国が?……いったい、お国というのは何者だ」
「ご隠居さんのためにお家没落、一家離散のうきめをみた、あの河津屋の娘でございますよ」
 それをきいたとたん、弓之助の顔は、さっとまっさおになった。
 河津屋と海老屋のいきさつは、弓之助もよく知っていた。知っているわけがあった。
 河津屋没落の裏面には、弓之助の亡父式部も、片棒かついでいたのである。
 それを話せばながくなるが、いまから二十年ほどまえ、二の丸の増築があって、河津屋から材木を納入させたことがあった。ところが、納入品のなかに、不正品がまじっていたのを、摘発したのが海老屋の万助。そして、それをさばいたのが、その当時から、作事奉行をつとめている岩瀬式部だ。
 このさばきには、いろいろ疑問のふしがおおかった。不正品納入は、もちろんふとどきだが、そのために河津屋が闕(けつ)所(しよ)を申しつけられたのは、あまり刑罰が重すぎるという評判だった。
 ましてや、河津屋手持ちの材木一式、海老屋へ下げわたされて、あらためてお城御用を申しつけたのは、どうかんがえても、ふにおちぬ処分と、当時、木場でもまゆをひそめたものがおおかった。
 海老屋万助と岩瀬式部の因(いん)縁(ねん)は、そのじぶんから、結ばれていたらしい。
 父と舅(しゆうと)の不正を、うすうす知っているだけに、弓之助は熱湯をのむような思いだった。
「お国が……あの、お国が……」
「さようでございます。おもえばあいつもふびんなやつで、れっきとした大家にうまれながら、幼いときに家は没落、それからのち、どんな苦労をしたことでしょう。苦(く)界(がい)に身をしずめ、つらいせつないおもいをするたび、思い出すのは万助さんのこと。ところが、どういう神のいたずらか、その万助さんが一夜、お国のところで遊んだ。さあ、それこそ、お国にとっちゃ千載一遇の機会です。腕によりをかけてもてなしたから、万助さんはころりとまいった。そして、首尾よく、この隠居所へ乗りこんでまいったのでございます」
「ふうむ」
 弓之助はいちいち、胸にくぎをうたれるおもいだ。
「お国にとっちゃ、にくいのは万助さんひとりじゃなかった。海老屋の一族ぜんぶがにくかった。自分がなめた苦しみを、親族一同になめさせたかった。万助さんの気がくるったのも、おおかた、お国がなにかのませたからでしょう。ところが、気のくるった万助さんは、赤い衣装をはなさない。それをみて、お国が思いついたのがこんどの狂言。万助さんは、たなばたの晩よりまえに、座敷牢のなかで死んだ。これもお国が、わざをしたにちがいありません。そして、死(し)骸(がい)はこっそりここへ埋め、用心棒の又蔵を、その身替わりに立てたんです」
「なに、又蔵? それじゃ、父のかたきは……」
「そうです。あの又蔵ですよ。あいつはお国の乳(ち)兄(きよう)妹(だい)、つまりお国の乳(う)母(ば)の子で、ふたりはむかしから深い仲だったんです」
「しかし、それじゃ、女中やばあやが気がつきそうなもの」
「どうしてですえ。万助さんはお国の給仕のほかは、けっして飯を食わなかったというじゃありませんか。ばあやや女中が、なにをこのんで、座敷牢をのぞきましょう。たとい親戚のかたが、たまにみえても、赤い衣装で、むこうむきに寝ていりゃ、だれだって万助さんだと思いまさアね」
 しかも、それはそう長い期間ではなかったにちがいない。ほんの二日か三日のあいだだったであろう。
 ああ、きけばきくほど恐ろしい。
 身の毛がよだつ。
 さむけがする。
 それは悪鬼にもひとしい残酷さだった。
 いや、じっさいに、お国はのろいの悪鬼につかれていたのかもしれない。
「あいつは気が狂っていたのです。のろいと憎しみのために、気が狂っていたのです。しかし、ねえ、だんな、ふしぎなものじゃありませんか。その悪鬼の胸にも、人情のやさしさはしみとおった。徳兵衛さんご夫婦のやさしい思いやりは、さすが、氷のようなあいつの胸も溶かしたのです」
「それじゃ、さきほどの投げ込み文(ぶみ)は……」
「お国のほかに、あんなことを知っているやつはありません。ふびんなやつです。鬼の目にも涙で、やさしい若夫婦だけは、どうしても殺す気になれなかったのでございましょう」
 佐七はほっとため息ついたが、そのときである。
「親分、親分」
 あわただしい呼び声はたしかに辰。
「おお、辰、どうした」
「親分、申しわけありません。又蔵を逃がしてしまいました」
「なに、逃がしたと? そして若夫婦は?」
「へえ、さいわいふたりには、寝所をかえさせておきましたので、無事でございましたが、又蔵のやつ、お国をつれて逃げのびました。もしやこっちへ帰っちゃいまいかと……」
 むろん、ああいう投げ込み文をした以上、お国も逃亡を覚悟していたにちがいない。
 こっちへかえってくるはずはなかった。

道行き秋の甲州路
  ——お国又蔵くされ縁の因縁話——


 甲州路は秋がはやい。七月も二(は)十(つ)日(か)をすぎると、朝夕は、こたつに火でもほしいくらいである。
 その甲州路の大月の宿。
 ここは吉(よし)田(だ)口(ぐち)をひかえているので、夏場は富士講の行(ぎよう)者(じや)たちで毎年にぎわう。その大月の桝(ます)屋(や)という旅籠(はたご)に、おとといの晩から、泊まりこんでいるふたりづれの男女がある。
 宿帳をみると、男は新助、女はお久、江戸から甲府へいく夫婦づれとあるが、なんとなく、いわくありげな道中だった。
 じつは、きのうの朝、はやく立つつもりだったが、女が癪(しやく)をおこして、出発がのびのびになっているのである。
「お久、どうだ、まだ痛むかえ」
 宿のどてらを着て、女のまくらもとにあぐらをかいているのは、宿帳にのっている新助。二十五、六の、がっちりとしたからだをしているが、よい男とはいえなかった。青んぶくれのしたような男で、鈍(のろ)牛(うし)といったかんじだが、これがお国の乳兄弟、又蔵であることはいうまでもない。なるほど、この男ぶりでは、お国との関係を感づかれなかったのもむりはない。
「あい」
 女はめっきりやつれたおもてをあげると、
「すみません」
「また、いやアがる。いまさら、すむもすまねえもねえじゃねえか。病気だけはどうにもならねえ」
「だって、こんなに出立がのびてしまって、もしや追っ手が……」
「しッ! めったなことをいうものじゃねえ。となりはからかみひとえだ」
「又……いえ、あの、新さん」
 ふいに女が、思いせまったような声になって、
「あたしゃもうあきらめている。あたしのためにおまえさんに、もしものことがあっちゃすまない。どうかあたしをこのままに、おまえ、さきに立っておくれな」
「またそれをいう。せっかくここまで落ちのびながら、いまさら、そんなことができるものか。死なばもろともだ。それとも、お久」
「はい」
「おまえ、まさかあの若僧に、未練があるんじゃなかろうな」
「そ、そんなバカな」
「どうだかわからねえぜ。海老屋の一族を根だやしにするといいながら、かんじんの跡取りむすこの段になって、寝返りをうちやアがった。ヘン、おれこそいいつらの皮だ。あやうく十(じつ)手(て)風(かぜ)をくらうところよ」
「新さん、かんにんしておくれ。あのときは魔がさしたのさ。徳兵衛さんも徳兵衛さんだが、あのやさしいお町さんがかわいそうで……。バカだねえ」
 女は涙も出ない目で泣いている。
「ふん、どうだかわかるもんか。しかし、まあいいや。あんな若僧に、やきもちやいたってはじまらねえ。お久、おらア、ふろへはいってくるぜ」
 男が手ぬぐいをつかんで出ていくと、女はいまさらのように、夜具のはしをかんで泣きむせんだ。こうして、わびしい旅の空で病みつくと、お国はいまさらのように、じぶんの所業がおそろしくなってくる。
 お国に関する佐七の推理は、なかば当たっていたが、なかばまちがっていた。おっとりとした気性のお国は、佐七が考えているほど悪い女ではなかったし、また、万助やその一族にたいして、それほど復(ふく)讐(しゆう)心(しん)にもえていたわけでもなかった。
 そのお国に執(しつ)拗(よう)に復讐の毒血をふきこんだのは、又蔵の母のお峰という女で、お国のむかし乳母だった。
 お国はあわれな女で、幼時両親をうしなったあと、むかしの乳母の、お峰の手でそだてられた。お国には菊松という弟があったが、又蔵、お国、菊松の三人は、お峰の手によってそだてられたのである。
 愚痴のおおいは年寄りのつね、お峰はことあるごとに、河津屋のむかしの栄華を語ってきかせ、不如意なことがあるたびに、これも海老屋のおかげでございます、万助とその一味のせいでござりまするぞと、お国に復讐の毒気を吹きこむことをわすれなかった。
 そして、お国にもうひとつピンとこないのをみると、
「あなたはまあ、なんという親不孝なかたでございまする。おなくなりあそばしたご両親さまの無念さが、おわかりにならないのでございますか」
 と、畳をたたいていきりたった。
 お国が十八のとしに、弟の菊松がわずらいついた。労(ろう)咳(がい)……すなわち、いまのことばでいえば肺病だった。
 菊松の病気をなおすには、多額の金(きん)子(す)が入用だった。当時、又蔵はもう身をもちくずして、家をそとの放(ほう)埒(らつ)三(ざん)昧(まい)、けっきょく、お国が身売りをするより方法がなかった。
 いよいよ、お国が吉原の松葉屋へひきとられるというまえの日に、又蔵がひょっこりかえってきた。小さいときから、いっしょにそだてられた又蔵は、いままでお国を、主家のお嬢さんとしてしかみていなかった。
 それがちかく苦界へ身をしずめて、おおくの男におもちゃにされるのかと、そう思ってみなおすと、いままでとちがったお国がそこにあった。それは、まぶしいくらい豊麗なからだをもつ美人であった。
 幸か不幸か、そのときお峰はるすだった。菊松は菊松で、熱にうかされてうとうとしていた。
 又蔵はとつぜんお国の手をとり、ひざのうえに抱きあげた。満面に朱をそそいだ男の顔をみたとき、お国はハッとしたらしかったが、どうせおおくの男のおもちゃになる身と観念したのか、目をとじて、男のなすがままにまかせていた。
 まもなくお国も、絶えいるように息をあえがせ、からだを開くと力いっぱい、したから男を抱きしめた。
 やっと血の騒ぎがおさまったとき、又蔵はそこへ手をついてあやまった。かえってお国のほうが、はじらいながらも、あんがい平気で、おくれ毛をかきあげながら、
「いいのよ、又さん。どうせいろんなひとに、おもちゃにされるあたしだもの。気心のしれた又蔵さんに、こうして女にしてもらって、あたしゃどんなにうれしいかしれやアしない」
「お嬢さん、そんなにおっしゃられると、あっしゃいっそう申しわけなくって……」
 又蔵もわるい男ではなかったが、これがふたりのくされ縁のはじまりだった。

悪因縁、お国万助
  ——万助は年がいもなく血気にはやって——


 松葉屋へひきとられたお国は、三月ほどげんじゅうな訓練をうけたのち、逢(ほう)州(しゆう)と名のって勤めにでたが、たちまち全盛をうたわれる身となった。
 厚(あつ)物(もの)咲(ざ)きをみるような、パッと目につく器量も器量だが、お国の真価はからだにあった。
 おっとりした気性のお国は、からだもそれだけ健康で、客のどのような求めにも応じられるだけの力を、いつもはだのしたにたくわえていた。松葉屋でもだいじにして、むちゃに客はとらせなかったので、お国はいつまでも豊麗で、みずみずしく、一種精妙な弾力性と、吸引力をたもっていた。
 お国の客がことごとく、お国に有頂天になったのは、その精妙なからだに、身も心もとろけてしまうからである。いちどお国とねた客は、その絶妙なからだを忘れかねて、のちのちまでも通ってくるのである。
 環境にたいして順応性にとみ、根がすなおな気性のお国は、客のよりごのみをせず、だれにでもその精妙さをおしみなく発揮したから、逢州の人気はいよいよたかまるばかり。
 客のほかに、又蔵が、昼間のお国のからだのひまなときを見計らっては、こっそり裏口からあいにきた。
 身をもちくずしたといっても、むかしの人間はりちぎである。ことに主従関係について口やかましい、お峰に育てられた又蔵は、主家の娘を犯したという罪の意識がなかなかぬけず、お国と呼びすてにするにもひまがかかった。
 かえって、お国のほうがこだわらなかった。
 はじめのうちは、又蔵がとかく遠慮がちだったのにはんして、お国のほうが大胆だった。又蔵がしのんでくると、へやをしめきり、ひとをとおざけ、帯ひもといてもてなした。
 又蔵は口かずもすくなく、みたところさえない男だが、はだかにすると、柳橋の舟宿で船頭をしていたというだけあって、どの筋肉も隆々としてたくましく、小舟をあやつっていただけに、腰のバネは抜群だった。
 いかに遠慮がちとはいえ、いったんお国を抱いてしまうと、又蔵も前後をわすれて、そのバネにものをいわせた。お国はお国で、商売気をはなれて、もちまえの精妙さを発揮して、それに応じた。
 こうして、女(じよ)郎(ろう)と間(ま)夫(ぶ)という、ありきたりの関係になっていったが、そうなっても又蔵には、まだ義理堅いところがあり、ちっとも間夫ぶらないところがよかった。
 お峰もよくやってきた。
 菊松の容態がはかばかしくないので、お峰はくると泣きごとだった。そして、その泣きごとのあとにはかならず、これもひとえに海老屋のせい、万助とその一族のおかげでございまするぞと、念をおすことをわすれなかった。
 それでいて、お峰はまだ、お国と又蔵の仲に、気がついていなかったらしい。もし、彼女が、じぶんのせがれがお嬢さまを抱いて、好きかってなことをしていると知ったら、どんなに怒り、嘆いたことだろう。
 そのお国に、さいしょに訪れた不幸は、菊松の死だった。お国が勤めに出てから半年ほどのち、菊松は薬(やく)石(せき)の効(こう)むなしく、なくなった。お峰がやってきて、これも海老屋のせいですぞ、万助のなせるわざでございまするぞと、強調したことはいうまでもない。
 お国の第二の不幸は、又蔵が賭(と)場(ば)のいさかいからひとを傷つけ、わらじをはかねばならなくなったことである。
 夜ふけてこっそり又蔵が、別れをつげにきたとき、お国ははじめてかかえ主にわがままをいった。その晩、お国はほかの客をぜんぶことわり、夜っぴて又蔵の腕に抱かれて、男のすきなように身をまかせた。
 明けがた男が出ていくとき、お国はできるだけのくめんをして、路銀をつつんでやったが、いつもはぜったいにお国から金をうけとらぬ又蔵も、このときばかりは押しいただいて、
「お国、礼をいうぜ。いつあえるかわからねえが、おまえも達者で暮らせよ」
「そういう又さんこそ、旅の水に気をつけて」
 お国は寂しさが身にしみて、ホロリとした。
 お国の第三の、そして彼女の最大の不幸は、海老屋の万助をそれとしらずに、客にとったことである。
 一昨年の春もうつろう四月なかばのこと。お国は十八の秋から勤めに出て、もう一年半、夜ごとあだし男とまくらをかわしながら、彼女の容色はすこしも衰えていなかった。
 いや、衰えるどころか、ふくよかなはだは、おおくの男の精気を吸って、そのつややかなことは照りかがやくばかり。厚物咲きのように華麗な美(び)貌(ぼう)は、ますますみがきがかかり、評判の名器は、おおくの男にかなでられることによって、いよいよ精妙さをくわえていた。
 よりによってそういう時期に、海老屋の万助が客として、彼女のまえへあらわれたのである。
 おおくの太(たい)鼓(こ)末(まつ)社(しや)をひきつれて、引き手茶屋からおくられてきたところといい、ゆったりとした口のききかたといい、極(ごく)上(じよう)の客とおもわれたが、まさかこれが、親のかたきの万助と、気づかなかったのが彼女の最大の不幸だった。
 ほんとのことをいうと、そのまえの年の秋から、おぼえはじめただだらあそびに、万助はちかごろ、いささか飽きぎみだった。だから、その晩もなんとなく、浮かぬ顔色をしているのを、そばからつとめて気分を引き立てるようにしむけたのは、ほかならぬお国の逢州だった。
 この水に染まってから、もう一年有余、それでいながら、お国はまだもちまえの、おっとりとしたあどけなさを失っていなかった。みえすいたおせじはいえないほうだが、よろずとりなしに実意がこもっていた。
 ことに、その晩は、かかえ主や引き手茶屋のおかみから、よくいいふくめられていたのと、それに彼女じしん、なんとなく寂しそうなこの年寄りがきのどくになったのもてつだって、できるだけあいての気分を、引き立てるようにふるまった。
 そこでけっきょく、万助はお国の逢州とへやへひけたが、お国のからだを抱くにおよんで、万助はじぶんでじぶんを疑った。
 万助も逢州のうわさは、きいてきたのだ。しかし、万助はあたまから、そんなことを信用していなかった。だから、うわさにたかいこの女が、やっぱり、じぶんの思うとおりのふつうの女なら、これきり道楽をやめようと思って抱いたその女が、聞きしにまさる名器のもちぬしだったというのは、万助にとっても、お国にとっても不幸であった。
 その晩のお国のからだは、とくに精妙をきわめたから、万助は年がいもなく血気にはやった。しかも、万助が血気にはやればはやるほど、お国のからだは、ますます真価を発揮するのである。真価を発揮したのみならず、お国も万助の首にしがみつき、いくたびか、力いっぱい抱きしめた。
 しばらくのいこいのうちの寝物語で、はじめてあいてがだれであるかを知ったときのお国のおどろきを、いまさらここに喋(ちよう)々(ちよう)するまでもあるまい。万助の腕のなかにいたお国が、あまりはげしく身を動かしたので、
「どうしたんだね」
 と、万助がふしぎそうに尋ねた。
「いえ、あの、木場の海老屋さんのだんなさまなら、もっともっと、お年をめしたかただと思っていましたのに」
「わしももう、さらいねんは本(ほん)卦(け)がえりよ」
「あら、あんなうそを……」
 それはお国のおせじではなく、じっさい、万助はその年にはみえなかった。
 わかいときから金もうけと、権謀術策にうき身をやつしてきた万助は、女にはわりに恬(てん)淡(たん)だった。成功者によくある、女色に惑(わく)溺(でき)するようなことは、いままでの万助にはなかった。
 しぜん摂生がたもてたとみえ、膚の色つやもみずみずしく、わかいとき荷揚げ人足もやったという万助は、すべてにおいてたくましく、抱かれてねた女だけが知っている、官能のさいごの奔(ほん)流(りゆう)の旺(おう)盛(せい)さからいっても、十以上はわかかった。
 それがほんとの万助だとわかったとき、さすがにお国も惑乱し、身の因果ということを、考えずにはいられなかった。しかし、いまさら嘆いたところでどうなろう。お国はもうこの男に抱かれて、商売気をはなれた、女のまことをささげてしまったのだ。
 お峰からさんざんふきこまれてきた海老屋万助というひとは、鬼か蛇(じや)か、魔王のようなひとだと思っていたのに、案に相違して、いまじぶんを抱いている男は、いかにも腹のふとそうな、ゆったりとしたよいだんなである。
 お国の心は千々にみだれたが、いまさらこの男を、仇(きゆう)敵(てき)として憎めといってもむりだった。
「どうしたんだい。なにをそのように考えこんでいるんだえ」
 耳もとでささやかれて、
「いいえ」
 と、おもわず鼻声で、
「だんなさま……」
 と、息をはずませながら、みずから足をからめていった。
「いいのかい」
 女に誘われて、男もすぐにもえてきた。
「好きなようにして……」
「ようし」
 と、男が力づよく抱きよせると、お国はさっきより、もっと大胆にからだをひらいて、みずから手をとって、男をじぶんのなかに迎えいれた。

惨劇、真昼の座敷牢
  ——朝に夕に、お国はふたりの男をあやつって——


 その一夜を境にして、万助のだだら遊びが、またぶりかえしたことはいうまでもない。いや、それは以前にもまして、はでで、豪勢なものであった。彼女のためなら万助は、千金もおしまなかった。
 すなおで、おっとりして、おおどかな性質のお国は、万助のどんな要求にたいしても応じてみせた。万助が脱がせにかかると、お国はちょっと抵抗するふりをみせながら、けっきょくは、あいての思うままになり、まっかな夜具のうえに、うつくしい裸身をおしげもなくひらいてみせて、じぶんも息をあえがせた。
 万助にはお国のからだの、どの部分も気に入っていた。お国はむっちりとした肉(しし)置(お)きの、いくらかふとりぎみだったが、からだ全体の曲線が、ふくよかな均整をたもっており、どの部分も、ゆたかな弾力にとんでいた。
 しかも、はだのきれいなことは無類である。底にもえやすい血を蔵した白いはだは、絖(ぬめ)のようにつややかで、要所要所がほんのりと、桜色をおびているのが、このうえもなくいじらしかった。
 お国が万助のいうがままになるのは、けっして、還暦にちかい老人を誘惑して、心身に、破滅をきたさせようという、陰険な下心からではなかった。
 お国も心細かったのである。
 菊松にさきだたれ、又蔵に去られ、たったひとりのこったお峰は、愚痴と、海老屋の一族にたいする復讐以外には語らなかった。
 お国が万助にひかれていったのは、お峰の度をすぎた愚痴に、反発したのかもしれない。あるいは、親のかたきにもてあそばれているという被虐的な快感を、ひそかに楽しんでいたのかもしれない。
 さいわい、年季証文をいれるとき、お峰は主家の名誉をおもんぱかって、かくしていたので、松葉屋でも、彼女のほんとの素姓は知らなかった。
 万助のあまりの放(ほう)蕩(とう)に、親戚一同がお国を根引きして、万助にあてがうと同時に、六間堀へ隠居させたことはまえにもいったが、このときお峰はくびれて死んだ。
 お国は万助のことを、お峰にかくしていたが、身請けされるだんになって、ばれてしまった。
 おどろいてかけつけてきたお峰は、泣いてお国を切(せつ)諫(かん)した。懐剣をつきつけて、これで万助の寝首をかき、おのれも自害してはて、地下の両親におわびをせよとまでせまった。
 お国がそれにとりあわなかったので、お峰は梁(はり)にひもをかけ、みずからくびれて死んだ。無筆のお峰には遺書がなかったので、彼女がなぜ死んだのか、だれにもわからなかった。
 万助が発狂したのは、お国が一服盛ったからではない。親戚のしうちにたいする痛憤と、お国のからだにたいする過度の惑(わく)溺(でき)が、万助の心を狂わせたのである。
 不平悶(もん)々(もん)の情やるせない万助は、鬱(うつ)を散ずる手段を、お国のからだに求めるよりほかに、方法を知らなかった。かれは昼となく夜となくお国を抱いた。
 こうして、老境にいたって、とつぜんおそった過度の刺激と悦楽が、万助の神経を狂わせたのである。
 五月ごろ隠居所に、座敷牢をつくったのがいけなかった。万助の狂気はますますはげしくなるばかりだったが、そのころ、いかに従順な病人とはいえ、かりにも気の狂ったひとといるのだから、女手ばかりではこころもとない、だれか男手をせわしてほしいというお国の要請をいれて、六月のはじめごろ、上総屋角右衛門がつれてきたわかい男の顔をみて、お国は心中、のけぞるばかりにおどろいた。
 まだ旅にいるとばかり思っていた又蔵だった。
 お国はしかしうまれつき、思うことがすぐ顔色にあらわれない性分の女であった。又蔵のほうでははじめから、ばんじ承知できているのだから、ヘマをやるはずがなかった。
 それに、照りかがやくばかりうつくしいめかけと、青んぶくれのしたような、一見、のろまにみえるこの男とのあいだに、そんなふかい関係があろうとはだれが思おう。
 又蔵はなにもかも知っていた。しかし、お国を責めはしなかった。ああいう世界に、身を沈めていたからには、こういう奇妙なまわりあわせも、やむをえないことだと、お国をゆるした。
 そのかわり、お国のからだをもとめ、お国もいやおうなしにかれに抱かれた。久しぶりにふれたわかい男のはだに、血をたぎらせたお国は、又蔵の首にしがみつき、なんどか力いっぱい抱きしめた。
 お国も又蔵もうまく立ちまわったので、ひと月くらいはうまくいった。
 お国はたくみに二匹の雄をあやつった。あしたにひとりの男と歓をつくし、ゆうべにほかの男にいどまれても、すこしもひるまず、あいてを歓喜の絶頂に導くだけの力をお国はもっていた。
 それにもかかわらず、ひと月たらずで、やっぱり、破局がやってきたというのは——
 気が狂ってからの万助の、お国にたいする惑溺には、抑制がなくなっていた。欲情がおこると、あたりはばからずお国を抱いた。そばにばあやや女中がいようが、見境がなかった。これにはふたりのほうが辟(へき)易(えき)して、座敷牢へはぜったいに、ちかよらないようにしていた。
 そこの呼吸が又蔵には、まだのみこめていなかった。お国のほうでもけっこう楽しんでいるのだということが、又蔵にはわからなかった。あれではお国がかわいそうだと、義憤に似た気持ちもてつだって、又蔵はしだいにジリジリしてきた。
 たなばたの日からかぞえて、なか二日おいたまえの四日の午後、ばあやと女中はるすだった。
 座敷牢のほうからきこえてきたれいのけはいに、又蔵はしだいに癇(かん)をたかぶらせた。うさばらしのつもりで、一杯のんだのがいけなかった。茶わん酒で一杯、二杯、三杯とのみほしたが、座敷牢のけはいはやまなかった。
 又蔵は欠け茶わんを投げ出すと、フラフラと立ちあがっていた。
 座敷牢の外の庭へきてみると、障(しよう)子(じ)がはんぶんあいていた。ちかごろでは、ふたりでそこへ閉じこもると、だれもちかよらないので、お国もゆだんをしたのか、それとも、障子をしめるまもなかったのか、座敷のなかがまるみえだったのが、三人にとって不幸だった。
 昼日中、ふたりとも素っ裸で、それがまず又蔵を憤激させた。むせっかえるように妖(よう)艶(えん)なお国のからだを、万助の年にしてはたくましいからだが抱いているのだが、そのいささか風変わりな姿態が、ついに又蔵を逆上させた。
 佐七の推理はここでもまちがっていた。万助は毒殺されたのではなく、絞殺されたのである。
 怒り心頭に発した又蔵は、疾風のように座敷牢のなかにとびこんだ。そこにありあう細ひもをとりあげて、うつぶせになって、そのことに熱中している万助ののどに、うしろからひっかけると、力まかせにあおむけにひっくりかえした。そして、肥満体の万助の布(ほ)袋(てい)腹(ばら)のうえに、すばやく馬乗りになると、両手ににぎった細ひもを、力いっぱい引きしぼった。
 じっさい、それはあっというまのできごとだった。お国があわてて身づくろいをして、止めにかかったときには、万助は鼻から口から血を吐いて、息はもうとだえていた。
 それからあとのことは、くだくだしく説明するまでもあるまい。
 万助の死体を埋めて、又蔵にその身代わりをつとめさせたのは、お国の思いつきだった。たった三日のことだったので、又蔵は首尾よく一人二役をやりとげた。万助の身代わりになって、座敷牢のなかにいるとき、又蔵はだれはばからず、思うぞんぶんお国を抱いた。男も女ももう捨てばちになっていたのだ。
 しかし、いつまでもそういう状態でいるわけにもいかないので、思いついたのが、ほおずき大尽の逆上、親族一同にたいする復讐という、あの一連の殺人事件である。
 これを思いついたのもお国だったが、そのときになってお国は、乳母のお峰が、のろいにのろっていた海老屋の一族と、隠居をしいられて以来万助が恨みにうらんでいた親戚が、偶然一致しているのに気がついて、慄(りつ)然(ぜん)とせずにはいられなかった。
 けっきょく、あの一連の殺人事件は、ほおずき大尽がまだ生きているとみせかけることによって、又蔵をかばおうとしたのだったが、同時にじぶんと万助の、恨みをともに晴らすためでもあったのだろう。お国は万助にほれていたのかもしれない。
 それを思うと、お国はじぶんでじぶんがそら恐ろしかった。
 お国がこうして、ここ二十日あまりの、悪夢のような、血みどろな思い出にふけりながら、ふとんのえりをかんで泣いているところへ、あわただしくかえってきたのは又蔵である。
「お国、まだ泣いているのか。それどころじゃねえぜ」
「え?」
 覚悟はきめているものの、お国はやっぱりこわかった。もしや追っ手が……と、ふとんのうえに起きなおると、
「いや、追っ手じゃねえが、いまふろ場でわるいやつに会った。二、三度、賭(と)場(ば)で会ったことのある、金助という野郎が……」
「へえ、その金助が、おじゃまにめえりやした」
 と、廊下の障子をがらりとひらくと、
兄(あに)哥(い)、みずくせえぜ。逃げなくてもいいじゃねえか」
 と、はいってきたのは遊び人ふうの男だった。
「おお、金助か。なに、逃げるわけじゃねえが……」
 金助はジロリとお国をみると、
「へっへっへ、兄哥、お楽しみで、おうらやましいこってすな。これからどちらへ」
「ふむ、甲府へでもいこうかと思うんだが」
「甲府?」
 金助は顔をしかめて、
「兄哥、よしねえ。わるい了見だ。甲府まではとても、落ちのびられますめえぜ」
「なによ!」
「まあさ、黙ってききなせえ。さっきおいらは宿(しゆく)のはずれで、三人づれの男に会いやした。ひとりは侍で、ふたりは町人、しかも、そのふたりにゃ見おぼえがある。ありゃたしかに、お玉が池の親分に、きんちゃくの辰てえ野郎だった」
 とたんに、お国と又蔵は、蝋(ろう)のようにまっしろになった。
 金助はジロリとそれを見ながら、
「兄哥、おまえ身におぼえがねえなら、よけいなお世話だが、心当たりがあるなら、気をつけなくちゃいけねえぜ」
「金助、ありがてえ。礼をいうぜ。お国、したくだ」
「兄哥、ちょっと待った。おまえそのままでとびだす気か。バカだなあ。そんなことをすりゃ飛んで火に入る夏の虫だ」
「だって、どうすりゃいいんだ」
「まあ、おいらにまかせておきなせえ。ほらよ、ここに衣装があるから、これに着替えるんだ」
 金助が廊下からひっぱり込んだのは、富士講行者の白衣の衣装がふたそろい。
「こんやは吉田の火祭りよ。おいらは富士講でここへきたんだが、仲間が三十人ほどある。みんなそろいのこの白衣だ。これからすぐに立つから、おふたりとも、おおいそぎでしたくをしなせえ」
「金助、なんにもいわぬ。このとおりだ」
 悪党には悪党らしい情けがあった。
 それからまもなく、同勢三十人あまりの富士講行者が、そろいの白衣に金(こん)剛(ごう)づえで、吉田をさして立っていったが、そのなかにたずねるふたりがいようとは、さすがの佐七も気がつかなかった。

捕(とり)物(もの)、吉田の火祭り
  ——又蔵さん、あたしは先へ行くよ——


 佐七が甲州路へ目をつけたにはわけがある。
 お国がまえに勤めをしていた松葉屋できくと、お国には甲州に親戚があって、年季があけたらそこへ引っこみたいと、つねづね朋(ほう)輩(ばい)にかたっていたという。
 さてこそ、落ちゆくさきは甲州路と、辰をひきつれ、この街(かい)道(どう)を追いこんできたわけだが、一行には岩瀬弓之助もくわわっている。
 三人は一軒一軒、大月の宿をしらべてあるいたが、どこの宿でもおなじこと、じぶんの家からなわつきをだしたくないから、この取り調べはかんたんなようでてまがとれる。
 佐七の一行がさいごに桝(ます)屋(や)へやってきたのは、お国、又蔵が出立してから、一(いつ)刻(とき)あまりものちだった。ここでも、亭主や番頭がことばをにごすのを、むりに宿帳を出させてしらべると、お久、新助というのがどうやらそれらしい。
「このふたりづれはまだいるか」
「へえ、そのおふたりさんなら、さっき富士講のご連中といっしょに、吉田にお立ちになりました」
 きいて三人はおもわず顔を見合わせた。その富士講の連中なら、さきほど道ですれちがったのだ。
「だんな、いけません。まんまと出しぬかれました」
「よし、こうなったら、どこまでも追っていくばかりだ。あいては女の足弱づれ、いそいでいけば追っつけぬこともあるまい」
 甲州街道を左へそれると、道志山脈と御(み)坂(さか)山脈にはさまれた、せまい山(やま)峡(かい)である。そこをひた走りに追っていくと、谷(や)村(むら)をすぎるころには、日が照りながらパラパラと雨が落ちてきた。
 このへんはもうすっかり秋なのだ。
 東(ひがし)桂(かつら)でおそい昼食をしたためついでに、きいてみると、三十人あまりの富士講行者が、ついいまのさき通りすぎたという。そのなかに女がひとりいたはずだがときいてみたが、そこまでは知らなかった。
「だんな、もうひといきです。どうでも吉田でつかまえなきゃいけません。あいても死にものぐるいです、南へぬけるか北へぬけるか、吉田よりおくへ逃げこまれちゃ、さがすのにほねがおれます」
「よし、いそいでいこう」
 そこでわらじをはきかえて、明(みよう)見(けん)から瑞(みず)穂(ほ)へかかると、富士山がまゆのうえにせまっている。日はすでに西にかたむいて、せまい山峡は、はやすずめ色のたそがれもよう、あかね色にそまった富士のお山も、刻一刻とうすれていく。
 こうして一同がようやく吉田にたどりついたのは、いままさに、火祭りの幕がきっておとされようとする暮六ツ(六時)ごろだったが、ここで三人ははたと当惑の顔を見合わせた。
 そもそも、吉田の火祭りというのは、浅(せん)間(げん)神社のご祭神木(この)花(はな)咲(さく)耶(や)姫(ひめ)が、ご産室に火をおはなちになり、猛火のなかでぶじに三人のお子を産まさせたもうたという故事からきている。
 そして、この火祭りと同時に、お山はとざされることになっているので、まいとし全国からはせさんじる富士講行者の数しれず、しかも、これがみな白衣の装束だから、このなかからお国、又蔵のふたりをさがし出そうというのは、高野山で今(いま)道(どう)心(しん)をさがすよりほねがおれる。
「親分、こいつはいけませんや」
 きんちゃくの辰がまず悲鳴をあげた。
「佐七、どうしたものであろうの」
 弓之助もまゆをひそめる。
「しかたがありません。こうなったら、しらみつぶしにさがしてまわるより方法はありませんや」
 だが——
 捨てる神あれば助ける神ありだった。三人が目をさらのようにして、うろうろきょろきょろ、白装束の潮のなかをさがしているうちに、
「おや、そこへいくのは辰じゃないか。おお、佐七もいっしょか」
 と、だしぬけに、声をかけたものがある。おどろいてふりかえった佐七と辰は、あいてのすがたを見ると、おもわずあっとさけんで駆けよった。
「おお、おまえさんは音(おと)羽(わ)の親分」
 いかにもあいては、音羽の親分このしろ吉(きち)兵(べ)衛(え)、佐七にとっては親がわりの後(こう)見(けん)役、江戸の御用聞きのなかでも、頭(かしら)株(かぶ)の古顔だった。
 みると、吉兵衛も白装束に金剛づえ、富士講行者のいでたちだった。
「佐七、こんなところへなにしにきたのだ。まさか火祭りの見物じゃあるめえな」
「親分、お察しのとおりです。おまえさんにここで会ったのは、地獄で仏だ。ひとつ手を貸しておくんなさい」
 と、手みじかにわけを話すと、吉兵衛も目をまるくして、
「ふむ、それじゃそいつらが富士講行者に化けて……よし、おれにまかせておけ」
 吉兵衛が金剛づえをふると、ばらばらと四、五十人の白衣の行者があつまってきた、吉兵衛は富士講の信者でも古株だから、よく顔が売れている。
 わけを話して助勢をたのむと、
「なに、人殺しの下手人が、行者に化けてはいりこんでるって? よし、お山のけがれだ。ひっとらえて袋だたきにしてしまえ」
 バラバラと、くもの子をちらすように八方にとんだが、それらの口から、うわさが伝わったから、さあたいへん、吉田の町は上を下への大騒動だ。
 元来、この火祭りは不浄を忌(い)む。村の住民でも、親戚うちに不幸のあったものは、祭りのあいだだけ、他村に立ちのくというくらい。そこへ人殺しの下手人がまぎれこんだというのだから、行者のみならず村人もおこった。
「ふとどきな野郎だ。ひっとらえてしおきにしろ」
 こういうところへまぎれ込んだお国、又蔵こそふしあわせだった。
「兄哥、こいつはいけねえ、ひとめにつかねえうちに、どこへでも落ちのびてくれ」
「金助、すまねえ。いのちがあったら礼をするぜ」
 金助にわかれたお国、又蔵は、お山の登り口のほうへひた走りに走ったが、もういけない。村の出口出口はげんじゅうに固められている。
「あっ、あいつだ。それ、人殺しの下手人をひっとらえろ」
 わっという騒ぎ。
「しまった。お国、こっちへこい」
 だが、騒ぎをききつけて背後からも、白衣の行者が、手に手に金剛づえを振りかぶって追ってくる。絶体絶命とはまったくこのこと、ふたりはいまや袋のねずみだ。
 と、このときだ。
 辻(つじ)々(つじ)に立てられた、ふたかかえもあろうという大(おお)松(たい)明(まつ)に火がつけられたから、あたりは昼をもあざむく明るさとなった。いよいよ、吉田名物の火祭りの幕が切っておとされたのだ。
「又蔵さん、もういけない。あたしは覚悟をきめている」
「お国、弱いことをいうものじゃねえ。なんのこれしき、あいては烏(う)合(ごう)の衆だ」
 又蔵はスラリと腰のわき差しをぬいた。
「うぬら、よると死人の山だぞ」
「それ抜いたぞ。めんどうだ、やっつけろ」
 バラバラと金剛づえがとんでくる。そいつが真正面から当たったからたまらない。
 額がわれて血がながれる。
 髻(もとどり)が切れてざんばら髪になった。
「又蔵さん」
「お国、こい!」
 わき差しを振りまわすと、わっと行者が左右にわれる。そのすきをぬうて又蔵は、お国の手をひいたまま、バラバラと松明をよじのぼって、かたわらの屋根のうえへとびあがった。
 そこへ、駆けつけてきたのが、佐七をはじめ、弓之助にきんちゃくの辰。このしろ吉兵衛もついている。
「お国、又蔵、神妙にしろ」
「なにょ!」
 屋根のうえに仁(に)王(おう)立(だ)ちになった又蔵。それをめざして四方八方から金剛づえがとんでくる。ふたりとももう数所の手傷だった。
「おまえさん、もういけない。あたしはさきへいくよ」
 お国は目のまえに燃えさかっている大松明めがけて、さっとばかり身をおどらせた。これをみると又蔵も、もうこれまでと思ったのか、ぐさりとわき差しを腹へつっこんで……白(しろ)無(む)垢(く)装束をまっかに染めた。
 おりから、お山の室(むろ)々(むろ)にも火がはいって、吉田いちめん、もえさかる大松明の炎と煙に、みるみるうちに包まれていった。

春宵とんとんとん

離れの置きごたつ
  ——まあ、きれいなお月さまだこと—— 


乳(う)母(ば)や、雪はまだ降っているかえ」
「はい、お染さま、ますます、はげしゅうなるばかりでございます」
「もう、よっぽどつもったろうねえ」
「さあ、五寸はつもったでございましょう」
「まあ、憎らしい雪だこと。せっかく、丹様が忍んできてくださろうという宵(よい)に、あいにくのこの大雪。ほんとうにおてんとさまも気がきかない。人の恋路のじゃまをする気かえ」
「もし、お染さま」
「…………」
「それでは、あなたはどうしても、今(こ)宵(よい)、あの丹(たん)三(ざぶ)郎(ろう)めと、忍びあうつもりでございますか」
「ああ、そのつもりだよ。そのつもりだとも。乳母や、意見ならもうさんざん聞きあいた。このうえ、くどう聞きとうもない」
「いいえ、申します。申しませえでか。あの丹(たん)三(ざ)めのどこがようて、親のゆるさぬ不義いたずら、お染さま、あなたは気でも狂ったのでございませぬか」
「そうかもしれぬ。気が狂ったのかもしれぬ。乳母や、恋は盲目というではないか」
「ええ、もう、あんなやつに恋だのと、耳にするさえけがらわしい。お染さま、よう考えてくださいませ。あなたさまは叶(かのう)屋(や)という、れっきとした大(おお)店(だな)のひとり娘。ゆくゆくはお婿(むこ)様をとって、お店をつぐべき、ご身分ではございませぬか。それにひきかえ丹三めは、安御家人のならずもの。としだって、あなたさまとは、二十もちがうじゃありませんか。お染さま、そこのところを考えて……」
「乳母や、恋に上下のへだてはない」
「それはそうでございます。だんなさまもそのことは、日ごろから、おっしゃってでございます。たとい身分ちがいでも、器量さえあれば婿にすると。ですから、わたしもいちがいに、野暮なことを申すのではございませぬ。しかし、あいてが丹三とあっては、こりゃどうしても、おいさめしなければなりませぬ。あいつは、まむしと異名のあるくらい、札つきのならずもの。ゆすりかたりはいうまでもなく、ほかにどのような凶状を持っているやらしれぬ男。お染さま、こればっかりは、思いとどまってくださいまし。もし、お染さま」
「くどい!」
 お染はきっとまぶたを染めて、
「さっきから聞いていれば、よう恋人の悪口をいうておくれだったね。もう乳母とはおもわぬ。主人ともおもうておくれでない。あたしが慕うて、あたしが身をまかせようというのに、他人の斟(しん)酌(しやく)はいらぬこと。ああ、まだ五つ半(九時)にはならぬかえ」
 お染はことしまだ十七、日ごろはしごくおとなしい娘だが、いったんこうと思いこむと、なかなかあとへはひかぬ性分。
 恋にくるうたかそのお染が、気もそぞろのありさまに、乳母のおもとは、たもとをかんでむせび泣いた。
 そこは油町でも名だいの大店、叶屋のはなれ座敷なのである。
 こよいは親(しん)戚(せき)にお通(つ)夜(や)があって、あるじ重(じゆう)右衛(え)門(もん)は、ひと晩、うちをあけることになっているが、その留守ちゅうに娘お染が、乳母にきり出したのは、おもいもよらぬ難題だった。
 こよい五つ半、うらから男が忍んでくるから、なんにもいわずに、手引きをしてくれというのである。
 びっくりしたおもとが、あいてをたずねると、丹野丹三郎というので、おもとはいよいよびっくり、肝(きも)をつぶした。
 丹野丹三郎というのは、ひょうばんの悪御家人で、叶屋へも二、三度、ゆすりにきたことがある。としもお染と二十ばかりちがって三十五、六、そんな男とどうしてと、尋ねてみても理由はない。
 ただ、ほれたから身をまかせる気になった。じゃまだてすれば生きてはおらぬと、懐剣まで用意して、おもいつめたお染のようすに、乳母はただ泣くばかりである。
 そのうちに時刻は容(よう)赦(しや)なくうつって、約束の刻限ともなれば、お染はいそいそこたつの火をかき立て、まくらもふたつ用意して、なまめかしい長(なが)襦(じゆ)袢(ばん)いちまいで、男を待ちこがれるようすに、おもとはいよいよあきれて泣いた。
 やがて約束の五つ半。
「もう、丹様がおみえになる時刻だが……」
 と、お染のことばもおわらぬうちに、裏木戸にあたって、とん、とん、とんと、かるく三つ戸をうつ音。
 それがあいびきのあいずなのである。
「それ、乳母や、丹様がおみえになった。はやくこちらへご案内して。無礼なまねをすると、承知しないから、おぼえておいで」
 と、せき立てられた乳母のおもとが、涙をかくして庭へおり、裏木戸をあけると、降りしきる雪のほのあかりのそのなかに、長(なが)合(がつ)羽(ぱ)に、宗十郎頭(ず)巾(きん)でおもてをつつんだ男が、傘(かさ)をつぼめて立っている。
「丹様かえ」
 乳母のおもとがそばへよると、男はひどく酔うていて、ぷんと酒のにおいがする。
「は、はい……」
 と男はふらふらしながら答えた。
「お染さまがさきほどよりお待ちかね。さ、ちっともはやく……」
 と、悲しさとくやしさをこらえて、おもとが手をとると、男はなにかいったようだが、頭巾のためにききとれなかった。
 やがて、おもとが男の手をひいて、はなれ座敷へかえってくると、お染がとび立つような顔色で、
「丹様、さぞ寒かったことでございましょう」
 と、ふらふらしている男の手をとり、寝床のほうへみちびいていくと、
「まあ、いやな丹様、こんなに酔うて……」
 と、いいながら、ふっと行(あん)灯(どん)をふき消した。
 それをみると、乳母のおもとは、あまりのあさましさに、じぶんの部屋へかえってくるなり、わっとその場に泣きふした。
 とはいうものの、合(が)点(てん)のいかぬは、お染さまのきょうのふるまい、あれほど聡(そう)明(めい)なお染さまが、丹三のような男に思いをかけるはずがない。
 これにはなにか、ふかい子(し)細(さい)があるのではないか……と、おもとはむっくり頭をもたげて、ひと間へだてたむこうの座敷のけはいに耳をかたむけたが、しばらくするうちに、おもとはまたあらためて、絶望のどん底にたたきこまれた。
 はじめは男も遠慮しているのか、ごくかすかなつぶやきと、ものやわらかなけはいしかきこえなかった。やがて、男のうめき声がきこえはじめ、それがしだいに高まっていくにもかかわらず、女のそれはきこえなかった。
 そのうちに、男の声がおいおい切迫してくると同時に、もののけはいも狂暴となり、ついに破局をしめす、傍(ぼう)若(じやく)無(ぶ)人(じん)な怒号と化したあと、一瞬シーンと、あたりが静まりかえるまで、ついに女の声はききとれなかった。
 しかし、それですべてがおわったわけではない。
 ほんのみじかい小休止があったあと、またしても、男のあらあらしい息遣いと、うめき声がきこえはじめた。しかも、その息遣いとうめき声が、しだいにたかまり、切迫していくにつれて、こんどは女の声がまじりはじめた。それはあきらかに、男と共通の使命にむかって、驀(ばく)進(しん)している声である。
 はげしく箪(たん)笥(す)の鐶(かん)がなりはためき、たえいるばかりの女の声をきいたとき、おもとは畳のうえに顔をふせて、両手でひっしと耳をおさえた。
 しかも、おなじようなことがもういちどくりかえされたらしいと感じたとき、おもとはもうだめだと、たもとをかんでひたなきに泣いた。
 それから、半(はん)刻(とき)(小一時間)ほどのちのこと。
 くらがりのなかで、かえりじたくをした男を、お染がしどけないかっこうで、縁先まで送ってでると、いつか雪はあがって、空にはうつくしい月がでていた。
「まあ、きれいなお月様だこと」
 と、お染はうしろから男をだきすくめて、
「もし、丹様」
「ふむ」
「さっきの約束をわすれないでね」
 と、あまい声でささやくのを、男はうわのそらで聞きながし、長合羽に、頭巾をかぶった顔をそむけるようにして、裏木戸から出ていった。
 お染はしばらくぼうぜんと、うしろすがたを見送っていたが、やがて、雪の夜風が身にしみたのか、ゾクリとからだをふるわせると、座敷のなかへとってかえし、いま男とあまいかたらいをかわしたばかりの寝床のうえに、わっとばかりに泣き伏した。
 おさないお染はさいごまで、耐えうるつもりだったのである。
 じっさい、はじめのうちは耐えぬいた。それはからだをたてに引き裂かれるのではないかと思われるほどの、はげしい肉体的な苦痛をともなった、嫌(けん)悪(お)感(かん)いがいのなにものでもなかった。こんなことにむちゅうになっている男を、世にも不潔な動物とさげすんだ。
 やがて、そこにはげしいたつまきがおこり、それがおさまると同時に、男のからだが、沮(そ)喪(そう)していくのをかんじたとき、お染はこれでおわったのだと思った。
 もし、そこでおわっていたら、お染の青い果実は、ほんのちょっぴり、外側からよごされただけですんだろう。
 しかし、それはじぶんの幼くて、甘いかんがえかただったことに、お染が気がつくまでには、それほどの時間はかからなかった。
 女を本式に征服してしまわねば、承服できぬ男の獣性からか、それとも女にも喜びを分かちあたえてやりたいという男らしい使命感からか、男はしばらく呼吸をととのえたのち、ふたたび活力をとりもどした。
 この男らしい鼓(こ)舞(ぶ)と鞭(べん)韃(たつ)にたいして、さいごまで抵抗するということは、どんな女にだって、不可能だったにちがいない。お染はいくどかじぶんをしかり、心の手(た)綱(づな)をひきしめようとした。しかし、彼女のからだは心とははんたいに、しだいに女としての、甘美な自壊作用をおこしはじめ、いつかお染は息をあえがせ、身もだえしながら、共犯者として、男と行動をともにしていた。
 そして、男のからだに、二度めのたつまきがはじまったとき、お染もからだのおくふかく、はげしい山津波をおこして、それを迎え、お染はひしと、男のからだを抱きしめていた。
 おもとの聞いた絶えいるような声は、そのとき、お染の口から、ほとばしりでたものだろう。そして、もういちど、おなじことが繰りかえされるにおよんで、お染のからだは完全に、男と溶けあってしまった。
 お染はそれをくやしいと、たもとをかんでひた泣きにないた。お染の心は、いまでも丹野丹三郎を、蛇(だ)蝎(かつ)のごとく憎んでいる。しかし、お染のからだはうらはらに、男ののこしていった移り香を、恋い慕うているのである。
 女はあいての男しだいで、身を持ちくずすものだということを、お染はいつか聞いたことがある。
 お染はじぶんがそうなるのではないかと、心のなかで驚きあきれた。
 しかし、どう考えても、丹野丹三郎みたいな男のために、身を持ちくずすのはいやだった。とすれば、舌かみきって死んでしまうか、それとも、あと追っかけて、丹野丹三郎を殺してしまうか。
 きっと顔をあげたお染の目には、絶望的な殺気がほとばしっていた。
 丹野丹三郎が死体となって、叶屋からほどとおからぬ火よけ地のそばで、雪に埋もれているのが発見されたのは、その翌朝のことである。

食い切られた小指
  ——下手人は赤い手がらの娘だっせ——


「よく冷えます。ゆうべはまた、やけにつもりましたね」
 その翌日の朝まだき、雪をふんで、油町の自身番へかけつけたのは、いわずとしれた人形佐七。
 うしろにはれいによって、辰と豆六が、おみき徳利のように顔をならべている。
「おや、お玉が池の親分、この寒いのに、はやくからご苦労でございます。辰つぁん、豆さん、なんだか、眠そうな顔をしているじゃないか」
 つめていた町役人にからかわれ、
「あっはっは、こいつらはまだ、伸びざかりの食いざかり、眠いざかりときていますから、早起きとくると、だいの苦手なんです」
「いやですぜ。親分、十六、七の餓鬼じゃあるめえし。これでもお玉が池の辰五郎といやア、ちったアひとにしられた兄さんだ」
「さよ、さよ、それにつづいて豆六さんときたら、江戸中の娘でほれぬものなしや」
「あっはっは、そうか、よし、よし、それほどいい兄さんなら、目くそぐらいはとっておけ」
 佐七は笑いながら、町役人をふりかえって、
「ときに、殺しがあったときいてきたんですが、死体は……?」
「まだ現場においてあります。じつは、まだご検視がおりないんで……」
「そうですか。それはちょうどさいわい。そのまえに、ちょっと見せてもらいましょう。ときに、殺されたのは、まむしの丹三ということですが、ほんとうですか」
「そうなんですよ、それについて、ちょっとみょうな話があるんですが、いずれあとでお話しするとして、とにかく、現場へご案内しましょう」
 町役人が案内したのは、叶屋の裏木戸から、一町ばかりはなれた火よけ地のそばで、野次馬がはや二、三十人、ごまをちらしたように、雪の現場を遠巻きにして、たたずんでいた。
 その野次馬のそばまでくると、佐七は立ちどまってあたりを見まわしたが、みると雪のうえに、三種類の足跡が往復している。
「この足跡は……?」
 と、佐七が町役人にたずねると、
「はい、そっちの足跡は、いちばんはじめに死体をみつけた豆腐屋のおやじの足跡なんで。それから、それとこれは、わたしと番太郎の足跡です。豆腐屋のおやじは死体をみつけると、すぐに自身番へとどけてきたので、わたしと番太郎がかけつけてきたんです。そして、死体をちょっとあらためると、番太郎にいいふくめて、ここからさきへは、だれもとおさぬように取りはからったんです」
「すると、豆腐屋のおやじが死体をみつけたときにゃ、ほかに足跡はひとつもなかったんですね」
「そうです、そうです。だから、人殺しのあったのは、まだ雪の降っているさいちゅうだろうと思うんで。ほら、ごらんのとおり、死体のうえにも、そうとう雪がつもっております」
「なるほど」
 そばへよってみると、丹三郎は火よけ地のそばを流れているどぶにはんぶん顔をつっこんで、うつむけに倒れており、腰からしたへかけて、まだふんわりと雪をかぶっていた。
「豆腐屋のおやじがみつけたときにゃ、頭のほうまで、雪をかぶっていたそうですが、びっくりして、抱きおこしたひょうしに、うえのほうだけ、雪がふりおとされたんです」
「なるほど。おい、辰、豆六、死体をちょっとおこしてみろ」
「おっと、がってんです。豆六、手をかせ」
「よっしゃ」
 辰と豆六が抱きおこした顔をみて、
「なるほど、まむしの丹三にちがいねえな。いずれ畳のうえじゃ往生できねえやつだと思っていたが、とうとう年(ねん)貢(ぐ)をおさめやがったか」
 まむしと異名のある丹野丹三郎は、札つきのならずもので、お上のごやっかいになったことも、いちどや二度ではないから、佐七もよく顔をしっている。
 としは三十五、六、色白の顔にさかやきをのばして、にがみばしった、ちょっといい男である。
 藍(あい)微(み)塵(じん)の素(す)袷(あわせ)のうえに、みじかい袢(はん)天(てん)をきて、合(かつ)羽(ぱ)をはおっているが、そうとう格闘をしたとみえ、合羽のひもはちぎれ、まえがはだけて、その胸元に、なにでつかれたのか突き傷があり、血が赤黒くこびりついている。
 おそらく、そのひと突きが致命傷になったのであろうが、ほかにも手脚に、かなりかすり傷があった。
 佐七はいまいましそうに舌をならして、
「これだけのかすり傷があるからにゃ、そうとう立ち回りがあったにちがいねえが……」
 その痕(こん)跡(せき)は、雪のために、すっかり消されているのである。
 ただ、丹三が首をつっこんでいたどぶだが、まだかなりあつく凍りついているのに、そのへんだけが、そうとう大きくひび割れているのは、立ち回りのあいだに、だれかが、このどぶへ落ちたのではないか。
 佐七は注意ぶかく、どぶのなかをのぞいたが、そこにも、これという証拠らしきものは発見されなかった。
 佐七がいまいましそうに、まゆをひそめて、舌をならしたちょうどそのとき、
「親分、ちょっとごらんなせえ。こいつ右手になにやらにぎっていますぜ」
 辰に注意されてみなおすと、丹三は右手に、なにやら赤いものをにぎっている。
「辰、ちょっとその手のひらをひらいてみろ」
「へえ」
 凍りついたようにこわばっている丹三の指を、いっぽん、いっぽんひらいてみると、丹三郎の小指は食いきられたように、半分なくなっている。
「親分、この小指の傷は、ずいぶん古いものらしいが、ゆうべこいつ、刃物をつかんだのにちがいありませんぜ。ほら、手のひらがこんなに切れている」
 なるほど、みれば、丹三の手のひらはよこにふた筋、うすく切れているのである。
「はてな、こりゃいったいどういう刃物だろう。両刃にしてもすこしへんだぜ」
 そういえば、胸の突き傷も、ふつうの刀や匕(あい)首(くち)とはちがっていた。
 佐七はだまってかんがえていたが、いい考えもうかばないのか、いまいましそうに舌をならして、
「ときに、辰、その赤いものはなんだ」
「親分、こりゃア手がらですぜ」
「手がら……?」
 佐七が目をまるくして、手にとってみると、なるほどそれはわかい娘が頭にかける鹿(か)の子(こ)しぼりの手がらであった。
「親分、そんなら丹三を殺した下手人は、わかい娘だっしゃろか」
「きっとそうにちがいねえ。丹三のやつは突かれたとき、苦しまぎれに、あいての髪から、この手がらをむしりとったんだ」
「しかし、辰、そんなら丹三の手のひらについている、この切り傷はどういうんだ」
「親分、そりゃそれよりまえ、渡りあっているうちに、刃物をつかんだにちがいありませんぜ」
「なるほど。そういやアそうかもしれねえが……」
 佐七はなんとなく納得のいきかねる顔色で、もういちどあたりを見まわしたが、なにしろ雪におおわれているので、なにが落ちていてもわからない。
 どぶをのぞいてみると、そこも濁った水がかたく凍りついて、底までは見とおせなかった。
 佐七は舌打ちをして、
「辰、豆六、いずれ雪がとけたら、もういちどこのへんを調べてみろ。だんな、それまではなるべく、ひとを寄せつけぬように願います」
 そこへ、ご検視の役人が出張してきたので、佐七はいったん自身番へひきあげた。

丹様参るお染より
  ——下手人はやはりお染に違いねえ——


「だんな、それでさっきおっしゃった、みょうな話というのはどんなことなんで」
 ご検視の役人もひきあげたので、それからまもなく町役人が、自身番へかえってくると、待っていた佐七が、いきなりそう尋ねかけた。
「親分、そのことなんですがね。これはじつは番太郎の話なんですが、おい、留じい、おまえからひとつ親分に申し上げろ」
「へえ」
 と、水っぱなをすすりながら、番茶をいれてきたのは、番太郎の留じいである。
 番太郎というのは、町内の小使いみたいなもので、ふつう、自身番のそばに小屋をもらって、いきどころのない老人などの役どころとされていた。
 番太郎の留じいは、あかい鼻をこすりながら、
「ご近所のことですから、あまりとやかくいいたかアないのでございますが……」
 と、おどおどしながら語るところによると……。
 昨夜五つ半(九時)ごろ、留じいは火の用心に、町内をひとまわりした。
 なにしろ、まだ大雪のさいちゅうで、往来は、犬の子一匹通らなかったが、叶屋の裏通りまでくると、ふと雪のなかに、まだあたらしい足跡がついているのに気がついた。
 さては、だれかじぶんのまえを歩いていくものがあるのだなと、留じいがそう思いながら、つけるともなく、その足跡をつけていくと、どこかでかるく戸をたたく音がした。
 そこでふっとむこうをみると、だれか叶屋の裏木戸に立っている。
 そして、とんとんと戸をたたくしのびやかな音が、なにかの合図のようにおもわれたので、へんにおもった留じいが、すこし手前に立ちどまって、ものかげから、ようすをうかがっていると、やがて裏木戸がひらいて、
「丹様かえ」
 と、女が出てきたのである。
 むろん、それは、あたりをはばかる小声だったが、しずかな雪の夜更けのこととて、はっきりと留じいにきこえたのである。
 それに対して、男がなんと答えたのかわからなかったが、やがてまた、
「さきほどからお染さまがお待ちかね。さ、ひとめにかからぬうちに、ちっともはよう……」
 と、女の声がきこえると、そのまま男の手をひいて、木戸のなかへ消えてしまった……。
「わたしの話は、それだけのことなんですが……」
 佐七はおもわず、辰と豆六と顔見合わせて、
「その声は、たしかに丹様かえといったんだな」
「へえ、それはもう間違いございません」
「そして、声のぬしとは……」
「姿はよくみえませんでしたが、叶屋の御(お)乳(ん)母(ば)さんの、おもとさんのようでございました」
「そして、お染というのは?」
「叶屋のひとり娘でございます」
「その男はたしかに、丹三にちがいなかったか」
「さあ、それもよくわかりません。あたりが暗うございましたし、それに、頭巾をかぶっていたようですから」
「頭巾……? しかし、丹三の死(し)骸(がい)は、頭巾なんかかぶっていなかったようだが」
「親分、それはどこか雪のなかに埋もれているのじゃございますまいか」
 そばから口を出したのは、町役人である。
「なるほど。すると、丹三のやつは、ゆうべ御乳母の手引きで、叶屋の娘にあいにきたというのだな。だんな、お染というのは丹三のやつと、ちちくりあうような娘ですかえ」
「さあ、お染さんは勝ち気なところがあるが、そんないたずらな娘じゃないと思うんです。ただ、ここにちょっとおかしいのは……」
 町役人はちょっと口ごもったのち、
「ご近所のことですから、いいたかアないんですが、叶屋さんでは、なにか弱いしりでもにぎられているのか、ちかごろちょくちょく丹三のやつがゆすりにくるという評判でした」
「叶屋のだんなというのは、そんな弱みのありそうなひとですか」
「とんでもない。叶屋の重右衛門さんは、ものがたい律(りち)義(ぎ)なひとで、近所でも評判がいいんです。だから、みんなふしぎに思っているんですよ」
 佐七は、ちょっと考えたのち、
「ときに、とっつぁん、その男が叶屋へ忍びこんだのは、五つ半ごろといったっけね」
「さようで。雪が降っているさいちゅうでした」
「ゆうべ、雪のあがったのは何(なん)刻(どき)ごろだろう」
「そうですね。わたしが町内をひとまわりして、小屋へかえってきたころには、雲が切れはじめて、だいぶ明るくなってきましたが……」
「すると、丹三が殺されたのは、おまえが見かけてから、すぐあとということになるな。死体のうえには、そうとう雪がつもっていたから……」
 佐七はまたちょっと考えて、
「とっつあん。おまえ夜回りのとちゅうで、丹三の殺されているところをとおったかえ」
「いえ、あそこはわき道になってますんで……」
 佐七がまた考えているときである。表のほうがにわかに騒々しくなったとおもうと、女がひとり、ころげるように駆けこんできた。
「ああ、お玉が池の親分さん!」
 と、女はいきをはずませて、
「あたしゃくやしい。敵(かたき)を討って……うちのひとの敵を討ってくださいまし」
 と、わっとその場に泣きくずれたから、佐七をはじめ一同は、びっくりして目をまるくした。
 みると、髪を櫛(くし)巻(まき)きにした、ひとめで酌(しやく)婦(ふ)か、女郎あがりとしれる女である。
「なんだ、敵を討ってくれ。そういうおまえさんはいったいだれだ」
 女は泣きぬれた顔をあげると、
「わたしは丹三郎の女房でお金といいます。親分、うちのひとはだまし討ちにされたんです。これを、この手紙をみてください」
 お金がふところから取り出したのは、ぐしょぬれになった手紙だったが、それを読んでいくうちに、佐七はおもわず目をみはった。

  ひと筆しめしまいらせ候。さきごろより、たびたびねんごろなおことばをいただきながら、ひとめの関にへだてられ、落ち着いておかたらいするひまもなく、心にもなく無礼のみかさねまいらせ候。さて、今宵は父も不在とあいなり、このうえなき上首尾ゆえ、五つ半ごろ裏木戸より、おしのびたまわりたく、合図はとんとんとんと、木戸を三べんおたたきくださるべく候。つもる話はいずれその節。
こがるる染より  
   恋しき丹三郎様まいる。

「お金さん、この手紙はどこにあったんだ」
「うちのひとの、箱まくらのひきだしにはいっていたんです。ゆうべあのひとがかえらないところへ、けさその手紙を見つけたもんだから、あたしゃもう、くやしくてくやしくて、かえってきたら、どうしてくれようと思っているところへ、近所のひとが、うちのひとの殺されているのを、知らせにきてくれたんです」
 お金はまた、わっとばかりに泣きくずれた。

乳(ち)兄(きよう)弟(だい)
  ——重右衛門だってあやしいもんだ——


「親分、いけねえ。下手人はやっぱり、お染にちがいございませんぜ」
 その日の夕刻のことである。ひと足さきに、佐七がかえって待っているところへ、いきおいこんで、舞いこんできたのはきんちゃくの辰である。
「辰、なにかまた、あたらしい手がかりがあったのか」
「手がかりというのはあの手がらです。おまえさんにいわれたとおり、あっしゃ叶屋へ出入りする女髪結いをききだして、そこへいってみたんです。叶屋へ出入りの女髪結いはお新といって、下(した)谷(や)に住んでいるんですが、そいつにあの手がらを見せたところが、たしかにお染さんの手がらにちがいないというんです。ねえ、親分、こうなったら一も二もありませんや。かわいそうだが、お染をあげちゃいましょうよ」
「そうよなあ」
 佐七はしかし、なにかしら割りきれぬ顔色で、腕をこまぬいている。
 辰はいくらかじれ気味で、
「親分、どこがいけねえというんです。丹三はゆうべ、お染のところへ忍んでいっているんですぜ。それからまもなく、丹三のやつは、叶屋のすぐそばで殺された。しかも、死体がお染の手がらを握ってたとありゃ、こんなたしかな証拠はないじゃありませんか」
「そういえばそうだが、おれにゃもうひとつ、納得のいかねえふしがある」
「納得のいかねえふしって、どういうことです」
「まずだいいちに、時刻のくいちがいだ。番太の留じいは、丹三が叶屋へ忍びこむところをみて、それから、町内をひとまわりして、小屋へかえったが、そのときにゃ、雲がきれかけて、空もだいぶ明るくなっていたといったろう。油町がどんなにひろいかしらねえが、町内をひとまわりするのに、そんなに手間がかかるはずはねえ。とすれば、丹三が叶屋へはいってからまもなく、雪はやんだということになる。ところが、丹三の死体のうえにつもっていた雪をみねえ。ありゃ殺されてから、そうとうながく降っていた証拠だ。かりに留じいのみた男が、それからすぐに叶屋をとび出し、あそこで殺されたとしても、あんなにゃ積もらねえはずだ」
「親分、それじゃ留じいのみた男は、丹三じゃなかったというんですかえ」
「時刻からいうと、そういうことになるな。そのころにゃ、丹三はもう殺されていたはずだ」
 辰はぎょっといきをのんで、
「そ、それじゃ、親分、だれかが丹三を殺して、その身代わりになったというんですかえ」
「と、まあ、そんなことも考えられるわけだ。そいつは頭巾でおもてをつつんでいたというし、雪の夜更けのうすくらがりだ。御乳母がなにも気がつかず丹様かえと声をかけたのをよいことにして、そいつめ丹三郎になりすまし、叶屋へしのびこんだが、さてそのあとはどうなったか。あくまで丹三になりすまし、首尾よく、お染をものにしたか、しなかったか、そこまではこのおれにもわからねえが」
 いつもなら、こんな話をきくと、有頂天になってよろこぶ辰だが、きょうはみょうに深刻な顔をして、
「親分、しかし、それはいったいだれでしょう」
「さあ、そこまではわからねえ。しかし、そいつは丹三がゆうべ、お染のもとへ忍んでいくということを知っていたんだから、丹三のなかまか、それともお染のまわりのものにちがいねえ。丹三のなかまとすると、探索にちと骨が折れるが、お染のまわりのものとすると、案外はやくわかるかもしれねえ。辰、叶屋のまわりのもので、お染にほれているやつはねえか」
 それをきくと、辰はにわかにひざを乗り出した。
「親分、それならあるんです。いえ、お染のほうからぞっこんほれて、思いをこがしている男があるんです」
「だれだえ、それは……?」
「お染の乳母のせがれで、三吉というんです」
 佐七はおもわず目をみはって、
「そして、そいつはどこにいるんだ」
「おなじ町内の鳶頭(かしら)、よ組の長兵衛のところに、若いものとして預けられているんです。叶屋の重右衛門も目をかけて、いろいろ面倒をみているし、お染もほれてるんですが、乳母のおもとがじぶんのせがれをご主人のお嬢さんに取りもったといわれちゃ、世間にたいしてめんもくないと、がんとして承知しないんです。三吉のほうでも、内心お染にほれてるらしいんですがね」
「おもとというのは、どういう素性の女だ」
「親分、それには、ここに話があるんです」
 と、辰の語るところによるとこうである。
 おもとの亭主は清兵衛といって、もうれつな法(ほつ)華(け)の信者だったが、いまから十六年ほどまえ、講中からあつめた三百両という金を、甲州の身(み)延(のぶ)山(さん)へおさめにいった。
 ところが、それっきり、行方がわからなくなったのである。
 清兵衛はかたい男で、金を持ち逃げするような人物ではないから、これはきっととちゅうで、悪いやつに殺されたにちがいないといわれているが、ここに哀れをとどめたのは、女房のおもとで、当時二つになったばかりの三吉をかかえて、路頭に迷っていたところ、それからまもなく叶屋で、お染がうまれたので、口を利くものがあって、乳母として住み込んだのである。
「三吉は、おもとの親(しん)戚(せき)にあずけられていましたが、としごろになったので、重右衛門がひきとってやろうというのを、おもとがそれではすまないからと、承知しないので、出入りの鳶頭のところへ、あずけられているんです。お染のほれるのもむりはねえ、いい若い衆だそうですよ」
「しかし、お染はそういうほれた男があるのに、なんだって丹三みたいなやつに、呼び出しなどかけやアがったろう」
「親分、それですよ。こりゃやっぱり、重右衛門は丹三になにかよわいしりを握られてるんじゃありませんか。それをたねにお染をくどいた。お染も親のためと観念して、丹三に身をまかせる気になったんじゃありますまいか」
「おれもそれを考えるんだが、そうなると、重右衛門だってあやしいもんだ。あいつはほんとうに、親戚のお通夜にいっていたのか」
「へえ、その親戚というのは本(ほん)郷(ごう)なんですが、重右衛門がそこへ着いたのが五つ半(九時)ごろだから、いままで大丈夫だと思っていたんですが、親分のいうように、丹三の殺されたのが、それよりもまえだとすると、こいつもどうも……」
 佐七はだまってうなずいて、
「しかし、ここにわからねえのは、丹三の死体がにぎっていた手がらだ。下手人が重右衛門にしろ、三吉にしろ、じぶんの娘やほれた女に、罪をおっかぶせるようなまねをするはずがねえ。それに、丹三のあの傷口と手のひらのきず、どうもこいつがふにおちねえ」
 佐七が考えこんでいるところへ、鼻の頭をまっ赤にしてかえってきたのは豆六である。
「おお、寒ッ、こら、こんやも雪になりまっせ」
「おお、豆六、お金のほうはどうだ」
「へえ、だいたい調べてきました。お金ちゅうのは、品(しな)川(がわ)の女郎あがりで、去年、年季があけたんで、丹三のところへころげこんできたんやそうだすが、こいつおそろしいやきもち焼きで、丹三のやつと年中、やきもちげんかのたえまがなかったちゅう話だす」
 佐七はだまって考えこんだ。

前門のとら後門のおおかみ
  ——昨夜身をまかせた男は一体だれ?——


 豆六の予言のとおり、その夜はまた大雪になって、江戸の町は、まっ白に降りこめられたが、油町の叶屋では、その雪をまっ赤にそめて、またしても、大惨劇が演じられたのである。
 その夜、お染はただひとり、はなれ座敷のこたつにもたれて、ふかいもの思いに沈んでいた。
 丹三が殺されたということは、お染の耳にもはいっていた。
 そのことはお染にとって、このうえもない喜びだったが、いっぽう彼女に、はげしいショックをあたえたのは、丹三が殺されたのは、まださかんに雪の降っていたあいだらしいといううわさである。
 お染はそれを聞いたとき、のけぞるばかりにおどろいた。
 ゆうべお染が丹三を送りだしたときには、雪はもうやんでいて、空にはきれいな月が出ていた。
 あれからのちに、丹三が殺されたとすれば、死体のうえに、雪がつもろうはずはない。
 これをぎゃくにいえば、丹三がまだ雪の降っているうちに殺されたとすれば、じぶんがゆうべ身をまかせたのは、いったいだれだったか……。
 お染はそれを考えると、ゾッと身内がすくむようなおそろしさと、あさましさに、心がおののく。
 そういえば、ゆうべの男は、日ごろの丹三のようではなかった。
 お染はすぐに、行(あん)灯(どん)の灯をふき消したので、とうとう男の顔をみずじまい。男はまた、ひとことも口をきかなかったが、丹三ならば、あのように神妙にしているはずがない。くらがりのなかで手をとって、お染がそばへひきよせたとき、男はガタガタふるえていた。
 お染はそれを、寒さのためとかんがえたが、いまから思えばそうではなかった。
 そして……そして……お染はけっきょく身をまかせたのだが、そうなるまでには、男は少なからずためらっていた。丹三ならばそんなはずはなく、しゃにむに、押してきただろう。前門のとらをさければ、後門のおおかみとはこのことだった。
 丹三の毒(どく)牙(が)をのがれたのはうれしいけれど、そのかわり、どこの何者ともしれぬ男に、おもちゃにされてしまったのだ。
 お染のはじめの考えでは、たとえからだは自由にされようとも、心までゆるさぬ覚悟であった。
 お染はそれができると信じていた。
 それにもかかわらず、お染はいつか、男のはげしく、たくましい鼓舞鞭(べん)韃(たつ)に、ひきずりこまれて……
 ああ、あさましい、このまま死んでしまいたい……
 お染はこたつに顔をふせて、身も世もあらずもだえたが、ふいにはっと顔をあげた。
 とん、とん、とん、とん、とん、とん……
 裏木戸をたたく音がする。
 時刻はちょうど五つ半(九時)。お染はゾッと肩をすくめた。
「乳母や、乳母や」
 小声で呼んだが、返事はなかった。おもとはけさから、どっと患いついたのである。
 とん、とん、とん、とん、とん、とん……
 また戸をたたく音がする。お染はふらふらと立ち上がった。
 雨戸を一枚くってみると、外にはくるったように、白い雪が舞いおちている。
 とん、とん、とん、とん、とん、とん……
 雨戸の音に力をえたのか、木戸をたたく音はいよいよ強くなる。このままほうっておけば、家のものにしられてしまう。
 お染は、庭(にわ)下(げ)駄(た)をひっかけて、裏木戸のそばまでいった。
「だれ? 戸をたたくのは……?」
 しかし、返事はなくて、ただ戸をたたく音ばかり。
 お染はこわごわ、しかし、思いきって、とうとう木戸をなかからひらいた。
 そのとたん、雪のなかから、黒いつむじ風のようにおどりこんできた女が、
「亭主の敵!」
 と切りつけた。
「あれえ!」
 よける拍子に、お染は雪のなかに滑ってころんだ。
 しかし、結果からいえば、それがよかったのである。
 匕(あい)首(くち)が宙にながれて、女がよろよろ泳ぐところへ、お染は雪をつかんでむちゅうで投げたが、それがまんまと顔にあたって、
「畜生!」
 ひるむすきに、お染は雨戸のなかへ駆けこんで、
「だれかきてえ、人殺しイ……」
 あるじの重右衛門は、そのまえからただならぬ物音に気がついて、はっとはなれへ駆けつけてきたが、そこに倒れているお染をみると、
「これ、娘、どうした、外にだれかいるのか」
 と、雨戸のすきから外をのぞいたが、そのとたん、外から突いてきた匕首に、われから、ふかぶかと、土手っ腹をえぐられて、
「わっ!」
 と、その場にしりもちついた。
 あわてたのは女である。この人違いに度をうしなったのか、身をひるがえして、木戸から外へとび出したが、ちょうどそこへきかかったのが、ひとめで鳶(とび)としれる若者だった。
「やっ、くせ者!」
 おどりかかって利(き)き腕をたたくと、女はもろくも刃物を落とした。そのかわり、鳶の者も雪にすべって泳ぐすきに、女は雪をけって逃げだした。だが、ものの十歩といかぬうちに、むこうからきた三人づれが、女をみると、
「やっ、おまえはお金じゃねえか」
 そういう声は佐七である。お金はそれをきくと、雪のなかをいちもくさん。佐七ははっとして、
「辰、豆六、お金をつかまえてこい。おれは気になるから、叶屋へいってみる」
「がってんです」
 辰と豆六が雪をけたてて、お金のあとを追っかけるのを見送って、佐七が叶屋の裏木戸までくると、鳶の者が、血にそまった匕首を持って立っていた。
「ああ、おまえは、もしや三吉じゃねえか」
「そういうおまえさんはお玉が池の親分。いまここを通りかかると、女が血にそまった匕首を持って、とび出てきたんです」
「よし、はいってみよう。おまえもこい」
 三吉をつれて、佐七がなかへとびこむと、重右衛門は娘のお染と、乳母のおもとに左右からかかえられ、もう虫の息だった。

昨夜の男の正体は
  ——丹三郎を殺したのはこのわたし——


「それじゃ、あの女はおまえさんに、亭主の敵と切りつけたというんですね」
「はい」
「もし、お染さん、おまえさんなにか、そんなおぼえがありますかえ」
「とんでもない、親分さん」
 お染はおびえて胸をかかえた。
 あれからすぐに医者が駆けつけてきて、けが人の手当をしていったが、重右衛門はよほどの重体で、ひょっとすると、命もおぼつかないという話であった。
 そのまくらもとで人殺しの詮(せん)議(ぎ)とは、むごい話と思ったが、これも御用とあらばいたしかたがない。
「もし、お染さん、正直にいってくださいな」
「正直にいえとは……?」
「おまえさんはだれも知らぬと思っていようが、ゆうべおまえが丹三のやつを、裏木戸からひっぱりこむところを見ていたものがあるんです」
 お染ははっと顔色かえたが、三吉のほうをみると、まっ赤になってうなだれる。
 佐七はそれへたたみこむように、
「そこで、どんな話があったのかしらねえけれど、丹三のかえりのあとをつけ、ぐさっとひと突き……もし、お染さん」
「は、はい……」
「これに見おぼえはありませんか」
 さし出された手がらを手にとってみて、お染はふしぎそうに目をみはった。
「こ、これはあたしの手がらですけど」
「たしかに間違いございませんね」
「は、はい。でも、これがどこに……」
「丹三の死体がにぎっていたんですよ。もし、お染さん、こうなったら、なにもかも素直に白状してくださいよ」
 それをきくと、お染はもう身も世もあらぬおもいで、わっとばかり泣きふした。
 さっきからはらはらしながら、ふたりの問答をきいていた三吉が、だしぬけによこから叫んだのは、そのときだった。
「ちがう、ちがう、親分、それはちがいます」
「なんだ、三吉、ちがうとはなにが……?」
「親分はいま、お染さまが丹三のあとをつけ、突き殺したとおっしゃいましたね」
「ああ、そういった。それがどうかしたのか」
「しかし、丹三の殺されたのは、まだ、さかんに雪が降っているあいだだったというじゃありませんか」
「そうよ。それで?」
「だからちがうんです。ゆうべ、お染さまが男を送りだしたときには、とっくに雪はやんで、空には月が出ていたんです。お染さまも縁側で、きれいなお月様とおっしゃいました」
 さっきから泣き伏したまま、三吉の話をきいていたお染は、それを聞くと、はじかれたように顔をもたげた。
 びっくりして、目をまるくして、
「三吉、それをどうしておまえが……」
「ゆるしてください、お染さま、ゆうべの男は、わたくしでございました」
「あれ、三吉!」
 お染のほおに、ぱっとはじらいの色が散る。
「だって、おまえが、どうして……」
「わたしが……わたしが丹三の身代わりになって、お染さまと、まくらを交わしたのでございます。ゆるしてください。勘忍してくださいまし」
 三吉はがばとそこにひれ伏した。
 さっきから、意外ななりゆきにあきれかえって、目ばかりパチクリさせていたおもとは、それときくより、いきなり三吉におどりかかった。
「おのれ、おのれ、この横道者めが……」
 歯をギリギリとかみながら、三吉のもとどり取ってねじふせるその形(ぎよう)相(そう)のすさまじさ。
「おのれはまあ、なんという不(ふ)埒(らち)なやつ、大恩あるご主人様のお嬢様を傷(きず)物(もの)にして、それですむと思いおるか」
「あれ、おもと」
「いいえ、お嬢様、はなしてくださいまし。知らぬこととはいいながら、げんざいのわが子を手引きしたこのわたくしが恥ずかしい、おのれ、どうしてくれようぞ」
「あれ、もう、おもと。勘忍してあげて……」
「これ、御(お)乳(ん)母(ば)さん、三吉にゃまだ話があるんだ。お仕置きをするならあとにしてくれ」
 たけりたつ、おもとを突きはなすと、
「これ、三吉、それじゃおまえは、ゆうべ丹三が、お染さまのところへ忍んでくることを知っていたのか」
「は、は、はい、あの、さようでございます」
 三吉は声をふるわせて恐れいる。
「それで、とちゅうで丹三を待ちぶせ、殺しておいて、身代わりになったというんだな」
「は、はい、お、おっしゃるとおりでございます」
「しかし、この手がらはどうした。これもおまえが、死骸に握らせておいたのか」
「は、はい……」
「この手がらはいつ手に入れた」
「それは、あのう……きのう昼間、こちらへお伺いいたしましたときに……」
 さっきから不審顔で、なにやら考えていたお染は、なにを思い出したか、そのときはたとひざをたたいて、
「ちがう、ちがう、親分さん、それはちがいます」
「おやおや、またこっちから、ちがう、ちがうがとび出したな。お染さん、なにがちがうんです」
「親分さん、三吉はあたしをかばうために、うそをついているんです。乳母や、おまえも覚えておいでであろう。おとといの晩、おまえといっしょに、おふろへはいったとき、おまえがこの手がらをせんたくしようとして、あやまって流し口へ流してしまったじゃないか。これはたしかに、あのとき流した手がらだよ」
 おもとは手にとってみて、
「ほんに、そういえばそのとおりでございます。しかし、これがどうして……」
「どうしてだか知らないけれど……親分さん、ですから、この手がらは、きのうはどこかのみぞに浮いていたはずでございます。それを、きのう三吉がこの家で手に入れたなどとは、それこそなによりうその証拠」
 佐七はきらりと目を光らせたが、やがてひざをのり出すと、
「もし、お染さん、それじゃもしや、お宅のふろ場の流し口は、火よけ地のそばのみぞへつづいてはおりませんか」
「はい、うちのおふろからものを流すと、よくあのへんへ流れていくんです」
 佐七はだまって考えていたが、そこへどやどや足音がちかづいてきたかとおもうと、お金のからだを戸板にのせて、はこばせてきたのは辰と豆六である。
「親分、いけねえ。お金のやつ大川へとびこんで、凍え死んでしまいやアがった」
「ところが、親分、けったいなことがおまんねん。お金の手のひらにも丹三とおんなじような切り傷がおますやないか」
「なに、お金の手のひらにも……」
 佐七は庭へとびおりて、念入りにお金の手のひらをしらべていたが、急にはればれと笑い出したのである。

縁結びとんとんとん
  ——チェッ、うめえことしやアがった——


「もし、お染さん、三吉もよろこべ。丹三殺しの、ほんとうの下手人がわかりましたよ」
「えっ、親分、ほんとの下手人とは?」
 お染三吉、おもわず佐七の左右からすりよった。
「ほかでもねえ、そこに死んでいるお金よ」
「親分、そりゃアほんとですか」
「そうよ。辰も豆六もよくききねえ。お金は亭主のあとをつけ、あの火よけ地のそばまで追ってきたんだ。そして、そこでれいによって、おっぱじめたのがやきもちげんか。おこったのは丹三よ。こりゃおこるのがあたりまえ、もう少しのところで、お染さんがものになると、ほくほくしていたところだから、むしゃくしゃ腹で、お金をみぞへ突きおとした。突き落としたばかりじゃまだあきたらず、うえからお金に打ってかかった。そこで、お金はくやしまぎれに、手当たりしだいになにやらつかんで、したから丹三を突きあげた。そのひと突きで丹三は死んだが、死ぬとき右手で凶器をつかんだんだ。ところで、辰、豆六、その凶器をなんだと思う」
「へえ、なんでしょうねえ。刃物かなんかが、どぶに落ちていたんですかえ」
「落ちていたんじゃねえ。張りつめていたんだ」
「張りつめていたア? 親分、そら、なんのこったす」
「あっはっは、まだわからねえのか、氷よ」
「こ、氷……」
 辰と豆六のみならず、その場にいあわせた連中は、のこらずびっくりして目をまるくした。
「そうよ。どぶにゃ氷が張りつめていたが、お金が突き落とされたはずみにメリメリ裂けた。そのなかにきっと、槍(やり)のように、先のとがったやつがあったにちがいねえ。お金はむちゅうでそれをつかんだ。そのとき、お金の手のひらに、ああいう傷ができたんだ。それでしたからぐさっとひとつき。殺すつもりはなかったが、これで丹三はお陀(だ)仏(ぶつ)よ。これにゃお金もおどろいて逃げ出してしまったが、あとにのこったのは氷の刃よ。突かれたときに、丹三がそれをつよく握りしめた。握りしめたまんま、こと切れてしまったんだが、おもしろいことに、その氷のなかにゃ、おとといここの風呂場から流れていった手がらが、凍りついていたんだ。さて、氷のひと突きで丹三は死んだが、死んだからって、そういっときにからだが冷えるものじゃねえ。はだのぬくみで氷は解ける。そして、手がらだけが丹三の手にのこったわけだ。あっはっは、これほど珍しい事件はちょっとあるめえな」
「そういえば、あのときどぶはすっかり凍りついていたのに、丹三が首を突っこんでいたしただけは、ひどく氷が割れてましたね」
「もののはずみというもんの、氷がなあ、これも天罰ちゅうもんだっしゃろかいな」
 あまりのことに一同はあきれかえって、しばらくことばも出なかった。
「さて、お金は亭主を殺すつもりじゃなかった。そこで、お染さんを罪におとすつもりで、あの呼び出し状を、おいらのところに持ってきたんだ。辰、豆六」
「へえへえ」
「あのとき、おいらが、この手紙はいったいどこにあったときいたら、亭主の箱まくらのひきだしにはいっていたのを、けさになって見つけたといったろう。ところが、お金の持ってきた手紙はぐしょぬれだった。箱まくらにある手紙が、あんなにぬれるはずがねえ。おいらはそのとき、お金が怪しいとにらんだんだ。おおかた、あの手紙は丹三のやつが、後(ご)生(しよう)大事にはだにつけていたんだろう。それを火よけ地の立ち回りのうちに、雪のなかへおっことした。お金はそれを拾ってかえって、くやしまぎれに、ひきさくつもりかなんかでいたんだが、急に気がかわって、恐れながらと、おいらのところへ駆け込んできやアがったんだ」
「なアるほどねえ」
「お金はそれで、すぐにもお染さんがひっくくられると思っていたのに、いっこうそういう気配がねえので、とうとう腹にすえかねて、亭主の敵とやってきたんだ。あっはっは、外(げ)道(どう)の逆恨みとはこのことだが、そのあげくが、じぶんも亭主のあとを追うはめになったんだから、これこそ天網恢(かい)恢(かい)疎にしてなんとやらというやつだなア」
 これで、丹三殺しの一件はのこらずわかった。
 しかし、わからないのは、ゆうべお染のもとへしのんできた男である。
 佐七は三吉のほうをふりかえると、
「おい、三吉」
「は、はい」
「ゆうべお染さんが、男を送り出すときにいったことばを知っているところをみると、ゆうべの男はやっぱりおまえだな」
「は、はい……」
「しかし、丹三が忍んでくるのを知っていて、それをとちゅうで待ち伏せして、殺したあげく、身代わりになったというのはうそだろう」
「は、はい、面目しだいもございませぬ。ああいわぬと、お染さまが罪に落ちそうで……」
「べらぼうめ、ありゃお染さんにカマをかけていたんだ。しかし、三吉、これからうそをつくなら、うそだけならべろ。そうすりゃすぐに見破ってやる。しかし、さっきのように、うそとまこととこきまぜてやられると、さすがのおれにも判断がつきかね、ひょっとすると、おまえがやったんじゃあるめえかと、おらアびっしょり冷や汗かいたぜ」
「親分がなぜ……?」
「あっはっは、おらアおまえが気にいったのよ。それに、おまえが獄門にでもなってみねえ。お染さん、とても生きちゃアいねえぜ」
「親分、申し……わけございませぬ」
 三吉は畳に額をこすりつけて泣いていた。
「あっはっは、なにもおれに謝るこたアねえ。それより、三吉、こうなったら、なにもかも正直にいってしまえ。おまえどうしてゆうべ、お染さんのところへ忍ぶはめになったんだ」
 それを聞かれると、三吉は穴あらばはいりたいほどはじろうたが、しかし、こうなったらもう、かくし通すわけにはいかなかった。
 そこでかれが物語るところによると、それこそ、世にも珍妙ないきちがいがあったのである。
 ゆうべ、三吉はとなり町のさるだんなのところで、したたか酒をふるまわれた。ところが、そのうちに雪になったので、かえりには、だんなが頭巾と合羽をかしてくだされた。
「そこで千鳥足でひょろひょろと、この裏木戸までまいりますと、下駄の歯に雪がはさまってあるけませぬ。その雪をおとそうと、とんとんとん、とんとんとんと、足で木戸をけっておりますと……」
 それを合図とまちがえて、おもとが出てきたのである。
 しかも、おもとが丹様かえと声をかけたのを、三吉は三様かえとききちがえて、はいと答えたのである。
 それというのがお染三吉、いつもふたりきりでいるときに、お染は三吉を三様と呼ぶのである。
 それにしても、げんざいの母親が、様づけはおかしいが、なにしろ酔うていたので、そんなことは考えるいとまもなかった。
「ほんとに、いまから考えると、そら恐ろしゅうてなりませぬが、なにしろ酔うておりましたので、くらがりのなかでお染さまに、手をとってひきよせられると、わたくしもつい……」
「うれしい夢をむすんだのか。あっはっは」
「面目しだいもございませぬ」
「あれ、まあ、三吉……」
 からみあって、燃えさかったゆうべの行動をおもいだすと、お染はあまりの恥ずかしさに、まっ赤になって、そでで顔をおおうたが、しかし、彼女はうれしいのである。
 どこの何者におもちゃにされたかと、生きているそらもなかったのに、思いきや、あいては恋いこがれる三吉だったろうとは、それこそたなからぼたもちだろう。
「チェッ、うめえことしやアがった」
 と、辰と豆六は、いかにもうらやましそうな顔色だった。
「おもと。おもと……」
 そのとき、苦しそうな息のしたから、乳母の名を呼んだのは重右衛門だった。
「は、はい、だんなさま」
 にじりよるおもとの手をとって、
「これでおまえも異存はあるまい。三吉はゆうべお染とまくらをかわした。このうえおまえが我を張ると、お染は傷物になってしまうぞ」
「だ、だんなさま、申しわけございません」
「いいや、これでよいのだ。これ、お染、仏壇のひきだしに、きりの箱があるから持ってきてくれ」
 お染はふしぎそうに座を立ったが、やがて古びたきりの箱を持ってきた。
「おもと、それをあけてみい」
 おもとがふしぎそうに箱をあけると、なかから出てきたのは、大きな縞(しま)の財布である。財布のうえにどっぷりついた黒いしみは、ひょっとすると血ではあるまいか。
「おもと、その財布に見おぼえはないか」
 おもとははっと息をのみ、
「ああ、これは、十六年まえに身延参りのそのとちゅうで、ゆくえしれずになった清兵衛殿の……」
「そうじゃ、三吉の父の財布じゃ。おもと、三吉、ようきけよ。清兵衛殿は十六年まえ、身延参りのそのとちゅうで、ひと手にかかってお果てなされた」
「え、え、ええっ!」
 おもとはのけぞらんばかりである。三吉もはっと顔色かえる。佐七をはじめ辰と豆六は、息をのんで、重右衛門の顔を見つめている。
 重右衛門はくるしい息をつなぎながら、
「と、こう申したところで、清兵衛殿を殺したのはわしではない。おもと、財布をあけてみい」
 おもとが財布をあけてみると、なかから出てきたのは、ひとにぎりの髪の毛と、小さい白い骨である。
「その髪の毛こそは清兵衛殿のかたみ、またその骨は清兵衛殿を殺したやつの小指の骨だ。清兵衛殿は殺されるとき、下手人の小指をかみきられたのだ」
 佐七ははっと、辰や豆六と顔見合わせる。そういえば、丹三の右手の小指は、半分なくなっていたではないか。
 重右衛門がくるしい息のしたから語るところによると、こうである。
 十六年まえ、重右衛門は商売が手詰まりになり、どうしても、まとまった金をつくる必要にさしせまられた。そこで、甲府の親(しん)戚(せき)のところまで金策に出かけたが、当てごととなんとやらは、むこうからはずれるのたとえのとおり、けっきょく工面もつかず、思案投げ首でかえる道すがら、とある峠できこえてきたのが、
「人殺しイ、助けてえ……」
 と、いう悲鳴である。
 重右衛門は町人ながらも度胸もあり、腕も立った。
 おのれ悪者とかけつけると、その足音におどろいたのか、それとも、小指をかみきられた痛さにたえかねたのか、悪者は逃げてしまって、あとにはむごたらしゅう切られた旅人が、血まみれの小指をくわえて虫の息だった。
 それが清兵衛だった。清兵衛は名前とところをつげ、財布を重右衛門にことづけると、それからまもなく息をひきとった。重右衛門は遺髪をきりとり、死(し)骸(がい)をていねいに埋葬すると、財布を遺族にわたすつもりで、その場を立ち去った。
「そこまではよかったのでございますが、おぼれるものはわらをもつかむ、とちゅうで魔がさして、とうとう、三百両を着服してしまったのでございます。ところが、それが呼び水になったのか、その後は身代をもちなおし、とんとんびょうしに家の繁盛。そのせつ、三百両の金は清兵衛殿の講(こう)中(じゆう)の名で、身延におさめておきましたが、そんなことで犯した罪の消えるはずはなく、せめてもの罪ほろぼしにと、おもと三吉をひきとって……」
 重右衛門の息はしだいにくるしくなる。佐七はひざをのり出して、
「なるほど、丹三にゆすられていたのは、そのことですね」
 重右衛門はかすかにうなずき、
「あいつは清兵衛殿を殺したのち、ものかげに身をかくして、わたしのようすを見ていたんです。そして、しつこくあとをつけてきましたが、そのせつは、江戸へはいるまえにまいてしまいました。ところが、去年あるところで、ばったり会うと、むこうでは、わたしの顔をおぼえておりまして、あのときの金は、おまえが着服したにちがいないと、ゆすられると、脛(すね)に傷もつ身のかなしさ、親分もごらんになったでしょうが、あいつの右手には小指が半分ございません。さては、こいつこそ、清兵衛殿を殺した下手人と気がついても、それをいい立てれば、わが身の罪も露見するどうり……」
「お染さんもそれをたねに、くどかれたんですね」
「はい。あいつのいうのにおまえのおとっつぁんは、十六年まえに人殺しをして金を奪ったと……よもやそんなことをと思っても、ちかごろのおとっつぁんが、あいつのまえに頭があがらぬのが不審のたね、それでわが身をいけにえにして、あいつの口をふさごうと……」
 お染はくやしげに歯をかんだが、そのとき重右衛門はにっこり笑って、
「しかし、おもえば丹三こそ、お染三吉のむすびの神、三吉がいかに下駄の雪をおとそうと、裏木戸をけったところで、丹三としのびあう約束がなかったら、なんでお染がうちへいれましょう。こうしたまちがいがおこったのも、もとはといえば丹三めがお膳(ぜん)立(だ)てしておいてくれたゆえ、しかも、その丹三が、人手にかかって死んだというのも、これひとえに草葉のかげから清兵衛殿のおみちびき、これ、おもと、憎かろうがゆるしてくれ、そして、お染と三吉をみょうとにして……」
「だ、だんなさま!」
 おもとはたもとをかんで泣きふした。
 その夜の明け方、重右衛門はとうとう息をひきとった。しかし、そのまえに、お染三吉、重右衛門のまくらもとで、あらためて夫婦の杯をかわしたが、なんと、その媒(ばい)酌(しやく)人(にん)をつとめたのが、だれあろう、人形佐七だったということである。

緋(ひ)鹿(が)の子(こ)娘

永代橋身投げ女
  ——しもた、考えてみたらわて金づちや—— 


 文化から文政へかけて、江戸一番とうたわれた捕り物名人、神田お玉が池の人形佐七に、おみき徳利のようなふたりの子分のあることは、いまさらここに説くまでもなく、みなさませんこくご存じのとおりである。
 ひとりは江戸っ子のきんちゃくの辰、これはいたってそそっかしい。がらがらである。
 それにはんして、大(おお)坂(さか)者(もの)の豆六は顔もながいが気もながい。なにしろ、豆六の顔たるや、額からあごにかけて、ズーッと見おろしてくると日が暮れる。一名、これを日暮らしの顔。いや、たいへんな顔もあったものだが、この顔についてはきくも涙、かたるも涙という世にもあわれな一場の物語がある。なに、それほどでもないが。
 お玉が池へ弟子入りするさい、豆六は兄貴分の辰にたいして、吹きもふいたり、大坂で代々つづいた藍(あい)玉(だま)問屋の若だんなのごとくほざいたが、それはウソもウソもまっ赤なウソ。
 じつは、藍玉問屋の職人の、そのまた下(した)職(しよく)の六男坊にうまれたが、オギャアッ! と母の胎内をでたとたん、その赤ん坊の顔のながさに、両親はじめ長屋一統、見るひとことごとく肝(きも)をつぶさぬはなかりけりとなん、だったそうである。
 なにしろ、そのじぶんの豆六は、首からうえのほうがしたより長かったそうだが、それにしてはいまの豆六、よく育ったものである。
 さて、この赤ん坊のお七夜の日に、おやじがこの子に命名せんとせしとき、このようなウマも三(さん)舎(しや)を避けるがごとき子がうまれしもなにかの因(いん)果(が)。
 しかも、としは寛政十年 戊(つちのえ) 午(うま)どし、馬六と名づけようと思うがどうであろうかと、相談があったとき、産婦のおふくろから、モウレツな横(よこ)槍(やり)が出たというのもゲニもっとも。
 このおふくろの名が、お鹿(しか)というんだそうで。
 お鹿のせがれが馬六では、いささか平(ひよう)仄(そく)があいすぎはしまいかと、長屋一統、ケンケンゴオゴオの揚げ句のはてに、ついたのが豆六とやら。
 なるほど、豆なら馬の大好物であるのみならず、マメで暮らすということばもあり、そこでおふくろのお鹿もやっと納得したという。イヤハヤ、いわく因縁故事来歴もいいところだが、名前詮(せん)議(ぎ)はこれくらいにしておいて、その顔におとらず気もながいはずの豆六が、ある晩、あやうく土(ど)左(ざ)衛(え)門(もん)と、改名しそうになったというところから、このたびの捕り物話ははじまるのである。
 それは小雨そぼ降る、葉月なかばの夜更けのこと。葉月といえば当時の八月、いまの暦でいえば九月だが、九月なかばといえばとかく雨の多い季節で、いわゆる秋(あき)入梅(ついり)というやつである。
 その晩はめずらしく豆六ひとり、深川へ用事があって出向いていったそのかえるさ、永(えい)代(たい)橋(ばし)へさしかかったのが五つ半ごろ、いまの時間でいえば、午後九時ごろのことである。
 降りやまぬこぬか雨のなかを、傘(かさ)をかしげて、コトコトと、橋のなかほどまできたところ、いきなりどんと、まともから突きあたられ、はずみをくって五、六歩よろよろよろめく拍子に高(たか)足(あし)駄(だ)の前歯がポッキリ。
 豆六はおもわず橋のうえにひざをついた。
「わ、だ、だ、だれや、無茶さらすな」
 声をかけたが、あいさつもなく、あいてはそのままひたひたとそばを通りぬけていこうとするから、いかに日暮らしの顔のもちぬし、のんびりしている豆六だって、これではかっと腹が立ったのもむりはない。
「こら、あいさつせんかい。ひとに突きあたりよって、だまってそのままいき過ぎるちゅう法があるかい」
 追いすがって、暗やみのなかの手さぐりに、あいてのそでをとらえたとたん、豆六はおやと首をかしげた。なんと、あいては女なのである。しかも、たもとのながさから判断して、まだとしわかい女らしい。とらえたたもとは振りそでだった。
「なんや、あんた、おなごはんやな」
 女とわかると、豆六め、俄(が)然(ぜん)軟化しやアがった。ことばの調子まで、きゅうにやさしくなったが、だが、そのときだった。
「おはなし、いやらしい、助平!」
 と、歯切れのよい女の啖(たん)呵(か)が、むちのようにとんできたから、豆六があっとばかりに鼻白んだのもむりはなかろう。
「ちっ、おはなしったらおはなしっ。ひとのたもとをとらえて、アタいやらしい。変なまねをすると承知しないよ」
 たいへんな女もあったものである。いったんは軟化しかけた豆六だが、あいてにこう出られては黙っていられぬ。
「なにいやがんねん。だれがおまえを口(く)説(ど)くちゅうた。あほらしい。いかに女にかつえてたかて、顔もみえん暗やみのいきずりに出会うた女を、いちいち口説いてたまるかいな。そんなことしてたら、こっちゃ蔵がもたんわい。こら、あいさつせんか。なんでわてに突きあたりよった」
「そんなことあたしが知るもんか」
「なんや、知らん? しらんでことがすむとおもてんのか。これみい。これ、きょう買(こ)うたばかりの下駄やぜ。歯が折れてしもたやないか。どないしてくれんねん。弁(ま)償(ど)てんか」
 豆六め、とんだところで大坂者のお里をだしやアがった。女はしかし、豆六のことばを耳にもかけず、身をもがきながら、
「これ、おはなし、おはなしったらおはなしっ。いやらしい。助平、腎(じん)張(ば)り、男地獄。そんなことすると、おっかさんにいいつけるよ」
 どうも少しへんである。ふつうの女が、こんな場合にいうべきことばではない。声の調子も、妙に疳(かん)走(ばし)ってうわずっている。豆六もやっとそこに気がついたから、やみのなかでひとみをこらしてあいてを見たが、やっぱりようすがへんである。
 暗いからはっきりわからないが、髷(まげ)ががっくり横にくずれて、着物の着こなしもふつうではなく、それにだいいち、この雨の降るのに傘(かさ)もささずに、しかも足ははだしである。なるほど、これではぶつかるまで、足音に気がつかなかったのもむりではなかった。
 なあんだ、キ印か——。
 豆六はにわかに興ざめした。気ちがいをつかまえて、腹を立てているのがバカバカしくなった。気が抜けたように、つかんでいたたもとをはなすと、女は糸のきれた奴(やつこ)凧(だこ)のように、ふらふらといきかけたが、そのときむこうからちょうちんの灯(ひ)が、ふたつ三つ、やってくるのがみえた。
 女はそれをみると、なに思ったのか、ひらりと身をひるがえして、二、三歩あとへもどりかけたが、おりあしく、そちらからも、ちょうちんの灯がちかづいてくる。
 進退ここにきわまったり——と思ったのかどうか、そこまでは豆六にもわからなかったけれど、女はやにわに橋の欄(らん)干(かん)をのりこえると、あっというまもない、身をおどらせて川の中へドボーン。
 とっさのこととて、豆六はあいた口がふさがらなかった。しばらくは、きつねにつままれたような顔をしていたが、
「そこが親分のお仕込みやな。こら、なにかあるなとピンときたもんやさかい、わてもあとから欄干のりこえ、川の中へドボーン」
「なんだ、てめえ、とびこんだのか」
 と、佐七と辰は目をまるくしたが、豆六はすました顔で、
「へえ、とびこみましてん。清(きよ)水(みず)の舞台からとびおりるくらいの意気込みだしたな。ところが、とびこんだことはとびこんだもんの、とちゅうでしもたっと思いましたな。考えてみると、わては泳ぎを知りまへん。金づちやがな」
 豆六の話はとぼけているから、どこからどこまでほんとうだかわからない。はなはだまゆつばものなのだが、どうやらこんやの話はほんとうらしい。
 その晩おそくほうほうのていでお玉が池へかえってきた豆六をみると、髪もさんばらになり、足もはだしで、着物はいうにおよばず、ふんどしまでぐしょぬれになっていた。
 佐七はため息をついて、
「ふうむ、おまえの金づちはしっているから、まさか、飛びこみゃアしめえと思ったのに、それじゃほんとに飛びこんだのか。やれやれ、それからどうした」
「どうもこうもおまへんがな。しよがおまへんさかい、助けてえ……」
「と、その女が叫んだのか」
「いえ、わてが叫びましてん」
「なんだ、てめえが叫んだのか。ちぇっ、だらしのねえ野郎だ」
 そばできいていたきんちゃくの辰は大笑い。佐七も、女房のお粂も、おかしさをこらえるのに難渋している。豆六はケロリとして、
「まあ、そう笑いなはんな。やせがまんはって、土左衛門になったところで、だれもほめてくれるもんあらしまへんがな、叫ぶはいっときの恥、叫ばぬは……お陀(だ)仏(ぶつ)や」
「それはそうだ。おめえは大(たい)悟(ご)徹(てつ)底(てい)しているからえらい。それにしても、助かってよかったな」
「豆六、いったい、どこのどなたに助けていただいたんだ」
「さっきのおなごはんだすがな」
「さっきの女——? さっきの女というのは、おまえが助けにとびこんだ女のことか」
「さよさよ」
 豆六はすましたかおで、
「わてが助けをよんでると、その女がそばへ泳いできよって、どあほう、泳ぎも知らんくせに、なんちゅうことすんねん。はよ、わての肩につかまりなはれ、というてくれやはるもんやさかいに、へえ、おおきにと礼いうて、おなごはんに助けてもろた。それがまた、おなごのくせによう泳ぎよる」
 いや、たいへんな身投げ救助もあればあるもので、あまりのおかしさに、佐七も、お粂も、きんちゃくの辰も、しばらく笑いがとまらなかったが、そのうちに佐七はふっとまゆをひそめて、
「しかし、豆六、その女というのは、いったい何者だ」
「さあ、それや、親分」
 と、豆六はひざをのりだし、
「河岸へはいあがったところへ、夜(よ)鷹(たか)そばがやってきたさかいに、行(あん)灯(どん)の光ですかしてみたら、なんと親分、その女の子ちゅうのが、八(はち)幡(まん)前(まえ)の緋(ひ)鹿(が)の子(こ)娘、汐(しお)見(み)屋(や)のお艶(つや)やおまへんか」
 ときいていた佐七と辰は、おもわず顔を見合わせたが、八幡まえの緋鹿の子娘、汐見屋のお艶については、あわれな一場の物語がある。

艶(つや)吉(きち)之(の)助(すけ)
  ——踏みあらされし閨(ねや)のおしどり——


 深川の八幡まえの水茶屋の汐見屋というのへ、去年の春ごろあらわれたお艶という娘、年は十七か十八だろう。
 大柄で、ぽってりとしたからだつき、ぱっとさいた満開の花の、においこぼれるばかりの色っぽさが評判になって、汐見屋は申すにおよばず、八幡前かいわいはこのお艶のために、大繁盛ということになったが、このお艶、だれのいれ知恵か、いつも、緋鹿の子の振りそでをきているところから、緋鹿の子娘とうたわれて、たちまち、江戸一番の評判女になってしまった。
 いまのことばでいえば、さしずめミス江戸とでもいうのだろう。
 もっとも、このミス江戸には競争者があって、あいては芝(しば)神(しん)明(めい)の矢取り女、扇屋のお葉という娘。
 どちらかというと、お葉のほうが先輩で、ついさきごろまでは、江戸の美人のナンバーワンとうたわれていたものだが、お艶が出現するにおよんで、ここに、猛烈な人気争いがえんじられた。
 おれは緋鹿の子がいいと、力こぶをいれるものがあるかとおもうと、いや、おいらはやっぱりお葉だなどと、頼まれもせぬのにやかましいこと。しばらくこうして、猛烈なせりあいがえんじられていたが、そこは新手のいきおいで、しだいにお艶がのしてきた。
 おかげで、八幡前の汐見屋は、まいにち押しかけるおおかみ連中でおすなおすなの盛況だったが、なかでもいちばん熱心なのは、南(みなみ)新(しん)堀(ぼり)の酒問屋、越(えち)前(ぜん)屋(や)のだんなで重(じゆう)兵(べ)衛(え)という。
 重兵衛はすでに四十の坂をこしており、家には女房もあり、お艶とそうとしのちがわぬ娘もあるというのに、いちどお艶の茶屋でやすんでいらい、心の駒がどうくるったのか、たいへんなご執心で、手をかえ品をかえ、お艶をくどきおとそうとこころみた。
 ところが、お艶という娘だが、これが稼(か)業(ぎよう)ににあわぬかたい女で、いかに大手、からめ手から責めたてても、
「お志はありがとうございますが、ちと心願のすじがございますので、こればかりはお許しくださいまし」
 と、いつまでたってもらちがあかない。
 重兵衛はしだいにじりじりじれてきた。俗に七つさがりの雨と、四十すぎの道楽はなかなかやまぬというとおり、それまで、物堅いいっぽうでとおってきた男だけに、いちど心の駒がくるいだすとしまつにおえない。
 やけをおこして酒をのむ。酒をのんではお艶のもとへ押しかけていく。
 そして、泣いたりおどかしたり、さんざんお艶をかきくどいたあげくの果てには、いいだんなのあられもない暴力をもって、お艶を征服しようとするところを、かけつけた近所の鳶頭(かしら)につまみだされるというようなことも、一度や二度ではなかった。
 こうして重兵衛、さんざんバカをつくして、すっかり世間のものわらいの種になったが、そのうちにどう気がかわったのか。ぴったりとお艶のもとによりつかなくなった。
 お艶はもとより、未練のあるあいてではないから、その当座、厄(やく)落(お)としをしたような気になって、サバサバとしていたが、それでもきのうまで、あんなに足しげくかよってきた男が、きゅうにバッタリよりつかなくなったので、なんとなく気になって、それとなくようすをさぐってみると、なんと重兵衛、ちかごろではせっせと、芝神明の矢取り女、お葉のもとへかよっているといううわさであった。
 お艶も女である。
 それをきくと、べつに未練のある男ではないが、やっぱりちょっといやな気がした。しかし、それもほんのちょっとのまで、その後いよいよ人気もたかまり、引く手あまたとなるにつけ、いつしか重兵衛のこともわすれてしまった。
 こうして、お艶は完全にお葉をおさえ、江戸一番の評判娘と、その全盛はなかなかかたむきそうにみえなかったが、好事魔多しである。そのお艶が、とうとうつまずいたのである。
 お艶がつまずいた顛(てん)末(まつ)というのはこうである。
 重兵衛の足がとおのいてから、ふた月ほどのちのことである。おおぜいのとり巻きをつれた若者が、ふらりと汐見屋へやってきた。
 色白やせぎすのいい男振りで、いっけんして、たいけの若だんなとしれるこしらえだったが、とりまきのひとりのかたるところによると、上州へんの大きな機(はた)屋(や)の若だんなで、このたび商法見習いのために江戸の親(しん)戚(せき)へあずけられたが、さしあたり、江戸の人気をしるために、毎日こうして、ぞめいて歩いているという、いやもう、うらやましいようなけっこうなご身分。
 名前は山三郎様とおおせられる。
 その日はそのままかえっていったが、二、三日すると、こんどは山三郎ひとりでやってきた。
 むろん、お目当てはお艶である。こんなことにはなれているお艶だが、そのときはどういうものか、わかい血がおどったのである。
 まえにもいったとおり、こういう稼業ににあわず、お艶はかたい女で、いままでいちども、浮き名をながしたことはなかったが、この山三郎にはぞっこんまいったらしい。お艶山三郎がひとめをしのぶようになったのは、それからまもなくのことである。
 その当座、お艶は身も心もやけただれるような幸福に酔いしれていたが、しかし、お艶のその幸福も、そう長くはつづかなかったのである。
 その日もお艶は、浅草奥山の出会い茶屋の奥座敷で、山三郎とうれしい逢(おう)瀬(せ)にもえていた。
 山三郎は顔ににあわぬ剛(ごう)の者で、裸になると、隆々たる筋肉がたくましくて、男らしさにみちていた。ふさふさとした胸毛も、お艶にとっては魅惑的だった。
 お艶は山三郎にすきなようにされながら、そうされればされるほどうれしくて、はげしく身もだえしながら、
「若だんなったら……若だんなったら……だんだんすごくおなりになって……どこでこんなこと、覚えておいでになって……」
 と、息も絶えいらんばかりにあえぎつづけた。
 男はなおも執(しつ)拗(よう)に、攻撃の手をゆるめようとはせず、女を抱きあげ、うらがえし、二重に折りまげ、いまやお艶のからだは激流のなかに、浮きつ、沈みつ、息もたえだえにあえいでいたが、そこへ思いがけなく、踏みこんできたのは捕り手のめんめん。
 むろん、山三郎は抵抗した。しかし、ふんどしもしめぬ素っ裸の身では、おもうような働きもできなかった。すぐとりおさえられて、高(たか)手(て)小(こ)手(て)にいましめられた。
 お艶も長(なが)襦(じゆ)袢(ばん)いちまいという、世にもあさましいすがたで、むらがる野次馬のなかをひったてられた。
 お艶はなにがなにやらわけがわからず、夢にゆめみるここちだったが、その後わかったところによると、機屋の若だんな、山三郎とはまっかないつわりで、その男は弁天吉(きち)之(の)助(すけ)という、きわめつきのお尋ねものだった。
 しばらく江戸をうっていたのを、ちかごろまいもどってきて、身分をあざむき、お艶といいなかになったところを、訴人するものがあって捕らえられたのである。
 お艶もきびしい吟味をうけたが、彼女はしんじつなにも知らなかったので、まもなく許された。しかし、こうなるともう店へは出られない。



 などという読み売りが、江戸のすみずみまでふれて歩いているのだから、ひとまえへ顔もだせない。お艶はそれいらい、泣きの涙で閉じこもっていたが、それでも吉之助が遠島ときまって、永代橋から船出するときには、別れをおしみにかけつけた。
 島送りになる罪人は、船出のまえに、しばし別れをおしむことを許されるのがれいになっているのである。
 そこで、お艶と吉之助のあいだに、どういう話があったのかわからないが、訣(けつ)別(べつ)の時間もきれて、吉之助が舟にのりこみ、船出のあいずの竹ぼらが、ものかなしげに空にひびきわたったとき、お艶の心はくるってしまった。
 緋鹿の子のすそをけちらし、永代橋のうえをいきつもどりつするお艶のすがたがみられるようになったのは、それからまもなくのことである。
「おもえばお艶もふびんなものだ。それじゃ、まだ病気がなおらぬとみえる。しかし、豆六」
「へえ」
「お艶はなんだって川へとびこんだんだ。おまえ気ちがいにいたずらをしたんじゃあるめえな」
「あほらしい。親分、うだうだいわんといておくれやす。お艶が川へとびこんだわけは、たぶんこいつやおもいます。親分、まあ、これをみとくれやす」
 豆六がゾロリと取りだしたものをみて、佐七と辰はおもわず目をみはった。
「豆六、そりゃなんだ」
「お艶の片そでやがな。水からはいあがるとき、よろけるようなふりをして、むりにひきちぎったのがこの緋鹿の子。あねさん、ちょっと耳だらいを……」
「あいよ。これでよいかえ」
 ただならぬ豆六の顔色に、お粂がさしだす耳だらいのうえで、水にぬれた片そでを豆六がぐっとしぼると、ポタポタたれる赤いしずく。
 佐七はぎょっと息をのんだ。
「豆六、そ、そりゃ血……」
「さよさよ、橋のうえのくらがりで、たもとをとらえたそのとたん、にちゃっとへんな手ざわりや。においをかぐと血のにおい。それやからこそ、親分、金づちもわすれて、とびこんだんやおまへんか。へん、兄い、どんなもんや」
 豆六は鼻たかだかと大威張りである。それにしても、水をくぐってきてさえこれだけの色である。ひょっとすると……。
 三人はおもわず顔を見合わせたが、かれらの予感はあたっていた。はたせるかな、その翌日、むごたらしゅう切り殺された男女ふたりの死(し)骸(がい)が、永代橋からほどとおからぬ蘆(あし)のなかから発見されたのである。

白(しら)鞘(さや)の九寸五分
  ——とっつぁん味な物持ってるな——


「おはようございます。ひょんなことができましたってねえ」
 その翌日は、ゆうべとうってかわった上天気だった。ひと殺しのうわさをきいて、人形佐七がとるものもとりあえずかけつけると、川ぶちの蘆のなかの現場には、町役人が出張っていて、むらがる野次馬を追っぱらうのにひと苦労だった。
「おや、これはお玉が池の親分、朝早くからご苦労でした。おまえさんにまた、ひと働きしてもらわねばなりません」
「へえ、まあ、なんとか働いてみますが、死骸は……ああ、あれですね」
 それは永代橋の西詰めのすぐちかく、道からほんのわずかそれた土手下で、潮がみちると、つかってしまいそうな蘆の中なのである。
 そこに、男と女が、一間(けん)ほどおいた間隔をへだてて死んでいた。
 女は年ごろ十九か二十であろう。どこかあだっぽいところのある美人で、着物の着こなし、髪の結いかた、ひとめみて玄(くろ)人(うと)とわかるようなひと柄である。
 男のほうは四十前後、薄あばたのある、脂ぎった大男で、風体をみるとかたぎのだんなというところ。
 ふたりとも身に数所の傷があり、女は袈(け)裟(さ)切(ぎ)り、男は土手っ腹をえぐられて死んでいる。凶器はどこにも見当たらなかった。
「ところで、ふたりの身もとは……? まだわかりませんか」
「いや、それがわかりましたよ。男はついこのちかくの、南新堀の酒問屋、越前屋の主人で重兵衛というんです」
 越前屋の重兵衛ときいて、佐七は辰や豆六と顔見合わせた。
 越前屋の重兵衛が、緋鹿の子のお艶に、さんざんバカをつくしたあげく、けっきょく牛を馬にのりかえて、芝神明の矢取り女、お葉のもとへかよっているといううわさは、佐七も耳にしたことがあった。
「それじゃ、これが越前屋さんの……すると、ひょっとすると、こっちの女は……?」
「そうです、そうです。おまえさんもうわさをきいてしっていなさろうが、これが芝神明の矢取り女で、お葉というんだそうです」
 佐七はふたたび辰や豆六と顔見合わせた。
「なるほど、やっぱり……しかし、よくそうはやく身もとがわかりましたね。だれかこのへんにお葉をしっているものがありましたか」
「いや、それについて話があるんです。親分、ちょっと自身番へお寄りになりませんか」
 町役人の意味ありげなことばに、
「へえ、それじゃちょっと、このへんをしらべておいて、のちほど寄らせてもらうことにいたしましょうか」
 町役人がひきあげていったあとで、佐七は死体のまわりをしらべていたが、
「おい、辰、ちょっとみねえ。ここにはだしの足跡がついているぜ。これはどうやら女の足跡らしいが、お葉はあのとおり下(げ)駄(た)をはいているし、足の裏もそんなによごれちゃいねえ」
「親分、ひょっとするとそりゃアお艶の足跡じゃありませんか。豆六が出会ったとき、お艶ははだしだったといいますから」
「ふむ、そうかもしれねえ」
「親分、親分」
「おお、豆六、なにかあったか」
「こんなところに、女の下駄がぬぎ捨てておます。ぴったりどろにくいこんで、抜けんようになったもんやさかいに、ぬぎ捨てていきよったらしいんやが、ひょっとすると、これ、お艶の下駄とちがいまっしゃろか」
「ふうむ。すると、お艶が……しかし、まさかあの気ちがいがなあ」
 佐七はなおしばらく、蘆のあいだをさがしていたが、それいじょう変わったところも発見できなかった。
「よし、それじゃここはこのままにして、自身番へいってみよう、なにか話があるらしい。豆六、その下駄はだいじにして持ってこい」
 あとは町の若いものにまかせて、すぐちかくの自身番へ顔をだすと、さっきの町役人が、茶をいれて待っていた。
「どうも、ご苦労さまでした。なにかみつかりましたか」
「いえ、なに、べつに……ときに、お話とおっしゃるのは」
「さあ、それですがね。親分、ここにいるのは番太郎の七(しち)兵(べ)衛(え)というものですが、話というのはこの七兵衛から聞いたことで……おい、とっつぁん、おまえからじきじき、親分に申し上げたらどうだ」
 番太郎というのは町内の小使いで、たいていは小屋をもらって、荒物屋かなんかをいとなんでいる。
 たとえにも、生きたおやじの捨てどころ、なんていうくらいで、おおくは水っぱなのたれるおやじの役どころとしたものだが、ここの番太の七兵衛はすこしちがっていて、白(しら)髪(が)頭ながら、どこかひと筋なわでいかぬつらだましいである。
 その七兵衛が、問われるままに語るところによると、こうである。
 ゆうべ五つ(八時)すぎのことであった。七兵衛が夜なべにわらじをあんでいると、おもてでだれかころんだようすなので、出てみると、わかい娘がつまずいたひょうしに、前鼻緒をきらしたのである。そこで、七兵衛が気の毒におもって、なかへよびこんで顔をみると、それがあのお艶であった。
「なにしろ、あのとおりの気ちがいですから、鼻緒のすげかたも知りません。そこで、あっしがかわりにすげてやりながら、いったいどこへいったのかと尋ねますと、お艶のいうのにこうでございます」
 お艶はその晩、偶然どこかで、越前屋重兵衛に出会ったらしい。重兵衛はまだお艶には未練がある。いや、未練というより、男の意地かもしれない。
 そこで、あいての気がちがっているのをよいことにして、ことばたくみにあざむいて、永代橋のたもとにある、ひさごといううなぎ屋へつれこんだらしい。
 それについて、お艶がおもしろそうに語るに、
「重兵衛が酒を飲めというから飲んでやったの。そうしたら、からだがポッポッと熱くなってきてねえ。それで膚をくつろげて涼んでいると、重兵衛がいきなり抱きついてきて、ほっぺたをくっつけたり、ふところへ手を入れて、お乳をいじったり、そして、小鼻をいからせて、はあはあ息をはずませているのさ。そりゃおもしろかったよ」
 気がくるってからのお艶は、おそろしく色っぽくなっている。気ちがいをよいことにして、男たちが悪ふざけをすると、ふれなば落ちんというふぜいで、きわどいところまで自由になっている。そこで図にのったおおかみどもが、しめたとばかりに奥の手をだすと、
「バカ、助平ッ、いやらしい!」
 と、俄(が)然(ぜん)本性をあらわして、ピシャリと平手うちをくらわせるのだが、気ちがいのバカ力で、いや、その平手うちのものすごいこと。ゆうべもやはりそのでんで、お艶がうっとり身をまかせているので、しめたとばかりに越前屋が、あおむけにおしころがそうとしたところへ、とんできたのがお艶の平手うちならで、矢取り女のお葉であった。
「バカッ、助平ッ、いやらしい」
 お葉もお艶とおなじようなことをいった。そして、重兵衛の胸にむしゃぶりついた。お艶はそのあいだにふらふらとひさご屋をぬけ出してきたらしいのである。
「ほんとにおもしろかったよ。わたしを気ちがいだ、気ちがいだというけれど、あのふたりのほうが、よっぽど気ちがいだ。はっはっは」
 気ちがいのお艶は、男のような高笑いをすると、七兵衛のすげてくれた下駄をつっかけて、傘もささずにふらふらと、番太の小屋を出ていったというのである。
「なるほど。ときに、とっつぁん、その下駄というのはこれじゃねえか」
 豆六の持ってきた下駄をみせると、
「はい、これです。ここにあっしのすげてやった跡がありますから、まちがいはございません」
「なるほど、それで……話はおしまいかえ」
「いえ、まだつづきがございますんで。お艶がとびだしてから、しばらくすると、おもてをなにかいい争いをしながらとおる男と女がございます。のぞいてみると、男は越前屋さんでしたから、女はてっきりお葉だろうとおもいました。ふたりはそのまま、永代橋のほうへまいりましたが、けさきくと、河(か)岸(し)っぷちで男と女が殺されている。しかも、男は越前屋さんだというんで、てっきり女はお葉だとおもって、念のために、ひさご屋のわかいもんに見てもらったのでございます」
 七兵衛の話はそれだけだった。
 佐七はだまって、あいての白髪頭を見ていたが、
「ときに、とっつぁん、妙なことをきくようだが、おまえわき差しか匕(あい)首(くち)のようなものを持ってやアしないか」
 七兵衛はどきっとしたように、白髪頭をふるわせたが、やがて低い声で、
「へえ、わき差しは持ちませんが、匕首なら……」
「持っているか。持っているならみせてくれ」
 七兵衛はさぐるように佐七の顔をみていたが、やがてプイと出ていくと、じぶんの小屋から、白(しら)鞘(さや)の九寸五分を持ってきた。
「よし、みせてもらうぜ」
 鞘をはらった人形佐七、しばらく食いいるようにながめていたが、やがてかるい失望の吐息とともに、パチンと鞘におさめた。
「いや、どうもありがとう。しかし、とっつぁん、おまえ、味なものを持っているじゃねえか」
「へえ、ちかごろはとかく物(ぶつ)騒(そう)ですから……なに、ほんの飾りもんでさあね」
 七兵衛はあざわらうようにそういった。

抜け出す七兵衛
  ——とっつぁん、案内ご苦労だった——


「親分、どうしたんです。あのおやじに、なにかご不審がありますか」
 それからまもなく、自身番を出ると、辰がふしぎそうに尋ねた。
「なあに、あのおやじの目つきが気にくわねえから、ちょっとからかってやったのよ。だが、なあ、辰、豆六、だまされるな。おやじめ、もっとなにか知っているにちがいねえ。辰、おまえひとつ、あのおやじの素性をあらってみろ。それから、お葉や重兵衛の身持ちもさぐってみてくれ」
「親分、そんな手間かけんでも、下手人はお艶にきまってまんがな。あの片そでの血潮といい、現場にのこした下駄といい……お艶はひょっとすると、にせ気ちがいやおまへんやろか」
「そうよなあ、お艶もいちど洗ってみなきゃアならねえが、それにしてもなんだって、お艶が重兵衛やお葉を殺すんだ。お艶は重兵衛を、ふってふってふりぬいたというじゃないか。なにもあのふたりを殺すわけはなさそうにおもわれる」
「そりゃ、親分、むかしふった男かもしれねえが、さりとてそいつが目のまえで、競争あいての女とふざけているのをみせつけられちゃ、やっぱりいい気はしませんぜ。お艶はきゅうにねたましくなって……」
「ふむ、ひとの心のことだから、そりゃアどうだかわからねえが、しかし、かよわい女の身で、ふたりを殺すというのはちとむつかしい。それに、お艶がやったとすれば、わき差しと匕首と、刃物をふたつ用意していたということになる」
「へえっ、親分、それはどういうわけです」
「それだからおまえたちはいけねえ。重兵衛の傷はみんな突き傷。すなわち、匕首でやられた傷だ。それにはんして、お葉の傷は切られた傷。だから、匕首と刀と、刃物がふたつあるはずだ」
「すると、親分、下手人はふたりだっしゃろか」
「と、まあ、そういうことになるな。だいいち、ひとりじゃああうまくふたりを殺せるものじゃねえ。どっちかを逃がすか、逃がさねえまでも、声ぐらい立てられようじゃないか。それを朝まで、だれも知らなかったというのがおかしい。だから、下手人はまずふたりだな」
「すると、ひとりはお艶として、あとのひとりはだれだっしゃろ」
「そうよなあ。いや、ここで思案をしていてもはじまらねえ。豆六、てめえはこれからお艶をあげてこい。いずれにしても、あいつはだいじな生き証人だ」
「よっしゃ。ときに、親分は?」
「おれはこれから、ひさご屋へまわってくる」
 佐七はそこで、辰と豆六にわかれると、ひさご屋へやってきたが、ひさご屋でも、たいしたことはわからなかった。
 ゆうべ、重兵衛がお艶をつれてやってきた。そして、いっぱいやっているところへ、お葉がとびこんできて大騒ぎになった、ということは、七兵衛のはなしで佐七もすでにしっている。
「それで、なにか。お葉と重兵衛は、お艶がかえってからすぐここを出たのか」
「さあ、それが……お艶ちゃんがいつかえったのか、わたしどもはちっとも気がつきませんでしたので……越前屋のだんなとお葉さんは、しばらく奥座敷でいい争っているようでしたが、やがて、もつれるようにしてかえっていきました。そうそう、それについて、ちょっと妙なことがございました」
 ひさご屋のおかみの話に、
「妙なことというのは」
 と、佐七もちょっと利き耳をたてる。
「いえ、べつに、かかわりあいもないことかもしれませんが、わたしはふたりを送り出して、しばらくおもてに立って、空模様をみていたんです。すると、そのときだしぬけに、むこうの暗やみからとび出してきた男が、ふたりのあとを追っていったんです」
「暗やみのなかからとび出した男が、ふたりのあとを追っていった……? そ、そして、おかみさん、そいつはどんな男だ」
「さあ、それが、夜更けのことでよくわかりませんが、手ぬぐいのほおかむりに、しりをはしょっていたようです。まだ、わかい男のようでした。しかし、親分さん、そいつがほんとに、ふたりのあとを追っていったのか、それとも、ちょうどそっちのほうへいく用事があって走っていったのか、そこまでは、わたしにもわかりません」
 かかりあいになるのを恐れて、おかみがことばをにごすのを、佐七は耳にも入れず、
「そして、おかみさん、そいつわき差しをさしちゃいなかったかえ」
「わき差し……? さあ……いいえ、わき差しをさしているようではございませんでした。ええ、たしかに丸腰でございましたよ」
 佐七はちょっと失望したが、
「いや、おかみさん、ありがとう。こののちともに、なにか気がついたら知らせてくれ」
 と、そのまま帳場をはなれかけたが、そのときだった。おかみが出前をとらえていっていることばが、ふと、かれの耳をとらえたのである。
「そうそう、親分の話でおもい出したが、石松、おまえ、七兵衛さんのところへどんぶりをとりにいったかい」
「えっ、どんぶり……?」
 佐七は目を光らせて、
「おかみさん、どんぶりたアなんのどんぶりですよ」
「へえ、うなどんですよ。ゆうべ七兵衛さんのおあつらえで、持たせてやったんです」
「そして、それはいつごろですえ。重兵衛やお葉がかえるまえですか、あとですか」
「あのふたりがかえってから、半(はん)刻(とき)(一時間)あまりものちのことでしたろうよ。いえ、べつに、七兵衛さんはお得意というわけではありません。ゆうべはじめてのことでした」
 そりゃアそうだろう。番太郎にうなぎ飯とは、こいつたいしたおごりである。
 その晩、佐七が待っていると、きんちゃくの辰がまずかえってきた。
「親分、わかりましたよ。七兵衛というおやじ、あいつたしかに食わせものですよ。いまでこそ神妙なつらをしておさまってますが、むかしはそうとうな道楽をしたらしく、背中に般(はん)若(にや)かなんかの彫り物があるそうです」
「おおかたそんなことだろうと思った。それで、かかあや子どもはねえのか」
「かみさんはずっとむかしになくなったが、藤(とう)松(まつ)という男の子がひとりあったそうです。七、八年もまえに家出して、いまじゃゆくえもわからねえそうですが、生きていれば二十五、六という見当だそうで」
「生きていれば二十五、六……? あの七兵衛のせがれなら、いい男にちがいねえ」
 佐七はじっと考えこんだが、
「二十五、六といやア弁天吉之助とおなじ年ごろだが、吉之助は島送りになっているはずだ。それで、越前屋やお葉のほうはどうだ」
「越前屋はお艶にふられた腹いせに、お葉をくどいたらしいんですね。もとはそんな男じゃなかったそうですが、お艶を見染めてから、すっかり心の駒がくるったんですね。ちかごろじゃ半分やけくそになって、お葉とただれた生活をしていたようです。ところが、おかしいんですが、この二、三日、なににおびえたのか、しじゅうびくびくしていて、かたときもわき差しをはなさなかったというんです」
「わき差しを……」
 佐七はおもわず目をみはった。
「しかし、そんなもの、死体のそばにゃみえなかったじゃねえか」
「だから、変だとおもってるんです。念のために、あっしゃひさご屋へもまわってみたんですが、あそこを出るとき、重兵衛はたしかに、わき差しをさしていたそうですよ」
 佐七はまただまって考えていたが、きゅうに顔をあげると、
「ところで、どうだろう。お葉や越前屋と吉之助とのあいだに、なにかいざこざはなかったろうか」
「さあね。そこまではわかりません。吉之助はながいあいだわらじをはいていて、あのときは江戸へ舞いもどったばかりだといいますから、なにかあったとしたら、ずいぶんむかしのことでしょうね」
 佐七はまただまって考えていたが、そこへ豆六がいきおいよくかえってきた。
「親分、親分、えらいこっちゃ、えらいこっちゃ」
「な、なんだ、どうした、お艶がどうかしたのか」
「いえ、あの、そのお艶はゆうべから家へかえらんちゅう話だす。わてと河岸でわかれてから、どっかへいてしもたらしおまんねん」
「なんだ、お艶のゆくえがわからねえと。おめえのえらいこっちゃというのは、そのことか」
 佐七が苦(にが)りきってたずねると、豆六は口からあわを吹きながら、
「いや、そやおまへん。わてがえらいこっちゃちゅうのんは、吉之助のことだす。吉之助は島を破って、どうやら江戸へ舞いもどっているらしい」
「なに、吉之助がこの江戸へ……?」
 佐七はさっと気色ばんだ。
「さよさよ。きのうの夕方お艶のところへ、こっそり、ほおかむりをした男がたずねてきたそうです。あいにく、お艶が留守やったんで、そいつがっかりしてかえったそうやが、近所の衆のなかに、そいつの顔をおぼえているやつがあって、あらたしかに、上州の機屋のせがれちゅうふれこみで、お艶をだました男やと、こういうんです。そこで、わてかえりに、八丁堀へ寄ってみたところが、神崎様がわての顔をみるなり、おお、豆六か、よいところへきた。弁天吉之助が島破りをしたちゅう知らせが、いまとどいたばっかりや。いずれは江戸へ潜入するにちがいないさかいに、佐七にいって、さっそく手配するようにと……」
 それをきくなり、佐七はすっと立ち上がっていた。

緋鹿の子かわいや
  ——お艶はその後も町から町へと——


「親分、それじゃやっぱり七兵衛になにかご不審がありますか」
「さあ、それよ。きょうひさご屋できいたところでは、お葉と重兵衛がひさご屋をでて、永代橋のほうへむかったあと、ほおかむりをした男が、ふたりのあとを追っていったという。お葉と重兵衛は、七兵衛の小屋のまえを通っているから、あとを追った男も、そこを通らなきゃアならねえはずだ。とすれば、七兵衛も気がついていなきゃならぬはずだのに、あいつひとこともそのことはいわなかった。それのみならず、七兵衛は、それからまもなくひさご屋から、うなぎ飯をとっている。番太の身分でうなぎたアたいしたおごりだ。まさか、じぶんで食やアしめえ。それじゃだれに食わしたか」
「親分、だれに食わしたんです」
「お葉と重兵衛を追うていった男よ。七兵衛はその男をしっていたから、びっくりしてこっそりあとをつけていった。そして、そいつがお葉と重兵衛を殺すのをみて、じぶんの小屋へつれてかえり、うなぎ飯をごちそうして、どこかへかくまったにちがいねえ……というのが、だいたいおれのにらんでいるところよ」
「そして、親分、その男ちゅうのんは、いったいだれだんね」
「きまっているじゃねえか。島破りの弁天吉之助、すなわち、七兵衛のせがれの藤松だ」
「しかし、親分、吉之助のやつがなんだってお葉や重兵衛を殺したんです」
「いや、それについても、だいたい見当はついているが、それはまあ、もうすこし伏せておこうよ。あっ、七兵衛がきたぜ」
 そこは七兵衛の小屋のすぐちかく、このごろの日(ひ)和(より)ぐせとして、いまにも降りだしそうな空模様を、かえってさいわいとばかりに、ひとめをさけてくらやみにたたずんでいるのは人形佐七に辰と豆六。
 待つことおよそ小(こ)半(はん)刻(とき)、どうやら、待ったかいがあったらしく、七兵衛がこっそり出てきたから、佐七はしめたとばかりに、辰や豆六に目くばせした。
 七兵衛はそっとあたりを見回すと、戸じまりをしてスタスタと歩きだした。
「辰、豆六、気どられぬようにしろ。見失うな」
 七兵衛はもとより、こういう尾行があるとはしらない。橋をわたり、松平越(えち)前(ぜんの)守(かみ)様のひろいお屋敷のそばを通りすぎると、やってきたのは湊(みなと)町(まち)のお船(ふな)蔵(ぐら)である。
 七兵衛はそこでもういちど、ソワソワあたりを見回すと、
「藤松、いるか」
 と声をかけたが、そのとたん、佐七はつかつかとそばへよると、七兵衛の肩に手をかけて、
「とっつぁん、案内ご苦労」
 それから、くらいお船蔵のなかをのぞいて、
「吉之助、神妙にしろよ」
 七兵衛は、みるみるうちに土色になっていったが、それを辰や豆六にひきわたして、佐七がなかへ入っていくと、がらんとしたお船蔵の、ろうそくをたてた舟の胴の間で、お艶をだいた吉之助が、匕(あい)首(くち)さか手に、きっとこちらをにらんでいた。
 一瞬、佐七と吉之助のあいだに、さっと殺気がほとばしる。しばらくふたりは、無言のままでにらみあっていたが、やがて佐七がにんまり笑って、
「吉之助、てめえまだこのうえにお上(かみ)にごやっかいかけるつもりか。恨みかさなるお葉と重兵衛が、あのとおり滅んでしまったのだから、すなおにおなわをちょうだいしたらどうだ」
 おだやかに声をかけると、吉之助はがっくりそこへ手をついた。
「親分、恐れ入りました。あっしも用事をすませたからにゃ、きょう名乗って出るつもりでしたが、年寄りの涙にひきとめられ、それに、このふびんなお艶に未練がのこって……どうぞご勘弁くださいまし」
 弁天吉之助、なるほどよい男振りである。
 すでに覚悟をきめているとみえて、悪びれたところのないのもいさぎよい。七兵衛は声をのんで舟の胴の間に泣きふした。お艶だけがなにもしらずに、無心にたもとをいじっているのがいじらしい。
「吉之助、おまえがお葉にうらみがあるというのは、あいつらがおまえを訴人したからだな」
 吉之助は無言のままうなずいた。
「それから、おまえをけしかけてお艶に恋をしかけさせたのも、お葉と重兵衛じゃなかったのか」
 辰と豆六は、おもわずあっと目をみはったが、吉之助も佐七のかおを見なおして、
「親分、さすがはお玉が池の親分だ。なにもかも、お見通しでいらっしゃる。そうです。あっしゃあ、あいつらにだまされて、お艶に色をしかけたんです」
 吉之助が機屋の若だんなに化けこんで、お艶をあざむいたのは、じつに、お葉と越前屋にけしかけられたからであった。
 お葉は人気ねたみから、越前屋はふられた腹いせから、吉之助をけしかけて、お艶をものにしたら五十両の賞金を出そうと持ちかけたのである。
「あっしゃ、あいつらにふかい魂胆があるとはしりませんから、そこは男のうぬぼれもてつだって、お艶に色をしかけ、とうとう深い仲になったんです。ところが、それこそあいつらのおもうつぼで、じきをはかってあっしを訴人し、奥山の茶屋でふたりがうれしい夢をむすんでいるところへ、捕っ手の衆を踏みこませたんです。つまり、あっしはていのいい道具につかわれたんで、なにもしらねえお艶に、凶状持ちの情夫をもたせ、ふたり寝ているその場からなわ付きになってひったてられるという悪どい狂言で、お艶にこのうえもない恥をかかせ、二度と世間に顔向けならねえからだにしようというのが、あいつらの魂胆。つかまってから牢(ろう)屋(や)のなかで、お艶と重兵衛のいきさつ、お艶とお葉の人気争い、そんなことを同囚のものにきかされて、あっしゃはじめてそれに気がつき、腹のなかが煮えくりかえりそうでございました」
 吉之助のふかいうらみももっともで、憎むべきはお葉と重兵衛、なんという腹の黒さであろうか。
「かわいそうなのはこのお艶で、島送りになるまぎわに、あっしゃそのことを打ち明けてあやまりましたが、かえってそれが悪かった。たといあっしが凶状持ちでも、まことの恋なら、お艶も許してくれたんです。それほど、お艶の恋は真剣だったんです。ところが、あっしの恋にゃうそがあった。五十両欲しさの恋だった……と、そうおもいつめたから、お艶は気が狂ってしまったんです」
 吉之助はポトリと涙をひざにおとすと、
「あっしゃあ、お艶に信じてもらいたい。なるほど、初(しよ)手(て)はいつわりで仕掛けた恋だった。しかし、はじめてお艶に会うた日から、いつわりの恋は、ほんとの恋にかわっていたんだ。堅い、かたいといったところで、どうせあいては茶くみ女、それまでに男の膚の三人や五人、知らねえはずがあるもんかと、あっしゃたかをくくっていたのに、はじめて会うたその晩に、お艶がほんとに手入らずの生(き)娘(むすめ)だったことに気がついたんです。それからのちは、お艶がいじらしくてかわいくて、ほんとにほれていたんです。しかし、お艶にゃもうそれがわからねえ。ゆうべから、口をすっぱくしてかきくどいても、お艶はなにもわかってくれねえ」
 吉之助は男泣きに泣きむせんだ。
 そばでは、お艶が無心に髪をいじっている。
「なるほど、それでだいたいわかったが、しかし、吉之助、いかに恨みがあるとはいえ、男女ふたりを殺した罪はまぬかれめえぜ。おまえ、覚悟はしているだろうな」
「親分、それはちがいます。ふたりを殺したのは、あっしじゃありません」
「吉之助、いまになって、逃げ口上は男らしくねえぜ」
「いいえ、親分、ちがいます。なるほど、島をぬけ出したのはあいつらを殺すためだったが、ゆうべのことはあっしじゃねえんで」
 吉之助は寂しく笑って、
「どうせ、こんどつかまったら笠(かさ)の台のとぶあっし、逃げ口上は申しません。こんなことをいったところで、信用してもらえるとは思いませんが、お葉と重兵衛、口げんかが昂(こう)じたあげく、たがいに切りあい、差しちがえて死んだんです」
 辰と豆六は、おもわず顔を見合わせたが、佐七はポンとひざをたたいて、
「そうか。いや、それでばんじつじつまがあう。あれだけの騒ぎを、だれひとり聞いたものがねえというのは、おかしいとは思ったが、さては、たがいにあいてを殺すつもりだから、だんまりで切り結んだんだな。よし、吉之助、おまえその場のようすをみていたのなら、もっとくわしく申し立てろ」
「へえ」
 吉之助の話によると、こうである。島を破って、江戸へまいもどった吉之助は、お葉と重兵衛のところへ手紙をつけた。
 このたび、江戸へまいもどってきたから、いずれごあいさつにうかがう、と——。
 これがふたりを恐怖のどん底にたたきこんだのである。お葉は匕首、重兵衛はわき差しを膚からはなさなかった。
 わけても女だけに、お葉のおびえかたはひとしおで、ゆうべもそのことで、重兵衛をさがしまわったあげく、やっと突きとめたところが、お艶をとらえてあのていたらく。そこでかっとして、重兵衛を河岸までつれだし、たがいに毒づいているうちに、とうとうあんな羽目になってしまったのである。
「だが、それにしちゃ刃物の見えなかったのが、おかしいじゃねえか」
「さあ、それなんです。ふたりが倒れて死んだところへ、ふらふらとやってきたのがこのお艶で、お艶もどこかで見ていたんでしょう。しばらくぼんやり、ふたりの死骸を見ていましたが、なにをおもったのか、ふたりの握っている刃物をもぎとり、それを鞘(さや)におさめると、またふらふらと立ち去っていくんです。あっしはびっくりして、永代橋のうえまで追いかけて、うしろから声をかけると、気ちがいながらおどろいたのか、持っていたわき差しと匕首を、川のなかへドボーン。それからまもなくのことなんです。こっちの兄いにぶつかったのは……」
 聞いてみると、まことにあっけない話ながら、世のなかにはまま、こういう間違いもあるものなのである。
「よし、わかった。おまえのいうとおりにちがいあるめえ。それじゃ、おまえはすぐこれから名乗ってでろ。なるべくかるくすむようにお慈悲をねがってやるが、島送りは覚悟しろよ。おまえも、ひとりの女を台なしにしたんだ。それくらいの罪ほろぼしは仕方があるめえ」
 吉之助と七兵衛は愁然として首うなだれた。
 吉之助は当然首がとぶべきところを、死一等減じられて、ふたたび島へ送られた。こんどかれが生きて江戸の土を踏むのはいつのことだろう。
 お艶はなにも知らないで、その後も町から町へとさまよいあるいている。お葉と重兵衛がたがいに殺しあってほろんだことも、吉之助が島からかえってきたことも、お艶はいっさい知らないのである。
 いや、お艶がそれを知ったとてなんとしよう。彼女の心には、もう二度と、恋の炎はもえないだろう。男はいつわり多いものと、心の底まで焼きつけられたお艶は、その後もあらゆる男とたわむれながら、しかも、さいごにはピシャリとおさだまりの平手打ちをくらわすのだった。
 町から町へとさまよいあるく緋鹿の子娘のうわさをきくたびに、佐七の心はくもるのである。

三河万歳

春(しゆん)宵(しよう)才蔵品定め
  ——女房のやくほど亭(てい)主(しゆ)もてもせず—— 


春(はる)太(だ)夫(ゆう)さん、ことしは、いい才(さい)蔵(ぞう)にいきあたってしあわせだね」
「おかげさんで。去年は酒乱の才蔵をひきあてて、みなさんにまでご迷惑をかけ、いやもうさんざんだったが、ことしは運がいいようだ」
「去年の辰(たつ)市(いち)という男には弱ったな。わたしもいちど、胸(むな)倉(ぐら)とって小突きまわされたことがある」
「どうもわたしはこの二、三年、才蔵運がわるいというのか、ろくな才蔵にめぐりあわなかったが、ことしで埋め合わせがつくのだろうよ」
「まったく、こればかりは運(うん)賦(ぷ)天(てん)賦(ぷ)、女房のわるいのは一生の不作というが、万歳にとっちゃ、才蔵のわるいのは一年の不作だあね」
「いや、いずれにしても春太夫さん、よい才蔵さんにめぐりあっておめでとう」
 そこは神田馬(ば)喰(くろう)町(ちよう)にある三(み)河(かわ)屋(や)という旅籠(はたご)屋(や)の一室である。
 この三河屋というのは、三河万歳の定(じよう)宿(やど)になっていて、まいねん、年の暮れになると、三河から出府してくる万歳たちが、七(なな)草(くさ)から松の内、ながいのになると、正月いっぱい滞在して、江戸の春をことほいで歩くのである。
 ことしも、六人ばかりの三河万歳が逗(とう)留(りゆう)しているが、七草もすぎると、だいたい、かせぎの勝負もついたようなもので、ほっとした気持ちの万歳たちは、ひと間に集まり、アミダかなんかでいっぱいやりながら、冬の夜長をくつろいで、才蔵の品定めかなんかやっている。
 角(かく)兵(べ)衛(え)獅(じ)子(し)や鳥追いとともに、江戸の春のお景(けい)物(ぶつ)として、なくてかなわぬ三河万歳は、その名のとおり、三河の国から出てくるのであるが、万歳につきものの才蔵は、かならずしも太夫といっしょに、三河からくるとはかぎらなかった。
 現今の三河万歳は、はじめから、太夫と才蔵といっしょらしいが、江戸時代の才蔵はおおく総州、野州のへんから出てきた。
 ことに我(あ)孫(び)子(こ)へんの百姓がおおく、農閑期を利用して、江戸へ出かせぎにくるのである。かれらは暮れの晦(みそ)日(か)に、日本橋の南詰めへ集合するが、これを才(さい)蔵(ぞう)市(いち)といった。
 三河の国から出てきた太夫は、そこへでむいて、おのれのこのむ才蔵をえらび、賃金をさだめて雇い入れると、そのひと春をコンビとして、江戸の町々をかせいであるくのである。
 だから、才蔵に当たりはずれのあるのは、やむをえないし、道(どう)化(け)役(やく)才蔵がまずいと、万歳は、台無しである。
 また、芸のほうはたしかでも、去年、春太夫がつかんだ辰市という才蔵のように、酒乱の気味があったりすると、じぶんも不愉快だし、はたも迷惑する。
 とにかく、江戸にいるあいだは、起居をともにするのだから、芸以外の人柄にも当りはずれがあるわけだ。
 もっとも、このことは、才蔵のがわからもいえるだろう。
 春太夫はじぶんでもいっているとおり、どういうものかこの二、三年、才蔵運がわるくて、ろくな才蔵にぶつからず、毎年、いやな思いをさせられたが、ことし雇い入れた亀(かめ)丸(まる)というのは、芸もたしかだし、あいきょうもあり、人間もおだやかなところから、宿へかえっても、ほかの太夫にも気受けがよかった。
「あの亀丸というのはどこのものだね。ことばをきくと総州か野州だが、手をみると百姓じゃないね。田舎でなにをしているのかね」
 まえにも述べたとおり、万歳と才蔵は生(しよう)国(こく)がちがうので、こんやは才蔵は才蔵で、べつの部屋にあつまって、これまた、いっぱいやっているのである。
「さあ、それだがね、わたしもときおり聞いてみるんだが、くわしいことは話したがらない。我孫子のちかくの村だというが、からだがあまり丈夫でないので、百姓のほうは家内にやらせて、じぶんは村の走りつかいなどやる片手間に、荒物屋をやっているというが、それにしちゃ、人柄が良すぎるようにおもう」
「才蔵ははじめてなんだね」
「こんどはじめて、江戸へ出てみたといっているが、器用なんだね。うまく調子をあわせてくれる。これだけの腕をもちながら、どうしていままで、やらなかったと聞いてみても、笑っていてこたえない」
「おかみさんがヤキモチやきで、江戸へだすのをこわがるんじゃないかな。女房のやくほど亭(てい)主(しゆ)もてもせずって、川柳を知らないでね」
「おや、駒(こま)太(だ)夫(ゆう)さん、それはわれわれにたいするあてこすりかい」
「あっはっは、ちがいない。駒太夫さんの失言失言」
 そこで、万歳の太夫たちは、陽気に笑いはじけたが、なかのひとりが思いだしたように、
「ときに、春太夫さん、亀丸はこんやどこかへ出かけたのかえ。むこうの才蔵たちの部屋にも、すがたがみえないようだが……」
「ふむ、こんやはちょっと遊びにいかしてくれと出かけたが……」
「それ、それ、それがいけない。だから、おかみさんが角をだすのだ。春太夫さん、もっと監督をげんじゅうにしないと、いまにおかみさんにかみつかれるぜ」
 一同はまたどっと笑いはじけたが、春太夫だけは笑わなかった。
 じつをいうと、春太夫は亀丸にたいして、あわい疑惑をもちはじめているのである。
 どう考えても、亀丸は才蔵などをする人柄ではない。それに、ひとまえでは陽気にあいきょうをふりまいているが、どうかすると、ふうっと、くらい思案の影がさすことがある。
 それに、もうひとつ気になることは、人の家の軒をくぐるとき、かれの目はいつも、なにかをもとめるように緊張している。そして、家のなかへとびこむと、すばやくあたりを見まわす目つきが、たしかになにかを探し求めているらしいのである。
 なるほど、才蔵となって万歳といっしょに歩くと、どんな家へでも遠慮容(よう)赦(しや)なくとびこめる。
 そこをねらって、才蔵になって、じぶんと組んだのではないか。
 そういえば、もうひとつおかしいことがある。いったい、三河万歳には、屋敷万歳と町(まち)方(かた)万歳の二種類ある。屋敷万歳というのは、武家屋敷にお出入りさきをもっていて、町方万歳よりも、格式も上ならば、収入もはるかに安定している。
 それにはんして、町人あいての町方万歳は、こじき万歳といわれるくらいで、いわば門(かど)付(づ)け物(もの)請(ご)いもおなじこと、収入も不安定である。
 ところが、亀丸は、屋敷万歳の太夫からも懇望されたのである。それをそでにして、町方万歳の春太夫と契約した理由を、亀丸は武家屋敷は、きゅうくつだからといっているが、それが本音であったろうか。
 ひょっとすると、亀丸は江戸の町でだれかを、探しもとめているのではないか。
 そういえば、きょうちょっと妙なことがあったが、こんやの外出も、それに関連しているのではないか……。
 と、才蔵運のわるい春太夫は、考えこんでいるうち、しだいに不安をつのらせたが、その不安ははたして事実になったらしく、亀丸はとうとう、その晩かえってこなかった。

小町娘ミス江戸
  ——小町娘の一枚絵が血にまみれて——


「ご免くださいまし。正月そうそう、いやな事件が持ちあがりましたそうで」
 と、下(した)谷(や)長者町の自身番へ、佐七が辰(たつ)と豆六をひきつれて顔をだしたのは、七草のかゆも祝うたつぎの日の、昼過ぎのことだった。
「おや、これはお玉が池の親分、よくきておくんなすった。辰つぁんも豆さんもご苦労さま」
「親分、初春そうそういやだろうが、ひとつよろしく頼みますぜ。なにしろ、みんな肝をつぶして、町中てんやわんやのさわぎです」
「なあに、こちとらはこれが稼(か)業(ぎよう)ですから」
「稼業とはいえ、正月そうそう、むごたらしく殺された仏様の顔をみるのはねえ。だけど、おまえさんにそんなことをいってられちゃ、こっちがかなわない。なるべくはやく埒(らち)をあけてください。おい、だれか親分をご案内しないか」
「おっと、それじゃわたしが、東道(あるじ)役(やく)をひきうけましょう」
「お願いいたします。おっと、忘れてた。みなさん、明けましておめでとうございます」
「あっ、ちがいない。おめでとう。なるほど、このさわぎじゃ、御(ぎよ)慶(けい)をのべるのも忘れてしまう。それじゃ五(ご)兵(へ)衛(え)さん、頼みます。親分、かえりにおよりください」
「はあ、よらしていただくかもしれません」
 自身番には町の大家さんたちが、交替で詰めることになっているが、こんな騒ぎが持ちあがると、好奇心からみんな出てきて、うわさに花が咲くのである。
 いまもおおぜい、火ばちにしがみついていたなかから、五兵衛ほか二、三人が立って土間へおりてきた。
 佐七はそのあとにつづいて自身番をでると、
「大家さん、殺されたのは……?」
謡(うたい)と鼓(つづみ)の師匠をしている、宮(みや)部(べ)源(げん)之(の)丞(じよう)という浪人者なんですがね。いろいろよからぬうわさのあった男なんです。それにしても、殺されかたがちょっと変わっているんで……」
「変わっているというと……?」
「いや、それはじぶんの目でごらんなさい。死(し)骸(がい)はそのままにしてありますから」
 野次馬のいっぱいたかるかどを曲がると、そこは、いきどまりのふくろ小路になっており、右側は寺の土(ど)塀(べい)、突き当たりが寺の墓地になっているらしく、にょきにょきと、卒(そ)塔(と)婆(ば)のつきだした土塀のうえから、小坊主の顔がのぞいている。
 その道の左側には、ちょっと小意気なしもた屋が、二、三軒ならんでいるが、事件のあったのはいちばん奥の家らしく、おもてに、野次馬がいっぱいむらがっている。その野次馬をかきわけると、格子のそばに、



 と、筆(ふで)太(ぶと)にかいた看板がぶらさがっていた。
 格(こう)子(し)をあけると、現場につめていた町役人のひとりが顔をだして、
「あっ、お玉が池の親分、ご苦労さま。辰つぁんも、豆さんも、さあ、どうぞ……」
 と、招じいれられたのは、こぢんまりとした六畳の座敷、半間の床の間には、細(ほそ)ものの軸がかかっていて、そのまえに、すいせんの花がいけてあるのは、いかにも謡の師匠らしいこのみだが、床の間のまえに寝床がのべてあり、その寝床がひどくみだれているうえに、まくらがふたつころんでいるのは、男と女の奮闘のあとを物語るのだろうか。
 しかし、いまその寝床のうえに、あおむけに倒れているのは、男ひとりだけである。
 それが宮部源之丞だろう。からすのぬれ羽のような月(さか)代(やき)がすこしのびていて、色白の、のっぺりとしたよい男振りである。
 としは三十前後というところか、さっき五兵衛もいったとおり、たしかにかわった殺されかただった。
 源之丞は浴衣(ゆかた)のうえに、どてらをかさねていたにちがいない。しかし、そのどてらは寝床のそばにぬぎすてられていて、いま粗(あら)い模様の浴衣だけなのだが、その浴衣に、帯もしめてなくて帯ひろはだか、しかも、ふんどしもしめていないので、あさましい下半身がむきだしである。
 顔ににあわぬ毛ぶかい男で、へそから下腹部へかけて、くまのような巻き毛が密生している。
 源之丞がしめていたのであろうふんどしは、源之丞の両腕を、うしろ手にしばりあげるのに使われていた。そして、どてらのうえからしめていたにちがいない細い繻(しゆ)子(す)の伊(だ)達(て)巻(ま)きを、ふんどしの結びめにとおして、源之丞のからだを床柱にゆわえつけてあった。
 下手人はこうして、源之丞の抵抗を封じておいて、さて、あらためておもむろに、えぐったものであろうか。源之丞の左の胸には、柄(つか)をもとおれとわき差しがぐさっと突っ立っているのだが、そのわき差しには、妙なものがつきさしてある。
 それは浮世絵であった。
 血でぐっしょりと染まっているので、図柄ははっきりわからなかったが、美人の大(おお)首(くび)のようである。
「こ、これは……」
 と、佐七がおもわず辰や豆六と顔見合わせると、そばから五兵衛が顔をしかめて、
「黒門町の生薬屋、茗(みよう)荷(が)屋(や)の娘、お美(み)乃(の)さんの似顔絵ですよ。ほら、暮れに歌川の師匠にかかれて、一枚絵として売り出され、いまだいひょうばんの小町娘……」
 江戸時代には、浮世絵師がとくいの彩(さい)管(かん)をふるって、美人画を版にするとき、実在の美人の似顔をかくことがおおかった。
 浮世絵師にかかれる美人には、玄(くろ)人(うと)がおおかったが、まれには素(しろ)人(うと)の娘のばあいもあった。
 玄人にしろ、素人にしろ、一流の浮世絵師にかかれるということは、女としてはこのうえもない名誉で、茗荷屋の娘、お美乃なども、いまのことばでいえば、さしずめ、ミス江戸というところで、当時、だいひょうばんの小町娘だった。
「しかし、だんな、茗荷屋の娘の似顔が、なんだって刀の柄に……?」
 と、きんちゃくの辰は目をまるくする。
「さあ、それはあたしどもにはわからない。そこをあらいあげていくのが、親分やおまえさんがたの腕前で……ただ、いっておくが、宮部さんの妹のお国さんというのが、茗荷屋の商売がたき、おなじく黒門町の生薬屋、鍵(かぎ)屋(や)のだんなのせわになって、池(いけ)の端(はた)にかこわれているんです」
「えっ?」
「それからもうひとつ、そこに突ったっているわき差しは、宮部さんのものだそうで」
 この柄のまきかたには特徴があるから、ばあやをはじめ近所のものも、はっきりそれをみとめていると、五兵衛はそのあとへ付けくわえた。
「それで、宮部さんには奥さんは……?」
「いや、それがひとりなんです。去年の春ごろ、妹のお国さんとふたりここへ住みついて、謡や鼓の指南をはじめたんですが、謡も鼓も、かなりじょうずだといううわさです。しかも、謡や鼓よりも、もっとじょうずなのが口(こう)弁(べん)で、それでだんながたのあいだに、よいお弟子ができました。そのうちにお国さんのきりょうに目がとまったのが鍵屋のだんなで、とうとう、めかけにして池の端へかこった。そこで、身のまわりのせわをするものがなければ不自由だろうからというので、鍵屋のだんながおせわなすったのが、お紋というばあやで、お国さんがいなくなってからは、色気のないばあやとふたり暮らし。だから、下谷かいわいの亭主野郎、ことにちょっと渋皮のむけた女房をもっている亭主はみんな、ヤキモキしていたもんでさあ。なにしろ、この男振りのうえに、口弁のいいひとでしたからねえ。あっはっは」
 と、五兵衛は厄(やく)払(ばら)いでもしたように笑った。

万歳の太夫ひとり
  ——死体の下から花かんざしが——


 その亭主野郎たちは、いまこの源之丞の死にざまをみると、さぞや快(かい)哉(さい)をさけぶことだろう。
 源之丞は帯とけすがたなので、はだかもどうようの姿である。
 両腕をうしろにしばられているので、そのもがきかたもふしぜんだったらしく、ふんばった両脚のかっこうが、なんともいえずあさましい。
 おまけに、えぐられるときの恐怖のために、顔がおそろしくひんまがり、目玉がいまにもとびだしそう、くわっとひらいた口からは、くろずんだ舌がだらりとたれて、色男台なしというていたらくだ。
「それにしても、だんな」
 と、またきんちゃくの辰が口をとんがらせた。
「このひとはひとりもんだというのに、なぜまくらがふたつ出ているんです。まさか、ばあやといっしょに寝るんじゃありますまい」
「だから、辰つぁん、亭主野郎がヤキモキするのさ。それに、ばあやのお紋は、ゆうべ留守だったんだよ。けさかえってきて、この死骸をみつけ、びっくり仰天というしまつさ」
「それじゃ、だんな、そのばあやをここへ……いや、なんぼなんでも、この死骸のそばじゃまずいな」
「それじゃ、茶の間へおいでなさい。むこうにばあやがいるはずだから」
「じゃ、そうしましょう。辰、豆六、おまえたちは家のまわりを調べてみろ」
「おっと、がてんだ」
 佐七が茶の間へはいっていくと、ばあやのお紋が町役人にまもられて、しょんぼり肩をすぼめていた。そのお紋が、おどおどしながら語るところによると、こうである。
 お紋にはお吉という娘がひとりあって、深川の大工のもとに片付いている。
 お紋は月に五、六回、主人のゆるしをえて、娘のところへ泊まりにいく。
 お紋のくちぶりから察すると、ときどき、お紋がいては源之丞につごうのわるい晩があるらしく、ゆうべもそうらしく思われた。
 さて、けさの四つ(十時)ごろかえってくると、表の格子にしまりがしてなかった。しかし、お紋は源之丞がすでに起きているのだろうと、べつにふしぎにも思わずに、おくの六畳へあいさつにいくとあのしまつで……
「そのときのわたしのおどろき、どうぞ、親分、お察しくださいまし」
 お紋はそそけた銀髪をふるわせて、泣き出した。
「そりゃむりもねえが。それで、雨戸やなんかは……? べつに異常はなかったかえ」
「はい、いまあるとおりで……いちばんに駆けつけてくだすった番太郎さんが、現場に手をつけちゃいけないとおっしゃったので……」
 佐七のみたところでは、雨戸は全部しまっており、なかからちゃんと、締まりがしてあった。
「それで、お紋さん、おまえがみて、なにか妙だと思うようなことに、気がつかなかったかえ。ゆうべからけさへかけて……」
「はい、そうおっしゃれば、ちょっと、妙だと思うようなことがございました。そのときは、たいして気にもとめませんでしたが……」
「それはどういう……?」
 と、佐七の目がきらっと光る。
「はい、けさこの家へかえってまいりますとき、そこのまがり角で、三河万歳にぶつかりました。万歳はとてもあわてふためいたようすで、あいさつもそこそこにいってしまったのでございます。そのときはべつにそれほど気にもとめませんでしたが、だんだん、気がおちついてくるにつれて、思いだしたのでございますが、あの万歳は、きのうこのうちへきた万歳と、おなじひとじゃなかったかと……」
「きのうも、万歳がきたのかえ」
「はい、おひる過ぎ、三河万歳がとびこんでまいりまして、いくらことわってもかえりません。そこで、だんなが奥からちょっと顔を出して、うるさいからこれをやっておかえしと、お鳥(ちよう)目(もく)をほうってくださいました。そのときの万歳の太夫と、けさぶつかった三河万歳と、なんだか、おなじひとのような気がして……」
「いったい、どんな男だったえ」
 と、佐七はひざをのりだした。
「はい、五十くらいのでっぷり太った、いかにも酒好きらしい、鼻の頭のあかくなった……そうそう、左の目じりに、大きなほくろがございました」
「そして、才蔵のほうは……?」
「ところが、けさは才蔵はいなかったんです。万歳の太夫さんだけでございました」
 佐七が辰と豆六を呼びこもうとしているとき、表のほうがにわかにがやがや、騒がしくなったかとおもうと、番太郎が顔をだして、
「鍵屋のだんなと、お国さんがおみえになりましたが……」
「ああ、そう、それじゃこちらへ通しねえ。なんぼなんでも、いきなり死骸にぶっつけちゃ、女だけにかわいそうだ」
「承知しました」
 番太郎がひきさがるのといれちがいに、鍵屋のだんなの治(じ)兵(へ)衛(え)と、めかけのお国がはいってきたが、なるほど、お国はとなりの部屋で殺されている源之丞によく似ている。
 色白でうりざね顔の、目のパッチリとした、すらりとすがたのよい女である。
 としは二十四、五だろう。
「いや、どうもおそくなりました。お国をさがしていたものですから」
 治兵衛はさすがに、大(おお)店(だな)のだんなの貫(かん)禄(ろく)十分で、こんなさいにも、ゆったりとした態度である。
 としは四十二、三だろうが、がっちりとした、いい男振りである。
「お国さんをさがしていらしたとは?」
 佐七はあいさつをしたあとで、ちょっと疑わしそうな目をむけると、
「いや、このご町内から、宮部さんのことを知らせてくだすったので、さっそく、店のものを池の端へやったんです。ところが、お国もゆうべ出たきりかえらないという。そこで、こっちのほうも、もしや……と、ぎょっとしていると、やっとさきほど、ひょっこりかえってきたんです。話をきくと、やはり池の端にかこわれているお駒(こま)さんといって、これと仲よしのところへいって、双(すご)六(ろく)やなんかしているうちにおそくなったので、とうとう、そこへ泊まってしまったのだと、たわいのない話で……」
 お国はしょんぼりうなだれて、
「ゆうべだんなはご親(しん)戚(せき)のおあつまりがあって、池の端へはこれないというお話でしたので、お駒さんのところへ遊びにいったんです。すると、ほかにも遊びにきているひとがあり、いい気になって、遊びほうけていたんですが、そのあいだに兄さんが、とんだことになったとやら……」
 泣くにも泣けぬというふうに、目をとがらせていたお国は、はじめてほろりと涙をおとした。
「いや、さぞお驚きでございましょう。ときに、仏におあいになりますか」
「はい、ひとめなりとも」
 お国の声は蚊が鳴くようだ。
「それじゃ……」
 と、佐七が案内すると、治兵衛は音をたてて、大きく息をうちへすい、お国は、
「まあ、ひどいことを!」
 と、くやしそうに口走ったが、さすがに兄(きよう)妹(だい)として、このあさましいすがたを見るにしのびなかったのか、兄の顔から目をそらしながら、いそいで死骸のすそをなおそうとしたが、すると、着物のしたから出てきたのは、なんと、一本の花かんざし。
 一同はそれをみると、おもわず大きく目をみはった。

あわや落花狼(ろう)藉(ぜき)
  ——台所からとびこんできた男——


「親分、三河万歳の太夫ですね」
「そうだ、五十くらいの年輩で、左の目じりに大きなほくろがあり、鼻の頭が酒であかくなっている。でっぷりふとった男だそうだ」
「ついでに、親分、才蔵の人相はどうだんねん」
「いや、ところが、お紋も、才蔵のほうはおぼえていない。それに、けさ出会ったのは、太夫だけだったそうだ」
「ようがす。江戸に三河万歳が、何人きてるか知りませんが、それだけはっきり人相がわかってりゃ、捜すのもむつかしかアありますめえ。それで、親分は……?」
「おれはちょっと寄るところがある」
「ああ、さよか。ほんなら、兄い、万歳の太夫をさがしにいきまほ」
「よし、来い」
 長者町から黒門町までは、目と鼻のあいだである。
 辰や豆六とわかれた佐七は、いまあってきた鍵屋の商売がたき、茗(みよう)荷(が)屋(や)のおもてへやってきた。
 鍵屋と茗荷屋は、みちひとつへだてた筋向かいにあり、数代まえから商売がたきとして、しのぎをけずってきたばかりか、いまの主人の治兵衛と勘(かん)右衛(え)門(もん)は、犬(けん)猿(えん)のあいだがらというひょうばんがある。
 その鍵屋の主人のめかけの兄が、殺されている現場に、商売がたきの茗荷屋の娘の似顔絵があるというだけでも、いささかみょうな取りあわせというべきだのに、その似顔絵が凶器でぐさりと突き刺されているというのだから、これには、よほど、ふかい子(し)細(さい)がなければならぬ。
「ごめんくださいまし。ご主人はおうちにおいででございましょうか。もしおいででしたら、お目にかかりたいんですが……へえ、あっしは、お玉が池の佐七というもんで……」
 できるだけ、腰をひくくして申し入れると、番頭が顔色かえておくへひっこんだが、しばらくすると、また出てきて、
「どういう御用か存じませんが、お目にかかると申しております。どうぞ、横のほうへおまわりくださいまし。長松、ご案内を……」
「へえい」
 長松に案内されて、内玄関からおくへとおると、勘右衛門が不安そうに、座敷で待っていた。
「おはつにお目にかかります。わたしがあるじの勘右衛門だが、どういう御用で……」
 勘右衛門はおそらく治兵衛より五つ六つ年長だろう。治兵衛とちがってやせぎすで、癇(かん)性(しよう)らしいところもあるが、これまた、老舗(しにせ)のだんならしい風格は、治兵衛におとらなかった。
「はあ、そのことを申し上げますまえに、ちょっとお尋ねいたしますが、ひょっとすると、この花かんざしは、ご当家のお嬢さま、お美乃さんのものではございますまいか」
 佐七がふところから、花かんざしを出してみせると、勘右衛門はぎょっと目をみはって、
「男のわたくしにはよくわからんが、それが娘のものだとしたら……」
「いや、そのまえにちょっと、たしかめていただきたいのでございますが……」
「お美乃はゆうべから、熱を出して寝ているんだが……」
 そういいながらも、手をならして女中をよぶと、
「親分、ちょっとそのかんざしを……お梅、このかんざしを離れへもっていって、お美乃のものかどうかきいてきておくれ」
「はい……」
 女中はその花かんざしを持って出ていったが、しばらくするとかえってきて、
「あのお美乃さまのおっしゃるのに、お玉が池の親分さんが来ていらっしゃるなら、ぜひ、聞いていただきたいことがあるから、恐れいりますが離れのほうへと……だんなさまもごいっしょに……」
「ああ、そう。それでは、親分、取りちらかしてはおりますが……」
「承知しました」
 勘右衛門の案内で、佐七が離れへはいっていくと、お美乃は長(なが)襦(じゆ)袢(ばん)のうえに掻(か)い巻(ま)きを羽織って、寝床のうえに起きていた。
 なるほど、いまだいひょうばんの小町娘だけあって、目がさめるばかりのあでやかさ、としは十七だという。
 お美乃のそばに、不安そうな顔をして、つきそっているふたりの女を、家内のお松に、乳(う)母(ば)のお袖(そで)であると、勘右衛門が紹介した。
「親分さん」
 と、お美乃は、きらきら、うるむような目を、佐七にむけて、
「このかんざしは、たしかにあたしのものですが、ここにちょっと、血のようなものがついております。もしや、宮部さんに、なにかまちがいでも……?」
 佐七はその美しい目を、じっとみかえし、
「お美乃さん、あなたのほうから、そう切り出していただければ話がしやすい。宮部源之丞さんは殺されましたよ」
 ひえッ! というような悲鳴をふたりの女と、勘右衛門が同時にあげた。
「親分、その宮部源之丞というのは、いったいだれです。お美乃となんの関係があるんです」
「宮部源之丞というのは、鍵屋のだんなのおめかけさんの兄さんで、ゆうべ、だれかに殺されたんです。そして、その死骸のしたに、この花かんざしが落ちておりました」
 お松とお袖は、ふたたびおびえたような悲鳴をあげた。勘右衛門はかみつきそうな声で、
「お美乃!」
「まあ、まあ、だんな、お美乃さんはかくごをきめて、なにもかも、お話しなさるつもりなんです。さあ、みんなで話をきかせてもらいましょう」
 お美乃は長襦袢のたもとを目にあてて、泣きじゃくっていたが、やがて、決心したようにすずしい目をあげて、語るところによるとこうである。
 お美乃はゆうべ、源之丞に呼びよせられて、長者町のうちへ忍んでいったが、すると、源之丞が思いもよらず、じぶんのいうことをきけといどんできた。
 お美乃がこばむと、いうことをきかぬとこのとおりだと、そこにあったお美乃の一枚絵を、ぷっつり刀で突きとおした。
「あっ、それじゃあの一枚絵を、刀で突きとおしたのは源之丞だったんですね」
「はい」
 お美乃はあまりの恐ろしさに、気がとおくなりそうだった。
 すると、源之丞が浴衣一枚の帯もとき、ふんどしまでかなぐりすてて、おどりかかってきたかとおもうと、お美乃を布団のうえにおしたおした。お美乃はもう、抵抗するすべも知らなかったが、そのときとつぜん、台所のほうから、とび出してきたひとりの男が、源之丞におどりかかって、そこに、猛烈なつかみあいがはじまった。

お美乃清十郎
  ——亀丸、おまえはゆうべどこにいた——


「そ、それじゃ、お美乃、おまえは助かったんだね。けがされずにすんだんだね」
 と、母のお松が泣いている。
「はい、そのおかたが助けてくださいました。もし、そのかたがいらっしゃらなければ、いまじぶん、あたしは生きてはおりません」
「うむ、うむ、それで……」
 勘右衛門も涙をふきながらひざをのりだす。
 源之丞とその男は、しばらくうえになり、したになり、格闘をしていたが、どうしたはずみか、源之丞がううむとうめいて気を失った。すると、男はなにおもったのか、源之丞のふんどしでうしろ手にしばりあげたが、そのときはじめて、そこにいるお美乃に気がつくと、
「あっ、お嬢さん、あんたまだいなすったのか。こんなところに長居は無用だ。はやくおかえりなさい」
 と、すすめてくれたので、お美乃はやっと気がついた。それでも、こわごわ、源之丞をどうするつもりかと尋ねると、男はくらい笑(え)みをうかべて、
「なあに、殺しゃしません。呼びつけて、ちょっと尋ねることがあるんです」
 と、いう答えであった。
 そこで、お美乃はその男に礼をのべて、いそいでそこをとび出したのだが、源之丞に押したおされたとき、花かんざしがおちたのだろうが、うちへかえるまで気がつかなかった。
「なるほど、それでお美乃さん、その男というのは、どんな風体をしておりました」
「はい、身なりやことばつきからして、江戸のひとではないようでした」
「あっ、それじゃ、ひょっとすると五十くらいの、左の目じりにほくろのある……?」
「いいえ、それはちがいます。としは三十五、六でしょうか。ことばのなまりからして、上(かず)総(さ)か、下(しも)総(うさ)のひとではないかと思いましたが……」
 才蔵なのだ! と、佐七は心のなかでさけんだ。
「ふむ、ふむ。それで、ふたりは、なにかいいあいをしてましたか」
「いいえ、ただ、畜生とか、この野郎とか……そのうちに宮部さんが、気をうしなってしまったものでございますから……」
 と、語りおわると、お美乃はたもとに顔をおしあてて、またむせび泣きながら、
「親分さん、そのひとはけっして、宮部さんを殺しはしないと申しました。しかし、なにかのはずみに手をかけたとしても、それにはそれでわけのあること、どうぞ罪を軽くしてあげてくださいまし」
「お美乃や」
 と、母のお松はおろおろ声でひざをのりだし、
「それにしても、おまえはなんだって、そんなおそろしいひとのところへ、呼びよせられたんだえ。おまえはなにか、宮部さんというひとに、うしろ暗いところでも……」
「お父さん、お母さん、許してください。宮部さんは、あたしのかくしごとを知っていたんです」
「お、お美乃! おまえのかくしごととは……?」
 勘右衛門もおろおろ声をふるわせる。
「お父さん、かんにんして……鍵屋さんの若だんな、清十郎さまとの仲を……宮部さんがとりもって……」
 わっと泣きくずれるお美乃のえり脚を、佐七は世にもうつくしいものにみた。
「あっはっは、これはおどろきました。かくしごととおっしゃるから、どんな恐ろしいことかと思いましたに……それで、お美乃さんは、その若だんながいとしいんでございますね」
「はい」
御(お)乳(ん)母(ば)さん、清十郎さんというのは、どういう……?」
「はい、それはとても、けっこうな若だんなではございますけれど……」
 乳母のお袖は、勘右衛門やお松に気をかねながらも、ほっとしたように涙をふいている。
「あっはっは、そりゃまあ、おめでたいことで……お美乃さん、打ち明けにくいことを、よくまあ打ち明けてくださいました。これで、佐七もよけいな手数がはぶけます。もし、だんな」
「はい」
「これでお美乃さんはこんどの人殺しに、なんの関係もないことがわかりました。あっしの口からは、だれにも申しませんから、どうぞそのおつもりで。いや、どうもおじゃまいたしました」
 花かんざしをその場において、佐七がつと立ち上がると、勘右衛門とふたりの女は、はっとその場に両手をついた。
 それからまもなく、佐七がお玉が池へかえってくると、町角に豆六がぼんやり立っている。
「おや、豆六、おまえ、そんなところでなにしてるんだ」
「あ、親分、あんたを待ってましてんや。じつはお目当ての三河万歳がわかったんだす。春太夫ちゅうて、馬(ば)喰(くろう)町(ちよう)の三河屋にいるやつが、それらしいんです」
「それで、春太夫をつれてきたのか」
「いや、ところが、春太夫は朝出たきり、まだかえってきてえしまへん。ところが、ええあんばいに、相(あい)棒(ぼう)の才蔵がぼんやり春太夫を待ってましたさかいに、つれてきました」
「なに、相棒の才蔵がつかまったのか」
 佐七はきらりと目をひからせる。
「へえ、だけど、まだゆうべの人殺しのことやなんか、いうてえしまへんさかいに、どうぞそのおつもりで。それをひとこと、いうとかんならん思てここに待ってましてん」
「じゃ、才蔵はうちにいるんだな」
「へえ、兄いと話をしています。亀丸ちゅう名前で、我(あ)孫(び)子(こ)のもんやいうてました」
「よし!」
 佐七が胸おどらせてかえってくると、亀丸は才蔵姿で、鼓をかたえにひかえながら、いくらか不安そうな面持ちだったが、しかし、とてもゆうべ人殺しをした人間とはおもえなかった。
「おまえが、亀丸さんという才蔵かえ」
「はい、親分、太夫さんがどうかしたんでしょうか」
 と、そういうことばにも、あきらかに総州なまりがあり、としかっこうも、三十五、六、お美乃の話に符合しているが、どこかあか抜けしていて百姓とはみえない。
「いや、太夫より用事があるのはおまえのほうだ。亀丸さん、おまえゆうべどこにいた?」
 亀丸ははっとしたように顔色をかえると、
「どこにいたとおっしゃるのは……?」
「亀丸さん、おまえゆうべ、宮部源之丞という浪人者が、両手をしばりあげられたまま、刀で突き殺されたのを知っているか」
 そのとたん、亀丸は真っ青になって、びくりとからだをふるわせた。

鶴吉涙の約束
  ——かれは終生約束を破らなかった——


「お、親分!」
 肩で息をしながら、目をいからせて、しばらく、佐七の顔をにらんでいた亀丸は、とつぜん、
「そ、そ、そりゃほんとうでございますか!」
 と、絶叫するような調子だったが、その声や態度にも、芝居があろうとはおもえなかった。
 辰と豆六は、このおもいがけない事件の展開に、目をきょときょとさせている。
「うそはいわない。ひとつ、おまえの話をきこうじゃないか。源之丞をしばりあげてからどうした。ぐさりとやったのか」
「ち、ちがいます! ちがいます!」
 と、また絶叫するようにさけんだが、
「ああ、あのお嬢さんから、お話をおききになったんですね。親分、それじゃ、なにもかもお話しいたします。どうぞ、ひととおり聞いてください」
 亀丸の話によるとこうである。
 かれは我孫子のものではなく、下総の古(こ)河(が)のうまれで、名前は鶴(つる)吉(きち)といった。
 生家は亀屋といって、そうとう大きな料理屋で、むろん妻もあれば子もあった。
 ところが、三年ほどまえ、すぐ近所へ、宮川源十郎という浪人者と、妹のお才というのが流れてきて住みついた。
 源十郎は謡と鼓の指南をはじめたが、料理屋の若だんなにうまれて、芸事のすきな鶴吉は、まもなく弟子入りをして、けいこをしているうちに、妹のお才とねんごろになった。
 そこでめかけにと懇望すると、とつぜん源十郎がいたけだかになった。
「浪人するといえども武士の妹、町人のぶんざいでめかけにとはなにごとだ。本妻ならば許しもしようが、もしそれがかなわぬときには、兄の目をしのんで、妻ある男とちちくりおうたにっくい妹、そのままではすまぬとおもえ」
 と、刀を引きよせてすごんでみせた。
 女に迷うているときにはしかたがないもので、そういう源十郎の態度が、いかにも潔癖らしくみえた。
 さすがは、やせても枯れてもお武家さまだと、鶴吉はことごとく敬服した。
 そこで、あいてが要求するままに、親類の反対もおしきって妻を離別し、お才を亀屋へひきいれた。
 妻は子どもをつれて出ていった。
 こうして、お才をやどの女房にしたについて、兄の源十郎に、月々、いくらかの仕送りをしようと申しでたが、源十郎はキッパリ、それをはねつけてうけつけなかった。そして、いぜんとして謡と鼓の指南をしながら、清貧にあまんじていた。お才も妻としてよくつかえた。
 鶴吉はいよいよお才にほれこみ、源十郎を敬愛した。
 ところが、一年ほどたって一昨年の秋、鶴吉がなかまの義理で足(あし)利(かが)へおもむき、三日ほどとまってかえってみると、お才はいなかった。
 源十郎も逐(ちく)電(でん)していた。
 お才をすっかり信用していた鶴吉は、土蔵のかぎから、なにからなにまで、いっさいまかせておいたが、よくもこれだけ持ち出せたものだとおもうほど、家のなかはからっぽになっていた。
 よほどまえから、計画的に持ち出していたらしい。
 むろん、金(きん)子(す)はのこらず持ち逃げしたうえ、ごていねいにも、うちまで抵(てい)当(とう)にはいっていた。
「そのときのわたしのくやしさ、無念さ……さいわい、家内の里が、そうとうに暮らしておりますので、これに目がさめてよりをもどすなら、なんとか面倒をみてやろうといってくれますが、それではわたしの胸がおさまりません。なんとか返報をしたうえでと、去年の春ごろ、江戸へふたりをさがしにきました。ふたりが以前、江戸にいたことをきいておりましたので……それいらい、脚をすりこぎにして、江戸の町々をさがしまわっておりましたが、ついぞふたりにあいません。そのうちにふところもさびしくなる。そこで、おもいついたのがこの才蔵。万歳ならば、どこのうちへでも入りこめます。そこで、春太夫さんにお願いして、才蔵にしていただきました。じぶんでいままでやったことはありませんが、近所のものがけいこをするので、しぜんわたしも、まねごとくらいはできるんです。この衣装は貸し衣装屋から借り受けました」
 こうして、鶴吉の苦労のかいあって、とうとうきのう、かれは宮部源之丞と変名しているにくい男の住居をつきとめた。
 さいわい、そのとき源之丞のほうでは、鶴吉に気がつかなかったらしいので、ゆうべ、忍んでいくと、家のなかにだれもおらず、しかも格子があいていたので、台所へしのんでいると、まもなく源之丞が、お美乃をともなってかえってきたのである。
 そのあとは、お美乃の話したとおりだが、鶴吉はお美乃をかえすと、そのあとで源之丞を呼びいれた。
 かれの憎いのは男より女である。
 そこでお才、すなわちお国の居所を責め問うたところ、源十郎の源之丞は案外意気地なしで、べらべらと、お国のいどころをしゃべってしまった。
 そこで、鶴吉はそこをとび出し、池の端へいったのである。
「源之丞をしばったままか」
「はい、いましめをといて、先まわりをされても困りますし、うそだったらまた引き返して、責め問わねばなりません」
 そこで、源之丞をしばったふんどしの結びめに、繻(しゆ)子(す)の伊(だ)達(て)巻きをとおし、床柱にしばりつけていったのである。
 源之丞の話はうそではなかった。
 お才のお国は、たしかに教えられたところに住んでいたが、あいにくうちにいなかった。
 かれは夜中、妾(しよう)宅(たく)の近所に張っていたが、夜が明けてもかえらないので、あきらめて宿へかえると、春太夫がいず、兄さんがたがやってきたのであると話をむすんだ。
「それで、おまえは、女をどうする気だったんだ。殺すつもりだったのか」
「いえ、殺すほどの、ひどいつもりはございませんでした。あのうつくしい顔にきずをつけて、二度と男をだませないようにしてやろうとおもったんです。ところが、親分」
 鶴吉はそこでひざをのりだすと、異様に目を光らせて、
「あのふたりはあんなに似ておりますから、みんなだまされるんですが、ひょっとすると、兄(きよう)妹(だい)ではないんじゃないかと思うんです。というのは、うちへ入れるまえ、ふたりで寝ていたんじゃないかとおもわれるような場面に、ぶつかったことがあるんです。そのときは、妹が癪(しやく)をおこしたので、介抱しておったといわれて、それをうのみに信用していたんですが、あとになってみると、いろいろおかしなことが……」
 佐七はだまって考えていたが、とつぜん、きらりと目を光らせると、
「辰、豆六、ひとまずお国をあげておけ。ただし、ていねいにあつかうんだぞ。それから、鶴吉、おまえもこれでかえれると思っていると間違いだぞ」
「恐れ入りました」
 鶴吉はわるびれずに手をつかえた。
 佐七の処置はまことに適切だった。
 もう一日おくれていたら、お国は高飛びしていたかもしれない。
 お国もはじめは知らぬ存ぜぬと、シラをきっていたが、そのつぎの日、万歳の春太夫が出現するにおよんで、彼女もとうとうどろをはいた。
 春太夫は亀丸のことを心配して、きのう亀丸がみょうなそぶりをみせた源之丞のところへ翌朝しのんでいって、そこに殺されている源之丞の死体を発見した。
 そのとき、春太夫は妙なことに気がついた。源之丞の口に、赤い絹のきれはしがおしこんであった。
 おそらく、下手人が男を刺すとき、声をたてるのをおそれて、むりやりに、口にねじこんだのだろうが、鶴吉がそんなものを持っているはずがなかった。
 春太夫は後日の証拠にと、その絹のきれはしを抜きとってかえったのだが、それは、お国のしごきのきれはしだった。
 お国は鶴吉とほとんど入れちがいに源之丞のところへしのんでいった。
 そして、源之丞のいましめをとくまえに、いっさいの話をきいた。
 すると、お国はじぶんのしごきのはしを切り、それを源之丞の口に押しこんでおいて、そこにころんでいた刀で、ぐさりとひと突き。
 お国はもちろんそのきれはしも、死体の口から抜きとろうとしたのだが、かみしめた男の口から抜きとるのは容易なことではなかった。それに、鶴吉がいつ引きかえしてくるかと思えば怖かった。
 そこで、そのまま逃げだしたのが運のつきだった。お国はそれをお美乃のものだといいくるめるつもりだったという。
 お国と源之丞は兄妹ではなかった。
 いとこであったが、顔が似ているところから兄妹といつわり、いたるところで、悪事をはたらいていたのである。
 この事件が縁になって、鍵屋と茗荷屋のあいだには、たえてひさしい確(かく)執(しつ)がとけて、お美乃がまもなく清十郎のもとへ嫁入ったのは、まことにめでたい結末といわねばならぬ。
「それにしても、親分」
 と、ずっとあとになって、辰が聞いたことがある。
「お国はなんだって、源之丞を殺す気になったんでしょうね」
「そら、兄い、わかってまっしゃないか」
 と、豆六がしたり顔で
「あないなあさましいすがたをみたら、だれかて愛想がつきまっしゃないか。それに、あのけったいななりを見たら、だれか女と寝ていたか、それとも口(く)説(ど)いていたかちゅうことが、一目瞭(りよう)然(ぜん)だっさかいにな」
「それもある」
 と、佐七はすなおにうなずいて、
「あのあさましいすがたに、お国が愛想をつかした、というのはうなずける。しかし、ただそれだけじゃあるめえよ」
「と、おっしゃいますと……?」
「お国は鍵屋のだんなにほれていたんだ。鍵屋のだんなはあのとおり、ゆったりとしたお人柄。からだもがっちりしているし、男振りだってわるかあねえ。お国くらいの年ごろになると、のっぺりとしたなまわかい男より、ああいう貫(かん)禄(ろく)十分の男にほれるんじゃねえか」
「そうだ、そうだ、それで、源之丞が、じゃまになってきたんですね」
「そやそや、そういえば、親分、お国はお白(しら)州(す)でも、でけるだけ鍵屋の名まえを出さんようにしてましたなあ」
「だから、哀れといえばあわれだが、身勝手といえば身勝手な話だ」
 と、佐七は暗然たるくちぶりだった。
 鶴吉が春太夫に、泣いて感謝したことはいうまでもない。
 かれは才蔵などする身分ではなかったが、のこりの正月を、春太夫の才蔵をつとめたのみならず、わかれるとき、今後まいとし正月には、かならず出府いたしますから、どうぞ太夫さんのおあいてをつとめさせてくださいと、泣いて約束していった。
 そして、春太夫が老境にはいって、三河万歳をやめるまで、鶴吉はこの約束をまもって、破らなかったという。

本書には今日の人権意識に照らして不当・不適切と思われる語句や表現がありますが、作品執筆時の時代背景や作品が取り扱っている内容などを考慮しそのままとしました。作品自体には差別などを助長する意図がないことをご理解いただきますようお願い申し上げます。
(角川書店編集部)
神(かみ)隠(かく)しにあった女(おんな)
自選人形佐七捕物帳2
 横(よこ)溝(みぞ)正(せい)史(し)

平成16年1月16日 発行
発行者  田口惠司
発行所  株式会社  角川書店
〒102-8177 東京都千代田区富士見2-13-3
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(C) Seishi YOKOMIZO 2004
本電子書籍は下記にもとづいて制作しました
角川文庫『神隠しにあった女』昭和52年5月30日初版発行
              昭和52年6月30日 2 版発行