神隠しにあった女
自選人形佐七捕物帳2
横溝正史
角川e文庫
目 次
神隠しにあった女
好色いもり酒
百物語の夜
彫(ほり)物(もの)師(し)の娘
ほおずき大尽
春宵とんとんとん
緋(ひ)鹿(が)の子(こ)娘
三河万歳
神隠しにあった女
春色お千代舟
——ぼちゃぼちゃのお千代さんだよ——
下(した)谷(や)御(お)成(なり)街(かい)道(どう)にあるなだいの刀屋、小松屋の手(て)代(だい)宗七は、ある晩、ふしぎな経験をした。それはまったく、世にも奇怪な経験だった。
その日、宗七は蠣(かき)殻(がら)町(ちよう)のあるお屋敷へ、刀をおさめにいったのだが、値段の点でおりあわず、持っていった刀をそのまま持ってかえる途中だった。
お屋敷へでむいたのは、夕がたの七つ(四時)ごろだったのに、むこうで、さんざん待たされたあげく、値段の点で、すったもんだとやったので、お屋敷を出たのはもう五つ(八時)過ぎ、さすがに春の日長もとっくにくれて、霊(れい)岸(がん)島(じま)から中(なか)州(す)へかけて、春の薄やみにつつまれていた。
その晩は、月がありながら雲にかくれて、風もなんとなくなまあたたかく、みょうにわかい血をさわがせるような晩だった。おまけに、宗七はすこし酔っている。お屋敷で待たされているあいだに出た酒が、いまになって、ぼってりとからだをあたため、宗七はいっそなにやら、ひと恋しい気持ちになっていた。
しかし、それだからといって、宗七はべつにどうしようといううわきごころがあったわけではない。小松屋のかずある手代のなかでも、わかいににあわず堅いというので、だんなの重(じゆう)兵(べ)衛(え)からもとくべつに目をかけられている宗七である。
「いけない、いけない!」
と、ともすればきざしてくる邪念を追っぱらうように、宗七は足をはやめた。
だから、そのままなにごとも起こらなければ、宗七は無事に、うちへかえっていたはずだが、運命というやつはとかく、みょうないたずらをするものだ。
人形町の通りへ出ようとして、浜町河(が)岸(し)を永(えい)代(たい)橋(ばし)のほうへいそいでいる宗七を、くらやみのなかから、ふと呼びとめたものがある。
「にいさん、遊んでおいでなさいまし」
ふとい男の声である。
「えっ?」
と、宗七は足をとめると、あわててあたりを見まわしたが、かたがわは大名屋敷、かたがわは大川である。どこにも人影はみえなかった。
「なんだ、そら耳だったのか。だからいわないことじゃない。つまらないことを考えているからだ。つるかめ、つるかめ。さあ、いそぎましょう、いそぎましょう」
じぶんでじぶんをつよくたしなめながら、小松屋の宗七が足をはやめて、歩きだそうとする耳へ、またしても、男の声がきこえてきた。
「にいさん、こっちですよう。ほら、こっち、川のなかですよう。遊んでいってくださいよ。ぼちゃぼちゃの、お千代さんですよう」
宗七はぎょっと足をとめると、すかすようにして川の上を見る。なるほど、河(か)岸(し)の柳のしたに、苫(とま)舟(ぶね)が一隻もやってあって、ほおかむりをした船頭が、こちらにむかって手招きしている。宗七はそれをみると、なんということなく、あたりを見まわした。
宗七もこのへんに、舟まんじゅうが出るということはきいていたのだ。
舟まんじゅうというのは、いちばん下等な売(ばい)女(た)である。売女のなかで、いちばん下等なやつは夜(よ)鷹(たか)とされているが、その夜鷹がわるい病気かなんかで足腰が立たなくなると、それを舟にのっけて春を売らせる。それを舟まんじゅうといって、そういう舟をお千代舟とよんだ。
なるほど、そうきけば、夜鷹よりいっそう下等なわけだが、なかには、夜鷹の廃物ばかりではなく、まれには逸物もあったという。
それはさておき、あいてがお千代舟だとわかると、宗七のひざがしらは、にわかにガタガタふるえてきた。口がからからにかわいてくる。
かたいといっても二十三、まんざら遊びをしらぬわけではない。朋(ほう)輩(ばい)や、お出入りさきのだんなにさそわれて、吉(よし)原(わら)や品(しな)川(がわ)であそんだ経験はもっている。じぶんでこっそり、夜鷹を買ったこともある。それに、こんやはさっきから、みょうにからだがうずくのだ。お店(たな)者(もの)としては宗七は、かたぶとりのした、たくましい、よいからだをしている。
しかし、宗七は思いなおした。
「せっかくだが、まあ、よそう、おしろいでしわをぬりつぶしたような女を、買ったところではじまらない。まあ、ごめんこうむろうよ」
「冗談じゃない。おまえさんはなんにも知らないから、そんなもったいないことをいってるんだが、ここにいるお千代さんは、まだ生(き)娘(むすめ)ですぜ」
「あっはっは、バカもやすみやすみいうがいい。舟まんじゅうに生娘があってたまるもんか。こちらが若いといって、バカにするのもいいかげんにしとおくれ」
「うそだと思うんなら、いちど遊んでごらんなさい。こんやがちょうど初見せの、それこそ、ぼちゃぼちゃのお千代さんだ」
「そ、そんなバカな!」
「そんなにいうなら、ひとつ顔をおがませてあげよう。これ、これ、お千代さんや、にいさんにちょっとそのきれいな顔を見せてあげな」
苫のなかでさやさやと、きぬずれの音がしていたが、女の姿はあらわれなかった。
「これ、なにをしている。にいさんがきついご所(しよ)望(もう)だ。顔をみせろといえば、みせねえか」
しかりつけるような船頭の声に、苫のなかでまた、さやさやときぬずれの音がした。それからそっと恥ずかしそうに女が上半身をあらわした。あいにくの、春のおぼろのうすくらがり。それに、手ぬぐいを吹き流しにかぶっているので、目鼻だちまではわからないが、におうような白い顔、羞(しゆう)恥(ち)のためにふるえているぽっちゃりとした肉づき、生娘かどうかは疑問としても、わかい女にはちがいない。
宗七はちょっと胴ぶるいをすると、おもわずぐっとなまつばをのみこんだ。
「それ、お千代さん、さっき、教わったとおりやってみるんだ。おまえの口から、にいさんにおねがいするんだ。そしたら、このにいさんが、かわいがってくださるとよう」
船頭の声にうながされ、
「あの、にいさん、おねがいですから、ちょっと寄っていってくださいな」
蚊(か)のなくような声である。かつまた、吹き流しのしたからのぞいている双(そう)のひとみが、星のようにまたたいているのをみると、宗七のわかい血がカーッともえた。
「ようしッ、あそばせてもらうぜ」
宗七はふらふらっと、身も魂もひきずりこまれるように、舟のなかへのりこむと、女の手をとって、くらい苫(とま)屋(や)のなかへはいっていった。
「あっはっは、にいさんは果(か)報(ほう)者(もの)だ。その妓(こ)は正真正銘、まだ手入らずの生娘だ。しかも、その妓にとっちゃ、はじめての客ですからね」
船頭はわらいながら櫂(かい)をとって、ゆっくり舟をこぎはじめた。こんなばあい、舟は中州をひとまわりすることになっていて、そのあいだが、客にあたえられた時間になっているのである。
苫屋のなかは、すわっていても頭がつかえそうな窮屈さである。むろん、あかりなどという気のきいたものが、ついているはずはないから、なかへはいってしまうと、鼻をつままれても、わからぬような暗さである。
それでも、せんべいぶとんながら、ふとんが敷いてあるらしいことだけは、手ざわりでわかった。宗七はそのふとんの上にあぐらをかくと、すばやく、帯をとき、女の肩に手をかけて、ぐいとこちらへ引きよせた。
「あれえッ!」
はずみをくらって、女は宗七のひざのうえに、しなだれかかるように倒れてきたが、そのからだは石のようにかたくこわばっており、しかも、しくしくと泣いている。
「これ、なにを泣くんだ。この期(ご)におよんで。な、なにをそんなに泣いているんだ」
宗七は女のからだを、ひざの上へだきあげると、やにわにうちぶところへ手を差しいれた。女はあいかわらずしくしく泣きながら、さりとて、宗七の手をこばもうともしない。男のなすがまま身をまかせている。しかし、耳ざわりなのは、しくしくと嗚(お)咽(えつ)する声である。
とうとう、宗七はかんしゃくを爆発させた。
「いいかげんにしねえか。おまえがいかにしおらしくもちかけたって、だれがおまえを生娘だなんて、まにうけるもんか。舟まんじゅうなら、舟まんじゅうらしくしたらどうだ」
おもわず声がたかくなったから、そとの船頭に聞こえたらしい。船頭はあっはっはと笑うと、
「にいさん、にいさん、その娘はほんとうに生娘なんですぜ。しかし、にいさんに身をまかせる気になってるんだから、ひとつ、しっぽりかわいがっておやんなさい」
そのあとへ、またあざけるような高笑い、あっはっはという傍(ぼう)若(じやく)無(ぶ)人(じん)の声がつづいたから、宗七はとうとう怒り心(しん)頭(とう)に発して、
「バカにするない、だれがおまえらにだまされるもんかい。だれが、おまえらにだまされるもんかい」
と、やにわに、女をそこへ押しころがすと、全身の怒りをこめて、その上におしかぶさっていった。それでも女は、ただかすかな悲鳴をあげただけで、土かどろでつくった人形のように、身をかたくしていた……。
そういう宗七だったのだが、舟がゆっくり、中州のまわりをひとまわりして、もとの浜町河岸へもどってくるころには、まるで魂を抜かれたようになっていた。
まったく、かれはふしぎでならない。
ひょっとすると、この女は、さっき船頭がいったとおり、ほんとに生娘だったのではあるまいか。もし、そうだとすると、じぶんはたいへんな罪をつくったのではなかろうか。
もし、この女がはじめのころ、ほんとに生娘であったとしても、おわりのころにははっきりと、女であることをしめしてくれた。
宗七の腕にだかれた女は、宗七の興奮がたかまるにつれて、しだいに、われを忘れてとり乱し、はては、力いっぱい宗七のからだを抱きしめると、身をそよがせてあえぎにあえいだ。さっきの羞恥がうそのように、女であることの喜びを、ろこつに表現してはばからなかったばかりか、女のすべてをささげて、おしむところがなかった。それはまるで、堰(せき)を切っておとした激流のようなものであった。
宗七はこの激流のなかに棹(さお)さして、浮きつ沈みつ、内心のよろこびをかみしめながら、二度、三度、女をつよく抱きつづけたのだが……。
宗七がほっとわれにかえったのは、よほどたってからのことである。つよい抱擁からやっと解放してやると、女はまだ見果てぬ夢をおうように、ぐったりと目をとじたまま、あらい息づかいをととのえていた。
このときである。たいへんな罪つくりをしたのではないかと、宗七が気がついたのは。
いったい、こういう売女というものは、男にからだを提供し、男にすきかってなまねをされても、じぶんは思いをほかに転ずることを、しっているものである。そうでなければ、一夜に、いくにんかの男に抱かれる身がもてない。
だから、彼女たちは、男がかってに興奮し、かってに歓喜の絶頂に到達しても、じぶんはすずしいかおで、おのれを制することができるように、訓練されているものである。彼女たちの発するあえぎや、息づかいや、身のそよぎは、すこしでもはやく男を喜悦の頂上に、みちびくための作為にすぎない。
しかし、いま宗七のそばに、息もたえだえによこたわっているこの女だけはちがっていた。
すべてがほんものであった。あの絶えいるような息づかいも、よじれんばかりの身のそよぎも、はては堰を切っておとしたような奔(ほん)流(りゆう)も……そういえば、さいしょに発した苦痛の悲鳴も、見せかけではなかったようだ。
宗七はまるで夢に夢みる気持ちで、女になにかきこうとして、もういちど、背中に手をまわそうとしたとき、
「にいさん、着きましたぜ」
船頭にうながされて、宗七はあわてて帯をしめなおすと、苫屋からそとへ出ていったが、あとに心ののこるのは、どうしようもなかった。女もおなじ思いだったのか、おおいそぎで、きものの乱れをととのえると、苫屋から上半身をのぞかせて、
「もし、にいさん」
「えっ」
「ご縁があったら、またいつか……」
涙にうるんだ声をかけたが、そのとき、吹きおろしてきた川風が、女のかぶった手ぬぐいのはしをさっと吹きあげた。しかも、ちょうどそのとき、雲をはなれた月の光が、まともに女の顔を照らしたのである。
宗七ははじめて、はっきり女の顔をみたが、そのとたん、のけぞらんばかりに驚いて、
「あっ、あなたは宝屋のおふくさま……あの、神かくしにあわれたお福さま!」
「しっ、しまった、ちくしょうッ、ちくしょうッ、こいつ、しってやアがったのか」
船頭はやにわに女を苫屋のなかへつきもどすと、櫂とりなおしていちもくさん、春の夜のやみはあやなし、みるみるうちに水のうえを、遠く、はるかに消えていった。
ぼうぜんとして、それを見送っていた宗七が、舟のなかへだいじな刀、備(び)前(ぜん)長(おさ)船(ふね)をおきわすれたのに気がついたのは、それからよほどたってからのことである。
宝屋の姉妹
——姉のお蝶(ちよう)は女中の子なんです——
「——と、そういうわけで、これがゆうべ買ったその舟まんじゅうの女というのが、宝屋の妹娘お福だった、いや、お福にちがいないというんです」
と、そうきり出したのは、小松屋のだんなの重(じゆう)兵(べ)衛(え)、うしろには手代の宗七も、よいあとはわるいで、あおい顔をしてひかえている。
それは宗七が、あのふしぎな経験をした翌日のこと。
宗七から話をきいた重兵衛は、すててはおけぬと宗七ともども、神(かん)田(だ)お玉(たま)が池(いけ)は佐七のもとへ、相談にやってきたのである。
佐七はおもわず目をみはって、
「そりゃア、しかし、ほんとのことですかえ。夜目遠目傘(かさ)のうちというが、ひょっとすると、他人のそら似じゃアありませんか」
「いいえ、たしかにお福さまでございました」
と、宗七はめんもくないやら、恥ずかしいやらで、額(ひたい)に汗をかきながら、
「げんに、わたしがお福さまと声をかけると、むこうでもびっくりしていらっしゃいましたし、船頭もたいそうおどろいて、むりやりにお福さまを苫のなかへおしこむと、逃げるようにこいでいってしまったのでございます」
佐七はおもわず辰(たつ)や豆六と顔見合わせる。
「そういうわけで、宗七は、しらぬこととはいいながら、主人もどうぜんな宝屋の娘とそんなことをしたかとゆうべから、夜の目もねむれぬくらい、心配しているんです」
「あの、ちょっと……宝屋のお嬢さんが、主人もどうぜんとおっしゃいますのは……?」
「ご存じじゃありませんか。宝屋の家内のお常というのは、わたしのじつの妹なんです」
佐七はそれをきくと、また目をみはって、
「それはそれは……それじゃ、さぞご心配なことでございましょう。ときに、お福さまが神かくしにあわれたというのは、いつのことでございます」
「あれはひな祭りの晩のことでしたから、きょうで、ちょうど十日になります」
「さっきのお話では、たしかお友だちのところへよばれておいでになって、それっきり、おゆくえがわからなくなったのでしたね」
「はい。大(おお)伝(でん)馬(ま)町(ちよう)の駿(する)河(が)屋(や)さんへ招かれていったんですが、六つ半(七時)ごろそこを出たっきり、ゆくえがわからなくなってしまったんです」
「どなたもお供はなかったんで」
「はい、いつもならば、女中が供につくはずでしたが、あいにくその日は、姉娘のお蝶(ちよう)が持病の発(ほつ)作(さ)をおこしまして、家じゅうまぜくりかえしていたものですから……駿河屋さんのほうでも、だれかに送らせようといってくだすったそうですが、近くのことだからそれにはおよばぬと、お福のほうでことわって、ひとりで出たそうですが……」
重兵衛はふかぶかと首うなだれて、ほっと暗いため息をついた。
宝屋というのは久松町の刀屋だが、このほうは、小松屋とちがって新刀ばかり、どちらかというと、町人あいての安物専門の店だが、こういう店のほうがかずでこなすから、かえって利益があるとみえて、小松屋にもおとらぬ身(しん)代(だい)である。
その宝屋の妹娘のお福というのが、十日ほどまえに、神かくしにあったといううわさは、佐七もかねてから耳にしていた。
神かくしというのは、とつぜんゆくえ不明になることで、むかしはよく、てんぐがさらっていくのだなどといったものだ。いまのことばでいえば、さしずめ蒸発というやつだろう。
「すると、宝屋のお福さまは神かくしにあったのじゃなく、悪者にかどわかされて、舟まんじゅうに売られているというんですね」
重兵衛はくらい顔をしてこたえなかった。
佐七はそこでひざをすすめると、
「ねえ、だんな、宝屋さんではだれかに、うらみでもうけるようなおぼえがございますんで」
「さあ、そのことなんですが……」
重兵衛がおもい口でいいにくそうにうちあけた話というのはこうである。
宝屋のあるじ、太(た)郎(ろう)右衛(え)門(もん)には娘がふたりある。姉をお蝶、妹をお福といって、十八と十七のひとつちがい、つまりとし子である。世間でも当人たちも、ほんとの姉妹と思いこんでいるが、じつはこのふたりは腹ちがいであると重兵衛は打ちあけた。
「姉のお蝶というのは、太郎右衛門が、わかいころお吉という女中に手をつけてうませた子どもなんです。そのじぶん、お常がかたづいて七年にもなるのに、いっこう子どもがうまれるけはいもないので、お常がその子をひきとって、じぶんの子どもにしたんです。ところが、よくあることで、お蝶をひきとるとまもなく、お常がみごもり、翌年うまれたのがお福なんです」
したがって、ふたりは腹ちがいだが、ふしぎにもこの姉妹、うりふたつほどよくにていて、げんざいの親たちでも、とりちがえることがあるくらいだから、世間でもほんとの姉妹と思いこみ、当人たちも、そう信じきっているそうである。
「わたしの口から申すのもなんですが、お常というのがまことによくできた女で、腹はだれにしろ、お蝶は太郎右衛門どのの総領娘にちがいないから、ゆくゆくはそれに養子をとって、宝屋のあとをつがせると申しておりました。ところが、ふしあわせなことには、そのお蝶、去年、大(おお)煩(わずら)いをいたしまして、高熱が半月あまりもつづきましたが、それが治ったかとおもうと、頭がすこしおかしくなったのでございます。なにかこう、ぼんやりしてしまって、とりとめがなくなってしまったのでございます」
お蝶の病気は、いまのことばでいえば脳(のう)膜(まく)炎(えん)だろう。それまでは目から鼻へぬけるようなりこうな娘だったのに、大煩いをしてからは、白痴にちかい娘になってしまった。
「お常もこれには胸をいためましたが、そこへ、おりもおり、ことしの春になって、お蝶のじつのおふくろがかえってきたんです」
「かえってきたとおっしゃいますと、お蝶さんのおふくろさんは、どこか遠いところへでもいってらしたんですか」
「それが……」
と、重兵衛はいいにくそうに、
「お蝶の母のお吉というのはわるい女で、宝屋へ女中にすみこんだのも、はじめからその下心があったんです。女中にすみこんでは、主人とひっかかりをつけ、それをたねにゆするんですね。ええ、もうそのじぶん、しょっちゅうそういうことをしていた女で……それで、そのときもそうとう手切れ金をとってわかれたんですが、そのごも悪事がかさなったのか、とうとう島送りになったんです」
この思いがけない打ちあけ話に、佐七はおもわず辰や豆六と顔見合わせる。
「はい、そういうことがありますんで、いっそうお蝶の素(す)性(じよう)をかくしていたんですが、そのお吉がこの春、おかみのご慶事につき、お赦(ゆるし)にあってかえってきたんです。そういう女でも、やっぱりわが子はかわいいとみえ、うみの子のお蝶がバカになったときくと、たいそうくやしがりまして、これもきっとおかみさんが、毒かなんか盛ったにちがいない。いまにきっとこの返報はしてみせると、宝屋へどなりこんできたことがございますそうで。お福が神かくしにあったのは、それから十日ほどのちのことでした」
はじめてきいた宝屋のうちまくに、佐七はおもわずかたずをのんだ。
「すると、お福さまをかどわかしたのは、お吉という女だとおっしゃるんで」
「そうじゃないかと思います。お蝶がすたれものになったのを、いちずにお常のしわざとおもいこみ、その返報にお福をかどわかし、そんなあさましい稼(か)業(ぎよう)をさせているんじゃないかと……お吉なら、やりかねない女でございますから……」
重兵衛はあまりのあさましさに、たまりかねたようにまぶたをおさえる。なににしても奇怪な話だ。佐七もいたましそうに顔をしかめていたが、きゅうに思い出したように、宗七のほうをふりかえり、
「ときに、宗七さん、その船頭というやつだが、いったいどんな男でしたえ」
「さあ、なにしろ暗がりのうえに、ほおかむりをしておりましたので、はっきりとは申せませんが、としごろは四十前後、右のほおに大きな切り傷があったようでございました」
「おまえさん、その舟に備前長船を忘れてきなすったというんですね」
「はい、重々のぶちょうほうで……」
「だんな、その刀が出てきたら、おわかりでございましょうねえ」
「はい、それはもちろん」
「ようがす。とにかく、なんとかして、その舟というのを捜してみましょう」
「なにぶん、よろしくおねがいいたします。ただこのうえのおねがいは、このことを、宝屋の耳にいれないように。娘がそんなあさましい稼業をしているときけば、妹も太郎右衛門も、どんなに心をいためますことか……宗七にも、これだけはかたく口止めしてありますんで」
「ごもっともで。なに、だれにもしゃべりゃアしませんから、どうぞご安心なすって」
お蝶狂乱
——ときどきああしてあばれるんです——
「親分、いまの話、ほんとうでしょうかねえ」
重兵衛と宗七がかえったあとで、辰はなんかふにおちぬ顔色である。
「どうして?」
「だって、舟まんじゅうを買ってみたら、それが主人の姪(めい)だったなんて、話があんまりできすぎてるじゃアありませんか」
「そや、そや、わてかてそう思いますわ。宗七のやつ、舟まんじゅうにうつつをぬかして、だいじな刀をわすれたその言いわけに、神かくしになった娘のことを、かつぎ出しよったんとちがいまっしゃろか」
「いや、宗七のあの顔色では、そんな筋が書けるたア思えねえ。ただ、ふしぎなのはお福という娘だ。いかにお吉や相(あい)棒(ぼう)におどしつけられたとはいえ、そんなにむざむざ、あさましい稼業をするというのがおかしい。助けを呼ぶとか、ひとこと客に耳打ちするとか、なんとか方法がありそうなもんじゃねえか」
「だからさ、やっぱりそれはお福じゃねえんですぜ。宗七のやつがてれかくしに、そんなべらぼうな話をでっちあげやアがったにちがいねえ」
「どっちにしても、ただの神かくしでないとわかれば、捨ててはおけねえ。辰、豆六」
「へえ、へえ」
「おまえたち手わけして、ひとつ心当たりのほうがくから洗ってみてくれ」
「心当たりのほうがくって、親分、どこから手をつけていけばいいんで」
「本(ほん)所(じよ)の吉(よし)田(だ)町(ちよう)に夜鷹の巣がある。舟まんじゅうもたいていあのへんから出るようだから、おまえたちいって、右のほおに刀傷のある船頭に、心当たりはねえかきいてみろ」
「おっと合点です。それからほかに……」
「馬道のからすの平太のところへいって、ちかごろ島からかえってきたやつに、右のほおに刀傷のある男はねえか、あたってみろ」
「おっと、わてもそれを考えたとこだす。そんなら、兄い、いきまほか」
からすの平太というのは、むかし悪党なかまで鳴らした男だが、いまでは足をあらって、一種の諜(ちよう)者(じや)のようなことをしている人物。
そこへいけば、凶状持ちの動静は、たいていわかることになっているから、御用聞きなかまでは、ちょっとちょうほうな存在になっている。
こうして、辰と豆六が出かけたあとで、佐七は女房のお粂(くめ)にむかい、
「お粂、おまえにもひとつ頼みがある」
「あい、あたしになにかご用かえ」
「なに、ご用というほどのことじゃねえが、うちへまわってくる女髪結いのおせんは、たしか大伝馬町のほうも、おとくいにしていたな」
「あっそうそう、あたしとしたことが忘れていた。おせんさんはたしか、駿河屋さんのお出入りだよ。いつかもじまんしてたっけ」
「そいつは好都合だ。それじゃおまえ、これからおせんのところへ出向いていって、ひな祭りの晩、駿河屋へ招かれていったお福の様子に、なにか変わったとこはなかったか、ふだんと様子が違ったところはなかったか、そこんところを、なるべく詳しくきき出してくれるように頼んでくれ」
「そのおせんさんなら出向くまでもない。きょううちへまわってくるはずだが、しかし、おまえさん、駿河屋さんになにか……」
「なに、そうじゃねえが、お福という娘もおかしいじゃねえか。大伝馬町から久松町といえば、目と鼻のあいだだ。それに、六つ半(七時)といえばまだ宵(よい)の口、あのへんはにぎやかな場所だのに、どうしてむざむざ、かどわかしになどかかったのか……それについて、駿河屋にいるあいだに、なにか変わったことはなかったか、そこんところをきいてみてくれ」
「あいよ。それくらいのことならわけはない。ときに、おまえさんは……」
「おれはちょっと、久松町までいってみる」
と、それからまもなく久松町の宝屋のちかくまできてみると、そのへんいっぱいのひとだかり。みると、髪をふりみだしたわかい娘が、気ちがいのようにあばれまわっているのを、乳(う)母(ば)だの、女中だの、お店(たな)者(もの)らしい若者だのがとめている。
佐七はまゆをひそめて、
「ありゃいったいどうしたんです」
そばにいる男にきくと、
「あれはむこうの宝屋の姉娘で、お蝶さんというんです。いぜんはしごくおとなしい娘でしたが、去年、大煩いをしていらい、頭がおかしくなって、ときどき、ああしてあばれるんです」
佐七はそれをきくと、はっと娘の顔をみなおした。
お蝶はとびきり美人というのではないが、色白のぽっちゃりとして肉づきのいい、いうところの人好きのする顔だちである。
そのお蝶は、なるほど逆上しているらしく、目にいっぱい涙をうかべ、なにかわけのわからぬことを口走っていたが、やがて奉公人たちにひきたてられて、宝屋の勝手口からなかへつれこまれた。
佐七はほっとため息をつきながら、宝屋のまえをとおりかかったが、すると、なかからとび出してきた番頭らしいのが、
「もし、親分、おまえさんは、お玉が池の親分さんじゃございませんか」
「はい、あっしは佐七だが、なにかご用で」
「だんながおりいってお願いしたいことがあるとおっしゃってでございます。おそれいりますが、ちょっとお立ち寄りねがえませんか」
佐七にとっては、それこそ渡りに舟である。無言のまま、番頭のあとからついていった。
お福の手紙
——こともあろうにあさましい舟まんじゅうに——
宝屋のあるじ太郎右衛門は、どっしりとした、恰(かつ)幅(ぷく)のいいだんなだが、姉娘の病気、妹娘の神かくしと、うちつづくふしあわせに、めっきりと年をとっている。おかみさんのお常も、心痛にやつれた顔に、頭(ず)痛(つう)膏(こう)の白梅をはって、あおい顔をしていた。
「親分、おまえさんはひょっとすると、うちの妹娘のお福が神かくしにあったという話をおききになっちゃいませんか」
「へえ、その話ならきいておりますが……」
「ところが、親分、そのお福がこともあろうに、舟まんじゅうというあさましい稼業をやらされているという話があるんです」
佐七はおどろいて、太郎右衛門の顔をみなおした。
「どこから、そんな話がお耳にはいりましたか」
「この町内の鳶(とび)のもので、紋次というのが、ゆうべ箱崎橋のきわで見かけたというんです」
「まさか、紋次はその女を……」
「いや、はじめから遊ぶつもりはなかったそうですが、箱崎町の河岸っぷちを歩いていると、お千代舟の船頭によびとめられた。そこで、顔だけでもみてやろうと、玉をみせろといったところが、苫(とま)のなかからでてきたのが、お福だったというんです。なんでも、その河岸っぷちに常夜灯が立っていたので、はっきり顔がみえたそうで。それで、紋次がおもわず、おまえは宝屋のお福さん、と声をかけると、船頭がびっくりして、女を苫のなかへつきとばし、そのまま、逃げてしまったというんです」
「それはゆうべの何(なん)刻(どき)ごろのことなんで」
「なんでもまだ宵の口の、六つ半(七時)ごろのことだったそうで」
小松屋の宗七が、お福らしい女を抱いてねたのは、五つ(八時)過ぎというから、それでは、それよりまえのできごとだろう。
それにしても、せっかくそのことをないしょにしている重兵衛の苦心もこれでは水のあわである。太郎右衛門夫婦は涙にむせびながら、
「親分さん、わたしども夫婦の心中お察しください。そんな話をきいては、いても立ってもいられません。親分、なんとかしてください」
お常はこらえかねたように、わっと泣きふす。
「そりゃアもう、あっしだって十(じつ)手(て)捕(とり)縄(なわ)をあずかる身、そんな話をきいちゃ、じっとしてはいられません。ときに、だんな、へんなことをおききするようだが、こちらのお嬢さんのうち、お蝶さんというのは、おかみさんのおなかじゃないそうですね」
「親分はどこから、そんなことを……」
「いえ、それはいえませんが、なんでもお吉という女が、お蝶さんがあんなになったのも、おかみさんがいっぷく盛ったせいだというんで、あばれこんだそうじゃアありませんか」
太郎右衛門はため息をついて、
「お常がいっぷく盛ったなどとは、とんでもない。これはじぶんが腹をいためたお福よりお蝶のほうをかわいがっておりましたのに、おのれのねじけた根(こん)性(じよう)から、あいつがへんに疑ってあばれこんできたおかげで、いままでかくしていたことが、万事明るみにでてしまって……」
「それじゃ、お蝶さんやお福さんも、そのことをお知りになったんですね」
「お蝶はあのとおりですから、どうかわかりませんが、お福は気がついたようです」
「さっき表で、お蝶さんをお見かけしましたが、ときどき、あんな発作をおこされるんで」
「いえ、あんなことはめったにないんですが、きょうは妹のお福が、舟まんじゅうに売られたということを、うっかり乳母がしゃべったもんだから、あんなことになったんです」
「すると、ああなっていても、お福さんのことは心配しているんですね」
「それはそうでしょう。とてもきょうだい仲がよかったんですから。それに、だいいち、ふたごのようによく似ているもんですから、いままでだれも、腹ちがいなどとしるものはなかったんです」
「ときどき、ご両親でもとりちがえたとか」
「はい、ふたりがわざといれかわって、わたしどもを、からかったりするんです。ただ、姉のお蝶には左の腕にぼたん形のあざがあって、それでやっとけじめをつけるんです。ほんにお蝶はおふくろに似合わぬ、気だてのやさしい娘でしたが、なんの因(いん)果(が)かあんな病気になって……」
さすが豪気の太郎右衛門も、たまりかねたように涙をおさえたとき、あわただしくとびこんできたのは、お福の乳母のお島である。
「これ、お島、どうしたものだ、お蝶になにか、かわったことでもあったのか」
「はい、あの、お蝶さまの寝床のしたから、こんなものが出てまいりまして……」
お島が差しだす一通の手紙を、太郎右衛門はふしぎそうに手にとったが、読んでいくうちに、みるみる顔色がかわってくる。
「親分、これを見てください。こりゃまあ、いったいどういうわけでしょう」
見ると、それはうつくしい女の筆で、
わたしのこと、くれぐれもご心配なさるまじく、もう十日もたてば、無事におうちへかえれるはずゆえ、かねてよりのお約束のこと、かたくお守りくだされたく候(そうろう)
三月十日
お福より
姉上様
「こりゃアお福さまからお蝶さまにあてた手紙、十日といやアさきおととい、お蝶さまはいつだれから、こんな手紙を受け取ったんです」
「さあ、それがわたしどもにもいっこうに……」
乳母のお島はおろおろしていて、なにをたずねてもはっきりしない。
「それにしても、かねてよりの約束というのは、なんのことでしょう。また、お福さまの名まえと、姉上様というところにわざわざ三重丸がつけてあるのは……」
佐七はお蝶の病室へおもむいて、それについて問いただしてみたが、雨戸をしめきったくらい座敷のなかで、お蝶はただとりみだして泣くばかりで、なにをきいても要領をえなかった。
ほおに傷のある男
——首をくくってわたしは死にます——
「おまえさん、さっき髪結いのおせんさんがきたので、あの話、きいてみましたよ」
夕がた、佐七が家へかえってみると、お粂が結いたての大(おお)丸(まる)髷(まげ)をほこらしげにしめしながら、髪結いのおせんからきいた話というのを語ってきかせた。
「駿河屋さんの娘さんは、お久さんというんだそうですが、お福さんが神かくしになってから、おせんさんがいくと、こんなことをいってたそうです。あの晩、お福さんの様子がへんだった。みょうにしずんで口数もすくなく、まるで借りてきたねこみたいに、薄暗い座敷のすみへ、すみへと、寄っていたというんだそうです」
「なに、うすぐらい座敷のすみへ、すみへと……」
「ええ。だから、あのじぶんからお福さんには、魔がさしていたんだろうと、お久さんがいってたそうです。おまえさん。これくらいのことしかきけなかったんだけど、いいかしら」
「けっこうけっこう、上できだ」
佐七は無言でかんがえこんだが、やがて夜になってから、辰と豆六がかえってきた。
「親分、吉田町のほうはむだでした。だれもそんな船頭に心当たりはねえそうです」
「すると、やっぱりもぐりだな。ところで、馬道のほうはどうだ」
「へえ、こっちは目鼻がつきました。そりゃ不知火(しらぬい)権(ごん)三(ざ)にちがいないというんです。そいつはなんでも浪人者のせがれだそうですが、小さいときから身をもちくずし、悪事をかさねたあげくが、いまから十年ほどまえに、どこかへ強盗にはいったところを捕えられ、あやうく笠(かさ)の台がとぶところを、死一等減じられて、島送りになったやつだそうです」
「なるほど。そうすると、そいつも島からかえったばかりなんだな」
「さよ、さよ。きっと、島にいるあいだに、お吉のやつとねんごろになり、いっしょにかえってきて片(かた)棒(ぼう)かついでいるんだっしゃろ」
「それで、ふたりの居どころは……」
「さあ、そこまでは平太もしらねえんですが、なに、あいつによく頼んできましたから、だいじょうぶ、遠からずわかりましょうよ」
辰はのんきなことをいっているが、そんな悠(ゆう)長(ちよう)なことをいっている場合ではない。一日のびれば一日だけ、お福のからだに垢(あか)がつくのだ。
佐七はなんともいえぬあせりをおぼえたが、五つ(八時)ごろになって、ころげるように表からとびこんできたものがある。
「おっ、おまえは小松屋の宗七さんじゃねえか。血相かえて、ど、どうしたんだ」
「親分、親分、いま柳原土手で、ゆうべの船頭が、わたしをとらえて……」
「なに、柳原土手でゆうべの船頭にあったのか。それ、辰、豆六」
「おっと、合点だ」
ふたりが鉄砲玉のようにとびだしていったあとで、宗七が不審そうに首をかしげながら語るところによるとこうである。
さっき宗七が、柳原土手をとおりかかると、さっきからあとをつけていたらしい男が急につかつかちかよると、
「おい、若いの。ちょっとおまえに話がある。そこまで顔をかしてくれ」
ぎょっとして振りかえると、まぎれもなくゆうべの船頭、ほおかむりの下から、すごい目を光らせながら、横っ腹に匕(あい)首(くち)をおしつけた。
「なにもこわがることはねえ。おめえをどうしようというんじゃねえんだ。ちょっとききてえことがあるから、土手のうえまできてくれ」
宗七が度胸をきめて土手へあがると、男がへんなことをききだした。
「ききてえとはほかでもねえ。ゆうべおまえの忘れた刀は、いったいどこから出たんだ」
「は、はい、あれはうちのだんなの秘蔵の品ですが、お出入りさきの御前が、ぜひ見せてほしいとおっしゃるので、ゆうべ持参したんです」
「おまえのうちはどこだ」
「御(お)成(なり)街(かい)道(どう)の小松屋です」
小松屋ときいて、あいてはしばらくだまっていたが、
「それじゃ、あれは小松屋のだんなの刀か」
「いえ、だんながどなたからかお預かりの品だそうで、そのかたがかえってきたら、おかえししなければならないんです」
「しかし、ゆうべおまえはその刀を、売りにいったんじゃねえのか」
「いいえ、御前のたってのご所望ゆえ、お目にかけはいたしましたが、わざと法(ほう)外(がい)の値段をつけて売れぬように取り計らったんです」
男はまたしばらくだまって考えこみながら、宗七の顔をみていたが、
「ときに、おまえはゆうべの女を知ってるらしいが、どういうかかりあいがあるんだ」
「はい、あのかたはうちのだんなの姪(めい)御(ご)さんでいらっしゃいます」
「な、な、なんだって!」
男はのけぞるばかりおどろいて、
「でも、ありゃ宝屋の……」
「ですから、宝屋のおかみさんは、うちのだんなのお妹さんになるんです」
男はほおかむりの下から、食いいるような目で、宗七の顔をみつめていたが、
「そ、そうだったのか。知らなかった。知らなかった。しかし、それじゃてめえは、主人の姪をおもちゃにしやアがったんだな」
「は、はい、それですから、わたしは今夜、ここへ首をくくりにきたんです」
男はそれをきくと、ぎょっとしたように、宗七の顔をみつめていたが、
「よせ、死ぬのはよせ。知らなかったんだからしかたがねえ。それより、おまえはあの女をお福とよんだが、ひょっとすると、あれは姉娘のお蝶のほうじゃねえのか」
「な、な、なんですって!」
「まあ、いい。心配することはねえ。お蝶にしろ、お福にしろ、きっとおれが助けてやる。おまえかえって、だんなにこのことをいえ」
それだけいうと、ほおに傷のあるふしぎな男は、身をひるがえして、こうもりのように、やみのなかに消えていったのである……。
宗七からいまのような話をきくと、佐七はおもわず目をまるくして、
「すると、そいつはおまえさんのおき忘れた備前長船を知っているのかえ」
「そうらしゅうございます」
「それから、ゆうべの舟まんじゅうだが、おまえはどう思うんだ。お蝶さんか、お福さんか……」
「さあ、わたしにもよくわかりませんが、神かくしにあったのはお福さま。それに、お蝶さまは気がくるって、うちにいらっしゃいますから……」
「そうか、よし、わかった。それじゃ、おまえ、これから小松屋へかえって、だんなに久松町までおいでくださるようにいえ、けっして、死ぬなんぞという了(りよう)見(けん)をおこすんじゃねえぞ」
「は、はい……」
宗七が悄(しよう)然(ぜん)としてかえっていったあとへ、辰と豆六がぼんやりかえってきた。
「親分」
「権三のすがたが見えなかったんだろう。まあ、いいや、おれゃこれから宝屋へ出向いていくから、おまえたちもいっしょにこい」
因縁の長船
——宗七つぁんのほかはきれいなからだ——
「親分、ここへこいとのおことばゆえまいりましたが、なにかご用でございますか」
そこは宝屋のおく座敷である。佐七を中心として、重兵衛と太郎右衛門夫妻、ほかに宗七が、あおい顔をしてひかえている。
辰と豆六のすがたはみえなかった。
「いや、そのまえに、だんなにお尋ねしてえことがあるんですが、ゆうべ宗七さんが船におき忘れた備前長船、あれにゃいったい、どういういわくがあるんです」
「ああ、それなら、さっきも宗七にききましたが、親分、きいてください。あれにはこういう話があるんです」
いまから十年ほどまえ、小松屋へ三人組みの強盗が押しいったことがある。
強盗は抜き身でおどかし家人をしばりあげると、仕事にかかろうとしたが、さいわい丁(でつ)稚(ち)のなかにひとり、機転のきいたのがあって、すばやく家をぬけ出して、自身番へ注進したので、強盗はその場を去らず、ひとりのこらず取りおさえられたのである。
さて、その取り調べのさい、重兵衛はつぎのことをいい張った。
強盗ははじめから、刀をおびてきたのではなく、家人をおどしつけた刀は、みんなうちの商売物で、とっさにそれを腰にさしたのだと。
つまり、それは重兵衛のなさけであった。
はじめから刀をおびて押しいったとなると、いわゆる持凶器強盗で、罪もおもく、とうてい死罪はまぬがれぬ。しかし、そこにあった刀でおどしたとなると、たんなる押し込み強盗で、これだといくらか罪も軽くなるのだ。おかげで三人の強盗は死一等を減じられ、島送りとなり、刀は小松屋のものとして下げわたされたのである。
「わたしはけっして刀がほしくて、そんな申したてをしたわけではなく、三人の命をすくいたい一心でしたが、あとで下げわたされた刀をみると、二本はどうにもならぬなまくらでしたが、一本は備前長船の上作じゃございませんか。わたしもびっくりしましたが、いずれ島からかえってきたらお返ししようと、研(と)ぎにかけて、だいじにしまっておいたんです」
「いや、それでよくわかりました。ときに、だんな、そのときの三人の強盗のなかに、権三という男はいませんでしたかえ」
「はい、たしか不知火という異名があり、右のほおに大きな刀傷……」
といいかけて重兵衛はぎょっと息をのみ、
「あっ、そ、それじゃ、ゆうべ宗七が出あった船頭というのは……」
「そう、その権三なんですよ。だんな、善(ぜん)根(こん)はほどこしておくもんです。お蝶さん、いや、お福さんも助かりましょう。ただ、こんやひと晩がだいじなところで……」
「こんやひと晩とおっしゃいますと……」
「お吉のやつがこんやここへ忍んできやアしないかと思うんです」
「お吉がなにしに……?」
「離れに寝ていらっしゃるお福さん……いいえ、お蝶さんの命をとりに……」
「な、な、なんですって」
太郎右衛門はびっくりして、
「お吉がなんで、じぶんの娘を……」
「まあ、なんでもようがす。おかみさん、行(あん)灯(どん)の灯(ひ)を消してください。網を張るにゃ、あいてがとびこみいいようにしてやらねばなりません」
お常が不安そうにあかりを消すと、家のなかはまっくらである。
「みなさん、ようがすかえ。こうなると根くらべです。しんきくさくとも、がまんしてください」
こうして一同が息をひそめて待つことおよそ一(いつ)刻(とき)。四つ半(十一時)ごろになって、どこかでそおっと雨戸をひらく音。
やみのなかで太郎右衛門がぎょっとしたように、
「あ、あれはたしかにお蝶の居間……」
「しっ、だまって、だいじょうぶです。辰と豆六が張りこんでおりますから」
それからまた、骨をさすような静けさだったが、やがて、だしぬけにたまぎるような女の悲鳴、つづいて、どすんばたんと、取っ組みあうような音がきこえたかとおもうと、
「わっ、し、しまった!」
と、金切り声を張りあげたのはたしかに辰だ。なにかしくじりをやったらしい。
佐七はぎょっとして雨戸をあけ、素足のまま庭へとび出したが、そのとたん、おもわずそこに立ちすくんでしまったのである。
庭の石(いし)灯(どう)籠(ろう)を背におうて、夜(や)叉(しや)の形(ぎよう)相(そう)もものすごく、立ちはだかっているのは、三十五、六の大(おお)年(どし)増(ま)である。その足元にはわかい娘がひきすえられていて、あわれ、もう正体もない。大年増は片手に娘の髪をひっつかみ、そののど首にぴたりと匕首をあてている。
「あっ、お、お吉!」
太郎右衛門が悲鳴をあげた。
「な、なにをするんだ、それはおまえの産んだお蝶じゃないか。おまえはお福を傷ものにしたばかりか、お蝶まで殺す気かえ」
「太郎右衛門さん、いいかげんにしておくれ、おまえよくも、お蝶とお福をいれかえて、あたしをだましておくれだったね。おかげで、あたしゃじぶんの娘を、あたら傷ものにしてしまった。そのかわり、おかみさんの産んだこのお福、命をもらうからよく見ておおきよ」
お吉は夜叉の形相ものすごく、さっと匕首をふりあげたが、そのとき、
「おっと、待ちねえ。お吉、その成(せい)敗(ばい)ならおれにまかせておくがいい」
灯籠のうしろから、ヌーッと出てきたのは、ほおにすごみな傷のある、あの不知火権三である。
「おや、権三さん、おまえ、どうしてここへやってきたのさ」
「かわいいおまえのかたき討ちだから、おれもひと太(た)刀(ち)、助(すけ)太(だ)刀(ち)してやろうと思って、おまえのあとからついてきたのさ。お吉、その娘をこっちへよこしねえ」
正体もない娘のからだをお吉の手から、じぶんのほうへひきとると、
「お吉、ここらが年(ねん)貢(ぐ)のおさめどきだ。神妙に覚悟をしたほうがいいぜ」
権三のことばもおわらぬうちに、お吉はわっと悲鳴をあげると、まるで骨を抜かれたようにくたくたとその場にくずれていきながら、
「ご、権三さん、お、おまえ、どうしてこのわたしを、こ、こ、殺す……」
「かわいそうだがしかたがねえ。そのかわり、おまえひとりはやりゃアしねえ。おれもあとから追っていくから、冥(めい)途(ど)とやらで待っていろ」
もうひとえぐりきりりとえぐると、お吉はぐったりその場に倒れた。権三はお吉の脾(ひ)腹(ばら)から血にそまった刀を引き抜くと、
「もし、小松屋のだんな……」
「は、はい、わたしになにかご用かえ」
ことの意外ななりゆきに、一同ぼうぜんとして立ちすくんでいたが、そのなかから、小松屋の重兵衛がまえへすすみ出ると、
「だんな、これがせめてものご恩返し、せっかくおまえさんの計らいで、笠の台をつないでおもらい申しましたが、しょせんは裟(しや)婆(ば)に縁のねえあっしらしい。お蝶さんはそこへお連れいたしましたから、どうぞお受けとりくださいまし」
権三は刀を取りなおすと、やにわに、われとわが左の腹に突っ立てた。
「あっ、こ、これは」
「こ、これがあのときお世話になった備前長船、いまあらためて、だんなにおかえしいたします。た、宝屋のだんな、おかみさん……」
「は、はい、わたしども夫婦に、な、なにかご用でございますか」
「これだけはいっておきます。お蝶さんがはだをゆるした男というのは、そこにいる宗七つぁんただひとり、あとはきれいなからだでした。こ、こればっかりはあっしのいうこと、し、信用しておくんなさいまし」
「権三どのとやら、なんにもいわぬ。宝屋の太郎右衛門、このとおりでございます」
「権三さん……」
宝屋の夫婦が涙ながらに、両手をあわせてふしおがんだとき、権三はきりりと腹かっさばいて、われとわがのど笛をかっきっていた。因(いん)縁(ねん)の備前長船で。
古いことばだが、性は善とはこのことだろう。
それにしても、殊勝なのはお蝶であった。お蝶は去年はからずも、じぶんのほんとの素性をしった。お常の腹をいためた娘でないことを知ったのである。そうなると、じつの娘のお福よりかわいがって育ててくれた母への恩、また妹にたいする義理からいっても、宝屋のあとをつぐわけにはいかぬと思った。
そこで、大煩いをしたのを機会に、にせあほうをよそおうていたのである。
ところが、そこへとつぜん出現したのが、じつの母のお吉であった。
お吉はある晩、お蝶のへやへしのびこみ、にせあほうのお蝶をだいてかきくどいた。根性のねじけたお吉は、お蝶のにせあほうを、ほんものとおもいこんだばかりか、これもみな、お常のなせるわざだと思いこんだ。
きっとこの仕返しにはお福をかどわかして、ひとまえにも出られぬような傷ものにしてやるといきまいた。生(しよう)涯(がい)お嫁にいけぬからだにしてやるとののしった。もし、またそれに失敗すれば、宝屋に火をつけてやると放言した。
お蝶はそこで身を犠牲にして、妹の身代わりになる決心をした。お福になりすまして、わざとかどわかされた。そしてお福には当分、じぶんの身代わりをつとめるように、いいふくめておいたのである。
お福はまさか姉にそのような悲しい、おそろしい運命が待ちかまえていようとは知らなかった。小さいときから姉しだいでそだってきたお福は、ひたすら姉のいいつけを守っていた。
お吉はげんざいのわが娘ともしらず、これを舟まんじゅうにしたてて、客をとらせることにしたが、そのとき、あらかじめ、こう申しわたしたそうである。
ひと晩にひとりずつ客をとり、十日神妙につとめたら、家へかえしてやる。そして、じぶんはうらみを忘れて、権三とともに、上(かみ)方(がた)へ去るつもりだと……。
つまり、十人の男にもてあそばせて、お福を傷ものにしようというのであった。そして、このいいつけにしたがわなければ、宝屋のうちに火をつけてやるといきまくこともわすれなかった。
いずれは尼になるつもりのお蝶は、悲しく思いあきらめて、ゆうべはじめて客をとったが、それが宗七だったというわけである。
どこのだれともしらぬ男に身をまかせたとき、お蝶はけなげにも、耐えしのべるだけは、耐えしのびとおすつもりでいた。しかし、しょせんそれはむりな相談だった。
お蝶はしっかり手(た)綱(づな)をひきしめていたつもりだが、さいしょの苦痛が去るとまもなく、手綱はしだいにゆるみはじめた。お蝶はひっしとなってその手綱をひきしめようとかかったが、男のたくましいほこさきにかかっては、しょせんはむなしい努力でしかなかった。
ゆるんだ手綱は、ついにお蝶の手からはなれた。
あとは、天馬空をゆくがごとき思いに身をひたして、お蝶はみだれにみだれた。男のあやつる棹(さお)にみちびかれて、お蝶のからだは、激流となってほとばしり、潮となって満ちあふれた。
憎いはずの男のからだを、力いっぱいだきしめて、お蝶はわれを忘れてあえぎにあえぎ、ひた泣きに泣いた。
別れるときの月の光で、その憎い男が宗七であったとわかったときのお蝶のおどろき……それは思いなかばに過ぎるであろう。
権三もまたおどろいた。
かえりの舟のなかで、権三はきびしくお蝶を責めて、男のことをたずねた。ことに宗七の忘れていった備前長船をみつけたときの権三のおどろき。かれはいっそう強くお蝶を責めたが、お蝶はがんとして口をわらなかった。これ以上、累(るい)を他へおよぼすことをおそれたのである。
しかし、そのことで、すっかり動揺していたお蝶はうちへかえって盥(たらい)で行(ぎよう)水(ずい)しているとき、ついうっかり左の腕にあるあざを、母のお吉に見られてしまったのである。
そのときのお吉のおどろきも、また、どんなだったろう。われとわが手で身をけがさせたその娘が、なんと、わが腹をいためたかわいい娘であったろうとは!
外(げ)道(どう)のうらみはさかうらみとはこのことだ。お吉はこんや、悪(あつ)鬼(き)夜(や)叉(しや)とたけりくるって、ほんもののお福を殺しにきたのであった。
お蝶の心は複雑だった。
彼女は宗七を憎もうとした。恨もうとした。また、堅い、堅いといわれながら、かげでこっそり舟まんじゅうなどというけがらわしい女にたわむれる男をいやしいものとさげすもうとした。
しかし、いっぽう、あの狭い、むさくるしい舟のなかで、力いっぱい抱き合った宗七のたくましいからだやはだの感触を、お蝶はいつまでも忘れかねるのだった。
と同時に、どこのだれともわからぬ男に身をまかせながら、あんなに乱れに乱れたじぶんのことを、宗七どんはどう思っているだろうと考えると、お蝶は身も世もないほどつらかった。
ところが、その翌日権三から、宗七がじぶんをけがしたおわびのしるしに、首をくくって死のうとしたと聞いたとき、お蝶の恨みも、憎しみも、はてはさげすみもけしとんだ。あとはもう、宗七恋しさに、身も心ももえにもえた。
お蝶はそれからまもなく、伯(お)父(じ)重兵衛のはからいで、めでたく宗七と夫婦になって、宝屋ののれんをわけてもらったが、まず、からだとからだで結ばれたふたりのなかは、蜜(みつ)よりあまく、のちまでながく栄えたという。
好色いもり酒
おしゃべりあんま
——いもりの黒焼きを頼まれまして——
「へえ、へえ、そのいもりのことですがね。それをお話し申すについちゃア、どうしても、いまいった笹(ささ)井(い)さまご夫婦のことからお話ししなければわからないんで。さようでございますか。それじゃお腰をもみながら、ゆるゆるお話しさせていただきましょうか。笹井さま、名前を小八郎といって、としは二十と七、八、そりゃアもう、水のたれるようなよい男っ振りだってことでございますよ。いえ、てまえどもはかけちがって、ごあいさつをしたことはございませんが、ご近所の評判で。笹井さま、小八郎さまと、そりゃアもう、娘っ子たちが大騒ぎなんで。ところで、その笹井さまのご新(しん)造(ぞ)の浪(なみ)江(え)さま、としは三十と一、二、へえ、そうなんですよ。ご新造さんのほうがとしうえなんで。ところがねえ、親分、そのご新造さんというのが、これまた、ふるいつきたいほどのよいご器量でしてねえ。え? なんでございますって? 目がみえねえのに、どうしてそんなことがわかるって? へへへ、そりゃア親分、目が見えなくったって、そこはそれ。ながねん鍛えこんだカンてものがございまさアね。それにね、そのご新造てえのが、おっそろしく凝(こ)り性(しよう)のかたでございましてね。てまえども、よくごひいきにあずかるんでございますが、こうしておからだにつかまっておりますとな、カンてものは恐ろしいもんで、目は見えなくても、たいてい、ご器量がわかるもんでございます。親分なども、こうしてもませていただいておりますと、べつにひとのうわさをきかなくったって、人形と異名のあるくらいいい男っぷりだってことが、ちゃんとわかりますんでございますよ。いえ、あねさん、これはけっしてお世辞ではございませんので」
口からさきにうまれたような、あんまのおしゃべりをきくともなしにききながら、佐七はうつらうつらとよい気持ちである。
そばでは女房のお粂(くめ)が、くすくすわらいながら針仕事、むこうのほうでは辰と豆六が、ヘボ将(しよう)棋(ぎ)をさしながら、おりおりこっちに半(はん)畳(じよう)をいれる。
いや、まことにのどかなお玉が池の風景だが、こうなるまえには、しかし、れいによってれいのごとく、たわいのないひと悶(もん)着(ちやく)があったものである。
九月の声をきいて、きゅうに涼風が立ちはじめたせいか、佐七はこの二、三日、肩や腰がこってたまらない。そこであんまをよぼうというと、
「およしなさいよ、親分、いい若いもんがあんまをとるなんて、だらしがねえじゃアありませんか。世間へきこえたらふうがわりイや。なあ、豆六」
と、辰がまず口をとがらすと、豆六がまた、すぐそのしり馬にのるやつで、
「さよさよ、こら、兄いのいうとおりや。親分、これというのも、あんたの心掛けがようないさかいや」
「なんだ、なんだ、なんでおいらの心掛けがわるい」
「親分、まあつもってもみなはれ。その若さで、肩や腰がこるというのも、つまりはあんまり、あねさんをかわいがりすぎるせえやおまへんか。なあ、兄い」
「そうだ、そうだ、こりゃ豆六のいうとおりだ。親分、おまえさんもちとたしなみなせえ。いかにあねさんがかわいいからって、ひまさえありゃア、くっついたり吸いついたり、これじゃ二階のひとりもんはたまったもんじゃありませんや。こっちのほうがよっぽどあんまがとりたくならあ。なあ、豆六」
と、辰と豆六が調子にのってはやし立てれば、お粂もだまってはいない。
「おや、辰つぁん、豆さん、変なことをおいいだね。なるほど、親分がほうぼうこるのは、あれがもとかもしれないが、あいてはこのあたしじゃないのさ、おおかた、どっかにまた、いいのでもできたんでしょうよ」
「おや、お粂、変なことをいうな」
「あねさん、そうごけんそんなさらなくても」
「けんそんじゃないよ。あたしのほうはちかごろとんとご用なしでね、あんまり寂しいから、ちかいうちに四つ目屋へいって、いもりの黒焼きでも買ってきて、こっそりのませてみようかと思ってるくらいさ」
とお粂がいえば、佐七が言下に、
「ちっ、このうえいもりの黒焼きなどのまされてたまるもんか」
と、ついうっかりもらしたもんだから、さあたいへん、辰と豆六はケンケンゴーゴー、口(こう)角(かく)あわをとばして、佐七ならびに女房お粂の、弾(だん)劾(がい)演説と相成ったが、おりからそこへきこえてきたのがあんまの笛。
そこで、これはあんまをよんで、かれの専門家的意見をきいたらよかろうということになって、ここにはからずも、佐七の希望はみたされたというわけである。
「ねえ、あんまさん、おまえに聞けばわかると思うんだが、親分のこりはあれからきてるんだろ」
「あれって、なんでございましょう」
「おんや、あんまさん、あんたも盲のくせにカンが悪いな。つまり親分があんまりあねさんをかわいがりすぎるさかいやないか、ちゅうてるねんが」
「へへへへ」
「へへへへじゃねえぜ。それだのに、あねさんは、なおこのうえに親分にいもりの黒焼きをのますつもりだというんだから、すこしはこっちの身も察しておくれよ」
と、辰がおおげさにため息つけば、あんまはふっとまゆをひそめて、
「へへへ、いもりの黒焼きでございますか。妙でございますね。いもりの黒焼きといえば、じつはてまえも、さるおかたにたのまれて、きょう四つ目屋で買ってきたんでございますよ」
というようなことから、おしゃべりあんまのおしゃべりがはじまったわけだが、そのまえに、いもりの黒焼きなるしろものについて、いちおう説明しておこう。
いもりの黒焼きというのは、むかしから民間にもちいられた男女和合の薬、ひらたくいえばほれ薬である。
俗説によると、いもりの雌雄を竹筒の節をへだてていれておくと、三夜のうちに節をやぶって交合する。
そこを黒焼きにしたやつを粉末にして、思うあいてにふりかけるなり、さらにいっそう効果をつよめようと思うならば、酒にまぜてのませるならば、いかなる石(いし)部(べ)金(きん)