悪魔の設計図 他二篇 横溝正史 [#表紙(表紙.jpg)]  目 次   悪魔の設計図   石膏美人   獣 人 [#改ページ] [#見出し]  悪魔の設計図    田舎《いなか》芝居  世間には生まれてから死ぬまで、仕事らしい仕事は何一つせずに一生を終わる人間がある反面に時計の振子のように働きどおしに働いても、まだ時間が足りないとこぼしているような貧乏性の人物もあるものだが、おなじみの新日報社の三津木俊助という人物、彼はさしずめ後者の部類に属しているらしい。  あいついで起こる犯罪事件、その血みどろの刺激にさすが頑健《がんけん》を誇る俊助も多少神経を磨滅《まめつ》した感じで、ある時信州の湖畔へ静養に出かけたまではよかったが、後から考えるとこの旅行すら休養の足しにはならなかったのだ。いやいや、それまで彼が直面したどの事件よりも、ずっとずっと恐ろしい大事件がそこに待ちうけていたのだから、彼もよほど貧乏性に生まれついているらしい。  それはさておき、俊助が東京を立ったのは残暑のきびしい盛りだったが、さすが山国の湖畔の町へ来てみれば、朝晩はもうすっかり秋色に包まれて、こよなく俊助を喜ばせたが、それもつかの間、湖水に面した旅籠《はたご》に旅装を解いた彼は、三日も経つともう猫《ねこ》のように退屈をもてあましはじめたのだ。 「ねえ、きみ、美代ちゃんとかいったね。何かこうおもしろいことはないかね。おれはもう退屈で退屈で死にそうだよ」  お給仕に出たお美代という女中をつかまえて、俊助がまるで子供のように駄々をこねだしたのは、着いてからたしか三日目のこと。 「ほほほほほ。旦那はよほどせわしいかたとみえますわね。あたしなんざ、たまにはゆっくりと息抜きがしてみたいと思っていますのに」 「ふむ、息抜きもいいがね、どうもおれには性にあわんらしい。湖水で魚をあさるより、やっぱり都会で泥棒や人殺しを追っかけてるほうが板についてるんだね。あさましいしだいさ」 「おや、旦那はするとあれなんですか、ほら」  お美代はびっくりしたように、腰にピストルをつるまねをしてみせる。 「いや、そのほうじゃないが、新聞記者だからどのみち人にゃあまり好かれない職業さ」 「あら新聞社のかたなの。そう、それでやっぱり泥棒を追っかけたり人殺しをつかまえたりなさいますの。不思議ねえ」 「何が不思議さ、柄にもないというのかい」 「いえ、そうじゃありませんけど、ほら、隣室のお客さまね」 「うんうん、あのやぎひげを生やした、田舎《いなか》の八卦見《はつけみ》みたいな御老人かい」 「まあお口の悪い、いえね、あのかたは弁護士さんなんですってさ。ご存じありませんか? やはり東京のかたよ、名前は黒川さんていうの」 「知らないね。東京には弁護士は多いからね。やはり静養かい」 「さあなんですかね。毎晩芝居を見にいらっしゃるほか、何もなさっているようではありませんけどね」 「芝居? ああそうそう、青柳|珊瑚《さんご》大一座とかいう幟《のぼり》が立っていたが、あれだね」 「ええそうよ。珊瑚さんというのは女役者で、とても美人だって評判よ。きっとそれがごひいきなのね、殿方はいくつになってもお若いわ」  お美代はそういうと、くすくすと笑いだしたが、俊助はちょっと妙な感じに打たれたのである。  黒川弁護士とは隣室同士だから、廊下で会えばあいさつぐらいはする。いつも長いやぎひげをきれいにそろえて、度の強そうな眼鏡《めがね》をかけた老人だ。年は六十の坂を越しているのだろう。いつかその老人が外出するところを見たら、羊羹色《ようかんいろ》の紋付きに七つ下りの仙台平《せんだいひら》をはいて、天気のよいのに洋傘を持っていた。どう考えても旅回りの女役者にうつつを抜かす柄とは思えないのである。 「あら、何を考えていらっしゃるの。ねえ、旦那もひとつお芝居でも御覧になったらいかが? なんならお供させていただきますわ」 「うん、旅芝居も時にとっては一興だが」 「ねえ、お供させてちょうだいよ。二枚目にとてもきれいな役者がいるんですって。あれなんてたっけ、そうそう、都築《つづき》静馬っていうんだわ」 「こん畜生、さてはおれをカモにして、そいつの顔を見たいんだな」 「あら、そんなわけじゃありませんけどさ」 「よしよし、ひとつカモになってやろうか」 「あら、本当、うれしいわ」  というようなことから、はからずも俊助はこの旅の空で、心にもない田舎芝居を見物することになったのだが、後から思えばこれこそ彼が、あの前代|未聞《みもん》ともいうべき奇怪な犯罪に、そもそも一歩踏み入れる発端《ほつたん》となったのである。    第三幕目  小屋も小屋だったが、役者も役者だった。  背景や衣装のみじめさに相応して、役者の芸もまずかった。いやまずいというより、中にはほとんど素人《しろうと》に近いようなのもいた。だいたいが歌舞伎と剣劇をちゃんぽんにしたようなものだが、それでも、煤《すす》けた平土間を九分通り埋めた観客が、けっこう楽しそうにしているのが不思議なくらいだった。  出し物は一番目が新作で『怪談|鴛鴦《おしどり》草紙』という題がついている。粗悪な漉直《すきなお》しの番付けに刷った筋書を読むと、美しい御愛妾《ごあいしよう》がいて、忠義で美貌《びぼう》の若侍がいて、その若侍が御愛妾が生きていてはお家のためにならぬとばかり、ある夜その寝所に忍び込み、たんだ一討ち、御愛妾を殺害して逐電《ちくでん》するのだが、後にこれが御愛妾の妹と、それと知らずに契りを結ぶ、つまり一種の因果劇で、どうやら御愛妾の幽霊なども出るらしい。  いうまでもなく、この御愛妾と妹の二役が座頭《ざがしら》の珊瑚で、忠義な若侍というのが、お美代ちゃんひいきの都築静馬だった。 「旦那、ほら、あれが都築よ、きれいだわねえ」  お美代は呼吸《いき》が詰まりそうな声でささやいたが、その都築というのは、一座の中でも拙劣なので、俊助にはとんと興味をひかなんだ。それよりもむしろ観客席を見ているほうがよほど楽しかった俊助は、お美代の注意も上の空で聞き流してしまったが、後から思えばこれが俊助にとっては大失敗だったのだ。間もなくあのような大事件が起こると知っていたら、何をおいてもその役者に注目したであろうのに。——  その大事件というのは三幕目に起こったのである。筋書によると、都築静馬の若侍が御愛妾を討ち果たして立ち退く場面なのだ。  いまこれを脚本のト書流にいうと、舞台中央|上手《かみて》寄りに常脚二重《つねあしふたえ》の舞台、数寄屋《すきや》好み、渡り廊下で上手の御殿につづいている心よき所に秋草、遣水《やりみず》、石燈籠《いしどうろう》、おりおり明滅する蛍《ほたる》などよろしく、すべて御愛妾○○の方の部屋の態《てい》。——ということになるのだろう。  その二重の縁側に腰をおろして、絹張りの団扇《うちわ》を使っているのが愛妾に扮した座頭の珊瑚なのである。なるほど評判だけあってすばらしい美人だ。それに年も思ったより若く、どう多く踏んでも二十五は出ていないだろうと思われる。  お部屋さまはしばらく腰元どもを相手に、家中《かちゆう》の若侍の品定めなどをしていたが、やがて何が何して何じゃわいのうというようなせりふがあって、とど二重《にじゆう》の中に入ると、ぴたりとうしろ手に障子をしめる。  多分これから臥床《ふしど》に入る心なのだろう、するすると帯を解く姿が、いかにも挑発的なポーズとなって白い障子に映ると、そのたびに見物席から野卑な半畳がとんで満場をわかした。やがてそれも終わると屏風《びようぶ》を引き回して影は見えなくなる。腰元どもも下手《しもて》へ消えた。  と、急に舞台前面から客席の電燈がパッと一時に消えてしまうと、あとにはただ、御愛妾の部屋の障子だけが、銀幕のようにくっきりと明るく取りのこされる。  やがておあつらえの虫の声、忍《しのぶ》、三重《みえ》、鉦《しよう》の音。いよいよ若侍の出なのだ。劇場の中はシーンと静まり返って、見物のひとみというひとみは吸いつけられるように舞台に注がれている。  やがて、上手の渡り廊下から黒装束覆面の侍が忍びの心でそろそろと現われる。 「都築ッ!」  観客席から黄色いことばがかかった。お美代はむろんかたずをのんでみつめているのである。  ドドドドと風太鼓の音、鉦の響き、陰気な百万遍。——合方《あいかた》よろしくあって静馬扮するところの若侍はとど障子の中に忍びこむと、スラリと脇差《わきざし》を抜き放つのが、くっきりと明るい障子に影となって映った。 「ええい!」  ツケの音とともにさっと脇差がおろされる。 「あれえ? あ、ああああああ」  魂消《たまげ》るような声がシーンとした劇場の中に響きわたった。とその時である。黒い影はハッとしたように身をかがめたが、すぐ起き直ると、そのまま暗い舞台を横切って、風のように上手のほうへ消えてしまったのだ。 「まあ変ね、あれでも芝居かしら」  もっと纏綿《てんめん》たる情緒を期待していたお美代は、さすがにあっけにとられたようだった。 「ははははは、うまいじゃないか。今の狼狽《ろうばい》したところなんざ真に迫っていたぜ」 「だって、なんぼなんでも芝居ですもの、もっと科《しな》がなけりゃね」  お美代はいくらか不平らしい。  舞台はしばらく空虚。——やがて下手からひとりの若党が現われた。この若党はかねてからお部屋さまと密通している、御家老からの密書を持って来たのである。 「旦那、あの若党になっているのが珊瑚の御亭主なんですってさ。田代《たしろ》眼八という役者よ。まるで敵役《かたきやく》みたいな名前ね」  眼八の若党は腰元を呼び出してしばらく押し問答をしていたが、結局お部屋さまを起こそうということになって障子を開いた。障子を開くと屏風の陰から、夜具にくるまった女の頭が、かすかに観客席からも見えるのである。 「お部屋さま、もし、お部屋さま」  眼八の若党は二重に上ると軽く夜具をゆすぶっていたが、そのうちにワッと叫んでうしろにのけぞったのだ。 「ヒ、ヒ、人殺しだ! ヒ、ヒ、人殺しだ!」  むろん芝居の筋書どおりだから、だれも驚かない。ただ今までのせりふの調子と、ちょっと変わっているのを妙に思ったくらいのものである。すると眼八はしばらく、あっけらかんとした様子をしていたが、やがてまたハッと気を取り直すと、おずおずと御愛妾の側へはいよって、恐る恐る夜具をまくりあげた。 「ウワッ! 人殺し、人殺しだッ」  その真に迫った仰天ぶりに、観客席からいっせいに拍手がわき起こる。眼八はそれを聞くと、ぎょっとしたように頭をもたげたが、急にすっくと立ち上がると、 「人殺しイ、人殺しだア、だれか来てくれ」  叫びながら舞台の上で地団駄を踏むのである。見物客はそれを見るといよいよ割れ返るような拍手|喝采《かつさい》。 「田代!」 「大統領!」  眼八はそれを聞くとふいにベソをかくような表情をした。その表情がうまいとてまたもや盛り上がるような拍手喝采。喝采が大きくなればなるほど、眼八はいよいよベソをかくように顔をゆがめる。するとまた拍手、ほめことば。 「おや、こいつは少し変だぞ」  俊助が思わずハッとして体を前に乗り出した時である。ふいに舞台の上では世にも変てこな事が起こったのである。  そのお家騒動の舞台面へ、やぎひげに山高帽、七つ下りの羽織袴《はおりはかま》という滑稽《こつけい》ないでたちの老人が洋傘を片手にちょこちょこと現われたのだからたまらない。観客席はワーッと一時にわいてしまった。 「爺《じじ》イ、引っ込め!」 「手前の出る幕じゃないぞ」 「あら黒川さんだわ」  黒川弁護士は観客席の怒号叱声にも委細かまわず、ちょこちょこ走りで二重へとび上がると、ちょっと夜具のなかをのぞいてみたが、すぐくるりと振り返ると、鷲《わし》づかみにした洋傘をめちゃくちゃに振り回しながら、 「幕だ! 幕だ!」  と、やぎひげをふるわせて、気違いのようにどなったのである。その姿はこの上もなく滑稽ではあったが、しかしどっか、満場を圧するような気魄《きはく》があったので、観客はフーッと気をのまれて黙りこんでしまったが、その時早く、さっと桝《ます》の外へとび出した三津木俊助、ツツツ! と花道を舞台のほうへ走っていた。    黄水仙の紋章  何が何やら理由がわからない。  観客の怒号|喧騒《けんそう》の中に、するすると幕がしまってしまったが、やがて現われた頭取《とうどり》の、役者に故障があったから、今日はこれで打ち切り、入場料は木戸口で払い戻しますという取り乱したあいさつをきいて、はじめてただごとでないことがピーンと観客の胸にひびいてきた。 「人殺しがあったのだ」 「座頭の青柳珊瑚が殺されたのだ。さっきのあれは芝居ではなかったのだ」  観客席はたちまち上を下への大騒ぎだ。わめく者、ののしる者、泣き叫ぶ者、中にはおもしろがってねばっている物好きな連中もあったが、大半はわっとばかりに雪崩《なだれ》を打って木戸から外へとび出した。  お美代もその群集にもまれもまれて、いったん外へ押し出されたが、まさか俊助を捨てておいて帰るわけにもいかない。それに好奇心もあったのだ。横へ回って楽屋口まで来てみると、はやそこにはいっぱいの人だかり。 「どうも変だと思ったんでさあ、あのきゃっという悲鳴だが、あいつ芝居ごとだとは思えませんでしたからね。いやだ、いやだ、当分あの声が耳について寝られませんぜ」 「なんでもね、都築静馬という役者は座頭の珊瑚とできてたんだと言いますぜ。それで亭主の眼八とのあいだに、いざこざの絶え間がなかったてえ話でさ」  お美代は、ぼんやりと向こうにある小料理店の軒下を見ていたが、ふいにハッと胸をとどろかせた。モジリ外套《がいとう》の襟《えり》を立てて、人眼を忍ぶようにほの暗い軒燈《けんとう》の下に立っている男。  ——目《ま》ぶかにかぶった帽子の下から見える、くっきりと白い横顔は、まぎれもない、いま噂《うわさ》にのぼっている当の都築静馬ではないか。  お美代は急に舌がひきつって、脚がガクガクとふるえだした。と、向こうでもそれと気がついたのか、急にくるりと身をひるがえすと、スタスタと大股《おおまた》に歩きだしたが、しだいにその歩調が遠くなってきたかと思うと、やがて温泉町の湯のやみをついて、燕《つばめ》のようにまっしぐらに。——  話かわってこちらは幕の中である。  黒川老弁護士の態度から、いち速く変事をかぎつけた三津木俊助、さすがは新聞記者の臆面《おくめん》なさ、右往左往する座方や道具方を押しわけて、つかつかと二重へとび上がると、いきなり夜具をぐいとまくり上げた。見ると、女は無残にものどから乳房まで斬り下げられて、あたりいちめん唐紅《からくれない》だ。俊助はそっと女の顔をのぞきこんだが、そのとたんハッとしたように、 「や、これは違う!」 「おや、これは三津木先生でごわすな」  いやになれなれしい声に、振り返ってみると、例の黒川弁護士がきょとんとした顔で立っている。 「御名声はかねがね承っておりますじゃ。ちょうどよいところへ見えられた。しかし、先生、違うとは何が違うのですな」 「人間が違うのです。これは座頭の珊瑚じゃない。珊瑚はいったいどうしたのです」  ああ、意外、いまのいままで殺害されたのは珊瑚だとばかり思っていたのに、そこに倒れている女は、似ても似つかぬ醜い女。珊瑚を月とするならば、すっぽんぐらいの差のある女なのだ。黒川弁護士も驚いた様子で、 「お、なるほど、これは珊瑚じゃないな、これこれ眼八君、眼八君」 「へえ」  珊瑚の亭主だという眼八も、ようやくさっきの驚きから覚めかけていた。 「この女はいったい何者じゃな。いつの間に珊瑚と入れ替わったのじゃな」 「へえへえ、それは弟子《でし》の花代という女で、つまり吹き替えでございます。珊瑚はこの次の幕で、ほかの役をやらねばなりませんので、いつも屏風の中へ入りますと、この弟子の花代と替わりますんで。へい」 「それで、珊瑚君はどうしたんです。いや珊瑚君より、さっき若侍に扮した都築静馬という役者はどこにいますか」 「珊瑚はここにおりますわ」  妙にシーンとした声だった。その声にハッとして振り返ると、珊瑚が左右から弟子たちに支えられるようにして立っていた。その顔はまっ白だった。厚化粧のせいもあるだろうけれど、眼が黄色く濁って、くちびるの不自然なほど赤いのが、まるで錦絵でも見るような、毒々しい凄艶《せいえん》さなのだ。額に羽二重をおいて、抜衣紋《ぬきえもん》をした首のまっ白なのも妙に無気味だ。 「都築さんは逃げました。ここに手紙があります」 「なに、逃げた」  ひったくるようにして俊助がその手紙を読んでみると、長らく世話になったけれど、子細あって身をかくすから、なにとぞ悪しからずというようなことが、あわただしい走り書きで書いてある。 「こいつは大変だ。ともかくこの由を警察へ報告して、至急あいつを捕えなければならん」 「するとなんですか。三津木先生は都築という男が下手人《げしゆにん》だとつまりそういうお見こみでごわすかの」 「今のところ、そうとしか思えませんね、詳しいことはあいつを捕えてみなけりゃわかりませんが……」 「なに、あいつを調べるまでもありませんや。下手人は静馬のやつにきまってまさ。あいつはこの花代と。……」 「眼八さん」  ふいに珊瑚がはげしい声でさえぎった。 「おまえさん何をおいいだえ。おまえさんこそ、——おまえさんこそこのあたしとまちがえて、花ちゃんを、花ちゃんを。——」 「バ、ばかな! 珊瑚、おまえ何をいうのだ」 「いいえ、そうに違いありません。皆さん、花ちゃんを殺したのはこの眼八です。眼八をつかまえてください」  俊助はそういういさかいを聞きながら、もう一度死体の側にひざまずいてみたが、その時、ふと奇妙なものが彼の眼についた。  まっ赤な泡をブクブクと吹き出している花代の胸の上に、何やら黄色い花が一輪、おやとひとみを定めてよく見ると、それは紙でこさえた八重《やえ》水仙、それがまるで紋章ででもあるかのように、ぴったり白い乳房の上に吸いついているのだ。  俊助はどきりとして、思わずその造花を取り上げたが、あたかもよし、そこへ変事を聞きつけた警官が、おっとり刀でどやどやと駆けつけてきた。  俊助がここでもう一度、都築静馬の逮捕の急務なることを力説したのはいうまでもない。そしてもしその時、彼の言が容《い》れられて、ただちに手配していたら、案外早く静馬の逮捕を見たであろうし、そうすればまた、これから述べるような数々の恐ろしい出来事も、未然に防ぐことができたにちがいないのだ。  ところがそこに突発した意外な事故のために、そういう警官の手配にすっかり齟齬《そご》をきたしてしまったのである。  というのは、警官が珊瑚や眼八を取り調べている時だ。ふいに舞台裏から、 「火事だ! 火事だ!」  という叫び声。つづいてまっ黄な煙がもうもうとして舞台いちめんを包んでしまったのである。  火は小道具部屋から発したのだ。そして意外な殺人事件に気をとられていた人々が、ようやくそれと気がついた時にはすでに遅かった。火は手のつけられないほど燃えひろがっており、人々は殺人犯人の捜査どころの騒ぎではなかった。お姫さまも、腰元も、若党も、花魁《おいらん》も、さては警官も、弁護士も、裾《すそ》を乱してわれがちにと逃げまどう。百鬼夜行とは全くこのこと。  劇場一棟だけ焼いて、この火事が鎮火したのはやっと夜中の一時ごろ。つまりその間だけ捜査手配がおくれたのである。そしてそれだけの時間があれば、都築静馬が身をかくすのに十分だった。はたせるかな、彼の行方《ゆくえ》はいまだにようとしてわからない。——  さて読者諸君よ。  以上に述べたことは、この物語のほんの発端にすぎない。やがて舞台は東京へ移る。そしてそこで起こった数々の事件の真相には、いかに詮索《せんさく》好きの諸君をも、十分に驚かせるに足るほどの、なんともいえぬ異常さ、奇怪さがあったのだ。    黒川弁護士出現  さて、その日から早くも一ヵ月あまり経って、今日は九月の二十七日。俊助は例によって忙しく毎日毎日東京中を駆けずり回っている。しかしその間にも忘れることのできないのは、信州で経験したあの異常な事件、不幸彼は事件のあった翌日、本社からの急電によって、後に心を残しながらも急ぎ帰京したが、その後のなりゆきは、地方局の通信その他によって詳《つまび》らかに知ることができる。  案の定、警察ではまだ静馬を捕らえることができないらしい。聞くところによると、都築静馬という役者は、あの事件があった二ヵ月ほど前、つまり六月の終わりごろ、名古屋で一座に加入したもので、それもだれの紹介もなく、いきなり使ってくれと楽屋に駆けこんできたのだから、一座の者はだれ一人彼の素姓を知っている者はないのだ。ちょうどその時、珊瑚一座では二枚目に逃げられたところで、大弱りに弱っていた際とて、渡りに舟とばかり、深く詮索《せんさく》もしないで、この美貌の青年を一座に加えたというわけ。 「ありゃどうも、いままで役者なんかしたことのない、まったくの素人に違いありません」  と眼八は言ったという。  それはさておき、眼八珊瑚の夫婦も、かなり厳重な取り調べをうけたらしいが、間もなく証拠不十分のかどで、放免された。しかもこの放免には、あの黒川老弁護士がだいぶ働いたらしいのである。  それにしても、あの滑稽《こつけい》な老弁護士は、いったいこの事件でどのような役目を勤めているのだろう。いったい珊瑚一座といかなる関係があるのだろう。  どう考えても事件は単なる旅役者の痴情ざたとは思えない。何かある。何かしら異常なにおいが事件の背後に、黒雲のようにかかっている。しかも事件はまだ終わっていないのだ。  俊助が今日も今日とて、編集室で漠然《ばくぜん》とそんなことを考えていると、突然リリリリと卓上電話が鳴り出した。 「三津木君かね」  受話器を取り上げると、懐かしい由利先生の声。 「きみ、用がなかったらすぐ来ないか。いま客人があるんだが、まんざらにきみに縁のないこともない御仁だ、かなりおもしろい話があるからすぐ来たまえ」 「は、じゃすぐお伺いいたします」  俊助は電話をおくと、帽子を頭へたたきつけるようにして表へとび出していた。  さて、三津木俊助の冒険談をはじめてお読みくださる読者のために、いささか言を費やさねばならぬが、由利先生というのは、俊助の冒険談にはなくてはならぬ名探偵、もとは警視庁の捜査課長をしていたが、今では隠退して、時たま自分の気に入った事件があると、俊助を援《たす》けて自らも出馬するという奇人、齢《とし》はまだ五十に間があるのに頭髪は針金を植えたようにまっ白な、まことに風変わりな人物である。  いまこの由利先生の電話によって、麹町《こうじまち》三番町にある先生の寓居《ぐうきよ》を訪れた三津木俊助、ひと足先生の書斎へ踏みこんだ刹那《せつな》、思わずあっとばかりに低い驚きの声をあげた。  由利先生と対座している客人というのは、意外とも意外、たったいま俊助が脳裡《のうり》に思い浮かべていたあの黒川老弁護士ではないか。 「やあ、これは」  あまりの奇遇に驚けば、 「これはこれは三津木先生、わざわざの御足労恐れ入りましてごわす。また、いつぞやは御苦労でごわしたな」  黒川老弁護士は相変わらず長いやぎひげをしごきながら、老眼鏡の奥で眼をしばたたくのだ。 「いや、あなたこそ。ぼくは残念ながら途中で引きあげるのやむなきに至りましたが、あなたはだいぶ向こうのほうでお働きのようで」 「いやなに、大したことはごわせん」 「それであの一座はどうしましたか」 「なんでも解散ということでごわす。珊瑚と眼八は近く東京へ出てくるそうで、いや、もう出てきているかもしれませんて」 「三津木君、あいさつはそのくらいにしておきたまえ」  その時、由利先生がさえぎって、 「黒川さんは今日、非常におもしろい話を持ってこられたのだ。聞いてみると、きみもいささか関係があるので来てもらったのだが、黒川さん、御苦労でももう一度今の話を繰り返してくださらんか」 「いや、ようごわすとも。それじゃ三津木先生にも聞いていただいて、もう一度最初からお話しすることにいたしましょうかな」  咳《がい》一咳、そこでこの黒紋付きの老弁護士が、はたしていかなる奇怪なこの物語をなしたか。    奇怪な遺言状 「さっき由利先生にも申し上げたとおり、その男の姓名を打ち明けることだけはしばらく御容赦願いたいので、仮にAということにしておきましょう。さよう、年齢《とし》はわしより五つ六つ若いと思いましたがな。なに、わしの年齢ですかい。わしはこれで六十七になりますて。  さて、このAという老富豪、——さよう、資産は百万円ぐらいもありますかな。この老富豪がまたはや、非常に変わり者でごわしての、いまだに独身でごわす、というのにはわけがある。なんでもその男の打ち明けるのに、若いころ、非常に熱烈な——つまり恋愛をしたのでごわすが、その恋愛した婦人からきわどいところで裏切られた。爾来《じらい》、生涯妻を持つまいと決心して、今に至ったというわけでごわす。  しかし、Aとても男、ましてやそのころは血気盛んでごわしたから、生涯妻をめとらぬと決心したものの、生理的な要求というやつは、どうもならん。そこで若いころ、とっかえひっかえ、いろんな女と同棲《どうせい》したもんでごわすが、そのやり口がいかにもAらしい。  何せ、最初の失恋以来、女というものは気の許せないものと思いこんでいる男のことでごわすから、いついかなる場合でも、自分の本性を打ち明けない。身分も姓名もかくして、偽名でしばらく同棲をつづけるのでごわすな。そして飽きがくるといくらかの手切金をつかませて別れてしまう。そうしてはまた、別の女を探してきて、同じような方法で同棲する。いやまことに不埒《ふらち》な話で。  なんでもAが告白するところによると、そうしてもてあそんだ女の数が、十人以上もごわすそうで、しかも、その中の三人は、子供までできたという話で。  ところが、そうしているうちに、Aもだんだん年をとってくる、年をとると気も折れてくる、だんだん今までの所行が悔まれてくる。第一、あんなにうらんでいた、自分を最初に裏切った婦人に対しても、一種|憐憫《れんびん》の情がわいてくる。なんでもその婦人がAを裏切ったには深い事情がごわしたそうで。——それで、いろいろ手を尽くしてその婦人の消息を調べてみると、その後、さんざん苦労して、ずっと先に死亡したことがわかりましたが、その後に一人男の子が残されている。  Aはこの男の子を引きとって、自分の後継者ということにきめたのだそうで。その男の子の名前かの、これは打ち明けてもさしつかえないが、日比野柳三郎といって、今年二十七になります。  Aは何せ、自分がむかし愛した女の遺児と思うものだから、この男を寵愛《ちようあい》しましてな、遺言状を作って、遺産をすっかりこの柳三郎に譲ることにきめましたのじゃ。ところが、その後がおもしろくない。柳三郎という青年は、長い間孤児として放浪していたものだから、どうもその性質に不良性がある。いかに愛人の子供でも、こいつに遺産は譲れないと、Aもしだいに後悔してきたのでごわす。さあ、そうなると、思い出されるのは、むかし自分の女たちにうませた三人の子供じゃ。三人とも母はちがっていますが、これがみんな女で、なんとかして、その女の子たちを探し出して、遺産を分けてやりたい。そしてもし、三人とも死んでいるような場合には、その時こそ、はじめて柳三郎に遺産を譲ろうと、まあ、そういうふうに遺言状を書きかえたのでごわす。  それが、今年の五月ごろのことで、ところが、それがわかると柳三郎のやつも黙ってはいない。ある日Aと激しい口げんかをしたあげくとび出してしまったのじゃが、それきりいまだに行方がわからない。  一方、Aは躍起となって、自分の子供を捜索しはじめたが、何せ、二十年もまえに母とともに捨てた子供たち、それも別々の女にできた子供のことゆえ、なかなか居所はわからなんだが、やっとその一人だけが判明した。それがつまりあの青柳珊瑚でごわす」 「ほほう」  ここに至って俊助は思わず感嘆の声を放った。彼の想像は的中した。信州の片田舎に起こったあの事件の裏には、世にも奇怪な、そしてこみいった秘密が伏在していたのだ。 「ここまでお話しすればおわかりでごわしょう、わしがわざわざ出向いたのも、Aから頼まれて、珊瑚の身の上話を詳しく聞こうと思ったのでごわすが、ところがああいう意外な事件が突発したので」 「わかった、わかった、それじゃ花代という女が殺されたのはやっぱり、珊瑚と間違えられたのだ。そしてあの静馬というのがもしや、日比野柳三郎では。……」 「ああ、三津木先生もやっぱり、そうお考えでごわすかの」  黒川弁護士は憮然《ぶぜん》として、 「わしはついうっかりして、あの役者の顔をよく見ておかなんだのだが、後から考えると、どうもそうのように思われる。もっとも、わしは柳三郎という男にあまり会ったことがないので、はっきりはわからんが静馬があの一座へ現われた時日と、柳三郎が姿を隠した時日などを考えると、どうも同一人物ではないかと思われる節がある。で、もしそうだとすると、これは実に容易ならん話で、いやまことに恐ろしい話でごわすて」  黒川弁護士はそこでゾーッとしたように眼をつむると、 「Aも同じ意見でごわしてな、これはぐずぐずしてはいられない。他の娘たちも早く探し出さねばどのようなことが起こるかもしれん。と、そういうわけで恥をしのんで御助力を仰ぎに参上したようなわけでして」 「なるほど、いやよくわかりました」  話している老弁護士の顔をじっと注視していた由利先生は、その時、やおら身を起こすと、 「お話を承ってみますと実に奇怪な事件で、わしもなんとかして、お手助けをして差し上げたいと思うが、それで、ほかの二人の娘さんの名前は?」 「はい、二人とも私生児ゆえ、母方の姓を名乗っておるはずでごわすが一人は萩原倭文子《はぎわらしずこ》、もう一人は桑野千絵という名前でごわす。倭文子は今年二十三、千絵は二十一になるはずじゃそうで。ここに二人の母に関する書類を持ってまいりましたが」 「お預かりしておきましょう」  由利先生は部厚な書類のとじものをバラバラと指で繰ってみる。 「それから、もう一つ、その娘たちには大きな目印がごわすのだそうで、というのは、Aという男は、子供がうまれた時、いつもその左腕に水仙の刺青《いれずみ》を、のちのちの証拠にしておいたのだそうで」 「ええ、水仙ですって?」  俊助はハッと顔色をかえた。 「さようでごわす。珊瑚にはたしかにこれがごわすからこのほうは間違いないようで、ほかの娘たちもそれを証拠に、一刻も早く探していただきたいもので」 「わかりました。できるだけ御期待に添うようにいたしますが、もう一つおたずねがあります。ほかでもないが、もし三人の娘のうち、一人でも死んでいたら遺産はどうなるのですか」 「はい、その場合にはほかの二人が、死んだ娘の分を分けることになりますので、もし、二人死んでいた場合には、一人が全部もらう。つまり一人でも娘が生きていた場合は、柳三郎の手には一文も入らないことになるので」 「ううむ」  由利先生は何を思ったのか、思わず太いため息をもらしたのである。    二つの仮面 「三津木君、きみはいったいこの話をどう思う」  黒川老弁護士が立ち去った後である。由利先生はしばらく虚脱したようにじっと瞑目《めいもく》していたが、やがてかっと眼を開くと、俊助のほうを振りかえった。 「どう思うって?」 「いや、実に言語道断な遺言状じゃないか。これではまるで犯罪を教唆《きようさ》するようなものだ。いや柳三郎ばかりじゃない。珊瑚だってそうだ。きみ、珊瑚がこの内容を知って見たまえ、人情として自分の分け前が多からんがためには、当然ほかの娘たちの死を願うようになるじゃないか。しかも、姉妹とはいえ、彼らは今までついぞその存在すら知らなかった。まったくあかの他人も同様だ。ほかの娘にしても同じことがいえる。いや、恐ろしい、実に恐ろしい遺言状だ」  由利先生はそういって思わず身ぶるいをしたが、また急に思い出したように、 「時に三津木君、きみはあの黒川という老弁護士をどう思うね」 「え? 黒川弁護士ですか」 「そうさ、きみ、あいつは食わせ者だぜ。どうもあのやぎひげは付けひげらしい」 「え、なんですって?」 「あいつ変装して、まんまとわしの眼をくらませたつもりらしいが、そうはいかん。どうも油断のならんやつだ。なに、今に面皮をはいでやる。あいつばかりじゃない。Aという老富豪とやらも——」  と、言いかけたが、何に気づいたのか、突然由利先生はぎょっとしたように眼をすぼめると、次の瞬間、爆発するように腹をゆすって笑いだした。 「先生、ど、どうかしたのですか」 「いや、こいつはたまらん。とんだお茶番だ。畜生、まんまと一杯くわせやがった。三津木君。——」  と何か言いかけたが、また思い直したように、 「いや、いずれ後に話そう。それより大至急で倭文子、千絵の二人を探さねばならん。どちらにしても二人の身に危険が迫っていることだけは確かだからね」 「しかし、先生、探すといったところで、まさか水仙の刺青だけじゃ。——」 「三津木君、当てもない捜索をこのわしが引きうけると思うかね。いや記憶力というものは大事なものじゃて。三津木君、そこにある六月の新聞の綴込《とじこ》みを取ってくれたまえ」  俊助はあっけにとられた顔で、古い新聞の綴込みを取ってやると、由利先生はバラバラとそれを繰っていたが、やがて、 「あった、あった」  と叫びながら、俊助のほうへ差し出したのは六月二日付けの三行広告のページ、由利先生の指さすところを見れば、なんとそこには、 ————————————————————————————————————————    青 柳 珊 瑚 ——当年 二十五歳    萩 原 倭 文 子 ——同  二十三歳    桑 野 千 絵 ——同  二十一歳    右三名ノ住所オ報ラセノ方ニハ薄謝ヲ呈ス。    姓名在社 ———————————————————————————————————————— 「あっ!」 「どうだい、だから記憶力というやつは馬鹿にならん。いま話を聞いているうちに、わしはすぐこの広告を思い出したのだ。三津木君、この新聞は君のいる新日報だぜ」 「よろしい、聞いてみましょう」  俊助はただちに電話を取り上げると、広告係を呼び出して、この奇怪な広告主の名を聞いていたが、やがてガチャンと受話器をかけると、 「わかりました。広告主の名は都築静馬、住所は牛込《うしごめ》B町三番地、すぐ行きましょう」  俊助と由利先生は、風のように飛び出して行った。さて、俊助と由利先生が都築静馬のかくれ家で、いかなる奇怪事を発見したか。それを説く前に物語は少し後へ戻る。  こちらは由利先生の寓居を出た黒川弁護士、待たせておいた自動車に乗ると、 「駒形橋の際まで」  と、簡単に命じた。  ところが、自動車が駒形まで来た時である。 「よし、ここでよろしい」  運転手に命じてストップさせると、自らドアをひらいて中から出てきたのは、意外にも黒川弁護士とは似ても似つかぬ老紳士なのである。あのやぎひげもない。度の強そうな眼鏡も影を消して古風な山高帽も、新しいソフトに代わっている。あの時代物の黒紋付き、これはどうなったか、合いのインヴァネスを着ているのでわからない。 「や、あなたは?」  運転手がびっくりするのを、 「ははははは、なに、友人をちょっとからかってやったのさ、驚いたかい」  老紳士は金を払うと、スタスタと歩き出す。杖代わりに突いているあの古びた洋傘だけが、辛うじて黒川弁護士の面影を伝えているのである。  老紳士は駒形橋を渡ると、そこを左へ折れた。少し行くと大きなお宮がある。そのお宮の境内《けいだい》まで来た時である。老紳士は何を思ったのか、いきなりインヴァネスの袖をひるがえして、さっと傍の御《み》手洗《たらし》の陰に身をひそめた。と——、間髪を入れず、同じこの境内へ急ぎ足で入ってきた男がある。  黒いモジリを着て、鳥打帽を目ぶかにかぶり、黒眼鏡をかけた男だ。男は急ぎ足で御手洗の前まで来たが、そこでふと足をとめると、 「はてな、どこへ行きやがったのかしら。いやに足の早い爺《じじい》だ」  つぶやきながら、きょろきょろと人気《ひとけ》のない、黄昏時《たそがれどき》の境内を見回しているその時、御手洗の陰から蛇《へび》が鎌首《かまくび》をもたげるように、そろそろと顔を出したのは怪しの老紳士、洋傘を逆手に持っていやというほどたたき下ろしたからたまらない。 「あっ!」  と、叫んで倒れる黒眼鏡の男の、その眼鏡を外してみて、 「ナーンだ、こりゃ眼八か」  と、いくらか失望したようにつぶやいた。 「わしゃまた、三津木俊助かと思ったのに」  ああ、さるにても、黒川弁護士と名乗るこの怪老人は、いったい、何者なのだろうか。    悪魔の設計図 「B町三番地? へえへえ、三番地ならこの露地の奥の突き当たりでございます。しかし、旦那さま、三番地にゃいまだれも住んではおりませんようで。表札があがっていることはあがっておりますがね」 「いや、いいんだ。だれもいないほうが好都合だ」  角の煙草屋の親爺に教えられた由利先生と三津木俊助、すでにたそがれかけた薄暗い露地を入るとその突き当たりにあるのは、割に小ザッパリとしたしもた屋[#「しもた屋」に傍点]だ。格子《こうし》のわきにある表札を見ると、粗末な木片に都築静馬。 「ここですね」 「よし、入ってみよう。どうせだれもじゃまをするやつはありゃせん。どこか開いていないかね」  俊助が試みに格子に手をかけると、意外にも難なくスルスルと開いた。 「おや、開いてますぜ」  俊助が勢いこんで中へ踏み込もうとするのを、 「まあ、ちょっと待ちたまえ」  片手で制した由利先生は、かねて用意してきた懐中電灯を取り出すと、まず念入りに三和土《たたき》の上を調べてみる。 「見たまえ、近ごろだれかやってきた者があるぜ。下駄の跡がついている。それも女だ」  なるほど、ほこりのたまった三和土の上には、うっすらと駒下駄の跡がついている。 「よし、踏み込んでみよう」  二人は玄関の障子を開いて上へ上がりこんだが、上がってみて驚いた。家の中はまるで空家も同然、道具といっては何一つない。 「なるほど、これじゃ玄関を開けっ放しにしておいて平気なのも当たり前ですね」 「ふう、ここは新聞社からの通知をうけるためにだけ、仮に設けておいた隠れ家にちがいない、おや」  由利先生が思わず声をあげたのも無理はない。その時、ふいに二人の鼻先に、ボヤッと電気がついたのだ。 「電気が来ている。してみると、電気料だけは払っているにちがいないね。ともかく、もう少しその辺を探してみよう。何か手懸かりになるような物があるかもしれないぜ」  二人は早速手分けして家の中を探しはじめた。探すといってもあまり広からぬ住居だ。四畳半が二つに六畳が一間、ただ庭だけがかなり広くて、その庭の一隅に、天を摩《ま》すような欅《けやき》の大木が亭々とまだ暮れやらぬ空にそそり立っていた。  俊助は何気なく縁側に立って、その欅の幹をながめていたが、ふいに、 「セ、先生!」  と、何ともいえぬ異様な声で呼ぶのだ。 「ど、どうしたのだ。三津木君」 「先生、ぼくの眼はどうかしたのでしょうか。いやいや、ぼくは気が狂ったのでしょうか」 「な、なんだ、いったい何を見つけたのだ」 「あの欅の幹です。ほら、幹の途中から生えて、ふわふわ風にそよいでいるのは、あれは女の髪の毛じゃありませんか」 「あ」  由利先生はいきなり、庭へとび下りると、欅の側へ駆け寄ったが、さすがに由利先生ほどの剛のものも、いま、自分の眼前に突きつけられた世にも恐ろしい光景を見た時、思わず白髪が逆立たんばかりの恐ろしさに打たれたのである。  その欅の大木というのは、おそらく洞《ほら》になっていたのにちがいない。それがいま、真新しいセメントでぎっちり充填《じゆうてん》されているのだが、そのセメントのちょうど人の高さぐらいのところからひと握りの長い髪の毛が生え出して、バサリバサリと冷たい秋風に揺れているその恐ろしさ。 「三津木君、きみ、大急ぎで角の煙草屋へいって、何か獲物《えもの》を借りてきたまえ。それから、警官を呼ぶように、大至急、大至急!」 「承知しました」  俊助は転げるように飛び出していったが、やがて両手にかかえてきたのは鶴嘴《つるはし》とシャベル。 「警官はすぐ来るでしょう。親爺に頼んできました。とにかくこのセメントをたたきこわさなきゃ」 「よし!」  そこで世にも恐ろしい発掘作業がはじまったのである。  がらがら! がらがら!  鶴嘴を打ちおろすたびに、セメントが崩れて、やがてその隙間《すきま》から、まっ白な女の脛《はぎ》が見えはじめた。いまはもう疑うべくもない。あの髪の毛は単独に木から生えたのではない。その根元には恐ろしい物が——人間の死体がつづいているのだ。  やがて警官が来る。弥次馬が来る。その人たちの助力によって、ようやく欅の洞から死体が掘り出されたのはそれからおよそ一時間ばかり後のこと。 「三津木君、左の腕を調べてみたまえ。水仙の刺青があるかね」 「あります」  女は二十二、三のかわいい当世風の美人だった。のどをしめられたらしい。白い首に紫色の指の跡がのこっている。 「かわいそうに、倭文子か千絵のどちらかにちがいないが、しかしいったいどちらだろう」  由利先生がつぶやいている時だ。俊助がふと、うずたかく積みあげられたセメントの中から、一冊の手帳を拾いあげたのである。 「先生、こんなとこに手帳がありましたぜ。どうやら洞の中から出てきたらしい」  ほこりを払ってバラバラとページを繰っていた三津木俊助。 「あ、先生、こんなことが書いてあります」 「どれ、どれ」  由利先生はその手帳を六畳からもれる電気の光にすかしてみたが、 「あ!」  思わずさっと顔色をかえたのである。 [#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]   青 柳 珊 瑚(旅役者)——失敗   萩 原 倭 文 子(事務員)——スミ   桑 野 千 絵(浅草凌雲亭)出勤——九月二十七日 [#ここで字下げ終わり]  恐ろしい悪魔の設計図、世にも奇怪な殺人予定表! 「三津木君、今日は九月二十七日だね」 「そうです」 「行こう!」  ふいに由利先生が俊助の手をひいて走りだした。 「ここは警官にまかせておけばいい。千絵を——千絵を救わねばならん!」  手短かに警官にことのいきさつを話しておいて、二人が脱兎《だつと》のごとく走りだした時、にわかにザーッと瓦《かわら》をたたいて暗い雨が落ちてきた。    間一髪  ここは吾妻橋際《あずまばしぎわ》、ポンポン蒸気の乗り場である。時刻は夜の八時ごろ。  暗い河の上には、ポンポン蒸気の灯《ひ》がわびしく揺れて、しだいに殖《ふ》えてくる乗客を待っているのである。  雨はここにも降りしきって、河の上に渦のような波紋を作っている。 「いや、とうとう本降りになりましたな。この調子ではなかなかやみそうもない」 「困りましたな。私ゃ言問《こととい》でおりてから、だいぶ歩かなければならんのだが」  商人らしいのが、隅のほうでしきりに雨を気にしている。その向こうでは一人の青年が、窓に顔を伏せるようにして居眠りをしている。  おりからそこへ、まだうら若い娘が十二、三の女の子に手をひかれて、ごとごとと桟橋《さんばし》を下りてきた。 「姐《ねえ》さん、危くってよ。ほら、それが渡し板、わかって?」 「ええ、わかったわ。ありがとう、蔦代《つたよ》ちゃん」  見れば娘は眼が見えぬらしい。かわいそうに、眼さえ見えれば十人並み以上の美人だのに。——結綿《ゆいわた》に結った髪の格好が、ふっくらとした中高《なかだか》の面差《おもざ》しによく似合って、まっ赤な半襟《はんえり》が燃えるように白い頤《おとがい》を彩っている。 「姐さん、さあこちらへいらっしゃい。いい具合に空いていたわ」 「あらそう、結構ね」  娘は少女に手をひかれて、さっきから居眠りをしている青年のかたわらに腰を下ろすと、ほっとしたように、 「ほんとうに憎らしい雨ね、蔦代ちゃん、あんたぬれたでしょう」  と、見えぬ眼の手探りで少女の肩をなでてみる。 「あら、あたしはぬれても平気よ、だけど姐さんは困るわね。あらあら、せっかくの花簪《はなかんざし》がぐしょぬれになっているわ」 「あらそう」  娘は首をかしげて、頭にさした大きな花簪を抜きとると、ホーッと口で息をかける。  さっきから向こうの席で、このいじらしい二人の姿を見ていた商人風の一人が、その時はじめて口を開いた。 「おまえさんがた、これからどちらへ行きなさる」 「あら、あたし?」  答えたのは少女のほうだ。あどけない眼をパチパチさせながら、 「これから千住《せんじゆ》へ行きますの。そして千住がすめばまた本所のほうへ回らなければならないの。いやンなっちゃうわ。これだから掛け持ちは困るわ」 「まあ、蔦代ちゃん、おまえさん、そんなもったいないことをいうもんじゃないわ」  盲目の娘が優しくたしなめるのを見て、 「ああ、おまえさんがたはいま、凌雲亭《りよううんてい》へ出ていなさる、あの盲目の手品使いじゃな。そうそう、お千絵さんとかいったっけ」 「あら、旦那、ご存じ、どうぞごひいきに」  蔦代が小まちゃくれたあいさつをしたので、蒸気の中は一時にどっと笑いくずれる。そういううちにも客は刻々と殖《ふ》えて、立錐《りつすい》の余地もないまでになった。  やがて、ガランガランと鈴を振る音がする。出発の合図だ。と、そこへ、あわただしく駆けつけてきた二人の紳士。 「おっととと、ちょっと、われわれも乗せてくれたまえ」  二人連れが乗りこむが早いか、ポンポン蒸気は名前どおりのポンポンという音を立てて出発する。一度、河心で方向転換すると、それから降りしきる雨をついて、まっすぐに言問橋へ。ポンポンポンポン。 「や、これはえらい人だ」 「先生、しかたがないからここに立っていましょう。危いがしかたがありません」  言うまでもなく、最後に乗りこんだ二人連れとは由利先生と三津木俊助、いま浅草《あさくさ》の凌雲亭を訪れて、千絵の行先を聞いてきたのだが、ああ、それにしても彼らは同じ船の中に、探ぬる千絵が乗っていると知るや知らずや。憎らしいのはおりからの満員の客である。  客を満載したポンポン蒸気は、ガクンガクンと牡牛のように船体を揺すぶりながら、黒い水を蹴って進んでゆく。雨はいよいよ激しくなった。 「おお、こりゃひどい、三津木君もう少し中へ入りたまえ。これじゃやりきれん」  由利先生が船室へ割り込もうとした時である。にわかに船のもう一方の側が騒がしくなってきた。 「あ、何をするのよ、姐さん、姐さん、あ、だれか来てえ」  その拍子に蒸気がガクンと大きく揺れた。いつの間に近づいてきたのか、一艘のモーター・ボートが軽く蒸気に接触したのだ。 「あれえ! だれか姐さんを、——姐さん、姐さん、お千絵姐さん」  その声にハッとした由利先生と三津木俊助が、甲板の外へ駆け出してみると、いましも青眼鏡をかけた青年が、ひとりの娘を小脇にかかえてさっとモーター・ボートに飛びのるところだ。  降りしきる雨の中に、ちらとその横顔を見た三津木俊助、思わずまっ青になった。 「あ、都築静馬だ!」  そのとたん、モーター・ボートはタタタタタとけたたましい音を立ててポンポン蒸気から離れていく。その距離はしだいに大きくなっていった。  降りしきる雨の隅田川、遠ざかりゆくモーター・ボートの中には都築静馬が、千絵をかかえてそれこそ幽霊のように体をそよがせながら突っ立っている。 「姐さん、お千絵姐さん」    青髯と三人の女  眼前に怪ボートを見ながらどうすることもできぬ口惜しさ。おまけにあいにくのこの霧しぶき、怪青年都築静馬と盲目の千絵を乗せたボートは、あれよあれよと立ち騒ぐポンポン蒸気を尻眼《しりめ》にかけ、瞬《またた》くうちに姿を消してしまった。 「姐さん! 姐さん! ああ、とうとう姐さんを連れていってしまったわ」  舟縁に泣き伏した蔦代の側へ、人ごみをわけて近寄ってきたのは由利先生と俊助だ。 「姐や、あの人はおまえの連れかえ」 「ええ小父さん、あたしの姐さんよ。姐さんを奪《と》られてしまって、あたし、あたし——」  蔦代はしくしく泣きじゃくっている。 「きみの名はなんていうの?」 「あたし、蔦代といいます」 「そうかよしよし。泣かんでもいい。小父さんが姐さんを取り戻してやるからね。三津木君、蒸気を岸へ着けさせたまえ。ほら蔦代ちゃん、おまえもいっしょに姐さんを探しにいくんだよ」 「あら、そいじゃ小父さんは警察のかたなの」 「ああ、そうだ、そうだ」  ポンポン蒸気はすぐ岸へついた。いぶかしそうな乗客の眼に送られた三人は、岸へあがるとすぐ別のモーター・ボートを探し出した。これに乗った三人は、そこで再び霧しぶく隅田川をまっしぐらに下流へと向かうのだ。 「蔦代ちゃん。おまえお千絵さんの妹かね」 「ええ、でもほんとの妹じゃないの。姐さんもあたいも今のおっ母《か》さんにもらわれてきたのよ。おっ母さんはいつもお酒ばかり飲んで、あたいたちをいじめるの。ねえ、小父さん、ほんとに姐さんを取り戻してくださる?」 「おお、取り戻してやるとも」  自信ありげに言ったものの、思えば心もとない話。あの大欅に女の死骸《しがい》を塗りこめた手際から見ても犯人は鬼畜のごとき人間なのだ。その鬼畜の手に捕らわれて、はたして千絵は無事であり得るだろうか。 「先生、これはどうもだめらしいですね」  行き交う船ごとに怪ボートの消息をたずねていた俊助は、やがて絶望したようにつぶやいた。なにせ雨の夜更けの隅田川、行き交う船も至極まれに、おまけに他の船に注意を払うひまなどなかったのも無理ではない。  こうして一時間あまり暗い河上をさまよい歩いたが、ついに怪ボートの消息はわからない。途中水上署のランチに出会ったが、これまたなんの消息ももたらさぬ。魚はついに網から逃れたのだ。静馬はいったい千絵をどこへ拉《らつ》し去ったのであろうか。 「泣かなくてもいいよ。何かわかったら知らせてあげるから、今夜はこれでお帰り。おまえのほうでも姐さんから便りがあったら、すぐ小父さんのところへ知らせにくるんだよ」 「ええ、小父さん、お願いします」  蔦代はけなげにうなずいたが、それにしてもこの少女が、その後あんな目ざましい働きをしようとは。——しかしそれは後のお話。  こうして由利先生は事件の第一歩においてまんまとしくじったが、さてそれから二日目の午下《ひるさが》り麹町三番町にある由利先生の宅へやってきたのは余人ならぬ俊助だ。 「先生、わかりましたよ。大欅の中に塗りこめられていたのは、やっぱり萩原倭文子でした」  俊助の話によるとこうなのだ。 「倭文子は丸ノ内に勤めている女事務員で、住居は渋谷《しぶや》の某アパートでしたが、一週間ほどまえから行方がわからないので、大騒ぎをしていたところでした。性質は内気なほうで親戚《しんせき》も友人もなく、さびしい生活でしたが、近ごろになって少し妙なところがあったという話です」 「妙というと?」 「つまり恋人ができたらしいんですね。時々勤め先へ若い男が訪ねてきたそうですが、すると傍《はた》の見る眼もいじらしいほどソワソワしていたという話です。ところで、その男ですが、こいつが間違いもなく、例の都築静馬らしいんですよ」  俊助はポケットから一通の手紙を取り出すと、 「これは倭文子の部屋にあったものですが、御覧なさい、静馬からですよ」  由利先生は急いでその手紙を読み下す。 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]  ——愛《いと》しい倭文子さま。昨日はなんという楽しい日であったでしょう。あの郊外の平凡な風景も、あなたゆえにぼくは生涯忘れることができないでしょう。お別れしてからのさびしさやるせなさ、ああ、恋とはかくも人を物思わしくするものか。ごめんください、お目にかかってまだ日浅いぼくが、こんなことを言ってさぞあなたは御迷惑でしょう。しかし、ぼくはもう打ち明けずにいられない、ぼくは一日もあなたなしには暮らしていけなくなりました。お願いです。もしこの無礼な手紙をお許しくださるなら明夜八時、牛込B町三番地へぼくを訪ねてくださいませんか。ぼくの胸はもうあなたの想いで張り裂けそうです。どうぞどうぞ、ぼくを絶望の淵《ふち》にたたきこまないように。 [#ここで字下げ終わり] [#地付き]都築静馬拝   「いかがです。先生、実に巧いものじゃありませんか。この手紙に誘《おび》き寄せられたのが倭文子の運の尽きなんですね、それにしても静馬というやつは、女に対して不思議な魔力を持っていると見える。女役者の珊瑚といいこの倭文子といい——この調子だと千絵の生命も危いものです。女をもてあそんでしまいに殺す、あいつは恐ろしい吸血鬼です。西洋の伝説に出てくる青髯《あおひげ》なんですね」 「ふむ、そうかもしれない」  由利先生は何か凝然《ぎようぜん》と考え込んでいたが、その時ジリジリと鳴りだしたのは卓上電話。 「ええ、こちらは由利、ああ、黒川さん?」  由利先生はちらと俊助に眼配《めくば》せすると、 「ええ、そう、B町の死体は倭文子でした。そして千絵は静馬に誘拐《ゆうかい》されました。それについてぜひお眼にかかりたいのですが、ええ、なんですって? 珊瑚が東京へ出てくる? 今夜、新宿へ九時着の列車で——承知しました。迎えに行ってみましょう。あなたは用事があって行かれない。なるほど、珊瑚がいたら麻布狸穴《あざぶまみあな》の芥田《あくただ》貞次郎氏宅へつれていくんですね。麻布狸穴芥田貞次郎氏ですね。承知しました。ではいずれその時。——」  受話器をかけると、由利先生はきっと俊助と眼を見交わした。芥田貞次郎——その人こそ、あの奇怪なA富豪とやらではあるまいか。    簪《かんざし》通信  さてもその夜、由利先生と俊助は、はたして無事に珊瑚を迎えることができたであろうか。それをお話しする前に、筆者はぜひとも千絵のその後の消息を語っておかねばならぬ。  ここは江戸川を隔てて東京と向かいあっている行徳《ぎようとく》のかたほとり、こんもり繁った森陰に一軒の水車小屋が立っている。ガタンゴトンと水車は回れど、絶えて訪れる人もないこの水車小屋の中で、いましもぴったり寄り添っているのは、ああなんということ、あの怪青年の都築静馬と盲目の千絵ではないか。 「静《し》イさん、あなたはどうしてため息ばかりおつきになるの。何か心配事があるのなら、この千絵にも分けてちょうだいな」  甘えるような千絵のことば。 「何さ。何でもないんだよ」 「そうかしら。だっておかしいわ。何もきくなとおっしゃるけど、あたしきかずにいられない。ねえ静イさん、あたしどうしてこんなところに隠れてなきゃいけないの。なぜ蔦代ちゃんに居所を知らしちゃいけないの。あたし不思議でたまらない。引っさらうようにあたしをここへ連れてきて——あの時、あなたとわかるまで、あたしどんなに驚いたでしょう。蔦代ちゃんだって、きっと心配しているだろうと思うのよ」 「千絵さん」  静馬は青い顔をして千絵の肩に手をおくと、 「おまえ、誓っておくれ、ぼくに無断でここを出ていったり、だれにも居所を知らせたりしないということを、ぼくを愛してくれるなら、ハッキリここで誓っておくれ」 「それは静イさん、あたしあなたを愛しているわ。死ぬほど恋しているわ。人間て妙なものね。お眼にかかってまだ一月にもならないのに、こんな気持になるなんて、ええ、静イさん、あたし誓うわ。あなたのおっしゃるとおりするわ。だから静イさん、だから。——」  その時、だれか入ってきたので、二人はハッと側を離れた。 「おやおや、お楽しみのところをすまないね」 「ああ粕谷《かすや》君か、何か用?」  粕谷というのはこの間、怪ボートを運転していた男だ。 「うん、ちょっと」  静馬は立って粕谷と何かひそひそ話をしていたが、ふいにさっと顔色が青ざめた。 「それじゃ珊瑚が? 今夜九時に?」  二人はなおも、低い声で密談をしていたが、やがて静馬は千絵の側へかえってくると、 「千絵さん、ぼくはちょっと出かけてくる。おまえさびしくても我慢していておくれ。さっきも言ったように決して外へ出ちゃいけないよ」  言い捨てると返事も待たず、そそくさと出ていったあとには、千絵が悄然《しようぜん》とただ一人。  彼女は思わず深いため息をもらすのだ。静馬がはじめて千絵の前に現われたのはつい一月ほど前のこと、そして彼女はたちまち身分も定かならぬこの男の不思議な魔力に魅せられたのだ。彼女はなぜ自分がこんなところにかくれていなければならないのか知らない。なぜ蔦代に居所を知らせては悪いのかもわからぬ。  彼女は盲目的に男の命令に従っているのだが、いま、千絵はふいに襲われたような寒さを感じた。うれしい語らいの間にも、決して打ち解けない男の体温の、一種異様な冷たさを思い出したのである。 「そうだわ。静イさんはああおっしゃるけど、あたし蔦代ちゃんに知らさずにいられない。きっと心配しているに違いないんですもの」  千絵は懐中から白粉紙《おしろいがみ》と鉛筆を取り出した。  彼女は生来の盲目ではない。十二の年に熱病を患ったのがもとで、視力を失った彼女は片仮名ぐらいは書けるのだ。千絵はおぼつかない手探りで、一字一字離して書いていった。 [#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]   ツタ代サン、私ハブジデス。ワタシハイマ、ギョートクノ水シャバニイマス。 [#ここで字下げ終わり]  それを祝儀袋《しゆうぎぶくろ》の中に入れると上にこう書いた。 [#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]   コレヲヒロッタ人ハ、アサクサ、リョーウンテイ、ツタ代サンニワタシテ下サイ。 [#ここで字下げ終わり]  書き終わった千絵はにっこりわらって、 (そうだ、あれがいいわ)  手探りに探し出したのはこの間粕谷が飲んだビールの空瓶《あきびん》、その中へ手紙をつめると、ふと思いついて花簪《はなかんざし》を栓にさしこんだ。 (蔦代ちゃんの手に入っても入らなくても、こうすればあたしの気がすむのだわ)  窓を開くと下はすぐ川である。千絵が手を振ると、ドボーンと瓶は川へ落ちていった。  千絵はその音を聞くと、やっと安心したように微笑したが、この手紙は彼女の予期しないほどの速さで、全く奇蹟的な速さで蔦代の手もとに届けられることになったのだ。  というのは、この水車から一里ほど下流で釣をしていた男が夕方ごろ、ふと花簪のついたビール瓶の流れてくるのに眼をとめたのだ。彼は瓶の中からあの手紙を発見すると、非常な好奇心にとらわれた。幸いその男は下谷《したや》へ帰る道順だったので、途中浅草へ寄ったが、いい工合にそこへ蔦代も来合わせていた。  蔦代は手紙を読むとすぐ、麹町の由利先生の宅へ駆けつけた——と、ここまでとんとん拍子だったが、あいにくその時由利先生は、新宿駅へ珊瑚を迎えにいった留守《るす》中だったのだ。  落胆した蔦代が、手紙をおいて表へ出ると、 「おい、姐や、ちょっと待ちな」  柳の下からズイと側へよってきた男がある。黒いモジリに青眼鏡、役者のような男だった。 「姐やは何か由利先生に用事があったのかい。おりゃこれから先生の出先へ行くんだが、なんならことづかってやろうか」 「あら、そう」  賢いようでもまだ子供だ。つい引き込まれて、 「そいじゃね、こう言ってちょうだい。お千絵姐さんは行徳の水車場にいるんですって。どこの水車場かわからないけどそう言ってきたのよ」 「ああ、行徳の水車場だね。よし」  男はそのまま飛ぶようにやみのなかを走り去った。この男こそだれあろう、先日黒川弁護士に、したたか頭を殴られて、気を失った珊瑚の亭主、あの田代眼八なのだ。  蔦代はそんなことは知らなかった。が、なんとなく不思議な男の素振りに、急に不安がきざしてきたのか、さっと顔青ざめると、どこへ行くのかこれまた一目散に。——    静馬の先手  電気時計が九時をさして、いましも新宿駅へゴーッと入ってきた上り列車。そのごった返す混雑の中へ降り立ったのは、二十五、六の鬘下地《かずらしたじ》に結った女、地味なコートを着ているが、どこか艶《えん》な姿を見つけて、つかつか側へ寄ってきたのは、いうまでもなく由利先生に俊助。 「ああ、珊瑚さん」  俊助に声をかけられて、 「おや、どなたさまでしょうか」  珊瑚はいぶかしげに首をかしげる。 「お忘れですか。いつか信州でお目にかかった、新聞記者の三津木俊助ですよ」 「おやまあ、すっかりお見それしちまって」 「なに一山いくらの口ですからね、こちらは由利先生、——実は黒川弁護士の代理でお迎えにあがったのですよ」 「あら、そうでしたの、それは失礼しました」  珊瑚を中に、三人が改札口を出るとそこへつかつかと自動車の運転助手が近づいてきた。 「由利先生でいらっしゃいますか。黒川さんの御命令でお迎えにまいりました」 「ああ。そう」  三人は導かれるままに、表に待っていた自動車に乗り込んだが、この時、先生が運転手の様子にもう少し注意を払うのが足りなかったといって、あながち先生を責めるわけにはいかないだろう。由利先生が今夜新宿駅へ迎えにくることを知っている者は、黒川弁護士よりほかにないはずだったし、そして、その黒川弁護士が、自動車の迎えをよこすということはいかにもありそうなことだった。  だから先生も俊助もなんの疑念も抱かなんだが、これがそもそも失敗のもと。自動車がいましもまっ暗な青山墓地にさしかかると、急に妙な音を立ててピタリと止まったので、 「おや、パンクかな」  俊助が首を伸ばした時だ。 「じっとしてろ、声を立てるとぶっ放すぞ!」  くるりと助手が振り返った。見るとピストルの銃口がこちらを向いている。三人は思わずあっと息をのんだ。 「女を残して男たちだけ降りるんだ」 「畜生!」  俊助は歯ぎしりをしたが、なにしろ相手は飛道具を持っている。そのうちだれか来てくれればよいが、と、前後を見回したが、何しろ夜更けのこの青山墓地、犬の子一匹通らない。 「おい。何をぐずぐずしている。早く降りないとぶっ放すぞ」 「しかたがない、三津木君、仰せにしたがっておとなしく降りようぜ」 「あら、先生! 先生」  珊瑚はくちびるの色までまっ青になった。由利先生と俊助が降りたあとから、彼女もあわてて降りようとしたが、その時、バックミラーに映っている運転手の顔がふと彼女の眼についた。 「あら、静馬さん!」  叫んでどしんとしりもちついた拍子に、自動車はやみを縫うてはやまっしぐらに。—— 「畜生! またあいつだ! 都築静馬だ!」  俊助は自動車のあと見送って、地団駄踏んで口惜しがったが後の祭り、それにしても一度ならず二度までも静馬に出し抜かれた間の悪さ。由利先生は俊助と顔見合わせると思わず苦笑をもらした。 「先生、どうしましょう」 「どうしようたってしかたがないさ。とにかく狸穴《まみあな》へ出かけてよく理由を話さなきゃ」 「黒川弁護士、おこるでしょうね」 「おこったってしかたがあるもんか」  由利先生と俊助は、途中で自動車を拾うと麻布狸穴の芥田貞次郎氏の宅へ走らせる。芥田氏の邸《やしき》はすぐわかった。閑静な袋露路の突き当たり、こんもりとした立木に囲まれた和洋折衷の住宅は夜目にもかなり豪奢《ごうしや》なもので、黒川弁護士の話したA富豪とは、確かにこの家の主人にちがいないと思われる。  呼び鈴を押して刺《し》を通ずると、 「どうぞこちらへ、お待ちかねでございます」  無愛想な老僕に案内されて、入っていったのは洋風の書斎、見ると主人とおぼしき老紳士が、いかにも不安げに待っている。 「芥田さんですか。由利です」 「おお、由利先生、今夜は御苦労でした」  立ち上がった芥田氏の顔を、真正面からきっとながめていた由利先生、何を思ったのか、急に腹をかかえて笑いだすと、 「こりゃ愉快だ。やっぱりあなたでしたね。黒川弁護士!」 「ナ、なんですって?」 「何も驚くことはないさ、三津木君、この芥田氏のあごにやぎひげをつけて、度の強い老眼鏡をかけたところを想像してみたまえ、たちまち黒川弁護士の顔ができるぜ。黒川弁護士すなわち芥田貞次郎氏さ、そしていうまでもなく遺言状の主A富豪とはこのかたなのさ」  ポンと肩をたたかれて、芥田老人はよろよろと椅子に腰を落とす。俊助はいまさらのように、激しい好奇心を抱きながら、そっとこの老人の横顔をぬすみみたが、なるほどなるほどひげこそなけれ、眼鏡こそ掛けていなかったが、まさしくこの人は黒川弁護士に違いない。  芥田老人はしばらくかみつきそうな表情で、二人の顔を見較べていたが、やがてほっと手の甲で額をぬぐうと、 「いや、御眼力恐れ入りました。たしかにわしが黒川弁護士に違いありませんじゃ。これにはいろいろ理由のあることで。——」 「御老人、その理由というのを承ろうじゃありませんか。こうなったらお互いに腹蔵なく、何もかもさらけ出してしまうのが、事件を解決する一番の近道ですぞ」 「さよう、わしもそう思うていたのじゃが、しかし由利先生、あなたにしたところで、この間わしの話したような不面目な過去の所業を、臆面もなく他人に話せると思いますか。いやいや、あまり人道に外れた話ゆえ、ついわしは自分の本性を打ち明けかねたのじゃ。それともう一つ、黒川弁護士の仮面をかぶっていた理由がある」  すべてを打ち明けて結局気が落ち着いたのか、そこで芥田老人は一服すると、 「というのはほかでもない。三人の娘に財産を分けようと思うたものの、その娘たちがどんな人間になっていることやら、それがわしの気がかりの種じゃった。親子の名乗りをする前に、ぜひとも娘たちの生活や、性質を調査してみたかった、といって、これはめったな人間に頼める筋合のものではない、そこでああいう変装を思いついたのじゃが、しかし、もうそんな悠長なことはしておれん。由利先生、珊瑚はつれてきてくだすったろうな」 「ところが大失敗、またやられましたよ」 「なに、やられた?」 「そうです、静馬に先手を打たれたのです」 「おお、静馬!」  芥田老人は恐怖に耐えぬもののごとく、くちびるをわなわなとふるわせていたが、急にひとみをきっとすえると、 「由利先生、あんたわしの話を信じてくださるだろうな」 「ええ信じますとも」 「ありがたい、ここにわしの遺言状がある。あいつはこれをねらっているのじゃ。あいつは——あいつはたしかに日比野柳三郎なのじゃ、あいつはわしの三人の娘を殺して、そのあげく、このわしを殺すつもりにちがいない、由利先生、この遺言状を預かっておいてくだされ、そして一人でもよい、わしの娘を助けてやってくだされ、お願いじゃ、これがわしのお願いですじゃ」  老人はそこまで語ると、恐怖に耐え得ぬもののごとく、ぐったりと椅子の中にくずおれた。    地獄絵巻  一度外から帰ってきた静馬は、再び出ていったきりまだ帰らない。夜はシーンと更け渡って、どこやらで梟《ふくろう》の声がものすごい。  深夜の寒さが身に浸みて、千絵は幾度か薄い夜具の中で寝返りを打つ。静馬さんはどこへ行ったのだろう。なぜ早く帰ってきてくれないのだろう。  ガタンコトンと物憂い水車の音、さらさらとまくらの下を流れる水の音。川上は雨になったのか、今夜は水音もひとしお高い。  千絵はふとまくらから頭をもたげた。どこか身ぢかなところで、かすかなうめき声が聞こえる。千絵はハッとして寝床の上に起き直ると、見えぬ眼を見張った。 「だれ? そこにいるのは」  呼んでみたが返事はない。返事はないが確かにだれか身ぢかにいることを、盲人特有の鋭い神経がハッキリとかぎつけた。 「だれなの? どなたかそこにいらっして?」  そのとたん、うめき声とともにドタリと壁を打つような音が聞こえた。千絵はハッとして長いたもとで胸を抱いたが、その時、ふと思いだされたのは昨夜のこと。静馬の帰りを待ちわびて、千絵がうとうとしているところへ、外から静馬と粕谷が帰ってきたが、今から考えると、どうもあの時、二人だけではなかったように思われる。何かしらその足音からして、二人は重い荷物を抱えていたような気がする。もしや、あの荷物が人間でなかったかしら。  千絵はドキンとして、胸を抱くと、もう一度見えぬ眼を見張って、 「どこにいらっしゃるの? あなた、どこ?」  その問いに応ずるかのように、ゴトゴトと板をたたくような音。千絵はその音を頼りに、粗《あら》い畳の上をはっていった。  ——と、その手に触ったのは大きな箱、小首をかしげてなでてみると、どうやらそれは長持らしい、耳を傾けるとその長持の中から聞こえるのは確かに人間のうめき声。  千絵は驚いて手を引っ込めたが、また思い直して掛けがねを探りあてるとピンとそれを外した。ふたをとって手を入れると、何やらぐにゃりと暖いものが。—— 「あれ」  千絵は思わず身をふるわせたが、怖いもの見たさとはこのことだろう、手探りに探ってみると中にいるのは女らしい。しかもがんじがらめに縛られて、さるぐつわまではめられている様子。 「まあ!」  千絵は思わず呼吸《いき》をのむと、 「あなたはどなた。どうしてこんな場所にいらっしゃるの」  たずねてから気がついた。さるぐつわをはめられているんだもの、返事のないのも無理はない。 「待ってらっしゃい、いま解いてあげますわ」  このことがやがて自分のうえに、どんな恐ろしい結果をもたらすか、もとより千絵は知る由もない。彼女は急いでさるぐつわといましめを解いた。 「ありがとうよ」  低いつぶやきとともに、長持からよろよろと出てきたのは、いうまでもなく、昨夜由利先生のもとから拉《らつ》し去られた珊瑚なのだ。  珊瑚はぐったり畳の上に横ずわりになると、髪の毛をかきあげながらほっと吐息をついて、 「ほんとにばかにしているわ、逃げやしないから大丈夫っていうのに、静イさんたらきかないんですもの。おお、苦しかった」 「静イさん?」  千絵はふと小首をかしげると、 「あなた、静イさんを知ってらっしゃるの?」 「ええ知ってるわ。あたしの情人《いろ》ですもの」  しゃあしゃあと言い放った珊瑚は、乱れたまえを繕《つくろ》いながら、ほのぐらい洋燈《ランプ》の灯でふと千絵の顔を見ると、 「おや、おまえさん、眼が見えないのね」 「ええ、でも、そんなことどうでもいいわ」  千絵はにわかにひざを進めると、 「静イさんがあなたの情人ですって? ほほほほ、あたしをからかっていらっしゃるのね」 「おや、どうして? 静イさんがあたしの情人だと、何か不都合なことでもあるのかい」 「だっておかしいわ。静イさんにはちゃんと、あたしという者があるんですもの」 「おや、ばからしい、眼も見えないくせに生意気をお言いだよ」  珊瑚は吐き出すように言ったが、しかし相手の顔を見ているうちに、にわかに不安がきざしてくる。なるほど、盲目でこそあれ、なかなかかわいい娘だ。ふっさりと長い睫毛《まつげ》、ふくよかなほお、雪のような肌《はだ》——珊瑚はふいに、ムラムラと嫉妬《しつと》の情がこみあげてくる。 「おまえさん、ずっと長くここにいるの」 「ええ、いるわ」 「静イさんもいっしょに」 「ええ、いっしょよ」 「ばからしいわね。いい娘がなんだってこんなところにくすぶっているんだね」 「だってしかたがないわ。静イさんが無理に引っ張ってきたんですもの。どこへも行っちゃいけないんですって」  珊瑚はふと吐胸《とむね》を突かれた面持で、 「いったい、おまえさんの名はなんというの?」 「千絵というの。あなたは?」 「千絵?」  珊瑚は思わず叫んだが、にわかに千絵の側へすり寄ると、 「おまえさん、ちょっと腕をお見せな」  千絵の腕をとると、いきなりぐいと袖をまくりあげたが、そのとたんに、珊瑚の顔はまっ青になった。 「ああ、これだわ。この刺青《いれずみ》だわ!」 「あら!」  千絵は急いで腕をかくすと、 「まあ何をなさるのよ」 「おまえさん、自分の腕に水仙の刺青があるのを知っていて?」 「知ってますとも、子供の時からあるんだわ」 「だけどその刺青がどんな恐ろしい意味を持ってるか知っている」 「え?」 「知っちゃいないでしょう。あたしもつい近ごろまで知らなかったの。この間黒川という弁護士に聞いてはじめてわかったのよ、ねえ、千絵さん、静イさんがおまえをかわいがるのも、この刺青があるばかりにさ。ほんとはおまえさんなんかに洟《はな》もひっかけるもんか。千絵さんあの人は恐ろしい人殺しだよ」 「え、なんですって?」  千絵はさっと気色ばむ。珊瑚はそれを見るとフフンと鼻を鳴らしながら、 「そうさ、わけを話せば長いけど、なんでもね、水仙の刺青のある女が天下に三人いるんだってさ。そしてその三人を殺してしまえばあの人には大身代が転げこむというのさ。だから千絵さんいまにおまえはあの人に殺されるよ」 「まあなんですって? いったいそれは何の話なの。もっと詳しく話してちょうだい」 「ええ、話してあげるからこちらへお寄りな」  片手で千絵を引き寄せた珊瑚は、片手を懐中に入れると、何やらズラリと引き抜いた。 「実をいうと、あたしにもその刺青があるんだよ、しかしあたしゃあの人に殺されやしない。あの人と夫婦になって、財産をみんなやっちまう。しかし、それには千絵さん、おまえがいるとじゃまなのよ」 「あれ!」  千絵がさっと飛びのいた。眼こそ見えぬが盲人には常人に見られぬ鋭い本能がある。その本能がプーンと焼刃《やきば》の臭いをかいだのだ。 「あなた何をなさるのよ。手に持っているのは何?」 「何だってかまうもんか、畜生!」  匕首《あいくち》逆手に、さっと来るところを、危く体をひらいた千絵は、 「あれえ!」  まくらだの土びんだの茶わんだの手当たりしだいに投げつける。盲人の勘のよさ、投げつけた茶わんの一つが、珊瑚の眉間《みけん》に当たったから、 「あっ!」  と珊瑚がたじろぐすきに、千絵は小屋から外へ転び出ていた。外はすごいような月夜、 「だれか来てえ、静イさん、静イさん」 「やかましいよ」  珊瑚は嫉妬に狂い立った、この女がここで静馬と起きふしをともにしていたかと思うと、無性に腹が立ってくる。 「待たないか。盲目のくせにずうずうしい!」  千絵は木の根につまずいてバッタリ倒れた、起き上がろうとするところを、いきなりムンズとうしろから髷《まげ》をつかまれる。 「さあ、つかまえたよ。どうするか見ておいで」 「ああ、ああ、もうおしまいだ、あたしはここでこの女に殺されるのだ、静イさん、静イさん」  千絵はふーッと気が遠くなったが、その時である。何やら黒いものが木陰から飛び出したかと思うと、いきなり珊瑚の腕をムンズと押さえた。 「あれ。だれだよ、あ、あーあー」  すさまじい声が森中にひびき渡って鳥のねぐらを驚かしたが、それも一瞬、やがてシーンと静まりかえったかと思うと、柔らかな草を踏む音。静馬が帰ってきたのかしら。いや違うらしい。——千絵はうつつのうちにその足音を聞いている。足音はいったん千絵の側を離れたが、また引き返してきた。 「気を失っている」  太い、聞きなれない声だった。やがて男の荒々しい息が千絵のほおにかかったが、そのとたん、千絵は今度こそ、本当に気を失ってしまったのである。  男は千絵の体を抱くと、サクサクと柔らかい草を踏んで、暗い森の中をいずくともなく姿を消したが、その時である。ふいに土堤の下からむっくりと頭をもたげた者があった。  蔦代なのだ。  蔦代は土堤からはいあがると、そろそろと水車の側へ近寄ってきたが、何を見つけたのか、ふいに彼女は石のように身を固くした。しばらく彼女は、呼吸をとめて、じっとこの恐ろしいものを見つめていたが、やがてくるりと身をひるがえすと、いっさんにいまの男のあとをつけていくのである。    人間水車  由利先生と三津木俊助の二人が、この水車小屋の付近へ姿を現わしたのは、それから三時間も後のこと、東の空がそろそろしらみかける時分だった。  芥田老人の宅から、いったん自宅へ帰った由利先生は、そこではじめて蔦代の手紙を見たのだ。そこで先生は、一度別れた三津木俊助を呼び出すと、この水車小屋捜査にと出かけたが、何しろ夜中のことであり、行徳の水車小屋としかわからないので、探し出すのに意外に骨が折れたのだ。 「先生、向こうに見える、あれがそうじゃありませんか」 「ふむ、ともかく行ってみよう」  川縁づたいに小屋の側までやってきた由利先生と三津木俊助、ゆるやかに回っている水車を見ると、二人とも思わずあっと叫んで、その場に棒立ちになってしまった。  ああなんということだ!  まだ明けきれぬかわたれ時の薄明りに、ガタン、ゴトンと回っている水車の上に、女が一人まるで磔刑《たつけい》のように縛りつけられているではないか。無心の水車が回るにつれて、女の体はあるいは横になり、あるいは逆立ちになり、逆立ちになった時には、さっと髪の毛が地を払うその恐ろしさ。いつぞやB町の大欅からはみ出していた女の髪の毛を見た時に、勝るとも劣らぬその無気味さ。 「珊瑚だね」  さすが物慣れた由利先生も、横腹が固くなるような恐怖をおぼえた。 「セ、先生! 千絵は?」 「小屋の中を調べてみたまえ」  二人は早速小屋の中へ踏み込んだが、いうまでもなくそこはもぬけの殻《から》、油のつきた洋燈の心《しん》がジジーと瞬《またた》きしているのもわびしく、あたりはすっかり取り乱している。俊助はその中から千絵の持物らしい化粧箱を探し出した。 「先生、千絵も殺されたのでしょうか」 「ふむ、なんともいえない、恐ろしい、実に恐ろしいやつだ」  由利先生が吐き出すようにつぶやいた時である。サクサクと土を踏んで近づいてくる足音。 「だれか来た!」  二人がさっと物陰にかくれたとたん、足音は小屋のまえで立ち止まったが、あっという恐怖の叫び。それにつづいて、 「千絵さん、千絵さん!」  声をふるわせながら、小屋の中へおどり込んできたのはまごうかたなき都築静馬だ。静馬は眼前に突っ立っている二人の顔を見ると、さすがにさっと顔色を失ったが、しかしもう逃げようとはしなかった。かえっていきなり由利先生の腕をつかむと、 「由利先生ですね、だれが——だれが珊瑚を殺したのです。千絵は——千絵はどこにいます」 「都築君、いや、日比野君だったな。それはこちらこそ聞きたいところだ。千絵はどこへやったのだね」 「知りません、知りません。ああ、千絵を助けてください。千絵は殺されます、先生、いいえ、ぼくはよく先生を知っています。千絵を助けてください。お願いです。お願いです」  狂気のように叫ぶ静馬の眼からは、滂沱《ぼうだ》として涙が流れおちる。 「こいつ、いまさら狂言にしたってだまされやしないぞ」 「三津木君、まあ待ちたまえ。この男に話させてみよう」  由利先生は優しく静馬の肩に手を置くと、相手を土間にすわらせながら、 「日比野柳三郎というのが、きみの本名だったね。さあ、日比野君、話してくれたまえ。きみはなんだって千絵や珊瑚を誘拐するんだ。きみが人殺しの犯人でないなら、これには何か理由があるはずだね」  静馬——いや、今こそ日比野柳三郎は、粗《あら》い畳に手をつくと、ポタリと涙を落とした。 「先生、よく聞いてくださいました。私は恐ろしい立場にいるんです。私のしたことはみんなかわいそうな倭文子や珊瑚や、それから千絵を助けたいばかりでした。しかし、それも水泡に帰してしまいました。倭文子も珊瑚も殺されてしまって。——先生、お願いです。せめて千絵だけは助けてください」  柳三郎は激しく息を吸うと、 「今から思えば、私はもっと早く警察の力を借りたほうがよかったのです。しかし私にもハッキリわからないことが多かったし、それに、いつの間にやら、自分が有力な容疑者になっていることに気づいたものですから、その勇気がなかったのです。先生、私を信じてください。そして千絵を——千絵を助けてください」 「日比野君、まあ、落ち着きたまえ、それで、きみは犯人を知っているのかい?」  そのとたん、柳三郎はぎょっとばかり顔をあげると、じっと虚空《こくう》にひとみをすえていたが、やがて吐き出すように、 「いいえ、知りません」 「知らないはずはあるまい。きみは犯人を知っていたからこそ、その計画を妨げようと、いろいろ苦心していたのじゃないかね」  柳三郎はさーっと顔色を失ったが、それに対してはいくらたずねても答えようとしない。 「先生、こいつはいいかげんなことをいっているんですぜ。やっぱり犯人はこの男でさ」 「まあ、待ちたまえ、日比野君、きみはこの手紙に覚えがあるかね」  取り出したのは、過ぐる日三津木俊助が、萩原倭文子のアパートから探し出した、静馬の恋文だった。柳三郎はそれに眼を走らすと、 「いいえ、知りません。なるほど倭文子は知っていますが、こんな手紙をやった覚えはありません。それに私は長いことB町の家へ近寄ったことはないのです」 「本当だろうね」 「本当です。ああ何もかも私に疑いがかかるようにできているんです。だれも私を信じてくれない。恐ろしいことだ、恐ろしいことだ!」  柳三郎はしばらく髪の毛をかきむしっていたが、突然きっと狂気じみたひとみをあげると、 「先生、私といっしょにきてください。私にはほんとうによくわからないのです。しかし、私といっしょにきてくだされば——」 「いったい、どこへ行けばいいのだね」 「養父の家です。芥田貞次郎氏の宅です」 「よし」  由利先生はそれ以上説明を求めようとはしなかった。三人はただちに、途中で雇った自動車を走らせて、麻布の狸穴まで駆けつけたが、芥田家の表まできたとき、さすがの由利先生も三津木俊助もさては日比野柳三郎も口あんぐりとしばらくはものをいうこともできなんだ。    蔦代の冒険  実際それは信じられないことだった。しかしその信じられないことが現実に起こったのだ。  昨夜まで四隣を圧していた芥田家の豪奢《ごうしや》な建物は、いまや跡方もなく、あたりは一面の焼野原、まだぷすぷすとくすぶっている煙の間を、右往左往している人影を見たとき、三人は狐《きつね》につままれたような顔をした。 「いったい、何事が起こったのです」  弥次馬の一人を捕らえて俊助がたずねた。 「昨夜火事があって主人が焼け死んだのです」 「芥田氏が焼け死んだのですって? それは本当ですか」  日比野柳三郎はまっ青になった。 「本当ですとも。いま向こうで死体が発掘されたところです。行ってごらんなさい」  三人は大急ぎでそのほうへ駆けよったが、見るとまだぷすぷすとくすぶっている煙の間に横たわっているのは、見るも無惨な焼死体、それこそ筆舌に尽くしがたいばかりの恐ろしい、無気味なまっ黒焦げの死体だった。 「いったい、これはどうしたというのだ!」  俊助の声にふと振り返ったのは、見覚えのある昨夜の老僕だった。 「あ、あなたは昨夜のお客さま、それに若旦那も! あなたはまあ、あなたはまあ」  老僕は柳三郎に取りすがると、ひとしきり涙にむせんだが、やがて気を取り直して語りだしたところによるとこうなのだ。  前夜二時ごろ、老僕はふとただならぬ叫び声に眼をさました。叫び声は彼の寝ている日本建ての真向かいに建っている洋館の二階から聞こえるのだ。  老僕はそこであわてて雨戸をくったが、見ると洋館の二階の窓から、必死となって救いを求めているのは主人の芥田老人、老人は逃げようと試みているらしいが、あいにく、窓という窓にはことごとく厳重な鉄棒がはまっている。  老僕はいったい何事がおこったのかとあっけにとられていると、ふいに老人の姿が中へ消えた。と、つづいて魂消《たまげ》るような悲鳴。——  あっと老僕は夢からさめたように、窓下へ走りよったが、その時、めらめらと赤い焔《ほのお》の舌が窓という窓から一時に吹き出してきたのだ。 「というわけで、私がほかの者をたたき起こした時分には、火はすっかり家中回って、——」  と、老僕はいまさらのように涙をのむ。  こういう話の間、柳三郎は焼けつくような視線で黒焦げ死体をながめていたが、ふいに両手で顔を覆うと、 「千絵! 千絵も焼け死んだ!」  腸《はらわた》をしぼるような声で叫ぶのだ。 「皆さん、もう一つ死体があるはずですが、まだ見つかりませんか。若い女の死体です」  それを聞くと、今まで焼跡を掘っていた男が、ふとこちらのほうへ近寄ってきた。 「あなたのおっしゃるのは、もしや眼の不自由な婦人じゃありませんか」 「あ、そ、そうです」 「それなら御安心なさい、その婦人は私の家にいます。たいへんつかれているようですが、別にけがはないようですよ」 「な、なんですって、千絵が生きているんですって。そしてあなたのお住居は?」 「御案内しましょう」  その人の家は芥田家より小半丁ほど離れたところだった。そこも昨夜の火事で、ごった返すような騒ぎだったが、その取り乱した奥の間にまっ青な顔をして寝ているのは確かに千絵だ。 「千絵!」 「あ!」  千絵はがばと寝床からはね起きると、 「静イさん、静イさん」  見えぬ眼の手探りで、ひしとばかりに柳三郎に抱きつくと、あとはもうあふるる涙。 「よかったね、千絵。ぼくはもう二度とおまえには会えないとばかり思っていたのに。それにしても眼が見えないのによく逃げられたねえ」 「いいえ、静イさん、蔦代ちゃんが助けてくれたのよ。もう少しで焼き殺されるところを、蔦代ちゃんがとび込んできて。——」 「蔦代ちゃん?」 「ええ、あたしの妹なの。あ、そうそう、蔦代ちゃんから由利先生にってことづかってるものがあるんだけど」  由利先生はそれを聞くと思わず前へ出て、 「私が由利だが、どれどれ」 「あら!」  千絵がほおを赤らめながら取り出したのは一枚の紙片。先生は取る手遅しと開いてみる。 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]   ——先生サマ、オ千絵ネエサンヲタノミマス。私ハコレカラ悪者ヲ追ッテイキマス。イズレ先生サマノ所ヘシラセマス。—— [#ここで字下げ終わり] 「これは大変だ。三津木君。至急警視庁へ電話をかけて、非常線を張るようにいってくれたまえ。わしはすぐに家へ帰ってみる。何かしらせてきてるかもしれん。日比野君も千絵さんもわしのところへ来ていたまえ」  そこで一同はすぐ麹町三番町の由利先生の宅へ引きあげたが、頼みに思う蔦代からの通知はまだ来ていなかった。  警視庁ではすぐに非常線を張ったが、一時間たっても二時間たっても蔦代の消息はわからない。一同はしだいに不安になってくる。もしや蔦代は途中で殺されたのではあるまいか。それにしても悪者というのはいったい何者だろう。千絵も話をきくと声をあげて泣きだした。 「蔦代ちゃんは殺されたんだわ。蔦代ちゃん!」  だが、正午ごろになってはじめて蔦代の消息らしいものが入ってきた。横浜で彼女らしい姿が見られたというのだ。横浜——? 悪者は横浜へ逃げたのだろうか。  ところが、それからさらに二時間ほどたって、一通の電報がやってきた。 [#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]   ワルモノハフネニノッタワタシモノルフネハスルガマル」ツタヨ [#ここで字下げ終わり]  あっという叫びが由利先生、俊助、柳三郎のくちびるからいっせいにもれた。 「三津木君、船会社へ電話をかけて駿河丸の大阪入港の時間を聞いてくれたまえ」  俊助はすぐ電話へとびついたが、それによると、上海航路の駿河丸が、大阪天保山桟橋へつくのは明朝十時ごろの予定だという。 「よし、しめた! 汽車で先回りをするんだ。汽車が間に合わねば飛行機! 飛行機!」    扉を洩れる煙  白い波を蹴って大阪港へ入ってきた駿河丸は、いましも天保山桟橋へピタリと横着けになった。とそれを待ちかねたように、タタタとタラップを駆けのぼっていった四人連れ、いうまでもなくそれは由利先生と三津木俊助、そして日比野柳三郎と盲目の千絵なのだ。  途中無電を打っておいたので、船長がむつかしい顔をして一同を迎えた。 「いったい何事が起こったのです。無電に従ってだれも上陸させないことにしてありますが」 「殺人犯人が乗り込んでいるんです」 「殺人犯人?」 「そうです。実に恐ろしいやつです。二重、三重、いや四重の殺人犯人です」 「先生、先生」  千絵が横からもどかしそうに、 「それより蔦代ちゃんはどこにいるんですの。蔦代ちゃん、蔦代ちゃん!」 「はあい」とつぜん後甲板のほうから蔦代の声が聞こえてきた。 「あたし、ここにいてよ」  その声に一同がハッと振り返って見ると、いましも甲板につるされたボートから、外へとび出そうと一心にもがいているのは、まぎれもなく蔦代ではないか。 「あっ!」  一同は思わず側《そば》へ駆けよると、 「おお、おまえ無事だったか。いったいなんてことをするのだ。小父さんは心配で心配で、昨夜は夜中寝やせん」 「ほほほほほ。大丈夫よ、小父さん、おもしろかったわ。お千絵姐さん、こちらよ」 「まあ、蔦代ちゃん」  千絵は蔦代の体をひしと抱きしめると、もうもう二度と離すことじゃないというふうに、ほおずりをする。 「さあ、蔦代ちゃん、それでは話しておくれ。いったい、おまえは昨夜どんな冒険をやったのだね」 「ええ、お話しするわ」  蔦代はかわいい眼をくるくるさせながら、 「あたしね、行徳の水車場からずっと悪者とお千絵姐さんのあとをつけていったのよ。すると悪者は姐さんを抱いたまま、狸穴のお屋敷へ入ったの。あたしどうしようかと思ってお屋敷のまわりを歩いているうちに、急にあの火事騒ぎでしょう。あたし急いで中へとびこむと、洋館の中にお千絵姐さんが倒れているでしょう。あたしそれを助け出して、さて外へ出てみると、さっきお千絵姐さんを連れ込んだ悪者が、火事の中から一散に外へ逃げていくんでしょ。で、あたしずっとそのあとをつけてきたのよ」  ああ、なんという大胆さ、なんという奇智、しかも蔦代は二晩にわたる冒険にもめげず、まるで小悪魔のように元気だった。 「で、悪者はどこにいるの?」 「こちらよ、御案内するわ」  蔦代が先に立って案内したのは、上甲板にある一等船室のまえ。 「ここよ!」 「しっ」  蔦代の口をおさえた俊助は、由利先生に眼配せすると、つかつかと扉のまえへより、 「お眼覚めですか。もしもし」 「危い!」  ふいにうしろから由利先生がその体をつきとばした。と、間一髪を入れず、ズドンという音、弾丸はドアを貫いて、ヒューッと俊助の胸をかすめてうしろへとんだ。実にきわどい一瞬間だった。もし由利先生が最初のあのかすかな引金の音を聞かなかったら、おそらく俊助は心臓のまん中を貫かれていただろう。ピストルの初発はたいてい空弾になっている。それが俊助を救ったのだ。  由利先生はドアの外から、用心しながら声をかける。 「じたばたしてもだめですよ。あなたも悪党なら悪党らしく、潔《いさぎよ》く往生したらどうです、芥田老人!」 「あっ!」  という声が扉の内外から聞こえた。 「芥田老人だって? 先生?」 「そうさ、三津木君、このドアの中にいるのは芥田老人だよ」 「だって、だって。あの焼死体は?」 「それはわしにもわからない。芥田老人に聞かねば見当がつかないね。しかしあの火事場の出来事はみんな老人の狂言なんだよ。いかにも自分が焼け死んだように見せる狂言なんだ。ねえ、そうでしょう御老人?」  よほどしばらくたってから低い声が聞こえてきた。 「そうだ。みんなきみのいうとおりだ」 「ああ、あなたもどうやら観念したらしいですね。で、あの焼死体はいったいだれです」 「田代眼八!」 「あ!」 「そうなのだ。珊瑚の亭主の眼八なのだ。わしはしばらくあいつを手先に使っていたが、じゃまになるから、殺してわしの身代わりにしたのさ」  シーンとした沈黙。やがてまたドアの向こうからしわがれた声が聞こえてきた。 「まだドアを開いちゃいけない。ドアを開くとぶっ放すぞ。由利君、そこに柳三郎はいないか」 「いますよ。千絵さんもいます」 「え! 千絵がいる?」 「そうです。千絵さんは少女のために、危く生命を救われたのですよ」  ふいにドアの中からかすかな歔欷《きよき》の声が聞こえてきた。 「柳三郎」 「はい」 「千絵を頼んだよ」 「はい」 「由利君、聞いてくれ。わしは執念深い男だった。一度受けた恨みは終生忘れることのできぬ男だ。そしていつかは復讐《ふくしゆう》しなければ腹が癒《い》えぬのだ。わしは柳三郎の母に裏切られた。その恨みを子供の柳三郎で遂げようと、ああいう狂言を書いたのだ。何もかも、柳三郎をおとし入れるための計画だったのだ」 「お父さん」  柳三郎はじっとドアに眼を注ぎながらあえぐように叫んだ。 「なんだ、柳三郎!」 「私はそれを知っていました。あなたが二度目の遺言状を私に読んでお聞かせになった時、私はその計画をうすうす感づいたのです。なぜなら、なぜなら——亡くなった母から、よくあなたの御性質を聞いていましたから。だから、私はなんとかしてあなたの三人の娘さんをお助けしようと、順々に近づいていったのですが、しかし、まさかあんな酷《ひど》いことをなさろうとは思いもよりませんでした。かりにも、かりにもあなたの娘たちではありませんか」 「そうだ、柳三郎、しかしなあ、わしは人間ではないのだ。おまえの母に裏切られた日から、わしは悪魔になったのだ。それに幼い時に捨ててしまった娘たちに、なんの愛情を感じよう、わしは狂っていたのだ。いや、いまでも狂っている。子供を殺した親の悲痛を、昨夜はじめて味わって狂っている。愛してはおらぬと勝手にきめていたがそれはうそだった。千絵、千絵」 「はい」  千絵は見えぬ眼を見張りながら扉のまえへ寄る。 「わしはおまえのお父さんだ。しかし、おまえの眼が見えないということはなんという幸福なことだろう。おまえは鬼のようなこの父の顔を見ずともすむのだ。おまえのことはよく柳三郎に頼んでおく……由利君、由利君」 「なんですか。御老人」 「最後に一つききたいことがある」 「どういうことです」 「きみはどうしてわしが犯人だと知っていたのだ」 「それはね、御老人、あなたが珊瑚と間違えて弟子の花代を殺したからですよ」 「あ」 「あの時、柳三郎君はおそらく、あなたの顔を見たので芝居から逃げ出したのでしょう。そのあとであなたが柳三郎君の代役をやられた。むろん、珊瑚を殺して柳三郎君に罪をきせるためでしょう。ところがあなたの殺したのは珊瑚ではなくて弟子の花代だった。ところで、一座の者なら決してそんな失敗を演ずるはずはなかったのです。なぜなら、あそこで珊瑚が弟子を吹き替えに使うことは、一座の者ならみんな知っているはずですからね。だから犯人は一座以外の者——黒川弁護士すなわちあなたに違いないと眼をつけたんですよ」 「ありがとう。それだけ聞けば心残りはない」  ドアの奥からかすかにのどで笑う声が聞こえた。と、次の瞬間、ズドンというピストルの音。一同があっとドアのまえに集まった時、低い瀕死《ひんし》のうめき声とともに、眼にしみるような煙が、ドアのすきからむらむらともれてきたのだった。  そしてそれこそ悪魔の終焉《しゆうえん》を告げる狼火《のろし》の煙だった。 [#改ページ] [#見出し]  石膏美人    せむしと石膏美人  ある統計学者の説によると、晩春から初夏へかけてのあの晴曇さだめがたき季節のことを、俗に犯罪シーズンともいうくらいで、一年中に報告される血腥《ちなまぐさ》い事件の大半は、実はこの時期に突発するということだ。またある精神病学者の調査によると、このシーズンになるとうわべはいかに健康そうに見える人でも、多少は気が変になっているということだから、まことに恐ろしい話ではないか。  さて筆者がこれからお話ししようとするのも、ちょうどその梅雨期の狂気が生んだような、実に変てこな、そしてまた同時に、世にも恐ろしい犯罪物語なのである。  それは帝都の桜も残りなく散ってしまって、青葉若葉のかげがしだいに深さを増していく五月なかばの妙にむしむしするある夕方のことであった。お濠端《ほりばた》の柳をかすめて警視庁の前からまっしぐらに数寄屋橋《すきやばし》のほうへ疾走してゆく、一台の貨物自動車があった。  一見これといって、変わったところもない普通のトラックであったが、運転台に運転手とならんで前かがみにすわっている男の、黒い塵《ちり》よけ眼鏡《めがね》に顔中隠れてしまいそうなマスクという扮装がなんとなく気にかかる。  それにこの蒸し暑いのに、黒い冬トンビのえりをたて、古ぼけた鳥打帽子をまぶかにかぶっている様子が、人眼を忍ぶようで、妙にうさんくさくみえるのである。  さらにもうひとつ気になるのは、トラックにつんだ長方型の箱であるが、その大きさといい、格好といい、とんと棺桶《かんおけ》にそっくりなのだ。しかし幾百万という人口を擁するこの大東京都のことゆえ、棺桶の一つや二つあえて異とするに足らぬといえばまったくそれまでのこと、実際これからお話しするようなほんの些細《ささい》な出来事さえ突発しなければ、このトラックはだれの注意をひくこともなく、無事に目的地まではしりつづけることができたに違いないのである。  さてトラックはいましも、数寄屋橋のたもとから急に左の横町へはいっていったが、諸君もご存じのとおり、そこは帝都でも有名な新聞街である。ちょうどその時「新日報」新聞社の表玄関からいままさに滑り出そうとしていた一台の自動車があったが、どうしたはずみか、例のトラックがそれへドシンと大きな図体をぶつけてしまったのである。 「やいやい、気をつけろ、このばか野郎!」 「なにを!」  というようなわけ。  この時自動車に乗っていたのは三津木俊助といって、「新日報」きっての腕利きといわれる青年記者であったが、何気なく向こうのトラックを見ているうちに、ふいに彼はギョッとしたように客席からとびあがった。  俊助が驚いたのも無理ではなかった。  トラックに積んであった例の白木の箱が、衝突のせつなのあおりをくらって台の上から転落しているのだが、よく見るとふたが少し緩《ゆる》んでいて、そのすきまからニュッと突き出しているのが、なんと女の片腕らしく見えるのだ。  ハッとして俊助が外へとび出すのとほとんど同時に、トラックからのこのこと降りてきたのはれいの黒眼鏡の男だが、体つきの妙なのも道理、この男はせむしだった。  せむしはジロリと気味悪い一瞥《いちべつ》を俊助のほうにくれながら、類人猿のようにのろのろとした動作で、トラックの車体によじ登ると、腰からとりだしたのが一挺《いつちよう》の鉄槌《てつつい》、これでメリメリと棺桶のふたをこじあける。そのすきにヒョイとなかをのぞきこんだ俊助。 「ナーンだ、人形か」  と思わずがっかりしたようにつぶやいた。  いかさま箱の中は彼が想像したような、むごたらしい女の死骸《しがい》でもなんでもなく、等身大の石膏《せつこう》美人なのだ。気がついてそばのふたの上をみれば、S・S展覧会というマークがおしてある。してみると、この石膏美人は、落選の憂目にあって、いま送り返される途中とみえるのだ。  そこまでわかればもう用はなかった。  俊助はいまいましげに舌打ちをしながら元の自動車へ帰ろうとしたが、その時ふいに彼の耳を貫いたのは、 「あ、痛ッ!」  というような鋭い女の悲鳴。 「え?」  と俊助は思わずふりかえって見るといませむしがポキンと人形の片腕をヘシ折ったところだった。 「きみ、なにか言ったかい」  せむしはそ知らぬ顔で人形のからだをなでている。  あたりを見回したがいそがしい新聞街のことである。珍しくもない自動車の衝突などに、足をとめるような閑人はひとりもなかった。 「妙だな、たしかに箱の中からきこえたようだったがねえ」  そういいながら、つくづくと石膏美人の顔をながめていた俊助は、ふとなんともいえぬ胸騒ぎを感じてきた。  それもそのはず、見ればみるほど人形の顔というのが、俊助の意中の人に似ているではないか。いやいや似ているどころの騒ぎじゃない、眼もと口もと、鼻の格好、それから特徴のある右ほおのえくぼまでが、恋人の瞳《ひとみ》さんという女性にそっくりなのである。 「この人形はいったいだれがこしらえたのだね」  俊助は思わずせきこんでたずねた。  しかしせむしはそれに答えようともせず、黙々として石膏美人の胸から腹へかけて、もむような手つきでなでまわしているその気味悪さ。なにかしら、いまわしい動物が舌なめずりをしながら、はいまわっているような感じで、それが自分の恋人に似た人形だけに、俊助はなんともいいようのない不愉快さを感ずるのだ。  せむしはそれと知ってか知らずか、さんざん人形のからだをおもちゃにしていたが、やがてやっと堪能《たんのう》したというふうにふたをすると、コツコツと鉄槌で釘《くぎ》をうちはじめた。  その時だ。  ふたたび鋭い女の声が、つらぬくように俊助の耳をうった。 「ああ、苦しい、あなた、たすけてちょうだい……」  きれぎれな、あえぐようなその声は妙に陰にこもって、テッキリ箱の中よりきこえるとしか思えない。  俊助はそれをきくとギョッとした。そしてあわてて、トラックのそばへ走りよろうとしたが、そのときふいに、相手はもうもうたる砂塵《さじん》を巻いて走りだした。 「おい、あの自動車を尾行してくれたまえ」 「オーライ」  運転手も心得たものである。二言とはきかずスターターを入れると、はや適当な間隔をおいて巧みな尾行をはじめていた。  なにしろトラックも運が悪かったのである。  相手がふつうの人間だったら、単に妙な出来事としてすんでしまったのであろうが、因果なことには西洋のことわざにもいうとおり「靴下の穴にも一応はその由来を考えねば気がすまぬ」という新聞記者にぶつかったのだから、ただではすまないのである。  トラックは東京駅前の広場からお濠端へでると、それに沿って九段下から飯田町《いいだまち》へ、さらにそれより騎首を転ずると市《いち》ヶ谷《や》から新宿へ向けて疾走をつづけているが、そのコースがどうも尋常でない。  行先をくらますために故意に迂回《うかい》しているとしかおもえないから、尾行している俊助はしだいに興奮してくる。  なにかすばらしい犯罪が潜んでいるような気がしてならない。  あの棺桶は二重底になっていて、下のほうにだれかが閉じこめられているのではなかろうか、それともまたあの人形の中には、生きながら女が塗りこめられているのかもしれないと、そんなばかげた空想さえわいてくるのだ。  こういう尾行者のあることを知ってか知らずか、トラックは二時間あまりも、たそがれの街をぐるぐると走りまわっていた。  やがて昼が夜ととってかわる。街にはすっかり灯《ひ》がついた。  そのころになって、やっとトラックが差しかかったのは麻布《あざぶ》のR町。俊助はそれと気がつくと、再び緊張のためにブルブルと体をふるわせたのも無理もない、R町といえば恋人の瞳さんの住んでいるところだが、してみるとこの怪トラックは、やはり瞳さんになにか関係があるのだろうか。  R町というのは、昔からお大名や旗本の下屋敷などの多かった所で、いまでもところどころに広い屋敷跡や藪《やぶ》などの残っている、ずいぶんさびしい町なのだ。  トラックはせまい坂道をゴトゴトと登っていくと、やがてピタリと轍《わだち》をとめたのは、荒れはてた一軒のお屋敷の前、幸い瞳さんの住居とはちがっていた。 「よし、ぼくもここらでおろしてもらおう」  それと見るより、半丁ほど手前のくらやみから自動車をかえした俊助、単身トラックに近づいてゆくと、いましも例の白木の棺をかついだせむしと運転手のふたりが、荒れはてた耳門《じもん》の中へ消えてゆくところだった。俊助はその間に運転台のそばへ歩みよると、すばやく免状を写しとった。これさえあれば、後日トラックの身もとを調べるのにたいへん都合がいいわけである。  やがて家の中から足音が近づいてきたので、俊助があわててそばの樹陰《こかげ》に身をかくしてうかがっていると、出てきたのは運転手ただひとり、鼻唄《はなうた》まじりに運転台へとびのると、そのままもと来た道へとってかえした。  どうやらせむしと石膏美人だけが後に残ったようすである。俊助も思いきって、おりからのやみをさいわいに屋敷の中へ忍びこんだ。    黄八丈の女  表からみるといかにもペンペン草でも生えていそうな陰気さだが、中へ入ってみると案外小ざっぱりしている。空家かとおもったがまんざらそうでもないらしいのである。  俊助は庭伝いに奥のほうへと進んでいったが、そこには鍵《かぎ》の手に突き出した座敷があって、厠《かわや》のそばに大きな自然石の手水鉢《ちようずばち》がある。むろん、どの座敷にもピッタリと雨戸がしまっていて、人のいそうな気配はどこにもみえない。  第一|灯影《ほかげ》すら見えないのだ。してみるとやはり空家かしらとあたりを見回していた俊助、ふと見ると例の手水鉢のそばにおあつらえむきの楓《かえで》の樹が鬱蒼《うつそう》としげっている。俊助はそれを見ると、「こいつ究竟《くつきよう》な隠れ場」だとばかり、すばやくその陰へはいこんでしまった。  俗に新聞記者として成功する第一条件は、根と勘だというがなるほどそうかもしれない。おりから冷たい雨がポツポツと落ちてきたにもかかわらず、俊助はいっかなその場から動きそうには見えないのである。  それからいったいどのくらいたったか、あいにくのやみで時計を見ることもできないが、一時間はタップリたったことだろう。  雨はいよいよはげしく、風さえ少し出てきたのに、さすがの俊助もいささか辟易《へきえき》したが、そのときふと、庭の奥からかるい人の足音がきこえてきたので、ハッとすると同時に、俊助はゴックリと生つばをのみこんだ。  バラバラと傘《かさ》にあたる雨のおと、草をふむやわらかい足駄のひびき。——だれかこちらへ近づいてくるのである。  やがて、俊助の鼻先へすっくとたった黒い影。傘をすぼめてホトホトと雨戸をたたけば、いままでまっくらだった座敷のなかから、ぼっと白い光がもれてきて、スーッと雨戸が中からひらいた。  そのとたん、雨のなかにサッとこぼれてきたひと幅の光のなかに、くっきりと浮き出したあいての姿をみて、俊助は思わずギョッと、やみの中でたじろいだことだ。  思いがけなくあいては女であった。しかもその服装というのが尋常一様ではないのだ。  お納戸色《なんどいろ》の吾妻《あずま》コートに小豆《あずき》色のお高祖頭巾《こそずきん》というだけでも、すでに現代離れがしているのに、コートの下からちらついているのが、なんと黄八丈のすそときているから、昭和の聖代にこのような古風な好みの女もあるものかと、さすがの俊助も舌をまいて驚いた。  相手はむろんそんなこととは知る由もない。  すぼめた傘を左手に、銀色の雨の中にたたずんで、じっと暗い空をふりあおいだその立姿は、まるで絵のようであったが、やがてつと身をひるがえすと燕《つばめ》のように、さっと雨戸の中へ消えてしまった。  後はふたたび墨汁をながしたような陰気な五月闇《さつきやみ》だ。  俊助はしばらくして、そろそろとかえでの樹の下からはいだしたが、ふと眼についたのは、一条の金色の箭《や》、おあつらえむきの節穴をもれる光である。  これ究竟と、そこに眼を当てて中をのぞきこんだ俊助のひとみに、最初飛びこんできたのは、部屋一杯に波打っているらしい蚊帳《かや》だった。それから行燈《あんどん》のような格好をした電気スタンド、そのそばにさっきの女がしょんぼりとうなだれてひざの上のお高祖頭巾をたたんでいる。  結いあげたばかりとおぼしい銀杏返《いちようがえ》しが、つやつやと行燈の灯に光って、細おもてのすごいような美人なのである。  しかし、ここまで見とどけた俊助は、なんと思ったのか、ふとかるい失望の吐息をもらした。  てっきりだれかを、待ちわびているとしか思えない女の風情《ふぜい》といい、蚊帳の中から透けてみえる夜具やまくらのぐあいといい、これはごくありふれた、あいびきの一情景かもしれんぞと思うと、そんなものを一生懸命になってのぞいているのがばかばかしくなってきたのだ。  しかしそう思いながらも、やはりあきらめてしまうことができないというのは、どうも座敷の様子が変なのである。障子もなにもはまっていない家の様子が、どうしても空家としか思えない。空家の中にかってに夜具をしき、蚊帳をつってあるとしか思えないような、妙にちぐはぐな感じなのだ。  しかし、これだけのことならそう大して不思議にも思わなかったろうが、そのときふと眼についたのは、蚊帳の向こうにぼんやりと見える、例の石膏美人である。まるで仏像か何かのように、壁ぎわに安置してあるのが、妙にものすごく見えた。いったい何のために、こんなところへ石膏人形なんか置いてあるのだろう。  あいびきと石膏像、ずいぶんつじつまの合わぬとりあわせではないか。  するとこの時、いままでじっとうなだれていた女が、ふと顔をあげたが、その眼つきというのがまた尋常ではない。  うっとりと夢見るような、少しも生気のかんじられない、玻璃《はり》のようなひとみで、まるで何かにつかれているように見えるのだ。そういうまなざしでしばらくあたりを見回していたが、その時ふとどこかで猫《ねこ》のなき声がした。  するとどうしたというのだ。いままで悄然《しようぜん》とうなだれていた女の面が、急にいきいきとかがやいてきたではないか。冗談じゃない。化猫じゃあるまいし、猫のなき声に勇み立つという法もなかりそうなものだけれど、女の様子がたしかにかわってきたから、不思議千万な話なのである。  ニャーゴ、ニャーゴ……  二声三声いやらしい猫のなき声がきこえる。女はいよいよ落ち着きをうしなって、ソワソワと髪形などをなおしはじめたから、俊助は思わずゾーッとするような不気味さを感じた。するとここにまた、もう一つ理由のわからぬことが起こってきたのだ。  いままでしんとしずまりかえっていた座敷の中から、ふいにジージーと秋の夜になく地虫のような物音がきこえてきた。しかもどうやら例の石膏美人の腹のへんからきこえてくるらしい。何の音とも想像もつかぬが、じっときいていると、魂を吸い込まれそうな、わびしい物音なのである。  後になってわかったことだが、この奇怪な物音といい、不気味な猫のなき声といい、さらにまた銀杏返しの美人の、夢見るようなまなざしといい、すべてこれらには重大な意味があったのだが、それはまあ後のお話として、さて俊助がなおも節穴に眼をあててのぞいていると、そのときふいに第二の人物が彼の眼前に現われてきた。  全く、ふいにというよりほかに言いようのないほどだしぬけだった。第一どこから入ってきたのか、それさえ見当がつかぬ。右手のほうに見えているふすまは、さっきから一度もひらいた模様はない。正面には蚊帳越しにうすぐらい違い棚と、広い床の間がはんぶんほど見えるきりだし、左のほうはほとんど見えないが、ふつう日本座敷の常識として、そこは回り縁がついていて、そのさきには厠があるだけとしか思えない。  しかもこの男は忽然《こつぜん》としてその左手のほうから現われてきたのだ。何からなにまで腑《ふ》に落ちぬことばかりである。  あいにく、相手があまり節穴のそばに接近しているのでよくわからないが、どうやらザラザラとした地の、黒っぽい羽織を着込んでいるらしく、からだの格好やあらあらしい息づかいの様子から、たしかに男のように思われるが、それもはっきりしないのである。  しばらくふたりはにらみあうような姿勢で向きあっていたが、そのうちにふいに、 「お静さん!」  と魂消《たまげ》るような男の叫び声がきこえたと思うと、俊助のまえでその背中がまりのように弾んだ。  多分おんなのほうへおどりかかっていったのだろう、ふいに眼界がパッと広くなったが、そのとたんふっと電気が消えてしまった。  そのやみの底から、ふいに突き上げるようにきこえてきたのは、 「ぎゃあッ!」  というような鋭い女の悲鳴。  つづいてバタバタと入り乱れた足音、なにかしら容易ならぬことが突発したのに違いない。俊助は前後の分別もなく、おもわず雨戸にむしゃぶりついた。 「あけてください、あけてください!」  その声に驚いたものか、座敷の中はかえって、ふいに、しーんとした静けさに、閉じ込められてしまったのである。    夢か幻か  いままで、人の気配がしていたものが、急に静かになるというのはまことに薄気味の悪いものだ。  俊助はしばらく雨戸の外でうろうろしていたが、急に思いついて玄関のほうへとんでいった。と出会い頭《がしら》にぶつかったのは角燈をブラ下げたお巡りさん、俊助の声を怪しんで入ってきたものとみえるのである。 「ああ、ちょうどいいところでした。この家の中でなにか起こったらしいのですよ」 「きみはいったい何だね。ふいに空家のなかから飛びだしてきて、人を驚かすじゃあないか」  はたしてこの家は空家なのだ。 「ぼくはこういうものですが」  俊助は新聞社の名の入った名刺を見せながら、簡単に女の悲鳴のことを話した。 「それは妙だね。この家は長いこと空家になっているんだが、ともかく中へ入ってみよう」  玄関は割に造作なくひらいた。俊助はみずから先に立って案内する。なるほどながらく空家になっているとみえて、ふくれあがった畳が、べっとりと足の裏へ吸いつきそうなのだ。 「たしかこの隣の座敷だと思いますが」  ふすまの向う側はしんと静まり返って、人のいるような気配はまったくない。俊助は緊張した面持でさっとふすまをひらいておどりこんだが、そのとたん、呆然《ぼうぜん》としてその場に立ちすくんでしまった。  無理もない。部屋の中はまったくもぬけの殻《から》なのだ。いやいや、人間ばかりではない、ごていねいに蚊帳も夜具も石膏人形も、何もかもいっさい跡方もなくなって、畳の上には塵っ葉ひとつ落ちていない。 「どうしたのです。何もないじゃありませんか」 「おかしいな」 「座敷を取り違えたんじゃありませんか」 「いや、やはりこの座敷です。御覧なさい、あの雨戸に節穴があるでしょう、あそこから僕はのぞいていたのですよ」 「それにしては妙じゃありませんか、人間はともかくとしてお話の蚊帳だの夜具だのはどうしたのです」 「片づけたのでしょう」 「あんなわずかの間にですか」 「大急ぎでやれば、やれぬこともありますまい」 「そうかもしれません。しかし片づけるといっても、この座敷には押入もないし……」 「どこかほかの座敷へ持っていったのでしょう」 「よろしい、それじゃひとつ探してみようじゃありませんか」  しかし、その結果はまったくむだだった。  五つ間ほどある家の中を入念に調べてみたが、求むるものはどこにも見当たらぬ。第一あんな短時間の間に、座敷の中がこうもみごとに片づくというのは解せない話である。俊助は狐《きつね》につままれたような面持で、もとの座敷へとって返した。 「とにかく何もないようですな」  警官はニヤニヤ笑っている。まじめに相手になっておれぬという口吻《こうふん》である。 「どうも妙だなア。さっきたしかに、このへんに銀杏返しの女がすわっていて……」  と言いかけて俊助、何を見つけたのか急に眼をかがやかした。 「ほうらごらんなさい。やはりぼくは夢を見ていたんじゃありませんよ。ここに、ほら、血が落ちているじゃありませんか」  なるほど俊助の指さすところを見れば、まだ乾ききらない血が二、三滴したたっている。 「ここに血が垂れている以上、だれかがここでけがをしたということは間違いありますまい。しかも、まだそれほど時間のたっていないこともわかりますよ」  いままでニヤニヤしていた警官も、もっともな俊助のことばに急に緊張した様子であったが、そのとたん、けたたましく天井を踏み鳴らすおとがきこえたと思うと、小犬ほどもあろうと思われるドラ猫が、鼠《ねずみ》をくわえたまま黒い旋風のように違い棚の上から飛び下りてきた。  人間のほうでも驚いたが、猫もびっくりしたにちがいない。血だらけの鼠の死骸をそこへ放り出していっさんに奥のほうへ走りさった。思いがけないこの侵入者に、二人はあっけにとられて面を見合せていたが、やがてプッと吹き出したのは警官なのである。 「いやどうもこれは……幽霊の正体見たりなんとやらで、いやはや、大山《たいざん》鳴動して鼠一匹ということはあるが、これは鼠半匹ですな」  警官は腹をかかえて笑い出すしまつ、俊助はいまいましくてしようがないが、まさか警官を相手にけんかをするわけにもいかないので、恨めしそうに鼠の死骸をながめている。 「さあ、そうとわかったら、いつまでも他人の家にあがりこんでいるわけにはいきませんよ。そろそろ行こうじゃありませんか」 「なるほど、ここにあるのは鼠の血かもしれませんが、さっきぼくの見た事件は、何と解釈したらいいのですか」 「いや、なにしろ時候が悪いですからな。職業がらとはいえ、あまりきみも、空家などのぞいて回らんほうがいいでしょう」  まるで狂人扱いだ。腹も立つが怒るわけにもいかない。俊助はやっと腹の虫をおさえながら、警官にせき立てられて表へ出てみると、いいぐあいに雨はやんで外はあおい薄月夜。 「一柳博士のお宅はこの近所でしたね」  外へ出ると俊助がそうたずねた。 「一柳博士って一柳慎蔵博士ですか」 「ええ、その一柳さん」 「それならきみ、いま出てきた空家のすぐ裏手がそうですよ。庭つづきになってやしませんか」  それをきいて俊助は、ふたたびハッとしたように顔色をかえた。  一柳博士というのは俊助の恋人瞳さんのお父さんである。  そういえば、瞳さんを訪れるたびに二階の部屋から、古めかしい昔風の平家を見おろしていたが、すると今の平家がそうであったのか。俊助はなんともいえぬ不安な気がした。瞳さんに生き写しの人形が、すぐ裏手にある空家へ運び込まれるというのは、はたして偶然であろうか。  ともかく、これは一応、瞳さんに会ってよくききただしておかねばなるまい。  俊助はそこで警官と別れると、ただ一人一柳博士の邸宅を訪れた。時刻はすでに九時を回っていてなんとなく失礼なような気がしたが、さりとてこのまま帰る気にもなれないので、思いきって呼び鈴を押すと、顔見知りの女中が出てきた。 「お嬢さんは?」 「ああ、いらっしゃいまし、お嬢さまはお留守でございますが。なんですか、同窓会とやらで……」  俊助はちょっと失望したが、すぐ気をとりなおして、 「先生はいらっしゃる?」 「はあ、旦那さまなら奥の書斎にいらっしゃいます」 「そう、それじゃちょっとお目にかかっていこう」  一柳博士はいまでこそ、表面学界から隠退して、地味な学究生活を送っていられるが、その熱心な研究振りは斯界《しかい》でも有名であって、ちかごろは、もっぱら赤外線写真とやらに身を入れていられるとか。  この屋敷では、いつも家人同様の待遇をうけている俊助は、女中の案内も待たずに書斎へ入っていったが、予期に反して博士の姿はみえなかった。 「おや、どこへ行かれたのかな」  卓上の灰落としの中から吸いさしのキャメルが、紫色の煙をあげているところを見ると、そう遠くへ行かれたのではなかろうと、俊助はそばの安楽椅子に腰をおろして、むずかしそうなドイツ語の科学雑誌を取りあげた。  そのとき、どこかでカタリと、ごくかすかな物音がしたので、はっと顔をあげてみると、いつどこから入ってこられたのか、痩身《そうしん》の一柳博士が蒼白《そうはく》の面持で立っていられるのだ。 「三津木君!」  俊助の顔を見ると博士はギョッとしたように、 「いつ来たのだね」 「いま来たばかりですが……おや、おけがをなさいましたね」 「フム、ちょっと引っ掻いたのだが」 「ずいぶんな血ですね、包帯をしてあげましょうか」 「いや、いいよ、自分でやるから」  博士は薬箱を取り出すと、手早く傷口の手当てをする。見るとなにか鋭い歯でかみ切られでもしたように、小指がぐらぐらしていて、とても引っ掻いた傷とは思えないから、俊助はなんとなく妙な気持がするのだった。 「時に何か用事かね。瞳は留守のはずだが」  博士の態度はいつもと違ってはなはだ冷淡なのである。なんとなく警戒するような、よそよそしいその口吻に、俊助は思わず鼻白んで、どてらの上に黒っぽいセルの羽織を着ている博士の、どことなく憔悴《しようすい》したような顔つきを、しばらくまじまじとながめているばかりだった。    二度目の怪事 「いえ、別に大した用件ではありませんがね」  俊助はややしばらくしてから口を切った。 「裏の空家のことについてちょっとおたずねしたいことがあって……」 「裏の空家!」  博士はしわしわと眼鏡の奥でまたたきをすると、 「あれがどうかしたかね」 「あの家はだれの持ち家かご存じありませんか」 「あれなら藤巻の家だよ」 「藤巻さんてあのB大学の……」 「そう、藤巻伍六の家だよ。ああして放っておいては破損する一方だし、不用心でもあるので譲ってくれるようにたびたび交渉するのだが、あいつなかなかうんと言いよらんのでね」  俊助も二、三度この邸で藤巻伍六博士に、お目にかかったことがあるが、一柳博士とは三十年来の親友とか、その交情は兄弟もただならぬという有様で、学界の友情物語といえば、いつもこの二人の名前があげられるくらい有名である。 「ずいぶん長くあいているようですね」 「あの家か」  博士はいかにも大儀そうに、 「そうだね、五、六年前に牛込《うしごめ》のいまの家へ引っ越して以来だからね。なにしろあの男はわしとちがって活動家だから、こういう寂しい場所は柄に合わんのだろう。しかし、どうかしたのかね」 「いや、なんでもありませんが」  俊助はかるくことばをにごして、 「ときに瞳さんはちかごろ、だれか彫刻家のモデルにお立ちになったというようなことはありませんか」 「モデル? さあ、知らんね」 「だれか瞳さんの知り合いに、彫刻家はありませんか」 「そうだね、そういえば藤巻のせがれの洋一がそういう方面の修業をしているという話だが……」  俊助はそれをきくとなにかしらハッとした。  そういえばいつか瞳さんからも、そんな話をきいたことがあるような気がするが、してみるとさっき見たあの石膏美人は、洋一君の制作ではないかしら。そうとすれば、あの空家へかつぎこんだのも、別に不思議はないわけだ。…… 「洋一君はときどきこちらへあそびに来ますか」 「以前はよく来たものだが、このごろはあまり姿を見せないようだね。じつは瞳があまりあの青年を好きでないのでね、相手にしないものだから来にくくなったのだろう。しかし何かあったのかね、いやに取り調べが厳重じゃないか」  博士は硬直したような顔で笑った。 「いや、そういうわけでもありませんが」  俊助はやや鼻白んだように、それからなお二言三言、当たり触りのない質問をくりかえしていたが、それに答える博士の様子がいかにも大儀そうなので、間もなく彼は暇《いとま》を告げてそとへ出た。  何かしら奥歯に物のはさまったような、妙に釈然としない気持だった。  あの石膏美人はたしかに、洋一青年の制作にちがいないと思われるが、いったい二人はどのような関係であろう。数年以前まで隣に住んでいたというし、親同士は兄弟もおよばぬふかい交わりを結んでいるのだから、二人の間にも相当親しい交渉があったに違いない。  それにしても、ああいう裸体像のモデルになるとはよくよくのことだ。それをまた瞳さんがひとことも自分に打ち明けないなんてはなはだけしからん。……と途々《みちみち》そんなことを考えていた俊助は、ここにいたって思わずプッと吹き出してしまった。  おやおや、これが嫉妬《しつと》というやつかしらん。はて、自分もいつの間にこんな愚かな男になったのだろう。瞳さんに限ってそんなことのあるべきはずがないと、考え直すそばから、またしてもこみ上げてくるのは今夜の不思議な冒険、それからいぶかしい博士の様子である。  第一博士はさっき、どこからあの書斎へ入ってこられたのだろう。どこも扉《とびら》のひらいた模様はなかったのに。……今夜は妙に思いがけなく人の現われる晩だ。博士といい、それからさっきの空家の中へ現われた人物といい……とそこまで考えてきた俊助、何を思ったのかふいにさっと顔色をかえた。  空家の中へ現われた怪人物、あれは一柳博士ではなかったろうか。  そういえば、「お静さん」と、叫んだ声も似ていたようだし、それに黒っぽいセルの羽織といい、さらにまた不思議な博士の負傷——とそう考えてくると、たしかに一柳博士であったように思えてくる。  俊助はなんとなく鉛の塊をのまされるような気がした。ふいに足もとに、ポッカリと、まっくらな穴があいたような気持がするのだ。  彼はもう一度あの空家を調べてみようと思っていたのだが、今はもうその勇気もなくなってしまった。なんとなく追い立てられるような気持でその場を立ち去ったが、もしこの時彼がもう一度、あの空家へ引き返していたら!  そこには次のような場面が見られたはずなのである。  俊助が立ち去ってから一時間ばかり後のことだ。  空家の耳門がソロソロと中からひらくと、例のせむしが蜘蛛《くも》のようにノロノロと地上をはいながら出てきた。そして人気《ひとけ》のないのを見定めると、風のように地上を走って坂をおりてゆくのだ。  坂の下には古いお稲荷《いなり》さまの祠《ほこら》があって、仄白《ほのじろ》い常夜燈がボンヤリとついている。そこまで来るとせむしは脇の下にかかえていたものを、ソッと薄暗い樹陰にひろげた。  見るとそれは病人を運ぶ担架であったが、それを樹陰においたまま、せむしはふたたび坂の上へ取って返す。そして今度下りてきたところを見ると、何やら人の形をしたものを抱いているのだ。  せむしはそれをソッと、さっきの担架の上に寝かせたが、いまそれを常夜燈の光で見ると、黄八丈の着物にお納戸色の吾妻コート、それに小豆色のお高祖頭巾という服装が、さっきの銀杏返しの女かとも思えるが、それにしては妙にからだがしゃちこばっていて、人間というよりは、人形みたいな気がするのが不思議である。  ひょっとすると、これはさっきの石膏人形ではないかとも思われるが、それにしては着物やお高祖頭巾が妙である。どうもこのせむしのすることは、何からなにまで腑に落ちないことばかりでさっぱり理由がわからない。  せむしは樹陰に身をひそめたままだれかを待っているように、じっと暗い道のあとさきをながめている。そのとき向こうのほうから、鼻唄交じりの千鳥足でヒョロヒョロやってきたのは、どこかの振舞酒にメートルをあげたとみえる大工風の若い男、それを見るとせむしはいきなり樹陰から声をかけた。 「もしもし」 「えッ、だれだえ、だしぬけに! びっくりさせるじゃないか。おまえさんかい、いまよんだのは」 「はい、私で……」  せむしは気味の悪い作り声で言うのだ。 「なんだ、なんだ、おまえはいったい大人かい、子供かい。ああそうか」  と急に気がついたように、 「そして、何か用事かね」  せむしはそこで急病人をここまで連れてきたが、一人ではどうにもならないから、ちょっと力を貸してもらえないだろうかというようなことを、さも憐《あわ》れっぽく持ちかける。  そこは酔いどれのありがたさ。深くも怪しまず、 「そいつは気の毒だ。して病人というのはどこにいるのだえ」 「はい、あれにおります」 「なんだ、あんなところに寝かせてあるのか、かわいそうに、さぞ体に悪かろう。よしよし、手を貸してやろうがいったいどこまで行きなさる」 「はい、ついこの先の四つ角までで」 「そんならお安い御用だ。それじゃおれが先棒を担いでやるが、おまえさん大丈夫か」  そういう自分のほうがよっぽど怪しい。 「どっこいしょ」  と二人が担ぎあげた。そのとたん担架の上からきこえてきたのは切なそうな女の声なのである。 「お父つぁん、あたしをどこへ連れていくの」 「ああ、よしよし、苦しいかえ」 「いいえ、なんだか暗いわね」  口をきくところをみると、人間かと思われるが、もしこの声を俊助がきいたとしたら、どんなに驚いたことであろう。  陰にこもった憐れっぽいその声は、今日|柩《ひつぎ》の中から救いを求めた、あの石膏人形の声にそっくりではないか。 「父つぁん、こりゃおまえさんの娘かえ」 「はい、さようでございます」  大通りへ出ると角から二軒目に青い電燈のついた家がある。大きな飾り窓のある商家だったが大戸がしまっている上に、飾り窓にもカーテンがかかっているので、なにを商《あきな》ううちかさっぱりわからない。  そこまで来るとせむしは担架をおろして、 「ありがとうございました。ここでよろしゅうございます」  と札を二枚握らせる。 「これはすまねえな、こんなことをしてもらっちゃ悪いよ」  といいながら、はじめて明るいところでせむしの面を正視した酔漢の大工は、ふいにゾッと鳥肌の立つような怖さをかんじたというのだが、無理もない。せむしはまだ昼と同じように、大きな眼鏡とマスクをかけているのだが、そのマスクの下より見える皮膚の色の黄色くカサカサとしぼんだ、言いようのない気味悪さ。  大工はあいさつもそこそこに逃げ出したが、次の横町まで来てふと振り返ってみると、いましも病人を抱いたかのせむしが、青い灯のついた家の中へ入ろうとするところであった。  さてこのときせむしが運び込んだのははたして何であったか、そして青い灯のついた家というのは何を商う店であったか、それらのことはすべて今後のお楽しみということにしておいて、いよいよこの物語の中心へ、筆を進めてゆくことにしよう。    柩の中  牛込矢来町に豪壮な邸宅をかまえている藤巻伍六博士というのは、まえにちょっと言ったとおり、麻布の一柳博士とは兄弟も及ばぬほどの仲のいい友達で、仕事の上でもいつも協力して、学界にもひとかたならぬ貢献をしてきたものだが、性格からいうとこの二人は、まったく陰と陽の正反対であった。  一柳博士があくまで学者肌で、世間の煩わしさをいとうて隠士のような生活をしているのに反して、藤巻博士は二、三の大学に講座を受け持っているほかに、なにがし研究所、なにがし試験所とその関係している公共事業だけでも十指にあまるくらい、学者というよりはむしろ事業家タイプの精力家だ。  体つきなどをみても、一柳博士が鶴のようにやせているのに反して、この人は赤ん坊のようにまるまると肥っていて、いかにも活動家らしく見える。こういうふうに何からなにまで正反対であることがかえって二人の友情をふかめる楔《くさび》となっているのであろう。  藤巻博士は昨年夫人を失って以来、ふたりの息子さんと、三十年来このお邸につかえているお紋さんという老女のほかに、数名の書生や女中などとともに牛込の邸宅に住んでいるが、家庭的にはあまり恵まれないほうで、長男の洋一君はからだが弱くて父のあとが継げず、次男の昭二少年はこれまた知能が人並でないときているから、まことにお気の毒なような状態だ。  その中にあって常に博士のよき慰安の対象となっていた夫人が、昨秋|急逝《きゆうせい》されてからというものは家の中はとんと火が消えたような寂しさ。  朝の早い藤巻博士は今日も六時に眼をさますと、二時間あまり書斎をしめきって調べものをしたが、それがすむとお紋さんの給仕で寂しい朝御飯、いつもなら、それから学校か研究所のほうへ出かけるのだが、今日は両方とも休みなので、久し振りにゆっくりくつろいでいると、そこへお紋さんが名刺を持って入ってきた。 「このかたがお目にかかりたいといって、お待ちしていらっしゃいます」  名刺を見ると三津木俊助——「新日報社社会部」という肩書もみえる。さては俊助は昨日の事件が思いきれず、博士の意見をたたきに来たものとみえる。  博士はちょっと考えて、 「洋一はいるか」 「いいえ、若旦那は昨夜からお帰りになりません」 「そう。それじゃ応接間へお通ししておくれ。それから洋一が帰ってきてもこのことはいわないように」  と言われてはじめて気がついたように、 「ああ、それではこのかたが……」  と老女がなにか言おうとするのをかるく制した藤巻博士、簡単に着替えをすますと、そのまま大股に応接室のほうへいった。 「朝早くからたいへん失礼いたします」  俊助は博士のかおを見ると、いんぎんに椅子から立ち上がった。 「早いですな。まあ掛けたまえ」 「ありがとうございます」 「このごろはだいぶ長いこと麻布のほうへ顔出しをしないが、一柳は元気ですか」 「はあ、いつもお達者のように見受けます」 「それは結構、大切なからだだから大事にしてもらわにゃならん。ときにきみの結婚は、いつごろのことになりますか」  思いがけない話に、俊助は思わずさっと顔を赤らめながら、 「え? 私の結婚といいますと……」 「ははははは、隠さなくてもいいよ。一柳の娘との結婚じゃよ。これについては、うちの洋一がだいぶ恨んどるようじゃから、きみたち気をつけんといかんぜ」  思いがけぬ話に俊助はますます面くらって、 「それはどういう意味ですか。なにも他人に恨まれる覚えはありませんが、なにかこちらの御子息と……?」 「なんじゃ、きみは知らんのか」  博士は驚いたように俊助の顔を見なおす。 「はい、いっこうに」 「そうか、それは失敬した。わしはまたその話できみが来たのだとばかり思っていたが……」 「いえ、用件は別にありますが、そう承ると私もなんだか気になります。洋一君がどうかされましたか」 「ナニ、大したことでもないが、途中で話を切ってしまってはきみも気持が悪かろう。実は昨年、一柳の娘をもらいうけようと話をかけたのだが、みごとはねつけられてしまってね」 「ははあ」  と言ったが俊助、それよりほかにことばの出しようがないのである。 「もっとも死んだ家内などは、この結婚に大反対だったが、洋一のやつがきかんもんだから、ばかな親心からつい一柳に話してみてとんだ恥をかいたものさ。理由はきみのほうに話がきまっているというのだが、ナーニ、洋一が柔弱だから瞳さんにきらわれたのさね」  俊助はまったく初耳だったがあいさつに困ってしまった。まんざらうれしくないこともないが、同時に一抹《いちまつ》の不快さ、——不快さといっては当たらないかもしれないが、ともかく、いままでの明るい婚約生活に一点の影がさしたような気がするのだ。  藤巻博士はじっと俊助の顔を注視していたが、ふと気を変えるように、 「いや、これは詰まらぬ話を耳に入れてすまなかった。まあ、気を悪くしないでもらいたい。ときにきみのほうの用件というのは」  俊助はやっと話の緒をみつけたように、昨夜のいきさつを手みじかに話してきかせたが、きいているうちに、藤巻博士はしだいに卓子《テーブル》の上へ乗り出してきて、 「それは妙だね。あの家は適当な買い手さえつけば譲ってもいいと思っているのだが、なにしろ長いこと放ってあるから、よからぬ輩《やから》が根城にしているのかもしれない。よく注意することにしよう。ときにその銀杏返しの女だがね。何といったね、その名前を……」 「お静さんと男のほうが呼んだようでしたよ」 「お静? それに違いないかね」  博士はなんとなくソワソワとした面持で、 「そして黄八丈の着物にお納戸色の吾妻コート、それに小豆色のお高祖頭巾とかいったね」 「ご存じですか、そういう婦人を……」 「いや、なんでもないが……」  あわててことばを濁したが、なにかしら思いあたるところがあるらしい博士の様子を、俊助は無言のまま見守っていると、その時老女のお紋さんが扉を開いて顔を出した。 「旦那さま、あのちょっと……」 「何だね。お客さまじゃないか」 「はい、でも……」  と老婢《ろうひ》はもじもじとしながら、 「運送屋みたいな男が、若旦那さまのお作りになった人形だとか申しまして、さきほど白木の箱を置いてまいりましたが、いま見ますとなんだかその箱が……」 「その箱がどうかしたのか、かまわんから言ってごらん」 「はい、その箱から血のようなものがにじみ出しておりますので……」  藤巻博士も俊助もそれと聞くと、思わず椅子から腰を浮かせた。 「その箱というのはどこにあるのだね」 「玄関に置いてございますが」 「よし」  博士はすぐ立って行きかけたが、ふと思い出したように、 「三津木君、きみも来てみてくれたまえ。ひょっとすると昨日きみが見たという箱かもしれないよ」  二人が玄関へ出て行くと、書生と女中が二人、不安そうな顔をして三和土《たたき》の上にある箱をながめている。なるほど箱の片隅には血潮とおぼしい赤黒い塊が、ヌラヌラと変に輝いているのだ。 「確かにこの箱に違いありません」  と俊助がいうと、 「よし、木村、ふたを取ってみい!」  書生がふたをこじあけるのを待って、中をのぞきこんだ俊助は、思わずはっとしたように眼を閉じた。  箱の中には燃ゆるような長襦袢《ながじゆばん》を着た昨夜の女が、冷たい蝋《ろう》のような顔をして横たわっているのだ。無残にえぐられた胸もとからは、ゾッとするほどたくさんの血があふれだし、気味悪くブヨブヨと固まりかけているのだ。 「静子!」  じっとその死骸を見詰めていた博士は、しわがれた声でそう叫ぶと、ハッと気がついたように俊助のほうを振りかえった。 「わしは夢でも見ているのだろうか。これは去年亡くなった家内の静ではないか」  藤巻博士は夢見るようなまなざしでそういうと、箱のそばにひざまずいて、静かに死骸を抱きおこした。 「静子! わしだよ、藤巻だよ。おまえはどうしてこんなあさましい姿になったのだ」  博士は血がつくのも物ともせず、ほおずりをしないばかりにかきくどいていたが、そのうちに、はたから見ていた俊助や老婢や書生たちが、ワッと叫ぶと、思わず浮き足だって、二、三歩うしろへたじろいだ。  無理もない。そのとき、じつになんとも形容のできぬほど変てこなことがらがそこに起こったのだ。    蚊帳の血  俊助たちが顔色をかえてうしろへたじろいだのも無理ではなかった。  藤巻博士が死骸をかき抱き、ほおずりをせんばかりにくどいているうちに、どうしたはずみかみずみずしく結いあげた銀杏返しの頭髪が、ポロリと根こそぎ抜け落ちたのだ。  ああ、こんな気味の悪いことがあるだろうか。抜毛というものはたとえ一筋二筋でもずいぶんいまわしい気がするものだのに、これはまたどうしたというのだ、髪を結ったまま根こそぎ抜けてしまったのである。  しかしその不審はじき晴れた。  いままで地頭だとばかり思っていた銀杏返しは、実はかつらだったのだ。しかもそのかつらの下から現われたのは、きれいになでつけられたオールバック。  すなわちいまのいままで皆が女だとばかり思っていたその死骸は、なんと女にも見まごうばかりの美青年が、脂粉《しふん》の装《よそお》いをこらした姿であった。  お紋老婢はそれと見るより、いきなり死体の胸にすがりついた。そして声をも惜しまず泣きだした。 「若旦那、若旦那、あなたはまあなんというあさましいお姿になられたのでございますか」  俊助はそれを聞くとギョッとして死骸の顔を見直した。  そうするとこれがうわさに聞いている藤巻博士の長男洋一青年であったのか。俊助はなんともいえぬほど不思議な感慨にうたれた。彼は偶然にも、自分の恋敵の死の場面を目撃したことになるのである。  藤巻博士は茫然《ぼうぜん》として彼の傍にたたずんでいる。あまり意外な場面の連続に、さすがの博士も思慮をまとめるいとまがなかったのであろう。ただもう悪夢に取りつかれた人間のように、いたずらに眼を見はるばかりだった。  藤巻博士がこの死骸を、亡き夫人と見あやまったのも無理ではない。洋一青年は昔から母に生き写しだという評判だったのに、それがいま、白粉と紅で生前の母とそっくりのお化粧をしているのだもの、うっかり博士が夫人と思い違えたのも無理ではなかった。  これは後になって俊助の知ったことだが、あの黄八丈の着物にお納戸色の吾妻コート、それに小豆色のお高祖頭巾という扮装も、静子夫人が生前好んで用いたもので、現にこの日、洋一が身につけていた衣装なども、みんな母の形見の品々であったそうな。  それはさておき、三津木俊助は一時の驚きから気を取り直すと、呆然としている書生や女中をはげまし、警察だの医者だのへそれぞれ電話をかけさせた。その後で彼自身も「新日報」社へ電話をかけ、しばらく自由行動をしてもよろしいということに打ち合わせを定めた。  そのうちに係官が続々と駆けつけてくる。中には有力な等々力《とどろき》警部の顔なども見える。  さてこれからいよいよ、聴取が行なわれる順序であるが、それをいちいち書いていた日にはきりがないから、要領だけを簡単にお話ししておこう。  第一に死骸の運びこまれた順序だが、それは次のようであった。  今朝七時ごろ表にトラックが着いたので、書生の木村が出てみると、黒い塵《ちり》よけ眼鏡に大きなマスクをかけたせむしが、運転手と二人で白木の箱を自動車からおろすところだった。  そのときせむしが低い声で語ったところによると、これは若旦那が展覧会に出品した石膏像だということだったので、木村は別に怪しみもせず、自分の一存でそれを預ってしまったのだ。後から考えるとその時一応、博士に相談してみるべきだったのかもしれないが、いつもその時刻には、先生はピッタリと書斎の扉をしめて、だれにも絶対に面会しない規則になっているので、それができなかったということである。  それにしても奇怪なせむしとはいったい何者であろう。博士は申すに及ばず、書生や女中たちに至るまで、そんな怪物には全く心当たりがないということである。 「さあ、そうですね」  ようやく元気を回復した藤巻博士は、警部の質問に対して次のように答えた。 「わしとせがれの生活は全然別になっているので、深いことはわからぬが、まさかこんな酷い怨恨《えんこん》を受けようとは全く考えられない」  さてお次はいよいよ三津木俊助の番だったが、彼の述べる一言一句はことごとく警察官を驚倒させるに十分だった。  無理もない。彼は実に犯罪の現場をさえ目撃しているのだもの。  そこで警官たちは藤巻邸の聴取を一時中止し、早速麻布R町にある空家へ駆けつけることになった。  むろんその中に俊助の加わっていたことはいうまでもないが、警官連を案内して昨夜の部屋へふみこんだ俊助は、思わずあっと叫んでその場に立ちすくんでしまった。  驚いたのも道理、昨夜どんなに探しても見当たらなかったあの蚊帳《かや》が、ちゃんと座敷の中に吊ってあるではないか。蚊帳ばかりではない、新しい絹夜具も敷いてあるし、行燈型の電気スタンドもある。  例の石膏人形が見当たらぬだけで、その他はすべて、昨夜俊助が節穴からのぞいていたとおりの光景であった。  俊助はふたたび三度、狐につままれたような顔をしてあたりを見回したことだ。 「なるほど、三津木君、きみのことばに間違いはないよ。確かにここで殺人が行なわれたに違いないね。見たまえ、この血を……」  等々力警部のことばにふと眼をやれば、無残やな、秋草を染め出した蚊帳の内から外側へかけて紅筆を振るったかのようにさっと一筋血潮のしぶき、俊助はそれを見ると思わず眼をつむった。恋敵の血かと思うとあまりいい気持はしないのだ。  こうしていち早く犯罪の現場を突き止めることができたのは大手柄だったが、結局それだけのことだった。刑事連の勢いこんでの捜査もむなしく、例の蚊帳や夜具のほかには何一つ、手がかりになりそうな物は見当たらぬ。問題の石膏人形は申すに及ばず、洋一の着ていた着物やコートなどもどこにもないのだ。  しかも唯一の手がかりと思われていた蚊帳や夜具にしてからが、何の役にも立たぬことが間もなくわかった。というのはこれらの品はすべて、銀座の有名な百貨店から二、三日前に届けられたものであったが、その注文主ならびに受取人というのは、すべてかの正体不明のせむしであることがわかった。  最後に俊助が手帳に控えておいた免状によってあの怪トラックが探し出されたが、これまた別に不審な点のないことがわかった。警部の質問に対して運転手はすっかり恐縮しながらも、次のように答えるのだ。 「へえ、昨日のお昼すぎあのせむしのかたが来られて、半日十五円という約束で雇われましたので。仕事というのはS・S展覧会から麻布のR町まで人形の入った箱を運んでいくことでしたが、その道筋はおれのいうとおりにしてくれとおっしゃるので、あんなふうに東京中をぐるぐる走り回ったのでございます。それから箱をR町のお邸へ運びこみますと、明日六時ごろにもう一度ここへ来てくれとのことなので、今朝お訪ねしまして、例の箱を今度は牛込の藤巻さんというかたのところへお届けいたしました。へえ、へえ、せむしのかたとはそこで別れましたが、いえもう、こんな恐ろしいこととは夢にも知りませんでしたような次第《しだい》で……」  これを要するに事件は何から何まで、あのせむしの綿密な計画によって行なわれたらしい。  せむしとはいったい何者だろう。いやいや、彼は本当にせむしだったろうか。あるいは何者かが自分の正体を包むために、故意にあんなせむしに化けていたのではなかろうか。  それはさておき、事件はただちに新聞に報道されたが、ことに俊助の勤めている「新日報」社のごときは、これを大々的な特種として取り扱い、いかなる犠牲を払っても最後までこの事件は突き止めようということになった。  こういう中にあって俊助は、暇さえあれば一柳博士の邸宅に、恋人の瞳さんを訪れる。恋のために仕事を忘れたのではない。事件はこれより出発しているとしか思えないからである。  瞳は今年二十二歳、近代的な明朗さに包まれた令嬢だったが、さすがに近ごろは何となくふさぎ込んでいる。彼女は俊助の胸にすがりつくようにしてため息とともに訴えるのだった。 「洋一さんもずいぶん人が悪いわ。あたしにもないしょでそのような人形作るなんて。あたしなんだか気味が悪くてしようがないのよ。それにしてもその後人形はどうなったのでしょうね。その人形の所在さえわかればせむしとやらの正体もわかるのではないでしょうか」  瞳のことばは当たっていたかもしれぬ。ともかく人形を探し出すということが目下の急務であったが、諸君は既にその所在をご存じであろう。    少年探偵  話変わって麻布R町に磯岡|今朝治《けさじ》という中学生がいる。  お父さんは丸ノ内に法律事務所を持った有名な刑事弁護士だったが、その血をうけついだものかどうか、三度の飯よりも探偵小説が好きという変わった少年である。  ちかごろでは外国の有名な探偵小説は申すに及ばず、江戸川乱歩の作品なども全部読んでしまってひとかどの探偵気取りになっているが、その今朝治君が近ごろくやしくてくやしくてたまらないことが一つある。  一週間ほど前のことだ。登校の途中問題の空家の前を通りかかると、一台のトラックが止まっていて中からせむしと運転手の二人が、白木の箱を担いで出てくるところだった。 「おやおや、ここは空家のはずだのに変だなア」  今朝治はそう思いながら通りすぎた。  いったい探偵小説ファンというやつは、非常に空想力に恵まれているものだが、今朝治君もその例にもれず、奇怪なせむしと白木の箱を見ると、そのとたん探偵小説的な空想を刺激された。  あの箱に入っているのが美人の死体か何かで、せむしというのが恐ろしい殺人鬼だったとしたらどんなにおもしろいだろうと彼は思った。  ところがどうだろう。その晩の夕刊を見ると、そのとおりのことが行なわれていたのだ。彼が戯れに空想したと同じようなことが、実際あの箱の中にあったのだ。もしあの時、自分がもう少し頭がよくて、日ごろ尊敬している名探偵の明智小五郎みたいに、推理力が働いていたら、その場において犯人を捕らえることができ、今ごろは一躍ヒーローになっていたはずなのだ。  そう考えると今朝治君は自分のボンクラがくやしくてたまらない。日ごろ名探偵を気取っているだけになんとも言えぬほど無念である。 「よし」  と、そこでわが少年探偵は決心したことだ。 「あの時は登校の途中だったからつい見逃したが、この犯人はきっとぼくの力で捕らえてみせるぞ」  そこで彼は非常な熱心さをもって、日々の新聞を熟読することになったのだが、そうしているうちにある日、何を発見したか突然、 「ああ、そうだ!」  とたいへん興奮した面持で叫んだことだ。確かにそうに違いない。なんというすばらしい思いつきだ。どうしてみんなはこれに気がつかないのだろう!  それからまた彼は、しばらくあれやこれやと考えた末、かねてから探偵小説の新刊本が出たら買うつもりでためておいた貯金を引き出し、家にいる書生に頼んで、次のような三行広告を「新日報」の夕刊に出すことにしたのである。 ———————————————————————————————————————— [#ここから改行天付き、折り返して5字下げ]  探ね人 黄八丈の着物にお納戸色の吾妻コート小豆色のお高祖頭巾を着た婦人を、五月十七日の夜麻布R町付近で目撃した人は左記の所までお知らせあれ、お礼として十円を呈す。 [#ここで字下げ終わり] [#地付き]丸ノ内ビル内 磯岡法律事務所  ————————————————————————————————————————  この磯岡法律事務所というのは、いうまでもなく父弁護士の事務所なのだが、ちょうど父が関西旅行中で留守なのを幸いにそこを利用しようというのだ。心配なのはお礼が少ないことなので、わずか十円ぐらいではどうかと思ったが、中学生の今朝治君には、それ以上工面の方法がつかないのだからやむをえない。  さてこの広告が出てからというもの、今朝治君は胸をワクワクさせながら、学校が引けると早速丸ノ内の事務所へ出張してがんばっているのだが、するとはたして、それから二日目の午後、新聞の切り抜きを持って訪ねてきた者がある。  しかしそれは今朝治君が求むるような人物ではなくて、反対にこの広告を怪しんできた「新日報」社の三津木俊助だった。  俊助は意外にも相手がまだ二十歳にもならぬ少年と知って、茫然としてしまったが、すぐ気を取り直すと、 「この広告を出されたのはあなたですか」 「はい、そうです」  とは言ったものの今朝治君、相手を新聞社の人と知ると、急にきまりが悪くなって、すっかりドギマギしてしまった。 「これはいったいどういう意味ですか。私もこういう服装をした婦人に心当たりがあるのですが」 「どういう意味って」  と今朝治君はますます狼狽《ろうばい》しながら、 「ぼくそういう人を探しているのです」 「変ですね」  俊助はじっと相手の顔を見ながら、 「これは藤巻博士邸の殺人事件に関係しているのではありませんか。それならば私も最初からあの事件に関係しているのです。ご存じかどうか知りませんが、妙なことから殺人現場を目撃した新聞記者というのは、かくいう私なのですよ」  それを聞くと今朝治君はいよいよ顔を赤らめ、穴あらば入りたいというようなそぶりさえ示すので俊助はなるべく相手を驚かさないようにと声を和《やわ》らげ、 「ねえ、さしつかえがなかったらぼくにだけソッと打ち明けてくれませんか。いったいこの黄八丈の婦人とどういう関係があるのですか」 「ぼくはあの石膏像を探しているのです」  今朝治君はどもりながらいった。 「石膏像を? それじゃきみは石膏像が黄八丈の着物を着ていたというのですか」  今朝治君はだいぶ落ち着きが出てきたらしい。にっとひとみを輝かしながら次のようなことをいうのだ。 「ええ、そうなんですよ。新聞で見ると石膏像と同時に、着物や何かがなくなっているというでしょう。だからぼくは人形に着物を着せて、人間のように見せかけて連れ出したのじゃないかと思うのです。なぜって人形を運び出すということは人目につきやすいものですが、これを人間に仕立てると、かえって人の注意をひかずにすみますからねえ」 「なるほどね。しかし人形はひとりでは歩きませんよ。せむしが抱いていったとすれば、いかに着物を着せてあったところで、やはり人目につきそうな気がしますがねえ」 「だからだれか、この人形を運び出すのに力を貸した者があるのに違いありません」  今朝治君はすっかり自信を取り返した様子だ。 「しかしその人は人形とは知らずにいたのだろうと思います。どういうふうにしてせむしがごまかしたのか知りませんが、その人は共犯者や何かでなく、たぶん通りがかりの人だったろうと思うのです。というのはトラックの一件でもわかりますが、このせむしは決して共犯者をこしらえないで何も知らぬ人間を巧みにだまして使うことに意を得ているようですからね」 「なるほど、それできみは、手伝いをした人というのが来るのを待っているのですねえ」 「え、そうなんです」  と言ったものの急に心配になってきたのか、 「その人来ないでしょうかね。ぼくもっとお礼が出せるといいと思ったのですけれど、お小遣いがそんなにないものだから……ねえ、十円じゃ少なかったでしょうか」 「さあ、どうですかな」  俊助も困って煮え切らない返事をした。  彼はひどくむだな時間を費やしているような気がしてきたのだ。なるほど今朝治君の説にも、いくぶん真実にふれた点がないこともないと思えるが、畢竟《ひつきよう》その推理なるものは探偵小説の世界のものであって、実際には適用できそうにもないと考えるのだ。  しかし、この点俊助の間違っていたことは諸君すでに御承知のとおりである。今朝治君の推理なるものが一分一厘も違っていなかったばかりか、彼が心配しているように、十円という金額も決して少ない金ではなかったのである。  いまどき十円の金を盗むためには殺人さえあえてする不良少年があるではないか。ある階級の人々には十円といえども決してばかにならない金なのだ。はたせるかな! 俊助がソロソロ腰をあげようとした時だ、書生の山口というのが緊張した面持で入ってきた。 「来ましたぜ、坊っちゃん」  書生君もひどく興奮している。 「今度こそ間違いなさそうですぜ。大工みたいな服装をした男ですが、この十円というのに間違いはないかと、何遍も念を押してたずねていましたぜ」    悪魔の煙幕  さてここへ訪ねてきた大工風の兄ちゃんというのが何びとであったか、そしてまた俊助と今朝治君の前でどんな話を打ち明けたか、それはいまここに繰り返す必要もあるまい。この物語の少し前のほうをお読みになった諸君は、よく御承知のはずであるからだ。  すなわちこの男こそ、先日の晩、せむしに頼まれてあの奇怪な担架の片棒を担《かつ》いだ男であったが、その話をきいているうちに、今朝治君はしだいに得意の色を浮かべてきた。無理もない、彼の考えというのがあまりにもうまく的中していたので、すっかり有頂天になってしまったのだ。 「なるほど、それじゃその青い灯のついた家へ、担架を運び込んだというのですね」 「へえ、そうなんで」  と大工はもじもじとしながら、 「何ンしろ夜のことですから何商売の家ともわかりませんが、その青い灯というのが目印なんで」 「それはあの大通りへ出てから、二軒目の家じゃなかったかしら」 「そうそう、確かにそうのようでした」 「わかった!」  今朝治君がふいに頓狂な声をあげた。 「わかりましたよ、三津木さん。石膏像の所在がわかりましたよ。なんという抜け目のないやつでしょう。なんといううまいところへ隠したのでしょう」  今朝治君はしきりに興奮している。 「その青い灯の家というのをきみは知っているのですか」 「知っている段じゃありません。ぼくは毎日その石膏像を見ていたかもしれないのです。さあ、これからすぐに行ってみましょう。山口さん、このかたに約束の十円を差し上げてください。それから自動車を呼んでくれませんか」  思いがけない成功に有頂天になった今朝治君、ことばつきまで大人のようだ。 「いや、自動車ならぼくのやつが表に待たせてありますよ」 「そうですか、それではそいつで行きましょう」  今朝治君はせき立てるようにして俊助とともに自動車へ乗り込んだが、目的地まで行くにはものの十五分とはかからなかった。 「ストップ!」  麻布R町の大通りまで来ると、ふいに今朝治君が自動車をとめて飛びおりた。 「この家ですよ。青い灯のついている家というのは……」  今朝治君が指すほうをながめた俊助、思わずあっと軽く舌をまいた。  それはさぬき屋という中古の洋家具などを商う店で、広い土間には椅子だの寝台だの卓子だのが雑然と並べてある。  しかし俊助が驚いたのはそれらの品物でなく、店の入口にある大きな飾り窓だった。その中には等身大の石膏像や大理石像などが、五つ六つも飾ってあるのだが、そのうちに見覚えのある、瞳さんに生き写しの石膏美人が立っているではないか。 「あれだ」  俊助は思わず鋭いうなり声をあげた。  ああ、なんというすばらしい隠し場所であろう。外国のある偉い詩人のことばによると、最も上手な隠し場所は少しも隠さないことだといったが、この犯人はちゃんとそれを心得ているのだ。  人々が血まなこになって探し回っている時、当の石膏像は眼と鼻の間の飾り窓の中で、皮肉なほほえみをうかべつづけていたのだ。 「とにかく、中へ入ってみましょう」  残念ながらこの時俊助は、あまり興奮していたために、あたりにもっとよく注意を払うことを忘れていた。  だから薄暗い洋家具の陰から、じっとその後ろ姿を見送っている奇妙な人影に少しも気がつかなかったのである。  奇妙な人影は俊助たちの奥へ行くのを見送っておいて、のこのこと表のほうへ出てきたが、いまあかるい所で見るとそれは確かに例のせむしではないか。せむしはまんまと俊助の眼をのがれたが、行く手には思いがけない伏勢が待っていた。  俊助たちを乗せてきた自動車の運転手が、その姿を見つけて頓狂な声をあげたのだ。 「あっ、三津木さん、せむしだ、せむしだ!」  せむしときいて三津木俊助、びっくりして表へ飛び出してきたが、当の相手はそれより早く、飛鳥のように身をひるがえして逃げていく。 「あっ、あいつだ、捕らえろ!」  もう石膏どころのさわぎではない。一目散に追っていくその後から、運転手に今朝治君、それから弥次馬が二、三人、バラバラと続いた。  せむしはこの辺の地理に詳しいとみえ、あちらの路地、こちらの横町と巧みに追跡者の目をくらましながら逃げていく。 「そいつを捕らえてくれ、人殺しだ、人殺しだ」  声をききつけて行く手の長屋からひょいと顔を出した四十男。しめたと俊助たちが喜んだのもつかの間、いやというほど頭突きをくらって、だらしなく伸びてしまった。  せむしのくせにいやに力の強いやつだ。  しばらく、こうして、せまい路地の中で死に物狂いの鬼ごっこが続けられていたが、やがてそこを潜《くぐ》り抜けると、さしかかったのはこの間の坂道、黒いトンビの羽をバタバタひらめかしながら、鉄砲玉のようにその坂道を登ってゆく速さ。とてもせむしの芸当とは思えない。  坂を登り切ると行く手にはこの間の空家が見える。せむしはその空家を目指しているらしい。  が、その時俊助にとって意外な味方が現われた。というのは向こうのほうからおなじみの警官がやってきたのだが、この騒ぎを見るとすぐに事情を覚《さと》ったらしく、急にこちらへ駆けてくる。  もう大丈夫だ。かわいそうにせむしは前後からはさみ討ちになったのだ。  警官の手がいまにもせむしの体に届きそうになった。しかしそれと同時に彼は空家の耳門まで達していた。せむしはすばやくその耳門を潜った。続いて警官と俊助の二人が鉢合《はちあわ》せをしないばかりに、せまい耳門をひしめきあった。  その時だ。  くるりとうしろを振り返ったせむしの手が、さっと挙がったかと思うと、梅の実ぐらいの大きさの物が警官の足もとでパッと破裂した。と、たちまち毒々しい黄色ガスがもうもうとしてあたりを包む。  催涙ガスである。  眼も口もあけていられたものではない。ことに真正面からこいつをくらった警官のごときは、ゴホンゴホンと七顛八倒《しちてんばつとう》の苦しみである。後から駆けつけた運転手や今朝治君、それから大勢の弥次馬連中も、この思いがけない悪魔の煙幕に、思わずたじたじと逡巡《しゆんじゆん》したが、その中で運転手がいちばん勇敢だった。  ハンケチで鼻と口を押さえると猛然として毒ガスの中を突っ切ったが、そのとたん家の中から飛び出してきた一紳士。 「あっちだ! あっちだ!」  声をききつけてひょいと顔をあげた俊助。 「あっ、藤巻先生!」  といったが、痛くて眼があけていられない。ポロポロ涙がこぼれている。  いかさまそれは藤巻博士に違いなかったが、博士も俊助たちに劣らず、血走った眼をギラギラさせながら、 「三津木君、あいつはいま奥庭のほうへ逃げたよ。とにかくこうなったらもう袋の鼠だ。手分けをして探そうじゃないか」  俊助はようやく元気を回復した。  そこで警官には表のほうをまかせ、博士と俊助、運転手と今朝治君、それに二、三の弥次馬を加えて二手に別れた。  この思い設けぬ冒険に今朝治君はわくわくしていたが、肝心のせむしの姿はどこにも見当たらないのだ。家の中は申すに及ばず、庭の隅、物置の陰と残る隈《くま》なく探したのに、どこにも姿は見当たらぬ。  表へ逃げるわけはないから、裏から逃げたのかもしれないが、その裏というのは一柳博士の邸宅なのだ。 「ああ、ここから塀《へい》を乗り越えていったのだ」  博士の指さしたところを見ると、蔦《つた》の絡《から》みついた石塀に、たったいまだれかがかき登ったのではないかと思われる擦傷《すりきず》がついている。 「よし、私たちもここを越えてみようじゃありませんか」  俊助は手ごろの足場を見つけ出すと塀にかき登ったが、すぐその下では、瞳が一人で花壇の手入れをしている。彼女は俊助の姿を見ると魂消《たまげ》たような声をあげた。 「あら、いやだわ、三津木さん、それからまあ小父さままで、ほほほほほほ!」  その様子ではちっともいまの騒ぎを知らないらしい。この声をききつけたのであろう。庭に面した浴室の窓をガラリとひらいて、半裸体の一柳博士が難しい顔をのぞかせた。 「藤巻じゃないか。どうしたのだ、そんな所から」  一柳博士がとがめるように言った。    石膏像の秘密  洋一君のお葬いやその後始末で、事件以来二人はたびたび会っているのだが、いま藤巻博士が妙なところから顔を出したのを見ると、何かまた変わったことが起こったに違いないと、一柳博士は思わず顔色をかえた。 「いまね、例のせむしを裏の空家へ追い込んだのだが、こちらへ来やしなかったか」  藤巻博士はそういいながら柔らかい花壇の端にとびおりた。俊助もそれに続く。 「せむしってこの間のやつかい」  一柳博士はまゆをひそめながら、 「ちょっと待ってくれ。いますぐ行くから」  と窓から引っ込んだが、すぐ湯上がりの浴衣《ゆかた》に帯をしめながら現われた。 「それでどうしたんだ。そのせむしというのが……」  一柳博士はいかにも気遣わしそうである。 「なにね、ここにいる三津木君たちがそいつを裏の空家へ追い込んできたんだ。わしはちょうどその時奥座敷にいてね、まあいろいろと考え事をしていたと思いたまえ。そこへ表のほうが急に騒々しくなったから、何事だろうと玄関へ出てみると、いきなりそいつにぶつかったわけさ。  向こうも驚いたろうがこっちも驚いた。はっとして立ちすくんでいるすきに、すばしっこいやつでこちらのほうへ逃げ込んでしまったのだが……瞳さん、こちらへ来なかったかい」 「いいえ」  瞳は不安そうに藤巻博士と俊助とを見くらべている。俊助はその側に寄りそうようにして、 「おかしいな。瞳さん、あなた先からここにいらしたのでしょう」 「ええ、三十分ぐらい」 「その間にだれもあの塀を乗り越えてきたものはありませんか」 「ございませんわ」 「あったけれど気がつかなかったのじゃありませんか」 「そんなはずございませんわ」  瞳は力をこめて、 「私、盲じゃございませんのよ」 「いや、これは失礼、しかし一応このお邸の中を探してみたいのですがかまいませんか」 「ええどうぞ。私もお手伝いいたしますわ」  しかしその結果は全く徒労だった。せむしはまるで煙のように、この邸と裏の空家の中間で消えてしまったのだ。その報告をきくと、今まで妙に白け切った顔をして控えていた一柳博士が、俊助のほうへ振り向くと、 「いったいどこでそのせむしを見つけたのだね」  そういわれて俊助は急に思い出したように、さっきからのいきさつをかいつまんで話す。 「ほほう、それじゃ石膏人形の所在がわかったのだね」  藤巻博士は急に眼を輝かせて、 「それじゃすぐ行ってみようじゃないか。一柳、きみも行くだろう」 「ふむ、行ってもいい」  一柳博士はなぜか煮え切らぬ返事をして立ちあがった。  そこで藤巻博士の邸を見張っている人々には、なお厳重に邸の中をさがすようにいいつけておいて、三人は改めて先の家具商へ出かけた。  ここでさぬき屋の主人との一問一答をいちいち書いていては際限がないから、ごく簡単に話すと、実は亭主のほうでもこんな人形が、いつの間にやら飾り窓の中へ入り込んでいるなんてことはちっとも気がつかなかったのである。  なにしろこの飾り窓の中にはいつも同じような人形が五つ六つ並べてあるので、一つぐらいよけいなものが入っていたとて、少しも注意をひきはしなかった。あるいは店員の中には気がついていたものがあったかもしれないが、彼らまた彼らで、いつの間にか主人が新しく買い込んだのだろうぐらいにすませていたのだ。 「しかし、このことをしらせてくれた男の話によると、夜の十一時ごろ、せむしがこの家へ運び込んだといいますよ」 「ええ、私の店ではいつでも一時ごろまでは耳門があいているのです。若い者の中に麻雀《マージヤン》に凝《こ》っているのがありましてね。それに耳門を開けっ放しにしておいたところで、御覧のとおりかさばった品物ばかりですから、泥棒の心配はありませんのでね。まさか向こうさんから持ってきてくれようとは夢にも思いませんでしたよ」  亭主は声をあげて笑った、せっかく意気込んできいたのに、いっこう取りとめのない話で、俊助は少なからず失望したが、すぐ気を取り直して、 「とにかく、人形をここへ出してくれたまえ」 「ヘイ、承知しました」  声に応じて店員が担《かつ》ぎ出した問題の石膏像を見ると、藤巻博士はいかにも感慨深げに、 「なるほど、わしもはじめて見るのだが、瞳さんにそっくりじゃないか」 「ふむ」  一柳博士はいやな顔をして眼を反《そ》らしたが、その人形の体をしらべていた俊助が頓狂《とんきよう》な声をあげた。 「おや、これは何だろう!」  その声に博士たちが見ると、石膏像の背中がポッカリとはずれて、その中が洞《うつろ》になっているのだ。  しかもその洞の中には何やら奇妙な機械のようなものが仕掛けてあるではないか。  藤巻博士はそれを見るとギョッとしたように顔色をかえた。 「や、これは活動写真の機械じゃないか」 「何だって?」 「見たまえ。どうもおかしいよ」  二人の博士は額に深いしわを刻んで、かわるがわる熱心に石膏像の中をのぞきこんでいたが、二人ともほとんど同時にあることに気がついたとみえて、脅えたような眼を見交わせた。 「あれだね」  藤巻博士が他言をはばかるような低い、しわがれた声でいうと、 「ふむ」  と一柳博士の面上に深い混乱の色が浮かぶ。  この偉大な学者たちをかくも驚かせた石膏像の秘密とははたして何であったか。  俊助は好奇心にたえぬように、 「どうかしたのですか」 「ふむ」  藤巻博士は言ってよいものかどうか、しばらくためらっている様子であったが、やがて思い切ったように低い声でささやくのをきけば、 「これはね、普通の撮影機ではないのだよ。見たまえ、この石膏像の両の乳房にレンズがはめてあるだろう。左のほうはカメラのレンズだが、右のほうのはね、赤外線を送る装置になっているのだよ。詳しいことは素人《しろうと》の君に話してもわかるまいが、これは最近わが国ではじめて発明された赤外線活動写真機なのだ。赤外線というものは肉眼には感じられないが、特殊のフィルムに感光するのだ。だからこの赤外線写真で撮影すると、どんな暗やみの中の出来事でも、ちゃんとこのフィルムに写るという仕掛けになっている。しかも見たまえ、この撮影機は自動回転装置になっていて、フィルムが切れるまで自然に回るようになっているのだ。つまりこれは暗やみの中で何びとの手も借りずに、活動写真を撮影する仕掛けになっているのだよ」  聞いているうちに俊助は、ふとこの間の晩のことを思い出してさっと顔色をかえた。  俊助が空家のぞきに夢中になっていた時、耳にしたジージーという物音は、この写真機の回転する音だったのではなかろうか。もしそうだとすると、あの素晴しい犯罪のいっさいが、フィルムにおさめられているのかもしれない。  それはまことに変テコな、気違いじみた考えではあったが、今度の事件全体が、悪夢のような色彩に包まれているのだ。案外ばかにならぬ考えであったかもしれない。  しかしこの赤外線写真の本当の重大な意味はもっと他にあったのだ。それは藤巻博士がその時話した、次のことばでもわかるのである。 「おかしいな。この発明は一柳とわしの二人が、最近やっと完成したばかりで、他にだれも知っている者はないはずなんだがな」  言いかけて藤巻博士、急に気がついてギョッとしたように一柳博士の横顔をぬすみ見た。    唖少年  殺人の現場が活動写真のフィルムの中におさめられている。それはなんという恐ろしい話であったろう。しかもこのありそうもない事柄が、実際この事件では行なわれていたのだ。  石膏像の中から発見された赤外線応用の活動写真のフィルムには、あの恐ろしい殺人の場面がまざまざと撮影されていたのである。  フィルムは二人の博士の指導と、等々力警部たちの厳重な監視のもとに、現像ならびに焼き付けが行なわれ、いよいよ藤巻邸においてそれが試写されるという晩のことだ。  関係者の一人として試写の席につらなることを許されていた俊助が、定刻少し前に藤巻邸を訪れると応接間には瞳が一人、不安そうな顔をして控えていた。 「よく来てくだすったわね。私さきほどからなんだか心配で心配で……」 「どうかしましたか」 「いいえ、別にどうということはありませんけれど、なんだかまだまだ恐ろしいことが起こりそうな気がして怖くてなりませんの」 「そんなことがあるものですか」  俊助はたしなめるように、 「いまに万事かたがつきますよ。あのフィルムに犯人でも映っていてごらんなさい。万事それで解決ですよ」 「まあ、そんなこと本当でしょうか。人殺しの場面が映画になっているなんてそんなことが……」  瞳はいかにも恐ろしそうに肩をすぼめる。 「いや、全く途方もなく恐ろしいことですが、そういう恐ろしいことが実際にあったのですよ。現像に立ち会った等々力警部の話によると、確かに殺人の場面が映っているということです」 「いったい、だれがそんな仕掛けをしたのでしょうね」 「それがわからないから気味が悪いのです」 「まさか、父では……」  と瞳はついうっかり口に出していって、ふいにハッとしたように顔色をかえた。それから俊助の顔を哀願するように見ると、低い声でささやくようにこんなことをいった。 「まさか父ではございますまいね。三津木さん。父は何かこの事件に関係があるのではございますまいか」  それをきくと俊助もギョッとしたように顔色をかえ、せきこみながら、 「ド、どうしてそんなことをおっしゃるのですか」 「なんですか、父はこのごろまるで人が変わったようですの。昨夜なども一睡もしなかった模様で、夜中に急にどなりだしたり、ひとり語《ごと》を言ったり、一通りの興奮のしかたではありませんの」 「それは困りましたね」  俊助も何と言って慰めていいかわからないのだ。彼自身もこの間から一柳博士に対して漠然たる疑惑を抱いている。しかしいまそんなことを言ってはますます瞳を心配させるばかりなので、さりげなく話題を変えようとしたが、いい具合にそこへ、十二、三になる男の子が、よちよちとした歩調で入ってきた。  少年は二人の姿を見ると、ふと足を止めて妙な薄笑いをうかべてまじまじと瞳のほうを見ている。  色白の、さえない血色をした、どこか普通と違ったところのある少年だ。 「昭二さん、どうなすったの。さあ、お姉さんのところへいらっしゃいな」  妙にユックリとした口の利き方で瞳がそういうのを、少年はのぞきこむようにして見ていたが、急にうれしそうな笑いをうかべると、よちよちと瞳のそばへやってきた。  それが藤巻博士の次男昭二だったが、かわいそうにこの少年は唖なのだ。しかしありがたい文明の働きは唖に口を利かす術《すべ》さえできているのであって、昭二少年も読唇術とやらを習いはじめて、近ごろではどうやら簡単なあいさつぐらいならできるようになっていた。 「お兄さんがいなくなって寂しいでしょう」  瞳は昭二のほうを向いてユックリと唇を動かしてみせる、諸君もご存じのとおり読唇術というのは相手の唇の動きを見てことばを判断するのだから、いつも真正面を向いていてやらなければならないのだ。 「ウウン、ボクチットモ寂シクナンカナイヤ」  昭二は不自由な舌を操りながら切れ切れに言う。妙に不明瞭な濁った声だ。 「そう、えらいわね、昭二さんは」 「フフフ」  少年はいかにも知恵の薄い者のような笑い方をして、 「ダッテ兄サンハ家ニイルト、ボクヲイジメテバカリイルンダモノ。死ンジマッテ本当ニイイ気味ダ」 「まあ、そんなこと言うもんじゃありません」 「カマウモンカ、ドンナニ悪口言ッタッテ、死ンジマッタラ何モデキヤシナイモノ。姉サンダッテソウオモウダロ。ボクヨク知ッテルヨ。姉サンモ兄サンガキライダッタノデショウ」 「まあ、いやな昭二さん」  瞳はなんとなく身ぶるいしながら、 「そんなこというものじゃありませんよ」 「ドウシテ?」 「どうしても。亡くなった人のことを悪く言ったりするものじゃないの。わかって?」 「ウン、ボク、姉サンガ言ッチャイケナイト言ウナラ言ワナイヨ」 「そう、おりこうさんね、昭二さんは」  さっきから妙な顔をして二人の応対をながめていた俊助がささやくように言った。 「読唇術ですね」 「ええ、そう、かわいそうにこの人、生まれつき耳がきこえないものですから」 「ぼくも話にはきいていたが、実際に見るのは初めてですよ。なかなかうまくしゃべるものですね。坊や、小父さんとお話をしようか」 「ウン、ボク小父サンガ好キダヨ」 「どうして?」 「ダッテ小父サンハオ姉サンガ好キダロ。ダカラボクモ小父サンガ好キダヨ」  俊助と瞳はこれをきくと、思わず目を見合わせて苦笑をした。しかし、この知恵の薄い少年の読唇術が、間もなくどんな思いがけない働きを示すに至るか、さすがの俊助もその時には夢にも気づかなかったのである。    火中の白蛇  それから間もなく藤巻邸の一室では、問題の試写が行なわれることになったが、これに立ち会ったのは一柳、藤巻の両博士をはじめとし、等々力警部ならびに警察関係の人々が五、六名、それに三津木俊助を加えたごく少数の面々が、いずれも前代未聞のこの殺人映画に、緊張した面持で控えていると、まず開巻|劈頭《へきとう》人々の眼に映ったのは、画面いっぱいに爽《さわ》やかな小波《さざなみ》を刻んでゆらめいている白蚊帳だ。  その蚊帳の前に悄然《しようぜん》として首うなだれている銀杏返《いちようがえ》しの女こそは、紛れもなく洋一青年のあらぬ姿であったが、すでに亡き人かと思うと、白い横顔もなんとなく寂しくはかなげに見える。それがまた赤外線写真特有の、妙にはっきりとした陰影で隈取《くまど》られているのだから、ひとしお強く見る人の胸に迫ってくるものがあるのだ。  藤巻博士は思わず低いうめき声をあげる。  洋一はふと顔をあげると、憑《つ》かれたような気味悪いまなざしで、あたりを見まわしていたが、急にその眼が際立っていきいきとしてきたかと思うと、忽然《こつぜん》として画面の左手から男の姿が現われたのだ。  人々はそれを見るといっせいに、ハッとしたように息をのみこむ。もしこの男の容貌《ようぼう》がちょっとでも画面の端に現われたら、それでもう万事は終わりなのだが、なかなかそううまくいかないから、見ている人々はもどかしくてしようがない。  男のほうで用心しているのか、それとも偶然カメラの位置がそういうふうになっているのか、男は常にその背中の一部分しか画面に現わさないのだ。  そうしているうちに、ふと洋一青年のくちびるが動いた。  そして何やら言ったかと思うと、ふいに黒い影がさっとその上に躍りかかり、いつの間に取り出したのか、鋭い刃物がグサッと洋一の胸に振りおろされる。  なまじお芝居気がないだけに、いっそうひしひしと胸に迫ってくるものがあって、見ている人々は悪夢のような空恐ろしさを感じた。  犯人は生々しい血糊《ちのり》のついた短刀を握ったまま、足もとに倒れている洋一の死骸を見守っているらしく、ひざの一部分と手先だけが画面の端に見えている。  洋一はまだ死にきってはいなかったとみえ、はだけたえりの間から見える白い肩のあたりが、ピクピクと微かに痙攣《けいれん》していたが、ふいに顔をあげると、何やら二言三言きれぎれに言ったようであった。  そのとたん一柳博士が脅えたような声で、 「や! あれは何だね」  と叫んだので、人々はいっせいにそのほうへ振り返る。 「何ですか、何かありましたか」  とたずねかけたのは等々力警部だ。 「あれだ。ああ、もう見えなくなった」  見ると一柳博士は白いスクリーンの反射の中で、蒼白の面をひきつらせ、わなわなとくちびるをふるわせている。額には汗がビッショリ。何かよほど感動するようなことにぶつかったのに違いない。 「どうなすったのです。何かありましたか」 「ふむ、いや」  一柳博士がかわいたくちびるを舌でしめしながら、何か言おうとした時、フィルムはそこで突然切れて部屋の中にはボヤーッと電気がついた。 「どうしたのだね、一柳君」  藤巻博士は血走った眼をむけると、なじるようにたずねる。 「いや」  と一柳博士もいくぶん落ち着きを取り返して、 「洋一君の背中のところに、何やら赤黒い痣《あざ》のようなものが見えやしなかったかね」 「痣……? どんな痣でしたか」  等々力警部と俊助が同時にきき返す。 「それが実に妙な形だ。きみたち見なかったかね」 「ええ、先生が妙な声をお出しになったもんですから、ついそのほうへ気をとられて……」 「そうか、それは気の毒だった」 「一柳君、何だね。わしも終わりのほうはろくすっぽ見ずにすましたが、もう一度写してもらおうか」  藤巻博士の提議に反対する者は一人もいなかった。  そこで等々力警部の合図によって、再び同じ写真が繰り返されることになったが、やがてその画面も進んで、洋一青年が凶刃にたおれ、はだけた肩の一部分が見えてきたが、なるほどその肩の上には、何やら赤黒い痣のようなものが見えるのだ。  それはちょうど燃えさかる炎の中で、白蛇がとぐろを巻いているような、妙に複雑な格好をした痣であった。 「あの痣のことですか」 「ふむ、そうだ。藤巻君、洋一君には昔からあんな痣があったのかね」 「ああ、あれか」  藤巻博士は吐き出すように、 「あれなら洋一の生まれた時からあったよ。もっとも妙な格好をしているところから、死んだ家内などは気味悪がってね、なるべく人目にふれないようにしていたようだから、きみの知らないのも無理ではない。しかしあれがどうかしたかね。一柳君」  そう反問されると一柳博士はなんとなく狼狽したように、 「いやなに、あんまり奇妙な形をしているものだから、ちょっとたずねてみたまでだがね」  とことばをにごしてしまったが、だれの目にもただそれだけでないことはよくわかっていた。  一柳博士は確かにこの痣について、何かしら思い当たるところがあるに違いないのだ。しかし、それはいったいどういう秘密であったろうか。そしてまたこの事件とどういう関係を持っていたのであろうか。  ところがちょうどその時、意外な別の事件が持ち上がったので、一柳博士はそれ以上人々に追究されることからまぬかれた。  その事件というのはこうである。  それより少し前から人知れず試写室へまぎれこんでいた唖の昭二少年が、この時あっと叫ぶと隅のほうから跳び出してきたのだ。  見ると彼はつきものでもしたようにスクリーンの上を指しながら、気違いのように地団駄を踏んでいる。何か言おうとするのだが、あせればあせるほど口がきけなくなるのだ。  人々はハッとしてスクリーンの上に眼をやった。見ると今しも断末魔の洋一が首をもたげて何やら口走っているところだった。  ああ、唖少年は映画の語る無言のことばを読みとったのではなかろうか。  しかしそうとは気がつかぬ人々は、ただあきれはてたようにスクリーンの上の兄と、気違い踊りを踊っている唖の弟とを見くらべているばかりであったが、そのうちに昭二少年はウーンと床の上にのけぞると、口からいっぱい泡を吐き出した。あまりの興奮のために、持病のテンカンを起こしたのである。    流線型魔人  昭二は何をこのように驚いたのであろう。  映写幕のうえにクローズ・アップされた無惨な兄の最期の場面——感じやすい少年にとってはそれだけでも十分なショックだったに違いあるまいが、ただそれだけだったろうか。何かほかにもっと恐ろしい理由があったのではなかろうか。  たとえば昭二が持っている、読唇術というあの不思議な才能である。ひょっとするとその才能のおかげで、フィルムの上からささやいた、断末魔の兄のことばを、この唖少年は理解することができたのではなかろうか。  そこにいあわせた人々がこのことに気づかなかったというのは、実に残念な話であった。  それはさておき、幼いころ脳膜炎を患ったことのあるこの少年は、何かひどく感動するようなことにぶつかると、ひょいとテンカンの発作を起こすことがあるのだが、一度この発作を起こすと少なくとも後二、三日は人事不省に陥ってしまうのが常だった。したがって今度の場合も、いったい何をフィルムの上に発見したのか、それを知るためには、否《いや》が応でも二、三日は待たなければならぬというわけである。  しかし筆者はここで筆をとめて、いたずらにこの唖少年の回復を待っているわけにはいかないから、その間に次のような不思議な挿話《そうわ》を諸君にお伝えしておくことにしよう。  ちょうどその時分、池袋付近の空地でテント興行を続けていた極東サーカスという曲馬団の中に、ヘンリー松崎といって、すばらしい人気の曲芸師があった。  別にこれといって、ズバ抜けて珍しい曲芸を演じるわけでもなく、ブランコからブランコへ飛び移ったり、自転車で綱渡りを演じたり、曲芸師としてはごく普通のところだが、それにもかかわらず彼がすばらしい人気を集めていたというのは、この男がせむしであったからである。  普通ならば歩くのもようやくだというような者が、ともかくも一通りの離れ業を演じてみせるというのが、一般の好奇心に投じたわけだが、もう一つは、この男がすばらしい美男であったということも見のがすわけにはいくまい。  美男だけれど惜しいことにせむしだ。しかしせむしとしては離れ業は鮮やかである。——と、こういうチグハグな感じが、かえって一種逆の魅力となって、だれいうとなく流線型魔人。背中のこぶが近ごろ流行の流線型だというわけ。  御婦人がたのことばによると、この男の曲芸には、なんとも言えぬ性的魅力とやらがあるのだそうな。  さて藤巻博士の邸宅で試写があってから二日目の夜のこと、このサーカス団の楽屋へ、人目を避けてこっそり訪ねてきた一人の客があった。  大きな黒眼鏡にマスクで顔の大半を隠し、帽子をまぶかくかぶって、この暑いのに冬トンビのえりを立てている。  とこういえば諸君はすぐに、この事件の大立者である、例の奇怪なせむしを思い出されるだろうが、不思議なことには今日は背中にこぶがない。体つきもシャンとしていて、少しも常人と変わるところがないのがはなはだ妙である。  いや不思議といえばこの男の用件というのが、さらに奇怪であった。  薄暗い裸電気のブラ下がっている雑然たる天幕張りの片隅で、この怪人と向かいあった団長は、意外な相手の申し出をきくと驚いたようにたずね返した。 「なんですって、あのヘンリー松崎を一日貸してくれとおっしゃるのですか」 「ウン、お礼ならいくらでも出すが」  怪人はマスクの底からモグモグと言ったが、その声をきくと確かに例のせむしである。 「ええ、それはもう、こちらも商売ですから、お礼さえ戴ければお貸ししないこともありませんが、なにしろこの一座のドル箱ですからな」 「いったいどのくらい出せばいいのかね」 「そうですね。まあ二百円も戴ければ……」  これくらい吹っかければ辟易《へきえき》するだろうと思ったのに、相手はそれをきくと言下に耳をそろえて二百円、そこへ並べたから団長は驚いて眼を丸くした。 「これだけでいいのだね」 「ええ、そりゃもう、こちらはこれで文句はありませんが、ヘンリーのほうへは別に話をしていただかねば」 「どれくらい出せばいいのだろう」 「仕事の性質にもよりけりですが、そこのところは直接本人と御相談なすったらよろしかろう」 「それではすまないが、ヘンリーをここへ呼んではもらえまいかね」 「承知しました」  眼の前に並べられた二百円をすばやくポケットへねじ込んだ団長は、やおらトランクから腰を持ち上げたが、その時何を思ったのか、つかつかと大股に部屋を横切ると、隅のほうに掛かっているボロボロのカーテンをいきなりさっとまくり上げた。 「だれだい、そこにいるのは」 「へい、わしで……」  薄暗い大道具の陰から言下にそう言って、うっそりと頭をもたげたのは、道具方か何かと見えて、極東サーカスというマーク入りの法被《はつぴ》を着た男だった。  不思議なことにはこの男、顔を見るとまだ四十前後の壮者のように見えるのに、頭を見ると六十以上である。  見事な銀色の白髪が、肩のあたりまで垂れているのだった。 「なんだ。六造じゃねえか。こんなところで何をまごまごしてやがるんだ。お客人があるのがわからねえのか」 「ヘイ、どうも相すみません」  その返事をきくと、いかにものっそりしている。 「よく気をつけなきゃいけねえぜ。だがまあいいや。ちょうどいいところだ。手前ついでに、ヘンリーに体が空いていたら、こちらへ来るように言ってくれ」 「ヘイ、承知しました」  白髪の道具方がことば少なに立ち去るのを、じっと見送ったマスクの怪人、なんとなく気になるように、 「何だい、ありゃ」 「近ごろ入ってきた道具方ですがね。勝手がわからねえものだから、へまばかりやりやがるんですよ」 「われわれの話を立ちぎきしていたんじゃないかね」 「そんなことはありませんや。なにしろあのとおりののっそりですからね。やあ、ヘンリーか、さあ、こちらへお入り」  さすがに人気者だけあって、団長の待遇も違っている。  いま、曲芸を終わったばかりとみえて、桃色の肉襦袢《にくじゆばん》の上にはでなガウンを羽織ったヘンリーの、ほんのりと紅《くれない》に上気した顔は、うわさに違《たが》わず恍惚《こうこつ》とするほど美しい。  眼がきらきらとかがやき、くちびるが艶々とぬれ、えくぼの深いほっぺたの線のしなやかさは、なるほど女たちが血道をあげて騒ぐのも無理ではないとうなずかれる。それに隆々として肉の盛りあがっているたくましい腕といい、柔らかい胸毛のそよいでいる広い胸といい、この男の様子を見ていると、背中のこぶなんか少しも眼ざわりにならない。いや眼ざわりにならないばかりか、反対にそれがなんとも言えぬ妙な魅力になっているのだ。 「親方、何か用ですか」  ヘンリーは無造作に卓子の上に腰をおろすと、客用の煙草に火をつけた。 「ふむ、ここにいらっしゃる旦那が、何かおまえに話があるとおっしゃるのだ。まあゆっくりとお話をきくがいい。わしはちょっと用事があるから」  さて、団長が気をきかして席をはずしたその後で、二人の間にどんな相談がまとまったのか、それからまもなく、団長が引き返してきた時には、ヘンリーは肉襦袢を脱いで、サッパリとした洋服に着更えているところだった。 「親方、それじゃあす一日暇をもらいますぜ」 「いいとも、その代わりあさっての興行までには帰ってもらわにゃ困るぜ」  さっきの鼻薬がきいているから、親方にもあえて異存はなかった。  それにしても、このようなせむしの曲芸師をやとい入れて、マスクの怪人はいったいなにをしようとするのだろう。何かまた恐ろしい悪事を企んでいるのではなかろうか。  それはさておき、それから間もなく、マスクの怪人とヘンリー松崎の二人を乗せた自動車が、テント小屋の裏口から滑り出したとき、突如うす暗い物陰から、追っかけるようにして走り出した、一台の自転車があった。  乗っている人物を見ると、意外にもそれは、六造というあの奇怪な道具方ではないか。不思議なことには彼の様子にはもはや、さっきの薄のろらしい面影は微塵《みじん》も見ることはできなかった。  背中を丸め、自転車の上に体を伏せるようにして、前方の自動車を凝視しているそのまなざしには一種異様な圧力がこもっている。はたしてこれはただの鼠ではなかったか、善か悪か、いったいどういう素性の男であろうか。    大花瓶の怪  こうして極東サーカス団から一座の花形、ヘンリー松崎が、何者とも知れぬ正体不明の怪人物に連れ出されたその翌日のことである。  牛込にある藤巻博士の邸宅は、朝からなんとなく物々しくざわめいている。それもそのはず、あの日以来|昏々《こんこん》と眠りつづけていた昭二が、その朝|忽然《こつぜん》として深い睡《ねむ》りから覚めると、つきそっていた婆やのお紋さんにむかって、こんなことを言ったというのである。 「婆ヤ、ボクハ兄サンヲコロシタノ、ダレダカヨクシッテルヨ」  このことばはただちに婆やから藤巻博士に取りつがれた。  そこで驚いて息子《むすこ》の枕《まくら》もとへやってきた博士が、いろいろことばを尽くしてたずねてみたが、少年はたださめざめと泣くばかり、いっこう要領をえた返事をしない。あまりしつこくたずねると、しまいにはまたもやテンカンを起こしそうな始末。  もてあました藤巻博士がこの由を警視庁へ報告すると、さっそく等々力警部が駆けつけてきた。  警部は手をかえ品をかえ、なんとかして昭二の口をひらこうとするが、父にさえ語らぬほどの大秘密だから、おいそれと警部のことばにうんと言いそうなはずがない。  さすが凶暴な罪人を扱いなれている警部も、これにはすっかり閉口してしまった。それでも根気よく、数時間にわたって、なだめたり、すかしたり、盛んにごきげんをとっているうちに、子供心にもさすがに気の毒になったのか、こんなことを言い出したのである。 「ボク、オ姉サンニナラ話ヲスルケレド、ホカノ人ナライヤ」  お姉さんとは言うまでもなく、一柳博士の令嬢、瞳さんのことである。 「それじゃ、お姉さんにここへ来てもらったら、坊やは知っていることを話すかい?」 「ウン、オ姉サント二人キリナラ、ボク知ッテルコトナンデモ話スヨ」 「そう、それじゃさっそく、お姉さんにここへ来てもらおうね。だけど坊やは本当に兄さんを殺した人を知ってるのかい」 「アア、知ッテルヨ」  そういったかと思うと、昭二はまくらの上にポタポタと涙を流した。何かしらよほど感動している様子である。  その様子からして、まんざらでたらめをいってるとも思えない。そこでともかく一柳邸へ電話をかけて、瞳さんに来てもらうことになったが、ちょうど幸い、そこには三津木俊助も来合わせていたので、それに一柳博士も加わって、ただちに牛込の藤巻邸へ駆けつけてきた。  三人が到着したときには、昭二は昼の疲れでぐっすり寝込んでいるとやらで、寝室の前には刑事が二人、緊張した面持で張番をしている。何しろたった一人の証人の身に、万一のことがあっては大変だというのだろう。邸宅にはなんとなく物々しい気配が漂うているのだった。  等々力警部がこのように警戒するのも無理ではない。  あの神出鬼没の怪物のことだから、こういうことをかぎつけたら、どのような非常手段をとらぬものでもない。うっかりすると昭二の生命に関するような事態が発生しないとも限らないのである。 「御苦労ですな。おや、三津木君もいっしょでしたか」  応接間の入口で三人を出迎えた藤巻博士は、さすがに憔悴《しようすい》したように、蒼白《そうはく》の面持をしている。 「わざわざ来ていただいて恐縮です。なにしろ坊やがね、あなたでなければどうしてもいやだといってきかないものですから」  そういう等々力警部も、朝からの緊張につかれたのか、額にみだれかかった頭髪を気にして、しきりに指でなであげている。一柳博士は藤巻博士と顔を見合わせると、無言のまま傍の安楽椅子に腰をおろした。 「まあ、どうしたのでございましょうね。そんなわがままを言ったりして……」  それほど自分を慕ってくれるかと思うと、瞳もまんざら悪い気持はしないのだが、さりとてまた役目の重さになんとなく心もとないような気がしないでもないのだった。 「しかし、昭二君が犯人の名を知っているというのは、間違いのないことですか」  俊助もそれがいちばん気にかかる。 「それはきいてみないことにはわからない。案外とんでもない思い違いをしているのかもしれないが、しかしああいう人なみでない少年というものは、時にすばらしい感覚を持っているものだから意外な事実を知っているのかもわかりませんよ」  警部がそんなことをいっているところへ、婆やのお紋さんがつつましやかに入ってきて、何やら藤巻博士に耳打ちをした。博士はそれを聞くと、ピクリと太いまゆを動かして、 「ちょうど昭二の眼がさめたそうです。瞳さんが来てるかって、しきりに恋しがっているという話ですよ」 「そう、それじゃあたし行ってみましょう」 「ぼくもいっしょに行こう」 「いえ、坊ちゃまは、お姉さま一人じゃないといやだとおっしゃいますので……」 「それじゃ、ぼくがついて行っちゃいけないというのですか」  俊助が思わず気色ばむのを、そばから一柳博士がおさえながら、 「まあまあ、ここにいたまえ。なるべく逆らわないようにしたほうがよかろう」 「しかし、それかといって……」 「何も心配することはありませんよ。刑事が二人もついているのですからね、大丈夫ですよ」 「それはそうでしょうがね、事件が事件ですからなんとなく気になります」 「いいのよ、俊さん、大丈夫。婆やさん、それじゃ案内してちょうだいな」  瞳はみんなの心配顔を見ると、わざと快活にそう言って、自ら先に立って応接間を出て行ったが、その後ろ姿を見送った俊助は、虫が知らすというのか、なんとなく激しい胸さわぎを感じた。  後から思えばやはりこの時、だれかが瞳を護送していくべきだったのだ。それも躊躇《ちゆうちよ》したばかりに、彼女はあんな恐ろしいはめに陥らねばならなくなったのだ。しかし、それはもっと後の話。——  昭二の部屋は二階だったので、応接間を出た瞳は、婆やの後について広い階段を登っていった。  この邸宅は藤巻博士の設計によって建てられた全部洋風建築で、階段を登るとそこが広い廊下、その廊下の両側に、同じような部屋が五つばかり並んでいたが、そのいちばん奥まった部屋の前で、刑事が二人椅子に腰をおろして煙草を吸っていた。 「御苦労さま」  瞳が軽く会釈すると、刑事の一人があわてて立ち上がってかたわらの扉をひらいてくれたが、その扉のそばに立って、薄暗い部屋の中をのぞきこんだ時、瞳はふいにシーンと身が引きしまるような気がした。  シェードをおろした窓から、暮れ方の薄白い光が流れ込んで、ベッドの上に仰臥《ぎようが》している少年の横顔を、うすら寒く浮き立たせている。部屋の隅々には、なんとなくゾッとするような、冷たい薄やみが立ちまどっているのだった。  扉の開く音をきくと、昭二はむっくりと身を起こしてこちらを向いたが、たった二、三日の間に、その顔は痛々しいほどやつれていた。 「昭二さん、お体はどう? それでも早くよくなれてよかったわねえ」  昭二は何か言おうとしたが、心の激動のためにうまくことばが出ないらしい。ただもう、のどぼとけをごくごくいわせるばかりである。 「まあ、静かにしてらっしゃい。お姉さんが来たからにはもう大丈夫。決してつまらないことを心配するんじゃありませんよ」  婆やが外からピッタリと扉をしめた。それを見ると昭二はやっと安心したように、 「オ姉サン、ボク、アイタカッタヨ」  と、不自由な舌できれぎれにそういうと、ふいに涙がほおを伝わって、ボロボロとまくらの上にこぼれ落ちた。  それを見ると瞳も思わず涙ぐんで、 「本当にね、いろいろ心配したことでしょうね。だけどお姉さんが来たから、もう泣くんじゃありませんよ。さあ、元気を出して知っていることをいってごらんなさい」 「エエ、ボク、ナニモカモ話スケレド、ダレモホカニキイテルモノイヤシナイ?」 「大丈夫よ、この部屋にはお姉さんとあなたと二人きり、だれもきいてやしませんよ」 「ソウ、ソンナライイケレド」  少年はそれでもまだ心が騒ぐ風情《ふぜい》で、しばらくじっと部屋の一方を見つめていたが、やがて気おくれがしたように、弱々しい微笑をうかべると、おずおずと口を開いた。 「アノネ、兄サンヲコロシタノハネ」 「お兄さまを殺したのは——?」 「オ兄サマヲ殺シタノハ……」  と言いかけてふいにことばを切った昭二は、何を思ったのかいきなり瞳の体にしがみついた。 「アア……アアー!」  眼にいっぱい恐怖のいろを浮かべ、くちびるをわなわなとふるわしながら、何か言おうとするらしいが、舌がひきつってことばが出ないのだ。 「まあ、どうなすったの、昭二さん」  と言いかけて、ふと何気なくうしろを振りかえった瞳は、これまたあまりの驚きのために、いまにも心臓がのどの奥からとび出しそうな気がした。  ああ、自分はいま夢を見ているのではなかろうか。部屋の片隅に飾ってある、巨大な中国の花瓶《かびん》の中から、むくむくとはい出してきたのは、——ああ、なんということだ! あの気味の悪い覆面のせむしではないか。  せむしはまるで奇怪な昆虫がはい出すように、花瓶の縁に手をかけて、ポンと床の上に飛びおりると曲がりくねった指でいまにも瞳ののどに躍りかかってきそう。大きな黒眼鏡と、マスクで顔の半分を隠したその気味の悪い姿を見た時、瞳はあまりの恐ろしさに、全身がシーンとしびれ、救いを求めることばすら打ち忘れ、化石したようにその場に立ちすくんでしまった。    時計塔異変  ちょうどそのころ、階下の応接室で不安そうに時計とにらめっこをしていた一柳、藤巻の両博士、それに等々力警部に三津木俊助を加えた四人の者は、ふいに二階のほうでドタバタという激しい足音をきいたので、すわとばかりに椅子からはね上がった。  とそのとたん、リリリリリリー! とけたたましい電鈴の音が邸中を震動させるようにひびき渡る。 「何です、あの電鈴の音は?」 「どうも、昭二の部屋らしい」  一柳、藤巻の両博士が不安そうに顔を見交わして、そんなことを言っている時分には、俊助と等々力警部の二人は、すでに応接室をとび出して広い階段に足をかけていた。  二人の博士もおくれながらもその後に続く。  階段を登り切った俊助の眼に、まず第一に映ったのは、ちょうどその時昭二の部屋からこうもりのようにとび出してきた、あの奇怪なせむしの姿だった。せむしは追いすがってくる刑事の一人に、鋭い一撃をくれたかと思うと、さっと身をひるがえして、廊下の突き当たりにある狭い階段を登っていく。 「あっ、そいつだ、そいつをにがすな」  等々力警部の声に勇気を得た刑事は、むくむくと床の上から起き直ると、すぐその後を追っていく。  その時、部屋の中からよろよろと出てきたもう一人の刑事も、上官の顔を見るといくらか元気をとりもどしたのか、これまた警部といっしょになって、狭い階段を登っていった。  俊助にとっては、せむしのほうも気になったが、それよりも、もっと心配だったのは、瞳や昭二の身の上だった。  せむしが部屋の中から躍り出したのを見た瞬間、俊助はゾーッと冷水を浴びせられるような恐怖を感じた。てっきり、二人ともあの恐ろしい毒牙にかかって、殺されたに違いないと考えたからである。  しかし、それは間違っていた。薄暗い部屋でしっかり抱きあったまま立ちすくんでいる瞳と昭二の二人には、まるで生きている色はなかったけれど、幸いにも生命には別条なかったのだ。張番をしていた二人の刑事の、すばやい救援のために、せむしは目的を果たすことができなかったのであろう。 「ああ、俊さん、早く、早く、あいつを捕らえて」 「大丈夫ですか、あなたは?」 「ええ、こちらは大丈夫よ。早くあいつを捕らえてちょうだい。あいつが犯人なんですわ」 「よし!」  意外にも気丈な瞳の態度に、すっかり安心した俊助は、そういって部屋から外へ飛び出したがそのとたん、おくれて駆け着けてきた二人の博士とバッタリと顔を合わせた。 「どうした、どうした」 「三階です。せむしのやつが三階へ逃げていったのです」 「よし」  そこで三人は一団となると刑事連中の後を追って、あの狭い階段をひしめき合いながらどっとばかりに三階のほうへ登っていった。  三階といってもそれは名ばかりの屋根裏も同然、敷物も敷いてないむき出しの床の上には、ほこりがいっぱいたまって、不用になった家具やベッドの古手などが雑然とつみあげてある。  天井は低く、窓も小さいので、あたりはまるで鍾乳洞《しようにゆうどう》の中のように暗い。  逃亡者にとっては格好の隠れ場所である。 「それ、向こうへ行った」 「あっちだ、あっちだ」  と、まるで鼠《ねずみ》でも追い回すような騒ぎである。  せむしは蜘蛛《くも》のように腹ばいながら、驚くべき敏捷《びんしよう》さでしばらくあちらの隅、こちらの物陰と巧みに刑事たちの眼を欺きながら逃げ回っていたが、そのうちに追跡者のほうでは三人の新手を加えて、しだいにその網を縮めていく。  なにしろ一方口のこの屋根裏のことだから、そういつまでも逃げ回っているわけにはいかない。捕らえるのはもう時間の問題だと、等々力警部はたかをくくっていたが、それは大変な間違いだった。  とうとううすぐらい片隅まで追いつめられたせむしは、いよいよ絶体絶命、必死となってうしろの壁をまさぐっていたが、これはどうしたということだ。突然、その姿がポッカリと壁の中に吸い込まれてしまったではないか。  いや吸い込まれたように見えたのだ。事実はそこに小さい鉄の扉があって、引っ掻き回しているうちに、自然とそれが開いたから、せむしはこれ幸いとばかり、その中に飛び込むと、向こうからピッタリと閂《かんぬき》をおろしてしまったのである。  実にそれは紙一重の差だった。次の瞬間、警部や俊助の一行がなだれを打って扉の外に飛びついていた。 「いったいこの向こうには何があるのですか」  たたいてみたが厳重な鉄扉のことだ。ビクともしない。警部が地団駄を踏みながらたずねる。 「これは時計塔の入口ですよ」  答えたのは後から駆け着けてきた藤巻博士、興奮のためか満面に朱をそそいで、まっ赤な顔をしている。 「時計塔——? ああ、そうですか。その時計塔には他に出入口がありますか」 「いや、上のほうに明りとりの窓があることはあるが、とても人間の出入りできるような孔《あな》じゃありません」 「すると、この扉より他に逃げ出す口は絶対にないといってもよいわけですな」 「まあ、そうです」  警部の顔にはほっと安堵《あんど》の色が浮かんだ。そうわかってみれば、別にあわてる必要はないわけである。 「だれかこの扉をこじあける道具を探してきたまえ」  警部の命令でバラバラと階下へ駆けおりていった二人の刑事は、間もなく先端のとがった太い鉄棒を抱えてきた。これを扉のすきまに突っ込んで、ぐいぐいとこじるのである。  一寸、二寸——すきまはしだいに大きくなっていく。みりみりと閂をはめた金具が、壁からもぎ取られる音がする。コンクリートの細い砂ぼこりが、低い屋根裏の中にもうもうと舞いあがった。 「もう一息だぞ! 畜生」  鉄棒を握った刑事の額に、みみずのような血管がふくれあがってのたうっている。  その時である。  人々はふと扉の向こう側にあたって、ギリギリと時計を巻くような音を耳にした。藤巻博士は何気なく小首をかしげて、 「おや、せむしのやつ、時計を巻いている」  とつぶやいたが、じきギョッとしたように、 「ああ、あいつ、時計を早めているのだ。してみるとあいつはこの時計塔の仕掛けを知っているのに違いない」 「時計をはやめればどうかなりますか」 「逃げ口ができるのですよ」  博士のことばが終わるか終わらぬうちに、ふいにすさまじい音響とともに扉の蝶番《ちようつがい》がはずれ、砂塵《さじん》が煙のようにパッと舞い上がる。その砂塵を潜って、俊助を先頭に一同の者がどっとばかりに時計塔の中になだれ込んだ。  塔の内部はちょうど深い漏斗《じようご》をさかさに伏せたような格好をしていて、螺旋型《らせんけい》の階段が薄白い空間を斜めに切っている。仰げばはるかその上方にあたって、途方もなく大きな歯車やゼンマイが、不気味なほど正確な鼓動を続けているのだった。  せむしはいま、それらの機械のあいだに、こうもりのようにブラ下がって必死となってネジを巻いていたが、刑事たちがなだれ込んできたとたん、勝ち誇ったような叫び声を高らかにあげた。  と思うとガクッと塔全体を揺すぶるような大音響とともに、白い光がさっと流れ込んできた。  壁の上方部に大きな空間ができたのである。    白髪先生  いったいこの時計塔というのは、藤巻博士が邸宅を建てるとき、自分の好みに従って設計したものであるが、今ではもう、牛込|界隈《かいわい》の一名物になっていた。  外から見ると瀟洒《しようしや》たるクリーム色の塔で、それが小高い丘の上に屹然《きつぜん》とそびえているところは、たしかに一つの偉観であった。  しかもこの塔には珍しい仕掛けがあって、それがまた一つの評判になっていた。というのは、ちょうど鳩時計のように、一時間ごとに上部にある観音開《かんのんびら》きの扉が左右にひらくと、中から道化服を着た人形がノコノコと出てきて、鐘を打ち鳴らすのだった。  お天気のいい日だと、その鐘の音は小石川から、遠く本郷界隈まで聞こえるということである。がそれはさておき、いましもこの付近を通りかかった人々は、おりから時計塔に起こった異変に気がつくと、思わず耳をそばだてた。  いったいこれはどうしたというのだ。四時三十分、といままで正確な時間を示していた時計の針が、この時急に、悪魔にでも取りつかれたように、ぐるぐると回転しはじめたのだ。  針はしばらく戸惑いしたように、文字盤の上をあちこちと散歩していたが、やがて五時のところでピッタリと静止した。  と同時に、例の観音開きの扉がさっと開いて、中から出てきたのは、おやおや、いつもの道化服の人形のほかにもう一人、まっ黒な冬トンビで包まれた怪物がうずくまっているではないか。  その怪物は暗いところから明るい場所へ出てきただれでもがするように、しばらくキョトキョトとあたりを見回していたが、ふいに身を屈《かが》めると、ちょうど足もとへきていた長針の先端に手をかけ、あっと思う間にそこへブラ下がったのである。  白い文字盤の上に、せむしの着ていた冬トンビのそでが、こうもりの羽のようにハタハタと風にはためく。  それにしても彼はこれから先、いったいどうするつもりだろう。すでにいまはい出した扉はピッタリと締まってしまった。  それはだれかが故意に時間を早めてくれないかぎり、もう一時間経たなければ開かないのだ。白いすべすべとした文字盤の上には、長短二本の針以外には身を支えるようなものは何一つない。  もっとも時計の針とはいっても、人間の体よりはるかに巨大なやつだから、じっとしている分にはさしつかえなかったが、さりとて、いつまでもそんな所にがんばっているわけにはいくまい。  そうかと言って、時計塔自身が数丈の高さがあるのに、その下はまたすぐ切りたてたように断崖《だんがい》になっているのだから、いかに身軽な男といえども、飛び降りるなどということは思いもよらぬことである。  このすばらしい見物《みもの》を見つけて、丘の付近にはいつの間にやらおびただしい弥次馬が集まっていた。  そのうちにだれいうとなく、あれこそ近ごろ問題になっている、彫刻家殺しの犯人だということが伝わったから、騒ぎはいよいよ大きくなるばかりである。 「煙突男というのは聞いたことがあるが、時計男というのははじめてですな。いや、長生きはするもんですな」 「どうでしょう、つかまりましょうか」 「それはいずれつかまりましょう。しかしつかまれば死刑でしょうな」 「いや、死刑にはなりますまい」 「おや、どうして?」 「無期トケイといいましてな」  つまらない洒落《しやれ》をとばしているやつもあるが、せむしの身になってみれば、それどころの騒ぎではないはずだった。あらかじめ彼はこのことあるを予期していたのであろうか、その時トンビの下から長い綱の輪をとり出したから、見ている弥次馬はいよいよ大騒ぎである。 「あれあれ、綱を出しましたぜ、どうするつもりなんでしょうな」 「どうするって知れたことです。あの針からブラ下って降りるのでしょう」 「だって下にはお巡りさんがいっぱいいますぜ」 「いたっていいじゃありませんか」 「よかアありませんよ。せっかくあそこまでにげてきたのに、そうムザムザつかまっちゃ張り合いがない」  などと木戸銭いらずの見物が勝手なことを言っている時、五時の時を指している短針に両脚をふんばり、十二時を指している長針に身をもたせたせむしは、ゆうゆうとして片手で綱の一端を宙に振り始めたから、見ているほうではいよいよ大喜び。  やがてさっと手をはなれた綱は、あたかも一本の箭《や》のように虚空《こくう》を縫って崖下《がけした》にあるお社《やしろ》の風鐸《ふうたく》にキリキリと巻きついたから、驚いたのは等々力警部をはじめ刑事巡査の一行だった。  こんな隠し芸があろうとは思わなかったから、藤巻邸の周囲ばかり固めていたのに、せむしはいまや、虚空に張り渡された綱に身を托すと、ゆうゆうとして崖下のほうへ滑っていく。 「やあすごいぞ。大統領!」  そんなことを言いはしないが、ソレ、崖下のお社だというので、藤巻邸を固めていた刑事連中は全部そのほうへ駆け着ける。俊助をはじめ、一柳、藤巻両博士も、むろんその中に混じっていたが、なにしろおびただしい弥次馬の群だ。いつの間にやらはなればなれになってしまった。  と、その時だった。ふいに恐ろしい叫び声が群集のくちびるからもれた。何事が起こったのかと俊助が振り仰いで見ると、世にも恐ろしい出来事がそこに起こっていたのだ。——  綱の一端を結びつけてあった時計塔の針が、せむしの重味に耐えかねたのか、それとももっと別の理由でか、ふいにメリメリともげはじめたのだ。虚空に張り渡された綱が、まるで嵐《あらし》にあった小舟のように、ゆらゆらと揺れたかと思うと、次の瞬間、プッツリと針が文字盤からはなれた。 「あっ!」  と魂消《たまげ》るような群集のどよめき。  それと同時にあの奇怪なせむしの体が、まるで礫《つぶて》のようにさっと斜めに虚空を切って、地上にたたきつけられた。  俊助は耳もとで、ギャッと蛙《かえる》を踏みつぶしたような音をきいたような気がした。せむしは死んだのだろうか。むろんあんなところから落ちて生きていられるはずはない。  俊助は夢のような気がした。彼はフラフラとめまいがしたような歩調で群集の中を歩き出した。その時、 「ああ、三津木君じゃないか」  と、そういって不意に背後から俊助の肩をつかんだものがある。何気なく振り返ってみると、そこに立っているのは、垢《あか》じみた印半纏《しるしばんてん》に、不思議な白髪を頂いた男、確かに極東サーカス団に働いていた六造というあの道具方に違いない。 「わからないかね、三津木君、わしだよ」  そういわれて俊助は、ひとみを据えてじっと相手の顔を見つめていたが、ふいに驚いてとびあがった。 「ああ、あなたは由利先生!」 「わかったね」  由利先生とよばれた怪人はにこにこしながら、 「時にきみはこの事件に関係があるのかね」 「この事件とは?」 「藤巻邸のこのせむし事件さ」 「ああ、それならぼくは最初から深い関係を持っているのです」 「そうか、それは好都合だ。それじゃ一つわしを案内してくれないか」 「案内って、どこへですか」 「藤巻邸だよ」 「承知しました。しかしちょっと待ってください。いま落ちたやつを見てきますから」 「いや、あれなら放っときたまえ。三津木君、あいつはきみの求めている人間じゃないよ」 「え? なんとおっしゃる?」 「わしは事情あってしばらく新聞を読まなかったから詳しいことはわからぬが、あのせむしはおそらくきみの求めている人物ではあるまい。あれは単なる影武者だよ」 「影武者というのは?」  俊助は驚いたようにききかえした。 「つまり、きみたちの注意を一時あの男のほうへそらせておこうという奸策《かんさく》なんだ。皆があのせむしを追っかけて、家の中を空っぽにしている間に、藤巻邸では何かまた変わったことが起こっているのではないだろうか。わしにはそんな気がしてならんのだよ」  俊助は思わずギョッとした。そう言われてみると、今日のやつはどうもいつものせむしと違っていたような気がする。  あの黒トンビとマスクと背中のこぶによって、巧みに擬装されていたけれど、気がついてみればいつものやつよりいくらか小柄のような気がするのだ。  俊助はさっと顔色を失った。皆が夢中になってあのにせものを追っかけていった後には、昭二と瞳の二人が残っているっきりなことを思い出したのだ。 「先生!」  俊助はふいにガタガタとふるえ出した。 「来てください。いっしょに来てください」 「よし!」  二人はまっ青になって群集とは反対の方向に走り出した。  俊助の額にはいっぱい汗が浮かんでいる。それは肉体的な苦痛のためではなくて、精神的な恐怖によるものであった。  影武者によって自分たちの注意を外しておいて、その後であの悪魔はいったいどのようなことを企んでいるのだろう。昭二や瞳の身の上に、何か間違いがあるのではなかろうか。  俊助は突然世界がまっ暗になったような気がした。藤巻邸までのごくわずかな距離が、まるで千里も二千里もあるような気がした。  ただ一つ彼の慰めとなることは、自分といま肩を並べて走っている、不思議な白髪の人物の存在だった。自分はもう一人ぼっちではない。この人が出現したからには、事件は遠からず落着するに違いない。そういった漠然とした期待が彼の胸中を暖めていた。  それにしても俊助からこのように信頼されている、由利先生とはいったいどういう人物であったろうか。    第二の痣  それはさておき、藤巻邸の玄関へ一歩足を踏み入れた刹那《せつな》、俊助はなんとも名状しがたい変事のにおいを、プーンとかいだような気がした。はたして家の中には書生も女中もいない。婆やのお紋さんすら姿を見せないのだ。 「瞳さん、瞳さん」  と靴を脱ぐ間ももどかしく、俊助は玄関からそう叫んでみたが返事はなかった。シーンとしずまり返った家の中から、あざけるように瞳さん、瞳さんという声が、反響《こだま》となってかえってくるばかり。いよいよただごととは思えないのだ。 「先生、こちらへ来てください」  そういった俊助の声は、不安と危惧《きぐ》のためにいまにも泣きだしそうだった。  広い階段を二、三段ずつとばして上っていくと、昭二の寝室の扉があけひろげたままになっているのも気にかかった。俊助は廊下を一飛びにとんでその部屋の前までやってきたが、一眼中をのぞくと、気抜けがしたように、ぼんやりとそこに立ちすくんでしまった。  窓という窓を全部黒いシェードで覆った、薄黒い部屋の中には、昭二のおだやかな寝顔があるきりだった。俊助が幻に描いていたような、血みどろの風景はどこにも見られない。すべてがきちんと整頓してある。ただ瞳の姿の見えないのだけが気にかかった。 「どうしたのでしょう。何事もなかったようですね」  俊助はいくらかほっとしたように、それでもまだまだ十分不安のこもった声音《こわね》でそう言ったが、由利先生はそれに答えようともしない。  しばらく彼は眼を細めて、じっと少年の寝顔を見つめていたが、ふいにつかつかと側へ寄ると、いきなりぐいと毛布をめくりあげた。それでも少年はまだ身動きをしようともしない。見ると両手は静かに胸の上に組み合わされていて、意外にもその上にのっかっているのは、白百合《しらゆり》の花一輪。  俊助はそれを見ると、さっと土色になった。 「シ、——死んでいるのですか」  由利先生は無言のままうなずくと、静かに少年の体を調べていたが、やがて二の腕をまくりあげて俊助のほうへ示した。見るとそこにはほんのポッチリ、ちょうど蚤《のみ》に食われたほどの赤い斑点《はんてん》ができている。 「注射の痕《あと》だよ。見たまえ、この死顔にはなかなか興味があるよ」  俊助はそういわれてはじめて真正面から昭二の顔を見直したが、別にこれといって変わったところも見られない。  ちょっとも怖がったり、苦しんだりしたような形跡のない、ひどく穏やかな神々しいまでに静かな死顔だった。 「そうでしょうか。ぼくにはいっこう、変わったところも発見できませんが」 「そうだ。その変わった点のないというのが変わっているのだ。じゃ、これは涙のあとじゃないか」  なるほど少年の右のほおからこめかみへかけて、一筋の涙のあとがうっすらとついている。由利先生はそれを見るとますます興を催したらしく、 「恐怖のために泣いたとしては、この死顔はあまり穏やかすぎる。見たまえ、この死顔は明らかに殺されることを覚悟していたらしい。しかもちょっともそれを恐れてはいない。犯人は少年を殺しておいて、静かに涙をぬぐってやり、両手を胸の上に組んで、そして白百合の花を供えてやったのだ。実に妙な事件だよ」  なるほどそういえば変わっている。しかし俊助はいま、それをよく考えてみようともしなかった。ここにこうして昭二が殺されている以上、いっしょにいた瞳の体にも、どんな間違いがあったともはかりがたいのだ。  それを考えると俊助は、腹の中に鉛の塊をのみ込んだような不安を感じるのだった。 「犯人はこの花瓶の中に隠れていたのだね。ほら、花瓶の縁にこんな泥がついているよ」  由利先生は俊助の気持なんかいっこうおかまいなしだ。着々として調査の歩を進めている。 「ねえきみ、この花瓶はもとからここにあったのだろうか。おかしいじゃないか、こういう装飾用の花瓶を寝室に置いとくなんて……」 「そうそう、そういえば先には階下の応接間で見受けましたが」 「そうだろう、そうなくちゃならん。それをまただれがこの部屋へ持ち込んだのだろう。いや、それはあとで調べればわかることだが」  先生は椅子の上にあがってしばらく花瓶の中をのぞいていたが、 「ずいぶん巨《おお》きな花瓶だな、これなら人ひとり入れるぐらい造作ない」  そういいながら椅子からおりようとする拍子に、何を見つけたのかふいにあっと低い声をあげた。 「あれは何だろう」  そういわれて俊助が見ると、いままで光線の具合でよく見えなかった薄暗い壁の上に、蚯蚓《みみず》がぬたくったような字で、何やらいっぱい書いてあるのだった。 「血だね」  先生は側へよるとそっと指で触れてみながらつぶやいた。 「血ですね」  俊助がうめくようにそれに応じる。  まだ生乾きのべとべととした、見るからにゾッとするような恐ろしさだ。 「それにしてもこれは何と読むんでしょうね。英語のようですが……」 「そう、最初の字はSだね。それからAかな」 「|salamander《サラマンダー》と読むのじゃありませんか」 「そうらしいね。しかしいったいどういう意味だろう。きみ、知っているかい」 「さあ、おなじみのない英語ですね」 「よし、後で辞書を引けばわかる。それより、問題はこの血だよ。いったいだれの血だろう。そこにいる少年のものでないことだけは確かだが」 「犯人自身のものじゃないでしょうか」  そういいながらも俊助は、もっと別の疑いをはっきりと感じていた。しかしいまそれを口に出していうのが恐ろしくてしようがないのだ。 「そう、犯人のかもしれない。そうだとすると犯人はよほど大きなけがをしていることになるが。……それとも、少年のほかにもまだ犠牲者があるのかもしれないね」 「先生!」  俊助は突然まっ青になった。彼はぶるぶるふるえながらいきなり由利先生の腕をつかむと、まるで気が狂ったようにそれを揺すぶりながら、 「先生、先生は真実そうお考えになりますか。本当に瞳さんの上に、何か変事があったに違いないとお考えになりますか」  由利先生はびっくりしたように俊助の顔を見直したが、じきになにもかも覚ったのか厳粛な面持になると、慰めるようにおだやかな声で、 「まあ、そう悲観するのはまだ早いよ。とにかく、この部屋はひとまず打ち切って、もっと他の場所を探してみようじゃないか。わしはあの時計塔の内部を調べてみたいのだが、案内してもらえないかね」 「承知しました」  俊助は強い自制心をふるい起こして、ぐっと気持を落ち着けると、いくらかきまりが悪そうに顔をそむけながら、先に立って部屋を出ていった。  いかに日の長い時候とはいえ、さすがにもうあたりは暮れなずんで、天井の低い三階から、鍾乳洞のような時計塔の内部にかけて、蒼然《そうぜん》たる夜気が覆いかぶさっている。  その中で、カチカチと歯車の回転する機械的な音だけが、いっそう気味悪く感じられるのだった。 「きみ、マッチを持っていないか。ああ、ありがとう」  螺旋型の階段の頂上に立って、非常な熱心さで複雑な時計のカラクリを調べていた由利先生はやがてにっこりと会心の微笑をもらすと、 「さっきあの時計の針がもげたのは決して偶然ではなかったのだよ。見たまえ、ここにほら、やすりを入れたあとがあるだろう」  なるほどほの白いマッチの光に照らし出された鋼鉄の軸の上には、新しいやすり目がはっきりと見てとられた。俊助はそれを見ると、なんということなしに身ぶるいをしながら、 「しかし、これはどういう意味でしょうね」 「どういう意味ってわかるじゃないか。この犯人はよほど恐ろしいやつだよ。ああして影武者をやとってきみたちの眼をくらます一方、影武者自身のためにもちゃんと、こんな恐ろしいわなを用意しておいたのだ。つまり生かしておいては後日の妨げというわけだろうねえ」 「するとそいつは、影武者がこの時計塔から逃げ出すということを、あらかじめ承知していたのですね」 「むろんそうだよ。というよりは、むしろ影武者のあの奇怪な行動のいっさいが、すべて真犯人の指図のもとになされたと見るべきだろうね。どういう口実で、このような恐ろしい冒険をやらせたのか、そこまではわからんが、とにかくこいつはよほど頭脳の優れた恐ろしいやつに違いないね」  白髪の由利先生はそういいながら、鋭い両眼を星のように輝かせていた。その様子を見るとこの人は、このように優れた犯人を相手にすることが、いかにも楽しそうに見えるのだった。 「それではもう階下《した》へ行こう、そろそろ連中が帰ってくる時分だろう」  二人が時計塔の狭い入口から外へはい出した時である。突然、薄暗い物陰から飛び出してきた人影があった。 「だれだ!」  俊助はぎょっとしたように叫んだが、相手はそれを聞くと、いっそう泡をくって狭い階段を、鉄砲玉のように転げ落ちていった。俊助がすかさず、その後を追っかけようとするのを、由利先生はうしろから抱き止めると、 「まあいい、放っときたまえ。姿をはっきり見ておいたから、後で調べればわかる。あれはこの家の召し使いかね」 「そうです。お紋といってこの家にながく仕えている老女ですが、いまじぶん、なんのためにこんな三階へなどあがってきたんでしょう」 「ふうむ、婆やかね。それにしてもわれわれの姿を見て、ああびっくりするのはただごとではないね。いったいあそこで何をしていたのか、ひとつ調べてやろうじゃないか」  由利先生はマッチをすると、いまお紋婆やが泡を食って飛び出した場所を、そっとのぞいてみたがそのとたん、 「や! や! ここにも人が倒れているぞ!」  と、さすがの先生も思わずマッチを取り落としてしまった。  ひと——と聞いてドキリとした俊助、もしや瞳さんではあるまいかと、まっ青になってのぞいてみると意外にも、そこに倒れているのは一柳博士だった。 「死んでいるのですか」 「いや、息はまだある。単に昏倒《こんとう》しただけらしいが、……きみ、マッチをすってみてくれないか。ひどい血だ。だいぶひどくやられているらしい」  俊助がマッチをすると、その光の中に、昏睡している一柳博士の蒼白の面持がほの白く浮きあがってきた。  見ると後頭部にばっくりと柘榴《ざくろ》のような傷が口をひらいていて、そこから泡のような血が滲み出している。 「ひどい傷ですね……」  といいかけて俊助は何を見つけたのか、突然あっと叫ぶと手にしていたマッチを取り落とした。 「どうしたのだ。何かあったのかね」 「いま、——いますぐつけます」  そういう俊助の声はかすかにふるえを帯び、マッチをする手も、興奮のためにわなないて、なかなかうまく火がつかない。 「いま、——いまじきです」  やっと火がついた。そして光の下で俊助がふるえながら指さしたのは、あらわになった一柳博士の肩の上だった。そこにはああ、いつかフィルムの上で、洋一青年の死体に見たと同じ大きさ、同じ形の痣《あざ》があるではないか! 「どうしたんだね。これは痣じゃないか」 「ええそうです。しかし、この奇妙な形をごらんなさい。まるで焔《ほのお》の中にとぐろを巻いている蛇のような、その奇妙な格好です」 「あッ!」  何を考えたのか由利先生は、ふいにそう叫ぶと手を離したので、一柳博士の頭はドシンと音を立てて床の上におちた。 「思い出したよ。三津木君、|salamander《サラマンダー》 だ。サラマンダーということばを思い出したよ。あれはね、火蛇という意味だ。火蛇というのは西洋の伝説に出てくる怪物で、炎に取り囲まれても焼け死なない、かえって火を消して逃げるといういい伝えのある、不思議な怪物のことなんだよ」    牛車の秘密  藤巻邸の怪事件はふたたび世間に猛烈なセンセーションをまきおこした。  なにしろ刑事や警官連中がいっぱいつめかけていた中で行なわれたのだから、警視庁の面目は丸つぶれだった。わけても当日の責任者等々力警部のごときは、ごうごうたる非難の矢面に立たされて、このところすっかり腐りきっている。  せっかく捕らえたと思ったせむしは、その後取り調べによってどうやらかかしにすぎないらしいことがわかってきたし、しかもそのかかしの役目を勤めたヘンリー松崎は(あのすばらしい曲芸で警官たちの目を瞞着《まんちやく》したのは、いうまでもなく極東サーカスの人気男、ヘンリー松崎だったのである)あの曲乗りから墜落した際、頭部を強打したとみえて、今ではまるで白痴同様、峻烈《しゆんれつ》な警部の取り調べに対しても、よだれを垂らしてゲラゲラ笑っているばかりで、いっこう要領を得ない。  ただサーカス団の団長の証言によって、彼が何者かにやとわれて、影武者の役目を演じたらしいことは推測されるが、さてその傭い主の正体はというとサッパリわからない。  一方、藤巻博士の邸宅は、大勢の刑事や警官の手によって、隈《くま》なく捜査されたが、このほうからも何の手懸りも得ることはできなかった。瞳の行方は依然としてわからない。壁の上に残っていた血潮の文字からして、瞳もまた昭二同様殺害されたのではなかろうかと思われたが、そうだとするとその死体はどうなったのだろう。いかに混雑の際だったとはいえ、人間一人を、人眼に触れずに運び出すということはとうていできそうもないことである。  時計塔のそばで発見された一柳博士は、あれ以来いまだに昏々と眠りつづけていて、その口からはまだ何を聞き出すこともできない。博士の負傷は最初想像していたより、はるかに重大なものであって、悪くすると生命の危険さえあるということだった。  こうして何もかもが袋小路に突き当たったような、一種名状しがたい焦燥感のうちに数日はすぎた。そうしているうちに、昭二の死体は大学病院の教室で解剖に付された。解剖の結果は、ある強烈な薬液による中毒死という以外には、何らの新事実も認められなかった。そして今日は、その昭二君のお葬式の日である。  さすが剛腹な藤巻博士も、打ちつづく一家の不幸に、すっかり意気消沈のかたちで、あれ以来書斎に閉じこもったまま、めったに人にも会わぬくらいだから、葬式の世話などは思いもよらぬ。万事は気丈もののお紋婆やが一人先に立って取りしきっていた。  俊助は最初からの行きがかり上、まさか見て見ぬふりをしているわけにもゆかないので、お通夜《つや》の席にも連なり、葬式の日にも、朝早くから駆け着けてきて、何やかやと世話をやいていたが、そうしているうちにも、当然この席にいなければならぬはずの、一柳博士や瞳さんの姿の見えないことが、なんとも言えぬほど寂しく彼の胸を打つのだった。  葬式は非常に簡単に行なわれた。ごく内輪の者だけで、寂しい告別式をすませると、柩《ひつぎ》はそのまま火葬場へ送られた。俊助は一柳家を代表した格好で、藤巻博士と同乗して、お供の人数に加わっていたが、その途中で次のような、ちょっと妙なことが起こったのである。  霊柩車《れいきゆうしや》を先頭に立てた葬式の列が、とある郊外の雑木林にさしかかった時である。突然|肥料桶《ひりようおけ》をつんだ牛車の長い列が、葬式の列の中に割り入ったのだ。  なにしろ狭い、しかも雨上がりの泥濘路《ぬかるみみち》のことだから動きが取れない。双方口ぎたなくののしりあいながらまごまごしている間に、先頭にたった霊柩車だけが、ぐんぐんと列を離れて、やがて向こうの森のかげを回って見えなくなってしまった。  緩《のろ》い牛車がようやく通りすぎて、他の自動車が通れるようになるまでには、たっぷりと五分はかかったろう。おくれた自動車はそこで大急ぎで向こうの角を回ったが、するとはるかかなたの、人気《ひとけ》のない藪陰《やぶかげ》に金ピカの霊柩車がひと待ち顔にとまっているのが見えた。葬式の列はそこでふたたび隊伍をととのえると前進を始めたが、それから後には別に変わったことも起こらなかった。  やがて火葬場へつくと、型通りそこで最後の読経《どきよう》があって、それがすむと、白い柩は重い鉄扉の中へ入れられ、外からピーンと錠《じよう》がおろされた。  その時だ。俊助はふいにめまいがしたように、ふらふらとそこへ倒れそうになった。 「どうかしましたか」  と、うしろからしっかりと抱き止めてくれたのは藤巻博士。 「イエ、ナニ、ああ、ありがとう」  俊助はどぎまぎしながらそういったが、額には汗がビッショリ。自分でもわけがわからないほどの不愉快な悪寒《おかん》をおぼえて、ゾッと肩をすぼめながら、何気なく藤巻博士のほうを見ると、その時、じっと鉄扉の上へ注いだ博士の眼は、どういうわけか火のように爛々《らんらん》と輝いているのだった。  それは実に一瞬の印象だった。  次の瞬間には、博士の眼はふたたび物悲しげな様子に返っていたが、俊助はおそらく、生涯そのときの博士のまなざしを忘れることはできなかったであろう。それほど、それは恐ろしい、人を刺すような鋭いまなざしだったのである。    由利先生の推理  葬式の帰途、なにはなくてもぜひ一献《いつこん》差しあげたいから、立ち寄ってくれという藤巻博士の懇望をむりやりに辞退した三津木俊助は、四谷見附《よつやみつけ》で自動車からおろしてもらうと、外濠《そとぼり》の橋を渡って三番町のほうへ歩いていった。  お濠の土堤《どて》に沿って閑静な片側町、そのなかほどに小ぢんまりとした和洋折衷の邸宅があって、表に由利寓とした表札がかかっている。これがあの白髪の怪人、由利麟太郎先生の住居なのである。  いったい由利麟太郎とは何者か。  三津木俊助から先生という尊称をもって呼ばれ、多大の敬意をはらわれているこの不思議な人物の正体は、そもそもなんであろうか。ここらでちょっと、その身の上を説明しておく必要があるようだ。  記憶のいい諸君のなかには、四、五年以前、警視庁にその人ありと知られていた名探偵、由利捜査課長の名を、いまだに記憶している人もあるだろう。実際その当時の由利捜査課長といえば、飛ぶ鳥も落とすほどの勢いだったが、それがどういう理由でか、突如その輝かしい地位から失脚すると、一介の浪人となってしまったのである。  その間の事情について、あまり詳しいことは知られていないが、おおかた庁内にわだかまっている政治的|軋轢《あつれき》の犠牲になったのであろうと言われている。由利麟太郎自身は、この失脚がかなり心外だったらしく、一時は憂悶《ゆうもん》のあげく発狂したとまで言われ、さらにそれから間もなく突如行方不明が伝えられた。  それから三年間、どこで何をしていたのか、その消息は杳《よう》として知られなかった。  あるいは発狂の果て、どこかで人知れず自殺を遂げたのではなかろうかとまでうわさされていたが、それが突如、しかも実に奇妙な場面へふたたび登場したのだから俊助のおどろきはどんなだったろう。いや、おどろきよりもうれしさでいっぱいだった。その昔、由利先生華やかなりしころ、その大胆と率直を賞《め》でられて、ひとかたならぬ知遇をこうむっていた俊助が、まるで恋人の再生にでも出会ったような、大きなよろこびを感じたというのも、まことに無理ではないのだ。  家の周囲は三年前と少しも変わらない。俊助は深い感慨にふけりながら呼び鈴を押したが、それに応じて現われたのが、昔と同じように絃次郎という無口な少年だったのもなつかしい。  この少年は由利先生が幼時より引きとってめんどうを見ている孤児なのである。 「やあ、絃次郎君か、久しぶりだね。しばらく見ぬ間にずいぶん大きくなったじゃないか。いったい幾歳になったのだね」 「十七です」 「十七か。十七にしては大きいな。時に大将はいるかい」 「はあ、いらっしゃいます」  絃次郎も久し振りの俊助の来訪に会って実にうれしそうだ。 「こうして見ると、昔と少しも変わらないね。お直婆さんも達者かい」 「はい、達者です」 「してみると、先生はまだ独身とみえるね」 「はい、そうです」  由利先生は三年前と同じように、婆やと少年を相手に、寂しいやもめ暮らしをしていられるとみえる。  やがて案内された二階の応接間も、昔と少しも変わっていない。お濠の柳を見下ろす大きな窓際に、どっしりと腰をすえている由利先生の様子も昔そのままだ。俊助はあまりのなつかしさに思わずそこに立ちつくした。 「やあ、葬式のかえりとみえるね。まあ、こちらへかけたまえ」  俊助はすすめられるままに、椅子に腰をおろすと、つくづくと由利先生の顔を見直した。 「ほかの様子はちっとも変わりませんが、先生だけはずいぶんお変わりになりましたね。この間お目にかかった時には、まったく見当がつきませんでしたよ」 「この頭かね」  先生もいくらか寂しげに、みごとな白髪をなでながら、 「わしもずいぶん苦労したからなあ、髪の毛も白くなるほどの恐怖——というような形容が、小説なんかによく使われているが、あれはまったく真実だね。世の中には実に恐ろしい、思いもよらぬことがあるものだ」  先生はそういうと、ひとみをすえて、じっと俊助の眼の中をのぞきこんでいる。その眼を見た時、俊助は先生の発狂説を思い浮かべて、なにがなしにハッとした。それほど、それは一種異様な熱を帯びていたが、先生もじきそれと気がついたのだろう。じき柔和な微笑をもって、その恐ろしい凝視をつつむと削ったような鋭角的なほおを、細い手で静かになでた。  それらの様子から俊助は、消息をくらましていた三年間の先生の生活というのが、決して穏やかなものでなかったことを推察した。 「先生があの極東サーカスで働いていられたのも、何かその、恐ろしい事柄と関係があるのですか」 「ふむ、まあね。しかしその話はいずれ暇のあるときにゆっくりとしよう。それはいまはまだ話す時期でもないのだ。それよりきみのほうの話を聞かしてもらおうじゃないか。あれからぼくは新聞をすっかり読んで、だいたいの輪郭はつかんだつもりだが、やはり当事者から直接聞くほど確かなことはないからね。どうだ、きみがあのせむしと石膏美人を載せた自動車に衝突した、最初のいきさつから、もう一度すっかりぼくの前で復習をしてみる気はないかね。そのうちに何らかの概念がつかめるかもしれんぜ」 「承知しました。私もそのつもりだったのです」  俊助はしばらく思考をまとめるふうで、じっと窓外にそよぐ柳の梢《こずえ》に眼をやっていたが、やがてボツボツと最初のいきさつから話しはじめた。それらの物語は、すべて今までに述べてきたところと同じであるから、ここではいっさい省略するが、由利先生は非常な熱心さでその話に耳を傾けていた。そしてときどき要領のいい質問をはなっては、俊助の忘れているところや、話しおとした部分を思い出させた。  やがて俊助の話が終わると、先生はしばらく深い黙考にふけっていたが、さておもむろに口をひらいて、 「まず第一にわしの考えるのは、この事件は実に執念ぶかく、ねちねちと計画されているということだね」 「そうなのです。ぼくもそれを感ずるのですが、さてその目的というのがサッパリわからないから困り果てているのです。もっとも目指すところは、藤巻一家にあるということだけは間違いないと思いますが」 「それだよ、問題は。——なるほど表面はいかにも藤巻一家に対して企まれているように見える。しかし、何かしらもう一つ裏がありはしないかね。表面、藤巻一家に対して企まれているように見えて、その実、本能寺はもっと他のところにありはしないか。……」 「というと、藤巻一家のあの不幸は、単に道具立てにすぎないとおっしゃるのですか」 「そう、このことはわしの口から言うまでもなく、きみ自身も内々感じているのだ。しかしきみはいま、ある種の煙幕によって眼隠しをされているので、自分の内心にわだかまっている真実の不安を、ハッキリと意識することができないのだよ」  俊助はズバリと本当のことを言い当てられたように、さっと顔色を変えた。 「ほら、どうだね。わしはいまきみの話を聞いているうちに、なんとなく奥歯に物のはさまったようなところのあるのを感じた。つまりきみは、意識してかしないでか、とにかくなにかしら自分の感情を隠そうとしているところがありはしないか」 「そ、そんなことはありません。ぼくは何もかも率直にお話ししたつもりです」 「そうかね。よろしい、それじゃまあ、きみの言うとおりだとして、ではもう一度、いまきみの話したところを再検討してみようじゃないか。そもそもきみがこの事件にまきこまれるようになったはじまりは、せむしと石膏像を載せたトラックに衝突したためだったね。ところでこの衝突だが、きみはこれを単なる偶然だと思っているのかね」 「むろん、偶然の出来事でしょう」 「そこだよ、この事件に対するきみの認識が根本から間違っているのは」 「えっ、それじゃあれは偶然じゃなかったとおっしゃるのですか」  俊助が驚いたようにきき返した。 「むろん。あの衝突こそ犯人のもっとも綿密な計画の第一歩だったのだよ。考えてみたまえ。敏腕の誉れ高い新聞記者をのせた自動車がトラックと衝突する。そのトラックの上にはいかにも人目を惹《ひ》くようなせむしと石膏人形がのっている。ここまではまあ、必ずしも偶然としてあり得ないことじゃない。しかし、その人形がきみ自身の愛人に生き写しだとあっては、話がすこしうますぎてくるじゃないか。しかもその行き先たるや愛人の住居のすぐ裏側で、そこできみの恋敵が殺される。偶然もここに至っては、あまりうまくこんがらかりすぎると思えやしないかね。三文小説の筋書だって、こううまくお膳立てが運ぶのは珍しいぜ」 「そうです。そういわれれば私もあまり不思議な暗合に驚いているのです。しかし、お説のとおりこれが偶然でないとすると、いったいどういう意味になるのでしょう」 「むろん、きみをあの空家へ招き寄せようというのがやつの魂胆さ」 「なるほど、そうかもしれません。しかしそうとすると、あいつは少し考えすぎたとはお思いになりませんか。なぜって、ひょっとするとぼくはあの際、あいつを追跡せずにすましたかもしれないじゃありませんか」 「ははははは、きみはきみ自身の性癖を忘れているとみえるね。猟犬のような鋭敏な嗅覚を持ったきみがこういう不思議な事実に直面して、それをそのまま見のがす人間かい。向こうはちゃんと、きみのその鋭い性癖まで勘定に入れているんだよ。そのために、怪しげな腹話術まで使って、きみの好奇心をあおっているのさ」 「腹話術ですって?」  俊助はけげんそうな顔をしてきき返す。 「腹話術さ。きみはさっき石膏人形が救いを求めたといったね。人形が口をきくはずはないから、これはむろんせむしの芸当に違いないが、……きみすまないがそこに辞書があるから |ventriloquism《ヴエントリロキズム》 というのを引いてみてくれたまえ」  俊助はいわれるままに、大きな辞書を取りあげると、Vの部を開いていわれたことばを探し出した。 「腹話術と訳す。口を閉ざしたまま横隔膜の震動によって物をいう法。巧みな腹話術者のことばはほとんど普通のことばと少しも異なるところなく、しかも話し手の口は閉じられたままであるから、しばしば全く他の方向より聞こゆるかのごとき錯覚を聴衆に感じさせる。これを利用して人形、動物、小鳥などに会話させる奇術が外国では盛んに行なわれている。……ああ、するとあの時私の聞いた声はこの腹話術だったというのですか。なるほど、道理で妙にこもったような声だと思いましたよ」 「どうだね、それで一つ疑問が解けたわけだが、さて犯人が何のためにきみを、あの空家までおびき寄せる必要があったのか、そこんところをもう一度よく考えてみようじゃないか」  由利先生はそういいながら、さっきからしきりに窓の外の道路をのぞいている。俊助はなんとなくそれが気になったが、別に説明を求めようともしなかった。  先生は再び俊助のほうへ向き直ると、次のように諄々《じゆんじゆん》として謎《なぞ》の一つ一つを解きほぐしていくのだった。    二重底 「どうもここのところで、きみは何か重大なことを言い落としているに違いないと思うのだが、まあいい、R町の空家までトラックを尾行していったのちのきみの行動を、もう一度わしの口から繰り返してみよう。きみは雨戸のすきまから女装した藤巻洋一が、何者かに襲撃されたのを見たといったね。ただしその襲撃者についてはまったく見当がつかない。さて洋一君の悲鳴を聞いたきみが、おりからやってきた警官とともに家の中へとびこんでみると、座敷の中は空っぽで、犯人の姿はおろか洋一君の姿さえ、一瞬にして消え去っていた。そこできみは警官の前ですっかり男を下げ、そのまままっすぐに家へ帰った。というのがその夜のきみのだいたいの行動なんだね。おや、どうかしたのかい、まだなにかつけ加えることがあるのかね」  由利先生に真正面からじっとみつめられ、俊助は思わずどぎまぎと顔を赤らめながら、 「実は、……その時ちょっと一柳さんのところへ寄ったのですが……」  由利先生の眼がふいにギョロリと光った。先生は刺し通すような眼で、俊助の顔をじっと見ながら、 「なるほど、さっきはそのことをいわなかったね。そして一柳邸へ寄ってみると……」 「瞳さんはいなかったのです。でも一柳先生に会っておこうと思って案内もなしに応接間へ入っていったのです。ところが、女中は確かにいらっしゃると言ったにもかかわらず、先生の姿は見えませんでした。それでぼくは、椅子に腰をおろしてぼんやりと本を読んでいたんですが、すると忽然《こつぜん》として先生が現われました」 「忽然と——?」 「そうです。文字どおり忽然とでした。ぼくはまったくびっくりしたのですが、先生の驚きはぼく以上でした。顔はまっ青で、しかも、小指をかみ切られたようにけがをしておられました」  由利先生は無言のまま、穴のあくほど俊助の顔を凝視しつづけた。俊助はその視線があまり強烈なので気味が悪くなったくらいだった。それでも先生はなおしつこく、俊助の顔色を眼で追っていたが、やがてキッパリとした声でこう言った。 「わかったよ、三津木君、きみの焦燥と不安の原因がわかったよ。と同時に犯人の計画の真意もわかった。きみは一柳博士を疑っているのだろう、そして、きみに将来の岳父《がくふ》を疑わせようというのが、犯人の悪辣《あくらつ》な計画だったのだ」  俊助はいままで、頭の中で渦を巻いていた得体の知れぬ靄《もや》が、このとき突如ハッキリと凝固してくるのを感じた。彼はめまいのような激しい胸の悪さを感ずると同時に、ある一つの希望をハッキリとそこに認めたのだ。 「するとあなたのお考えでは、犯人は一柳博士のほかにあるとおっしゃるのですか」 「むろんだよ」 「すると一柳博士は全然関係ないのでしょうか」 「さあ、そうは言えまいね。おそらく猫のなき声を合図にして——そうだよ、あの猫のなき声はあいびきの合図だったのだろうね。——さてその猫のなき声を合図にして、空家の中へ女装した洋一君に会いに来たのはたしかに一柳博士だったのだろう。しかしきみが考えているように、洋一君はその時、きみの眼前で殺されたのじゃないよ。犯罪はもう少し後で行なわれたのだ。しかし、いまのきみの話を聞いていろんなことがわかった。あの空家と一柳邸との間には、たしかに秘密の通路があるに違いないね」 「秘密の通路?」 「そうだよ、それ以外に一柳博士の忽然たる出現ぶりを説明するみちはないからね。それについておもしろい話があるのだ。わしはこのあいだこの二軒の家の歴史を調べてみたんだが、ちょっと興味のあるロマンスを発見したんだよ。いま一柳博士の住んでいる邸宅は、明治の末年ごろ、さる旗本出身の士族が住んでいたんだが、その隣の、つまりいま空家になっているほうには、美人のお妾《めかけ》さんが住んでいたんだそうだ。ところがこの美人が、前にいった士族のお妾さんだったということは、士族が死んで遺言状がひらかれるまで、だれ一人知らなかったというんだね。どうしてそううまく秘密が保たれていたのか、いまのきみの話ではじめてわかったよ。この二つの家にはたしかに秘密の通路があって、そこから旦那が通っていたんだろうね」 「すると、その通路がいまでも残っているとおっしゃるのですか」 「むろん、残っているだろうよ。あの辺は地震にもやられなかったし、火事もあまりないところだからね。きみが警官とともに踏み込んでいった時、部屋の中が一瞬にして空っぽになっていたというのはおそらくこの抜け穴の中へ隠れたんだろう。後ほど調べてみればわかることだが、ぼくの考えではおそらく床の間の床あたりがその入口になっているのじゃないかと思う」  俊助はしだいしだいに眼前の霧がはれていくような気がした。しかし、その後には、まだまだわからないことがいっぱいある。俊助はごくりと大きく生つばをのみながら、 「しかし、いったい犯人の本当の目的というのは何にあるんでしょう」 「むろん、第一の目的は洋一を殺害することだ。それからその嫌疑を一柳博士に向けること、そしてそれを一柳博士の未来の女婿《じよせい》たるべききみの手によって告発させようということ、——実際これがうまく成功すると、とんだ大悲劇だからね。つまり犯人というやつは、実に執念深いやつで、普通のやりかたできみたちを陥れただけでは満足できなかったのだね」  聞けばきくほどわけがわからない。わけがわからないだけにいっそう恐ろしくなる。さすがの俊敏、三津木俊助も、思わずゾッと鳥肌が立つような気がした。 「それでは先生は、その犯人というのをご存じなんですか」 「きみにはそれがわからないのかね」  由利先生はじっと俊助の顔を凝視しながら、 「むろん、きみは知っているのさ。知っていながら、ある一つの煙幕にかけられて、それとハッキリ指摘することを躊躇しているのさ。その煙幕というのはね、親として自分の息子を手にかけるはずがないという、非常に常識的な考えからきているのだよ」  俊助は突然椅子の上から飛び上がった。 「あなたは……あなたは藤巻博士のことを言っておられるのですか」  あまり恐ろしい、あまり意外だ。そんな非人道なことがそう容易に納得できるだろうか。しかし由利先生は平然としている。いかにも自信に充ち満ちている。そして俊助は従来の経験からして由利麟太郎がこういう態度を見せた時に、その考えの間違っていたためしのないことも知っていた。 「そうさ、なぜいけないのだね。藤巻博士が自分の息子を殺さなかったという、たしかな証拠でもあるのかい」 「だって……だって……」 「まあ、聞きたまえ。被害者の親であるという一事を除いてほかに、博士の無罪を説明し得る根拠はひとつもないのだ。再三きみが出会ったせむしというのが、藤巻博士でなかったときみはハッキリ言い得るかね。あの赤外線写真の秘密を知っているのは藤巻博士と一柳博士の二人よりほかにないと言ったじゃないか。そしてあの時計塔の針を鑢《やすり》でこすっておいたり、大花瓶を昭二少年の部屋へ置き換えたり、そういうことのできるのは、博士をおいてほかに一人もないはずだよ」 「しかし、博士のように思慮もあり、教養もある人物が、気でも狂わない限りあんな恐ろしいことをするなんて……」 「そこさ、つまりそれが煙幕さ。博士の最も安全な錠というのはその点さ。しかし、博士は本当は気が狂っているのだよ。それに洋一君は藤巻博士の子じゃないのだからね」  さりげない調子で吐き出した由利先生のこのことばほど、俊助を驚かしたものはなかった。彼はしばらく、呆然として先生の鋭い横顔をながめていたが、 「そ、それは本当ですか」 「そうだよ。そのことはきみ自身がぼくに教えてくれたのじゃないか。洋一君の肩にも火蛇のような痣《あざ》があったということを。……そしてわれわれはそれと同じものを、一柳博士の肩に見たのだろう。つまり洋一君は一柳博士の子さ」 「そ、そんな……、そんな……」  俊助はあまりの意外さに口をきくことすらできない。先生のことばが事実だとしたら、なんという恐ろしい秘密だろう。そしてまたこの秘密のうらには、いったいどういう意味が隠されているのだろうか。 「まあ、いい、そう興奮するのはよしたまえ。いますぐわしは、藤巻博士が犯人であるという、のっぴきならぬ証拠をきみに見せてあげよう」  さっきからしきりに窓から外をのぞいていた由利先生は、その時突然、来たと叫んで椅子から腰をうかせた。 「三津木君、いよいよ最後の証拠固めだ。わしの想像にして誤りがなければ、われわれはじき、藤巻博士に対する確証をつかむことができるのだ」  そのことばの終わらぬうちに、絃次郎少年が外からドアをひらいた。 「先生、お話のものが参りました」 「すぐ、こちらへ運んでくれたまえ」  少年と入れ違いに、入り乱れた重い足音が階段をのぼってきた。そして緊張した俊助の面前に現われたのは、三人の人夫によって担《かつ》がれた大きな白木の寝棺だった。しかもその柩にはたしかに見憶えがあった。実にその棺こそ、今朝藤巻博士の邸宅から送り出された、あの昭二のだったのだ。俊助はあまりの意外さにことばも出ない。呆然として先生の顔とこの新しい柩を見くらべているばかりである。 「三津木君」  由利先生は厳粛な声をして、 「わしの行動が合法的でなかったことは十分認める。しかしこの際、これよりほかに方法がなかったのだ。もしわしの推測が間違っていたら、甘んじてわしは死体盗人の罪名を被るつもりだ」 「死体盗人ですって?」 「そう、見られるとおりこれは昭二君の柩だ。わしは途中でそれをすりかえたのだ。ほら、さっき火葬場へ行く途中で、牛車がきみたちの間に割って入ったのを憶えているだろう。あの間に柩をすりかえたのさ。したがっていま火葬場にある柩の中には、標本店から買ってきた人体の骨格模型と、それから獣の肉が少々。……はははは、驚いたろうね」 「すると先生は、昭二君の死体になにか疑問がおありなんですか」 「いや、わしの疑問というのはそれよりも、もっともっと恐ろしいことなんだ。見ていたまえ」  先生の命令によって人夫の一人がすばやく柩のふたをこじあけた。中から現われたのは昭二君の死体だったが別に変わった点も見当たらぬ。 「おい、この死体をそっとのけてくれたまえ」  さすがに由利先生の声音もふるえていた。少年の死体を取りのけたが、それでもまだ別に変わったところはないように思われた。先生はしばらく柩の中を見ようとしていたが、やがて満足げなため息を吐くと、 「見たまえ、これは二重底になっているよ。だれかこの底をこじあけて。……ひどいことをしちゃいけないよ。気をつけて。……」  やがてミリミリと音がして、二重底のふたがこじあけられたが、俊助はこの時ほど、恐ろしい衝動を感じたことは、後にも前にもなかっただろう。彼は突然、四方の壁がドッと自分のほうへ倒れかかってくるような、怪しいめまいを感じて、思わず柩の縁につかまった。 「瞳さんだ!」  いかにも、その二重底の中には、いつか俊助が見た石膏像と同じように、瞳さんの体が静かに石のように横たわっているのだ。その顔は無残な紫色につつまれ、くちびるは色あせて生ける色とてはさらになかった。 「し、死んでいるのですか……」  由利先生はそのことばに耳をもかさず、しばらく瞳の体を子細《しさい》にしらべていたが、その顔にはにわかに深い驚きの色がうかんできた。 「ほほう。こればかりはわしの予想は外れたようだ。三津木君、瞳さんはまだ生きているぞ!」 「えッ、生きていますか」 「生きている。何か強い薬で睡らされているだけだ。しかし三津木君、このことは瞳さんが死んでいるよりも、さらにさらに恐ろしいことだよ。考えてみたまえ。わしという人間がいなかったら、瞳さんは生きながら火葬にされるところだったのだ。ねえ、わかるかい、藤巻博士はひと思いに瞳さんを殺したのじゃ、腹の虫が承知しなかったのだ。このことをもってしても、博士の一柳一家に対する憎悪がいかに根強いものであるか想像されるじゃないか」  由利先生はそういいながら、この暑さにもかかわらず、二、三度大きな身ぶるいをするのだった。    不信の友と不貞の妻と  昭二君のお骨揚げもすんだその翌日のこと、藤巻博士はなんともいえぬほどの気疲れを感じていつになく寝坊をして十時ごろに眼をさました。なんとなく気怠《けだる》く大儀だ。体中から精魂を抜きさられたような空虚さを感ずる。何気なく枕もとにあった鏡をのぞいてみると、自分でもびっくりするほど顔色がわるい。  いっそこのまま寝ていようかと思ったが、長いあいだ活動的な生活に慣れた博士のからだは、そういうわがままな安逸を許さない。強いて勇気をふるい起こしてとび起きると、例の要塞《ようさい》のように厳重な階下の書斎へ、のろのろおりていって、そこでまずい朝飯をすました。  そうしているところへ婆やのお紋さんが一枚の名刺をもって入ってきた。来客は由利麟太郎だった。名刺の上に重大な用件のため、ぜひお眼にかかりたいという意味の走りがきがしてある。藤巻博士はそれを見るとギロリと眼を光らせたが、すぐさりげない様子に戻って、 「応接室へ通しておいておくれ」  といった。それから博士は大急ぎで身支度をととのえると、できるだけ落ち着きはらった威容をもって、応接室へ入っていったが、意外にもそこにはだれもいなかった。 「おや」  お紋さんも驚いたように顔をしかめた。 「たしかにここへお通し申しといたはずでございますのに」 「間違いじゃないかね、名刺をおいてそのまま帰られたんじゃないかね」 「いいえ、そんなはずございません。木村さんに聞いてみましょうか」  書生の木村も、来客がかえられた模様は少しもないという返事。 「どうなすったのでしょう。御不浄ではありますまいか」  藤巻博士はその時、何か思い当たったのかぎょっとしたように顔色をかえると、物をもいわずに書斎へとって返したが、その刹那、博士の頭髪は、箒《ほうき》のようにさっと逆立った。驚いたのも無理はない。  博士の椅子に腰をおろして傲然《ごうぜん》と反り返っている男。——黒眼鏡。大きなマスク。黒い冬トンビ。形のくずれた鳥打帽。——あの男だ。三津木俊助が再三捕らえそこなったせむしだ。  博士の顔はさっと土色になった。 「ダ、だれだ、おまえは……」 「私ですか。ははははは! 私はおまえさんの影だよ。ホラ、この羽目板の奥の、秘密の隠れ場所から生まれ出してきた、おまえさんの影だよ」  奇怪な男はそういいながら、開いた羽目板の奥にある、壁の中の秘密の押入を指さした。それを見ると、藤巻博士は思わず二、三歩うしろへよろめいたが、すぐ猛烈な勢いで卓子にとびつくと抽出《ひきだし》の中から一挺のピストルを取り出した。 「だれだ、おまえは、仮面を取れ、仮面を!」  藤巻博士はギリギリと奥歯を鳴らしながら、かみつくような勢いでどなる。全身の血管という血管が、蚯蚓《みみず》のように膨れ上って、日ごろの明朗|闊達《かつたつ》な表情はどこへやら、悪鬼のようにすさまじい形相だ。 「むろん、言われるまでもなく、こんなむさ苦しい仮面はすぐとりますがな」  男は平然として眼鏡とマスクとを取った。 「うむ、やっぱり貴様は由利麟太郎だな」 「さよう。ちょっとこの部屋を調べたかったので、無断で侵入してみたというわけ。おかげで知りたいことはことごとく知ることができましたよ。ホラ、この秘密の押入の中にこんなピンが落ちていましたが、おそらくこれは行方不明になっている瞳さんのものだと思うが、どうですかな……」  博士はふいにカチッと引金をひいた。しかし、これはどうしたということだ。ただカチカチと金属性の音がするだけで、弾丸はいっこう飛び出す様子もない。 「博士、そんなおもちゃをなぶるのはおよしなさい。弾丸《たま》はちゃんとこちらに抜き取ってありますぜ」 「畜生!」  博士はバリバリと歯を鳴らせると、いきなり発止とばかりにピストルを床の上に叩きつけ、猛然として由利先生のほうへ躍りかかっていった。もしこの時、博士の死にもの狂いの一撃を、まともに食っていたらいかな由利先生といえども、あごの骨ぐらいたたき折られていたのだろうが、その瞬間、風のようにさっと躍り込んできた三津木俊助が、いきなり博士の腕をとってうしろへねじ伏せた。 「御苦労、御苦労、しばらくそうしていてくれたまえ。とにかく、このお茶番の衣装は脱ぐことにしよう。なにね、いまこの押入の中を調べていたら、この変装道具が出てきたので、ちょっとお芝居をしてみたのさ、博士も迂闊《うかつ》でしたな。御用ずみになったこういう証拠物件は、もっと早くなんとか始末をつけておくべきでしたね」  藤巻博士はすでに観念したのか、床の上にうずくまったまま、石のように身動きもしない。蒼白の面はまるで押し潰したようにゆがんで、うつろなまなざし、あえぐような息づかい、それは博士の内心の苦悶《くもん》が、いかに悲惨なものであるかを物語っているのだった。 「博士、あなたの心中はお察ししますよ」  由利先生はせむしの仮面を脱ぎ終わると、博士の正面に腰をおろして、厳粛な声で言った。 「もしわしがあなたの立場におかれたとしても、やっぱり同じようなことをしたかもしれない。不信の友と、不貞の妻に取りまかれて疑惑と懊悩《おうのう》のうちに過ごしてきた二十数年間、実際それはほかの者が考えても、ゾッとするほど、恐ろしい地獄でなくて何だろう。世の中の美しいもの、真実なものがだんだん信じられなくなるのは当然のことだ。そして、あげくの果ては気が狂ったように、ああいう恐ろしい、血腥《ちなまぐさ》い犯罪を計画するに至る……そういう境地を考えれば、実際わしといえども御同情にたえません」  博士は驚いたように顔をあげた。そして何か言おうとするように、もごもごと口を動かしたが、そのまままた黙り込んでしまった。 「あなたはあの洋一君の体に、一柳博士と同じような痣のあるのを発見した瞬間から、地獄の生活に投げ込まれたのでしょう。人づてに聞くと、一時あなたは非常な熱心さで遺伝学の研究に没頭されたということだが、おそらくあなたは、痣が遺伝するものかどうかということを知りたかったのでしょう。研究の結果どういう結論に到達されたかわしの知る限りではないが、とにかく、あなたは洋一君が自分の子供でなく、一柳博士の子供であることを信じられた。それにはあなたの御夫人と一柳博士のひとかたならぬ親密さ、それもいっそうあなたの疑惑に油を注いだに違いない。こうして信頼する友と妻に裏ぎられたあなたは、しかも口に出してその疑惑をたしかめる由なく、表面はよき友、よき良人《おつと》として生活しながら、心の中はますますつのりゆく疑惑に悩まされるその苦しさ。あなたは二十何年間というものを、その猜疑《さいぎ》と嫉妬《しつと》に身を焼きながら生きてこられたのですね」  博士はくちびるをかみしめると、ひくい、切なそうなうめき声を発した。骨の髄までしみわたっているあの暗澹たる人知れぬ苦悶が、いまさら地獄絵巻のように博士の脳裡によみがえってくるのだった。  由利先生はそうした博士の様子にじっと眼を注ぎながら、再び語をついで、 「ところが、最近になって、どうしてもこれ以上耐えしのぶことのできないような事態がおこった。それはほかでもない、洋一君と瞳さんの結婚問題だ。あなたと一柳博士のあいだには、ずっと昔、将来、お互いに男と女の子を持つようなことがあれば、ゆくゆくは夫婦にしようじゃないかという固い約束があった。それにもかかわらず、一柳博士はその約束を食言された。いや、博士ばかりではない。あなた御自身の御夫人もまたそれに反対された。なぜだろう。どうして彼らが反対するのだろう。……あなたの猜疑はここにおいて再び猛然ともえあがってきた。あなたはこれを洋一君と瞳さんが、腹こそちがえともに一柳博士の子である、つまり二人は異母兄妹だからと解釈された。そしていままでよもやよもやで押さえてきた疑惑が、ここに至ってついに、のっぴきならぬ事実となって、あなたに迫ってきた。しかも、その矢先夫人が不幸な災難のために亡くなられたので、とうとう、あなたはあんな恐ろしい決心をするに至ったのですね」 「そのとおりだ」  博士はひくい、沈痛な声ではじめて口をひらいた。そして相手のことばに妨げられないように、いくらか早口で次のようなことを付け加えた。 「わしは妻を愛していたので、彼女が生きている間は、手荒なことはしたくなかった。ああ、静を憎むことができたら、わしはどれほど幸福だったろう。恐ろしい疑惑に悩まされながらも、一方、どうしても彼女を憎むことのできぬあの心苦しさ。それがとうとうわしをこのような気違いにしてしまったのだ」    最後の驚愕  なんという痛ましく、悲惨な生涯だろう。疑いながら憎むことができず、愛しながら信ずることができない。こういう不幸な、不自然な夫婦関係がそうたくさんあろうとは思えない。 「なるほど、それであなたの憎しみはひとしお、一柳氏のほうへ注がれたわけですな」 「そう、一柳とその不義の子の洋一のほうへ。……」 「わかりました。それであなたは洋一君を殺すとともに、その嫌疑を一柳氏のほうへ向けようとなされたのですな」  藤巻博士は軽くうなずきながら、 「こうなったら、隠してもしかたがない。何もかも話してしまうから三津木君もいっしょに聞いてくれたまえ」  といったが、この決心が博士の心をいくらかでも軽くしたとみえて、割によどみのない口調であの恐ろしい殺人計画の経緯をボツボツと話しはじめた。 「洋一を殺すにしても、ただ殺したのではおもしろくないというのがその時分のわしの腹だった。そこでいろいろ考えているうちに、ふと思いついたのがあの赤外線写真、そうだ、あれで洋一の最期の場面を撮影して、そいつを親父の一柳に見せてやろう、というのがそもそものわしの計画の第一歩だった。そうしているうちにふと思い出したのが、一柳の邸からわしの旧屋敷へ抜けているあの抜穴のことだ。本当をいえばこの抜穴の存在がどんなにわしの心を苦しめ、わしの嫉妬をあおったかしれない。わしたちはよくあの抜穴から往来したものだったが、わしの知らぬ間にも一柳があの抜穴を通って妻のところへ通ったに違いないと思うと、わしの腹は煮えくり返るような気がする。そこでわしはもう一度、昔の不義の場面を一柳の眼前に繰りひろげてあいつの度胆を抜いてやろうと思った。それにはちょうど幸い、洋一が母親にそっくりなので、これを若いころの静に扮装させたのだ」 「しかしそんなことを洋一君がよく承知しましたね」 「むろん、正気では承知しまいさ。そこでちょっと眠らせたのさ」 「眠らせたとおっしゃると?」 「催眠術さ。わしは若い時分、ひとしきり悪魔の科学に身を売って、催眠術だの腹話術だの、そういう不思議なことばかりに憂身をやつしていたことがあるが、そいつが役立ったわけさ」  これを聞いて俊助ははじめて、あの晩の洋一の妙な眼つきについて合点がいった。あの生気のない、夢見るような眼つき、あれは催眠術にかかって、夢中で行動している者の眼つきだったのだ。 「なるほど、それで万事わかりました。後はお聞きしないでも大てい想像できます。あなたはにせ手紙か何かで、一柳博士をあの空家へ呼び出した。一柳氏はそこで思いがけなく、亡き人の姿を発見し、非常な驚愕《きようがく》に打たれて、躍りかかった。そのとたん、あなたが電気を消されたのですね」 「そう、そして暗やみの中で一柳のやつの小指をかみ切ったのもわしだ」 「なるほど、そこへ三津木君の声が聞こえたので、一柳博士は抜穴の中へ逃げてかえる。あなたがたもその後から、蚊帳《かや》だの夜具だのといっしょに同じく抜穴の中へ隠れた……」 「そうだ。わしが部屋の中を片づけてあの抜穴の中へ入るのと、三津木君が警官といっしょにあの部屋へ入ってきたのと、ほとんど同時で、実に危い瀬戸際だったよ」 「そうして三津木君や警官が立ち去ったあとで、だれに妨げられることもなく、ゆっくりと洋一君を殺害し、そしてその場面を映画に撮影されたのでしたな」  由利先生はそこでホッとことばを切ると、ふかいふかいため息を吐いた。 「しかしさすがにあなたも、映画の中に洋一君の断末魔のことばがハッキリ撮影され、しかもそいつが、最愛の御子息、昭二君によって発見されようなんて、そういう皮肉な回り合わせは夢にもお考えにならなかったでしょうね。映画といえば昨日僕は、警視庁へ人をやって、あのフィルムを調べさせたんだがあの時洋一君の口走っていることばは、『お父さん、あなたは私を殺すのですね』ということばだったそうだ」  博士はいまさらのように、その当時の光景を思い出したものか、しばらく暗澹とした面持で黙りこくっていたが、やがて昂然《こうぜん》として顔をあげると、挑戦するような調子で、 「それがどうしたというんだ。わしは自分のやったことを少しも後悔してはいやしないんだぜ。昭二にしたところで、どうせおそかれ早かれ、ああなるよりほかにしようがなかったんだ。わしのような犯罪人を父に持った、ああいう人並みでない子が、世間から受ける待遇を考えると、どうしてあの子だけ残してゆけるものか。わしは自分の一家も滅ぼした代わりに、一柳の一家も全滅させてやったのだ。一柳のやつもこの間時計塔のそばでこっぴどくやっつけてやったが、おかげで目下瀕死の状態だというじゃないか。ははははは、いい気味だ」  博士はひくい、沈んだ声で笑ったが、その笑い声はちっとも愉快そうではなかった。 「さあ、これで言うだけのことは皆言った。まだ何かききたいことがあるかね」  由利先生はかすかに首をふった。ききたいだけのことはみんな聞いてしまった。あらゆる事実がすっかり明るみへさらけ出されてしまったのだ。だれがこれ以上の秘密を想像することができよう。  ところが、事実はここにもっともっと恐ろしい秘密があったのだ。その秘密にくらぶれば、今まで博士によって語られたところなど、ものの数ではないほどの、重大な秘密があったのだ。  その秘密は次のような唐突な方法で、いきなり人々の眼前に躍り出すと、事態を根こそぎ引っくり返してしまったのである。  博士の長い告白が終わって、しばらく人々が暗然たる顔を見合わせている時、ふいに書斎の外でけたたましい女の泣き声が聞こえた。俊助が驚いて扉をひらくと、激しく泣きじゃくりながら、鞠《まり》のように転げ込んできたのは、婆やのお紋さんだった。  婆やはいきなり床にひれ伏すと、 「旦那さま、お許しくださいまし、旦那さま、みんなわたしが悪かったのでございます。わたしを思う存分になすってくださいまし」  しばらく人々は呆気《あつけ》にとられたように、婆やの狂態をながめていた。なんだかちっともわけがわからない。しかし、婆やはしきりに自分が悪いのだということばを繰り返している。 「婆や、いったいどうしたというのだ。え、いったいおまえが何をしたというのだ」 「旦那さま、わたしがみんないけなかったのでございます。ああ、おかわいそうな奥さま、旦那さまにそのようなお疑いを受けていたと知られたら、草葉の陰でどのようにお嘆きでございましょう。それもこれもみんなわたしが悪かったのでございます」 「婆や、それじゃおまえはいまの話をきいていたのだね。おまえがそうして静をかばってくれる志はありがたいが、いったんしでかした過失は永久に消えることはないのだ。そして一つの過失が、しだいしだいに他に大きな罪を産み出すものなんだよ。さあ、もう何もいわないで向こうへ行っておくれ」 「それが……、それが間違いでございます。旦那さま、奥さまに限って、不義だなんどとそのようなけがらわしい、……」 「ことはなかったというのかね。ははははは! それじゃ、あの洋一は一柳のせがれではなかったというのかい」 「いいえ、それは……それは、はい、洋一さんはたしかに、一柳の旦那さまの坊っちゃんでございますけれど……」 「ほら、みろ!」  藤巻博士はあざけるようにいうと、暗い面をそむけて、 「婆や、もう何もいうてくれるな。憎いやつだが、わしはそうはっきり彼女の過失を聞きたくないのだ」  婆やは躍起となって、 「旦那さま、それが違っているのでございます。洋一さまはたしかに一柳の旦那さまのお坊っちゃんでございます。けれど、その代わり、その代わり、瞳さまは旦那さま、あなたさまのお嬢さまでございます!」  人間というものは、あまり大きな驚きに打たれると、時にちっとも驚かないと同じような状態を示すことがあるものだが、この時の藤巻博士がそれだった。  博士はしばらく呆然としてお紋婆やの顔を凝視《みつめ》ていたが、そのうちに、ある漠然とした考えがうかんできたらしい。急に博士はものすさまじい形相をすると、いきなり婆やの肩をがっちりと両手でつかんだ。 「婆や! 婆や! そ、それは本当か!」  婆やは激しく全身をゆすぶられながら、 「本当でございます。はい、本当でございます。わたくしが、わたくしが、……わたくしが取りかえたのでございます」  博士はどしんと音を立てて床の上にしりもちをついた。俊助は後《あと》にも前《さき》にも、人間がこれほど激情的な驚愕につかまれた姿を見たことがない。博士の顔は瞬間さっと土色になったかと思うと、やがて再び燃ゆるような紅潮を呈してきた。と思うと、そのまっ赤な血の色が刻々として皮膚の下で紫色に変わってゆくのが見えた。実際それは、あまり痛ましく、あまり惨《みじ》めで、とうてい正視することができなかった。 「婆や」  しばらくして博士は気抜けがしたような声でいった。一ぺんに年齢が十も二十も老けたように見えた。 「その時のことをもっと詳しく話しておくれ」 「はい、何もかもお話しいたします。皆さまもお聞きくださいまし」  婆やはいくどもいくども涙を拭《ぬぐ》いながら、次のような話をはじめたのである。 「こちらの旦那さまと一柳の旦那さまとは、学生の時分から、それはそれは仲好しで、下宿をする代わりにお二人で家を一軒お持ちになり、わたしがそこへやとわれたのが、そもそも御縁のはじまりでございました。その後、学校を御卒業になり、お勤め口も決まり、そうしてほとんど同じころにそれぞれ御結婚になりました。それが洋一さまや瞳さまのお母さまがたでございます。  御結婚なすってからもお二人は、なるべく近くへ住もうというので、お買いとりになったのがR町のあの二軒の家で、その時分わたしはどちらさまの召し使いともつかず、あちらへまいったりこちらへまいったりして、及ばずながら二軒のお世話をしてまいりました。  そのうちに、奥さまがたはお二人ともおめでたの御様子、ところが、どちらもそれぞれ旦那さまの御注文がおありだそうで、若いお二人の奥さまは、もう寄ると触るとそのお話で、ひとかたならぬ御心配なのでございます。  御注文というのはほかでもない、一柳の旦那さまはぜひ女の子が欲しいとおっしゃるのに、こちらの旦那さまはいやが応でも男を産めという御難題。——そのうちに旦那さまがたは政府の命令でおそろいで旅行されることになりましたが、その時のお言いつけというのが、留守中にぜひとも男の子を産んでおけ、万一女の子だったら、ひねりつぶしてしまうと、……むろん御冗談でしょうけれど奥さまの御心配はどのようでございましたろう。  そのうちにだんだん産み月がちかづいてくるにしたがって、二人の奥さまはたいへん心細がられて……無理ではございません、お二人とも旦那さまは遠い外国にいられるのですし、親戚《しんせき》といってないおかたでございましたので、そこでわたしがおすすめして、一柳の奥さまを、こちらへ来ていただいて同じ家に住んでいただくことにいたしました。そのほうがお世話をするにも何かと好都合だったのでございます。  そうしているうちに、まだ十日ぐらい先だろうとたかをくくっていた一柳の奥さまのほうが急に産気づかれ、なにしろ寒い冬の真夜中のことで、産婆も先生もなかなか来てくれず、大騒ぎをしているとこれに取りのぼせたのか、こちらの奥さまがまた急にお腹が痛み出してくる始末、もう大変な騒ぎになったのでございます。  それでもまあ、ようやく明け方までにはお二人とも御無事に分娩《ぶんべん》されましたが、医者も産婆さんもとうとう間に合わず、ところがお産まれになった赤ちゃんというのが、お二人の希望とは全く反対なのでございます。つまり、男の子が欲しいと言っておられたこちらの奥さまは女の子を、そして女の子のほうがいいといっておられた一柳の奥さまは、男の子をお産みになったのでございます。それで、それで、わたしはつい、騒ぎに取りまぎれているうちに、取りかえてしまったのでございます」 「ううむ」  藤巻博士は両手で顔を覆うたまま、ひくいうめき声をあげた。 「お許しくださいまし、旦那さま、わたしもすぐ悪いことをしたと気がついたのですけれど、その時にはもう、奥さまがたが正気づかれ、お二人とも思いどおりのお子さまだったので、それはもう、たとえようもないほどのおよろこび、それを見るとどうしてもいまさら間違いですとは申しにくくそれに奥さまがたのお話によれば、将来は御夫婦にというようなお話、そうなれば結局同じことと思ったので、ついつい今日まで申しあげずに控えていたのでございます」  ああ、この愚かな老女をだれが責めることができよう。彼女とて決して悪《あ》しかれと思ってしたことではないのだ。しかし、思慮に欠けた行為というものは、その動機がどのように良かったとしても時にとんでもない禍《わざわ》いを招くことがあるものだ。  人々はしばらく石のように黙りこんだまま、一言も口をきかなかった。その恐ろしいような静けさのなかに、いつまでもいつまでも続いているのは、婆やのすすり泣きばかり。  その時、卓上の電話のベルがけたたましく鳴った。何気なく受話器をとり上げた俊助は、きいているうちに、しだいに顔色を失っていった。そして沈んだ声で、 「藤巻さん、一柳先生から電話です」  一柳ときいて藤巻博士はビクと首をあげた。 「先生は、いま御臨終だそうです。その前に何か一言あなたにお話し申したいことがおありだそうで……」  それを聞くと藤巻博士は、いきなり卓子のそばへとびつくと、むしり取るようにして受話器を耳に当てた。 「一柳か——ぼくだよ、藤巻だよ」  その時、電話の向こうから、弱々しい、いまにも絶え入りそうな声が、きれぎれに響いてきた。 「藤巻——おれは何も知らない——おれは潔白だ——どうして洋一君の体におれと同じような痣があったか知らないが——おれには憶えがない——おれは——おれは——決してきみに疑われるような、破廉恥なまねをした憶えはない」 「一柳、許してくれ!」  藤巻博士の眼からは、突然、滝のような涙が落ちてきた。 「おれはばかだった。何もかも間違いだった。許してくれ」 「藤巻——きみ、きみは——それ——本気か——」 「本気だ。本気だとも。きみは潔白だ。妻も潔白だ、ばかなのはおれ一人だった」 「ありがとう——安心した——安心して死ねる。おれは——おれはいつも忠実なきみの友達だった。——昔も——今も——これから先も——」  ふいにガタリと何かが倒れるような鈍い物音が、電話の線を伝って、ジーンとわびしく、人の魂をゆすぶるように寂しくひびいてきた。藤巻博士はそれをきくと、総身の毛が逆立つような気がした。 「一柳! どうしたのだ、一柳!」 「藤巻さんですか。藤巻先生ですか」  聞こえてきたのは全く別の声だった。 「一柳先生は、いまお亡くなりになりました。たいへんおよろこびの模様で、安らかな御最期でした」  藤巻博士はしばらく受話器を握ったまま、塑像《そぞう》のようにそこに突っ立っていた。その面からはさっきまでの、あの凶悪の色も、痛々しい後悔の色も、ぬぐわれたようになくなっていた。それは現世のあらゆる苦悩から解脱《げだつ》した、神々しいような安らかさの色だった。  博士は、あたりにいる人々のことも打ち忘れたかのように、静かに受話器をかけると、左手にはめていた大きな認印つきの指輪を抜きとってそしてパチッと音をさせると、バネ仕掛けになっている認印のふたをひらいて、その中にあった白い薬品を口の中に落した。 「ああ!」  俊助は驚いてそれを止めようとしたが、その体を、横からしっかと抱きとめたのは由利先生だった。 「しっ! 静かに死なせてやりたまえ」  その声が耳に入ったのか、藤巻博士はふりかえるとにっこりと笑った。と思うと、朽木を倒すように音を立てて、ドタリと床の上に倒れたのであった。  藤巻博士が死ぬ前に、せめて一言、瞳が生きていることを話してやるか、それとも親子の対面でもさせてやりたかったと、俊助はのちのちまで悔やんだが、由利先生はそれとは全く反対の意見だった。  あれ以上、博士の心持を動揺させないほうが、かえって慈悲というものだ、たとえ二人を対面させたところで、ああいう恐ろしい事件の後で、瞳がはたして博士に向かって親子のような愛情を持ち得るかどうか疑問だし、もし彼女がおびえるような態度でも見せれば、博士の心はいよいよ暗くなるばかりだというのが、由利先生の意見だった。  それはともかく、この事件から瞳が、親子関係だの夫婦関係に対して深い疑問を感じたのは事実だった。間もなく彼女は俊助のあたたかい手をふりきって、修道院へ入ってしまった。俊助にもそれを止める力はなかった。  失恋の俊助は暇さえあると三番町の邸へ由利先生を訪れた。失恋の俊助と、失意にある由利先生とはたいへん話がよく合った。  ある時、俊助は古ぼけた日記のような物を持って、由利先生のもとへやってきた。それは藤巻博士の日記で、その中に愛する昭二を殺害した時のことが、次のような文章でつづられているのだった。  ——私は瞳をたおした。そして昭二のほうへふりかえった。その時突然、昭二がひくい声で、泣きじゃくりながら言った。 「オ父サン、ボクハ逃ゲハシナイ。ダケド一度、一度、オ父サンノ顔ヲ見セテチョウダイ」  ああ、この時の昭二のことばほど私の魂を揺り動かしたものはない。私はマスクをかけ、眼鏡をかけていたけれど、この少年はちゃんと私の正体を見破っていたのだ。  私は仮面をぬぐと、しばらく危険をも打ち忘れて昭二を抱きしめてやった。 「昭二や、昭二や、お父さんを許しておくれ。そしておとなしく死んでおくれ。いずれ後からお父さんも行くのだから」  昭二はそれを聞くと何度も何度もけなげにうなずいた。そして私が恐ろしい死の薬液を注射するあいだ、彼は少しもあばれたり、もがいたりするようなことはなかった。 「オ父サン、ボク、チットモ苦シクナンカナイヨ、オ父サン死ヌッテズイブン楽ダナア」  私はそれを聞いたとたん、思わず注射器を投げ出して泣いた。あまり泣いたので鼻血が出たくらいだ。私はその鼻血で壁の上にちょっとした思いつきで、いたずらがきを残したのである。  私は静かに昭二の涙をふいてやった。そして花瓶に活けてあった白百合《しらゆり》の花をその胸の上にのっけてやった。  私の耳には今でも、あの時の昭二の声がひびいてくる。 「オ父サン、死ヌッテズイブン楽ダナア」  そういう声が、耳鳴りのように私の耳底にこびりついている。—— 「なるほど」  由利先生は読み終わると静かにその日記を伏せた。そして思い出したように身ぶるいをした。 「これで、あの壁に書いてあった血の文字の由来もわかったが、それにしても、この人は実に多情多恨な人だったのだねえ」 「そうです。そして、その多情多恨な性格がああいう恐ろしい悲劇を生んだのでしょう」 「恐ろしいことだ、実に恐ろしいことだ」  由利先生は寒そうに肩をすぼめて、しばらく窓ごしにお濠の水をながめていたが、急に俊助のほうへふりかえると、燃ゆるようなまなざしで、こんなことをつぶやいたのである。 「しかしね、三津木君、世の中にはまだまだ恐ろしいことがある。きみたちの想像もつかないような恐ろしい罪悪が行なわれつつある!」 [#改ページ] [#見出し]  獣 人    飾り窓の恐怖  降りみ降らずみのうっとうしいお天気続きに、腹の底まで腐ってしまいそうな梅雨時《つゆどき》のある朝のことだ。銀座の大百貨店Q——屋の飾り窓の前で、登校の途中とみえる小学生が二人、次のような不思議な会話を交わしていた。 「信ちゃん、ちょっと見な、ずいぶん変じゃないか」 「何さ、史郎ちゃん」 「ほら、あの飾り窓の中の寝台さ。赤ん坊の寝台にあんな大人《おとな》の人形を寝かせてあるなんて、ずいぶんばからしいじゃないか」 「おや、本当だ。昨日あたいが見た時は、確か赤ちゃんのお人形だったのに、変だね」  と言いかけてその子供は、ふいにギョッとしたように、真鍮《しんちゆう》の手すりにつかまった。 「史郎ちゃん大変だ、ありゃ本当の人だ」 「ばかだねえ、そんなことがあるもんか」  史郎ちゃんはあざわらいながら、 「だって本当の人間とすれば胴体はどこにあるんだい。あんなちっぽけな寝台に大人が寝ていられるはずがないじゃないか。だけど……やはり妙だねえ」  さて信ちゃんと史郎ちゃんが首をかしげて評議している飾り窓の中というのは、時節柄子供寝台の売り出しとみえて、 「赤ちゃんの安眠をおまもりください」  と書いた宣伝文句の下に、幌蚊帳《ほろがや》を吊った赤ん坊用の寝台が置いてあって、その中に寝心地の快適さを表現するためであろう、タオル地の掛蒲団《かけぶとん》をあごまでひっかぶった人形が寝かせてあるのだが、いかさま、その人形の首というのが、寝台に比較して不調和に大きいのだ。  いやいや、薄白い蚊帳を通して見るのではよくわからぬが、大きいばかりではなく、顔色なども妙にあおぐろんで、なんとなく気味が悪い。 「おかしいね。やっぱり信ちゃんの言うとおり、本当の人みたいだな」 「そうだろう。変だねえ、あの小父さんに聞いてみようか」  呼びかけられて足を止めた小父さんというのは、付近の銀行に勤めている謹直な出納係《すいとうがかり》であった。 「小父さん、あれ人形かい、それとも本当の人間かい」 「何のことだね、それは……」 「ほら、蚊帳の中に見えるあれだよ」  人のいい出納係は思わず飾り窓をのぞきこんだ。 「むろん人形さ」  と言いかけたが、ふいに酸っぱいような生つばがぐうッと胃の底からこみあげてくる。  ——ハテナ、お天気の加減でおれは気が変になったのだろうか。あんなところに人が寝ているはずがないし、第一あんな丈の短い人間てあるもんじゃない。——だが、そのとたん、出納係の頭脳にはある恐ろしい考えがさっとひらめいた。 「大変だ!」  思わず彼はピョコンと二尺あまりもとび退《の》くと、あっけにとられている二少年に向かって、たたきつけるような早口で命令した。 「大変だ。お巡りさんを呼んどいで」  幸い交番はすぐ近所に立っている。信ちゃんと史郎ちゃんがすわ一大事とばかりに、重いかばんを揺すぶって走っていく間に、出納係はあわを食って百貨店の中へとび込んだ。 「大変です。飾り窓の中に人が死んでいます」  表を開いたばかりの百貨店の中では、寝ぼけまなこの店員が陳列だなの整理をしているところだったが、この素頓狂《すつとんきよう》な報告をきくと、顔色を変えて五、六人、バラバラとその周囲に集まってきた。 「子供寝台の中で、だれか死んでいます」 「あああれですか」  一人がなアんだというふうに言った。 「赤ん坊の人形のことですか」 「いいえ、人形じゃありません。確かに人間です。とにかく、こちらへ来てごらんなさい」  おりから、信ちゃんと史郎ちゃんに案内された警官が、血相変えておどり込んできたが、この人もきっとガラスの外からのぞき込んだのに違いない。口もきけぬくらい興奮しているのだ。  騒ぎを聞きつけて主任が出てくる。飾り窓の外にはしだいに弥次馬が集まってくる。  やがて、主任の案内によって飾り窓の中へ入っていった警官は、ふるえる指で蚊帳を外しタオル地の掛蒲団をぐいとまくりあげたが、そのとたん、飾り窓の内外に群がっていた人々は、いっせいに、わっと悲鳴をあげると、崩れるように大きな雪崩《なだれ》を打って返した。  寝台の上には胴体のない生首が一つ、なんとも言えぬほど無残な切り口を見せて、ごろりと転がっているのだ。  その不気味さ、怖さというものは実際それを見た者でなければ、とても想像できるものではない。小心者の出納係のごときは、切り口からはみ出している何やらえたいの知れぬもやもやしたものをたった一眼見たきりで、げえッ、げえッとすさまじい空《から》嘔吐《えずき》をはじめたくらいだ。他の人たちもみんな一時的な失神状態に陥ったとみえて、呆然《ぼうぜん》として立ちすくんでいる。  さすがに警官はいちばん早く常態に還《かえ》った。  彼は飾り窓の周囲から弥次馬を追い払うと、自分は売り場の電話を借りて、急遽《きゆうきよ》、この由を所轄警察へ報告する。  なにしろ場所もあろうに、百貨店の飾り窓から生首が転がり出すというのだから大事件だ。時をうつさず、係官が緊張した面持で駆け着ける。いや銀座|界隈《かいわい》は大変な騒ぎ。  さて検視の模様をいちいち述べてゆくという段になると、とてもその煩《はん》に耐えぬから、ここには明瞭《めいりよう》にされた事実だけを、ごく簡単に記しておくことにしよう。  まず第一にその生首は女であった。しかも二十歳前後の妙齢の美人で、男と間違えられるような断髪といい、こってりとしたお化粧といい、どうやら映画俳優とかレビューガール、あるいは酒場かカフェーの女給さんと、そういった階級の女らしく見られる。  むろん、首だけでは身もとなどわかりようもないが、医師の意見によると、切断されてからまだあまり時日を経過していないだろうとのこと、そして犯人は相当手練の者と思われるとのことであった。  さて最後に、これが持ち込まれた順序だが、それにはおよそ次のようなことが想像されるのだ。  犯人は前日紛れ込み、便所かどこかで閉店されるのを待って、深更に及んで飾り窓の中へ忍び込み、隠し持っていた生首と人形をすり変えると再び隠れ場所へ還り、今朝開店されるのを待って何食わぬ顔で出ていったのであろう。  ただ不思議なのはこの一階には相当金目の品物があるはずなのに、それにはいっこう手をつけた形跡がない。つまり犯人は生首を捨てる(あるいは陳列する?)ためにだけこれだけの危険を冒したのだ。なんと奇怪な話ではないか。  しかしこの怪事件も、これから述べようとする変てこな物語に較べれば、ほんの発端《ほつたん》の役目を果たしたにすぎないことが、後になってわかってきた。  というのは、その晩になってさらに第二第三とえたいの知れぬ悪夢のような事件が、相次いで突発したからである。    生々しい腕と脚  隅田川を東へ渡った大東京の一隅に、言うをはばかるような不思議な街のあることは、諸君もすでにご存じであろう。  迷路のように曲がりくねったせまい路地の両側には、同じ構えの家が無数に並んでいて、その家の中からは白粉《おしろい》をまっ白に塗った妖精《ようせい》たちが、ちょいとちょいと洋さんだの、羽織の旦那だの、腹掛の兄さんだのといちいちその服装によって、通りがかりの男に声をかけるのだ。  さてその晩、不幸な籤《くじ》を引いた光子というのも、やはり、この街に巣食う妖精の一人であったが、夜も十一時を回ったころ、機械的な嬌声《きようせい》を表に投げていると、ふいに横のほうからはでな合トンビを着た男が、ズイと側へ寄ってきた。 「おい、マッチを貸さないか」 「O・K——」  光子はこの男、物になるとでも思ったのか、愛想よくマッチをすってやったが、男はそれに手を出そうともせず、 「忙がしいかい」 「ひまだわ、上がってらっしゃいな」 「うん、まあもう一回りしてからにしよう」 「そんなこと言わないでよう。もうじき十二時じゃないの。雨も降ってきたしさ。悪いことは言わないからいい加減にきまりをつけるものよ」 「まあ、いいさ。まだ少々早いよ」 「だめよ、逃げようたって離さないから」  光子はいきなりトンビの下から手を突っ込んで、男の手をぎゅっとつかんだ。 「まあ冷たい手をしてるのね!」  男は強いて振り払おうともしない。  言い忘れたがこの男、襟巻《えりまき》ですっかり顔を隠しているので、どんな人相かさっぱりわからない。しかしこの街では、面を包んでいる男は珍しいことではないので、光子は別に怪しいとも思わず握った手にいっそう力をいれ、 「ねえ、ねえ、上がってちょうだいよ、ねえ!」 「おいよせよ、あんまり引っ張ると腕が抜けちまうじゃないか」 「いいわ、あなたの腕なら肌身《はだみ》離さず抱いて寝るわよ」 「ヘン、大方お門違《かどちが》いでございましょうだ」 「あら本当よ。意地悪ね」 「よし、それじゃ抜いてやろう。抜けるぞ、いいか、ほら、ほら、ほら!」  とそう叫んだかと思うと、男は、飛鳥のごとく身を翻し、あっと言う間に暗い迷路の中に身を隠してしまった。はずみを食ってドシンとうしろへひっくり返った光子は、起き上がるとあっけにとられたようにぽかんと表をみていたが、ふと自分の手に眼をやるとそのとたんキャッと叫んで気を失ってしまったのだ。  無理もない、彼女の手の先にはまだ男の腕がブラ下がっているのだ。いやいや、それが男の腕であろうはずがない。まだ切り口の新しい、そして一面に恐ろしい突き傷のある、見るも無残な女の片腕なのだ。  ——というのがその夜起こった第二の事件であったが、それから一時間も経たぬ真夜中ごろさらに奇怪な次のような事件が突発したのである。  由利麟太郎という学生上がりのまだ生若い青年が、所用あってただ一人、雑司《ぞうし》ヶ谷《や》の鬼子母神《きしもじん》付近を歩いていた。  昼間でもあの辺はずいぶん寂しい場所だのに、深夜のしかも雨催《あめもよ》いの空ときている。由利はそう臆病なほうではないが、それでもあまりいい気持はしない。思わず足を早めて鬼子母神の境内《けいだい》を斜めに突っ切ろうとすると、ふと眼についたのは、向こうの大木の根元で、ごそごそとうごめいている怪しい物影——なんとなく由利はその場に足を停《と》めてしまった。  暗いといっても咫尺《しせき》を弁ぜずというほどでもないから、うずくまっているのが犬でもなければ狸《たぬき》でもなく、確かに人の形をしていることぐらいはおぼろげながらも見てとれる。  向こうむきになって穴を掘っているらしいその物音のために由利の足音も聞こえなんだのだろう。  別に狼狽《ろうばい》した模様は見えない。  由利麟太郎は後年私立探偵という風変わりな職業で身を立てるようになったくらいだから、その時分から人一倍好奇心は強かったに違いない。その姿を見ると、どうしてもこのまま行きすぎる気にはなれないのだ。そこで足音を忍ばせて近づいていったが、ふいに相手がピクリとして振り返った。そのとたん、さすがの由利麟太郎も、全身の血がさっと凍るような激しい恐怖に打たれたのである。  ああ、なんという奇怪な動物だ。  全身は鋼鉄のようにピカピカ光っていて、しかも針を植えたような鋭い毛が一面に突っ立っている。顔はえたいの知れぬ黒さに包まれ、眼は爛々《らんらん》たる燐光を放ち、くちびるの間からニューッとのぞいているまっ白な牙の先からは、何やら赤黒い液体が、ポタポタと垂れているのだ。  咄嗟《とつさ》の間にやっとこれだけのことを見て取ったとき、怪物はふいにさっと身を翻すと風のような速さで地上を走って逃げ出した。  それを見ると由利はようやくわれに還《かえ》ったが、すると猛然として持ち前の猟奇心が頭をもたげてくるのだ。この怪物をなんでこのまま見のがせよう。  彼も怪物の後を追っていっさんに走っていく。  怪物は全身に泥を跳ね上げながら、由利がいま通ってきた道を猛烈なスピードで走っていくのだが、その格好はゴリラそっくりだった。  二、三度せまい路を曲がったと思うと、やがて彼らの行手には一軒離れてポツンと建っている洋館が現われたが、その洋館の側まで来た時である。突如ゴリラの姿が掻き消すごとく見えなくなってしまった。  一方は大谷石《おおやいし》を組み合わせた洋館の塀《へい》、他方は広い田圃《たんぼ》、どこにも姿を隠すような場所はない。塀の中から大きな欅《けやき》の樹が枝をさしのべているが、いかに怪物が身軽でも、まさかその枝にとびついたとは思えない。にもかかわらず怪物の姿は空気のように消えてしまったのだ。  由利はあっけにとられた。というより気味悪くなった。とにかくこれは一応この家の主人に知らせておくのが礼儀に違いない。  そう思ったから由利は表に回って玄関の呼び鈴を押した。深夜のことだから家の中はしんと静まり返っている。  由利はいっそやめて帰ろうかと思ったが、やはり気になるので二度三度重ねて呼び鈴を押しているうちに、間もなく軽いスリッパの音が近づいてきて、玄関の扉《とびら》がスーと開いた。  顔を出したのは横柄な面構えをした老人だった。風呂《ふろ》に入っていたとみえて胡麻塩《ごましお》の頭髪が艶々《つやつや》と濡《ぬ》れている。  粗《あら》いタオルの寝間着を無造作に着ていた。 「何か御用かな。この真夜中に」  老人は、ブッキラ棒な威嚇《いかく》するような調子で言った。 「いまお宅の庭へ怪しいものが飛び込んだのです。何か間違いがあるといけませんから、おしらせいたします」 「怪しいもの?」  老人はまゆをひそめて、 「いったいどのような風体の人物だね」 「いやそれが人間とも獣ともえたいの知れぬ怪物なのです。全身に針のような毛の生えた……」  老人は妙な顔をした。それから穴のあくほど由利の顔をみつめていたが、その時奥のほうから、甘ったれるような女の鼻声がきこえてきたのだ。 「あなた、何をしてるのよ。早く来てちょうだいな」  それをきくと老人は、もうこれ以上取り合ってはいられないというふうに、 「ありがとう、用心することにしよう。とにかく、今夜はおそいから失敬する」  と言ったかと思うと、由利の鼻先でピシャリと扉がしまった。  由利はなんともいえぬほどいまいましい気がした。せっかく人が親切に知らせてやるのに、あの横柄な態度はどうだ。なんとでも勝手にしやがれという気になって彼は玄関を離れようとしたが、ふと思いついて表札に眼をやった。がそのとたん、彼はハッとしたように足を止めてしまった。  鵜沢《うざわ》白牙。——  白い陶器板に黒いエナメルでそう書いてある。  鵜沢白牙といえば有名な学者だから、だれだって名前を知らないものはないくらいだ。してみるといまの老人があの有名な偉い学者なのだろうか。そう考えると、由利はなんとも言えぬほど不愉快な気持になってその場を離れると、足を早めて鬼子母神の境内まで引き返してきた。  見ると杉の大木の根元には、怪物の掘り出した穴がそのまま残っている。由利は何気なくその中をのぞき込んだのだが、今度こそ魂も天外に飛び去るような驚きに打たれたのである。  驚いたのも無理はない。湿った土の中からニョキリと生えているのは、見るも不気味な女の片脚ではないか。    銀子と珠枝  次々に現われたこの片腕と片脚は、東京市民を完全に恐怖のドン底に突き落としてしまった。  むろん、それらの腕や脚がQ屋の飾り窓に飾られてあった生首と、一対《いつつい》を成すものであろうことは、想像にかたくなかったが、不気味なのは犯人のそのやり口である。  彼は恐ろしい自分の犯跡を隠蔽するどころか、反対に最も奇抜な方法で、世間に広告しようとしているように見えるのだ。  それにしても不思議なのは、その片腕や片脚に刻まれた生々しい突き傷のあとである。あたかもそれは針鼠《はりねずみ》にでも刺されたように、一面にむごたらしい孔があいているのだが、いったいどうしてこんな傷ができたのか、またどんな恐ろしい凶器が用いられたのか、見当もつかなかった。  もっとも諸君の中にはその傷について、すでに気がついていられるかたもあるだろう。そうだ、鬼子母神の境内で由利が出会ったあの恐ろしい怪物、あの怪物の全身に生えていた鋭い針とその傷痕との間に、何か関係があるのではなかろうか。  ところが奇怪なことには、由利は片脚は警察へ届けて出たけれど、怪物に関しては一言もしゃべらないのである。いったいどういう考えがあってのことか知らないけれど、彼の態度もまたたいへん奇怪千万と言わねばならなかった。  それはさておき、その後二、三日経ってから警察のほうでは、やっとこのバラバラ死体の正体を突き止めることができたが、それは当時浅草の白鳥座というレビュー団に出ていた、三輪虹子というスターの一人だった。  数日前から彼女の行方《ゆくえ》が知れないので関係者一同心配しているところへ今度の事件である。もしやと思って劇場の者が警察へ出頭してみると、はたして虹子だったので、ここに大騒ぎがはじまったというわけである。  いったいこういう事件は被害者の身もとさえわかれば、後は案外簡単に片がつくものだが、今度の事件ばかりはそれがなかなかそう定石どおりに運ばないのだ。虹子は案外身持が固く恋愛関係などもなく、劇場でも評判よく、家庭も母親と二人きりのむつまじい暮らしというのだから、せっかくの捜査の糸もプッツリと断たれた感じで、警視庁方面の焦燥のうちに、早くも一ヵ月あまりも経過した。  こうして世間の脳裡《のうり》から、あの恐ろしい記憶が、ようやくぬぐい去られようという八月上旬のころ、虹子の出勤していた、白鳥座の楽屋へ、スターの鮎川珠枝《あゆかわたまえ》を訪ねてきた、すばらしい服装をした美人がある。 「ごめんなさい、鮎川さん、入ってもいい」  美人の声に振り返ったのは珠枝である。 「おや、だれかと思えば銀子さんじゃないの。これは珍しい。さあさあ入ってちょうだい」  珍しく体がすいているとみえて、はでな楽屋着のえりをくつろげて、雑誌の拾い読みをしていた珠枝は、豪勢な相手の姿を見ると思わず眼を見はった。 「銀子さん、あなたもずいぶんひどいじゃないの。葉書一本でよしちまうなんてさ。おめでたいことがあるならあるでハッキリ言ってくれれば、及ばずながらお祝いでもしたのに」  珠枝はさりげない様子でそういいながら、相手のはめているすばらしいダイヤの指輪だの、プラチナの腕時計だのを見まもっている。 「すみません。つい暇がなかったもんだから、今夜はそのおわびよ」 「おわびなんかどうでもいいのよ。別に叱言《こごと》をいってるんじゃないから。そうそう忘れてたけれど、このあいだ引幕を贈ってくれたの、あんたじゃなかった?」 「そう、つまらないものだけれど、いささかおわびのつもりだったのよ」 「それはすまなかったわね。いったいだれからだろうと皆不思議がっていたのよ。でもずいぶんうらやましい御身分らしいわね」 「そんなでもないのよ」  銀子はいくぶんテレたような、しかしその中に、十分の得意さをこめて言った。  銀子というのは一月あまり前までこの一座にいた踊り子だったが、ちょうど虹子の騒ぎがあった少し前に、突然よすというハガキを一本よこしたきり、そのまま姿を見せなくなってしまったのである。それがいま眼もくらむばかりの豪勢さで現われたのだから、珠枝は実に妙な気がするのだ。  歌をうたえば調子外れ、踊りを踊れば一人テンポが乱れて仲間からきらわれる。おまけに少しハアちゃんだといううわさもあって、取柄といえばちょっとエロチックな肢体ばかり、それもなんとなく白痴のにおいがあって、このままでは、どんなにしんぼうしてもうだつは上がるまいと、一座の連中からひとしく軽蔑《けいべつ》されていた銀子が、こんなにすばらしい幸福をつかむなんて、人間の運というものはずいぶんわからないものだと、いまさらのように珠枝は考えるのだ。 「旦那さまって何をなさるおかた? ねえ、言ってもいいでしょう。まだお若いかたなの?」 「フフフフフ」  銀子は例によって白痴のような笑い方をすると、 「それがとても大変な爺さんなのよ。おかしいでしょう」 「お年寄りなの。だけどそのほうがいいわね。なまなか若い人より、お年寄りのほうが親切でいいというじゃないの。それで何をなさるかた?」 「あれなのよ、ほらほら、大学のほうよ」 「大学?」 「ええ新聞や何かに時々書いてるでしょう。理学博士で、医学博士で、それから文学博士なんですって。なんだかむずかしいことばかり言ってて、私にはちょっともわからないのよ」 「何というかた?」 「鵜沢というの。ほら、鵜沢白牙というのよ。妙な名前ね、ご存じありません?」  珠枝はびっくりして銀子の顔を見直した。彼女はむろん知らないことだけれど、そういえばこの間由利が白牙先生をたたき起こした時、奥のほうからきこえた女の声というのは銀子ではなかったろうか。そうだ、そういえば甘ったれた口のききようなどたいへんよく似ているのだ。 「まあ白牙先生? あの偉い学者の?」  と珠枝があきれたように言うのを、銀子は平然として受けて、 「そうかしら、あれで偉いのかしら、とても達者な爺さんよ」  と銀子はそこで何を思い出したのか、再び気味悪い声で笑ったが、急に思い出したように、 「そうそう、忘れてたわ。あたしその鵜沢に頼まれて来たのよ。あなた今夜うちへ来てくださらない。鵜沢はね、とてもあなたのファンなのよ、で、一度ぜひお目にかかりたいというのだけれど会ってやってくださらない?」 「そうね、なんだか急な話ね」 「ちょっとも急じゃないわ。あなたをお連れして帰らないと私叱られるのよ。おこるととても手のつけられない爺《じじい》よ。ね、私を助けると思って来てちょうだいな」  珠枝はなんとなく妙だと思ったが、職業柄一人でも有力な後援者が欲しい体である。鵜沢白牙といえば有名な偉い先生だし、こういう人に近づきになっておくのは決して悪いことじゃない。それに今夜は珍しく体も空いている。 「ええ、それは行ってもいいけれど……」  と珠枝はついうっかり、そう言ってしまったのである。    鎖の音  というわけで珠枝はその晩、雑司ヶ谷の鵜沢白牙邸へ連れてこられたのだが、来てみていささか後悔したというのは、白牙先生という人が想像していたのと違ってなんとなく底気味が悪いのだ。老人の癖にいやにネチネチとしていて、どうかしたはずみに非常に若く見えることがある。学者ってみんなこんなものかしら、と珠枝は思った。  それに銀子がさっきとは反対にいやにつんと澄ましていて珠枝が話しかけても木で鼻をくくったような返事、珠枝は全く取りつく島がない感じだ。こういう有様だからとかく話も途切れがちでいっこう座ははずまなかったが、ただ次のような事柄だけは、この物語に大いに関係があるから記しておくことにしよう。 「このお部屋にはずいぶん珍しいものがあるわね。先生は探険にでもいらしたことがございますの」  話の継穂に困った珠枝がふとそんなことを言った。なるほどその部屋には水牛の角だの象牙だの、奇妙な土人の弓のようなものだのが、壁いっぱいに飾ってある。 「ううん、うちのが行ったのじゃないのよ。だれだかお友達の土産《みやげ》なんですって」 「そうずいぶん珍しい物があるわね」  珠枝がそういってもっとよく見ようと立ち上がった時である。突如隣室に当たって、ガチャガチャと鎖を引きずるような物音がきこえたかと思うと、それに続いて床を踏み鳴らすような荒々しい物音や、低い動物的なうめき声だのがきこえてきた。——珠枝はそれをきくと、ハッとして顔色を変えたが、それと同時に、銀子と白牙先生がチラとすばやい眼配せを交わしたように思えたので、彼女はいよいよ気味が悪くなってきた。 「あら、もうすっかり遅くなったわ。あたしこれで失礼するわ」  珠枝はそう言って立ち上がった。 「そう」  銀子は案外あっさり受けて、 「じゃ、あたしそこまで送っていくわ」 「もうお帰りかね。それじゃまた来てくださいね」  白牙先生もやおら腰をあげたが、その声を聞くと珠枝はゾッと鳥肌の立つような気がした。なんとも言えぬほど気味悪い猫《ねこ》なで声なのだ。  やがて銀子と珠枝の二人は、連れ立って塀の外へ出たが、何を思ったのかふいに銀子が、 「ああそうそう、あたし大変なことを忘れていたわ。ちょっと待っててちょうだい。すぐ帰ってくるから行っちまっちゃいやよ」  とそう言い残すと返事も待たずに、そそくさと家の中へ引き返してしまった。行ってしまえと言われても土地不案内のしかもこの真夜中だ、行ってしまえるものじゃない。なんとなく珠枝が脅かされるような気持で立ちすくんでいると、ふいに頭上の欅の枝がザワザワと鳴った。ハッとして彼女が振り仰ぐと、そのとたん、猿《ましら》のごとく枝を伝って下りてきた怪物が、塀の上からヌーッと腕を伸ばすと、やにわに珠枝のえりを引っつかんでスルスルと上へ引き上げる。 「アレ!」  と叫ぼうとしたがあまりの恐怖のために声も出ない。ただもう恐ろしさにブルブルとふるえていると、 「しっ! 静かに! 動いちゃいけませんよ」  と案外優しい声が耳もとで聞こえた。口をきくところをみると人間とみえる。 「あなたは白鳥座の鮎川珠枝さんでしょう。ぼくは由利麟太郎という者ですが、あなたをお助けに来たのですよ」  さてこそこの怪物は由利麟太郎なのだ。してみると彼はあれ以来この邸を監視しているとみえるが、あなたをお助けに来たのですよ、ということばはいったい何を意味するのだろう。珠枝の身辺にそんな恐ろしい危険が差し迫っているのだろうか。  いくぶん勇気を取り戻した珠枝が、それについて何か言おうとすると、いきなり由利がそのくちびるを押さえ、 「しッ! 黙って!」  と低い声でささやくと、彼女を無理やりに欅の葉のいちばん深い繁みの中に押し込む。なんだかさっぱりわけがわからないが、相手のことばつきから容易ならぬ事態が迫りつつあるのを感知した珠枝が、息を殺して欅の枝にしがみついていると、その時、ふいにどこかでシュッ、シュッ、というような荒々しい息づかいがきこえてきた。  その声にふと下を見おろした珠枝は、今度こそ本当に、気を失ってしまいそうな恐怖にとらえられたのだ。  ちょうど、彼らが隠れている欅の樹の下の塀の一部分が、くるりと回転したかと思うと、その中から出てきたのはなんともえたいの知れぬ怪獣なのだ。  怪獣はゴリラのように四肢で地上をはいながら、シュッシュッと不気味な鼻息を立て、しきりに地面を嗅ぎ回っている。今夜はいつかの晩とは違って美しい月夜なので、ハッキリその姿が見られたが、怪獣は一種の甲冑《かつちゆう》を被《き》ているのだ。しかもそれはなんという不可思議な鎧《よろい》だろう。一面に鋭い鋼鉄の針が植えつけてあって、そいつがキラキラと銀色に光っている恐ろしさ。由利も珠枝も思わず欅の梢にしがみついたまま、ブルブルと全身をふるわせた。  しばらく怪物はうろうろと地面をかぎ回っていたが、やがて狂おしいうなり声をあげると、風のように地上を走って向こうのほうへ姿を消した。 「あなたを探しているのですよ」 「まあ!」 「しッ! 帰ってきた!」  いかにも怪物は再び風のように戻ってきた。しばらく怪物は気が狂ったように、ますます荒々しくシュッシュッと鼻息を立てながらその辺をはい回っていたが、やがてうわうッというようなものすごいうなり声をあげると石塀を押しひらいて、再び庭内のやみにその姿を隠してしまった。どうもその様子からみると、やはり人間のように見えるのだ。 「さあもう大丈夫、そろそろ降りましょう」 「ええ」  といった珠枝は歯の根も合わぬくらい脅えきっている。由利はそれを見るとしっかとその体を抱きしめ、スルスルと樹上から地面へ飛び下りた。彼もまた怪物に劣らずなかなか身軽である。 「驚いたでしょう。もしものことがあるといけませんから、お宅まで送ってあげましょう」 「お願いしますわ」  さっきからおびえきっていた珠枝は、なんとなく見も知らぬこの男が頼もしく思われて、その広い胸にしっかりとすがっていたいような気がするのだ。 「いったいあれは何ですの」  ようやく広い通りへ出て自動車を拾うと、珠枝はやっと、いくぶん落ち着いたように口を開いた。 「私にもまだよくわからないのです。あなたはあの怪物の鎧を見ましたか」 「ええ、見ましたわ、なんという恐ろしい鎧でしょう」 「ぼくはいまそれについて考えているのですが、どこかであれと同じような鎧を見たことがあるような気がするのです。しかしそれがどこだったかいっこう思い出せません。それはとにかく、三輪虹子を殺したのは確かにあの怪物に違いありませんよ」 「なんですって? 虹子さんを……」  珠枝は思わずさっと顔色を変えた。 「ああ、あなたは何もご存じなかったのだな。それじゃこんなこと言うのじゃなかったのです」 「いいえ、きかせてちょうだい、途中でおよしになっちゃいっそう気になりますわ」 「いや、かくいうぼくにもよくわからないのですが、虹子の死体一面に鋭利な突き傷があったでしょう。あの突き傷と怪物の着ていたあの鎧の間に、何か関係がありはしないかと思うのです。しかし今夜はこの話はよしましょう。ただこれだけのことは言っておきますが、あなたは今後、銀子という女から何と言ってきても決して出ていってはいけませんよ。それから一人歩きも当分はお見合わせになったほうが安全でしょうね」 「まあ!」  珠枝は何かは知らぬがことの恐ろしさに身ぶるいをしながら、 「警察へ届けたほうがよくはありませんの?」 「証拠がないのです」  由利は、吐き出すように言った。 「ぼくはかなりいろいろなことを知っていますが、みんな憶測にすぎないので、何一つ具体的なものをつかんでいないのです。なにしろ相手はあんな有名な学者でしょう。うっかりするととんだ藪蛇《やぶへび》に終わりますからね」  ちょうどその時、自動車は神楽坂《かぐらざか》にある珠枝の宅までやってきた。 「ありがとうございました。せめてお名前でもきかせてくださいません?」 「いや名前を言うほどの者ではありませんが、怪しい者ではないという証拠に名刺をお渡ししておきましょう。そのうちにまたお訪ねするかもしれませんが、今夜のことはあまり他人に話さないほうがいいですよ」 「ええ、あなたが黙っていろとおっしゃるなら!」  珠枝はそのことばにある激しい情熱をこめて、じっと由利の手を握りしめたが、はたして由利が、その無言の意味を読みとったかどうかははなはだ疑問である。    死の抱擁  そのことがあってから二、三日して、珠枝はこの間のお礼にと思って由利の下宿を訪れた。  当時由利は本郷の旭館という下宿にいたが、珠枝が訪れると、うずたかく積みあげた本の間から顔だけ出して、 「やあ、いらっしゃい。御覧のとおりの有様でせっかくおいで下すっても、すわっていただく場所もないという始末ですよ」 「大変な御本ね、皆お読みになりまして?」 「まさか」  由利はのどをひらいて笑いながら、 「時にその後銀子から何も言ってきませんか」 「ええ。……なんだか気味が悪うございますわ」  珠枝は肩をすぼめるようにして言った。 「言ってこなければいいが、たとえ何か言ってきても絶対に相手になっちゃいけませんよ。そうそう、あなたがお見えになったら見ていただこうと思っていたものがあるのですがねえ」  由利は机の上にあった大きな外国書を取り上げると、紙のはさんであったページをひらいて、それを珠枝のほうに押しやりながら、 「この写真に見憶えがあるでしょう」  珠枝はそれを見ると思わずアッと低い叫び声をあげた。無理もない。そこに出ていた写真というのは、この間白牙先生の宅からの帰途、欅の樹上から見たあの怪物にそっくりそのままの姿ではないか。 「まあ」  珠枝は思わず息を弾ませて、 「この間のやつですわね。いったいこれは何でございますの」 「ここにその説明文を翻訳しておきましたから読んでごらんなさい。実に恐ろしい代物《しろもの》ですよ」  珠枝は大急ぎで渡された原稿紙に眼を通したが、それは次のような奇怪な文章だった。 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]  ——暗黒大陸ト称《ヨ》バレシ亜弗利加《アフリカ》ガ白人ノ手ニヨリテ、開拓サレハジメシ十八世紀末葉ノ事ナリ。あろんぞ・しめおんナル一|西班牙《スペイン》人ノ手にヨリテ図ノゴトキ奇怪ナル甲冑ガ発明サレタル事アリキ。コハ全部頑丈ナル鋼鉄ニテ作ラレ、シカモソノ外側ニハ図ニ見ラルルゴトキ鋭キ針ヲ一面ニ植ウ。当時未開土人ノ間ヲ旅行スル探険家タチハ、必ズコノ奇怪ナル甲冑ヲ着用セシモノニテ、万一凶暴ナル土人ノ襲撃ヲ受ケンカ、彼ラハ自ラ進ンデ土人ニ抱キツキ、鎧ニ植エタル鋭キ針ヲモッテ相手ヲ突キ殺シタリ。サレバ当時コノ鎧ハ「死ノ抱擁」ト称バレ、土人共ヲ畏怖セシメシ事甚大ナリキトイウ。—— [#ここで字下げ終わり] 「まあ、それで白牙先生のお宅には、この鎧が一着あるわけなのね」  珠枝は読み終わって、思わず声をふるわせた。  ああなんという不気味な話だろう。二十世紀のこの大東京に、こんな恐ろしい殺人鎧を身に着けて徘徊《はいかい》している怪物があろうとは、実にゾッとするほど気味の悪い話ではないか。 「そういえば白牙先生の居間には、土人の矢だの水牛の角だのと、ずいぶん気味の悪い物がたくさんございましたわ」 「そうでしょう。ところであなたはこの間、あの家の中で何か妙な物音をききませんでしたか。たとえば鎖の音だとか……」 「あッ」  珠枝は急に思い出したように、 「そういえば隣の部屋で重い鎖を引きずって歩くような音が聞こえましたが、あれはいったい何でしょう」 「ぼくにもまだよくわからないのです。あの部屋には窓というものが全然ありませんから見当もつきませんが、しかし何かしら恐ろしい、凶暴な生物が、あの部屋に閉じこめられていることだけは間違いがないようですね」 「ひょっとするとそれがあの『死の抱擁』とやらを着て徘徊しているのではございません?」 「大きにそうかもしれません。あるいはまたそうでないかもしれません」  由利はすこぶる曖昧《あいまい》な言い方をすると、黙然として腕を拱《こまね》いて考え込んでしまった。  その日以来、珠枝は時々由利の宿を訪れるようになったが、会う度数が重なるに従って、彼女はしだいに離れがたい感情を相手に抱くようになる。しかしそれと知るや知らずや、由利の態度がいつまでたっても同じなのには珠枝はなんともいいようのない寂しさを感ぜずにはいられなかった。  今日も花束なんか持って訪ねてきてみると、あいにく由利は留守だというので珠枝はガッカリしたが、せめて一筆書き遺しておこうと思って、由利の部屋へ入ると、机に向って走り書きをしていたが、その時ふいに労働者風の男が無断でヌッと入ってきた。彼はまるで自分の部屋ででもあるかのように、ジロリと珠枝のほうをしり目にかけながら、押入の障子をひらくと何やらもぞもぞと探している様子、珠枝はスッカリ気味悪くなってきた。 「何か御用でしょうか。由利さんは、お留守なんですが」  珠枝がそう言っても男は素知らぬ顔で返事もしない。なんという失礼な男だろうと珠枝は腹が立った。 「由利さんはお留守なんですよ」  依然、男は返事もしない。 「あの由利さん……」 「はい、何か用ですか」 「まあ!」  珠枝はびっくりしてとび上がった。それもそのはず、こちらを向いてニコニコと笑っているのは、当の由利麟太郎ではないか。 「ひどいわ、ひどいわ、ひどいわ」  珠枝は思わず涙がこぼれそうになってきた。 「ごめんごめん、ちょっといたずらをしてみたのですよ」 「悪い人ね」  珠枝は涙ぐんだ眼でうれしそうにわらいながら、 「そんな服装をしていったいどこへ行ってらしたの」 「電気工夫に化けてね、まんまと白牙先生のところへ上がり込んだのですよ」 「まあ!」  珠枝は思わず息を弾ませた。 「そして何か収穫がございまして?」 「大ありです。これをごらんなさい」  大事そうに紙に包んだものを見ると珠枝は思わず妙な顔をした。 「毛じゃありませんか」 「そうです。しかしこれがなかなか普通の毛じゃありませんよ。ごらんなさい。人間の毛じゃありませんよ」  そういいながら、何気なく窓から外の街路をみおろしていた由利は、その時ハッとしたようにあわてて首を引っ込めた。 「どうかしたの」 「のぞいちゃいけません。さあ、ちょっとこちらへ来てごらんなさい」  由利は珠枝の手を取らんばかりにして部屋を出ると、廊下のいちばん端にある空部屋へ珠枝を引っ張り込んだ。 「ほら、ここからのぞいてごらんなさい」  言われるままに外をのぞいてみると、向こうの電柱の側に、この暑いのに、はでな合トンビとえりまきで顔を隠した男が立って、じっと由利の部屋のほうを見ているのだ。 「あの男の服装について、何か思い当たることはありませんか」 「何ですか。いっこう……」 「ほら、隅田川の向こうにある怪しげな場所で、女を欺《だま》して虹子の片腕をおいてった男。……あれと同じ服装をしてるじゃありませんか」 「まあ!」  珠枝は思わず息を弾ませると、 「だけどいったい何をしているのでしょう」 「むろんぼくを見張っているのですよ。きっと白牙先生の家から尾行してきたのに違いない。なんという恐ろしい男だろう」  その時、合トンビの男は電柱の側を離れると、さりげない様子で向こうのほうへ歩きだしたが、そのとたん、麟太郎はギョッとしたように珠枝の手を握りしめた。 「ああ、あれは白牙先生だ!」 「何ですって?」 「ごらんなさい。軽くびっこを引いているでしょう。あれが白牙先生の特徴なんです」 「まあ! それじゃ白牙先生があの……」  と言いかけたが、あまりの恐ろしさに珠枝はその後を続けることができない。 「畜生! とうとう向こうでも私という者の存在に気がついたのですよ。ああ、なんという恐ろしいことだ。あいつときたらまるで化物みたいな爺さんなんだ。どんな恐ろしい陰険な手段で迫ってくるか、それを思うと私はもう、恐ろしくて恐ろしくてたまらない」  そういう由利の顔はまっ青で、全身が木の葉のようにふるえている。詳しいことを知らぬ珠枝も、そのことばの中になんとも言えぬ不気味さと、心細さを感じて、思わず顔色を変えると、由利の胸にひしと取りすがったものであった。  はたして由利のこの予想が的中したのか、それとももっと別な事件が彼の身辺に湧き起こったのか、いずれともわからぬが珠枝はそれから二、三日後、白鳥座の楽屋で、次のような手紙を使いの者から受け取ったのである。 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]  珠枝さん。  とうとう銀子という女が、今日下宿へやってきました。彼女はあらゆる媚態《びたい》を尽くしてぼくを誘惑しようと試みるのです。ぼくもその手に乗ったように見せかけ、これから彼女に連れ出されていっしょにまいります。行先は言わずと知れた白牙先生の宅に違いありませんが、さてそれからどうなるか、正直のところぼくにもわからないのです。相手もなかなか一筋縄《ひとすじなわ》ではゆかぬ怪物ですから、あるいは生命にかかわるような事態が発生せぬとも限りません。そこでお願いというのは、三日経ってもぼくの消息が判明しない場合には、同封しておいた手紙とともに、事情を警察へ届けてください。ただし三日経つまでは決して事を荒立ててはいけませんよ。  終わりにあなたの御健康と御幸福とをお祈りいたします。 [#ここで字下げ終わり] [#地付き]由利麟太郎拝    珠枝はその手紙を読んでゆくうちに、急に腹の中が固くなった。心臓が今にものどから飛び出しそうな気がした。それから体中がシーンとしびれてきたかと思うと、ふいに大粒の涙が、ポロポロとほおを伝って落ちてきた。間もなく彼女はその手紙をひしとばかりにほおにあてると、声をも惜しまず、泣きだしたのである。    妖女と妖獣  ちょうどそのころ雑司ヶ谷の白牙先生の邸宅では、次のような場面が展開していた。  先日珠枝が饗応《きようおう》にあずかったと同じ部屋で、銀子と由利の二人がさもむつまじげに語っている。二人ともほんのりとほおを桜色に染め、さっきからしきりに軽い冗談口をたたいていたが、それはごく表面だけのことで、内心はどうして、虚々実々の火花を散らしているのだ。  銀子は肌のすくような薄物を身にまとい、しなだれかかるような格好で、さっきからしきりに由利を誘惑しようとかかっていたが、相手がなかなかその手に乗りそうにないのを見ると、急に戦法を変えた。 「由利さん、私を救ってちょうだい。後生だから私をこの恐ろしい境界から救ってちょうだい!」  銀子は思い迫ったような調子でそんなことを言うと、涙をいっぱいうかべた眼で、すがりつくようにじっと由利の顔を見上げるのだ。  おやおや、この古狸め、今度はいったいどんな手を用いるつもりだろうと、由利が内心あざわらいながら見ていると知るや知らずや、銀子はますます悲しげに声をふるわせ、 「このままじゃ私、いつかあの白牙に殺されてしまうに決まってるわ。白牙は本当にそれはそれは恐ろしい爺さんなんですもの。ねえ由利さん後生ですから私を、あの恐ろしい化物の手から救ってくださいまし」  なんという恐ろしいことだ。そういいながら彼女のしなやかな両腕は、鞭《むち》のように由利の首に巻きつき、まっ赤なくちびるがしだいに由利の鼻先に迫ってくるのだ。そのいやらしさ! おぞましさ! 潔癖な由利は全身に虫酸《むしず》の走るような嫌悪《けんお》を感じたが、まさか突き放すわけにもいかない。全くその時、玄関に当たって荒々しい足音がきこえなかったら、彼はこの妖婦のためにどんな窮地へ陥《おと》し入れられたかわからないのだ。 「あっ!」  銀子はその足音をきくとつと身を離し、 「白牙が帰ってきたのよ。あなたはどこかへ隠れてちょうだい!」  さすがに由利も狼狽したが、その様子を見ると銀子はますます急《せ》き立てるように、 「ああ、ちょうどそこに洋服|箪笥《だんす》がある! その中にしばらく隠れていてちょうだい! 早く早く!」  由利は前後の分別もなく、言われるままに洋服箪笥の中へ潜り込んだが、ほとんどそれと同時に白牙先生がよぼよぼした格好でこの部屋の中に入ってきた。 「おや、だれかお客でもあったのかね」  先生はひどく憔悴《しようすい》した面に、疑り深そうな色をうかべ、ジロジロと部屋の中を見回している。するとなんという悪魔だろう、今までの狼狽の色はどこへやら、銀子は、してやったりというような微笑さえうかべながら、 「だれが来るものですか。あまり退屈だから私うさ晴らしにお酒を飲んでいたのよ。あなたも一ついかが?」 「いや、わしはよそう」  そういうと白牙先生がガッカリしたように傍らの椅子に腰をおろした。その様子をさっきからじっと見守っていた銀子は、急にニッとある意味深い微笑をうかべると、 「どうなすったの。いやに元気がないのね。また例の注射をなすったらどう?」 「ふむ」 「ねえ、そうなさいよ。私がしてあげるわ」  銀子はそういいながら、傍らの戸だなをひらいて金色の液体が入った、小さい瓶と注射針とを取り出した。  注射とはいったい何だろう。白牙先生はどこか悪いのであろうか。——箪笥の中でさっきから二人の会話に耳を澄ましていた由利は、なんとなく妙な気がしたので、鍵孔《かぎあな》に眼を当てるとそっと外をのぞいてみた。のぞいてみて驚いた。  ちょうど鍵孔の正面で、 「ふーむ」  と老人がいかにも苦しげに渋面を作ってうなっているのが見える。しかし銀子はそんなことにはおかまいなしで、注射器に入った金色の液体を、なみなみと白牙先生の体内に注ぎ込むのだが、それと同時に世にも奇怪なことがそこに起こってきたのだ。  たったいままで、あんなにヨボヨボしていた老人の体が、急にシャンとしてきたかと思うと、顔色なども十年ぐらいは若返って見えると同時に、なんとも言えないほど、ものすごい表情がその顔つきに表われてきたのだ。老人はふいに銀子の手を払いのけた。そしてシュッシュッと荒々しい息づかいをしながら、まるで猿のような格好で床の上をはい回る。その格好の気味悪さ——先生は一瞬にして人間からゴリラに退化してしまったのだ。  しばらく先生はそうして床の上をはい回っていたが、やがて部屋の隅にあるトランクをひらいて、中からズルズルと引っ張り出したのは、見覚えのある例の鎧だ。先生は手早くそれを身につけると、歯をむき出して猿のような奇怪な叫び声をあげた。それから両手をブランブラン振りながら、猛烈な勢いで隣室目がけて突進していった。ああ、奇怪な獣人とは、だれでもない、実に先生自身だったのだ。  さて隣室の中でいったいどんなことが演じられたのかあいにく由利の眼はそこまで届かないので、わからなかったが、先生が入っていってから間もなく、ふいにけたたましい悲鳴が起こったかと思うと、部屋中を震わせるような、ものすごい咆哮《ほうこう》とともに鎖の引きちぎられるようなすさまじい物音がきこえた。しかしそれもちょっとの間で、やがて気味悪いほどしんと静まり返ったかと思うと、間もなく部屋の中からヌーッと出てきたのは、なんと見るも恐ろしい一匹のゴリラではないか。  それを見ると由利は、ちょっとの間に白牙先生が本当にゴリラになってしまったのではないかというような、ばかばかしい錯覚を起こしたが、すぐその愚かしい考えを打ち消した。ゴリラはまるで、破れ雑巾でも引きずるように白牙先生の体を引きずっているのだ。その脚には太い鎖の切れ端が結びついており、あの鋭い鎧の突起でえぐられたとみえて、全身にまっ赤な滝をあびているのだ。  由利も驚いたが、長椅子に寝そべっていた銀子の驚きは、とてもそれに比較することはできなかったろう。  彼女はキャッと叫ぶと、思わず長椅子からとび上がった。ゴリラはそれをきくと白牙先生の死体を振り捨てて、猛然として銀子の上に躍りかかっていった。——それから後のことは改めてここに述べるまでもあるまい。  由利はこの惨劇を目前に見ながらどうすることもできなかったというのは、いつの間にやら銀子が戸だなに錠をおろしていたからだ。おそらく銀子は、こうして由利を閉じこめておいて、後でゆっくり料理をしようと思っていたのだろうが、思えばこのことは銀子にとって大変な不幸だったが、由利にしてみるとかえって幸いだったかもしれない。もしこの時洋服箪笥の扉がひらいて由利が外へ飛び出していたら、彼もまたこの妖獣の毒牙にかかっていたに違いないのだ。  ゴリラはまたたく間に二人の生命を断ちながら、ケロリとして卓上にあった強い酒を二、三本息をもつかずにのどに流し込むと、ペロペロと、不気味な舌なめずりをしてそのまま窓から外へ飛び出そうとする。もしこの妖獣がそのまま窓から飛び出していたとしたら、いったいどんな事態を惹起《じやつき》していたろう。それは考えてもゾッとすることではないか。しかし幸いにそういう結果にならずにすんだというのは、その時ふいにパンパンというような音が、五、六度庭のほうできこえたのだ。と思うとさしも凶暴なゴリラももんどり打って床の上に転倒してしまった。そして五、六度激しく四肢を痙攣《けいれん》させていたが、やがて石のように動かなくなってしまった。だれかこの怪獣を退治してくれた者があるのだ。  由利はその救い主の姿を鍵孔から見つけると、思わず気違いのようになって叫んだのである。 「珠枝さん、珠枝さん、ぼくはここにいますよ。早くこの扉をあけてください」  いかにもその救い主というのは意外にも鮎川珠枝だった。彼女はまだ薄白い煙の出ているピストルを握ったまま、まっ青な顔をして窓から中をのぞいていたが、由利の声をきいたとたん彼女は今にも気を失いそうになった。しかしすぐ気を取り直すと、猛烈な勢いで部屋の中へとび込んできたのである。  珠枝は由利の手紙を読むと、じっとしていることができないで、いつかひいき客からもらったピストルを持って、さっきからこの家の様子をうかがっていたのだ。  さてそれから後のことはくだくだしくここに述べる必要もあるまい。それは諸君の豊富な想像力にお任せするばかりである。    惨劇の後  あの有名な白牙先生が恐ろしい殺人鬼であったという事実は、どんなに世間を驚倒させたことだろう。それと同時に惨虐きわまりなき妖獣の跳梁《ちようりよう》を未然に防いだ珠枝の勇敢な行為に対しては、何人も讃嘆しない者はなかった。しかしそれらのことはあまりくだくだしくなるからいっさい省略することにして、ただ次のようなことだけはぜひともここに付け加えておかねばなるまい。  ある日珠枝が由利の下宿を訪れると、例によって本の中に埋まっていた由利は、愛嬌よく珠枝を迎えながらこんなことを言った。 「ちょうどいいところでした。いまちょっとおもしろいものを発見したところですよ」 「何でございますの」  珠枝が側へすりよってのぞきこんでみると、由利は薄っぺらな横文字の本をたたきながら、 「これはね、今から十年ほど前に発行されたドイツの医学雑誌ですがね、この中にちょっとおもしろい事実が報告されていますから、翻訳してお聞かせいたしましょうか」 「ええ、どうぞ」  珠枝が促すような微笑を向けると、由利は次のようなことを話しはじめたのである。 「一九一七年といいますから、この雑誌が出るよりさらに六、七年以前の、ちょうど欧州大戦の最中のことですがね、ドイツのブレスラウという所で、頻々《ひんぴん》として幼女虐殺事件が起こったのです。はじめのうちはなかなか犯人がつかまりませんでしたが、だれが言い出したともなく、犯人はゴリラのような格好をした男だという評判でした。  その当座というものは、小さい女の子を持った両親は、夜中もろくろく眠れぬという大恐慌ぶり。そこで官民力を合わせて、必死となって検挙に力を尽くした結果、とうとう犯人をつかまえたのです。この間いろいろおもしろい話もありますが、それはいっさい省略するとして、さて犯人というのはなんとその地方の消防頭を勤めているなかなかの顔役で、いつも犯人逮捕について、先頭に立っていたくらいの男ですから、容易にとらえられなかったのはまことに無理ではなかったのです。  それはさておき、おもしろいのはこの犯人の自白の内容なのですが、五十を過ぎてそろそろ初老の域に足を踏み入れていた犯人は、なんとかしてもう一度、青春を取り返そうと思ったのですね。ブタペストに住む薬剤師のタクラという者から、一種の若返り薬を譲り受けて服用したところが、たいへん精力の充実するのを感じたが、それと同時に、なんとも言えぬほど性質が凶暴になり、抑制することのできない本能にかられて、あのような恐ろしい犯罪を繰り返したというのです。  この自白は当時ドイツ国内に非常なセンセーションをまき起こし、事件はただちに国境を越えてブダペストの警察に移牒《いちよう》されたのですが、その時すでにタクラという人物は風をくらって逃亡し、ついにとらえることができませんでした。なにしろ当時は世界大戦のまっ最中で物情騒然たるおりでしたから、手配がうまくいかなかったのですね。  ところがそれから数年経って大戦終了後間もなくのことですが、今度はドレスデンの市で同じく初老の乾物商が、寝室で細君を絞殺しようとした事件が起こった。幸いこのほうは細君の悲鳴をきいて駆け着けてきた近所の人々の力で、大事には至らなかったが、その時、この乾物商の様子というのがまた、ゴリラにそっくりだったといいます。さて彼の申し立てですが、どうもそこに妙なところがある。そこで厳重に追求していると、ついにブレスラウの消防頭と同じような自白をこの乾物商がもらしたのです。ただ違っているのは薬を買った先で、このほうはボヘミヤの首都、プラーグに住むタバールという薬剤師から買ったというのですが、どうも種々な点から前のタクラという人物と同一人物らしく思われる。  それでまた厳重な捜索が開始されたのですが、残念ながら、このたびもまんまと逃げてしまったとみえて、この雑誌の出るころまでには捕らえられていないのです。したがって彼の売りつけた薬というのがいかなる種類のものであったか、謎というよりほかはありませんが、それについてある学者は、きっと人間にいちばん近い、直行類人猿の体から摘出した何物かではないかというふうに解釈しています。  それというのがブレスラウの消防頭といい、ドレスデンの乾物商といい、いずれも服用後ゴリラのごとき肉体的症状を見せたというところから、そのような解釈を下したのですが、これに反対する一派の学者の説によると、これは阿片アルカロイドの一種で、強烈な麻痺作用を持った薬品に違いないというのです。  つまりその薬を用いると同時に、人類が何千年、あるいは何万年かかって涵養《かんよう》してきた道徳性が一瞬にして麻痺し、その代わりに、原始人の獣性が猛然として頭をもたげてくるのだろうといっています。  とにかく、タクラという薬剤師が捕らえられない以上、この二つの説のいずれが正しいか、ちょっと判断がつきかねますが、白牙先生の事件ははなはだこれに似ているではありませんか。それに先生の宅にゴリラが飼育されていたことを考え合わせると、前者の説も、あながち荒唐無稽《こうとうむけい》として排斥することはできないような気がするのですがねえ」  珠枝はそれをきいているうちに、なんとも言えない恐ろしさを感じて、思わずゾッと肩をすぼめた。なんという気味の悪いそしてまたいまわしい話であろう。彼女はなにかしら血みどろな地獄絵巻でも見るような、いやな、暗い気持に打たれた。 「それにしても銀子さんはよくそういう人といっしょに住んでいられたものですね」  だいぶしばらくして珠枝は乾いたくちびるを湿しながら、ため息をつくようにやっとそれだけのことを言った。 「いや、それというのが、あの女自身白牙先生にも劣らぬくらいの妖怪であったからですよ。私は一度あの女と先生との奇怪な生活の一場面をのぞいたことがありますがね。いま思い出してもゾッとしますよ。言ってみればあの女は殷《いん》の妲己《だつき》とか天竺《てんじく》の華楊夫人、あるいは、ローマのルクレチャ・ボルジヤなどという妖婦に匹敵するほどの恐ろしい女だったのですね。白牙先生をそそのかして、三輪虹子を惨殺させたのもみんなあの女のしわざですよ」  そして、珠枝もまた、危くその毒牙にかかろうとしたのだ。珠枝はいまさらのようにゾッとするような恐ろしさを感じた。  由利はしばらく深い感慨をこめて、窓外にそよぐポプラの梢に眼をやっていたが、やがて嘆息するような調子で次のようなことを言った。 「白牙先生は科学の力で自然を征服できると確信していられたのですね。先生が青春を取り返そうとされた動機は、決していやらしいものではなく、きっと崇高なものであったに違いないと思います。おそらく先生は、未完成の研究を遺して死んでいくに耐えられなかったのでしょう。しかしその動機がいかに至純であったとはいえ、結局自然を冒涜《ぼうとく》する者は自然に罰せられるよりほかはないのですよ」  本書には今日の人権意識に照らして不当・不適切と思われる語句や表現がありますが、作品執筆時の時代背景や作品の文学性などを考慮しそのままとしました。 [#地付き](角川書店編集部) 角川文庫『悪魔の設計図』昭和51年7月30日初版発行