恐ろしき四月馬鹿《エイプリル・フール》 横溝正史 [#表紙(表紙.jpg)]  目 次   恐ろしき四月馬鹿《エイプリル・フール》   深紅の秘密   画室《アトリエ》の犯罪   丘の三軒家   キャン・シャック酒場《バー》   広告人形   裏切る時計   災 難   悲しき郵便屋   飾り窓の中の恋人   犯罪を猟《あさ》る男   執 念   断髪流行 [#改ページ] [#見出し]  恐ろしき四月馬鹿《エイプリル・フール》  四月一日の午前三時ごろ、M中学校の寄宿舎の一室に寝ていた葉山という一学生は、恐ろしい夢からふと目覚めた。彼の肌衣《はだぎ》はべっとりと汗にぬれていた。彼はその心持《ここち》悪さに寝返りをうとうとした。その瞬間、彼はふと部屋の中に怪しい気配を感じて思わず息をひそめた。それは満月に近い夜で、カーテンを引き忘れた窓を通して、美しい葡萄《ぶどう》色の月光が部屋いっぱいに流れこんでいた。その月光の下に、寝ている葉山とは一間と離れないところに、一個の黒い影がおそろしく静かにうごめいている。咽喉《のど》を絞《し》めつけられるような息苦しさを感じながらも葉山は薄暗《うすくらがり》の中に凝視《ぎようし》を続けた。  曲者《くせもの》は静かに押し入れの中から一個の行李《こうり》を取り出した。それから着物を脱ぎ始めた。曲者が着物を脱ぎ終わったとき、葉山ははっきりと彼の白いシャツの上に、夜目にも著《いちじる》しく血のあとを見た。曲者はそのシャツをも脱いだ。そしてすばやくそのシャツと他の何物——葉山はそれを短刀の中身と認めた——かを行李の中に投げ込んだ。そして最後に、彼はうかがうように葉山のほうへ振り向いた。その瞬間、葉山は冷水を浴びせられたようにびっくりした。なぜならば、その曲者は、現在この部屋に寝ていなければならないはずの、同室生の栗岡であったからだ。  四月一日の朝、M中学校の寄宿舎ではおそろしい事件が発見された。それはこの休暇を寄宿舎に残っていた小崎という五年級の優等生が、深夜に、何者かに彼自身の部屋で殺害されたらしいことであった。彼の部屋は宛然《さながら》大掃除のあとのごとく、雑然として、机は覆《くつがえ》り、インクは流れ、石膏細工《せつこうざいく》や置物は無惨にも破壊されて、その破片は六畳の部屋中に散乱していた。そしてその部屋の中央に広げられた夜具の白いシーツにはなまなましい血潮がべっとりとついていた。しかも肝心《かんじん》の死体は、その部屋の中のどこにも発見されなかった。  この不幸な被害者の二人の同室者はともに帰省していた。曲者はそれを知っていたに相違ない。ただ不思議なことは、部屋の中のありさまがよほどの格闘があったらしいことを示しているにもかかわらず、その部屋の両隣りに寝ていた学生たちのうち、一人として物音を聞いた者はなかったことだ。  校内では舎監《しやかん》の命によってただちに死体の大捜索が開始された。小崎の実家は学校とはあまり遠くないところにあるのだが、死骸《しがい》が発見されるまで何事をも知らさないことにした。もちろん警察のほうへも、学校としては、できるだけ秘密に解決したかったのだ。  こうした間、葉山は幾度か同室の栗岡を訴えようとしては躊躇《ちゆうちよ》した。がついに思い切って訴えることにした。それは午前九時ごろだったが、この異状な告訴によって栗岡はただちに逮捕された。彼の部屋は捜索された。そしてついに動かすことのできない証拠品の数々が発見された。  寄宿舎ではただちに予審を開くために七名の陪審官《ばいしんかん》が学生のうちから選抜された。ただ一人|速水《はやみ》という学生のみはかたくこの光栄を辞して列席しなかった。  予審は十一時ごろまで続けられた。しかし全然失敗に帰した。この間被告の栗岡は一言をも発しなかった。彼はただ青白い、全然表情を持たない顔をして立っていた。 「この上は」と舎監は残念そうに言った。「いよいよ死体が発見されるまで待たなければならない」  そのとたん、扉が開いて速水の顔がのぞきこんだ。 「先生、死体が発見されました。裏の古井戸からです」  これを聞いた八名の顔色はいっせいに変わった。そして舎監も陪審官の学生もみな、被告ただ一人を取り残して廊下《ろうか》の外に流れ出た。  一人取り残された栗岡は、人々のせわしく走って行く足音に静かに耳を傾けた。彼の顔色はいままでと全然ちがって生き生きと輝いていた。 「とうとうやってきたな」と彼はうれしそうにつぶやいた。 「みなのやつ、さぞ驚いているだろう」  そして彼はいたずらものらしく忍び声をおさえながら耳を澄ました。しかし彼の期待しているどよめきはいつまでたっても起こらない。ただときどきせわしく廊下を走って行く靴音《くつおと》が響いてきたりしたが、それもすぐに物凄い沈黙のうちに吸い込まれて消えていった。  こうした時が五分十分と流れていくに従って栗岡の胸にはある不安が根ざし始めた。 「速水のやつ、古井戸の中からですと言ったな。おれはそんなことを信じようとは思わない。しかし」彼は腕時計を見た。針はちょうど十一時五分をさしている。「小崎がやって来たにしては時間が早過ぎるようだ。約束は十二時の午砲《ごほう》を合図にということだった。そして小崎はいつも約束を一分だって違えたことはない」  栗岡の不安はしだいに高まった。 「小崎が来たのでないとすると、速水があざむいたのだろうか。しかし速水の態度は確かに、確かに……」  栗岡は血にまみれた小崎の姿を想像した。そして慄然《りつぜん》とおののいた。 「うそだ、うそだ!」と彼はまた自らを鼓舞《こぶ》せんとして叫んだ。 「そんなはずはない。あれは狂言じゃないか。エイプリル・フールの御念の入った芝居じゃないか。昨夜万事の手はずがついたとき、 『では明日十二時にはやって来るよ』と、ぴんぴんして帰って行ったじゃないか」  そして彼はまた静かに耳を澄ました。しかし塵《ちり》一つ落ちた音でも聞こえてきそうな静けさは、ますます彼の心をかき乱した。 「おれはかつてこんな小説を読んだことがある。ある男が小説を書いた。彼はその小説の主人公が自殺する決心をしているところを書いていたときに殺された。犯人は巧みに彼が書いていた原稿を利用して、彼の死を自殺だと人々に思わしめた。俺のいまの立場はちょうどその殺された男と同じではないか。だれか小崎を恨んでいる者があって、もし僕たちのこの計画を知ったなら、これほどよい機会がまたとあろうか。だれ一人おれのこのこしらえた証拠品を信じようとしない者があるだろうか」  彼は自分で自分の恐ろしい想像におののいた。そしてそれらの妄想《もうそう》をはらいのけようとするかのように手を振った。  そのとき廊下の端のほうから静かな足音が聞こえてきた。そして真に法廷に臨《のぞ》むがごとき厳粛《げんしゆく》さをもって、予審判事の舎監と七名の陪審官——速水を加えて——が入って来た。栗岡は彼らの顔色を読んだ。それは「絶望」だった。  威圧するような沈黙の後、舎監は重々しく口を開いた。 「栗岡君、君の有罪はいよいよ確実となりました。ここにある証拠品に動かすことのできない幾重もの輪をかけるべき証拠があがりました。それは小崎君の死骸です」  舎監のことばはかすかに震えて消えた。 「うそです。うそです」と栗岡は信じまいとして叫んだ。しかし彼の心はかえって彼のことばを否定していた。  彼は人々の前にすべてを告白した。しかしだれも彼の物語には耳を貸さなかった。 「ほんとうです。ほんとうです」と、彼はどうすれば人々を信じさすことができるだろうかと身をもだえた。「ほんとうに、エイプリル・フールの狂言にすぎなかったのです。私たちは机を覆しました。インクを流しました。石膏細工を壊しました。そして鳩《はと》を殺して血を流しました。そうです鳩の血に相違ないのです」 「その鳩はどうしました」と舎監がきいた。 「その鳩は小崎が持って帰りました」 「それでは証拠にならない」と速水がつぶやいた。 「証拠になってもならなくってもほんとうです。『きっとみんなが驚くだろう』と笑って帰りました。そしてきょう十二時には来るはずです」 「その小崎君は死体となって帰って来ました」 「いいえ。それは私の知ったことではありません。では小崎君は僕のいたずらの犠牲になったのだ」  作者は不幸にしてこれ以上この厳粛な場面を書く筆を持たない。簡単に言えば栗岡は自ら掘った穴に落ちて意識を失ってしまった。  しかし幸いにして栗岡の意識は間もなく回復した。彼は自分の部屋に自分を取り巻く数人の友人を次から次へと見ていたが突然|愕然《がくぜん》として叫んだ。 「小崎!!」  小崎は微笑をもって応じた。 「裏切者!!」と、栗岡は低い嗄《しやが》れた声で叫んだ。 「僕じゃないよ。栗岡、速水さ。また速水にやられたのさ。僕は真面目《まじめ》に家にいたのだよ。すると十時半ごろ速水がやって来て、もうエイプリル・フールも終わったから、やって来たまえって言うのだ。だから僕は君がすっかり白状したのだと思ってやって来たのさ。すると、反対に君がエイプリル・フールにかけられていたのだ。いや、実際君には気の毒なことをした」  小崎は真に痛ましそうに友人の肩に手をのせて言った。そのとき、友人たちのうちから速水は手をさしのべて言った。 「君たちはあまりに注意が足らなかった。第一小崎君が悪い。君は夜具の中で突然曲者に襲われて、死体となって運びだされる役だ。だから寝巻のままで隠れていなければならないはずなのだ。しかるに君は帽子をかぶり、下駄をはき、御丁寧に袴《はかま》まで着けて出た。第二に、あの部屋はあまり作りすぎた。あれだけの格闘をやれば、その物音だけでもだれか目が覚めるだろうし、また被害者にしても十分救助を呼ぶ余裕はあるはずだ。最後に、下からたくさんの石膏細工の破片が出た。君考えてみたまえ。床を敷いて寝ているところへ悪漢が忍び込んだ。そして格闘のとき石膏細工が壊れた。その破片がわざわざ床の下へもぐりこむかい。まあそんなことから僕はエイプリル・フールだなと思ったのさ。しかし許してくれたまえ。僕はあんなにひどく裏をかくつもりじゃなかったのだから」 [#改ページ] [#見出し]  深紅の秘密     一  そのころ僕は神戸の山下通りの、小さいながらも、きちんとした西洋館に住んでいた。  当時の僕の生活は実際すてきだった。何物にも煩《わずら》わされることなしに、気に入った召使いとただ二人で、自分の思うままな生活をすることができるということは、何人《なんぴと》にとってもいやなことではあるまい。  僕の親父《おやじ》はよく、学校を出てようやく外国を二、三年見てきたぐらいでは、何事もできないことを知っていた。だから僕が任命された神戸支店の秘書の役を、怠りがちであっても別になんとも言ってはこなかった。もちろん支店長にしたってほかの連中にしても、社長の御令息でいらせられる僕に、小言を言うことは遠慮されていたらしい。  そのころ、神戸の下山手にはクラブ・アミューズメントというすてきに痛快なクラブが一軒あった。  そこへゆくと自分の嗜好《しこう》はいくらでもみたされたし、気の合う友だちを求めることにも、少しも困難はなかった。  ちょうど、この事件の起こる一週間ほど前から、私たち若い痛快な連中は、あるすてきな会の計画をしていた。海岸通りや居留地を、わが物顔に闊歩《かつぽ》している、外国人の若い恋人同士たちを、あっと言わす魂胆《こんたん》だった。  忘れもしない十月二十八日の夜も、私たちはその相談のためにAクラブに集まった。しかしその夜、僕はしきりに頭痛と軽い吐き気を覚えた。連日連夜の暴飲と睡眠不足が、ことここに至らしめたのであろう。僕はそぞろに冷たい夜気と、そのあとに来たる暖かい寝床が恋しくなった。でその夜は失敬して早く帰ろうと決心した。他の連中はみな僕の顔色を見て心配してくれたが、僕はただ簡単なあいさつを残して、車も呼ばずにぶらりとクラブの正門を出た。  それはもう十時を過ぎたころだったろう。  十月の終わりといえば、さすがの神戸もかなり寒かった。それにその夜は少し風があったので、僕は大股な急ぎ足でただ足もとばかり見つめて歩いた。  クラブを出てかなり歩いた時分、僕はだんだんと徒歩で出たことを後悔しはじめた。頭痛が治まってゆくと同時に、今度はいままで懐かしんでいた夜の冷気が苛酷《かこく》に思われてきたのだ。  人っ子一人通らない夜の山手通りの静けさ寂しさ、僕は外套《がいとう》の襟《えり》を立てて、ただ歩くことのみに生きておる人間のように、むやみと急いで歩いた。ときどき帽子が、風に吹き飛ばされそうになったりした。  女学院の抑えつけるような真っ暗な建物の前を通り過ぎて、そこの角を下手に回ると僕の宅はすぐ近くに見えた。その建物は、真っ暗だった。 「安蔵のやつ、景気よく灯《ひ》でもつけておけばいいに」  と僕は思わず舌打ちをした。  そのとたん、何者かが恐ろしい力で僕にぶつかった。僕は危うくうしろにのめりそうになったのをたじたじとようやく踵《かかと》で支えて、 「無礼者!!」  と激しくきめつけた。  しかし曲者《くせもの》はその瞬間大きな背《せな》を、ちらりと鈍い街灯の光の下にさらしただけで、すぐ次の瞬間には蝙蝠《こうもり》のように闇《やみ》の中へ吸い込まれていった。  さっきからじれきっていた僕の心は、とうとう爆発してしまった。  僕はやり場のない憤怒《ふんぬ》を、いつも安蔵の上に持ってゆくのがつねであった。僕は激しくドアをたたいた。しかし、忠実な安蔵は、一分間も僕を寒い夜風の中に立たせることなしにドアを開いて迎えてくれた。 「安蔵、灯をつけておくれ、家じゅうの電灯を一つも残さずに、こんな夜は明るくでもしておかなきゃあ……」  僕は外套と帽子を彼の手に渡しながら、できるだけ穏やかに言った。  そして僕はまっすぐに自分の部屋へ入って行った。僕は第一に部屋じゅうの電灯を残らず明るく輝かせた。そして安蔵が火種を絶やさないように気をつけてくれておいたストーブへ、十分な石炭を投げ込んだ。  ちょうどそのとき、突然二階の北のほうの部屋に当たって、安蔵の奇妙な叫び声が起こった。そしてそれに続いて彼がばたばたと廊下を走る足音が聞こえてきた。僕は驚いて、脱ぎかけたコートをふたたび着るとあわただしく部屋を飛び出した。  二人は具合よく階段の下で出会った。 「どうしたのだ」 「どろぼうです、若旦那《わかだんな》!!」と安蔵が叫んだ。     二  僕には、さっき表で衝突した大男のことが思い出された。あの男のあわてかたは決して尋常じゃなかった。それにいまから考えてみると、かの男の突然な出現は、なんだか街路のほうへ向いておる書斎の窓からでも飛びおりたらしく思われるのだ。  僕はかじかんだ指先を、ストーブに暖めながら書斎を見回していた。奇妙な盗難に興奮してしまった僕の頭は、とうてい安らかに休まることを許さなかった。  書斎の中にはかなり金目なものがあるのだ。それに曲者は少しもそれらのものに目を触れようともせずにまっすぐに書斎のほうへ進んでそこから三冊の書籍を抜き取って去っているのである。もちろん彼はこの書物のみをあてに来たらしい。  ここで僕は、この書籍について少し説明しておく必要がある。  それは僕が外遊の際、戦後のドイツのある町から買い取ってきたもので、全部で五冊あった。  ちょうど僕がその町に行ったとき、有名な化学者ロットシュタイン氏の死と、彼の遺産の競売のうわさで、町じゅうはいっぱいだった。僕がドイツで知り合いになったKという男は、後学のためにと僕をその競売に誘い出した。そしてとうとう彼のためにこの五冊の書籍を買わされることになったのだ。  彼に言わせると、僕のような金に不自由のない連中が、自分はよし読まなくても、他のだれかのためにいつか役立てるように、有名な学者の蔵書ぐらいを所有することは、国のためにも義務であるというのだ。  しかしそれはそうとして、僕にはその五冊の書物の表紙が気に入ったのであった。それはみないずれも同じ大きさの同じ型で、なめらかな古代の獣皮で覆われていた。そして長い年月《としつき》がそれらの皮をみがきたてて、非常に美しい輝かしいものにしていた。しかしその色は決して一様ではなかった。その中の二冊は血潮のような真っ赤な色で塗られ、他の三冊はおのおの、黄、紫、緑の表紙を持っていた。それは非常にあでやかな色で、いつも水にぬれているのではなかろうかと思われるように、鮮やかに光っていた。  私《わたし》はいつもその五冊の書籍を、書架の中央のいちばんよく見えるところへ並べておいた。それがいま歯の抜けたように三冊だけなくなっているのだ。紫と黄と赤の一冊と。  しかしただこれだけの事実であるなら、僕はたぶん単なる盗難事件として、深く気にもとめずに軽視し去っただろう。ここにはなおこの事件に重大な意味を嫁《か》すべき事実があるのだ。  それは一ヵ月ほど以前のことであった。  僕はドイツの秘密探偵局《シークレツト・サービス》から一通の書面を受け取った。それによって僕の買い取った五冊の書物を要求してきたのだ。そして一週間ほど以前にまた秘密探偵局《シークレツト・サービス》の派遣員から電報がとどいていた。それは、彼が十月二十九日に当地に到着してただちに問題の書籍を受け取りにくるという報告であった。  十月二十九日、それは明日《あす》、いやもう今日なのだ。  僕はもちろん、最初から潔く書籍を引き渡してやる覚悟でいた。しかし盗まれてしまったものはどうすることもできない。はたして彼はこの盗難事件を信用するだろうか。いな、きっと疑い深い目で僕をねめつけるにちがいない。僕にはそれがいやだったのだ。痛くない腹をさぐられる、それは僕の最も嫌悪《けんお》するところなのだ。  このとき突然、さっきから熱心にそこらあたりをしらべていた安蔵が小さな声をあげた。僕はその声にふと瞑想《めいそう》からよみがえって頭をあげた。  安蔵は窓際の絨毯《じゆうたん》の上から、小さな紙きれを拾い上げて僕に示した。  それは小さい手帳を引き裂いたらしい紙で、乱暴なドイツ字で次のように書いてあった。 "|Gelb《ゲルプ》(黄); 124, 246 |Grun《グリューン》(緑); 326, 439 |Purpur《プルプル》(紫); 178, 376"     三  僕は朝の新聞を読みながら、ひそかにドイツ人の来るのを待ち受けていた。どういうふうに昨夜の盗難を説明しようかと思いながら。  午前十時。きっちり針がそこを示したとき、安蔵が名刺受に名刺をのせて入って来た。  その顔色を見るとただちに、訪問客のだれであるかが、推察された。 「応接室へ」  と僕は名刺を取り上げながら簡単にそう言った。 「ザーメン・ラーゲ」  と名刺の表には、美しいドイツ流の活字が並んでいた。そして裏面には見覚えのある秘密探偵局《シークレツト・サービス》のマークがあった。  ラーゲ氏はせいの高い、どちらかといえばやせたほうの男であった。その風采《ふうさい》、態度にはこういう職業にも似合わないりっぱな紳士らしさがあった。  ドイツ人というよりもむしろ英国人らしい上品さがあった。 「失礼いたします。私《わたくし》がザーメン・ラーゲです」  と彼は英語で言った。しかしその発音は決してりっぱなものではなかった。 「なにとぞおかけください。僕が江馬正司《えましようじ》です」  と僕はドイツ語で言った。 「用件はあらかじめお話ししておいたはずですが」  と彼も不自由な英語をよして自国のことばで言った。 「はい確かに聞いていました。ところが大変なことが起こったのです」  と僕は思い切って言った。 「大変なことですって!」  と彼ははたして驚いた様子で不安そうにきいた。 「実は昨夜|盗人《ぬすびと》が入ったのです」 「盗人? それじゃ盗まれたのですか。あの書籍を」  と彼はあわただしく聞いた。 「ええそうです」 「みなですか、みな盗まれてしまったのですか」 「いいえ、みなじゃありません。二冊だけは残っています。三冊盗まれたのです」 「三冊だって」  と彼は絶望的な身振りをして叫んだ。 「同じことだ、同じことだが」  とすぐに彼はその混乱を抑えつけて、 「盗まれたのは、黄と緑と紫の表紙を持った書物でしたろう」  ときいた。 「いいえ、そうじゃありません。黄と紫とそして赤が一冊とです」 「赤ですって?」  と彼は不審そうにききかえした。 「そうです」 「赤、赤」  そう言いながらドイツ人は考え込んでいたが、 「失礼ですが、残りの書籍を見せていただくわけにはまいらないでしょうか」  と言った。  僕はただちにベルを押した。  そしてそれに応じて入って来た安蔵に、 「昨夜の残っていた本を持ってきてくれ」  と命じた。  安蔵がやがて命じられた物を持って入って来たとき、ドイツ人は飢えた者が食にとびつくように書物にとびついていった。  そしてその二冊の書籍を手にするや、ただちに緑色の書籍のほうのページをばらばらと繰り始めた。  僕はじっとその手先を見つめていた。  黄と紫と緑の書籍の中に、きっと何か重大な秘密が存在しているのに相違ない。  しかしもしそうだとすると、昨夜の曲者はなぜ緑のほうを置いて帰ったのだろう。そしてなぜ赤のほうを持って帰ったのだろう。彼は緑の書物の重大なことを知らなかったのだろうか。いな、そんなことはありえない。現に彼が落として帰った紙きれにも緑の字が見えているではないか。では彼は緑と赤とを見誤《みあやま》って持って帰ったのであろうか。あるいはまた赤のほうにより重大な秘密が伏在しているのであろうか。 「ありがとうございました」  と、そのときラーゲ氏はバッタリと書物をとじた。そして遠慮深い調子で言った。 「すべての了解はついているのだと思いますが……」 「ええ、御遠慮には及びません。どうぞ二冊ともお持ち帰りください」  と僕はきっぱりと言った。 「ありがとうございます。では……」  と言ったが、ふとまた考え直したように言った。 「実はまだ領事館のほうへも出頭していないので。いまからただちにそのほうの手続きをしなければならないのですが、たぶん遅くなるだろうと思いますから、お気の毒ですが今日もう一日これを保管しておいていただけないでしょうか。赤のほうはかまわないのです。この緑のほうだけが欲しいのですが……」 「よろしゅうございます。どうぞ」  と僕はただちに快諾した。     四  その夜、僕はどこへも出ないで早くから自分の寝室へ退《ひ》いて床の中に入っていた。  昨夜《ゆうべ》から今朝《けさ》にかけての事件は、疲れていた僕の神経をかなり刺激したらしく、安らかに床の中に入っていると、ほうぼうの節々が抜けるような疼痛《とうつう》を覚えるのであった。  主人思いの安蔵は、十時が鳴るまでそばにいて頭を冷やしてくれたりなにかと世話をしてくれたが、十時を打つと彼の部屋へ退《ひ》いて行った。  明るいと目をとじていても視神経をいらだたせるので、僕は部屋の中を真っ暗にしておいた。  静かに目をとじているとしきりに昨夜《さくや》のことが思い出されてきた。  表で衝突した男、あれがきっと犯人に相違ない。いまから思えば彼のうしろ姿は確かに日本人じゃなかった。  しかしいったいかの三冊の書物の中にはどんな秘密が伏在しているのだろう。はるばるドイツから日本までやって来る以上、きっとなんらかの重大なものがそこにあるのに相違ない。それはいったいどんな秘密なのだろう。  それよりもなお僕の知りたいことは、曲者がなぜ緑色のほうを置いていったのだろうかということであった。ラーゲ氏の態度から推《お》してみれば、確かに赤色のほうは無価値なものに相違ないのだ。その価値のないものを盗んで、なぜ重大な緑色のほうを盗まなかったのだろう。故意だろうか。過失だろうか。  そんなことをしきりに考えておると黄だの紫だの赤だの緑だのがいろいろな不思議な交錯《こうさく》をなして僕の目の前に現われてくるのだ。  そのときふと、僕の耳朶《じだ》を打ったかすかな物音があった。それは確かに書斎のほうからであった。  僕はすぐ二冊の書物がかしこの書架にあることを思い出した。しかし僕はすぐ自分の臆病をあざけった。昨日《きのう》の今日、ふたたびそんなことがあるはずはない……と。  しかしそれでも僕の耳は、どんなささいな物音をも聞き漏らすまいとして、鋭くとがっていた。  突然!!! 激しい物音が書斎のほうで起こった。  僕はバネ仕掛けのようにはね起きた。  激しい物音はなお続いている。それは確かに二人の男が相争っておるらしい物音であった。僕は大急ぎでドレッシングガウンをひっかけるとすぐドアをひらいて廊下へ飛び出した。このとき安蔵の部屋のドアがあく音がした。そして二人はちょうど階段の下で出会った。 「何事だろう」  と僕が叫んだ。  安蔵は青白い顔色をして二階を見上げていた。  この瞬間、恐ろしい叫びが夜の静けさを破って高く響いた。僕はいまだかつてこんな恐ろしい声を聞いたことはなかった。  しかし、それを聞くと僕は猛然として階段を駆けあがって行った。もちろん安蔵も続いた。  僕が書斎のドアをあけた瞬間、おそろしく強い光線がさっと僕の顔を射た。僕はあっと叫んでそこへよろめいた。その瞬間窓のガラス障子がしまる音がして、続いてだれかが街路へ飛びおりたらしい音がした。しかし強度の光に眩惑《げんわく》されてしまった僕の目は何物をも見ることはできなかった。  やがてしばらくすると僕の目はだんだんとやみに慣れてきた。入り口のところで安蔵が呆然《ぼうぜん》として立っておるのが見えた。 「安蔵、電気をつけろ」  と僕がどなった。  この声に、はじめて目が覚めたように、安蔵がスイッチをひねった。パッと室内が明るくなる。  僕は見違えるほど乱雑になった室内を呆然として見回した。椅子《いす》もテーブルもみな覆ってインクはそこらあたりの絨毯を一面に青く赤く染めていた。 「あっ」とそのとき安蔵が恐ろしい声で叫んだ。 「あんなとこに人が!!」  その声に驚いて僕はそのほうを見た。そして同じように驚愕《きようがく》の声をあげた。横になったテーブルのむこうに、人間の頭が見えたのだ。僕は静かにその死骸《しがい》のほうへ近づいて行った。  僕がその死体を抱き起こしたとき、生ぬるい血潮がべットリ掌《てのひら》についた。見るとその胸には一本のナイフが突っ立っておるのだ。 「ドイツ人だ!!」と僕は叫んだ。  それは確かにドイツ人に相違なかった。 「本だ、本だ、安蔵。昨日《きのう》の本はあるかい」 「ありません、若旦那」と安蔵が叫んだ。 「二冊ともありません」  僕は絶望的に抱《いだ》いていた死体を離した。がっくりとその死体は横になって倒れた。そのとき、その死体の下に一冊の本があるのがふと僕の目についた。  僕はただちにそれを拾い上げた。それは緑色の表紙を持ったほうであった。 「ありがたい」  と僕は思わず叫んだ。  緑のほうはあった。盗まれたのはふたたび赤のほうであった。 「不可解な謎《なぞ》よ……」     五  その翌朝《よくあさ》の十時ごろ、ラーゲ氏があわただしく訪れて来た。彼はきっと昨夜《ゆうべ》僕の家《うち》で起こった事件をだれかに聞いたのだろう。 「あなた、盗まれましたか」  と、彼は僕の顔を見るとすぐ絶望的な様子でそう言った。 「まあ落ち着いていてください」  と僕はわざとゆっくりとした調子で言った。 「緑のほうも盗まれたのですか」  とせきこんできくのであった。  その態度を見ると、僕は気の毒になってきたので、穏やかになにもかも言ってやった。 「御安心ください。緑のほうは無事です。盗まれたことは盗まれましたが、それは赤のほうでした」 「なに、赤のほうですって」と彼は驚いたように叫んだ。  しかし次の瞬間、安蔵によって緑色の表紙を持った問題の本が持ってこられたとき、彼の驚きはただちに喜びに変じた。 「あった、あった」  と彼は抱《だ》き締《し》めるようにしてその本に接吻《せつぷん》した。  そして僕に一昨夜からの出来事のすべてを話すことを求めた。 「ではこの紙きれを曲者が落として行ったのですね」  と、僕が事件の顛末《てんまつ》をすっかりと話したとき、彼はそう言って不審そうにその紙きれを見つめていた。 「この紙きれがありながら……」と彼は思わずつぶやいた。 「ねえ、ラーゲさん」  とこのとき、僕は思い切って自分の想像を語った。 「紫と黄と緑の表紙を持った三冊の本の中になにか重大な秘密があるのでしょう。そして彼の紙きれにあった数字はその本の中のページを意味しておるのでしょう。そうじゃないのですか」  しかしラーゲ氏はなんとも答えずにただしかたなしに笑っていた。しかし僕はその笑いを同意と解して質問をすすめた。 「しかし、もしそうだとすれば、なぜ曲者は二度まで緑のほうを盗みそこなったのでしょう。その紙きれを持っておるからには、彼も必要なのは赤ではなくて緑だということを知っていたに相違ありません。また最初の夜、まちがって赤を持って帰ったから、ふたたび緑のほうを取りにやって来たのではないでしょうか。それだのにまた赤のほうを持って帰ったというのはどういうわけでしょう」 「その点については私《わたくし》も不思議に思っておるのです」  とラーゲ氏は思わずつりこまれて言ったが、すぐまたあわてて口をつぐんだ。 「なにごともやがて明らかになるのでしょう」  と、彼は僕の質問に対してただそれだけを繰り返すのだ。  そして警官の眼に触れたくないらしい彼はやがて目的の本を一冊かかえて、逃げるようにして出て行った。     六  それから半年ほど、僕はこの事件について何事も知ることはできなかった。  もちろん僕が一切を秘密にしていたので、警察のほうでも殺人犯人の見当は少しもつかないらしかった。いな、殺された男の身許さえも不明であった。  僕にもときどき、曲者がなぜ緑のほうを盗みそこなったのかということが気になったが、やがてなにもかも忘れてしまった。  その事件があってから半年たった翌年の四月のある日であった。僕は思いがけなくもドイツ語の手紙を受け取った。もちろんそれはザーメン・ラーゲ氏からの手紙であった。  この手紙はふたたび僕に半年以前の事件を思い出させてくれた。と同時に、あの当時僕が抱いていた疑問をすべて氷解してくれた。僕はいまその手紙をここに翻訳して掲載してみよう。 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]   江馬正司様、あの当時は種々と御厚情にあずかりましてありがとうございました。わずらわしい不愉快な事件の中に貴下を巻き込んでしまったのはたいそう残念なことでした。私《わたくし》もできるだけ早くすべての事件の真相を明らかにして、わずらわしい秘密の覊絆《きはん》から、貴下をお救いしたいと思っていたのですが、今日《こんにち》までその機会がございませんので、心ならずも失礼していました。   しかしいまはなにもかもお話することができます。事件はすっかりきれいに落着しましたから。   貴下も御承知のとおり、戦時中わが国に勃興した発明思想というものは非常なものでした。   あちらでもこちらでも至る所で珍しい有用な武器が発明されて、わが国の立場に強味を与えてくれました。   そうした発明家の中でも、最も有名だったのはロットシュタイン氏でした。氏がさまざまな武器の発明を完成して連合軍を悩ましたことは、たぶん貴下も御承知だろうと思います。そのロットシュタイン氏が、戦争終了前後非常に奇抜な、そして非常に破壊的なある武器の発明に従事していることをわが秘密探偵局では探知しました。   その武器の内容は何人《なんぴと》にも知ることはできませんでしたが、わが秘密探偵局ではひそかにこの発明に注目していました。ところが不幸にしてこの老発明家は、いまだその発明品を発表しない前に病死してしまいました。そして彼の遺産は全部競売に付せられたのです。   こうして彼の発明は、完成したのかあるいは未完成のままで残っているのか、それすら知ることができないでやみからやみへと葬られようとしました。ところがふとその後彼の発明の秘密がある所から漏《も》れてきました。それによると、その発明はたしかに完成しておるので、しかもその秘密は全部彼の所有していた有機化学の本三冊の中に隠蔽《いんぺい》されておることがわかったのです。それは実際恐ろしい発明でした。その発明が一私人の手に帰することは、すなわち人類の滅亡を意味するのでした。かくのごとき発明は永久に葬られてしまわねばなりません。   そこで私《わたくし》がその目的のために、その秘密の方式の書かれた三冊の本を受け取りに派遣されたのです。   ところがここにもう一人この秘密をかぎ知った男がありました。それは故ロットシュタイン氏の助手を勤めていたウワッサアという男です。彼はこの秘密を知るやただちに友人のクノーテンという男とともに日本へ貴下を追いかけて参ったのです。   そして私が貴地に到着した前日の夜、クノーテンがまず冒険を冒《おか》すことになりました。しかしこの冒険の結果は不成功に終わりました。なぜならば、彼は誤って赤色の表紙のほうを盗んで来たからです。目的の本の中の黄と紫の分は得られました。しかし緑の分を盗み損じたということは致命的な失敗でした。こうした重大な発明においてはどんな些細な方式も非常に重大な意味を持っているのですから。この失敗が二人の間に大きな反感を招きました。   ウワッサアは口を極めて相手を罵倒しました。   その翌日の夜、ウワッサアはまた一つの野心をもって一人で貴下の邸《やしき》へ忍び込みました。彼はこの発明品の権利を独占するつもりだったのです。しかしこれを知ったクノーテンがそれをただおくはずがありません。彼はただちに裏切り者のあとを追っかけて行きました。そして貴下も御承知のとおりの犯罪が構成されたのです。   しかしこのときも、どうしたものかクノーテンはふたたび失敗しました。彼がまた緑の代わりに赤を盗んだのです。   しかし彼はその獲物を持って自国へ引き上げました。もちろん彼も緑を盗むことに失敗したことに気は付いていたに相違ありません。しかし彼は他の二冊によってこの発明を完成しようとしました。これは非常に無法な考えです。この致命的な誤りによって彼はついに命を失わねばならなくなったのです。   三月上旬のある日、彼の実験室は大音響とともに爆発しました。そして運命の本、黄と紫との表紙をもった二冊の本は、永久に葬られてしまいました。   こうしてこの発明はとうとう悲劇に終わってしまいました。しかし結局このほうが人類のために幸福なのです。   事件はこれだけです。   しかしここにいま一つの疑問が残りました。それはなぜクノーテンが緑の表紙の本を盗みえなかったかということです。   これについてはいろいろの説が伝えられています。が最もたしかな説をここにあげてみましょう。   それは、クノーテンという男は赤色の色盲だったのだろうという説です。この説は単なる臆測《おくそく》ではなく、りっぱな根拠があるのです。化学者にはいつか、ある非常に強烈な赤色の刺激を受けた結果、往々こういう不幸に陥ることがあります。クノーテンもたぶん、そんな人間の一人だったのでしょう。しかし彼自身では、いつの間にかそんな欠陥が自分の身の上にできておるということは少しも気がつかないのです。   貴下も御承知のとおり赤色の色盲ですと、赤い色は全部その余色たる緑色に見えるのです。彼が緑色の代わりに赤色を盗んだのはたぶんそこに根ざしておるのだろうと思われます。   こうしてすべての秘密の真相を明らかにすることによって、いくぶんかあの当時の貴下の御厚情にお報いすることができただろうと思います。ではさようなら…… [#ここで字下げ終わり] [#改ページ] [#見出し]  画室《アトリエ》の犯罪  このお話はもう二十年も前に起こった事件である。いわばこれが私《わたし》の初陣《ういじん》の功名であり、この事件の思いがけない成功が、私を、今日《こんにち》のこの職業に引きずり込んだ導火線ともいえる。その意味において、これは私にとって、最も忘れがたい事件の一つである。  講談で有名な大久保彦左衛門の初陣の功名は、たしか十六歳のときであったと思うが、それにくらべると私のは、ほとんど十年遅れていたわけで、当時、私は二十五歳であった。そのころ、この大阪に一人の従兄《いとこ》が住んでいたのでそれを頼って、私は故郷《くに》から飛び出して来て、そこに半年余りもやっかいになっていた。この従兄というのは、私より十二、三も年上で、そのころすでに女房もあり、子供もたしか二人ほどあったと思う。そうでなくとも、余裕のないきりつめた生活をしていたところへ、私という、いい若者がふいに飛び入りをしたものだから、世帯はよほど苦しかったにちがいない。でも従兄も従兄のおかみさんも、おそろいの好い人物だったので、長い間、苦い顔一つ見せるでなく、よく私の面倒をみてくれていた。  前にも言ったとおり、当時私は二十五にもなっていたが、田舎の中学を途中で止めたきり、なに一つこれといってまとまった仕事をするではなく、ぐうたらな生活ばかりを続けてきていたので、大阪へ出て来たとて、なかなか、おいそれと思うような就職口があるわけではなかった。自然と従兄に頼って、彼が働いている、そのほうの口へでも入れてもらえまいかと思うようになった。言い忘れたが、その従兄というのは、E署に勤めていた、相当幅の利く刑事だったのである。そのころの彼は、私などとは違って、そうした職業に特別の興味を持っていたわけではなく、いわば生きんがために、しょうことなしにその職業を続けていたに過ぎなかったので、彼自身がそうした職業にはいっていることすら後悔していたところだったから、私までがそれと同じ道をたどろうとすることは、いうまでもなく、頭から不賛成であった。そこに、自然とおもしろくない小競り合いが起こった。従兄は始終、困ったというように顔を暗くして、なるべく私と顔を合わさないようにするし、私はまた私で、従兄が自分の出世の道をはばんでいるのだというふうに、わざとひねくれた考えかたをするので、一家の中はとかく険悪になりがちであった。  ちょうど、こうした雲行きの最中へ、あのS町の殺人事件が起こったのである。  いまから思えば、従兄がこの事件に私を連れ込んだというのは、むしろ、刑事という仕事が、いかに難しい仕事であるか、そして、いかに不愉快な仕事であるか、それをよく私の脳裡に徹底させて、刑事になろうなどという無謀な私の思いたちを、たちどころに断念させるためであるらしかった。そうだとすると、彼のその試みは、まったく反対の結果を生んだわけで、この事件によって、私は確実なる第一歩を、E署の刑事|溜《だ》まりに踏み入れたのである。  S町の殺人事件——お話すれば諸君の中にもまだ記憶されている方もあるだろう。その事件の顛末《てんまつ》が、どんなに当時の新聞をにぎわせたか、そして奇怪極まるその事件の真相が、どんなに当時の世人を驚倒せしめたか。なにしろ被害者というのがさる大会社の社長の息子で、それだけでもすでに世間の問題になりそうなのに、彼自身、若い天才画家として、新聞や雑誌の消息欄をいつもにぎわしていた青年であったし、その上、犯人として目された人物というのが、これもまたしばしば世間の問題になっていた、女優上がりの有名な美人のモデル女だったのである。  だが、私はこんなに先のことをお話するはずではなかった。順序よく、まとまったお話をしなければならない。  忘れもしない、それは六月のじめじめとした、ある夜の十時ごろであった。従兄に連れられた私は、生まれて初めて、犯罪の現場というものに足を踏み入れた。S町はいまでもブルジョア階級の邸宅の多い所だが、その当時からそうだった。何々会社の重役だの商業会議所議員だの市の助役だの、さてはまたさる大銀行の支店長だの、そういったふうの知名の富豪たちが豪奢《ごうしや》な邸宅の軒を連ねている中に、両方から押しへしゃげられるようにして、一軒のささやかな洋館が建っていた。ささやかなといっても、それはけっして、貧弱なという意味ではないのである。小さいながらも、十分に贅《ぜい》を尽くした二階建ての建築物で、見るからにその家《や》の主人の異常性をしのばせるような、グロテスクな建てかたをしてあった。もちろん、そんなことはすべて後になってから気のついたことで、その夜はただ、一刻も早く現場を見たいという欲望で、初心《うぶ》な心をまっしぐらに駆けりたてていたから、邸外はさておき、邸内の光景さえ、現場を除くのほかは、ろくろく目にも止まらなかった。  その洋館というのは、階下が居間と寝室と食堂とに、そして、階上が書斎と画室《アトリエ》とに分かれていた。画室《アトリエ》を除くのほか、すべての部屋がかなりお粗末で手軽にできているのは、この家全体が、画室《アトリエ》として建てられているためであるらしい。思うにこの家《や》の主人は、制作に忙しいときは、ここに寝泊まりをするが、そうでないときはどこか別にある所の、本宅で起居しているにちがいない。犯罪の行なわれたのは、その最も贅を尽くした画室《アトリエ》の中であった。 「残酷を極めた現場の光景」  当時の新聞は、三段抜きにそう書きたてていたが、まったくそのとおりにちがいなかった。書斎と画室《アトリエ》との間のドアを押しひらいた瞬間、飛びつくように網膜《もうまく》へ食い入ってきたあの最初の一瞥《いちべつ》に、たとえわずかの間にしろ、茫然と立ちすくまない者があったであろうか。 「これはひどい!」  閾《しきい》の上に、釘づけされたように立ち止まった従兄が、押しへしゃがれたような声を立てた。その肩越しに、私はこの世において、初めて殺人の現場というものを見たのである。あのときのあの印象は、永久消ゆることなしに、私の脳裡にとどまっているだろう。いまでも、そこにある物を見るように、私はまざまざとあの場面を思い出すことができる。まず、屋根裏の光線《あかり》取りより差し込む青白い月の光、それがその画室《アトリエ》における唯一の光線だった。そしてその下に姿をさらしている物、それこそ、恐ろしい人間の暴力と争闘の痕《あと》でなくてなんであろう。いってみれば、その部屋全体が "Cold blood murder" とでもいう画題を冠《かぶ》されそうな、一枚の大きな画布《カンバス》であった。私は画のほうのことはあまり詳しく知らないので、いちいち、なにがどういうふうにということはできないが、およそ、その部屋にあったもので、常のままな形を保っている物は、一《いつ》としてなかったといってもよい。画布《カンバス》は破れパレットは二つになり、絵筆は毛がちぎれ、チューブより絞り出されたさまざまな色の絵の具が、そこら一面を、べたべたと彩っていた。そのほか、時計だの、花瓶だの、彫像だの、およそ壊しうるほどの物は、片っ端から壊さなければ気がすまなかったように、無残な破片が足を入れるすきもないほどに、床の上をうずめていた。向こうのすみには等身大の石膏像が腕をもぎ取られて、浅ましい姿をさらしているかと思うと、こっちの壁のそばには、六尺豊かの大姿見《おおすがたみ》に無残なひびがはいって、そこひ[#「そこひ」に傍点]にかかった目のような、白い、どんよりと曇った裏面を悲しげに見せているという有様だった。そして悪魔の狂乱のようなその部屋の中を、よくもかくまで恐ろしく流されたものだと思われるほど多量な血潮が、べたべたと、壁といわず床といわず、そこら一面を染め抜いているのであった。私は思わずブルッと身震いをした。 「気をつけなきゃいけないよ。証跡を消してはならないからね」  従兄は抜き足差し足部屋の中へ踏み込んだ、私もそのうしろから従った。心臓がどきんどきんと波打って、額には気持ちの悪い汗がべっとりと浸《し》み出してきた。いったい、肝心の死体はどこにあるのだろうと、きょろきょろとあたりを見回していると、従兄がぐいぐいと袂《たもと》を引くのだ、ふと指差されるほうに目をやると、そこに、若い男の仰向けざまに倒れているのが見られた。それは、ことにモデルのためにしつらえてあるのだろう、カーテンで一間四方ほどの小部屋を仕切ってある、そのカーテンの裾にまつわるようにして倒れているのであった。このあたり、バケツの水をぶちまけたように、血潮がまだ乾き切らないでたまっている。一尺ほどの両刃の、外国製らしい大ナイフが、死体のすぐそばに、血にまみれてどす黒く光っていた。それがこの家《や》の主人、画家|安田恭助《やすだきようすけ》、その人だったのである。 「ずいぶん、ひどいことをしたものですね」  私たちより、三十分ほど遅れて到着した検視官の一人が、べたべたとそこらに押された、鮮血の手型をつくづくと見回しながら、恐ろしそうに眉をひそめてつぶやいた。もちろんその時分には、ぶち壊されたシャンデリアのあとへ、五十燭光の電球が差しこまれていたのである。 「そうでもありませんよ」  検視を終わった警察医は、手をふきながら立ち上がった。 「被害者の被った傷は、心臓を貫いた致命傷がただ一つだけ、したがって被害者としては、最も楽な、ひと思いの死にかただったにちがいありませんよ」 「では」とそのとき私は従兄のうしろのほうから、おそるおそる声をかけた。「ここらにある血潮は被害者のじゃないんですね」  被害者という、職業的なことばが口をついて出たとき、私はかなり変な気持ちになった。 「そうです、たぶん加害者のでしょう」  前にも言ったとおり、私の従兄はE署の中でも、かなり幅の利くほうだったので、私という変てこな人間を連れていてもだれも文句をいう者はなかった。かえって、従兄からなんとか私のことを吹き込んであったらしく、興味をもった態度で、いいかえれば、冷やかし半分の態度で、みんなが私に接してくれた。それに、その夜そこへ来合わせていた人たちというのは、警察官という名から私が想像していたのとは、まるっきりちがったかなり大ざっぱな、悪くいえば間が抜けているほど人の好い人物の集まりであった。 「これが加害者の血潮だとすれば、加害者自身もよほどのけがをしているにちがいありませんね」 「そうです、まずそう見なければなりますまい」 「それで逃亡することができたでしょうか」 「逃げるには逃げられたでしょう。しかしそれも傷の箇所によりけりですがね」  こういう問答が私と警察医との間に取り交わされている間に、従兄は死体のそばへひざまずいて、かなり入念にしらべていた。私もそのほうへ寄って、できるだけ邪魔をしないように、死体を観察した。  安田恭助という青年は、私より二つ三つ上であろうか、細面《ほそおもて》の、鼻の鋭くとがった、眉《まゆ》の不似合いなほど濃い、唇《くちびる》のしまった、顔全体からいえばもちろんのこと、その一つ一つを引き離してみても神経質ということばが、そのままあてはまる容貌だった。死んでいるからであろうが、皮膚《ひふ》の色は不愉快な土気色《つちけいろ》をしていた。生前といえども、あまり色の白いほうではなかったにちがいない。頭は、画家に多く見られるように、長く頭髪《かみ》を伸ばしていた。 「ずいぶんやせていますね」 「肺病だったからなんだよ」 「肺病?」  従兄は立ち上がって膝のちりをはらった。 「しらべてごらん、なにかわかるかい」  私は仔細《しさい》らしい顔をして従兄のあとへひざまずいたが、もちろん、どういうふうにしらべていいものか、さっぱりわからなかった。致命傷は先刻医者が言っていたとおり、心臓をえぐったひと突きで絵の具でよごれた作業服のちょうど胸のあたりに、赤黒い血潮がのめのめとこびりついていた。ふと見ると、被害者のはいているスリッパが、じっとりと水気を含んでいた。「おかしいぞ」直覚的にそう感じた私は死体をちょっと動かしてみると、作業服のちょうど尻のあたりに、二つ三つ、まだよく乾き切らないはねのあとがあった。殺される少し前に、どこかの泥土《でいど》の上を歩いたのにちがいないのである。続いて、さっき従兄がやっていたのを見ていたとおりに、被害者の両手を一つ一つていねいにしらべてみた。と、私の心臓はどきんと一つ大きく波を打った。それは彼の手の平が真っ赤に血潮に染っていた。しかし私の驚いたのはそれがためではなかった。よほどよく注意しなければわからないのだが、ほとんど、どの指にも、爪《つめ》のあいだに泥らしいものが、ちょっぴりはさまっているのである。いったいこれは何を意味するのだろう!  そこへどやどやと、指紋係だの、敏捷《びんしよう》な新聞記者だのが、多数入り込んで来たので、私は遠慮をして立ち上がった。ちょうどそのころ、隣の部屋の書斎では、証人調べが始まっていたので、私はそのほうへ行った。この証人調べの一問一答は、初めての私にとっては、非常に興味もあり、また参考にもなったことであるが、それを一々ここにお話することは、とうていその煩《はん》に堪えぬし、それに第一時間も許さないことであるから、ここでは簡単に、犯行の発見されるまでの顛末《てんまつ》をお話することにしよう。  先刻もいったとおり、被害者の安田恭助は、制作に忙がしいときのほかは、いつも本宅である父の邸で寝起きをしていた。したがって画室《アトリエ》のほうには、留守番のためにも、またそのほかのいろんな場合の用事のためにも、だれか身元のしっかりとわかった人間を雇い入れておく必要があった。その雇い人、おもとばあさんの陳述《ちんじゆつ》である。  その日の昼過ぎのことである。突然あるじの安田恭助がやって来て彼女を驚かした。このごろは、制作のほうは絶えてお留守になっていたので、彼がそこへ姿を見せたのは、実に久しぶりだったのである。何かまた、仕事をする気にでもなったのであろうか、そう彼女が思っていると、彼のいうことには、今日《きよう》はここで待ち合わせる人があるから、お前はどこへでも遊びに行っていろ、しかし、晩の十時ごろには帰って来てくれ、そう言って十円紙幣一枚を彼女にくれたというのである。おもとばあさんは不審に思ったが、別に苦情をいうべき筋でもないので、言われるままにすぐ身仕度をして画室《アトリエ》を出た。彼女の一人の甥《おい》というのが玉川町で小さい商売をしているので、そこで半日を遊んでくるつもりだったのである。ところが、運の悪いことには、甥のうちまで行くと表の戸が締まっている。近所の人に聞いてみると、江州《ごうしゆう》にいる嫁の母親が亡くなったので、一家をあげてそのほうへ行ったという。がっかりしたおもとばあさんは、ほかには知人とてはないので、仕方なしに、あまり好きでもない活動写真を見たりなんかして、どうやらこうやら半日の時間を消した。活動写真を一回《ひとまわり》見て、表へ出てまむし[#「まむし」に傍点]か何かを食べておなかがくちくなると、ちょうどそのときが八時半、もうそれ以上はどうにも時間を消しようがないので、少し早いとは思ったがしかたがないので、S町の画室《アトリエ》へ帰ることにしたのである。 「邸の前まで来ますと、うちじゅうが真っ暗なので、どうしたのだろうと思いながら、表のドアを開きますと、ちょうどそのとき、画室《アトリエ》のほうで、がちゃんと何か壊れる音がしたのです。それにびっくりして、大急ぎで二階へ駆け上がってみると、この有様だったのです」  すなわち、私たちが書斎のあのドアを開いた瞬間の、いや、もっともっと大きな驚きに、彼女は打たれたにちがいないのである。狼藉《ろうぜき》を極めた室内のたたずまい、血糊《ちのり》、死体《したい》——しかも、その死体のすぐ傍《かたわ》らに、それこそ文字どおり幽霊《ゆうれい》のような女の影を、彼女はそのとき見たのである。なんといっていいか、まるで活人画《かつじんが》の中の人物のように、その女の影は身じろぎもしないでそこに立っていた。その手には、まだ血潮の滴《したた》り落ちているナイフを握っている。 「ど——どなたです!」  おもとはがくがくと震える舌の根を抑えながら、辛うじてそれだけの声を出した。その声に女はついとこちらを振り返った。 「あッ坂根さん!」  その女というのは、よくその画室《アトリエ》へ出入りをする、モデル女の坂根百合子《さかねゆりこ》であった。 「ひひひひひひひひひ」  それこそ、骨の心《しん》まで透《とお》るようなものすごい笑い声をたてたかと思うと、坂根百合子は手に握っていた刃物をそこへ投げ出して、ばったりとその場へ昏倒《こんとう》してしまったのである。  以上がおもとばあさんの陳述だった。彼女の陳述が終わると、その女、坂根百合子が呼び出された。彼女は階下の寝室で、医者やおもとばあさんの手厚い看護を受けて、先刻|正気《しようき》に復したところだというので、まだどこか、はっきりとしない顔色をしていた。年は二十五、六なのであろう、モデルをするくらいだから、いうまでもなく男をひきつけるに十分な肉体を持っていたが、そのために、たしかに年の二つ三つは若く見えるのである。見ると胸から帯へかけて、おびただしい血潮を浴びている。彼女はぐったりとそこにあった椅子の上へ腰を下ろした。  さて、その坂根百合子の陳述であるがそれはいたって簡単なものであった。  その日の昼過ぎ、安田恭助から彼女のもとへ電話がかかって、今夜の九時過ぎに、S町の画室《アトリエ》までやってこないか、いいものを見せてやるから、と、こう言うのである。で彼女はそのことばに従って、九時少し前に画室《アトリエ》を訪れた。そのときも家の中は真っ暗であったが、彼女は恭助が何かいたずらでもするために、わざと電気を消したのであろうと思って、その裏をかくつもりで足音を忍ばせながら、よく勝手を飲み込んでいるその画室《アトリエ》へ入った。そのとき、彼女がどんなに驚いたか、それはおそらく、血も凍るほどの驚きだったにちがいないのであるが、そんなことはここに一々お話するまでもあるまい。 「そのとき、ふと見ますと、安田さんの胸に大きなナイフが刺さっていたんです。私はなんの気なしに、ほんとうにいまから思えば、なぜあんな大胆な真似をしたのでしょう、そのナイフの柄へ手をかけて、ぐっと引き抜きました。と、そのとたん、生温かい血潮が、それこそ凍っていた噴水が、ふいに解けて吹き出してきたときのように、飛び出して来まして——」  と、こう彼女はいうのであった。すなわち、彼女の胸から帯へかけての血潮は、そのとき浴びた血潮だったのである。  だが諸君、坂根百合子のこの陳述には、どこかあいまいなところがないであろうか、彼女のことばをそのまま信用してしまうには、あまりに話がうまくゆき過ぎてはいないだろうか。この疑惑は、私ばかりではなく、その場に居合わせた、すべての人々の胸に沸き起こったことにちがいなかった。その証拠には、彼女はその場から、体《てい》のいい口実のもとに、拘引《こういん》されてしまったのである。  その夜遅く、S町の画室《アトリエ》からE署へ引き上げる道すがら、私と従兄とはいろんなことを語りあった。主に坂根百合子の行動について。 「兄さんは(従兄を、私はそういうふうに呼んでいたのである)あの女を怪しいと思いますか」 「そうだね、いまのところなんとも言えないがあの女の陳述を、そのまま信用してしまうことはできないね」 「もしあの女が犯罪に関係があるとすれば、原因はやはり痴情ですか」 「多分そうだろう。だが健《けん》ちゃん(それが私の名前である)はよく探偵小説というやつを読んでいるじゃないか、こんな事件ぐらいは朝飯前だろう」  だが、私の耳には、従兄のそうした揶揄《やゆ》も入らなかった。あるすばらしい考えが、そのとき私の頭の中に渦巻きはじめたのである。それはまだ、えたいの知れない、漠然《ばくぜん》とした『もの』にちがいなかった。しかし何かそこへ『核《たね》』になるものをほうり込んでやれば、きっと立派なまとまったものになるにちがいない、と私は思った。私は猛然と、その考えに向かって突進したのである。  化学的に大きな結晶を得ようとする場合には、どろどろとした溶液の中へ、その物の結晶をほうり込んでやればよいのである。そうすると、物理学の法則によって、溶液はその結晶を中心として、さらに大きなそして完全な結晶を造るものである。  私は、私の頭に浮かんだ、その漠然とした考えの結晶核ともなるべき、何物かをつかもうとするために、その夜からまるまる四日間、少しおおげさないい分だが、食う物も食わずに考え抜いたのである。何をどういうふうに考えたか——だが、それをいう前に、まずその四日の間に、事件がどう発展していたか、それから先へ話してゆくことにしよう。  警察では、まず第一に、モデル女坂根百合子と、安田恭助との間の関係を洗いあげた。その結果は、ことごとく坂根百合子にとって、不利なものになってしまったのである。  坂根百合子はもと、歌劇か何かの下回りの女優だったのであるが、それで成功することができずに、ほとんど食うに困るほどの窮境に陥っていたところを、画家の安田恭助に発見されて、初めて彼のためにモデル台へ立ったのである。彼女の蠱惑的《こわくてき》な肉体の美しさは、たちまち若い洋画家連の間に喧伝《けんでん》された。そうこうしているうちに、百合子と恭助との間には、画家とモデルとの間にしばしばかもされる、ある特殊な関係が結ばれてしまった。恭助は彼女を熱愛した。百合子は——彼女には恭助ほどの熱があったかどうか、それはよくわからないが、とにかく、彼の愛を甘んじて受け入れた。だが、こうした情熱的《パツシヨネート》な恋愛が、そう長く続くものであろうか。はたして間もなくそこに破綻《はたん》がやってきた。それは安田恭助の健康の問題だった。彼は以前から肺尖《はいせん》をやられていて、医者からいつも鋭い忠告を受けていたのに、百合子との間がそういうふうになってからは、まったくそれを忘れていたのである。乱暴な、無節制な性的生活が、どんなに肺病患者を損《そこな》うものか、それはだれもがよく知るところだ。恭助の病勢は、近ごろになって急に進んだ。もし、いまのような生活をさっそくやめないならば、彼の生命はこの夏を越すのも危険であろう、医者はそう言って最後の忠告を放ったのである。ところが、医者のこのことばにおそれを抱いたのは恭助よりもむしろ百合子の側であった。彼女は遊戯のような恋愛のために、自分のすばらしい健康を犠牲にすることを好まなかった。それに恭助の肺病患者特有の執拗な抱擁《ほうよう》にも、もうだいぶ以前からあきあきしていたところだったので、それをいい機会に、おためごかしの別ればなしを、彼女のほうから持ちかけた。もちろん恭助がそれを受け入れるはずがない。こうして彼ら二人の間には不愉快ないさかいの絶え間がなくなった——  というのが最近の彼らの状態だったのである。そこにこの犯罪の動機がありはしないだろうか、とだれしもが考えるところだ。いわんや彼女は、最も「疑わしき」状態において、現場に発見されたのだから、警察がすべての嫌疑《けんぎ》を彼女にかけるのも無理はないのである。 「百合子は何か白状をしましたか」  犯罪のあった日の翌日の夕方のことである。晩飯のちゃぶ台のそばで、いまきたばかりの夕刊に目を通しながら、私はそう言って従兄に聞いた。 「まだだよ。だいぶしぶとい女でね」 「いったい警察では、どの程度までの疑いをあの女にかけているのです」 「すっかりだよ。あの女が犯人か共犯者かにちがいないとにらんでいるのだ。ただ気懸かりなのはあの女が口を割る前に、犯人が(あの女が共犯者である場合にはだね)逃亡しやしないかとそれをおそれているのだ」 「だが、あれだけけがをしていちゃ、とうてい逃亡はおぼつかないでしょう」 「そうだ、警察でもそう言っているのだ。だから市中の医者へすっかりと手を回しているのだがね、まだそれらしいけが人はあがらないのだ。しかしまあそう大した事件でもないよ、新聞が騒ぎたてるほどね」  従兄の言うとおりその事件に関して、新聞の騒ぎようったらなかった。どの新聞もどの新聞も、その記事をもってその日の呼び物にしていた。安田恭助とモデル女坂根百合子のローマンス、そういった標題《みだし》の甘ったるい記事が事件の顛末《てんまつ》よりもむしろ大きな活字で人の目をひいていた。 「ところで指紋ですが、何か怪しい指紋でも見つかりましたか」 「それなんだよ」従兄はちょっと眉をひそめた。「あれだけの大格闘をしながら、指紋を残さないというのは解《げ》せない話だが、真実のところ、あの部屋には怪しい指紋なんか一つもないんだよ」 「はあ、怪しい指紋がないんですって?」 「そうだ、べたべたと押されていた手型ねえ、あれも調査の結果、みな被害者のものだと決まったのだ。もっとも、カーテンに一つとテーブルに一つだけ、やはり血潮のついた百合子の指紋が残っていたが」 「凶器には?」 「凶器にも被害者と百合子のよりほか、変わった指紋は見当たらないのだ」 「おかしいですね」 「別におかしくはないよ」従兄はつまらなさそうに、たばこの灰を落としながら言った。「結局犯人はあの百合子さ。もっともまだわからないところもあるにはあるがね」 「だが——」  私は急に口をつぐんだ。私の頭に混沌《こんとん》として渦を巻いていた考えが、だんだんと、はっきりその形をなしてくるのだった。  ところが、そうこうしているうちに、ここに一つ不思議な事実が暴露《ばくろ》した。それは事件の日から数えて四日目の朝の新聞の記事である。今度こそは、この事件に初めから大した興味をもっていなかった者まで、すっかりと驚かされてしまった。いや、驚かされるというよりむしろあきれさせられたのである。というのはこうだ。あの画室《アトリエ》の中をむちゃくちゃに染めていた血潮、それがために諸新聞に『残酷極まりなき』とまで言わせたあの血潮、あれがすべて、人間の血潮ではなかったという警察の発表である。なんと奇抜な、そしてこっけいな発見ではないか。この記事を読んだとき、そしてあっけにとられている世人の間抜《まぬ》け面《づら》を想像したとき、私はいささか得意にならざるを得なかった。というのは、この事実をいちばん最初に感づいたのは、かくいう私だったからである。  この記事が出た前の日のことだ、私はあの事件の晩からおなじみになったE署の署長|町田《まちだ》氏を署に訪れたのである。そのとき、私は少なからぬ興奮に胸をわくわくとさせていたのだ、いったいどういうふうにして面会を申し込んだものか、どういうふうにして署長の前へ通されたものか、後《のち》になってさっぱり思い出せなかった。 「君は西野《にしの》君の従弟だという青年だったね、そうそう名前は健二君とかいったっけ、さあさあ遠慮せずとそこへおかけ」  そういう町田氏のことばに、やっと私は心を落ち着かすことができた。手に持っていたふろしき包みを床の上に置くと、署長の前の椅子へ腰を下ろして、私はいきなり叫んだ。 「署長、私は大変な発見をしました」  言ってからしまったと思った。ここへ来るまで、どういうふうにこの話を切り出してやろうか、どういえばいちばんみんなを驚かすことができるだろうか、そんなことを考えて、いろいろ話の順序を組み立てていたのだが、いざとなるとまったく気があがってしまって、そんな駆け引きどころではなかったのである。 「なんだね、大変な発見というのは」  町田氏はにこにこと笑って、意気込んでいる私の顔を見ていた。 「実は——」とごっくりつばを飲み込みながら、「S町の事件のことですが、あの血潮について鑑定をしていただきたいのです」 「何? 血潮の鑑定をしろ?」 「そうです、私の想像するところでは、あれは人間の血じゃなかろうと思うのです」 「何? 人間の血じゃない?」  町田氏の顔面はみるみる緊張してきた。彼は椅子から乗り出すようにして、 「そりゃいったい、どういう意味だ」 「これなんです」  私は床の上に置いてあったふろしき包みを取り上げると、それを開いて中の物を取り出して見せた。 「なんだ、鶏《とり》じゃないか」 「そうです、ごらんなさい、ずたずたに斬りさいなまれているじゃありませんか。S町の殺人事件の犠牲者というのは、実はこの鶏なのですよ」  町田氏はしばらくぽかんとして私の顔を見つめていたが、やがてテーブルの上のベルをチンと鳴らした。そして入って来た給仕に何事かを命じた。給仕が出て行くと、彼は椅子の中へ深々と身をうずめて、さて、ぐっと私の顔を真っ正面からにらみつけるのであった。 「いま、そう言っておいた。一時間もすればその結果がわかるだろう。だが健二君、その前にどこからその鶏を見つけて来たのか、それを聞こうじゃないか」  私は心中の得意を隠すことができなかった。子供のように顔をほてらせながら、私は話をしたのである。 「最初、被害者のはいていたスリッパがじっとりと濡れているのを見たときから、私にはふとある疑問が起こったのです。調べてみると、あのとき着ていた作業服の裾に、二つ三つはねのあとがある、しかもそれがまだよく乾いていないのです。なおそのうえ被害者の両手の爪の間に、ごくわずかではあるが泥がはさまっていました。それで私は、被害者が死ぬ少し前に、どこか泥の上を歩いて、そしてその泥に触ったにちがいないと思ったのです。スリッパをはいて行けるような場所ですから、むろん家の外でないことはたしかです。そのことを今朝《けさ》ふと思い出した私は、S町へ行って、あの画室《アトリエ》の庭を見せてもらいました。あなたもごらんになったにちがいありませんが、四坪ほどしかないあの庭に、植木棚が二段に作ってあります。その上には、直径二尺ほどもある大きな鉢が、ぎっしりと並んでいました。ところがその中にただ一つ、躑躅《つつじ》を植えた鉢だけが地面の上へ下ろされて、その跡が歯の抜けたようにすいているのです。おもとばあさんに聞いてみると、だれがそこへ下ろしたのか知らぬと言います。しかもあの事件のあった日の昼までは、たしかに棚の上にあったと言うのです。で私はその意味ありげな植木鉢をのけてみました。と、その下だけ、白い土が上へ出ているのです。つい近ごろになって、だれかがそこを掘り返したにちがいないと私は思いました。で、おもとばあさんの手を借りて掘ってみると、はたしてこの鶏の死骸が出てきたのです」  町田氏は腕を組んで、黙然《もくねん》と聞いていたが、私の話がすむと、 「では、君の話がほんとうだとすると、被害者自身がその鶏の死骸をうずめたのだということになるのだね」 「そうです、ごらんのとおりこの鶏はきれいに羽根がむしってあります。すなわち被害者自身が絞《し》めたのではなくて、どこかの鶏肉屋《かしわや》から買って来たものにちがいないのです。そう思ったものですから、S町の鶏肉屋を片っ端から訪ねて歩いてみると、はたして、あの日の昼過ぎ、被害者らしい人物に鶏を一羽売ったという店が見つかりました」 「ふむ」  町田氏はまじまじと私の顔を見つめていた。その目の中には、「この若僧、なかなか油断ならぬやつだわい」そういった色がはっきりと読まれるのだった。 「じゃ君の意見を聞こう、君にはなにもかもわかっているようだが、いったいどう説明したらいいのかね、冗談か、冗談にしては、安田恭助の殺されていたのは事実だからね」 「その説明はしばらく待ってください。血液鑑定の結果が、私の言うとおりでしたら、そのときお話することにします」  そこで私たちは待つことになった。ああ、その間のいかに長かったことであろうか。だが私はここで小説の筋書きをお話するのではなかったから、くだくだしい形容はぬくこととして、とにかく半時間ほどの後、町田氏は電話で報告を聞いたのである。そしてその結果は、はたして私の推測と一致していたのである。 「さあ健二君、いよいよ君の考えを聞く番だ。なんだか、非常におもしろくなってきたよ」  私の全身はとめどもなく打ち震えた。それ以来、私はこの職業に携《たずさ》わって、長い間にはかなり多くの手柄をたててきたが、このときほど晴々しい幸福感に酔わされたことは、一度もないといってもいい。 「私の考えというのは、安田恭助の死は他殺じゃなくて、自殺であろうと思うのです」 「何? 自殺?」 「そうです」私はともすればしわがれようとする、自分の声をいまいましく思いながら、一気にことばを続けた。 「あなたは天才の異常性というものを御存じですか、それから、自殺者の虚栄というものを。新しく高い建物が建ちます。すると一ヵ月を出ずして、必ずそこから飛び降りて自殺する者が出ます。彼らは少しでも変わった方法で、世間をあっといわせてやろう、そういった共通の虚栄にとらわれるものです。その結果が、華厳《けごん》の滝《たき》から飛び込んだり、名士の邸宅の門前で首をつったり、あるいはまた、全身に火をつけて焼死してみたり、とにかく常識では考えられないようなとっぴな方法を考え出すことは、あなたもよく御存じでしょう。今度のS町の事件も、要するにこれではないか、私はふとこう思いついたのです。これは推理の力ではありません。なんと言いましょうか、少しおおげさないいかたですが、霊感とでもいうのでしょうか、あの画室《アトリエ》のドアを開いてひと目あの中をのぞいたとき、私にはぴんとこう感ぜられたのです。『なんとまあ上手に飾りたてたことであろう、まるで芝居の舞台装置を見るようだ』と。この考えは後になるほど強くなってきました。無関心に見ていれば、ただ大格闘の跡だとのみ見られるあの部屋の乱雑さには、よく注意してみていると、ある一種のリズムの保たれていることに気がつきます。そこには無秩序の中にも一脈の秩序があり、筆一本、石膏の破片《かけら》一つでも、むだには落ちていないのです。ことにあの血潮の塗りようときたら、それこそ、巧妙を極めたもので、一滴だって『絵』にならないような場所には落ちていないのです。そうです。いま私はあえて『絵』ということばを使いましたが、それは最も正しい言いかたでしょう。天才画家安田恭助は、自殺するに当たって、自分の画室《アトリエ》全体を一つの大きな絵とすることをたくらんだのです」  これだけのことをいってしまうと、私はぐったりとした。まるで大仕事をすましたときのような疲労を覚えたのである。町田氏は間もなくおもむろに口を開いた。 「なるほど、それはおもしろい意見だ」  彼はしきりに髭《ひげ》をかんでいた。 「そしてあるいは正しい観察であるかも知れぬ。だが——」ふいに椅子から立ち上がると、彼は私の鼻の先まで顔を持って来て、そして言ったのである。 「それは要するに君の主観に過ぎないのだ。それがよし正しいとしても、警察としてそんなことが世間へ対して発表できるだろうか、世間というものはきみのように芸術的な感受性を持っている者じゃないよ。ことにいっぽうにおいて、嫌疑者のない場合はとにかくだが、このたびのように、だれの目からしても、一点疑う余地のないほど有力な嫌疑者のある場合、物質的根拠というものをまったく欠いている君の考えを、世間はそのまま受け入れるだろうか」  町田氏のこのことばは少なからず私の心持ちを悪くした。そこには、従来の警察のやり口の卑劣さが、歴然と裏書きされているのではないか。 「なるほど、あなたのおっしゃることもごもっともです。だが、私は、私のこの意見に、物質的証拠を全然欠いているとは思いません」 「では何か証拠があるというのかね」 「そうです、書き置きがあります」  私は椅子から立ち上がりながら、できるだけ冷然といい放った。 「S町の画室《アトリエ》を捜索《そうさく》してごらんなさい、きっとどこかに書き置きがあるにちがいありません」  そのことばをあとに残して、私はE署を出たのである。  さて、その翌朝《よくあさ》の新聞を見ると、どの新聞にも血液鑑定の結果は発表してあったが、自殺の点については、いっせいに沈黙を守っているのである。ちょうどその夜は従兄が勤務の番で、帰宅しなかったものだから、私の意見がE署内にどんな結果をもたらしたか、それを知るよすがもなかった。さすがに気になるものだから、昨日《きのう》あんなにおこって出て行ったE署を私はふたたび訪れたのである。町田氏は私の顔を見るとにやにやと笑った。 「健二君、君の意見はどうやら危いぜ、いまS町の画室《アトリエ》から電話がかかったが、捜索の結果はすっかり駄目だと言ったよ」 「そうですか、だがまだ画室《アトリエ》にどなたかいらっしゃいますか」 「ああ、君の従兄の西野君がいるはずだ」 「ではちょっと電話を拝借いたします」  従兄はすぐに電話の向こうへ出た。 「兄さんですか、僕、健二です。捜索の結果は駄目だったそうですね、だが——」  私の頭には "The Purloined Letter" が浮かび出していた。 「画室《アトリエ》には日暦《ひごよみ》がありませんか、あったらそれを調べてください、ここ十日ほどの間でいいのです」  私が十日ほどと、日を限《き》ったにはわけがあるのだ。もし自分が安田恭助の立場にあったとしたら、書き置きがいつごろ発見されるのが、いちばん本望であろうか。それはあまり早くても、またあまり遅くてもいけないのである。世間がその殺人事件で有頂天になっている、その真っ最中に書き置きが発見されれば、いちばんその反響が大きいわけではないか。そして彼は、地下で皮肉な笑いを浮かべることができるのだ。私が書き置きがあるにちがいないと考えたのも、実はこの理由にほかならぬのである。しばらくすると従兄から電話がかかってきた。だがそれは失敗であった。日暦のどこにも書き置きらしい文字は見当たらぬというのである。 「ではおもとばあさんを電話口へ出してくれませんか」と私は言った。  おもとばあさんはすぐに出た。 「おもとさんですか、あのね、この二、三日の間にね、ぜひとも取り出さなければならぬ物に、お前さん心当たりはないかね」  おもとばあさんはしばらく考えていたが、やがて、あるかもしれないがいまのところ思い出せないという返事であった。私は少しいらいらしてきた。 「今日《きよう》は六月の二十七日ですよ、二十八、二十九、三十、とこのあたりにぜひ出さなければならないものはないかね、よく考えてみてください」 「そうですね——ああ、節季《せつき》になると地代の通《かよ》い帳《ちよう》を出しますが、そんなものでは——」 「それだッ」私は思わず飛び上がったのである。なんという簡単な隠し場所だろう。それに気がつかなかったなんて——私はさっそくその由を従兄にしらせた。しばらく待っていると、従兄からはたして成功の報告があった。 「ありました、地代の通い帳の間にはさんでありました」その一句一句を私はかみしめて聞いたのである。  さて諸君、そのとき発見された安田恭助の、変てこな書き置きを朗読することによって、私のこの手柄話に幕を下ろすことにしようと思う。それはこんな簡単な一文だったのである。 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]   みなさま、私のこの自殺の方法をすてきだとは思いませんか。世のいかなる画家もいまだかつてなし得なかった大作を、私はいまこの世におさらばを告げる前になし遂げたのです、題して、「画室《アトリエ》の犯罪」   出来栄えいかん?   ××××年×月××日 [#ここで字下げ終わり] [#地付き]画家 安田 恭助拝    以上の話は、ある夜ある会合の席で、名探偵として有名な西野健二氏の物語ったところである。 ところが、不思議な宿命には、その話はこれだけで終わりとはならなかったのである。というのはこういう次第だ。  そのとき、その場に居合わせた沖野《おきの》氏という医者が、彼の話の終わるのを待ち兼ねて口を開いたのである。 「で西野さんとやら、その坂根百合子という女は結局どうなりましたか」 「むろん百合子は無罪になりました。だが運命ですね、それから間もなく急性肺炎でぽっこりと死んでしまいました」 「死にましたか」 「ええ、死にました」  沖野氏は眼をつむってしばらく打ち案じていたが、やがてつとそれを開くと、ぐるりと一同を見回した。 「では私も一つお話いたしましょう。この話はなんとなくいまの西野さんのお話と関係がありそうですが、はたしてあるかどうか、それは私の保証の限りではありません。なにしろ時間もよほど遅いことですから、できるだけ簡単に話すことにしましょう」  五年ほど前、満鉄の病院に勤めていた時分のことです。そこで亡くなったある患者が、死ぬ少し前に、ふと次のようなことを語りました。話というのは、その患者の物語なのです。  十五年ほども昔のことと、そのとき言いましたから、現在からいえばちょうど二十年ほど前になりましょう、当時大阪にいた松本(仮りにそう呼んでおきましょう)は、ある夜の八時ごろ、ある一軒の家を無断で訪問しました。それが当時の彼の職業だったのです。彼がその夜訪問したのは、画家の画室《アトリエ》ででもあったらしく、天井のばかに高い、そしてそこに青いガラスのはまった一室だったと申します。その部屋に一歩踏み入れたせつな、彼はぎょっとしてそこに立ち止まりました。そのときの心持ちを、彼は『頭のてっぺんから大きな錐《きり》を刺し込まれたような思い』と言っていました。彼が驚いたわけというのは、その部屋が言語に絶した乱雑さを見せていたからなのです。きっと人殺しか何かがあったにちがいないのだが死骸はどこにも見えませんでした。しばらく彼はそこに茫然《ぼうぜん》と立っていると、階段の下のほうから、だれかが昇って来るらしい音がしたので、彼はあわてて、画室《アトリエ》の中にかかっていたカーテンの向こう側に姿を隠しました。  入って来たのは二十七、八の青年で、いかにも画家らしい風貌《ふうぼう》を持っていたと言います。何か心配事があるらしく、真っ青な顔をして——もっともそれは月の光でそう見えたのかもしれません——ごとごとと部屋の中を歩き回りました。そしてときどき立ち止まっては床の上に身をかがめて、血潮の痕を見たり、壊れた石膏像に見とれたりするのです。しばらくそんなことをしていたが、やがてひゅっと高く口笛を一つ吹くと、何事かを決心したように、向こうのすみにあったテーブルの上から一|挺《ちよう》の大ナイフを取り上げました。見るとそれにはべっとりと血が付いています。青年はそれを両手で、逆手《さかて》にぐっと握り締めて心臓の上へ擬《ぎ》しました。それで、松本はなにもかもわかった、と思ったのです。すなわちその青年は、人殺しをして、自分も自殺しようとしているのにちがいないと思ったのです。  だが彼は死にませんでした。いや、死ねなかったのです。何遍も何遍も、彼は同じような動作を繰り返していたが、やがて、「はアッ」と長い嘆息をもらすと、ふいにナイフを床の上へ投げ出して、どっかり壊れかかった椅子へ腰を下ろしました。そしてしばらく、天井のガラス越しに、じっと青い月を見つめていましたが、しばらくすると突然、咽喉《のど》の奥のほうで、くっくっと笑い出しました。と、それがだんだん大きくなって、しまいには椅子の上でからだをくねらして笑いころげるのです。その気味の悪いことといったら! ところが、その笑い声に迎えられるように、その部屋へ突然もう一人の人物が現われたのです。それは二十四、五の美しい女であったと言います。松本は青年のほうにばかり目をやっていたので、その女がいつ、どこから入って来たのか、少しも気がつきませんでした。だからその女がふいに、 「まああなた、どうしたというの」  と叫んだときには、彼はほとんど耳のそばで百雷がとどろいたほどの驚きに打たれたのです。青年もその声に、初めて女の存在に気がついたらしく、つと笑い声をやめて振り返りました。 「ああ百合ちゃんかい、いつ来たのだい」 「いま来たばかりよ、だが、この部屋はいったいどうしたというの、驚かすことってえのはこれなの」  青年はまた笑い出しました。そしていかにも気が軽々したというふうに、手足を伸ばしてその部屋の中を踊るように歩き回りました。 「あなた電気をつけちゃどう、なんだか恐ろしそうな構えね」  女がそう言うと、青年はひと声、ゲラゲラと笑って、そしてぴったりと女の前へ立ち止まりました。 「百合ちゃん、おりゃね、たったいま自殺しようと思っていたんだよ」 「自殺?」 「そうだよ、だがおりゃもうやめたよ。だれかが言ったね、あまり死に接近し過ぎたものは、とうてい二度と自ら死を選ぶ勇気を持たぬと、そうだよ、そのとおりだよ。おれはあまり計画し過ぎた。計画している間にだんだん熱が冷めてきて、死ぬのがいやになってきた。だからもう死ぬのはやめだ。おれは生きるのだ。もっともっと生きるんだ」  青年はそのことばを、ほとんどせりふのように、しゃべりちらすのでした。女は身震いをしながら、また男に迫りました。 「でも、このお部屋はどうしたというの、血が一面にこぼれているじゃないの」 「大丈夫、心配はいらないよ、これは鶏の血だよ。すなわちそいつがおれの計画だったんだよ。このカーテンの裾に、おれが倒れていりゃ、このナイフを心臓に突き立てて倒れていりゃ、おれの偉大な絵は完成することになるんだ。だが、おれはもうやめた。そんなばかばかしい野心は放棄することに決めたんだよ」  カーテンの陰でそれを聞いていた松本は、茫然としてしまいました。彼は改めてその部屋の中をぐるぐると見回しました。だれが見たとて、それを作り事と思う者がありましょうか。  その間にも、青年は絶え間なしに何かぐちゃぐちゃとしゃべっていましたが、しばらくすると、女のほうがこうききました。 「まあ、じゃ書き置きまでちゃんと書いてあるの? 用意周到ね——で、このナイフで心臓を突くことになっていたのね」  その声に松本がふとカーテンの陰からのぞいてみると、女は手に例の大ナイフを握って立っていました。そのちょうど前に、青年は気が狂ったように、まだ絶え間なしに何かしゃべったり笑ったりしているのでした。瞬間、女の顔にはさっと残忍な色が浮かびました。危ない! と思ったせつな、すでにそのナイフは青年の心臓の上に突き立っていたのです—— [#改ページ] [#見出し]  丘の三軒家     一  その丘の上に、妙にひねくれた形をした三軒の家が、櫟《くぬぎ》の木に取りかこまれて建っていた。  もとその三軒の家というのは、赤い煉瓦《れんが》の塀《へい》をめぐらした一軒の邸《やしき》だったのだけれど、その持ち主が事業に失敗して、それを売り払わなければならなくなったとき、便宜上《べんぎじよう》その煉瓦の塀を取り壊して、いまあるように三軒に分割したのである。だからその三軒が三軒ながら、変に思い思いの形をしていた。だいいち、その中の一軒を除いたほかは、便所だの炊事場だのという、日常生活にぜひ必要な部分を、あとになって建て加えたものだから、なんとなくその格好に落ち着きがなく、ぎごちない感じがするのはやむをえなかった。  その三軒のうち、いちばん東側にあるのは、それがたぶんむかしの母屋なのだろう、いちばん手広くもあったし、また、建て方においてもいちばん凝っているようだった。この頃郊外を散歩するとよく目につく、あの「赤い屋根」の洋館なのだが、時代がついているせいか、わりあいに落ち着きがあって、よく見るいやに安っぽい感じからも免《まぬが》れていた。だいいち、風雨にさらされてかなり黒くなった壁から、六甲瓦《ろつこうがわら》の赤屋根へかけて、網の目のようにはい上っている蔦蔓《つたかずら》の蔓《つる》を見ても、そうなるまでには、なかなかではなかったであろうことが容易に察しられるのだった。昼は昼でその蔦蔓の繁りのために、夜は夜でまた窓を漏れる灯火のために、その「赤い屋根」の洋館がどんなに物語めいて見えたことか。そしてその「赤い屋根」の洋館のために、その丘の上全体がどんなに物語めいて見えたことか。だからその付近の村の人たちは、今でもその丘の上の三軒家を引っくるめて、一口に「赤い屋根のお邸」と言ってしまうのだった。  その「赤い屋根」の洋館には現在では山田畑三郎《やまだはたさぶろう》氏とその家族が住んでいる。山田畑三郎という人は相当お金持ちにちがいない。別になにをしているというふうも見えないのに、かなりぜいたくな生活をしていた。家族というのは、その奥さんと、小学校へ通っているかわいい女の子が一人と、それに十八、九の女中が一人と、都合四人——いや、そのほかに主人がかわいがっている獰猛《どうもう》な面構えのブルドッグが一匹いるから、しめて都合四人と一匹という家の大きさに比べると少し寂しすぎる一家だった。それにたった一人の女の子が、わざわざ電車でO市の小学校へ通っているので、その送り迎えを女中がやらなければならなかった。だからお昼の間は、いつもわびしくしんと静まり返っていて、たまに、奥さんの弾ずるピアノの音が、やるせなげに漏れてくるくらいのものだった。  その奥さんというのは、三十前後の、美しいが少し顔に険のある、一口ものをいうにもいやにもったいぶらなければならぬ婦人で、だいぶヒステリーの気があると見えて、ときどき家の中からすさまじい金切り声を聞かせることがあった。そんなときご亭主の山田畑三郎氏はどうしているかというと、いつも次に述べるところの隣家へ避難しているのだった。そしてそのあとでは、思わず息を詰め、五体を縮めなければならぬほど荒々しい鍵盤《けんばん》の音が、丘の上の空気を旋風のようにかきまわすのである。  さてその、主人の山田畑三郎氏であるが、彼は四十を二つ三つ出ているのだろう。頭が、ちょうどアメリカの喜劇役者ベン・ターピンのような形にはげあがった、いつもにやにやと、人を食ったような笑いかたをしている男である。この人の正体はどうもわからない。ちょっと見には女房の尻《しり》に敷かれている好人物のように見えるが、よくよく見ると、なかなかどうしてずるそうなところがある。だいいち、奥さんのヒステリーだって、彼がわざとその意に逆らって、爆発させるのではないかと思われる節がある。そういうふうに、妻を怒らせたり、あるいはなだめたり、自由自在に操ることに、自分の優越を認めて満足しているのではなかろうか。とにかく、なんとなく底気味の悪い男である。 「お金のあるのもいいけれど、山田さんの家庭のようじゃつまんないわねえ」 「だからおまえは、おれのような貧乏人を亭主に持ったことを感謝するんだね」  だから私たちは、よくそんなことを言ったものだ。  その山田畑三郎氏の邸宅のすぐ西側に、少し北へ引っ込んだ位置に一軒の平家《ひらや》が建っていた。それはたぶんむかし隠居所かなにかだったのだろう、八畳に六畳の二間きりの平家だったが、その造作にはずいぶん金がかかったろうと思われるところがあった。それにこの平家のよいところは、それを取りかこんでいる風物にあった。むかしはこの建物を中心として、庭園の趣きに数寄《すき》を凝《こ》らしていたらしく、妙にひねくれた名前の植木だの、こんなものにまでいちいち名称があるのかと驚かされるような、変てこな格好をした天然石だのが、この付近にいちばん多かった。以前には立派な池もあったのだそうだが、夏になると蚊が多くて困るという理由で埋められてしまった。  この平家には、多賀長兵衛《たがちようべえ》という初老の年輩の男がたった一人で住んでいた。見たところ別に、どこも悪そうには見えないのだが、彼は自分で肺病だと言っていた。そしてその養生のために、不自由を忍んでこんなところへ来ているのだと言っていた。彼も山田畑三郎氏に劣らぬお金持ちだった。いや、どちらかといえば、山田畑三郎氏よりもお金持ちだったかもしれないのである。なんでも、O市で有名な薬種商の当主が、彼の兄弟であるという話だった。 「奥さんはおありじゃないのですか」  なにかのついでに私はそんなことを聞いたことがある。 「女房ですか、女房は例の流行性感冒のときにとられてしまいましたよ。倅《せがれ》が一人あるのですが、それは兄貴の宅から学校へ通っております。私がこんな体だから、感染《うつ》ってはならぬと思って、なるべくこちらへは来ないように申しつけてあるのですよ」  そういうわけで、かれはそんな年齢にもかかわらず自炊しているわけであるが、そんな自炊なら、おそらくだれにだってそう苦痛ではあるまい、いや苦痛どころか、私などから見れば実にうらやましさのかぎりである。なにしろ、三日にあげずO市のほうから、女中がなにかごちそうらしいものを持ってやって来るし、そのつどお掃除はしてくれるし、汚れ物は持って帰ってくれるし、だから多賀長兵衛氏自身は、結局自分の好き勝手なことさえやっておればよかったのである。聞くところによると、若い時代の彼はずいぶんボヘミアンであったらしく、そのためにどんなに妻を泣かせたか、そしておしまいにはとうとう、妻の死に目にもあえなかったというほどの彼であったが、このごろではすっかり行ないすまして、植木いじりと金魚とがただ一つ、彼に残されている慰安であるらしかった。 「むかしの私を知っている人に会うと、よく驚かれるんですが、実際自分ながらも意気地がなくなったものです。しかし、こんな体じゃもうしかたがありませんからねえ」  なにかのはずみでふと昔話が出ると、感慨深い調子で彼はそんなことを言った。しかし、概して現在の生活に満足しているらしく、何分咲きとかの朝顔を作ったり、なんとか頭の金魚を作ったりして、子供のように得意になっていた。ことに金魚についてはだいぶ造詣《ぞうけい》が深いらしく、ときどき品評会やなにかに自分の作った金魚を出品して、だいぶ金牌《きんぱい》や賞状をためていた。  さて、あとに残ったもう一軒の家であるが、それにはかくいう私、水野千太郎《みずのせんたろう》とその妻の咲子《さくこ》が細い煙を立てているのである。その私の家というのは、前の二軒からずっと離れて、丘の西の端に立っているのだが、前の二軒に比べると、それはもうお話にならないほどお粗末なものである。この家は、むかし召使いかなにかのために建てられたものであるらしく、造作にも古木が使ってあったり、戸や障子がうまく閉《た》たなかったりして、外観はともかく、住んでみるとお話にならぬほど不愉快な箇所が多かった。しいてよいところを求めようと思えば、丘の西のはずれに建っているために、他の二軒に比べると、いくぶん眺望《ちようぼう》がよく利くのと、それにまわりに木立が少ないので、日あたりのよいことであった。それでも私たち夫婦は、できるだけこのよい方面ばかりを見るように努めながら、この貧しい家に満足していたのである。     二  ある朝、この丘の上に、大変な惨事が発見された。  それは八月にはいってからまもなくのことである。月見草の黄色っぽい花が、てんてんとして緑深い丘の上を彩っている明け方のことである。  多賀長兵衛氏の宅の、勝手口を出るとすぐその右手に、このごろ掘り始めた深い井戸の底に、長兵衛氏自身がはまり込んで、あえなく最期を遂げているのが発見されたのである。第一番にそれを見つけ出したものは、山田畑三郎氏の宅の女中だった。どうして彼女が、そんな井戸の中をのぞき込んだものか——そんなことはどうでもいい、彼女の報告で、丘の上は大騒ぎになったのである。丘の上といっても、多賀長兵衛氏を除いては、私の一家と山田畑三郎氏の一家があるだけだ。いったい丘の上の三つの家族は、以前から付近の村からまったく孤立した生活をしていたので、こんなときにはいちばん困るのだった。だが、私と山田畑三郎氏とがおおわらわになってその死骸《しがい》を井戸の底からつり出すのに苦心していると、だれが知らせたのか村へも知れたと見えて、屈強の若者が数名駆けつけて、私たちに手を貸してくれた。  井戸はずいぶんと深かったので、それは大変な骨折りであった。だがまあ、大勢の力でどうやらこうやらつり上げることができた。そうこうしているうちに、医者が来る、駐在所からは警官が、佩剣《はいけん》をがちゃがちゃ言わせながら駆けつけて来る。弥次馬が集まって来る。お陰で、いつもは眠っているような退屈な丘の上が、どこかの遊園地のようにすっかり活気づいたものである。  お昼過ぎになって、O市のほうから彼の兄の多賀|源兵衛《げんべえ》氏や、彼の一人息子の多賀|新一郎《しんいちろう》などがやって来た。しかし、それは要するに死骸を引き取りに来たまでのことで、それ以上のことはどうすることもできなかった。なにしろ頸骨《けいこつ》と大腿骨《だいたいこつ》が折れているのだから、そこに落ちた瞬間に命はなくなったにちがいないのである。たぶんそれは、夜中の一時か二時ごろのことだろうという話であった。  むろんそのことについては彼自身の過失以外の何物も考えられないことである。自殺をするとは考えられないことだし、他殺の場合を想像することは、それ以上に困難である。もっとも、丘の上の住民と丘の下の村民との間に、かねてから一種のわだかまりのあったというところから、警察ではちょっと他殺説が出たそうだが、それとても深い根底があったわけではないから、すぐに立ち消えとなってしまった。だいいちそこには、他殺とみなさるべきなんらの証拠もないのである。  いったい今度のことは、だれの罪でもなくなにからなにまで多賀長兵衛氏自身の過失なのだ。彼が命を取られたところのあの井戸も、彼が死ぬる数日前から掘り始めたものだが、あすこへ井戸を掘るときまったとき、井戸掘りの男は一応考え直して見るようにとすすめたものだ。というのは、なにしろ小高い丘の上のことだから、水脈へ掘り当てるまでには、ずいぶんと深く掘り込まなければならぬと言うのだった。しかしあれでなかなか強情なところのある多賀長兵衛氏が井戸掘り風情の言に耳をかす道理はなかったのである。それに、そこに井戸があれば、彼の仕事の一つであるところの植木の水かけに、たいへん楽だという理由もあった。  彼がそこへ落ちた夜は、ちょうど井戸が五間ほどの深さに掘れていた。そして予想されたとおり水はまだ一滴もわき出してはいなかったのである。もし多少なりともそこに水があれば、あるいは彼の命も助かったかもしれないのだ。 「それにしてもおかしいですね」  その事件が一段落ついて、丘の上がようやくもとの静けさにかえったある日、山田畑三郎氏との話の間に、ふとその事件の話が出たので、私はこんなことを言った。 「誤って落ちたとしても、ちょっとおかしなものですね。あの人はここに井戸があるということはちゃんと知っていたのだし、それにいくら夜中だって、あの井戸のそばには、勝手口の電気がついていたので、かなり明るかったはずですからね」 「まあ人が災難にあうときには、どんなことがあってもやっぱりのがれられないものですよ」  山田畑三郎氏はそう言った。 「しかし、それにしても、あんな真夜中に、なんだって多賀さんは外出したんでしょうね。あの人はこのごろ、日が暮れると蝸牛《かたつむり》のように家に閉じこもっているんですのに」 「さあ——、なにか急に用事でも思い出したのでしょうよ」 「しかしあの晩、私はたしかに多賀さんがあの井戸の上へ蓋《ふた》をしているのを見たんですよ。『早く囲いができないと危ないですねえ』と私のほうから声をかけたくらいなんです」 「そんなことがあったんですか——。だが警察のほうでも詳しく調査していたから抜かりはないでしょう。まああまり疑ってかかるということはよくありませんね」  彼の言うとおり、私自身も口で言っているほど疑惑を抱いていたわけではないので、すぐそのことばに賛成した。 「しかしあなたは、ふだん多賀さんと仲よくしていらしったから、さぞお寂しいことでしょう」  私がそう言うと、山田畑三郎氏はちょっと暗い顔をした。 「まあそんなでもありませんがねえ——、しかしあの井戸はさっそく埋めてもらうようにしようと思っています。なんだかあれを見ると暗い気持ちがするし、それにだいいち危なくもありますからねえ」  彼のそのことばはまもなく実際となって現われた。数日もかかってようやく掘りあげたあの井戸を、大勢の人夫がやって来て半日ほどの間に埋めてしまった。もし多賀長兵衛氏の死に秘密があるとすれば、おそらくそれは、この井戸とともに永久に埋められたことであろう——と私は思った。     三  だが、読者諸君よ。  それにもかかわらず多賀長兵衛氏の死はやはり他殺だったのである。現在のところ、それを語り得るものはこの世の中にたった一人、この私があるだけなのだ。 「だれに?」 「何のために?」 「どういう手段で?」 「そして、どうしてそれがわかったのか?」  まあそうせきたもうな。ゆっくりとお話をするから。     四  事件が片づいてから、一ヵ月ほどして後、多賀長兵衛氏の住んでいた家へ、今度は彼の一人息子新一郎がやって来て住むことになった。もっとも今度は彼一人ではなくて、四十ばかりの、彼の乳母だという女がついて来ていた。  彼もやはり肺病だという話だった。そしていかにも肺病らしい、皮膚の色のくろずんだ、産毛《うぶげ》の長い、目のぎらぎらとした青年だった。それにしてもなにゆえ彼は、よりによってこんな不吉な家へ、あれからたった二ヵ月よりたたぬいまやって来る気になったのだろう。肺病患者というものは、人一倍ものごとを気に病むという話を聞いたことがあるのに。  しかしまもなく多賀新一郎は私たちの家庭と親しくなった。いったい多賀長兵衛氏の時代には、私たちの家庭はあまり近所と交際しなかった。なにしろ多賀長兵衛氏にしろ、山田畑三郎氏にしろ、私たちのとても及ばないブルジョアであることだから、彼らと交際しているとことごとに自分の引けめを感じるのだった。だから努めて彼らを避けるようにしていた。いわば丘の上の三軒家の中で、私の一家だけはのけ者となって甘んじていたわけだが、今度の多賀新一郎の代になってからは、いつの間にか私の家庭もお交際《つきあい》の仲間にはいってしまった。多賀新一郎は、病身のためにいくぶん暗いところのあるのは否まれなかったが、どちらかといえば、明るい快活な青年であるように私は思った。しかし私の妻はそれについて、まったく反対の意見を抱いていたものである。 「あなたはだめよ、他人を見ることができないんだもの。あの人の快活さは、ありゃほんとうのものじゃないわ。独りぽっちでいるときのあの人を見てごらんなさい。そりゃぞっとするようなおそろしい顔をしているわ。あの人、お父さんの死にかたについて、妙な考えかたをしているのじゃないでしょうか」  あるいは妻のこの観察が当たっているのかもしれない。しかし私はそれについて、あまり深く考えてみようとは思わなかった。 「そりゃたぶん、あの男の病身のせいだよ」  くらいにあっさりと片づけるのだった。  私の家へそうしてしげしげと出入りをすると同時に、彼は丘の上のもう一軒の家であるところの、山田畑三郎氏の家へも、よく出入りをするようだった。彼にはピアノが弾けるので、山田畑三郎氏の奥さんのよいお相手だった。 「新一郎君がやって来てから、家内のヒステリーがたいへんよくなりましたよ」  あるとき山田畑三郎氏は、例のとおり人を食ったような底気味の悪い笑いをたたえてそんなことを私に言った。  実際多賀新一郎と山田畑三郎氏の家庭の親密の度は、私たちの想像以上であるらしかった。わずかの間に、どうしてそんなにうまく、あの気むずかしやの奥さんに取り入ったのか、不思議に思うくらいだった。 「多賀さんが来てくださると、奥さんのごきげんがよいので、わたしにとってありがたいのですけれど、なんだかいやなことが起こりはしないかと、それが心配でなりませんの」  山田畑三郎氏の女中がそんなことを、私の妻に漏らしたというところから見ても、いかに彼が山田畑三郎氏の奥さんの気に入っているかということが想像されるのである。それについては、私の妻は次のような驚くべき意見を持っていた。 「新一郎さんが山田さんの奥さんに取り入っているのは、きっとなにか深いたくらみがあるにちがいないと、私は思っているのよ。まあいつか、私が一人いるときやって来たあの人の話しぶりを、どこかで聞いていてごらんなさいな。そりゃ実際、しつこいほど山田さんの家庭のことや、山田さんご自身のことや、そしておしまいにはあなたのことまで聞こうとするのよ。わたし考えるのに、あの人山田さんの奥さんに向かっても、やっぱり同じようなふうに聞きほじっているのじゃないかと思うわ。そこで私考えたのよ。あの人きっと、自分のお父さんがあなたか、山田さんに殺されたにちがいないと思い込んでいるのよ。それでああしてようすを探っているのじゃないかと思うわ」 「そうするとつまり、親の仇敵《かたき》の動静探りというところなんだね」 「そうよ、あなた気をつけなきゃだめよ、あんな人なにをし出すか知れたものじゃないわ」  妻のその予言は、まもなくある方面に現われてきた。  多賀長兵衛氏が落ちて死んだ井戸が、山田畑三郎氏の提言によって埋められたということは、さっきも言ったとおりだが、突然その井戸を、多賀新一郎がもう一度掘り始めたのである。  ある朝、あわてこんだ妻の報告によって、そのことを知った私は、びっくりしてその場へ駆けつけた。見ると二、三人の人夫の中に交《ま》じって、多賀新一郎がぎらぎらとした目を光らして立っていた。 「どうしたのです。そんなところへまた井戸を掘るのですか」  私はいくぶん非難するようにそう言った。  見ると山田畑三郎氏の邸宅の、二階の窓から奥さんが不安そうな顔をしてのぞいていた。山田畑三郎氏の姿はそのあたりには見えなかった。 「ああ、あなたにはまだお話しませんでしたがねえ。実は父が大切にしていた胴巻きが、どこにも見えないのです。その中には大切な証書類やなにかが、いろいろとはいっているはずなのですが、それがどこにも残っていないのです。で、ひょっとすると、父がこの井戸へ落ちたとき、身につけていて、それだけがそこに残ったものじゃないかと思っているのです。どうせむだだとは思いますが、それで一度掘ってみようと思ったのですよ」  彼はそんなことを言った。 「そうですか、それならいいけれど——、だが山田さんにもそのことをおっしゃいましたか、あの人のことばで井戸を埋めることになったのですから、一応お話しておかれないと、気を悪くなさるかもしれませんよ」 「ええ、そりゃだいじょうぶです。あの人にはもうこの間からお話してあるんです」  その井戸は、日一日と深くなっていった。考えてみると、どうもそれは正気の沙汰《さた》とは思えなかった。一尺や二尺の穴ならともかく、三十尺という地下のことだから、はたしてこの前と同じ所へ掘っていけるかどうか、すこぶる疑問であるように思えた。もっとも、井戸掘りのことばによると、断じてその心配はないそうであった。なにしろ垂直に掘っていくのだから、最初の地点さえ間違っていなければ、五間が六間でも、以前と同じ跡を掘っていくのは、けっして困難ではないという話だった。それにしても、私にはやはり多賀新一郎のやりかたは、無謀であるように思えてしかたがなかった。だいいち、地の底ではたしてその書類が腐敗せずにあるかどうか——、そう考えるとなんとなく彼のその行動には、単に書類を掘り出すというだけの意味ではなく、なにかほかの理由がありそうに思えてならなかった。そういう口実のもとに、もう一度井戸を掘ろうとするのではなかろうか。父の落ちて死んだ井戸を、その息子がもう一度掘り返す——、なんとなくそこに伝奇的な意味がありそうではないか。  私はそのことが気になってしかたがないので、毎日のようにその井戸の深くなるのを見に行った。 「どうです、きょうはどのくらいになりました」 「三間と少しばかりです。もうすぐ前の深さになりますよ」  そう言ってから多賀新一郎は、ちょっと皮肉な微笑を浮かべるのだった。 「しかし水野さんには、この井戸の深くなるのが、たいへん気になるようですね」  その一言は、私の心に妙に強く響いた。帰ってからそのことを妻に話すと、彼女は青くなって怒《おこ》った。 「だから言わないことじゃない。子供みたいに毎日毎日、あんなものを見に行くからいけないのです。このごろはだれもかれもようすが変だから、あまり外へ出ないようになさいよ」  そう言う彼女のことばは本当だった。井戸が深くなりゆくにしたがって、多賀新一郎の態度には一種の興奮が現われてきた。そしてそうした気持ちがいつのまにか山田畑三郎氏の上にも伝染したとみえて、いつも人を食ったような微笑を浮かべている彼も、このごろなんとなくそわそわとしているように思えた。  おお、いったいこれはどうしたことだろう。平和なこの丘の上に、悪魔が魅入ったのではないか。  私はなんとなくよくないことが起こりそうに思えてしかたがなかった。  そしてとうとう、井戸の深さは五間までこぎつけたのである。     五  その夜十二時近くである。私の宅の表戸を、とんとんと忍びやかにたたくものがあった。私たちはまだ寝てはいなかったので、すぐにその物音を耳にしたのであるが、なんとなく不安だったので、しばらく息をひそめて寝たふうをしていた。戸をたたく音はなかなかやまなかった。私が起きて行くまでたたき起こすつもりにちがいない。妙にあたりをはばかるようなその物音が、いっそう私の心を暗くした。 「水野さん——水野さん——、おやすみですか、お願いですから起きてください。僕、多賀新一郎です」  まちがいもなくそれは多賀新一郎の声だった。どうしたのだろう、この夜中に。 「およしなさいよ、わたしなんだかおそろしいわ」  妻はそう言って止めるのだったが、いつまでも寝たふうをしているわけにはいかなかった。私とて気味の悪くないことはなかったが、勇を鼓《こ》してとび起きると、いかにもいま目が覚めたところだというふうに目をこすりながら表の戸を開いた。 「どうしたのです、いまごろ」 「すみません」  見ると彼は、まだお昼の仕事着を着替えてもいないのであった。井戸掘りを手伝うために着る、茶色の半ズボンには、ぬれた砂がこびりついていた。 「だれか病人でもあるのですか」  彼は黙って頭を振った。よく見ると、真っ青な顔をして、目ばかりぎらぎらと熱病患者のように光らせているのだった。 「どうしたのです、いったい」  心配でもあったが、私はそれよりも腹が立った。で、思わずことば強く相手をしかりつけた。 「大変なんです——井戸の中に人が——」 「えッ、まただれかはまったのですか」  私は思わずせき込んだ。 「いいえ、はまったのじゃないのです、だれかが中へはいって行ったのです」 「ばかなッ、君は気でも違ったのじゃないか」  多賀新一郎は、それでもだんだん興奮から冷めていった。 「いいえ、気もなにも違ってやあしません。お願いですから一緒に来てください。あの男はいまにも逃げるかもしれないのです」 「逃げる? いったいなんの意味だ、もっとはっきり言ってくれたまえ」 「一緒に来てくださればなにもかもわかります。私はあなたに、証人となっていただきたいのです。お願いですから、どうぞ、どうぞ」  彼は私の手を取って引きずらんばかりにするのだった。それをふりはなして、彼を追い返すわけにはどうしてもいかなかった。しかたなしに私は言った。 「まあ待ってくれたまえ、こんなふうじゃ寒くてしようがない、なにか引っかけて来るから、ちょっと待っていてくれたまえ」  着物を着せてくれるとき、妻は心配そうな声でささやいた。 「大丈夫? 私なんだか心配でたまらないわ」 「大丈夫だよ、だいぶ興奮しているらしいから、今夜のところは素直に言うことを聞いてやったほうがいいよ」 「じゃ用心なさいましよ。井戸へ突き落とされないようにね」  妻はまじめにそんなことを考えているらしかった。私もちょっと寒い気持ちがした。 「お待ち遠さま、さあ行こう」  なにしろ十一月半ばのことだったので、表は寒かった。空には星一つなく、木々の木立がざわざわと気味の悪い音を立てていた。素足で分けて行く草の露がまもなくびっしょりと裾をぬらした。 「あれです」  ふいに多賀新一郎がうわずった声で低くそうささやいた。見ると十間ほどかなたの地の底から、ぽっと蛍火《ほたるび》ほどの淡い光が外へ漏れていた。私も思わずぎっくりとしてそこに立ち止まった。多賀新一郎の言ったとおりだれかが井戸の中にはいっているにちがいないのである。私たちは足音を忍ばせてそのほうへ近寄って行った。 「だれだ!」ふいに多賀新一郎がびっくりするほど大きな声で井戸の中へ向かって叫んだ。そのとたん井戸の中の光はふいに消えた。 「だれだ!」  もう一度多賀新一郎は叫んだ。「井戸の中にいるのはだれだ」  答えはない、あたりはしんとして、ときどき梢《こずえ》の上でかさこそと鳥が身動きをするのみである。 「答えないな、答えなきゃ石を放り込むぞ、いいか」  それでも答えはない。多賀新一郎はふいに、二つ三つ手ごろな石を拾うと、私の止めるいとまもなく、井戸の中へ投げ込んだ。 「これでも言わないか、言わなきゃもっと大きな石を投げ込むぞ」  私はそのおそろしさに思わず身をふるわせた。なんだか外国の怪談を読んでいるような気がするのであった。 「言う——言う——、おれだよ、おれだよ」  井戸の底から、かすかにしわがれた声が、重い空気をふるわせながら伝わって来た。おお、それは山田畑三郎氏の声ではないか。私は石のように固くなった。しかし多賀新一郎はそのことを予期していたらしく、別に驚いた色も見せなかった。 「むむ、やっぱり山田畑三郎だな、なんのためにその山田畑三郎がいまごろこんな井戸の中へはいって行ったのだ」  答えはない。多賀新一郎は咽喉《のど》の奥のほうでかすかに笑った。「言わなくてもいい、よくわかっている、親爺《おやじ》の胴巻きを探しにはいったのだろう」  無言——。 「だがそれはだめだよ。一生地の中を掘ったとて、親爺の胴巻きが出てくるものか、親爺の胴巻きは、ちゃんと手文庫の中にしまい込んであったのだからな」  そのとき、井戸の底で身動きをするらしいかすかな物音が聞こえた。私は息をのんで、この井戸の上と、井戸の底との対話に耳を傾けていた。 「どうしてこのおれが、そんなうそをついてこの井戸を掘らせたか、いまになってみればおまえにもよくわかったろう、これは罠《わな》だったのだ。親爺を殺した男を捕えるための罠だったのだ。その罠に落ちたのはおまえだ。取りも直さず、お前、山田畑三郎が親爺を殺したのだ」 「違う、違う」  そのとき、井戸の底からどらをたたくような声がわき上がって来た。 「そんなことが、——そんなことが——」 「なに? 違う? ではなぜ親爺の胴巻きを探しているのだ。胴巻きの中に、なにかうしろぐらいことを書いた書類があるからだろう。そしてその書類が発見されれば、おまえの罪が白日に照らされることになるからだろう」井戸の中は黙していた。多賀新一郎はぐっと体を前へ乗り出して叫んだ。 「言え! 山田畑三郎、もしここで素直に白状すれば、おれはなにもかも忘れてやろう、もし言わないと言うならば、もし言わないと言うならば——」彼は一段と声に力を入れた。「この場でおまえを生き埋めにしてやる」  無言——、どこかでばたばたと鳥の羽ばたきの音がした。 「どうだ」 「言う——」細い、もつれたような声がゆらゆらと立ちのぼって来る。私の体は木の葉のように細かくふるえていた。 「言う? じゃ、やっぱりおまえが殺したのだな——よし、じゃ、原因から聞こう、なんのためにおまえはおれの親爺を殺したのだ」 「いろいろある」 「いろいろ? よし、それではいちばん直接な原因を聞こう、それだけでいい」 「金魚をこのおれが殺したのだ。それがいちばん手近な原因だ」 「金魚——!」 「そうだ、おまえの親爺は変てこな金魚を作り上げた。なんでもそれは未曾有《みぞう》の変わり種だったのだそうだ。それを出品して、おまえの親爺は同好者たちをあっと驚かすつもりだったのだ。ところがなにも知らないこのおれが、親爺の留守の間にその金魚に麩《ふ》をやった、金魚はすぐに死んでしまった。そこへおまえの親爺が帰って来てかんかんに怒ったのだ。あのときのおまえの親爺の怒りようをだれかに見せたかったな、だれも本当にはしないだろう。そんなにひどく怒ったのだ、そしておれはとうとう謝罪状を一枚書かされた。その謝罪状を取り返したいと思って、おれは今夜この井戸の中へ降りて来たのだ」 「それだけのことでお前は親爺を殺したのか」 「そうだ。ことごとにおまえの親爺はそのことでおれに当たるのだ。それがうるさくてしようがない、いっそ殺してしまえ、という気になったのだ。ちょうどそこへ、おまえの親爺を殺すに至極《しごく》都合のいい、いろんな条件がおれの目の前に並べられた。そのあまりうまくそろった条件がおれを誘惑したのだ。つまりはじめの間は、おまえの親爺を殺そうと思っていろいろの手段を考えていたのだが、しまいにはその手段のほうが気に入って、もうどうでもいいと思っていたけれど、とうとうやっつけてしまうことにしたのだ」 「いったい、その手段というのはどんなことだ。万人の目をくらましたその手段を、おれは気が狂うほど聞きたいのだ。実は、おれには死んだ親爺なんかどうでもいい。そのすばらしいおまえの手段のほうが、おれにはずっと魅力があるのだ」  多賀新一郎は井戸の上からじりじりと体を乗り出して行った。あたかも魔法にかかったようにしだいしだいに井戸の中へ引きずり込まれて行くのだった。井戸の底からは山田畑三郎氏のかすかな笑い声が響いて来た。 「よし、話してやろう。それはいたって簡単なことだ、ばからしいくらい簡単なことだ。まず、この井戸が、おまえの親爺の宅の勝手口を出るとすぐその右手にあることが、おれを最初に誘惑したのだ。あの夜、まずおれはこの井戸の蓋《ふた》を取り除いた。そして、それから表へまわるとあわただしく戸をたたいた。 『多賀さん、大変だ、大変だ、火事です、火事です』  その声におまえの親爺はあわててとび起きると、おもてのほうへ出てくる。が、そうはいかない。表の戸は開かないように外からおれがしっかりと押しているのだから、 『だめです、大きな石がつかえています、勝手口のほうからまわっていらっしゃい、早く早く、早くしないと焼け落ちますよ』  おまえの親爺はすっかり逆上して勝手口からとび出す、そして次の瞬間には、俺が思っていたとおり井戸の中へ落ちてしまったのだ」  沈黙——、深い沈黙。夜露の落ちる音。 「だが——だが——」多賀新一郎はあえぐように言った。 「俺の親爺は盲目ではない、それに当時、この勝手口の廂《ひさし》には電気がついていたから、この井戸のまわりはそんなに暗くはなかった。いかにあわてていたとはいえ——」  そのことばは、突然井戸の底からさえぎられた。低く、高く、気が狂ったような笑い声が、井戸のまわりの壁をふるわせて駆け上がって来た。 「そうだ、だれもがそう思うところだ。ところがおまえの親爺は鳥目だったのだよ!」 「ああ!」そのとたん、多賀新一郎の体は、まっさかさまに井戸の中へ滑り落ちた。のぞいて見ると、真っ暗な井戸の底から、冷たい風とともにかすかな、鈍い物音が聞こえてきた。 [#改ページ] [#見出し]  キャン・シャック酒場《バー》     一 「——君」  と沖野藻一郎《おきのそういちろう》が言った。 「すてきな所があるんだよ、行かないか」 「これからかい?」  私《わたし》は時計を見た。十時半を過ぎている。 「むろんこれからさ。そりゃ、ワンダフルなんだよ」 「何だいいったい? おどり場かい?」  私はふきげんだった。彼のはしゃぎに調子を合わすことができなかった。で、つまらなさそうにきいた。 「うんにゃ、酒場《バー》なんだ」 「なんだ酒場《バー》なんて!」私は軽蔑の意《こころ》をこめて言った。「しようがないじゃないか」 「ところがさ」  と沖野藻一郎は私の気持ちなんていっさいおかまいなしで、ジャック・カトランにちょっと似ているその目を、いたずららしく輝かせながら、卓子《テーブル》の上にからだを乗り出して言うのだ。 「それが世の常の酒場じゃないんだ、とてもすてきなんだよ」 「君のことだから、また別嬪《べつぴん》でもいるというのだろう」  私はどこまでもふきげんである。 「別嬪もいるにはいるがね、僕の言うところのワンダフルなるゆえんは、もっと別のところにあるんだよ」 「なんだいいったい、はっきり言ってしまえばいいじゃないか」  私はとうとう癇癪玉《かんしやくだま》を破裂させてしまった。  私のふきげんにはわけがある。  私たちのいまいる場所というのは、元町×丁目にある「紫の城」という喫茶店なのである。  私はそこの女給《ウエイトレス》の一人にちょっと思《おぼ》し召《め》しがあって、この三ヵ月ほどというものは、日ごと夜ごと通いつめていた。むろん十銭の紅茶を一杯飲んで、一円|紙幣《さつ》を置いて帰るという、ばかなまねもしばしばやってみた。そして私はうぬぼれていた。彼女もおれに好意を寄せているにちがいない。でなけりゃ……と、私はいろんなばあいの彼女の態度を思い出して、自分に都合のいいように、勝手に解釈していたのである。  ところが今夜という今夜、私ははっきりと知った。彼女の好意を寄せているのは私ではなく、私の友人の沖野藻一郎なのである。つまり私はみじめに敗北したのだ。  だから私はふきげんなのである。  そして沖野藻一郎は反対に上きげんなのである。  そして彼の上きげんが、いっそう私をふきげんにするのである。 「言えったって、ひと口に言えやアしないよ。行ってみればすぐにわかることだ。ね、行こうよ」  彼は立ち上がって私の袖を引っ張りそうにした。 「よせ! おれは今晩、ちっとばかりふきげんなんだから」 「ふきげんはわかってるよ、だからさ、こんな所にいつまでいたってしようがないじゃないか。行こうよ、そこへ行けば君のふきげんはたちどころに釈然として解けるよ。ね、行こうよ、行こうよ」  この友人のたった一つの美点というのは、どんな場合にでも相手の気持ちにとらわれないということである。相手がふきげんであろうが、悲観していようが、彼の気持ちは少しも影響されないで、どこまでも自分の気持ちを無邪気に突っ張るのだ。そしてたいていの場合、その無邪気さが相手の強情を打ち負してしまう。 「いったいどこなんだ、その酒場《バー》というのは。遠方だと、おりゃアいやだぜ。今晩はだいぶ疲労しているんだから」  私はとうとう折れてしまった。 「なアに、ついそこだ。三番の踏切を上がるとすぐ目と鼻の所なんだよ」 「じゃ」私はしかたなしに立ち上がった。 「だまされたと思って、一時間ばかりつきあってやろうかな」  そして私たちは「紫の城」を出た。むろん勘定は沖野藻一郎が払った。     二  ところが彼のことばにはだいぶ掛け値があったらしく、三番の踏切を越えてもなかなかどうして目的の酒場《バー》には行き着かないのである。  十二月も終わりに近い晩のことだから、寒いことはいうまでもない。六甲|颪《おろし》というやつがびゅーっと横なぐりにくる。たまらないのだ。  私のふきげんはいよいよつのってくるばかりだ。 「おいおい、三番の踏切から眼と鼻の間だなんて、とんだ広い目と鼻の間なんだなア」 「まア、そう言いたもうな。もうすぐなんだから、ほら、あすこに青い灯が見えてるだろう、あれなんだ」  見るとそこには、いつごろからできたのか、間口一間半ばかりの、ちょっと小ぎれいな酒場《バー》があった。看板を見ると、   Kyan-Schakk Bar  と金文字で書いてある。 「なんだい、キャン・シャックというのは、ドイツ語かい、フランス語かい?」 「スペイン語なんだそうだ。意味は知らないよ」  そう言いながら沖野藻一郎が、重い硝子《ガラス》戸をギイと押す。客は一人もいなかった。  四畳半の部屋を四つか五つ寄せたくらいのそう広くない土間で、卓子《テーブル》が十ばかりある。電燈をすべて青い布《きれ》で包んでいるのは気持ちがよいが、なんとなく冷たい部屋だ。でもそんなに悪い感じではない。 「なんにいたしましょう」  私たちが、電気ストーブに近い卓子《テーブル》に腰をおろすと、一人の女給《ウエイトレス》がやって来た。ちょっとかわいい女だが、そんなに美人というほうではない。このほかに、女給だまりともいうべき所に三人の女が集まってなにかひそひそ話をしていたが、みたところ、ほう、これは、というほどの美人もいないようだ。いったいどこがワンダフルなんだろう。 「トリンケンをやる?」  と沖野藻一郎がきく。 「やってもいいね。金《ゲルト》が十分なら」  私はいたって冷淡だ。ふきげんが——癇癪がむらむら起きかかっているのだ。  とそこへ、奥のほうから掛布《カーテン》を排して、もう一人の女がその土間へ顔を見せた。おや、と私が思うせつな、相手の女も、まア、という表情をしてみせた。 「Yさんじゃないの?」  女はつかつかと私のほうへ寄って来た。 「やア」私はある感情のため、思わず咽喉《のど》の詰まるのを覚えた。 「ずいぶん久し振りだったねえ。こんな所へ来ていたのかい?」 「ほんとうに久し振りだわ」彼女は懐かしそうに指を折りながら、「あれからちょうど、まる三年になるのねえ」 「ほんとうにそうだ。だがよく見忘れないでいたねえ」 「あら、あなたこそよ。あたし忘れるもんですか」 「光栄のいたりだ。おい沖野、トリンケンさせろよ、金《ゲルト》なんていつでもいいじゃないか、ねえ——なんとか言ったね、君は?」 「あらいや!」彼女はちょっとにらまえるようなまねをしながら、「でもねえ、あたしあのときとは名前を変えてるの。お静ってえのよ、こちらでは」 「お静ちゃんか、いいなあ、いいなあ」  私はたちまち上きげんになった。大いに心がはずんだ。そして大いにはしゃぎ始めた。そして酒を飲んだ。  すると私とは反対に、今度は沖野藻一郎が急に沈んだ顔つきをしているのだ。 「おいどうしたのだい、ええ、おい?」 「なあんだい」彼は言った。「君たちはすでにおなじみだったのかい」  そして彼はつまらなそうな顔をしていたが、なにを思ったのか、ふいににやりと笑った。とたちまち、彼一流の快活さにもどって、 「どうだい、ワンダフルだろう」  と言った。  私がもっと落ち着いていたら、彼のそのことばにある矛盾を感じなければならなかったはずだが、なにしろ上きげんになっていたときである。 「ワンダフルだ、ほんとうにワンダフルだ」  と私はたあいもなく悦に入っていた。  するとしばらくしてふいに彼が立ち上がった。そして言うのだ。 「お静ちゃん、ちょっと」 「なアに」 「ちょっと顔を貸してくれないか」 「いやアよ」彼女は言うのだ。 「口説《くど》こうたってだめよ。今夜は珍客があるんだもの。ねえ」 「そんなことじゃないんだ。ほかに頼みがあるんだから、ちょっと来たまえよ」 「いけないよ、そんなことア、卑怯《ひきよう》じゃないか。言うことがあるなら、堂々とここで発表しろよ」  むろん私はすでに、かなり酔っ払っていたのだ。  ところが私が反対するにもかかわらず、彼女は椅子《いす》から立ち上がった。 「じゃちょっとの間だけよ」  そして彼女は私のほうを振り向いて言った。 「おとなしくしていらっしゃい。ね、すぐ帰って来るから」  ところが彼らの話というのがなかなかすまないのだ。土間のいちばん奥まった所で、だれが見ても喃々喋々《なんなんちようちよう》たる態度で、しかもその合間合間に、 「いやアよ」だの、 「まあ」だの、 「およしなさいよ」だの、  聞いていると、とても気になる感嘆詞をはさみながら、その話はなかなかすみそうにみえない。 「おい、お静ちゃん、酒がなくなったよ、酒が——」  私がいらいらして叫ぶと、 「はアい」と他の女が立って来そうにした。 「君じゃないよ。お静ちゃんだ、おい、お静ちゃんたら!」 「いま行くわよ」  彼女は振り向きもしないで答えた。  その態度がぐっと私の癪《しやく》に触《さわ》った。私は思わずひょっこりと椅子から立ち上がった。よろよろとよろめいた。 「何ッ!」 「やかましいわよ、話ができないじゃないの」  沖野藻一郎がちらりと私のほうをみると、にやりと笑った。そして相変わらず彼女との間にひそひそ話を続けるのをやめなかった。 「おい!」私は叫んだ。 「来ないな、こん畜生! いよいよ来ないんだな」  ガチャーン、と私の手に持っていたものが床の上にくだけた。 「おい!」  ガララララ! と二合瓶が土間の上を転がった。みんながいっせいに私のほうを見た。沖野藻一郎が意地悪そうに、笑いながら私の顔を見ていた。 「畜生!」  灰皿が灰けむりをあげて飛んだ。向こうの硝子戸に哀れなひびが入った。  だが!  なぜだれも止めようとしないのだろう。  第一、いつも私が暴れ出すと、真っ青になる沖野藻一郎が、どうしてあんなに泰然としているのだろう。  畜生! やけくそだい!  一輪ざしが、壁に当たってみじんにくだけた。女の首みたいなしみがそこにできた。 「うぬ!」 「おい、Yよ」  沖野藻一郎がにこにこしながら声をかけた。 「その鏡を割るのだけはよしたまえ。高くつくから」 「なに?」  だがほんとうをいうと、私はもうたんのうしていた。宵からのむしゃくしゃも、それだけの暴力の発揮で、釈然と解けていた。それ以上暴力をふるうのはむだなことだった。  で、肩で息をしながら、黙って友の顔をにらんでいた。  すると彼はきげんのよい声で言った。 「さあさあ、それで癇癪がおさまったら、うしろをごらん」  私は本能的にうしろを振り返った。すると、そこには壁いっぱいに大きくこんなことが書いてあるのだった。 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]   癇癪持ちのお客さまがた。  腹が立ったらなにかお毀《こわ》しなさい。  破壊本能を抑えてるなんてばかげたことです。からだに毒ですよ。  ——なに? 奥さまとけんかをしていらっしゃった? ではコップをおやりなさい。  ——なに? 課長の面《つら》が癪にさわる? では一輪差しをお毀しなさい。  ——なに? なにもかもが癪の種だ? それは困りましたねえ。じゃ姿見《すがたみ》でもやっつけるか。   ただしみなさま、損料は実費でちょうだいいたします。 [#ここで字下げ終わり] [#地付き]|癇 癪《キヤン・シヤツク・》 酒《バ》 場《ー》 主人敬白    読者諸君よ!  こういう酒場《バー》を開こうと思いますがいかがでしょう! [#改ページ] [#見出し]  広告人形     一  広告人形——と、いっても、呉服店などのショーウインドーの中によく見る、あの美しいかざり人形のことじゃないんだ。ほら、よく繁華な街通り、例えて言ってみれば、東京なら銀座だとか浅草、大阪なら道頓堀だとか心斎橋筋、京都ならまあ四条だとか、そういうふうなにぎやかなところを、よくのこのこと歩いている張り子の人形があるだろう。なるべく人目をひくようにへんてこな格好にこしらえてあって、その中へ人がはいって歩くんだ。そして擦《す》れ違う人ごとに広告のちらしを配っている——あれなんだ。あの広告人形なんだ。その中へはいった男の話なんだよ、いま私がお話しようと思っているのは。——  その男、大海源六《おおみげんろく》というへっぽこ画工《えかき》なんだがね、その大海源六がなぜその広告人形の中へはいったか、というのは、こういう理由からなんだ。君はマルセル・シュオブの「黄金の仮面をかぶった王様」という話を読んだことがあるかね。病気の王様が、やみくずれた自分の顔を人に見られたくないために、黄金の仮面をかぶって暮らしているという話なんだ。その男、大海源六というへっぽこ画工が、広告人形の中へはいったという理由も、ちょっとそれに似かよっているんだよ。と、いって、先生何も病者ではないがね、実は、非常に醜怪《しゆうかい》な容貌《ようぼう》の持ち主なんだ。私もこれまで長い間、ずいぶんいろんな人間とも交際してきたが、実際あれくらいご念のいったご面相をした男を見たことがないね、これを昔流に言うと、「色は炭団《たどん》のくろぐろと、かなつぼ眼《まなこ》その下に、居ずまいくずす団子鼻、綿どっさりの厚布団、二枚かさねし唇《くちびる》の、間をもるる乱杭歯《らんぐいば》」——と、いうんだが、なかなかそれどころじゃない。ほら、少し前にノートルダムのせむし男という写真が来たろう? そのせむし男のカシモドに、アメリカのロン・チェニーという男が扮《ふん》していて、そのすごい扮装ぶりが本国、アメリカではもちろん、日本でもだいぶ評判に上ったようだが、へっぽこ画工の大海源六という男は、そのロン・チェニーの扮したカシモドの顔にそっくりそのままなのだ。いや、それ以上であろうとも、決してそれ以下ということはないのだ。とまあ、そういったふうなご面相なんだから、先生、何よりも人に顔を見られることがきらいなんだ。ことに妙齢の美人連の中へでも出ようものなら、それこそ宇野浩二先生の小説じゃないが、先生たちまちぶるぶると泡《あわ》を吹いて、人|癲癇《てんかん》を起こすという始末なんだ、うそじゃない、ほんとうの話なんだよ。それなら先生、人に顔を見られるような場所へ出なければいいんだが、職業柄、また人ごみの中へ出る必要は少しもないんだが、そこがまた何たる因果だろう、先生わけもなく、しょっちゅう、人波の中にもまれていたい、という性分なんだ。難儀だね、難儀だよ。ほら、ポーの The man of the Crowd の冒頭に「独りなるを能《あた》わぬ大いなる悲劇」とあるが実際悲劇だよ。表を歩くと人ごとに顔を見られる、そして死ぬような辛い目をする、癲癇の発作を起こすことがあるくらいだから、死ぬような思いにちがいないやね。そのくせしょっちゅう表へ出ていたい、できるだけ人の雑踏するにぎやかなところを、ぶらぶら歩いていたい、というのだから実際難儀だよ。「河豚《ふぐ》は食いたし命は惜しし」というが、そのとおりだね。いや、先生にしてみれば冗談どころじゃない。なんでも彼は孤児《みなしご》でね。少年時代をちんぴらの仲間で送ったもんだそうだ。ちんぴらって知っているかい。新聞などでよく悪童と書いてチンピラとルビを振ってあるがあれだ。どこの盛り場へ行ってもきっといる。何をして生きているのか、どこで夜露をしのいでいるのか、たぶん掏摸《すり》だの万引きだの窃盗だのを常習としているのだろうが、警察でもしようがないので大抵は放ってある。そういうちんぴら仲間からとにかく、曲がりなりにも画工という名のつくものになったのだから、いわば彼も一種の成功者にちがいないが、その少年時代の生活が根強く残っていると見えて、先生一日に一度は盛り場の空気を吸って来ないと、よく眠られないというのだ。  もっとも彼とて貧乏画工のことだから、いかにそう人ごみの中にもまれていたいと思っても、おてんとうさまのある間は、そうむやみに外出するわけにはいかない。それ相当の仕事があるんだからね。でまあ、昼の間はどうにか、こうにか、仕事に追われてまぎれているわけだが、夜になると、さあもうたまらない。仕事はないし、宅《うち》(といっても汚い下宿の一室なんだが)にいても、そういうふうの男だから、だれ一人話相手はいない、となると、もう一時もじっとしていることができなくなるんだ。しばらくの間は、それでも立ったり座ったり、帯を結んだり解いたり、なんとかやっているんだが、時計の針がいよいよ七時近くに進んでくると、ついにたまらなくなって、もうそれこそ無我夢中といったありさまで、飛び出してしまうという段取りになるんだ。ところでその結果はというと、それ、前にも言ったとおりで癲癇を起こすとか、まあそんなことはまれだが、大抵の場合、少なからず気分を悪くして帰って来るんだ。  そこで先生つくづくと考えたね。なんとかこれには方法はないものかって、方法といって外出しなければ、それが一等いいのだが、そこが先生かりにも芸術家のはしくれなんだ。欲望を抑制するなんてことのできない性分なんでね。で、いままでどおり人ごみの中へ出るには出るが、人からじろじろと顔を見られない法——無理だね、それこそ首のすげかえでもしなけりゃ駄目な話だ。だが先生考えたね。もし仮面をかぶって歩くことが許されるなら、一番にそれをやるんだが、残念ながらそういうわけにはゆかない、そこで仮面に代わるものをいろいろと考えていたとき、ふと思いついたのが、ほら、広告人形なんだ。  どうだ。実際いい考えじゃないか。広告人形というやつは、人の少ないところは歩かないものだ。できるだけ、人の雑踏しているような場所を選《よ》って歩くのが職業だ。しかもだれに顔を見られるという心配はなし、だいいち、あの人形の中にどんな男がはいっているんだろう、などと、そんなばかばかしいことを考えるような人間は一人もいないからね。それにまた、些少《さしよう》ながら金儲《かねもう》けになるというんだから素敵じゃないか。窮すれば通ずというがほんとうだね。     二  で、大海源六先生、さっそくその職業をやり始めたね。時候がちょうど夏になったので、ある呉服屋の夏物大売り出しの広告だ。人形はお定まりの張り子製で、浦島太郎の格好にしてあるんだ。浦島太郎が呉服屋の広告をするのは少しおかしいが、そんなことはどうでもいいんだろう、人目につきさえすればいいんだからね。  やり始めてみると、ところが、それが又なかなかおもしろいんだ。つまり期待しなかったおもしろさがそこにあるんだね。なにしろ自分のほうの姿は相手に見られないで、しかも自分のほうからはいくらでも相手を見ることができるんだ。つまりその浦島太郎の腹のところに開いている穴が、浮世の窓みたいなものだ。そして大海源六自身はその浮世の外側にいて、その窓を通して思う存分に自分とはまったく無関係な浮世の内側の、さまざまな悲喜劇を観察することができるんだ。それにそういう格好をしていると、頭の悪い人間は、ついうっかりとその中にいる人間の存在を忘れてしまうと見えて、彼が横町の暗いところで一息入れていたりすると、ときどきとんでもない珍劇が身の回りで演じられることがあるんだ。  へっぽこ画工の大海源六先生、すっかり有頂天になってしまったね。人生にこれほど愉快な遊戯はないとさえ思われた。そしてこんな愉快な遊戯に導いてくれたのだから、自分の醜悪な容貌もまんざらではないとさえ思われるんだ。で、彼は、もう夜の来るのを待ちこがれるようにして、そのあまり軽くない、かぶればむっと息詰まりそうな浦島太郎を、すっぽりと頭からかぶって、のこのことその町の盛り場S——へ向かって出かけて行くんだ。暑さなんか、その楽しみに比較すると問題じゃない。  だが、そういう楽しみもあまり長くは続かなかった。まず彼のうんざりとしたのは、やっぱりその暑さだな。その楽しみの刺激が、まだ新しくぴりぴりと体にこたえていた時分には、その暑さもあまり気にならなかったが、少しばかりその刺激にもなれて、楽しみが薄れてくるとなると、もうたまらない。なにしろ八月という盛夏のことだから、それでうんざりしなければしないほうがうそだ。汗と埃《ほこり》とでもそれはもうたまらないんだからね。  それにはさすがの大海源六先生も少々へこたれたね。そこでもう一度彼は考えた。それをよすとなると、好きな、というよりも彼の生活にとってぜひ必要な、夜の散歩ができなくなる。いやできるにはできるが、そこには前に言ったような、たいへん大きな精神的な苦痛を伴ってくる。いったい、素面《すめん》の散歩のときに受ける精神的苦痛と、浦島太郎をかぶっての散歩のときの肉体的苦痛と、どちらがより大きいだろう。あれも辛いが、そうかといってこれも楽ではない。しかし、どちらかというとやっぱりあとのほうが楽のようでもある。だいいち、ときどき思いもうけぬ収穫にあうことがあるし——。  で、そこで彼が考えたのは、いやいや、やっぱり浦島太郎とは別れないことにしよう、それにしてもいまのままではあまりに辛いから、少しその辛さをまぎらせるために、何か一ついいことを発見しよう——と、そこで大海源六先生、罪のないいたずらを思いついたのだ。  いままで言わなかったけれど、へっぽこ画工の大海源六先生、その当時ある内職をやっていたんだ。それはどんなことかというと、画工がよくやる、図案文案引き受けます、というやつだ。つまりウインドー・バックを描いたり、ちらしの文句を考えてやったり、まあ、そういったふうなものだね。で、その職業柄、いままで手にはいったちらしだの新聞広告の切り抜きだの、というような、彼の職業の参考や研究資料になるものは、かなり丁寧にしまって持っているんだ。ことに活動写真館がまきちらす広告のちらしは、彼がたびたびそのほうへ散歩するもんだから、大抵のものはかなりたくさんもっているんだ。そうした古いちらしを一つおもしろく利用してみようと、大海源六先生考えついたのだね。  いったい、どういうふうにやるのかといえば、こうなんだ、聞きたまえ。  その古いちらしをいろいろと用意しておいて、それを彼が配るべき呉服屋のちらしの中へはさんでおく。そして呉服屋のちらしを配りながら、ときどきその古いちらしのほうを、なにげなく人に渡すんだ。それも漫然とやるんじゃおもしろみがないから、ある見当をつけるんだね。それがために彼は、あらかじめちらしをその文句によって選《え》り抜いておくんだ。だから彼が多く用いたのはたいてい活動写真のちらしだったよ。それをどういうふうに見当をつけるかというと、こうなんだ。  例えば向こうから芸者を連れた男がやって来るとするだろう、その男にはきっと女房があるんだ。その女房はいまごろ家で冷たい飯を寂しく食っているだろう。そしてその男が家へ帰ったときには、「少し会社のほうが忙しくてね」とかなんとか、そんなふうにうまくごまかすことだろう——と、まあ、大海源六先生大いに空想をたくましくするわけだが、そんなとき彼は持っている古ちらしの中から、ルイズ・ストーン氏ニタ・ナルディー嬢リアリトス・ジョイ嬢共演「妻を欺《あざむ》く勿《なか》れ」全七巻○○館を選《よ》って渡すんだ。  それからまた、男のほうがいたっておめでたい夫婦連れが来るだろう、背広の立派な紳士が子供を負ってさ、フラウのほうは耳隠しかなにかで端然と澄ましているんだ。よく絵はがきなんかにある図だね。そんなときに渡すちらしは日活会社特作映画。名優、山本嘉一氏。艶麗《えんれい》、高島愛子嬢共演喜劇、「弱き者よ男」全六巻○座といったものだ。  とまあこういった具合だね。素敵な美人に出会ったりすると、チャールス・レイの「吾が恋せし乙女《おとめ》」がさっそく役に立つ。そのほか彼がさかんに用いたものに、「良人《おつと》を変える勿《なか》れ」だの、「何故《なにゆえ》妻を変えるか」だの、「吾が妻を見よ」だの、「罪はわれに」だの、ずいぶんいろんなのがあるが、いちいち言っていてはきりがないからそれは略すとして、ただ、いまお話しようと思っているこの事件を、直接引き起こす動機となった、そのちらしの文句だけは、必要だから、といって大して必要でもないが、ともかくお話しておこうか。 ————————————————————————————————————————   ユニバーサル社提供   チャジウィック映画   ライオネル・バリムアー主演    俺 が 犯 人 だ 全八巻 [#地付き]○○○倶楽部   ————————————————————————————————————————  これなんだ。こいつを大海源六先生さかんに用いたものだ。これをどんな場合に使用するかといえばだね、その町になにか大事件が起こるだろう。例えば人殺しだとか大盗賊《おおどろぼう》だとか、そんなふうな事件が起こって、まだ犯人がつかまっていない、いや、犯人の目星もついていない、そういった場合にさかんにこれを配るんだ。あるいはそれらの犯人が、その盛り場へはいり込んでいるかもしれない。そしてたぶんびくびくものであろうところへ、そうした、「俺が犯人だ」というようなちらしを渡されれば、必ずやぎっくりと胸をさされる思いがするにちがいない。そして狼狽《ろうばい》のあまり、よく観察していれば、何か自分にとって不利な態度を示すかもしれない、ことにそのちらしが、現在配られるべきでないことに気がつけば、そうした古いちらしの混じっていたということが偶然か、あるいは故意になされたものか、身に覚えのある者なら必ず平気でいられるはずがない——と、いうのが、空想家の大海源六先生の考え方なんだ。  ところが世の中というものは、そううまくへっぽこ画工の空想に対して、おあつらえ向きにできてはいないと見えて、いっこうにそれらのちらしに対して、反響がないんだ。だいいちそれらの古いちらしを渡された、そのことだけでも、疑問を起こしそうなものだが、彼らはいっこうに平気なものだ。なかには渡された○○館のちらしと、その○○館の看板とが違っているのでちょっと首をかしげるくらいの者はいるが、その次の瞬間には、たいてい無造作にそれを投げ棄ててしまうのだ。それが自分に当てこすって渡されたものだなんて気のつく者は、とにかく一人もいないのだよ。これには大海源六先生少々失望したが、と、いって相手に文句の言えることじゃなし、それに先生根が空想家のことだから、反響があってもなくても、それはそれでいいのだ。ただそんなことをやっているということだけで、彼の心をロマンチックにしてくれるので、ある程度までの満足はそれだけで味わうことができたんだね。  ところが、犬も歩けば棒にあたる——というのか、とうとうこいつに反響があったんだよ。しかもそれが、「俺が犯人だ」のちらしに対してなんだから大変なんだ。     三  その晩、あいかわらず、先生さかんにその罪のないいたずらをやっていたが、反響のないことはまたいつものとおりなんだ。で、少々もうばかばかしくなりながら、S館のそばを通っていると、ふとうしろから呼びかける者があるんだ。 「おいおい、浦島の大将、ちょっと待ちなよ。おい、浦島の大将ったら」  大海源六先生はじめはそれが自分のことだとは気がつかなかったんだが、うしろから紙礫《かみつぶて》みたいなものを投げられて、ふと振り返って見たんだ。するとそれは、彼と同じような広告人形の一人なんだが、むろん彼のように浦島太郎ではなくて、福助の格好になっているんだ。 「君かい、いま呼びかけたのは」  へっぽこ画工の大海源六先生、常からおれはお前たちの仲間じゃないぞ、と、いう気持ちがあったものだから、そうなれなれしく呼びかけられたことが少なからず不平なんだ。 「そうだよ。まあ、そうつんけん言わずにここへ掛けろよ」  そう言って彼が指すのは、S館の横の出口のところの石段なんだ。 「そうしてはいられない、しかし何か用事かい。ふいに呼びかけたりしてさ」 「そうだよ。お前。なかなか味をやりよるな」  そう言って、むろん相手も同じように、人形の中へ隠れていることだから、顔も形もさっぱりわからないが、なんだか、にやにや笑っているらしいのだ。 「味をやるって、何だい」 「なあに、ほら、あの古いちらしのことさね」  と、言って、もう一度その不格好な福助人形は、不格好な大頭をゆらゆら動かすんだ。これにはさすがの大海源六先生もぎっくりとしたね。こんな方面に反響があろうとは思わなかったんだからね。いくぶんうろたえぎみで問い返したものだ。 「なんだい、その古いちらしてえのは」 「白《しら》を切りなさんな、『俺が犯人だ』——か、おもしろいな」  そしてまたその福助人形はゆらゆらと笑うのだ。大海源六先生はそういう相手の態度が癪《しやく》にさわったし、それにいくぶん気味悪くもあったので、しばらく黙っていた。すると、その福助人形は偉大な頭をすり寄せるようにして、低い声で彼にささやいたものだ。 「で、どうだった、結果は。犯人の目星はついたかい」 「犯人って何さ」 「そういちいちこだわりなさんなよ。わかってるじゃないか、ほらA町の砂糖屋殺しさな」  そこでへっぽこ画工の大海源六先生、思わず浦島太郎の腹の中で、はたと胸をつかれる思いがしたね。というのは、その晩、先生がさかんにその、「俺が犯人だ」のちらしを配っていたというのは、実はその事件のためなんだ。A町といえばその盛り場のSと目と鼻のところにあるんだから、その町で昨夜起こったおそろしい殺人事件の犯人が、ひょっとするとこの歓楽境へ出没しているかもしれない、と、こう考えたんだね。 「どうして君は、そんなことを知っているんだ」  すると、またその福助人形はゆらゆらと笑いながら、 「とうとう兜《かぶと》を脱いだね、そりゃもう——」と、ちょっと大頭をしゃくって見せながら、 「しかし、お前まだあたりがついていないようだな」 「うむ、からっきし駄目なんだ」 「なんだい、手前職業のくせに目がきかねえな。少し八ツ目|鰻《うなぎ》でも食うたらどうだい」  と、いうその口ぶりから察すると、その男はへっぽこ画工の大海源六を、刑事か何かとまちがえているらしいんだ。 「と、そう言われると、なんだか君のほうにあたりがありそうに見えるね」 「あるとも、大ありだよ」  と、そこでもう一度、その福助人形は、大きな不格好な頭をしゃくって見せながら、 「実はね——」  と、いやにひそひそ、話し出したことがこうなんだ。  若い、美しい女がふいに低い叫びをあげた。めまいがしたようにふらふらと二、三歩体をうしろへよろめいた。そしてなんとなく不安を感じたように、そわそわとあたりを見回していたが、落ち着かない態度で、いそぎ足で向こうへ行ってしまった。そのとき、福助人形の中へはいっているその男は、彼女のすぐそばにいたので、彼女の顔が蝋燭《ろうそく》のように真っ青になったことから、彼女の顔の筋肉が死人のように固くなったこと、彼女の五体が小鳥のようにわなないたことまで、手に取るように見ることができた。何がそんなに彼女を驚かせたのか。そのとき、彼の面前へ、しわくちゃになった紙屑《かみくず》が彼女の手によって投げ棄てられた。拾って見ると、それがいま言うそのちらしだった。「俺が犯人だ」のちらしだった。 「あの驚きはとても普通の驚きじゃないよ。何かあるんだ。きっと何かあるんだ。もっとも、A町のあの事件に関係があるかどうかはわからないがな」  と、その福助人形の男の話なんだ。 「で、その女はどうしたい。見失ってしまったのかい」 「なかなか。お前じゃあるまいし、その女というのは、ほら、そこにいるんだ」  と、その男の指さしたのは、S館の隣にある、あやめバーという西洋料理店の二階だった。大海源六先生、思わず浦島太郎の腹の中で、ぎっくりと唾《つば》をのみ込んだね。こりゃ非常におもしろいことになったという気持ちと、こりゃ非常に困ったという気持ちと、ちゃんぽんになった感じだな。で、彼は、そわそわと、まるで自分が悪いことをしたように、しわがれ声で尋ねたものだ。 「で、その女は美人かい」 「うむ、なかなかの美人だよ。二十五、六のな」 「しかし君のいま言っただけでは、その女がたしかにA町の事件に関係があるとは言えないな」 「そりゃそうだ。しかし『俺が犯人だ』という文句を見て驚いたんだから、その事件に関係のあるなしは別としても、十分お前が調べておく必要はあるな」  そりゃそうだ。大海源六先生なにも刑事じゃなし、また、A町の殺人事件だけに興味を持っているわけじゃないんだから、何かおもしろそうでさえあればなんでもいいわけなんだ。 「その女はどうやらこの二階で男と密会しているらしいんだ。お前ひとつ上がって行って様子を探って来たらどうだい」  そしてさかんに、その男は大海源六を扇動して、その二階の様子を探って来ることをすすめるんだ。もし大海源六が人並みの容貌の持ち主だったら、きっとその男の扇動に乗ったことだろうが、なにしろ前に言ったとおりだから、おいそれとそういうわけにはゆかないんだ。で、彼は言った。 「そりゃ駄目だよ。もしその女がおれの顔を知っていてみろ、いやその女は知らないまでも、あのバーの給仕たちはみな知っているからな、そうすりゃぶっこわしじゃないか。何のためにこの暑いのに、おれがこんなものをかぶっていると思うんだ」  と、そう言ってから、大海源六、われながらうまいことを言ったものだと感心したね。もっともそのバーの給仕たちが彼の顔を知っているのは事実なんだ。と、いうのは、そこのビラだの装飾絵だのを、始終彼は書かしてもらっているんだからね。そうすると、なるほどと、その福助人形の男は感心したように首を振ったが、しきりにそれを残念がるんだね。なんだかその男の言うところによると、その相手の男さえ見て来れば、何もかもがわかってしまうというような口振りなんだ。大海源六先生だんだんおかしく思うようになってきたね。いかに彼が迂闊《うかつ》にしろ、考えてみればそれはおかしいじゃないか。だいいちその男の話全体が、とって付きはいかにも彼の空想にこびているので、まあ、はじめは相当もっともらしく聞こえるんだが、しかしよくよく考えてみると、どうもそれはぴったりと実感に添ってこないんだ。大海源六という男は、彼自身かなりとっぴな空想家で、へんてこな自分の空想をひとりで喜んでいるという男なんだが、いざ実際問題にぶつかるとなると、人一倍理性の発達した常識家なんだ。だからその場合でも、その男の話を信用して、彼が言うところのその女なる者を疑うよりも、むしろその男自身のほうへ疑いを向けたほうが、より実際的じゃないか、と、そろそろそんなふうに考え出したんだね。そう疑うと、なるほどそこには怪しいところがあるんだ。それというのはその男の話しぐあいだ。さっきからそれは気がついていたんだが、その男の話しぐあいというのは、いやにぞんざいなんだが、それがどうも真底からぞんざいなんじゃなくて、わざとそう努力しているらしく思われることなんだ。なにしろその男も人形の中にかくれているので、姿かたちはよくわからないが、どうも相当教養のある男のように思える。そうだとすると、それはずいぶんへんてこだ。いや、考えてみるとべつにへんてこでないかもしれない。だいいち、そこに彼自身といういい例があるんだからね。そこで大海源六考えた。その男も、ひょっとすると彼と同じような醜貌の持ち主かもしれないぞ。そして彼と同じような「雑踏の子」であるかもしれないぞ——などと、大海源六そういうふうにしばらくとつおいつ考えたね。考えたとて、それは結局わかることじゃないのだが。  すると、そういう彼の気持ちを、どうやらその男は気がついたかして、言い訳をするように言うんだ。 「お前さんの疑うのはもっともだね。しかし、いまにわかることだよ。もうすぐその女は出て来るだろう、なあに、はいったものが出て来ないという法はないさ。それにしても、あの女がいったいどんな男と密会するのか、それをよく見ておきゃいいんだがな。出て来るときにはたぶん別々になるだろうからな」  そうだ。この男はさっきからしきりに、その男というのを気にかけている。いったい、それは何のためだろう。彼が口に出して言っている、それだけの理由からだろうか。それにしてもおかしいじゃないか。ちらしを見て驚いた女が、このバーへはいったことは尾行をしてわかったんだろうが、彼女がそこで男と密会するというのは、どうして知れるんだろう。そうだ、そうだ、この男はやっぱりただ者じゃないぞ。そう気がつくと、大海源六先生、ぴりぴりと全身の筋肉がふるえたね。くせ者は、バーの中にいる人たちより、むしろこの男のほうなんだ。そう思って彼は福助人形の腹のところにある、薄絹《うすぎぬ》を張った穴の中をのぞいて見たが、むろん中の男の顔の見えることじゃない。  とにかく、そんなことで彼らはそこで、一時間あまりも立ち話をしていただろうか。むろんありがたいことには、そんな姿なのがかえって人目をひかないんだ。広告屋が二人、あまり暑いので油を売っているな。見る人が見たとて、そうとより以上には思えないんだ。その人形たちの腹の中で、そんな葛藤《かつとう》が起こっているとはだれの目にだってわからないからな。  すると、ふいに福助人形のほうがぎっくりと体をうしろへ引いたんだ。で、大海源六はいちはやくあやめバーのほうを見ると、ちょうどそのとき、階段を降りて来る女の、はでな姿の裾《すそ》のほうから、ちらちらと見えて来た。そこの二階は、よくバーやカフェーにあるように、往来からすぐ上がれるようになっているんだ。で、見ていると、まもなく二十五、六の、素敵に美人でハイカラな女が、その階段を下りて来た。それが待ちうけていた女であることは、福助人形の腹の中にいる男の息遣《いきづか》いでただちに察しられるんだ。だが、その女の顔を一目見たせつな、大海源六は思わず浦島太郎の腹の中で「うむ」とうなったね。というのは——いやまあ、それはまだ言わないことにしようや。  さて、女は往来へ出ると、きょろきょろと、いかにも不安そうな態度であたりを見回していたが、やがてうしろへ振り向くと、手をあげてなんだか合図らしいことをするんだ。そうしておいて、彼女はもううしろも見ずにとっととそのバーの入り口を離れると、S館の角を西へ向かって曲がって行くんだ。その彼女のすぐあとから、今度は二十歳前後の色の白い、セルロイド縁の眼鏡をかけた青年が、臆病《おくびよう》らしくおどおどした態度で出て来たが、それがまたS館の角を西のほうへ曲がって行くんだ。ちょっとよく見ておれば、そうして別々に出て来た彼らが、連れであることはすぐにわかるんだ。あまり人目にたたないところまで行けば、きっと彼らはまた一緒に、肩を並べて歩くことだろう。  彼らがS館の角を西へ曲がってしまうと、福助人形は例の不格好な大頭を振り立てて、腹の中で何だかぶつぶつつぶやいていたが、ふと思いついたように、そばに立っていた浦島太郎に言葉をかけた。 「あれだ、あれなんだ。あの女が『俺が犯人だ』のちらしを見て色を失ったんだ。ぐずぐずしていてはいけない、すぐにあとをつけて行かなくちゃ——」  そこで大海源六先生、ちょっと首をかしげて考えてみたんだが、結局その男の言葉に従うよりほかはないように思われたので、まあ一緒に行くことにしたんだ。で、そこに奇妙な、思い出しても吹き出しそうな追跡が開始されたわけだね。この追跡が、浦島太郎の大海源六にとっても、またもう一人の福助人形の中の男にとっても、どんなにスリリングな思いであったか、そういうことはこの際余談だから一切省略するとして、さてその女とその青年だ。彼らはやっぱり疑うべくもなく連れであったと見えて、人通りのまばらな裏通りへ来ると、いかにも親しげに、いわゆる喋々喃々《ちようちようなんなん》といった形で、肩もすれすれに並んで行くんだ。そういうあとから、二人の男が汗と埃と、それから疲労のためにぐたぐたになりながらつけて行くんだが、そういう光景を想像すると、たしかに滑稽《こつけい》を通り越して一種の悲惨だね。そういう尾行がものの二十分も続いたことだろうか。とうとう、いまは疑うべくもない彼ら恋人同士も、さすがに疲れてきたと見えて、ある暗い、人目のない裏通りで立ち止まった。そしてそこでしばらくひそひそと立ち話をしていたんだが、やがて驚いたことには、彼らはそこで接吻《せつぷん》をしたんだ。大海源六思わずうむとうなったね。嫉妬《しつと》とも羨望《せんぼう》ともつかぬ、ある曖昧《あいまい》な感情で、彼はもう目がくらみそうなのだ。すると、不思議なことには、彼のそばに立っていた福助人形の中の男も、同じような思いなのか、ふいにがたがたとふるえ出し、どうしていいのかわからないように、そこらあたりをうろうろと歩きまわるんだ。そしておろおろと何やら低い声で、訳のわからぬことをしゃべり散らしているんだ。それはもう、まぎれもない相当教育のある紳士の言葉遣いだ。大海源六はもうたまらなくなった。で、つかつかと恋人同士のほうへ向かって進み出したんだ。 「水谷さん、水谷さん」  むろんそう呼びかける彼の声はふるえていたね。いや、ふるえているのは声ばかりか、彼の全身なんだ。魂の底までふるえているんだ。  女は、いや恋人同士は、エクスタシーのさなかに、ふいとそんな化け物のような姿をした者に声をかけられたので、冷や水を浴びせられたようにぎっくりとしたにちがいない。わけても男のほうの狼狽《ろうばい》のしようったら、まるで地蔵仏の裾にかくれる幼児のように、女のうしろに身をすくめてしまった。むろん女のほうだって平静でいられるはずはない。真っ青な顔に歯を食いしばって無礼者、寄らば斬《き》らんという身構えなんだ。大海源六、つくづくと情けなくなって、半分泣き出しそうな声で言ったものだ。 「私ですよ、水谷さん、私ですよ」  そう言って彼は浦島太郎の腹のところにある穴から、例のまずい面を突き出したものだ。女はとう見、こう見していたが、 「あら、桑渓《そうけい》さんじゃないの、どうしたのよ、その姿は」  と、さもさもあきれたという声で叫んだ。  言い忘れたが大海源六は、桑渓という雅号を持っていたんだ。 「そうです。私です、大海桑渓です」  彼はまぶしそうに彼らの視線を避けていたが、やがて彼らの無言の詰問に答えるべく、まるで堰《せき》を切って落としたような勢いでしゃべり始めたんだ。彼がいかにしてそこに立っている福助人形と心やすくなったかということから、福助人形の男の話、それに続いてA町の砂糖屋殺しの事件まで、それこそ落ちもなく雄弁にしゃべりたてたんだ。 「しかし私は知っています。あなたのような有名な歌劇女優、水谷らん子ともあろうものが、人殺しなどするはずは毛頭ないし、だいいちこの男、だれだかわからないが、福助人形の中に隠れているこの男の話がみんなうそだということは、今夜私が貴女にちらしを差し上げた覚えの少しもないことからしてもわかるんです。この男はきっと、うまく私を操ってあなたたちの様子を探らせようと思っていたにちがいないのです。さいわい私が貴女をよく知っていたからよかったようなものの、ほかの者ならどんなに、とんだまちがいができたかもしれません。ひどいやつです。ほんとうにひどいやつです」  と、いうようなことを、くどくどと、羞恥《しゆうち》と慚愧《ざんき》と、そして不思議なことにはある一種の快感との、ごっちゃになった複雑な心持ちの中でしゃべりたてたものだ。  有名な歌劇女優の水谷らん子は、その能弁にけおされたように、しばらくはぽかんと立っていたんだが、やがてやっと彼の言うところの意味がのみ込めると、ふいに憤然としてそこに立っていた福助人形のほうへ向かった。彼もたぶん、大海源六の多弁に足がすくんで逃げ遅れていたんだろうが、女のその態度に初めてわれにかえって、おくればせながら足を浮かせた。しかし、なにしろそんな物を身につけているものだから、逃げるにも逃げられず、たちまち女の手に捕えられて、猫《ねこ》のように哀れな悲鳴を挙げたんだ。 「まあ! あなた! やっぱりあなたね!」  女のその金切り声に振り返ると、福助人形は無残に腹のところを打ち破られて、そこから五十近い、頭のはげた、しょぼしょぼ髭《ひげ》の顔が、情けないといった様子で首をすくめてのぞいているんだ。 「あ! 磯部律次郎氏!」  磯部律次郎というのは、水谷らん子の有力なパトロンで、いわば彼女の旦那なんだ。職業は弁護士で、そのほうではずいぶん敏腕家だという評判だが、そんなところを見ると、からっきし意気地なしだね。らん子はふいに、わっと大声で泣きだしたかと思うと、それこそ荒れ狂う夜叉《やしや》のように、しょげきっている男の胸にすがりついていったものだ。 「畜生! 畜生! やきもち焼きめ! いつぞやはあたしに秘密探偵《ひみつたんてい》をつけて、散々にあたしを困らせたのに、それだけでは飽き足らないで、今度は自分から探偵のまねをしているんだな。そうだ、あたしが良《よ》っちゃんと始終、あのあやめバーで出会っているということをどこからか聞いてきて、それでそんなふうをしてあたしを監視していたんだろう、ばか! ばか! やきもち焼き! しかも桑渓のような化け物とぐるになりゃがって、ああ、くやしい、くやしい!」  そして、ヒステリー女の力というものはおそろしいものだね。道ばたに落ちていた手ごろな棒切れを拾いあげたかと思うと、当の本人磯部律次郎はいうにおよばず、へっぽこ画工の大海源六までを、それがために三週間病院で呻吟《しんぎん》しなければならなかったほど打って、打って、打ちすえたものだ。     四  むろんそれがために、へっぽこ画工の大海源六先生、もうそんなばかばかしいまねはしなくなったよ。 [#改ページ] [#見出し]  裏切る時計  私《わたし》はいままで、その女、山内《やまのうち》りん子殺害の動機については、だれにもほんとうのことを打ち明けはしませんでした。別にそれは、少しでも罪を軽くしようとか、あるいは言い逃れる機会を多くしようとか、そうした功利的な気持ちからではなく、実は、あまりにばかばかしく、お話にもならないほどとんまなまちがいに、つい気恥ずかしくて口に出すことができなかったのです。  悪党には悪党相応の虚栄心というものがあります。同じ年貢《ねんぐ》を納めるなら、何か気のきいた、世間をあっといわせるような事件で年貢を納めたい、そういった共通の気持ちがあります、おかみをさんざんてこずらせ、世間を五里霧中の困惑のなかにひきずり回す、そうした大事件の後に捕えられるなら、悪党としてはむしろ本望でしょう。  ところが私のこの事件というのは、なんというばかばかしい、間の抜けた犯罪でしょう。初めから終わりまでまちがいに終始しているようなものです。それもお話にならないほど間のぬけたまちがいに……。だから私は、口が縦に裂けようとも、このことだけは打ち明けたくないと思っていました。しかし、このごろではだんだん気持ちも変わってまいりまして、どうせ先のない体なのだから、いっそこのことを打ち明けて、思いきり世間の人たちにわらってもらいたいという、いままでとは反対の欲望が起こってまいりました。  そういうわけですから、いまこれを読まれようとする諸君は、これを死刑囚の最後の手記だというふうに、堅苦しくとらわれないで、なにか落語でも読まれるつもりで、のんきに、らくらくと読んで下されば結構なのです。  さて、その事件のほうへ話をすすめる前に、私自身の身分から打ち明けておきましょう。私、河田市太郎《かわたいちたろう》は、大正二年に帝大を卒業した、これでも立派な法学士なのです。学校の成績はいたって良好なほうで、自分からいうのもおかしいが、秀才の誉れさえ高かったほどなのです。だから学校を出ますと、引き手あまたあったわけですが、私は自分から好んである貿易商に勤めることになりました。これがそもそもまちがいの原因だったので、そこへ入った当座、数年間というものは、みなさまも御存じの戦争のおかげでどこの貿易商も大当たりです。なにしろ学校を出るとさっそくその景気ですから、世の中に不景気などはどこにあるかといった気持ちで、ついうかうかと、その日その日をしたい三昧《ざんまい》で送っておりました。ところがその天罰は覿面《てきめん》で、大正九年以来のあの大不景気、それに続いていろんな天災地変のために、見かけはいたってはでにやっていましたが、心に締まりのなかった私の勤め先は、たちまちぐらぐらと屋台骨がぐらつきだし、間もなく分散しなければならなくなりました。  もっとも会社はつぶれても、××貿易商の河田市太郎といえば、相当敏腕家として事業界に聞こえていたものですから、そのままおとなしくさえしておれば、どこか確実なところへ身売りもでき、まさか今日《こんにち》のような破目になるはずはなかったのですが、なにしろ××貿易商にいたときは、いたってはでな商売のやり方をしていたものですから、とても堅気な会社で、新参者として勤まるはずがありません。  そこで幸い少しばかりの蓄えがあったものですから、それを資本に、才にまかせて盛んにいろいろなことに手を出しました。ところが、悪いときにはどこまでも悪いもので、することなすことが、ことごとく的を外れて、しまいには二進《につち》も三進《さつち》もゆかなくなってしまいました。そうなるともうやけくそです。いつからとはなく不正事業に手を染めるようになりました。  この悪事というものが誘惑の強いもので、いったんそれに手を染めたが最後、もうとうていだめです。だんだんと深みへ陥って行くばかりで、とてもむかしのまっすぐな生活にかえろうなど、思いもよらぬことなのです。ことに私のように、法律の表裏に明るく、ありあまる才気を持てあましているような男には、悪事それ自身が興味の中心となって、とても正直な金もうけなど、まどろかしくてしようがなくなるのです。つぎからつぎへと新手《あらて》な詐欺を考えだしては、それでひともうけする。それがもうなんともいえぬほど愉快なのです。一つの新しい方法を考えだしては、それを実際に行なう、そのときの緊張した心持ちは、とても正直な生活をしている人々にとってはわからない愉快さなのです。  おかげで間もなく、私は相当の蓄財もでき、貿易商に勤めていた時代とは、また別なそしてとてもくらべものにならぬほどのぜいたくな生活をするようになりました。  その女、山内りん子と懇意になったのはちょうどそのころのことなのです。言い忘れましたが私はそのころまで独身で通しておりました。好況時代は好況時代で、女房があれば遊ぶのに邪魔だというので、そして不況時代にはまた不況時代で、とてもそんな余裕さえなかったものですから、ついうかうかと独身で過ごしてきたのですが、そのころになってつくづくとやもめ暮らしの淋しさが身にしみるようになりました。そこでふと目についたのが彼女、山内りん子なのです。  彼女は当時あるカフェーの女給をしていました。私は二、三度そのカフェーへ行ったきりなのですが、その二、三度で、すっかりと彼女が気に入って、さっそく家《うち》へ引き入れたのです。彼女は美人というほどではありませんでしたが、しおらしい顔つきの、素直な性質《たち》の女でしたので、私のようにたえず神経を鋭く働かせている男には、もってこいの好伴侶でした——と、少なくともそのときはそう思っていたのです。  幸い彼女には係累《けいるい》とては一人もなく、まったく孤児《みなしご》同様な身柄だったので、そういうことはいたって簡単に運びました。むろん私は、自分のほんとうの職業についてはひと言も、彼女に打ち明けはしませんでした。ただ、米や株をやっているのだというふうに、巧みに彼女をごまかしていたのです。彼女もかなりのんきな女とみえ、別に深く聞きほじるようすもありませんでした。  そういう生活がものの一年も続いたことでしょうか。そのころになって私は初めて、彼女の中にいままでまったく隠れていた一つの欠点を発見したのです。それはヒステリーなのです。それも、とても激しいヒステリーなのです。もっともこれは私自身が知らず識らずの間に誘発したのかもしれません。なにしろあきっぽい私のことですから、同じ女と一年も同棲を続けていると、もうそろそろと彼女が鼻について来るのです。するとそうした気持ちがたちまち相手に反映するのでしょう。そのころになって彼女は急にしつこく、私につきまとうようになりました。ところで相手がそうした態度に出ると、私のいやけは急に増進するのです。すると彼女はますますうるさく私につきまとってくる。私はいよいよ彼女がいやになる。そこでとうとう彼女の体内にひそんでいたそのヒステリーが激しく頭をもたげるにいたったのです。  そうなると私はもう彼女の顔を見るさえ、へどが出そうです、とてもたまらないいやさなのです。彼女はまた彼女でたえず私の行動について監視の目を怠らない。しまいにはそれがいつの間にか私の職業にまで及んできたようでした。いままではかつてなかったことだのに、私の収入の道についてそれとなくあてこすりを言ったりするのです。  私はだんだん彼女が恐ろしくなってきました。ヒステリー患者というものは、常人の四十倍もの聴覚を持っている、ということをだれかに聞いたことがあります。たぶんそれは、聴覚ばかりではなくあらゆる神経においてそうなのにちがいありません。そうだとすると、いつ何時彼女は私の秘密をかぎつけるかもしれない。いや、すでにかぎつけているかもしれないのです。そう考えるともう、うとましいどころではなく、真実彼女が恐ろしくなってまいりました。ヒステリー女の嫉妬から、いつ警察へ密告されないものでもない、そういった脅迫観念にたえず悩まされる身となってしまったのです。  そうした二人の心と心の間に生じたギャップに乗じて起こったのが、すなわちその夜の事件なのです。  珍しくその夜私は、自分で彼女と晩飯を共にしました。そうしたことは実際久しぶりだったので、彼女もいつになく上きげんだったし、彼女の上きげんな顔を見ているのも、たまにはよいものだと思いながら、私は思わず少々ばかり酒を過ごしてしまいました。そうした表面から見ればいたって幸福そうな晩飯がすんで、さてその後のことです。どうしたはずみからか彼女はふところから紙入れを取り出しました。そうそうなんでも湯札を取り出すためだったと覚えています。ところが紙入れを取り出すはずみに、ひらひらと片付けた食卓の上へ落ちたものがあります。見るとそれは新聞の切り抜きなのです。 「なんだい、これは」  そう言いながら何気なく私がそれを取り上げようとしますと、そのとき、ふとそれを見た彼女は、 「あら!」  と不相応に大きな声をあげて、突然にそれを横から奪い取ろうとするのです。彼女がそういう態度に出なかったならば、別に私はそれを見たくもなんともなかったのですが、彼女がへんに思わせぶりなふうをするものですから、私は思わず片手でそれを押さえ、もういっぽうの手で彼女の手を払いのけました。 「なんだい、なんだい、読ましてもいいじゃないか」 「いけないわよ。後生《ごしよう》ですから返してちょうだいよね」 「返すよ、むろん。だけどちょっとぐらい見せてもいいじゃないか」 「いけないの、いけないの、読んじゃいけないの、ね、後生ですから読まないで返してちょうだいよ」  そういう彼女の声はへんに真剣で、そうした態度からみると、よくよくそれが重大なものらしく感じられるのでした。 「変だぜ。そう隠しだてされると、いよいよ見たくなるさ」  そう言いながら、私は右手で彼女の体を抱きすくめ、左手で四つに折ってあったその切り抜きを開いて読んでみました。だが私は、その本文を読むまでもなく、初号活字で印刷してある見出しを見ただけで、たちまちはっとしてしまいました。冷たい刃を襟元《えりもと》へ差しつけられたような戦慄《せんりつ》が、ピリピリと背筋を走りました。「またまた新手の詐欺現わる」と大きな見出しがついて、そのわきに「都会人士よ御用心あれ被害金高およそ五万円」  それはいうまでもなく最近私のやった仕事について、おそまきながら騒ぎだした新聞の記事なのです。  私は悪党たちに共通なある虚栄心から、そうした自分の仕事について、ばかな騒ぎを演じている新聞の記事を読むのが、いたって好きなほうなので、それでよく覚えておりますが、それはたしかに今朝《けさ》のM紙に載っていた記事に違いないのです。  なんのために彼女がそれを切り抜いていたのでしょうか、それはいうまでもありますまい。  そのとき、私に抱きすくめられていた彼女は、私がその記事を読んでしまったとみるや、必死の力をふるって、私の手から逃《のが》れ去ろうと身をもがきました。私はかっといたしました。いつもよりやや多く飲み過ごしていた酒が、一時に頭のほうへ向かって逆上しました。なにか自分で言ったようですが、はたしてなにを言ったのやら、少しも覚えてはおりません。多分殺気に満ちた声を発したのでしょう。彼女は激しく身をもがきながら、声を立てて救いを呼ぼうとするようにみえました。そこで私は左の手で彼女の口を押さえると、右の腕で、激しく彼女の首を絞めつけました。ややしばし彼女は手足をばたばた動かしていましたが、やがてその力が衰えてきたと思うと、ぐったりとその全身の重みが私の膝《ひざ》の上にかかってきました。そこで初めて私は、彼女が死んでしまったことに気がついたのです。  まあ、そのときの私の驚きと狼狽《ろうばい》のさまをお察しください。私はけっして彼女を殺すつもりなどでは、毛頭なかったのです。第一そんな生易《なまやさ》しいことで、人間の一命が絶たれるものだなどとは、夢にも考えていなかったことなのです。そのときだって、私が酒を飲み過ごしているのでなかったら、けっして彼女を死にいたらしめるほども絞めつけはしなかったでしょう。  でも彼女は死んでしまったのです。口のほとりに粘っこいあわを吹き出し、たんのように真っ白な目をむき出した彼女の醜い死に顔! おおなんという恐ろしいことでしょう。私の頭には種々雑多な、まるで映画のフラッシュバックの場面のような、とりとめもない想念が、目まぐるしく回転しておりました。  だが、だんだん気が落ち着いてくるにしたがって、私はそんなことをしているときではないと気がつきました。もし彼女を手にかけたということがわかったら、いったいどうなることでしょう。いうまでもなく私は死刑を逃れることはできますまい。だれだってそれが酒の上の過失だとは思わないでしょう。なにしろ余罪が沢山あって、調べが進むに従って、それらが暴露してゆくにちがいないのですから。  逃れなければならない! 逃れなければならない! こんな女のために長い将来を抹殺《まつさつ》されてどうなるものか。  私は彼女の重い頭を膝から畳の上へと移すと同時に、ふと何気なく柱時計をながめました。ちょうど時間は八時半でした。いったいさっきの物音を、玄関にいる書生の葉山《はやま》は聞きつけたでしょうか。いやいや、勉強に夢中になっているにちがいない彼のことだからなにも気づかなかったにちがいありません。それに物音といっても、ほんのわずかの間だったし、お互いに立ち上がるひまもなく、食卓のそばに坐ったまま起こった事件ですもの。そんなに大きな物音のしたはずがありません。  さて——と、時間は八時半です。そして九時にはA駅を出る上りの列車があるはずです。そしてまた、私の宅からA駅までは、三分とかからない距離なのです。  おお読者よ。そんなにとっさの場合、しかも恐ろしい死体を前にしながら、そんなに複雑な計画を立てた私を怪しまないでください。そんなにとっさの場合であればこそ、かえってそんなに複雑な計画が浮かび出したわけで、これが前々から考えて行なわれた犯罪であれば、もっと簡単な、そしてもっと合理的な手段が選ばれたのにちがいありません。なにしろとっさの場合、こんなばかばかしいカラクリでもするよりほかにはしようがなかったのです。もっともそのときは、いくぶん酒に酔っていたものですから、そのカラクリが少しもばかばかしくは考えられず、これこそ独創的で、申し分のないトリックだと思っていたのです。  さて、そのカラクリというのをお話しいたしましょう。それは時間的に現場不在《げんじようふざい》証明《しようめい》を作ろうという考えなのです。つまり犯行は私の留守中に起こったように見せかけようというのです。それ以外に絶対に私の逃げ道はありそうにありませんし、それにこの現場不在証明《アリバイ》というものは、取り調べの際、最も重要な役目をなすということを知っていたものですから、その場合それにすがるのが第一だと考えたのです。たとえ一分にしろ、いや一秒にしろ、私がこの家《や》を出たときと、そして犯行の起こったときとの間に時間があれば、ただそれだけで、そのほかにはどんなにもろもろの証拠がそろっていたにしろ私は無罪を主張しうるだろう。つまりそういうふうに私は考えたのです。  もし読者の中に外国の探偵小説を読まれた方があるなれば、それらの諸君はよく御存じでありましょう。外国の犯人たちもしばしばこういう偽証を作るために苦心するのです。そしてその偽証の手段として、彼らの一様に用いるところのものは、すなわち時計であります。ある時刻、たとえば夜の一時ごろに犯罪を犯す、そして彼らはその犯罪がその時刻より前、あるいはあとに起こったように思わすがために、時計をまったく別な時刻、たとえば二時だとか、十二時のところで止めておくようにするのです。ところでこれはなんというばかばかしい考えでしょう。少し目のきいた探偵たちは、ただちに犯人たちのそのカラクリを看破しますし、看破しないまでも、故意に止められたその時刻にそんなに多くの信用をおかないでしょう。  さて私の考えたカラクリというのは、それよりは一歩進んでいるつもりなのです。私がそのとき、ある一つのことさえ失念しなかったなら、きっとこのカラクリは成功していたにちがいないのです。つまりそれはこうなのです。  いま私は九時発の列車で(汽車の時間というものは最も正確です)どこかへ行く、そして一晩泊まって、翌日の朝帰ってくる。犯罪はたぶんそのころには発見されているでしょう。そしてあらゆる疑いは私にかかってくるでしょう。ところでそのとき、この部屋にあるあの柱時計が、九時十五分ぐらいのところで止まっていたとしたらどうでしょう。むろん、刑事たちは私が家《うち》を出る時、あらかじめ時計をそこで止めて置いたにちがいないと疑うでしょう。ところがここに驚くべきことには、私が家《うち》を出た後も、その時計はたしかに動いていた。しかも正しい時間を示しつつ動いていた、と証言する者があったとしたらどうでしょう。刑事たちはきっと面食らい困惑し、そして私は皮肉な微笑を浮かべながら、自分の無罪を主張することができるのです。  それはどうすればよいか、それはわけもないことです。つまりその柱時計を、ごくわずかの角度だけ傾けておけばよいのです。振り子のついた柱時計というものは、垂直の位置をとっていない場合、よく止まるものです。が、それが動かしたすぐその場では止まらずに、幾分かの後に初めて止まるようになるのです。私は自分の経験から、その時計をごく少しだけ右なり左なりに傾けておくと、少なくとも止まるまでには二十分ぐらいを要することを知っているのです。  さてそういう計画が頭の中で成り立つまでには、約十分の時間を要しました。時間はちょうど八時四十分です。私は立ち上がって、さっそくいろんな仕事にとりかかりました。それは要するに、私がこの家《や》を出た後で、強盗が忍び込んで来て、彼女を絞め殺したというにふさわしい場面を作り上げる仕事なのです。そして強盗と彼女との争いの間に、彼らのどちらかがその時計に触れたために、振り子が止まったにちがいないと説明するにふさわしい場面なのです。  それについて私は、どの点から見ても一|分《ぶ》の隙《すき》もないほど、立派に作り上げたつもりです。たとえば雨戸をこじ開けた跡だとか足跡だとか、障子の破れだとか、もうどこから見ても、犯人は外部より入ったとしか思われないように作り上げたのです。そんな仕事にまた十分間ほど要しました。むろんそれらの間に、ときどき彼女の声音《こわいろ》を使って、話し声を聞かせたりするようなことも忘れはしませんでした。そうしていよいよ九時五分前となると、私はすっかり外出の用意を整え、そして最も大きなカラクリであるところの、その時計を少しばかり横に傾けておきました。そうしておけば、その時計は九時十五分ごろに止まるにちがいないのです。  こうしてすべての手配をすました後、私は悠々と玄関へ出て行きました。書生の葉山は居眠りでもしていたらしく、私の跫音《あしおと》を聞きつけると目をしょぼしょぼとさせながら出てまいりました。彼が居眠りをしていたということはもっけの幸いです。で、私は内心|安堵《あんど》を覚えながら、 「ええと、これから九時の列車で×市へ行かねばならんのだがね、その後で、津村《つむら》さんとこへ電話をかけておいてくれないか。今晩まいるお約束でしたが、余儀ない事情のためにまいれませんといって。——そうそう、津村さんは九時までは病院のほうが忙しいから、それまでじゃだめだ。奥の時計が九時を打ったら、そのときに一度電話をかけてごらん。それからね、このごろあの時計は少しずつ遅れて困るが、九時にはA駅を出る列車があるから、あの列車の発車の汽笛と、よく合っているかためしてごらん。いや、別に直さなくてもよいのだ、どのくらい遅れているか気をつけておいてくれればよいのだ。それがすんだら寝てもいいよ。奥さんはもう床に入っているからね」  これだけ言っておけば大丈夫です。彼が犬のように忠実に、私のことばを守ることをよく私は知っているのです。  死体はたぶん明日《あす》の朝、彼によって発見されるでしょう。そしてどんな名医であろうとも、死後十時間以上も経過した死体から、犯行の時間を何時何分とまで正確に指摘することはできないでしょう。そこに半時間ぐらいの誤差のあることは少しもわからないことでしょう。  さて、その晩私はあらゆる場所に時間の証明をおきながら、かねてなじんでいる女のいる女郎屋へ行って泊まりました。ところが読者諸君よ、私はそこで、とんでもないまちがいを発見したのです。それは実に呪《のろ》わしく、ばかばかしく、そして情けない発見なのです。  女郎屋の二階で帯を解いていたときのことです。私のふところからひらりと畳の上へ舞い落ちたものがあります。 「なあに、それは」  そう言いながら女がそれを拾い上げました。見るとそれは、さっきのあの新聞の切り抜きなのです。私ははっとしました。そして女の手からあわててそれを奪い取ろうとしますと、それをおもしろがった女は、私の手から逃げのびながら、部屋のすみまで行ってそれを開いて読んでしまいました。私は思わず顔の真っ青になるのを覚えました。なんという不覚でしたろう、なるほど悪事というものは、こんな些細《ささい》なことから露顕《ろけん》してゆくのではないでしょうか。ところが、それを読んでいた女は、私の予期したとは反対し、ぶっと吹き出したかと思うと、急にげらげらと笑い出すのです。 「まあおかしい、まあおかしい、男のくせにこんなものを持っているなんて、まあおかしい」  そう笑いころげる女の手から、あわててそれを奪還《だつかん》した私は、私もひと目それを見ると、おやと思いました。それには、「不妊症の女の方によいものをあげます。——玉のような子宝をあげた御婦人方からの感謝状が山ほどまいっております」  私は急いでそれを裏返してみました。そこには、「またまた新手の詐欺現わる」と例の見出しがあります。ところが読者諸君よ、さっきはとっさの場合気がつかなかったのですが、そのほうは見出しばかりでその後に続く本文は二、三行だけがあって、それ以下は切り取られているのです。それに反してその裏面に当たる広告面の、「不妊症の女の方云々」の記事は、首尾整うてそこに切り抜かれているではありませんか。おお、これはなんということでしょう。彼女山内りん子の切り抜いていたのは、その広告面のほうだったので、その裏面に偶然、私の悪事を書いた記事がやってきていたのです。その証拠には、その広告面の、東京市本郷区何々町というその広告主の住所には、まぎれもない彼女の手で、二本の横線《サイドライン》が引いてあるではありませんか。  私には初めてなにもかもわかりました。彼女がそれを切り抜いていた理由も、彼女がそれを隠そうとした理由も——。疑心暗鬼《ぎしんあんき》とはまったくこのことをいうのでしょう。かわいそうな山内りん子よ、そしてばかな私よ——。  すべてのことがわかると同時に、私はまったくしょげきってしまいました。いままで憎悪に満ちていた彼女に対する心持ちが急に変わってまいりました。彼女がそんなにまでして、子供を欲しがっていた理由はいうまでもありますまい。彼女はそれによって、いま一度私の愛を呼び戻そうと思っていたにちがいありません。私は急に胸が重く、瞼《まぶた》の裏の熱くなるのを覚えました。  でもそれだけのことで、私は自分の生涯を棒に振ろうとは思ってはいませんでした。彼女にはすまないとは思いましたが、でもできるだけは逃れなければならぬと覚悟をしていました。  だがこれがやっぱり天罰とでもいうのでしょうか。あんなにまで注意をはらってこしらえあげた私の偽証に、たった一つの手ぬかりがあったのです。そして私は、ごらんのとおり間もなく彼女のあとを追わねばならぬ身となったのです。でも私は、別にそれを悔《くや》しいとは思いません。まちがいから生じたこの犯罪は、結局まちがいによって解決されることになったのです。以尺報尺《いしやくほうしやく》、世の中の万事はこの調子なのでしょう。  さて、その手ぬかりというのはこうなのです。私が唯一の頼りとしていたあの時計が、私のその過失のために、まったくなんの役にも立たなくなってしまったことなのです。  書生の葉山の証言によりますと、その時計はたしかに私の外出後九時を打ったそうです。そしてしかもその時計は、私の思惑《おもわく》どおりに九時十三分のところで止まっておりました。ところが読者諸君よ、なんと皮肉なことには、その時計の止まった原因というのが、私がそれを傾けておいたからではなくて、ゼンマイの巻きがゆるんでしまって、自然な止まり方をしていたのです。つまり不自然な止まり方をするまでに、止まるべき時がきてごく自然に止まったのです。わかりますか諸君、その時計は不自然な止まり方をしていてこそ、証拠品の一つに数えられることができるのですが、ゼンマイの巻きがゆるんで、普通に止まったのでは、それは全然問題にはならないのです。  これが天罰とでもいうのでしょう。あんなにまで神経をとがらせながら、ただ一つゼンマイを巻いておくことだけを私は失念していたのです。 [#改ページ] [#見出し]  災 難  まあ聞いとくなはれ、わても十七のときから田舎を飛び出して、この年になるまで大阪住まいをしてまっけど、こんなばからしい目に遇うたこと、今度が初めてだす。あほらしいやら、口惜《くちお》しいやら、けったいくそ悪いやらであんた、とてもお話にもならしまへん。お話にならんだけやったらよろしおまっけど、なんせえあんた、なりが悪うて他人さんに顔向けもならしまへんがな。まあ聞いとくなはれ。こういうわけだす。  今月の初めに、国に嫁《とつ》いでいる妹のとこから手紙が来ましてなあ、こんなことが書いてありまんのや。妹の友達のおしんちゃんちゅうのが、今度大阪で奉公《ほうこ》することにならはった、それについておしんちゃんには、大阪にこれというて身寄りもないことやさかい、あんたなにやかやと相談相手になったげておくれやす、なおそれについては、おしんちゃんにはなにしろ大阪ちゅう土地が初めてのことで、西も東もわからへんさかい、あんたステンショまで迎えに行ったげたらどうだすやろ、おしんちゃんも兄《あに》やに迎えに来てもろたら、こないうれしいことあらへんいうてはります、と、こない書いておまして、それからいちばんおしまいにおしんちゃんは十三日の晩の夜行でこちらを立つことになったるさかい、そちらへは十四日の朝の九時二十五分に着くことになったると、汽車の時間までちゃんと書いておまんのや。  前にもいいましたやろ、わては十七の年から田舎を飛び出して、そのまま一ぺんも帰ったことおまへんねさかい、村の娘はんの名前やこしたいてい忘れてまっけど、おしんちゃんだけはわけがあって、よう覚えとりまんのや。ちゅうのは、わてが村を飛び出す前に、そのおなごと少しややこしい仲になってしもて、わてが村を飛び出したのも、一つはそれが面目なかったからでもおまんね。妹のやつはそのいきさつをよう知ってるもんやさかい、わてのとこへ手紙をよこすたんびに、おしんちゃんが今度嫁入りしやはったとか、このごろお腹《なか》が大きならはったとか、お腹が大きならはったけど、かわいそうに五ヵ月で流産しやはったとか、姑《しゆうと》との折り合いが悪うて離縁にならはったとか、家へ帰っても継母《ままはは》にいじめられてお気の毒やとか、いろいろおしんちゃんのようすを、手に取るように詳しく報《し》らせてくるのだす。わても、そのおかげで、何十里とは離れていても、おしんちゃんの境遇《みのうえ》は、手に取るようによう知っとったわけだすけど、大阪へ奉公《ほうこ》に来るとはなんせえ初耳だす。  しかし、それにしても、一度は好いたの好かれたのいうた仲だすし、それに長いこと逢うたことおまへんけど、なんせえ幼いときから目鼻立ち整うた、田舎には珍しいほどきりょうのええ娘やったさかい、さぞいまごろは、立派な娘になっていようと思うと、そのおなごから頼りにされるちゅうことは、まんざらいやな気もせえしまへん。いやなどころかあんた、その手紙を読んだとき、正直なところ、からだじゅうがなにやこうむずむずとするようで、なんともいえぬあまアい、うれしイい気持ちになったもんだす。そこで十三日にはまだ間もあったもんだすさかい、妹へ宛てて返事を書いときました。ステンショまで迎えに行ったげるさかい、きっと汽車をまちがわんように、もしなにかの都合でその汽車に乗れんようやったら、こっちも主人持ちのことで、そうべんべんと待つわけにはいかんさかい、あらかじめ手紙で知らせてくれるなり、電報でもうってくれるようにというてやりました。するとまた折り返して返事がおまして、あの手紙をおしんちゃんに見せたら、そらおなごのことやさかい、口に出しては言わへんけど、なんともいえぬほどうれしそうな顔をしてはりました、気の毒なお方やさかい、兄《あに》やもできるだけ力になったげておくれやす、とこないいうてきまんねがな。そういわれるとあんた、わてのほうでもぞくぞくするほどうれして、もう十四日の日がくるのが待ち遠してしようがないような気持ちだした。  さてその日は、旦那《だんな》はんにお話をして、朝から一日暇をもろて、約束どおりに九時少し前から迎えに行きました。ところがあんた、改札口で待っとったらええものを、なんせえ少しでも親切なとこを見せとこちゅう肚《はら》だすさかい入場券を買うてわざわざプラットまで迎えに入ったもんだす。人を迎えに行くときには、プラットへ入ったりするもんやおまへんなあ。改札口やったら一人一人吐き出されて来るのを待ち受けてますのやさかい、見逃すちゅうことはおまへんけど、プラットやったらあんた、なんせえ大勢の人がわれがちに乗ろう降りようちゅうので、押し合いへし合いだすやろ、なかなか見付からしまへん。おまけにわてらは、十七の年から足かけ九年の間、逢うたことも見たこともおまへんねさかい、相手がどない変わってるやらさっぱりわからしまへん。相手も変わってますやろが、わてのほうは、なにしろこれでも都会《まち》の水で磨きあげておますのやさかい、相手にくらべたらその変わりようもモ一つひどいわけだす。そうだっさかい、こちらから見付けてやらんと、相手からはとても見当も付けへんやろ、そう思うてわては、もう汽車が着かん前《さき》から、目を皿みたいにして待ち構えとりましたのだっせ。  ところがあんた、いよいよ汽車が着く、駅員と赤帽が右往左往に走り回る。乗客が早よ乗ろ思《おも》てひしめき合う、降りる人は降りる人で、一時も早よ出よちゅうので押し合う、送りてと出迎い人がどこやどこやちゅうてうろうろ走り回る、馴れてるわてでもぼうとしてしまいまんがな、まして田舎もんのことやさかい、さぞ困っとるやろ思て、そう思うといっそう気がわくわくして、目を皿みたいにして捜し回りましたのやが、さっぱりそれらしい姿が見えしまへん。まさかいかに変わっとるちゅうても、田舎もんのことだすさかい、耳かくしや断髪しとるわけやおまへんやろ、蝶々《ちようちよう》やなにかに結《ゆ》うとりますのやろが、そんなおなごで、ちょうどおしんちゃんのような年格好のおなご、一人も目にかからしまへん。どないしたのやろ、まさかあないに念を押してあるのだすさかい、これに乗っとらんちゅうことはないはずやがと、もう半分胸が重とうになって来て、それでもまだきょろきょろしとりますと、いつの間に出たんだすやろ、それでもええあんばいに、ちょうどブリッジの階段を登って行く、それらしいおなごのうしろ姿が見えましたのや。髪《かみ》を束髪《そくはつ》に結うて、着物もはでな矢がすりの、仕立おろしらしいのを着て、帯も赤いやつを大けなお太鼓に結んで、おろしたての白|足袋《たび》をはいて、当人のつもりではそれで立派な都会の人間になった気だすやろが、やっぱり田舎もんだすなあ、どことなしに、第一着物の着こなし、帯の結び方、足の運び方からしてやぼくさいとこがおまして、一目見てすぐに田舎もんやとわかりまっせ。それがえっちらおっちらと、大けな古い信玄袋《しんげんぶくろ》を提《さ》げて、階段を登って行きまんのや。他人が見たらあんまり見よい格好やおまへんやろが、わてにはあんた、それがもうどんな別嬪《べつぴん》の姿より、美しいなつかしい清い尊いもんに見えたかわからしまへん。いや笑いごとやおまへん、ほんまだす。  わてはそこで大急ぎでうしろから追駆《おつか》けると、こう呼びかけたんだす。 「おしんちゃん、もし、おしんちゃんやおまへんか、そこへ行くのは——」  するとその声にびっくりしたようにうしろ向きましたのやが、まぎれもないそれはおしんちゃんにちがいおまへん。争えんもんだすなあ、やっぱりむかしの面影《おもかげ》がありありとそこに残っとります。しかしおしんちゃんにしてみると、なんせえわての変わりかたがあんまりひどいもんだすさかい、ちょっとの間わからなんだらしく、目をぱちぱちさせながら、わての顔を見つめとりますのや。 「わてやがなおしんちゃん、わかりまへんか、片田《かただ》の源三郎《げんざぶろう》だすがな」  わてがそこで、おっかぶせるようにそう言いますと、おしんちゃんもようようわかりましたんやろ、ぱちぱちぱちと目をはたきますと、にっとうれしそうに笑ったんだっせ。そのうれしそうな顔いうたら! まああんた、そない言わんとわてに思う存分しゃべらしておくなはれ。 「どうだす、変わりましたやろがな」 「ほんまになあ」  おしんちゃんはさもさも感心したように言うのだす。 「わてちっともわからしまへなんだわ」  むろんこんな大阪ことばやおまへんで。田舎まる出しのことばだすけど、わてもう、故郷のことは忘れてしもたさかい、大阪弁で言わしてもらいまっさ。 「そうだっしゃろ、しかしおしんちゃんはその割に変わっとらへんな」 「そらあんた、田舎にいたら、いつまでたってもおんなしことだすわ」 「そやそや、人間ばっかりやあらへん。田舎はなんにも、変わらへんさかいあかんのや。大阪を見なはれ、昨日《きのう》の大阪と今日《きよう》の大阪とでは、早《はや》ちょっとちごうとりまっせ」 「そうだっしゃろなあ」 「それにしてもおしんちゃんは、よう大阪へ出て奉公《ほうこ》する気になったなあ。おなごでも、これからのおなごはそれぐらいの甲斐性《かいしよう》がないとあかへん。しんぼうをしなはれや、しんぼうを——」  まあそんなことを言うとるうちに、いつの間にやらわてらは改札を出て、もうステンショの表へ吐き出されとりました。 「どないしなはるおしんちゃん」わてはそこでそうきいたのだす。「あんたこれからすぐに奉公先《ほうこさき》へ行かんならんことおまへんのやろ」 「へえ」おしんちゃんはそうあいまいな返事をするんだす。しかしその素振りからして、別れともないことがわてにはちゃんとわかっとりますのや。 「わても今日は一日暇をもろておまんね。どうだす、奉公《ほうこ》してしまうと、そないいうてもまたなかなか出られるもんやおまへんよってに、わてが少し見物に連れて歩いたげよか」  するとおしんちゃんは、へえおおきにいうて、素直に頭を下げますのや、そして、 「奉公先《ほうこさき》には今日じゅうに行ったらよろしおまんねさかい、晩までそんなら源さん、御苦労はんでもわてを連れて歩いとくなはるか」  とまあ、こういうやおまへんか。  わてもうれしいてうれしいてしようがおまへん。あんたそないばかにしたもんやおまへんで、そのおしんちゃん、色こそ町の娘はんみたいに白いことおまへんけど、目鼻立《めはなだ》ちやきりょうは、いうて悪《わる》おますけど、わてとこの嬢《いと》はんより、ずっとずっと別嬪だしたぜ。うそ! うそ! ないしょだっせ、ないしょだっせ、御《ご》寮人《りよん》はんにしゃべらはったらあきまへんで。 「なあおしんちゃん」わてはまた言うたもんだす。「あんた、うまいぐあいにわてと逢えてよろしおましたなあ、あんた一人で、こない大けな、(むろんそのときには、わてがその信玄袋を提げとりましたのや)荷物を持ってうろうろしとってみなはれ、それこそ——」とわては声をひそめて言いますのや。「大阪ちゅうたら、そら恐ろしいとこだっさかいなあ、すぐにポン引きちゅうて、怪しい車曳《くるまひ》きがたんと寄って来ましてな、乗れ乗れいうてどこまでもついて来まっせ。あんまりうるさいもんやさかい、ついそれに乗りまっしゃろ、するともうあんた、行方不明だすがな。芝居で雲助がおなごはんをかどわかしたり、金をせびったりしますやろ、あれとおんなじことだす。ことにあんたみたいな——」とここでわてはちょっと言いしぶりましたけど勇を鼓《こ》して言いましたのや。「別嬪やったら、そらもうものにするまで離れしまへんで」  そういうとおしんちゃんは、なんせえ初心《うぶ》な娘だすさかいなあ、怖いのと恥ずかしいのとうれしいのとで、青うなったり赤うなったりしもって、低い声でいうのだす。 「まあそない怖いとこだすか。それにしても源さん、あんたよう迎えに来とくなはったなあ」 「そらもうおしんちゃん」(言わしとくれやす! 言わしとくれやす! あんた!)「妹からあない言うて来とりますのやもの」 「まあ妹はん、どないいうてはりまんのや」 「あんた、見ずだすか、お銀《ぎん》の手紙を——」 「いいえ、ちっとも」 「そうだすか、そんならまあよろしおますがな。それよりおしんちゃん、どこから見物して行きまひょ。中之島へ行って太閤《たいこ》はんの銅像見て、それから三越へ行きまほかなあ、まず第一に」 「へえ、どうでも、源さんの都合のええように」  なんとあんた、わてらそんなことを、ステンショの前に立って、十五分も話してましたのだっせ。時計を見ると、もうすぐ十時だすがな。どうりでそばを通る人がみんなくすくす笑《わら》て行きまんのや、しかし人が笑うぐらいのこと、なにかもたことおますかいな、なあ、あんた。  それからわてら、中之島から三越、白木屋、道頓堀、それからずうっと南へ行って新世界の通天閣から、天王寺まで見物して回ったのだっせ。なんせえわては、大けな信玄袋を提げとりますのやろ、つねやったら、旦那はんのお供でも、そんなこといやだすけど、そのときばかりはあんた、その信玄袋さえ、ちっとも重いとは思いまへなんだ。いやいや、もっと重い重い信玄袋でも、喜んでわては提げたことだっしゃろ。  おしんちゃんはおとなしいおなごだすさかい、めったに口を利《き》かしまへん。わてが話しかけても、そうだすなあ、とか、そうだっしゃろか、とか、まあ、とか受け答えだけしかせえしまへん。一つには、あんまりおしゃべりをすると、田舎ことばが出ますやろ、それが恥ずかしおまんのやろ。しかしわては、おとなしい娘が好きだすさかい、おしんちゃんのそんなふうを見ると、もうかわいいて、かわいいて、しようがおまへん。 「なあおしんちゃん」  わてはそこでこない言うたもんだす。あれはどこだしたかなあ、新世界の出雲屋の二階だしたかなあ、それとも、天王寺公園のベンチだしたかなあ。 「あんた、わてが村を飛び出した時分のことを覚えてなはるか」  むろんおしんちゃんは、おなごとして、そないなことによう返事をせえしまへん。黙ってちょっとうなずいただけだす。そこでわては言うたもんだす。 「さぞあんたは恨んでなはるやろなあ、なんせえあんな仲になっていたのに黙って飛び出したもんやさかいなあ、しかしおしんちゃん」わては声を励まして言うたもんだす。「悪思《わるおも》ておくんなはんなや、考えてみなはれ、あのときわては十七、あんたは十五、おまけに二人とも水呑み百姓の子供や、家は貧乏やし、二人ともまだ自分の口すぎもでけん年や、あのままあんなことをしていて、もし——なあ、でけでもしたらどうだす。二人とも飢え死にせんなりまへんで、そうだすやろ」  おしんちゃんはかすかにうなずいとりました。 「そこでなあ、あんたにはすまんとは思いましたけど、二人とも深入りして抜き差しならんようにならぬ間にと、つい思いきって飛び出す決心をしたのだす。堪忍しとくれやすや。しかしなあおしんちゃん、あんたがお嫁入りするちゅうことを聞いたときには、わて、この大阪で、どないがっかりしたかわからしまへんで。うそやおまへん。ほんまだす、ほんまだす」  あんた、どうだすやろ、こんな話をしているうちに、わていつの間にやら涙声になってしもとりますやおまへんか。見るとおしんちゃんも、真っ赤な顔をして、じっとうつむいとりまんのや、こらいかん思て、わてさっそく話題を変えたもんだす。しかしあんた、しばらくほかの話をしていても、どうしても、低いとこに水がたまるように、わての話はそこへ落ちて行きますんや、こらしようがおまへんな。 「なあおしんちゃん」  そこでしばらくすると、わてはまた言うたもんだす。「わてもこうして大阪でも相当知られた質屋へ奉公《ほうこ》するようになりました。もう今年でちょうど七年目だす。旦那はんのおっしゃるのに、もう四年たったら、わてもちょうど三十になりまっしゃろ、そうしたら暖簾《のれん》を分けたるさかいに、お前もその気でしんぼうしなはれ。とこうおっしゃるのや。わてもその気で主人大事《しゆじんだいじ》と奉公《ほうこ》しとりまんのやが、なあおしんちゃん、そうなったらわても家持ちだす。いつまでも独身《ひとりみ》でおられへん」  するとそのときまで黙ってうつむいとったおしんちゃんが、ふいに顔をあげて言うたもんだす。 「そらあんた、源さん、あんたみたいな働き者《もん》やったら、お嫁さんにきては降るほどありますわ」 「降るほどあってもおしんちゃん、あてのこれという人はただ一人や——」  ——どないしなはった。こないな話いやだすか。そらしょがおまへんな。そんならずんとはしょることにしまひょ。  それから前にもいうたとおり、堺筋をずっと見物して、またもとの中之島まで帰って来ましたのだす。時間はちょうど四時半ごろだした。おしんちゃんの奉公先《ほうこさき》は曾根崎新地の近所だんね。別れるのやったら、そこで別れんなりまへんのやが、わてはとても別れる気にならしまへん。でけることならいつまでも、いつまでもそのまま二人で、一緒に歩いておりたかったんだす。ええ、ええ、その大けな信玄袋を提げて——。  そこでわて、とうとう思い切って言うたのだす。 「なあおしんちゃん。お互いに奉公人《ほうこにん》の身分や、またこうして逢うちゅうても、いつのことやらわからしまへん。あんたの都合のええときはわての都合が悪い。わての都合のええときは、あんたのほうが悪いで、なかなか思うように逢えるもんやおまへん。そやさかいになあおしんちゃん」  わては真剣《しんけん》に言うたもんだす。「今夜二人でどこぞへ行って泊まろやおまへんか。わても明日《あす》は十五日のお休みやし、それにいままで、ほかの朋輩衆みたいに、一ぺんも悪所通いをしたことのないわてやさかい、一晩ぐらい泊まって帰っても旦那はん、なんともおっしゃらしまへん。あんたにしてもいまやったら、都合で一日遅れましたいうてもごまかせんことおまへんやろ、どうだす。二人でどこぞへ泊まって、ゆっくり行く末のことを相談しようやおまへんか」  真剣だしたぜ、わては。あんたが思うてなはるようないたずらな気持ちやあらへん。しかしおしんちゃんは、おとなしおますさかいな、初めはなかなかうんと言わなんだけど、わてがまじめにすすめるもんやさかい、しまいはとうとう承知しましたんや。  そこでまだ少し時間が早《はよ》おましたさかい、二人はまた中之島公園へ入ってベンチに腰をおろして、なにやかやとうれしい話をしとりました。するとしばらくしておしんちゃん、便所へ行きたい言いまんね。まさか信玄袋を提げて、便所までついて行くわけにも行きまへんさかい、わてありかだけ教えてやりましてん。ところがあんた、なんぼたっても、なんぼたっても、便所へ行ったおしんちゃんが帰って来やしまへんやないか。わてそろそろ心配になってなあ、便所まで行ってみたんだっせ。ところがあんた、おしんちゃんそこにおらしまへん。尾籠《びろう》な話だっけど、わていちいち便所の戸を開けてみたんだっせ。それからおしんちゃん、おしんちゃん言うて呼んでみたんだっせ。しかしあんた、おしんちゃんどこにもおらしまへん。それきりだす、あんた。そのおしんちゃんの姿を見たのは。  わてなあ、道に迷たんやないか、かどわかされたんやないかと、ずいぶん心配してお巡りさんから、ねき[#「ねき」に傍点]にいた人から、一人一人聞いて回ったんだっせ。それでもとうとうわからずじまいだす。わてもうがっかりしましてなあ、訪ねて行くいうても、はっきりと奉公先《ほうこさき》の所番地、名前を知らんもんだっさかい、訪ねて行きようもおまへん。第一荷物をわてに預けたまま、どないした事だすやろ。  訪ねあぐんでとうとう家へ帰ったのが十時過ぎだした。やっぱりあんなこと言うたんが悪かったんやろか、それが怖ろしゅうて逃げたんやろか、そう思うと、わてつくづくと後悔しました。それにしても荷物がこっちにあんねさかい、取りに来るなり、手紙をよこすなりするにきまったるよってに、そのときあんばい、あやまろ、ほしたらええやろ、そやそや、そう思て、わて無理に自分の心を慰めてその晩はまあそのまま寝たんだす。  ところがその翌日《あくるひ》のことや。わてあないにびっくりしたことおまへんで。青天の霹靂《へきれき》ちゅうたらほんまにあのことだすなあ。なにがいうてあんた、どうだすやろ、わてのことがちゃんと新聞に載ったるやおまへんか。あんたご存じかどうか知りまへんが、大阪××新聞についこの間まで、続きもんで大大阪の暗黒面ちゅう記事が出てましたやろ、あれだす、あしこへ出てまんね。まあこうだす。大大阪の門戸に網を張る誘拐団——「おしんちゃんやないか」となれなれしく声をかけて——、危うかりし本紙女記者——。こないな調子だす。そしてわての昨日《きのう》の行動が細大もらさず書いておますのや。それがあんた、いかにもわてが色魔かなんぞのように、そらうまいこと書いておまんねで。新聞記者ちゅうたらようあないでたらめなことが書けるもんだすなあ。「大胆な彼は、大阪に巣食う誘拐団、すなわちポン引きのことを、さも他人《ひと》ごとのように、私に話して聞かせ、そしていかにも、私たちがすでになじみであるがごとく振る舞うのでした」やとか、それからまた、「別れる間際《まぎわ》になって彼はついに仮面を脱ぎました。怪しげな宿屋へ一泊せんことを、彼は執拗《しつよう》に要求するのでした」やの、どうだす、わてをすっかり誘拐常習犯扱いにしてありまんのや。そればかりやおまへん、いつの間に撮《と》りくさったんだっしゃろ、信玄袋を提げてぼんやり立っとるわての写真がそこに載ったりまんねで。まあなんちゅうことだっしゃろな。わてがおしんちゃんやおしんちゃんや思て、一日見物に連れて歩いてやったおなごは、あんたおしんちゃんやなしに、大阪××新聞の探訪記者やったんだすがな。それにしても、まあええあんばいに写真がはっきり写っとらなんださかいよかったようなものの、それでもわては、その二、三日往来を歩いとると、人から顔を見られるような気がしてしようがおまへなんだ。信玄袋だすか、あれはむろんしょもないもんばかりだす。一文にもならんぼろ屑ばかり入ってまんのや。  それにしてもほんまのおしんちゃんどないしたんやろ、あんたかてそない思てだすやろ。さあそれだすがな、この話の眼目は。おもろおまんねんで、こうだす。わてなあ、おしんちゃんのやつが約束を破りくさるさかい、こないばかな目に遇わんならんね、そない思いましてなあ、ぷんぷん憤《おこ》ってましたんだっせ。ところが一週間ほどして、そうだす、二十二日の晩に、心待ちにしていた手紙がやっと来ましたんや。差し出し人のとこを見ると、市内××町××方、池田しんとしてあります、もうちゃんと大阪へ来てまんのや。わて大急ぎで封をきって読んでみますとなあ、あんた、こないなことが書いてありまんのや。 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]   お約束どおり昨日十四日朝九時二十五分に当地へ着きました。それにしても源さんはなぜ迎えに来てくださらなかったの、わたしお恨みいたしますわ、プラットフォームでなんぼ捜しても源さんの姿が見えなかったときは、わたしほんとうに、ほんとうにがっかりいたしましたわ。 [#ここで字下げ終わり]  なにがお恨みいたしますや、へん、それこそ逆恨《さかうら》みちゅうもんやおまへんか。こっちこそえらい目に遇《あ》わされてまんのやろ。恨みをいう段になると、こっちゃ負けもしまへん。いったい今日を何日や思てるね、二十二日やおまへんか、手紙の消印を見てもちゃんと二十二日になっとりますがな、市内やさかい、一日で来ますのや、二十二日の昨日やったら二十一日やないか、なにとぼけていくさるのや……、そうだっしゃろがな、わてそない思て手紙をくしゃくしゃと破ってしもたりましてん。  ところがあんたどうだす。わてつくづくと考えとりましたらな、ふと気がついたんだっせ。なにがちゅうて、今月の二十一日は旧暦の十月の十四日になりまんのやがな。どうだす、おかしおますやろ。旧暦と新暦のまちがいだしたんや、あほだんなあ、どっちゃも。  へえ? なんだす? ほんまのおしんちゃんに逢うたかちゅうんだすか。へえ、一昨日《おととい》逢うて来ました。そのことはあんまり言わんときまひょ。そらあんた、贋物《にせもの》のおしんちゃんにはとてもかなわしまへん。しかしなあ、あんた、人間はきりょうより気だてが第一だっせ、気だてが第一だっせ。 [#改ページ] [#見出し]  悲しき郵便屋 [#1字下げ]——The Tale of Love and Cipher—— 「あなたは御存じじゃありますまいが、ついこの間まで、僕たちの仲間に伊山省吾《いやましようご》という男がいましたがね——」  と、これは近ごろできた私の友人、服部謙作《はつとりけんさく》の物語である。  彼と私とは、何というのだろうか、つまりカフェー友達とでもいうのだろうか。元来私はあまり友人をこしらえることを好まないほうなのだが、服部謙作のように、遮二無二《しやにむに》、臆面《おくめん》もなく話しかけてくる性質《たち》の人間にあうと、いつのまにか引きずられて、顔を見ればまあ話を交わすぐらいにはなるのだった。  その服部謙作の話なのである。  その伊山省吾という男について、おもしろい話があるのですよ。お話いたしましょうか。お聞きなさい。まあ、こうなのです——。  ちょうど、あなたとこうしてお話をするようになる、三週間ほど前のことでしたがね、急に東京へ行くと言いだしましてね——。それが、変な男です。東京へ行って何をするつもりだいと聞かれても、それは先生答えられないのです。さあ、何をするかな、困ったら下水掃除でもするさ。——それくらいなら、何もわざわざ東京まで行かなくてもよいじゃないか、下水掃除のくちなら、こっちにだってあるだろ。——しかし、それがね。とまあ、こういった調子なのです。もっとも、僕たちにしても、まったく理由《わけ》のわからないことでもなかったのです。というのは、その少し前に、ちょっとしたごたごたがありましてね、僕たちまでがまきぞえ[#「まきぞえ」に傍点]を食って、先生大いに面目玉をつぶした事件があるのです。おおかた、彼のことだから、そいつをいつまでもくよくよと思い悩んで、さてこそ東京行きとなったのだろうと、僕たち一同、勝手にそうきめていたんです。ところが、これはあとでわかったことなんですが、むろんそれもあったのですが、それよりも先生、失恋していたんですよ。そういえば、上京するというので、停車場まで連中みんなで送って行ってやったのですが、汽笛がピイと鳴って、汽車がごとんごとんと動き出したとたん、先生急においおいと言って泣きだしましてね。——それには皆面食らいましたよ。いまから考えてみると、あのとき先生、あわれ世をはかなんで、大いにセンチメンタルになっていたのでしょうね。——  さてその失恋の話なのですが、つまり僕がお話しようと思っているのは、それなんですよ。ずいぶん変わった恋も恋ですが、失恋も失恋でしてね、——まあお茶でもおあがりなさい、ゆるゆるとお話いたしましょう。  その男、すなわち伊山省吾は、当時郵便屋さんをしていましてね、そうです、僕たちの仲間で、曲がりなりにも職業を持っていたのは、あの男だけでしたよ。そういえば、僕たちの仲間ではいちばん正直で、悪く言えば小心翼々とでもいうのでしょう。しかしそうかと思うと、それでまんざら教育のないわけではなく、K学院の神学部を立派に卒業しているのですが、それでいて郵便屋さんをしているんですから、要するにまあ、僕たちと五十歩百歩というところでしょう。  ところでその郵便屋さんをしているところの伊山省吾が、毎日配達にまわる区域というのが、山本通りのあたりなのですが、そこはあなたもたぶん御存じだろうと思いますが、曾我部《そがべ》といって有名な医院がありますね? 御存じですか? その曾我部には綾子さんといって、素敵な美人の令嬢があるそうですが、御存じじゃありませんか? え? 御存じ?——そりゃア好都合です。それだと、この話がまんざら根も葉もない、でたらめでないことがおわかりでしょう。  つまりわが郵便屋さん、伊山省吾はその令嬢に恋をしたんだそうです。  ——といっても、伊山君別にどうするというわけでもなく、だいいち、始めの間は、それが恋だということすら、自分でもはっきり気がつかなかったくらいです。無理もありません、こちらはしがない[#「しがない」に傍点]郵便屋、向こうはといえば、有名なお医者さまの御令嬢、しかも女学院出身の、素人音楽家としてもかなり知られているというじゃありませんか。いかに僕たちが友達|甲斐《がい》に贔屓《ひいき》してみても、始めから相撲になりゃアしませんやね、そうでしょう?  ところで、ここにただ一つ好都合なのは——好都合といっても変ですが——、何遍も言うとおり、伊山君は郵便屋さんだからその令嬢のもとへ来る手紙といえば、どうしても一応彼の手を経なければならないわけでしょう? むろん彼でなくとも、自分の恋人のもとへ来る手紙といえば、だれしも無心に見逃すわけにはいきませんやね。意識的、無意識的に、いつのまにやら彼も、曾我部綾子嬢あてとさえあれば、おさおさ怠らぬ注意を払っていたのですが、するとここに一つ、不思議なはがきがよく令嬢のもとへ来るのを、まもなく彼は気がついたのです。  そのはがきというのが、この物語の中心をなすものですから、ここにその一つをお目にかけておきましょう。ほら、こういうのです。  あなたは僕より音楽通でいらっしゃるから、すぐおわかりでしょうが、変でしょう? ちょっとも音律《リズム》をなしていないでしょう? だいいち、タイムなんかも一目見てわかることですが、でたらめ極まるものじゃありませんか? こういうのが、しかも、かりにも素人音楽家として相当知られている令嬢のもとへ来るのですから、少し音楽を解する者だったら、だれしも、こいつは変だぞ! と思わないわけにいかないじゃありませんか。伊山君もそこのところへ気がついたのです。で、いろいろと思い出してみると、一週間に一度か二度ぐらいの割合で、そういうはがきが、令嬢のもとへ来るのですが、あるときのことです。彼が例によって、彼女の宅へ手紙を投げ込もうとしていると、おりからどこかへ出かけるところと見えて、盛装した彼女が、玄関のところに立っていたのですが、彼を見ると、むろん相手は、その郵便屋が自分に恋をしているなんて、夢にも知らないことですから、郵便屋さん、あたしにも何か来ていなくって?——ええ、お嬢さん、またいつものような楽譜が来ておりますよ。——あらいやだ、郵便屋さんはよく知っているのね。——で彼が渡したその楽譜に、一通り目を通していたのですが、にっこりと笑うと、すぐビリビリとそれを引き裂いてしまったんです。  そのときは、まあ別に何とも思わなかったんですが、あとで考えてみると変じゃありませんか?  ——で、そんなこんなで、いろいろと思い合わしてみると、どうやらその楽譜が暗号らしいんですね。と、そう気がつくと、伊山省吾の性質として、何というんでしょうか、非常に浪漫的《ロマンチツク》な事柄を好む男でしたが、たちまち心が小鳥の胸のように躍りだしたのです。  そうだ! こいつをひとつ解いてやろう! そうすると何か、おれのためになるようなことになるかもしれないぞ!……。で、そう気がついた日から彼は、そういうはがきが目に触れるたびに、こっそり自分のノートに写して帰ることにしたのです。都合のよいことには、彼の配達区域に、一つ共同便所があったものですから、主にその中で、そういう陰謀をたくましゅうしていたのです。  ところで、伊山省吾という男は、生まれつき頭脳《あたま》のほうは素敵によくできていたほうですから、二、三日にして、その暗号を見事に解きおおせてしまったのですよ。これはその後、すなわち、彼が東京へ出奔してから、僕のもとへよこした手紙に書いてあったのですが、したがって僕のは彼の受け売りなんですよ。  つまりこういうふうに彼は、推理の糸をたどっていったのです。——最初考えなければならないのは、どの暗号でもがそうであるように、第一これはアルファベットか、それとも仮名文字かという点ですね。それからもう一つこの場合には、音符の一つが一字をなしているのか、それとも一小節が一字をなしているのか……。ところでよく注意すると、音符といっても、ここにはたった二種類しか使用されていないでしょう? だからこの音符一つが一字を代表するのだとすると、つまり五本の線とのいろんな組み合わせによって、それぞれ異なった字ができてくるわけでしょうが、そうすると、どんなに組み合わせてみたところで、線は五本だし、音符の種類はたった二つだし、だから二五《にご》の十以上の字はどうしてもできっこないわけですね。だから、当然これは、一小節が一字をなしているものと見なければならなくなりましょう?  さあ、そこまではかなり早くこぎつけることができたんですが、それからが困るんです。というのは、一小節が一字をなしているとすると、そこには音符の数、音符の種類、それからもう一つ、音符の位置と、この三つが問題になってくるわけですが、そうするとずいぶん複雑な暗号になってきます。伊山君はここで二日ばかり頭をひねったんだそうです。  ところが、彼がふと思い出したのは、ほら、いつか令嬢がその暗号を読んだときのことですが、彼女はまるでそれを、片仮名を読むほどの速度で読み上げたんです。いかになれているとはいえ、こういう複雑極まるものを、そうやすやすと読めるわけのものじゃありません。だからほんとうは、彼が考えているほど複雑なのじゃなくて、もっともっと簡単なものじゃなかろうか……。そこで彼が考えるのに、音符の数、種類、およびその位置を全部考慮に入れていた日には、いつまでたってもその複雑さは少しも減じないわけだが、これはひょっとすると、その中の一つだけは、まったくでたらめで、必要のないことかもしれないと……。そこでよくよく見ていると、この中には、二つの音階の組み合わせも、その数も、まったく同じでありながら、ただ一つその音階の違うところがあるでしょう? どうもそれらの点からみて、音符の位置というのは、全然でたらめじゃないかしら……。と、これらの推理に別に無理はありますまい。  そこでとうとう彼は、考慮の範囲を、二つの音符の組み合わせにまで狭めたわけですが、そこまでいくと、それから先はかなり容易なんです。というのは、それを考えながら彼は、その楽譜に調子を合わして、コツ、コツと机の端をたたいていたんですが、するとたちまち、稲光りみたいに頭の中に差し込んできた考えがあるのです。というのは、あなたまだお気づきになりませんか、ほら、われわれのだれでもが知っていることですが、電報というやつです。電報記号というのは、取りも直さず、長いタイムと、短いタイムとを、いろいろに組み合わせて、そこに仮名だと四十七文字、モールス記号では二十六文字の物をこしらえ上げてあるのです。ところでここにある暗号では、複雑そうに見せかけてはあるものの、結局これは、二つのタイムの組み合わせにすぎないじゃありませんか。 「うまい!」  と、そこまで気がついた彼は、机の端から躍り上がって喜んだというのです。  さいわい彼は郵便屋のことでしょう? そのほうにまんざら縁のないわけじゃありません、さっそく彼の勤めている局の電信係の男に尋ねてその電信記号を教えてもらったんですが、果たして、思っていたとおり、すらすらと何の苦もなく暗号は解けていったのです。つまりこうです。  とこうなって、これを全部翻訳すると、 「昨夜は失礼いたしました」となります。いちばん始めのと最後のとは、始終記号で別に意味はないのです。  さて、これで暗号解読の講義は終わったわけですから、ここに話を進めることにしましょう。  伊山省吾がこの暗号を解きにかかったのは、ゆめゆめ不逞《ふてい》な考えがあったわけではなく、ただ持って生まれた好奇心と、これまた持ち前の頭のよさから、つい解いてみる気になったのですが、さてそれが、こんなにうまうまと解けてみると、何だかそのままにしておくのが惜しくなってきたのです。  それに、それからのちも、たびたびそんな暗号のはがきが令嬢のところにやって来るのですが、そいつをいちいち解いてみると、あるとき、「愛する綾子さん」とあったり、あるときはまた、「どこそこで会いましょう」とあったり、そうかと思うと、「チュッ、接吻《せつぷん》を送ります」だなんて、とても助からないんです。  でだんだんと、さすが小心翼々たる、そして善人の伊山君も、不逞なことを考えるようになりましてね、というのは、思うにその暗号は、令嬢と彼女の恋人のほかにはだれ一人知らないのにちがいありませんし、それに当の彼らにしても、ここに油断のならない郵便屋がいて、いつのまにやら、横のほうからそいつを盗み読みしてるなんて、夢にも気づかないにちがいありませんから、したがってもし彼が、やっぱり同じような暗号のはがきを令嬢に送るとしたら、彼女は、何の疑いもなく、それを恋人から来たものだと思って、接吻の一つぐらい、そのはがきに与えないものでもない……、とそういうふうな、あわれはかない望みを、彼、伊山省吾は起こしたのです。  で彼は、それからのち、ときどき自分の本心を打ち明けた、しかし相手にすると、おなじみの恋人から来たものだとしか思われないような、そういった文を綴《つづ》って、そいつを暗号に翻訳して、ひそかに思っているところの曾我部綾子嬢のもとへ送ったものです。都合のいいことには、普通の字と違って、記号ですから、手跡の相違もそう顕著ではなく、したがってどうやら彼女は気がつかないらしい有様なんです。  ところが、こういうことをものの二月あまりも続けていたんですが、間もなくそれでは飽き足りなくなってきましてね、なにしろ、いくら思いのたけを打ち明けても、暖簾《のれん》に腕押しみたいに、いっこう反響のない仕事なんですから、いやになるのも無理はありませんやね。それに彼としても、おいおい度胸はできてくるし、するといよいよ彼女を思うの念は募《つの》ってくるし、そうなると、まるでシラノみたいな縁の下の力持ちに、いやけがさすのが当然でしょう?  そこでとうとうある日、彼は思い切ってこんなことを、むろん暗号に翻訳して曾我部綾子嬢のもとに送ったのです。 [#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]   十二日夜、八時、S校、西隅 [#ここで字下げ終わり]  S校というのは小学校で、彼女の宅から五、六町離れたところにあるんです。伊山君はかねてから、そこで彼らが、ときどき密会しているらしいのをかぎつけていたんですが、つまりそれを利用して、彼女をそこへ呼び出そうというわけです。呼び出してどうするつもりか、それは彼にもわからないのですよ。彼女に向かって、思い切って自分の心を打ち明けるか、——しかし彼のことだから、いざとなるとおそれが先に立って、彼女の姿を見るや否や、一目散に逃げ出すことやら——、がまあとにかく、勇を鼓してそいつを投函したんです。ところで変なことですが、自分の投函したそのはがきを、彼自身の手で配達することになっているわけですが、そのときさすがに彼は、よほどのことに途中で握りつぶしてしまおうかと思ったそうですよ。しかしいやいや、せっかくここまでたくらんできたんだから、だめになろうとなるまいと、一応彼女を呼び出してやれと、彼にしては不似合いに、不良性を発揮してしまったんです——。  さて、それを彼女の宅に投げ込んだ翌日の晩、その晩は彼の非番に当たっているのですが、そこでも彼のことだから、行こうかよそうか、いやいやせっかくだから行ってみよう……、それにしても彼女に会ったら何と言おうかな、きっと彼女は怒るだろうな、そしてひょっとすると、声を挙げて人を呼ぶかもしれないな、などと、半時間も一時間も躊躇《ちゆうちよ》していたのですが、それでもとうとう意を決して、約束の場所へ向かって足を向けたのです。そしてS学校の西の隅の、大きな塵箱《ちりばこ》の陰に身をひそめて、いまかいまかと、恋しい曾我部綾子嬢の来るのを待ち受けていたのです。  ところがその結果がどうだったと思いますか? それがはなはだ意外なんですよ。始めのうちは彼自身ですら、何が何やらわけがわからなかったくらいなんですからね。  というのは、そうして塵箱の陰に身をひそめて、まるで猫《ねこ》みたいに暗闇《くらやみ》の中に目を光らして、そしてしまいには、息苦しくなるほども胸を躍らせながら、それでも彼女の来るのを楽しみに、小一時間もそこにそうしていた彼、伊山省吾は、さて彼女に会うことができたかというと、どうしてどうして、それどころか、おそろしい刑事に捕えられてしまったのですよ。 「こらッ、怪しいやつだ! 貴様!」と刑事。 「ボ、僕、ケ、決して怪しい者じゃ……」と伊山君。 「何? 怪しい者じゃない? とにかく警察へ来い!」  僕も一度刑事に引っ張られたことがありますが、いやなものですね。ましてや気の小さい伊山君のことだから、たちまち泣き出しそうになって、心の中でもろもろの神仏を念じながら、それでもしかたなしに警察へ同行したのです。 「貴様だろう? 最近|頻々《ひんぴん》として起こる放火の犯人は……」  と、まるで閻魔《えんま》のようにおそろしい署長ににらみつけられて、伊山君はひとたまりもなく気を失ってしまいました——。  ところがここに不思議なのは、あの場に刑事が行き合わせたのは、決して偶然ではなくて、あらかじめ彼のために網を張っていたんだそうです。というのは、その日の朝警察へ無名の投書が舞い込んで、今夜八時S校へ忍び込む男がある、その男こそ近ごろ諸所に起こる放火の犯人だと書いてあって、御丁寧にそこに人相書きまで書き添えてあるんですが、何とそれが伊山君にそっくりそのままなのです。  さいわいその警察には彼の親しい刑事がいて、その男の証言やら、それから、かくいう僕を始め、仲間総出でいろいろと弁護してやったので、辛うじて事なきを得たんですが、一時は新聞に書き立てられるやら、それはもう大変だったんですよ。  だが、それにしても、いったい伊山君を密告したのはだれなんでしょう? その夜彼が、S校へ行くということは、彼よりほかにだれ一人知るはずがないんですからね。伊山君もそれがいぶかしくてたまらなかったそうです。  ところが、幸いにして嫌疑《けんぎ》が晴れて、さて改めてまた、もとの郵便屋を始めた伊山君は、ある日例によって郵便物を配達してまわっていると、その中にあの暗号のはがきがまたもや混じっているじゃありませんか。その時分には彼は、覚え書きなしでもすらすらと読めるほどなれていたものですから、好奇心に駆られて、こっそりとそれを読んでみたんです。するとどうでしょう! そこに何と書いてあったと思いますか? 「郵便屋さん、この間はお気の毒さま、だから偽手紙なんて書くものじゃありませんよ」  ですってさあ……。  ここに伊山君の手紙がありますが、それにはこう書いてありますよ。  ——思うに彼女は、早くからこのおれが、暗号を盗み読みしていることに気がついていたにちがいないのだ。そしてまた、自分ではまんまとしおおせたつもりでいた偽手紙にも、やっぱりどこかちがうところがあって、彼女はすぐに気がついたのだろう。したがってああいう密告書を書いたのも、きっと彼女か、でなければ彼女の恋人にちがいない。あわれなるかなこのおれは、つまり彼らのいい笑いものになっていたのだ——。  どうですおもしろい話じゃありませんか。  ところであなた、僕はこの間から聞いてみよう、聞いてみようと思っていたのですが、伊山君のいうのは本当なんですか。あんな罪な密告書を出したのはあなたなんですか。いいえ、いいえいくらお隠しになってもだめです。僕はちゃんと知っていますよ。あなたが曾我部綾子の恋人であることを……。 [#改ページ] [#見出し]  飾り窓の中の恋人  ——この話は、もっと別の機会に、ゆっくりと落ち着いてすれば、相当おもしろい話になるのだが、あいにくきょうは時間がないから、ほんのあらまし、話の筋道だけをお話しよう。  さてその前に、ぜひ知っていてもらわなければならないのは、その男(田丸素人《たまるそじん》)という男だが彼がどんなにすばらしい模倣癖——、いや、それは癖というよりも一種の才能といおうか、それも変かな——そうだ、文学青年などの陥る一種不可思議な感情、例えば、君だって経験があるだろう? ロシアの小説を読むと、その当座ひどく憂鬱《ゆううつ》になったり、そうかと思うと、その翌日にははや、フランス小説のお陰で、たいへんはしゃいだり——つまり、田丸素人のは、そういう感情が人一倍激しくて、しかもそれが、気分の上だけではなくて、しばしば、実行の上にまで影響が現われてくるのだ。  そういうふうな男だから、その晩彼が「どうだ、君、ひとつ僕の恋人を紹介しようか」  と、そう言って、この私に、風変わりな彼の恋人を紹介したときにも、僕は少しも驚かなかった代わりに、そうかといって、彼を軽蔑する気にもならなかったのだ。 「ほほウ、君の恋人って、またそんなものができたのかね?」  と、私がなにげなくそう言うと、 「ウン、今度は素敵なんだよ、ぜひ君を紹介して、一度意見を聞きたいと、この間から思っていたところなんだ」  と、彼は何だか上きげんでにこにこしているのだ。 「そりゃ、ぜひとも紹介していただきたいね、いずれ君のことだから、恋人というのも、なかなか世の常の娘さんじゃないんだろう?」  だが実をいうと、僕はそれまでにも、何遍もそういう調子で、彼のいわゆる恋人、といっても、大抵の場合、彼が勝手にそう決めているだけで、相手のほうでは何とも思っていないらしいのだが、そういう恋人に紹介されたことがあるんだ。だから今度の場合でも、おおかたそのデンだろうと、内心何とも思っていなかったのだが、そういう様子を見せるとたちまちふきげんになる男だから、表面だけは大いに調子を合わせていたのだ。 「で、その恋人というのはこの近所に住んでいる女《ひと》なのかい」 「ウン、すぐこの向こうだ、君もたぶん知っているだろうと思うが……」 「え? 僕の知ってる女?」 「ウン」 「だれ? 芸者? 女給? それとも……」 「いや」と彼が引き取っていうのに、「こればかりは、君がたとえお釈迦《しやか》さまだったとしても、わかりっこはないよ。それより、これから行ってみようじゃないか」 「ウン、行くのもいいが……」  前にも言ったような理由から、僕は少しも乗り気になれないので、そういって言葉を濁していたのだ。 「突然に押しかけて行っちゃ、その女に悪かあないかね、それに僕の知っている女だと、いっそう何だか具合が悪いが……」  すると彼は、何を思ったのか、ウフフフフと、変な笑いかたをしながら、 「大丈夫だよ、彼女は決してそんなことをとやかく言う女じゃないんだから、さあ、行こうじゃないか」  で、そういうことから、言い忘れたが、それはあるカフェーの中の話だったのだが、そこを出て、その恋人というのに会いに行ったのだが、なるほど! 彼女なら、彼がたとえ百人の無頼漢を引き連れて押し寄せて行っても、決して文句を言わなかったにちがいないのだ、なぜといって……。  君は知っているかどうか。M町に下総屋《しもうさや》といって、M町一、二というほどではないが、相当大きな呉服屋があるだろう? カフェーを出た僕たち二人は、そこまで、ものの五町とはなかったのだが、歩いて行ったものだ。  その下総屋の前まで来たとき、田丸素人がふいに立ちどまって、そして僕の袖《そで》をひっぱるようにしながら言うのに、 「ほら、あれだ、僕の恋人というのは!」  と、その声は何か悪いことでも相談するときのように低くて、おまけに少なからずふるえているのだ。僕は彼が顎《あご》で指すほうを見て、おや、それじゃ下総屋の娘にでもほれたのかな、彼にしては珍しいことだと思いながら、あかあかと電灯のついている下総屋の店の中を、それとなく注意して見たのだが、そこにいるのは男の店員ばかりで、女など、雌猫《めすねこ》さえいそうにないじゃないか。僕はきょろきょろしながら、 「どれ? 君の言うのは……?」  すると彼は、 「違うよ、君、あれだよ、彼女だよ」  そう言いながら、そこに大きな飾り窓があるのだが、そのほうへ寄って行って、やっぱり顎で意味ありげにその飾り窓の中を指すのだ。  僕はそれを見て、思わずはっ[#「はっ」に傍点]として唾《つば》をのみ込んだのだ。その飾り窓というのは、高さにしても一間からあると思われるほどに大きなもので、その中には呉服屋などの店頭でよく見るだろう? 若い十八、九の令嬢風の人形が立っているんだ。何と! 彼の言うのはその人形らしいのだ。 「君の恋人というのは、じゃこの人形のことかい?」  僕は思わず、そう大きな声で言ったが、するとちょうど僕たちのそばに、若い女が三、四人いたのが、いっせいに僕たちの顔を見るんだ。さすがに彼にしても、またこの僕にしても、顔から火の出るような思いをして、大急ぎでそこを離れて、それでもまだ何だか、うしろから人に見られるような気がしたものだから、暗い横小路へ曲がって、そしてしばらく黙々として歩いていたのだ。 「どう……?」  だいぶ歩いてから、それでも田丸素人はようやく僕の意見をたたくようにそう言うのだ。 「ウン……」  だが、僕だってどう言っていいか。本当のことを言えば、僕はもうさっきから笑いたくてたまらなかったのだ。なぜといって、彼の風変わりな恋の原因というのが、僕にはちゃんとわかっているんだもの。 「どう思う、君?」  僕が黙っているので、彼は物足らなそうに促《うなが》して言うのに、 「似ているだろう? ね」 「似ているってだれにさ?」 「だれって……、君」彼はちょっと舌打ちするようなまねをして、「わからないかなあ、あれが」  しかし彼自身にしても、だれに似ていると問われたら答えることはできないのにちがいないのだ。なぜといって、彼のつもりでは、その人形が、むかし彼の恋しただれかに似ているから、さてこそ、彼の恋心が挑発《ちようはつ》されたのだというふうに言いたかったのだろうが、あいにくなことには、彼の恋人の中には、そんな令嬢風な女は一人もいなかったし、だいいち彼は、常から人形のように美しい女はきらいだ、きらいだ、と言い続けてきた手前もあるのだ。 「ねえ、君」と、そこで彼は、そのことばはそのままにして、わざと大きく溜息《ためいき》を吐きながら、 「僕はやるせなくてしようがないよ。片思いとはまったくこのことだね。どんなにこちらがきらわれていても、相手が人間だったら、きらわれているという、そのことにだって張り合いがあるというものだが、相手が人形じゃあね……」  彼を知らない人間が聞いたら、きっとさぞ気障《きざ》に聞こえることだろう。しかし僕は彼の性質をよく知っているし、それにその風変わりな恋の動機もわからないことはないのだ。  君は知っているかどうか。ほら、このごろ売り出した、石塚佐太郎という新進の小説家、あの小説家の初めての創作集に「飾り窓の中の恋人」というのがあるんだ。その五、六日前に、田丸素人が僕のところへやって来て、しきりにその「飾り窓の中の恋人」の提灯《ちょうちん》を持って、 「君も読んで見たまえよ、ぜひ」  そう言って珍しくその創作集を僕のところへ置いて行ってくれたのだ。その小説というのは、「私」という、たぶんそれが作者なんだろう、一人の男が、銀座の雑貨店の飾り窓の中にある蝋人形《ろうにんぎよう》に恋するという、風変わりな話を、それが新感覚派というのか、かなり新鮮な筆で書いてあるのだ。田丸素人はひどくその小説に参ったらしいのだ。そして何かに感心すると、すぐそのまねをしたくなる彼のことだから、そこで彼自身も、その風変わりな恋の対象に、下総屋の人形を選んだにちがいないのだ。  しかしそんなことを言うと、すぐ気を悪くする彼のことだから、僕はその晩、いい加減に相槌《あいづち》を打って別れたのだが、困ったことには彼のその病気は、その後ますます募るらしかった。 「君、田丸君は下総屋の人形に恋しているんだってね」  僕たちの間の共通の友達に出会うと、よくそう珍しそうに言われるのだが、聞いてみると、あきれたことには、彼はそれを自慢らしく吹聴してまわっているらしいんだ。何かまちがいが起こらなければいいが……僕はその当時からそう心配していたのだ。と、いうのは、その「飾り窓の中の恋人」という小説では、ついに主人公がその人形を盗み出すことになっているのだ。彼のように模倣癖に富んだ男は、まさかとは思うけれど、いつなんどきそんなまねをしないとも限らないのだ……。  言い忘れたが田丸素人は、その当時ほとんどその日に困るという境遇だったのだ。彼の志望というのはどこかの映画会社に入れてもらいたいというので、そういえば、模倣にしろ、ある映画を見れば、ほとんどそれと変わりないほどの脚本を書くことができたし、監督にしても何にしても、現在日本でやっているくらいのことなら、彼にしても十分できるにちがいないのだが、そうかといって、彼のような無名の、訳のわからない一青年に、月給を与えようという物好きな会社は、いつまで待ったとて、ほかの国なら知らぬこと、日本にはありっこないのだ。だから彼は、その当座少なからず自棄《やけ》ぎみになっていたのだ。……  ところが、とうとう、僕が恐れているような、そういう事件が起こったのだ。ある晩僕は、××署から呼び出しを食らって、何だろうと思いながら行ってみると、まちがいもなく田丸素人と、そして見覚えのある彼の恋人とが、いうまでもなくそれは人形なのだが、そこにいるのだ。聞いてみると、やっぱり思っていたとおり、彼が飾り窓を破って、その人形を盗み出したというのだ。 「で、君は、彼とは常から親交があるようだが、いったい田丸素人というのは、どういう男なのだね。どろぼうとは見えないし、そうかといって、気違いでもなさそうだが……」  と、彼を遠ざけておいて、署長はそう聞くのだ。  僕は答えに困ったが、結局ほんとうのことをいうよりしかたがないと思ったものだから、何もかも、僕の知っている限りのことを打ち明けたのだ。署長にもはじめの間はよくのみ込めなかったらしかったが、そこに、居合わせた新聞記者なんかの注釈で、結局大笑いになったのだ。そういうわけで、下総屋へ損料を支払うことと、一週間ばかりの拘留で許されることになったのだが、始末に悪いことには、新聞が大きくそれを書き立てたのだ。新聞というものは、そういう風変わりな事件のほうを、ありきたりの殺人事件なんかよりも歓迎すると見えて、三段抜きぐらいに書き立てたのだ。お陰で石塚佐太郎の「飾り窓の中の恋人」は大いに売れたろうと思うが、田丸素人はそれがひどく気にさわったらしいのだ。一週間の期限が切れて、もう放免されているはずだのになかなか顔を見せないのだ。僕にしても気にはなるが、訪問すると、かえっていやな顔をするだろうと思って放っておいたのだ。  するとそれから一月ほどあとのことだ。  僕は町でばったりと田丸素人に出会ったのだ。 「いよう!」  と、思いがけなく彼は元気な調子で、 「いいところで出会った。僕はこれから君のところへ行こうと思っているところだ」  と、そう言うのだ。みると彼は、驚いたことには仕立ておろしの洋服なんか着込んで、ひどく立派な服装をしているのだ。 「どうしたのだい、ひどく景気がよさそうじゃないか」 「ウン、実は、そのことについて君にお礼をしなければならないのだが、立ち話もできないから、どこかへはいろう」  そう言って僕を引っ張ってある一軒のカフェーへはいったのだが、さて彼の言うのに、 「この間はどうもありがとう。これは些少《さしよう》だがお礼だよ」  と、そう言って、なんと十円紙幣を四、五枚僕のほうへ差し出すのだ。 「どうしたのだい、これは?」  と、僕がびっくりして聞くと、 「なあに、仕事の分け前だよ、遠慮なく取っておいてくれたまえ」 「仕事?」  と、僕が鸚鵡《おうむ》返しに聞くと、彼はにやにやしながら、懐中へ手を突っ込んで、そして一枚の紙片を僕の前に取り出したのだ。 「読んで見たまえ」  僕は何だろうと思いながら、それを取り上げて一息に読んでみたのだが、なんと! [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]  田丸素人君  先日はいろいろとお骨折りくだすってありがとう。お陰で大好評だ。今度とうとう十五版を印刷することになった。本屋も大喜びだし、僕にしてもありがたい、これは些少だが、約束の金以外の、僕の寸志だ、受けてくれたまえ。なおいうまでもあるまいが、このことは絶対に、僕のほうでも、本屋にすら話してないのだ。秘密にしてくれたまえ。お願いする。 [#ここで字下げ終わり]  そして差し出し人はと見ると、それはまぎれもない「飾り窓の中の恋人」の作者石塚佐太郎なのだ。 「その手紙にもあるとおり、このことは秘密だよ。君は社員も同じことだから打ち明けたのだけれど」  と、彼はにやにやしながら言うのだ。僕はそのとき、いま初めて見るように、彼の顔をまじまじと見詰めたのだ。この男にして、こんな才があろうとは! と、腹の中で舌を巻いたのだ。  すると彼はわざともったいぶって、紙入れの中から、一枚の名刺を取り出して見せたが、なんとそれには、 「よろず宣伝会社社長 田丸素人」としかつめらしく印刷してあるのだ。 「社長といっても」と、彼はあきれている僕を尻目《しりめ》にかけながら言うのだ。 「小使も同時に兼ねているわけだよ、なにしろ僕一人なんだからね、なかなか忙しいよ。石塚佐太郎というのは、僕と同じ釜《かま》の飯を食ったことがある男でね、で、ふと思いついたのだが、思ったよりこれはいい職業だよ。現在でも三件ばかり引き受けているのだが、ほら、映画女優の栗島蓉子ね、それから、今度×市に代議士の補欠選挙があるだろう、それに××党から打って出る宮島肇、それからもう一つは、最近新設された××ビール会社と、この三つだ、うまくいくとだいぶんのものになると思うよ。ハハハハハハ!」と笑ったものだ。  何と人間とは現金なものか、僕にはその笑い声までが、何かこう、つまり重役声に聞こえたものだ。 [#改ページ] [#見出し]  犯罪を猟《あさ》る男   一寸一ぱい   酒   さかな  筆太にそんな文字を染め抜いた、紺——と、言いたいが、薄鼠色《うすねずみいろ》に色のあせた暖簾《のれん》を、頭で左右にかき分けて中をのぞき込むと、さすがに真夜中に近いころのことである、土間にだれ一人いなかった。  八|燭光《しよつこう》の電灯を一つだけ残して、あとはすっかり消してしまった、その薄暗い土間には、主のないテーブルが三つばかり、それも古道具屋か何かで、別々の機会に買ってきたものにちがいない、めいめいちがった形をしているのであるが、中には載っかっている品物の重みで、十度ばかり斜めに傾いているのさえある。昼間見れば、さぞかし煮こぼしのあとだの、あぶら光りだので、あまりぞっとしない光景にちがいないが、それでも、さすがに、アスパラガスか何か、ちょっと気の利いた植木鉢《うえきばち》が、それぞれに置いてある。  壁はと見れば、   小鉢物 十五銭   お銚子 二十銭  ——なんどと書いた短冊が、隙間《すきま》なきまでに張られた中に、アサヒビールの広告ビラが一枚と、御祝儀の大入り袋が二つ三つぶら下がっている。  しかしこれは、何もこんな詳しく書くにはあたらなかったかもしれない。見ようと思えば、どこの場末ででも見られる、あの下等なめし屋の、きまりきった一つの型にすぎないのだから。  戸田五郎は、暖簾の合間から、首だけ出して、さてはいったものか、よしたものか、しばらく思案をしていた。ふだんの彼ならば、身分からいっても、むろんそんな所へはいるべきではないが、そこは酔っ払いの大胆さで、とうとう思い切って、中へはいってしまった。 「だれもいないのかい、おい」  声もろともに杖《つえ》の先で、ゴトゴトと土間を二つ三つたたくと、 「はアい」  と、調子っ外れのしたねぼけ声がして、さてそれからまただいぶ待たせた後、ようやく眠そうな顔をした小女《こおんな》が、奥の仕切りの影からひょっこりと現われた。 「いいのかい? 構わないのかい?」  その顔を見ると、いかにこちらは客であるとはいえ、とうてい遠慮せずにいられないのだ。杖をトントン突いているうちに、どうしたはずみか、よろよろとよろめいて、そのよろめいた腰をそのままに、そこにあり合わせた椅子《いす》に落ち着いた戸田は、小女の顔を見上げながら、思わずそうきいた。  相手はぼんやりと突っ立っている。  戸田はすぐと、自分の質問のばからしさ加減を悟った。われとわれに照れた気持ちになった。で、ギーチ、ギーチ、と、鳴る椅子を、わざと手荒く直しながら、 「お銚子——できる?」  と、姐《ねえ》やの顔を見直して、さて、げえっぷと酒臭いおくびを吐き出した。 「へえ、——おさかなは?」  姐やは眠い一方だが、でもさすがに商売は忘れないとみえる。 「さあ」  と、杖の頭に両手を重ねて、その上に顎《あご》を載せていた戸田はそう言われると、目だけを動かして、壁に張ってある献立を見たが、はてな、こんなにたくさん、何でもできるのかしらと、つまらないことを考えた。 「何でもいいから、うまそうなところを見つくろって持って来てくんな。それから銚子はなるたけ熱くしておくれよ」  姐やは、へえ、とも何とも言わずに、暗い奥のほうへ引っ込んだ。板前もやっぱり居眠りをしているとみえて、しきりに呼び起こしている姐やの声が聞こえた。  戸田はかぶっていた帽子をかなぐり捨てるようにテーブルの上に投げ出すと、じっとり汗ばんだ額を、ハンケチでごしごしこすった。そうしながら、とんだところへ飛び込んだなあと自分で自分にあきれるような気持ちで、じろじろと土間の中を見回した。でもほんとうを言うと、それはそんなに不愉快な気持ちではなく、むしろその反対だった。 「たまにはいいさ、こういうのも」  ちょっとそうしたいたずらめいた気分が動いているのだった。  それは年に一度ずつある、同窓会といったようなものの帰りだった。さんざん羽目を外して騒いだ揚句が、お定まりのごとく、二次会、三次会と崩れて行って、でもさすがに、みんな相当の年輩である、泊まろうというほどの者もなく、程よく切り上げたのが、既に一時を過ぎていた。  それから近回りの者ばかり誘い合わして四、五人、俥《くるま》なんかよりいっそぶらぶら歩こうじゃないかということになって、みちみち、あちらで一人、こちらで一人、と、いうふうに落として行って、ついに一番最後の一人に別れたのが、ついその向こうの横町だった。  その前から戸田は、何かしら頭ががんがん鳴るのを、黙って耐えていた。  彼はその夜の当番幹事だ。会計からすべていっさいのことを受け持たされていたので、いくら飲んでも酔えない気持ちだった。そいつが頭に来たのにちがいない。いつになく悪酔いをしてしまった。 「もう一度どこかで、熱いやつをひとつきゅうとやると直るんだがな」  と、そんなことを考えながら歩いているやさき、目についたのが、 (一寸一ぱい)のその暖簾だった。 「へえ、お待ち遠さま」  たっぷりと十分は待たせたろう、でもさすがに持って来たものを見ると、芋《いも》の煮ころがしに湯豆腐、まぐろのさしみに、浅草|海苔《のり》がついている。これなら案外飲めそうだ、と、思いながら、 「姐さん、お銚子のお代わりを頼むよ」  と、戸田は元気よく言った。  それからどのくらい時間がたったか。  そうなると底知らずに、いくらでも飲める口の戸田であった。テーブルの上には、およそ十本あまりもの銚子が並んでいた。  時計はだいぶ前に三時を打った。戸田はそれも知らないではなかったが、 「なあに、いけなかったら、明日一日骨休めするばかりさ」  戸田はビルの四階に、婦人服の専門店を持っている。彼はちょっと世間に知られた、婦人服専門のデザイナーなのである。  と、そこは自分の持ち店だけに、だれに遠慮も要らない身分であって、もっとも女房のこうるさい小言《こごと》は覚悟していなければならないが、それとても、酔っ払ったいまの場合、そうも大して強く感じられないのだ。  とにかく戸田は、すっかりきげんよく酔っていた。 「戸田さんじゃありませんか。あなた——」  そのときふいにそう呼びかけられたのである。聞き覚えのない声だったがまさしく自分の名を呼ばれたので、戸田はとろんこになった目をその声のほうへとさし向けた。焦点の乱れた彼の網膜に、ぼんやりと映ったのは、二十三、四の色の抜けたほどに白い——髪の黒い、——それだけしか彼の目には映らなかったのだ。  ——とにかく美男子とも言うべき青年だった。少し薄すぎるのが難だなと思われる、二つの唇《くちびる》の間から、真っ白な歯並みを見せて、その男はニヤニヤと笑いながら彼のほうを見ていた。 「エエ?——エ?」  呂律《ろれつ》の回りかねる舌の先で、そう返辞ともつかぬ、嘆声ともつかぬ声を吐き出しながら、戸田はしかし思い出した。  彼がそこへはいって来てからまもなく、彼のあとを追っかけるようにして、そのめし屋へはいって来たのが、その男だった。 「おや、まるで子供じゃないか、あれでやっぱり、へえ、こんな場所へ出入りするんだなあ」  と、そのとき戸田はちらりとそんな疑念を起こしたのを覚えている。  その青年は戸田と同じように熱燗《あつかん》を注文していたが、いま見ると、彼は年齢にも似合わず飲める口と見えるのだ、ほとんど戸田のそれと同じくらいに、銚子の数をならべている。 「だれ?——だれでしたかなあ、君あ?」  戸田はギューと椅子をきしらせて、重い体をその男のほうへさし向けると、見透かすように首を前へ突き出して、二つ三つ、まだるっこくまばたきをして見せた。  男はしかし、意地悪くすぐには返辞をしないで、両肱《りようひじ》をテーブルの上に突いて、杯をなめながら、飲むと青くなる性と見える、いささかすごみを帯びた頬《ほお》に、でも、彼のほうを見返しているその目だけは、かすかに笑っているのだ。  その目に会うと、何がなしに戸田は、たじろぎぎみに目をしょぼつかせた。 「あなたのほうじゃたぶん御存じじゃありますまいよ。僕はただ、ひょんな動機からあなたを知っているんですがね」  その男は落ち着いた、酔っ払いらしからぬ、しっかりした口調でそう言った。 「と、いうのは」 「ええ」  と、相手はしかし、変にじらせるように、うつむいて皿《さら》のものをつつきながら、軽く返辞をしたがそのまま顔も挙げないで、低い声で言った。 「——ほら、Dビルディングの事件——。ね、あの事件に関連してあなたを知ってるんですよ」  Dビルディングの事件?  戸田は突然たたきのめされたように、手にしていた杯をポロリと取り落とした。 「大変な事件でしたねえ、あいつあ——。あなたは巻き添いを食って、さぞ御迷惑なことでしたろう」  相手は戸田の、そんな態度に気がついているのかいないのか、さりげない様子でそんなことを言った。  そして憎らしいくらい落ち着いているのだ。手をたたいて小女を呼ぶと、 「これ」  と、軽くなった銚子を指先でつまんで振って見せた。  戸田はその間に、しかし平静を取り戻すことができた。ハンケチを取り出して、手早く額の汗をぬぐうと、冷たくなった杯を一息にぐっと飲み干した。実際こんな場所で、あの事件のことを耳にしようとは夢にも思っていなかった。それだけに全身が激しいおどろきに揺すぶられたわけだ。 「ばかな、何というやつだろう、この男は!」  せっかくの酔いが、揮発したように、体から抜けていった。そんな不愉快な話題を持ち出した男を彼は心の底からのろった。  相手はしかし、それをまた追っかけるように、 「でも、今日の夕刊を見れば、宜《い》い具合に犯人は決定したらしいじゃありませんか」 「え?」  戸田は思わず釣り込まれて振り返った。  同窓会の集合が、四時過ぎからだったので、彼はまだその日の夕刊を見ていなかった。 「決まりましたか、だれに?」 「やはりエレベーター係りの、須崎という男だそうですよ。あなたはまだ御存じじゃありませんか」 「いや、——しかし、そうか、やっぱりあの男でしたか。僕はまだ今日の夕刊を見ていないのだが」 「だが、戸田さん、あなたはいったいどうお考えになっているのです。やはり須崎を犯人だと考えていらっしゃるんですか」 「僕?——さあ、大して確信もないが、しかし警察がそうと決めたのなら、まあ、それを信用するよりほかに、われわれとしてはしようがないじゃないか」 「そりゃあ、それもありますがね」  そこへ小女が、その男のほうへ、あつらえた銚子を持って来た。 「いかがです、おひとつ」  男はその徳利を持って立ちあがり、自分の杯を戸田のほうへ差し出した。 「…………」  戸田はちょっとためらった。無言で、自分のテーブルの前に立ちはだかったその男の顔を見上げたが、しかたなしに杯を受け取った。 「そういえばそうですがね、しかし僕にしてみれば、なぜかしら、どうも腑《ふ》に落ちないところがあるんですよ」  その男はとうとう、戸田がいやな顔をするのも、いっこうお構いなしに、彼の向かいへ腰を下ろした。そしてさっきしていたように、両肱をテーブルに突いて、その片手に、戸田から返された杯を支えながら、まじまじと、真正面から、無遠慮な凝視を投げかけるのだ。  戸田は何となしに不安ないらだたしさを、身内に感じた。 「どうして? しかしそんなことを自分たちが言ったところではじまらんじゃないか」 「それもそうですがね。しかし、僕は為《ため》にするところがあって、こんなことを言ってるのじゃなく、ただ自分一人の興味から、この事件を探求しているのですが、ねえ、戸田さん、もし須崎が無辜《むこ》の罪に陥っているのだとすると、あなたにも確かに責任の一半はあるわけですよ」  戸田は黙って鼻の穴をふくらませると、ぐっと力強く息を吸い込んだ。  いったいどうしようというのだろう? 何のためにこんな話を持ち出したのだろう? 彼の言うようにただ単なる好奇心からであろうか? それとも、何か為にするところがあるのだろうか。 「そんな事あないよ。なるほど、僕の証言のうちには、あの男にとって不利な点もあったろうさ、しかしそりゃあしかたがないじゃないか。僕は何も、あの男のため悪《あ》しかれと、故意に事実を曲げた覚えは毛頭ないんだからな」 「それはわかっていますよ。しかし」 「しかしも何もないよ」  戸田は怒ったように激しくテーブルをたたいた。 「いったい君は何のためにそんないらない詮索《せんぎ》だてをするんだ。僕は事実を話した。それだけじゃないか、それをどういうふうに解釈しようと、それは警官たちの勝手さ」 「ま、ま、そう言えばそれまでですがね、しかし人間にはいろんな錯覚だの、過信からくる、錯誤だのがありますから、あなたが、……まあ、そう怒らないでください、事実だと信じてお申し立てになった事柄のうちにも、あるいはとんでもないまちがいがひそんでいるのかもしれませんよ」  戸田はしばらく、黙って相手の顔を見守っていた。普通の者ならとても受け止められそうにない、焼けつくような凝視だのに、相手の男は少しも感じないかのごとく、そ知らぬ顔で、杯をなめていた。  戸田は改めて、その顔をつくづくと見直した。すんなりとした癖のない鼻、柔らかみのある眉《まゆ》の曲線、潤いを帯びた瞳《ひとみ》、見れば見るほど、女のようにも美しい青年だった。ただ一つ、唇が少し薄すぎて、それが心持ち反り加減なのが、著しくその顔全体に冷酷な印象を与えていて、そこに何かしら、その青年のふてぶてしい魂を思わせるようなものがひそんでいるのだ。 「いったい君は——」  戸田は一種の威圧を感じながら、「いまごろこんな話を持ち出して、どうしようというのだ」 「どうしようってわけでもありませんがね、ただいい具合にこんな場所でお目にかかれたものだから、つい持ち出してみたまでですよ。僕自身この事件にかなり興味を持っているのですし、それにちょうど、あなたはこの事件について、最も詳しい人だから、あるいは警察で知らない事実まであなたは御存じじゃないかと思うのです」 「じゃ何か、僕が隠してでもいると思うのかね」 「さあ——」 「よろしい。では何なりと聞きたまえ。お望みどおりお答えするよ」  戸田は懐中時計を取り出してながめた。もうわずかで四時になりそうな時刻だった。小女はまたどこかで居眠りでもしているとみえて、そこらあたりには姿を見せなかった。薄暗い土間には、ただ彼ら二人の姿があるだけだった。 「何でしたね。最初にあの女の死体を見つけたのは、戸田さん、あなたでしたね」 「いや、僕じゃない。しかしまあ、僕もその一人みたいなものだ。僕んとこの給仕が最初に発見して、一番に僕んとこへ知らせに来たものだから」 「そうそう、それより前に、何でもエレベーター係りの男が不審の挙動を見せた、と、いうような申し立てがありましたが」 「それはこうだ。順序立てて話すことにしよう。あの日、六月十二日だったね、僕はいつものように、少し早めに地下室の食堂へ降りて行った。君も知っているだろうがなにしろ昼食時間になると、あの食堂はむやみと混むものだから、僕はいつもその前に昼飯を食うことにしているのだ。さて昼飯をすませて、さあちょうど十二時十分前ごろだったろう、地下室から一階まで上がって来て、——これも君はたぶん知っているだろうが、あのビルディングでは、エレベーターが地下室までは行かないのだ。で、エレベーターの前まで来ると、そこに、三階に事務室を持っている、遠藤という男が立っていた。見ると、彼は額に青筋を立ててしきりにエレベーターの呼鈴《ベル》を押しているんだ。 『どうなすったんです、遠藤さん』  と、僕がこう言うと、 『エレベーターの野郎、また、サボっていやがるんですよ。僕、もうものの半時間もこうして呼鈴を押しているのに、やつ、なかなか降りて来ようとしないんです』  見るとエレベーターの指針《はり》は、四階のところに止まっている。 『機械に故障でもできたんじゃありませんか』 『それなら、しかし階段のほうからでも降りて来て、そう報告しそうなものじゃありませんか。なにしろひとを馬鹿にしている』  そう言って彼はプンプン怒っているんだ。僕も彼に代わって呼鈴を押してみたが、なるほどなかなか降りて来るようなけはいは見えない。 『しかたがないから、階段のほうから行こうじゃありませんか』  と、僕が言うと、 『ばかばかしいがしようがない。どこかで見つけたら、こっぴどくどなりつけてやらなくちゃ』  しかし、僕たちはさいわい、大変な思いをして階段を昇る必要はなかった。と、いうのは、遠藤がそう言っているところへエレベーターの指針が動き出して、ようやくエレベーターは下へ降りて来たのだ。 『何をしていたのだ、ばか、さんざっぱらひとを待たせやがって』  遠藤が口汚くそうどなりつけると、相手は黙って首を下げたんだが、その態度には、あとから考えると、隠しきれないほどの狼狽《ろうばい》の様が見えていた」 「そのエレベーター係りの男がつまり須崎なんですね」 「そうだ、僕もそのときにはしかしまだ名前なんか知らなかった。ちょうど一ヵ月ほど前に新しく雇われて来たばかりのところだったから。  とにかく変なやつだと思いながら、でも僕は、遠藤ほど待たされたわけでもなかったから、別に口汚くどなりもしなかった。そのうち遠藤は三階で降りる。そして僕の事務所はもう一層上の四階だからそこで降りた。そして自分の事務所へ帰ると、まもなくそんなことなんかすっかり忘れてしまっていたんだ」 「そこへまもなく、あの女の死体が発見されたというわけなんですね」  青年はなかなか要領よく質問を切り出していく。戸田はいやいやながらも、その調子に引きずられないでいられなかった。 「そうだ。それは昼休みの間だったがね。僕がそうして事務室へ帰って、一服吸っていると、ちょうど十二時半ごろのことだった。昼休みだ。僕はそうして早めに飯を食うが、店員や給仕たちにはやはり普通の時間に食事をさせることにしているんだ。その日はちょうど店員が休んでいて僕と給仕二人だけだった。給仕は持って来た弁当を食い終わると、口笛を吹きながら部屋を出て行ったが、すぐ顔色を変えてあわただしく帰って来た。 『どうしたんだ、静かにしないか』  僕がそうきめつけると、給仕は、声をふるわせて言うのだ。 『大変です、大変です』  大変とばかりで、あとはろくすっぽ口も利けない有様じゃないか。それも無理もないさ。あんな事件に出会《でく》わしたら大人だって肝をつぶすにちがいないよ。 『大変だとばかりじゃわからないじゃないか。どうしたのだい、はっきりものを言えよ。ばか』  癇癪《かんしやく》を立てて僕がそうどなると、給仕はようやく、 『女の人が、……女の人が死んでいるんです』  と、言うんだ。 『女が死んでいる?』 『そ、そうです』 『どこだ、それは?』 『便所の中で——』 『便所?』  僕は半信半疑だったが、まさか人が死んでいると言うのに放ってもおけないから、その給仕を引き立てるようにして便所のほうへ行った。ビルディングの便所というものは、どこも似たり寄ったりのものだから、説明するまでもあるまいが、まずすりガラスの扉《とびら》がついて、それに「御手洗室」の日本字で、TOILET ROOM と横文字でそこだけは、普通のガラスで書き抜いてある。こいつがあとになって必要になってくるんだから、よく覚えておいてくれたまえ。で、その扉を押し開くと、中は日本の畳に換算すれば、まあ六畳敷きの部屋を、縦に二つぐらいつないだほどの広さになっていて、その一方には大便所が六つばかり、その反対の側には小便所が、これもやはり同じくらいの数だけ並んでいるのだ。さて、僕が給仕を引っ張って行って、その扉を押し開くと、いちばん奥まった大便所の前に、若い、洋装の女が、あおむけになって倒れているのだ。見ると、ちょうどその前の大便所だけ扉が開いている。 『や、どうしたのだ、こいつあ』  さすがに僕も思わずその頓狂《とんきよう》な声を挙げた。 『私がその扉を開いたのです。すると中からその女の人が転げ出したのです』  と、いう給仕の答えだ。なるほどこいつは肝をつぶすのも無理からぬ話だ。僕は大急ぎで女のそばへ走り寄ろうとしたがそばへ寄って見るまでもなく、女は既に事切れているのがわかったものだから思い直して、いやがる給仕を無理に番人にしておいて警察へ電話をかけたのだ」 「なるほど、そこであの大騒ぎが持ち上がったというわけなのですね」 「そうだ。実際僕にしても驚いたよ。そのときにゃまだ何かのまちがいだろうぐらいにしか考えていなかったのだ。ところが検事だの検視官だの、僕はあんまり警察方面の事あ知らないから、どういう厳めしい肩書きを持っている人たちかわからないが、とにかくそういう人たちが続々やって来る。そして警察署がいろいろと手を尽くしてしらべた結果が、結局、他殺だと決まってしまったのだ。そうなると僕と、給仕とが第一の証人だから、盛んにいろいろなことを尋ねられる。とてもいちいちそれをここで繰り返すわけにはいかないが、とにかく、仕事もできないし、うるさいことを尋ねられるし、すっかり弱ってしまったことだった」  戸田はそこでことばを切ると、傍の銚子を取り上げた。が、あいにく酒はもうすっかり冷たくなっている。 「チェッ……」  と、舌打ちをするのを見て、相手の青年は、奥のほうへ振り返って小女を呼んだ。しかしさすがにもう時間である。彼らが話しているうちに、とうとう眠り込んでしまったものと見えて、いくら呼んでも起きて来るけはいはなかった。  酒が来ないとなると、戸田は急に寒さが身にしむのを覚えた。そこへ持ってきて、夜明けに近い空気は、雨気を含んでいっそう冷え冷えと膚を打ったのだ。彼は雨外套《あまがいとう》の襟《えり》を立てて肩をすぼめるようにした。  しかし相手の男は、戸田のそうした態度すらいっこう意に介しない態で、 「…………」  と、あとを促すように彼の顔を見る。  戸田はもういいようのない憤懣《ふんまん》を、むらむらと胸のうちに燃やしながら、そうした態度を露骨に相手の前に示したが、しかも、どう抵抗することもできない、ある一種の力に引きずられて、またもやぼつぼつとあの話を続けるのだった。 「被害者というのは、二十四、五の、どちらかというと、洋装をしているというのでもわかるとおり、妖艶《ようえん》な美しさを持った女だった。もっとも洋装といっても、薄紫色の、軽そうなドレスみたいなものを引っかけているだけで、外套も着ていなければ、帽子もかぶっていない。頭は近ごろ流行の断髪——、それも非常に思い切った断髪でちょうど日本の子供の、おかっぱぐらいしかない長さにそろえて切ってあるのだ。もっともその女にはそれがよく似合っていた。さて致命傷というのは、後頭部に受けた打撲傷——何か、鈍器で強く殴られているというのだ。僕には医学的のことはあまりわからないが、とにかく、それは皮下出血を起こしているとか、脳震盪《のうしんとう》を起こしているというような医師の診断だった。  さあ、そこでビルディングの中は、一種非常警戒というようなものが張られて、少しでも怪しそうな人物は、片っ端から尋問を受ける。  ところがここに不思議なことには、その女が、どうして四階まで上がったかということが問題になってきたのだ。というのは、そのビルディングの中にいる者で、一人としてその女を見た者がないのだ。もっとも、めいめい忙しい仕事を持っている人たちばかりだから、そう他人さまのことに気をつけているわけにもいくまいが、それにしてもあれだけ大勢の人間がいて、その女をだれ一人見た者がないとは、ちょっと考えられないことじゃないか。例えばエレベーターの運転手さえ。その女は前言ったとおり洋装しているのだから、したがって靴《くつ》をはいている。しかもそれが、とても踵《かかと》の高い靴なのだ。とうていそれで、エッチラ、オッチラ、一つ一つ階段を昇って行くなんて、考えられないじゃないか。当然エレベーターの力を借りたのにちがいないんだ。それだのに運転手の須崎は、知らぬ存ぜぬとどこまでも言い張るんだ。彼が言うのに、 『四階から、上には、現在のところ女の人は一人もいません。したがって一人でも女が、そこへ下りたら、私はきっと覚えていなければならぬはずです。ましてや、こんな服装をしてる女なら、いっそう忘れることはないはずです。しかし今日のところ、この女はもちろんのこと、女というものは、一人だって四階から上へは案内しませんでした』  ——とまあ、危うく事件は変なふうにこんがらかりそうになってきたのだ」 「そこへあの証人が現われたわけですね。ほら、大森とかいいましたね、あの人は……?」 「知っているんだね、君は?」 「ええ、新聞で伝えている程度には。しかし、実際に当たっていないのだから、ほんの表面的なことだけしか知らないのです。だから、やっぱり一応お聞きしたほうが宜《い》いようです。で、その大森という人が?」 「大森というのは、僕と同じ四階に事務所を持っている男なんだがね。いったいあのビルディングは、一階に三十ずつの部屋があるんだが、なにしろこのごろの不景気で、四階五階ときたら、空いている部屋のほうが、ふさがっている部屋の三倍もあるくらいなんだ。大森はその四階のいちばんすみっこに事務所を持っているんだが、昼少し前に彼は外出したのだ。なにしろ、いままでだれ一人手がかりを与える者はいなかったんだから、刑事たちは大喜びだ。大森の話によると、その日の午前十一時過ぎ、正確な時刻はむろんわからないが、彼はふと用足しに、事務室を出て、その手洗い室の前まで来たんだそうだ。ところが中へはいろうとすると、そこに話し声がする。それがどうやら男と女とであるらしく、しかも、いやにひそひそ語っているのだ。こいつあいけないと彼は思った。いらぬところへ飛び込んで、あとで恨まれちゃつまらないと思ったものだから、気を利かして、三階まで降りて用を足したというのだ。ところがそら、彼が気を利かしてそこを離れるとき、やっぱりだれだって好奇心はあるもんだ。ちょっと中をのぞいてみたんだそうだ。ところが前にも言ったろう。その扉というのは全部がすりガラスで、文字のところだけが普通のガラスになっている。つまり彼はそこからのぞいたわけなんだが、したがってごく制限された、ほんのわずかな部分しか見えなかったわけだ。その中に、彼はたしかにその女の顔を見たと言うのだ。ところが残念なことには、そのとき一緒にいた男、時間から何からいって、それがたぶん犯人にちがいないのだが、そのほうには大して興味も感じなかったかして、少しも気がつかなかったというのだ。ただ一つ、でも、これがのちのち有力な証拠になったんだが、その男の手にしていた雑誌の表紙を、彼は見覚えていたんだ」 「問題になった、キネマ雑誌ですね」 「そうだ。ところがこいつもなかなかあやふやなんだ。刑事たちに、何かその男について、覚えているものはないかと、さんざん尋ねられた末、やっと思い出したぐらいのことなんだからね。しかしそれも無理はないさ。そんな大事件が起ころうとは夢にも思っていなかったんだから、だれだって、そんな些細《ささい》なことまで覚えているはずはないからね。それにさっきも言ったように、ごくわずかの隙間《すきま》から、透き見しただけのことなんだから、雑誌の表題が辛うじて、それもほんの一部分だけしか読めなかったというのも無理ではないよ。だがこいつはあなどりがたい証拠になった。彼が読んだ、『キネマ』の三字、これがまあ今度のこの事件の要《かなめ》をなしたようなものだ」 「そうですね、そこでキネマ雑誌の大捜索が行なわれたというわけですからね」  戸田はなぜだかちょっといやな顔をしたが、でも、別に言葉を切るでもなく、あとを続けた。 「そうそう、このビルディングの中で、キネマ雑誌を持っている者は、それを持って全部集まれというわけさ。驚いたね、キネマ雑誌というやつはずいぶん読まれるものだね。三十あまりもあったからね。ところが、さてどれがあの犯人が持っていたものであるか、その点、証人がいたってあやふやなものだから、とてもわかりそうにないのだ。なにしろただ『キネマ』という字の印象が、ぼやっと頭の中に残っているだけで、それが赤で書いてあったか、黒で書いてあったか、それすらはっきり覚えていないという始末なんだから、集まった三十何冊の中から、それを選べと言ったところで、とうていできることじゃないんだ。たとえできたとしても、同じ雑誌を持っている人間はたくさんあるわけだから、結局だめになったろうが、そこはよくしたものだ。意外な方面から簡単にそいつが片づいた。というのは、それらの雑誌の持ち主の中の一人が言うのに、エレベーター係りの須崎も、たしかにキネマの雑誌を持っているはずだのに、どうしてここへ出さないのだろうというのだ。ところがこれを聞くと須崎は、さっと顔色を変えた。そしてなるほど自分もキネマ雑誌を持っているが、今日は持って来なかったと言うのだ。ところがこいつがまたすぐに尻《しり》が割れてしまった。というのは、僕自身もこの目で見たことなんだが、たしかにその朝も、彼は洋服のポケットの中に、その雑誌を持っていたんだ。これは僕以外に証言するものがかなりたくさんあったからまちがいない事実なんだ。ところがそれを、彼は違う違うと飽くまで言い張るんだ。なるほどしらべてみると、彼の身の回りにはどこにも雑誌らしいものはない。別に部屋といって持っていない彼だから、持っているとすれば、身につけていなければならぬはずなんだ。ところがそんな取り調べをしているところへ門衛の爺《じい》さんが、ひょっこりとやって来た。そして彼が言うのに、『その雑誌ならおれが知っている』と言うのだ。 『昼休み少し前のことだが須崎さんがその雑誌を紙で巻いて、表の郵便箱の中へ放り込んでいる』とこう言うのだ。  これを聞いたときには、須崎はまるで紙のように真っ白になった。 『うそです——うそです——そんな事あ——』  しかし彼がそんなふうに抗弁すればするほど、かえって人々の疑惑を増すということを彼は知らないのだ。そこでさっそく、最寄りの郵便局へ刑事が走って取り調べたのだが、うまい具合に、その郵便物はまだそこの局にあった。そしてその中には果たして、須崎の雑誌というのも混じっていた。見るとそのあて名は彼自身になっているんだ。なぜまたそんなことをしたのか、しかしすぐにその疑問は解けたというのは、刑事がその封を破っていると、中からコロリと落ちたものがあるんだ。それは首飾りなどの垂れによくついている、一種のペンダントなんだ。須崎はそれを雑誌の中に封じ込んで自分の家へ送ろうとしたんだが、これが彼にかかる疑惑を抜き差しならぬものにしてしまった。と、いうのは、被害者の女というのが、やはり細い金の首飾りをしていたんだが、そのペンダントが切れてなくなっているんだ。それを持って行くと、ぴったりとその二つは一致するんだ。こういうわけだから、須崎に疑いがかかるのも無理ではないじゃないか」  相手の男は黙って聞いていた。戸田は続ける。 「もっとも須崎はこんなふうに弁解している。彼が四階の手洗い室へはいって手を洗おうとしてふと見ると、洗面所の水のはけ口の穴に、なんだかピカピカ光るものが詰まっている。おや、何だろうと思って取り出してみると、それが蛋白石《たんぱくせき》をはめこんだその首飾りだったというんだ。だれかが誤って落として、そのまま気づかずに行ったのにちがいないと彼は考えた。そこでついちょっとした出来心から、そいつを着服しようと思って、さてこそ、うっかり身につけていてばれちゃ大変だから、雑誌の間に封じ込んで家へ送っておこうと思ったというんだ。彼の言うのに、 『だいいちその女を殺そうにも何にも、私はいままで一度もそんな女を見たことがありません』  しかし、そういう彼のことばには少なからず曖昧《あいまい》な節があって、どうも信用なりかねる。そこへもってきて、ほら、さっきも言ったように、四階で何だか長いことやっていたという証言も出てきたろう。おまけに彼は、その女を一度も見たことがないと頑《がん》として言い張るんだ。見たことがないといって、さっきも言ったように、その事件に関係あるなしは別としても、その女が階段から上がったりするはずはないんだから、エレベーター係りの彼としてその女を見たことがないなんてはずはないんだ。それをまた彼が飽くまで隠すもんだから、いよいよ嫌疑《けんぎ》は深くなっていくという始末なんだよ」  戸田はそこでことばを打ち切った。  時計はもう五時近くを示している。まもなく夜は明けるだろう。そういえば、何となく表のほうがうすぼんやりとほの白くなってゆくのが感じられるようだった。 「僕の知っているのは、あらましそれぐらいのことだ。それ以後また何か新しい発見でもあっただろうか、僕はその事件については、新聞もなるべく読まないことにしているからあまり知らないんだ」 「ところで、凶器は発見されたのでしょうか。何だかそれがわからないので困っているというような風評でしたが」 「そうそう、そういえば、僕の知っているかぎり、凶器はついに見つからなかったらしいよ。ずいぶん綿密に捜していたことは捜していたようだったが」 「それはしかし変じゃありませんか? 須崎が犯人としたら、彼は凶器を捨てる暇なんてなかったでしょう。そういえばあなたがたが、エレベーターにお乗りになったとき彼は凶器らしいものを持っていたでしょうか」 「そいつは警察でもきかれたが、あいにくそこまでは気がつかなかったよ」 「とにかくこれは計画された犯罪じゃありませんね。何かのはずみを食って、つい女を殺してしまったものだから、びっくりして、それで便所の中へ隠した——、と、いうぐらいのところなんじゃありますまいか」 「警察でもそう言ってるね。しかしそれだと、いよいよ須崎らしくなってくるのじゃないかな」 「そうですね——」  その男は何かの影を追うような目つきで、ぼんやりと空間を見詰めていた。戸田は疲れきった面持ちで、相手のその様子をながめた。さっきのいらだたしさはもう感じなかったが、その代わり一種譬えようのない不愉快さ、——それはだれしもが徹夜したあとの朝に感じるあの不愉快さに、幾倍もの輪をかけたような感じだった。  しばらくするとその男はふとわれに返ったように、戸田の顔を見るとニヤリと笑った。 「実はね、戸田さん、僕は変な男でしてね、こうした一事件を土台として、いろんな空想を築いてみるのが大好きなんです。この事件も、だからその例にもれず、僕の頭の中では、ちゃんとまとまった事件としての空想が成り立っているんですよ。いまあなたにお話をしていただいたお礼にどうです、今度はひとつ、僕自身の空想的解決というのをお聞かせいたしましょうか」 「いいでしょう、じゃひとつ聞かせてもらおうかな」  戸田は大して興味もなかったけれど、いきおいそう言わなければならなかった。白けた張りのない声だった。 「むろんこれは全部空想ですよ。だから、実際とはまったく正反対の解決に到達するかもしれませんがね、しかし、話としてはそのほうがおもしろいわけでしょう」  その男は、でも、さすがに夜明けの寒さを感じ始めたのか、襟をかき合わせながら、要領のいい調子で話し始めた。 「空想というやつはね、得てして奇抜を第一に喜ぶもんなのです、したがって僕の空想的解決においては、理屈はどうであろうと、須崎は犯人にあらずというところから出発するんですよ」  戸田はちらりと相手の顔を盗み見た。相手はしかしそんなことにはいっさいお構いなしに、ずんずんと彼の話を進めていく。 「そうするにはしかし、須崎の受けている誤解を、片っ端から打ち壊していかなければならないのですが、そこが事実に接しない空想のありがたさですね。とらわれるところがないものだから、そんな事あ朝飯前なんです。まず第一に、彼が四階で、何をしていたか、そのことからお話いたしましょう。僕の思うのに、彼は四階にそんなに長くはいなかった。彼が言っているように、洗面所で手を洗おうとして、ふと、その蛋白石のペンダントを発見する、それを、取り出そうと努力していた時間以上には、四階にとどまってはいなかったと思うのです。彼が四階にそんなに長くいたという証拠がどこにありますか。それはただ、あなたと遠藤という人の証言があるばかりでしょう? なるほど遠藤という人は半時間あまりも待たされたと証言しています。しかしこいつははなはだ曖昧だと思いますよ。待たされる時間というものは特に長く感じられるものですし、ことにいらいらしているときには、わざと誇張して言いたがるものですからね。だから、遠藤という人の証言なんか一文の価値もないと思うんです。それに、そのとき須崎がたいへん狼狽していたということだって、何も女を殺したためでなくてもいいでしょう? そうとう高価な物をこっそり着服しようとしているところだから、突然どなりつけられたら、だれだって狼狽するのは当然じゃないでしょうか。それから、もう一つ、須崎がその女を一度も見たことがないと言い張るのが、彼の立場をかえって不利にしているようですが、これだって無理もないですよ。と、いうのは、こいつあむしろだれも気がつかないのが、僕としては不思議なくらいですが、ほら、女は薄いドレスみたいなものを一枚着ているだけで、外套も帽子もかぶっていなかったというでしょう? ところであの日はといえば、雨こそ降っていなかったが変に薄曇りのした日で、いまにもバラバラと来そうなお天気だったじゃありませんか。あんな日に女が、外套を着ずに外出するものでしょうか。いやいやそんなはずはありません、何かきっと身につけていたにちがいないのです。ところで警察官たちは、『あんなケバケバしい服装をした女を見忘れるというはずがない』と、いうところに、彼の嫌疑《けんぎ》を深めているのですが、もし彼女がそのドレスの上に、何か非常に目立たないものを着ていたらどうでしょう。例えば、ほら、このごろ、女たちが着るようになった、カーキ色の雨がっぱのようなものを……。須崎はあの日、四階から上へは一人の女も案内しなかったと言っていますが、なるほど、このカーキ色の雨がっぱの頭巾《ずきん》のついているやつを、すっぽりと頭からかぶっていると、ちょっと男か女かわからないものですよ。ことにそれが曇り日の、しかもそうでなくてさえ薄暗いエレベーターの中のことでしょう、気がつかずに過ごすのも、ありえないことじゃないと思うのです」 「なるほど、しかし、その外套はその後どうなったのだね」 「さあ、それですね。むろん犯人がどこかへ隠したことになるのですが、咄嗟《とつさ》の場合、ああしたビルディングの中でどんなところへ隠したでしょう。僕は大いに空想を働かせてみたんですが、ふと気がついたときに、あのビルディングには地下室に洗濯屋がありますね。僕の空想的犯人が、雨がっぱを隠す場所として、その洗濯屋を選んだのにちがいないと決めてしまったのです。あそこだと、隠すというよりも、むしろおおぴらに置いて来られるでしょう? しかも凶器なんかを捜される場合、なまなかなところへ隠しておくと、それに連れて発見される憂いがありますが、洗濯屋だとかえって安心ですからね。ところで、これは僕としてはむしろ少し出過ぎたと思うのですが、ちょっとしたおせっかいから、その洗濯屋のざるの中に、雨がっぱを放り込んで行った者があると言うんです。別にそれを彼らは少しも怪しんでやしませんでしたがね」  この話の半ばごろから、戸田はどうしたものか、隠しきれない焦燥を示し始めた。彼の目の中にはあらわな不安が宿り、その息は何かしら尋常でない感じだった。しかもそこから腰を上げようとせずに、熱心に相手の話を傾聴している。一種の電気にかかったような体つきだった。 「ところで、今度は方面を変えて、凶器について僕の空想をお話しましょうか。これは外国の探偵小説にあることなんですがね、凶器が、あまりに大きすぎて目につかないというのです。というのはつまり大地に落ちて死んだ男——だから凶器は大地だが、あまりに大きすぎるから気がつかぬというのです。この言いかたを借りるなればこの場合僕は、凶器があまりに目の前にありすぎて、だれも気がつかないのだと言いたいのです。僕の空想は、こういう場合を、僕に見せてくれます。男と女とが手洗い室の中でひそひそ話をしている。女というのは、あまり潔白な職業をしているのでなくて、男とはそういう方面からの知り合いである。で、二人がそのビルディングの手洗い室で人目を避ける——というほどでもないが、とにかく、あまり目立たない場所で話をしている。そうしているうちに、ふと二人の間にはいさかい——と、いうほどのものではないが、例えば、男のほうがちょっとしたいたずら気から、女に接吻《せつぷん》を要求する、女のほうでもいやではないが、行きがかり上応じないというふうを見せる——と、そういった程度のいさかいが起こる。男はそうなるといっそう迫って来る。女は逃げる。——ところで、ここに気をつけなければならぬのは、手洗い室の床というやつは、装飾|煉瓦《れんが》で敷きつめてあって、とてもすべすべとしています。そして女はといえば、踵の高い靴をはいている。そこへもってきてそのいさかい、どうしたはずみにか女はつるりと滑って、運悪く洗面台の端で頭を打った——、と、いうことは、まんざら考えられないではないじゃありませんか」  戸田は黙っていた。彼の体は石のように固く、しかもその膝頭《ひざがしら》はガタガタと打ちふるえている。 「男はびっくりした。だれだってびっくりしますよ、そりゃね。どうしようかと思ったが、咄嗟《とつさ》の場合、もしそんなことが知れたら、名誉に関することだから、逃れられるものなら逃れたいと思う。さいわいだれも見ていた者もなかったようだからと、とりあえず女の体を便所に隠し、自分は女の脱ぎ捨てていた外套を持って出る。そしてエレベーターの呼鈴《ベル》を押したが、ふと気がついて階段のほうから下りて行く。そしてちょうど時間だったものだから、人々の不審を買わぬようにと地下室の食堂へ下りて行く。するとおあつらえ向きなことにはそこに洗濯屋のざるが出ていた。彼は投げ捨てるようにして手にしていた外套をザルの中に放り込んで行くのです。一方エレベーターのほうでは、だれか四階から呼んだようだがと思って上がってみるとだれもいない。不審に思いながら、便所へでもはいっているのじゃなかろうかとちょっとのぞいてみる。いない。そのついでに手を洗う気になって……、あとはあなたも御存じのとおりです」  しばらく、ぎこちない沈黙がそこに流れた。戸田は何かしら逃げ道を求めるように、あたりを見回していたがふと反噬《はんぜい》するように言った。 「しかし、あのキネマ、……あれは? あれは?」 「ああ、あれですか」  相手はさも事もなげに、 「あれはとんだまちがいなんですよ。が、考えてみると、まあ、無理からぬまちがいでもありましょうね。なにしろ大森という人は、咄嗟の場合、しかもごくわずかの隙間からのぞいたのですから、そう丁寧に一つ一つ、キ、ネ、マ、と拾い読みする暇はなかったろうと思うのです。漠然《ばくぜん》と網膜に映じたその印象から、キネマと早がてんしてしまったのです。というのは、それはキネマということばではなく、ネマキということばだったろうと思うのですよ。いったいこれが日本の仮名文字の欠点ですが、全体の形から一つのことばになじみがあるのじゃなくて、一つ一つ文字を拾い読みしなければならない。ところがこの場合、キという字、ネという字、マという字、この三字からできていることばのうちでは、現在われわれにとっては、キネマということばが最も親しみ深い、したがって、ネマキであろうが、マネキであろうが、咄嗟の場合これをキネマと読んでしまうことはごくありがちなことなんです。ところで戸田さん、あなたは婦人服専門家ですから、あなたのところへ来る雑誌の中には、さぞや近ごろ流行の、新型ネマキの広告などもあることでしょうね」  戸田はむっくりと椅子から立ち上がって、何か言おうとして激しく、息遣いをしたが、ふいにガラガラと咽喉《のど》の奥のほうで笑った。  夜はすっかり明けている。ミルク色の朝霧が街から街へと流れていた。その中を、忙しそうな足どりで人々の行き交うのが見えた。  不思議な男も椅子から立ち上がった。そして大儀そうに生《なま》欠伸《あくび》をかみ殺していたが、やがて低い声で、 「ああ、つまらないことで、とうとう夜明かしをしてしまった」  そうつぶやくと、呆然《ぼうぜん》としている戸田を尻目にかけて、ブラブラと表のほうへと出て行った。  まもなく、朝霧の中にその姿は見えなくなった。 [#改ページ] [#見出し]  執 念     一  おりかばあさんが亡くなってから、すでにもう一月あまりにもなるのに、彼女が隠しておいたと思われる二千何百円かの金は、いまだにどこからも発見されなかった。  天井裏といわず、床下といわず、およそ彼らの考えつきそうな場所といえば、片っ端からひっかきまわしてみたのだが、その結果は、いつもいまいましい失望を重ねるに過ぎなかった。養子の耕《こう》右衛門《えもん》と嫁のお作《さく》は、もともと仲の好い夫婦ではなかったが、この問題が起こってからは、実際、はたの見る目もあさましいほど、露骨ないさかい[#「いさかい」に傍点]を日ごと夜ごと続けている。 「畜生! おれの留守の間に、またこんな所をひっかきまわしゃあがって、てめえいったいどうする気だ? 金がめっかったら、こっそり自分のものにしてしまう気か、恐ろしい女《あま》っちょだ!」  用事があって、つい十五分ほど、隣の五衛門《ごえもん》じいさんとこで立ち話をしていた耕右衛門は、家に帰って土間に草履《ぞうり》を脱ぐなり、口汚くそう言いののしった。 「何よ!」  お作もまたそれに負けてはいなかった。「金が手に入ったら、手に手を取って駆け落ちしようと、吟松亭《ぎんしようてい》の女《あま》っ子と約束しているのはいったいどこのだれだったけ? ふん、だれがお前なんかにだまされるもんか!」 「なに? じゃてめえ、あの手紙を見やあがったな?」  耕右衛門はいくぶん狼狽気味に言った。 「見たよ。見たがどうした。それほど大切な手紙なら、ちゃんとお守《まもり》さんの中へでもしまっといたらええ。そこらへほったらかしとくお前さんがばかだ。イヒヒヒヒヒ!」 「うぬ!」  がんじょうな耕右衛門の腕が、青ぶくれのしたお作の頬ぺたに飛んだ。 「己《うぬ》、なぐったな、親にも触らせぬこの顔を己ようもなぐったな!」  女にもあるまじき形相で、お作は良人《おつと》の胸ぐらにむしゃぶりつく。耕右衛門はそれを、さんざんなぐったりけったりしたあげく、やがてヒイヒイ言っている女の乏しい髪の毛をひっつかんで、狭い六畳の部屋じゅうを引きずり回す。あるときはそこに茶碗が飛んだり燗徳利《かんどくり》が飛んだりする。そしてとどのつまりには、お作が村じゅうに響き渡るような声で叫ぶのだ。 「人殺しイ——、だれか来てエ——」  しかし近所でももう、ほとんど毎晩のことなので、馴れっこになっていた。 「父《とつ》つぁん、耕右衛門さんとこで、また夫婦げんかをおっ始めているよ」 「ほっとけ! ほっとけ。したいだけやらしといたらええ。止めに行って、いつかみたようにそば杖食っちゃつまらんからな」  だれももう仲裁に行く者はなかった。  耕右衛門もさすがに、こういう状態をあさましいことだと思わないわけにはいかなかった。死んでも渡さないと言った養母の金を、捜し出して自分のものにしようというのだから、どっちみち不愉快な仕事にはちがいないが、それにしても、女房との間が円満にいっているのだったら、どんなにか気が楽《らく》だろうと彼は思った。 「なあお作や」  彼はこう言いたかった。「毎日毎日こんなにけんかをしていてもはじまらんじゃないか。せめて金が見付かるまでは、お互いにもう少し夫婦らしゅうしようじゃないか。金が見付かったあかつきには、それはまた別れるなりなんなり、話のつけようもあるというもんじゃないか」  しかし猜疑《さいぎ》に歪んだお作の、冬瓜《とうがん》のように青くむくれあがった顔を見ると、彼は思わずむかむかとしてしまって、せっかくのことばも苦いつばといっしょに飲み込んでしまうのだった。よしまた彼がそれを言ったところで、うまく妥協ができるかどうか。 「なに世迷言《よまいごと》を言ってるんだ。わしが見付けたら無理にも山分けにしようと思って、自分が見付け出したら、それこそみな横取りしてしまうんだろう。へん、だれがその手に乗るもんか!」  お作はそう突っ放してしまうにきまっていた。そんなことを思うと、耕右衛門はいっそういらいらしてくるのだった。  いったいうちはどうなってゆくのだろう? 耕右衛門はつくづくと考える。  一年じゅうでいちばん忙しい季節だというのに、彼らはもう長い間野良へ出ないでいるのだ。ちょっとでも外へ出ている間に、相手がどこかから、その金を見付け出すかもしれない、そしてひそかに着服してしまうかもしれない、そんなさもしい心で、彼らはまるで敵同士のように、陰険に、辛辣《しんらつ》に、お互いの肚《はら》の中を探り合っているのだった。 「ああ、いやだ! いやだ!」  さんざんなぐったりけったりしたあげくの果てに、だれも止めてがないのでかえってはりあい抜けのした彼ら二人は、いつとはなしにけんかをやめてしまっていた。耕右衛門はさっきから、茶色にやけた畳の上にごろりと横になって、すすけたランプの灯をまじまじとみつめていたが、なにを思ったのか、ふいに吐き出すようにそうつぶやいた。  壁といわず、障子といわず、見まいとしても見えるのは、気違いじみたこの一ヵ月あまりの捜索の跡だ。結局それらのすべてが徒労に帰したことを考えると、やはりその金には、老婆の執念がしつこくつきまとっているのではなかろうかと思われるのだった。 「渡すもんか! 死んだってお前たちに渡すもんか! わしの金だあ、しっかりとわしがこの手で握っているのだ」  そう言って、ミイラのようにやせ細った右手を、薄い布団の下から突き出してみせた、あさましいおりかばあさんの臨終の姿を、耕右衛門は薄気味悪く思い出した。 「なあ、お作、こんなことなら、うそでももう少し、ばあさんのごきげんを取り結んでおくんだったなあ」  耕右衛門は寝転んだまま、女房の意《こころ》を迎えるようにそう声をかけた。しかし彼女は、ランプの明かりのとどかないすみのほうに、ぐったりと座ったまま石のように黙りこくっていた。じじい、じじい、とランプのしんの焼ける音が、あらしのあとのように静かな部屋の中に冴えかえった。 「ああ、いやだ! いやだ!」  しばらくすると、ふいにまた同じようなことをつぶやきながら、耕右衛門はむくむくと起き上がった。そして押し入れから布団を取り出すと、せっせとそれを敷き始めた。 「お作、おらあすっかり忘れていただが、青には毎日飼い葉をやってくれとるだろうな。おれはもう金のことはええかげんに断念して、明朝《あす》あたりから野良に出ようと思うよ。いつまでこうしてたって始まらねえ、しまいには口が干上がってしまうばっかりさ」  そんなことを言いながら、遠慮なく彼は裸ん坊になって、寝床の中へもぐり込んだ。  お作はそれを、なぜかしらぎろりと目を光らせながら見守っていたが、相変わらず薄暗い部屋のすみを離れようとはしなかった。     二  それから一時間ほどたった。  居眠りをしていたのか、それともそんなふうを見せながら、良人の眠りつくのを待っていたのか、部屋のすみに、不貞腐《ふてくさ》れた姿できょとんと座っていたお作は、ふいに細目を開くと、そろりと耕右衛門のほうへ首を伸ばした。夢でも見ているのか彼は、鼻の頭に無数の粟《あわ》粒大の汗をおいて、寝苦しそうにいびきをかいている。  お作はじわりと、奇妙な尺取り虫のように、からだいっぱいを畳の上に伸ばして、しばらく良人の寝息をうかがっていたが、低い、かすれた声で呼んでみた。 「お前さん、——お前さんもう寝たのかい?」  いびきの声が、やや鼻にひっかかっただけで、耕右衛門は目を覚す気配はなかった。  お作はそろりと立ち上がると、古ちゃけた戸棚の引き出しを、音のしないあけ方で開いて、その中から五寸程の日本ろうそくとマッチとを取り出した。  それからランプの明かりをふっと吹き消すと、素足のまま土間に下りて、そこでもう一度、低い、かすれた声で呼んでみた。 「お前さん、——お前さんもう寝たのかい? わしはこれからちょっと、青に飼い葉をやって来るよ」  しかし依然として答えはなく、暗やみの中に、耕右衛門の寝苦しそうないびきだけが、なにかしら地獄の責苦を思わせるように、不気味に響き渡っていた。  お作は安心して、そろそろと戸を開くと素足のまま外へ出た。  雨がくるとみえて、空には星一つなく、水あめのようにとろりとよどんだ暗がりが、そこらいっぱいにひろがっている。お作はもう一度、からだじゅうの神経を耳の底に集中して、そろりそろりと戸を締めた。  幸い耕右衛門はとうとう目を覚さなかった。  お作は外へ出てホッとひと息すると、急にさっきなぐられた箇所に痛みを覚え始めたので、くちなわのようにからだをくねらせながら、ほうぼうをなでたり、さすったりしていたが、やがて胸を張って、生ぬるい夜気をぐっとひと息吸いこむと、思い出したようにマッチをすってろうそくに火をつけた。弱い、乏しい光だったが、さすがにそこの部分だけは、やみが円く引き裂かれた。  お作はその裸ろうそくを片手に、しばらくまた家の中の様子をうかがっていたが、やがて猫のように音のしない歩き方で二、三歩行った。が、ふいにぎょくんとそこに立ち止まった。 「だれ?——だれだい、そこにいるのは?」  ろうそくを右手に高く差し上げて、その下から見透かすようにやみの中をのぞき込みながら、抜け歯の間を漏れるふるえ声で、二、三度彼女はそう呼ばわった。むろんなんの答えもない。あたりは深い森の中のように、しんと静まり返っている。  お作はそれでも、安心なりかねるように、しばらくやみの中をかなたこなたと見回していたが、間もなく思いあきらめたものかそろそろとまた歩き出した。  やがて彼女は厩《うまや》の前まで来た。  ろうそくの明かりと、女主人の顔をみとめた馬の青は、うれしそうにブルブルブルと鼻を鳴らせて、しきりと床をけった。お作はしかしそんなことには見向きもしないで、ろうそくを左の手に持ちかえると閂《かんぬき》を外した。  そのとたん、彼女はなにかしらまたもやぎょくんとした。本能的にうしろへ振り返る。 「だれ?——だれかそこにいるのかい?」  その声は、良人をはばからなければならないにもかかわらず、かなりヒステリックに高かった。彼女は胴震いをしながら、いっそもう、家《うち》のほうへ引っ返そうかと思った。  暗やみの中にはたしかにだれか人がいるのだ。姿はやみの中に溶け込んで見えないけれど、なにかしらその気配を、彼女は身のまわりに感じるのだ。 「だれかそこにいるのなら、さっさとあっちへ行っとくれよ。わしはこれから馬に飼い葉をやるんだから」  わざと気丈らしくそんなことを言ったが、言ってしまってから後悔した。いかにも言い訳らしい言いぐさだと自分ながら思ったからだ。  お作はどうしようかと思いながら、しばらく厩の前に立ちあぐんでいた。全身がこまかく震える。自分ながら自分の息がうるさいほど耳について仕様がない。  突然、池の向こうから一陣の風が吹いてきて、楡《にれ》のこずえをざわざわと鳴らすと同時に、彼女の持っていたろうそくを、あっと思う間に吹き消した。そのとたん、なにかしら薄白いものが、魔物のように地上をはっているのを認めて、彼女は一瞬間、ツーッと全身がしびれるような恐怖にうたれたが、なんのことだ! ふいにガアガア啼きだした。家鴨《あひる》だった。 「なあんだ! 鴨《かも》さんかいな!」  彼女はホッとすると、さっきからの怖れが急にばからしくなって、吐き出すようにそうつぶやいたが、あわててまたろうそくに明かりをつけると、今度はなんの躊躇《ちゆうちよ》もなく厩の中へ入って行った。  青はいよいよ飼い葉をくれるものと思い込んだらしく、物ほしそうに、湿った鼻面を突き出していたが、お作は邪慳《じやけん》に見向きもしないで、ぐんぐん奥のほうへ入って行った。不意の光に驚いたものか、蠅どもが、こまのようなうなりをあげて、無数に飛び散った。  お作はそれを払いのけながら、厩のいちばん奥まで行った。そこで立ち止まると、帯の間から、小さく畳んだわら半紙を取り出した。折り目のところどころ破けた、古びた一枚の紙だった。それには、つたない、かすれた筆で、辛うじて読める程度に、こんなことが書いてあった。 [#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]   厩の北のすみに天井から下がっているひもを引っ張れ [#ここで字下げ終わり]  お作はそれを、今日《きよう》良人が隣へ行っている間に、仏壇の奥の御詠歌の本の中から見付け出したのだ。  彼女は震える手で、ろうそくを高く差し上げると、何年間か、日の目を見たことのないような厩の天井を、あちこちと見回した。ろうそくが動くたびに、奇怪な影が、なにかしらこの世のものでないようにものすごく、伸びたり縮んだりする。 「おお、おお」  不平を起こした青が、激しく土間をけるので、お作は半ば独り言のように言い聞かせる。 「静かにしといで、いまにうんとやるぞ! お金が手に入ったらな!」  ふいに彼女は、ごっくりと大きく咽喉仏を鳴らして息を飲み込んだ。無数に張った蜘蛛《くも》の巣の間から、まぎれもない一筋のひもが、長虫のようにだらりと垂れ下がっているではないか。  お作は全身の血液が、激しくざわめきわたるのを感じた。ありたけの背を伸ばして、その細ひもに手を触れた。バラバラとこまかいほこりが頭から顔から、いっぱいに降りかかったが、彼女は容赦なく、ひと息ぐいと力強くそれを引いた。  そのとたん、天井はぱっくりと魔物のような口をあいた。が、それとほとんど同時に、お作はなにかしら、前頭部に激しいしびれを感じた。くらくらと目がくらんで、からだの中心がなくなった。 「ブルブルブルッ」  青も危険を感知したらしい。激しく首を上下《うえした》に振りながらうそぶいた。  お作はどこか、底無沼へでも引きずり込まれるような不気味さと、快感を覚えた。手に持っていたろうそくがまぐさの上へ落ちた。火はただちに燃えうつった、蜥蜴《とかげ》の舌のような焔が、めらめらと壁から天井へかけて、勢いよくはいのぼった。     三  耕右衛門とこの厩が半分焼けた。  焼け跡からはお作の死骸が出てきた。  しかし彼女の死因は、焼死ではなくて、その前に頭をなぐられたためである。  そんなうわさが村じゅうにひろがった時分には、疑いもなく人々の目は良人の耕右衛門に向いていた。 「耕右衛門がなぐり殺したんだよ」  と村人の甲兵衛が言った。 「そうだ、そしてその死骸を隠すために、厩へ連れて行って火をつけたんだ」  と村人乙右衛門が答えた。 「そうだ、そうだ。でなければあんな所から火の出る道理がない」  村人丙作がそれに応じる。 「だがやっぱり天罰だなあ、うまく焼けてしまわんうちに消えてしまうなんて」  村人丁太が仔細《しさい》らしく言う。 「わしは見たんだよ、額が果物みたいに見事に割れていた」  村人|戊十《ぼじゆう》が恐ろしそうに首をすくめて言った。 「恐ろしいことだ」 「恐ろしいことだ」 「やっぱりおりかばあさんの執念だよ、なあ」  人々は顔をしかめた。  耕右衛門一家のことは、もうそれまでにもかなり村のうわさにのぼっていた。彼らの一家は、亡くなったおりかばあさんを筆頭に、三人が三人ながら村のきらわれ者だった。  耕右衛門とお作は、おりかばあさんの夫婦養子だった。二人ともばあさんの遠縁に当たるのだったが、だからもう少し円満にいってもよいはずであったが、どうしてどうして、村いちばんのやっかいな家庭だった。始終なにやかやとごたごたを起こしては、村の人たちに手を焼かせていた。主としてそれはばあさんの、人並外れた貪欲《どんよく》と吝嗇《りんしよく》とからくるのだったが、そうかといって彼女ばかりも責められなかった。耕右衛門は村でも有名な放蕩者だったし、お作はまたお作で、「わしがおりかばあさんの立場にいたって、やっぱりあの女なら腹が立つわさ」と、村のだれにでもそういわれるほど横着者だった。  こういう三人だから家の中が丸く治まるはずがない。事実耕右衛門もお作も、かわるがわるよく家を飛び出した。それが結局、しかし帰って来るというのは、ほかでもなくおりかばあさんの財産が目当てだった。  ばあさんはさすがに吝《けち》ん坊《ぼう》として名を売っているだけあって、水呑み百姓の身分として、何千円かの金を貯蓄しているといううわさだった。事実彼女は、村の郵便局に二千何百円かの金を預け入れていたことがあった。  ところが、さすがの彼女もとうとう、頭の上がらぬ床につくようになって、さてこそ、長年|翹望《ぎようぼう》していた時節到来とばかりに、耕右衛門たちが、ばあさんの貯金帳をこっそりと引っ張り出してみると、こはいかに、いつの間にやらその金は、全部引き出されているのであった。 「イヒヒヒヒ!」  それとなくそのことを聞かれたとき、おりかばあさんは、まばらな醜い歯並を見せながら、気味悪く笑ってみせた。 「わしの金だものわしが持っているのさ、心配しなくてもいいよ。金はちゃんとこの屋根の下にあるんだから。イヒヒヒヒヒ!」  そう言ったきり、その金のありかについては、どんなに手を変え、品を変え聞かれても、とうとう臨終の際まで、彼女はけっして口をあこうとはしなかった。 「わしの金だあ、わしが持って行くんだあ、お前たちに渡してたまるもんかあ——」  最後の息を引き取るせつなまで、おりかばあさんはあさましくそう叫び続けていた。  だから耕右衛門夫婦が、どんなに死にもの狂いになって、その金を捜しだそうと努力したことか。  そういう事情を、村の人々はみんなよく知っていた。だからお作を殺したのは、耕右衛門を除いてはほかにありえない。そうきめてしまっていた。むろん彼はただちに拘引された。  いろいろな証拠が彼に対して不利だった。  たとえば、  お作の死因が額の打撲傷にあること、  厩に火を発する道理のないこと、  彼女が素足であったこと、  その前夜彼らがひどいけんかをしていたこと、  十一時ごろ、そのけんかが急に静かになったこと、  まずそういったふうの理由からであった。 「どうだろう? 死刑だろうか?」 「さあ、どんなにうまくいっても無期でしょうな」  道で逢った甲村人と乙村人とはそんな会話を、いたるところで交わしていた。  が、それにもかかわらず、当の本人耕右衛門は、人々の期待を見事に裏切って、拘引された日から数えて、三日警察にいただけで四日目の朝には、はや大手を振って帰って来た。村人たちは、覚めやらぬ夢を追うように、不審の面持ちで彼を迎えたが、こんなに早くその嫌疑が晴れたのは、次のような事情からであった。  現場の付近に古びた大きな胴乱が落ちていた。胴乱の中には、三十円ばかりの現金のほかに、質札だの印形《いんぎよう》だのが入っていた。それらのものからして、その胴乱が同じ村の四方十《よもじゆう》という男の所有物《もちもの》であることがわかった。ところが四方十という男は火事のときにも、火事がすんだ後にもその付近に顔を見せなかったのだから、その胴乱は、それより前に、そこに落とされたものにちがいない。そこでさっそく四方十は呼び出しを受けた。  さて四方十が恐れ入って語るのに、 「へい、それはわっちの胴乱にちがいござんせん、それがどうしてあすこに落ちていたとおっしゃるんで? それはこういうわけでございます。その晩遅く、そうですなあ、十二時半ごろでしたか、あすこを通りかかりますと、——どうして、そんなに遅く外出していたとおっしゃるんで? へへへへへ、それはつまり、どうかだんな、今度だけはお目こぼし願います。ちょっと手なぐさみをやらかしていたのでして、——で、そこを通りかかりますと、ふいにおかみさんがろうそく片手に出て来たじゃござんせんか。おやおや、こんなに遅くなにをするつもりかな、と不思議に思っているうちに、ふいと思い出したのが、そら、一件のことでござんす。なにしろおりかばあさんの金のことは、村でも評判でございますからな、そこで幸い、向こうからはこちらの姿が見えないらしいので、なにをするのかとあとをつけまするてえと——」  と、彼が愛好するところの浪花節まがいに、長講一席そこに述べたてたのである。 「じゃお前は、厩が燃え始めたときになぜそれを人々に知らさなかったのだ?」 「それがそれ、やっぱり掛かり合いになっちゃうるさいと思ったものでございますから」  四方十の陳述には一点も疑わしい箇所はなかった。お作はだから、耕右衛門になぐり殺されたのではなくて、天井から落ちてきた、何物かに額を打たれて死んだのにちがいなかった。そしてその何物かは火事のために焼けてしまったのに違いなかった。だから凶器が見付からないわけであった。  ところで、お作がなぜ夜遅く、厩のすみっこのほうで、そんな真似をしなければならなかったか。  それもすぐに判明した。というのは、彼女がその晩持っていたと同じような書き付けが、仏壇の奥のほうから、そのほか二、三枚も出て来たのであった。 「おりかばあさんの執念だ」  それを聞いた村の人たちはまたそう言った。 「だれにも金を渡すまいとして、そんな罠をこしらえといたのだよ。金を手に入れようと欲張る者は、みんなお作さんと同じような目に会うのだ」 「恐ろしいことだ」 「恐ろしいことだ」     四  さて、金はどこに隠してあるのだろう?     五  耕右衛門はしかし、お作が亡くなったので、結局のんきになった。いままでのようにむだな神経をとがらさなくてもよくなった。それだけでも、大いに助かるわけだと思った。  それに彼がひそかに気をもんでいたのは、お作がすでに金を発見しているのじゃなかろうか。金をちゃんと握っていながらわざと、そんなふうを見せているのじゃなかろうか、そうした疑いのあることだった。ところが、彼女がああした死に様をしたところを見ると、それらの疑いはまったく杞憂《きゆう》であったことがわかる。彼女もまだ金のありかを見付けてはいなかったのだ。とすると、その金は、いまだにこの屋根の下にあるにちがいなかった。  耕右衛門は毎日、昼の間は野良稼ぎをし、夜になるとろうそくの明かりを頼りに、倦《う》まず撓《たゆ》まず、家の中をあなたこなたと捜しまわった。 「耕右衛門さん、どうだな、お金のありかはわかったかな」  道で会うと、だれもかれもがそうきいた。中にはこんなことを言う者もあった。 「なあ、耕右衛門さん、こんなことを言っちゃ悪いけれど、金はやっぱり厩にあったんじゃないかな。そうだとすると、どんなにお前さんが骨を折ったところで、出てくる気遣いはないぞ。ええ加減にあきらめたらどうじゃな」  耕右衛門はしかし、そんなことに耳をかそうとはしなかった。厩? ばかな! と彼は肚のうちでつぶやいた。おりかばあさんの性質として、大事なへそくりを、そんな所へ置いとくはずがなかった。 「見とれ! いまに見付け出して村のやつらをあっと言わせてやるんだ。死んだ者の執念が強いか、生きとる人間の執念が強いか、こうなったら意地ずくでも、捜し出して見せにゃあ」  しかし、そう力んではみるものの、ときとすると、耕右衛門とて、はなはだ心細くならざるを得ないこともあった。  お作が死んでからはや二週間になる。おりかばあさんの死んだ日から数えると、すでに二ヵ月の日が消えようとしている。それだのに……ああ! と彼は心からなるため息を吐くのだった。  そしてとうとうある夜のこと。  耕右衛門は例によってろうそく片手にごそごそと押し入れの中を引っかきまわしていた。それはもう何遍となく捜した場所だったけれど、根気よく彼は、一つ一つ古びた道具などをほうり出しながら、夜鷹のように目を光らせていた。 「チェッ! 糞ばばあ!」  失望を重ねるごとに彼はそう口汚くののしった。  部屋の中には、真っ黒な油煙をあげながら、ランプのしんがじじいじじいと燃えている。太い大黒柱、真っ黒な天井、赭《あか》ちゃけた畳、渋紙色の障子、一文にもならなそうな、ごたごたとした道具類、そんな中で、わずか二千何百円かの金を得ようとして、血走った眼《まなこ》を見据えている一人の男の姿は、あたかもクロンダイクに砂金を発見しようとして苦労している人間たちと、同じ程度に、あさましく、そしてまた涙ぐましくもあった。 「耕右衛門さん、いて?」  ふいにがらがらと土間の戸を開いて一人の女が入ってきた。耕右衛門はぎょっとして、首を伸して見透かすようにそれを見た。 「なんだ、おくめじゃないか、いまごろなにしに来た?」  彼は狼狽を押し包みながら強いて強い声を出してそう言った。 「なにしに来たは手厳しいのね、あんたこのごろちょっとも顔を見せないじゃないの、どうしたのかと思って様子を見に来たのよ」  女はおくめと言って、耕右衛門がなじみを重ねている、吟松亭の酌婦だった。なぜ彼女がいま時分やって来たのか、耕右衛門にはただちに飲み込めた。彼は顔をしかめて言った。 「だめだよ、今夜は。おらあいま一文も持ってやしねえよ」 「まあいやだ、ひとの顔さえ見れば無心だと思っているのね」  おくめは魚のようにとろりとした目で、彼をにらまえるように、愛想笑いをしながら、ちょいと褄《つま》をとって上へあがろうとした。耕右衛門はそれを押し戻すような手つきをして、 「いかん! いかん! 上がっちゃいかん、そこらじゅう埃《ほこり》だらけだよ」  おくめは座敷にかけた片足の、さすがにすんなりと白いふくらはぎを見せながら、そう言われてきょろきょろとあたりを見回していたが、 「ああ、そうそうお前さん評判どおり、あのお金を捜しているんだね」と言った。  耕右衛門はそれを聞くといやな顔をして黙っていた。 「それならちょうどいいわ。あたしも手伝っていっしょに捜してあげよう」 「いかん、来ちゃいかんと言うに!」  しかしおくめは遠慮なく上に上がって、耕右衛門が反対するにもかかわらず、せっせと彼女はいわゆる手伝いを始めた。耕右衛門も、なにやかやとはじめの間は文句を言っていたが、結局彼女の鉄面皮には敵わなかった。 「大丈夫、あたしに任しておおきよ、あたしの千里眼でいまに見付け出してあげるんだから」  そんなことを彼女は言った。  それからどれくらい彼らは捜していたか。  しかし間もなく、さすがのおくめもいや気がさして来たのだろう。 「あたしちょっと一服するわ」そう言うと囲炉裏のそばへ寄って、たばこを一本吸いつけた。  耕右衛門はしかしほこりまみれになってせっせとその仕事を続けていた。おくめはきょとんとした格好で、しばらくその様子を見ていたが、なんと思ったのか、ふいにブッと吹き出した。と思うとそれに続いて、ウフフフフ! エヘヘヘ! イヒヒヒヒ! とまるで、笑い薬でも嗅《か》がされた者のように、腹をたたきながら、とめどもなく笑い転げた。 「どうしたんだ!」耕右衛門は驚くというよりもあきれたように彼女の顔を見た。 「ど、どうしたって……」おくめはものを言うことすらできないらしい。  まるで二つに切られた蚯蚓《みみず》のように、怪しくからだをのたうちまわらせながら、とめどもない笑いの底から、それでも彼女は、辛うじて右手を伸すと、ある一点を指さした。  耕右衛門もそこを見た。とたちまち、彼もまるで水母男《くらげおとこ》のように、へなへなとそこに崩折れた。からだじゅうの感覚が頭のてっぺんから、すうっと抜けてしまった。手足がしびれて、顎がガクガクと鳴った。まちがいではないかと、彼は何遍も何遍も目をまたたいたが、のろわしいそれは現実であった。  こういう状態だから、どやどやとそこへ数名の人達が入って来たのに、二人ともまるで気がつくふうはなかった。  彼らはなんのためにそこへ闖入《ちんにゆう》して来たのだろう、しばらく怪しむように二人の狂態を見ていたが、やがてその中の一人が、ずかずかと進み寄って、耕右衛門の肩へ手をかけた。 「耕右衛門! 貴様はひどいやつだ、お作を殺したのは貴様だろう! しらを切ってもだめだぞ。貴様が厩の中にあんな仕掛けをしていたのを目撃していた者があるんだ。それに——」  と警官は半分焼けた細ひもを取り出して、 「仕掛けに使ったこのひもというのが、悪いことはできないものだ。おりかばあさんが死んだときに締めていた腰ひもじゃないか」  さすがにおくめはそれを聞くと、はっと笑いの酔いから醒《さ》めた。しかし耕右衛門は、それを聞いていたのか、いなかったのか、死《デス》仮面《マスク》のような顔をして、依然としてある一点を凝視している。  そこには、日本ろうそくのしんの中に、まぎれもなく彼が捜しているところの百円紙幣が、じりじりと小気味のよい音を立てて燃えているのだった。 [#改ページ] [#見出し]  断髪流行  浅井信吉《あさいしんきち》が、彼の通っているさる私立大学から帰って来ると、いつも小鳥のように歌を歌っている彼の恋人さち子が、その日にかぎって、どうしたものか、よほど家の近くまで来ても、彼女の美しい声が聞こえてこないのである。  はてな、いないのかしら、そう思いながら、格子戸をガラガラと押し開くと、いないのではない証拠に、彼女の、ただそれ一つしかないところの、赤い鼻緒の空気|草履《ぞうり》が、ちゃんとそこにあった。  それを見ると浅井信吉は、たちまちはっと胸の中が重苦しくなってくるのを感じたのである。と、いうのは、雲雀娘《ひばりむすめ》というあだ名を奉ってあるほどの、彼の恋人さち子は、朝目が覚めるとから、夜床につくまで、片時も歌っていないではいられない性分の女なのだ。例えば飯を食っているときとか人と話をしているときとか、そうしたときでさえも、彼女はしばしば突然に歌い出すほどなのである。 「ねえ、兄ちゃん、今度の土曜日の晩には活動写真を見に行かない? ラララララ! ダグラス・フェヤアバンクスが来ているのよ。とても痛快なんですって。お向かいの河村さんがそう言ってたわ。ねえ、行きましょうよ。ね、ね。行くの? まあ、うれしい。ラララララ!」  と、ざっとこういった調子なのである。  しかし、それほどの彼女にしろ、やはり例外の場合がないでもない。それというのは、彼女がヒステリーを起こしているときなのである。そうした場合には、さすがの雲雀娘も、二時間であろうが、三時間であろうが、場合によると一日でも、よくまあしんぼうができるものだと思えるほど、頑固《がんこ》に歌うことを拒むのである。  したがってこのごろでは、彼女の歌声が聞こえないときは、取りも直さず彼女のふきげんを意味するということを、彼のみならず、近所の人たちでさえよく知っているのだ。 「さち坊、いないのかい?」  だから浅井信吉は、困ったことだ、いったい何が彼女をふきげんにしたのかしら、と、思いながら、わざと元気よくそんなことを言いながら靴《くつ》の紐《ひも》をほどいたのである。  見ると彼女は、テーブルに寄りかかってうつぶせになっている。寝ているのではない証拠に、肩がぶるぶるふるえている。彼がはいって行った瞬間から、そのふるえがいっそう大きくなったことも確かだけれど。 「どうしたの? どこか悪いの?」  浅井信吉は、その肩に手をかけて、横から顔をのぞき込みながら、努めて優しい声を出そうとするのである。 「隣のくそばばあがまた、何か言ったのかい? それとも、猫《ねこ》に魚をとられたの? そうじゃない? じゃどうしたのだい。——ああ、そうか、ご飯がまた焦げついたのか?」  すると、突然にむっくりと顔をあげた彼女は、きっと、まるで射るように、(彼女はそう思っているのだ)彼の顔を見詰めた。そして何か激しいことばで、相手をやり込めてやろうと思うのであったが、咄嗟《とつさ》の場合、気の利いたことばが見つからなかったので、とりあえずほっと深い溜息《ためいき》をついた。  そして、さておもむろに言うのである。 「のんきねえ、兄ちゃんは。あたしどうしようかと思ったわ」 「どうしようって、いったい何が起こったのだい。わからないじゃないか、僕には」 「大変だったのよ」 「大変て、何がさ。火事でもあったのかい?」 「そうじゃないわよ。刑事が来たのよ」 「刑事」  浅井信吉は、コツンと頭を一つ殴られたような気がして思わずごくりと唾《つば》をのみ込んだ。 「ケ、刑事って、何をしに来たのさ、いったい」 「家のことを調べに来たのよ」 「イ、家のこと?」  信吉はふたたびごくりと唾をのみ込んだ。 「それはまたどういうわけなんだ」 「どういうわけか知らないけれど、とにかく調べに来たのよ。延原ってあなたかと言うんでしょう。あたししようがないから、いいえ、延原さんはいまお留守ですって言ったの。するとあなたは何だって聞くから、あたしはお部屋を借りてる者ですと言ったのよ。すると延原さんの御家内は幾人だの、原籍はどちらだのといちいち詳しく聞くのよ。あたししようがないから、でたらめをしゃべったの。するとね、するとね。じゃまちがいないでしょうね、一応国もとへ照会してみますから、とそう言うのよ。あたしハッとしたけれど、まさかいまのはでたらめですとも言えないでしょう、どうしようと思っているうちに、相手はさっさと出て行ってしまったの。もし、もし、国もとへなんか照会されたら、でたらめだってことはすぐわかるんですもの。そうしたら、そうしたら、あたし困るわ、困るわ」  むろん、それらのことばの後半は、すっかり涙の中に埋まってしまって、信吉にもよく聞きとれなかった。しかし、それにしても、彼はハッと当惑したのである。 「困ったな、困ったな」  彼は西洋人がするように、狭い部屋の中を、行きつ戻りつしながら、 「なぜ知らないって言ってしまわなかったんだい。でたらめなんて、すぐばれることはわかりきっているじゃないか。ばかだなあ」 「だって、だって」  さち子はたちまちヒステリーを起こして、金切り声になりながら、 「つい出ちゃったんだもの、それに相手がそう言わなきゃならないように尋ねるんだもの」 「いったいどこだっていったの?」 「岡山県備中笠岡——」 「ばかだなあ、そんなことを言って、もし兄貴にでも知れてみろ、兄貴の家を言ったんだろ? ああ、困ったな、困ったな」  彼は、長いもじゃもじゃした髪の毛を両手でかき回しながら、いよいよ激しく、部屋の中を行きつ戻りつし始めたのである。  なぜ彼がそんなに困ったか?  むろんそれには理由があることなのだ。というのはこうである。  信吉が、恋人のさち子と同棲《どうせい》を始めたのは、つい三月ほど前からのことだ。  元来彼は、さる私立大学の文科学生で、岡山のほうにいる兄のもとからの送金によって、学校へ通っている身分なのである。したがってまだ、恋人と同棲などできる柄ではないのだ。  それがしかし、いろんな羽目から、ままごとのようないまの生活を始めなければならぬようになったのだが、むろん、彼にとっては、それはうれしいことでこそあれ、決して不愉快なことではなかった。ただ一つ困るのは、生活費をどうするかという問題であった。  いままででさえ、一人分に足るや足らずの送金しかもらっていなかったのだから、したがって二人となると、たちどころにその月その月の生活に窮しなければならなかった。もっともそのほうは、先輩たちの間を頼んでまわって、翻訳の下請けをしたり、子供雑誌に書いたりしてかせぐとして、しかし、それにしても、そうした収入は月によってひどく差異があるものだから、何と言っても、兄からの送金が、やはり彼らにとってただ一つの頼みであった。ところで、国もとにいる彼の兄のほうでは、むろん弟が、女と同棲していようなどとは夢にも知らなかった。もしそれを知ったら、怒ってたちどころに送金を断ってしまうのは、火を見るよりも明らかなことだった。だから信吉が、国もとへ絶対に知らさないようにしてさえいれば、当分の間、安全だというわけであった。  ところが、ここに困ったことには、同棲を始めた当時、彼らはさる二階を借りて住んでいたのだが、ある日さち子が言うのに、 「ねえ、兄ちゃん。さち坊はもう二階借りなんかつくづくいやになっちゃったわよ。どこでもいいから、家を一軒借りましょうよ。便所へ行くにも、ご飯を炊くにも、いちいち下へ降りなきゃならないなんてあたしいやだわ。それに下のおばさんたら、さち坊の顔を見るたんびに、変にいやみたらしいことを言うのよ。兄ちゃんは学校へ行ってていいけれど、留守をしているさち坊はたまらないわ。ね、ね、一軒借りましょうよ。家賃なんて大したものじゃないでしょう、そうなったら、さち坊だって倹約をするからいいわ」  と、言い出したが最後、あとへ引かない彼女のことだ、盛んにそれを強請するのである。  信吉自身も、彼女に言われるまでもなく、二階借りの不自由さについて、考えていないわけではなかったので、まもなくそれに同意を表した。 「まあうれしい、じゃ明日でも、さち坊はどこか探して来るわよ」  そうしてその翌日、信吉は学校を休んで、二人で仲よく家を探しに出かけたのだが、思ったよりも簡単に、手ごろな家が見つかった。そこでさっそくその家へ引っ越すことになったのだが、いよいよとなって、彼はハタと当惑するようなことにぶつかった。  と、いうのは、信吉が一軒の家を借りて住んでいるということがわかれば、国もとの兄は、必ずや不審を抱くにちがいなかった。いままでにも転々と住居を変えてはいたが、いつの場合でも、下宿屋か、他人の家の間借りだったので、何某かた浅井信吉であった。それが今度にかぎって、何町何番地、浅井信吉殿だけで手紙が届くということを知ったら、きっとその理由をただしてくるにちがいなかった。 「弱ったな、どうも。家を一軒借りるのはいいけれど、うっかりしたことをして、のこのこ兄貴に出て来られた日にゃ大変だな」  さち子は、家が一軒借りられると思って、すっかり喜んでいたところへ、思いがけないじゃまがはいったものだから、たちまちふきげんになってしまった。 「いいわ、いいわ。いやだもんだから、あんなことを言ってるんだわ。さち坊よくわかってることよ」  信吉がいかになだめても、すかしても、いっかなきげんを直しそうになかった。 「わかってるわよ。わかってるわよ」  そして彼女は、そこらじゅうを手当たりしだいかき回すのだ。 「あ、いいことがあるよ」  とそのとき、苦しまぎれに、いろんな思案をしていた信吉は、ふと一計を思いついたのである。 「そうだ。でたらめの名前であの家を借りようじゃないか。そして僕たちはその人の家に、間借りしていることにするのだ。ね、それだったらいいだろう」 「まあ」  と、さち子はすぐにもきげんを直しそうなのだが、でもいくぶんきまりが悪いとみえるのだ。わざと不安そうに、 「そんなことができて?」 「できるともさ、家を借りるのに、まさか戸籍謄本がいるわけじゃないだろう。大丈夫だよ。でたらめの人物を一つこしらえればいいんだから」  と、ざっとこういうことから、彼らは、延原という、どこにいるやらいないやら、わけのわからぬ人物の名前で、家を借り受けたのである。むろん、表札にも大きく、延原信太郎とうそっぱちの名前を書いてあるのだ。 「困ったな、困ったな、困ったな」  だから浅井信吉は心配しているのである。そしてさち子も、彼女は当の責任者だから、それにもまして不安を感じていた。 「困ったな、困ったな、困ったな」 「知らないわ。さち坊のせいじゃなくってよ。兄ちゃんが早く帰らないからいけないんだわよ」 「困ったな、困った——」  そのときである。表の格子戸がガラガラと開いて、彼らが思わずそれに息を詰めた瞬間、郵便! という声がした。  二人ともたちまちはっと唾をのみ込んだのである。召喚状?  信吉が恐る恐るその手紙を拾って来ると、まず安心なことには、警察からのものではないらしかった。不思議なことには、差し出し人の名前は書いてなかったけれど、表書きをよくよく見ると、彼にはすぐ、それがだれからの手紙か、のみ込むことができた。 「須藤源八郎《すどうげんぱちろう》からだよ」 「須藤さん?」  信吉は鋏《はさみ》で封を切ると、中身を取り出して読んだ。と、思うとたちまち彼の口の辺には、変な微笑が刻まれた。 「畜生!」 「どうしたの?」  さち子は急いで立ち上がると、信吉の背後からその手紙をのぞき込んだ。すると彼女も急にほぐれたような顔色を見せた。 「まあ、ばかにしてるわ。ひどい人ね」  手紙にはこんなことが書いてあるのだ。 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]  拝啓、先程は御令閨にお目にかかりながら、挨拶もいたしませず、誠に失礼いたしました。貴下より宜しくお伝え下さい。尚小生の刑事振り、如何に候いしや、お聞き下され度、以上取り敢えず、乱筆御容赦。 [#ここで字下げ終わり] [#地付き]須藤源八郎拝     浅井信吉殿 「さち坊はまだ須藤を知らなかったのかい」 「ええ、初めてよ。いつもかけちがってるもんだから」 「アン畜生! 覚えてろ」  浅井信吉はその手紙を右手に、きっと虚空をにらんだのである。  須藤源八郎も、彼の友人の浅井信吉と同じように、最近新しくできた恋人と同棲していた。もっとも彼の場合は、浅井信吉と違って、家を一軒借りているのではなくて、ある産婆の二階を借りて住んでいるのだった。  彼の恋人の玉江というのは、彼よりも五つも年上で、現にさる大きな商会の、かなり重要な位置についていた。  須藤はもともと、信吉とは学校友達だったのだけれど、信吉ほどまじめでない彼は、とうのむかしに学校をよしてしまって、玉江とそんな関係になってからは、ずるずると彼女の下宿にやっかいになっていた。彼はだから、玉江が勤め先のほうへ出て行ったあとは、毎日毎日、猫《ねこ》のように退屈していた。 「だれか来ないかなあ。それともまた、だれかにいたずらをしてやろうかなあ」  ごろりと部屋の中に横になって、塩|煎餅《せんべい》をぼりぼりかじりながら、彼はとりとめもなくそんなことを考えていた。  玉江がいけないというにもかかわらず、彼は例によって、古着屋から見つけて来た、だぶだぶの水兵服を身に着け、頭といえば、長いこと油を拒んできたので、カサカサに乾ききっていた。うつむくと、だから、はらりとその頭髪が額にかかって、うるさくてしようがないというので、幅五分ばかりの細いバンドで、鉢巻《はちま》きをしているのである。寝そべると、六尺豊かな身体が、いよいよ長く見えるのだが、それを海老《えび》のように曲げながら、ときどき思い出したように、すばらしいバリトンの声で歌ったのだ。その声が、そもそも玉江をひきつける第一の原因になっているのである。  さてその日も、うつらうつら眠ったり、考えたり、歌を歌ったりしていると、そこに産婆の御亭主が、小さな小包を彼のもとに持って来たのである。この産婆の御亭主というのが、須藤源八郎と同じように、彼の女房よりずっと年下で、そして昼間はたいてい猫のように退屈していた。彼はもと、さる呉服店の手代だったのだそうだけれど、あるとき、その呉服店へやって来た今の女房の産婆が、万引きをしたのだ。元手代、いまの御亭主は、それを見ていながら、見ぬふりをしていて、あとからこっそりと彼女を尾行したのである。そしてそのまま夫婦になってしまったという、かなり風変わりないきさつがあるのだ。 「須藤さん、小包。奥さんのところへですよ」 「ありがとう」  須藤源八郎は、この御亭主を虫が好かなかった。何だか自分自身を見せつけられているような、あさましい気持ちになるのだ。 「そこへ置いといてください」 「へえ」  御亭主はしかし、そこへ座ると、じろじろと部屋の中を見回したり、立ち上がって手すりのそばへ行くと、や、いい景色だな、と、言ったり、ともかくなかなか下へ降りそうにないのだ。  須藤はしかたなしに起き直ると、小包を手に取ってながめた。見るとそれは、何だかふわふわとした、そのくせかなりずっしりと重味のある、表からはとても想像できそうにもない、得体の知れぬものだった。初山玉江様、とのみ、差し出し人の名前は書いてないけれど、筆跡から見て、明らかに男から来たものであることは確かだった。 「はてな、何だろうな」  するとそのとき、手すりのそばに立って山をながめていた産婆の御亭主が、くるりと振り向いて、 「何だと思います? 変なものですね」 「さあ」 「私の思うのに」  と、御亭主はそろそろと彼のほうへ近寄って来て、変に声を低めながら、「女の髪じゃないかと思うのですが、どうでしょう」 「え? 女の髪?」  須藤源八郎は、はっと大きく息を吸い込んだ。 「髪——?」  すると、どうしたものか、御亭主は急に狼狽《ろうばい》して、 「いや、いや、まちがってるかもしれません。ただちょっとそんな気がしただけです」  そう言い残しておいて、そそくさと下へ降りて行った。 「ばか、何を言いやあがるんだ」  源八郎は、べっと唾を吐くような気持ちでそのうしろを見送っていたが、その実、彼自身、たいそうその小包が気になった。 「何かな、いったい?」  重さを計ったり、大きさを調べたり、いろんなまねをしていたが、そうしているうちに、とうとうそれでは耐えられなくなって、思い切って中身を調べてみることに決心した。  すると中からはいったい何が出て来たか。  まぎれもなく、それは女の髪の毛にちがいなかった。 「アッ!」  源八郎は思わず、何か恐ろしいものを見たように、その髪の毛を畳の上に投げ出した。ぞろりとそれは、一匹の真っ黒な蛇《へび》のように、畳の上にうねっていた。  ふと見ると、その中に何やら、手紙らしいものがある。取り上げてみると、それは封筒に入れない一枚の紙片で、およそこんな走り書きがしてあるのだ。 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]  玉江様。  あなたのお志はありがとうございますけれど、あなたから、こんなものをお受けするわけにはまいりません。須藤君にでも知られたらいったいどうしようというのです。とにかくこれはお返しいたします。悪く思わないでください。 [#ここで字下げ終わり] [#地付き]S生    須藤源八郎はあたかもその文字が、虚空に躍っているように感じた。 「畜生! 畜生!」  一週間ほど前に、玉江が断髪した理由を、源八郎は、いま初めて知ったのだ。 「畜生! 畜生!」  それにしても、Sというのはいったいだれなのかしら。自分の知っている男だろうか。それとも彼女だけの友人なのだろうか。 「淫売《いんばい》め、いったい何をしていることか、わかったものじゃない、畜生! 畜生!」  彼はまるで地獄の熱湯を浴びせられたように、大いにもだえ、苦しんだのである。  それから、夕方玉江が帰って来るまで、いったいどんな苦痛を彼は経験したことか。  玉江は、しかし、そんなことは夢にも知らないものだから、いつものようにきげんよく梯子《はしご》段を上がって来た。 「ただいま、遅かった?」  彼女はどちらかというと小柄なほうで、それに肩がいかっていて、お臀《しり》が突き出ているものだから、体全体が何だかいびつ[#「いびつ」に傍点]に見える格好だった。なるほど、そういえば近ごろ流行のおかっぱにしていて、ちりり、ちりりとアイロンが当ててある。 「あのね、帰りにね、ちょっと美容堂へ寄っていたの、髪の手入れに。どう、よくなって」  むろん須藤源八郎は返辞をすることを拒んだ。 「どうしたの、怒ってるの。堪忍してね。その代わりに源ちゃんの大好きなクリーム・チョコレートを買って来てよ」  彼女は、そんなことはありがちのことなので、大して気にとめようともしずに、立ち上がると、するすると帯を解き始めた。  それを見ると、さっきから、押さえに押さえていた鬱憤《うつぷん》がついにすさまじい勢いで爆発したのである。 「タ、タ、タ、玉江さん!」  興奮すると、ひどくどもる癖の源八郎は、どもることによって、いよいよいらだたしさをあおられながら、 「ソ、ソ、ソ、それは何ですか!」  玉江はびっくりして、解きかけていた帯のそのままに、彼の顔と、そして彼が指しているほうとをながめた。 「なアに、いったい、どうしたの?」 「ヘ、ヘ、ヘ、ヘエンだ。シ、シ、しらばくれるない! ヨ、読んで見たまえ、読んで見たまえ!」  玉江は不審そうに、横ざまにそこに座ると、指された紙片を取り上げた。 「あら、あら、あら」  彼女はたちまち悲鳴を上げた。 「うそよ、うそよ、うそよ、こんなこと、こんなこと」 「ダ、ダ、だめだよ。ダ、断髪するなんて、イ、イ、いい加減なことで、ボ、僕をだまして置いて、そ、そ、そ、その男に心中立てしたんだろう。わかってらあ、ワ、わかってらあ!」 「あら、あら、あら!」  玉江はいったい、どういって、この言語道断な疑いを解いていいか、いったい、何のためにこんなまちがいが起こったのか、咄嗟の場合、逆上してしまって、何が何やら、さっぱりわけがわからなかった。  源八郎は源八郎で、しかし、だいぶ興奮がおさまってくると、何だかとんでもないまちがいのようにも思われてきた。しかし、いまさら怒りを引っ込めるわけにもいきかねた。 「ヘンだ。いい加減なことを言ってらあ。人をばかにしようたってだめの皮さ。ざまあ見ろ。みンごと男に突き返されて、ヘン、いい恥さらしだ」  玉江は、しばらく、まるで白痴のように、ぼんやりと虚空をにらんでいたが、急に歯をかみ合わせた。 「いいわ、こうなったら、あかしを立てるばかりだわ」 「あかしを立てる?」 「そうよ、この髪があたしの髪じゃないってことを、証拠立てればいいんでしょう」 「ソ、ソ、そりゃそうだ」 「いいわ、じゃ、いまに見せてあげるわ」  彼女は立ち上がって、鏡台の中をごそごそとかき回していたが、やがて何やら、瓶《びん》に入った水みたいなものを持ってきた。 「だけどね、源ちゃん。あたしがこのあかしを立てたが最後、もうあなたともお別れよ。だめ、だめ、いまさら言っても、もう遅いわよ」  須藤源八郎は、いったい彼女が何をするのか、見当がつかなかった。何だか体全体が細かくふるえて止まらなかった。毒薬でも飲むつもりじゃなかったろうか。お別れとは果たして何を意味するのだろうか。  しかし、安心したことには、彼女はその瓶の中の液体を、さっと金だらい[#「だらい」に傍点]の中に打ちあけてしまった。そして何をするのかと思っていると、小包で送って来た、あの一房の髪の毛を、じゃぶ、じゃぶとその中で洗い始めたのである。 「御覧なさいな。どうもならないでしょう?」  源八郎は、ごくりと唾をのみ込みながら、大きくうなずいた。と、今度は、彼女は、刷毛《はけ》を取り上げて、その毛にたっぷりと金だらいの中の水をふくませると、それで自分の髪の毛を静かになで始めた。すると、まあこれは何ということだろう、いままであんなにつやつやとしていた彼女の髪の毛が、見る見るうちに、醜く白ちゃけてきたのである。  それらの所作を、すべて鏡に向かってしていた玉江は、髪の毛が白くなり始めた瞬間、刷毛を投げ出して、わっとそこに泣き伏したのである。須藤源八郎は、急いでそのそばへ寄ろうとした。すると彼女は激しい手つきでそれをさえぎりながら、 「だめよ、だめよ。こんな恥ずかしい姿を見られては、もうとても愛してくださいなんて言えた義理じゃないわ。若白髪だったのよ。あたし——。それを隠すために、少しでも毛を染める手間を省くために、断髪にしたのよ。だけど、だけど、結局それが悪かったのだわ」  そう言ったのである。  その晩、須藤源八郎がぼんやり一人で寝ていると、そこへ一通の手紙が来た。 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]  親愛なる須藤源八郎君。  僕のさち子も玉江さんのまねをして断髪したよ。ついては記念のために、その髪の毛を今朝ほど玉江さんにお送りしておいたが、受け取ってくれたろうか。もし受け取ってくれたのなら御感想をお聞きしたいものだ。 [#地付き]浅井信吉拝   [#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]   二伸、ひょっとすると、その小包の中に、僕の創作の原稿が一枚まぎれ込んでいはしなかったかと思うのだ。もしそんなことがあったら、構わないから破り捨てておいてくれたまえ。 [#ここで字下げ終わり]  須藤源八郎は、悲しい悲しい溜息《ためいき》を、ほっと吐き出したのである。 この作品集は、昭和五十一年九月小社刊行の単行本「恐ろしき四月馬鹿」を分冊にしたものです。 [#地付き](角川書店編集部)  本書には今日の人権意識に照らして不当・不適切と思われる語句や表現がありますが、作品執筆時の時代背景や作品の文学性などを考慮しそのままとしました。 [#地付き](角川書店編集部) 角川文庫『恐ろしき四月馬鹿』昭和52年3月10日初版発行