怪盗X・Y・Z 横溝正史 [#表紙(表紙.jpg)]  目 次   第1話 消えた怪盗   第2話 なぞの十円玉   第3話 大金塊《だいきんかい》 [#改ページ] [#小見出し]  第1話 消えた怪盗    ぶつかった外人  探偵小僧《たんていこぞう》の御子柴進《みこしばすすむ》は、かずかずの怪事件難事件に関係して、世間ではすっかり有名になっているが、新日報社《しんにつぽうしや》における地位は、あいかわらず使い走りの少年社員にすぎない。だから、ときどき原稿《げんこう》とりにやらされるのである。  その日……すなわち昭和三十×年五月二十五日の夜九時ごろ、文化部長の川北《かわきた》の命令で、進が、原稿をもらいにいったのは、画家の永利俊哉《ながとしとしや》氏のところである。  永利俊哉はちかごろヨーロッパから帰国したばかりの有名な画家で、新日報社の文化|欄《らん》では、永利のヨーロッパ漫遊記《まんゆうき》というような随筆《ずいひつ》を十五回という約束で連載《れんさい》している。  いつもは文化部の担当記者が原稿をもらいにいくのだが、きょうはあいにくその記者が、病気で寝ているところへもってきて、ほかの記者たちもそれぞれいそがしい仕事をもっているので、進のところへ、原稿とりのおはちがまわってきたというわけだ。  永利の住居は、小田急沿線《おだきゆうえんせん》の成城《せいじよう》というところにある。成城の町を南北にわけて東西に立っている小田急の成城駅をおりて北側の出口を出ると、そこから歩いて十五分あまり、成城の町の北はずれに当たっていて、ずいぶんさびしい場所である。  進は、川北に書いてもらった略図をたよりに、駅から足をいそがせたが、五月二十五日といえばもうつゆもま近である。  空模様のかわりやすい季節とて、いまにもポツリポツリと降ってきそうな天候になってきた。  進はあいにく雨具をもってきていないので、降られぬうちにと、ときどき懐中電燈《かいちゆうでんとう》の光で略図を調べながら、舗装《ほそう》道路をいそいでいた。  略図を見ると成城駅の北口を出て、舗装道路をまっすぐに、十分ほど北へ歩いたのち、二、三度曲がることになっているが、目印は永利俊哉の家の、すぐとなりにあるカトリックの教会だ。  教会の屋根にはとがった塔《とう》があり、そのとがった塔のてっぺんに十字架《じゆうじか》が立っているから、それを目印にしていけば、すぐわかるだろうと、文化部長の川北はおしえてくれた。  教えられた道をまっすぐに歩いて、さて、それから略図にしたがって道を二度まがると、はたして、くもった夜空にとがった塔と、とがった塔のうえに立っている十字架がむこうにみえた。 「ああ、あれだ、あれだ!」  進は、ほっとした気持ちでつぶやいた。  昼間でもはじめて訪ねていく家というのは、なかなかわかりにくいことがある。  ましてや夜にはいって訪ねていって、はたしてかんたんにわかるかしらと心配していたのに、あんがいかんたんにさがしあてたので、進はほっと安心したのである。  略図をみるとその教会のかどをまがったところが、永利俊哉の住居なのだが、あたりを見まわすとそのへんには、もうほとんど家というものがない。林や竹やぶや畑ばかりで、教会というのも戦後建ったものらしく、まだまあたらしい。  その教会のへいの外に、あかりを消した乗用車が一台とまっていた。  通りがかりに進がなにげなく、車内をのぞくと、だれも乗っていなかった。  そのそばを通りすぎて、進が教会の角をまがろうとしたときである。まがり角のむこうから走ってきた男が、ま正面からぶつかったので、進はおもわず五、六歩うしろへたじろいだ。  おそろしく大きな男だと思ったら、ふたこと、みこと、なにやら口のうちでつぶやいたことばを聞くと、どうやら外国人らしい。ことばは英語のようであった。  外人はそのままいそぎあしで角をまがると、そこに待たせてあった乗用車にとびのって、いずこともなく立ち去った。 「ずいぶん失敬な外人だなあ」  進は二、三歩あともどりして、疾走《しつそう》していく乗用車のあとを見送っていたが、なにやら指さきがにちゃつく[#「にちゃつく」に傍点]ので、おやと思って目を落とすと、懐中電燈をにぎった手さきに、くろいものがついている。 「おや」  と、口のうちでつぶやきながら、進があらためて、懐中電燈でしらべてみると、指さきについているのは血のようである。  それではさっきあの外人にぶつかったとき、指のどこかをけがしたのかと、調べてみたがべつにどこにも異状はない。  と、すると、この血はさっきの外人にぶつかったとき、ついたものにちがいないが、それではあの外人が、どこかにけがでもしていたのだろうか。  進は、きゅうに不安をおぼえたので、もういちど外人の立ち去ったほうへ目をやったが、もうそこには乗用車のかげもかたちもみえなかった。 「へんだなあ、あの外人、なにをあのようにあわてていたんだろうなあ」  もういちどまがり角をまがってあたりを見まわし、進はおもわずはっとした。  その教会の角をまがったむこうには、家が一|軒《けん》あるきりである。  しかも、その家にアトリエらしいものがついているところをみると、それが永利俊哉の住居にちがいない。  それではさっきの外人は、永利のところから出てきたのか。  ちかごろ外国からかえってきたばかりの永利のところへ、外人の訪問客があるのはべつにふしぎではないが、しかし、この血はどうしたのか……。  探偵小僧の御子柴進は、みょうに胸さわぎをおぼえたが、こんなところに立って思案をしていてもはじまらない。  アトリエのある家の表までくると、はたして門柱の表札に、 「永利俊哉」と、書いてあった。  さいわい門がひらいていたので、れんがじきの道をはいっていくと、左正面にアトリエが見え、アトリエにはあかあかと電気がついている。  そして、進が門をはいっていったとき、アトリエの大きな窓にうつった影は、たしかに洋服をきた女のようであった。    鳴りやむオルゴール  永利家の玄関《げんかん》はアトリエの右側の、二メートルほどおくまったところについている。  進がその玄関に立ってベルをおすと、アトリエのなかから、 「あっ!」  と、いうような女の声がきこえた。  たぶん、いま窓にうつっていた影の女だろう。アトリエは玄関のすぐ左側にあるのだ。  進はベルをおしてしばらく待っていたが、だれも出てくるものはない。  家のなかはシーンとしずまりかえっている。  しかし、アトリエのなかにだれかがいることは、さっきの影でもたしかである。  影ばかりではない。たしかにひとのうごめくけはいがしている。  それにもかかわらず、だれも出てこないのはどうしたことだろう。  永利は新日報社から使いがくることはしっているはずなのに……  進はもういちどベルをおした。こんどはかなり長いあいだ押していた。  すると、左側のアトリエのドアが開く音がして、だれかが玄関へ出てくると、 「だれだい、いまごろ……」 「はあ、新日報社から原稿をちょうだいにまいりました」  玄関のなかではしばらくだまっていたが、 「ああ、そう、はいりたまえ。かぎはかかっていない」 「はい」  ドアを開くと玄関に、大きな黒めがねをかけた男がつっ立っていた。  黒っぽい洋服をきた男で、身長は一メートル七十くらいである。 「永利先生ですか。新日報社から原稿をちょうだいにあがったのですけれど……」  そのとき、アトリエのなかから微妙《びみよう》な音楽がきこえてきた。  黒めがねの男はそれをきくと、ぎょっとしたように腕時計《うでどけい》に目をおとした。それにつられて進も、じぶんの腕時計に目をおとすと、時刻はちょうど九時である。 「なあんだ、オルゴールか」  と、黒めがねの男は口のうちでつぶやくと、 「とにかく、こっちへあがりたまえ」 「いえ、先生、ここでけっこうです。原稿をいただいたら、すぐかえりたいと思っていますから」 「いや、それがね……。まあ、いいからあがりたまえ。ちょっと話があるんだ」  玄関をあがった右側、すなわちアトリエとははんたい側のところに小さな応接室がある。  黒めがねの男が進をその応接室へみちびきいれたとき、アトリエのほうで鳴っていたオルゴールが、とつぜんはたと鳴りやんだ。  それは鳴りおわったのではなく、とちゅうできゅうに鳴りやんだのだ。  進はちょっとみょうに思ったが黒めがねの男はべつに気もつかず、 「まあ、そこへかけたまえ」 「はあ、ありがとうございます」 「じつはねえ、君。そうそう、君、名前をなんというの?」 「はあ、ぼく御子柴進といいます」 「ああ、そう、御子柴くん、じつは、たいへん申しわけないんだが、原稿はまだできていないんだ」 「先生、そ、それはこまります。あれ、つづきものですから、一回でもやすまれるとこまるんです」 「いや、いや、まあ、聞きたまえ」  と、黒めがねの男は落ち着きはらって、 「べつにやすむといやあしないよ。書いておくつもりだったんだが、つい客があったもんだからね。で、どうだろう、あしたの朝まで待ってもらえないか。そうすれば書いておくが……」 「先生、それじゃこまります」  と、進はやっきとなって、 「あれ、夕刊の第一版からはいりますから、あしたの朝はやく工場へいれなければなりません。先生、ぼくここでお待ちしておりますから、これからすぐに書いてください。先生、お願いです。お願いです」 「そうだねえ。しかし、なんだか君に気の毒だなあ」 「いいえ、そんなことかまいません。あれ、四百字づめ原稿用紙にして六枚でしょう。先生は筆がはやいとうかがっております。一時間……いや、二時間みておけばだいじょうぶでしょう。いま九時七分ですから、十一時までにはおできになるでしょう。先生、お願いです。お願いです。ぜひ書いてください」 「ああ、そうかね。君がそんなにいうなら……」  と、黒めがねの男はあまり気乗りしないようすらしかったが、それでも、いまにも泣きだしそうな進の顔色をみると、やっと決心がついたのか、 「いや、じつはあしたの朝、改めてもういちどきてもらうつもりだったんだが、それじゃかえって迷惑《めいわく》かもしれない。じゃあ、君、すまないがここで待っていてくれたまえ。こんやはうちにだれもいないので、お茶も出せなくて気の毒だが……」 「先生、そんなことかまいません。ぼく原稿さえいただけたら、それでいいんです」 「よし、それじゃ書こう」  と、黒めがねの男はいすから立ちあがると、応接室を出て、玄関をよこぎるとアトリエのドアのなかへはいっていった。  そして、なかからドアをしめたのが、九時十分ごろのことだったが……。    血にそまった原稿  アトリエのなかはひっそりとしている。  応接室でもひっそりと、探偵小僧の御子柴進が、持ってきた本を読んでいた。  とうとう雨が降りだして、かなりはげしい雨が、屋根がわらや木々のこずえをたたいている。  家の内も外もしずまりかえって、いかにも郊外《こうがい》の住宅地の、しかもそのはずれらしいさびしさである。  十時が過ぎて十時半。十一時もすぎたがアトリエのなかからはまだなんの音沙汰《おとさた》もない。  やがて、そろそろ十一時半。  一時間に四百字づめの原稿用紙三枚のスピードとしても、もう二時間以上になるのだから、もうそろそろできあがるはずなのだが、それにもかかわらず、永利はまだアトリエのなかから出てこない。  かっきり十一時半になったので、とうとうたまりかねて進は、応接室を出てアトリエのドアをノックした。 「先生、先生、永利先生、さいそくしてすみませんが、原稿まだできないでしょうか。ぼく、電車がなくなるとこまるんですが……」  しかし、なかからはなんの応答もない。 「先生、先生……」  進はつづけざまにノックをし、先生、先生と声をかけたが、アトリエのなかはしいんとしずまりかえって、うんともすんとも答えがないのだ。 「いやだなあ、先生、居眠《いねむ》りでもしてるんじゃないかなあ。先生、先生」  進はしだいにノックを強くしていったが、返事のないことは依然《いぜん》としておなじである。  進はたまりかねて、かぎ穴からなかをのぞいてみた。  ひとの家へきて、こんな失礼なまねをしちゃいけないくらいのことは、進もよく知っている。しかし、背に腹はかえられないのだ。  かぎ穴からではアトリエのなかは、ごく一小部分しかみえなかった。  それでもあちこちと目の角度をかえているうちに、やっと隅《すみ》っこのほうにあるデスクを、視線のなかにとらえることができた。  はたして永利俊哉は、デスクにうつぶせになって居眠りをしていた。 「なあんだ、先生ったらだらしがないなあ。ひとを待たせておいて居眠りをするなんて……先生、先生、起きてくださいよう!」  進はたまりかねて、いよいよはげしくノックした。先生、先生と声をかけた。  しかし、永利はいっこう目がさめるけはいがなく、かぎ穴からのぞいてみると、あいかわらずデスクにうつぶせになっている。  探偵小僧の御子柴進は、とうとうたまりかねてドアのとっ手に手をかけた。さいわいかぎはかかってなくて、とっ手をまわすとガチャリと音がしてドアが開いた。 「先生、先生、起きてください、先生」  進は上半身をドアのなかに入れて声をかけたが、永利はいぜんとして、デスクのうえにうつぶせになったままである。  進は、ふっと胸さわぎをおぼえて、あわててあたりを見まわした。  アトリエというのはふつう十二つぼが標準だということを、進はいつか聞いたことがある。十二つぼといえばたたみが二十四枚しけるわけである。  そのだだっぴろいアトリエは乱雑をきわめていて、わくにはまったカンバスが、そこらいちめんに立てかけてある。あちこちに石膏《せつこう》の首や、外国みやげらしいお面がかざってある。 「先生、先生」  と、探偵小僧の御子柴進は、ドアのところに立ったまま、もういちど声をかけた。 「うたた寝をしているとかぜをひきますよ。起きてください、先生」  進はおそるおそるアトリエのなかへふみこんだ。  そして、うたた寝をしている永利の背後から、デスクのうえをのぞいたが、そのとたん頭のてっぺんからぐわんと一撃、強打をくらったようなショックをかんじた。  デスクのうえには、 「ヨーロッパ飛びある記」  と、題のついた原稿がこよりでとじてあったが、それがぐっしょり血にそまっている。  いや、原稿だけではない。デスクのうえにはおそろしい血だまりができているのだ。  としのわりには、犯罪事件になれている進だったが、一しゅん、ことの意外さに、ぼうぜんとしてそこに立ちすくんでいた。  進はさっきから、二時間あまりも応接室で待っていたのである。  いかにドアがしめてあったとはいえ、……いや、応接室のドアはあいていたのだ……  玄関ひとつへだてたきりのこのアトリエで、このような恐ろしい事件があったのを、どうして気がつかなかったのか。  進はおそるおそる、デスクのうえにつっぷした、永利の顔をのぞいてみた。  ちがっていた!  さっき玄関へ出てきた男ではなかった。  そこに死んでいる……あるいは殺されている男は、画家がきるような長いブラウスをきていて、顔を見ると、としもだいぶふけている。  進はとつぜんさっきの外人のことを思い出した。そして、あわてて指をぬぐったハンケチを取り出してみた。  そうだ、このひとがほんとうの永利俊哉なのだ。そして、このひとはじぶんがここへくるまえに、殺されていたにちがいない。  しかし、それではさっきの黒めがねの男は? それにもうひとり、この窓にうつっていた影の女は?  進はあわててあたりを見まわしたが、このアトリエには玄関へ出るドアしか出入り口はない。  しかし、庭に面した窓がひとつあいていた。  じぶんを応接室へ待たせておいて、ふたりはそこから逃げだしたのだ。  進は玄関のよこに電話があったのを思いだした。  いそいでデスクのそばをはなれた進は、そのときなにかにつまずいた。  見るとオルゴールつきの目ざまし時計が床《ゆか》のうえにころがっていて、そこにも、ぐっしょりと血がたまっている。  進は身をかがめて、そのオルゴールをひろおうとしたが、きゅうに気がついて手をひっこめた。  捜査《そうさ》当局がやってくるまで犯罪現場にあるものに、いっさい手をつけてはならないという捜査上の鉄則を、そのとき思いだしたからだ。  進は玄関へ出て、電話のダイヤルを一一〇番にまわした。そして、そのあとで新日報社へも電話をかけた。  新日報社にはさいわい三津木俊助《みつぎしゆんすけ》がいあわせた。    血の記号  警視庁から等々力《とどろき》警部、新日報社から三津木俊助が、それぞれかけつけてきたのは、真夜中も一時をとっくにすぎたころだった。  むろんそのじぶんには、所轄《しよかつ》の成城署からは、おおぜい係官がつめかけていた。 「警部さん、あなた、この少年をごぞんじですか」  所轄成城署の捜査主任、高橋《たかはし》警部補は探偵小僧を知らなかったので、その申し立てを、たぶんにうさんくさく思っていたのだが、 「ああ、よく知っているよ。まだ子供だがなかなか度胸のいい、また頭のよい少年なんだ。あだ名は探偵小僧だ」  と、いう等々力警部のことばを聞いて、やっとうたがいをはらしたもようである。 「それにしても、探偵小僧」  とそばから三津木俊助がいたわるように、 「君、またえらいところへぶつかってきたじゃないか。君がこんや、こちらへ原稿取りにきたことは知っていたがね」 「探偵小僧」  と、等々力警部もやさしく進の肩に手をかけて、 「さあ、もういちどこんやのことを話してくれたまえ。君がこんや、ここにやってきたときのことからね」 「はい」  と、そこで探偵小僧の御子柴進は、となりの教会のまえに自動車が一台とまっていたこと。あやしい外人にぶつかったら手に血がついたこと。この家の門をはいったとき、アトリエの窓に女の影がうつっていたこと。玄関のベルを押すと女の小さい叫び声がきこえたこと。しばらくして黒めがねをかけた男が玄関へ出てきたこと。じぶんはそのひとを永利だとばかり思いあやまっていたことなどを、要領よく語って聞かせると、 「そうすると……」  と等々力警部は眉《まゆ》をひそめて、 「その外人がここからとびだしたとすると、こんやこの家には殺された永利さんのほかに、三人いたわけだな。外人と影の女と黒めがねの男が……」 「そうです、そうです。あの外人はたしかにここからとびだしたのにちがいありません。このへんにはここよりほかに家はありませんから……」 「ふむ、ふむ、しかし、その外人は君がここへくるまでに、ここを飛び出している。しかし、あとのふたりは君がここへきたとき、げんにこのアトリエにいたんだね」 「はあ、そうです。だから、ぼく、あとで気がついたのですが、黒めがねの男がぼくを応接室へひっぱりこんだのは、影の女に逃げるすきをあたえたんじゃないかと思うんです。ぼくが玄関でがんばっていたら、窓からとびだす音が聞えるかもしれませんからね」 「ところが、警部さん、おかしなことがあるんですよ」  と、そばからくちばしをはさんだのは、所轄の捜査主任、高橋警部補であった。 「この少年の申し立てによって、家のまわりをくわしく調べさせたんです。なにしろこの天候ですからね。ひとが出はいりをすれば足跡《あしあと》がのこるはずです。ところが窓の下には、たしかに女が飛びおりたらしいくつ跡があるんです。ところが黒めがねの男にそうとうする足跡が、どこにも発見されないのです」 「足跡がない……?」 「はあ、外人らしい大きなくつの跡は玄関から出入りしています。それから窓の下にあるのとおなじくつ跡も、門から玄関へはいっています。それからこの少年のくつ跡がのこっています。  ところがもうひとりの男、この少年のいわゆる黒めがねの男にそうとうするくつあとだけは、家のまわりのどこをさがしても見当たらないんです。そいつは空から飛んできてまた空へ飛んでかえったとでもいうんでしょうかねえ」  高橋警部補がこうしてひにくをいいたくなるのは、探偵小僧にたいするうたがいが、まだハッキリとけていない証拠《しようこ》だろう。 「しかし……しかし、黒めがねの男がたしかにここにいたんです。このアトリエへはいったきり、外へ出てこなかったんです」 「それじゃ、どうしてこのアトリエから出ていったんだね。空へとんだか、それとも煙のように消えてしまったのかね。おかしいじゃないか」 「まあ、まあ高橋さん」  と、三津木俊助がふたりのあいだにわってはいると、 「それより、永利さんの死因は……? 刺《さ》し殺されたんですね」 「そうです。そうです。パレット・ナイフで心臓をひと突きにやられています。だから、被害者《ひがいしや》は床に倒れていたらしいのを、だれかがだきおこしていすにかけさせ、デスクにもたせかけておいたんです」 「それはきっとぼくがのぞいたとき、仕事をしているように見せかけようと、あの黒めがねの男がやったことにちがいありません」  探偵小僧の御子柴進は、やっきとなって説明した。  そのとき、アトリエのなかを調べていた刑事《けいじ》のひとりが、とつぜん大きな叫び声をあげたので、一同ははっと、そのほうをふりかえった。 「木村《きむら》君、いったいどうしたんだ」 「高橋さん、こ、これを……」  木村刑事が指さしたのは二百号ばかりの大きなカンバスで、カンバスのうえには南欧《なんおう》らしい風景が、八分どおりできあがっている。  木村刑事がそのカンバスをくるりと裏返しにしたとき、一同はおもわずあっと息をのんだ。  なんということだ。そこには、なまなましい血潮の文字で、  X・Y・Z  と、大きくなぐり書きがしてあるではないか。  ああ、X・Y・Z……それはいま捜査当局をなやましつづけている紳士盗賊《しんしとうぞく》、神出鬼没《しんしゆつきぼつ》の怪盗《かいとう》が、事件のあとへかならずのこしておくサインであった。    壁《かべ》の抜《ぬ》け穴  その怪盗はきのう東京にあらわれて一流ホテルを荒らしたかと思うと、きょうは、大阪の宝石商からダイヤモンドをうばい去り、さらにあすは福岡に出現して、富豪《ふごう》の邸宅《ていたく》を襲《おそ》うというありさまで、しかも、目撃者《もくげきしや》の談話によると、いつもその人相がかわっているのだ。  東京の一流ホテルを荒らしたときは、白髪の老人姿であったのに、大阪の宝石商からダイヤモンドをうばった賊は、でっぷりとふとった中年の紳士だったという。  また福岡で富豪の夫人をおそって、真珠《しんじゆ》の首飾《くびかざ》りをうばったときは、ボクシングの選手のようなかっこうだったという。  これで見ると、よほど変装術《へんそうじゆつ》にたけているらしく、したがってどれが素顔なのかいっこうにわからず、ある新聞では顔のない男、とまで書いてあったくらいである。  ただこの怪盗のとくちょうとしてあげられるのは、いつも犯罪の現場にX・Y・Zという署名をのこしていくことで、いつか、新聞・ラジオ・テレビでは、この賊のことを怪盗X・Y・Zとよんでいた。  その怪盗がいまこのアトリエに出現したのだ。等々力警部をはじめとして捜査陣《そうさじん》の一行が、さっと緊張《きんちよう》したのもむりはない。 「怪盗X・Y・Zなら足跡ものこさず、このアトリエへはいってきて、また足跡ものこさず、このアトリエから立ち去ることも不可能でないかもしれない」  三津木俊助がひそかにつぶやくのを耳にして、高橋警部補は憤然《ふんぜん》たる顔をそのほうにふりむけた。 「三津木くん、それじゃX・Y・Zには背中に羽がはえていて、空をとぶことができるとでもいうのかい」 「いえ、そういう意味ではありません」 「じゃ、いったいどういう意味なんだ。どうして足跡ものこさず、このアトリエへはいってきて、また、足跡ものこさずに、このアトリエから立ち去ることができるというのだい」  と、高橋警部補はまるで食ってかかるような調子である。 「いや、それは……」  と、三津木俊助がためらっているすぐうしろから、大声で叫んだのは探偵小僧の御子柴進だ。 「このアトリエにはきっと抜け穴があるんです。怪盗X・Y・Zはその抜け穴からやってきて、またその抜け穴からかえっていったんです」 「なに、抜け穴……?」  と、高橋警部補は大きく目玉をひんむいて、 「そ、そんなばかな! それじゃ、ここの主人の永利俊哉が、わざわざX・Y・Zのために、抜け穴をこさえておいてやったというのかい」 「ああ、いや、そういえば……」  と、そのときそばからおずおずと言葉をはさんだのは、このへんいったいを受け持ち区域にしている辻村巡査《つじむらじゆんさ》である。 「辻村くん、どうかしたのかい」 「はい。このアトリエは以前から永利さんのものだったんです。しかし永利さんは一年ほど海外旅行をしていて、つい三か月ほどまえに帰国したばかりなんです。その留守ちゅう古川三平《ふるかわさんぺい》というえたいのしれぬ人物が、ここに、住んでいたんです」 「えたいのしれぬ人物というのは、どういうのだ」 「はあ、自分では文筆家と名乗っていました。しかし、なにを書いているのかいっこうわからず、しかもお手伝いさんや使用人もひとりもおらず、それでいて、しょっちゅう家をあけて旅行をするんです。ですから、それでは無用心だから、だれか、留守番をおくようにと注意したことが二、三度あるんです。なんでも永利さんの友人だとかいってましたがね」 「それで、そいつはいったいどういう人相の男だったんだ」 「さあ、それが……いっこうにとくちょうのない顔でしたね。それに、あるときはふとっているようにみえるかと思うと、あるときはやせているようにみえ、みょうな男だと思っていたんです」 「そいつだ、そいつだ。そいつが怪盗X・Y・Zなんだ。そして、ここに住んでいるあいだに、きっと抜け穴をつくったにちがいない!」  そうさけんだのは、探偵小僧の御子柴進だ。 「よし、それじゃみんなで手わけをしてその抜け穴の入り口をさがしてみようじゃないか」  等々力警部の命令で、一同はさっそくアトリエのなかをしらみつぶしに調べはじめた。  このアトリエのかたすみには、ベッドが一台すえてあるが、このベッドは外国のアパートやなんかにあるように、上へはねあげると、壁のなかへたたみこまれるようになっている。  いま、ベッドはゆかの上におかれているが、壁のくぼみのそのおくは、洋服ダンスみたいになっていて、洋服やオーバーやレーンコートが、むぞうさというよりは、いとも乱雑にかけてある。  進は、ベッドの上へはいあがり、壁のくぼみのおくをさぐっていたが、なにやらボタンのようなものが手にさわった。  進がなにげなく、そのボタンを押してみると、くぼみのおくのその壁が、洋服やオーバーやレーンコートをかけたまま、音もなくむこうへはねかえって、まっ暗な穴のおくから、さっとつめたい風が吹きこんできた。    ふしぎな穴 「ああ、あった、あった。やっぱり抜け穴があったんだ」  進のさけび声に、ほかを調べていたひとたちも、あっとさけんで、ばらばらとベッドのまわりに集まってきた。  探偵小僧の御子柴進は、懐中電燈の光で抜け穴のなかを照らしてみて、 「ああ、ここに階段がついています。これを降りてみましょうか」 「探偵小僧、おまえはこちらへ降りてこい。だれか懐中電燈をもっていないか」 「はっ、ここにあります」  辻村巡査から懐中電燈をうけとると、等々力警部もベッドの上へとびあがって抜け穴のなかを調べながら、 「高橋くん、君はいっしょにきたまえ。三津木くん、君もくるか」 「もちろん、ぼくもいきます」 「警部さん、ぼくも、いっていいでしょう。その抜け穴はぼくが発見したんですから」 「そうだよ。おまえがいちばんの功労者だ。それじゃいっしょにきたまえ。ほかの連中はここに残って、なお念のためによく警戒《けいかい》する。いいな、わかったな」 「はい、承知しました」  等々力警部はてきぱきと、部下に命令をくだすと、左手に懐中電燈、右手に拳銃《けんじゆう》を握《にぎ》りしめて、まっ暗な階段にふみこんだ。  その階段はコンクリートでかためてあり、ゆるやかな勾配《こうばい》をつくって、下のやみのなかへおりている。  進はあたりのようすに気をくばりながら、一歩一歩、その階段をくだっていく。  警部の背後から高橋警部補、さらにその背後から三津木俊助と探偵小僧の御子柴進が、用心ぶかく降りていく。  階段はぜんぶで十七段あった。  階段をおりきると、そこから地下道がはじまっている。  この成城という町は丘陵《きゆうりよう》地帯になっているので、かなり深く掘っても水は出てこない。だからこういう地下道をつくるのには、うってつけの場所なのだ。  地下道はおとなが立って歩けるくらいのよゆうがあり、幅は約二メートル。かなりゆったりとしたトンネルで、周囲もゆかも天じょうも、コンクリートでかためてあった。  秘密にはこんだ工事としては、なかなかゆきとどいている。 「いったい、これゃ、どこへ抜けているんだろう」 「警部さん、とにかくいけるところまでいってみようじゃありませんか」 「よし」  と、等々力警部は五、六歩あるいたがなにかにつまずいて大きくおよいだ。  と、同時に警部の足下で、ガラガラと大きな音がして空気のこもったトンネル内に、ものすさまじくひびきわたった。 「け、警部さん、だ、だいじょうぶですか」  うしろから高橋警部補が心配そうに声をかけると、警部はやっと姿勢を立てなおして、 「こんなところに、なにがおいてあるんだ!」  と、腹立たしそうに懐中電燈であたりを見まわすと、そこにあるのはセメントだるがひとつ、それにセメントをぬるコテが二、三本、土にそまったシャベルがひとつ、ほかにバケツがひとつころがっている。  警部がいまつまずいたのはバケツであった。 「あっ、警部さん、こんなところに穴が掘ってありますよ」  探偵小僧が懐中電燈の光をむけたので、一同がさっとそのほうをふりかえると、なるほどむかって右側の壁の一部分に、コンクリートがこわしてあり、人間ひとりもぐりこめるくらいに土がえぐってある。 「いったい、これゃ、なにをやらかすつもりだったんだろう」  進はシャベルについた土にさわってみて、 「三津木さん、これは、さいきん掘りくりかえしたものですよ。ほら、この土はまだしめっています」  三津木俊助があたりを見まわすと、セメントだるのそばに、土がそうとうつもっているが、穴の大きさにくらべると量が少なく、しかも、コンクリートのかけらはどこにも見当たらなかった。 「どうもへんだよ。コンクリートのかけらや、それからもう少し土があったはずだが……」 「ああ、そうそう、そういえば……」  と、高橋警部補が思い出したように、 「永利家の庭のすみに、コンクリートのかけらや、ねん土のかたまりが山のようにつんでありましたよ。いったいどこを掘った土だろうと思っていたんだが……」  それを聞いて等々力警部と三津木俊助、探偵小僧の三人は、おもわずシーンと顔を見合わせた。 「そうすると、この壁に穴を掘ったのは、永利さんじしんなのかな」 「もし、そうだとすると永利さんも、この抜け穴の存在を知っていたということになるな」 「よし、それはばあやがかえってきたら聞いてみましょう。永利さんが掘ったとしたら、ばあやも知っているはずですから」  戸口調査の結果によると永利俊哉は、木原梅子《きはらうめこ》というばあやとふたりで住んでいたと、辻村巡査が話していた。  そのばあやは、こんやはるすのようである。 「永利さんがこれを掘ったとしても、いったいこれはなんのためでしょうねえ」  つぶやきながら、三津木俊助がセメントだるのなかをのぞくと、そこにはいっぱいのセメントがつまっている。 「永利さんはここへなにかを埋《う》めて、またあとで、セメントでぬりつぶしておくつもりだったんじゃないですか」 「探偵小僧、永利さんはそれじゃなにを埋めるつもりだったんだい」 「さあ、そこまではぼくにもわかりません」 「警部さん、それよりこの抜け穴のむこうの出口を、探検しようじゃありませんか」 「ふむ、そうしよう」  そのトンネルは約五十メートルほどあり、その出口は、さっきから探偵小僧が想像していたとおり、裏手にある教会の尖塔《せんとう》の底部にあいていた。    オルゴール時計  永利俊哉の殺人事件は、いろんな意味で報道機関をさわがせた。  新聞は連日、この事件で社会面のトップをかざっていた。なにしろ、ちかごろ評判の怪盗《かいとう》X・Y・Zが関係しているのである。  それだけでも評判になるねうちは十分だのに、この事件にはいろいろわからないことが多かった。  だいいち、殺人の動機からして不明であった。  永利は画家として有名だったが、べつにこれといって敵はなかったという。だいいち、ヨーロッパからかえってきてからわずか三か月、殺害されるほど深刻なうらみをかうような、いきさつがあったろうとは思われない。  それでは、怪盗のしわざであろうか。しかし、翌日、帰宅したばあやの木原梅子の話によると、べつにこれといって紛失《ふんしつ》しているものはないという。  探偵小僧の御子柴進は、三人の人物を永利の殺害前後に目撃している。  第一は自動車で逃走した怪外人、第二は窓にうつっていた洋装の女、それから第三は永利俊哉として、探偵小僧に応待した黒めがねの怪人である。  第三の人物が怪盗X・Y・Zとしても、第一と第二の人物は、いったい永利とどういう関係があるのだろうか。  捜査当局はやっきとなって、そのふたりの人物の割り出しにほんそうしているが、いまのところまだ雲をつかむようにわかっていない。  ただ、あの抜け穴については、つぎのようなことが判明した。  あの教会は永利の外遊中に竣工《しゆんこう》したものである。  したがって、永利の家には古川三平という、えたいのしれぬ人物が住んでいた時代のことなのだ。  しかも、教会建設の工事をひきうけたのは、立川組《たちかわぐみ》という土建会社だったが、そのとうじ立川組にいた技師で、教会建設の任にあたった古田三郎《ふるたさぶろう》というのが、その後、ゆくえをくらましているのである。  古田三郎と古川三平は、ひょっとするとおなじ人物だったのではなかろうか。  立川組のひとたちの話す古田三郎と、辻村巡査の申し立てによる古川三平とでは、まるで人相がちがっているが、なにしろあいては変装の名人、神出鬼没の怪盗X・Y・Zのことだ。  ひとの目をあざむくくらいは、なんでもないことだったのではなかったか。  それにしても、ばあやの木原梅子の話によると、あの抜け穴の壁に穴を掘ったのは、どうやら永利俊哉じしんらしいのである。  そうすると、永利もあの抜け穴を知っていたことになり、ひょっとすると怪盗X・Y・Zと、おなじ穴のむじなではないかといわれたが、それにしてもその永利が、なぜ抜け穴のなかにあのような穴を掘ったのか、その理由はわからなかった。  こうして捜査が暗礁《あんしよう》にのりあげたまま、十日とたち、二十日とすぎて、きょうは六月の十五日。  きびしかった警察の警戒もようやくとけて、ちかごろでは永利のアトリエには、だれも見張っているものはない。ばあやの木原梅子もきみわるがって、ひまをとっていったので、永利のアトリエは、ちかごろではもう空屋もどうようである。  さて、六月十五日の夜の九時すぎ。そっとこのアトリエへしのびよった影がある。探偵小僧の御子柴進だ。  進は警戒のないのを見すますと、アトリエの窓の下に忍《しの》びよった。  さいわいアトリエの外に手ごろの石ころがあったので、それを窓の下に押しころがしてくると、そっと、その上にはいあがった。  これで窓の敷居《しきい》が胸のたかさになり、進の仕事もしやすくなった。  探偵小僧はポケットから、用意の七つ道具を取り出して、ふなれなどろぼうのように窓をいじくりまわしていたが、それでも十分ほどすると、やっとガラス戸をひらくことに成功した。  身軽なことにかけては、探偵小僧は自信がある。ガラス戸をひらくと進は、ひらりとなかへとびこんだ。  むろんアトリエのなかはまっくらである。  進は注意ぶかく窓をしめると、そっと懐中電燈《かいちゆうでんとう》のあかりをつけた。  アトリエのなかは永利俊哉が殺害された夜と、そっくりそのままにしてあった。  ただ、ちがうのはそこに死体がないことと、血がふきとられていることだけである。  探偵小僧の御子柴進は、懐中電燈をてらしながら、そっとデスクのそばにちかよった。  デスクの上もだいたいこのあいだとおなじで、そこに血に染まった原稿のつづりがないだけである。  進は、懐中電燈の光でデスクの上をさがしていたが、とつぜん、 「あった!」  と、小さく口のうちでさけんだかと思うと、そこにあったオルゴールつきの目ざまし時計に手をのばした。  それは水車小屋のかたちをした置時計だが、進には、そのオルゴールがとちゅうで鳴りやんだのが、ふしぎでたまらないのである。  探偵小僧《たんていこぞう》は、その時計をじっと見つめていたが、やがてポケットからドライバーをとりだして、目ざまし時計の裏側のねじくぎをはずしにかかったが、そのとき、忍びやかにこのアトリエへ、ちかづいてくる足音がきこえてきた。 「だれかきた!」  探偵小僧はすばやくあたりを見まわしたが、目についたのはあの抜け穴の入り口の壁である。  進は目ざまし時計を持ったまま、足音もなくベッドのそばにちかよると、ボタンを押して壁をひらいた。  そして、抜け穴の入り口へもぐりこみ懐中電燈の光を消したとたん、アトリエの窓の下に足音がきてとまった。    トランクの中  抜け穴の入り口を細めにひらき、そこからアトリエをのぞいている、探偵小僧の御子柴進《みこしばすすむ》は、心臓がガンガン鳴って、いまにものどからとびだしそうであった。全身からぐっしょり汗《あせ》がふきだしている。  窓の下に立ちどまった足音は、それきりしいんとしずまりかえって、物音ひとつ立てなかった。おそらくあたりのようすをうかがっているのであろう。  やがて窓ガラスに、ボーッとあかりがさしてきた。懐中電燈の光である。  それを見ると探偵小僧は、いよいよ心臓がおどるのだ。全身からつめたい汗がしたたり落ちる。  懐中電燈で照らしている窓は、さっき進がこじあけた、あのおなじ窓である。  窓の外の人物は、そこにある石ころをあやしみはしないだろうか。  またぞうさなく開く窓に、ふしんの念をもたないだろうか。……そう考えると進は、舌がからからにかわいてきた。  それにしても、いったいそれは何者なのか。  怪盗X・Y・Zであろうか。それとも影の女か、怪外人《かいがいじん》か……?  やがて、窓ガラスをゆすぶるかすかな物音がきこえてきたが、とつぜんバターンと音がして、ガラス戸が開いたようすである。  そのとたん、懐中電燈の光が消えたのは、やっぱり、あんまりぞうさなく開いたので、あやしんだらしいのだ。  窓の外でその人物は、しばらく呼吸をこらしているようすだったが、べつになんの反応も起こらないので、どうやら安心したらしい。  また、ボーッと懐中電燈の光が窓の外からさしてきた。  そして、みしみしという音をさせて、窓を乗りこえてはいってきたのは、ああこのあいだの怪外人ではないか。  怪外人は窓のうちがわにつったったまま、懐中電燈で用心ぶかく、アトリエのすみずみを調べている。  光がぎゃくになっているので、顔ははっきりわからないが、外人としてはそれほど大きいほうではない。身長一メートル七十五センチというところか。  怪外人は懐中電燈で、ひととおりアトリエのなかを調べると、異状なしと見たのか、ほっとしたようなため息をもらした。  それから、もういちど窓から外をうかがうと、注意ぶかくガラス戸をなかからしめた。  それにしてもこの怪人は、いったいアトリエのなかのなにをねらっているのであろうか。  一どならず二どまでも、こうして、忍《しの》びこんできたところをみると、よほど重大な用件があるにちがいない。  外人は窓をしめると、壁《かべ》のいっぽうに立てかけてあるカンバスのほうへちかよった。  そこには、まえにものべたとおり大小さまざまな大きさのカンバスが、いとも乱雑に立てかけてある。  それは描きあげたのもあり、まだ未完成のもあった。  怪外人は、そのカンバスのそばへよると、一枚一枚、懐中電燈の光でカンバスを調べはじめた。  それではこの怪外人は、永利俊哉《ながとしとしや》の油絵を盗みにきたのであろうか。  いや、いや、それにしてはその調べかたがおかしかった。  外人は表から懐中電燈の光をあてると、裏から入念に眺《なが》めているのだ。いったい油絵をみるのに、このようなへんてこな見方ってあるものだろうか。  この外人は、抜《ぬ》け穴のことはてんで知っていないのだ。と、いうことは日本語が読めなくて、したがって新聞も読んでいないのだろう。  そう気がつくと、進はだんだん落着きをとりもどしてきたが、その反対に怪外人は、しだいに息使いがあらくなってくる。  ときどき口のなかで、腹立たしそうなことばをはくが、それはどうやら英語ではないらしい。進にはよくわからないが、フランス語かイタリア語らしかった。  怪外人は、何十枚とあるカンバスを、いとも入念に一枚ずつ、表から懐中電燈をてらしては、裏から注意ぶかく調べている。  探偵小僧の御子柴進は、そのときはっと気がついた。  この外人はもとめるものが手にはいると、また乗用車で立ち去るだろう。  ここにこうして待っていては、みすみす取りにがすばかりである。  と、いって警察へ電話をかけるわけにもいかなかった。  このアトリエの電話がまだ通じるとしても、それは玄関《げんかん》に取りつけてある。外人のそばを通らなければ、電話のそばへはちかよれない。  そのとき、進の頭にはっとひらめいたのは、ここが抜け穴のなかだということだ。  そうだ、抜け穴をとおって教会から外へとびだし、さきまわりして外人のやつを待ちぶせしてやろう。  そう気がつくと進は、いままで右手でおさえていた、バネ仕掛《じか》けのかくし戸を、音のしないようにそっと閉ざした。  それから、懐中電燈をともしながら、一歩一歩、足音に用心しながら、コンクリートの階段をおりていった。  さいわい、抜け穴はまだ閉ざされてはいなかった。  いつか怪盗X・Y・Zが、またこの抜け穴からやってきはしないかと、警察では教会にたのんで、抜け穴の入り口はそのままにしてあるのだ。  五分ののち、しゅびよく抜け穴の外へはいだした進が、教会の外にとびだすと、はたしてそこに乗用車がおいてある。  とっさに思案をきめた進は、乗用車の後部についている、トランクに手をかけた。  さいわい、かぎはかかっていなかった。  進が、すばやくトランクのなかへすべりこみ、ふたをしめようとしたとたん、永利のアトリエのほうから、足ばやにやってくる足音がきこえてきた。  トランクのふたを細めにひらいてみていると、足音のぬしは怪外人だったが、見ると小わきにカンバスをまるめてもっている。  それでは目的の絵が見つかったのか……?  怪外人が運転台にとびのると、すぐに乗用車は走り出した。    尾行《びこう》三つどもえ  怪外人はもちろん、乗用車のうしろのトランクに、探偵小僧の御子柴進が、かくれていようなどとはゆめにも知らない。  乗用車は、そのまま成城《せいじよう》の町を南下して、小田急《おだきゆう》の踏切《ふみきり》をつっきると、東宝《とうほう》のスタジオのほうへすすんでいく。  怪外人のそばには、永利俊哉のアトリエからぬすみだしてきたカンバスが、円筒型《えんとうけい》にまるめたうえ、ていねいに、ゴム・バンドでとめたのが、後生《ごしよう》だいじにおいてある。  怪外人の運転する乗用車は、東宝のスタジオのまえを通りすぎると、渋谷《しぶや》方面へむけて疾走《しつそう》していく。  トランクのなかにひそんでいる進は、かぎ穴からさしこんでくる光線によって、いま乗用車がどのようなところを走っているか、だいたい見当がつくのである。  にぎやかな場所を走っているときは、かぎ穴から明るい光線がさしこんでくるし、さびしいところを通るときは、かぎ穴の外もまっくらなのだ。  東宝スタジオへさしかかるまえ、進はいちど、そっとトランクのふたを開いて、あたりのようすを見まわしたが、そのときふと目についたのは、百メートルほど後方から、こちらへむけて走ってくる一台の乗用車であった。  そのときは探偵小僧の御子柴進も、それほどその乗用車を気にもとめずに、深呼吸をしてすぐトランクのふたをしめたが、それから五分ほどして、またトランクのふたを開くと、あいかわらず百メートルほど後方から、一台の乗用車がやってくる。  しかもそれはどうやら、さっき見た乗用車とおなじらしかった。  進はおもわずはっと息をのんだ。  ひょっとするとあの乗用車、怪外人を尾行しているのではあるまいか。  それからのち、進はさびしい場所へさしかかるごとに、トランクのふたを細目にひらいて、うしろのほうへ目をやったが、いぜんとしておなじ乗用車が、おなじ間隔《かんかく》をおいて走ってくるのだ。  それはなんでもないことかもしれなかった。  成城から渋谷方面へ出るには、この道を通るよりほかはないのだから、ぐうぜん、いま二台の乗用車が、成城から渋谷へむかっているのかもしれなかった。  しかし、気にかかるのは、いつ見てもものさしではかったように、百メートルほどの間隔をたもっていることである。  やっぱりあの乗用車は、怪外人のあとを尾行しているのではあるまいか。  尾行しているとすれば何者だろう。  警察関係のひとたちか。いや、いや、警察関係のひとたちなら、怪外人がアトリエから出てきたところを取りおさえるはずである。  警察関係でないとすれば、いったいあの車のぬしはどういう人物だろう。  やがて怪外人を乗せた乗用車は三軒茶屋《さんげんぢやや》へさしかかった。  そのへんからしだいに町がにぎやかになってくるので、進もむやみに、トランクのふたをあけるわけにはいかなかった。  空気を導入するために、細目にふたを開くとしても、外をのぞくほどうえへあげるわけにはいかなかった。  そんなことをすると通りがかりのひとに見つかるうれいがあるからだ。  それに三軒茶屋あたりから、自動車のかずもしだいにふえて、トランクからのぞいたとしても、もう目的の車は見つからなかったかもしれない。  だが……  進の疑惑《ぎわく》はやっぱり正しかったのだ。うしろからくる乗用車は、怪外人の車をつけているのだ。  その乗用車は怪外人の車がとまっていたところから、五十メートルほどはなれたうす暗いところに停車していて、怪外人の車が成城の町を南下しはじめると、百メートルの間隔をおいて、ひそかに尾行をはじめたのである。  その乗用車はいまも怪外人の車を尾行している。渋谷がちかくなるにつれてしだいに雑踏《ざつとう》がはげしくなってきたので距離《きより》はだいぶんちぢまって、かれとわれとの間隔は三十メートル。  その乗用車を運転しているのは、世にも奇妙《きみよう》な服装《ふくそう》の人物だった。  シルク・ハットに燕尾服《えんびふく》、目に片めがねをかけているので、ちょっと顔がいびつに見える。  ハンドルを握る手には白い夏の手ぶくろをはめており、かたわらにはいきなステッキがおいてある。  まるでアルセーヌ・ルパンみたいなさっそうとした紳士《しんし》。としは四十前後とみえるが、すっきりとしてスマートな人物である。  このふしぎな人物は、ハンドルをにぎったまま、怪外人の自動車から目をはなさない。  渋谷がちかくなるにつれ、交通量はしだいにふえ、いろんな自動車がふたつの車のあいだにわってはいる。  しかし、この怪紳士はたくみにハンドルをあやつって、つかず、はなれずまえの車をつけていく。  怪外人の乗用車は渋谷から赤坂《あかさか》のほうへ走っている。  環状線《かんじようせん》のなかへはいったので、交通量はいよいよふえてきた。  怪外人もたくみにハンドルをあやつるとやってきたのは赤坂のQホテル。  門をはいると玄関から、わざとはなれたところに車をとめたのは、すぐまた外出するつもりで、ほかの車のじゃまにならぬところへ停車したのだろう。  だが、このことは探偵小僧の御子柴進にとって、まことにさいわいだったというべきである。  玄関さきへ横づけされたら、進もはいだすことができなかったろう。  進がトランクのふたを細目にあけて、あたりのようすをうかがっていると、そこへ門からはいってきた乗用車がある。その乗用車を見ると、進はおもわず、ぎょっといきをのんだ。  成城からつけてきたあの乗用車だ。  その車は、進のすぐ鼻さきへきてとまった。  その車からおりてきた、シルク・ハットに燕尾服、片めがねをかけて、いきなステッキを小わきにかかえた怪紳士のすがたに、探偵小僧の御子柴進は、おもわずぎょっと息をのみこんだ。いつか永利俊哉のアトリエで、永利になりすまし、探偵小僧をあざむいたあの怪人物にどこやら似ているではないか。    怪フランス人  いきな片めがねの怪紳士は、回転ドアをおしてまっすぐに、フロントのほうへ歩いていった。  ちょうどそのとき怪外人が、左がわの階段を足ばやにのぼっていくうしろ姿が、ほんのちらりと見えた。 「こんやここへ泊《とま》りたいのだが、へやはあるかね」 「はあ、ございます。おひとりさんですか」  と、頭のはげたマネージャーが帳簿《ちようぼ》と万年筆をさしだしながら、この、荷物もなにも持っていない客を、ふしぎそうな顔で見まもっている。 「ああ、ひとりだ。こんやひと晩だけでいいんだが……」  と、マネージャーから万年筆をうけとると、帳簿をとりよせ、おもむろに万年筆のキャップをとろうとした。 「おや、おや、このキャップ、なかなか抜《ぬ》けないぞ」 「おや、これは失礼いたしました。では、わたしが抜きましょう」 「じゃ、たのむ」  と、怪紳士はマネージャーに万年筆を渡そうとしたが、どうしたはずみか手がすべって、万年筆はカウンターのむこうに落ちた。 「やっ、こいつはしっけい」 「いえ、いえ、だいじょうぶでございます」  と、マネージャーが万年筆をひろおうとして身をかがめたとたん、怪紳士はなにげないようすで、帳簿のページをくりはじめた。  万年筆がなかなか見つからなかったので、怪紳士はゆうゆうとして帳簿のページをひっくりかえすことができた。  見ると五月二十三日にジャン・フローベルというフランス人が、二階の八号室に泊っている。  五月二十三日といえば、永利俊哉が殺害された晩から二日まえということになる。  マネージャーがやっと万年筆をさがしだして立ちあがったときには、怪紳士は帳簿のページをもとにもどして、すました顔であたりを見まわしていた。 「いや、どうもしっけいした」  と、怪紳士は万年筆をとりあげると、 「ときに、マネージャーくん、ぼくはへやのナンバーに注文があるんだが……」 「注文とおっしゃいますと……」 「ぼくは八という数字がすきなんだが、できたら二階の八号室にしてもらえないか」 「いや、ところがあいにくとその八号室には先月からひきつづき、フランス人のお客さんがお泊りなんですが……」 「ああ、そう、いや、ふさがってるならいい。むりにとはいわないんだ」 「まことにどうも申しわけございません。それじゃ八号室のとなりの七号室にしていただけませんか」 「ああ、いいとも。八号室がふさがっているのなら、あとはどこでもおなじことだ」  と、万年筆をとりあげて帳簿にしるした名まえを見ると、青田信彦《あおたのぶひこ》。神戸《こうべ》から上京してきた美術商というふれこみだが、どうせ、そんなことはうそっぱちにきまっている。  やがて、ボーイに案内された怪紳士は二階七号室へはいると、しばらくようすをうかがったのち、ドアを開いて廊下《ろうか》へ出た。  さいわい廊下に人影は見当たらなかった。怪紳士はすばやくあたりを見まわすと、となりの八号室のドアをノックする。 「ダレ?」  鼻にかかった声ではあるが、わりにはっきりとした日本語である。 「ボーイでございます。お手紙がきておりましたのを、つい支配人が忘れておりまして……」 「手紙……? ワタシニ……?」  ガチャリとかぎをまわす音がして、ドアが開いたとたん、怪紳士はすばやくなかへすべりこんだ。 「ダ、ダ、ダレダ、アナタハ……?」 「だれでもよろしい。しいていえば永利俊哉くんの友人ということにしとこうか」 「ナ、ナ、ナガトシトシヤノ友人……?」  ジャン・フローベルの顔色は、さっと紫色《むらさきいろ》に変わった。  いそいでポケットへ手をやるとたん、怪紳士のステッキがとんだかと思うと、拳銃《けんじゆう》がくるくる宙におどって、ガチャリと床《ゆか》のうえにすっとんだ。  それをひろおうとする怪フランス人の胸にひと突き、怪紳士のステッキがのびたかと思うと、ジャン・フローベルはあおむけに、床のうえにひっくりかえった。  怪紳士はすばやく拳銃をひろいあげると、あいての胸に銃口をむけて、 「こんなものを持っているところを見ると、おまえもただのねずみじゃないな」  と、いいながら、へやのなかを見まわすと、スーツケースとトランクが荷造りしてあり、すぐにも旅行に出る用意ができている。  そして、デスクのうえにひろげられているのは、二十号ばかりの油絵で、見たところ平凡《へいぼん》な風景画である。 「やい、ジャン・フローベル」  と、怪紳士はきっとあいてをにらみすえ、 「きさまはなぜこんなものに目をつけるんだ。なるほど、永利はちょっとした画家だった。しかし、一度ならず二度までも、危険をおかしてまで盗みだすほどの画家じゃない、いや、永利の絵がほしいのなら、もっとよいのがいろいろたくさんあったはずだ。それだのに、きさまはなぜこんな平凡な、風景画を盗み出したのだ。やい、ジャン・フローベル、そのわけをいえ、そのわけを!」  怪紳士の舌端《ぜつたん》は、まるで火を吹くようにはげしかった。    ルーベンスの絵 「やい、ジャン・フローベル。いわないか。なぜきさまがこの絵をねらったのかわけをいわないか」  怪紳士が二階八号室へはいりこんでから、すでに三十分は経過している。  奇怪《きかい》なフランス人ジャン・フローベルは、高手小手《たかてこて》にしばられて、ベッドのうえに投げ出されている。  そのまえにどっかといすに馬乗りになり、いすの背にあごをのっけたまま、怪フランス人に自供を強要しているのは、片めがねの怪紳士、いうまでもなく怪盗X・Y・Zである。  しかし、ジャン・フローベルもさるものだった。  いかに責められ、迫られてもがんとして口をわろうとしなかった。  なぜあの平凡な永利俊哉の風景画に、こうまで強い執心《しゆうしん》を示すのか、絶対にかたろうとしなかった。 「ようし、いわぬな。あくまでシラを切ってとおすつもりだな。だが、そうはさせぬ。おれは元来、血を見ることのきらいな男だ。あまり残こくなことはやらぬ男だ。しかし、きさまがあくまで強情《ごうじよう》張るなら、このままではひきさがれない。ここでうんと痛い目をしてもらうぜ」  高手小手にしばられたジャン・フローベルの目の色には、さっと恐怖《きようふ》の色が走った。  怪盗X・Y・Zの声の調子がいままでとはがらりとかわって、なんともいえない冷酷《れいこく》なひびきをおびてきたからだ。  怪盗X・Y・Zはポケットから、小さい皮のサックをとりだすと、そのなかからつまみだしたのは、細いきりのようなものである。そのきりには、ゾウゲのえ[#「え」に傍点]がついていて、きりの長さは五センチくらい、きりというより針のように細く、鋭《するど》くとがっている。  それを見るとジャン・フローベルの目には、また改めて恐怖の色がふかくなった。  怪盗X・Y・Zはゆうゆうと、フローベルの上衣とワイシャツのまえをはだけると、毛むくじゃらの胸をむきだしにした。  フローベルの心臓は、まるであらしにあった海のように、大きく、はげしく波立っている。  怪盗X・Y・Zはその波立っている心臓のうえに左手をおいた。そして、右手にもった鋭いきりのきっさきを、チクリと左手の指のあいだから、心臓のうえにあてがった。  ジャン・フローベルは絶望的な目で、へやのなかを見まわした。声を立ててもむだなことを、ジャン・フローベルはだれよりもよくしっている。  このへやは完全に防音装置がほどこされているので、ちょっとやそっと声を立てたところで、外部へもれる気づかいはない。  鋭いきりのきっさきが、チクリと心臓のうえを刺す。  うっかりあばれることもできない。あばれたら、じぶんのほうから心臓を、あの鋭いきりのきっさきで貫《つらぬ》かれようとするのとおなじことなのだ。  土気色をしたジャン・フローベルの顔には、いっぱい汗《あせ》がうかんでいる。  そのフローベルに馬乗りになり、うえからじっとその顔を見おろしている片めがねの怪紳士の顔は、鋼鉄のように冷酷そのものである。そこには一片の情ようしゃも見られなかった。  チクリ!  きりが心臓のうえを刺す。このまま強情を張っていたら、あいてはほんとうにじぶんを殺すだろう。 「いう……」  ジャン・フローベルは大きくあえいで口からあわを吹きだした。 「よし、いえ、あの絵はなんだ」 「フランスのルーブル博物館から盗み出した、ルーベンスの絵なんだ」 「ルーベンスの絵……? あれが……?」 「そうだ、永利がルーベンスの絵を模写したんだ。それをおれが本物とすりかえたんだ。  模写はひじょうにうまくできているので、博物館ではまだ気がついていないようだ。本物はアメリカへもっていって売りとばし、金は永利と山分けにするつもりだったんだ。それを永利がおれを出しぬいて、ルーベンスの絵をもったまま日本へかえってしまったんだ。そして、ルーベンスの絵とわからないように、洗えばすぐ落ちる絵具で、あんな風景画をかいておいたんだ」 「それは、ほんとうか」  怪盗X・Y・Zの顔には、ふかい驚きがあらわれている。 「ほんとうだ。光線にすかしてみればすぐわかる」 「よし」  怪盗X・Y・Zは、ジャン・フローベルからはなれると、デスクのうえにある風景画をとりあげて、これを光線にすかしてみた。  と、ありありと浮きあがったのは、貴婦人の肖像画《しようぞうが》である。 「ちくしょう、永利の悪党め!」  怪盗X・Y・Zが口のなかでつぶやいたとき、ドアをノックする音がきこえた。  つづいてかぎ穴に口をいれ、マネージャーの呼びかける声がきこえた。 「フローベルさん、フローベルさん、警察のかたがお見えです。お許しがなくともこのドアをあけますよ」 「しまった!」  と、口のうちで叫んだ怪盗X・Y・Zは、ルーベンスの絵をくるくるまいて、それを小脇《こわき》にかかえると、ひとっとびに窓のほうへとんでいった。  それから三分ののち、マネージャーにドアを開かせ、等々力警部《とどろきけいぶ》に三津木俊助《みつぎしゆんすけ》、ほかに警官たちがドヤドヤと、このへやのなかになだれこんできたときには、怪盗X・Y・Zのすがたはもうそこには見えなかった。  等々力警部や三津木俊助は、探偵小僧の電話によって、このホテルへかけつけてきたのだが、それにしても探偵小僧はいったいどこへいったのだろう。  ホテルの周囲には見当たらなかった。    怪紳士対探偵小僧  警官隊と入れちがいに、Qホテルを出た怪盗X・Y・Zの乗用車が、それから半時間ののち着いたのは、小石川|小日向台《こびなただい》町にある、中くらいの家庭の表で、表札に川田春子《かわだはるこ》と女の名まえが出ていた。  門から玄関へはいって、怪盗X・Y・Zがベルをおすと、なかからばあやが顔を出して、 「おや青田《あおた》先生じゃございませんか」 「ああ、青田だが、奥さんはまだ起きていらっしゃるかね」 「いえ、ついいましがた寝室へおはいりになりましたが……」 「ああ、そう、それじゃすまないがちょっと起こしてもらえないか。至急お話ししたいことがあるんだが……」 「はあ」  ばあやはちょっとためらっていたが、それでも仕方なさそうに、 「それではどうぞ」  と、怪盗X・Y・Zを応接室へ通すといったん奥へしりぞいたが、すぐ血相かえてとびだしてくると、 「先生、たいへんでございます。たいへんでございます。奥さまのようすがなんだかへんで……」 「なに」  さっと立ちあがって、ばあやのあとからついていった怪紳士が、寝室のかぎ穴からなかをのぞくと、ベッドのうえに身をよこたえたこの家の女あるじ、川田春子のようすがただごとではない。  はっと、顔色をかえた怪紳士は、いそいでポケットからかぎ束《たば》を取りだすと、二、三度あれかこれかとためしていたがやがてガチャリと音がして、ドアが開いた。  この怪紳士は、どんなドアでも開くかぎをもっているらしい。  いそいでベッドのそばへちかよると、からっぽになった睡眠剤《すいみんざい》の箱が投げ出してある。川田春子は睡眠剤で、服毒自殺をはかったのだ。  怪紳士は女あるじの脈をとり、まぶたをひらいて調べていたが、 「ばあや、まだまにあう。いそいで医者へ電話をかけなさい」 「いえ、ところが電話も売り払ってしまいまして……」 「ちっ、それじゃ仕方がない。おまえいって医者を呼んできなさい。早く、早く……」 「は、はい……」  ばあやがあたふたと出ていったあと、怪紳士はポケットから、小さいケースを取り出した。なかには注射器と薬のアンプルがはいっている。アンプルは強心剤だった。  それをすばやく川田春子に注射をすると、 「ふむ、これで医者がくるまで持つだろう。あっ、だれだ!」  振り返った怪紳士の目にうつったのはドアの外に立っている探偵小僧御子柴進のすがたである。 「なんだ、君か、探偵小僧か」  と、おだやかな微笑《びしよう》をうかべると、 「君、どうしてここへきたんだ」 「あなたの自動車のトランクのなかにかくれて、Qホテルからここまでいっしょにきたんです」 「なんだ、Qホテルから……」  と、怪紳士は目をみはって、 「しかし、Qホテルへはどうしていったんだね」 「成城からジャン・フローベルの車のトランクのなかにかくれていったんです」 「あっはっは、こいつはおどろいた。探偵小僧、握手《あくしゆ》をしよう」  あいてになんの害意もなさそうなので進が握手をすると、 「探偵小僧、君、よいところへきた。この女性はとても気のどくなひとなんだ」 「いったい、どういうひとですか」 「永利俊哉を殺した犯人なのだ」 「えっ?」 「いや、そう驚くことはない。この奥さん、正当防衛だったんだ。悪いやつは永利で、あいつはこの奥さんのなくなったご主人の友人だった。あいつは宝石の鑑定《かんてい》ができるので、奥さんは、時価八百万円もするダイヤを、あいつにあずけたんだ。  永利はそのダイヤを横どりするつもりで、この奥さんを殺そうとしたんだ。君もおぼえているだろう。あの抜け穴のなかに穴が掘ってあったのを。永利はこの奥さんを殺して、あの穴のなかへかくし、ダイヤを横領するつもりだったんだ。あの晩、永利はこの奥さんをしめ殺そうとした。奥さんは、そこにあったパレット・ナイフで永利の心臓をついたんだ。ちょうどそこへこのぼくがいきあわせたというわけだ」 「あなたはなんのために、あのアトリエへいったんです」 「あっはっは、探偵小僧、君はぼくがだれだか知ってるはずだ」 「怪盗X・Y・Zですね」 「そうだ。ぼくはあの抜け穴へぼくの盗んだ宝石類をかくしておいたんだ。それを永利がかぎつけて横領しようとした。だから、あいつをこらしめにいったところが、ちょうどこの奥さんが、永利を刺し殺したところだったんだ」  これで、なにもかもわかったような気がした。  怪盗X・Y・Zは、真実を語っているにちがいない。 「それで、探偵小僧、君に頼みたいことがある」 「頼みたいこととは……?」 「ぼくはいつまでも、ここにいるわけにはいかない。また、この奥さんのために証人になってあげるわけにもいかない。だから、ばんじ、君に依頼《いらい》する。いまに医者がくるから、君、先生に手伝ってこの奥さんの命を助けてあげてくれたまえ。  それから、正当防衛の証人になってあげるんだ。それから、奥さんのダイヤはまだあのアトリエにあるはずだから、それを捜《さが》して奥さんに返してあげてくれたまえ。そのかわり、お礼としてこれをあげよう」  怪盗X・Y・Zが差し出したのは、カンバスだ。 「なんです。これは……」 「ルーベンスの絵、永利の悪党がジャン・フローベルと共謀《きようぼう》して、ルーブル博物館から盗み出してきたものなんだ。日本人の名誉《めいよ》のために、君の手からフランス大使館へ返還《へんかん》してくれたまえ。あっ、医者がきた……あとは頼んだぞ」 「あっ、ちょっと待って」  だが、探偵小僧の手をふりはらった怪盗X・Y・Zは、へやからとびだし、風のように川田家のまえから消え去っていった。  川田春子はぶじに命をとりとめた。  そして、探偵小僧の御子柴進の証言によって、正当防衛とみとめられ、無罪をもうし渡《わた》された。  川田春子のダイヤは、オルゴールつきの目ざまし時計のなかにかくしてあった。  進がそれを見つけて、川田春子にかえしたとき、彼女がどんなによろこんだかいうまでもない。  ルーベンスの絵は進の手から、ぶじにフランス大使館に返還された。  このことについて、フランス人全体がいかに感謝したかは、いまさらここにくだくだしく述べるまでもあるまい。  花も実もある怪盗X・Y・Zの活躍《かつやく》については、またお話しする機会もあろうと思う。 [#改ページ] [#小見出し]  第2話 なぞの十円玉    サングラスの男  六月十二日の夜十時過ぎ。  うしおのような雑踏《ざつとう》に、もまれもまれて後楽園《こうらくえん》スタジアムを出た、探偵小僧《たんていこぞう》の御子柴進《みこしばすすむ》は、しごくご満えつのていだった。  ひいきの巨人軍《きよじんぐん》が勝ったからである。しかも再起さえあやぶまれていた、藤田《ふじた》投手の好投で、完投シャット・アウト勝ちである。  今シーズンのジャイアンツのあぶなっかしい試合ぶりに、ハラハラしていた巨人ファンの進も、これでいくらか見通しがあかるくなったと、まるでジャイアンツの監督《かんとく》にでもなったような気持ちで、胸がふくらむのをおぼえずにはいられなかった。  その日は日曜日にあたっていた。ふだんならば定時制の高校にかよっている進なのだが、きょうは学校も休みである。  しかし、学校は休みでも勤めさきの新聞社は、休みでないばあいがしばしばある。  きょうの日曜日も進は、業務|多忙《たぼう》とあって朝からかりだされていたのだが、そのごほうびというわけでもないが、運動記者のSさんが、後楽園へつれていってくれたのである。  四万を超《こ》えたというその夜の大観衆の大半は、ゲームがおわると後楽園から、水道橋《すいどうばし》をわたって中央線《ちゆうおうせん》の水道橋駅へむかうのだから、その混雑といったらたいへんである。  しかし、それらの客の大半は、巨人ファンなのだから、その夜のジャイアンツの会心の勝利に、みんなゴキゲンだった。  くちぐちに藤田がどうの、長嶋《ながしま》がどうのと品定めをしているのを聞くと、探偵小僧もおのずから、心がはずむのをおぼえずにはいられなかった。  ギャバのズボンに開きんシャツという探偵小僧の御子柴進は、両手をポケットにつっこんだまま、水道橋のうえを人波に押されるように歩いていた。  その進のズボンの右ポケットには、百円玉と十円玉あわせて十枚ばかりがジャラジャラ、ジャラついているのである。  Sさんに連れていってもらったので、入場料はただだったが、スタンドでジュースを一本のんだので、その釣銭《つりせん》がいま、ポケットの中でジャラついている。五百円の紙へいを出して、四十円のジュースを一本。その残りの四百六十円なりが、二十五日の月給日までの、進の全財産なのだ。  進は無意識のうちにポケットのなかで、四枚の百円玉と六枚の十円玉をまさぐっていた。  君たちもおぼえがあるだろう。  ポケットのなかで百円玉や十円玉をまさぐるときいつか硬貨《こうか》のふちのギザギザを、親指のつめでひっかくようにさぐっているのを……。  雑踏にもまれもまれて、水道橋をわたっていくとき、探偵小僧の御子柴進も、いつか硬貨のギザギザを、ポケットのなかでひっかいていたが、そのうちにおやと心のなかでつぶやいた。  さっきもいったとおり、進の右のポケットには、百円玉が四枚と十円玉が六枚、つごう十枚の硬貨がジャラついている。進は無意識のうちにその十枚を一枚ずつ、親指のつめでひっかいていたのだが、そのうち一枚だけ、周囲にギザギザのないのがまざっているのに気がついたのだ。  まちがって、貨幣《かへい》でない、おもちゃのようなものでも受け取ったのか……。もし、それが百円玉とまちがったのだとすると、いまの進にとっては大損害なのだ。なにしろ二十五日の月給日までは、四百六十円というのが探偵小僧にとっては全財産なのだから。  進はあわててポケットのなかから、ギザギザのない硬貨を取りだしてみた。しかし、水道橋のうえのそのへんでは、あたりがうす暗くてよくわからない。  それに進が立ちどまると、すぐに人の流れに故障が起きた。 「おい、こんなところでなにをしてるんだ。さっさと歩かないか」  うしろからうながすように声をかけられて、 「すみません」  探偵小僧がふりかえってみると、黒いサングラスをかけたあから顔の大男が、うえからジロジロ見おろしている。まるでギャングのボスみたいに、黒いジャンパーを着た男だ。  探偵小僧は手にしていた硬貨を、あわててポケットへつっこむと、うしろから押されるように歩きだした。  やがて橋をわたって水道橋駅の構内へはいっていくと、そこにも人があふれていて、どの切符《きつぷ》売場も長蛇《ちようだ》の列である。  しかし、中央線の吉祥寺《きちじようじ》に住んでいて、毎日、この電車で有楽町《ゆうらくちよう》までかよっている探偵小僧の御子柴進は、定期乗車券をもっている。だから切符売場にならぶ必要はないわけだ。  駅の構内はあかるかった。  探偵小僧の御子柴進は売店のまえへいって、ポケットから十枚の硬貨をつかみだした。百円玉は四枚あった。進はほっと胸をなでおろしながら、残りの六枚を調べてみると、みんな十円玉は十円玉だった。  ただそのなかの一枚だけが、どういうわけか周囲のギザギザがなくなっている。貨幣を鋳造《ちゆうぞう》するときにまちがってギザギザのないのができたのだろうか。  いやいや、そうではないらしい。ギザギザはたしかにあったのを、だれかがヤスリなんかでそぎ落してしまったらしいのである。  探偵小僧の御子柴進が、ふしぎそうにその十円玉のうら表を調べてみると、それは昭和二十八年製造の硬貨であった。  そして、稲穂《いなほ》のようなもように取りかこまれて、大きく10と浮きあがっている数字のうえに、SとKという字がふかぶかと彫《ほ》りこんであるのである。 「へんだなあ、だれかのいたずらかしら」  と、進がふしぎそうにつぶやいたとき、うしろからずっしりと肩をおさえたものがある。 「小僧、その十円玉がどうかしたのか」    ズボンの手  探偵小僧の御子柴進が、はっとしたようにふりかえると、そこに立っているのは、さっき水道橋のうえで、うしろから声をかけたあのサングラスの男——。まるでギャングのボスみたいなかんじの男だ。  進は、思わずそのふしぎな十円硬貨をにぎりしめると、 「いえ、べつに……」  と、うさんくさそうにあいての姿を見なおした。  さっきもいったようにあから顔の大男で、顔に大きなサングラスをかけ、首のぴったりしまったジャンパーを着て、ズボンはまっ黒なのである。  この黒ずくめの服装《ふくそう》がなんとなく、探偵小僧の御子柴進に、ギャングのボスを連想させたのだ。 「おい、なにもかくさなくてもいいじゃないか」  と、サングラスの男はにやりと笑うと、 「その十円玉が気にいらないなら、おれが取りかえてやってもいいぜ。ほら、この百円玉とどうだ」  男がつきだしたてのひらには、銀色の百円玉が光っている。  探偵小僧はあきれたように、あいての顔を見なおしていたが、やがておこったように肩をそびやかすと、すばやく十円玉をにぎった右手を、ポケットのなかにつっこんで、 「いいえ、いりません。おことわりいたします」 「なに、ことわる……?」  黒いサングラスのおくで、ギロリと光った男の目がすごかった。 「ええ、ぼく、みだりに人からほどこしをうけるのは大きらいです。ぼく、この十円玉をお守りにするつもりですから」 「おい、小僧、待て!」  サングラスの男が声をかけたとき、探偵小僧の御子柴進は、もうすでにごったがえすような雑踏のなかにまぎれこんでいた。  逃げるように改札口《かいさつぐち》からなかへはいると、大急ぎでコンクリートの階段をのぼっていった。そこにも人があふれんばかりにむらがっている、中央線下りホームへのぼっていくと、ちょうどさいわい立川《たちかわ》行きの下り電車がはいってきた。  探偵小僧の御子柴進は、サングラスの男があとを追ってきはせぬかと、階段のほうへ気をくばっていたが、幸か不幸かそれらしい姿は見当たらなかった。  あのまま、あきらめてしまったのか、それともこのプラットホームにいるのだけれど、ひとごみにまぎれて目につかないのか……?  やがて、立川行きが目のまえにとまったので、やっとそれに乗りこんだ進は、心臓がドキドキ波立って、ポケットのなかであの十円玉が、焼けつくようなかんじだった。  立すいの余地もないほどこみあう電車の窓から、進は、プラットホームをにらんでいたが、発車のベルが鳴って、ドアがぴったりしまるまで、とうとうサングラスの男は姿を見せなかった。  進は電車が動きだすのを待って、ほっと安どのためいきをもらしたが、しかしまだまだ、ゆだんはできなかった。  ひょっとするとこの大混雑にまぎれて、べつのドアから、おなじこの電車に乗っていないともかぎらないからだ。  進は、つり革にぶらさがったまま、あたりを見まわしてみるのだけれど、なにしろはちきれそうにふくれあがった満員電車のなかなのだ。あたりを見まわすというそのことさえ、やっとのことなのである。  それにしても、あの男はじょうだんにあんなことをいったのか。それともいまじぶんのポケットにある、あのみょうな十円玉に、なにかとくべつの意味でもあるのか……?  探偵小僧の考えかたは、しだいに後者にかたむいてくる。  それというのがサングラスの男を、進は、後楽園のスタンドで見かけたことを思い出したのだ。  あの男は進のすぐうしろの席にいた。  そして、七回のうら表がおわったところへ、売子がジュースを売りにきたときに、あの男がまず売子を呼びとめて、ジュースを一本買ったのだ。  そのときあの男は、十円玉を四つわたしたようである。  探偵小僧の御子柴進は、すぐそのあとでジュースをかったのだが、あいにく五百円紙へいを一枚しかもっていなかったので、四百六十円、釣銭をもらったのである。  ひょっとすると、いまじぶんのポケットにあるみょうな十円玉は、あの男が売子にはらったものだったかもしれない。  あの男はまちがってこの十円玉を売子にわたしてしまった。そして、それが釣銭としてじぶんに払《はら》われたのに気がついてあとをつけてきたのではなかろうか。  しかし、それならなぜそのように、正直にうちあけて、取りかえそうとしないのだ。  事情さえわかればすなおにかえしてあげたのに……。  満員電車のなかでゆられながら、進は、しばらくの間、そんなことを考えていたが、とつぜん、全身からさっとつめたい汗《あせ》が吹《ふ》きだしてきた。  だれかが、探偵小僧のズボンの右のポケットをさぐっている。はじめはさりげなくうえからさぐっていたが、やがてその手は、その指は、まるで昆虫《こんちゆう》の触覚《しよつかく》のように、ズボンのなかへはいこんでくる。    ふしぎな紳士《しんし》  探偵小僧ははっとして、そのほうへ手をやろうとするのだけれど、なにしろ身うごきひとつできないくらい、こみあう電車のなかだ。  かろうじてつり革にぶらさがっていた右手をはなしたものの、その手をズボンのところへもっていくのさえ容易ではない。  しかも、あいてはそれを承知のうえとみえ、そろそろとポケットのなかへ手はのびていく。  探偵小僧の御子柴進は、いそいであたりを見まわした。  かれの右には、くたびれたような顔色の、サラリーマンふうの男が、やっとつり革にぶらさがって、スポーツ紙かなんか読んでいる。  左がわには事務員ふうの若い女が、うつろな目で窓外を見まもっている。  うしろを見ると、人、人、人、人の背中ばかりである。  いま、じぶんのポケットへのびている手が、そのなかのだれのものだか、かいもく見当もつかないのである。  しかも、そうしているうちにも、不敵な手はそろそろとポケットのなかにしのびこんでくるのである。  進は、声をあげてなにか叫ぼうとしたが、そのときだった。とつぜん、だれかがくつのつま先をかるくふんだ。  しかも、そのふみかたがただごとではない。なにかの合図をするように、コツ、コツ、コツとリズムをきざんでいる。  進ははっとして、その足のぬしを見直した。そのひとはかれのまえの座席に坐《すわ》っているひとなのだが、そのひとと探偵小僧のあいだにもうひとり、背のたかいおとなが立ちはだかっているので、はっきり姿はわからない。  しかし、このむし暑い季節にもかかわらず、キチンと上衣を着た紳士ふうの人物である。  ちかごろめずらしく、中折れ帽子《ぼうし》をかぶっていて、うつむいて雑誌かなんかを読んでいるので、顔はてんで見えないのである。  そのひとは、右手で雑誌をもっているが、左手には管絃楽団《かんげんがくだん》の指揮者がもっている、指揮棒を長くしたようなステッキをもっていて、その指揮棒が、その人と探偵小僧のあいだに立ちはだかっているおとなのそばを通りこえて、探偵小僧のズボンの右ポケットへのびてきた。  と、思ったしゅんかん、 「あっ!」  と、いうような低い、鋭《するど》い悲鳴が、探偵小僧のななめうしろできこえたかと思うと、いままでポケットにつっこまれていた手が、あわてて外へひきぬかれた。  ふしぎな紳士のステッキで、したたか腕《うで》を突かれたらしいのである。  探偵小僧の御子柴進は、またいそいであたりを見まわした。  しかし、そこにいるひとたちのうちだれひとりとして、いまここでこのような小ぜりあいが演じられたとは気がつかないらしい。みんな放心したようにポカンとした顔色で、満員電車にゆられている。  進はうしろをふりかえってみたが、いま小さな叫びをあげたのがだれだったか、ハッキリ見当もつきかねた。それほど、電車のなかはこんでいるのである。  進は、また改めてまえの座席に坐っている、紳士ふうの男に目をやった。  しかし、その人はまるでなにごともなかったように、ステッキを小脇《こわき》にかかえたまま、雑誌に読みふけっている。  それからあとは、何事も起こらなかった。  いくつかの駅に停車するごとに、少しずつだが乗客のかずも少なくなって、進もやっと、じぶんのポケットに手をやることができるようなよゆうができた。  ポケットのなかに手をつっこんで、硬貨のかずをかぞえてみると、ぶじに十枚そろっていて、あのギザギザのない十円玉もぶじだった。  探偵小僧の御子柴進は、じぶんを救ってくれたふしぎな紳士に、礼をいうべきかどうかと迷ったが、あいてはあいかわらずうつむいたきり、雑誌に熱中しているらしいので、無言のままでひかえていた。  やがて電車は新宿駅《しんじゆくえき》のプラットホームにすベりこんでいった。  ここで中央線の乗客と山手線の客の乗りかえがおこなわれる。  そうとう大勢の人がどやどやと、電車からプラットホームへ出ていったが、あのふしぎな紳士もここで降りるつもりらしく、雑誌をとじて、やおら席から立ちあがった。  見るとべっ甲ぶちのめがねをかけ、口のまわりに白い口ひげとあごひげをたくわえた、大学教授といったタイプの老紳士である。  老紳士はじぶんの顔を見まもっている探偵小僧の御子柴進にむかって、やさしい微笑《びしよう》をふりむけると、 「探偵小僧、おまえはポケットになにをもっているんだ」 「えっ?」  あいてがじぶんをしっていたので、おどろいて顔を見なおすと、 「あなたはだれです」  と、思わず早口に聞きかえした。しかし、あいてはそれには答えず、 「さっき、君のポケットをねらったのはスリのなかでも、一流の男なんだ。ああいうベテランが、君みたいな少年をねらうというのはおかしい。あとをつけて、事情をきいてやる。とにかく、君は気をつけてかえりたまえ」  ふしぎな老紳士も早口に、それだけのことを進の耳にささやくと、そそくさと電車から出ていった。 「ちょっと待ってください。あなたはいったいだれなんです」  探偵小僧の御子柴進も、電車の出口まで追っていったが、そのとき乗りこんできた大勢の乗客のため、ふたりのあいだはへだてられて……。  まもなく電車が発車したとき、とつぜん進の頭の中に、さっとひらめいたものがあり、思わず両手をにぎりしめた。  あの老紳士——ひょっとすると怪盗X・Y・Zの変装《へんそう》ではなかったか……?    つれの女  電車が吉祥寺へついたとき、乗客はもうだいぶん少なくなっていた。  それでもそこで電車をおりたのは二十人くらいもいたろうか。  探偵小僧の御子柴進が、吉祥寺駅の北口から外へ出ようとすると、 「ああ、ちょっと」  と、女の声がうしろから呼びとめた。 「えっ?」  と、ふりかえった進は、あいての顔を見ると、内心ハッとしたのを、やっとのことでおさえると、 「なにかご用ですか」  と、わざとさりげなく聞いてみた。 「はあ、あの、失礼ですけれど、あなたどちらのほうへおかえりでございましょうか」 「はあ」  と、進は、わざとふしぎそうにあいての顔を見なおしながら、 「どうして、そんなことをおたずねになるんですか」  と、ぶっきらぼうにたずねてみた。 「はあ、あの、たいへん失礼なんですけれど、ちかごろ夜になっての女のひとり歩きは、とてもぶっそうでございましょう。もし、なんでしたら、途中《とちゆう》まででもごいっしょにねがえたらと思って……」 「それで、あなたはどちらのほうへ?」 「はあ、あの、それより、あなたさまはどちらのほうへ……? もし、方角がちがっていましたらあきらめますけれど……」  女はちょっと、鼻白んだようないいかただった。 「ああ、そう」  進はまた改めて女の顔を見直しながら、心のなかでせせらわらった。 「あなたは成蹊学園《せいけいがくえん》をごぞんじですか」 「はあ、それはもちろんぞんじております」 「ぼくのうち……といっても、アパートなんですが、成蹊とこの駅を結ぶ直線コースのちょうど中間にあるんです」 「あら、まあ」  と、女はうれしそうにほほえむと、 「それじゃ、ちょうどよろしゅうございましたわ。あたしのうちというのが成蹊のすぐそばなんですの。お宅のそばまででも、ごいっしょねがえません?」 「ええ、いいですとも。ぼくだってつれのあるほうがいいですから」  と、探偵小僧の御子柴進は、また心のなかでせせらわらいながら、それでもうわべだけはさりげなく答えた。 「ほんとにありがとうございます。ちかごろは夜道があぶのうございますからねえ」 「まったくぶっそうな世の中ですね。若い女の人は、ことに気をつけなければいけません」 「ほんとにそうですわねえ」  と、女は探偵小僧と、肩《かた》をならべて歩きながら、 「失礼ですが、アパートにお住まいですの」 「はあ『武蔵野荘《むさしのそう》』というアパートなんですよ。個人経営の小さなアパートなんですがね」 「それで、御両親さまとごいっしょでいらっしゃいますの」 「いや、両親はいないんです。戦災でなくなったんです。いまでは姉とふたりきりなんです」 「あら、まあ、そうお」  と、女はちらりと探偵小僧の横顔をうかがいながら、 「それで、学校は……?」 「学校なんかいけませんよ。姉が働きながら中学までは出してくれたんですけれどね」 「じゃ、どこかへお勤めですの」 「はあ、新日報《しんにつぽう》の少年社員なんです」 「あら、まあ」  と、女はちょっとがっくりしたようにまた探偵小僧の横顔へ目をやったが、 「おえらいんですのね。そのお年で働いてらっしゃるなんて……それで、いままで新聞社にいらしたんですの」  なにをいやあがる、このタヌキめ!……と、探偵小僧の御子柴進は、腹のなかでせせらわらいながら、 「いや、こんやはそうじゃないんです。こんやは後楽園です。きょうのゲーム、おもしろかったんですよ。あなたプロ野球は……?」 「はあ、あの、あたし野球のことはよくわかりませんの。プロ野球っていちども見たことございませんのよ」  ウソつけ! と、どなってやりたいのを、探偵小僧は、やっとのことでじぶんをおさえた。  進はこの女をおぼえているのである。  きょう、後楽園のスタンドのかれのすぐうしろの席に、さっきのサングラスの男とならんで観戦していたのを、はっきり記憶《きおく》しているのである。  しかし、そのときはサングラスの男のつれとは、ぜんぜん気がついていなかった。  それというのがサングラスの男の、ギャングのボスみたいないやな感じなのに反して、この女はどう見てもそうとうよい家庭の、そだちのよいお嬢《じよう》さんとしか見えない。  しかし、後楽園からこうしてじぶんを尾行《びこう》してきて、家までつきとめようとしているところを見ると、やっぱりサングラスの男の仲間なのだろうか。 「それはそうと、お嬢さん、さっき電車のなかで、おもしろいことがあったんですよ」 「おもしろいって、どんなことですの」 「スリがね。ぼくのポケットへ手をつっこんだんです。ぼくみたいな子どものポケットへね。あっはっは」 「まあ!」  と、女はびっくりしたように立ちどまると、いかにも心配そうにまゆをひそめて、 「それで、なにかとられたものはありませんでしたか?」 「いや、ところがとられるったって、いまぼくのポケットにあるのは百円玉が四枚と十円玉が六枚……、ぼくにとっては貴重な全財産なんですが、一流のスリともあろうものが、どうしてそんなものをねらったんでしょうねえ」 「さあ……」  と、女はちょっと口ごもったが、 「それで、いかがでしたの? あなたのその全財産は……?」 「いや、おかげでだいじょうぶでした。ぼくがはやく気がついたものですから。……ああ、これがぼくのアパートなんですが、なんでしたら、お宅までお送りいたしましょうか」 「いえ、あの、それには及びません。どうもありがとうございました。それじゃおやすみなさいませ」  女はちらとアパートの建物に目をやると、そのまま足早にいきすぎた。  しかし、探偵小僧の御子柴進が、玄関《げんかん》のなかから、ようすをうかがっていると、女はまたこっそりひきかえしてきてアパートの電話番号をひかえると、また駅のほうへいそぎあしで立ち去った。  進の姉は、銀座《ぎんざ》の服飾店《ふくしよくてん》へつとめているので、いつも十二時ごろでないとかえらない。  人気《ひとけ》のないアパートの一室で、机のうえに、あの奇妙《きみよう》な十円玉をおいて眺めているとき、この硬貨の背後に、いったいいかなる秘密がかくされているのかと、探偵小僧の空想ははてしなくひろがっていくのであった。    電柱のかげ  探偵小僧の姉は、美智子《みちこ》といってことし二十二歳である。  学校は中学を出たきりだが、とても頭のいい、器用なうまれで、いま銀座の服飾店、『ミネルバ』という店に勤めている。  いまの仕事はミシンを踏《ふ》むだけなのだが、ゆくゆくはデザイナーとして立ちたい気持ちを持っている。さいわい『ミネルバ』のマダムにもかわいがられていて、仕事の余暇《よか》に、フランス語の勉強もさせてもらっている。 『ミネルバ』の店をしめるのは、毎晩九時ごろのことなのだが、ミシンを踏む仕事は十時ごろまでつづけられる。それからあと一時間ほど、マダムにフランス語の勉強をしてもらったり、デザイナーとしての講習をうけたりすると、どうしても店を出るのは十一時前後になる。  それから有楽町《ゆうらくちよう》の駅へかけつけ、東京駅で乗りかえて、吉祥寺で電車をおりるのは、どうしても十二時……どうかすると、十二時を過ぎることさえめずらしくない。  さいわい、きょうだいそろって健康にめぐまれているのでよいようなものの、弱いからだでは、とうていつづかないだろう。  その夜六月十二日の夜、美智子が吉祥寺の駅の改札口から外へ出たのは、十二時十分まえだった。  さっきの女もいったように、ちかごろの女の夜道のひとり歩きは、なにかにつけてぶっそうである。  もうそのころには駅のよこの商店街も、すっかり店をしめてしまって、ただ、街燈だけがひっそりとして明るかった。  しかし、美智子の弟の進とふたりで住んでいる武蔵野荘までは、明るい道ばかりとはかぎらない。  いや、いや、駅のまえの通りを左へまがると、まもなくさびしい住宅街になってしまう。  むろん、住宅街にもところどころ街燈がついているけれど、街燈と街燈のあいだはそうとう距離《きより》があり、その中間はまっくらといってもよかった。  弟の探偵小僧の御子柴進は、駅のまえの自動電話から、電話をかけてくれれば、いつでも迎《むか》えにいくといってくれるけれど、弟もはたらいているからだである。  しかも、新聞社の仕事といえば、時間的にも不規則だし、肉体的にもそうとうの重労働なのだ。かわいそうでとても駅まで呼び出せるものではない。  吉祥寺駅から武蔵野荘まで、歩いて十二、三分。いちばん暗い難所を小走りに走りぬけて、ポストのある町かどを右へまがると、五十メートルほどむこうの左側に、武蔵野荘の門燈が見える。  武蔵野荘の隣近所《となりきんじよ》は、みんな中流の小住宅だから、この時間にはむろん、もうねしずまっている。それでも美智子はポストのある町かどをまがると、いつも、ほっとするのである。  武蔵野荘のちかくまできて二階を見ると、左から二番めのへやの窓に、あかりがあかあかとついている。  コツコツとアスファルトの舗道《ほどう》にきざむ足音をきいて、その窓のガラス戸がひらいたかと思うと、 「ねえさん……?」  と、顔を出したのは探偵小僧の御子柴進である。 「ええ、ただいま」  と、美智子がことば少なに返事をしたのは、アパートの住人の眠りをさまたげたくないからである。 「おかえりなさい」  と、進も、足音のぬしが美智子としって安心したのか、そのままそっとガラス戸をしめた。  美智子はその窓の下をとおりすぎ、門からなかへはいろうとしたが、おもわずぎょっとして立ちどまった。  五メートルほどむこうの電柱のかげに、だれやら人が立っている。  その電柱には街燈が取りつけてあるのだが、街燈の光は道へむかって放射されている。  その街燈のじょうごがたの光の外のくらやみに、だれやら人が立っているのだ。鳥打帽子《とりうちぼうし》をまぶかにかぶり、レーンコートかダスターコートのえりをふかぶかと立てている。  美智子はゾーッと全身に、鳥はだがあわ立つのをおぼえ、いっしゅん、そこに立ちすくんだ。  それを見ると電柱のかげの男は、鳥打帽子をかぶりなおして、二、三歩電柱のかげから踏みだした。  鳥打帽子のひさしの下から、へびのような両眼が、ギロリと光ってすごかった。 「…………」  美智子はなにか叫ぼうとしたが、舌《した》がうわあごへくっついたまま、のどから声も出ないのである。  ひざがしらががくがくふるえて、まるで金《かな》しばりにあったように動けない。  しかし、さいわい鳥打帽子の男は、ギロリと鋭いいちべつを、美智子のほうへくれたきり、ぐいと肩をそびやかして、スタスタとむこうのほうへ歩きだした。  美智子はほっと全身から、緊張《きんちよう》の気がほぐれていくのをおぼえ、ちょっとめまいがするようなかんじであった。  気がつくと、両手にぐっしょりと汗をにぎりしめている。  鳥打帽子の男のうしろすがたが、暗闇《くらやみ》のなかにのみこまれるのを見送って、美智子はあわてて門のなかへかけこんだ。  玄関のガラス戸には、かぎがかかっていた。ここの宿泊人《しゆくはくにん》はみなひとりずつ、玄関のかぎをもっている。  ふるえる指でかぎ穴へかぎをさしこむのに、美智子はちょっとてまどった。  やっとドアをあけてなかへとびこみ、ドアをしめてかぎをかけると、美智子はやっと安心した。  くつをげた箱へしまいこんで、階段へあがっていくとき、美智子はまだ足がふらついているのをおぼえて、手すりでやっとからだをささえた。  二階の二号室のドアを開いてはいっていくと、机のまえにすわっていた探偵小僧の御子柴進がふりかえって、 「ねえさん、どうしたんです。顔色がまっさおですよ」    にせ金づくり  美智子は、用心ぶかくドアにかぎをかけ、いそいで台所へかけこむと、コップに水をいっぱいくんできて、 「ああ、こわかったわ」  と、ぐったり、そこに横ずわりになる。と、息をもつかずにコップの水をのみほした。 「ねえさん、こわかったって、だれかへんなやつでもつけてきたんですか」 「いいえ、つけてきたんじゃないのよ。そこの電柱のかげに、へんな男の人が立っていたのよ」 「そこの電柱のかげに……?」 「ええ、すじむかいの大塚《おおつか》さんのまえに電柱が立ってるでしょう。その電柱のかげにへんな男の人が……」  すぐに探偵小僧の御子柴進は、窓をひらいて外をのぞいてみたが、もうそれらしい男のすがたは見当たらなかった。 「ねえさん、だれもいませんよ」 「ええ、すごい目をしてあたしをにらむと、大通りのほうへ歩いていったわ。そのまえに、二、三歩あたしのほうへちかよってこようとしたときのこわかったことったら……」 「ねえさん、それ、あから顔の大男じゃなかったですか。サングラスをかけた……?」 「あから顔だかどうだかわからなかったけれど、サングラスはかけてなかったようよ。それに大男というほどでもなかったわ。そうそう、鳥打帽子をまぶかにかぶって、色はわからなかったけれど、レーンコートを着ていたようよ」  それではサングラスの男とはちがっている。  しかも、さっきここまでつけてきた令嬢《れいじよう》ふうの女でもないとすると、まだそのほかにも、このふしぎな十円玉をねらっているやつがあるのだろうか。  そう考えると、進は、いまさらのように心がはずむのだ。 「ねえさん。そして、そいつはこのアパートをねらっていたんですね」 「まあ!」  と、美智子はつぶらの目を見張って、 「進さん、あたし、なんにもそんなことはいわなくってよ」 「でも……」 「でも……って、どうしたの」 「だって、そいつはぼくがこの窓から顔を出して、ねえさんに声をかけたのを見たり、聞いたりしたんでしょうねえ」 「進さん!」  美智子はきゅうに真顔になり、不安そうにひざをすすめると、 「あなたさっき、サングラスをかけたあから顔の大男が、どうのこうのといってたけど、だれかにねらわれるようなことをしているの」 「ねえさん、なんにも心配することはありませんよ」 「いいえ、それがあなたのお仕事ですから、仕方がないとは思っています。しかし、やっぱり心配せずにはいられません。あなたはまだ子どもなのですし、新日報社には、大ぜいりっぱな記者さんがいらっしゃるんでしょう。あんまり危険な事件にはちかよらないように」 「ええ、そりゃあ、ぼくもそう思うんですが、事件のほうからちかよってくるのだから仕方がありませんよ」  進は、のんきなことをいっていたが、きゅうに思い出したように、 「そうそう、ねえさん、あなたそこに十円玉をもっていませんか」 「十円玉をどうするの」 「なんでもいいから、あったらちょっとぼくに見させてください」 「そうお、十円玉、あることはあると思うんだけど」  美智子は、ポケットからさいふを取り出して、たたみのうえに硬貨をぶちまけると、 「一枚、二枚、三枚、四枚、五枚……ああ、ちょうど五十円あるわ。どうするの?」 「いいえ、ちょっと、ぼくに見せてください」  探偵小僧の御子柴進は五枚の十円玉をてのひらにのせて、一枚一枚調べていたが、 「あった! あった!」  と、思わずよろこびの声をあげた。 「あったって、なにがあったの?」 「いいえ、いいです、いいです。ねえさん、この十円玉、ぼくに貸してください。月末にはかえしますから」 「十円くらいあげてもいいけど、ほんとにどうしたというの」 「いいえ、なんでもありませんよ」  と、四枚の十円玉を姉にかえして、進が、机のうえにのこした一枚というのは、昭和二十八年発行の十円硬貨である。  探偵小僧はあらかじめ用意しておいたヤスリを使って、その十円玉のふちのギザギザをそり落としにかかった。 「まあ、進さん、あなたいったいなにをするの。たいせつなお金にいたずらをして……」 「いいんです、いいんです。ぼく、ちょっと考えがあるんです。それよりねえさん、あなたはねなさい。ぼく、あしたは正午までに出ればいいんですから……」  と、探偵小僧はわきめもふらずに一心不乱に、十円玉のギザギザを落としている。 「へんなひとねえ。あなた、ほんとに危い仕事にちかよるんじゃありませんよ」  と、美智子は立って窓のそばへちかよると、さっき進が開いたガラス戸のすきまから、そっと外をのぞいたが、 「あっ!」  と、思わず、低い、小さな叫《さけ》び声をあげた。 「ね、ねえさん、ど、どうした……?」 「電気を消して……そして、ここへきてのぞいてごらん」  進が机のうえの電気スタンドを消して、そっと窓から外をのぞくと、大塚家の垣根《かきね》のまえの電柱のそばに、男がひとり、ポケットに両手をつっこんだまま、こちらの窓をうかがっている。  それはさっき美智子をおびやかした、鳥打帽子にレーンコートの男ではなかった。  後楽園スタジアムから、探偵小僧の御子柴進を、水道橋の駅まで追ってきた、ギャングのボスみたいなサングラスの大男である。    窓外の影  午前二時。  まっくらな探偵小僧のへやの机のうえに、置時計の夜光塗料《やこうとりよう》をぬった二本の針が、深夜の二時を示している。  武蔵野荘で進と姉の美智子が、借りているへやは台所をのぞいてふた間ある。街燈に面している四じょう半が、進の勉強べや兼寝室である。そしてそのおくの六じょう間が、美智子の寝室兼茶の間になっている。  美智子も進も、それぞれのへやの寝床で、いますやすやと眠っている。  午前二時といえばぞくにいう草木も眠る丑満時《うしみつどき》。そうでなくとも都心をはなれたこの郊外《こうがい》都市は、いま、しいんと静まりかえって、ときどき遠くでイヌの遠ぼえがきこえるくらいのものである。  進は、窓の雨戸をしめ忘れたと見えて、ガラス戸と緑色のカーテン越《ご》しに、にぶい外光がさしこんでいて、あお向けに眠った進の顔面を、草の葉色にそめている。  とつぜん、窓の外でガタリとかすかな物音がした。  その物音に眠《ねむ》りの波をゆすぶられたのか、 「むうむ!」  と、かすかにつぶやいて、探偵小僧はドタリと寝床《ねどこ》のうえで寝返りをうつ。だが、それきり、またすやすやと眠ってしまったようすである。  窓の外の物音は、いちどきりでしばらくとだえていたが、しばらくしてから、またガタリと、かすかな音がしたかと思うと、こんどは連続的にミシミシと、もののうごめくけはいである。  屋上をネコでも歩いているのだろうか。  いや、いや、そうではなかった。  とつぜん窓の外に黒い影《かげ》があらわれて、なかのけはいをうかがっているようすである。  窓とは反対のほうへ顔をむけて寝ている探偵小僧の御子柴進は、かすかにいびきをかきはじめる。いかにもここちよさそうないびきである。  そのいびきをしばらく聞いていたらしい窓外の影が、やがてなにやらガサゴソやりはじめたかと思うと、とつぜん、ピシリとするどい物音が、しずかなへやのなかにひびきわたった。ガラスのわれる音である。  わかった! わかった! 怪《あや》しい影はドライバーを使って、窓ガラスの一部分をわったのだ。  そして、われたガラスのすきまから手をさしいれて、しずかにさし込みじょうをまわしはじめる。  外から光がさしこんでいるので、それらのようすがいっさい緑色のカーテンにうつるのだ。  とつぜん、進のいびきがやんだので、怪しい影は、はっとばかりに手をひっこめて、窓の外に姿勢をひくくしてうずくまる。  しかし、進は目をさましたわけではないらしく、また、かすかないびきがもれはじめた。  規則ただしいいびきの声は、しだいに高くなってくる。  窓外の影は安心したのか、またそろそろと鎌首《かまくび》をもちあげると、ガラスのわれめから手をさしこんで、さし込みじょうをまわしはじめる。  まもなくさし込みじょうは、完全にはずれた。  怪しい影はまたじっと、へやのなかのようすをうかがっているけはいだったが、やがて心をきめたのか、ガラス戸に手をかけて、そろりそろりと開きはじめる。  五センチばかり開いたところで、とつぜんガラス戸が、ガタッと大きな音を立てた。とたんに、進のいびきの声がとまったので、窓の外では、またはっと、息をひそめて身をちぢめる。  しかし、進はいま寝入りばならしく、しばらくすると、またすこやかないびきの音《ね》がもれはじめた。  それを聞いて安心したのか、窓外の影は、またそろそろと、ガラス戸を開きはじめる。  やがて半分ばかりガラス戸が開いたかと思うと、さっと一|陣《じん》の風が吹きこんできて、緑色のカーテンが、大きくあふられた。  窓外の影はあわててカーテンのすそをつかんでおさえると、片手でカチッと懐中電燈《かいちゆうでんとう》のボタンを押した。やがて懐中電燈の光の輪が、カーテンのむこうから机のうえへはってくる。  光の輪は机のうえをしずかにはいまわっていたが、やがてある一点に停止したかと思うと、カーテンのむこうで、ゴクリとつばをのむ音がした。  その光の輪のなかに散らばっているのは、洋銀色の百円玉と赤銅《しやくどう》色をした十円玉である。  百円玉は四枚あり、十円玉は六枚あって、むぞうさに散らばっている。  やがて黒い手袋《てぶくろ》をはめた手が、カーテンのむこうからのびてきたかと思うと、百円玉には目もくれず、十円玉をひとつずつ、つぎからつぎへと手にとって、懐中電燈で調べている。 「あった!」  ひくい、小さなよろこびの声が、カーテンのむこうできこえたかと思うと、黒い手袋をはめた手は、目的の硬貨をにぎったままスーッとうしろへひっこんだ。  やがて、カーテンにうつっていた影が下へ沈んだかと思うと、ドタッと路上へとびおりる音。どこかでイヌがはげしくほえはじめた。  そのとたん、まくらからむっくと頭をもちあげたのは、探偵小僧の御子柴進だ。  アスファルトの道を、ひそかに走っていく足音に、しばらく耳をかたむけていたが、やがてにったり笑うと起きあがって机のそばへやってきた。  そして、電気スタンドのあかりをつけて、机のうえの硬貨のかずを調べていたが、十円玉が一枚|紛失《ふんしつ》しているのに気がつくと、進は、またにったりとほほえんだ。 「どうしたの、進さん、まだ起きているの」  ふすまのむこうから姉の美智子が、眠そうな声でとがめるようにいう。 「ええ、ねえさん、あんまり暑いもんだから、ちょっと風を入れていたんです」 「だめよ。はやくねなきゃ……」 「ええ、いまねるところです」 「さっき、なにか音がしやあしなかった?」 「ぼくがガラス戸をあけたんです」 「そうお。そんならいいけど……」  進は改めて雨戸をしめると窓ガラスをしめ、電気スタンドのあかりを消して、寝床のなかへもぐりこんだ。  そして、こんどは朝までなんにもしらずに、ぐっすり眠りこんだのである。    二階十五号室 「ああ、もしもし、はあ、こちら御子柴進ですが……ええ? ゆうべのお嬢さん……? はあ、はあ、吉祥寺からぼくのアパートまでごいっしょでした……?」  受話器をにぎった、探偵小僧の指先に、ぎゅっとばかりに力がこもる。  六月十三日午後八時。正午出勤の探偵小僧の御子柴進は、そろそろ退社時間がちかづいてきたので、編集部のすみにあるデスクのうえを、整理しかけているところへ、電話のベルが鳴ったのである。 「ええ? 後楽園? はあ、はあ、ぼく、ゆうべ後楽園へいきましたよ。はあ、はあ、そういえばジュースを一本のみました。だけどお嬢さんはどうしてそんなことご存じなんですか。あなたプロ野球はきらいだとおっしゃってましたが……」  と、進は意地悪そうに、送話器のこちらでにやにや笑っている。 「はあ、はあ、いや失礼いたしました。ええ、そういえば、ぼく、五百円札一枚しかもってなかったので、四百六十円ツリをもらいましたよ。それがなにか……? ええ、それはそのままそっくり持ってます。これが目下のぼくの全財産なんですから。……いいえ、ゆうべからぼく一円だって使いやあしません。はあ、はあ、そのツリ銭がどうかしたんですか。  ええ? 麻布《あざぶ》のクイーン・ホテル……? そこへそのツリ銭をそっくりもっていけばお礼を下さる……? はあ、はあ、それ、ほんとうですか。えっ? 一万円……? 四百六十円とひきかえに、一万円くださるとおっしゃるんですか。いったい、それ、どういう……? ええ? 不服なら二万円……? な、なんですって? ご、五万円でもいいんですって。お嬢さん、お嬢さん、ちょ、ちょっと待ってください」  と、進は、送話器に手をあてがうと、あわててあたりを見まわした。  さいわいガランとした編集室には、そのときだれもいなかった。 「ああ、もしもし、お嬢さん、だ、大丈夫《だいじようぶ》です。いまここにはだれもいません。はあ、はあ、ああ、そうですか。それじゃ、ともかくそちらへいってお話をうかがいましょう。ええ、そりゃ……だって、いまもいったじゃありませんか。これがぼくの全財産だって。  ええ? ええ、ええ、じゃ、こうしましょう。ここから車を呼んで、車代は社で払《はら》ってもらうことにしますから……、そうしたらぼくの全財産にはぜったいに手がつきません。はあ、はあ、ちょっと待ってください。いま、メモをとりますから……」  と、卓上《たくじよう》にあるメモとえんぴつをとりあげて、 「さあ、どうぞ。麻布のクイーン・ホテル……二階十五号室……新宮《にいみや》タマ子さま……麻布のクイーン・ホテル、二階十五号室の新宮タマ子さまとたずねていけばよろしいんですね。承知しました。ええ、そりゃだれにもいいません。じゃあ、いずれのちほど……」  ガチャンと音をたてて受話器をおいた探偵小僧の御子柴進は、べっとりとひたいににじんだ汗をぬぐいながら、それでも、こうふんに目を光らせている。  こいつは、いよいよおもしろくなってきたぞ、と、いわんばかりの目つきである。  電話で自動車をよんでもらって、進が、編集室を出ようとするところへ、外からかえってきたのは新日報社の敏腕《びんわん》記者、探偵小僧にとっては大先輩《だいせんぱい》の三津木俊助《みつぎしゆんすけ》。 「おや、探偵小僧、どこへいくんだい。いやにこうふんしてるじゃないか」 「あっ、三津木さん」  進は立ちどまって、なにかいおうとしたけれど、すぐまた思い直したように、 「ぼく、こんやはいそぎますから……三津木さんは何時ごろまでここに……?」 「九時ごろまでいる。どうかしたの?」 「ああ、そう、それじゃ、それまでに電話をかけてくるかもしれません。でも、九時までに電話をかけてこなかったら、なにごともなかったと思ってください。さよなら」  探偵小僧の御子柴進は、だっとのごとく二階の階段をおりていったが、それから三十分ののち、麻布のクイーン・ホテル、二階十五号室のまえで、かれはしきりにドアをノックしていた。 「新宮さん、新宮さん、ぼくです。新日報社の御子柴です。……新宮さん、新宮さん」  五分あまりもノックをつづけているのに、なかから、うんともすんとも返事はない。 「変だなあ、どうしたんだろう」  つぶやきながらドアをにぎって、ノブをひねると、ドアはなんなくうちへ開いた。 「新宮さん、新宮さん、おるすですか」  と、いいながら、あかあかと電気のついたへやのなかを見まわしていた探偵小僧の御子柴進は、とつぜん、ぎょっとして息をうちへ吸いこんだ。  へやの一|隅《ぐう》にあるソファのむこうからくつをはいたズボンの足が二本、にょっきりのぞいている。  だれかがソファのむこうに倒《たお》れているのだ。  しかも、ソファの下からヌラヌラと、こちらへ流れ出してくる黒いシミは……?  ああ、それは血ではないか。  探偵小僧が思わず、シーンと立ちすくんでいるとき、だれかがうしろから力強く肩をつかんだ。    十円玉をにぎった死体  探偵小僧の御子柴進《みこしばすすむ》少年は、五万円という金に目がくらんで、わざわざここまできたわけではない。あのギザギザのない十円玉に、なにか深い秘密があるにちがいないと、それを調査にやってきたのだ。  しかし、たかが十円玉のことである。まさかひとの命にかかわるような、重大事件がおころうとは、ゆめにも思っていなかったのだが……。  しかし、あれ見よ。ソファのうしろからにょっきり突きだしている二本の足……しかも、ソファの下からヌラヌラと、こちらへ流れ出してくるシミはたしかに赤黒い血ではないか。  いっしゅんシーンと、からだがしびれたように立ちすくんでいた、進は、だしぬけにうしろから肩《かた》をだかれて、ギョッとしたようにふりかえった。 「あっ、三津木《みつぎ》さん」  そこに立っているのが三津木|俊助《しゆんすけ》だと気がつくと、探偵小僧の御子柴進少年は、耳のつけねまでまっかになった。  まるでいたずらを見つかった、いたずら小僧みたいに、まっかになってもじもじした。 「探偵小僧、どうしたんだ。さっき君のようすがおかしかったし、それにへんなメモがデスクのうえにのこっていたので心配してここまでやってきたのだ」 「メモ……?」  と、探偵小僧はふしぎそうにまゆをひそめて、 「でも、ぼく、メモした紙はひきちぎって、ここに持ってきましたが……」 「はっはっは、探偵小僧、えんぴつでメモをとるときには、もっとかるく書くもんだ。おまえみたいに力をいれて書くと下の紙にあとがのこるぜ。あっ!」  そのときはじめて三津木俊助は、ソファのうしろからのぞいている、二本の足に気がついた。  つかつかとそばへよってソファのうしろに目をやると、さっと探偵小僧をふりかえった。 「探偵小僧、君はこの男を知っているのか」  探偵小僧の御子柴進も、そっとそばへよってみたが、それはぜんぜん見おぼえのない男であった。  としは三十前後であろうか。G・Iがりにはでなアロハを着ていて、ちょっと暴力団員風の男である。 「いいえ、ぼく、知りません。こんなひと……」  と、いいかけたが、とちゅうではっとしたように、息を中へ吸いこんだ。  その男の頭のほうに、くるくるまるめたレーンコートと、鳥打帽子《とりうちぼうし》が投げだしてある。  ひょっとすると、ゆうべ姉の美智子《みちこ》が見たという、電柱のかげの男ではあるまいか。  三津木俊助は、できるだけ現場をみださぬように気をつけながら、鋭い目つきであたりを見まわしながら、 「見たまえ、探偵小僧。このソファの背にぐっしょりと血がついている。しかも仰向《あおむ》けに寝かされた男の下から、血が流れだしているところを見ると、この男はソファにすわっているところを、うしろからうたれたか、刺《さ》されたか。拳銃《けんじゆう》だと音がするから、おそらく鋭《するど》い刃物《はもの》で刺されたのだろう、そして、そのあとでこのソファのうしろへひきずりこまれたにちがいない。それにしても……」  と、三津木俊助はもういちど、死体のうえにかがみこんだが、 「探偵小僧、ちょっと見たまえ。この男なんだか妙なものをにぎっているじゃないか」 「はあ、なんですか」 「あれ、硬貨《こうか》じゃないか。十円玉とちがうかな」 「えっ? 十円玉……?」  探偵小僧の御子柴進は思わず息をはずませた。  なるほどかたくにぎりしめた男の指のあいだから、かすかにのぞいているのはたしかに十円玉である。 「あっ、あれはぼくの作った……」 「えっ、なんだと?」  と、三津木俊助は鋭いまなざしで探偵小僧をふりかえると、 「ぼくの作った……? ぼくが作ったというのはどういうんだ。おまえは、十円玉を作るのかい。おまえ、にせ金作りかい」  探偵小僧の御子柴進少年が、答えるのにちょっとまごついていると、 「あっはっは、いいよ、いいよ。いまに泥《どろ》をはかせてやる。だけど、探偵小僧」 「はい」 「これはいったいだれのへやなんだい。メモのえんぴつのあとでは、タマ子とだけしか読めなかったが……」 「新宮《にいみや》タマ子というひとです。階下のフロントでも新宮タマ子さんときいたら、二階の十五号室だといったんです。うそではありません」 「その新宮タマ子さんというのは、どういうひとなんだ」 「それがぼくにもわからないんです。ほんとです。ぼくにもさっぱりわけがわからないんです」 「ふうむ」  三津木俊助は、わざと意地悪そうな目で、ジロジロと探偵小僧の顔を見ていたが、 「だけど、その新宮タマ子さんというご婦人は、いったいどこにいらっしゃるんだ」 「それはぼくにもわかりません。いくら呼んでも返事がないので、たまりかねてドアをひらくと、この足がソファのかげからのぞいているのが……あっ……」 「ど、どうしたんだ! 探偵小僧、なにがあったんだ!」  だが、探偵小僧はそれにはこたえず、一心ふらんにひとみをこらして、まっかなじゅうたんのうえを見つめている。 「おい、探偵小僧……いったい、ど、ど……」  と、いいかけて三津木俊助もハッとしたように思わず、息をうちへ吸いこんだ。  赤いじゅうたんが保護色になって、いままで三津木俊助も探偵小僧も気がつかなかったのだけれど、血だまりのうえをふんだのち、じゅうたんのうえを歩いたようなスリッパのあとが、点々として血をちらしながら、おくのドアのところまでつづいている。  三津木俊助はその血のあとをふまぬように、隣室《りんしつ》のさかいまでいくと、ハンケチを出してかるくドアのノブをくるんだ。指紋《しもん》を消さぬ用心である。  そして、ハンケチのうえからノブをにぎると、用心ぶかくドアをひらいたが、そのとたん、三津木俊助と進は、思わずギョッと目をみはった。  そこはベッド・ルームになっているのだが、ベッドの下のゆかのうえに、女がひとり倒れている。  しかも、その女は右手に、血にそまった鋭い刃物をもっているではないか。  しかも、その女こそゆうべ後楽園《こうらくえん》から吉祥寺《きちじようじ》まで、探偵小僧の御子柴進を尾行《びこう》してきた女……そして、さっき新宮タマ子の名前を名乗って、進をここまで呼びよせた女なのである。    注射のあと 「探偵小僧、君はこの女を知っているんだな」  三津木俊助は、ゆかのうえにひざまずいて、女のからだを調べながら、例によってわざと意地悪そうな目つきでジロジロと探偵小僧の顔を見ている。 「はあ、いちど会ったことはあります。しかし、どこのどういうひとだか知りません」 「だけど、いま新宮タマ子といったじゃないか」 「でも、それはほんとうの名前じゃないかもしれません。しかし、三津木さん、このひと大丈夫《だいじようぶ》なんでしょう。死んでるんじゃないでしょう」 「そりゃ、大丈夫だ。心臓もしっかり脈打っている。しかし、おかしいな。気をうしなっているにしちゃ……」  三津木俊助は女のまぶたをひらいてみて、 「ああ、わかった。おそろしく瞳孔《どうこう》がひらいているところをみると、眠《ねむ》り薬をのまされたか、注射されたかしたんだろう。探偵小僧、どこかに注射のあとがないか調べてみろ」  あいてがわかい女のひとだけに、三津木俊助にはえんりょがあった。  そこへいくと探偵小僧の御子柴進少年は、まだ子どもだからかまわない。  進は、女のひとの左腕《ひだりうで》をしらべてみて、 「ああ、三津木さん、あなたのおっしゃるとおりです。ここに注射のあとがあります」 「ああ、そう。じゃ、すぐそこをかくしたまえ」  探偵小僧がそのひとの左の腕をかくすのを待って、三津木俊助はそむけた顔をこちらへむけると、 「探偵小僧、これはどうしたもんだろうな。すぐに警察へとどけるべきか、それともこのひとが目をさますのを待って、話をきいてからにしようか」  すぐに警察へとどけてしまうと、ほかの新聞社へ知れてしまう。  それでは新日報社《しんにつぽうしや》のとくだねにならないのだ。  それかといって、警察へのとどけいでがおくれたばかりに、犯人をとりにがして、迷宮入りをするばあいもあり、それでは市民としての義務にそむくわけである。 「三津木さん、それじゃこうしたらどうでしょう。ホテルのほうへはまだ知らさずに、等々力《とどろき》警部さんに、こっそり、ここへきていただいたら……そしたら、ほかの新聞社にも知れずにすむのではありませんか?」 「ああ、そうだ。それがいい。そして、警部がくるまでに君の話を聞かせてもらおう」 「承知しました。三津木さん、警部さんにいって、医者をこちらへよこしてもらったら……」 「おっと、よし、よし」  さいわい、このホテルはへやごとに室内電話がそなえつけてある。  それを外線につないでもらって、警視庁をよびだすと、いいあんばいに等々力警部がいあわせた。  こうして手配をおわったあとで、三津木俊助は、きっ、と探偵小僧のほうへむきなおって、 「さあ、聞こう。いったい君はどんな事件にまきこまれているんだ」 「はあ、それじゃ、三津木さん、聞いてください。ぼくもまるで、きつねにつままれたような気持ちなんです」  と、昨夜からのいきさつを、あますところなく語ってきかせると、三津木俊助もあきれたように目を見張って、 「そうすると、探偵小僧、はからずも後楽園で手にいれたギザギザのない十円玉を、いろんな人間がねらっているというんだな」 「そうです、そうです。さいしょがサングラスの男です。つぎが国電のなかでポケットへ手をつっこんだスリ。ぼくには顔も見えませんでしたが、怪盗《かいとう》X・Y・Z……らしい人物は、そのスリを知っているらしいんです」 「ふむ、ふむ。それからこの女が後楽園から、君のアパートまでつけてきたというんだな」 「そうです、そうです。それでぼくの名前や勤めさきを知って、さっき電話をかけてきたにちがいありません」 「それから、もうひとり君のねえさんがあったという、鳥打帽子にレーンコートの男……それがあそこに殺されている男じゃないかというんだな」 「そうじゃないかと思うんです。姉はきっとおぼえておりましょう。なんならあとで警部さんと相談して、ねえさんにここへきてもらってもいいんですけれど……」 「ふむ、それはそういうことになるかもしれない。すると、あの男のにぎっている十円玉は……?」 「きっと、ゆうべぼくの作ったにせものにちがいありません。すると、ゆうべの泥《どろ》ぼうは、きっとあの男だったにちがいない」 「探偵小僧!!」  三津木俊助はまるでおりのなかのとらかライオンみたいに、へやのなかを歩きまわりながら、 「いったい、ギザギザのない十円玉に、どのようなねうちがあるというんだい。なんにんもの人間が、ねらっているうえに、こうして人殺しまで起こるというのは……?」 「それはぼくにもわかりません。でも、よほど重大な秘密とねうちがあるにちがいありません」 「ふむ、それはそうだろう。で、君、その十円玉はいまここにもってるのかい」 「いいえ、さっき山崎《やまざき》さんにお願いして社の金庫へ保管してもらいました」 「おお、それはよいところへ気がついたが、それにしてもこの事件に怪盗X・Y・Zが関係しているとしたら……」  三津木俊助がつぶやいたとき、ドアをノックする音がきこえた。  等々力警部が医者をつれてやってきたのだ。    『ミネルバ』の客  医者の検死によるとソファの背後に倒れていた男は、さっき三津木俊助もいったとおり、うしろから鋭い刃物でえぐられていて、その傷は左肺部から心臓までたっしているから、おそらくたったひと突きで、ほとんど声も立てずにこと切れたろうということである。  しかも、その傷口は新宮タマ子がにぎっていた刃物と、ぴったり一致するという。 「そうすると、警部さん」  と、進は、ベッドのうえでこんこんと眠っている、女のほうを心配そうに見やりながら、 「やっぱり、あのひとが犯人だという見こみですか」 「さあ、そいつはちょっと疑問だな。ひとを殺しておいてから、その刃物を手ににぎったまま、睡眠剤《すいみんざい》を注射してねむってしまうというのはどうかな」 「そうです、そうです。警部さん」  と、進も警部の言葉に力をえたのか、 「このひとはなんにも知らないんです。だれかに眠り薬の注射をされて、なにも知らずに眠ってしまった。そのあとであの事件が起こったんです。犯人はあの女のひとに罪をきせるつもりで、女のひとのスリッパをはき、わざと血のあとをふんでおいたあとで、そのスリッパを女のひとにはかせると同時に、血染めのナイフを、その手ににぎらせておいたにちがいありません」 「探偵小僧」  と、三津木俊助はあいかわらず、わざと意地悪そうにニヤニヤわらいをしながら、 「君、いやにその女のひいきをするじゃないか」 「ぼく、べつに、このひとのひいきをするわけじゃありませんけれど……」  進はちょっと顔をあからめた。  こういう事件のさい、先入観をもつということは、いけないことだとは知っていながら、ゆうべ吉祥寺の駅から、武蔵野荘《むさしのそう》まで十二、三分、いっしょに歩きながら話をした印象では、けっして悪いひととは思えなかった。  育ちもしつけもよいお嬢《じよう》さんとしか思えなかった。だからつい、かばう気になるのである。 「なあ、探偵小僧、ひとは見かけによらぬものということがあるぜ。このお嬢さんがそうだというわけじゃないけどさ。ひょっとするとこのお嬢さん、いま君がいったように思ってもらおうと、あの男を殺したあとで、わざとじぶんで注射をしたのかもしれないぜ」 「そんな……そんな……」  と、探偵小僧はやっきとなって、 「それじゃ、注射針はどこにあるんです。注射液のはいっていたガラスの容器はどうしたんです」 「だから、共犯者がいたのさ」 「共犯者とはだれです」 「サングラスの男さ」 「そんな……そんな……」 「そんなとはどんなさ。君、探偵小僧くん、君はさっきこの女とサングラスの男が仲よくならんで、野球を見ていたといったじゃないか」 「仲よくなんていいませんよ。ただ、ならんですわっていたといっただけなんです。あとから考えると、ふたりはけっして仲よしじゃなかったんです。  むしろ、その反対のかたき同士みたいだったんです。このひとは悪いひとじゃありません。悪いのはサングラスの男です」  探偵小僧の御子柴進が、おもわず、声をつよめたとき、 「ああ、君、君」  女のひとの介抱《かいほう》をしていた医者がふりかえって、 「ちょっと、静かにしてくれたまえ。いま、このひと、目がさめかけているんだ」  その一言に、三津木俊助と探偵小僧の討論も、いっぺんに吹きとんでしまったかたちである。  見ると、ベッドのうえの、新宮タマ子(?)は大きく呼吸をはずませている。そして、なにかに抵抗《ていこう》するかのようにしきりに、からだをくねくねさせていたが、やがて、あえぐような息使いをすると、きれぎれな言葉で次のようなことをつぶやいた。 「ああ……いや、いや、注射はいや! 眠るのはいや! あたし、いま、だいじなひとを待っている……かんにんして……注射はかんにんして……X・Y・Zさん!」  さいごのことばをきいたとたん、等々力警部と三津木俊助、探偵小僧の三人はおもわず、ギョッと顔を見合わせた。  それでは、この女を注射でねむらせたのは、ほかならぬ怪盗X・Y・Zであったのか……。  ちょうどそのころ、銀座《ぎんざ》にある服飾店《ふくしよくてん》『ミネルバ』の店先へはいってきた人物がある。  頭も口ひげもあごひげも、雪のようにきれいな老紳士《ろうしんし》で、小わきに管絃楽団《かんげんがくだん》の指揮者がもつ指揮棒のような、イキなステッキをかかえている。 「いらっしゃいまし、なににいたしましょうか」 「ああ、じつは、あすが孫娘《まごむすめ》の誕生日《たんじようび》でな。お祝いになにかアクセサリーでも贈《おく》ってやろうと思うのだが、どんなものがよいだろうかな」 「おとしはおいくつでいらっしゃいますか」 「あすがたしか、十五回目の誕生日じゃったと思うが……」 「ああ、そう、それでは……」  と、店員が応待をしているところへ、表の車道に、車が一台やってきてとまった。  見ると車のせんとうには、�新日報社�の社旗がひるがえっている。  車のなかから若い男がとびだしてきて、あわただしく『ミネルバ』の店へはいってくると、 「ちょっとおたずねします。こちらに、御子柴|美智子《みちこ》さんというひとがおりますか?」  御子柴美智子という名前をきいて、老紳士ははっとしたようだったが、それでもさりげなく、アクセサリーを撰択《せんたく》している。 「はあ、御子柴美智子ならこの店におりますが」 「ああ、それじゃすぐにここへくるようにいってください。いま弟の御子柴進くんが大けがをして、病院へかつぎこまれたんです。はやく、はやく……ああ、そうそう、いい忘れたが、ぼく、新日報社のもので、ほら、ああして、社の車で美智子さんを迎えにきたんです。はやく、はやく……」  みずから新聞記者と名乗る若い男が、はやくはやくと、せきたてるのを聞きながら、老紳士はニヤリとしぶい微笑《びしよう》をうかべた。    交換条件《こうかんじようけん》 「あら、御子柴さん、お電話ですよ」  麻布《あざぶ》のクイーン・ホテルで、新宮タマ子なる女性が目をさましてから二時間ののち、あとはいっさい等々力警部や三津木俊助にまかせて、探偵小僧の御子柴進が、吉祥寺の武蔵野荘へかえってくると、玄関《げんかん》わきの電話口で、電話をきいていた管理人の山口《やまぐち》さんの奥さんが、受話器を耳にあてたままふりかえった。 「電話……? どこから……?」 「いいえ、それがねえ」  と、山口さんの奥さんは、送話器を片手でおさえて声を落とすと、 「さっきからこれで三度めなんです。けれど、いくら聞いても名前をいいませんの。そして、変なことをいってるのよ」 「変なことって?」 「ギザギザのない十円玉がどうのこうのって……」  はっと思った探偵小僧の御子柴進はあわててくつをぬいで上へあがると、 「奥さん、すみません。それじゃぼくが出ます」  山口さんの奥さんから、ひったくるように受話器を受け取ると、 「もしもし、もしもし、こちら御子柴ですけれど、あなた、どなた……?」  と送話器にしがみつかんばかりである。 「ああ、探偵小僧か、いやにおそかったじゃないか。おまえいままでどこにいたんだ」  声を聞いて進はまたはっとした。  その声はたしかにゆうべ水道橋《すいどうばし》で話しかけてきた、あのサングラスの男の声である。ドスのきいたさびのある声に特色がある。 「どこでもいいです。それよりぼくになにか用でもあるんですか」 「そうとも、用があるとも、おおありだ。おまえ、ギザギザのない十円玉をどうした」 「それはいえません。ぜったい安全な所に保管を依頼《いらい》してあります」 「ぜったい安全な所か、あっはっは」  と、あいてはふとい声であざけるようにわらうと、 「ところがよ、探偵小僧、おれにゃ、ぜったい安全なところにあるその十円玉がぜったい必要というわけだ。だからあした、ぜったい安全なその場所から、十円玉を受け出してきて、おれのいうところへもってきてもらいたいのだ。だけど、にせものはまっぴらだぜ」  進は、またはっとした。  この男は、じぶんがにせものを作ったことを知っている。ということは、さっきクイーン・ホテルで殺された鳥打帽の男がにぎっていたのが、にせものだということを知っているのではないか。さらにそれから推理をすすめていけば、この電話のぬしこそ、あの男を殺した犯人なのではないか。  進がだまっているので、あいてもじぶんの失言に気がついたのか、少しあわてた早口で、 「おい、おい、探偵小僧、きさま、なんだってだまっているんだ」 「おじさん、あなただれだか知らないが、少し虫がよすぎると思いませんか。それともなにか交換条件《こうかんじようけん》があるんですか」 「あるとも、あるとも、おおありさ」 「どんな交換条件です」 「きさまの姉の美智子さ」 「ええっ!」 「あっはっは、おどろいた、おどろいた、おどろいた。どうだ、探偵小僧、これ以上の交換条件はあるまいが」 「悪党! 悪党! きさま、ねえさんをどうしたんだ」 「なにさ、おれの部下のわかいもんが、新日報社の記者の名まえをかたって、おまえのねえさんを『ミネルバ』からひっぱりだしたんだ。御子柴進くんが大けがをしたといつわってな」 「悪党! 悪党! そして、そのねえさんはどこにいるんだ」 「いま、おれのそばにころがっているよ。さるぐつわをはめられて、がんじがらめにしばられてな。わっはっは!」 「そして……、そして、そこはいったいどこなんだ」 「それを聞いてどうするんだ。警察のやつらにふみこませようというのかい。その手は�桑名《くわな》のやきはまぐり�ということばを知っているかな」  進は歯ぎしりをした。くやしさと心配のために思わず涙《なみだ》がにじみ出た。 「おじさん、どうすればいいんです」 「あっはっは、いやに神妙《しんみよう》になったな。よしよし、その調子、その調子。子どもがおとなの問題に、頭をつっこむもんじゃないよ」 「そんなことはどうでもいいです。それよりどうすればいいんです」 「よし、よし、それじゃおれの命令にしたがうんだぞ。まず、おまえは例の十円玉を、ぜったい安全な場所からとりだしてきて、あしたの午前十時きっかりに、上野の西郷《さいごう》さんの銅像のそばへもってくる。西郷さんの銅像の正面のすぐ下に、おれが目立たないように小さなあなを掘《ほ》っておく。あなの底には目じるしに赤い羽根を落としておく。そのあなのなかへ問題の十円玉をおいていくんだ。かっきりあしたの午前十時だぞ。いいか、わかったか」 「そして、そして、ねえさんはどうしてくれるんです」 「その十円玉がおれの手にはいって、しかもにせものでないとわかったら、ねえさんをぶじにかえしてやる。しかし、ちょっとでも変なまねをしたら……警察や新聞社の連中に話したりしたら、ねえさんの命はないものと思え」  探偵小僧の御子柴進は、さっきクイーン・ホテルで見た男の死体を思い出して、ゾッと、鳥はだの立つのをおぼえずにはいられなかった。 「わかりました。きっと命令どおりにします。そのかわりねえさんはぶじに返してください」 「だいじょうぶ、だいじょうぶ。そちらが約束《やくそく》を守りさえすれば、美智子は安全だと思いな。それじゃ、これで電話を切るぜ。わっはっは!」  さいごのわっはっはという笑い声が、いたいほど耳のこまくをつらぬいて、探偵小僧は、おもわずつよく歯をくいしばった。    X・Y・Z出現 「いいえ、あたしは、なんにも知りません。はい、なんとも申し上げるわけにはまいりません」  新宮タマ子はゆうべから、おなじことばをなんべんくり返したかわからない。  そこは麻布のクイーン・ホテルの二階十五号室。等々力警部や三津木俊助に、かわるがわる質問されても、新宮タマ子はおなじことばを、おうむのようにくり返すばかりである。  等々力警部と三津木俊助も、もううんざりとした顔色だ。ふたりはゆうべあれから、交代でねたとはいうものの、寝不足《ねぶそく》の目をギラギラさせて、すっかり落ち着きをうしなっている。  ふたりが、いらいらするのもむりはない。  新宮タマ子と名のるこの女、それが本名《ほんみよう》なのかどうか、それすらもまだわからないのである。 「しかし、きみは……」  と、等々力警部はまるでかみつきそうな顔色で、 「目がさめるとき、X・Y・Zさん……という名前を口走ったよ。注射はいやだ、注射はかんにんしてほしい、X・Y・Zさん……と、いうようなことばを口走ったよ。とすると、きみを注射で眠らせたのは怪盗X・Y・Zではなかったのか」 「いいえ、いいえ、知りません。怪盗X・Y・Zなんて知りません。ああ、あたしはこのまま死んでしまいたい」 「死んでしまいたい……?」  等々力警部はギョッとしたように、三津木俊助と顔を見合わせると、 「きみはいったい、なにをわれわれにかくしているんだ。死んでしまいたいなどというところをみると、となりのへやで死んでいる男は、やっぱりきみが殺したのか」 「と、とんでもございません。あたし人殺しなどいたしません。あたしはただあの十円玉が……」  と、いいかけて、新宮タマ子と名のる女は、思わずはっとしたように、呼吸をうちへのみこんだ。 「十円玉……?」  と、三津木俊助がききとがめて、 「十円玉がどうしたんです。きみがいま十円玉といったのは、となりのへやで殺されている男がにぎっている、あのギザギザのない十円玉のことなのか。新宮さん、あなたに罪がないのなら、なぜもっとハッキリいわないんだ」 「ああ、もう、あたし死んでしまいたい。おとうさま、おとうさま……?」 「なに? おとうさま……」  等々力警部と三津木俊助は、はっとしたように顔を見合わせた。 「おとうさんがどうかしたのかね。おとうさんとこの事件と、いったいどういう関係があるというんだね」  だが、ふたりがいくら責め問うても、新宮タマ子と名のる女は、ただ、おとうさま、おとうさまを連呼して、はげしく泣きむせぶばかりである。  等々力警部と三津木俊助は、もてあましたように顔を見合わせていたが、ちょうどそのとき、ドアをノックする音がきこえた。  ふたりはちょっと困ったように顔をしかめた。  それというのがこの事件、まだホテルにもしらせてないのだ。したがって、そこにある死体を見られては困るのである。  三津木俊助はすばやくドアのそばへとんでいくと、そっと細めにドアをひらいた。  見ると、そこに立っているのは四十くらいのボーイである。ピーンといきな八字ひげをはねあげている。 「なにか用かい」 「いえ、あの、いまこちらのおへやから呼びりんが鳴ったようですが……」  と、そういってからボーイはふしぎそうな顔色で、三津木俊助の顔をジロジロ見ながら、 「このおへやは、新宮タマ子さまのおへやだと思っておりましたが……」 「ええ、新宮タマ子ならここにおりますよ」  新宮タマ子もこの事件を知られたくないとみえて、とっさにうまくバツをあわせた。 「はあ、なにかご用で……?」  と、ボーイがなかへはいってきそうにするのを、三津木俊助はあわてて外へ押《お》しかえした。 「いいえ、はいってこなくてもいいのよ。いま、ふたりお客さまがいらっしゃいますの。さっきベルを押したのは、朝のお食事がほしかったからなの。トーストと半熟たまごと、あついコーヒー、それからくだものを、三人まえもってきてちょうだい」 「はっ、承知しました」  タマ子がうまくバツをあわせてくれたので、ボーイはべつにあやしみもせず、そのままドアのまえから立ち去った。  そういえばもう朝の八時である。警部も三津木俊助も、きゅうに空腹をおぼえてきた。  それから七分ほどたって、さっきのボーイが大きな銀ぼんをかかえてやってきた。  三津木俊助と等々力警部はそのあいだに、ソファをそっと動かして、死体を見えないように取りつくろった。  ボーイはなにも気がつかないのか、テーブルのうえに三人前の食事をならべると、 「コーヒーにミルクをお入れしましょうか」 「ああ、入れてくれたまえ」  と、等々力警部と三津木俊助が異口同音に答えた。 「お嬢《じよう》さんは……?」 「いいえ、あたしはなんにもほしくないの」 「それでは、ここへミルクをおいときますから」  ボーイはそのままへやを立ち去った。そのあとで、三津木俊助はトーストをパクつきながら、等々力警部をふりかえって、 「このコーヒー、いやににがいじゃないか」 「なあに、にがいところがコーヒーのねうちさ。新宮くん、きみはどうして食事に手をつけないの」 「あたし、けさは食よくがなくて……」 「そりゃ、いけないね。人間だれでも秘密をもっていると、食うものも食えなくなる。なにもかも打ちあけて、うんと食事をとるんだね。おや、どうしたんだ。なんだか急に……」  等々力警部と三津木俊助はすっかり食事をたいらげたが、ああ、なんということだ。  急にコックリ、コックリ、舟《ふね》をこぎはじめたかと思うと、まもなくふたりともいすからずり落ちんばかりのかっこうで、ぐっすり眠りこんでしまったではないか。 「あら……」  新宮タマ子はおどろいて、思わずいすから立ちあがったが、そのときドアがしずかにひらいたかと思うと、ヌーッと顔を出したのは、八字ひげをピーンとはねあげた、さっきのボーイである。  新宮タマ子はあきれたように、にやりにやりとわらっている、そのボーイの顔を見ていたが、急にギョッと身をすくめると、 「ああ! あなたはゆうべの怪盗X・Y・Z!」    くるった老人 「おや!」  と、探偵小僧の御子柴進少年は、クイーン・ホテルの入口で、思わずはっと立ちどまった。  いま目のまえを通りすぎて、ホテルから外へ走り去った乗用車に乗っていたのは、新宮タマ子ではなかったか。  しかし、新宮タマ子なら、三津木俊助や等々力警部といっしょにいるはずなのだ。ひとりでかってに外出できるはずはない。  進は、ふっと怪《あや》しい胸《むな》さわぎをおぼえた。とっさにポケットから手帳を出すと、走り去る乗用車のナンバーを、すらすらとえんぴつで走り書きをした。  それから、ホテルへはいっていくと、フロントにいる事務員にむかって、 「新宮タマ子さんはいらっしゃいますか?」 「新宮タマ子さんなら、たったいまお立ちになりました」 「ええ、お立ちになった……?」 「はあ、お知り合いのかたが自動車でお迎《むか》えにこられて、ぜんぶ精算してお立ちになりました」  しまった! しまった! それじゃ、やっぱりいまの乗用車がそうなのだ。しかし、三津木俊助や等々力警部はどうしたのか……? 「ああ、ちょっと、ちょっと……」  と、探偵小僧の御子柴進はせきこんで、 「新宮タマ子さんのおへやは二階の十五号室でしたね。ぼくにそのへやを見せてくださいませんか」 「どうしたんです。なぜ、そんなことをいうんです」 「いや、いや、見せてくださればいいんです。じつは……そのへやで人殺しがあったんです」 「人殺し……? そ、そ、そんなばかな!」 「いいえ、ほんとうです。ほんとうです。うそだと思うなら、ちょっとそのへやを調べてください。調べるくらいなんのぞうさもないじゃありませんか」 「ああ、きみ、きみ、木村《きむら》くん」  フロントの奥《おく》で話をきいていた、マネージャーらしいのが出てきて、 「この少年のいうとおりだ。調べるくらいはなんのぞうさもない。二階十五号室のかぎをかしたまえ。この少年といっしょにいって調べてくる」  マネージャーはかぎをとって、進といっしょに二階へあがっていったが、十五号室のドアをひらくなり、ぎょっとばかりに立ちすくんだ。 「あっ、こ、これは……」  マネージャーが立ちすくんだのもむりはない。  そこには三津木俊助と等々力警部がこんこんとして、眠りこけているのである。しかも、ソファのむこうには、死体がころがっているではないか。  進は、それを見るより室内電話にとびついた。  そして、外線につないでもらって警視庁を呼びだすと、手みじかにことのいきさつを報告し、さっきの乗用車のナンバーをつげ、大至急手くばりをするように注意した。  さていっぽう、新宮タマ子を乗せた乗用車がやってきたのは、東中野《ひがしなかの》の、とあるしゃれたかまえの洋館である。  タマ子よりひと足さきに降りたったのは、ゆうべ銀座の服飾店『ミネルバ』へ、孫のおくり物を買いにきていた老紳士、さらにさかのぼっていえば、おとといの晩、電車のなかで、探偵小僧をスリから救った人物である。  車から降りたタマ子が家のなかへはいろうとして、表札《ひようさつ》を見ると、 「理学博士、工藤英介《くどうえいすけ》」  と、書いてある。 「あの……」  タマ子は、ちょっとためらって、 「父はほんとうに、この家にいるのでございましょうか」 「まだお疑いかな。さっきおとうさんの手紙をお見せしたではないか」 「はい……」  タマ子は顔色をあおざめて、よろよろしながら老紳士の工藤に手をとられ、玄関の階段をあがっていった。  工藤が玄関のドアをひらくと、はるか奥のほうからきこえてきたのは、なにかしら、物に狂《くる》ったような男の声である。 「タマ子……タマ子……タマ子はどこじゃ……ギザギザのない十円玉はどこにある……」 「あっ、おとうさま!」  タマ子は、足早にろう下を走って、声のきこえるへやへとびこんだが、そのとたん、思わず目から涙《なみだ》があふれた。  アーム・チェアーに腰《こし》をおろして、まっ白なかみの毛をかきむしりながら、タマ子、タマ子と名を呼びつづけているのは、つるのようにやせ細った老人である。そして、そのそばにひざまずいて、老人をなぐさめている女のひとを、タマ子はだれとも知らなかったが、それこそ探偵小僧のねえさんの美智子であった。  怪盗X・Y・Zはゆうべ『ミネルバ』から、美智子をさらっていった悪者をつけ、悪者のかくれ家《が》に押しこめられていた、この老人を美智子とともに救いだしてきたのである。 「ああ、おとうさま! おとうさま」  タマ子は老人の胸にとりすがったが、しかし、その老人にはタマ子がわからなかったらしい。ああ、この老人は気が狂っているのだ。    十円玉の秘密  上野竹《うえのたけ》の台《だい》の西郷さんの銅像の付近には、いつも浮浪者《ふろうしや》がふたりか三人、生気のない顔をしてゴロゴロしている。  その日の午前十時。銅像のまえのベンチには、ふたりの浮浪者が腰をおろしていた。ひとりは四十くらいの年齢で、顔じゅういっぱい、ひげをはやし、頭にはしょうゆで煮《に》しめたような手ぬぐいをかぶり、身にはつづれのあたったボロボロの作業服をきている。  もうひとりは六十くらいの白髪《はくはつ》のじいさんで、もじゃもじゃの白髪のうえに、くちゃくちゃに形のくずれたお釜帽《かまぼう》をかぶっていて、身についているものといえば、まえの男にまさるとも劣《おと》らぬほどのオンボロである。  手ぬぐいでほおかぶりをした男は、腕ぐみをしたまま、さっきからコックリ、コックリいねむりをしている。  またお釜帽の老人は、えびのようにからだをねじまげ、ひじをまくらにグーグーと、さっきから白河夜舟《しらかわよふね》のたかいびきである。  午前十時。  むこうからぶらぶらやってきたのは、新日報社の探偵小僧、御子柴進である。  進はまるで、おのぼりさんのような顔をして、西郷さんの銅像をふりあおぎながら、ぶらりぶらりと台座のまわりをひとまわりした。  進が台座のまわりをひとまわりしたとき、手ぬぐいのほおかむりをして、いねむりをしていたルンペンが、ベンチのまえに落ちている、新聞紙のきれはしを、足のつまさきでかきのけた。  と、その下から現われたのは小さく掘った穴である。穴の底には、なにやら赤いものがちらついている。  台座の裏側から表側へまわってきた進は、それを見るとギョッとしたように呼吸をのんだが、すばやくあたりを見まわすと、くつのひもでも結ぶようなかっこうをして、あなのなかへギザギザのない十円玉をすべりこませた。  それからまたふたりを見まわしたが、なんとなく失望したような顔色で、そそくさとそこを立ち去った。  それから、五分、十分、十五分……  いままでコックリ、コックリいねむりをしていた男が、ふと目をさましたように両手をひろげて大あくびをした。  それからちらとそこに寝ている老ルンペンに目をやると、たばこの吸いがらでも拾うように身をかがめた。  すぐ足下のあなの底に十円玉がにぶい色をはなって光っている。  ほおかむりをしたルンペンは、もういちどあたりを見まわすと、右手をあなのほうへのばしかけたが、そのとたん、むっくりと身を起こしたのは、そばに寝ていた老ルンペンだ。  ほおかむりのルンペンが十円玉を拾いあげたしゅんかん、老ルンペンがぎゅっと右腕の手首をつかんだ。 「谷口大五郎《たにぐちだいごろう》だな」 「なにお!」  ほおかむりのルンペンは、腕をふりはらおうとして身をもがいたが、どうしたわけか、急に、 「ううむ!」 と、ひくくうめくと、そのままがっくりと土のうえにのめってしまった。  老ルンペンは、ルンペンにばけた谷口大五郎の右手から、ギザギザのない十円玉を取りあげると、人待ち顔にあたりを見まわしていたが、そこへ急ぎあしにやってきたのは探偵小僧の御子柴進だ。 「やあ、探偵小僧、やっぱり引き返してきたな」 「あなたはだれです」 「だれでもいい、それよりこの男をきみにまかすよ」 「これはだれです」 「谷口大五郎といって、クイーン・ホテルで、青木一郎《あおきいちろう》という青年を殺した男だ。そのかわり探偵小僧、この十円玉はおれがもらっていく」 「だめです。だめです。それがなければねえさんが……」 「だいじょうぶだ、ねえさんはおれが助けて、あるところにかくまってある。おれがこの十円玉をもってかえると同時に自由にしてあげる」 「あなたはX・Y・Zですね」 「あっはっは、想像にまかせるよ。それじゃこの男はきみにまかせる。睡眠剤《すいみんざい》を注射してあるから、薬がさめないうちに警官にわたしてしまえ。では、さようなら! そうそう、この十円玉の秘密は、美智子さんに聞きたまえ」  そういったかと思うと、怪盗X・Y・Zは風のごとく立ち去った。  その夜、ぶじにかえってきた美智子の話をきいて、探偵小僧の御子柴進は、あまり奇妙《きみよう》な話なのでおどろいた。  新宮タマ子の父は新宮|健造《けんぞう》といって、数年まえまで、有名な建築家だったそうだ。ところが、新宮健造は怪盗X・Y・Zによくにた人物で、わかいころいろいろな悪事を働いた。  そして、その悪事の証拠《しようこ》をじぶんの作った丸の内のビルディングの、正面入口のコンクリートの壁に金庫をつくり、そのなかへしまいこんだのである。  その金庫のとびらは、外から見ると、ビルディングのネーム・プレートしか見えないようになっている。そして、そのとびらをひらくかぎが、あのギザギザのない十円玉である。  それをかぎつけたのが、サングラスの谷口大五郎である。  新宮健造の悪事の証拠を手にいれて、タマ子をおどかし、じぶんの妻にしようと考えたのだ。タマ子を妻にすれば、新宮健造のばく大な財産が手にはいるからである。  だが、その金庫を破ることはできなかった。  なにしろ、人目の多い丸の内である。また、うっかり爆破《ばくは》すれば、証拠も焼けてしまうおそれがある。  だから、あの十円玉を手に入れるよりほかに方法はなかったのである。  タマ子も、この秘密を知っておどろいた。そして、少し気がへんになっている父から、その十円玉を取りあげた。  そして、なんとか秘密の金庫から、証拠の品を取り出して、処分してしまおうと機会をねらっているうちに、谷口大五郎に後楽園まで追いつめられたのである。谷口はむかし、父の助手をつとめたことのある男だ。  うっかりしていると十円玉を、谷口大五郎にとられてしまう。  谷口にあの証拠をおさえられたら、いやな男の妻にならなければならないのだ。  そこでとっさの機転で、その十円玉を立売りのジュース屋に払《はら》ってしまった。ところが、それがすぐツリ銭として探偵小僧の御子柴進に払われたのに、谷口大五郎もタマ子も気がついたのである。  青木一郎は谷口の子分のスリだった。  彼も十円玉の秘密をかぎつけており、谷口を出し抜いてその秘密を探ろうとしていた。そして谷口のあとをつけて後楽園へ行き、タマ子の十円玉が進の手に渡ったのを知って、それを奪おうとしたのだが、怪盗X・Y・Zにぼうがいされてしまった。  だから武蔵野荘アパートの進の部屋にしのびこみ、進の作ったにせの十円玉をぬすみ出したのだ。だが、それを持ってタマ子をおどすつもりで、クイーン・ホテルへ行ったところ、先まわりをしていた谷口に殺されてしまったのである。  谷口はあとから帰ってきたタマ子を睡眠薬で眠らせ、殺人の罪を着せようとした。  その日タマ子は、前から味方をしてくれていたX・Y・Zにすべてを打ち明けるため、会うやくそくがしてあったので、怪盗の名をつい口走ったというわけだった。  その話をきいて探偵小僧は、まるで小説でもよむような気持ちがしたが、その翌日、新日報社へ出勤すると、女の声で電話がかかってきた。 「わたし、新宮タマ子です。あなたにもあなたのおねえさまにも、ひとかたならぬおせわになりました。父の秘密のことはおねえさまからおききでしょうが、さいわいX・Y・Zさんのおかげで、証拠の品はかえりました。ありがとうございました。おねえさまにもくれぐれもよろしくお礼を申しあげてください」  探偵小僧の御子柴進は、この電話をきいて、救われたようにほっとしたのだった。 [#改ページ] [#小見出し]  第3話 大金塊《だいきんかい》    幕あいのうわさ  三津木俊助《みつぎしゆんすけ》と探偵小僧《たんていこぞう》の御子柴進《みこしばすすむ》は、さっきから聞くともなしに、となりのテーブルの会話を聞きながら、あきれかえってものもいえないという顔色だった。  そこは春秋座《しゆんじゆうざ》の喫茶室《きつさしつ》の一ぐうである。  舞台《ぶたい》ではいよいよ呼び物の推理劇、「怪盗《かいとう》X・Y・Z」の第二幕めがおわったところで、喫茶室のなかは、はなやかな男女のむれで、まるで花が咲《さ》いたようである。 「それがねえ、松村《まつむら》さんの奥《おく》さま」  と、三津木俊助と進が陣取《じんど》ったテーブルの、となりの席では三人の中年婦人がベチャクチャ、ベチャクチャ、まるでひばりがさえずっているようなさわがしさである。  そのなかのひとりの、ゴム風船みたいにふとった婦人が、気取った手つきでせんすを使いながら、ひざをのりだし、 「いまの幕でございますけれどねえ、あたし、ほんとうにゾーッといたしましたんですのよ」 「まあ、岩本《いわもと》先生の奥さま、いまの幕でゾーッとしたとおっしゃいますと……?」  と、あいてにこびるように話をうながすのは、これはまたつるのようにやせ細った婦人である。 「それが、ほら、いまの幕のカーテンのかげから、ぬうっと怪盗X・Y・Zが出てくるところがございましょう。あそこなんか、本物にそっくりでございますもの。あの晩、あたしダンスからかえってきて、おけしょう室で着がえしようとしていたんですの。いえ、着がえするまえに一服と、アーム・チェアーに腰《こし》をおろして、おうぎを使っておりましたのよ。そしたら、ふいにうしろのカーテンからぬうっとあの男が出てきたかと思うと、いきなりあたしの首に手をかけて、『奥さん、この首かざりをいただいてまいりますよ』と、そういうふくみ声まで、いまの加納達人《かのうたつんど》さんの声にそっくりでございましたのよ」 「まあ、ほんとうに、さぞこわかったことでございましょうねえ」  と、おぎりにもおあいそをしめさねばならぬとばかりに、さもこわそうにまゆをひそめたのは、きつねのような顔をした婦人である。 「そりゃもう……」  と、ゴム風船夫人はおおげさに肩《かた》をすくめて、 「でも、まあ、いまから思えばよい経験をしたと思っておりますのよ。ほっほっほ」 「ほんとうにおうらやましいこと」  と、やせ細ったつる夫人は、つるのようにとがった口をすぼめて、 「怪盗X・Y・Zというのは、とても紳士《しんし》的で、また、女性にたいしてはとてもやさしい人ですってねえ」 「そうそう、盗《ぬす》みはすれど非道はせず、ゼントルマン強盗《ごうとう》とはあのひとのことだろうと、もっぱらの評判でございますもの。岩本先生の奥さま、あなた、そういうひとにダイヤの首かざりを盗まれたといっても、べつにおしくはないのでございましょう」 「あら、いやだ、長谷川《はせがわ》さんの奥さま」  と、ゴム風船の岩本夫人は、せんすできつね夫人をぶつまねをしながら、 「なんぼなんでも、それはひどいごあいさつでございますよ。だって、あの首かざり、時価にすると何千万円するかわからない品物でございますものねえ」  探偵小僧の御子柴進と三津木俊助のふたりは、思わず顔を見合わせた。  それではこのゴム風船夫人こそ、この春、怪盗X・Y・Zにおそわれた、岩本|卓造《たくぞう》博士の夫人だったのか。  それにしてもこの夫人、まるで怪盗X・Y・Zにダイヤの首かざりを盗まれたのを、まるでてがらででもあるかのようにいばっているというのは、いったいどういうことなのだろうと、進も三津木俊助も、いかにもにがにがしげな顔色だった。 「でも、奥さま」  と、つるの松村《まつむら》夫人はあくまであいてにこびへつらうがごとく、 「そういうとうとい経験をお持ちのおかげで、こんど加納達人先生が、この推理劇『怪盗X・Y・Z』をおやりになるについて、あなたが舞台|監督《かんとく》みたいな役割を、りっぱにおはたしなさいましたんでしょう」 「ええ、まあ、そういえばそうでございますけれどねえ。ほっほっほ」  ああ、なるほど、そうだったのかと、三津木俊助と進は、やっとがてんがいったように、うなずいた。  いま、この春秋座《しゆんじゆうざ》で「怪盗X・Y・Z」という推理ドラマで、大当たりをとっている新進劇団の座長、加納達人という俳優は、大学時代三津木俊助と同窓だった。  学生時代から演劇に興味をもち、アマチュア劇団などを組織していたが、理想と現実とはなかなかうまく一致《いつち》せぬものとみえ、学校を卒業後、ずいぶん長いあいだ苦闘《くとう》時代がつづいたが、こんど関西《かんさい》のほうで新進劇団というのを組織し、久しぶりに上京してきて、この春秋座でいま評判の怪盗X・Y・Zをモデルにした、推理ドラマを上演したところ、これが大当たりに当たって、連日客止めという盛況《せいきよう》である。  三津木俊助も本物の怪盗X・Y・Zとは、多少|縁《えん》があるところから、ぜひ見てほしいと招待されて、こんや探偵小僧とともにきたわけだが、喫茶室ではからずもあったのが、本物の怪盗X・Y・Zにおそわれた経験のある岩本卓造博士の奥さん。  この岩本夫人が得意になっているのは怪盗X・Y・Zにおそわれたということよりも、その経験をいかして、いまや日の出の人気役者、加納達人の指導に当たったということらしいと、三津木俊助と探偵小僧にも、やっとがてんがいったというわけである。    人気俳優 「やあ、加納、たいへんな人気じゃないか」  さいごの幕がおわったあとで、三津木俊助が進とともに、加納達人の楽屋《がくや》へはいっていくと、せまい楽屋はこの人気俳優をとりまいて、はなやかな女性ファンでごったがえすようなさわぎであった。 「やあ、三津木か。よくきてくれたね。少し待ってくれたまえ。いま、このひとたちにサインをしてしまうから」 「あら、いやよ、先生、サインだけで追っぱらおうなんてひどいわよ」 「そうよ、そうよ、こんやはぜひお茶をつきあっていただくのよ」  と、くちびるをとんがらかしているのはまだ年若い女学生である。 「あっはっは、ありがとう、ありがとう。だけどこんやはちょっとつごうが悪い」 「つごうが悪いなんてだめよ。先生はいつだってこんやはつごうが悪いって、逃《に》げておしまいになるんですもの」 「ごめん、ごめん。だけどこんやはほんとうにつごうが悪いんだ。きみたち、知ってるだろう。友遠方より来たる、また楽しからずやってことばを……ここへやってきたのは、ぼくの旧友なんだ」 「あら、それじゃ、あたしたち、先生のお友だちじゃないの」 「いや、そりゃお友だちはお友だちさ。だけど、きみたちには毎日あっているじゃないか」  加納達人のことばをきいて、三津木俊助は、思わず進と顔を見合わせた。  してみると、ここにたむろする女学生たち、毎日のようにこの楽屋へあそびにきていると見える。  さっきの喫茶室での中年婦人のうわさといい、いままたこの楽屋でのさわぎといい、人気役者はちがったものだと、三津木俊助と探偵小僧の御子柴進は、感心せずにはいられなかった。 「やあ、ごめん、ごめん、失敬したね。なにをぼんやり立っているんだ。まあ、そこへかけたまえよ」  やっと女学生たちを追っぱらった加納達人は、まだ舞台げしょうのまま、にこにこと三津木俊助のほうをふりかえった。  黒いフェルト帽《ぼう》にまっくろな洋服、それにおもてが黒で、裏が黒と白とのダンダラじまになった二重まわし、黒い手袋《てぶくろ》に、コンダクターがもつ指揮棒のようなステッキ。  いささかキザだが、これが岩本夫人指導によるところの、怪盗X・Y・Zのふん装《そう》なのである。  これで黒いマスクをつけると、怪盗X・Y・Zができあがる。 「やあ、加納、おめでとう。きみもこれでどうやら芽が出たね。客席といい、楽屋といい、たいへんな人気じゃないか」 「やあ、おかげさんで。……ちかごろはばんじ推理ばやりだからね。怪盗X・Y・Zさまさまだよ」 「ときに、そのふん装は岩本夫人のご指導によるところだってね」 「あれ、だれに聞いたの、そんなこと……?」 「なあに、さっき喫茶室で岩本夫人がとくいになって、仲間の奥さん連中にふいちょうしてたぜ。あの奥さん、そうとう猛烈《もうれつ》なきみのファンらしいね」 「いや、ぼくのファンというよりも、怪盗X・Y・Zのファンかもしれないぜ。あっはっは」  と、加納達人はあいかわらず、怪盗X・Y・Zのふん装のまま、腹をゆすってわらったが、そばにいる進に気がつくと、 「おや、三津木、この小僧はいったい何者なんだい。さっきからいやにジロジロぼくの顔ばかり見ているじゃないか」 「ああ、これか。紹介《しようかい》しとこう。これ、御子柴進といって、うちの社の少年社員なんだが、探偵小僧というあだ名があるくらいな、年は幼いが名探偵なんだ」 「ああ、そうそう、うわさには聞いていた。新日報社《しんにつぽうしや》に探偵小僧という、勇かんな少年がいるということを。……ところで、探偵小僧くん」  と、加納達人はからかうように目をパチクリとさせながら、 「なぜ、そんなにジロジロぼくの顔ばかり見つめるんだい。ぼくの顔になにかついてでもいるのかい」 「いえ、あの、ぼく……」  探偵小僧は顔をあからめて、思わずもじもじしたをむいたが、そのとき、けたたましく鳴りだしたのは楽屋の電話のベルである。  弟子《でし》らしいのが受話器をとって、しばらく応待していたが、やがて加納のほうをふりかえり、 「先生、岩本先生の奥さんからです。こんや、どこかでご飯をさし上げたいって……」 「ことわってくれ! そんなこと!」  と、言下に加納達人は、ケンもホロロにどなったが、すぐ三津木俊助や探偵小僧の視線に気がついて、 「いや、ごていねいにおことわり申し上げてくれたまえ。こんやはよんどころない用事がございますからとな。あっはっは」  弟子は送話器にむかって三拝九拝、クドクドとあやまっていたが、やっとあいてもなっとくしたらしく、受話器をおいてほっとひと息、あせをふいているところへ、またジリジリと電話のベルが鳴りだした。  弟子はチェッというように受話器をとって、ふたこと三こと聞いていたが、 「先生、お電話です」 「ことわってくれ! そんなもの!」 「いえ、岩本先生の奥さんからじゃありません。高峰早苗《たかみねさなえ》さんからです」 「なに? 早苗さんから……?」  加納達人はまるでひったくるように、弟子の手から受話器をうばうと、 「もしもし、早苗さん……? ぼく、加納達人です。ふむ、ふむ、はあ、はあ……」  と、話を聞いているうちに、加納の顔がしだいにきびしくひきしまってきたかと思うと、 「よし、それではすぐにいきます。そのまま待っていてください」  受話器をおくと加納達人は、なぜか三津木俊助や進の視線をさけるようにしながら、 「三津木くん、すまないがきゅうに用事ができた。こんやはきみにつきあえない」 「ああ、いいよ」  と、三津木俊助は、気がるに立ちあがると、 「どうせ人気役者のきみのことだ。ひと晩だって、きみを独占《どくせん》できようとは思わなかったぜ。じゃあ、探偵小僧、おいとましよう」 「すまないねえ」  と、いったものの、加納達人はなぜかほっとした顔色だった。    コロサレテイル  探偵小僧の御子柴進は、いま、じぶんでじぶんのしていることがわからなかった。  春秋座の楽屋口で、三津木俊助とわかれた進は、そっとあたりを見まわしたのち、こっそり楽屋口へひきかえしてきた。  と、そのとき、外からやってきたタクシーのあき車が、楽屋口へきてとまると、なかから運転手がおりてきて、楽屋口からなかへはいっていった。  と、思うと、すぐまた楽屋口から出てきて、運転席に乗って待っている。  進ははっと思った。このタクシーは加納達人が呼んだのではないか……。  進は、春秋座の楽屋口からはなれると、いそいで空車をさがしたが、そこは有楽町《ゆうらくちよう》の繁華街《はんかがい》である。タクシーならいくらでもつかまえることができるのだ。 「きみ、きみ」  と、つかまえたタクシーにとびのった進は、運転手にむかって早口にささやいた。 「しばらくここに待っていて、むこうに見える車が出発したら、そのあとを尾行《びこう》してもらいたいんだが……」 「えっ?」  と、運転手はあやしむように、バック・ミラーにうつる探偵小僧を見なおしながら、 「いったい、それはどういうことですか」 「いや、ぼく、こういうもんだが……」  と、名刺《めいし》を出してわたすと、運転手もうなずいて、 「ああ、新聞社のかたですか。なにか事件があるんですか」 「いやあ、事件というほどのことじゃないが、ひょっとすると記事にならないかと思ってね」 「ああそう、わかりました。あんた、まだ子どものくせに、なかなか熱心なんですね」  運転手もなっとくしてくれたので、やっと安心した進が、春秋座からすこしはなれたところに車をとめて待っていると、やがて楽屋口からソワソワと出てきたのは人気役者の加納達人。  だが、ひとめそのすがたを見たとたん探偵小僧は、思わずあっと目をみはった。  なんと、加納達人は怪盗X・Y・Zの舞台すがたのままではないか。  しかも、タクシーはそういう加納達人を乗っけたまま、いずこともなく去っていく。 「新聞社のかた、あの車をつけますか」 「ああ、もちろん」  探偵小僧の乗ったタクシーは、見えつかくれつ、まえをいくタクシーを追っていく。  そういうこととはゆめにも気づかぬ加納達人、有楽町から銀座《ぎんざ》通りをつっきると、東へ東へと車を走らせていく。  その背後から探偵小僧の御子柴進が、はやぶさのように目をとがらせて、まえのタクシーを見失うまじと、じっとからだを乗りだしている。  進は、なぜ加納達人を尾行する気になったのか、じぶんでもハッキリわからない。  怪盗X・Y・Zのふん装が、あまりうまくできているためなのか……?  しかし、俳優ならばどんな役にでもふんするのがとうぜんではないか。  まして岩本夫人という、じっさいに怪盗X・Y・Zにおそわれた経験をもつ婦人が指導しているのだ。怪盗そっくりに見えたところでふしぎではないはずだ。  それでは、さっきの電話を聞いたときの加納達人のようすにうたがいをいだいたのか……?  そうなのだ。  探偵小僧の御子柴進は地獄耳《じごくみみ》をもっている。受話器からもれてくる、わかい女の悲痛なうったえの声のなかから、たったひと声、進の耳をとらえたのは、 「コロサレテイル!」  と、いう叫《さけ》び声。  進は、じぶんの耳をうたがった。  聞きちがいではないかと思いなおした。三津木俊助のほうを見ると、なんにも気づかぬようすであった。  それではやっぱり聞きちがいであったのかと、じぶんのそら耳をうたがっているところへ、またしても受話器をとおして聞こえてきたのは、 「オジサマガ……オジサマガ、コロサレテイルンデス!」  と、わかい女の悲痛な叫び……しかもそれを聞いたときの、加納達人の異様におどろいた顔の表情。  三津木俊助には聞こえなかったらしいのだけれど、探偵小僧の御子柴進にははっきりそれが聞こえたのだ。  だから、いまこうして、せめて加納のいくさきだけでもつきとめておこうと、あとを尾行している進なのだ。  タクシーはやがて隅田《すみだ》川べりへ出ると、清洲橋《きよすばし》をわたって右へまがった。  くらい空にそびえているのは、セメント会社のえんとつらしい。そのへんいったいは工場地帯になっている。  加納達人を乗っけたタクシーは、とある工場のまえでとまると、なかから、怪盗X・Y・Zのふん装のまま、人気役者がおりてきた。タクシーはそのままいずこともなく立ち去っていく。  探偵小僧の御子柴進も、タクシーからとびおりると、見えがくれに加納達人を追っていく……。    犯人は怪盗X・Y・Z?  時刻はもうすでに十二時ちかく。——工場地帯にちかいこのへんでは、犬の子いっぴきとおらない。  空にはどこかに月があるらしく、ほの明りがただよってはいるが、工場の屋根はまっくらで、林立するえんとつの影《かげ》があたりを圧するようである。  怪盗X・Y・Zにふんした加納達人は、たくみに工場のかげからかげへとよりながら、音もなく風のように走っていく。そのうしろすがたを追いながら、探偵小僧の御子柴進は、ふっとあやしい胸さわぎをおぼえた。  こういう足音のない歩きかたも、俳優としてのひとつの技術なのか。それはまるで話に聞く、むかしの忍者《にんじや》のような身軽さ、すばやさではないか。  とつぜん、進は、ぎょっとばかりに、じぶんの視覚をうたがった。  加納達人のくろいすがたが、眼前五メートルほどのところで、とつぜん消えてしまったのだ。  そこは、工場と工場とのあいだにはさまれた、せまい露地《ろじ》のなかだった。  怪盗X・Y・Zにふんした加納達人は、たしかにその露地のなかへはいっていったのである。  進は、たしかにそこへはいっていく、加納達人のすがたを目撃《もくげき》したのだ。  それにもかかわらず進が、その露地にいきついたとき、加納達人のすがたはそこに見えなかった。  探偵小僧は、二度、三度、じぶんの目をうたがってあたりを見まわした。  しかし、加納達人のすがたはどこにもなく、露地のなかはひっそりしている。  しかも、そこは入口から奥まで、わずか五メートルほどのふくろ小路なのだ。  進はあたりを警戒《けいかい》しながらも、そろりそろりとふくろ小路のなかへはいっていく。  露地のはばは約二メートル。両側には五メートルを超《こ》えるかと思われる高いコンクリートのへいがそびえている。  だしぬけにひとからおそわれないように、進は、そのへいにぴったり背中をつけ、奥へ、奥へとすすんでいく。  だが、五メートルもいかないうちに、その露地は両側のへいよりさらに高い、コンクリートのかべにさえぎられた。それは、どうやらどこかの倉庫のかべらしい。  探偵小僧の御子柴進は、ポケットから万年筆型の懐中電燈《かいちゆうでんとう》を取りだして、コンクリートのかべを調べてみた。  それはかたいコンクリートで、どこにも抜けられるようなところはない。  進は、さらに入念に両側のへいと、ほそうされた道路を調べた。  しかし、両側のへいにもなんのしかけもなく、またあいにくのお天気つづきで、足あとを発見するのは困難だった。  しかも、両側のへいは両側とも、五メートルを超える高さである。とても人間わざでは越えられるものではない。  それでもまだあきらめかねたのか、進は、十分あまりもその露地のほとりをさがしていたが、けっきょく加納のすがたを見失って、すごすごとそこを立ち去った。  それでは加納達人は、けむりのように消えてしまったのか。  いや、いや、そうではなかった。  進が露地のなかでまごまごしているころ、左側の工場のはんたいがわのへいのうえからにょっきりすがたを見せたのは、フェルト帽の加納達人である。  加納達人はへいのうえからあたりを見まわし、あたりに人影のないのを見定めると、へいのうえにひっかけていたカギをはずした。  それからスルスルとたぐりよせたのは、きぬ糸であんだ細いひもである。  そして、あらためてカギをかけなおすと、きぬひものとちゅうにつくってあるコブの段をつたって、へいのうえからすべりおりた。  見ると、フェルト帽こそかぶっているが、加納達人は黒いふつうの洋服を着ていて、一見ふつうのサラリー・マンとかわらない。  通路のうえへとびおりると、加納達人はひもをシャクッて、たくみにへいのうえのカギをはずした。そして、ひもをくるくるまるめると、それはてのひらへはいるくらいの大きさである。  加納達人はなにくわぬ顔をして、いそぎあしに、そこから十分ほど歩くと、やがて本所《ほんじよ》の大通りへ出た。  加納達人はそこで流しのタクシーをひろうと、 「本郷《ほんごう》へ!」  と、たったひとことつぶやくと、ふかぶかと車のクッションのなかに身をうずめて、 「探偵小僧のやつ! ゆだんもすきもあったもんじゃない」  と、口のうちでささやいて、ひにくな微笑《びしよう》をくちびるのはしにひろげていった。  ああ、加納達人は探偵小僧が、あとを尾行していることを知っていたのだ。  それにしても、まるで忍者のような歩きかたを心得ているこの達人、また、これまたむかしの忍者の使うような、カギのついた投げひもをひそかに所持しているこの加納——。これがはたしてふつうの役者なのだろうか。  それはさておき、そのよく朝の探偵小僧の進は、はなはだ寝起きがよろしくなかった。  どう考えても加納達人にまかれたことが、進には、くやしくて、くやしくてたまらないのだ。  あいつはたしかにあの露地の中へはいっていったのだ。  いったいどうしてあそこからけむりのように消えてしまったのか。  探偵小僧は加納達人にたいして、つよい疑惑《ぎわく》をかんじながら、姉がまくらもとへおいていってくれた新聞を手に取りあげた。  そして、なにげなく社会面をひらいたとたん、探偵小僧の目はいまにもとび出しそうになった。  本郷|弥生《やよい》町の殺人事件  犯人は怪盗X・Y・Zか?  被害者《ひがいしや》のメイ早苗嬢《さなえじよう》は語る    地獄耳《じごくみみ》  午前十時ごろ、有楽町にある新日報社へ出社した探偵小僧の御子柴進は、社会部のへやへとびこむなり、 「三津木さんは……? 三津木さんはいませんか」  と、わしづかみにした新聞を、やけにふりまわしながら、かな切り声でわめき立てると、デスクにいた記者たちが、いっせいにこちらをふりかえり、 「どうしたんだい? 探偵小僧、いやにこうふんしてるじゃないか。また、どこかに死体がゴロゴロころがっているのを見つけてきたのかい」  と、からかうようにまぜかえすのを、探偵小僧はむきになってにらみかえすと、 「じょうだんじゃありませんよ。池部《いけべ》さん、まぜっかえすのはよしてください。それより、三津木さんはどこへいったんです。どこかへ取材にいったんですか」 「いや、三津木さんならさっきまでここにいたんだが、編集局長のへやへでもいったんじゃないかな。ああ、三津木さん」  トイレへでもいっていたとみえて、ハンケチで手をぬぐいながら、むこうからやってきた三津木俊助のすがたを見ると池部記者が、ひょうきんな声を張りあげて、 「探偵小僧がまた、死体が山のようにゴロゴロころがっているのを見つけてきたんだってさあ」 「なにをくだらないことを!」  と、三津木俊助は苦笑しながら、探偵小僧のほうをふりかえって、 「探偵小僧、なにかあったのかい?」 「ええ、ちょっと……」  探偵小僧の顔色を見て、 「ああ、そうか、じゃ、こっちへ来たまえ」  と、三津木俊助は探偵小僧の御子柴進を、ひとけのない会議室へとつれこんだ。 「探偵小僧、そこへかけたまえ、朝っぱらからいったいなにがあったんだい。さあ、聞かせてもらおうじゃないか」  落ち着きはらった三津木俊助の顔色を進は、ふしぎそうに見まもりながら、 「三津木さんは、けさの新聞のこの記事を、ごらんになっちゃいないんですか」  と、おこったように怪盗X・Y・Zの記事ののったページをつきつけた。 「ああ、そのことか。それなら、これから出かけようと思っていたところだ。それにしても、怪盗X・Y・Zが人殺しをしたなんて信じられんな。あいつは盗みこそすれ、ひとを殺したりなんかぜったいにしない男だが……」 「三津木さん」  と、探偵小僧の御子柴進は、いよいよふしぎそうに、あいての顔をにらみすえて、 「ここに被害者のメイの名まえが、高峰早苗とありますね」 「ああ、そうそう、それがどうかしたのかい」 「三津木さん」  と、進は、いよいよきびしい目つきをして、 「ゆうべ加納達人さんのへやへ、女のひとから電話がかかってきましたね」 「ああ、そう、それが……?」 「だれからの電話だったかおぼえていないですか」 「たしか岩本夫人からだったが、それがどうかしたのかね」 「いいえ。岩本夫人の電話は、さいしょのやつです。加納さんがそれをことわったあとで、もういちどかかってきましたよ」 「そうそう、思い出した。それで加納のやつ、あたふたととびだしていったんだが、それがどうかしたのかい」 「ああ、そう」  進はやっとわけがわかったように、にっこり白い歯を出して笑うと、 「三津木さんは、お弟子さんが取りついだ、二度めの電話のぬしの名まえを聞いていらっしゃらなかったんですね」 「そうだね。ぼくはあのときへやのはしっこにいたからね。二度めの電話のぬしの名まえがどうかしたのかね」  三津木俊助は、あくまでなにもしらないらしい。 「三津木さん」  と、進はちょっとあたりを見まわして、 「そういえば、あのときお弟子さんは、あたりをはばかるような声でしたが、たしかにこういいましたよ。まず、お弟子さんが、先生、お電話です、といったんですね。そうしたら、加納さんが、ことわってくれ! そんなもの! と、どなったんです。そうしたら、お弟子さんが、いえ、岩本先生の奥さんからじゃありません。と、そういってから、うんと声をひくくして、高峰早苗さんからですって……」  三津木俊助はとつぜん、ピクンといすからとびあがった。  満面にさっと朱《しゆ》がのぼって、大きく見張ったその目には、おどろきの色がいっぱいうかんでいる。 「探偵小僧!」  と、三津木俊助はしゃがれた声を、のどの奥からしぼりだして、 「そ、そりゃほんとうか」 「ほんとうです。ほんとうですとも。それに……」 「それに……?」 「これは、ぼくのヒガ耳だったかしれませんが、電話のむこうで女の声が、二度コロサレテイル……オジサマガコロサレテイル……と、いったように聞こえたんです」  三津木俊助は仁王立《におうだ》ちになって、まじろぎもせず探偵小僧の顔を見すえていたが、 「チキショウ!」  と、口のうちでした打ちすると、 「よし、いこう、探偵小僧! きさまも来い!」  と、だっとのごとくへやからとび出していった。  三津木俊助は、探偵小僧の地獄耳《じごくみみ》をだれよりもよく知っているのである。    ああ、むざん  本郷弥生町といえば、君たちも知っているだろう。弥生式《やよいしき》土器がはじめてここの貝塚《かいづか》から発見されたことによって有名である。  探偵小僧の御子柴進が、三津木俊助のおしりにくっついて、弥生町にある殺人現場へ到着したのは、十一時ちょっとまえだったが、その付近いったいは、やじうまでいっぱいのひとだかり。  殺人のあった家というのは、明治末期か大正の初期に建ったものらしく、赤レンガにツタのいっぱいからみついた、みるからに古色蒼然《こしよくそうぜん》たる洋館だが、そのかわり、どっしりした重量感をいだかせる、ちょっと趣味《しゆみ》にとんだ、二階建てだった。  思うにこの洋館は、レンガ建てにもかかわらず関東《かんとう》の大震災《だいしんさい》にも難をまぬがれ、また、空襲《くうしゆう》の厄《やく》からもたすかってきたのであろう。  そういえばなんとなく不死鳥《ふしちよう》を思わせるようなぶきみさが、さびた緑色のかわらのうえにただよっている。  鉄だなのついた門柱には、これまたいちめんにからみついたツタの葉に、まるで埋《う》もれんばかりに表札《ひようさつ》がのぞいている。  表札の文字を見ると進藤英吾《しんどうえいご》。  そうすると、メイといっても高峰早苗は、ここの主人と肉親の関係ではないのだろうか。  門のなかへはいっていくと、警察官や報道関係の連中が、まるでくもの子を散らしたように右往左往していたが、とつぜん、頭のうえのほうから、 「やあ、三津木くん、探偵小僧もよくきたな」  と、太い声が降ってきたので、ふたりがひょいとそのほうを見ると、建物の側面についている、二階のバルコニーのうえに、等々力警部《とどろきけいぶ》が立っていた。  警部のほかにも二、三人の人影《ひとかげ》が、いそがしそうに動いている。 「ああ、警部さん、怪盗X・Y・Zが人殺しをしたというのは、ほんとうですか」  三津木俊助がうえをあおいでたずねると、 「まあ、こっちへあがってきたまえ。死体を取りかたづけてしまわないうちに、見ておいたほうがいいだろう」 「ああ、そう。探偵小僧、いこう」  荘重《そうちよう》な感じのする広いげんかんからなかへはいると、右側にひろい応接室があり、正面にすりきれたじゅうたんを敷《し》いた階段がある。  三津木俊助と探偵小僧のふたりは、階段をのぼろうとして、ふと、右側の応接室をふりかえったが、そのとたん、ふたりは、ぎょっとしたように目を見かわせた。  応接室のアーム・チェアーに、ドサッと腰《こし》をおろしているのは、ゆうべ春秋座の喫茶室であったゴム風船夫人、すなわち岩本卓造夫人である。  そして、おなじ応接室のなかを、両手を背中に組んで、しきりにいきつもどりつしているのは、度の強そうなべっこうぶちのめがねをかけ、顔中にくまのようにひげをはやしている、六十くらいの紳士《しんし》である。  これが冶金学《やきんがく》の大家といわれる、岩本工学博士らしいのだが、おそろしくネコ背である。  博士はまるでおりのなかのトラかライオンみたいに、へやのなかをいきつもどりつしているのだ。  三津木俊助と探偵小僧はふっと目と目を見かわせて、たがいにうなずきあいながら、二階への階段をのぼっていった。  この二階のうえに、屋根うらべやがあるらしく、二階のろうかのおくにせまい階段がついているが、ふたりが二階へあがりついたとき、その階段のとちゅうにきれいな少女が立っていた。  少女のとしは十八か九か、階段の手すりに身をよせて、二階のへやをのぞいているらしかったが、したからあがってきたふたりのすがたに気がつくと、はっとしたように身をひるがえして、そのまま屋根うらのへやへあがっていった。  手足のすくすくとよくのびた、健康そうで、いかにもスタイルのよい少女だった。  ひょっとすると、これが高峰早苗というメイではあるまいか。  三津木俊助と探偵小僧のふたりは、またたがいに目と目を見かわせながら、右側にひらいているドアのなかへはいっていったが、そのとたん、へやのなかにそこはかとなくただようている、なんともいえぬ異臭《いしゆう》にはなをうたれて、おもわずふたりとも顔をしかめた。 「やあ、警部さん」  へやのなかに、おおぜい、立ちはたらいている警官たちのなかをかきわけて、三津木俊助と探偵小僧の御子柴進が、バルコニーのほうへいこうとすると、 「おお、三津木くん、探偵小僧もよくきたな。ひとつ、その暖炉《だんろ》のほうを見てごらん」  と、等々力警部はバルコニーから部屋のなかへはいってきた。 「えっ?」  と、答えて、探偵小僧と三津木俊助は警部のゆびさすほうをふりかえったが、そのとたん、思わずゾーッと背筋がつめたくなるような恐怖《きようふ》にうたれた。  壁《かべ》にとりつけた暖炉のなかに、男がひとり顔をつっこんで、うつぶせに倒れているのである。  暖炉のなかには石炭がいっぱいほうりこんであり、いまは水でもぶっかけたのか消えているが、男が首をつっこんだときには、まだあかあかともえていたにちがいない。  横からそっとのぞいてみると、男の顔はもののみごとに焼けただれて、ひとめ見ただけでも、ゾーッとするほど気味の悪い、くちゃくちゃの肉のかたまりになっている。  しかも、苦しまぎれにもがいたのか、両手も石炭のなかにつっこんでいるので、これでは顔はおろか、指紋《しもん》さえ完全にわからなくなっているのではあるまいか。  探偵小僧の御子柴進は、思わず両手にあせをにぎりしめた。    祖父《そふ》と孫《まご》 「これは……」  と、進は、おもわず二、三歩あとずさりした。  探偵小僧といわれるだけあって、進はいままで、そうとうたびたび死体というものにお目にかかってきたが、これほどむごたらしいのは見たことがない。  顔がやけただれてしまっているので、はっきりとしたことはいえないが、からだの肉づきやなんかからして、五十くらいの年ごろではないだろうか。  へやでくつろいでいるところを、がんと一撃《いちげき》やられたらしく、うしろ頭がざくろのようにはじけていて、からだにはゆるいガウンをはおっている。  凶器《きようき》も暖炉のそばにころがっている火かき棒がそうだろう。火かき棒のさきに血にそまった毛髪《もうはつ》がこびりついているのが気味悪い。 「これはだれ……?」  三津木俊助がたずねると、 「顔が、めちゃめちゃにくずれているので、ハッキリとしたことはいえないが、この家のあるじの進藤英吾さんらしいんだがね」 「なにをする人なんですか」 「いや、職業はよくわからないんだが、ばあやの古川《ふるかわ》トミの話によると、終戦直前に満州《まんしゆう》(現在の中国)から引きあげてきて、ここに住みついているというんだが……」 「無職なんですか」 「どうもそうらしい。財産をもっているんじゃないか」 「満州から引きあげてきたといえば……」  と、三津木俊助はゆかを見て、 「いまこの下にいる岩本卓造博士も、たしか昨年満州からひきあげてきたのでしたね」 「ああ、そう、なんでも満州時代の知りあいらしいんだね」  進は、いまはじめてあのゴム風船夫人の夫が、昨年満州から引きあげてきたばかりだということを知った。  満州からの引きあげ者といえば、無一物《むいちもつ》にちかい境遇《きようぐう》だったのではないだろうか。  それが怪盗X・Y・Zにおそわれて、時価何千万円もするダイヤの首飾《くびかざ》りを盗まれたというのは、いったいどういうわけなのだろう。 「ときに、ここに高峰早苗というメイがいるそうですが、それはここの主人とどういう関係なんですか」 「いや、それだがね」  と、等々力警部は声を落として、 「元来この家は高峰栄造《たかみねえいぞう》というものの家だったんだ。ところが進藤英吾というのは、高峰栄造の妻の兄なんだね。それが終戦直前にひとりで満州から引きあげてきて、この家へころがりこんだそうだ。ところがそれからまもなく、高峰栄造夫婦は被爆《ひばく》して死んでしまった。そこで、しぜんこの家は進藤英吾のものになってしまった。いや、いわば乗っとったかたちになっているらしい」 「なるほど、すると、高峰早苗というのは……?」 「だから、空爆《くうばく》で死んだ高峰栄造のひとり娘《むすめ》なんだ」 「すると、この家におじとふたりきりで住んでたんですか」 「いや、もうひとり栄造の父、早苗にとっては祖父《そふ》にあたる、高峰|岩雄《いわお》老人がいる」 「そのひとはいまどこに……?」 「屋根うらのへやにいるよ。かわりもんのがんこじいさんで、長年|中風《ちゆうふう》で寝《ね》ているということだ」  探偵小僧の御子柴進は、はっと三津木俊助の顔を見た。  それでは早苗は祖父のところにいるのであろうか。 「ときに、この殺人が怪盗X・Y・Zのせいだというのは……?」 「いや」  と、等々力警部は小指で小びんをかきながら、 「それというのがばあやの古川トミと、メイの早苗がX・Y・Zのすがたを見てるんだよ。それにあれを見たまえ」  等々力警部の指さしたのは、マントル・ピースの壁に、はめこみになっている鏡だが、そこにはなまなましい血のなすり書きで、  『X・Y・Z』  と、いう字が、ぞっとするような無気味《ぶきみ》さで、タラタラとしずくをたらしている。 「この被害者《ひがいしや》の後頭部から流れ出した血を、ハンケチかなんかにしめして、ああしてサインをしていったんだね」  三津木俊助は探偵小僧と、またハッと顔を見合わせたが、 「それじゃ、その早苗というメイと、ばあやの古川トミをここへ呼んでくれませんか。ちょっと話をききたいですから」 「いや、早苗は来まい。岩雄老人が手ばなさないから。……古川トミを呼んでみよう」  古川トミというのは六十を越えた老婆《ろうば》で、目が悪いとみえて、しきりにハンケチで、目がしらににじむ涙《なみだ》をおさえていた。  その古川トミの話によると、こうである。 「あれはゆうべの十二時ごろのことでしたろうか。このへやからお嬢《じよう》さんのかな切り声がきこえてきたので、あたしがしたからあがってくると……」  と、ばあやはそこでいきをのみ、 「そこのバルコニーのところで、みょうなすがたをした男……そら、そら、ちかごろ新聞で評判の、怪盗X・Y・Zとやらいうどろぼうと、そっくりおなじみなりをした男が、お嬢さんを小わきにかかえて、いまにも下へとびおりそうなかっこうをしておりますでしょう。お嬢さんは、まるでわしにつかまれた小すずめどうよう、手足をバタバタさせていました。そこであたしがびっくりして大声あげると、X・Y・Zはお嬢さんをそこにつきとばし、じぶんはあのケヤキの木にとびついて、そのまま猿《さる》のようにスルスルと下へおりてしまったんです」  三津木俊助と探偵小僧の御子柴進が、バルコニーへ出てみると、なるほど、すぐ目のさきにケヤキの大木がそびえていて、枝が大きく折れていた。  三津木俊助と探偵小僧は、思わず顔を見合わせた。    屋根うらの老人  高峰岩雄老人というのは、もうかれこれ七十だろう。  長い白い頭髪《とうはつ》をバラバラと顔にたらして、運動不足らしくふとった顔は、一見して栄養失調を思わせる。  からだも顔とどうようにぶくぶくと土左衛門《どざえもん》のようにふとっているが、中風で腰から下が自由にならないらしく、車いすにすわっている。  いすの両側についている車の輪を両手でまわして、それでへやのなかくらいは、どうやらいききができるらしい。  その老人のそばに立っているのは、さっき階段のとちゅうで見た少女で、やっぱりそれが早苗だった。  等々力警部の案内で、この屋根うらのへやへはいってきた、三津木俊助と探偵小僧の御子柴進は、思わず顔をしかめずにはいられなかった。  てんじょうのひくいそのへやは、風とおしも悪く、採光も十分でないので、うすぐらくて、いんきで、しかもなんとなくへんなにおいがただよっている。それは、人間のあせのにおいらしかった。 「お嬢さん、あなたはゆうべ怪盗X・Y・Zをごらんになったそうですね」 「はあ」  と、早苗はかすかに身ぶるいをして、口のなかで小さく答えた。 「それはどういう状態のもとにですか。あなたのおじさまの死体にいつ気がついたのですか」 「それはこうでございます」  と、早苗は小さな声で、 「きのう、あたしお友だちと、音楽会へまいりましたの。かえってきたのは十二時ちかくでございましたろうか。あたしのへやは一階なのでございますが、いつもこのおじいさまにお休みをいって、それからやすむことにしております。それで……」 「ふむ、ふむ、それで……?」 「それで、このおへやへあがってこようといたしますと、お二階のへやのドアがあいていて、なにやら物音がいたしますでしょう」 「なるほど、それで……?」 「それで、おじさまがまだ起きていらっしゃるのかと、ひょいとなかをのぞいてみました。すると……」 「ふむ、ふむ、すると……」 「はあ、へやのなかはてんじょうの電気は消えていて、マントル・ピースのまえにある、フロア・スタンドにだけ電気がついておりました。だから、そのへんだけがあかるかったのですが、ひょいと見るとそこにあのひとが立っていて……」 「あのひととは……?」 「怪盗X・Y・Z……」  早苗はまたかすかに身ぶるいをした。 「ふむ、ふむ、それで、怪盗X・Y・Zは、いったいそこでなにをしていたんですか」 「そのときはよくわかりませんでしたが、あとから考えると、あのマントル・ピースのうえの鏡に、サインをしていたのではないでしょうか」 「なるほど、それからどうしました」 「あたし、びっくりして思わず大声をあげて叫《さけ》びました。すると、いきなり怪盗X・Y・Zがとびついてきて、あたしのからだをだいてバルコニーの外へひきずりだしました。あたしむちゅうで手足をバタバタさせていますと、そこへばあやがかけつけてきたので、X・Y・Zはあたしをつきはなし、バルコニーからケヤキの木にとびうつって、そのまま逃げてしまいました」  三津木俊助と探偵小僧の御子柴進は思わず顔を見合わせた。早苗の話は古川トミの話にそっくり符節《ふせつ》があっている。 「それから、あなたどうしました」 「あたし、怪盗X・Y・Zが、マントル・ピースのまえで、いったいなにをしていたのかと、こわごわ暖炉のそばへかえってくると、おじさまのあの恐ろしい……」 「あなたはあれをハッキリおじさまだと思いますか」 「まあ!」  と、早苗は大きな目を見張って、けげんそうに三津木俊助を見て、 「だって、おじさまのへやのなかで、おじさまのガウンを着て……」 「ああ、そう、わかりました。それからあなたどうしました」 「あたし、このおじいさまのことが心配だったので、あとはばあやにまかせて、このへやへとんできました。おじいさまは、あたしの声に目をさましたとかで、ベッドのなかでとても気をもんでいたんです」  そのへやのすみには、うすぎたないベッドが一台すえてある。 「なるほど。ところであなた加納達人という男を知っていますか」 「はい」  と、早苗は小さな声でハッキリ答えた。 「どういうお知りあいですか」 「どういうって、べつに……。岩本先生のところで、二、三度お目にかかったくらいのことで、ふかいお知りあいというのでもございません」 「ゆうべ、あなた加納達人のところへ電話をかけましたか」 「あたしが……? いいえ、べつに……」  と、早苗はふしぎそうな顔をしたが、それがほんとうの表情なのか、またいつわってそういう顔色をしているのか、それは進にもわからなかった。 「しかし、ゆうべ、高峰早苗という名まえで、加納達人くんのところへ、電話がかかってきたというものがあるんですが……」 「まあ、それはなにかのまちがいでしょう。そんなことは、ぜったいにございません」 「出ていけ! 出ていってくれ!」  とつぜん、そばからけだもののようにほえたのは、あの中風の岩雄老人である。  車いすのそばにあった、太いこん棒を手にとると、それをブンブンふりまわしながら、 「出ていけ、こら、出ていきおらんか。わしの孫をいじめると、どいつこいつのようしゃはせんぞ!」  目をいからせ、サンバラ髪《がみ》をふるわせながら、口からあわをふいて怒号《どごう》するすがたは、まるでものにくるった野獣《やじゆう》のようなすさまじさだ。  だが、そのとき、探偵小僧《たんていこぞう》の御子柴進《みこしばすすむ》は、ちょっとみょうなことに気がついた。  車いすの下にひっくりかえっている、スリッパのうらについているのはドロではないか。中風でへやから出られぬはずの老人の、スリッパのうらにドロがついているというのは……?    早苗《さなえ》と香苗《かなえ》 「やあ、三津木《みつぎ》くんか、昨夜は失敬、おやおや、探偵小僧もいっしょかい」  いま春秋座《しゆんじゆうざ》の「怪盗《かいとう》X・Y・Z」で大当たりをとっている新進劇団《しんしんげきだん》の座長|加納達人《かのうたつんど》は、芝白金台町《しばしろがねだいまち》にある高級マンション白金会館《しろがねかいかん》の四階三号室に、弟子の音丸一平《おとまるいつぺい》といっしょに住んでいる。  三津木|俊助《しゆんすけ》と探偵小僧の御子柴進が本郷《ほんごう》弥生町《やよいちよう》の殺人現場、進藤英吾《しんどうえいご》の邸宅《ていたく》から、とちゅうちょっと寄り道をして白金会館にまわったのは、もう午後も二時過ぎだったが、加納達人はまだベッドのなかにいた。  春秋座は一回興行で、芝居《しばい》は毎日午後六時からはじまるのだから、その点、座員一同はらくだった。 「加納、きみ、いままで寝《ね》ていたのかい」  ベッドから出てシャワーをあびて、パジャマのうえに、ガウンをひっかけたまま、ふらふらと応接室へ出てきた加納達人は、ゆうべ、夜ふかしでもしたのか、目をまっかに充血《じゆうけつ》させている。  三津木俊助と探偵小僧は、うたがいぶかい目を見かわせた。 「ああ、なにしろゆうべ……じゃなかった、けさ五時ごろまで、バカさわぎをしてたもんだからね」  と、加納達人は大あくびをして、それからきゅうに思い出したように、 「おい、音丸、腹がへった。朝飯《あさめし》をはやくしてくれ。おっと失礼、きみたち、飯は……?」 「なにをいってるんだ。もう午後二時じゃないか。昼飯もとっくのむかしに食べてきたよ」 「あっはっは、そうか、そうか。どうも役者という稼業《かぎよう》は、昼と夜とのくべつがつかなくていけないよ。ああ、それじゃ失敬してパクつくとするよ。音丸、お客さんにコーヒーでもいれてあげてくれたまえ」  朝飯だというのに加納達人のテーブルは、ごうせいなものであった。  たまごを三つも使ったかと思われる大きなオムレツに、野菜サラダがふんだんに盛ってあり、バターをたっぷりぬったトーストが三枚、ほかに牛乳びん二本ぶんははいろうかという大コップに牛乳がいっぱい。  それに食後のくだものが食べほうだいである。  三津木俊助と探偵小僧は、音丸がすすめてくれたかおりたかいコーヒーをすすりながら、加納達人の健たんぶりをながめていたが、やがて俊助が、そろそろ質問のほこさきを切り出した。 「加納、けさ五時までバカさわぎをしていたといったが、いったいどこでそんなさわぎをやったんだ」 「なあに、高池香苗《たかいけかなえ》のところだよ」 「高池香苗……?」 「そうさ、あれ、きみたち高池香苗くんを知らないの。ほら、ミュージカルの女王といま評判のたかい人気スターだ。ゆうべそこへわれわれみたいな連中が五、六人集まって、とうとう朝までバカさわぎをやってしまったのさ」  三津木俊助と探偵小僧は思わず顔を見合わせた。  高池香苗なら、むろんふたりともよく知っている。歌がじょうずで踊《おど》りがうまく、おまけに芝居もできるところから、いま人気絶頂のスターである。  だが、高池香苗と高峰早苗《たかみねさなえ》……?、それではゆうべの電話は高池香苗からだったのを、探偵小僧の御子柴進が高峰早苗と聞きちがえたのだろうか。  加納達人は、ふしぎそうにふたりの顔を見くらべながら、 「どうしたんだい、ふたりとも。何をそんなにジロジロぼくの顔を見てるんだい」 「だって、きみ、高池香苗のうちならたしか田園調布《でんえんちようふ》だと聞いてるぜ」 「そうさ、だから田園調布へいったのさ」 「だけど、きみは春秋座を出ると、深川《ふかがわ》のほうへ自動車を走らせたというじゃないか」 「あれ、どうしてそんなことを知ってるのさ」 「どうしてでもいい。そういう情報がちゃんとこっちへはいってるのさ。それについてひとつご説明をねがおうか」 「おやおや、それじゃ、まるで被告《ひこく》だね。あっはっは、まあ、いいや、ほんとのことをいおう」  ごうせいな朝食をたべおわった加納達人は、いかにも満腹したといわんばかりに、いすのなかにふんぞりかえると、進の顔をしり目にかけて、にやりとわらった。 「高池くんの注文というのが、怪盗X・Y・Zのふん装《そう》のままできてくれというんだ。それで集まったお客さんをあっといわせようというわけだね。そこで注文どおりのふん装で春秋座の楽屋口《がくやぐち》から出ていくと、なんだかへんなやつがウロチョロしてるじゃないか。そこで念のためにタクシーをぜんぜん反対の方角へ走らせてみたら、はたしてあとから尾行《びこう》してくるタクシーがある。こいつはおもしろい、ひとつからかってやれと思ったものだから、わざわざ深川までお出ましというわけだ。わっはっは」  進は、屈辱《くつじよく》のためにまっかになった。耳たぶまでもえるようだった。三津木俊助は、鋭《するど》くあいての顔を見守りながら、 「ときに、きみ、いま起きたばかりなんだね」 「ああ、そう、ごらんのとおりだ」 「それじゃ、けさの新聞はまだ見ていないんだね」 「ああ、見ていない。なにか変わったことでも出ているのかい?」 「じゃ、ちょっとこれを見たまえ」  加納達人はふしぎそうに、突きつけられた新聞の、赤えんぴつでしるしをつけてある記事に目を落とすと、ぎょっとしたように、まゆをつりあげた。  三津木俊助は注意ぶかく加納達人の顔色をうかがっていたが、あいてが読みおわるのを待って、 「きみ、その高峰早苗というお嬢《じよう》さんを知ってるだろう」 「ああ、知ってる。岩本博士《いわもとはくし》のところで二、三度あったことがある」 「きみ、加納!」  と、俊助はするどくあいての顔を見つめて、 「ゆうべ春秋座へ電話をかけてきみを呼び出したのは、高池香苗ではなくて、この記事にある高峰早苗さんじゃなかったのか」 「バ、バカな、そんなバカな!」  と、加納達人は言葉するどく打ち消すと、 「それがうそだと思うなら、高池香苗くんに聞いてくれたまえ。ゆうべ春秋座の楽屋へ電話をかけてきたのは、たしかに高峰早苗ではなく、高池香苗のほうなんだ」  へいぜんとしてうそぶく加納達人の顔をみて、進は、くやしそうにくちびるをかみしめた。  高峰早苗と高池香苗と、名まえが似ているのをさいわいに、加納達人はゆうべのうちに、早苗や香苗とばんじうまく取りつくろうよう、打ち合わせておいたのではあるまいか。    なぞの金塊《きんかい》 「三津木くん、本郷《ほんごう》弥生町《やよいちよう》の事件だがね。だいぶ、りんかくが、ハッキリしてきたぜ」  事件があってから、三日目のことである。  三津木俊助が探偵小僧の御子柴進とともに、警視庁の等々力《とどろき》警部のへやへはいっていくと、警部はいささかごきげんだった。 「はあ……どういうことですか」 「まあ、そこへかけたまえ。探偵小僧、きみにも話して聞かせてやろう」  ふたりがデスク越《ご》しに警部にむかって腰《こし》をおろすと、等々力警部は調査書類をめくりながら、 「まず被害者進藤英吾《ひがいしやしんどうえいご》と進藤英吾の妹の夫だった高峰栄造《たかみねえいぞう》、すなわち戦争中|爆死《ばくし》した早苗の父だね。それから岩本卓造博士の三人は、戦前|満州《まんしゆう》でいっしょだったそうだ。しかも岩本卓造博士とこんどの事件の被害者、進藤英吾はいとこどうしで、しかもおないどしになるんだ。だから、早苗の父の高峰栄造とあとのふたり、みんなしんせきになってるわけだね」 「ああ、なるほど」 「ところが、まず高峰栄造がその妻と、当時まだあかんぼうだった早苗をつれて満州からかえってきて、本郷弥生町のあの家を買いとったのが昭和十八年、すなわち終戦より二年まえのことなんだ。そうして家を買って落ちつくと同時に、郷里《きようり》九州のほうへあずけてあった岩雄《いわお》老人をひきとった……」 「はあ、はあ、なるほど」 「ところが、それから一年ちょっとおくれて昭和二十年の春のはじめに、栄造にとっては義兄にあたる進藤英吾がただひとりで、しかもほとんど無一物どうようのからだで満州からひきあげてきて、栄造のところへころがりこんできたんだ」 「なるほど。それから栄造夫婦が空襲《くうしゆう》で爆死したわけですね」 「そうそう、それから終戦をむかえたが、両親をうしなった早苗は、祖父《そふ》の岩雄老人とともに、無一文になってしまった。そこであの家なども、おじの進藤英吾の手にわたってしまったわけだね」 「しかし、進藤英吾も無一物どうようで、満州からひきあげてきたということでしたが、そういう男が、どうしてあれだけの家を買う金を手に入れたんでしょうねえ」 「そこだよ、三津木くん、問題は。あの進藤英吾という男は、以前からひそかに警察で目をつけていた男なんだ」 「警察で……? というと、なにか悪事でも……」 「いや、それがハッキリわからないんだが、ときどき貴金属商や歯科医やなんかに金のかたまりを売りにいくんだね」 「金のかたまり……?」 「そうなんだ。終戦以来ずうっとそうらしいんだ。金にはインフレはない。物価があがれば金の値段もあがる。それを少しずつ小出しに売っていたので、去年まで警察でも気がつかなかったんだ。ところが去年の秋、そうとうの金塊《きんかい》がヤミ市場《いちば》でうごいたので、はじめて進藤英吾の名まえがうかびあがってきたんだ」 「去年の秋といえば、岩本卓造博士が満州からひきあげてきたじぶんですね」 「そうなんだ」  と、等々力警部はニヤリとわらって、 「そこになにかいわくがありそうじゃないか。岩本博士夫婦も去年の夏満州からひきあげてきたときにゃ、無一文どうようだったはずなんだ。それが夫人のいう何千万円もするダイヤの首飾《くびかざ》りというのはマユツバもんにしろ、とにかくそうとうに暮らしている。その金はいったいどこから出たかということだね」 「わかりました、警部さん」  と、そばからこうふんして叫んだのは探偵小僧の御子柴進だ。 「進藤英吾は終戦直前に満州からひきあげてくるとき、ドッサリ金塊を盗み出して、もってかえったのにちがいありません。その秘密をいとこの岩本博士がしっていて、脅迫《きようはく》してたんじゃないでしょうか」 「まあ、そんなところだろうな。だから怪盗X・Y・Zが目をつけるのもむりはないと思うんだ」  探偵小僧と三津木俊助は、おもわずはっと顔を見合わせた。  等々力警部は進藤英吾を殺したのを、あくまで怪盗X・Y・Zと信じているようだが、探偵小僧はそれについて強い疑惑《ぎわく》をいだいているのだ。    血ぞめの自動車  早苗のおじ、進藤英吾が殺されてから一週間になるが、捜査《そうさ》はいっこうにはかどらない。  警察方面では怪盗X・Y・Zを犯人とみなして、やっきとなって捜索《そうさく》しているが、それでとらえられるようでは、怪盗といわれるねうちはないだろう。  また、警察では弥生町の邸宅のどこかに、なぞの金塊がかくしてあるのではないかと、極秘《ごくひ》のうちに捜索しているが、これまたいまのところ、なんの効果もあがっていない。  ところが事件が起こってから八日目のこと、ここにまたもや怪事件が突発してあっとばかりに世間の心胆《しんたん》を寒からしめたのである。  それは十一月八日の夜——と、いうよりも、九日の午前二時ごろのことだった。  隅田川《すみだがわ》にかかっている清洲橋《きよすばし》の下を通りかかっただるま船のよこへ、バサリとなにか落ちてきたものがあった。 「おや、にいさん、橋のうえから落ちてきましたぜ」 「辰吉《たつきち》、ひろいあげてみろ」  このだるま船のぬしは近江寅蔵《おうみとらぞう》、辰吉のきょうだいで、東京と木更津《きさらづ》のあいだを往復している、一種のべんり屋みたいなものである。  兄の寅蔵がカンテラで水のおもてを照らしてみると、なにやら大きなふろしきづつみが、ぶかぶかと川のうえに浮かんでいる。  弟の辰吉がカギざおでたぐりよせて、船のうえへひっぱりあげてみると、ふろしきづつみを帯かわでしめてあった。  辰吉がそのふろしきづつみをひらいてみると、なかから出てきたのはオーバーに洋服の上下、チョッキからワイシャツまでそろっていたが、 「わっ、にいさん、見てごらん。このオーバーや洋服にはぐっしょりと、血がついている……」  兄と弟は、だるま船のうえでまっさおになった。  この血ぞめの洋服は、すぐもよりの交番へとどけられたが、上着のうらにぬいつけたネームを見ると、T.Iwamotoと、ある。  このネームだけでは洋服のぬしの身もとはわからなかったが、九日の早朝になってさらに奇怪《きかい》な事実が発見されて、あっとばかりに、捜査隊をおどろかせたのだ。  清洲橋をむこうへわたった深川|清澄町《きよすみちよう》のみちばたに、乗用車が一台乗りすててあった。  通りがかりのひとがなにげなく、運転台をのぞいてみて、あっとばかりにきもをつぶした。運転台がぐっしょりと血にぬれているのである。  報《し》らせによってかけつけてきたおまわりさんが調べてみると、ハンドルの下にぼうしがひとつ落ちていたが、そのぼうしにはあきらかに、ピストルでうたれたとおぼしいあながあいており、これまたぐっしょりと血にそまっていた。  さいわい運転台のポケットのなかに、車の免許証《めんきよしよう》があったので、自動車の持ち主はすぐわかったが、それは新小川町《しんおがわまち》に住む岩本卓造博士の乗用車であった。  この報告が警視庁へはいったとき、ちょうどさいわい、三津木俊助と探偵小僧の御子柴進もきあわせていたので、いっしょに現場へかけつけてみると、ゴム風船みたいな岩本夫人も、新小川町からかけつけていた。 「はい、これは主人の車にちがいございません。それにこの洋服もオーバーも、きのう主人が着て出たものでございます。主人はこのさきのQ・R金属工場へ勤めているのですが、きのう出がけに今夜はおそくなるからといって……」  と、あとは涙《なみだ》で言葉にならなかった。  岩本卓造博士はいとこの進藤英吾の初七日《しよなのか》をすませ、きのうの夕方ひさしぶりに工場へ出勤したのだが、夜の十時ごろじぶんで乗用車を運転して工場を出たが、それきりゆくえがわからないのである。 「このようすでみると、岩本博士はうしろの座席へだれかをのっけたんだね。そいつがうしろからピストルで博士の脳天を狙撃《そげき》し、そのあとで博士をすっぱだかにした……」 「しかし、警部さん、犯人はなぜ博士をすっぱだかにしたんでしょう」 「そりゃ、探偵小僧、いうまでもない。博士の死体が発見されたとき、だれだか身もとがわからないようにするためさ」 「しかし、こうして血ぞめの自動車をおっぽり出しておいたら、博士になにか変わったことでもあったんじゃないかってことが、すぐわかってしまうじゃありませんか」 「いや、おそらく犯人はこの乗用車も、川の底へ沈めてしまうつもりだったんだろう。それがなにか故障が起きて、車をそのままにして逃げ出したんだ」 「警部さん、そして犯人とはだれでしょう」 「奥さん、それはいうまでもありません。怪盗X・Y・Zにきまってます。いちど血の味を知ったおおかみは、いまや血にくるっているのです」    地下の洞《どう》くつ  岩本卓造博士が殺害されたとおぼしい、十一月九日の夜八時ごろのことである。  探偵小僧の御子柴進が、そろそろ社をひきあげようとしているところへ電話がかかってきた。 「もし、もし、そちら新日報社《しんにつぽうしや》ですか、探偵小僧の御子柴くんはいますか」  と、みょうにボヤけた声である。 「はあ、御子柴ならぼくですが……」 「なあんだ。きさま探偵小僧か」 「そういうあなたはだれですか」 「おれだ、怪盗X・Y・Z……」  進はぎょっとして、 「その怪盗X・Y・Zが、なにか用ですか」 「ふむ、きさまによいことを教えてやろうと思うんだが、三津木俊助はまだいるかい」  進は、すばやく室内を見まわして、 「ええ、まだいらっしゃいます。三津木さんになにかご用ですか」 「いいや、きさまでいい、本郷弥生町の進藤英吾のうちを知ってるね」 「もちろん、よく知ってます」 「よし、それじゃ進藤のうちの東どなりに、戦災をうけてへいだけ残り、あとは廃《はい》きょみたいになっているうちがあるのを、知ってるだろう」 「ええ、知ってます」 「じつはあの地所も進藤のものなんだ。昭和二十二年に進藤が、もとの持ち主から買いとって、わざと廃きょのままほったらかしてあるんだ。そのわけがわかるかい」 「いいえ、わかりません。どうしてですか」 「それを知りたかったら、今夜三津木俊助とふたりで、廃きょのなかにしのんでろ。ただし、ひとに知られちゃダメだぜ。そうすりゃ、なにもかもいっさいのなぞがとけらあ。あっはっは!」  高らかな笑い声が耳底にひびいたかと思うと、ガチャンと受話器をかける音。 「探偵小僧、どうしたんだ。いったいだれからの電話なんだ」  気がつくと、三津木俊助がそばへきている。 「三津木さん、じつは……」  と、進がこごえでいまの話をすると、 「ようし、いってみよう。だまされたらだまされたときのことだ」  三津木俊助と探偵小僧のふたりは、勇躍《ゆうやく》して新日報社をとびだしたが、それから三十分ののち、遠くで自動車をのりすてたふたりは、まんまと指定された廃きょのなかにしのんでいた。  怪盗X・Y・Zも指摘《してき》したとおり、コンクリートのへいだけはきれいに残っているが、一歩なかへ踏《ふ》みこむと、建物はすっかり焼け落ちて、いまだにいたるところ、がれき[#「がれき」に傍点]の山となっており、草ボウボウとおいしげっている。  この廃きょとコンクリートのへい一つへだてたとなりが、進藤英吾の邸宅だ。  二階のバルコニーの外に、このあいだ怪盗X・Y・Zがつたって逃げたというケヤキの大木が見えている。  そのうえが、岩雄老人のいる屋根うらで、十時ごろその屋根うらの窓に、早苗らしい女の影がうつったが、それからまもなくあかりが消えたのは、早苗が祖父《そふ》におやすみをいって階下へおりていったのだろう。  三津木俊助や探偵小僧にも、これからなにごとが起こるかわからない。  しかし、かれらはしんぼうづよく待つことにした。廃きょの片すみのがれき[#「がれき」に傍点]の山に、ぴったりと身を伏せている。  十一時半ごろ、屋根うらの窓にぱっとあかりがついたかと思うと、三津木俊助と探偵小僧はおもわず、ぎょっと息をのみこんだ。  なんとその窓にうつった影は、怪盗X・Y・Zにそっくりではないか。  だが、ふたりがあっと叫《さけ》んだしゅんかん、あかりは消えて、窓はまたもや、もとのくらやみにもどった。 「三津木さん!」 「いや、もう少しようすをみていよう」  三津木俊助ははやる探偵小僧をおさえて、なおもようすをうかがっていたが、十二時ごろになって、だれやらこの廃きょへはいってきた。  くらがりのなかなので、ハッキリすがたは見えないが、黒い影はふたりのかくれているがれき[#「がれき」に傍点]の山を通り過ぎると、足音をしのばせ十メートルほどむこうにある、おなじがれき[#「がれき」に傍点]の山のかげへはいったかと思うと、そのまますがたは消えてしまった。 「おや……」  ふたりはなおも物かげにかくれたまま顔を見合わせていたが、それから三分ほどたってから、とつぜん拳銃《けんじゆう》の音が聞こえた。しかもそれは地の底からきこえたのだ。 「三津木さん!」 「探偵小僧、来い!」  ふたりがむこうのがれき[#「がれき」に傍点]の山をまわってみると、なんとそこにはポッカリと井戸のようなたてあなの口があいているではないか。  しかも、そのたてあなの底のあたりで、格闘《かくとう》するような足音がみだれていたが、やがて、それもシーンとしずまって、あとは地獄《じごく》のしずけさである。  ふたりはしばらく、だれかあがって来はせぬかと、井戸の底をのぞいていたが、五分たっても、十分たってもあがってくるものはない。 「探偵小僧! いってみよう!」  そのたてあなには、鉄ばしごがついていた。ふたりがそれをつたってもぐりこむと、井戸の深さは五メートルあまり、底には水がなくて、そのかわり横あなの口が開いている。  ふたりは懐中電燈《かいちゆうでんとう》を照らしながら、その横あなを四つんばいになってはっていったが、いくこと約十メートル、ちょうど進藤家との中間あたりに、ちょっと広いどうくつがあり、そこにだれか人が倒れている。 「だれか!」  三津木俊助が声をかけたが返事はなく生きているのか、死んでいるのか身動きもしないのである。  おそるおそるそばへよってみると、男がひとり、手足をしばられてきぜつしている。見おぼえのない男であった。 「あっ、三津木さん、あれを!」  見ると、コンクリートで固めた洞《どう》くつのかべのうえに、大きく白ボクで書いてあるのは、 『進藤英吾が満州より盗みかえりし大金塊を引き渡す。ただし謝礼として、その三分の一をもらいうけるものなり。 [#地付き]X・Y・Z』  そしてそこには、かまぼこがたの金ののべ棒が、山のようにつんであった。    怪盗はだれ? 「ふむ、ふむ。そして、そのどうくつでしばられてきぜつしてたのが、殺されたと思っていた進藤英吾だったんだね」  そのよく日の正午過ぎ、白金会館へ三津木俊助と探偵小僧がたずねていくと、けさはあんがい早起きをしたとみえ、加納達人はのんきな顔でギターをひいていた。 「そうなんだ。そして、このあいだ殺されてストーブのなかへ顔をつっこんでいたのが、岩本卓造博士だったんだ」 「おやおや」 「岩本博士と進藤はおないどしのいとこ同士だから、からだつきはもとより顔もちょっとにている。しかし、岩本博士は顔じゅうにクマみたいにひげをはやしているから、だれもそれほど似ているとは気がつかなかった。そこで進藤は博士を殺して身代わりに立て、じぶんはつけひげをして、岩本博士になりすましていたんだ」 「しかし、それを奥さんが気づかなかったのかい?」 「気づかなかったといっている。しかし、これはどうだかわからない。あるいは気がついていながら、大金塊に目がくらんで、進藤の味方をしていたのかもしれん」 「あの女ならありそうなことだ。欲の皮のつっぱった女だからな。しかし、進藤もいつまでも博士になりすませているのは困難だと思って、博士が殺されて、隅田川へ投げこまれたように見せかけたんだね」 「そうなんだ。博士には脅迫される、警察の手はせまってくる。そこで博士を殺して身代わりに立て、いったん博士になりすましたのち、これまた殺されたように見せかけて、金塊をもって高とびをするつもりだったんだ」 「なるほど」  と、うなずきながらギターをかきならしている、加納達人の顔をきっと見て、 「加納、ここで告白しろ。岩本博士が殺された晩、進藤家にあらわれたX・Y・Zとはきみじゃないのか」 「あっはっは」  加納達人はゆかいそうにわらうと、 「いいじゃないか、そんなこと……」 「いいや、よくない。ほんとのことを告白しろ」 「よし、じゃ白状しよう」  達人はギターをおくと、ニヤリと笑って、 「早苗さんは殺されてるのをおじだと思った。そして犯人を祖父だとかんちがいしたんだ。と、いうのは死体を発見してじいさんのへやへかけつけると、じいさんのすがたが見えなかったんだ。じいさん、中風のまねをしているが、ほんとは歩けるんだ。そして、ときどき地下道のなかを金塊をさがしてさまよっていたんだ。早苗さんはそれを知らない。てっきりじいさんが犯人だと思って、ぼくのところへ救いを求めてきたんだ。そこでああいうひと芝居《しばい》をうったというわけだ」 「だが、加納!」  と、三津木俊助はするどくあいてを見つめて、 「ここにいる探偵小僧は、みょうなことをいうんだ」 「みょうなことって?」 「怪盗X・Y・Zとは新進劇団の座長、加納達人ではないかと……」  加納達人はしばらく無言でひかえていたが、だしぬけに爆発《ばくはつ》するような笑い声をあげた。 「探偵小僧! ばくぜんたる疑惑《ぎわく》だけでものをいっちゃいかんぞ。それならそれでちゃんと証拠《しようこ》をおさえてこい。あっはっは、音丸、コーヒーを三つ」 角川文庫『怪盗X・Y・Z』昭和59年5月25日初版発行