幻の女 他二篇 横溝正史 [#表紙(表紙.jpg)]  目 次   幻の女   カルメンの死   猿と死美人 [#改ページ] [#見出し]  幻の女    黒ん坊アリ  日比谷のかどに立っている、グランド・ホテルの壮麗な表玄関。  秋風がプラタナスのしなびた落ち葉を、カラカラともてあそんでいる、その白い石だたみの上に、今しも一台の自動車がはいってきて、とまったかと思うと、中からひらりと飛びおりたのは、さよう、としのころは十九か二十ぐらい、小柄で、抜けるように色の白い青年だった。  柔らかそうなビロードの冬帽子をスッポリとかぶり、近ごろ流行の裾《すそ》のながい外套《がいとう》をひきずるように着流して、眼には大きな青眼鏡をかけているのである。 「アリ、荷物を頼んだよ」  と、青年がうしろをふりむいて言うと、 「おお」  と、妙な返事とともに、ゴソゴソと自動車の中から這《は》いだしたのは、これまた、青年とは正反対な、雲つくばかりの大男。あわててそばへよろうとした表玄関つきの玄関番も、びっくりして立ち止まったくらいである。  無理もない。この男ときたら、せいの高さは六尺有余、肩幅が衣紋竹《えもんだけ》のように広くて、胸の筋肉が隆々と盛りあがっているのである。太い猪首《いくび》が固いカラーにしめつけられて、まるで青竹の上にゴム風船をのっけたよう、おまけにこの男の色の黒さはどうだ、まるで鍋墨《なべずみ》でもくっつけたように、黒光りに光っている顔の中で、二つの眼だけが西洋皿のように白く光っているのである。  むろん日本人ではなかろう。いま青年がアリと呼んだところをみると、ひょっとするとこの男インド人ではなかろうか。 「アリ、荷物はいいね」 「おお」  まるで牛のうなるような声なのだ。  驚きのあまりキョトンとしている玄関番を尻目《しりめ》にかけて、青年はホテルの中へはいっていくと、スタスタと大股《おおまた》にカウンターのほうへ近づいていった。そのうしろから例の大男が、大きなトランクを二個、かるがると両手に提《さ》げてついていくのである。  これが眼につかずにはいられない。ロビーにうろついていた数人の客が、思わず好奇にみちた眼を見はって、この異様な二人連れを迎えた。午後三時。——ホテルとしては一番閑散な時刻であったのが、この二人連れにとっては、まだしも仕合わせだったのである。 「部屋がありますか」  カウンターのそばへ近寄った青年が、ゆうゆうとして尋ねた。女のように、甘い、柔らかい声だった。 「はあ、あの——ございますことはございますが、どういうお部屋がよろしいので……」  うっかり大男のほうに気をとられていた番頭が、ドギマギしながら答えるのを、青眼鏡の青年はさりげなく聞き流して、 「二つつづきの部屋がほしいのですがね、この男もいっしょに泊まるのですから」  と、色の黒い従者を顎《あご》でさしながら、青年はカウンターの上にひろげてあった宿帳を引きよせた。 「はあ、ちょうどそういうお部屋がございます。しかし三階ですがいかがでしょうか」 「三階?」  と、青年は何気なくききかえしながら、手袋をはめたままの指で、宿帳をなでていたが、その指がふとページの上でとまると、 「おや、八重樫麗子《やえがしれいこ》?」  と、口の中でつぶやいて、 「きみ、この八重樫麗子というのは、近ごろアメリカから帰ってきた、ジャズの歌い手じゃありませんか」 「はあ、そうだそうですね。御存じですか」 「いや、知っているというわけじゃないが、向こうでは相当有名な女だそうだね。そう、あの人もこのホテルに泊まっているのだね。この二十三号室というのは何階ですか」 「はあ、お二階でございます」 「そう」  青年は軽く指で、ページの上をはじきながら、しばらく考えているふうであったが、 「どうだろう、その二階に空き部屋はないかしら。いや、別に八重樫さんがいるからというわけじゃないが、どうも三階は少し出入りに不便だからねえ」  この時、番頭がもう少し頭を働かしていたら、この青年のものごしにどことなく変なところがあるのに気がついたはずだった。カウンターのまえに立つと、いきなり宿帳を調べたり、そして八重樫麗子が二階に泊まっているときくと、急に二階の部屋にしてくれと言い出したり、そこに何かしら、容易ならぬ企《たくら》みがあるらしいことに気がつかねばならぬはずであったが、番頭は深く考えてみようともせず、 「はあ、あのお二階で。——こうっと——」  と別の帳簿をバラバラくっていたが、 「あ、ちょうどいいぐあいに、今朝ほどお発《た》ちになったお客様がございました。二十八号室ですから、八重樫さんのお部屋とは相当はなれておりますが」 「いや、別に、八重樫さんに用事があるというわけじゃないから、それでもけっこう、じゃ、それへ案内してもらいましょうか」 「はあ、どうぞ」  青年は手袋をはめたままの手でペンを取りあげると、スラスラと名前をしるした。番頭が横眼でのぞいてみると、  神戸市北長狭通三丁目    無職  及川 隆哉    従者  ア   リ  と、ある。番頭はなんとなく不安らしく額を曇らせたが、それでもすぐベルを鳴らしてボーイを呼んだ。 「二階の二十八号室へ御案内申し上げるんだよ」  それから、従者アリが提げている、二個の大トランクに眼をやると、いくらか安心したようにうなずいた。青年のほうではむろんそんなことには気がつかない。二十八号室というのに案内されると、いきなり彼は、ボーイをとらえてこう尋ねたのである。 「きみ、二十三号室というのは、この廊下の並びかい?」 「はあ、そこの廊下を曲ってから、二つ目の部屋がさようでございます」  ボーイは窓のカーテンをひらいたり、椅子《いす》のクッションをなおしたり、通りいっぺんのサービスをしてしまうと、それでもう用事はすんだはずなのだが、それでもすぐ立ち去ろうとはしないでなんとなくもじもじしながら立っている。チップにありつこうという、いちばんかんじんの用事が残っているからなのだ。  青年はそれと気がついているのかいないのか、たばこに火をつけると、ゆっくりと煙を吐きながら、 「八重樫さんというのは、ひとりでこのホテルに泊まっているのかね」  と尋ねた。よっぽど八重樫麗子のことが気になるらしいのだ。 「はあ、いいえ、あの、付き添いのかたが一人ついております」 「そう、そしてその付き添いの人、今いる?」 「つい今しがたお出かけになりました。なんでも横浜まで御用がございますそうで」 「横浜?」  及川隆哉《おいかわたかや》は青眼鏡のおくでちょっと眼を光らせたが、すぐさりげない様子になって、 「横浜とすると、帰ってくるのに相当ひまがかかるわけだね。八重樫さんはいる?」 「はあ、おいでのはずでございます」 「だれかお客様でも来てる様子かね」 「いいえ、そういう模様はありませんでした」 「すると八重樫さんは今一人きりでいるわけだね。何をしているかしら」 「お風呂《ふろ》じゃありませんか。さきほど、浴室のぐあいを見てさしあげましたから。でも、何か御用がございますのでしたら、私がお使いにまいってもよろしゅうございますが」  チップにありつきたいものだから、ボーイのやつ、せいぜい愛嬌《あいきよう》をふりまくのである。 「いや、ありがとう、なんでもないんだよ。ああ、アリ、例のもの用意できてるだろうね」 「はい」  例によって牛のうなり声みたいな返事だ。及川青年は安心したようにボーイのほうに向きなおると、 「いや、御苦労さまでした。それでは、きみ、これを」  青年がポケットに手を突っ込んだので、てっきりチップにありつけると心得たボーイが、欣然《きんぜん》としてまえへ進み出た時である。  廊下のドアに音もなく錠をおろした黒ん坊のアリが、つつつつつと蛇《へび》のように這《は》いよったかと思うと、いきなり、ボーイの体をうしろからガッキリと羽《は》がい締め。 「あ、何をするのです!」  驚いたボーイが身をもがいて、振りかえろうとするところを、いきなり大きな掌《て》が鼻と口をふさいだ。——ぬれたハンケチの甘酸っぱい匂《にお》いが、つーんと鼻から頭へぬけたからたまらない。 「ああ、——だれか来てえ、——人殺し——」  という言葉も口のうち、舌がもつれて、手足の動作が緩慢《かんまん》になって、眼の色がうわずってきたかと思うと、かわいそうにボーイのやつ、ぐったりと床の上に丸くなって倒れたのである。    怪青年 「ふふ、うまく行ったようだね」  この様子を、眉毛《まゆげ》一つ動かさずに見ていた怪青年の及川隆哉は、ボーイが倒れたのを見ると、口にくわえていたたばこをポイと投げすてて、にんまりと笑った。それからボーイのそばによって瞼《まぶた》を邪険に、ぐいとあげて見て、 「よし、この分なら大丈夫、二時間ぐらいは覚《さ》めやしない。それじゃ、アリ頼んだよ」 「おお」  怪青年は、つと身を起こすと、外套をぬぎながら、急ぎ足で隣室へはいっていく。あとに残った黒ん坊のアリ、ぐったりとしているボーイの体をだきおこしたから、どうするのかと見ていると、衣服をはぎだしたから妙だ。  上衣を脱がせて、ズボンを脱がせて、そいつを片手にぶら下げて、隣室との境まで行くと、 「おお」  と、言いながらドアをたたく。 「オーライ」  ドアが細目にひらいて、華奢《きやしや》な腕がその洋服をうけとった。しばらくして、 「帽子、帽子」  と、いう声。黒ん坊のアリが見回すと、格闘のはずみに、脱げてとんだのであろう、顎紐《あごひも》のついた赤い縁なし帽子がすみのほうにころがっている。そいつを拾って持っていってやると、やがてドアが向こうがわからあいて、にやにや笑いながら姿を現わした怪青年、驚いたことには今はぎとった制服を身につけて、どこから見ても一分のすきもないボーイの身ごしらえなのである。 「ほほう」  と、黒ん坊のアリが眼を丸くして驚嘆するのを、尻目《しりめ》にかけた怪青年。 「どうだ、似合う?」  と、左のかかとでくるりと一回転してみせた。似合うも似合わぬも、赤地に金ボタンの制服が、あつらえたようにピッタリと身にあって、粋《いき》な帽子をはすにかぶったところなど、どう見たってりっぱなボーイさんである。 「よし」  と、うなずいた及川青年、 「それじゃ、ひと足先に行っているからね。おまえは念のためにこのボーイをしばりあげ、猿轡《さるぐつわ》をはめておいてからすぐ来ておくれ。ああ、ちょっと、廊下にだれもいやしないか」  黒ん坊のアリがそっとドアを開いて外をのぞいた。幸い、あたりに人影はなかった。閑散なホテルの中は、ちょうど古城のように、ひっそりと静まりかえっているのだ。 「じゃ、行ってくるよ」  と、さすがに緊張の色を眼に浮かべた及川青年、廊下へ出るとつつつつつと急ぎ足にそこの角を曲がって、ひイふウ、とドアの数をかぞえながら立ちどまったのは二十三号室のまえ。——八重樫麗子の部屋なのである。  コツコツとドアをたたくと、 「だれ?」  と、ずっと奥のほうで声がして、 「珠子《たまこ》さんかい。鍵《かぎ》はかかっていないわよ」  しめた! とばかりに怪青年。ドアを押して部屋の中へすべりこんだ。とっつきは玄関代わりのせまい部屋、その奥が麗子の居間兼寝室になっていて、さらにその向こうに浴室がついている。たぶん御入浴中でしょうといったボーイの言葉は間違っていなかった。  居間との境にかかっている厚ぼったいカーテンの向こうから、バチャバチャと湯を使う音がきこえるのである。 「珠子さん、どうだった、首尾は? 横浜のほうはうまくいって?——おや、今ドアがひらいたような音がしたけれど、珠子さんじゃなかったのかしら」 「はあ、あの奥さま、私でございますが」 「あら」  と、驚いたような声で、 「だれ? ひとの部屋へ無断ではいったりして」 「いえ、あの、私、ボーイでございます。ちょっと奥さまにお話がございまして」 「ボーイさんがあたしに? いやよ、あたし別にボーイさんに用事はなくってよ。だめ、だめ、はいって来ちゃーあ」  麗子は思わず浴槽《よくそう》の中に身を沈めると、きりりと柳眉《りゆうび》を逆立てた。 「まあ、失礼な。婦人が入浴しているのをのぞく人がありますか。ああ、おまえさんはいつものボーイさんじゃありませんね。新米なんでしょう、こんどだけは許してあげますから、早く向こうへ行って頂戴《ちようだい》」 「いえ、奥さま、それがぜひとも聞いていただかねばならぬことがありまして」  出ていくどころか、反対にカーテンを割って、ずいと中へはいってきたから麗子は驚いた。湯の中にひたったまま、あわてて、ありあうタオルで肌《はだ》を隠しながら、 「失礼な、出ていかなければ支配人を呼びますよ。よござんすか。支配人に言ってくびにしてもらいますよ。まアあきれた。平気なのね、なんてずうずうしいんだろう」 「奥さま、支配人をお呼びになろうと、くびにしようと、それは奥さまの御随意ですが、そのまえにぜひお話がございましてね」  と怪青年は麗子のおもてに鋭い眼をそそぎながら、また一歩まえへ進み出た。  思ったより美しくない女なのである。としは三十五、六、あるいはもっといっているのかもしれない、うば桜の残りの色香を、化粧の力で、しいて若く見せようと苦労している種類の女の脂粉のよそおいをこらさない時のみにくさが、あからさまに眼についた。麗子は気味悪そうに浴槽に身を沈めながら、 「話っていったいなんのことなの。ともかく言ってごらん、あ、そばへ寄っちゃだめ。そこで言いなさい」 「実は、奥さまに頂きたいものがあるのです」 「ほしいものがあるのですって。ああ、わかった、お金がほしいというのでしょう。ほほほほほ、そんなことなら、何ももったいぶらなくても、もっと早く言えばいいのに、ともかく、今は見らるるとおりのていだから、お風呂からあがってあげます。向こうへ行って待っていて頂戴」 「いいえ、奥さま、ほしいのはお金じゃありません」 「金じゃない? じゃ、いったい何がほしいというのです」 「はい、籾山《もみやま》子爵から、あなたにさしあげたお手紙がほしいのです」  そのとたん、上気した麗子の頬《ほお》から、さっと血の気がひいた。    浴室の恐怖 「おまえはいったいだれです」  麗子は浴槽の中で金切り声をあげると、 「ああわかった。きっと籾山子爵に頼まれて来たのでしょう。それなら帰って子爵にお言い、手紙は破ってしまったって」 「うそだ!」 「うそ?」 「うそだとも! 昨日もきみは子爵に電話をかけて、今もって古い手紙を持っていることをほのめかし、子爵を脅迫したじゃないか。さあ、その手紙をここへお出し」 「いやよ」 「いやだ?」 「いやですとも! 子爵も男らしくない。手紙が返してもらいたいなら、自分で来るがいいじゃないか。フン、こんな恐喝《きようかつ》がましい手にのってたまるもんか」 「恐喝とはなんだ。恐喝とはおまえのことじゃないか。古い恋文をたねに男をゆする貴様こそ恐喝じゃないか」 「ほほほほほ、なんとでも言うがいい。おまえさんはまだ若い。あたしと子爵の仲をよく知らないから、そんなことを言うのよ。とにかく出せないものは出せないんだから、そう思っておくれ」 「よし」  怪青年はきっと振り返ると軽く口笛を吹いた。それに応じて、カーテンの間からのっそりと首を出したのは黒ん坊のアリだ。 「どうだった。手紙は見つかったかい」 「いいえ」 「そうだろう。どうせこの女のことだもの、尋常《じんじよう》の場所に隠しておくはずがない。少し痛い目を見せてやろうよ。アリ、構わないからそいつを縛りあげておしまい」 「はい」 「あ、何をしやがる!」  もがいたところで男と女の力の相違だ。麗子は見る見るうちに裸体の上からタオルで巻かれ、その上から太い綱でぐるぐる巻きにされてしまった。 「どうだね、これでも手紙のありかを言わないかい」 「畜生!」  簀巻《すま》きにされて、白いタイル張りの床に投げ出された麗子、満面に朱をそそぎながら、 「だれが言うものか。こんなことで驚く麗子さんたア、麗子さんが違うんだよ」 「よしその言葉を忘れるな。アリ、構わないから少し痛めておやり」 「はい」  黒ん坊のアリが、太い角棒をとりあげて、こいつを縄目《なわめ》のあいだに突っ込んできりきりと、もむようにこじるその痛さ。 「あ、ああッ!」  と、麗子は唇《くちびる》をかみしめて、 「痛ッ、タ、タ!」  唇が破れてたらたらと血が流れた。 「どうだ、それでもまだ言わないか。アリ、少し手ぬるい。もっと強くやっておやり」 「おお」  黒ん坊が力をこめたからたまらない。タオルの下からはみ出した麗子の筋肉が、柘榴《ざくろ》のように真っ赤にふくれあがった。 「あ、痛ッ、タ、タ!」  と、悶絶《もんぜつ》しそうなうめきをあげながら、なおかつ強情に、歯をくいしばり、 「畜生! 畜生! どんなにされたって、だれが——だれが——」  と、言いかけて麗子はぷいと口をつぐんだ。その時、廊下のドアをノックするような音がきこえたからである。 「あ」  と、麗子は眼を輝かせて、 「だれか来てえ」 「畜生!」  いきなり怪青年が躍りかかって、いやがる麗子の口の中にぬれタオルを、めちゃめちゃに押しこんだ。ノックの音はまだきこえる。怪青年は声をひそめて、 「アリ、だれだかちょっと様子を見ておいで。付き添いなら構やしない。例の薬で眠らしておしまい。ほかの者ならまたその時のことだ」  アリは静かに棒をおくと、無言のまま浴室を出ていった。こんな時には、この男の石炭のような無表情がたいへん便利なのである。  間もなく廊下のドアがあく音がして、それにつづいて男の声。どうやら付き添いではなかったらしい。浴室にいる二人の耳に、男の声が筒抜けにきこえてくるのである。 「さきほどお電話をかけておいた、新聞社の者ですがね」  浴室にいてこれを聞いた麗子が、さっと喜悦の色を浮かべ、はげしく身動きをしようとするのを、片足でしっかと踏んまえた怪青年、ポケットからすらりと細身の短刀をひきぬくと、そいつを麗子の胸に擬《ぎ》しながら、 「静かにしておいで。動くとこれだよ」  チクリと刃物の先が麗子の肌を刺す。麗子は唇の色まで真っさおになった。廊下のほうではまだ押し問答がつづいている。 「それは困りましたな。さきほどあんなに固くお約束しておいたのに。いや、まだ一度もお目にかかったことはありません。しかし、ぜひともお伺いしたいことがあるのです、ああ、御入浴中ですか。それなら、お出になるまで待ってますよ。とにかくこの名刺だけ通じておいてくれたまえ」  客は玄関の間に座りこんで、梃《てこ》でも動こうとはしないらしい。間もなく一枚の名刺をもったアリが、困ったような渋面《じゆうめん》をつくって浴室へ引きかえしてきた。 「どうしたい? 帰りそうにないのかい」 「だめです」  アリが牛のようなのろさで言った。 「とても強情なやつです」  怪青年はさっと額をくもらせて、 「そいつは困ったな。ぐずぐずしていて、付き添いにでも帰ってこられたらそれこそたいへんだ。畜生! 新聞記者とはやっかいなしろものが舞いこんで来たものだな。いったい、八重樫麗子にどんな用事があるのだろう。アリ。ちょっとその名刺をお見せ」  名刺を見ると新日報社社会部、三津木俊助《みつぎしゆんすけ》とあった。怪青年はさっと顔色を失って、 「こいつはたいへんだ。同じ新聞記者でも三津木俊助ときたら、すばしこいので有名だ。いま売り出しの男だよ。いったい、なんの用事があってここへ来たのだろう」  麗子を見ると、猿轡をはめられたまま、にやにやと笑っている。 「畜生ッ、こいつわれわれが困っているのを見てよろこんでやがる、今に助けてもらえると思ってるんだろう。だが、どっこい、そうは問屋がおろさないぞ」  ふいに怪青年の頬にぽっと、くれないの色がさした。何か逃げ道を考えついたらしいのだ。 「アリ、そこにある湯上がりガウンを貸しておくれ、そうそうこの女のガウンだ。仕方がない。これよりほかにうまく追っ払う手はありゃしないもの」  言いながら怪青年、すばやくボーイの制服を脱ぎすてると、その上から麗子の派手なガウンを羽織った。そして、そこにあったクリームを、むちゃくちゃに頬《ほお》になすりつけると、 「それじゃね、アリ、湯上がりですから、ほんのしばらくでおよろしかったら、麗子がお目にかかりますって、そう言って頂戴」  と、いいながら、かぶっていたボーイの制帽を取れば、こはそもいかに、長い髪の毛がはらり肩の上にこぼれ落ちたではないか。  さすがの麗子も、これを見ると、思わずぎょっとして眼を丸くしたのである。  おお、なんたることぞ!  今の今まで、男だとばかり思っていたこの怪人物は、意外も意外、実は妙齢《みようれい》の美少女だったのである。    幻の女賊 「なんでございますか。こんな失礼ななりをしているのですけれどお許しなすって」  奇怪な少女はガウンの褄《つま》をとりながら、俊助に椅子をすすめた。窓のカーテンを下ろして、わざと薄暗くした一室なのである。 「失礼は私のほうこそですが」  と、俊助は大きな青眼鏡をかけた相手の顔に、鋭い一べつをジロリとくれると、 「あなたが八重樫麗子さんですか」 「はあ、さようでございます。あらいやですわ。そんなに顔を御覧なすっちゃ。——何かおかしなことでもございまして」 「いや、そういうわけじゃありませんが、私はもっとあなたをお年寄りかと思っておりましたのに、こんなに若くておきれいなので、ちょっと意外に感じましたよ」 「あら、ほほほほほ!」  怪少女は、こころよい嬌笑《きようしよう》をひびかせると、 「あたしどうしましょう。日本の新聞記者のかたって、みんなそんなにお世辞がいいのでございますの」 「そうそう、アメリカにはずいぶん長くおられたそうですね」 「ええ、向こうのほうが故郷のような気がするくらいですの」 「どのくらいになりますか」 「そうね」  と、指折って勘定しているふうであったが、急にはっとしたらしいのを笑いにまぎらして、 「まあ、お人の悪い、うっかり年齢がわかっちまうところでしたわ。それよりあなた、御用というのはなんですの」 「それがね、少し奇妙なお尋ねなのです」  と、三津木俊助はテーブルの上にぐっと体を乗りだすと、 「あなたは長くサンフランシスコにいられたから、ファントム・ウーマンという名をお聞きになったことがあるでしょう。日本語に翻訳すると、幻の女とでもいうのですかね。そういう名前で知られているあの恐ろしい女賊のことを。——」 「まあ、ファントム・ウーマンですって?」  怪少女はいくらかどもりがちに、 「ええ、それは、あの、ずいぶん評判でしたから」 「そうでしょう、なにしろ女のくせに人を殺すこと、大根を切るくらいにしか心得ていないという、実に恐るべき殺人鬼ですからね。にっこと笑えば人を斬《き》るというと、まるで国定忠治みたいですが、まあ、そういった種類の女なのです。しかも、だれ一人その女の正体を知っている者はいない。ここ数年間、サンフランシスコの警察では、血みどろになってこの殺人鬼とたたかってきたのですが、しかも相手が女性であるという以外には何一つわかっていない。いや、少なくとも、ついこのあいだまでわかっていなかった。ところが最近になって、この幻の女の一味がとらえられて、そいつの口からはしなくも、驚くべき事実が暴露しました。というのは麗子さん、幻の女とは実に日本人だということがわかったのですよ」  怪少女はそのとき、何気なくテーブルのひきだしをひらいた。見ると、ひきだしの一番上に婦人用の小型ピストルがのっかっているのだ。  怪少女は素早くそれをとって、ガウンのポケットに忍びこませると、 「まあ、あのファントム・ウーマンが日本人ですって?」 「そうなんです。しかもね。近ごろ、日本へ舞いもどった形勢があるというのです。たしかなことは電報ですからよくわかりませんが、そう信ずべき筋があるらしいのですよ。これは向こうの新聞社から、わが社へごく内々に知らせてきたのです。が、どうやら幻の女が、先日横浜へ着いた春雷丸で日本へ渡ったらしいという電報なのです」 「まあ」  怪少女は驚いたように眼を見はって、 「春雷丸といえば、あの麗子——いえ、このあたしが乗ってきた船じゃありませんか」 「そうなのです。私のお尋ねしたいというのもその点なので、あなたは船中、これは怪しいと思うような女を見かけはしませんでしたか」 「さあ」  怪少女は首をかしげて考えるふうであったが、急に恐ろしさに身ぶるいをすると、 「まあ、なんて恐ろしいことでしょう、あの幻の女が、この日本へ、しかもあたしと同じ船で——いえ、いえ、あたし気づきませんでしたわ。だってあたし、航海中ほとんど船室にとじこもったきりでしたし、それにそんな女のことですもの、きっと上手に変装していたにちがいありませんわ」 「そうです。サンフランシスコでつかまえられた子分の自白によりますとね、幻の女というのは非常にたくみに男装をするのだそうです。男装をすると、ちょっとみわけがつかなくなるといいます。もっとも、もともと女のことだから、いくらか小柄で、体つきも華奢《きやしや》であったそうです。そこでお尋ねというのは、船中でそういう女のような男に、会いはしなかったかということなのですが」  怪少女はしずかにポケットに手をすべりこませると、ピストルの引き金に指をかけた。汗ばんだ掌《て》の中で、ピストルの柄《え》が蒸《む》されたようにヌラヌラとぬれているのだ。 「さあ、あたしいっこうに。——なにしろあたしときたら、それはぼんやりなものですから、おお、寒い」  と身をふるわした拍子に、ピンク色のガウンがすり落ちて、むっちりとした肩が現われた。 「あら」  と、怪少女はわざと仰山《ぎようさん》そうに顔をあからめて、 「少し湯ざめしたのかもしれませんわ。あの、そのことでしたら、あたしの秘書にでもお尋ねになっていただけませんかしら。秘書なら、何か気づいていることがあるかもしれませんわ」 「はあ、そしてその秘書のかたは?」 「ええ、今ちょっとお使いに行っているのですけれど、もうすぐ帰ってまいりましょう。階下のロビーででもお待ちくだされば、お知らせ申しあげますわ」  その時、怪少女がまたもや、ピンク色のガウンの間から、すばらしい素足の曲線をちらとのぞかせたので、俊助はもうそれ以上がんばるわけにはいかなくなった。 「ああ、そうですか」  と、残り惜しげに立ちあがると、 「それではそういうことにいたしましょう。下でお待ちしていますから、秘書のかたが帰ってきたらすぐお知らせ願います」 「ええええ承知いたしました。ほんとうにお役にたちませんで失礼いたしましたね。でも、なんてこわいことでしょう。あの恐ろしい幻の女が日本へやってきたなんて、今にきっと、東京でも恐ろしい事件が起こるのでしょうね」 「われわれもそれを心配しているのですよ。いや、御入浴中をどうもおじゃまいたしました」  俊助が出ていったあと、怪少女は急いでドアの錠をおろすと、ほっとしたように太い息を吐き出した。今まで緊張していたので気がつかなかったけれど、全身にビッショリ汗をかいて、なんともいえないほど気持ちが悪いのである。  怪少女は思わずブルブルと身ぶるいすると、ガウンの裾《すそ》をさっとひるがえしながら大急ぎで浴室の中へはいっていった。 「アリ、ぐずぐずしちゃいられないよ。さあ大至急、この女に白状させなきゃ」 「おお」  アリは邪険に麗子の髪の毛をつかむと、ぐいとその顔をあげさせた。麗子の蒼白《そうはく》のおもてにはさっきとうって変わった、恐怖の色がいっぱいに浮かんでいる。怪少女は浴槽のふちに片足をかけ、相手の額をのぞきこみながら、 「ちょいと麗子さん、つまらない仁義なんか一切《いつさい》抜きにしましょうよ。ねえ、それで率直にお尋ねするんですけれど、例の手紙どこにありますの。さあ、言って頂戴よ」  麗子は黙っている。無言のまま、穴のあくほど相手の顔をみつめているのである。怪少女はその肩に手をかけて、激しく体をゆすぶりながら、 「さあ、言わないか。言わなきゃ、こちらにも考えがあるよ」  そういう相手の顔をじっとみつめていた麗子は、ふと激しく身ぶるいすると、 「ああ、ちがいない、やっぱりそうだ。なんて恐ろしいことだろう!」  と、何やらわけのわからぬことをつぶやくのだ。 「まあ、何を言っているのさ。それより手紙のありかを言わないか、言わなきゃ。——」  と、すらり引きぬいた鋭い刃物を相手の胸につきつけながら、 「これだよ」  と、ずっと唇を噛《か》みしめた少女の、美しい双眸《そうぼう》には、そのとき野獣のような凶暴さがもえあがったのである。    恐ろしき花束  麗子の部屋を出て、階下へおりていった三津木俊助は、ふと思いついたようにカウンターのそばへよって、宿帳をしらべて見た。八重樫麗子の秘書として、鈴村珠子《すずむらたまこ》という名前が書きつけてある。 「きみ、きみ、この鈴村珠子というのは、八重樫さんとこの秘書の名前だろうね」  番頭が、 「はあ、たぶんそうだろうと思います」 「そう、それじゃ、この人が帰ってきたら、すぐぼくに知らせてくれたまえ。ぼくは向こうのロビーで待っているから」 「はあ、承知いたしました」  俊助はロビーへはいると新聞のとじ込みをとりあげて、しばらくあちこちと引っくりかえしてみた。すると、その時ふと、 「八重樫麗子という女が、このホテルに泊まっているかね」  と、聞いている声が耳にはいった。  何気なくロビーからのぞいてみると、色の浅黒い、背の高い、りっぱな顔立ちをした紳士が、カウンターのまえに立っている。鼻下と顎にたくわえた美髯《びぜん》が、この紳士の秀麗な容貌《ようぼう》の上に、犯しがたい威厳をそえているのだ。  俊助は思わずはっとした。この紳士の顔に見覚えがあったからである。  紳士というのは、貴族院の闘士として有名な、籾山子爵なのである。 「はてな、あの有名な籾山子爵が八重樫麗子のような女に、いったいどういう用件があるのだろう。あのいかがわしいアメリカ下りのジャズの歌い手に。——」  俊助がぼんやりそんなことを考えているうちに、子爵はカウンターのまえを離れて、悠然《ゆうぜん》と大理石の階段をのぼってゆく。たぶん、八重樫麗子を訪問するのであろう。これが赤新聞か何かの記者なら、これだけでもすばらしい特ダネであるにちがいなかったが、俊助はこういうことに対して至って興味が薄いほうであった。忘れるともなく忘れてしまった彼は、ふたたび新聞を読みはじめた。  それからおよそ、どのくらいたったか。ふと急ぎ足に近づいてくる人の足音がしたので、顔をあげて見ると、ボーイがそばへよってきて、 「さっきお話のあった、八重樫さんの付き添いのかたが今帰ってきました。ほらあの階段をのぼっていく女がそうですよ」  言われてロビーから外をのぞいてみると、今しも大理石の階段を急ぎ足でのぼっていく、女のうしろ姿がみえた。麗子の秘書というから相当の年齢だと思っていたのに、なかなかどうしてまだ若々しい体つきをした、背の高い女だった。黒っぽい、地味な洋装をしているからなんだけれど、もし派手な着物でも着せようものなら、まだまだ十分、男の心をひきつけるような、捨てがたい色気をうちに包んだ女なのである。 「あ、そう、あれが鈴村珠子なんだね」  俊助は新聞をおくと、ボーイにいくらかの金をつかませてロビーを出た。珠子の姿はすぐ見えなくなった。  それにしても籾山子爵はどうしたろう。まだ麗子の部屋にいるのだろうか。それだと、珠子を訪ねていくのに、少しぐあいが悪いが——と、そんなことを考えている時、階段の上に再び鈴村珠子の姿が現われたのである。  しかし、その様子がただごとではない。髪振り乱し、悶絶《もんぜつ》するような格好で両手をうちふっていたが、ふいに、 「人殺し!」  と叫んだかと思うと、ばったりと大理石の手摺《てす》りの上に倒れかかった。その瞬間俊助はロビーをとび出して、ひととびの早さで階段の上へ駆けあがっていた。  彼はちょっと珠子のほうへ眼をやったが、何を思ったのか、そのまま彼女のそばを通りすぎると、急いで二十三号室のほうへとんでいった。見るとドアは開け放したままになっていて、そのまえに外人が二、三人、不思議そうな顔をして立っていた。  俊助は肱《ひじ》でそれをつきのけるようにして、部屋の中へはいると、玄関を抜けて居間へはいっていった。そこは、つい三十分ほどまえに、彼が八重樫麗子——彼はそう思っていたのだ——と会って話したところである。  見回したところ、別に異状があろうとは思えない。はてな、人殺しといったのはこの部屋の出来事ではなかったのかしら。そんなことを考えながら、浴室との境にかかっているカーテンを、何気なくまくりあげた三津木俊助、突然ぎょっとしたように息をのんだ。  浴室の中には、出しっぱなしになった湯がいっぱいあふれて、滝のような音をたてて渦《うず》巻いているのである。その中に女が一人、裸体の上からタオルでぐるぐる簀巻きにされて、蝋《ろう》人形のようにプカプカと浮かんでいた。見ると無残にえぐられた胸もとから、こんこんとあふれ出した血潮があたりの湯をほんのりと桜色に染めているのである。  俊助はそれを見ると、すぐズボンの裾をまくりあげ、じゃぶじゃぶと湯の中へはいっていくと、死体に手をかけた。が、そのとたん、どうしたのかふいに、わっというような悲鳴をあげると、あわててそばからとびのいたのだ。  無理もない。女の死体には左腕がなかったのだ。何かしら、鋭利な刃物で、ブッツリと断ち切られたとみえる肩口から、ホースのように血が奔流しているそのものすごさ。 「あ、たいへんだ!」  俊助のあとから駆けつけてきたボーイの一人が、ひと目このさまを見ると、腰を抜かさんばかりのありさまで叫んだ。 「八重樫さんが殺されている!」  その声に驚いて振りかえった三津木俊助、 「なんだ、八重樫さんだって? それじゃきみ、この女が八重樫麗子かい」 「ええ、そうですよ」 「間違いないかい。きみ、よくこの顔を見たまえ」 「間違いございませんとも。たしかに八重樫さんですよ。しかし、おや、あれはなんでしょう」  ボーイに言われて、ふと向こうの壁を見ると、白いタイル張りの上に何やら妙な模様のようなものが、大きく書いてある。たぶん、タオルか何かに血をしませて書いたのだろう。なま乾きの血がギラギラと無気味な光沢をおびて輝いているのである。 「なんでしょう、字らしいですね。最初のは平仮名のまの字じゃありませんか」 「そうらしいね。次はほの字かな。ま、ぼ、ろ、し、の、女——」  と、一字一字区切って読んだ三津木俊助、さっと顔色をかえると、 「たいへんだ。きみ、すぐ警視庁へ電話をかけたまえ。それからこの部屋には絶対にだれも入れちゃいかん」  さあたいへんだ。ホテルの中は上を下への大騒動となった。すぐ眼と鼻の間にある警視庁からは、係官がおっとり刀でどやどやと駆けつけてくる。その中には俊助と仲のいい等々力《とどろき》警部の顔もまじっていた。たちまちホテルの周囲には非常線が張られる。ホテルの出入りには一々厳重な質問をうけなければならぬことになった。なにしろ国際的なホテルのことだから、その迷惑というものは非常なものであったが、事件が事件であるから、これもまたやむをえないのである。  そのうちに二十八号室の中から、猿轡をはめられたボーイが発見され、その口から犯人はどうやら黒ん坊の従者をつれた、及川隆哉と名乗る怪青年であるらしいことがわかってきた。しかも、三津木俊助の見聞によると、その及川隆哉というのは、実際は男ではなく、そいつこそ、幻の女ではないかという疑問も浮かんでくるのだ。むろんそのころには、当の怪少女も黒ん坊のアリも、とっくの昔に風をくらって逃亡していたのである。 「それにしても、きみはまた妙なところへ来合わせたものじゃないか。何か事件というと、いつもきみが居合わせるから、まったく妙な巡り合わせだね」  ホテルの中に臨時に設けられた捜査本部。その中で三津木俊助をとらえて、からかうようにそう言ったのは、おなじみの等々力警部、三津木俊助とは切っても切れぬ深い縁があるのである。 「そうだよ。今から考えると、われながら自分の迂闊《うかつ》さに腹が立ってならないんだよ」  と、俊助は吐きすてるように、 「ひょっとするとぼくは、幻の女その人にむかって、幻の女の消息をきいていたということになるのかもしれないのだ。なんて間のぬけた話だ。だが、——おや、だれか来たようだ」  そのとき一人のボーイが、大きなボールの箱をかかえて、この捜査本部の一室にはいってきたのである。 「騒ぎにとりまぎれて忘れていましたが、先ほど、使いの者がまいって、これを八重樫さんにさしあげてくれと言っておいていったのですが」 「なんだろう」 「花じゃないかと思うのですが——」 「よし、そこへおいていきたまえ」  ボーイが出ていくと、等々力警部は俊助と顔を見合わせて、 「だれか、贔屓《ひいき》客からでも贈ってきたのだろうね。とにかく、開けて見ようか」  等々力警部が手早く紐《ひも》を切って、ふたをひらいてみると、中から現われたのは案の定美しいリボンで結ばれた薔薇《ばら》の花束だった。その馥郁《ふくいく》たる匂いに警部は思わず顔をしかめながら、 「かわいそうに、嗅《か》いでもらいたい当の本人はとっくの昔に死んでいるのに」 「だれからだろう。贈り主の名刺はないかしら」  俊助はふと、さっき見た籾山子爵のことを思い浮かべながらそう尋ねた。それにしても子爵はいったいどうしたのだろう。 「さあてね」  と警部は何気なく、パラフィン紙に包まれた花束を持ちあげたが、その拍子に、 「や、や、こりゃなんだ!」  とすっとんきょうな声をあげたのである。その声に驚いてのぞきこんだ三津木俊助、これまたさっと土色になった。ああ、なんたることだ! その美しい薔薇の花束の中には、見るもなまなましい人間の片腕が一つ、ちょうど花に包まれた簪《かんざし》のように封じこめてあったではないか。 「麗子の片腕らしいですね」  だいぶしばらくして、俊助がやっとそれだけのことを言った。 「そうらしい。しかし、なんのためにわざわざ送り返してきたのだろう」  見るとその片腕は、最後の瞬間の苦痛を思わせるように、固く固く五本の指を握りしめているのだ。俊助はその指を一本一本ひらきながら、 「ごらんなさい。薬指にはめていた指輪を抜きとったらしいあとがありますよ。ひょっとしたらこの指輪を奪うために、腕を斬り落としていったのかもしれませんね」 「大きにそうかもしれない。しかし、それなら腕を斬らずとも、指だけ斬っていけばよさそうなもの。——」  と、言いながら警部はふと、その片腕が握りしめている小さな紙片に眼をつけた。 「おや、なんだろう」  と、開いてみると、  まぼろしの女  と、血のように真紅なインキで。——    刺青《いれずみ》双心臓 「三津木君、これは実に恐ろしい事件だぜ。きみは単純に、犯人は幻の女ときめてしまっているようだが、わしにはどうも不可解なところがある。きみの話をきいたばかりじゃよくわからないが、なんだか妙に辻褄《つじつま》の合わないところがある。そいつがわしには気にくわん。どうも妙だ。なんだかえたいの知れぬところがある」  グランド・ホテルの中に仮に設けられた捜査本部の一室なのだ。三津木俊助の電話によってたった今、駆けつけてきたばかりの由利《ゆり》先生は、相手からひととおり事件の輪郭を聴き終わると、しばらく考えをまとめるように、部屋の中を歩き回っていたが、急にピタリと立ちどまると、俊助のほうを見ながらそう言った。  あれから三十分ほどのちのことで、ホテルの中はまだ上を下への大混雑をきわめている。その混雑の中を、しらみつぶしに捜索してみようと、等々力警部が出ていったあとには、白髪の由利先生と三津木俊助の二人きり。  いまだ四十の壮者のくせに、七十の老爺《ろうや》のごとく白髪を頂いている由利先生は、かつて警視庁に奉職していたことがあるとはいうものの、現在ではその職もしりぞき、野《や》にあってもっぱら閑日月《かんじつげつ》を楽しんでいるのだから、犯罪事件といえば、いつの場合でも必ず顔出しするというわけではない。しかし、新日報社の花形記者、この三津木俊助とは妙にうまがあって、彼の懇請に応じて、よんどころなく乗り出すというのは、決して珍しい例ではなかった。  等々力警部にしても、かつての大先輩ではあり、別に警視庁の捜査をさまたげるような人ではないので、いやな顔もせずに、なるべく便宜を計るように心がけているらしい。 「それで先生、辻褄が合わないというのは、この片腕のことですか」 「そう、それもある。犯人はなんのために被害者の腕を斬り落としたのか。いや、それよりも、せっかく斬りとった片腕を、なんだってまた送りかえしてきたのか、それもたしかに疑問だ。しかし、それよりもわしには、もっと妙に思われることがいろいろとあるんだ」  由利先生はそう言って、しばらく考えこんでいるふうであったが、 「だが、こんなことをここで言っても始まらない。どうだろう、わしにも犯罪の現場を見せてもらえるだろうね」 「ええ、それはいずれ鑑識課の連中が引きあげたら、御案内するでしょう」 「よし、それじゃ、それまでに一つその片腕というのを調べてみようじゃないか。どうもわしには、こいつが臭くてならないんだが」  由利先生ははじめて、どっかと椅子に腰をおろすと、美しい花束のあいだから、あのなまなましい片腕を取りあげた。 「なるほど、こいつはひどい」  無残な斬り口を見ると、さすがの由利先生も思わず眉をしかめる。栄養のいい四十女の片腕なのだ。ぎゅっと握りしめた五本の指が、いかにも断末魔の苦痛を物語っているかのようで、上膊《じようはく》部にはめた太い黄金の蛇の腕輪が、きらきらと光っているのも、この場合、なんとなく不気味だった。 「三津木君、きみはこの腕輪をはずしてみたかね」 「いいえ、しかし、その腕輪がどうかしましたかね」 「女の趣味としては、こいつは少しあくどすぎる。見たまえ。幅二寸以上もあるぜ。こんな太い腕輪をはめているには、何かそれ相当の理由がなければならんと思うのだが」  由利先生はそう言いながら、バネ仕掛けになっている腕輪を、パチッと外したが、そのとたんはっとしたように頬の筋肉を緊張させた。 「ド、どうかしましたか」  と、あわててのぞきこんだ三津木俊助は、これまたドキリとしたように息をのみこんだ。無理もないのである。今まで、腕輪のために隠されていた筋肉が一ヵ所、狼《おおかみ》にでも食いきられたように、無残に、えぐりとられて、バックリとなまなましい口を開いているではないか。 「あ、これはいったいどうしたというのだ!」  と、驚く俊助を片手で制しながら、 「わからないかね。いや、今すぐわかるようにしてあげるよ。時にきみは今、八重樫麗子には付き添いの女が一人いると言ったね」 「鈴村珠子ですか」 「そうそう、その女をひとつここへ呼んでもらえないかね。ちょっと尋ねてみたいことがあるんだがね」 「承知しました。早速呼んできましょう」  俊助は足早に部屋を出ていったが、すぐ問題の女をつれてきた。まえにも言ったように、鈴村珠子というのは、黒っぽい洋服に身をつつんで、地味に地味にとよそおってはいるが、天性の麗質はおおうべくもなく、としこそ少し行きすぎたれ、残りの色香いまだうせやらぬ、すばらしく色っぽい美人なのだ。珠子は由利先生の鋭い視線にあうと、思わずおどおどしながら、 「あの、何かわたくしに御用でございましょうか」  と、言いかけたが、ふとかたわらのテーブルの上に眼をやると、 「あれ!」  と、二、三歩うしろに飛びのいた。 「いや、これは失礼。だしぬけにこんなものを見せられて、さぞびっくりなすったでしょう。実はあなたをお招きしたのはほかではない、この恐ろしい片腕なんですが、あなたはむろん、こいつに見覚えがあるでしょうね」 「はあ、あの」  と、珠子は唇の色まで真っさおになりながら、それでも気丈者らしく、 「奥様のでございますわねえ。その腕輪に見覚えがございますもの。まあ、なんてこわいことでしょう」 「そうそう、そのとおりなんですが、ところでお尋ねしたいというのはほかでもない。この腕輪の下に隠されていた八重樫さんの秘密なんですがね。ほら、ここにはこうして、腕輪の下に当たる部分だけ、筋肉がえぐりとられてあるでしょう。このえぐりとられた部分の上に、どういう秘密があったか、あなたは御存じじゃありませんか」 「まあ!」  珠子は思わず低い叫び声とともに、激しく身ぶるいをすると、 「はあ、あの、よく存じております。奥様はそれを見られるのをひどくおきらいになって、どんな場合だってその腕輪をお外しになることはありませんでしたが、たった一度だけ、わたくし、ちらと見たことがございます。それがまた、たいへん妙なものでしたので、わたくしいまだにはっきりと覚えております」 「妙なものというと、痣《あざ》ですか、黒子《ほくろ》ですか」 「いいえ、あの刺青《いれずみ》なんでございます」 「刺青?」 「はあ、奥様のようなかたに刺青があるなんてわたしまったく驚いてしまいましたの。すると奥様はたいへんこわい顔をなすって、このことは決して他言してはならぬとおっしゃるものですから——」 「なるほど、そしてその刺青というのは、どんな形をしていましたか」 「二つのハートを一本の矢が貫いている形でございました」 「なるほど、よくあるやつですな。昔の恋の記念というやつですな。いやありがとう。それだけわかればいいのです。時にあなたは、この殺人事件について、何か心当たりはありませんか」 「さあ、あの、わたくしいっこうに。……」 「いや、よろしい、それではお引きとりになってください。何かまたお尋ねしなければならぬことがあるかもしれませんが、その時にはよろしく願います」 「はあ、御用がございます節にはいつなんどきなりと。……」  と、なんとなくほっとした面持ちで出ていく女のうしろ姿を、由利先生は鋭い眼でじっと見送っていたが、やがてくるりと俊助のほうを振りかえると、 「どうだね。わかったろう、つまりこの馬鹿馬鹿しく太い腕輪は、その刺青を隠すためにはめていたというわけなんだね」 「よくわかりました。しかし犯人がそれをえぐりとってよこしたというのは、いったい、どういうわけでしょう」 「それはおそらく、この刺青を人に知られるということは、犯人にとっても被害者同様困ることがあったんだね。だが……ちょうど幸い、鑑識課の連中がおりてきたようだ。この間にちょっと、現場を見てこようじゃないか」  なにしろ、警察の者ではないのだから、なるべく警官のじゃまをせぬようにする必要があるのだ。鑑識課の連中がおりてきたすきを見て、二人は大急ぎで二十三号室のほうへあがっていった。  幸い現場はまだほとんど手がつけてなかった。由利先生もひと目その場の様子を見ると、 「これはひどい!」  と、思わず眉をしかめたが、すぐつかつかと白いタイル張りの浴場へはいっていった。 「なるほど、あれがきみの言った幻の女のサインだね。幻の女か、いやどうも」    マグネシウムの灰  由利先生はしばらく浴場の中央に突っ立って、あたりの様子をながめ回していたが、ふと壁の上方についている小さな空気抜きに眼をとめた。それは方五寸ぐらいの小さな孔《あな》なのである。由利先生はそのすきから向こうに見える天井をながめていたが、何を思ったのか、 「きみ、きみ!」  と、張り番に立たされているボーイを呼びこむと、 「きみ、あの空気抜きの向こうはなんになっているんだね」  と、尋ねた。 「はい、あの向こうはここと同じ浴場でございます。この廊下のならびの部屋は、全部同じ構造になっておりますので」 「ああ、そう、そして隣の部屋にはだれか客があるのかね」 「はい、それが八重樫さんは隣の部屋に人がいるのは困るといって、隣の部屋もいっしょにお借りになったのでございます。なんでも付き添いのかたが、夜だけ向こうへ行ってお寝《やす》みのようでございました」 「その部屋をちょっと見せてもらえないかね」 「承知しました」  ボーイに案内されて、隣の二十二号室というのへはいってみると、なるほど、いかにも無人の部屋らしく、がらんとして殺風景なところを除いては、全部二十三号室と同じである。 「先生、何かこの部屋に疑問がおありですか」  と俊助は不思議そうに尋ねる。 「いや、なんでもないのだが、あの空気抜きがちょっと気になるのでね」  由利先生はほかの部屋には見向きもせず、奥の浴場へはいっていくと、しばらく空気抜きの上の天井をながめていたが、ふとその眼を床のほうへ落とすと、 「ほら、見たまえ、だれかその浴槽のふちにあがっていた者があるんだぜ」  と、指さすところを見ると、なるほど、白いタイルのふちの上に、うっすらと土の跡がついている。由利先生はその土の跡を消さないように、浴槽のふちへあがったが、 「なるほど、こうするとこの空気抜きの孔から、隣の浴槽がひと目で見える。たしかにだれかが、ここから八重樫麗子の部屋をのぞいていたんだよ」  そう言いながら、由利先生はしばらく天井をながめていたが、やがてひらりと床にとびおりるとこんどは床の上に身をこごめて何か探しはじめた。探していたものはすぐ見つかったらしい。 「あった、あった、やっぱりそうだ!」  と、そういう声に三津木俊助がそばへよってみると、先生は床の上に落ちている薄黒い灰のようなものを拾いあげて、鼻の先で嗅いでいるところであった。 「三津木君、きみにはこれがなんだかわかるかね」 「どれですか」  俊助もそのそばへしゃがむと、指の先にそいつをつけて嗅いでみたが、すぐはっとしたように、 「先生、こりゃマグネシウムの灰じゃありませんか」 「そうだよ、あの天井を見たまえ、あそこにも少し黒いあとがついているだろう。つまりだれかがここで写真を撮ったのだよ。おそらくあの空気抜きの孔から、隣の浴場を撮影したのだろう、それもごく最近にね」 「なんですって?」  俊助は思わず眼を見はって、由利先生の顔を見直した。 「どうだ、わかったかい。これだけ見ても、この事件が何かしら、容易ならぬ複雑さをもっていることがわかるだろう。だれがなんのために、写真をうつしたのか、また、撮影された場面がどんなものであったか。——ああ、わしはその乾板《かんぱん》をひと目でいいから見たいよ。ひょっとすると、そこには恐ろしい殺人の場面がうつされているかもしれないのだ」  ああ、そんな馬鹿馬鹿しいことがありうるだろうか。殺人の場面が、写真の乾板に刻みこまれるなんて、そんなとっぴなことが信じられるだろうか。由利先生はあまり空想力が発達しすぎてはいないだろうか。——いや、いや、由利先生の想像はやっぱり間違っていなかったのだ。諸君はまもなく、ここで撮影された写真が、どんなに恐ろしいものであったか、そしてまた、その写真のために、どのような恐ろしい事件が起こったかおわかりになるだろう。  それはさておき、由利先生と三津木俊助の二人が、再びもとの二十三号室へ帰ってくると、そのとき卓上電話が激しく鳴りだした。 「おや、電話だ。八重樫麗子にかかってきたものなら、相手の名前をよく聞いておきたまえ」  俊助はすぐ受話器を取りあげたが、しかしそれは麗子にかかってきたのではなく、新日報社の編集長からかかってきたのを、交換台で気をきかしてこちらへつないだのであった。 「ああ、三津木君だね。どうだ、今夜の夕刊に間に合わせたいのだがやってもらえるかね」 「ええ、大丈夫です。これからすぐ社へ帰って原稿を書きます。ところでそちらのほうへ新しいニュースははいっていませんか」 「ああ、それがね、ちょっとおもしろいニュースがはいっているんだ。例の幻の女についてだがね」 「はあ?」 「今、サンフランシスコの新聞から電報がはいったばかりなんだが、幻の女には非常に大きな目印があるというんだ」 「目印というと?」 「つまりね、あちらで捕らえられた子分の自白によると、幻の女というやつは、左の腕に大きな腕輪、蛇の形をした黄金の腕輪だそうだがね、そういう腕輪をはめていて、その腕輪で刺青を隠しているんだそうだ」 「な、なんですって? 刺青ですって?」  俊助が思わず大声をあげたので、由利先生も驚いてそばへかけつけてくると、ピンと聞き耳を立てた。 「そして、その刺青っていうのは、いったい、どんな形をしているんですか」 「それがね、ごくありふれた図がらなんだが、なんでもね、二つのハートを一本の矢が貫いている。——と、そういう模様なんだそうだ」  俊助はそれを聞くと、あまりの驚きのために、思わず受話器を取り落としそうになった。    現場写真  さあ、わからなくなった。  たった今までわれわれは、幻の女こそ八重樫麗子殺しの犯人とばかり信じていた。ところが、意外にも編集長の言葉によると、八重樫麗子こそ、幻の女そのひとだということになるのである。  つまり幻の女は犯人ではなくて、被害者だということになるのだ。ああ、なんという変てこな錯誤だろう。もし八重樫麗子が幻の女であるとしたら、その幻の女を殺した犯人はいったい何者であろう。そしてまた三津木俊助が会って話をした、あの奇怪な美少女は何者であろうか。  さすがの由利先生もこの話をきくと、唖然《あぜん》としてしばし言葉もなかったが、やがてにやりと微苦笑をもらすと、 「ほうら、いよいよおもしろくなってきたぞ。こうこなくちゃ、わしの乗り出した甲斐《かい》がない」  と、われにもなくうれしげにつぶやいて、しきりに両手をこすり合わせているのである。  それにしても、いったいどこで間違ってきたのか、どこで話がこんがらがってきたのか。——だがこのことはしばらくお預かりにしておいて、筆者はこの事件のもう一方の大立者である、籾山子爵の身辺に起こった出来事について、お話を進めていくことにしようと思うのだ。  グランド・ホテルで奇怪な殺人事件があってから、一週間ほどのちのことである。  麹町《こうじまち》にある豪壮な籾山子爵の邸宅。  いつものように朝食ののち、書斎にとじこもって、朝の便できたおびただしい手紙に眼を通していた子爵は、ふとその中から奇怪な一通の封書を発見した。うわ書きを見ると単に籾山子爵の名前があるだけで、差出人の名もなければ切手もはってない。どことなく女の筆跡を思わせるような、細い紫色の書体をながめているうちに、子爵の額にはさっと暗い影が走った。  しばらく子爵は、この封書を開いてみようか、どうしようかと、思案をしているふうであったが、急に思い直したように卓上のベルを押すと執事を呼び入れた。 「何か御用でございますか」 「うん」  と、子爵はむずかしい顔をして、 「ここにある手紙だがね。だれがこの手紙を持ってきたか、おまえ知らないかね」 「はあ、どれでございますか」  篤実《とくじつ》そうな老執事は、ちょっとその名前のうわ書きをのぞきこむと、首をかしげて、 「さあ、けさ郵便受けにはいっていたのをそのままそっくりこちらへ持ってきたのでございますが、切手がはってございませんね」  と、ちょっと不安そうな顔をした。  政界の惑星といわれる籾山子爵には、味方も多かった代わりに敵も相当たくさんあった。ときどき無名の脅迫状や性質《たち》のよくない無心状などがまいこむのは珍しいことではなかった。 「御前《ごぜん》、またつまらない脅迫状ではございませんか。なんなら警察へ知らせましょうか」 「いや、まだ中を読んだわけじゃないのだ。まあいい、なに、たいしたことじゃないだろう」  と、子爵はわざとさり気なく言ったものの、額にかかる憂愁の色は隠すべくもない。老執事はなんとなく不安な気がした。  この一週間ほど、子爵の様子が眼にみえて変わったのである。つまらないことを妙に気にしたりなんでもないことに癇癪《かんしやく》を起こしたり、そうかと思うと電話のベルにもビクリとしたり、なんとなくただごととは思えない。以前にはお殿様にも似合わない、闊達《かつたつ》で、平民的なかたであったのに、……何かまた、政界にめんどうなことでも起こっているのじゃなかろうかと、忠義な老僕は、このあいだから心を痛めているところだった。 「爺《じい》や、もういいよ。さがっておいで。用事があったらまた呼ぶから」 「さようでございますか。でも御前、そんな怪しい手紙は、なるべく御覧にならないほうがよろしくはございませんか」 「いいから、おまえは黙ってさがっておいで」  と、きめつけられて老執事は、仕方なくしおしおとして部屋を出て行った。  その後を見送っておいてから、子爵はまた例の封筒をとりあげた。そしてしばらくためつすがめつそいつをながめていたが、やがて思いきったように封を切って中身を引き出したが、そのとたん、おやというように首をかしげる。  中から出てきたのは一枚のレターペーパーに、一枚の写真。子爵はとりあえずそのレターペーパーの上に眼を走らせた。   籾山子爵閣下。 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]   子細あってわたくしはこのような写真を手に入れました。この写真はおそらく子爵にとっては非常な価値あるものと拝察いたします。いずれ、そのうちになんらかの具体的な要求を申し上げますから、その時にはなにぶんの御援助をお願いいたしたく、まずは取り急ぎ御|挨拶《あいさつ》のみ申し上げます。 [#ここで字下げ終わり] [#地付き]まぼろしの女    子爵は不審そうな顔をして、写真のほうに眼をやったが、そのとたん、さすが沈着をもって鳴る子爵の秀麗なおもても、さっと紫色に変じたのである。  無理もない。それこそは八重樫麗子殺しの、あの恐ろしい現場写真だったのである。裸体の上を大きなタオルで簀巻きにされた麗子を中心に、右には黒ん坊のアリ、左には怪美少女が、短刀をつきつけてのぞきこんでいる。その三人が、おそらくマグネシウムを焚《た》く音にびっくりしておもてをあげたのであろう、おそろしいほどはっきりと写っているのである。  子爵の額には、見る見るうちに、汗がビッショリ浮かんできた。恐怖におののく眼は、うつろのように見開かれて、真っさおになった唇がわなわなとふるえた。ああ、子爵を驚かしたのは、この殺人現場の恐ろしさばかりではない。子爵は実にこの怪美少女の正体を知っているらしいのだ。 「ウーン」  子爵は思わず低いうめき声をもらすと、握りしめた拳《こぶし》で額の汗を、横なぐりにぬぐったが、そのとたん、だしぬけにさっとドアを開いて躍りこんできたのは二十歳ばかりのあまり美しくはないが、高慢そうな顔つきをした令嬢。 「伯父さま」  と、言いかけて令嬢はびっくりしたように子爵のおもてをながめている。子爵の驚きがあまり激しかったからである。 「あら、伯父さま、どうかなすって」 「いや、なに——京子《きようこ》、どうしたのだ。お行儀の悪い!」  と、たしなめながら素早く写真の上に、ありあう新聞紙をかぶせた。 「あら、ごめんなさい」  と、しかられて京子は不平らしく、 「だって、築地の伯爵さまがお見えになって、早く伯父さまにお目にかかりたいとおっしゃるんですもの」 「ああ、そうか。よしよし。今すぐ行くからね。時に久美子《くみこ》はいるかしら」 「知らないわ。あたし久美子さんの番人じゃなくってよ」  京子はブリブリとして肩をゆすぶりながら、バターンと音をさせてドアをしめたが、何を思ったのか、つと、身をこごめると、鍵《かぎ》孔からそっと中の様子をうかがっている。大家の令嬢としてははなはだけしからんふるまいであった。  子爵はそんなこととは気がつかない。新聞の下から例の写真をとり出すと、ズタズタに引き裂いて、そいつをストーブの中に放り込むと、上から念入りに石炭をかぶせた。  京子はそこまで見届けると、ニヤリと意地悪そうな微笑をもらして、そっと廊下の小陰に身を隠していたが、やがて子爵が出ていくのを見送っておいて、またぞろ書斎へ引き返してくると、ストーブの中をかき回しはじめたのである。  生まれつき意地悪で好奇心の強い彼女は、こんなことをするのがおもしろくてたまらないのだ。幸か不幸か、ストーブの火はまだそんなに燃えてはいなかった。京子は大急ぎで写真の破片をかき集めると、一度廊下の外をうかがっておいてから、テーブルの上でその写真を継ぎはじめたのである。  それはかなり骨のおれる仕事だった。しかし強い好奇心と、伯父に対する敵意とが、とうとうその困難にうちかったのだ。やっと元どおりに継ぎ終わると、しばらく彼女は、食い入るように写真のおもてに眼をさらしていたが、ふいにはっと息をうちへ引くと、顔色をかえてわなわなとふるえだしたのである。  しばらく京子はそうしてじっと考えこんでいるふうであったが、やがてニヤリと陰険な微笑をもらすと、卓上の電話を取りあげた。 「あの、もしもし」  と、あたりをはばかるような低声で、 「警視庁へお願いします」  と、そういったが、にわかに思い直したように、いったん電話を切って、電話帳をバラバラと繰ると、こんどはあらためて新日報社へかけて三津木俊助を呼び出した。 「あのもしもし、三津木俊助さまでいらっしゃいますか。子細あってこちらは名前を申し上げられませんが、あなたがあのグランド・ホテルの殺人事件を担当していらっしゃることはよく存じております。それでぜひともあなたにお見せしたいものがございますのですが——はあ、あの写真なんでございます。八重樫麗子さんが湯殿の中で殺されたときの、その現場の写真でございますの。はあ、ちゃんと犯人の姿も写っておりますわ。それでぜひともあなたにお目にかけたいのでございますけれど、今夜八時ごろ、丸ノ内のK劇場の二階の廊下まで来ていただけません? そうすればあたしこの写真をあなたのところへ持ってまいりますわ。ええええ、わたくし、胸に薔薇の花をさしてまいりますから、決して間違いございませんわ。今夜八時、K劇場の二階の廊下ですよ。ではどうぞお間違いなく」  京子はそこで電話を切ると、写真をかき集め、ポケットの中に入れると、大急ぎで書斎からとび出したが、そのとたん、 「あら、久美子さん!」  と叫んで、その顔はみるみるうちに、真っさおになっていった。    京子と久美子  ここで一応、籾山子爵の一家についてお話ししておかねばならない。  子爵は数年まえに夫人を失って以来、親戚《しんせき》のすすめもしりぞけて、ずっと独身でとおしていた。夫婦のあいだには子供がなかったので、亡くなった夫人の姪《めい》に当たる京子を、幼い時分から引きとって、養女同様に育ててきたのだが、近ごろまた久美子という若い女性を、どこからか引きとって、わが子同様にかわいがっているのである。  久美子の素性については、だれ一人知っている者はない。子爵が人に語ったところによると、彼女は子爵のふるい親友の遺児であるが、不幸にして幼時から孤児になって、田舎の婆《ばあ》やのところで育てられてきたのだが、その婆やも近ごろ死んだので、余儀なく子爵が引きとってやったのだということである。  しかし、だれの眼にも、子爵の久美子に対する愛情はひととおりではなかった。その愛しかたがあまり激しいので、ひょっとすると彼女は、子爵の隠し子ではなかろうかと、内々うわさする者さえあったくらいである。  この真偽はさておいて、京子にとってはこれがはなはだおもしろくないのである。生まれつきわがままで嫉妬《しつと》ぶかい彼女は、近ごろともすると、久美子に対する子爵の寵愛《ちようあい》が自分を凌駕《りようが》しそうなところへもってきて、相手のほうがはるかに自分より美しいときているので、嫉妬と憤懣《ふんまん》に耐えかねているのだ。  その久美子とバッタリとここで出会ったのだから、京子が真っさおになったのも無理はない。 「あら、久美子さん、あなたさっきからここにいらしたの」 「いいえ、いま来たばかりですわ」  久美子は平然として眉も動かさない。女としては上背のあるほうで彫像のようにととのった美しさのなかに、なるほど子爵の落胤《らくいん》とうわさされるのも不思議ではないほどの、高貴な品格をもっている。京子はその気品に気圧《けお》されたように、パチパチとまぶしくまたたきをしたが、それでも口だけは相変わらず達者なのだ。 「あなた、まさかあたしの話を立ち聞きしていらしたのじゃないでしょうね。もっとも、あなたのようなかた、それくらいのこと平気なのかもしれませんけど」  と、まるでたった今、自分が泥棒のように、鍵孔をのぞいたり、子爵の破り捨てた写真を、こっそりかき集めたりしたことは忘れてしまったかのような口吻《こうふん》である。 「いいえ、別に立ち聞きなんてした覚えはありませんけれど、でも、あなた、ひとに聴かれて悪いような話でもしていらしたの。第一このお部屋には、だれもいないはずだけれど、あなた独りごとでもおっしゃるくせがおありになって?」 「あら!」  京子はしまったという顔つきをしたが、それでもなかなか負けてはいない。 「いいわ。なんとでもおっしゃい。どうせあなたのような育ちのいいかたと、口ではかないっこないのわかっているんですから」  ぐいと肩をそびやかして、逃げるように足音あらく向こうへ行く京子のあとを見送って、 「いったい、どうしたんだろう、写真がどうしたとか、今夜八時にK劇場でどうとか言ったようだけれど、いったい、どこへ電話をかけていたのかしら」  京子の陰険な性質をよく知っている久美子は、なんとなく不安らしく書斎の中をのぞいてみたが、なぜか気になってそのまま行きすぎることができなかった。ついふらふらと部屋の中へはいると、何気なく卓上電話のそばへ近づいていったが、その時ふと彼女の眼についたのは、破り捨てたひとひらの紙片なのである。あわてて出てゆくはずみに、京子がひとひら落としていったものにちがいない、あの恐ろしい現場写真の破片だった。何気なく、この紙片を取りあげてながめていた久美子は、ふいにはっとしたように顔色をかえた。  われにもなく彼女は、胸をおさえてよろよろとよろめいたが、すぐきっと唇を噛《か》みしめると、あわてて受話器を外して、 「もしもし、ちょっとお尋ねしますけれど、今こちらから、どこかへお電話をかけましたわね。それ、どこへかけたのかわかりません?」 「はあ、あのちょっとお待ちください」  しばらくしてから、 「お待たせいたしました。丸ノ内の新日報社でございました」 「ああ、そう、ありがとうございました」  ガチャリと受話器をおいた久美子の顔には恐怖の色がいっぱい浮かんでいる。しばらくそうして、彼女は放心したようにたたずんでいたが、急にきっと眉をあげると、 「ええい、仕方がないわ。毒食らわば皿までってこともあるわ。もう一度やっつけるよりほかにしようがないのだわ」  彼女は何か決心したように、大急ぎで書斎をとび出すと、自分の部屋へも帰らず、そのまま表へとび出して、通りがかりのタクシーを呼びとめた。 「巣鴨までお願いいたします」  巣鴨で自動車をおりると、久美子はちょっと前後を見回しておいてから、ソワソワとした足どりで、狭い横町へ曲がりこんだ。ぬかるんだ雨上がりの迷路のような横町だった。その町をつきぬけると、向こうに広っぱがあって、サーカスの幟《のぼり》がひらひらと朝風にひるがえっているのが見えた。  そのサーカスのテントまで来ると、 「小父《おじ》さん、有井《ありい》さんいて?」  と、木戸の外で働いている老人をつかまえて、なれなれしく尋ねるのである。 「おや、だれかと思や久美坊じゃねえか。久しく見ぬ間に、ずいぶんきれいになったな」  と、そういう口吻《くちぶり》から察すると、久美子はこの木戸番の老人とおなじみらしい。 「そんなことどうでもいいからさ。有井さんいるかって尋ねているのよ」  と、久美子の言葉はにわかに伝法になって、それが子爵家に寄食しているお姫様とは、どうしたって考えられない。 「有井さん、いるよ。小屋の二階でごろごろしているはずだ」 「そう、ありがとう。小父さんお土産を忘れたから、これで何かうまいものでも食べて頂戴」 「こいつは済まねえな。そんな心配はいらねえのに」  爺さんのお世辞を聞き流した久美子が、危なっかしい梯子《はしご》を物慣れた足どりでのぼっていくとそこには丸太を組み合わせた上に、板を渡して茣蓙《ござ》をしいた、名ばかりの二階、脱ぎすてた衣裳や、曲芸に使う小道具などが、いっぱい散らかった薄暗い片すみに、小山のような肉体をもった男が一人ぽつねんとしてギターをかき鳴らしているのだ。 「有井さん」  という声に、ふと振り返った大男は、久美子の顔を見るとぎょっとしたように、 「おや、お久美坊、どうしたんだ。おまえこんなところへ来てかまわないのかい?」  と、そう言ったのは、このサーカス団の座頭《ざがしら》株、有井という力持ちの曲芸師だった。格別いい男というのではない。しかし、眉の太い、胸の厚い、いかにも頼もしげな男。久美子はそばへにじりよって、 「有井さん。久美子もう一度あなたにお願いあるの。ねえ」  と、男のたくましい膝《ひざ》に手をおいて、甘えるように、 「あなた、もう一度このあいだみたいに、黒ん坊のアリになってくださらない?」 「な、なんだって?」  と、有井はびっくりしたように、ギターをおいて、涙ぐんでいる久美子の手を握りしめたのだ。    劇場の惨劇 「ふうん。それで相手はどこのだれともわからないのかね」  妙に鋭い眼つきをして、そうきき返したのは由利先生である。 「ええ、それが向こうのほうで言わないのですよ。自分で言いたいだけのことを言ってしまうと、そのまま電話を切ってしまったものですから、ついきくひまがなかったのです」  こう説明しているのは、いわずと知れた三津木俊助なのだ。二人は今しも由利先生の宅から、自動車で丸ノ内の劇場へ駆けつけようとしているその途中だった。 「後で電話局へ電話で、向こうの番号でもきいてみればよかったね」 「それが、ちょうど折り悪しく客がすぐそばにいたものですから、ついききそびれてしまったのですよ。それにね、あまりだしぬけのことでしょう、八重樫麗子殺しの現場をうつした写真をお目にかけるから、今夜八時ごろK劇場へ来てくれなんて、あまり思いがけない電話なのですっかり面食らってしまったのですよ」  俊助はいくらかきまり悪そうに、弁解するように言った。 「まあ、それは仕方がないとして、するとやっぱりわしが想像していたとおり、あの二十二号室の浴室から八重樫麗子が殺されるところを、撮影した人物があるんだね」  由利先生はそう言うと、思わずさむざむと自動車の中で身をすぼめた。 「どうもそうらしいですね。実に奇妙な事件です。しかもそいつは、私にその写真を見せようというのです。むろん、相手はこの私が、最初からこの事件にかかりあっていることを知っているのにちがいありませんよ」 「なんにしても妙なことだ。わしはどうも最初からこの事件は気に食わんよ」  由利先生が吐き出すようにそう言った時、自動車はピタリとK劇場の表へ横づけになる。二人は切符を買って中へはいると、 「二階の廊下と言ったね」 「ええ」  と、急ぎ足で、広い階段にしきつめた、厚ぼったいカーペットを踏んで二階へあがっていった。  このK劇場というのは、もと都下一流の歌舞伎劇場であったのだが、近ごろでは経営者の方針が変わって、もっぱらトーキー封切場として客を吸収しているのであった。  今はちょうど、その映画の上映中とみえて、廊下のすみに二、三人の女案内人がひとかたまりになっているだけで、あたりには一人も客の姿は見えない。 「まだ来ていないようだな」 「それとも、待っている間に映画でも見ているのじゃありませんか」  俊助はドアのそばへ寄って、ちょっとのぞき孔から中をのぞいてみたが、むろん、この真っ暗な観客席の中から、見も知らぬ一人の女を探し出すというのは、容易なことではなかった。 「今に来るさ。まあ、ここでたばこでもすいながら待っていようじゃないか」 「そうしましょう。目印に胸に薔薇《ばら》の花をさしてくると言ってましたから、やってくればすぐわかるでしょう」  二人は廊下にある椅子に腰を下ろして、たばこをすいはじめたが、しかし問題の女はなかなかやってきそうにはみえない。時刻は五分とすぎ、十分とたって、間もなく正面の大時計が八時を示した。 「どうしたのだろう。まだ来ないね」 「ええ、八時ごろという約束でしたが、女のことだから少し遅れるのかもしれませんね」  俊助はそう言ったものの、やっぱりなんとなく不安なのだ。立ちあがって階段のほうへ行ってみたり、ドアのそばへ寄って観客席をのぞいてみたりしたが、それらしい姿は見えないのである。  間もなく大時計の針は八時十五分を示した。  と、この時である。今までしーんと静まりかえっていた観客席の中から、ふいに、何やらけたたましい叫び声がきこえてきたかと思うと、わっと雪崩《なだれ》をうって立ちあがる音、つづいて、あちこちのドアがバタバタと中から開くと、顔色を失った人々が、どやどやとわれがちに外へとび出してきたのである。 「あ、どうしたんだ!」  それと見るより由利先生、一つのドアへ突進していくと、中からもみあうようにしてとび出してくる人々の中をかきわけて、まっしぐらに観客席の中へはいっていった。  俊助もそのあとから続いてはいろうとする。しかし、悲鳴をあげてとび出してくる観客のために、二、三歩彼はうしろへ押し戻された。そのとたん、彼は思わず、 「あっ!」  と、低い叫び声をあげたのである。今しも観客にもまれながら出てきた一人の青年。——外套の襟《えり》を立てて、帽子をまぶかにかぶっているけれど、まぎれもなくこのあいだ、グランド・ホテルの八重樫麗子の部屋で会った、あの怪美少女ではないか。 「先生、先生、由利先生!」  叫んだが、先生はすでに観客席へもぐりこんでいる。あたりの騒ぎのため、俊助の声もとどかないらしいのだ。かえって、青年のほうがその声をききつけると、驚いたようにつと身をひるがえしていちもくさんに階段のほうへとんでいく。 「待て!」  とばかりに、俊助がその後を追おうとした時である。ふいにだれかがガッキリとうしろから首を抱いたかと思うと、やがてさざえのような拳骨《げんこつ》が、いやというほど俊助の顎《あご》へとんだ。 「あっ!」  と叫んでくらくらとそばの壁に身を支えた三津木俊助、その時、雲突くばかりの黒ん坊が、真っ黒な顔の間から、ニヤリと白い歯を出して笑いながら、いっさんに階段のほうへとんでいくのが見えた。それきり俊助は立ったまま、呆然《ぼうぜん》として一時的失神状態におちいってしまったのである。  なにしろとっさの出来事だし、それに折りからの混雑の中なので、だれ一人これに気がついた者はなかった。しかし、たとい気がついた者があったとしても、あまりの早わざにどうすることもできなかっただろう。  由利先生はむろんこんなことは知る由もないのである。総立ちになっている観客席の中へ分け入ったが、いったい、どうしてこんな騒ぎが起こったかというと、それはだいたい次のような事情であった。  この時、K劇場のスクリーンに映っていたのは「間諜Z」というスパイ劇であったが、劇中一人の美人が刺し殺される場面がある。刺し殺された女は画面いっぱいにのたうち回りながら、うめき声をあげるのだが、トーキーのことだから、そのうめき声は、暗い観客席のすみずみまで響きわたったのである。  ところが、そのうちに人々がふと、映画の発するうめき声とはまた別な、低い、気味の悪いうめき声を聞いて思わずぎょっとした。そのうめき声は映画の声ともつれあい、からみあいながら、絶えては続き、続いては絶える。低い、すすり泣くようなその声の気味悪さ! 人々が思わずぞっとしたように顔を見合わせた時、ふいに二階の一角から、 「あ、たいへんだ! だれかここに殺されているぞ!」  という、すっとんきょうな声がきこえたからたまらない。わっとばかりに人々は総立ちになったのである。  由利先生が駆けつけてきたのはこの時だった。ようやく騒ぎに気がついたものか、パッとばかりに場内に灯がついた。  その明かりで見ると、なるほど、前から三列目の端の椅子に、一人の女がぐったりとして、今にもすべり落ちそうな格好で腰を下ろしているのである。  由利先生はつかつかとそのそばへ寄っていった。そして女の顎へ手をかけて、ぐいと顔をあげさせたが、その拍子に白い首からどくどくと血があふれ出してきたのである。何か鋭い刃物で、たったひと突き、闇《やみ》の中からえぐられたものにちがいない。むろんすでに息はなかった。  さすがに由利先生も思わずブルブルと身をふるわしたが、ふと気がついてのぞきこんでみると、まごう方なく女の胸には一輪の薔薇の花がさしてあった。  あっ、無残! いうまでもなく、この女こそ、籾山子爵の姪、京子にちがいないのである。 「三津木君、たしかにこの女にちがいないね。ほら、見たまえ、この胸にさしている薔薇の花を。——」  と、そう言いながらふと振りかえった先生は、はじめてそこに三津木俊助の姿が見えないことに気がついたのである。    風の悪戯  グランド・ホテルにおける八重樫麗子殺しの犯人の目星もまだつかないのに、またしても今宵《こよい》、衆人環視の中で行なわれた、大胆不敵なこの殺人事件なのだ。由利先生が呆然《ぼうぜん》として立ちすくんでしまったのも無理ではない。 「三津木君、見たまえ、この女にちがいないぜ。きみが言ったとおり、胸に白い薔薇をさしている」  そう言いながら振り返った由利先生、はじめてそこに俊助の姿が見えないことに気がつくと、驚いて客席から廊下へ飛び出した。 「三津木君、三津木君!」  呼ばわりながら探してみたが、俊助の姿はどこにも見えないのである。野次馬がひとかたまりになって、ジロジロとこちらを見ているばかり。ああ、さっき黒ん坊の一撃に、もろくも気を失った俊助は、あれからいったいどこへ行ったのだろう。  何かまた、彼の身に間違いが起こったのではなかろうか。  それはさておき、いつまで探しても俊助の姿が見えないので、あきらめた由利先生が、むらがりよる野次馬を押しのけて、再びもとの観客席へ帰ってみると、意外にも被害者のそばに一人の紳士が立っているのである。  しかもその様子がただごととは思えない。  大きくみひらいた眼には恐怖の色をいっぱいたたえ、きっと噛みしめた唇のはしが、ヒクヒクとすすりなくように痙攣《けいれん》しているのだ。  何かある! と直感した由利先生、つかつかとそばへ寄ると、 「失礼ですが、あなたはこの御婦人を御存じですか」  と、いんぎんに尋ねながら、鋭い眼で相手の様子をうかがっている。見れば色の浅黒い、背の高い、顎髯《あごひげ》の美しい、どことなく犯しがたい威厳をそなえた紳士なのだ。  紳士は由利先生の言葉も耳に入らぬかのごとく、しばらく放心したように、京子の白いおもてを凝視していたが、やがてドシンと音を立ててかたわらの椅子に腰を落とすと、がっくりと両手の中に顔をうずめてしまった。そしてしばらくすすりなくような深い溜息《ためいき》をもらしていたが、やがて疲れたような顔をあげると、 「きみは警察の者かね」  と低い声で尋ねる。 「いや、そうじゃありませんが、しかし、まんざら関係のないこともありません。私は由利|麟太郎《りんたろう》という者ですが、あなたはこの御婦人を御存じですか」 「由利麟太郎——?」  紳士はぼんやりとつぶやくと、すぐ軽い驚きの色を浮かべて、由利先生の顔を見直したが、やがて低い声で、 「うむ、知っている。それはわしの姪だ」 「姪御さん? そして、あなたのお名前は?」 「わしか、わしは籾山子爵だ」  それを聞くと、由利先生は思わずぎょっとして相手の顔を見直した。  無理もない、籾山子爵といえば、グランド・ホテルの殺人事件の際にも、ホテルに姿を現わしたというではないか。俊助からそのことを聞いている由利先生は、その後、子爵が警察へ名乗って出るかと、心ひそかに期待していたのが、いっこうそれらしい様子もないので、いきおい子爵に対して、深い疑惑を感じていたおりからなのだ。その子爵がまたしても、今宵の殺人事件に際して、そばに居合わせるというのは、これが果たして偶然であろうか。 「これは失礼しました。なにしろあまり意外だったものですから」  と、由利先生は興奮した時のくせで、ソワソワと両手をこすり合わせながら、 「とにかく、このかたが姪御さんとわかってみれば、こんなとこへ放っておくわけにもまいらぬでしょう。とりあえず事務所へでもお連れしようじゃありませんか」 「ふむ、なにぶんよろしく頼む」  日ごろ剛腹をもって聞こえた子爵だが、この悲惨な姪の最期を目のあたりに見ては、さすがに気の毒なほど傷心している。としがいっぺんに十も二十もふけたように見えるのだ。  幸い、由利先生が呼びにいくまでもなく、折りから惨劇を聞き伝えた支配人や事務員が、真っさおになってドヤドヤとこの場へ駆けつけてきたので、それに手伝わせて、京子の死体を取りあえず事務所へ運びこむと、 「すまないが、だれかこの由をすぐ警視庁へ知らせてくれないかね。それからちょっと、このかたと話があるから、しばらくこの場を遠慮してくれたまえ」 「承知しました」  不安そうな顔をした支配人たちが、それでもしぶしぶ外へ出ていったあとで、改めて子爵のほうへ向き直った由利先生、 「子爵、それでは改めてお話を承ろうじゃありませんか。こんな際のことですから、腹蔵なく打ち明けていただいたほうが、お互いのために好都合だろうと思うのですが」 「何を話せというのだね」 「何をって、この姪御さんの殺人について御存じのことです」  それを聞くと、浅黒い子爵のおもてには、さっと怒りの表情が現われた。 「なんだ。わしが姪を殺したとでもいうのか」 「めっそうもない、だれが子爵を人殺しなどと申し上げましょう。ただ子爵の御存じのことを、ちょっぴりおもらし願えればけっこうなのです」 「ところが、ちょっぴりにもたくさんにも、わしにはいっこう心当たりがないのだから仕方がないじゃないか」 「ほんとうに子爵は何も御存じないとおっしゃるのですか」 「きみはくどいね。一度言えばたくさんじゃないか」  吐きすてるような鋭い語気の中に、貴族院の虎《とら》と異名をとった、子爵のはげしい性格がちらりと顔を出す。しかし、そんなことでへきえきするような由利先生じゃなかった。ニンマリと辛辣《しんらつ》な微笑を口辺に浮かべると、 「しかし、子爵、それではあなたはなんだって、今夜この劇場へいらしたのですか」 「映画を見にきたのさ。わしだってたまには、気保養に映画を見ることはあるよ」 「それはそうでしょうが、よりによって姪御さんの殺された現場へ、あなたがお見えになったというのはどうも少し不思議ですね」  子爵は答えようとはしない。きっと結んだ唇を見ると、これ以上のことは金輪際《こんりんざい》しゃべりそうには見えないのである。さすがの由利先生も取りつく島を失って、思わず白けきったところへ、コツコツとドアをたたく音がきこえた。  開いてみると、事務員がおずおずしながら、 「こんなものが洗面場に落ちていましたそうで。見るとこのとおりべッタリと血がついているのでひょっとしたらあの殺人事件に関係があるのじゃないかと思って、おとどけにまいったのですが」  見ると、派手な女持ちのハンドバッグなのである。 「ああ、そう、ありがとう。きみは向こうへ行っていてくれたまえ」  と、それを受け取ってバッタリとドアをしめた由利先生、子爵のほうへ向き直ると、 「子爵、これに見覚えがございますか」  べットリとぬれた血の色を見ると、子爵は思わず顔をしかめながら、 「姪のハンドバッグだね」 「なるほど、では中を調べてみましょう」  開いてみると、ハンケチだの、コンパクトだのにまじって、一枚の封筒がはいっている。何気なくそいつを開いてみると、中にはいっているのは、こまかく引き裂いた写真の破片。由利先生は思わずハッとしたように、 「あ、これだ、この写真です。姪御さんがわれわれに見せたいとおっしゃったのは……」 「なに? 写真?」 「そうです。この写真には、グランド・ホテルにおける殺人の現場が写されているはずなのです。こいつを継ぎ合わせてみたら、犯人の正体がわかるにちがいありません」  さすがに由利先生も興奮しているのだ。こまかい写真の破片をテーブルの上にぶちまけて、一枚一枚ていねいに継ぎ合わせる先生の手先は、われにもなくぶるぶるふるえている。だが、かたわらからそれをのぞきこんでいる子爵の焦燥はもっと大きかった。  由利先生の器用な指先によって、次第に写真がもとの姿をととのえていくに従って、子爵の顔にはおいおいと血の色がさしてきたが、やがてそれがひくと、唇の色まで真っさおになった。  間もなく写真は九分どおりまで継ぎ合わされた。あと一分で——もう二、三片継ぎ合わせれば、犯人の顔が浮き出してくる——。  だが、その時である。ふいに子爵がそばの窓をあけたからたまらない。さっと吹きこんできた一陣の風に、せっかく苦心して継ぎ合わせた写真が、ひらひらと宙に舞いあがると、あっという間もない。床一面に散らばってしまった。 「子爵!」 「や、これは失敬、失敬! どれわしもひとつ手伝って拾ってあげよう」  だが、しばらくして拾い集めた写真を、再びもとのように継ぎ合わせてみると、これはどうしたというのだ! かんじんかなめの、犯人の顔の部分だけなくなっているではないか。    覆面の踊り子 「子爵!」  由利先生が子爵の顔をきっと見つめながら、そう言ったのは、それからよほどたってからのことだった。さすがに先生も、内心こみ上げてくる怒りをおさえかねているらしいが、表面だけはそれでも至っておだやかに、 「こういうことが、子爵にとってどれほど不利であるか、わかっていただけるでしょうね。これはりっぱな証拠隠滅ですぞ」 「なんのことを言っているのだね。わたしにはいっこう、きみの言葉の意味がわからないが」 「いや、よろしゅうございます。いまさら身体検査をしたところで、あの写真のかけらを持っていらっしゃるようなあなたでないことはよくわかっています。写真のことはあきらめましょう。ところで子爵、あなたに折り入って相談があるのですが」  由利先生の言葉がにわかにおだやかになったので、さすがに子爵も気味悪そうに、 「なんだね、言ってみたまえ。わしにできることなら、なんでも応じよう」 「ありがとうございます。実は子爵にお尋ねしたいことがあるのです。グランド・ホテルでこのあいだ演ぜられた殺人事件ですね。子爵はあれを御存じですか」 「うん、いや、知っている。なにしろ近ごろ新聞で評判の事件だからね」 「いや、私がお尋ねしたのは、そういう意味ではありません。あの事件の被害者、八重樫麗子を御存じですかと申し上げているのです」 「八重樫麗子? いやいっこう知らないね」 「これは不思議ですね。子爵、うそをおつきになるなら、もっと上手におつきにならなければいけませんね」 「なに? わしがうそを言ったと?」  子爵は思わず声を荒らげたが、しかしその調子にはなんとなく力がなかった。由利先生はあざわらうように、 「そうですとも、いくら子爵がお隠しになってもだめです。実は新日報社の三津木俊助という男ですね、あの男が事件の当時、グランド・ホテルに居合わせたことは子爵も新聞で御存じでしょう。ところがあの男がひそかに私に話したところによると、あの日、あなたがホテルの帳場で、麗子の部屋を尋ねているのを見たというのですよ」  子爵はふいに太いうめき声をもらしたが、あくまで剛毅《ごうき》な彼は、すぐ気をとり直すと、 「それは何かの間違いだろう。それはわしじゃない。わしはそんな女はいっこう知らないのだ」 「そうですか」  由利先生が、あわれむように子爵の顔を見ながら、 「あなたがあくまで知らぬ存ぜぬとおっしゃるのならやむをえませんが、ねえ子爵、このところを一つわきまえてください。私は現在、直接警察に関係しているのではないから、子爵の秘密を承ったからって、即座にそれを警視庁のほうへ報告しようとは思いません。こう見えても私は十分秘密を守りうる男ですよ。その点、いささか世間の信頼を得ている人間なのですが、あなたのようにそうヒタ隠しに隠されると、私といえどもいくらか意地になります。知っていることを全部警視庁の連中に打ち明けたくなります。そうなるとかえって事が表|沙汰《ざた》になって、せっかく隠していらっしゃることも、明るみへ出るということになりますよ。いくらあなたが、ホテルへ行った覚えはないとおっしゃっても、番頭だのボーイだのと証人がある以上、そういつまでも白を切っているわけにもいかないだろうと思うのですがねえ」  事をわけた由利先生の言葉に、子爵のおもては次第に曇ってくる。見ると額には大粒の汗がいっぱい浮かんで、それを見ても子爵が内心いかに激しい苦悶《くもん》とたたかっているかわかるのだ。  しばらく子爵はきっと唇を噛みしめ、由利先生の顔を見守っていたが、やがてほっと太い溜息をもらすと、 「いや、恐れ入った。実はさっききみの名を聞いた瞬間、万事打ち明けて相談しようと思ったのだが、あまりかんばしい話じゃないから黙っていたのだ。しかし、きみは必ずこの秘密を守ってくれるだろうね」 「その点は、十分信用していただいてけっこうです」 「よし、それでは話そう」  子爵は決然として椅子を前に引きよせると、 「いかにもきみの言うとおり、あの日、ホテルへ麗子を訪ねていったのは、このわしにちがいない。実は、恥を言わねばわからぬが、若いころ、わしはしばらくあの女と同棲《どうせい》していたことがある」 「ほほう!」 「わしは生涯《しようがい》そのことを後悔しているのだが、彼女は実にふしだらな女で、一年ほど同棲しているうちに、不都合を働いて、突然わしのもとから出奔してしまった。爾来《じらい》、二十年あまりも消息がなかったものだから、おそらくどこかの果てで野たれ死にでもしたことだろうと思っていると、近ごろになって、突如手紙をよこして、元どおりいっしょになってくれというのだ。いやだといえば、むかしわしの書いた手紙を天下に公表するという——まあ、一種の恐喝だね」 「なるほど。その手紙には、何か子爵の都合の悪いことでも書いてあるのですか」 「いや、単なる恋文だがね。しかしきみ、現在のわしの地位を考えてみてくれたまえ。わしの生活というものは、まるで鋭い刃の上を渡っているようなものだ。味方もあるが敵もある。いや敵のほうが多いくらいだ。そいつらが寄ってたかって、わしをたたきつぶそうと思って、鵜《う》の目|鷹《たか》の目になっているのだ。そういう連中にこの手紙が渡ってみたまえ。どういうことになると思う」 「なるほど」  子爵の地位をよく知っている由利先生は、その言葉に深甚《しんじん》の同情を寄せるが、しかし、ただそれだけのことだろうか。若いころの不始末はだれしもありがちのことだ。子爵の敵がいかに陰険だったとしても、単に昔の恋文を手に入れたくらいでは、子爵をおとしいれそうにも思えない。そこには、子爵が語るよりももっと複雑な秘密があるのではなかろうか。  だが、由利先生は、しいてさりげなく、 「それで、あなたはその手紙を取り返しにいらっしゃったのですね」 「そうだ。ところが、教えられた二十三号室へ行ってみると——」  と、子爵は思わず声をのんで、 「あの始末だろう。手紙どころの騒ぎじゃない。倉皇《そうこう》として逃げ帰ったというわけだ」  と子爵は急に膝《ひざ》をのりだして、 「わしが犯人でないという、れっきとした証拠がここにある。というのは、わしにはあの女を殺す必要はなかったのだ」 「と、おっしゃると?」 「あの女——グランド・ホテルの二十三号室で殺されていた女だがね、あれは八重樫麗子じゃなかったからさ」 「なんですって?」  青天のへきれきとは、おそらくこういう時に使う言葉だろう。由利先生はしばらく呆然としていたが、急に大きく息をはずませると、 「あの女が——八重樫麗子と名乗って、グランド・ホテルに宿泊していた女がその実、麗子じゃなかったとおっしゃるのですか」 「そうさ。少なくとも、その昔、わしと同棲していた八重樫麗子はあんな女じゃない。あれはまったく見知らぬ女さ」  さあ、またわからなくなってきた。今の今まで八重樫麗子だとばかり信じていたあの女が、そうでないとすると、彼女はいったい何者なのだ。そしてまた幻の女とは、果たして何者のことだろう。事件はこうして、まったく幻のごとく、とらえどころもなく旋回していく。  しばらく、あっけにとられていた由利先生が、やっと気を取り直して、何か言おうとした時である。どやどやと入り乱れた足音とともに、大勢の男が部屋の中へなだれ込んできた。やっと警視庁の連中が到着したのだ。  等々力警部は素早く由利先生から、事のいきさつをききとると、 「ほほう、また幻の女ですか。それはまた妙な因縁ですな」 「妙な因縁?」  由利先生は不思議そうに、 「何かここに、幻の女と関連でもあるのかね」 「おや、先生は御存じないのですか。ほら、そこにもポスターがぶら下がっているじゃありませんか。覆面の踊り子——それがそうですよ」  なるほど、見れば、事務室の壁には、黒い覆面をした半裸体の踊り子の写真が大きくかかげてあって、その下に、 『新帰朝の女流舞踊家、覆面の踊り子K劇場に現わる』  と、そんな文字が見える。 「何者だい、この覆面の踊り子というのは」 「おやおや、それじゃ先生はまったく御存じないのですか。現に今夜も出演したはずですがね。実は警視庁のほうへ届けがあった時、本名じゃ差しさわりがあるからといって許可しなかったのです。それで、あのとおり覆面の踊り子ということにしたのですが、先生あれは八重樫麗子の女秘書、鈴村珠子ですぜ」  警部の話のあいだ、無言でこのポスターの写真を見ていた籾山子爵のおもてには、その時、どうしたのか、ふいにさっと激しい驚きの表情が浮かんだのである。    勝と負  子爵はいったい、何をあのように驚いたのであろうか。さらにまた、グランド・ホテルの二十三号室で殺されたのが、八重樫麗子でないとすれば、真実の麗子はどこに隠れているのだろうか。それらの疑問はしばらくさておいて、筆者はここに筆を転じて、その夜の三津木俊助の冒険について、お話をしなければならぬ。  話は少しあとへもどる。  あの黒ん坊の一撃に、もろくも一時、失神状態におちいった俊助は、しかし、すぐはっと気を取り直すと、いっさんに廊下をとんで階段をおりていった。見れば今しも例の黒ん坊が一台の自動車に飛び乗るところだ。俊助はわざとそいつをやり過ごしておいて、客待ち顔のほかの自動車に飛び乗ると、 「きみ、前へ行くあの自動車を尾《つ》けてくれたまえ。金はいくらでも払う。見失わぬようにどこまでも尾行してくれたまえ」 「オーライ」  運転手は慣れたもの、ハンドルを握り直すと、適当の間隔をおいて、たくみに前の自動車を尾けていく。自動車は日比谷から三宅坂をのぼるとやがて半蔵門、そこを左に折れたかと思うと、再び右折して、やがてピタリとその轍《わだち》をとめたのは、上二番町の閑静なお屋敷町。それを見るなり俊助も、半町ほど手前でひらりと自動車からとびおりると、 「きみ、すまないがしばらくここで待っていてくれたまえ。少し時間がかかるかもしれないが、いいかい、帰っちゃだめだぜ。合図をしたらすぐやってきてくれたまえ」  と、いくらかの金を握らせると、暗い物陰をよって、前の自動車へ近づいていく。見れば、今しも前の自動車から、一人おりてきて、小走りにそばの門の中へ駆けこむところだったが、その姿を見ると、いつのまに変装をといたのか、楚々《そそ》たる洋装の美人である。 「ウーン」  と、俊助が思わず低いうなり声をあげた時、前なる自動車は赤いテールランプをまたたかせながら、向こうのほうへ立ち去っていく。その後を見送っておいて、今しがた怪少女の消えていった邸宅の表へ、そろそろと近づいていった俊助の眼に、その時ふとうつったのは、   子爵  籾山 四郎  と、大理石の表面に書かれた六文字。 「ウーン。こいつはいよいよおもしろくなってきたぞ。するとあの怪少女は籾山子爵の親戚の者だな。はてな、令嬢かしら。いやいや、子爵にはたしか子供はなかったはずだが。……」  と、暗い道ばたにたたずんだ俊助が、とつおいつこんなことを考えている時、邸内の二階の一室にパッと明るい電燈がともった。どうやらあの怪少女の部屋らしい。しばらく俊助がその窓を見守っていると、やがて若い女の姿がうつった。何をしているのか、ひどくいそがしげに部屋の中を動き回っている様子だ。 (はてな、何をしているのだろう)  かたずをのんでその窓を見守っている三津木俊助。——五分、十分、十五分と時間は容赦なくすぎていくが、依然として窓にうつる影は、高麗鼠《こまねずみ》のようにいそがしく部屋の中を駆けずり回っている。そのうちに俊助はハッと気がついた。女は荷造りをしているのだ。 (高跳びをするつもりかな)  もうこれ以上ぐずぐずしているわけにはいかない。俊助は思いきって、つかつかと門の中へはいっていくと、ジリジリと玄関のベルをならした。ベルに応じて現われたのは、例の忠実な老僕である。 「どなたさまでしょうか」 「ぼくは三津木俊助という者ですが、お嬢さまにちょっとお話があるのです」 「どちらのお嬢さまでしょうか。京子さまですか。それとも久美子さまですか」 「ええ。……と、たしか二十分ほどまえに帰られたお嬢さまのほうですが」 「ああ、久美子さまですね」  と、爺やはいくらか警戒するように、 「いったい、どういう御用件でしょうか」 「お目にかかればわかるはずですから、とにかく取り次いでみてください。新日報社の三津木俊助と、そうおっしゃってみてくださいませんか」 「承知しました」  老僕は不安そうに首をかしげながら、いったん奥へひっこんだが、すぐ出てきて、 「どうぞこちらへ」  と、玄関のすぐそばにある豪奢《ごうしや》な応接間へ案内する。俊助が緊張に胸おどらせて待っているとやがて軽い足音とともに、 「爺やさん、こちら?」  と、若々しい女の声がしたかと思うと、ドアをひらいて顔を出したのは久美子。久美子はちょっと俊助の顔を見ると、すぐドアの外へ振り向いて、 「あ、爺やさん、あのすみませんが小石川の一九〇二番に電話をかけてくださいません。きょう届けていただいた洋服、少し身に合わないところがありますから、今からすぐ取りにきてくださいって。こちら久美子といえばすぐわかるわ。大至急よ。わかって、小石川の一九〇二番よ」  それだけ言っておいて、久美子は用心ぶかく、うしろのドアをしめた。 「失礼いたしました。あたし久美子でございますけれど、御用とおっしゃるのは?」  と、しいて平静をよそおっているものの、さすがに争われないのは顔色である。あおざめた額にはうっすらと汗さえ浮かんでいる。俊助はニヤリと微笑を浮かべると、 「お嬢さん、いつぞやは失礼しましたね」 「あら」  と、久美子は口ごもりながら、 「どこでお目にかかりましたかしら」 「お忘れですか、ほらグランド・ホテルの二十三号室でお目にかかったじゃありませんか」 「まあ、とんでもない。グランド・ホテルとやら、二十三号室とやら、あたしいっこう覚えがございませんけれど」 「だめですよ、お嬢さん、おとぼけなすっちゃいけません。あの時はこの俊助まんまといっぱい食いましたよ」 「あの失礼でございますけれど、そういうお話でしたら、またこの次ぎにしていただけませんか。あたし、今ちょっといそがしいのですが」 「ああ、そうですか」  俊助はむっとしたように立ちあがると、ドアのほうへ行きかけたが、ふと思い直したように、 「あの失礼ですが、ちょっと電話を拝借願えませんか。グランド・ホテルへかけてみたいのですが」 「グランド・ホテルへ?」  久美子は思わずよろよろとよろめくと、 「ホテルへ電話をかけて、いったいどうなさるおつもり?」 「なにね、あのとき怪少女に怪しげな薬を嗅《か》がされたボーイに、ちょっとここまで来てもらうのです。ボーイばかりじゃない。番頭にもいっしょに来てもらいましょう。そうすれば私の言葉が間違いかどうかすぐわかることです」 「あ、ちょっと待って!」 「何か御用でございますか」  久美子は息をはずませながら、しばらくじっと俊助の顔を見つめていたが、急にガックリと椅子に腰をおろすと、 「負けましたわ。三津木さま」  と、投げ出すように言って、 「さあ、なんとでもお好きなようにして頂戴」 「そうですか、それでは恐れ入りますが、ちょっといっしょに来ていただきましょうか」 「どこへまいればよろしいんですの」 「K劇場まで」  K劇場と聞くと、久美子はさっと恐怖の色を浮かべたが、すぐ覚悟をきめたように、 「承知しました。お供しましょう。でもそのまえに、ちょっとお願いがありますの」 「なんですか」 「子爵がお帰りになって心配なさるといけませんから、一筆書き残していきたいと思いますの」 「ああ、それぐらいのことでしたらかまいません。どうぞ、御自由に」    路上の射撃手  久美子は応接間の片すみにあるテーブルに向かうと、ひきだしから紙をとりだして、書いては消し、書いては消していたが、なかなかうまく文案がまとまらないらしい。  そのあいだ、俊助はたばこをくゆらして待っていたが、一本、二本、三本すってもまだ書き終わらない。表に待たせてあった自動車も待ちくたびれたのであろう。ブーブーと盛んに警笛をならしはじめた。 「まだ、できませんか」 「ああ、やっとできました。お待ち遠さま」  と、久美子は書き終わった手紙を手早く封筒におさめると、ベルをならして爺やを呼んだ。 「爺やさん、これ小父さまがお帰りになったら、渡して頂戴。それからあたしちょっと外出しますから外套を持ってきて頂戴な」 「今からお出かけになるのですか」  爺やが心配そうにのぞきこむのを、 「何も心配しなくていいのよ。ああ、それからさっき電話をかけてくれたわね」 「はい、おかけしました」 「それじゃね、洋服屋さんが来たら、今夜は都合が悪いから、あしたにでも出直して頂戴といっておいてね。それでは三津木さま、お供しましょう」  爺やが外套を持ってくると同時に、久美子も俊助とともに、表へ出た。俊助が手をあげて合図をすると、待たせてあった自動車がするするとそばへ寄ってくる。その中へ押し込むように久美子を乗せると、俊助もそのあとから乗り込んだ。 「きみ、もう一度K劇場まで引き返してくれたまえ」 「はい」  と、低声に答えたのは、黒い塵よけ眼鏡をかけた運転手である。前かがみになったまま、ハンドルを動かすと、やがて暗い路上にさっとヘッド・ライトを流しながら、自動車は動きだした。ところが、それから三分ほどたって、ふと自動車の窓から外をのぞいた三津木俊助、何に驚いたのか、ぎょっと体を前に乗り出すと、 「おいきみ、きみ、方角が違ってやしないかね。僕はK劇場と言ったのだぜ」  と、注意したが、運転手は返事もしない。依然として暗い夜道を、K劇場とはまったく反対の方角に走っているのである。 「おい、きみ、違うじゃないか。丸ノ内のK劇場だぜ。これじゃ、新宿の方へ出てしまう」  運転手は依然として返事をしない。 「おい、きみ、僕のいうことが聞こえないのか。こら!」  と、腰をうかしたところへ、突然、あざけるような久美子の声が降ってきた。 「だめですわ、三津木さま、この自動車、とても丸ノ内なんかへまいりゃしませんわ」 「え?」  と振りかえってみると、ふかぶかと外套の襟に顎をうずめた久美子が嫣然《えんぜん》と笑っている。 「おや、まだ気がおつきになりませんの。この運転手さん、少し変だとお思いになりません?」 「なに?」  と、ききかえした俊助の鼻さきへ、運転手が塵よけ眼鏡をはずしながら振り向くと、にやりとあざわらうように白い歯を出してみせた。 「あっ!」  と、俊助が仰天したのも道理、いつのまにやら運転手は黒ん坊のアリと変わっているではないか。 「おのれ!」  と、俊助がおどりかかろうとするのを、かたわらから軽くおさえた久美子。 「だめですよ。三津木さま、あたしの持っているものがなんだかおわかりになりません?」  はっとして振りかえって見ると、久美子の手には、ピカピカとするピストルが握られているのである。 「ほほほほほ、女だてらにこんな物をふり回したりして、さぞお転婆なやつとお思いになるでしょう。でもね、これあたしのピストルじゃありませんのよ。ほんとうのことを申しましょうか。ほら、いつぞや八重樫麗子さんの部屋でお目にかかった時、何気なくこのピストルが手にさわったので、そのままつい宅に持って帰ったんですの。つまりこれは八重樫さんのピストルなのよ。こんなものが、今夜役に立つなんて、思いも寄らぬことでしたわ」  俊助は呆然として久美子の美しい顔をながめている。いったい、いつのまにこのようなすばらしい罠《わな》が用意されたのだろうか。俊助は応接間で、はじめて久美子と会ったときから、連れ立って自動車に乗るまでのことを考えてみたが、そのあいだ、久美子は一刻だって自分のそばから離れなかったはずだ。それでは、自分の名を聞いてから、応接間へ出てくるまでの間に、なんらかの方法で、この黒ん坊に危険信号をしたのだろうか。いやいや、そのあいだ始終あの爺やがそばにいたはずだから、まさかそのまえで変なまねもできまい。——と、ここまで考えてきたとき、突如俊助の頭にひらめいたことがあった。 「あっ、さっき洋服屋へかけさせたあの電話だ!」 「ほほほほほ!」  久美子は嫣然と笑うと、 「やっと気がおつきになりましたのね。あの電話があたしたちの合図であったことが……」  そうだ、そうだったのだ。そしてその電話によって、黒ん坊アリが引き返してくるまで、時間をつなぐために、わざと手紙を何度も何度も書き直していたのだ。そういえば、自動車の警笛がきこえると同時に、急に手紙を書き終えたではないか。おそらくあの警笛が、やってきましたという合図だったのにちがいない。  ああ、なんというかしこい女。そしてまたなんという大胆な女だろう。俊助はむしろ、この罠に落ちたことが愉快でたまらなくなってきた。 「ははははは、こいつはみごとにいっぱい食わされました。これでどうやら勝負は五分五分ですね」 「ほほほほほ」  久美子はこころよい嬌笑を車中に響かせたが、しかし、果たしてこの勝負はこれだけで終わっただろうか。さすがの久美子もその時、一台の自動車がしつこく後からつけてくることに気がつかなかったのである。その自動車は、彼らが子爵邸を出たときから、いやいや、それよりもまえに、彼らがK劇場を出たときから、こうして後を追っているのである。ああ、この奇怪なる追跡者! しかし俊助もこのことに気がついていない。 「ところで、お嬢さん、これからぼくをどうしようとおっしゃるのですか」 「そうね」  と、久美子は首をかしげると、 「実はね、あたしたちにはまだ大事な仕事がのこっていますのよ。正直のところグランド・ホテルにおけるあたしたちの仕事は全然失敗でしたの。あたしたちはまだ目的のものを手に入れていませんの。もうひと働きしなければならないのですけれど、それにはあなたがいては困るでしょう。それでしばらく謹慎していただきたいと思うのよ」 「早くいえば監禁ですね」 「まあ、そうね。それにね、もう一つあなたにお尋ねしたいことがあるのよ」  久美子は急に憂鬱《ゆううつ》な声で言った。 「なんですか」 「あなた、今夜K劇場で京子さんとお会いになる約束をなさいましたわね」 「京子さん? ああ、あの電話をかけてきた婦人ですね。ぼくに証拠の写真を見せると言って」 「そう、あたし、その電話を漏《も》れきいたものだから、なるべくなら京子さんに、その写真を返していただこうと思って劇場へ行ったのよ、ところが、京子さんがあのとおり殺されているでしょう」 「ほほう」  と俊助は驚いて、 「まさか、あなたが、やったのじゃありますまいね」 「あたしじゃありません」  久美子はキッパリと、 「あたしはずいぶんいろんなまねをしましたけれど、人殺しだけはまだしたことがありません。これだけは信じてください」 「信じます!」  言下に俊助が力をこめて言った。彼はしだいにこの女に対して好意を感じはじめていたのだ。不思議な女だ。大胆な女だ。しかし、決して悪い女じゃない。——そんな気が強くするのである。彼はなんとなくこの女が好きにさえなった。 「ありがとう」  久美子はいくらか涙ぐんだ眼で俊助の顔を見ると、 「それでお尋ねしたいのは、あなたはだれかに、今夜グランド・ホテルの事件のことで、人に会う約束をしたことをお話しになりませんでしたか」 「話しましたよ」 「だれです、その人は?」  久美子は急におもてを輝かして尋ねる。 「由利先生」 「由利先生? ああ、あの有名な探偵《たんてい》ですわね。いいえ、ちがいます。そのほかにまだだれかにお話しになったにちがいありませんわ。そしてその人こそ犯人なのですわ。ねえ、思い出してください。だれかにお話しなすったでしょう」 「こうっと、いえ、いっこう話した覚えはありませんねえ。だが——あっ!」  ふいに俊助がクッションからとび上がった。 「そうだ。だれにも話しはしなかったけれど、あの電話がかかってきたとき、ぼくのそばには一人の人物がいました。そいつはひょっとすると、ぼくの応対から、電話の内容を推察したかもしれません」 「だれです。だれです? その人が犯人です。それはいったいだれですか」  久美子は躍起となって俊助の胸にとりすがる。俊助の顔には、見る見るうちに、恐怖の表情がいっぱい浮かんできた。 「そうだ、そうです。そいつが犯人でした。ああ、ぼくはなんという間抜けだろう。そいつの名は——」  と、俊助が言いかけた時である。  さっきから一定の間隔をおいて尾行していたあの怪自動車が、ふいにスルスルとスピードをまして、追いすがってきたかと思うと、すれちがいざま、車中から体を乗り出した怪人物がズドンと一発!  ねらいはあやまたず、黒ん坊アリに扮《ふん》した有井の肩に命中したからたまらない。 「あっ!」  と、叫んで思わずハンドルから手をはなした拍子に、方向を失った自動車は、轟然《ごうぜん》たる音響とともに、路傍の電柱にぶつかった。    黒衣女怪  場所は代々木に近い原っぱのそばである。ましてやこの夜ふけ、だれ一人、この騒ぎを知っているものはない。  怪自動車はそのまま、一町ほど行きすぎたが、何を思ったのかまたソロソロと引き返してくる。やがて半壊になった自動車のそばまでくると、ピタリと車をとめて、中からひらりと飛びおりたのは意外! 黒衣の女なのである。顔は黒い布でつつんでいるので、何者とも知る由はないが、まだブスブスと煙を吐いているピストルを片手に握っているところをみると、さっきの射撃手はこの女にちがいない。  女は久美子の自動車をちょっとのぞいてみて、 「あら、いいあんばいにみんな気を失っているわ。ピリー、手を貸してよ」 「O・K」  言下に自動車から飛びおりたのは、眼の碧《あお》い青年だった。どうやら混血児らしいのである。 「その女をね、こちらの自動車につれこむのよ。あ、それからついでに、その黒ん坊もつれていこうよ」  二人が気を失っている久美子の体を、外へ運び出そうとした時である。今まで気絶しているとばかり思っていた俊助が、ふいにムックリと体を起こすと、いきなり女の体にしがみついたのである。 「あ、畜生! 畜生!」 「馬鹿め、気絶しているふうをしていたら、まんまと引っかかりやがった。貴様はだれだ! その覆面をとって顔を見せろ」  俊助が覆面をとろうとする。女がとられまいとする。狭い車内でもみあううちに、ビリビリと音がして、ゆるやかな女の洋服の片袖がちぎれて、ムッチリとした、肉づきのいい腕が現われたが、ひと目それを見ると、さすがの俊助も、思わずあっ! と息をのんだのである。  白い、女の腕にまざまざと鮮やかに浮きあがっているのは、まぎれもなく双心臓の刺青《いれずみ》ではないか。 「あっ、幻の女!」  俊助は叫んで、思わずうしろへたじろいだ時である。ズドンと音がして、女の持ったピストルが、ぱっと青い火を吐いた。弾丸は俊助の肩をかすめて、うしろのクッションにめりこんだ。 「あっ!」  と、ひるんだ俊助が、再び猛然と立ちあがってきた時、またもやズドンと一発! 白い煙がパッと車内に立ちこめたかと思うと、あっ、無念、俊助の体が朽木《くちき》を倒すように、ドタリとクッションの上に倒れたのである。見ると左の胸のあたりから、真っ赤な血がドクドクと噴き出しているのだ。 「若造のくせに、余計なおせっかいをするから、こんなことになるのさ」  女はちぎれそうになった袖の中に、腕を入れながら覆面の下から、毒々しい眼を光らせて俊助の顔を見ていたが、やがてつとそばの混血児をふりかえると、 「ピリー、ハンケチをお出し」 「とうとうやっつけちまったんですかい」  混血児はさすがに顔色がなかった。ガチガチと歯を鳴らしているのを、冷ややかに見やった黒衣の女怪は、あざわらうように、 「なんだね、ピリー、こんなことでビクビクしてちゃ、とても大仕事はできやしないよ。さあ、ハンケチをお出しったら!」  と、小刻みにふるえているピリーの手から、ハンケチを奪うと、俊助の胸からあふれ出る血をドップリとしませて、そばのガラス扉《ど》の上に、ぬたくるように書きあげたのは、 『まぼろしの女』  という六文字。 「さあ、こうしておいて、その女をつれていけば、そいつが犯人ということになるわよ、きっと。さあ、ピリー、手を貸して頂戴」  と、ピリーに手伝わせた黒衣の女怪、久美子と有井の体を自分の自動車に運びこむと、自分もゆうゆうとそのあとから乗りこんで、グッタリとしている久美子の顔をのぞきこむと、 「ふふん」  と、さも憎らしげに鼻を鳴らした。 「なるほど、これは相当の女だわね。これじゃ子爵が迷うのも無理じゃないわ。こんな女がいるから、子爵のやつあたしの言うことをきかないのだわ。ほんとうに、憎らしいったらありゃしない」  そういう言葉から察すると、この女は久美子を子爵の恋人と誤解しているらしい。しばらく殺気をおびた眼で久美子の顔を見つめていたが、やがて運転台のほうへ向き直ると、 「ピリー、何をぐずぐずしているのさ。早くやらなきゃだめじゃないか」 「O・K」  自動車はまもなく、うるしの闇《やみ》の中にヘッドライトの光を流しながら、いずこともなく走り去っていく。そのあとには、俊助ただ一人血にまみれて倒れているのだ。  ああ、冷酷無残、鬼畜のごときこの黒衣女怪とは、果たして何者であろう?    妖魔《ようま》の踊り  その翌朝、帝都の各新聞には、次のような記事が掲載されて、東京市民をあっとばかりふるえあがらせた。   跳梁《ちようりよう》する妖魔《ようま》    一夜に二人の犠牲者      被害者は子爵|令姪《れいてつ》と花形記者      凄惨《せいさん》たり、帝都は恐怖の巷《ちまた》 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]   去る×月××日、グランド・ホテルにおいて凶刃を振るった「妖魔幻の女」は昨夜またもや二人の犠牲者を血祭りにあげ、徹底的な残忍ぶりを発揮した。犠牲者の一人は、政界の惑星といわれる子爵籾山四郎氏の令姪京子嬢で、K劇場において映画観賞中不幸にも妖魔の毒刃に斃《たお》れたものである。ところがここに奇怪なのは、かねてよりこの事件の探査にあたっていた新日報社の花形記者三津木俊助氏は、現場より挙動不審の人物を発見しその後を尾行したものと信じられていたが、意外にも今暁一時ごろ、代々木付近の街路に遺棄された自動車中に死体となって横たわっているのが発見された。しかも車窓のガラスにはなまなましい鮮血で、「まぼろしの女」なる署名がのこっていたという。この残忍飽くなき犯行に警察は躍起となっているが、目下のところ五里霧中というほかなく、帝都は今や恐怖のどん底にたたきこまれてしまった。 [#ここで字下げ終わり]  さて、こういう記事が新聞に現われてから数日後のことである。  丸ノ内のK劇場は、今宵もまた割れるような大入りだ。都会人というやつは、なんと奇妙な神経を持っているのだろう。あの恐ろしい事件があってからというものK劇場は以前にもましての繁盛ぶり。さすがにあのむごたらしい死体の横たわっていた二階の正面付近だけは、あまり近寄る者もなかったが、それが今夜に限って、よりによってこの席へ姿を現わした人物がある。  帽子をまぶかにかぶり、人目を避けるように黒眼鏡をかけているが、まぎれもなくこの人は籾山子爵である。  子爵はいかにも落ち着かぬふうで、しばらくソワソワと薄暗がりの中を見回していたが、やがてその眼をプログラムの上に落とす。プログラムには上映中の映画と映画にはさまって、 『妖魔の踊り、覆面の踊り子』  という文字が見える。それを見ると子爵は、思わず白い頬をビクビク痙攣《けいれん》させた。  やがて一本の映画が終わって、場内にはほんのりと薔薇色《ばらいろ》の灯がついた。と、その時である。つかつかと子爵の背後に近づいてきた男が、いきなりポンと軽く背中をたたいたのだ。 「子爵、やっぱりお見えになっていましたね」  子爵はその声を聞くと、ギクリとしたようにとびあがったが、相手の顔を見ると、 「ああきみか。——由利君」  と、がっかりしたようにつぶやいた。言うまでもなくその男というのは白髪の由利先生だった。幸い子爵のまわりにはあまりたくさんの人はいなかった。そこで由利先生は子爵の隣に腰をおろすと、 「子爵」  と、声をひそめて、 「何も驚かれることはありませんよ。実はこのあいだから、きょうはお見えになるか、あしたはお見えになるかと、毎日のようにお待ちしていたところです。ちょうどいい時にお見えになりました。子爵、あなたが見にいらしたのは、この覆面の踊り子なんでしょう」  図星をさされて、子爵は思わず激しくまたたきをしたが、しいてさりげなく、 「覆面の踊り子——? なんのことだね、それは。わしは姪の殺された場所がその後どうなっているかと思って、ちょっと見に来たまでさ」 「ははははは」  由利先生は思わず高らかに笑うと、 「子爵、もうかぶとをおぬぎになったらいかがです。あの覆面の踊り子が八重樫麗子だということは、もうちゃんとわかっているのですよ」 「馬鹿な、あの覆面の踊り子は鈴村珠子という女だと、このあいだ警部も言っていたじゃないか」  子爵は一言のもとに打ち消すように言ったが、その声音《こわね》はなんとなく力がない。 「そうです。しかし、その鈴村珠子こそ実は八重樫麗子だったのです。そして子爵もちゃんとそのことを知っていられる、だからこそ、今夜こうして確かめにいらしたのでしょう」  子爵は何か言おうとした。しかし由利先生はいちはやくそれを制すると、 「まあ、お聞きなさい子爵」  と、あたりを見回しながら、さらに声を低めて、 「八重樫麗子は、秘書の鈴村珠子とすっかり身分を入れかえて日本へ帰ってきたのです。だからグランド・ホテルで殺されていた女こそ、そのじつ秘書の鈴村珠子であり、現在、鈴村珠子としてこの劇場へ現われている女こそ、ほんとうの八重樫麗子なのです。ところで、なぜそのようなややこしいことをしたかというと、子爵、八重樫麗子こそは、あの恐るべき幻の女だったからなのですよ」 「なんだって?」  子爵は思わず大声で叫んだ。しかし、すぐ気がついてソワソワとあたりを見回すと、わなわなと唇をふるわせながら、 「そ、それはほんとうのことかね」  と悲痛な表情を浮かべながら尋ねた。 「遺憾ながら、これはもう間違いのない事実です。われわれは実に馬鹿でした。子爵も御存じのとおり、グランド・ホテルで殺された女は片腕を斬り落とされ、しかもその片腕の一部分が無残にもえぐり取られてあったでしょう。われわれはそれを見るとすぐに、そこに人に見られてはならぬ秘密——たとえば痣《あざ》だとか刺青だとかいうふうな、そういう秘密があったと思いこんだのです。ところが事実は反対にそこにはなんの秘密もなかったのです。秘密がなかったからこそ、えぐりとる必要があったのです」 「と、いうと——?」 「つまりね、あわよくばあの女を『幻の女』に仕立ててしまうという魂胆だったのでしょう。ほんものの『幻の女』は官憲の追及が思いがけなく厳重なのに気がついた。いつか自分の腕にある双心臓の刺青のことも、アメリカから知らせてくるだろう。そこで先手を打って『幻の女』は死んでしまったと思わせたかったのでしょう」 「なるほど」  子爵は額に深い八の字を寄せて考えこんでいたが、すぐまた気がついたように、 「しかし、それなら、なぜ犯罪の現場へあのような署名をのこしていったのだろう。『幻の女』を死んでしまったと思わせたいなら、ああいう署名、『まぼろしの女』の署名を壁の上にのこしておくなんて少し妙な話じゃないか」 「さあ、そこですよ。そこがこの事件の妙にこんがらかっているところですよ。そしてその謎《なぞ》をとく鍵《かぎ》は、子爵、あなた御自身の掌中にあるんですよ」 「由利君、それはどういう意味だね」 「子爵、もういいかげんにおっしゃっていただけませんか。あの日、アリという黒ん坊をつれて、グランド・ホテルへ八重樫麗子をたずねてきた怪少女は何者ですか。そしてその少女は今、どこにいるのです。その人こそすべての謎をとく鍵を握っているのですよ」  由利先生はそう言いながら、きっとばかりに、秀麗な子爵の横顔を見つめた。子爵はドキリとしたようにあわてて眼をそらしたが、それでもすなおに口をひらこうとはしない。飽くまでも子爵は久美子の秘密を守りとおそうという決心らしく見えるのだ。その様子をみると、由利先生はかすかに溜息をついて、 「あなたがもう少し正直に打ち明けてくだすったら、事件はもっと簡単に片がつくのですがねえ。やむをえません。いずれわれわれの手でその女を探してみましょう。それより子爵、今におもしろいみものが始まりますから、気をつけていらっしゃい」  由利先生が意味ありげにそう言った時だ。場内のベルがけたたましく鳴り響いたかと思うと、やがて舞台に下がっていた緞帳《どんちよう》がスルスルとあがった。いよいよ問題の「妖魔の踊り」が始まろうとするのだ。    劇場の大捕り物  その夜K劇場に居合わせた客の一人が、後になって人に語ったところによると、この幕が開こうとしたその瞬間から、その人はなんとなく異様の空気を感じたということだ。  ベルが鳴る少しまえに、その人は、ふと三々五々と連れ立った男たちが、めいめい奇妙な合図をしながら、舞台のまえに陣取るのを見たのである。むろん、その合図は非常に微妙なものだったから、ほかの人々はだれも気がつかなかった。しかし、その人は特別に注意力が発達していたとみえて、それと気がつくと、 (何かある!)  と、感じると、もう舞台どころの騒ぎではない。この連中から眼を離すことができないのだ。みんな別に変わった風をしているというのではない。普通の背広に鳥打帽をかぶっているものもあるし、ソフトをまぶかにかぶっているものもある。その中に一人、大きな黒眼鏡をかけて、マスクをかけている人物があったが、それがどうやらその連中の大将株らしく、ときどきほかの連中が、指図をうかがうように振り返るのが見えた。  やがて緞帳があがると、オーケストラ・ボックスの中から微妙な音楽の音がわき起こってくる。と同時に客席の電気がいっせいに消えた。舞台はただ一面の深海のように、あわい薄明かりがただよっている。その光がしだいに明るくなってきたかと思うと、正面の黒いカーテンを、さっと二つに割って、黒い踊り子が舞台の上に踊りだしてきた。  全身をピッタリと身に合った黒衣につつんで、顔は紫|繻子《じゆす》の覆面で隠している。手にはきらきらと輝く槍《やり》のような物を持っていた。  言うまでもなく覆面の踊り子なのだ。踊り子は音楽の音につれて、しだいに舞台の中央へのりだしてきたが、そのとき二階の正面では、籾山子爵が思わず、低いうめき声をあげた。 「子爵、いかがですか」 「フーム」  子爵は由利先生の問いに答えようともしない。息がしだいに切迫してきて、黒眼鏡の下で激しくまたたきをしたかと思うと、やがてつるりと一滴の汗が額からすべり落ちた。  もはや、重ねて尋ねるまでもない。子爵も明らかにこの踊り子が、八重樫麗子であることを認めたのだ。由利先生は満足そうにうなずきながら、 「子爵、見ていらっしゃい。今におもしろいみものが始まりますぜ」  と、低声でささやく。  舞台ではむろんこんなこととは気がつかない。踊り子の体はしばらく蛇《へび》のようにグロテスクなうねりを見せていたが、やがて音楽の音がしだいに急テンポになっていくにつれて、その体は独楽《こま》のように激しく旋回しはじめた。  と、この時、観客席の後方から突如さっと一条の白光が、矢のように舞台の上に投げられた。その円光はしばらく踊り子を中心として、たくみに舞台の上を移動していたが、やがてピッタリと、黒い背景の上に静止したまま動かなくなった。  するとそのとき人々は、なんとも言えないほど不思議なものを、その円光の中に発見して、思わずザワザワとざわめき出したのである。  それは組み合わされた二つのハートなのだ。しかもその二つの心臓をつらぬく一本の矢が、踊り子を指すようにジリジリと移動している。  刺青双心臓! しかもそいつは本物の刺青の何十倍、いや何百倍という大きさをもって、気味悪くも今、舞台の上に映し出されているのだ。あの奇怪な幻の女のうわさを知っている人々は、思わずゾーッと総毛立つような感じに打たれたということだが、まことに無理からぬ話だった。  舞台の上で踊りくるっていた覆面の踊り子は、むろん最初のうちは、自分の背後に、そのような気味悪い幻燈がうつし出されていようとは夢にも気づかない様子だった。だが、そのうちに、なんとなく観客席のざわめきに気がついたのであろう、何気なく振りかえって、ひと目その幻燈を見たせつな、思わず彼女の姿態がよろよろとくずれたのだ。  舞台の正面に陣取っていたマスクの男が、さっと片手をあげたのは実にその瞬間だった。と同時に今まで待ちかまえていた連中が、いきなりバラバラと舞台の上に躍りあがったのだ。 「八重樫麗子! 警察の者だ、神妙にしろよ」  覆面の踊り子はそれを聞くと、ギクリとしたようにうしろへよろめいた。それから蛇のように光る眼で、自分を取り巻いている男たちを見回していたが、やがて捨てばちな声で、 「まあ、あなた方はなんです。ここは舞台ですよ。お客様の邪魔をなすっちゃ困りますわ。それに八重樫麗子だなんて人違いをなすっちゃいけませんわ」 「おいおい、麗子さん、もうだめだぜ、何もかもネタはあがっているのだ。観客席を騒がせないように神妙に警視庁まで来てもらおう」  そう言ったのは、例のマスクの男。 「まあ、いったいあなたはだれ?」 「わたしだよ。ほら、等々力警部だよ」  覆面をした麗子の顔は、そのとたん、さっと紫色になった。だが、すぐ気を取り直すと、 「まあ、あなたでしたの。御苦労さまね。そしてこれ、いったいなんのまねなの」 「八重樫麗子——いや、幻の女を捕らえようというのだ」  警部がそばへ寄って、麗子の手を捕らえようとする。そのとたん、麗子はさっと身をひるがえすと黒いカーテンを割って中へ姿を消した。 「畜生! 逃げる気か」  刑事が追ってはいろうとした時だ、ズドンと一発。わっと叫んで刑事がうしろへたじろいだ瞬間、再びさっとカーテンを割って躍りだしたのは覆面の踊り子。見ると片手にギラギラと光るピストルを持っている。それを見るなり観客席はわっと総立ちになった。中には、おびえて死に物狂いに助けを呼んでいる婦人もある。  刑事は寄ってたかって、ただ一人の覆面の踊り子を捕らえようとするが、これがまたなかなか容易につかまらない。なにしろ相手は危険な飛び道具を持っているうえに、人を殺すことを屁《へ》とも思わない殺人鬼なのだ。ただわいわいと遠巻きにしているばかり。  殺人鬼は覆面の下から、せせら笑うように刑事の顔を見回していたが、やがてツツウ! と舞台を横ざまに走ると、パッと飛びついたのは天井からさがっているブランコだ。このブランコはかねて彼女の踊りのために用意されていたものである。そのブランコに飛びついたとみると、まるで猿《さる》のような身軽さ、するすると天井へ登っていく。 「それ天井へ逃げたぞ、逃がすな」  思いがけない相手の早わざに、等々力警部は必死となって部下を督励している。その声に刑事の一人がブランコに飛びつこうとすると、上からパンパンとピストルのたまがふってくるのだ。由利先生と籾山子爵の二人が、二階の正面から駆けつけて来たのは、ちょうどこの時だった。 「警部、ぐずぐずしていちゃいけない。見たまえ。観客が大騒ぎをしているじゃないか」 「いや、面目しだいもありません。女一人とあなどっていたのは不覚でした。しかしなに、天井へ逃げたからには、袋の中の鼠も同然ですよ。今に捕らえてみせます」 「等々力君、まあ、こちらへ来たまえ。舞台裏へのぼる階段があるはずだ。ここは刑事にまかせておいてぼくといっしょに来たまえ。子爵、あなたもどうぞ」  三人はバラバラに舞台裏へ駆けこむ。舞台裏ではこの騒ぎに気をのまれた道具方や事務員が、真っさおになってひとところにかたまっていた。 「きみ、きみ、階段はどちらだね」 「は、こちらです」 「ありがとう。きみたちはここに見張っていてくれたまえ。気をつけないと、相手は飛び道具を持っているから危ないぜ」  等々力警部を先頭に立てて、三人は狭い階段を登っていく。階段というよりもむしろ梯子《はしご》なのだ。この梯子を登ると、そこは危なっかしい簀《す》の子になっている。舞台に紙を降らしたり、ブランコを巻きあげたりする場所なのだ。  先頭に立っていた等々力警部がふいにしっと低声で由利先生たちを制した。 「いるかい」 「います。幸い舞台のほうに気をとられて、こちらには気がつかぬ様子です」  由利先生がそっと頭を出してみると、なるほど、舞台の光を下から受けたほの暗い簀の子の上に、覆面の踊り子がうずくまって、寄らば一発のもとに撃ち殺すぞとばかり身構えているのだ。  それと見るより等々力警部は、簀の子に四つんばいになりながら、そろそろと近づいていく。危ない、危ない。もし相手にさとられたら、一発のもとに撃ち殺されるのは知れているのだ。しかし、幸いにも折りからの観客席の騒ぎにとりまぎれてどうやら相手はまだ気がつかないらしい。二人の距離はしだいにせばまっていく。実に、息づまる瞬間!  やがて、一間《いつけん》ほどうしろまで近づいていった時である。ふいに相手がくるりとこちらを振りかえった。 「畜生!」  という声もろとも、ズドンとピストルが白い煙を吐いた。しかし、相手もふいのことに狼狽《ろうばい》したとみえるのだ。弾丸は警部の耳もとをかすめて、ヒューとうしろにとんだ。相手があわてて第二弾の身構えにうつろうとする時だ、警部の体が鞠《まり》のようにはずんで相手に躍りかかったかと思うと、二人の体はもんどりうって、簀の子の上をころがった。 「先生、ピストルを——ピストルを——」 「よし!」  と、由利先生が危なっかしい簀の子をわたって、そばへ近寄ろうとした時だ。だれの指が引き金にかかったのか、プスッ! と押し殺したような銃声。 「しまった」 「どうしたのだ」  由利先生があわてて近づいてみると、等々力警部の膝《ひざ》の下で、覆面の踊り子がぐったり伸びているのが見えた。見ると、弾丸は顎《あご》から左の頬をつらぬいたとみえて、真っ赤な血がドクドクと噴き出している。 「やっちまったのかい」 「いや、殺すつもりはなかったのですが、物のはずみで、こいつみずから引き金を引きやがったのですよ。先生、せっかくここまで追いつめながら、殺しちまっちゃ玉なしでさあ」 「まあ、いい、仕方がないさ。どうせこうなる女なんだからね」  由利先生は、あとからそろそろと近づいてきた子爵のほうを振りかえると、 「子爵、一つこの女の顔をよく見てください。八重樫麗子にちがいないでしょうね」  と、言いながら何気なく死体の顔から覆面をはぎとったが、そのとたん、 「や! や! こりゃどうしたのだ」  という叫び声が、期せずして三人の唇をついて出た。意外とも意外! その踊り子は男だったのだ。由利先生も等々力警部も知らなかったけれど、その青年こそ、幻の女の手下、混血児ピリーだったのである。    妖魔の執着  いったいいつのまにこんな奇跡が行なわれたか。さっき等々力警部が声をかけた時には、たしかにこの踊り子は女だった。しかもそれからのち、一瞬だって人々の眼はこの踊り子から離れたことはないのだ。いや、ただ一度だけある。警部の手を振りはなして、彼女がカーテンのかげに姿を消した時。——ああ、そうなのだ。 「しまった」  と、警部はいまさらのように地団駄《じだんだ》をふんで悔しがったが、すでに後の祭りだ。そのころには本物の踊り子、すなわち八重樫麗子はすでに劇場を脱出して、どこかで赤い舌をペロリと出していることであろう。  これは要するにK劇場におけるこの捕り物は、警視庁の大失態であった。大勢の観客を騒がせたあげく、かんじんの「幻の女」には、まんまと逃げられてしまったのだから、等々力警部の面目は丸つぶれだった。上役からはお目玉を頂戴する。新聞ではさんざんやっつけられる。さすが元気な等々力警部も、その当座はすっかり腐りきってしまった。  さて、物語はそれから数日後のことに移る。  早春のよく晴れた午後のこと、籾山子爵はただ一人、深い物思いを胸に秘めて銀座の歩道を歩いていた。と、その時、ふいに路傍から声をかけた者がある。 「旦那《だんな》さま、花はいかがでございますか。赤いチューリップの花。いとしい人の思い出の赤い花。一ついかがでございますか」  子爵がふと夢を破られたように顔をあげて見ると、しわくちゃの婆さんが、やにのたまった眼でじっとこちらを見ている。胸にさげた籠《かご》の中には赤や黄のチューリップの花が、こぼれるように盛りあがっているのだ。  子爵はふと久美子のことを思い出した。久美子はチューリップの花が好きだった。ことに燃えるような赤いチューリップの花を愛して、いつも室内に飾っていたが——ああ、その久美子は今どこにいるのだろう。 「ふむ、この赤いチューリップを一つもらおう」 「ありがとうございます。旦那さま、いとしいひとの思い出の花」  そこで老婆の声が突然かわった。 「これからすぐ横浜へ」  と早口で、 「桜木町の停車場に自動車がお待ちしています」 「え?」  子爵は愕然《がくぜん》として老婆の顔を見直した。 「警察へ知らせたり、変なまねをなさると、いとしいひとのいのちはありませんよ。ただ一人、だれにも知らさないで、——はい、旦那さま、毎度ありがとうございます」  子爵はしばらくあっけにとられたように、老婆の顔を見ていたが、やがて無言のままそのそばをはなれた。赤いひとくきの花を持って。 (あの女からの使いなのだ)  子爵は恐ろしさに、思わず歯をガチガチと鳴らせた。膝がしらがふるえて、額にはいっぱい汗が浮かんできた。しかし子爵はすぐ決心すると、大股《おおまた》に新橋のほうへ歩いていった。よしどのような危険があろうとも、久美子のいのちだけは救わねばならないのだ。  桜木町で電車をおりると、一台の自動車が待っていた。 「籾山子爵ですね」 「そう」 「どうぞ、お乗りください」  子爵を乗せた自動車が、それからまもなくピッタリとタイヤをとめたのは、本牧《ほんもく》の海に臨んだ古めかしい南京蔀《ナンキンじとみ》の家。嵐《あらし》でもあれば波をかぶりそうな岸壁の突端に、一軒ぽつねんと建っているこの家は、見るからにいわくありげだった。自動車は子爵をおろすと、すぐいずくともなく走り去った。  見上げると、屋上には一本のポールが立っていて、その上に青い旗がヒラヒラとひるがえっている。海はよく凪《な》いでいた。  子爵は玄関のポーチに立って、二、三度ベルをおしたが、返事がないので、そのまま思いきってドアをひらいて中へはいる。薄暗い家の中は空き家ででもあるかのように、しめっぽい空気が漂って、人の気配はない。子爵が廊下づたいに間ごと間ごとをのぞいていくと、奥まった部屋にあたって、さやさやときぬずれの音、子爵がドキリとしてドアのまえに立ちどまった時だ。 「どうぞ、こちらへおはいりくださいな、子爵」  と、なまめかしい声とともに、長椅子からやおら身を起こしたのは、燃えるような緋色の衣装をまとった鈴村珠子。——いや八重樫麗子なのだ。  麗子は子爵の顔を見ると嫣然《えんぜん》として微笑した。中年女のあふれるような媚《こ》びと、殺人鬼のものすごい殺気をこめた微笑だ。 「ああ、やっぱりおまえだったのだね、麗子」 「子爵、どうぞこちらへおはいりくださいな。あたし、まえからこうして二人きりでお話ししたかったのですわ」  立ち上がった麗子の肩から、薄衣がすらりと足もとにすべり落ちて、肉づきのいい肩が現われる。子爵が彼女を見るのは実に十数年目だった。子爵の知っている彼女はすでに四十近い年齢であるはずだのに、いま眼の前に立っている彼女の美しさは、どうしても二十七、八としか見えぬ。 「話? いやわしは話など聞きたくもない。それより麗子、おまえはあの娘をいったいどうしたのだ」 「まあ、相変わらずあなたはせっかちなかたね。そして少しもあたしの心持ちをくんでくださらないのね。ごらんなさい。この部屋を。——二十年まえあんなに楽しく二人で住んでいた鎌倉の家を、思い出していただきたいばっかりに、せっかく苦心して装飾をしておいたのに。——」  その言葉に部屋の中を見回した子爵は、思わず身をすくめて激しく身ぶるいをした。なるほど麗子の言うとおり、部屋の中の装飾は、そのむかし彼らがあやしい痴夢をくりかえした、その隠れ家とまったく同じように飾られている。だが、それがいまさらどうなるというのだ。子爵はいっそ嫌悪《けんお》の情を感ずるばかり。  子爵はふいにさっと、激しい怒りをおもてに浮かべると、 「麗子、おまえは恐ろしい女だ。わしはいまさらそんなたわごとを聞きたくはない。それよりあの娘をどこへやった。久美子をいったいどこへ隠したのだ!」  子爵は恐ろしい形相《ぎようそう》をして詰め寄る。麗子はさっと嫉妬《しつと》の色を浮かべたが、すぐ冷ややかなせせら笑いを浮かべると、 「まあ、とんだ御執心ね、あの娘はあたしにとって大切な人質よ。あの娘のいのちを救うも救わぬも、子爵、みんなあなたの胸三寸にあることですわ」 「いったい、どうしろというのだ。金か、金ならいくらでも出す」 「いいえ、子爵、あたしお金がほしいなんて、申しておりませんわ。あたしのほしいのはあなたの愛情です。子爵、もう一度むかしのとおりになっていただきたいの」 「なんだと!」 「子爵!」  ふいに麗子は崩れるように長椅子に泣き伏した。 「あたしも疲れました。あたしは安らかな家庭がほしいのです。もう一度元どおりいっしょになって。……」  そう言いながら麗子は、肩をふるわしてよよとばかりむせび泣くのだ。ああ、恐ろしい妖女の愛着。殺人鬼の悲恋。——さすがの子爵もそれには呆然として、しばらくこの恐ろしい女の狂態をながめているばかりだった。    赤い旗、白い旗 「麗子おまえそれは正気で言っているのか。おまえは自分が何者だか忘れたとみえる。おまえは『幻の女』——恐ろしい殺人鬼ではないか」 「そう、そうでした。あたしの両手は真っ赤な血で染まっています。もしもこのまま捨てておかれたら、あたしはさらにさらに恐ろしい罪を重ねるでしょう。子爵、あたしを救って頂戴。あたしを救うことのできるのはあなたよりほかにありません。もう一度あたしと結婚して……」 「フン、おまえもずいぶん虫のいい女だね。わたしが最も愛している時に——わたしはそれを思い出してもゾッとするのだが——おまえは、わたしを裏切ってアメリカへ逃げていった。そしてさんざん悪事を重ねたあげく、いまさら行くところがないからって、元どおりになれとはよく言えたものだ」 「でも、でも、あたしはもうたくさんすぎるほどの報いをうけてきましたわ。アメリカでさんざん苦労をしたあげくの果てが『幻の女』——ああ、なんて恐ろしい烙印《らくいん》でしょう。ねえ、子爵、あたしといっしょに外国へ行ってください。あたし、だれにも看破されないくらい上手に姿をかえることができます。外国で数年暮らしてほとぼりのさめた時分に帰ってきましょう。だれもあたしを疑う者はありませんわ。あたしこんどこそほんとうにいい妻になりますわ。あたしあなたが必要なのです。子爵、お願いです。お願いです」 「だめだ!」 「だめ?」 「だめだとも、何度言ってもだめなことだ。ことわざにも覆水盆にかえらぬという。さあ、それより早くあの娘をここへ出しておくれ。あの娘を無事に返してくれたら、おまえがここにいることだけは内緒にしておいてやろう」  麗子はふいにスックと立ち上がった。上気した頬からさっと血の気《け》がひいて、真っさおになったかと思うと、唇のはしがヒクヒクと痙攣《けいれん》して、両眼が鬼火のように燃えあがった。 「ほほほほほ、ひとのことをおっしゃれたものじゃありませんわ。あなたもずいぶん虫のいいかたね。この隠れ家を密告するしないはあなたの御勝手よ。あたしの願いがだめならば、あなたの頼みもきかないまでのこと!」 「なんだと!」 「子爵、およしなさい、みっともない。いいとしをしてあんな乳臭い女に夢中になるなんて。いったいあの女はあなたの何よ」  子爵は真っさおになった。何か言おうとして口をひらきかけたが、すぐまた黙りこんでしまう。 「またあの娘もとしに似合わず大胆な娘ね。男にばけてホテルへ入りこみ、あたしの替え玉をしばりあげて脅迫するなんて、ほほほほほ、あたしの若い時そっくりよ。あなたは妙にそういう女に気をひかれると見えるのね」  子爵が黙っているのを見ると、麗子はますますかさにかかって、 「あの日、あたしがホテルの裏口からこっそり帰ってみると、どうでしょう、あの娘が変な黒ん坊といっしょに替え玉の麗子を浴場で脅迫しているじゃありませんか。あたしはすぐ、これはあなたの回し者にちがいないと思ったから、隣の部屋から写真をとってやったのよ。その時のあの娘の驚きようったら。マグネシウムに驚いて、泡《あわ》をくって逃げてしまいましたが、あたしそのあとで自分の部屋へ帰ると、しばりあげられている替え玉の麗子、——ほんとはあれが鈴村珠子なのよ、その珠子をひと思いに殺してしまったの」 「おまえが——それじゃおまえが殺したのか」 「そうよ、あたし、自分の身が危険だと思ったから、アメリカをたつときあの女と身分を変えておいたのよ。こちらにはもうあなたをおいてほかにだれもあたしの顔を知っている者はあるまいと思ったから。そこであの女を殺してしまえば、八重樫麗子、——すなわち『幻の女』は死んだことになるだろうと思ったの。アメリカからいつなんどき、八重樫麗子こそ『幻の女』だという通信がこないともわかりませんからね。あたしの計画はほとんど成功したようにみえたけれど、そこへまたあの娘が余計なまねをしたものだから、すっかりおじゃんになってしまったわ」 「あの娘が何をしたというのだね」 「あの娘はね、いったん逃げだしたあとで、何か忘れ物を思い出して、またあの部屋へとってかえしたというの。たぶん、あたしが替え玉の麗子の片腕を斬りとってもう一度こっそりホテルの裏口から外へ出たあとでしょう、そこであの娘は替え玉の麗子が殺されているのを見て、てっきり疑いは自分にかかってくるにちがいないと思って、とっさの機転で三津木俊助という男から聞いた『幻の女』に、その罪を転嫁するつもりで、壁の上にあんないたずら書きをしてきたというのよ」  なるほど、これで由利先生の推理の矛盾は解けたわけである。あの署名は実に久美子が書いたものなのだ。 「あたしがせっかく苦労して『幻の女』を死んだものに見せようとしているのに、あの娘が余計なお節介をするものだから、また事件はこんがらがってきたじゃないの。そこであたしはこんどは、あの娘こそ『幻の女』だと思われるようにしてやったの。あなたの姪の殺された時ね、あの日あたし新聞社に三津木俊助を訪問したのよ。そこへあなたの姪から電話がかかってきたでしょう。あたしすぐ事情をさとったから、K劇場であなたの姪を待ちかまえていると、またしてもあの娘が男装をしてうろうろしているじゃないの。だからあたし、あの娘に罪をきせてやろうと思って、あなたの姪も殺してしまったわ。どう、おわかりになって?」  ああなんという無恥、なんという大胆さ。彼女は眉《まゆ》も動かさず平然として、恐ろしい罪悪のかずかずを語るのだ。  子爵はしばらく化け物をでも見るような眼をして、相手の顔を見つめていたが、やがてうめくように言うのだ。 「あの娘は——あの娘はどこにいる」  麗子は、はじかれたような眼で苦悶にゆがんだ子爵の顔を見ていたが、やがてヒステリックな声で笑うと、 「ほほほほほ、そんなにあの娘の顔が見たいの。いいわ。見せてあげるわ。ほら、この望遠鏡をのぞいてごらんなさい」  麗子は立って、そばのカーテンをさっとひらいた。見るとそこには窓に向けて一台の望遠鏡がすえてあるのだ。 「ほら、この望遠鏡で向こうの海の上をごらんなさいな。小さいヨットが浮かんでいるでしょう。あの中にあなたの愛人はいるんですよ」  子爵は言下にその望遠鏡にとびついた。見える。波間に浮かぶ小さいヨット。その中に仰向けに縛られているのは、ああ、無残、久美子ではないか。白い横顔、見覚えのある着物の模様。そのそばには、黒ん坊アリに扮した有井の姿も見える。二人とも死んだように動かない。そして舟の中にはさらにもう一人の男が、何をしているのか黙々と向こうをむいて作業をつづけているのだ。 「麗子! おまえは——おまえはいったいあの娘をどうしようというのだ!」 「どうもこうもないわよ。あそこにうずくまっている男が何をしていると思っていらっしゃるの。あの男は、あたしの合図を待っているのよ。白い旗が上がったら、あの娘は助かるし、赤い旗が上がったら——」 「赤い旗が上がったら?」 「火薬の導火線に火をつけます。そうしたらあの娘の体は木《こ》っ端《ぱ》みじんとなって天国へとんでいきます。さあ子爵、赤い旗を上げましょうか。白い旗を上げましょうか」 「麗子! おまえは鬼だ! おまえは、おまえは——」 「えええ、どうせあたしは鬼よ。さあ、子爵、これが最後よ、あたしの願いをきいてくだすって、あの娘のいのちを助けますか。それとも、赤い旗を上げましょうか」 「麗子!」  ふいに子爵が麗子の肩をつかんで、死に物狂いにゆすぶった。燃ゆるような眼で相手の眼の中をのぞきながら、 「麗子! おまえは何も知らないのだ。あの娘は——あの娘は——」 「あの娘がどうしたとおっしゃるの?」 「あの娘は、おまえの生みの娘だぞ!」  一瞬間、麗子は失神したような眼で子爵の顔をながめていた。まったくそのとき彼女はそのまま石になってしまうのではないかと思われるほどだった。しばらく彼女は放心したように相手の顔をながめていたが、やがて低い笑い声をあげると、 「ほほほほほ、でたらめもいいかげんになさいませ。あたしの娘だなんて——あたしの娘の加代子《かよこ》は五歳のときに亡くなったって、いつかアメリカへ知らせてきたじゃありませんか」 「そう言った。があれはうそだったのだ。あの娘はおまえに逃げられてから、里子にやってあったのだが、五歳の時に悪者に誘拐《ゆうかい》されて行方がわからなくなってしまったのだ。だからおまえがあの娘の安否を問い合わせてきた時も、死んでしまったと返事を出しておいたのだが、それが近ごろやっと、あるサーカスにいるのを発見して、屋敷へ連れてかえったのだ」 「そして——そして、あの娘はそれを知っていますの?」 「知らない。どうしてそんなことが言えるものか。表面は親友の娘だということにして、あの娘もそれを信じている。おまえのような、——おまえのような悪い母親があるとは知らせたくなかったのだ」  ふいに麗子はうしろへよろめいた。それから噛みつきそうな顔で子爵の顔をながめていた。ああ、うそではない子爵の真剣な顔色。子爵は今こそ真実を物語っているのだ。  麗子はさっと両手を振りあげた。そして何やらわけのわからぬことを口走りながら、裾をみだしていきなり部屋をとび出していったのである。子爵があとを追っていくと、麗子は息もたえだえに屋上へかけのぼり、子爵のほうへは見向きもせずに、スルスルと屋上のポールに白い旗——その娘を助けよという信号の旗をかかげたのだ。  港の夕風をうけて、白い旗がヒラヒラとひるがえる。しかし、これはどうしたというのだ。その旗を見ると、何を勘違いしたのか、ヨットの中にいた男は、いきなりマッチをすって導火線に火をつけたではないか。 「違う! 違う!」  それを見るより麗子は、髪ふりみだし、地団駄をふんで呼ばわるのだが、海上はるかの沖合まで、どうしてその声がとどこうぞ。導火線に点火した男は、大急ぎでボートに飛びうつり、こっちのほうへこぎ戻ってくる。 「ああ。神様、助けて。その娘を助けて!」  こんな女にもやはり母性の愛はあったのだ。狂気のように連呼するのだが、今となってはすべてが後の祭りなのだ。点火された導火線は刻々として燃えつきていく。 「ああ!」  ふいに麗子が両手で顔をおおってよろめいた。そのとたん、轟然《ごうぜん》たる音響とともに、紅《あか》い炎がたつまきのように水柱を立てて。——ヨットは木っ端みじんとなってとんだのである。 「あっ!」  蒼白《そうはく》になった麗子は、しばしうつろな眼を見はってそれをながめていたが、やがて、 「加代子——加代子——あたしの娘!」  と、ひと声高く絶叫したかと思うと、あっという間もない、その体は屋上の柵《さく》をのりこえて、打ち寄せる波の上に、もんどり打って転落していったのである。    悲劇の結末  恐ろしい悲鳴、グシャッと岩角にあたって物のくだける音、それから波の間にパッと飛び散ったくれないの色。——子爵はそれを見るとツーッと全身がしびれていくのを感じた。急にあたりの景色がぼやけて、体の重心がなくなった。子爵はそのまま気を失って倒れてしまったのである。  それからおよそどのくらいたったか。  子爵が再び意識をとりもどした時には、自分の体は、見覚えのある麗子の部屋に寝かされており、そばには二人の男がたたずんで、心配そうに顔をのぞきこんでいるのだ。  一人はあの由利先生だったが、もう一人のほうは子爵の知らぬ若い青年なのだ。子爵はその男の顔をぼんやりとながめていたが、ふいにハッとしたように長椅子からはね起きた。 「貴様だな——。そうだ。貴様だ。さっきヨットに点火した男は!」  そうなのだ。その男にちがいない。子爵はたしかにさっき、この男がヨットの、導火線に点火するところを見たのである。  由利先生はそれを聞くと、はじめてにっこりと微笑を浮かべた。 「子爵、改めて御紹介しましょう。こちらは新日報社の三津木俊助君です。おそらく名前は御存じであろうと思いますが」 「なんだって!」  子爵は今にもとび出しそうな眼つきをして、 「三津木君——だが、だが、その三津木俊助君なら、代々木付近で『幻の女』に殺されたはずではないか」 「ははははは、あれはね、あの女を油断させるためのトリックだったのですよ。三津木君はなるほど、ひどい負傷をしましたが、御覧のとおりいのちには別条はなかったのです」  なるほど、そうだったのか!  子爵にもようやく、事のいきさつがわかってきたけれど、しかしのみ込めないのは、さっきの俊助の行動なのだ。 「だが、だが、その三津木君なら、なぜあのヨットを爆発させたのだ。ああ、久美子! きみは久美子を殺してしまった」 「子爵」  俊助はおだやかな、さとすような微笑を浮かべながら言った。 「その心配なら御無用です。久美子さんも有井君も無事ですよ。ヨットの中にいたのは、あれは身替わりの人形だったのですから」  子爵はその言葉を聞き終わらないうちに、再びもうろうとして意識のぼやけてゆくのを感じた。しかし、こんどは決して恐怖や悲しみのためではない。長いあいだの苦闘のあとにきた安堵《あんど》が、しばらく子爵に安静を要求したのであろう。子爵は忠実な乳母に見守られた赤ん坊のように、こんこんとして深い眠りに落ちていったのだ。  俊助の言葉はうそではなかった。久美子も有井も危ない瞬間に、三津木俊助のはたらきによって救われていたのである。  それから間もなく、再び意識をとりもどした子爵が、久美子の無事な顔を見て、どのように喜んだか、それらのことは、あまりくだくだしくなるから一切省略することにしよう。  こうして、さしも世間を騒がした「幻の女」も、ついにみずから生命を断って死んでしまった。そして久美子は再びよみがえり、子爵の秘密は保たれた。  したがって、この物語はたいへんめでたい結末をむすばねばならぬはずであったが、はなはだ遺憾ながら、実はそういうわけにはいかなかったのである。  と、いうのは。——  それから数日ののち、由利先生と三津木俊助の二人が、改めて麹町の子爵邸をおとずれてみると、これはどうしたというのだ。子爵のおもてにはまたしても、沈痛な表情がきざまれているではないか。 「子爵」  由利先生は不審そうに子爵の顔を見守りながら、すぐ用件を切り出したのである。 「きょうお伺いしたのは、子爵にとってたいへん喜ばしいお知らせを持ってきたのです。というのはほかでもありません。子爵があんなに探していらした手紙。——その昔、八重樫麗子にあててお書きになった手紙を発見したのです」  由利先生はそう言いながら、しわくちゃになった一枚の紙片を取り出した。子爵はそれを見ると、さすがにピクリと眉を動かす。 「この手紙を無事に取りかえすことができたについては、子爵は久美子さんにお礼をおっしゃらなければなりません。これはあのかたが取り戻したのですから」 「なに? 久美子が?」  子爵はなぜかさっと顔をくもらせる。 「いや、久美子さんが取り戻したとはいうものの、あの人自身は少しもそれを知らなかったのですよ。というのは、いつか久美子さんがホテルへ忍びこんだ時、なんの気もなく八重樫麗子のピストルを持って帰られた。そのピストルが回りまわって、三津木君が代々木で『幻の女』におそわれた時、自動車の中に落ちていたのです。たぶん、久美子さんが落としていかれたのでしょう。ところが、そのピストルの銃口の中に、この手紙は隠されていたのですよ」  そう言いながら、由利先生は小型のピストルを、掌にのせて子爵に見せる。 「いかにも、あの女の考えつきそうな、うまい隠し場所ではありませんか。久美子さんはその後ずっと、ピストルを所持していながら、手紙の隠されていることに気がつかなかったとみえます。ところで、ここにお詫《わ》びしなければならないのは。——」  と、由利先生は子爵の顔を真正面から見ながら、 「実は私と三津木君とは、この手紙を発見すると、ついなんの気もなく中身を読んでしまったのです。そして。——そして、はじめて子爵が、なぜこの手紙をあんなに恐れていらっしゃるか、その理由を知りました。私はこの手紙にはってあったかわいい赤ちゃんの写真を見たのです。子爵、久美子さんは、あなたと麗子の間にできたお嬢さんなんですね」  子爵はそれを聞くと思わず低いうめき声をあげる。由利先生はそれをおさえるようにしながら、 「いや、いや、子爵、決して御心配なさることはありません。私も三津木君もこのことは生涯口外しないでしょうから。さあ、子爵、この手紙をお返しいたしましょう」 「ありがとう」  子爵はわななく指先でその手紙を受け取ると、すぐそれに火をつけて燃やしてしまった。白い灰が、うつろの魂のようにヒラヒラと虚空《こくう》に舞いあがる。子爵は涙のにじんだ眼でそれをぼんやりとながめていたが、やがて二人のほうを振りかえると、 「わたしはこのことをだれに知られてもかまわないが、ただ久美子——いや、あれのほんとうの名は加代子というのだが——その加代子にだけは知られたくなかったのだ。だから、あのように苦しんできたのだが、しかし、それもこれも、今となってはすべてむだになってしまった」 「むだになったとは?」 「この手紙を読んでくれたまえ」  子爵はポケットから、一枚の紙片を出して見せる。それは美しい女の筆跡で書かれた手紙で、ところどころに、点々として涙のあとのにじんでいるのがなんとなく異様だった。  由利先生と三津木俊助が読んでみると、 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]   小父さま。   私の親愛なる小父さま。どうぞ久美子のこの忘恩をおゆるしくださいませ。久美子はやっぱり生まれながらの放浪の娘でした。私にはせっかく小父さまが与えてくだすったお屋敷の、あの安易な、そしてゆたかな生活が身に合わないのです。私のたましいの中には、自由と冒険を愛する気まぐれが火のように燃えています。私が変装したりして、グランド・ホテルへ乗り込んだのも、ひそかに知った小父さまの苦悶をお助けしたいと思ったからでもありますが、一つには、私の血の中に流れているこの宿命的な冒険心が、やむにやまれぬ躍動となって私を駆り立てたのです。   小父さま。   私は再びお屋敷を出て、もとのサーカスの生活に帰ります。どうぞどうぞ私のこの忘恩をおゆるしになって、そして、二度と私を探さないでくださいませ。私にはよき友があります。おそらく私はその人とともに、生涯を放浪生活で暮らすでしょう。   御身御大切に、それからおついでがございましたら、由利先生や三津木俊助さまによろしくお伝えくださいませ。 [#ここで字下げ終わり] [#地付き]哀れな 久美子より   由利先生と三津木俊助はその手紙を読むと、思わず暗然として顔を見交わした。 「あの娘には、やっぱり母親の血が流れているのだ。あれの母がわたしを捨てて家出した時の手紙が、ちょうどそれと同じだった。ああ、かわいそうな加代子!」  子爵はそう言って、声を立てて泣き伏したのであった。 [#改ページ] [#見出し]  カルメンの死    花嫁の怯《おび》え  神官のあげる祝詞《のりと》も、ようやく終わりに近づいてきた。  豊彦《とよひこ》はそれを、遠く夢のように聞きながら、気遣わしげな眼で、真向かいにいる早苗《さなえ》の顔を見守っている。早苗の顔色の悪さは、いよいよ、ただごととは思われない。  豊彦もはじめのうち、それを、今日のお化粧や、着付けのせいときめて、たいして気にもとめなかった。いつも洋装ばかり見慣れている早苗の、高島田に大|振袖《ふりそで》、それに角かくしといういでたちは、たしかにふだんとちがった印象だったし、それに結婚式ともなれば、早苗のように、ものにこだわらぬ女でも、やはり固くなるのであろうと、自分自身いささかあがり気味の豊彦は、かえってそれをほほえましくながめていたくらいである。  しかし、式が進むにしたがって、早苗の顔色の悪さを、それとばかり見ていられなくなって、豊彦はふいと眉《まゆ》をひそめた。  どこか悪いのではないか。  しかし、早苗の顔色の悪さは、肉体の故障よりも、何かしら、精神的な苦痛からきているらしい。じっとうつむきがちに、神官の祝詞をきいている早苗は、ときどき、思い出したようにハッと顔をあげる。そして式につらなっているひとびとの中から、何かを探し出そうとするように見渡すが、やがて、がっくりうなだれる。角かくしがおびえたように細かくふるえて、腰をおろしているのさえ、たえがたいような風情《ふぜい》である。  早苗は何かを恐れている。何かにひどくおびえている。しかし、何をあのようにおびえているのであろうか。そしてまた、ひとびとのあいだから、何を探し求めようとしているのか。  豊彦もそっと式場を見回すと、その中に当然見えるべきはずの顔の、ひとつ欠けているのに、なんとなく不安を感じている。早苗のおびえているのもそのことだろうか。まさか。……あのひとが姿を見せないからといって、何もあのようにおびえなければならぬ理由はない。では、早苗のおびえているのは何か。……  それにしても、あのひとはどうして姿を見せないのだろうか。この式にはきっと出席するとあのひとは断言していた。現に今日会ったときも、 「大丈夫よ、きっと出席させていただくわ。あたしそのときあなたにすばらしい贈り物をしようと思って楽しんでいるんですもの。すばらしい贈り物……なんだかわかる? ふ、ふ、ふ、わからないでしょうね。まあ、いいからそのときまで待って頂戴《ちようだい》。これは真言《しんごん》秘密よ、だれにも言えないの」  そう言って、あのひとは謎《なぞ》のような微笑を浮かべていたではないか。とにかく、そのとき八千代《やちよ》は上|機嫌《きげん》らしく見えたのである。それだのに、八千代はどうしてこの式に、姿を見せてくれないのか。  そうなのだ。豊彦が今心をいためているのはその女、峯《みね》八千代のことなのだ。そして、それにはそれだけの、十分の理由があるのだった。  間宮《まみや》豊彦と吉岡《よしおか》早苗が、今日の式をあげるにいたるまでの経路は、決してスムーズなものではなかった。そこにはさまざまな障害や難関があったのだが、その中で、いちばん大きな障害となったのが、その女、峯八千代の存在だった。  峯八千代といえば、音楽に関心をもたないひとでも、名前くらいは知っている。ソプラノ歌手としての彼女の存在は、それほど偉大で圧倒的だった。ほかの有名な音楽家と同じように、彼女もまず外国で名を知られ、それから日本で有名になった歌手のひとりである。  若いころの彼女は、ほとんど日本にいることもなく、外国の舞台ばかり踏んでいた。しかも、ほかの日本のソプラノ歌手が、外国の舞台で出すレパートリーといえば、ほとんどマダム・バタフライに限られているのに、彼女は珍しくカルメンを得意のだしものとしていた。つまり、それほど彼女の容姿や芸風は、日本人ばなれがしていると同時に、また、外国人の歌手にまじって、堂々とカルメンが歌えるほど、彼女の力量はすぐれていたのだ。実際、野性的で情熱的な八千代の性格や芸風はカルメン役者にうってつけだと言われていた。  しかし、四十を過ぎるころから、さすがに故郷|忘《ぼう》じがたくなったのか、八千代も日本に腰をおちつけて、もっぱら後進の養成にあたることになったが、その八千代のおめがねに、まず第一にかなったのが、テノールの間宮豊彦だった。  豊彦は親もなければ兄弟もなく、みなし子同様の身の上を、貧苦とたたかいながら、声楽にいそしんでいたのを、この声量のゆたかさと、声質の美しさを、八千代に認められ拾いあげられたのである。  八千代と豊彦の仲が楽団|雀《すずめ》のうわさにのぼりはじめたのは、そのころからのことだが、実際、豊彦が一流テナーとして、現在の名声をかちえたのは、みんな八千代の薫陶と、物心両面にわたる援助のおかげであったが、ふたりの仲は、いつか楽壇雀のうわさのとおり、師弟の域をこえていたのである。  四十をこえた姥桜《うばざくら》ながらも、いつまでも若さを失わぬ八千代の美しさは、若い豊彦の心をひきつけるに十分だった。ことに日本人ばなれのした、野性的な八千代の情熱には豊彦も身も心もおぼれきっていた。八千代には昔から、大原良介《おおはらりようすけ》という有力なパトロンがあったが、このひとは、たいへん寛大なひととみえ、八千代と豊彦の火遊びを、見て見ぬふりをしてすごしていた。だから、八千代と豊彦の仲は、楽壇でも久しいあいだ、公然の秘密となっていた。  そこへ出現したのが吉岡早苗であった。  早苗は去年、音楽学校を出たばかりの若いソプラノだが豊彦がはじめて彼女と相識《あいし》ったのは、去年の秋八千代のカルメン、豊彦のホセに、彼女がミカエラでつきあって以来のことである。  豊彦と早苗は、たちまちはげしい恋におちていった。そして、そこに三人三様の、血みどろの苦闘がはじまったのである。  豊彦は八千代に対して、恩もあれば義理もあることを知っていた。しかし、早苗との恋のまえには、恩も義理もなかった。思えば今までの八千代との関係は、恩と義理とをカセにした、肉体の衝動にすぎなかったのだ。それは恋愛とよぶには、あまりにも本能的でありすぎた。豊彦は早苗によってはじめてほんとうの恋というものを味わったのである。  早苗はむろん、豊彦と八千代のスキャンダルをよく知っていた。しかし、彼女はそんなことを、はじめから問題にしていなかった。彼女は自分の若さに十分の自信をもっていたのだ。だから、こんどの結婚については、彼女自身ははじめから問題ではなかったのだが、やっかいなのは周囲であった。早苗は豊彦とちがって、良家の出だけに、父兄たちはこぞってこの結婚に反対だった。しかし、早苗の意志が絶対にまげられぬのを知ると、では、豊彦がキッパリと、八千代との仲を清算することを条件として、この結婚に同意しようと折れて出た。  三人のうちで、いちばん苦しんだのは、なんといっても八千代であったろう。彼女とても、いつまでも若い愛人をひきつけておくことの、不可能なことはよく知っていた。しかし、やっぱりその時期が来ると、未練と執着は、なかなかにして断ちきれなかった。豊彦に去られることは、とりもなおさず、おのれの色香のおとろえを、思い知らされることだった。肉体の黄昏《たそがれ》——八千代の苦悶《くもん》の大きかったのも無理ではない。  しかし、結局、水は低きに流れるのである。八千代がどんなにあがいたところで、いったん去った男の心を、とりもどすことは不可能だった。いろんないきさつがあったのちに、八千代はとうとう、豊彦との関係を、今後一切清算するという一札を入れさせられた。  こうして、ひとしきり楽壇雀を騒がせた、この問題もケリがついて、いよいよ、今日の結婚式ということになったのである。  それでも、いよいよ切れるときまったとき、八千代はまだ未練ありげに、豊彦にむかってこんなことを言った。 「これで、何もかもおしまいね。仕方がないわ、でもね、今までのことは水に流すといっても、このまま絶交してしまうのはいやよ。お友達として、今後も長くつきあってくださいね」  豊彦にしても早苗にしても、それまでいけないとは言えなかった。また、ひとの少ない楽壇では、今後もいっしょに、仕事をしていく場合が多かろうとも思われた。 「そりゃ、ぼくとしても、今後もいろいろ御指導していただかねばならぬと思っていますし、……それで、吉岡君とも相談したんですが、結婚式にはぜひ、先生にも御出席願いたいと思っているんです。そのほうが、いろんなデマや中傷を、打ち消すのに有利だと思うんですが……」 「まあ、結婚式にあたしを招待してくださるというの」  八千代はキラリと眼を光らせて、 「ええええ、出席しますとも、大原も何かお祝いしなければならぬと言ってましたから、ふたりそろって出席させていただきますわ」  こうして、八千代はパトロンの、大原良介といっしょに出席することになっていたのに。……  豊彦がとりとめもなく、そんなことを考えているうちに、神官の祝詞もすみ、媒酌人——そのひとは、ほんの形式的な頼まれ仲介人にすぎなかったが——が宣誓書のようなものを読み終わると、いよいよ三々九度の盃《さかずき》がはじまった。  そして、そこにちょっと、不吉といえば不吉なことが起こったのである。  盃が媒酌人から花嫁花婿と順繰りにわたって、最後にまた花嫁の手にもどったときである。お神酒《みき》を飲み干した早苗の手から、どうしたはずみか、盃がホロリとすべって床に落ちた。  一同ははっと息をのんだが、とっさのことで、だれにもそれを拾いあげようとする才覚は浮かばなかったのである。  盃はまるで、一同をからかうように、くるくると床の上を舞うていたが、やがてカタリと倒れると、そのはずみに真っぷたつに割れたのである。  ひとびとははっと顔色をかえて、早苗の顔を見直したが、早苗はそのとき、額に手をやって、今にも卒倒しそうな顔色だった。    木箱の中  式がすむとそのあとで、新郎新婦の記念撮影、さらにまた親戚朋友《しんせきほうゆう》などをまじえた記念撮影などがあって、さて、それからいよいよ別室の大広間で、披露宴にうつるはずだったが、お色直しの着付けをしているうちに、早苗の顔色はいよいよ悪く、しばらく休息したいと言い出したので、披露宴のはじまる時刻は、予定より多少遅れることになった。  花婿側の控室にいて、この知らせをきいた豊彦が、心配して、花嫁側の控室へやってくると、お色直しの着付けを終わった早苗は、ぐったりと椅子《いす》によりかかって眼をつむっている。見ると、びっくりするほど顔色が悪く、唇《くちびる》なども紫色にくちている。  そばには母親と嫂《あによめ》にあたるひと、それから今日の介添役を頼まれた、親友の安藤照子《あんどうてるこ》の三人が、おろおろした顔でついていた。  豊彦は眉《まゆ》をひそめて、 「どうしたんですか、お母さん。早苗さん、どうかしたんですか」 「すみません、豊彦さん、すこし気分が悪いというものですから、……ほんとにわがままを言って……」 「いいえ、そんなことはどうでもいいんですが、早苗さん、さっきのことを気にしすぎるんじゃないかな。ほら、盃の割れたこと……あんなこと、何もそう、気にするほどのことはないんだが……緊張してれば、だれだってやりそうな粗相ですものね。あんなことを、いちいち気にするなんて、いつもの早苗さんらしくないですね」 「あたし、別に……」  早苗はあいかわらず眼をつむったまま、かるく頭を横にふって、 「あのことを気にしてるわけじゃありませんけど……」 「そう、それならいいけど……」 「やっぱり、緊張しすぎたんでしょうね。すみません、ほんとうにわがままを言って……皆さん、お待ちかねでしょうね」  嫂もそばから、とりなすように言葉をそえる。 「いえ、そんなこと、心配なさることはありません。どうせこういうことは、とかく遅れがちになるものですから……」  そうはいうものの、どうして早苗がこんなに沈んでいるのか、豊彦はなんとなく、胸安からぬ感じであった。  一生の大事をまえにして、だれしも多少かたくなるのはあたりまえだが、今日の早苗は、すこし度が過ぎている。ことに彼女の気性を知りすぎるほどよく知っている豊彦には、なんとなくうなずけぬ節が多かった。  早苗はいたって明朗|闊達《かつたつ》な性格で、およそ、結婚式だからって、あがりそうな女とは見えなかった。  むしろ反対に、神官の祝詞のあいまでも、豊彦にむかってにっこり笑いかけるぐらいのことは、やりかねない女で、豊彦もまた、それを期待していたのである。それだけに、今日の早苗の様子はうなずけない。 「それでは、よくなったら知らせてください。ぼくは向こうで待ってますから」  豊彦が出ていこうとするのを、 「あの、ちょっと……」  早苗ははじめて眼をひらいて呼びとめた。 「なあに?」  豊彦が振り返ると、早苗はちょっとためらったのち、 「峯先生はいらして?」  と、消え入りそうな声なのである。豊彦はちょっとドキッとした気持ちで、早苗の顔を見直した。それでは早苗のおびえているのは、やっぱり八千代のことだろうか。 「さあ、式には顔を出さなかったね。きっと来ると言ってたんだけど……広間のほうへ来てるんじゃないかしら」 「いえ、あの、峯先生ならまだお見えになっておりません」  そばから口を出したのは安藤照子だった。 「でも、もうお見えになるのではないでしょうか。さきほど先生からの贈り物だと言って、なんだか大きな箱がとどきましたから……」 「ああ、そうそう、先生は今日、すばらしい贈り物をすると言ったから。……その贈り物、どこにあるんです」 「はあ、広間に飾ってございます。なんですか、ずいぶん大きなものですが……」 「そう、それじゃ今に来るつもりなんでしょう。早苗さん、何か先生に用事があるの?」 「いえ、あの、そういうわけじゃございませんけれど……」  早苗は顔をそむけると、また、苦しげに眼をとじた。  豊彦はそういう様子に、いよいよ不安を感じたが、それ以上、その場にいるわけにもいかないので、黙ってかるく頭をさげると、控室を出ていったが、廊下の角まで来たときである。うしろから追っかけてくる足音に気がついて足をとめて振り返った。追っかけてきたのは早苗の母の梨枝子《りえこ》だった。 「豊彦さん、ちょっとあなたにお話ししたいことがあるんだけど……」 「はあ」  梨枝子の顔色から、何かしら、ただならぬ気配を感じた豊彦は、ドキッとしたように立ち止まる。 「お話って……?」 「いえ、あの、別にたいしたことではないんだけど……」  と、梨枝子はあたりを見回すと、 「ああ、あそこに腰掛けがあるから、あそこへ行って話しましょう」  と、自分からさきに立って、廊下のはしにある腰掛けへ腰をおろすと、 「豊彦さん、あなた一昨日の晩、早苗にお会いになったわねえ。そのとき、あの娘に何かおっしゃって?」 「いいえ、別に……」 「そのときの早苗の様子はどうでしたの。何か変わったところはなかった?」 「いいえ。ちっとも。……たいそう元気でしたよ。お別れするときも上機嫌でしたよ。しかし、お母さん」 「はあ」 「一昨日の晩、お宅へ帰ったとき、早苗さんの様子に、何か変わったところがあったんですか」 「いいえ、そういうわけじゃないんですけど……あなた、ひょっとすると、そのとき、今朝どこかであの娘と会うような約束をしなかった?」 「今朝、ぼくが、早苗さんと……?」  豊彦は驚いて、眼を見はった。 「お母さん、どうしたんです。それじゃ、今朝、早苗さんはどこかへ出かけたんですか」 「まあ、それじゃ、やっぱりあなたに会いにいったんじゃなかったのね」 「だって、今朝、ぼくと会うはずがないじゃありませんか。どうせ午後にはここで会えるんだもの。お母さん、言ってください、早苗さんが今朝、どうしたというんです」 「それがねえ、妙なんですよ」  梨枝子はくらい顔をして、 「今朝はなにしろ、家じゅうごったがえしていたでしょう。それでつい気がつかなかったんだけど、いつの間に抜け出したのか、早苗の姿が見えないんです。ええ、たしか十時ごろのことでしたわね。それで大騒ぎになって、家じゅう探したり、心当たりへ電話をかけたりしているところへ、一時間ほどたって、ひょっこりあの娘が帰ってきたんです。しかも真っさおな顔をして……あたし、びっくりして、どこへ行ってたのか尋ねたんですけれど、どうしても言わないんですよ。なんですか、ひどく興奮していて、あまりしつこく尋ねると泣き出す始末で……おまけに今日の式はやめにしたいなどと駄々《だだ》をこねまして……」 「なんですって? 今日の式をやめにしたいというんですか」 「ええ、取りやめにするか、一時延期ということにしてもらえないかなんて、わからないことを言い出すんです。いまさらになって、そんなことできるはずがありませんから、まあいろいろ、なだめたり、すかしたりして、やっとつれて来たんですが、いったい、どうしたのか、あたしどもにはさっぱり見当もつきません。それでひょっとしたら豊彦さんに聞いてみれば、わかるかもしれないと思って……」  しかし、豊彦にも見当のつけようはなかった。いったい何が起こったのか。あんなにも進んでいたこの結婚式を、急にきらい出した原因はどこにあるのか。……豊彦はなんともいえぬ不安に、肚《はら》の底がつめたくなるような感じだった。 「そして、お母さん、早苗さんは今朝どこへ行ったのかわからないんですか」 「ええ、全然……あたしひょっとしたらあなたと会って、けんかでもしてきたんじゃないかと思っていたんですよ」 「まさか……ぼくは一昨日の晩会ったきりですよ。しかし、お母さん、早苗さんも今日が結婚式だってことはよく知ってるはずでしょう。その式を前にして、家を抜け出すというのはよくよくのことですが、だれからか手紙がくるとか、電話がかかってくるとかいうようなことはなかったのですか」 「ええ、そういえば昨日の夕方、どこからか電話がかかってきたんですよ。ちょうどそのとき電話のそばに、あの娘がいたもんだから、自分で電話に出たんだけど、あとでどこからと尋ねても、ただお友達からとばかりで、ハッキリ返事をしなかったんです。ひょっとすると、あれが呼び出しの電話だったのかもしれませんね」  豊彦はいよいよ不安に胸をとどろかせた。 「しかし、お母さん、その電話が呼び出しだとしたら、いったいだれでしょう。こんな大事な日に、早苗さんを呼び出すことができるほど、強い力をもっているのはいったいだれなんです。早苗さんには、だれかそんなひとがいるんですか」 「とんでもない。もしあるとすれば、豊彦さん、あなたよりほかにないのですがねえ」 「しかし、ぼくじゃなかったんだから、だれかぼく以外に……」  そこまで言いかけて豊彦はハタとばかりに口をつぐんだ。  ああ、ひょっとすれば、それは八千代ではあるまいか。八千代はきれいにあきらめて手をひくようなことを言っていたが、いざとなると策をめぐらし、八千代が呼びつけて、この婚礼に水をさすようなことを、早苗の耳に吹きこんだのではあるまいか。  しかし八千代と自分のことなら、早苗は百も承知二百も合点のはずなのだ。八千代が何を吹きこんだにしろ、早苗が動ずるはずはない。いやいや、早苗は明るく朗らかな性質ながらあれでなかなか負けぬ気の強い女だから、八千代がなまじ小細工をしたら、かえって反発しただろう。では早苗に今日の婚礼を、渋らせる動機となったのはなんであろう。  何かしら、わけのわからぬ迷路につきあたったような気持ちで、豊彦が惘然《もうぜん》と眼をみはっているところへ、広間のほうから、あわただしく走ってきた中年の女がある。  それは八千代の女秘書で、山脇嘉子《やまわきよしこ》という女である。嘉子が度の強そうな眼鏡の奥から豊彦の姿を見つけると、 「ああ、間宮さん、ちょっと。……」  と、立ち止まった。 「ああ山脇さん、何か御用……? 先生はお見えになりましたか」 「いえ、そうじゃないんですが、ちょっと変なことがあるんです。早く来てください。皆さんがお騒ぎになるといけませんから」  嘉子の顔色は変わっている。豊彦はハッと、ただならぬ予感におびえて、 「どう、どうしたんです。いったい、何があったんです」 「まあなんでもいいから早く、早く……」  嘉子は手をとらんばかりにして、豊彦を広間のほうへせき立てる。豊彦もしかたなしに、 「お母さん、それじゃちょっと行ってきます」  と、あわただしく言い残して広間へ来ると、今日のお客が三十人ばかり、妙に重っ苦しい顔をして控えている。しかも豊彦の姿を見ると、そのひとたちのあいだに、一種異様なざわめきが起こったから、豊彦はいよいよ不安をかき立てられて、 「山脇さん、いったい、何がどうしたんです」  嘉子はそれに答えようともせず、豊彦の手をひいて、上座のほうへやってきたが、見るとそこに、大きな長方形の木箱が立ててある。それはちょうど、「京人形」の芝居に出てくる箱みたいに、人間の入れるくらいの大きさで、紅白のリボンをかけ、朱総のついた正面のふたの上には大きな熨斗《のし》がはりつけてある。  この木箱をとりまくように三人の男が立っていた。ひとりは八千代のパトロンで大原良介。このひとは年輩が五十五、六、ゆったりとした態度の上品な紳士だが、葉巻をくわえたまま、びっくりしたような眼で、木箱のおもてをながめている。  この大原良介から少しはなれたところに、色の浅黒い、眼鼻立ちのかっきり大きい、堂々たる体つきをした中年の男が立っていた。バリトンの小泉省三《こいずみしようぞう》である。小泉省三の全身にも、何かしら一種異様な緊張の気がみなぎっていた。  さて、木箱にいちばん近いところにはきびしい顔つきをした、白髪の紳士が立っているが、このひとこそ有名な私立|探偵《たんてい》、由利《ゆり》先生なのである。  それにしても由利先生がどうして今日の結婚式に来ているのかといえばそれは拙作「蝶々殺人事件」をお読みくださればわかるはずである。蝶々殺人事件の終わりにおいて、由利先生はアルトの相良千恵子《さがらちえこ》と結婚している。相良千恵子は今日の花嫁、吉岡早苗の先輩で、さてこそ今日は、夫婦そろって招待されているのである。  それにしても大原良介といい、小泉省三といい、さてはまた由利先生といい、何をあのように緊張した顔つきで、木箱をながめているのであろうか。  豊彦も不安そうに眼をみはって、木箱と三人の男を見くらべていたが、やがて嘉子の顔を振り返ると、 「山脇さん、この箱はなんです。いったいだれがこんなものを持ちこんできたんです」 「間宮さん、御存じじゃなかったんですか。これが峯先生から、あなたへの贈り物なんですよ。でも、皆さんがびっくりしていらっしゃるのは、そのことじゃないんです。間宮さん、ごらんなさい、ほら、あれ……」  嘉子の指さすほうへ眼をやったとたん、豊彦は思わずあっと息をのんだ。ああ、なんということだ。白木の箱のふたのすきから、ドスぐろいひと筋の流れがにじみ出して、リノリウムの床へ、みみずのようにのたくっているではないか。それはたしかに血にちがいなかった。  一瞬、豊彦は棒をのんだように立ちすくんでいたが、一同の視線が自分の上に注がれているのに気がつくと、はっと気を取り直し、わななく指で紅白のリボンをとき、木箱のふたをひらいたが、そのとたん、広間の中には、わっというようなどよめきが起こった。  なんと、木箱の中に立っているのは純白のウエディング・ドレスをまとった、花嫁姿の八千代ではないか。ふたをひらいた瞬間、八千代はまるで人形のように立っていたが、やがて骨をぬかれたようにくたくたと姿勢がくずれると、箱の中からリノリウムの床へところがり出した。  見るとその胸もとには一本の短刀が、柄《つか》をも通れとぶちこんであり、そこからあふれ出る血潮が、純白のウエディング・ドレスを、真っ赤に染めていたのである。  広間の中は、再びわっと戦慄《せんりつ》した。    八千代の結婚  驚きもあまり大きすぎると、人間を一種の虚脱状態におとしいれるものらしい。  箱の中からころがり出した、峯八千代の無残な死体を見たとき、大原良介も小泉省三も、さてはまた、間宮豊彦や山脇嘉子も、一瞬ポカンとした顔色だった。何かしら、とほうもない、ありうべからざる出来事を見ているような、——信じられぬという顔つきだった。  だが、その一瞬の虚脱状態から、いちばん早く気を取り直したのは、女秘書の嘉子であった。 「あっ、先生!」  金切り声をあげてすがりつこうとするのを、 「ああいけない、さわっちゃいけません」  と、肩をおさえてひきもどしたのは由利先生。 「警官が来るまで、だれもさわっちゃいけないのです。だれか警察へ電話を……」  さっきから怖々《こわごわ》ホールをのぞいていたボーイが、言下に外へとび出していった。由利先生はホールの中を見回しながら、 「どなたか、この中にお医者さんはいませんか」  由利先生の声に応じて、客の中から、出てきたのは矢田《やだ》という中年の医者である。由利先生に請われるままに床にひざまずいて、八千代の死体をあらためていたが、すぐに首を左右にふった。 「いけませんか」 「だめです。この心臓への一撃がいのち取りでした。おそらく一瞬のあいだに、ことはきまったでしょうねえ」 「死後どのくらい経《た》っていますか」 「さあ、詳しいことは、もっと綿密に調べてみなければわかりませんが、だいたい、四時間か五時間ぐらい……」  由利先生は懐中時計を出してみて、 「すると今三時半ですから、だいたい、午前十時半から十一時半までの出来事ということになりますね」 「そう、だいたい、そのへんの見当でしょうねえ」 「自殺——ということは考えられませんか」 「さあ。こういう状態で、自殺するということも不可能じゃありませんがねえ。しかし……」  と、矢田医師は白木の箱を見上げ、それから短刀の根元を指さすと、 「周囲の情況からして、自殺説は根拠がうすいのじゃないでしょうかねえ。もっともこれは警察の領分に属しますが……ほら、ごらんなさい、ここに変なものがありますよ」  矢田医師に言われるまでもなく由利先生も気がついていたのだが、八千代の心臓につっ立った短刀の根元には、なんと写真が一枚、鍔《つば》のように貫かれているのである。 「写真ですね」  矢田医師がつぶやいた。 「その人物写真ですね。あいにく顔のところをズバリとやられているので、だれの写真だかわかりませんが、この扮装《ふんそう》を見ると舞台写真のようですね。どなたか、この写真に見覚えのあるかたはありませんか」  由利先生の声に、山脇嘉子がおずおず八千代の胸をのぞきこんだが、すぐハッと顔色を変えた。 「ああ、それ、先生のお写真ですわ。先生のカルメン……いつも先生のお居間に飾ってある写真ですけれど、まあ、どうしてこんなものが……」  山脇嘉子は、いかにも恐ろしそうに肩をふるわせている。  由利先生も眉をひそめて、 「なるほど、すると犯人は、まず八千代女史の写真を貫き、その短刀で八千代女史自身をえぐったということになりますね。ところで舞台でカルメンを殺すのは、ドン・ホセの役どころだが……」  ホセ役者の豊彦は、それを聞くとさっと土色になった。 「いいえ、知りません。ぼくじゃありません。舞台でこそぼくはカルメンを殺しますが、それはみんなお芝居なんだ。ぼくが先生を殺す道理がないじゃありませんか」 「ああ、いや何もきみが犯人だと言ってるわけじゃないんですよ。しかし、山脇さん」  と由利先生は山脇女史を振り返って、 「いったい、この箱はだれがここへ持ってきたのですか。山脇さん、あなたですか」 「いえ、あの、それは……」  山脇女史がもじもじしているところへ、横から口を出したのは、バリトンの小泉省三であった。 「それはぼくです」 「え? あなたが……?」  由利先生は言うに及ばず、大原良介も間宮豊彦も、さてはまた、山脇嘉子も恐ろしそうに、小泉省三の顔を見つめている。  小泉省三はくらい顔に苦笑を浮かべて、 「ええ、そう、しかし、それだからといって、ぼくが犯人だというわけじゃありませんよ。ぼくはまさかこの箱に、八千代女史の死体が入っているなんて、夢にも知らなかったんです。知っていればもちろん、こんな場所へ持ってくるはずがありませんからね」 「しかし、これは、八千代女史から間宮君への贈り物ということになっているんでしょう。それをどうしてあなたがここへ運んでくることになったんですか」 「いや、そのお疑いはごもっともですが、これにはわけがあるんです。昨夜のことでした。ぼくは八千代女史に呼ばれてお宅を訪問したんですが、そのとき、八千代女史はこの箱をぼくに見せ、これを明日の結婚式の贈り物にして、間宮君を驚かしてやりたいのだが、自分は美容院へまわらねばならぬから、あなたは式場へいく途中、うちへよって、この箱を自動車にでも積んで、式場へ運びこんでくれまいか。……と、こう言って、八千代女史は玄関の鍵《かぎ》をぼくにくれたんです。それでさっき、二時ごろでしたか、ここへ来る途中、八千代女史の家へ立ちよって……」 「ちょっと待ってください。八千代女史は昨夜それを頼むときあなたに箱の中身を見せましたか」 「ええ、見せましたとも」 「そのとき、箱の中に入っていたのはなんでしたか」 「それはね、今日の花嫁の吉岡早苗さんの彫像なんです。ほら、去年の秋、カルメンが上演されたとき、ぼくはエスカミリオで出たんですが、早苗さんはそのとき、ミカエラに扮しました。このミカエラが大評判だったので、彫刻家のTさんが、それをモデルにして彫像を仕上げたんです。間宮君がかねてから、その彫像をほしがっていることを、八千代女史は知っていたものだから、それをTさんから譲りうけて、今日の結婚式の贈り物にしようとしたわけです。そのことはここにいる山脇さんなども知っているはずです。昨夜、ぼくといっしょにその話を聞き、ぼくといっしょに、彫像を見せられたわけですから」  嘉子もその言葉を裏書きするようにうなずいた。 「なるほど、それであなたは、今日、中に彫像が入っていることとばかり思ってこれをここへ持ってきたわけですね」 「そうです、そうです。箱にはちゃんとこうしてリボンもかけてあり、熨斗《のし》もはってあったものですから、中をあらためるまでもなく、そのまま自動車に積みこんだのです」 「しかし、小泉さん、八千代女史はなぜそのことをあなたに頼んだんでしょうね。八千代女史には、山脇さんというりっぱな秘書もいられるのに、なぜ、山脇さんをさしおいて、あなたにそんなことを頼んだのでしょう」 「いえ、あの、そのことならあたしから申し上げますわ」  と、山脇女史がひきとって、 「あたしは今朝、別に御用がございまして、どうしても、朝早くから出かけなければならぬことになっていまして、出先からこちらへまわるということになっていましたし、先生は先生で、美容院からこちらへいらっしゃるというお話でした。それに女中が昨夜からまる一日、お暇をとって休んでおりますので、小泉さんにお願いするよりほかはなかったのでございます。それで、留守でも勝手に入ってこられるようにと、小泉さんに玄関の鍵を渡しておかれたのでございます」  そのとき、小泉省三が、意味ありげな咳《せき》ばらいをしたので一同はまた彼のほうへ向き直った。省三はのどにからまる痰《たん》を切るような音をさせながら、 「いや、それもありますが、昨夜八千代女史がぼくを招いたのは、そればかりではなかったのです。実は、八千代女史は今日ここで、結婚式を挙げるつもりでいたのです。あのとおりウエディング・ドレスを着ているのもそのためなんです」 「八千代女史が結婚式を……?」  由利先生は思わず眼を見はった。山脇嘉子も、このことばかりは初耳だったと見えて、驚いたように省三の顔を見直した。大原良介や豊彦もびっくりしたらしいが、とりわけ良介の驚きは大きかった。食い入るような眼で、省三の顔をながめている。 「今日ここで結婚式を挙げるって、八千代女史はいったいだれと結婚するつもりだったんです」  省三は良介の視線を避けるように、しばらくもじもじしていたが、やがて思いきって、 「実はだいぶまえから、ぼくは八千代女史に結婚を申し込んでいたんです。ところがこんど、間宮君と吉岡君が結婚することになったので、急に決心がさだまって、思いきってぼくと正式に結婚しよう。そうするほうが、間宮君との間にいろいろ言われているうわさをキッパリ清算するのに都合がいいだろう、——とこういうのが八千代女史の考えかたで、なにしろひとをあっと言わせることの好きなひとだから、今日、この席でそれを発表して、みんなを驚かせたうえ、すぐそのあとで式を挙げようということになっていたんです」 「なるほど、それでああしてウエディング・ドレスを着ているところを、だれかに殺され、箱の中へ詰めこまれた。それを知らずに、あなたがここまで運んできたということになるんですね」  由利先生は考えぶかくつぶやいたが、そこへ警視庁から警部の一行が馳《は》せ着けてきた。    早苗の行方 「おや、由利先生、あなたはどうしてここへ……?」 「やあ、等々力《とどろき》君、それじゃこの事件はきみの担当かい、なにぼくはお客によばれて、偶然ここへ来合わせていたのさ」 「ああ、そうですか。それは好都合でした。なんだかやっかいな事件らしいですが、先生、またひとつ助けてください」 「そうだね。こうしてぼくが居合わせたというのも何かの因縁だろう。お手伝いしてもいい」 「や、それはありがたい。先生が応援してくだされば百人力だ。それで、死体が発見されるまでの顛末《てんまつ》は……?」  こんどの事件の捜査主任、等々力警部というのは、警視庁でも腕利きの名が高いが、かねてから、由利先生の崇拝者で、捜査がいきづまると、よく先生のところへ相談にくる。また、ときにはいっしょに捜査に当たったこともあり、以前からなじみのふかい仲だった。 「なるほど、するとこちらにいられる小泉さんが、人形だとばかり思って持ってきたところが、箱の中から血がにじんでいるので、驚いてあけてみたら、死体がころがり出したというわけですね、なるほど、なるほど」  由利先生の話をきいて、等々力警部がメモを取っているあいだに、警察医が死体の検死をすました。しかし、その結果はとり立てて言うほどのこともなく、万事、矢田医師の意見と一致していた。 「なるほど、すると、十時半から十一時半までのあいだに殺されて、箱の中へ詰められた。それを小泉さんが何も知らずに、被害者の家からここまで運んだとすると、問題は被害者の家にありですな。ところでこの短刀ですが、だれかこれに見覚えのあるかたはありませんか」 「はあ、あの、その短刀なら、いつも先生のお部屋の壁にかかっているものでございます。イタリアから持って帰られたものとやらで、先生の御自慢の品でした」 「なるほど、こった彫刻がしてありますね。ところでこの刃に貫かれている写真も、被害者の居間にあったものとすれば、殺人はそこで行なわれたとみてもいいですね。おや」  八千代の死体を調べていた等々力警部は、ふと一枚のハンカチを取りあげた。そのハンカチは、フレンチ・レースのドレスと、純白のオーガンディのレディス・コートとのあいだにはさまっていたものだが、ハンカチ自身が純白の絹なので、いままでだれも気づかなかったのである。  等々力警部はハンカチをひろげて調べていたが、急に由利先生のほうを振り返ると、 「先生、被害者の名前は、たしか峯八千代でしたね。それともこれは芸名で、このひとにはほかの名前があるんですか」 「いや、峯八千代というのは本名です」  答えたのは大原良介である。 「ほほう、するとおかしいですね。峯八千代の頭文字ならY・Mでなければならぬはずだのに、このハンカチにはS・Yという頭文字が刺繍《ししゆう》してありますよ。これはたしかに女持ちのハンカチだが、どなたか、S・Yという頭文字のつく御婦人を御存じじゃありませんか」 「S・Y……?」  と、山脇嘉子は首をかしげたが、すぐはっとしたように、 「もしや、それ、吉岡早苗さんでは……?」  豊彦もそれを聞くと、驚いたように、等々力警部の持ったハンカチをのぞきこんだが、とたんに、さっと血の気がなくなった。等々力警部はジロリとそれを横目に見ながら、 「吉岡早苗というのは……? ああ今日の花嫁ですね。ところでその花嫁はどこにいるんですか」 「はあ、花嫁さんなら控室にいるはずですが……」 「恐れ入りますが、ちょっとその花嫁さんに、こちらへ来ていただくように、お伝え願えませんでしょうか」 「はあ承知いたしました」  山脇女史は小走りにホールを出ていったが、どういうわけか、なかなか帰ってこなかった。等々力警部はそのあいだに、小泉省三にむかって、もう一度、今朝からの行動をきいていたが、それに対して省三が答えたところによるとこうである。  小泉省三は今朝八時ごろ、モーニングを着て、中野にある家を出ると、銀座にある行きつけの散髪屋へ行って散髪をした。そこを出たのが十時ごろだったが、結婚式にはまだ間があるので、映画館へ入って早朝興行を見た。そこを出たのが十二時ごろ。銀座裏で昼飯を食って、ブラブラ銀座を散歩したのち、自動車をひろって、麻布六本木にある八千代の家へ行った。八千代の家にはむろんだれもいなかったが、鍵をあずかっているので、勝手に中へ入り、玄関の次ぎの間にあった白木の箱を、運転手に手伝ってもらって運び出した。それが二時ごろのことで、そこからまっすぐに神宮外苑にあるこの式場へ、恐ろしい柩《ひつぎ》といっしょにやってきたというのである。  等々力警部は子細にそれをきいていたが、やがて、由利先生と顔を見合わせると、 「なるほど、するといちばんかんじんな、十時半から十一時半までのあいだを、あなたは映画館でつぶしたわけですな。映画館ではアリバイの立証はちとむつかしい」 「な、な、なんですって。それじゃぼくが」 「いや、いや、そういうわけじゃありませんが、こういう事件があった場合、一応関係者のアリバイ調べをするのが順序ですから……ところで、大原さん、あなたの今朝の行動を、ひとつお話し願えませんか」  大原良介もビクリと眉《まゆ》をふるわせたが、どこか自嘲《じちよう》するような微笑を浮かべて、 「警部さん、お気の毒ながら、私もアリバイを立証することはできそうにありませんよ。問題の十時半から十一時半までのあいだ私は東京駅の二等待合室で人を待っていたんですが、おそらくだれも、私を認めたひとはないでしょうね。私はわざと人目を避け、一種の変装をしていたんですから」 「変装……?」  等々力警部が、疑わしそうに眉をひそめた。 「いや変装たってそんなに大げさなものじゃありませんがね。色眼鏡をかけ、マフラーで顔を隠していたんです。実はちとひとに知られたくない会見があったもんですから。……」 「しかし会見なすった相手のひとが……」 「ところがその相手というのが来なかったんですよ。つまり私は一時間あまり、東京駅の二等待合室で、待ちぼうけをくわされたというわけです」 「しかし会見の相手にきいたら、あなたがその時刻に東京駅へくるはずだったことは証明してくれるでしょう。だれですか、相手のひとは?」 「それは言えません」 「なに言えない?」 「そう、これはぼく一個人のことじゃない。相手の名誉に関することだからね、警部さん、私のような立場のものにはいろいろ秘密があるものでしてな。は、は、は」  良介はかすれたような笑い声をあげた。  大原良介といえば、財界でも怪物の名が高いのだが、近ごろでは政界へも首をつっこんでいるといううわさがある。等々力警部は苦虫をかみつぶしたような顔をしていたが、そのとき、横から口を出したのは由利先生。 「ところで、大原さん、あなたは八千代女史が小泉さんと結婚するという話を御存じでしたか」 「いや、そのことは、今聞くのがはじめてですが、それは何かの間違いじゃないかと思う」 「な、なんですって。それじゃぼくがうそをついてるというんですか」  小泉省三が気色《けしき》ばんだ。 「いやいや、あんたがうそをついてるというのじゃないが、八千代は何か魂胆があって、あんたをかついだのじゃないかね。世間ではなんと言ってるかしらんが、八千代がいちばん信頼していたのはこの私だった。八千代はどんなことでも私に打ち明けたものだ。ここにいる間宮君のことだって、八千代は細大漏らさず、私に打ち明けたもんです。八千代と私との仲は、だいぶまえから色気をはなれて、そんな仲になっていたのだ。だから、八千代が正式に結婚すると決心したような場合、何をおいても、私にいちばんに打ち明けねばならんはずだ。それだのに、今朝、家を出るまえ、八千代に電話をかけたけれど、あれはひとこともそのことに触れなかった。だから、私はこのことは何か間違いじゃないかと思っているんです」 「しかし、しかし、現にあのとおり、ウエディング・ドレスを着て……」 「だから私も不思議に思っているんです。いったい八千代はなにを企《たくら》んでいたのかと……」  そこへあわただしく山脇嘉子が帰ってきたが、見ると彼女はひとりである。早苗がついてくる模様もなかった。 「山脇さん、花嫁さんは……」 「さあ、それが不思議なんです。あちらでも今、早苗さんの姿が見えないので、大騒ぎをしていらっしゃるんです」 「なに花嫁の姿が見えない?」 「ええ……なんでもさっき、広間のほうで、峯先生の死体が出たといううわさが、控室へ伝わると、早苗さんは真っさおになってふるえていらっしたそうですが、それから間もなく、御不浄へ行くと控室を出たきり……」 「姿が見えないのですか」 「ええ」  豊彦はそれを聞くと、今にも倒れそうな顔色だった。由利先生と等々力警部はまた顔を見合わせた。    彫像の顔  早苗の姿は会場のどこにも見えなかったが、警部が刑事を督励して、いろいろ調べていくうちにだいたい次のようなことがわかった。  警部たちが駆けつける少しまえのことである。早苗は御不浄のそばから庭へおり、庭|下駄《げた》のまま、庭の木戸から出ていったらしいのである。早苗はそのとき鬘《かつら》にしろ、まだ高島田に結っていた。しかも、お色直しの振袖《ふりそで》なのである。そういう人目につく姿で、しかも庭下駄という不調和をもいとわず、逃げ出したというのはどういうわけか、逃亡は一種の告白なりという言葉があるが、それでは八千代を殺したのは早苗だろうか。  刑事たちはにわかに色めき立った。そして、等々力警部の指揮のままに、早苗の行方を求めて八方へとんだが、由利先生は何を考えているのか、しきりにホールの中を歩きまわっていたが、やがて、等々力警部を振り返ると、 「等々力君、花嫁は花嫁として、もう一度取り調べをつづけたらどうだね」 「取り調べをつづけるって?」 「山脇さんと間宮君のアリバイ調べがのこっている。このおふたりは十時半から、十一時半ごろまで、どこで何をしていられたか。山脇さん、あなたからひとつどうぞ」 「まあ、あたしのアリバイ調べですって?」  山脇嘉子はおこったように眉をあげたが、すぐ冷たい微笑を浮かべると、 「そうですねえ。その時刻ならあたし、三越の中を下から順々に歩いていましたから……アリバイの立証はちとむつかしいでしょうねえ」 「なるほど」  由利先生は微笑を浮かべて、 「だれもかれも、アリバイなしというわけか。しかし、山脇さん、あなたはなんだって、今日家を出られたんです。いったい、どういう用事がおありだったんです」 「さあ、それがおかしいんですのよ。先生のお言いつけで、レコード会社を三軒と、帝劇の支配人をたずねたんです。ところが、どこでも話がトンチンカンで、先生とそんなお約束をした覚えはないと言うんです。なんだか、先生がでたらめに、あたしにそんな用事を言いつけたとしか思えないんですの」 「なるほど、それは妙ですね。女中さんも今日はいないんでしたね」 「ええ、そうですの。これも先生が昨夜、お小遣いをやって、実家へ遊びにやったんです。それやこれやを考えると、先生は今日、ひとりでおうちにいたかったんじゃないかと思うんですが」 「なるほど」  由利先生はまた考えこんだが、やがて豊彦のほうを振り返ると、 「間宮君、それではこんどはきみの番だが、きみは今日、問題の時刻に……」 「ぼくは……ぼくは……」  豊彦は苦しげに息を切りながら、 「いいえ、ぼくにもやっぱり、アリバイを立証することは、できそうもありません」 「ふふん」  鼻を鳴らしたのは等々力警部、 「するときみも映画館かい。それとも百貨店か、駅の待合室か……」 「いいえ、ぼくは日比谷公園でした」  豊彦はおこったように頬を染めながら、 「その時刻にぼくは、日比谷公園の中を、夢中で歩きまわっていたんです。そうです、そのときぼくはひどく混乱していたんです。では、なぜ、混乱していたか、——何もかも申し上げてしまいます。ぼくは今朝、峯先生をたずねていったんです」  由利先生と等々力警部はギョッとしたように顔見合わせた。 「いったい、どういう用件で……?」 「いままで先生に書き送った、手紙を返してもらうためです。まえからぼくは先生に、そのことを頼んでいたのですが、昨日電話がかかってきて、明日の朝、九時に来てくれ、手紙を返すからということでした。そこで約束の時間にたずねていくと、先生の態度が急に変わったのです。もう一度思い直して今日の結婚式はやめてくれ。そして、今までどおりのつきあいをつづけてくれと、泣いてぼくをかきくどくのです。ぼくはびっくりしました、とほうに暮れました。しかし、いまさら、そんなことができるはずはありませんから、キッパリお断わりしたんです。すると、先生は謎《なぞ》のような微笑を浮かべて、いいわ、それじゃあきらめるわ。そして、今日の結婚式にはすばらしい贈り物をしてあげるわ、と、そう言って手紙を返してくれたんです。ぼくはそれをつかむと、夢中で先生の家をとび出したんですが、さっきの先生の素振りといい、謎のような言葉といい、ぼくはもうすっかり動転してしまって……そんな顔色を知人に見られたくなかったもんだから、銀座へでも出ようと思って、日比谷まで電車で来たんですが、そこで急に気が変わって公園の中を散歩することにしたんです」  由利先生はその話を、味わうように聞いていたが、やがて等々力警部を振り返ると、 「等々力君、だいたい、これで事情がわかったから、これからひとつ、現場と思われる、八千代女史の宅へ行ってみようじゃないか。ぼくはね、小泉君や山脇さんの見たという、早苗さんの人形が、その後、どうなったか見たいんだ」  警部もそれに異存はなかった。そこで関係者一同をそこに残して、由利先生と等々力警部は、それから直ちに六本木にある、八千代女史の宅へ直行したが、むろん、そこにはだれもいなくて、表のドアにはピッタリと錠がおりていた。  由利先生はそのドアを、小泉省三からかりてきた鍵でひらくと、等々力警部といっしょに中へ入っていった。家の中はがらんとしているが、べつに変わったところもなく、応接間、居間、客座敷と、順ぐりに見ていって、最後に湯殿をのぞいたときである。由利先生と等々力警部は、思わずドキッと眼を見はった。  湯殿の中には、まぎれもなく、ミカエラの扮装をした彫像が倒れているのだが、見るとその顔は、完膚なきまでに斬《き》り刻まれて、縦横無尽になまなましい傷のあとがついていた。 「ほほう、これは……」  由利先生は思わずうなり声をもらしたが、そのときだった。表のドアをそっとひらいて、だれか入ってくる気配。——由利先生と等々力警部は、はっとしたように眼を見交わしたが、やがて、かすかにうなずきながら、湯殿からそっと外をのぞいてみると、なんと、表からおどおどと入ってきたのは、どこで衣装を着かえてきたのか洋装姿の早苗ではないか。早苗の顔はまるで幽霊のように真っさおである。    あたしが殺した  由利先生と等々力警部の面上には、さっと緊張の気が流れる。ああ、どこまでも怪しいのは早苗のふるまいである。無断で結婚式場を抜け出すさえ、奇怪しごくのふるまいだのに、いつの間にやら衣装をかえて、犯行の現場にしのんでくるとは、なんという大胆な行動であろうか。  ことわざにも、犯人は必ず一度、犯罪の現場へ舞いもどってくるというが、それではやっぱり八千代を殺したのは、早苗だったのだろうか。八千代の死体のふところから、出てきたあのイニシアル入りのハンカチといい、早苗にかかる疑惑の雲は、こうしていよいよ濃くなってくる。…… 「先生、思いきってここでとりおさえてしまいましょうか」  等々力警部がきおい立つのを、由利先生はかるくおさえて、 「まあ、待ちたまえ。つかまえようと思えばいつでもつかまえられる。しばらく様子を見ていよう」  ふたりはしばらく湯殿に身をひそませ、早苗の行動を見守ることになった。  早苗はむろん、そんなこととは夢にも知らない。思いがけなく玄関のドアが、造作なく開いたのが不安の種らしく、ドアのうちがわに立ったまま、早苗はしばらくおびえたように、家の中の気配に耳をすましていたが、それでもやがて、いくらか安心したのか、そっと玄関のたたきから上へあがった。そしてそこでまた、不安らしく立ちすくんでいたが、やがて思いきったように、玄関のとっつきにある、左の部屋へ入っていった。  由利先生と等々力警部は、それを見ると、かすかにうなずき合いながら、そっと湯殿をすべり出て、今、早苗の入っていった部屋のまえまで忍びよった。  早苗はまだそのことに気がつかない。部屋の中に立ったまま、おびえ切った眼の色でおどおどと自分の周囲を見回している。そこは八千代が居間兼応接室として使っていた部屋で、ピアノ、電蓄、電気スタンド、壁紙から床の絨緞《じゆうたん》にいたるまで、いかにもソプラノ歌手らしい、好もしい雰囲気《ふんいき》につつまれている。  早苗は両手で胸をおさえて、それらの調度家具類の、ひとつひとつをながめていたが、やがてぶるるとはげしく身ぶるいをすると、夢遊病者のような声でつぶやき出した。 「……あのとき、あたしはコンパクトで、顔を直していたんだわ。そうしたら、先生のお話がだんだん怪しくなってきたので、あたしはコンパクトをテーブルの上において、きっと先生のほうへ向き直った。……そしてしばらく先生と言いあっていたんだけれど、だしぬけに先生が躍りかかってこられたものだから、びっくりして立ちあがったのだわ。そして、そして、しばらくもみあっているうちに先生は自分で自分のウエディング・ドレスの裾《すそ》を踏まれて、倒れるはずみに、いやというほどデスクの角で、自分の脾腹《ひばら》をうたれて……ああ、恐ろしい」  早苗はまた、はげしく身ぶるいをすると、両手でひしと顔をおおった。そして、しばらく絶えいるような、むせび泣きの声をもらしていたが、やがて、思い直したように、 「いやいや、泣いている場合じゃないわ。あたしは自分の身をまもらねばならない。……それにしてもあのコンパクトは……?」  早苗は涙をふきながら、もう一度しげしげと部屋の様子を見渡した。 「先生がおどりかかってこられたとき、たしか何かカタッと音がして、テーブルの上から飛んだのをおぼえている。……あのときあたしは夢中だったから、それに気をとめる余裕もなかったけれど、あれがコンパクトだったのだわ」  早苗はテーブルの下をのぞいた。さらにソファの下から、ピアノのうしろまでのぞきこんだ。しかし、求めるものはなかなか見当たらぬとみえて、早苗の挙動には、しだいに不安と焦燥の色が濃くなってくる。  ああ、わかった、わかった。早苗はここへコンパクトを取り戻しに来たのだ。そして、早苗の今のひとりごとから察すると、彼女も今朝ここへやってきて、八千代と何か大きないさかいを演じたらしい。ああ、もうこうなれば彼女にからまる疑惑の雲は、決定的ではあるまいか。  由利先生と等々力警部は、ドアの外で暗い顔を見合わせたが、そのとき、早苗はとうとうコンパクトを発見した。それは部屋の一方にある、洞穴《ほらあな》のような壁の凹所《おうしよ》を隠すために床まで長くたれさがった、カーテンの裾に隠れていたのだ。 「ああ、あったわ。こんなところに落ちていたんだわ」  早苗はいかにもうれしそうな声をあげ、コンパクトをひろいあげたが、そのとたん、彼女の瞳《ひとみ》はガラス玉のように生気を失い、退潮のように、頬から血の気《け》があせていった。  ドアのところに立っている、由利先生と等々力警部の姿が、はじめて眼に入ったからである。 「吉岡さん、あなた、吉岡早苗さんでしたね。わたしは警視庁のものだが」  等々力警部は、それでもできるだけ言葉をやさしく、 「とにかく、そのコンパクトをこちらへ頂戴しましょうか。それから、ついでにあなたのその行動について、説明してもらえるとありがたいのだが……」  早苗の体が、急にがくりとぐらついた。彼女はまるで、骨を抜かれたように、二、三歩よろよろよろめいたが、そのとたん、 「危ない!」  素早く駆けよった由利先生が、ガッキリとその体を抱きとめてやった。 「しっかりしたまえ、吉岡君、大丈夫だ、わたしがついている。これにはきっと、何かわけがあることなんだろう。ねえ、吉岡君、きみが八千代女史を殺したなんて、そんなベラボウなこと、わたしは信じやアしないよ。だから、気を落ち着けて……」 「いいえ、いいえ、先生」  早苗は突然、ヒステリーの発作におそわれたように、はげしくせぐりあげたが、やがて息もたえだえにこう叫ぶと、気が狂ったようにむせび泣いたのである。 「いいえ、いいえ、先生、峯先生を殺したのはあたしです。あたしがたしかに先生を殺したのですわ」    不幸な偶然  由利先生は茫然《ぼうぜん》とする。等々力警部は満足そうに、小指で小鬢《こびん》をかきながら、早苗の様子を見守っている。早苗はソファにつっぷして、ひとしきりはげしくむせび泣いた。  由利先生は、泣くだけ泣かせておいて、やがてそっと早苗の肩に手をかけた。 「吉岡君、もう泣くのはおやめ。きみが八千代女史を殺したのなら殺したのでもいい。それではひとつ、その間のいきさつを、わたしたちに聞かせてもらおうじゃないか」  早苗はやっと泣きやむと、涙をふいて、由利先生や等々力警部のほうにむき直り、放心したもののようにつぶやいた。 「あたし、卑怯《ひきよう》だったんですわ。逃れるものなら逃れたいと思って、証拠のコンパクトを取り戻しにきたりなんかして……こんなことならはじめから、何もかも打ち明けて申し上げればよかったんですわ」  運命の天秤《てんびん》が、極端にかたむいてしまうと人間はかえって大胆になるのであろう。早苗の頬には生気が戻り、おのれをあざけるような微笑さえ浮かんでいる。 「そうなのです。峯先生を殺したのはあたしなのです。でも、殺そうとして殺したのじゃありませんのよ。まったくそれははずみでした。不幸な偶然だったんです。いいえ、いいえ、あたしまさか、あのまま先生が死んでおしまいになろうとは、夢にも思いませんでした。ただ、ちょっと、気を失われただけだろうと思っていたのですわ。でも、でも、やっぱりいけなかったのねえ。さっき式場で、先生の死体が出たと、きいたとき、あたし、まっくらな絶望のどん底へ、たたきこまれてしまったんです」  由利先生と等々力警部は、思わず顔を見合わせた。早苗の告白は、なんとやら腑《ふ》に落ちぬところがある。等々力警部は眉をひそめて、何か言おうとするように、咳《せき》払いをしたが、由利先生は目顔でそれをおさえると、 「なるほど、それじゃ吉岡君、その不幸な偶然というのを聞こうじゃないか。はずみとはいえどうしてきみが、八千代女史を殺す羽目になったんだね」 「ええ、何もかも申し上げてしまいますわ。昨日の夕方のことでした。峯先生からお電話がかかってきて、結婚式のまえに、ぜひふたりきりで会いたいから、今日の十時ごろ、うちへ来てくれないかということでした。ほんとうをいうと、あたしいまさら、先生にお目にかかりたくはございませんでした。先生と間宮のことは、何もかも承知のうえのことですし、このうえ詰まらないことを聞いて、心を乱すのもいやだと思ったのです。しかし先生がたってとおっしゃいますし、それに、逃げるのはこちらに負い目があるようで癪《しやく》でしたから、思いきって、今朝十時ごろ、ここへやってきたのです」 「ああ、ちょっと待ってください。そのときこのおうちには、八千代女史ひとりきりだったのですか」 「ええ、たぶん、そうだと思います。いいえきっとそうだったでしょう。あとから思えば先生が、あたしをここへ呼びよせたのには、恐ろしい魂胆がおありだったのですから……」  早苗は恐ろしそうに身ぶるいすると、 「あたしたちはこのお部屋でお会いしたのですが、あたしがまず驚いたのは、先生が豪華なウエディング・ドレスをお召しになっていられたことです。あたしがびっくりしてそのわけをお尋ねしますと、先生は謎のような微笑を浮かべて、自分も今日あるひとと、結婚するのだと言っていらっしゃいました」 「ああ、ちょっと……それで結婚の相手というのが、だれだか打ち明けましたか」 「いいえ、あたしもそのことについて、お尋ねしてみたんですが、今にわかることだからと、先生は言葉をにごして、どうしてもおっしゃろうとはなさいませんでした。さて、そうして、はじめのうちは、とりとめもない話をしていたんですが、そのうちに、先生の口吻が、だんだん怪しくなってきたんです。つまり、あたしに今日の結婚式を取りやめにしてほしいとおっしゃるのです。あたし、あまり意外なお話に、びっくりしてしまって、すぐに御返事もできませんでしたが、すると先生はだんだん興奮なすって、間宮を失うことは自分にとって、生命を失うも同じことだ。それにひきかえ、あなたはまだ年も若いのだから、これからさき、いくらでも恋人ができるだろう。後生だから間宮をあたしにかえしてくれと、泣かんばかりにしてかき口説かれるのです」 「なるほど」  由利先生は等々力警部と眼を見交わせた。八千代の未練については、さっき豊彦も語っていたから、早苗のこの話は、十分信用されてよいだろう。 「それで、吉岡君はなんと言って返事をしたの?」 「むろん、キッパリお断わりいたしましたわ。だって今日という日になって、そんな馬鹿げたことが、できるはずがないじゃありませんか。そこであたし、先生のお話というのがそのことでしたら、もう承る必要もございませんから、これでおいとまさせていただきますと、テーブルの上においたコンパクトを取りあげようとしたんです。すると……」 「すると……?」 「すると……」  と、早苗はいまさらのように身ぶるいしながら、 「先生がいきなりあたしに、躍りかかっていらしたんです。ああ、あのときの恐ろしい形相。……あのように美しいかたの、眥《まなじり》を決した恐ろしさ、ものすさまじさというものは、それこそ、筆にも言葉にも言いつくすことはできないでしょう。あたしはびっくりしてとびのくと、何をなさるのですと、極めつけました。ええ、そりゃア、あたしだって怒りにふるえておりましたわ。すると先生は地団駄をふむような格好をなさりながら、殺してやる、殺してやる、おまえを殺して自分が間宮と結婚するのだ。このウエディング・ドレスはなんのためだと思う。今日これから、間宮と結婚するための、晴れの衣装だよとおっしゃって、まるで飢えた牝豹《めひよう》のように、あたしの上に躍りかかってこられたんです」  そこまで語ると、早苗はぐったりとしたように、ソファの中で眼をつむっていたが、やがて、パッチリと上気した瞼《め》をあげると、 「ああ、あのときの恐ろしさ! 先生のお言葉が、うそやコケおどしでないことは、その意気込みからでもよくわかります。そうです。先生ははじめからあたしを殺すつもりで、人払いをしたこのお宅へ、あたしをおびきよせたのです。あたしはあまりの恐ろしさに、血も凍りそうでした。救いを求めようにも、のどがカラカラにひりついて、言葉も口の外に出ないのです。あたしは夢中になって抵抗しました。先生がぐいぐいとのどをしめつけようとなさるのを、夢中になって挑ねのけました。今から考えてもあたしたちがどのくらい、もみあっていたのかよくわかりません。そのときはひどく長い時間のように思いましたが、あるいはほんの瞬間の出来事だったのかもしれません。とにかく、そうしてもみあっているうちに、あの不幸な出来事が起こったのです」 「不幸な出来事……つまり、八千代女史が自分で自分の裾を踏んで倒れたとかいう……?」  由利先生は、さっきの早苗のひとりごとを思い出していた。 「ええ、そうです。しかし、あのとき先生が倒れたのは、裾をお踏みになったせいかどうかはよくわかりません。ひょっとしたら、あたしが突きはなしたのかもしれませんわ。あるいは、その両方が作用したのかもわからない。とにかく先生は、ものすごい勢いでお倒れになったのですが、そのはずみに、その小卓の角で、いやというほど脾腹を打たれたらしく、ウームとのけぞってしまわれたのです」  由利先生は等々力警部と顔を見合わせた。 「それであなたは……?」 「あたしはもう気が転倒していたものですから、先生の生死をたしかめる余裕なんかとてもございません。そこにおいてあったハンドバッグとハンカチをひっつかむと、夢中でこの家をとび出してしまったのです。それですから、あたしに先生を殺す意志なんて、毛頭なかったことは信じていただきとうございます。でも、先生の不幸な最期に、たしかに幾分かの責任はあるのですから。……」 「ああ、ちょっと……」  と、等々力警部は驚いたように言葉をはさむと、 「あなたは峯女史が倒れたのを見ると、すぐとび出したとおっしゃいましたが、そのまえに、何か、ああ、……峯女史の体にいたずらをなさりゃアしませんでしたか」 「いいえ、どうしてでしょう。あたしはもう怖くてたまらなかったものですから、先生のおそばへ近寄ろうなんて勇気は、とてもございませんでしたわ」 「そして、あなたはそれきり二度と、ここへ引き返してはこなかったというんですか」 「まあ、どうしてそんな御質問をなさるのか存じませんが、あたしにはとてもそんな勇気はなかったし、またその必要もございませんでした」  等々力警部の顔には、いよいよ驚きの色が深くなる。警部はいくらか疑わしげなまなざしで、早苗の顔を見守りながら、 「吉岡さん、あなたはさっき式場で峯女史の死体が出た、ということを聞いたのでしょう」 「はあ……」 「しかし、峯女史がどういう方法で殺されていたかということを聞きましたか」 「いいえ、どうしてでしょう。あたし先生の死体が運びこまれたということを聞くと、もう恐ろしくてたまらなかったものですから、介添えの照子さんに、そっとあとのことを頼んで、夢中で会場をぬけ出したんです。そして照子さんのアパートに立ち寄り、あのかたの衣装をお借りして、こうしてここへコンパクトを取り戻しに来たんですわ」  警部の顔色には、いよいよ困惑の色が濃くなってくる。ああ、そうすると早苗は八千代のほんとうの死因を知らないで、早まって自分が殺したものと思いこんでいるのであろうか。それとも自分で突き殺しながら、わざと白ばくれて、こんなお芝居をしているのであろうか。  警部はのどにからまる痰を切るような音をさせながら、何か言おうとしたが、由利先生が素早くそれを制して、 「ああ、いや、なるほど、コンパクトを取り戻しにいらしたのは、つまりあなたが今日ここへ来たという証拠をなくするためですね」 「ええ、そうでした。このコンパクトのことは、ここをとび出して以来、しじゅう心にかかっていたのです。あたしは先生があのまま死んでしまったとは思いたくございませんでした。でも、ひょっとしたら……と、いう疑いが、ここをとび出して以来、あたしの心を苦しめていたのです。ですから、先生がやっぱり死んでいられたと聞くと、もう心配で心配で……」 「なるほど、それで警察の手が入らぬうちにこれを取り戻しに来られたんですね。しかし、吉岡君、きみがここへ忘れていったものは、このコンパクトだけでしたか。ほかにも何か、置き忘れていったものはありませんか」  早苗は不思議そうに、由利先生の顔を見守りながら、 「いいえ、どうしてでしょう。あたし、おうちへ帰ると、念のために、ハンドバッグの中のものをよく調べてみましたけれど、コンパクトのほかに、何もなくなっているものはございませんでしたわ」 「なるほど、それでそのハンドバッグは今どこに……?」 「むろん、おうちにございます」  由利先生はそれを聞くと、満足そうに微笑しながら、 「ところでねえ、吉岡君、きみは今そのコンパクトを、カーテンの裾から発見したようだが、どういう位置に落ちていましたか」 「ええ、あの、カーテンの裾にくるまれるようになっていました」 「カーテンの裾にくるまれるように……なるほど」  由利先生はカーテンをまくって、向こうにある洞穴のような小房《しようぼう》を調べていたが、やがてにこにこしながら帰ってくると、 「さあ、もうここはいいとして、もう一度式場へひきかえそうじゃありませんか。ところで吉岡君、そのまえにひとことあなたに注意しておきますがねえ、八千代女史は脾腹を打たれて死んだんじゃないんですよ、八千代女史はこの部屋にあった、イタリア土産の短刀で、みごとに心臓を貫かれて死んでいたのですよ」  一瞬、早苗はポカンとして、由利先生の顔を見ていた。なんだか先生の言うことが、よくわからないらしかった。だが、次の瞬間さっと面上に血の気がのぼってくると、 「そ、それはほんとうですか」  ほとんど聞きとれないくらいの声だった。先生は世にも美しい微笑で、早苗の顔を見守りながら、 「ほんとうですとも。だから、今あんたの言った言葉がほんとうだとすれば、八千代女史を殺したのはあなたじゃなかったのだ。あなたがとび出したあとへ、別の人物がやってきて、八千代女史を刺し殺したのです。そしてそいつはおそらく、あのカーテンのうしろで、あなたと八千代女史の争闘の、いちぶしじゅうを見ていたにちがいないのですよ。おっと、危ない」  ふらふらと二、三歩たたらを踏んで、危なく倒れそうになった早苗の体を、カッキリ抱きとめた由利先生は、等々力警部を振り返ると、 「さあ、それじゃもう一度、式場へとってかえそうじゃないか」    怪 火  披露宴の席には、まだ、お客が全部のこっていた。  間宮豊彦は暗い顔をして、あの不吉な木箱をながめている。八千代のパトロン大原良介は、両手をうしろに組んだまま、しきりに床の上を行きつ戻りつしている。バリトンの小泉省三は、放心したように椅子に腰を落としていた。彼の顔色は悲痛そのものだったが、それもおそらく無理のないところだろう。彼自身の言明するところによると、八千代は今日この席で、小泉と結婚する予定だったというのだ。小泉省三が長い間、八千代女史に恋情を持ちつづけてきたということは、楽壇中でもたれひとり知らぬものない事実である。その念願がやっとかなって、いよいよ結婚というその瀬戸際に、八千代が凶刃にたおれたのだから、彼の心中たるや、察するにあまりありであったろう。  女秘書の山脇嘉子も、蒼《あお》い顔をして、しきりにハンカチをまさぐっている。彼女にとって、八千代は決してよい主人ではなかったかもしれない。八千代の気まぐれには今までどんなに泣かされてきたことか。しかし、今こうしてにわかに主人を失って、この中年のあまり美しくない女が、これからさき、どうして生きていけるだろう。……  冬のこととて、日はもうすでに暮れてしまって、会場全体に明るい灯の色があふれていたが、だれの顔も妙に暗く、陰気に沈みきっていた。由利先生と等々力警部が、早苗をともなって帰ってきたのは、こうして、みんながひとさまざまの想いを抱いて、屈託にくれているころのことだった。  早苗が帰ってきたという報は、すぐに披露宴の会場へも伝わって、一同はちょっと緊張した色を見せたが、どういうものか、早苗はそれきり姿を見せず、披露宴の席へやってきたのは、由利先生と等々力警部のふたりきりだった。 「先生、早苗さんが帰ってきたというのはほんとうですか」  由利先生の姿を見ると、豊彦がとびつくようにそう尋ねた。 「ああ、間宮君、ほんとうですよ。われわれが連れ戻ってきたのです」 「いったい、吉岡君はどこにいたんだね」  大原良介である。 「八千代女史のところにいたんですよ」 「まあ」  山脇女史は眼を見はって、 「吉岡さんはいったいうちに、どんな用事がおありだったんですの」 「吉岡君はね、今朝、八千代女史を訪問したんですよ。ところがその際、コンパクトを忘れてきたので、それを取り戻しにいったんですね」 「早苗さんが、今朝、先生を……?」  豊彦はおびえたように呼吸をはずませた。 「そ、それじゃ、先生を殺したのは早苗さんだというんですか」 「いやいや、そこまで断言するのは、まだ早計のように思うが、とにかく、吉岡君はこの事件で、相当の役割を演じているらしいんですね。だから犯罪の第一現場から、自分のコンパクトが出てきたとなると、めんどうなことになりそうだから、そこで、まあ、危険を冒して、取り戻しにいったんですね」 「それで、先生、吉岡君は今どこにいるんです」 「奥の控室に寝かせてあります。ひどく興奮しているので、家族のかたにも会わせないでひとりで休養をとらせることにしてあります。ところで皆さん」  由利先生はもう一度、披露宴の式場を見回すと、 「たいへんお手間をとらせてすみませんが、等々力警部がもう一度、ひとりひとり別室へ来ていただいて、お話を伺いたいと言っているのですがね。等々力君。どなたからはじめるかね」 「そうですね。山脇女史からお願いしましょうか」 「ああ、そう、それじゃ山脇さん、あなたすまないがわれわれと、向こうの部屋へ来てください。それからほかのひとびとは、この建物の内部ならば、どこへおいでになるのも御自由ですが、外へは絶対にお出にならないように……」  由利先生と等々力警部が、山脇嘉子をつれてホールを出ていくと、あたりには急に軽いざわめきが起こった。にわかに緊張がほぐれたので、一種の精神的|弛緩《しかん》からくるざわめきであろう。由利先生の態度や言葉から、なんとなく事件の解決の近いことが思われ、その安堵感と、由利先生のお許しが出たので、いままで罐詰《かんづめ》になっていたホールから、ほっとしたように出ていくひとびともあった。そのひとびとを見守る警官たちの眼の色も、よほどきびしさが減っている。  こうして今まで、ホールに押しこめられていたひとが、一時に外へ解放されたので、この建物全体が、にわかに軽い雑談や、またときにはいくらか陽気な冗談でみたされた。あちらの喫茶室、こちらの廊下のすみなどに、三々五々、ひとびとが集まっていた。山脇嘉子はどういう取り調べをうけているのかまだ出てこない。……  ちょうどそのころ、早苗はこの建物の一番奥なる控室で、ひとりつくねんと物思いにふけっていた。由利先生は彼女のことを、ひどく興奮しているように言ったが、それは先生の思いちがいか、それとも故意にうそをついたのか、今の彼女にはちっともそんな気配は見えない。むしろ、一時の興奮からさめたあとの、さむざむとした反省が、今、静かに彼女の体を抱いている。  早苗にはなぜ由利先生が、親戚や友人からきりはなして、自分をひとりここにおいたのかわからない。しかし、早苗はそのようなことを考えてみようとも思わなかった。彼女はもう、何を考えるのも物憂く、ただ、赤ん坊のように無心になって、由利先生の指図に身をまかせているだけである。  遠くのほうから、ひとびとのざわめきや、軽い話し声がきこえてくる。また、廊下をいききする足音が、遠い潮騒《しおさい》をきくように、この奥まった一室までとどいてくる。そのことがいっそう、彼女を孤独の想いにおとしいれた。  ふいに早苗は、ギョッとしたようにおもてをあげた。遠くのほうから、けたたましい叫び声と入り乱れた足音がきこえてきたからである。と、同時に、彼女のいる部屋の窓ガラスに、パッと明るい火の色がうつるのが見られた。  火事……?  早苗がドキッと腰を浮かしたとき、果たして遠くのほうから、火事だ、火事だとののしる声がきこえてきた。  一瞬、早苗はとまどったような眼の色になる。どんなことが起こっても、この部屋から出てはならぬという、由利先生の命令だった。しかし、今どこか、この建物の一角に、火がついているらしいのを、ここにじっとしていてよいだろうか。  窓にうつる火の色は、ますますはげしさを加えて、ひとびとのののしり騒ぐ声にまじって、パチパチと物のはぜるような音がする。窓の外に、大きな火の粉がとんできた。  早苗の胸に、急にドス黒い恐怖がこみあげてきた。膝頭《ひざがしら》がガクガクふるえて、舌が上顎《うわあご》にくっついてしまった。窓の外にふる火の粉は、いよいよ数をましていく。  早苗は夢中で、ドアを開いて外へとび出した。どういうわけか廊下の灯は全部消えていたが、早苗は別に、そのことについて考えてみようともしなかった。一刻も早く、知りびとのそばへいきたくて、夢中で廊下を走っていったが、そのときふいに、何やらまっくろなものが、早苗の頭をつつんだかと思うと、いきなり、だれかが彼女のからだに躍りかかり、強い力でぐいぐいのどをしめつけてきた。  早苗は夢中で廊下を蹴《け》り、苦しげに空咳《からせき》をする。声を立てようにも、ふろしきのようなもので顔をつつまれているので言葉が出ない。  早苗は軽いうめき声をあげた。ゴホン、ゴホンと苦しげな咳をした。そして、急に気が遠くなりそうになったが、その瞬間、のどをしめつけていた腕から力がぬけた。と、同時に、自分の周囲で、はげしい格闘の気配が感じられた。  早苗はあわててふろしきをかなぐり捨てると、今にも倒れそうな体を廊下の壁にもたせて、茫然とくらやみのなかに眼を見はっている。暗い廊下の中で、三つの影が組んずほぐれつしている。しかし、この争闘はすぐ終わった。ガチャンと何やら金属性の音がしたかと思うと、やがて、さっと懐中電気の光芒《こうぼう》が、手錠をはめられた男の顔を照らした。  それはバリトンの小泉省三だった。  火事はどうやら下火になったらしく、騒ぎもだいぶ静かになっている。早苗は廊下の壁に身をもたせたまま、フーッと気が遠くなってしまった。    執念の恋 「小泉省三が、なぜ八千代女史を殺したというのですか。それはね、どんな柔順な飼い犬でも、主人のいたずらが度をすぎると、かみつくこともありうるという、これがひとつの実例なのです。小泉君は八千代女史に首ったけだった。だから今まで、どんなふうに利用されても、喜んでその頤使《いし》に甘んじていたんです。しかし、八千代女史のいたずらというか、利用の仕方というか、それが限界まで来たとき、小泉君の怒りは爆発したのです。そして、とうとう、自分の偶像を殺してしまったんですよ」  由利先生の周囲には、等々力警部をはじめとして、豊彦、早苗の新婚夫婦、それに大原良介や山脇女史も集まっている。いつもながら、事件の解決したあとの、物憂い倦怠《けんたい》感が一座を支配していた。 「八千代はいったい、あの男を、どういうふうに利用しようとしていたのだ」  大原良介の質問である。 「八千代女史はね、あの白木の箱を会場へ、持ちこむ役を小泉君にふっていたのです。そのために、結婚という餌《えさ》を出して、小泉君を釣ったんですね」 「しかし、先生のはじめの計画では、早苗さんをモデルにした、彫像を会場へ持ちこむつもりだったのでございましょう。それならば何も、そのような大きな代償をお払いにならなくても……」  山脇女史のもっともな質問だった。由利先生は暗い眼をして、 「ところがそれはうそだったんです。なるほど一昨夜、小泉君やあなたが見たとき、箱の中には彫像が入っていた。しかし、今は、小泉君が立ち寄って、白木の箱を運び出すときには、吉岡君の死体が入っている予定だったんです」  あっというような驚きの声が、期せずして一同の唇からもれる。何かしらもの恐ろしい執念が、豊彦の背筋をつめたく這《は》った。 「いったい、八千代は何をしようとしていたんだ。吉岡君を殺すつもりだったのかね」 「そうです。そうです。そして、その死体を小泉君にここへ運ばせ、それを一同に見せびらかしたのちに、間宮君を刺し殺し、かえす刃で、自分も自殺しようとしていたんですよ。つまり、八千代女史はだれにも間宮君を渡したくなかった。それくらいならば、いっそ間宮君を殺して自分も死のうとしていたんです。あのウエディング・ドレスは小泉君のためのものじゃなかった。間宮君のために、装いをこらしていたんですよ。すなわち、生きて正式に結婚できない間宮君と、八千代女史は死んで結婚しようと考えたのです」  再び恐ろしい戦慄《せんりつ》が、豊彦の背筋を貫ぬいて走る。ほかのひとたちも、しばらく黙然としてうなだれていた。 「ところが、その計画に、何か手違いができたんだね」  のどにからまる痰を切りながら、そう尋ねたのは良介である。 「そうです。その手違いというのが小泉君です。小泉君は二時ごろ立ち寄って、白木の箱を運び出すように頼まれていたが、あまりうれしかったものだから、それまで待てずに、十時ごろ、八千代女史の宅を訪れた。このときたぶん、八千代女史は家にいなかったか、いても気がつかなかったかして、小泉君はひとりで応接間で待っていた。そこへ早苗さんがやってきたので、あわててカーテンのうしろへ隠れたのですが、そこで立ちぎきした、八千代女史と早苗さんの押し問答をきいて、はじめて八千代女史の真意を知った。自分が操り人形のように手玉にとられていたことに気がついたのです。そこで早苗さんが逃げ出したのち、カーテンのうしろからとび出し八千代女史を責め、自分と結婚してくれるように頼んだのでしょう。しかし、相手がどうしてもきかないものだから、とうとうあの短刀で八千代女史をぐさっとひとつき……」 「しかし、先生、あの短刀の根元に、峯先生のカルメンの写真がささっていたのはどういうわけでしょう」  豊彦がかわいた唇をなめながら、はじめて口をひらいた。 「ああ、あれ」  由利先生もにっこり笑って、 「あれはなかなかおもしろいですよ。これはわたしの想像ですがね、小泉君はまず、短刀であのカルメンを貫いてみせたんでしょう。オペラでカルメンを殺す役は、ドン・ホセにきまっているが、今はこのエスカミリオが殺してみせると、芝居がかりにすごんでみせたんでしょうね。しかし、八千代女史があくまで聞かないものだから、とうとうその短刀でほんとうにカルメンを刺し殺してしまったんです。さて、そのあとで小泉君は、あの白木の箱に八千代女史の死体を隠し、いったん、そこをとび出したが、あの箱を運びこむことは、山脇女史も知っている。そこで二時ごろもう一度出向いていって、なに食わぬ顔で、箱を運びこんできたんですよ」  何もかも、これで一切明白になった。しかし、ここにただひとつ、疑問となって残ったのは、小泉省三が、なぜ早苗を殺そうとしたかということである。早苗がそれを尋ねると、由利先生はにっこり笑って、 「ああ、それ、……それはあなたが、八千代女史の宅から、重要な証拠を持ちかえっていたからですよ」 「重要な証拠といいますと……?」 「あなたは、八千代女史の宅に遺留したものを、コンパクトだけだと思っていましたね。しかし、もっと大事なものをしかも八千代女史の死体の衣装のあいだに残していたんです。それはイニシアル入りのハンカチです。ところがあなたはそのことに、ちっとも気がついていない。いやいや、それのみならず、八千代女史が倒れたのを見ると、ハンドバッグとハンカチをつかんで逃げ出したと言いましたね。しかし、あなたのハンカチは八千代女史ともみあうはずみに、女史の衣装の中にもみこまれていたんですから。そのとき、あなたの持ち帰ったハンカチはいったいだれのものだったか……」  由利先生はポケットから一枚のハンカチを出してひろげてみせたが、それは大きさといい、生地《きじ》といい、早苗のハンカチとそっくりだった。ただ、ちがうのはイニシアルで、そこにはくっきりとS・Kと。…… 「これはね、さっき警察のかたに頼んで、早苗さんの宅から持ってきてもらったものですが、小泉君はこのとき、早苗さんが気がつくまえに、殺してしまおうとしたんです。そして、いずれなんとか手を回して、このハンカチも取り戻すつもりだったんでしょうがねえ。いや、じつはそれに気がついていたものだから、わたしはわざと小泉君にチャンスを与えたのですが、まさか、放火というような思いきった手段に出ようとは思いませんでしたねえ」  これで万事は氷解した。思えば豊彦と早苗の結婚には、高価な代償が払われたものである。この悲痛な、救いのないやるせなさは、同じように、ひとびとの胸をしめつけたとみえ、由利先生の説明が終わっても、しばらくはだれひとり、口をきこうとするものはなかった。  いつ降り出したのか、窓の外には大きな牡丹《ぼたん》雪が、霏々《ひひ》として舞いおちている。まるで八千代のウエディング・ドレスのように純白の雪が。…… [#改ページ] [#見出し]  猿と死美人    霧の花火  世のなかに何が恐ろしいといって、犯罪者の心理ほど恐ろしいものはない。  犯罪者と狂人とはまったく紙一重なのだ。しかも、はじめから狂人とわかっていれば、瘋癲《ふうてん》病院へ隔離するなり、一室へ監禁するなり、それ相当の防御策を講ずることもできるのだが、犯罪者に限って、うわべは常人以上に正気らしく見えるのだから始末が悪い。  しかし、なんといっても、畢竟《ひつきよう》彼らは狂人なのだ。彼らの異常な、あまりにも異常な行動が、だから、しばしば常識の域を越えていたからといって、あえて異とするに足りないのかもしれない。ここにお話ししようとする、この奇怪な「猿《さる》と死美人」事件がその好個の一例なのだ。  それは東京にとっては、珍しく霧の深い夜のこと。  江東方面から流れだしてきた濃い乳色の霧が、みるみるうちに隅田川の両岸を包んでしまって、さしも繁華をほこる下町方面も、一瞬、死の街と化したような深夜の一時過ぎ——折りからの闇《やみ》と静寂をやぶって、突如、霧の夜空にパッと炸裂《さくれつ》した花火があった。一つ、二つ、三つ、四つ五つ、青白い炎が、夜霧にぬれて、人魂《ひとだま》のように妖《あや》しく明滅しながら、暗い河面《かわも》におちていったかと思うと、あとはまたもとの静けさ。  場所は今戸《いまど》のあたり、だれかが子供のもてあそぶ打ち揚げ花火を揚げたらしいのだが、考えてみるとこれはなんだか妙である。時候《とき》はすでに十月も半ばすぎ。おまけにこの霧の夜更けだ。だれが考えても、単なる座興とは思えない。  こんどの日華事変でも、中国軍はさかんに花火を狼煙《のろし》がわりに使っているというが、これも何かの合図ではないかしら。  ——と、果たして、  ちょうど、今戸の向こう岸。隅田公園のほとりにもやってあったボートの中から、ふいにむっくりと首をあげた二つの人影がある。 「耕《こう》さん、たしかにあれね」  あたりをはばかるような小声で、そっとそう呼びかけたのは、意外、まだうら若い女の声なのだ。 「ふむ」  それに対して答えたのは、外套《がいとう》の襟《えり》をふかぶかと立てた青年、まぶかにかぶった帽子の下からくっきりと高い鼻が見える。 「五つだったわね。たしかに三つじゃなかったわね」 「そう、五連発でしたね」 「ああ」  女はふいに青年の腕をぎゅっとつかむと、 「よかったわ。よかったわ。うまくいったのだね。耕さん、さあぐずぐずしないで漕《こ》いで頂戴《ちようだい》よ。あたし一刻も早く向こう岸へ渡って、このいやな取り引きをすませてしまいたいわ」 「ええ」 「耕さん、あなたどうかなすったの。どうしてそんなに浮かぬ顔をしていらっしゃるの」 「美弥《みや》さん、ぼくはなんだか不安でたまらないのですよ。なるほどああして、うまくいったという合図はあったものの、父の気性を考えるとなんだかまだ安心ができないのです。それに峯子《みねこ》というあの女だって——」  みなまで言わせず、女はいかにもじれったそうに、 「だからさ、だからあたしが行こうと言っているじゃないの」 「いや、それだからいっそうぼくは心配なのです。これはやっぱり、ぼく自身で出かけたほうがいいかもしれない」 「いけません、いけません。あなたがいらっしちゃ、またぶっ壊しになるにきまってるわ。まあ、どちらにしても、こんなところで押し問答をしててもはじまらない。おお、寒い、とにかく耕さん向こう岸まで漕いで頂戴よ」  冷たい夜霧に首をすくめ、身ぶるいをしたその拍子にかぶっていた頭巾《ずきん》がすらりとうしろに脱げたところをみれば、眼もさめるような断髪美人、肌理《きめ》の細かい卵色の肌《はだ》に、表情が少年のようにすがすがしくて、美しい双眸《そうぼう》が宝石のようだ。年はまだ十九か二十《はたち》。牝鹿《めじか》のような華奢《きやしや》なからだを包んだ臙脂《えんじ》色のレーンコートが、びっしょりと霧にぬれて光っている。 「そうですね。それじゃともかく、向こう岸まで渡ってみましょう」  青年がオールをにぎり直すと、やがてボートはひたひたと河面を滑って、しだいに霧の河岸へ進んでいく。  それにしても、このふたりはいったいどういう人間なのであろう。花火の合図といい、いやな取り引きといい、この霧ふかい夜の川べりに、彼らはいったい、何をたくらんでいるのだろう。  それはさておき、ボートは間もなく、漫々たる隅田の河心へと進んできた。あたりはただもう真っ白な霧にとざされて、行き交う舟のすがたとてなく、その心細いことはなんともたとえようもないほどだ。  と、この時。  ふいに美弥がぎょっとしたように青年の腕をつかんで、 「あら、あれ何?」  と、小声で叫んだ。 「ナ、なんですか?」 「ほら、あの音——」  と、美弥はシーンと霧の中に耳を傾け、 「ほら、鈴みたいな音がするじゃないの。それから、あ、あの声はなんでしょう」  美弥のその言葉が終わらぬうちに、ふいに甲高《かんだか》い動物の叫び声が、ひと声鋭く、霧にとざされたあたりの闇《やみ》を貫いた。  それは猫とも犬ともつかぬ、一種異様な動物の叫び声だった。そして、その声がふととぎれたかと思うと、最初、美弥の耳をそばだたしめたあの鈴の音《ね》が、またしてもリーン、リーンと霧の向こう側から聞こえてくる。しかも、その音はゆるやかな流れにのって、しだいにこちらへ近づいてくるのだ。 「耕作さん」  ふいに美弥は息を弾《はず》ませて、 「あれなんでしょう、あたし気味が悪い」 「馬鹿な、何が怖いものですか。向こうから舟が来るのですよ。そして、この霧の中で衝突しないように、ああして鈴の音をひびかせているんですよ」  だが、耕作のその言葉も終わらぬうちに、ボートはふいに、ドシンと何かにぶつかったのである。 「あ」  はずみをくらってゆらゆら、危うく転覆しそうになったボートを、かろうじてオールでくいとめた時だ。  ふいにガチャガチャガチャ、鎖を鳴らすような音がしたかと思うと、 「キーッ!」  裂くような動物の叫び声。はっとして二人が振りかえったとき、何やら大きな箱のような影がボートの舳《へさき》をはなれて、ゆらりゆらりと下流のほうへ流れていった。  リーン、リーン。霧の中に、あの一種異様な鈴の音をひびかせながら。——  その影はすぐ、濃い乳色の渦《うず》の中に溶けこんで見えなくなってしまった。    美弥の冒険 「まあ、いったい、あれなんでしょう」  我れ知らず、青年の胸にしがみついていた美弥は、それと気がつくと、思わず顔を赤らめて、そっと身をひきながら、声をふるわせてそう尋ねる。 「さあ、なんでしょうね、妙な舟でしたね」 「舟かしら、まるで箱みたいじゃない、それに、気味の悪いあの叫び声——」  と、言いかけて美弥はふと気がついたように、 「あ、あれ、ひょっとすると猿じゃないかしら」 「猿?」  と聞き返した拍子に、青年がオールの手をゆるめたので、ボートはくるくると危うく水の上で弧を描く。 「猿?——なるほどそういえば猿のようでしたね」  そう言った青年の顔は真っさおだった。  猿——と、聞いて、なぜ青年がこのように驚いたのか、それは間もなくわかることだが、 「美弥さん」  と、青年はまたもや思いあまったように、 「今夜はやっぱり、よしたらどうです」  と言い出した。 「あら、どうして? 猿の声を聞いたから急に怖気《おじけ》づいてきたの。いいじゃないの、なんでもありゃしないのだわ。それにいまさらよすなんて、せっかく尽力してくだすったお峯さんにだって悪いわ。とにかく急いで漕いで頂戴な」 「そうですか」  青年はすすまぬ様子でまたもやボートを漕ぎ出した。しかし、この時もし彼らが、ひと目でもいいから、あの奇妙な箱のようなものの正体をつきとめていたら、たといどのような火急な用事があろうとも、これから述べるような冒険をやってみる気にはならなかったろう。  それはともかく、間もなく広い隅田川を斜めにつっ切ったボートが、ぴったりとその舳《へさき》を横づけにしたのは、今戸と橋場の境目あたり、川にむかって建っている、とある洋館の真下なのである。 「あ、御覧なさいよ。向こうの窓に明りがついているじゃないの。あそこから入っていけばいいのね」 「それじゃ美弥さん、あなたはやっぱり行くんですか」 「ええ、行くわ。大丈夫よ。お峯さんがいるんだから何も心配なことないでしょう。耕さん、ちょっと手伝って頂戴な」  川の中に太いコンクリートの柱が立っていて、その上に、ひろい露台がはみ出している。その露台の奥に、カーテンのしまった大きなフランス窓があって、そこから薔薇《ばら》色の明りが、霧ににじんでこぼれているのである。 「じゃ、気をつけていらっしゃい。ぼくはここで待っていますから。成功をいのります」 「ええ、ありがとう」  青年に手伝ってもらうと、美弥はなんという大胆さ、ボートからするすると露台へのぼり、やがてコツコツと靴《くつ》音もしのびやかに、フランス窓のほうへ歩みよった。 「峯子さん、峯子さん」  ガラス扉《ど》をコツコツとたたきながら、窓の外からそっと声をかける。 「あたしよ、美弥よ、合図があったから、耕作さんの代わりに、あたしが自分でやってきたのよ」  わかった。わかった。さっき花火の合図をしたのは、その峯子という女にちがいない。  美弥は小声で二、三度|訪《おとの》うたが、どうしたのか予期した返事はなかった。明りのついた部屋の中は森《しん》として、カーテンの向こうには人の気配もない。 美弥は思いきってフランス窓のドアの取っ手に手をかけたが、ドアは案外、なんなく外にひらいた。 (あ、お峯さんがひらいておいてくだすったのだわ)  美弥は心のうちにうなずきながら、一歩、室内へ足を踏みいれたが、そのとたん、横合いからぎゅっと彼女の手首をつかんだ者がある。  氷のように冷たい手だった。 「あ」  美弥は思わずうしろへ身を引こうとして、そこに立っている人の姿を見たが、その時、彼女は思わずめくるめくような気がした。  美弥の腕をつかんだのは、中年の上品な婦人だった。紫紺色のお召に、黒い絽刺《ろざ》しの羽織がよく似合って、抜けるように白い頬《ほお》は、何かしら異様な感激にふるえている。  婦人は失心したような美弥の体を抱きすくめると、嵐《あらし》のように熱い息吹きを吐きかけながら、 「ほほほほほ、美弥や、よく来ておくれだったねえ。でも、もう何も心配することはないのだよ。ほら、御覧、悪魔はあのとおり滅んでしまったよ。ああ、これであたしは救われたのだ。美弥や、喜んでおくれ、ほほほほほ、いい気味だこと!」  美弥はぎょっとして、婦人の顔を見た。  婦人の上品な、細い面差《おもざ》しは恐怖と歓喜に引きつって、その眼はもの狂おしく輝いている。  美弥はその婦人の肩越しに、そっと明るい室内へ眼をやったが、そのとたん、 「あれ!」  と、叫んで顔をそむけると、 「お母さま! あなたは、——あなたは。——」  絶叫すると、夢中になって婦人の肩をゆすぶった。    美人の獄  美弥はいったい、その室内に何を発見したのか、それをお話しするまえに、筆者は少し時計の針をあとへ回して、ほかの出来事からこの恐ろしい物語を進めていかなければならない。  その夜、あの不思議な花火の合図に眼をとめたのは、美弥と耕作のふたりだけではなかった。ちょうどその時、赤いシグナルを掲げて、言問橋付近へさしかかった、一艘《いつそう》のランチの中で、はからずも一人の青年が、この狼煙に眼をとめたのである。 「おや、ありゃなんだろう。おい、等々力《とどろき》君、あの花火はちょっと妙だぜ」  こう言って、かたわらを振りかえったのは、諸君の中にもすでに御存じのかたがあるかもしれない。三津木俊助《みつぎしゆんすけ》といって、新日報社の花形記者、刑事事件にかけては警察官はだしという、名うての敏腕記者だ。 「なんだい、あれはただの花火じゃないか」  答えたのは等々力警部。俊助といつもいい相棒だが、その警部が今夜、水上署と協力して、水上のルンペン狩りをするというので、俊助もちょっとした好奇心からおつきあいをしたのが、そもそもこの事件に首を突っ込む発端なのだ。 「花火はわかっているさ。しかしおかしいじゃないか。今はもう子供が花火を打ち揚げて遊ぶような季節じゃないぜ。それにこの真夜中にさ。少し妙だと思わないか」 「まあ、そう言えばそんなものだが、しかし、いちいちそんな詮議《せんぎ》をしちゃ際限がないぜ。そうでなくても、こちとら、やらなければならぬ仕事が山ほどあるんだ」  こういう会話をのせたまま、ランチはタタタ、タタタと物憂い機関の音をひびかせながら、ゆるやかに川をのぼっていく。おりおり、岸にもやっただるま船に、さっとサーチライトの光を投げたり、誰何《すいか》したりする。しかし、別にこれといって獲物はなさそうだ。  ランチは間もなく、言問橋の下を通りすぎて、隅田公園のほとりへと差しかかった。 「なんだい、馬鹿馬鹿しい。罪もない船頭をたたき起こしたりして、いったい、どれだけの得があるというんだ。あーあ、こんなことならこの眠いのに、おつきあいなんかするんじゃなかったぜ」  あくびまじりに俊助が、警部をそう非難していた時だ、ふと上手《かみて》の霧の中から、リーン、リーンとかすかなる鈴の音がきこえてくる。 「おや、あの鈴の音はなんだろう」  俊助のその言葉も終わらぬうちに、キーッとあたりの闇をつんざく、異様な叫び声。 「なんだ、なんだ!」  さすが物に動ぜぬ刑事連中も、この異様な叫び声に、どやどや前甲板へ集まってくる。 「サーチライトを、サーチライトを——」  だれかが叫ぶ。と同時に、一道の白光が霧を縫って、さっと前方の闇の中にひろがった。 「あ、ありゃなんだい」  俊助が驚いたのも無理ではなかった。  今しも、サーチライトの白光を真正面から受けて、ゆらゆらと霧の中から浮かびだしてきたのは、一種異様なしろものなのだ。船かと見れば船でもない。箱かと見れば箱でもない。およそ一|間《けん》四方もありそうな、真四角な木の箱なのだが、その箱の一方の面には、太い鉄|格子《ごうし》がはまっているのである。つまり檻《おり》なのだ。 「あ、檻だ、檻だ!」 「檻の上に何かいるぞ」  なるほど、見ればその檻の上には、猫ぐらいの小さい動物が、キーッ、キーッと叫びながら、まるで気違いのように跳ね回っている。そして、その動物が跳び回るたびに、ジャラ、ジャラと鎖の触れあう音がして、それにつれて、リーン、リーンとさわやかな鈴の音が霧の中にひびき渡るのである。 「猿だね」 「そうらしい。おい、船をもっとそばへ近寄せてみろ、気をつけて、ぶっつけるな」  警部の声に、ランチはタタタタと波を蹴《け》ってこの異様な檻のそばへ近づいていく。近づくにつれて、檻の上に跳ね回っている猿の姿がはっきりと見えてくる。猿は歯をむき出して、いよいよ気違いじみた声をあげながら、ピョイピョイとそこらじゅうを跳び回っているのだ。  だが。——  この時、警部や俊助の眼を驚かしたのは、この猿ではなかったのである。真正面から照りつける探照燈の光に、ひょいと檻の中をのぞきこんだ警部と俊助、 「や、や、人がいる!」  絶叫して、思わず顔を見合わせたのだ。  なるほど、水の上にゆらゆらと浮かんでいる檻の中には、生きているのか死んでいるのか、ひとりの人間がぐったりとしてうずくまっているのが見えるのである。しかも、パッと眼につく着物の柄からして、どうやらそれは、まだうら若い女性であるらしい。  檻の中の死美人——?  さあたいへんだ。等々力警部と三津木俊助、そこでおのおのもちまえの職業意識から、ピンと鋭い第六感を緊張させたことであった。    猿の蒐集家《しゆうしゆうか》  さて、はからずもこの奇妙な檻《おり》に遭遇《そうぐう》した警部の一行は、取りあえずここで水上の検屍《けんし》を行なったことだが、それらのことはあまりくだくだしくなるから、その要点だけをかいつまんでお話しすることにしよう。  まず最初に問題の美人。  ランチの上に引き出して取り調べたところ、年はおよそ三十二、三か、肉づきのいい、長|襦袢《じゆばん》に伊達《だて》巻姿も艶《なまめ》かしく、若い水上署員にとっては眼の毒になるようなしろものなのだ。  ここまではよかった。ところがここに意外なのは、この年増美人、実はまだ死にきっているのではなかった。むっちりとした乳房がかすかに鼓動をつづけているところを見ると、彼女はただ気を失って昏睡《こんすい》しているだけの話なのだ。よく調べてみると、左の肩胛骨《けんこうこつ》のあたりにぐさりと一突き、鋭い刺傷をうけて、かなりの出血もあったが、思ったより傷は浅かった。だから彼女が昏睡状態にあるのは、傷のためよりも、驚きのためと解釈したほうがあたっていただろう。  さて、次は例の猿である。  これは猫くらいの純日本産の小猿で、首には長い鎖がつけてあったが、その鎖の一端が檻の鉄格子にからみつき、しかも、その鎖の一端には大きな鈴がぶら下がっているのである。だから、猿が身動きをするたびに、リーン、リーンとあのさわやかな鈴の音が、霧の中にひびき渡るのであった。  それにしても不思議なのは、この猿だ。いずれはどこかの飼い猿にちがいなかったが、どうしてこの動物が檻の上に跳び移ったのか、偶然、鎖の端が鉄格子にからみついたのか、それとも犯人がわざとそうしておいたのか、もし、そうだとすれば、いったいどういう目的があってこんなことをしたのだろう、——そこになんとも言えない無気味な謎《なぞ》がありそうな気がするのである。  猿と死美人(事実は死んでいるのではなかったけれど)——なんとも妙な取り合わせだ。  俊助が思わずゾクリと体をふるわせたのは、必ずしも、おりからの霧の冷たさのせいばかりではなかったらしい。  ところが、こうして警部と俊助が、謎の美人を取り調べている間、向こうのほうでひそひそ話をしていた水上署員が、この時ふとそばへ近寄ってきたかと思うと、 「警部さん、実はこの檻について少々、心当たりがあるのですが」  と、言い出したのだ。 「なに、この檻に心当たりがあるって?」  等々力警部のおもてがさっと緊張する。 「そうなんです。たしかなことは言えませんがひょっとすると、これは蓑浦《みのうら》さんのところから流れてきたんじゃないかと思うんです」 「蓑浦さん?」 「そうです。こう言ったばかりでは、事情を御存じない、警部にはおわかりにならんでしょうが、蓑浦さんというのは今戸の川べりに住んでいる、有名な猿の蒐集家《しゆうしゆうか》なんです。それで、この猿といい、檻といい、ひょっとすると。——」 「よし、わかった!」  みなまで言わせず等々力警部、 「それじゃ、早速、その蓑浦邸というのへ、ランチをつけろ」  命令一下、檻をつないだランチはタタタと白い波を蹴立《けた》てながら、再び霧をついて前進する。やがて、ランチがしだいに近づいてきたのは、言うまでもなく、さっき美弥と呼ぶ少女が忍び込んだあの川沿いの洋館なのだ。 「おや、あの洋館の窓にはまた明りがついているね」 「ふむ、どうも臭いぞ」  警部と俊助がささやきを交わしている時だ。ふいにランチの前甲板にいた水上署長が、 「だれだ! 止まれ!」  と、大声に誰何《すいか》する声。  ふと見れば、今しも一艘《いつそう》のボートが、サーチライトの光の中に、泡《あわ》をくったようにとまどいをしているのだ。ボートの中には、帽子をまぶかにかぶった青年が、凝然として立ちつくしている。  ランチは波を蹴立てて、容赦なくそのほうへ近づいていく。やがて彼我《ひが》の距離が二、三|間《げん》になった。と、この時、さっと白いサーチライトの光を真正面から浴びた青年の顔を見て、俊助が思わずあっと叫んだのである。 「あっ、蓑浦、——きみは蓑浦じゃないか」 「なに? 三津木君、きみはこの男を知っているのかい?」 「知っている。学校時代の同級生だ。蓑浦耕作といって、今売り出しの新進作家ですよ。おい、蓑浦、きみは今ごろ、こんなところで何をしているのだ」  と、言いかけて、ハッと気がついたように、 「あ、きみか、猿の蒐集家の蓑浦さんというのは?」  新進作家の蓑浦耕作は、それを聞くとはじめてちょっと顔色を動かしたが、すぐ吐き出すように言った。 「違う。それはぼくの親父《おやじ》のことだ」 「なるほど、するとここはきみのお父さんのお屋敷だね。よろしい、ちょっと取り調べたいことがある。きみもいっしょに来たまえ」  警部の声に耕作はきっと眉《まゆ》をあげたが、すぐ思い直したように、 「いいですとも、実はぼくも今、父に会いに行こうと思っていたところなんです」 「この夜更けに? しかもこんなところから?」警部は怪しむように言ったが、すぐ語調をかえて、「おい、だれでもいい、蓑浦君をていねいに護送してあげたまえ」  と、言ったのは、暗《あん》に取り逃がすなという謎《なぞ》だろう。 「ところで、蓑浦君、ここからきみのお父さんの家《うち》へ入るのには、どう行けばいいのかね」 「川に面して木戸があります。しかし、この深夜じゃ錠がしまっているでしょう。仕方がありませんね、まあ、この露台でもよじ登るんですな」 「ほほう、するときみはお父さんの家へ入るのに、いつも泥棒みたいに、この露台を登っていたんですか。まあいい、それじゃこの露台を登ろう」  俊助が一番にこの露台を登った。それから耕作、警部、刑事連中が次々とそのあとに続く。俊助は素早く、窓のほうへ行きかけたが、ふと気がついたように、露台の上にこごむと、何やら棒のようなものを拾いあげて、 「警部、見たまえ、花火の燃えかすだぜ」 「ほほう」 「さっきの花火は、この露台から打ち揚げたんだ。どうやらおもしろくなってきたじゃないか」  言いながら、何気なくフランス窓のドアを排した三津木俊助、思わずあっとばかりにその場に立ちすくんでしまったのである。  この奇妙な光景を、俊助はおそらく生涯《しようがい》忘れることができないであろう。  なるほどそれは猿の蒐集家にちがいなかった。明るい部屋いっぱいに飾られた大小無数の、木彫りの猿、剥製《はくせい》の猿、猿の絵、猿の面《めん》、猿、猿、猿、——部屋の調度という調度のことごとくが、猿によって形造られてあるのだ。だが、これらの猿の中にあって、ひときわ、強く人々の眼をひいたのは、部屋の中央に仁王《におう》立ちになっている、一個等身大の老猿《ろうえん》の姿。——彎曲《わんきよく》した両脚をぐいとふん張り、眼をいからせ、くゎっと口をひらいたところは、さながら、今にも跳びかかってきそうなすさまじさ。  俊助が思わずあっとうしろへ跳びのくのを、耕作はにやりとわらいながら、 「おい、三津木君、何も驚くことはありゃしない。こりゃ剥製だよ」  言いながら、つかつかと中へ入っていったが、何を思ったのか、ふいにわっと言ってうしろへ跳びのいた。その声に驚いてうしろへかけ寄った三津木俊助、ふと床《ゆか》の上を見ると、なんということだ。あの老猿の足下に、白髪《しらが》まじりの老紳士が、朱《あけ》に染まって倒れているのである。 「父だ!」  と、あえぎあえぎ叫ぶ耕作の言葉を待つまでもなく、この白髪《はくはつ》の老紳士こそ、耕作の父、猿の蒐集家たる蓑浦氏にちがいなかった。  蓑浦氏は派手なパジャマの上から、心臓をひとつき、ぐさとえぐられて、もはや体は冷えきっていた。くゎっと眼をみひらき、虚空《こくう》をつかんだその蓑浦氏の顔が、俊助にはなんとやら、猿のように見えたことである。    富士見西行 「蓑浦君、きみとぼくとは学生時代親友だったね。あのころきみは、なにごとによらず必ずぼくに打ち明け、ぼくに相談してくれたものだ。蓑浦君、きみはもう一度、あのころの気持ちになってくれることはできないかね」  あの恐ろしい事件があってから一週間ほどのちのことだ。隅田川に面した、奇妙な猿類《えんるい》の蒐集室で今しも差し向かいになって、密議を凝らしているのは、言うまでもなく蓑浦耕作と三津木俊助。  さしも世間を騒がせた事件も、どうやら迷宮入りをしそうな形勢に、警視庁が躍起となっているおりから、俊助は心中ひそかに期するところあるがごとく、今宵《こよい》、耕作を訪れて何やらかき口説くように話しかけているのである。 「蓑浦君、聞くところによるときみは、警官の取り調べに対して、あくまでも知らぬ存ぜぬで押しとおしているそうだね。それもよかろう。おそらくきみにはそれ相当の理由があるのだろう。しかしね蓑浦君、よく考えてくれたまえ。きみがあまり頑強《がんきよう》に口をつぐんでいるということは、結局、きみにとっては利益ではないのだ。きみにしても、きみが身をもってかばおうとしている婦人にとっても……」  耕作ははっとしたように眼をあげたが、すぐまたついと眼をそらしてしまう。 「蓑浦君、ぼくが今日きたのは新聞記者としてじゃない。その昔、なにごとによらずきみの相談にあずかった親友の三津木俊助としてやってきたのだ。ぼくは絶対に秘密を守る。だれにもしゃべりゃしない。ねえ、あの婦人はいったいだれなのだ。そしてなんのためにあの晩、ここへ忍びこんでこなければならなかったのだ」  俊助はそう言いながら、きっと耕作のおもてを凝視していたが、やがて、その眼をつとそらすと、床《とこ》の上に立てかけてある額に眼をやった。それは猿づくしの装飾で埋められたこの部屋に、ただ一つ珍しい、富士見西行《ふじみさいぎよう》を墨絵で書いたものであった。もとは壁間にかけてあったものにちがいないが、どういうわけか、墨染めの衣を着て富士山を振りかえっている西行法師の顔のあたりが、ズタズタに裂けているのが、なんとなく俊助には気がかりなのである。 「蓑浦君」  俊助はまた、ぐっと体をまえに乗り出すと、 「きみは自分さえ口をつぐんでいれば、何もわからずにすむと思っているのだろうが、そうはいかない。ぼくにはあの晩のきみの行動を手にとるように話すことができる。あの晩きみは、ある婦人とともに川上にボートを浮かべて、なにごとかの起こるのを待っていた。そうだ、きみは花火の揚がるのを待っていたのだ。ぼくはその花火の合図をした人物もよく知っている。それは、あの檻の中にいた美人——そうそう、お峯さんといったね。あの美人の右指に小さなやけどのあったところを見ると、あの女がきみたちに花火で合図をしたのだ。そこできみと、きみの連れの婦人のふたりは、この屋敷の真下へボートを漕ぎ寄せた。そして婦人だけがこの屋敷の中へ忍びこんだのだ。ぼくはあの時、露台の上に小さな女の靴あとがついていたのをよく知っているのだよ。さて、屋敷へ忍びこんだ婦人はなかなか出てこない。きみがだんだん心配になっているところへわれわれがやってきた。そこできみもいっしょに屋敷に入ってみたところが、きみのお父さんが死んでいて、婦人の姿は見えない。ね、そこまでは間違いないだろう。ところで、ここできみは大きな勘違いをしているのだ。きみはあの婦人がきみのお父さんを殺したのだと、誤解しているんだ」 「誤解だって?」  耕作は思わず気色《けしき》ばんで、 「きみはそれを誤解だと言うのかい」 「ははははは、蓑浦君、とうとう口を割ったね。よしよし、その調子で率直に話してくれたまえ。ぼくはうそを言わん。犯人はちゃんとほかにあるのだ。ぼくはそいつを知っているんだ」 「それじゃ、なぜそいつを捕らえないんだ」  耕作の調子はまるで噛《か》みつきそうだった。 「証拠がないんだよ。ね、蓑浦君、だからぼくはこうして証拠を蒐集しているんじゃないか。蓑浦君、きみの連れの婦人というのはいったいどういう女《ひと》なんだ」  耕作はしばらく、じっと俊助の眼の中をのぞきこんでいたが、やがてかすかな冷笑を浮かべると、 「ぼくをペテンにかけようというのだね。まっぴらだ。そういう話ならあの女にでも聞いてくれたまえ」 「あの女——? ああ、お峯さんだね。そうそうあの女の経過はどうだね」 「いいのだろう。奥で寝ているよ」  そういう耕作の言葉には、何かしら汚いものでも吐きすてるような調子があった。 「むろん、お峯さんにも後から聞くつもりだ。あの女《ひと》の話もどうもあいまいだよ。露台に立っているところを、ふいにうしろからやられて、後のことは一切知らぬなんて。——よしよし、蓑浦君、婦人のことを話すのがいやなら、ほかのことを尋ねよう。蓑浦君、きみのお父さんはどうして、こうも猿ばかり集めているんだね」 「父は申年《さるどし》だったのだ。ただそれだけのことだよ」 「なるほど」  俊助はあのものすごい老猿に眼をやりながら、 「それにしても、きみはお父さんと長いことけんかして別居していたそうだが、いったい、どうしてだね」 「三津木君」  耕作はふいに厳粛な顔になると、 「死んだ人のことを悪く言うのはよくないことだが、父はいけない人間だったよ。ぼくは、父がああいう最期を遂げるのも無理はないと思っている」 「蓑浦君、きみの言っているのはお峯さんのことかい」 「あの女のこともある。しかし、父はほかにもっともっと悪いことをしていたのだ」 「いったい、お峯さんというのはこの屋敷でどういう地位にあるんだね」 「あれは事実上父の妻なんだ」 「すると、きみにとっては母だね」 「母? 馬鹿な、あんな獣《けだもの》!」  耕作はさっと怒りの色を面上に浮かべたが、すぐ思い直したように、 「しかし、考えてみればあれもかわいそうな女だ。のっぴきならぬ羽目から無理|強《じ》いに父の妻にされてしまって。——あの女だって父の殺されたことをさぞ喜んでいるだろうぜ」  耕作の父が一種の高利貸しみたいな男で、お峯がのっぴきならぬ借金のかたに、蓑浦氏の自由になっているということを、俊助もつい最近、ほかから聞いて知っていたのだ。 「よし、それであらかたきみの家庭の事情はわかった。それではこれが最後の質問だ。蓑浦君、きみの連れの婦人は、この屋敷へ忍びこんで、あの富士見西行の額の中から、いったい何を奪い去ろうとしたのだ」  俊助が立って、きっとあの破けた額を指さした時である。 「その話なら、あたしから申し上げますわ」  ドアをさっとひらいて入ってきたのは、まごうべくもない美弥だった。 「あ、美弥さん! だめ、こんなところへ出てきちゃだめだ!」 「いいのよ、耕作さん、もう何もかもおしまいよ。母は——母は発狂してしまったんですもの!」  言ったかと思うと、美弥はよよとばかり泣き伏したのである。    老いたる僧侶 「ああ、美弥さんとおっしゃるのですね」  俊助はやさしくその体を抱き起こしてやりながら、 「よく来てくれましたね。さあ、ぼくに何もかも話してくれませんか。あなたの母さんがどうなすったというのですか」  美弥はようやく涙をおさめて顔をあげると、 「ええ、何もかもすっかりお話ししますわ。三津木さん、あたしあなたの名声はよく存じておりますの。あなたはきっとあたしたちの秘密を守ってくださいますわね」  そう前置きをして、美弥が語った秘密というのはこうなのだ。  美弥の父、政府のさる有名なお役人で、もう三年越し、外国に滞在している。その留守宅を、美弥と美弥の母の淑子《よしこ》夫人のふたりが寂しく守っていたのだが、ここで淑子夫人は非常な過失を演じたのだ。彼女は長い夫の留守中の寂しさから、ふとしたかりそめの火遊びを、蓑浦氏と演じたのである。  それはごく他愛もない、罪のない種類のものであったが、この事実を種に、蓑浦氏は夫人を脅迫しはじめたのである。 「母はたいへん軽率な手紙を蓑浦さんに書き送っていたのです。もしそれが父の手にでも入るようなことがあれば……」  しかも、その父は最近帰朝することになっている。この事実を知った美弥は、母に代わってなんとかしてこの手紙を取り戻そうと苦心しているうちに、耕作と心やすくなった。  耕作はたいへん彼女に同情して、ともども蓑浦氏に頼んでくれたが、もとより、息子の言葉に耳をかすような蓑浦氏ではなかった。途方にくれた耕作は、最後の手段としてお峯を味方に抱きこんだのである。 「よござんす。それじゃ今夜、あの人を眠り薬で眠らせておきますから、耕作さん、あなたやってきて、手紙のありかを探してごらんなさいな。うまくいくようだったら、花火を揚げますからね。そうしたら川のほうから忍んできて頂戴」  お峯はそう言って快くうけあってくれたのだ。 「それで最初は耕作さんが忍んでくることになっていたのですけれど、もし蓑浦さんがお眼覚めになってまた、親子げんかでもはじまってはいけないと、あたしが代わりに来ましたの、すると——」  と、美弥は思わず息をのんで、 「意外にも、ひと足さきに母がちゃんと来ているじゃありませんか。しかも蓑浦さんのあのむごたらしい最期。——あたし、てっきり母が殺したのだと思って、急いで、母をつれて逃げたのです」 「それで——? やっぱりお母さんが殺《や》られたのですか」 「いいえ、違っていました」  美弥は疲れたように首を振りながら、 「母が来た時、蓑浦さんはすでに死んでいたそうです。そこで母は大急ぎでその辺を探し回ったあげく、とうとう、あの富士見西行の額の中から手紙を見つけ出したのです」 「あの額の中に、手紙が隠してあることを、どうしてご存じだったのですか」 「それはこうなのです。ずっと以前蓑浦さんが、あの手紙なら『老いたる僧侶《そうりよ》』が持っているから大丈夫だと言ったことを母は思い出したのです」 「老いたる僧侶——なるほど、それで西行の額に眼をつけたのですね。そう言えばこの部屋には西行よりほかに僧侶らしいものは一つもありませんね」 「そうなのです。ところが——それは間違っていたのです」 「え? 間違っていたんですって? だって今、手紙を見つけ出したとおっしゃったじゃありませんか」 「その手紙はにせものでした。母は喜びの絶頂から、再び失望のどん底へ投げこまれたのです。そして、そのためにとうとう気が変になってしまって……」 「なるほど、すると手紙はまだこの部屋のどこかに隠されているんですね。老いたる僧侶——、老いたる僧侶ですね」  つぶやきながら俊助は、あたりを見回していたが、なんと思ったのか、いきなりつかつかと部屋を横切ると、さっと廊下のドアを開いた。 「あ、どうかしましたか」  驚く耕作と美弥を尻目《しりめ》にかけ、 「いや、なんでもありませんよ」  と、言った俊助の口のあたりには、かすかな冷笑のあとが刻まれていた。その時、廊下の角を曲がって逃げゆくうしろ姿をちらと見たからである。    僧侶と老猿  深沈たる真夜中のひと時。  今夜もまた、あの犯罪の夜を思わせるようなひどい霧だった。隅田川の上には、乳色の霧がじっとりと覆いかぶさって、今戸から隅田公園のあたりへかけて、まるで死の街のような静けさ。  この静寂の中にあって、ひときわ、気味悪い沈黙を守りつづけているのは、蓑浦邸のあの奇怪な猿類の蒐集室なのだ。  霧は露台を越え、フランス窓のすきまから這《は》いこんで、ほの暗いこの犯罪の現場にまで忍びこんでくる。そして、その霧の中にグロテスクな輪郭を浮きたたせているのは、猿、猿、猿——なんとも言えない、怪奇な猿の群像なのだ。  どこやらでチーンとかすかに一時を打つ音。  と、この時、ほの暗い部屋の向こうから、ふとかすかな衣摺《きぬず》れの音が聞こえてきたかと思うと、カチリと鍵《かぎ》を回す音。——スーッとドアをひらくと、幻のようにこの部屋へ忍びこんできた者がある。  その人影は、しばらくあたりの様子をうかがうように、じっと聞き耳を立てていたが、やがて足音を忍ばせて、そろりそろりと近づいていったのは、ほの暗い部屋の中でもひときわ目立つ、あの老猿のそばである。  人影はその老猿のまえに立つと、思わずゾクリと身をふるわせた。それほど、その老猿の姿ときたら恐ろしいのだ。くゎっと開いた唇《くちびる》、爛々《らんらん》と燃えるように輝いている二つの眸《ひとみ》。——剥製とわかっていても、何かしら、今にもとびかかってきそうな気がする。  人影はしばらくためらうように、その老猿の姿を見ていたが、やがてそっとそばへすり寄ると、手探りで、老猿の腹のあたりをなではじめた。何かしら、非常に緊張しているらしい証拠には、はっはっと、忙しげに吐く息使いによっても知られるのである。  ——と、この時、なんとも言えないほど妙なことが起こった。あの剥製の猿の両腕が、そろそろと闇《やみ》の中に動き出したのだ。一寸、二寸——両腕は静かに人影ののどを目がけて下りてくる。しかし、探し物に夢中になっているその怪しい影はいっこうに気がつかない。  ついに、老猿の両腕が、ガッキリと人影の首をつかんだ。 「あ」  かすかな叫び声をあげて、バタバタと手足をもがく、と、この時、またもや真っ暗な部屋の中から、奇妙なことが起こったのだ。 「おまえが殺したのだ。おまえがわしを殺したのだ」  陰々たるつぶやき。骨の髄を刺すような、細い、やるせないうめき声。 「おまえが、この部屋でわしを突き殺した。おまえの今立っている足下に、わしの恨みの血がこびりついている……」 「あれ!」  恐怖に耐えかねたように、人影が身をもがきながら叫ぶのだ。 「許してくださいまし。許してくださいまし。ああ、あたしが悪うございました」 「おまえが殺したのだ。おまえが殺したのだ」 「はい、あたしが殺しました。あたしが殺しました」 「よし」  力強い叫び声が聞こえたかと思うと、老猿の手が人影の首から離れる。人影はぐったりしたようにその足下にくずおれた。 「さあ、もういいだろう。等々力君、電気をつけてくれたまえ。それから蓑浦君も美弥さんも出てきたまえ。これがきみのお父さんを殺した犯人だよ」  電気がカチとついた。と、そこに描き出されたのは世にも異常な光景なのだ。  老猿の皮をすっぽりと身にまとい、肩から首をのぞかせているのは、言うまでもなく三津木俊助。そしてその足下に失心したように倒れているのは、意外、お峯なのだ。 「三津木君!」  電気のスイッチを握ったまま、等々力警部が仰天したように叫んだ。 「お峯が——この女が犯人だって?」 「お峯さんが? まあ! この女《ひと》が!」  耕作と美弥も呆然《ぼうぜん》としてお峯の姿を見下ろしている。 「そうなんですよ。諸君、この女が蓑浦さんを殺したのです。ぼくは最初からこの女を疑っていたんです」  俊助は老猿の皮を身にまとったまま、一座の顔を見回すと、 「この女は利口な女です。おそらく犯罪の天才というのは、こういう女をさしていうのでしょう。この女はね、ただ蓑浦氏を殺しただけでは自分の身に疑いがかかってくる。そこで自分も被害者の一人のように見せかけようとして、あのような大胆きわまるふるまいをしたのです。蓑浦氏を殺し、その後で自ら傷つけ、檻の中に入って隅田川を流れていく。なんといううまい趣向でしょう。こうしておけば、まさかだれだって、檻の中の美人が犯人だなんて疑う者はありませんからね。おまけにこの女は、耕作君に罪をかぶせるために、花火で誘《おび》き寄せようとさえしたのです」  俊助は泣き伏しているお峯の姿を見ながら、 「今ここで、この女の行なったことを順序立ててお話ししましょう。彼女は以前から、無理矢理に自分の貞操を奪った蓑浦氏に、復讐《ふくしゆう》する機会をねらっていた。ところが、その時節到来したというのは耕作君からある一つの用件を頼まれたのです。その用件を果たすためには、耕作君はどうしても、深夜人知れずこの邸内へ忍びこんでこなければならない。これこそ彼女の待ちかまえていたチャンスなんです。耕作君はかねてから父と、そしてこの女を憎んでいる。蓑浦氏を殺し、自分を傷つけておけば、必ず疑いは耕作君にかかるだろう。——そこで彼女は親切ごかしに、花火の合図で耕作君を誘《おび》き寄せた。むろん、そのまえに蓑浦氏はすでに死んでいたのでしょう。さて、花火を揚げておいて、彼女はすぐ、われとわが身に傷をつけ、あらかじめ水の上に浮かべておいた檻の中に入り、そして、あの猿を鎖で、檻の上につないでおいたのです」 「猿を——? なぜそんなことをしたのでしょう?」  美弥はふと、このあいだ霧の中で聞いた猿の声を思い出して身ぶるいした。 「そう、それがこの事件において最も注目すべき点なんですよ。この女の計画では、最初猿をつなぐことなんか計算に入ってなかったのです。ところが、彼女の計画に重大な齟齬《そご》をきたしたというのは、あの夜の思いがけない霧の深さなんです。檻の中へ入って隅田川を流れていく彼女は、むろん海まで流されていくつもりはない。なるべく早く人に発見されて、救い出されねばならない。ところがあの霧なんです。三尺先と見えないあの霧では、ほかの舟に発見される望みはおろか、悪くすると、衝突して沈められてしまう恐れさえある。そこで窮余の一策、思いついたのが、あの猿です。猿を鎖でつなぎとめ、その鎖の先に鈴をつけておく。そうすれば猿の動くたびに鈴が鳴り、それを頼りにいつか人に発見されるだろう。——つまりあの猿は一種の霧笛の役目を果たしたわけなんです」  ああなんという巧妙さ。なんという天才的な計画だろう。 「まったく考えてみれば、これは一か八か、命がけの仕事でした。しかしこの女の性格の中には、そういうズバ抜けたやり方で、人を欺くのがおもしろくてたまらないというような、先天的犯罪者としての性質が多分にあるんですよ。ぼくはあの猿の一件から、ただちにこの女に目をつけたのですが、なんにしても証拠がない。そこで仕方がないから、今みたいに、死人の声色《こわいろ》を使ったりして、ちょっとおどしてみたのです。犯罪者というやつは、えてして迷信家が多いものですが、それにはこの部屋の奇妙な雰囲気《ふんいき》も大いに役立ったというわけですね」  俊助はそう言うと、はじめてにっこりとわらったのである。 「わかりました。でも、この女、どうして今時分、この部屋へ忍びこんできたんでしょう」 「そうだ。三津木君、この女は老猿の腹をさぐって、何をしていたんだね。きみはまた、今夜この女がやってくるということを、どうして知っていたんだね」 「蓑浦君、美弥さん、それはね、この女がきみたちより少し利口だったからですよ。今日美弥さんが『老いたる僧侶』の話を、ぼくに打ち明けてくれた時、この女は廊下で立ちぎきしていたんです。そして、ただちに『老いたる僧侶』の謎《なぞ》を、解いたんです。蓑浦君、老いたる僧侶を英語で言うとどうなりますか」 「|Old monk《オールド・モンク》?」 「そう、オールド・モンクですね。ところで、オールド・モンクはオールド・モンキー(老猿)に通じてやしないかね」 「あ!」 「ははははは、やっと謎が解けましたね。ほら、美弥さん、ここにお母さんの手紙がありますよ。ぼくがあらかじめ、この老猿の腹の中から取り出しておいたのです。さあ、これでお母さんを安心させておあげなさい。いや、何もお礼をおっしゃることはありませんよ。お礼はぼくのほうから言いたいくらいです。おかげで、恐ろしい犯人を等々力警部に引き渡すことができたのですからね。一石二鳥とはまったくこのことですな。ははははは」  俊助の朗らかな哄笑《こうしよう》のうちに、美弥と耕作はしっかりと手を取りあっていた。  どこやらでくくくくくく[#「くくくくくく」に傍点]と忍び泣きの声。それは床に突っ伏した敗残のお峯の唇から漏れる声らしい。  どうやら、霧も霽《は》れそうだ。  本書には今日の人権意識に照らして不当・不適切と思われる語句や表現がありますが、作品執筆時の時代背景や作品の文学性などを考慮しそのままとしました。 [#地付き](角川書店編集部) 角川文庫『幻の女』昭和52年3月10日初版発行