山名耕作の不思議な生活 横溝正史 [#改ページ] [#表紙(表紙.jpg、横144×縦210)]  目 次   山名耕作の不思議な生活   鈴木と河越の話   ネクタイ綺譚   夫婦書簡文   あ・てる・てえる・ふいるむ   角《つの》 男《おとこ》   川越雄作の不思議な旅館   双生児   ある女装冒険者の話   秋の挿話   カリオストロ夫人   丹夫人の化粧台 [#改ページ] [#見出し]  山名耕作の不思議な生活    一 どんな家に彼が住んでいたか  山名耕作《やまなこうさく》が、何故あんな妙なところに住んでいたのか、そしてまた、何故、あんな不便きわまる生活に甘んじていたのか、その当時、だれ一人として、その理由《わけ》を知っている者はいなかった。  新聞記者として、むろん、そう大したことではなかったろうけれども、少なくとも、月々六、七十円ぐらいの収入は持っていたにちがいない彼としては、たしかにもっと別な生活ができたはずだ。現にそれより以前までは、神楽坂の下宿にいて、月給日から、三日目あたりには、財布が空になっているていの、普通の若者の生活をしていた彼だ。何を考えて、また千住みたいなへんぴ[#「へんぴ」に傍点]な所で、あんなへんてこな生活を始めたのだろうか、それはだれしも了解に苦しむところにちがいなかった。 「倹約《けんやく》のためじゃないかな」  とあるとき、彼のことが話題にのぼったので、私がふとそう言ったら、居合わせたみんなは、口をそろえてそれを否定した。 「それは、君がよく彼を知らないからだよ。あの男ときた日にゃ……」  と一人の男は、彼が決して金を残すような人間でないと断固として言い放《はな》った。 「そうかなあ。しかし金を残すつもりではなくても、あんな生活をしていたら、いきおい残らずにはいないじゃないか」 「でも、あれはやっぱり、君が彼の性格をよく知らないからだ。あの男ときたら、変に秘密を好む癖《くせ》があって、むかしからよく、人に知れない冗費癖《じようひへき》を持っていたものだからね」  しかし、いまにして思えば、そう言った彼のことばはまちがっていたのであって、かえって、何気《なにげ》なく言った私の考えこそ的中していたのだ。そうだ、山名耕作は、まさしく金を残さんがために、あんな妙なすまいで、あんな不便な生活に甘んじていたのだ。一月一月、どんなに守銭奴《しゆせんど》の心を躍《おど》らせながら、殖《ふ》えてゆく金の勘定を、彼が楽しんでいたか、思ってみるとそれは妙なことだ、一方彼の友人たちは、決して彼が金を残すような人間でないことを、断言しているのだから。  しかし、そうかといって、山名耕作がいたずらに守銭奴でなかったことは私もよく知っている。むろん、彼が金をためようと決心したについては、ある一つの、風変わりな目的があったのだ。そしてそれについてお話するのが、この物語の目的なのだが。その前に、一応私は、彼の妙なすまい——というよりも巣と言ったほうが、より多く感じが出るのだが——について、お話しておきたいと思うのである。  私が初めて彼と言葉を交わしたのは、彼がすでに千住へ移ってからのことであった。一度私は、むろん私一人ではなく彼を古くから知っている古川信吉《ふるかわしんきち》と一緒に、彼の家を訪問したことがある。  そうだ、それはたしかに日曜日の朝のことで、私たち、私と古川信吉とは、その前の夜を、あまり人に言えない場所で過ごして、そしてその帰途を、ぼんやり吾妻橋の上に立っていた。  そういう朝のつねとして、二人とも妙にふやけた、ものわびしい気分で、世の中がほとんど、後悔の種だらけのような気持ちがするのだ。そしてそれでいて、一方また、何だかまだ満ち足りない感じも多分にあるのだ。そういう若者のかなしみ[#「かなしみ」に傍点]を抱きながら、ぼんやりと欄干《らんかん》にもたれて、黒い河の水をのぞき込んでいると、河の上には、うじゃうじゃするほど船が往来《ゆきき》しているし、橋の上だって、ひっきりなしに、人だの車だの馬だのが通っているのだ。しかも彼らがてんでに、忙しさそのものを表現しているのだ、ああ、世の中に怠《なま》けているのは、自分たち二人だけなのだ! とそんな気持ちが強く胸に迫ってくるのである。  それでいて二人とも、欄干から離れようともせずに、およそ次のような、とりとめのない会話を交わしていた。 「どうする? これから——」 「どうしようたって」 「下宿へ帰ったって始まらんだろう?」 「金はもうないの」 「浅草で安来節《やすきぶし》をきくぐらいならあるよ」 「安来節はまだ始まってないよ」 「木馬にでも乗るかな」 「木馬か、また——」  そこで二人はふと黙りこんだのだが、やがて、さっきから、しきりに河の面へ唾《つば》を吐いていた古川信吉が、ふいに、「ねえ、君、横溝さん」と言うのである。「変なものだね、往来で唾を吐いたりするときには、別に何とも思わないが、こんな高いところから吐くと、ほら、あんなに」とここでまたべっと唾を吐いて、「ちょうど活動写真のスロモーションみたいに、ゆっくり落ちて行くだろう。すると何だね。唾みたいなものでも、何だか惜しいような気がしてきて、いよいよ水面へ落ちるときには、ひゃっ[#「ひゃっ」に傍点]と、取り返しのつかないような気がするもんだね」 「馬鹿だね、君は」と、私はあくびをしながら言った。「ろくなことは考えないね」 「いや、ほんとうだよ。君もやって見たまえ」  そして彼は、私が止めるのも聞かないで、しきりに、べっべっと唾を吐いていたが、やがてまた、 「ねえ君、横溝さん」と言い出した。「ここに百円金貨を百枚ほど持っててね」 「うん」 「二人で五十枚ずつ、どちらが遠くまで行くか投げっこをしたら、さぞ愉快だろうね」 「なるほど、それはちょっとナンセンスでいいな、この世の思い出に、一度ぐらいやってみたいね」 「僕は一度やったことがあるよ」 「まさか」 「いや、本当だよ。もっとも百円金貨じゃなかったがね、山名耕作と二人で、日本橋の上から一銭銅貨の投げっこをしたことがあるよ」 「何だ、一銭銅貨か、銅貨じゃ始まらんな」 「でも相当スリリングだったよ。しまいには人がたくさん寄って来てね、おもしろかったよ。——それはそうと、君は山名耕作を知っていたかしら?」  一度私は、別の友人のところで、彼と会ったことがあるが、そのときは、ただちょっと顔を合わしただけでことばも交わさずに別れた。そう言うと古川信吉は、 「おもしろい男だよ。そうだ、これから彼のところを訪問しようじゃないか」  と言い出した。 「訪問するって、この近所なの?」 「千住だよ。でもポンポン蒸気に乗って行ったらすぐだ。君も、そうだ、ぜひあの男の家を見ておく必要があるよ。ああいうすまいはちょっと見られないからね」  そしてそういうことから私たちは、その欄干を離れると、古川信吉のいわゆるポンポン蒸気に乗って、千住まで行くことになったのである。  みちみち彼は、彼の癖で、ある男が落語家の三語楼《さんごろう》だと評したところの手振りだくさんをもって、山名耕作のすまいが、いかに素敵なものであるかを話すのであったが、なるほど、それはたしかに一風変わった家にちがいなかった。  千住の船着き場から、道のりにしてざっと五丁もあろうか。広い市場の通りを抜けて、それから二、三度曲がり曲がると、そこいらははや家並みもまばらな、田舎くさい町になるのだが、山名耕作の住んでいる家というのは、そこにあるのだ。それはあの大地震で、十度ばかり往来のほうへ傾いたのを、そのまま手入れもせずに丸太ン棒をもって支えてあるのだが、往来のほうがずっと高く盛り上がっているものだから、その屋根がちょうど、道を歩く人々の手の届きそうなところに見えるのである。しかも、山名耕作はむろんその家全体を借り受けているわけではなく、彼の住んでいるのはそこの二階なのである。しかし、おお、それが果たして二階といえるだろうか、元来その家というのは、二階建てにできているのではなくて、平家なのだが、その平家の、普通ならば天井を張るべきところに、天井の代わりに一部分だけ棚《たな》をこしらえてあるのである。そして山名耕作はその棚の上に住んでいるのだ。そうだ、それはたしかに棚にちがいなく、棚以外の何ものでもなかった。  最初その家の前に立ったとき、古川信吉は、薄暗い、穴ぐらのように見えるところの、家の中をのぞき込みながら、 「おおい、山名さん、いる?」  と声をかけた。  すると、その穴ぐらの中から返事がある代わりに、かえって、私たちのうしろのほうから、 「やあ!」  という声がして、驚いて振り向くと、向かいの八百屋の店先から、山名耕作が、にこにこしながら出て来たのである。 「やあ!」と、私の顔を見ると、彼はもう一度そう言って、「いつかは失敬《しつけい》しました」とわりあいに慇懃《いんぎん》に頭を下げた。 「どうしたの! 何か用事があるの?」  と古川信吉が、八百屋のほうを見ながら言うと、 「いや、何もないんだが、僕の部屋には蚊《か》が多くてね、いられないんだ。しかし、どうです」とまた私のほうを振り向いて、「お上がりになりませんか。とてもお話にならない部屋ですけれども話の種になりますよ」 「上がるよ、むろん」と横から古川信吉が言った。「その部屋を見に来たんだからね」  そして私たち三人は、急|勾配《こうばい》の坂を、うしろから突き落とされるように下ると、薄暗い軒《のき》をくぐった。するとそこが一間に半間の土間になっていて、右手が六畳、左手が三畳、三畳の向こうが台所になっているのだが、どこにも障子《しようじ》というものをはめてないものだから、家の中全体が、そこから一目で見渡せるのだ。 「さあ、どうぞ。危ないから気をつけてくださいよ」  そう言われて、初めて私は気がついたが、見ると六畳の部屋のすみっこに、植木屋などの使う梯子《はしご》が斜《はす》に立てかけてあるのだ。それを上るというよりは、伝わるようにして、私たちは前にも言ったところの棚の上へ上がったのである。  広さにして、それは三畳もあるだろうか、むろん立ってなどいられるはずはなく、いちばん表のほうなどはあぐらをかいていて、ちょうどその頭と、ほとんどすれすれのところに、棟木《むなぎ》だの、椽《たるき》だのがあるのだ。それがみんな埃《ほこり》まみれになっていて、だから、ちょっと身動きすると、ばらばらと頭の上から細かい物が落ちて来るのだった。 「上を向くとだめです。目へ埃がはいりますよ」  山名耕作が言ったけれど、むろん私たちは、上を向いてなどいられなかった。海老《えび》のように背を曲げて座ったのである。しかしこういうところに住んでいながら、彼はたしかにきれい好きな男にちがいないのだ。壁だの、畳だの、あるいは天井だのは、どんな田舎芝居の道具よりも惨めなものではあったが、でも部屋の整理されていることは、私自身の部屋などと比べものにはならなかった。一方の壁際には夜具だの行李《こうり》だの、もう一方の壁際には七輪だの、鍋《なべ》だの、釜《かま》だの、そしてもう一方の、往来に向かった明り取りの下には、机が置いてあった。私はその机のそばに、奥のほうを向いて座ったのであるが、すると、私の右のほうだけは壁も何もなく、しかもそこには障子もはめてないものだから、うっかりすると、下へ落ちそうなのである。 「ほほう、これは」と私は下の部屋を見下ろしながら言った。「うっかり寝返りでもすると、下へ転がり落ちますね」 「ええ、でも」と山名耕作は笑いながら、「さすがに寝ていても要心しているとみえて、まだ落ちたことはありませんよ」と言った。  そのとき、私は初めて、彼の姿をつくづくと見たのであるが、なるほど、身に着けているものといえば、洗いざらしの浴衣《ゆかた》に、よれよれの帯を締めていて、その格好はたしかにこの部屋全体と至極調和がとれていたが、しかし彼はよほど身だしなみのいい男と見えるのだ。頭もきれいに刈り込んでいるし、顔もきれいにそっているし、それに、部屋の様子から見て明らかに彼は自炊しているのにちがいないが、爪先《つまさき》など美爪術《マニキユアー》をほどこしているのではないかと思われるほども、見事につやつやとしているのだった。 「どうだい、素敵だろう」  古川信吉は彼自身もうかなりなじみになっているはずの部屋を、さも珍しそうに見回しながらそう言った。私は、ちょうどそのとき、表から帰って来た、この家の住人の息子なのだろう、はな垂れ小僧が、下の部屋に立って、じろじろと私のほうを見ているのを、見下ろしながら、あの子供の位置からすればちょうど自分たちは、神棚の上に座っているようなものだ、と、ふとそう考えると、おかしくてしようがなかった。  そこで私たちは、一時間もしゃべっていたのだが、いったい何の話をしたか、いま少しも覚えていない。ただ一つ、古川信吉がふと本箱の上にのっていた、一オンス入りぐらいの瓶《びん》を手に取って、 「おやおや、これは何だい?」  と聞いたのを覚えている。  見ると瓶の中には、さらさらとした、赤黒い粉末のようなものがはいっているのだ。 「何だか当てて見たまえ」  と山名耕作はにやにや笑いながら言った。 「絵の具?」 「いいや」と彼は私のほうを見ながら言った。「梅干しの皮を干して粉《こ》にしたのだよ」 「何だ、薬か」 「薬じゃないよ。お菜がないときにゃ、そいつとお湯と一緒に、飯にぶっかけて食うんだよ」  や! と私は思ったことだ。まるで落語にでもありそうなことだと思ったのである。山名耕作は、しかし、それを少しも恥ずかしそうでなく話したのである。  山名耕作! およそ彼は、こんな生活をしていたのである。    二 どんな女に彼が恋をしていたか  それから後、私はだんだん山名耕作と親しくなって、二、三度彼のすまいを訪問した。しかし彼のほうからは決して来るようなことはなく、実際彼は、穴ぐらのような自分の部屋と、新聞社の間を往復するほかには、向かいの八百屋へときどき行くだけで、あとは冬ごもりをしている動物のように、じっと部屋の中に閉じこもっていた。  何故彼がそんな生活をしているのか、なるほど彼との親交が増すにしたがって、決して彼が金を残しそうな人間でないことはわかってきたが、そうかといって、何らかの主義主張をもってそういう忍苦の生活に甘んじているのだとも見えないのである。 「どうしてまあ」  とあるとき私は冗談にまぎらしながら聞いたのだ。 「君はこんなへんてこな生活をしているのかね」  すると、彼はにこにこしながら、 「それは言えないよ。しかし、いまにわかるけれどね」 「というのは、やっぱり、この生活に何か意味があるのかね」 「うん、まあ、あるんだね」 「いったいいつまで、まさか、永久にやるわけじゃないだろう?」 「さあ、わからないね。しかし、いまのところ、二年ぐらいの予定だがね」 「二年? その二年ということにもやはり意味があるのかい?」 「まあ、そう追求するなよ。いまにわかるから」  彼は実際変な男で、一方に明るい、楽天的な、開けっぱなしなところがあるかと思うと、一方においては非常な陰鬱《いんうつ》な秘密癖を持っているのだ。そして明らかに、いまの生活は、彼の性格の、あとの半面がさせるわざにちがいないのだ。  ようし、ひとつあいつの目的というのを、ぜひ見つけ出してやろう、私は、決して悪意ではなしに、ちょっとそうした好奇心を起こすこともあった。しかし、その後、私がだんだん、頻繁《ひんぱん》に彼を訪問するようになったのは、決して、その好奇心からだけでなしに、ほんとうに彼に好意を感じてきたからにちがいないのだ。彼は私をそう、大して歓迎もしなかったけれど、そうかといって、迷惑そうな顔をするようなことは一度もなかった。どんなときにでも、社に仕事のあるとき以外には、彼はいつも自分の穴ぐらにいた。夜になると、その部屋には電気がなくて、ちょうど、その部屋の床のところに、八燭《はつしよく》の電気がつくのである。いうまでもなく、それは下の部屋と共通に、彼の部屋にも役立つのだ。したがってその部屋で、夜彼と対座していると、フットライトを受けながら、芝居をしているように、光が、顎《あご》のほうからさすのだ。それがそうでなくても、怪しげな様子を、何ともいえぬほど、妖異《ようい》な感じに見せるのである。そこで彼は、あいかわらず頭をきれいに刈り込み、顔をきれいにそり上げ、そして爪先をつやつやと輝かせているのだ。これは、彼と交際するようになってから、まもなく知ったことである。けれどやっぱり彼は、一週間に一度ずつ、丸の内へ美爪術《マニキユアー》をやりに行くのであった。何のために、そんなおしゃれ[#「おしゃれ」に傍点]をするのか、私にはちっともわけがわからなかった。  ところが、ある日のことだ。  それはもう、最初私が、古川信吉と一緒に、初めて彼のすまいを訪問してから、半年あまりものちのことであったが、日曜日でも何でもない日に、私は彼を訪問したのである。予期していたとおり、彼はまだ社から帰っていなかったけれど、もはや、そんなに遠慮をしなくてもいいほどの間柄になっていたので、私は構わず例の梯子を上って行った。  あいかわらず部屋の中はきちんと片づいていたが、朝出るときに、珍しく急いだとみえて、机の引き出しの一方が開いたままになっているのだ。何気なく、私がひょいと中を見ると、細いリボンで束にした桃色の、明らかに女から来た手紙にちがいないのだ、封筒が見えた。  おや! と私は思ったのである。これは妙だぞ、彼には姉妹というものはないはずだが、それにしても、そんな女の友達を持っているのかしら、いままで隠しているなんて、けしからんやつだ、そう思うと、それがやっぱりやきもち[#「やきもち」に傍点]なのだろうか。私は急にその手紙が読んでみたくなったのである。時計を見ると彼が帰って来るのに、まだ間がありそうに思われた。そこで私は急いでその手紙の束を取り出すと彼のような几帳面《きちようめん》な男だ、順序などもちゃんとそろえてあるかもしれない、とそう思ったものだから、よく注意しながら、いちばん上にあったのを抜き取って、そしてそれをひらいて読んでみた。  文面というのは、この間は久し振りにお目にかかりながら、あいにく時間がなかったので、ろくろくお話することもならず、まことに残念だった。今夜は夫が留守だから、ぜひ来てくれるように、女中や婆やは芝居にやることになっているから、決して心配はいらない、とそういった意味のことを、非常に美しい筆跡で書いてあるのだ。そして差し出し人のところには、ただ、とき子と呼び名だけしか書いてなかった。あて名のところには、まぎれもなく、山名耕作様と、はっきり書いてあるのだ。  いうまでもなく、それは恋文の一種にちがいなかった。そして、その恋の相手というのは、文面から察するところ、明らかに人妻らしいのである。  私ははっと胸をつかれる思いで、思わず唾《つば》をのみ込んだ。悪いものを見た、見てはならぬものを見た——、それにしても、山名耕作は何という男だろう。人妻と恋に落ちているのだ——。私はいそいでその手紙を、元どおり封筒の中へ入れた。ところが、人間というものは何という悪魔の弟子だろう、一方において、そういうふうに後悔しながらもまた別の心が、どうしても、ほかのたくさんの手紙を読まなければ承知しないのである。私は何遍も何遍も、唾をのみ込みのみ込みして、自分の不逞《ふてい》な欲望を思いとどまらせようとした。しかし、やはりとうとう、どうすることもできない力に打ち負かされて、盗人のように、こっそりとまた例の手紙のほうへ手を伸ばしたのである。  およそそれは、十五、六通もあったろうが、読み終わったところ、どれもこれも、そう大した相違はなかったけれども、でも、それらからして、二人の仲がかなりの程度にまで進んでいることを察知するのは難くないのだ。  しかも、それらの手紙の中に、「昨夜は急に、帝国ホテルの舞踏会へ出席しなくてはならなくなったので、心ならずもお約束を反古《ほご》にいたしました。どうぞ、どうぞお許しくださいませ」だの、「この次の週末には、Y男爵夫人の招待で軽井沢にある男爵の別荘へ行かなければならないので、どうぞこの間の約束は取り消してくださいませ」だの、そういった意味の文句があるところからしてみれば、相手の女というのは、たしかに、相当の地位ある夫人にちがいないのだ。  いまはもう、私はあきらかに、嫉妬《しつと》のほのおを燃やしながら、その女の姓を突き止めようと、まるで探偵《たんてい》のような心をもって、何遍も、何遍もそれらの手紙を繰り返し読んでみた。しかし、相手もなかなかに要心していると見えるのだ、いつの場合でも、ただとき子とより他には書いてなく、絶対に手がかりとなりそうな何物も見つからなかった。  そろそろ私は失望して、それにもう、彼が帰って来る時分だと思ったので、それらの手紙を片づけていたときだ。梯子をみしみし踏みしめながら、上がって来る者があった。どきっとして、私はあわてて机の引き出しの中へそれを投げ込んだのだが幸いなことには、それは山名耕作ではなしに、下のおかみさんだった。言い忘れたが、それはまだ火鉢《ひばち》に火のいる時分だったので、それを持って、彼女は上がって来たのだ。 「遅いですね、山名くんは!」  私は、あまり周章狼狽《しゆうしようろうばい》しているところを見られたものだから、やや恥ずかしくなって、そんなことを言うと、 「そうですねえ、でも、もうすぐお帰りでしょう。寒いから火を持って来ました」 「や! これはどうもありがとう」  おかみさんはしかし、ただそれだけで上がって来たのではない証拠に、火鉢に火をいけてしまってからもなかなか降りて行こうとしないのである。明らかに彼女は、何か私に話したいことを持っているにちがいないのである。おやこれは妙だぞ、ひょっとすると、このおかみさんから、何か聞き出せるかもしれないぞ、そう思ったものだから、私は、 「どうです、山名くんは?」  と釣り出すように聞いてみた。 「おもしろい男でしょう? ね?」  おかみさんはちょっと私の顔をみたが、 「ほんとうに、何と言ったらいいか——わたしにはわけがわかりません」  と言うのである。 「わけがわからないって、どういう意味?」 「いえ、もう——」と、彼女はちょっとことばを濁らせたが、やがて急に体を前へ乗り出して来て、 「あんな妙なかたは、ほんとうにありませんよ。あなたは、あの人が、お金をどっさり持っているのを御存じ?」 「え! 山名耕作が!」 「ええ、ええ」  とおかみさんは、もったいらしく体を反らしたが、すぐまた、火鉢の上から、半分ほども体を乗り出して、何か一大事でも打ち明けるように、その骨張った肩を波打たせながら、低い、ひそひそ声で言うのである。 「わたし、ちゃんと知ってるんですよ。あの人は一生懸命隠そうとしてますがね。ええ、そうですよ。この前だってこの部屋代を、あなたこの部屋代がいったい、いくらだとお思いになって? 二円、たった二円なんですよ。安いじゃありませんか、ねえ。いまどき二円なんて部屋が、あるもんですか、そうでしょう。で、この前、部屋代を三円に上げてくれと、そう言ったんですよ。わたし、ちゃんとあの人がお金を持っていることは知っていたものだから、決して無理じゃないと、思って、そう言ったんですよ。ところがどうでしょう。あの人|頑《がん》として聞かないんです。言いぐさがいいじゃありませんか。お金なんて一文もありませんって。それでいて、あなた、わたし、ちゃんと知っているんですよ、晩になると、あの人、算盤《そろばん》をはじいて、お金の勘定に余念がないのだから、癪《しやく》にさわるじゃありませんか。うそじゃありませんよ。ほんとうですとも、また、あの人ぐらい算盤をはじくのが好きな人もありませんよ、暇さえあれば、パチパチやっているんですからね、ほら、それですよ。そこに算盤があるでしょう」  なるほどそう言われて、初めて気がついたことだが、積み重ねた夜具の向こうの柱に、大ぶりな算盤が一ちょうかけてあるのだ。山名耕作みたいな若さの男の持ち物としては、算盤など、たしかに不似合いなものにちがいなかった。 「ほんとうに、いまどきの若い人に、あんなのがあるかと思うと、ちょっと情けなくなりますよ。あたしンちへ来てから、もう一年あまりになりますが、ついぞ、あの人がむだづかいをしたのを見たことがありませんよ。なんぼなんでもあれじゃあんまりしなさすぎますよね。食べるものといやあ、お茶づけに梅干しで、お客が来ると塩昆布《しおこんぶ》——」と、そう言いながら、彼女は部屋の中を見回していたが、ふと本箱の上に塩昆布のあるのを発見すると、勝手にそれを火にあぶって、ムシャムシャと食い始めた。 「いかがです? あなたも」  私はすっかり閉口していらないと言うと、 「なに、いいんですよ。塩昆布ぐらい、十銭もあれば山ほども買えるじゃありませんか。でお客が来れば塩昆布を出すんでしょう。大抵の人なら客のほうから参ってしまいますよ。で、このごろでは、お客さまの方から、何かかにか、お茶菓子を持って来るんですよ。ところがあなた、それが余ったからといってうちの坊やにやってくれるではなし、自分一人で、三日も四日もかかって、うれしそうに食ってるんですよ。つくづくいやになってしまいますね。いったいあなた、あなたはたぶん御存じでしょう? あの人、月給をどのくらいもらってるんでしょうね」 「さあ」と私もしかたなしに、「そうたくさんもないでしょう、七十円か、せいぜい八十円ぐらいでしょう」 「まあ、八十円!」と彼女は唾をのみ込んで、 「あきれた、それでまた、こんな暮らしをしてるなんて、この暮らしならあなた、月々二十円もあれば結構ですからね」  そしておかみさんはまだまだしゃべりそうであったが、ちょうどそのとき、夕暮れの道を、向こうから山名耕作が帰って来る姿が明かり取りの窓から見えたので、大急ぎで、低い天井にゴツンと頭を打ちつけながら降りて行ったのである。私はほっと救われたような思いがしたが、それにしても、私の目は思わずもあの大ぶりな算盤のほうへひきつけられるのであった。それはたしかに、あさましい手垢《てあか》にまみれて、黒光りがしているのだ。何ともいえない、救い難いやるせなさを私は感じたのである。    三 どんな夢を彼が抱いていたか  それ以来、私は山名耕作をあまり訪問しなくなった。おかみさんのことばをそのままに信用してしまったわけではなかったが、どういうものか、彼のことを考えると、腹の中が固くなるような不愉快さを感じるのである。だいいちおかみさんのことばはことばとしても、私自身の目で見たあの手紙の束は、だれが何といっても、私のあまり好もしからぬ行為を、彼がなしていることを、まちがいなしに物語っているのだ。  そういえば、彼が金を残そうとしていることも、まんざらうそではなさそうだ。そういう方面において、だれも知らない金を彼は使っているのだ。現に、彼の不似合いなおしゃれ[#「おしゃれ」に傍点]など、たしかにその間の消息を物語っているものでなくて何であろう。  私が、何かの拍子に、ふと美爪術《マニキユアー》をほどこした彼の爪先を思い出すと、何ともいえぬほどいらだたしく不愉快になるのである。あの爪先で女の手を握ったり、そうかと思うと一方では、あの不気味な算盤の玉をはじいているのだ。私はその矛盾をあきれるというよりも、むしろ、一種のものすごさを感じるのであった。  その後古川信吉に出会ったとき、彼が言うのに、 「山名耕作って変な男だよ。僕はちっとも知らなかったんだが、あいつたしかに金をためてるんだよ。この間あいつの留守中に行ったらね、貯金の通帳が放り出してあるんだが、開けてみると、なんと千円近くもあいつは貯金しているんだ、実際あきれたやつだよ」  私は何とも返事のしようがなかったので、いい加減な相槌《あいづち》を打っていた。  そしてそれから三月あまりもたったことであろうが、もはや、彼のことなんか、念頭から去ろうとしている時分に、思いがけなく彼から、長文の手紙がやって来たのである。  開いてみると、それは原稿紙に、およそ十枚ばかりも、細かい字でぎっしりと書いてあるのだ。 「横溝くん!」  とまずそう書いてあって、そして、そこから、彼の奇妙な告白文がながながと始まったのである。  その後はごぶさた。  ちっとも顔を見せなくなったね。むろん君がやって来なくなった理由を、僕はよく知っている。いまごろ君は、さぞ僕のことを、たっぷりと軽蔑《けいべつ》していることだろう。そうだ、それでいいのだ。おかみのしゃべったことはほんとうだし、古川信吉が、たぶん君に漏らしたであろうことも真実だ。まちがいもなく僕は、金をためようと思って、あんなへんてこな生活を始めたのである。  だが、何のために、僕が金をためようと決心したか、その一見ばかばかしく見えるけれども、しかし、僕にとっては、たいへん真剣なその動機というのを、君はたぶん知らないだろう。僕はここに、破れたその夢を君にお話しようと思うのである。  最初僕が、こんなばかばかしい夢を思いついたのは、マーク・トゥエーンという、君も知っているにちがいない、あのアメリカの作家の小説からなのだ。あるいは君も読んでいるかもしれない。  アメリカの、ニューヨークだったと思うがはっきりしたことを覚えていない。その市のとても貴族的なホテルに、一人の、アリストクラチックな青年が投宿する。だれの目にもそれは、どこかの国の皇子か何かとしか見えない。人々は彼を、多大の尊敬と賛美とをもって見ている。彼はあたかも孔雀《くじやく》が群鶏の中にいるように、なんぴととも交際せずに、ひたすらに、貴族的な趣味生活をしている……、と見える。一方そこへまた、もう一人の、これまたロシアの皇女か何かにちがいない、美しい高貴な女が投宿する。そしてまもなく、この、だれの目にも似合いの夫婦と見られる二人は、だんだんと親しみを加えていき、そしてまもなく恋愛に陥る。そういう一週間が過ぎ、そしてあるとき男は女に告白するのである。 「私は……」  と女の手を取りながら彼は言うのである。 「私は実は、決して決して、みなが思ってるように、外国の貴族でも、何でもないのです。どうしてどうして、ほんとうを言えば、私はこのニューヨークの、哀れな一店員にすぎないのです。どうしてそれが、こんなホテルに投宿してこんな身分に過ぎた生活をしているのか、ああ、どうぞ責めてくださるな。生涯《しようがい》の思い出に、私は一度この生活をしてみたかったのです。そのために、私は幾年間というものを、食うや食わずに金をためてきたのです。もはや、しかし、その金もすっかりなくなってしまいました。だから、あなたとお目にかかることができるのも、これが最後なのです。いままで、どうか、あなたをあざむいていた罪をお許しください」  すると、女もやっぱり男の手を取りながら言ったのである。 「それは」  と口ごもり、顔を赤らめながら彼女は言うのである。 「あたしとても同じことですの。あたしも、決して決して、みなさまが思っているような、ロシアの皇女でも何でもないのです。どうしてどうして、私はこのニューヨークの、哀れな女事務員にすぎないのです。どうして、それがこんなホテルに投宿して、こんな身分に過ぎた生活をしているのか、ああ、どうぞ責めてくださいますな——」  と、彼女もまた、男と同じようなことを打ち明けたのである。そして、これがこの物語のおち[#「おち」に傍点]なのだ。  僕はこの物語を、そのおち[#「おち」に傍点]なんどには関係なしに、どんなに感激して読んだことか。これこそ僕たちの、いちばん欲しているネオ・アバンチュールなのだ。最も近代的な冒険なのだ。そうだ、自分も。  そしてその日から僕は金をためようと決心したのである。  君をはじめ、だれ一人知るまいが、僕には一方とてもだらしないところがあるとともに、他方には、また自分でもおそろしくなるほどの、あの根強い、執拗《しつよう》な意志の力があるのだ。そしてこの力がいったん決心したことに対しては、それを貫徹するまで、わき目もふらせない精力を持たせるのだ。だから、この場合も、ひとたびそうと決心を定めるや、その翌日から、僕は着々としてその計画を進め始めた。  それは実際、あまりに煩瑣《はんさ》で、いちいち筆で語ることのできないほど綿密な計画なのだ。    四 そしてどんな結果にすべてが終わったか  まず第一に僕は金をためなければならなかった。(と、山名耕作の奇妙な告白状はまだまだ続くのである)どういうふうに金をためるべきか。むろん、それまで僕には、一文の貯金もなかったし、また、親もなければ、兄弟もない僕には収入といえば、きまりきったその月その月の月給のほかには何物もないのだ。だから、金をためるとすれば、否が応でも、その月その月の生活費を低減していくよりほかに道はない。  しかし横溝くん!!  君は金をためるということが、どんなに愉快なことか知っていますか。実際僕みたいに、綿密に、着実に倹約してゆくということは、すでに一種の芸術の境地にはいっていると思うのだ。君もたぶん御存じであろう、僕の月給は七十円である。そして僕は、一年半の間に、少なくとも千円以上の金をためようと決心したのだ。だから否が応でも月々五十円以上の貯金をしていかなければならない。七十円マイナス五十円イコール二十円! つまりこの二十円が僕の生活費なのだ。  こういう姑息《こそく》な金のためかたを、あるいは君は軽蔑するかもしれない。何故何か山気のある仕事に手を出して、一時に金をもうけないのかと、君は言うかもしれない。しかし僕の考うるところでは、僕の抱《いだ》いているがごとき夢を実現するためには、その金が、零細な金の集まりであればあるほど、それは興味があるのだ。もし僕が馬券だの債権だので、一度に二千円なり、三千円なりをもうけることがあるとして、その金で、そういう夢の実現ができたとしても、僕はそれほど愉快には感じないだろう。一銭一銭、ちょうどいにしえの守銭奴が金をためるようにして、ためた金であってこそその夢はいっそう魅力を添えるのだ。君はドストエフスキーの「青年」を読んだことがあるか。その中で主人公の青年が、あらゆる倹約法を攻究するところがある。例えば、どんなふうに歩けば靴《くつ》の減りがいちばん少ないか、とそんな点まで彼は研究するのだ。これはたしかに作者自身の思想にちがいないのだが、僕の場合は、これ以上でこそあれ、決してこれ以下ではないのだ。二十円! 僕にとってはたったそれだけの金がしかも月々幾分の剰余金ができるほどだった。僕はまるで、どんなユダヤの天才的守銭奴も及ばないであろうほどの、巧みさをもって、一月一月と、生活費を減らせることができるのだった。  そういうふうに、一方においては、着々と金をためながら、しかし他方においては、僕はまた、自分の夢を実現させる日のことを、決して忘れはしなかった。君は覚えているだろう。僕があんなへんてこな生活をしながら、つねに、美爪術《マニキユアー》をほどこしていたのを。実際僕は、手先の美については極端に神経過敏なのだ。女について言っても、僕は彼女の容貌《ようぼう》だの、姿態だのその他普通の男が興味をひかれるそんな部分よりも、彼女の手先のほうがいちばん多く僕の注意をひくのだ。  そうだ、やがて僕の通帳の預金額が千円を超えて、そして僕の夢を実現させうる日がやって来たときに、僕の爪先が職工のそれのように、醜くたわめられていたら、いったいどうなるであろう。これは、しかし指先ばかりではない。他のあらゆる部分がそうなのだ。さいわい僕は、相当美しいといっていい程度の容貌、姿態を持っているし、もし僕が、何々子爵の令息というふれこみで、例えば、帝国ホテルなどへ投宿したとしても、それはそんなに不自然でないほどの押し出しは持っているつもりなのだ。  僕はそういう日のために、いろんな紳士の礼儀作法というものを余念なく練習した。そしてやがて千円という金がたまったら、僕は軽井沢で一週間、どんな貴族も及ばないであろうほどの、美しい生活をするつもりだったのだ。それはちょうど金をためていると同じ程度の情熱を持って、僕には夢想し計画することができた。僕は自分のあの汚い一室の中に寝そベっていながら、手に取るように、まだ一度も踏んだことのない軽井沢という土地を知ることができたのだ。  こうして日一日と夢想に近づいていながらまもなく僕の気がついたことは、そういう僕の夢にとってはなはだしく物足りないことは、僕がたった一人ぽっちで、ふさわしい女性のいないことだった。事実、かくのごときロマンチックな夢の中に、女性のいないということは、はなはだしく不自然ではないか。優しい、高貴な女性がいることで、私の夢はいっそうその光彩を添えることができるのだ。だが、そんなおあつらえ向きな女がいるものだろうか、たといいるとしても、それが僕の夢に同情を持ってくれるだろうか。僕は常にあの汚い一室の中に閉じこもりながら、そういう女を探し出すことに余念がなかった。毎日毎日、壁に向かって女の影像を描きつつ、描いては消し、描いては消ししていた。そして間もなくさすがに苦心のかいあって僕はとうとう理想的な女を発見することができた。それはある外交官の夫人で、年齢は二十四、彼女の膚はまるで乳のようになめらかで、彼女の髪の毛は、やや茶色を帯びたブルーネットなのだ。そして聖母のように高貴であるとともに、どうかしたはずみに、たいへん淫蕩《いんとう》的にも見えるのだ。  まもなく僕は彼女と手紙の往復をはじめとして毎夜毎夜、甘いあいびきを続けさえした。  君も彼女の手紙を見たことであろう。そして著しく、それが君を不愉快にしたようである。  しかし、横溝くん!  君は彼女の正体をはっきり知らないのだ。彼女はいったいどこに住んでいるのか。そして彼女の姓は何というのだろう。おお! 君よ! それは僕でさえも知らないのだ。そして僕を除いた何者もまたそれを知らないのだ。というより知るはずがないのだ。なぜならば、彼女はただ僕の夢の中にのみ住んでいるのだから。 「では、あの手紙は? 桃色の封筒の中にはいっていたあの手紙は?」  君はそう言って問い返すだろう。しかし君よ! あの手紙はなるほど彼女から来たものにちがいない。しかし僕自身が彼女の代筆者であることを君は知っているか。  そうだ、僕はあの手紙をどんなにか胸をふるわせて読んだことであろう。しかもその手紙を書いた者は僕自身なのだ。だが君はこういうことを知っているか。小説の中に出てくる人物ですらが、書いているうちにしばしば作者の自由にならない個性を持ってくるということを。僕の夢の女の場合でも、彼女はまもなく、僕のどうすることもできない個性を持ってしばしば僕の意志に逆らって、僕と争ったり、僕の命令にそむいたりするのだ。それだけに僕の興味はますますつのっていき、僕の彼女に対する恋情はいよいよ深まさっていくのだ。  だが、こんなくだらない話は、おそらく君を当惑させるだけで、君を喜ばせはしないだろう。それに僕自身もだいぶ疲れてきたから、それ以後のことをなるべく簡単にお話しよう。  事態は順調に進んでゆきつつあった。僕の守銭奴的天才のおかげで、思ったよりも早く、目的だけの金額がたまりそうであった。そして、将来はいるであろう収入(預金額の利息などもむろんその計算の中にはいっているのだ)を、細かく、細かく計算してみると、あと二月をもって千五百円という金ができることになったのだ。  千五百円!  おお、僕の夢は実現できた。風呂代をも惜しんでため込んだこの千五百円を、僕はたった一週間で煙にしてしまうのだ。それを考えるとき、僕の胸は、思わず高鳴りするを禁じえないのであった。  だが横溝くん! これはいったい何ということだろう。僕の楽しい夢は、ふいの出来事に打ち砕かれてしまった。  というのは昨日のことなのだ。  朝起き抜けに、僕のところへ一通の郵便が舞い込んで来たのである。それは僕の見も知らぬ名前の男からであった。僕は何気なくその封を開いて読んでみた。いまから思えば、もう二月、この手紙の来るのが遅れてくれたら、僕はどんなにか幸福であったろう。いったいどういうことがそこに書いてあったと思う。  僕がいままで、名前を知っているだけで、会ったことすらない僕の叔父《おじ》の山名太郎が亡くなったというのだ。そして彼には妻もなければ子もなく、したがって相続人というものがそこにないわけだ。だから、彼の遺産全部、金に改めると、約五万円ばかりのものが全部僕のものになるというのである。  ああ、横溝くん! 僕はいったいどうしたらいいのだろう。  山名耕作の奇妙な告白状は、この奇妙な結末をもって突然に結ばれていた。  僕はそれ以来一度も彼に会わない。  だが、僕はこれだけのことを諸君にお伝えすることができるのである。  彼の夢はついに実現されなかった。そして、叔父の遺産を受け継いだ彼は、ただちに新聞社をよして、田舎へ引っ込んだが、人のうわさによると哀れな彼は、いまやほんとうの守銭奴になってしまったということだ。 [#改ページ] [#見出し]  鈴木と河越の話  鈴木俊郎《すずきとしお》が、彼の身のまわりに起こった不思議な異変に、最初それと気がついたのは、そうだ、彼があの有名な小説、「莫《ばく》」を書き上げたときのことだった。その小説の、最後の一行を書き終えて、ほっとペンをおいた瞬間、なんとはなしに彼は心の中がからっぽになって、気が遠くなるような気がした。もっともその前から、相当神経衰弱の気味のあった彼には、めまいを感ずるということは、そう大して珍しくないことだけれどそのときの気持ちばかりは別だった。なんとも言おうようのないほど、いアな心ぼそオい、世の中がほとんど暗くなったような気持ちだった。  いつの間にやら彼は、歯を食いしばり、目をかっとみひらいて、だれかとけんかでもするように、肩をいからしていた。しかも彼は、そのことに少しも気がついていなかったのだから不思議である。そういう状態が、ものの十分間あまりも続いたろうか、しまいには、額にあぶら汗をさえ浸ませ、せいせいと肩で息を始めた。と思うと、バッタリと机の上にうつぶせになった。そして三時間あまりも正体なく眠りこんでいた。あとからつらつらと考えてみて、彼は、ああ! あのときからだと思い当たったのである。  鈴木俊郎、その当時彼はある女学校の英語の教師だった。英語の教師をやりながら、彼はあの有名な処女作「莫」を書き上げたのである。とこういえば、諸君のうちにあるいは、違う、違う! という人があるかもしれない。「莫」の作者は、鈴木俊郎などという名前ではなく、河越卯平《かわごえうへい》じゃないか……そうだ、まちがっていた。しかしほんとうのところをいえば、この私にも「莫」の作者は、鈴木俊郎なのか、それとも河越卯平なのか、はっきりとわからないのである。それにしても、およそ小説を口にするほどの人で、長篇小説「莫」の題名を知らぬ人はおそらく一人もないことであろう。実際それは内容の芸術的価値はさておき、分量だけからいっても、十分に世間を驚かせるに足るものであり、これを出版屋の広告流にいうならばたしかに日本文壇最初のものに違いなかった。しかも、活字になって諸君に読まれたところのものは、彼の原稿の三分の一にも足りないのであるから、この点諸君は、彼の精力に感服していいはずである。鈴木俊郎——あるいは河越卯平であろうか——、彼もこの小説を書くのに、まる五年間かかっているし、いかに毎日こつこつと書いていたとはいえ、およそ芸術であり、日記ではないのだから、それを書き上げたとき、彼が放心状態に陥ったのも無理からぬ話である。最初彼はそれを発表する気など少しもなかったのだが、八分通りまで書いたとき、彼の古い友人で、現在相当文壇で売り出している男がやって来て、もちろん気まぐれからでもあったのだろうが、口をきわめてそれを賞讃したものだから、つい野心を起こして、小説体に結末をつけたのであった。いったい「莫」という小説は、お読みになった諸君はご存じであろうが、デカダン的一|遊蕩《ゆうとう》児の生活記録を長々と書き連ねたものに過ぎないのである。だから鈴木俊郎は、それを発表するに当たって、なんとしても自分の名前を出すことが躊躇《ちゆうちよ》された。前にもいったとおり、当時は女学校の教師であったし、生活に対して相当臆病さを持った彼のことだから、まだ将来のわからない文筆的野心のために、現在の生活の安定を失うということは、たしかに一つの大きな不安であった。そこで彼は、友人の紹介で、出版元との折り合いもついて、その小説を発表するに当たって、つい河越卯平などというでたらめのペンネームをつけてしまったのである。そうだ、彼が二度目に自分の身のまわりに異変を感じたのは、その出版屋と最後の交渉をすましての帰り路のことである。その出版屋というのは、牛込矢来町にあり、彼の家《うち》は四谷|塩町《しおちよう》だから、その帰途彼は肴町《さかなまち》から、塩町まで電車に乗ったのである。さて塩町で電車を乗り換えるときのことだ、むろん彼は連れもなく一人ぽっちのことであったから、一枚の切符を車掌に渡した。すると車掌が変な顔をして、もう一枚の切符を要求するのだ。連れもないのにもう一枚の切符? しかし車掌はたしかに鈴木俊郎の連れと覚しい一人の男が、いまのさき降りたと言い張るのだ。むろん車掌のまちがいに違いなかったけれど、はにかみ[#「はにかみ」に傍点]屋でそういう場合、永く争っていることのできない彼は、要求されるままに、もう一枚の切符を渡すと、逃げるようにそこを離れた。人々の視線を背中いっぱいに感じながら……。ただそれだけのことで、彼は十分憂鬱になってしまった。出版屋から得てきた前途の希望も快い印象も、すっかり台なしにされたような気がした。前に私は、彼の家が四谷塩町にあると言ったが、まちがっていた。当時彼はまだ家を成さず、風鈴館《ふうりんかん》という下宿に住んでいたのだ。電車の停留場から風鈴館までは、ちょうど五分ほどの道程《みちのり》であろうか、その途中で彼は、てんかん[#「てんかん」に傍点]病みのように不意に立ち止まった。気が遠くなって、目先が真っ暗になったような気がした。そうだ、それはあの原稿を書き上げたときの気持ちとまったく同《おんな》じだった。なにかしら、無数の影が恐ろしい勢いで、目の前を横切っている、貧血かな、それともなにか頭に異常の起こる前兆ではないかしら、急に彼は恐ろしくなって、下宿まで一散に駆けもどった。下宿生活をしたことのある人は、だれでも知っているだろう、廊下を歩くのに、彼らはスリッパをはく。そして外出するときには、玄関にあるスリッパ棚とでもいうものへ、それを入れておくのだ。ころげ込むように、下宿の玄関へ走り込んで来た彼が、ふと見ると、先ほど外出する時たしかに入れておいたはずのスリッパが見えない。でもそのときの気持ちとしてはそれはそう大して気にかけるほどのことではなかった。棚へ入れておいたと思いながら、その実玄関に脱ぎ捨ててあるというようなことは、珍しくないことだ。それにしてもそういう場合は、女中がちゃんとそろえておいてくれるはずだのに、その日はどこにも見えなかった。彼はしかたなしに、素足のままで自分の部屋まで帰って来た。そこでふと見ると、部屋の前の廊下に、自分のスリッパがちゃんとそろっているではないか。はてな客でもあるのかしらと思いながら、彼は勢いよく障子をがらりと開けた。部屋の中にはだれもいなかったが、彼が障子を開いた瞬間、影のようなものが、彼のそばを通り抜けて廊下へ出た、と彼は感じた。すると不意にまたもや、気が遠くなり、目先が真っ暗になって、鈴木俊郎はばったりと部屋の中に倒れると、昏々《こんこん》として数時間の眠りにおちたのである。あとから考えてみて、それが二度目の異変であった。やがて日を経るに従って、彼の脅迫観念は日増しに増大してきた。彼の部屋の中には、たしかにもう一人、他の人間が住んでいる。最初その人間は、影のようにぼやけた輪郭をしか持っていなかったのに、それがだんだんと濃くはっきりと形を持ってゆき始めた。たとえば、彼が外出先から帰って部屋の障子を開けたときなど、たしかに人影と思われるものが、彼の机に向かって、彼の書きかけた原稿に筆を走らしているようなことがしばしばあった。そしてその月の終わりのこと、下宿から二人《ににん》分の下宿料を請求されるにおよんで、彼の恐怖は、言おうようなき頂点にまで達した。なぜその影を追っ払うことができないのか、それともなぜその影から逃げだすことができないのか、彼自身にもわからない。おまけに彼は、その影について、他人の意見をたたくことすら、恐ろしくてできないのであった。だから彼は、無言のまま、そしてあだかもそれが当然のことであるかのように、二人分の下宿料を払ったのである。さて彼には一人の恋人があった。橋村《はしむら》みよ子といって、同じ女学校へ勤めている女教員であった。鈴木俊郎は、彼女にすらいまだ小説「莫」のことについては、打ち明けてはいなかった。やがてそれが出版されて、世間の問題になった際に、その匿名《とくめい》作家の正体が、自分であるということを知ったら、彼女はどんなにか驚くだろう。鈴木俊郎にとって、それは一つの甘い空想であった。さて、いよいよその小説の第一巻が出版された日のことであった。鈴木俊郎は、彼女を誘って、下宿まで帰って来た。彼の書いた最初の小説が、本になって彼の帰りを待っているはずだ。それを橋村みよ子に読ませて、その意見を聞くことが、彼としてはどんなに楽しいことであったか。言い忘れたが、その小説の女主人公として、橋村みよ子の境遇を借りてあるのだ。彼女を案内して、自分の部屋の障子を開いたときだ、突然彼は目のくらみそうなもの[#「もの」に傍点]恐ろしさを感じた。部屋の真ん中に火鉢を引き寄せて、一人の男が泰然と座っているではないか。まだ一度も逢ったことのない男だけれど、鈴木俊郎はそれがだれであるかを、たちまちに了解することができた。影の男だ。とうとう成長した。とうとう輪郭を造ってしまった。その場合、君はいったいだれなのかと、咎《とが》めだてをするのがほんとうだろうか。しかし鈴木俊郎はなぜかそれができなかった。あだかもそこにいるべき人が、当然いるように、しかも彼に気を兼ねながら、おずおずと彼は、彼女を部屋の中に導き入れた。「やッいらっしゃい」と見知らぬ男が言った。「僕、河越卯平です」その声を聞いて、鈴木俊郎はぎょくんとした。河越卯平? やっぱりそうだったのか、この男が河越卯平だったのか。橋村みよ子は、見知らぬ男がいるので、ちょっとの間廊下でためらっていた。すると河越卯平と名乗る男は、あだかも部屋の主人がするように、立って行って彼女を部屋の中に導き入れた。彼の眼中には、鈴木俊郎などないらしかった。鈴木俊郎もまた、たたきのめされた子供のように、ものをいうことすらできないで、その男の振る舞うに任せるよりほか、なんとも手の出しようがないのであった。「よくいらっしゃいました。あなたのことは、鈴木からよく承っております。今日《きよう》はぜひあなたに来ていただくように、鈴木に頼んでおいたのですが、それにしてもよくいらっしゃいました」そして彼らは、河越卯平と橋村みよ子は、二、三時間にわたって盛んに文学論だの芸術論だのをやっていた。なんということだろう、彼女にも河越卯平の存在は、少しも不思議なことではないのだろうか。鈴木俊郎は悲しげに二人の顔を見比べているばかりで、彼らの会話のなかにくちばしを入れることすらできなかった。やがて彼女の帰る時間が来た。河越卯平は立ち上がって、本棚の中から一冊の本を取り出すと、それを波女に渡した。 「これ僕の書いた小説です。処女作です、読んで下さい」「まア、小説お書きになるの?……」橋村みよ子は驚嘆したように目をみはった。「なに、くだらんもんですけど」そして橋村みよ子は、幸福そうに帰って行った。「おい君」と彼女の姿が見えなくなると、河越卯平が言った。「そこいらをちょっと片付けたまえ」そして彼自身は机に向かって、せっせと原稿を書き始めた。鈴木俊郎は、忠実な召使いのように、彼の命令に従うよりほかしかたがなかった。やがてそうしてそこに、不思議な双生児《ふたご》の生活が始まったのである。河越卯平の著書は、果然世間の注視の的となった。彼はたちまちにして、一流の流行児《はやりつこ》になり、もはや河越卯平の名前を知らぬ者はないほどだった。彼の名声が高まるにつれて、彼はしだいに肥え太り、押し出しができ、かつては影であった男とは思えないほどにも、脂ぎってきた。彼は酒飲みで、女好きで、うそつきででたらめで……、とにかくあらゆる悪徳を兼ね具《そな》えていた。彼が肥え太るに反比例して、善良な鈴木俊郎は、しだいに頬の肉が落ち、やせっこけ、ひょろひょろと背ばかり高くて、歩いていると、いまにも二つに折れそうだった。いまはうたがうべくもなく、彼は河越卯平の影になってしまったのだ。河越卯平の小説が出てから、三月目に鈴木俊郎は学校のほうを首になった。原因は彼が河越卯平とともに、あまりにしばしば怪しげな所へ出入りをするというのであった。しかしそれはしかたのないことだ。それは彼自身の意志ではなくて、河越卯平の好みなのだ。そして鈴木俊郎は河越卯平の影なのだから。橋村みよ子は、鈴木俊郎が免職になってからも、しばしば彼を訪ねて来る。いや、以前よりもっとしばしば来るくらいだ。しかしいまは明らかに鈴木俊郎に会いに来るのではなしに、河越卯平に会いに来るのだった。彼女もだんだんと河越卯平の悪い影響を受けて、でたらめでうそつき女になった。彼女らは、鈴木俊郎の眼前をもはばからず、盛んに悪いふざけ方をするのだった。たまらないことだと、鈴木俊郎は思った。しかしなんにも言うことできないのであった。そうして鈴木はますますやせっこけ、河越はますます太った。そんな鈴木であるにもかかわらず、河越卯平はだんだんと彼を煙《けむ》たく思い始めたようだ。というのは、彼がいては、橋村みよ子ともっと大胆な遊戯にまで進むことができなかったから。なにしろ二人はからだのひっついた双生児《ふたご》のように、一刻も離れていることができないのだから。彼はなんとかして、鈴木俊郎を抹殺《まつさつ》したいものだと考えるようになった。そうしてとうとうある朝のこと……。いつも枕《まくら》を並べて寝る二人の、その朝鈴木俊郎のほうが、少し早く目を覚した。彼は何気なく枕元にひろげられていた新聞に目をやった。そこはちょうど死亡広告の欄であったが、ふと見るとそこに鈴木俊郎という文字が見えたので、はッと思ってその新聞を手に取り上げた。 ————————————————————————————————————————    鈴木俊郎儀本日午前十時脳溢血ニテ死去仕り候間此段御通知申上候      大正十五年十月十六日 [#地付き]施主 河越卯平  ————————————————————————————————————————  それを見た瞬間、鈴木俊郎は突然めまいを感じた。と思うと足のほうからしびれていって、全身の感覚がしだいになくなるのを覚えた。それもそのはずである。はたから見ていると、彼のからだはちょうど雪だるまが解けるように、恐ろしい勢いで縮まっていった。そして間もなく、芥子粒《けしつぶ》ほどの大きさになった。河越卯平は驚きの眼《まなこ》をみはっていたが、やがて芥子粒の鈴木俊郎をつまみあげると、蚤《のみ》をつぶすように、爪の間でぱちッといわせた。 [#改ページ] [#見出し]  ネクタイ綺譚  数年前のことである。  記憶のいい諸君は、たぶんまだ覚えていられることであろう。黄色トンボ型ネクタイという、世にも変てこなネクタイが流行したことがある。  いまはもう下火——どころではなく、すっかりその影をひそめてしまったが、当時におけるその流行のさまといったら、実にものすごい限りであった。  どこへ行っても、黄色のネクタイだった。どこへ行っても、トンボ型のネクタイだった。およそ、二十歳から三十五歳へかけての青年紳士で、そのネクタイを締めない者は、一人もいなかったと断言しても、あえてそれは過言ではなかろう。あまりにその流行の勢いがすさまじかったので、しまいには識者の眉《まゆ》をひそめるところとなり、ある地方では、「黄色トンボ型ネクタイ排斥同盟」というような、かなり神経質な組合さえできて、盛んに黄色トンボ型ネクタイ排斥の宣伝ビラをまいたり、講演会を開いたりさえしたものである。私の手もとにもいま、当時の宣伝ビラの二、三枚が残っているが、中にはかなりふるった名文句がある。 「ああ! ついにまことの黄禍来たれるか!」云々《うんぬん》。  しかし考えてみると、流行というものはかなりへんてこなものだ。いまかりに、さあ諸君、このネクタイを締めてくれる人には、懸賞として十円出しますと言う人があっても、だれ一人見向きもしないにちがいない。実際いまどきあんなネクタイを締めて歩いていたら、狂人としか思われないだろう。  それにしても、どうしてあんな奇妙なネクタイが、当時あんなにまで歓迎されたか、元来、黄色というものは、あまり人に好かれない色である。おまけにそれは、普通の蝶《ちよう》型のネクタイと違って、蜻蛉《とんぼ》の羽のように、先の細くなった薄手の羽が、左右に二つずつ、都合四つついているという、かなり風変わりなネクタイである。それがどうして、あんなに当時の流行を風靡《ふうび》したか、それにはむろん理由がある。  最初にそういうネクタイの売り出しを考案したのは、当時アメリカから帰って来たばかりの、天運堂雑貨店主人刈谷千吉であった。アメリカ帰りの、そしてアメリカの途方もない宣伝競争を見て来た彼は、何かすばらしく奇抜な商品を、すばらしく奇抜な方法で売り出してみようと思い立った。なにしろ彼には、資本はありあまるほどあることだし、古い老舗《しにせ》のことだから、信用も莫大《ばくだい》だし販路もなみなみならず持っていたから、素敵な考案さえあれば、どんなことでもできる立場にあった。彼はとりあえず次のように新聞に広告を出したのである。 「途方もなくばかばかしい考案を求む。弊店より売り出すに都合よき商品にして、世間をあっと言わせるに足る斬新《ざんしん》奇抜なる発明を買いたし。賞金一千円」  ざっとそういった意味の広告であった。  むろん反響はなみなみならずあった。広告の出たその日から、応募解答の数は、日に五十通を下らなかった。中にはポケットのついた靴下《くつした》だの、日本人の鼻でも止まる鼻眼鏡だの、オペラパックを兼ねたショールだのと、かなり奇抜な発明もあった。しかし、それらはいずれも、あるいは製造が不可能だったり、あるいはうまくできても、販路があまり広くないという欠点があったりして、結局みんな落第だった。  それに反して黄色トンボ型ネクタイは、奇抜でもあり、それにおよそ背広を着るほどの男なら、ネクタイは必ずなければならぬものだし、日本の人口がいくらあるとして、その幾分の一が洋服を着るか、そして、そのまた幾分の一がネクタイをつけるか、等々と、精密な算盤《そろばん》をとってみた揚句、結局それを当選と定めることに決心したのである。  彼はさっそく、政府に向かって、専売特許の申請をすると同時に、一方工場に新しい機械を購入して、旬日ならずして、十万個という、おびただしい黄色トンボ型ネクタイを製造した。  そしてまもなく都下の大新聞に、次のような広告が、大々的に掲げられたのである。    世界風俗変遷史の一ページを飾るべき、    新しき流行、黄色トンボ型ネクタイの出現。 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]   弊店はこの斬新《ざんしん》なるネクタイの流行のため、奇抜なる懸賞を付します。それは第一期発売の十万個のネクタイ中の一つに、一枚の富籤《とみくじ》を縫い込み、その富籤の発見者に、賞金として五千円を進呈すると同時に、副賞として現代映画界の花形女優、山野井咲子嬢に接吻《せつぷん》するの光栄を提供することであります。山野井咲子嬢は、人も知るごとく、○○劇団出身の天才女優にして、その容姿はまた現代の他の女優とは比ぶべくもなく——云々《うんぬん》。 [#ここで字下げ終わり]  そうしてそこには、その黄色トンボ型ネクタイを手にして、にっこりとほほえんでいる彼女の写真がはいっているのである。  この広告がいかに当時、大きなセンセーションを巻き起こしたか、それは細述するまでもあるまい。どこへ行っても、そのうわさで持ち切りだった。  例えば会社だの銀行だのあるいは商会などでも、若い事務員の二、三人が煙草を吹かしながらの雑談と言えば、第一にそれだった。 「おれはもう七本買ったよ。五千円はそう欲しくないけれど、なにしろ山野井咲子と接吻ができるんだからね」 「それもそうだけど、おれはまた五千円も欲しいなあ、五千円ありゃ、あんなごみごみしたところにいなくとも、どこか郊外の静かなところに家を建てて、豚《ぶた》を飼って、鶏を飼って、花を植えて、ああ! 五千円!」  などという騒ぎであった。  したがって、そのネクタイの売れ行きが、どんなにすばらしいものであったか、これまたいまさら喋々《ちようちよう》することを要しまい。たちまちにして街頭は、「黄色トンボ型ネクタイ」によって風靡され尽くしたかの感があった。  しかし読者諸君よ。  筆者がお話しようと思うのは、その奇妙な流行についての思い出話ではないのだ。  刈谷千吉の、ふとした気まぐれから発したその宣伝手段が因をなして起こったところの、いわば、黄色トンボ型ネクタイ流行裏面史ともいうべき、一つの悲しき挿話《そうわ》を諸君にお伝えしたいとの意図にほかならないのである。  久井久雄《ひさいひさお》!  私も彼を知っている。彼ほど風変わりな男で、そしてまた彼ほどの善人も世間には珍しいにちがいない。私が初めて彼と相知った当時、彼はさる劇場の背景絵描きをしていた。貧乏のせいか、それとも根が無精なせいか、たぶんその両方であったのだろう、いつもくしけずらない髪を茫々《ぼうぼう》と伸ばして、髭《ひげ》といったら、月に一度もそらないにちがいない。だから、その劇場では彼のことを、山猿《やまざる》という、至極平凡だが、なかなかに当を得たあだ名をつけていた。  山猿という名前で思い出したが、まさかそれまではだれも知らなかったにちがいないけれど、彼は木登りがなみなみならず得意なのである。しらふ[#「しらふ」に傍点]でいるときは、まるで意気地のない男だったけれど、電気ブランか何かで酔っ払ってくると、彼はもう手に負えなくなってくるのであった。と、いうのは、街路樹であろうが、電柱であろうが、所かまわずよじのぼりたがるという厄介な習癖を持っているのだ。  そうだ、いつか、彼が牛込付近の下宿にいた時分のことだ。一度私は彼を訪問したことがある。 「久井久雄いますか?」  と、女中に聞くと、 「ええ、お部屋にいらっしゃいます」  と、いう返事だったので、かねてからなじみの部屋でもあり、下宿の人たちも、よく私の顔を知っている間柄でもあったので、私は遠慮なく、二階にある彼の部屋の障子を開いた。すると意外なことには、そこにいるはずの彼の姿が、なにしろ狭い部屋のことだから、見回すまでもないことだ、見えないのである。 「はてな、便所へでも行ったのかしら」  見ると、寝転んで本でも読んでいたとみえて、部屋の片方の隅《すみ》に、かなり汗ばんだ枕《まくら》が放りだしてあるのだが、彼が部屋を出て、そう時間がたったのでない証拠には、灰皿《はいざら》の中から、かすかながら、まだ紫色の煙が立っているのでもわかるのである。  そのうちに帰って来るだろう、そう思いながら、私は遠慮なく部屋の中へはいると、足の踏み入れようもないほどに散らかった、雑誌だの講談本(彼は実に驚くべきほど講談本の愛読者だった)だのを、少し片隅へ寄せて、どっかりと机の前に坐《すわ》った。そして彼が読みかけていたらしい、開いたままに伏せてあった「里見八犬伝」を取り上げて、二、三行、別に何の意味もなく目を通していた。  するとそのとき、ふいに屋根の上がめきめきと鳴り出したのである。おや! 地震かな! 私はひどく地震ぎらいなので、どきっとして思わず腰を浮かした。しかし、さいわいにそれは地震ではなく尾根の上をだれかが歩いて行ったのであるらしかった。だれだろう。いまごろ屋根の上を歩いているのは……私は本を置くと、開いていた窓から上半身を突き出して、体をねじるようにしながら、屋根の上をのぞいてみたのである。すると、何とそこに、寝衣のままの久井久雄が、悠然《ゆうぜん》と立って空のかなたをにらまえていたのであった。 「おや! 久井久雄! 君はいったいそこで何をしているのだ!」  私はまだ、彼のその隠れた習癖をあまりよく知らなかったので、気でも狂ったのではなかろうかと、少なからず驚きながらこう尋ねたのである。すると、その声に、うっそりと振り返った彼は、 「うん」  と、ちょっと首を縦に振っておいて、「少し待っていてくれたまえ、いますぐに行くから」  と、さも何でもないことのように答えた。そして、器用な足つきで、するすると屋根を伝って来るかと思うと、雨樋《あまどい》に両手をかけ、ちょうど機械体操の、尻《しり》上がりの反対の動作をもって、くるりと部屋の中へ飛び込んで来たのである。 「びっくりしたよ、屋根の上へ何か取りに行っていたの?」 「いや、別に」  と、彼は、私がどんなに驚いたかというようなことを、少しも感じないらしい様子で、 「いま、ここんところ」と、八犬伝の芳流閣《ほうりゆうかく》のくだりを指しながら「ここんところを読んでいるうちに、つい屋根へ上がってみたくなっただけの話なんだよ」  と、いかにも、しゃあしゃあした調子で答えたのである。あとから考えてみると、それもしかし、木登りの別のあらわれだったのにちがいないのである。  しかしこういう挿話をお話をすると、読者諸君のうちに、早くも彼の性質を勘違いされる人々があるかもしれない。もし彼を、こういう挿話からして、いかにも剛腹で、磊落《らいらく》で、言ってみれば、豪傑|肌《はだ》な人間のように考えるなら、それは大まちがいである。彼は実にその反対の、神経質そのものみたいな人間なのであった。ことに、女にかけての彼の臆病《おくびよう》さは、たしかに一種病的なところさえあった。  劇場の背景絵描きをしている関係上、彼は多くの、下っ端女優連と、しばしば顔を突き合わせる場合があるのだが、そういう場合の彼と女優の間は、普通の背景絵描き対下っ端女優とまるきり正反対であった。彼は始終、不逞《ふてい》な女優たちにからかわれたり、ひやかされたりしては、小娘のようにはにかんでいるのだった。ことに一座のスターなどに会うと、彼はまず足のほうから細かくふるえてきて、心臓がごとごとと不規則に鳴り出し、まもなく目がうわずってくるという有様であった。もし彼が、花のような美人の十数名に取り囲まれるようなことがあったら、彼はたちどころに女|癲癇《てんかん》を起こしたことにちがいないのである。  そういう彼だから、ある日新聞のゴシップ欄か何かで、有名な映画女優山野井咲子と久井久雄が、最近に同棲《どうせい》を始めたということが伝えられたとき、だれしもそれを、同じ久井久雄とは、夢にも思わなかった。きっと同じ姓と同じ名を持った、別の久井久雄だと考えたのである。ところが何と驚いたことには、まちがいもなくそれは、あの山猿というあだ名を持った、貧乏背景絵描きの久井久雄にちがいなかったのである。  どんなきっかけで、そしてまたどんな魅力があって、彼のような男が、あの有名な映画女優と同棲することになったのであろうか、私はいまだにそのことを知らない。しかし少なくともその当時は、それを聞き伝えたとき、少なからず嫉妬《しつと》のほのおを燃やしたことであった。  だがよくよく考えてみると、山野井咲子のような女が、同棲者として、彼のような男を選ぶのは、最もありそうなことだったかもしれない。彼のような男を持っていてこそ、彼女は初めて、自由にかせげもし自由に浮気もできるというものだ。彼女にしてみれば、彼はただ忠実な飼い犬にすぎなかったかもしれないのである。  そう言えば、一度私は彼を山野井咲子の宅に訪れたことがある。むろん昼間のことだから、咲子は撮影所のほうへ出かけて留守であった。ところが、話をしているうちに、三時となり、四時となり、時間が進むに従って、彼はだんだんと落ち着きがなくなり、態度がひどくソワソワして来るのだった。そしてしばしばしかも三度に一度は、故意に私にわかるように置き時計のほうを見るのである。 「だれかと約束でもあるのかい?」  と、私が見るに見かねてそう聞くと、 「いや、な、何でもないんだ」  と、そう言いながらも、やっぱり時計のほうばかり見ているのである。そして、最後に、時計の針が五時近くなってきたとき、はじめて、とうとうこらえ切れなくなったように、 「実はね、実はね」と、早口にどもりながら、「五時半になると彼女が帰って来るんだよ。彼女が……」  そして彼は哀願するような目で私のほうを見上げたのである。私は思わずごくりと唾《つば》をのみ込んだ。そして、額にべっとりと汗さえ浮かべている彼と同じ程度に、さっと顔を赤らめながら、 「あ、そうか、そ、それは失敬した」  と、こう言うと、帽子と杖《つえ》とを持って、あいさつもせずに玄関から駆け出したのである。  明らかに彼は、山野井咲子から留守中に友人と会うことを禁じられているのにちがいなかった。そして彼のような男だから、それを口に出して、友人を断わることができないのだ。彼はきっと、私が家を飛び出したあとで、部屋のすみずみにまで、鋭い注意を払いながら、訪問者のあったことを、彼女に悟られないように苦心したことに相違ない。私はみちみち、それを考えると、少なからず胸が悪くなり、彼の哀願に応じて飛び出して来た自分にまで腹を立てたぐらいである。それもきっと一種の嫉妬だったのであろうか。  それ以後私は半年ほども彼に会わなかった。そして聞くところによると、彼はそういうふうにして、だんだん友人を失いつつあるらしかった。  するとそこに、突然あの広告が出たのである。まだ久井久雄が彼女と別れたといううわさを聞かないから、彼はきっと、その広告について、穴へもはいりたいような恥ずかしさを感じているにちがいない。それほど仮にも夫と名のつく者を踏みつけにした態度はないのだから、私は正直のところ、心中少なからず快哉《かいさい》を叫んだことだ。その後伝え聞くところによると、果たして彼はそのことについて、なみなみならず煩悶《はんもん》しているということだった。  現にある日のこと、街でばったり、久井久雄との間の共通の友人に会って、その話をすると、 「うん、何でも彼、そのことでひどい神経衰弱なんだそうだ。そしてね、自分でも盛んに、あの変てこなネクタイを買い集めているそうだよ。やっぱり女房の接吻を他人に盗まれるのが気になるんだね、どうだ、君、須山くん、君一つあの富籤を引き当てて、山野井咲子と接吻してあいつを大いに煩悶さしてやらないかね」  と、彼は言ったのである。  ところが世の中というものは変なものだ、彼が冗談のようにいったことばが、まもなく事実となって現われて来たのである。と、いうのはこういう次第である。  ある晩のこと、思いがけもなく私のところへ、長い間絶交同様になっていた久井久雄から、車夫に持たせた手紙がやってきたのである。 [#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]   須山くん!   お願いだ、銀座の××カフェーまでやって来てくれないか、僕はいまたいへん煩悶しているのだ。君! 僕を救ってくれたまえ! [#ここで字下げ終わり]  と、「!」たくさんの万年筆の走り書きなのである。 「はてな、何事だろう、例のネクタイの件かな」  正直のところ、私はむしろ親切気よりも、好奇心のほうがより多く手伝って、ともかく彼の懇願を聞き入れることにしたのである。  行ってみると、久井久雄は、ビールの瓶《びん》を半ダースほどもテーブルの上に並べて、どろんとすわった目でしきりに辺りを見回していた。 「や! 須山くん!」  彼は私の顔を見ると、腰を半分ばかり浮かせて、私の手を取らんばかりにして、彼と向かい合った椅子《いす》に私を腰かけさせた。 「どうしたのだ、久井久雄、何か大事件でも起こったのか」  私は彼が注文してくれたウイスキーの杯をなめながら、杖の頭に顎《あご》をのせて、彼のほうを見やった。 「大事件、そうだ、大事件だ、僕は……、僕は……」  と、彼は急に声を低くすると、何かおそろしいものにでもつかれたように、くるりと四辺を見回し、そしてガタガタと体をふるわせながら言ったのである。 「あの、ネクタイ、あのネクタイの富籤を、とうとう僕が引き当てたのだ!」  私はどきっとした。急に耳が真っ赤に火照ってくるのを覚えた。それから、何とも言いようのない憎悪と、嫉妬とを、目の前に坐っている久井久雄に対して感じたのである。 「ね、君は知っている?」  久井久雄は、ビールをぐっと飲み干すと、少し落ち着いたのか、それでもいくらか息をはずませながら、言うのである。 「僕が、あの広告、天運堂のあの広告に対して、どんなに不愉快を感じたか——、君はそれをわかってくれるだろう。彼女、山野井くんが、いたるところで浮気をしていることは、僕だってちゃんと知っている、それからみれば、たった一度のキスなんか、何でもないことだ、そうだ、何でもないことだ、だが、しかしだ、それにもかかわらず、あの広告に対して、僕の心がこんなに不穏になるというのは、いったいどうしたことだろう。君はそれをわかってくれるだろう? ね? わかってくれるだろう?」  彼は私の返事を促すように、ちらりと私のほうを見上げたが、私がまだ何とも言い出さない前に、ふたたびことばを続けた。 「ところで、僕はそれを考えるとたまらないんだ。何だか、体中が火網の上にかけられたようにじりじりしてくるんだ。そこで僕は、なけなしの財布の底をはたいて、ネクタイを買った、実際ばからしい話だけど、買って買って、買いまくった。僕がもし百万長者であったら、全財産を投げ出しても、あのネクタイを買い占めにしたに違いない。むろん、彼女、山野井くんには内密でだ。ところが、君!」  と、そこで彼は、急にことばを切ったかと思うと、ガタガタと熱病患者みたいにふるえ出し、だれも聞いている者もないのに、ほとんど聞き取れないぐらいに声を低くして、そして言ったのである。 「ところが、君、とうとう——、とうとう今夜、その富籤を引き当てたのだよ、ほら、君、これなんだ」  そして彼は、ポケットの中からハンケチ包みを大事そうに取り出すと、そこでもう一度四辺を見回しておいて、そっとそれを、腕のかげで開いたのである。私も、いまはもうすっかり彼の興奮に感染しながら、恐る恐るそのハンケチ包みをのぞき込んだ。  それは、白い絹の布に、Kiss me, please と黒い糸で縫い出されているのだった。私はごくりと音を立てて唾をのみ込んだ。すると彼はあわてて、それをポケットの中にねじ込みながら、盗っ人みたいな目で私の顔を見上げた。そしてしばらく黙りこんでいたが、やがて、決心したように、 「実はね、最初のつもりでは、僕、この富籤を手に入れたらすぐにもストーブの中へ放り込んでしまうつもりだったのだ。そうすれば、永久に彼女の接吻の相手は出てこないわけだからね。ところが、君、僕をわらわないでくれたまえ、いよいよとなると急にそれが惜しくなってきたのだ。だって、考えて見たまえ、君、この富籤には、彼女の接吻と同時に、五千円という賞金がついているんだよ!」  私はしかし、何のために彼が私にそんな話を始めたのか、わからなくなりかけてきた。富籤が当たったのなら当たったで、それでいいではないか。私にそれを打ち明けなくても、自分勝手にそれらの懸賞を受け取ればいいではないか。で、私がそう言おうとすると、彼のほうでも早くもそれと悟ったとみえて、私を抑えつけるような手つきをしながら、 「でね、でね、君にぜひお願いしたいことがあるんだ、君、君は彼女と接吻したいとは思わないか、え?」  私は黙っていた。何かしらひどく癪《しやく》にさわってきたのである。 「もし、僕がそれを望むのなら、君はその富籤を僕に提供するつもりかい」  私はわざと毒々しい声でそう言った。 「そうだ、そうお願いしたいのだ。しかし君、五千円、五千円だけは僕にくれなきゃいけないよ」 「だったら、君自身名乗って出たらどうだ」 「それが、僕にはできないのだ。彼女が真相を知ったらどんな顔をするだろう。僕はそれを考えるとおそろしい、彼女は僕に唾を吐きかけるかもしれない。そうしなくても、きっと、きっと、この僕のいわれなき嫉妬に対して、侮蔑《ぶべつ》の限りの言葉を吐きかけるだろう、その揚句僕は捨てられてしまうかもしれない。僕にはそれがおそろしいのだ、ね、ね、君は僕の親友だから、きっとこの無理を通してくれるだろう。お願いだ、お願いだ」  彼はそう言って酔いしれた両手で、拝むようなまねさえするのであった。それを見ると、いささか彼を哀れに思わないでもなかった。それに僕にとっても、決して、全部的にいやな仕事でもなかったしするので、やや腑《ふ》に落ちないこともあったけれど、とにかく引き受けてやることにした。 「じゃ、ともかく引き受けてやろう。何だかくすぐったいことだけれども……」  そして私はめでたくその富籤を手に入れて、その晩彼と別れたのだ。  それからどんなことがあったか。  むろん私は規定どおりその富籤を持って天運堂へ出向いたのである。そして規定どおり、山野井咲子と接吻するの権利を得ると同時に、五千円の金を手に入れた。私はむろんその金を、約束どおり久井久雄に返してやった。すると何と思ったのか、彼は礼だと言って私に五百円くれたのである。いよいよ彼女と接吻するという当日、都下の新聞がどんなに騒いでそれを書き立てたか、おかげで私は一躍、東京市中の流行児になってしまった。新聞記者だの、雑誌記者だのが、あとからあとからと押しかけて来て、「山野井咲子嬢と接吻するまで」なんて記事を取って帰ったりしたのである。  しかし読者諸君よ、それにかかわらず、この物語は、まだそれで終わらなかったのである。そうだ、手っ取り早く言おう、そのことがあってから半年ほどあとのことである。  私はある日、突然また久井久雄から手紙を受け取ったのである。私はもうあの事件のことはすっかり忘れてしまっていたので、何気なくそれを開封したのだが、何と! [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]  須山くん!   あのときはいろいろとお世話になった。おかげで天運堂のほうも大いに発展したようだし、山野井咲子も一躍人気女優になってしまった。そしてかくいう僕は四千五百円の金を手に入れることができたのである。   しかし須山くん!   君はこれらのすべてを偶然と思っているか。私は何だか、君を悪く利用したようで、気の毒でしようがないのである。でここに、君はもう忘れているかもしれない、あの事件の真相をお話しようと思うのである。   まず最初天運堂が募集した珍発明のことから説き起こさなければならない。あの黄色トンボ型ネクタイのオリジンをもって応募しそして見事に当選したのは、何とかくいう僕自身なのである。その結果、僕は当然あの賞金であるところの一千円を受け取るべきだった。しかし、僕はわざとそれを遠慮したのである。その代わり僕の提出した奇抜な宣伝手段を利用してくれるように申し込んだのである。奇抜な宣伝手段——それは君もすでに御承知のことにちがいない。それを話したとき、天運堂の主人刈谷千吉は手を打って喜んだ。そしてさっそくそれを実行することにしたのである。   だが、そこにもう一つ僕の提供した条件があった。それは、その富籤ははじめから僕の手にあるように取り計らうことであった。それは一種の詐欺手段にもなるというので、刈谷千吉は一応考慮したが、まもなく、僕が絶対にだれにも悟られないようにするからと言うので、同意することになったのである。   だから早く言ってみれば、あれらの広告は、全部、刈谷千吉と、僕と、僕の愛する妻の山野井咲子との間にたくまれた一種の八百長だったのだ。それにより、刈谷千吉と僕の妻は大々的な宣伝をすることになり、僕は一千円の代わりに五千円を手に入れることができるのだ。   ところが、ここに困ったことには、あの富籤の当選者が山野井咲子の夫であるところの僕だということがわかれば、いくぶん世間に疑惑を招くおそれがある。それはぜひ避けなければならないことだ。   で、僕は脳漿《のうしよう》をしぼった揚句、君に対して、ああしたお芝居をしてみせたのである。   須山くん!   なにとぞ気を悪くしないでくれたまえ、そのために君は、彼女と接吻することもできたし、五百円という、君にとってはかなりの大金を手に入れたではないか。結局この事件で、いちばんばかをみたのは、愚かなる民衆だけだ。僕は不格好な黄色トンボ型ネクタイを締めている青年どもを見ると、思わず吹き出したくなるよ。   終わりに山野井咲子は僕にとってはいとも貞淑な妻であることをつけ加えさせてくれたまえ!   じゃ失敬! [#ここで字下げ終わり]  久井久雄の手紙はそれで終わっていた。  私は半時間ほどもぼんやりと、その手紙を持ったまま立っていたが、何だか体がふわふわして、いまにも倒れそうな気がした。賢明な久井久雄! そして愚かなる私!  やがて、私はふと気がついて、そのとき締めていた呪うべきネクタイを外すと、そっとそれを机の引き出しの中にしまい込んだのである。 [#改ページ] [#見出し]  夫婦書簡文     一  女流作家の阿部緋紗子《あべひさこ》は、夫の謙吉《けんきち》があまりに意気地ないので、すっかりいやになってしまった。  なるほど目下のところ彼にはなにひとつこれという収入もなく、いわば彼女の原稿かせぎで生活しているようなものだから、いくぶん控え目にしなければならないと思っているのだろうけれど、それにしても、もう少しはきはきと、亭主らしく振る舞ってもらいたいとおもうのだった。  だいいち彼女は、家のことなどはてんでかまいつけようともしないで、毎日のように遊び回っている。外へ出るときはきまって夜更しをする。悪い仲間とは交際する。酒は飲む。賭博《とばく》はする。おまけにひどいときは三日も四日も家を留守にしたりする。それだのに夫の謙吉は、ひと言も不平らしいことばを漏らしたことがない。だから緋紗子はくさくさするのだった。 「あなた、もう少し男らしくできないこと?」  ときどき彼女が癇《かん》を立ててそういうと、 「男らしくって!——」と謙吉は不精ひげ[#「ひげ」に傍点]をなでながら、いかにも困ったような顔をしかめながらいうのだ。「いったいどうするのだ?」 「男らしくって——わかっているじゃありませんか。あなたはあたしの亭主でしょう? 亭主なら亭主らしく、もっとはきはきと、だいいちあなたのそのことばつきからして、あたしには気に入らないのよ」 「だって、お前、そんなことを言ったってしようがないじゃないか、これはおれの生まれつきなんだもの」 「生まれつきだって、あなた! 生まれつきだからなんて——、だからあなたは——、ああ、じれったい!」  結局彼女もなんと言っていいかわからないで、おしまいにはいつもヒステリーを起こしてしまうのだった。  とはいえ、緋紗子はけっして夫を愛していないのではなかった。どうしてどうして、まったくその反対だった。どちらかというと、夫が彼女を愛しているより、彼女のほうがより多く夫を愛しているのかもしれなかった。だから彼女はいっそういらいらするのだった。  謙吉は二年ほど前まで、さる劇団に関係して、舞台監督みたいな仕事をしていた。その以前には、相当名前の知られた小説家でもあった。緋紗子と一緒になったのは、彼がまだ劇団に関係を持っていたころであるが、その劇団がつぶれると同時に、彼はいっさいの芝居関係から身を退いてしまった。そうかといって、むかしのように小説を書こうとするのでもなかった。まだまだ彼の原稿をほしがっている雑誌社は、かなりたくさんあったけれども、彼はすっかり引きこもってしまって、まったくそのほうに見向きをしようともしなかった。 「うち[#「うち」に傍点]のはあれでまだ、十分いいものが書けそうな気がするんですけれど」  緋紗子はよく友だちの間でそんなことをいったが、謙吉を知っている人たちになら、そのことばは少しもおかしくはなかった。 「ほんとうね、なんとかしてもう一度乗り出していらっしゃるといいのにね」 「あたしもそう思ってずいぶんつついているんですけれど、もうすっかり引っ込み思案になってしまって、どうしても動かないのよ」 「しかし、でもあなたはいいわ。あんなおとなしい人を御亭主に持っているんですもの」  しかし、そういわれることを緋紗子はいちばん好かなかった。 「だめよ、男のおとなしいのは、お豆腐のくさったのと同じよ。どうにも手がつけられないわ」  彼女は吐き出すように言った。 「まあ、ひどいことをおっしゃるのね。でもあなたは、ひどい御亭主をお持ちになった経験がないから、そんなことをおっしゃるのよ。あたしんとこときたら大変よ。帰りが遅いと言ってはしかられるし、あまり外出しすぎるといってはしかられるし、友達が遊びに来すぎるといってはしかられるし、実際たまらないわ」  相手はなんの底意もなくそう言っているのだけれど、緋紗子にはしかし、それがそのまま皮肉にとられるのだった。すると彼女はたちまち依怙地《えこじ》になってしまって、 「いいわね。あたしそんな御亭主を持ちたいわ。女天下にはあたしもうあきあきした。女を尻に敷くような亭主じゃないと、やっぱりあたしなんか駄目よ」  すると相手も意地になるらしかった。 「まあ、いやだ! あたしなんか真っ平よ!」  と吐き出すように言うのだ。  それが始まりで、二人はますます依怙地になり、しまいには思っていることに、十倍も二十倍もの輪をかけたような過激な意見をもって、互いに負けず劣らず応酬し合うのだった。  そんな晩は、家へ帰った緋紗子はきまってヒステリーを起こした。  彼女は友達にひどく侮辱されたような気がして、そしてその侮辱のもとというのも、夫のためだと思うと、謙吉ののうのうとした顔を見るさえ、むっとするのだった。 「どうかしたのかい、お前?」  謙吉はたちまち彼女の顔色を読み取ったとみえて、遠くのほうから恐る恐る声をかけた。  彼女は向こうを向いたまま黙りこくっていた。 「顔色が悪いよ、どこか悪いんじゃないか、それとも——」  と相変わらず腫物《はれもの》に触るような調子で、 「だれかとけんかでもしたのかい?」  そういうふうに夫にきげんを買われていると、彼女のヒステリーはいっそう募ってくるのだった。でいよいよ彼女は依怙地になって、ものが言えなくなるのだった。 「ああ、そうだ、お前の留守中に、渋谷の姉さんが来て、シュークリームを置いて行ったが、お前、一つ食べてみない?」 「いらない!」  と、突然彼女は、少し語尾の上がった言いかたでもって叫んだ。謙吉はたちまち首をすくめながら、でも、そのまま引っ込んではいられなかった。 「いらない? いらないってお前、これ大好物じゃなかった? それにこいつなかなかうまいよ。ね、ね、ほら一つ食べてごらん」 「いらないったら、いらないのよ!」  そして彼女は、夫がそばへ持って来ようとするシュークリームの箱を、取り上げると、あっという間もなく庭のごみための中に、ばあっとあけてしまった。     二  ある日、緋紗子は、やっぱりその前の晩にヒステリーを起こして、そういう翌朝に限って彼女は、朝起きるのが少しきまりが悪いものだから、いつもより朝寝坊をしていた。  もっともふだんだって十一時より早く起きることはめったにないのだが、そういう日はたいていお午《ひる》の三時ごろまで寝るのだった。  そういう場合、謙吉のほうが早く床を抜け出すようなことがあると、またまた緋紗子のヒステリーがぶり返すおそれがあるので、いつも彼はお付き合いに寝ていなければならなかった。そうして二人は、お腹のすいたのをこらえながら、暑苦しい布団の中で、いつまでも黙りこんだまま天井をにらんでいるのだった。  ところが、その朝に限って、十時ごろに緋紗子が目を覚してみると、夫の布団ははやもぬけの殻になっていた。 「おや、どうしたのかしら?」  と思っていると、しばらくしてから、謙吉は表のほうから帰って来たが、その様子がなんだか緋紗子の手前をはばかっているらしいので、彼女はわざと眠ったふうをしていた。  すると、四つんばいになって彼女の寝息をうかがっていた謙吉は、やがて帯を解くと、あわててもとの夜具の中にもぐり込み、たちまちからいびきを聞かせ始めた。  緋紗子は少なからず当惑した。  いったい、どこへ行っていたのだろう?  彼女は少しも解せなかった。とはいえ、眠っていた真似をしていた関係上、口に出して、問うわけにもゆかなかった。彼女はひどく煩悶《はんもん》しながらも、苦しい狸寝入りを続けていなければならなかった。  するとその夕方のことである。  さすがに二人ともすでに床を離れていたが、緋紗子はまだ昨夜のことにこだわって、どうしても和解することができなかった。それにいつもだと、謙吉のほうからなにかきげんを買ってくるのに、その日はどうしたものか、ときどき盗むように彼女の様子をうかがうかと思うと、あわててその目を伏せたり、彼女よりいっそう彼のほうが固くなっているらしかった。今朝《けさ》のこともあるので、緋紗子はなんだか気になってしかたがなかった。するとそこに、郵便! という声が聞こえたのである。その途端、謙吉の顔色がさっと変わった。 「ボ、ボ、僕、ちょっと外出してくる」  そう言い捨てたかと思うと、彼は緋紗子のことばも待たずに、風のように表へ飛び出して行った。  緋紗子はあっけにとられた。なにがなんだか少しもわけがわからなかった。とはいうものの、郵便! という声が聞こえた途端に、彼の顔色の変わったことだけはたしかだった。 「————!」  緋紗子はあわてて玄関へ出るとそこに落ちていた手紙を拾い上げた。   小石川区小日向台町三丁目××番地 阿部緋紗子様  表にはそう書いてあったが、差し出し人のところには、なにも書いてなかった。しかしその手跡にはなにかしら見覚えがあるように思えた。  緋紗子は首をかしげながらその封を切ったが、なんと! 見覚えのあるのも道理——。 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]   緋紗子よ。   僕は君が気の毒でしかたがない。君のヒステリーの原因が、この僕にあることを、僕は万々承知している。しかし、そうかといって僕はいったいどうしたらいいのだ。君も知っているとおり僕は意気地なしだ。君がふがいなく思うのも無理はない。でも僕はほんとうに君を愛しているのだ。君を幸福にするためになら、どんなことをしてもかまわない。いったいどうすればいいのか、それをはっきり言ってくれ。 ※[#「勹<夕」、unicode5307]々 [#ここで字下げ終わり] [#地付き]謙吉より    緋紗子は読み終わると思わずぷっと吹き出した。 「まあ! ばかばかしいっちゃありゃしないわ!」  彼女はその手紙をもみくちゃにしたが、しばらくしてからもう一度開いて読んでみた。 「ばかばかしい!」  彼女はもう一度もみくちゃにしたが、すぐにまた開いて読んだ。そうしているうちに、彼女はだんだんうれしくなってきた。しまいにはその手紙がひどく気に入ってしまった。 「なんておばかさんだろう。だからさっき郵便屋が来たとき、あんなに顔色を変えて飛び出したのだわ」  それから彼女は、その手紙の始末をどうつけようかと考えた。夫が帰って来たら、いきなりなんとかいってやろうか、それとも、寝床へ入ってからゆっくり返事をすることにしようか——、しかし彼女はふいにいいことを思いついた。 「そうだ、それがいいわ」  彼女はくすくす笑いながら、机に向かうとペンと便箋を取り出した。  なんと書こうか、しばらく考えた後彼女はまず、 「謙吉様、あたしはあなたが、あんまり嫉妬《しつと》をなさらないのが不服なんです」  と書いた。しかしすぐにそれを破いてしまうと、今度は、 「謙吉様、女というものはやっぱり男に支配されたいのです。もっともはっきりいえば、女というものは、男の専制の下にあって初めて幸福になりうるのです。だからあなたは——」  しかしそこまで書くと、緋紗子は急に虫ずが走るような不快さを覚えた。 「書けないわ!」  彼女はそれも破いてしまって、それからまたしばらく考えふけっていたが、やがてただ簡単に、 「謙吉様、あたしはあなたがきらいです!」  と書いた。  そしてそれを封筒に入れると、表に   小石川区小日向台町三丁目××番地 阿部謙吉様  と書いて、それをポストに入れに行った。     三  それが最初で、それ以来そこに、不思議な夫婦間の手紙のやりとりがはじまった。  前にいった手紙を、緋紗子がポストに入れに行って帰ってみると、夫の謙吉はすでに帰っていて、きょとんとした顔で座敷に坐っていたが、彼女の顔を見ると、心持ちきまり悪げな顔をしたきりで黙っていた。  緋紗子もそのことについてはひと言も口を開かなかった。  二、三日たつと謙吉からまた手紙が来た。それにはこんなことが書いてあった。 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]   愛する緋紗子よ。   なんというひどい返事だろう。僕はあの返事を見たとき、頭から打ちのめされたような気がした(うそばかり! あの手紙を見たとき、顔の筋一本動かさなかったじゃないか——と、思いながら緋紗子は読んでいった)。しかし僕は、あれが君の本心でないことを知っている。なんと言おうとも君はやっぱり僕を愛していてくれるのだ。ね、ね、そうだろう。お願いだ、どうかそうだといっておくれ。   返事を待っている。さっそく書きよこしておくれ。   ※[#「勹<夕」、unicode5307]々 [#ここで字下げ終わり] [#地付き]謙吉より    緋紗子は今度もぷっと吹き出した。 「なんておばかさんだろう」  で彼女は今度もまた、 「謙吉様、あたしはなんといってもあなたがきらいです!」  としか書かなかった。  しかし緋紗子は、この機会を利用してなんとかして、ほんとうの心持ちを、ヒステリーでなしにいってみたいと思った。しかしいざとなると、どうしても「あたしはあなたがきらいです」とよりほかのことは書けないのだった。  間もなく謙吉から三度目の手紙が来た。 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]   いとしい緋紗子よ。   なんというお前は頑固な女だろう。お前はいったん説を立てると、けっして枉《ま》げない女だ。僕はそのよさはよくわかっている。しかしいまは別の場合だ。僕は神経衰弱になりそうだ。たったひと筆でいいから、僕を愛していると書いておくれ、お願いだ。 [#ここで字下げ終わり] [#地付き]謙吉より    緋紗子がその手紙を受け取ったとき珍しく謙吉はうちにいた。彼女は手紙を読み終わると、隣の部屋にいる謙吉のほうをそっと盗み見たが、すると謙吉はさっきからこちらの様子をうかがっていたらしく、あわてて目をそらした。  その日は朝から緋紗子はひどくふきげんだった。だからその手紙を見たとき、急にヒステリーの発作がこみ上げてきそうになった。彼女はそれを引っつかんで、隣の部屋へ飛び込み、それを夫の顔に投げつけてやりたかった。しかし、そのときふと彼女は別のことを思いついたのである。     四  それから一週間ほどして、彼女は三十枚ばかりの小説を書き上げた。その小説の筋というのは、むろん彼ら夫婦の生活と、最近始まった奇妙な手紙の往復が中心になっているのだが、彼女はそのうちに夫に対する不満のありったけを書きならべ、そして、それをつぎのような一節で結んだ。 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]   ——とうとう彼女は、そんなばかばかしい手紙の往復がたまらなくなってきた。良人がどうやら、その手紙の往復を子供のように享楽しているらしいのをみると、彼女はたまらない憎悪を覚えた。ただそれだけでも、別れなければならないと思った。するとそこに、良人からの四度目の手紙が来たのである。彼女は例によって、しかし今度は、いままでよりはるかに力をこめて、「ほんとうに、ほんとうにあなたがきらいになりました。これが最後です。私たちは別れなければなりません」   と書いた。そしてそれをいつものポストへ投げこむと、その足で彼女は上野駅へ向かったのである—— [#ここで字下げ終わり]  それが彼女の書いた小説の結末だった。  彼女はそれに、「夫婦書簡文」という題をつけた。  さて言いわすれたが、彼女の原稿はいつも一度夫の謙吉が清書をすることになっていた。それは清書という意味だけではなしに、一度彼の批評を受けたいと彼女は思っているのだった。  だから今度のような場合、夫がその原稿を読んだら、どんなに思うだろうと考えた。少しは反省するだろう。少しは自分の考えがわかるだろうと思った。  そこでその原稿を書き上げると、いつものようにそれを夫に渡して、 「大変急いでいるんですから晩までに清書して、清書ができたら××社のほうへ速達で送っといてちょうだい」  といつもの命令するような口調で言った。  謙吉は何気なくその題をながめたが、さすがにハッとしたらしく、ちらりと緋紗子の顔色を読むように目をあげた。  緋紗子は原稿を手渡すとすぐそのまま家を飛び出した。さすがにその原稿を夫が読んでいるそばには居たたまらなかった。 「ざまァ見ろだわ! あの人のことだから、きっとひどく後悔してべそをかくように顔をしかめるに違いないわ」  緋紗子は風船のようにふわふわ街をあるきながら、そんなことをしきりに考えていた。少し夫をやっつけすぎたように思えて、ときどきかわいそうに思えてきたり、後悔されてきたりするのだった。 「かまうもんか、あんな意気地なし、あれくらい書いてやったって平気だわ」  しかしさすがに気になるものだから、いつものように遅くまで遊んでいる気にはなれなかった。  彼女はいいころあいをおしはかって、家へ帰ってみた。ところが彼女が少なからず意外だったことには、謙吉の様子は以前とは少しも変わっていなかった。 「お帰り、大変早かったじゃないか」  かえってそれには緋紗子のほうが顔が熱くなるのを感じた。  どうしたのだろう? 夫はあの原稿を読まなかったのかしら? そんなはずはない。しかし読んだとしたら、あの小説の中身の意味のわからないはずはないんだけど。  緋紗子は不思議でならなかった。しかしそうかといって、口に出して聞くわけにはいかず、いらいらしながら、お互いに腹の中を読み合っているように黙りこくったまま、不愉快な夜を過ごした。  ところが彼女が書いた小説がいよいよ雑誌××に発表されたときである。彼女はくせで、自分の小説をいつもいちばんに読むのだが、なんと驚いたことには、いつの間にやら彼女の「夫婦書簡文」という題が「弱い亭主」という題に変わっているのだった。  そして彼女はそれを読んでいくうちに、ところどころ彼女が書いたのとまったく違っているのを発見した。おまけに、彼女がねらったところの終わりというのは、まったくひっくり返されてしまっていた。 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]   ——そして彼女は上野駅まで駆け着けた。しかし、途々、とつおいつ考えているうちに、彼女の心臓はだんだん冷たくなってくるのだった。彼女は切符を買ったもののどうしてもその汽車に乗る気にはなれなかった。汽車が早く出ればよい、早く出ればよい、そんなふうに祈っているのだった。  「ああああ、弱い亭主には結局勝てないものだわ」   汽笛がピリッと鳴ったとき、彼女はほっと胸をなでおろした。そして急に重荷を下ろしたようにそうつぶやいて微笑したのである。—— [#ここで字下げ終わり]  緋紗子は急にアハアハと笑い出した。 「ほんとうだわ、弱い亭主には勝てないわ!」  と彼女もまた夫が書き直したにちがいないそれを読み終わったとき、重荷を下ろしたようにそうつぶやいた。 [#改ページ] [#見出し]  あ・てる・てえる・ふいるむ 「ちょっと旅行をして来なければならないんだがね」  夕食の膳《ぜん》に向かっているときであった。夫の卓蔵がふと思い出したようにそう言ったとき、折江はなにがなしにはっとして、口に入れかけた物をそのままに、ちらりと盗むように夫の顔を見上げた。卓蔵はちょうど女中からお代わりを受けとろうとして手を伸ばしたところだったが、折江の視線を受けると、ぎょくんと何物かに小突かれたように、あわててその目を他へそらした。 「どちらのほうへ?」  折江は茶碗《ちやわん》と箸《はし》とを持った両手を、そのまま膝《ひざ》の上に置くと、今度は真正面から夫の目をのぞき込みながら、しいて優しいほほえみを見せてそう言った。 「関西のほうをまわらなければならないんだ。急に社のほうに用事ができてね」 「そう、行ってらっしゃいまし」  折江は静かにそう言うとちょっと首をうなだれた。  彼女は、なぜもっとなれなれしく口を利くことができないのだろう。なぜもっと夫に甘えることができないのだろう。いままでだと、社用の旅行の折りにも無理にもだだをこねて一緒に連れて行ってもらっていたではないか、それだのになぜ今度にかぎって、それが言えないのだろう、——そう思うと彼女は、悲しくなるより、むしろ自分自身を責めなければならないような気がした。しかしそういえば、夫にしても、いつもだと、 「折江、お前も行きたくはない?」  と、からかい半分に言うはずだのに、今度にかぎって、むしろ反対に彼女の出ばなをくじくような態度が見えている。一緒に行くと言い出されては困るが——そういった素振りが、ことばの端にもまざまざと見えている。 「何日ぐらいおかかりになりますの?」  しばらくしてから折江は消え入りそうな声でそう尋ねた。「いや、そう長くはかからないつもりだ。なにしろ東京のほうもいま忙しい最中だからね、——それにしても一週間はかかるだろうと思う」  折江はよっぽど、「あらいやだわ、それじゃあたしもついて行くわ」と、言おうかと思った。しかしそんなことを言えば、いっそう不自然さが目に立って、救えない空気をその場に醸し出しそうな気がしたので、彼女はわざと黙っていた。  自分が変わっている。しかし夫のほうは自分以上にいままでとは変わっている。だいいちいままでだと、旅行を言い出すにもこんなに苦労をしなかったはずだ。むしろ彼女のだだを期待するように、そしてそれをじらせて楽しむために、あるときは家へ帰って来るといきなりそれを切り出したり、またそうでないときは、にやにやと、いかにもずるそうな笑いを見せて、さんざん彼女をじらせた揚句、やっと切り出したりしたものだ。それが今度の場合は著しく変わっている。夕飯の始まる前から、彼女には夫が何か言い出そう言い出そうとしていることがよくわかっていた。それでいて、いつまでたっても切り出さなかったのだ、いつものように彼女をじらせることによって楽しもうというふうでは全然なかった。むしろまったくその反対に、それを言い出すのがいかにもおそろしく億劫《おつくう》であるらしいのが、彼女にもよくわかっていた。だからいよいよ切り出された瞬間、彼女にしてもいつものように無邪気に受け止められなかったわけでもあった。  いつからこんなふうになったのだろう、ついこの間までは、鴛鴦《おしどり》のようだと近所の人にも言われ折り折り訪れて来る両親からも「前の嫁よりも気に入っているらしい」と、喜ばれていた自分たちだったのに——。  折江は卓蔵にとっては二度目の妻であった。彼の最初の妻というのは平常から体が弱かったが、二年ほど前にその転地先で死んだのである。うわさによると変死だという話であったが、詳しい事情は彼女自身も知らなかった。折江の兄が卓蔵の友人であったので、彼女は前の細君が生きているころから卓蔵とはときどき顔を合わすことがあったが、当時の彼の細君というのは一度も会ったことがなかった。ときどき卓蔵の口から、体の弱いことを聞いては気の毒に思うくらいで、そんなに親しくしているわけでもなかったので、見舞いに行ったこともなかった。うわさによると彼はたいへんその細君を愛しているのだということだった。ところが彼女の死後、卓蔵が寂しさをまぎらすために、しげしげ折江の兄を訪ねるようになり、折江のほうでは細君を失った彼に対する同情から、親しい言葉で慰めたりしているうちに、いつしか二人はお互いのことを思うようになっていた。そうした愛は、折江の兄がふとした病気から突然亡くなったことによって急激に進んで、そしてまもなく彼らは親類一同の同意を得て結婚したのである。  結婚の当初折江はときどき深い憂鬱《ゆううつ》にとらわれている卓蔵を見ることがあった。そうしたとき、彼女はすぐと夫が前の奥さんのことを考えているのだということに気がついたが、折江の性質としてそれは嫉妬《しつと》の種子となるより、むしろいっそう深い愛を彼に抱かせる動機になるのだった。卓蔵もまもなく、だんだん折江の明るい快活な性質の感化を受けていったものらしく、家の中の空気は日増しに明るくなっていきつつあった。  それだのにどうしてこのごろになって、急に二人はこんなにお互いの腹の中を探り合うようになったのだろう。——そう考えるとたちまち彼女は、この間の山の手館でのことを思い出すのだった。  それはあながちいまに限ったことではなくて、このごろ、始終彼女はそのことを思い続けているのだった。こういう原因のわからない変な空気が家庭に入って来た最初のころ、彼女はふとそのときのことを思い出した。 「ああ、あれだ。あの活動写真だ」  彼女は思わずそうつぶやいた。  しかしよくよく考えてみると、それは何の因縁《いんねん》もないことなので、彼女はすぐにその考えを打ち消そうとした。しかしそれは、夏の野の雑草のように、忘れようとすればするほど、彼女の胸の中に、はびこってくるのである。 「そんなはずが」と、打ち消す一方、あるわけのわからぬ忌まわしい疑念が、ますますむくむくと彼女の思いの中に頭をもたげてくるのであった。それが何であるか、彼女にもはっきり正体をつかむことができなかった。しかし、そうした疑念の影が深まっていくに従って、夫の面《おもて》にさした暗い影も、日ごとに濃くなっていくような、気がしてならないのである。  それはいまからちょうど、一月ほど前のことであった。前にも言ったとおり、当時まだ鴛鴦のように仲のよかった夫婦は、ある晩いつものように手を引き合って散歩に出たのである。彼らの住宅は渋谷にあったので、その晩も道玄坂を一回りしてどこかでお茶でも飲んで帰るつもりだった。卓蔵は前々から口数の少ないほうで、ときどきふっと発作的に、おそろしいほど、憂鬱《ゆううつ》になるほうであったが、平常はそれほどでもなかった。折江はというと、彼女はただもう無邪気で、どちらかというと快活すぎるほどの女だったので、そうした散歩は、お天気さえよければ、一週間に二度や三度は必ずあった。  その夜のことを、折江ははっきりと覚えているが、どうしたものか道玄坂の通りも妙に人が出ていないように思われた。もっともそれはあとになって、ああしたことが起こったので、それに結びつけて考えるために、何事も妙に哀しく、薄気味悪く思い出されるのかもしれない。それにしてもいつもより寂しかったことは確かで、そのとき彼女は、 「どうしたんでしょう。妙に今夜は寂しいようね」  と、卓蔵に言ったほどである。 「月曜だからだろう。それにしてもなるほど、人出が少なすぎるようだね。どうだ、お茶でも飲んですぐに帰ろうか」  無邪気な快活な性質の折江は、何事につけても寂しいというのはきらいだった。せっかくにぎやかだと思って出て来た道玄坂が、すっかりさびれているので彼女は少なからず失望した。夫の卓蔵は彼女のそういう気持ちをよく知っているので、慰めるつもりでそう言ったのである。 「ええ」  あとから思えば夫の言に従って、そのまま素直に帰っておれば何事もなかったのである、しかし折江はそのとき何かしら妙に満足しないような気持ちだった。ちょうどそのとき、彼らは百軒店の活動写真館の前を通っていたので、彼女はふとそのときの気まぐれから、 「あなた、活動写真を見ない?」  と、言った。 「ふむ、見てもいいけれど」  卓蔵も足を止めて、毒々しい絵看板を見上げた。  それはいつも日本のものばかりをやっている小屋で、現代劇と銘打って『古沼の秘密』と、いう写真が上がっていた。 「ちょっと見ましょうよ。つまらなければすぐ出るとして」  折江もその実、もうどうでもよかったけれど、しいて甘えるようにそう言った。卓蔵はそう言われると、彼もまたあまり気が進まなかったのだけれど、折江の気持ちに逆らいたくなかったので、特等切符を二枚買って中へ入った。折江はそのときまだその小屋の名前も知らなかった。ことに特等席には椅子《いす》も少なかったが、彼ら二人のほかには一人もいなかった。彼らが真っ暗な中を懐中電灯に案内されてほどよい席に座を占めたとき、映写幕にはお添え物らしい西洋物の喜劇が写っていたが、まもなくぱあっと明るく電気がついた。 「ずいぶん寂しいのね」  折江は電気がつくと同時に、手にしていたプログラムを見ようとしたが、そのまえに平土間の客席に目をやって、思わずそうつぶやいた。折江のそう言ったのも無理はない。客席には歯の抜けたように、ぽつりぽつりとしか人影はなく、そしてそれらの人々も、お互いに何か話しているのであろうが、それが妙にひそひそとしていた。高いところから見下ろしていると、それがちょうど虫のようにもくもくと動いているように思われた。それに小屋がまだ新しいとみえて、壁だの天井だのがいやに白っぽいのも何かしらいっそう寂しさを誘うように思われて、むしろ寒いぐらいの気持ちだった。 「出ようか、何だか寒いじゃないか」  卓蔵はよほど気が進まないらしく、折江のほうを見てそう言ったが、折江は黙ってプログラムを読んでいた。ちょうどそのときふたたび電気が消えて、そこに『古沼の秘密』が始まったのである。  折江も卓蔵も、特別にその写真に興味を持つ因縁はなかったので、二人とも無関心な態度で映写幕のほうに目をやっていた。フィルムはもうかなり古いものとみえて、かなり痛んでいるうえに、写真そのものが妙に暗かったりして、見ていてもあまり愉快ではなかった。  場面はまず東京のさる大邸宅の一室から始まって、そこに若い美しい令嬢が出てくる。筋というのは、その令嬢が悪党どもに誘拐《ゆうかい》されるところがあった。と、思うと、そこから場面は急に信州に飛んで、令嬢はその辺のある一軒家に幽閉されることになるのである。その辺から場面が急に美しくなったので、折江は見ているのに少し楽になった。本当に信州へロケーションに出かけたらしく、諏訪の湖などがちょいちょい画面の一端に現われたりした。 「ちょっときれいじゃないの?」  折江は何気なく夫のほうを見てそう言いかけたが、そのとき彼女は夫の様子が普通でないのにふと気がついた。彼は少し上体を前に乗り出すようにして、その目は映写幕に食い入るように見入っていた。しかも、呼吸をはずませているらしく、肩が大きく波打っているのが見えた。 「あなた、どうなすったの?」  彼女はとがめるような口調でそう声をかけたが、すると卓蔵はふとわれに返ったように、あわてて姿勢を直すと向こうを向いたまま、 「いや」  と、狼狽《ろうばい》したように言った。思いなしかその声が少しかすれていたように、あとになって彼女には思われた。 「お体でもお悪いんじゃないの?」 「ううん」  卓蔵はやはり彼女のほうを振り向こうとはしないで、映写幕のほうへ目をやったまま、溜息《ためいき》をつくような声でそう答えた。  折江もそれでしかたなしにふたたび写真のほうに目をやった。場面はあいかわらず信州の田舎で、都から追いかけて来た令嬢の恋人が、幽閉されている令嬢を救い出そうとして、盛んに活躍しているところで、別におもしろくも何ともなかった。それだのに、夫はどうしてあんなに、息をはずませるまでに熱心に見ていたのだろうか——。彼女は少し気になるのでそれからというものは、写真を見る合間合間にそっと夫の横顔を盗み見た。あいかわらず彼は魅入られたようにじっと映写幕のほうを見ているのであるが、その態度が何かしらただごとでないように彼女には思われた。  そうしているうちに、とうとうあることが起こったのである。彼女はずっとあとまで、そのときのことは忘れることはできなかった。その瞬間彼女は、夫は発狂したのにちがいないと思ったくらいである。場面はだんだんと進んで、例の青年はとうとう令嬢をその幽閉されている場所から救い出した。ところが悪党のほうでもすぐそれに気がついたとみえて、そこに日本物の活劇らしい追っかけが始まるのである。彼の目は活動小屋の暗闇《くらやみ》の中にも、熱病患者の目のようにうわずって見えて、その上に息遣いがだんだん荒くなり、見ると彼の両手がしっかりと前の椅子の背をつかんでいるのである。むろん、こんなくだらない日本物の活劇の筋に、彼が夢中になるわけはなかった。したがってそんなにまで彼を緊張させるものは、何かほかのものでなければならない。折江がそれを見届けようとして、写真のほうへ目をやったせつな、そこには青年と数人の悪党との間に大格闘が始まり、令嬢はおそろしそうにそばの崖《がけ》のようなところに身を避けた。すると場面は大写しとなって、令嬢とその背後の崖の一部分だけが映るのである。それは山崩れか何かでできた崖らしく、石ころだの雑草だのの間に混じって赤|煉瓦《れんが》のようなものも混じっていた。たぶん、西洋館のようなものが建っていたこともあるらしく、そうした活劇にはおあつらえ向きの場面であった。ところが、この大写しが映った瞬間、ますます体を前へせり出して、何か見究めようと焦っていたらしい卓蔵は、ふいに口の中で「あっ!」と、いうような叫び声を上げたかと思うと、ぴょっこり椅子から立ち上がった。 「あなた! どうなすったの?」  折江もそれに続いて立ち上がると、辺りを忘れた声で思わず夫にすがりつくようにしてそう言った。それでも卓蔵はまだじっと食い入るように映写幕のほうを見ると、その額には玉のような汗がぶつぶつ吹き出しているのである。 「あなた、あなた」  と、折江は二度ほどそう叫ぶと、夫の手を握って、それを揺すぶるようにした。そのとたん、彼女は夫の脈拍《みやくはく》が著しく速くなっているのに気がついた。しかも卓蔵はまだ放心したように映写幕のほうを見詰めているのである。  さいわいそれから以後、写真はあまり長くはなかった。お定まりのめでたしめでたしで筋を結ぶと、電気がぱあっと夜が明けたようについた。卓蔵はそれでようやく気がついたように、でも、まだぼんやり折江のほうを見たが、 「ああ」  と世にも暗い、陰気な顔つきをした。折江は、その顔が真っ青であるのに気がついたのである。 「あなた、どうなすったの? お気分でも悪いんじゃないの?」  そう言われて卓蔵は、そのとき初めてほんとうに気がついたようであった。すると、彼はさっと目の色を変えて、あわてて額の汗をぬぐったが、 「いや、何でもないんだ。帰ろう」  と、言った。そして盗むように折江の顔を見た。  さいわい特等席の周囲にはだれもいなかったので、彼らの不思議な行動に気のついた者は、一人もなかったらしかった。折江は黙って夫のあとに従ってその小屋を出たが、出るとき彼女は初めてそれが山の手館という小屋であることを知ったのである。  みちみち彼らは一言も口を利かなかった。折江は聞いてみようかどうしようかと迷ったが、どうしてもそのことばが口から出なかった。卓蔵のほうも、それを聞かれることがおそろしいようなふうであった。こんなことは、彼らが結婚してからもう一年になるが、まだ一度もなかったことである。折江は前にも言ったように、どちらかといえば、開けっぱなしな無邪気な性質の女だったので、いままでそんなふうに妙な遠慮をしたことは一度もなかったのであるが、その夜だけは、妙にことばが口から出そびれた。彼女は無言で夫のあとに従いながら、いま見た活動写真のことをさまざまに思い浮かべてみた。ことに夫が椅子から立ち上がった辺りの場面を、記憶をたどって一つ一つ思い出してみたが、どこにどういって、夫を脅かすような理由を発見することはできなかった。夫が立ち上がったのは、たしかに、令嬢に扮《ふん》した女優が大写しになった瞬間である。夫はあの女優を知っていたのであろうか。いやいやそんなことは考えられない。もし夫が彼女を知っていたとしても、それならば、彼女は映画の最初から出ているのだし、それまでにも彼女の大写しは何度となく出ているのである。あのときになって初めて、あんなに驚くほどふいに気がつくとは思われない。と、すれば何かほかに夫の目をひくものがあったのだろうか。しかし、折江はちょうどその時分、映写幕よりも夫のほうにより多く注意をひかれていたので、その辺の場面はろくろく覚えてはいなかった。それにしても、夫や自分以外にも、あの活動小屋の中には幾十人、或いは幾百人という人がいたのだし、それまでにだって何百何万という人間が、あの写真を見ているのであるがそれらの人たちが平気で見ていたろう写真を、むろん平気で見ているからこそ、ああして上映を許されているのにちがいないのであるが、夫は何をもってあんなに驚いたものであろうか——。  もっとも折江がこんなふうにまで突き詰めて考えるようになったのは、それからだんだんあとになってのことであった。その夜はそれほどのこととも思わずに、彼女のほうはまもなく日ごろの無邪気さを取り戻すことができたが、卓蔵のほうは妙に陰気な顔つきをしていた。そしてときどきおびえたような目つきで、折江の顔を盗み見したりするのであった。もっともそういうことは結婚の当初、かなりしばしばあったことで、その当時彼女は、その目つきを見るたびに、何かしらはっとするような重さを身内に感じたことがあった。  ところがその夜のことである。折江は枕《まくら》を並べて寝ている卓蔵のうめき声にふと目を覚ましたのである。 「どうなすったの? あなた……」  折江は起き直ると急いで夫の胸に手を当てて揺り起こそうとした。しかし彼は目を覚ますどころか、その反対にますます気味の悪い声を立ててうめき始めた。その顔は折江の目にもぞっとするほどゆがんで、額には先刻活動小屋で見たと同じような玉の汗がいっぱい浮いていた。そして激しく両手を痙攣《けいれん》させながら、何かしらを一生懸命に払いのけようとしているらしかった。 「あなた、あなた……」  折江は彼女自身悪夢に襲われたような無気味なおそろしさで立ち上がると、急いで消してあった電気のスイッチをひねった。そのとたん、卓蔵はあっと言って起き上がったが、折江の姿を見ると、ちょうど光を背に受けて立っていた彼女を、だれか他の者とまちがえたものか、もう一度「ぎゃっ!」と、いうような声を立て思わず後退りした。 「あなた、あたしよ。どうなすったの。何かおそろしい夢でも御覧になったの?」  畳みかけるようにそう言って、夫のそばにかけよってしっかりとその胸に抱きついた。彼女は何がなしに無性《むしよう》に悲しかった。夫が世にもかわいそうな人間のように思えて、思わずそこに泣き伏したのである。卓蔵はようやく気がついたように、 「折江、お前だったのか……」  そう言ってしばらくまた黙っていたが、やがて、 「もういいよ。ただちょっとおそろしい夢を見ただけなんだから」  と、言ってまだ泣いている折江をそばに寝かして、その上に布団をかけてやりながら、 「さあ、もう泣くんじゃない、おやすみ」  そう言って彼もまた布団の中にもぐり込んだが、だいぶたってからふと折江のほうを向いて、 「折江、お前はいい女だ。無邪気な女だ」  と、嘆声をもらすようにただ一言そう言った。折江はそれを聞くとまだ泣き続けながらもはっと体を固くした。 「お前はいい女だ。無邪気な女だ」  そういうことばを聞くのはいまが初めてではなかった。結婚した当初、二人で差し向かいに話をしている折りなど、夫の卓蔵はときどきふと意味のわからない憂鬱に陥ることがあった。彼は疑うような探るような目で、じいっと折江の目の中をのぞき込むのであるが、やがて悲しげに頭を振ると、あたかも溜息をつくように、 「折江、お前はいい女だ。無邪気な女だ」  と、言うのであった。  いい女だ、無邪気な女——それは文字どおりにとれば彼女に対する賛辞にちがいなかったが、折江は何かしらそのことばの裏に、まったく別の意味がこめられているような気がした。何だろう、どういう意味だろう——、ひょいと裏をはぐって見れば出てきそうで、それでいてそれを突き詰めて考えるのがおそろしいような気がした。どうせ考えてもわからないような気がするのだった。  その日から夫の卓蔵が、もう以前の夫でなくなったことに折江は気がついた。ときどき溜息をもらしながら、じっと折江の顔を穴のあくほど見ていることがあるかと思うと、急におびえたように辺りを見回したりした。夜遅くだれか訪れて来ると、その足音だけで、どきっとしたように跳び上がったりすることがあった。そうかと思うと居ても立ってもいられないように、部屋の中をぐるぐる歩きまわったりするのだった。折江はそれをそばからはらはらとしながらも、ただ黙って見ているよりほかにはなかった。しまいにはとうとう彼は、折江の顔を見るのさえおそろしいような様子さえ示すのであった。折江はそれをだれにも言わなかったけれど、ときどき訪れて来る両親にも、それがわからないはずはなかった。 「卓蔵はこのごろどうかしているようだが、何か心配ごとでもあるのかい」  両親はそんなことを言って折江に尋ねるのだったが、彼女にしても、それに対して何と言って答えることができよう。彼女はただ黙っているよりほかにしようがなかった。まさか取り止めもない活動写真の話などできるはずはなかった。 「お前もこのごろ顔色がすぐれないようだが、ほんとうに何か心配ごとがあるんなら、遠慮はいらないから打ち明けておくれよ」  そういう気遣わしそうな問いに対しても、 「いいえ、何もないんです。夫は少し働きすぎたのでいまちょっと神経が高ぶっているだけなのです。このまま静かにしておいたほうがいいのです」  彼女はそう答えるよりほかに言いかたを知らなかった。  そうしてある日のことである。あの晩以来、ときどき帰りの遅くなる卓蔵が、その夜も九時過ぎに帰って来た。彼はまた何者かに追いかけられたように、そわそわとした様子で表から帰って来たが、帰って来るとすぐ床をとらせてその中へもぐり込んだ。折江は一人悲しげに、このごろではことばを交わすこともまれになったので黙って夫の脱ぎ捨てた洋服を畳みかけたが、ふと思い出してポケットの中からハンケチや鼻紙を取り出した。そのとき彼女はそれらと一緒に取り出された一枚の紙にふと目がついたのである。それは確かに活動写真のプログラムにちがいなかった。彼女はたちまちこの間のことを思い出したのではっと息をのみ込むとあわててそれを広げてみた。しかしそれはこの間の山の手館のものではなくて、大正館という彼女のまだ知らない小屋のものであった。彼女はそれに何かなしに安心して何気なく裏を返して見たのであるが、そこにふたたび彼女は息をのみ込むようなものを見たのである。   現代活劇『古沼の秘密』  全六巻  やっぱりそうだったのだ。夫はやっぱりあの写真を見に行ったのだ。そう思うと彼女は、いい知れぬ恐怖を身近に感じた。自分の考えはやはり正しかったのである。このごろの夫のおそれは、やはりあの写真から来ているのだ——彼女は突然に何か真っ黒なものが覆いかぶさってくるような気がしたのである。  卓蔵が旅行に出たのは、それから三日目のことであった。  彼女は何かしら今度の旅行がよくない結果に終わりそうな気がした。そして関西へ社用で行くのはうそで、どこかほかのところへ行くのにちがいないという気がした。ほかのところ——それはなぜか信州にちがいないような気もした。  卓蔵が送って来なくてもいいと言うのに、だから彼女はどうしても駅までついて行かなければ承知ができなかった。できることならば、どこまでもどこまでも一緒について行きたいとさえ思ったくらいである。  いよいよ汽車が出ようとするとき、折江は窓のそばに寄り添って、 「ねえ、なるべく早く帰ってちょうだいね」  と、ただ一言そう言った。  しかしその双の目にはいっぱいの涙があふれていて、卓蔵のそばに乗っていた人が怪しむようにその二人を見ていたが、その憔悴《しようすい》した顔は、みるみるゆがんできた。彼はあわてて顔をそむけたが、しばらくすると何と思ったのか、急に窓から上半身を乗り出すと、手を差し伸べて辺りに人がいるのもかまわずに折江の手をしっかりと握った。 「心配することはない、大丈夫だ」  と、言った。それから何か言おうとして辺りを見回したが急に声を低くして、 「折江、どんなことがあってもお前は驚いてはならないぞ、お前は無邪気でいい女なのだ。罪はこのおれにだけある」  そのことばに折江ははっとして夫の顔を見上げた。二人はしばらく無言のまま顔を見合わせていたが、やがて卓蔵はたえられなくなったように手を離すと、汽車の中に引っ込んでしまった。それきり彼は汽車が出てしまうまで顔を見せなかったのである。  卓蔵がいなくなると、家の中は急に、がらんとしてしまった。駅から帰ってきた折江は、一歩足を家の中へ踏み入れた瞬間、何かしら不幸のあった家へやって来たような気がした。閉め切った夫の書斎へ入ると、薄暗いすみずみから、目に見えないおそろしいものが、四方から彼女に襲いかかって来るような気がした。彼女はそこに気抜けしたように坐りこんだまま、疲労と心配と悲哀に乱れた頭をもって、もう一度この間からのことを考えてみようと思った。しかしそれは、考えれば考えるほど彼女の頭をかき乱すばかりで、何一つ整った考えは浮かんでこなかった。ただ一つ、この間見た活動写真の、大写しにあったあの場面がしつこくこびりついていて、それがとりもちのようにかきまわせばかきまわすほど、ますます絡まりもつれてくるばかりであった。そしてそこから漠然《ばくぜん》として不安と疑念がきざしはびこるのだった。 「罪はこのおれにだけあるのだ」  彼女は別れ際の夫のことばをいままざまざと思い出した。夫に何かうしろぐらいことでもあるのではなかろうか。あんなにおそれつづけなければならないほどのあやまちが、彼の過去にあるのではなかろうか、そういう考えはこの間から始終彼女につきまとっているのであるが、しかし彼女はなるべくそう思いたくなかったので、いままではそれを打ち消すようにと努めていた。しかしいまはもうそうではなかった。蓋《ふた》はとうとう開かれた。そしてそこにあったものは果たして彼女のおそれていたものと同じものであることに気がついたのである。彼女は決してその罪の内容を考えようとは思わなかった。夫にどんな過失があるとしても、彼女はすべて許せるような気がした。 「あの人は決して悪い人ではない。どうしてどうしてあの人のような善人が、世にそうたくさんあるはずはないではないか。あの人にもし何か過失があったとしても、それはあの人の知ったことではないのだ。そういうことはただ神様だけが知っていらっしゃることなのだ」  そのとき彼女はふとテーブルの上に放り出された一冊の古い日記帳に気がついたのである。手に取ってみると、確かにそれは夫のものにちがいなかった。卓蔵はいったい手紙だの日記だのを家内の者が見ることを厳禁しているくらいいやがっている男であるから、そうして日記帳がテーブルの上に放り出してあるのは不思議だった。折江はしばらくおそろしいもののようにじっとそれを見ていたが、やがて思い切ってその一ページを開いてみた。それは年代からいってかなり古いもので、前の細君の生きているころのものであった。彼女は悪いと思いながら二、三ページ読んでみたが、別に変わったことも書いてないようだったので、安心してところどころ拾い読みをしていった。ところがその終わりのほうになって、ふと折江という名前を発見したので、彼女はおやと思って、その辺から急に熱心に読み出していったのである。それはまだ前の細君が生きていたころのことだから、折江はまだそれほど卓蔵と親しくしていなかったはずだのに、彼女の名はかなり多く日記の上に現われていた。しかもそれが普通の書きかたとは違っているので、折江は怪しく胸をふるわせながら読んでいったが、その最後のページへ来たとき、彼女ははっと思わず息を内へ引いた。そこにはこんなことが書いてあるのである。 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]   今日はとうとう確かめた。折江もやっぱり僕を愛していてくれるのだ。彼女は言った。  「でもあなたには、いい奥さまがおありじゃありませんか」   と、僕は今日一日そのことばを心の中で繰り返した。よし明日はいよいよ信州へ転地している妻のもとへ行こう。 [#ここで字下げ終わり]  折江はそれだけの文字を、およそ十分間ほど凝視していた。ふいに彼女には何もかもわかったような気がした。彼女にはそんなことは言ったか言わなかったか思い出せなかったが、いまさらそれを考えてみる必要はなかった。 「でもあなたには、いい奥さまがおありじゃありませんか」  彼女自身、そのことばの裏にあるおそろしい意味に気がついて愕然《がくぜん》としたのである。それは話す者と聞く者との間にひょいと入りこんだおそろしい悪魔のしわざだ。信州、信州——と、無気味にそうつぶやいていた彼女の眼前には、突然、この間の崖ぶちの光景がありありと現われてきたのである。その崖の上を一人の男と、一人の女が歩いていた。二人の人影はのろのろと何か話し続けながらその崖のところまで来たが、そこで男のほうがふと足を止めて女に何か話しかけた。女は病み上がりとみえて影のようにやせ細っていたが男に呼び止められると同じように足を止めた。  彼らは二言三言何か話していたが、女はその間絶えずにこにこと笑っていた。  突然、男の顔におそろしい形相が浮かんだ。彼は向こうを向いて立っている女の首筋をじっと見ていたが、やにわに猿臂《えんぴ》を伸ばすと、その細い首を、しっかりと両手でつかまえた。それはあっという瞬間の出来事で、女は抵抗する暇もなく、まもなくぐったりと男の両手の中に倒れかかるように凭《よ》りかかった。男はそれでもなおつかんだ手を離そうとはせずに、真っ青な顔をして、ぎろりと辺りを見回した。折江はその男がこう言っているのをはっきり見たのである。 「お前が殺せと言ったのだ。お前のことばをおれはおれ流に解釈したのだ。お前もおれと同罪だ。いやいや、お前のほうがおれより罪が重いのだぞ」  折江はふいに椅子から立ち上がるとおそろしい声でなにごとかを叫んだ。むろんそれは意味をなさない一種の悲鳴に過ぎなかった。彼女は何物かをつかまえようとするかのように、両手を差し伸べてしばらくもがいていたが、もう一度はっきり彼女は、 「でもあなたには、奥さまがおありじゃありませんか」  と、いうことばを思い出した。そのとたん四方の壁が自分の上に倒れかかって来るのを覚えた。と思うと、全身の血潮が凍えるような息苦しさを覚え、激しい吐きけとともに、辺りが真っ暗になってきた。  物音に驚いた女中が駆けつけたとき、彼女は床の上に打ち倒れ、かみしめた唇《くちびる》の間からは粘っこい液体がどくどくと流れ出していた。  卓蔵が崖から転落して危篤だという電報が信州の病院から着いたのはその翌朝である。そしてあいついで起こったこの一家の悲惨な出来事について、ほんとうのことを知っている者は一人もなかったのである。 『古沼の秘密』という映画の上に残されたあのおそろしい怪異が発見されたのは、それからまた半年ほどたってからのことである。  それは当時新聞にも盛んに書き立てられ、かなり世間を騒がせた事件であるから、読者諸君の中にもまだ御記憶のかたもあるだろう。ここにはその概略をかいつまんで話しておく。  それは九州のある地方でその映画が上映されていたときである。田舎のこととて観客の数はあまり多いほうではなかったが、その中に混じってそれを見ていた一人の少年が、例の大写しの場所まで来たとき、何と思ったのか突然立ち上がって叫んだ。 「やあ! あんなところに人の手がのぞいている!」  人々はそれが何を意味しているのかよくわからなかったので、口々にその少年を制した。少年はそれでもまだやめようとせずにますます大声に叫び出した。 「人間の手だ、人間の手だ、あそこにきっと人が埋まっているのだ!」  あとになってその場に居合わせた一人に聞くと、それはあたかも悪夢のようにおそろしい光景だったという。人が埋まっている! と、少年が叫んだ瞬間いままで彼を制していた人々もいっせいに少年の指さしたほうをながめた。しかしそこにはぼやけたフィルムが映っているばかりで、彼らの目は何も探し出すことはできなかった。しかも場内はしんと静まり返り、おのおの固唾《かたず》をのみながら、フィルムと少年をかわるがわるながめていた。少年は突然何を思ったのか、急いで椅子を離れると、ぱたぱたと表へ駆け出したが、そこに掲げてあるスチールの前へ走っていった。そこには他の様々な場面と一緒に例の大写しの場面も掲げてあるのだが、少年はただちにその前へ駆け寄った。 「ある、ある!」と、彼は叫んだ。「やっぱり人の手だ。こんなところから人の手がのぞいているのをだれも気がつかないのか」  少年の周囲には、彼を追いかけて飛び出して来た、観客だの、通りがかりの男だの、女だのが首を集めていたが、そう言いながら少年の指さした一点を注視したとたん、彼らの顔はいっせいに真っ青になった。なるほどそう言われてよく注意して見ると、崖の中腹の雑草の間から、まぎれもなく人の指が、五本だらりとのぞいているのである。ちょうどそれは、雑草がことに密生している場所なので、よほど注意して見なければ気がつかなかったが、疑いもなく人間の手にちがいなかった。 「だれか埋められているのだ」 「殺されたのかしら?」  人々は白昼の悪夢につかれたように真っ青になりながら口々にそうつぶやいた。そんなところに手だけが生えるわけはなかったから、まさしくそこになんぴとかが埋められているにちがいなかった。騒ぎはすぐに大きくなり、フィルムは警察に没収された。そしてそれを製作した映画会社の関係者たちは召喚尋問されたが、むろんだれ一人それを知っている者はなかった。彼らは夢にもそんなおそろしいことに気がつかず、偶然にその場所をロケーションに選んだにすぎないのである。彼らを取り調べることによって判明した現場は、すぐに人を派して発掘されたが、果たしてそこからは一個の白骨が発見されたのである。鑑定の結果それが二十四、五歳の女子であることはわかったが、長い間埋没していたこととて、彼女の素姓《すじよう》を知るよすがともなるべき証拠は、何一つ発見されなかったのである。だれがそれを卓蔵夫婦の悲惨な最後と結びつけて考えうる者があるだろうか。かくして事件は迷宮に入ったまま葬られようとしているのである。  ただここに最も不思議なのは、それが撮影されたのはおよそ二年半あまりむかしのことであり、以来日本全国の常設館に絶えず上映され、幾百人幾万人の人目に触れていたはずであるのに、その少年が発見するまでただ一人もそれに気がつかなかったのである。それがわからないと言って当時新聞ではだいぶ騒いだようである。 [#改ページ] [#見出し]  角《つの》 男《おとこ》  数年前のことです。 『清朝王族《しんちようおうぞく》の失踪《しつそう》』として、日本国じゅうを騒がせた、世にも奇妙な事件が大阪に起こったことがあります。記憶のよい、読者諸君のうちには、たぶんまだ覚えていられるかたもあるだろうと思いますが、なお念のために、一応その事件について、簡単ながら説明しておこうと思います。と、いうのが、私がこれからお話しようとする、この世の外にでもありそうな物語というのが、実はこの大事件に、なみなみならぬ因果《いんが》関係を持っているのです。  あれは大正×年のことでしたか、その年の六月三日の朝、大阪のホテルに、突然清朝王族の一人、宣統帝《せんとうてい》の従兄弟《いとこ》と称する中国の貴族が来宿しました。不思議なことには、いかに革命のために落魄《らくはく》しているとはいえ、あんなにも栄華を誇っていた中国王族の後裔《こうえい》だというのに、従者といえばたった二人、いたって質素な一行でありました。  もっとも、その従者の中の一人の常に主人のそばに付ききっている男の言うのには、この来朝はまったく御微行であって、まだ中国の公使館へも伝えていないくらいだから、そのつもりでいてくれということでした。  ホテルのほうでは、最近革命騒ぎのやかましい折りから、そんな中国貴族などを泊めておいてもよいものかどうか、少なからず迷ったようでしたが、なにしろ名にし負う大金持ちの中国貴族のことですから、そのほうでつい欲に転んでしまったわけでした。  なるほど、そういえばそれは中国の貴族にちがいありませんでした。でなければ、どうしてあんなにばかばかしい金の遣いようができるものではありません。その後ホテルから警察のほうへ差し出した明細書によると、主従三人、しかもたった五日の滞在だというのに、一万数千円の金を遣っているのです。いったい、どういうふうにして、そんなばかばかしい金遣いができたのか、それはこの物語の本筋とあまり関係がありませんので省略いたしますが、ともかく、それは何といっても王族の末らしい、世にも鷹揚《おうよう》な、そして世にも気高い金遣いだったらしいのです。彼らはホテルの二階を全部買い切って、そこでいかにものんびりとした、いかにも中国の貴族らしい生活を楽しんでいました。支払いなども、最初の日、帳場へ差し出した一万円のほかに、毎日毎日、いくらかの金をホテルじゅうへ振りまくことを忘れませんでした。そうして五日間は、何の変哲もなく打ち過ぎました。そしてそこに突然、あの不思議な事件が起こったのです。  と、いうのは、そうです、たしかに六月七日の夕刻でした。彼らの一行は奈良を見物して来ると言って宿を出たのです。そして×××ホテルにいる何十人という人間が、その中国王族の一行を見たのはそれが最後でした。  と、いうのが、彼らはそれっきり、まるで霧か霞《かすみ》のように消えてしまったのです。まったくそれは奇跡的な失踪でした。ホテル側から懸念を抱いて警察へ届け出たのが、それから五日ほどのことでしたが、たったその五日の間に、彼らはすべての足跡を打ち消して、見事にこの世から消え去ってしまったのです。警察側の全国的の捜索にもかかわらず、ついに彼らの行方を突き止めることはできませんでした。殺されたのか、自殺したのか、しかし、それらしい様子さえも毛頭ないのです。  ところが、ここに最もこの事件の奇妙な点は、その後一ヵ月ばかりして、本国その他諸所方々へ照会してみたところが、彼らが中国の貴族とはまったく偽りであることがわかりました。宣統帝その他、帝の周囲にいる人々のことばによってみても、彼らが何者であったかは、全然突き止めることはできませんでした。  では、いったい何のために、彼らがそんな詐称をあえてしたのか、何か大々的な詐欺がそこに行なわれているのではなかろうか、しかし綿密な調査の結果、それらしい跡も全然なく、ホテルへの支払いさえ、普通以上に立派に払ってあるのです。  何のために、いったい何者があんなばかばかしいまねをしたのか。ただわかっているのは、王族と自称していた男が、年のころなら三十五、六、いかにも中国の貴族らしい風采《ふうさい》なり容貌《ようぼう》なりをそなえていたということだけでした。  さて、ではいよいよこれから私の物語の本題に入りましょうか。  それは前に述べた事件よりちょうど二週間ほど前のことでした。それより少し以前まで、上海のさる商館に勤めていた私は、その商館の没落に伴って職を失い、のち三年ほども、中国の諸所方々をさまよっていたのですが、その揚句がふたたび生まれ故郷の大阪に舞い戻って来ることになったのです。大阪へ帰ったからとて、しかし、そんなにまで流浪癖《るろうへき》の身に染みたこの私に、何の職が見つかりましょう。まったく尾羽打ち枯らしてしまった私は、毎日毎日を、方々のカフェーなどで暮らすよりほかはなかったのです。  カフェーなどといっても酒を飲むでもなく、女給をからかうでもなく、(どうしてまあ私にそんな余裕がありましょうか)たった一杯のコーヒーを、できるだけ長くかかって飲むことに苦心していたのです。それは実にやるせない、しかし一方からいえば、それが私の性分《しようぶん》に合っているのでしょうか、ある一種の懐かしさを感じさせるような生活でした。  それにしても、大阪という都は、私のような人間にとって、なんというありがたいところでしょう。そこには終夜運転の電車があります。そこには終夜営業のカフェーでも、この尾羽打ち枯らした私を決して軽蔑《けいべつ》しようとはしないのです。私はどこのカフェーにも、いつのまにか私のものときまった一つのテーブルを持っていて、そこで懐かしい倦怠《けんたい》を心ゆくまで味わうことができるのでした。  そうしたカフェー行脚《あんぎや》の生活が、およそ二月あまりも続いたことでしょうか。その時分から私はふと、いつも私と同じように、諸所方々のカフェーへ出入りする男を発見したのです。最初のうち私のほうでは気づかなかったのですが、相手のほうでは、早くから気がついていたのにちがいありません。  あるとき、千日前付近のカフェーでいつものように一人ぽつねんとコーヒーをすすっていたときのことです。その男のほうからふいに声をかけたのです。 「おや、また出会いましたね」  私は黙って相手の顔を見ていました。 「このごろ、ちょいちょい方々でお目にかかりますが、あなたもやっぱり……」  と、そうあとのほうを口の中で消してしまって、にやにやしながら私の顔を見ています。 「ええ」と私は聞こえるか聞こえぬかの返事をして軽く頭を下げました。  そのときが最初で、それからというものは、あちこちのカフェーで出会うたびに、二言三言話を交わすようになりました。それがだんだん進むに従って、とうとう私は自分の身のうえ話を打ち明けるまでになってしまったのです。 「すると、中国語はよほどおできになるでしょうね」  と、彼は少し体を乗り出すようにしてそう聞きます。 「ええ、それだけですがね」 「お話になれますか」 「まあ、大抵の中国人には負けぬくらい……」  相手はしばらく天井を見て何か考えていました。そうしていると、元来あまり若くなく、そう、年はもう四十に近いころでしょうか、頭が少しはげかかって、顔が金属のようにすべすべしているのですが、そうして、天井を見ているところを顎《あご》のほうから見ていると、ちょうど蟇《がま》が何かを覘《うかが》っているところのようにも見えるのです。 「あなた」と突然下を向くと、彼はそう言いました。 「ひともうけしようという考えはありませんか?」 「いいですね。しかし、僕みたいなものにでも、何か仕事がありましょうかしら?」 「ここに一つあるんですがね」と、そう言ってから彼は私の顔をぐっと真正面に見据え、「ただし、少し秘密の仕事なので絶対に他言をしてもらっては困りますが……」 「そりゃもう、法に触れないことなら」  と言って、そこで私はまたあわててつけ加えました。 「もっとも、少々ぐらい法に触れるようなことでも平気ですがね」  すると男はにやりと笑いながら、 「いや、その点は大丈夫です、実は」と彼はいっそう体を乗り出して、「私がこうして毎日カフェーへ入り浸りになっているのも、あなたみたいな人を探すのが目的でしてね。その仕事というのは……」  と、そこで彼が言ったのは、最近この大阪へ中国のさる貴族がやって来ることになっているのだが、それの召使いとして、適当な中国人が欲しいのだが、中国人は気心が知れないから十分に中国人になりきりうる日本人が欲しいのだというようなことでした。 「で、期間は五日間なのですが、報酬としては五百円出します。むろんその貴族と一緒にホテルに投宿するのだから、食費など一切要りません。いや、それどころか、中国貴族の召使いとして、どんな栄華でもできるのですがね」  私は何だか狐《きつね》につままれたような気持ちでした。あまり話がうますぎてどこまで信用していいのかわかりません。しかし、その当時の私といえば、長い間のだらしない生活のために、いつのまにか、まったくこの世の常識とはかけはなれた空想を持つようになっていたのでしょう。読者諸君が考えるほども不思議な気持ちではありませんでした。 「よろしい。ではひとつやらせていただきましょう。しかし」  と、私は念を押すように、 「報酬のほうはまちがいないでしょうね」 「いや、その点保証します。何なら先に払ってもいいのです」  そして、その奇妙な取り引きが成り立ったのです。  ここまで書けば、読者諸君は、あの清朝王族の失踪事件に、この私がなみなみならぬ関係を持っていることをお悟りになったことと思います。そうです。あのとき召使いの一人としてふるまっていた中国人こそ、かくいう私なのです。そしてもう一人の侍従というのが、私にこの仕事を与えてくれたあの男でした。  しかし、もう一人肝心の、あの中国貴族と名乗っていた男、あの男の正体は? それはこの私にもまったくわかっていなかったのです。私はその男と口をきいたことすらありません。彼はいつも黙々と、そして時に悲しげにさえ見えるまなざしで、あの五日間というもの、いつもホテルの一室で、贅沢《ぜいたく》な葉巻をくゆらしていました。あとから考えてみると、その男の正体を知られないためにあの二人は極力注意を払っていたようでした。そしてあの問題になった失踪の瞬間もそうです。私は突然一人おっぽり出されてしまったのです。もっともそのことはあらかじめ話のあったことですから、かねて覚悟はしていたものの、実に見事な雲隠れを、世間へ対してばかりではなくこの私にまで演じたのです。それらの手段についてここにくだくだしく言うことは避けますが、汽車が大阪駅を出た瞬間から、私は彼らと離れ離れになりました。もっとも約束の金はそれ以前にすでにもらっていたのですから、私にとってはそれは何の損失もないことでしたが、それにしても世間と同じような疑問を、その事件の中に一役演じているこの私にさえ残していったのです。  そして、つい最近の機会まで、私は何事を知ることもなく打ち過ぎたのでした。  ところが、いまから一週間ばかり前のことです。あの事件から数えてみれば六年後の今日になって、私は偶然のことから、とうとうあの事件の真相を知ることができました。それは世間の疑っていたように、忌まわしい犯罪事件ではなかった代わりに、それは世にも不思議な真相だったのです。  その日私は——あれ以来職にありつくことはできましたが、長い間の習癖であいかわらずだらしない生活を送ってきたのでしたが、ふとした気まぐれから新世界に出ている小さな見世物《みせもの》小屋へ入って行ったのです。それはよく縁日の見世物などに出る、あの角男《つのおとこ》の見世物でした。  体じゅうに一寸ないし二寸の角みたいなものの生えている、見るからに醜悪な男の見世物で、そのとき私の入ったのもその一つでした。そこには一人の口上言いがついていて、 「かわいそうなはこの子でござい……」  と、いった口調で、いかにも女子供の同情をそそるようなことをしゃべっていました。ところが、一目その男を見たせつな、私は思わずはっとしました。それは実に、あの事件のとき、侍従を勤めていた、そして毎日のように私とカフェーで出会ったあの男ではありませんか。  しかし、それよりももっともっと私を驚かせたのはそこにいる角男です。体じゅうの角と、世にも奇怪な扮装《ふんそう》とで何気なく見ていればまったく気がつかなかったでしょうが、まごうかたなくその角男こそ、あの清朝王族の一人だと名乗っていた当の本人にちがいないのです。  あまりの驚きに、私が思わずあっと声を立てると、相手のほうでもそれと気がついたにちがいありません。二人とも顔色を変えて狼狽《ろうばい》し、いまにも逃げ出しそうなふうをしました。しかし、逃げたとてもう及びもつかぬことに気がついたのでしょう。口上を言っていた方の男が、私のそばによって来ると、小さい声でささやきました。 「しばらく待っていてください。いますぐに体がすきますから——」  そしてその夜、ある料理屋の奥まった一室で私は初めて彼らの口から不思議な真相を聞いたのです。口上言いと角男——しかし角男とはまったくの偽りで、彼は完全な肉体を持った、立派な若者でありました。——と、を前に置いて私は口上言いの男から、その不思議な物語を聞いたのです。 「ここにいるこれは(と、彼は角男を指して)実は私の弟なのです。私たちはこれが幼い時分から、こんな不思議な商売を続けてまいりました。かわいそうなのはこの男で、小さいときからこんな商売をしているおかげで、まったく世間の楽しみというものからかけ離れて育ってきました。これが言うのです。『兄さん、私も人間と生まれたからには、一生に一度でいいから、人のまねのできないような贅沢がしてみたい。それさえできれば、あとの一生は棒に振って、死ぬまで角男になってかせいでも結構です。お願いですから、たった一度でいい、私に贅沢をさせてください』——  無理もないことです。生まれてこのかた、人の世の楽しみというものをまったく知らず、人並みの体を持ちながら、あさましいふりをして世間の物わらいの種になっているのですもの。さいわいこうして身を落としているおかげで、私たちには世間で思っているよりもお金ができていましたが、それ以来というものは、専心金をためることに腐心いたしました。そうしてできたのが、あの一万八千円という金なのです。それだけあれば生涯《しようがい》食ってゆくこともできます。この仕事から足を洗って立派な女房をこれにもらってやることもできます。しかし、これはなんといっても聞きませんでした。そしてたった五日で私たちはその金を、見事に煙にしてしまったのです。笑ってくだすっちゃいけません。弟はそれでも、すっかり満足しているのですから、いずれ私たちは生涯こうして、あさましい商売を続けることでしょう。しかし、いまにまた金ができたら——そのとき、私たちはまた、ああした生活をしてみようと思っているのです。少なくとも死ぬまでにもう一度だけ……」 [#改ページ] [#見出し]  川越雄作の不思議な旅館  いつ、どこで、どうしたきっかけからあの男と懇意になったのか、いま私は、どう考えてみても思い出せないのである。なにしろあのころからはもう八、九年もたつことだし、それに当時私は自分自身のその日その夜に、いちいち心痛して暮らさなければならなかった体でもあった。いつとはなしに心やすくなり、いつとはなしに別れていったその友のことなど、いま考えてみて思い出せないのも無理ではないのである。  現に私は、いまからちょうど半年以前、突然彼から一通の書面を受け取ったときでも、封筒に書いてある名前を見ただけでは、どうしてもそれがだれであるか思い出せなかったほどだ。 「川越雄作——? はてな、だれだっけな」  私はそう小首をかしげながら封を切ったのであるが、中の文面を読むに及んで、初めて、 「ああ、あの男か!」と膝《ひざ》を打って叫んだくらいである。  川越雄作! 実にそれは八年ぶりの音信であった。私はいまさらのように、つくづくと彼の美しい筆跡に見とれながら、さて改めて最初からもう一度その手紙を読み直してみたのだが、読んでいくうちに知らず知らず遠いむかしのことを思い出されて、思わずも私は詩人のような感慨にふけったのであった。  それはそのつい二、三ヵ月以前、ある雑誌社から頼まれて、「浅草の思い出」という雑文を書いたときに、私は特にいちばん懐かしいものとしてあの回転木馬のことを一章書き加えておいた。そして私の貧困時代に、しばしば共に木馬を乗りに行った名を忘れた友[#「名を忘れた友」に傍点]のことをもついでに書き入れて、彼はいま、どこでどうしているだろうというような感慨をもらしておいたのである。いうまでもなく、その名を忘れた友[#「名を忘れた友」に傍点]というのは川越雄作のことを指すのであるが、その雑文を書いた当時、私は前にも言ったとおりすっかり彼の名を忘れてしまっていたので、仮にAくんと書いておいたのだった。そのとき川越雄作がよこした手紙というのは、むろん私のその一文を読んだ彼がはからずも私のことを思い出したにほかならなかった。「山名耕市くん。ごぶさた」とその手紙は始まるのであった。 「その後はますますお盛んでおめでとう。一度お便りをしようと思っていたのだが、君の隆々たる盛名を見るにつけ、つい億劫《おつくう》になっていままで控えていた。ところが最近君の書いた『浅草の思い出』という雑文を、読んで、僕は急に君が懐かしくなったのだ。山名耕市くん」とそこで彼は二つの感嘆詞を使っているのである。「われわれはもはや三十を幾つか過ぎる年ごろになった。そしてわれわれが貧困時代に言い言いした、せめて毎日の生活を心配なく送りたいものだという理想を君は立派に実現したようである。そしてかくいう私も……。しかし山名耕市くん。いまわれわれはかく、その日その日の生活の糧に頭を悩ますことはなくなったが、さてこの現在はあの当時より幸福であるかと問われたら、君ははっきりしかりと答えることができるであろうか。いやいや、君はそれに答える前におそらく数分間|躊躇《ちゆうちよ》を要するだろう。そしてその揚句の果てには、ことばを濁して逃げ出すことにちがいない。山名耕市くん。われわれはどうやら曲がりなりにもあの当時の夢を実現させたようだ。しかしいまになってわれわれはかえってあの当時のほうを夢のように懐かしがっていはしまいか。君の『浅草の思い出』を読んで、こうした心持ちはただ僕一人のものだけではないことを知った。もし君のあの一文が君のほんとうの心持ちであるならば、君よ、しばらくこの僕に期待してくれたまえ。いま僕はある奇妙な計画を進めつつあるのだ。それは単に僕一人のみの計画だったけれど、君のあの一文を読んでから、急に、君にもその夢を頒《わか》ちたくなった。山名耕市くん。君はこの手紙のあまりの突然さに信を置くことに躊躇するかもしれない。しかしこの僕を信頼してくれたまえ。近き将来において君は、僕よりの奇妙な招待状を受けとるだろう。そのとき、君は是非ともその招待に応じなければならないよ。僕は決して君を失望させないつもりだ。ではいずれまた」  川越雄作の突然な手紙は、その突然さと同じように、終わりにおいても突然切れているのである。私はその手紙から、彼がいま何をもって身を立てているのか、だいいちどこに住んでいるのかさえ知ることができなかった。もっともその文面中に、彼もまたその日その日の糧を心配しなくてもすむ程度に成功したことをほのめかしてあるし、そして、彼自身の口から言うくらいであるから、それはかなりの成功にちがいないのであるけれど、それがいったいどういう種類のものであるか、私には少しも想像することができないのだった。いやいや、それにも増して、彼が私に頒ち与えようという夢は、いったいどんなことであるか。——  しかしこの手紙全体から言うならば、これは十分私の胸をつくものであった。そうだ。私は今年三十二歳である。そして三十歳の少し前から書き出した小説が、どうやら世間に迎えられて、現在では、川越雄作と交際していた時分とはいくぶん違った生活を生活することができる状態にある。しかし、彼が賢くも指摘したとおり、現在の私が、あの当時の自分より幸福であるかと尋ねられたら、おそらく私はこの答えに窮することだろう。といって、いまの私を、あの当時に返してやろうという魔術師があったら、むろん私は、尻尾《しつぽ》を巻いて逃げ出すにちがいないのだが。  ではその当時、私はどんな生活をしていたのか、私はここでそのことをちょっと述べておこうと思う。これは川越雄作という人物を紹介するうえにも便利だし、それにこの物語全体にも関係を持っていることだから。  当時私は二十五歳だった。三界に家なしというのは、真にあの当時の私のことだったにちがいない。中学を出てまもなく勤め始めたさる会社が戦争後の不景気からつぶれてしまって、私はまったくの体一つでこの社会へ放り出されたのであった。もはや私は、二度とまじめな勤めをしようという意志は持たなかったし、よし持っていたところで、中学を終えたばかりの私を、しかも、それも学校を出て四、五年たっている私を雇ってくれる会社はどこにもなかった。さいわい当時下谷に、伯母《おば》の一家が住んでいたので、私はそこへ転がり込んで半年ほど糊塗《こと》していたが、まもなくそれも、伯父《おじ》の都合から地方へ転任することになったので、私はこの東京にまったくおっぽり出されたも同様だった。いま考えてみても、当時の私が、何をもって生活していたか、不思議に思うくらいである。  もっとも中学を出て、会社へ入るまでの間に慰みにやっていた探偵小説の翻訳が、一度売れたことがあるのを思い出して、あるとき古い外国雑誌の中から三、四篇、百三十枚ばかり翻訳して、それを同じ雑誌社へ送っておいたところが、それが全部採用されることになったうえに、ほかにおもしろいものがあったらもっと翻訳してくれというような注文であった。しかしこれとても、私がそれほど臆病《おくびよう》でなくて、そうした機会に雑誌社のその手紙をくれた人を訪問する勇気を持っていたら、細々ながら生活の足しにはなったにちがいない。しかし、私にはそれができないのだった。言われるままに、横浜あたりから古雑誌を見つけて来ては読みあさるのだけれど、それが十冊に一篇とか、十五冊に一篇とか翻訳するに足る読み物はないのだ。「ああ、外国人はどうしてこんなくだらないものをおもしろがって読んでいるのだろう」私自身が嘆息とともに雑誌を投げ出すくらいであったから、むろんそれはまれにしか仕事にならないのであった。  しかし、それにしても、私には全然仕事がないのではなかった。ところが一方川越雄作は? 私は当時彼が何をもってこの世に生きていたのか知らない。彼はいつでも私よりいっそう貧乏であった。私のまれの翻訳が売れると、彼はしばらく私と行動を共にしていた。そしてその金がなくなると、彼はどこへともなしに飄然《ひようぜん》と行方をくらますのだった。そうだ。私はまだ、どうして彼と心やすくなったかを言っておかなかったようだ。  当時私は、伯母の家があった近所の筑陽館という下宿の一室を借りていたのだが、前にも言ったような乏しい収入の他に何物も持たなかった私であるから、いきおい毎月の下宿料が滞りなく払えることはまれであった。私はそういう下宿に、口でこそ言わないが、顔を合わせるたびに金のことを言い出しそうな宿の主婦や女中の顔を見るのがおそろしくて、毎日のように外出するのであった。しかし、外へ出たとて、友達というものを一人として持たない私に、どこに行くところがあろう。上野と浅草の他に。  だから私は、毎日かわるがわる上野公園と浅草とで、まるでばかのようにぼんやり日の暮れるのを待っていたのである。ところがある日のことだ。その日私は、いくらかの金を持っていたにちがいない。ただしいくらといっても、花屋敷へ入ったり、活動を見たり、あるいは一つ二十銭の天丼《てんどん》を食うにも足らぬ金だったのだが、私はふとそれで、一回五銭という回転木馬館へ飛び込んだのである。 「ホホウ、これはちょっといいぞ」  回転台の上の、さすがに木馬のほうには乗る勇気はなくて、自動車のほうを選んだのであるが、それがゴトンゴトンと動き出したとき私は思わずそう叫んだのである。そのとき私の他には見渡したところ四、五人ほどしか客はなかった。それでも、その客たちが思い思いに選んだ木馬なり、自動車なりに座を占めると同じく回転台の上に立って切符を売っている少女の一人が、ピリピリと銀の笛を吹くのである。すると中央にある台の上で四人の楽師たちが、「真白き富士の嶺《ね》、緑の江の島」とやり出すのであるが、それと同時に、私たちの乗っている回転台がゴトンゴトンと回りはじめたのだ。「真白きイ富士イの嶺か」と私もそれに調子を合わせながら口の中で歌っていると、私の乗っている自動車は、木馬館の裏のほうへ回って来たのであるが、そこには広い壁一面に富士山と三保の松原が書いてあるのだった。  それを最初に私はときどき木馬に乗りに行くことを覚えた。のちには二十五回分一円という回数券のあることを知った。それを買うと、五回でも六回でも好きなだけ乗っているのである。しまいには切符売りの少女と心やすくなって、あらかじめ彼女に頼んでおいては、自動車の上で居眠りをしたりしたものである。「空にイさえずる鳥の声か、峰から落つる滝の音か……」と私はそこで、一種悲哀を帯びた音楽の音を子守歌にしながら眠ることができたのである。  ところがある日のことだ。いつものように三、四回立て続けに乗っていた私は、私より以前から同じように自動車に乗っていながら、さて私がそろそろ飽いて降りようとしても、まだ泰然と腰を下ろしている一人の青年を発見して少なからず驚いた。「おやおや、世の中にはおれと同じような暇な人間があると見えるな」  そう思いながら立ちかけた腰を下ろして、もう一回乗っていることにきめた私は、それとなく相手の様子をながめていた。彼はちょうど私と同じ年ごろの二十五、六歳であろうか。向こうを向いているのでよくわからなかったが、がっしりとした体格をしていて、その肩幅なども、相撲の選手のように丸々と肉がついていた。「風と波とに送られて」という音楽で一回終わると、それでもう降りるかと思うと、どうしてどうして、彼は突然自動車の上から、楽師諸君の坐っている台の上を振り仰いで、 「おい君、君、今度は『ここは御国』をやってくれたまえ」  と元気な調子で声をかけたのである。  私は私自身、かなりなじみになっていながら、いままでそんなふうに注文をつけたことなど一度もなかったので、彼のことばに少なからず驚かされた。彼はそればかりでなく、切符を切りに来る少女たちともなじみになっているとみえて、ことばはわからなかったが、いろいろにからかっているらしかった。やがて楽師たちは彼の注文に応じて、「ここは御国を何百里」とやり出しそして木馬はゴトンゴトンと回り始めたのである。  その青年が川越雄作であった。そして私たちはまもなくことばを交わすようになった。ある時彼が言うのである。 「どうしてあなたは」ちょうどそのとき私たちは公園のベンチに腰を下ろしていた。五月ごろの暖かい日で、そうしてぼんやりと腰を下ろしていると、背中のほうがじんじんと焼けるように感じるのである。川越雄作は土の上に木切れで意味もない字を書いては消し、書いては消ししながら言うのであった。「どうしてあなたは毎日木馬ばかりに乗っているのです」 「さあ」  と私が返辞に困っていると、彼は別にはっきりした返辞を期待していたわけでもなかったとみえて、 「浅草はいいですな、金がなくても退屈しなくて」  と言った。 「はア」  彼はたしかに私のことをある程度まで察しているらしかった。いや、彼でなくても、およそ同じ年ごろの青年で、同じような境遇の者なら同病|相憐《あいあわ》れむ心持ちからでも、すぐにも相手の境遇を察することができるのだ。 「あなた、宅《うち》はどちらですか。この近所ですか」  彼のほうから切り出さないかぎり、私たちの間の会話はほぐれっこなかったので、しばらくするとまた彼はそんなことを聞き出した。 「下谷です。筑陽館という下宿にいるのです」  私はそう言ったが、すぐにしまった! こんな男に居所など知らすのじゃなかったなと私は心の中で叫んだ。すると案の定《じよう》彼は、 「下谷ですか。そうですか。僕もときどきあの辺へ行くことがあるんですが、今度行ったらお寄りしてもいいですか」  と言った。 「ええ、どうぞ」  私は咽喉《のど》に魚の骨でもつかえたような声で答えたのである。 「僕はついこの近所にいるのです。畳屋の二階を借りているのですがね。毎日何もしないでいると退屈で退屈で……」  そう言って彼は、円い血色のいい顔に愛嬌《あいきよう》のある笑いを見せた。しかしあとになって知ったのであるが彼が畳屋の二階にいるというのはうそだった。彼は当時二十七歳で、本所には立派に呉服商をしている両親があるのだったが、中学を出る前の年に飛び出したきり、一度も家へは帰らないというのであった。では当時彼は、だれの家に住んでいたのか、私はそれについてこれからちょっと語ろうと思うのである。  前のように彼とことばを交わしてから、果たして彼はしばしば私の下宿へ訪ねて来るようになった。しかしあとから思えば、彼は決して私が心配したような人間ではなかったようである。 「あなたはいいですな。それでも仕事があるじゃありませんか」 「しかし、こんなこと、仕事のうちじゃありませんよ」  私は折りから机の上に拡げていた原稿と外国雑誌を、彼にそう言われてあわてて隠すようにしながら答えた。 「いいえ、そうじゃありませんよ。金になってもならなくても、何かしているということはいいことですよ。僕なんど……」  と彼は頭をかきながら、「中学を途中でよしたきり何もしないもんだから、だんだんばかになるばかりで……」  しかし、ほかのときには彼は昂然《こうぜん》として言うのである。 「僕も近々何か始めます。僕は金を儲けます。僕なんかどうせ何もできないんですから、少々ぐらい不正を働いてもいいから金をこしらえようと思っています」  そしてとうとうあるとき、彼は次のようなことを打ち明けたのである。 「実はいままで隠していましたがね。僕はほんとうは、木馬館におさよ[#「おさよ」に傍点]という娘がいるでしょう。ほら、いちばん年長《としかさ》の色の白い、ちょっとかわいい娘——、実はあの娘の家にやっかいになっているんですよ。あいつが僕にほれましてね」とそこで彼はちょっと首を縮めたのであるが、 「それで、あいつの家へ転がり込むことになったんですが、あれの親爺《おやじ》というのが、やはり木馬館の楽師なんです。ほら、頭のはげた、五十ぐらいの学校の小使といったような爺《じい》さんがいるでしょう。あれなんです。僕は始終彼らに大きなことを言っているので、いまに何かやるだろうというので、僕が毎日、こうぶらぶらしているのに、娘はともかく、親爺のほうだっていやな顔ひとつしないんです。もうかれこれ一年にもなりますがね。僕もだんだんおそろしくなってきましたよ。だっていつまでもあんな親子をだましてもいられませんからね。だから僕は近々あの家を飛び出して、自分で何か仕事を見つけようと思うのです。そうです。僕金をもうけますよ」  と彼は言うのであった。  私はそれで初めて何もかも合点がいったような気がした。読者諸君もさだめし、浅草の木馬館で五度や六度一緒になったからといってそんなに親しくなった私たちに不審を抱かれたことであろう。当時私自身も同じ気持ちで、いや、それどころか、彼に対して私は絶えず一種の警戒を忘れなかったぐらいだ。しかし彼のその話を聞くに及んで私はたちまち了解することができたような気がした。彼は木馬館の客ではなくてむしろ関係者の一人だったのだ。だから、彼は、私が彼に気がつく以前から私に気がついていたのにちがいない。そして向こうでは、私もやはりもっと前から彼の存在に気がついていることと思っていたのであろう、まことに彼は、青年が青年を慕う気持ちから、私と話をする機会をねらっていたのかもしれないのだ。  そうした私たちの奇妙な交際はおよそ半年ほども続いていた。そして前に言った、「金をもうけますよ、僕は」と彼が打ち明けた日から三日目かに、彼はほんとうに私のもとからも、そして木馬館の親子のもとからも姿を消したのである。  さて、私は少しおしゃべりをしすぎたようである。たぶん私は、彼の突然の失踪《しつそう》後、いかに木馬館の父娘が嘆いたことか、そして、さよという娘はしかし、その嘆きのうちにも、いかなる確信の色をもって、きっとあの人は帰って来てくれると述べたかを、もう少し述べるべきであろうが、いまの私にはその暇がないのである。その後、私は、ずっと後になって、ふとした拍子から、今度は翻訳ではなく創作を書いたのだが、それでどうやらむかしほど困らない程度に生活していけるようになった。そしてもはや、浅草公園で日の暮れることの遅いのをかこつ必要もなくなったので、したがってあの木馬館がまだあるのかそれともなくなったのかそれすら最近では知らない状態であった。  ところへ、突然の川越雄作の手紙から、私はふとあの当時を思い出したのである。  さて彼から手紙をもらったのは六月の初めのことであったが、それから、五ヵ月ほどたって、十月のある終わりに近い日のこと私は心待ちにしていた彼からの二度目の手紙を受け取ったのである。  それは真っ白な四角い洋封で、表面には山名耕市殿、と彼の美しい筆跡で書いてあった。そして裏を返してみると、相州鎌倉稲村ヶ崎川越旅館、川越雄作と、丸ゴシックで印刷してあった。 「おや、旅館を始めたのか、では、彼の夢というのは旅館を経営することだったのかな」  私はそれで、少々失望を感じながら、でもあわてて封を切って見た。 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]  拝啓、貴下益々御繁栄之段奉賀候、扨《さて》私儀|予《か》ネテ建築中ノ川越旅館此度落成仕リ、来ル十一月一日ヨリ営業ノ運ビニ相成候|間《あいだ》、鎌倉ヘ御清遊ノ砌《みぎ》リハ是非御試ノ程伏シテ願上奉候。 [#ここで字下げ終わり] [#地付き]敬白    それは右のような型にはまった開店通知にすぎなかった。ただ私の受け取った分には、殿と印刷した上に山名耕市と書いたと同じ筆跡で「十月二十八日(日曜日)の午後二時ごろまでに必ず来てくれたまえ。君だけをまず驚かしたいものだ。川越雄作」と書いてあるのだった。  彼の始めたことがいよいよ旅館の経営であることとわかると、私は淡い失望を感じないわけにはゆかなかった。 「何だ、あいつ、むかしの夢だの何だのと気を持たせながら、やはり商売じゃないか。つまらない」  そう言いながら、仮にもどんな旅館だかわからないが、鎌倉でホテルを経営するようになった彼のことを思うと「僕は金をもうけますよ。いまにもうけてみせますよ」とかつて言った彼のことばを思い出して、彼の成功ぶりを見るのも無駄《むだ》なことではないとは思った。それに彼が特別に書き加えた文句から考えるとそこに何らかの趣向がもうけられているような気もするのであった。どうせ忙しいという私の体ではなかった。私はそこで折り返し、今度は彼の居所もわかっていたので、必ずお訪《と》いするという返事を出しておいた。  そして十月二十八日、私は横須賀行きの汽車に乗ったのである。  鎌倉という町は、私はそのときが初めてであった。だから駅を出ると、すぐにタクシーをつかまえた。 「どちらへ?」 「稲村ヶ崎までだがね」私は自動車の中に腰を下ろしながら「稲村ヶ崎にこのごろ川越旅館というのができたろう。そこへ着けてくれたまえ」 「旦那《だんな》、川越旅館へいらっしゃるんですか?」  自動車が走り出してから、運転手は向こうを向いたままそう尋ねた。 「うん、そうだよ」 「何かお知り合いででも?」  運転手は尋ねた。 「ああ、ちょっと、どうして?」 「いいえね」運転手はカーブへかかったので、ちょっとことばを切ったが、「実は私たち不思議に思っていたんですよ。あんなところへ旅館を建ててどうするつもりかってね」 「ふうん。そんなところに建っているのかね」  私はちょっと好奇心を動かして尋ねた。 「ええ、そりゃもう——」とあいかわらず彼は向こうを向いたまま「最初あれが建ち始めた時分、いったいあんなところに何が建つのか、別荘にしては風変わりな建てかただしと思っていたんですよ。ところがこの間それが旅館だということを聞いていっそうびっくりしたんでさあ。あんな場所へ旅館を建てて、わざわざ行く客があるんですかねえ」 「あんな場所って、おれはまだどんなところに建っているのかちょっとも知らないのだよ」 「そうですか、いやなにしろ大変でさあ、いまにわかりますがね」  が、それからものの五分とたたないうちに突然彼が叫んだのである。 「旦那、あれがそうですよ、ホラ、左のほうの崖《がけ》の上に白い建物が一軒建っているでしょう。あれが川越旅館ですよ」 「どれどれ」  私はあわてて自動車の窓からのぞいてみた。そしてたちまちなるほど! と驚いたのである。運転手が言うのは無理ではなかった。それは稲村ヶ崎のいちばん出っぱなに、まるでおとぎ話の城か何かのように建っているのであった。真っ白い円筒形の建物で、そして屋根は西洋の寺院にあるドームのように半円形をなしていて、それが血のように真っ赤な色に光っているのだった。それが稲村ヶ崎の青黒い崖の上に建っているところはいかにも一つの偉観にちがいなかったが、それにしても運転手の小ばかにしたようなことばも無理ではなかった。私の目から見ても、そんな辺鄙《へんぴ》なところまでわざわざ泊まりに行く好事家《ものずき》があろうとは思われないのである。 「なるほど、大変なところだね。しかし、自動車は入るのだろうね」 「どうしてどうして」  と運転手はその言葉を裏書きするかのようにそこでぴたりと自動車を止めてしまったのである。 「これから先へは入れませんよ」  私はしかたなしに、それから五町ばかりのだらだら登りの狭い路を歩かねばならなかった。しかし、川越旅館の近くへ来れば来るほど、いっそう立派なものに私には見えてくるのであった。それはたしかに、近ごろはやる怪しげな西洋館とはその選を異にしていた。私にはよくわからなかったけれど、きっと何時代の何型というふうに、立派な由緒ある建てかたにちがいないと思われるのである。それにしても、これだけのものを建てる川越雄作はたしかに成功したにちがいない。彼のいわゆる、「金をもうける夢」は見事に成就《じようじゆ》したのだ。それは私などの比ではないとすら思われるのだった。  さて私が、そんなことを考えながらいかめしい鉄の門を入って行くと、そこには三十前後の奥様ふうの女がにこにこ笑いながら私の近づいて行くのを待っていた。 「いらっしゃいまし、お待ちしておりました」  彼女はそう言って、しとやかに束髪の頭を下げたが、一瞬間、私はどこかで彼女を見たことがあるような気がした。 「いや、どうも……」  どこで見たのだろうか、そして、彼女はこの家のいったい何者だろうと思いながら、私があわててお辞儀を返したときである。 「やあ、来たね」  と、何とそのことばさえもはや金持ちらしく鷹揚《おうよう》に、川越雄作が奥のほうから出て来たのである。もし路上で彼に出会ったら私はおそらく相手から声をかけられても気がつかないでいるにちがいない。むかしから、そういえばがっしりとした体をした男であったが、いまやそれに立派な鰭《ひれ》がついたとでもいうのだろうか、その堂々とした押し出しは、私を面食らわせるのに十分だった。 「あ、君か。いや、その後は……」 「いいよいいよ。あいさつはあとのことだ。まあこっちへ入りたまえ」  彼はそう言って私を重いガラス戸の中へ導き入れた。中へ一足踏み入れると、私はいよいよこの建物が尋常でないことを悟った。それはなんというか、言ってみればどんな些細《ささい》な彫刻にも主人の趣味が入念に吹き込まれているらしく、そしてその趣味というのは、どうやらイタリアの中世紀時分のもののように思われるのである。これがもし川越雄作自身の趣味であるとしたなら、彼はわずか八年の間に、金をもうける一方、おそろしく自分自身を洗練したものだとも驚嘆されるのである。 「何をぼんやりしているのだ。まあこっちへ来たまえ」  そう言って彼が案内したのは、山のほうに面した Lounge といったふうな部屋だった。私たちがそこの大きな革椅子《かわいす》に向き会って腰を下ろすと、まもなく先ほどの女性が銀の盆の上に、二つのコップを載せて持って来た。 「紹介しておこう。これが僕の女房です」  私は彼にそう言われて、あわてて腰を上げると、 「や、失礼しました。初めまして、どうぞよろしく」  と言いながら頭を下げたが、すると二人ともくすりと笑った。そして細君は私たちのそばに二つのコップを置くと、そのまま静かに次の部屋へさがって行った。 「いつ結婚したのだい、君は?」  私は細君の足音が聞こえなくなるのを待ってそう尋ねると、 「何、だいぶ前だよ。君は?」 「僕はまだだよ」 「なにしろお盛んで結構」と彼はそれだけはまじめな顔で言ったが、すぐ彼一流の笑顔に戻って、 「どうだい、この旅館は」  と尋ねた。 「やはり旅館かい、これは?」 「そうだよ。どうして?」 「だって、ずいぶん変わった場所へ建てたものだね。ほかにいくらだって場所がありそうなものだのに」 「なあに、これでいいんだよ。君は表に書いてある看板を見なかった?」  彼はなぜかにやにやしながら尋ねた。 「いいや、何か書いてあるのかい?」 「フン」  と笑いながら、それをまぎらすように彼は下を向いてコップを手に取り上げた。 「いったい、君が僕を驚かすというのはどんなことなんだい」  私は相手がいっこうに悠々《ゆうゆう》としているのに、少々じれてきたのだ。そう尋ねると、 「君を驚かす。そうそう、そんな約束だったね。しかし、君はまだ驚かないかい?」 「驚かないよ。何に驚くのだ」 「この旅館《ホテル》にさ」 「この旅館《ホテル》?」と私は思わずそこでもう一度部屋の中を見回しながら、「なるほど、これは立派な部屋たよ。立派な旅館《ホテル》だよ。しかし僕は、この何十倍立派な旅館《ホテル》を君が建てたところで驚かないね。君の言った『昔の夢を取り返す』というのは、こんなつまらないことだったのかい?」 「まあまあいいよ。なんとでも言うさ」  そこへ先ほどの細君がまた入って来た。 「あなた、あちらのほうへお食事の用意ができました」 「ああ、そう」  川越雄作はそこで気軽に立ち上がったが、「おい」と細君を呼び止めて、「山名くんはせっかちで困るよ。早く驚かさないと承知しないんだって」  細君はそのことばに、私の顔をちらとながめたが、すぐ夫のほうへその目を返すと、「承知いたしました」と言った。  食事の用意は別の部屋でできていた。 「君」と彼は私に声をかけると、「あれが鎌倉の町だよ。向こうに見えるのが逗子《ずし》——、どうだい、いい景色だろう」  なるほど、それはたしかにいい景色にちがいなかった。しかし私の期待して来たものはそんなことではなかった。そのときの私は、スイスの最もいい景色を持って来ても、慰められはしなかっただろう。 「君は景色——自然というものに少しも興味を持たないようだね」  私が浮かぬ顔でフォークを動かしているのを見ると、川越雄作はテーブルの向こうからそう言った。 「まんざらそうでもないがね。しかし少なくとも今日だけは、興味を持つ気になれないかもしれないよ」  すると、彼は突然大声をあげて笑った。と、それが合図ででもあったかのように、ふいにどこからか音楽の音が聞こえてきたのである。が、読者諸君よ、それはそうした旅館の中で期待する最後の音楽にちがいなかった。明らかにそれは「真白き富士の嶺、緑の江の島」と歌っているのである。しかもピアノだのヴァイオリンだの、オーケストラではなくて、もっと他の低級なものだった。手っ取り早く言えば、ひとむかし以前に私が木馬館で聞いた、俗にジンタという音楽の一種だった! 「や!」  と私が思わず椅子から立ち上がりそうにすると、そこへふたたび川越雄作の細君が入って来た。しかしそれはもはや先ほどの細君ではなくて、あの木馬館の切符売りの娘なのだ。私はようやく彼女を思い出すことができた。彼女は川越雄作のむかしの女おさよだった。 「山名さん、切符を切らしていただきます」  彼女はにこにこしながら言った。 「え? え?」  と私はしかし、まだはっきりとわからないで、目をぱちぱちさせながら彼女の顔を見ていると、 「おいおい、それは無理だよ。山名くんはまだ木馬が回っているのを知らないんだもの」と横から川越雄作がそう言って、それから私のほうへ「山名くん、窓の外を見たまえ」とつけ足した。  ああ、そのときの私の驚きを何に例えたらいいだろう。私は一瞬間石のように固くなった。いままで私たちの目の前にあった鎌倉の町はしだいしだいに左のほうへさがって行って、そのあとへは相模の海とそれに続いて江の島が芝居の迫出《せりだ》しのように静かに右のほうからやって来るのであった。いったい、私はどこにいるのだろう。船にでも乗っているのか。それとも酒に酔っ払ったのだろうか。そのとき川越雄作が元気のいい声で言った。 「山名耕市くん、どうだ僕の回転旅館は?」  ああ、回転旅館!  私はしかしその意味をはっきりのみ込むまでにおよそ半時間もかかったことであろうか。この大きな旅館が回転するということが、どうしてそうやすやすと信じられようか。しかし、海が回転しないかぎり旅館が回っていることは確かだった。私の驚きのうちに旅館は一回転したとみえて、私たちの窓の下には、ふたたび江の島や七里ヶ浜がそしてその向こうには富士の山が見え始めて来た。そしてそれはあの木馬館の壁のように絵ではなくてほんとうのものなのだ。  私は窓のそばに走り寄ると、急いでガラス戸を押しあけた。  そして叫んだのである。 「おお! 回転旅館!」  そのとき奥のほうではジンタがふたたび「真白き富士の嶺、緑の江の島」と鳴り出した。  これが私の友人川越雄作が新しく発明した回転旅館の紹介である。読者諸君よ、諸君がもし鎌倉に遊ぶことがあったら必ず稲村ヶ崎の突端にある、世界で最初の、そしてただ一つの回転旅館へ一泊されんことを、経営者川越雄作に代わって、私からお願いする次第である。 [#改ページ] [#見出し]  双生児   A sequel to the story of same subject by Mr. Rampo Edogawa.  私はその日、ふと思い立って、赤坂溜池の付近にある、青柳博士の研究室を訪れた。私は新聞記者という職業上の必要からよりも、私自身の趣味から、以前にもかなりたびたび博士の研究室を訪問したことがある。博士は日本でも有名な法医学者であることは、諸君もすでに御存じのことであろうと思う。しかし博士の専門は精神病学にあるということで、その方面では日本的というよりも、むしろ世界的と言ったほうが当たっているとあるとき私は友人から聞かされたことがある。私はいままでにもかなりたびたび博士の研究室を訪問したことがあるが、いまだかつて、これは損をしたと思ったことがない。博士の研究室には、いつでも変わった話題の一つや二つ転がっていないことはない。それを博士のもの柔らかな口から聞くのが、私にとっては何よりの楽しみなのだ。  博士は私とは大きなテーブルを隔て向かい合って坐っていた。窓から差し込む秋の日差しが、テーブルの上にうずたかく積み上げられた、難しい外国の書物の背の金文字を、いぶしたように光らせている。いま出されたばかりのコーヒー茶碗《ぢやわん》からは、かぐわしいモカの匂《にお》いが立ちのぼった。博士は静かにそれをかき回しながら、女性の犯罪という私のほうから持ち出した話題について話していた。 「婦人のいちばんおそろしいのは偏執狂《モノメニア》だよ。いったい女には大抵、大なり小なりその傾向があるものだが、これがひどくなると手がつけられない。むかしから有名な女性の犯罪者というやつを仔細に調べてみると、十中八、九までこの偏執狂にかかっている。もっともこれは大抵の精神病に伴う一種の付随病のようなものだが、しかし女にとってはこいつがいちばんおそろしい、マクベス夫人にしろ、フランスのブランヴィリェ侯爵夫人にしろみなこの顕著な一例さ」 「何かそれについて、最近の実例はありませんか?」  私はそろそろと水を向けていった。博士のほうからこうした一般論が出れば、もうこっちのものなのだ。そのあとには必ず珍しい事実談が出ることになっている。 「そうだね。最近といってはないが、二、三年前の話ならある」 「それをひとつお話し願えませんかね?」 「ウム、別に話しても差し支えないが……君は三年ほど以前に死んだ彫刻家の尾崎唯介《おざきただすけ》という男を知っているかね」 「ええ、名前だけなら覚えております。あの夫人はたしかその後しばらくして自殺したというじゃありませんか?」 「君はそれを知っているんだね。世間へは病死ということになっていたはずだが」 「そりゃ……」  と、私はちょっと笑って見せた。 「あの死因についちゃ、当時私たちもかなり骨を折って探し出そうとしたんですが、とうとうわからずじまいでした。先生がいまお話しくださろうというのはあの尾崎夫人のことなんですか?」 「ウム」  博士はちょっと憂鬱《ゆううつ》な目つきをした。私は思わずしまったと思った。私のほうからそう積極的に出るのではなかったのである。博士はしばらく目をつぶって考えていたが、ふたたびそれを開くとにっこりといたずらっ子らしい笑いを口もとに浮かべた。 「君がそこまで知っているのなら、かえって話したくないんだがしかたがない。君にかかっちゃかなわんからね」  博士はそういうと、私がそれに答える前に立ち上がって隣室へ入って行った。私はそれまで忘れていた、半ば冷えかかったコーヒーをすすりながら、楽しい期待に胸をふくらませて博士の帰って来るのを待っていた。博士はまもなく、手に分厚な原稿紙の綴りのようなものを持って入って来た。 「これが尾崎夫人の遺書だがね」  博士はふたたび椅子《いす》に腰を下ろすと、パラパラとその原稿を繰りながら楽しそうに言った。 「へえ、じゃ遺書があったんですか?」 「ウム、僕は夫人の主治医だったんだが、自殺する一週間ほど前に、僕にあてて書き残したものなんだ。発表して世間を騒がすにもあたるまいと思って、いままでだれにも見せずに保管しておいたのだが、まあ読んで見たまえ、僕が下手な話をするよりそのほうが手っ取り早くていいだろう」  博士はそう言いながら私のほうへその厚い原稿の束を差し出した。見れば第一ページに青柳先生へと大きく書いてあって、そのあとは、女らしい細い字でぎっしりと埋めてある。  いま私は博士の許可を得たので、その遺書を原文のまま次に掲げようと思う。もういまとなっては、これによって迷惑をこうむる人間はだれもいないはずである。ただその前に一言言っておくが諸君がこれを信じようと信じまいとそれはかってである。しかし私としては、死を覚悟して書かれた遺書にうそのあるべきはずがないと思っている。もっとも内容があまり奇怪なので、最初のうちは私自身も、いくぶん疑いを感じたことは確かであるけれど。  私がこれから申し上げますようなことが、果たして世の中にあるものでございましょうか、いまこれを書こうとするにあたりましていままで自分のしたこと、見たこと、感じたことを一応振り返って見ますとき、私でさえも、まあこんなことが……と疑われるくらいでございます。ましてや、何も御存じのないかたには、きっと私のうそかでたらめにちがいないとしかお思いになれますまい。そう思っていままでどなたにも打ち明けなかった私でございます。  しかし、先生。先生ならきっとおわかりくださるだろうと思います。先生にはずいぶん御厄介をおかけいたしましたわね。それにもかかわらず生きている間は、とうとう何事も打ち明けることのできなかったことをお許しくださいませ。しかし、いまこうして書き残しておく私の遺書が、いつか先生のお目に止まるとき、なるほど、これでは私がためらったのも無理はないと、先生もきっとおうなずきくださることと存じます。  先生、私が殺した男は、いったい私の夫なのでございましょうか、それとも夫の敵なのでございましょうか? まあこんなことがわからないなんて……、しかしそれがほんとうなのですからいたしかたがありませんわ、私にはしばらく私と同棲《どうせい》しておりました男がほんとうの私の夫尾崎唯介だったのやら、それとも他の男だったのやら、それすらもわからなかったのでございますもの。その揚句の果てに、私はその男を殺してしまいました——ええ、私は殺したのです。世間体は病死ということに言い繕ってありますけれど、私が殺したのにちがいございません——しかし、そうしてその男を殺してしまってからも、私はやはり、同じ恐怖に悩まされなければならなかったのです。私が殺した男が夫だったのか、それとも夫の敵だったのか——と、いったいこんなことがあるものでしょうか。  最初から申し上げましょう。  私の夫尾崎唯介は双生児《ふたご》の一人だったのでございます。このことを知っているのは、夫の唯介と、唯介の双生児の兄弟|山内《やまのうち》 徹《とおる》と、そしてこの私の三人を除いてはそうたくさんはありません。世間では、もちろん、唯介に兄弟があるなど、夢にも知らないのでございます。どうしてこんなにうまく秘密が保たれていたかと申しますと、唯介の兄弟の山内徹は、生まれ落ちるとすぐに里子にやられたからでございます。ですからほんとうはあの人は山内徹ではなく、尾崎徹と言ったほうが血筋のうえからいって正しいのです。なぜこんなことをしたかと申しますと、尾崎家には当時、昔《むかし》気質《かたぎ》な頑固《がんこ》な祖母がいまして、双生児というものを、何か世にも不吉な忌まわしいもののように思っていられたからだということでございました。  徹が里子にやられた山内家というのは、埼玉在の豪農でございまして、尾崎とは遠い親類筋にあたっているのです。ちょうどその当主というのが、結婚してから七年もたつのに、まだ子供が生まれなくて日ごろから寂しさを感じておりました折りからとて、尾崎の祖母から話がありますと、一も二もなく、養子にもらいうけることになったのです。ところが世間でせらい[#「せらい」に傍点]子とよく申しますとおり、山内の家では、徹を養子にもらいうけると二年目に、したがって結婚してから九年目に初めて子供が生まれました。女の子で、よし子と名づけました。それが私なのでございます。  徹と私とは、ですから兄妹として長いこと何事も知らずに育てられてきました。徹が十九、私が十七になるまで、私たちはほんとうに何も知らなかったのです。あとで唯介から聞いたことでございますが、唯介は十九の年まで、自分に兄弟、しかも双生児の兄弟があるなどとは、夢にも知らなかったということです。それがどうして知れるようになったかと申しますと、一つには私たちの両親がふいにあいついで亡くなったうえに、家産がすっかりなくなっていたことと、一つには同じ年に尾崎の祖母がおめでたくなられたことからでございます。尾崎の御両親は、唯介と同じように徹のほうだってかわいかったにちがいありません、いえいえ、自家で何不自由なく暮らしている唯介のほうより、他家《よそ》へやった徹のほうが、何倍か気にかかっていたのは当然のことでございましょう。そこへ徹が孤児同様になったうえに、長い間、掣肘《せいちゆう》していらしたお祖母《ばあ》さまがお亡くなりになったのですから、もったいない話ですけれど、これをもっけの幸いとばかりに徹を呼び戻すことに決心されたのです。それと同時に私も一緒に尾崎家へ引き取られることになったのです。尾崎の御両親の気持ちからすれば、徹が長いこと世話になったお礼心からも、また徹と兄妹のようにむつみあっていた二人の愛情からしても、私をそのままに捨てておくわけにはいかなかったのにちがいございません。  徹と二人で、初めて尾崎家へ引き取られた日のことを、私はいまでもはっきり覚えております。それはほんとうに奇妙な光景でした。唯介はその当時通っておりました上野の美術学校の制服を身に着け、徹はその年卒業したばかりの田舎の中学の制服をまだ着ておりました。 「唯介、これがお前の弟の徹だよ、徹、これがお兄さんの唯介だ」  そう言って尾崎のお父さまが二人をお引き合わせになったとき、二人ともいまにも泣き出しそうなしかめつらをしたことを、私はいまでもよく覚えております。  そのとき、私はなんとなく思ったのですけれど、これは大変な御兄弟だ、こりゃきっと仲のよい御兄弟にはなれまいと、子供心にも考えたほどでございます。だって、だれだって自分と同じ姿を持ち、同じ顔を持ち、そしてあるいは同じ気質を持っているかもしれない人間を、愛する気持ちになれないのは当然でございますわ、唯介と徹とがちょうどそれでした。もっとも気質だけは、その後だんだん違っていることがわかってまいりましたが、顔つきといい、すがたかたちといい、双生児というものはあんなに似るものでございましょうか。 「徹とよし子は今日からこの家の子になるんだよ。徹はいままで田舎のほうに育ってきたのだから、わからないことがあったら、なんでもお兄さんに聞くがいい。唯介もできるだけ親切にしてやらにゃいかんぞ」  そうおっしゃいましたが、お父さまはそこでたまらなくなられたのでしょう。横を向いて、そっと洟《はな》をおかみになられました。しかしそうしたお父さまのお心遣いにもかかわらず、この二人は立ってじっと相手の顔を見詰めたまま、にこりともいたしません。先刻の泣き出しそうなしかめつらは、いつのまにやら影をひそめて、そこにありありと見えるのは、ただ憎悪と反抗だけでございました。子供心にも私は、あさましさにはらはらしたくらいでございます。  その日以来、徹が家出をするまでの七年間、私は一度だってこの二人が、二人きりで仲よく話していたのを見たことがありません。  徹が家出をしたのは二十六の年でございました。書き置きはなくても、私にはその動機はわかっておりました。その罪の一半——というよりも大部分は私にあったのでございますもの。でもそれはしかたのないことでございますわ。徹と私とは兄妹として、私が十七の年まで育てられてきたのですもの。どんなに徹を愛しようと思っても、それは兄妹の愛を出ないのはやむを得ないことと思います。それに尾崎家に引き取られてからは、すっかり陰気になって、絶えず何物かをねらっているように、おどおどと、そして著しく意地の悪くなった徹を妹として心配こそすれ、いままでの愛情を、兄妹でないほかのものに変えろというのは無理なことでございます。  それに引き換えて、小さいときからおぼっちゃん育ちの唯介のほうは、わがままで、いたずら好きで、明るくて、いつでも快活でした。もっとも兄弟は争われないもので、私たちが結婚して、それを動機にふいに徹が家出をしてからというものは、夫の唯介もだんだん徹に似てくるようでございましたが……。  考えてみますと二人の気質というのも、やはりそのすがたかたちも同じように、まったく同じものだったかもしれません。唯介においてはそれが陽に現われ、徹の場合には陰にこもっていたものでございましょう。唯介のほうが、 「なんだ、徹のやつ」  と一言で片づけてしまうのと、徹が何も言わずに、上目使いにじっと兄を見詰めている気持ちと、そのお互いに持っている憎悪の度はまったく同じだったかもしれません。ただ、唯介のほうでは一言にそう言ってのけて、あとへ快活そうな笑いをつけ加えるのに反して、徹のほうでは始終黙って考え込んでいるのであとのほうがいっそう強く感じられたのでございましょう。それに御両親や周囲の者もいけなかったことは確かです。唯介のほうは両親の膝下で何不自由なく暮らしてきたのに、徹のほうは他家で苦労をなめてきている。徹がひがむのも無理はないといったふうに知らず識《し》らずのうちに徹の気持ちを承認したばかりか、いつのまにやらそれをいっそうあおりたてるような結果にもなっていたのです。  徹が家出をしましたのは前にも言ったとおり二十六の年でした。その前の年のことでございます。唯介のほうはすでに学校を卒業しまして、そのとき初めて出品しました「ある女の像」という胸像が、上野の展覧会ですばらしい評判を取ったことがございました。ところがその五日目かでございます。展覧会に悪者が忍び込んで、他のものには目もくれずに、唯介の「ある女の像」だけを打ちこわした者がございました。他の作品には手もつけてなく、唯介の製作だけをねらって来たらしいところから犯人はたぶん、唯介に個人的な怨恨《えんこん》を抱いているものだろうという評判がもっぱら高くなりましたが、しまいまでついにその犯人は挙がらずにしまいました。しかし私にはよくその犯人がわかっていました。なぜと言って、その「ある女の像」というのは私がモデルだったのですもの。当時すでに唯介と私との間はその程度まで進んでおりましたのですが、この制作品破壊問題以来、唯介の態度はいっそう積極的になったものでございます。唯介もきっとその犯人を知っていたのにちがいありません。そしてその男への面あてに、これ見よがしに私たちの関係を進めたかったにちがいございませんわ。  私はしかし、この制作品が破壊されたと聞いたその日からなんとなくそらおそろしい気持ちがしてまいりました。私の周囲には、世にもおそろしい、執拗《しつよう》な葛藤《かつとう》が演じられている。まるでカインとアベルのような兄弟が、私のために争っているのだ——いえいえ、私のためと思っているのは、あるいは私の自惚《うぬぼ》れで、かえって彼らの争いに最もいい武器として私が選ばれているのかもしれない。——私は日夜そんなふうに考えながら、何かしら目に見えぬものに咽喉《のど》を締めつけられるような苦しさを感じたものでした。  その翌年お父さまがお亡くなりになりまして——言い忘れましたが、私たちが引き取られたころ、すでに病気のために一室から離れられなかったお母さまは、その三年ほど以前にお亡くなりになっていました。——もはや、二人の争いを掣肘《せいちゆう》する者がいなくなったからたまりません。険悪な二人の空気はいっそう露骨になってまいりました。そして、その最も露骨な表現法として、唯介は私と結婚し、そして徹の家出となったのです。  と、こう申しましたからといって、何も唯介が私を愛していなかったというのではございません。いえいえ、唯介は深く私を愛してくれておりましたし、私もまた唯介をこのうえもなく愛しておりました。もし、そこに徹というものさえなければ、——家出をしてしまった徹、家出をして、どこで何を考えているやらわからないだけに、私にはいっそう無気味でおそろしゅうございました。唯介だってそのことを気にかけていたにちがいございません。当座はときどき打ち沈んで悪いことをしたというような溜息《ためいき》をもらしておりました。しかし、唯介のほうは日が経るに従って、だんだんと忘れていくらしく、それに名声の上がっていくに従って社会的に忙しくもなりますので、まもなく表面だけはむかしのように快活にかえっていきました。私が、それと同じようについていかれたら幸福だったのでございましょう。ところが、私といったら、夫とは反対に、日がたつに従って、無気味さはますます募る一方でございました。せめて徹の居所でもわかれば、私は安心できたことでございましょう。どこに何をしているのやらいまごろはいったい何を考えているのやら、それさえもわからない徹、——ひょっとすると家出をしたとはいうもののどこか近くで私たちの行動を蛇《へび》のように覘《うかが》っているのではあるまいか——そんなふうに考えると、私はいつも肌《はだ》の粟立《あわだ》つような恐怖を覚えるのでございました。もし徹が、私に復讐《ふくしゆう》するために家出をしたのなら、それは予期以上の成功をみたといわねばなりません。 「もう、堪忍してくださいな、徹さん」  夜中など、一人で寝ているとき、私はよくそんなふうに叫んだものでございます。 「私はもう立派に復讐をされましたわ。どうぞどうぞもう許してやってくださいな。そして、せめて姿だけでも見せてくださいまし」  私は暗い部屋の隅《すみ》に、いかにも徹がひそんでいるかのように叫んだものでした。  そんなふうでございましたから、私はまもなくすっかり体を悪くしてしまいました。絶えず頭を何物かに締めつけられているようで、そしてそのくせ、ときどきそれが空っぽになってしまったような空虚を感じるのです。医者に診てもらいますと、神経衰弱だとかいうことでして、その忠告でしばらく鎌倉へ静養に参ることになりました。夫の唯介のほうは、仕事の都合がそうはまいりませんので、やはり東京に住んでおりましたが、土曜日から日曜日へかけていつも私を見舞いに来てくれておりました。こうして私の鎌倉住まいも三ヵ月ほどたちましたが、それでも私の具合はいっこうよくならないのでございました。ちょっとしたことにでも驚いたり、夜眠れなかったり、それだものですから一日頭の中に鉋屑《かんなくず》でも詰まっているような気持ちのすることは、以前と少しも変わりはありませんでした。  ああ! なんという呪われた私たちの結婚だったでしょう。他人さまならいちばん楽しかるべき新婚時代というのに、私は始終何者かに追いかけられているような恐怖にさいなまれなければならないのです。これを故《ゆえ》のない恐怖とお笑いくださいますな、徹という人の性質をよくのみ込んでいらっしゃらない先生には、私のこの申し上げようが、たいへん大袈裟《おおげさ》にお聞こえになるでございましょう。しかし私はよく知っているのです。あの「ある女の像」を破壊した人が、どうして私たちをこのままに過ごしておくようなことがありますものか。いつかはきっと出て来る。そしてそのときこそは私たちはあのこわされた「ある女の像」のように木《こ》っ端微塵《ぱみじん》になってしまうのでございます。  私のそうした恐怖は、ある晩、とうとう事実となって私の眼前に現われたのでございます。ああ、あのときのおそろしかったこと! それはちょうど土曜日の晩で夫が東京から見舞いに来てくれておりました。そのころ少しずつ酒をたしなむようになった夫は、そのときも少しばかり酒気を帯びておりまして、私に向かってしきりに冗談を言っておりました。もし私が世の常の健康な妻だったら、それは喜びこそすれ、決していとわしいものではない程度の冗談でございましたが、すっかり体を痛めておりました私には、悩ましく煩《わずら》わしいもののほかには感じられないのでございます。夫は、しかし私の態度などには少しもおかまいなしに、しきりにひとりでしゃべっては笑っていました。  風の強い晩で、稲村ヶ崎のほうでは波の音がだんだん激しくなっていく嵐の前触れのように、騒がしく鳴っておりました。そのときのことでございます。私は突然、何ということなしに電気にでも打たれたような恐怖を身内いっぱいに感じました。それはどう説明していいやら、ちょうど草双紙などにある忍術使いが敵の城中に忍び込んで呪文《じゆもん》を唱えると、いままですやすやと眠っていた殿さまが急に苦しみ出す。——あんな気持ちかもしれません。ふと気がついて見ますと、夫もいつのまにやら冗談を止めてじっとある一点を凝視しているではございませんか。その顔は白い蝋《ろう》のように真っ白で、こわばった頬《ほお》から顎《あご》へかけて何の加減か深い皺《しわ》が刻み込まれております。私は夫のその視線をたどって、そろそろと、まるで膠《にかわ》でもくっつけられたような首を、非常な努力をもって窓のほうへ向けました。  それきりその夜のことは覚えておりません。私はそのまま気を失ってしまったのでございます。夫もそのときのことについては、後に至るまで一言も語ってはくれませんでした。私が気絶をしてからいったいどんなことがあったのやら、何があったのかそれとも何もなかったのか、私はそれですから何一つ知らないのです。  ただ、窓の外から額をガラスにすりつけるようにして中をのぞいていた徹の顔ばかりが、まるで写真の乾板に焼きつけられたように、いかにぬぐえどもぬぐえども消えないのです。私が振り返った途端、にやりと唇《くちびる》を反らして笑ったようでございましたが、それはあるいは私の思いすぎかもしれません。  とうとう帰って来た。やはり私の期待していたとおり帰ってまいりました。私はあんなに姿を見せてくれるようにとは願っておりましたけれど、あんなふうに姿を見せるくらいなら、むしろ、姿を見せてくれない前のほうがどんなによかったか。——私の恐怖はその日より以前に倍増しこそすれ、決して薄らぎはしなかったのでございます。  その翌日、いつもなら晩までいてくれる夫が何や彼と口実を設けて愴惶《そうこう》として東京へ帰ってしまいました。あとに残された私の不安、心配、頼りなさ。——いまにも徹が出て来て、私をどうかしようとしたら、私はいったいどうしたらいいのでしょう。そのときばかりは、夫の不人情らしいやりかたが、心の底から憎くてたまりませんでした。さいわいその日もその次の日も、そしてそれから、またあのおそろしい晩が来るまで、私の身辺には何事も起こりませんでした。  前のことがあって、さてその次の土曜日です。どうしたものか、夫はとうとう姿を見せないのでした。私が鎌倉へ来てからいままで一度だってそんなことはないのでございました。どんなに仕事の忙しいときでも、遅くなってからやって来るとか、土曜日には来られないまでも、日曜日には必ず来ると言って電話をかけて来るとか、まったく音沙汰《おとさた》のないということはありませんでした。私は前の土曜日のことがありますので、不安はしだいに高まってまいります。しまいにはとうとうたまらなくなって、こっちから電話をかけてみますと、どうでしょう、二、三日前から旅行したまままだお帰りにならないという話です。それを聞いたせつな、私は何かしら、暗闇《くらやみ》で物につまずいたような気持ちに打たれました。私に何の断わりなしに旅行に出る、——そんなことが考えられましょうか。いえいえ、何かあったにちがいございません。何か——、ああ、おそろしい。私は考えているうちに、ますます物事が悪くなっていくのに気がつきました。  そうしてその夜は一晩じゅうまんじりともせずに待っておりましたが、夫の姿はとうとう見えません。翌早朝、電話をかけてみましたが、やはりまだ帰らないという返事、とうとうその日曜日にも姿を見せずにしまいました。  私の病気にとっては、神経をとがらせることがいちばんいけないのだそうでございますが、どうしてこれが平気ですまされましょうか、私は自分でも自分の容態がだんだん悪いほうに向かっていくのがはっきりとわかっておりました。しかし、それをどうしようにもしようがないのでございます。まるで自分から蜘蛛《くも》の巣へ飛び込んで行った蝶々《ちようちよう》のように、ただいたずらに身をもがくだけで、あのねばっこい蜘蛛の糸は、いよいよしつこく身にまつわりついてくるのでございました。  そうした二、三日を過ごして、さて木曜日の夜のことでございます。それまでにも日に五度も六度も東京へ電話をかけておりました私は、そのつど、まだお帰りになりません、というむなしい返事を聞くばかりでしたのに、その木曜日の夜、突然何の前触れもなしに、夫が訪ねて来てくれたのでございます。私はちょうどその半時間ばかり前にも電話をかけて、またしても失望しておりましたところなので、 「旦那《だんな》さまがお見えになりました」  という婆やのことばを聞いたとき、それこそ文字どおりに飛び立つような思いだったのは、まったくうそではございません。  しかし、そのときでございます。いま考えてみましても、私は心が氷のように冷たくなるのを感じるのでございます。 「あなた——?」  と言いながら玄関へ私が走って出ましたとき、夫は向こう向きに腰を下ろして靴《くつ》を脱いでおりました。旅行の帰りを東京へは寄らずに、真っ直ぐに訪ねて来てくれたと見えまして、傍には大きなスーツケースが置いてありました。その夫が靴を脱いで「よいしょ」と言いながら、こちら向きに玄関へ上がったときでございます。私は何かしら固いものを無理矢理にのみ込まされたような苦痛を感じまして「お帰り遊ばせ」と言いかけたことばを、そのまま口の中で凍らせてしまいました。その瞬間、夫の顔も、私と同じように、まるで仮面のように硬くなったのは決して私の思い過ごしではございません。いつもなら「いよう、どうだね、体具合は?」と言ってくれるはずの夫が、ものの一分間あまりも、じっと黙って私の顔を見ながら玄関に突っ立っているのです。そしてその揚句の果てには、なぜかおずおずと目を伏せると、口の中でぶつぶつと何か言いながら、自分でスーツケースをさげてずいと奥へ入って行きました。ああ、それはあの徹の癖をそのままではございませんか。  こういうことはあるいは夫婦でないものにはわかりかねることかも存じません。私がどんなに説明いたしましても、それはとうてい先生の御得心のいくようには申し上げかねるのでございます。これは夫婦という、目に見えぬ糸でつながれている者だけが感じうることでございましょう。一目夫の様子を見ましたせつなに、さっと意識しないうちに私の身内には何かしら危険を予感したのでございます。  一足遅れて部屋の中へ入ってまいりますと、夫はいつものように革椅子《かわいす》に腰を下ろして煙草をくゆらしておりました。それを見ると、私がたったいま感じたのは、まちがいではなかったかと思われるぐらいでございました。けれどもいったん投げられた暗い影はなかなかに消えるものではございません。それからよくよく気をつけて、夫の様子を観察しておりましたけれど、そこには日ごろと変わったところは少しも見当たらないのです。しかし、それで私の恐怖が少しでも減じることか、反対にいっそう募ってくるのでございます。いったいこんなことがありうることでしょうか? いえいえ、これは自分の思い違いにちがいない。こんなことを考えるのはいけないことだ。——そういうふうに私は幾度か自分の心をしかりつけてみたけれど、そのあとからしてすぐにあのおそろしい疑念が頭をもたげてくるのです。  その夜以来私たちは、どんなにおそろしい夫婦の生活を営んだことでございましょう。それ以来というもの、私はぴったりと寝室のドアに鍵《かぎ》を下ろしてしまって、一歩たりといえども夫にその中へ踏み込むことを許しませんでした。よくむかしの話にありますけれど、いつの間にか怪猫《かいびよう》が老婆を食い殺して、自分がその老婆になりすましている、——そんな話がありますけれど、私の場合がちょうどそれに似た恐怖でございました。私のそばにいるのは夫なのでしょうか。それとも別の男なのでしょうか。——私は気が違ったのではありますまいか。こんなおそろしいことを考えなければならない人妻が、私のほかにあることでございましょうか?  あるとき私は本宅のほうから小間使いを一人呼び寄せました。そしてそれとなく夫のことを聞いてみたのです。もちろん私の抱いている疑いについては一言も漏らしはせず、ちょうど嫉妬深い妻が夫の様子を探るような口調で尋ねてみたのでございます。 「さあ、別にお変わりになったようには存じませんけれど……」  と彼女は言うのでございます。 「以前のような冗談をおっしゃることが少なくおなりのように存じます。それに食物なんかのお好みがお変りのように思いますけれど」 「そして、それはいつごろからのことですの?」 「いつごろと申しまして、……そうそう、旅行からお帰りになったときでございます。いつも旦那さまが喜んでお召し上がりになります中国料理をこしらえておきましたところが、もっとあっさりとしたものに変えるようにとの仰せでございました。そのときからでございます。いままで、どちらかといいますと、油っこいものがお好きだったのが、その時分から、あっさりしたものとしょっちゅうおっしゃるようでございます」  私にはそれで十分でございました。食物の好みというものは、ときどき変わるものではございますけれど、そう一時に、はっきりと変わるとは存じられません。やはりあのときからなのだ! あの旅行と言ってしばらく姿を隠している間に何事かがあったのだ! 私は見究めなければならない。見究めてはっきりと態度をきめなければならない!  そうしているうちにまた二、三週間たちました。そしてある夜のことでございます。私はあるおそろしい決心を定めて、久し振りに夫に寝室へ入ることを許しました。夫は私のその突然の申しいでに、しばらくぼんやりとしておりましたが、むろんすぐにそれに同意いたしました。  ああ! そこでどんなおそろしいことがあったか? 私はそれをはっきり申し上げることができません。ただこれだけ申し上げれば十分だろうと存じます。夫が寝入ったすきを見て、しげしげとその顔を見守っていたときでございます。私はふと奇妙なことを発見したのでございます。言い忘れましたが、夫は鼻下に美しい髭《ひげ》をたくわえておりましたが、いまつくづくとその髭を見ておりますと、それが、どうも普通の髭ではないらしいのでございます。私はそっとそれへ手を持ってまいりました。と、なんということでございましょう。その髭が、まるで木の葉のようにポロリと枕《まくら》の上に落ちたではございませんか!  これ以上何を言う必要がございましょうか。ほんとうの夫であるならば、何のために義髭《ぎし》などをする必要がございましょうか。この男はやはり夫ではないのだ。夫に変装しているにすぎないのだ! 私はそこで、旅行と称してしばらく姿をくらましている間のことを、考えてみたのでございます。いまから思えばそれは髭を伸ばすために必要な期間を得るためだったにちがいございません。しかし、髭というもの、ことに夫の唯介がたくわえていたような髭が、一週間や二週間でなかなか伸びるものでないことを悟ったその男は、義髭でごまかすことにして帰って来たのに相違ございません。なんというおそろしいことでしょう。私の夫はいったいどこへ行ったのでしょう。そしてこんなおそろしいことのできるのは、あの徹をおいてほかにありようがないではございませんか。  私はどうしてこのおそろしい立場から切り抜けたものでございましょう。私の夫はほんとうの夫ではございません。他の人が夫に化けているのです。と、そんなことを言ったとてだれが私のことばを信用するでしょうか。いえいえ、私が少しでも夫の正体に疑念を抱いているようなふりを見せたが最後、どんなおそろしい災難が私の身に降りかかってくるか知れたものではございません。夫を殺して——、ええ、ええ、きっと夫は殺されたのにちがいありませんわ、——まんまとその夫になりすましているほどおそろしい男ですもの、少しでも私に悟られたと知ったら、どんなおそろしいことをするかわからないのです。  ある日のことでございます。小一時間もだんまりのまま向かい合って坐っている私たち二人は——その時分夫がそばにいると私は、しょっちゅう心を緊張させておらねばなりませんので、たいへん体が疲れるのでした。——ふと目を上げたとたん、思わず視線がかっちりと合いました。すると、なんと思ったのか夫はいきなり立ち上がって、私の首に腕を巻きつけたのでございます。以前にはそんなことはたびたびあったのですけれど、旅行から帰ってからというものは、一度だってなかったことなので、私は思わず身を引いて唇《くちびる》をおおいました。 「どうしたのだ、お前——?」  その声はなぜかふるえを帯びてかすかに口の中で消えていきました。 「許してくださいまし、あたし、あたし……」  そのとたん咄嗟《とつさ》の間に、私はある一つの妙案を思い浮かべました。そしてさっそく言ったのです。私の愛していたのはあなたではなかった。あなたの弟の徹さんのほうだった。私があなたと結婚したのは生涯《しようがい》の失敗だった。私は当然徹さんと結婚すべきだったということを、まるでうわごとのように早口でしゃべったのでございました。そのときの夫(?)の顔を生涯私は忘れることができません。それはなんと言っていいか、いまにも泣き出しそうな、それでいて、いまにも笑い出しそうな、変にゆがんだ、黒ずんだ表情でございました。もしあれがほんとうの夫だったら、もっとほかの態度がとれたはずでございます。あの曖昧《あいまい》な、わけのわからぬ表情は、たしかに徹のそれにちがいありませんでした。私はそのとき初めて、心の中で勝利を叫んだのでございます。  徹は私のそのことばで、まったく自縄自縛《じじようじばく》に陥ったのでございますもの。ふたたび徹の姿にかえらないかぎり、徹は二度と私に求愛することはできないのです。私のことばをほんとうに信じたが最後、彼はおそろしい後悔に責められなければなりません。兄の姿になって、うやむやのうちに、私を自分のものにしようとした男にとって、これほど小気味よい復讐がありうるでしょうか。苦しむがいい。煩悶《はんもん》するがいい、身から出た錆《さび》ではないか。——  先生はきっと、私が夫の身のうえについて少しも心配しないでいることに御不審をお持ちでございましょう。そうです。そのときの私には、だれに対する愛情も微塵《みじん》も残っておりませんでした。私のただおそれていたのは、私自身が浅ましい畜生のような身におちることでございました。夫がどうしたか、——それを心配する前に、私はまず私の身近にいるおそろしい悪魔を防がねばならなかったのでございます。  私のことばはたしかに徹の胸の中を鋭くついたにちがいありません。それ以来というものは、いつ会っても、彼はしょっちゅう考えがちで、たまに私のほうから何か話しかけても、いつもとんちんかんな返事ばかりするのでした。もちろん、制作のほうは全然よしてしまって、そのころから始終鎌倉に寝起きをするようになっていました。  私にはありありと、何かまた彼の胸の中でおそろしい計画が立てられていることがわかっておりました。それが徹のむかしからの癖で、何か深い考えに沈むと、他人とろくろく話もせずに、始終|爪《つめ》をかんでいるのです。いま私はふたたびその癖を夫に見ることができるのでございました。  そうこうしているうちに、またしても一ヵ月たってしまいました。鎌倉には夏が近づいてまいりましたので、避暑客がぼつぼつと姿を見せ始めたのでごさいます。そしてあるときのことでございます。ふと夫の留守の間に、夫の手文庫を開けてみたのでごさいます。と、驚いたことには、そこに、よし子殿へ、唯介よりと書いた一通の封筒があるではありませんか。私は思わず、おや! と思いながらそれを手に取り上げますと、さいわいまだ封がしてございませんので、急いで中身を取り出しました。  よし子よ。  とそれはそんなふうに書き出してあるのでございました。 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]  よし子よ。  私にはいまようやくお前の心がわかった。私はなんというばかだろう。お前のあのおそろしい告白を聞くまでは、お前が私を愛してくれているものとばかり信じていたのだ。私はもうだめだ。お前の愛しているのがこの私ではなくて、私の弟であったと聞いたとき、私はどんなに絶望したことだろう、私は苦しんだ。煩悶した。そしてとうとうある決心を定めたのだ。私は生きていて用がないばかりか、お前にとっては邪魔者にすぎないことを悟った。私は潔く身を引く。私の身にどんなことが起ころうともお前は決して驚いてはならない。そしてお前はお前の思うままにするがいい。私だの世間だのへ少しも気兼ねをする必要はないのだ。 [#ここで字下げ終わり]  この手紙をみたときの驚き、——これは一種の遺言状ではございませんか。いったいどういう意味なのでございましょうか。やはりあれは夫だったのでございましょうか。私のいままでの考えかたはみんなまちがっていたのでございましょうか。いえいえ、そんなはずがありません。あれが夫? どうしてどうして、私はそのころになって、もはやはっきりと私の夫が夫でなくて、別人であることをいろんな理由から知っておりましたのですもの。  では、これは何を意味するものでしょう。  私はそのとき終わりのほうに書いてある文句をもう一度考え直してみました。そこには、自分の身を引いた後、世間などへなんの気兼ねもなく、私の思うままにせよと書いてあるではございませんか。私の思うまま——? ああ、それは私のほんとうに愛している男と結婚しろという別の言いかたではございませんか。では、私の愛している男とはだれのことでしょう? この遺言を書いた本人は、私が徹を愛しているとばかり信じているのです。——  なんという巧みなトリックでございましょう。この遺言はつまり、徹の身にとって最も都合のいいものにできているのです。そしてこれを書いた男は、私の夫の唯介として死ぬ一方、弟の徹としてふたたび生きて来ようとしているのではございませんか。いったいどんなふうにして行なうつもりか。それはとうてい私などの想像の及ぶところではございません。しかしそんなおそろしいことになるくらいなら、いっそ一思いに死んだほうがましだ——そのとき私はふと考えたのでございます。さいわい夫は書き置きを作っている。いま私が夫を殺したとて、だれがこの私を疑うものがありましょうか。  ああ、先生!  これはなんというおそろしい考えでございましょう。私はきっと気が狂うか、悪魔にでも魅入られていたにちがいございません。いうまでもなく私は、何度となくこのおそろしい考えを追い払うように努めました。しかし、そうすればするほど、なおしつこくこの考えは私の心の中にからみついてくるのです。  先生、私はもうこれ以上詳しく申し上げることはできません。それはあまりにもおそろしいことでございますもの。さいわい夫の書き置きを出すひまもなく、医者が誤診をしてくれましたので世間体は病死ということになりました。けれど、けれど、私が殺したのです。先生、私はおそろしい人殺しでございます。私はしかし、そのことについて何らの後悔も感じてはおりません。私のような場合、女の身を守るためには、どうしても採らなければならない唯一の手段として、先生も私をお許しくださるでしょう。  私の申し上げたいことはこれで尽きました。私も、もう、長いことは生きていないつもりでございます。私が死んだのちに、これを御覧になった場合には、なにとぞ私をおあわれみくださいませ。  ではこれで筆をおくことにいたします。  私はほっと溜息をついた。なんというおそろしいことだろう。こんなことがこの世の中に果たしてありうることだろうか。 「どう思うね? 君は」  青柳博士は私が読み終わるのを見て、口からパイプを離すと静かにそう促した。私はしかしそれについて何と答えていいのやら見当がつかないくらいだった。 「さっき言った女性の偏執狂《モノメニア》のおそろしいというのはこのことだよ」  博士は私の顔を真正面から見詰めながら沈んだ声でそう言った。 「偏執狂ですって? いったいどういう意味です? それは——」 「君にわからないのかね。じゃ君はこの遺書を全部信じているのかい?」 「じゃ何か——」 「もちろんさ」博士は断固として言った。「こんなばかばかしいことがあるものじゃない。これはみんな尾崎夫人の幻覚なんだよ」 「それでは、あなたは、尾崎唯介は死ぬ間際までほんとうの尾崎唯介だったとおっしゃるのですか」 「もちろんそうさ」 「しかし——?」 「君は、食物のことだの、義髭のことだの、その他尾崎夫人の感じたのをそのまま受け入れているのだろう。だからいけないのだよ。偏執狂というものは、なんでもかんでも自分の感じたところが事実に相違ないという信念を抱いている。そしてすべてがそれから出発するのだ。尾崎夫人はあらかじめ、徹の出現ということに少なからず頭を悩ましていたのだろう。そしていつのまにやら、小説みたいな筋を、自分で組み立てていたのだ。義髭だって?——あれはこの悲劇と喜劇のクライマックスなんだよ。尾崎唯介というのはどんな男だかよく知らないが、おそらく芝居気たっぷりな男だったのだろう。彼は始終妻が兄弟のことをおそれているのを見て、妙な気持ちを起こしたのだ。そして妻を驚かすためか、それとも他に理由があってか、自分でわざと徹という弟のまねをしていたのにちがいないよ」  私はそれに対してなんと答えていいかわからなかった。博士は私の疑念がまだ去りやらぬのを見ると、ポケットから一通の封筒を取り出して私に見せた。それは台湾の役場から来たもので、お尋ねの山内徹は大正××年マラリヤ熱のため、当地において死亡したという報告書であった。その日付を見ると尾崎唯介の死よりも約一年先立っている。 「唯介ももちろん弟の死んだことはよく知っていたのだろう。しかし、それが妻の心を動揺させるのをおそれて、わざと黙っていたのだ。万事は唯介のたくらんだ喜劇なのだ。ただそこへ偏執狂がからんだために、おそろしい悲劇に終わったのだ。ついでだから言っておくが、唯介と徹とは尾崎夫人の書いているのとは全然反対に、非常に仲のいい兄弟だったというよ——」  私はしかし黙っていた。  そして頭の中でひそかに考えたのである。  博士のことばがほんとうか、尾崎夫人の遺書が事実か、それはいまとなっては神のみが知りたもうところである。 [#改ページ] [#見出し]  ある女装冒険者の話  これは三十七の年に亡くなった叔父の話である。  叔父は中学の教員をしばらくしていたが、それをよすと同時に官界へ入った。しかし、それもあまり長くは続かずに、三年ほどでよしてしまうと、死ぬまでの五、六年間はなにもせずにぶらぶら暮らしていたようである。  いったい、私《わたし》の家は貧乏だったが、叔父は遠い親戚へ養子に行っていたので、その家についている財産で、遊んでいても食うには困らない程度——というよりは、もう少しゆとりのある生活ができたらしい。そういう家の、つまり金庫の番人のような立場におかれた人間の、だれでもがそうなるように、叔父も生活に対してはまったく無気力になって、その代わり異常な神経ばかりがいやに発達していた。  そういう叔父の奇行を、ここに一々述べる必要はないが、現在私のもっている変な猟奇趣味なるものも、多分に彼の影響をうけている。  ここに述べようとする変てこな話は、その叔父が亡くなる数ヵ月|前《ぜん》に私に話してくれたことで、だから、以下私というのは叔父のことであるし、それから、叔父は神戸に生まれて神戸で死んだのだから、この話も、全部神戸を背景にしていることを承知していていただきたい。  その時分私は世の中が退屈で退屈でたまらなかった。いったい私の血筋はお前の親父(筆者の父のこと)でも、アメリカへ行ったまま消息不明になっている兄貴(これは筆者のもう一人の叔父のことで、この叔父はその後ふいにアメリカから帰って来たが、一週間目かにあの有名なスペイン風邪にかかって筆者の家《うち》で死んでしまった)でも、どちらかといえば、がむしゃら[#「がむしゃら」に傍点]でなにかしずにはいられないほうだが、私も多分にその性格を分かたれているようだ。  親戚では兄弟三人のうちで私がいちばん幸福なように言っている。なるほど、金はある、食うには困らない。なにもせずにぶらぶら遊んでいられる、だから世間の目から見ればそう見えるかもしれないが、これが幸福というものなら、私はむしろその反対の、不幸な人というのをしみじみとうらやましいと思う。私の立場というのは、金はあっても自由にすることはできず、なるべくそーっと、なにもしないで、ただぶらぶらと遊んでいなければならないのだ。そうだ、ただぶらぶらと、これが私に負わされた第一の条件で、そして私にとっていちばん退屈なのはそれなのだ。  こういうばあい、世間の人は酒を飲んだり、女狂いをしたりするようだが、残念ながら私は、その両方ながらにあまり興味を持っていない。そうかといって、演芸、読書、音楽といったふうな、この階級にいちばんふさわしい道楽にも、私はいっこう関心を持つことができないのだ。  ある夏——そうだいまからちょうど二年前のことだ、私はあまり退屈でたまらないので、あの晩、書斎へ閉じこもって、一晩じゅう鏡とにらめっこをしていた。  これは退屈なときの私の癖で、そんなときには二時間でも三時間でも、鏡に向かってたばこをすっている。別におしゃれをするんじゃない。鏡に向かっていろんな表情をしてみる。おかめ[#「おかめ」に傍点]だの、ひょっとこ[#「ひょっとこ」に傍点]だのと、自分の顔面筋肉をあらゆる格好に変えてみていると、それがとてもおもしろいのだ。  その晩もそんなことをしていた。そうしているうちに、ふと、変装をして歩けたらおもしろいだろうなと思った。そう考えると私は急に世の中が楽しくなって、もう矢も楯もたまらないような気がしてきた。  幸い、当時妻は子供を連れて避暑かたがた、広島のほうの親戚へ行っていて、一月ぐらい帰らないことになっている。家《うち》には私のほかには、夜学へ行っている書生と、山だしの女中と、耳の遠いばあやの三人しかいない。私はどんなことでもできるのだ。  私は一晩かかってあれやこれやとその思いつきについて考えをめぐらした。  白状するが、そんなふうな空想に、思いのままふけっていられるときほど、私にとって世の中が楽しいことはないのだ。だからいろいろと考えているうちに、ますます興奮してきて、あらゆる場合の変装のことを考えてみた。元来私はあまり本を読まないほうだから、いままで世間の犯罪者や探偵たちが、どんなふうに変装をしたかよく知らないが、その晩私の考えたところではいちばん完全な変装は結局変装をしないことであると思った。  こういうと少し妙だが、その考えに基づいて、それから数日後に私が試みた変装というのは結局こうだった。  その当時私は鼻下にかなり見事な髭《ひげ》を生やしていた。この髭とべっこう縁の眼鏡とは、私の容貌の上にかなり大きな印象を与えていたものだが、私は惜し気もなくその髭をそり落としてしまった。そして大阪のある有名なかつら師に頼んで、そり落とした髭をそっくりそのままの義髭《ぎし》をこしらえさせた。  つまり私は、普通の変装とは反対に、日常生活においてその義髭とべっこう縁の眼鏡をもって変装し、変装のばあいの私はその反対に生地《きじ》のままでゆこうと考えたのだ。  これは私のこういう考えからであった。  変装をしている私がばったり知人に会ったりする。向こうではまじまじと私を見たり、中には無遠慮に話しかけたりするものもあるだろう。そういうばあいむろん私はとんちんかん[#「とんちんかん」に傍点]の返事をする。お人ちがいでしょうという。そこで知人は半信半疑で別れて行く。そういうばあい私は、相手の疑惑を一掃するために、その翌日か翌々日、今度は義髭《ぎし》をつけ、眼鏡をかけた日常生活の私になって、わざとその知人に会うようにしむける。眼鏡はともかく、髭は一晩や二晩で伸びるものではないから、ではやはりこの間のは人違いだったのかなと、まさか日常生活に義髭をつけているとは思わないだろうから、そこで疑いを晴らすだろう——と、つまりそういう私の考えなのであった。  そこで、ある晩、眼鏡をとり、髭を落とし、髪の分けかたをかえ顔に少しばかり顔料を塗って、かねて港の付近の古着屋から買って来ておいただぶだぶの洋服を着てみると、いまや私はどうみても、樺太《からふと》通いの汽船の事務長かなにかとしか見えないのであった。私は大いに満足した。  そこでとうとう、そういう姿でそっと裏木戸のほうから家を抜け出したのである。  自分が変装しているという意識が、あんなにものの見方を変えるものだろうか。いつも歩くあの退屈な元町の通りも、見慣れた海岸通りの建物も、歩く紳士も学生もお巡りさんも、そうしてあるいていると、日ごろとはまったくちがった、異常な刺激を私に与えてくれるのだ。私はまるで、自分が大犯罪人にでもなったようなつもりで、港に近い町々を歩き回ったものだ。  その晩を最初として、私はそれから機会さえあれば、毎晩のようにその奇怪な散歩を楽しんでいた。そうしているうちにだんだん大胆になってきて、初めのうちはただ漫然と歩いていたのが、一週間目ごろには、船員のよく出入りをする酒場をのぞいたり、怪しげな女のいる秘密の家をひやかしたりするようにまでなっていた。  立場が変わるということは妙なもので、それまであまり興味を持っていなかった酒場だの、私娼窟《ししようくつ》だのが、そうしたときにはひどくおもしろいのだ。  私は自分がほんとうに船乗りででもあるかのように、大胆に、放埒《ほうらつ》に、ときには猥褻《わいせつ》にさえ振る舞うことができた。そしてそれがまたたいそううれしいのだった。  私があの不思議な人間に出会ったのはちょうどそういうころだった。ここでなにゆえ、私がわざと人間[#「人間」に傍点]ということばを使うかというと、当時私は、その人物を女と呼んでいいか、男と呼んでいいか、自分でもわからなかったからである。が、とにかく、その人物は、当時女の外観を持っていた。だから、これからしばらく彼女[#「彼女」に傍点]と呼ぶことにしようか。  その女と初めて口を利いたのは、前に言ったような場所よりも、もう少し高級なあるカフェであった。それまでにもときどき、私は自分の妙な散歩の途次において、その女と顔を合わせることがあった。なにゆえ彼女が特別に私の注意をひいたかというと、彼女は私の知っているある少年と生き写しの容貌を持っていたからなのだ。その少年というのは、私が中学の教師をしていたころ教えたことのある生徒で、名前は木谷道夫《きたにみちお》といった。木谷はまるで女のようにかわいらしい子で、動作なりことばつきなりまで、そっくり女だった。そういうことから、剛健という気風を尊ぶその中学にはおられなくなって、二年になって間もなく退校してしまった。  間もなく私もその学校をよして、官界へ入ったり、それもまた間もなくよしたりして、四年ほど彼には会わないが、いまいう女というのが、その木谷道夫とそっくりなのだ。容貌ばかりではなく、ことばなり動作なりの、ちょっとした癖までがむかしの木谷に生き写しなのである。 「ねえ、君、君は木谷という男を知らない?」  私たちが心易くなってから間もなくのこと、ふと私はそんなことを聞いてみた。 「木谷さん? 知らないわ。どういうかた?」 「なんでもないんだが、君とそっくりなんだよ。ほら、そういう首をかしげる癖ね、それまでがそのままなんだ。僕は兄妹じゃないかと思ってたのだがね」 「そう、でもあたし、兄妹なんて一人もないのよ」  鈴江——言い忘れたがその女の名は初山鈴江《はつやますずえ》というのだった——は、なんの興味もないらしくそう答えた。  だが、その後彼女と会う機会が重なってゆくに従って、私の疑念はだんだん濃くなってゆくのだった。  私にはどうしてもその女がほんとうの女とは思えないのだ。木谷道夫はむかしから女らしい少年だったから、それがだんだん高じてきて、自分が男であるより、女であることにより多くの喜びを見いだしたのじゃなかろうか。あのことば使い、ちょっとした動作、どうしても木谷としか思えない。  年ごろもちょうどあっている。  それにおかしなことには、初山鈴江という女は、私とときどき酒場だのカフエなどで媾曳《あいびき》をするだけで、決して自分の住まいをあかそうとはしないのだ。 「そんなこと、どうだっていいじゃないの。あたしがどこの馬の骨であろうと、牛の骨であろうと、こうしてときどき会ってお酒を飲むのに、少しも変わりはないじゃないの。あたし、けっしてこれ以上あなたに御迷惑なんかかけないから安心していらっしゃい」  私があまりしつこく彼女のことを問いただすと、しまいには彼女はそんなふうに怒り出すのであった。 「それに、そういえばあなただってずいぶん怪しいものよ。あなた樺太通いの船の事務長さんだと言ったわね。じゃ、いったいなんて船なの、そしていつまで、こんな港にごろごろしているのよ。あたしだってそれぐらいのことはわかっているわよ。ね、だからお互いにそんなことよしましょうよ。あたしたち、こうして仲のいい話相手になっていればいいじゃないの」  彼女はそのとき、話相手ということばに特別に力を入れた。というのは、私がどんなに誘惑しても、歎願しても(それというのも、私ははっきりと彼女の本性《ほんしよう》をたしかめたかったからだ)彼女はそのいわゆる話相手の域をけっして越えようとはしないのだ。そういうところにも、私の疑惑はますます深まさっていくのだった。  しかし、この疑惑はけっして私を苦しめはしなかった。どうしてどうしてその反対に、私は異常なよろこびをさえ味わったのだ。私はいつの間にやら、彼女を木谷道夫と決めてしまっていた。そのほうが、風変わりな私の散歩のお景物にはふさわしいからだ。  私はつらつらと思うのだ。  あいつもやはりおれと同じように、普通の刺激では世の中が楽しめないのだ。おれだってやはり、あいつほどの若さと美貌とを与えられていたら、きっと女に化けたことだろう。ああして女に化けて、自分と同じ性《セツクス》の人間を相手にしていたら、どんなに世の中が風変わりで楽しいことだろう。  それからみると、自分の変装などはなんという惨めなものだ。しかし、それにしても、あいつはこのおれの正体を見破っているのかしら——。むろん見破っているだろう。それだっていいじゃないか。知り合っている二人の人間が、二人とも変装していて、しかも相手の正体を知り合っていながら、わざと何気なく交際している。——  そんなふうに考えると、私は久し振りでこの世の中に悦楽を感じたくらいである。  ——こうして、そんなふうな話相手[#「話相手」に傍点]の間柄をしばらく続けているうちに、ある日私はふと、すてきなことを思いついた。  というのは、木谷がまだ中学にいる時分、ある上級生から刀をもって追いかけられたことがあったが、そのとき、彼は左の腕にかなり大きな傷をしたのである。傷はなおっても、その跡にはかなり大きなT字形の傷跡が残った。私はふと、そのことを思い出したのである。  そうだ、あいつを一つたしかめてやろう。  そう気がついた私は、そのつぎ女に会ったとき、酔っ払ったふうをしてふいと女の左にもたれかかった。  そして何気ない様子でぐいと彼女の袂《たもと》をまくりあげたのである。  あった! 傷跡はたしかにあった。忘れもしないT字型の傷跡が歴然と残っているのだ。 「見付けたぞ、見付けたぞ」  いきなり私がそう叫ぶと、その瞬間、さすがに彼女ははっ[#「はっ」に傍点]としたように身を固くしたが、すぐ気を立て直した。 「見付けたって、なんのこと?」 「ほら、この傷跡さ、この傷跡があるからには、お前はやはり木谷道夫だ。もう、どんなに隠したってだめだぞ」 「いやーね、木谷だの道夫だのっていったいなんのこと? あたしこれでも立派な女よ、その傷跡がどうしたというのよ。これ、あたしが幼いときに受けた傷の跡よ、ばからしい。あたしが男だなんて、いやンなっちゃうわね」 「フン、じゃ、お前が女だというのなら、おれに一つ証拠を見せりゃいいじゃないか。できないだろう。できるはずがないんだ。お前はやはり木谷道夫だもの」  そう言うと、相手はさすがに青くなって、しばらくことばもなくぼんやりと考え込んでいたが、やがて、なにを思ったのか、急に顔色が明るくなった。 「いいわ。そんなに疑うなら、しかたがないわ。でも、今夜はだめよ。明日《あす》の晩、ね、明日《あす》の晩になったら、疑いを晴らしてあげるわ」 「へへえ、明日《あす》と延ばして、逃げるつもりだろう。ざまアみろ」 「大丈夫、きっと、きっと明日《あす》の晩ね」  彼女は急に元気づいて何度となく念を押した。そうなると、私のほうがいささか面食らったかたちで、はてな、それじゃこの女、やはりほんとうの女だったのかしら、いやいやそんなはずはありえない、そう言って逃げるのにちがいない。——私はそんなふうに半信半疑でその晩は別れた。  ところが、その翌晩、約束の場所へ行ってみると、驚いたことには彼女は逃げも隠れもせずにちゃんと先へ来ている。そして、そうなるとかえって二の足を踏みたくなる私をうながして、とうとうある場所へ泊まりに行ったのだ。  それからあとのことはあまり詳しくいえないが、彼女は正真正銘まちがいなしの女だった。  それこそ完全無欠な女だった。  ところで、妙なことだが彼女が女であったことが私を満足させたかというに、事実はその反対だった。つまり私は、その女が木谷道夫の変装であると思っていた間こそ、妙な好奇心から彼女に興味を持つことができたのだ。それが、ただの街の天使に過ぎないとわかってしまうと、私は急につまらなくなった。なんだか夢を破られたような失望を感じた。  だから、その次の晩から、彼女に会う興味はまったくなくなってしまった。したがって、私の奇妙な散歩からも、だんだん遠ざかってゆくようになったのである。  叔父はそこでぽつんと話を切った。  しかし、私はなんだか、この話がそれだけではおしまいでないような気がしたので、黙って叔父の顔をながめていた。すると、はたして彼はまたことばをついだのである。 「ところで、最近妙なかたり[#「かたり」に傍点]、つまり一種の美人局《つつもたせ》だな、変な事件が頻々《ひんぴん》として起こるのをお前も知っているだろう。一|月《つき》ほど前から新聞にかなり盛んに書きたてられている——、ほら、××銀行の支店長もひっかかったというじゃないか。女だとばかり信じて接近して行く。そして最後にはとうとう一緒に泊まりに行く。ところが夜が明けてみると、昨夜たしかに女だった筈なのが、いつの間にやら男に変わっている。一緒に行った男はそこで激しい錯乱を感じる。その虚に乗じて多額の金を巻きあげるという手だ。お前も知っているだろう?」 「知っています。しかし、あれがなにか——」 「そうだ。あの事件の犯人がつまり木谷道夫なのだ。そして、この新手《あらて》の犯罪は、おれが誘導したようなものなんだよ」 「それは、いったいどういう意味です」  私は驚いて叔父の顔を見た。 「私は知っているのだ。木谷道夫には影が一人あるんだ。初山鈴江という影がね。いや、木谷道夫のほうが彼女の影かもしれない。私はそのことを木谷道夫からの手紙で知ったのだ。つまり木谷はあの傷跡を私に発見された晩、なんとかして私をごまかさねばならないというので、ふと、従妹《いとこ》の鈴江のことを思い出したのだ。二人は従妹同士といっても年も同じだし、まったく双生児《そうせいじ》のようによく似ているのだそうだ。その女を替え玉として私につかませたのだ。 「私があの奇妙な散歩をよしてから一週間ほどして、木谷から手紙がきた。それはこういう意味だった。——先生、私は最初から先生だと知っていました。そして、先生が私を木谷道夫であることを知っていられることも知っていました。でも、それで二人はたいそう幸福だったのです。しかし、先生があの傷跡を発見された夜、私はほんとうに困ってしまいました。なんとかしてごまかさねばならぬと思ったのです。それで従妹の鈴江を頼んだのですが、それがいけなかったのでしょうか。先生、私はやはり木谷道夫です。お願いですからもう一度町へ出て来てくださいませんか。私の女装冒険も、先生がいらっしゃらないと淋しくてしようがありません。云々《うんぬん》」 「それでどうしました。また行きましたか」 「むろん行かなかった。私はもう、そういう遊戯にすっかり興味を失っていたのだからね。でも、気になるものだからときどきの彼の消息を探るぐらいのことはした。だからはっきり言えるのだ。いま警察で追っかけ回している、あの奇妙な事件の犯人が、木谷道夫と初山鈴江であることをね」  叔父はそう言って苦っぽろしい微笑を漏らした。 [#改ページ] [#見出し]  秋の挿話     一  夏の初めから歯医者へ行かなけりゃと思い思い、つい億劫《おつくう》なのでのびのびになっていた橋本は、十一月のある日、とうとう思い切って会社の帰りに立ち寄った。  悪いのは左のほうの奥歯で、数年前に一度治療して金をかぶせてあったのだが、今年の春、ものをかむ拍子にぽろりとそれがとれて以来、すっかりもとのうつろになってしまった。前に治療したときに神経を抜いてあったので、大して痛むようなことはなかったが、それでも、根をつめて仕事をしたあとなど、左の肩から頭へかけて、どんよりとした鈍痛を感じて不愉快でならなかった。 「だいぶひどくなってますね」  額のところに丸い鏡をつけた安藤歯科医は、長いピンセットのようなもので虫歯をつつきながらそう言った。 「そうですか。なにしろ長いこと放っておいたものですから、……どのくらいかかるでしょうか」 「さあ、まあ二週間と見ておけばいいでしょうね。おところは?」  医者は手を洗うと伝票を取り出して尋ねた。 「巣鴨宮仲二〇八二。——山田重夫《やまだしげお》、そうです、重ねる夫です」  橋本はなぜこんなでたらめな名前を言ったのか自分でもよくわからない。しかし、彼にはむかしからこんな悪い癖があった。酒場だの旅館だの、名前があまり責任を持たない場所では、ついでたらめな名で押し通すことがあった。学生時代にはこれで一度、大騒動が持ち上がりそうになったことがあるのだが、それでもまだこの悪癖は直らないと見える。 「どうだね、歯の具合は!」  翌日会社へ行くと同僚の佐伯《さえき》が尋ねた。 「ウウン、まあね」 「まだ、歯医者へ行かないのか」 「ウン、行こう行こうと思いながら、つい億劫でね……」  駕籠町《かごまち》にあるその安藤歯科医院を教えてくれたのはこの佐伯だった。彼の名前をいえばうんと安くしてくれるだろうという話だったが、橋本は持ち前の臆病から、ついその機会を失った上に、偽名まで使ってしまったものだから、ですぐにいうわけにゆかなくなった。つまり彼は、これで二重のうそをついてしまったことになった。  それでも橋本は、毎日会社の帰りに歯医者へ寄ることは怠らなかった。日比谷から護国寺にある下宿へ帰るのには、ちょうどそこが乗り換え場所になるので、彼のような無精《ぶしよう》な男でも、この歯医者通いはそう苦痛ではなかった。歯科医院は交差点のすぐ近くにあった。  十日目にはゴムが装填《そうてん》された。そして予定どおり二週間目には金冠がかぶせられた。その最後の日は冷たい氷雨《ひさめ》が降っていたので、橋本はこうもり傘《がさ》を持っていた。こうもり傘は穴があいていて、冷たい雨がポトポトと外套《がいとう》の襟《えり》を濡らした。 「二、三日してもう一度いらしてください。具合が悪いようだと、そのときなんとかしますから」  帰るとき医者はにっこりと笑いながらそう言った。  橋本は思ったより安く上がったのでうれしかった。外へ出ると雨はやんでいたので、彼はそのまま山吹町まで行って、温かい牛鍋をつついた上に、新しいこうもり傘を買って帰った。  歯医者へはそれきり行かなかった。     二  それから一週間ほど後の日曜日のこと、橋本は寝床の上でゆっくりと朝日をくゆらしながら新聞を見ていた。窓の外には和やかな秋の日がさしていて、郊外散歩には理想的な日和だった。その日は会社の団体旅行があったのだが、だいたいがそういうことが不向きにできている橋本は、病気と称して参加しなかった。  いま、この絶好な秋空を見ると、さすがに彼もちょっとくやむような気になったが、そうかといって、一週間ぶりでできるこの朝寝の床をそう早く離れようという気にはなれなかった。  彼は寝床の中のぬくもりを楽しみながら、新聞をすみからすみまで読んで行った。  そうしているうちに彼はふいにどきんとして思わず寝床の上に起き直ったのである。  その目は新聞の三行広告のある一点に釘づけにされている。そこにはこんな広告が出ているのだ。 ————————————————————————————————————————    巣鴨宮仲二〇八二。山田重夫氏へ。      至急現住所お知らせ下さい。 [#地付き]姓 名 在 社  ————————————————————————————————————————  実をいうとこの広告はだいぶ前から彼の目についていた。しかし人間の神経というものは妙なもので、口に出して、やまだしげお[#「やまだしげお」に傍点]と発音されると、すぐそれにある親しみを感じたかもしれないが、こうして活字になったところでは、彼の視覚に訴えるのに相当の暇がかかった。ことに巣鴨宮仲二〇八二などは一度しゃべったきりでいまではもう忘れていたくらいである。  しかし、この名前はたしかに彼があの歯科医院で名乗っていた偽名にちがいなかった。番地のところはよく覚えていないが、やはり二〇八二と言ったように思われる。  そうするとこの広告はまちがいなく橋本に宛てたものなのだ。そして彼がこんな偽名を使ったのは、あの歯科医院よりほかにないのだから、広告主は明らかにあの歯医者だということになる。しかし、安藤歯医者がなぜこの自分を探しているのだろう。——橋本はその理由をあれかこれかと考えてみたが、別に思い当たることはなかった。彼はまた、この広告が新聞に出るようになったまでの経路を考えてみた。すると急に一種の気味悪さを覚えて来た。  歯医者はきっと、巣鴨宮仲二〇八二へ山田重夫という男を、捜しに行ったにちがいない。そしてそこにそんな男なんかいなかったので——あるいはそんな番地すらなかったのかもしれないのだ——かんかんになって怒ったにちがいない。  橋本はまたしても自分の悪癖のために、とんでもないことが起こりそうな気がして、気が気ではなくなった。  それから一週間ほどの間に、同じような三行広告がいろんな新聞に五度ばかり出た。しかし、橋本はどうしても名乗り出る気にはなれなかった。相手が自分に、いったいなにを求めているのか、それがわからない以上気味が悪くて名乗って出ることはとうていできなかった。  そうしているうちに、ある日橋本はふと神楽坂《かぐらざか》で中学時代の友人に出会って、一緒に飯を食うことになった。その男は中学を出てから、ぶらぶらしているうちに、探偵小説を書き出していまでは相当売り出していた。自然話は犯罪だの探偵だのという話題へ落ちていった。  そのとき、橋本はふと自分の胸にわだかまっている近頃の不安を思い出した。それで自分のことではなしに、別の友人の話であるような顔をして例の新聞広告のことを話した。 「ほう、それはおもしろいね」  話を聞いていた新進探偵小説家は、急に目を輝かせてそう言った。 「外国の探偵小説にもそういうのがあるよ。歯医者が宝石どろぼうかなんかでね、盗んだ宝石の匿《かく》し場所に困って、患者の虫歯の中へ一時|隠匿《いんとく》しておくというんだ。むろん患者は知らないから、ほとぼりが覚めた時分に、またそっと取り出すというのだがね」 「なるほどね」橋本は感心しながら、「しかし、それには、その後もやってくる患者でなくちゃ困るだろう。僕のは、いや僕の友人のは、それが最後の日で、それきり相手がやって来ないことがわかっているのだから——」  そう言いながら、橋本はふと、あの日、医者がもう二、三日して来てくださいと言ったことを思い出した。なるほどそのときに、宝石を取り出すつもりだったのかもしれない。そうすると、自分のこの奥歯には、莫大もない宝石が隠されてあるのだろうか。  橋本は急に人生というものが気味悪くなってきた。—— 「とにかく、その歯医者というものをよく洗ってみるんだね。いったい歯医者などには、随分いかがわしいのがあるもんだよ。よく麻酔薬をかけておいて婦人をどうしたとかいう話があるじゃないか」  新進探偵小説家はまるでひとかどの刑事のような口調でそう忠告した。     三  それからまた二、三日して、橋本は久しぶりで駕籠町のほうを回ってみた。実をいうとあの新聞広告以来、気味が悪いのでいつも江戸川のほうを回っていたのだが、その日はあの探偵小説家の忠告に従って、それとなく例の歯科医院の様子を探ってみようと思い立ったのだった。  ところが驚いたことには、しばらく見ぬ間にその表構えがすっかり変わっていた。彼が通っていた頃にはたしか安藤歯科医院という看板が出ていたはずであるのに、いま見るとそれが西田に変わっている。つまり代が変わったらしいのだ。  橋本はそれを見るとドキリとした。そうするとやはりあの探偵小説家の言ったことばが正しくて、安藤歯医者はどこかへ高飛びでもしたのだろうか。——  その日、会社が退けると橋本はわざと同僚の佐伯と一緒になった。 「ときに——」となにかの話のすえに、橋本はさり気ない様子でそう切り出した。「いつか君が紹介しようと言っていた駕籠町の歯医者ね、あれは代が変わったらしいじゃないか」 「ウン、安藤さんか、あの人は洋行したよ」  佐伯はこともなげに言ってのけた。 「君はどうしてあの人を知っているのだね」 「あれはね。僕の従兄《いとこ》の親友なんだ。なかなか勉強家だよ。今度学位をとるために店を譲ってドイツへ行ったのだがね」  佐伯の話を聞いてみると、安藤歯科医は別に悪党でもないらしい。そうすると、あの探偵小説家の想像はまちがっていたのかな。それにしてもドイツへ行った安藤歯科医が、なんのために自分を捜しているのだろう。——橋本はここでいったん正直に例の話を打ち明けたほうがいいと思った。そこで「実はね」と例の新聞広告のことから説き始めて、御丁寧にあの探偵小説家の想像まで語って聞かせた。  すると、その話の間、黙って聞いていた佐伯は、いよいよ安藤歯科医が宝石どろぼうだときまると、急に大声をあげてげらげらと笑い出した。 「失敬失敬!」佐伯はやっと笑いがおさまると、あっけにとられている橋本の顔を見ながらあきらめるように言った。「しかし君も君だ。それならそうとなぜもっと早く言ってくれなかったのだね。だと、こんな大騒ぎはしなくてもすんだのだ」 「大騒ぎだって?」 「そうよ、あの新聞広告を出さしたのはかくいう僕なんだからね。それはそうと君は最近新しいこうもり傘を持っているようだが、古いのはどうしたね」 「ウン、あれなら下宿の押し入れにあるよ。しかし……」 「そうか、そいつはありがたい。君は最近その古いこうもり傘を開いてみたことはないのだろうね、とにかく、これから君の下宿へ行ってみようじゃないか」  橋本はなんのことかさっぱりわからなかった。しかし、佐伯と一緒に下宿へ帰って古いこうもり傘を取り出してみて、初めてそれが自分の持ち物でないことに気がついた。 「どうだね、やっと気がついたかね。問題はこの傘の中にあるんだよ」  そう言いながら、佐伯がパチッとこうもり傘を開くと、柄のところに、薄いノートがくるくると巻きつけてあって、ゴムのバンドでピッチリと止めてあった。 「これはね、僕の従兄《いとこ》のこうもり傘なんだよ」佐伯はそのノートをパラパラと繰りながらおもしろそうに語って聞かせた。「従兄というのは、J大学の研究室にいるのだがね、やはりあの安藤医院のところへ通っていたんだ。安藤さんはなにしろ従兄の親友なんだからね。ところが、あの日は氷雨が降ってひどく寒かったものだから、先生|無精《ぶしよう》をしてノートを傘の柄に巻きつけたまではよかったが、それをそのまま安藤医院の傘立てへ差してしまったのだ。それを君がまちがえて持って帰ったのだね。それから大騒ぎをして安藤さんに調べてもらった結果山田重夫なる人物がまちがったらしいというので、巣鴨まで行ってみたのだが、むろんそんな人間はいやしないさ。それであの広告を僕の発案で出すことになったのだが、なに、傘なんかどうでもいいのだ。問題はこのノートだよ。僕にはわからないが従兄にとっちゃ生命《いのち》から二番目の研究の結果が書き止めてあるらしいんだ。でも、まあよかったよ。先生すっかりしょげているんだが、君、これから一緒に行っておごらせてやろうじゃないか」  佐伯はそう言って愉快そうに笑った。  それから二時間ほどの後、橋本は佐伯の従兄という人とすっかり仲良くなって話していたが、ときどき彼はふと淋しそうに奥歯の金冠へ指を持っていった。そこにはもう楽しい宝石の夢は後かたもなくなっているのだった。 [#改ページ] [#見出し]  カリオストロ夫人     一  水のような空気の、はるかなるかなたで突然白い煙が綿くずのように沸き上がった。煙はすぐ風にもみ消されてしまったが、すると、そのころになって、ようやく、ズドンと間の抜けた砲音が聞こえてきた。  スタンドをうずめていた人々は、しかし、白い煙が沸き上がったせつな、ピッタリとそれまでのおしゃべりをやめて、オペラグラスを持っている者はそれを目に当て、そうでない者もからだを前に乗り出して、一様に瞳《ひとみ》をこらした。  白いグラウンドの砂を蹴立てて、七匹のポインターが、七つの灰色の直線をひいて、まっしぐらにはしっていた。すると、そのときまで一処《いつしよ》に丸く固まっていた兎どもが、まるで蜘蛛《くも》の子をちらすように跳ね上がったかと思うと、めいめい場内のすみずみを目指して逃げて行った。グラウンドの三分の一ぐらいまで、頭をそろえてはしっていた七匹のポインターは、兎どもが四方に跳ね散ったのを見ると、そこで急に方向を転換して、思い思いの獲物にむかって突進して行った。 「ネロ!」 「ジュピター!」 「太郎、しっかり!」  スタンドからは一時に盛んな声援が起こって、紫や桃色の日傘《ひがさ》が虹のように揺れた。  グラウンドの激しい争闘よりも、スタンドのそうした美しい色彩を、さっきからぼんやりとながめていた城《じよう》は、そのとたん、なにかしらめくらめくような気がして、思わず目を、女のくれたプログラムに落とした。  第七回   ネ   ロ(3号)六歳   春《はる》   風《かぜ》(7号)五歳   太   郎(5号)五歳   ジュピター(2号)四歳  城はそういう文字を無意識のうちに読みとったが、こうした場所へはじめての彼には、別になんの感興も起こらない。彼は鳥の子の厚いプログラムを口に当てると、さっきから何度めかのあくびをかみころした。  そのとき、突然女の白い指が彼の膝《ひざ》をつかんだ。 「ほら、ジュピターが突進したわ。きっとまたジュピターのものよ!」  女はオペラグラスを目に当てたまま、心持ちからだを前に乗り出している。陽に上気した額《ひたい》のあたりに、ほんのりと汗がにじんでいる。城が黙ってそれを見ていると、突然ズドンという砲音が聞こえて、それとほとんど同時に、盛んな拍手がスタンドから沸き起こった。  見ると一匹のポインターが、ぐったりとした兎を口にくわえて、意気揚々と引き上げて来るところであった。それが決勝線へ入ると同時に、二度目の砲音が聞こえた。すると、それまでめいめい獲物を追っかけていた他の犬どもは、急にその動作をやめると、思い思いに首を垂れて、悄然《しようぜん》として引き上げて来る。 「また、ジュピターが優勝したわ。あの犬はこれで、三シーズン続けてカップをとっているのよ」  最後までオペラグラスを離そうとしなかった志摩《しま》夫人は、犬の姿が見えなくなってしまうと、初めて城のほうを振り返った。 「そうですか」  城は遠くのほうの楡《にれ》の梢に目をやりながら、ぼんやりと答えた。その時分にはもう、あちらでもこちらでも、人々がスタンドから腰をあげていた。 「あなた、すっかり退屈していらしたようね。でも、もうこれですんだのよ」  夫人は自分自身の興奮にかまけて、城のことなんか忘れていた自分に気がつくと、初めてわびるようにそう言った。城はそれに答えようともせずに、スタンドから立ち上がると、白いハンカチでズボンのすそを払った。夫人もそれを追うようにして立ち上がると、オペラグラスを黒いケースの中におさめ、ハンカチで額の汗をぬぐった。すらりと背の高い婦人で、並ぶと、ほとんど城の高さと変わりがなかった。  二人は黙りこくったまま、どちらからともなく歩いていた。間もなく、彼らは、めいめい引き上げて行く群集の中にまきこまれて、歩くともなく、押し出されるともなく、グラウンドの正面出口から吐き出されていた。  表へ出ると、夫人はすぐに、待たせてあった、大きなナッシュの箱型を見つけた。彼女がそれに乗り込むのを待って、城は帽子のひさしに手をかけた。 「では」 「あら」  夫人はそれを見ると、いったん腰をおろしたクッションから、あわてて身を起こして、 「いけませんわ。そんなこと。……一緒にいらっしゃるはずだったじゃございません?」 「でも、僕、ほかに約束があるもんですから」 「そんなこと、さっきおっしゃりはしませんでしたわ。まあいいからお乗んなさい。お約束なんて、さっきまで、なにもおっしゃりはしなかったくせに……」  刺すような目と、命令するような口調に、城はちょっとためらった。自動車に乗ってしまったが最後、またしても彼女の意志のままになってしまうことはわかりきっていたが、しかし、こういう場合、彼のように顔が売れているということは、たしかに都合が悪かった。二人の押し問答の間に、早くも五人の若い男女たちが、自動車を取り巻いて立ち止まっていた。 「城よ」 「女は志摩夫人だね」  それに続いて、揶揄《やゆ》するような、ひそやかな笑い声が起こった。それを聞くと、城は耳の付け根までかっと火照《ほて》らせて、あわてて自動車へ乗り込んだ。 「じゃ、ともかくも、途中まで送っていただきましょう」  城はそれを、わざと自動車の外まで聞こえるように言ったが、夫人は皮肉な笑いを、ちょっと口辺《くちべ》に刻んだだけで、なんとも答えなかった。  自動車は間もなく、郊外のひどいほこりをまきあげながら、新宿の方向へ走って行った。 「新宿へ来たら降ろしてください。ほんとうに今夜は約束があるのです」 「どうして」と、夫人はそこでことばを切ると、大きな目をみはって、その中へ城の全身を吸い込んでしまおうとするかのように、相手の目を凝視した。 「あたしのそばから逃げ出そうとなさるの?」 「いいえ」  城はあわてて目をそらせながら、 「約束があるのです。ほんとうなのです」  夫人は城から目を離すと、ヴァニティケースを開いて、中から小さな瓶を取り出した。瓶の中には白い錠剤が十ばかり入っていた。夫人はその二つほどを、左の掌《てのひら》に落とすと、それなり口へ持って行って嚥下《えんか》した。 「いいえ」  夫人はしばらくしてから言った。 「今日《きよう》はいけません。あたし少し、お尋ねしなければならないことがありますの」 「でも……」  城がそれに対して、なにか抗弁しようとしていたときに、自動車が突然、がくんと大きな動揺をした。城と夫人は、そのとたん、肩をぶっつけて危なく前へのめりそうになった。城はそれで、あとの言葉をもみ消されて、そのまま口をつぐんでしまった。  間もなく自動車は、新宿へさしかかったが、城がなんともことばをかけなかったので、そのまま走りつづけた。夫人はそれに満足したらしかった。  しかし、自動車が赤坂見付から市ケ谷のほうへ進んで行くころになって、今度は夫人のほうに変わった態度が現われ始めた。最初彼女は、自動車の前方の空虚に、何者かの姿を捕えようとするかのように、じっと瞳《ひとみ》を据えていたが、突然口の中で鋭い舌打ちをした。城はそれを、「畜生!」と叫んだように聞いて思わず夫人のほうをながめた。そのとたん、城はいままでとまったくちがった夫人の顔をそこに見いだした。  頬からこめかみ[#「こめかみ」に傍点]へかけての線が、陽の加減かまったくこけてしまって、白い皮膚にも光沢というものが少しもなかった。なにかこう、古い羊皮紙でも見るように、しなびた、生命の感じられない横顔である。おまけに二つの目が飛び出すように前に突出して、その下に、黒い、大きな皺《しわ》が刻まれている。  城はそれを見ると、思わず心の中で、 「カリオストロ夫人!」  と、叫んで、ぞっとしたように目をそらした。  夫人のそういう態度は、市ケ谷の自宅へ近づくに従って、ますます激しくなってきた。彼女は何者か、目に見えない者に抵抗しているかのように、激しく息をはずませ、歯をかみならせ、肩をゆすってあらごうていたが、やがて、疲労の色が刻々と深くなっていった。やがて、肩を落とし目を閉じると、息を激しく内《うち》へ引いて、ぐったりとクッションの背に肩をもたせかけた。と、ちょうどそのとき、自動車は市ケ谷の志摩家の表まで来ていた。 「ここでちょっと止めてちょうだい」  自動車が門の中へ入ろうとするのを、夫人はクッションに身を落としたままそう言った。 「城さん、失礼しました。今日は、では、このまま帰ってちょうだい」  城は夫人の、この激しい変化がなにから来ているのかわからなかった。しかし、どちらにしても、夫人のこのことばは、彼にとってはもっけの幸いだった。自動車が止まると、彼はすぐに外へ跳び降りた。 「では、これで失礼いたします」  城は帽子のひさしに手をやったが、夫人はそれを見向きもしなかった。自動車はそのまま門の中へ入って行った。城は二、三度激しくケーンを振ると、物の怪《け》を払い落とそうとするかのように、高らかに口笛を吹きながら、五、六歩あゆんだ。そして、何気なく、もう一度夫人の邸のほうを振り返ったが、そのとき、奇怪な動物が、影のように門の中へ入って行くのを見て、思わず、彼は足をゆるめた。  それは、たしかに人間というよりは動物というほうが当たっていた。昔から、弓のようにということばはあるが、その老人を説明するとすれば、その形容詞は、弓をひん曲げたようにと訂正されなければなるまい。腰を中心として、からだを二つに折り曲げたように、だから、顔が地面とすれすれにはっていると言っても、けっして言い過ぎではなかった。したがって、背の高さといったら、三、四尺ぐらいしかないのだが、それでいて、気取ったモーニングを着、高いシルクハットをかむっていた。しなびた、かさかさの顎《あご》には、白い、もじゃもじゃとした髯《ひげ》が生えて、鼻の上には金縁の鼻眼鏡《バンスト》がのっかっている。  この奇怪な動物が、太い籐のステッキをついて、ことことと夕やみの中を、玄関のほうへはって行くのを見たとき、城はさらに、一種の鬼気を感ずると同時に、もう一度、 「カリオストロ夫人!」  と口のうちでつぶやいた。     二  城がここでつぶやいた、カリオストロ夫人なることばを説明する前に、カリオストロそのものについて説明しておこう。それにはハームスウォースの百科全書のことばを借りるのが最も便利である。 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]  Cagliostro (1734—95) 伊太利《イタリー》の大詐欺師。一七四三年、パレルモの貧しき家庭に生まれ、本名はギュセッブ・バルサモという。若き頃、薬剤師の助手となり、化学並びに薬学の知識を得、一七六九年シシリイ島を去るに及んで、希臘《ギリシア》、埃及《エジプト》、亜細亜《アジア》、並びにマルタ島の占星術を習得す。後《のち》、美しき妻を娶《めと》り、欧洲の主要なる都市を遍歴し、錬金術師という触込みと、巧みなる弁舌によりて、貴族仲間に信望を得、云々《うんぬん》。—— [#ここで字下げ終わり]  カリオストロというのはこういう男である。つまり一種の大仕掛けな詐欺師で、フランス革命の動機の一つは、かかってこの男にあるとさえいわれている。この男の大ほらのうちで、いちばん傑作は、キリストと語ったことがあるという、途方もないでたらめであった。もし、それが事実とすれば、彼は実に、千七百何十年というよわいを保っていることになるのであるが、迷信深かった当時の民衆には、このことばさえ、そのままに受け入れられたのであった。  いま、志摩夫人が、なにゆえこの大詐欺師の名前をもって呼ばれているかといえば、実は彼女の年齢に対する世間の疑惑からであった。城が聞くところによると、亡くなった志摩男爵と結婚する前の彼女は、場末の劇場の卑しい踊子であったということだが、それにしては彼女は、驚くべき教養と、博識と、聡明さを持っていた。彼女はできうる限り、その博識を包み隠そうとしているらしかったが、つい不用意にそれを漏らすことがあった。  彼女は憲法発布の当日の光景を、自分の目でみたように語ることができたし、尾崎紅葉《おざきこうよう》の印象を、どんな文章よりも、はつらつと述べることができた。と思えばまた、われわれのおよびもつかぬ高貴なかたの日常生活も知悉《ちしつ》していたし、そうかと思うとどん底の、卑しい、惨めな女の生活にも通じていた。それはどんな経験家といえどもおよびもつかぬ、彼女自身、その生活の中にいたのでなければ、けっして語られないほどのなまなまとした印象をもって語られるのである。  いったい、彼女はその過去に、どんなに広い経験を秘めているのか。しかし、よし、彼女がいかに広い経験をもっていたところで、それだけで彼女全部を説明するわけにはゆかない。なにゆえならば、今年二十八と称している、そして、事実それ以上には、どうしてもうなずけない彼女が、憲法発布の日に生きていたわけもないし、尾崎紅葉と語ったはずもないのである。それとも彼女は、カリオストロ伯爵のように、いつまでたっても老ゆることなき、不断の生命の泉を持っているのだろうか。  城にとっては、しかし、なぞのようなこの夫人の愛撫に身をゆだねていることが、一度はこよなき歓《よろこ》びだったこともあったのだ。彼のような、若い、熱情的な、そして真理の探求を仕事としている芸術家にとっては、夫人を包むなぞが深ければ深いほど、その魅力はいや増しにつのるのだった。事実、夫人は彼の最もよきパトロンであったと同時に、いつかはその域を踏み越えてさえもいたのである。  こういう城が、夫人から身をひこうと決心したのは、だから、彼女の奇怪な正体に対して憎悪を感じたからではなくて、他に適当な相手を見付けたからであった。  事実夫人は、気まぐれな一時の火あそびには適当な相手だったけれど、生涯をともにするには、どこか荷の重すぎる相手だった。もっともそれには、近ごろようやく売り出した城は、もはや夫人の庇護を離れても、十分独立しうるという、打算的な考えもあることにはあったのだけれど。……  城はだから、この間の犬の競争の帰り以来、二度と夫人の邸へ足踏みをしようとはしなかった。その翌日、夫人から手紙が来たが、彼はすぐに破り捨てて、返事を出そうともしなかった。それは昨日《きのう》の無礼を謝したのち、今夜ぜひとも来てくれとの呼び出し状だった。  二、三日おいて、夫人からまた手紙が来た。文面は前とほとんど変わりはなかった。しかし城は、むろん出向きもしなければ、返事も出さなかった。  すると、それから二、三日おいて、夫人からまたしても手紙が来た。それには、彼の薄情に対する、かなり手きびしい非難が述べられていた。 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]  ——私はその女を知っています。私に替わってあなたを愛撫しようとしている、その女を知っています。しかし、その女もあなたも、これだけのことはよく覚えていなければなりません。私はけっして負けるということを知らない女なのです。あなたが私の抱擁から抜け切って、その女と二人きりになったと思ったときこそ、私が勝った瞬間です。—— [#ここで字下げ終わり]  城はその中に書かれている、愛撫だの、抱擁だのという露骨なことばに、思わず眉をひそめると、なにか汚らわしい物でも捨てるように、それを灰皿の中で焼き捨てた。  彼はいまさら、そんな手紙を読んだことを後悔した。なにかしら、雨雲のようにひろがってくる不安を、彼はたばこの煙で吹き払おうとするかのように、無性《むしよう》にパイプを吸っていたが、ふと思い立って外出のしたくをした。  彼は途中、回り道をして、彼女の好きなスイートピーを買うと、渋谷にある恋人のアパートを訪れた。  奈美江《なみえ》はその一週間ほど前から、膝関節をいためて、麹町《こうじまち》にある神保《じんぼ》病院へ通っていたのであるが、彼が訪れたとき、ちょうどそこへ出かけようとしているところであった。 「どうですか、具合は?」 「ええ、もうほとんどいいんですの。冷えたり、雨が降ったりすると、少しいけないぐらいですわ」  奈美江は静脈の透くような白い手で、薄い頬の肉をなでながらそう言った。 「いま、出掛けるときだったのですね」 「ええ」と彼女は小さい腕時計を見て、「病院は四時までですから」 「そう、それじゃ途中まで送って行きましょう」 「途中までとおっしゃらずに」と彼女はスイートピーを器用に花瓶に活けながら、「いっそ、病院までつき合ってくださいません? 治療はそう長くはかかりませんのよ。あとで銀座へでも出ましょう」  事実、間もなく家を持つことになっている二人は、いろんな機会に、遠からず必要となるであろう品々を買いためたり、また買う予定を立てたりしなければならなかった。それは必要というよりも、楽しみでもあった。今日も城は、奈美江のそういう病気さえなければ、彼のほうからそう言い出そうと思っていたところである。だから彼女にそう言われて、拒む理由は少しもなかった。 「治療ってどんなことをするんですか」 「レントゲンをかけるんですの。それからあとでちょっとマッサージをするんですけれど、それがとてもよく利くんですのよ」  彼らは間もなく、自動車を麹町のほうへ走らせていた。  このとき、もし奈美江が、神保博士の風采に関する印象を少しでも述べていたら、城はこの病院へのお供をよしたばかりか、あるいは、奈美江がそこへ通うことにすら反対したかも知れないのだ。しかし、この場合、彼らはわざと陽気な、楽しい話題ばかり選んでいたので、そういう暇がなかったのもぜひのない次第である。     三  麹町の神保病院というのは、通りから少し入ったところの、細い路地に面した、べにがら色の小さい建物だった。  城はまず、病院とはあまりかけ離れた色彩の好みに驚かねばならなかった。と同時に彼は、淡い、一種の危惧《きぐ》というようなものを身のまわりに感じた。ほんの一瞬間、ためらったあとに、でも、しかたなく城は奈美江のうしろに続いて入って行った。しかし、待合室のさらに奇怪な構造を見たときには、彼はこの病院に対する不安をいっそう色濃く感じた。  それはなんといおうか、部屋全体が、種々な角度で結ばれた鏡の面で取りかこまれていて、部屋の中そのものが、ちょうどあの万花鏡《ばんかきよう》の中をのぞいたときのような、奇妙な気心を誘うのであった。これは、この病院の院長の奇妙な好みというよりは、彼の持っている秘密な目的に役立つものであるらしかった。  というのは、彼ら二人が入って行ったとき、どこか目に見えない、別の入口から、あわてて抜け出して行く女のうしろ影が、鏡の一つにちらりと映ったからである。城はおやと思った。そしてもう一度女のうしろ姿を見ようと思ったが、複雑な角度で結び合っている鏡の映像からは、はたしてどこに出口があるのか、それすらも見当がつかなかった。 「どうなすったの。このお部屋には驚いたでしょう」 「うん、この部屋も部屋だが、それより、いまここを出て行った婦人ね、あなたはあのうしろ姿を見なかった?」 「ええ、だれか出て行ったようでしたわね」 「なんだか、僕の知っている婦人のように思えたのだが……」 「志摩夫人でしょう」  あまりはっきり言われたので、城は驚くいとまもなかった。彼はむしろ、あきれたように、奈美江の顔を打ち見守っていた。 「志摩の奥さまなら、ここでお目にかかるのに不思議はないのよ。神保博士は夫人の主治医ですから」 「あなたはどうしてそんなことを知っているのです」 「でも、あたしここでときどき夫人にお目にかかるんですもの」  奈美江も、城と夫人との問題は知っていた。しかし、彼女の幸福だったことは、世間の噂で知る前に、城自身の口から打ち明けられたことである。むろん、城の過失は認めたが、それ以上責めようとは思わなかった。だから彼女は、わりに平気で夫人の名を口にすることができるのだった。  間もなく、若い、無愛想な看護婦が、どこにあるのか見当のつかぬ、鏡のドアを開いて入ってきた。 「じゃ、ちょっと待っててちょうだいね。せいぜい二十分ですから」  奈美江は薄いショールをそこに置くと、にっこりと糸切り歯を見せて、看護婦のうしろに従った。  ばたあんとドアを閉ざす音とともに、彼女の姿は、白い鏡の中に吸い込まれるように消えてしまった。  その遠い足音に耳をすましながら、城は心を落ち着けようとしたが、むらがり起こる不安の念は、抑えようとすればするほど、むくむくと頭をもたげてくる。  なにかしら、永遠に彼女の姿が失われてしまったような、魂の空虚を感じるのであった。  この病院の院長が、志摩夫人の主治医であるということは、単なる偶然の一致だったかもしれない。志摩夫人としては、今朝がた、ああいうひどい手紙をよこした以上、城の姿を見て、あわてて隠れるのは当然だったろう。  しかし、ただそれだけだろうか。  この部屋を出た彼女は、いったいどこに隠れたのだろう。  ——私の抱擁から逃れて、あなたが二人きりになったと思ったとき、その瞬間こそ私の勝利です。——  城はふと、夫人の手紙にあったそんな文句を思い出した。すると、彼を取り巻いている、大小さまざまの鏡の上に、夫人と奈美江の姿が、焔のように燃え上がっているのであった。  二十分と言ったけれど、手術はそれよりも長くかかった。だから廊下の端に、ふたたび恋人のスリッパの音が聞こえ始めたころには、城は、自分自身でこしらえあげた妄想のとりことなって、すっかり疲れ果てていた。  ドアが開《あ》いた。  そして、奈美江がよろけるようにして入って来た。その顔は、青いというよりも死人に近かった。それでも彼女は、城の顔を見ると、にっこりと糸切り歯を見せて笑った。 「どうしたのです。顔の色がひどく悪いじゃありませんか」 「今日は治療が、少しひどかったので……」  奈美江はきれぎれな声でそう言うと、城のそばへ来て、ぐったりとしたからだを椅子にもたせかけた。 「大丈夫ですか。歩けますか」 「ええ、大丈夫、少しやすんで行けば気分も直るでしょう」  城は患者の体質も考えずに、そんなむちゃな手術をする医者に対して激しい憤りを感じた。  医者に会ったら、だから彼は思いきってどなりつけてやろうと思った。しかし、奈美江のすぐうしろから、ことことと入ってきた医者の姿を見たとき、彼は思わずぞっとして、舌の根までこわばってしまったのである。  いつか、志摩夫人の邸宅の門前で見た、あの奇妙な、虫のような老人であった。老人はゴリラのように床の上をはいながら、奈美江のそばに近づくと、そばの戸棚からコニャックの瓶を取り出して、それをコップに注いですすめた。  それを飲むと、奈美江は少しばかり元気を回復したようだった。 「御気分はいかがですか?」 「ええ、おかげさまで……」 「なに、すぐ慣れますよ。向こうのほうはうまくゆきました」  老人の低い、がらがらとしたつぶやきを聞くと、奈美江は初めてにっこり笑った。城には、その微笑の意味がよく飲み込めなかったが、この奇怪な老人こそ、神保博士であることを、そのとき初めて知ったのである。     四  夏の初めに結婚するはずだった城と奈美江は、ある事情から、それを秋まで延期しなければならなかった。その事情というのは、志摩夫人の自殺だった。  考えてみると、城が神保病院で、夫人の姿を見かけたちょうどその夜のことであった。夫人は多量のモルヒネ剤を呷《あお》いで自殺したのである。夫人がモルヒネ中毒患者であることは、周囲の人々にはよく知られていた。だから、分量をまちがえたのではなかろうかという説もあったが、間もなく現われた遺書によって、そうでないことがはっきりした。  遺書には、自分の全財産を、画家城|信行《のぶゆき》の妻になる女性に与うる旨が書いてあった。  当然このことは、新聞記事のいい材料になった。そして、いまさらのように、夫人と城との旧い関係が仰々しく新聞の三面をにぎわした。  城はむろん、こんな忌まわしい財産なんか少しも欲しくはなかった。しかし、奈美江はこの点、わりに寛大な考え方を持っていた。 「あたし、夫人の好意は真っすぐに受けたいと思いますわ。もし夫人がなにかたくらみがあったとしても、この贈り物を受けないということは、かえってそのたくらみの中に落ちるようなものじゃなくって? それにあたし、芸術家が生活のために、心にもなく魂を売るという、そんな惨めな例をかなり知っていますけれど、あなたにはそんなまねをさせたくありませんの」  奈美江の言うのももっともだった。  それに、さんざん新聞でたたかれた城は、それだけで十分夫人からの復讐を受けたように思われた。せめて、遺産でももらわなければ埋まらないという気もするのだった。  うわさは七十五日たたないうちに消えてしまった。  そして秋の展覧会に、城の絵が見事にパスしたのを機会に、その祝賀の会をかねて、彼らは結婚式をあげた。  こうした二重の歓《よろこ》びを胸に抱きながら、城と奈美江は関西へ向かって新婚旅行に出かけた。そして、その第一夜である奈良のホテルの一室で、あの奇怪なできごとが起こったのである。  真夜中の二時ごろであった。  なにを思ったのか城は、突然妻の抱擁から身を逃れると、あわててベッドの外にはい出していた。彼の全身は、ある忌まわしい連想と、はかり知れない疑惑のために、木の葉のように震えていた。  奈美江はベッドにうつぶせになったまま、ぶるぶると肩を震わせていた。泣いているのか、それとも。……  こんなことがはたしてあり得るだろうか。こんな忌まわしい暗合が、そうたくさんあってよいことだろうか。城は薄暗い部屋の灯につくづくと奈美江の姿を見守りながら、激しい息遣いをした。  なにも知らぬおとなしやかな奈美江の要求と、どくだみのようなあの志摩夫人の要求が、偶然同じであったということだけでも、城にとっては大きな驚きであった。しかし、彼のベッドからはい出すほども驚いたのは、ただそれだけの事実からではなかった。  当人同士だけしか知らない、口に出して語ることもできぬ微妙な感じ、そういう感じの中に、城は、夫人と妻との間に共通なもののあるのを感じたのであった。彼は妻の肌《はだ》の中に夫人の肌のにおいを強烈に意識した。  これがはたして奈美江だろうか。  いやいや、奈美江にこんな大胆な振る舞いができるはずはないではないか。彼はベッドの上へうつぶせになっている奈美江の上に、大きく、黒い夫人の影を認めたように思った。  奈美江はしばらく、うつぶせになったまま顔をあげようともしなかった。肩が断続的にぶるぶると震えている。間もなく、その震えがしだいに緩慢になって行った。と思うと、ふいに彼女は顔をあげた。  しかも、驚いたことには、彼女は泣いているのではなかった。その反対に笑っていたのだった。 「私の抱擁から逃れて、自分たち二人きりになったと思ったとき、その瞬間こそ私の勝利です」  ふいに、低い、とぎれとぎれな声で、奈美江がそうつぶやいた。その声は奈美江のものであったが、調子はもはや、完全に志摩夫人のものにちがいなかった。 「…………」  城はなにか言おうとしたが、声が咽喉の奥にからんで、そのまま消えてしまった。奈美江が、夫人の手紙にあるその一節を知っているはずはないのだ。彼はあの手紙を、読んでしまうとすぐ焼きすててしまったし、いち言《ごん》だって語りはしなかったのだから。 「どう、おわかりになって?」  奈美江は突然、ベッドからすべり降りると城のそばへやって来た。そして白いあらわな腕を、城の首のまわりにまきつけた。 「結局、あなたは私の抱擁から逃れることはできなかったでしょう」 「誰だ?! 貴様は!」 「フン、おわかりにならないの。たったいま、あんなに驚いたくせに」  奈美江は城の首から腕を放すと鏡の前へ行った。 「ご覧なさい。奈美江さんの肉体を着た志摩夫人、それが私よ。おわかりになって?」  城は答えることができなかった。答えるすべを知らないのである。なにかこう、物の怪《け》につかれたような無気味さを、あまりの意外さに、驚くというよりも、むしろ放心状態に近かった。 「——神保先生は実にすばらしい魔術師だわ。あの人は、自由に人の霊魂を入れ換えることができるんですよ。ほら、うそだと思ったらよく私をご覧なさい。私が奈美江さんですか。いいえ、ちがいます。私は志摩夫人です。奈美江さんは私の古い肉体の中に押し込められて、そして絶望のあまり自殺したじゃありませんか。ね、私のことを世間ではカリオストロ夫人と呼んでいましたわね。そのわけがおわかりになりましたでしょう。私はいったい、もう何年生きているのかしら。自分自身でもよくわからないけれど、ずいぶんいろんな記憶がごっちゃになっているところをみると、たぶん八十年は生きているでしょう。むろん、神保博士のおかげよ。あの人は、私の肉体が滅びそうになると、すぐ新しい肉体を見付けて来て、私の霊魂をその肉体に注入してくださるの。そしてあの人自身が、その方法でずいぶん、いままで長く生きてこられたのですよ。そう、あの人はたぶん、三百年は生きているでしょう。そして私たちは、永遠に死ぬということがないのです。つねに新鮮で、つねに新しい快楽を追ってゆくことができるんですもの。だから、あなたももし私が捕えていようと思えば、永久に私のふところから逃げることはできないのよ。なぜって、私はあなたの恋人になる人の肉体を次から次へと、私の霊魂の棲み家に変えてゆくことができるのですから」  志摩夫人のこの恐ろしい告白の後に、どんなことが起こったか、いまさら説明するまでもあるまい。城はそれから三日の後に自殺した。世間ではこの自殺を、結局、志摩夫人と情死したのだと取りざたしている。  そして、美しい奈美江は、世間の同情と、莫大な志摩夫人の遺産の中に取り残された。  カリオストロ夫人はいまでも生きている。だからわれわれは用心しなければならないのである。  いつ彼女が、われわれの妻や恋人の肉体の中に忍び込むかもわからないからである。 [#改ページ] [#見出し]  丹夫人の化粧台     一  昭和×年十月十八日、猟期があけてまもなくのことである。  東京から十二里、甲州街道から約半里ばかりそれた、府下S村にたった一軒しかない「大猟屋」という宿屋の前へ、ビュイックのロードスターを乗りつけた三人連れの青年紳士があった。黄昏《たそがれ》ごろである。  出迎えた宿屋の亭主は、言わずとしれた狩猟客と踏んだ。  この辺は、鴨《かも》の猟場として近来にわかにその名を喧伝《けんでん》されてきたので、毎年猟期があけると、京浜地方からおびただしい狩猟客が押し寄せて来る。「大猟屋」という、田舎には珍しい和洋折衷のこの宿屋というのも、実はそれら狩猟客のために建てられたもので、それには東京の有力な狩猟クラブの、力瘤《ちからこぶ》を入れての後援もあったが宿の亭主というのが、その付近でもかなり腕ききの猟師で、数年以前、東京の猟客間でも有名なM公爵のお伴を申し上げて以来、すっかり知遇を得て、そのうしろだてで、この猟客専門の旅館経営となったのである。  したがって、毎年この宿屋へやって来る顔ぶれはほとんどきまっていた。また、初めての客は紹介状を持って来なければ、泊めないことにもなっているので——つまりそれほど、ちっぽけな宿ではあるが、その道では幅を利かしているというわけでもあるのだ。  さてその夕方現われた三人連れの青年紳士は宿にとってはなじみのない顔ぶれだったが、有力な紹介状を携えていたので亭主はなんの遅疑するところもなかった。宿帳には、   高見安年《たかみやすとし》、二十七歳、無職   初山速雄《はつやまはやお》、二十六歳、画家   下沢《しもざわ》 亮《りよう》、二十七歳、無職  ——とあった。紹介状を携えて来たのは、最後の下沢亮である。 「高見さまとおっしゃいますのは、もしや麹町の高見子爵さまの御子息では……」  夕飯がすんだあとで、ごあいさつにあがった宿の亭主が、もみ手をしながら尋ねると、いちばん青白い顔をして、疲れたように柱によりかかっていた青年が、簡単にそうだと答えた。 「それはどうも——、お亡くなりになりましたそうですが、お殿さまにはずいぶんいろいろと目をかけていただきました。それであなたさまは?」 「三男だ。兄が跡を継いでいる」 「ああ、さようで、いえ、知らぬこととて、いっこう行き届きませんで——」  宿の亭主は、そういうきっかけから、それからそれへとしゃべっていたが、しかしまもなくなにかしら、ふと気まずいその場の空気を感じると、ふいとそのまま口をつぐんでしまった。この三人の青年紳士の間には、亭主の饒舌《じようぜつ》を圧倒するに足るなにかしら生気に欠けた、無気味な空気が垂れさがっているのだ。  実際、これから猟に出ようとする楽しげな、あるいは勇ましげなようすは、三人の間に微塵《みじん》も見られなかった。高見安年は前にも言ったとおり、疲れたようなようすで、ぼんやりと床柱へ寄りかかっていたし、初山速雄は縁側の手すりに腰をおろして、意味もなく外の景色をながめている。ただ一人、下沢亮だけがいかにも猟人らしく、あぐらをかいたまま猟銃の手入れをしながら、ときどき獲物について質問を発したりしたが、それもはなはだ素人くさい、その場ふさぎの感じであった。  こういう三人の客だった。  まもなく亭主が、ほうほうの体《てい》で引き上げると、三人はそのまま、ほとんど一言も口を利かずに寝床に入ってしまったようすであった。  翌朝彼らが、いでたちだけはそれでもひとかどの猟人らしくめいめい銃を肩にして宿を出発したのは、明けがたの六時ごろのことであった。 「素人のくせに、案内人もなしで、怪我《けが》をしなければいいがな」  あと見送った宿の亭主が、気遣わしげにつぶやいたのも無理はなかった。まちがいを起こすのはいつもこういう素人のてんぐ連なのだ。——  宿を出た三人は、亭主のこういう心配をあとに、教えられた方向へ黙々として足を運んでいた。もう、これがほんとうに猟をする人々なら、この絶好な狩猟日和を、どんなにでも祝福していいはずだった。晴れていく朝霧の間から降るように聞こえてくる小鳥の声は、今日の大猟を思わせるに十分だった。しかし、この不思議な三人は、めいめい重い屈託に、胸でもついえているかのように、あたりの景色もいっこう気にならないようすだった。彼らとは反対に、はしゃぎきって走りまわっている猟犬さえもが、むしろこの三人にはわずらわしげにさえ見えるのだ。  まもなく彼らはゆるい坂道へさしかかった。そこらあたり丈の高い神代杉《じんだいすぎ》と櫟《くぬぎ》の林が入り交じっていて、朝霧を破って出た朝日が、斜にあらい縞目《しまめ》を作っていた。 「きれいだな」  ふと、そう言って立ち止まったのは、下沢亮だった。二人ともそれに続いて立ち止まるとうしろを振り返った。いつのまにそんなに登ったのか、武蔵野のゆるい起伏の中に、白い多摩川の流れが一望のうちにながめられた。しばらく三人は猟銃を杖《つえ》についたまま、じっとその景色に見とれていたが、だれからともなくまた歩き出した。  こうして彼らがやっとたどり着いたのは、高台にある広い杉林の中の空地だった。ここまで来ると、下沢亮はふと足を止めてあとの二人を振り返った。二人は黙って目でうなずきあうと同じように足を止めて肩から銃を下ろした。 「ちょっと、待っていたまえ」  二人をそこに残した下沢は、検分するように、空地の中をひとわたり歩きまわったが、やがて帰って来ると、 「差し渡し三十間はある。あたりには人はいない」  と言った。 「結構」  初山はやや緊張した面持ちで銃を取り直した。 「高見——、君はどうだね」  高見安年は切り株に腰を下ろして、じっと草地をながめていたが、その声にふと顔を上げると、よろよろと切り株から腰を上げた。下沢はその顔を見た。とたんなにか言おうとして、二、三歩そばへ寄りかけたが、すると、そのけはいを察したものか、相手がいちはやく顔をそらしてしまったので、あきらめたように肩で溜息《ためいき》をついた。 「じゃ、僕が距離をとろう、高見、君はそこにいたまえ。初山、君はこちらへ——」  まもなく高見と初山は、三十間の距離をおいて向かい合って立った。下沢はこの二人から離れて、ちょうど二等辺三角形の頂点の位地に自分を置いた。 「いいか、号令と一緒に、最後のドライでハンカチを落とすから、それが合図だよ。——用意!」  高見と初山はめいめい銃を構えた。  この場合、いちばん落ち着いていたのは初山速雄だった。彼の白い額は水のように澄みきって、ねらいを定めた銃口には、一分の違いもなさそうに見えた。それに比べると、高見の銃口には、最初波のような起伏が見られた。しかし、それもつかの間、まもなくそれもピッタリとある一点に固定した。  この中で、いちばん取り乱していたのは、むしろ下沢だったといえる。上着のポケットから白いハンカチを取り出したとき、彼の額はびっしょり汗でぬれていた。彼はもう一度何か言おうとして、かわるがわる二人のほうをながめたが、彼らの不動の姿勢を見ると、絶望的に肩をすぼめて一歩あとへさがった。 「アインス!」  やがて、高らかな声が林の中に響き渡った。 「ツワイ——ドライ!」  白いハンカチがひらひらと落ちた。  と、同時に、轟然《ごうぜん》と二挺《にちよう》の銃からは火ぶたが切って放たれた。  下沢は一歩退ったまま、きっと二人のようすをながめている。高見も初山も、まだ銃を構えたままの姿勢で立っていた。その二人の前を、白い煙がもつれあって消えていった。 「助かったかな」  下沢がそう感じた瞬間である。突然三人のその均衡が一角から崩れた。初山の腕からずるずると銃がすべり落ちた。と思うと、まるで枯れ草のように、へなへなと体が地上に倒れていった。  下沢と高見が駆けつけて行ったのはほとんど同時だった。下沢が負傷者のそばにひざまずいて、ナイフで上衣を切り裂いているのを、高見は銃をついたまま見下ろしていた。白いシャツにはポッチリと血がにじんでいて、それがみるみるうちに広がっていった。 「右肺の上部を貫いている」  高見はなんとも答えなかった。額からつるりと玉になった汗がすべり落ちた。  下沢が水筒の口を開いて、水を注ぎ込んでやると初山はぽっかりと目を見開いた。  彼は下沢から高見に目を移すと、唇《くちびる》の隅《すみ》にかすかな微笑を浮かべながら手を差し出した。そして、高見がそれを握ってやると、かすかな、うめくような声でつぶやいた。 「気をつけたまえ。——丹夫人の化粧台——」  それからなにか、二言、三言よく聞きとれない声でつぶやいたがそのまま、高見の手を握ったまま、がっくりと草の上にうつぶした。  高見はしばらくじっと死者の顔を見ていたが、やがて静かに、握りしめている指を一本一本解きほごすと、そばの切り株のそばへ行ってそれに腰を下ろした。そして銃を置くと両手で顔を覆うた。  しばらくして彼がふと顔をあげると、死人のあと始末をしていた下沢が、草の上にひざまずいたまま、なにかしらじっと自分の掌《てのひら》の上をながめていた。そして、ふと振り返った目が、高見の視線に合うと、つかつかとそばへ寄って来て掌をその前に突きつけた。  見るとくすぶった薬莢《やつきよう》がのっている。高見は不審そうに相手の顔を振り仰いだ。 「見たまえ」下沢の声は押し殺したような低さだった。「空弾だよ」  高見は差し出された掌の上を見ると、ぎょっとしたように身をひいた。そして、つぎの瞬間には、向こうに倒れている初山の死骸《しがい》を、泳ぐような格好でながめた。     二 「——と、そういうわけで、形式はりっぱな決闘なんですがその実初山のやつ、自殺したも同じことなんです」 「まあ!」 「実際、あの男が枯れ草のように倒れるのを見たとき、——僕の弾丸があいつに命中して、あいつの弾丸から僕が完全に逃れることのできたのを意識したとき、つまり、勝った! と感じたせつなですね、僕は水のような空虚を胸いっぱいに感じたのですよ。勝利でもなんでもない、まるきりその反対の悲哀なんです。僕はそれでさめざめと泣いたのです。あなたも御承知のとおり、今度の問題が起こるまでは、あいつと僕は、兄弟以上に親密だったのですからね、なんというくだらないことをしたものだ。なんというばかばかしいことをしてしまったのだ、——あいつのシャツに血の広がっていくのを見たとき、僕は取り返しのつかない悲しみに、胸もついえるばかりの思いでした。ところがどうでしょう、あいつときたら、最初から尋常に決闘するつもりなんか毛頭なかったのです。つまり体《てい》のいい自殺の道具に、この僕を選んだのです」 「でも、初山さんが自殺の覚悟をしていらしたなんて、あたしは夢にも考えられませんわ」 「しかし、それに違いないのですからね。宿を出るとき、下沢くんが二人の銃のコンディションをしらべて、われわれの面前で弾丸をこめてくれたのです。それがいつのまにやら、あいつの分だけ空弾に変わっていたのは、つまり、みちみちあいつがそっと実弾を抜き取ったとしか考えられません。僕はその理由が知りたい、いや、あいつが自殺しようとそんなことは少しもかまいません。ただ、あいつの卑劣な自己満足、あるいは犠牲的精神、優越感、そんなものの相手にされたかと思うと、僕はくやしくてたまりません。決闘はあらゆる機会、あらゆる条件が対等でなければなりません。それだのにあいつは、わざと自分のほうの機会と条件を打ちこわしていたのです。もしそれが、僕に対する憐憫《れんびん》、あるいは犠牲的精神——そんなものから出ているのだとすれば、僕はたまりません。くやしくて、くやしくてじっとしていることができないほどです」 「そんなに興奮なさるものじゃありませんわ。あなたのほうにはなんの落度もなかったのですもの」 「落度? そうですとも、僕は堂々とやりました。なんの落度がありましょう。卑劣なのは初山のやつです。ああ、僕はあいつの真意が知りたい。あいつの自殺の動機が知りたいのです!」  丹夫人はそのとき、ソファの上でそっと体をずらせた。そしておそれるように、相手の横顔をまじまじと打ちながめていた。  決闘の日から、ちょうど一週間目である。その間に高見の顔立ちは驚くほど変化していた。もとより、青白い顔は、いよいよ白く色あせて、目もとから頬《ほお》へかけて隠し切れぬ憔悴《しようすい》の色がみなぎっている。  元来、決闘がすむと、喜ばしい報告をもって第一番に駆けつけて来なければならないはずのこの丹家へも、今日初めての顔出しなのである。  夫人はアフタヌーンの裾《すそ》が、軽くふるえるのを、組み合わせた脚のリズムで隠しながら、わざとほかのことを尋ねた。 「——で、もうだいじょうぶなんですの。決闘のほうのあと始末は」  高見は覆うていた両手から顔をあげると、病的に光る目をぎらぎらとさせながら、ぶっきらぼうに答えた。 「そのほうはだいじょうぶです。下沢が万事うまく運んでくれました。過失という示された事実以外に、だれひとり疑っているものはありません」 「そう」夫人はふかい溜息をつきながら、「それは結構ですわ」 「結構? 奥さん、あなたは初山の死を結構とおっしゃるのですか」 「あら、あたし、そんな意味で言ったのじゃありませんわ」 「奥さん、ほんとうのことを言ってください。あなたは初山の自殺の動機を御存じなんじゃありませんか」 「あたしが? どうして? 高見さん、あなたどうしてそんなことをお考えになるの?」 「奥さん、ごまかさないで言ってください」  高見は突然丹夫人の体を両腕でゆすぶった。そして、いきなり声を押し殺すと、 「もしや、あの男は、御主人の死となにか関係があったのじゃありませんか」  夫人はそれを聞くと、ふいにソファから立ち上がって、つかつかとテーブルの前まで行くと、くるりと振り返ってきっと高見の面を射るようにながめた。 「あなた——、あなた、どうしてそんなことをおっしゃるの?」  高見はそれに答えようとしないで、荒い夫人の息遣いをながめていた。そこからいっさいの真実を読み取ろうとするかのように、意地悪く押し黙って、蒼白《そうはく》な夫人の顔をまじまじとながめていた。 「初山さんがそんなことをおっしゃったの?」  夫人はテーブルから離れると、また高見のそばへ来て腰をおろした。 「もし、あの人がそんなこと言ったとしたら、それはひどい侮辱《ぶじよく》です。あたしもあの人も、夫の死にはなんの関係もありません。はい、神に誓って潔白です」 「初山はなにも、そんなことを言いはしませんでしたよ」  夫人のあまり弁解めいたことばに、高見は残酷な意地悪さを押さえることができなかった。 「初山はただ、死の間際にこうささやいただけです。『気をつけたまえ、丹夫人の化粧台——』と」 「まあ——」  夫人はぎっくりとしたようだった。隠し切れない狼狽《ろうばい》を、高見は全身をもって感じなければならなかった。よほどしばらくしてから、彼はごっくりと唾《つば》をのむ、咽喉仏《のどぼとけ》の鳴る音を耳にした。しかし、夫人はまもなく、白々とした訝《いぶか》るような声音で尋ねた。 「あたしの化粧台——? なんのことですの、それは——」 「なんのことだか、僕にもよくわかりません」 「初山さんがそんなことをおっしゃったんですって」 「そうです、いま死ぬという間際にそう言ったのです。それもひどく忠告めいた語調で」 「わかりませんわ。あたしにもわかりませんわ」  夫人の声はふいにヒステリックになった。それと同時に、彼女は高見の腕をとるとそれを、柔らかい二つの掌でもむようにしながら、息をはずませて言った。 「高見さん、あたしはなんだかおそろしくてたまらないわ。だれだかあたしをねらっている者があるにちがいありませんわ。あたしの夫を殺したのも、あなたがたにおそろしい決闘をさせたのも、みんなみんなそいつのしわざよ」 「なにか、あなたにそんな心当たりがあるのですか」 「いいえ、あたしはただそれを感ずるだけなのです。目に見えない、靄《もや》のような薄気味の悪い影を感じるのです。そいつがあたしをつけねらっているのよ、真夜中なんどに、あたしふと物の怪《け》に襲われるような気持ちのすることがありますの。なんともいえない、おそろしい、無気味な、いやあな気持ちなの」  夫人はそこでふと言葉を切ると、まるでそのあたりに、その気味の悪いものがいるかのように、しばらくじっときき耳を立てていたが、突然、耐えがたいような激情をもって高見の胸にすがりついた。 「高見さん、お願いですからあたしをまもってちょうだい、あなたのほかには、だれもおすがりする人はありませんわ、あたしは寂しいの、おそろしいの、ね、あたしをまもって、まもって!」  高見はだが、自分の胸にむしゃぶりついてくる夫人のその声音から、どうしても真実をくみとることはできなかった。なにかしら薄い膜を透かして聞く、機械的な熱情としか、残念ながら彼は感じるわけにはいかなかった。 「僕が君なら、これを機会に、あの夫人との交際は断然たってしまうね」  決闘のあとで、警告するように言った下沢のことばが、ふとそのとき彼の脳裏をかすめ去った。  高見は夫人の体を払いのけるようにして立ち上がった。そして冷たい、押えつけるような声で言った。 「奥さん、お互いにもう少し冷静な気持ちのときに会いましょう。そして、もう一度この問題をゆっくり考えてみようじゃありませんか」  高見はそう言い捨てると、帽子をつかんで、部屋を飛び出した。     三  一方では十分警戒しながら、そしてある種のかたくなさで心を鎧《よろ》いながら、それにもかかわらず高見と夫人の交際は、日ごとに深みへはまっていった。  下沢の忠告を待つまでもなく、丹夫人の周囲には不可解な影が多かった。高見は夫人に詰問すべき問題を山ほども持っていた。それでいながら、夫人に面と向かうと、なんにも切り出せない高見だった。少なくとも、自分に決闘まで申し込ませた初山とは、どの程度までの親交を結んでいたのか、その一事だけでも彼ははっきりと突き止めておきたかった。自分から決闘を申し込んでおきながら、いざとなると、自殺にも等しい手段で自分の命を断った初山、その初山をそうした絶望に追い込んだものはなんであったか、高見はそれを知る権利があるのだ。  しかも彼は、いままでのところその権利を打ち忘れてしまったかの感じだ。それでいながら、一方夫人との交情を度重ねてゆくことによって、高見はしだいに自分が抜き差しならぬ深みへ足を突っ込みつつあることを意識した。  そういうとらえどころのない焦燥のある日、ひょっこりと下沢が訪ねてきた。最近、この友人に会うことを努めて避けている高見だったので、彼の名を聞くと挑戦的な態度で迎えた。 「どうしたね、ばかに青い顔をしているじゃないか」  わざと元気よくその中に十分のいたわりをこめて言う相手のことばを、高見はしかし、無言ではじき返すように肩をゆすった。 「このあいだから二、三度電話をかけたが、いつも不在だったね」 「いたよ。いたけれどわざと出なかったのだ」 「ハハハハ、おおかたそんなことだろうと思って、きょうはかまわず押しかけて来たのだ」 「ご足労なことだ。頼みもしないのに、夫人の醜聞をたくさん仕入れて来たのだろう。その話ならたくさんだよ」 「まあ、聞きたまえ、きょうの話というのは、むろんまんざら夫人に縁のないことではないけれど、それより初山のことなんだよ」 「初山がどうしたというのだ」  高見は、突然、かみつくように言った。しかし、下沢はそれには取り合わないように、 「このことは、格別夫人を傷つけるとは思わないし、それに君が知っていれば、なにかのときに役に立たないでもないと思ったから、きょうわざわざ知らせに来たのだが」と、下沢は高見の顔を真正面から見ながら、「実は、初山の遺書を発見したのだよ」 「遺書?」  高見の体は、ふいにどきんと大きく波を打った。 「それはほんとうか」 「あの決闘の前日、君たちが僕のところへ、介添えを頼みに来たとき、初山が一冊の本を僕に預けていったのを君は覚えているだろう。二、三日まえ、僕は何気なくその本をひっくりかえしていたのだ。するとこの紙片が出てきたんだよ」  下沢がポケットから取り出した紙片を、高見はひったくるように横から奪い取った。それはノートを引きちぎったものへ、鉛筆の走り書きで、次のようなことが書いてあった。 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]  高見君  決闘はおそらく君の勝利に帰するだろう。しかし、勝ったと思った瞬間こそ、君はおそろしい敗北の第一歩を踏み出しているのだ。丹夫人はけっして僕のものでもなければ君のものでもない。非業の最後を遂げた彼女の夫のものでさえなかったのだ。丹夫人の邸《やしき》で、猫《ねこ》の鳴き声を聞いたときこそ、君は警戒すべきだ。 [#ここで字下げ終わり] [#地付き]初山生   「なんだくだらない」  高見は五度ほどそれを読み返したのち、吐きすてるようにそう言った。 「君はこれをくだらないと思うかね」 「そうさ、初山のやつ、くだらない妄想《もうそう》にとらわれていたか、それとも神経衰弱にかかっていたのだ。初山のやつ夫人を自分のものにすることができなかった代わりに、おれのものにもさせまいとおどかしているんだ。だれがそんなことに驚くもんか」 「君がくだらないというのはこの最後の一節のことだろうね」 「最後の一節?」  高見は手にしていた紙片に、もう一度目を落とすと、 「そうさ、いったいこれはなにを意味しているのだ。猫の鳴き声が僕たちの間になんの関係があるというのだ」 「僕はしかし、そうは思わないね。丹博士の最後のことばを思い出せば、この一句にこそもっとも深い理由があると思うのだ」  高見はびっくりしたように相手の顔をながめた。それからポカンとしたように天井に目をやっていたが、ふいに、みるみる激しい驚愕《きようがく》の色がその顔に広がっていった。 「まさか——、まさか、あれは死人の妄想だよ。それとこれと関係があるん——」 「僕はそう思わないね、初山は博士の最後のことばの意味を発見したのだ。そしてそれが彼を絶望に突き落としたのだ。いずれは夫人に関係のあることだろうが、僕はこれと『丹夫人の化粧台』の秘密を突き止めないではおかぬつもりだ」 「よしてくれ! そんな話もうよしてくれ」  高見は両手でこめかみを押えながらうつむいた。     四  ここで一再ならずうわさにのぼった、丹夫人の夫と、その人の死にまつわる、世間に知られている事実だけを述べなければなるまい。  丹博士は人も知るごとく栄養学の泰斗《たいと》で、夫人と結婚してからすでに十二年になる。結婚したとき夫人は十八だったという話だから、今年彼女は三十になっているはずだ。二人の結婚には少しばかり年齢が違うという一事を除いては、別になんの奇もなく変もない。しいて言えば、当時まだ女学校へ通っていた彼女の姿を、ある日丹博士が電車の中で見初めて、無理矢理に彼女の両親を説きふせたという、人のうわさくらいなものであろう。  もっともそのとき、博士はすでに三十八にもなっていた。それでいて研究室以外の場所で暇をつぶすことの少なかった博士は、まだ独身で押し通していたのである。夫人の両親はその当時日本橋でかなり古い暖簾《のれん》の商店を経営していたのだが、相手が世間から尊敬されている学者だったので、この結婚にはむしろ乗り気だった。そして夫人はといえば、古くさい店の空気に嫌悪《けんお》を感じていたし、学者の家庭に一種のあこがれを持ってもいたので、したがって、この結婚にはどの点から見てもなんの渋滞もなかった。  そして、同じようなことが、十二年の結婚生活についてもいえるのである。平穏無事という一語で彼らの生活は尽きていたろう。もっとも、夫人をめとるまでのあの熱心にひきくらべて、結婚後の博士は、どちらかといえば表面冷淡な夫であった。しかし、夫人を愛していることはなにびとも認めるところだったし、夫人もまた、夫の勉強をじゃまするほど愚かな妻でもなかった。  ただ、年がゆくにしたがって夫と彼女の年齢の差がますます目立ってくることと、美しい夫人の周囲には、絶えず若い男の友人が群がっていることが、世間の注目をひいていたが、それとても夫人の貞淑とはなんの関係もないことだった。むしろ勉強に多くかまけて、夫人を楽しませる時間の少ないことを自覚していた彼女の夫は、彼のほうから若い友人を歓迎していたようである。  あの不可解な事件が起こるまでは、そういう夫婦の間柄だった。いったい世間というものは、平穏無事に暮らしている人々には、なんの興味も向けないものであるが、一度その人たちがつまずくと、ふいにあらゆる神経をそのほうへ集中するものである。そして、たいていの場合、それは好意よりも、多く悪意に満ちているものだ。  丹夫妻のつまずきは、結婚後十二年目の今年の春にやってきた。丹博士の不可解な最期である。その晩のことを簡単に述べておこう。  丹夫人はその夜、初山速雄に誘われて帝劇のリサイタルに出かけていた。家を出たのは六時ごろで、そのとき博士のようすにはすこしも変わったところはなかった。 「行っておいで」  博士はそう言って優しく夫人の額に接吻《せつぷん》した。別に興奮しているようすも、疲れているふうも見えなかった。夫人は九時半まで劇場にいて、初山に送られて帰った。そのとき博士はパジャマのある、夫人の化粧室に倒れていたのである。右手にはピストルを握って、その銃口からはまだほの白い煙が立っていた。夫人と初山がその体を抱き上げたとき、胸から一時にごぼりと血が流れ落ちた。と、同時に博士はうっすらと目を見開いて、そしてたった一言、 「猫が——。猫が——」  と、言った。そしてそれきり息が絶えたのである。  他殺という証拠はどこにも見当たらなかった。戸締まりは厳重で、外から人が忍び込んだ形跡はどこにもなかった。致命傷となった胸の傷も、博士の握っていたピストルの弾丸からだと判明した。では自殺かというに、それにも多くの疑問が考えられる。だいいち、調べられたかぎり、博士には自殺の原因なんて少しもなかった。  それに、博士はいままでかつて、夫人の化粧室へなど入ったこともなかったのだ。なんのためにピストルを持ちだしたのか? なんのために夫人の化粧室へ入って行ったのか? そしてなんのために第一発目の弾丸を夫人の鏡に向かって発砲し、第二発目の弾丸で自分の胸を撃ち貫いたのか? なにもかも不可解である。音楽会へ向かう夫人をきげんよく送り出し、そのあとで、明日の研究科目の用意まで整えていた博士が、突然ピストルをふるって夫人の化粧室へ入り、そこで自殺したなどとは、どうしても狂気の沙汰《さた》としか思われなかった。  そして、事実、この事件は、博士の突発的発狂として、警察のほうでも最近手を引きかかっているのである。また実際のところどの学者でもがそうであるように、丹博士もいくぶんエキセントリックであり、そして、近ごろ神経衰弱の気味でもあった。そしてそのことが、警察にとっては、自己の無能を弁明するのにいい口実となった。神経衰弱の結果自殺す——、こんな簡単な、都合のいい断案はほかにないではないか。  しかし、残念ながら世間というやつは、責任を持っていないだけに、警察よりも好奇心に富んでいた。そして自由な空想家でもあった。その結果、いままで貞淑の誉れ高かった夫人の身辺に、疑惑の目が向けられたのは是非もないことであろう。  夫人ははたしてなにも知らないのか。あの晩、夫人ははたして劇場にいたのだろうか。そして夫人と一緒だった男は、いったい彼女とどんな関係があるのだろう——、夫人は、そこで苦しい立場に置かれねばならなかった。  しかし、こういう世間の指弾は、反対に夫人の周囲の者には、そのまま同情の種となった。そしてそれまで、夫人のサロンの客でしかなかった男の友人たちは、それを機会にめいめい、夫人との間にある、ある一線を越えようとした。その最初の男が初山速雄であり、それについで高見安年であった。  そしてこれが、つまり二人の決闘の動機になったわけで、その決闘に勝った高見が、とうとう最後の一線を踏み越えてしまったのだ。そして、次に述べるおそろしい運命的な晩まで、高見は、前に述べたような、不安な、いらだたしい気持ちで夫人とのその交情を続けていたわけだ。     五  人々は言うだろう。女がかくも悪魔的になれた例は珍しいと。しかし、夫人にとっては、それは世間の人々が考えるほど無気味な、なまなましい、残酷な罪悪とは意識されなかったかもしれない。彼女にとっては、それは、珍しい小鳥をかわいがるほどな、気軽な遊戯だったかもしれないのだ。実際女の、ことに夫人のような女の気持ちなんて、他人には絶対にわからないことだから。しかし、とまれそれは、夫人を愛する者にとっては、絶望的な、おそろしい秘密にはちがいなかった。初山が自殺したのもうなずけないことはない。そしてこの事実を発見した高見が、一時気が変になったのも無理からぬ話だ。  高見のおそろしい発見——それはこうである。  そのころ、夫人と高見との関係は、召使いの者にとってもほとんど公然になっていた。だから、その夜、夫人の邸宅を訪問した彼が、特別な案内を待たなかったのは不思議でもなんでもない。 「奥さん、いる?」  玄関を開けてくれた女中にそう聞くと、 「ええ、いらっしゃいます。お化粧室のほうに——」 「そう」  高見はそれで、女中を押しのけると、勝手を知った化粧室のほうへ行った。そして彼がドアをノックしようとしたとき、部屋の中で時計がチーンと鳴った。高見が思わず自分の腕時計を見るとちょうど九時である。ところが、不思議なことには、部屋の中の時計は、チーンと一つ打ったきりで、そのままはたと止まってしまった。  しかし、そんなことはむろん、あとになって思い出したことで、そのとき彼は、別に気にも止めずにドアをたたいた。 「どなた」 「僕です」  すると、まあというような軽い驚きの声とともに、夫人がドアを中から開いてくれた。そして胸に抱いていた猫をそっと床の上に降ろすと、 「どうなすったの?」  と甘えるような目で笑った。  高見は、しかしそのとき尋常でないものを、夫人の身辺に感じたような気がした。なにかしら、硬い、気まずい、取り乱したような動揺を、夫人の息遣いなり、微笑なりに感じたような気がした。 「向こうのお部屋へ行きましょうよ」  夫人の手がそっと高見の腕に触った。高見はそれに逆らいもしなかったが、夫人が閉じようとするドアの隙《すき》から、部屋の中を見ることを忘れはしなかった。  そこには、壁の中に作りつけた大きな化粧台があった。よし! あの化粧台だな! 高見はなんとなく、心の中でそう決心した。 「どうなすったの、浮かぬ顔をしていらっしゃるわね」 「いいえ、そうでもないんです」 「でも、お顔の色が青いわ。さあ、向こうのお部屋でお酒でも召しあがれ」  二人はそのまま、夫人の寝室へ入って行った。  その真夜中のことである。なにかしら追いかけられるような夢から、ふと目覚めた高見は、しばらくまじまじと夫人の寝顔を見ていたが、ふいにぎょっとしたように、寝台の上に起き直った。にゃあお、にゃあお——、あるいは低く、あるいは高く、無気味な鳴き声が陰々として響いてくる。さいわい夫人は、高見の計画的な酒の勧めかたで、ぐっすりと眠り込んでいる。彼は寝台からすべり下りると、そっとスリッパを引っかけて部屋の外へ出た。にゃあお、にゃあお——その鳴き声が夫人の化粧室からであることに気づいたとき、高見はもう一度、背筋が冷たくなるような無気味さを感じた。  さいわい、化粧室のドアには鍵《かぎ》がさしたままになっていた。そっと鍵をひねって中へすべり込んで、カチッとスイッチを鳴らしたとたん、いままで身近く聞こえていた猫の鳴き声がはたと止まった。が——、それにしても猫はどうしたのだろう。たったいままで鳴いていた猫の姿はどこにも見当たらないではないか。  高見はテーブルの下から、椅子の下までのぞいてみた。 「しッ! しッ!」  しばらく彼は、しらじらとした、部屋の中を見まわしていたがふとその目が壁にかかっていた柱時計の上に落ちた。しかし、彼の注意をひいたというのは、その時計の文字盤ではなくて、下の振り子のほうである。止まっている振り子のそばに、なにかしら、金属製の小さな棒のようなものがつかえているのを、高見はガラス越しに発見した。彼はつかつかとそのそばによると、ガラス戸を開いて、そっと棒を取り出した。鍵だった。銀色に光っている小さな鍵だった。はてな——? と彼が首をかしげたとたんである。ふいに、耳のそばで、チンチンチンと時計が鳴り出したので、彼は驚いて時計を振り仰いだ。時計は八つを打つと、コト、コトコトと静かに、規則正しく動き出した。鍵に支えられて止まっていた振り子が動き出したので、時計はまた働き出したのだ。それにしても——?  高見はそのとき、卒然として、さっきドアごしに聞いた時計の音を思い出した。あのとき、時間はたしか九時だった。そしてこの時計は一つ打ったきりで止まってしまった。すなわち、この時計はあのとき止まったのだとすれば、鍵をここへ隠したのは、あのときの丹夫人であらねばならない。  高見はわけのわからぬ謎《なぞ》に、ふかく思いを閉ざされながら部屋の中をもう一度見回した。と、そのとき、彼の目にうつったのは、壁の中に作りつけになっている大きな丹夫人の化粧台と、そして、化粧台の下部についている鍵孔だった。  そうだ。秘密はこの中にあるのだ。  丹夫人の化粧台とそしてあの猫の鳴き声! 高見はやにわに化粧台にとびかかると、鍵を鍵孔に突っ込んだ。鍵はピッタリとあった。カチリ! 錠の解ける音がした——  そのあとのことを、高見はあまり明瞭《めいりよう》におぼえていない。  ふいに、パタンと開いた化粧台の奥から、真黒な怪物が飛び出したかと思うと、それが、高見の咽喉仏をめがけてとびかかって来た。人間であることにまちがいはなかった。しかしなんという奇妙な人間だったろう。  高見は紙のように白い、少年の美しい、しかし猛獣のように残忍な顔と、その上に垂れさがっている、もじゃもじゃとした長い髪の毛を見た。少年は犬のように舌をはきながら、目をいからせて、高見の咽喉をぐいぐいと締めつけた。  そして、相手がまもなく気を失って、ぐんにゃりと床の上に倒れたのを見ると、初めて締めつけていた手をゆるめた。丹夫人がこの部屋に現われたのはちょうどその時である。彼女は床の上に倒れている高見の姿から美貌《びぼう》のしかし体の変型し痛められた少年の上に視線を移した。 「譲二!」丹夫人は二、三歩前へ進むと、しかりつけるように悲しんだ。が、そのつぎの瞬間、彼女はくるくるとめまいを感じて倒れてしまった。  奇怪な化粧台の奥の少年を殺して、丹夫人が自殺してしまったいまとなっては、その後下沢の手によって発見された、初山の日記によるより、この不可思議な謎は解くべくもない。  初山の日記には、つぎのような驚くべき臆測《おくそく》が書き綴られてあった。 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]  ——夫人の高価な、もろもろの嫁入り道具の中に、かくのごとき驚くべき調度が隠されてあったとは、はたしてだれが想像しえよう。夫人は猫や小鳥の代わりに、美貌の少年を数々の道具の中に加えておいたのだ。少年の名は鈴木譲二、嫁入り前の夫人とある種の関係があったと信ずべき筋を、残念ながら私は発見した。それにしても、十七の年からまる十二年間、化粧台の奥に隠れすんでいた少年も少年であるが、それを見事にかくまいおおせた夫人は、またなんというすばらしい悪魔であったろうか。私は一度この少年を見た。長い間の不規則な生活で、肉体を痛められたこの美貌の少年と、丹夫人の奇怪な遊戯の現場を目撃したとき、私はもはや、この世の中のいかなるものをも信ずることができなくなってしまったのだ。——(後略) [#ここで字下げ終わり]  下沢はこの日記を、だれにも見せずに焼き捨ててしまった。  高見はいま湘南の地で神経衰弱の体を養っている。ときどき彼は、あのおそろしい猫の鳴き声を耳にして、深夜がばと寝床の上に起き直ることがあった。思うにあの猫の鳴き声はいまわしき男女のあいびきの合図ででもあったのだろう。  本書には今日の人権意識に照らして不当・不適切と思われる語句や表現がありますが、作品執筆時の時代背景や作品の文学性などを考慮しそのままとしました。 [#地付き](角川書店編集部) 角川文庫『山名耕作の不思議な生活』昭和52年3月10日初版発行