姿なき怪人 横溝正史 [#表紙(表紙.jpg)]  目 次   姿なき怪人    第1話 救いをもとめる電話    第2話 怪屋《かいおく》の怪    第3話 ふたごの運命    第4話 黒衣の女   あかずの間《ま》 [#改ページ] [#見出し]   姿なき怪人 [#改ページ] [#小見出し] 第1話 救いを求める電話    あごに傷のある男 「君、そんなことをいうけれどね、あの娘《むすめ》は、わたしにとってはだいじな旧友《きゆうゆう》の娘だ。君みたいな道楽者《どうらくもの》と結婚《けつこん》させることは、ぜったいにできん!」  と、怒《いか》りにふるえる声とともに、どしんとテーブルをたたくような音を聞いて、新日報社《しんにつぽうしや》の三津木俊助《みつきしゆんすけ》と探偵小僧《たんていこぞう》の御子柴進《みこしばすすむ》は、おもわず、はっとドアのまえで立ちどまった。  いまのはたしかに板垣博士《いたがきはくし》の声である。三津木俊助と進は、板垣博士とそうとう長いつきあいだけれど、温厚《おんこう》な博士があのようにこうふんしてひとをののしるのをきいたのは、いまがはじめてである。 「三津木さん、だれかお客さまのようですね」 「ふむ、困《こま》ったね」  三津木俊助はドアをノックしようとした手をとめて、探偵小僧と顔見あわせたが、そのときだった。  またしてもへやのなかから板垣博士の怒りにふるえる声がきこえてきた。 「いかん、いかん。ぜったいにそんなことは許《ゆる》せん。君はおおかた早苗《さなえ》の財産《ざいさん》をねらってるんだろう。早苗もちかごろそれに気がついて、君をこわがっているんだ。こんごぜったいにあの娘にちかよることは許さん!」  雲行きがいよいよ険悪《けんあく》になってきたので、三津木俊助はとほうにくれたようにあごをなでていた。  そのときへやのなかから、いままでおさえにおさえていた怒りがばくはつしたような、若《わか》い男の声がきこえてきた。 「ようし、わかりました。先生!」  若い男は声をふるわせて、 「先生はわたしを誤解《ごかい》していらっしゃるんだ。なるほどぼくは道楽者だった。しかし、早苗さんによって、ぼくは立ちなおろうと思っていたんだ。それを、それを先生はじゃまなすった。いまにどんなことが起るかおぼえていらっしゃい」 「な、な、なんだと……? 君、木塚《きづか》君、君まさか無分別《むふんべつ》なまねを……」  と、そういう板垣博士の声はいくらか不安にふるえている。 「いいじゃありませんか。ぼくが無分別なまねをしたって。ぼくは悪魔《あくま》にたましいを売ってやる。そして……そして、だんことして、あなたと戦ってやる。そのときになってほえづらかいたって、ぼくの知ったことじゃありませんぜ。じゃあ、先生さようなら、永遠《えいえん》にさようならだ。あばよ、じいちゃん」  若い男の声がせせらわらうような調子になったかと思うと、つかつかと足音がこちらへちかづいてきた。  三津木俊助と探偵小僧のふたりが、姿《すがた》をかくすひまもなく、さっとなかからドアがひらいた。 「あっ!」  さすがにその男も思いがけなく、ドアの外にひとが立っていたので、ぎょっとしたように立ちすくんだ。  年は三十前後だろう。身長は一メートル七二センチくらい、色白のいい男ぶりだが、あごのところに傷《きず》あとがあるのと、いま口論《こうろん》したばかりのところとて、いっそう人相がけわしくみえる。  その男はすごい目をして、ギロリとふたりをにらみすえると、コートを腕《うで》にかけたまま、ふたりのあいだをかきわけるようにして、すたすたと廊下《ろうか》をむこうへ立ち去ったが、あとから思えば、三津木俊助と探偵小僧の御子柴進は、このとき、もっと注意ぶかくこの男を観察しておくべきだったのだ。  なぜといってこの男、木塚|陽介《ようすけ》というこの男こそ、のちに世間をふるえあがらせた姿なき怪人《かいじん》そのひとであろうと目《もく》された、奇々怪々《ききかいかい》な人物なのだから。  それはさておき、板垣博士も、ドアの外に立っている三津木俊助と探偵小僧の姿を見ると、 「ああ、三津木くんと探偵小僧……」  と、ちょっとおどろいたように、 「君たち、さっきからそこにいたの」 「はあ、先生、まことにもうしわけございませんが、いまの口論、思わず立ちぎきしてしまいました」 「ああ、いいよ、いいよ。かえってそのほうがいいかもしれん。まあ、いいからこっちへはいりたまえ」  そこは|X《エツクス》大学の構内《こうない》にある、板垣博士の研究室で、へやのなかにはギッチリ本がつまっている。四方の壁《かべ》が本でうずまっているのみならず、へやの中央にある大きなデスクのうえにも本棚《ほんだな》があり、そこにも本がつまっている。  板垣博士は停年でX大学の教授《きようじゆ》の地位から去ったものの、名誉《めいよ》教授としてまだこの大学内に、研究室をもっているのである。板垣博士は日本|法医学界《ほういがつかい》の権威《けんい》であった。    板垣博士《いたがきはくし》  きみたちも、法医学という学問を知っているだろう。  殺人事件《さつじんじけん》などが起ったばあい、死体を解剖《かいぼう》して毒をのんでいるかどうかを検査《けんさ》したり、死後の経過時間《けいかじかん》を推定《すいてい》したり、あるいは血液型《けつえきがた》をしらべたりする医学の学問である。  板垣博士はいまもいったとおり、その法医学の権威で、三津木俊助などもいままでたびたび、むずかしい事件のばあい相談にのってもらっているのである。  さいきんもある事件の証拠品《しようこひん》の鑑定《かんてい》を依頼《いらい》してあったのだが、その結果《けつか》をききにきたところが、はからずも木塚陽介との口論を立ちぎくことになったのだ。 「先生、梶原《かじわら》さんは……?」  と、三津木俊助はへやのなかを見まわしながらたずねた。  梶原というのは博士の助手である。  このへやのおくには、もうひとつへやがあって、そこがほんとうの研究室になっていて、医療器械《いりようきかい》やら薬品やら、死体を解剖するベッドやら、その他さまざまシロウトの目からみたら薄気味悪《うすきみわる》い品々が、ぎっちりつまっているのだが、そこへは博士と梶原助手以外にははいれないことになっていて、いまもぴったりドアがしまっている。 「いや、いまの男がやってきたので、梶原はそとへ使いにだしたんだ」 「いったい、いまの男はどういう人物ですか。悪魔にたましいを売るなんて、キザなことをいってましたが……」 「なあに、メリケン・ゴロだよ」 「メリケン・ゴロとおっしゃると……」 「いや、まあ、それはいつか話そう。それより君から鑑定をたのまれていた品だが……ちょっと待ってくれたまえ。いま持ってくるから」  博士はとなりのへやへはいっていくと用心ぶかくむこうからぴったりドアをしめたが、そのとたん俊助のそばにある卓上電話《たくじようでんわ》のベルが鳴りだした。 「ああ、先生、先生」  と、俊助はドアにむかって叫《さけ》んだが、研究室には防音装置《ぼうおんそうち》がほどこされているので、むこうの物音も聞えないかわり、こちらの声もドアのむこうには聞えないことになっている。  やむなく俊助が受話器を取り上げた。 「ああ、もしもし、板垣のおじさまでいらっしゃいますか。こちら早苗ですけれど……」  受話器をとおして聞えてくる、きれいな女の声を聞いて三津木俊助ははっとした。  早苗といえばたしかさっき話題になっていた女性《じよせい》、すなわち板垣博士の旧友の娘で、さっきの男が結婚をのぞんでいる女性である。 「ああ、もしもし、こちら板垣先生のおへやですが、先生はいま研究室です。すぐお呼《よ》びしますから、少々お待ちください」  三津木俊助は受話器を耳にあてたまま送話器を手でおさえて、 「探偵小僧、そこのドアをノックして、先生にお電話だといってこい」 「はい」  進が立ちあがると、三津木俊助はふたたび送話器にむかって、 「少々お待ちください。いま呼びにまいりましたから、モシモシ、モシモシ、お嬢《じよう》さん……」  三津木俊助は送話器にむかって二、三度呼んだが、どういうものか、むこうからはなんの返事もない。 「モシモシ、お嬢さん、どうかなすったんですか。モシモシ、モシモシ……」  俊助が送話器にむかって叫んでいるととつぜん電話のむこうから、たまぎえるような女の悲鳴が聞えてきた。 「あれえ、あなた、あなた! 助けてえ、あの男がやってきたのよ! あの男がやってきたわ! ああ、すぐそこへやってきたわ!」  それは恐怖《きようふ》のために気がくるったような女の声である。  三津木俊助はぎょっとして、 「お嬢さん、ど、どうしたんですか。だれがそこへやってきたんですか。あの男とはだれのことですか」  しかし、電話のむこうでは、そういう三津木俊助のことばも耳にはいらないらしく、 「ああ、助けてえ! 助けてえ! いやよ! いやよ! この首飾《くびかざ》りはあげられないわ。これは命よりだいじなあたしの宝《たから》よ。あれ! 助けてえ! 助けてえ」 「お嬢さん、お嬢さん、もし、お嬢さん!」  俊助がやっきとなって叫んでいるときとなりのへやから板垣博士が出てきた。 「ああ、先生、たいへんです。早苗さんというかたが……」 「なに? たいへんとは……?」  板垣博士はふしぎそうに受話器をとって、 「早苗、どうしたんだね。こちらは板垣だが……早苗! 早苗! あっ!」  板垣博士は受話器を耳におしあてたまま、しばらくそこにぼう立ちになっている。  三津木俊助が腕時計《うでどけい》に目をやると、時刻《じこく》はちょうど午後四時である。    あの男  乗用車のハンドルをにぎった板垣博士の双眼《そうがん》は、えものをねらうタカのように、らんらんとかがやいている。  板垣博士はとしは六十三歳。老年ではあるが身長一メートル七三センチのからだは、壮健《そうけん》そのもので、雪のような頭髪《とうはつ》をふさふさとうしろになでつけ、くちびるのまわりをふちどる口ひげ、あごひげも、頭髪とおなじようにまっ白である。  いつも黒っぽい洋服を身だしなみよく着て、愛用のひもネクタイが、博士のしゃれた趣味《しゆみ》をあらわしている。 「三津木君、それで、早苗はあの男がきた、助けてえといったというんだね」 「そうです、そうです。なんでもその男というのが、早苗さんの首飾りをねらっているふうでした」  板垣博士は、いま愛用の乗用車をかって、電話で救いを求めてきた、早苗という女性のもとへ急いでいるのである。  助手台に三津木俊助、うしろの席には探偵小僧の御子柴進が乗っていて、みんな不安な思いをいだいている。 「それで、先生が電話をお聞きになったとき、早苗さんというお嬢さんはなんといったんですか」 「いや、それが……ただ、キャッ! というような、悲鳴がきこえて、それからなにかが倒《たお》れるような音がしたきり……」  博士の目は不安そうにくもっている。 「いったい、その早苗さんというかたはどういう女性なんですか。先生の旧友のお嬢さんだとかいうお話でしたが……」 「ああ、君も知ってるだろう。吾妻《あづま》早苗といって、去年アメリカからかえってきたシャンソン歌手……」 「あっ!」  と、うしろの座席《ざせき》で話をきいていた探偵小僧の御子柴進も、思わずおどろきのさけびをもらした。  吾妻早苗といえば、戦後シャンソンの本場といわれるパリーでも、一流のシャンソン歌手とみとめられ、ながらくヨーロッパに滞在《たいざい》していたが、去年アメリカ経由《けいゆ》でかえってきて目下人気絶頂《もつかにんきぜつちよう》の女性である。 「そうそう、そういえば、早苗さんのおとうさんは弁護士《べんごし》だったとか……」 「そうなんだ、吾妻|俊造《しゆんぞう》といってぼくの中学時代以来の親友だったんだ。それが戦後ガンでなくなった。だが、そのときぼくが早苗の後見《こうけん》をまかされたんだ」 「あなたはさっきの男に、早苗さんの財産をねらっているとか、おっしゃってましたが……」 「吾妻……早苗のおやじは財産家だったからな」 「早苗さんにはほかに身寄《みより》は……?」 「ひとりもない。だからぼくが後見をまかされて、財産の管理いっさいをやっているんだ」 「それで、さっきの男というのは……」 「ああ、あれか。あれは、木塚陽介といって、早苗がアメリカにいるじぶん知りあった男なんだ。むこうでなにをしていた男かしれたもんじゃないが、早苗のあとを追っかけて、この日本へかえってくると、しつこくあれをつけまわしているんでね。それでぼくがさっきああして引導《いんどう》をわたしてやったんだ」 「早苗さんの身に、もしなにかまちがいがあるとして、その木塚陽介という男に関係があるとお思いですか」 「さあ、それだよ」  と、板垣博士はまゆ根《ね》をくもらせて、 「早苗はあの男がやってきたといったというが、早苗があの男とよぶのは、木塚陽介以外にないように思うね。しかし、あの電話がかかってきたのは、あの男、木塚がぼくのへやを出ていってから、二、三分しかたっていなかったね。それだとどうも……」 「早苗さんのすまいは……?」 「渋谷《しぶや》の高級アパートにいるんだが……たぶんそこからかけてきたと思うが……」  板垣博士の研究室のある大学は本郷《ほんごう》にある。  本郷から渋谷まで、わずか二、三分でとんでいくというのは、とても人間わざではできない。 「そうすると、早苗さんがあの男とおっしゃったのは、またべつの男ということになりますね。そういう人物に心あたりは……?」 「いや、早苗がたんにあの男といったとすると、木塚のことにちがいない。早苗ははじめあの男にだまされて、心をひかれていたんだ。ところがあいつの正体がわかってからは、ゲジゲジのようにきらって、名まえをいうのさえけがらわしいと、あの男としかいわなくなったんだ。ほかの男ならだれそれというはずだからね」  しかし、その木塚陽介という男なら、電話がかかってくる、わずか二、三分まえに三津木俊助もあっているのである。  三津木俊助はバック・ミラーにうつっている、探偵小僧の御子柴進とおもわず目を見かわした。    写真とナイフ  聚楽《じゆらく》会館というのは、渋谷|松濤《しようとう》にある高級アパートである。  シャンソン歌手の吾妻早苗は、この聚楽会館の三階のフラットに住んでいる。そのフラットのドアのまえに立って、ベルを押《お》そうとした板垣博士は、おもわずあっとひくくさけんで、うしろにひかえた三津木俊助と進をふりかえった。 「三津木くん、あれ……」 「えっ?」  と、三津木俊助と進が板垣博士の指さすところをみると、ドアの下にハンケチが一枚《いちまい》ひっかかっているが、そのハンケチにぐっしょりとドスぐろいしみがついている。  三人はいっせいに、そのハンケチのうえにかがみこんだが、思わずぎょっと顔見あわせると、 「血だ!」 「血ですね」  板垣博士はすぐにからだをシャンと起すと、いそいでベルを押したが、なかからはなんの返事もない。 「早苗! 早苗! おれだ、わたしだ、板垣だよ。ここちょっとあけておくれ」  ドンドン、ドアをたたいたが、依然《いぜん》としてなかから返事はなかった。 「先生、そのドア、カギがかかっているんですか」  三津木俊助に注意をされて、 「ああ、そう」  と、博士は、はじめて気がついたように、ドアのノブをひねったが、ドアにカギがかかっていなかったらしく、なんなく開いた。  一同が顔見あわせながら、なかへはいっていくと、そこは、小げんかんになっており、右手がせまい応接室《おうせつしつ》、左手が台所、正面が居間《いま》になっていて、居間のおくが寝室《しんしつ》になっている。 「早苗……早苗……早苗はいないか」  と、板垣博士は呼びながら居間のなかへはいってきたが、おもわず、そこでぎょっとばかりに立ちすくんだ。  居間のすみの小さなテーブルのうえに卓上電話がおいてあるが、その受話器がはずれたまま、だらりとテーブルから垂《た》れている。  そして、そのテーブルのそばのじゅうたんを、ドスぐろくいろどっているのは、ひとかたまりの血である。  しかもその血だまりのそばに妙《みよう》なものが落ちている。  それは果物《くだもの》などをむくナイフだが、そのナイフにへんなものがささっている。  三津木俊助がのぞいてみると、それはブロマイドのような写真で、写真のぬしは見おぼえのある吾妻早苗らしかったが、その写真のうらがぐっしょりと血にぬれているのである。  むろん、ナイフのきっさきが血にそまっていることはいうまでもない。  それにしても早苗は……? 「早苗! 早苗! 早苗はどうした……?」  日ごろ冷静な板垣博士も、この目をそむけたくなるような情景《じようけい》をみると、とつぜん気がくるったようにさけびながら、寝室のドアをひらいたが、しかし、そこにも早苗の姿はみえないのである。 「み、三津木くん」  と、板垣博士は声をふるわせて、 「さ、早苗はどうしたんだろう。早苗は……」 「先生、どちらにしても警察《けいさつ》へ電話をかけたほうがよさそうですね。これだけ血が流されているのですから……」  そういいながら俊助は足もとの血と、さっきドアのところでひろってきたハンケチの血を見くらべている。  そのハンケチは、どうやら早苗のものらしかったが犯人《はんにん》が殺人ののちに手をふいていったものらしい。 「み、三津木くん、いっさいは君にまかす。わたしには、どうしてよいかわからない。おお、早苗! かわいそうな早苗……」  さすが法医学の権威者も、じぶんの身辺に起った事件だけに、どうしてよいかわからないらしい。 「承知《しようち》しました」  三津木俊助は、はずれている受話器から、指紋《しもん》を消さぬように用心しながら、受話器をもとの卓上電話のうえにおくと、もういちど受話器をはずして、一一〇番へダイヤルをまわしかけたが、そのときだった。  玄関のドアがひらく音がして、だれかこっちへはいってくる。  三津木俊助は、ダイヤルをまわしかけた手をやめて、はっと板垣博士と顔見あわせたが、そのとき居間のドアを細目にひらいて、そっとなかをのぞいたのは、なんと、さっき出あった木塚陽介ではないか。 「あっ、き、きさま!」  木塚はひとめで、その場のようすをみると、バタンと居間のドアをしめ、あいにくそのカギあなにさしてあったカギでガチャリ! とドアにじょうをおろした。  そして、一同がそのドアにぶつかっていったとき、げんかんから外へとびだして、足早にろうかを走っていく足音がする。  ああ、それにしても、吾妻早苗はどうしたのだろうか。もし、殺されたとしたら、その死体はいったいどうなったのであろうか。  これこそ、こんごかずかずの怪事件《かいじけん》をひきおこす、姿なき怪人のさいしょの一ページであった、とのちになって思いあわされたのである。    三津木俊助の推理  はからずも、血にぬれた吾妻早苗のへやにとじこめられた三人、すなわち三津木俊助と探偵小僧の御子柴進、それから法医学者板垣博士の三人が、かけつけてきた所轄署《しよかつしよ》の係官によってすくいだされたのは、それから約三十分のちのことであった。  ここであらかじめことわっておくが、早苗のへやの電話は、聚楽会館の交換台《こうかんだい》を通じて外部と連絡《れんらく》するのではなく、ふつうの家庭の電話のように、直接《ちよくせつ》交換局を通じてほかと話ができるようになっているのである。  したがって聚楽会館の管理人と電話で話をするためには、管理人のへやの電話番号を知っていなければならない。  だからへやのなかへとじこめられた三津木俊助は、大急ぎで電話帳をさがしてみたのだが、あいにくすぐに見つからなかったので、やむなく一一〇番へ電話して、かけつけてきた警察のひとから管理人に話してもらって、やっとドアをひらいてもらったのである。 「三津木くん、なにか殺人事件があったんだって?」  所轄署のひとびとから、ひとあしおくれてかけつけてきたのは警視庁《けいしちよう》の等々力警部《とどろきけいぶ》。俊助の顔をみるなり、どなりつけるようにたずねたが、そばにいる板垣博士に気がつくと、 「あっ、これは板垣先生、先生がどうしてここに……?」  とちょっと意外そうな顔色である。  等々力警部もいままでたびたび、板垣博士のやっかいになっているので、博士のことはよく知っているのである。 「いや、警部さん、いまも所轄のひとたちに話していたんですが、ひょっとすると殺されているんじゃないかと思われるのは、板垣先生の旧友のお嬢さんで、先生にとっては被後見人《ひこうけんにん》になるひとなんですよ」 「ほほう」  と、等々力警部は目をまるくして、 「いまこのへやへはいるとき、ドアのそばにかかっている表札《ひようさつ》を見たんだが、吾妻早苗さんというのは、ひょっとするとあの有名なシャンソン歌手では……?」 「そうです、そうです。その吾妻早苗さんのおとうさんの、吾妻俊造さんというもと弁護士だったひとが、中学時代以来の板垣先生の親友だったそうで……」 「ああ、それは、それは……先生、とんだことでした」 「ああ、いや、等々力くん」  と、板垣博士は目をしばたたいて、 「君にそういわれてもわしにはなんとも返事ができん。わしは早苗が殺されたとは思いたくないんじゃ。あれはどこかで生きている。これはなにかのまちがいなのじゃ。そうとも、まちがいにきまっとる!」  博士はだんこといいはなったが、そういいながらも目をうるませているところを見ると、博士も心の中では早苗が殺されたのではないかと、ひそかに心配しているのにちがいない。  どんな大犯罪《だいはんざい》に直面しても、顔色ひとつかえたことのない、いつも冷静な博士だけれど、事件が親友のお嬢さんに関するだけに、やはり心が動揺《どうよう》しているのであろう。  そこで三津木俊助がさっきの電話のいきさつを語ってきかせると、等々力警部をはじめとして、そこにいあわせた係官一同が驚《おどろ》いて、 「すると、早苗さんというひとが板垣先生に電話をかけてきた。ところがその最中に犯人がやってきたので、早苗さんは電話で板垣先生にすくいをもとめたが、そのうちに犯人にやられた……と、こういうことになるのかね、三津木くん」 「はあ、警部さん、だいたいそういうことになるんですが……」 「それで、早苗さんは犯人の名前をいわなかったのかね。どこのだれとか……」 「いや、ところが早苗さんはただあの男としかいわなかったんです。このあの男についてはあとでお話ししますが、ぼくにはどうも、もうひとつふに落ちないところがあるんです」 「ふに落ちないところというのは?」 「ほら、その凶器《きようき》のナイフです。そのナイフに早苗さんの写真がつきさしてあるでしょう。これがぼくの聞いた早苗さんの電話とむじゅんするように思うんです」 「むじゅんとは、どういうむじゅん……?」 「いや、そのナイフに早苗さんの写真をつきさしてあるところから、ぼくはこう判断《はんだん》するんです。つまりある男が早苗さんに結婚をせまるとする。早苗さんがそれを拒絶《きよぜつ》する。そこでその男がおこってぼくと結婚してくれなければ、このとおりだとナイフで写真をつきさしておどかす。それでも早苗さんが承知しないので、とうとう早苗さんをつきさした……と、こう考えると、ナイフに早苗さんの写真がつきささっている理由も、説明がつくと思うんです」  なるほど、なるほど、というように板垣博士はうなずいている。  三津木俊助のその説にたいそう感心しているのである。 「しかし、三津木くん」  と、等々力警部は考えながら、 「君のその説と電話とべつにむじゅんすることはないじゃないか。早苗さんが電話をかけているのを、犯人がもぎとって、改めていま君がいったように、早苗さんをきょうはくしたんじゃないか」 「いや、ところがぼくは電話をしまいまで聞いていないんです。途中《とちゆう》で板垣先生にわたしたんですが、板垣先生のおっしゃるのに、先生が受話器をとりあげるとすぐ、キャッという女の悲鳴が聞えて、なにかバターンとものが倒れたような音が聞えたとおっしゃるんです。先生、そうでしたねえ」  板垣博士は、無言《むごん》のままうなずいている。 「だから、そのとき早苗さんがさされたのだとしたら、犯人はいつ、なんのために早苗さんの写真をナイフで突《つ》きさしたのか、それがぼくにはふに落ちないのです」 「なるほど」  と、等々力警部も思案顔だったが、 「しかし、どちらにしても、これは早苗さんの死体を発見するのが先決問題だよ。こういうことをいうと、板垣先生にすみませんが……」 「いや、いや、等々力君、もし早苗が殺されたものだとすれば、一|刻《こく》もはやく調査《ちようさ》してもらわねばならん。およばずながら、わしも協力するつもりじゃが……」 「いや、ありがとうございます。それじゃ三津木くん、こんどはあの男について話してくれたまえ。それからだれが君たち三人を、このへやにとじこめたのかということも……」  と、等々力警部は、あらためて三津木俊助のほうへむきなおった。    恐怖のトランク  その晩《ばん》の九時ごろのことである。  本郷《ほんごう》三丁目にある医療器具店S・S商会へ、ふしぎな客がやってきた。 「ああ、ちょっとおたずねするがね、X大学の法医学教室へ医療器具をおさめているS・S商会というのはこちらだね」  その声に店頭で将棋《しようぎ》をさしていた支配人《しはいにん》と店員が、ひょいと顔をあげると、店先に立っていたのがその男であった。  あとで支配人と店員が口をそろえて述《の》べたてたその男の人相書きをここに記しておくと、身長は一メートル七二くらい、長いレインコートを着て、頭からすっぽりフードをかぶっていた。そして大きな黒めがねと感冒《かんぼう》よけのマスクをかけ、レインコートの襟《えり》をふかぶかと立てていたので、顔はほとんどわからなかった……と、いうのである。 「へえへえ、X大学の板垣先生にはいつもごひいきになっておりますが……」  と、支配人が将棋をやめて店先へ出てくると、 「ああ、そう、それじゃすまないが、あしたの朝まで、この旅行カバンをあずかっておいてくれないか」  と、そういわれて支配人が足下をみると、いつの間にかつぎこんだのか、ショー・ウィンドウのそばに大きな旅行カバンがおいてあった。 「へえ、この旅行カバンは……?」  と、支配人がふしぎそうに客の顔をみると、 「いや、じつは板垣君にたのまれて、この旅行カバンを、いま研究室へもっていったところが、研究室はもうしまっているんだ。そこでさっき板垣君の自宅《じたく》へ電話をかけて相談したところが、そんな重いものをあちこち持ち運ぶのはめんどうだろうから、本郷三丁目のS・S商会という医療器具店へあずけておいてくれ。そうすればあした学校へいくとちゅう、じぶんが寄《よ》って引き取るから……とこう板垣君がいうんだがね」 「ああ、さようで。それはおやすいご用で。おい、山本《やまもと》君、ちょっとこっちへきて手伝ってくれたまえ。店の中へいれておこう」 「いや、どうも、手数をかけてすまないね」 「とんでもございません。板垣先生には昔《むかし》から、いろいろごひいきやらご指導《しどう》にあずかっておりますんで、なに、これしきのこと……おっと、これはずいぶん重うございますね」 「ああ、電気器具だからね。狂《くる》うといけないから、そうっと運んでくれたまえよ」 「承知《しようち》しました」  支配人と山本店員のふたりで、やっとその旅行カバンを店のすみへかたづけるのをみて、 「それじゃ、すまないが、あしたの朝まで頼《たの》んだよ」 「あの、失礼ですがお名前は……?」 「いや、名前はいわなくても板垣君がよく承知している。さっき電話をかけておいたんだから」 「ああ、さようで。それではたしかにおあずかりいたしました」  と、支配人が店先まで送って出ると、ふしぎな客は、表に待たせてあった乗用車を、じぶんで運転して立ち去った。  ところが、その翌日《よくじつ》の十二時ごろのことである。 「坂崎《さかざき》さん、坂崎さん、ちょっと……」  と、山本店員から声をかけられて、坂崎支配人は、 「なんだい、山本君」  と、読んでいた朝の新聞から顔をあげた。 「あの……ゆうべおあずかりした旅行カバンですが……」 「ああ、板垣先生が取りにお見えになったのかい」 「いえ、そうじゃないんですが、ちょっと妙なことがあるんです」 「妙なことってなんのこと?」 「いえ、まあ、こっちへきてみてください」 「どうしたんだい、顔色かえて……この旅行カバンがどうかしたというのかい」  支配人がふしぎそうに旅行カバンのそばへやってくると、 「坂崎さん、ほら、その旅行カバンの底からにじみだしている黒いしみ、そ、それ、人間の血じゃありませんか」 「な、な、なんだって!」  坂崎支配人もびっくりしたように、旅行カバンのそばへかがみこんだ。  そこは土間のすみっこの、昼でもほの暗いところなので、いままでだれも気がつかなかったのだが、いま山本店員に注意をされてよくみると、この旅行カバンの底にはどこかきずがあって、そこからにじみでたものか、土間にくろいシミができている。  支配人が指でちょっとさわってみると、ねばねばとしたその液体《えきたい》は、まだ生《なま》かわきで少しぬれている。  支配人はその指をそっと鼻さきへもっていったが、 「あっ、や、山本君、こ、こりゃあたしかに血だ!」 「さ、さ、坂崎さん、ひょっとするとけさの新聞にのっていた、吾妻早苗さんの死体じゃ……」 「あっ!」  と、坂崎支配人はふたたび驚いて、 「そ、そ、そうだ、いや、そうかもしれん。吾妻早苗というのは板垣先生の被後見人だと新聞に出ていたね。き、君、さっそく板垣先生に電話をかけたまえ。いや、ぼ、ぼくがかけよう」  坂崎支配人の電話がかかってきたときちょうどさいわい、研究室には、等々力警部、三津木俊助、探偵小僧の御子柴進の三人がきあわせていた。  きのう早苗のアパートで発見された、血液鑑定の結果をききにきていたのである。  それから十五分ののち、取るものも取りあえずかけつけてきた一同が、むりやりにじょうをこわしてトランクをひらくと、なかから現《あら》われたのはまぎれもなく、吾妻早苗の死体であった。  早苗はもののみごとに心臓《しんぞう》をえぐられているのである。    探偵小僧の発見  どうもふしぎな事件であった。  すべての事情《じじよう》が木塚陽介を、犯人として指さしているように思われる。  木塚は早苗と結婚したがっていた。これは板垣博士の説のみならず、げんに三津木俊助や探偵小僧の御子柴進も、ドアの外の立ちぎきで、だいたいそれと察していたのだ。  いや、いや、三津木俊助や進のことばをまつまでもなく、木塚や早苗の友人はみんなそのことを知っていた。  いちじ早苗も木塚に心がかたむいていた。いつかふたりは結婚するのではないかといわれていた。  だから、三津木俊助の推理《すいり》のとおり、木塚が早苗に結婚をせまったが、早苗が承知しなかったので、早苗の写真をナイフで突きさしておどかしたが、それでもなおかつ早苗が承服《しようふく》しなかったので、とうとう写真ごと早苗をつきさしたのではないかという説は、いかにも、もっとものように思われるのである。  また、早苗があの男とよぶような人物も、木塚のほかには思いあたらなかったし、それに第一、木塚という人物の正体がはなはだあいまいなのである。  フランスで人気をはくしたシャンソン歌手の吾妻早苗が、アメリカ経由で日本へかえるとちゅう、アメリカで親しくなって、早苗のあとを追うように、日本へまいもどってきた男……と、ただそれだけしかわかっていない。  しかも、早苗の周囲にはどう考えても彼女《かのじよ》を殺害しそうな男は見当たらないのである。  あの電話のことさえなかったら、早苗はぜんぜん見しらぬ強盗《ごうとう》に、殺されたのかもしれぬといえるだろう。  しかし、早苗はげんに俊助にむかって、あの男がやってきたのよ! あの男がやってきたわ! と、絶叫《ぜつきよう》しているのである。あの男といったからには、かねてから早苗の知っている男にちがいない。  そして、まえにもいったように、板垣博士の説によると、早苗はちかごろ木塚の名前を口にするさえいやがって、いつもあの男としかいわなかったという。  こう考えてくると、木塚陽介以外に早苗を殺した犯人はないと思われるのに、しかも木塚陽介にはハッキリとしたアリバイがある。  あの電話がかかってきたのは、木塚陽介が板垣博士の研究室をとびだしていってから、わずか三分ほどのちのことである。  いかに機械文明の発達している現在《げんざい》でも、わずか三分で本郷から渋谷までいくことはできないだろう。  だから、あの電話がかかってきたとき、木塚陽介はまだX大学の付近をうろうろしていたはずである!  だから、木塚陽介は早苗を殺すことは不可能《ふかのう》である!  だが、それにもかかわらず、三津木俊助をはじめとして、等々力警部やその他警察のひとびとは、やはり木塚陽介をあやしまずにはいられなかった。  なぜならば、早苗が殺されたその日以来、木塚はゆくえをくらましているのである。  木塚は日本へまいもどって以来、丸《まる》の内《うち》のNホテルにとまっていたのだが、あの日昼すぎホテルを出て、それから夕方の六時ごろいちどかえってきたが、ちょうどそこへどこからか電話がかかってきて、また、ホテルをとびだして、それきりゆくえがわからなくなっているのである。  逃亡《とうぼう》こそもっとも雄弁《ゆうべん》な犯行《はんこう》の告白である——と、いう言葉もあるではないか。そうすると、やっぱり犯人は木塚陽介なのだろうか。 「ふしぎですねえ、どうもぼくにはこの事件がよくわかりませんねえ」  事件があってからもう五日になる。  それにもかかわらず、木塚のゆくえはまだわからないのだ。  きょうもきょうとて、大学の板垣博士の研究室へ集まったのは、三津木俊助と等々力警部、それから探偵小僧の御子柴進の三人である。 「三津木くん、なにが、わからないんだね」 「だって、警部さん、犯人はなんだって早苗さんの死体を、板垣先生のところへ送りとどけようとしたんです?」 「そりゃあ、先生にうらみがあるから、これみよがしに送ってきたんだろう」 「と、いうことは犯人は木塚だということですね。だけど、それだとしたら木塚はなぜ現場《げんば》へまいもどってきたんです。われわれをあのへやへとじこめていったのは、たしかに木塚陽介でしたよ」 「そりゃあ、おおかたなにか忘《わす》れものがあったんだろうよ」 「そう、そうかもしれませんが……」  と……三津木俊助はしばらく考えこんでいたが、きゅうに思いだしたように、 「先生、板垣先生」 「なあに、三津木くん」 「いま、ふっと思いだしたんですが、早苗さんはなにか高価《こうか》な首飾りを持っていたんですか。命にかえてもだいじにしなければならないような……」 「三津木くん、それ、どういう意味?」  と、板垣博士はふしぎそうにまゆをひそめる。 「いや、これはいまふっと思い出したんですが、あのとき早苗さんはこんなことをいってましたよ。ああ、助けてえ! 助けてえ! いやよ! いやよ! この首飾りはあげられないわ。これは命よりだいじなあたしの宝よ。あれ、助けてえ! 助けてえ!……と」 「な、な、なんですって? 三津木さん」  と床《ゆか》からとびあがったのは探偵小僧の御子柴進だ。 「三津木さん、もういっぺんいってみてください。いまの言葉をもういっぺんいってみてください」 「探偵小僧、どうしたんだ。いまの言葉がなにか……?」 「いいから、もういっぺんいってみてください」 「そりゃあ、いえというならなんべんでもくりかえすがね」  三津木俊助がおなじ言葉をくりかえすのを、進はわなわなからだをふるわせながらきいていたが、 「わかった! わかった! それでなにもかもわかった! みなさん、しばらくここで待っていてください。あとで、ぼくここへ電話をかけてきますから、どこへもいかずに、ここで待っていてください!」  そう叫んだかと思うと進は、まるで、はやてのようにそのへやをとびだしていった。  いったい、探偵小僧はなにを発見したのであろうか。    あっぱれ探偵小僧 「探偵小僧のやつ、いったい、なにを発見したというんだろうねえ」 「なにか早苗の電話の声について、心当たりがあったようだな」  と、等々力警部と板垣博士はふしぎそうな顔色である。  探偵小僧がX大学の法医学教室を、とびだしていってから、もう半時間になるが、約束《やくそく》の電話はまだかかってこないのである。  板垣博士と等々力警部、それに三津木俊助の三人は、さっきから手持ちぶさたのように、時計とにらめっこをしていたが、やがて三津木俊助が思いだしたように、 「それはそうと板垣先生」 「はあ」 「早苗さんは、そんなに高価な首飾りを持っていたんですか。命よりだいじな首飾りというようなものを……」 「いや、三津木くん、わたしもそれをふしぎに思っていたんだ。早苗はほんとにそんなことをいいましたか」 「はあ、たしかにそういいましたよ。いやよ! いやよ! この首飾りはあげられないわ。これは命よりだいじなあたしの宝よ。あれ、助けてえ……と」 「妙ですねえ、早苗は親ゆずりの財産を持っていたし、それに外国がえりだから、首飾りも、そりゃ、いろいろ持っていたろうが、命よりだいじな宝というようなものを持っていたかどうか。それにあれはまだ昼間のことだったろう。昼間から、しかも、じぶんのへやで、そんなだいじな首飾りをつけていたというのはふしぎだねえ。たとえ早苗が命よりだいじな首飾りを持っていたとしてもだね」 「そうなんです。それをぼくもふしぎに思っているんですが……」 「だけど、早苗さんはたしかにそういったというんだね。これはわたしの命よりだいじな宝だと……」  と、そばから等々力警部が念をおしたとき、だしぬけに卓上電話のベルがけたたましく鳴りだした。  板垣博士は受話器をとりあげると、 「ああ、御子柴くんか。君、いまどこにいるの? ええ? ああ、もちろん三津木くんも等々力警部もここにいるよ。三津木くんにかわろうか。ええ? なに? われわれみんなに聞いてほしいって? ああ、そう、では受話器に拡声装置《かくせいそうち》をつけるから、ちょっと待ってくれたまえ。そのあとで三津木くんに出てもらうからね」  板垣博士は受話器をおくと、 「三津木くん、いまお聞きのとおり、探偵小僧が妙なことをいってるぜ。ちょっと準備《じゆんび》をするから待ってくれたまえ」  板垣博士は受話器に拡声装置をほどこしたあとで、三津木俊助がそれをとりあげた。 「ああ、探偵小僧か。こちら三津木だ。なにかわれわれに聞かせたいことがあるって?」 「ええ、三津木さん」  と、そういう探偵小僧の声は、拡声装置のために、へやいっぱいにひろがるのである。 「ぼく、いまほかのひとと交代しますから、そのひとの声を注意ぶかく聞いていてください」 「ほかのひとってだれだい?」 「いいえ、聞いてればわかります。それじゃ交代しますから」  しばらくしいんとしていたが、とつぜん聞えてきたのは、たまぎえるような女の金切り声である。 「あれえ、あなた、あなた! 助けてえ! あの男がやってきたのよ! あの男がやってきたわ! ああ、すぐそこへやってきたわ!」  一同はぎょっとして息をのんだ。それはどうやら、いつか三津木俊助が聞いた電話の声とおなじらしかった。  一同がなおも耳をすましていると、またひきつづいて女の声が聞えてきた。 「ああ、助けてえ! 助けてえ! いやよ! いやよ! この首飾りはあげられないわ。これは命よりだいじなあたしの宝よ。あれ! 助けてえ! 助けてえ!」  それからまたちょっとまをおいて、 「キャッ!」  と、いう悲鳴が聞えたかと思うと、やがてドスーンとものの倒れるようなにぶい物音が聞えてきた。  一同がシーンと、顔を見合わせていると、やがてまた探偵小僧の声にかわって、 「三津木さん、いまのをお聞きになりましたか」 「ああ、聞いたよ、聞いたよ、探偵小僧!」  と、俊助は興奮《こうふん》した声をしずめながら、 「しかし、いまの声はいったいどうしたんだ」 「いや、それをお話しするまえに、いつか三津木さんのお聞きになった電話の声というのは、いまの声じゃありませんでしたか」 「ああ、そっくりだよ。だからびっくりしているんだ。おわりのほうのキャッというさけび声と、ドスンとものの倒れる音もそっくりだったと、板垣先生もいっていらっしゃる。いったい、ど、どうしたんだ」 「テレビ映画《えいが》ですよ。三津木さん」 「テ、テレビ映画……?」 「ぼくいまヤマト・テレビのスタジオにいるんです。そして、ここの局長さんにお願いして、『夜の紳士《しんし》』というテレビ映画の録音の一部を、いま電話口でかけてもらったんです。ぼく前にそのテレビを見ていて、そういうことばがあったことを思いだしたものですから……みなさん、すぐにこちらへきて、もういちど、このテレビを見てください!」  それから三十分ののち、ヤマト・テレビのスタジオへかけつけた三人は、局長の好意《こうい》によって『夜の紳士』を見せてもらって、おもわず手に汗《あせ》をにぎりしめたのである。  『夜の紳士』というのは連続物で、一同が見せてもらったのは、『夜の紳士』のなかの『真珠《しんじゆ》の首飾り』という三十分もののテレビ映画であった。  その筋《すじ》をいうと、ある金持ちの夫人が外出している夫と電話で話をしているところへ、『夜の紳士』というあだ名で知られている紳士強盗が、夫人の身につけている首飾りをうばいにやってくるのである。  そこで夫人は電話にむかって救いをもとめるのだが、やがて紳士強盗に首をしめられ、キャッとさけんで倒れるのであった。  しかも、この映画は再放送《さいほうそう》されたというから、前に放送されたときに見たものなら、だいたいの筋はわかっていたはずである。  だから、二度目に放送されたとき、あらかじめテレビのまえにテープ・レコーダーを用意しておいて、必要な声の部分だけ録音することができたのである。 「だから、そのまえに、本物の早苗さんの電話の声を録音しておいて、そのあとへこれをつないで電話口でかければ、いかにも早苗さんが電話をかけている最中に、殺されたように思われます。犯人はそうしてアリバイをつくったんじゃないでしょうか」    ねこ背の男  ああ、なんという推理力!  もし、三津木俊助や板垣博士の聞いた電話の声が、録音された声だったとしたら——どうやらそれはもうまちがいないらしいのだが——犯人はいくらでもアリバイがつくれるはずである。  かりに犯人を木塚陽介と仮定《かてい》してみよう。木塚はわざとX大学へやってきて、板垣博士とけんかして出ていった。  そして大学の近所の公衆《こうしゆう》電話から、博士のへやを呼び出して、だれかひとが出ると、電話口でテープ・レコーダーをかけるのである。  あのとき三津木俊助は、電話がおわると同時にうで時計に目をやったが、時刻はちょうど四時だった。だから三津木俊助のみならず、板垣博士も等々力警部も、早苗が殺されたのは四時ちょっとまえだとばかり思っていた。  しかし、じっさいに早苗が殺されたのは、それよりもっと前だったのだ。犯人がアリバイをつくるために、テープ・レコーダーをトリックに使ったのだ。  こう考えてくると犯人が、なぜ早苗の死体をトランク詰《づ》めにして、運びだしたかという理由もうなずける。  電話をきいた板垣博士がすぐにアパートへかけつけたとき、そこに早苗の死体があったとしたら、そこは法医学の最高権威といわれる博士のことだ。  早苗の死体をみて、これはいま殺されたばかりではない。もっと以前に殺されたのではないか、という疑《うたが》いをもつだろう。  だから死体の発見を、できるだけおくらせようとしたにちがいない。  死体というものは時間がたてばたつほど、いつごろ死亡《しぼう》したのか、ハッキリきめることがむずかしくなるのである。  犯人はそこをねらったのだが、それにしてもなにからなにまで、なんといううまいやりくちだろう。  だが、こうなると木塚陽介のアリバイは完全にやぶれた。  そこで警察ではあらためて、板垣博士から聞いた木塚陽介の人相書きやからだつきを発表して、いっぱん市民の協力をあおぐことになったのである。  それによると。——  年齢は三十前後。色白にしてややすご味のある好男子《こうだんし》。あごのところにななめに薄赤《うすあか》き傷あり。身長は一メートル七二センチくらい。ややねこ背《ぜ》にして、ふだんは目だたざるも、急いで歩くとき左足をひきずるくせあり。……  こういう木塚の特徴《とくちよう》のほか、板垣博士をはじめとして、木塚を知っているひとびと——アメリカがえりの木塚には、知人といってもごく少数しかいなかったが——それらのひとびとの意見を参考として作られた、モンタージュ写真が新聞に発表されて、ひろくいっぱんの協力が求められたが、それにもかかわらず木塚のゆくえはようとしてわからなかった。  こうして、一週間たち、十日とすぎたある日のこと、探偵小僧の御子柴進は、三津木俊助にたのまれて、板垣博士の家を訪《おとず》れた。  板垣博士の家は、小石川《こいしかわ》の小日向台町《こびなただいまち》というところにあるのだが、博士は先年|奥《おく》さんに先立たれたうえに、夫婦《ふうふ》のあいだに子どももなかったので、いまでは年とったばあやとふたりきりのやもめ暮《ぐ》らしである。  ところがあいにく進が訪れた日は、博士は地方へ出張《しゆつよう》旅行中とやらでるすだった。  しかたなしに進は、げんかんからひきかえして門から外へ出ようとしたせつな、おもわずぎょっと息をのみこんだ。  門の外に立って博士|邸《てい》のようすをうかがっていたらしいひとりの男が、だしぬけにとびだしてきた進のすがたをみて、あわてて顔をそむけると、ぶらぶらとむこうのほうへ歩きだしたからである。  しかも、顔をそむけるいっしゅんに、進の目にうつったのは、大きな黒めがねに感冒よけの白マスク、それにレインコートのえりをふかぶかと立てたすがたである。  それはいつぞや本郷三丁目の医療器具店、S・S商会へあらわれた、木塚陽介とおぼしい人物にそっくりではないか。  ひょっとすると木塚陽介が、ひそかに板垣博士のようすをうかがいにきたのではないか。……  そう考えると、進の胸《むね》はおどった。  心臓がガンガンと早鐘《はやがね》をうつように鳴りだした。  ひそかにあとをつけながら、目分量で測定《そくてい》すると、身長は一メートル七二センチ、ねこ背であることも一致《いつち》する。  歩きかたにはべつにかわりはなかったけれど、ふだんのときは気がつかないていどで足が悪かったと博士もいっていた。  よし、それじゃひとつ、このねこ背の男をつけてやろう。……  進がそう決心したことに、気がついたのかつかないのか、ねこ背の男はにわかに足をはやめはじめた。  と、そのとき探偵小僧の御子柴進は、はっきりそれと気がついたのだ。  ねこ背の男はあきらかに左足をひきずっている。  そう気がついたとたん、ねこ背の男は小日向台町の坂をくだった。と、そこに止まっているのは一台の乗用車である。ねこ背の男は運転台にとび乗ると、みずからハンドルをにぎって、たそがれの町を走りだした。 「しまった!」  と、口のうちでさけんだ、進があたりを見まわしているところへ、あたかもよし、通りかかったのは一台のタクシーの空車である。進はそれを呼びとめてとびのると、 「君、むこうへいく自動車のあとをつけてくれたまえ。はやく、はやく!」  と、せきたてた。    テープ・レコーダー  ねこ背の男は、あとから乗用車がつけてくると、気がついているのかいないのか、それから半時間ののちやってきたのは、隅田川《すみだがわ》をむこうへわたった、とある工場街《こうじようがい》のいっかくである。  うちつづくちかごろの不況《ふきよう》のために、工場もいまのところ操業《そうぎよう》を中止しているのか、あたりはがらんとして人影《ひとかげ》もない。  黒いトタンべいのつづく工場街は、ちょっと廃墟《はいきよ》のようなかんじである。にょきにょきとそびえる煙突《えんとつ》も、煙《けむり》をはくことを忘れたように、夕やみのなかで沈黙《ちんもく》している。  ねこ背の男が乗用車を乗りいれたのは、そういう工場のひとつであった。  それとみると探偵小僧の御子柴進もタクシーを町角にとめてとびおりた。 「運転手さん、ありがとう。もうかえってもいいよ」  と、タクシーをかえすと進は、黒いトタンべいぞいに門のまえまでちかよった。  門にかかっている古びた木札《きふだ》をみると、 「隅田アルミ加工場」  と、いう札があがっている。  もちろんあまり大きな工場ではなく、どこかの大工場の下うけ工場にちがいない。  通りすがりになかをのぞいてみると、あけっぴろげた門のなかはがらんとしていて、事務所《じむしよ》らしい建物にたったひとつあかりがついているきりである。  進は、いったんそこを通りすぎたが、またひきかえしてくると、すばやくあたりを見まわしたのち、なにくわぬ顔をして工場のなかへはいっていった。  ひとに見つかってとがめられたら、なんとかごまかすつもりなのだ。  あかりのついている事務所をのぞいてみたが、だれもひとはいなかった。  事務所の壁にかかっている時計をみると、針《はり》は五時半を示《しめ》していて、あたりはもううすぐらくなりかけている。  それにしてもさっきの乗用車はどこへいったのかと、事務所の建物のかどを曲ると、むこうの工場の入口に、見おぼえのある車がとまっている。  乗用車のすぐそばにある入口があいているところをみると、ねこ背の男はそのなかへはいっていったにちがいない。  あいかわらず人影はどこにも見当たらなかった。  探偵小僧の御子柴進は、さすがにドキドキ胸を鳴らしながら、その工場へとちかづいた。  工場のなかをのぞいてみると、なにに使う機械なのか、歯車《はぐるま》がいちめんにかみあっていて、ベルトが歯車から歯車へとわたっている。  ねこ背の男はどこにいるのか、あたりはシーンとしずまりかえっていたが、そのうちに進が気がついたのは、この工場のすみっこに小さな事務室がついていることである。  ねこ背の男は、その事務室のなかにいるのではあるまいか。  だが、それにしても、そうとうあたりが薄暗《うすぐら》くなりかけているのに、そこにもあかりはついていないのである。  進は思いきって、工場のなかへふみこむと、事務室のほうへちかよった。  すりガラスをはめた事務室のドアはしまっていたが、かたわらのガラス窓《まど》からなかをのぞくと、はたしてへやのなかにはだれもいない。  進は失望して、窓のそばをはなれようとしたが、そのときふっと目をとらえたものがある。  それはデスクのうえにおいてある四角な箱《はこ》で、大きさからいってポータブルの蓄音機《ちくおんき》ぐらいであった。  ひょっとすると、テープ・レコーダーではあるまいか。  そう気がつくと進は、にわかに心臓がドキドキしてきた。  あたりを見まわしたが、さいわい人影はどこにも見えない。  ええい、ままよ。見つかったら見つかったときのことだとばかりに、進はへやのなかへふみこんだ。  デスクのそばへちかよって、ボックスをひらいてみると、はたしてそれはテープ・レコーダーであった。  進は心臓がドキドキするのをおさえることができなかった。ひょっとすると、このなかに電話の声が吹《ふ》きこんであるのではないか。  進はそのテープ・レコーダーを、かけてみたいという誘惑《ゆうわく》をおさえかねたが、しかし、声が出ればひとに気づかれるにきまっている。テープ・レコーダーを見つめたまま、進はそこに立ちつくしていたが、そのときだ。  だしぬけにパッと室内の電気がついたので、あっとさけんで進がうしろをふりかえると、ドアのところに立っているのは、さっきのねこ背の男ではないか。 「探偵小僧、どうしたんだ。どうしてそのテープ・レコーダーをかけてみないのだ」  ねこ背の男は大きな黒めがねのおくから、進の顔をみながら、にやにやするような声でいった。  マスクをかけているので、妙に不明瞭《ふめいりよう》な声だったが、さっきとちがってレインコートのえりを折っているので、きれいにそったあごがはっきり見える。  そのあごにうっすら残っているのは、薄桃色《うすももいろ》の傷のあと。ああ、やっぱりあの男なのだ! 木塚陽介!  そう考えると探偵小僧の御子柴進は、全身にぐっしょり汗が吹きだしてきた。  舌《した》がうわあごにくっついて、ひざがしらががくがくふるえた。  しかし、ねこ背の男は進にたいして、かくべつ害意はないらしく、うちくつろいだ態度《たいど》で、 「じつはね、探偵小僧、君にちょっと用事があって、わざわざここまできてもらったんだ。だから、べつに心配することはないんだよ」 「ぼ、ぼくに用事ってなんです」 「いや、ほかでもないがこのテープ・レコーダーだ。こいつを板垣のおやじのところへとどけてもらいたいんだが。そのまえにちょっと声を聞いてくれたまえ」  と、つかつかとデスクのそばにちかよったねこ背の男が、テープ・レコーダーにスイッチを入れると、たちまち聞えてきたのは女の声である。 「ああ、もしもし、板垣のおじさまでいらっしゃいますか。こちら早苗ですけれど……」  それからしばらく間をおいて、 「あれえ、あなた、あなた! 助けてえあの男がやってきたのよ! あの男がやってきたわ! ああ、すぐそこへやってきたわ!」  それからまたちょっとあいだがあって、 「ああ、助けてえ! 助けてえ! いやよ! いやよこの首飾りはあげられないわ。これは命よりだいじなあたしの宝よ。あれ! 助けてえ! 助けてえ!」  それからまたちょっと間をおいて、キャッ! と、さけんでドスンという物音が聞えてくるのは、あのテレビ映画とおなじである。 「探偵小僧」  と、ねこ背の男はマスクのおくから、 「そのテープ・レコーダーにはもう少しつづきがあるんだ。よく聞いてくれ」  そのことばもおわらぬうちに、こんどは太い男の声が聞えてきた。 「やい、板垣のおやじ。おまえのおかげでおれはとうとう、早苗さんを殺してしまった。この復讐《ふくしゆう》はきっとするぞ。おれはこれから姿なき怪人となって、人殺しでもなんでも好きなことをやってのけるんだ。ひとつきさまとうでくらべといこうじゃないか。うわっはっは、うわっはっは、うわっはっは!」  テープ・レコーダーよりもれる薄気味悪いその声は、がらんとした工場内にひびきわたって、まるで悪魔の雄《お》たけびのようであった。  進はおもわずひたいの汗をぬぐったが、そのとき工場の外で自動車のエンジンの音が聞えたので、はっとしてあたりを見まわすと、そこにはもうねこ背の男の姿はなかった。 [#改ページ] [#小見出し]  第2話 怪屋《かいおく》の怪    野中の一軒家 「御子柴くん、ちょっと困《こま》ったことがあるんだがね」  そこは|X《エツクス》大学の法医学《ほういがく》教室、板垣博士の研究室である。  三津木俊助のつかいでやってきた探偵小僧の御子柴進をつかまえて、板垣博士はいかにも困ったような顔色である。 「先生、なにがそんなにお困りなんですか」  と、進がたずねると、 「いや、それより君はこれからどうするの。まだなにか用事があるのかい?」 「いいえ、べつに……先生のほうのご用がすんだら、そのままうちへかえってもいいっていわれてきたんですけれど……先生、なにか……?」 「ああ、そう、ところで御子柴くんのところはたしか吉祥寺《きちじようじ》だったね」 「はあ、そうです」 「線路の北っかわ? 南っかわ?」 「北っかわです。駅から成蹊学園《せいけいがくえん》へいくちょうど中間くらいですけれど……」 「ああ、そう、それじゃひとつぼくに頼《たの》まれてくれないか。この品をね、吉祥寺の、あるうちへとどけてもらいたいんだが……」 「ああ、そうですか。そんなことならぞうさないです。どういううちへおとどけすればいいんですか」 「ああ、そうか、そうか、いや、ありがとう。おかげで助かったよ。こんやきっちり八時にとどけるという約束《やくそく》だったんだがね。きゅうにほかに用事ができて、困っているところへ君がきてくれたわけだ。いま地図を書くからちょっと待ってくれたまえ」  と、板垣博士の書いた地図をみると、あいての家というのは、成蹊学園よりだいぶおくの、吉祥寺のはずれにあたっており、人家もまばらなそうとうさびしいところらしい。  あて名は太田垣三造《おおたがきさんぞう》となっている。 「先生、この太田垣三造さんというのはどういうかたなんですか」 「なあに、ぼくのいとこなんだよ。ちょっと変わりもんでね。ちょくちょく収集品《しゆうしゆうひん》の鑑定《かんてい》をたのまれることがあるんだ。こんどもまた鑑定をたのまれて、それをこんや八時にとどける約束になっていたんだが、それがつまりこれなんだがね」  と、板垣博士の出してわたした品というのは、石けん箱《ばこ》くらいの小さな箱で、ハトロン紙でつつんで、ていねいに封印《ふういん》がほどこしてある。 「先生、収集って、そのかたは、なにを収集していらっしゃるんですか」 「いや、それはまたいつか話そう。それじゃ御子柴くん、すまないがこんやご飯でもすんだら、ぶらぶら出かけてとどけてくれたまえ、ああ、そうそう、それから忘《わす》れないように、その品を受け取ったというしるしに、なにか一筆《いつぴつ》受取を書いてもらってきてくれたまえ」 「はあ、承知《しようち》しました。それじゃあしたでもその受取を、ここへとどけにまいります」 「ああ、そう、そうしてもらえばありがたい。じゃ、ひとつ、よろしく頼む」  と、以上のようないきさつから、探偵小僧の御子柴進が、板垣博士から小さな包みをことづかったのが、六月二十日の午後五時ごろのことである。  進はその足で、吉祥寺の自宅《じたく》へかえると、晩《ばん》ご飯を食べ、七時半ごろ家を出た。  進の家から地図にある太田垣三造の家までは、ぶらぶら歩いても二十分くらいの距離《きより》らしいが、少しはやめに家を出たのだ。  六月二十日といえばまだつゆのさいちゅうである。  きょうはさいわい一日天気がもったが、進が家を出るころから、またベショベショといんきな雨が降《ふ》りはじめていた。  だから進はレインコートにフードをかぶり、足には長ぐつをはいていた。  吉祥寺も太田垣三造の家のあるあたりにくると、道路がまだ舗装《ほそう》されていないかもしれないのである。  成蹊学園のへいにそって、五日市街道《いつかいちかいどう》をよこへそれると、あたりはにわかにさびしくなり、さらにそれをおくへ進んでいくと、まだたぶんに武蔵野《むさしの》のおもかげをたたえている。  探偵小僧の御子柴進も中学生時分には、よくこのへんへセミをとりにきたものだが、一昨年の春、新日報社《しんにつぽうしや》へはいってからは、いちどもこのへんへきたことがない。  だいぶ家が建ったようだが、それもあちらにポツリ、こちらにポツリである。  進が、板垣博士に書いてもらった地図を、なんども懐中《かいちゆう》電灯《でんとう》の光で調べながら、太田垣の家をさがしていると、雨がきゅうにはげしくなってきた。  進はなんだか心細くなってきた。  夜道にはじめてのうちをさがしていくというのは、かってのわからないものだが、ことに町のまんなかとちがって郊外《こうがい》では、道がまがりくねったりしているので、いっそうわかりにくいものである。  そこへもってきて板垣博士の地図というのが、あんまり正確《せいかく》とはいえないらしい。  進は、とつぜん大きな雑木林《ぞうきばやし》のそばへ出た。  このへんの農家は昔《むかし》からからっ風を防《ふせ》ぐために、家の周囲へ植林する風習があるのだが、いまでもそういう防風林《ぼうふうりん》があちこちになごりをとどめている。  その雑木林のうえに音を立てて雨が降っている。  あたりはもちろんまっくらで、どうかするとどろんこ道に、ゴムの長ぐつをすいとられそうになる。もちろん人っ子ひとり通らない。  進は少し来すぎたのではないかと思った。しかし、念のためにと、その雑木林のはずれまでいってみると、むこうに二階建ての洋館が見えた。  あれではないかと進が、足をはやめて家のまえまでくると、大谷石《おおやいし》の門柱にははたして、 「太田垣三造」  と、出ていた。  ほっとした進が門のなかへはいろうとすると、げんかんからだれかとびだしてきた。  若《わか》い女のひとのようだった。    四角なへや 「もしもし……」  進が声をかけると、げんかんへ出てきた女は、はっとしたように顔をそむけて、あわててハンケチで鼻のうえをおさえた。  探偵小僧の御子柴進とおなじように、レインコートを着て、頭からすっぽりとフードをまぶかにかぶっている。 「もしもし……ちょっとおたずねしますが……」  と、進がもういちど声をかけてちかづいていくと、だしぬけに女のひとが走りだした。  そして、あっというまもなく進のそばをかけぬけると、門から外へとびだして、一目散に雨の降りしきるやみのかなたへ走り去ってしまった。  あっけにとられたのは探偵小僧の御子柴進である。ぼうぜんとしてそこに立ちすくんでいたが、ふとふりかえると、げんかんのドアがあけっぱなしになっている。 「へんだなあ、あのひと、どうしたんだろう」  つぶやきながら、進はげんかんのベルを押《お》した。  家のおくのほうでベルの鳴る音が聞えたが、だれもげんかんへ出てこない。  進は二度三度とベルを押したが、家の中はしいんとしずまりかえって人のけはいはさらにない。  うで時計をみると八時五分。  家をさがすのにてまどって、約束の時間より五分おくれたが、まだ寝《ね》こんでしまうという時刻《じこく》ではなく、げんにいま女のひとが出てきたくらいである。  進はもういちどベルを押した。  おくのほうでけたたましいベルの音が鳴りつづけているのに、あいかわらず人のけはいはさらにない。  進はとほうにくれた。  とほうにくれると同時に、はげしい胸《むな》さわぎを感じはじめた。  さっきの女のひとの態度《たいど》といい、このしずまりかえった家の中のようすといい、なにか変わったことでもあったのではないか。 「太田垣さん、太田垣さん」  と、進は、開いているドアのすきまから顔をのぞけて、 「板垣先生のお使いでまいりました。もうおやすみでございますか」  と、声をかけたがいぜんとして返事はない。  探偵小僧の御子柴進は、いよいよはげしい胸さわぎを感じながら、げんかんの中を見まわした。  見るとげんかんのすぐ右手に、応接室《おうせつしつ》らしいへやがあって、ドアが細目にあいており、ドアのすきまからチラチラとあかりがもれている。  げんかんの正面左側には二階へあがる階段《かいだん》がついていた。 「太田垣さん、太田垣さん、板垣先生のお使いでまいりました。おるすですか。どなたもいらっしゃらないんですか」  進は念のために、もういちど声をかけてみたが、あいかわらず家の中はしいんとしずまりかえって返事はない。  進はいよいよはげしい胸さわぎを感じながら、右手のドアのすきまからもれている、チラチラするあかりを見つめていた。  そのあかりが明滅《めいめつ》するように、チラチラしているところをみると、電気の光ではないらしい。そのことがまた進の気になった。 「太田垣さん、太田垣さん」  と、進は声をかけながら、とうとうくつをぬいで板の間のげんかんへあがりこんだ。  そして細目にあいているドアのすきまからそっと右手のへやをのぞいてみた。そして、すぐあかりがチラチラ明滅する理由がわかった。  そのへやには電気がなくて、しゃれた古風な西洋ランプがてんじょうからぶらさがっており、そのランプのしんがチラチラと明滅しているのである。  さっき板垣博士もいとこのことを、変わりものだといっていたが、なるほどと進もうなずいた。  いまどき電気をつかわずに、ランプでしんぼうするとは、よほど変わった人にちがいない。  それでいてげんかんやげんかんの外には、電気がついているのである。  それにしても、こうしてランプがついているからには、だれかいるにちがいないのに……と、探偵小僧の御子柴進は少しドアを大きく開いて、へやの中へ首をつっこんだ。  そこは箱のようなまっ四角なへやで、窓《まど》もあることはあるけれど、いまはぴったりと鉄のとびらがしまっている。  てんじょうからぶらさがっているランプの下は、大きなデスクがおいてあるが、そのデスクもデパートなどで売っているようなしろものではなくて、西洋の古いゆいしょのあるものらしい。  そういえば、うす暗いのでよくわからないけれど、いすにしろ、壁《かべ》にかかっている布《ぬの》の壁掛《かべか》けにしろ、またかざりだなにかざってあるつぼにしろ、みんななにかゆいしょのある、こった品らしいのである。  さっき板垣博士は太田垣のことを、収集家だといってたけれど、それでは西洋のそういうゆいしょあるコットウ品を集めているのであろうか。  だが、それにしても進は困ってしまった。  板垣博士のことばによれば、いま進の上衣《うわぎ》のポケットにある小包みは、どうしてもこんやのうちに、太田垣に渡《わた》さなければならぬ品らしいのである。 「太田垣さん、太田垣さん」  念のために進はもういちど、へやの中へむかって声をかけた。 「板垣先生のお使いでまいりました。どなたもいらっしゃらない……」  そこまでいって、とつぜん進の声は、口のなかでこおりついてしまったのである。  うす暗いのでいままで気がつかなかったけれど、デスクのかげからのぞいているのは、ズボンとスリッパをはいた男の足ではないか。  だれかがデスクのむこうに倒《たお》れているのだ。    夢《ゆめ》かまぼろしか  探偵小僧の御子柴進は、つめたいせんりつがチリチリと背筋《せすじ》をつらぬいて走るのをおぼえた。  さっきからあんなにたびたびベルを押したり、声をかけたりしているのだ。  このへやの中にいて、それが聞えぬというはずはない。  それが聞えぬというのは、あそこに倒れている人が、ふつうの状態《じようたい》でないことを意味しているのではあるまいか。  探偵小僧の御子柴進は、そのとき、はっとさっきの女の人のことを思い出した。  あのひとがあんなにあわてていたというのも、ここでこういうできごとがあったからではないか。  殺人事件《さつじんじけん》……? そして、あの女のひとが犯人《はんにん》なのだろうか……?  進の心臓《しんぞう》はいまにも破《やぶ》れそうなほど、ガンガンはげしく鳴りだした。  それは恐怖《きようふ》のためばかりではない。  たとえ給仕《きゆうじ》とはいえ、進も新聞社につとめてもう二年、しかも、探偵小僧という名誉《めいよ》あるアダ名までちょうだいしている身分なのだ。  進の背筋をつらぬいて走るせんりつには、武者《むしや》ぶるいに似《に》たものがまじっているのである。  探偵小僧の御子柴進はポケットからハンケチを取りだすと、それを右手にまいてそっとドアのはしに手をかけた。  年少とはいえ新聞社につとめている探偵小僧、現場《げんば》をかきまわしてはならぬということくらいは知っている。  さいわいドアは細目にあいていたので、とっ手に手をかける必要はなかった。  とっ手には犯人の指紋《しもん》がのこっているかもしれないのだ。  ドアを開くと進はゆっくりへやの中を見まわした。  太田垣三造は陶器《とうき》の収集家とみえて、壁のいっぽうにあるかざりだなには、つぼだの皿《さら》だのがたくさんかざりつけてある。  へやの中にはべつだんとり乱《みだ》したところはなかった。  それだけ見定めておいて、探偵小僧の御子柴進は、そっとへやの中へふみこんだ。  ゆかには厚《あつ》ぼったいじゅうたんが敷《し》きつめてある。じゅうたんはくすんだ色のサラサ模様《もよう》だ。  進は、精巧《せいこう》な彫刻《ちようこく》のほどこしてある大きなデスクをまわって、そのむこうに倒れている人のうえからのぞきこんだ。  その人は、ズボンとワイシャツのうえに、へや着のガウンを着て、じゅうたんのうえにうつぶせに倒れている。  うつぶせに倒れているので顔はよく見えなかったが、髪《かみ》ははんぶん白くなっている。  進はその人の顔をのぞきこもうとして、かがみこんだひょうしに、思わずぎょっと息をのみこんだ。  胸かどこかをえぐられているのにちがいない。じゅうたんのうえに大きな血だまりができている。  そして、そのそばに血にそまったナイフが落ちていた。  うつぶせになった顔はよくわからなかったが、どこか板垣博士に似ているような気がする。  板垣博士が口のまわりに、ふさふさとしたひげをたくわえているのに反して、この人はきれいに顔をそっている。しかし、なんとなく似ているような気がした。  倒れたひょうしに顔からとんだのか、めがねがふたつゆかのうえにころんでいた。  ふつうの老眼鏡《ろうがんきよう》らしいのと、べっ甲《こう》ぶちの大きな黒めがねである。それではこの人は二重にめがねをかけていたのか。  どちらにしてもこの人が、この家の主人で、板垣博士のいとこにあたる太田垣三造なのにちがいない。  探偵小僧の御子柴進は、おそるおそるその人の左手をとって脈を見た。  むろん脈はなかったが、からだにまだぬくもりが残っているところをみると、殺されてから、まだそれほど時間はたっていないのだ。  それではやっぱり、さっきここをとびだしていった、あの女の人が犯人なのだろうか。  そこで進はあらためて、さっきの女を思い出してみようとこころみたが、顔はほとんど見ていないのである。  レインコートのフードをふかぶかとかぶっていたし、それに進が声をかけたせつな、はっとハンケチで顔をかくしてしまったからだ。  ただ、すれちがったとき、プーンと香水《こうすい》のにおいがしたのと、あざやかなピンクのレインコートの色が印象的だった。どちらにしても、まだ若い女の人だったにちがいない。  進はもういちど、へやの中を見まわした。  かれはそこに倒れている人物の左手の脈をとってみただけで、ほかのなににもさわらなかった。  進は、それからそっとドアの外へすべり出すと、大急ぎでげんかんから雨の中へとびだしていった。  あとから思えば、探偵小僧の御子柴進は、そのとき大きなヘマをやらかしたのだ。  太田垣の家には電話がついていたのである。その電話が階段の裏《うら》がわにそなえつけてあったので、進は気がつかなかったのだ。  もし電話があることを知っていたら、一一〇番へ報告《ほうこく》すればよいことくらいは、進も知っていたのである。  それはさておき、雨の中へとびだしていった進が、警官《けいかん》といっしょに引き返してくるまでには、十五分くらいもかかったろうか。  若い警官の佐々木巡査《ささきじゆんさ》は、進の話をきいて、半信半疑《はんしんはんぎ》の気持ながら、それでもおおいに興奮《こうふん》していた。 「それじゃ、この家の中で人が殺されているというのだな」 「そうです、そうです。この右手のへやなんです」 「しかし、君」  と、佐々木巡査はげんかんのドアに目をやって、 「このドアはしまっているじゃないか。君がしめたのかね」 「さあ」  げんかんをとびだすとき、ドアをぴったりしめたかしめなかったか、進もはっきりとした記憶《きおく》がなかった。  こころみにドアのとっ手に手をかけると、中から掛《か》けがねをおろしたのか、それともかぎをかけたのか、ドアはぴったりしまっている。 「あっ!」 「君、なにかまちがいじゃないか」  と、佐々木巡査はうさんくさい目で、進の顔を見まもりながら、 「とにかく、ベルを鳴らしてみよう」  佐々木巡査がベルを押すと、応接間のドアがひらく音がして、 「だれ、新日報社の御子柴進くんかね」  進はその声をきいたとたん、頭から冷めたい水をぶっかけられたようなショックを感じた。    五里霧中《ごりむちゆう》  ガチャガチャとげんかんのかぎをまわす音がして、中からドアを開いたのは、五十くらいの、頭がはんぶん白くなった老紳士《ろうしんし》。  ズボンとワイシャツのうえにへや着のガウンをゆったり着ていて、老眼鏡のうえにべっ甲ぶちのめがねを二重にかけている。  きれいにひげをそっているが、どこか板垣博士に似たところがある。  あっけにとられたような顔をして、ぼうぜんと立ちすくんでいる進の横顔を、佐々木巡査はにやにや見ながら、 「失礼しました。あなたここのご主人ですか」 「ああ、そう、わたし太田垣三造だが……なにかありましたか」  と、太田垣老人は二重めがねのおくから、ふしぎそうに佐々木巡査と進の顔を見くらべている。 「いや、じつはこの子がみょうなことをいってきたものですから」 「みょうなことというと……?」 「いや、じつはおたくの……応接室ですが、その右手にあるへや……そこで人が殺されている、太田垣さんらしい人が殺されていると、いまこの少年がとどけてきたものですから」 「な、な、なんだって? わたしが殺されてるって……? そ、そんなばかな! わたしはこのとおり、げんにぴんぴん生きているじゃないか」 「あっはっは、いや、どうも失礼いたしました。この少年、なにか夢《ゆめ》でも見たんでしょう」 「いいえ! いいえ! そんなことはありません。ぼくはげんにその人にさわってみたんです。その死体にさわってみたんです」 「ほほう」  と、太田垣老人はいたずらっぽく目をまるくして、 「そして、その死体がこのわたしだったというのかね、あっはっは」 「いえ、あなただったかどうか、うつぶせに倒れていたので、顔ははっきり見えなかったんです。でも、あなたによく似た人でした」 「あっはっは、こいつはますますおもしろくなってきたね。この家に男といえばわたしだけしかいないのだが……ばあやがひとりいるんだが、こんやはめいのところへとまりがけでいってるんでね。ときに、君はだれ?」 「ぼく、新日報社の御子柴進です」 「ああ、そうか、やっぱり……、君のことはきょうの夕方、X大の板垣から電話をかけてきたので聞いていた。君、探偵小僧というアダ名があるそうだが、あんまり探偵小説を読みすぎて、錯覚《さつかく》でも起したんじゃないかね。あっはっは」 「それじゃ、太田垣さんはこの少年をご存《ぞん》じなんですね」 「いや、会ったことはないんだが、わたしのいとこがX大にいてね、有名な法医学者なんだ。板垣というんだが……その男にある品の鑑定をたのんでおいたところが、こんやそれをもってきてくれることになっていたんだ。ところがきゅうに用事ができていけなくなったから、これこれこういう少年にことづけたと、きょうの夕方電話がかかってきたので、さっきから心待ちにしていたところだ。いや、立ち話もなんだから、とにかくあがってくれたまえ。御子柴くん、死体がころがっているかどうか、それじゃもういちど君の目で見てもらおう」  太田垣老人の案内で、さっきのへやへはいっていった探偵小僧の御子柴進はそこでまたもやぼう然としてしまった。  進がこのへやをとびだしてから、ひきかえすまで、その間十五分。それだけの時間があれば死体はなんとかかくすことができるだろう。  だが、ゆかのじゅうたんにしみついた血は……?  それはいかにぬぐっても洗《あら》っても、完全にそのしみを消し去ることは不可能《ふかのう》である。  それにもかかわらず進が、目を皿のようにして調べてみても、どこにも血こんらしいものはなく、といって洗い去ったあともない。  じゅうたんは完全にかわいているのである。  それじゃ、じゅうたんをしきかえたのではないか。  しかし、それも不可能だった。  そのじゅうたんはへやいっぱいにしきつめてあり、そのうえに大きなデスクやいすやかざりだななどが、ごたごたとおいてあるのだ。  じゅうたんをしきかえようとすれば、それらの道具をいったんへやの外へはこび出さねばならない。  いかにおおぜい人をやとってきたとしてもそんなことができるはずがない。  だいいちかざりだなのうえにかざってある、陶器のつぼや皿をかたづけるにさえ、そうとう時間がかかるはずなのだ。  進は、夢でも見ているのではないかと、自分で自分のからだをつねってみたが、夢を見ているのでもなかった。 「あっはっは、御子柴くん、疑《うたが》いが晴れたかね。いや、おまわりさんもご苦労さんでした」 「ああ、いや、とんだ人さわがせを……」 「まあ、いい、まあ、いい。これも一|興《きよう》だ。それじゃ御子柴くん、板垣からことづかってきたものをもらおうか。板垣の電話で受取はここへ用意しておいたが」  もし、そのとき進があの石けん箱ほどの大きさの包みのなかに、いったいなにがはいっているかを知っていたら、あんなにやすやすと渡すのではなかったのだが……    狂気《きようき》か? 正気か? 「探偵小僧、なにをそんなにぼんやりしているんだね」  その翌朝《よくちよう》、すなわち、六月二十一日の朝のことである。  新日報社の編集室《へんしゆうしつ》のかたすみで、ぼんやりデスクにむかっていた探偵小僧の御子柴進は、いやというほど背中《せなか》をたたかれて、はっとばかりに、われにかえると、そこに立ってにこにこ笑《わら》っているのは、新日報社の至宝《しほう》とまでいわれるうできき記者の三津木俊助である。 「あっ、三津木さん」  と、口走ったとたん、進は、いまにも涙《なみだ》が出そうになった。 「おや、探偵小僧、どうしたんだ。どこか気分でも悪いのかい」  と、三津木俊助は心配そうに、デスクに両手をついて進の顔をのぞきこむ。  三津木俊助はこの進を、ほんとの弟のようにかわいがっているのである。 「ええ、三津木さん、ぼく、よっぽどどうかしているんです。ひょっとすると、ぼく、頭がおかしくなるのかもしれないんです」 「あっはっは、なにをばかなことをいってるんだい。しっかりしろ、しかし……」  と、俊助は心配そうに進の顔を見まもりながら、 「そういえば、なんだか顔色が悪いようだが、さいきんなにか変わったことでもあったのかい」 「はい、ぼく、ゆうべたいへんなヘマをやらかしてしまったんです。だけど、ぼく、ふしぎでふしぎで、たまらないんです。死体はどこかへかくしたとしても、血のあとが完全に消えてしまうなんて、やっぱり、ぼく、夢を見てたんです。きっとこのつゆで、ぼくの頭、へんてこりんになってしまったんです。ぼく、いまに精神に異常をきたしてしまうかもしれないんです」  ほんとに頭がおかしくなったように、くどくどしゃべっている進の顔をのぞきこんで、俊助はいよいよ心配そうにまゆをひそめた。 「おい、おい、探偵小僧、なにをくどくどいってるんだい。おまえが精神異常者になるなんてこと絶対《ぜつたい》なし。それはおれが保証《ほしよう》する。よし、それじゃおれが話を聞こう」  と、ほかからいすをもってきて、進の前にどっかとすわると、 「さあ、話を聞こう。おまえいま死体をかくすとか、血のあとがどうかしたとかいってたが、それはいったいどういうことだ。いいからおれに話してごらん」 「はい、それじゃお話ししますから聞いてください。そしてぼくの頭がへんになっているのかどうか教えてください」  探偵小僧の御子柴進にとっては、ゆうべのことがふしぎでたまらないのである。いや、ふしぎというよりくやしいのだ。  進はたしかにその目で死体をみたのだ。  いや、見たのみならずさわってみたのだ。手をとって脈もみたのだ。  その男はたしかに脈がとまっていた。しかも、じゅうたんのうえにはべっとりと、大きな血だまりができていたのだ。  それにもかかわらず、十五分ののちにひきかえしてくると、死体はおろか血のあとまでも消えていた。  だからあれが事実とすると進は、じぶんの頭がへんになっているとしか思えないのだ。 「なるほど、なるほど」  と、三津木俊助は、心配そうに探偵小僧の顔をのぞきこみながら、 「それで、きみは太田垣さんというひとに、板垣先生からことづかった、小包というのをわたしたんだね」 「はい、ここにその受取があります。ぼく、お昼休みにでもX大学へ行って、板垣先生にお渡ししようと思っているんですが、ぼく、なんだか、じぶんでじぶんが信用できなくなってしまって……」  進が、ポケットから取りだした封筒《ふうとう》を見ると、げんじゅうに封がしてあって、表には板垣|祐輔殿《ゆうすけどの》としかつめらしいかい書で書いてあり、裏面《りめん》には太田垣三造というゴム印が押してある。 「それで、御子柴くん、きみがみた死体というのと、きみが小包をわたした太田垣老人とはおなじ人間だったの」 「いえ、それがよくわからないんです。死体はうつぶせに倒れていたので、顔ははっきり見えなかったんです。しかし、よく似ていたように思うんですけれど」 「そうすると、きみがさいしょ見たとき、なにかのつごうで死んでいたように見せかけていて、二度目にひきかえしてきたとき、起きなおっていたのじゃ……」 「しかし、それなら三津木さん、じゅうたんの血こんが消えてしまったのは、どう説明するんです。さいしょぼくがそのへやへはいって行ったときには、じゅうたんのうえにべっとりと、血がたまっていたんですよ」 「なるほど」  と、三津木俊助は心配そうに進の顔を見まもっている。 「三津木さん、そんなにぼくの顔を見ないでください。そして、ぼくに教えてください。ぼく発狂《はつきよう》の一歩手前にいるんですか」 「まあ、まあ、御子柴くん、そう興奮することはない。これにはなにかわけがあるにちがいない。いま何時だい」  時計を見ると十時である。 「よし、それじゃこれから板垣先生のところへ行って、ようすを聞いてみようじゃないか。先生いま研究室にいらっしゃるかどうか……」  三津木俊助が受話器を取りあげようとするところへ、ぎゃくにけたたましく電話のベルが鳴りだした。  板垣博士からだった。 「ああ、板垣先生ですか。じつはいまこちらからお電話しようとしていたところです。ええ、御子柴くんはここにいますが、なにか……? え、え、なんですって。太田垣三造氏が殺されてるんですって? はあ、はあ、わかりました。それじゃこれからすぐ、探偵小僧といっしょにいきます」    ダイヤの指輪《ゆびわ》  ああ、探偵小僧の御子柴進は気が狂《くる》ったのでも、頭が変になったのでもなかったのだ。 「探偵小僧、やはりおまえのいうとおりだ。太田垣三造氏は、殺されているそうだ」  と、三津木俊助は受話器をおくと、興奮の色をおもてに走らせている。 「板垣先生はいまどこにいるんですか」 「いや、まだ学校にいるんだが、太田垣さんのうちには、お手伝いのばあやさんがいるのかい」 「はい、なんでもゆうべは、めいのところへとまりに行ってるとか、いってましたが……」 「ああ、そう、そのばあやさんが、けさ帰ってみると、太田垣さんが殺されているので、びっくりして学校へ電話をかけてきたんだ。それで先生がようすを聞こうと思って、きみに電話をかけてきたんだ。先生もいまむこうを出発するそうだから、われわれもこれから出かけようじゃないか」  殺人事件と聞いて、社内はにわかに色めき立った。  三津木俊助と御子柴進、ほかに若い記者ふたりに写真班《しやしんはん》と、すしづめの乗用車を走らせると、とちゅうの五日市街道で板垣博士の乗用車に追いついた。  三津木俊助は進とともに、その乗用車へ乗りうつると、 「先生、太田垣さんというひとが殺されているというのはどういう……?」 「いや、じぶんもさっき電話を聞いたばかりでくわしい話はわからない。なんでもばあやさんのお直《なお》さんというのが、ゆうべひと晩ひまをもらって、親せきのうちへとまってきたそうだが、けさ九時ごろに帰ってくると、どこにも主人の姿《すがた》が見えない。しかし、元来、太田垣というのが変わりもんなので、たいして気にもとめずにいたところが、さっき応接室をそうじしようとはいっていくと、そこに太田垣が倒れていたというのだ」 「先生、それじゃやっぱり応接室に倒れていたんですか」  と、探偵小僧は目を見張《みは》った。 「ああ、ばあやの話によるとそうなんだが、御子柴くん、きみが行ったときには、どんなふうだった? いや、それよりきみ、あれをとどけに行ってくれたんだろうねえ」 「いや、先生」  と、三津木俊助がそばからひきとり、 「それについて探偵小僧は、じぶんの頭がへんになってるんじゃないかと、ゆうべから心配しているんです」  と、さっき進から、聞いた話を取りつぐと、板垣博士もおどろきの目を見張って、 「それじゃ、いったん死体も血こんも消えてしまったというのかね」 「先生、そのなぞについて、どういう解釈《かいしやく》をおくだしになりますか」 「さあ」  と、板垣博士はふさふさとしたあごひげをまさぐりながら、 「ぼくにもなんともいえない。太田垣という男は変わりもんで、ひとの意表をつくようなことをしてよろこんでいる男だが、まさか、じぶんの命を犠牲《ぎせい》にしてまで、いたずらをしようとは思えない。そうそう、御子柴くん」 「はあ」 「それで、きみ、あの小包をわたした受取というのをそこにもっているかね」 「はあ、ここに……」  と、進がとりだす封筒を、取る手おそしと開封《かいふう》した板垣博士は、ひとめなかみに目を走らせると、 「あっ、み、三津木くん!」 「せ、先生、どうかしましたか」 「こ、これを見たまえ」  探偵小僧もよこからそれをのぞいてみて、おもわず、あっと口のなかでさけんだ。そこにはつぎのようなことが書いてある。 [#1字下げ] 拝啓《はいけい》。目下梅雨期《もつかばいうき》とていやな毎日がつづきおりますが、先生にはお元気にてなによりと存じます。さて、本日は高価《こうか》なるダイヤの指輪をわざわざおとどけくださいまして、まことにありがとう存じます。せっかくのご好意《こうい》ゆえ、遠慮《えんりよ》なくちょうだいすることにいたしました。 [#地付き]草々頓首《そうそうとんしゆ》   [#地付き]姿なき怪人     板垣祐輔先生 「先生、先生、三津木さん!」  と、探偵小僧はいきをはずませ、 「それじゃ、ゆうべぼくが小包をわたした男は、木塚陽介だったんですか」 「探偵小僧、きみにはそれがわからなかったのかね」 「だって、だって、そのひと先生に似ているように思ったので、てっきりいとこのひとだと思っていたんです。だけど、そういえば……」 「だけど、そういえば……? どうしたんだ」 「はい、そのひとめがねを二重にかけていたんです。ふつうの老眼鏡のうえからもうひとつ黒めがねを……それに、それに……」 「それに……? 探偵小僧、そう興奮せずに落ち着いて話したまえ」 「はい、それにこの暑いのに、マフラーみたいなものを首にまいていたんです。あれはきっと、あごの傷《きず》をかくすためだったに、ちがいありません。先生、すみません。だいじなものを悪者《わるもの》にとられてしまって……」 「いや、いや、それはきみのせいじゃないが……」 「先生、すると先生は太田垣さんからダイヤの鑑定をたのまれていたんですか」 「ああ、そう、ところがそのダイヤというのは、まだ、太田垣のものじゃないのだ。じつは……」  と、いいかけて板垣博士はきゅうにぎょっとしたように、探偵小僧をふりかえった。 「御子柴くん、御子柴くん、きみ、げんかんのところで、若い女にあったといったね」 「はい」 「先生、その女性《じよせい》になにかお心当たりでも……」 「いや、いや、そういうわけでもないが……」  板垣博士はどうしたのか、きゅうにだまりこんでしまったので、探偵小僧の御子柴進は、おもわず三津木俊助と顔見合わせた。  板垣博士はその婦人《ふじん》になにか心当たりがあるにちがいない。    怪《かい》また怪《かい》  探偵小僧の御子柴進は、またしても、きつねにつままれたようにぼうぜんとした。  太田垣三造のうちのげんかんをはいって、右手にあるドアのなかへはいっていくと、そこにはゆうべ二度おとずれた応接室がある。  その応接室の中央にあるデスクのむこうに、ゆうべの男が、ゆうべの姿勢《しせい》のままで倒れているのだ。  その人は、ズボンとワイシャツのうえに、へや着のガウンを着て、じゅうたんのうえにうつぶせに倒れている。  うつぶせに倒れているので、顔はよく見えないが、髪ははんぶん白くなっている。  そして、そのひとの胸のあたりのじゅうたんが、ぐっしょりと血を吸《す》ってかわいており、そのそばにこれまた血を吸ったナイフが落ちている。  なにもかもゆうべ進が、さいしょこのへやへはいってきたときのとおりである。  ただちがっているのは、血がかわいていることと、ランプのあかりが消えていることだけである。  ランプのあかりが消えているのは、油が切れてしぜんに消えたのか、それとも犯人が吹《ふ》き消したのか。 「御子柴くん、きみが二度目にやってきたときは、この死体も血こんもなかったというのだね」 「はい、三津木さん。そのことならおまわりさんに聞いてください。たしか佐々木さんという警官でした」  ばあやのお直さんは、板垣博士に電話をかけただけで、まだ警察《けいさつ》へはしらせてなかったので、警官たちはきていなかった。 「御子柴くん」  と、板垣博士はいとこの脈を調べながら、 「二度目に、きみがひきかえしてきたとき、犯人はこの死体をどこかへかくして、この血こんをなにかでおおっておいたのではないかね」 「いいえ、先生、そんなことは絶対にありません。それに、先生、そのときはまだ血がかわいていなかったんですから、死体を動かせば、もっと血があちこちに散るはずじゃありませんか」  なるほど、これは進のいうとおりである。  そこに倒れている死体は刺《さ》されて倒れたときのままの状態らしく、あとから動かしたような形跡《けいせき》はみじんもない。 「なるほど」  と、板垣博士は困ったようにあごひげをしごきながら、 「三津木くん、きみは、それをどう思うね」 「さあ」  と、三津木俊助も顔をしかめて、 「御子柴くん、まさか家をまちがえたんじゃあるまいね。二度目にひきかえしてきたうちというのも、たしかにこのうちだったろうね」 「三津木さん、それは絶対にまちがいありません。なんでしたら、それも佐々木巡査に聞いてください」 「なるほど」  と、三津木俊助も首をかしげて、 「これじゃ、まるで怪談《かいだん》ですね。とにかく、それじゃ、先生、警察へおとどけになったら! 警察より先われわれが手をつけちゃいけないでしょう」 「ああ、そう」  三人はそのへやを出ると、板垣博士が警察へ電話をかけた。 「三津木くん、警察からひとがくるまえに、ちょっとこの家を調べてみようじゃないか。ぼくはまだこの家の二階へは、いちどもあがったことがないのだが……」 「はあ、お供《とも》しましょう」  まえにもいったように、この家はげんかん正面左側に階段がついており、居間《いま》だの寝室《しんしつ》だの台所だの、日常生活《にちじようせいかつ》に必要なへやは、全部げんかんの左側にある。  そして、げんかんから裏へつきぬけているろうかの右側にあるへやといったら、あの応接室しかないのである。  三人はいちおう階下のへやを調べたあげく、二階への階段をあがって行った。  二階はふた間になっているが、階段の左側のへやには畳《たたみ》がしいてあり、ちゃぶ台や座《ざ》ぶとんもおいてあるのに、応接室のよこてに当たる右側のへやはがらんとして、ただ四角い空間があるだけで、なにひとつ道具もおいてない。 「これはまた妙《みよう》なへやですね。いったいここは、なにに使っていたんでしょうねえ」 「さあ」  と、板垣博士もまゆをひそめて、 「太田垣は、絵を書くのが好《す》きだったから、ここをアトリエがわりにでも使っていたんじゃないかね」  しかし、アトリエとしてはあかりとりの窓が小さかった。しかもその窓にはげんじゅうに、鉄のとびらがしまっている。 「ときに、板垣先生」  と、もういちど階下へおりてくると、三津木俊助が板垣博士をふりかえった。 「さっきの話の女性ですがねえ、探偵小僧がげんかんの外で出会ったというその女性について、ご存《ぞん》じのことがあったら、おっしゃってくださいませんか。これは重大なことですから……」 「ところがねえ、三津木くん、ぼくにはそれがどこのどういう女性なのかわからないのだ。  ただ、ひょっとするとそのひとが、ダイヤの指輪のほんとの持ち主じゃないかと思うのだが……  ああ、警察からやってきたようだ。それじゃ、あとで話すことにしよう」    第二の殺人  太田垣家の応接室の死体をみて、おどろいたのは進ばかりではない。佐々木巡査も目をまるくした。 「佐々木さん、この少年があなたをおつれしたのは、たしかに、このへやでしたか」 「ええ、もちろんこのへやでしたよ。しかし……」  と、佐々木巡査はソファのうえにあおむけにねかされた、太田垣老人の死体に目をやると、 「そのとき、わたしの会ったのはこのひとではありませんでした。年かっこうは似ていますが、たしかに、べつの男でした」 「三津木くん」  と、そばから口を出したのはたったいま警視庁《けいしちよう》からかけつけてきたばかりの等々力警部である。 「それじゃ、三津木くん、この事件は探偵小僧や佐々木くんが、この家を出てからのことじゃないのか。木塚陽介が太田垣老人にばけていてふたりをだまし、板垣先生からとどけてきたダイヤの指輪を横どりして、さて、そのあとで本物の太田垣さんを殺したのじゃ……」 「警部さん、それだと話は単純《たんじゆん》なんですがね。じつは……」  と、三津木俊助が進の話をすると、等々力警部も目をまるくしておどろいた。 「そ、それじゃ、いちじ死体も血こんも消えていたというのかね」 「そうです。そうです。そこに姿なき怪人の仕掛《しか》けておいた、この事件の重大ななぞがあるんです。あっ警部さん、刑事《けいじ》さんが呼《よ》んでいますよ」 「ああ、新井《あらい》くん、なにか……?」 「はあ、警部さん、いまあの押し入れのなかで、こんなものを発見したんですが」  新井刑事がひろげてみせたてのひらには、真珠《しんじゆ》をちりばめた耳かざりのかたっぽうがのっかっている。 「あっ、その耳かざりなら、たしかにゆうべの女のひとが、つけていましたよ。すれちがうときに、ぼく見たんです」  それを聞くと俊助は、つかつかとへやをよこぎり、押し入れのなかをのぞいてみた。  それはふつうの半分の押し入れで、ドアのなかには、がらくた道具がつまっているが、たしかにだれかそこにかくれていたと思われるふしがある。 「わかりました。どういう理由でか女がひとりここにかくれていた。そしてかたっぽうの耳かざりをひとつ落していったのに気がつかず、事件の直後にここからとびだし、御子柴くんに出会ったのです」 「と、すると、その女は殺人の現場を目撃《もくげき》したかもしれんというのだね」 「そうです、そうです。しかも板垣先生はその女性をご存じなんです。ひとつ板垣先生のお話を聞かせていただこうじゃありませんか。先生、ひとつ、どうぞ」 「ああ、そう、それじゃむこうの居間へ行こう。探偵小僧、きみもきたまえ」  階段の左側には洋風の居間がある。  そこへはいると板垣博士はぴったりとドアをしめ、 「三津木くん、この話は当分新聞にも書かないでくれたまえ。そうでないと、その女性が迷惑《めいわく》をするかもしれないから」  と、そう前置きをしておいて、板垣博士が打ち明けたのは、つぎのような話である。 「太田垣がそのダイヤの指輪をもってきたとき話したのは、こういう話なんだ。なんでもどこかの奥《おく》さんが、ご主人がアメリカへ行っているるすに、株《かぶ》に手を出したんだそうだ。ところが、それがもののみごとに損《そん》をして、三百万円ほどあなをあけてしまった。しかも、ご主人はちかくアメリカからかえってくることになっている。それまでにあなうめをしておかなければならないから、このダイヤをだれにもないしょで、買ってくれないかというんだそうだ」 「しかし、ご主人が帰ってきて、ダイヤの指輪のことをたずねたら、どうするつもりだったんでしょう」 「いや、太田垣もそれをたずねると、その心配はない。主人はダイヤのことなどわかるひとではないから、まがいのダイヤで、ごまかしておくといったそうだ」 「それで、先生、その女性の名まえはご存じないんですか」 「ああ、それはそういう事情《じじよう》だから、太田垣もわざと名まえはいわなかった。しかし、それは、いずれわかるのじゃないか」 「と、おっしゃると……?」 「いや、太田垣はその女性にX大学の板垣に鑑定させて、もしそれだけのねうちのあるものなら、三百万円で引きとろうと約束したというんだ。だから、いずれぼくのところに、問い合わせがあるのじゃないかと思う」 「しめた! 先生、そのときはぜひ警視庁のほうへ知らせてください」 「それはもちろん」 「しかし、先生」  と、進はふしぎそうに、 「姿なき怪人はどうしてそんなことを知っていたんでしょう。太田垣さんがダイヤをあずかっているということを……」 「御子柴くん」  と、板垣博士もしんけんな目つきで、 「ぼくも、いまそれを考えていたところだ。ひょっとするとぼくの身辺には、木塚のやつが電波の網《あみ》でも張《は》っているのかもしれん。いちどくわしくぼくの家や、学校の研究室を調べてみよう」 「先生、とにかくその女性の身分がわかったら、すぐにしらせてください」 「それは、等々力くん、いうまでもない」  板垣博士はかたく約束したのだが、その約束ははたされなかった。  その翌日《よくじつ》、新日報社の三津木俊助にかかってきた、等々力警部の電話はまるで怒《いか》りがばくはつしているようだった。 「三津木くん、すぐきたまえ、姿なき怪人がまた人殺しをやりやがった。しかも被害者《ひがいしや》は太田垣老人に指輪を売ろうとした女性らしいのだ。板垣博士もくることになっているから、きみも探偵小僧をつれてきてくれたまえ、いま、ところをいうから……」  電話を聞きながら住所氏名をメモする俊助の手は、興奮のためにわなわなふるえた。    香水のにおい  小田急沿線《おだきゆうえんせん》にある成城《せいじよう》というところは成城学園という幼稚園《ようちえん》から大学までをふくむ、大きな総合《そうごう》学園を中心として発展《はつてん》した町だけあって、落ち着いて、ものしずかな高級|住宅地《じゆうたくち》である。  その成城でもとくにしずかな町はずれに、和洋せっちゅうの家があり、大谷石の門柱には、 「荒木重雄《あらきしげお》」  と、いう表札《ひようさつ》がかかっているが、この荒木家こそ、この事件における第二の殺人現場であり、被害者というのは荒木夫人の泰子《やすこ》さんというひとであった。  等々力警部の電話によって新日報社から、三津木俊助と探偵小僧の御子柴進、ほかに若い社会部記者や写真班の連中が乗用車でかけつけると、日ごろしずかなそのへんも、右往左往《うおうさおう》する白バイやあごひもをかけた警官、さては押しかけてきた各社の報道班員《ほうどうはんいん》などを中心に、やじうまがおおぜいむらがっていて、いかにも事件のあった直後らしくいろめき立っていた。  大谷石のまえで三津木俊助と進が乗用車をおりると、門のなかから出てきた新井刑事が進の姿を見つけて、 「おお、探偵小僧、よくきた。警部さんがお待ちかねだ。君にぜひ被害者の顔を見てもらおうと思ってるんだ」 「新井さん」  と、よこから三津木俊助が口を出して、 「被害者が吉祥寺の事件と関係のある女性らしいって、いったいどうしてわかったんですか」 「いや、三津木くん、その話なら警部さんに会って聞いてください。さあ、どうぞ」  大谷石の門をはいると、げんかんまでかざりレンガがしきつめてあるので、もし犯人がこの門からはいってきたのだとしたら、足跡《あしあと》を採取《さいしゆ》するのはむずかしい。  げんかんをはいるとすぐ左側が、ひろい応接室になっているが、そこが殺人の現場らしく係官がおおぜいつめかけている。  その係官のなかから等々力警部がふたりの姿を見つけて、 「やあ、三津木くん、探偵小僧もよくきたな。ひとつこの死体を君によく見てもらいたいんだが……」  応接室は十二|畳《じよう》じきくらいもあろうか。  ピアノのほかにりっぱな家具|調度《ちようど》の類がそろっているが、見ると片《かた》すみのソファのうえに、はでなワンピースをきた三十前後の女の死体がよこたわっている。  心臓を鋭利《えいり》な刃物《はもの》でえぐられたとみえて、ぐっしょりとそこが血にそまっていた。  探偵小僧の御子柴進はおそるおそるソファのそばへより、死体の顔をのぞきこんでいたが、きゅうにはげしく身ぶるいをすると、 「ああ、このひとです。……いや、このひとだったように思います」 「探偵小僧、まちがいないだろうね」 「はい、あのときはレインコートのフードをふかぶかとかぶっていましたし、それにぼくの姿に気がつくと、すぐハンケチで鼻をおさえてしまったので、はっきりとは見えなかったんですけれど、でも、ぼくのすぐ目のまえを通りすぎたんですから。……それに、この香水のにおい……」  進は鼻をひくひくさせながら、 「レインコートの女のひとが、ぼくのまえを通りすぎたとき、ぼくはプーンと香水のにおいをかいだんですが、それはたしかにこれとおなじにおいでしたよ」 「ああ、そう、それじゃだいたいまちがいないようだね」  と、等々力警部は三津木俊助をふりかえり、 「ひどいことをやったもんだね。うしろから被害者《ひがいしや》をだきすくめ、左手で口をおさえておいて、右手に鋭利な刃物を逆手《さかて》ににぎって、そいつでぐさりとやったらしいんだ」 「警部さん、どうしてそれがわかりますか」 「いや、被害者の口中にかみきられた革手袋《かわてぶくろ》のはしがのこっていたんだ。それとえぐられた傷口の角度からして、そう判断《はんだん》されるんだが……」 「それで、殺人の現場は、ここなんですか」  等々力警部は無言《むごん》のまま、ソファの背後《はいご》の床《ゆか》を指さした。  見るとなるほどそこにぐっしょりと血のあとがついている。 「それで、犯行《はんこう》の時刻は……?」 「だいたい、ゆうべの九時から十時半までのあいだということになっている」 「それで死体が発見されたのは……?」 「けさのことなんだ。けさお手伝いの白崎《しらさき》タマ子が十時ごろ、やっと気がついたんだ。それでびっくりして警察へとどけて出たというわけだ」 「それで、警部さん、この事件が吉祥寺の事件と関係があるということが、どうしておわかりになったんですか」 「いや、それは君じしん直接《ちよくせつ》白崎タマ子から聞いてみたまえ。さっきX大学のほうへも電話をしておいたから、おっつけ板垣先生もお見えになるだろう。そのまえにこの家の家族について説明しておくと、おもての表札に出ているご主人の荒木重雄さんというひとは、Z自動車会社の販売係《はんばいがかり》で、目下社用でアメリカへいっていらっしゃる。そこに死体となってよこたわっていらっしゃるのは奥さんの泰子さんで、白崎タマ子とふたりきりで、ご主人のるすをまもっていらっしゃるあいだのできごとなんだ。ああちょうどいい。板垣先生もいらっしゃった」  ちょうどそのとき、門前で乗用車をおりた板垣博士が、れいによって口のまわりをふちどった、ゆたかなひげをまさぐりながら、興奮の色をおもてに走らせて、せかせかとはいってくるのが応接室の窓からみえた。    替玉《かえだま》電話 「あれはちょうどきのうの夕方の五時ごろのことでございました」  そこは応接間のおくの日本座敷《にほんざしき》である。  ちゃぶ台をとりまいてすわっているのは、板垣博士に三津木俊助、探偵小僧の御子柴進のほかに等々力警部もひかえている。  この四人の視線《しせん》をいっせいにあびて、お手伝いの白崎タマ子はあがっているのかおびえているのか、おどおどと度をうしなって、しきりにハンケチでひたいの汗《あせ》をおさえている。  タマ子は、やっと二十になったかならぬ年ごろである。 「ふむ、ふむ、夕方の五時ごろにどうしたの」  と、聞き役は主として三津木俊助がつとめるのである。タマ子としても、いかめしい制服《せいふく》の警察官よりも、私服《しふく》の俊助のほうが話しやすいのだ。  板垣博士はあいかわらずあごひげや口ひげをまさぐりながら、だまってタマ子の話を聞いている。 「はい、夕方の五時ごろ、奥さまのところへお電話がかかってまいりました。あいてはX大学の板垣さまというかたでした」 「ああ、ちょっと」  と、三津木俊助は板垣博士がびっくりしたように目を見張っているのを横目に見て、 「タマ子くんはそれまでに、X大学の板垣さんというひとを知っていた?」 「いいえ、そのとき電話でお名まえをきいたのがはじめてでした」 「ああ、するとその電話にはタマ子くんが出たんだね」 「はい」 「それで、奥さんはどうだろう。奥さんはX大学の板垣さんて名まえ知ってらしたようだったかね」 「はい、奥さんはご存じのようでした」 「で、奥さん、すぐに電話に出られたんだね」 「いえ、ところがあいにくそのとき奥さん、おるすだったんですの。それでそのことを電話で申し上げますと、それじゃ、奥さんがおかえりになったら、すぐに電話をかけてくださるようにと、局番と電話番号をおしえてくれました」  三津木俊助は、はっと板垣博士をふりかえり、 「タマ子くんはその番号をおぼえていますか」 「はあ、それはメモにとっておきましたから、さっき警部さんに差し上げておきました」 「ああ、そう、それではその話はあとで警部さんにうかがうとして、それから……?」 「はあ、六時ごろ奥さんがおかえりになりましたので、電話のことを申し上げました」 「そのとき、奥さんのようすはどうでした。驚《おどろ》かれたようなふうはなかったですか」 「はあ、ちょっと……でも、なんだかよろこんでいらっしゃるようでした」 「ああ、そう、それでさっそく奥さんは電話をおかけになったの」 「はい」 「どんな内容《ないよう》の電話だった?」 「いえ、それが……あたしすぐ台所へひっこんでしまいましたから、きれぎれにしか聞かなかったのですけれど……でも、それでは今夜お待ちしておりますとおっしゃってました」 「それで、板垣さんというひとはゆうべいらっしゃったのかね」 「いえ、それがよくわからないんですけれど……」 「わからないというのは、どういうわけだね。君はゆうべこのうちにいたんじゃないのか」 「はあ、それはこうなんです。このおうちのおふろ、二、三日まえからこわれておりまして、たけないんですの。それで九時ちょっとまえ、奥さんがおふろへいってらっしゃいと、ふろ銭《せん》をくださいましたの。そのときあたしがお客さんがいらっしゃるんじゃありませんかとお聞きしたら、そんなことかまわないから、いっておいでとおっしゃいます。なんだかそれが、あたしがいるとごつごうが悪いんじゃないかと、そんな気がしたものですから、奥さんのおっしゃるとおりおふろへいったんです」 「なるほど、それが九時ごろのことだね。で、かえってきたのは何時ごろ……?」 「十時半ごろでした。ふろ屋までちょっと遠いものですから」 「それでかえってきたときなにも気がつかなかったの」 「はい」  と、白崎タマ子は、いまにも泣《な》き出しそうな顔をして、 「応接間の明かりは消えてましたし、げんかんにお客さんのくつもございません。ですからお客さんがいらしたとしても、もうおかえりになったんだろうと思ったんです。それで奥さんのお寝間《ねま》のまえまでいきましたけれど、そこも明かりが消えております。二、三度声をかけましたけれどご返事もございません。奥さんちかごろ眠《ねむ》れないとおっしゃって、よく睡眠薬《すいみんやく》をのんでいらっしゃいましたから、もしそれなら起しちゃかえって悪いと思って、そのまま戸締《とじま》りをして寝てしまったんです。まさか……まさかあんな恐《おそ》ろしいことになっていようなんて、あたし……あたし……」  白崎タマ子はそこまで話すと、とうとうこらえかねたように、わっと声をあげて泣き出した。  けさ目がさめたときタマ子はまだ、奥さんが殺されていようとはゆめにも気がつかなかった。  九時になっても奥さんが起きてこないので、ふしぎに思って寝室をのぞいてみると、もぬけのからで、寝床《ねどこ》もしいてなかった。  しかも戸締りという戸締りは全部なかからしてあるので、いよいよふしぎに思って応接室をのぞいてみると、壁ぎわにおいたソファのうしろから、くつ下をはいた足がのぞいている。  びっくりしてのぞいてみると、そこに泰子が死体となって横たわっていたというわけである。 「そうすると、犯人は奥さんを殺して、応接室のソファのうしろに死体をかくしていったというわけですか」  と、三津木俊助は犯人のあまりのだいたんさに、おもわず舌《した》をまいておどろいた。    床《ゆか》の血文字 「まあ、そういうことになりますね。おそらく犯人にとってはこの家を出て、東京《とうきよう》のどこかへまぎれこむまで、事件が発見されなければそれでよかったんでしょうな」  泣きむせぶ白崎タマ子を立ち去らせたのち、等々力警部は考えぶかい調子で、つぶやいた。  そのそばから、もどかしそうに口を出したのは、板垣博士である。 「それはそうと、等々力くん。ぼくの名前をかたって電話をかけてきた男について、調査《ちようさ》をすすめているかね。お手伝いさんに電話番号をいいおいたということだが……」 「おお、そうそう」  と、等々力警部はポケットから手帳を取り出すと、一枚の卓上《たくじよう》メモを取りあげて、 「これが白崎タマ子のひかえておいた電話番号なんですが……」  板垣博士はちらとその番号を見ただけで、 「ちがうね。これはぼくの自宅でもないし、大学の研究室でもない」 「警部さん、それでこの電話番号の所有者を調べてごらんになりましたか」 「もちろん調べてみましたよ。これは、本郷|初音町《はつねちよう》にある松濤館《しようとうかん》というちょっと高級な旅館なんです。いまそちらのほうへ古川《ふるかわ》刑事を派遣《はけん》して調べさせているんだがね」 「すると、これはこういうことになるね」  と、板垣博士はれいによって口のまわりをふちどっている、ふさふさとしたひげをまさぐりながら、 「だれかがぼくの名をかたって松濤館へ投宿《とうしゆく》した。そして、そこから夕方の五時ごろ、このうちへ電話をかけてきた。ところが、そのときここの奥さんが不在《ふざい》だったので、松濤館の電話番号を知らせておいた。それから約一時間のちに帰宅《きたく》した奥さんが、お手伝いさんから話をきいて、松濤館へ電話をかけた。そして、訪問《ほうもん》の時間をうちあわせておいて、九時ごろお手伝いさんがふろへいったるすに、ぼくのにせものがやってきた……と、だいたい以上のように考えていいね」 「そうです、そうです。こちらの奥さんとしても、いまアメリカにいるご主人にないしょで、ダイヤのしまつをしようとしていたんですから、お手伝いさんに知れるとつごうが悪いので、わざとふろへやったんでしょうね」 「しかし、そうすると板垣先生」  と、三津木俊助が身を乗りだして、 「先生のほうではダイヤの持ち主をご存じなかったが、こちらの奥さんのほうでは先生のことを知っていたんですね」 「そりゃあそうだろうよ。太田垣はダイヤをあずかるとき、X大学の板垣|教授《きようじゆ》がじぶんのいとこだから、その男に鑑定させて、その結果《けつか》によってはっきりねだんをきめようと、そのダイヤの持ち主にいっておいたと、ダイヤを研究室へもってきたとき、いっていたからね」 「そうすると、ゆうべの先生のにせものは、ダイヤはまだじぶんの手もとにあるから、だれにもないしょでこっそりお返ししたいとか、なんとかいってこちらの奥さんをよろこばせたんでしょうな」 「しかし……」  と、そのときそばから、おずおず口を出したのは、探偵小僧の御子柴進である。  進はなんとなく、ふしぎそうな顔色だ。 「しかし……? 御子柴くん、どうしたの」  と、板垣博士がたずねると、 「木塚陽介はどうしてここへやってきたんでしょう。なぜまたここの奥さんを殺したんでしょう。ダイヤはもうじぶんの手にはいっているんですから、そんな必要はなさそうに思うんですが……」 「いや、それはこうだよ、探偵小僧」  と、三津木俊助がその質問《しつもん》をひきとって、 「こちらの奥さんは、押し入れのなかから、姿なき怪人の木塚陽介が太田垣さんを殺すところを見ていたんだ。いや、見ていたのみならず、木塚にとってつごうの悪いことを立ちぎきしていたかもしれない。それをあとになって木塚が気づいたんだ。それで生かしておいちゃ破滅《はめつ》のもとと、板垣先生にばけてここへやってきたんだろう。それにしても、木塚陽介は、なんという恐《おそ》ろしいやつだろう。あいつはまるで鬼《おに》か悪魔《あくま》のようなやつだ。あいつには血も涙《なみだ》もないのだ、邪魔《じやま》だと思う人間があったら、かたっぱしから殺してしまうんだ」  いまさらのように三津木俊助が、恐ろしそうに身ぶるいをしたとき、等々力警部が思い出したように口を開いた。 「それはそうと板垣先生。先生は調べてごらんになりましたか。お宅や研究室のほうを」 「ああ、調べてみた。助手の梶原くんにも手伝ってもらったんだ」 「それで結果は……?」 「盗聴器《とうちようき》がそなえつけてあったよ。小日向台町の自宅のほうにも、大学の研究室のほうにも。しかもどちらも電話のすぐそばにそなえつけてあったんだ。だから室内の対談はいうにおよばず、ほかからかかってくる電話なども、全部|盗《ぬす》みぎきされていたらしい」 「それで、その盗聴器はどこへ連絡《れんらく》しているかわかりませんか」 「それはいまのところ、調べようがないが、ひょっとすると……」 「ひょっとすると……?」 「本郷初音町の松濤館じゃないかな」 「あっ!」  と、思わず一同が驚きの声を放ったとき、古川刑事があわただしくかえってきた。 「ああ警部さん、松濤館へいってきました」 「ああ、それでどうだった。結果は……」 「はあ、なんでもひと月ほどまえから、板垣健造という名前でへやを借りていた男があるそうです」 「板垣健造……? 板垣祐輔ではないんだね」 「はあ、名前だけはわざと変えていたんですね。なんでもふつうのめがねのうえに黒めがねをかけた男で、ひげはなく、こちらの板垣先生とはまるで人相がちがっています。しかも、そいつはそこに住んでいたわけではなく、勉強のためだとかいって、ときどきやってきて、へやのなかにとじこもっていたそうです。そこでそのへやを調べてみると、こんなものが机《つくえ》のうえにおいてありましたよ」  と、古川刑事が取りだしたのは、なんと盗聴器のレシーバーではないか。 「畜生《ちくしよう》! 畜生! それじゃやっぱり松濤館で……」  一同が思わず顔を見合わせたとき、応接室のほうから、けたたましい新井刑事の声がきこえてきた。 「警部さん警部さん、ちょっときてください。妙なものがありますよ」 「妙なもの……?」  一同がなだれをうって応接室へはいっていくと、新井刑事が床《ゆか》のうえをゆびさしながら、 「ほら、床のじゅうたんのうえをごらんなさい。血でなにか書いてあります。あれ、被害者が息をひきとるまえに、じぶんの指に血をつけて書いたんじゃありませんか」  一同がぎょっとしてのぞきこむと、なるほどそこにはみみずののたくったような字で、くねくねとなにか書いてある。  それは片かなで、 「エレベーター」と、いう字らしかった。 「エレベーター……? エレベーターとはなんのことだろう」  一同がふしぎそうに顔見合わせたときである。とつぜん探偵小僧の御子柴進が、小おどりせんばかりにしてさけんだのだ。 「わかった! わかった! 太田垣さんの死体がいちじ消えてしまって、また出てきたわけがわかった。板垣先生、三津木さん、警部さんもいきましょう。吉祥寺の太田垣さんの家へいきましょう」  さけんだかと思うと、進ははやそのへやをとび出していた。    ああ、奇想天外《きそうてんがい》 「探偵小僧、君はいったいなにがわかったというんだい」  そこは吉祥寺にある太田垣三造家の、玄関わきにあるあの四角な応接室である。成城からかけつけてきた板垣博士と等々力警部、三津木俊助の三人は、ふしぎそうに探偵小僧を取りまいている。  探偵小僧の御子柴進は、ズボンのポケットに両手をつっこんだまま、しさいらしく首をひねって、へやのなかを見まわしていたが、やがててんじょうからぶらさがっている西洋ランプを指さすと、 「三津木さん、あなたはあのランプをふしぎだとは思いませんか」 「あのランプがふしぎだとは……?」 「なるほど、板垣先生のお話では太田垣さんというひとは、変わりものだということでしたね。しかし、いかに変わりものの太田垣さんでも、ほかのへやや座敷には、ちゃんと電気をひいていらっしゃいます。それだのにこのへやだけはなぜ電気をひかずに、不自由なランプでしんぼうしていたんでしょう」 「ふむ、ふむ、なぜ不自由なランプでしんぼうしていたんだね」  と、板垣先生もふしぎそうな顔色だ。 「それは、電気をひくには、電線をひっぱらなければなりません。電線をひっぱるとへやを移動《いどう》させるのにつごうが悪いからじゃありませんか」 「へやを移動させる……? へやを移動させるとはどういうことだね」  と、等々力警部もおどろいたように進の顔を見なおした。 「いいえ、板垣先生も三津木さんも、このへやのまうえには、ちょうどこのへやがすっぽりはいりそうな空間があるのをおぼえていらっしゃるでしょう。板垣先生は太田垣さんがアトリエにでも使っていたんじゃないかと、いってらっしゃいましたが……」 「ふむ、ふむ、それがなにか……?」 「それに、ぼく、聞いたんです。おとといの晩、太田垣さんの死体が、ここにころがっているのを見て、あわててこの家をとびだしていったとき、家のなかからなにかゴーッというような音がきこえたんです。それから、ちょっと地ひびきがするような音を……だから、このへや、エレベーターみたいになっているんじゃないかと思うんです」 「エレベーター……?」  一同は思わずあきれて目を見張った。 「そうです、そうです。そして、このへやの真下には、これとそっくりおなじ装飾《そうしよく》をほどこしたへやがもうひとつあるんじゃないかと思うんです。ああ、あった、あった、ここにボタンがあります。これをひとつ押してみましょう」  探偵小僧の御子柴進がデスクのはしについているボタンを押すと、ゴーッとかすかな音が地ひびきを立てたかと思うと、ああ、なんと内へ開いたドアの外の廊下《ろうか》や階段が、しだいに下へめりこんでいくではないか。  いや、いや、廊下や階段がめりこんでいくのではない。このへやがエレベーターのように上へあがっていくのである。 「出ましょう。廊下へ出ましょう。下からせりあがってくるへやをみましょう」  板垣博士と等々力警部、三津木俊助の三人は、あっけにとられてぼうぜんと、そこに立ちすくんでいたが、進にうながされ、あわてて廊下へとびおりた。  と、いままで一同が立っていたへやが、かれらの眼前《がんぜん》で上へ上へとせりあがっていったかと思うと、その下からしだいにうかびあがってくるのは、なんと上のへやとそっくり同じへやではないか。  探偵小僧の御子柴進は興奮に声をふるわせて、 「変わりもんの太田垣さんはこういう仕掛けで、いつかだれかをびっくりさせるつもりでいたんでしょう。それを姿なき怪人の木塚陽介がかぎつけて、人殺しに利用したんです。ほら、このへやへはいってみましょう」  やがて下からあがってきたへやが一同のまえでぴったり静止したので、四人がどやどやとなかへはいっていくと、 「ほら、ほら、ここのじゅうたんには血のあとがありません。だから、さいしょぼくがはいっていって死体を見つけたのは、いま上にあるへやなんです。ところがぼくがおまわりさんを呼びにいったあいだに、エレベーター仕掛けでこのへやをせりあげておいたのです。そして、ぼくが姿なき怪人にだまされてかえったあとで、木塚陽介はふたたび上のへやを、下へせりさげておいたのです」  ああ、あまりにも奇想天外《きそうてんがい》なこの仕掛けに、一同がきつねにつままれたように顔見合わせているときだった。  とつぜん、へやのすみから大声がひびいてきた。 「わっはっは! わっはっは! これ、おやじ、板垣のおやじ、おどろいたか。変わりもんの太田垣三造が、こんな仕掛けをしておいたのを、いとこのおまえが知らぬとは、なんという大たわけだ。まぬけもんだ。わっはっは! わっはっは! おかげでおれはダイヤをもらったぞ。これからもまだまだ悪事を働いて、おまえにちょう戦してやるのだ。つかまるものならつかまえてみろ。姿なき怪人はとてもきさまにはつかまらぬ。わっはっは! わっはっは! わっはっはっは……」  一同があっとさけんで声の出所をしらべてみると、それは時限装置《じげんそうち》のテープ・レコーダーだった。 [#改ページ] [#小見出し]  第3話 ふたごの運命    深夜の電話  台風第七号が関東《かんとう》一円をあらしまわって、日本海側へ抜《ぬ》け去った昭和三十四年八月十四日の深夜の十二時、正確《せいかく》にいえば八月十五日の午前|零時《れいじ》ごろのことである。  各地からはいってくる台風の被害情報《ひがいじようほう》に、てんやわんやの騒《さわ》ぎを演《えん》じている新日報社《しんにつぽうしや》の編集室《へんしゆうしつ》の一|隅《ぐう》、探偵小僧御子柴進のデスクのうえの卓上電話《たくじようでんわ》が、とつじょけたたましく鳴りだした。  進は、すぐに受話器をとりあげて、 「ああ、こちら新日報社の編集室ですが……ええ、ぼく、御子柴進です。ああ、板垣先生ですか。あっ、せ、先生、板垣先生、どうかなすったのですか」  進は、おもわず送話器にしがみついた。  電話のむこうから板垣博士の苦しそうなうめき声が、とぎれとぎれに聞えてきたからだ。 「ああ、探偵小僧か……み、三津木くんはいるかね。……いや、三津木くんが見つからなかったら、君でもいい。……すぐに、すぐにかけつけてきてくれ」 「はあ、それじゃ三津木さんを捜《さが》しだして、すぐにまいりますが、先生、いまどちらにいらっしゃるんですか」 「だ、大学の研究室だ……」 「先生、こんなにおそくまで研究室にいらっしゃるんですか」 「いいや、だから、閉《と》じこめられてしまったんだ。き、木塚陽介のために閉じこめられてしまったんだ」 「な、なんですって? 木塚陽介のために……」  探偵小僧の御子柴進は、体がジーンとしびれるような気がして、おもわず受話器を強くにぎりしめた。 「先生! 先生! それでおけがは……」 「いいや、さいわいけがはない。……ただ、身動きできないようにされている。だから、君でもだれでもいい。すぐにここへやってきて、ぼくのいましめをといてくれたまえ……大急ぎだ……大急ぎだ……一刻《いつこく》を争う場合なんだ」 「しょ、承知《しようち》いたしました。それではこれからすぐに……」 「あっ、ちょ、ちょっと待ちたまえ」 「はあ、まだ、なにかご用ですか」 「木塚のやつがドアに鍵《かぎ》をかけていってしまった。だからドアを打ち破《やぶ》るつもりできてくれたまえ」 「はっ、承知しました。それじゃぼくこれからさっそく三津木さんを捜します。さっきまでたしかいたようですから、ああ、それから警視庁《けいしちよう》の等々力警部にも電話しておきましょうか」 「ああ、そうしてくれたまえ。大事件《だいじけん》だ、大事件なんだ。ふたりの人間の生命に関する大事件が起こりそうなんだ」 「わ、わかりました」  電話を切った進が、社内を捜してみると、さいわい三津木俊助はすぐ見つかった。  三津木俊助も進から、電話のおもむきを聞くと顔色をかえて、 「そ、それじゃ先生、いま研究室へとじこめられていらっしゃるんだね」 「ええ、どうやらしばりあげられているらしいんです」 「よし、それじゃぼくはこれからさっそく出かける準備《じゆんび》をするから、そのまに君は警視庁へ電話をかけて、等々力警部に知らせておけ」 「承知しました」  さいわい、等々力警部も警視庁にいた。 「なんだと、それじゃまた、木塚陽介があらわれたというのか」  と、等々力警部は電話のむこうでわめいている。 「はあ、しかも、板垣先生のことばではふたりの人命に関する大事件が起こりそうだから、すぐかけつけてくるようにとのことでした」 「ようし、それじゃすぐに出かける」  進が電話をかけおわったころには、三津木俊助が準備万端《じゆんびばんたん》ととのえて乗用車にのって待っていた。  台風は日本海側へ去ったとはいうものの、雲行きはまだあわただしく、ときおり強い南風が吹《ふ》く。 「三津木さん、木塚陽介はこんどはなにをたくらんでいるんでしょう」 「さあ、なんだかわからんが、先生はふたりの人命にかかわる一大事件とおっしゃったんだね」 「はあ、たしかにそう聞えましたが……」 「とにかく、先生によく事情《じじよう》をきかなきゃ……」  さいわいX大学のまえで警視庁の乗用車と落ち合った。  進の要請《ようせい》で、等々力警部は鍵や、錠前《じようまえ》などに精通《せいつう》している、係のものを連れてきていた。  板垣博士の研究室はいつかもいったとおりふたへやになっていて、廊下《ろうか》からはいったとっつきのへやは、書籍《しよせき》などがぎっちりつまった読書室|兼応接間《けんおうせつま》になっていて、そのへやのおくに博士のほんとうの研究室がある。  警視庁からきた錠前係が、廊下のドアの錠をこわしたので、一同がなかへはいってみると、そこには博士のすがたは見えず、奥《おく》の研究室からうめき声がきこえてくる。 「先生、先生、大丈夫《だいじようぶ》ですか、こちら三津木俊助です」  研究室のドアの外から声をかけると、 「ああ、三津木くん、はやくそのドアをこわして、なかへはいってきてくれたまえ。大急ぎだ! 大急ぎだ!」 「承知しました」  警視庁の錠前係が、ドアをこわすのを待ちかねて、一同が研究室のなかへなだれこむと、板垣博士はいすにしばられたまま床《ゆか》にころがっている。  やっと猿《さる》ぐつわをあごまではずした板垣博士は口にえんぴつをくわえている。  そしてそのそばに卓上電話が、受話器のはずれたままころがっているところをみると、博士は口にくわえたえんぴつで、ダイヤルをまわしたらしく、さっきの電話をかけるのに、博士がいかに悪戦苦闘《あくせんくとう》したかがわかるのだ。    運命のふたご 「先生、いったい、どうしたんです」  等々力警部と三津木俊助、それに探偵小僧の御子柴進も手伝って、板垣博士のいましめを解《と》きはなったが、博士がやっと自由になると、俊助の質問《しつもん》に答えもせず、そばにころがっている卓上電話をとりあげた。  そして、いったん受話器をかけるとまたはずして、いそがしくダイヤルをまわしていたが、やがてむこうが出たらしく、 「ああ、もしもし、そちら羽田《はねだ》の東京|国際空港《こくさいくうこう》ですか。国際空港のロビーですね。それじゃちょっとおたずねいたしますが、台風七号をさけてウエーキ島に待機していた、サンフランシスコ発の日航機はもう着きましたか。えっ? もう着いた? 予定より十三時間おくれて、きょうの午後九時に到着《とうちやく》した……? それで旅客たちはどうしました? ええ? 税関《ぜいかん》の査証《さしよう》もおわって、それぞれ出発してしまった、……? ひょっとするとそのへんにまだ、メリー望月《もちづき》にヘレン望月という、アメリカうまれのふたごのきょうだいが、まごまごしていやあしまいか? え? そんなことはわかりかねる? ああ、そう、失敬《しつけい》、失敬、それではまた」  ガチャンと受話器をおいた板垣博士は、 「ああ」  と、絶望的《ぜつぼうてき》なうめきをあげて、いすに身を投げだすと、デスクのうえにつっぷして、両手で頭をかかえこんでしまった。 「先生! 先生! ど、どうしたんですか」 「メリー望月とヘレン望月という、アメリカうまれのふたごのきょうだいが、どうしたというんですか」  三津木俊助と等々力警部のふたりが、左右からやさしく板垣博士にたずねているあいだに、探偵小僧の御子柴進は、ものめずらしげに研究室のなかを見まわしていた。  進もとなりの読書室兼応接室までは、いままでたびたびきたことがあるけれど、この研究室へはいったのは、こんやがはじめてなのである。  そこは死体を解剖《かいぼう》したり、血液《けつえき》を調べたり、恐《おそ》ろしい殺人事件が起こった場合、警察《けいさつ》当局《とうきよく》の依頼《いらい》によって、博士が重大な学問上の調査《ちようさ》をする場所なのだ。  そう思ってみると、そこにある解剖台のうえに、つめたいはだかの死体がよこたわっていて、そこここに血痕《けつこん》がとびちっているような気がして、さすがの進もおもわずゾーッと気味悪くなってくる。  いや、いや、そう思ってみなくても、そこにはうすきみ悪いものがいろいろかざってあるのだ。  アルコールづけにした人間の眼球《がんきゆう》だの、頭蓋骨《ずがいこつ》だの、また、むこうのガラスのケースのなかには、五体そろった人間のがい骨《こつ》が、ぶきみな白さをみせてぶらさがっている。  進はおもわずゾーッと肩《かた》をすぼめて、それらのうす気味悪いものから目をそらした。 「先生! 先生! ほんとにどうなすったんですか。ヘレンとメリーというアメリカうまれのふたごとは、どういうひとなんですか」 「そして、また木塚陽介とはどういう関係があるんですか」  と、三津木俊助と等々力警部のふたりに左右から背中《せなか》をゆすぶられて、板垣博士はがばとばかりに体を起こすと、まるで狂《くる》ったようにふたりの手をとってふりまわし、 「おお、三津木くん、等々力警部、なんとかしてふたりを救ってやってくれたまえ。木塚のやつが……木塚のやつが……ひょっとすると、ふたごのきょうだいを殺してしまうかもしれないのだ」  板垣博士は、みごとに口のまわりをかざっている、あの特徴《とくちよう》のあるあごひげと口ひげをふるわせながら、またもや両手でひしと顔をおおうた。 「先生、しっかりしてください。そして、もっと落着いて、くわしい事情をきかせてください。そのヘレン望月とメリー望月というのは、いったい、どういうひとなんですか」  三津木俊助がやさしく、力づけるようにたずねると、博士もじぶんの取り乱《みだ》した態度《たいど》に気がついたのか、きまり悪げに顔をしかめて、 「ああ、いや、これはぼくが悪かった。学者のくせに、われを忘《わす》れてしまうなんて醜態《しゆうたい》だった。三津木くんも等々力警部も、まあ、聞いてくれたまえ」  と、博士はやっと落着きをとりもどして、 「いまいった、メリー望月とヘレン望月というのは、じつはぼくにとってはかわいいめいなんだ」 「なんですって? 先生のめいごさんなんですって?」 「そうなんだ。そうそう、写真があるからちょっとみてやってくれたまえ」  板垣博士は立ちあがって、となりの読書室へ出ていったが、すぐまたかえってきたところをみると、手に一枚の写真をもっている。 「さあ、この写真を見てやってくれたまえ」  板垣博士のさしだした写真には、四人の男女がうつっていた。  そこはどこかの牧場の一部らしく、ゆたかにしげった牧草のうえに毛布《もうふ》をしいていて、四人の男女がピクニックのべんとうをひらいているところらしかった。  四人ともむろん洋装《ようそう》だが、ふたりならんで肩《かた》をくんでいる十くらいの少女は、それこそうりふたつといっていいくらいよく似《に》ている。  そして、その背後《はいご》にいるのが両親だろう。両親とも日本人であった。 「先生、このふたごのごきょうだいが、先生のめいごさんとおっしゃると……?」 「ふむ、そこに写っているふたごの母親というのが、ぼくにとってはしんじつの妹なんだ。まあ、聞いてくれたまえ。こういうわけだ」  と、板垣博士の話すところによるとこうである。    ふたごゆうかい  板垣博士にはフミ子という妹がひとりあったが、終戦後日本へ進駐《しんちゆう》していた二世の将校《しようこう》ヘンリー望月と結婚《けつこん》して、昭和二十二年にアメリカへ渡《わた》っていった。  そして、その翌年《よくねん》の二十三年にうまれたのが、メリーとヘレンのふたごである。  ヘンリー望月の両親は大正のはじめごろ渡米《とべい》して、カリフォルニアで牧場を経営《けいえい》し、日本人としては成功者《せいこうしや》のほうである。  ヘンリー望月はその広大な牧場を相続して、いたってゆたかに暮《く》らしていた。  だから、このまま順調にいけば、メリーとヘレンのふたごも、幸福に成長したはずである。  ところが、好事魔《こうじま》多しとはこのことだろうか。  ことしの春、ヘンリー望月と妻《つま》のフミ子は、不幸な交通事故《こうつうじこ》のために、同時に死亡《しぼう》してしまったのである。  そして、ことし満十一歳になるメリーとヘレンのふたごは、とつぜんみなし児《ご》になってしまった。 「なにしろ、ヘンリー望月というのがひとりっ子で、しかも両親もすでに死亡しているので、メリーとヘレンの肉親といえば、この世で、ぼくひとりということになってしまったのだ」 「なるほど、なるほど、それはお気のどくですね」  と、三津木俊助と等々力警部、進の三人は、またあらためて、いたましそうにふたごの写真に目をやった。 「ふむ、それでむこうにいる弁護士《べんごし》といろいろ相談した結果《けつか》、ぼくがふたりのめいをひきとって、養育することになったんだ」 「なるほど、ところで、先生」  と、三津木俊助はからだを乗りだし、 「そのメリーさんとヘレンさんのおとうさん、ヘンリー望月というひとは、かなり広大な牧場のもちぬしだということでしたが、ふたりの財産《ざいさん》はどうなっているんですか」 「さあ、それだよ、三津木くん」  と、板垣博士はくやしそうに口ひげをふるわせながら、 「木塚のやつが目をつけたのも、その財産なんだ。どうせむこうにはひとりも親類がいないのだから、弁護士にたのんでいっさいの財産を金にかえてもらったんだ。するといっさいがっさい清算した結果、あとにのこったのが十万ドルとちょっと、邦貨《ほうか》に換算《かんざん》すると四千万円ほどある。これをメリーとヘレンのふたりに等分に分配しても、まあ、日本なら安楽にくらせるからね。そこで、このあいだからそういう手つづきをとっているのを、昔《むかし》、メリケンゴロだった木塚のやつがかぎつけたらしい」 「そして、きょう木塚陽介がここへやってきたんですか」 「そうなんだ。じつはきょう午前八時にメリーとヘレンが日航機で、羽田の国際空港へつく予定になっていたのだ。ところが台風のために十二、三時間おくれるだろうということなので、夜になってから空港へ迎《むか》えにいってやるつもりのところ、六時ごろここへ、丸善《まるぜん》の洋書部のものだと名のってやってきたものがある。ああ、これだこれだ」  と、板垣博士が上衣《うわぎ》のポケットから取り出した名刺《めいし》をみると、  丸善洋書部、片桐四郎《かたぎりしろう》  と、刷ってある。 「ところが、それがたくみに変装《へんそう》しているものだから、こちらは木塚とはゆめにも気がつかなかった。それでなにげなく応対《おうたい》していると、だしぬけにアッパー・カットをくらって……」  と、板垣博士は思いだしたようにあごをなでたが、見ればなるほどそこにくろぐろとしたあざができている。 「ふむ、ふむ、それでどうしました?」 「どうしたもこうしたもない。むこうはまだ若《わか》いのだし、腕力《わんりよく》もつよい。おまけにふいをつかれたのだからひとたまりもない。いくじない話だが、こうしていすにしばりあげられ猿ぐつわまでかまされてしまった。そのあとで木塚のやつ、ゆうゆうと片桐四郎の変装をといて、また改めて変装したんだが、いったいだれに化けたと思う」 「だれに化けたんですか」 「このわしに化けたんだ。いすにしばりつけられているわしの顔を手本にして、つけひげやあごひげをつけ、まんまとわしに化けおった!」 「そ、そして、先生の身がわりになって国際空港へ、ふたごのごきょうだいを迎えにいったとおっしゃるんですか」 「そうだ。じぶんでそういっていた。ふたごのきょうだいを誘拐《ゆうかい》して、おまえに復讐《ふくしゆう》してやるんだといっていた」 「そうすると、ふたごのごきょうだいは、先生の顔をご存《ぞん》じなんですか」 「それはしっているはずだ。写真を送っておいたからな」 「そして、木塚陽介は先生そっくりに化けたんですか」 「そっくりというわけではない。ふたりならんでみればちがいがわかるだろう。しかし、写真でしかわしをしらぬメリーとヘレンには、きっと、見わけがつかなかったのにちがいない」  そう語りおわると板垣博士は、また両手で頭をかかえこんで、かすかにすすり泣《な》きをはじめる。それもむりはないのである。  たとえ両親の故国《ここく》とはいえ、はじめてふんだ異郷《いきよう》の地で、いきなり木塚陽介のような、姿《すがた》なき怪人《かいじん》にかどわかされたとすると、この幼《おさな》いふたごの運命は、いったい、どういうことになるのだろうか。 「先生、ここでくどくどいっても、はじまりません。ぼくこれから国際空港へいってみます。ひょっとするとメリーさんもヘレンさんも、まだロビーにいるかもしれません。もしまた、木塚にかどわかされたにしろ、なにか手がかりがあるかもしれない」 「おお、三津木くん、いってくれるか」 「いや、それじゃぼくもいこう」 「三津木さん、ぼくもいきます」  新聞記者や警察官にとっては、深夜も早朝もないのである。それからただちに四人そろって乗用車を羽田の国際空港へ走らせたが、万事はあとの祭であった。  メリーとヘレンのふたごのきょうだいは、たしかに日航機から国際空港へおりたっていた。  しかし、迎えにきた板垣博士と名乗《なの》る怪人物のために、いずこともなく連れ去られてしまったのである。    あわれふたご  ヘレンとメリーのふたごのきょうだいは、真《ま》っ暗《くら》なへやのなかで、抱《だ》きあったままひと晩《ばん》明かした。  ふたりともまだじぶんたちが、世にも恐ろしい運命におかれているとは気がつかないのだ。しかし、子どもごころにもなんだかようすがへんだくらいはわかっている。ふたりがひと晩あかしたへやというのは、窓《まど》ひとつない、四角なコンクリートづくりの部屋で、ベッドといっても、かたい木製《もくせい》の粗末《そまつ》なベッドがひとつあるきり。わらぶとんはしんがはみだし、うえにかかっている毛布というのも、よごれて、あかじんで、しかもところどころすりきれている。  ふたりがおじだと信じている男は、ゆうべ国際空港から乗用車でふたりをここまでつれてくると、 「さあ、ふたりともここでよくねるんだよ。あしたの朝になったら、またきてやるからな」  そういって、へやを出るとそとからピンとかぎをかけていってしまった。  ふたりはなんとなく当てがはずれて、あっけにとられたような、気持だった。両親を同時にうしなって、そうでなくても心細いこのふたごのきょうだいは、もっともっとあたたかい歓迎《かんげい》を、おじさんから期待していたのである。 「ヘレン、あたしおなかがすいたわ」 「メリー、わたしもよ。おじさんはいったいどうしたのかしら」  ふたりのかわす会話は、むろん英語である。  ふたりとも両親にしこまれて、かなりじょうずに日本語もしゃべれるのだが、ふたりだけで話すときは、なれた英語のほうが便利なのだ。 「メリー、あのおじさん、なんだかへんだと思わない」 「そうねえ、なんだかおそろしいひとねえ。でも、学者だというから、変人なのよ、きっと」 「そうかしら、でも、もっとやさしくしてくれてもよさそうに思うわ」 「そういえば、そうねえ。それにこのへやもへんねえ。さいわい、トイレも洗面所《せんめんじよ》もついているからいいけれど、なんだか箱《はこ》みたいなへやねえ」 「日本のおうちってみんなこんなかしら」 「そうじゃないと思うわ。パパもママもいってたじゃない。日本のおうちってみんな紙と木とでできてるんだって。そして、タタミというもののうえでねるんだって」 「ほんとにそうだったわねえ」 「いったいどうしたんでしょう」 「どうしたんでしょうねえ」  ふたごとはいえ、メリーとヘレンはよく似ている。  なにからなにまでうりふたつで、しかも、お人形のようにかわいらしいのだ。  ふたりはなおも、幼い知恵《ちえ》をふりしぼって、じぶんたちのうえにおそいかかってきた、このふしぎな運命について語りあっていたが、とつぜんひとりがとびあがった。 「ああ、だれかきた! きっとおじさまよ」 「おじさま! おじさま!」  かれんなふたりがベッドのはしからとびあがって、ドアのそばまでかけよったとき、ガチャリと鍵をまわす音がして、あついドアが外からひらいた。  と、そこに立っているのは板垣博士……いや、板垣博士とそっくりの怪人物である。  あごひげも口ひげも、また髪《かみ》のかりかたなども、板垣博士にそっくりだが、ただこのひとはめがねを二重にかけている。  ふつうのめがねのうえに、黒めがねをかけているところが、なんとなくうさんくさいかんじなのだ。 「おじさま!」 「いらっしゃい!」  ふたりの少女は左右から、怪人物にとびつこうとしたが、なんとなくつめたいあいての態度と、それから手にしたふしぎなものに気がついて、おもわず二、三歩あとじさりした。  板垣博士によくにたその怪人物は、右手に乗馬むちをもっているのだ。  メリーとヘレンが、おびえたように手をとりあって、たじたじとあとじさりをするのを見ると、怪人物はにやりとわらった。  それからていねいにドアをしめるとかぎをかけ、あらためてふたりのほうへむきなおると、 「おい、メリーとヘレン」  と、つめたい声で呼《よ》びかけた。 「は、はい……」 「このわしが、おまえたちのおじに見えるかい。おまえたちのおじに似ているかい」 「ええっ!」  と、メリーとヘレンは顔を見合わせ、 「それじゃ、あなたはおじさんじゃなかったんですか」 「なにが、おじなもんか。よし、わしのほんとの顔を見せてやろうか」  と、左手で口ひげとあごひげをむしりとると、あごのところにありありみえるのは、まぎれもなく大きなきずのあとである。  そして、それこそ姿なき怪人木塚陽介の目印《めじるし》なのだ。 「あれえッ!」  と、だきあったメリーとヘレンのそばへちかよりながら、怪人はぴしぴしとむちで床《ゆか》をたたいて、 「わしは、おまえたちのおじとは敵《てき》どうしなのだ。おまえたちのおじの板垣博士には、ふかいふかいうらみがあるのだ。だから、こうしておまえたちをいじめてやるのだ!」  二重めがねのおくで、怪人の目は怪《あや》しく恐ろしく光っている。    怪トラック  メリー望月とヘレン望月のふたごのきょうだいが、羽田の国際空港から、いわゆる姿なき怪人のために誘かいされてから、十日とたち、二十日とたち、もうきょうは九月の七日にもなっているのに、いまだに、ふたごのゆくえはようとしてわからない。  いかに法医学《ほういがく》の権威《けんい》とはいえ、なんのいとぐちもないところから、事件を解決《かいけつ》するわけにはいかないのだ。  ちかごろの板垣博士は、傷心《しようしん》の極《きよく》にたっしているかのごとく、げっそりとおもやつれがしてみえる。  三津木俊助と探偵小僧の御子柴進はそういう博士に同情《どうじよう》して、やっきとなって羽田の国際空港を立ち去ってからのちの、姿なき怪人の足どりをつかもうとするのだが、よほどうまく立ちまわったとみえて、いまだにしっぽがつかめないのだ。  こういうことは時日が経過《けいか》すればするほど、探索《たんさく》するほうのがわにとって不利だと思わねばならない。  二十日以上もたってわからないとなると、もう、そのほうからの探索は断念《だんねん》しなければならなかった。  警視庁は警視庁で、等々力警部を中心として、八方手をつくして聞きこみに全力をあげた。  聞きこみというのは、どこかでメリー望月とヘレン望月に似た少女を、見たものはないかと、刑事《けいじ》たちがこれはと思う場所を、聞いて歩くことである。  また、新聞は新聞で、板垣博士の所持していた写真から、メリーとヘレンの顔の部分だけを拡大《かくだい》して、いっせいに掲載《けいさい》すると同時に、もしこういう少女を発見したら、すぐにもよりの警察なり交番なり、あるいは新聞社なりへ報告《ほうこく》するようにと、大々的に書き立てたが、九月七日げんざいでは、まだどこからも、これはと思う反響《はんきよう》はないのであった。  こうして板垣博士はいうまでもなく、東京都民の全体が、メリーとヘレンのふたごの運命にたいして、ふかい憂色《ゆうしよく》につつまれていた九月七日の夕まぐれ、ついに、ふたごのかたわれらしい少女の死体が発見されて、ここに改めて姿なき怪人の残酷《ざんこく》さに、東京都民は恐怖《きようふ》のどん底にたたきこまれたのであった。  その日、探偵小僧の御子柴進は社用をおびて、自転車で霞《かすみ》ケ関《がせき》のほうへ出向いていた。  さいわい社用もぶじに果《はた》したので、口笛《くちぶえ》もかろやかに自転車を走らせていたが、ふと見ると、まえを行くトラックの後部のワクがはずれていて、上にのっけた白木の箱が、いまにも自動車からずり落ちそうになっている。 「おじさん、おじさん、トラックのおじさん」  と、進は、思わず背後《はいご》から声をかけた。 「あぶないよ、あぶないよ。トラックから箱が落ちそうになっているよ」  大声でうしろから声をかけたが、なにしろ都会の雑音《ざつおん》のなかである。  少々大声をあげたくらいでは、運転手の耳までとどかないのか、トラックはあいかわらずあぶなっかしい疾走《しつそう》をつづけている。  車体がバウンドをするたびに、白木の箱が少しずつ、後部のほうへずれてきて、ハラハラするようなあぶなっかしさである。 「おじさん、おじさん、トラックのおじさんたら!」  進は、声をからして連呼《れんこ》しながら、フル・スピードで自転車を走らせると、やっとトラックの運転台のそばまで追いついた。 「おじさん、おじさん、トラックのおじさんたら!」 「えっ」  トラックの運転手ははじめてきがついたのか、運転台からふりかえると、 「小僧、どうしたんだい。おれになにか用事かい」  あとから探偵小僧の御子柴進が、じだんだふんでくやしがったのは、その運転手の顔を、もっとよく見なかったことである。  その運転手は大きなちりよけめがねをかけ、ほこりよけのマスクをかけていたのだが、それを怪《あや》しいと思わなかったじぶんのうかつさが進には、あとになってくやしくてたまらなかったのである。 「どうしたも、こうしたもないよ。トラックのうしろのわくがはずれているよ。そして、トラックにのっけた白木の箱がいまにもずり落ちそうになっているよ」 「えっ」  と、うしろをふりかえった怪運転手はたった一つ積んだ荷物が、いまにもずり落ちそうになっているのを見ても、かくべつおどろいたふうもなく、 「なあに、心配するな。小僧、ひとのことに気をもんでいると、子供《こども》のくせに頭がはげるぜ、あっはっは!」 「だって、おじさん」  せっかく、ひとが親切に忠告《ちゆうこく》してやっているのにと思うと、進もむっとして、 「このままじゃ、いまにトラックからずり落ちるぜ。ころげ落ちてからあわてたってぼく知らないぜ」 「よけいなおせっかいは無用《むよう》にしな。こっちにはこっちの考えがあるんだ」 「ヘェン、トラックから荷物をふるい落そうという考えかい」 「ご名察《めいさつ》。ほら、どうだ」  とつぜん、運転手がハンドルを大きくまわすと、トラックは道を急カーブして警視庁のほうへまがったが、そのとたん車体が大きくバウンドをして、ガラガラドシンと、白木の箱がとうとうトラックからすべり落ちた。 「それ、見な、おじさん、とうとう箱がすべり落ちてしまったじゃないか」  だが、トラックの運転手は、それに気がついているのかいないのか、そのまま警視庁のほうへ疾走していく。 「おじさん、おじさん、荷物が落ちたんだよ。このまま捨《す》てていってもいいのかい!」  探偵小僧の御子柴進は、背後から大声で叫《さけ》んだが、それが聞えたのか聞えないのか、トラックはみるみる遠ざかって、おりからのラッシュ・アワーの雑踏《ざつとう》の中へまぎれこんでしまった。    箱の中 「へんだなあ、あのおじさん、荷物をすてていってもいいのかしら」  ブツブツつぶやきながら進が路上にころがっている白木の箱のほうへとってかえそうとしていると、とつぜん急カーブでまがってきた乗用車が、路上にある障害物《しようがいぶつ》に気がついて、 「あっ、あぶない!」  と、運転手がいそいでブレーキをかけたが、もうおそかった。  メリメリと板のさける音がして、乗用車のまえのタイヤのいっぽうが、はんぶん白木の箱をおしつぶしていた。 「だれだ、こんなところへこんなものをおいていったのは?」  乗用車の運転台から首をのぞけた運転手は、横で進がいたずらでもしたように、目をひんむいてどなりつけた。 「ぼくじゃないよ。いまむこうへ逃《に》げていったトラックが、そこにふるい落していったんだ」 「ちくしょう!」  運転手はハンドルをにぎって、二、三メートルほど車を後退《こうたい》させる。  進は自転車からおりると、なにげなく白木の箱のほうへ歩みよった。乗用車のなかから運転手もおりてきて、 「トラックがふるい落していったんだって?」 「ええ、そうなんです。トラックからいまにもずり落ちそうになっていたので、ぼく、なんども注意したんだが聞かないんです。とうとうここへふるい落していったんです」 「へんだなあ、なんだろう」 「なんでしょうねえ」  それは長さ二メートル、幅《はば》が七十センチに厚《あつ》さが五十センチほどの長方形の箱である。 「まるで、おそうしきに使う寝棺《ねかん》みたいじゃないか」 「いやだなあ。きみの悪いことをいわないでくださいよ。トラックが寝棺を落していってたまるもんですか」  その寝棺みたいな白木の箱は、ちょうど中央部がおしへしゃがれて、そこからなにやら白いものがのぞいている。  乗用車の運転手がまず、そこからのぞいていたが、とつぜん、わっと叫んで、二、三歩うしろへとびのくと、 「死体だ! 死体だ! やっぱり死体がはいっている」 「えっ!」  と、叫んで探偵小僧の御子柴進も、おそるおそる板の割《わ》れめから中をのぞいて、注意ぶかくその白いものを眺《なが》めていたが、やがて腹《はら》をかかえて笑《わら》い出した。 「なんだ、運転手さん。あんたおとなのくせに臆病《おくびよう》ですね。あれ、人間の死体じゃありませんぜ。ほら、マネキンの人形かなんかじゃありませんか」 「なんだ、マネキン人形……?」  運転手は帽子《ぼうし》をとって、いま吹きだした顔の汗《あせ》をぬぐいながら、もういちど、箱の中をのぞいて、しげしげ白いものを眺めていたが、 「ちぇっ、なあんだ、人形の腕《うで》か。おれは本物の人間の腕とまちがえたよ。ええいばかばかしい」  いまいましそうに運転手が、くつのつま先でドシンと強く箱をけったが、そのとたん、こんどは探偵小僧の御子柴進が、 「あっ」  と、叫ぶと、なにを思ったのか身をかがめて、箱の上をのぞきこんだ。 「おい、どうしたんだい、小僧。どこかそのへんの道ばたへでもころがしておこうじゃないか。いまにトラックが取りにくるだろう」 「あっ、おじさん、ちょっと待って!」 「待ってって、こんなところへおいといちゃじゃまにならあ。さあ、おまえも手伝うんだ。……おや……」  身をかがめて白木の箱に手をかけた運転手は、とつぜん顔をしかめると、 「おい、こ、小僧、こりゃなんのにおいだい? まるで、魚のくさったようなにおいがするじゃないか」 「おじさん、あ、あれ……」 「な、なに……」  進がふるえているのを見て、それが伝染《でんせん》したように、運転手も不安そうに大きく目をみはると、 「小僧、ど、どうしたんだい」 「ほ、ほら、いまおじさんがくつで箱をけったひょうしに、箱の中からなんだかネバネバしたものが……」 「ネバネバしたもの……」  運転手はハンケチを出して鼻をおさえながら、箱の上に身をかがめたが、見るとなるほど箱のさけめから、なにやらドスぐろいものがにじみ出して、それがアスファルトで塗装《とそう》した、道路の上に流れている。 「おい、こ、こ、小僧! こ、こ、これ、ち、ち、血じゃないか」 「お、おじさん、そ、そ、それにこ、こ、このにおい……」  ツーンと鼻をつく異臭《いしゆう》はたしかに、ただのにおいではない。  進も、ハンケチで鼻をおおうと、もういちど箱の割れめからのぞいている、マネキン人形の腕を見なおしたが、とつぜん、わっと叫んで二、三歩うしろへとびのいた。 「ど、どうした、小僧!」 「おじさん、おじさん、たいへんだよ。たいへんだよ、このマネキン人形の中には、人間のからだがとじこめられている」    死体かり置場  警視庁の地下室、うすきみ悪い死体かり置場は、いま、しいんとした重くるしい空気につつまれている。  つめたい鉄製《てつせい》の台の上には、裸《はだか》にされたマネキン人形が横たわっていて——その周囲には数名の人々が、石のように押《お》しだまったまま、マネキン人形にほどこされている、きみの悪い施術《せじゆつ》を見ているのだ。  そのマネキン人形は、いうまでもなく、さっき三宅坂《みやけざか》の付近で怪トラックからふるい落された、白木の箱の中から発見されたものである。  それはフランス人形のように、ひだの多いスカートをはいた等身大の少女の人形だったのだが、いまは着ていたまっかな夜会服をぬがされたうえ、ていねいに蝋《ろう》をはがされているところだった。  その蝋の下に人間が……十二、三の少女の死体が封《ふう》じこまれていることは、いまはもう、うたがいもない事実となっている。  この恐ろしい人形をとりまいて、いきをのんでいる人々の中には、板垣博士もいた。等々力警部もいた。三津木俊助もいた。そして、探偵小僧の御子柴進がいることはいうまでもない。  白い手術着《しゆじゆつぎ》にマスクをかけ、ゴムの手袋《てぶくろ》をはめた医者の手で、すこしずつ蝋がはがされていくにしたがって、一同のくちびるから、恐怖のうめき声がほとばしる。  とつぜん、板垣博士が押しへしゃがれたような声でつぶやいた。 「このぶんでは、蝋を落してしまったところで、顔かたちはよくわかるまいな」  シーンとした死体かり置場に板垣博士の声が、みょうに陰気《いんき》にひびいたので、そばに立っていた進は、おもわず、ゾーッと身をふるわせた。蝋は蝋だけとれてはくれない。  ふらんした少女の体の肉やひふが、蝋といっしょに少しずつ、もぎとられていくその恐ろしさ、きみ悪さ。  進は、もういちどゾッと体をふるわせた。 「先生……板垣先生……」  と、施術している若い医者もいんきな声で、 「できるだけ、慎重《しんちよう》にやるつもりですが、顔をもとどおり復原《ふくげん》することは不可能《ふかのう》ですね。もうこのとおり、腐敗《ふはい》の度がすすんでいるのですし、こう、蝋が密着《みつちやく》していちゃあね」 「おお、かわいそうなヘレンとメリー」  板垣博士はクックッとのどを鳴らせておえつの声をのみこんだ。 「三津木くん」  と、等々力警部はそばに立っている三津木俊助をふりかえると、 「これ、メリーさんかヘレンさんのどちらかだろうねえ」 「年ごろからいって、そういうことになりましょうね。ほかにこの年ごろの少女の失そうとどけが出ていますか」 「いや、それをいま調べてきたんだが、ここひと月ほどのあいだに、この年ごろの少女で失そうしたというとどけは出ていないのだが……」 「じゃ、やっぱり……板垣先生にはおきのどくですが……」  それを聞くと板垣博士は、またクックッとのどを鳴らして、おえつの声をのみこむと、 「かわいそうなヘレンとメリー……。それにしてもにくいやつは木塚のやつだ。姿なき怪人などとぬかしおって……」  にぎりしめた板垣博士の両のこぶしがくやしそうに、ぶるぶるふるえている。 「三津木くん」  と、また等々力警部は三津木俊助をふりかえると、 「これがヘレンさんかメリーさんかわからないが、こうしてひとりがやられている以上、もうひとりのほうも、やっぱりやられているとみなきゃならんだろう」 「はあ、おきのどくながら……問題はその死体がいつどこから、発見されるかということでしょうねえ」 「ちくしょう。ちくしょう。木塚のやつめ!……姿なき怪人のやつめ……」  板垣博士が、またくやしそうに歯ぎしりをする。  やがて、蝋はすっかりはぎ落されたがはたして板垣博士が予想したように、顔のみわけはつかなかった。 「かわいそうに。これではメリーだかヘレンだかわからない。もっとも、顔がふつうであったとしても、わたしにはふたごのみわけはつかないが……」  板垣博士はまた、なげいたが、しかしそこは日本一の法医学者である。  すぐ学者の冷静《れいせい》さを取りもどして、 「きみ、きみ、外傷《がいしよう》はないようだね」 「はい、どこにも致命傷《ちめいしよう》と思われるような傷《きず》はありません」  と、若い医者はこの法医学の大家にたいして、うやうやしさを失わなかった。 「こう殺、あるいはやく殺したようなあともないな」 「はっ、それもありません」 「すると、結局、毒物死ということになるんだよ」 「たぶん、そうだと思います。先生ごじしんで解剖なさいますか」 「むろん」  と、板垣博士は力強く、 「等々力くん」 「はっ」 「この死体をいますぐ、ぼくの研究室まで運んでくれたまえ」 「今夜、すぐに解剖なさいますか」  博士はちらと腕時計に目をやった。  時間は午後十時になんなんとしている。 「いや、解剖はあすということになるだろうが、いちおう今夜のうちに、解剖まえの処置《しよち》をしておきたいから……」 「承知いたしました」 「わたしは助手の梶原に電話をしておこう」  こうして、死体はX大学の板垣博士の研究室へ送られて、梶原助手の手伝いで夜があけたらいつでも、解剖できるような処置がとられたのだが……。    怪サンタ・クロース  その夜のま夜中|過《す》ぎ……。  正確にいえば、九月八日の午前一時過ぎのことである。  X大学の構内《こうない》にある板垣博士の研究室の前へ、一台の乗用車がきてとまった。  大学には夜勤《やきん》の公務員《こうむいん》がいることはいるが、その詰所《つめしよ》はずっと遠くはなれている。  公務員は二時間おきに、大学の構内を巡察《じゆんさつ》しておくことになっているが、いまがちょうど中間の時刻《じこく》にあたっている。  そういうところから察すると、この乗用車のぬしは、よくよくこの大学の事情にくわしい人間と思われる。  乗用車のぬしはふつうのめがねの上へ大きな黒めがねをかさねてかけた怪人物で、小わきになにやら袋《ふくろ》のようなものをかかえている。  二重めがねの怪紳士《かいしんし》は、乗用車からおりると、きょときょととしばらくあたりを見まわしていたが、やがて目の前にある建物の中へかけこんだ。その建物の中に、板垣博士の研究室があるのだ。  建物をはいってろうかを右へまがると三つめが板垣博士の研究室だ。  二重めがねの怪紳士はそのへやの前に立つと、折れまがった針金《はりがね》のようなものを取りだして、それでかぎあなをいじっていたが、しばらくするとガチャリと音がして、なんなくドアのじょうがはずれた。  二重めがねの怪紳士は、ろうかのあとさきを見回すと、すばやくドアの中へすべりこみ、うしろ手にぴったりドアをしめ、しばらくあたりのようすをうかがっている。  しかし、だれもこの怪紳士の侵入《しんにゆう》に気がついたものはいないらしい。  あたりはシーンとしずまりかえって、遠くのほうで秋の虫の音《ね》が聞える。 「うっふっふ。なんてぞうさないんだろう」  怪人物はクスクスのどの奥で笑うと、こんどはへやをつっきって、第二のドアの横でたちどまった。  その奥が板垣博士のほんとうの研究室で、そこには不幸なふたごのかたわれが、死体となってよこたわっているのである。  二重めがねの怪人物はまた、折れまがった針金のようなもので、ガチャガチャとかぎあなをいじっていたが、これまたなんのぞうさもなく、ガチャリと音がしてじょうがはずれた。 「しめ、しめ! うまくいったぞ、うっふっふ!」  ドアを開くと二重めがねは、折りたたんだ袋《ふくろ》のようなものを小わきにかかえて奥の研究室にはいっていった。  それにしてもこの怪人物は、いったいなんの用があって、このま夜中にこんなうすきみ悪いところへ、しのびこんだのだろう。  こんなところに金《かね》めのものがあろうはずがなく、そこにあるのは、ふらんしたふたごのかたわれの死体だけだのに……奥の研究室からちらちらと、懐中電灯《かいちゆうでんとう》の光がもれた。  そしてなにをしているのか怪人物の身動きをするけはいが聞えていたが、およそ五分ほどしてドアの中から出てきたところをみると、まるでサンタ・クロースのように大きな袋をかついでいる。  わかった、わかった。  二重めがねの怪人物が小わきにかかえていたのは、折りたたんだスリーピング・バッグだったのだ。  スリーピング・バッグというのは、登山家などが野営《やえい》をするとき、中へはいって寝《ね》る袋で、表は皮で裏には防寒用《ぼうかんよう》の毛皮などがついている。その中へはいって、首だけだして寝るのである。  それにしても二重めがねの怪紳士が、板垣博士の研究室から、かつぎだしたスリーピング・バッグの中には、いったいなにがはいっているのであろうか。  なんだか人間の形をしているようだが……  二重めがねの怪紳士は重そうにスリーピング・バッグを肩にかつぐと、よちよちとへやを横ぎり、ろうかへ出るドアの内側で、ちょっと外のようすをうかがっていた。  だれもこの奇怪《きかい》な侵入者が、板垣博士の研究室から、なにかへんなものをかつぎ出したことに気がつかない。  あいかわらず、あたりはしいんとしずまりかえって、遠くのほうで虫の音が、かすかにチロチロ聞えてくる。  二重めがねの怪紳士は、暗がりのなかで白い歯を出してニヤリと笑うと、そっとドアを開いてろうかへ出た。  ろうかにも人の姿はない。  二重めがねの怪紳士はサンタ・クロースのように袋をかついで、すばやくろうかから玄関《げんかん》へはいると、そこでまたちょっと立ちどまって、あたりのようすをうかがっていた。  しかし、だいたいが人がうろうろしているような場所でもなければ、時刻でもない。  二重めがねの怪紳士は乗用車のそばへ近寄《ちかよ》ると、後部のトランクのふたを開いた。  そして、その中へドサリとスリーピング・バッグを投げこむと、静かにふたをしてかぎをかけた。  それから前へ回って運転台へとびのると、いずこともなく立ち去ってしまったのである。  それから七時間ののち。  すなわち九月八日の午前八時ごろ、板垣博士の研究室へやってきた梶原助手はドアを開こうとして、かぎあなにかぎをさしこんだが、 「おや」  と、口のうちでつぶやくと、いそいでかぎをぬき、ドアのノブに手をかけた。  じょうがこわれていて、ドアはなんなく開いた。  見ると奥の研究室のドアが開いている。 「どうしたんだろう。いったい……」  ふしぎそうにつぶやきながら、梶原助手は奥のドアを開いて中をのぞいたが、そのとたん雷《かみなり》にでもうたれたように、大きく体をふるわせて、ドアのそばで立ちすくんだ。  解剖台の上から、ふたごのかたわれの死体が、煙《けむり》のように消えているのである。    探偵小僧《たんていこぞう》の討論《とうろん》  板垣博士の研究室から、少女の死体をぬすみ出していったのは、姿なき怪人なのだろうか。  もし、そうだとすれば、怪人は、なんだって死体をぬすみだしたのだろうか。そこにはなにかふかい意味があるのだろうか。  そうなのだ。  そこには世にもおどろくべき理由があったのだ。では、その理由とはどういうことなのか。  それはこの物語を終わりまでお読みになれば、諸君《しよくん》にもおわかりになるだろう。そして、おそらく諸君も、当時世間のひとがおどろいたと同様に、きもをつぶしてびっくりされるにちがいない。  それはさておき、蝋人形のなかに封じこめられていた少女の死体が、その夜のうちに板垣博士の研究室から消えたという事件ほど、当時世間に大きなショックをあたえた報道《ほうどう》はなかった。  死体をぬすむということだけでも、それは、すでに世にも異常《いじよう》なできごとである。しかも、ぬすまれた死体というのがふつうの死体ではない。  殺されたのかどうか、まだはっきりとはしていないが、蝋人形のなかに封じこまれて、世にも奇怪な現《あら》われかたをした死体なのだ。しかもそれはもうはんぶん以上ふらんした、世にもうす気味悪い少女の死体。  いったい、そんなものをぬすみだして犯人《はんにん》はなにをやらかすつもりなのかという疑問《ぎもん》が、いっそうこの事件に薄気味悪《うすきみわる》い疑惑《ぎわく》の影《かげ》を投げかけていた。 「ねえ、三津木さん」  それは板垣博士の研究室から、少女の死体がぬすみだされたということが、決定的な事実となった九月八日の夕まぐれ。  新日報社の編集室の一隅では、探偵小僧の御子柴進が、三津木俊助をつかまえて、世にも深刻《しんこく》な顔をしていた。 「いったい、犯人が死体をぬすみだした理由として、どういうことが考えられるのでしょうね」 「そうだねえ、こいつはむずかしい問題だよ」  こういう事件に関しては敏腕《びんわん》のほまれのたかい俊助も、こんどばかりは困《こま》りはてたように小首をかしげて、 「どうもぼくにはよくわからんが、板垣博士に解剖されると、犯人にとってなにか不利になるような、証拠《しようこ》でもでてくるおそれがあったんじゃないかな」 「たとえばどういう……?」 「たとえば……いや、これはほんとにたとえばだよ。こういう場合が考えられるね。あの死体がひじょうに特殊《とくしゆ》な毒物を使った他殺死体だった場合だね。板垣博士の解剖によって、その毒物の特殊性が解明《かいめい》された場合、捜査《そうさ》の範囲《はんい》がひじょうにせばめられてくる。そうすると犯人にとってはあきらかに不利になってくるからね」 「ああ、なるほど、そうですね」  と、探偵小僧の御子柴進も、いちおうは感心したようにうなずいたが、しかし、すぐまたそこによこたわる矛盾《むじゆん》に気がついたように、考えぶかい目つきになって、 「しかし、ねえ、三津木さん」 「ああ、なに……? 探偵小僧、おまえになにか考えがあるのかい」 「ええ、三津木さんはあのときの状態《じようたい》……つまりあの怪トラックが白木の箱をふるい落していったときの状態を、じっさいその目で見ていらっしゃらないので、そういう仮定《かてい》をお考えになったんでしょうが、ぼくにはどうしてもあの怪トラックは、わざとあの箱をふるい落していったとしか思えないのです。と、いうことは……?」 「ふむ、ふむ、と、いうことは……?」 「あの怪トラックのぬしは、死体を世間のまえへさらしものにしたかったということになります。死体を世間のまえにさらしものにしてしまえば、解剖されることはわかりきった事実です。その解剖をおそれるならば、なぜあのときぼくの注意をきいて、トラックをとめ、白木の箱をすべり落ちないように、トラックのなかに積みなおさなかったのか……それがぼくにはふしぎでしようがないんです」  進のなやましげな目を、三津木俊助はまじまじとのぞきこみながら、 「探偵小僧」 「はい」 「きみはしきりに怪トラックは、わざと白木の箱をふるい落していったと主張《しゆちよう》しているが、きみはほんとにそう信じているのかね」 「はい」  進は目をあげて、真正面から俊助の顔を見かえしながら、キッパリとそういいきった。 「しかし、探偵小僧」 「はい」 「犯人は死体を蝋人形のなかに封じこめておいたんだよ。と、いうことは犯人は死体を世間の目からかくそうという希望をもっていたということになるんだ。それをわざとトラックからふるい落して世間の目にふれるようにしむけたというのはおかしいじゃないか。そこに矛盾があると思わないか」 「思います。だからぼくはふしぎなんです」  と、進は熱っぽい目つきをして、 「三津木さんも、いまおっしゃったように、犯人は死体を蝋人形のなかに封じこめて、世間からかくそうとしました。それでいてあの怪トラックは、たしかに死体をわざとふるい落していったのです。そうしておきながら、またひじょうな危険《きけん》をおかして、その死体をぬすみだしていきました。だからぼくの考えでは、この事件は徹頭徹尾《てつとうてつび》、矛盾だらけです。しかし……」 「しかし……?」 「はあ、つまり、ぼくたちの目から見れば、矛盾だらけの事件ですが、しかし、犯人にとってはそうしなければならぬ、なにか重大な理由があったにちがいありません。その理由とはなにか……」  進はそこでまた、なやましげな目をして考えこんだが、あとから思えば探偵小僧のこの疑問のなかにこそ、事件のなぞをとく重大なカギが秘《ひ》められていたのである。    霧《きり》の中の怪異《かいい》  こうして板垣博士の研究室から、少女の死体|紛失《ふんしつ》の報《ほう》が、世間をふるえあがらせてから、なか一日おいた九月十日の夜、またしても奇怪な事件がもちあがって、ふたたびみたび、あっとばかりに世間のひとをふるえあがらせたのである。  それはそういう季節にありがちな、猛烈《もうれつ》に霧《きり》のふかい晩のことだった。  日が暮れるとまもなく江東《こうとう》方面からはいだしてきた霧は、またたくまに隅田川《すみだがわ》をのりこえて、東京都いったいを濃《こ》いヴェールのなかにくるんでしまった。  ことにその霧のいちばん濃かったのは、隅田川のいったいで、時刻にすると夜の十一時から十二時ごろまでのあいだであった。  その夜、警視庁の等々力警部は、江東方面に麻薬密売《まやくみつばい》のアジトがあるという聞きこみをもととして、夜の十一時ごろおおぜいの部下を指揮《しき》して、そのアジトを急襲《きゆうしゆう》した。  この急襲は大成功で、ひさしく警視庁をなやませていた麻薬密売のボスをとりおさえたばかりか、おびただしい麻薬を押収《おうしゆう》したのだが、それはこの事件と直接《ちよくせつ》関係のないことだから、ここでは省略《しようりやく》することにしよう。  問題はその検挙《けんきよ》のかえりに起こったのである。  等々力警部は、一そうのランチに乗って、隅田川を横切ろうとしていた。  そのランチにはこんやの急襲をかぎつけて、現場《げんば》付近に張《は》り込《こ》んでいた三津木俊助も同乗していた。ほかに三人の刑事も乗りこんでいた。  そのランチが永代橋《えいたいばし》の中央を、ななめにくぐって築地《つきじ》のほうへむかっていたときである。 「おや」  と、とつぜん三津木俊助が霧をすかして上流のほうへ目をやった。  時刻は十一時四十分。  その夜のうちでももっとも霧のふかかった時刻である。 「三津木くん、どうしたんだね」  等々力警部が、ふしぎそうに振《ふ》り返ると、 「警部さん、なんでしょう、あの鈴《すず》の音」 「えっ? 鈴の音……?」 「ほら、右手のほうから、リーン、リーンと鈴の音がきこえてくるじゃありませんか。だんだん、こちらのほうへちかづいてくるようすですよ」  三津木俊助のことばに等々力警部はもちろん、同乗してた三人の刑事も船室から甲板《かんぱん》のほうへとび出してきた。  隅田川はいままっ白な霧につつまれていて、五メートルさきはもう見わけがつかない。  そのなかを徐行《じよこう》していく船のなかから、しきりに霧笛《むてき》の音がきこえてくる。  その霧笛の音にまじって、なるほどきこえてくるのは、リーン、リーンという鈴の音である。  それは聞くもののはらの底までしみとおりそうなほど、いんきで、気のめいりそうな音だった。 「警部さん、なんでしょうねえ。あの音」  と、刑事のひとりもいきをのむ。 「おーい、運転手、方向転換《ほうこうてんかん》だ。それからサーチライトを照らしてみろ」 「オーケー」  言下《げんか》にランチは鈴の音のきこえるほうへ方向を転換した。  サーチ・ライトの光がさっと白い霧のなかに末広がりのしまをつくった。  鈴の音はあいかわらず、リーン、リーンといんきなひびきをふりまきながら、しだいしだいにこちらのほうへちかよってくる。  やがて、サーチ・ライトの光のなかへしずかに姿をあらわしたのは、一そうのボートのへさきである。  鈴の音はそのボートのなかから聞えるらしい。 「おい、だれかそのボートに乗っているのか」  等々力警部が声をかけたが、霧のなかのボートから返事はなくて、返事のかわりにあいかわらず、リーン、リーンと鈴の音だけがきこえてくる。 「警部さん、あのボートにはだれも乗っておりませんぜ」  三津木俊助のことばのあとから、 「あっ、警部さん、ごらんなさい。あのボートのなかには、大きな箱がつんである!」  ボートとランチの距離《きより》はいま三メートル、見るとなるほどボートのなかには、大きな長方形の白木の箱がつんである。その箱のかたちが俊助に、さっとある不吉《ふきつ》な事件を連想させた。  それは九月七日の午後、怪トラックからふるい落された、あのいまわしい白木の箱にそっくりではないか。 「警部さん、ひとつあの箱を調べてみようじゃありませんか」 「ようし!」  等々力警部もおなじことを考えていたのにちがいない。 「おい、ランチをもっとあのボートにちかづけろ」 「オーライ」  ボートとランチの距離はいまや一メートル弱、まずいちばんにボートにとびうつったのは三津木俊助。等々力警部もあとにつづいた。 「警部さん、この綱《つな》を……」  と、ランチに残った刑事のひとりが、さっと綱を投げてわたす。 「よし」  と、その綱をすばやくボートのへさきに結びつけた等々力警部が三津木俊助とともにあらためて、白木の箱を見なおすと、箱のうえには十文字に、鉄の鎖《くさり》がかけてあり、その鎖のさきにぶらさがっている鈴が、ボートの動揺《どうよう》するのにつれてリーン、リーンとさえた音をたてているのである。  しかも、ボートのなかからにおってくるのは、ヘドでも出そうな、なんともいいようのない異臭である。 「け、警部さん!」 「み、三津木くん!」  ふたりははっと顔見合わせていたが、そのとき、ランチに残った刑事のひとりが、 「警部さん、これを……」  と、投げてよこしたのはスパナである。 「うん、よし」  三津木俊助と等々力警部は、すばやく鎖をときはなつと、スパナをつかってメリメリと白木の箱のふたをひらいたが、そのとたん、懐中電灯の光でなかをのぞいたふたりは、おもわずあっと声を放った。  箱のなかによこたわっているのは、フランス人形のように、ひだの多いスカートをはいた、等身大の少女の蝋人形である。  このあいだの蝋人形はまっかな夜会服を着ていたが、こんやの蝋人形の着ているのは、まっくろな夜会服である。  そして、その蝋人形のなかに少女のふらん死体が封じこめられていたことはいうまでもない。  そうすると、このあいだのがヘレン望月とすると、この死体はふたごのかたわれ、メリー望月なのだろうか。  あるいはこのあいだのがメリーとすると、これはヘレンということになるのであろうか。    こっぱみじん 「三津木くん、たいへんだ。これでヘレンもメリーもふたりとも、殺されたということになるんだね」 「まあ、そういうことでしょうねえ」  三津木俊助と等々力警部のふたりは、沈痛《ちんつう》なおももちをして、しばらく箱のなかを眺《なが》めていたが、どちらにしてもたえがたいのはその臭気《しゆうき》だ。 「とにかく、警部さん。このボートを曳航《えいこう》していって、また蝋をはぎおとし、こんどこそ板垣博士に解剖してもらおうじゃありませんか」 「うん、そうしよう」  ふたりはふたたび白木の箱にふたをして、もとのランチへ乗りうつった。 「おい、ランチは前進、既定《きてい》の場所へ着けてくれ」 「オーライ」  ランチはふたたび霧をついて、ダ、ダ、ダとエンジンの音をひびかせながら、隅田の流れをななめに切って前進する。  そのランチの五メートルほどうしろから、綱につながれた無人のボートが、ゆらりゆらりと曳《ひ》かれていく。 「それにしても、三津木くん、姿なき怪人というやつは恐ろしいやつだな」  等々力警部は怒《いか》りにみちた顔色だったが、それに反して俊助はなにかふかく考えこんでいる。  いまにして三津木俊助はこのあいだ探偵小僧の吐《は》いたことばに思いあたるのだ。  進のことばによると、このあいだの怪トラックは、わざと白木の箱をふるい落していったという。  ところがこんやはこのボートだ。  ボートを流した犯人は、なんだって鈴のついた鎖をつかったのであろう。  あの鈴の音さえなかったら、このランチはボートに気づかずに、いきすぎてしまったことだろう。  と、いうことは、ぎゃくにいえば、だれかにこのボートを発見してもらいたいがために、わざと鈴をつけておいたようなものではないか。  ボートを発見してもらいたいということは、とりもなおさず死体を発見してほしいということである。  それはなぜだろう。  第一の事件といい、第二の事件といい、犯人は死体をかくすように見せかけて、そのじつ死体を発見してもらいたいようである。  それはいったいどういうことなのだろうか。  しかし、三津木俊助には、どう考えてもこの謎《なぞ》は解けなかった。 「ねえ、警部さん」  考えあぐねた俊助はなやましげな目をあげて、霧のなかを見つめながら、 「それにしても木塚陽介はなんだって、ヘレンとメリーを殺したんでしょう。ふたりを殺したところで木塚陽介は、一文のとくにもならないじゃありませんか」 「いや、木塚のやっていることは、損《そん》だのとくだのという問題じゃないのだろう。ただ板垣博士がにくいばかりに、博士に復讐《ふくしゆう》しているのだろう」 「そうでしょうか。それにしても変ですねえ」 「変というと……? 三津木くん、なにが変なんだね」 「ああ、いや」  なにを考えていたのか俊助は、とつぜん霧にぬれそぼれた肩をふるわせて、ゾーッとしたように首をすくめた。  霧はまだいっこう薄《うす》らぐけはいはなく、あちらでもこちらでも、ボーッ、ボーッと霧笛の音が鳴りかわす。  そのなかを、あの、ぶきみなボートを曳航したランチが、あいかわらず、ダ、ダ、ダと単調なエンジンの音をひびかせながら、白い波をけたてて進行していく。  やがてゆくてにあたって点々と、築地|河岸《がし》のあかりが見えてきた。  そのあかりは濃い霧ににじんでぼやけて、まるでホタル火のように明滅《めいめつ》している。  と、このときだ。  世にもおどろくべきことがそこに起こって、三津木俊助や等々力警部はいうにおよばず、ランチに乗っていた一同の魂《たましい》をそれこそ根こそぎゆすぶったのである。  とつじょとして、ランチの後方から、ドカーンと大きな爆発音《ばくはつおん》が起こったかと思うと、おお、なんということだ。  ボートに乗っけてあった白木の箱が、こっぱみじんと砕《くだ》けて散って、霧の空たかくまいあがったではないか。  いやいや、こっぱみじんと砕けて散ったのは、白木の箱ばかりではない。  ボートがさっとあお白いほのおをふいたかと思うと、曳航していた綱ももえ切れて、みるみるうちにズブズブと、隅田川のなかへ沈《しず》んでしまった。  ああ、あの白木の箱のなかには、時限爆弾《じげんばくだん》が仕掛《しか》けてあったのにちがいない。  しかし、それはなぜだろう。  ただここでいえることは、第二の事件も第一の事件とおなじ結果になったということだ。  犯人はかくすと見せて死体を発見させながら、その死体がくわしく調査されることを恐れているかのようである。  しかし、それはなぜだろう。    意外なる死体  隅田川上における蝋人形の死体発見のてんまつと、さらにそのあとにつづいた死体爆発事件ほど、世間をおどろかせた事件はない。  なにしろ、犯人の気持がどこにあるのか、それがわからないだけにいっそう奇怪で、いっそう気味が悪いのである。  こういう場合、世間の非難《ひなん》の的《まと》となるのはいうまでもなく捜査当局である。いまや世論《せろん》はごうごうとして捜査当局のうかつさと手ぬるさを非難しはじめた。  そこで警視庁では改めて、捜査|方針《ほうしん》をねりなおすため、重大な捜査会議が開かれたが、さいしょからのいきがかりじょう、その席には板垣博士をはじめとして三津木俊助と探偵小僧の御子柴進も、列席することを許《ゆる》された。  それはあの隅田川上で死体爆発事件があってから、三日のち、すなわち九月十三日の午後のことである。  三時間にわたって一同は、この事件についていろいろ討議《とうぎ》をかさねていたが、午後四時ごろのこと、給仕がはいってきて等々力警部の耳になにやらささやいた。  等々力警部はぎくっとしたように眉《まゆ》を動かしたが、すぐ一同のほうへむきなおって、 「ああ、ちょっとみなさんに申し上げます。いまここへ|Q《キユー》大学の法医学の教授《きようじゆ》、古橋《ふるはし》博士がお見えになって、こんどの事件について、なにかわれわれの耳に入れたいことがおありとのことですが……」 「ほほう!」  と、板垣博士はくちびるのはたをふちどっている、真っ白な口ひげとあごひげをまさぐりながら、 「古橋くんならわたしも、よくしっている。それはぜひ意見を聞かせてもらおうじゃないか」 「ああ、そう、それでは古橋先生をこちらへ通してくれたまえ」 「はっ、承知いたしました」  給仕がひきさがるのと入れちがいに、へやのなかへはいってきたのは、板垣博士とおなじとしごろの、いかにも学者らしい風格《ふうかく》の古橋博士である。  古橋博士は板垣博士とちがって、口ひげもあごひげもはやしてなく、いかにも温厚《おんこう》そうな紳士である。  古橋博士は板垣博士をはじめとして、一同に、ていねいなあいさつをすると、 「とつぜん参上《さんじよう》して、たいへん失礼ですが、じつはわたしのほうにちょっと心当たりがありますので、九月七日に発見された死体の写真がありましたら、見せていただきたいと思うのですが……」 「ああ、それはおやすいことです」  身許《みもと》のわからない変死体があると、警視庁ではいつも写真にとって保存《ほぞん》しておくのである。  その写真を等々力警部が出してわたすと、古橋博士はしげしげそれを眺めていたが、 「なるほど、これでは顔はほとんどわかりませんねえ。しかし……」 「しかし……?」 「いや、いや、それではわたしが持ってきた死体の写真と、ひとつ見くらべてくださいませんか。そうすると興味《きようみ》ある事実に気がおつきになるでしょう」  と、古橋博士がポケットから取り出したのはハガキ大の写真である。  それは十二、三のかわいい少女の死体を、ベッドのうえにねかせて上からとった写真だが、腰《こし》のまわりをのぞいては裸体《らたい》であった。  そして、そのポーズは警視庁に保存してあったふらんした少女の写真と、ほとんどおなじポーズである。 「警部さん、この二枚の写真の少女の左右の足の中指によく注意してください。すっかりおなじだと思いませんか」  なるほど見ればこの少女たちの足の中指はふつうの人間にくらべると、ひと関節《かんせつ》ほどながいのだ。  いや、いや、その足の指のみならず、あらゆる体のとくちょうが、すっかり共通しているのである。  二枚の写真はつぎからつぎへと、一同の手にまわされたが、だれの目にもふたりの少女は、おなじ人間のように思われた。 「古橋先生!」  と、等々力警部はこうふんして、 「いったいこの少女はだれなんです?」 「うちの病院で死亡した矢田《やだ》キミ子という少女なんです。死因《しいん》は肝臓《かんぞう》の病気でした。わたしは両親の許可《きよか》をえて死体を解剖することになっていたのです。ところが、先月の二十八日の夜、その死体が病院からぬすまれたのです」  それを聞いたせつな、末席のほうからおどりあがって叫んだのは、探偵小僧の御子柴進だ。 「わかった! わかった! 七日の夕方ぼくが発見したのは、その死体なんだ。あれはヘレン望月でも、メリー望月でもなかったんだ。また殺された死体でもなかったんだ。だから犯人は板垣博士に解剖されることを恐れたんだ。解剖されると肝臓の病気で死んだことがわかるからだ!」 「探偵小僧!」  と、三津木俊助が鋭《するど》い声で、 「しかし、それでは十日の晩、隅田川で発見された死体は……?」 「それもやっぱり矢田キミ子さんの死体だったのだ。犯人は板垣博士の研究室から、キミ子さんの死体をぬすみだし、もういちど蝋で塗《ぬ》りかためておいたのだ。だから、その蝋人形がくわしく調査されることを恐れて、爆破《ばくは》してしまったんだ。くわしく調査されると、まえの死体とおなじ死体であることがわかるかもしれないからだ」 「しかし、御子柴くん」  と、板垣博士が落ちつきはらった口調《くちよう》で、 「犯人はなんだって、そんなややっこしいことをやったんだね」 「それは……それは……」  と、進は口ごもった、がやがてキッパリといいはなった。 「犯人はヘレンとメリーが殺されてしまったように、世間のひとに信じさせたかったんだ。そのほうが犯人にとってはつごうがよかったんだ。そのわけは……そのわけは……」  だが、そのあとはさすがに進もいえなかった。  では、なぜ姿なき怪人はヘレンとメリーが殺害されたように思わせたかったのか。  いや、いや、それより姿なき怪人とはいったいだれなのか。世間で信じているように木塚陽介なのだろうか。  君たちも、いままで起った三つの事件をふりかえって、もういちどよく考えてみてくれたまえ。 [#改ページ] [#小見出し]  第4話 黒衣の女    怪電話《かいでんわ》 「ああ、もしもし、そちら新日報社《しんにつぽうしや》でいらっしゃいますか」  受話器をとおして聞こえてくるのは、よくすきとおった若《わか》い女性《じよせい》の声である。  探偵小僧の御子柴進は、編集室《へんしゆうしつ》の受付で、受話器を耳におしあてて、 「はあはあ、こちら新日報社の編集室でございますが……」 「ああ、そう、それじゃそちらに三津木俊助さんはいらっしゃいませんでしょうか。いらしたらちょっとお電話口まで……」 「はあ、はあ、あなたさまはどなたさまで……?」 「いえ、それは……三津木さんがおいでになってから申し上げます」 「ああ、そう、それでは少々お待ちください」  進は、ひとめで編集室を見わたしたが、三津木俊助の姿《すがた》はどこにも見えなかった。 「ああ、お待たせいたしました。三津木さんは、ただいまおるすです。いま思い出したんですが、三津木さんついさっき出かけられて、七時ごろまでにはかえってくるというお話でしたが、なんでしたらおことづけをうかがっておきましょうか」 「あら、そう……」  と、電話の女はちょっと当惑《とうわく》したように、しばらくことばが途切《とぎ》れたが、 「ああ、もしもし、たいへん失礼申し上げました。それでは御子柴進さんてかたはいらっしゃいませんか」 「ああ、その御子柴進ならぼくですが……」 「あら、うれしい。あなたほんとうに御子柴さんなんでしょうね?」 「はあ、ぼく、正真正銘《しようしんしようめい》の御子柴進ですが、あなたはどなたさまで……?」 「いえ、それは申し上げるわけにはいきませんの。黒衣《こくい》の女とでも呼《よ》んでください。ただ申し上げておきますが、わたくし姿なき怪人《かいじん》とたたかっているものでございます」 「えっ?」  と、探偵小僧の御子柴進は、思わずすっとんきょうな声をあげると、送話器にしがみつくようにして、 「いま、なんとおっしゃいました」 「はあ、わたくし、姿なき怪人とたたかっているものでございます。これはぜひご信用くださいますように。ところがわたくしいま姿なき怪人のわなに落ちて、窮地《きゆうち》におちいっているんでございますの。それでぜひ三津木俊助さんなり、探偵小僧……いえ、あの、失礼。御子柴進さんなりに救《すく》っていただきたいと思って、こうしてお電話申し上げたんですの」 「はあはあ、それは、あの、どういうことでございましょうか」  進は、全身がキーンと緊張《きんちよう》するのをおぼえ、思わずいきをはずませた。 「はあ、あの……これからわたくしがお願い申し上げるとおりに行動していただきたいんですの。わけをお聞きにならないで……わけをお聞きになってもわたくし、申し上げるわけにはまいりませんから」 「ああ、そう」  と、進はちょっと小首をかしげたが、 「どういうことだか、とにかくおっしゃってみてくださいませんか。ご返事はそのうえで申し上げましょう」 「はあ、承知《しようち》いたしました」  と、電話のむこうで女はちょっと息をととのえて、 「それでは申し上げますから、よくお聞きになってください。都電の赤坂《あかさか》のS町停留場から、ちょっと東へまがったところに公衆電話《こうしゆうでんわ》がございます。その公衆電話のボックスへおはいりになりますと、ドアのうちがわのかもいのうえに、かぎがひとつおいてございます」 「ああ、もしもし、少々お待ちになってください。都電の赤坂S町の停留場……東へまがったところに公衆電話……そのボックスのなかのドアのかもいのうえにひとつのかぎ……そうでしたね」 「はあ、さようでございます。そのかぎをもって赤坂の|Q《キユー》ホテルへおいでください。赤坂のQホテル……ごぞんじでございましょうか」 「はあ、ぞんじております」 「そのかぎはQホテルの二階七号室のかぎでございますから、それをもって七号室へおはいりください。七号室はふたへやになっておりますが、おくの寝室《しんしつ》のベッドのそばの、小さなテーブルのうえにショルダー・バッグがおいてございます。それをとってきていただきたいのでございますけれど……」 「少々お待ちください。もういちど復《ふく》しょうしてみますから……つまり、赤坂S町の公衆電話のボックス内にあるかぎをもって、Qホテルへおもむくのですね」 「はい、さようでございます」 「そして、二階の七号室のおくのベッド・ルームへはいっていくと、ベッドのそばの小さなテーブルのうえに、ショルダー・バッグがおいてある。それをとってくればよろしいのですね」 「はあ、さようでございます」 「そして、そのショルダー・バッグをどうすればよろしいのでしょうか」 「はあ、日比谷公園内《ひびやこうえんない》の噴水《ふんすい》のそばまでもってきてくださいません。わたくしあなたのお顔は、いつか新聞で拝見《はいけん》しておりますから存《ぞん》じております。ですからわたくしのほうから声をおかけしますから……時間は今夜の八時といたしましょう」  進はちょっと思案《しあん》をしたのち、 「ああ、ちょっと……」 「はあ」 「わけを聞くなとおっしゃいましたから、それはお聞きしませんが、このことと姿なき怪人とは、いったいどういう関係があるんですか」  女はちょっと考えたのち、 「そのことは、日比谷でお目にかかったときに申し上げましょう。いかがでしょうか。お聞きくださいますでしょうか」 「承知いたしました」  探偵小僧の御子柴進が、言下《げんか》にキッパリ答えると、女は二、三度礼をくりかえし、それからガチャリと電話をきった。    七号室の死体  事件《じけん》が起こると警視庁《けいしちよう》や新聞社に、情報《じようほう》を提供《ていきよう》すると称《しよう》して、いろんな投書があったり、電話がかかってきたりするものである。  しかし、それらの投書や電話の情報が、役に立つということはめったになく、なかにははじめから故意《こい》のいたずらなのも少なくない。  進はいま電話を聞きながら、卓上《たくじよう》にとったメモを見つめて、これもひょっとすると、たちの悪いいたずらではないかと考えた。  しかし、いたずらにしては少し事情《じじよう》がこみいっている。  それにいたずらの場合は、かえってもっともらしいことをいうものだ。このメモは、まるで探偵小説を地でいくような要請《ようせい》ではないか。  ひょっとすると、なにかのわなではないかとも考えた。  しかし、三津木俊助ならともかく、じぶんのような小僧をわなにかけてもはじまらない話だ。  それに場所がQホテル。Qホテルといえば東京でも一流のホテルである。そこに危険《きけん》が待ちかまえていようとは思えない。 「よし、決行だ!」  進は口のうちで小さく叫《さけ》ぶと、いまとったメモを封筒《ふうとう》におさめた。  そして封筒に封をすると、そのうえにつぎのごとく書きつけた。 [#1字下げ] ただいま、女の声でなかみのような電話がかかってきました。ぼくはこのメモのとおり行動します。 [#地付き] 御子柴 進      三津木俊助様  そう書いてから時計をみると、時刻《じこく》はちょうど六時である。  そこで封筒の余白《よはく》に赤インキで「午後六時」と、書きつけると、探偵小僧の御子柴進は、そのまま新日報社をとびだした。  進にとってさいわいなことには、ちょうど昼夜交代の時間だったのだ。  都電、赤坂S停留場で降りると、すぐむこうに公衆電話のあかりが見える。  季節はもう秋もなかばを過《す》ぎた十一月の十日、六時を過ぎると、もうそろそろうす暗いのである。  探偵小僧の御子柴進は、ちょっとあたりを見まわしたのち、電話のボックスのなかへはいっていった。  ちらとドアのうえのかもいに目を走らせたが、かぎらしいものは見あたらなかった。  しかし、これはとうぜんだろう。  すぐ見えるようなところにおいてあったら、だれかに持ち去られるかもしれないからである。  進は、公衆電話へはいったついでに、三津木俊助に電話をかけてみようと思った。  そのほうがもしだれかに見られているにしても、怪《あや》しまれないですむと思ったからだ。  しかし、あいにく三津木俊助は、まだ社へかえっていなかった。  進は、電話のボックスを出るとき、あくびをするような顔をして、両手をうんとうえへのばすと、すばやくかもいのうえをさぐったが、あった! かぎはたしかに、ほこりのつもったかもいのうえにおいてあったのだ。  進はそれをてのひらに握《にぎ》りしめると、なにくわぬ顔をして公衆電話のボックスを出た。  外に出るとポケットからハンケチを出して、てのひらのほこりをぬぐうと同時に、ハンケチにかぎをくるんでポケットへつっこんだ。  そこから赤坂のQホテルまでは歩いて十分くらいの距離《きより》である。  さっきの女はQホテルを出てから、二階の七号室にショルダー・バッグを忘《わす》れてきたことを思い出したのだろう。  しかし、それではなぜじぶんでとりにかえらなかったのか。かぎをもっているくらいだから、そのへやを借りている客にちがいない。  それにもかかわらず、女はあの公衆電話までやってきて、そこから新日報社へ電話をかけてきたのだ。  そして、そのことと姿なき怪人とは、いったいどういう関係があるのだろう。  それにしてもQホテルへ、いったいどういう口実《こうじつ》ではいっていったらいいかしら。あいにく女は名まえを名のらなかったから、それをたずねていくわけにもいかない。  だが、Qホテルの門をはいっていくと、その悩《なや》みもすぐ解決《かいけつ》された。  いまは結婚《けつこん》シーズンなのである。  Qホテルでも、こんやいく組かの結婚式があるとみえて、玄関《げんかん》はごったがえすような混雑《こんざつ》である。  探偵小僧の御子柴進はその混雑にまぎれてまんまとホテルのなかへはいりこんだ。  二階の七号室というのもすぐ見つかった。  ポケットからかぎを出してかぎ穴《あな》へはめてみると、ぴったりと合ったので、ガチャリとひねるとじょうが開いた。  進は胸《むね》をドキドキさせながら、ドアを開くとそっとなかをのぞいてみる。  へやのなかはまっくらだったが、進はすばやくドアのなかへすべりこむと、うしろ手にぴったりそれをしめ、それから壁《かべ》のうえをさぐってスイッチをひねった。  パッと電気のついたそのへやは、さすがに一流のホテルらしいぜいたくさだがいまはだれも泊《とま》り客がないらしく、荷物らしいものはどこにもない。  探偵小僧の御子柴進は、つかつかとそのへやをよこぎって、寝室のドアに手をかけた。  このドアにはかぎがかかっていなくてすぐに開いた。  また壁のうえをさぐってスイッチをひねると、電気がついて、ベッドの下に落ちているかわのショルダー・バッグがすぐ目についた。  女はテーブルのうえにおいてあるといったが、それは思いちがいで床《ゆか》のうえに落ちているのである。  進はへやへはいって、そのショルダー・バッグに手をかけたが、そのとたん全身の毛穴《けあな》から、さっと冷たい汗《あせ》が吹《ふ》きだすのをおぼえた。  ベッドのうえに男がひとり、大の字になって倒《たお》れているのだ。  しかも、男のワイシャツのうえから、ナイフが一本ぐさりと突《つ》っ立っているではないか。    死者からの手紙  男はごま塩の頭をキチンと左わけにして、グレーの背広《せびろ》にネクタイを結び、なかなか身だしなみのよいふうさいである。  くつをはいたままベッドのうえにあお向けに倒れているのだが、そのくつもぴかぴかと光っている。  そのくつのうらに、ほとんど泥《どろ》のあとが見えないところをみると、自家用車をもっているのかもしれない。  年齢は五十前後である。  そして、男の胸にふかぶかと突っ立っているのは、どこにでもあるようなくだものナイフらしかった。血はほとんど出ていない。  進は、また全身でふるえあがった。  わなか……? じぶんに罪《つみ》をきせるためか……?  だが、そうは思えなかった。  あいてはぜんぜん見ず知らずの人物である。それは多少はうたがわれるかもしれないけれど、じぶんの身分素性《みぶんすじよう》をうちあければ、疑《うたが》いを晴らすことくらいはぞうさもない。  それにしても犯人《はんにん》は、さっきの電話の女であろうか。  男を殺して逃《に》げだすひょうしに、ショルダー・バッグを取り落した。  そして、ホテルをとびだしてからそれに気がついたが取りにかえるのが恐《おそ》ろしいので、新日報社へ電話をかけてきたのではないか。  しかし、さっき女はこういったではないか。 「姿なき怪人のわなにおちて、いま窮地におちいっているのです」……と。  それではこれは、姿なき怪人のしわざなのか。  そして、電話の女はぬれぎぬをきせられることをおそれて、ここから逃げだしていったのではないか。  だが、いずれにしても日比谷公園へ出向いていけば、八時にはその女にあえるのだ。  そう気がつくと探偵小僧の御子柴進は、いそいで床からショルダー・バッグを取りあげた。  ここでなかみを調べてみようか。……だが、いまの進には、とてもそれだけのよゆうはなかった。  かれはそのショルダー・バッグを小わきにかかえると、ベッド・ルームを出、それから注意ぶかくろうかの足音に耳をすましたのち、すばやくドアの外にとびだした。  進は、そのドアにかぎをかけようとしたが、ふと思いついてそれを中止した。  それから十分ののち、進は、さっきの公衆電話から新日報社へ電話をかけていた。こんどは三津木俊助もデスクにいた。 「ああ、三津木さんですか、ぼく御子柴です」 「ああ、探偵小僧か。きみ、いまどこにいるんだ」 「ぼく、さっきメモに書いておいた公衆電話ボックスにいるんです。三津木さん、メモを見てくれましたか」 「ああ、見たよ。それでショルダー・バッグはあったのかい」 「ええ、ありました。それで三津木さん、そこにメモしておいたへやへ、これからすぐに出向いてくれませんか」 「赤坂Qホテルの二階七号室へかい」 「ええ、ぼくわざとドアにかぎをかけずにきましたから」 「Qホテルの二階七号室に、なにかあるのかい」 「ええ、それは……」  と、いいかけたが、ふと気がつくと電話ボックスの外にだれかいる。 「三津木さん、それはここではいえません。とにかくすぐにメモのところへいってください」  進のその声音《こわね》から、三津木俊助もなにかさとったらしく、 「よし、じゃあすぐいく。だけど、きみはこれからどうするんだ」 「ぼくはメモのとおり行動します」 「ああ、そうか、日比谷へいくんだな。だけど、きみ、ショルダー・バッグのなかを調べてみたか」 「いいえ、まだ……とてもそんなよゆうはなかったんです」 「ああ、そうか。よし、それじゃきみ、タクシーを拾って日比谷へいきたまえ。そして、タクシーのなかでショルダー・バッグのなかみをよく調べるんだ。わかったね」 「はい、わかりました」 「よし、それじゃあとでまた連絡《れんらく》しよう」  受話器をおいて進が外を見るといかにも待ちくたびれたように男がひとり、背中《せなか》を見せて肩《かた》を左右にゆすっている。 「お待ちどおさま」  進がドアを出ると、 「ああ、いや」  と、いいながら、背中を見せた男はそのまま道ばたで立ち小便をはじめた。  ああ、そのとき進がもっと注意ぶかく、この男の挙動に気をくばっていたら、これからのべるようなことは起こらなかったのだが……  大通りへ出てタクシーを拾うと、進はさっそくショルダー・バッグをひらいてみた。  なかから出てきたのはコンパクト、つめみがきのケース、ルージュ、ハンケチ、ポケット日記、紙入れにドル入れ……いかにも女の持物らしいものばかりだ。  そのなかに手紙が一通はいっていた。  見るとあて名は横文字になっていて、    Miss Tamami Nakagawa  と、あり、住所はパリである。  探偵小僧の御子柴進は、それを見ると思わずぎょっといきをのんだ。  中川珠実《なかがわたまみ》といえば、ちかごろフランスから帰朝した、有名なシャンソン歌手ではないか。  はっと思って裏《うら》をかえすと、差出人は日本からで、なんと吾妻早苗とある。  ああ、吾妻早苗といえば、この「姿なき怪人」の第一話「救いをもとめる電話」で殺された、板垣博士の旧友《きゆうゆう》の娘《むすめ》だった女ではないか。  日付けを見ると吾妻早苗が殺される数日まえに、日本から発送されているのである。    探偵小僧の奇禍《きか》  探偵小僧の御子柴進は、はげしい胸さわぎをおぼえずにはいられなかった。  この物語のさいしょの犠牲者《ぎせいしや》、吾妻早苗は、殺害される数日まえ、パリにいる中川珠実にいったいなにを書いたのであろう。  ひょっとするとそこには、姿なき怪人の正体をあきらかにするような、なにごとかが書いてあるのではないか。  もちろん封は切ってあった。  進は、その手紙を読んでみたいという誘惑《ゆうわく》に、胸がやかれるようであった。  しかし、他人の信書《しんしよ》をみだりに読んではならぬということくらいは、進も心得《こころえ》ている。  それに黒衣の女と名のったのが中川珠実で、しんじつ姿なき怪人とたたかっているのだとしたら、ここで無断《むだん》で読まなくとも、手紙の内容《ないよう》を話してくれるにちがいない。  もし、それが姿なき怪人に関係があるのだとしたら……  そう考えた進は、やっとはやる心をおさえて、手紙をショルダー・バッグのなかにもどすと、パチンと音をさせて口をしめた。  探偵小僧の御子柴進が、約束《やくそく》の場所へ到着《とうちやく》したのは、八時十分まえだった。  むろん、時候が時候だから、日比谷公園のその池の端《はた》には、人影《ひとかげ》とてほとんどなかった。  ときおり公園を抜《ぬ》けて近道をするひとが、通りすぎるくらいである。 「少しはや過ぎたかな」  進は口のうちで、つぶやきながら、ぶらぶらと池の端を歩きまわる。  もし、二十分もはやかったのなら、探偵小僧もいったんそこを離《はな》れたかもしれない。  ところがわずか十分だったので、かれはそのままそこで待つ気になった。  そして、それが災難《さいなん》のもとだったのである。  八時五分まえごろむこうから男がひとりやってきた。探偵小僧の御子柴進は、例によって通り抜けの人だろうと、べつに気にもとめなかった。  その男はいったん進のそばを通りすぎたが、すぐ二、三歩ひきかえしてくると、 「きみ、きみ、むこうに見えるの、あれ、なんだろうねえ」  男の声があまり真剣《しんけん》だったので、進は、思わず、 「え……?」  と、男の指さすほうをふりかえった、と、そのとたんうしろから男の腕《うで》がのびて、左手で進を抱《だ》きすくめると、右手でぴったり鼻孔《びこう》をおおった。  その右手にはしめったガーゼのようなものがにぎられていて、それがぴったり鼻孔をおおったとたん、進はなにやら甘《あま》ずっぱいにおいが、ツーンと鼻から頭へ吹き抜けるのをかんじた。 「な、なにをする……」  進はちょっと手足をばたつかせたが、すぐ動作が緩慢《かんまん》となり、やがてぐったり気をうしなっていったが、その直前に、 「ああ、さっき公衆電話のボックスのまえで、立ち小便をしていた男だ。ぼくはなんという間抜《まぬ》けだろう……」  もやのかかったような頭のなかで、そんな考えがひらめいたが、それきりかれは意識《いしき》をうしなったのである。  それから十五分ほどのちのこと、赤坂のQホテルの二階七号室では、三津木俊助が卓上電話をとりあげていた。 「ああ。もしもし、等々力警部ですか。こちら新日報社の三津木俊助……いま、赤坂Qホテルの二階七号室にいるんですが、すぐ、鑑識《かんしき》の連中やなんかつれてきてください。……ええ、ここで殺人がおこなわれているんです。……ええ。いや探偵小僧の御子柴くんが発見して、電話で知らせてきたんですがね。はあ、はあ、いや、くわしい事情はお目にかかってお話しします。ええ? 板垣博士がそこにきてらっしゃるんですって?  それはちょうどさいわい、ごいっしょにきてください。またしても、姿なき怪人に関係があるらしいんです。はあ、はあ……ああ、そうそう、ホテルではまだだれもしらないんです。ええ、そう、赤坂Qホテルの二階七号室……ああ、ちょっと待って」  と、受話器を耳におしあてたまま、三津木俊助が腕時計《うでどけい》を見ると、時刻はまさに八時十分。 「ああ、それから探偵小僧はいま日比谷公園の池の端にいるはずなんです。いや、もういないかもしれませんが、念のためにひとをやって、ようすをたしかめてくださいませんか。黒衣の女と名のる女性と、八時にそこで会見することになってるんですが、ちょっと気がかりなことがあるもんですから……おたくから日比谷公園まではすぐですからね。じゃ、お待ちしています」  受話器をおくと三津木俊助は、ねっとりとてのひらににじんだ汗《あせ》を、ハンケチでぬぐった。  それからもういちどおくのベッド・ルームへはいっていくと、そこによこたわっている男の死体に目をやった。  三津木俊助の胸の底から、いまどすぐろい怒《いか》りがこみあげている。  探偵小僧の御子柴進は、その男を知らなかったが、三津木俊助は知っているのである。  それはいまでこそ引退《いんたい》しているが、かつては敏腕《びんわん》のほまれのたかかった私立探偵、辺見重蔵《へんみじゆうぞう》という人物で、三津木俊助もしばしばそのひとの協力を仰《あお》いだことがある。  三十分ののちこの七号室へ、等々力警部や板垣博士をはじめとして、係官がおおぜいかけつけてきた。    きみょうなトランプ 「あっ、こ、これは……?」  と、へやのなかへはいってきた等々力警部も、ベッドのうえに横たわっているつめたい死体の顔をみると、おどろいたようにあとずさりして、 「私立探偵の辺見重蔵さんじゃありませんか」 「な、な、なんだって? 辺見重蔵君だって?」  と、等々力警部の背後《はいご》から、おどろきの声を放ってのぞきこんだのは、法医学者《ほういがくしや》の板垣博士だ。  板垣博士もそこに横たわっている死体の顔に目をやると、 「ああ、ほんとだ、ほんとだ、これは辺見重蔵君だ。辺見君がどうしてまた……」  と、板垣博士はとうてい信じられないといわんばかりに、ぼうぜんとして目をみはっている。  あいかわらず口のまわりをふちどった白いひげが、銀色に光ってうつくしい。 「ああ、先生」  と、三津木俊助はそのほうをふりかえって、 「先生も辺見重蔵さんをごぞんじでしたか」 「知るも知らぬも、きのう会ったばかりなんだ」 「きのうお会いになったって?」  と、等々力警部もおどろいたように板垣博士をふりかえり、 「どこで……? どういうご用で?」 「いや、いや、じつは……」  と、板垣博士はまだおどろきのさめやらぬ顔色で、額《ひたい》ににじみ出た汗をハンケチでぬぐいながら、 「辺見君とは、辺見君がまだ私立探偵を開業していたじぶん、ちょくちょく会ったことがあるんだ。法医学的なことについて、よくわたしのところへ意見をききにきていたんだ。ところが数年まえに引退《いんたい》してから、ぷっつり縁《えん》が切れて、それ以来会ったことはなかったんだ。それがきのう、ひょっこり学校のほうへやってきたんだ」 「先生の研究室へ訪《たず》ねてきたんですね」 「ええ、そう」 「で、その用件《ようけん》は……?」 「いや、その用件というのが、『姿なき怪人』について目下調査中《もつかちようさちゆう》だが、それについてわたしの意見を聞かせてほしいといってきたんだがね」 「へえ……?」  と、等々力警部と三津木俊助は目をみはって、 「辺見さんは探偵業から引退してるはずだのに、なんだってまた……?」 「いや、それが、だれかに調査を依頼《いらい》されたらしいんだよ。依頼人については語らなかったが……」 「で、先生はどういうお話をなすったんですか?」 「どういう話って、君たちの知っているような話ばかりだ。木塚陽介というメリケンゴロが、吾妻早苗との恋《こい》にやぶれてやけくそになり、早苗を殺してトランクづめにしたばかりか、わたしのいとこの太田垣三造や荒木夫人を殺してダイヤを奪《うば》ったり、また、わたしのめいのヘレンとメリー望月のふたりを誘拐《ゆうかい》してしまったり……、そういう木塚の悪事のかずかずを、まあ、ひととおり話してきかせたのだが……」 「そのとき、辺見さんは『姿なき怪人』について、なにか心当たりがあるようでしたか」  そうたずねたのは等々力警部だ。 「いや、それはまだ、もちろんなかったんだろうよ。第一、心当たりがあったらべつにわたしのところへ意見をききにくる必要もないことだからね」 「それで、依頼人のことはいわなかったんですね」 「ああ、わたしもそうとうしつこく聞いてみたんだが、これは依頼人の秘密《ひみつ》だからって、いわずにかえったんだ」 「いったい、このへやの宿泊人《しゆくはくにん》はどういう人物《じんぶつ》だろう。まさか辺見さんがホテルに泊っているはずはないと思うが……」  三津木俊助があたりを見まわしていると、そのとき警官たちの背後から、 「ああ、それは……」  と、声をかけて乗りだしたのは、ずんぐりとふとった、このQホテルのマネージャーで、名前は前田繁次《まえだしげじ》という男である。 「このへやのお客様と申しますのは、パリがえりのシャンソン歌手で、中川珠実さんというかたなんです」 「なに中川珠実って、あの有名な……」 「そうです、そうです。一週間ほどまえにパリから羽田空港へお着きになって、空港からまっすぐにこちらへおいでになったんです。なんでも日本に重大な用件がおありで帰っていらしたんだそうですが、用件がすみしだい、またパリへ立つつもりだとかおっしゃって、だいたい一か月くらいのご予定で、このへやをおとりになったんです」 「それで、その日本における重大な用件というのは、どういうことだかいわなかったかね」  そう尋《たず》ねたのは等々力警部である。 「はあ、そこまではおうかがいしておりません」 「それで、中川女史はこのホテルをひきはらっていったのかい?」 「いいえ、まだ……そうそう、そういえばきょう夕方の五時半ごろ、外出先から帰っていらっしゃいましたが、しばらくすると、スーツ・ケースをぶらさげてまた表へとびだしていらっしゃいました。いまから思えば、とてもあわてていらしたようですが……」  時間からいうと中川珠実は、そのときこのホテルからとびだしてから、ショルダー・バッグを忘れてきたことに気がついて、S町の公衆電話ボックスから探偵小僧の御子柴進に電話をかけたのにちがいない。 「中川女史は、スーツ・ケースひとつしか荷物をもっていなかったの」 「いいえ、そんなことはありません。ほかに中くらいのトランクをおもちでしたが……」  前田支配人が寝室のすみにある押入《おしい》れをひらくと、はたしてなかに中くらいのトランクが一|個《こ》おいてある。  そのトランクには、いかにも外国を旅行してきた女性らしく、各国のホテルのラベルがベタベタとはってあった。  と、そのときだ。  辺見重蔵の死体を調べていた刑事《けいじ》のひとりが、とつぜん、すっとん狂《きよう》な声をはりあげた。 「おや、おや、この男、みょうなものをもってるぜ。警部さん、警部さん、いったいこれはなんでしょうねえ」  等々力警部をはじめとし、一同がハッとそのほうをふりかえると、刑事が手にもっているのは、トランプのカードのようである。    トランプのなぞ  それはまったく、きみょうなトランプであった。  一枚《いちまい》はスペードのキングなのだが、その裏側《うらがわ》にはジョーカーが、背中合わせにはりつけてある。  スペードのキングは白い口ひげとあごひげをはやしており、裏にはったジョーカーは、全身にまっ黒なタイツを着て、頭には丸い房《ふさ》のついた三角形のトンガリ帽子《ぼうし》をかぶっていて、いかにも、いたずら者らしいかっこうである。  さて、もう一枚のカードというのは、ダイヤのクイーンであったが、それがまんなかからななめにキッチリ、ふたつに切ってあり、したがって二枚に切りわけてあるのだ。  君たちもたぶんご存知《ぞんじ》だろうが、トランプの絵札《えふだ》というのはどの札でも、おなじ形が上下にさかさまに描《えが》いてある。  いま刑事が見つけだしたダイヤのクイーンももちろんそのとおりだが、それが二枚に切りはなしてあるのだった。  等々力警部は眉《まゆ》をひそめて、そのトランプを改めながら、 「新井君、いったいこのトランプはどこから出てきたんだい」 「はあ、このポケット日記のうら表紙の裏側に封じこめてあったんです」  新井刑事が出してみせたのは、H社発行のポケット日記だが、見るとそのうら表紙の裏側の紙が少しはがれている。 「このポケット日記は、どこにあったの?」 「被害者《ひがいしや》の上衣《うわぎ》のポケットにはいっていたんです。ぼく、この日記になにか書いてありはしないかと思って調べていたんですが、そのうちに、おもて表紙とうら表紙の厚《あつ》さが少しちがうことに気がついたんです。ふしぎに思ってうら表紙をおさえてみると、なかになにかはいっているようすです。それでうら表紙の裏側の紙をはがしてみると、こんなものが出てきたんです」  と、新井刑事が出してみせたのは、うすっぺらな透明《とうめい》の紙である。  見ると、ちょうどトランプの大きさに折目がついている。 「ふうむ」  と、等々力警部はその紙を手にとると、 「このなかにトランプがつつんであったのかね」 「はあ、ふたつに切ったダイヤのクイーンはこの透明紙につつんでありました。しかし、スペードのキングとジョーカーをはり合わせたほうは、この透明紙の外にあったんです」 「どれどれ」  三津木俊助が、そのうすっぺらな透明紙を手にとってみると、その紙のうえには、赤と紫《むらさき》で魚のかたちが三|匹《びき》印刷してある。 「新井さん、このふたつに切ったダイヤのクイーンは、この紙のなかにつつんであったんですね」 「はあ……」 「それにもかかわらず、このジョーカーとスペードのキングのはりあわせは、この紙につつんでなかったんですね」 「はあ、そのほうはむきだしのまま、この紙包みといっしょに、うら表紙の裏側に封じこんであったんです」 「ふうむ」  と、三津木俊助はうめくように鼻を鳴らすと、とつぜん板垣博士のほうへむきなおった。 「先生、いったいこれはどういう意味でしょうねえ。辺見重蔵さんほどの名探偵が、こうして意味ありげに手帳のなかへかくしておいたとすると、これにはなにか重大な意味があると思うんですが、先生はどうおかんがえですか」 「そうだねえ」  と、板垣博士はまっしろなあごひげをしごきながら、 「しかし、それにしても少し子どもだましみたいじゃないか。それならそれと、手帳のなかに書きつけておけばよいものを……」 「いや、手帳のなかに書きつけておいたばあいは、『姿なき怪人』に見つかって破《やぶ》りすてられるおそれがあります。だから、こうしてトランプで、いわんとするところをなぞにして、かくしておいたんだと思うんです」 「三津木君」  と、等々力警部はするどく俊助の顔をみて、 「それじゃ、このトランプは『姿なき怪人』のなぞを示《しめ》しているというのかね」 「そうです、そうです。このジョーカーはすなわち、『姿なき怪人』を意味しているんだと思うんです」 「しかし、そのジョーカーがスペードのキングと背中合わせにはりあわせてあるのは……?」 「それは『姿なき怪人』とは、スペードのキングとおなじ人物であるということを意味しているんじゃないでしょうか」 「ふうむ、それじゃスペードのキングというのはだれのことだい」  板垣博士はからかうような口ぶりだ。 「さあ……それは……ぼくにもまだハッキリとはわかりませんが……」 「ふふん」  と、板垣博士は意地わるそうに鼻を鳴らして、 「それじゃ、ついでにうかがうが、ふたつに切ったダイヤのクイーンはなにを意味しているのかね」 「はあ……ダイヤは財産《ざいさん》を意味しています。だから切りはなされたダイヤのクイーンは、ばく大な財産をもった双生児《そうせいじ》、すなわちメリーとヘレン望月を意味してるのじゃないでしょうか」 「なるほど、それはおもしろい解釈《かいしやく》だが、しかし、それだけじゃ意味ないね。事件を解決するかぎに、なりそうにないじゃないか」 「だから……だから……このトランプだけが、この透明な薄《うす》い紙につつんであったところになにか重大な意味があるんじゃないかと思うんです。ひょっとするとこれによって、ヘレンとメリーのいどころを示しているんじゃないでしょうか」  そういいながら俊助は、そのうすい透明紙のうえに印刷してある、三匹の赤と紫の魚のかたちを、悩ましそうな目でみつめていた。    トランクの中  それからどのくらいたったのか。  さっき日比谷公園の池の端《はし》で、なにものともしれぬ男に麻酔薬《ますいやく》をかがされた探偵小僧の御子柴進は、それきりこん睡《すい》してしまったので、それからどれくらい時間がたったのかわからない。  ふと気がつくとどこやら真《ま》っ暗《くら》なところに押しこめられている。しかも、空気がこもって息がつまりそうである。まだはっきりとしない頭で、進はモゾモゾ、からだを動かしていたが、手足をのばすとなにやら固い壁にぶつかった。  ハッとして起きなおろうとすると、ゴツンと頭をぶっつけた。  そのひょうしに、ハッキリ意識をとりもどした進は、おそるおそる手さぐりで、じぶんのまわりをさぐってみると、そこはやっとからだひとつ、はいるかはいらないくらいの狭《せま》い場所で、周囲をとりまいているのは、なにやら固い金属《きんぞく》のようである。  探偵小僧の御子柴進は、きゅうに心臓《しんぞう》がドキドキしてきた。額からねっとりと油っこい汗が吹きだしてくる。  進は、まだ少しズキズキいたむ頭をかかえこみながら、さっきの日比谷公園のできごとを思い出していた。  そうだ。じぶんはだれかに麻酔薬をかがされたのだ。そして、こん睡しているあいだにこのような、狭いところへ押しこめられたにちがいない。  ああ、苦しい。息がつまりそうだ。  だが、それにしてもここはいったいどこだろう。……  と、考えこんでいるとたん、ガクンとあたりが大きくゆれて、進は、ゴツンと天じょうに頭をぶっつけた。 「あっ!」  と、思わず進が、口のうちで叫んだとき、  ブー、ブー、ブー  と、はげしく鳴らすクラクションの音が、狭いところへ閉《と》じこめられた進の腹《はら》の底までしみとおったかと思うと、またしてもあたり全体がはげしくゆれた。  地震《じしん》なのか……?  いや、そうではなかった。  あたりは絶《た》えず動いているらしいうえに、ガソリンのにおいと排気《はいき》ガスの臭気《しゆうき》で、むっと胸が悪くなるようである。しかも、またしても、  ブー、ブー、ブー  と、いうクラクションの音が腹の底にしみわたる。  ああ、わかった、わかった。探偵小僧の御子柴進にも、やっとじぶんがいまどこに、閉じこめられているのかわかったのである。  そこはどうやら乗用車の後尾《こうび》トランクのなからしい。  そうとわかると、進はとつぜん、全身の毛穴という毛穴がさかだつような恐怖《きようふ》をおぼえた。  麻酔薬をかがせて眠《ねむ》らせて、乗用車の後尾トランクへ詰《つ》めこんで、いったいこれからじぶんを、どこへつれていこうというのだろう。  進は、きゅうくつな体をもじもじさせながら、ふたがあかないかと押しあげてみたが、かぎがかかっているとみえてびくともしない。  それでも、こういう狭いところへ押しこめられていながら、いままで窒息《ちつそく》せずにすんだのは、かぎ穴からわずかながらも外気が通っているせいらしい。  じたばたしてもだめだとわかると、進は観念して、いまじぶんがおかれている立場について考えてみた。  麻酔薬をかがせた男……たぶん、それが『姿なき怪人』なのだろうが……怪人がじぶんをしばりもせず、またさるぐつわをかませもしないで、乗用車のトランクのなかへほうりこんだところをみると、怪人は麻酔薬のききめに十分自信をもっていたのだろう。  ところが、その麻酔薬のききめが案外はやく切れてしまって、じぶんはいまこうして意識を恢復《かいふく》してしまった。  では、これからさきどうしたらいいのか。  そうだ。怪人は麻酔薬のききめについて大きな誤算《ごさん》をしているのだ。だからそれを誤算とさとらせないように、もうしばらくこん睡しているようなふうをしていたほうがよいのではないか。  そして、怪人の出方を見まもっていたほうが有利ではないか。  そうだ、そうだ。  ひょっとすると、そうすることによって、怪人のしっぽをつかむことができるかもしれないのだ。……  探偵小僧の御子柴進が頭のなかでそんなことを考えているとき、とつぜんガクンとあたりが大きくゆれて、そのままピタッと静止したようである。  乗用車がどこかへとまったらしい。  進は、あわてて、さっき意識をとりもどしたときとおなじ姿勢《しせい》で、ぐったりと目をつむって待っていた。    ナイロンのくつ下  目をつむった探偵小僧の御子柴進は、全身の神経《しんけい》を緊張させて、トランクの外のようすをうかがっている。  乗用車からだれかがおりていったらしく、バターンとドアのしまる音がして、それからコツコツと足早に遠ざかっていく、くつの音がかすかに聞こえた。  そのくつ音がきこえなくなるのを待って、進は、もういちどトランクのふたを押してみた。  しかし、あいかわらずかぎがかかっているので、びくともしない。  進ががっかりしているところへ、またコツコツとくつ音が近づいてきた。進はギョッとして、またこん睡しているふりをする。  くつ音は乗用車のそばまでかえってくると、ガチャガチャと、トランクのかぎをあける音がする。いよいよふたを開くのだ。  探偵小僧の御子柴進は、いっそうかたく目を閉じて、いかにも薬がきいていそうなふりをしている。  やがてトランクのふたが開いて、さっと冷たい風が吹きこんできた。  進には、麻酔薬をかがされてから、どれくらい時間がたっているのかわからないのだけれど、どうやらあたりはまだ真っ暗なようである。  とつぜん、進のまぶたの外があかるくなったのは、懐中電灯《かいちゆうでんとう》の光をさしむけられたらしいのだ。  懐中電灯のぬしは、トランクのなかの進のかっこうを、注意ぶかく見まわしているようすだったが、やがて、 「うっふっふ、まだ薬がきいているらしい。よく眠っているな」  と、口のうちで小さくつぶやくと、やがて懐中電灯を消したらしく、まぶたの外はまた真っ暗になってしまった。  と、思うと怪人がぐっと二本の腕をのばして、進を抱きにかかる。進はわざと、からだをぐんにゃりさせて、怪人のなすがままにまかせている。  怪人は、進のからだをズルズルと、トランクのなかからひきずりだすと、かるがると両腕で抱きあげた。  進は体重五十キロあまり、それをかるがる抱きあげる怪人は、そうとうの力である。  進を両腕に抱きあげた怪人は、あたりのようすをうかがいながら、スタスタと大またに歩きはじめた。  進は目をあけて、怪人の顔を見たいと思うのだが、うっかりあいてにそれをさとられると、どんなことになるかもしれないのだ。  なにしろあいては人を殺すことくらい、へとも思っていない怪物なのだ。  怪人は進を抱いたまま、古ぼけたビルのなかへはいっていった。ビルのなかはがらんとして、どこにもひとの気配はなく、まるで、化物屋敷《ばけものやしき》のようである。  怪人はそのビルの階段《かいだん》をあがりはじめた。一歩一歩、あたりに気をくばっているらしいのは、その歩きかたでもわかるのである。  むっ……と、カビくさい匂《にお》いがはなをつくのは、あまりひとの出入りしないビルらしい。  怪人は二階まで進を抱きあげると、三メートルほど廊下《ろうか》を歩いた。  進はあいかわらず、かたく目をつむったきりだが、それでもまぶたの外がときどき明るくなったり、暗くなったりするのはどういうわけだろう。  わかった、わかった。  このビルのどこかちかくに、ネオン・ライトの広告が取りつけてあるのにちがいない。  まぶたの外が規則的《きそくてき》に、明るくなったり、暗くなったりするのがその証拠《しようこ》だ。  やがて、怪人は立ちどまった。そしてくつのつま先でドアをひらくと、パッと進のまぶたの外が明るくなった。へやのなかに電灯《でんとう》がついているせいだろう。  怪人は進を抱いたまま、片手《かたて》でぴったりドアを閉めた。  そして二、三歩、へやのなかを歩きかけたが、そのとたん、ガチャリと音がして床のうえになにやら落ちた。しかも、そのうえを怪人がくつで踏《ふ》んだのか、ガリガリとなにかがくだける音がした。  怪人は、びっくりしたように飛びのいて、床のうえをのぞいていたが、 「なんだ、懐中電灯か」  と、口のうちで小さくつぶやいた。  進のポケットから、万年筆型の懐中電灯がすべり落ちたのを、なにげなく怪人のくつが踏みくだいたのだ。  そのとたん、進ははじめて薄目《うすめ》を開いて、下からそっと怪人の顔を見たが、すぐまたはっと目を閉じた。  あの男だ! 「怪屋《かいおく》の怪」の事件で、太田垣三造老人の家で会ったことのある男——ふつうの眼鏡《めがね》のうえに黒めがねをかけた怪紳士《かいしんし》、二重めがねの男である。  しかもあごのところにありありと、三か月型のきずがあるのが、探偵小僧の目にはっきり残った。  怪人は進をへやのすみまで抱いていくと、ベッドのうえにそっとおろした。  目をつむっているのではっきりとはわからないが、ベッドのうえには、だれやらひとが寝《ね》ているようすである。  怪人は進をベッドにおろすと、やおらそのからだをうつぶせにした。  うつぶせにされたので、目を開いてもわからないだろうと、そっと進が目をひらくと、おお、なんということだ!  進のからだの下に、女がひとりあお向けに寝ているではないか。  それは真っ黒なスーツをきた、二十七、八の女だったが、その女の首にはナイロンのくつ下がまきついている。  進は、あやうく声を立てそうになるのを、あわててのどのおくでかみ殺した。  怪人は進の両手をとって、女の首にまきついた、ナイロンのくつ下の両端《りようはし》をにぎらせた。 「うっふっふ、これでよしよし。新日報社の探偵小僧、シャンソン歌手をナイロンのくつ下でしめころす……か。うっふっふ」  そうつぶやきながら怪人はうしろから、また、しめったガーゼのようなものを、進の鼻孔にぴったり押しつけた。 「ううむ!」  進はちょっと、体をけいれんさせたが、そのまま……ナイロンのくつ下の両端をにぎりしめたまま、ふたたびこんこんとして、眠りにおちていったのである。    地図の三重丸 「警部さん、なにか重大な証拠が見つかったそうですね」  そこは警視庁の一室、等々力警部のへやである。  ドアを開くなり、勢いこんで声をかけたのは新日報社の三津木俊助。俊助は目をくぼませ、ほおもげっそりこけている。  それもそのはず、俊助にとってはかわいい弟分、探偵小僧の御子柴進が、ゆうべからきょうにいたるまで、いまだにゆくえがわからないのだ。  進はきのうの夕方、都電赤坂S町停留場近くの公衆電話ボックスから、新日報社の三津木俊助に電話をかけてきた。そのとき、探偵小僧はこれから日比谷公園の、噴水のそばへ出向いていくといっていた。  八時十分ごろ、赤坂Qホテルの二階七号室で、もと私立探偵辺見重蔵の死体を発見した三津木俊助は、すぐ警視庁へ電話をかけたが、そのときついでに、警視庁とはすぐ目とはなのあいだにある、日比谷公園へひとをやって、進をさがすようにとたのんでおいた。  等々力警部はその電話にしたがって、私服をふたり見にやったのだが、進のすがたはどこにも見えなかった。  そして、きょうももうそろそろ日が暮《く》れようとしているのに、進の消息は、どこからも聞こえてこないのだ。  三津木俊助がげっそりおもやつれするほど、心配しているのもむりはない。 「ああ、三津木くん、探偵小僧はまだ帰ってこないそうだね」  と、さっき電話で話した等々力警部も心配らしく眉をひそめている。 「ええ、なにかまちがいがなければよいがと思っているんですが……」  と、三津木俊助はしょんぼり肩を落としたが、すぐまた思いなおしたように、 「あいつのことだから、なんとかうまく切り抜けてきますよ。それとも、あやしいやつを見つけて、深追いしているのかもしれません」 「しかし、それならあの少年のことだから、なんとか電話をかけてきそうなものじゃないか」 「さあ、それなんですよ。社でもみんなが心配しているのは……」  と、三津木俊助はまた心配そうに眉をくもらせたが、すぐ頭を強く左右にふった。  ともすれば、こみあげてくる不安をはらい落とそうとするかのように……。 「それより、警部さん、さっきの電話の重大な証拠というのは……?」 「ああ、そのことだがね」  と、等々力警部はデスクのひきだしから、一枚の地図を取り出すとそこにひろげて、 「きのう、Qホテルの二階七号室で殺された辺見重蔵氏の書斎《しよさい》を、奥さんに頼《たの》んで調べさせてもらったんだ。そしたらこの地図だけが一枚べつになっていたんだよ」  それは、東京都全区の区分地図のうち、世田谷《せたがや》区の部分である。  三津木俊助もこれとおなじ地図をもっているが、各区ごとに一枚の地図になっており、それがひとつのボール紙のツツにはいっている。 「辺見さんというひとはひじょうにきちょうめんなひとで、地図なども調べおわると、すぐもとのツツにしまうのがくせだったそうだ。ところがこの地図だけがツツの外に出ていたところを見ると、まだまだ、この地図が必要だったのではないか。したがって、世田谷区に、なにか用事があったのではないかというんだ。ところが、ほら、ここにこうしてところどころ、赤インクで二重丸がつけてあるだろう」  なるほど、世田谷区の地図のうえに三か所、二重丸がついている。しかも、それはみんな小田急《おだきゆう》沿線《えんせん》で、豪徳寺《ごうとくじ》と経堂《きようどう》、もうひとつは成城である。 「この地図が、こんどの事件に関係があるとすると、辺見さんはこのへんになにかクサイにおいをかいだのじゃないか。そして、この三か所について調べていたんじゃないかと思うんだ」 「奥さんの話によると、ちかごろしょっちゅう、出むいていたというからね」 「なるほど、なるほど、それで……」 「いや、それで、いま奥さんから辺見さんの写真を数枚借りて、部下をこの三か所へ派遣《はけん》したところだ。だれか辺見さんを見かけたものがありはしないか。また辺見さんがなにかを尋ねるために、交番へ立ちよってはいないかと、それを調べさせているんだがね」 「なるほど、それはまわりくどいようですけれど、いちばん適切《てきせつ》な方法でしょうねえ」 「君もそう思ってくれるかね」 「はあ、ことにこの赤インキの跡《あと》がまだまあたらしいところを見るとね」 「そうなんだ。それなんだ。しかも奥さんの話によると、ほかにべつに、辺見さんがこのへんに興味《きようみ》をもつ理由は思いあたらないといってるんだ。しかも、この三か所付近にこれといって、ふかいつきあいのある人物は住んでいないと、奥さんはいうんだが……」 「警部さん、ぼくにも辺見さんの写真をかしてくれませんか。新聞に発表して、いっぱん民衆《みんしゆう》の協力を求めたらいかがでしょう」 「ああ、しかし、辺見さんがこの三か所に目をつけていたということは、犯人には知られたくないんだが……」 「いや、それはなんとかうまくやります。社のほうでも手をつくして……」  と、いいかけた三津木俊助のことばのとちゅうで、とつぜん卓上電話のベルがけたたましく鳴りだした。  等々力警部らは受話器をとりあげると、 「はあはあ、こちら、警視庁の捜査一課《そうさいつか》ですが……はあ、わたし、等々力警部です。なにっ……」  受話器をつかんだ警部の指に、急に力がこもってきたかと思うと、かっと大きく目が見ひらかれた。 「ああ、ちょっと待ってください。いまメモを取りますから……はあ、はあ……日比谷公園の東側……この警視庁のすぐ裏がわにある|X《エツクス》・|Y《ワイ》・|Z《ゼツト》ビルの二階十三号室……そ、そこに女がしめころされている……しかも、それが赤坂Qホテルの二階七号室に宿泊していた女だというんですね。……はあはあ、それであなたはいったいどなたですか。……な、なにっ? す、す、姿なき怪人……?」  そのとたん、受話器をとおってきこえてくる、悪魔《あくま》のようなわらい声が、たからかに三津木俊助の耳にもきこえてきた。  等々力警部がガチャンと受話器をおいたとき、三津木俊助はすでにもう、席を立っていた。    Y・K商会  X・Y・Zビルというのは戦争中、いちどほのおにつつまれて、内部はだいぶん焼かれたが、外側がのこっていたので、持主が修理《しゆうり》して、貸事務所《かしじむしよ》として使っている。  しかし、修理といってもほんの応急《おうきゆう》修理だから、いまでも、ところどころ煙《けむり》にまかれた跡がのこっており、ちかごろのように新しいビルがぞくぞく建つ時代には、いかにも時代おくれの建物である。  しかし、場所がよいので四階建てのそのビルは、いつもへやがふさがっている。  その二階、十三号室のドアのすりガラスには、Y・|K《ケイ》商事という金文字がはいっており、管理人《かんりにん》の話によると、木村陽二《きむらようじ》という男がY・K商事の経営者《けいえいしや》だということである。 「そこで、いまでもこのY・K商事というのはやっているのかい」 「はあ、それが……」  と、このビルの管理人は顔をしかめて、 「どうも事業の内容というのが、もうひとつふに落ちませんので……ひょっとしたら麻薬《まやく》の密輸《みつゆ》でもしているのではないかと、このビルの持主が心配しまして、だいぶん前から立ちのきをお願いしていたんです」 「麻薬の密輸……?」  と、等々力警部と三津木俊助は顔を見合わせると、 「ふむ、ふむ、それで……」 「ところが木村陽二というひとが、なかなかひと筋《すじ》なわでいかぬかたで、立ちのくなら立ちのき料をよこせなんておっしゃって、それもずいぶん大きな金額《きんがく》をふっかけていらしたんです。それでスッタモンダとやってたんですが、二、三日まえにやっと話がついて、立ちのいていただいたばかりなんです」 「それで……」  と、そばから三津木俊助がことばをはさんで、 「その木村陽二というのは、どういう人物だったね、人相風体《にんそうふうてい》は……?」 「はあ、そのかたはめったに顔は出さなかったんですが、だいぶん目の性《しよう》がお悪いとみえて、いつもふつうのめがねのうえに、黒めがねをかけていらっしゃいました」  三津木俊助と等々力警部は、またはっとしたように顔を見合わせた。  姿なき怪人なのだ。そういえば木塚陽介と木村陽二……。  ああ、なんと、そいつは警視庁のすぐそばに事務所を持っていて、なにかよからぬ事業をやっていたのだ。  あいつならば、麻薬の密輸もやりかねない。 「とにかく、それじゃドアをひらいてなかを見せてもらおうか」 「はあ、しかし……」  と、管理人はおどおどしながら、 「もうなかはからっぽで、なんにもないと思うんですけれど……」 「まあ、いいからドアをひらいてくれたまえ」 「はあ、そうですか。それでは……」  管理人はかぎをひねってドアを開いたが、窓《まど》にカーテンがしまっているので、へやのなかはうす暗い。  管理人は壁のうえをさぐって、カチッとスイッチを鳴らしたが、そのとたん、一同のくちびるから、おもわず、 「あっ!」  と、いう叫びがもれた。  がらんとしたへやの一隅《いちぐう》に、大きな木のから箱《ばこ》がふたつならべておいてあり、そのうえに黒いスーツをきた女が、あお向けに寝ているのだが、その首には薄桃色《うすももいろ》のくつ下が、へびのように巻《ま》きついている。  しかも、そのから箱にもたれかかるように片手にナイロンのくつ下をにぎったまま、両足をひろげてまえに投げ出し、がっくりと首をうなだれているのは、探偵小僧の御子柴進ではないか。 「あっ! た、探偵小僧!」  ここに探偵小僧がいるとは意外であった。三津木俊助はあわててかけより、進のからだにさわってみたが、 「ありがたい!」  と、思わず大声で叫んだ。 「生きているの?」 「生きています」  と、三津木俊助は進のまぶたをひらいてみて、 「瞳孔《どうこう》がおそろしくひろがっているところをみると、麻酔薬をのまされたか、かがされたのにちがいない。警部さん、そして、女のほうは……?」 「死んでいる!」  と、等々力警部がうめくように、 「このくつ下でしめころされたらしい。それにしてもそのくつ下のはしを、探偵小僧ににぎらせておくなんて、なんという悪いやつだろう」  進が、ただ眠っているだけとわかって、三津木俊助も安心してからだを起こすと、そこに横たわっている黒衣の女の顔を見た。 「ああ、警部さん、やっぱりこれは中川珠実ですね」 「ちがいありませんか」 「ちがいありません。外国へ出かける前にぼくは二、三度、このひとのリサイタルを聞いたことがあります。それにしてもどうしてこのひとが、姿なき怪人にねらわれたのだろう!」  三津木俊助と等々力警部が、この不幸な女性の顔をしげしげ見ているところへ、 「ああ、等々力君、ここにいたのかね。いま警視庁へいってきいてきたのだが」  と、はいってきたのは板垣博士、あいかわらず口のまわりをふちどったひげが美しい。  だが、姿なき怪人が片付《かたづ》けたのか、怪人によってふみくだかれた進の懐中電灯は、へやのどこからも発見されなかった。    吾妻水族館  目をさました探偵小僧の話により、なぜ中川珠実が、姿なき怪人にねらわれたか、だいたいの想像《そうぞう》はつくようだった。  中川珠実のショルダー・バッグのなかには、姿なき怪人のさいしょの犠牲者《ぎせいしや》、吾妻早苗の手紙があったという。  しかも、それは、早苗が殺される直前に、パリにいる珠実に書き送ったものだという。  ひょっとすると、早苗はじぶんにおそいかかってくる、不吉《ふきつ》な運命をあらかじめ知っていて、そのことをパリにいる親友、中川珠実に書き送ったのではないか。  しかも、早苗がその手紙のとおりの運命におちいったので、珠実は親友のかたきをうつつもりで日本へかえってきて、事件の調査を、もと私立探偵の辺見重蔵に依頼したのではないか。  もし、そうだとすると、早苗の手紙には、そうとう具体的なことが書いてあったにちがいない。  辺見重蔵はそれを土台として調査をすすめ、あるていど、姿なき怪人の秘密をかぎつけたのではないか。  そして、そのためにかえって怪人に先手《せんて》をうたれ、Qホテル二階七号室の珠実のところへ、報告《ほうこく》にいったところを殺されたのではあるまいか。  そう考えると、なにもかもつじつまがあってくる。  ただわからないのは、早苗の手紙にどんなことが書いてあったか、また、それを土台として辺見重蔵が、いったいなにを探《さぐ》りだしたのかということである。  こうなってくると、辺見重蔵が地図に書いておいた、あの赤インキの二重丸だけがたよりになってくる。  小田急沿線のあの三か所で、辺見重蔵はなにを探ろうとしていたのだろうか。  それはさておき、医者の手当てによって覚せいした探偵小僧の御子柴進は、二日もたつと、もうすっかり元気になっていた。 「三津木さん、ぼく三津木さんにおたずねしたいことがあるんですが……」 「どういうことだね」 「ぼくがX・Y・Zビルの二階でたおれているのを見つけてくだすったのは、三津木さんと等々力警部さんなんですね」 「ああ、そう、ひとあしおくれて板垣博士がやってきたんだ」 「そのとき、そのへやの床に、ぼくの懐中電灯が落ちてやぁしませんでしたか」 「いいや、そんなものなかったよ」 「三津木さんや警部さんはそのへやを、くまなく捜査されたんでしょうねえ」 「そりゃもちろん。なにか証拠はないかと思って探したさ」 「それでも、懐中電灯は見つからなかったんですね」 「ああ、なかったよ。探偵小僧、おまえどこかほかの場所で落したのじゃないか」 「いいえ、ぼくたしかにあのへやで落したんです。ぼくそのときは、目がさめていたんです」 「すると、怪人がそれを片付けたことになるが、なぜそんなことをしたんだろう」 「さあ、ぼくにもよくわかりませんが……」  しかし、探偵小僧の御子柴進は、はっきりおぼえているのである。探偵小僧のポケットから、懐中電灯が床《ゆか》に落ちたのを、怪人があやまってガリガリとふみくだいたのを……。 「しかし……」  と、三津木俊助がなにかいいかけたとき、とつぜん卓上の電話のベルが鳴りだした。 「はあはあ、こちら三津木俊助ですが……ああ、警部さんですね。ええっ、辺見重蔵が目をつけていたらしい場所が見つかったって……? ええ、いますぐいきます。ちょっと場所をいってください。はあはあ、なるほど。えっ?……ああ、そうですか。わかりました。ええ、探偵小僧もここにおります。ああ、板垣先生もいらっしゃるんですね。じゃ、すぐこれから出発します」  三津木俊助が受話器をおいたとき、進は、まっかにほっぺたをかがやかせて、もう、椅子《いす》から立ちあがっていた。  それから五十分ののち、三津木俊助と進を乗せた車が横づけになったのは、小田急沿線の成城町。町はずれにある、かなりりっぱな洋館の前である。  ふたりがなかへはいっていくと、ひとあしさきに板垣博士も到着していて、等々力警部とともに出迎《でむか》えた。 「三津木くん」  と、板垣博士はふしぎそうにまゆをひそめて、 「辺見くんがなぜこの家に目をつけていたのか、わしにはいっこう、わけがわからないね。これはわしの親友だった、吾妻俊造の邸宅《ていたく》なんだよ」 「えっ、そ、それじゃ早苗さんのおとうさんの……」 「ああ、そう、わしは吾妻から早苗の後見人に指定されていたので、この家なんかも管理していたんだがね。もっともわしじしん、めったにやってくることはないがね」 「警部さん」  と、三津木俊助は等々力警部をふりかえり、 「辺見さんが、ここに目をつけていたということがどうしてわかりました」 「いやね。いろいろ調べたところ、吾妻俊造さんは、さいしょ豪徳寺に住んでいた。それから経堂へうつり、さいごにここへ引っ越《こ》してこられたのだ。だからこの三か所に関係のあるのは亡《な》くなった吾妻さんではないかということになったんだ。そこでここの交番の警官《けいかん》に辺見さんの写真を見せたらよくおぼえていて、この家の付近をうろついているのを見たことがあるというんだ。しかも、ちょっとこっちへきたまえ」  広いホールからおくへはいると、三津木俊助と進は、思わずあっとさけんで立ち止まると、目をまるくしてあたりを見まわした。  タイル張《ば》りのそのへやの左右には、大きな水槽《すいそう》がならんでいて、そのなかにはさまざまな熱帯魚が泳いでいる。  そして、そのへやの正面にかかった額《がく》には、「吾妻水族館」と書いてある。  進はぼうぜんとして、この珍《めずら》しい熱帯魚をながめていたが、そのときなにを見つけたのか、はっと大きく目を見張《みは》った。  さっきから、なにやらキーキーとかすかな音がすると思ったら、板垣博士が歩くたびに、床のタイルに小さなきずがつくのである。博士のくつの裏になにかささっているにちがいない。    意外また意外 「わかった、わかった。メリーとヘレン望月のふたごのきょうだいは、この水族館のどこかに押し込《こ》められているにちがいない。それを暗示《あんじ》するために、辺見重蔵さんはダイヤのクイーンをふたつに切って、魚の模様《もよう》のはいった紙のなかにつつんでおいたのだ!」  三津木俊助は、こおどりせんばかりに叫んだが、はっと気がついたように板垣博士のほうをふりかえった。  板垣博士は平然として、三津木俊助の顔をにらんでいる。  なにかしら切迫《せつぱく》した空気がその場にながれて、等々力警部は思わずゴクリと息をのんだ。  やがて、板垣博士はにやりとわらうと、 「なるほど、すると木塚のやつ、わしに罪をきせるつもりで、ここへふたごを押し込めたか……あっ、な、なにをする!」  そのときどこから持ち出したのか、進が釣竿《つりざお》を手にもって、博士の顔のまわりをふりまわしていたが、やがてねらいたがわず釣針《つりばり》が、博士の白いあごひげにひっかかったからたまらない。 「た、探偵小僧! なにをする!」  板垣博士が怒りにふるえる声を張りあげたとたん、進がさっと釣竿をひいたかと思うと、ああ、なんとしたことだ!  板垣博士のあの口のまわりをふちどっている、美しいひげが、釣針とともにすっぽりはがれたではないか。 「ああ、警部さん、三津木さん、姿なき怪人とは板垣博士だったのです。その証拠には博士のくつの裏を調べてください。ぼくの懐中電灯をふみつけたとき、レンズがこわれて、そのレンズのかけらがくつの裏にささっているにちがいありません」  そのときの板垣博士の、ものすさまじい形相《ぎようそう》といったらなかった。  それはもうあの温厚《おんこう》な学者の相ではなく、人を殺すことをなんとも思わぬ悪鬼《あつき》の形相そのものだった。  いっしゅん、板垣博士対探偵小僧、三津木俊助と等々力警部の三人は物すごい目をしてにらみあっていたが、とつぜん博士のからだがよろめいたかと思うと、がっくりとタイルのうえに膝《ひざ》をついた。 「あっ、板垣博士!」  と、三津木俊助がそばへかけよろうとするのを、等々力警部がいそいでとめて、 「博士! 博士! ヘレンとメリーのふたごはどこに……ふたごのきょうだいはどこにいるんだ!」  それを聞くと、板垣博士はひざまずいたまま、かたわらの水槽にはいよった。  そして、片手で水槽の台の一部分にある、かくしボタンを強く押すと、水槽が一メートルほど後退《こうたい》して、そこにポッカリと黒い穴が口をのぞかせた。  板垣博士はその穴からがっくり半身を乗りだしたが、それが博士のさいごだった。  物すごいけいれんが、博士の全身をおそったかと思うと、やがてがっくりと息がたえたのである。  板垣博士の右手はポケットのなかで、小さなゴムまりを握っていた。  ゴムまりは強く握ると、なかからするどい針《はり》がとびだす仕掛《しか》けになっており、その針にはいっしゅんにして、ひとの命をうばう毒薬がぬってあったのだ。  姿なき怪人が板垣博士だったということほど、そのころ世間をおどろかせた事件はなかった。  博士は多くの犯罪者《はんざいしや》を扱《あつか》っているうちに、みずから精神《せいしん》に異状《いじよう》をきたして、物欲《ぶつよく》のとりこになったにちがいない。  かれはまず早苗を殺して、その財産を奪《うば》おうと考えたのだ。おそらく早苗はそれに気がついて、パリの中川珠実にしらせたのにちがいない。  この物語の第一話、「救いをもとめる電話」の事件では、早苗から博士のへやへ電話がかかってきたが、のちにそれはテープ・レコーダーにとられた声だと判明《はんめい》した。  それによって木塚が、アリバイをつくりあげたのだろうと博士はいったが、アリバイをつくったのは博士じしんだったのである。  博士の実験室はふたへやになっていて、三津木俊助が図書室でその電話の声を聞いたとき、博士はおくの実験室のなかにいて、あいだのドアはぴったりしまっていた。  しかも、おくの実験室にも、電話がそなえつけてあった。  博士はそこから隣《とな》りのへやへ電話をかけたのだが、あいだのドアに、防音装置《ぼうおんそうち》がほどこしてあったので、三津木俊助も探偵小僧の御子柴進も気がつかなかったのだ。  博士がいとこの太田垣三造を殺したのは、鑑定《かんてい》を依頼された荒木夫人のダイヤがほしかったからだろう。  あるいは、いとこを殺すことによって、太田垣三造老人の財産を相続することができたからかもしれない。  ヘレンとメリーのふたごを、いかにも殺されたように見せかけたのも、やはりその財産がほしかったのであろう。  しかし、悪魔のような板垣博士も、さすがにかれんなふたりは殺さなかったとみえ、かえ玉をつかってふたりが死んだようにみせかけたのだ。  ヘレンとメリーは、吾妻水族館の穴ぐらのなかに幽閉《ゆうへい》されていた。  しかし、もうしばらく発見がおくれたら、こんどはほんとうに餓死《がし》していたかもしれないのだ。 「それにしても、三津木さん、木塚陽介はどうしたんでしょう。木塚はどこにいるんです」  探偵小僧のその質問《しつもん》にたいして、三津木俊助はしばらくだまっていたのちに、やっとしわがれた声で答えた。 「板垣博士の実験室には、人間の白首《しらくび》だの、ぶきみな人間のめだまだのの標本がおいてあったろう。  あれが木塚陽介だよ。むろん博士が殺したのだ」  そういって三津木俊助は、いかにも恐ろしそうに肩をふるわせた。 [#改ページ] [#見出し]  あかずの間《ま》    庭の土蔵《どぞう》  由紀子《ゆきこ》はだんだん、この家がうす気味悪くなってきた。  由紀子はことし、小学校の三年生である。家が貧しいので、この屋敷《やしき》へ、ひきとられてきたのだ。だから、学校へいっている時間のほかは、どうしても用事をいいつけられてこきつかわれてしまう。  しかし由紀子は、からだもじょうぶで、働くことのすきな子だから、こき使われることには、なんのふへいもない。ただこの屋敷が、うす気味悪くなってきたのである。  由紀子のいる屋敷は、東京《とうきよう》のはずれの吉祥寺《きちじようじ》にある。吉祥寺の駅から歩いて二十五分もかかるという、さびしい武蔵野《むさしの》の林の中に、一軒ぽつんと、はなれてたっている。  しかし、由紀子がうす気味悪く感じだしたのは、そのことではない。由紀子は勇気のある少女なので、家のまわりのさびしいことなどすこしも気にかからなかった。  由紀子がうす気味悪く思っているのは、この屋敷に住んでいる人たちのことなのだ。  表の表札《ひようさつ》には、平田雷蔵《ひらたらいぞう》と出ているが、平田は、月に二、三かいやってくるだけで、ふだんは留守番《るすばん》の夫婦《ふうふ》がいるだけである。  留守番は、夫の方を山下亀吉《やましたかめきち》といい、年は五十五、六。頭がはげあがって髪もうすく、日やけした顔にぎろりと目つきのするどい男だった。昼の間は草むしりをしたり土いじりをしたりしているが、夜になると酒ばかりのんでいる。  おかみさんの方は梅子《うめこ》といって、五十ぐらいの年頃《としごろ》で、かまきりのようにやせた女だった。  由紀子がちょっとまごまごしていると、がみがみと口ぎたなくののしるのはこの女である。三百|坪《つぼ》以上もあろうという広いこの屋敷の中に、いま住んでいるのはこの三人きりなのだ。  ときどきやってくる主人の平田雷蔵という人は、何をする人なのかわからない。  いつもシルク・ハットを頭にかぶり、眼鏡《めがね》をかけ、でっぷりと肥《ふと》ったからだで、ちょっと見ると、手品《てじな》使いか何かのようである。みなりなども、まっ黒な洋服にちょうネクタイをしめ、寒い晩《ばん》など、くろいコートをはおってくる。  そしていつも、蛇《へび》のようなうす気味悪いはんてんのある、ステッキをこわきにかかえているのだ。  はじめて由紀子が、この屋敷へ連れてこられた晩、平田雷蔵は、ひじかけ椅子に腰《こし》をおろして、由紀子の姿と成績表《せいせきひよう》を見くらべながら、 「少し、成績がよすぎるようだな」とそばに立っている山下亀吉にいった。 「へえ、できはいいようですね」と、山下亀吉が答えた。 「あんまり頭がよすぎても、困《こま》るんじゃないかな」 「頭がいいたって、たかが、こんなおチビさんじゃありませんか」  由紀子は三年生としても、小さい方だった。  それにしても、由紀子は二人の話を聞いて、不思議《ふしぎ》に思わずにはいられなかった。成績のよいのが、なぜいけないのだろう。頭がよいのが、なぜ悪いのだろう……。由紀子は、できのよい子である。いつもクラスのトップなのだ。 「まあ、いいさ。とうぶん置いてみて、悪かったら帰すまでのことさ」 「じゃ、この子にきめてよろしいですね」 「ああ、おまえにまかせるよ」  由紀子は少し、心ぼそくなってきた。そこで、少しいきんで言った。 「おじさん、学校へは、やってもらえるんでしょうね」 「ああ、いいよ。そのおじさんのいいつけにしたがいな」  と、主人の平田雷蔵は、うるさそうに手をふって言った。  こうして、由紀子がこの屋敷へ住みこんでから、はや、二月《ふたつき》になるのだが、由紀子がだんだんこの屋敷をうす気味悪く思いだしたのは、十日ほど前からのことだったのである。  この屋敷の庭の奥《おく》には、ふるぼけた一つの土蔵《どぞう》がある。  土蔵のうしろやまわりには、木がいっぱい繁《しげ》っていて、昼《ひる》でも暗《くら》いところだ。土蔵の厚《あつ》い扉《とびら》には、大きな南京錠《なんきんじよう》がかかっていて、鍵《かぎ》はおかみさんの梅子が持っている。  梅子は毎日、朝と晩の二回ずつ、土蔵の中にはいっていく。  土蔵へいくとき、梅子はいつも、お盆を持っていく。お盆の上には、おむすびの五つ六つと、たくわんのきれはしをいれた皿《さら》がのっている。そして、片手《かたて》に土瓶《どびん》をさげているのだ。 「おばさん、あの土蔵の中に、だれかいるんですか」  と、この屋敷へ来てから、二、三日のち、由紀子がそう尋《たず》ねたことがあった。  すると、梅子はぎろりと由紀子の顔を見て、 「あの土蔵の中には、このお屋敷の、守り神さまがおまつりしてあるんだよ。守り神さまのご神体《しんたい》を、いったいなんだと思う?」 「おばさん、なんなの?」 「大きな大きな、白いお蛇さまだよ」 「大きな大きな、お蛇さま……?」  と、由紀子は思わず、目をまるくした。 「そうさ。だから、あの土蔵に近よるんじゃないよ」  おどかすような目で、じろりと強く由紀子の顔をにらみながら、梅子がねんを押《お》すように言った。    土蔵の中  由紀子はしかし、その時分には、まだそれほど、この屋敷を、うす気味悪いとは思っていなかった。  いかにさびしいところとはいえ、この東京の一画に、白い大きな蛇などいるはずがない。おばさんは年寄《としよ》りだから、あんな馬鹿《ばか》なことを信じているのだ。それこそ迷信《めいしん》というものだわ……。  と、由紀子はそんなふうに、たかをくくっていた。  ところが、十日ほど前のことである。おかみさんの梅子が転《ころ》んで、足をくじいてしまった。それが、みるみるはれあがって、晩がたには、動けなくなってしまった。  そこで、土蔵へお供《そな》えを持っていく役が、由紀子へ回ってきた。 「由紀子や、おまえ、これを蛇神さまにそなえてきておくれ」  見ると今日は、おむすびやたくわんのほかに、鮭《さけ》の切身《きりみ》が一つついていた。 「はい、おばさん」 「おまえ、恐《こわ》くはないかね」 「いいえ、べつに……」 「ほっほっほ、おまえは、なかなか勇敢《ゆうかん》な子だね。それじゃここに鍵があるから……」  と、大きな鍵を出して渡《わた》すと、 「だけど、言っとくがね、蛇神さまのご神体を見ると、たちまち目がくらんで、つぶれてしまうんだよ。だから、土蔵の扉を開くやいなや、目をつぶらなければいけないよ。そして、扉のすぐ内側へ、このお盆と土瓶を置くと、すぐ引き返しておいで」 「はい、おばさん、それでは行ってきます」  と、由紀子が、鍵をスカートのポケットに入れ、お盆と土瓶を持って行きかけると、 「ああ、ちょっとお待ち」  と、おかみさんの梅子が呼《よ》び止《と》めて、 「土蔵の奥に、階段《かいだん》がある。階段の下に、空《から》になったお盆と、土瓶が置いてあるだろうから、それをひきかえに、持って帰っておくれ」 「でも、おばさん、それじゃ目をあけなければいけないわ」 「少しくらいならいいのさ。でも、言っとくがね、あまりきょろきょろ、そこらを見まわすんじゃないよ。それを置いて、空の土瓶とお盆を持ったら、さっさと土蔵を出ておいで」 「それじゃ、おばさん、このお盆や土瓶は、階段の下に置いてくるんですか」 「ああ、そうおし。それから、土蔵を出てきたら、南京錠に、鍵をしっかりかけてくるんだよ」  梅子の言うことは、すこしおかしかったけれど、由紀子はべつに気にもとめなかった。お盆と土瓶を持って、奥の土蔵へ出向いていった。  時刻《じこく》はちょうど六時頃、夏のことだから、まだあたりは明るかった。ポケットから鍵をとり出し、南京錠をはずして、扉を開くと、土蔵の中から、ひんやりとした風が吹いてくる。  土蔵の中はうす暗かったが、でも、ぜんぜん目が見えぬというほどではない。  おかみさんは、目がつぶれるなんどと、おどかしたが、由紀子は、そんなことは信じない。階段の下まで進んでいくと、はたしてそこに、空のお盆と土瓶が置いてあった。  由紀子は持ってきたお盆と、土瓶をそこに置き、空になったお盆と土瓶をぶらさげて、引っ返そうとしたが、とつぜん、ぎょっとしてたちすくんだ。    大学生のお兄さん  由紀子が引き返そうとしたとき、土蔵の二階から聞えてきたのは、さらさらというきぬずれの音、すすりなくようなうめき声、しかもそのうめき声は、確《たし》かに人間に違《ちが》いない。なんだか、女の人のようである。  誰《だれ》かいる! しかも、人間が……。  由紀子は足ががくがくとふるえた。口の中がからからにかわいてきた。土瓶をぶらさげた手がぶるぶるおののいた。  大急ぎで、土蔵の中から飛び出した由紀子は、バターンと、扉をうしろに閉《し》めると、ほっと大きく吐息《といき》をついた。気がつくと、からだじゅうぐっしょりと汗《あせ》をかいている。  由紀子はハンカチで汗を拭《ぬぐ》うと、二、三度大きく深呼吸《しんこきゆう》をした。  考えてみると、蛇がおむすびを食べるはずがない。いやいや、おむすびは食べるかもしれないけれど、土瓶のお茶を飲むはずがない。やっぱり、誰か人がいるのだ。  しかも、人がいることを隠《かく》しているのだ。なぜだろう……?  由紀子は、心臓《しんぞう》がどきどきしたが、気を落ちつけなければいけないと思った。由紀子は大胆《だいたん》で、頭の働く少女だ。だから人がいることに気がついたとわかると、叱《しか》られるかもしれないと思ったのである。  梅子のところへ帰ってきたとき、由紀子の顔色は、ふだんと、ちっとも変わっていなかった。 「ああ、早かったね」  と、梅子は探《さぐ》るように、じろりと由紀子の顔を見ると、 「何か、変ったことでもあったかい」 「いいえ、おばさん」  と、由紀子は平気な顔で、嘘《うそ》をついた。 「別に何もなかったわ」  梅子は安心したように、 「それじゃ、当分、おまえにたのむよ。おばさんの足がなおるまで……」 「ええ、いいわ」  梅子の足のけがは、思いのほか、重かったのである。  そこで、由紀子が毎日、朝と晩の二回ずつ、お盆と、土瓶を土蔵の中へ、運ばなければならなかった。由紀子は、平気な顔をしていたが、本当は、恐《こわ》くて恐くて、たまらなかった。  あるときは、土蔵の二階は、しいんとしていた。しかし、あるときは、土蔵の二階から、しくしくと、女の人のすすりなきが聞えてきた。  病人なのかしら……?  しかし、病人なら、お医者さんを呼ばなければいけない。お薬も、飲まさなければならないだろう。もっと、滋養《じよう》のあるものを、食べさせなければならないはずである。  だから由紀子は、この屋敷が、だんだんうす気味悪くなってきたのだ。  すると、ある日のこと、学校からの帰りがけ、 「ああ、きみ、きみ、ちょっと……」  と、由紀子のうしろから呼び止めた人がある。ふりかえってみると、それは角帽《かくぼう》をかぶった大学生のお兄さんだった。お兄さんはにこにことして、いかにも優《やさ》しそうな人だった。 「きみは、平田雷蔵さんのうちにいる少女だね」 「はい」 「妙《みよう》なことを聞くようだが、平田さんのおうちには、開《あ》かずの間《ま》がありゃしないかい」 「開かずの間って?」 「開かずの間というのは、人を入れない、人にのぞかせない部屋のことだ。そんな部屋が、ありゃしないかい」  由紀子は、思わずどきっとした。  あの土蔵のことだわ……と、由紀子は思った。  大学生のお兄さんは、由紀子の顔色を見て、 「ああ、やっぱりあるんだね。その部屋には、鍵がかかっているの?」 「ええ、南京錠がかかっています」  と、由紀子は思わず言ってしまった。 「南京錠? それはいったいどういう部屋なの?」  由紀子はだまって、大学生のお兄さんの顔を見ていた。お兄さんは、正直《しようじき》そうな顔をしている。少なくとも、平田雷蔵や、山下亀吉よりも、信用ができそうだった。  由紀子はこのあいだから、土蔵のことで、思い悩《なや》んでいたのだ。このお兄さんなら、話してもいいと思った。  お兄さんは、由紀子の話を聞きおわると、 「そして、南京錠の鍵は、誰が持っているの」 「おばさんが持っています」 「その鍵を、こっそり、持ち出すことはできないかしら? ほんの五分か十分、お兄さんに、貸《か》してもらえばよいのだけれど……」  由紀子はちょっと考えて、 「できないことはありません。おじさんもおばさんも、晩になると、いつも酒に酔《よ》ってしまいますから」 「それではねえ、きみ、由紀子ちゃんと言ったね。由紀子ちゃん、今晩《こんばん》八時|頃《ごろ》、おうちの裏門《うらもん》の外で待っているから、その鍵を持ってきてくれないか。ほんの五分か十分でよいのだから」 「ええ、いいわ」  由紀子は、こころよく引き受けた。    おじさんの悪企《わるだく》み  由紀子はその晩のことを思い出すと、あとあとまで、心臓がどきどきするようだった。由紀子はおばさんの目をぬすんで、南京錠の鍵を持ち出したのである。約束《やくそく》どおり、裏門の外には大学生のお兄さんが待っていた。  お兄さんは、由紀子から鍵を受け取ると、蝋《ろう》のかたまりのようなもので鍵をいじくっていた。 「お兄さん、なにをするの」  由紀子の声は、ふるえていた。 「しっ! だまっていらっしゃい。いますぐすむから」  お兄さんの仕事は、五分ほどでおわった。 「ありがとう、由紀子ちゃん。さあ、早く鍵をもとのところへ、返しておきなさい。そして、なにくわぬ顔をしているのですよ。いまにきっと、お礼をします」 「いいえ、お礼なんかいいのよ」  大学生のお兄さんに別れたとき、由紀子の心臓《しんぞう》は、早鐘《はやがね》をうつようにドキン、ドキンと鳴っていた。  それでもさいわい、鍵を、もとのところへ返しにきたとき、亀吉と梅子は、まだお酒を飲んでいた。そして、由紀子が鍵を持ち出したことに、少しも気がつかないふうだった。  あれから、お兄さんはどうしたのかしら……? あの蝋のかたまりのようなもので、いったい何をしたのかしら……?  由紀子は、毎日、そのことが気になってたまらなかった。しかし、大学生のお兄さんからは、そののち、何の音沙汰《おとさた》もなかった。  こうして、一週間たった。  さいわい梅子の足もなおったので、由起子は、土蔵へ行かなくてもよくなったが、なんだか、かえってものたりないような気もしないではなかった。  ところが、一週間目の真夜中のことである。とつぜん、由紀子は、はっと目をさました。庭の奥の土蔵の方から、けたたましいわめきごえや、叫《さけ》び声が聞えてきたからだ。  由紀子は、さっとねどこから起き出した。そして、大急ぎで身仕度《みじたく》をした。きっと、あの大学生のお兄さんが、やってきたのに違いないと思った。  由紀子はこわごわ、家から外へ出てみた。見ると、土蔵のまわりには、懐中電灯《かいちゅうでんとう》の光が、いっぱいうろうろとしていた。それはどうやら、警官《けいかん》のようだった。  由紀子は、思わず足がふるえた。それでも勇気をふるって、こわごわ土蔵の方へ近づいていくと、いつのまに来たのか、主人の平田雷蔵の姿も見えた。亀吉もいた。梅子もいた。しかし、どうしたわけか、三人とも手錠《てじよう》をはめられているではないか。由紀子が、あっけにとられて、いまにも泣《な》き出しそうな顔をしていると、 「あっ、由紀子ちゃん」  と、そばへ飛んで来て、いきなり手を握《にぎ》りしめたのは、大学生のお兄さんだった。 「ありがとう、ありがとう。おかげで君子《きみこ》ちゃんが助かったんだよ。ほら、このおじょうさんが君子ちゃんだ」  見るとそこには、骨《ほね》と皮にやせおとろえた少女が、警官に抱《かか》えられてぐったりしていた。  由紀子がすべての事情《じじよう》を知るまでには、そうとう暇《ひま》がかかった。  平田雷蔵は、君子のおじさん、つまり、君子のお父さんの弟だった。君子のお父さんは金持だった。ところが、そのお父さんとお母さんがつぎつぎと亡くなったので、君子はひとりぼっちになってしまった。だから君子が亡くなると、君子の財産《ざいさん》は、おじさんのものになるのだ。そこでおじさんは、君子を土蔵に閉《と》じこめて、だんだんからだを弱らせて、殺してしまおうとしたのである。  大学生のお兄さんは、田村一彦《たむらかずひこ》といって、君子のお父さんの、親友の子供《こども》だった。かねてから雷蔵を怪《あや》しいとにらんで、ようすを探《さぐ》っていたのだ。  あのとき、由紀子の持ち出した鍵の形を、蝋のかたまりでうつしとると、それで合鍵をつくった。そして、こっそり土蔵の中へしのびこむと、そこに、骨と皮とにやせおとろえた君子が、とじこめられていたのである。  そこで、そのことを警察《けいさつ》に知らせたので、警官が大ぜいやってきて君子を助け出したのだった。  君子はいま、一彦お兄さんの家へ引き取られている。由紀子もいっしょに引き取られて、そこから学校へ通っている。君子は、まだまだからだが弱っているが、やがて元気になって、由紀子といっしょに学校へ通うようになることだろう。 角川文庫『姿なき怪人』昭和59年10月25日初版刊行