TITLE : 双仮面 双《そう》仮《か》面《めん》 他二篇 横溝正史 ------------------------------------------------------------------------------- 角川e文庫 本作品の全部または一部を無断で複製、転載、配信、送信したり、ホームページ上に転載することを禁止します。また、本作品の内容を無断で改変、改ざん等を行うことも禁止します。 本作品購入時にご承諾いただいた規約により、有償・無償にかかわらず本作品を第三者に譲渡することはできません。 目 次 双仮面 鸚《おう》鵡《む》を飼う女 盲目の犬 双仮面 黄金ダイヤ船  アルゴジーというのは西洋宝船という意味だそうな。この言葉の起因はアルゴノートからきているらしい。アルゴノートというのは西洋紀元何千年か前にギリシャの勇士たちがアルゴー号という帆船にのって、東の国へ黄金の羊毛を取りにいったという伝説である。  だがアルゴノートの勇士たちが手に入れて来た黄金羊毛が、どんなに高価なものであったにしろ今その船を形取って造られた、わずか三 呎《フイート》の模型船にくらべたら、ほとんど物の数に入らなかったのにちがいない。  船首から船尾まできっちり三呎、黄金造りの縦《ス》帆《ク》式《ー》帆《ナ》船《ー》、——このすばらしい模型船は、日本一の船成金といわれる大富豪、雨《あま》宮《みや》万《まん》造《ぞう》氏がちかく迎える喜寿のお祝いにみずから造らせたものとやら、とくに船首に鏤《ちりば》められた大粒のダイヤモンドは、時価五万円というのだから、その豪華さは推して知るべく、盗難保険の金額だけでも莫大な高にのぼろうという評判。  それぐらいだから、雨宮氏がこの黄金船に払っている注意というものは非常なもので、目黒にある自邸の中に、とくにしつらえられた金庫のような厳重な部屋の周囲には、十《と》重《え》二《は》十《た》重《え》、目に見えぬ電線が蜘《く》蛛《も》の巣のように張られているだの、無断で部屋に侵入しようものなら、たちまち金縛りにあって動けなくなるだの、床がどんでん返しになっているだの、嘘か真実か、話半分としても非常な警戒がされていることは疑いをいれない。  だがこれくらい用心に用心を重ねても、雨宮氏はまだまだ不安でたまらない。お祝いの日が近付くにしたがって、その不安はいよいよつのってくるばかり。  その当日にはこの豪華船を披露してあっと言わせようという計画で、すでに配られた案内状にも、ちゃんとその旨を記してあるのだから、万一の事があってはと、老人の苦労は一通りや二通りではない。 「千《ち》晶《あき》や、ほんとうに大丈夫だろうか」 「大丈夫よ、そんなにご心配なさらなくても。書生だって大勢いるんですし、それにあの仕掛けですもの、蟻《あり》一匹だって這い込む隙はありゃしませんよ、お祖父さま」 「お前がそういってくれるのは有難いが、俺はどうも心配じゃ。嗤《わろ》うておくれでない。他の時とちがってあの風流騎士とやら。……」  今日も今日とて雨宮氏は、孫の千晶を相手に胸の不安を訴えているのである。  雨宮万造氏は髪こそ白けれ、皺《しわ》こそよったれ、今年七十七の高齢とは受取りかねるほど、矍《かく》鑠《しやく》たる老人だが、黄金船以来すっかり神経質になって、日ごろの剛毅な性質もどこへやら、年端もいかぬ孫娘を相手に、とかく愚《ぐ》痴《ち》っぽくなっていた。一代に今日の巨富を築きあげた幸運児雨宮氏も、子供運には恵まれず、もとは二人の男の子があったが、二人とも夭折して、今では長男の遺していった恭《きよう》助《すけ》と、次男の遺児千晶という令嬢と、従兄妹同士の二人の孫が氏にとっては唯一の肉親。千晶は今年二十一、婦人雑誌の口絵などで、始終その容姿を謳《うた》われる才色兼備の才媛だった。 「またお祖父さまがあんなことをおっしゃるわ」  千晶はたしなめるように、 「風流騎士といったところで、まさか忍術を心得ているわけじゃあるまいし、この厳重な警戒に指一本だって指せるものですか」 「いやいやそうじゃない。人の噂《うわさ》によるとあいつはどんな厳重な警戒でも平気で破るということだ。現に鷲尾子爵の場合だって。……」 「まあ、お祖父さまも近ごろよっぽどどうかしていらっしゃるわね。そんな伝説あてになるものですか。恭助兄さんなんか彼奴がやって来たらこれ幸い、捕えて見せるってハリキッていらっしゃるのに」 「め、滅相もない。冗談にもそんなことをいうてくれるな」  雨宮氏は真顔になって、鶴亀鶴亀とばかり打ち消したが、これには深い仔細がある。  風流騎士。——誰が言い初めたかそのころ、そういう怪盗が横行して、都人士の話題の種になっていた。一種の紳士怪盗とでもいうのであろう、もっぱら富豪の邸宅に秘蔵されている宝石だの骨《こつ》董《とう》の類に目をつけて、しかも一度目をつけたが最後、けっして失敗せぬという巧妙さ、警視庁でも無論腕利きの面々が、躍起となって怪盗捕縛に狂ほんしているが、いまだに尻尾を押さえることができないのだ。ズバ抜けて大胆なその遣《や》り口、どこか諧《かい》謔《ぎやく》味にとんだその犯行、わけても彼の特異な点はたぶん西洋の探偵小説でも模倣したのだろう、犯罪のあとには必ず一輪の薔《ば》薇《ら》を署名代わりにのこしていくというところから、誰いうとなく風流騎士。  雨宮氏の黄金船の噂が、パッと世間にひろがったのはそういう折柄だった。そしてダイヤを積んだ黄金船とは、風流騎士が触手を動かすにこれほど究《くつ》竟《きよう》な物はないではないか。  で、風流騎士が雨宮氏の黄金船を覘《うかが》っているらしいという噂が、まことしやかに伝えられ始めたのは無理もない。いや、らしいどころじゃない、何日何時頂戴に参上するという手紙が舞い込んだそうなと、探偵小説もどきの新聞記事まで現われる始末、雨宮氏がしだいに臆病になってきたのも無理ではなかった。 「千晶はまだ若いから、平気で、澄ましていられるが俺の身にもなってくれ」 「だからお祖父さま、あたしが初めに言ったとおり、どこか確かなところへ保管をお頼みになればよかったのですわ」 「ふむ、いずれお祝いの日がすんだら、お前のいう通りにしよう。ああああ、それまで後三日の辛抱か」  雨宮氏もこの思いつきで、幾らか胸の重みがおりたのか、何気なくデスクの上の新聞紙を取りあげたが、その瞬間、わっと叫んで椅《い》子《す》から飛び上がった。 「あれ、お祖父様、どうなすって」 「千晶や、駄目じゃ、これを——これをご覧」  雨宮老人がわななく指で、デスクの上から抓《つま》みあげたのは燃ゆるような一輪の紅薔薇。  千晶は途方に暮れたようにもじもじしながら、 「お祖父様、ご免なさい。あの——それは、あたしがそこへ置き忘れたんですわ」 「なんじゃ、お前か……?」 「さっき花瓶に活《い》けるつもりで、お庭から剪《き》って来たのを忘れていたんですの」  雨宮氏はガタンと椅子へ腰をおとした。 「千晶や、家の者によく言っておいておくれ。この家に薔薇は禁物じゃ、花壇の花を捨てておしまい、造花もいかん、絵も駄目じゃ。そんな物があったら、みんな俺の目のとどかぬところへしまっておくれ」  雨宮氏は両手で頭をかかえたが、やがてムックリ顔をあげると、急《いそ》がしく電話の電鈴を鳴らして、呼び出したのは警視庁でもその人ありと知れた等《と》々《ど》力《ろき》警部。 妖魔変身  千晶が置き忘れた一輪の薔薇、怯《おび》えきった雨宮氏には、これが不吉の前兆のように思われてならぬ。電話によって駆けつけて来た等々力警部は、話をきくとなんだと言う気がしたが、しかし今評判の黄金船、万一のことがあってはと、取りあえず数名の部下に邸の内外を監視させることにした。  しかしその日も次ぎの日も、なんの変事も起こらない。そしていよいよ今日はお祝いの日。  この一日がすぎれば黄金船は、確かな筋で保管されることになっている。今日一日だ、そう考えると雨宮氏は気が楽になるどころか、不安はいよいよ昂じて来る。あとから思えば、雨宮氏の不吉な予感は当たっていたのだ。しかもそれは雨宮氏の予感より、遥かに恐ろしい形をもってやって来たのである。  それはさておき、雨宮氏の邸宅というのは、代々木のお船御殿とて付近でも評判の変わった建物、邸の外観が船みたいな格好をしているのは、船成金雨宮氏がとくに所有の豪華船の一部を模してつくらせたものとやら。  このお船御殿に今日しもひらめくは五色の万国旗、船首にあたる二階の露台には、目もあやな大薬《くす》玉《だま》が吊《つる》されて、進水式まがいに鳩を放とうという趣向、その他模擬店余興場など、用意万端ととのって、正午ごろには早くも客がボツボツとやって来る。羽振りのいい雨宮氏のこととて、客も粒選りの紳士淑女ばかり、模擬店や余興場に打ち興じながら、話題となるのは勢いあの黄金船と怪盗のこと。 「風流騎士もこれだけ騒がれたら、厭でも手を出さなきゃ面目にかかわるというもの。何かひと騒動起こりそうな気配だね」 「起こるなら今日だが、ひょっとするとこの席に、彼奴が混《まぎ》れ込んでいるんじゃないかな」 「あら厭だ、気味の悪いことね」 「ははははは、大丈夫、あなたのような綺麗な人には、なんの危険もありませんとさ」  若い賓《ひん》人《じん》たちはわいわいと打ち興じているちょうどそのころ。  孫の恭助が唯一人見張りをしている大広間へ、気遣わしげに入って来たのは雨宮老人、数々のお祝いとともに飾られている、問題の黄金船が気になって耐まらないのだ。  なるほど自慢の品だけあって、その黄金船はじつにすばらしい。優美な姿態、金色眩《まばゆ》きばかりの船体さては又、船首にちりばめられたダイヤの見事さ、老人は思わずうっとりとしながら、 「恭助や、何も変わったことはないかね」 「ええ、残念ながら彼奴まだ来ませんね。来るなら早く来ればいいんですが」  嘯《うそぶ》くごとく笑う孫の恭助というのは、二十五、六の、タキシードも映りよく、色白の好男子だ。 「また冗談をいう、かりにもそんなことをいうてくれるな。間もなくお客様をご案内しなければならぬから、この上ともに、十分気をつけてくれなくちゃ困るぜ」  言いながら黄金船をおさめたガラス箱に、顔すり寄せた雨宮老人、あっと叫ぶと、胸をおさえてうしろへよろめいた。 「恭助や、恭助や、あれはなんだえ、あの紅い汚点は」  なるほどガラス蓋の上にポッチリ着いているのは、小指で突いたほどの紅い斑点だ。 「あっ、血かしら」 「血じゃない。恭助や、警部をよんでおくれ、等々力警部をよんでおくれ、早く、早く!」  老人が気違いのように喚《わめ》いたのも無理はない。血と見えたその斑点は小さい小さい薔薇の花、小人の国の薔薇一輪、じつに見事に書いてあるのだった。 「お祖父さん、まあ待って下さい。詰らぬ事に騒いであとで恥をかいちゃなりませんからね」 「それじゃといって現にあの絵が」 「だからそれを考えるんです。こうっと、いったいいつ、誰がこんな物を書いたのやら」  老人が焦《いら》立《だ》てば焦立つほど、恭助はますます落着き払って、白い額が無気味に冴えてくる。 「まず今朝、あなたと千晶さんと僕の三人で、これをここへ運んで来た時のことから考えてみましょう。あの時あなたは万一の時に指紋が残るように、ガラスを拭《ぬぐ》われた。それが十時ごろの事で、その後十二時まで千晶さんが番をしていて、それから僕が交替したんです」 「ひょっとすると、お前たちのうちどちらかが、その間に席をはずしたのじゃないか」 「どう致しまして。僕は一刻だって離れやしません。千晶さんだってそうでしょう」 「恭助や、そんなことをいっている暇に誰か呼んでおくれ。考えるだけでも俺ゃ怖くなる」 「まあお聴きなさい。赤ん坊にだって解ける問題でさ。十時にガラスを拭いてから、この部屋に入ったのは僕と千晶さんの二人きり」  老人はぎょっとしたように、 「するとお前は千晶の悪《いた》戯《ずら》だというのかい」 「いや、そうじゃありません。そうそう交替する時僕は念のためよく調べたんですが、その時こんな絵なんてありませんでしたぜ」 「恭助や、恭助や、それじゃいったい誰なんだ」 「お祖父さん、まだわかりませんか」  恭助の目がふいにギロリと光った。 「二引く一は一残る。千晶さんを除くと。……」 「え、なんじゃ、それじゃお前が?」 「はははは、やっと合点がいきましたね」  老人は憤然として目を瞋《いか》らせた。 「恭助、おまえなんだってこんな悪戯をするんだ。この家で薔薇を禁じてあることはお前もよく承知のはず、それをこともあろうに。——」  言いかけた雨宮老人、ふいにはっとしたように息を弾ませ、きっと恭助の顔を瞶めると、 「恭助——お前は本当の恭助だろうな」  喰入るようなその目つき、怖れと驚きと疑いに、血管が脹れあがって額にはべっとりと脂汗。ああなんという恐ろしい疑い! しかも雨宮氏には、そういう疑いを抱《いだ》かざるを得ない何らかの理由があったにちがいない。 「まさか——まさか——そんな事が——」  とわなわなと唇を顫《ふる》わせつつ呟《つぶや》いたが、しかしその信じられぬ事が今や起こったのだ。にやりと笑った恭助が、ポケットから取り出したのは、船首にちりばめてあったダイヤモンド。 「薔薇の署名は仕事を終わったことを意味するんですよ。あそこにあるのは真っ赤な贋《にせ》物《もの》、本物は私が頂戴していきますぜ」  ガラリと仮面でも脱ぐように、恭助——少なくとも恭助と同じ顔をしたその男の表情は、すっかり別のものになった。瞳が爛《らん》々《らん》と輝いて、ピーンとまくれあがった唇の気味悪さ、 (あ、違う! こいつは恭助じゃない。もう一人の男、彼奴だ彼奴だ、助けてくれ!)  叫ぼうとしたが舌が縺《もつ》れて声が出ない。固いカラーの上でくびれた咽《の》喉《ど》が波打って、タラタラと脂汗が頬に流れる。恭助——恭助に似た男は心地よげにそれを見ながら、 「ははははは、驚いたかい。おいお祖父さん。俺が誰だかわかったろうな」  憎々しげに言いながら、ズラリと抜いたのは鋭い短刀、その途端、老人の頬がベソを掻くように激しく痙《けい》攣《れん》した。 恐怖の映像  ちょうどそのころ、庭の一角にとくにしつらえられた展望台のうえでは、千晶がひとりの紳士とさっきから頻《しき》りに話しこんでいた。  その展望台というのは、今日の会のために特別に急造されたもので、そう大して高くはなかったが、それでもそこから見下ろすと、音楽堂だの余興場だの模擬店だの、さては蜘《く》蛛《も》手《で》に張られた万国旗からお花畑、そのお花畑のあいだを三々五々逍《しよう》遥《よう》している紳士淑女の群れにいたるまで、まるでお伽《とぎ》噺《ばなし》の遊園地のように一望で美しく見渡せるのだった。  双眼鏡を目にあてた千晶は、物珍しげにそういう風景をながめながら、連れの紳士の質問に対して、如才なく応対している。  その紳士というのがまた、まことに不思議な人物だった。顔を見ると四十二、三にしか見えないのに、帽子からはみ出ている髪の毛は雪のように真っ白で、浅黒い頬はナイフで削ぎ落としたように嶮しかったが、その瞳は子供のように柔和で、人をひきつけずにはおかぬ魅力をもっている。  白髪の紳士はさっきから、黄金船のことを根掘り葉掘り訊《たず》ねていたが、しかしその訊ねかたがいかにも穏やかなので、千晶は少しも不愉快な気がしなかった。 「ええ、黄金船は広間の中にありますわ。恭助兄さんが番をしていますの。さっきまであたしが番をしていたんですけれど交替しましたの。ほほほ、おかしいでしょう。お祖父さまったらあの事ですっかり臆病になってしまって、人の顔さえ見れば、みんな泥棒に見えるらしいのでございますのよ」  千晶はわざと好みの夜会服を着ていたが、黒繻《じゆ》子《す》のその衣装がよく似合って、ごてごてと装身具をつけていないのも好もしく、唯一輪、胸に飾った白椿の花が、臈《ろう》たき姿をいっそう高貴にひきたてている。 「広間といえば向こうに見えるあれですね」 「ええ、窓という窓にすっかり鉄棒が嵌《は》めてあるでしょう。あれもお祖父さまが泥棒の用心にって、急にお作りになりましたのよ。あんなことをして、ほんとにあたし恥ずかしいですわ。——あら」  その時、急に広間の付近にいた人々のあいだに、何やらざわざわと騒ぎが起こったので、千晶はおやと首をかしげながら、展望台から体を乗り出した。 「まあ、どうなすったのでしょう、皆さん広間のほうへ走っていらっしゃるわ」  千晶はあわてて首にかけていた双眼鏡を目にあてたが、そのとたん、あっと叫んだ彼女は唇の色まで真っ蒼《さお》になってしまった。  ああ、なんということだ!  いま広間の窓の鉄棒のあいだから、両手を突き出ししきりに何か喚いているのは、贋《まご》う方なき祖父の雨宮老人ではないか。恐怖に顔を引き釣らせ、髪を逆立て、目を見張り、金魚鉢の金魚のように口をパクパク動かしているのは、どうやら救いを求めているらしい。美しい白髪が何やら黒ずんで見えるのは、あれは血のせいじゃないかしら。 (あらどうしよう。何かあったのだわ!)  千晶はぎゅうとみぞおちの固くなるような恐怖をおぼえたが、その途端、さっと白いものが老人の背後にひらめいた。と思うと、引き戻されるように老人の姿はうしろへ消えて、次の瞬間、双眼鏡の中にクローズアップされたのは、髪振り乱した悪鬼のごとき恭助の形相だ。 「あれ!」  と、叫んだ拍子に千晶は思わず双眼鏡を取り落としたが、それと見るより白髪の紳士は、直《すぐ》様《さま》それを取りあげて、ちらっと広間のほうを覗いて見て、 「や、や、こいつは大変だ!」  叫ぶとともに早二、三段、まっしぐらに螺《ら》旋《せん》階段をおりていく。 「待って、待って。あたしも一緒に連れていって頂戴」 「よし」  紳士は再びあがって来ると、いきなり千晶の体を抱きあげる。見かけによらぬ恐ろしい力だった。鋼のように鞏《きよう》靭《じん》な腕で、かるがると千晶を抱いたまま、タタタタと滑るように螺旋階段をおりていく。  千晶は恐怖のために、何度気を失いそうになったかわからない。いま目撃したあの恐ろしい光景が、旋風のように頭の中に渦《うず》巻いている。恭助兄さんは気が狂ったのだ。お祖父さまをあんなひどい目に遭《あ》わすなんて、ああ、なんと恐ろしいことだろう。  庭からホールへ通ずる扉のまえまで、千晶がようやくかけつけて見ると、そこにワイワイと大勢の人が騒いでいるのだ。扉にはうち側からピッタリ錠がおりていた。 「こちらへ来て、裏のほうから入りましょう」  ホールの下をぐるりと回って、裏口のほうへいくと幸いここの扉は開いていた。夢中になって跳びこむと、ホールのまえの大階段の下には、書生や女中や料理人がひとかたまりになって顫《ふる》えている。誰も彼も真っ蒼なかおをして、まるで馬鹿みたいにポカンと立っているのだ。 「あれ、お嬢様!」  千晶の姿を見ると、いきなり側へかけよったのは、この家に古くから仕えているお清という老女中。 「お嬢様、お嬢様、どう致しましょう、旦那さまが——旦那さまが——」 「清や、わかっているのよ、あたし見たのよ。そして恭助兄さんは?」 「はい、若旦那さまは、まるで気違いのようになってお二階のほうへ」  千晶はちらと階段のほうを振り仰いだが、それよりも気になるのは祖父の身のうえ。 「あなた、お願いですからあたしと一緒に来て下さいまし」  千晶は何故かあの白髪の紳士が頼《たの》母《も》しく感じられるのだ。哀願するように瞳を向けると、紳士も軽くうなずいた。千晶はそれに勇気を得て、ホールの中へ踏みこんだが、その途端シーンと全身がしびれて、いまにも気が遠くなりそうだった。  ああ、なんということだ!  雨宮老人は白い胴着を真っ赤にそめて、血のりの中をのたうち回っているのではないか。そしてあたり一面、血潮の飛《ひ》沫《まつ》! 「あ、お祖父さま、しっかりして、しっかりして頂戴」  怖さも何もうち忘れ、いきなり側へかけ寄って、優しく頭を抱き起こした拍子に、 「ウーム」  と、老人の唇から苦しげな呻《うめ》き声が洩れた。見ると顳《こめ》〓《かみ》から顎《あご》へかけて、パックリと恐ろしい傷が口を開いている。 「お祖父さま、お祖父さま、誰かお医者さまを呼んで頂戴」  その声が耳に入ったのか、ふいにポッカリと老人が目をひらいた。 「ち——千晶」 「はい、お祖父さま、千晶はここにおります。しっかりして頂戴。傷は浅いんですわ」  老人は軽く頭をふったが、またもや切なげな声で、 「恭助——恭助——」  と呼ぶ。それを聞くと千晶はゾーッと冷水を浴びせられたような気がした。 「お祖父さま、堪忍してあげて頂戴。恭助兄さんは恭助兄さんは——気が狂ったのですわ」 「ち——違う——違う——」  老人は体を起こそうとしたが、再びがっくり首うなだれると、それでも必死となって、 「あれは——あれは恭助じゃない。彼奴は——」  その時出血が肺を冒しはじめたのだろう、咽喉がゴロゴロとなって言葉が途絶えた。 「ご老人、何かおっしゃりたいことがありますか。もしおっしゃることがあれば千晶さんと私が承りますよ」  老人はその声にふと目をあげて、あの白髪紳士の顔を見たが、ふいにピクリと頬をふるわせると、 「おおお、き君は由《ゆ》利《り》君!」 「そうです、由利麟太郎です。さあ、誰があなたを刺したのですか、そいつの名前を言って下さい」  あっと、千晶は思わず白髪紳士の顔を見直した。そうだったのか。さっきからなんとなく曰くありげに見えたこの人は世間で有名なあの私立探偵だったのか。 「ゆ、由利君——千晶もお聴き。俺を殺したのは——彼奴は——彼奴は西荻窪に住む画家」 「西荻窪に住む画家——ですね。そして名前は——? そいつの名前は?」 「名前は——名前は——柚木——柚木薔薇——薔薇——おお!」  老人はふいにかっと目を見ひらいた。何かしら恐ろしい衝撃をかんじたらしい。じっと虚空を凝視したまま、わなわなと唇を顫わせていたが、やがてウームと呻くと、それが最期だった。  老人は白髪の由利先生と千晶に手をとられたまま、ぐったりと動かなくなってしまった。 すばらしき余興  ちょうどそのころ、屋敷の周囲に張りこんでいた等々力警部の一行も、変事をききつけてどっとばかりに邸内に雪崩《 な だ れ》こんで来た。  おろおろと狼狽《 う ろ た》え騒ぐ奉公人たちをつかまえて訊ねてみると、犯人はさっき二階へ駆けあがったまま、まだ降りて来ないという。  しめた! こうなればもう袋の鼠も同然、等々力警部には犯人がこの家の主人の孫であろうが、そんなことはどうでもよいのだった。捕えさえすればそれで役目はすむというもの、しかもそいつは、いま世間を騒がせている、大胆不敵なあの風流騎士とやらであるかもしれないではないか。  そこで警部はすぐに部下を二手にわけると、一方はホールわきの正面階段から、他の一組は雇人たちの出入する裏階段から——と、警部はこうしてじりじりと包囲の網をちぢめていくつもりなのだ。  こうして警部が声を嗄《か》らして部下を督励しているところへ、ひょっこり出て来たのは由利先生と千晶の二人。 「等々力君、どうしたね、犯人はもうつかまったかね」 「おお、あなたは由利先生、どうしてここへ」 「なあに、雨宮老人の依頼によって、客のなかに混《まぎ》れこんでいたんだが、さすがの俺もこんなことが起ころうとは、夢にも思わなかったよ」  由利先生の探偵談を、これまで一度でもお読み下すった方は、先生がかつて警視庁の捜査課長をしていられたことをご承知のはずである。それのみならず先生は、隠退後もしばしば警視庁のために、ひとかたならぬ力を添えていられるので、等々力警部も日ごろから、この先輩に対して非常な尊敬を払っているのだ。 「そうですか。じつはいま犯人が二階にいるというので、これからジリジリ追いつめていくつもりです」 「そいつは面白い、じゃ俺もひとつ仲間に加わろう」 「あたしもいきます」  その時、横から決然と言い放ったのは千晶だ。千晶の胸にはいま、恐ろしい疑惑と恐怖が闘っている。雨宮老人が最後にのこしていったあの奇怪な言葉、いったいあれはどう解釈したらいいのだろう。  千晶は現にこの目で、恭助が老人を刺すところをハッキリ見たのだ。それだのに老人の言葉によると、犯人は恭助ではないという。老人は孫をかばうために、わざと嘘をついたのであろうか。それとも臨終の心の乱れから、他愛もないことを喋舌《 し や べ》ったのだろうか。いやいや、そうとは思われぬ。あの言葉の裏には、何かしら千晶のこれまで知らなかった、恐ろしい、恐ろしい秘密があるのではなかろうか。  どちらにしても千晶は一刻もはやく従兄の恭助に会わねばならなかった。会ってよくよく事情を訊かねばならぬ。もしまた、恭助が警官に抵抗するようなことがあったら、側から自分がいさめねばならぬ。  健《けな》気《げ》にもそう決心した千晶は、長いイヴニングドレスの裾《すそ》をからげて、夢中で広い階段をのぼっていく。  二階には部屋が十五、六あった。警部の一行は足音を忍ばせ、扉をひらいて一つ一つ部屋を覗《のぞ》いてみたが、恭助の姿はどこにも見当たらぬ。押入れも開いてみた。露台にも出て見た。露台には紅白の幔《まん》幕《まく》が張りめぐらしてあって、頭上にはあの、進水式まがいの五色の大薬玉がブラ下がっている。  幕をあげて下を見ると、そこにはいっぱいの人だかり、むろんここから遁《に》げ出せば、それらの人の目につかぬという法はない。 「お嬢さん、部屋はこれだけですか」 「ええ、でもまだ三階があります。三階は屋根裏みたいになっていて、召使いたちの部屋が五つ六つあります」 「その階段はどちらにありますか」 「こちらです」  そういう会話もあたりを憚《はばか》るひそひそ声、千晶が人々を案内したのは、一番奥まったところにある階段だ。この階段は日ごろあまり使用せぬと見えて、降り口には太い鎖が一本真一文字に張ってある。 「三階へのぼるのは、この階段だけですか」 「いいえ、もう一つ、一階から直接あがれる階段があって、雇人はふだん、そちらのほうを使うことになっております」 「ああ、裏階段ですね。あちらのほうへも人を回しておいたから大丈夫、よし、ここから登ってみよう」  その階段は暗くて狭くて、おまけに途中で鍵の手に曲がっている。等々力警部を先頭に一行がその曲がり角まで来たときである。ふいに警部がうしろを振り返ると、シーッとばかりに口に手をあてて合図をした。  うえの方からコトコトと、軽い靴音をさせておりて来る者があるのだ。妙に忍びやかなその靴音、犯人でもなければ、むろん、裏へ回った部下でもない。靴音は一段一段階段をおりて、曲がり角のほうへ近付いて来る。警部はポケットを探って何やら取り出すと、そっと傍の部下に目配せする。  靴音はついに曲がり角の向こうで止まった。  息詰るような一瞬。  と、壁のうえを撫《な》でるように現われたのは二本の腕、つぎに肩、それから真っ蒼な顔。  その途端、凄《すさ》まじい騒ぎが起こったのだ。ガチャンという音、あっという叫び、畜生と罵《ののし》る声、狭い階段のうえで、三つ四つの肉塊が団《だん》子《ご》のように揉みあって、靴で蹴るやら、殴るやら、噛みつくやら、何が何やらわからぬうちに、やっとその騒ぎがおさまると、ああ、今しも両手に手錠をはめられて、幽霊のように立っているのは、紛《まぎ》れもなく恭助ではないか。 「ああ、お兄さま」  千晶はそれこそ血を吐くおもい、浅間しい従兄の姿に思わず涙ぐんだけれど、恭助はフフンと冷笑をうかべたきり、血走った眼《まなこ》でギロギロとあたりを見回しているのだ。 「いったい君たちは僕をどうしようというのだ」 「どうもしやしないさ。雨宮老人殺害の犯人として逮捕するのだ」 「あっ!」  と叫ぶと恭助は、思わず背後へよろめいた。 「フフン、今更知らぬとはいえまい。目撃者がたくさんいるのだからな。言うことがあるなら出るところへ出て言いたまえ」  警部が引っ立てようとすると、 「まあ待って下さい。いま脚を挫《くじ》いて」 「よし、それじゃ抱《かか》えていってやろうか」 「いえ、それには及びませんが、まあ一息入れさせて下さい」  恭助は手錠をはめられた手でネクタイを直すと、乱れた髪の毛を撫でつける。  この時、なまじ手錠をはめているという油断がいけなかった。澄まして髪を撫でつけていた恭助が、両手をあげていきなり発《はつ》矢《し》と、警部の頭上に振りおろしたから耐まらない。  あっと警部が面部をおさえた。その隙に、くるりと身をひるがえした恭助は、今おりて来た階段をまっしぐらに。—— 「あれ、お兄さん、いけません」  血を吐くような千晶の声。 「おのれ、逃げるか」  刑事の一団はひとかたまりになって後を追っていく。その後、がらがらと物凄い音がして大きな花瓶が落ちて来た。あっと叫んで刑事がとびのく、それだけの隙が恭助には天のたすけ、彼は屋根裏の廊下を走って、裏階段のほうへ逃げていったが、しまった、ここにも物音をききつけた刑事たちが、ひしひしともみあいながら登って来る。 「チェッ」  こうなればもう絶体絶命、恭助は血走った眼であたりを見回したが、その時ふと、目についたのは、廊下の端にある小さい窓、走り寄って見るとそこはちょうど、船首がたになった邸の正面、あの二階の露台の真上なのだ。  飛びおりようか。いやいや、下にはワイワイといっぱいの人だかり、しかも背後からは警官たちが追って来る。恭助は絶望的な呻《うめ》きをあげたが、その時、天のたすけか目についたのは一本の縄。蜘蛛手に張られた万国旗の綱の一筋が、ちょうどその窓の廂《ひさし》から、向こうの展望台のうえまで張り渡されているのである。展望台のほうがいくらか低いから、綱は斜めになっていた。  いまはもう躊《ちゆう》躇《ちよ》している場合ではない。一か八か、あとはもう運命の神にゆだねるよりほかに方法はないと、観念の臍《ほぞ》をきめた恭助は、手錠をはめられた不自由な手で、いきなりパッとその綱にとびつくと、くるり両脚を綱にかけ、するするする、さながら狼の身軽さだ、ひらめく万国旗のあいだを縫って滑っていく。ああすばらしい大余興! 千晶の射撃  こう書いてくると長いようだが、事実は等々力警部が倒されてから、それまでの間には数秒の時間しか経過していなかった。  このあいだ階段の下に立って、しびれたように空洞の眼《まなこ》を見張っていた千晶は、折からワッとあがる歓声に、はじめてハッと我れにかえった。  露台に出て、急いで幔幕をとりはずすと、ああ、なんということだ。恭助はいま礫《つぶて》のように展望台さして滑っていくではないか。  美しく彩られた庭園は、いまや上を下への大騒ぎ、紳士も淑女もただ空を仰いで、このすばらしい離れ業に、あれよあれよと手に汗を握って立ち騒ぐばかり、誰ひとり展望台のほうへ駆けつける者もない。いやいや、そちらにいた者までが、ワッと雪崩《 な だ れ》をうって四方に散る始末。  警官はいま、みんなこの邸の中に集まっている。このままにしておいたら、恭助は首尾よく逃げてゆくだろう。  千晶はきっと、血が滲《にじ》むほど唇をかみしめて、虚空を渡る恭助の姿を見つめていたが、何を思ったのかくるりと身をひるがえすと、一散に家のなかへ駆けこんだが、ふたたび姿を現わしたところを見ると、手に一挺の銃を提げているのだ。  千晶が銃を構えた時、 「危い!」  と叫んでいきなり彼女の腕をおさえた者がある。振り返って見るとほかならぬ、白髪の由利先生だ。 「銃を持ち出してどうするんです」 「放して下さい。このまま逃がしては世間に申し訳がございません」 「しかし、あれはあなたの従兄ですよ」 「ええ、でも、お祖父さまを殺した憎い敵です。いいえ、恭助兄さんは気が狂っているんですわ。それにあたし撃ち殺すつもりはありません、手か脚を傷つけて、お巡りさんの手助けをしたいのです」 「自信がありますか」 「あたし射撃は名人なのよ」 「よろしい、じゃ覘《ねら》いなさい、しかし、くれぐれも生命をとっちゃいけませんよ」 「わかってます」  こんな事を知るや知らずやこちらは恭助、今しも生命がけの離れ業をおえてようやく展望台へ辿《たど》りついた彼は、あの螺旋階段をぐるぐる回って、独《こ》楽《ま》のようにおりていく。  人々はこの様子を遠巻きにして、ただあれよあれよと立ち騒ぐばかりだが、あたかもよしその時ようやく邸内から駆け出した警官連中が、バラバラとそのほうへ駆けよっていく。  ようやく展望台から下へおりた恭助は、そこで再び窮地におちいった。前方からは警官が駆けつけて来る。振り返って見ると、少し向こうに音楽堂があって、その音楽堂と彼のあいだには、三百にあまるベンチが放射状に並んでいる。幸いこの騒ぎに、ベンチには一人も人はいなかったが、一つ一つこのベンチをまたぎ越えていこうなど、容易の業じゃない。おまけに彼は手錠をはめられているのだ。愚図愚図していれば、もはや千晶の射撃を待つまでもない。  千晶はほっと安《あん》堵《ど》の吐息を洩らしたが、しかし彼女の安心はまだ早かった。  追いつめられた恭助は窮余の一策、タタタと弾みをつけてベンチのほうへ走っていくと、ああなんという見事さ、手錠をはめられた両手を、つとベンチの背にかけたと見るや、体を斜めにくるりとそれをとび越えて、さらに次ぎのベンチ、次ぎ、次ぎ、次ぎ——またたく間に十あまりのベンチをとび越えていた。  つまりハードル飛びの要領なのだ。しかしハードルのどんな世界的選手だって、この時の恭助ほどうまくベンチを越えていくことはできなかったろう。タキシードを着たその四肢のリズミカルな動き、燕《つばめ》のような敏《びん》捷《しよう》さ、むろん警官にはそんな芸当はできないから、見る見る距離ははなされていった。 「うむ、こいつはすばらしい」  由利先生が我れを忘れて喝采したくなったのも無理でない。  千晶は唇を噛《か》むとさっと瞼際に朱を刷いた。彼女はつとイヴニングの裾をからげると、露台の欄干に片脚をかけて、銃をとり直す。 「いよいよ、撃ちますか」 「撃ちます」  力強い一言、しばらく照準を定めていた彼女の指が、引金にかかると見るや、ズドンと一発!  そのとたん、最後のベンチをとび越えた恭助がバッタリと倒れた。ワッとあがる喚声。 「うまい」  由利先生が手を打ったとたん、恭助は再び起きあがって二、三歩いきかけたが、またもやバッタリ地上に倒れる。どうやら脚を撃たれたらしい。 「うまい、じつに見事だ!」  だが、その喜びはまだ早かったのだ。恭助が再び起きあがったとたん、音楽堂の陰からバラバラ走り寄った一つの影、大きな塵《ちり》よけ眼鏡に外套の襟《えり》を立てた人物がつと恭助を抱き起こすと、肩を貸して、そのまま一散に逃げていく。二つの影はすぐ音楽堂の向こうへ消えた。 「しまった! 相棒があったんだわ」  千晶が呟《つぶや》いたとき、音楽堂の向こうの道からにわかにけたたましいエンジンの音が聞こえてきた。はっとした千晶が胸に吊りさげた双眼鏡を取りあげてみると、その時、塀の外をまっしぐらに走っていく黄色い自動車、その自動車の運転台に乗っている人物の横顔が、ちらと千晶の双眼鏡にうつったが、そのとたん、彼女は思わずはっとしたのである。  大きな塵よけ眼鏡に、外套の襟を立てて顔半分かくしていたけれど、その横顔はまぎれもなく女だった。恭助の相棒というのは女なのだ。——  と、ここまで書いてきて、筆者は是非とも読者にお詫びしなければならぬことがある。というのは今正体不明の女とともに、黄色い自動車で逃げ去った人物を、筆者ばかりが恭助と呼んできたが、じつはいまのところ、それよりほかに呼びようがなかったからだ。  千晶もその男を恭助と思いこんでいる。警官もそう信じて追っかけている。ところが、それから間もなく世にも変てこなことが起こったのである。  いま、千晶と由利先生が立っている露台のうえに、大きな薬玉がブラ下がっているという事はまえにも言っておいたが、千晶がズドンと一発ぶっ放した刹那、その薬玉のなかから奇妙な呻《うめ》き声が洩れてきた。  その薬玉の中には鳩が入っているはずだ、しかし、今の呻き声は断じて鳩の啼き声ではない。 「おや、あれは何だ!」  由利先生が最初にそれに気がついた。つづいて千晶もそれを聞くと、思わず真っ蒼になった。確かに人の呻き声だ。  しかし、まさかこんなところに——。  この薬玉は今日会が無事に終わった時、最後に千晶がこれを割って、中から鳩を放す予定になっていた。いま千晶は奇妙な呻き声を聞きつけると、きっと唇をかみしめ、つかつかとその薬玉のそばへよった。ポケットからナイフを取り出すと、薬玉を縫いとめてある綱をプッツリ切断する。  その途端、パックリ四つに割れた薬玉の中から、さっと翻ったのは五色の吹流し、バラバラと飛び立ったのは数羽の鳩、だが、だが、これはいったいなんとしたことだ。いつの間に、誰が封じこめたのか、さんさんと降って来る薔薇の花とともに、薬玉の中からツツーと礫のごとく落下して来たのは一人の男、男は虚空でガッキリとまると、ブランブランと振子のように左右に揺れた。  わかったわかった!  男は雁《がん》字《じ》搦《がら》めに手脚を縛られ、猿《さる》轡《ぐつわ》をはめられて、一本の綱で薬玉にブラ下げられているのだ。  ああ、なんというすばらしい悪戯、なんという見事な見世物、五色の吹流しの中にブラブラ揺れているその人間振子を見た時、千晶は思わずあっと呼《い》吸《き》をのんだが、つぎの瞬間、まるで悪夢のあとでも追うような目つきをして、喘《あえ》ぎ喘ぎ呟いた。 「恭——恭助兄さん!」  そうなのだ。信じられない事だけれどそれが事実なのだ。いま猿轡をはめられて、ブランブランと揺れている人間振子こそ、まぎれもなく千晶の従兄恭助だった。  しかし、そんならさっき逃げていった男は?  千晶はまるで、夢に夢見る心地だったが、ちょうどその時、薬玉から放たれた数羽の鳩が虚空のどかに輪を書いていたが、やがてその中から唯一羽だけ、群をはなれて矢のごとく、いずこともなく飛び去ったのを、誰一人気付くものはなかったのである。 善悪双面  船成金雨宮万造氏の喜寿のお祝いに招かれた客たちは、その時のなんとも名状できぬ変《へん》梃《てこ》な感じを、長い後まで忘れることができなんだということだが、それも洵《まこと》に無理のない話。  手足を縛られ、猿轡をはめられて、五色の吹流しの中にユラユラとブラ下がっている人間振子、——それは確かに、たった今黄色い自動車に乗って逃げ去った男ではないか。その同じ男がいつの間にやら、所もあろうに大薬玉の中に潜んでいたなんて、天《てん》勝《かつ》の奇術ならいざ知らず、こんな不思議な事がまたとあろうか。  千晶は呆然として露台のうえに佇んでいる。あまり奇怪な出来事に彼女は帰るすべさえ忘れてしまったのだ。恐怖さえも感じなかった。頭脳の中が滅茶滅茶に混乱して、思考力がまったくなくなってしまった。無理もない、さすが物に動ぜぬ由利先生でさえ、この時ばかりはあっとどぎもを抜かれたというのだから。  それはさておき、その時、猿轡をはめられた恭助の唇から、かすかにウームと苦しげな呻き声がもれた。そしてこの呻き声が、ハッとばかりに千晶や由利先生の魂を、悪夢の世界から引き戻したのだ。 「兄さん、兄さん、恭助さん」  叫んで駆けよる千晶とともに、つかつかと側へよった由利先生、手早く恭助の縛めを解き猿轡をはずしたが、それでも恭助はまだぐったりと目を閉じ、歯を喰いしばっている。 「麻酔薬ですよ。麻酔薬を嗅がされて眠っているんです」 「まあ!」  千晶はいよいよわけがわからなくなった。 「それじゃ——それじゃ、さっきの人はいったい誰ですの」 「さあ、いずれその事はこの人が目覚めたらわかるでしょう。とにかく静かな部屋へつれていって手当てをしなけりゃ」  折よくそこへ、等々力警部を先頭に、警官や書生の一団がドヤドヤと駆けつけて来たので、さっそく彼の体を寝台へかつぎこむ。幸い客の中には医者も混っていたので、注射をするやら、胸を冷やすやら。——かくして半時間ばかりたつと、恭助はぼんやりと濁った目を開いた。  しかし彼が目覚めたら、何もかも判明するだろうという期待は見事にはずれた。恭助は千晶をはじめ由利先生や等々力警部の知りたがっている事を、何一つ話すことができなんだばかりか、かえって千晶の口から祖父の死をきかされた時には、雷にでも打たれたように驚き、かつ悲嘆の涙に暮れさえしたのだ。  やがてその悲しみもおさまって、さて恭助がおぼつかなげに話したところによると。——  その日の正午まえのこと。恭助は黄金船の見張りに立っている千晶と交替しようと、二階から正面階段のほうへ歩いていったが、その時、ふいにうしろから誰かが抱きつくと、いきなり鼻のうえに押しつけられたのは、何やら湿った甘酸っぱい匂い。 「それきり後のことは何も憶えていないのです。相手の顔をみようと、顔をうしろへ振り向けたのですが駄目でした。匂いが鼻から頭へツーンと抜けると、そのまま意識がぼやけて、何もかもわからなくなってしまったのです」  と、まるで雲をつかむような話。  ああ、これはいったいなんということだ。して見ると千晶が恭助とばかり信じてあの黄金船の監視を委せたのは、その実恭助ではなくて他の男だったのだろうか。そうするとこの世の中に、恭助と寸分違わぬ男がもう一人存在することになるが、そんな奇怪なことが果たしてあり得るだろうか。 「それがあり得るんだよ。等々力君、妙な話だがそういう人間が実際にいるんだよ」  と、この疑問に答えたのは由利先生。 「千晶さん、あなたはさっき、雨宮老人の言い残された言葉を憶えていますか」 「ええ、憶えていますわ。俺を殺したのは西荻窪に住む画家、柚木薔薇。——」 「そう、そいつですよ、恭助君をあの大薬玉の中に封じこめ、身替りとなって、雨宮老人を殺した奴は」 「まあ、でもその人があんなに恭助兄さんに似ているなんて!」 「いや、それには何か深い仔細があるにちがいありません。しかも老人はその事実を知っていられたのです。が、ともかくもう一度、あの黄金船を調べてみようじゃありませんか」  一同は大広間へ取って返して、問題の黄金船を調べたが、すぐその船首に鏤《ちりば》められていた、老人秘蔵のダイヤモンドが、ガラス玉にすりかえられているのを発見した。 「やっぱりそうだ。目的はこのダイヤだ。ところがいざという間際に、老人に看破されたものだから、とうとうああいう兇行を演じてしまったのだ。ああ等々力君、見たまえ、ガラス箱の上に薔薇の花が書いてあるぜ」 「おお、そうすると先生、やっぱり風流騎士とはあいつのことなんですね」 「ああ、今のところそうとしか思えないね」 「そして、そいつは西荻窪に居を構えている、柚木薔薇という画家なんですね」 「そう、雨宮老人の言葉によるとね」 「よし、それじゃさっそくこれから西荻窪へ行ってみましょう、西荻窪といっても広いが、なあに、捜せばすぐわかるでしょう」  勇躍する警部の尾について、 「先生、あたしも行きます」 「僕も行く」  と、異口同音に叫んだのは、いわずと知れた千晶と恭助。祖父を殺した風流騎士、その怪賊を捕えんがためには、いかなる危険もあえて辞せぬという二人の固い意気込みなのだ。 薔薇のアトリエ  西荻窪のかたほとり、淋しい森の片陰に、蔓薔薇に覆われた一軒のアトリエがある。主は柚木薔薇とて無名の画家だが、おのが名に因《ちな》んでの趣味であろう。庭一面、いろとりどりの薔薇を栽培しているところから、薔薇のアトリエとて付近では誰知らぬ者もない。  主なる画家は芸術家にありがちの変わり者と見えて、妻も娶《めと》らず女中もおかず、近所づきあいもいっさいせず、唯一人の例外を除いては、そのアトリエを訪れる者も絶えてなかった。  この例外とは一人の婦人。いつも日暮れてから紗のヴェールで面を包み、人目を避けてこっそりと訪れて来るところから、大方あれは、良人の目を盗んでアトリエの主人と、道ならぬ恋に、憂身をやつす人妻であろうなどと、郊外の住人には閑《ひま》人《じん》が多いから、とかく妙な噂がたえなかったが、しかも、誰ひとりその女の正体をつきとめた者はない。  さて、雨宮邸であの大騒動があってから間もなく、このアトリエの前に停まったのは粘土色に塗った一台の自動車、と見ると中から降り立ったのは主の薔薇と若い二人づれ。  その時、アトリエの近所にいたご用聞きの、後になって証言したところによると、女は外套の襟を立て、煤色眼鏡で顔をかくしていたが、たしかにいつも訪ねて来る、あのヴェールの婦人に違いなかったという。男女は追われるように門の中へ駆けこんだが、途中で男がバッタリ倒れた。女は急いでかけよると、 「あなた、傷が痛んで?」 「ウン、片脚がもぎれるようだ」  と、男は跛《びつこ》を曳きながら呻く。 「ほんとに憎らしいわね。これというのも彼奴のせいよ」  女はさも憎々しげに言い放った。と、これもやっぱりご用聞きの話。  やがて二人はアトリエの中へ姿を隠したが、十分ほどたつと、各々荷物を小脇に、再び自動車に乗っていずくともなく立ち去ったが、雨宮邸から、自動車に乗った一行が、どやどやとこのアトリエへ駆けつけて来たのは、それからおよそ一時間ものちのこと。 「ここだ、ここだ、柚木薔薇という表札が出ているぜ。みんな、中へ踏み込んでみろ!」  警部の命令一下、一同はバラバラと中へ踏みこんだが、むろん後の祭、アトリエの中は大急ぎで引っかき回したとおぼしく、目ぼしい品は何一つ残っておらぬ。  千晶は窓際に佇《たたず》んで、警部たちの捜査の様子を熱心に打ち見守っている。むろん、証拠になりそうな品は何一つ残っていないが、描きかけの画布や、気の利いた装飾品はそのまま取り残されて、主の好もしい趣味を物語っている。こんな綺麗なアトリエに住んでいた人が、恐ろしい殺人鬼だろうか、千晶はいまさら夢のような気がするのだ。  目を転じて庭をながめれば、折からの西陽のなかに燦《さん》爛《らん》と咲き乱れているは、紅白とりどりの薔薇の花、アア、この美しい花園から、怪盗署名の薔薇が夜ごと摘みとられたのかと思うと、千晶はゾッと身慄いを感じたが、あたかもその時、ふと彼女の耳をうったのは、ハタハタと軒をうつ軽いもの音。 (あら、なんだろう)——と窓からからだを乗り出してみれば、一面に蔓薔薇をはわせた軒に草色塗りの鳩舎があって、その中に羽《は》搏《ばた》きをしているのは灰色の鳩一羽。 「おや、鳩がいるわ」  千晶が手を出して呼んでみると、鳩はよく馴らされていると見えて、すぐ鳩舎から舞いおりて千晶の掌にとまった。 「まあ、かわいいのね」  千晶は思わず頬摺りしようとしたが、ふと見ると、鳩の脚には小さい金襴のお守り袋がくくりつけてある。 「あら、これ何? ちょっと動かないでね。何をブラ下げてるの、見せて頂戴ね」  千晶は何気なくその袋をとって口をひらいたが、そのとたんあっとばかり小さい叫び声が彼女の唇からもれた。アア、なんということ! 袋の中からコロリと転がり落ちたのは、まごうべくもない、黄金船からもぎとられた、雨宮老人秘蔵のダイヤモンドではないか。  叫びを聞いて集まった一同も、千晶の掌を見ると、思わずはっと呼《い》吸《き》をのんだ。 「千晶さん、ど、どうしたの、そのダイヤはいったいどこにあったの?」 「兄さん、この鳩が持っていたのよ」 「え? 鳩が?」  由利先生は千晶の抱いた鳩に目をやったがやがてハタと小手を打つと、 「わかった、わかった、この鳩は伝書鳩なんだ。ねえ、等々力君、柚木薔薇はきょう雨宮邸へのりこむ時、ひそかに飼いならした伝書鳩を携えていったんだよ。そしてダイヤを手に入れると、こいつに託した。あの薬玉の中から飛び出した鳩のうち、群をはなれて矢のように飛び去ったのがあったが、それがつまりこの鳩なんだよ、きっと」  ああ、なんという奇抜な思いつき、なるほど、ダイヤさえ身につけていなければ、現場では捕えられても言いのがれるすべがあるというもの、しかも、伝書鳩は間違いなく家へ帰って来る性質を持っているから、盗んだダイヤは絶対に安全なのだ。 「なるほど、それで彼奴は危険をおかしてまで、わざわざこの家へ帰って来たんですね」 「そうだよ、等々力君、彼奴はこの鳩に用があったんだ」  さすがの由利先生も、あまり巧妙な方法に、思わず舌をまいて驚嘆したが、まことにそれも無理のない話。  翌朝の新聞にはすばらしく煽情的なみだしのもとに、これらの記事があっとばかりに都人士の胆をつぶさせた。中にはわざわざ、薔薇の仮面をかぶった怪盗が、警官たちを尻目にかけ、鳩にまたがり悠《ゆう》々《ゆう》ととび去っていく漫画まで掲げて、警視庁を揶《や》揄《ゆ》した新聞さえもあったくらい。  なるほど怪盗をまんまと取り逃したのは、警視庁の失態だったかもしれないが、しかし正体が判っただけでも大収穫といわねばならぬ。怪盗の名は柚木薔薇、しかもその容貌は雨宮恭助に酷似しているのだ。  これだけの手懸りに勇躍した警視庁では、さっそく全国に手配りしたが、柚木薔薇はどこへ潜りこんだやら、その後一〓月に及ぶも、杳《よう》として行方はわからない。柚木ばかりではない。相棒の女も黄色い自動車も、それきり消息をたってしまった。  こうなると気になるのは、アトリエのまえでご用聞きが耳にしたという言葉。 (これというのも彼奴のせいだ)——と、相棒の女がいったというが、彼奴とはむろん千晶のことにちがいない。脚を撃たれた腹《はら》癒《い》せに、千晶の身辺にたいして何か恐ろしいことを企んでいるのではなかろうか。——警察ではだから、千晶の身辺にたいして内々警戒を怠らなかったが、半月とたち一月とたってもそういう気配がない。  さあ、こうなると頼りないのは世間の心。世の中に寸分ちがわぬ容貌をもった人間なんて、そうザラにあるはずがない。ひょっとするとあれは恭助の狂言ではなかったか。どういう方法でかわからないが、彼奴がたくみに一人二役を演じたのではあるまいか。——と、そんな恐ろしい噂が、ボツボツと人の口にのぼり始めたのだ。  無理もない。現に従妹の千晶ですら、あの日のことを思うと、いまだに恭助の顔を見るのが怖いような気がする。あの日以来彼女は、同じ家に住みながら、できるだけ彼を避けるように努めているが、恭助にとってはこれこそ、耐えがたい屈辱だったにちがいないのだ。  もう警察も探偵も頼まない。今度、あの風流騎士とやらが出現したら、必ず自分の手で捕え、この汚名を濺《そそ》がねばならぬと、会う人ごとに恭助はいきまいていたが、その願望が叶ったのか、ここにはしなくも、又もや次ぎのような怪事が突発したのだ。 アリ殿下  雨宮邸の怪事件があってから二月ほど後のこと、あれきり鳴りをしずめてしまった風流騎士に代わって、今度は珍しい人物の噂が、毎日のように新聞の紙面を賑わした。噂の主人公というのは中央亜《ア》細《ジ》亜《ア》にある一小国の王族で、アリ殿下と称《よ》ばれたもうお方。  この王様の名はいささか憚《はばか》りがある故省くが、欧州と亜細亜の境、ペルシャ湾の近くに位する小さな王国で、回教を信仰するアラビヤ民族から成り立っているとやら。アリ殿下はその国の王様の甥《おい》に当たられ、正しくいえばアクメッド・アリ・ハッサン・アブダラア殿下と、やたらに長いお名前だそうだが、普通、簡単にアリ殿下とお呼び申し上げている。  殿下は半年ほどまえ世界漫遊の旅にと故国を出られ、途々いたるところに大名旅行の噂を撒《ま》きつつ、三月ほどまえ上海に到着され、そこで四、五十日滞在されたが、どういうわけか、従者の大部分はそこから直接アメリカへ送り、ご自分はモハメットという忠実な武官と乳母の二人だけを召連れて、飄《ひよう》然《ぜん》と、この東京へやって来られたのである。  いったい殿下のお国と日本とは昔から至って馴染みが薄く、お国を訪問した日本人とてはほとんどなく、ましてやその国から来朝した者は、殿下のご一行を嚆《こう》矢《し》とするという噂、むろん、外交関係なども皆無で、この度のご来朝も、まったく個人的な旅行にすぎなかった。  この珍客を迎えた当座、殿下のご消息が新聞に出ぬ日とてはなく、若いころロンドンでご勉学あそばされたこと、借切りにされた船室の立派なこと、上海における豪華なご生活ぶり、さては回教徒としての一風変わったご日常、事ごとに珍しいことずくめだったが、わけても人々の好奇心をそそったのは、お供の乳母婦人が、回教徒の習慣から、どんな場合にも、頭からスッポリかぶった、黒い、長い被衣をとらぬという一事。それとも一つ、殿下が英語のほかに、かなり巧みに日本語を話されるという事実が、人々を不思議がらせたが、これには次ぎのような挿話がある。  ロンドンにご留学中、殿下は一人の日本青年と親しくなられ、ある時一緒にアフリカへ猛獣狩りに出かけられたが、その時、殿下は一頭の牝獅子のために、危うく生命をおとすところを、連れの日本青年に救われたとやら。 「私の日本語はその人に習ったのです。その人は私にとって生命の恩人です。もし現在、その人が日本にいるなら是非会ってお礼を言いたい」  新聞記者に向かって殿下はそう語られたが、不思議なことには、この青年の名を明かすことは好まないように見えた。  さて前置きが長くなったが、このアラビヤ王子が、これからお話する物語に、どういう風に関連してきたか、それを語るには、是非とも千晶のその後の消息からお話しなければならぬ。  祖父が非業の最期を遂げて以来、千晶は自宅に閉じこもり、鬱《うつ》々《うつ》として楽しまなかったが、今日も今日とて、奥まった書斎の窓にもたれ、深い物思いに沈んでいる。  この部屋は、生前雨宮老人がとくに愛していたところとて、空色の絹をはった土《ト》耳《ル》古《コ》椅子から豪華なペルシャ絨《じゆう》毯《たん》、さては煖炉の上に飾ってある金箔塗りの二本の燭台、ルイ十四世風の背の高い椅子にいたるまで、見るものことごとく思い出させるのは祖父のことばかり。  わけても日ごろ老人が自慢していたのは、一方の壁いっぱいを占領している大きな油絵、この油絵は外国の美術館にある泰西の名画を模写したものとか、髪ふり乱した金髪の裸女が、醜い半人半獣の怪人に襲われているところを、等身大に書いてあったが、その色彩の異様に黝《くろず》んだのも物凄く、千晶はいつもこの絵を見るたびに、ぞっとするような恐ろしさをかんじるのだ。  ああ、思えば今の千晶こそ、この絵の裸女と同じような運命ではあるまいか。祖父を殺され、風流騎士とやらにみこまれた千晶の身は、とりも直さず半人半獣の怪物の恐怖におののく、金髪の裸女なのだ。  と、そこへ入って来たのは老女のお清。 「おや、お嬢さま、またこんな所で物思い、そんなにくよくよなさいますと、お体の毒ですよ。たまには外へ出て、新しい空気をお吸いになっては」 「清や、この方が、でも、あたしの勝手なの」 「いくら勝手だとおっしゃってもそれではあんまりですわ。それに涙は仏のためになりません。若旦那をご覧あそばせ。毎日、あのように元気にとび回っていらっしゃいますのに」 「お兄さまはお兄さま、あたしはあたしよ」 「そんな我《わが》儘《まま》をおっしゃって」 「いいの、後生だから我儘を通させて頂戴。で、清や、何かご用なの」 「おや、まあ、あたしとしたことが。——お嬢さまにお手紙が参っております」 「あたしに手紙? いったい誰から?」 「誰だか、名前はございません」 「そう、見せて頂戴」  千晶はものうげに手紙の封を切って、その文面を読み下したが、ふいに、 「あれ!」  と、叫んで手紙をヒラヒラ床に落とした。 「お嬢さま、ど、どう遊ばしたのですか」 「清や、清や、大変だわ」  と物憂げな千晶の顔は一変して、烈々として強い炎が瞳のなかに燃えている。 「お嬢さま、もしやあの悪党からでも——!」 「いいえ、そうじゃないの。でもそれに関係した事よ、ああ、あたしどうしたらいいだろう、清や、その手紙を読んでみて」  お清はあわてて手紙を拾いあげると、おろおろしながら目を通したが、なるほど、これでは千晶が驚くのも無理はない。   ——お嬢さま。突然お手紙を差し上げる無礼をお許し下さいまし。私は是非ともお嬢さまにおめにかかって、申し上げねばならぬ事がございます。その話とはほかでもなく、お嬢さまのお祖父さまを殺した男のこと、私はある事情から、その男のことを詳しく知っているのでございます。—— 「あっ」  と、お清の唇から叫び声が洩れる。   ——お嬢さま。その男は私にとって憎い人間です。なんとかして私の気持をお嬢さまに晴らして戴きたいのでございます。そいつは私を欺し、私を今の不幸な境涯に陥れました。お嬢さま、哀れな私を不《ふ》憫《びん》と思召し、今夜、東都劇場までおいで下さいませ。いいえ、私のほうからはとても、お宅へ参れません。いつもそいつが見張っているのでございますから、どうぞ、どうぞ、お嬢さま、私の言葉を信じて、是非、是非、会って下さいませ。 欺かれた不幸な女より      二伸   第三幕目が終わったとき、階下椅子席最前列の、舞台に向かって左から十三番目の椅子にすわっている女が私と思召し下さいませ。尚、この事必ず警察へは内密に。 「どうしよう。どうしよう、清や、あたしはいったいどうしたらいいの」 「お嬢さま、まあ落着きあそばせ。何も念晴らし、これは一応手紙にある通り、お出かけになったほうがいいかもしれません」 「でもお前、これが罠《わな》だったら?」 「しかしこの文面からみると、そうとも思えません。これはきっと彼奴にひどい目に遭《あ》わされた女でございますよ」 「ひょっとすると、あの相棒ではあるまいか」 「そうかもしれませんね」 「それじゃ、お前」 「ですからお一人ではいけません。誰か信用のできる人に、ついて行って戴くのです」 「でも、そんな人があって?」 「ございますとも、ほら、由利先生」 「だって清や、ここには必ず必ず警察へは内密にって書いてあるじゃないの」 「由利先生は警察の方ではありませんよ。あら、若旦那がお帰りの様子、ひとつご相談なすったらよろしゅうございましょう」  従兄の恭助もお清の説に賛成だった。彼はいよいよ怪盗捕縛の時節到来とばかりに勇躍するのだ。二人はただちに自動車を走らせて、由利先生を訪れたが、先生は手紙を読むと、指図に従ってみた方がよかろうという意見。 「ほうらご覧、先生も同じご意見だよ、千晶さん大丈夫、先生や僕がついている。それにしても先生、この女が面会の場所に、東都劇場をえらんだというのは奇妙な因縁ですな」 「え? 恭助君、それはどういう意味?」 「いや、いずれ後でわかります。先生、今夜はすばらしい捕《とり》物《もの》が見られますぜ」  恭助はニヤリと微《わ》笑《ら》うと、千晶を一人のこしたまま、風のように出ていったが、さるにても恭助のいった謎のような言葉には、いったいどんな意味があったのだろう。 十三番目の椅子  東京の新名物となった東都劇場、不況に喘《あえ》ぐ興行界を尻目にかけ、ここばかりは我が世の春を謳《おう》歌《か》しているレヴュー劇場。この劇場ばかりがかくも人気を呼んでいるのは、むろんレヴューその物の魅力、斬新な興行方針、洗練された演《だし》物《もの》と、原因は数々あろうが、それらに増して大きな魅力は、この座の首脳女優歌《うた》川《がわ》鮎《あゆ》子《こ》だという事はかくれもない事実。 『深夜の金糸雀《 カ ナ リ ヤ》』——とそういういみじき綽《あだ》名《な》をもった鮎子は、まことに金糸雀のごとくよく歌い、よく踊り、よく巫《ふ》山《ざ》戯《け》、今や満都の人気を一身に集めている。この鮎子の今度の演物というのが『砂漠の王子』おりからご来朝のアリ殿下をあてこんだことはいうまでもない。  このレヴュー劇場へ、その夜唯一人でのりこんだ千晶が、今しも正面の階段を登っていくと、あたりはいっぱいの人だかり、おや、何事が起こったのかしらと、思わず歩調をゆるめた時、表に一台の自動車がとまって、悠《ゆう》然《ぜん》と降りたってきたのはほかならぬアリ殿下。抜け目のない支配人が演物にことよせてご招待申し上げたのを、気軽な殿下は快くうけられて、今宵のご観劇となったのである。  殿下は例のモハメットと、黒衣の婦人を左右にしたがえ、出迎えの人たちに軽く会《え》釈《しやく》を賜りながら、悠々と階段を登って来られる。  丈は大して高い方ではないが、いかにもガッチリしたご体格、この国の人の例に洩れず、煤《すす》をなすりつけたように色こそ黒けれ、鼻は鷲の嘴《くちばし》のように隆《たか》く、眼光炯《けい》々《けい》として、漆黒の口《くち》髭《ひげ》、格好のいい顎《あご》髯《ひげ》、いかさま王者の貫禄とうなずける。しかもそのお服装というのが、まるでアラビヤ夜話の挿絵にでもありそうな珍しいお国の礼装で、頭に巻かれた雪白のターバンにきらめいているのは、何カラットあろうかと思われるような大ダイヤ。 「まあ、すてきね」 「昔見たヴァレンチノのシークってところね」  レヴュー劇場だけに客は婦人が多かった。口々に溜息とも囁きともつかぬ嘆声を洩らしている中を、殿下は静かに歩いて来られたが、やがて千晶のまえまで来ると、ふと立ち止まり、一瞬燃える様に瞳が輝いたと思われたが、それは千晶の思い過ごしであったろうか。  殿下はすぐさり気のない様子にかえると、支配人の案内で貴《き》賓《ひん》席の方へ歩を運ばれる。  千晶はその後を見送ると、何故とも、自分でもわからぬ溜息をほっとつき、さてあわてて自分の席へ入っていったが、見ると舞台は第二幕目、アラビヤ王子に扮した鮎子がさかんに歌い、かつ踊っているところだった。  あたかもそこへ、殿下のお姿が貴賓席に現われたので観客席からいっせいに拍手が起こる。殿下は愛嬌よくその拍手に答え席につかれたが、その時観客は非常に愉快な事実を発見した。というのはアラビヤ王子に扮した鮎子の衣装というのが、殿下とそっくりそのままなのだ。  千晶とて、ふだんなら大いに興ある事に思ったろうが、今はしかし、それどころではない。最前列の左から十三番目の席、目で捜してみると、そこには人はいなかった。 「まだ来ていないんだわ」  千晶はかえってほっとする。  彼女はさっきから不安で耐まらない。その女はいったい、自分に何を要求するつもりかしら。犯人を知っているなら、何故警察へとどけないのだろう。ひょっとすると自分はとんでもない罠におちかけているのではなかろうか。第一、十三番目の椅子というのが気に喰わぬ。近ごろでは迷信も西洋かぶれがして、新しい知識を持った者なら、誰だって十三なんて不吉な数をえらぶはずがない。それやこれやを考えると、千晶はどうしても今宵の会見が無事にすみそうに思われぬ。ひょっとすると、どこかその辺に、風流騎士が恐ろしい眼を光らせているのではなかろうか。  そんな事ばかりとつおいつ考えているものだから、千晶には少しも舞台が目に入らぬ。わけのわからぬうちにその幕は終わった。  次ぎはいよいよ第三幕目、幕がひらくとそのとたん観客席の電灯がスーツと暗くなる。この幕は星低きアラビヤの夜の風景。鮎子の王子が、美しい銀の笛を吹きながら恋人の窓の下をさまよう場面。  と、その時、千晶は自分のすぐ側の通路を、ツツーと小走りにかけ抜けていく人影を見た。 (あ、ひょっとすると今のがあの女ではないかしら)  息をつめて見送ると、人影は果たして十三番目の椅子に腰を下した。千晶はにわかに心臓がドキドキしてくる。これからすぐに行ってみようか。いや、手紙には三幕目の終わりと書いてあった。  しかたがない。それまで待とう。ああ、それにしてもなんと長い幕だろう。  だが、その長丁場もようやく終わりに近づいてきた。大勢の踊子がひっこむと、唯一人、舞台前面に取りのこされたのは鮎子の王子、銀笛片手に、詠嘆にみちたひとくさりのアリアがあって、その詠誦のうちに舞台はしだいに暗く、重く、闇のそこに澱《よど》んでいく。嵐のような拍手。そしてスルスルと幕。  やっと終わった。さあ、いよいよこれからだわ。廊下へ流れ出る客をやりすごしておいて、千晶はドキドキしながら舞台のほうへ歩いていく。幸いあたりにはその女のほか誰もいない。千晶は何気ない風で、女の隣に腰を下ろした。  女は舞台のほうへ目をやったまま身動きもしない。いまの場面の感動がまだおさまらないのだろうか、肌もあらわな薄桃色の洋装をした、まだ若い、小綺麗な女だ。 「あなたね、お手紙を下すったのは?」  千晶は低い声でいってみる。しかし女は答えない、依然として舞台のほうへ向いたまま。 「あたし、お手紙を戴いた雨宮千晶よ、で、お話というのはどんなこと?」  女はまだ無言の行。千晶はしだいに腹立たしくなってきた。この女は自分を馬鹿にしているのかしら。まあ、なんて蒼い顔! 「あなた、どうかなすって? お気分が悪いんじゃなくって?」  いいながら千晶の目はふと女の胸もとにおちた。彼女は激しく瞬きをした。  女の胸に何やら銀色に光るものが突っ立っている。その下にジットリ黒い汚点がついている。汚点はしだいにひろがっていく。やがてポトリと黒い滴が膝《ひざ》におちた。 「あれえ!」  叫ぼうとした口にあわてて手をやった千晶は、もいちど女の姿を見直した。  アア、もう間違いはない。返事のないのも道理、女は死んでいるのだ。いや、殺されたのだ。それもたった今、あのレヴューの最中に。——それにしてもなんという気味の悪い殺されよう! 瞬きもせぬ瞳を舞台に向けて、苦痛の表情も、恐怖の痕跡もなく、安らかに、まるで生きているように。  千晶はふいに、舌がジーンとしびれてきた。 戦《おのの》くカナリヤ 「じっとしていらっしゃい。声を立てちゃいけませんよ。今夜は外国の貴人も見えているのですから無《む》闇《やみ》に騒いじゃなりません」  耳のそばで優《やさ》しい声が聞こえた。もしこの声が耳に入らなんだら、千晶はそのまま気が遠くなってしまったのにちがいない。  声をかけたのはいうまでもなく由利先生、先生の背後には恭助もいる。恭助のそばには二十くらいの小僧も控えている。この小僧の顔を、千晶はどこか見覚えがあるような気がしたが、すぐには思い出せなかった。しかし、そんなことはこの際問題ではないのだ。  由利先生がやっと皺《しわ》嗄《が》れ声でいった。 「恭助君、君はすぐ支配人をここへ招んでくれたまえ。だがあまり脅かしちゃいかんよ。それからついでに警視庁へ電話をかけて、等々力警部も呼んでくれたまえ」 「畜生!」  恭助は頭の毛をかきむしりながら、足音荒く走っていったが、と、間もなく泡《あわ》を食ってやって来たのは禿《はげ》頭の支配人。 「ひ、人殺しですって?」  と、被害者の顔を覗《のぞ》いてみて、 「や、や、これは!」 「しっ! 君はこの劇場を台なしにして構わんというのかね。さあ、この女を楽屋へかつぎ込むんだ。人が聞いたら気分が悪くなったのだというんですよ」  幸い客の多くが廊下へ出ていたのと、由利先生の措置がよかったので、客の中には誰一人この椿事に気づいた者はなかった。  由利先生と支配人は被害者の体を楽屋の一隅にある、作者部屋へ運びこんだ。千晶もこわごわそのあとについていく。間もなく、恭助もその部屋へやって来た。 「で、支配人、君はこの女を知っているんですか」 「知っているどこの段じゃありません。これはここの踊子ですよ」 「なんですって。この一座の者ですか」  これは由利先生にとってもすこぶる意外だった。支配人の話によると、被害者は緒《お》方《がた》絹《きぬ》代《よ》といって、現にあの三幕目にも、はじめの方でちょっと顔を出していたというのだ。 「なんだってこいつ、客席へなど出《で》娑《しや》婆《ば》っていやがったんだろう」  余計な真似をするから、こんな迷惑を蒙らねばならんといわんばかりの支配人の口《くち》吻《ぶり》。 「そんな事はどうでもよろしい。それより表へいって三幕目のはじまった時分から、誰も外へ出ていった者はないか調べてくれたまえ。いや、ついでに楽屋口のほうもお願いします」 「なんですって? それじゃこの一座に犯人がいるとでもいうんですか」 「なんともいえませんね。何しろ風流騎士のやることだから」 「え? 風流騎士? ほ、ほんとですか」 「こんな際に誰が冗談などいうもんか」 「ああ、ああ、何もかもおしまいだ。明日から一人も客は来ないだろう」  支配人が気違いのように表へ走り去ったあと、改めて由利先生は被害者の体を調べはじめたが、と、たちまち非常な驚《きよう》愕《がく》の表情がその顔にうかんできた。 「先生、どうかしましたか」 「恭助君、これはじつに容易ならん犯罪だよ。君はこんな兇器を今まで見たことがあるかね」  先生の言葉に改めて被害者の胸を見直すと、そこに突っ立っているのは、長さ五寸ぐらいの、畳針みたいな細い金属で、その末端には矢羽のようなものがついている。そして被害者の体を動かすたびに、その矢羽が鶺《せき》鴒《れい》の尾のようにブルンブルンと顫えるのだ。 「俺は一度あるところで、これと同じようなものを見たことがあるが、こいつはアフリカの現地人などがつかっている吹矢なんだよ」 「吹矢ですって?」 「そうだ、見たまえ、こいつはほんのちょっとしか肉へ喰いこんでいないだろう。普通ならこれくらいの傷で死ぬはずはないのだ。ところが、この吹矢には普通、恐ろしい毒が塗ってあるので、その毒が瞬間にして相手を斃《たお》すのだ。つまり現地人が猛獣狩りに使うあれだよ」  ああ、なんということだ。東京の真ん中でアフリカの猛獣狩りみたいな犯罪が起こるなんて。千晶はあまりの恐ろしさに口も利けなんだ。 「そうすると、犯人は必ずしも、被害者の側にいる必要はなかったのですね」 「そうだよ、よく慣れたものなら五間、いや十間ぐらい離れたところから、巧みに的を狙うことができる。おそらく三幕目の終わりの、舞台と客席が同時に暗くなった時行なわれたのだろう」  あたかもそこへ支配人に案内されて、大勢の刑事とともにどやどやと駆けつけた来たのは等々力警部、幸い支配人の調べたところによると、三幕目がひらいた時分から、誰もこの劇場を立ち去った者はないという。犯人もまだ劇場内にいるのだ。 「よし、今度こそ袋の鼠だぞ!」  劇場はただちに蟻《あり》の這《は》い出す隙間もないほど、私服や警官によって包囲される。 「で、お客様はどういうことになるんで」 「どうもこうもあるもんか。片っ端から取り調べるんだ。一人だって帰しちゃいかんぞ」 「そ、そんな無茶なこと!」  支配人は頭から湯気を立てて、虚空をつかむ真似をする。もし、そんな事になったらそれこそ劇場の面目は丸《まる》潰《つぶ》れだったが、幸い、そこへ恭助が横から助け舟を出した。 「警部、客席も客席ですが、それより楽屋のほうから始めたらいかがですか。被害者が一座の者であることといい、現場が一番前の席であったことといい、これは座の中に関係があるかもしれませんぜ」  なるほど、恭助の言葉には一理あった。兇器が吹矢とすると、犯人は舞台のうえにいてもいいことになるのだ。それにどんな知名の士があるかもしれない観客より、座員を調べるほうが面倒も少なくてすむというもの。 「よし、それじゃそういうことにしよう。で、いったい誰から始めたものかな」 「誰かれというより、スターの歌川鮎子からはじめたらどうです。あの女が三番目の一番最後まで舞台にいたのですから」  アア、恭助は何事かを知っているのだ。知っていて、捜査の方針をある方向へ導こうとしているのだ。事実を知っているということほど強味はない。人々はいつしか恭助にリードされて、唯々諾々と彼の指令に従っていた。  絹代が殺されたという事実は、すでに楽屋中にひろがっていた。あちらでもこちらでも、踊子たちがよりあって、不安そうに囁きを交わしている。警部の一行はその中をかきわけて、鮎子の部屋のほうへ行った。  歌川鮎子はさすが一座のドル箱だけあって、狭いながらも二階に独立した部屋を占領していた。彼女もすでに絹代の殺されたことを知っていたに違いない。一同の顔を見ると、ハッと面を曇らせたが、わけても恭助と千晶の顔を見た刹《せつ》那《な》、唇のいろまで変わったように思えた。 「まあ、皆さん、お揃いで何かご用でございますの」  鮎子はしいて快活に振舞おうとしたが、その声は妙に咽《の》喉《ど》にひっかかってかすれていた。恭助はつかつかとその前に歩みよった。 「鮎子さん。あなたは緒方絹代が殺されたことをご存じでしょうね」 「ええ、いま聞きましたわ。びっくりしているところなんですの」 「で、あなたにお訊ねしたい事があるんです」 「まあ、あたしが何か知っているとでもおっしゃるんですの」 「あなたは三幕目の一番終わりまで舞台にいらっしゃった。そして絹代はその間に殺されたんです」 「で?」 「絹代は吹矢で殺されたんです。犯人は絹代のそばに近づく必要はなかったんです。ということは、舞台のうえからでも絹代を殺すことができたということですよ」 「まあ、なんのことをいってらっしゃいますの。ご用があるなら早くおっしゃって下さいませんか。間もなくアリ殿下がここへいらっしゃるはずになっているんですから」 「何? アリ殿下だって?」  警部がびっくりして叫んだ。 「はい、じつはその、楽屋をご訪問下さるようにさっきお願い申し上げたんです。歌川君と並んで記念撮影をして頂こうと思いまして」  支配人が汗をふきながらいった。 「いかん、いかん、こんなところへ殿下をご案内しちゃいかん」 「でも、もうお約束ができているんで」 「なんでもいい、お断わり申し上げてこい」  警部の剣幕に支配人は豚みたいにブーブー唸りながら、あたふたと出ていった。 「で?」  カナリヤは、今や怒りのため全身を顫わせているのだ。鮎子は挑戦するように恭助の方を振り返った。 「鮎子さん、ちょっとその笛を見せてくれませんか」  言い忘れたが、鮎子はまだアラビヤ王子の扮装のままで、手にはさっきの細長い銀笛を持っていた。恭助はそれを受け取ると、 「おや、これはこしらえものですね」 「小道具ですわ。竹に銀紙を張らせて作らせたのです。あなたはほんとにあたしが舞台で笛を吹くと思っていらしたの」  恭助はその言葉に耳もかさず、 「先生、吹矢を吹くのにこの管はどうでしょう」 「まあ! それじゃあなたは、あたしが絹代さんを殺したとおっしゃるの?」 「まさにそのとおり」 「舞台から絹代さんのところまで四、五間はありますよ」 「吹矢は十間まで飛ぶそうです」 「でもその間にはオーケストラ・ボックスがありますよ」 「楽師諸君は楽譜を読むのに熱中していました」 「まあ、面白いのね。で、動機はなんなの?」 「あなたはそれを聞きたいですか」 「ええ、聞きたいわ」 「よろしい、今いってあげます」  恭助は今やこの訊問劇の立役者なのだ。彼は気取った身振りで振り返ると、 「山下君、山下君」  と呼んだ。と、声に応じて入って来たのは、千晶がさっきから気にしていた小僧なのだ。 「鮎子さん、あなたはこの人に見覚えがありませんか」  鮎子はいぶかしそうにその男の顔を見ると、かるく首を横に振ったが、その動作は少なからず不安らしく、必死の思いをこらえていると見えて、額からツルリと一滴の汗が落ちた。 「なるほど、あなたの方でご存じないかもしれない。それじゃ皆さんにご紹介しましょう。この人は西荻窪の薔薇のアトリエの近くにある、酒屋の小僧なんです。そして、たった一度だけだが、偶然のことからアトリエを訪れて来るヴェールの婦人の顔を、ハッキリ見たことがあるというんです」  あっという叫びが一座の人々の口から洩れた。わかった、わかった、いまや恭助の目的がハッキリとわかった。千晶は思わず大きく呼《い》吸《き》をすいながら鮎子の顔を見直した。この人が——この有名なスターが、この美しい女優が風流騎士の相棒? ああ、恐ろしい。こんな意外な、こんな奇怪なことがあるだろうか。  山下の視線に射すくめられた鮎子は、いまやまったく猫に狙われたカナリヤだった。カナリヤは全身の羽毛を逆立てて、恐怖におののいた。バタバタと籠の中を狂気のように飛び回った。そうすることによって、美しい羽根に傷がつくということも知らずに。 「この女です。薔薇のアトリエを時々訪れたあのヴェールの婦人はこの女に違いありません」  宣告するような山下の声が陰気に響きわたった。 金色の王子 「この女です。はい、確かにこの女にちがいありません」  ご用聞き山下の言葉に、部屋のなかには一瞬、恐ろしい沈黙が落ちこんできた。  この女が、この有名なレヴュー界の女優が風流騎士の仲間だって? こんな意外な話があるだろうか。この小僧はなにかとんでもない感違いをしているのだ。だが、それにしても鮎子は何故抗弁しないのだろう。何故、この恐ろしい疑いを解こうとしないのだろう。  人々の目は探るように鮎子の面に注がれたが、その顔は蝋《ろう》のように固く硬ばって、玉虫色に彩った唇もカサカサに乾いていた。 「で。おっしゃることはそれだけなの?」  鮎子は必死となって内心の動揺をおさえると、挑《いど》むように恭助の瞳を見る。 「そうさ、これだけ言えば十分じゃないか。それとも、もっと君の悪事を数えあげて貰いたいのかい?」 「もうたくさん、あたしそれよりあなたにお願いがあるの、聞いて下すって?」 「ははは、とうとう兜《かぶと》を脱いだな。よしよし僕にできる事ならきいてやってもいいぜ」  美しいカナリヤを手捕りにした恭助は有頂天だった。得意そうに由利先生や等々力警部、さては千晶の顔を一《いち》瞥《べつ》すると、 「で、その頼みというのは?」 「なんでもない事なのよ。ちょっとあなたにそこを退いて戴きたいの」 「な、なんだって?」 「ほほほほほ、何も驚くことはないわ。邪魔だからそこを退いてといってるのよ。ついでに両手をあげて戴くと都合がいいのだけど、ほら、外国映画によくあるように」  ああ、なんという大胆さ、鮎子がさっと衣装の下から取り出したのは一挺のピストルだ。 「あっ、いけない」  一瞬蒼白んだ恭助が、つぎの瞬間、勇をふるって猛然と躍りかかっていったが、そのとたん、ブスッと妙な音がしたかと思うと、 「しまった!」  恭助は悲鳴をあげてたじろいた。見ると袖の下から手の甲を伝わって、タラタラと赤い血の筋が垂れているのである。 「うぬ抵抗する気か」  今の今までよもやよもやと半信半疑でいた等々力警部も、こうなると容赦はできぬ。恭助に代わってとびかかろうとするのを、鮎子はひらりととびのいて、 「ほほほほほ、お止しなさいよ、警部さん、あたしその男に極印をうってやったのよ、極印を、ね、おわかりになって? でもこれ以上殺生な真似はしたくないの。さあみんなそこを退いてよ。王子様のお通りよ。そうそう、白髪の探偵さん、さすがにあなたお利《り》巧《こう》ね」  まだ青白い煙を吐いているピストルを身構えたまま、ジリジリとドアのほうへ行く鮎子の姿を見ると、恭助は腕の負傷を打ち忘れ、 「おのれ、待て!」  猛然と躍りかかっていったが、その時早く、ひらりと廊下へとび出した鮎子は、 「ほほほほほ、お生憎さま!」  嘲笑うような嬌声とともに、さっと右手をふったと見るや、何かしら、梅の実ほどのものが廊下にとんだ。 「あ、危い!」  由利先生が小脇に千晶を抱きとめたとたん、ドカーンという物音、パッと炸裂する青白い火華あたり一面濛《もう》々《もう》たる煙なのだ。しかもその煙の目にしみること、一同思わずボロボロ涙を流して咳《せき》込んでいる隙に、鮎子は長い廊下を走っていった。わっと叫んで逃げまどう踊子たち。彼女はそれを尻目にかけ、階段まで来たが、しまった、物音をききつけた刑事数名、一塊になって上って来る。  チェッと舌を鳴らした鮎子は、くるりと回れ右をすると、タタタタと狭い階段を伝って三階へのぼっていった。  近代的な装備を誇るこの劇場は、勝手を知らぬ者にとってはまるで迷路だ。おびただしい部屋の数、曲がりくねった廊下と昇降器、あちこちに散在している大道具小道具、鮎子はたくみにその間隙を縫って、追いすがる刑事の目をくらましていたが、そのうちにスーッと劇場内の電気が消えたから、あたりはまったく闇黒と化してしまった。  どうやら相棒がいたらしい。  さあ、劇場内は大混乱、先ほどより唯ならぬ気配におびえていた観客は、いっせいにわっと立ち上がると、泣く者、叫ぶ者、罵《ののし》る者。だが、観客席も観客席だが、楽屋のほうではその時、もっと大きな混乱が起こっていた。  電気が消えたとたん、人々はなんともいえぬ変《へん》梃《てこ》な感じにうたれたのだ。  闇を縫うて逃げていく鮎子の体が、まるで鬼火のようにボーと炎《も》えあがっている。何もかも闇の一色に塗りつぶされた中に、彼女の体だけ、きらきらと輝きながら、宙をとんでいく妖しさ美しさ。わかった、わかった、彼女の着ているあのアラビヤ王子の衣装には、舞台効果を強めるために、一種の発光塗料がぬりつけてあったのだ。  ああ、燦《さん》爛《らん》たる金色の王子! 人々は思わずあっと呼吸をつめたが、すぐ気を取り直すと、ジリジリと発光王子めざして進んでいく。もうどんな暗闇の中でも逃がしっこはない。あの輝ける衣装こそ何よりの目印なのだ。  追いつめられた鮎子は三階からさらに屋根裏へとのぼっていった。  そこは舞台の真上にあたっていた。近代劇場のことだから、さすがに場末の小屋ほど、ごたごたしてはいなかったが、それでも格子に組まれた床の上には、鎖で巻きあげられた背景だの、噛みあう歯車だの、もつれあうロープだのが一面に散乱して、一歩足を踏みすべらせようものなら、格子の目から真逆様に舞台へ顛《てん》落《らく》せねばならぬ。  鮎子は絶体絶命だった。背後からは刑事の群れが口々に怒《ど》鳴《な》りながら近付いて来る。いつの間にか、その中には等々力警部や恭助の声も混っていた。  鮎子はしかたなしに格子の目から体を滑らせると、舞台に垂れているロープをつたわっておりはじめた。ロープの先には次の場面に使用するブランコがブラ下がっている。鮎子の脚がブランコの横木にかかった。  千番に一番のかねあいとはまったくこのこと、漆黒の闇の中に、ブランコがひと揺れ大きく揺れて鮎子の体がまるで人間蛍のように、虚空にさっと金色の虹《にじ》をはいた。  ああ、金色王子の大曲芸、レヴュー以上の大レヴュー、舞台の周囲に群がっていた踊子も、舞台上から追跡していた刑事も、このすばらしい離れ業に、わっと叫ぶと、しばし呆然と立ちすくんでしまったのである。 闇の中の顔  ちょうどそのころ、千晶は唯一人、まっくらな迷路をさまよい歩いていた。  あたりは旋風の通りすぎた跡のように、無気味に静まり返っていた。折々聞こえるのは観客席のどよめきと、刑事の罵《ののし》り騒ぐ声。  千晶は胸をワクワクさせながら、長い廊下を手探りに歩いていったが、その時、誰やら向こうから急ぎ足にこっちへやって来る様子、千晶はぎょっとして闇のなかに立ちすくんだが、ちょうど幸いすぐ側にドアが半開きになっているのに気付いたので、あわててその中へ滑りこんだ。  見るとそこはどうやら衣装部屋らしい。壁いっぱいにさまざまな衣装がブラ下がっている。千晶は前後の考えもなく、衣装の中に滑りこんだが、そのとたん、足音はドアのまえでピタリと停った。  ギイとドアを開く音、荒々しい息使い、千晶は思わずハッと胸をとどろかせたとたん、鈍い月光に隈《くま》取られた部屋のなかへ、なんともいえぬ異様な顔が覗きこんだのだ。  石炭のようにまっ黒な顔、鷲の嘴のように尖った鼻。西洋皿のようにギラギラ光る双《ふた》つの眼《まなこ》——恐ろしく背の高い男だった。そして頭には何やら妙なものを巻いている。  千晶はあまりの恐ろしさに、思わず声を立てようとするのを、あわてて口に手をやっておさえた。  そいつはしばらく、ギラギラ光る目で部屋のなかを見回していたが、幸い千晶のいることに気付かなかったのか、スーッと顔を引っこめると、やがて引き摺るような重い足音が、しだいにドアから遠のいていった。  千晶はほっと溜息をつく。気がついてみると、体中いっぱいの汗なのだ。いったい、あの男は何者だろう、ちょうどレヴュー『砂漠の王子』に出て来る人物とそっくり同じだったが、あんなに背の高い、あんな恐ろしい顔をした役者なんてあるはずがない。ひょっとするとあの男は王子の相棒ではあるまいか。  千晶は遠ざかりゆく足音に耳を傾けたまま、じっとブラ下がった衣装のなかに身を縮めていたがその時、なんともいえぬ妙なことが起こった。  そこにブラ下がっている衣装と、彼女の薄い洋装とを通して、何やら得体の知れぬ温かさが、ジーンと肌にしみ通って来るのだ。おや、この温かさは何かしら? 千晶はそっと傍の衣装をまさぐっていたが、そのとたん、あまりの怖ろしさに、 「あれえ!」  と、金切声をあげてとびのいた。衣装の下には、何やら、柔らかいもの——確かに人間の体と思われるものがあった。  瞳《ひとみ》をこらしてよく見ると、そこにブラ下がっている衣装というのは、さっき鮎子が着ていたのと同じようなアラビヤ王子の衣装なのだ。いやいや、これは壁にブラ下がっている衣装ではない。その衣装の中には確かに人が隠れているのだ。あ、裾《すそ》のほうに足が見える。そしてその足が少しずつ動き出した。  ああ、誰か来て頂戴、鮎子が、——鮎子さんがここに隠れていたのだわ! 千晶は声を出して救いを求めようとしたが、咽喉がカラカラに乾いて声が出ない。逃げ出そうにも足がすくんで動けないのだ。  と、ふいにそいつが両手をのばして、むんずとばかりに、千晶の肩を抱いた。 「お嬢さん、何もびっくりすることはありません。わたし、けっして怪しい者ありません」  なんだか妙な声だった。鼻にかかった、一種異様なアクセントと、子供のような舌足らずな口の利きかたに、千晶はギクリとしてその顔をふりかえったが、すると、彼女の唇からは、思わずあっと低い叫び声がもれた。  なんということだ。そこにいられるのは正真正銘、まがいなしのアラビヤ王子、アリ殿下なのであった。 「あら、殿下——殿下さまでございましたの」  千晶はさっと頬を紅らめると、なんといっていいか言葉に困ってしまった。こんな場所で、こんな妙な具合に、外国の貴賓に体を抱かれて、千晶は恥ずかしさに、おそれ多さのために、すっかり度を失ってしまった。  殿下はチョコレート色の頬をほころばせて、ニッと美しい歯を出して笑うと、 「そう、あたしアリです。私、困りました。私、鮎子さんに会う約束でここへ来ました。電気消えました。真暗になりました。従者、どこかへいってしまいました。私、困ってここに待っていました。お嬢さん、ここの人ですか」  殿下は美しい髯をしごきながら、さも困ったように渋面を作って見せる。 「いいえ。さようではございません。殿下、あたしも連れにはぐれて困っている者でございます」 「ああ、そう、で、あの騒ぎはいったいどうしたのですか」 「はあ、あの、それは」  千晶は口籠もってしまった。まさかこの人に、今人殺しがあったなどと言われない。 「あたしにもよくわかりませんですけれど」 「なんだか、ピストルのような音がしましたが」 「はあ、そのようでございました」 「モハメットはどうしたのだろう。あなた、モハメット、私の従者、知りませんか」 「モハメット?」  千晶はふと、今部屋を覗いていった、あの異様な顔を思い出した。ああ、そうだったのか。それではあれが殿下の従者だったのか。 「ああ、その方なら、いま廊下を通られましたが、お呼びして参りましょうか」  相手が怪物でもなんでもなく、外国の貴賓であることがわかると、千晶はにわかに勇気が出て来た。彼女は急いで廊下へ出ていこうとしたが、その時、殿下の腕がまだしっかり自分の体を抱きしめていられるのに気がつくと、思わずまごまごして顔を紅らめた。  殿下もそれに気がつくと、すぐ彼女の体を離したが、と、ちょうどそこへ、いったん行きすぎた従者のモハメットが、話声をききつけて再び引き返して来た。  モハメットはくらがりの中に殿下の姿を認めると、つかつかと中へ入って来て、二言三言、何やら殿下に囁いていたが、その時、千晶が少し妙に思ったのは、モハメットの殿下に対する態度が、いささか慇《いん》懃《ぎん》を欠きはしないかと思われたことだ。  しかし、それは束の間、殿下が何かいって傍の千晶を指さすと、モハメットははっとしたらしく、にわかに鄭重な態度になった。  二人は何やらわからぬ言葉で、猶《なお》も二言三言応対していたが、やがて、殿下は千晶のほうを振りかえると、 「幸いモハメットが来てくれましたから、私はいきます。あなた、まだここにいますか」 「いいえ。あたしも帰りたくてなりませんの。でも、一人ではなんだか怖くて」  涙ぐんだ千晶の訴えに、殿下も心を動かされたのか、 「そう、それでは一緒にいきましょう」  と、やさしく千晶の手をとった。 奈落の怪  こちらは金色王子の鮎子である。  ひと揺れ、ふた揺れ、漆黒の闇に燃えあがる虹をえがきながら、しばらくブランコの呼吸をはかっていた鮎子は、やがて身を躍らせると舞台にとびおりた。猫のような身軽さなのだ。ひらりと舞台に這《は》った鮎子は、すぐむっくりと起きあがった。その時だ。  ズドンというピストルの音、さっと炎の筒が舞台の上空に奔ったかと思うと、鮎子の体がパッタリ顛倒した。誰かが、あの金色の衣装めあてに狙《そ》撃《げき》したのだ。鮎子はいったん舞台に倒れたが、勇気をふるって起きあがると、よろめき、よろめき上手のほうへ逃げていった。  これを見ると舞台の脇に佇んでいた踊子たちは、わっと叫んで逃げ迷う。いや踊子ばかりではない。そこには幕内の事務を司る人々や、道具方なども大勢いたけれど、誰一人彼女の行手を遮《さえぎ》ろうとする者はなかった。  鮎子は片手で胸をおさえ、片手にピストルを振りかざしつつ、必死の形相物凄く楽屋へかけ込んだが、やがてその姿はついと舞台下の奈《な》落《らく》へきえた。奈落というのは、楽屋から花道へ通じている一種の地下道である。  一同がその後を見送って、ワイワイ騒いでいるところへ、しばらくおくれて刑事の一行が三階から駆けつけて来た。 「あの女はどうした。どこにいるのだ」  事務員のひとりをつかまえて、噛みつくように訊ねるのは等々力警部だ。 「鮎子さんなら、今奈落へ入っていきましたよ」 「何故、あの女を捕えないんだ。あんなに声を嗄《か》らして叫んだのがわからないのか」 「捕えるたって向こうはピストルを持っているんです。危くて近寄れやしませんや」  事務員は頬をふくらして不服そうにいった。なに、ピストルを持っていずとも、捕える気などなかったのだ。彼らはみんな、心のうちではひそかに鮎子に同情していたのだから。 「よしよし、なに、この中へ入ったのなら、袋の中の鼠も同然だ。誰か先に立って案内してくれたまえ」 「ご冗談でしょう。向こうは死にもの狂いですよ。ズドンと一発喰ったらお陀仏でさ。そんな危い真似はまあ真っ平ですね」  なるほど、事務員の言い分にも一理ある。これには刑事も弱って互いに顔を見合わせていたが、さっきから懐中電灯でしきりに舞台のうえを調べていた恭助が、この時、点々として滴っている血の跡を見付けだした。 「ご覧なさい、ここに血が垂れている。さっき僕のぶっぱなした一弾が見事に命中したんですね。この血の量から察すると、鮎子の奴、かなり深手を負っているに違いない。大丈夫、みんな僕について来て下さい」  ああ、恭助は鮎子に対して、よほど激しい敵意を抱《いだ》いていると見えるのだ。彼の顔にはゾッとするほど執念ぶかい憎悪がうかんでいた。  恭助は懐中電灯の光を消すと、ピストル片手に一歩一歩奈落へおりていった。一同もそのあとから続いたがどうしたのか、由利先生の姿だけがその中には見られなかった。  舞台も暗かったが奈落はそれにもまして暗かった。窒息しそうな重い空気、底知れぬ漆の闇、厚い壁に外部の物音はかき消され、墓場のような静寂なのだ。まったく奈落とはよく名付けたものと思われる。  ワクワクするような緊張感、息詰まるような昂奮、一同はしだいに奈落の奥深く進んでいったが、ふいに、恭助が鋭い低い声で叫んだ。 「あ、あすこに鮎子が倒れている!」  なるほどずっと向こうの闇の底に、かすかな燐光が怪しくうごめいているのだ。その光は一度ユラユラと立ちあがったが、すぐまた、パッタリと倒れた。 「神妙にしろ、抵抗するとぶっぱなすぞ」  恭助は大声で怒鳴ったが、その時、なんともいえぬ変なことが起こった。狭い奈落のなかに一種異様な叫び声が反響したのだ。まるで怪鳥の叫びにもにたキーキー声、わけのわからぬアクセント、人々は一瞬ゾーッと冷水を浴びせられたような無気味さを感じたが、やがて一散に側へ走りよると、恭助はいきなりさっと懐中電灯の光を浴びせた。  そのとたん、刑事たちはいっせいにわっと叫んで、うしろへたじろいだ。無理もない、丸い光の中に浮き出したのは、なんともいえぬ異様な顔だった。タールのように黒い皮膚、大きな白い眼、尖った鼻、長い髪の毛、しかもその服装の異様さに、さすがの警部も一時は鳥肌が立つような薄ら寒さを感じた。 「うわ! なんだ、この女は?」 「わかりました。警部、これはアリ殿下の乳母という女にちがいありません」  叫ぶとともに、恭助は激しく女の肩に手をかけて鮎子の行方を尋ねたが、むろん言葉がわからないから話の通ずるはずがない。色の黒い乳母は気違いのように喘《あえ》ぎながら、しきりに首をしめる真似をして見せる。見るとその首には長い布がまきつけてあった。鮎子が頭にまいていたあのターバンなのだ。燐光はその布から発するのだった。 「わかった。この女は鮎子に首をしめられたんです。殿下と一緒に楽屋へ来たところが、電気が消えてまっくらになったので、こんなところへまぎれこんだのですよ。こいつ、鮎子が妖しい光を放っていたものだから、幽霊か何かのように考えて怖れているんですよ」 「よし、誰かこの女を一緒につれて来い」  腰の抜けた乳母をかかえて一同は再び闇のなかを進んでいったが、やがて奈落はつきて揚幕のうしろへ出た。恭助が一番にその揚幕からとび出した時、まるで人を馬鹿にしたように、ボヤーと場内の電気がついて、わっとあがる歓呼の声。  恭助は右往左往する観客をかきわけて、支配人を捜し出すと、噛《か》みつくように訊ねる。 「支配人、アリ殿下は——殿下はどこにいますか」 「アリ殿下ですって? 殿下はいまお帰りになりましたよ。いくら警部の命令でも、殿下をお引き止めするわけにはいきませんからね」  支配人は汗をふきながら自暴自棄な笑い方をした。無理もない、足止めを喰った観客が、蜂の巣をつついたようにワイワイ騒いでいるのだ。 「それで、殿下はお一人でしたか」 「いや、ご婦人の連れがありましたよ。そうそう、あなたと一緒だった、千晶さんという方です」 「なに、千晶が?」  恭助は面喰ったように叫んだが、 「いや、僕の聴いているのはそれじゃない。殿下のお供の者はどうしたというんです」 「むろんご一緒でしたよ。モハメットとかいう色の黒い大男と、被衣をかぶった婦人と。——」  と、いいかけて支配人はにわかにハタと口をつぐんでしまった。その時、色の黒い婦人が、刑事にかかえられて、気違いのように泣きながら近付いて来たからである。 「や、や、これは! すると、すると——いまの被衣の婦人は、ありゃ誰だ」 「むろん、鮎子ですよ」  ふいに横合いから、静かな声が聞こえて来たので、一同がハッとして振りかえって見ると、いつの間にやら由利先生が来て立っていた。 「警部、すぐ殿下の自動車を追わねばなりますまい。殿下のお身に間違いがあったら、それこそ大変ですからね」  だが、そういう由利先生の表情はまことに奇妙なものだった。重そうに垂れた瞼の下から、先生はきっとばかりに恭助の横顔を睨《にら》んでいるのであった。 瀕死のカナリヤ  千晶はアリ殿下と並んで自動車の中に腰をおろしていた。殿下の左側にはあの被衣をかぶった婦人が、そして前には従者のモハメットが、不機嫌らしくきっと唇を結んで腰をおろしていた。  自動車が動揺するたびに、殿下の肩が軽く千晶の肩に触れるのだ。そのたびに、千晶はハッとして体をちぢめる。不思議なことには、殿下とそうして並んですわっていても、少しも異国人特有の不快な体臭は感じられなかった。  千晶はふと、さっき衣装部屋の暗闇で、強く殿下の胸に抱きしめられた時のことを思い出した。するとなんともいえぬ妖しいトキメキを感じて、思わず頬を染めるのだった。  外国の貴賓と同乗しているという、千晶のギゴチなさを救うためであろう、殿下は何くれとなく、優しく話しかけられたが、千晶にはその心遣いも有難く嬉しかった。  千晶はなるべく言葉少なに、謹んでお答えしようとするのだが、どうかすると相手のご身分を忘れて、つい、親しそうな言葉遣いになるので、そのたびにドギマギしてしまう。殿下にはそれがおかしいのか、鷹揚に微笑されるのであった。 「何故、そんなに体を固くしているのですか。もっと楽にしたほうがよろしい」 「いいえ、勿《もつ》体《たい》のうございますわ。それに、あたし代々木まで送って戴かなくてもよろしいのですの。その辺で降ろして戴ければ結構でございますわ」 「どうしてですか。私、一緒にいると迷惑ですか」 「まあ、そんなことございませんけど」 「それでは、私の言葉に従った方がよろしい。私の国では婦人を送るのが紳士の務めです」 「ええ、でも」  殿下のやけつくような視線を頬にかんじた千晶が、目のやり場に困って、ふと床のうえに瞳を落とした時である。千晶はふいにあれっと叫んで真っ蒼になった。 「あっ、血が——血が——」 「え? 血?」  殿下もはじめて気がついたように足許を見た。と、そこには赤黒い血の流れが、蚯蚓《 み み ず》のようにうねりながら這《は》っているのだ。しかも、その血は、被衣をかぶった婦人の足許から、滴々として滴《したた》っているのである。  殿下は何か大声で叫びながら、被衣の婦人を振り返ったが、そのとたん、前にすわっていたモハメットが、あっと叫んで、殿下のまえに立ちはだかった。  被衣の下から、ヌッと銀色の銃口が覗いている。その銃口がしだいに上へあがったかと思うと静かに被衣をとりのけて真っ蒼な顔が現われた。 「あら! あなたは鮎子さん!」  いかにもそれは鮎子だった。彼女は今にも気が遠くなりそうな苦痛を、じっとこらえながら、 「停めて、停めて、自動車を停めて」  と、喘《あえ》ぐように言った。見ると片手でしっかり押えた胸の下からは、泡《あわ》のように血がブクブクと吹き出していた。アリ殿下はそれを見ると、もう一度大声で叫んだが、鮎子はそれを押えるように、 「お願い、自動車を停めて」  と、叫ぶ。運転手もこの騒ぎに気がついたのか、ぴたりと暗い路傍に自動車をとめた。鮎子はよろめくように自動車から降りると、 「後生だから、あたしの後を追わないで、さあ、真直ぐに自動車をやって」  運転手はそれを聞くと、殿下の命令を待たないで、再びまっしぐらに躍り出した。バック・ウインドから覗いてみると、鮎子は一度バッタリ路傍に倒れたが、またムクムクと起きあがると、よろめきながら向こうの横町へ姿を消した。  千晶の心臓が固くなるほどの、強いショックに口も利けなかった。いま鮎子の姿のいたましさに、恐ろしいというより、女らしい憐《れん》憫《びん》の情に負かされて、思わず涙ぐんでしまった。  カナリヤはいま死にかけているのだ。彼女がああしてよろめきながらも歩いていけるのは、逃げなければならぬという強い精神力のためなのだ。できることなら、千晶はその後を追っていって介抱してやりたかった。  アリ殿下もモハメットも口を利かない。二人はじっと目と目を見交わしたまま、彫像のようにすわっていたが、こうして自動車がものの五分間も走りつづけたころ、背後から激しく警笛を鳴らして近付いて来る二、三台の自動車に気がついた。  アリ殿下はそれに気がつくと、すぐ手をあげて自動車を停まらせた。近付いて来たのはいうまでもなく警部の一行である。 「あ、千晶さん、あの女は? 鮎子は?」  叫びながら近付いて来たのは恭助だ。 「あの女はさっき自動車を降りましたよ。殿下をピストルで脅かしておいて」 「なに、逃げた? どの辺だ」 「ずっと向こうのほう」 「よし、千晶さん、案内するんだ。我々を鮎子の降りた地点まで案内してくれたまえ」  恭助はあくまでも鮎子を捕えずんばやまぬ意気込みなのである。千晶は何故か、恭助のその熱心さがうとましく感じられた。  アリ殿下は不興げな表情を露骨にうかべて、この様子を見守っていられたが、やがて手をあげると、千晶を残して自動車を走らせた。  警部の一行は千晶を乗せて、さっき鮎子のおりた地点まで引き返して来たが、むろん、その時分には、鮎子の姿はすでに見えなかった。  瀕《ひん》死《し》のカナリヤは、いずこともなく飛び去ったのである。 裸女と怪人  翌日の各新聞は、ほとんどこの事件のために埋めつくされた感じだった。  あの有名な歌川鮎子が、風流騎士の相棒だったという事実だけでも、人々を驚かすに十分だのに、あの奇抜な逃亡方法がおまけについているのだ。いま満都の好奇心の的になっているアリ殿下が、一役を受け持ったのだから、これほどすばらしい特種はなかった。  それにしても、鮎子はいったいどこへ逃げたのだろう。あの重傷を負った身で、果たして無事に捜査の網をくぐることができるだろうか。  それはさておきこちらは千晶だ。  前にも述べた雨宮老人の愛していた居間に、今宵もひとり閉じこもった千晶が、とつおいつ、昨夜の出来事を考えうかべ、われにもなく怪しく心をときめかしているところへ、やって来たのは由利先生と等々力警部。  その後から恭助も入って来たが、なんとやら唯ならぬ三人の気配に、千晶はハッと胸をとどろかせた。 「ああ、千晶さん、ここにいましたか、じつはここで恭助君にちょっとお話したいことがあるので」 「あら、なんでしたら、あたし向こうへいきましょうか」 「いやいや、どうぞそのまま、あなたにも聞いて戴いたほうがよいのです。等々力君、差支えないだろうな」 「おお、いいとも」  言いながら、さっきからきょろきょろと部屋の中を見回わしている等々力警部は、最後に、壁にむかっている半人半獣の怪物と裸女の油絵を見ると、思わずうむと唸った。 「先生、僕に話があるというのはいったい、どういうことなのです。そしてまた、何故、この部屋でなければいけないのです」 「恭助君」  由利先生がきっと恭助の面を凝視ながら、重々しくいった。 「じつは君に少し説明を求めなければならぬことがあるんだ。というのは、ほかでもない。昨夜、東都劇場で殺害された緒方絹代の日記帳が発見されたんだ」  あっという叫びが、恭助と千晶の唇から、ほとんど同時に洩れた。 「じつは昨夜、君たちが鮎子を追い回しているうちに、俺が楽屋の中から見付けたんだが、この日記のなかに、絹代を裏切ったという男のことがちゃんと書いてある」 「あっ、それじゃ風流騎士のことがわかったのですね、あいつは今どこにいるのですか」 「なるほど、そいつは風流騎士かもしれない。が、またそうでないかもしれないのだ。それで君の説明を聴きたいと思って。——」 「先生、いったい、どうしたのです」  恭助はいかにももどかしそうに、 「どうして、そんな回りくどい言い方をされるんです。絹代を欺《だま》したのは風流騎士に極《き》まっているじゃありませんか。いったい、その日記にはどんなことが書いてあるんです」 「よろしい、それじゃ話してあげるから、千晶さん、あなたも聞いていて下さい」  由利先生は等々力警部と意味ありげな目配せをすると、 「まず最初に、絹代とその男、かりにXとしておきましょう。そのXとの交渉はまことに妙な風にはじまったのです。絹代はその男の身分も名前もまったく知らずに、何もかも男に捧げてしまったのです。どういうものか、そういう深い仲になっても、男は何故か絹代に自分の身分姓名を明かそうとしなかった。……」 「それはむろん、男にうしろ暗いところがあったからです。それだけでも風流騎士だということがわかるじゃありませんか」 「まあ、待ちたまえ、そう話の腰を折っちゃ困る。さて、唯一度だけXは、絹代の懇望もだしがたく彼女をともなって、自分の家へつれていったことがある。しかしその男はよほど用心ぶかい性質と見えて、行きも帰りも絹代に目かくしをして自分の邸の位置を知られないようにしたというのだ。だから、絹代は後々までその家がどこにあるのか、ちっとも知らなかったのだが、目かくしを取られた部屋のありさまだけをハッキリ頭の中に刻みこんであったのだ。わかりますか」 「で、それがどうしたのです」 「今、ここにその部屋の様子を詳しく書いてあるから読んであげよう。聞きたまえ」  由利先生は絹代の日記の一節を、声をだして読みはじめた。 「その部屋は美しい飾りつけの洋室でした。床には豪華なペルシャ絨《じゆう》毯《たん》が敷いてあり、煖炉棚には金箔塗りの二本の燭台、それからルイ十四世風の背の高い椅子や、空色の絹をはった土《ト》耳《ル》古《コ》寝椅子がありました。しかし、それよりももっとあたしの注意をひいたのは、壁いっぱいを占領している奇妙な油絵でした。あたしはこの油絵のことを忘れないようにしましょう。いつかこれを目印に、あの人の家を捜し出すことができるかもしれないからです。その油絵というのは、髪ふり乱した金髪の裸女が、醜い半人半獣の怪人に襲われている、等身大の、見るも気味の悪い絵でした。……」  あっと千晶は思わず目を瞠《みは》った。恭助は呆然として由利先生の顔を見つめている。先生は鋭い視線を恭助の面に注ぎながら、 「空色の絹をはった土耳古寝椅子、豪華なペルシャ絨毯、金箔塗りの二本の燭台、ルイ十四世風の背の高い椅子、そして、最後に、半人半獣の怪物と裸女の油絵」  由利先生はいちいち、その部屋にある、それらの家具や、絵を指さしながら、 「恭助君、これをどう説明しますか。絹代のつれこまれたのは、つまりこの部屋、いま、われわれが立っているこの部屋ですよ。風流騎士が、この家へ女を引きずり込むことができたなんて、そんなことが信じられるかね」 「違う、違う。絹代という女はとんでもない間違いをしているのだ。いや、われわれが間違っているのかもしれない。なるほど、部屋の調度はよくにているが、必ずしもそれがこの部屋とは限らないでしょう」 「ところが、絹代という女は絵心があったと見えて、その部屋というのを、ちゃんと絵にしてここに描いてあるのだが、それによるとこの部屋に寸分の違いもないのですよ。それから彼女は、恋人Xの肖像もここに描いているが、恭助君それは君に生き写しだぜ」 「むろん、それは風流騎士の柚木薔薇だ。あいつが僕にいまいましいほどにていることは、みんな知っているじゃありませんか」 「しかし、この部屋は? 人間の双生児はともかくとして、部屋にまで双生児があるというのですか」 「何か間違っているのです。どこかに、とんでもない錯《さく》誤《ご》があるのです。ああ、誰も僕を信じてくれないのですか。僕が絹代をこの部屋へ引き摺りこんだというのですか。そして僕があなたのいわゆるXだというのですか。千晶さん、お前だけはまさかそんな馬鹿なことを信じやしまいね」  恭助は訴えるように、千晶のほうを振りかえったが、すぐ、絶望の呻《うめ》きをあげて、ドシンと土耳古椅子に腰をおとした。恭助が腕をさしだしたとたん、千晶がまるで毛虫にでも刺されたように、身顫《ぶる》いしながら、あとにとび下がったからである。 「千晶さん、お前まで、お前まで——」 「だって、だって、お兄さま」  千晶はわけのわからぬ混乱に喘ぎながら、 「ほかの調度はともかくとして、この油絵は、めったにほかにないのですわ」 「めったにない、めったにない」  恭助はうわごとのように呟《つぶや》いていたが、何を思ったのかふいにすっくと立ちあがると、 「わかった、わかった。千晶さん、お前は忘れているのだ。この絵と同じ絵が、もう一枚この日本に存在するはずなんだ」  言いながら激しく電鈴を鳴らすと、老女中のお清を呼びよせた。 「お清や、今僕が聞くことはとても大切なことだから、お前そのつもりで、ハッキリ返事してくれなきゃ困るよ」 「はい、若旦那さま、何事でございます」  お清も部屋の中の緊張に圧倒されたのか、はやくも顔色蒼《あお》褪《ざ》めて、必死となって恭助の顔を凝視している。 「まず第一に、去年の暮から今年の春へかけて、お祖父さんはここにある油絵を、画家に模写させたことがあったね」 「はい、ございました」  あっと、千晶は口の中で叫んだ。彼女もやっとそのことを思い出したのだ。 「で、その絵はどこにあるんだ。もう一枚の絵はどこにあるんだ」 「はい、あの、それは……」 「お清や、ハッキリいっておくれ、これは僕にとっては、生きるか死ぬかの大問題なのだから」 「はい、それは確かにご別邸のほうにございますはずで」 「別邸、鎌倉のか」 「いいえ、あの……」 「お清や、どうしたのだ、別邸といえば、鎌倉よりほかにないはずじゃないか」 「はい、あの、それが、じつは大旦那さまはごく内緒で、去年、渋谷のほうに、一軒お屋敷をお建てになりましたので……」 「なんですって? お清や、それはほんとうのことなの?」  千晶にもこれは初耳だったらしく、思わず恭助と顔を見合わせた。 「はい、ほんとうのことでございます」 「でも、何故、お祖父さまはそのことを、わたしたちに内緒にしていられたの?」 「はい、それには深い事情がございますけれど、今ここで申し上げることはできません」 「お清や、お清や、そんなことはどうでもいい。お前その別邸を知っているのだね」 「はい、存じております。代官山のへんで。……」 「よし、それじゃ、これから我々を案内しておくれ」 「いいえ、それはいけません」 「何故いけないのだ。お清や、よくお聞き、これは僕にとっては生命がけの問題なんだよ。是非とも、その絵の飾ってある部屋を見なければならないのだ」 「でも、でも、そのお屋敷にはいま人が住んでいますもの」 「誰が貸したのだ。お祖父さんがお貸しになったのか」 「いいえ、つい近ごろ、その家を管理していらっしゃる弁護士の黒川さんからお話がありまして。……」 「そんなことはどうでもいい。人が住んでいるのなら、わけを話して、ちょっと家の中を覗《のぞ》かせて貰う」 「でも、それが普通の方ではありませんので」 「普通の方ではない?」 「はい。外国の方で。……外国の王子様とやらで……」 「何? 外国の王子様?」 「はい、アリ——アリ殿下とかおっしゃいました」  あっという叫び声が、期せずして一同の唇から洩れた。  アリ殿下! ああ、アリ殿下!  千晶はふいに目のまえがまっくらになるような、深い驚きと怖れとをかんじたのだった。 双生館  雨宮老人が寸分ちがわぬ二つの部屋を、人知れずしつらえていたというのさえ、すでに人々を驚かせるに十分だったのに、さらに、秘密のその部屋の住人が、アリ殿下であると聞くに及んで、一同がまるで、底なしの迷路につき当たったような、深い疑惑をおぼえたのも無理ではなかった。 「お清や、お清や、それはおまえほんとうのことかえ。アリ殿下にその家をお貸し申し上げたというのは」 「はい、若旦那さま、たしかにそれに違いございません。なんでもアラビヤの王子様だと申しますことで」  ああ、もう間違いはない、たしかにアリ殿下なのだ。  由利先生も等々力警部も、一瞬間、深い陥《かん》穽《せい》のなかでも覗かされたような目つきをした。 「先生、警部さん行ってみましょう。これからすぐに行ってみましょう」 「行くってどこへ行くんだね、恭助君」 「極《き》まっているじゃありませんか。アリ殿下のところへ行ってみるんです。ああ、あいつだ、あいつに違いない」 「あいつって、君は——まさか風流騎士のことを言っているんじゃあるまいね」  等々力警部はまだ、夢からさめ切らぬような目つきをしている。  恭助はいかにも自《じ》烈《れつ》体《た》そうに、 「いいえ、風流騎士のことを言っているんですとも。あいつでなくて、どうしてその家に住みこみますものか。ああ、アリ殿下こそ、風流騎士に違いないのだ」 「バ、馬鹿な、ソ、そんな馬鹿なことがあるものか」  警部が一言のもとに打ち消した。 「アリ殿下については、警視庁の外事課でもちゃんと調査がすんでいるんだ。あの方は、間違いもなく、アラビヤの王子、アクメッド・アリ・ハッサン・アブダラア殿下にちがいないんだよ」 「それが何かの間違いなんです。ええ、間違いに極まっていますとも」  恭助は駄々っ児のように地《じ》団《だん》駄《だ》を踏みながら、 「あいつのことです。どんな手品だって使えるんだ。アラビヤの王子はおろか、どんな外国の貴賓にだって、あいつのことなら、やすやすと化《ば》けることができるんです。警部さん、あなたはあの歌川鮎子が、いかにして我々の手から遁《のが》れたかをお忘れになったのですか。鮎子はアリ殿下の乳母の扮装を借りて、我々の追跡から首尾よく逃げおおせたのですよ。これが果たして偶然でしょうか。いいえいいえ、あの逃走は、きっと予め打ち合わせてあった方法に違いありません」 「そうだ。そういえば、鮎子の逃走にはいろいろ解《げ》せない節がある」  言いながらも、警部はいまだ半信半疑の態なのだ。 「しかし、アリ殿下が——? ああ、俺には、何が何やらさっぱりわけがわからなくなった」 「等々力君、これは一応アリ殿下のお住《すま》居《い》へお伺いしてみる必要があるね」  側から口を出したのは由利先生である。先生は考え深い目つきで、恭助や千晶、さては老女中、お清の顔までじっと見据《す》えながら、 「アリ殿下が果たして風流騎士であるか否かの問題は別としても、我々はこの部屋と同じ部屋が、別にあるかどうか、その点だけでも、是非ともハッキリさせておかねばならぬ。君がいやなら、我々だけで行ってもいい」 「ああ、先生は僕と同じ意見なんですね。さあ、行きましょう。お清や、おまえ、その家へ案内しておくれ」 「お兄さま、あたしも行きます」  いままで、凝然として立ちすくんでいた千晶も、その時、必死の面持ちでかたわらより叫んだ。 「ふん。みんなが行くというなら、俺もあえて反対しないがね」  警部もついに同意する。 「ああ、警部さんも行って下さいますか。よし、それじゃみんなで行ってみましょう」  恭助は雀《こ》躍《おど》りせんばかりに、手を打って叫んだ。  こうして、五人の男女はそれからただちに、自動車を駛《はし》らせることになったが、それにしても、彼らの行手には、どのような恐ろしい事件が待ちかまえていただろうか。  それはさておき、代々木から渋谷の代官山といえば、ほんの目と鼻のあいだだ。 「お清や、お祖父さまがお建てになったという家は、どの辺なんだね」 「はい、もうすぐでございます。運転手さん、そこのところを左へ曲がって。——ああ、ここです。ここで自動車を停めて下さい」  案内人のお清の言葉に、一同はすぐ自動車を停めて降り立った。 「清や、そして、そのお屋敷というのは?」 「はい、お嬢さま、若旦那さまも皆さまもよくご覧下さいまし。あの樹の茂みの間から見えておりますお屋敷の格好を。——」  お清が何故か、感動に声を顫《ふる》わせて指さすかなたへ、何気なく目をやった一同は、そのとたん言い合わせたように、あっと叫んで二、三歩うしろへたじろいだ。  ああ、なんということだ。  おりからの薄月夜の空に、屹《きつ》然《ぜん》として聳《そび》えているその奇怪な館の格好は、たったいま、彼らがあとにして来た、雨宮邸とそっくりそのままではないか。  雨宮邸が付近でも、お船御殿と呼ばれるほど、特異な格好をした建物であることは、前にも述べておいたが、今、彼らのまえにのしかかるようにそそり立っているその奇怪な屋敷というのが代々木のお船御殿と寸分ちがわぬ外観をそなえているのだ。  船首のような格好をした二階のバルコニー、煙突型の展望台、マストのような屋上のアンテナ。ああ、人間に双生児があるように、建物にも双生児があったのだ。そして代々木のお船御殿と、代官山のこの怪屋とは、取りもなおさず、双生館なのだ。 「まあ、清や、これが——これがお祖父さまのお建てになった?……」  と、千晶は深い感動に、ほとんど口を利くことすらできなんだ。 「さようでございますよ、お嬢さま、大旦那さまは、何事もきちんとした事がお好きでございました。ですから、お屋敷をお建てになるにも、不公平のないようにとおっしゃって……」 「不公平?」  由利先生がすぐにその言葉を聞きとがめた。 「お清さん、それはいったいどういう意味だね」  と、訊ねかけたが、その時である。  二、三歩先きに立って、さっきから凝然と怪屋の表を打ち見守っていた恭助が、ふいに、 「あっ!」  と叫んで由利先生の袖を引っ張った。 「先生、あれをご覧なさい。あの塀《へい》のうえを」  唯ならぬその声に、由利先生も等々力警部も、さては千晶やお清まで、ぎょっとしたように傍の塀のうえをながめたが、そのとたん、一同はまたもや、なんともいえぬ恐ろしいことを発見したのだ。  コンクリート塀のうちがわから、太い松の木が枝をさしのべていたが、その茂みのあいだからさながら、蛍《ほたる》火《び》のような妖しげな光がボーッと洩れているのだ。そして、風が吹くたびに、その妖しい光は、ユラユラと鬼火のように、おりからの薄闇のなかにゆらめいた。 「歌川鮎子の衣装のきれはしですよ。ね、おわかりですか。鮎子はこの塀を乗り越えて、あの松の木を伝って、中へとびこんだのです。ほら、ご覧なさい、鮎子の衣装が擦れたのでしょう、塀の表も、極《ご》くかすかに光っているじゃありませんか」  昂奮に顫《ふる》える恭助の声を、しかし等々力警部は終わりまで聞いてはいなかった。いきなりつかつかと、門の側へ寄ると、激しく電鈴を鳴らしたのである。 殿下と恭助  今はもう疑いの余地はない。  鮎子がこの屋敷へ逃げこんだのだとすれば、アリ殿下こそ、鮎子の共犯者にちがいないのだ。そしてその共犯者とは取りも直さず風流騎士、あの柚木薔薇なのだ。  ああ、こんな意外な、こんな途方もないことがあり得るだろうか。千晶はまるで、魔酒にでも酔わされたような気持ちだった。  しばらくすると、門の中からさくさくと砂利を踏む音が聞こえて、やがて、ギイと重そうな音とともに、鉄門をひらいたのはヨボヨボの白髪の老人——しかし、これは間違いもなく日本人だった。  等々力警部が己れの身分を告げ、アリ殿下にお目にかかりたいと申し込むと、老人はしばし当惑したような顔をしていたが、それでも一度中へ引っ込むと、間もなく出て来て、無言のまま、こちらへという身振り。  老人にしたがって、玄関から中へ入った千晶はいよいよ驚いた。この館は外観のみならず、邸内の間取りから、飾りつけに至るまで、何から何まで、代々木のお船御殿の双生児なのだ。千晶がさながら、夢見る心地だったのも無理ではない。  いやいや、千晶ばかりではない、由利先生でさえも、あまり念の入ったこの怪屋の秘密に、いささか呆然とした態だった。おそらくこの時、少しの驚きも示さなかったのは、老女中のお清ばかりだったろう。  白髪の老人は、きょろきょろしている一同を促《うなが》すように、自ら先頭に立って階段をのぼりながら、こちらへと軽く手招きをする。  依然として無言のままだ。  その様子がいかにも、殿下のお目をさますことを懼《おそ》れているように見える。なるほど、広い邸内はシーンと鎮まりかえって、なにやら無気味な気配をさえ感じられる。  等々力警部は由利先生と思わず顔を見合わせたが、ポケットに手を突っ込むと、ピストルをぎゅっと握りしめ、それから、油断なくあたりの様子に気を配りながら、老召使いのあとについていった。むろん他の人々もそのあとからついていく。  老召使いは先きに立って、いちいち階段から廊下の電気をつけながら、やがて一同を案内したのは大きなドアのまえ。ああ、そのドアこそ、問題の裸女と怪人の部屋なのだ。  老召使いは静かにそのドアを左右に開くと、何やらわけのわからぬ言葉で部屋の中の人に告げ、それから一歩退《さが》って、一同に軽くお辞儀をする。 「殿下はこの部屋かね」 「は、お待ちでございます」  低い、ほとんど聞きとりかねるぐらいの返事。  一同は思わずシーンと身のひきしまる感じだったが、やがて、由利先生が先頭に立って部屋の中へ踏みこんだ。  と、その時、軽い衣《きぬ》擦《ず》れの音とともに、見憶えのある土耳古寝椅子から、つと身を起こされたのは、チョコレート色のあのアリ殿下。  殿下は椅子に腰を下ろしたまま、いかにも不審そうな、物問いたげな顔で、ジッとこちらを見ていられたが、その顔を、さっきからしげしげと打ち見守っていた千晶は、そのとたん、ふいによろよろとよろめくと、犇《ひし》とばかりに由利先生の腕を掴《つか》んだ。 「あ、違う——、こ、この方は、この間のアリ殿下じゃありませんわ」  咽《の》喉《ど》をついて、迸《ほとばし》るような千晶の声に、恭助がまずかっとしたように叫んだ。 「なに? 千晶さん、この人がこの間のアリ殿下とは違うんだって」 「ええ、ちがいますわ、ああ、あの髭から、お顔のご様子まで、ソックリそのままだけれど、確かにこの間のアリ殿下はこの方じゃございませんわ」 「バ、馬鹿な、ソ、そんなはずがあるもんか。千晶さん。君はどうかしているんだ。それとも君はそんなことを言って、この男をかばいたいのか」  恭助の瞳が、ふいに憎悪と軽蔑に燃えあがった。 「よし、そんなことをいうのなら、俺がこの男の面の皮をひん剥《む》いてやる」 「アレ、いけません。お兄さま、お兄さま、人違いです人違いです」  千晶が必死になって制すのも無駄だった。狂気のごとく昂奮した恭助は、千晶の手を振り払うと、いきなりつかつかと殿下のそばへ歩み寄ると、スックとそのまえに立ちはだかった。 「おい、殿下、アリ殿下さま、はははは、なんてえ面をしているんだい。鍋《なべ》墨《ずみ》なんか顔に塗りやがってよ。砂漠の王子様が聞いてあきれるぜ。どこでそんな狂言を仕組んできやがったのだ。ええおい、そう白ばくれても、ネタはちゃんとあがっているんだぜ。ひとつ、その鍋墨を落として、君の素顔を見せてくれよ。おい、風流騎士、可愛い俺の双生児よ」  ああ、なんという不遜な言葉だったろう。なんという傲慢無礼な態度だったろう。  しかし、恭助はいまや昂奮のために、スッカリ自分を忘れてしまったのだ。彼は歯を剥き出して嘲《ちよう》弄《ろう》し、手を拍って、相手を揶《や》揄《ゆ》する。  殿下はふいにすっくと椅子から起きあがった。その瞳は憤怒に燃え、その態度は傷つけられた王子の誇《ほこ》りに、獅子のようにブルブル顫《ふる》えている。  殿下はとつぜん、手を叩くと、何やらわけのわからぬ言葉で叫んだ。 「え? なんだって? そのチンプンカンはいったい、どういう意味だ。おい、我々の間で、通用する言葉で話そうぜ。日本語でな。よし、一つ、日本語で話せるようにしてやらあ」 「あっ、いけません、お兄さま!」  さっきから、ハラハラしながら、この場のなりゆきを見ていた千晶が、ハッとして叫んだが遅かった。  我れを忘れた恭助が、アリ殿下の体に躍りかかっていったそのとたん、彼の体はもんどり打って絨毯のうえに投げ出された。 「あっ!」  いつ、どこからとび出したのか殿下のまえには、あのモハメットが、さながら仁王様のように突っ立っているのだ。モハメット——そうなのだ。この間、劇場でアリ殿下のお供をしていたモハメット。  千晶はそれを見ると、思わず眩《めくるめ》くような気がした。モハメットがここにいる以上、あのアリ殿下はやっぱりこの間のアリ殿下であろうか。  モハメットが何やら大声で叫ぶと、すぐさっきの白髪の老召使いが入ってきた。老人はしばらくモハメットのまえにペコペコと頭をさげていたが、くるりと一同のほうを振りかえると、 「あなたはなんということをなさるんです。殿下に対して、そのような無礼な態度は、たとい警察の方だとて、許すことはできませんぞ」  等々力警部はすっかり当惑してしまった。  アリ殿下はまったくアリ殿下にちがいなかった。  殿下はたしかにアラビヤ人にちがいない。日本人、風流騎士の変装などではなかったのだ。等々力警部は、恭助のしでかしたこの無礼に対して、なんといっておわび申し上げてよいやら、スッカリ言葉に窮してしまった。  と、その時、横から静かにまえへ進み出たのは由利先生。 「いや、ご老人、たいへん無礼を働いてなんとも申し訳ありません。この男は、じつは非常な勘違いをしているんです。しかし、その勘違いは勘違いとしても、是非とも殿下にお訊ね申し上げねばならぬことがあります」 「いったい、そのお訊ねというのはどんなことですね。これ以上、殿下に対してご無礼はお許しすることができませんぞ」 「いや、これはけっして、殿下に対してご無礼なお訊ねじゃない。じつはこのお屋敷に、曲《くせ》者《もの》が忍び込んだ気配があるのです」 「なに、曲者?」  老人の面に、一瞬不安そうな表情がうごいた。 「そうです。先《せん》達《だ》って、殿下のご身辺を騒がせた、東都劇場の歌川鮎子が、このお屋敷に忍びこんだという疑いがあるのです」 「ほほう、それはまた異なこと。そしてまた誰がそんなことを申しました」 「いや、誰も言いはしませんが、このお屋敷の松の木に、鮎子の衣装のきれはしがひっかかっているのです」 「あっ!」  と、いう軽い叫びが老人の唇から洩れたが、すぐまた必死となってそれをおさえると、 「そ、それは大変だ、よろしい、それでは家捜しでもして戴きましょうか。そんな危険な人物がこの屋敷に忍びこんだとは容易ならん」  老人がいかにも泡を喰ったように叫んだ時である。突然、部屋の一隅から、けたたましい笑いが湧き起こった。  ぎょっとして一同がその方を見ると、笑っているのは恭助なのだ。  彼はさっきモハメットに殴り倒されたまま、まだ床のうえに腹這《ば》いになっていたが、まるで人を刺すような、皮肉な、高らかな笑いを笑いながら、よろよろと床から起き直ると、 「おい、爺さん、鮎子のいどころなら、何も家捜しするまでもあるまいぜ、ほら、鮎子はあすこにいるじゃないか」  恭助の指さすほうを振りかえって、そこにいる人々のすべてが、思わずサアーッと真っ蒼になった。 画面の血潮  さて、殿下にかまけて、いままでこの部屋の有様を述べる機会がなかったが、じつに、この部屋こそ、恭助の探ねる、あのもう一つの部屋だったのだ。そこには、絹代の日記にもあった通り、空色の絹を張った土耳古寝椅子もあれば、豪華なペルシャ絨毯もある。金箔塗りの二本の燭台もあれば、ルイ十四世風の背の高い椅子もある。そして、最後にあの奇怪な裸女と怪人の油絵だ。  つまり、その部屋こそ、双生館の中での双生部屋なのだが、いま、恭助が、高らかに勝利の笑いに酔い痴《し》れながら指さしたのは、じつに、あの奇怪な裸女と怪人の絵の表なのだ。 「ご覧なさい、あの裸女の胸もとを、あの胸もとから、滴々と滴《したた》っているのは、あれはなんだと思います。あれこそ、鮎子の血にちがいないじゃありませんか」  千晶は思わずハッと息をのみこんだ。  ああ、なんという奇怪な、壁いっぱいにかけられた、あの等身大の裸女の乳房のあいだから、滾《こん》々《こん》と溢れ流れている赤黒い血! さながら、怪人の爪に引き裂かれた、裸女の肉体から湧き出ているようにも見える血潮の河、もとより妖怪味をおびたその絵が、いっそうの奇怪さをおびて、ゾーッと総毛立つような恐ろしさなのだ。  一同はしばらく息をひそめて、画面を伝って流れ落ちる、その静かな流れを打ち見守っていたが、ああ、わかった! わかった! その絵の裸女の胸もとにあたるところには小さな破れた穴があいているのだ。そしてその穴から血潮が溢れているのである。ふいにつかつかと恭助がそのまえに駆け寄っていった。  と、あっという間もない。いきなり、裸女の乳房に爪をかけた恭助が、ピリピリとそれを引き裂くと見るや、そのうしろから、百鈞の重みをもって、恭助の体にのしかかって来たのは、あっ、まぎれもない歌川鮎子。 「あれえ!」  叫ぶと同時に千晶は思わず傍にいたお清のからだにしがみついた。  無理もない、鮎子の体は、ちょうど裸女の背後にあたる、壁の窪みに立てかけてあったのだが、それがよろよろと前のめりに倒れて来たさまは、おどろに振り乱した髪といい、青《せい》黛《たい》を塗ったように真っ蒼な顔といい、さてはまた、胸もとから滾々と溢れているあの恐ろしい血潮といいなんとも名状することのできぬほど、気味悪いながめだった。 「あっ、死んでいる!」  さすがに恭助も、いったんはうしろへとびのいたが、すぐまた、ぐったり床のうえにうつ伏しになった鮎子の体を抱き起こすと、思わずそう叫んだ。 「ダ、誰が鮎子を殺したのだ」 「誰が殺したんだって? キ、貴様が殺したのじゃないか」  降って湧いたような、鋭い声に、一同がハッとうしろを振り返ると、そこに立っているのは、あの白髪の老召使い。  老人は満身の憎悪と哀愁を瞳にこめて、烈々と恭助を睨《にら》んでいる。 「貴様が殺したのだ。東都劇場で貴様の放った一弾のために鮎子は生命をおとしたのだ。貴様こそ、鮎子を殺した犯人なのだ」  腸《はらわた》を断つようなその声、怒りに顫えるその眼《まな》差《ざ》し、いまにも、躍りかからんとする気構え。恭助は思わず二、三歩、たじたじとうしろへたじろいだ。 「ダ、誰だ、貴様は誰だ」 「ハハハハハ、俺が誰だかわからないのか、貴様の恋いこがれる双生児の兄弟、柚木薔薇」  あっという間もない。怪老人はふいにツルリと顔を撫でると、顔にかぶった白髪の鬘《かつら》を取りのけたが、世の中にこれほど恐ろしいながめがまたとあろうか。  鮎子の屍体を中にはさんで、深讐綿々たる眼差しで、きっと互いの顔を見据《す》えて立ったのは、似たというのもおろかなこと、それこそ二人の恭助、いやいや二人の柚木薔薇。どちらがどちらとも定めがたいほど、何から何まで寸分ちがわぬ二つの憎悪の化身なのだ。  あまりにも劇的な、この二人の出会いに、千晶はいうまでもなく、そこに居合わせた人々のすべてが、一瞬間、心臓の鼓動も停止するような、深い驚きに化石してしまったのも無理はない。  恭助は何かいおうとした。しかし、凄まじい相手の気《き》魄《はく》に圧倒されて、声も出ないのだ。まるで蛇《へび》に見込まれた蛙《かえる》のように、唯、身動きもしないで、相手の目の中を見返しているばかり。  喰うか、喰われるか、恐ろしく緊迫した一瞬、——だが、その緊張はまず、柚木薔薇のほうから破れた。  彼はふと気がついたように、殿下のほうへ振りかえると、恭《うやうや》しく頭をさげて、何か二言三言囁《ささや》いた。すると、いままでいかにも興ありげにこの場のなりゆきをながめていられたアリ殿下は、軽くうなずくと、すぐモハメットを引き連れて、その部屋から立ち去られた。  誰一人、それを止める者もない。 「殿下は何事もご存知ないのです」  その後ろ姿を見送りながら、薔薇は嘆息とともに呟いた。 「私はかつて、ベルリンで殿下と机を並べて勉強したことがある。また、ある時は、アフリカの狩猟にお供して、恐れながら、殿下のお生命をお救い申し上げたこともあるのです。殿下はその時のことをいつまでもご記憶あそばされて、少しばかり私に利用されることを、快くご承諾下すったのです。薔薇のアトリエから逃げ出した私は、上海へ渡ってはからずもそこで殿下にお目にかかり、その殿下の庇《ひ》護《ご》のもとに再び日本に舞い戻って来たのです。そして、殿下と私が体格好の似ているのを幸い、時には、殿下のお身代わりをお勤めすることさえ、お許し下すったのです」  千晶は思わず、チリチリと身を顫《ふる》わせた。ああ、そうすると、この間の晩、劇場からのかえりみち、しっかと自分の体を抱きしめたのは、この人の腕だったのか。 「柚木薔薇!」  その時、やっと我れにかえった等々力警部がそばへ歩みよった。 「貴様、覚悟はしているだろうな」 「わかっています、警部」  柚木薔薇はさもうるさそうに、警部の手を払いのけながら、 「もうこうなったら、逃げもかくれも致しません」  薔薇はひざまずいて、鮎子の額に軽く接吻した。 「可哀そうな鮎子。鮎子はついさっき、この屋敷へ逃げこんで来たのです。しかし、ここへ逃げこむのがやっとでした。鮎子はこの部屋へ入るなり、私の胸に抱かれて死んでしまったのです。私は取りあえず鮎子の体をこの絵のうしろへかくしたのですが、返す返すも、このことは殿下のご承知ないことですよ」 「わかっている。外国の貴賓にご迷惑のかかるようなことはしない」 「有難う、それをきいて安心しました。では参りましょう」 階段の奇計  まったくそれはあっけないほどの結末だった。  風流騎士ともあろう者が、こんなに簡単に兜《かぶと》を脱ごうとは誰が予期したろう。  いかに、鮎子の死に対する悲しみが深かったとはいえ、また、いかにアリ殿下に対する義理もあったとはいえ、今まで、あんなに逃げ回っていたこの男が、どうしてこうも神妙に警部の手に身を委《ゆだ》ねる心になったのであろう。  あるいは鮎子の死に会って、すっかりこの世をはかなんだのではあるまいか。いやいや、風流騎士ほどの人物が、そんなことで心を取り乱すとも思われない。何かしら、これらには深い魂胆があるのではなかろうか。  果たして、それから間もなく。  警部に手をとられた柚木薔薇は、あの大階段の上へとさしかかったが、その時、薔薇がふいに、 「おい、双生児の兄弟」  と、憎々しげに恭助のほうを振りかえった。 「なんだい」  恭助は何気なくその側へ寄っていった。 「ちょいとあれを見ろ!」 「なんだ。なにがあるんだ」  恭助は用心しながら、薔薇から少しはなれて、階段のうえに立ちどまった。その時、薔薇は手《て》摺《す》りの上端にある、青銅の置物によりかかっていたが、恭助と自分以外の、すべての人々の足が階段の上の廊下にあることを見届けると、とっさの間に、青銅の置物をぐいとばかりに押した。と、あっという間もない。  まるで鎧《よろい》扉《ど》をしめるように、階段がスーッと一枚の板になったかと思うと、 「あっ、しまった!」  恭助と薔薇の体は、さながら立板のうえを流れる二滴の水滴のように、もんどり打ってツツーと滑っていくと、そこには真っ暗な穴がパックリと口をひらいて待っているのだ。 「アレ、お兄さん、お兄さん」  千晶は地団駄を踏んで叫んだが、すでに遅かった。真っ暗な穴は二つの体を飲んだと思うと、またもや、覗きからくりの絵板をかえすように、カタリ、階段は一瞬にして、もと通りにかえった。  さあ、大変だ。 「畜生! 畜生! まんまと一杯はめやがった」  警部は地団駄を踏んで口惜しがる。由利先生はすぐさま、さっき柚木薔薇がやったように、青銅の置物をおさえてみたが、何か複雑な仕掛けになっていると見えてビクともしないのだ。  千晶とお清の二人は、真っ蒼になって、今二つの体をのみこんだ階段の廊下をながめていた。  と、そこへ騒ぎをききつけてかけつけて来たのは例の、色の黒いモハメット。  警部はすぐ、そのモハメットをとらえて、事のいきさつを語ったが、なにしろ言葉が通ぜぬからいっこう要領を得ない。ようやく手振り身振りで朧《おぼろ》気《げ》ながらも、出来事の意味を相手にのみこませることができたが、階段の仕掛けについては、モハメットは何事も知らぬらしい。  無理もないのだ。この屋敷を借りうけたのも、すべて柚木薔薇の指図だから、アリ殿下や、モハメットは何も知らないのである。 「等々力君、愚図愚図しちゃいられん。どうせあの穴は地下室へ通じているにちがいないから、一つその方を捜してみよう」 「よし!」  由利先生と警部の二人は、大急ぎで階段を駆けおりていったが、途中でふと気がついたように立ちどまると、 「千晶さん、あなたはお清さんと二人で、表に待たせてある自動車の中で待っていて下さい」  と、振りかえりざま由利先生が叫んだ。 「はい」  答えた千晶はもとより一刻もこんな家にはいたくない。お清の手をとり、逃げるようにその怪屋から表へとび出すと、待たせてあった自動車にとびのったが、生《あい》憎《にく》、運転手はどこへ行ったのか姿を見せぬ。 「お嬢さま、お嬢さま」  お清は目に涙をいっぱい浮かべると、いきなり犇《ひし》と千晶の体を抱きしめた。 「ああ、お気の毒な大旦那さま、可哀そうな若旦那さま。大旦那さまの昔の情けないお仕打ちが、いまになって、こんな恐ろしい出来事をうんだのでございますわ」 「お清や」  千晶はぎょっとしたように、お清の顔を見直すと、 「おまえ、それじゃあの人を——さっきの人を知っているの!」 「はい、存じております。あの人が大旦那さまを殺したのです。そして、若旦那さまもきっと今ごろは……」 「お清や、それはどういう意味?」 「はい、それは——」  と、いいかけたが、そのとたん、二人はぎょっとしたように、息をのんで向こうを見据《す》えたのである。  その時、薄ら明かりの月光を浴びた地上から、ムックリと湧きあがったかと見える一つの人影がよろばい、よろばいこちらの方へ近付いて来るのだ。  相手は何度か、地上にグッタリ倒れたが、やっと自動車のそばまで近付いて来たところを見ると、まぎれもなくそれは恭助だった。 「あっ、千晶さん、由利先生や等々力警部は?」  恭助は喘ぎあえぎ訊ねかける。 「あ、若旦那さま、早くお乗りあそばせ。またあいつが来ます。ああ、恐ろしい、早く逃げましょう。さあ、あなた、自動車を運転して下さいまし」  お清は傷だらけの相手の顔を見ると、夢中になって自動車からとび降りたが、その時である。  恭助はお清の言葉も待たず、いきなりパッと運転台へとび乗ると、つづいて乗ろうとするお清を突きのけておいて、ぐいとハンドルを回したから耐《た》まらない。 「あ、何をするのです」 「婆あ、俺が恭助に見えるかい」  ああ、その顔の恐ろしさ。  自動車の中にいた千晶は、一瞬サーッと冷水をあびせられたような恐ろしさをかんじて、いきなりハッと立ち上がったが、その時早く、取りすがるお清をつきとばした自動車は砂《さ》塵《じん》を巻いてまっしぐらに。—— 「婆あ、恭助にあったら言っといてくれ、鮎子の怨みはこの千晶でな。ハハハハハ」 「お嬢さま。お嬢さま! あれ、誰か来てえ!」  追いすがるお清を、見る見るうちに引き離して、自動車は間もなく、おりからの薄月夜の中をいずこともなく姿をかくしてしまったのである。 鼬《いたち》ごっこ  あっという間もなく、千晶はお清の面前から、まんまと風流騎士のために拉《らつ》し去られてしまったのだ。 「あれえッ! 誰か来て、来て下さいまし、お嬢さまが、お嬢さまが!」  お清のただならぬ叫び声をききつけて、まず一番に邸内から、よろよろと姿を現わしたのは、今度こそ、間違いもなく本物の恭助だった。みると全身埃《ほこり》まみれとなり、ところどころ鉤《かぎ》裂《ざ》きさえできているのは、風流騎士とのあいだに、よほど激しい格闘があったと思われるのだ。  恭助も一度はパッタリ地上に倒れたが、すぐに気力をとり直して、よろよろとお清の側に近づいて来た。 「お清や、どうしたのだ。あいつは——あいつはどこへ行った?」 「ああ、あなたは!」  と、叫んだものの、お清はあわてて二、三歩うしろへとびのくと、まるで化物をでも見るような目つきで、わなわなと顫《ふる》えながら、 「ああ、若旦那さま、あなたは本当の若旦那でございましょうね」 「何をいっているのだ。お清や、俺だよ。恭助がわからないのかい?」 「でも——でも——さっきあなた様だとばかり思っていたら——」 「え、なんだって? それじゃあいつが先に出て来たのかい? そしてお清、あいつは何《ど》処《こ》へいったのだ?」 「はい、お嬢さまを自動車に乗っけたまま、どこかへ連れていってしまいました」 「何、千晶さんを?」  ふいに恭助の髪の毛がピーンと逆立った。頬の筋肉が恐怖のために、ピクピクと激しく痙《けい》攣《れん》した。  恭助はいきなりお清にとびつくと、まるで噛みつきそうな荒々しい口調で、 「お清! お前どうしたんだ。お前というものが側についていながら、あいつに千晶さんを連れていかれるなんて! お清、貴様は木《で》偶《く》かい、人形かい、まさかあいつと共謀じゃあるまいな。ええい、なんという役立たずのくそ婆だ。もしも、もしも、あいつがほんとうのことを千晶さんに打ち明けたら——」  いいかけて、恭助はふいにハッとしたように口をつぐんだ。お清の大きく見聞かれた瞳が、じっと自分の面に注がれているのに気がついたからである。  恭助はにわかに狼《ろう》狽《ばい》したように、 「お清、ご免よ、つい気が立っていたものだから」 「いいえ」  お清の声は氷のように冷たかった。 「あたしはどうせ役立たずのくそ婆でございます」 「おまえ、憤ったのかい、少し言いすぎたかもしれないが、これも千晶さんの身を気遣うあまりだ。堪忍しておくれ」 「でも、あなた様はいまおっしゃいました。もしもあいつが本当のことを千晶さんに打ち明けたら——って。何か本当のことをいわれて悪いような、後ろ暗いことを、あなた様はなすっていらっしゃるのですか」 「僕が! そんなことをいったかい? 馬鹿な、それはお前のききちがいだよ。ああ畜生! 畜生! 今度こそあいつを取っちめてやったと思ったのに!」  恭助はいかにも口惜しげに、髪の毛を掻《か》きむしり、地団駄を踏んでみせたが、お清にはその時、恭助の態度に何かしら解《げ》せないものが感じられたが、それは何故だろう。  ああ、この時から、老女の胸には、得体の知れぬ妖しい黒雲がはびこってきたのだが、それはさておき、あたかもそこへあわただしく駆けつけて来たのは由利先生と等々力警部。  警部はお清の口から簡単に、事のいきさつをききとると、ただちに警視庁へ電話をかけて、逃げ去った自動車を取り押えるべく命令したが、さすがに敏速を誇るわが警戒網だ。問題の自動車が浅草付近に乗りすてられているのが発見されたのは、それからわずか半時間ばかりの後のことである。  この報告を手に入れると、警部は勇躍、浅草へ出向いていって、その付近を虱《しらみ》潰《つぶ》しに調べてみたが、間もなく次ぎのような事実が判明した。  千晶と風流騎士を乗せた自動車が、代官山を立ち去ってから二十分あまり後のこと、隅田公園の側のうすくらがりで、洋服姿の老紳士が、気を失った若い令嬢を小脇にかかえ、通りすがりの空車を呼びとめたというのだ。 「娘が急に気分が悪くなりましてな、困っております。麻《あざ》布《ぶ》までやって下さらんか」  老紳士はそういったそうである。  これが若い男女だったら、運転手も変に思ったに違いないが、相手が年の違う男女だったので、深くは怪しまず、老紳士に言われるままに、麻布の狸《まみ》穴《あな》まで送っていったというのである。  警部はこれを聴くと雀躍りせんばかりに欣《よろこ》んだ。老紳士とは疑いもなく風流騎士にちがいない。さっき脱いだ白髪の鬘をつけて、まんまと老人になりすましたにちがいないのだ。そして気絶した娘とは、取りも直さず千晶のことなのだ。恐らく千晶は麻酔剤をかけられて、睡らされてしまったのだろう。  警部はそこでただちに、その運転手の車にのって麻布狸穴まで駆けつけたが、ところが、ここでもまた同じようなことがあったというのだ。さっき二人を下ろしたという狸穴の通りを少し行くと、そこに一軒のガレージがある。念のために警部が訊ねてみると、果たしてそこへ、さっき気を失った令嬢をかかえた、一人の老紳士がやって来たという。そして、さっきと同じ口実で、品川まで自動車をとばしたということがわかった。 「畜生ッ、さては何度も自動車を乗りかえて、尾行をまくつもりだろうが、こうなりゃ、世界の果てまででも、追っかけて見せるぞ」  警部は非常な意気込みで、品川まで出向いていったが、果たしてそこでも、同じような二人を乗せたという、自動車の運転手を発見することができたのだ。 「で、どこまで二人を送りとどけたのだ」 「へえ、丸ノ内なんで」 「丸ノ内はどこだ」 「へえ、丸ノ内の警視庁なんで」  警部はそのとたん、思わずガクリと顎《あご》を垂らしてしまった。ああ、なんという大胆さ。風流騎士は警視庁を籠抜けの舞台にえらんだのだ。警部はそれをきくともうそれ以上追跡をつづける気力をすっかり失くしてしまったが、運転手は何かまた思い出したように、 「ああ、そうそう、旦那、その方にご用がおありなら、俺がちゃんとお名前を伺っておきましたから、これから行ってご覧なさいまし」 「何? 名前をきいたって」 「へえ、自動車からおりがけに、向こうさまからおっしゃいましたので。俺は捜査課の等々力警部という者だ。事故でも起こして困った時には、俺のところへ訪ねて来いって。へえ、もういたって気軽な、いい方でございましたよ」 「もうよい、もうよい」  警部がすっかりこの追跡を断念して、それから間もなく、警視庁へすごすご引き上げて来たことはいうまでもない。 愛染明王  こうして、風流騎士は千晶を拉《らつ》し去ったまま、まんまと姿をくらましてしまった。  アリ殿下もそれから間もなく、従者モハメットと乳母を引きつれ、倉皇としてこの国から立ち去られた。殿下についてはいろいろ解《げ》せぬ節もあり、少なくとも事情を知って風流騎士をかくまったという疑いが濃厚だったが、そこは外国の貴賓のこと、等々力警部の斡旋で無事に出発できるようお計らい申し上げたのである。千晶の消息はその後杳《よう》としてわからない。ひょっとすると、風流騎士がお清に毒《どく》吐《づ》いたごとく、歌川鮎子の怨みにと、あわれ、人知れず殺害されたのではあるまいか。  いずれにせよ、その後、風流騎士が鳴りを鎮めてしまった以上、さすがの名探偵、由利先生といえども、手出しをしかねたのも無理はなかった。こうして一〓月あまりの時日はべんべんとして過ぎていった。  ところが、十月の半ばころになって、ここにはしなくも奇怪な事件が持ちあがって、由利先生は思いがけなくも、再び風流騎士としのぎを削ることになったのである。いやいや、由利先生にとっては、それはまったく思いがけない出来事であったが、後から思えば、この怪事件というのは、すべて、風流騎士がある目的のために、ちゃんとお膳《ぜん》立てをしておいたのだ。いったい、彼の目的というのはなんであったか、それをお話するまえに、どうしてこの怪事件が、由利先生の懐中へとびこんで来たか、とそれからお話してかからねばならぬ。  ある日、麹《こうじ》町《まち》三番町にある由利先生の事務所兼邸宅へ、ひとりの老紳士が訪ねて来た。眉も髯も真っ白な、一見、田舎回りの日本画家というような風貌を持った老人である。通じられた名刺には、志《し》賀《が》観《かん》月《げつ》とあった。  観月老人は由利先生と初対面の挨拶をすますと、いきなり次ぎのように切り出した。 「紹介状も持参いたしませず、はなはだ失礼でございますが、じつは、ほとほと困却いたしていることがござりまして」  鹿爪らしい切口上だったが、この老人、喘《ぜん》息《そく》持ちと見えて、しきりにゼイゼイと咽《の》喉《ど》を鳴らしているのである。 「はあ、どういうご用件でございましょうな」 「じつは弟の奴は、こんなことで先生を煩わすなんて、恥ずかしい話だから止せと、こう申しますのですが、俺の身になってみると、やはり心配で、心配で……」 「弟さんと申しますと?」 「観《かん》風《ぷう》と申しましてな、俺と同じようなしがない貧乏画家でございますがな。はい、ほかに親戚とてはなく、兄弟ふたりきりで暮らしているのでございますが、いや、弟の申しますのも無理はないので、今までのところ、別に何を盗られたというわけでもありませんので……」 「はあ、すると事件というのは剽《おい》盗《はぎ》か何か、そういう種類のもので。……」 「さようで、それがまたまことに奇妙で……」  老人の常として話がなかなか中心に入らぬが、由利先生は別にもどかしくも思わず、 「よろしい、で、そのお話というのを承りましょうか」 「はい、じつは、古い仏像などを多少集めておりますのが自慢でございましてな」 「なるほど」 「ところで、最近、某所から入手いたしましたものに、一体の愛《あい》染《ぜん》明《みよう》王《おう》がございますので」 「愛染明王?」 「はい、ご存知でもございましょうが、三目怒視、六臂《ひ》の明王で、息災、利福を司《つかさど》ると仏教の方では申しております。俺が手に入れたのは唐銅作りの明王でございますが、これを手に入れてからというもの、なんともはや、怪しからんことがたびたびございますので」  観月老人がゼイゼイと咽喉を鳴らしながら話すところによるとこうである。  観月老がその仏像を手に入れてから三日目の朝、弟の観風老が何気なく仏像をおさめてある蔵の中へはいって見ると、驚いたことには、見知らぬひとりの男が、その愛染明王のまえで、息もたえだえに倒れているのである。見ると、その男は非常に強力な手で咽喉をしめつけられたらしく、首には紫色の指の痕が残っていた。風態から見ると、浮浪人ともいうべき人物で、不穏な兇器など携えているところを見ると、どうやら窃盗の目的で忍びこんで来たらしい。しかし、調べてみたところ、別に家の中に紛失した物とてはなかった。  兄弟はそこですっかり困《こん》惑《わく》してしまった。あくまで隠《いん》遁《とん》的な兄弟は、警察などへ知らせて、平静を掻きみだされるのを好まず、幸い、生命に別条ないのを確かめて、こっそり泥棒の体を街頭付近へ置いて来たというのだ。 「それが最初の災難で、ところが、それから一週間ほど後のこと、また、同じような出来事がございましてな」  このたびは夜中に観月老が目をさました。と、例の蔵の中で、何やらゴトゴトと怪しい音がするのである。先日のこともあるので、又もや泥棒かと老人が胸を轟かせていると、そのとたん、恐ろしい悲鳴がきこえて来た。 「俺はもう怖くて、怖くて、夜具を頭からかぶったまま、お念仏を唱えておりましたが、そこへ弟も声をききつけてやって来たので、やっと勇をふるって、二人して手燭を片手に蔵の中へ入ってみると、あなた、やっぱりこの間と同じ場所に、人がひとり倒れておるじゃごわせんか……」 「前のと同じ男ですか」 「いいえ、それが又別人なんで」 「その男も咽喉をしめられていたんですね」 「はい、前とそっくり同じ指の痕がついておりました」  由利先生はにわかに興を催したらしく、 「いったい、その愛染明王というのは、貴重なものなんですか」 「いやいや」  老人はあわてて手をふると、 「それが、もう古いというだけで、大した作ではないのでございましてな。もっとも出来は印度あたりではないかと思いますが」 「なるほど、それで二度目の泥棒はどうしました」 「いや、それがやっぱり弟の主張で、まえのところへこっそり運んでいって置いて来たのでございますが、——別に生命には別条なく、間もなく息を吹き返して立ち去ったのでございましょう、妙な評判もありませんようで」 「それで、私にどうしろとおっしゃるのですか」 「いや、じつは」  と、老人はゴシゴシ長髯をこすると、激しく空咳をしながら、 「はなはだご苦労でございますが、一度俺の宅までお運びを願って、よく調べて戴きたいので。いったい、貧乏な我々兄弟のところへ、何用あって一度ならず二度までも、泥棒の奴が推参するのか、また、誰があのように泥棒の咽喉をしめあげるのか、俺はもう、それを考えると気味が悪うて、気が狂いそうになりますのじゃ」  老人は今更のごとくピクピクと咽喉仏を顫わすのである。由利先生はじっとその面を注視していたが、やがて決心したように、 「よろしい、それではすぐにお伺いして、よくその仏像を拝見してみましょう」  と、言いきって立ちあがった。 風流騎士  さて、志賀観月老人の住居というのは、雑《ぞう》司《し》ケ谷《や》の奥の、一見、化物屋敷を思わせるような古屋敷だった。  観月老人が由利先生を案内した時は、弟の観風も外出中らしく、玄関には厳重に戸締りがしてあったが、老人は構わず、裏の勝手口から由利先生を中へ招じ入れた。雨戸をしめきった家の中は、だだっ広いばかりで、まるで空家のように荒果て、歩くたびにピタピタと畳が足の裏に吸いつく気味悪さ。 「どうぞ、こちらへ、何しろ掃除がいきとどきませんので埃《ほこり》まみれでございますが」  廊下づたいに土蔵の戸前まで来ると、老人はそういいながら、大きな南《なん》京《きん》錠《じよう》をはずし、窓を開き、みずから先に立って中へ入ると、窓の鎧扉をひらいたが、その途端、さすがの由利先生もウームとばかりおったまげてしまった。  薄暗い、埃まみれのその土蔵の中は種々様々な仏像でいっぱいなのだ。忍辱柔和な観世音菩薩がおわしますかと思うと、鬼面人を驚かすグロテスクな歓喜天の秘仏もある。白象に跨《またが》った普賢菩薩の隣には、一身三面の阿《あ》修《しゆ》羅《ら》大王、全身赤色で左手に青蛇を握った深沙大将がかっと目を瞋《いか》らせているその下には、花も恥らう美しい稚《ち》児《ご》文《もん》殊《じゆ》、さすがに蒐集家をもって任じているだけあって、珍奇、異様な仏像がところ狭きまでに並んでいるその光景は、なんともいいようのないほど、気味悪くもまた妖怪じみたものだった。 「なるほど、これはよく集められましたね」 「なに、閑と根気で集めたのでござりますが、大したものはございません。これが、いまお話いたしました愛染明王で」  主人の指すところを見れば、なるほど、一隅に鎮座ましますは、光焔中に趺《ふ》坐《ざ》した愛染明王、全身赤味をおび、目は三つ、一眼は額の中央に縦にきれており、腕は六本、それぞれ杵《きね》、鈴、弓、箭《や》、蓮華など握っている。大きさは人の高さほどもあろうか。 「で、曲者の倒れておりましたのは」 「はい、このお膝のすぐ下でございます」 「ウーム」  と、由利先生、しばらく左端から仏像をと見こう見していたが、何を思ったのか、突然、あっと呼《い》吸《き》をのんで目を光らせた。 「ご老人、あなたはこの仏像をよくお調べになったことがありますか」 「はい、かなり入念に調べたつもりでございますが、何か不審な点でも」 「そう、たとえば縦に切れているあの第三眼だが、あれをどうお思いになりますか」 「どうといって別に……」 「ご覧なさい、あの目は他の二眼とちがって、妙に美しい輝きをもっているではありませんか。ほら、視角をかえるたびに、紅、黄、紫とさまざまに美しい光を放ちます」 「そう言えばそうですな。いや近ごろの人間というものは、心なき事をするもので、誰か後からガラスを嵌《は》めこんだと見えますじゃ」 「ガラス? ご老人はガラスとお思いですか」 「え? ガラスじゃないので」 「そうですとも、ガラスがあのような微妙な光を放つでしょうか。閃《せん》々《せん》たる光沢、炎《も》えるような色沢。ご老人、泥棒が覘《ねら》っているのは、愛染明王のあの第三眼にちがいありませんよ」  老人はふいにガタガタと顫《ふる》え出した。咽喉がゼイゼイ鳴って、額にはいっぱい汗がうかんできた。 「すると、すると、あの粒はもしや……」 「ダイヤです。しかもあの大きさ、この色沢、稀代のダイヤモンドです。しかもご覧なさい、あの石が少しばかり緩《ゆる》んでいるのは、二人の泥棒があれに手をかけた証拠ですよ」  あっと叫ぶと同時に、観月老人、われを忘れていきなり、仏像の第三眼にとびついたが、その途端、じつに変《へん》梃《てこ》なことが起こったのだ。  老人が夢中になって、額のダイヤを弄くっているうちに、空に捧げた明王の第五臂と第六臂が、生あるもののごとく、スルスルと下へおりて来たではないか。 「危い!」  由利先生の老人を突きとばすのがもう少し遅かったら、老人は必ずや、二人の泥棒と同じ運命に陥っていたに違いない。老人の体が風のように床のうえにけし飛んだとたん、仏像の腕がカッキリと、前にいる者の首をしめるように、胸のまえで組み合わされたのだ。 「ああ!」  老人は思わず長髯をふるわせて叫んだ。 「わかりましたか、二人の泥棒の咽喉をしめたのは、取りもなおさず愛染明王ご自身でした。誰かがこのダイヤを守るために、仏像にこういう恐ろしい仕掛けをしておいたのですね」  由利先生の話のあいだに、いったん、胸のまえに組みあわされた仏像の二本の腕は、再びギリギリとうえに戻っていく。  それを見ると観月老人、今更のように恐ろしそうに身顫いをしたが、しかし、これだけの事なら、奇怪事には違いなかったが、由利先生にとってほんの一小事件にすぎなかったであろう。  ところが、それから間もなく、観月老人がよろよろと起き上がった床の上を見て、由利先生はおやとばかりに眉をひそめた。そこには真紅な花が一輪落ちているのだ。そうだ、その花はさっき振り下ろされた愛染明王の掌《てのひら》からこぼれ落ちたものなのだ。しかし愛染明王の捧ぐる花ならば、当然、蓮華であるべきに、これはまた、なんと真紅な薔薇の花。 「ご老人、あなたが蓮華と摺《す》りかえたのですか」 「どう致しまして、俺はそのような花、見たこともございません」  老人はなんとやら腑《ふ》に落ちぬ面持ちだ。 「お宅にはこのような花が咲いていますか」 「いいえ、弟も俺も、こんなハイカラな花より、萩桔《き》梗《きよう》のほうの趣味でございまして」 「なるほど」  いいながら、その花を注視していた由利先生、ふと花弁のあいだに挿んである、真紅な紙片に気がついて、何気なく取り出したが、 「ああ、やっぱり風流騎士の仕業だ!」  そのとたん、大声に叫んだのである。  真紅な紙片の上には、金文字も麗《うる》わしく、  ——十月十五日夜十二時、愛染明王のダイヤ頂戴に推参仕るべく候。  署名はないがこの薔薇の花、これぞ風流騎士が久しぶりの登場予告なのであった。 罠《わな》  さあ、大変だ。  何も知らずに手に入れた仏像の目が、稀代のダイヤであったというさえ、物静かな老人を動《どう》顛《てん》させるに十分だったのに、さらにそのダイヤを、風流騎士が覘《うかが》っているとあっては、観月老人が、肝《きも》を潰したのも無理はなかった。  人間誰しも欲のないものはない。一見、物欲から超越しているように見えるこの老人も、いったん、自分のものとなったダイヤを手離したくなかったのも人情である。 「さあ、大変だ。さあ、大変だ」  観月老人が由利先生の存在さえうち忘れ、今にも泣き出さんばかりに喚き散らしながら、土蔵の中をぐるぐる歩き回っているところへ、おりよく帰って来たのは弟の観風老。  観風老は兄とは似ても似つかぬ禿《はげ》頭、猫背の老人で、黄色い顔はツルリとして髭もなく、バセドー氏病でも患っているのか、唇のひん曲がっているのが、なんとなく異様な感じを与える。目には度の強い老眼鏡をかけ、こればかりは兄と同じ遺伝をうけているのか、ゼイゼイと絶えず咽喉を鳴らしながら話をする男である。  観風も兄の口から事のいきさつをきくと、すっかり肝を潰したらしく、目を丸くして、 「十月十五日ですって? すると兄さん、今夜じゃありませんか」 「そうじゃ、だから俺も困っているのじゃ。お前も知っての通り、俺は今夜どうしても大阪のほうへ旅立たねばならぬ用件がある。といって、お前ひとり残しておくのも心配だし」  と、観月老人はいまにも泣き出しそう。 「何、そりゃここに由利先生もいらっしゃるから、先生に残って頂けば……」 「そう願えますかな」 「ええもう、お望みならね」  由利先生は何故か気のない返事をした。 「しかし、たった二人じゃやっぱり心配じゃ。何も先生を信用せぬわけじゃないが、相手が何しろ名うての強盗じゃからな」 「そうですな。といって、警察へ頼むのも虫が好きませんし」  観風老人、よほど警察嫌いと見えるのだ。しばし思案をしていたが、ふと思い出したように、 「ああ、いい人がある。由利先生、あなたのご存知の人物です。あなたからひとつ、その人にお願いしてみて下さらんか」 「誰ですか、等々力警部ですか」 「いいえ、雨宮恭助君です」 「ほほう、恭助君を?」  その途端、由利先生の面上には、さっと緊張のいろが現われた。今まで、気のない相《あい》槌《づち》をうっていた由利先生は、この一語によって、にわかに日ごろの活気を取り返したらしくさえ見えるのだ。 「そうです、私は新聞を読むのが好きでしてな。風流騎士の事件なら細大洩らさず知っておりますが、恭助という人は、風流騎士に深い怨みを持っていて、いつかあいつを捕えてやろうと意気込んでいるというじゃありませんか。そういう方に来て戴いたら、こんな心丈夫なことはありません。ねえ。兄さん」 「よろしい。じゃ恭助君を呼びましょう」  由利先生はにわかに活気に満ちた返事をした。  それから間もなく恭助は、由利先生の電話によって、この家へ飛んで来たが、話をきいて彼がいかに勇躍したか、今更ここに述べるまでもあるまい。ことに仏像の秘密を解き明かされた時には、彼は雀《こ》躍《おど》りして欣《よろこ》んだ。 「で、風流騎士もその秘密を知っているのでしょうか」 「さあ、それはよくわからない」 「もし、あいつが知らないと、こんな屈強な罠《わな》はないのだがなあ。ダイヤに手をかける。仏像の腕にしめつけられる。そうなるとしめたものだが」 「そうならなくても、捕えて戴かねば困りますよ」 「大丈夫、あいつには重なる怨みの恭助です。今度こそ、きっと捕えねば肚の虫がおさまりません」  さて、それから間もなく観月老は、後事を託して出ていったが、後にはこのだだっ広い屋敷に三人きり。変わりやすい秋の空は、夜が更《ふ》けるころより、細かい雨を降らして、老人が自慢の萩桔梗を濡らしはじめた。  何しろ、場所が雑司ケ谷の奥と来ているので、その静かさ、淋しさはいうばかりもない。もしも風流騎士をとらえるという緊張がなかったら、恭助はとうていこの退屈に耐えられなかったにちがいない。 「さあ、今のうちにめいめいの持ち場を定めておこうじゃありませんか」  観風老人がこんなことをいい出したのは、夜食も終わった十時ごろ。 「雨宮さん、あなたは一番お若いから、土蔵の中で、あの愛染明王のうしろにひそんでいて下さい。それから由利先生、あなたは土蔵の入口の見える離れの書院のかげにかくれて下さい。私は庭の周囲を見張っています」  これではまるで観風老が探偵長みたいだが、恭助にはもとより異存はない。由利先生は何故か、時々、驚異にみちた眼《まな》差《ざ》しで、老人の横顔をぬすみ視《み》るばかり、黙々としてその命令に従っている。  こうして、めいめいの持ち場が定まって、己れのところへ退ったのはかれこれ十一時、灯を消してしまった屋敷中まっくらな中に、ひとしお濃い暗闇に包まれたこの土蔵の中、その闇の底にあの気味悪い相好をした仏像どもが、声なき息《い》吹《ぶき》をつづけているのかと思うと、恭助もけっしてよい気持ちではない。  それにしても奇怪なのは今宵の冒険、由利先生が間にいるというものの、見ず知らずの他人の家で、風流騎士を待ちうける仕儀となった今夜のいきさつが、恭助にはなんとなく腑《ふ》に落ちなくなってきた。  ひょっとすると、罠は風流騎士にではなくて、かえって自分のために張られているのではなかろうか、そんなことを考えると、ゾーッとにわかに冷たい汗が背筋を伝わった。  と、この時、どこやらでドシンという音、あっという低い叫び、ハッとした恭助が思わず呼《い》吸《き》をのんだとたん、 「チェッ、兄貴の奴、こんな処へ詰まらぬ石を置いとくものだから、もう少しで足を挫《くじ》くところだったわい」  庭のほうではブツブツ呟く観風老人の声、どうやら石に躓《つまず》いて倒れたらしい。柔らかい土を踏む音がしだいに遠退いて、あたりはまたもやもとの静けさ。  と、この時、どこやら、チン、チン、チンと、時計が鳴り出した。  十二時。  恭助が思わず息をのんだ時、ふいにギイと軋《きし》るような物音、土蔵のドアが外から、ソロソロ開かれたのである。 邪悪の微笑  恭助はにわかにガタガタと膝頭が顫《ふる》え出した。覚悟のうえとはいえ、咽喉がカラカラに乾いて、今にも心臓が破壊しそうだった。  扉の隙間は一寸、二寸としだいに大きくなっていく。やがてその隙間からボーッと黄色い光がさし込んで来た。 (ああ、いよいよ来た! それにしても由利先生や観風老人はいったい何をしているのだろう)  思わず叫び出しそうになる唇へ、あわてて掌を押しあてたとたん、ぬうっと土蔵の中へ入って来た顔は、なんだ、観風老人ではないか。老人は片手に手燭をかかげ、片手にドアをしめると、ゆっくりあたりを見回したが、その顔には奇妙な微笑がうかんでいた。  恭助は耐《たま》りかねて仏像の陰からとび出した。 「ご老人、どうしたんです。なんだって今ごろここへ入って来たんです」 「ああ、雨宮さん、ご苦労さま、なに、約束の刻限ですからね」  観風老人はすましたもの、平然として扉の内側から錠をおろしている。 「あ、ご老人、錠をおろしてどうするのです」 「どうもしませんさ、邪魔が入るといけないからね、ほら、由利先生や観風の奴がね」 「なんだって?」 「おいおい、恭助、俺の顔を見忘れたのかい。約束の十二時に、俺がやって来たんだぜ」  あっと叫んで恭助は、思わず二、三歩うしろへとびのいた。髪の毛が一時にピーンと逆立って、全身の毛穴という毛穴から、どっとばかりに冷たい汗が吹き出した。  手燭をかざした観風老人の顔が、そのとたんにガラリと変わったかと思うと、恭助は闇の中に、ハッキリと自分と同じ顔を見たのだ。  ああ、彼奴だ風流騎士だ! 「ははははは、驚いたかい? 意外なところで会ったね。君がこの家へやって来たのを見た時にゃ、さすがの俺も奇遇に一驚したぜ。まあ、ゆっくり話をしようや」  風流騎士は手燭を床のうえにおくと、勿体なくも普賢菩薩の膝に腰をおろした。 「観風老人——? 観風老人はどうしたのだ?」 「あの老《おい》耄《ぼれ》かい。あいつは庭の古井戸にブラ下がっているよ。どうだい、俺の変装術もまんざらのものではなかろう」 「由利先生! 由利先生!」  恭助は必死となって叫んだ。 「馬鹿だなあ。先生はよくお寝みだよ。さっきお茶をさし上げたら、それを飲んでぐっすりお寝みだ。少々薬を利かせておいたのでね」  ああ、なんという事だ。恭助は今やまったく孤立無援、この薄気味悪い土蔵の中で深讐綿々たる人間とさし向かいになったのだ。 「き、貴様は俺をいったいどうする気だ」 「おいおい、それはこちらのいう台詞《 せ り ふ》さ、俺はこの仏像に用があってやって来たのだ。それを君の方で邪魔に来たのじゃないか」  ああ、あのダイヤ! 相手がもしあのダイヤに手をかけたら——そうすれば自分はこの劣勢から立ち直ることができるのだが。 「何を考えているんだね」 「い、いいや、何も考えてやせん」 「ははははは、隠しても駄目さ、恭助君、君が唇をそういう風にピンとめくりあげた時には、必ず狡《こう》猾《かつ》なことを考えている証拠だと、千晶さんがそういったぜ」  さあーッと恭助の面から一時に血の気がひいた。彼はカラカラに乾いた唇を舐《な》めながら、 「貴様は、貴様は千晶さんをどうしたのだ!」 「千晶さんは健在だよ。おやおや、健在ときいて真っ蒼になったね。君の表情はまるで千晶さんが死んでいる事を祈っているみたいだぜ」  恭助はにわかに狼《ろう》狽《ばい》して、 「バ、馬鹿な! そ、そんな事があるものか。いったい千晶さんはどこにいるのだ。それを言え」 「うん、教えてもいい、だがそれよりはどうだ。俺と一緒に行かないか」  恭助はそれをきくと、再びギクリとした表情をした。いったいこれはどうしたというのだ、今宵の恭助はまるで被告みたいで、かえって風流騎士のほうが、彼の死活を握っているように見えるではないか。恭助はいったい、何をあのようにビクビクしているのだろう。 「ははははは、俺と一緒にいくのは厭か。なるほど貴様一人であの人と会って話をつけたいのだな。貴様は俺が千晶さんに、何かよけいな事を喋舌《 し や べ》りはしないかと、それでビクビクしているのだろう」 「馬鹿な、俺は何も怖れることはない」 「そうか、それなら結構」  風流騎士はやおら立ち上がると、あの愛染明王の方へ歩いていった。  ああ、今や彼はあのダイヤに手をかけようとしている。手をかければ何もかもおしまいだ。そのまえに、千晶の居所を聞いておかねば。……恭助は思わず手に汗を握ったとたん、風流騎士がジロリとこちらを振り返った。 「どうしたんだ、おい、何故そんな妙な表情をしているんだ」 「い、いや、なんでもない」  恭助は思わず首筋の汗を拭った。 「なんでもない? なんでもないことがあるものか。ほらほら、また唇がピーンとめくれ上がってきたぜ、ははははは、そうか、千晶さんの居所を聞きたいのだな。あの人の事を知りたかったら、これからまっすぐに吾《あ》妻《ずま》橋《ばし》の東詰めへ行ってみろ。そこで兎口の婆さんがいるからな。そいつに聞きゃよくわからあ」 「しめた!」  と、恭助は二重の歓喜に思わず声を立てるところを、危く制御した。千晶の居所がわかったことと、もう一つは、ああ、今や風流騎士の指先が、あのダイヤにかかったではないか。  と、そのとたん、ガーッという物音。あっという間もなかった。唐銅の二本の腕が発《はつ》矢《し》と下ってきたかと思うと、なんという見事なからくり、まるで釘抜きのようにしっかと風流騎士の咽喉をつかんだのである。 「ははははは、かかった! かかった! 態《ざま》ア見ろ、由利先生が眼覚めるまで、しばらくおとなしくしていろよ。ところで千晶さんの居所は、吾妻橋の東詰めにある兎口の婆さんに聞きゃわかるんだな。よし、これからいって話をつけて来らあ」 「あ——待て——貴様——それでは——」  切れ切れに叫ぶその声も、しだいに細って、やがてぐったり、愛染明王の腕の中にブラ下がった風流騎士の顔を、じっと見守っていた恭助の面には、その時、なんともいいようのない、薄気味悪い微笑がうかんできた。上唇がピーンとまくれ上がって、ニューッと覗いた二本の犬歯、ああ、この微笑だ! いつか、雨宮老人が殺される間際に見た、犯人の微笑!  だが、その微笑は一瞬にして掻き消えた。  恭助は土蔵を出ると、離れ座敷に眠っている由利先生を尻眼にかけ、それから暗い雨をついてまっすぐに吾妻橋へ。——  それにしても、恭助は千晶を救いにいくつもりなのだろうか。それとも、ああああ、さっきのあの微笑が示していたように、何かしら邪悪な目的があるのではあるまいか。  いったい、恭助は双仮面のうち善か悪か。 怪船風流丸  風流騎士、柚木薔薇は、まんまと愛染明王の罠におちてしまった。そして、彼の口から千晶のありかを知って恭助は、何を思ったのか、唇のはじに奇妙な微笑をうかべて、いま、いっさんにその許へ駆けつけようとしている。  だが、恭助が立ち去ったその直後のことだ。観風老人の蔵の中では不思議なことが起こったのである。  愛染明王の鋼鉄の腕に、咽喉をしめられて、ぐったりと気を失っているはずの風流騎士が、にわかにかっと両眼を見ひらいたのだ。しばらく彼は、明王の腕にぶら下がったままの姿勢で、じっと、遠ざかりゆく恭助の足音に耳をすましていたが、ふいにニヤリと微笑をもらすと、片手を伸ばして明王のお腹のあたりを探りはじめた。と、その指先にふれたのは、乳首ほどの小さい突起、ぐいとばかりにそれを押すと、不思議不思議、がっきりと咽喉をしめていた二本の腕が、音もなく、スルスルと離れていったではないか。  ああ、すると彼はあらかじめこの仏像の仕掛けを知っていたのだろうか。しかし、知っていたとすれば、どうしてあのように、罠にかかったのだろう。  それはさておき、風流騎士はしばらく苦しげに咽喉を撫でながら、ゴホン、ゴホン、と軽く咳をしていたが、やがてシャンと体を伸ばすと、たった今恭助が出ていった、あの戸口からソッと外へ忍び出したのである。  さっきから見ると、雨もよほどひどくなったらしい。ザアーッと庭樹の葉を鳴らして降りしきる音をききながら、暗い渡り廊下を通って、離れ座敷へ来てみると、そこには由利先生が雷のような鼾《いびき》をかいて、前後不覚に眠りこけているのだ。  風流騎士はそっとその側を通り抜けると、やがて、嵐のように土砂降りのなかへとび出していったが、——と、その時だ。いままで正体もなく眠りこけていた由利先生が、ふいにヌーッと鎌首をもたげたではないか。  先生もしばらく、風流騎士の足音にじっと耳をすましていたが、やがてそろそろと庭へおりると、おりからの闇を幸い、これまた、巧みに相手を尾行しはじめたのである。  ああ、これはいったいどうした事だ。  恭助と風流騎士と由利先生、この三人が三人とも、今夜はめいめい腹にいち物、何かお芝居をしていると見えるのだ。狐と狸《たぬき》の化かし合い。そうなのだ。しかしこの場合、一番化かされているのは果たして誰だったろう。  それはさておき、最初に雑司ケ谷をとび出した恭助が、それから間もなく人目を避けてやって来たのは吾妻橋、時刻はすでに夜中の一時をすぎて、まっくらな川のうえには、土砂降りの雨が滝のような音を立てていた。  恭助は帽子を眉深かにかぶり直し、レーンコートの襟《えり》を立てて、橋の前後を見回したが、雨の夜更けのこの橋のうえ、犬の仔一匹通らない。街灯ばかりがいやに白々と、降りしきる雨のなかに煙っているのである。 (はてな、欺《だま》されたかな?)  そう考えると恭助は、瞬間サーッと土色になったが、その時ふと彼の目にうつったのは、橋の下にブランブランと揺れている赤いカンテラだ。東の橋詰めに、一艘のモーター・ボートが人待ち顔にうかんでいるのである。  吾妻橋の東詰め! そうだ、あのボートかもしれない。——恭助は大急ぎで川ぶちから、石段をおりていったが、と、ボートの中からカンテラを掲げてヌーッと立ちあがったのは、ああ、まぎれもない兎口の醜い老婆だった。 「旦那様、たいそうお早うございまして」  あたりの様子を窺《うかが》いながら、低い声でボソボソ囁《ささや》くのは、どうやら、風流騎士と間違えているらしい。恭助はこれ幸いと、 「うむ」  と、軽くうなずいて、 「千晶は?」  と、訊ねてみる。この一言が運命の岐《わか》れ路とおもえば、さすがに心臓がドキドキと鳴って、われ知らず言葉がふるえたが、老婆は別に気にもとめず、 「はいはい、お待ちかねでございますよ」  と、にやにやと淫《みだ》らな微笑をうかべている。 「よし、それじゃこれからすぐに帰ろう。婆さん、案内しな」 「はいはい、出発の用意はちゃんとできておりますよ。どうぞお乗りなすって」 「よし」  言葉少なに恭助がとび乗ると、 「さあ、若い衆、やっておくれ」  老婆の命令一下、ハンドルを握った若い者が、ぐいと舵《かじ》を回せば、モーター・ボートはダダダダダと、凄まじい音を立てて、早一散に下流のほうへ走り出したのである。  恭助はそれを見るとにわかに不安がこみあげて来た。モーター・ボートなどで、いったいどこへ連れていこうというのだろう。ひょっとすると自分は、とんでもない罠に落ちているのではあるまいかと、急に、不安が募ってきたが、まさかに老婆に行先をきくわけにもいかない。  ええい、ままよ、いけるところまでいってみろと、ようやく性根をすえていると、ボートは雨にふくれた隅田川の流れを蹴って、しだいに下の方へくだっていったが、やがて、やって来たのは佃《つくだ》島《じま》のほとり、この辺まで来ると、東京湾のほうから吹きつけて来る風が、ゴーッと凄まじい音を立て、横なぐりに降りつける雨と潮の飛《ひ》沫《まつ》が、真っ向からかぶさって来る。 「ああひどい時《し》化《け》だ」  思わず呟《つぶや》くと、 「なに、もう少しの辛抱でございますよ、お帰りになれば、美しい方が待っていらっしゃるのだから、お楽しみなことですわ。ほんに、旦那みたいな、果報者はありゃしない。ほら参りましたよ」  老婆に、軽く背中を叩かれた刹那、モーター・ボートがにわかにスルスルと速力をゆるめて、どんとばかりにぶつかったのは、とある岸壁に横着けになった小汽船。老婆のかざしたカンテラの光に、何気なく船腹の文字を読んだ恭助は、思わずドキリと胸を波打たせた。  雨にぬれた船腹には、まぎれもなく、  風流丸——の三文字が。…… 千晶の恋  警視庁が躍《やつ》起《き》となって、風流騎士の行方を捜しても、今までついにその消息がわからなかったのも無理はない。彼はこのような汽船で、逃避行をつづけていたのだ。しかし、それにしても、風流丸とは、なんと人を喰った名前だったろう。 「婆さん、舟の中には千晶のほかに誰かいるかい?」  恭助は驚きのあまり、思わず声を立てるところを、やっと押えてこう訊ねた。 「あれまあ、旦那、お忘れになっちゃいけませんわ。さきほど、今夜はひまをやるから、みんな外へ遊びに出ろとおっしゃったのは、あなた様じゃございませんか」 「おお、そうそう、そうだったな。では、船の中には、千晶ひとりだな」  しめたというような表情だったが、老婆はそれに気もつかず、 「はい、そうでございますとも。ほほほほほ」 「で、お前たちはこれからどうするつもりだ」 「はいはい、わたしたちも旦那のお気さえ変わらなかったら、今夜は久しぶりでゆっくりと、陸で寝たいと思っておりますの。さきほど旦那がおっしゃって下すったように」 「おお、そうか、それじゃそうするがよい」  恭助は斜めにかかった鉄《てつ》梯《ばし》子《ご》に足をかけたが、ふと思い出したように、 「だが、そのボートはなんとかして、おいて貰いたいな。お前たちが帰って来るまえに、また上陸することがあるかもしれんからね」 「あれ、ボートならもう一艘、いつものところに繋《つな》いでございますのに」 「おお、そうか、よしよし、で、こうっと、千晶の部屋は、ああ、あれだったな?」 「はい、いつものところでございますよ。旦那どうなすったのでございますよ。そんなにお呆けなすっちゃいやですわ」 「ははははは、まあいい、それじゃお前たち気をつけていけ」 「はい、ではご免下さいまし、旦那、どうぞごゆっくりと、ほほほほほ」  老婆の淫《みだ》らな嬌声とともに、モーター・ボートはくるりと向きをかえて、ダダダダとエンジンの音を響かせながら、闇のなかを立ち去った。そのあとを見送っておいて、恭助は鉄梯子をのぼっていく。  横なぐりに吹きつけて来る風雨は、いよいよ勢いを増して、ゴーッと斜めに黒い縞《しま》をつくっている。船腹にぶつかっては、ざあーッと飛び散る波の音も物凄く、暗い海の遠くのほうで、燈台の灯がくるくると回転しているのも、なんとなく、無気味な予感をそそるのだった。  甲《かん》板《ぱん》までのぼってみると、赤いシグナル灯が唯ひとつ、雨にぬれそぼれてポッカリとついているばかり、なるほど、みんな上陸したあとらしく人の気配もない。まるで、船全体が暗い廃墟のようなかんじなのだ。  風雨にもまれながら、恭助はやっと艙《そう》口《こう》を見付け出した。狭い階段をおりていくと、ほのぐらい廊下に、ひと筋の灯がこぼれている。 (これだな!)  さすがそのまえへ立った恭助は、ちょっと緊張に頬の筋肉を固くしたが、やがて、思いきって、トントンと軽くノックする。  と、中から聞こえて来たのは、さやさやという軽い衣《きぬ》擦《ず》れの音、床を踏む柔らかい足音。 「どなた?」  その声を聞いたとたん、恭助は思わずドキリとした。あまりにも静かな、いや、静かというよりは、甘えるような声音なのだ。 「僕だよ、入っていい?」 「あら、ちょっと待って。いま、すぐ開けますわ」  あわただしい衣擦れの音がしたかと思うと、やがてがちゃりと音がして、ドアがうちがわから開かれた。と、そのとたん、プーンと鼻をつく芳香とともに、パッと恭助の眼底にとびこんできたのは、ああ、絶えて久しい千晶の艶姿なのだ。  それにしても、風流騎士のかくれ家において、誰がこのように、美しくも楽しげな千晶の姿を見ようと期待したろう。彼女はいままでベッドのうえに横になっていたにちがいない。薄桃色のパジャマのうえに、艶《なま》めかしいナイト・ガウンを羽織って、悪戯っ児らしくパチパチと瞬《またた》く瞳、こぼれるような愛嬌を湛《たた》えた唇、その表情には、微塵も苦悩や悔恨のかげはない。いやいや、以前よりもいっそう美しく、そして世にも幸福そうに見えるのだ。 「まあ! どうかなすって? どうしてそんなにあたしの顔ばかり凝《み》視《つ》めていらっしゃいますの」  と、さっと含《はじ》羞《らい》にかおを紅らめる可愛らしさ。しかも溢れるようなこの媚《こ》びは、むろん、相手を恭助と知ってのことではないのだ。千晶の幸福の対象は、じつは、怪盗風流騎士にあったのだ。  恭助は面喰ったように、パチパチと瞬きをした。女の秘密を覗《のぞ》かされた時にかんずる、あのなんともいえぬ妬《ねた》ましさに、むらむらと胸をこがしながら、それでも表面だけは何気なく、 「なあに、あなたが、あんまり美しいからですよ」  と、思わず舌なめずりをする。 「あら、あんなことをおっしゃって。まあ、中へお入りになりません」  千晶はそっと恭助の腕に手をおいたが、 「まあ! あなた顫《ふる》えていらっしゃいますのね。あら、この濡れようったら! いけませんわ。こんな雨の日に、いったいどこへいってらしたの。あたし心配で、碌《ろく》に瞼《まぶた》もあわぬくらいでございましたわ」 「入っても構いませんか」 「ええ、どうぞ」  恭助は狡《ず》るそうに、微笑うと、千晶の肩を抱いたまま、部屋の中に入って来た。 「待っていらっしゃい。いま、温かい飲物をあげますから」  千晶がまめまめしく、アルコール・ランプに火をつけて立ち働く姿を、恭助はしばらく世にも不思議そうな目をしてながめていたが、ふと、思い出したように、 「ああ、そうそう、千晶さん、今夜は面白いことがありましたよ」 「あら、面白いことってなあに?」 「じつはね。ほら、ご存知でしょう? 僕の双生児……」 「まあ、それじゃ、あの人を——」  千晶はにわかにさっと蒼《あお》褪《ざ》めると、 「でも、まさか——まさか——」 「大丈夫、殺しゃしませんよ。殺しゃしないが、それ以上の恥辱をあたえてやりましたよ。ははははは」  恭助は咽喉のおくのほうで、奇妙な笑い声を立てた。 「まあ、いけませんわ。あなたは、もう、あの事には絶対に手出しをしないとおっしゃったじゃありませんの、もしものことがあったらどうなさいますの。あたしもう、あの人のことなんかどうでもいいのよ」 「千晶さん、あなたはどうして自分の従兄をそんなに嫌うのですか。そして、何故、風流騎士に対してそんなに親切にするんです。風流騎士こそ、あなたのお祖父さんを殺した男ですよ。そして、いまにもあなたを殺すかもしれない男ですよ。あなたはそんな事を考えてみたことがないのですか」 「ほほほほほ、あなた、どうかなすって? 今夜に限って、何故そんなことおっしゃるの? ええええ、あたし何も考えませんのよ。考えることはとうの昔に止してしまいましたの。あなたは何も話して下さいませんわね。でも、あたしにはちゃんとわかりますのよ。お祖父さまを殺したのは風流騎士じゃございませんわ。女の直感がそれを教えてくれますのよ。お祖父さまを殺したのは……」 「誰です? 誰だというのですか?」  恭助はにわかに険しい表情をして詰め寄った。千晶はいぶかしそうにその顔を見守りながら、 「ええ、お祖父さまを殺したのは、あたしの従兄の恭助……あれえっ!」  何を思ったのか、突如千晶は、真っ蒼になって恭助の腕からとびのいた。 仮面落つ  意外、意外! 千晶は雨宮老人を殺した犯人は従兄の恭助だという。彼女はずっと前から、鋭い女の直感でそれを知っていたのだ。  そして、その言葉も終わらぬうちに、彼女は真っ蒼になって、恭助の腕からとびのいたのである。 「千晶さん、ど、どうしたのです」 「あなた? あなたですの?」  千晶はおびえたように、歯をガタガタと鳴らせながら、 「だって、だって、いやな表情なさるんですもの、そ、そんな表情止して、何故そんな冗談をなさいますの、あ、あの人そっくりだわ!」 「ははははは!」  恭助は咽喉のおくのほうで、声のない笑いを笑った。と、唇がふいにピーンとまくれ上がって、あの恐ろしい二本の犬歯がニューッと顔を出す。千晶はまたもや、わっとばかりにベッドにかじりついた。 「あ、あなたは、あなたは……冗談でしょう。ねえ、冗談なんでしょう」 「はははは、何故これが冗談でなければいけないのです」 「な、なんですって?」  千晶は魂消えるように絶叫したとき、どこか近くのほうで、ダンダンダンとモーター・ボートの音が聞こえてきたが、それも束の間、ざーっと船腹を打つ波の音とともに、アルコール・ランプの炎が激しく揺れる。 「おい、千晶さん、僕が誰だかわからなかったのかい、お祖父さんを殺したと同じように、この僕が、風流騎士に化けてやって来ると考えなかったのかい?」 「ああ!」  千晶はよろめくようにベッドから立ち上がった。全身これ、恐怖と憎悪の化身なのだ。 「それじゃあなたなのね。ああ、恭助兄さん、あなたは悪魔です。鬼です。ええ、あたしはちゃんと前から知っていましたわ。ただ、ただ証拠がないばかりに誰にもそれを話さなかったのが、ああ、今となっては口惜しい」 「ふふん、すると証拠さえあれば僕を売るつもりだったんだな。そして貴様は、あの風流騎士とやらに首ったけなのだな」 「あたし、あの方がどういう方かちっとも存じません。でも、あの方は親切で侠気のある方ですわ。あの方があたしをここへかくしたのも、ひょっとすると、あなたに殺されるかもしれないと思ったからですわ。いいえ。あの方はひと言もそんなことおっしゃいませんけれど、あたしにはよくわかるんです。ああ!」  千晶はふいに犇《ひし》と両手で顔を覆うと、 「あの人をあなたはどうなすったの?」 「ふふふ、あいつのことが気になるかい。あいつはな、捕えられて豚箱にはいるだろうよ。どうせあいつは風流騎士という大それた強盗さ。ついでに人殺しの罪を背負ったとて、世間では別に怪しみもしないぜ。有難いことさ。雨宮万造殺しに、緒方絹代殺し、それから最後に千晶殺しか。ははははは!」  ああ、悪魔はついに仮面を脱いだのだ。それにしてもなんという奇怪さだろう。今までいっぱんの人が信じているように、風流騎士が恭助の仮面をかぶったのではなく、反対に、恭助こそ風流騎士の仮面をかむっていたのだ。 「ああ、あなたはなんという悪党でしょう。いいえ、あたしは殺されても構いません。でも、あの人だけは助けて——あの人だけは」 「ふふふ、そんなにあいつが可愛いかい。それを聞いちゃいよいよ助けるわけにはいかないぜ」  叫んだかと思うと、恭助はいきなりパッと千晶めがけて躍りかかって来る。気味の悪い邪悪の微笑が、ヌッと千晶の顔のうえにのしかかって来たかと思うと、やにわに匂いの高いハンケチがしっかと彼女の鼻孔をふさいでしまった。 「あれえ! あ、あ、あ」  千晶はしばらく、じたばたともがいていたが、やがてボーッと目のまえがぼやけてくると、ぐったりと恭助の腕にもたれかかった。 「ふふふ、これでよし。お前さんがこの船から行方知れずになれば、もう誰もあいつの言葉なんか信用するものはありゃしない。どれ、お前さんをちょっと片付けておいて、それからもういちど雑司ケ谷へひっ返そうか。いい具合に、あのへっぽこ探偵もお寝み中と来てやがらあ。ははははは、有難い倖《しあわ》せさ」  恭助は軽々と千晶の体を抱きあげると、大急ぎで甲板へあがっていったが、そのとたん、彼はぎょっとしたように立ちどまった。  誰か鉄梯子をあがって来る!  千晶の体を抱いたまま、彼はさっと、暗い物陰に身をひそませたが、鉄梯子をあがって来たのは、思いがけなくも風流騎士、柚木薔薇ではないか。  この時ばかりは、さすが兇悪無《む》慙《ざん》な恭助も身の毛が逆立たんばかりの恐怖にうたれた。 (しまった! やられた!)  そういう感じなのだ。どうして相手があの頑丈な愛染明王の腕からのがれることができたのか、想像もつかなかったが、考えてみると今宵の風流騎士はあまりにも脆《もろ》かった。  罠だったのだ! 自分をここへ誘《おび》きよせ、千晶のまえで、うかうかと何もかも喋舌《 し や べ》らせるようにあいつが仕組んだのだ。——恭助は全身の毛穴から、さっと熱湯が迸るような恐怖にうたれたが、幸い、相手は気がつかずに、急ぎあしに船室へおりていく。  その隙に、恭助は千晶の体を抱いたまま、ダダダダと鉄梯子をおりていった。幸いそこには、今風流騎士の乗りすてていったモーター・ボートが、暗い波のうえに揺れている。ひどい嵐だ。風と雨が矢のように頬をうつ。恭助は千晶の体をボートの底に投げこむと、自分もあとからとびのった。そして方角も定めずに、滅茶滅茶に闇の中へと乗り出したのである。  こちらは風流騎士の柚木薔薇、階段の中ほどまで来ると、ふいに烈しいエンジンの音が聴えてきたから、はっとして甲板へとび出して見ると、いましも隅田川の荒波に揉《も》まれながら、木の葉のように疾走していくモーター・ボートの主がちらと、その瞳にうつった。 「しまった! 遅かったか!」  叫ぶとともに鉄梯子をとんでおりたが、肝腎のモーター・ボートがない。愚図愚図しているうちに恭助は、千晶をつれて逃げてしまうだろう。ああ、どうしようどうしようと、風流騎士の柚木薔薇が、地団駄踏んで口惜しがっているところへ、あたかもよし、ダダダダと波を切ってこちらへ近付いて来た、一艘の汽艇がある。  汽艇は呼ばれるまでもなく、スルスルと汽船のそばに横着けになると、 「乗りたまえ!」  中から半身乗り出して叫んだのは、思いがけなくも由利先生! 風流騎士は一瞬はっとしたが、今はもう躊躇しているべき時ではなかった。無言のまま、ひらりと跳びのるとほとんど同時に、汽艇は掃海灯で泡《あわ》立つ波を掃きながら、前のボートを追っかけてまっしぐらに。 呪われた双生児  灯台の灯がくるり、くるりと旋回する。  隅田川から海へ出ると同時に、横なぐりの風雨はいよいよ激しくなって、暗い水のうえには、白い波頭が泡のように鎌首をもたげている。その中をモーター・ボートと汽艇とが、木の葉のように揉まれ、揉まれて弧を描いていくのだ。  あたりは墨を流したような暗黒の大海原。むろんこの嵐のこととて、行交う船とてもないが、折々どこやらで、ボーボーと霧笛を鳴らす音がする。 「先生、先生、救けて下さい。あのモーター・ボートには千晶さんが乗っているのです。あいつは千晶さんを殺そうとしている。畜生! この汽艇はなんというのろさだろう」  頭からかぶる波を意にも介さず、柚木薔薇は必死となって、舷から乗り出していた。由利先生も喰い入るような眼差しで、じっと前方の闇を見据えている。 「柚木君!」  ふいに由利先生が鋭い声でいった。 「君は何故、もっと早く俺のところへ来てくれなかったのだね。今夜もし、千晶さんの身に、何か間違いでもあったら、みんな君の責任だぜ」  柚木ははっとしたように、由利先生の顔を振りかえった。しかし、先生は依然として、舵輪を握りしめたまま、前方の闇を凝視しているのだ。 「それじゃ、先生は何もかもご存知だったのですか」 「うん、知っていた。いや、千晶さんの態度から感付いたのだ。女の本能は鋭敏なものだ。女の本能が、どうやら従兄を疑っていたらしいので、俺も内々あいつに目をつけていたのだ」  ゴーッと嵐が渦を巻いたので、由利先生の言葉はしばし途切れたが、すぐまた、舵輪を握ったまま、 「柚木君、今夜の愛染明王の事件は、ありゃみんな君の書いた狂言だね」 「あ、先生、先生はそれもご存知ですか」 「ふふふ、それくらいのことがわからないでどうする。いったいあの観月老人というのは君の乾《こ》分《ぶん》かい」 「いや、あいつは何も知らないのです。ただ、僕の頼みを引きうけて、あのようなでたらめの話を先生のところへ持ちこんだのです」 「おやおや、俺こそいい面の皮だ。二人の泥棒がしのびこんだのと咽喉をしめられていたのと、うまうま引っ張り出されてしまったが、しかし柚木君、あの観風老はなかなか傑作だったぜ。俺だって、君が雨宮恭助のことをいい出すまでは気がつかなかった。君があの男に来て貰いたいと言い出したとき、はじめてはっと気がついたのだ」  由利先生はくすくすと笑うと、 「それにしても随分ご念のいった狂言だね。どこであんなネタを仕込んで来たんだね」 「先生、僕はどうしても、恭助の奴を千晶さんのところへ誘《おび》き出したかったのです。そしてあいつが千晶さんを殺そうとするところへおどりこんで、あいつの面の皮を、ひん剥いてやりたかったのです。そうでもしなければ、僕の潔白は証明しようがないのですからね。ご存知のとおり僕は出るとこへ出るというわけにはいかぬ体、それに、あいつと来たら悪魔のように利《り》巧《こう》な奴ですからね」  むろん、これらの対話は、ここに記すように、落着いて、順序立って話されたものではなかった。二人の会話はしばしば、嵐の音や、波の響きで掻き消されたり、とぎれたりしたのだ。しかも、二人は一方では、片時もモーター・ボートから目を離すことができなかった。しかし、ここでは、もう少し二人に話をつづけさせることにしよう。この会話のうちにこそ、世にも恐ろしい双仮面の秘密が解き明かされているのだから。 「柚木君、君と恭助とのあいだには、いったいどういう繋《つな》がりがあるんだね。まさか、君たちの相似は偶然ではあるまいね」  由利先生は依然として、舵輪を握ったままなのだ。しかもその目は一時たりとも前方のモーター・ボートから離れない。柚木薔薇とても同じこと。彼は全身濡鼠になりながら、舷側から離れようとはしない。 「先生、あいつと僕とは双生児なのです」 「ああ、やっぱり……」 「そうなのです。僕も雨宮万造の孫なのです。我々の父は、祖父の気に入らぬ女と結婚して家を出《しゆつ》奔《ぽん》しました。そして、恭助と僕の双生児がうまれたのです。頑固な祖父はむろん、己が気に入らぬ女と結婚した父などを、かまいつけようとはしない。とうとう父は陋《ろう》巷《こう》で窮《きゆう》死《し》しました。そうなると祖父もいくらか悔恨に責められたのか、それともまた、同じころ次男のほうも、千晶さん一人を残して死んだので、急に男の肉親が欲しくなったのか、われわれ双生児の兄弟をひき取ろうと、母のもとへ申し出たわけです。しかし、母がどうしてそれを肯《き》きますものか、祖父の情ない仕打ちを、真底から怨んでいた母は、われわれとともに姿をくらまそうとしたのですが、恭助のほうだけが、祖父の手に奪いかえされたわけです。これがわれわれの生まれて間もない時分のことで、爾《じ》来《らい》、恭助と僕とは相見ぬこと十何年、お互いにそういう兄弟があるとも知らずに過ごして来たのです」  ああ、なんという不思議な兄弟、なんという奇妙な血縁の争闘だったろう。双生児とうまれ、人一倍睦《むつ》みあうべきこの二人は、うまれながらに引き離され、互いに仇敵として憎みあわねばならなくなったのだ。 「母は僕が四つの時に死んだので、僕も最近までは、自分の身にそんな恐ろしい秘密があろうとは、夢にも知りませんでした。それを知ったのはつい去年のこと、祖父の雨宮万造が、とうとう僕を探りあてて、突如訪ねて来たからです。祖父もしだいに年をとるにつれて、昔の頑固の角が折れるとともに、不当に捨ておかれたこの僕が可愛くてしかたがなかったにちがいありません。恭助や千晶さんには内緒で、しばしば僕のところへ会いに来ましたが、そのうちに、財産の半分は僕にわけてやろうという、いや、そればかりか、代々木のお船御殿とそっくりの家まで建て、それを僕にくれようというのです」  ざあーっと、波の飛沫がしばし彼の話を途切らせたが、やがてまた言葉をつぐと、 「この祖父の申し出でが、もう一年早かったら、僕も喜んでそれに応じたでしょう。しかし、その時にはもう遅かったのです。僕があの奇怪な職業、闇の取引きをはじめたのが、ちょうどその半年ほどまえのことでしたからね。僕は祖父に迷惑をかけたくなかった。それで祖父の親切を片っ端から拒絶してしまったのです。すると、それがかえって祖父の気に入ったらしく、しまいには恭助に譲るべき分まで僕にくれようという、その時分、僕にもよくわかりませんでしたが、祖父は何か、恭助のうちによくない性質を発見したらしく、非常に憤慨していたことがありましたっけ」  そこまでいって、柚木は淋しげに笑い声を立てると、 「そういう僕の性質だって、はっきり祖父が認識したら、きっとびっくりしたにちがいありませんがね。我々は結局双生児、同じ血が流れている二つの仮面、双仮面なんです」 「なるほど、それでわかった。恭助は遺産の分配から除外されることを懼《おそ》れて、それで雨宮老人を殺害したんだな」 「そうなのです。きっと祖父の態度が急によそよそしくなったことから、しつこく祖父の行状を探りはじめたに違いありません。そして、はじめて僕という存在を知り、すると、あいつのことだから、持ちまえの陰険さで、僕の秘密をすっかり探りあて、それで、今度のこの大陰謀の筋を書いたにちがいありません。つまり、あいつは僕が出るところへ出て、身の潔白を証明することのできない体だということを、ちゃんと勘定に入れていたんです」 「しかし、雨宮老人が殺された日、君自身、やっぱりあの家にいたのはどういう理由だね」 「贋《に》せ手紙に誘《おび》き出されたのです。バルコニーの側で待っていろという祖父の手紙にうかうか欺《だま》されたのが運のつきです。だしぬけに警官から誰《すい》何《か》された時、脛《すね》に傷持つ身の、理由もわからず逃げ出したのが、第一の失敗でした。その間にあいつは、自分で自分を縛りあげ、薬《くす》玉《だま》の中に潜りこんだばかりか、僕のところから盗んでおいた伝書鳩に、証拠のダイヤまで結びつけて放ったのです。ああ、なんという奸《かん》智《ち》に長《た》けた奴でしょう。あいつのやった仕事はそればかりではありません。東都劇場の暗がりで、緒方絹代を吹矢で殺したのもあいつです。また、双生館の秘密をあらかじめ知っていて、わざと絹代を、お船御殿の同じ部屋へひっぱりこんだのもあいつです。あいつのやり方は万事、一応は自分に疑いがかかるように仕組んでおいて、いざとなると、それをぶっ毀《こわ》すという、一番狡猾なやり口なんです」 「そうだ。俺もそれに気がついていたのだ。ああ、もう少し早く、君がそれを告白してくれたら!」  由利先生が臍《ほぞ》をかむように言ったのも無理はない。今や、千晶の身辺には刻々として危険がのしかかって来ているのだ。見よ! 彼らの前方には、狂気の悪鬼に拉し去られた千晶のモーター・ボートが、木の葉のように翩《へん》翻《ぽん》として揺られているではないか。  危い! 危い!  この嵐の中を、モーター・ボートのような小舟で、どうして無事に乗り切ることができようぞ。幾千、幾万とも知れぬ白蛇の頭が、次から次へと頭をもたげるように、果て知れずつながった白い波頭の鋸《のこぎり》の歯を、二艇の舟はいまにも沈みそうになりながら、喘《あえ》ぎ喘ぎ進んでいく。  と、その時、ふいに向こうのほうから、嵐をついて凄まじい叫び声が聞こえて来た。 「おや、どうしたのだ」  由利先生はぎょっとしたように、前方に目を据《す》えたが、と見れば、今まで気違いのように疾走していたモーター・ボートが、ぴたりとある一点に静止して、ゆらゆら波間に揺れているではないか。 「しめた、あまりエンジンを無理したので、故障を起こしたのだ」  由利先生が叫んだ時である。ふいにざんぶと水煙をあげて、海の中へとびこんだものがある。 「あっ、誰かとび込んだぞ」  ダダダダとエンジンを鳴らせて近寄りざま、由利先生はさっと掃海灯を水のうえに流したが、見ると、その光の中に、浮きつ沈みつ、流れているのは、まぎれもなく女の姿である。 「あ、千晶さんだ! おい、柚木君、早くそれを拾いあげろ」  先生の言葉を待つまでもない。舷側から手をのばした柚木薔薇は、矢《や》庭《にわ》に千晶の体を、水の中から拾いあげたが、その時だ、突如物凄い音響とともに、ざあーっと青白い火柱が、空中高く吹きあげたが、それとともに、恭助の乗ったモーター・ボートは、木っ端微塵となって、嵐の中に散乱したのである。 最後の惨劇  まったく危い一瞬だった。  もし千晶のとびこむのが、もう一瞬おくれていたら、彼女の体も恭助とともに、木っ端微塵となって空中高く吹きあげられていたことだろう。しかし、後になって彼女の語ったところによると、千晶は自分で海へとびこんだ覚えは少しもないという。して見ると、恭助が彼女を投げ落としたとしか思われなかったが、それにしても、彼は何故、千晶を死出の道連れにしなかったのだろう。  いやいや、恭助自身、果たして海の藻《も》屑《くず》と消えたのだろうか。その後、随分執拗に、その辺いったいの掃海が行なわれたが、しかし、ついに彼の死骸を発見することができなかった。おそらく、彼の体は、鱶《ふか》の餌食となったか、それとも外海遠く流されてしまったのだろう。  だが、そんなことはどうでもよかった。  長らく世間を騒がせていた、雨宮老人殺しの犯人が、意外にも孫の恭助であったことがわかった時の世人の驚き! いやいや、そればかりではない、恭助は風流騎士の影まで背負わされてしまったのだ。なんという皮肉なことだろう。風流騎士に三重殺人の罪を転嫁しようと計った恭助は逆に身におぼえのない、風流騎士の罪まで引きうけさせられる破目になったのだ。  これには柚木薔薇も当惑して、たびたび、このからくりの主謀者、由利先生に対して抗議することがあったが、先生はいつも笑って取りあわなかった。 「風流騎士は雨宮恭助とともに死んでしまったのだ。ね、それでいいじゃないか。君にゃ千晶さんという美しい佳人が残っている。あの人を失望させるわけにはいかないよ」  由利先生は諭《さと》すようにそういったが、しかし、由利先生ともあろう人が、いささかこれは片手落ちなやりかただった。罪はやっぱり罪なのだ。恭助のみを罰して、柚木薔薇を罰せぬというのは、はなはだ怪しからぬ仕打ちといわねばならぬ。  しかし、何も知らぬ乳母のお清は、せめて双生児の片方でも、悪人ではなかったということを、わがことのように喜んだ。千晶はそれと感付いていたけれど、女というものは、だいたい、愛情のまえには盲目になってしまうものだ。彼女はわざと、この新しい従兄の過去には目をつむってしまった。大抵の女のうちにある美しいロマンチシズムが、かえっていっそう相手を讃美させたのかもしれない。  こうして、彼らはしだいに親しくなっていった。そして、とうとう二人の結婚式の日取りが発表されたのは、恭助が非業の最期を遂げてから、半年ほど後のことである。  そして、今日はその当日。—— 「お清や、お清や、あの方、もうお支度はおできになって?」 「はいはい、さきほど立派な殿御振りになられたのを、この乳母も拝見いたしましたよ。ほんにお嬢様のお美しくなられたこと、誰が見ても似合いのご夫婦でございますわ」 「お清や、そんなことはどうでもいいの。あの方、いまおひとりでいらして?」 「はい、あの、それがどうかしまして」 「あたし、なんだか今日は胸騒ぎがしてなりませんの。あたしさっき見たのよ、恐ろしい顔を——」 「恐ろしい顔ですって?」 「ええ、顔いっぱい、大きな痣《あざ》のある恐ろしい顔よ、その顔が庭からこちらを覗《のぞ》いて通るのを見たのよ」 「まあ、お嬢様ったら、あれは近ごろ雇い入れた庭師ですよ。顔はあんなに恐ろしくても根はいたって、物柔らかな男ですから何も心配はいりませんのですよ」 「そう」  千晶はそれでもなお、不安そうに、今日を晴れと美しく化粧のできた眉に皺《しわ》を刻みながら、 「あたし、なんだか心配で耐まらない。ひょっとすると恭助兄さんが生きていて、今日の式場へ——」 「あれ、まあ鶴亀鶴亀! そんな阿呆らしいことがございますものか」  と、お清は強いて言葉を強めたが、彼女もまた、フーッと暗い顔になった。  しかし、それから後は、千晶のおそれているような事は何事もおこらなかった。間もなく式の時刻になる。いい忘れたが、式は極く内輪にというので、自宅の一室がそれにあてられ、その席に連らなる人も極く少数だった。  千晶は生前、祖父雨宮老人が起居していた日本座敷へ入ると、そこの床の間に飾ってある老人の写真に、嫁ぐ前の挨拶をして、それから静々と、式場の日本間へ入っていったが、見ると、そこには今宵の花婿も、心持ち蒼白んだ顔をして控えていた。  やがて、三々九度の盃なのだ。雄蝶雌蝶が、銀の盃と提子をささげて、静々と二人のまえに現われる。——と、この時だった。 「あ、千晶さん、どうしたのです。その血は?」  と、末座から叫んで、いきなりつかつかと近寄って来たのは由利先生。その声に、はっと一同が振りかえると、ああ、なんということだ、汚れに染まらじと洗いあげた白《しろ》無《む》垢《く》の裲《うち》襠《かけ》に、点々として血の飛沫がついているではないか。端然と静座していた花婿も、それを見ると、はっと土色になった。 「千晶さん、いったいどこでそんなものをつけて来たのです」 「だって、だって先生、あたし覚えがございませんわ」  千晶はガタガタと歯を鳴らしながら、滅入りそうな目つきをした。ああ、やっぱり今日の胸騒ぎは当たっていたのだ。何かして不吉なことが起こるにちがいない。 「覚えがなければ、思い出して下さい。あなたはご自分のお部屋を出られてから、どこを通りましたか」 「はい、お祖父さまのお写真にご挨拶に参りましたわ。あ、そうだわ、あの時、鎧《よろい》櫃《びつ》にこの裲襠がさわったのを覚えているけど」 「あ、それだ!」  由利先生はぱっと座敷を蹴って立ち上がったが、何を思ったのか、いきなり猿《えん》臂《ぴ》を伸ばして、ぐいとばかりに花婿の腕をつかんだ。 「君も一緒に来たまえ」 「あら、先生!」  千晶はいよいよ真っ蒼になった。花婿の頬に、どうしたものかいっぱい汗が浮かんでいるのが、はっとばかりに彼女の胸を打ったのだ。  由利先生はその言葉にも耳をかさず、ぐいぐいと花婿の手を引いて、雨宮老人の部屋へ来たが、ああ、もう間違いはない。床に飾った鎧櫃から、滴々として血の滴が垂れているではないか。 「誰か、その鎧櫃の蓋を取って見て下さい」  シーンとした声だった。何事が起こったのかと、ゾロゾロと式場からついて来た人々も、一瞬間、気圧されたように顔を見合わせていたが、やがてその中から抜け出したお清がわななく指で、鎧櫃の蓋を取った。  と、そのとたん、わっと叫んで人々は、思わず二、三歩うしろへとびのいたのである。無理もない。そこには花婿と寸分ちがわぬ容貌を持った死骸が、蝋のように冷たい色をして蹲《うずく》まっていたではないか。 「ああ、この人は——」 「千晶さん、お気の毒ですが、あなたのご主人になるべき人は、この鎧櫃の中の死骸です」 「そして、そしてこの人は?」 「いうまでもなく、東京湾で死んだはずの恭助ですよ。おい恭助!」  由利先生はきっと、傍にいる花婿のほうを振りかえった。 「貴様は、かねて今日の日あることを予期して、千晶さんをわざと助けておいたのだろう。千晶さんに雨宮老人の遺産をそっくり相続させる。その千晶さんはおそらく、柚木薔薇と結婚するだろう。そうなったら、また自分が薔薇の身替りを勤めようというのが、貴様の奸《かん》策《さく》だったのだ! 俺はそれを看破したから、わざと、千晶さんと薔薇を結婚させるように仕向け、貴様の現われるのを待っていたのだが、ああ、貴様に先を越されてしまったのが残念だ」 「ああ!」  千晶はふいによろよろと鎧櫃のそばへ倒れかかると、 「あなた——あなた——」  狂気のごとく叫んだが、柚木の唇はすでに冷たい死の扉に覆われてしまっている。ああ、世にこれほど恐ろしい、これほど残酷なことがまたとあろうか。結婚の当日、最愛の良人は殺され、自分は危く、良人の敵と結婚しようとしていたのだ。 「ふふふふふ! ふふふふふ!」  その時、ふいに、恐ろしい笑い声が恭助の唇から洩れて来た。 「双生児はやっぱり一緒に死なねばならなかったのだ。なあ、兄弟、俺もこれからお前のあとを追っかけていくぜ」  いったかと思うと、ひと筋の血がタラタラと恭助の唇から洩れて来たが、やがて彼はがっくりと、鎧櫃のそばにのめったのである。  人々はその時、いずれをいずれとも識別しかねる、双つの仮面から、いっせいにスーと血の色が退いていくのを見たという。—— 鸚《おう》鵡《む》を飼う女 キリシタン坂の怪  花時のひよりぐせ、いまにも雨になりそうなうっとうしい春の夜の十時過ぎのことである。新日報社の花形記者、おなじみの三津木俊助は、ただひとりキリシタン坂を茗《みよう》荷《が》谷《だに》の方へ登っていた。  宵《よい》にバラバラ降った雨が、いつのまにかやんだあとには、うっすらと朧《おぼろ》の月さえ影を見せて、湿気をおびた土のうえには、貝殻を敷いたように、いっぱい白い花弁がこぼれている。  昔からいろいろなあやかしの伝えられているこの坂は、いまではそのあとさきだけ人家がぽっつりと途切れて、その昔、キリシタン屋敷のあったというあたりには、いまもなお、恐ろしい首洗い井戸の跡がのこっているとか。  俊助がいま、この寂しい坂を八分目ほどまで登ってきたときである。行手にあたって、ハタハタと軽い足音が聞こえてきたかと思うと、とつぜん坂のてっぺんに人影が現われた。その足音に何気なく、ヒョイと顔をあげた三津木俊助、おりからの朧月にふと相手の姿を見ると思わずぎょっとして立ちどまった。あまりといえばあまり異様な姿だったからだ。  黒い頭《ず》巾《きん》に大《おお》振《ふり》袖《そで》、紫《むらさき》繻《じゆ》子《す》の袴《はかま》の股《もも》立《だち》をきりりと取った足《た》袋《び》はだし、頭巾のしたからのぞいている顔は抜けるように白いのだ。ちょうど寺の寺《てら》小《こ》姓《しよう》か、七段目に出てくる力《りき》弥《や》といったいでたち。いまの世にあるべからざる姿なのである。  公《きん》達《だち》に狐《きつね》化けたり春の宵。  場所が場所だけに、さすがの俊助も、狐につままれたような妖《あや》しい驚きに打たれたが、相手の驚きはそれ以上だった。  いそぎあしで坂を二、三歩、こちらの方へ降りてきたところで、ふと俊助の姿に気がつくと、あっと叫んでそのまま、いま来た道を一目散に逃げだしたのである。  それをみるより持ってうまれた記者根性、子細ありげなこの相手を、どうしてこのまま見逃せよう、俊助もこれまた一散に、相手のあとを追って坂を登ると、小半丁ほど先を、燕《つばめ》のように飛んでいく姿がみえる。屋敷町の生《いけ》垣《がき》にはさまれた狭い道なのだ。両の袂《たもと》を胡《こ》蝶《ちよう》のようにひるがえして走っていくその頭から、白い花弁がしきりにハラハラとこぼれている。 「待て!」  と、叫んだが相手はなにしろ身軽な足袋はだし、宙を飛ぶように闇《やみ》から闇へとくぐっていくそのすばやさは、とても尋常とは思えない。俊助もしばらくは巧みにそのあとをつけまわしていたが、あいにく、迷路のようにくねくねと曲りくねった屋敷町の夜の闇、まもなくふーっとその姿を見失ってしまった。  俊助は呆《ぼう》然《ぜん》として、しばらく暗い路傍に立ちすくんでいたが、やがて未練らしくうろうろとそのへんを探してみた。しかしいったん見失った姿はなかなか容易にみつかりそうにない。そこへ持ってきて、あいにく、またもや細かい雨がバラバラとおちてくる。 「チェッ!」  と、舌をならした三津木俊助、考えてみればだんだんばかばかしくなってくるのだ。いまの世に寺小姓みたいな服装をした男が、のこのこと東京の町を歩いているなんて考えられない。なにかの思いちがいであろうと、しいて自分を慰めた俊助は、 「よそう、よそう、つまらない!」  と、吐き捨てるようにつぶやくと、いくらかのこっていた未練をかなぐり捨てるように横町からもとの通りへとってかえした。  もしその夜の出来事がそれだけでおわっていたら、俊助もまもなく、こんなことは忘れてしまっただろう。ところがその晩のかれの冒険にはまだ続きがあった。そして、かれがみたあの奇怪な扮装をした人物が、けっして夢でも幻でもなかったことがわかってきたのである。  それはさておき、だんだんはげしくなってくる雨に、いよいよ中《ちゆう》っ腹になった俊助が、それからまもなく、ふと暗い横町にさしかかったときである。幌《ほろ》をおろした俥《くるま》が一台、雨の路傍に停っているのがみえた。近づいていくと、俥のかたわらに、雨《あま》外《がい》套《とう》を着た男が人目をさけるようにたたずんでいるのが、なんとなく子細ありげである。とおりすがりに幌のなかをのぞいてみると、白い女の顔がちらりとみえる。 「どうかしましたか」  思わず立ちどまってそう尋ねると、俥のそばにたたずんでいた男は、帽子のしたからちょっと目をひからせたが、すぐさりげなく、 「さあ、どうしたのですか、じつはわたしにもよくわからないのですよ」  と、外套のポケットに両手を突っ込んだまま、のっそりと闇のなかから出てきた。三十五、六の、色の浅黒い、髯《ひげ》の濃い男だった。 「御病人のようですね」 「それがね、すこし妙なんですよ」  男は急に不安らしく顔をしかめると、 「じつはわたしは里見という通りがかりのものなんです。このさきにある友人の家を訪ねての帰途、むこうの角でこの俥に出会ったところが、車夫がすまないがあとを押してくれとこういうんでしょう。しかたなしに手を貸してやっとここまでくると、このうちだからちょっとなかへ入ってくる、そのあいだここで待っていてくれと、その門のなかへ入ったきり、車夫のやつ、いまだに出てこないんですよ」  里見はいくらか酔っているらしい。 「それはおかしいですね。このうちですか」  俊助が振りかえってみると、古びた門がなるほど開け放しになっている。のぞいてみると、広い庭のむこうに玄関がみえたが、うちのなかはまっくらであった。門柱の表札をみると、これはまだ新しく、川島邦子という女名前。 「妙ですな。なかはまっくらじゃありませんか」  といいながら梶《かじ》棒《ぼう》のしたをみた俊助は、 「あ! それはどうしたのです」  と、叫んで思わずとびのいた。驚いたのも無理ではない。幌でかくした俥の蹴《け》込《こ》みから、滴《てき》々《てき》として土のうえにおちているのは、まごうかたなき血潮ではないか。 鸚鵡と博《はか》多《た》人形 「え、どうしたのです?」  驚いて訊《き》きかえす里見の声に、答えようともせず俊助が、さっと黒い幌をひっぺがして見るとなかには赤い膝《ひざ》掛《か》けをした美人が、ぐったりと首うなだれている。パッと人目につく顔立ちの、若い女だったが、まっしろなその顔色の気味悪さ。膝掛けをとると、胸から膝へかけて血潮の河が流れている。心臓をひと突きえぐられたらしく、むろんすでにこと切れているのだ。俊助も思わずぶるると身ぶるいをした。 「あ、これはたいへんだ!」  と、里見が一時に酔いもさめたらしく立ち騒ぐのを、俊助は両手で制しながら、 「いったい、その車夫というのはどんな男でした」 「それがね、どうも妙なのです。一《いち》文《もん》字《じ》笠《がさ》をまえかぶりにかぶって、雨《あま》合《がつ》羽《ぱ》みたいなものをきていましたから、人《にん》体《てい》はよくわかりませんでしたが、いまから思えば普通の車夫のようではありませんでしたね。腰がいやにふらふらとして、酒にでも酔っているのかと思ったくらいですよ」 「この門のなかへ入っていったのですね」 「そうですよ」 「じつはわたしは三津木俊助といって、新聞社のものですが、こんな事件に出会すと、このまますますわけにはまいりません。御迷惑でも付き合ってもらえませんか」 「いいですとも。こううまくだまされちゃ、わたしだって腹の虫が承知できません。ひとつわたしからさきになかへ入ってみましょう」  里見は憤然として門のなかへもぐりこむと訪《おとな》いもせずに、いきなりガラリと玄関の格《こう》子《し》戸《ど》をひらいたが、そのとたん、 「わっ!」  と叫んでとびのくと、 「あ、ち、ち、痛ッ、痛ッ!」  と、にわかに身をもんで苦しみはじめた。 「ど、どうしたのです!」  と、あわててあとからとびこんだ俊助がふと見ると、玄関まえの敷石のうえに小さい瓶《びん》がひとつ転がっていて、なにやらものの焦げる匂《にお》いがプンと鼻をついた。 「その瓶です。ちくしょう、そいつをなかからぶっつけやがったのです。あ、痛ッ! 痛ッ!」  見ると里見の胸から腹へかけて、外套がボロボロに破れているのだ。 「あ、硫《りゆう》酸《さん》ですね」  俊助も思わず顔色をかえた。さいわいねらいが外れて、里見はわずかに右手を少々火傷をしたのにとどまったけれど、もしもこいつを真正面にくらっていたら両目もつぶれてしまったことだろう。  俊助は思わずゾッとしながら、格子のなかをのぞいてみたが、人の気配はしなかった。この騒ぎにもかかわらず、家のなかがしんと静まりかえっているのが、いっそう気味悪いのだ。 「かまわないから、ひとつなかへ踏みこんで見ようじゃありませんか」 「大丈夫ですか」 「危険とお思いになったら、あなたはここで待っていて下さい」  俊助はマッチを擦《す》って玄関のたたきをのぞきこんだ。あけっ放しになった障子の向こうには、漆《しつ》黒《こく》の闇がかぶさって、朱塗りの下《げ》駄《た》箱《ばこ》のうえに小さなシナ焼《や》きの一《いち》輪《りん》挿《ざ》しがおいてあるのが、いかにも女主人の家らしい。俊助はかまわずうえへあがると、里見もあとからおずおずとついてくる。おぼつかないマッチの光を頼りに、玄関の三畳をつきぬけると、そこはすぐ台所になっていて、台所の戸が一枚あいたままになっていた。 「あ、ここから逃げたのじゃありませんか」 「そうかも知れませんね」  台所の隣りはすぐ湯殿になっていて、その湯殿と廊下ひとつ隔てたところに、八畳と六畳の居間がならんでいた。俊助はそれらの部屋にいちいち電燈をつけて廻ったが、べつに変わったこともない。衣《い》桁《こう》に女の着物などが無造作にかかっているばかり、しかし、これだけの家にひとりも人の姿の見えないのが、不思議といえば不思議だった。  このふたつの居間のほかに、もうひとつ離れのような小座敷があった。廊下づたいにこの小座敷へ入っていった俊助は、なにげなく電燈の球をひねったが、そのとたん、ふたりともはっとしてそこに立ちすくんでしまったのである。  杯《はい》盤《ばん》狼《ろう》藉《ぜき》とはおそらくこんな場合をさしていう言葉にちがいない。引っ繰り返った餉《しよう》台《だい》のまわりには、銚《ちよう》子《し》、盃《さかずき》、小《こ》皿《ざら》などが雑然と転がっていて、踏みしだいた座《ざ》蒲《ぶ》団《とん》のうえには、ひとかたまりの血が、ねっとりとこぼれている。殺人はあきらかにこの座敷のなかでおこなわれたのだ。  盃がふたつあるところをみると、差し向かいでいっぱいやっていたところを、突然襲われたものにちがいない。 「して見ると表に死んでいる女は、このうちの主かも知れませんね」  里見がふるえ声でささやいた。 「そうでしょう。犯人はここで女を殺して、死体をどこかへ持ち去ろうとしたのですね。ところで、この座敷の有様をみると、好《す》いた同士の小《こ》鍋《なべ》立《た》てというところだが、犯人はその相手かしら、それともほかからやってきたのかな」  そういいながら何気なく座敷の中を見廻した俊助は、ふと目をそばだてると、 「おや、あれはなんだろう」  と、小声につぶやいた。  いかにも女《おんな》主《あるじ》の居間らしく、艶《なま》めかしい装飾のなかにも、ひときわ強く人の目を惹《ひ》くのは、座敷のすみにある大きなガラス戸《と》棚《だな》である。そばへよってのぞいてみると、大小様々な博多人形がぎっしりと詰まっている。いわゆる歌舞伎人形というやつである。色とりどり、千姿万態の役者の人形が、数にしておよそ五十あまりもずらりと並んだその見事さ。 「なるほど、これがあの女の趣味かな。それにしてもずいぶん集めも集めたりだな。おや!」  ふいに俊助はぎょっとして振りかえると、思わずおびえたような里見と、目と目を見交わせた。いままでしんと静まりかえっていたうちの中で、とつぜん、甲《かん》高《だか》い、引き裂くような声が聞こえたからである。 「バアヤ、バアヤ!」  妙に呂《ろ》律《れつ》の廻らない舌の使いようだ。なにしろ、いままでだれもいないと思いこんでいたこの殺人屋敷の中で、とつぜん妙な声が聞こえたのだから、ふたりがぎょっとしたのも無理はない。 「スーツェン、スーツェン」  同じ声がまたもや、しんとした夜の静けさのなかに響きわたった。その気味悪さ、恐ろしさ。 「バアヤ、バアヤ、スーツェン、スーツェン」  それからばたばたと羽ばたきをするような音が、静かな空気をかき廻す。俊助はつかつかと縁側のほうへよると、いきなりガラリと障子をひらいたが、そのとたん、 「なんだ、鸚鵡か!」  と、気抜けしたようにつぶやいた。 「鸚鵡——ですって?」 「鸚鵡ですよ、ごらんなさい」  いかにも、縁側につるしたとまり木のうえに、羽毛をさかだて、目をいからせながら、 「スーツェン、スーツェン、ドヮンシラン!」  と、わけのわからぬことを叫んでいるのは、くちばしの紅い鸚鵡だった。里見はそれを聞くと、なぜかはっと顔色をかえたが、 「畜生! この気違い鸚鵡め! 驚かせやがる。なんだい、そのスーツェンというのは、毛《け》唐《とう》の寝《ね》語《ごと》かい、それとも——」  といいかけて、とつぜん俊助の腕をつかむと、 「わっ、ここにもひとが……」  と、うしろに跳《と》びのいた。  みればなるほど、その縁側の薄暗いすみのあたりに、男がひとり、あお向けざまに倒れているのだ。四十五、六の、海坊主のような大男、はだけた胸のうえに、ぐさっと短刀が一本突き刺さっていて、そこからこんこんとして血を吹き出しているその恐ろしさ。  俊助はあわててそばへ駆けよると、男の体をぐいと抱きおこしたが、そのはずみに奇妙なものがかれの目についた。まくれあがったふたつの腕に、なにやら気味悪い虫がはっている。はっとして見なおすと、それは百足《 む か で》の形をした刺《いれ》青《ずみ》であった。 百足の刺青  鸚鵡を飼う女。——  近所では被害者、川島邦子のことをそう呼んでいた。なにをする女なのかわからない。二、三〓月まえにそこへ引き移ってきて、お近という婆やと、熊公というお抱え車夫を相手に、かなり贅《ぜい》沢《たく》な生活ぶりだったから、たぶんお妾《めかけ》だろうといい、ときどき訪ねてくる、海坊主のような大男が旦《だん》那《な》だろうなどと取り沙《ざ》汰《た》していたのである。  その女が、旦那と一緒に殺されたというのだから、その翌日の茗荷谷一帯はたいへんな騒ぎである。原因は——? むろん色恋のもつれだろうとだれしも一番にそう考える。警察でもその見当で、早くも犯人の目星がついたらしいという噂《うわさ》もあった。  ところが、そういう事件のあった翌日の晩方、新日報社の編集部へ、ひょっこりと三津木俊助を訪ねてきた、白髪童顔の一紳士があった。いわずと知れた由利先生なのである。  由利先生というのは、かつて警視庁の捜査課長を勤めた人物だが、いまでは麹町三番町に閑居をかまえ、ゆうゆう自適の生活を送っているのだが、どうかするとむかしとった杵《きね》柄《づか》で、犯罪事件に顔を出すことがある。ことに俊助とはひとかたならぬ昵《じつ》懇《こん》の間柄で、かれのために引っ張りだされるのは珍しくなかったが、今日は反対に先生のほうから乗り出してきたのだから、俊助もちょっと度《ど》胆《ぎも》を抜かれた。 「先生、これは先生が首を突っ込まれるような事件じゃありませんよ。簡単な事件です。すでに犯人の目星もついていて、目下その行《ゆく》方《え》を捜索中なんですよ」 「知っている。中村扇紫という役者だろう」 「おや、先生はどうしてそれを御存じなんですか」  俊助もこれにはちょっと驚いた。犯人の目星のついたことは新聞にも出ているが、その名前までは発表されていないはずである。 「なあに、べつに不思議でもなんでもない。さっき扇紫のおふくろが訪ねてきてね」 「なんですって? すると先生はあの男を御存じなのですか」 「ふむ、むかしちょっと贔《ひい》屓《き》にしてやったことがあってね。その縁故でおふくろが泣きついてきたのだが、いったいどうして、あの男に疑いがかかったのだね。君にきけばたぶんわかるだろうと思ってこうしてやってきたのだが……」 「そうですか、それじゃお話しますが、しかし、先生は扇紫の居所を御存じなんじゃありますまいね」  俊助はいくらか疑わしそうな目で、じっと由利先生の顔をながめた。 「いや、それはわしも知らないのだ。おふくろの話によると昨夜から家へ帰らないんだそうだがそこへ今日、警察がどやどやと踏みこんできたものだから、かわいそうに婆さん、すっかりびっくりしてしまって、泣きながらわしのところへ駆けつけてきたというわけだ。やっこさん今ごろはどこかに青くなって隠れているんだろうが、それはともかく君のはなしというのを聞かせてくれたまえ」 「そうですか。それじゃお話いたしましょう」  そこで俊助が由利先生に語って聞かせたというのは、だいたいつぎのような話である。  殺された川島邦子の旦那というのは、遠藤為三といって、横浜の骨《こつ》董《とう》商《しよう》で、邦子と一緒に殺されていた、あの海坊主のような大男がそれである。ふたりとも長崎の人間だそうで去年のおわりごろ、こちらへやって来たのだが、邦子をひとり茗荷谷に住まわせるについては、旦那の遠藤もいくらか心配だったとみえて、車夫の熊公のほかに、お近という心《こころ》利《き》いた老婆をひとりつけておいた。つまりお近は隠し目付けという格で、邦子の監視役なのである。  昨夜お近は車夫の熊公とともに、一晩暇を出されて、親類のほうへ泊まりがけで遊びに出かけたが、そのことについてさすが海千の老婆だけにちょっと不審を感じた。それには、近ごろの邦子の行状になんとなくおもしろくないところを嗅《か》ぎつけていたからである。邦子がときどき、中村扇紫という若い歌舞伎役者と会っていることを知っていたので、ひょっとすると今夜あたり、その男を引っ張りこむつもりではあるまいか——そう思ったものだから途中から旦那のほうへ電話をかけておいたのである。 「ところが今朝帰って見ると、その扇紫のもじりと雪《せつ》駄《た》とが、あの家に残っていたというわけです。いやそればかりではない。じつはかくいうわたしも、昨夜あの家の近所で中村扇紫の姿を見かけたのですよ」  と、俊助は改めて、昨夜キリシタン坂で見た異様な風体の人物のことを繰り返すと、 「それでもしやと思って、今日扇紫の出ている劇場のほうを調べたところ、案の定昨夜扇紫は、中幕に出るお小姓姿のままで劇場を出ていったらしいというのです。化物の正体みたりなんとやらで、いやはや、わたしも少々毒気を抜かれた形ですよ」  俊助はそういって、昨夜のことを思い出したのか急におかしそうに笑い出した。しかし由利先生は笑いごとどころじゃない。しばらく難しいかおをして考えこんでいたが、 「なるほど、すると警察の見込みはこうなんだね。昨夜扇紫と邦子とが会っているところへ、旦那の遠藤がふいにやってきた。そこで扇紫がふたりを殺して逃亡したというんだね」 「まあ、そういうところです。しかしそれにはいくらかつじつまの合わぬところもあるんですよ」  と、俊助は里見の一件を語って聞かせた。 「たとい、犯人が扇紫にちがいないとしても、邦子の死体を運び出そうとしたのはだれか、それがまだわかっていないんです。里見という男がその俥に出会ったのは、時間からいってわたしがキリシタン坂で扇紫に会ったのと同じ時刻らしいから、扇紫でないことはわかっています。車夫に化けて邦子の死体を他へ運び去ろうとしたのはだれか、里見に硫酸をぶっかけたのは何者か、どうもそのへんがハッキリしないんです、それに、これはわたしだけの感じですが、もうひとつここに妙なところがあるんですよ」  と俊助は急に声を低くすると、 「その旦那の遠藤という男のふたつの腕に、百足のような刺青があるんですが、驚いたことに、あとになって邦子の体を調べると、やっぱりそのふたつの腕に、同じような百足の刺青があるんですよ」 「なに? 百足の刺青だって?」  由利先生は急にピクリと眉《まゆ》を動かすと、 「君、その人たちはたしかに長崎の人間だといったね」 「ええ、そうだそうです。しかし、先生はなにかそのことについて心あたりがあるのですか」 「ふむ、いや、これはちょっと家へ帰って、調べて見なければわからんが、君、その刺青というのはこんな形じゃなかったかね」  由利先生が鉛筆をとりあげて、紙のうえに書いた百足の絵を見て俊助は驚いた。 「あ、たしかにそのとおりです。しかし先生はどうしてそれを。……」  由利先生ははじめてニヤリと会心の微笑を洩《も》らすと、 「いや、何事にも注意が肝心だ。三津木君、この事件は君たちが考えているほど簡単なものじゃないぜ」  と、すっくと椅《い》子《す》から立ち上がると、 「いや、ありがとう。どうやらわしにも目鼻がつきかけてきた。いつもながら、君の注意ぶかい観察には感謝する。ではさようなら、いずれ家へ帰ってよく調べて見て、たしかなことがわかったら、君にも電話で知らせよう」  とゆきかけるのをあわてて引き止めた俊助、 「先生、すると先生は、中村扇紫はこの事件に関係がないとおっしゃるのですか」 「いや、まんざら無関係というわけにはゆくまいが、犯人はおそらくほかにある。第一おれは扇紫という男をよく知っているが、あいつは人殺しなんてできる柄じゃないよ」  そういいすてると、由利先生はひょうひょうとして新日報社を出ていった。ところがそれから半時間ほどのちのことである。  由利先生が市谷のお濠《ほり》に沿って、三番町の自宅へ帰ろうとしていると、とつぜん、 「先生、先生! 由利先生!」  と、低声で呼ぶものがあった。おやと足をとめてあたりを見廻すと、薄暗い黄《たそ》昏《がれ》の土堤沿いには、柳の枝が静かに風に吹かれているばかり、あたりには犬の子一匹とおらない。 (はてな、気の迷いかしら)  と、行きすぎようとすると、またしても、 「先生、先生! 由利先生!」  という声がきこえる。 「だれだ!」  と立ちどまった由利先生、 「どこにいるのだ!」 「ここです、先生、わたしです、中村扇紫です」 「なに、扇紫君!」  と言った由利先生、咄《とつ》嗟《さ》になにもかも覚った。みると濠端の土堤の小蔭に、二重廻しをきた男が、蝙《こう》蝠《もり》のようにすいついているのだ。 「ああ、扇紫君!」 「そばへ来ちゃいけません、先生、だれかあたしをつけているものがいやしませんか」  由利先生はすばやくあたりを見廻すと、 「大丈夫だ、出てきたまえ、そんなところにいるとかえって怪しまれるぜ」  その声にやっと小蔭からはい出した中村扇紫は、いきなり由利先生にすがりつくと、 「先生、あたしを助けて下さい」  と、わっとばかりに泣き出したのである。 人形調べ  女のようにむせび泣く中村扇紫を、引きずるようにして自宅の応接間に連れこんだ由利先生、気付け薬に一杯のウイスキーを振る舞ってやると、改めて相手の姿を見直したが、すぐプッと吹き出して、 「どうしたんだ、そのなりは。色男台なしじゃないか」  と、いわれて中村扇紫、はじめて自分の姿をつくづくと見直しながら、 「笑わないでくださいよ。友達のところで借り着をしてきたのですよ。この着物も外套も。——これでもう一生懸命なんで、さっきから二時間あまりも、あそこでああやって先生のお帰りになるのを待っていたんですよ」 「とんだ忠兵衛さんだ。あまり御乱行がすぎるからだよ。たまにはそういうお仕置も薬になっていいかも知れない」 「御冗談でしょう、先生、そんな色っぽい沙汰じゃございませんので、ほんとうにもうとんだお茶番で。……」  と、それでも一杯のウイスキーのお陰か、だいぶん舌が滑らかになった。去年名題になったばかりの、まだ若い役者なのである。酒の酔いが廻るにつれて、紅味をましてきた頬《ほお》が、まるで女のように艶《なま》めかしく美しい。 「いったいどうしたというんだ。恐ろしい嫌《けん》疑《ぎ》が君にかかっているということは知っているだろうね。さきほどはまたおふくろさんが泣きながら駆けつけてくるという始末で、お前さんの姿が見えないものだから四方八方大騒ぎだぜ」 「すみません。なにしろあまり恐ろしくて、いままで友達のところでかくれていたんですよ。先生お願いですからわたしを助けて下さいな」 「それはまあ、ひととおり話を聞いたうえのことだね」  と由利先生はわざと冷淡に、 「君はあの女といったいどういう関係なんだね」 「それがもう、なんでもありませんので、いえ、もうまったく、サバサバしたもんで。こうなればなにもかもお話しますから、先生まあひととおり聞いてくださいな」  さすがは役者で、いくらか芝居がかりで扇紫の話したところによるとだいたいこうであった。  扇紫がはじめて邦子にあったのは、ちょうどひとつきほどまえのことだった。べつになんということもなく、ただ一緒に御飯を食うのが関の山だったが、二、三度そうして会っているうちに、ひとつあなたに見てもらいたいものがあるから、そのうち、ぜひ家のほうへきてくれと女が言い出した。そして昨夜でかけたのである。 「しかし、舞台姿のままで出かけたというのは、いったい、どういうわけなんだい」 「いえ、それにはべつになんの意味もないので、昨夜舞台に出るまえに電話がかかってきて、これからすぐきてくれ、一刻も早くって、ひどくせき立てられたもんですから、役があがると、鬘《かつら》を脱いだだけで駆けつけたというわけで、いやはやとんだお茶番になっちまいました」 「ははははは、色男になるのもいそがしいもんだとみえるね」  由利先生が三津木俊助のことを思い出しながら思わず笑うのを、 「いえ、もうそれがちっともそうじゃないので」  と、扇紫はムキになって弁解しながら、 「出かけてみるとなるほどお膳《ぜん》立《だ》てはちゃんとできているんです。しかし、それがちっとも色っぽくないんで。それはわかりますよ、固くしてても気のあるのと、甘く見せかけてても、ちっともそういう気のないのとはね、でまあ、ともかくいっぱいやっているうちに、ふいに女が居ずまいをなおしていうにゃ、じつはあなたをお招きしたのも、決して淫《みだ》らな気があってのことではない。じつはここにある博多人形の名前をお聞きしたかったからだ、とこういうんでしょう」 「とんだ御愁傷さま」 「いえ、まったく。照れましたねえ、あたしだって男ですもの、いくらか自《うぬ》惚《ぼ》れはもっていたんですが、そのひとことでペシャンコです。しかしまあこうなりゃ仕方がないとあきらめて、その人形というのを見せてもらったんですが、そいつがまたばかにたくさんあるんです。数にして五十あまりもありましたろうか、みんな役者の似顔になっているんですが、その役者の名前をひとつひとつきかせて欲しいというんでしょう」 「ほほう」  と由利先生も思わず膝《ひざ》を乗り出して、 「そんなこと聞いてどうするんだろう」 「あたしにもわかりません、まったく妙なんです。しかもそういう女のかおったらとても真剣なんでして、怖いくらいでした。そこでまあ、あたしがひとつひとつその名前を教えてやったと思いなさい、これが菊五郎の鏡《かがみ》獅《じ》子《し》、これが吉《きち》右衛《え》門《もん》の大《おお》蔵《くら》卿《きよう》、これが羽《う》左《ざ》衛《え》門《もん》の助《すけ》六《ろく》、これが歌《うた》右衛《え》門《もん》の淀《よど》君《ぎみ》というふうに……」 「ふふむ」  と、由利先生は興味ありげにますます体を乗り出してくる。 「ところが、そういう人形調べをやっている最中に、ふいに海坊主のような大男が、ひどい権《けん》幕《まく》で躍りこんできました。今朝の新聞でみると、これがどうやらあの女の旦那らしいんですが、いやもうたいへんな権幕なんで、弁解をするまもなにもありやしません。あたしやその形相をみるとてっきり殺されるんだなと思いました。それでもう夢中になって、そこにあった盃《はい》洗《せん》をぶっつけておいて、足袋はだしのまま逃げだしたというわけなんです。あたしのしっているのはただそれだけなんで。……」  といいかけて、扇紫はふいにギクリとしたようにうしろを振りかえった。そのとき、けたたましく呼《よび》鈴《りん》を押す音が聞こえたからである。 「あ、ありゃなんでしょう。ひょっとすると追っ手のものじゃありませんか」  由利先生はしかし、その声も耳に入らぬかのように、しばし黙然として考えこんでいたが、急にぐっと体をまえへ乗り出すと、 「すると、女が君をよんだのは、いや君に近づこうとしたのは、その人形の名を知りたかったためなんだね」 「ええ、まったくそうとしか思えません、あっ」  ふいに扇紫は唇の色まで真っ青になってしまった。そのとき、応接間のドアがあいて、二、三人の刑事をうしろにしたがえた等々力警部が、ドヤドヤと中へ入ってきたからである。 「先生、失礼します」  警部は尊敬すべき先輩として、由利先生に慇《いん》懃《ぎん》な挨《あい》拶《さつ》をすると、つかつかと扇紫のそばへよって、その肩に手をかけた。 「中村扇紫、お尋ねの筋があるから、神妙にするんだぞ」 「あっ、先生!」  扇紫がふるえあがるのを、由利先生は穏やかな目でおさえながら、 「なあに、心配することはない。おとなしくひかれて行きたまえ。二、三日の辛抱だ。すぐ助けてやる」  と、泰《たい》然《ぜん》として警部のほうに向かうと、 「等々力君、人《にん》気《き》稼《か》業《ぎよう》のことだから、お慈悲に捕《ほ》縄《じよう》だけは許してやりたまえ」 「承知しました。扇紫、妙なまねをするんじゃないぞ」 「はい」  扇紫もさすがに男である。あきらめたようにおとなしくひかれたあとでは、由利先生の大活躍がはじまったのである。 密輸入団百足組 「すると先生はあくまで、中村扇紫の冤《むじつ》をお信じになるのですか」  それから二、三時間ほどのちのことである。電話で呼びよせられた三津木俊助は、由利先生と一緒に、ふたたび自動車のなかに乗っていた。いったい、これからどこへ出かけようとするのか、俊助にはまだわかっていないのである。 「ふむ、信ずるね。わしに嘘《うそ》を吐いたところではじまらないことだからね。扇紫はただ、妙な廻りあわせで、事件のなかにまきこまれただけのことさ。犯人はかならず別にある」  由利先生は自動車の窓から外を見ながらキッパリとそういった。 「すると、扇紫が逃げ出したあとで、別に犯人がやってきたというわけですね。いったいその犯人とは何者でしょう。先生には当たりがついているんですか」 「ふむ、ついている」 「え!」  俊助はびっくりしたように体を起こすと、 「してして、そいつはいったいだれですか、わたしの知っている人物ですか」 「むろん君も知っているはずだ。考えてみたまえ、サー頭を働かせればすぐわかるはずだよ」 「そうですか、こいつは驚いた」  と、俊助は頭をかきながら、 「いったいだれです、あのお近という老《ろう》婢《ひ》ですか。それとも車夫の熊公と……」  と、いいかけて、 「ああそうだ、熊公ですね。死体を俥にのせてほかへ運び出すなんて、いかにも車《くるま》挽《ひ》きのやりそうなことだ。先生、熊公ですね」  由利先生は答えないで、ただニヤニヤとわらっている。俊助はがっかりしたように、 「ちがいますか。どうもわからないな」  とつぶやいたが、急に思い出したように、 「それはそうと先生、さっき百足の刺青のことですが、あれについてなにか手掛かりがありましたか」 「あったよ。万事わかった」 「いったい、あれにはどういうわけがあるのですか」 「三津木君」  由利先生はきっと俊助のほうを振り向くと、 「君も新聞記者なら、もっといろいろなことに注意していなければいけないね。君は先年、長崎で検挙された大仕掛けの密輸団体のことを、記憶していないかね」 「こうっと、なにしろ事件がたくさんあるので、いちいち憶えているわけにはいかないのですよ」 「それだからいけない」  由利先生はたしなめるように、 「それじゃ話してきかせるが、去年の秋ごろ、百足組という密輸入の団体が長崎で検挙されたことがある。密輸入というよりむしろ海賊といったほうが正しいくらいの、兇暴なギャングの一味なんだが、その団員というのがみなふたつの腕に百足の刺青をしていたそうだよ」 「ほほう、すると、昨夜殺されたふたりも、その一味の片われなんですね」 「おそらくそうだと思う。なんでもこの一味を検挙したときは、前代未聞の大乱闘で、警官がひとり射殺されている。射殺したのは宇佐美慎介といって、まだ二十二、三の青年なんだが、こいつはたぶん死刑になるだろうという評判があるくらいだ」 「へへえ、そんなことがありましたかね。すると、昨夜ふたりをやっつけたのも、やっぱりその一味に関係のあるものでしょうか」 「たぶんそうだろうと思うのだが……おっと、ここは江戸川だね。君、すまないが小日向台町のほうへやってくれたまえ」  ここに至って俊助ははじめて、由利先生の目指しているところがわかった。先生は茗荷谷の邦子の家へいこうとしているのだった。  小日向台町の暗い横町でふたりが自動車をおりたのは、夜もすでに十一時すぎ、寝るに早い屋敷町ははやひっそりと静まっていて、今夜もまた花時の雨がポツリポツリとふっている。 「先生。被害者の家へ行って、なにかお調べになることでもあるのですか」 「ふむ、ちょっと。あの家にはいまだれかいるだろうかね」 「婆やと車夫の熊公というのがあと始末に残っているはずですが……、死体はありませんよ」 「ああ、死体には用はない」  まもなく川島邦子という表札のあがっている、あの家のまえまでやってきた。 「先生、この家です」  と、俊助がさきにたって門の中へ入っていったときである。とつぜん、なかから、 「スーツェン、スーツェン!」  とけたたましい声が聞こえてきたのである。 「や、あれはなんだ」  と、由利先生が立ち止まるのを、俊助は平然とうけて、 「なあに、鸚鵡ですよ」 「鸚鵡!」  と由利先生がききかえしたとき、またもや、 「スーツェン、スーツェン、ドヮンシラン!」  というけたたましい鸚鵡の声。由利先生はハッとしたように俊助のほうを振りかえると、 「三津木君、君はこの鸚鵡のことを、わしに話してくれなかったね」 「どうしてですか。あの鸚鵡がなにかこの事件に関係があるとおっしゃるのですか」 「あるとも、大ありだ! 君にはあの声がわからないのかね。スーツェン、ドヮンシラン、鸚鵡がちゃんと事件の秘密をしゃべっているじゃないか」  由利先生がそういいながら、玄関の格子に手をかけたときである。とつじょけたたましい物音が奥のほうからきこえてきた。 「泥《どろ》棒《ぼう》、泥棒、だれかきてえ!」  という女の悲鳴にまじって、どたんばたんと物を打っつけあうような音。鸚鵡の叫び、羽ばたきの音。——ふたりはハッとして家の中へとびこんだ。騒ぎはあの離れ座敷である。  ふたりが大急ぎでその座敷へとびこむと、いましも、ふたりの男女が組んずほぐれつ大格闘の最中なのだ。そのまわりを、毛を逆立てた鸚鵡が気違いのように飛び廻っている。 「あ、あなた、捕えて下さい、泥棒、泥棒!」  と、組み伏せられたまま叫んだのはお近という老婢である。俊助は一刻の躊《ちゆう》躇《ちよ》もしない。いきなり馬乗りになっている洋服男に躍《おど》りかかったが、その拍子に、曲者の顔を覆うている黒い襟《えり》巻《まき》がハラリとおちたが、その顔を見ると同時に、俊助はびっくりして、 「あ、君は里見君!」  と叫んだ。いかさま、その曲者こそ、昨夜俊助と一緒にこの惨劇を発見した、あの里見だったのである。 「暫」人形 「三津木君、その男の腕を調べてみたまえ。きっと百足の刺青があるはずだから」  由利先生の声をきくと同時に、いままで必死に抵抗していた里見は、ぎくりと体をふるわせると観念したように急におとなしくなった。  俊助はしかしまったく意外なのだ。この男が犯人だなんて、まるで夢のような気がする。 「三津木君、なにをぼんやりしているんだ。邦子と遠藤を殺したのはこの男なんだよ。邦子の体を外へ運び出そうとしているところへ、折あしく君がやってきた。そこで咄《とつ》嗟《さ》の機転で、ああいう狂言を思いついたのさ。硫酸の一件だって、自分で自分にぶっかけたまでのこと、ねえ、里見君、そうじゃないか」  里見は黙って、畳のうえに目をおとしていたが、その声にふと頭をあげると、 「恐れいりました。まったくあなたのおっしゃるとおりです。だが、ただひとつ肝腎なところが間違っています。なるほど、遠藤を殺したのはわたしですが、お邦を殺したのはわたしじゃありません。お邦は遠藤に殺されたんで、わたしは即座にその敵《かたき》を討ってやったのです」  そういうと、里見はハラハラと涙をおとした。 「ほほう、それは——そこまではわたしも気がつかなかった。里見君、君もまんざら悪人ではなさそうだ。どうだひとつ、われわれにすっかり話してくれないかね。だいたいのところはわたしも見当がついているのだが」 「ありがとうございます。そう優しくおっしゃっていただいちゃ、返す言葉もありません。なにもかもお話しますから、旦那きいてください」  そこで里見は、にわかに居ずまいをなおすと。—— 「すでに旦那は御存じのようですが、わたしたちはみんな百足組の一味でした。去年の秋、こいつが検挙の大《おお》嵐《あらし》を喰って、一味のものは大半挙げられましたが、そのなかにわたしの実の弟で、宇佐美慎介というのがあります」 「え? 宇佐美慎介? あの警官を射殺したというかどで死刑になろうとしている男だね」 「御存じですか、御存じならいっそう話がしやすうございます。弟はかわいそうなやつでした。あいつは一味となんの関係もないのです。運悪くあの晩、わたしのところへやってきて、涙を流して意見をしている最中に、とつぜんあの手入れです。弟のやつも一緒に挙げられたんですが、そのどさくさまぎれに、だれか警官を射ち殺したものがあるとかで、あろうことかあるまいことか、その疑いが弟にかかったのです。しかしこのとき、警官を射殺したのは別にあるので、それは仲間の仙公というやつでした。こいつはそのとき大《おお》怪《け》我《が》がもとで、まもなく病院で息を引きとりましたが、死ぬまえに、警官を射ち殺したのは自分だという告白を書いて、そいつは首領の遠藤にわたしたのですが、遠藤のやつ、それを握りつぶしてしまったのです」 「ほほう、それはひどい。しかし、それはまたどういうわけなんだね」 「つまり恋の遺《い》恨《こん》とでも申しましょうか、お邦がかねてから、わたしの弟に好意をもっていたんで、その腹いせでございましょう。わたしもそのとき挙げられたのですが、さいわい証拠不十分でまもなく釈放されました。そしてでてきてはじめて仲間の口からそのいきさつを聞いたんですが、そのときは腹のなかは煮えくりかえるようでした。しかしそのときにはすでに遠藤のやつ、お邦を連れてこちらへきていたので、わたしもそのあとを追っかけてくると一度お邦にあってその話をしました。お邦もそれは初耳だったらしくたいへんくやしがって、もしそれがほんとうで、いまでもその告白書を遠藤が持っているなら、きっと取り返して弟を助けてやると約束してくれましたが、それが昨日手紙をよこして、どうやらその告白書の所在がわかりそうだから、今夜十一時ごろ忍んでこいというのです。こういうと遠藤のやつがどうして、いままでその告白書を破棄せずにもっていたか不思議にお思いになるでしょうが、それにはわけがあるのです。警官が射殺された現場には、あいつも居合わせたのですから、幸いその場は逃げのびたもののいつどういう廻り合わせから、自分にその嫌疑が廻ってこないとも限らない。用心ぶかいあの男のことですから、その場のことを考えて、証拠となるその告白書を自分のためにとっておいたのです。それはともかく、お邦の手紙を見ると、わたしは天にも登る気持ちで約束どおりやってきたのですが、無残や、ひと足違いでお邦のやつは、遠藤の手にかかって、なぶり殺しにされたあとでした。わたしはそれを見るとかっとして、前後の考えもなく、遠藤のもっていた短刀でぐさりとひと突き。……」  と、さすがに里見もそのときのことを思い出したらしく身ぶるいをしながら、 「あとはこちらも御存じのとおり、弟のために命を落としたかと思うとかわいそうで、お邦の体をそのままにしておくきにはなれません。手あつく葬ってやろうと外へ運び出したところを、こちらに見つかったのです。硫酸はもしものさいには遠藤のやつを拷《ごう》問《もん》にかけてでもと思って所持していたのでございます」 「なるほど、わかった」  由利先生は思わず嘆息を洩《も》らしながら、 「それで、君は今夜またその告白書を探しに来たんだね。そしてそのありかはわかったかね」 「いいえ、それがいっこう、……なにしろあんな悪賢いやつのことですからいったいどこへ隠したのやら」  そのときである。鸚鵡がまたしても、あの奇妙な叫び声をあげたのは。 「スーツェン、スーツェン、ドヮンシラン!」  由利先生はその声をきくと、思わずニンマリと微笑をうかべながら、 「里見君、君も長崎の人間なら、少しぐらいシナ語《ご》がわかりそうなものじゃないか。いまの鸚鵡の言葉がわからないのかね。ほら、スーツェン、スーツェン、ドヮンシラン!」 「スーツェン、ドヮンシラン?」  と、里見は首をかしげたが、急にハッとしたように、 「あ、それは市川団十郎という名のシナ読みじゃありませんか」 「そのとおり!」  由利先生は手を打って、 「遠藤というやつは、よっぽど皮肉なやつだったのにちがいない。市川団十郎すなわちスーツェンドヮンシランの人形のなかに告白書を隠しておいて、しかもそのありかをちゃんと鸚鵡にしゃべらせておいたんだ。つまり遠藤の気持ちにしてみるとこうだったにちがいない。おまえの恋人を救うことのできる告白書はおまえの身近かにおいてある。しかもその隠し場所もちゃんと鸚鵡にしゃべらせてあるんだ。それだのに、それに気がつかないのはおまえが悪いのでおれの罪ではない、という一種の自己弁護。——それと、もうひとつは、子供のほしがる玩《がん》具《ぐ》をわざと見せびらかしながら、なかなかやろうとしない、あの気持ちに似た一種残忍な快感、——つまり遠藤というやつは、お邦さんが日毎夜毎、鸚鵡のしゃべる言葉をききながら、いっこうそれと気づかずにいるのを見るのが、愉快でたまらなかったのにちがいない。ところが、お邦さんもとうとうそれに気がつく日がきた。君の話をきくと、お邦さんはたちまちそれと気がついたにちがいない。しかし、悲しいかな、歌舞伎役者のことなんか皆目知らなかったものだから、役者のことは役者にきくに限るとばかり、中村扇紫をつれてきて、ここにある人形のなかに団十郎がいるかいないかきこうとしたのだね。そこを遠藤のやつが見つけたものだから、てっきりことが露見したと思いこみ、かつはまた慎介君に対する嫉妬もあったろう、とうとうお邦さんをなぶり殺しにしてしまったのだね」  と、そういいながらガラス戸棚のそばへよった由利先生、おびただしい博多人形のなかを、しばらくあれかこれかと選っていたが、やがて、 「ほうら、これだ、これだ!」  と勝ち誇ったように叫んで取りあげたのは、市川家十八番、歌《か》舞《ぶ》伎《き》荒《あら》事《ごと》の真髄、九代目団十郎「暫」の人形姿だった。そいつをはっしとそばの柱にぶっつけると、戛《かつ》然《ぜん》として音あり、とびちった土塊のなかから、ひらひらと舞いおちたのは、まごうかたなき一枚の告白書である。  里見はそれをとりあげると、あっと歓喜の声をあげて、 「あ、これです、これです。これが仙公の告白書です。旦那ありがとうございました。わたしの体はどうなってもかまいません。旦那、お願いですから、とてものことにこれで弟のやつを助けてやって下さい。お願いです。お願いです」  と、男泣きに泣きだしたのである。  鸚鵡はまだ無心に叫びつづけている。 「スーツェン、スーツェン、ドヮンシラン!」 盲目の犬 狼《おおかみ》 男《おとこ》出現  全く通り魔のような出来事だった。そういえば、その男の風《ふう》貌《ぼう》からして、どこか気違いじみたところがないでもなかった。  痩《や》せこけて、髪がもじゃもじゃとして、鼻がすごいほど高く、肌《はだ》ときたらかさかさな土色をしていながら、唇《くちびる》だけが真っ赤で、おまけに狼みたいに大きいのである。  そういう男が、ふいに由利先生と三津木俊助の前によろよろと現われたのだ。 「ユ、由利というのは、オ、お前のことだな」  酔っているのか目が血走って、ベロベロと舌で赤い唇をなめるさまが、なにかしら異様な野獣を連想させる。キンキン尖《とが》ったその声の鋭さは、まわりにいた人々をいっせいにはっと振り返らせたくらいだった。 「おお由利は私だがなにか用かね」  どんな場合でも、決して取りみださぬ由利先生は、ゆっくりシャンペン・グラスをおきながら、奇怪な侵入者の顔をふりあおいだ。  それは昭和九年のクリスマスの晩のことで、由利先生と三津木俊助は、柄になくも、日比谷付近にあるXホテルで、ささやかなクリスマスの宴を張っていた。  したがって周囲にいる人々はみんな寸分のすきもない礼装をしているのに、いま、二人の前に現われた男ときたら、さよう、年は三十前後であろうか、よれよれの二重廻しが、雨にぬれた蝙《こう》蝠《もり》の翅《はね》みたいにベットリ潮《しお》垂《た》れ、わしづかみにした帽子は見るも哀れに垢《あか》じんでいる。客種の吟味のやかましいここの玄関番が、どうしてこんな男を通したのか不思議に思われるくらいである。 「オ、お前さんが有名な探《たん》偵《てい》だってことぐらい、俺《おれ》あちゃんと知ってるぜ。へへへ、おつにすまして七面鳥なんかつついていたところで、探偵はやっぱり探偵さ。なあ、おい、そこにいる若いのそうじゃねえかよ」 「それがどうかしたかね」  俊助はさすがに若いだけあって、ピクピク眉《まゆ》をふるわせていたが、由利先生の目配せに、やっと癇《かん》癪《しやく》の虫をおさえている。 「それがどうしたって? ヘン、いやにお高くとまりやがる。オ、お前さんがだね、世間の評判どおりまったく偉い探偵なら、俺あちっとばかり教えてやりてえことがあるんだ。なあ、おい、聞いているのかい?」 「ああ、聞いてるよ」  由利先生は狼のような形相をおもしろそうに観察しながら、悠《ゆう》然《ぜん》とナイフを動かしている。 「あははは、そうか、よしよし、さすがは名探偵だ。いやに落ち着いてやがる。だが、これから俺のいうことを聞いて驚くな」  狼男は体をフラフラさせながら、フーッと酒臭い息を吐いてそれからにわかに声をひくめてささやいた。 「人殺しよ、な、人殺しがあるんだよ」 「人殺しがどこかであったのかね」 「そうじゃねえんだ。これからあるんだよ。チョッ、いやに落ち着いてやがる。俺のいうことが分からねえのかな、人殺しだ。前代未聞の人殺しだぜ。しかも今夜だ、今夜あるところで人殺しが行なわれるんだよ、ははは、ちったあ、薬が利《き》いたと見えるな」  男は傍《ぼう》若《じやく》無《ぶ》人《じん》な高笑いをすると、そのままフラフラ向こうへ行こうとするのを、俊助は思わずあとから呼びとめた。 「おい、君、君」 「な、なんでえ、何か用事があるのかい」 「君、それは正気か、酒の上の冗談か」 「ははははは、そろそろ気にかかってきたと見えるな。さあて、どっちだろ、お前さんたちの推測にまかせるよ」  いったかと思うと、あっという間もない、騒ぎをきいてかけつけて来たボーイ達を、すごい権《けん》幕《まく》でつきとばし、そのまま、通り魔のようにプイと外へとび出してしまった。  あたりのテーブルにいた紳士や淑《しゆく》女《じよ》たちが、ジロジロこちらを見ながら、しきりに意味ありげなささやきを交わしている。由利先生はそんなことを気にするような人ではないが、さっきの男の態度が妙に気にかかる。先生は額にむずかしい皺《しわ》を刻《きざ》みながら、夢中になって七面鳥の肉を切りきざんでいたが、ふいにガチャンとナイフを投げ出すと、 「行こう」  と、いきなり立ち上がったから驚いたのは三津木俊助である。 「行くってどこへ行くんですか」 「いまの男をつけてみるんだ」 「すると先生は、あんな酔っぱらいの言葉をまに受けるんですか」 「なんでもいいから君も来たまえ。俺にはどうも気にかかる節がある」  そういうと由利先生は、俊助の返事も待たずに、卓上の鈴を鳴らしてボーイを呼んだ。 血を浴びた犬  幸い、狼男はまだそう遠くへはいっていなかった。二人が表へとび出すと、木枯しの中を躍《おど》るような足調で歩いていくうしろ姿が見えた。  どっと吹きおろしてくる旋風のほかに、奇怪な影がキリキリ舞って、ハタハタと二重廻しのハタめくさまが、とんとおおきな蝙蝠のように見える。  男はやがて日比谷の角まで来ると、一台の自動車を呼びとめて乗った。由利先生と三津木俊助が、これまたすぐに別の自動車にとび乗ったことはいうまでもない。  こうして二台の自動車は、しばらく木枯しの町を走り廻っていたが、やがて前の自動車がピタリと止まったところを見れば、大森の山王下である。自動車からおりた狼男は、相変わらず二重廻しの袖《そで》をハタめかしながら、山王の方へ急な坂をのぼっていった。  時刻はかれこれ十一時。中流住宅のならんだその辺の町は、どこもかしこも表をとざして、道はまっくらである。  そういうさびしい夜道を、例の奇怪な狼男は、べつに急ぐふうもなく、ときどき胴《どう》間《ま》のぬけた胴間声で唄《うた》を唄ったり、思い出したように高笑いをしたり、何かひとりで悦《えつ》に入っているようすだったが、やがて行くにしたがって、少しずつその様子が変わってきたから、由利先生と俊助はふと顔を見合わせた。 「なんだか急にソワソワしてきたぜ」 「変ですね、酔がさめてきたんでしょうか」  見えがくれにつけていく二人が、そんなことをささやきあっていると知るや知らずや、相手の様子はいよいよ怪しくなってくる。  さっきから見ると、すっかり落ち着きを失い、ひとり立ち止まって、思案をしている様子、そうして、やっと決心を定めたように、つと曲がったのは狭い、暗い横町だった。由利先生と俊助があわててその曲がり角まで来てみると、ボンヤリと門燈のついた一軒のお屋敷の裏口から、男はそっと中をのぞいている。 「おやおや、あいつ泥《どろ》棒《ぼう》に入るつもりかな」 「どうも様子が変ですね」  男は潜《くぐり》門《もん》に耳をつけて、しばらくなかの様子をうかがっていたが、やがてきょろきょろあたりを見廻すと、すばやく中へとびこんだ。 「あ、とうとう忍びこんだぞ。いったい、どういう家だろう」  忍びあしに近づいてみると、潜門のそばには、「藤間家通用口」という表札が出ている。潜門のすきからのぞいてみると、なかは真っ暗でコトとも音がしなかった。 「どうしよう、中へ入ってみようか」 「さあ、少し穏当じゃありませんね。かえって泥棒と間違えられるかも知れませんぜ」 「それもそうだが、なんだか俺は妙に胸騒ぎがしてきたよ」  二人がヒソヒソとそんなことをささやきあっているときだ。ふいに中からワーッという悲鳴が聞こえてきた。つづいてバタバタとこちらへ走って来る足音、すわこそと二人がパッと右左にとびのいたとたん鉄砲玉のように中からとび出したのはさっきの狼男だ。  見ると目は血走り、髪の毛は逆《さか》立《だ》ち、大きな咽《の》喉《ど》仏《ぼとけ》をグリグリ痙《けい》攣《れん》させながら、はたの二人には目もくれず、こけつ転びつ、一散に闇《やみ》の中を逃げていく有様が、とんと恐怖の権化のようでどうしても尋常とは思えない。  どうしたんだ!  一体、何事が起こったのだ!  あきれかえった二人が、思わず顔を見合わせたときである。またもや何やら異様なものが、ざあーっと風を巻いて門の中からとび出した。  犬だった。  子牛ほどもあろうかと思われるおおきな犬だった。  犬は引きちぎった鎖をあとに引きずりながら、さっと二人の間をかけぬけると、これはまたさっきの男のあとを追って、まっしぐらに宙をとんでいく。  由利先生と俊助はそのとたん、サーッと冷や水を浴びせられたような怖さをかんじた。ガチガチ歯が鳴って、膝《ひざ》頭《がしら》が思わずふるえた。  ほんの一瞬、実に咄《とつ》嵯《さ》の印象だったが、その犬の全身が血を浴びて真っ赤だったのに気がついたからである。鋭い、尖った牙《きば》から、ポタポタと赤い血が垂れているのを見たからである。  さあ、大変だ。あんな多量の血というものは、なみや尋常の怪《け》我《が》から出るものではない。人殺し? そうだ、この家の中で誰《だれ》か殺されたのだ。二人が思わずドキリと潜門のほうへ向き直ったときである。またもや屋敷の中からただならぬ悲鳴が聞こえてきた。しかも今度は女の声である。  さあ、こうなっては一刻も猶《ゆう》予《よ》はできない。犬のことも気がかりだが、こちらもただごととは思えない。二人は夢中で潜門の中へとび込んだ。  通用門からは、台所へいく道と庭へまわる道が二岐にわかれていた。二人はとりあえず庭のほうへとびこんでいったが、見ると煌《こう》々《こう》と電燈のついた十畳あまりの座敷があけっぱなしになっていて、その縁側に二人の男女が、ひしと抱きあったまま身動きもしないで、部屋のなかを凝視していた。  それは非常に印象的な場面だった。男は三十四、五であろう、色の浅黒い、鼻下に美《び》髯《ぜん》をたくわえた好男子だった。そして、その男にすがりついているのは、年は三つ四つ若いであろう、色の抜けるように白い、痩せぎすな美人で、束《そく》髪《はつ》のほつれ毛が、逆光線をうけて銀色に光っているのが美しい。 「ど、どうしたのです。何かあったのですか」  声をかけたが二人の活人画は微動だにしない。永遠にこうして抱きあっているのではないかと思われるほど、瞬《またた》きもしないで、恐ろしい凝視をつづけているのである。  不思議に思った由利先生と三津木俊助は、二人の背後からそっと座敷の中をのぞいてみたが、そのとたん、さすがに物に動ぜぬ二人も、 「わ、こ、こいつは——」  と、思わず二、三歩あとにとびのいたが、これが合図ででもあったかのように、女はふいにくたくたと、男の腕から滑りおちた。 「あ、——道代さん、しっかりして、——しっかりして下さい」  あわてて叫ぶ男の声、そのときどこか遠くのほうで、恐ろしい犬の咆《ほう》哮《こう》が聞こえてきた。 恐ろしき自殺?  さて、由利先生と三津木俊助がそのときそこに、どんな恐ろしいものを見たのか、それはしばらくお預かりとしておいて、筆を転じてあの狼男のことをちょっとここで述べておこう。  藤間家の通用門から、泡《あわ》を喰って外にとび出した狼男はまるでもう夢中だった。うしろからはあの恐ろしい猛犬が、牙を鳴らしてとんで来る。とびつかれたが最後だ、気の狂った猛犬はなにをやらかすか知れたものではない。  狼男はさっき藤間家の奥座敷で目撃した、あの世にも凄《せい》惨《さん》な光景を思い出した。すると、総身の毛がピンと逆立って、咽喉がからからに乾いて、舌ががくがくひきつって、 「タ、助けてえ!」  救いを求めようにも声が出ないのである。  まるでうなされているように、しどろもどろの足どりで、しばらく彼は夢中になって、暗い屋敷町を逃げまわっていたが、そのうちふいに、 「あっ、しまった!」  と、叫んだが、とたんにスッポリ、彼の姿が地上から消えてしまった。いや、ありようは、そのとき道《みち》普《ぶ》請《しん》か何かで、道路に大きな穴が掘りかえされていたのだが、あいにくシグナル燈が消えていたので彼は思わずその中へ転げこんでしまったのだ。  しかし、人間には何が幸いになるか知れたものではない。その穴がなかったら、狼男はあるいは、あの猛犬の牙によって、ズタズタにひき裂かれていたかも知れない。というのは、彼が落ちたつぎの瞬間、ざあーとすさまじい音を立てて、猛犬が彼の頭上をとび越えていったからである。 「ああ驚いた、すんでのことに咬《か》み殺されるところだったわい」  よほどしばらくたってから、やっと顔をあげた狼男、額の汗をふきながら、きょろきょろあたりを見廻したが、やがて穴からはい出すと、こそこそとその場を立ち去っていった。  話かわってこちらは藤間家の奥座敷。 「わ、こ、こいつは!」  と、由利先生や三津木俊助が、血相かえてあとじさりしたのも無理はない。  全く、いままでずいぶんいろんな事件に立ち会った経験を持っている二人だが、こんな恐ろしい光景を見るのは初めてだった。  座敷いちめん、ベタベタと血の海なのである。そしてその血の中に、虚空をつかんでのけぞっているのは、人間の死体というより、むしろいやらしい肉の塊みたいに見えた。顔も手も足もめちゃめちゃに咬みさかれ、あちこちに、ゾッとするような生々しい肉片が散乱している。  わけても一番恐ろしいのは咽喉の傷で、まるで柘《ざく》榴《ろ》みたいに真っ赤にはじけていた。顔はもう人相の識別もつかぬほど無残に咬みさかれ、座敷いちめん、血にそまった、荒々しい犬の足跡と、鎖を引きずった跡とが網の目のようについている。  由利先生と三津木俊助は、しばらく慄《りつ》然《ぜん》たる面持ちで、この場の様子をながめていたが、やがて、やっと由利先生が気を取り直した。 「いったい、こ、これはどうしたというのですか」  と、さっきの活人画の男を振りかえる。 「ネロです。ネロがやったのです」 「ネロ?」 「そうです、ドイツ種猟犬で獰《どう》猛《もう》なやつなんです。まえからこんなことが起こらなければよいがと心配していたところなんです」  男は恐ろしそうに身ぶるいしながら、蒼《そう》白《はく》の面をそむける。 「いったい、斃《たお》れているのは誰ですか」 「この家の主人です。藤間房人というんですが」 「なるほど、で、そこに気を失っていられるのが奥さんですな」 「そうです。道代さんといいます。僕は藤間さんの友人で磯貝慎策という者です」 「いったい、ネロというのはこの家の飼い犬なんですか」 「そうです」 「変ですね。いかに獰猛な犬とはいえ、飼い主を咬み殺すというのはちと受け取れぬ話ですね」 「そ、それが……」  と、慎策は何かいいかけたが、そのまま言葉を濁してしまう。  由利先生は何か曰《いわ》くがありそうだと思ったが、わざと知らぬ顔をして、 「三津木君、ともかくこのままにしちゃおかれん。君、すぐ警察へしらせてくれたまえ」 「あの、電話ならこの家にありますが」 「ああ、そうですか、それは好都合だ」  と、そこで直ちにこのよしが所《しよ》轄《かつ》警《けい》察《さつ》や警視庁へ報告される。やがて時をうつさず、それぞれ係官が出張してくる。簡単な取り調べが開始される。その結果、判明したところによると、表面に現われた事実というのは大体つぎのようなものであった。  主の藤間房人というのは、深川にある公立診療所の所長をしている医者で、家族は夫人の道代と、年とった雇《やと》い婆さんが一人、ほかにネロというドイツ種猟犬の犬が一匹、この犬が後に問題になったのである。  さて、その晩、婆やは親《しん》戚《せき》のところへ一晩泊まりの予定で出かけていくし、道代夫人は良人の使いで磯貝慎策のところへいっていた。そして十一時すぎ、慎策に送られて帰ってみるとこの有様なので、あまりの恐ろしさに二人は呆《ぼう》然《ぜん》として抱きあっていたというわけなのだ。 「一体、奥さんが君のところへ出向いたというのは、どんな用件だったんだね」  係官はとりあえず磯貝慎策に向かって質問を試みる。 「藤間さんの手紙を持って来たのです。ところがその手紙があまり異様なので、僕はびっくりして、とるものもとりあえず、奥さんと一緒に駆けつけて来たのです」 「異様というのは?」 「遺言書なのです。ここにありますから見て下さい」  慎策から渡された手紙を読んで、さすがの係官もあっと仰《ぎよう》天《てん》した。  磯貝君  道代がこの手紙を持って君のところへ行く時分には、我《わが》輩《はい》はすでにこの世のものでないと思ってくれたまえ。我輩の胃《い》癌《がん》はもはや、いかなる治療も及びがたいほど悪性化してしまった。坐してむざむざこの病魔にむしばまれんよりは、我輩はむしろ自ら生命を断たんことを欲する。されど磯貝君およそ平凡を忌《い》む我輩としては、その最期においても、最も嶄《ざん》新《しん》ならんことを願う。ここにおいて我輩は世にも奇抜な自殺方法を案出した。こいねがわくはこの手紙を見るや直ちに、拙《せつ》宅《たく》に来たりて我輩の自殺のいかに奇想天外なるかを見よ。終わりに臨みて兄《けい》に託すに道代を以《も》ってせんと欲す、二人の多幸ならんことを祈る。 藤間房人    さすがの係官もこの奇妙な遺書には、唖《あ》然《ぜん》たらざるを得なかった。 「すると君は、惨劇を自殺だと思っているんですか」 「僕にはよく分かりません。しかし、手紙にそう書いてある以上、それよりほかに考えようがないとも思われるのですが」 「しかしだね。飼い犬に自分を咬み殺させる、そんなことが果たしてできるだろうか。よし自分がそう願ったところで、犬というやつはどんな獰猛なやつでも、恩義には特別あつい動物だぜ。主人を咬み殺すと思えるかね」 「ところが……」  と、磯貝慎策は額の汗をぬぐいながら、必死となって、 「藤間さんとネロに限って、それがそうではないのです。藤間さんがいかにネロを手ひどくいじめたか、近所の人に聞けばすぐ分かります。まるで二人は——いや藤間さんとネロとは仇《きゆう》敵《てき》同《どう》士《し》でした。鎖につないであるのをよいことにして、それはもう見るにたえないいじめようで、あるときなどは焼《や》け火《ひ》箸《ばし》でネロの両眼をつき刺して盲目にしてしまったくらいです。だから、鎖を解かれたが最後、ネロが猛然として復《ふく》讐《しゆう》に突進したのは、火を見るより明らかなのです。道代さんなど、日ごろから、それをどんなに心配していたか知れないくらいです」 「なるほど」  そのとき、庭にある犬小舎を調べていた由利先生が、静かに係官に向かっていった。 「この鎖は自然に引きちぎられたものではない。誰かが鑢《やすり》で断ち切ったらしい跡がある」  ここに至って一同は、思わずシーンと顔見合わせたことである。 事件の表裏  大森の怪自殺事件。  当時これほど世間を騒がせた事件はなかった。飼い犬に咬み殺されて死ぬ。こんな恐ろしい、こんな惨《ざん》酷《こく》な自殺方法があるだろうか。人々はこの恐ろしい現場のありさまなどを読んで思わずふるえあがったくらいだった。  それにしても、あの恐ろしい盲目の犬は、それからどうしたのだろう。藤間家をとび出してから、いったいどこへにげたのだろう。警察では躍《やつ》起《き》となって、あの血に狂った犬の捜査につとめたが、不思議なことにはその後二日三日とたっても、いまだに犬の行《ゆく》方《え》は分からないのである。  さあこうなると、大森からその辺にかけて大恐慌だ。昨夜も山王で女が犬に咬まれたそうな、いや、どこやらで犬の唸《うな》り声をきいたなどと、まことしやかな噂がとんで、近ごろでは誰一人夜歩きをする者もない。  しかし、それにしても、この自殺事件にはどこか腑《ふ》に落ちないところがありはしないだろうか。  なるほど、藤間家の近所の人に聞いてみても、 「ええ、ええ、私たちもいまにこんな事件が起こりはしないかと思っていたんですよ。何しろあの御主人の犬のいじめようときたら、それはひどうございましたからね」  と、口をそろえて証言する。  だが、こうしてつじつまがあえばあうほど、由利先生にはいよいよ疑惑が濃くなってくる。何かある、何かも一つ裏がある。強く強くそんな気がしていたが、果たせるかな、それから三日目の新聞を見ると、磯貝慎策が突如拘《こう》引《いん》されたという記事が載っていた。  どういう理由で拘引されたのか、そこまでは書いてなかったが、これを見るとはっとした由利先生、直ちに新日報社へ電話をかけて、三津木俊助を自宅へ呼びよせた。  言い忘れたが三津木俊助は新日報社の花形記者であると同時に、私立探偵由利先生の高弟なのだ。 「先生、先生も今日の新聞をごらんになったでしょう」  昂奮のために、真っ赤に頬《ほお》を染めた俊助は、麹町三番町にある由利先生の事務所へとびこんで来るやいきなりそう叫ぶ。 「ああ見たよ、見たからこそ君に来てもらったのだ。磯貝慎策が拘引されたそうだね、いったい、どういう事情があるんだね」 「それなんですよ、先生」  俊助はどっかと椅《い》子《す》に腰を落とすと、遠慮なく卓上の煙草《 た ば こ》を取りあげながら、 「昨日、警視庁へ一通の投書が舞いこんだんです。それによると藤間房人の死は断じて自殺ではない。他殺だ、実に巧みに計画された他殺だ、しかも犯人は磯貝慎策と夫人の道代の二人共謀だというんです。警視庁でも内《ない》々《ない》二人に疑惑を抱いていたもんだから、すぐさま慎策の住居へ踏み込んでみたんですが、すると書斎の屑《くず》籠《かご》からズタズタに引き裂かれた、妙な紙片が出て来たじゃありませんか」 「妙な紙片というと?」 「藤間房人の遺書、御存知でしょう、あの遺書の草稿なんです。しかも房人の筆跡をまねるために、何度も何度も稽《けい》古《こ》した跡さえあるんです。そこで刑事は、磯貝慎策をひったてたというわけです」 「ほほう、するとあの遺書は偽筆かね」 「そうなんです。だからあの晩、道代が何も知らずに良人《 お つ と》の遺書をもって、磯貝慎策を訪れたというのはまっかな偽で、実は出がけに、こっそり鎖にやすりの目を入れて、いまにも鎖が切れそうにしておいたんです。ところが亭主のほうではそれと知らぬものだから、いつものように犬をからかいに庭へおりる。そしてからかっているうちに、プッツリやすりの目から鎖が切れたからたまらない。犬め、猛然として主人に躍りかかったというわけです」 「ほほう、あの男がそんなことを白状したのかね」 「いや、まだ白状はしませんがね、まあ、そうだろうという警視庁の見込みでおおかた今ごろは道代も拘引されているはずですぜ」 「なるほど、しかし女が亭主を殺そうなんて、よくよくのことと思うが、何かそういう原因があるのかね」 「そこなんです」  俊助は膝《ひざ》を乗り出して、 「その藤間房人というやつは、犬に対する態度でも分かるとおり、実に悪魔みたいな男で、いじめられているのは犬ばかりじゃない、道代はもうそれ以上ひどい仕打ちを受けていたそうです。それに同情したのがあの磯貝慎策で、二人のあいだにはいつしか恋が芽生えていたんですな、そこでとうとう、二人共謀であんな残忍なまねをやってのけたんですよ」  そこまでいってから俊助は、ふと思い出したように、 「ところで先生、この間のあの奇妙な狼男ですがね。あいつの素性が分かりましたよ」  俊助はいささか得意らしく、 「あれはもと、藤間家に書生をしていた男で、布目喬太郎というんです。ところがその時分、同じく藤間家に道代夫人の妹で加代子という美人が寄食していたんですが、やっこさん、この美人にうるさくつきまとって仕方がない。大体、不良性をおびた男ですから、道代夫人も心配して加代子をほかへ移すと同時に、あの男を放逐してしまったんです。だから、あいつ、とても道代夫人を憎んでいるんですよ」 「しかし、あの男がどうしてあの晩、人殺しがあることを知っていたんだろう」 「それです。僕が思うにやっこさん、あの晩無心か何かするつもりで、こっそり藤間家へいったところが道代夫人が鎖にやすりをあてている。これを見ると、何しろ家の事情に精通していた男のことだからすぐ道代の計画がわかった。ははあ、さては御主人を殺すつもりだなと思ったもんだから、恐ろしくてしようがない。それから銀座へ出て酒でも飲んでいるうちに我々の姿を見かけたのでしょう。そこでホテルまでわれわれを追っかけて来て、ああいう一幕が演じられたわけですが、さてまた気になるままに、藤間家へとって返したところが案の定あの始末でそこで泡《あわ》を食って逃げ出したに違いないと思うんです」 「偉い!」  由利先生は感服したようにハタと膝を打つと、 「三津木君、よくもそこまで気がついたね。するとあとは、布目喬太郎の証言を待つばかりだ。いったい、そいつはどこに住んでいるんだ」 「それがね、いま居所が分からないんですよ。僕は加代子という美人にも会って、今述べたような話をきき、それから喬太郎のことを探り出した揚《あげ》句《く》、藤間家を放逐されてから後の下宿も聞いたんです。ところがやっこさん、あの晩から下宿へ帰った形跡がないんですよ」 「ほほう」  由利先生はしばらくじっと瞳《ひとみ》をこらして考えていたが、ふいに体を起こすと、 「よし、それじゃ加代子という女に会ってみよう。その女はいまどこにいるんだね」 「加代子ですか、加代子なら藤間家へ留守番に来ておりますが」 「よし、それじゃこれからすぐに行ってみよう」  由利先生は何を考えたのか、決然として立ちあがったが、ちょうどそのころ、道代の妹加代子の身にも、世にも恐ろしい災難が降りかかっていたのである。 蟇《がま》屋《や》敷《しき》  山王からさらに奥へ入ったところ、馬込のかたほとりに、数年来空屋敷になっている大きな邸宅がある。顔が蟇に似ているところから、ひそかに蟇大尽と呼ばれた、さる成金が贅《ぜい》をつくして建築したものだが、その後、経済界の変動にあって、蟇大尽が没落してからというもの、売りに出しても買い手はつかず、いまでは草ぼうぼうと生いしげった、見るも陰気な空屋敷になって、付近ではこれを主人の名をそのままに蟇屋敷と呼んでいる。  この蟇屋敷の裏木戸から、いましも人目を忍ぶようにこっそりと入って来た男がある。  布目喬太郎なのだ。  相変わらず潮垂れた二重廻しを着て、頭はもじゃもじゃ、大きな唇をペロペロとなめながら、尖った目でキョロキョロあたりを見廻す様子が、なんともいえぬほど気味悪い。  喬太郎はバサバサと枯れ草を踏んで、奥まった茶室ふうの建物のそばまで来たが、そのとたん、うううとひくい犬の唸り声が聞こえた。 「しっ、俺だよ、おとなしくしていな、ああ、いい子だね」  茶室ふうの建物を見ると、ああなんということだ、世間があんなに大騒ぎをしているネロが、おとなしくその柱に、鎖でつなぎとめられているではないか。  ネロは喬太郎の声をきくと、盲いた目を見張りながら、さもうれしそうに尻《しつ》尾《ぽ》をふった。 「おおよしよし、腹が減ったか、さあどっさりと食糧を買いこんで来たから、まだ四、五日は籠《ろう》城《じよう》ができるぜ」  言いながら、二重廻しの下から取り出した紙包みをひらくと、パンだの腸詰めだのを取り出して、ネロにもやり、自分もムシャムシャ食いはじめた。してみるとこの二人、いや人間ひとりと犬一匹とはあの晩から意気投合して、ここに共同生活を営んでいると見える。これでは警察が必死となって探しても分からぬ道理だ。  喬太郎はやがてムシャムシャパンを食い終わると、思い出したように腕時計を見て、 「はてな、もう来そうなものだ。あれほど手紙でいっておいたのだから、よもや来ないというはずはないが」  と、ペロペロ舌なめずりをしながらつぶやくようすは、誰か人を待っていると見える。  喬太郎はそう長く待つ必要はなかった。  間もなくギイと裏木戸のひらく音がすると、ザワザワと枯れ草を踏んで、誰やらこっちへやって来る様子、喬太郎はソッとのぞくと、にわかに相好を崩して、唇のまわりを拭《ふ》くやら、もじゃもじゃの髪を撫《な》でつけるやら、おかしいほどソワソワしていたが、やがて建物の蔭から半身乗り出して、 「加代子さん、加代子さん」  と、柄にもない猫《ねこ》撫《な》で声で手招きする。  その声をきいて、はっと荒れ果てた庭の一角に立ちどまったのは、そう、年のころは二十二、三であろうか、なるほど、どこか道代夫人に似た面差しの、しかし年が若いだけ、はるかに現代的な感じのする洋装の美人だった。 「加代子さん、よく来てくれたね。誰もいないから、さあこっちへいらっしゃい」  加代子はぎゅっと唇を曲げ、顔いっぱいに軽《けい》蔑《べつ》の表情をうかべながら、つかつかと側へ寄って来たが、とたんにあっとうしろへとびのいた。 「まあ、ネロ! ネロはこんなところにいたの」 「うふふ、大丈夫だよ、こうして鎖につないであるから怖いことなんてありゃしないさ。それにネロはとても僕によくなついているんだからね」  そういいながら喬太郎が頭を撫でてやると、哀れな盲犬は首をかしげながら尻尾をふる。 「ほら、あの通りさ。この間の晩ね、僕はネロに食い殺されるのかと思ったよ。ところが、犬というやつは利口なものだね。盲目になっててもちゃんと匂《にお》いで分かると見えるんだ。むかし僕が可愛がってやったことを覚えていたと見えて、ビクビクしている僕に、鼻をこすりつけてきたじゃないか。で、僕がソッとここにかくまってやったわけだよ」 「まあ、ナ、なんだってそんなことなさるの、この犬がどんなことをしたか、よく御存知でしょう。ああ気味が悪い」  ところどころにこびりついている赤黒い汚点、それがなんであるかと思うと、加代子は思わず身ぶるいが出る。ああ、あの白い牙、そして盲いた目、盲いているがゆえにこそ、いっそう気味が悪いのだ。  加代子はいまにも逃げ出したいのをやっとおさえて、 「で、布目さん、あたしに用事というのは一体なんなの、蟇大尽の空家までこっそり来れば、お姉さまを助けて下さるってお手紙だったから、あたしこうしてわざわざやって来たのだけど」  なるほど加代子は、可哀そうな姉を助けたい一心で、この気味悪い狼男の誘いの手にのったのだ。喬太郎はそれを聞くと、狼のような大きな唇をペロペロとなめながら、 「そうさ。ねえ、加代さん、君の姉さんや磯貝のやつが、どうしてああも急に拘引されたかわけを知っているかい。うふふふ、実はね、この僕が警視庁へ密告状を出したんだよ。二人が藤間さんを殺したんだって」 「まあ! あなたが!」  加代子はぎょっとしたように息をのみこんだが、にわかに涙をうかべ、 「ああ分かった。あなたはあたしのことを根に持って、それでそんなことをしたのね。あなたは悪魔だ鬼だ! いいえ、嘘《うそ》です、嘘です。お姉さんや磯貝さんが、義《に》兄《い》さんを殺したなんて、嘘です、嘘です」 「そうさ、嘘さ」  喬太郎はケロリとしている。 「え?」  加代子もこれには驚いた。 「嘘さ、それは誰よりも僕が知っているよ。しかしね、加代さん、世の中に嘘ほど信じられるものはない。そんなに磯貝と君の姉さんは、いかにもその嘘が通りそうな危い立場にあるんだ。加代さんこのままにしとけば、きっと二人は死刑になるぜ」  いったい、この男は何をいおうとしているのだろう。わざわざこんなところまで加代子を呼び出しておいて、何をするつもりだろう。 「ねえ、加代さん、僕は嘘と知りつつ密告状を書いた。というのはね、二人を危険な立場におとし入れておいて、それからまた救けてやろうと思ったからだ。はばかりながら二人の無実を証明することのできるのは、天下ひろしといえどもこの僕よりほかにないんだぜ。しかし、それには条件がある」  言ったかと思うと、ふいに喬太郎は加代子の足下に身を投げ出した。 「加代さん。お願いだ、僕の願いをきいてくれ。僕は心の底から君に惚《ほ》れてるんだ。君のいうことならなんでも聞く、お願いだ、お願いだ、僕のいうことをウンといって聞いてくれ」  なんという気味悪い愛だろう。喬太郎は加代子の足を嘗《な》めんばかり、身もだえしながら訴えるのである。加代子はゾッとしてとびのいた。 「ナ、何をいうのです、ばからしい」 「なに、ばからしい」 「ええ、ばからしいわ。いくど言っても同じことよ、あたしあなたを愛する気なんて少しも起こらないのですもの、つまらない冗談よしてちょうだいよ」 「そうか、よし」  喬太郎はムックリと起き直ると、 「それじゃ、君の姉さんを救けるのも止《よ》したぜ」 「ええ、よござんすとも、お姉さまは潔白なんです。あなたなんかに救っていただかなくても、いまにきっと疑いは晴れますわ。よけいなお世話よ」 「ようし」  ふいに喬太郎はバリバリ歯を噛《か》み鳴らした。口がかっと裂けて、目が爛《らん》々《らん》と輝いて、ああ、なんともいえぬ気味悪さ、いよいよ狼の本性を現わしたのだ。 「加代、手前にはこの犬が目に入らぬと見えるな。こうなったら可愛さあまって憎さが百倍だ、ネロほら、あの女を咬み殺せ」 「あれ」  加代子はあわてて逃げ出そうとしたが、そのとたん、草の根につまずいたからたまらない。思わずバッタリ倒れたが、そのうしろで喬太郎が急《いそ》がしく鎖をとく音がする。盲犬の気味悪い唸《うな》り声がする。  加代子は起きあがろうとしたが、膝《ひざ》頭《がしら》ががくがくふるえてまたもやバッタリ倒れた。そのとたん、ウーッというすさまじいネロの唸り声、加代子はあまりの恐ろしさにそのままフーッと気が遠くなった。 最後の惨劇  加代子はどのくらい長く気を失っていたか自分でも分からない。気がついてみると、側に二人の男がひざまずいて、自分の顔をのぞきこんでいる。 「あれ!」  と叫んで起き上がろうとしたが、すると年とったほうの紳士が、 「ああ、気がつきましたか、もう大丈夫ですよ。あなたは加代子さんでしょう」  と、優しい声で慰めるようにいう。 「は、はい、でも、でも、あの犬は——犬は——」 「犬はそこにいますが、鎖でつないでありますから大丈夫です。加代子さん、俺は由利という探偵だが、実はいまお宅へ伺《うかが》って喬太郎の手紙を見たものですから、急いでここへ駆けつけて来たのですよ」  二人の男とはいうまでもなく、由利先生と三津木俊助だった。加代子は喬太郎という名をきくと、ハッと思い出したように、 「あの人はどうした。その喬太郎はどうしまして?」  と、急がしく尋ねる。それをきくと由利先生と三津木俊助はハッとしたような顔を見合わせたが、 「おや、するとあなたは御存知ないのですか。喬太郎はほら、そこにいますよ」  加代子は何気なく由利先生の指すところをながめたが、そのとたん、ゾーッと全身の血が凍るような恐ろしさに打たれて、思わず、 「あれ」  と顔を覆《おお》うた。  無理もない。彼女と三間とはなれぬところに、喬太郎が虚空をつかんで悶《もん》絶《ぜつ》しているではないか。しかもその咽《の》喉《ど》がいつかの藤間房人と同様に、パックリと柘《ざく》榴《ろ》のように口をひらいている恐ろしさ。  由利先生は加代子の様子を見守りながら、 「じゃ、あなたはこの惨劇を御存知じゃなかったのですか」 「知りません、あたし気を失ってしまって、何事が起こったのか少しも存じません」 「では、どうして気を失ったのですか。さあ、あなたが布目喬太郎に誘い出されて、ここへやって来てから、いったいどんなことがあったのですか。それを話してみて下さい」  そこで加代子はさっきからのいきさつをかいつまんで話したが、それを聞いていた三津木俊助、 「分かった、分かった、鎖を解かれた拍子にネロは逆に喬太郎のほうへとびついたのですね」 「しかし、三津木君、それじゃネロはなぜそのまま逃げてしまわなかったのだ」 「それは——ああ、分かった、それはこうです。喬太郎とネロが暴れているうちに、ネロの鎖が偶然あの樹の幹にからみついてしまったんです。だからネロは逃げるわけにはいかなくなったんですよ」  なるほど喬太郎の死体のすぐ側にある、太い梅の幹に、鎖がぐるぐる巻きついて、ネロは身動きもできずに、盛んに激しくほえたてているのである。 「そうかな。いや、そうかも知れない」  由利先生は気違いのようにほえたてる盲犬の犬を、しばらくじッと見詰めていたが、何を思ったのか、いきなりつかつかと側へよると、からみついた鎖を解きにかかったから、驚いたのは俊助と加代子だ。 「あ、先生、な、何をなさるんです」  叫んだがもう遅い、梅の幹から解きほどかれた盲犬ネロは、早二、三間ズルズルと由利先生の体を引きずっていく。恐ろしい力だ。 「三津木君、君も手をかしてくれたまえ。大丈夫だ、咬《か》みつきやせん。俺はこの犬がどこへ行きたがっているか知りたいのだ。加代子さん、あなたもよかったら来てごらん」  なるほどネロはほかの者には目もくれず一《いち》途《ず》に屋敷の外へ出たがっている様子である。  俊助もこれに勇気を得て、鎖のはしを握ったが、大の男二人かかっても、この盲犬を制御するのはなかなか難かしかった。  ネロは二人を引きずるように、ズルズル裏木戸から外へ出ると、しばらく盲いた首をかしげ、ひくひくとその辺を嗅《か》いでいたが、やがてまっしぐらに走っていこうとする。 「あ、誰かのあとを追おうとするのですね」 「そうだよ、分かったかね。この間の死体も、今日の喬太郎もネロが咬み殺したんじゃない。犯人は別にあるんだ。加代子さん、あなたも一緒に来て下さい」  ネロは時々、路上の匂いを嗅ぎながら、恐ろしい勢いで二人の男を引きずっていく。加代子は何かしら、わけの分からぬ昂奮で、真っ青になりながらも、そのあとからついていったが、それから間もなく、如来寺付近まで来たときである。  ふいにネロが身をふるわせて、恐ろしい唸りをあげたかと思うと、しまった、鎖を引き千切って矢のごとく駈け出した。 「あ、しまった」  叫んだがもう遅い。またたく間にネロは寺の門内へとびこんだが、と、同時に、恐ろしい人の叫び声、犬の咆哮、つづいて、ズドンというピストルの音。  三人が大急ぎで、とびこんでみると、寺の庭を真紅に染めて、人と犬とが死んでいるのだ。犬は脳天を射抜かれ、人は咽喉を咬み裂かれて。—— 「加代さん、加代さん」  由利先生は急いで加代子を呼ぶと、 「あなたはこの男に見覚えがありませんか」  といいながら、咬み殺された男のつけ髯《ひげ》を、いきなりパッとむしり取った。  加代子はいまにも失神しそうな顔色で、その男の顔をのぞきこんだが、 「あ、義《に》兄《い》さんだわ、藤間の義兄さんだわ」  意外とも意外、そこに死んでいる男こそ、先夜殺されたはずの藤間房人その人だった。 「俺がなぜ、藤間房人を臭いとにらんだかといえばだね」  由利先生は事件落着後、すっかり悄《しよ》気《げ》切っている俊助に、そう説き明かしていた。 「事件のあった翌日、俺は深川の診療所へ出向いていったのだ。あの男が所長をしていた診療所だね。いや、君を出し抜いてすまなかったが、するとそこで、胃癌で治療をうけていた一人のルンペンが二、三日まえから行《ゆく》方《え》が分からないということをきき出したのだ。俺にはすぐピンときた。それで、それとなく探ってみるとそのルンペンの背の高さなり、体の格好なりが藤間房人とよく似ているんだ。これだけ分かればもう俺には何もかも分かったも同様だ。藤間家で死んでいたのは、人々が信じているように主人の藤間房人じゃない。ルンペンが身代わりに立たされたのだ、と、そう考えたんだが、さて、藤間房人がなぜそんなことをしたのか分からない。それでしばらく様子をうかがっているうちに、磯貝と道代夫人が密告状によって逮捕された。そこで俺はははあと思ったね。君今度警視庁へいったら無理にも調べてみたまえ。密告状は二通あるはずだ。藤間が書いたのと、布目喬太郎が書いたのとね。つまり、藤間房人は嫉《しつ》妬《と》のあまり、あの二人に罪を被せようとたくらんだのだよ」 「よく分かりました。しかし、そうすると喬太郎はいったいこの事件で、どんな役割を演じているのでしょう」 「いや、その点は君に感謝しなければならない。この間君がいったね、あの話には少しも間違いはないんだ。喬太郎はあの晩、藤間家へ忍びこんで、ある人物がネロの鎖にやすりを入れているのを見た。しかしその人物は道代夫人じゃなくて、当の藤間房人なのだ」 「あっ!」 「ね、分かったかい、喬太郎はそこでこう考えたんだ。藤間房人が道代夫人を咬殺させようとしているんだとね。ところであいつは加代子のこと以来、道代夫人にひとかたならぬ恨みがあるものだから、助けてやるどころか、むしろいい気味ぐらいに思って、しばらく経ってから様子を見に引き返して来たんだが、どっこい、殺されているのは藤間じゃないか。一時はびっくりして、泡を食って逃げ出したんだが、さすがは悪党、蛇《じや》の道は蛇《へび》というやつさ、それに藤間の性格をよく知っているもんだから、すぐからくりに気がついたんだよ。だから、蟇屋敷で加代子がいうことさえ聞けば、真相を話してやるつもりだったんだね」 「しかし、先生、磯貝の書斎の屑《くず》籠《かご》から出たあの手習いは」 「なに、ありゃ事件の前日、藤間が訪問した際、こっそり、忍ばせて来たんだよ、あの遺言書も実際は藤間が書いたものなんだ。そこで順序よく事件の顛《てん》末《まつ》をいえばこうだ。道代夫人に遺書をもたせて磯貝のところへやる。そのあとで、どこかへ押しこめておいたルンペンを引きずり出し、自分の着物を着せて殺し、顔をズタズタにしておく。それからあとで、犬の鎖に八分ほどやすりの目を入れる。すっかり切っちまうと、ネロがとびかかって来るからね。それから自分は変装して抜け出したんだが、あとでネロはとうとう鎖を引きちぎって座敷へおどりこむと、ほら、藤間の着物を着ているもんだから、そこは盲目の悲しさ、匂いをかいでてっきり藤間だと思い、二、三〓所咬みついたが、しかし、そのうちにだんだん、違うことに気がついてきたんだね。おやと思っているところへ、布目のやつがやって来る。われわれが駆けつけるというだんどりさ」 「しかし、あの喬太郎の場合は?」 「ああ、あれか。あれはね、藤間のやつ、喬太郎に鎖を切るところを見られているもんだから、生かしてはおけない。ひそかに喬太郎の行方を探しているうちに、とうとうあの空屋敷で見つけ出したんだ。そこでどんなことが起こったかというと、まず加代子が恐怖のあまり気絶する。それを見ると喬太郎め、けしからぬ考えを起こして、いったん、鎖をとったネロを、またあの幹に結びつけたんだね。これが喬太郎の運のつきさ。そこへ藤間が来て、格闘のすえ、とうとうあんなことになったんだ。犬さえ自由にしておけば、いかに藤間のやつでも近寄ることはできなかったんだがね。  それにしても、藤間のやつがこんな大それた犯罪を企んだのは、必ずしも嫉妬ばかりじゃない。嫉妬はむしろ行きがけの駄《だ》賃《ちん》さ、あいつは診療所の公金を数年間にわたって費消していたのが、この年末の決算で、いよいよばれそうになったもんだから、どうしても姿を隠さなければならなかったんだよ」  由利先生はそう言いながら、さも恐ろしそうに卓上を見る。そこには犬の歯型とそっくり同じ格好をした、恐ろしいギザギザの歯をもった、大きな鋼鉄の釘《くぎ》抜《ぬ》きみたいなものがのっかっていた。  それこそ、藤間房人がネロに罪を転《てん》嫁《か》するために、ルンペンと、喬太郎と二度の殺人に用いた世にも恐ろしい兇器だったのである。  由利先生と俊助はその歯についた恐ろしい血の跡を見ると、思わず慄然としたことだった。  本書には今日の人権意識に照らして不当・不適切と思われる語句や表現がありますが、作品執筆時の時代背景や作品の文学性などを考慮しそのままとしました。 (角川書店編集部) 双《そう》仮《か》面《めん》  横《よこ》溝《みぞ》正《せい》史《し》 ------------------------------------------------------------------------------- 平成14年12月13日 発行 発行者  福田峰夫 発行所  株式会社  角川書店 〒102-8177 東京都千代田区富士見2-13-3 shoseki@kadokawa.co.jp (C) Seishi YOKOMIZO 2002 本電子書籍は下記にもとづいて制作しました 角川文庫『双仮面』昭和52年10月30日初版発行