仮面劇場 他二篇 横溝正史 [#表紙(表紙.jpg)]  目 次   仮面劇場   猫と蝋人形   白蝋少年 [#改ページ] [#見出し]  仮面劇場 [#小見出し]  発 端 [#ここから改行天付き、折り返して3字下げ]    瀬戸内海国立公園観光船のこと——ガラスの舟——三重苦少年——立ち聴く影 [#ここで字下げ終わり]     一  〇——商船株式会社のきもいりで仕立てられた、瀬戸内海国立公園観光船、N——丸が、初夏の海上へハイキングにと、大阪天保山桟橋を解纜《かいらん》したのは、昭和八年、瀬戸内海の島々に、鮮緑したたるばかりの、六月十一日のことでありました。  日程をお話しいたしますと、六月十一日、土曜日の午後八時、天保山桟橋を出帆したN——丸は、その翌日の朝はやく、本島の笠島浦というところに着きます。  ここにひと先ず上陸した一同は、そのかみの海賊城址を見物したり、遠見山の展望台から、海の銀座ともいわれる、東部瀬戸内海の風景を観賞したり、そしてそれからふたたび船によって、塩飽《しあく》諸島のあいだを漫歩しながら、鬼ヶ島にわたり、鬼の岩屋といわれる幽邃《ゆうすい》な洞窟を探検して、その夕刻、天保山へかえって来ようという、初夏の週末をすごすには、まことにかっこうの計画でありました。  こういう旅ですから、乗客というのもたいていは、京阪神の相当の家庭の人たちばかり、ことに家族づれが多かったので、わかい綺麗なお嬢さんもおれば、カメラのピントをあわせるに忙しいお洒落《しやれ》な青年もいる。  いたずらざかりの、坊ちゃん嬢ちゃんがいるかと思うと、なかにはまた、片時も数珠をはなさないような、品のいい切り髪の御老婆もいるというわけで、まことに賑やかな遊覧船でありましたが、さいわい天候にもめぐまれて、この海上ハイキングは大成功でありました。  さて、一同が思うぞんぶん海の精気を満喫し、奇巌怪石の島々にカメラのフィルムもつきはてて、ふたたび船が鬼ヶ島から、天保山さしてかえりの航路についたのは、日曜日の午後二時ごろのこと。夕食は船中でしたためまして、神戸の中突堤へつくのが夜の八時ごろになります。こうして、この楽しい週末の、海上ピクニックはおわるのでありました。  ところが、このN——丸が、いましも淡路島と小豆島のあいだを縫うて、一路、神戸へむけて進んでいるときのことでした。 「あら!」  と、双眼鏡を眼にあてたまま、つと、甲板のたたみ椅子から立ちあがると、 「まあ。……あれ、なにかしら」  と、不思議そうに首をかしげて呟いたのは、さよう、二十八、九の美しい洋装の婦人。女としてはもう熟《う》れきった年頃ですが、それでいて、どこかにまだ、あどけなさの残っているように見えるのは、笑うと両頬にくっきりとうかぶえくぼ[#「えくぼ」に傍点]のせいでしょうか。太りじしの豊かな体格ではありますが、手脚がのびのびとしているので、洋装がまことによく似合う。眼ざむるばかりのグリーンのドレスのうえに、ピンクいろのケープを無雑作に、ひっかけているのもうつりがよく、短いスカートの下からのぞいている脚も、牝鹿《めじか》のように弾力をもっています。  まえにもいったように、多くは家族づれか、さもなくば嬉しい楽しい恋人同士のなかにまじって、この婦人ばかりは終始さびしい一人旅の、しかも上方ふうとはまたかわった、素晴らしい美貌が、昨夜からひとびとの注目を、ひいているのでありましたが、船客名簿によると、なまえは大道寺綾子といって、どうやら、鎌倉に本宅を持っているらしいのです。  さて、デッキ・チェアから立ち上がった綾子は、双眼鏡を眼にあてたまま、吸いよせられるように手摺りのそばに近寄ると、からだをまえに乗り出して、なおもいっしんに、はるかかなたの水平線上を眺めていましたが、 「変だわねえ。いったい、あれ、なにかしらねえ」  われにもなくまたそう呟きましたが、するとその声にふとこちらをふりかえったのは、すぐ隣のデッキ・チェアによりかかって、よねんなく読書していた白髪の紳士。しかし皆さん、誤解してはいけません。  なるほどこの人の頭髪は、白銀のような美しい光沢をもった白髪なのですが、よくよく見るとこの人が、決して白髪の示すほども年をとっていないことがわかりましょう。色の浅黒い、眼つきの鋭い、それでいて微笑をふくむと、なんともいえない温かい優しさの溢れるのがこの人なのです。年は四十をそれほど多くは出ていますまい。  この人も同伴者のない、孤独なひとり旅でしたが、さきほど、鬼の岩屋のまえで、一同そろって記念撮影をするときに交換した名刺によると、由利麟太郎とのみ。どこの人やら、何をする人やら、いっこうに見当もつきかねましたが、言葉つきからして、どうやら東京者らしいのを、綾子は心ひそかに、たのもしく思っていたところなのであります。  白髪の紳士は読みかけの本を椅子のうえにおくと、 「どうかしましたか、大道寺さん」  と、綾子のそばへよって来る。 「ああ、先生」  綾子はいつかこの人を、先生と呼んでいましたが、なるほどそういう呼びかたこそ、この人にいちばんふさわしいように思われます。 「あの、……向こうの波間にういている、……ほら、あれは何んでございましょうね。船のようでもあり船のようでもなし、船とするとずいぶん妙な船ですわねえ」  綾子は双眼鏡から眼をはなすと、ボーッと上気したような眼を、由利先生に向けました。軽い緊張のせいか、瞳がきらきら輝いて、人を魅するような美しさです。  由利先生もその美しさに打たれたように、しばしばと眼をまたたきましたが、すぐと、 「どれ、どれ」  と、自分も綾子と並んで、胸にぶらさげていた双眼鏡を眼にあてましたが、 「なあるほど、妙な船ですな」 「変でございましょう」 「箱のようでもあるし、筏《いかだ》のようにも見えますね。艫《ろ》も櫂《かい》もついていないところをみると、どこからか漂流して来たのかしら」 「そうでしょうか。そうかも知れませんわね。でも、なんだかキラキラ光ったものが見えますわね。あれ、何んでしょうねえ」 「変ですねえ。私もそれに気がついていたのだが。……」 「あれ、ガラスじゃありません? あら、ほんとにあれ、ガラス箱のようじゃございません?」 「お! なるほど、大きなガラス箱がつんである。こいつは妙だ。いったい、何をする船かしらん?」 「このへんによくある漁船のようではありませんわね。第一、漁船にあんな大きなガラス箱をつむはずはございませんわね。あら!」  ふいに綾子が頓狂な声をあげて、双眼鏡を落としそうになったので、由利先生は思わずそのほうへ振りかえりました。 「ど、どうかしましたか」 「あれ……人じゃございません? ああ、人だわ、誰か人が乗っていますわ。ほら、あの大きなガラス箱のなかに……誰か人が横になって……」 「な、な、なに、人だって?」  由利先生もぎょっとしたように、急いで双眼鏡のピントを調節しましたが、 「ふうむ!」  思わず深い唸り声をあげました。  ふたりが驚いて、しばらく茫然《ぼうぜん》と心を奪われていたのも無理ではありません。  そのとき、波間はるかに浮きつ沈みつ、ふたりのまえに展《ひろ》がって来たのは、何んともいいようのない異様な光景でありました。  いましもかあっと西陽をうけて、あかね色に炎《も》えあがっている波のあいだを、艫も櫂もつけぬ一葉の小舟が、ひとひらの木の葉のように、浮きつ沈みつ、沈みつ浮きつ。——しかも、その小舟のうえには長持ちほどもあろうと思われる、大きなガラス張りの箱がおいてある。そしてガラス張りのその箱のなかには、おお、なんということだ、人間ひとり、身動きもしないで仰臥《ぎようが》しているではないか。  生きているのか、死んでいるのか、男か女か、さだかに見わけかねますけれども、淡路島の島影づたいに、小舟はしだいに海峡のほうへ流れていきます。  遠くから見てさえ相当のスピードですから、そばへ寄ってみれば矢の如き速さではありますまいか。潮に乗っているのです。  このまま放っておけば、鳴門の渦に巻きこまれて、舟もガラス箱も、ガラス箱のなかに仰向けに寝ている人も、木っ葉微塵となって魔の海底に吸いこまれていくことは、掌《たなごころ》をさすように明らかな事実であります。 「あら、たいへん、たいへん、誰かあの方を助けてあげて頂戴!」  綾子は金切り声をあげて叫んだが、その時分、ほかにもこれに気付いた人もあったと見え、船中はにわかに大騒ぎになりました。     二  乗客の報らせによって、すぐにN——丸はその進行をとめました。  そして、屈強な水夫たちによってボートがおろされました。  ボートはすぐに舟をはなれていきます。  水夫たちの逞《たく》ましい腕先にオールがおどって、きらきらと飴のように、粘っこい海水をはねあげるのが見えます。そのボートの先頭に、すっくと立っているのは由利先生、潮風にふさふさとなびく白髪が、折りからの西陽をうけてまっかに炎えあがっているのであります。 「うまく助かるでしょうか」 「ええ、もう大丈夫よ。あれだけ屈強な人たちが出向いていったんですもの」 「でも、このへんの潮の流れはとても危険なのよ。うっかり巻きこまれたが最後鳴門の藻屑になってしまうんですって。だから、御覧なさい。このへんいったい、一艘の漁船も見あたらないでしょう。漁師がおそれて近付かないんですって」  大きな輪をえがきながら、しだいしだいに鳴門の渦に吸い寄せられていくあの奇妙なガラス舟と、それを目差して進んでいくボートの行く方を、固唾《かたず》をのんで見まもる人たち、綾子のまわりにはいつの間にか、若い令嬢がおおぜい集まって来ていました。 「でも、もう大丈夫よ。ほら、ボートはもうあんなに近くなったんですもの。しかし、あの人、生きているんでしょうか、死んでいるんでしょうか」 「むろん、死んでいるのよ。生きていればあんなにじっとしている筈《はず》はないわ。死んでいるにしても、しかし、妙ねえ」 「ほんとに妙な舟よ。ガラス張りの舟なんて、いままで見たこともきいたこともございませんわ。あなたが発見なさいましたのね」  令嬢のひとりがそう綾子に訊ねました。 「ええ、ぼんやり双眼鏡をのぞいていたら、何んだか妙なものが見えるでしょう。あたしもはじめのうち、何んだかさっぱり、見当もつかなかったんですけれど、あの方——由利さんとおっしゃる方と御一緒に見ていると、人が乗っているようなので、ほんとにびっくりしてしまいました」  そういいながら綾子は、由利先生の坐っていたデッキ・チェアへ眼をやりました。そこにはさっき白髪の由利先生が、読んでいた本が伏せてあります。その本の表紙には美しい金文字で、  犯罪心理学 「犯罪心理学——まあ!」  綾子はちょっととまどいしたような眼をしましたが、ちょうどその頃、ボートはやっと例の奇怪な舟のそばまで漕ぎ寄せていました。 「ああ、もう大丈夫ね。うまくいったわ」  しかし、それはこちらで見ているほど簡単な仕事ではなかったと見えて、ボートはそばまで漕ぎ寄せながら、なかなかぴったりくっつかない。  まるで野獣がえものを狙うように、しばらくゆるい輪をえがいて、ガラス舟のまわりをうろついていましたが、やがて水夫のひとりがボートのへさきに立ち上がると、くるくるくると片手でまわしはじめたのは、さきを輪にしたロープなのです。  ロープは一枚の円盤のように、ボートのうえを躍っていたが、やがて一本の線となり、つつうーッと飛んだかと思うと、見事! がっきと向こうの舟のへさきに連結しました。  わあ!  こちらの甲板からいっせいに歓呼の声があがります。 「ああ、助かったわ。もう大丈夫」  まさにそのとおりでありました。  ロープを手繰《たぐ》ってボートはしだいに舟に接近していく。  やがてその間半間ばかり、と、この時ひらりとこちらのボートから、向こうの舟に乗り移ったのは白髪の由利先生。先生はあの奇怪なガラス張りのなかを覗《のぞ》いていましたが、すぐ、ボートのほうを振りかえって手をふります。  と、ボートはくるりと方向転換、すぐまた、ひたひたと水を掬《すく》いあげながら、こっちのほうへ漕ぎ戻して来る。  やがて本船とボートの距離がせばまって来るにしたがって、甲板に群がっていた人たちは、何んともいえぬ奇妙な胸騒ぎをかんじはじめました。  それもその筈、接近するにしたがって、しだいにはっきりして来るその舟というのが、まことに尋常ではないのです。  形はふつうの小舟だが、そのなかには、いろとりどりの美しい薔薇《ばら》の花が、盛りあがるように撒《ま》き散らしてある。それはまるで葬式の柩車《きゆうしや》のようでもあり、その花の香ぐわしさは、ボートがどんと本船の船腹にへさきをぶっつけたとたん、潮風にもめげず、プーンと令嬢たちの鼻孔をうったくらいなのです。 「まあ!」  甲板に群がった人々は、思わず顔を見合わせたが、異様なのはそればかりではない。舟の中央に安置してあるあのガラス箱、まさに長持ちほどもあろうと思われる、大きな長方形のガラス箱には、黒いテープで結《ゆ》わえた花束が、——それこそ葬式の柩《ひつぎ》を飾るように白い花束がおいてありました。 「あら、じゃ、やっぱりあの方《かた》死んでいるのね」 「そうよ、そうよ、きっと。——そしてこの舟はお葬いの舟なのよ」 「あら、いやだ、縁起の悪い。それなら何も苦労して、わざわざ引っ張って来なくてもよさそうなものにねえ」 「でも、変ねえ、このへんでは人が死ぬと、海に流す習慣があるのでしょうか」  令嬢たちは固唾をのんで、ガラス張りの箱をうえから覗きこんでいたが、その箱のなかにはたしかに人が、白衣をまとうた人の姿が横になっている……。  と。——この時でした。  箱の向こうにもたれている由利先生が、つかつかと側面にまわったかと思うと、横についている蓋を、静かにうえに跳ねあげました。  するといままで石像のように、身動きもせずに箱の中に仰臥していた人物が、よろよろと、手探りで、そしてそれこそ秋風にそよぐ木の葉のように身をふるわせながら、箱の中から這《は》い出して来たではありませんか。 「あっ!」  甲板にむらがっていた人たちの唇からは、その時いっせいに、何んともいえぬ深い感動のさけび声が洩れました。  それもその筈、大道寺綾子にしても、この時ほど、世にも衝動的な光景に接したことは、あとにもさきにも、いやいや、うまれてこのかた、一度だってありますまい。  ガラス箱からはい出して、よろよろと夕日を受けて立ちあがったのは、年のころ十九か二十のそれこそたとえようもない程の美少年!  それは何かしら、血の通った、現実にこの世の空気を呼吸している人間というよりは、蝋《ろう》でこさえた人形のように、妙に神秘的で、妙に物語めいて、まるで草双紙から抜け出して来たような美しさ、ぎりぎりと歯ぎしりが出るほどの、異様に身に迫って来る、たぐいまれなその美貌。  ああ、ひょっとするとこの少年は、鳴門の渦から這いあがった海の精気ではありますまいか。それとも日も通らぬ暗黒の海底に棲むという人魚が、なにかの拍子で波間に浮かびあがって来たのではないでしょうか。  少年はブルブルとひっきりなしに身をふるわせる。まるでおこり[#「おこり」に傍点]を患っているもののように、からだ中をふるわせる。  柔かい髪の毛が、海風に波うって、身につけた草色の洋服が、折りからの西陽を吸ってあたたかそうに輝きます。  それにも拘らずその少年は、絶え間なくからだをふるわせ、そのあしどりには、どこか、めしいたもののような頼りなさ、危なっかしさがあるのでした。  少年は由利先生の肩につかまって、ようやく、令嬢たちのむらがっている、甲板まであがって来ました。  しかし、かれは少しもあたりにいる人々に気がついたふうはありません。絶え間なく、ブルブルとからだをふるわせておりますが、その瞳はめしいた如く動かず、かたく結ばれた唇は、結んだままワナワナとふるえています。  少年がまえをとおり過ぎると、令嬢たちは故知らぬうそ寒さをおぼえて、思わずゾーッと後じさりをいたしました。  しかし、それさえ気づかぬように、少年の表情にはなんの反応もないのです。 「先生、この方……どこかお悪いのですね。……こんなにふるえて……」  自分のまえまでやって来たとき、綾子は喘《あえ》ぐように呟《つぶや》きました。由利先生は少年のからだを支えたまま立ち止まると、 「いや、この少年のふるえているのは、肉体の病気のせいではないのですよ。この少年はおびえているのです」 「おびえて……? まあ、可哀そうに……でも、無理はございませんわ。生きながら、あんなものに入れられて……先生、この方眼が不自由なんですわね」 「そう、眼が見えないようですね。しかし、この少年の不自由なのは、眼ばかりではないらしいんですよ」 「え——? 眼ばかりではないとおっしゃいますと——」 「ほら、これを御覧なさい。こんなものが、あのガラス箱のなかに、——寝ている少年の枕もとにおいてあったんですよ」  むつかしい顔をして、由利先生がさし出したのは……奇妙な金箔塗りの木片でありました。それはちょうど位牌みたいな恰好《かつこう》をしているのですが、その木片のうえには、つぎのような文字が、達筆で彫ってあるのでした。 ————————————————————————————————————————  盲《もう》にして聾唖《ろうあ》なる虹之助の墓 ———————————————————————————————————————— 「まあ! 盲にして聾唖ですって? 盲にして聾唖ですってこの人が……? この人……ああ、可愛い、こんな美しい人が盲聾唖……」  綾子が唇をふるわせて絶叫したのも無理ではない。  ああ、この美しい、神秘的な、鳴門の渦からわきあがったような美少年虹之助こそは、眼も見えなければ耳もきこえず、口を利くことも出来ぬ、あわれ、世にも悲惨な、世にも恐ろしい三重苦の不具者なのでありました。     三  世にも悲惨な三重苦少年の生き葬礼。  この事件が、当時、どのように世間を騒がせたかは、その頃の関西の新聞をお読みになった方はよく御存じの筈であります。  新聞という新聞が、筆をそろえてこの奇怪な事件を書き立てました。  あの奇妙なガラスの舟のこと、撒きちらされた薔薇のこと、金箔塗りの位牌のこと、更に哀れな盲聾唖、虹之助の一挙手一投足については、どんな些細《ささい》な事実でさえも、あますところなく新聞紙上につたえられました。  それにしても生き葬礼とは尋常ではない。  どのような事情があるにせよ、生きている人間を、ガラスの柩に入れて海に流すとは、天人ともに許さざる大犯罪であります。  それですから警察では、やっきとなってこの怪事件の真相を突きとめようとしましたが、なにしろ肝腎の本人が、目も見えなければ耳もきこえず、口も利けない盲聾唖と来ているのだから、取り調べるにも取り調べようがなかったのです。  虹之助少年は何をきかれようと、何を訊ねられようと、顔の筋肉ひとつ動かしません。  かれの瞳は、美しく澄んではおりますが、いつもある一点に釘着けにされたように、決して動くことはないのです。  かれの唇は匂いこぼるる花のように艶《なまめ》かしいのですが、いつも冷たく閉ざされたまま、決して開こうとはいたしません。  警察でもはじめのうちは、この哀れな盲聾唖を、贋物《にせもの》ではあるまいかと思って、いろいろと、知名の医者の診断を仰ぎましたが、その結果、どの名医の意見も同じでした。  虹之助こそは疑いもない完全な盲聾唖! こうなると虹之助から、何かきき出すということは、絶対に不可能であります。そこで警察ではやむを得ず、ほかの角度からこの怪少年の素性を調べにかかりました。  先ず最初に調べられたのは、少年をのせて漂流していたあの小舟だが、それからは何んの手懸かりも得られなかった。  ついで、東部瀬戸内海から紀淡地方の村から町が、かたっぱしから調査されたが、誰一人、このような奇怪な少年のことを知っている者はありませんでした。  第一、知っている者があったとすれば、新聞でもあのように騒いでいるのだから、いままで黙っている筈がありません。どこからか情報が入って来そうなものですが、それがないのですから不思議です。  ひょっとするとこの少年は、その名のとおり、虹のように、瀬戸内海の水のうえに浮きあがった、つかまえどころのない存在なのではありますまいか。  そこで当然、いろいろな風説が、この三重苦少年をとりまいて伝えられました。昔、パーシュウスというギリシャの勇士は、その生誕にあたって、この子はいくいく祖父を殺すであろうという忌《いま》わしい予言をされたために、母とともに箱詰めにされて、多島海の潮に流されたということですが、この不思議な虹之助少年も、何かそのような忌わしい迷信のために、こんな悲惨な目にあったのではありますまいか。——しかし、それもいまのところ解けない謎なのです。  こうして、はや一ヵ月あまりもたちました。そして移り気な世間では、しだいにこの三重苦少年に興味をうしない、そして忘れていきましたが、その頃になって、またしても、この少年を取りまいてつぎつぎと恐ろしい事件が起こったのです。  だが、それらのことをお話するまえに、虹之助少年のそののちの身のうえについて、簡単にお話しておかねばなりません。  警察でも、この少年の取り扱いについてはほとほと困ってしまいました。どのような恐ろしい犯罪がこの少年の身にかくされているにしろ、いつまでもこのように体の不自由な不具者を、警察へとめておくことは出来ません。さればといって、引き取り人もないのにむやみに釈放するわけにも参りません。うっかり外へ出せば、たちまち自動車に轢《ひ》かれるか、電車に跳ねとばされて死んでしまうにきまっている。  それには警察もほとほとと、困《こう》じ果てておりましたが、するとそこへ奇特な申し出をしたものがありました。  ほかならぬ大道寺綾子なのです。  綾子は鎌倉の中御門に、宏壮な邸宅を持っている富裕な未亡人なのですが、危うく鳴門の渦にまきこまれようとしたこの少年を、最初に見付けたということに、何んとなく深い因縁の糸をかんじて、あれ以来、ずっと大阪のホテルに滞在して、この少年の成り行きを見ていたのですが、警察で虹之助の処置に困っていることをきくと、みずから保護者の役を買って出たわけでありました。  そして結局、綾子の申し出どおり、虹之助は彼女のもとへ引き取られることになったのです。むろんそれまでにはいろいろとむずかしい手続きもあり、面倒な条件もありましたが、結局警察でも綾子の熱心にほだされたと見えます。  虹之助は無事に綾子のホテルへ引き渡されましたが、これが七月二十五日のこと、そして諸君よ、この日が日本でも三大祭りといわれる、大阪は天満の天神祭りであることを思い出していただきたい。  綾子は虹之助をひきとると、すぐにも鎌倉へかえりたかったのですが、音にきく天神祭りがきょうときき、また評判の河|渡御《とぎよ》が、ちょうど綾子の泊まっている、ホテルの裏をお通りになるときいて、つい、出発を一日のばすことにしましたが、するとその夜、ひょっこりホテルへ綾子を訪れて来た人があります。  ほかならぬ由利先生、観光船以来の馴染《なじ》みなのです。 「奥さん、私があれほど忠告しておいたのに、あなたはとうとうこの少年を引き取りましたね」  ホテルの一室に、ちんまり表情もなく坐っている、あの美しい虹之助の姿を見ると、由利先生は苦笑せずにはいられない。 「すみません」  綾子は薄く頬を染め、 「先生の御忠告に反抗するわけではございませんけど、あたしどうしてもこの人を、このまま捨ててしまうわけには参りませんの。あたしとこの人とのあいだには、何かしら深い因縁があるように思われて……」  きらきら光る綾子の瞳には、言葉の殊勝さとは反対に、大胆な、悪戯《いたずら》っぽい、挑戦するような輝きがありました。  由利先生は苦笑をうかべて、 「困ったものだ。これだからお金持ちの未亡人は扱いにくい。何しろ金と暇を持てあましているんだから」 「あら、失礼なことをおっしゃる。あたし何も自分の慰みにこの人を、引き取ったのじゃありませんのよ。あたし気まぐれや酔興でこんな役を買って出たのではございませんわ」 「失敬失敬、気にさわったら勘弁勘弁。しかし奥さん、こんな不自由な人間を引き取って、これから先、いったいどうなさるおつもりなんですか」 「教育しますわ。ええ、教育して一人前とはいかずとも、せめて僅かなりとも人生の意義というものを、この人に教えてやろうと思うんですわ。ヘレン・ケラーさんだってこの人と同じような盲聾唖なんでしょう。でもあのとおり立派な学者となっています。自分の考えるところをほかに発表することが出来ます。あたしこの人を教育して、何かしら、この世に役に立つ人間に仕立てたいのです。先生、これではひどい、これではあまり惨めです。人間と生まれたかいはありません。虫けらも同然でございますわ」 「奥さん、なるほどあなたのお覚悟は立派です。しかし、それは容易なことではありません。いまにきっと手を焼きますよ」 「容易でないことは覚悟しています。しかし手を焼くかどうかは、長い眼で見ていて戴きます。あたしやり遂げる自信があります。ええ、ええ、きっとこの人を教育してみせますわ。そして、この人が自分の心を外に伝えることが出来るようになったら、きっと、あの不思議な生き葬礼の顛末《てんまつ》もわかって来るにちがいありませんわ」 「奥さん、そのことなんです。それがあるからこそ私は心配しているのです。この少年はただの盲聾唖ではない。この少年には恐ろしい敵があります。生きながら、ガラスの箱に入れて、鳴門の淵に流しものにする。ああいう残酷な仕打ちを見ても、その敵がいかにこの少年を憎んでいるかわかります」 「そうですとも、それですからこの少年には保護者がいるのです。しっかりとした、力強い保護者がいります」  しっかりとした、力強い保護者がいるといった時、綾子の耳はなぜかかすかに赧《あか》くなったようであります。  由利先生はしかし気づかず、いっそう語気を強めると、 「まあ、お聞きなさい、奥さん。その敵はその後の虹之助の成り行きを、どこかでじっとみまもっているにちがいありません。そしてあなたが虹之助を引き取ったことも、虹之助を連れて鎌倉へかえろうとしていることも、きっと知っているにちがいない。この間の水葬礼では、そいつはまんまとしくじった。しかし、それきり諦めようとは思えない。いつかそいつはまた、虹之助の身辺に。……」  由利先生はふと口を噤《つぐ》んだ。  その時綾子がふっと唇に指をあてたからである。綾子はそっと立ち上がると、スリッパをはいた足で、猫のように足音のしない歩きかたをしながら、部屋を横切ると、ドアの把手《とつて》に手をかけて、いきなりそれを開きました。 「ど、どうしたんですか」  由利先生も驚いて、綾子のそばまで参ります。 「いまの人……いまの人、立ち聴きしていたんじゃありません?」 「いまの人……?」  由利先生は驚いて、廊下の外へとび出しました。しかし、しいんとしずもりかえった逢魔《おうま》が時のホテルの廊下、どこにも人の姿は見えません。 「奥さん、そいつはどっちへいきましたか」 「向こうの……階段のほうへ……」  先生は素速くそのほうへとんで行ったが、階段のうえにも下にも人の姿は見えなかった。どこかでバターンとドアを締める音。  先生が諦めて部屋へ戻って来ると、綾子はいくらかこわ張った表情で、虹之助のそばに立っている。虹之助は依然として、作りつけの蝋人形のように椅子のなかに坐っております。 「奥さん、そいつはいったいどんな奴でした」 「さあ、あたしにもよくわかりません。ちらと後ろ姿を見ただけですから」 「でも、だいたいの輪廓ぐらいわかるでしょう」 「そうですねえ」  綾子は小首をかしげながら、 「黒っぽい洋服を着て、……柔かそうな帽子をかぶって、……柄は小さいほうでした。そうそう、そして軽く跛《びつこ》をひいていましたわ」 「たしかにそいつ立ち聴きをしていたふうでしたか」 「わかりません。あたしにはわかりません。でも、さっき、先生のお話をうかがっていると、あのドアの把手が動くものですから……誰か入って来るのかと思ったら、誰も来ないし……それでドアを開けて見たんです。でも……でも……」  綾子は急にひきつけたような笑い声をあげました。 「何んでもないのですわ、きっと、先生があまり脅《おど》かすんですもの、あたし神経質になって……立ち聴きでもなんでもなかったんですわ。きっと通りがかりの人だったんですわ」 「しかし、ドアの把手が動いたのは……?」 「誰かが部屋を間違ったのよ。そして気がついてそのまま行ってしまったのよ。こんなことに怯えるなんて。あたしもよっぽどお馬鹿さんね」 「奥さん」  由利先生は声をはげまして、 「だからいわないことじゃない。いまのが立ち聴きにしろ立ち聴きでなかったにしろ、あなたはすでにそんなに怯えていらっしゃる。この少年を引き取ったが最後、あなたはもう心の平静は得られないものと思わねばなりませんぞ」 「構いません、先生そんなこと構いませんわ。そのうち何か変わったことがあったら、その時は先生にお縋《すが》りするばかりですわ」  漸く色をとりなおした綾子は、大胆な、悪戯っぽい眼をして笑いましたが、それは彼女がちかごろやっと、由利先生の正体を知るにいたったからであります。  さて、読者諸君よ。以上のべて来たところの事件こそ、この奇怪な恋と復讐と、恐ろしい一連の殺人事件の発端なのです。  まえにもいったとおり、その日は天満の天神祭りでありましたが、その夜の河渡御の最中に、どのような怪事件が起こったか、さてはまた、この哀れな三重苦少年の身の上に、いかなる秘密がかくされていたか、それらのことはこれから諸君の眼前に、血みどろの地獄絵巻き物となって繰りひろげられていくことでありましょう。 [#小見出し]  第一編 [#ここから改行天付き、折り返して3字下げ]    天神祭り河渡御のこと——女流歌手とその兄——丁字香の恐怖のこと——虹之助鬼の絵を描く [#ここで字下げ終わり]     一  七月二十五日。  天神祭りの賑わいは夜にあります。  大阪天満の天神祭り、この祭りは東京の神田祭り、京都の祇園祭りとともに、天下の三大祭りとよばれるくらい、昔から世間に知られた祭礼だが、わけてもこのお祭りのいっぷうかわっているところは、さすがに水の都の大阪だけあって、御神体が船でお渡りになるという、つまり河渡御、しかもこの河渡御は、夜にはいってから行なわれるのが慣例となっている。  御神体が舟でお渡りになるくらいだから、ふつうならば山車《だし》だの、屋台だのを仕立てて出るところが、これもすべて舟になります。  天満付近の氏子の町々が、数寄をこらして飾りたてた一種の山車舟が、ずらりと、御神体の前後につきそって、篝火《かがりび》もあかあかと、河のうえを練るところ、これが即ち天神祭りの名物の名物たるゆえん、ちょっとほかでは見られない賑わいです。  それですから、まいとし天神祭りといえば……大阪近在の町々村々は申すに及ばず、隣接都市であるところの、京都、神戸、さらにはもっと遠くのほうから、見物人が押し寄せて、天満の天神橋から中之島、さらにくだって船津橋近辺に至るまで、両岸は申すに及ばず、水の上までぎっしりと見物の人と舟とで埋まるのであります。  さてその年の七月二十五日の夜には、あたかも中之島の公会堂で、有名な女流歌手の独唱会がありました。  この女流歌手というのは、ちかごろレコードで売り出している、若い美貌の甲野由美。当時一世を風靡《ふうび》した「春の囁《ささや》き」だの「燕《つばめ》のように」だのを歌ったあの人気歌手の、大阪における第一回のリサイタル、それが天神祭りとかちあったのだからたまりません。中之島公園一帯はいやがうえにも大混雑、陸のうえにも人、水のうえにも人、陸は自動車、水は舟、どこもかしこもひしめきあって、そうでなくとも暑い大阪の夜は、人いきれと、汗の匂いと、埃《ほこ》りと喧騒とで、涼しかるべき川風も、蒸せかえるような熱風となる。  さて、いよいよ御神体が、天神様からおたちになったころのこと。中之島公会堂の楽屋では、いましも第一部を歌いおわって、舞台からさがって来た人気歌手の甲野由美が、ファンに取りかこまれて、さかんに愛嬌をふりまいている。 「天神祭りの賑わいってことは、あたしもよく伺っておりましたけれど、まさかこれほどとは思いませんでしたわ」 「どうです。東京の深川祭りや神田祭りと?」  ファンのひとりがさっそく質問の矢を向ける。 「さあ、東京の祭りもずいぶん昔は盛んだったそうでございますけれど、ちかごろでは何んといっても、電車や自動車という乗り物のために、お渡りにも制限をうけますから……その点、このお祭りはいいですわね。水の上をお渡りになるのですから。さすがは水の都と感心しておりますのよ」  甲野由美。——  まことに艶でやかなものであります。年齢は二十二、三でしょう。舞台に立つために、今夜は濃目のお化粧だが、しかもなお健康そうな、小麦色の肌を損うほどではない。すらりとした痩せぎすの肉体は、しかし処女の弾力と柔軟性にとんでいるように見える。円《つぶ》らな眼は大きくて、恰好のいいたかい鼻とともに、西洋人とまではいかずとも、混血児のように見える。  そして自分のデザインでつくったという、純白のイヴニング・ドレスがまことによく似合うのであります。 「それに大阪の方に感心いたしますのは……」  と、由美は軽く扇をつかいながら、巧みなエロキューションで話します。彼女が扇をつかうたびに、何んともいえぬよい匂いが、そこにいる人々の鼻を打ちます。それは薔薇とも菫《すみれ》ともまたヘリオトロープともちがった、妙に甘い、胸をときめかすような匂いであります。さすがに個性をとうとぶ芸術家、ありふれた香水にあきたらぬと見えますが、それにしても何んの匂いであろうと、一座のなかには首をかしげた若いものもありました。 「大阪の人たちは、よい意味の伝統を尊重なさいますのね。古いものでもよいものはちゃんと保存されておりますわね。たとえば文楽などに致しましても……」  誰しもお国自慢のないものはない。こうして郷土芸術をほめられると、いままで一度も文楽を聴いたことのないような青年でも、決して悪い気持ちはしないものである。 「今夜のお祭りにしてもそうでございますわ。東京では神田祭りも深川祭りも、あたしどもにはまったく無関係なものになってしまいまして、あたしなど、もうかなり長いあいだ東京に住んでおりますが、いつがお祭りやら、それさえわきまえないくらいでございますのよ。それだのに、こちらへ参りますと、若い人たちまでが、天神祭りに騒いでいらっしゃる。そういうところにも、ちゃんと地についた伝統というものがうかがえますようで、ほんとにお羨ましいと存じますわ。東京の学生さんたちなら、お祭りなんぞどこ吹く風とばかりに、映画でも見にいくところでしょう」  しかし由美のこの最後の一句は、いささか贔屓《ひいき》の引きたおしの感がないでもなかった。ファンのひとりも笑って頭をかきながら、 「いやあ、そういわれると穴へ入りたいですな。大阪だってわれわれ若い者の気持ちはだんだん変わっていますよ。現にこうして、天神祭りもそっちのけで、あなたの歌を聴きに来ている奴が大勢ある」 「ええ、ですからあたし今夜の聴衆の方々には、いっそう感謝しているんでございますの」  すかさずそう言ってのけたのは、さすがに人気稼業である。するとその時ファンの一人が膝をすすめて、 「ところで甲野さん、われわれがこうして楽屋へ押しかけて来たのは、実はあなたに無心があるんです」 「無心……? 何んですの。サイン?」 「いや、サインもむろんちょうだいしたいですが、あなた暫く体が空いているんでしょう?」 「ええ、これから管絃楽がはじまるところですから、四十分ほどひまがございます」 「実はわれわれもやっぱり大阪の青年でしてね。天神祭りに関心を持ってるってわけです。で、この中之島のそばに舟を一艘《いつそう》用意しているんですが、それへあなたを御招待したいと思ってるんですがねえ」 「あらまあ!」 「いけませんか。すぐそこですからお手間はとらせないつもりですがねえ。第二部がはじまるまでには、きっとこちらへお送りしますよ」 「はあ」  由美が当惑そうに眉をひそめてもじもじしているので、別の青年が横から口を出しました。 「何か御都合の悪いことでもあるんですか」 「いえ、そういうわけではございませんけれど、実は……こうなったらほんとうの事を申し上げますわ。実はあたしどものほうでも一艘用意してございまして、……折角天神祭りの当日にこちらへ参っていながら、お渡りを拝まないでかえるのも残念だと、兄がそう申しますものですから」 「何んだ、そんな事ですか。それならかえって好都合じゃありませんか。ひとつわれわれに合流して下さいよ」 「お兄さんと二人きりなんですか。それともほかにもお連れが……」 「はあ、兄のお友達が一人おります」 「三人ですね。それくらいならこっちの舟にまだ余裕がありますから、みなさんこっちへ合流して下さいよ。ねえ、君」 「そう、それがいいですよ。こんな事はなるべく賑やかなほうが面白いもんですよ」  ファンたちがわいわい言っているところへ、ドアがあいて顔を出したのは、三十前後の痩せぎすな、色の浅黒い青年でした。眼の大きなところや鼻のたかいところ、はては混血児のような感じのするところまで由美に似ている。これが由美の兄で、名前は静馬というのである。  静馬はちょっと一同に目礼すると、 「由美さん、舟の支度が出来ているんだが、皆さんに失礼させて戴いたら……」 「あら、兄さん、その事でいま皆さんから、御親切な御招待をいただいたんですけれど」  と、そこでいまのいきさつを手短かに話すと、静馬はちょっと眉をひそめたが、それはいけないとは申しかねました。 「ねえ、いいでしょう。あなたもこっちへ来給えな。こっちのほうは広いんですから」 「ええ、有難う、しかし友人がおりますから」 「兄さん、鵜藤さんは?」 「鵜藤は舟で待っている」  相談の結果、結局、由美だけが青年たちの招待を受けることになりました。  そして兄の静馬と友人の鵜藤青年は自分たちの舟にするが、しかし二艘の舟はしじゅう行動をともにしようと、そういうことになって一同が、公会堂を出て、舟のつないである河岸ぷちへ出て来ると、そこには大きな団平船《だんべいぶね》が用意してあって、由美を待ちかまえていたファンが四、五人、わっと歓声をあげました。  その団平船のそばには、一艘のボートがつないであったが、それには静馬と同じ年頃の青年が、オールを握って待っている。それが静馬の友人で、鵜藤という人物でありましょう。小柄ではあるが、ずんぐり太った青年で、ふちなし帽を横ちょにかぶって、マドロスパイプをくわえたところは、画家か彫刻家といった感じです。  その青年は由美が団平船へ乗りこむのを見ると、不思議そうに眼をみはりましたが、静馬がわけを話すと、納得がいったのでしょう、うなずいて、しかしいくらか不平そうに鼻を鳴らしながらオールを握りました。  こうして二艘の舟はつかず離れず、互いに連絡をたもちつつ、舟、舟、舟、舷々相摩《げんげんあいま》す河心へと漕ぎ出していったのでありました。     二  ちょうどその頃。  中之島の東詰、お渡りをいまかいまかと待ちかまえている夥《おびただ》しい舟にまじって、物珍しげにあたりを見廻しているのは、いうまでもなくあの物好きな未亡人の大道寺綾子。同じ船に、由利先生と虹之助も同乗している。 「なるほど、ずいぶん賑やかなことね。噂にはきいていたけど、こんなだとは思わなかった。両国の川開きと好一対ですわ。あら、危ない」  隣の舟にどしんとぶつかられて、綾子は思わず舷にしがみつく。 「ほんとにうっかり出来ないのね。まごまごしてると、水の中へ落とされそうで」 「何しろ、このお祭りではときどき椿事《ちんじ》が起こりますからね。奥さん、気をつけていらっしゃい。水の中へ落ちたが最後、それきりですよ」 「あら、いやだ。おどかしちゃいやよ。あたしは大丈夫だけど、この人が……」  綾子のふりかえるその舳《へさき》には、あの三重苦少年の虹之助が、蝋人形のように、いや、それよりもっと無表情なかおをして、つくねんと坐っているのであります。  ああ、透きとおるほど美しい少年は、いったい、いまどのようなことを考えているのだろう。かれはこの賑わいを見ることも出来なければ、この喧騒を聴くことも出来ないのだ。外界のあらゆる事物からきりはなされた盲聾唖、空の空、漠の漠、一切の闇、すべてが暗黒、そこには永遠の暗闇があるばかり、そういう少年のあたまに、もし何かの想念がうかんでいるとしたら、それはどのように果敢《はか》ない、どのような遣瀬《やるせ》ないものでありましょう。  それはまるで、暗闇のなかで演じられる、無言劇のようなものではありますまいか。ああ、この少年こそは暗黒の劇場、暗黒劇場なのであります。  綾子は身顫《みぶる》いを禁じ得なかった。 「奥さん、寒いのじゃありませんか」 「いいえ」  綾子は軽く首をふって、 「あたしいまこの人のことを考えていたのです。ねえ、先生、こういう境涯がどのように恐ろしいものかお考えになったことがございまして? 眼が見えぬ、それだけでもずいぶん不自由なことですわ。耳が聴こえぬ、どんなに悲しいことでしょう。口が利けない。ずいぶんそれはじれったいことにちがいございません。それだのに……それだのにこの人は、その三つの苦しみを同時に背負わされているのです。盲聾唖! ああ、何んということでしょう」 「奥さん!」  由利先生はきびしい声でそれをさえぎった。それから、ゆっくりと諭《さと》すように、 「私は奥さんの、そういう考えかたに賛成することが出来ません。何度もいうように、あなたのような御婦人が、こういう呪われた少年に特別に関心を持つということには、どうしても賛成出来ません」 「あら、また、そのことをおっしゃる」 「幾度でもいいますよ。あなたはこの少年の素性も知らなければ過去も御存じない。ましてや性格などまるで分かりっこない。それでいてあなたはただ、この少年の哀れな不具者であるということだけで、自己陶酔的な同情におぼれきっている。その同情がどういうふうに発展していくか、私は婦人のそういう感情にかなり危険なものを感じるのです。あなたに御主人でもあれば格別ですがねえ」 「あら、あたしが主人を失った暢気《のんき》な寡婦《かふ》であるからこそ、こんな物好きな真似が出来るんですわ。先生の御忠告はよくわかっています。でも、先生、あたしをいくつだとお思いになって? 明けて三十よ。三十といえば女ではお婆ちゃんですわ。ひととおりの思慮分別はあるつもりですから御心配なく。それに鎌倉へかえったら叔母もおりますし、相談相手になってくれるお友達もございますから」  綾子はなぜか頬をあからめ、遠くを見るような眼つきをしていたが、急に気がついたように声を立てて笑うと、 「先生、もう議論は止しましょう。つまらないんですもの。それより、……あら、あれ、何んでしょう。まあ!」  綾子が眼をみはったのも無理はなかった。  その時、水のうえを滑って聴こえて来たのは、賑やかなジャズ音楽と陽気な歌声。これには綾子のみならず、あたりに犇《ひし》めいていた舟の連中、みな一様にどぎもを抜かれたようであります。 「なんや、なんや、天神祭りのお渡りに、ジャズがつくようになったんかいな」 「あほらしい。そんな事があってたまりますかいな。あら、若いもんがふざけてるんや。ほら、あっこへ来よった、来よった」 「わっ誰や踊っとるやないか」 「ほんにほんに、無茶やな、こんなとこで踊りよって、うっかり足を滑らしたらどないしよんねやろ」 「そやけど、あれ、よう踊りよるやないか。わっ、独楽《こま》みたいに舞いよる舞いよる」  わいわい騒ぐ舟、舟、舟、——その舟のなかをかきわけて、しだいにこっちへ近付いて来るのは、いうまでもない、あの由美を招待した団平船の青年たちなのです。なるほどこういう趣向があるから、ああも熱心に由美を勧誘したものと見える。  見れば舟のなかにはあかあかとカンテラをともし、張りめぐらした五色のテープ、ふなべりいちめん花で飾ったところは、とんと花電車のよう、そして舟の後部には、ずらりとジャズ・バンドの連中がいならんで、ドラム、サキソフォン、コルネットと、みんな汗みずくで演奏している。そして舟の中央には、花輪を頸にぶらさげた三人の青年が、舟の動揺にも拘らず、たくみに平均を保ちながら、見事なタップを踏んでいる。そしてそういう青年たちのなかにまじって、女王のように坐っているのは、いうまでもなく甲野由美。  なるほどこれでは、お渡り見物の連中が、どぎもを抜かれたのも無理ではない。  ひとしきり毒蜘蛛《どくぐも》につかれたような踊りが終わると、あたりの舟からわっと上がる拍手と歓声。 「ええぞ、ええぞ、もっとやれやれ」 「おい、そこにいる別嬪《べつぴん》、あんたも何かやりんか」 「こらええ余興や。別嬪さん、頼みまっせ」  由美はすっかり上気していた。  舟のなかにはビール、サイダー、サンドウイッチ、果物なども山のように盛りあげてある。まったく至れりつくせりの歓待だから、由美たるもの、お礼心にどうしても、ここで歌わなければなりますまい。  そこで彼女は立ち上がる。 「皆さん、思いもよらずこのような歓待をうけまして、何んとお礼を申し上げてよいか分かりません。素晴らしい水の上でのこのジャズの音、皆様の素敵なタップ、そのかみの英国貴族の歓楽を、いまにうつしたようなこの一夜の思い出は、長くあたしの記憶にとどまると存じます。この思い出の感謝のしるしに、皆様のこの素晴らしい御歓待へのお礼心に、それではあたくし、ここで一曲歌わせていただきます」  割れるような拍手のうちに、やがて彼女の得意の一曲、「春の囁き」の甘いひとふしが、若者の郷愁をそそるように、水のうえを流れて来ました。 「あら、あれ、甲野さんじゃないかしら」  その歌声にふと耳を欹《そばだ》てたのは、未亡人の綾子です。ふなべりから身を乗り出して、 「ああ、やっぱり甲野さんだわ。妙なところで……」 「御存じなのですか」 「ええ、今夜あの方、中之島公会堂に出ている筈なんだけど、どうしてここに……いいえ、あたしお識り合いってわけじゃありませんが、あの方の御親戚の人を知ってるものですから……甲野さんのほうでは御存じないでしょう」  あの賑やかな団平船は、由美の歌声をのせたまま、しだいにこっちへ近付いて来る。やがてそれが綾子の舟のすぐそばまで来たとき、由美の歌は終わりました。  湧き上がる拍手。歓声、賞讃の声々。 「あら甲野やないか」 「そやそや、今夜中之島へ出てる甲野由美や」 「こらええ、こら儲けた。天神祭りを見物して、甲野の歌が只で聞けた。こら大儲けや」  等々々と、とかく大阪人は勘定高い。  と、この時です。  川上にあたってわっとあがる歓声、太鼓の音、それにつづいて、めらめらと水にうつる篝火《かがりび》が、暗い河面《かわも》を虹のようにはいて、こちらのほうへ流れて来る。さあ、いよいよお渡りがはじまったのです。  あたりにいた舟はこれを見ると、俄かに犇《ひし》めきあい、喧《わめ》きあい、罵りあい、艫《ろ》べその軋《きし》る音、水をうつ響き、いちどにわっと鯨波《とき》の声をあげて、たいへんな騒ぎになりました。 「あかん、あかん、そないに無茶に舟を押したらあかんがな」 「こら、気をつけんか、危ないがな」 「危ないちゅうたて仕様がないがな。向こうの舟が押して来るのや」 「あれえ、助けてえ」  不心得な奴があって、少しでもお渡りを拝むに有利なほうへ、無理に舟をやろうとしたのでしょう。そのへん一帯にたむろしていた舟から舟へと、見る見る混乱が波及して、 「駄目だ、駄目だ、こら、気をつけないか」  由美の乗っているあの団平船も、押され押されて、ぴったり綾子の舟のそばにくっつきました。 「あなた、大丈夫、八時半までに公会堂へかえれて?」  由美はいささか心細そう。そういう由美の横顔が、すぐ眼のまえに来ましたので、綾子は思わず身を乗り出しました。 「あなた……」 「…………?」  由美は怪訝《けげん》そうに振り返る。 「あなた甲野さんですわね。あたし大道寺綾子です。あなたの従兄さんの志賀さんとは、ずっと御懇意に願っております」  突然、由美の眼が大きくみひらかれました。どういうわけかその眼には恐怖のいろが漲《みなぎ》っている。何か言おうとして、しかも言葉が出ないのでしょう、唇がわなわな顫えて、白魚の指がふなべりも砕けよとばかりに……  綾子もこれには呆れました。茫然として相手の顔を見守っていたが、するとここに世にも不思議なことが起こったのである。  いままで白蝋のように、無表情そのものだった虹之助の面に、その時さっと恐怖の色が流れたかと思うと、盲いた眼を張りさけるように見張ったかれは、ヒクヒクと、犬のように小鼻をふるわせ、あちこちと水のうえの夜気を嗅《か》いでいましたが、突然、 「あ、あ、あ、あ、あ!」  と身も世もあらぬ恐怖の叫びとともに、がばと舟に顔を伏せたから、驚いたのは綾子である。 「あら、虹之助さん、どうかして」  あわてて抱き起こす綾子のからだを、しかし虹之助は邪慳《じやけん》に押しのけると、むっくと首をあげ、ふたたび、三度ヒクヒクと小鼻を蠢《うごめ》かしていましたが、盲いたその手にふと触ったのはオールである。それをとって矢庭《やにわ》にすっくと立ち上がると、 「危ない!」  綾子が止めるひまもなかった。ふりかぶったオールをはっしとばかりに振りおろしたのは由美の頭上。……  もし虹之助に視力があったら、そして由美がぼんやりしていたら、その一撃で見事に彼女は脳天を打ち割られていたにちがいなかった。最初の一撃に手ごたえなしと覚ったのか、虹之助はまたオールを振りあげる。 「危ない、あなた! 先生! 先生!」 「こら、何をする!」  由利先生も驚いて腰をあげたが、それより早く、礫《つぶて》のように躍りこんで来たものがある。鵜藤なのです。由美の兄の静馬の友達。跳びこんで来るより早く、虹之助のオールを取りあげ、パンパンパン虹之助の頬へ物凄い平手打ち。 「あら、あなた、何をなさいます!」 「鵜藤さん、止して、止して!」 「あ、あ、あ、あ、あ!」  虹之助は舟底にひっくりかえると、物凄く手脚をふるわせながら、口から泡を吹きはじめる。この少年、癲癇《てんかん》の発作があるらしい。  虹之助と由美と鵜藤青年。——由利先生は向こうから、興味ぶかくこのトリオを眺めているのでありました。     三  こういう事件があったものの、しかし、その夜の河渡御は、目出度く無事に終わりました。ひしめきあう舟が、めいめいわれがちにと、思い思いの方向に漕ぎ散ってしまうと、さきほどの賑わいにひきかえて、これはまた、物凄いほど静かな河の上。  気がつくと、今宵は陰暦十三日。  空にはまんまるい月が出て、ひろい河のうえは漫々と水を湛《たた》えてふくれあがっている。ギイギイと艫べそのきしる音もわびしく、俄かに河風が身にしむ心地。  ホテルへかえりつくまで、綾子はぐったり疲れたように、ひとことも口を利かない。由利先生も黙々として腕組みをしています。  虹之助のみは、まださきほどの亢奮《こうふん》がおさまらないのか、おりおり身顫いをしながら、敵を警戒するように、見えぬ眼できょろきょろあたりを見廻している。  その様子が尋常とは思えない。  ホテルへかえると、綾子はぐったりと大きな椅子にからだを埋め、しばらく口を利くのも大儀そうだったが、やがて艶のない声でこんなことを申しました。 「先生、先生のお訊ねになりたいことは、あたしにもちゃんと分かっていますわ。甲野さんのことあたしがどの程度に知っているか、それを先生はお訊ねになりたいのでしょう」  綾子は椅子から乗り出すと、 「ところがあたし、あの人のことはちっとも知らないのですよ。あたしはあの人の従兄にあたる人を知ってるだけのことなんです。その人から、おりおり甲野さんのことをきいたことございますけれど、別に興味を持ってたわけじゃありませんから、いつもうわの空で聴き流してしまって……、あ、ちょっと待って……」  由利先生がポケットから葉巻きを取り出すのを見ると、何を思ったのか綾子はいきなり、その葉巻きをひったくってしまいました。 「御免あそばせ、いま葉巻きを吸っちゃいけませんの。そのわけはすぐ後でお話いたします。ねえ、先生、未亡人だって異性の友人を持っちゃいけないということはないでしょう」  この女はときどきこんなふうに、とんでもない飛躍的な口の利き方をするので、由利先生も面喰う。さぐるように相手の顔を見ながら、 「それはどういう意味かよくわからないが、あなたのような婦人には、私はむしろ結婚をおすすめしたいぐらいですな」 「有難う。御忠告にしたがってあたし近いうちに結婚するかも知れませんのよ。ええ、恋人があるんです。先生、おかしくって?」  綾子は謎のような微笑をうかべたが、すぐ固い、生真面目《きまじめ》な表情にかえると、 「そしてその恋人というのが、甲野さんの従兄ですの、ねえ、こういえば、あたしがさっきの事件をどんなに驚いているかおわかりになって下さるでしょう。この人が、なぜ甲野さんにあんなことをしたのか、……この人は相手を甲野さんと知っていたのか、……不思議ですわねえ。こんなに眼も見えなければ、耳もきこえず、口も利けない人が、だしぬけにあんな感情の激発を示すなんて……」 「甲野はたしかにこの少年を知っているんですよ。あなたがあの女を呼びかけた。するとふりかえった。その時にはあの女の表情に、別に何んのかわったこともなかった。ところがあなたが大道寺綾子と名乗ったでしょう。あの女の表情に恐怖のいろがうかんだのは、その瞬間でしたよ」 「しかし、なぜ、あたしの名前があの人に、そんな恐ろしい印象をあたえるのでしょう」 「それはあの女が新聞を読んでいたからです。大道寺綾子という物好きな未亡人が……この名前は従兄からきいてよく知っていたにちがいない。その大道寺綾子という人が、盲聾唖虹之助をひきとったということを、甲野は新聞で読んでいたにちがいない。だからあなたの名前をきいた瞬間、虹之助がそこにいることに気がついたのです。あの女は一生懸命、虹之助のほうを見まいとしていましたが、その不自然さが、そばから見ていてもよくわかった」  綾子は椅子からゆっくりと立ち上がった。  そしてのろのろと化粧台のほうへ足を運びながら、 「ええ、そのことはあたしも気がついていました。いいえ、その時はわからなかったのですが、後になってああいう事件が起こったので、すぐ思い当たったのです。あの鵜藤という男だって、この人をひどい目に遭わせたあの男だって、この人を知っているんです。この人を知っていて、……そして憎んでいるんです。それはあの顔色でよく分かります。しかし問題は、この人がどうして甲野さんを嗅ぎつけたか、ああ、ほんとうにこの人は甲野さんを嗅ぎつけたのよ。ねえ、先生もおぼえていらっしゃるでしょう。あの事件が起こるまえ、この人が犬のようにヒクヒク小鼻を動かし、そこらを嗅ぎまわっていたのを、……あたし、盲聾唖というものは、外の世界からまったく締め出されているものとばかり思っていたが、そうではなかったのですわねえ。嗅覚というものが、あったんですわねえ」  綾子は化粧台のなかをさぐりながら、 「ほかの感覚が不自由なだけに、嗅覚だけが異常に鋭くなっているにちがいないのです。そして、何かの匂いが甲野さんを嗅ぎわけさせたのです。それが何んの匂いだったか、あたしここで実験したいと思っていますの」  由利先生ははじめてさっき、自分の葉巻きをひったくったこの女の真意がわかった。と、同時にこの女の頭脳のよさに舌を巻かずにはいられなかった。  一見、暢気な、気まぐれな未亡人に見えるこの綾子という女性は、なかなかどうして、鋭いところを持った女なのである。 「さあ、ここに四種の香料があります。ローズに、ヘリオトロープにヴァイオレット、ほかにもう一種ありますが、これを順繰りにこの人に嗅がせてみますから、どの香料がどのような反応を呼び起こすか、先生もよくごらんになっていて下さい」  綾子はまずローズの瓶を、虹之助の鼻さきに持っていく。それからヘリオトロープを、そして最後にヴァイオレットを。ところがこれらの匂いに対しては、ただヒクヒクと鼻を蠢《うごめ》かしたきり、なんの反応も示さなかった虹之助だのに、最後の瓶をつきつけられた刹那《せつな》、 「あ、あ、あ、あ、あ!」  呂律《ろれつ》のまわらぬ奇妙な声で叫ぶかと見れば、まるで眼に見えぬ襲撃をまちかまえるように、わなわなと体をふるわせ、両手ではげしく虚空をひっかき、猫に追いつめられた鼠のように、椅子のおくへおくへと体をちぢめていたが、やがて恐怖の感情が絶頂に達したのか、突然、仰向けざまにひっくりかえると、手脚をはげしく痙攣《けいれん》させながら、口からブクブク、泡を吹きはじめて……  綾子はふうっと由利先生と顔見合わせました。 「先生、やっぱりそうです。この人は丁字香《ちようじこう》の匂いに、ある特別の恐怖の思い出を持っているのですわ。そして……そして、あたしたしかにさっき甲野さんの体から、丁字香の匂いを嗅いだのですわ」  綾子は疲れ果てたようにぐったりと椅子に腰を落とすと、やがて咽喉《のど》にひっかかったような笑いかたをしながら、 「先生、現代は何もかも西洋かぶれの時代なんですよ。香料だってそのとおりで、ローズだのヘリオトロープだの、みんな舶来の香水を使います。甲野さんは何んだって、丁字香みたいな古風な香料を使っているんでしょう」 「しかし、そういう奥さんだって、げんにそれを持っているじゃありませんか」 「ええ、だから不思議なんです。あたしがこの香料を持っているのは、あの人がこの匂いを好くからなんです。あの人……おわかりでしょう、甲野さんの従兄で、あたしが……あたしが結婚したいと思っている人……ああ、済みません、もうお吸いになっても構いません」  由利先生は葉巻きに火をつけると、この人としては珍しく、同情のない冷たい眼付きで、椅子のうえでのたくっている美少年虹之助の姿を見守っている。  虹之助はしばらく、体を弓のように反らせ、手脚をふるわせていましたが、しだいにそれがおさまると、やがてけろりとしたように起き直り、椅子に腰をおろしたまま、また蝋人形のように美しい無表情にかえりました。  由利先生はじっとその顔色を眺めていたが、 「よろしい、私もひとつ実験してみよう」  虹之助をデスクのまえにつれて来ると、その前に紙をあてがい、鉛筆を握らせ、 「この年になるまで、何も発表する意志がないとは、私にはどうしても信じられない。何かあるにちがいない。何か……」  そういう由利先生の言葉も終わらぬうちに、しばらく紙のうえを撫でていた虹之助の手が何か活溌に動き出しました。  綾子は恐怖に似た眼つきで、由利先生と虹之助を見くらべている。  ああ、かれは何か書こうとしている。  この盲聾唖がなにか己れの意志を発表しようとしている。  こんなことが信じられるだろうか。だがそれは真実なのです。  鉛筆を握った虹之助の手が何か紙に書いているのです。  由利先生と綾子は、いきをつめて、華奢《きやしや》なその指先をみつめている。  それはたどたどしい筆蹟でした。線が二重になったり、くっつかなかったり、よほど同情をもって見なければ、判断に苦しむような鉛筆の跡だったが、しかし、それはたしかに絵になっている。しかも、ああなんということだ。  それは美髯《びぜん》をたくわえた、男の顔ではありませんか。しかし、それにしてもこの盲聾唖が、どうして人の顔など知っているでしょうか。  虹之助は顔をかきあげると、しばらくじっと小首をかしげていたが、やがて、その頭に書きそえたのは二本の角。  二人はいよいよ驚いた。 「奥さん、この男はもう一度名医にみてもらう必要がありますね。この男は鬼の絵を知っている。ということは、少なくとも過去において、そういう絵を見たことがあることを証拠立てているんです。この男ははじめからの盲目ではない。そして、いまこの男がわれわれにつたえようという意味は、美髯をたくわえたこの紳士こそ、鬼のように恐ろしい人物だというに違いありません」  虹之助は二本の角を書きそえてからも、まだ鉛筆をはなさないで、じっと小首をかしげていたが、やがて思い出したように、顔のある一点にぽっつりと打ったのは、ピリオッドほどの黒い点。  由利先生と綾子は、また顔を見合わせました。 「先生」  綾子は息切れのするような声で、 「これはどういう意味なのでしょう。この点は……これは何を意味するのでしょう」  由利先生ははげしく葉巻きの煙を吐きながら、 「奥さん、これでいよいよこの男が、かつて眼が見えたということがわかりますよ。かれはまえにこの絵の当人をその眼で見たことがあるのです、そして、その男の顔のどこかに、ほくろがあることを憶えているんです」  先生はその言葉をとくべつ威嚇するようにいったわけではありません。それにも拘らず、その瞬間、綾子の顔色からはみるみる血の気がひいていったのでありました。 [#小見出し]  第二篇 [#ここから改行天付き、折り返して3字下げ]    ほくろのある紳士——失踪した美少女——足なえ老女と三重苦少年——羽子板殺人事件のこと [#ここで字下げ終わり]     一 「先生、こんどはいろいろお世話になりましたが、それではいよいよお別れですわねえ」  ひととおり身支度をおわった綾子が、一種の感慨をこめてこういったのは、列車が茅ヶ崎を過ぎてから間もなくのこと。  汽車のなかは、いま、旅路のおわりらしく、荷物をまとめる人、朝化粧をする人、食堂へ往復する人、そういう人たちの楽しい忙しさで、ひとしきりざわめいて、綾子もかるい昂奮のためか、眠りたらぬ瞼《まぶた》のふちを、ほんのりと染めているのでした。 「なに、お礼をいわれるほどのこともない、それに、いまお別れしても、すぐまた会えますよ。東京のほうの用意がかたづいたら、いちどお伺いしたいと思いますがよござんすか」  ゆったりと窓際に肘《ひじ》をおいた由利先生、いつに変わらぬおだやかな調子なのです。快い朝風に、かるく靡《なび》いている白髪が美しい。 「ええ、是非。お待ちしております。いちどなどとおっしゃらないで、これを御縁にちょくちょくいらして下さいな。あたしひとりぼっちでほんとうに淋しいのですから、是非ね、お約束しますわ」 「そういう事になるかも知れない。しかし、あなたのような美しい方のお相手が、わしみたいな無骨者につとまるかな」 「あら、あんなことをおっしゃる。よござんす。そうおっしゃる先生こそ、お目あてはあたしじゃなくて、あの人、——あの虹之助さんにおありのくせに」 「はははははは。ほんとうのことを言っちゃいけない。しかし、奴さんどうでした。昨夜はよく眠ったようでしたか」 「さあ、何んですか、夜中にひどくうなされていたようですけれど。きっと怖い夢を見たのですわね」  綾子はかるく眉をひそめました。盲聾唖の少年が夢を見る。——それだけでもなんとなく、薄気味悪いではないか。  天神祭りを見物して、すぐその翌日、綾子は大阪をたつつもりだった。  ところが、あの晩から虹之助が高い熱を出して、そのためにまた一週間も出発がおくれて、今日はもう八月二日。  見なれた沿道の風景も、綾子にはなにか珍しいもののように思えるが、それも無理ではありません。気楽な未亡人の一人旅、彼女はうかうかと三月ちかくも、旅から旅へと過して来たのです。ああ、とうとう帰って来たのだと心が落ち着くにつれて、夢のような気がするのは今度の事件、思いきった自分の行動、何んだか取りかえしのつかぬことをしたような気もするのである。 「どうかしたんですか。いやにぼんやりしているじゃありませんか」  由利先生に注意されて、綾子ははっとしたように、 「あら、なんでもありませんのよ。少し疲れたんですわね。ああ、もうすぐ大船ね。いまのうちにあの人を連れて来ておきましょう」  鎌倉へかえる彼女は、そこで汽車が乗りかえだった。  綾子がそわそわしながら寝台車から、虹之助をつれて来ると間もなく、列車は轟々たる音を立てて、大船のプラットフォームへ滑りこみました。 「誰か迎えに来ることになっているんですか。何んならついでに、鎌倉まで送ってあげてもいいのだが、何しろそういうお荷物があっちゃ大変だ」 「あら、いいんですのよ。電報を打っておきましたから、誰か迎えに来てくれてると思うんですの」  綾子は窓から首を出して、プラットフォームをさがしていたが、 「…………!」  かすかに声のない叫びをあげると、はっと由利先生のほうへ眼をやりましたが、すぐまたその眼をそらしてしまいました。 「どうかしましたか、誰かいるんですか」 「ええ、ちょっと懇意なかたが……」  由利先生はいぶかしそうな眼で、そういう綾子の顔を見る。綾子の動揺した様子に、どこか尋常でないものがあったから。  と、その時、 「やあ、とうとう帰って来たな」  と、手をふりながら列車のなかへ、ずかずかと踏みこんで来た男がある。さては、綾子が狼狽《ろうばい》したのは、この男のためであったのか、それにしても、この男は綾子のいったい何んであろうと、由利先生はそれとなく、横眼で相手の顔を見る。  その男、年は三十五、六でしょう。  背の高い、色の浅黒い、眼も鼻も口も大きい、まことに堂々たる風采の人物で、鼻下に美しい髭をたくわえている、がっしりとした逞ましい肉体、聡明そうな眼付きに反して、口もとの動物的な感じが、奇妙な対照をなしている。  態度にもどこか船乗りのように粗野なところがあって、それがまた妙にひとなつこい魅力を持っている。  なるほどこれは、綾子のような女に好かれそうな男だと、由利先生は思わず微笑しましたが、つぎの瞬間、はっと眼を欹《そばだ》てました。  と、同時に綾子の狼狽の意味がはっきりわかったのです。  その男の唇の右下には、まぎれもなく大きなほくろがある! 「よう、志賀さん」  綾子は動揺のいろをおおうべくもなく、 「あなたどうしてここへいらっしゃったの。誰かうちの者が迎えに来ているのに、お会いじゃなくって?」 「はっはっは! 僕が迎えに来たんじゃないか。さっき君んとこへ寄ったら電報が来ていたんでね。小母さんに頼まれて代わりに来てやったんだ」 「まあ、叔母さんたら!」 「いいんだよ、荷物は?」 「荷物はみんなチッキ。でこの人が……」  志賀という男は虹之助のほうを見ると、太い眉をひそめて、 「ああ、これか、小母さんのいっていた……」 「ええ、叔母さん、何かいってらして?」 「綾子の物好きにも困るって、だいぶ不服らしかった。だがまあいい、とにかく降りよう」 「あの、ちょっと待って頂戴、紹介します。こちら由利先生。旅先でいろいろお世話になりました。先生、お友達の志賀恭三さん」 「ああ、そう」  由利先生と志賀恭三は、かるい目礼を交わしたが、後から思えば、これぞ間もなく、二人のあいだに演じられた、あの世にも凄まじい心理的争闘の、最初の挨拶でありました。  ところが三人が出ていくのと入れ違いに、ずかずかとこの車へ入って来ると、無言のまま、由利先生の隣へどっかと腰をおろした男がある。     二 「綾子さん、君の物好きなのにも困るね」 「この人のこと?」  そこは横須賀行きの電車のなかで、虹之助は依然として、盲いた眼をみはっている。 「そうさ。小母さんも大分こぼしていたぜ。僕も話をきいて呆れちまった。いったい、そんな子供を引きとっていったいどうするつもりなんだ。ごたごたのもとだぜ」 「志賀さん、そんなにいわないでよ。いまさらそんなことをいったって仕様がないじゃありませんか?」 「ふふん、君も後悔しているな。だから止しゃよかったんだ。君の物好きにも困ったもんだ。ははははは、だが、まあ、いいや。今更いったって仕方がない。それより君、疲れたろう」  男の機嫌のなおった様子に、綾子はほっとしたように、 「それより志賀さん、あなたどうして今日鎌倉へいらしたの?」  と、甘えるようなくちぶりなのです。 「ああ、君はまだ知らなかったんだね、僕はちかごろ鎌倉に住んでいるんだぜ」 「あら、いつから?」 「二、三日まえから」 「お一人で?」 「いいや、実はね、従兄弟の甲野がこんど鎌倉へ引っ越して来たんでね。例によって僕は食客さ」 「甲野さんが鎌倉へ? それいつのこと?」 「だから二、三日前さ、急に鎌倉に家を見付けてね。引っ越すことになったのさ。だから家の中はまだ、めちゃめちゃなんだよ」  綾子はなんとなく心が騒ぐ風情で、きっと唇をかみしめた。  天神祭りの河渡御で、ああいう騒ぎのあったのは、ちょうどいまから一週間まえ、そしてそれからすぐに甲野一家が、この鎌倉へ越して来るというのは、そこに何か深い意味があるのではないか。綾子はまるで、網を張って待ちうけられているような、いやあな気持ちになりました。 「甲野さんといえば、大阪でたいへん失礼なことをしてしまって……」 「ああ、この子供のことかい?」 「甲野さん、その話していらして?」 「うん、きいたよ。君の噂が出たとき、由美がその話をしてね、あの時はびっくりしたと言っていた」  事もなげに言ってのける志賀の顔色を、綾子は探るように読もうとしたが、そこには何んの感情も現われていなかった。 「あの時は、ほんとにすまないことをしましたわ。何しろあまりだしぬけで、止めるひまがなかったものですから」 「この子、ときどきあんな兇暴性を発揮するのかい」 「いいえ、そんな事はないわ。あんな事、あとにもさきにも、あの時きりよ。だからあたしも不思議でならないのよ。甲野さん、この子を知っていらっしゃるんじゃないかしら」 「由美が……? まさか。……君はときどき妙なことを考えるね。しかし、その事があったせいか、あの子はとても好奇心を抱いているんだね。君がかえって来たらお友達になって、ぜひこいつに紹介して貰うんだなんて言ってたよ。ははははは、女という奴はどいつもこいつも妙な動物だぜ。ははははは、ほい、失敬……」  事もなげに笑ってのける志賀の様子を、そのままに受け取ってよいのかどうか、綾子はいよいよ思い迷うのである。この間、虹之助のかいた鬼の顔、その顔、その顔に打ったピリオッド、世間にはほくろのある人間なんて、いくらでもあると打ち消しながらも、綾子はやはり男の顔を見直さずにはいられないのでありました。  話かわって、こちらは東京へ向かう列車のなか。 「三津木君、見たかね。いまのがそうだよ」 「なるほど美少年ですね。美少年だけにかえって気味が悪い。それにしても盲聾唖とは、実に珍しいですね」  それはさっき大船から乗りこんで来た人物であります。  もし諸君がいままでに、由利先生の探偵談をお読みになったことがあれば、きっと御存じにちがいありません。  新日報社の花形記者三津木俊助、それは先生になくてかなわぬ協力者、すなわち片腕なのであります。 「私にはどうも今度のことが、このままですむとは思えない。あの少年を取りまいて、何か起こる。何か恐ろしい、世にも気味悪いことが起こりそうな気がしてならないのだ。だから、君にここまで来てもらって、あの少年や大道寺綾子をよく見ておいて貰いたかったのだよ」  水平線にうかんだ一点の黒雲が、雨となるか風となるか、それを見わけるのは、熟練した水夫だけがよくなし得るところであります。  由利先生は、いまや過去一ヵ月あまりの出来事から、世にも恐ろしい犯罪の予感をかいでいるのだ。しかもそれは、いままでかつて経験したこともないような、気味悪さ、物凄さ、邪悪さをもって、由利先生をおびやかしている。 「ところで、このあいだ手紙で頼んでおいたことだが調べておいてくれたろうね」 「ええ、調べておきました。いまここでお話しましょうか」 「ふむ、東京へ着くまでに聴かせて貰おうかね」 「承知しました。では、まず第一に大道寺綾子ですがね」  俊助は膝のうえに手帳をひらくと、 「大道寺綾子はもと没落華族の娘ですが、女学生時分から美貌と才気で有名なものだったそうです。親爺は小藩の藩主の末で、男爵だったといいます。女学校は虎の門ですが、学校はじまって以来の才媛《さいえん》と謳《うた》われていたそうです。それが学校を出て二年目かに、N汽船会社の重役大道寺慎吾に見染められて結婚したのですね。当時大道寺慎吾は四十五、綾子は二十一だったそうです。むろん、この結婚には多分に政略的なところがあって、綾子はその結婚によって生家の没落を救おうとしたのですね、しかし、そういう結婚にしては、そしてひどく年齢のちがった夫婦としては、わりに円満にいっていたらしく、綾子は完全によき妻になり切っていたという事です。慎吾は三年まえに死にました。病気は脳溢血だったといいます。夫婦には子供がなかったが、その代わり慎吾のほうに近い親戚もなかったので、遺産は全部綾子のものとなり、したがって彼女は大金持ちで、いわばメリー・ウイドウというわけですね。鎌倉の中御門に立派な邸宅を持っています。そのうちには、綾子の母方の叔母にあたる君江という、これも早くから良人を失った中老の婦人がいて、これが家事一切をきりもりしているんです。ところで綾子ですが、彼女にはちかごろ新しい恋人が出来て、ちかくその男と結婚するだろうという噂があります。相手の男は志賀恭三といって……」 「いまの男だよ」 「ああ、そうですか。僕もそうだろうと思いました。ところで、この恭三ですが、これは甲野一家のところでお話したほうが便利です。では、甲野家のことを話しましょうか」 「うん、話してくれたまえ」  由利先生は汽車の動揺に身をまかせながら、瞼を半眼に閉じたままきいている。 「甲野というのは瀬戸内海の小豆島にある、醤油《しようゆ》醸造元として名高い家なんだそうです。大阪の支社に電話をかけて調査してもらったところによると、資産百万はあろうといわれ、多額納税者になっています。ところが極く最近、醸造事業の全部を親戚のものに譲って東京へ出て来たんです。それにはこういうわけがあります」  俊助は手帳を調べながら、 「甲野家の主人は四方太といって、今年六十三だったそうですが、それが去る五月に急逝《きゆうせい》したんです。原因は心臓麻痺だったそうです。ところでこの四方太が亡くなると、後に残るのは梨枝子という細君、これは今年四十五、六らしい」 「ちょっと待ってくれたまえ。死んだ四方太が六十三で細君が四十五、六とすると、相当年齢のちがった夫婦だね」 「そうです。それでいてどちらも再婚じゃない。つまり四方太老人の結婚がおそかったのですね。さて、夫婦には二人の子供がある。兄を静馬といって今年二十八、洋画家で春陽会の会員です。妹は由美といって、これは御承知のちかごろ売り出しの歌手です。子供はこの二人きりなんですが、こういうふうに二人ともそれぞれの道に精進しているんですから、家業なんか継げそうにない。二人はもう数年まえから東京の西荻窪に家を持って、小豆島の生家からはまったく独立した生活をしていました。もっともこの家は四方太老人が建てたので、老人がおりおり上京する際の宿にしていたものです。その家で兄妹は婆やかなんかおいてそれぞれ勉強していたのですが、親爺もこの二人のうちの一人に家業をつがせることは、早くから諦めていたようで、自分が死んだら、家業を譲ってしまうように、ちゃんと手筈をしてあったそうです。さて、その四方太老人が死んだものですから、小豆島の家には梨枝子夫人が一人で残されることになった。この梨枝子というのが、中風か神経痛かなんかで、足が立たないのです。で、そういう不自由なものを一人でおいとくわけにはいかないというので、四方太老人の葬式がすむと間もなく、兄妹が東京へつれて来たんです。それが六月頃のことだそうです」 「ふうむ。しかしそれは妙だね。なんぼなんでも、主人が死んで一年も経たないうちに、あとのまつりもしないで東京へ出てしまうというのは。——小豆島の家はどうしているんだね」 「それは閉めて来ているんです。僕もおかしいと思うんですよ。われわれみたいな書生とちがって、それだけの家であってみれば、いろいろ親戚などもうるさいでしょうし、田舎というものは、ことにそんな事はむつかしい筈ですがね。そういう習慣を無視して、一家全部が東京へ出て来たというのは、そこに何かあったにちがいないと思うんです」 「ふむ、それでいま西荻窪に、住んでいるんだね」 「いや、ところが二、三日まえに急に、鎌倉へ引っ越したんですよ」  由利先生はそれをきくと、大きく眼を瞠《みは》りました。 「鎌倉へ——? そんなに急に——?」  その時、由利先生のあたまにさっと浮かんだのは、さっき綾子の感じた疑惑と、まったく同じであったようです。 「ふむ、すると今鎌倉に、梨枝子夫人と静馬、由美の兄妹と、この三人で住んでいるんだね」 「いえ、そのほかに鵜藤五郎といって、同郷の者だそうですが、やっぱり画家の卵です。これが友人とも書生ともつかぬ恰好で同居しています。そのほかに例の志賀恭三が食客格で一緒にいます」 「よし、それではいよいよ志賀のことについて聞こう」 「この志賀恭三というのは、四方太老人の腹違いの妹の子供ですが、幼いときに両親に死別したので、ずっと四方太老人に育てられて来たのですね。学校は帝大の法科を出ているんですが、何んといっていいか、一種のアドヴェンチュアラーですね」 「アドヴェンチュアラー?」 「え、そうなんです。これといって職業はなく、始終《しじゆう》大陸だの、南方だのを駈けずりまわっている男で、一年のうちの三分の二は日本にいないというような男です。そして日本にいる間は、甲野の家に寄食しており、経済的にも大分迷惑をかけているようですが、それでいて死んだ四方太老人にも夫人の梨枝子にも、また静馬と由美の兄妹にも、ひどく人望があるらしい。つまりパーソナリティを持っているというんでしょうね」 「大道寺綾子とはどうして識り合いになったんだろう」 「さあ、そこまでは調査がいきませんでしたが、とにかく綾子の熱心さは非常なものだそうです。志賀のほうでも憎からず思っているらしいという話です。ところが志賀についてはちょっと妙なことがあるんですよ」 「妙なことというと?」 「この志賀には妹が一人あるんですがね。名前を琴絵といって、今年十七か十八になる筈なんですがこれがちかごろ行《ゆ》く方《え》がわからない」 「行く方がわからない? いつ頃から……?」 「四方太が亡くなってから間もなくのことだといいますから、六月頃のことなんでしょう」 「いったい、どういういきさつがあって失踪したんだね」 「それはこうです。この琴絵という娘は小豆島の甲野の家で育てられたんですがね。兄の恭三はいつも旅行勝ちですから、伯父伯母の手許で大きくなったんです。ところが四方太が亡くなると間もなく兄の恭三がやって来て、東京へ連れていくといって、小豆島を出ているんです。ところが恭三が東京へつれて来るとすれば、西荻窪の甲野の家よりほかにない筈なんですが、その家へ若い娘が来た形跡はないのです。どこかほかの家に預けているのかも知れませんが、甲野をさしおいて、若い娘を預けるような深い識り合いはなさそうだし、たとえあったとしても、一応甲野へ預けるのがほんとうだろうと思うんですが……」  由利先生は聞いているうちに、しだいに興味を催して来たらしく、 「その琴絵という娘が小豆島からいなくなったのは、六月頃のことなんだね」 「そうです、そうです」 「三津木君、その娘はまさか盲聾唖じゃあるまいね」  俊助は一瞬ポカンとしていたが、急に大声をあげて笑い出した。 「先生、それはちがいますよ。まさか、虹之助という少年が、琴絵であるわけがありませんよ。それならそれと報告がある筈ですからね。琴絵というのは人一倍|怜悧《れいり》な美人だったということですよ」  由利先生はううんと唸り声をあげると、がっかりしたように頭をうしろへもたせたが、すぐまた、 「三津木君、どちらにしても琴絵というのを探してみなきゃいけないね。四方太という老人が五月に亡くなって、六月に琴絵が小豆島から失踪している。そしてわれわれがあの虹之助を発見したのは六月十二日のこと、しかも場所は小豆島のすぐ近く、阿波の鳴門の近辺……。三津木君、この三つの事実のあいだには、きっと関連したものがあるに違いないよ。これらの事実の背後には何かしら恐ろしい秘密が、かくれているにちがいないよ」  そこで由利先生はぶるっと身顫いすると、 「三津木君、僕は恐れているんだよ。あの不幸な三重苦少年をめぐって、いまに何か起こる。何かよくないことが起こる。僕はその匂いを嗅ぐことが出来るんだ。世にも陰惨な、世にも血腥《ちなまぐさ》い匂いを。僕はそれを考えると、こうして白日のもとにいても、身顫いが出るほど恐ろしい」  由利先生は真実その匂いを嗅ぐかのように、ひくひくと小鼻を動かしたが、果たせる哉《かな》、先生の予言は的中したのだ。  それから二週間後の八月十五日、ちょうど東京の旧盆の晩に、由利先生のもとへ一通の電報が舞いこんで来たのだが、その電文というのは、 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]  ジ ケンオコルスグ オイデ ヲコウ」アヤコ [#ここで字下げ終わり]     三  だが、その事件というのへ入るまえに、筆者はその後の綾子の動静からお話していかねばならないだろう。  綾子が鎌倉の中御門へかえって来たのは、まえにもいったとおり八月二日のことでしたが、それから三日も経たないうちに、彼女は甲野一家の人たちとすっかり心易くなっていました。  かえって来た翌日、転宅早々でさぞ御不自由でしょうと、綾子が魚の籠をさげていったのがはじまりで、ここに両家の交際がはじまったのです。  甲野家でも梨枝子夫人はべつとして、あとは気のおけない若いものばかり、こっちも寡婦とはいいじょう、まだうらわかい年頃なのですから、話が合って、すぐに打ち解けてしまいました。少なくとも表面だけは。—— 「いつぞやは失礼致しました。ほんとにあの時はびっくりなすったでしょう」  初めて訪問していったとき、綾子が最後にこう切り出すと、由美はしかしあらかじめ、この言葉を覚悟していたものか、さのみ顔色も動かさず、 「ええ、ほんとうにびっくりしましたわ、だってあまりだしぬけですもの。あの方いまでもお姉さまのところにいらっしゃるんですってね」 「ええ、とうとう一緒に連れて来ましたよ」 「これから先、ずっとお世話をなさいますの」 「そうしたいと思っています。あれでもし、自分の思っていることを、他人に伝えることが出来るようになったら、どんな面白い秘密がきけるかと思うと、それが楽しみなんですよ」  綾子がその日訪問したのはなんとかして、由美の心中をのぞいてやりたいという下心があった事はいうまでもありません。  由美のほうでもそれを知っているから軽々に、内心の動揺を顔に見せまいと努力しているふうですが、それにもかかわらず、綾子のいまの一言は、はっと彼女の心を打ったらしく、思わず顔色をくもらせながら、 「まあ、……でも、……でも、そんな事出来るでしょうか。耳も聴こえず、眼も見えず、口も利けないというような人に、思うことを発表させるなんて……」 「出来ない事はないと思いますわ。ヘレン・ケラーさんだって、やっぱり同じ盲聾唖なんですがああして立派な学者になっているでしょう。だから気長に教育していけば、いつかそういう時節が来るのじゃないかと思いますの」  由美はまた顔色をくもらせました。 「あたし何もあの人にえらい学者になって貰おうというのじゃありませんのよ。ただ、少しでも思うことが話せるようになったら……そして秘密のかけらでも拾うことが出来るようになったらと、そればかりを楽しみにしておりますのよ」  女というものは何んという残酷な趣味を持っているのでしょう。由美の顔色が悪くなればなるほど、綾子はますます調子に乗って、いかにも楽しげにそんな事をいうのでありました。  その日を最初として綾子はときどき甲野を訪問するようになりました。  しかしさすがに慎んで、その後はあまり虹之助のことに触れないようにしている。しかし注意ぶかい綾子の眼には、この一家に何か暗い秘密があるように映ってならない。足萎《あしな》えの梨枝子夫人は申すに及ばず、若い静馬や由美さては同居している鵜藤という青年まで、いつも何か重い屈託に押しつぶされているようだ。  しかもそういう暗い空気は、綾子の訪問が度重なれば重なるほど、重苦しくなっていくように見えるのです。ただ、そこに恭三がいればだいぶ違ったものになります。  かれの重厚な、明るい、そして元気な笑い声が加わると、甲野家の人々も愁眉《しゆうび》をひらいたように、いくらか朗かになるのでした。綾子はそれを、何んとなく嫉ましいもののように思うのだが、しかし恭三がこの家にいることは極くまれで、相変わらずかれは、東京横浜と、忙しく毎日のように出向いている。  こうして二週間はなんのこともなく過ぎ、そして前にもいったように八月十五日の晩にいたって、ここにはしなくも恐ろしい事件が持ちあがったのだが、それはこういうきっかけからでありました。 「お姉さまのお家にいらっしゃる方ね。ほら虹之助さんとおっしゃる方……」  ある日、浜辺であったとき、珍しく由美のほうからそんなふうに切り出したのです。 「ええ? ええ、あの人がどうかしまして?」 「母がね、とてもその方のことを心配しているんですのよ。そういう不自由な身になってみればどんなだろうと、この間も涙をうかべて同情しているんですの」 「お母さまといえば、その後いかが?」 「相変わらずよ。あの足はもう二度と立たないでしょう」 「もとからあんなでしたの?」 「ええ、だいぶまえから悪かったことは悪かったんですけれど、あんなにひどくなったのは、父が亡くなってからのことですの。多分そのショックでいっそう悪くなったのね。自分がそうして不自由なからだだもんですから、いっそその方に同情が持てるのね。それで——」  と、由美はいくらか言いにくそうに、 「一度その方にお眼にかかってみたいと、そんなことをいうんですのよ」 「あら、それはお易い御用よ、じゃ、一度あの人を連れてお伺いするわ」  綾子がその約束を果たしたのが、八月十五日の晩のこと。  綾子はそのときなんの前ぶれもなく、虹之助の手をひいて、勝手知った甲野家の裏木戸からはいっていったが、見ると離れ座敷の縁側に唯一人、坐椅子に倚《よ》りかかっているのは梨枝子夫人、何やら手細工をしているのが、簾越《すだれご》しに見えました。縁側には岐阜《ぎふ》提灯に灯が入って、風鈴の音チロチロ、蚊遣り火の煙も涼しげだった。  二人の足音をきいて、梨枝子夫人はふと顔をあげ、いぶかしそうな眼で、二人の姿を見やったが、とたんにさあーっと真っ蒼になり、唇がわなわなとはげしくふるえました。 「小母さま、今晩は、御精が出ますこと」  綾子はじっと相手の顔色を読みながら、それでも言葉だけはさりげない調子。 「はあ、あの、いえ、ほんの手慰みで……」  静馬によく似た、陰気な顔に、梨枝子夫人は慥《こしら》えたような微笑をうかべる。 「大道寺さん、その方が、あの——?」 「ええ、そうですの。小母さまがいちど会って見たいとおっしゃってたと、由美さんのお話でしたから、今夜連れて参りましたの。あら小母さん、器用なことが出来ますのねえ」  梨枝子夫人の膝もとに散らかっている、色とりどりの小裂《こぎ》れと、一枚の羽子板に眼をとめると、綾子は感心したように、 「その押し絵、小母さんがなさいましたの」 「ええ、退屈なもんですから、こんなものをいじくっていたんですけれど、どうせ上手に出来やしないんですのよ」  梨枝子夫人は羽子板のうえに押しておいた押し絵を両手でかくすようにおさえたが、その声は異様なふるえをおびている。 「小母さん、みなさん、お留守?」 「はあ、あいにくみんな浜のほうへ出かけてしまいました。今夜は何か、浜で余興があるとか申しまして。あの、こんなものでもおつまみになりませんか」  梨枝子夫人がすすめたのは、ガラス鉢に盛ったチョコレート。 「あら、いえ、結構ですわ」 「でも、こちらの方は……」 「さあ、こんなもの、食べたことないでしょう」  綾子はふと夫人の眼にうかんでいる涙に眼をとめました。しかも夫人は怯えたように出来るだけ、虹之助のほうを見まいとつとめている。綾子は気味が悪くなって来たのか、 「小母さん、あたし由美さんを探して来ますから、そのあいだ、この人を預かっていただいてもいいかしら」 「ええ?」 「この人、こんな調子ですから、ちっとも心配なことはありませんのよ」  梨枝子夫人の小鬢《こびん》がブルブルふるえているのを、綾子は見て見ぬふりをしながら、虹之助の手をとって、縁側に腰をおろさせる。白い浴衣の虹之助が、夕顔のようにほの白く暗闇のなかにうかびあがって、蚊遣りの煙が静かに肩にからみつく。 「それじゃ、小母さま、お願いしましてよ」 「はあ、でも……」  夫人の言葉を聴き流して、綾子はそのまま浜辺へ出ていった。  ああ、その時、あとであのような恐ろしいことが起こると知ったら、決して二人を置きざりにしなかったのに……とその後綾子は由利先生にいくども繰り返したが……  浜辺の雑踏のなかを、さんざん探しまわった揚げ句、綾子がやっと由美を探しあてたのは、それから半時間も経ってからのこと。 「あら、由美さん、あなたお一人なの? ほかの人はどうなすって?」 「あら、お姉さま。みんなとはぐれちまったのよ」  綾子はすぐに、虹之助を待たせてあることを話したが、その時の由美の表情を、彼女はずっと後にいたるまで、忘れることが出来なかった。  由美は一瞬、紙のように真っ白になって、石みたいにそこに立ちすくんだが、つぎの瞬間、物もいわずに駆け出したのです。 「あら、由美さん、どうかなすって?」  綾子もあわてて後を追う。由美は綾子に返事もしない。ひた走りに走って、ようやく家の近所まで来たとき、二人がばったり出会ったのは、駅からかえって来た志賀恭三。 「やあ、由美、どうしたんだい。顔色かえて……、おや、綾さんも一緒だね。何かあったのかい」 「ああ、兄さん、あなたも来て頂戴」 「あら、ちょっと!」  ふいに綾子が叫びました。その声があまり異様だったので、由美も恭三も思わずどきりとして、 「綾さん、どうしたんだね」 「いま、お宅の裏木戸から、誰か出ていったようですけれど」  由美と恭三は、びくっとしたように向こうを見る。お屋敷町の杉垣がずうっと続いている半丁ほど向こうに、松の枝ののぞいているのが甲野家の裏木戸だが、木戸の柱に、裸電気がついていて、そこだけボーッとあたりの闇を破っている。しかし、二人がふりかえったとき、そこには誰の姿も見えなかった。 「どんな人だった?」 「さあ、ちらと見ただけだから、よくわからなかったけれど、黒っぽい洋服を着た、小柄の男で跛をひくようにして、大急ぎで向こうへ……」  恭三も由美も綾子がなぜそのように驚いているのか、なぜそのように声をふるわせているのかわからなかったが、しかし諸君は憶えていられる筈である。  いつか大阪のホテルで、由利先生と綾子の話を、立ち聴きしていた人物について、綾子の語った人相というのがやっぱりこれと同じではなかったか。黒っぽい洋服を着た小柄の男。——そしてそいつは跛《びつこ》をひいている。…… 「ともかく行って見よう」  三人は足を早めて裏木戸からなかへ跳び込んだが、そのとたん、はっと一種異様な変事の匂いが、強くかれらの心を打ちました。  電気が消えてまっくらな離れ座敷に、ユラユラと懐中電燈の円光がうかんでいる。足音をきいてその円光が、パッとこちらを照らしました。 「ああ、由美、——恭さんも一緒だね」  それは静馬でした。それにしてもその声の、なんとうわずっていたことか。 「兄さん、どうしたの。何故、電気が消えているの」 「静馬君、何かあったのかい?」 「由美! 恭三さん、これを見て……」  静馬の持った懐中電燈が、闇中にくるりと弧を描いて照らし出した座敷の中央、そのとたん、三人とも思わずあっと立ちすくんでしまいました。  座敷のまんなかに坐り椅子がひっくり返って、梨枝子夫人が仰向けに倒れている。しかも、その眉間は、めちゃめちゃに乱打されたと見えて、いちめんに血が吹き出している。むろん、すでに事切れていることは、物凄まじい形相と土色をした唇からでもわかるのである。 「兄さん!」 「誰が——誰が、こんな事をしたのだ」  静馬は、だまって懐中電燈の光を、座敷の隅に向けましたが、そこには鵜藤青年が、真っ蒼に歪んだ顔で、誰かを膝の下に捩じふせている。 「ああ、虹之助さん!」  と、絶叫したのは綾子です。  盲聾唖の虹之助は、またあの発作を起こしたのである。畳のうえに体を反らせ、手脚をはげしくふるわせながら、口から物凄く泡をふいている。だが、綾子を驚かせたのは、ただそれだけのことではない。虹之助の右手に、しっかり握りしめているのは、まぎれもない、さっき梨枝子夫人の作っていた押し絵の羽子板! しかも、その柄がいまにも折れそうになり、押し絵の顔には、べっとりと血がついている。……  いきをのんで、シーンと立ちすくんだ一同の耳もとで、風が出たのか、軒の風鈴が俄かにチロチロ鳴り出しました。 [#小見出し]  第三編 [#ここから改行天付き、折り返して3字下げ]    由利先生乗り出す——ストリキニーネ——紛失したチョコレートの鉢——跛をひく怪人のこと [#ここで字下げ終わり]     一  怪事件。——  まったく怪事件というもおろかである。  ギリギリと歯ぎしりをしたくなるような恐ろしさ、悪夢にうなされているような妖異な美しさ。まったくそれは、血にいろどられた一幅《いつぷく》の地獄絵巻き、妖しくも美しい無残絵なのです。 「虹之助さん!」  綾子は気ちがいのように虹之助のそばに駆け寄って、 「あなたが——あなたが——こんなことをしたの? 虹之助さん、あんたがこんな恐ろしいことをしたの?」  しかし、この哀れな盲聾唖の耳にそんな言葉が入ろう筈はない。それでも、綾子が肩を抱いてやると、触感や体臭から、ちかごろ自分を可愛がってくれる人とわかったのか、虹之助は小猫が主人に甘えるように、ぴったり綾子に摺り寄ると、 「あ、あ、あ、あ、あ!」  盲いた眼を必死と見張り、何やらわけのわからぬ身振りとともに、唖少年の濁った声で、 「あ、あ、あ、あ、あ!」 「いいのよ、いいのよ、何も怖いことないのよ。あたしが来たからもう大丈夫よ。さあ、これをお離し、ねえ、いい子だからこれを離すのよ」  盲聾唖の虹之助が、柄もくだけよと握っているのは、血に染まっている羽子板、しかも血に染まっているのは、羽子板ばかりではありません。今日、仕立ておろしたばかりの虹之助の浴衣にも、いちめんにべたべたと血糊がついて、身動きするたびに、畳のうえに赤い汚点を落としていく。 「志賀さん、志賀さん、早くこのことを知らせなければ。……そして、誰かお医者様を呼んで来て。……」  不思議なことに、この時、一番気がたしかだったのは綾子だったのです。  ほかの人たちは、まるで石にでもなったように、茫然として虹之助と梨枝子夫人の死体を見くらべてます。  静馬も五郎も死人のように色|蒼褪《あおざ》め、由美と来たらこれはもう完全に放心状態らしく、大きく視開かれた瞳は生気を失って、ガラスのように濁っている。  わけてもこの際不思議だったのは志賀恭三、日頃の沈着、物に動ぜぬ面魂はどうしたのか、これまた茫然と虹之助を見詰めていたが、仔細にその顔色を見れば、そこに何んとも名状することの出来ぬ、冷たい、恐ろしいものがあったことに気付いた筈です。  一同は綾子の声にはっとわれにかえると、どうやらかれらは、意味ありげな視線をかわしたようであります。  静馬は五郎のほうを振り返ると、 「鵜藤君、すまないが警察へいって来てくれたまえ」 「ああ、それからお医者さんを呼んで来てね」  そばから口を出した由美の声には、世にも陰気なものがありました。  五郎は夢からさめたように、庭から出ていきましたが、綾子もそのあとから、急いで下駄をつっかけます。 「綾さん、どこへいく?」 「あたし? あたし電報を打って来ます」 「電報? どこへ?」 「由利先生のとこへ……先生に来ていただくのですわ」 「由利先生?」  恭三と静馬は眼を見交わせました。 「綾さん、お待ち」 「何か御用?」 「何も由利先生を呼ぶ必要はないじゃないか。いまに警察の人が来る。それで十分じゃないか」 「でも、でも、あたし、由利先生によく調べていただかなければ気がすみません。そして、そして……」  と綾子は声をふるわせて、 「可哀そうな虹之助さんを救けていただくのです。いいえ、何もおっしゃらなくてもよくわかっています。あなたがたはみんな、この人が小母さんを殺したと思っていらっしゃるのでしょう」 「綾さん、君は昂奮しているんだ。落ち着かなくちゃいかん。われわれは何もこの少年が、伯母を殺したなんていってやしない」 「いいえ、いいえ、おっしゃらなくてもよくわかっています。あなたがたは寄ってたかってこの人を、罪人にしようと思っているんです。眼も見えず、耳も聴こえぬこの人が人殺しだなんて! これには何か恐ろしい悪企みがあるにちがいありません!」 「綾さん、何をいう!」 「ええ、ええ、そうよ、そうよ、みんなで何か企んでいるのよ。だからあたし、由利先生に来ていただくのです」 「綾さん!」  恭三ははだしのまま庭へとびおりましたが、その時すでに綾子は砂をけって、いっさんに郵便局へと走っているのでありました。     二 「奥さん、だからいわないことじゃない。ああいう少年を引きとるのは、考え物だとあれほどいっておいたのに」  綾子の急電に接して、由利先生が駆け着けて来たのは、その夜の十二時過ぎのこと、電報を受け取るとすぐ連絡をとったと見えて、三津木俊助も一緒でした。 「そんなことをおっしゃったって……、まさかこんなことが起こるとは思いませんもの」  駅頭に出迎えた綾子の顔は、いつもの艶を失って、さむざむとした鳥肌が立っている。急に老けたように見えるのです。 「とにかく現場へ急ぎましょう。警察の人たちは来ているのでしょうね」 「ええ、だいぶまえに。……そしてみんなしてあの人をいじめるのです。あたしがいくら盲聾唖だといっても、警察の人ったら、ほんとうにしてくれないのですよ」  由利先生はあわれむように、綾子の顔を見ましたが、思い出したように、 「奥さん、あなたは志賀恭三という人に、妹のあることを知っていますか」 「志賀さんの妹?」 「名前は琴絵というんだが……」 「そうそう、そういう妹さんのあることは、いつかきいたことがあります」 「あなたはその妹がいまどこにいるか、志賀君からきいたことはありませんか」 「その方なら小豆島にいるんじゃありません? そんなふうにききましたけれど……でも、先生その方がどうかしたのですか」 「その妹はいま小豆島にいないのですよ。志賀君が六月頃、東京へ連れていくといって、一緒に島を立ち去っているんです。あなたはそんなことを、志賀君からきいたおぼえはありませんか」 「いいえ、一度も……でも、先生、志賀さんの妹さんと今度の事件とのあいだに、何か関係があるとおっしゃるんですか」 「いや、私にもまだよくわからないんですがね、ただここに不思議に思われるのは、志賀君が島から連れ出して以来、琴絵という娘の消息が杳《よう》としてわからないんです。しかもそれが六月のはじめというのだから、そこに何か、虹之助とのあいだに関係がありはせんかと思われるのです。奥さん、われわれが虹之助を、鳴門の渦から救いあげたのは六月十二日のことでしたね」 「ええ、そうですわ。だけど、それが……」  綾子ははっとしたように立ち止まると、 「先生、それじゃあなたは、その琴絵さんという人と、虹之助さんが同じ人だとおっしゃいますの」 「いや、はっきりそう言い切れるわけじゃないが、何かそこに関係がありはしないかと思われるんです」 「でも、虹之助さんはたしかに男ですよ。琴絵さんじゃありませんわ。でも、この事件にはなんて妙なことばかりあるんでしょうねえ」  そこはもう甲野家のすぐ近くだった。変事を知ってひとしきり騒いでいた近所の人々も、もう寝てしまったのか。あたりはしいんと静まりかえって、波の音ばかり高いのである。  と、この時、行く手から自転車を押してのろのろとやって来た男が、かれらのそばまで来ると、立ち止まって、 「ちょっとお訊ねしますが、このへんに甲野さんという家はありませんか」  見るとそれは郵便配達だった。 「われわれもその甲野へ行くんだが、電報かね」 「ええ」 「宛名は誰?」  電報配達は自転車のランプで、電報の宛名を見ると、 「甲野静馬方、志賀恭三というんです」 「ああ、そう、それじゃ一緒に行こう」  海にちかい別荘地は、プーンと潮の香がしめっていて、薄月夜の闇のむこうから、時化《しけ》のまえぶれのように、どどん、どどんと波の音が聴こえて来る。  言い忘れたが、甲野の家は由比ヶ浜の松並み木の、すぐうしろにある。四人が別荘の裏口からはいっていくと、まっくらな離れ座敷に、提灯の灯や、懐中電燈の灯がゆらゆらと動いて、その中をせわしそうに動いている警官の姿が見えました。 「ああ、由利先生ですね」  暗闇の中からぬっと縁先に出て来た男が、 「私はここの司法主任をしている江馬という者です。あなたがお見えになるということを聴いたので現場はそのままにしておきましたよ」  かつて警視庁の捜査課長として、天下に令名をはせた由利先生の名を、江馬警部も知っていたと見えるのです。 「ああ、そう。それは有難う。大道寺の奥さんに口説かれてお邪魔に来ましたが、よろしく願いますよ」  由利先生は白い歯を出して笑うと、 「時に志賀恭三という人はいますか。電報が来ているようだが」 「うちの者はみんな母屋のほうにいますよ。おい、誰か、志賀という男を呼んで来い。先生おあがんなさい」  刑事の一人がすぐ奥へ知らせに入ったが、すると間もなく恭三が出て来て、暗闇の中で電報を受け取りました。そしてそこにいる由利先生や三津木俊助に、じろりと鋭い一瞥《いちべつ》をくれると、そのまま奥へ入ってしまう。  由利先生は部屋のなかを見廻しながら、 「どうしたんです。電気はまだつかないんですか」 「いや、いまつけるところです。もうすぐですから……おい、まだなおらないのかい」 「ええ、もうすぐ……すみませんが、もっと明かりを見せて下さい」  暗闇の天井から声がするのは、多分電気工夫でしょう。 「電気をめちゃめちゃに叩《たた》き毀《こわ》しているんですよ。気をつけて下さい。座敷の中はガラスのかけらがいっぱい散らかっていますから、あの盲聾唖の少年が、何かにおびえて、盲滅法、羽子板を振りまわしているうちに、誤って電球を叩きこわしたんですね。少年の体にもガラスのかけらがいっぱいささって血だらけになっているんですよ」 「虹之助はどこに……?」 「向こうで保護していますがね。何しろ恐ろしく昂奮していて手がつけられないんですよ。あっ、どうも御苦労様」  そのとたんぱっと電気がついたので、由利先生と三津木俊助は、はじめて恐ろしいあたりの光景を見ることが出来ました。 「なるほど、あれが被害者ですね」  だいたいの話は、綾子から聞いていたが、あまり凄惨なあたりの様子にさすがの先生も眉をひそめずにはいられない。 「で、医者の鑑定はどうなんです。羽子板で殴り殺すなんて、類のない事件だが、果たして羽子板で殴られたくらいで人が死ぬものですかね」 「それが非常に意外なんですがね」 「…………?」 「医者の言葉によると、羽子板で殴られたために死んだんじゃないというんです。その傷は、大半死後のものだというんですよ」 「羽子板のせいじゃない? すると死因は……?」 「解剖してからじゃないとはっきりした事はいえないそうですが、被害者は毒を嚥《の》んでいるらしいというんです」 「毒……?」  由利先生と俊助は思わず顔を見合わせました。綾子は大きく眼を瞠って、すさまじい梨枝子夫人の死に顔を凝視している。 「そしてその毒物というのは?」 「多分ストリキニーネだろうというんです。やはり解剖してみなければ分かりませんが、筋強直の具合や、それから御覧なさい。恐ろしく眼球がとび出している。それに被害者の顔面に浮んだ、このすさまじい苦悶の表情、そういうところから、十中の八、九までストリキニーネにちがいあるまいというんですがね」 「なるほど、すると被害者は、ストリキニーネを嚥んで死んだ。そこを虹之助に乱打されたというわけですか」 「いや、ところがね、傷のうちの半分くらいは、まだ息のあるうちに受けたらしいというんです。他の半分はあきらかに死後出来たものですがね。そこで私はこういうように判断するんですがね」  江馬司法主任は綾子のほうを見ながら、 「大道寺の奥さんのお話によると、奥さんはここへ被害者と盲聾唖の二人を残して出ていかれたというんですが、その後で梨枝子夫人は自ら嚥んだかひとに嚥まされたか、とにかくストリキニーネを嚥んだのですね。ところでこの毒物の特徴は非常な苦痛をともなうものだそうですから、夢中になってそばにいた虹之助にしがみついたんじゃないかと思うんです。こう思われるのは、虹之助の手頸に恐ろしい紫色の痣が出来ているからですが、さて、だしぬけにしがみつかれた虹之助はどうしたでしょう。悲しい哉、盲で聾のかれは、相手が毒のために苦しんでいるなどとは知る由《よし》もない。何か危害を加えられると誤解したのではないでしょうか。そこで夢中でふりはなそうとする。しかし、相手はますます物凄く武者振りついて来る。虹之助はいよいよ驚き恐れて、夢中になってそこらを引っかきまわしているうちに、手にさわったのがその羽子板……」 「なるほど、そこでただもう梨枝子夫人の手からのがれたい一心から、この羽子板でめちゃくちゃに殴りつけた……と、こういうわけですね」  由利先生はそこにあった羽子板を手にとると、何気なくその押し絵を眺めていたが、ふいにふうっと眉をひそめました。  しかし、警部は気がつかず、 「そうです。そうです。そうしてめったやたらに羽子板を振りまわしているうちに、それが電球に当たって、木っ端微塵とガラスがとんだ。そのガラスが全身にささったものだから、奴さんいよいよ驚いた。きっと誰かがそばにいて、危害を加えると思ったのでしょう。ますますあばれているうちに、すでに事切れた梨枝子夫人をむちゃくちゃに打ちすえた……と、これが私の想像なんですがね」  ああ、それは何んという恐ろしい想像でしょう。  毒を嚥んで致死期の苦悶にのたうっている老女、それを目前にひかえながら、助けるどころか反対に、何も知らずに狂気となって打ちすえている盲聾唖。世にもこれほど恐ろしい光景がまたとあるでしょうか。  しかもストリキニーネの特徴として、先ず運動神経の中枢を麻痺させるということですから、梨枝子夫人は助けを呼ぶことも口を利くことも出来ないのです。虹之助はもとより盲聾唖、したがってこの惨劇は終始無言のうちに行なわれたのにちがいない。  由利先生も三津木俊助も、それを思うと背筋の冷たくなるような戦慄を禁じ得ませんでした。 「ところで、被害者が毒を嚥んでいるとして、それは自殺ですか、それとも他殺の見込みですか」 「むろん、他殺の見込みです。家人の話によると、自殺の原因は何一つないといいますし、第一、ストリキニーネなど入手出来る筈がないというのです」 「なるほど、すると誰かが毒を盛ったとして、それはいつの事ですか。ストリキニーネというのはかなり症状が急激にやって来るものと憶えていますがねえ」 「そうだそうですね。で、被害者がそれを嚥んだのは、大道寺の奥さんがここを出ていってからという事になりますが、さて、犯人がいつそれを用意しておいたか、また、何に混ぜておいたか、そういう事は少しも分かっていないんです。大道寺の奥さんがいらっしゃるまえから用意してあったかも知れないし、あるいはその後かも知れない。何しろ虹之助という奴があの通りの盲聾唖でしょう? だから自分の眼のまえでどんな事が行なわれていようと、何一つわからないわけなんですよ。だから、ひょっとすると犯人は、大道寺の奥さんがここを出ていってからやって来て、虹之助の眼のまえで、ゆうゆうと何かに毒を入れていったかも知れない。むろん、梨枝子夫人にはかくしてですがね」 「しかし、そうすると、犯人は梨枝子夫人の知っている人物ということになりますね」 「そうです、そうです。だから夫人は心を許して対談していた。その間に犯人が夫人のすきを見て、何かに毒を入れていったんですね。ところでそれについて大道寺の奥さんにお訊ねがあるんですが、あなたがここへいらっしゃった時、ここに何か飲み物のようなものはありませんでしたか」 「さあ。……あたし、よく憶えておりませんが……そう長くここにいたわけではございませんし、……でも、でも、飲み物のようなものは何も……あっ」  突然、綾子は大きく眼を瞠りました。そして俄かに息をはずませると、 「飲み物のことはよく憶えておりませんが、そこに食物が……ええ、チョコレートですの。銀紙にくるんだ丸いチョコレートが、小さなガラスの鉢に盛ってあって……」 「チョコレート?」  警部は眼を丸くして、 「しかし、われわれがここへ来たとき、そんな鉢はここにありませんでしたよ。死体を発見したとき、あなたもここにいたんでしょう。その時ここにありましたか」 「あたし、存じません。……だって、だって、その時はまっくらで……ただ懐中電気の光で見ただけなんですもの。……それに……あたし、すぐここを飛び出したものですから。……」 「江馬君、その事ならこの人より、ここの家のものに訊ねたほうがよくはないかね」  由利先生はそばからそう注意しました。 「そうしましょう。しかし、あの連中、正直に話すかどうか」  江馬警部がいまいましそうに舌打ちしたとき、女中が銀盆に香り高いコーヒーを運んで来ましたが、警部は手をふって、 「いや、それなら向こうで貰おう。みんな奥にいるんだろうね」  そこで警部を先頭に、一同は母屋のほうへ入って行きました。     三  母屋の座敷には、志賀恭三に、静馬由美の兄妹、それに鵜藤五郎の四人が、寝そべったり膝小僧を抱いたり、思い思いの恰好で、むっつりと押し黙っている。みんなげっそりとして疲労の色が濃いのである。  時刻はもう一時過ぎ。明けっぱなした縁側に、誰が買って来たのか、籠に入った蛍が、病人が呼吸を吸うように、はかなく明滅しているのも淋しかった。波の音はひとしお高くなったようです。  一同が離れ座敷へ入っていくと、さっきの女中がコーヒーを持って追っかけてくる。江馬警部をはじめとして、由利先生も三津木俊助も、すぐそれに手を出します。疲労した深夜の頭脳には、暖かいコーヒーの一杯が快い。  綾子は残りのコーヒーから、カップを二つとると、つと志賀のそばへ寄りました。 「お上がりになりません?」 「うん」 「さっきは御免なさいね」 「なんのことだ」 「あたしすっかり昂奮してしまって。……いまから考えると、悪いことをしたと思っています。あんなに喧嘩ずくでとび出したりして……」 「ははははは! 何んのことだと思ったらそのことか。こっちは何んとも思ってやしない」 「ほんと?」 「昂奮してたのは君ばかりじゃない。われわれみんな同じことだよ。それに、由利先生に来て貰ったのは、結局いいことだったかも知れない」 「あなたにそう言っていただくと嬉しいわ」  ああ、恋とはこんなものでしょうか。男の一言一句に三十女の瞳が、頬が、小娘のように炎えあがったり、赧くなったりするのです。由美と静馬と五郎の三人は、向こうでぼんやりコーヒーを啜《すす》っている。  やがて江馬警部が立ち上がりました。 「さて、皆さん」  警部はいくらか気取った様子で、 「ここにまた、一つの疑問が起こったのですが……あなたがたも多分、お聞きおよびのことと思いますが、梨枝子夫人は羽子板で殴り殺されたのじゃなかった。ある毒物を嚥まされているという疑いが濃厚なんです。ところで、その毒物がどういう形で梨枝子夫人にあたえられたか、それについてここにいらっしゃる大道寺の奥さんが、こんなことをおっしゃるのです。奥さんが虹之助を残して離れ座敷を立ち去るとき、梨枝子夫人のそばには、皿に盛ったチョコレートがあった……と」  一同は顔を見合わせましたが、すぐその中から、静馬が少し乗り出して、 「それじゃそのチョコレートの中に、毒が入っていたとおっしゃるのですか」 「いや、まだはっきり断言出来るわけじゃないが、梨枝子夫人のそばには、ほかに飲み物も食物もなかったというから……」 「しかし、そのチョコレートならわれわれも食べましたよ。そうです。僕も由美も鵜藤君も、三人とも食べましたよ」 「君たちも食べた? それはいつの事です」 「浜へ余興を見にいく直前です。出かけるまえにわれわれは離れへ寄って、母に留守を頼んだのです。その時、母が菓子鉢を出してすすめたので、われわれはみな一つか二つずつ食べました」 「ああ、すると君たちも、そこにチョコレートがあったことは認めますね。それならば、そのチョコレートはどこへいったのです。その菓子皿はどうしたのです」  静馬と由美と五郎は、また顔を見合わせた。志賀だけが不敵な顔で、あぐらをかいたまま顎髯《あごひげ》を抜いている。 「その菓子鉢なら、まだ離れ座敷にある筈だが……」 「ところがそれが見付からないのですよ」  三人はまた不安そうに顔を見合わせた。 「梨枝子夫人の死体を最初に発見したのは、君たち二人でしたね。その時、そこに菓子鉢があったかどうか憶えていませんか」  静馬と五郎は顔を見合わせたが、二人とも首を横にふった。 「いいえ、知りません。何しろわれわれがそこへ入って来たときは、あの通りまっくらでしたから……」 「なるほど。しかしそうすると、あなたがた二人のうちの一人が、相手に知られぬようにこっそり菓子鉢をかくすことも出来たわけですね」 「馬鹿な! そ、そんな……それじゃあなたは、われわれが母を毒殺したとおっしゃるんですか」 「いいえ、私はただ可能性をいっているんですよ。誰が毒を仕込んだか、それはあらゆる可能性をギリギリまで押しすすめていって、はじめて帰納することが出来るんです。ところであなたがたは、いつも懐中電燈を持って歩くことにしているんですか」 「そうです。夜が更けると、このへんはまっくらになりますからね」  この返事はちょっと警部を失望させたようでした。警部の考えでは、二人のうちの一人が母屋へ懐中電燈をとりに走った。そのあとで一人が菓子鉢をかくすことが出来た筈だと、そう斬り込むつもりだったのでしょう。 「すると、あなたがたは、死体を発見してから、ずっと二人いっしょにいたんですね」 「むろんいっしょにいました。由美や、恭さんや、大道寺の奥さんがやって来るまで。……」 「なるほど。そしてその時もまだまっくらだったのだから、後から来られた三人のうちの誰かが、菓子鉢をかくすことも可能だったわけですね」 「こんどはわれわれにお鉢がまわって来ましたな」  志賀恭三なのである。  まるで挑戦するようなその語調が、あまり大胆不敵だったので、警部はいうに及ばず、由利先生や三津木俊助まで、弾かれたようにそのほうへ振り返った。  警部はその挑戦をはねっかえすように、 「そうですよ、今度はあなたがたにお鉢がまわりましたよ。とにかく、大道寺の奥さんがかえって来るまでに、誰かが菓子鉢をかくしたのだから、われわれはあらゆる角度から、可能性を検討しなければならないんだ」 「可能性、大いに結構、しかし、大道寺の奥さんだけは、その可能性とやらから除外してもよさそうに思うがどうです。この人は甲野家と何んの関係もない人だから……」 「あなた、あなた……」  綾子は嬉しさと心配の溢れた顔色で、恭三の袖をひっぱっていましたが、恭三はそんなことにはお構いなしで、 「いったい、警部さんはどういうふうに考えていられるのか知らんが、さっきの静馬君の話でもわかるとおり、静馬君と五郎君、それから由美さんの三人が、浜へ行くまえチョコレートを食べたという。静馬君、その時誰かが、いちいちチョコレートを選択してほかの者に渡したのかね。それともみんなてんでに勝手にとって食べたのかね」 「むろん、みんなてんでに取って食べましたよ」 「と、すれば、その時にはまだそこに、毒入りチョコレートはなかった筈ですね。と、すると、三人が離れを出ていってから、誰かがやって来て、チョコレートに毒を入れたということになるが、そんなことが可能ですかね。叔母は盲じゃないのですよ。目の前で毒を入れられるのを黙っている筈がない。とすれば、チョコレートの中に毒が入っていたということは、非常に可能性がうすくなると思うがどうでしょう」 「いや、いちがいにそうは言えませんね」  その時、横からゆったりと口を出したのは由利先生、それをきくと恭三は、反射的にそのほうを振り返りました。 「と、おっしゃるのは……?」 「つまり、犯人があらかじめ、毒を仕込んだチョコレートを用意していたら、いまのあなたの疑問は、何んでもなく解決出来る。チョコレートをすりかえるか、あるいはいままであったぶんのうえへ放りこんでおくか、それぐらいのことなら、梨枝子夫人の眼の前でも、大して難しくなくやることが出来る。但し、それには犯人が、ここにチョコレートのあることをあらかじめ知っていなければならない」 「と、いうことは、犯人は甲野の家のものだとおっしゃるのですか」  恭三の眼にはありありと敵意のいろが濃くなって来る。由利先生はさりげなく、 「そういうことになりますね。しかし、これは、さっき江馬君がいっていたように、可能性の問題ですよ。チョコレートの中に毒が入っていたかどうか、まだはっきりしているわけではないし、まず、それから証明してかからねば、結局水掛け論ということになりますな」 「しかし、先生」  警部は不服そうに、 「チョコレートの中に毒が仕込んであったということは、殆ど確実と思いますがね。でなければ、なぜ、チョコレートの鉢をかくしてしまったのです」  警部はそこで静馬や五郎のほうに向き直ると、 「君たちは浜へ出てから、ずっといっしょにいたんですかね。由美さんは途中ではぐれたといっているが……」 「いや、われわれ、鵜藤君と僕も途中ではぐれてしまったんです。何しろ、余興場はたいへんな人出だったから」 「それじゃ、君たち二人いっしょにかえって来たわけじゃないんですね」 「いや、離れへ入ったのは二人いっしょでした。しかし、それまでは別々だったんです。実は、裏木戸のところで二人出会って……」  警部は意味ありげに由利先生のほうを見ながら、 「すると、君たちのうちどちらでも、途中で一度ここへかえって来ることが出来たわけですね。いや、君たちばかりではない、由美さんにしても……いや、これは可能性の問題ですよ」 「可能性の問題とすれば、僕にだってそれが出来たかも知れない」  その時、また挑戦するように口をはさんだのは志賀恭三。 「僕は東京からのかえりを、家の近くで由美や大道寺の奥さんに出会ったのだが、五分や十分誤魔化すのは何んでもないから、いちど家へかえって来て、毒入りチョコレートを伯母にすすめ、それからまた出掛けて、誰かのかえって来るのを待っていたのかも知れない」 「あっ!」  綾子が突然、鋭い叫びをあげたのはその時でした。志賀恭三の皮肉な言葉に、静まりかえっていた時だけに、綾子の叫びは異様に高く、部屋のなかに響きわたった。一同は弾かれたようにそのほうへ振り返る。  綾子は昂奮に頬を染めて、 「あたし、すっかり忘れていたわ。そうよ、そうよ。ええ、このことは志賀さんや由美さんに聴いて頂いてもわかります。あたしたち、あたしと由美さんは浜からかえって来る途中、角のところで、志賀さんに出会ったのです。そしてそこでちょっと立ち話をしていたのですが、その時、この家の裏木戸から出ていった人があるのです。ねえ、志賀さん、由美さん、あの時あたしそういったわねえ」  志賀と由美は無言のまま頷いた。 「警部さんのお話を、いままで黙って聴いていますと、小母さんを殺した人は、ここにいらっしゃる四人のほかにないようにおっしゃいますけれど、四人以外に、誰かここへ来た人があるにちがいありません」 「それはどんな人物でしたか。男ですか。女ですか」 「男のようでした。でも、かなり離れておりましたし、すぐ暗闇のなかへ消えてしまったのではっきりしたことは申せません」 「たしかにこの家から出ていったのですね」 「ええそれはもう間違いございません。ここの裏木戸には軒燈がついていますから、その下から出て来るとこがはっきり見えたのです。それからすぐ、あたしたちはこの家へかえって来たのですが、その時、静馬さんも五郎さんも、あの離れ座敷にいたのですから、それが二人でなかったことはたしかです。するとここに、あたしたちのまだ全然知らない人物が、今夜——いいえ、もう昨夜になりますわね。昨夜この家にいたことはたしかですわ」  警部は志賀と由美のほうをふりかえった。 「あなたがたも、いまの大道寺の奥さんの話を認めますか」 「いや、由美も僕もそういう人影を見たわけではないのです。しかし、大道寺の奥さんはその時たしかに、誰かがここを出ていくのを見たといいましたよ。僕がふりかえった時にはもう見えなかったが……」 「由美さん、あなたはどうです」 「いいえ、あたしも見ませんでした。でも、その時、大道寺さんがそうおっしゃったことはほんとうです」 「警部さん!」  綾子が、突然ヒステリックな声で警部を呼びかけました。 「あなたはあたしが嘘を吐《つ》いているとでも思っていらっしゃるんですか。まあ、考えて下さい。その時はあたしまだ、ここでこんな恐ろしいことが起こってるなんてこと、夢にも知らなかったんですよ。第一また、嘘を吐くのなら、志賀さんや由美さんも、それを見たとおっしゃる筈じゃありませんか。その方が御自分たちのために有利なんですもの」 「いや、誰も、あなたが嘘をついてるなどとは言ってやしない。しかし、いかに咄嗟《とつさ》のばあいでも、その男がどんな風態をしていたか、だいたいの輪廓ぐらいわかりそうなものじゃありませんか」 「だから、それを申し上げようとしていたのじゃありませんか。それをあなたがよけいな口出しをなさるから……」  綾子は嘲るように警部に一矢報いると、 「その人は、黒っぽい洋服を着た小柄な男で、跛をひいておりました。そして、そして……」  と、綾子は由利先生の顔を見ながら、 「あたし、その男を前にも一度見たことがあるのです。いえ、その時も後ろ姿だけでしたけど、大阪のホテルで、……その男はあたしたち、あたしと由利先生の話を立ち聴きしていたんです」  由利先生はふいに大きく眼を瞠《みは》って、穴のあくほど綾子の顔を見詰めました。 「奥さん、それはほんとうですか。大阪のホテルで立ち聴きしていた男、たしかにそれに違いありませんか」 「違いございません。いえ、たしかに違いないと思います。どっちの場合も、顔を見たわけではございませんが、後ろ姿の歩きぶりが、たしかに同じ人だと思われるのです」  綾子は一語一語に力をこめて、そう言い放つのでありました。 [#小見出し]  第四編 [#ここから改行天付き、折り返して3字下げ]    丁字の花咲く庭——琴絵の顔——羽子板小姓のこと——漂うボートの悲劇 [#ここで字下げ終わり]     一  綾子の証言によって、事件はここにいくらか違ったものになって来た。  警部のいままでの考えによれば、犯人はこの家のものにちがいないというのだが、ここに新しい登場人物が出て来たので、警部はいままでの考えかたを修正しなければならぬ破目に陥ったわけです。 「いったい、ホテルで立ち聴きしていた男がいるというのはどういうわけですか」  そこで由利先生は手短かに、大阪における出来事を警部に語ってきかせました。しかし、その時先生は、わざと河渡御の際の、川のうえの出来事を省いたので、警部が何んとなく腑《ふ》に落ちかねる風情だったのも無理はない。 「すると、そいつは虹之助のあとをつけまわしている。そして、虹之助が奥さんに引き取られたからホテルで立ち聴きしていたと、そういうことになるのですね」 「まあそうですね」 「そして、虹之助が鎌倉へ来たので、そいつも後から追っかけて来た。そして今夜も、虹之助がこの家へ来ていたから、ここへやって来た……と、なるほどそこまでは頷けます。しかし、その男がなぜ縁もゆかりもない梨枝子夫人を殺すことになるんです」 「さあ。……」  由利先生もそれには困った。それを納得のいくように説明するためには、虹之助と甲野家に、何か関係があるのではないかという疑いを打ち明けなければならぬことになるのです。しかし、それはまだ決定的のことではないし、由利先生としても綾子にしても、はっきり打ち明ける勇気はなかったのです。 「警部さん」  その時横合いから、そう口を出したのは綾子です。 「だから、それを探るのがあなたの役目ではありませんか。あたしがここで申し上げたいのは、虹之助さんを大阪からここまでつけて来た男がある。そしてその男が今夜、ここへ来た、……と、それだけの事を申し上げて、あなたの御注意を喚起したいのですわ。その男がここで何をしていたか、小母さんに毒を嚥ましたか嚥まさなかったか、毒を嚥ましたとすれば、何故だろう、小母さんとどういう関係にあるのだろう。……と、そういうようなことを調べるのは、みんなあなたのお役目なんですわ」  辛辣《しんらつ》な綾子の言葉に、警部は思わず色をなしたが、その時、由利先生がそばから穏かに言葉をはさんだ。 「いや、その事はいずれ後でよく調べるとして、志賀さん、あなたにちょっとお伺いしたいことがあるのですがね」  恭三はびくりと太い眉をあげたが、すぐ挑むように皓《しろ》い歯を出して笑うと、 「さあさあ、どうぞ。しかし言っておきますが、僕はその、虹之助という少年を大阪からつけて来たという人物については、正直の話、まったく何も知りませんぜ」 「いや、私の訊きたいというのはそのことじゃない」  相手の皮肉を歯牙《しが》にもかけずに、 「私の知りたいのは、あなたの妹さんのことなんですがね」  あっと叫んで、あわてて口をおさえたのは由美でした。志賀はちらとそのほうを見ましたが、彼自身この質問にはかなり狼狽したらしい。 「妹のこと?……はてな、妹がどうしたというんですかね」  さりげなく言ったものの、そこにはかくし切れない動揺がありました。 「琴絵さんがいまどこにいるか、それをお伺いしたいんですがね。琴絵さんを小豆島から連れ出したのはあなたでしたね。その時あなたは東京へ連れていくとおっしゃったそうですが、その琴絵さんはいまどこにいますか」  由美と静馬は怯えたように、由利先生と志賀の顔を見くらべている。綾子は不安そうな眼で、これまた二人を見くらべている。誰もかれもが、由利先生と志賀のこの応答に心を奪われていたために、その時、五郎がこっそり部屋を脱出したことに気がつかなかったのは、まことに止むを得ないことといわねばなりません。  志賀は由美と静馬のほうへ、ジロリと鋭い一瞥をくれると、 「ははははは、何んのことかと思ったら妹の事ですか、妙ですな。妹がこの事件に、いったい何んの関係があるというんです」 「そんなことはどうでもよろしい。志賀君、私の訊ねているのは、琴絵さんがいまどこにいるかということ、それに答えて戴ければよろしい」  志賀はきっと唇をかんだ。 「琴絵は……いま……あるところにいます」 「どこですか。それは……?」 「それは言えない」 「言えない?」 「ええ、言えませんよ。ねえ、先生、あなたが何故そんなことをおっしゃるのか知りませんが、人間というものは、それぞれ、かくし事を持っているものです。他人に知られたくない秘密を抱いているものです。むろん、その秘密が今度の事件に関係があるとすれば、多少いたいところがあっても、打ち明けるにやぶさかではありませんが、これは全然、問題が別ですからねえ」 「問題が別であるか別でないか、その判断はこちらでする。どうしても言えないというのですか」 「言いにくいですな。これはわが家の秘密ですから」  その不敵な面魂を見ると、この男、梃《てこ》でも口をひらくまいことがよくわかる。由利先生はしばらく相手の顔を見詰めていたが、諦めたように肩をゆすると、 「仕方がない。じゃその事は諦めましょう。ところで甲野さん」 「はあ」 「琴絵さんの写真があったでしょう。それをひとつ拝見したいのですがねえ」 「ええ、その写真ならアルバムに……」 「由美!」  ほとんど同時に叫んだのは、志賀と静馬でありました。それをきくと由美ははっと気がついたように、真っ蒼になって、 「あら、あの、いえ、あったと思うんですけれど、よくわかりませんわ」 「はははははは、誤魔化しても駄目ですよ。アルバムに貼ってあるんですね。それじゃひとつそのアルバムを持って来ていただきましょうかね。いやいや、こいつは私もいっしょにいったほうがよさそうです。はははははは!」  恭三にちらと嘲るような一瞥をくれると、由利先生は由美の腕に手をかけて、 「さあ、行きましょう。どこにあるのですか。ああ、書斎ですか」  警部は不思議そうな顔をして、二人のあとについていく。志賀と静馬も顔見合わせながら、不安そうについていく。最後に綾子と俊助も、思い思いの顔色でついてきました。  書斎へ入ると、 「で、そのアルバムはどこにあるんですか」 「はあ、あの、本棚に……」  由利先生は本棚から、部厚なアルバムを取り出すと、そのページを繰りながら、 「琴絵さんというのは?」 「はあ、……あの……あたしたちの家族写真がそこに貼ってある筈なんです。その中の一番はしに立っているのが琴絵さんで……琴絵さんの写真というのはそれ一枚しかございません。ええ、ほかには一枚もないのです」  由利先生はすぐにその家族写真というのを見つけました。  それはいかにも大家の庭らしい、由緒ありげな木石の配置をバックとして、甲野一家の人たちがずらりとそこに並んでいる。中央に、梨枝子夫人とならんでいるのは、それが四方太老人だろう。胡麻塩あたまの、いかにも頑固そうな親爺。  その左右に、静馬もいる。  由美もいる。  五郎もいる。  そして志賀と、志賀にならんで一番右のはしに、女の姿がうつっていたが、何んとその女には首がなかった。  顔の部分だけ、見事に切り抜かれているのであります。     二 「由美さん」  由利先生のきびしい声に、由美ははっと顔をあげました。 「この顔はどうしたんです。いや、誰がこの顔を切り抜いたのですか」 「いいえ、存じません、あたしじゃありません。あたし何も存じません」 「誰もあなたといってやしない。しかし、この切り口の新しいところを見ると、これは極く最近にやったことですよ」  二人の問答をきいていた志賀は、不思議そうに由美の肩越しに覗いたが、ひとめ、切り抜かれた写真を見ると腹をかかえて愉快そうに笑い出した。 「こいつはいい。こいつは愉快だ。まんまと首無し美人が出来上がって、由利先生大弱りの態。……」 「お黙りなさい!」  さすがにたまりかねたのか、由利先生、われにもなく大喝しましたが、すぐ思い直したように、 「いや、これは失礼」  それから咽喉の奥でひくく笑うと、 「由利麟太郎|一期《いちご》の不覚というところだから、これはどんなに笑われても仕方がない。しかし、この事は大いに参考になりますな。つまりあなたのいわゆる一家の秘密というのは、琴絵さんの顔にあるというわけですな。琴絵さんの顔をわれわれに見られたくない。……ね、そうでしょう。ところで誰がこれを切り抜いたのか……」  由利先生はあたりを見廻すと、 「江馬さん、鵜藤という青年はどうしたのです。われわれがここへ来るとき……あっ、そうだ。あの男なのだ。あの男がこの写真を切り抜いたのだ。さっき向こうで、琴絵さんのことが問題になって来たので、早晩この写真のことが出て来ると覚って、あの男が先廻りして、この写真を切り抜いてしまったのです。江馬さん、とにかく鵜藤という男を探して下さい」  江馬警部があたふたと出ていくと、由利先生はにっこり笑って、志賀のほうを振り向きました。 「どうです。これで私は相当思いやりがあるつもりですがね。あなたのいわゆる一家の秘密を、これで私は相当尊重しているんですよ。甲野さん」 「はあ」 「この家族写真の背景になっているのは、小豆島のお宅なんでしょうね」 「はあ。……」  由利先生はいかにも嬉しそうに咽喉の奥で笑うと、 「大道寺の奥さん、ちょっと……」 「はあ、何か御用でございますか」 「ちょっと、この写真を見て下さい。この写真は非常に面白いですよ。鵜藤君が、顔だけ切り抜いていって、写真そのものを持ち去らなかったのは間違っている。奥さんはこの写真を見て、何か思いあたることはありませんか」 「さあ……」  綾子は不思議そうに写真をしげしげ眺めていたが、別に思いあたるようなところもなかった。静馬や由美や志賀も不安そうな顔をして、写真と由利先生の顔を見くらべている。 「まだわかりませんか、奥さん、この写真の背景に枝もたわわに白い花をつけている樹があるでしょう。奥さんはこの花を御存じじゃありませんか」 「はあ、……存じません。……何んの花ですの」 「これは丁字の花ですよ」 「あっ!」  綾子は思わず、志賀の顔を振り返る。志賀は不思議そうに眉をひそめて、 「これが丁字の花だとしたらどうしたというんです。われわれの一家に丁字の花が咲いていたらいけないんですか」  由利先生は、皮肉な微笑をふくんで、 「君はこういう思い出があるから、丁字の匂いにノスタルジヤを持っているんですね。それで、大道寺の奥さんに、丁字香をすすめたのでしょう」 「そうです。それが何かいけないとでも……」 「まあお聞きなさい。この丁字の匂いにノスタルジヤを持っているのは君ばかりじゃない。ここにいる由美さんもそうのようです。ところがここにもう一人、丁字の匂いに思い出を持っている人物があるんですよ。しかもその人物にとっては、君たちのように懐かしさを伴わないで、反対に恐怖と憎悪の思い出なんです。その人物とはほかでもない。あの盲聾唖、虹之助なんです」  志賀と由美、静馬の顔にはふっと不安の気が流れます。由利先生はそれを尻眼にかけながら、 「由美さん、大阪の天神祭りの河渡御の際、虹之助があなたにあのような暴行を働いたのは、あなたの体から発散する丁字の匂いを嗅いだからですよ」  由美は思わず二、三歩うしろへたじろいだ。あの時の恐ろしい記憶がよみがえって来たのか、彼女の顔色は真っ蒼になっていました。  志賀はしかし嘲るようにふてぶてしく笑って、 「ほほう、なかなか面白いですね。あの盲聾唖がそんなことをあなたに告白したんですか。はっはっはっ、これは大笑いだ」 「志賀さん!」  綾子はすがりつくような眼で志賀を見る。 「志賀君、笑えるうちに笑っておいたほうがいいですよ。いまに笑えなくなるかも知れないからね。この事を発見したのは私じゃない。ここにいる大道寺の奥さんが、さすがに女だけあって鋭い嗅覚からこの事実に気がついたのですよ。そして奥さんはなかなか頭がいい。虹之助の嗅覚について実験してみたんです」 「なるほど」  志賀はしかしまだまだ負けてはいなかった。相変わらず人を喰ったような微笑をうかべながら、 「いったい、何んのためにあなたが、そのような饒舌を弄しているのか、僕にはとんとわからんが、要するにあなたは虹之助という盲聾唖が、われわれ一家と何か関係がある、と、こういいたいのではありませんか」 「さよう。その事については……」 「ま、ま、ちょっと待って下さい。しかし、先生、そりゃちと早計でしょうぜ。丁字の匂いという奴は、なるほど現代のような西洋流の香料が氾濫している時代には、珍しいかも知れない。しかし、さりとてわれわれ一家にしかないとはいえませんね。虹之助という盲聾唖が、丁字の匂いにある特別の感情を持っているとしても、それだけでわれわれ一家と関係があるなどといわれちゃ、これゃちと迷惑ですな。世の中には偶然ということもありますからね」 「さよう、偶然ということもありますね。ところで偶然というものも度重なれば、しだいに必然性をまして来る、と、こういうことは君も認めるでしょうねえ」 「それゃ、まあそういうことも言えますね。で、何かほかにも、虹之助と一家を結びつけるような偶然がありますかね」 「この羽子板ですがね」  さりげなく、由利先生が取り出したのは、血にまみれたあの羽子板でした。 「この羽子板の押し絵は梨枝子夫人がお作りになったのですね」 「そうです。しかし、それが……」 「大道寺の奥さん、ちょっとこの羽子板の押し絵を見て下さい」 「はあ、あの、この押し絵が……?」  それは美しい前髪の若衆を押し絵にしたものだが、若衆の顔を見ているうちに、綾子の顔にはしだいに驚きの色が濃くなっていく。 「まあ! この顔は……この顔は……」 「奥さん、この顔について、どういうふうにお考えになりますか。ひとつ思ったままをいって戴きたいのですがね」 「はあ、あの……」  綾子は疑惑と恐怖と当惑にみちた顔色で、怯えたように志賀や由美、さては静馬の顔を見廻していましたが、やがて思いきったように、 「はあ、あの……この顔、虹之助さんそっくりだと思うんですけれど、ひょっとするとそれはあたしの思いちがいでは……」 「な、な、なんですって!」  静馬も由美も志賀恭三も驚いたように体を乗り出すと、いっせいに羽子板の顔に目をやりましたが、たちまちかれらの顔色は、さあっと土色になりました。  ああ、何んと、片頬べっとり血に染んだ押し絵の顔は、誰の眼にも、あの盲聾唖、虹之助に生き写しではありませんか。     三 「亡くなった梨枝子夫人は、羽子板の押し絵の顔に、虹之助とそっくりの顔をうつしていたのですよ。これもやはり偶然でしょうかねえ」  由利先生の言葉に、誰も応酬する者はいなかった。さすが不敵なあの志賀恭三でさえが、しいんと押し黙っておりました。 「他人の空似《そらに》、——絵そらごと、——そういう言葉で片付けてしまうには、これは少し深刻過ぎるような気がしますねえ。それに……」  その時、あわただしい足音がきこえて来たので、由利先生は言葉を切って、そのほうを振りかえりました。入って来たのは江馬警部だが、なんだかひどく取り乱している。 「先生! 大変です! 鵜藤の姿が見えないのです」 「鵜藤君の姿が見えない?」 「ええ、そればかりじゃありません。虹之助も……」 「なに! 虹之助の姿も見えない?」 「五郎さんと虹之助——さんが……」  由美は危うく倒れそうになりました。 「江馬君、虹之助はいったいどこにいたのだ」 「台所のわきの四畳半です。何しろ非常に昂奮していて、手がつけられないものだから、暫く寝かせておいたほうがいいと思って……」 「とにかくそこへ案内してくれたまえ」  由利先生は自らさきにたって部屋をとび出す。一同も不安におののきながら、どやどやとあとからついて行きました。  その四畳半は、納戸《なんど》代わりに使っていたと見え、こわれた由美のヴァイオリンや、静馬の描きかけのカンヴァスが、ところ狭しと取り散らかしてある。 「こんなところへ一人で寝かしておいて、誰も見張りをしていなかったのですか」  由利先生の言葉に、刑事の一人が面目なげに頭をかきました。 「それが……実は私が障子の外で見張りをすることになっていたのですが、相手があのとおりの盲聾唖と来ているもんですから、つい心を許して……」 「ほかへ行って油を売っていたというんですね」 「すみません」  今更それを責めても仕方がない。 「誰か懐中電燈を……」  静馬が言下にさし出す懐中電燈を手にすると、由利先生は部屋をつきぬけ、窓の下の砂を眺めていたが、 「この窓の障子はまえからあいていましたか」 「さあ。……」 「先生、それじゃあの人は、この窓から逃げ出したのでしょうか」 「そうですよ。そこにはだしの足跡がついている」 「だって、だって、あんな眼の不自由な人が……」 「むろん一人じゃありませんね。誰か外から手引きした奴があるんです。砂のうえには、虹之助のはだしの足跡にならんで、朴歯《ほおば》の跡がくっきりとついていますよ」 「朴歯の跡ですって?」  何を思ったのか、由美はあたりを見廻し、そして、その顔はみるみるうちに蒼褪めていきました。 「そうです。朴歯の跡です。由美さん、何か心当たりがありますか」 「い、いいえ、朴歯の下駄なんか誰でも履いていますわ。御用聞きかなんかの足跡じゃありません?」 「そうかも知れません。しかし、不思議なことには、その朴歯の跡は、虹之助の足跡に前後して、ずっと、浜辺のほうまでつづいているんですよ。だが、こんなことをいっている場合じゃない。とにかく、この足跡をつけてみなけりゃ。……三津木君、行こう」 「先生、あたしもいきます」  由利先生と三津木俊助のあとにつづいて、綾子もガタガタ胴顫いしながらついていく。そのあとから警部と刑事のひとりもつづきました。 「ほら、見たまえ。生け垣のところが少しこわれている。ここを抜けていったのにちがいない。あ、あった。ここに二つの足跡がある」  由利先生の指さすところを見れば、なるほどしめった砂のうえに、くっきりとはだしの跡と、朴歯の二の字がならんでいる。 「よし、こいつをつけていこう。どうせ遠くはいくまいからね」  二つの足跡はしばらく戸惑いしたように、ぐるりとゆるい円をえがいていたが、やがて松林を抜けて砂丘のほうへとつづいている。  時刻はすでに真夜中過ぎ、昼間はあれほど賑やかな海岸も、いまはもうひっそりとしずまりかえって、砂丘のうえにはほの白い霧がおりている。  一同は霧のなかを急ぎあしに海岸へむかって歩いていた。  月はどこにあるのか、あたりは懐中電燈なしには、一歩も歩けぬほどうすぐらい。二つの足跡はくらい砂丘を越えて、波打ち際までつづいているが、そこでプッツリ、打ち寄せる波に洗われたように断ち切れている。 「あっ!」  綾子はそれを見ると白蝋のように血の気をうしなった。 「先生、もしや、もしや、あの人は、この海のなかへ……」 「そうかも知れない。しかし、そうすると朴歯のほうはどうしたろう。波打ち際をつたって逃げていったのかな」  だが、すぐ先生ははっとすると、 「三津木君、海のどこかで舟が見えやしないかね。なに、そう遠くじゃない。どこかそのへんに……」 「あっ、先生、見えます、見えます、向こうにボートらしいものが流れていきます。あれじゃありませんか。誰も乗り手は見えません」  なるほど、薄闇をすかして見れば、波打ち際から一丁ばかり沖のあたりを、一艘のボートが、波にのってゆるやかに流れていく。 「警部、どこかにボートはありませんか。大急ぎだ。大急ぎです。あのボートを流しちゃたいへんですぞ」  言下に刑事が、渚《なぎさ》づたいに去っていったが、間もなく、自らオールを操ってやって来た。  由利先生をはじめ、一同それにとび乗ると、オールはすぐに水をはねあげ、漂うボートの追跡なのです。  外海には嵐があるのか、うねりの高い波頭が、ゆるやかな漕ぎ手のないボートを沖へひきこんでいく、こちらのボートの中では未亡人の綾子が、恐怖と昂奮のために、ひっきりなしにガタガタと歯を鳴らせている。  二つのボートの距離はだんだん近くなっていく。 「あっ、先生、やっぱり誰か乗っている。舟底にぶっ倒れている人影が見える」  ああ、なんということだ! いつかも虹之助はこうして、漕ぎ手のない舟にのって、海のうえを漂うていたではないか。そしていままた——綾子はまるで悪夢のなかを彷徨《ほうこう》するように、ちかづくボートを見つめていたが、その時また三津木俊助が、奇妙な叫びをあげました。 「あっ、先生、ボートの中にいるのは一人じゃありませんぜ」 「なに、一人じゃない?」 「ええ、二人です。折り重なって倒れているんです。ほら、あの舟底に……」  二人——? ああ、それにちがいない。鈍い月光のなかにゆられゆられて漂うボートの中には、たしかに二人倒れている。それが誰と誰であるかは、顔を見ずともわかるような気がする。それに……それに……折り重なって倒れている二人が、身動きもしないというのはどうしたのでしょう。…… 「せ、先生!」  綾子はひしと由利先生にすがりつく。ボートはいよいよ近づいて、やがてこちらのボートがどしんと向こうの舳にぶつかった。と、まっさきに跳び移ったのは三津木俊助。 「大道寺さん、あなたはここにいらっしゃい」  由利先生もそれにつづいて跳びうつる。  最後に警部も乗り込みました。警部が照らす懐中電燈の光の中で俊助は先ず、折り重なって倒れている二人の、うえの男を抱き起こした。 「鵜藤五郎!」  いかにもそれは五郎だが、それにしてもその形相のなんというすさまじさ。苦悶のために顔全体がいびつに歪んで、眼球が恐ろしくとび出している。かれらはつい今しがた、これと同じ表情を見た。梨枝子夫人の死顔に……。  ストリキニーネ。そうです。梨枝子夫人を殺したのが、ストリキニーネであったとすれば、五郎の死因も、それと同じストリキニーネにちがいない。  由利先生は手早く五郎の脈をとってみたが、すぐ首を横にふると、 「もう、駄目。……」  それから、かれらは五郎の下に倒れている男を見ました。その男はうつむけに倒れていたが、首が半分千切れるほども横にねじまげられ、しかもそこには何やら細いものが巻きついている。 「先生、針金みたいですね」  俊助は身顫いしながら、針金のはしに手をかけたが、すぐ指先に火傷でもしたように、あっと叫んで離しました。 「ど、どうしたのだ」 「鵜藤君が……鵜藤君の死体が針金のはしを握っている……」  ああ、何んということだ。鵜藤五郎はもう一人の男を、針金でしめ殺そうとして、そしてその針金を握ったまま、自分も死んでいるのです。  由利先生はふと下になった男の顔を覗きこみました。いや、顔を見ずともそれが誰であるかわかりきっている。 「先生、先生、……虹之助さんは死んでいるのですか」  それに対して由利先生は、いかにも懶《ものう》げに首を横にふると、 「いいえ、奥さん、あなたのペットは生きていますよ。唯《ただ》気を失っているだけなんです。それに反して鵜藤君は完全に死んでいる。ああ、何んということだ!」  一同は放心したような眼付きで、この不可解な、物凄い光景を見つめているのでありました。波のうねりはしだいに高くなっていく。…… [#小見出し]  第五編 [#ここから改行天付き、折り返して3字下げ]    警部と俊助の論理——障子の穴——謎のアラベスク——二通の電報のこと [#ここで字下げ終わり]     一 「やれやれ、この家には悪魔がとりついていると見える。ひと晩に二人だ。それに未遂がもう一人」  江馬司法主任は頭をかかえて、 「ああ、何んということだ!」  歎くが如く、呻《うめ》くが如く呟いたのも無理はない。あまりといえばあまりの怪事、警官たちの鼻先で、一人の男が毒殺され、一人の男があやうく絞殺されようとしたのですから、世にこれほどの怪事件はまたとありますまい。  あれから間もなく、五郎の死体と、半死半生の虹之助を、甲野の家の離れ座敷へ連れもどった一行は、そこでまた警察医を呼び出して、五郎の死体を調べてもらったのです。  誰の眼もおなじこと、五郎はやっぱり梨枝子夫人と同じ毒薬、即ちストリキニーネのために死んでいるのでした。  さて、虹之助ですが、これは思ったよりも軽傷で、気を失っていたのは、咽喉の傷より、むしろ恐怖のためであったと思われる。  間もなくかれは息を吹き返しましたが、厄介なことにはこの男、息を吹き返しても吹き返さなくとも同じようなものです。  生ける屍も同じ盲聾唖、取調べようがないのです。 「奥さん」 「はあ。……」 「あなたはもうかなりの期間、この男といっしょに住んでいらっしゃるわけですが、まだ、話をする方法は見つかりませんか」 「はあ……あの……」  綾子はおびえたような眼で、虹之助の咽喉に刻みこまれたみみず腫れを見ながら、 「あたしもずいぶん苦労してみたのですけれど、何しろ眼も、耳も、口も、なにもかも駄目なもんですから……どれかひとつでも健全ならば、なんとか手のつくしようもございましょうが……とても十日や二十日では駄目ですわねえ」 「すると、この男から訊き取りを得るということは、やはり諦めなきゃいけませんかな。いや、有難うございました。お疲れでしょうから、あなたは向こうへいって休息していて下さい」 「あの、警部さん」 「はあ……?」 「この人、……虹之助さんをつれていってはいけないでしょうか。この人、あんなに弱りきっていますし、もともと丈夫なからだではなさそうですから」 「いや、それはもう少し待って下さい。取り調べがすんだら、もちろんあなたにお願いいたします」 「そうですか。では……」  綾子が不本意らしく引きとったあとには、警部と由利先生と三津木俊助の三人きり。いやそこにはもう三人いるのだけれど、そのうちの二人はすでにつめたい死体となっており、もうひとりの虹之助、これはまた毎度いうとおり、生ける屍も同様の存在なのです。 「さて、先生」  警部は由利先生のほうに向きなおると、 「先生はこの事件をどういうふうにお考えになりますか」 「私——?」  由利先生は眉をあげると、 「正直のところ、私にはまだ何もわからない。五里霧中——と、いうのが、現在の私のいつわらざる心境ですね」 「そうでしょうか。そんなに難しい事件でしょうか」  警部は疑わしそうに由利先生の顔を見ながら、 「私はかえって、これで何もかも解決したような気がするんですがねえ。五郎が死んだので、ちょうど勘定があって来たんじゃありませんか」 「勘定があって来たとは……?」 「つまり梨枝子夫人を毒殺したのは五郎なのですね。そうすると、問題のチョコレートの謎も雑作なく解けるわけです。一足さきにかえって来たか、それとも、あの暗がりを利用したか、ともかく、五郎にはチョコレートの鉢をかくす機会はいくらでもあったわけですからねえ」 「なるほど、すると五郎の死は、自殺だとおっしゃるのですか」 「そうです、そうです。梨枝子夫人を毒殺したが、まごまごすると尻が割れそうになった。そこでみずからも毒を呷《あお》って自殺した……と、こういうわけじゃないですか」 「なるほど、しかし、そうすると虹之助のことはどうなりますか。虹之助はあきらかに、五郎に咽喉を締められたのですよ」 「そうです。そうです。それはね、五郎には虹之助がけむたかったからです。梨枝子夫人は虹之助の眼のまえで死んだのですよ。してみればいまわの際に梨枝子夫人がどんなことを虹之助に囁《ささや》いたかわからない。むろん、虹之助は何を囁かれたところでわかる気づかいのない人間ですが、脛に傷持つ犯人としては、やはり安心出来ない筈です。どういう方法でか、梨枝子夫人が自分の意志を、相手につたえていないものでもない。また、いつどういうはずみでか、虹之助の口が利けるようにならぬとも限らない。いかに盲聾唖とはいえ、虹之助は生きた人間、木仏金仏石仏《きぶつかなぶついしぼとけ》じゃないのだから、犯人として油断のならぬ気持ちだったのでしょう」 「なるほど。……しかしそれがために虹之助を殺そうとしたのなら、五郎は自殺しなくともよい筈ですね。いや、死にたくないからこそ、証人を殺すのでしょう。自殺するくらいなら、虹之助が何を知っており、また何をしゃべろうとも、構わない筈じゃありませんか」  警部もそこでぐっと言葉につまりました。そういわれてみればたしかにそうで、自分の説には論理的に、大きな隙のあることに気がついたからであります。するとそのとき、横合いから口を出したのが三津木俊助。 「五郎の死が自殺であろうという説、それから五郎が虹之助を絞殺しようとしたのは、梨枝子夫人から、何かきいていやあしないかと恐れたためであるという説、僕もこの二つの点に関しては、警部さんの説に賛成ですがねえ」 「おや、三津木君、君にも何か意見があるのかね」  からかうような由利先生のくちぶりに、俊助は少し赧くなりながら、 「そ、そりゃ先生、僕にだって多少の意見はありまさあ」 「よしよし、それじゃ拝聴しよう。つまりなんだね、君も五郎の死を自殺だというんだね。そして五郎が虹之助を絞殺しようとした点についても、警部と同じ意見だというんだね。しかし、それじゃ、三津木君、警部の意見と少しも違わないじゃないか」 「いや違います、いちばん重大な点で警部さんと意見が違っているんです。即ち、僕の意見では、梨枝子夫人を毒殺したのは五郎ではない。……」 「ほほう!」  と、由利先生は口をつぼめて、笛を吹くような真似をする。警部は眉をひそめて、 「しかし、五郎が犯人でないとすると、なぜ自殺したんです」 「それは、つまり、五郎が犯人を知っていたからです。つまり五郎は身を殺して、犯人をかばおうとしたのです」 「ふうむ」  由利先生は太い鼻息をもらすと、 「恐るべき犠牲的行為だね」 「そうです。恐るべき犠牲的行為です。しかし、こういう例は必ずしもあり得ないことじゃない。五郎は犯人を知っていた。そして、ほうっておけば遠からず、暴露するであろうことも知っていた。そこで、みずから身を殺して犯人をかばおうとしたのです。しかし、自分が死んだだけでは安心出来ない。さっき警部さんもおっしゃったように、どういうことから、虹之助が犯人を知っていないものでもない。そしていつまた虹之助がしゃべり出さないものでもない。もしそんな事があった場合には、せっかくの自分の苦心も水の泡だから、さてこそ虹之助を冥途《めいど》のみちづれにしようとしたのです」 「いや、なるほど、これは恐れ入った」  警部はひどく感服の態で、 「先生、これゃ三津木君の勝ちです。私もしばしば、そういう犠牲的精神ってやつにぶつかったことがある。それはたいていの場合、恋愛から来ていますな。愛人のために死ぬ。——ある種の若者にとっては、それは殉教者の法悦にも似たものがあるらしい。……」  警部はたいそう感服した模様だが、由利先生はにこりともせず、 「しかし、三津木君、それじゃ五郎はなぜ、虹之助を絞殺してしまわなかったのだね。なぜ、蛇の生殺しみたいに、絞殺を途中でやめてしまったのだね」 「それは先生、五郎はもう虹之助を死んだものと思いこんでいたんじゃありませんか」 「そうです、そうです。三津木君のいうとおり、虹之助がぐったりしたので、首尾よく絞殺したものと思いこみ、そこで毒を嚥んだ……」  だが、それに対して由利先生は、きっぱりとつぎのようなことをいったのである。 「江馬君、三津木君、せっかくながら僕は、君たちの説に賛成することは出来ないねえ。五郎は自殺じゃない。なぜといって、五郎が愛人のために死ぬんだったら、きっと自分が犯人であるということを、書きのこしていった筈ですからねえ。それでなければ後にいろんな疑問がのこるわけだから、せっかくの犠牲が犠牲にならない。それから、虹之助がすでに死んだと誤認して、毒を呷ったという説にも私は承服しかねる。あのとき五郎はまだ、針金の一端を握っていたんですよ。だから私は思うんだが、五郎は虹之助を絞殺しようとした。ところが、虹之助のまだ死に切らないうちに毒がまわって逆に五郎が死んだのです。この一事をもってしても、五郎の死が自殺でないことはわかっている。五郎も毒を嚥まされたのです。毒を盛ったやつが誰であるか、なぜまた五郎に毒を盛ったか、更にどういう方法で盛ったか、——そういうことはまだ一切私にも分からない。しかし、唯一つ、これだけのことは断定してもよいと思う。この家には、恐ろしい毒殺魔がいるんですよ。惨忍、冷酷、それこそ、爬虫類のようにつめたい恐ろしい、血をもったやつが……」  由利先生はそういうと、われとわが言葉におびえるように、ゾーッと身顫いするのでありました。     二  さて、五郎が絞殺につかった針金、それはヴァイオリンの絃で、その絃の出所はすぐにわかりました。  虹之助が宵からぶちこまれていた四畳半、そこには転宅で片付かぬ荷物が、いっぱい押し込んであるのですが、その中には由美のヴァイオリンもありました、しかもそのヴァイオリンの第一絃はたしかにむしりとられている。 「君はずっとこの障子の外で張り番をしていたのでしょう。それでどうして虹之助の連れ出されるのに気がつかなかったんですか」  由利先生の一言に、すっかり恐縮したのは見張りの刑事です。自分のちょっとした油断から、とんでもないことが起こったのだから、若い刑事が気の毒なほどしょげかえっているのも無理はない。 「それが……なにしろ相手が盲聾唖と来ているものですから……それにまた、警察の者が張り込んでいる最中に、あんな大胆な真似をする奴があろうとは、夢にも思いませんでしたし……」  若い刑事はしどろもどろである。由利先生も気の毒になったのか、少し言葉をやわらげて、 「なるほど、それで気を許したんですね。まあ、そうきけば無理もないようなものの、以後気をつけるんですね。ところで、君がここで張り番をしているあいだに、何か妙だと思われるようなことはなかったかね。どんなことでもいいんだ。どんな些細な、一見なんでもないようなことでもいいんですが、何かこの四畳半のなかで……」 「そうです、そうです、そういえば、実はその時も、ちょっと妙に思ったんですが……」  と、刑事は唇をしめしながら、 「私が台所で水を飲んでいるときでした。部屋のなかから、話し声がきこえて来たのです」 「話し声?」  由利先生は眉をひそめて、 「で、どんな事をいったのだね」 「それが、よくわからないのですが、誰かそこにいるかね——、とそういう言葉だったように思います。私はびっくりして、障子をひらいてみたんですが、虹之助がぐったりと寝ているきりで、誰もいません。むろんあの盲聾唖に口が利けるわけはありませんから、私はてっきり自分の空耳だと思って、そのまま障子をしめてしまったのです」 「君はそのとき、窓の外のことを考えてみなかったのかね」 「ええ。それが、つい、その……いまから考えると、妙に低い、陰にこもった声でしたから、窓の外からよんだものかも知れないのです。しかし、その時はまるきり、そんなことには気がつかなかったものですから……」 「窓の外をのぞいてみなかったというのだね」 「ええ。——すみません」 「先生、それがつまり五郎の声だったんですね」  三津木俊助がそばから口をはさんだ。 「そうだろう。——ところで君、ほかになにか気がついたことはなかったかね」 「そうですね」  刑事は小首をかしげていたが、ふと思い出したように、 「そういえば、私はもう一度はっとしたことがあります。さっき申し上げた声がきこえてから間もなく、この部屋のなかから、ブルルンというような音がきこえて来たんです。そのときも、私はすぐこの部屋へ駆けつけようとしたんですが、途中でなあんだと気がついたので止してしまったんです」 「止した? どうして?」 「でも、その物音がすぐわかったものですから」 「わかった? いったいそれはなんの音だったのだね」 「ヴァイオリンの糸をはじく音です。だから私は、虹之助のからだが、ヴァイオリンにさわったのだろうと思って、……まさか、そのとき五郎の奴が、あんな恐ろしい目的で糸をはずしていたのだとは、夢にも思いませんでしたから」  由利先生の持っている、あの恐ろしいヴァイオリンの第一絃に眼をやりながら、刑事はかすかに身顫いしました。  さて、これ以上刑事を追求したところで、得るところもなさそうなので、由利先生はよい加減に切り上げると、改めて部屋のなかを調べてみました。まえにもいったように、そこには転宅で片付かぬ荷物が、ごたごたといっぱい詰め込んであるのだが、それらの中には静馬の画架や、三脚や、さては絵筆などが無雑作に突っ込んである。  また、由美のものらしい洋笛などもありました。  由利先生はひとつひとつそれらの品を、目で追うていましたが、ああ、その時先生が、それらの品々に、いかに大きな意味があるかを知っていたら!——  しかし、由利先生とても神ならぬ身の、そこまで見透す力がなかったというのも、やむを得ないしだいでありました。  それはさておき由利先生は、部屋のなかを調べてしまうと、廊下へ出て、うしろの障子をしめましたが、そのとき、ふうっと眉をひそめたから、 「先生、なにかまた……」 「いや、別に……何んでもないことかも知れないのだが……、君、君」  呼ばれてそばへやって来たのは、さっきの若い刑事である。 「はあ……何かまた……」 「いや、大したことじゃないんだがね。ほら、そこの障子の、いちばん下の齣《こま》がすこし破れているだろう? あれ、はじめから破れていたのかね」  見るとなるほど、小猫が出入りするほどの、小さな破れが出来ているのである。 「はあ、あの破れですか、さあ……」  と、刑事は不思議そうに由利先生の顔を見直したが、 「そういえば、虹之助をここへ連れこんで来たときには、ああいう破れはなかったように思います。そうです、そうです。思い出しました。ああいう破れはたしかにありませんでしたよ。御覧のとおりこの障子は、ちかごろ貼りかえたばかりらしくまだ真新しいでしょう? 虹之助をここへ放りこんで、ぴったり障子をしめたとき、私はそう思って障子のおもてを見渡したのです。そのとき、こんな破れはたしかにありませんでしたよ」 「と、すると、これはいつ破れたのだろう」 「さあ。……」 「先生」  その時横から、不思議そうに口を出したのは江馬司法主任であった。 「この障子の破れているということに、何か意味があるとおっしゃるのですか」 「いや、それは私にもわからない」  由利先生は沈んだ声で、 「しかしねえ。江馬さん、三津木君、私にはこの事件が、とても世の常の事件とは思えないのだ。この事件の底には、何かしら恐ろしい、想像を絶したような、怪奇な謎がひそんでいるように思えてならないのだ。こういうと君たちはわらうかも知れない。いたずらに白昼、悪夢をえがいておののくものと嘲弄《ちようろう》するかも知れない。しかし、しかし、私はだれがなんといおうとも、この確信は動かさぬ。この事件は、怪奇と謎のアラベスクなのだ。そしてそのアラベスクを理解するためには、障子の破れひとつといえども、そこになにか意味がありはしないかと、一応かんがえてみる必要があると思うんだよ」  由利先生はそこでふかい溜め息をついたが、先生のこの言葉にあやまりはなかったのである。なんでもない、小猫の出入りするくらいの障子の破れ、——そこにこそ、なんともいえない物凄い謎がかくされていたのでありました。     三  ほのかな暁の光。——  水平線のかなたはようやく白んで、江の島が見果てぬ夢のようにぼんやり浮んでいる。外海には嵐がちかづいているのか、波の音はいよいよ高く、風の気配にもただならぬものがありましたが、昨夜一睡もしなかった由利先生や三津木俊助にとっては、かえってそのほうが快いのです。  あの悪夢にも似た、恐ろしい甲野の別荘をあとにした二人は、いま黙々として駅への道を歩いている。さくさくと鳴る砂まじりの土の音が、熱しきったふたりの頭に、爽快《そうかい》な響きをつたえ、寝足らぬ頭もいよいよ冴えかえって来るようです。明けかかったとはいえ、鎌倉の町はまだほの暗く、どの家もしいんと寝しずまって、ところどころについている軒燈の灯が、夢を追うように淡くわびしいのでした。 「先生、警部はあれでまだ、五郎の自殺説を捨てかねているんですぜ」  由比ヶ浜の通りへ出たところで、ポツンと三津木俊助がそんなことをいい出した。 「ふむ」  と、由利先生もうなずいて、 「そのほうが万事、納得しやすいからね。梨枝子夫人を殺したのは五郎である。そして犯罪の発覚をおそれて、五郎は自殺したのである——と。そういうふうに説明してしまえば、なんの苦労もいらないわけだからね」 「しかし、警部がそういうふうな、イージーゴーイングな考えかたに傾いていくというのも、考えてみると無理はありませんね。奴さん、今度の事件の底を流れている無気味な暗流、即ち、甲野一家と虹之助とのあいだにある、薄気味悪いつながりを、少しも知っていないのだから」 「そうなんだ。それなんだよ。それが警部の最大の弱点なんだ。あの男はこの事件の序曲を知らないで、いきなり本題に突入しているのだから、いろいろ理解しがたい節の多いのも無理はないのだ。それを打ち明けて注意しようとしないわれわれも、たしかにフェヤーじゃない。しかし、いまのところわれわれに何が話せるというのだ。天神祭りの夜の出来事、虹之助がかいて見せた鬼の絵、それだってみんな偶然だの暗合だので、説明してしまえば出来ないことはないのだ。われわれはひょっとすると、疑心暗鬼に悩まされているのかも知れないのだ」 「しかし、先生はそれが疑心暗鬼でないこと、いまおっしゃったような些細な出来事が、今度の事件に深いつながりを持っているという、確信を持っていらっしゃるんでしょう」 「もちろん」  由利先生は言葉を低めて、 「三津木君、事件は今夜はじめて突発したんじゃないのだぜ。この事件はずっと過去から、陰惨な尾をひいて来ているのだ。われわれが瀬戸内海の波のうえから、虹之助を拾いあげたとき——いやいや、それよりももっと旧い昔から、何かしら、強い、執念ぶかい呪いみたいなものが、幽霊のように尾をひいているんだ」  由利先生の調子には、いつにない熱っぽさがありました。  まだ、ほのぐらい由比ヶ浜通り、潮気をふくんだくろい風が、ふたりのあいだを吹きぬけていく。空には速い雲脚のあいまから、びっくりするほど明るい星がひとつ、なにかの魂のようにキラキラ光っている。 「それにしても、先生、五郎はいったい、いつ毒を嚥まされたんでしょう。ストリキニーネというやつは、かなり早く徴候があらわれるということでしょう。してみれば、五郎が毒を嚥まされたのは、われわれがあそこへ行ってからのちということになりますね」 「そうなんだよ。五郎はわれわれの面前で、毒を嚥まされたんだよ」 「しかし、いつ……」  だが、そのとたん俊助は、思わずドキリと立ち止まると、 「ああ、あのコーヒー……」 「そうなんだ。三津木君、あのコーヒーなんだ。あのコーヒーは実に苦かったからね。だから五郎も、ストリキニーネの味がわからずに、嚥みくだしてしまったんだよ」 「しかし、じゃ、誰が……誰がコーヒーのなかに毒をほうりこんだのです。あの時五郎のそばにいたのは、静馬と由美のふたりきりでしたよ」 「そうだった。静馬と由美のふたりきりだった」 「先生、そ、それじゃ、毒殺魔というのは、静馬と由美、ふたりのうちのどちらかだとおっしゃるのですか」 「いいや、私にもまだわからない、わからないというよりほかはない」  由利先生は沈んだ声でそういったが、やがてふうッと顔をあげると、 「しかし、三津木君、考えてみると怖いことだよ。ねえ、恐いことだよ、だって、その時の五郎の行動をよく思い出してみたまえ。五郎は毒を嚥まされた。しかし、かれ自身は、そんな恐ろしい毒を嚥んでいることなど、少しも知っていなかった。そこでかれは何をしたか。琴絵のことが問題になって来ると、そっとその場をぬけだして、アルバムに貼ってある写真のなかから、琴絵の顔をえぐり取った。それからかれは表へ出て、窓の外から虹之助をおびき出したのだ……」 「しかし、先生、その時虹之助は、なぜおとなしく五郎についていったのでしょう。なぜ、助けを呼ばなかったのでしょう。盲聾唖とはいえ、虹之助は声が出ないわけじゃない。また、抵抗出来ないほど弱りきっていたわけじゃない。それだのに、虹之助はなぜ、むざむざと五郎のあとについていったんでしょう」 「そこだ! 三津木君」  由利先生は急に言葉を強めると、 「そこなんだよ。虹之助はわれわれが考えているほども不能者じゃないのかも知れない。どういう方法でか、他人の意志を理解し、また自分の意志を他人に理解させることが出来るのかも知れないのだ」 「するとつまりその方法で、五郎は虹之助をあざむき、外へ連れ出したというんですね」 「そうなんだ。そしてボートに連れこむと、かくし持ったヴァイオリンの第一絃で、やにわに虹之助の咽喉をしめようとした。ところがそのとき、さっき嚥んだ毒のききめが現われて来た。五郎は咽喉をしめおわらぬうちに、自分のほうが死んでしまったのだ。毒のために……」  ああ、それはなんという恐ろしいことでありましょう。  どんな恐ろしい連続的殺人事件でも、たいていの場合、そこに働いている犯人の意志というものは唯一つであるのがふつうなのです。  ところが今度の事件では、少なくとも二つの意志が交錯している。虹之助を殺そうとする五郎の意志と、五郎を殺したべつの犯人の意志と。……  それを考えると由利先生は、何かしら得体の知れぬ妖雲が、甲野一家におおいかぶさっているような気がして、ゾーッと鳥肌の立つかんじでしたが、そのときでした。まだほの暗い由比ヶ浜通りを、向こうからやって来たひとつの影が、ふたりの姿を見付けると、かくれるようにつと横町へ曲がるのが見えました。 「おや、あれは……?」  俊助も見たのにちがいない。どきりとしたように由利先生と顔を見合わせたが、つぎの瞬間、二人はいっせいに駆け出しました。  曲がり角まで来ると、相手はまた、向こうの角を曲がるところでした。ちらとこちらをふりかえった、その顔かたちまでは識別しかねたが、 「あれゃ、たしかに志賀恭三だね」 「ええ、そうのようでした」 「奴さん、どうしてあの家を抜け出して来たんだろう、いや、それよりどこへいったんだろう」 「あと追っかけてきいてみましょうか」 「いや、まあ止そう、どうせ無駄だから。あの男、一筋縄でいく奴じゃない」  由利先生は苦いものでも吐き出すような口調でした。色の浅黒い、眉の秀でた、ひとをひととも思わぬ面魂を持つ志賀恭三、あの男は由利先生にとっても、かなりの苦手と思われるのです。 「いったい、志賀という男は、どうして大道寺の未亡人と結婚しないのかね。大道寺の未亡人、あの男にあうと、まるで小娘のようにわくわくしているじゃないか。別にふたりの結婚には、なんの障害もないわけだろ?」 「そうなんです。志賀のほうでうんとさえいえば、いつでも結婚出来る立場なんです。ところが……」 「ところが……?」 「ところが、あの男はあれで相当自尊心が強い人ですね。大道寺の未亡人のほうは、あのとおりの金持ちでしょう? ところが、志賀と来たらまるで無一文なんです。甲野の家の厄介者なんです。だから一儲けしてから結婚するという約束らしいんですが、その一儲けがいつのことやら、大道寺の未亡人、それでジリジリしているらしいんですよ」 「フーム、すると大道寺の未亡人が、あの男と結婚するためには、どうしてもあの男を金持ちにする必要があるわけだね」  由利先生はそういってから、急にぎょっとしたように立ち竦《すく》みました。 「三津木君、三津木君」 「先生、どうかしたんですか」  由利先生の顔色が、あまり悪かったので、俊助もはっとしたように唾を嚥みました。 「あのコーヒー……わしはたしかに憶えているが、女中が盆にのっけて持って来たね。それを先ずわれわれがひとつずつとった。すると、後に五つ残った。その中から大道寺の未亡人が、自分のぶんと志賀のぶんをとって、残りの三つを静馬と由美と五郎のほうに渡したね」 「先生、な、なんですって? するとあの時大道寺の奥さんが……? しかし、先生、それはあきらかに不合理ですよ。なぜといって、三つのこったコップのうち、どれを五郎がとるかわからないじゃありませんか」 「そうだ。どれが五郎に当たるかわからなかった。しかし、そのコップ、毒の入ったコーヒーのコップ、それは必ずしも五郎でなくともよかったのかも知れない。静馬でも由美でも、……甲野一家のものでさえあれば誰でもよかったのかも知れない」 「せ、先生! そ、それじゃ大道寺の未亡人が……」 「いや、三津木君、私はいま大道寺の未亡人が毒殺魔だといいきっているわけじゃないんだよ。これは可能性の問題なんだ。あの未亡人にも十分チャンスはあった。いや、チャンスのみならず、動機もはっきりあるわけだ。甲野一家がつぎからつぎへと死にたえていったら、当然、あそこの財産は、志賀恭三のふところにころげこむわけだからね」  俊助はそれに対してなんとも答えなかった。いや、言葉を口に出すには、あまりにも心が重かったのである。そこで二人は、何んともいえない、暗い、いやアな気持ちで、黙々として駅へむかって歩いていたが、 「あ、三津木君、わかった、わかった」  だしぬけに由利先生が立ちどまったので、俊助はびっくりして先生の顔を見直して、 「え? 何が……」 「志賀恭三だよ。あいつがどこへ行ったか……ほら、あいつはここへ来たのにちがいない」  由利先生が指さしたのは、ほの暗い灯のついた郵便局。 「三津木君、志賀は昨夜電報を受け取ったね。その返電を打ちに来たにちがいないぜ。とにかくなかへ入って調べてみようじゃないか。あいつがどんな電報を受け取ったか、またどんな電報を打ったか……」  ふたりは郵便局のなかへ入っていったが、そこで局員に事情を話して、やっと聞き出した電報というのは、つぎの二通でありました。 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]  コトエワルシスグ コイ  キョウイク」シガ [#ここで字下げ終わり]  そして志賀の打った電報の宛名というのは、千住にある鈴木という精神病院なのでありました。 [#小見出し]  第六編 [#ここから改行天付き、折り返して3字下げ]    由利先生混乱す——ポンポン蒸気の冒険——跛の怪人のこと——志賀恭三の父 [#ここで字下げ終わり]     一  琴絵が精神病院にいる。——  この発見ほど、由利先生を動顛させたものはありません。まったくこれこそ由利先生にとって何物にもましての大打撃なのでした。  虹之助が鳴門の渦にまきこまれようとしたあの日から、遠からぬ以前に、姿をくらました琴絵という少女に対して、由利先生はいままでずっとひとつの考えをいだきつづけていた。琴絵という少女と、虹之助という少年と、この二人は結局同じ人間ではあるまいか。——こういう考えは牢固《ろうこ》として、抜きがたい根を由利先生のあたまに張っていたのです。  それにはいろいろ理由がある。一方の失踪《しつそう》と、一方の出現が、ほとんど時日を同じゅうしていること、それからまた、虹之助のあの類《たぐ》いまれな美貌なのです。  あの少年なら、女装をしていても、誰ひとり怪しむ者はなかったろう。ことに小豆島の甲野の家は、どこか神秘な、曰《いわ》くありげな家だったというから、そういう秘密も、案外うまくたもたれたかも知れない。——  由利先生のそういう疑惑に、さらに油をそそいだのは、甲野一家の妙な素振り。琴絵のことに触れると、誰もかれも怯えたように言葉を濁すばかりか、五郎にいたっては、たった一枚しかない琴絵の写真を、警察官からかくすため、むしりとってしまったではないか。  それは即ち写真によって、琴絵と虹之助が同じ人物であることを、看破されるのを恐れたためではあるまいか。  更にもうひとつ、由利先生の疑惑をふかめるのは、虹之助の、虹のように断ちきられた過去のことである。  人間の過去の生活が、あんなふうにぼやけてしまうことは、どう考えても不合理である。人間が水のなかから湧き出して来るものでない以上、虹之助にも過去の生活があり、その生活はいろんな点で、世間と交渉をもっていた筈である。  それが全然わからないというのは、つまりその過去の生活というのは、虹之助としての生活ではなかった。——と、こう考えるよりほかはないのです。  以上述べたような理由から、由利先生の頭のなかには、虹之助イコール琴絵という仮説が、いつの間にやら出来上がっていたのだが、いま、二通の電報によって、その考えが木っ端微塵と打ち挫《くだ》かれたのだから、由利先生が眩《くるめ》くほど動顛したのも無理ではなかった。  琴絵という少女は、虹之助とは別に、立派にこの世に存在している。甲野一家があのように、それを秘しかくしていたのは、彼女の現在いるところが悪かったからである。即ち肉親のなかに、狂人のあることを恥じたからである。ことに、兄にあたる恭三としては、ひとしおそれに触れたくなかったのも無理はない。…… 「三津木君、やり直しだ。やり直しだ。はじめからすっかり出直しだ」  鎌倉から東京へかえる電車のなか、由利先生はぐったりと、肩を落として呟いた。 「ああ、何んということだ。こんなに見事に背負投げを食わされたのは、わたしもこれがはじめてだ。ねえ、三津木君、そうすると虹之助という少年は、いったい何者なんだ。あいつは木の股からでもうまれて来たのか。それともぼうふらみたいに、水の中からわき出したのかい。ああ、あいつには親も兄弟も身寄りのものもないのかい」 「先生、まあ、そう落胆なさるには及ばないでしょう」  俊助も慰めかねた面持ちで、 「とにかく、琴絵という少女のいどころがわかっただけでも、何よりの収穫じゃありませんか。今日これから千住の鈴木病院へ出向いていって、その少女に会ってみたらどんなものでしょう」 「ふむ」  由利先生は窓から空を見上げながら、 「いよいよ、嵐が来そうだね。——これからすぐ行くか、それともひと眠りしてから出掛けるか、三津木君、君はどうだね。疲れてやあしないかね」 「それゃ、一睡もしていないのだから、疲れてることは疲れてますが、先生のお考えになるほどでもありませんよ。新聞記者というやつは、からだを無茶につかうしょうばいですからね」  健康そうな皓い歯を出して、俊助は元気に笑ったが、さすがに眼のふちの黒いくまや、顎に生えた無精髯に、疲労のいろは争われませんでした。 「それじゃ、ひとやすみしてから出掛けることにしようか。いったいわたしは、琴絵が精神病院にいるということがわかったら、何んだか急に、その娘に対する興味をうしなったような気がするんだよ。甲野の連中が琴絵のことを、ひたかくしにかくしている理由というのが、発狂という事実のせいだとすれば、どうせ大して得ることもなさそうな気がする」 「でも、先生」  俊助は力づけるように、 「琴絵が発狂したのは——事実発狂しているとしてですね——虹之助が出現する直前のことですぜ。そこに何か意味がありはしないか、それにまた、発狂という理由だけで、あの連中が琴絵のことをかくしているのだとすれば、なぜ、その顔まで、われわれに見せることを拒むのでしょう」 「ああ、そうだ!」  由利先生は、はじかれたように体を起こすと、 「その事がある。それじゃどうしても一度、鈴木病院というのへ行ってみる必要があるね。三津木君、わたしはこれから家へかえってひと眠りするが、午過ぎ、一時ときめておこう。一時には社へ君を誘いによるから、それまでに君は、鈴木病院というのを調べておいてくれたまえ。精神病院などには、おりおりとんでもないインチキなのがあるようだから、一応、予備智識を持っていたほうがいい」 「承知しました。よく調べておきましょう」  こうしてふたりが、有楽町でひとまず別れたとき、嵐の前触れのような雨が、ボツリボツリと降りはじめていました。  ああ、それにしても諺にもいうではありませんか。鉄は熱いうちに打てと。  もし、その時、由利先生がすぐその足で、千住へ駆けつけていたら、この事件はもっと早く解決し、そして、これから後に述べるような、あの数々の惨劇は、未然に防ぐことが出来たであろうに。——それもまことに止むを得ないことでありました。     二  嵐はとうとうやって来た。風はまだ吹きつのってはいなかったけれど、下界を圧する妖雲はひくく垂れさがって、車軸を流すような雨脚が、隅田の流れにたたきつけ、四界暗黒、観音様の五重の塔も、浅野セメントの煙突も、なすりつけたような薄墨の底に、小暗く、おののくようによどんでいる。  その隅田川を、よたよたと、喘《あえ》ぐようにのぼっていくのは、昔懐かしいポンポン蒸気。  これがお天気のよい日だと、ゆるやかな流れをポンポンポンと古風な音を立てて上下する、いわゆる一銭蒸気の風景は、まことにのどかなものですが、このような嵐の日は、見ているさえあぶなっかしい。  渦巻く奔流、たたきつける雨、そのなかを遡行《そこう》していくポンポン蒸気は、文字どおりの木の葉のようにゆれながら、吾妻《あづま》橋から言問《こととい》まで。時刻はお昼の三時ごろ。こういう風にもかかわらず、ポンポン蒸気は、満員|鮨詰《すしづ》めの乗客でした。  やがて、ポンポン蒸気が言問の桟橋に横付けになると、どやどやと、われがちに降りる人、それをまた掻きわけて乗ろうとする人たち。  そうでなくとも狭い桟橋は、洋傘と蛇の目傘、長靴と高足駄、レーンコートと防水マントがひしめきあって、危《あぶな》っかしいったらありません。  そういうひとたちを掻きわけながら、一番最後におり立った二人づれ、危うく洋傘をじょうごにしそこなって、 「やあ、これはひどい風だ」  いうまでもなくこの二人連れとは、由利先生と三津木俊助、これから千住の鈴木病院へ、琴絵を訪ねていく途中と見えました。風はようやくその頃から、吹きつのって来たようであります。  ところが、ちょうどその時なのです。  ポンポン蒸気のすぐあとから、波を蹴ってやって来た一艘のモーター・ボートがあります。乗っているのは、だぶだぶのレーン・コートの襟をふかぶかと立て、防水帽をまぶかにかぶり、しかも大きな煤色《すすいろ》眼鏡をかけた、どこか人眼をしのぶというふうな青年ですが、この嵐のなかでのこと、誰ひとり怪しむ者はありません。  青年はモーター・ボートをポンポン蒸気のすぐうしろにとめると、ひらりと桟橋にとびあがる。全身濡れ鼠となって、帽子の廂《ひさし》から滝のように雨のしずくが垂れているので、いよいよ顔の識別はつかない。  と、その時でした。青年のすぐ脇のところで、 「うっぷ。これはひどい。——三津木君、その鈴木病院というのは、ここからよほどあるのかね。何しろこれじゃ……」  そういう声が雷のように青年の耳をうちました。  ちょうどそのとき青年は、モーター・ボートを桟橋に繋ぎとめるのに、夢中になっていたのですが、この言葉が耳に入った刹那、 「あっ!」  と低い叫びごえをもらしました。  幸いおりからの騒擾《そうじよう》で、誰ひとりその声を聞いたものがなかったからよいようなものの、そうでなかったら由利先生も、きっと驚いて振り返ったでしょう。青年はモーター・ボートのうえに腰を曲げたまま、ちらりと二人のほうに素速い視線を投げましたが、どうやらそのとき、皮肉な微笑が、煤色眼鏡のおくではじけていたようでもあります。  二人のほうでは、むろん、そんな事とは気がつかない。ごった返す改札口に行列をつくって、 「千住といってもひろいから、ここからだと、相当あるのかも知れません。とにかく急いでいってみましょう」 「さっきの電話では、しごく要領を得なかったが、ひょっとするとあの院長め、志賀の奴と同じ穴の貉《むじな》かも知れない。とすると、こいつちょっと厄介《やつかい》だが」  何しろ嵐にさからって口を利くのだから、勢い声は大きくならざるを得ない。そういう二人の話し声が耳に入るにつけ、煤色眼鏡の青年は、どうしたものかと、唇を噛んで思案の模様であります。 「どうともいえませんねえ。事情を知っていて、その娘を監禁しているのかも知れない。そうすると相当手ごわい相手であることを、あらかじめ覚悟していなければなりません」 「ふうむ。そうだとすると、さっき電話をかけたのは失敗だったね。またどこか、ほかへ移してしまうかも知れない」 「そうですよ。それを僕も心配しているんですが……」  ようやくそのとき、改札口がすきました。そこで俊助が先に立ってそこを出ると、何気なくうしろを振り返りましたが、とたんに、 「先生! 先生!」  早口で叫びながら、由利先生の腕をつかんだ。 「ど、どうしたんだ。三津木君、な、何かあったのかい」 「あれです。先生、あの娘をごらんなさい」 「あの娘——?」  何気なく、いま出て来た桟橋のほうを振り返って、由利先生思わず口あんぐりとその場に棒立ちになってしまったのです。  吹きっさらしの桟橋に、雨と風に揉みくちゃになりながら立っているひとりの娘——その娘の横顔を見たとたん、由利先生は夢ではないかと自分の眼をうたぐったくらいでありました。  娘の年は十九か二十、無雑作に髪をたばね、藍の濃い中形《ちゆうがた》を、どことなくくるった調子で着ているのです。白粉気《おしろいけ》とては微塵もないが、色白の、すきとおるような綺麗な顔——ただ、惜しいことには、その眼つきが気になる。  美しい、張りのある眼を持ちながら、どこかその瞳に冴えないものがある。  つまりうつろなのです。精神的なひらめきに欠けているのです。  宙にういているのです。  しかも、宙にういているのは瞳のみならず、足許にも、どことなくフラフラと定まらぬものがあり、しかも吹きつける風、降りしきる雨にも一切無頓着で、濡れ鼠になりながら、平然として立っているところ、気が狂っているらしい。——とは誰の眼にもすぐわかる。  しかし、由利先生や俊助が、ひと眼少女の顔を見て、あんなにも大きな驚きにうたれた理由は、もっと別のところにありました。  その少女の顔なのです。  ああ、その顔! そしてその表情! ぐっと抱きしめれば、そのまま春の淡雪のように、解けてしまいそうな、どこか頼りなげな、虚弱な美しさ。——その美しいかおかたちは、あの盲聾唖虹之助と、そっくりそのままではないか。まったくそれこそ、虹之助が女装して、そこに現われたのだと思われるばかりの相似なのです。  琴絵なのだ!  由利先生と三津木俊助は思わず唸りました。そしてそれと同時に、甲野の一家が、あのような熱心さをもって、由利先生や警官たちの眼から、琴絵の写真をかくそうとした理由もはっきりわかりました。  かれらは琴絵の写真から、虹之助との相似を探り出されることを恐れたのにちがいない。かくも恐ろしい相似が、偶然に存在するとは思えないから、必ず琴絵と虹之助とのあいだに、血のつながりがあるにちがいない。  というのは、虹之助が甲野一家の血筋の者であることを意味している。——ああ、由利先生はいまはじめて、甲野一家とあの盲聾唖、虹之助とのあいだをつなぐ、鎖の環のたしかな証拠を発見したのでありました。  それにしても、琴絵はどうしてこんなところへやって来たのだろう。ほかにつれらしいものも見当たらないところを見ると、きっとひとりで病院を脱出して来たにちがいない。  そうなのだ。  昨夜の電報は、彼女の肉体的な病気を報らせて来たのではなく、精神状態の悪いほうへの進行を、意味していたにちがいない。おそらく、俄かにつのる発作から、琴絵はいま、ふらふらと病院を脱け出して来たのでありましょう。  由利先生は改札口からふたたびなかへ入ろうとする。だが、どっこいそうはいかなかった。 「もしもし、どこへ行くんです」  呼びとめたのは改札係りである。 「ああ、ちょっと、あの娘さんに用事があるんだ。すまないがここを通してくれたまえ」 「いけませんよ、ここを通るなら切符を買って来て下さい」 「いや、船に乗るんじゃないんだ。あそこにいる娘さんにちょっと用事があるんだ」 「どっちだって同じことです。切符のない人はここを通さないことになっているんです」 「わからない人だね。君は。……われわれはなにも船に乗ろうというのじゃない。ちょっとひとこと、あの娘さんと話をすればいいのだから……」  しだいにつのるこちらの声に、ふっと振りかえった狂女の眼に、由利先生と三津木俊助のすがたがうつりました。と、彼女の様子は急に不安らしくなって来る。  おそらく二人を、病院からの追手とでも思ったのでしょうか、さっと身をひるがえすと、タタタタタと桟橋をけって駆けおりていく。 「あ、お待ち、危ない!」  だが、狂人には恐ろしいものはない。  娘はそのまま、河の中へとび込みそうな勢いで、桟橋を突進していきました。事実、彼女はもう少しで、水の中へ顛落するところだったのです。もし、そのとき横合いから、あの煤色眼鏡の青年がとび出さなかったら。  その際の、青年の挙動は、眼にもとまらぬ敏捷《びんしよう》さで、モーター・ボートのかたわらから、むっくと起き上がると、タタタタタと娘のあとから追っていく。  だが、だが、……そのとき由利先生と三津木俊助は、はっきりそこに見たのである。その男、たしかに跛をひいている。 「あっ!」  跛——跛——かつて大道寺綾子が、大阪のホテルで目撃し、そしてまた、昨夜の惨劇の際にも見たという、怪人物はたしかに彼だったというではないか。 「あ、待て! その娘をどうする!」 「いけませんよ、いけませんよ、無断でここをとび出しちゃ……」  跛の男にはそれだけの隙《ひま》があったのです。琴絵のからだを横抱きにすると、タ、タ、タ、跛ひきひき、モーター・ボートのそばまで来ると、どーんと娘をなかへ投げ込み、自分もあとから跳び込むと、ダダダダダ、——エンジンを鳴らして、はや水際から五、六間。——あまりの早業に、その場にいあわせた人々も、手を出すひまがなかったのです。 「待て! 畜生!」  意地悪く、まだ引きとめようとする改札係りを突きのけて、由利先生と俊助が、桟橋へ跳び出していったときには、モーター・ボートは白い波を蹴立てて、いっさんに下流へむかって。——降りしきる雨、吹きすさぶ風のなかを、揉みに揉んで、みるみるうちに、薄墨いろのしぶきのなかへ消えていく。——     三  これがほかの日ならば、モーター・ボートで追跡することも出来たかも知れない。しかし、折りからのこの雨、この風、たとい追跡してみたところで、すぐ見失うことは火をみるよりも明らかです。由利先生も諦めるより仕方がなかった。 「三津木俊助君、いまの男を見たかい」 「顔は見えなかったが、たしかに跛をひいていましたね」 「そう、跛をひいていた」  由利先生はなにやら深くふかく考えている。 「跛の男というと、大道寺未亡人がみたという、影のような男じゃありませんか。その男なら、虹之助と何か関係があるらしいから、琴絵に眼をつけるのも無理はありませんね」 「そうかも知れない。また、そうでないかも知れない」  由利先生は謎のような言葉を呟くと、 「いずれにしても、あれゃわれわれの知っている、甲野一家の者じゃなかったね」 「違います。静馬でも志賀でも、また由美の変装でもありませんでしたよ。第一、あの連中はいま、警察の監視のもとにある筈だから、とても脱出して来るわけにはいかないでしょう」 「ふむ。そのことなら、いずれ後で鎌倉の警察へ電話をかけて、たしかめて見ればわかる。いずれにしても、三津木君、これでまた、跛がひとつ殖えて来たわけだよ。だが……まあ、いいや。ここまで来たんだから、ともかく鈴木病院というのへいって見よう。院長がどんなことをいうか、それを聞くのも一興だろう」  だが、それから間もなく、嵐をおかしてたずねあてた鈴木病院というのが、思いのほかに立派なのには、二人もちょっと当てのはずれた感じでした。  近所で二、三きいてみても、悪い評判はないらしく、院長の鈴木博士というのも、会ってみると感じのいい、なかなか人柄な好紳士でありました。 「やあ、さきほどはお電話をどうも、……この嵐だからどうかと思っていましたが……」  院長は二人に椅子をすすめると、表の雨を気にしながら、 「ところで、あらかじめお断わりしておかねばなりませんが、実は、ここにちょっと困ったことが起こりましてねえ」  院長は当惑そうに眉をひそめた。 「いや、わかっています。困ったことというのは、例の患者が逃げたのでしょう」 「ええ? どうしてそれを御存じですか」  院長はビクリと眉をあげると、探るようにふたりの顔を見くらべました。 「なあに、実はここへ来る途中で出会ったのですよ」  と、由利先生が手短かに、さっきの話をきかせると、院長は眉をひそめてふむふむとうなずいていたが、やがてやおら椅子から乗り出すと、 「いや、それをきいて安心しました。と、いっちゃ悪いが、さっきああいう電話があったあとで、問題の患者がいなくなったなどといおうものなら、その間に、何かうしろぐらいことでもあるように思われやしないかと、それを心配していたんですがね。しかし、お話のようなことがあったとすれば、捨てちゃおけない。さっそく警察のほうへも知らせておかなければ……鎌倉の志賀君へも電報を打っておかなければならない」 「そうですね。そうなすったほうがよろしいでしょうねえ」 「ところで、患者をうばっていった人物ですがね、あなたがたはそれについてお心当たりはないのですか。もし、おありのようだったら、きかせて戴きたいですね。捜査の手懸りにもなろうと思うんですが」  由利先生は首を左右にふると、 「残念ながら、それについては少しも心当たりはありません、ただ、跛の男であった、——というよりほかに申し上げようはないのです」 「跛の男——? そうですか。いや、それだけでも手懸りになるかもしれません。志賀にもそのことを伝えておきましょう。ところで——」  と、そこで院長は改めて二人の顔を見直すと、 「どういう御用件でしょうか。患者がいなくなっちゃ、御期待に添いかねると思いますが……」 「いや、患者も患者ですが、実は志賀氏についてお訊ねしたいと思いましてね。あなたはあの人とよほど御懇意な間柄のようにきいていますが……」 「懇意——? まあ、そういえばいえるでしょうね。あの男とは同郷でした、中学もいっしょでしてね、小豆島ですよ。あの男はたしか私より三年か四年あとだったと憶えています。ところで、あいつが何かやらかしたのですか」  そういう口吻から察すると、この人はまだ昨夜の事件を知らないらしい。由利先生は三津木俊助と顔を見合わせました。 「いや、そのことについては、いずれお耳に入ることと思いますが、実は私の知りたいのは、あの人のひととなりについてなんです。いったいあの人は何をやっているんですか?」 「何んといって、別に——」  院長は俄かに警戒のいろをうかべたが、急ににやにやすると、 「ああ、そうそう、あなたは私立探偵でしたね」 「ええ、まあ、そうです」 「警察とは関係がないのですか」 「ないこともありません」 「なるほど」  院長は意味ありげにふたりの顔を見較べながら、 「それじゃ、ひとつ御自分でお調べになったらいかがですか、そういう事を調べるのが、お仕事なのでしょう」 「いや、御尤《もつと》もです」  由利先生はにやりとわらいながら、 「だから、こうして推参しているしだいなんですよ。と、いうのは、志賀氏については、鈴木院長にきくのがいちばんちかみちだという評判ですからね」 「ははははは、これは一本参りました。誰がそんなことをいったのか知りませんが、事実かも知れません。ところが、それでいて、私もあの男が何をやっているか、ハッキリ知らないんですよ」 「でも、多少は御存じでしょう」 「それはいくらか知っています。いったい、あの男は独立心の強い男でしてね。一種毅然としたところのある、義侠心にとんだ、なかなか偉いところのある男ですよ。ところがこのまえ会ったときには、金を儲けたい、大至急、まとまった金をつくらねばならんというようなことをいっていましたよ」  由利先生はまた俊助と顔を見合わせました。 「しかし、あの人、金を持っているんじゃないのですか。少なくとも、あの人の従弟の甲野というのは、相当の資産家のように聞いておりますがねえ」 「そう、甲野は金持ちですね。あれは小豆島一番の醤油の醸造元だから、しかし志賀は無一物ですよ。素寒貧《すかんぴん》の浪人ですよ」 「でも。……志賀は甲野家とは親戚でしょう。いまの主人の静馬君とは従兄弟同志の筈ですね。だから、もし、いま甲野の人たちにもしものことがあったら……不吉なことをいうようだが、静馬君たちが死にたえたら、甲野家の財産は、志賀氏のふところに転げこむわけじゃないのですか」  院長は眼を細めて、興味深げにまじまじと由利先生の顔を眺めていたが、やがて薄ら笑いを口もとに浮かべると、 「なぜあなたがそんなことをおっしゃるのか、それからまた、志賀が何をやらかしたのか、私には見当もつかないが、いまおっしゃったような事で、あなたがたが、何か志賀について疑いを抱いていらっしゃるとしたら、それは大きな間違いですよ」 「間違い? どうしてですか」 「どうしてといって、甲野の一家が死にたえたとしても、甲野家の財産は、志賀のものにはならない筈です」 「なぜ? どうして? 志賀氏はこの間亡くなった、四方太老人の甥《おい》じゃありませんか」  院長はそこでまた眼を細めて、興味ふかげに由利先生の顔を見守りながら、 「だいぶ詳しく調べていらっしゃるようですね。しかし、遺憾ながらその調査は間違っているようです。志賀はなるほど四方太老人の甥ということになっています。四方太老人の妹が他へ縁づいて、そこでうまれた子供ということになっています。ところが、その妹というのは、実際は四方太老人の肉親の妹ではなく、梨枝子夫人の姉にあたるひと、それを四方太老人が自分の妹分として縁づかせたのです。だから志賀は甲野家の財産相続については、なんの順位も持たないわけですよ」  由利先生は思わず大きく眼を瞠《みは》った。三津木俊助もいきをひそめて院長の顔を視詰めている。かれの調査は間違っていたのだろうか。 「しかし、四方太老人はなぜそんな妙なことをしたのです。姉のほうを自分の妹分として他へ縁づかせ、妹のほうと結婚する。それには何かわけがなければなりませんねえ」 「そうです。わけがありますよ」  院長は顔色をくもらせると、 「小豆島へいってお調べになれば、どうせわかることだから、ここで申し上げてもいいのですが、四方太老人は、ほんとうはその姉、つまり志賀君の母にあたる人ですね、その人と結婚するつもりだったのです。その人は貧しい家にそだったが、たいへん綺麗な人だったそうですよ。ところがそこに競争相手があらわれた。それが志賀のお父さんになる人ですね。その人も小豆島では相当の家の息子だったんですが、そこにいろいろ事情があって、志賀のお母さんはそっちのほうへ縁づくことになった。ところが、いざとなって志賀家の親戚のほうから、その結婚について苦情が出たんです。田舎というところは、そういうことが面倒なところで、つまり嫁の実家が貧しすぎるというんですね。そこで四方太老人が義侠心を出して、その人を自分の妹ということにして、支度なども一切して志賀の家へ縁づかせたのです」 「なるほど。……そしてそれから後で、恋人の妹と結婚したというわけですね」 「そうです、そうです。四方太老人もその時分はまだ若かった。表向きは綺麗に恋をゆずったものの、失恋のいたでは深刻だったのでしょう。久しく独身でとおしていたんですが、そのうちに梨枝子夫人が成長して、年頃になって来た。そこは姉妹ですから、昔の恋人によく似ている。そこでこれと結婚することになったのですね。幸い今度はなんの支障もなかったから……」 「なるほど、すると四方太老人は、姉に対する恋を、妹のほうで果たしたということになるのですね」 「まあ、そういうわけでしょうね」 「ところで、志賀氏のお父さんという人はどうしたのですか。志賀氏は子供のころから、四方太老人にそだてられたという話ですが」  院長はそれに対して、しばらく無言のままひかえていました。暗いかおはいよいよ暗くなり、その質問にこたえたものかどうか、心のなかで迷っているふうでありました。 「いや、この質問が御迷惑ならば、おこたえいただかなくてもいいですよ。そこまできかせていただければ、後はこちらも、調査が容易ですから」  院長はそれをきくとビクリと眉をふるわせて、 「いや、おこたえしないわけじゃないが……それにしても志賀がいったい何をしでかしたというのですか。よほど重大な事件ですか」 「そうです、たいそう重大な事件です」  院長はじっと由利先生の顔を視詰めていたが、やがて心をきめたように、 「そう、それじゃお話しましょう。こんな事は私の口からいわなくとも、警察のほうで調べればすぐ知れることですし、同じ知れるのなら、私の口からいっておいたほうがよいと思う。志賀のお父さんという人は、たしか監獄でなくなったのだと憶えています」  由利先生と三津木俊助は、思わず大きく息をうちへ吸いこみました。  鈴木院長のこれから話す物語、その中にこそ、今度の事件の、おそろしい謎がかくされているのでありました。 [#小見出し]  第七編 [#ここから改行天付き、折り返して3字下げ]    二人の良人とふたりの妻と——疑惑の双生児——二引く一は一残る——断崖での出来事 [#ここで字下げ終わり]     一 「志賀のお父さんという人は気の毒な人でした。元来、そう悪い人じゃなかったと、私の父などもいっていましたが、それが俄かに狂い出したのは、志賀がうまれて間もなくのことだそうです」  院長はくらい溜め息をつくと、 「人間の心ほど厄介なものはありませんね。こういう病院を経営していると、とくにそれを感ずるのですが、憎悪《ぞうお》、怨恨《えんこん》、嫉妬《しつと》、猜疑《さいぎ》、——本人が意識してそういう感情をいだいている場合もありますが、なかには無意識のうちに、いつの間にか、そういう悪魔の感情が、心のなかに入りこんでいて、本人にでもどうにもならないほど、強い根を張っていることがある。ことにそういう感情のうちでも、いちばん厄介なのは猜疑——それもいわれのない猜疑ですね。いわれのある猜疑だと、また、その原因を取りのけることも出来る。しかし、いわれのない猜疑は、本人の心にのみ原因があるのですから、余人にはどうすることも出来ない。志賀のお父さんという人は、そういういわれのない猜疑、悪魔の疑いに身をかまれ、ついには一身をほろぼすことになったひとです」 「いわれのない猜疑というと?」 「つまり四方太氏が自分の妻に親切すぎるというのですね。しかも、そういう疑いに油をそそいだのは、志賀が早くうまれすぎた。結婚後九ヵ月で志賀はうまれたのだそうです」  由利先生は思わずひやりとしたように眼をすぼめた。俊助も茫然とした眼で、院長の顔を視詰めている。院長はぎこちなく椅子のなかで身動きすると、またぼつぼつとこの陰惨な物語をつづけるのでした。 「こういう疑いほど人間にとって悲惨なものはありませんね。一度こういう猜疑に身をかまれた人間、とりもなおさず地獄へおちたも同然なのです。しかもそれを露骨に口に出すことの出来る人間だとまだよかった。しかし、志賀のお父さんという人は、立派に教育もあるひとだし、元来が内気なひとだったそうですから、そういうあさましい疑いを、口に出して妻を詰問することが出来ない。口に出すことが出来ないから、疑いはますます心の中で内攻する。しぜん、夫婦なかも面白くなく、しだいに放蕩《ほうとう》に身を持ちくずしていくということになったんです」  院長はそこでまずそうに煙草を吸うと、しばらく黙って窓外に吹きあれる、太い雨脚を視詰めていたが、ふたたび語をつぐと、 「ところで四方太氏ですが、この四方太氏や志賀のお母さんというひとが、もっと早く若い良人のこころに巣食っている猜疑に気がつけばよかった。良人の感情のとかくあらあらしくとがり立つ原因が、そういう疑いにあることを、せめて妻だけでも早く気づけば、なんとか手のほどこしようがあったのです。ところが身におぼえのないこととて、ふたりともまるで気がつかない。気がつかないから、妻はなんとなく不幸です。良人に幻滅をかんじた妻は、しぜん四方太氏に頼るようになる。四方太氏としてもそのひとを、志賀の家に縁づかせた責任はじぶんにあると思うから、何かと相談相手になってやる。困ったことがあれば助けてやる。ことに四方太氏がうまれた赤ん坊を可愛がることは非常なもので、それがいよいよ不幸な良人の疑いに、油をそそぐ結果になったわけです」  由利先生はそこでぎこちなく咳をすると、 「ちょっとお訊ねしますが、その、志賀氏のお父さんの疑いというのは、ほんとうに根も葉もないことだったのですか。それとも、いくらかでも、根拠のあったことなんですか」  院長はそこでほっと軽い溜め息をつくと、 「あなたでさえ、そういう疑問をいだかれる。だから、ましてや当事者の若い良人が、猜疑に胸をかまれたのも無理はありませんね。まったくこういうことは、当事者同志、四方太氏と志賀のお母さん以外には、誰にもわからない秘密ですが、しかし私の父など——私の父は四方太氏の親友で、誰よりも四方太氏をよく理解していたそうですが、その父の言葉では、絶対にそんなことはなかったろうといっています。四方太氏が志賀のお母さんをおもっていたことは事実です。志賀のお母さんのほうでも、四方太氏を憎からずおもっていたことも争えない。しかしふたりの間に、結婚前も結婚後も、いまわしい関係があったなどとは、考えられないことだと、少なくとも私の父などは主張していましたよ」 「なるほど、よくわかりました。では、さきほどの続きをどうぞ」 「四方太氏が志賀を可愛がったのは、おそらく犠牲者としてのおおらかな自己満足、かつての恋人のうんだ子供——と、そういう意味からで、別に他意はなかったろうと思われます。それに当時、四方太氏は生涯独身でとおそうというような、センチメンタリズムにおぼれていたのですから、いっそう自分の努力でまとめあげた夫婦のあいだに出来た子供に、満足と誇りとを感じていたのですね。ところがそういう友情や愛情が、ことごとく仇になっていった。しかもなぜ仇になっていくか少しもその理由に気付かないから、いよいよ志賀のお母さんには親切にするし、志賀をも可愛がる。とそういうわけで、志賀のお父さんはこの恐ろしい疑惑のためにすっかり自暴自棄となり、身を持ちくずし、家屋敷を手離してもまだ足りず、とうとう詐欺かなんかで牢舎にぶちこまれるような破目になったのです。それがたしか、志賀の五つか六つの頃だったと憶えています」 「なるほど」 「ところが、志賀のお父さんがまだ未決にいる時分かに、一度四方太氏が細君をつれて会いにいったことがある。そのとき、志賀のお父さんが二人にむかって毒づいた言葉によって、ふたりははじめて、相手の胸に巣食っている、恐ろしい疑いに気付いたのです。その時のふたりの驚き、これは察するにあまりあるものがありますな。ところが、ここが四方太老人の常人とちがっているところで、ふつうならば、そういう疑いを受けていることを知ったら、一応身をひくのがほんとうでしょうが、四方太氏はそれをしなかった。相手のいわれのない疑惑に対して、はげしい怒りをかんずると、以前よりもいっそう志賀の細君に親切にするし、また、子供の志賀も可愛がったそうです。私の父など、うすうすその間の事情を知っていたので、何度となく忠告したが、四方太氏は頑としてきかない。いまここで身を引けば、あいつの疑いが事実であったと承認するようなものだ。あいつが疑うなら勝手に疑うがいい。自分はどうしてもあの可哀そうな母子を見捨てるわけにはいかぬ。——そう頑張ってきかないのです。そこで私の父が、それじゃせめて君自身結婚したらどうだ、いつまでも独身でいるからこそ、ああいう疑いを受けるのだから、ここで思いきって結婚してしまえと重ねて忠告したそうです。四方太氏もこれまでは反対しきれなかったのか、それともその時分、梨枝子夫人がようやく年頃になって、だんだん姉に似て来ている。四方太氏はそれを憎からず思っていたのか、とうとう父の媒酌で結婚することになったんです。それは志賀が七つか八つ、志賀の父が牢から出て来る直前のことで、その時梨枝子夫人はまだやっと十七だったそうです」 「なるほど、それでああいう年齢のちがう夫婦が出来たわけですね」 「そうです、そうです。梨枝子夫人とその姉とは、十以上も年齢のちがう姉妹でしたからね。さて、そうしているうちに志賀のお父さんが牢から出て来た。牢から出て来ると、四方太老人は結婚している。そしてそのうちに静馬君がうまれ、由美さんができた。こうなると志賀君のお父さんの疑いも解けて、ひとつ真面目に働こうというんですが、何しろ家も屋敷も手離してしまって、小豆島ではうだつがあがりそうにない。そこで、大阪へ出る決心をしたんですが、女房子供をつれていくほどの自信もない。そこで四方太氏にふたりのことを頼んで、単身大阪へ出ると、そこで三年ほど働いていた。しかし、大阪のほうもどうも思わしくないので、また小豆島へ舞いもどって来たんですが、するとそれから間もなく琴絵さんがうまれた。ところが、なんとその琴絵さんも、八ヵ月か九ヵ月、つまり大阪からかえって来て、夫婦生活をするようになってから、十ヵ月たたぬうちにうまれたんですね」  由利先生は思わずシーンとした眼付きになった。三津木俊助も、なんともいえぬ暗い顔をする。院長は情けなさそうに溜め息をついて、 「まったく不幸なことですよ。志賀のお母さんというひとは、そういう体質だったんですね。しかし、志賀のお父さんにしてみればそうは思わない。自分の留守中に四方太氏と妻とのあいだに関係があった。そしてこの子もまた、四方太氏の子供である、とそう思いこんだものだから、そこでまたぞろ心の駒がくるい出して、ある晩、とうとう酒にくらい酔って、甲野の土蔵に火をつけたのです。この放火は、幸いたいしたことにならなかったが、それでも土蔵二棟を焼きました。そこでまた志賀のお父さんはつかまって、こんどは前科があるから刑罰も重い。十何年かの懲役を申し渡されて、監獄にいるあいだに、どうして手に入れたものか、麻紐で首をくくって死んでしまったのです」  まったくそれは傷ましい話であった。悲惨な、呪わしい、心のドス黒くなるような物語でありました。由利先生はしばらく薄眼をとじたまま、じっと話のあとさきをかんがえていましたが、やがてやおら体を乗り出すと、 「それで、志賀氏のお母さんは……?」 「お母さん、そのひとも気の毒な人でしたよ。良人がそうして牢死すると間もなく、この人も傷心のあまり床について、三月もたたぬうちに死んでしまったのです。それは、琴絵さんがうまれてから、まだ半年にもならない頃でした」 「なるほど、すると、琴絵さんの下には、もう子供はなかったのですね」 「ありません。あるわけがありません。いまいったように、琴絵さんがうまれてから、半年もたたぬうちに、お母さんが死んでいるのですから」  その時、俊助がふと横から口を出して、 「ひょっとすると、その琴絵さんというのは双生児じゃなかったのですか。琴絵さんのほかにもうひとり、子供がうまれたんじゃありませんか」  院長はそれをきくと、驚いたように大きく眼を瞠って、俊助のかおを見直したが、 「どうしてあなたが、そういう考えを抱かれたのか知りませんが、そんな筈は絶対にないと思いますね。と、いうのは、私の父は医者だったんですが、琴絵さんのうまれるときには立ち会っている。だから、双生児がうまれたとしたら、父が知らぬ筈はなく、父が知っていれば、当然、私だってきいている筈ですからね」  俊助はそれをきくと、失望したように肩をゆすった。 「なるほど、そうすると……」  と、由利先生が二人の話をひきとって、 「琴絵さんは、赤ん坊のうちに孤児になったわけですね。その時、志賀氏は……?」 「たしか十二か十三だったと憶えています。だいぶ年齢のちがう兄妹ですが、つまりそのあいだ志賀のお父さんというひとが、牢へ入ったり、大阪へ出稼ぎにいったり、しじゅうふらふらしていたわけですね」 「なるほど、それで幼い兄妹は、甲野家へひきとられて、養育されたわけですね」 「そうです。梨枝子夫人にとっては、ほんとうの甥と姪ですから、ふたりを引き取るのになんの不思議もないわけです。しかし、世間では、それについてもとかく噂がたえなくて、やっぱりあのふたりは、四方太氏の子供だったのだなんていっていましたよ。ところが四方太氏というひとがそういう噂をきくと、かえって意地になるひとで、とてもふたりを可愛がるんです。ことに兄の志賀のほうは、自分の実子の静馬君や由美さんよりも、いっそう可愛がっていたくらいです」 「それじゃ、四方太氏のほうにも、由美さんのあとには、子供はなかったわけですね」 「ありませんでした」  院長はキッパリ言ったが、やがてまた意味ありげに、 「ある筈がなかったんです」 「え? それはどういう意味ですか」  院長の言葉が、あまり妙なひびきを持っていたから、由利先生は探るように、相手の顔を見直した。すると、院長はしばらくもじもじしていたが、やがて思いきったように咽喉の痰《たん》を切ると、 「いや、ここまでお話したのだから、ついでに何もかも話してしまいましょう。そのほうが四方太氏の濡衣をはらす所以《ゆえん》にもなるのですから。私の父が医者だったことは、さきほども話しましたね。だからこの話は、医者としての父以外、当人の四方太氏をのぞいては、誰一人知るもののない秘密なんですが、由美さんがうまれてから間もなく、四方太氏は大患にかかったことがあるのです。それをなおすには唯一つしか方法はなかった。それはある種の手術をすることですが、それをやると、いのちは助かるがそのかわり、将来、絶対に子供は出来なくなる。……」  由利先生はそれをきくと、思わずぎょっと眼をすぼめました。そして、はげしく息をうちへ吸いながら、 「そして、……そして四方太氏はそれをやったのですか」 「やりました。子供はもういい、静馬と由美とあれば結構だというので……ところでその手術ですが、これをやっても、夫婦生活には別に大して差しつかえはないのです。それゃ、いくらかおとろえはありましょうが、全然駄目だということはない。だから梨枝子夫人なども、そのことを少しも知っていなかった筈です。四方太氏としても、男としては恥辱になりそうなそういう疾患を、たとえ相手が細君でも、話したくなかったのですね」 「なるほど、そしてそれは由美さんが出来て間もなくのことなんですね。すると琴絵さんは絶対に……?」 「そうです。そうです。だからこの事を、志賀のお父さんが知っていたら、琴絵さんの出生について、ああいう疑惑の起こる余地もなく、したがって、あのような悲劇も起こらずにすんだのでしょうがねえ」     二  三人はそのあと暫く、おもいおもいの考えを温めながら、無言のままひかえていたが、やがてまた、由利先生が口をひらくと、 「いや、有難うございました。おかげで志賀氏の甲野家における立場がよくわかりました。ところで、こんどは琴絵さんですが、それについてひとつお伺いしたいのですが」 「ところが、あの娘については、私もあまりよく知らないんですよ」  院長は眉をひそめて、 「私が小豆島にいる頃は、あの子はまだほんのうまれたばかりの赤ん坊だったし、その後ときどき帰省をしたり、会ったこともあるんでしょうが、全然記憶にのこっていないんです、そうしているうちに、私はこっちへ移ってしまいましたしねえ。ところが先頃、そう六月のはじめ頃でしたが、突然、志賀のやつがつれて来て、面倒をみてくれというんです」 「急に発狂したんですね」 「そうだそうです。事情はよくわからないが、なにかよほど大きなショックを受けているらしいんですね。で、まあ、ほかならぬ志賀の頼みだから、面倒を見ているんですが……」 「暴れるんですか」 「いや、その反対なんです。つまり憂鬱症なんですな」 「発狂の動機については、全然お心あたりがありませんか」 「ありません。志賀も話したがらないふうだから、きかないことにしているんです」 「志賀氏はときどき見舞いに来るんですか」 「来ます。やはり肉親の妹だから……」 「静馬君や由美さんは?」 「このほうは一度も来たことはありません。しかし入院費一切、静馬君が負担しているんですから、むろん承知のうえですよ。由美さんも自分でこそ来ないが、おりおり見舞いの品など送ってよこす。あの兄妹が見舞いに来ないからって、責めるわけにはいきませんよ。ここは若いひとたちの来るところじゃありませんからね」  院長はおだやかな微笑をうかべた。 「ほかに誰も、会いに来たものはありませんか」 「ありません。第一、あの娘がここにいることは、甲野家の人々と、志賀よりほかに知る者はない筈ですからねえ」 「いや、有難うございました。突然、参上しまして、どうもお邪魔をいたしました」 「どういたしまして」  こうして鈴木病院訪問の結果は、だいぶ得るところはあったようなものの、しかし肝腎の謎の中心、あの虹之助については、結局、まだ一切が五里霧中なのです。 「先生はああいうけれど、虹之助と琴絵はやっぱり双生児ですぜ。でなければ、あんなに似ている筈がない」  三津木俊助はまだ双生児説を捨てかねて、 「田舎じゃよく双生児をきらう地方がある。ことに男と女の双生児はとても忌みきらう地方があるんです。だから、虹之助はうまれるとすぐ、どこかへ里子にやられて、いままで一切秘密にされていたにちがいありませんぜ」 「そうかも知れない。いや、そうだといいんだが……その程度の秘密だったら、私もあえて恐れない。しかしねえ、三津木君、虹之助をつつむ秘密は、とてもそんな生やさしいものじゃないと思う。そこには、もっともっと陰惨な、眼をおおいたくなるような秘密がありそうに思えてならないんだよ」  由利先生はそういって、深く心におそれを抱いているふうだったが、果たして先生の予想は当たっていたのです。  最後に暴露された虹之助の秘密のおそろしさ、呪わしさ、それはとても俊助などの思いもつかぬ、いやな、ものすごい、無気味なものでありました。  それはさておき、鎌倉の警察では、結局犯人をあげることが出来なかったようです。何しろ殺害されたのが梨枝子夫人ですから、子供であるところの静馬や由美を疑うわけには参りません。警察で手をまわして調べたところが、この親子には別に何んの葛藤《かつとう》もなかったようだから、殺人の動機というものが発見出来ない。それからつぎに志賀恭三ですが、これまた梨枝子夫人を殺害しなければならぬような動機は、何一つもないのです。  こうして三人が嫌疑の外におかれると、あとは関係者として虹之助があるばかりですが、これはあのとおりの盲聾唖、第一、ストリキニーネなど持っている筈はありませんから、これまた疑うわけにはまいりません。  で、結局、警察では、はじめに江馬司法主任がかんがえたとおり、五郎の犯行ということにして、しかし、それにもいろいろうなずけない節があるので、しばらく甲野一家を監視していようということになりました。  かくて一週間。  そのあいだ、由利先生や三津木俊助が、手をつくして、琴絵のゆくえを探しもとめたことはいうまでもありませんが、跛の怪人につれ去られた、あのあわれな狂女の消息は、その後、杳としてわからないのです。  むろん、それとなく甲野家にのこった三人の、その後の動静などさぐってみるが、誰も琴絵のゆくえを知っていそうにありません。  第一、琴絵が誘拐されたあの時刻には、三人ともたしかに鎌倉にいたという確証があり、また、かれらが怪しい男と、通信しあったような形跡もありません。  これではさすがの由利先生も、手の下しようがなく、いたずらに奥歯にもののはさまったような気持ちで、事態を見送っておりましたが、するとここにはしなくも、またもや恐ろしい事件が起こったのであります。  しかも、一つならず二つまで。     三  おや。——  綾子はぎょっとしたように立ち止まりました。なんとなくばつの悪いものをかんじて、そのまま崖をおりて、砂浜のほうへとってかえそうかと思いました。ところが、そのまえに静馬がこちらの姿を見つけてしまったのです。  静馬は三脚に腰をおろし、画架にむかっておりました。赤い絵筆をななめにかまえ、入り日の色に眼をやったとたん、かれの眼はふと、坂をあがって来る綾子と、綾子に手をひかれた虹之助のうえに落ちたのです。そのとたん、静馬ははげしく身顫いをしたようだが、さすがにそこまでは綾子の眼もとどきませんでした。すでに相手に見られた以上、きびすをかえして、あともどりをするわけにはまいりません。  そこで、綾子は虹之助の手をひいたまま、坂をあがっていきました。 「お珍しいこと、御精が出ますのね」  そこは稲村ヶ崎の崖ぶちなのです。崖下には濃い藍色の波が岩をかんで、すぐその向こうには、つい眼と鼻のあいだながら、江の島が模糊《もこ》として、夕靄のなかにけむっている。  綾子は虹之助の手をひいたまま、三脚のそばへちかづきました。あの恐ろしいことがあった夜以来、お葬《とむら》いのお手伝いやなんかで、綾子はたびたび静馬と顔をあわせたが、こうして誰もいないところで二人きりになるのははじめてでした。 「いや、なに、あまりくさくさするもんですから、ひさしぶりにこんなものを担ぎ出してみたんですよ」 「よほどお出来になりまして?」 「なに、いま手をつけたばかりです。御散歩ですか」 「ええ」  覗いてみると、なるほどカンバスのうえには、まだ海とも山ともわからぬ色が、ほんのちょっぴりなすりつけてあるばかり。 「その後、由美さんはどうなすって?」 「ぼんやりしていますよ」 「そうでしょうねえ。お見舞いもしないで……」  二人とも、それでしばらく話の継穂《つぎほ》をうしなったかたちです。静馬はなるべく、虹之助のほうを見ないようにしている。  綾子もそのことを知っている。  しかし、それについて綾子はなんとも申しませんでした。虹之助は枯れ木のように、しいんと静かに、綾子のそばに立っている。墓標のような無表情、それでいて、見えぬ眼が妙にパッチリ、ひらいているのも無気味です。静馬のタッチがかすかにふるえます。 「おやつれになりましたわね」  しばらくして、綾子がボツリと申しました。 「ええ、やつれました。由美はもっとやつれていますよ」  静馬は吐き出すようにそういったが、急に何かに憑《つ》かれたように、せわしく絵筆を動かしながら、非常ないきおいで喋《しやべ》りはじめたのです。 「奥さん、お聞きになったでしょう。解剖の結果を。——母も鵜藤も同じ毒で死んでいるんですってさ。で、警察では鵜藤が母を毒殺して、自分も同じ薬で死んだのだという意見だそうです。ところで、そんなこと、ほんとうに信じているのですかねえ。あるいは信じているようなふうをしてわれわれを監視しているのですかねえ。どちらにしたって構いはしないが、鵜藤が犯人でないことだけはたしかですよ。僕は自分を信用するより、あの男を信用したほうが楽です。ところで、そうするとどういうことになりますかね。われわれ一家には、まだ毒殺者がいるということになる。われわれ一家、——つまり由美と僕です。ところで由美と来たら、このあいだから、こんどは自分のばんだって、泣いて聞かないんです。そうすると、二引く一は一残る——でつまり僕が毒殺者ということになりますね」 「まあ、そんなことをおっしゃるものじゃありませんわ」  綾子は身ぶるいしながら、虹之助の手を握りしめました。 「いや、これは僕がいうんじゃありません。近所の評判がそうなんです。しかし——いや二引く一じゃなかった、もう一人いましたね、恭三さんが」  静馬はそこで思い出したように、 「そうそう、奥さんはあの男が、ちかいうちに旅に出たいって、いっていることを知っていますか」 「志賀さんが、旅へ?……」 「ええ、そういっていますよ。いつまでもこんなもやもやとした空気のなかに、ひっかかっていたくないというんです。あの男のことだから、決心するとほんとうに跳び出さないものでもない。そうすると、ほら、二引く一は一残る。——」 「あの、あたし失礼いたします」 「おや、もうお帰りですか。さようなら、その少年に気をつけてあげて下さいよ」  綾子は虹之助の手をひいて、逃げるように崖をおりると、やがてぐったりと、砂浜に横坐りになりました。何かしら寒いものが背筋をはう気持ちで、われながら顛倒《てんとう》しているのがはっきりわかります。  恭三からいつもきいている静馬という青年は、いたって口数の少ない、もの静かな性質だというのに、さっきのお喋りはどうしたのだろう。  何かが取り憑《つ》いている。  そうなのだ。窪んだ眼窩《がんか》のおくから、ギラギラと熱気をおびてかがやく眼つきは、たしかに尋常ではなかったのです。綾子はそこに、ふいと死影をかんじて、しばらく身顫いがとまらなかったのでありました。  それにしても——  と、綾子はかんがえる。——恭三さんが旅に出るというのはほんとうだろうか。ほんとうだとすれば、なぜあの人はそれを言いに来てくれないのだろう。  そういえば、ちかごろあのひとは、ちっとも自分にあいに来てくれない——  と、ぼんやり、悲しげにそんなことをかんがえているうちに、綾子はふと、身のまわりのかげっているのに気がつきました。 「あら!」  うしろをふりかえってみると、そこに立っているのは恭三でした。 「崖のうえで甲野にあったら、君がいまこっちのほうへ降りていったというので、急いであとを追って来たんだよ」  恭三はさびしい顔をしていたが、それでも、綾子のなにかをうったえるような瞳を見ると、思わずあたたかな微笑になって、 「綾さん」 「ええ」 「今日は僕、君に折り入って頼みがあるんだが——きいてくれる?」 「まあ、どんなことですの」 「僕、ちかいうちに旅に出ようと思う」 「ええ、いまそのこと、甲野さんから伺いましたわ」 「そう、それゃ好都合だ。それでそのまえに是非きいてもらいたいことがあるんだ」 「だから、どういうことですの」  綾子の耳たぶがかすかに染まって、美しい瞳が情をふくんできらきらと輝きました。しかし、彼女の期待ははずれたのです。 「頼みというのはほかでもない。そこにいる、その少年を君のそばから遠ざけて貰いたいのだ」 「あら!」 「君が面倒を見るのはさしつかえない。ほんとうをいうと、それもいやなんだが、そこまでは君にいえない。だからね、そいつをどこか病院へ入れるとか、ひとに預けるかして、とにかく君の身辺から遠ざけてもらいたいのだ」 「あら、だって、どうして……?」 「理由はきいてもらいたくない。綾さん、僕の眼をみたまえ」 「ええ?」 「僕がやきもちを焼いているように見えるかい?」 「あら!」 「僕が悪いやつに見えるかい」 「いいえ、いいえ、そんな……」 「それじゃ、僕のいうことをきいてくれるね」 「あなた」 「うん?」 「あなたの頼みというのはそれだけなの?」 「…………」 「あなた、なぜ旅になんかお出になるの、どこへもいかないで。いつまでもいつまでも、あたしのそばにいて……」 「綾さん」 「え?」 「僕だってそうしたいさ。だけど……だけど……綾さん、君が金持ちでなきゃあよかったんだ」 「あら、またそのことをおっしゃる。あなた、そんな詰まらないことを考えないで、……ねえ、そんな意地を張らないで……あたしも連れてって。どこへでもいいから、あなたのいらっしゃるところへつれてって……」  ふいに綾子は恭三のからだに身を投げかけた。両腕を恭三の首にまきつけました。  双の瞳は燃ゆるように輝いて、ぬれぬれとした唇が、なにか求めるようにふるえている。恭三も思わず綾子を抱き寄せました。 「あなた」  しばらくして、恭三の耳に囁いた綾子の声は、夢のように甘く香ぐわしくうっとりしている。 「いまの、嘘じゃないでしょう」 「嘘……? なぜ、そんなことをいうんだ」 「だって、あなたは由美さんを……」 「由美?」  恭三は大きく眼を瞠って、綾子の顔をのぞきこんでいたが、急に、声をあげて、何んともいえぬほど愉快そうに、はればれと笑いました。 「なんだ、それじゃこのあいだから、妙に君がこだわっていると思ったら、由美のことが気にかかっていたのか」  恭三はそこでまた、世にもはればれとした笑いをあげました。ああ、その笑い。——綾子の心にどのようにドス黒い疑いが巣食っていたとしても、おそらく、その明けっぱなしな、わだかまりのない笑い声で、いっぺんに吹っとんでしまったでありましょう。 「いや、いや、笑っちゃいや。だって、あの方、あんなに若くて美しい人ですもの。そして、あなたと子供のときから……」  だが、その言葉はおわりまでいうことが出来なかった。西洋の諺《ことわざ》にも、女を黙らせるには、唯一つより方法はない、それは接吻で相手の唇をふさぐことである。……綾子は頬をほてらせて、幸福に酔った気持ちです。 「綾さん」 「ええ」 「僕と由美とはね、おそらく男と女が撰ぶ最後の相手だろうよ。僕たちは兄妹のように愛しあっているが、結婚となるとこれほど不似合いな相手はないのだ。由美はおそらくそんなことを考えただけでも悪寒が走るだろうよ。僕だって同じことだ」 「まあ、どうして?」 「それはいまいわないことにしよう。いずれ君にも話すときがあるだろうが……」  恭三はそういうと、ちらと虹之助のほうを視やったが、急に気がついたように、綾子の顎に手をかけると、 「どうしたの、綾さん、何故泣くのだ」  と、ぐいと顔をあげさせました。綾子は眼にいっぱい泪《なみだ》をうかべて泣いているのです。 「あなた。……」 「うん?」 「すみません、すみません。あたしあなたに悪いことをしているの。いいえ、あなたばかりじゃないわ、甲野さんの御兄妹にも、すまないことをしているの」 「なにを……? 君が何をしたというのだ」 「あたし、由美さんが憎らしかったの。由美さんが憎らしいから、甲野さん一家が憎らしかったの。それで……それで……なんとかして虹之助さんと甲野一家の関係を、突き止めてやりたいと思ったものだから、琴絵さんを……琴絵さんを……」  ふいに恭三が大きく呼吸をうちへ吸って、 「琴絵を……? 琴絵を君がどうしたのだ」 「ええ、琴絵さんをあたし……」  だが、綾子はその言葉を終わりまでいうことが出来なかった。ふいに彼女は恭三の指をつかむと、 「あっ、あなた! あなた! あれは……あれは……静馬さんはいったいどうしたの?」  たまぎるような綾子の声に、恭三も驚いて崖のうえをふりかえったが、ああ、これはどうしたというのだろう。崖のうえに突っ立った静馬のかおには、物凄い苦悶のいろがうかんでいる。いまにもとび出しそうな両眼、唇をまげ、舌を出し、何かに抵抗するように、両手ではげしく虚空をひっかいていましたが、つぎの瞬間、クラクラと頭をさげて前にのめると、崖のうえからまっさかさまに顛落したのでありました。  崖の下では虹之助が、余念なく砂を掌のうえにこぼしている。 [#小見出し]  第八編 [#ここから改行天付き、折り返して3字下げ]    まぼろしの盲聾唖——志賀恭三拘引さる——断ち切られたフルートの音——蔵の中の惨劇 [#ここで字下げ終わり]     一  麹町土手三番町。——市ヶ谷のお濠《ほり》を見下ろす高台に、由利先生の住居があります。気のきいた和洋折衷の建物で、二階が応接室になっている。  その応接室にいま客がひとりありました。 「そういうわけで、あのときはついうっかりしていたのですが、後で新聞を見ると、鎌倉の甲野の事件が大きく出ている。しかも、その事件の際に、盲聾唖の少年がいあわせたということが載っていたので、ふと思い出したのですがねえ」  客というのはほかでもない。千住にある精神病院の院長鈴木博士。さっきから、無言のまま院長の話をきいていた由利先生は、ここにいたって急にからだを乗り出すと、 「ほほう、すると、あなたはなにか、盲聾唖の少年に心当たりがおありなのですか」 「いや、私に心当たりがあるというわけじゃない。しかし、ひょっとすると、あれがそれを意味しているのじゃないかと思いましてね」  院長はなんとなく不安らしく、ハンケチで額の脂汗を拭《ぬぐ》いながら、 「実は、このことは私にも、最近までなんとも判断がつきかねていたのです。いや、いまでもハッキリそうだとは申し上げかねる。それでいままで躊躇していたのですが、やはり一応あなたのお耳に入れておいて、このことがどういう意味をもっているか、よく考えていただいたほうがよかろうと思ったので、きょうは思いきってやって来たわけです。そのことというのはほかでもない、志賀の妹の琴絵のことですがね」 「ふむふむ、琴絵さんがどうかしましたか」 「いつかも申し上げたとおり、あの娘はひどい憂鬱症なんですが、それがときどき、ぱっと明るい表情になることがある。そういうときにはいつもきまって、なにやらくどくど独語《ひとりごと》をいっている。つまり幻の相手と語りあっているんですね。いや、こういうことは精神病患者には、別に珍しいことではないんですが、志賀の妹の場合には、そこにちょっと変わった科《しぐさ》が入るんです」 「変わった科というと?」 「それがねえ、私にもいままでよくわからなかった。つまり、話相手の手をとって、それを自分の唇にあてる科なんですよ。いままで私はそれを、接吻のまねだとばかり思っていたんですが、この間の新聞を見て、こんどの事件に盲聾唖の関係していることを知った。それではじめて、琴絵という少女の無意識にやる科の意味がわかったんです。つまりあれは、相手に自分の唇のうごきを読ませているんじゃないかと……」 「な、な、なんですって!」  由利先生は突然、雷にうたれたような大きなショックを感じました。 「それじゃ相手の盲聾唖は、読唇術が出来るというのですか」 「そうです。いや、そうじゃないかと思うのです。むろん私にもハッキリしたことはいえない。いえないからこそ、あなたの判断にまかせたいと思っているのだが……」 「しかし、先生、そういうことが果たして可能でしょうか。眼も見えず、耳もきこえぬ人間が、どうして読唇術を習得することが出来たろう」 「いや、もしその男がうまれながらにして、盲聾唖ならば、それはあるいは不可能かも知れない。しかし、うまれたときには聾唖ではあったが、視力だけはかなり後まであったというような場合には、その少年は読唇術を習得することが出来ますね。読唇術、——御存じでしょう。話相手の唇のうごきを見て、相手の言っていることを読む。そして自分も唇の形や舌の動かしかたで、話をすることを習得するのです。この場合、その少年は聾ではあるが、唖ではない。相手の唇を見ることさえ出来れば、まず尋常に会話をすることが出来る。ところがそういう少年が盲になる。するとその少年はもう相手の唇を読むことが出来ないから、ひとの話は全然わからない。しかし、いったん習得した、『話をする』すべはそう急に忘れるわけはないから、自分で喋ることは出来る。だから、この場合この少年は、盲にして聾ではあるが、唖ではない。だからこの少年がいままで眼で読んでいた相手の唇のうごきを、こんどは指先で読む練習をしようと思えば、それは絶対に不可能というわけではない。そして、その方法を会得しさえすれば、この少年は盲聾唖であって盲聾唖ではない。相手が唇に指先をあてることを許してくれさえすれば、かなり自由に会話をすることが出来るわけです」  由利先生はわきの下からびっしょりと、気味悪い汗のふき出すのを感じていました。 「そして先生、琴絵という少女は、たしかにそういう盲聾唖と、会話をする真似をしていたとおっしゃるんですね」 「そうなんです。そしてあの娘の科《しぐさ》から判断すれば、相手の盲聾唖は、かなり自由自在な話が出来るらしいと思えるんですがね」  話が出来る? あの盲聾唖が。……口が利ける? あの虹之助が。……ああ、それはなんという大きな驚きでありましたろう。  由利先生はなにかしら、ゾッと鳥肌の立つような無気味さをかんじましたが、そのとき、さっと稲妻のように脳裡にひらめいたのは、あの恐ろしい事件のあった夜、虹之助を見張っていた刑事のきいたという言葉です。  あのとき、刑事は虹之助を、女中部屋に投げこんでおいて、台所へ水を飲みにいっていた。すると女中部屋のなかから、 「誰かいる?」  と、いう声がきこえたという。  その話をきいたとき、誰もかれもそれを五郎の声だと思っていた。しかし、いまから考えれば、五郎ならば誰かいる? というようなことをいう筈はない。  あれは虹之助の声だったのだ!——由利先生は口中がからからにかわいて、舌が上顎にくっついてしまうようなショックを受けました。 「いや、先生……有難うございました。……おかげで大変参考になりました。……そ、そうです。……たしかにそうです。虹之助はかなり後まで、視力は達者だったらしいのです。……その証拠は十分あります」  まるで悪酒に酔ったように、由利先生がしどろもどろにそんな事を呟いているとき、卓上電話のベルがはげしく鳴り出しました。  大道寺綾子から、またもや凶事を報らせて来たのでありました。     二  プラットフォームの電気時計は、八時四十分を示している。  八月も二十日を過ぎると、海のあれることが多くて、海水浴にはむかないのですが、東京からちかいこの鎌倉へは、泳げても泳げなくても、夏中相当の客がおしかけて来る。そういう客のうち、日帰りのひとたちは、もうあらかた退きあげたあとだったけれど、それでもまだ、なんとなくざわめいているなかに、綾子はさっきからじりじりする思いで待っていました。  今日の事件。——  綾子はそれを思い出すたびに、気の狂いそうな恐ろしさです。  静馬が崖から顛落するのを目撃すると、綾子と志賀はすぐにその場へ駆けつけました。静馬はむろんこときれていましたが、そのときの、言語に絶した死態を思い出すと、彼女はいまだに悪夢に追っかけられているような気持ちなのです。  それはまるで、泥人形を石に、叩きつけたような光景でした。肉は裂け、骨は砕けて、あたりいちめん唐紅《からくれない》。——  しかも、彼女がほんとうに顫えあがったのは、そういう目もあてられぬ惨状ではなく、そこにはそれ以上の、恐ろしい、不可解な秘密があったのです。 「ごらん、綾さん、甲野の顔を。——この男は崖から落ちて死んだのじゃないぜ。崖から落ちるまえに死んでいたのだ。叔母や鵜藤と同じ薬をのまされて。——」  ああ、その声、その顔、その眼付き、それはまるで綾子を責めてでもいるように見えたことでした。  静馬が崖から顛落したのは、発作を起こしたのでも、気が狂ったのでもなかったのです。かれもまた、母や五郎を殺したと同じ薬を嚥まされて、断末魔の苦しみのうちに、崖から足を踏みすべらしたのでありました。——  綾子はその時の恐ろしさを思いうかべて、ゾッと肩をすくめてましたが、ちょうどそのとき電車が着いて、中からおり立ったのは由利先生と三津木俊助。 「先生!」  綾子はすがりつかんばかりです。 「ああ、奥さん、だいぶ待ちくたびれたと見えますね。こんな場所で話も出来ないから、ひとまずここを出ましょう」  三人はすぐに駅から出ると、 「で、いったいどうしたというのです。さっきの電話では要領を得なかったから、もう一度お伺いしましょうか」 「何もかもめちゃめちゃですわ。警察ではとうとう志賀さんをひっぱってしまいました」 「そうそう、志賀君がひっぱられたのでしたね。いったい、どういうわけでそんなことになったのですか」  綾子はそこで、きょうの夕方のことを話しました。  崖のうえで静馬にあったことから、かれの気味の悪い話、それから間もなく志賀恭三がやって来たこと、更に砂浜から目撃した、あの恐ろしい刹那にいたるまで、いかにも女らしい細かさで、落ちもなく語りおわると、 「そういうわけで、甲野さんに一番最後に接近したのがあの人だというのです。そして、ただそれだけの理由で、志賀さんをひっぱっていきましたの、そんなめちゃな、そんな理不尽な話ってありましょうか」 「つまり志賀君が、あなたのところへおりて来るまえに、なんらかの方法で、静馬君に毒をあたえたというんですね」 「ええ、でもそんなこと——あの人が叔母殺しで、従弟殺しだなんて、これはあんまりあの人を知らな過ぎる疑いですわ。そんなむちゃくちゃな、間違った——」 「まあ、お聴きなさい。私の訊ねたいことはもっとほかにある。いまのあなたのお話で、私はちょっと興味のある事実を発見しましたよ。静馬君はきょう、お母さんが殺されてから、はじめて絵筆を握ったのでしたね」 「ええ、たしかそうおっしゃっていました」 「そして、その絵筆というのは、お母さんが殺された晩、あの四畳半に押しこんであった、あれじゃないのですか」 「さあ、そこまではあたしも存じませんけれど、あるいはそうかも知れません。しかし、それが何か……」 「いや。……ときに、虹之助はお宅にいるんですね」 「ええ、います」  虹之助の名をきくと、なぜともわからぬ動悸《どうき》をおぼえて、綾子は思わず怯えたような眼のいろをしました。 「そう、それじゃお願いがあります。あなたはこれから、家へかえって、虹之助を甲野の別荘まで連れて来て下さい」 「まあ、あの人がこんどの事件に何か……」 「いや、それは後でわかります」 「で、先生は?」 「私はこれから警察へ寄って、出来れば志賀君もいっしょに甲野の家へいきます。ときに由美という娘はどうしていますか」 「由美さん?」  綾子はかすかに身顫いをすると、 「あたし、たった一週間ほどのあいだに、あんなに変わった人を見たことございません。痩《や》せて、窶《やつ》れて、影みたいになって、今日、静馬さんの死骸を見たときも、まるで夢遊病者みたいな眼付きをして。……」 「で、いま一人で家にいるわけですか」 「ええ、志賀さんがひっぱられたら、あの人ひとりですね。お兄さんの死骸といっしょに——」 「でも、女中がいるわけでしょう?」 「ええ、女中さんならいます。でも、その女中さんもすっかり怯えて、早くお暇をもらいたいなどといっていました」 「いや、いずれ暇をとるとしても、今夜だけはいてもらわねばならぬ。あれは重大な証人ですからね」 「ええ?」  綾子も、そしてさっきから黙って二人の話をきいていた三津木俊助も、不思議そうに由利先生の顔を見直しました。しかし、由利先生はそれに対して別に説明をあたえようともしないで、 「それじゃ、奥さん、いって来て下さい。ああ、ちょっと待って」 「まだ、何か御用がございますの」  二、三歩いきかけて立ち止まった綾子の顔を、真正面から見据えた由利先生は、奇妙な微笑をうかべながら、 「そう、虹之助のほかにもうひとり、連れて来てもらいたい人があります。ほら、お宅にいる筈の琴絵という娘。——」  あっ!——という叫びが、綾子と俊助の唇から、ほとんど同時に洩れました。 「それじゃ……先生は……御存じでしたの」 「奥さん、探偵というものを、そう馬鹿にしたものじゃありませんよ。モーター・ボートのあの怪青年には、私もかなり悩まされましたが、ある理由から、結局あれは奥さん以外のものではあり得ないという結論に到達したのです。ははははは、奥さん、あなたもずいぶんひとが悪い。さ早くいって、虹之助と琴絵の二人を連れて来て下さい」  綾子はまるで、悪戯を見付けられた子供のように、真《ま》っ赧《か》になってもじもじしていましたが、やがて物もいわずに駆け出していきました。  後見送った俊助は、茫然とした眼付きで、 「先生、それじゃモーター・ボートの怪青年は、大道寺の奥さんだったんですか」 「そうだよ。しかし、その事についてはいずれ後ほど話すことにする。とにかく警察へいこう」  警察へはあらかじめ東京から電話がかけてあったので、江馬司法主任が待っていました。 「先生、さっきの電話では、今度の事件がすっかり解けたというような話でしたがほんとうですか」 「ほんとうです」  由利先生にこりともせず、 「それでこれから甲野の家へいこうと思っているんですが、それには是非、志賀という男をつれていきたいのです」 「しかしあの男は大切な容疑者ですよ。もしも途中で逃げ出されたりすると。……」 「いや、そんな心配は絶対にありません。とにかく急ぐんですから、早くしてもらいたいですね」  急ぐ——という言葉を、先生は口でいったばかりでなく、全身をもって表現した。なんとなくいらいらとして、落ち着かぬ様子には、俊助さえも眼を丸くしました。  警部は不思議そうに先生の顔を見まもりながら、 「急ぐ——って、いったい何事なんです」 「何事? いや、どんなふうにそれが起こるか私には分からない。あるいは何事も起こらないかもわからない。しかし起こったら取りかえしがつかないから、私はこんなにいらいらしているんだ」 「それじゃ、何かまた起こる懸念があるんですか」 「ある。おおありだ」 「今夜——?」 「そう、今夜、いや、こういううちにも起こるかも知れん、とにかくお願いだ。大急ぎで志賀をここへつれて来てくれたまえ」  警部は呆れたように先生の顔を見ていたが、やがて刑事のほうに向かって、 「おい、留置場から志賀恭三をつれて来い」 「君、大急ぎで頼む」  警部のあとから由利先生も大急ぎで怒鳴りましたが、やがて刑事が恭三をつれて来ると、 「さあ、出発」  由利先生はみずからさきに立って警察をとび出しました。そして、表に待っている自動車に、一同どやどやと乗り込むと、由利先生ははじめていくらか落ち着いたように、かたわらに坐っている恭三のほうを振り返って、 「志賀君、君はなぜ甲野一家とあいつの関係をもっと早く話してくれなかったのだ。いや、何故もっと早くあいつが、口を利けるということを、われわれに教えてくれなかったのです。それさえわかっていたら、静馬君はあんなことにはならなかったのだ」  恭三は悄然《しようぜん》と首うなだれました。 「静馬君や由美さんのような、世間知らずの子供なら、むやみに警察をおそれるのも無理はない。しかし、君のように分別のある、しっかりした考えをもっている人が、なぜああひた隠しにかくそうとしたのか私にはわからない。君たちはまるでみずから目隠しをして、断崖のはしへ進んでいくようなものだ」 「先生、それじゃ叔母や鵜藤君や甲野を殺したのは、みんなあいつのしわざだというんですか」  恭三は放心したような眼をあげて尋ねます。 「そうです。あの男をおいて、ほかにこんな残酷な、恐ろしい、薄気味悪い方法で人を殺すやつがあるもんですか。そして君たちはみんなその事を知っていた筈なのだ」  恭三は急にほとばしる眼の色となり、 「そうだ! 私たちは知っていた。あいつ以外にこんな恐ろしい事をする奴は、ないということをよく知っていた、しかし、あいつがどういう方法でやったのか、いや、それよりも、あいつがどこに毒をかくし持っているのか、それがわれわれにはわからなかった。いや、それよりまえに甲野の一家は、あいつのまえに出るとみんなからだが竦《すく》んでしまうんです。あいつの体から発散する、神秘的な妖気に当てられて、舌も硬張《こわば》ってしまうのです」  恭三はそういいながら、いまさらのように身をふるわせたが、さっきからふたりの話をきいていた司法主任が、その時、驚いたように口をはさんだ。 「さっきからきいていると、あいつというのはどうやら虹之助のことらしいが、あの虹之助がなにかしたんですか」 「江馬さん」  由利先生は一句一句に力をこめると、 「梨枝子夫人からはじまる一連の殺人事件、あれはみんな虹之助の仕業《しわざ》なんですよ」 「な、な、な、なんですって!」  警部はそれこそ、天地がひっくりかえったような驚きに打たれました。 「せ、せ、先生、そ、そ、それはほんとうですか。あの眼も見えなければ耳もきこえず、口を利くことさえ出来ぬ盲聾唖が……」 「そうです、その盲聾唖が三人を殺したのです。そしていま私がそれを説明しようとしているのです」  ちょうどそのとき自動車は、暗い垣根の曲がり角でとまりました。甲野の別荘はそこから半丁ほど奥へ入ったとこにあります。一同はすぐ自動車からとびおりると、暗い夜道をいそぎましたが、やがて別荘のまえまで来たとき、由利先生は突然、凍りついたように立ちすくんでしまいました。 「あ、誰か笛を吹いている!」 「由美ですよ」  なるほど家のなかから嫋々《じようじよう》としてきこえて来るのは一管の洋笛の音。しかも曲は葬送行進曲。 「由美が兄への手向けに吹いているんですね。あの洋笛はきょうまで四畳半に突っ込んであったものだが……」  そのとたん、由利先生ははじかれたように、駆け出しました。 「ああ、いけない!」  先生は狂気のように白髪をふりたて、玄関のなかへ走りこむ。だが、そのとたん、ふうっと掻き消すように洋笛の音はとだえて、 「あれ、お嬢さん、お嬢さん、どうなさいました。あれ、誰か来てえ」  たまぎるような女中の声、それをきくと由利先生は、 「ああ、もう駄目か。……」  と、一瞬、骨を抜かれたように立ち竦《すく》んだが、すぐまた爛々《らんらん》と眼を光らせると、 「畜生! 畜生! 死なしてたまるもんか。誰かすぐ医者へ走って下さい。ストリキニーネの中毒で、たったいまやられたものがある……そういって医者を呼んで来て下さい」  それから由利先生は脱兎の如く玄関のなかへとびこみました。だが、もう遅かったのであろうか。由美は白布におおわれた兄の枕もとで洋笛を口にあてたまま、がっくりとうつ伏せになっていました。まるで死出の化粧のように、美しく、純白の夜会服をつけて。……     三  幸い手当てが早かったので、どうやら由美はいのちを取りとめるらしい。——と、そう医者が自信をもって言いきることが出来るまでには、半時間ほどかかりました。  それには由利先生の用意して来た、吐瀉剤《としやざい》が大いに物をいったのです。先生はなかへとびこむと怯《おび》えきっておろおろしている女中や俊助を叱りとばしながら、食いしばった由美の口へ、むちゃくちゃに吐瀉剤を注ぎこみました。その薬のおかげで、由美が猛烈な嘔吐をしているところへ、医者が駆け着けてくれたのでした。 「先生!」  このぶんならもう大丈夫と、医者が保証してくれたとき、志賀はいきなり由利先生の手を握りました。 「有難うございました。これで、せめてひとりは助かりました」 「そうです。そしてこれがもう、この事件の最後の犠牲者ですよ」 「しかし、先生、どうもわかりませんな」  江馬司法主任は当惑しきったようにがりがり頭をかきながら、 「さっきのお話によると、これらの殺人はみんな虹之助の仕業だとおっしゃるが、いったいどうしてあの少年にこんなことが出来たんです。この間の事件以来、あいつは一度もこの家へ来たことはない筈ですよ」 「そうです。あいつは一度もここへ来なかった。来る必要はなかったのです。あいつはこの間の晩、梨枝子夫人が殺された晩、静馬君の絵筆のさきや、その洋笛の歌口に、ストリキニーネの濃い溶液を塗っておいたのです。いつかそれらのものが、静馬君や由美さんの口にあてられることを知っていたから」  警部はあまりの驚きに、口を利くことすら出来ません。 「そんな……そんな……いえ、先生のお言葉を疑うわけじゃありません。それは静馬の絵筆や、洋笛を調べてみればわかることです。しかし、先生、梨枝子夫人の事件の際、私はこの家のもの、この家にいた連中、そういう人たちを全部厳重に身体検査をしたんですよ。虹之助がそんな恐ろしい薬を持っていたら、見|遁《のが》すはずはないのです」 「いいや、やっぱり君は見遁したんですよ。そのことはいまに虹之助がやって来たら、……」  由利先生はそこで急に気がついたように、腕時計を眺めたが、俄かに不安らしく眉をひそめると、 「どうしたんだろう、あれからもう四十分たっている。何か間違いが……」 「先生、何か?」 「ふむ、大道寺の奥さんに、虹之助をここへつれて来るように頼んでおいたのだが——誰か電話をかけて見て下さい。大道寺の奥さんはもう家を出たかどうか——角の酒屋に電話がある筈です」  言下に刑事のひとりが跳び出しましたが、ものの三分とたたぬうちに、血相かえてかえって来ると、 「大変だ! 大道寺の奥さんが咽喉をしめられて——」  そのとたん、由利先生と三津木俊助、それから志賀恭三の三人が、ひとかたまりになって玄関から跳び出していた。  それにしても、綾子の身にどんな間違いが起こったのか。それをお話するためには、是非とも時間を四十分、あとへ戻さなければなりません。  由利先生に別れた綾子は、すぐその足でじぶんの家へかえって来たが、なんとなく不安な気持ちで、 「叔母さん、虹之助さん、いて?」  と、訊ねる声もふるえていました。 「ああ、いるよ」  茶の間で針仕事をしていた叔母は、綾子のただならぬ顔色を、ジロリと眼鏡越しに見ると、 「どうしたのよ、顔色かえて」  とたしなめるような口吻《こうふん》でした。元来、この叔母は最初から、あのような気味悪い少年を引きとることには、大反対だったのですから、虹之助のことというと、いつもいい顔はしないのです。そこへ持って来て、 「琴絵さんは?」  と、綾子が訊ねましたから、叔母はいよいよ渋面をつくって、 「あの娘も離れにいるだろうよ。だけどねえ、綾子さん、あんたいったいどうしようというのよ。あんな気味の悪い盲で聾で唖の子供なんかつれて来たかと思うと、こんどはまた気狂いの娘をつれこんだりしてさ、ここは化け物屋敷じゃないのよ。私は化け物の番人なんかまっぴらだよ」 「叔母さん、御免なさい。もうすぐかたがつくんだから」  さすがに綾子もきまりが悪いのです。吐きすてるようにそういうと、逃げるように茶の間を出て、虹之助の居間へいきました。  虹之助の居間というのは、一番奥の土蔵のなかで、そこはもと叔母の部屋だったのだが、虹之助が来てからは、彼女はその大好きな部屋を明けわたさねばならなくなりました。そういうところにも叔母の不満はあったわけです。  さて、いましも綾子が、暗いわたり廊下をわたって土蔵のまえまでやって来たとき、なかから妙な声がきこえました。 「誰かそこにいるの?」  怯えたような声なのです。しかも舌の縺《もつ》れた、妙に陰にこもった、一種不思議の声でした。  綾子はハッと立ちすくむと、襖の隙間から覗いてみたが、部屋の中はまっくらで何も見えません。綾子はそうっと襖をひらくと、電気のスイッチをひねりました。  そしてあわてて部屋のなかを見廻しましたが、そこには虹之助のすがたがあるばかり、ほかに誰もいるようには見えません。  綾子は押し入れのなかから、衣桁《いこう》の蔭までくまなく調べてまわりましたが、人の影が見えないばかりか、いままで人のいたような気配すらない。綾子はもう一度虹之助のそばへかえって来ました。虹之助は寝床のうえに起きなおり、小首をかしげて、じっとあたりのようすを窺《うかが》いながら、ひっきりなしにふるえています。  綾子はしばらく目じろぎもしないで、虹之助の顔を視詰めていましたが、突然、天啓のごとくある恐ろしい考えが脳裡にひらめきました。 「虹之助さん、あなたは——あなたは口が利けるの?」  まるで化け物でも見るような眼つきでした。唇まで真っ白になって、心臓が氷のように冷たくなってしまいました。膝頭ががくがくとおののきました。  綾子はしばらくそうして、世にも恐ろしいものを見るように、表情のない虹之助の顔を視詰めていましたが、やがて何かうなずくと、電気をけし、ピッシャリと襖をしめると、抜き足差し足、そっと衣桁の蔭にかくれました。  心臓が早鐘を打つように躍って、ハッハッとはげしい息使いが洩れます。でも、構うものか、相手はどうせ耳が聴こえないのだもの。——  襖がしまったことは、虹之助にもすぐわかった様子でした。首をもたげてあたりの様子を窺っていましたが、やがてそっと立ちあがると、襖のそばへすべり寄り、両手でそのへんを撫でまわしていましたが、ほっと安堵《あんど》の吐息をもらすと、 「ああ、いってしまった!」  と、——今度こそもう間違いはない。舌のもつれる、陰にこもったあの声は、まぎれもなく虹之助の唇から洩れたではありませんか。 「あれえッ!」  いまや綾子は恐怖のかたまりでありました。日頃はあれほど賢い、分別のある女なのに、そのときは、唯もう恐ろしさが胸いっぱい。  いっときも早くここを出ていきたい一心から、前後も忘れて襖のほうへ走りよったが、南無三、暗闇のなかで虹之助にぶつかったからたまらない。 「あっ。……」  虹之助の腕が鞭のように、綾子の首にからみつきました。 「はなして、はなして。——嘘吐き、おまえは口が利けるのだわ。それをいままで隠しているなんて。……」  綾子は夢中で、虹之助の腕をふりはなそうとする。しかし、そうすればするほど、虹之助の腕は、ますます強くからみついて来る。それは何かしら、えたいの知れぬ蔓草に、巻きつけられたようなかんじなのです。  虹之助はそうして片手で綾子の首をまくと、もう一方の手で、ソロソロ綾子の顔を探りにかかる。綾子はゾッとして首を左右にふります。しかし、虹之助のネットリと汗ばんだ指は、まるで気味の悪い昆虫ででもあるかのように、しつこく綾子の顔をなでまわし、やがてピッタリ唇のうえに吸いつきました。 「ああ、わかった、おまえはあたしの唇を、指で読もうとするのね。おまえはそうしてひとの話すこともわかり、自分で話すことも出来るのね。それをいままでかくしているなんて、嘘吐き! 嘘吐き! あたしはおまえが嫌いだわ。ああ、わかった!」  ヒステリー性の女性というものは、どうかすると、とんでもない思考の飛躍を示すことがあります。綾子はそのとき、思いついたことを、思いついたまま、べらべらと喋舌《しやべ》り立てました。 「おまえはそうしていつかの夜も、甲野の奥さんと話をしたのにちがいない。そして自分がどこにいるか、自分の周囲にどんなひとびとがいるか、奥さんからきいて、おまえはちゃんと知っていたのにちがいない。おまえは甲野家となにか関係があるのだから、奥さんから話をきくと、すぐにわかったにちがいない。そして……そして……ああ……」  綾子の言葉はふうっと暗闇のなかでとぎれました。虹之助の両手が、尺取り虫のように綾子の咽喉にはいると、音もなく、声もなく、じわりじわりと。……綾子は二、三度、咳をするように弱々しくいきを吐きました。  それから、骨を抜かれたように、ズルズルと畳のうえにくずおれました。  シーンとした、恐ろしい闇中のしじま。——  虹之助は障子をひらいて、渡り廊下へ出ると、手さぐりで、庭へおりようとしましたが、そのとき、やにわに虹之助にからみついて来たものがある。 [#小見出し]  大団円 [#ここから改行天付き、折り返して3字下げ]    美しき人間の疫癘——闇! 闇! 闇!——甲野家の崩壊——船中よりの第一信 [#ここで字下げ終わり]     一 「それじゃ、先生、梨枝子夫人を殺し、五郎を殺し、静馬を殺し、由美を殺そうとした犯人は、あの虹之助だとおっしゃるのですか」 「ふむ、そのことはさっきも話したとおりです。虹之助をとらえれば、立派にそのことを証明してあげる」  中御門の、大道寺綾子の邸宅へ駆け着けて来たのは、由利先生に三津木俊助、志賀恭三のうしろからは、江馬司法主任がおいすがるようにして、まだ解けやらぬ疑問の解明に忙しい。 「しかし、虹之助がいったいどうして……」 「いや、江馬君、それはもう少し待ってくれたまえ。それよりも今は大道寺の奥さんのことが心配なんだ。三津木君……」  一同がどやどやと門のなかへなだれこんだそのあと。まっくらな繁みのなかから、ぬうっと這い出した二つの影がある。 「まあ、虹之助さん、それじゃあなたは……」 「琴絵、早く逃げよう。おれ、もうこの家はいやなのだ」 「ええ、もうこうなったら仕方がないわ。あたしもいっしょにあなたと逃げるわ」  いうまでもなく、それは琴絵と虹之助、手を取りあって闇から闇へとさまよい出たとも知らぬこちらは一同。案内をこうのもまどろかしく、そのまま奥へ踏み込む、といいぐあいに綾子はいま医者の手当てで呼吸を吹きかえしたところでした。 「ああ、志賀さん」  あんな気丈な女だけれど、このときばかりはよほど動顛していたのでしょう。恭三のすがたを見ると、思わずよよと泣きくずれます。 「ああ、綾子さん。気がついていたのかい。僕はどんなに心配したか知れやしない。ひょっとすると、このまま君はかえって来ないひとかも知れないと思っていたんだ」 「すみません。御心配をおかけして。……」  綾子は由利先生のすがたに眼をとめると、泣きじゃくりをしながら、 「先生、あたしが馬鹿だったのね。これが気まぐれな未亡人に対する天罰だったのね。あたしやっぱり、先生の御忠告にしたがわなければいけなかったのね」 「いや、そんなことはどうでもいいが、それよりどうしてこんなことになったのです」  由利先生の声音《こわね》には、いたわりと、優しさが溢れていました。 「あたし、今夜はじめてあの人が、人並みに口を利けることを発見しましたのよ。ええ、口が利けるばかりじゃないわ。指先で、ひとの言葉を読むことも出来るのよ。それに気のついたときの恐ろしさ!」  悪夢にも似た、さっきの恐怖を回想して、ゾッと肩をすくめると、 「ところがあいつは、あたしがそういう秘密に気がついたことを覚ると、いきなりあたしに躍りかかって、両手であたしの咽喉をしめつけて……」  と、綾子は泣き笑いをしながら、 「これもやっぱり、あたしの気紛《きまぐ》れと我儘《わがまま》が招いた天罰なのね」 「いや、それにしてもあいつの力の足りなかったのは仕合わせでした。そうでなかったら、いまこうして泣いたり笑ったりしていることは出来ないわけだ。それで虹之助は……?」 「逃げたらしいですの。いま、叔母さんや姐やに探してもらったんですが、どこにも姿は見えないの」 「逃げた……? しかし、どうせあの盲聾唖では……」 「いいえ、そうじゃないのよ、警部さん、あの男といっしょに、もうひとり若い娘が逃げ出したのよ。だから皆さん、あたしはもう大丈夫ですから、一刻も早くあのふたりを探し出して。……」 「ああ、琴絵が……」  由利先生と恭三は、おびえたように眼を見交わせたが、ちょうどその頃。  美しい仮面をかぶった人間の疫癘《えきれい》、あの恐ろしい毒殺狂の虹之助は、狂女琴絵に手をとられて鎌倉の闇から闇へとさまようているのでありました。  闇! 闇! 闇!  それはまったく暗闇以外のなにものでもない。  空には月も星もなく、生ぬるい風が梢を鳴らして渦を巻く。虹之助はいくたびか石に躓《つまず》き、からたちの垣根にぶつかり、からだじゅう傷だらけになりながら、泳ぐように琴絵のあとについていく。 「琴絵。——琴絵。——おれをどこへつれていくのだ」 「どこでもいいわ、ぐずぐずしてるとお巡りさんにつかまるのよ。あんた、また悪いことをしたのね。叔母さんや、静馬兄さんを殺したのね。いいえ、かくしてもあたしちゃんと知ってるわ。さっき通りかかったお巡りさんがそういってたわ。だから今度つかまると、とてもたいへんなことになるのよ。さあ、逃げましょう。誰もおいつけないところへ行きましょう」  そうして喋舌《しやべ》っているあいだじゅう、琴絵は虹之助の手をとって、自分の唇を読ませている。虹之助は物凄い微笑をうかべて、 「それじゃ、あいつらとうとう死んでしまったのかい」  そういった虹之助の声には、なんともいえぬ陰気なものがありました。 「ええ、そうよ、だからぐずぐず出来ないのよ。ああ、誰か来たわ」  素速く路傍のくらやみに身をかくして、通りかかった人をやり過した二人は、それからまた手をとりあって海のほうへ逃げていく。それは実に、なんともいいようのない変梃な道行きなのです。片っ方は盲聾唖の美少年、片っ方は狂える美少女、しかも二人は瓜二つといっていいほど、似かよった面影の持ち主なのです。やがてふたりが辿《たど》りついたのは波打ち際。 「あ、あそこにボートがあるわ。あれに乗って逃げましょう。あのボートに乗って逃げましょう」 「ボート?」  と、きいて虹之助の顔には、一瞬ひるんだいろが浮かびました。 「ええ、そうよ。ボートに乗って海へ逃げるのよ、海のうえなら、誰もあたしたちの邪魔をする者はいやあしないわ。さあ、何をぐずぐずしていらっしゃるの? ああ、誰か来るわ」  まったく狂女にかかってはかなわない。恐ろしい力で虹之助をひきずっていくと、いやがるかれを無理やりにボートへおしこみ、自分もあとから乗り込むと、狂った手先にオールを操り、ボートははや汀をはなれました。ちょうど退潮時であったのでしょう。ボートは恐ろしい勢いで、ぐんぐん沖へ吸われていく。 「琴絵! 琴絵! おれをどうしようというのだ。お願いだからおれを岸へかえしてくれ。おれ、ボートはきらいだ。海はきらいなんだ」 「駄目よ、駄目よ、あなたはあの人たちにつかまりたいの。ほら、誰かあたしの名を呼んでいるわ。ああ、あれ、兄さんの声だわ」 「兄さん?」 「ええ、恭三兄さんの声よ」  そのとたん、虹之助の顔にはさっと狼狽のいろがうかびました。美しい頬が恐怖のためにはげしくふるえました。  読者諸君は憶えていられるでしょう。この物語のはじめ頃、虹之助がほくろのある男の顔を描いて、それに鬼のような角を生やしたのを。そうなのです。この悪魔の申し子のような虹之助には、世の中に怖いものはない。唯ひとりの恭三をのぞいては。—— 「キョ、キョ、恭三兄さんがおっかけて来るのかい。ほんとにあいつが追っかけて来るのかい」 「ええ、来るのよ。追っかけて来るのよ。ほら、ボートをおろしたわ。みんなでこっちへやって来るわ」  虹之助はふいにがばと舟底に身をふせました。恐ろしく口から泡を吹いて、そこら中をのたうちまわりました。 「まあ、いや、あんたそんな真似しちゃいやよ。あたし気味が悪いわ」 「琴絵——琴絵——おれ、もう駄目だよ。おれ、もう死んでしまう。琴絵、おまえもおれといっしょに死んでくれ」 「いいわ、いいわ、あたしいっしょに死んだげるわ。だけど、どうしたら死ねるの。ねえ、どうしたら死ねるのよう」 「うむ、うむ、いま、教えてやる。おれ、薬を持っている。あいつらを殺した薬、まだ残っている。琴絵、ちょっと待っといで」  そういったかと思うと、ああ、なんということだ! 虹之助はやにわにおのれの眼玉をくり抜いたのでありました。  それから間もなく、ボートをあやつって追っかけて来たひとびとが、そこに発見したのは、なんとも名状することの出来ぬ、恐ろしい光景でありました。  漂うボートの舟底に、折り重なって倒れている琴絵と虹之助。——その虹之助の片眼は、黒いうつろとなって、無気味に空を睨んでいる。そしてそのかたわらには、くり抜かれた眼玉が、星のようにきらきらと輝いているのでありました。 「偽眼だよ」  由利先生は江馬司法主任をかえり見て、 「そしてあの中に、ストリキニーネをかくしていたのだよ」  そういったかと思うと、由利先生は、しばらくふるえがとまらなかったくらいでした。     二 「虹之助の片眼が偽眼であることは、私もまえから知っていたんですがねえ」  それから間もなく、虹之助と琴絵の屍体を運びこんで来た、ここは甲野の別荘なのです。  由美はまだ意識をとりかえしていなかったけれど、危険期はすでに通りすぎて、別室で看護婦のみとりを受けています。  綾子はすっかり元気を取り戻して、中御門から駆け着けていました。まだ血色も悪く、ほんとうの体ではなかったのだけれど、気丈な彼女は、家にじっとしていることが出来なかったのでしょう。それにここには恭三がいる。……  江馬司法主任と三津木俊助は、この陰惨な結末に、肉体よりも精神的な疲労が大きく、ぐったりとした顔色ですが、さすがに安堵のいろは争われない。ふたりとも愁眉をひらいたという顔色でした。  由利先生もやっと重荷をおろしたという顔付きで、ゆったりと愛用のパイプをくゆらしながら、さて、この事件について語りはじめるのです。 「虹之助の片眼が偽眼であることは、私もまえから知っていたんだが……」  由利先生はもう一度同じことを繰り返すと、 「それにも拘らず、そこにストリキニーネがかくされているということを、いままで気がつかなかったのは、何んといっても不明のそしりはまぬがれません。しかし……こういうと弁解めくが当然そこへ気がつかなければならぬところを、妨げている大きな要素がありました。それは虹之助を完全な盲聾唖であると信じきっていたこと。それだ。いや、これは私が信じていたばかりではなく、実際にそうだったのです。大阪における専門家たちの厳重な検査も、それを裏書きしていたのです。しかし、完全な盲聾唖でも、ひとと話をし得る。読唇術によって、話をする能力を習得し得る。——と、そこへ気がつかなかったのは、何んといっても私の大失態でした。しかも私は虹之助の視力が、かなりのちまで健全だったらしいということには、だいぶまえから気がついていたのですから、いよいよもって弁解の余地はありません」  由利先生にそう謙遜《けんそん》されると、恭三は穴があったら入りたいような気持ちになるのでした。恭三はもとよりそのことを知っていた。  だから一言かれが注意すれば、梨枝子夫人はやむを得ぬとしても、爾後《じご》の犯罪は未然にくいとめることが出来たかも知れないのです。恭三のおもてには忸怩《じくじ》たるものがあり、悄然として首うなだれたのも無理はない。 「では、虹之助が話が出来ると否とでは、どういうふうにちがって来るか、——それはまず梨枝子夫人の場合からかんがえていかなければなりません。あのとき梨枝子夫人と虹之助は二人きりで、向こうの離れにとり残された。ある時間、二人だけでそこにいたわけです。しかも、この二人のあいだになにか関係があるらしいことは、私もまえから気がついていた。だから、私の疑いはともすれば、虹之助のほうに向かいそうだったのですが、それをいつも食いとめたのは、虹之助が完全な盲聾唖であるということ。二人のあいだにどのような関係があるとしても、虹之助がどうしてそれを知りえたか、いま自分といっしょにいるひとが、自分の憎いかたきであるということを、どうして覚りえたか。——それが私には不可能に思われたからです。いや、かりに一歩譲って、嗅覚や触覚によって、うすうすそれを感じたとしたところで、あたりに誰もいないということや、いまが絶好の機会であるということなど、わかる筈がない——、と、そう私が考えたからです。しかし、虹之助が話が出来るとなると、これは根本からちがって来る。……」 「すると、あの時、梨枝子夫人と虹之助は話をしたのですか」  警部は思わず眼を瞠った。 「そうです。話をしたのです。梨枝子夫人は虹之助の手をとって、自分の唇を読ませたのです。自分が誰であるかいってきかせたのです。いや、そればかりではない。ここがどこであるか、どういうひとたちがこの家にいるか、そして、そのひとたちはいまどこへいっているか。——そういうことをことごとく虹之助に話をしたのです。まるで盲目の手引きをするように。そして、いまが絶好のチャンスであることを教えこむように。——」  つめたい悪寒が一同の背筋をはしった。綾子は寒そうに襟をかきあわせます。警部は不思議そうに眉をひそめて、 「いったい、梨枝子夫人と虹之助——いや、虹之助とこの家とは、どういう関係があるのですか」 「いや、そのことについては、もっとあとで話をしましょうよ。志賀君の説明をきかなければ、私にもまだハッキリ分かっていないのだから。さて、そういうふうに梨枝子夫人の話によって、虹之助は必要なことをすっかり知った。いまが絶好の機会であることを覚った。それのみならず梨枝子夫人は、チョコレートまでむいて食べさせたから、虹之助はそこに、ストリキニーネを仕込むに絶好の品があることまで知ったのです。そこで夫人と話をしながら、偽眼のなかのストリキニーネをチョコレートのなかにいれて、夫人に食べさせたのです」 「しかし、眼のまえでそんなことをするのを、夫人は気がつかなかったのでしょうか」 「むろん、虹之助に殺意があると知ったら、夫人も警戒するからそんなチャンスはなかったろう。しかし、夫人は全然なにも知らない。夢にもそんなこと考えていない。おそらく夫人は泣き伏したり、泪を拭いたりするのに忙しかったろう。更にもっとよく考えれば、虹之助が小便に立ったかも知れない。そして便所へいくまえに、チョコレートをひとつだけかくしていって、便所のなかでそういうからくりをやって、何気なくかえって来ると、毒入りチョコレートを夫人に食べさせたのかも知れない。要するにチャンスはいくらでもありましたよ」 「なるほど、それで夫人は毒入りチョコレートを食べた。苦しみ出した。すると虹之助もさすがに怖くなって、羽子板でめちゃめちゃに乱打したということになるのですね」 「そう。——しかし、怖くなったというのはどうだろう。虹之助は悪魔のような少年だから、おそらく怖くなるというようなことはなかったろうと思う。あれはやはりその場をカモフラージする。——と、いう意味じゃなかったろうか。とにかくあいつは恐ろしい奴だから、一応自分がなぐり殺したように見せておいて、調べてみると毒殺である。——そうなれば疑いは完全に自分から遠ざかる、と、そういう逆手をちゃんと心得ていたんじゃないでしょうか」 「ふうむ。恐ろしい奴ですな」  と、警部は唸りごえをあげると、 「そうするとわれわれは、完全にあいつの手に乗っていたんですね」 「そうですよ。いや、あいつの手に乗っていたのはあなただけじゃないから御安心なさい。われわれ全部が、あの盲聾唖に完全に翻弄されていたんですからね」 「しかし、チョコレートの鉢をかくしたのは誰なんです。あれもやはり虹之助がかくしたのですか」 「いや、あれをかくしたやつはほかにある。その犯人はどこかそこらにいる筈ですがねえ」  由利先生の皮肉な視線をまともに受けて、真っ赧に頬をそめたのは綾子でした。警部は眼を丸くして、 「えっ? それじゃあれは大道寺の奥さんですか」 「と、私は睨んでいるんですがねえ。あの際、チョコレートの鉢をかくすチャンスのあったのはこの人よりほかにない筈ですから。この人は私に電話をかけて来るといって、離れ家から跳び出している。そのときあの離れ家は電気が消えてまっくらだったし、みんな梨枝子夫人や虹之助に気をとられていたから、人知れず鉢をかくす機会は十分ある。その鉢を持ったまま離れ家から跳び出したのだ。——と、私ははじめからそう睨んでいるのだが、どうです、奥さん、ここらで泥を吐いてしまっちゃ……」 「すみません」 「これは怪しからん」  と、警部は冗談とも本気ともつかぬ口吻で、 「しかし大道寺の奥さんがどうしてそんなことを……」 「それは分かっているじゃありませんか。婦人が危険を冒してそんなことをする場合、動機はきかずともわかっている。愛するものをかばおうとしたんです。ということは、奥さんが志賀君を疑っていたということになる」  恭三はそれをきくと、驚いたように眼を瞠って、綾子の顔を見直した。 「綾子さん、どうして君は僕を……?」 「すみません。だってあたし……」  と、綾子は小娘のように頬を赧らめて、 「小母さんの死顔をひとめ見たとき、羽子板でなぐり殺されたのじゃない。毒を嚥まされていらっしゃるのだと気がついたんです。そう気がついて、死体のそばを見るとチョコレートの鉢がある。しかも、そこにあるチョコレートは、あのまえの日、あなたが東京から買っていらっしゃったものだってこと、あたし知っていたんです。だって、あれと同じのを、あたしにも買って来て下すったんですもの。……」 「それで君は僕をかばうために……」 「いや、こちらの奥さんが、君をかばうためにやったことはそれだけではないんですよ。もっとほかに細工をしている。たとえばあの跛の男を捏造《ねつぞう》したり……」 「まあ! それじゃ先生は、あれが嘘だってこと、御存じでしたの」  綾子は思わず眼を瞠りました。由利先生はにこにこしながら、 「知っていましたよ。何故といって、跛の男など、はじめから奥さん、あなたの空想の産物だってこと、私はちゃんと知っていましたからね」  由利先生は、いかにも愉快そうにからからと笑いました。 「いったい、跛の男がはじめて跳び出したのは、大阪のホテルでしたね」  と、由利先生はゆっくりパイプを詰めかえながら、 「ところで、あのときの情景を、もう一度ここで思い出してみようじゃありませんか。あのとき私は口を酸っぱくして、虹之助のような少年を引き取ることの危険をあなたに忠告していた。ひょっとすると、虹之助を水葬礼にした人間が、いまでも虹之助を監視しているかも知れないと私はいった。ところが、その直後ですよ。あなたが人の気配をかんじたといって廊下へとび出し、跛の男のうしろ姿を見たと言い張ったのは。……あのとき、私はすぐこの奥さん、お芝居をしているのだと直感したんです。私があまりムキになって忠告するものだから、お芝居をして、私をからかっているのだ……と、そう気がついていたのです」 「まあ!」 「世のなかには、ときどきそういう婦人があるものだ。才弾《さいはじ》けて、男を男とも思わないで、芝居気たっぷりで、……この奥さんはそういう人なのだと知っていたんです」 「あら、あら、あら!」 「だから私はそれに乗って、騙されたようなかおをしていたんです。別に事荒立てて詮議するほどのことではない。まあ、そんな大人げないまねをするより、騙されたようなかおをして、相手を満足させておこう。そういう肚でいたんです。——ところが、その跛の男が、梨枝子夫人の事件の場合、またとび出して来たから私もちょっと驚いた。しかし、よくよく聞いていると、こんどの場合も、それを見たのは大道寺の奥さんだけだということがわかった。そこで私はははあ、大道寺の奥さん、またお芝居をやってるなと気がついたんです」 「しかし、先生」  と、その時横から口を出したのは三津木俊助。 「大道寺の奥さんが、跛の男を見たといったのは、まだ事件を知らないまえのことですよ。それだのにどうして……?」 「いや、そのことについては、私にきくより、ここに当の本人がいられるのだから、直接伺ったらいいだろう。奥さん、そのときの気持ちをひとつ説明していただきましょうか」 「先生、あたしほんとうに恐れ入ってしまいましたわ、女の浅智慧とはまったくこの事ですわねえ。ええ、こうなったら、潔く兜をぬいで、何もかも申し上げてしまいますわ」  綾子はてれたような、極まり悪げな、そして驚異と讃嘆の眼で由利先生の顔を視詰めながら、 「なぜ、あたしがあんな嘘をついたか、それを理解していただくためには、あのときの雰囲気をお話しておかねばなりません。あの晩あたし虹之助——さんをつれてここへ参りました。そしてあの子を小母さんのそばへ残しておいて、みなさんを探しに浜へいったのです。そしてそこで由美さんにあってその事を話したのですが、そのときの由美さんの驚き——。ええ、あたし、いまでもはっきり憶えていますが、それはなんともいいようのない怖れと不安——そして由美さんは物もいわずに駆け出したんですが、途中でぱったり出会ったのが志賀さんです。さあ、そこなのです。あたしには由美さんがなぜあのように怖れていらっしゃるのか、なぜあのように不安におののいていらっしゃるのか少しもわからない。ところが、志賀さんにはそれがわかっている。あたしにはそれが口惜しいのですわ。ええ、もうこうなったらハッキリ申し上げますわ。あたし、妬《や》けるのです。あたしの知らない秘密を、志賀さんと由美さんがわかちあっている。そう考えるとあたし口惜しくて口惜しくてたまらないのです。だからあの場合、少しでもお二人の注意を、あたしのほうに惹きもどそう。あたしだってそんなにのけものにしたものじゃありませんよ。とそういう代わりに咄嗟にあんな嘘をついてしまったのです。あたしって人間はそういう女なんですわ」  あけすけな、思いきった綾子の告白は、一同からはかえって好感をもって迎えられたらしく、由利先生もにこにこしながら、 「つまり自我が強過ぎるんだな」 「ええ、じゃじゃ馬なんですわ。あたしだって、よい性質とは思いませんけれど、いまになってなおりはしないし、またなおそうとも思いません」 「いや、改める必要はないでしょう。そのかわりに、よい騎手を見つける必要はありますな、なにしろこの奥さん、駻馬《かんば》みたいなものだから、よほどうまく乗りこなす人を見つけなければいけませんな」 「あら、ひどいことをおっしゃるのねえ」  綾子はちょっと睨むまねをしましたが、その顔には案外かえって嬉しそうな色がうかんでいました。 「いや、失礼、失礼。それで咄嗟のあいだに、大阪で私を欺いた跛の男を持ち出したわけですね」 「ええ、そうですの。あのとき、なぜ跛の男を持ち出したのか、それはあたしにもよくわかりませんが、多分おふたりの何んともいえぬ不安、おそれ——それが、咄嗟に大阪で先生を欺いたときと同じような気持ちに、あたしをさせたせいだと思います」 「いや、なるほど、それでよくわかりました。そうしてあなたは跛の男を、さも実在の人間らしく仕立ててしまった。そこで琴絵さんを誘拐するときも、それを利用したんですね。ところであの事ですが、あれは志賀君に頼まれてやったんですか」 「いいえ、あれはこちらちっとも御存じないのです。あたしが勝手にやったのですわ」 「しかし、奥さんは琴絵さんがあそこにいることをどうして知っていたのです」 「あら、それならあたし先生にお訊ねしますわ。先生はどうして御存じになったのです」 「あっ」  由利先生は思わず眼を瞠ると、 「それじゃ、奥さんも電報で……?」 「ええ、そうですわ。志賀さんのところへ電報が来たこと、あたしだって気になっていましたわ。そこでつぎの日、郵便局へいって調べたのです。すると、先生もやっぱり調べていらっしゃる。さて、そこでまたぞろ、あたしの病気が出て来たのですわ。あの琴絵さんのこと、あれが志賀さんと由美さんの共通の秘密なのでしょう? それがあたしには口惜しくてなりませんの。そういうふうに仲間はずれにされると、あたしって人間は妬けてたまらないのよ。そこでまた横からちょっかいを出したくなったのです。あの日、ユクとは電報うってあるものの、志賀さんの行けないことはわかりきっている。しかし、由利先生はきっといらっしゃるにちがいない。そう思ったものだから、あたし、男装していったんですけれど、まさかあんな際どい芸当を演じようとは思わなかった。何しろ先生や三津木さんの眼のまえから、琴絵さんをうばうのですから、たとえ成功するとしても、あたしだと看破られたらなんにもならない。そこでまた、咄嗟に思いついて跛の真似をしてみせたんです」  由利先生と三津木俊助は顔を見合わせると、舌をまいて驚歎した。 「いや、恐るべきひとですな、あなたは……?」 「あら、そのお言葉ならこちらから返上しますわ。だってはじめから跛の男の存在など、嘘だと看破られていたとしたら、あれ、ほんとうにお茶番だったのねえ」  綾子はさすがに感慨ふかげに呟いたが、そのとき横から膝を乗り出したのは江馬警部。 「いや、これでだいたい大道寺の奥さんが、この事件で受け持っていた役割はわかりましたが、さて話を本題にもどして、鵜藤青年の場合、あれはどう説明するのですか。静馬君と由美さんの場合は、さっきもうかがってだいたい分かりましたが……」 「鵜藤君の場合、あれには私も悩みましたよ」  由利先生は憮然《ぶぜん》とすると、 「静馬君と由美君は、さっきもいったように、絵と洋笛に塗ってあった毒でやられたのですね。いまから思えばあの部屋へ、虹之助をぶち込んだのがそもそも間違いのもとだったんです。さっきもいったように虹之助は、梨枝子夫人からこの家が誰のうちか、そこにどういう人たちがいるか聞かされていた。そしてあたりを探ってみると、絵筆や洋笛が手にさわった。それが誰のものであるか、虹之助はよく知っていたから、さてこそ毒を仕込んでおいたのですね。ところが鵜藤君の場合はそれとはちがう。鵜藤君はあきらかに、あのとき嚥んだコーヒーでやられたにちがいないが、虹之助がいつ、そのコーヒーに毒を投ずることが出来たか——そう考えているうちに、はっと私が思いうかべたのは、あの障子の破れなんです。高さといい、大きさといい、ちょうど手を出すに好都合な穴だった。……と、そう気がついたものだから、さっきここへ来るや否や、女中さんに聞いてみたのだが、すると果たして私の考えたとおりだった。台所でコーヒーを入れた女中さんは、座敷へ運ぶまえに、一度あそこの廊下へ盆をおいて、台所へかえるとほかの用事をしていたのです」 「なんですって? それじゃそのとき虹之助が……」 「そうです。あいつはね、眼も耳も駄目だけれど、嗅覚だけは健全なのです。だからコーヒーの匂いを嗅《か》ぎわけることは十分出来たわけですよ」 「しかし……?」  と、三津木俊助は眉をひそめて、 「それは先生、おかしいですね、虹之助はそのとき、どのコップが五郎君にあたるか、知っている筈はなかったでしょう?」 「そうなのだよ。三津木君、そして、この事件で一番恐ろしいのはそこのところだよ。虹之助は誰でもいい、甲野一家の者さえたおせばよかったのだから、別にコップを選ぶ必要はなかったのだ。しかし……しかし、あのときこの家にいたのは、甲野家の人たちばかりじゃなかった。警察の人たちもいたしわれわれもいた。だからひょっとするとあのコップは、君に当たっていたかも知れないし、あるいは私に当たっていたかも知れないのだ!」     三  あっ。——と、いう叫びが一同の唇からもれました。何んともいえぬ恐ろしさが胸もとにこみあげて来て、しばらく一同は口も利けなかった。 「恐ろしい奴ですね」  よほど暫くたってから、やっと警部が溜め息とともにそういいました。 「そうです。恐ろしい奴でした」  由利先生も身ぶるいしながら頷きました。それからまたしばらく、一同は黙りこくって恐怖の影を追うていましたが、やがて警部が膝をすすめると、 「さて、では、最後にいよいよ虹之助の素性をきかせて戴きましょうか」 「それについては志賀君にきくのが一番いいのです」  しかし、志賀が悄然とうなだれているのを見ると、 「だが、志賀君としてはいいにくかろうと思うから、私が代わって申し上げましょう。但し、これは想像だから間違っているかも知れない。間違っていたら志賀君が訂正してくれるだろう」  由利先生はいかにも傷ましげに顔をくもらせると、 「あいつはね。志賀君のお父さんと、梨枝子夫人の間に出来た子供なんだ。どうです、志賀君、ちがいますか」  恭三はギクリと眉をふるわせましたが、そのままいよいよ深く首をうなだれました。由利先生は言葉をついで、 「志賀君のお父さんという人は気の毒な人だった。人生のはんぶんを猜疑と嫉妬の地獄のなかをのたうちまわって来たひとなのです。志賀君のお母さんと結婚した刹那から、自分の妻と甲野四方太——つまり静馬君や由美さんのお父さんですね。——とのあいだに不倫の関係があるという妄想に悩まされつづけたのです。ことに琴絵さんがうまれたときは、てっきりそれを四方太氏の子供だと信じた。そこで、その復讐として、——妻を盗まれた仕返しとして、相手の妻をぬすんだのです。それが合意のうえであったか、暴力の結果であったかは知らないが、とにかくそうして、志賀君のお父さんと、梨枝子夫人のあいだにうまれたのが、あの虹之助なのです。だから琴絵さんと虹之助が、あんなによく似ているのも不思議はない。ふたりは父を同じゅうし、そして母同志は姉妹——それも非常によく似た姉妹だったそうですから」  しいんと沈黙のなかに、突然、志賀の鋭い溜め息があたりの空気をふるわせた。志賀は蒼白になった面をあげると、 「先生がそこまで御存じだとすれば、かくしていても無意味なことです。そのあとは私から申し上げましょう。私の父は気の毒な人だった——と、いま先生はおっしゃって下さったが、気の毒な人間だからといって、父のあの、言語道断な行為には弁護の余地はありません。だから、甲野の叔父四方太老人があれ以後、一種の狂人のようになったのも無理はないのです。梨枝子夫人がみごもっている——そうわかったときから四方太老人は人が変わってしまいました。老人は夫人を九州の山奥の温泉へつれていって子供をうませると、うまれた子供は、そのまま付近のものにくれてしまった。それを貰って育てたのは、山窩《さんか》というような人種だったらしいのです。虹之助がそのままそこに朽ちてしまっていてくれたら、われわれはどんなに助かったか知れない。ところがいまから三年まえ、突如その虹之助が山窩の仲間につれられて、小豆島へかえって来たのです。いまから思えば虹之助は、甲野家へ禍をもたらし、復讐するためにかえって来たとしか思えない。叔父も叔母も驚いた、狼狽した、しかし、追い出すわけにはいかないので、それを奥の土蔵のなかで、ひそかに養育することにしたのです。言い忘れましたが、虹之助はうまれながらにして聾だったのですが、三年まえにかえって来たときには片眼だけはまだあいていたそうです。ただもう一方の眼だけは、その時分から偽眼をはめていたんですが、思えばその頃からすでにストリキニーネを用意して、甲野の一家をねらっていたんですね」  志賀はほっと溜め息をついたが、由利先生は眉をひそめて、 「しかし、三年も家にいて、よく人に知られなかったものですね」  と、不思議そうに訊ねました。 「いや、その疑問は御尤もですが、それは先生が甲野の家を御存じないからです。小豆島の甲野のいえというのは、ずいぶん古い、大きな、土蔵の十幾棟とあるような家なんです。その気になればひとりや二人、世間に知られずに養うぐらい、大して苦労ではないのです。第一、静馬や由美や私でさえもずっと後になるまでこの事を知らなかったくらいなんですよ。ところがそのうちに恐ろしい問題が起こった。その問題のために叔父から相談をうけて、私ははじめてそういう呪わしいものが、われわれの間に存在していることを知ったのです」 「問題というのは……?」  志賀は苦汁をのむようなかおをして、 「虹之助と琴絵が恋に落ちたこと。……」  一同はどきりとしたように眼を見交わせる。ああ、それはなんという陰惨なことだろう。虹之助と琴絵は姉と弟にあたるのではありませんか。 「そうなんです。物事というものは一度呪われると、その呪いははてしなくひろがっていく。それを聞いたときの私の驚き、私はなんともいえぬ暗澹たる気持ちでした。御存じのとおり静馬や由美は、虹之助が来る前後から東京へ出ていましたし、私はしじゅう旅行がちだったから、知らなかったのだけれど、琴絵はいつも家にいるものだから、早くから虹之助の存在に気がついており、座敷牢同様の生活に、娘らしい同情を寄せていたのが、いつか妙な感情にかわっていったんですね。私は叔父から話をきいて、琴絵をいさめましたが、まさか若い娘にほんとうのことを打ち明けるわけにはいかぬ。だから、われわれが反対すればするほど、琴絵のほうではいこじになり、はてはとうとうあのとおり気が狂ってしまったのです。虹之助と来たら、はじめから禍《わざわい》をまくためにやって来たのだから、鼻の先でせせら笑って取りあわないのです。幸い二人のあいだはまだ淡い恋心——琴絵のほうだけですよ。虹之助になんの恋がありますものか——だけで、それ以上すすんでいなかったが、私はそのときよっぽど虹之助を殺してしまおうかと思ったのです。ところが突然その虹之助の、たった一つ残っていた眼が潰れてしまった。即ち、ここに完全な盲聾唖が出来上がってしまったのです」 「ああ、ちょっと待って下さい。虹之助はそのまえから読唇術は出来たんですね」 「そうです。山窩がつれて来たときから、読唇術はかなり達者で、向きあっていれば、唖とは思えぬくらい自由に話が出来たそうですよ」 「そして、両眼失明してから、指で唇を読む方法を教えたのは?」 「梨枝子夫人、即ち叔母です」  志賀はにがにがしげに、 「これは無理もないことかも知れないけれど、叔母はまたあの悪魔が可愛くてたまらなかったのです。静馬や由美を犠牲にしても、あの虹之助が可愛かったのです。亡くなった人を悪くいってはすまないが、いったいあの叔母という人は不心得な人で、虹之助をうんだのも、決して父の暴力に屈したのではなく、叔母はまえから母に対して嫉妬していた。叔父に対していつも不満を抱いていた。そこを父に乗じられて、手もなく誘惑に乗ってしまったんです。そういうわけで、叔父に対する面当てからも、静馬や由美より、虹之助のほうを可愛がったのです。そういうわけで叔父が急死した際なども、われわれはよほどあいつを警察へ引き渡そうかと思ったのですが、叔母が泣いて掻きくどくものだから……」  由利先生は急に大きく眼を瞠って、 「それじゃ、四方太老人は……?」 「そうです。医者はそういう悪魔がうちにいることを知らないものだから、簡単に卒中と診断しましたが、毒殺の疑いは濃厚だったのです。いや、叔父のみならず、叔母自身、腰が立たなくなったのは、やはり怪しい中毒に悩んだ結果なのです。叔母もあいつを恐れているが、しかも盲目的な愛情をどうすることも出来なかったのです」  無智で、愚かで、女にありがちの一種の偶像崇拝狂の母には、あの美しい虹之助が、このうえもなくいとしいものに思われたのでしょう。そしてそのためには静馬や由美を犠牲にすることさえあえていとわず、ひいては自分の身さえそいつのためにほろぼしてしまう結果となったのでありましょう。 「しかし、私はそのときはっきり心を決めたのです。このうえあいつのために、甲野の家に迷惑を及ぼしてはならぬ。静馬や由美のこれからさき長い生涯に負担をおわせては可哀そうだ。——そう思ったものだから、私はあいつを殺してしまうつもりでした。ところが、叔母は早くもそれを察して、私が東京へいっているあいだに、静馬と鵜藤を掻き口説き、あいつをああいう方法で水葬礼にしたのです。ひと思いに私に殺されるより、誰かに救われ、またどこかの空で、生きているかも知れぬ。——と、そういういちるの望みを持っていたかったのでしょう」 「それを……それをお節介にも、あたしがまた連れてかえったのね。そして、あなたがたにこんな大きな迷惑をかけてしまったのね」  気まぐれな未亡人の綾子も、さすが自責の念にたえかねてか、そこでとうとう泣き出してしまいました。 「いいや、綾さん、それは君の罪じゃないのだ。みんな呪わしい運命なのだよ。いや、それとも悪魔のようなあいつの執念が、どうしてももう一度甲野の家へかえって来て、陰険な、邪智ぶかい復讐をしなければおさまらなかったのかも知れない。しかし、もう何もかも過ぎ去ってしまったことなのだ。われわれは君に対して、決して悪い感情を持っていないのだよ」 「そうです。志賀君」  由利先生はそこで厳粛な顔をすると、最後にこんな事をいったのであります。 「何もかも過ぎ去ったことなのだ。忌わしい過去は嵐のむこうに消えていった。そして、あとに残った君たちの使命は、新しい、健全な、何者にも呪われない生活をきずきあげていくこと、唯それだけなんだ。聞けば君が大道寺の奥さんと結婚することを躊躇しているのは、君が無一物だからという。しかし、そういう思想は健全ではないね。むしろ、旧い、型にはまった、間違ったヒロイズムだよ。金はなくとも金以上のものを持っている、と、そういう自信が持てないのかね。とにかく一日も早く、大道寺の奥さんの希望をみたしてあげるんだね」  そこで由利先生は急にいたずらっぽい眼付きになり、にやにや二人を見較べると、 「そうでもしてもらわなければ、この駻馬は、いつまた何をしでかすか分からないからね。はっはっはっ!」  先生はそういって、いかにも快げに哄笑《こうしよう》したのでありました。  さて、この陰惨な物語を、せめて明るくするために、最後につぎのようなことを、皆さんにお報らせして筆をおくことに致しましょう。  志賀と綾子はそれから間もなく結婚しました。  そして由美と三人でパリへたちました。この旅行は二人にとってはむろん新婚旅行の意味もありましたが、それと同時に、なにもかも忘れて、声楽の修業をしたいという由美の請いをいれて、彼女の後見をするためでもあったのです。由美の修業がおわるまで、何年でも三人はヨーロッパにとどまるのだそうです。  由利先生は神戸まで三人を見送りましたが、やがて船中から来た綾子の第一信には、つぎのようなことが書いてあったということです。  ——淡路島の沖、鳴門のほとりを通るとき、あたしたちはめいめい船中から花輪を海に投げました。これがあの人へ対する最後の手向《たむ》けであり、今後あたしたちはもう二度と、あの恐ろしい名前を口に出さぬと誓いあったのでございます。—— [#改ページ] [#見出し]  猫と蝋人形    蝋人形の屍体  諸君はだれでも、きっといちどは時計の裏蓋《うらぶた》をひらいて、あのふしぎなゼンマイじかけをのぞいてみたいという、欲望にかられたことがあるだろう。そして世にも精巧な、大小無数の歯車がかみあって、規則正しく、コチコチと時間をきざんでいるのを見ると、まるで夢の国の、幻の工場をでもみるようなふしぎな魅力を感じたにちがいない。どうしてまあ、あのような小さな歯車が、一分一厘の狂いもなく、正確にかみあい、回転することが出来るのだろう。——  しかし、これは正確な時計のことである。精巧な機械ほどしばしば狂うものはないし、また狂ったがさいご、これほど手のつけられぬ代物はないのである。進みすぎたり、遅れすぎたり、いくらゼンマイをまいてもすぐとまったり、そうかと思うと、自鳴鐘が鳴りはじめたがさいご、ゼンマイが切れるまで鳴りやまなかったり。——まったく、十二より時を打つはずのない時計が、どうかすると五十も百も、つづけざまに打っているのをきくと、きいているほうで頭が狂いだしそうな気がすることがあるものだ。  人間の頭脳がちょうどこの時計と同じことで、世の中にこれほど精巧に出来たふしぎなからくり[#「からくり」に傍点]は、またとほかにないのであるが、それと同時に、これほど狂いやすいものも、ほかにありえないのである。われわれはしばしば、数時間にわたって鳴りやまぬ、気違い時計とおなじように、狂った例を人間の頭脳にも見ることが出来る。そういう頭脳から考えだされたえたいの知れぬ気味悪さ、常軌を逸した陰険さ。——これからお話しようとする、この風変わりな事件というのが、ちょうどその人間の気違い時計なのである。  それは連日の霖雨《りんう》に、大川の水位が急にたかまったある朝のこと。  清洲橋《きよすばし》のすぐちかく、隅田《すみだ》の流れを寝ながらの枕《まくら》のしたにきこうという、中洲《なかす》の河岸《かし》っぷちにある洋館から、いまめざめたばかりとおぼしい美人がひとり、なんとなく底冷えのする朝風をいといながら、鉄格子の裏木戸をひらいて、石段づたいに降りてきた河っぷち、見わたせば水の上にはいちめんの深い靄《もや》が立ちこめて、その中をこぎのぼるだるま船も、櫓《ろ》の音がギチギチときこえるばかり、姿もそれとみわけかねるくらいの深い朝靄なのである。  美人はなんとなくそわそわとあたりを見まわしながら、ヒタヒタと上げ潮の寄せている石段をおりていった。石段の右手にはクリーム色の洋館が、河のうえまではみだしていて、そのしたはちょうど、おおきな縁のしたのように空洞になり、よどんだ水がどんよりと、うすぐらい淵《ふち》をかたちづくっているのである。  美人はしばらく身をかがめ、くらい淵の中をのぞきこんでいたがふと足もとに流れよっている小さな空瓶《あきびん》に眼をとめた。マヨネーズ・ソースの空瓶なのである。たわむれるように、洋館を支えている太いコンクリートの柱の根元に、コツコツと頭をぶっつけている。  美人はそれを見るとちょっと体をかたくして、息をのむような表情をみせたがすばやくあたりをみまわすと、身をかがめて瓶のほうへ手をのばした。と、そのひょうしに彼女の眼は、うすぐらい洞穴《ほらあな》のような縁下の、ずっと奥のほうにゆらゆらと浮いている、ふしぎな、白い物体のうえに落ちたのである。  なんだろう。うちよせられた塵芥《じんかい》のなかにまじって、真っ白なものが、逃げおくれた靄のなかにぷかぷかと浮かんでいるのだ。  そのとき、河の中心をドドドドドと蒸汽船が通りすぎて、そのあおりをくらって、ふしぎなものが、ひょいとこちらへ向きをかえたとき——  美人はおもわず、 「きゃっ!」  と叫び声をあげたが、すると声におうじて、頭のうえの洋館の窓がひらいたかとおもうと、顔をだしたのは半白頭《はんぱくあたま》の初老の男である。 「おや、通子《みちこ》、おまえ、そんなところでなにをしているのだね」 「あなた、ああ、あなた」  通子はわれを忘れて、 「あんなところにひとが、ひとが……」 「えッ? 土左衛門かい」  男の顔はすぐ引っこんだが、まもなくさっき通子のひらいた裏木戸から、どてらの帯をしめなおしながら、あわただしくおりてきた。やせぎすの、皮膚の色が不健康なあおぐろさをもった病身そうな男である。鋭い眼つきをしているのである。  言葉の調子ではどうやらこのふたりは夫婦らしいのだが、それにしてもひどく年齢がちがうのである。女のほうはまだ二十五か六ぐらい、輝くばかりの若さと健康をたもっているのに、男はすでに五十の坂を越して、しかもかさかさにしなびている。その男の背後から、召使いらしい若者が、長い竿《さお》をもってついてきた。 「どれ、どれ、どこだ」 「あそこ、ほら、あの柱のかげよ」  男はちょっとのぞいてみて、すぐ若者のほうを振りかえると、 「十|吉《きち》や、ちょいとみな」  このへんでは珍しくないことかもしれない。若者の十吉は驚いたようすもなく、竿を水面につきだすと、先についている鉤《かぎ》で白い屍体《したい》をひっかけたが、おや! というふうに、 「旦那《だんな》、こりゃへんですぜ」 「へんて? なんだい」 「こりゃ人間じゃありませんぜ。どっこいしょ。ほら!」  と、竿の先で引きよせたところをみると、なるほどかれの言うとおり、人間ではなく、たんなる人形であった。蝋《ろう》でこさえた等身大の生き人形なのである。 「なんだ、通子、まあみてごらん、怖いもんじゃない。ほら、人形だよ」 「あら、まあ」  通子は気抜けしたようにつぶやいたが、しかし、それはけっして怖くないことはなかった。いやいや、それがほんとうの人間であったほうが、どれだけ気味悪くなかったかもしれないのだ。どすぐろい水のうえに、ガラスの眼をみはり、美しい微笑をたたえたまま、あおむけにぷかぷか浮いている真っ白な生き人形の姿は、おりからの陰鬱《いんうつ》な朝靄《あさもや》の中で、なんともえたいのしれぬ気味悪さをたたえているようにみえるのである。 「とにかく、うえへあげてみましょう」  若者の十吉はかるがるとその人形を石段のうえにもちあげたが、そのひょうしにさすがのかれも、 「や、や、こりゃどうじゃ」  とびっくりしたように叫んだが、その声にぎょっとした通子が、こわごわのぞいてみると、ああ、なんたることぞ!  蝋人形の真っ白な心臓のうえには、白鞘《しらざや》の短刀がぐさっとばかり、つかも通れと、うちこんであるのである。    封じ薔薇 「というわけで兄さん、あたしなんだか気味が悪くてしようがないのよ」 「だって、通さん、たかが人形くらいのことに、なにもそう怖がることはないじゃないか」 「ええ、そりゃ、それだけのことなら、なにも兄さんに来ていただくほどのことはないのだけど、その人形にね、じつはもっと気味の悪いことがあるのよ」  通子は白い顔をかたくして、じっと兄の顔をみつめている。美しい眼がかすかに潤みをおびて唇《くちびる》がちょっとふるえた。  このあいだの朝から三日ほどのちのことで、れいの河のうえにせりだした洋館の一室なのである。通子と差しむかいに腰をおろしているのは、三十前後の、眉《まゆ》の秀でた、色のあさぐろい、言葉つきや態度のいかにもきびきびした男で、通子の兄の三津木俊助《みつぎしゆんすけ》という、新日報社《しんにつぽうしや》の花形記者なのである。  俊助は無言のまま、煙草《たばこ》を吹かせながら、なにげなく、そばのテーブルのうえにある空瓶をながめていた。マヨネーズ・ソースの瓶なのである。瓶のなかには色のあせた薔薇の花が一輪挿してある。俊助はその瓶からふと妹のほうへ視線をうつしたとき、思わずぎょっとしたように叫んだのである。 「おや、どうかしたのかい、おまえ、顔の色が真っ青だよ」 「いいえ、なんでもありませんの。少し頭痛がするもんですから」 「それはいけない。あまりくだらないことにくよくよ気をもむからだよ。それで、その人形に気味の悪いことがあるというのは、いったいどういうことなんだね」 「それがね」  と通子はちょっと肩をすぼめながら、 「その蝋人形の胸のところに、青いエナメルで妙な絵がかいてあるのよ。ちょうど心臓を矢でつらぬいたようなかっこうなの」 「ふうん、それは妙だね。だけどそれだけのことなら、なにも通さんみたいに、そうびくびくすることはないと思うがね」 「兄さんはなにもご存じないからそんなことおっしゃるのよ。これはわたしと矢田貝《やたがい》のほかには、ぜったいにだれも知らない秘密なんだけど、矢田貝の胸にも、ちょうどそれとおなじ刺青《いれずみ》があるのよ」  俊助はハッとしたように通子の顔をみなおした。通子はまぶしそうにその視線を避けながら、 「良人《おつと》はずっと若いじぶんに、ふとしたいたずらごころからそんな刺青をしたんですって。そのおなじ絵が、蝋人形の胸にもあるというのは、なにか深い意味があるとお思いになりません?」 「それは妙だね。それじゃ通さんは、だれか矢田貝さんをうらんでいるものがあって、それがそういういたずらをしたんじゃないかと思っているんだね」 「いたずらにしちゃ少し深刻すぎますわ。あたしもう、それが気になってたまらないところへ、良人が昨夜から帰らないでしょう。家《うち》をあけるなんてことは、いままでいちどもなかったひとだけに、あたしもう心配で、心配で……」  俊助はなるほど、苦悩のために面やつれのしてみえる通子の顔を、しみじみとうち見守りながら、はたして彼女の良人の矢田貝博士は、妻よりこれだけの心配をうける価値のある男だろうかと、内心はげしい憤《いきどお》りを感じずにはいられないのである。  通子は不幸な女だった。三十あまりも年齢のちがう矢田貝博士と結婚するいぜん、彼女には相愛の青年があったのである。その青年を振りきって、彼女はなぜ、こんなに年齢のちがう男と結婚しなければならなかったのか、それにはずいぶん、こみいった事情があったのだけれど、ここにはあまりくだくだしくなるから、いっさい省略することにしよう。  要するに彼女は矢田貝博士の金にかわれた女なのである。通子と矢田貝博士の結婚が発表されたとき、緒方絃次郎《おがたげんじろう》は絶望のあまり二度も自殺をはかったが、二度とも失敗したあげく、飄然《ひようぜん》として外国へいってしまった。緒方絃次郎というのが、恋人の名だった。  通子はこれだけの犠牲をはらって、矢田貝博士のもとへ嫁《とつ》いできたのである。しかも彼女は献身的ともいうべき愛情をもって、この年のちがう良人を愛しようとした。それだのに彼女のむくわれたものはなんであったろうか。  矢田貝博士は高名の外科医である。その学識、手腕、社会的名声は、通子の良人として申し分のないひとである。しかし、いかなる学問も、教養も、人間の性格を矯正する力はないとみえて、博士はおそろしく吝嗇《りんしよく》だった。おまけに、猜疑心《さいぎしん》が強く、嫉妬《しつと》深く、いちど緒方絃次郎のことがしれるや、あんなに懇望した妻であったにもかかわらず、掌《たなごころ》をかえすように冷淡になってしまった。  こういう事情を熟知しているだけに、俊助は妹がいじらしくてならぬのだ。 「まあ、通さんのようにそう取り越し苦労をしても際限がないね。それとも矢田貝さんの身に、危険でも振りかかるような、ハッキリとした理由でもあるのかね。だれかにひどくうらまれているとか。……」  そういいながら、俊助はぼんやりとまた、れいのマヨネーズ・ソースの空瓶をながめている。どうも妙だな。一輪挿しがないというのでもあるまいに、なぜあんなぶかっこうな瓶をかざっておくのだろう。それにあの色あせた薔薇である。きれいずきでなにごともキチンとしたことのすきな通子には、不似合いなことではないか。 「ええ、それがあるから心配なのよ。このごろ良人のところへたびたび脅迫状めいた手紙がまいこむのよ」 「えッ、脅迫状?」 「と、いっていいかどうかわからないのだけれど、変な手紙なのよ。あとでおみせしますけれど、なんでもね、良人の手術がもとで、子どもが死んだと思いこんでいる母親からくるらしいですわ」 「ほほう、それで矢田貝さんはそのことをなんていってた?」 「こんなことでいちいちうらまれちゃ、医者は生きていられないって、にが笑いしてましたけれど、でもいい気持ちじゃなさそうでした。手術の結果はほとんど不可抗力ともいうべきもので、うらまれる筋合いじゃなかったらしいのですが、その後の態度がね、ああいうひとでしょう、ひどくむこうさまの感情を害しているらしいんですわ」 「まさか、それぐらいのことでどうのこうのってことはないだろう。そういうことでうらまれてちゃ、医者の命はいくつあってもたりないからね」  俊助はそういって、じっと通子の顔をみつめていたが、 「それより通さん、緒方君がちかごろ外国から帰ったという話だが、おまえ会わないかね」 「ええ。いいえ、あの絃次郎さん?」  通子はひどく狼狽《ろうばい》しながら、 「わたし、いっこう……」 「そう、会わないのなら会わないほうがいいよ。あの男も可哀《かあい》そうな男だ。いまだに通さんがあきらめられなくて苦しんでいるらしいが。……」  と、俊助はなにげない調子でそういうと、煙草の吸殻《すいがら》をジューッと灰皿のなかへ投げこんで、それからやおら椅子《いす》から立ちあがった。 「おまえ、なにもそう気をもむことはないのだよ。いまに矢田貝さん、帰ってくるとも。あまり気にしないで待っておいで。なにかまた変わったことでもあればすぐやってくるけれど……」  と、いいかけて俊助はおやと首をかしげた。 「あれはなんだろう、ひどく猫《ねこ》の啼き声がするじゃないか」 「うちのパールかしら。ゆうべから姿がみえないんだけど」  と、通子も首をかしげると、 「なんだかこのしたできこえるようじゃない」 「まさか。猫ってやつは水がなによりにが手だからね。この雨の降るのに……」  と、俊助は窓越しにこまかい雨の降りしきる河のおもてを見やったが、 「おかしいね。やっぱり通さんのいうとおり、このしたらしいね。それにあの啼きかたは妙だよ。なにかあるんじゃないかな」 「兄さん!」 「なにも心配することはありゃしない。ちょっとみてきてやろう。通さんはここにおいで」 「いいえ、兄さん、わたしもいきます」  ふたりは大急ぎで部屋を出ると、裏木戸から石段づたいに河っぷちへおりていった。そして、ひとめあの、洞穴のような淵のしたをのぞいたせつな、ふたりとも思わずぎょっとして、そこに立ちすくんでしまったのである。  ちょうどこのあいだ、マヨネーズ・ソースの空瓶が流れよっていたへんに、こわれかかった犬小屋が漂っていて、そのなかには、通子の愛猫パールが、けたたましい啼き声をあげているのだ。全身に真っ紅な血をあびて、真珠のように真っ白の毛が、からくれないに染まっている恐ろしさ。  しかし、俊助と通子がひとめみて恐ろしさに思わずたちすくんだのは、その猫の姿ではなかった。そこにはパールなどよりももっと恐ろしいものが、——矢田貝博士の屍体が、ゆらゆらと、幽霊藻《ゆうれいも》のように漂っているのだった。心臓をつらぬく矢の刺青をした胸のうえに、まるで昆虫をとめるピンででもあるかのように、白鞘の短刀が、ぐさ、と柄《つか》まで突き通って。—— 「あれ、兄さん!」  通子は思わず両手でしっかと顔をおおうたが、俊助はそのとき、もうひとつ奇妙なものが水のうえにぷかぷかと浮いているのをみた。  さっき、うえの部屋でみたとおなじマヨネーズ・ソースの空瓶なのである。そして、そのなかにはまだ新しい薔薇の花が一輪、封じこめられているのがガラス越しにみえたのである。    河沿いの家 「ほほう、すると二、三日まえにも、短刀で胸をつらぬかれた蝋人形が、流れてきたというんだね」 「そうなんだそうです。おとといの朝のことだそうですがね。しかも蝋人形の胸にも、この屍体にあるとおなじような、刺青がほどこしてあったというのですがね」 「フフン、妙な事件だな」  等々力警部《とどろきけいぶ》は眉根に深い皺をよせて、 「どうもわからん、いったいその蝋人形とこんどの殺人事件とのあいだに、どういう関係があるのかな」  なにか難しい事件にでくわしたときの習慣で、警部はしきりに耳たぶを引っ張っていたが、 「どうも気持ちが悪いね。この事件にはよっぽど妙なところがある。ちょっと常識で考えられないほどの邪悪なにおいがする。三津木君、きみも屍体の手の甲についているなまなましい傷あとをみたろうね」 「みましたよ。あれはどうやら猫にひっかかれたあとらしいですね」 「そうだ、猫だよ。畜生ッ、蝋人形だの猫だのと、よけいなお景物がついていやがるんで、この事件はいっそうわけがわからなくなる」 「いや、ぼくはそう思いませんねえ」  俊助は霏々《ひひ》として降りしきる河面《かわも》の細雨《こさめ》に眼をやりながら、 「反対にぼくは、そのためにあんがい簡単に、事件の解決がつくのじゃないかと思いますね」 「きみ、ほんとうにそう考えるのかい?」 「いや、はっきりとした確信があるわけじゃありませんが、とにかく、ゆっくりと考えてみようじゃありませんか」  等々力警部と三津木俊助のふたりは、職業がら接触もおおかったが、いつのまにやらこのふたりは、はなれがたい友情をもって結びつけられているのだった。いままでにも俊助のはたらきで警部を助けてやったことは一度や二度ではなかったし、その代償として俊助は、いつも警部より多大の便宜をはかってもらっている。きょうも事件を発見すると、俊助がいちばんに電話で知らせてやったのは、この警部のもとだった。そして、ひととおりの検屍《けんし》がすむと、さっそくこの矢田貝博士邸の一室を、そのまま捜査本部として、ふたりは密談をつづけているのだった。 「まずだいいちに、あの蝋人形ですね。あれは犯人の予備行動であったとしたらどうでしょう。つまり、いまにおまえをこういうふうに殺してやるぞと、いわば犯人の予告だったんですね」 「なるほど、それでわざと、矢田貝博士の胸にあるのとおなじような刺青を、人形の胸にほどこしておいたというのだね。しかし、それにしても妙じゃないか。犯人はどうしてその人形が、この邸《やしき》のしたに流れよることを知っていたんだね。ひょっとしたら、蝋人形はこの家のものの眼にふれないで、そのまま河下のほうへ流れていったかもしれないじゃないか」 「いや、それはあなたが、河の流れの性質というものをご存じないからです。水というものはでたらめに流れているものじゃありません。その流れの方向には、かならず一定の法則があるはずです。だから、この河上の、ある一定の地点から流したものは、かならずこの邸のしたへ流れつく、とそういうことを犯人はちゃんと知っていたにちがいありませんよ」  俊助はそういいながら、ふとマヨネーズ・ソースの空瓶のなかに封じこまれた、一輪の薔薇の花のことを思いだしていた。 「なるほど、それは考えられないことはないね。そうするとわれわれはまずだいいちに、その地点をさがしだせばいいことになる」 「そうなんです。それであなたとふたりで、これからさがしにいこうと思っているんですがね。畜生、このいまいましい霧雨のやつめ、早くやめばいいのに」 「いや、そうときまれば雨ぐらいに恐れているわけにはいかん。しかし、あの猫だね、あれはいったい、どういうわけだね。やはりおなじところから流されたのだろうか」 「むろん、そうでしょう。とにかくあの猫は、犯罪の現場にたちあっていたにちがいありませんよ、被害者の手の甲にのこっている鋭いかき傷からみてもね。しかし、どうして猫がそこへいったのか、むろん、ひとりでいくはずがないから、だれかが連れていったにちがいありませんが、だれが、なんのために、連れていったのか、その点になるとさっぱりわかりませんね」 「そうそう、あの猫はここの飼い猫だったね。畜生、あいつが口をきいてくれれば、ぞうさなくかたがつくんだがな。猫と蝋人形か、どちらも口をきかぬ証人ときてやがる」  雨は小降りになるどころか、ますますはげしくなって、ひろい河のおもては、降りしきる霧雨の、鉛いろの水滴のなかに模糊《もこ》としてとじこめられていくのだった。 「とにかく、こんなところで小田原評定《おだわらひようじよう》していてもはじまらん。日の暮れぬうちに、犯罪の現場をさがしにでかけようじゃないか」 「よろしい。そういうことにしましょう」  しかし、それからまもなく、小舟を用意させて、雨合羽《あまがつぱ》に身をかためたふたりがとびのったころには、大川のうえはすっかり雨の日の、暮れるにはやいたそがれのいろにつつまれていた。  船頭に命じてなるべくゆっくりと河をこぎのぼっていく。やがて時刻になったのであろう。両岸の町にパッといっせいに灯がついて、はるかかなた、両国のほとりには、国技館の大ドームの灯が、王冠にちりばめた宝石のように霧雨のなかにポーッとけむっていた。  舟は清洲橋をすぎ、新大橋をくぐると、浜町河岸にそってしだいにこぎのぼってゆく。俊助と等々力警部のふたりは、眼を皿のようにして、河岸の家を一軒一軒のぞいていったが、べつに怪しいところもみられないのである。 「こりゃたいへんだ。これだけたくさんある家を、軒別に調べて歩くとしたら、とてもやりきれない」 「まあ、もうすこしの辛抱です。ぼくはどうもこのへんじゃないかと思うのですね。ごらんなさい。ここからこうして河下をみると、新大橋から清洲橋のあいだで河がいちじるしく東のほうへ迂廻《うかい》しているでしょう。しかもそのでっぱなへもって、深川のほうから小名木川《おなぎがわ》が流れこんでいる。だから、このへんからものを流せば、小名木川の水流に押されてちょうど、中洲《なかす》あたりに漂いよるという寸法になるのですよ。——おや、あの家《うち》はどうしたのだろう」  俊助がとつぜん、警部の腕をつかんだ。  そこは矢の倉なのである。河の流れとすれすれに平家建ての座敷がせりだしているのだが、この小雨で、どの家も雨戸か障子をべったりとしめきっているのに、その座敷だけは雨戸も障子もあけっぱなし。いや障子をひらいているのではなくて、はずれて、縁側の手すりにたおれかかっているのだ。 「すこし妙ですね。もう少しそばへよってみましょう」  舟をこぎよせて、なかをのぞきこんだ警部と俊助のふたり、いちようにあっとばかり低い叫び声をあげた。座敷のなかは落花狼藉《らつかろうぜき》のありさまなのだ。  襖《ふすま》は破れ、ちゃぶ台はひっくりかえり、瀬戸物の破片がいちめんにとびちって、そのなかに、笠のこわれた裸電球《はだかでんきゆう》がしらじらと天井《てんじよう》からブラさがっている。とつぜん、俊助は低い叫び声をあげた。 「あれ、あれ、猫の足跡じゃありませんか」  なるほど、畳のうえに、梅の花をちらしたように点々とついているのは、まぎれもなく猫の足跡だった。しかもそれはどうやら、血に染まった足跡らしいのだ。 「よし、この家《うち》だ!」  ふたりは欄干に手をかけると、勇躍して舟から座敷のなかへかきのぼった。座敷へはいってみると、いよいよ、ここが犯行の現場であることが明瞭《めいりよう》である。猫の足跡のほかにも、畳のうえにひとすじ、血の跡がスーッと河にむかった縁側のほうにつづいている。屍体を引きずったときについた跡らしいのである。 「やっぱりこの家《うち》ですね。ここで殺人がおこなわれたのですよ」  俊助は恐ろしい部屋のなかの惨状を、ひとわたりみまわすと溜め息をつくようにそういった。  かなり時代がかっていたけれど、ちょっと気のきいた八畳敷きの座敷で、数寄《すき》をこらした床《とこ》の間《ま》から床脇《とこわき》、欄間《らんま》にかかっている額《がく》など、いかにも風流なかくれ住居《ずまい》といったあんばいなのである。 「ふむ。そうらしいね。そして、その惨劇の現場には、あのパールという猫もいあわせたにちがいない」  と、等々力警部は点々たる梅花の足跡をみながら、 「それにしても妙だね。この家《うち》にはほかにだれもいないのだろうか」  と、いいかけて急にギョッとしたように、 「や、あれはなんだ!」  と、くるりと俊助のほうを振りかえった。そのとき、どこからともなく、かすかなひとのうめき声がきこえてきたからである。 「だれかいるのですね。あ、あの押し入れのなかだ」  俊助ががらりとそばの押し入れをひらいた。と、どうだろう。なかにはひとりの老婆が猿ぐつわをはめられ、体じゅうがんじがらめにしばられて、まるで炭俵《すみだわら》のように投げこまれているのである。 「や、や、これは!」  と、驚いた等々力警部、とびつくようにしてその老婆を引きずりだすと、 「三津木君、そのいましめをといてやりたまえ」 「おっと、承知!」  俊助は扱帯《しごき》をつなぎあわせたそのいましめの、結び目をときにかかったが、なにを思ったのか、ふいにハッとしたように顔色をかえた。が、すぐ思いなおしたように、ちらと警部の顔色をぬすみみながら、なにげないていで、すばやくそのいましめをといてやったのである。  等々力警部はそんなことには気がつかない。いましめがとけるとすぐ老婆のほうにむきなおった。    緒方絃次郎 「婆《ばあ》さんはこの家《うち》のものかね」  婆さんをとらえて、等々力警部がボツボツと質問にかかるのである。 「はい、わたくしこの家《うち》のあるじでございます」 「名前は?」 「高橋もとと申します」 「いったい、どうしてこのようなことが起こったのだね」 「わたくしにはさっぱりわけがわかりません」  婆さんは部屋のなかをみまわしながら、さも恐ろしそうに肩をすぼめるのだ。 「わけがわからない? それはいったいどういうことなんだね」  婆さんはじっと考えこむような眼つきをしながら、それでも警部の質問にこたえて、ボツボツ話しだしたところによるとこうである。  おもと婆さんはこの家《うち》にたったひとりで住んでいたが、一ヵ月ほどまえに、ひとりの紳士がやってきて、河ぞいの部屋を貸してもらえないかという話なのである。  部屋代もそうとうのものであったしそれに、いかにももの静かな、好感のもてそうな人物だったので、婆さんは一も二もなく承知した。紳士はべつにこの家に住むわけではなく、気ばらしにときどきやってきて、大川の流れをみて、ぼんやりと骨休めをしたいのだという話だった。  はたしてそれからのち、紳士は一週間に二度ずつぐらい、いつも夜やってきて、この座敷で一時間か二時間、ときを過ごして帰っていくのだった。 「それで、その紳士の名はなんというんだね」 「さあ、それが……」  と、婆さんはいかにも困ったように、 「お名前をついうかがってございませんので」 「なんだ、名前をきかずに部屋を貸したのか」 「はい、妙なようですけれど、べつに怪しいようなお人柄ではございませんでしたし、それにここへお住まいというわけでもございませんので……」 「ふむ、よしよし、いずれそのことはのちほど、もっとくわしくきこう。ところで昨晩きたのは、その紳士だったのかね」 「さあ、それがよくわかりませんのですけれど、どうやら別人のようでございました」 「そこのところを、もうすこしくわしく話せないかね」 「ええ、お話しますけれど、ほんのすこししか申し上げることはございませんのですよ。あれは夜の八時ごろのことでございましたかしら、いつものように玄関の格子をたたいて、婆さん婆さんと呼ぶかたがあるもんですから、てっきり、いつものかただとばかり思って、格子をひらきましたところが、あなた……」  と、婆さんはいかにもくやしげに、 「くろい襟巻《えりまき》で顔半分つつんだ男でして、それがいきなりわたくしにおどりかかって、ほら、このように」  と、青く血ぶくれになった額《ひたい》をみせながら、 「なにやら太いものでドシーンとなぐりつけたものですから、わたくし、そのままくらくらとたちくらみをしてしまって、それきりあとのことはなにがなにやらさっぱりおぼえておりませんので。……こんなくやしいことはございません」 「なるほど。それじゃ、それからあと、どんなことが起こったのか、ちっとも知らないというんだね」 「はい。まるっきり存じません。なにしろ、気がついたのは真夜中すぎのことで、そのときには、このように手足をしばられ、猿ぐつわをはめられて押し入れのなかに放りこまれておりましたので。……家《うち》のなかはもうシーンとしずまりかえっておりました」 「ところで、この部屋を借りた男だが、いったいここでなにをしていたようすだったかね」 「さあ、べつになにということもなく、いつもうちしずんだようすで河のおもてをながめていらっしゃいましたようですけれど……」 「その男はゆうべ来たようすがあるかね」 「さあ……」  婆さんは首をかしげながら、 「よくは存じませんけれど、ちょうどゆうべはいらっしゃる晩になっておりましたから……」 「ところで、婆さんの家《うち》には猫がいるのかね」 「猫? いいえ、わたくしは猫はだいきらいなもんでございますから」  これらの応答のあいだ、部屋のなかをさがしまわっていた俊助《しゆんすけ》は、床脇《とこわき》のちがい棚《だな》のかげから五、六本のマヨネーズ・ソースの空瓶をみつけだしていた。  その二、三本には、紅《くれない》の薔薇の花が封じこめてあるのだ。 「おばさん、この空瓶はその紳士がもってきたものかね」 「さあ、たぶんさようでございましょう。わたくしいっこうに……」  と、いいかけて婆さんはハッとしたように口をつぐんだ。  そのとき、玄関の格子をたたく音とともに、 「婆さん、婆さん。——」  という低い声がきこえたからである。 「あっ、あのかたが……」 「しっ!」  俊助は等々力警部とすばやい視線をかわすと、 「いいから、ここへお通し。わたしたちがいることをけどられちゃいけないよ」 「はい」 「婆さん、婆さん、ここをあけておくれ」 「はい、ただいま。——」  婆さんはブルブルと体をふるわせながら、うすぐらい玄関のほうへでていったが、やがてガラガラと格子をひらく音。 「いやな雨だね。婆さん」 「さようで、——」  と、そんな声がきこえて、三和土《たたき》のうえに靴《くつ》をぬぐ音、やがてしめった畳をミシミシと踏んで、ひょいと奥座敷のあかるい裸電球《はだかでんきゆう》のしたに、あらわれた紳士の姿をみるやいなや、俊助はぎょっとしたように叫んだ。 「や、や、緒方絃次郎君!」  まことにそれは、通子のさいしょの恋人、緒方絃次郎だった。    悲恋薔薇流し 「それで、兄さん、緒方さんはなんていってらっしゃいますの」 「緒方君はね、ぜんぜん犯行を否認しているんだよ。しかしね、犯人というものはだれでもさいしょは、あたまから否認したがるものだからね」  俊助はいたましそうに、やつれはてた妹のおもてから眼をそらした。良人のおそろしい最期、しかもその殺人の嫌疑は、彼女のさいしょの——いや、おそらく彼女のただひとりの恋人のうえにかかっているのだ。しかも、その恋人を警部の手に引き渡すようなはめにしたのは、みんな俊助のよけいなおせっかいのためだった。俊助はそれを考えると、この妹の顔がかわいそうで、とても正視できないのである。 「まあ、それじゃ兄さんも、緒方さんがほんとうに犯人だとお思いになって?」 「いや、ぼくには信じられないんだ。ぼくはあの男を子どものときからしっているけれど、とても人殺しなんか出来るような男じゃない」 「ならいいじゃありませんか。それだけで、じゅうぶんですわ。ねえ、兄さん、おねがいだから緒方さんを救ってあげてちょうだい」 「そりゃ、ぼくも救ってやりたい。しかし、検事はぼくのような考えかたはしてくれないからね。それにいろいろ不利な証拠もある」 「証拠って、どういう証拠でございますの」 「だいいちに、緒方君はなぜ必要もないのに、あんなところに間借りをしていたか。……」 「ああ、そのことなら、兄さん」  通子はふいにたちあがって、かたわらの洋箪笥《ようだんす》の観音《かんのん》びらきのドアをひらくと、 「兄さん、これをみてちょうだい。緒方さんはこの贈り物をわたしにくださるために、わざわざ河上の家に間借りなすったのですわ」  みればその戸棚のなかには、十本あまりのマヨネーズ・ソースの空瓶がならんでいるのだった。しかも、そのなかには、どれにも一輪ずつ、紅の薔薇が封じこめてあるのだった。 「兄さん、わたしが悪かったのです」  通子はハラハラと流れ落つる涙を、ハンカチでぬぐいながら、 「このあいだ兄さんに、緒方さんには一度もお眼にかからないと申し上げたけれど、あれはうそでした。ふたつきほど以前に、たった一度、それも偶然、あるところで会ったのです。そのときわたしは出来るだけ、じぶんの不幸をうちあけないようにしたのですけれど、緒方さんはひとめで、それをお察しになりました。良人が吝嗇で冷淡なことや、陰険で、嫉妬深いことなどをちゃんとしっていらしたのです。そして、そののちも、ときどき会ってくれとおっしゃいましたけれど、わたしはむろんキッパリお断わりいたしました。良人が怖かったばかりではなく、会えばいよいよせつなくなるばかりですもの。それでは文通ぐらい許してくれとおっしゃったのですけれど、それもお断わりしました。するとそれからしばらくしてふいに緒方さんから手紙がきて、せめてもの心やりに、河上から薔薇を流すゆえ、この贈り物だけは受け取ってくれ。——とおっしゃって、わたしそれもキッパリお断わりすればよかったのですけれど、あまりの真実についほだされて、心弱くも一度、二度と、あの空瓶を拾いあげたのが悪かったのですわ。それにしてもなんというふしぎなことでしょう。ひろいこの大川のなかで、まちがいもなく、この家のしたに流れよるのも、緒方さんの熱いお志ゆえと思えば、わたしいっそう、お気の毒で……お気の毒で。……」  通子はそういって、よよとばかりむせび泣くのである。  俊助も思わず瞳《め》をうるませた。なんというあわれな物語だろう。結ばれることをゆるされなかった、この不幸な、悲恋の男女の心情を思いやると、さすがの俊助も暗然とせずにはいられないのだ。 「なるほど、あの封じ薔薇にはそういう意味があったんだね。しかし、通さん、それだけのことではまだまだ緒方君を救うわけにはゆくまいよ。いやいや、こういうことが警察の耳にはいれば、はんたいに疑いはますます濃厚になるばかりだ。それにね、通さん、緒方君にとって、まことに不利な証拠があがっているんだよ」 「証拠ですって?」 「そうだ。矢田貝さんの屍体はね、しっかりと洋服のボタンを握りしめていたんだが、そのボタンというのが、緒方君のものなんだよ」 「まあ!」  このほとんど決定的というべき証拠に、通子はおもわず、真っ青になって、うめき声をあげた。 「そして、そして、そのことを緒方さんはなんといってらっしゃいますの」 「なんでもね、あの晩、緒方君はあの河ぞいの家で、矢田貝さんに会ったんだそうだよ。矢田貝さんは緒方君を面罵《めんば》したあげく、はてはつかみかかってきたんだそうだ。緒方君はうまくそれをあしらって逃げだしたそうだが、たぶん、そのときにボタンをもぎとられたんだろうといっている」 「緒方さんがそうおっしゃったのですか。それならそれにちがいありませんわ。だってあのかたはけっしてうそをおつきにならないかたですもの」 「むろん、ぼくは緒方君を信じるさ。しかしね、緒方君があの家をでたあとまで、矢田貝さんが生きていたという証拠はどこにもないのだ。ただね、ここにふしぎなことは、あの蝋人形だよ。あの蝋人形の出所《でどころ》を調べたところが、なんと、あれをさるモデル商から買いとっていったのは、どうやら矢田貝博士自身らしいのだよ」 「まあ! 良人が? だってそれはどういうわけでしょう」 「よくわからない。それがわかればこの謎はとけるんだ。それからあの猫だね。だれが、どういうわけで、パールを犯罪の現場に連れていったのか。そこに、おそろしい秘密がありそうな気がするのだがね」  深い沈黙がふたりのあいだに落ちてきた。不安と恐怖のいりまじった、息づまるような、せつない沈黙なのだ。通子はじっと唇をかんで、床《ゆか》のうえの絨毯《じゆうたん》をながめている。絨毯の花模様が、みるみるうちに霧でぼかされるように、うっすらと涙ににじんでゆくのである。    片眼の猫  世の中はなにがさいわいになるかわからないものである。もしこのとき一匹の鼠が、この矢田貝家の客間にあらわれなかったら、この驚くべき秘密は永久に、五里霧中のかなたにとざされていたかもしれないのである。俊助と通子のふたりが、黙然として考えこんでいるとき、とつぜん、一匹の鼠が、客間へ逃げこんできた。そしてそのあとを追って、おどりこんできたのは、通子の愛猫パールなのである。  猫におわれた鼠は、思いがけなくもここにまた人間の姿をみとめて、狼狽のあまり、長椅子のうしろへ逃げこんだ。不幸にも鼠よりも体の大きいパールは、そこまでおっかけていくことが出来ないのである。しかし鼠をねらう猫には、驚くべき忍耐力が神よりあたえられている。  パールはうすぐらい長椅子のそばにうずくまったまま、じっと椅子のしたをにらんでいたが、その眼をみたとき、とつぜん俊助がぎょっとしたように叫んだ。 「通さん、あれはどうしたのだ。あのパールの眼は……」 「えっ、パールの眼ですって?」 「ほら、ごらん、かたっぽうの眼はあんなにギラギラ光っているのに、いっぽうの眼はまるでガラスのようにどんより曇っているじゃないか」  そういわれて、パールの眼をのぞきこんだ通子はぎょっとしたように、椅子の両腕を握りしめた。ああなんという気味の悪いことだ。雨もよいのうすぐらい部屋のかたすみに、片眼の猫がぶきみな静けさをたもちつつ、じっとうずくまっているのである。 「ああ、そういえば、このあいだ河上から流れてきたとき、パールは左の眼にひどいけがをしておりましたわ」  そのせつな、俊助の頭にはさっとおそろしい考えがはいってきた。矢田貝博士の屍体にあったおそろしい猫の爪あとが、いま、まざまざとかれの眼のまえに浮かんできた。あの爪あとはいったいどういう意味であったろう。そしてまた、パールはどうしてあの犯行の現場へ連れられていったのであろうか。 「通さん、パールをつかまえておくれ。パールを。……」 「兄さん、パールがどうかして?」 「なんでもいいから、はやく、はやく!」  俊助はとても興奮しているのである。  通子はその意味をハッキリとさとることは出来なかったが、急に、おびえたような眼をしながら、さっとパールの体を膝《ひざ》のうえに抱きあげた。 「じっと、おさえていておくれよ。すこしあばれるかもしれないから……」  そういいながら、俊助はやにわにパールの左の眼に指をつっこんだ。と、思うとそのとたん、ああなんという気味の悪いことだろう。猫の眼がポロリと床のうえに落ちたのである。 「あっ!」  と、叫んだ通子が、パールをおさえていた手をはなすのと、俊助が床のうえに躍りかかってその眼玉を拾いあげるのと、ほとんど同時だった。 「通さん、義眼だ。ガラスの眼玉だよ」 「まあ、どうしてそんなものが……」 「待っておいで、いまにわかる。ああ、恐ろしい、なんという恐ろしい秘密だろう」  おののく指先でガラスの眼玉をいじくっていた俊助は、とつぜん、勝ちほこったような叫び声をあげた。 「あった、あった!」  俊助が引っぱりだしたのは、ガラスの眼玉のなかに小さく畳みこまれていたうすっぺらなしわくちゃの紙きれなのである。大急ぎでそれをひらいてみると、まずだいいちにふたりの眼にうつったのは、 「三津木俊助への挑戦」  と、いう文字なのである。 「矢田貝の筆跡ですわね」 「そうだ、読んでみよう」  ふたりはわくわくする四つの眼をそろえて、そのうすっぺらな紙きれのうえを大急ぎで読んでいった。  ああ、それはなんというふしぎな、そして、また邪悪と執念にみちた遺言であったろうか。  ——三津木君、おれは自殺する。医者はおれを癌《がん》だと診断した。おれの生命は、あと一年とはもたないのだそうだ。癌がどんなにみじめな病気だか、おれも医者だ、しりすぎているほどしっている。  ——このおそろしい病気のために、じりじりと生命を縮められてゆくよりは、おれはむしろひと思いの自殺をえらぶ。しかし、ただでは死なない。君の妹と、その愛人を道連《みちづ》れにしてやろうと思うのだ。  ——ああ、一週間に二度ずつ河上から流されてくる薔薇の花を、通子がたいせつにしまっているのを発見したとき、おれの心はどのように憤りに燃えたったことであろうか。そのしゅんかん、おれの理性は一瞬にして狂ってしまった。そしておれはおそろしい復讐《ふくしゆう》の鬼と化してしまったのだ。  ——おれは自殺する。しかしただの自殺ではない。通子の恋人緒方絃次郎に殺害されたようにみせかけねばならない。そして、あの男を地獄の道連れにしてやるのだ。  ——だが、だが、それだけではおれの腹はまだいえない。そうだ、おれのこのおそろしい死にざまを通子の眼のまえにつきつけてやろう。そしてこのものすごい記憶によって、永久に通子を呪ってやらねばならぬ。  ——しかし、そうするにはどうすればいいのだろう。なあに、ぞうさはありやしない。この邸のしたはふしぎにも河の流れの関係で、あらゆるものが流れよるようになっているのだから、おれの屍体も河上から流れてくるようにすればよいのだ。  ——ああ、なんというすばらしい思いつきだ。朝起きて、通子が薔薇の花をひろいにでる。そのときゆらゆらと流れよるおれの屍体を発見したら、どんなに驚くことだろう。  ——しかし、おれはなんだか不安だった。はたしておれの体がうまく、この邸のしたに流れよるであろうか。空瓶のような小さなものは流れよるにしても、屍体のような大きなものは、そのまま河下まで流れていってしまいはしないだろうか。  ——だが、その心配はなかった。おれは蝋人形をつかってためしてみたのだ。人形はぶじにこの邸の下へ流れよった。ああ、この蝋人形とおなじように、やがて、おれの冷えきった屍体も、この邸の下に流れよって、通子をおびやかすことだろう。ああ、なんといういい気持ちだ。  ——しかし、おれはなぜこんな遺書を書いておく気になったのか。三津木君、きみはおれの性格をよく知っているはずだ。おれは万事、公明正大にやりたいのである。ひとつもほんとうの証拠を残しておかないなんて、卑怯なやりかたはおれの好まぬところなのだ。  ——君がほんとうに世間の評判どおり、敏腕の新聞記者なら、屍体とどうじに、河上から流されたパールに疑惑をもつだろう。そしてこの遺書を発見して、きみの妹と親友を救うことが出来るだろう。そうなったらおれの負けだ。でも、おれはあえて後悔はしないつもりだ。  ——きみがもし、世間の評判をうらぎって、この遺書を発見出来なかったら、——そのときはきみの親友は絞首台へおくられ、きみの妹はおそらく悲しみのあげく、発狂するだろう。しかも、恋人を救う鍵《かぎ》はつねに彼女の身辺《しんぺん》に徘徊《はいかい》しているのだから、なんという皮肉なことだろう。  ——万事はうまくいった。おれはいま、緒方絃次郎の秘密の隠れ家にいてこの遺書を書いている。おれの心臓は、よろこびのためにふるえているのだ。あとはこの遺書を義眼のなかにいれて、パールの眼玉にはめこむだけのことだ。それには、おそらくちょっとした手術を必要とするだろう。しかし、そんなことは外科専門のおれにとっては、ぞうさないことだ。そして万事うまくいったら、パールを空箱にいれて流すとともに、おれじしん、みずから心臓をつらぬいて河中に投身しよう。  ——さあ、三津木君、きみがうまくこの遺書を発見して、きみの妹と親友を救うことができるだろうか、草葉のかげとやらでよくよくながめていてやろう。  自殺の直前にあたって矢田貝三郎しるす。    意外な結末 「婆さん、おまえさん、このぼくをおぼえているかね」 「はい、よくおぼえております。いつぞやわたしをお救いくださいました、あなたはたしかに三津木俊助さま」 「そうそう、その三津木俊助だよ。ところでどうやらあの矢田貝さんの殺人事件も意外な結末によって、解決がついたようだが。……」 「はい、新聞で拝見しまして、たいへん結構なことと思っております。それもこれも、みんなあなたさまのおてがらで。……」 「と、いうわけでもないが、まあ、ぶじにだれにもきずがつかずにおさまったのはいいことだと思っているのだが——ところで婆さん、きょうぼくがきたのは、ちょっと婆さんにたずねたいことがあったのでね」 「はい。と、おっしゃいますと。——」 「いつかの日だね。ぼくが婆さんのいましめをといてあげたとき、ちょっと妙なことに気がついたのだよ。婆さん、あの結び目はひとが結んだのじゃなかったね。婆さん、あれはおまえさんがじぶんで結んだのだろう?」 「え!」 「これさ、なにもそう驚くことはないのだよ。ぼくはいままでだれにもそんなことをしゃべったおぼえはないのだよ。つまりこのひろい世間にこの秘密を知っているのは、かくいう、三津木俊助ただひとりしかないのだ。だから婆さん、なにも心配することはない、ねえ、あのいましめは矢田貝さんがやったのではなく、婆さん、あれはおまえさん自身で、ああいう狂言をやってのけたのだろう?」 「はい。あの、それは。——」 「いやいや、なにもそんなにおびえたり、怖がったりすることはないのだ。婆さん、それにぼくはもっといろんなことをしっているのだよ。おまえさんのひとりむすこが、矢田貝博士の軽率な手術で死んだこともね」 「え?」 「それから、おまえさんがそれをうらんで、矢田貝博士に脅迫状めいた手紙を送ったことも——」 「ああ!」 「婆さん、さあ、ぼくに話しておくれ。矢田貝博士は自殺したのじゃなかった。ね、婆さん、おまえさんの手でやったのだろう」 「あッ、おそろしい、お許しくださいまし。お許しくださいませ。てんとうさまは、やっぱりお見通しでいらっしゃる。はい、それにちがいございません。矢田貝さんはたしかにわたしが殺したのにちがいございません」 「ありがとう。よくいってくれたね。それでは、そのときのことをもうすこしくわしく話してみておくれでないか」 「はい。こうなればなにもかも申し上げてしまいます。いつか、くろい襟巻で顔半分をかくした男が、いきなりわたくしにおどりかかって、なにやら太いものでドシーンとなぐりつけた。——というところまではたしかにお話し申しましたね」 「ああ、そこまではきいたよ。そして、婆さんはそれで気絶してしまったのだったね」 「さようでございます。そこまではほんとうなのでございます。しかし、それからまもなく、わたくしは気がついたのでございます。気がついてみると、——」 「気がついてみると?」 「気がついてみると、まあ座敷のなかはめちゃくちゃじゃございませんか。そこらじゅう血だらけで。——いまから考えますと、そのあいだに緒方さんがいらしたらしいのでございますが、そこまではわたくしも気がつきませんでした。——とにかく座敷のなかのありさまにびっくりして顔をあげますと、ひとりの男が河にむかってなにやら流しているようすでございました。そしてそいつがひょいとこちらを向いたときのわたしの驚き! つねひごろ憎い憎いと思っていた、あの矢田貝博士じゃありませんか」 「ふうむ。なるほどね」 「わたくしが矢田貝博士をおうらみ申し上げるのは、けっして筋のないことではないのでございます。わたくしだってお医者さまが神さまでないことはよく存じております。手術のあやまちというのも、まあいたしかたないとあきらめもします。むすこは盲腸炎でございました。そしてそれを切りとっていただいたのでございますが、その手術のさい、矢田貝先生はお酒に酔っていらしたのだそうで、むすこのお腹のなかにガーゼを忘れたまま縫合《ほうごう》されたのでございます」 「ほほう、そいつはひどい!」 「それを看護婦からきいたとき、わたくしくやしゅうございました。たったひとりのかけがえのないむすこですもの。でも、これも災難だと思って、あきらめようとしました。もし矢田貝先生がすなおにあやまってさえくだされば……」 「矢田貝さんはどういったのだね」 「わたくしをいいがかりをつけるのだの、強請《ゆすり》だのとおっしゃるのでございます。あげくのはてには人相のよくない男をよこしまして、もしこのことを黙っていなければ、ただではおかぬとおどかすのでございます」 「ふうむ。そいつはひどい!」 「そのくやしさがあったものですから、わたくし、あのとき、矢田貝さんの顔をみるとくゎっとしました。それでも、しばらくは怖さのほうがさきにたって、しばらく気を失ったふうをしてようすをうかがっていますと、矢田貝さんはナイフを取り出してじぶんの胸を突こうとするのでございます」 「しかし、けっきょく、突くことは出来なかったのだろう」 「はい、そのとおりでございます。なんどもなんどもそうしていらっしゃいましたが、けっきょくのところ、その勇気が出ないようでございました。そこでわたくしが急に立ちあがると、そのナイフをもぎとって、ひとつき——」 「突いたのだね」 「はい」 「いや、よくわかったよ。婆さん、ありがとう。よく話してくれたね。ではこれでさようなら。いっておくがね、婆さん、この話は婆さんとぼくのほかにはだれひとり、しっているものはないのだから、今後はだれにもしゃべらないようにしたほうがいいよ」 「まあ! それではあなたさまは——」 「婆さん、ぼくは新聞記者であって警官ではないのだからね。しっていることをなんでもかんでも、世間に発表しなければならぬという義務はないのだ。婆さん、悪かったと思ったら、矢田貝さんのために、線香の一本もたててあげるんだね」 「あ、ありがとうございます」 「なにもぼくに礼をいうことはないのだよ。ぼくのほうこそ婆さんにお礼をいいたいくらいだ。婆さんのおかげで可哀《かあい》そうなふたりの恋人同士が救われたのだからね。では婆さん、さようなら、なにもかも忘れておしまい。忘れてよく眠るんだよ。ごらん、今夜はまたべらぼうにいい月夜じゃないか。いやな梅雨《つゆ》のあとには輝やかしい夏がくる。さあ、なにもかも忘れておしまい。忘れておしまい」 [#改ページ] [#見出し]  白蝋少年    悪 夢  ゾーッと身ぶるいがでるほどの美少年なのだ。  両手を胸に組みあわせ、眼《め》をみひらいたまま大きな白木の棺《かん》のなかに寝ているその少年の美しさには、どこか世のつねならぬけはいがあった。  年齢は十六、七、肌《はだ》のなめらかさはまるで蝋石《ろうせき》のようだ。白い額《ひたい》には栗色の髪の毛がふさふさと波打ち、すんなりとしたギリシャ型の鼻、えぐられたような双のえくぼ、いま薄化粧《うすげしよう》を終わったばかりの唇《くちびる》は、さながらにおいこぼれるばかり、みればみるほど、歯ぎしりがでるような美少年だが、それでいて、どうかすると氷のような冷気が、フーッと骨の髄までしみとおりそうになるのは、それもどうり、この少年は生きているのではなかった。  だいいちその眼をみるがいい。頬《ほお》は、唇は、いろあざやかに化粧されているけれど、あらそわれないのはふたつの瞳《ひとみ》、そればかりは死魚の眼のようにドロンとにごっている。  ああ、それにしてもなんという気味悪さ。  白い屍衣につつまれた少年がいま静かに身を横たえているのは、大きな白木の寝棺ではないか。この少年は死んだのだ。そしてきょうはお葬いがおこなわれたのだ。それだのに、だれが棺をこじあけたり、死人の顔に薄化粧したりしたのだろう。  時刻は俗にいう丑満時《うしみつどき》、うすぐらい部屋のなかには、深沈たる妖気が漂うている。  ——と、そのときふいに棺のそばからはげしい歔欷《すすりなき》の声がきこえたかと思うと、赤茶けた畳のうえから、むっくりと顔をあげたのは、真赤に眼を泣きはらした二十五、六の、縮れっ毛の醜い女。女は棺のふちに手をかけて、しげしげと美少年のえくぼに眼をやったが、と、またしても泉のように涙があふれてくる。  わかった、わかった。この美少年の屍体を盗みだし、棺をこじあけ、その顔に薄化粧をほどこしたのはみんなこの醜女のしわざらしい。  女はあふれおつる涙をぬぐうと、思いだしたようにふところから手紙をだしてみる。それはもうなんども読みかえされたものとおぼしく、涙ににじんでしわくちゃになっている。女は丹念にそのしわをのばすとむさぼるように読みだした。  ——先生、ぼくは殺されます。  と、その手紙はそういうおそろしい文句をもってはじまっているのである。  ——先生、ぼくは殺されます。ぼくを殺したひとたちは、きっとぼくの死を自然死のようにみせかけるでしょうが、どうぞ先生だけはごまかされないでください。ぼくは殺されるのです。義兄《あに》か義姉《あね》の手によって殺されるのです。  ——思えばぼくはなんというふしあわせな人間でしょう。先生のご存じのとおり、ぼくは妾腹《しようふく》にうまれた人間です。そして十二歳のときに母を失ったぼくは、うまれてはじめて、父、鵜藤《うとう》俊作《しゆんさく》の家に引きとられたのです。  ——それからのちのぼくのみじめさ! さすがに父はこのぼくを、眼のなかへいれても痛くないほど可愛がってくれましたが、それがかえっていけなかったのです。その家には先生もご存じのとおり、ぼくとは腹違いの義兄と義姉とがありました。  ——このふたりがぼくをどのように虐待したか、いま思いだしてもゾッとする。しかし、父が生きているあいだはまだよかったのです。半年ほどまえにその父が急死してからというものは、ぼくの生涯は地獄でした。いつかぼくは先生に、体じゅうに出来た紫色のあざを発見されたことがありましたね。あのときぼくはハッキリとお答えすることが出来ませんでしたが、いまこそ申し上げます。あのあざこそ義兄や義姉にいじめぬかれた記念なのです。  ——先生、緒方もと子先生、ぼくはいまくわしいお話をしているひまのないのを残念に思います。しかしどうかぼくの言葉を信じてください。そして出来ることならぼくのかたきを討ってください。先生こそぼくの生涯において、ただひとりぼくを愛してくだすったかたですもの。——  女はそこまで読むとわっと声をあげて泣きだした。肩をふるわせ、胸をかきむしり、涙がかれるほど泣いた。 「鮎三《あゆぞう》さん、鮎三さん、わかったわ、きっとあなたのかたきを討ってあげてよ。でも、あたしうらみだわ。こんなことがあるなら、なぜ先生にうちあけてくださらなかったの。こうとしったらどんなことがあろうとも、あなたを殺しはしなかったのに。ああそれがうらみだ、残念だわ」  女は狂気のようにかきくどき、白い屍衣の胸をひろげると、斑々たる紫色のあざに唇をおしつけ、うわごとのように復讐を誓うのだった。  雨戸の外ではごーッとものすごい風の音。……    芳香を放つ屍体 「三津木君、お休みのところを起こしてすまないが事件だ。ひとつはたらいてもらえないかね」  あけがたごろのこころよい夢を、編集長からの電話でたたき起こされたのは、おなじみの新日報社の花形記者三津木俊助。  この物語の冒頭にかかげたあの悪夢のような事件があってから、ちょうど一週間のちのこと。  俊助は電話のおもむきをききとると、帽子《ぼうし》をたたきつけるようにして、下宿からとびだしていた。  ゆくさきは深川の木場、事件は殺人事件という。  あけがたの寒さが氷のように身にしみるが、そんなことを気にかけてはいられない。編集長の語気から、なにかしら異常なにおいをかぎつけた俊助は、猟犬のようにはりきっている。  深川は土地がひくくてむかしは洪水が名物だった。  縦横《たてよこ》に開鑿《かいさく》された掘り割りからは、湯気のように白い靄《もや》がたちのぼって、凍てついた大気は一枚の板のようにピーンとそりかえっている。  その掘り割りの縁《ふち》にわらわらとむらがっている警官たちの姿を見つけた俊助が、おもわず足を早めていくと、 「やあ、三津木君、あいかわらず耳が早いな。ほかの社の連中はまだだれもきてやしないぜ」  と、白い歯をだしてふりかえったのは、俊助とは莫逆《ばくぎやく》の友、警視庁の等々力警部《とどろきけいぶ》。 「おはよう。殺人事件だってね。どれどれ、ぼくにも検分させてくれたまえ」  新聞記者の無遠慮さ。警官たちのあいだに割りこんで、一瞥《いちべつ》、掘り割りのなかをのぞきこんで俊助。 「わっ、なんだ、こりゃ心中じゃないか」  なるほど、俊助が心中と早合点したのもむりはない。どろんとよどんだ水のうえに、ぶかぶかと浮かんでいるのは、紅紐《べにひも》で腰をつないだ男女二つの屍体ではないか。 「ふふふふふ、とんだ心中だ。三津木君、ねぼけまなこをこすってよくみたまえ」  意味ありげな警部の言葉に、よしとばかりに、水に浮かんだ材木のうえにとびおりた俊助が、しさいにあらためてみるとなるほど妙だ。  女のほうはとしごろ二十六、七、縮れっ毛の醜婦で、これではいかに新聞記者が曲筆するとも、おせじにも美人とはいいがたい。それにはんして男のほうは、年齢は十六か十七か、みるもまばゆいほどの美少年、草色の洋服を着て、濡れた額に、べっとりと長い髪の毛が吸いついているところは、気味悪いほどの美しさなのだ。  しかし俊助がいま妙に思ったのはそれではない。かれが材木のうえにとびおりたひょうしにプーンと鼻をついたのは、なんともいえない芳香だ。ヘリオトロープ、そうだ。ヘリオトロープの香水のにおいだ。奇怪にもこのふたつの屍体は、まるで香水風呂にでもつかったように、しとどに芳香にぬれているのだ。 「ところで死因はなんですか。毒薬ですか。それとも外傷がありますか」 「それが妙なんです。女のほうにはぜんぜん見当らぬが、男のほうには胸に鋭い突き傷があります。それがまたじつにけしからん話です」  顔をしかめてこたえたのは、おなじく材木のうえに身をこごめていた警察医。 「どうしてです。男のほうに突き傷のあるのが、なぜけしからんのですか」 「だってきみ、この男——と、いうよりむしろこの少年だが、こいつはすでに死後一週間は経過しているのですよ」 「なんですって?」 「そうなんです。こいつは死んでから一週間にもなるのに、この胸の突き傷はそんなに古いものじゃないのです。おそらく昨夜の十二時前後にうけた傷でしょう。つまり、だれがやったのかしらんが、死後一週間もたった死体の心臓を、ごていねいにもえぐっているんです」 「ふうむ」  医者の言葉に思わず太い溜め息をついた俊助が、あらためてみなおせば、なるほど、少年の肌はすでに腐敗のためにくろずんで、なんともいえない異臭を放っているのだ。 「ところで女のほうは?」 「こいつはまだ死後八時間くらいしか経過しておらんでしょう。どうやら服毒しているらしいが、おそらくこっちの少年が胸をえぐられたのと前後して、毒薬を嚥下《えんか》したのじゃないかと思います」  ああ、なんという奇怪さ。  死後一週間たった少年と、昨夜服毒した女と、ときを隔てて死んだこのふたつの屍体のあいだにはいったいどのような関係があるのだろう。  むろん、慧眼《けいがん》な読者諸君は、すでにこのふたつの屍体が何者であるか、よくご存じのことであろう。そうだ、この男女こそ、あのぶきみな白蝋少年鮎三と、その鮎三の屍体を盗みだした緒方もと子なる醜女に違いないのだ。  それにしても、鮎三の屍体にむかって、あんなに熱烈に復讐をちかった緒方もと子が、死体となって発見されるというのは、なんという意外なことだろう。ひょっとすると、彼女もまた、鮎三を殺したとおなじ手によって殺されたのではないだろうか。 「どうだ三津木君、妙な事件だろう」 「ふむ」  と、ふたたび掘り割りからはいあがった三津木俊助、 「ときに等々力君、事件はまさかこの地点で起こったんじゃないだろうね」 「それだよ、この掘り割りはかみは小名木川《おなぎがわ》、しもは東京湾までつづいているそうだから、屍体も上流から流れてきたものにちがいないぜ」 「いや、ちょっと待ってくれたまえ」  なに思ったのかポケットから手帳をとりだした俊助は、巻頭の暦《こよみ》をしばらく調べていたが、 「わかった、等々力君、ぼくはいかんながらきみの意見に反対せざるをえんね。屍体は上流から流れてきたのじゃない。かえって下流から押し上げられてきたんだ」 「なんだって?」 「暦でみると、昨夜の東京湾の満潮は十一時四十分からはじまっている。満潮時には、河口においては水が逆流するのだ。どうだ、ひとつ小舟をあやつって下流のほうをさがしてみないか。なにかにつきあたるかもしれないぜ」 「よし、いこう」  自信ありげな俊助の言葉に、警部はそくざに賛成したが、これこそじつに、あの奇怪な香水屍体事件の発端なのであった。    深夜の幽霊  鮎三ともと子の屍体は、なぜあのように芳香を放っていたのか。そしてまた、もと子の死因は自殺か他殺か、——それらの疑問はしばらくおき、ここは東京湾のいっかくを、一望のもとに見晴らす越中島のとある横河。  その横河にそって一軒の白堊《はくあ》の洋館がある。表へまわってみると、鵜藤寓《うとうぐう》なる一枚の表札。あるじの鵜藤|俊作《しゆんさく》というのは、退職官吏だったが、半年ほどまえになくなって、あとには邦彦《くにひこ》、美枝子《みえこ》、鮎三《あゆぞう》という三人の兄妹がとりのこされたが、その鮎三も一週間ほどまえに急死して、昨夜がちょうど初七日だった。  わずか半年ほどのあいだに、ふたつの葬式をだした鵜藤家の内情については、とかく近所のとりざたがうるさかったが、いましもその鵜藤家のうらがわ、河に面したヴェランダのしたを通りかかった一葉の小舟がある。乗っているのは、いうまでもなく三津木俊助と等々力警部。 「おや」  ヴェランダのしたまできたとき、俊助が思わず低声《こごえ》で叫んだ。 「どうかしたのかい」 「香水のにおいだ。ほらヘリオトロープのにおい」  つぶやいたひょうしに、なにやら赤いものがちらと眼にうつったので、おやとばかりにみあげたとたん、二階の窓からついと女の顔がおくへ消えた。赤いものはどうやら女のもったハンケチだったらしい。振りかえってみると、向こうの埋め立て地のがわに、べにがら色にぬった船が、しずかに煙を吐いていた。 「なに? 香水のにおい?」  警部は鼻をうごめかしたが、なるほど水のうえへはみだしたヴェランダのおくから馥郁《ふくいく》と洩れてくるのは、まぎれもない、屍体に振りかけてあったのとおなじ香水のにおい。 「よし、踏みこんでみよう」  警部は決心がはやい。ひらりと舟からヴェランダへとびうつる。そのあとから俊助もつづいた。  ヴェランダのおくには大きなガラス扉《ど》があって、それが半びらきになっている。警部が扉をおすと、そのとたんプーンとふたりの鼻をうったのは、むせかえるような香水のにおいだ。  どうやらそこは、居間兼化粧室ともいうべき部屋らしいが、部屋のすみにある大きな安楽椅子のあしもとには、香水瓶でもひっくりかえしたのか、べっとりと匂いのたかい汚点《しみ》がついている。  ふたりが思わず顔みあわせたときだ。  廊下につづいた樫《かし》のドアを、しずかにひらいて顔をだしたのは、パッと眼もさめるばかりに美しい令嬢の、物におびえたような瞳《ひとみ》だった。たしかにさっき二階から顔をだしていた女だ。 「あなたがたはいったいどなたです」  みると女はまだ薄桃色の寝間着を着たままで、その顔は夜通し寝もやらず、輾転《てんてん》としていたらしくげっそりとおもやつれがしている。 「お嬢さん、われわれは警察のものですがね。昨夜ここでなにかかわったことのあったのを、お嬢さんはご存じありませんか」  令嬢はそれをきくととたんに真っ青になった。 「まあ! それじゃもしや鮎ちゃんが……」 「鮎ちゃん? 鮎ちゃんてだれのことですか」 「弟ですの、一週間ほどまえに死んで昨夜が初七日でした。でも、それが……」  と、令嬢ははげしく唇をふるわせながら、 「あたし、昨夜その鮎ちゃんをみたんです。幽霊? いえいえ、幽霊なんかじゃありませんわ。鮎ちゃんはふだんのとおり、あの子のだいすきな草色の洋服をきて、その安楽椅子にすわっていました。おまけに、生前いつもしていたように、体じゅうから香水のにおいをさせて……あたしあまりのおそろしさに、そのまま二階のお部屋へとびこんで、いままでまんじりともしなかったのですわ」  いうまでもなくこの令嬢とは、あの奇怪な白蝋少年鮎三の義姉《あね》、鮎三からあんなにうらまれていた義姉の美枝子なのだ。 「妙な話ですね。お嬢さん、それにしてもこのお邸にはほかにだれもいないのですか」 「いいえ、兄の邦彦と婆やがいます。でも兄はいつものように酔っぱらっているし、婆やは耳がとおいので、ふたりともちっとも頼りにならないんですもの。それに緒方《おがた》さんもちょうどお帰りになったあとですし。……」 「緒方というのは?」 「緒方もと子さんというのは、鮎ちゃんの家庭教師として、ひと月ほどまえまでここにいたかたなんですの」 「お嬢さん、その緒方もと子というのは、もしや縮れっ毛の女ではありませんか」 「よくご存じですこと。緒方さんがどうかなすったのでしょうか」  警部がそれにこたえようとしたときだ。 「美枝子、美枝子。婆やの話じゃ、ゆうべ蕗屋君がやってきたというじゃないか」  と、廊下にあたって男の声。  美枝子はそれをきいたとたん、紙のように真っ白になったが、そのときドアを排して顔をだしたのは、髪の毛の長い、顔色の悪い青年、これぞ鮎三の義兄、美枝子とともに鮎三のかたきともくされる腹ちがいの義兄邦彦だった。    二人の家庭教師 「ああ、あなたが邦彦さんですね」 「そうです。しかし……、美枝子、このひとたちは」 「いやわれわれは警察のものですがね、少しおたずねしたいことがあってまいったのです」 「警察のかた? 警察のかたがまたなんのご用で」  宿酔《ふつかよい》のまださめやらぬ濁った瞳《ひとみ》に邦彦はあからさまな驚きの色を浮かべた。そのようすからみると、かれはまだなにごともしらぬらしい。  警部と俊助は思わず顔をみあわせたが、やがて警部が手短かに、さっきの屍体発見のてんまつを語ってきかせる。邦彦はそれをきくと、はじめのうち驚くというより、むしろ唖然《あぜん》とした面もちで、 「ご冗談でしょう、そんなばかな話ってありませんよ。鮎三の体は一週間まえに火葬にふして、げんに昨夜が初七日なので、われわれ兄妹のほかに、家庭教師だった緒方さんにもきていただいて、心ばかりの回向《えこう》をすませたところです。その鮎三が、緒方さんと……そ、そんなばかなことが」  と言葉づよく否定していたが、だんだんと警部や俊助の話、さては美枝子が昨夜みたという幽霊の話をきいているうちに、しだいに不安がましてきたものか、やがてつぎのように、家庭の内情をかたりだしたのである。  美枝子邦彦と鮎三とは腹ちがいの兄弟であることはまえにもいった。そして、その鮎三がこの家にひきとられてきたのはかれが十二の歳、つまりいまから五年ほどまえであることは、鮎三の遺書によってもすでにあきらかである。そのじぶん、鵜藤氏は半身不随でねていたので、その看護婦としてやとわれたのが緒方もと子だった。 「ところがその父が半年ほどまえになくなったので、緒方さんにはでていただくはずでしたが、ちょうど、そのじぶんまでいた鮎三の家庭教師がいなくなったので、かわりに緒方さんにとどまってもらうことにしたのです。しかし、これについてはまもなくぼくは後悔しはじめました。というのは、緒方さんはあまり鮎三を可愛がりすぎるので、これではかえって鮎三のためにならぬと、一月ほどまえに出てもらったのです」  なるほど、孤独な美少年と婚期をいっした醜い家庭教師のあいだに、恋愛とまでいかぬまでも、ある種の危険な感情が発生して、それが兄を警戒させたということはうなずけないことはない。しかし、その家庭教師がいなくなってからまもなく、突然鮎三が急死したというのはどういうわけだろう。死因は持病の癲癇の発作からだと邦彦は主張するが、そこになにかしら秘密のあやがあるのではなかろうか。 「なるほど、よくわかりました。ところで、あなたはさっき蕗屋君が昨夜きたらしいというようなことをおっしゃったが、蕗屋君とはどういう人物ですか」 「蕗屋君というのは、鮎三がこの家へひきとられてきたときから、ついていた家庭教師なんです、つまり緒方さんのまえの家庭教師ですが、父がなくなるすこしまえ、父と大衝突して、この家をとびだしてしまったのです。衝突の原因ですか。それはちょっと申し上げかねますが」 「なるほど、その蕗屋君が昨夜ここへきたというのですね」 「いいえ、兄さん、それはなにかのまちがいですわ。蕗屋さんが昨夜ここへきたなんて、そ、そんなこと、婆やのいうことなんかあてになるもんですか」  美枝子はなぜか、やっきになって蕗屋青年のここへきたという事実を否定しようとする。  俊助はじっとその横顔を注視していたが、さりげなく邦彦のほうに向かって、 「ところで、緒方さんと蕗屋君の住所をしりたいのですが、おわかりになりますか」 「蕗屋君のほうはわかりかねます。なにしろここをとびだしたきり音信不通になっているのですから。しかし緒方さんのほうはよくしっています。R町の三番地、ここからあまりとおくないところです」 「ありがとう。それじゃいずれまたのちほど——」  俊助はなに思ったのか、まだなにかききたそうに渋っている等々力警部をうながして、いったん鵜藤家を辞したが、それからまもなく、緒方もと子の陋屋《ろうおく》をおとずれたかれらが、いったいどのようなおそろしい発見をしたか、それは賢明な読者諸君にはすでに想像されることだろう。    防水服の男  しかし、俊助と等々力警部のふたりはすぐその足で、緒方もと子の隠れ家をおとずれたわけではなかった。かれらはいったん、屍体発見の現場から所轄警察の扇橋署《おうぎばししよ》へたちより、屍体の解剖やら鵜藤家の監視やら、その他こまごまとした手つづきにてまどったので、ふたりがR町の三番地をおとずれたときは、すでに夜の八時ごろ。  煎餅屋《せんべいや》と雑貨店とのあいだのせまい路地、その路地のいちばん奥にあたる陋屋がもと子のすまいで、ここもおなじくうらにはくろい掘り割りの水がよどんでいる。  もとより独身のもと子のこと、留守番とてあろうはずはなかったが、ふたりはかまわず戸を押し破ってなかへ踏みこむ。せまい三和土《たたき》に三畳と四畳半の二間きり、その四畳半の電燈をつけたせつな、さすがの警部と俊助も、思わずあっとばかりにうしろへとびのいた。  すすけた畳のうえにおいてあるのは、木の香も新しい白木の寝棺。いやいや、寝棺ばかりではない、屍衣もある。花束もある。そして床の間には鮎三の写真と線香立て。ああこの陰惨な部屋こそは、すぐる夜もと子が、鮎三の屍体にとりすがりとりすがり、うわごとのように復讐をちかった部屋なのだ。  ふたりはあまりのことに思わず、呆然と顔みあわせたが、やがてこま鼠のように動きだした警部が、まもなく発見したのは、あのおそろしい鮎三の遺書なのだ。 「わかったぞ、わかったぞ」  警部はそれをみると、こおどりせんばかりに喜んで、 「これでみると、鮎三の屍体を盗んだのはもと子のしわざだ。邦彦や美枝子に復讐するために、鮎三の屍体をひそかにかくしておき、そいつをゆうべ、鵜藤家へ運んでいったのだ。おそらくこの掘り割りから運んでいったのだろう。そうして、邦彦や美枝子を脅迫して、徐々《じよじよ》に復讐をとげるつもりだったのにちがいない」 「それにしても、女の手でどうして屍体を盗むなんておそろしいまねが出来たのだろう。それにお骨上げというものがある以上、屍体がからっぽだとすぐわかるはずじゃないか」 「いや、女だからこそ、こんな大胆なまねが出来たんだよ。それに緒方もと子はいぜん看護婦だったというじゃないか。どこかの病院からたくみに屍体を手にいれて、葬式の途中、ふたつの屍体をすりかえたのにちがいない」  ああなんというおそろしさ、それは想像もおよばぬほどものすごいやりくちだった。しかしものぐるわしい女の情熱というやつは、しばしば男もおよばぬ大胆な仕事をさせるものである。  さて、こうわかってみれば、昨夜美枝子が安楽椅子にすわっている鮎三をみたというのも、みなもと子のしわざであることはうなずける。生前とおなじように草色の洋服をきせ、かれが好んでしてたという香水を体じゅうに振りまいて、——だが、そのあとでいったいどんなことがおこったのだろう。だれがいったいもと子を殺したのだろう。 「わかっているじゃないか。邦彦と美枝子の兄妹——いや、ひょっとすると、ふたりのうちのひとりかもしれん。もと子はつまり古い言葉でいえば返りうちにあったんだ」 「しかし、どうも変ですね。ぼくには——」  と、俊助がなにかいいかけたときである。突如、警部がしっとかれを制すると、 「だれかきた!」  なるほど耳をすますと、ひたひたと路地を踏んで、この家のほうへちかづいてくる足音がする。足音は家のまえでとまった。  はっと顔みあわせた俊助と警部のふたり、とっさに隠れ場をさがしたが、もとよりせまい家のこと、うまい隠れ場所もみあたらない。警部はやむなく、いきなり、れいの白木の寝棺のなかへとびこむと、そのなかにあおむけにねる。俊助はてばやくそのうえにふたをしておいて、じぶんはくらい縁側へ忍びでる。 「ご免なさい。緒方さん、お留守ですか」  あたりをはばかる男の声。二、三度|低声《こごえ》に呼んでいるが、やがてソロソロと戸をひらいてはいってくるようす、俊助が縁側の障子のすきから、そっとのぞいてみると、防水外套の襟をふかぶかと立て、おなじく防水帽をまぶかにかぶったひとりの男が、どろぼうのようにおずおずと四畳半の電燈のしたに顔をだした。  帽子をまぶかにかぶっているので、眉目《みめ》かたちはよくわからないが、色の浅黒い、がっしりとした体格。男も白木の寝棺をみると、ぎょっとしたようにたちすくんだが、ふいにつかつかと床のまえにたちよると、いきなりとりあげたのは鮎三の写真である。なにをするかとみていると、 「悪魔め、この美しい悪党め!」  憎悪にもゆる声なのだ。男は吐きだすようにつぶやくと、いきなり写真をズタズタにひきさいた。それから思いだしたように、ごそごそと一閑張《いつかんば》りの机のひきだしをかきまわす。もうとびだしてもいいころだ。俊助がそう考えたときである。警部がたいへんな失敗を演じたのである。 「ハークショイ」  寝棺のなかでくさみをしたからたまらない。男はさっと身をひるがえすと、飛鳥のはやさ、たたたたとおもてのほうへとびだしていく。 「待て!」  俊助があとを追ってでたとき、ちょうど幸い路地の入口からこちらのほうへやってくるひとりの男。 「おい、そいつをつかまえてくれ、どろぼうだ!」  その声をきくと、防水服の男は、なむさんぼうとばかりにきびすをかえすと、路地を逆におくのほうへ。  そのどんづまりには、隅田川へ通ずるひろい掘り割りがドロンとくろく濁っている。俊助と警部、それから俊助の声に駆けつけてきた男の三人に追いつめられた防水服の男は、いきなりざんぶと、くらい水のなかにとびこんだ。    べにがら船の追跡  等々力警部のしょげかたは、はたのみる眼も気の毒なほどだった。  あれから半時間あまり、掘り割りのうえに舟をだしてさがしてみたが、水にもぐった男の姿は、もはやどこにもみあたらないのだ。なにしろ真っ暗な夜のこと、おまけにつめたい氷雨さえポツポツと落ちてきて、それいじょう捜索をつづけることは困難な状態になってきた。  すっかりしょげきっている警部を慰めるように、俊助は肩をたたきながら、 「ナーニ、いま取り逃がしてもまたとらえるときがありますよ」 「だって、きみ、あいつの身もとさえわからないのに、どうして手配をするのだ」 「それが、わかる方法があるんだよ、じつは」  と、にやにやと笑いながら俊助がとりだしたのは、ふたつ折りの紙入れだ。 「さっき、逃げるはずみにあいつが落としていったのを拾っておいたんだ。ひとつこいつを調べてみようじゃないか」  紙入れのなかには十円あまりの金のほかに、名刺が五、六枚、その名刺にすった文字をみたとき、俊助と警部は思わずぎょっとして顔みあわせた。  蕗屋弘介《ふきやひろすけ》!  五、六枚の名刺のことごとくにおなじ名前が印刷してあるところをみれば、あきらかにこの紙入れの持ち主の名前であるにちがいない。そして、蕗屋とは、鵜藤家でかつて家庭教師をしていた男ではないか。 「あいつだ。あいつが家庭教師の蕗屋なんだ」  だが、その蕗屋がなんのために、どろぼうのように緒方もと子の家へ忍んできたのだろう。もしや、あの男が犯人では。…… 「わかった!」  突如、俊助がとびあがるように叫んだ。 「ああ、おれはなんてばかだったろう。わかった、わかった!」 「どうしたんだ、三津木君、なにがわかったのだい、いったい」 「蕗屋弘介のいどころがわかったんだ。あんなことに気がつかぬなんて、おれはよっぽどどうかしている」 「なに、蕗屋のいどころがわかったって。そしていったいそれはどこなんだ」 「どこでもよろしい。警部、これからすぐにランチの用意をしてくれたまえ。蕗屋弘介のいるところへご案内しよう」 「ランチだって? じゃ、蕗屋は水のうえにいるのかい」 「そうです。ぐずぐずしていると逃がしてしまうかもしれん。大急ぎ、大急ぎ」  俊助にせきたてられた等々力警部は、さっそく自動電話へとびこんで、水上署からランチをまわさせるように手配する。そのついでに警部は、鑑識課へ電話をかけて、きょうの解剖の結果をききとった。  ランチはまもなく、おりからの冷雨をついてやってきた。そのなかにとびこんだ俊助と等々力警部のふたり。 「越中島のさきの埋め立て地だ」  俊助の声に、ランチはただちにたたたたたとくろい水をきって出発する。 「三津木君、いったいどうしたというのだ。どうして蕗屋のいどころがわかったのだ」 「なんでもないさ。あいつの服装をみたとき、すでにそれに気づいていなけりゃならなかったんだ。きみもみただろう。あいつは防水服に防水帽をかぶっていた。ありゃ海のうえではたらく人間の服装なんだ」 「ふむ、それぐらいのことはおれにもわかるが」 「それでぼくはふと、こういうことを思いだしたんだ。けさわれわれが鵜藤家のヴェランダのしたに舟をこぎよせたとき、二階の窓から美枝子が顔をだしていたが、あの女は赤いハンケチを振っていた。ぼくにはその意味がハッキリわからなかったが、どうもなにかの合図だったらしく思われる。ところであの窓の向こうは、ひろびろとした河口から東京湾までつづいているのだから、当然その合図は水のうえに向かってなされたものと思わなければならぬ。そこでぼくはふと、さっき思いだしたんだが、あのとき鵜藤家と一町ほどはなれた埋立地のがわに、べにがら色にぬった船が一艘停泊していたんだ。つまり、美枝子はあの船にいる蕗屋に向かって、われわれのきたことをしらせていたんだよ」 「畜生ッ! するとゆうべ、蕗屋が鵜藤の家へやってきたというのは事実なんだな」 「そうとも。あのふたつの屍体を流したのは蕗屋のしわざにちがいないぜ。そして美枝子もそれをしっていてかばっているんだ」  ランチはいまや、くろい水をけって、越中島の対岸にある埋立地のそばまで近づいてきたが、これはいったい、どうしたというのだ。けさそこに碇泊していたべにがら船の姿はどこへやら、ただ一艘のだるま船がぶかぶかと浮かんでいるばかり。 「しまった。逃がしたかな」  俊助はぎょっとしながら、だるま船の親爺《おやじ》を呼びだして、きいてみると、べにがら船はたったいま、東京湾のほうへ向かってあわただしくでていったという。しかもそのまえに若い女が乗りこんだことまでわかった。若い女とはどうやら人相年頃美枝子のことらしい。 「よし!」  きっと眉をそびやかした等々力警部、 「どうせあんな小蒸気じゃ、沖へでるわけにはいくまい。海岸線をさがしていけばいいんだ。目印はべにがら色の船体、追跡だ、追跡だ」  ランチはにわかにエンジンをふくらませて、ものすごく波をけって進みだした。まもなく埋立地をまわってそとへでる。つめたい氷雨はますますはげしくなって、埋立地のそとへでるとどうじに、どっと横なぐりにたたきつけるくろいうねり、どうやらひとあれきそうなもようだ。  暗澹たる冷雨の東京湾、そのくろいうねりをけって、ランチはまるで傷ついた牡牛《おうし》のようなうなり声をあげている。第五号埋立地もすぎた。第四号埋立地もすぎた。隅田河口を横ぎって、浜離宮から芝浦のあたりまでさしかかったが、まだめあてのべにがら船はみあたらぬ。  いくどかゆきかう船にきいてみたが、いずれもそんな船はしらぬという。だが第五番目にきいた船からやっと、それらしい消息をきくことができた。 「その船なら旦那《だんな》、たしかさっき、隅田川をうえへのぼっていきましたぜ」  しまった! そとへ逃げるとみせて、かえって市中へ遡航《さつこう》していったのだ。  ランチはたちまち向きをかえて、まっしぐらに夜の隅田川へおどりこんでいく。  永代橋から清洲橋、新大橋から両国へと、強烈な探照燈で河上をはきながら、眼を皿のようにして河をのぼっていった俊助と警部のふたり、突如、 「いた!」  と、叫ぶと、たちまち鋭い停船命令、めざすべにがら船がためらうように停船するのも待たで、ふたりはいきなり向こうの蒸気船にとびうつると、さっと船室のドアを押しひらいたが、せまいその船室のなかでは、美枝子が真っ青な顔をして、傷ついた蕗屋弘介のかいほうをしているところだった。    恐ろしき少年 「おそれいりました。逃げようとしたのはまちがいでした。もっとはやく自首すればよかったのですが、いかにも緒方さんと鮎三君の屍体を河に流したのは、かく申す蕗屋弘介にちがいございません」  寝台のうえに身をよこたえた蕗屋弘介は、かすかに身を起こすと、神妙に首うなだれる。かれはさっき、水へとびこんだときけがをしたとみえて、肩のあたりに、なまなましい血がにじんでいる。  美枝子は耐えかねたように、肩で大きくすすり泣くばかり。 「昨夜わたしはこの舟からボートを操って、鵜藤さんの宅までたずねていったのです。なぜわたしがそんな妙な方法で訪問したかというと、ある事情からわたしは鵜藤家への出入りを禁止されているのです。わたしにとってはまったく濡衣なんですが、邦彦君はいまだに釈然としてくれません。そこでわたしは美枝子さんに会って、じぶんの苦衷をきいてもらいたかったのです。きのうわたしは、あらかじめ美枝子さんに手紙をだしておいて、さて夜の十二時ごろ、川のほうからヴェランダへはいのぼりましたが、そのとき美枝子さんはまっくらな部屋のなかでわたしを待っていてくれました。そこでわたしたちはつもる話をしました。いったい、どのくらい話していたでしょうか、たぶん三十分あまりも夢中になって話しこんでいたでしょう。ことわっておきますが、そういう話はまったくくらやみのなかでつづけていたのです。もし邦彦君に発見されちゃたいへんだ、——とそういうはらがあったからです。ところがふたりが夢中になって話しているあいだに、すこしずつ、月の光が、ヴェランダのガラス扉《ど》を通して、その部屋のなかへさしこんできます。そして、その光が、パッと部屋のすみにある安楽椅子のうえに落ちたとき、——ああ、あのときのわれわれの驚きを、いったいなんといって形容したらいいでしょう。いままでだれもいないと思った部屋のなかにひとが——しかも、一週間ほどまえに死んだ鮎三君がすわっているじゃありませんか。わたしも美枝子さんも真っ青になりました。一瞬間、気が狂ったような恐怖にうたれました。わたしは夢中になって、ポケットから海軍ナイフをとりだすと、ぐさっとばかりに鮎三君の心臓を突きさしたのです。  だが、そのあとでわたしたちはすぐに、そこにすわっている鮎三君は、すでに腐敗しかけた屍体にすぎぬことに気がつきました。それにしても、火葬にふしたはずの鮎三君の屍体がどうしてそこにあるのか、また、だれがそこへもってきたのかもわかりません。と、そのときです。美枝子さんがまたもや、あれえッという叫び声をあげたので、みると、安楽椅子と壁のあいだのせまい床のうえに、意外にも緒方もと子さんがたおれているじゃありませんか。さわってみると、すでに体は冷くなって、心臓の鼓動もとまっていました。  さあ、わたしたちはいったいどうしたらいいのでしょう。美枝子さんはかえすがえすの椿事《ちんじ》に、気も顛倒《てんとう》せんばかり、ひとをよぶべきか、ひとをよべばいきおい、じぶんのここにいる理由を説明しなければなりません。悪くするとつまらぬ疑いを受けるはめになるかもしれない。と、いってこのまま捨てておいたら、美枝子さんや邦彦君に、どんな迷惑がかかるかもしれぬ。だいいち、鮎三君の屍体が墓場から抜けだしたなんて、外聞にかかわる話です。そこで、とうとう、ふたりの屍体をああして水へ流してしまったわけです。わたしのつもりは、おそらく海のほうへ流れていって、鱶《ふか》の餌食《えじき》にでもなり、永久にこの秘密はたもたれるだろうと思っていたのですが……」  蕗屋弘介はそこまで話すと、ぐったりと首うなだれる。そのそばでは美枝子がいよいよはげしく泣きいっていた。 「なるほど、そこまで話はわかったが、ところできみは今夜、なんのために緒方もと子の家へ忍びこんだのだね」 「さあ、それです」  蕗屋弘介は熱っぽい眼をあげると、 「昨夜、わたしはこの船へ帰ってきてから、夜どおしあのふしぎな出来事を考えてみました。いったいどうして鮎三君の屍体があそこにあったのか、また、火葬にふされたはずの鮎三君の屍体を、だれがいままで隠しておいたのか、——そういうことを考えとおしているうちに、ふいに緒方もと子だ……と思いついたのです。あの女ならそのくらいのことはやりかねない。  あいつはきちがいじみた情熱で鮎三君を愛していた。そしてあいつはもと看護婦だった、——と、そこまではわかったが、さて、鮎三君の屍体をかくしておいて、あの女はいったいなにをたくらんでいたのだろう。もしや美枝子さんや、邦彦君にたいしてなにか悪いたくらみをしていたのではなかろうか。そう考えたので、なにか証拠はないかと、さっきR町へ忍んでいったのです」 「なるほど、するときみは緒方もと子の死因については、まったくしらぬというのだね」 「しりません。鮎三君の死体を傷つけたのはわたしですが、緒方さんのほうはまったくしりません」 「美枝子さんは?」 「存じません! わたしもいま蕗屋さんの申し上げたことのほかなにもしらないのです。緒方さんはひょっとすると、心臓|麻痺《まひ》でも起こされたのじゃないでしょうか」 「ところが大ちがい……さっき鑑識課へ電話をかけてきいたんだが、緒方もと子はある強い毒薬を嚥下《えんか》しているんだ。そればかりではありませんぞ」  警部はふいに声を荒らげると、 「一週間まえに、癲癇の発作で死んだといわれる鮎三少年も、じつはおなじ薬で死んでいるのですぞ」  美枝子はそれをきくと、ふたたびよよとばかりに泣きふした。ああ、彼女はやっぱり鮎三を殺したのであろうか。 「いや、ちょっと待ってください」  そのときふたりのあいだに割りこんだのは三津木俊助。 「蕗屋君、ぼくはもうひとつきみにきくことがある。きみはさっき繕方もと子の家で、鮎三君の写真をみると、『悪魔! この美しい悪党め!』と叫んで写真をズタズタに引き裂きましたね。あれはいったいどういうわけですか」  蕗屋弘介の頬《ほお》には、そのときさっと紅の色がのぼった。眼をいからせ、拳《こぶし》をふるわせながら、 「あいつは悪魔です。おそろしい悪党です」  と、きたないものでも吐きだすように、 「美枝子さんのまえだが、あんなにおそろしい生き物は世界にふたつとないでしょう。みなさんは鮎三の体に、紫色のあざがいっぱいついているのをごらんになったでしょう。あれはみな、じぶんで傷つけるのですよ。なんというか、一種の変質者ですね。そうしておいては、だれがいじめた、かれがうったと鵜藤氏に訴えるのです。そのためにわれわれはどんなに迷惑をこうむったかわかりません。あいつにとっては他人の幸福はことごとくおのれの不幸なんです。かつて邦彦君に良縁があったのに、それが破れたのも鮎三の中傷からなんです。そしてぼくを鵜藤家から放逐《ほうちく》したのも、みんなあいつのしわざなんです」 「そのことについてもうすこし、くわしくお話しねがえませんか」 「よろしい、お話ししましょう。鵜藤氏がなくなるすこしまえのことです。主人の金庫のなかからかなりの大金が紛失して、その疑いがわたしにかからざるをえないようなしくみになっていたんです。なにしろ日ごろわたしを信じていた邦彦君や、ここにいる美枝子さんまで、わたしを疑ったくらいですから。しかしわたしにはちゃんと犯人がわかっているのです。鮎三です。わたしと美枝子さんがしだいに親密になるのが、あいつには気に入らなかったんです」 「なるほど、よくわかりました。ところでもうひとつおたずねする。鮎三君の屍体には香水がいっぱい振りかけてありましたが、あれはいったい、だれがやったのでしょう」 「むろん、緒方もと子でしょう。鮎三は日ごろから香水がだいすきで、いつも体じゅうをプンプンにおわせていましたから、劇的効果を強めるために、芝居気のつよい緒方もと子がやったのにちがいありません。げんに緒方もと子は香水噴きを握ったまま死んでいましたから」 「なんだって? 香水噴きだって?」 「そうです。ぼくはそいつを化粧|箪笥《だんす》のおくのほうへしまっておきましたが」 「香水噴き、香水噴き——」  俊助は急にハッとしたように、 「その香水噴きのなかにはまだ香水がのこっていましたか」 「ええ、ほんのちょっぴり、なにしろおおかたは床のうえにこぼれていたものですから」 「美枝子さん!」  俊助がふいにきっと振りかえった。 「あなたがたはこの一週間ほどのあいだに、香水をお使いになりましたか」 「いいえ、葬式やなにかでとりこんでいたものですから。——でも、さっきわたしがでがけに、兄はしきりに香水噴きをさがしていました。今夜寝るまえにかけるつもりでしょう。そうするのが兄の習慣なんです」 「たいへんだ」  俊助がいきなりたちあがると、 「大急ぎでひきかえしてくれたまえ。ぐずぐずしていると、もうひとつ屍体が出来るかもしれんぞ」  と、血相かえてどなったのである。    香水噴きの秘密  だが、かれらが急ぎに急いでひきかえしてきたのにもかかわらず、ときすでにおそかったのだ。いやいやおそかったことはおそかったが、またかろうじてまにあったともいえるのである。  なぜなら俊助、警部、美枝子、蕗屋青年の四人をのせた船が、鵜藤家のほうへちかづいていったとき、突如、ヴェランダからおどりだした婆やが、気狂いのように手を振りながら、 「たいへんです。だれかきてください。若様が、若様が——」 「しまった。おそかったか!」  四人のものが夢中で船から家のなかへとびこむと、床のうえには邦彦がぐったりとたおれている。そしてその手には香水噴きが。—— 「お兄さま、お兄さま」 「そばへよっちゃいけません」  俊助はいきなり邦彦の手から香水噴きをもぎとると、大事そうにそばにおき、 「等々力君、医者だ、医者だ。大至急で解毒剤をかけねばならん」  それからあとの鵜藤家の騒ぎは、いまさらここに述べるまでもあるまい。一時はあやぶまれた邦彦の容態も手当てがはやかったので、どうやらとりとめるだろうという医者の保証に、一同がほっとしたのは、それから一時間も経ってからのことだった。 「三津木君、こりゃいったいどうしたというのだ。あの香水噴きがどうかしたのかね」 「そうさ。等々力君、そいつをすぐ鑑識課へまわしてくれたまえ。おそらくその香水のなかには、緒方もと子や鮎三少年を殺したとおなじ毒薬がまじっているはずだから」 「なんだ。すると問題は香水か。しかし、だれが香水のなかに」 「いや、それを話すまえに美枝子さんにききたいことがある。美枝子さん、鮎三君は自殺したのでしょう」  ズバリといわれて、美枝子ははっと顔色をかえたが、急に涙を浮かべると、 「そうなのです。あの子はあたしたちへの面当てに自殺したのです」  美枝子はゾッと肩をふるわせると、 「父の死後、あの子はいよいよあたしたちの手におえなくなってまいりました。でも、かわいそうなあの子の過去のことを考えて、できるだけしんぼうしていたのですが、いまから十日ほどまえに、どうしてもしんぼうの出来ないことが起こりました。緒方さんを追いだしたのが不満で、あの子があたしたちを毒殺しようとしたのです。さいわい早く気がついたので、あやうくいのちをとりとめましたが、このときばかりは兄も怒ってきびしくあの子を折檻《せつかん》しました。それにはもうひとつ理由があるので、考えてもおそろしいことですが、こんどのことから、はからずもふと、父の死についておそろしい疑惑が感じられたのです。父の死因は卒中ということになっていますが、どうもその前後に妙なふしがある。もしや、こんどとおなじように鮎三が——と、そう考えるとおそろしくてたまりません。それでさんざんあの子を責めて問いつめたのですが、すると、その翌日、あの子は面当てのように自殺してしまいました。あたしたちはすっかり途方にくれてしまって——、これをおおやけにすれば、家の恥をあかるみにだすようなもの、ところが、ちょうど幸い、あの子にはふだんから、癲癇の発作があって、先生もそれをよくご存じだったものですから、くわしくお調べにならないで、死亡診断書を書いてくだすったのです」 「なるほど、よくわかりました。これでなにもかもつじつまがあいます。ときに美枝子さん、あなたは香水を振りかけるとき、ひょっとすると唇から、咽喉のおくまで噴きかける習慣がありやしませんか」 「ええ、あの、そうすると……」 「蕗屋君が喜ぶというわけですか、いや、これは失礼。そしてその習慣がいつか邦彦君にもうつっていたんですね。つまりそこが鮎三君のつけめで、死んでからあなたがたに復讐しようという魂胆で、香水噴きのなかに毒薬をしこんでおいたのです」 「ふうむ、すると犯人はあの鮎三かい」  警部は呆然として、 「だが、緒方もと子はどうしてまた。——」 「わかっているじゃないか。あの女はそんな少年のからくりをしろうはずがない。きのうひそかに鮎三の屍体をここへ運びこんでから、効果をいっそう強めるために、その体へ香水を振りかけた。そのあとで、ふと女らしい好奇心から、みようみまねでおぼえたとおり、じぶんもふと咽喉のおくへ香水を噴きかけてみたくなったのが運の尽きさ。つまりあの女は、じぶんのもっとも愛する少年の手にかかって殺されたも同然なんだよ。けだし自業自得というべきだろう。さあ、そうわかってみれば等々力君、もうきみにはなんの用事もないようだね。まさかきみがいかに有名な鬼警部でも、地獄まで犯人を追っかけていくわけにはまいらんからね。ははははは」  と俊助は警部の手をとって、さっさと部屋をでていったが、入口のところでふとうしろを振りかえると、 「美枝子さん。蕗屋君は潔白なんです。いや、潔白なばかりじゃない。じぶんが放逐されたあとも、あなたがたの身を案ずるあまり、海上からつねにこの家をまもっていたのです。邦彦君とともに、あなたの看護をうける価値は十分にありますよ。さようなら」  本書には今日の人権意識に照らして不当・不適切と思われる語句や表現がありますが、作品執筆時の時代背景や作品の文学性などを考慮しそのままとしました。 [#地付き](角川書店編集部) 角川文庫『仮面劇場』昭和50年3月10日初版発行