TITLE : 不死蝶 不死蝶 他一篇 横溝正史 ------------------------------------------------------------------------------- 角川e文庫 本作品の全部または一部を無断で複製、転載、配信、送信したり、ホームページ上に転載することを禁止します。また、本作品の内容を無断で改変、改ざん等を行うことも禁止します。 本作品購入時にご承諾いただいた規約により、有償・無償にかかわらず本作品を第三者に譲渡することはできません。 目 次 不死蝶 人面瘡 不死蝶 頬に疵のある男  汽車がトンネルを出ると急に涼しくなった。まるでそのトンネルが夏と秋の境目だったかのように。  トンネルのあちらがわでは、まだ夏の雑草がしげっているのに、トンネルひとつ抜けたこちらがわでは、もう秋草が可憐な花をつけている。  汽車が下り坂へさしかかったので、いくらかスピードも恢復したが、それでも田舎のローカル線のまどろかしくて、ゴトンゴトンと単調なリズムをきざんでいる。  金《きん》田《だ》一《いち》耕《こう》助《すけ》はその単調なリズムに身をゆだねて、ぼんやりと窓ぎわに頬杖をついている。くちゃくちゃに形のくずれたお釜帽の下から、もじゃもじゃの蓬髪がはみ出して、いつにかわらずよれよれの単《ひと》衣《え》によれよれの夏袴といういでたちである。ぼんやりと窓の外へ投げた視線がいかにも睡そうだ。  突然、眼前をさえぎる山がとぎれて、ぱっと視界が明るくなったかと思うと、はるかむこうにうすく光る湖水と、湖水のまわりにたっている家々のいらかが、夕靄のなかにしっとりと落着いているのが見えた。  「あれが射《い》水《みず》の町ですよ」  むかいがわに坐っている、このへんの百姓らしい男がおしえてくれた。さっき金田一耕助が、射水はまださきかと訊ねたからである。  「ああ、そう、有難う」  金田一耕助はそのほうへ眼をむけたが、すぐまた、線路の両側にそびえる秋草の土手が視界をさえぎって、射水の町は見えなくなった。  時計を見ると七時五分前。射水着は七時十分の予定である。  金田一耕助はそろそろ降りる用意をしておこうと、網棚から荷物をおろしていたが、そのとき通路のむこう側に坐っていた男がとなりへ来て坐った。  「失礼ですが射水へおいでですか」  「はあ」  金田一耕助はちょっとどぎまぎしながら答える。  「射水はどちらへ……?」  男の言葉の調子にはちょっと詰問するようなひびきがある。  「はあ、矢部さんという家へ御厄介になるつもりです」  「矢部家へ……?」  男は怪しむように耕助の服装を見直しながら、  「矢部家と御懇意ですか」  「いやあ、全然、一面識もないんです」  男ははぐらかされたとでも思ったのか、不愉快そうに眉をひそめながら、  「矢部家では、誰もかわりはありませんか」  と、ちょっと憤《おこ》ったような声でたずねる。  「いやあ、それが……いまもいうとおり、全然、どなたとも面識がないもんですから。……」  言葉をにごして、困ったように頭をかいている耕助の様子を、男はなかば呆れたような、なかば怪しむような眼で見直した。  じっさい、いまどき旅行をするのに、よれよれの着物によれよれの袴といういでたちは、誰の眼にも妙にうつらずにはいない。それに雀の巣のようなもじゃもじゃ頭、小柄で貧相な男振りは、どう見ても、これが音にきこえた名探偵とはうけとれぬ。おまけに多少吃りである。  男はまじまじと、金田一耕助の様子を視まもっていたが、しかし、そういう相手だって、あんまり怪しくないとはいえなかった。  年齢は四十五、六だろう、底光りのする眼が鋭く、頬にうすい疵痕のあるのも無気味である。洋服も古くすりきれて、いかにも尾羽打枯らしたという様子だ。  「それじゃ、どういう用件で矢部家へ……?」  蛇のように底光りのする眼が、しつこく耕助の身分や素性を詮索している。  それに対して耕助が、答えに窮していると、さっき射水の町をおしえてくれた百姓が、まえの席から助け舟を出した。  「あんた、矢部さんを御存じかな」  「ああ、ちょっとね」  相手を百姓と見てか、頬に疵のある男の返事には、いやに横柄なひびきがこもっていた。  「矢部さんでは、ちかごろべつに、かわったこともないがな」  「いや、ちかごろといっても、ぼくはもう二十年以上も音信不通になっているんだが……杢《もく》衛《えい》さんという御主人がいたが元気かね」  「ああ、杢衛さんなら元気だよ。もうかれこれ七十じゃろうが、まだまだ達者なもんですわい」  「ああ、それは結構だね」  だが、そういう男の声音には、言葉の意味とは反対に、どこか浮かぬ調子があった。男はしかし、すぐまた言葉をついで、  「それから慎一郎さんという息子さんがあったが。……ちょうどぼくと同じ年頃で、ぼくの知ってる時分はまだ独身だったが……」  「慎一郎さんならお嫁をもろて、都さんという娘がもう年頃になる。慎一郎さんにとっちゃひとりっ子だあね」  「ああ、そう、それじゃ許婚者だった、峯子さんというひとと結婚したんだね」  「そうそう、峯子さんというのが都さんのお母さんだが、あのひとと慎一郎さんと結婚するときは大騒動だったな。あんた、慎一郎さんの弟で、英二さんというのを知りなさらんかな。鐘乳洞のなかで殺されたひとさ」  鐘乳洞のなかで殺された……?  金田一耕助はぎょっとして、ふたりの顔を見くらべる。  しかし、頬に疵のある男は冷然として、  「ああ、知ってる。英二君の死体はぼくが発見したんだ」  百姓のおやじもぎょっとしたように、相手の顔を見直して、  「ひえッ、それじゃあんたはあの時分、射水にいなすったのかな」  「ああ、矢部のうちにいた者だ。矢部家とは遠い親戚になるもんだから、夏の休暇中逗留していたんだ。ずいぶん昔の話だが、あれから、もう何年になるかな」  「今年が英二さんの二十三回忌だというこってす。もうじきだあね」  「そんなになるかねえ」  男の顔色はちょっと感慨にくもったが、また思い出したように、  「ところで、玉《たま》造《つくり》の娘の……なんとかいったな。英二君を殺した女さ」  「朋《とも》子《こ》さんかね」  「そうそう。あの女の死体は見つかったかね。ぼくは英二君のお葬いがすむとまもなく、射水を立ったんだが……」  「見つかるもんかね。あの底なし井戸へとびこんじゃ、誰だって見つかる気づかいはなしさ」  「底なし井戸……?」  金田一耕助が思わず横から言葉をはさむ。  「ああ、そうだよ。射水には地獄まで続いているという、深い、深い底なしの井戸があるんだ。二十三年まえ、男を殺したひとりの女が、申訳にその井戸へとびこんだんだあね。あの娘も可哀そうなことをしたもんだが、いってみれば身から出た錆というところだ。だいたい、玉造の娘が矢部の息子に惚れるというのが間違っている」  「それはどうしてですか。つまり身分ちがいとでもいうんですか」  頬に疵のある男が、もう相手にならなくなったので、いきおい、金田一耕助が、言葉がたきにならなければならなくなった。それに好奇心も大いに手伝っている。  「うんにゃ、そういうわけじゃねえ。玉造も矢部も、射水きっての名家でがすがね」  「それじゃ、どうして……? 玉造とかの娘が、矢部の息子に惚れちゃいけないという規則でもあるんですか」  「まさか、規則はねえが……」  と、百姓のおやじは苦笑しながら、  「つまり、どんなに想いあったところで、うまくいくはずがねえのさ。玉造と矢部、いまもいったとおり、射水でも両大関といわれる名家だが、先祖代々仲が悪くてね。敵同士みたいにいがみあってるんだあね。若いもんがどんなに惚れあったところで、所詮許されるはずがねえ。結局、あんな大騒動になったんだが……それにも懲りずにちかごろまた……いや、若いもんというやつはしようがねえもんさね」  調子にのってべらべら喋舌《 し や べ》っていたおやじは、そこで急に口をつぐんで、耕助のとなりにいる男に眼をやった。  頬に疵のある男は、むっつりと唇をへの字なりに結んでいる。百姓のおやじはそれを見ると、いささか喋舌りすぎたと気がついたのか、それきりだまりこんでしまった。  三人のこの気まずい沈黙をのせて、汽車はいま黄昏の湖畔の町へすべりおりていく。 新シンデレラ姫  金田一耕助はいま、大いに好奇心をかきたてられている。  ほんとをいうと、かれはまだ射水という町にどのような用件が待ちかまえているのか、自分でもよく知らないのだ。  五日ほどまえのことだ。  むずかしい事件をひとつ片づけて、ほっとひと息ついているところへ舞いこんだのが、信州の射水という町に住む、矢部杢衛というぜんぜん未知の人物からの手紙だった。  もっとも、その手紙のなかには、耕助がかつて信州で手がけた事件に関係した、さる信頼すべき人物の紹介状が同封してあって、それによると、矢部杢衛というひとも、十分信用してよい人物らしかった。  ところで、矢部杢衛という人物の用件というのはこうであった。  折入ってお願いしたいことがあるから、この手紙つきしだい、当地へお出向き願えまいか。お願いの筋というのは、目下当地に滞在中の、さる人物について調査していただきたいのだが、くわしいことはお目にかかってお話する。費用ならびに謝礼に関しては、万事貴意に添うことができると思うし、また、当地滞在中は当家に宿泊していただいてもいいと、そういう意味のことが書いてあるのはよいが、田舎のひとの気がはやく、かなり多額の為替まで封入してあった。  金田一耕助はその手紙をまえにして、苦笑を禁じえなかった。  こちらの都合もたしかめないで、じぶんかってに、引受けてもらえると思いこんでいるらしいこの依頼人に、耕助は腹を立てるより微笑した。思いたったら矢も楯もたまらぬ、田舎のひとの単純さが、おかしくもあり、頬笑ましくもあった。  それに紹介者の顔も立てなければならぬ。  そこで、耕助は旅行案内をとりだして、射水という町をしらべてみたが、それで、かれの肚はすっかりきまった。  射水という町は、あまり世間に知られていないが、ものしずかな湖畔の町で、避暑地としてはまことに恰好のところらしい。付近に有名な射水の鐘乳洞があるということも書きそえてあった。  ちょうど事件もあらかた片づき、東京の夏をどうして過そうかと思っていたやさきなので、避暑かたがた出向いてみるのも悪くないと考えた。  付近に鐘乳洞があるというのも面白いではないか。  金田一耕助はかつて手がけた、『八つ墓村』のあの恐ろしい連続殺人事件のさいの、鐘乳洞の殺人を思い出していた。  そこで、近日中にお伺いするという、かんたんなハガキを出しておいて、残務整理をしているうちに、耕助はふと、最近新聞で射水という名を、読んだことがあるような気がしてきた。  はてな、どういう記事のなかで、射水という名にぶつかったんだっけ。……  物事をはっきり思い出せないということは、奥歯にもののはさまったように気になるものである。そこで金田一耕助は、新聞の綴込みをひっくりかえして調べてみているうちに、非常に愉快な事実を発見したのである。  それは当時、日本中の話題をひっさらったほどの、大きなニュースに関連しているのであった。  ことしの五月のおわりごろ、ブラジルのリオ・デ・ジャネイロから日本を訪れてきた、すばらしい珍客があった。それは日系の二世で、日本名を鮎川マリ、ブラジル名をマリーナ・ゴンザレスという二十前後のまだうら若い女性であった。  この女性がどうしてそんなに大きな話題を投げかけたかというと、彼女が有名なブラジルのコーヒー王、アルフォンゾ・ゴンザレス氏の後継者と目されているからである。  アルフォンゾ・ゴンザレスというのはスペイン系ブラジル人で、ブラジルでも有名な大金持ちである。サン・パウロ州に広大なコーヒー園を経営しているほかに、有名なダイヤモンド鉱山を持っているといわれる。  鮎川マリはこの大金持ちの養女になっているのである。  マリがどうしてそのような大金持ちの養女になったかといえば、それは主として、マリの母親のおかげだといわれている。  マリの母は鮎川君江といって、ながくゴンザレス家において、家事取締りのような地位にあった。  アルフォンゾ・ゴンザレス氏がマリを養女にしたのは、君江の献身的な奉仕にたいする感謝と信頼によるものだろうといわれるが、まさか、そればかりではあるまい。ゴンザレス氏がいかに君江に感謝しているからといって、マリを愛していなかったら、あの莫大な財産の後継者にするはずがない。  じっさい、新聞にあらわれた写真を見ると、マリはすばらしい美人である。しかも、聡明で勇気にとみ、やさしく善良な性質が、ゴンザレス氏のお気に召したのであろうといわれている。  とにかく彼女の背後には、現代の日本の貨幣価値からいえば、天文学的数字ともいうべき、ゴンザレス家の莫大な財産がぶらさがっているのだ。  新聞が新シンデレラ姫と書き立てて、大騒ぎをしたのもむりはない。  そのマリがいま母の君江とともに、射水に滞在しているはずなのだ。  マリが日本を訪れたのは、独身で自由なからだでいるあいだに、いまだいちども訪れたことのない母国を見学しておきたいという希望もあったが、それと同時に母の君江の、まだ老いくちてしまわないうちに、もういちど故国の土を踏んでおきたいという希望もあったらしい。  そこでゴンザレス氏の許しをえて、母と娘と手をたずさえて、日本へやってきたのである。  日本へきた当座、ふたりは東京のホテルを根城として、故国の名所見物によねんがなかったが、そのうちに母の君江が健康を害した。湿気の多い日本の初夏の気候にやられたらしい。  そこで、どこか静かな健康的な土地で静養したいといっていたが、その白羽の矢が立ったのがすなわち射水の町である。  マリとその母はいま射水の町のさる素封家の家を一軒かりきって、住んでいるはずなのである。  「おやおや、これはひょっとすると、まるでお伽噺のヒロインみたいな、新シンデレラ姫におちかづきになる光栄に、浴することができるかもしれないな」  新聞の綴込みで、以上のような事実をたしかめると、金田一耕助は雀の巣のようなもじゃもじゃ頭をかきまわしながら、にやにやと呟いた。なんとなく、くすぐったいような気もしたが、さりとて、悪い気持ちでもなかった。  しかし、そのとき金田一耕助は、まさかこれからじぶんがまきこまれようとする事件のなかに、マリとその母君江が大きく関係して来ようなどとは、夢にも予測するところではなかったのだが。……  さて、残務整理もようやく片づき、金田一耕助が東京を立ったのは、七月十五日の朝のことだったが、出発するまえになって、ちょっと妙なことが起った。  耕助が下宿を出ようとするところへ、一通の手紙が配達された。手紙には差出人の名前がなかった。  耕助はしかし、べつに不思議とも思わず、なにげなく封を切ったが、なかみを読んでいくうちに、思わずぎょっと呼吸をのんだのである。  手紙の文句はこうであった。 -------------------------------------------------------------------------------   射水へ来てはならぬ。   生命が惜しいと思ったら射水の町に近寄るな。 -------------------------------------------------------------------------------  一種の脅迫状であった。  この脅迫状を眼にしたとき、金田一耕助がうれしそうに、ガリガリ、バリバリとめったやたらに、頭のうえの雀の巣をかきまわしたことはいうまでもない。 幽 霊  汽車が射水の駅についたのは、七時十分を過ぎていた。  盛夏の七時といえば、まだ明るい時刻なのだが、四方を山にとりかこまれているこの小さな町は、陽のしずむのも早いとみえて、もうそろそろ、あたりは雀色にたそがれかけている。  べつに電報もうってなかったので、誰も迎えに来ていない。ばらばらと汽車から降りた五、六人の客にまじって、改札口を出ていくと、頬に疵のある男は、耕助のほうへ会釈もせず、さっさとさきにいってしまった。無愛想な男である。  百姓のおやじもかるく頭をさげると、これまた、そわそわと駅を出ていった。どうやらかれは、この素性も知れぬ男に、少し喋舌りすぎたことを後悔しているらしい。  駅員に矢部家へいく道をきくと、うさんくさそうな眼でじろじろと、耕助の風態を見やりながら、それでも、わりにていねいに教えてくれた。  駅を出ると小さな町としては路幅もひろく、どの店も小ざっぱりとしている。田舎の町としては文化的な匂いがつよく、なるほど、これならコーヒー園の女王が住んでもおかしくないかもしれぬと思われた。  耕助の風態をみて、うるさくよってくる宿屋の客引きや輪タクの運転手を退けながら、金田一耕助はスーツ・ケース片手に、ぶらぶら歩き出した。  事件に突入するまえに、その事件の背後にある土地の雰囲気を、できるだけ早くつかみたいというのが、金田一耕助のいつものやりかたなのである。  矢部家は駅からゆっくり歩いて二十分くらいの距離だそうで、山の手に位している。教えられただらだら坂をのぼっていくと、しだいに眼下に湖水がひろがってくる。湖水はもうすっかり夕靄につつまれて、鈍い色のなかに沈んでいた。  東京からくると、湿度がひくいせいか、さらりとした空気の肌ざわりが爽快だが、そのかわり、単衣の襟もとが少し涼しすぎるようだ。  金田一耕助はゆっくり坂をのぼりながら、いま汽車のなかで聞いた話を、心のなかでくりかえしてみる。  いまから二十三年まえの夏に、この町で殺人事件があったらしい。そして、その被害者というのが、じぶんがこれから訪問しようという矢部家の一員なのだ。名前を英二といい、どうやらじぶんに手紙をよこした、矢部杢衛の息子らしい。  しかし、そのことと、こんどじぶんを必要とする調査ごとのあいだに、なにか関連があるのだろうか。杢衛氏の手紙によると、いま射水の町に滞在している、さる人物について調査してほしいということだったが、その人物が何者にもあれ、二十三年まえの殺人事件と、なにかつながりがあるのだろうか。  しかし、さっきのおやじの問わず語りによると、二十三年まえの殺人事件は、一応解決したことになっているようだ。  英二という矢部家の息子を殺したのは、矢部家と仇敵のあいだがらにある玉造家の娘で、朋子という女性らしい。  そして、その朋子という娘は底なし井戸とやらへとびこんで、死骸は見つからなかったとしても、ともかく死んでいるらしい。  いまさら、その事件を蒸しかえしてみたところで、仕方のない話ではないか。  たとえまた、なにか疑問の点があって蒸しかえしたとしても、二十年以上もたったいまとなっては、手のつけようのない話ではあるまいか。  と、すると、杢衛氏が依頼しようという調査は、また別のことだろうか。  耕助ははじめ杢衛氏の手紙を読んだとき、調査そのものにはかくべつ興味は持てなかった。紹介者の顔を立てる意味と、ちょっと息抜きをしたかったのとで、引受けることは引受けたものの、いずれはくだらない人事調査だろうくらいにたかをくくっていた。  それが、にわかにこの調査に、興味をおぼえるにいたったのは、けさ受取った脅迫状のせいである。  誰かがこの調査をさまたげようとしている。しかも生命の脅威をもって威嚇してきたのだ。と、いうことは、何びとかにとっては、この調査が進展することは、おのれの存在をおびやかされることになるのではないか。  ここにおいて耕助は、俄然、興味と闘志をかきたてられたのである。してみると、あの脅迫状は筆者の意志に反して、まったく逆効果を来したようだ。  とつぜん、金田一耕助は坂の途中で立ちどまり、ぎょっとしたように頭をあげた。まぢかに鳴りわたる、さわやかな鐘の音にどぎもを抜かれたからである。金田一耕助は頭をあげ、それと同時に眼をまるくした。  いままでうつむきかげんに歩いていたので気がつかなかったが、いまかれののぼってきた坂の正面に、田舎としては珍しい、異国風の教会がたっている。  夕靄のなかに白くひかる十字架、まるいドームと、ドームのむこうにそびえる尖塔、小高い丘をバックとして、赤煉瓦の建築物が絵のように美しい。  カトリックの教会らしかった。  時計を見ると七時半。教会の鐘つき男が半をつげる鐘を鳴らしているのである。  ジャラン、ジャラン……と、さわやかな鐘の音が、ゆるやかな震動をえがきながら丘から湖水のほうへ流れていく。  金田一耕助はちょっと異国的な情緒をそそられながら、またゆっくりと坂をのぼっていった。  坂をのぼると正面に、美しい教会がたっている。その教会のまえに三々五々、ひとがたたずんでいるのを見て、金田一耕助は思わず足をとめた。  「何かあったんですか」  と、そばに立っている女に訊いてみる。  女はつれと顔を見合わせたのち、  「いえ、あの……いま、玉造さんのところへ来ていらっしゃる奥さまが、この教会にお参りしていらっしゃるものですから……」  「玉造さんのところへ来ていらっしゃる奥さんというと……?」  「はあ、あの、ブラジルの大金持ちのお嬢さんの、お母さんになるひとですの。とても信心ぶかいかたで……」  ああ、それじゃ鮎川マリの母親の、君江という婦人がお参りしているのを、物見高い田舎のひとびとが、見ようとして待ちかまえているのか。  金田一耕助はちょっと苦笑をもらしかけたが、しかし、いっぽう、妙に胸のさわぐのを感じずにはいられなかった。  「あのひとたちのことなら新聞で読みましたが、それじゃ、あのひとたち、玉造さんのところにいるんですか」  玉造という名は、さっき汽車のなかで聞いたばかりだけれど、依頼人の矢部家と仇敵のあいだがらにあると聞いては、耕助も聞きずてにはならなかった。  耕助の唇から玉造さんと、なれなれしい発音がもれるのを聞くと、女はちょっと不思議そうにかれの顔を見なおしたが、  「はあ、あの、別館のほうを借りて滞在していらっしゃるんです」  「なるほど。それで、お嬢さんのマリさんというひとも、いまこの教会へ……?」  「いいえ、お嬢さんは御一緒じゃないようです。奥さまと付添いのかただけで……ああ、あそこへ出ていらしたわ」  女が呟いたとき、そこいらに立っているひとびとのあいだから、かすかなざわめきが起って、  「ああ、出てきた。出てきた」  と、感嘆とも、羨望ともつかぬささやきと、溜息があたりを占領する。  金田一耕助はその声に、教会の入口のほうへ眼をやったが、そのとたん、一種異様な戦慄が、背筋をつらぬいて走るのを、おさえることが出来なかった。  ひとりの婦人がいま、アーチがたの入口をバックにして、教会のひくい階段のうえに立っている。婦人の年齢は三十五、六から四十までのあいだだろう。  靴もかくれそうなほど、スカートの長い洋服を着て、カトリックの尼さんのように、黒い、大きなスカーフを頭からかぶっている。洋服もスカーフも真っ黒で、そのせいか、スカーフの下にある卵がたの顔が、闇のなかに浮き出した、夕顔の花のように白かった。  その顔色の異様なまでの白さと神々しさ、しかも、その神々しさの底にしずんでいる、なんともいえぬほどの深い憂いの色が、一瞬、金田一耕助を心の底からゆすぶったのだ。それはこのうえもなく悲劇的で、しかも同時に慈愛に溢れていた。  教会から出てきた婦人は、そこに群がっているおびただしい群集を見ると、びっくりしたように立ちどまった。それからボーッと顔をあからめながら、かるく一同に会釈をすると、いそいでベールをおろしかけたが、そのときだった。  「と、朋子!」  と、喘ぐように叫んで、群集のなかから階段の下へ、躍り出した男があった。  頬に疵のある男だった。  男はまるで幽霊にでも出遭ったように、大きく眼を視ひらいたまま、婦人の顔を凝視している。婦人はちょっと、戸まどいしたような顔色で、うえから男の顔を視おろしている。  「と、朋子!」  男はもういちどしゃがれ声で叫んだが、すると、そのとき婦人のあとから出てきた、もうひとりの中年の女が、ふたりのあいだに立ちはだかるようにして、  「お人ちがいではございませんか。こちら、そういうかたではございません。さ、奥さま、まいりましょう」  付添いらしい女が黒衣の婦人の手をとった。  黒衣の婦人はベールをおろすと、そっと階段をおりてくる。そして、頬に疵のある男のそばを、肩をすぼめるようにして通りすぎると、群集にかるく会釈をしながら、夕靄のなかを遠ざかっていく。  頬に疵のある男は、茫然としてそのうしろ姿を見送っていた。  さっきから、この短い寸劇を見まもっていた金田一耕助は、突然、バリバリガリガリと、もじゃもじゃ頭をかきまわした。  朋子。——朋子。——  それは二十三年まえに英二という青年を殺して、底なし井戸へとびこんだという、玉造家の娘とおなじ名ではないか。 深讐綿綿  矢部家は教会から二、三丁はなれたところに、教会とおなじように丘を背にしてたっていた。  いかにも地方の豪家らしく、どっしりとした、厚味のある門構えだ。  門を入って、もうすっかり暗くなった玄関に立って名刺を通ずると、さすがにちょっとあわてたらしかったが、それでもすぐに座敷に通されて、くつろいでいるところへ、四十前後の婦人があらわれた。  「よくいらっしゃいました。わたくし、当家の家内でございます」  切り口上で挨拶をされて、金田一耕助はあわてていずまいをなおした。  「いや、どうも……突然、参上しまして失礼しました。まえもって電報でもうっておけばよかったのですが……」  「いいえ。たぶん、きょうあたりお見えになるのではないかと、心待ちにしておりましたものですから。……このたびは、父が面倒なことをお願いいたしまして、さぞ御迷惑なことでございましょう」  「いや、なに」  みずから当家の家内と名乗り、杢衛を父と呼ぶところをみると、これがさっき汽車のなかで噂にのぼった、英二の兄の慎一郎の夫人で、峯子という女であろう。  色白の、まずは美人といえるが、愛嬌にとぼしい、見識ぶった女である。  「あとで父にあっていただきますけれど、ちょうどお風呂が立っておりますから。……そのあいだにお食事の用意をしておきますから、さあ、どうぞ」  「ああ、いや、どうも……」  風呂からあがって、女中の給仕で食事をすませ、一服吸っているところへ、こんどは十八、九の可愛い娘があらわれた。服装や態度からして女中ではなかった。  「あの、失礼ですが、お祖父さまがお眼にかかりたいといってますから、どうぞこちらへ……」  「ああ、そう、どちらですか」  耕助が気軽に立ちあがると、  「御案内いたしましょう」  と、娘はさきに立って縁側へ出る。  外はもうすっかり暗くなって、空にチカチカ星が光っている。しっとりとした夜気が肌につめたく、縁側をふむ足の裏にもひえびえとしたものが感じられる。  「あなた、こちらのお嬢さんですか」  娘のうしろから金田一耕助が声をかける。  「はあ」  「都さんとおっしゃるんでしょう」  「あら!」  娘はおどろいたようにふりかえって耕助の顔を見なおす。眼のくるくると大きい、えくぼの可愛い美人である。  「どうして御存じですの?」  「いや、なに、さっき汽車のなかで、こちらの噂が出たものですから。こちらを知ってるって男にあったんですが、あのひと、もしやこちらへ……?」  「はあ、あの、お見えになっております。日本は二十何年ぶりなんですって」  「ああ、じゃ、どこか外国に……?」  「ええ、中国から引きあげて来られたばかりだそうです」  ああ、引きあげ者なのか。それであの、ひとに心を許さぬ、つめたい表情も理解できそうな気がする。  「こちらの御親戚だそうですね」  「はあ。……古いお識合いだそうですけれど、なんだか気味のわるいひと。……」  都はそういってから、急に気がついたようにあたりを見まわした。それから耕助の顔を見て、ちょっと頬をそめると、いまの言葉を後悔するように、つよく下唇をかむ。  若くて、きれいな娘だけれど、どこか沈んで、淋しそうなかげがあるのが、耕助の気にかかった。  それからあとは無言で、渡り廊下をわたり、離れへくるとだしぬけに、涼しそうな葭《あし》障《しよう》子《じ》のなかから、なにかいい争うような声がきこえた。  「お父さん、いまになってそんなこと、ほじくりかえすことないじゃありませんか。私立探偵をやとって調査するなんて、ひとに聞かれると外聞が悪いじゃありませんか」  出来るだけ感情をおさえようとしているようだが、どこか激した調子である。  金田一耕助はじぶんの噂が出ているらしいので、ちょっと困って縁側に立ちすくむ。  「慎一郎、おまえはそういうがの、何年たってもおれの口惜しさは消えやせん。英二を殺した犯人が、まだ、のめのめと生きているようだったら。……」  老人らしい声が、怒りにふるえるあとから、  「まあまあ、慎さん、御隠居さんの気のすむようにさせてあげたら。……あんたが反対したところで、もう探偵は来ているのだから」  都もちょっと戸まどいしていたが、話がとぎれたところで、  「お祖父さま」  と、声をかけ、  「東京からのお客さまが……」  その声に、葭障子のなかに坐っていた三人の男が、いっせいにこちらをふりかえった。  「ああ、そうか。そうか。それじゃ、すぐにこちらへ……」  「お父さん、ぼくは失礼します」  三人のなかから、浴衣を着た背のたかい男が立ちあがったが、思い出したように、老人の顔を視おろして、  「ときに、お父さん、古林君はどうします」  「仕方がない。当分おいてやれ。無一物になって引揚げてきたものを、突き出すわけにもいかんじゃろ」  「承知しました」  老人にかるく礼をして、浴衣の男は葭障子をひらいて縁側へ出てきた。  もうかれこれ五十にちかいのだろう。小鬢にちらほら白いものが見えるが、色の浅黒い、背の高い、男振りも風采も、申分のないよい男である。これが都の父の慎一郎である。  慎一郎はむっつりと耕助に会釈をすると、そのままむこうへいきかけたが、ふと都のほうをふりかえって、  「都、お母さんは?」  「はい、お居間のほうで、古林さんてかたと話をしていらっしゃいました」  「ああ、そう」  慎一郎はそのままさっさと母屋のほうへいってしまう。耕助は何気なくうしろ姿を見送っていたが、その背後からふとい老人の声が聞えた。  「さあさあ、金田一先生、どうぞお入りなすって。なあに、あいつには構わんでください。都や、おまえはむこうへいっておいで、用事があったら呼ぶからな」  「はい」  都が立去るのを見送って、耕助は葭障子のなかへ入っていった。  さっき汽車のなかで聞いたところでは、杢衛はもうかれこれ七十だということだが、どうしてどうして、肉付きも豊かで、血色もよく、とてもそんな年齢とはみえない。こまかい藍の竪縞の浴衣に、絞りの三尺をひろくしめた腹が、布袋さまのように出っ張っている。  杢衛のそばには慎一郎と同年輩の、角帯をしめた男がきちんと膝をそろえて坐っていた。  「いや、はじめまして」  と、杢衛はあぐらをかいたまま、ちょっと頭をさげて、  「このたびはとんだことをお願いするが、そのまえに紹介しとこ。こちらはいまむこうへいった倅慎一郎の家内の兄で、宮田文蔵というものじゃが……文蔵、おまえからひとつ、話をしてくれんか」  「はあ、それは……?」  文蔵もさすがにちょっとためらっている。  「まあ、ええがな。おまえの言葉が足らんところは、わしが付け足すことにするで」  「はあ、さようで……」  と、文蔵は臆病そうな眼で、ちらと耕助の顔色をうかがうと、  「じつはね、金田一先生。あなたは御存じかどうか知りませんが、いまこの土地にブラジルのコーヒー王の養女と名乗る娘が来ておりますんで」  「はあ、そのことなら新聞で読んで知っております」  文蔵はうなずいて、  「ところが……」  と、ちょっといいにくそうに、  「こちらの御老人の希望というのは、その娘といっしょに来ているおふくろさんの身許を調査していただきたい。つまり、前身を洗ってほしいとおっしゃるんで」  金田一耕助にもようやくこの調査の意味がわかってきた。しかし、わざとさりげなく眉をひそめて、  「それはどういうわけで……?」  「いや、それについてはお話せんとわかりませんのですが、じつは御老人の次男の英二さん、つまり、いまここにいられた慎一郎君の弟の英二さんというのが、いまから、二十三年まえに殺されたんです。犯人は慎一郎君に惚れてた女で、朋子というんですが、その朋子というのが、死んだ、自殺したということになってはいるものの、誰もその死骸を見たものがない。そこで、ひょっとすると、死んだと見せかけて、どこかに生きているのではないかという疑いが、ずっと昔からあったわけです。ところが、いまこちらに来ている鮎川君江という女が、たしかにその朋子にちがいないと、こう、まあ、老人がおっしゃるんで……」  「おお、ちがいない。ちがいないとも。わしの眼に狂いのあろうはずがあるかい。可愛い倅を殺した女だ。憎い、憎い倅のかたきじゃ。何年たっても、忘れられるものかい。金田一さん、金田一先生、あの女の面の皮をひんむいてくだされ。そして、あいつを……あいつをしばり首にしてくだされ」  杢衛はギリギリ歯をかみならすような口調である。熱い呼吸が嵐のように耕助の頬をうつ。  金田一耕助はふと、さっき教会のまえで見た情景を思い出した。  あの男……頬に疵のある男……二十何年ぶりかで中国から引揚げてきたという、古林という男も、マリの母をひとめ見るなり朋子と呼び、そして、まるで幽霊にでも出遭ったような眼つきをしていたではないか。  金田一耕助ははげしく胸のさわぐのをおぼえるのである。 美しき女王  先祖代々、矢部家と仇敵のあいだがらにあるという玉造家は、矢部家と丘ひとつへだてた向うがわにある。矢部家におとらず、ひろい、大きな建物は、丘に抱かれるような位置にたっていて、したたるばかりの緑の色に、しっとりとくるまれている。  さて、金田一耕助がこの土地へ到着したその翌朝のこと。……  もしひとが玉造家の別館の、ベランダへ眼をやったら、そこに世にもうつくしいひとを見出して、思わず眼を見はらずにはいられなかったであろう。  じっさい、満ち足りた眠りから眼ざめて、朝の入浴をすませたばかりのマリは、たとえようもないほど美しい。  マリはいまベランダへ籐《とう》椅《い》子《す》を持ち出して、家庭教師の河野朝《あさ》子《こ》を相手に、かるい食事をとっている。そのマリの全身を、緑の葉蔭からもれる七月の朝の太陽が、まぶしいばかりにふちどっている。  それはけさの太陽とおなじように、若さと健康のシンボルのようであった。  裏山からきこえる新鮮な小鳥の声が降るようである。  「先生、皆さまからの御返事はそろって?」  「ええ、だいたい。……」  「矢部さんからも返事はあって?」  「それが……あそこだけはまだ御返事がございませんのよ」  「あら、それじゃ困るわ」  マリは美しい眉をひそめて、  「あそこの御一家が抜けちゃなんにもならないわ。先生、ぜひ矢部さんの御一家もおそろいで、御出席くださるようにお願いしてみて」  「ええ」  マリの眉間にうかぶかたい決意のいろを見て、朝子はかすかに溜息をつく。  家庭教師の河野朝子はことし三十五になる。美人というのではないが、うちからにじみ出る知性が、この婦人の容貌を、上品で、しっとりと落着いたものにしている。  若いころ東京の女子大を出て、ながいあいだ、母校で教鞭をとっていたが、二年以前、マリのための家庭教師をさがしにきた、ゴンザレス氏の使者のおめがねにかなってブラジルへわたった。  そして、マリに日本ふうな教育をさずけているうちに、彼女はこの美しい教え子に、献身的な愛情を抱くようになっていた。彼女は生涯、この気高く、美しい女主人のそばをはなれまいと決心している。  彼女はマリの家庭教師であると同時に、マリの母君江のよき相談相手でもあり、付添いでもあった。きのうの夕方、黒衣婦人のおともをして、教会へお参りにいったのも、この河野朝子である。  「ほんとに先生、お願いしてよ。矢部家のひとたちが来てくれなかったら、あたしの計画はなんにもならないのだから」  マリは重ねて念を押した。母の君江や家庭教師の河野朝子のおしこみで、マリはとても日本語が上手である。  「はい、なんとかそういうふうに取りはからいましょう」  河野朝子はひくい声でこたえると、また、かるい溜息をつく。  マリはこの土地へつくとまもなく、土地の学校へ寄付をした。それはかなり莫大な金額だったので、町の有力者たちがお礼の意味で、マリを招待したことがある。  今夜はそのおかえしとして、マリがそれらのひとびとを、この家に招待しようというのだが、その席に矢部家のひとびとが出るかどうかということが、いま問題になっているのである。  「先生、きっとよ。お願いしてよ」  マリは何か思うところがあるらしく、いくらかきつい顔をして、念を押したが、そこへ、母屋のほうから庭づたいに、十六、七の少女がやってきた。  玉造家の娘の由紀子で、この土地の高校生である。近眼らしくロイド眼鏡をかけているが、頬っぺたの紅い、健康そうな、いくらかおしゃまさんらしい少女だ。  「あら、いま、朝のお食事?」  ベランダの下に立って、眼をまるくしている由紀子のすがたを見ると、マリはにわかに笑顔をつくって、  「あら、いらっしゃい。すっかり寝坊しちゃったのよ。ふっふっふ。もうかれこれ十時だってのにね。あら、お花、持ってきてくだすったのね」  マリは由紀子の持っているダリヤの切花に眼をつける。  「ええ、あまりみごとに咲いてたものだから、切ってきたんです」  「あら、そう、ありがとう。まあおあがんなさいな。いま、お食事すんだところ。先生、花瓶持ってきて」  河野朝子が持ち出してきた花瓶に、マリは手ぎわよくダリヤを盛る。  「ああ、そうそう、それからお姉さま、お手紙が来ておりますのよ」  「あら、あたしに……? 誰からかしら」  由紀子の取り出す二通の手紙を、マリはふしぎそうに受取ったが、その一通の裏をかえすと、  「あら、矢部さんからだわ」  と、いそいで封を切ったが、読んでいくうちに、きらきらと眼をかがやかせて、  「先生、矢部さんから御返事があったわ。皆さま、御出席くださるんですって」  と、謎のような微笑である。  「あら、それはようございましたね」  朝子はしかし、そういいながら、なぜか眉根をくもらせる。  マリはそんなことにはおかまいなしに、もう一通の封を切ったが、ひとめでそれを読みくだすと、さっと頬を紅潮させ、大きく眉をつりあげた。  そこにはこんなことが書いてある。 -------------------------------------------------------------------------------   マリよ。この手紙を読みしだい、母をつれてこの土地を立ち去れ。ここにいることは、おまえやおまえの母のためにならぬと知れ。 -------------------------------------------------------------------------------   ただ、それだけで、むろん差出人の名前はなかった。  マリはくりかえし、くりかえし、その短い文章に眼を走らせる。そうすることによって、この文章の背後にある、正体不明の人物の意志を汲みとろうとするかのように。  「お嬢さま、どうかなさいましたか」  蒼白んで、きっと下唇をかみしめているマリの顔色を見て、家庭教師の河野朝子が心配そうに声をかける。  マリはしずかに便箋をたたんで封筒におさめると、かるく首を左右へふって、  「いいえ、なんでもないのよ。そんなことより、先生、お母さまにあのことを申上げてきてください。矢部さんの御一家がいらしてくださるってこと」  マリが目くばせすると、朝子はうなずいて、  「承知いたしました。では、ちょっと失礼します」  と、由紀子にかるく目礼して、ベランダから出ていった。  由紀子はそのうしろ姿を見送りながら、  「お姉さま、おばさま、お加減いかが?」  と、心配そうに訊ねる。  「ありがとう。あいかわらずというところね。もともとあまり丈夫なひとではないところへ、急に気候や風土がかわったものだから。……」  「でも、きのうの夕方、お出かけでしたわね」  そういって、由紀子はさぐるようにマリの顔色を見る。  「教会へでしょう。お母さまは信心家だから、教会へだけは、何をおいてもお参りなさいますの」  「ほんとうに。教会へお参りになるときだけしか、お眼にかかることはありませんのね」  由紀子はそこでおずおずと、臆病そうな眼でマリの顔色をうかがっていたが、やがて思いきったように、  「お姉さま、こんなこといってなんですけれど、おばさまについて、ちかごろ妙な噂が立っているの御存じ?」  「お母さまについてどんな噂?」  マリがほんとうにそれを知らないのか、それとも白ばくれているのか、幼い由紀子にそこまではわからなかった。  「あの……こんなこと言っても、お姉さま、気を悪くなすっちゃいやよ。町のひとたちはね、お姉さまのお母さまのことを、この土地のひとじゃないかしら。ひょっとすると、あたしのほんとうの叔母さまにあたるひとじゃないかしらって、こんなふうにいってるんですの」  「まあ!」  マリはいかにもびっくりしたように眉をつりあげたが、そのしぐさにはなんとなく、わざとらしさがうかがわれた。  「ごめんなさい、お姉さま。こんなこと申上げて、気を悪くなすっちゃいやよ。でも、もしほんとにそうなら、あたし、どんなに嬉しいかわからないわ。だって、そうすると、お姉さまはあたしのいとこということになるんですものね。お姉さまみたいな立派ないとこがあったら。……」  年齢にも似合わず、由紀子がませた溜息をつくのにはわけがある。 ロミオとジュリエット  射水の町の双璧といわれる、矢部玉造両家のうち、矢部家があいかわらず繁栄しているのに反して、玉造家はその後不運つづきで、ちかごろでは、家屋敷も手ばなさなければならないかもしれぬという、悲境におちいっているのである。  それが当面たすかっているのは、鮎川マリ出現のおかげであった。  母の静養の地として、この土地をえらんだマリの代理人から、ひと夏、別館を貸してほしいと申込まれた玉造家のひとびとは、その代償としてしめされた金額の、あまりにも莫大なのに驚かされた。  しかし、いくら代償が大きいからといって、いや、代償が大きければ大きいほど、由緒ある玉造家ともあろうものが、金のために家を貸したとあっては……と、はじめのうち、玉造家のひとびとも二の足をふんでいた。  しかし、たとえにもいうとおり、背に腹はかえられなかったのである。さしあたり、まとまった金を必要としていた玉造家にとっては、ほんとうのところ、マリの申出は渡りに舟だった。  そこで、結局、マリの申出に応ずることになったのだが、昔かたぎの由紀子の祖母、乙《おと》奈《な》のごときは世間態をはじて、当分寝こんだくらいである。  世が世であれば、射水の町きっての名家といわれる玉造家が、どこの馬の骨とも牛の骨ともわからぬものに、部屋貸ししなければならぬとは、なんという情ないことであろう、御先祖様にたいしても申訳がないと、ちかごろとかく健康がすぐれず、それだけに愚痴っぽくなっている彼女は、ひた泣きに泣いたという。  玉造家も戦争以来不幸つづきで、おいおい家人も少くなって、いま、このひろい家のなかに生きのこっているのは、祖母の乙奈と孫の由紀子、由紀子の兄の康雄と、この三人だけである。  由紀子も二世の娘ときいて、はじめは子供心にも、軽蔑の念をいだいていたが、さて、いよいよマリに接触するにおよんで、彼女の感情はしだいにかわってきた。  マリは美しいばかりでなく、気高く、しかも気性が寛闊だった。向うでも家庭では母国のことばを使っているとかで、日本語の発音なども標準語にちかく、由紀子よりきれいなくらいだった。  だから、最初の反感や軽蔑とははんたいに、いまではマリにたいする由紀子のかんじは、子供らしい憧れでみちている。年齢からいえば、それほど大きなひらきはないはずなのだが。……  マリはやさしくほほえんで、  「ほんとに由紀子さんといとこ同士なら、あたしだってどんなに嬉しいかしれないわね。でも、そうだとするとあたしの母は、由紀子さんのお祖母さまの娘ということになり、したがってあたしは孫になるというわけね」  「ええ、そうなんです」  と、由紀子は眼をかがやかせて、  「それですからお祖母さまは、とてもこちらのおばさまに、会いたがっているんですの」  「あら」  と、マリはちょっと眉をひそめて、  「それじゃ、うちのお母さま、まだお祖母さまにお眼にかかったことなかったかしら」  「ええ、いちども」  「あら、そうお」  と、マリは大きく眼を見張ったが、その表情の大袈裟なところに、どこか不自然さがかんじられた。  「だって、うちのお祖母さまは寝たり起きたりだし、こちらのおばさまも、教会へいらっしゃるとき以外は、いつも二階に引きこもっていらっしゃるんですもの」  「あら、ごめんなさい。それじゃこんどお母さまのご気分のよいときを見計らって、いっしょにお祖母さまの御機嫌うかがいにまいりましょう。でも、由紀子さん」  「はあ」  「あなたの叔母さまってどういうかたなの。ちかごろあなたと仲よくしていただいてるのに、いままでいちどもお話をうかがったことはなかったわね」  「ええ。……」  と、由紀子はちょっとためらって、  「だって、そのひとのこと言っちゃいけないことになってるんですもの」  「あら、どうして?」  マリはふしぎそうに眼を見張ったが、そういう表情にも、どこか取りつくろったところがうかがわれた。しかし、幼い由紀子は気がつかず、  「だって、そのひと、人殺しをしたあげく、自殺をしたというんですもの」  「まあ!」  マリは大きく眉をつりあげたが、そういうしぐさにも、やはりどこかわざとらしいところがある。  「由紀子さん、それ、いったい、どういう話なの。いやだわ、そういうひとにお母さまが似ているなんて」  マリがちょっと睨むまねをすると、正直な由紀子はあわてて、  「あら、ごめんなさい。でもお祖母さまはいうまでもなく、亡くなった父や母も、あれは間違いだ。朋子はむじつの罪におちたんだと、しじゅう言いつづけていたんです」  「まあ。それじゃそのかた朋子さまとおっしゃるのね、お父さまの……」  「たったひとりの妹だったんです」  「その朋子さまがどうして、そんな恐ろしい疑いをお受けになったんでしょう。ねえ、由紀子さん、話してくださいません? だって、うちのお母さまに似たかたと聞いては、あたしも聞きずてになりませんわ」  「ええ」  と、由紀子はちょっとためらったが、すぐ心をきめたように、  「じつはあたしもこのことを、お姉さまのお耳に入れておきたかったんです。そのうえで、お姉さまにご注意申上げておきたいことがございますの」  「あたしに注意って?」  「お姉さまもお聞きになってはいらっしゃいません? この玉造の家と矢部家とが、先祖代々仲が悪いってこと」  「ええ、そんな話ならだれからか聞いたわ。でも、その話が朋子さまの話となにか関係があるんですの」  「そうなんですの」  と、幼い由紀子は呼吸をつめて、  「朋子叔母さまはその矢部家の御長男、いまの御主人の慎一郎おじさんと恋仲になられたんですって」  「あらまあ!」  と、マリは驚きの声をもらしたが、その調子にはなんとなく実感がうすかった。  「ほんとに悲惨だわねえ」  と、由紀子はませた調子で、  「亡くなった父なんかいってましたけど、それはほんとにうまくいけば、似合いの夫婦だったんですって。でも、先祖からのことを考えれば、そんなこととても駄目でしょう。慎一郎おじさんは男だからまだいいけれど、思いつめた朋子叔母さんはほんとうにお可哀そうだったって、父も母もそういってたんです」  「つまり、ロミオとジュリエットというわけなのね」  マリはほっと溜息をついたが、その調子にはしみじみとした情感があふれている。  由紀子にはそれがうれしく、  「ええ、そうなんですの。ほんとにロミオとジュリエットみたいに悲しい恋だったんです。そこでふたりとも思いあまったあげくのはてが、駈落ちをしようとしたんですの。そこに間違いが起ったんですのね」  「間違いって?」  「それはこうなんです」  と、じぶんの話に昂奮してきた由紀子は、頬を紅潮させ、指にまいたハンケチで額の生えぎわをぬぐいながら、  「なんでもふたりはこの裏山の、鐘乳洞のおくで落合って、いっしょに逃げる手はずになっていたのね。ところが運悪く、その打合せの手紙が、慎一郎おじさんのお父さん、杢衛おじいさんに見つかったんですのね。杢衛おじいさんはそれをごらんになって、かんかんにお怒りになった。と、いうのはまえまえからの矢部玉造家の関係ばかりではなく、杢衛おじいさんは慎一郎おじさんのいまの奥さま、峯子おばさんをお嫁にするつもりだったんですのね。それで、お怒りが二倍になったというわけなの。そこで、慎一郎おじさんを一室に閉じこめるいっぽう、御次男の英二さんというかたを鐘乳洞へおつかわしになったんですのね。つまり、そこに待っているはずの、朋子叔母さんをひきずって来いっていうわけね。ところが、その英二さんがいつまで待ってもかえって来ないので、ほかのひとを見にやったところが、英二さんが鐘乳洞のおくで殺されていたんです」  由紀子は感情が昂ってきたのか、いくらか声をたかくして、最後の一句をいいはなつと、蒼白の顔を不幸な怒りにひきつらせた。  「まあ!」  マリもさすがに蒼ざめている。しかし、積極的にあとを促そうとはせず、しずかに由紀子の話を待っていた。  「鐘乳洞のなかには鐘乳石といって、氷柱《 つ ら ら》のようなものがいちめんにぶらさがっているんです」  と、由紀子は少女らしい怒りを露骨にあらわし、  「英二さんはその鐘乳石で突きころされていたんです。ところがその手にしっかりと、引きちぎられた朋子叔母さまの着物の片袖が握られていたんです」  由紀子の眼にはいま涙がやどっている。この不幸なりし叔母のことを思うとき、彼女の胸はいつも痛むのである。  「それで、朋子叔母さまに疑いがかかったのね」  マリは低い、呟くような声で、  「そのことについて、朋子叔母さまはなんと弁解なさいましたの」  「それが、お姉さま、とっても理不尽なのよ」  と、由紀子は口惜しそうに眼に涙をうかべて、  「矢部家からの訴えを聞くと、警察でははじめから、朋子叔母さまを犯人にきめて、この家へどやどやと逮捕にきたんですって。朋子叔母さまがほんとうに犯人なら、この家にまごまごしてるはずはないわね。ふつうのひとなら逃げ出すか……いいえ、朋子叔母さまの御気性なら、きっと自首していたろうと、亡くなった父も母もそういってたんです」  「それはそうね。それに、そんな重大な証拠になる片袖を、その場にのこしておくというのも不思議な話だわね」  「そうでしょう。お姉さまもそうお思いになるでしょう。ところが警察のひとたちはそうではなく、はじめから朋子叔母さまを犯人あつかいなんですって。それでも朋子叔母さまは、こういうふうに弁解なすったそうです」  と、由紀子はいたましそうに声をふるわせながら、  「朋子叔母さまは鐘乳洞のなかで、慎一郎おじさまをお待ちになってたのね。そこへ、慎一郎おじさまはいらっしゃらずに、英二さんがやってきて、口ぎたなく罵られたときの朋子叔母さまのお気持ちはどんなだったでしょう。驚きと、悲しみと、絶望と……しかも英二さんはむりやりに、朋子叔母さまを引っ立てていこうとしたんですのね。矢部家へ引っ張っていかれたら、どのような恥辱をおわされるかしれたものじゃないでしょう。そこで、必死となって抵抗しているうちに、片袖がちぎれたんです」  マリは黙って聞いている。黙っているが、なにかしら深い感動にうたれているようで、由紀子にはそれがうれしかった。  「それで、朋子叔母さまは虎口を脱した思いでその場を逃げ出し、この家へ逃げてかえってきたので、けっして、英二さんを殺したおぼえはないとおっしゃったそうです。でも、警察ではそのとき朋子叔母さまが、かっと逆上して、鐘乳石で英二さんを突きころしたにちがいないと言い張って、むりやりに叔母さまを引っ張っていこうとしたそうです。そこで叔母さまは絶望のあまり、また、鐘乳洞へとびこんだのです。お姉さまも御存じでしょう。つい、そこの裏の崖下に、鐘乳洞の入口があるのを。……そこからなかへとびこんで……そして、そして、……自殺してしまったんです」  感じやすい年頃の由紀子は、じぶんの話に感動して、瞳をぬらし、鼻をつまらせている。  マリもさすがに蒼ざめている。深い感動をおさえるように、じっと胸を抱いたまま、しばらく無言でいたのちに、落着いた、静かな声でいった。  「でも、それじゃ、おかしいじゃございません? 叔母さまが自殺なすったとしたら、なにもあたしのお母さまが……」  「いいえ、お姉さま」  と、由紀子はきっぱりと強い声で、  「ところが、叔母さまの死骸というのが、とうとう見つからなかったんです。鐘乳洞のおくには底なしの井戸といって、まだ、だれもその底をつきとめたことのない、深い、深い井戸があるんです。叔母さまはその井戸へ身投げをされたらしく、死骸はとうとう見つからなかったんです。そればかりではなく……」  と、由紀子がそこで言葉を切って、ためらいの風情を見せるのを、  「そればかりではなく……?」  と、マリが励ますようにおうむ返しに訊きかえした。  「そればかりではなく、井戸のそばに書置きがおいてあったんですけれど、それに妙なことが書いてあったんです」  「妙なことって?」  「ええ、それはこうなんです」  と、由紀子は緊張の面持ちで、息をうちへ吸いこむと、暗誦するような声でつぶやいた。  「あたしはいきます。でも、いつかかえってきます。蝶が死んでも、翌年また、美しくよみがえってくるように」  マリはびっくりしたように、由紀子の顔を視つめていたが、  「なんとおっしゃったの? 由紀子さん、もういちどおっしゃって」  「ええ」  と、由紀子は顔をこわばらせて、  「あたしはいきます。でも、いつかかえってきます。蝶が死んでも、翌年また、美しくよみがえってくるように。……」  おそらく、由紀子は小さいときから、なんどもなんども同じ文章をくりかえしたにちがいない。なんの澱みもなく、すらすらと暗誦することができるのだ。  「まあ! あたしはいきます。でも、いつかかえってきます。蝶が死んでも、翌年また、美しくよみがえってくるように。……」  と、マリもおなじ言葉を口のなかでくりかえして、思わずはげしく身ぶるいをした。  「ええ、そうなの、お姉さま、それですから気をおつけになって。矢部のおじいさまはこちらのおばさまを、朋子叔母さまにちがいないって、いきり立っているんです。つまり、あの書置きにあったとおり、朋子叔母さまがかえってきたのだというんです。英二さんはあのおじいさんにとって、眼のなかへいれても痛くないほどの可愛いひとだったそうです。だから、朋子叔母さまのことといえば、矢部のおじいさまは何年たっても、復讐心にもえて、気ちがいのようにいきり立つんです」  由紀子はさかしげな眼をつぶらに見張って、さぐるようにマリの顔色をうかがっている。  マリは謎のような微笑をうかべると、  「ほっほっほ」  と、かるく笑って、  「大丈夫よ、由紀子さん。それだったら杢衛さんてひと、当てちがいをなさいますわ。お気の毒ですけれど、いま二階にいるひとは、残念ながら朋子叔母さまじゃございませんものね」  だが、そういうマリの顔色がどこかかげって、声がひくくしゃがれているのを、かしこい由紀子は気づかずにはいなかった。 珍 客  玉造家の別館は南欧風のあかるい建物になっている。  ほんとをいうと、冬の寒いこのへんとしては、いささか不向きな建物なのだが、これは由紀子たちの祖父が、大正の好景気時代に、矢部家の杢衛と競争で、むこうが北欧風の洋館なら、こっちは南欧風だとばかりに、気候も風土もおかまいなしにたてたものなのである。  その代り夏向きの別荘としてはこのうえもなく、ことにブラジルの賓客をむかえるには、おあつらえむきの建物になっている。  いま、この別館に住んでいるのは、マリと母の君江、家庭教師の河野朝子のほかに、女中が二人、そのほかにもうひとり、カンポというブラジルうまれの若者が、養父ゴンザレス氏の命をふくんで、用心棒という格でついてきている。  カンポはポルトガル人とインデアンの混血児で、俗にマメルコ族という種類に属する青年である。  もと、コーヒー園に働いていたのを、ゴンザレス氏が眼をかけて、リオ・デ・ジャネイロへつれてかえって、高等教育をさずけたのだから、いっぱんの土人とちがって、相当たかい教育を身につけているのだけれど、一見してインデアンの血統がうかがわれる魁《かい》偉《い》な容貌と、身の丈六尺という堂々たる体躯から、外人に慣れない射水の町のひとびとには、鬼のように恐れられている。  さて、その日の夕刻、客をむかえる準備があらかたできたところへ夕立がやってきた。  「あら、困ったわ。せっかくお客様がいらっしゃるというのに……」  ベランダを叩くはげしい雨脚を、マリがうらめしげに眺めていると、  「なに、大丈夫でごぜえますよ、お嬢さま」  と、慰めがおに声をかけたのは、臨時に手伝いをたのんだお作という土地の女である。  「これは夕立でごぜえますから、半時間もすればやみますだね」  「そうかしら。それならいいけれど……」  「そうですとも。見ててごらんなせえまし。いまに雲が切れてまいりますだから」  お作はホールを掃いていた手をやすめると、雨脚を眺めているマリの美しい横顔を視つめていたが、急に意味ありげに、  「お嬢さま、奥さまは二階でごぜえますかね」  「ええ」  と、マリはお作の語調に気がつかず、やっぱり外の雨脚を視つめている。  「お嬢さま、気をおつけなせえましよ」  と、お作はあたりを見まわしながら声をひそめた。  「あら、どうして?」  マリははじめてその声の調子に気がついて、びっくりしたように振りかえる。  お作はまたあたりを見まわしながら、  「河野先生にお聞きでごぜえましたろう。きのうの夕方、変なことがごぜえましたの」  「変なことって?」  と、マリはお作の顔を見ながら、  「ああ、あの教会のまえのできごと。……ええ、聞いたわ。なんだか気味の悪いひとがお母さまをつかまえて、変なことをいったとか……」  「ええ、そのことでごぜえます。奥さまはそのことについて、なにかおっしゃってでごぜえましたか」  「いいえ、お母さまはべつに。……あのひとはとっても口数の少いひとですから。でも、河野先生が心配していらっしゃいますの。とっても薄気味悪いひとだったって。あのひと、いったいどういうひとなの、お作さんはしってて?」  マリの瞳には真剣に、心配そうな色がうかんでいる。お作はまたあたりを見まわして、  「そのことでごぜえますよ。うちの父《と》っつぁんがきのう汽車でその男と、いっしょだったそうでごぜえますが、あいつ、あれから矢部さんのうちへいったそうでごぜえますよ」  「まあ、それじゃ矢部さんのお識合いなの?」  マリの眉間に一瞬、怪しい稲妻がひらめいた。  「ええ、そうなんですとさあ。なんでも矢部さんの遠縁のもんで、古林徹三というんだそうでごぜえます。それがあなた、二十何年ぶりかで、すっかり尾羽打ち枯らして、支那から引き揚げてきたんだそうで。……そういう男のこってすから、また、なにをやらかすかしれたもんじゃねえから、きょうお手伝いにあがったら、ようく奥さまやお嬢さまに申上げておけと、そう、父っつぁんからことづかってまいりましたので。……」  「あら、そう、ありがとうよ。お作さん。でも、あたしたちにはかくべつ関係のないひとのことですから。……」  「いいえ、そうじゃございましねえだ」  と、お作はちょっと語気をつよめて、  「げんにこちらの奥さまにむかって、変なことをいってるじゃございませんか。それに父っつぁんの話によると……」  と、お作はまたあたりを見まわして、  「そうそう、お嬢さまはこの土地で、二十何年かまえに人殺しがあったことをご存じでごぜえますか」  「ええ、その話ならさっき由紀子さんから聞かせてもらったばかりだけど。……」  「さあ、そのことでごぜえます。それで、父っつぁんの話によると、二十何年かまえに人殺しがあったときにも、あのひとたしかにこの土地にいたというんでごぜえますよ」  「まあ!」  さすがにマリの面《おもて》は蒼白になり、その蒼白の額を、また怪しい稲妻が一瞬はしった。  「それでごぜえますから、奥さまにもようくこのことを申上げて、出入りにも気をおつけになりますように。……」  「ありがとうよ。お作さん。お母さまにもよくお話をしておきましょう」  「どうぞそうなさいまして。とにかく、矢部の大旦那というかたは、決して悪いひと、悪人というのではございませんが、玉造さんのことといえばいきり立つんでごぜえます。ことに、可愛くてたまらなかった次男の英二さんというのが、殺されておりますでしょう。矢部の大旦那はそれを、こちらのお嬢さんの朋子さんというかたのしわざだとばかり信じておりますから、いっそう玉造さんを憎むんでごぜえます。その玉造さんのところへ、お嬢さまみてえなきれいなお金持ちが来ていらっしゃるちゅうので、大旦那、それが妬《ねた》ましくて、仕様がねえんでごぜえますだ。それですから、どのような難癖つけてこねえとも限りましねえだで、ようく気をおつけになって。……」  「わかったわ、お作さん、とにかく十分気をつけることにしましょう」  「それがようごぜえますだ。ときに、奥さまはお体がお弱いふうでごぜえますね」  「ええ、弱いってほうでもないんだけれど、急に気候がかわったのがいけないのね」  「今夜の会には……?」  「さあ。ひょっとしたら出られないんじゃないかしら」  「お出ましにならねえほうがようございますよ。ことに矢部さんの大旦那がいらっしゃるとあってはなおさらのこと」  「ええ」  マリが下唇をかみながら考えているところへ、河野朝子が入ってきた。  「お嬢さま、そろそろお召更えをなさらなきゃいけませんわ」  「あら、もうそんな時刻なの?」  マリが腕時計を見直しているところへ、庭づたいに由紀子が駈けこんできた。  お作の予言したとおり、夕立はもう小降りになって、西の空から明るくなりかけている。  「お姉さま、お姉さま」  と、由紀子は息をはずませて、  「お客さまよ、お客さまがいらしたのよ。珍しいお客さまがいらしたのよう!」  「あら、どうしたの。そんなに濡れねずみになって。……」  「だって、珍しいお客さまがいらしたので、いっときも早くお姉さまにおしらせしようと思って駈けつけてきたんですもの」  「まあ、それはありがとう」  と、マリは微笑をうかべて、  「そして、その珍しいお客さまというのは、いったいどういうひと?」  「田代さんよ。田代さんがアルプスからのかえりだって、いまお見えになったの」  「田代さんて?」  と、マリは怪《け》訝《げん》そうに眉をひそめる。  「あら、いやだ。お忘れになったの。田代さんはテニスの選手で、去年ブラジルへ招《しよう》聘《へい》されたのよ。そのとき、お姉さまのところへ招待されたといってらっしゃるわ」  「あら、あの田代さん?」  マリははっとしたように、朝子と顔を見合せたが、一瞬、当惑の表情がふたりの面上をかすめたのを、かしこい由紀子は見のがさなかった。  「あら、田代さんがいらしちゃ、なにか都合の悪いことでもありますの」  このビッグ・ニュースにたいして、大喜びをするかと思いのほか、案に相違のマリの顔色に、由紀子ははなはだ不平そうである。ロイド眼鏡のおくで、ちょっと猜《さい》疑《ぎ》の眼が光った。  「あら、とんでもない。あまり思いがけないおしらせでしたから。……そうでしたの。田代さんは康雄さんのお識合いでしたの」  「ええ、大学以来の親友なの。毎年夏になるといらっしゃるわ。こんどはこちらにお姉さまが逗留してらっしゃるって、新聞でごらんになって、楽しみにしていらしたの」  「まあ、まあ、それは奇遇でございますわね」  と、河野朝子もにこにこしていたが、その言葉にも、由紀子が期待したほどの弾力はなかった。  「あの、田代さん、ぜひともお姉さまやおばさまに、御挨拶したいといってらっしゃるんですけれど。……」  「ええ、でも……」  と、マリは河野朝子と眼くばせをかわしながら、  「ええ、でも……、いまは取りこんでおりますから、いずれ今夜……ね、康雄さんも今夜の会には出てくださるんでしょう」  「ええ、それはもちろん」  「それじゃ、そのとき御一緒にね。いまはこのとおり取りちらかしておりますから」  「ええ、じゃ、そう申上げておきますわ」  由紀子は素直にうなずいたが、しかし、賢い彼女のあたまには、このときから、マリにたいしてなんとなく腑に落ちぬものがわだかまりはじめたのである。 君江の欠席  お作の予言は当っていた。  夕立は六時頃にすっかりあがって、日が暮れるとともに、美しい星がかがやきはじめた。  今夜の会は七時からだが、六時半ごろからぼつぼつ客があつまりはじめた。町長に警察署長、高校の校長さん、その他、町の有力者たちで、矢部家からは杢衛と慎一郎、それから都がつつましく、父のうしろにひかえていた。  ホールの入口には巨人カンポが立っている。カンポは浅黒い顔にきっと唇をむすび、じろじろと吟味するような眼でひとりひとり来客を観察している。  その唇はほとんど開かれることはなかったが、ただ一度だけ、いかにも嬉しそうに、白い歯がこぼれたことがあった。  「やあ、カンポ君、君もきていたのか」  だしぬけにいやというほど手を握られたカンポは、びっくりしたように眼を見張ったが、眼のまえに立っている長身の青年を見ると、さらに大きく眼を見張った。  「オオ、コレハ田代サマ」  いくらかアクセントはちがっているが、それでも立派な日本語である。カンポは嬉しそうに白い歯を見せ、それから、片手を胸にあててうやうやしく敬礼した。  「あっはっは、よく憶えていてくれたね。その節はいろいろお世話になった。どうだ、皆さん、お元気かね」  「ハア、アノ……」  カンポはちょっと顔色をくもらせたが、すぐ無表情に取りすまして、  「サア、ドウゾ、オ通リクダサイ」  と、舌足らずながらも、かなり流暢な日本語である。  「ああ、そう、それじゃのちほど……」  たくましく陽焼けした田代のあとから、由紀子とその兄の康雄が入ってくる。由紀子はいつもこの兄のことを、哲学者とよんでいるが、いかにも気むずかしそうな青年だ。蒼白の面《おもて》に髪が濡れたように黒く、眉根にいつも皺をよせている。  康雄はホールへ入っていくと、マリと談笑している都のすがたに眼をとめた。しかし、すぐにその視線をそらすと、そのままその場に立ちどまる。眉根の皺がいよいよ深くなったようだ。都もなぜか体を硬直させて、そっと視線をかなたにそむける。  しかし、呑気坊主の田代には、むろんこのような微妙な感情の起伏には気がつかない。つかつかと大股にホールを横切って、  「マリちゃん。しばらく。君はひどいよ。ぼくは東京のホテルへ訪ねていったんだぜ」  無遠慮な大声なので、みんなそのほうを振りかえる。  マリは愛想よく笑いながら、  「あら、ごめんなさい。あのときは関西へ旅行しておりましたから。……でも、ここでお眼にかかれて嬉しいわ。いつもお元気で……」  「うん、ありがとう。でも、意外だなあ。玉造の家で、マリちゃんやおばさんに会えるなんて……ときにおばさんは……?」  「お母さまはお加減が悪いので、今夜は失礼するといってますの」  「お加減が悪いって?」  「いえ、べつにたいしたことはないんですけれど……」  マリが言葉を濁したとき、  「あの、ちょっと失礼じゃが……」  と、そばから田代に声をかけたものがある。  「ええ? あの、ぼくですか」  振りかえった田代の鼻先に立っているのは杢衛である。杢衛は疑わしそうな眼でじろじろ田代とマリを見くらべながら、  「あんた、このお嬢さんをご存じかな」  「はあ、あちらでお世話になったもんですから」  「あちらとは……?」  「ブラジルです」  「ブラジル……? あんたブラジルへいかれたことがあるのかな」  「はあ、昨年……」  「どういう用件で……?」  詰問するような杢衛の調子に、由紀子がたまりかねたかのように、憤然としてそばから声をかけた。  「まあ、失礼ね、こちらテニスのチャンなのよ。昨年、ブラジルからの招聘でテニス行脚にいったんじゃありませんか」  「テニスのチャン……? それがどうしてここへまた……?」  杢衛の視線からまだ疑惑の色が去らない。  「うちのお兄さまの親友なのよ。アルプス登山のかえりに、こちらにお姉さま……いえ、マリさんがいらっしゃるとしって訪ねていらしたのよ。おわかりになって?」  由紀子は咬みつきそうな調子である。眼鏡のおくで口惜しそうな眼が光っている。  「ああ、それはそれは……それであんた、むこうでこのお嬢さんのお母さんにも会ってきたんですな」  「それはもちろん。さんざんお世話になってきましたよ。とてもやさしいおばさんで……」  屈託のない田代は、まだこの場にわだかまっている妙な空気に気がつかない。  「マリちゃん、ほんとにおばさん、どうしたのさあ。たいしたことないなら、ここへ呼んでいらっしゃいよ。ぼく、一刻もはやくお眼にかかりたいよ」  「ええ、でも。……あら、お支度が出来たようよ。それじゃ、皆さま、なにもございませんけれど……」  今夜の食事は略式で、洋食と和食をちゃんぽんにしたものである。みんなそれぞれ定めの席へついたが、この際、田代がわりこんできたということが、どのくらい、その場の空気の救いとなったかわからない。  屈託のないお坊っちゃん気質の田代は、たれかれなしに話しかけられ、愛想よくそれに応対している。  町のひとたちもテニス選手の田代幸彦といえば、名前くらいしっていた。勢い田代の旅行談に話の花が咲いたが、  「それにしても、この席におばさまがいらっしゃらないのは残念だなあ。マリちゃん、お加減が悪いって、それほどひどくはないんだろう。呼んでいらっしゃいよ。なんなら、ぼくがお迎えにいきましょうか」  駄々っ児のような田代の言葉のあとについて、  「ほんとうに奥さんがこの場へ顔をお出しにならんという法はないな。こうして旧知のかたもいらしたんだし、われわれとしても、ぜひ奥さんにご挨拶をせんことにゃあ……なあ、神崎さん」  と、これは腹に一物ある杢衛の言葉である。  「はあ、それは、もちろん、そうですな」  警察署長の神崎氏は、矢部玉造両家の争いに、立入りたくはないのだけれど、いっぽうマリの母なる婦人に好奇心もあり、しごく曖昧な返事をしながら、二重顎をなでていた。  「それはそうと康雄さん、お祖母さまはどうです。お加減が悪くって臥せっていられると聞いたが、お見舞いにもあがらんで……」  なんとなく緊迫したこの場の空気を柔らげようと、そばから口を開いたのは、町長の立花老人である。  「はあ、ありがとうございます。べつにたいしたことはないのですが、なにしろ年《と》齢《し》が年《と》齢《し》ですから」  と、由紀子の兄の康雄がこたえた。  「乙奈さん、いくつになられたかな」  「はあ、もう七十三になります」  「ああ、もうそんなに……」  「いや、乙奈さんは乙奈さんとして」  と、またしても杢衛がおさえつけるような調子で、  「それよりもぜひ奥さんにここへ出ていただいて、みんなでご挨拶しようじゃありませんか。お嬢さん、ぜひどうぞ」  傲岸な杢衛の言葉には毒がある。  マリはまじまじとその顔を視つめていたが、ふっと淋しい微笑を口許にうかべると、  「よろしゅうございます。みなさんがそんなにおっしゃるなら。……先生」  と、下《しも》座《ざ》にひかえた河野朝子を振りかえって、  「お母さまをここへおつれして。……」  「はあ」  河野朝子はかるく一同に挨拶して、足音もなく部屋から出ていく。そのうしろ姿を見送って、ふうっと気《き》拙《まず》い沈黙が部屋のなかへおちてきた。  町のひとびとはみんな杢衛の腹をしっている。マリとの押問答を聞いていて、不安な想いに顔見合せていた。  田代はしかし、そんな事情をしるはずがない。急に黙りこんだひとびとを、不思議そうに見まわしていたが、その視線がある人物のうえまでくると、おやというふうに釘づけになってしまった。  「これは、これは……」  と、田代は急に愉快そうに笑い出した。  「マリちゃん、これはどうしたんだ。なにかここに事件でも起ったのかい。それともこれから殺人事件でも起るというの」  「あら、田代さん、どうしてそんないやなことを……」  さすがにマリも驚いている。ほかのひとたちもはっとしたように顔見合せた。  田代はしかし、あいかわらず屈託のない顔色で、  「だって、あそこにいらっしゃるの、金田一先生じゃないか。金田一先生、金田一先生、妙なところでお眼にかかりましたね」  「あっはっは、田代君、とうとう見つかっちまったね」  一同は驚いたようにそのほうへ振りかえる。テーブルのいちばんはしっこに坐っている、もじゃもじゃ頭によれよれの袴の男を、何者だろうとみんなはさっきからいぶかっていたのだ。  マリも杢衛がつれてきた男だということだけをしっていて、どういう人物なのかわかっていなかった。  「田代さん、金田一先生って……?」  「なんだ、マリちゃん、しらないの。金田一耕助先生というのはね、いま評判の名探偵なのさ。こわいよ、マリちゃん、君、なにか悪事でも企らんでいるのなら、やめにしたほうがいいぜ。先生にかかっちゃ、ひとめでぴたりだというからね。あっはっは」  それを聞いて一座のひとびと、あっとばかりに眼を見かわせていたが、とりわけマリの顔色から、さっと血の気がひいていった。 雲を踏む女  「どうしたんだね、お嬢さん、お母さまはおそいじゃないか」  杢衛の声はあいかわらずどくどくしい。  「はあ、きっとお化粧に手間がとれるのでしょう。寝乱れ姿では失礼ですから」  マリはつめたく取りすましている。  食事のあいだじゅう、君江はとうとう姿を見せなかった。お支度のお手伝いをしているのか、河野朝子もそれきり食堂へかえってこなかった。  食事がおわると一同は、またホールに席をうつした。ホールにはたばこや軽い飲物、果物などが勝手に手を出していいように配置されている。左党のためにはウイスキーとソーダ・サイフォンなども用意されていた。  ホールへ席をうつしても、あいかわらず杢衛は、君江の出席をもとめてやまなかった。その執拗さにはかえってほかの客たちが、眉をひそめるほどだった。  「まあ、まあ、ご老人。そうしつこくおっしゃらなくとも。……お見えになるものならお見えになるだろうし、お加減が悪いとしたら、むりにご出席願うのも……」  と、おだやかな立花町長がとりなしたが、杢衛はいっこうきかなかった。  「いや、お嬢さんもさっきたいしたことはないといったし、それにこうして町の有力者が、みんな会いたがっているのに、顔を出さぬという法はない。それともお嬢さん、お母さんにはなにか、われわれに顔を見せられぬ理由でもおありなのかな。なにかうしろ暗いことでも……」  「お父さん!」  と、たまりかねて息子の慎一郎がたしなめた。  「そんな失礼なことを……」  「いや、なにも失礼だとは思わない。かえってこれだけの客を招待しながら、かんじんの奥さんが顔をお出しにならぬというのは、このほうがよっぽど失礼だとは思わないかい。なあ、神崎さん、あんた、どう思いなさる」  「それや、まあ、ご老人がそうおっしゃればそんなものだが、しかし、こちらさんにはこちらさんのご都合もおありのことだろうから」  神崎署長の耳にももちろん、君江と朋子の不思議な相似の話は入っている。署長はいままでそれを鵜呑みに信ずる気にはなれなかったが、これほど杢衛が懇請しても、顔を出さぬ君江という女性にたいして、あるいは……と、かるい疑惑もうかんでくる。  「いいえ、それですからもう少々お待ちくださいますよう申上げているんですわ。いまにこちらへまいりましょう」  マリはあいかわらずつめたく取りすましているが、その声はいくらかふるえていた。  都はこういう葛藤に耐えられないほど、やさしい気《き》質《だて》にうまれている。彼女はそっと人眼を避けてベランダへ出た。  祖父はけっして悪いひとではない。いや、ふだんは腹の大きな、物わかりのよいひとだといわれ、この射水の町でも人望がある。それがことひとたび、玉造家のことになると、子供のように眼に角を立てるのである。それを浅間しいと、都は心をいためずにはいられなかった。  彼女はまたこういう場合における、父の無力さを歯がゆいと思うと同時に、また、その無力な父を気の毒と思わずにはいられなかった。  杢衛という祖父の人格の反映が、あまり強烈であるがために、父の慎一郎はいつも影のうすい存在だった。慎一郎はどちらかというと学究肌の性格で、人と争うことを好まず、出来るだけ世俗的な交際を逃避するようにつとめている。だから、杢衛はこの変人の息子にあまり多くの信をおかず、むしろ嫁の峯子のほうをしっかりものだと信用している。  しかし、都はこの孤独な父を愛していた。このうえもなく尊敬していた。そして、彼女は父とおなじ種類の人間を、玉造康雄のなかに見出しているのである。  都はいつかベランダから、そこにある庭下駄をひっかけて、下へおりていた。  ホールから少しはなれたところに噴水のある池がある。池のまわりはまばらな雑木林になっていて、雑木林のむこうには、高い断崖がくろぐろとそびえている。  都が池をまわって、雑木林のそばまでくると、  「都さん」  と、ひくい男の声がきこえた。  「康雄さん……?」  都が小走りに駈けよると、いきなり康雄が両手をのばして、しっかりその体を抱きしめた。  疎林の梢をもれる月の光が、抱きあったふたりの姿をやさしくなでる。夕立のあとのさわやかな夜気が、しっとりとふたりの周囲をめぐって流れる。  しばらくして都はそっと、男の腕から身をひいた。  「いけないわ。こんなこと。……」  「どうして……?」  「だって、お祖父さまやお母さまにわかると、どんなことになるかしれないわ」  「都、君はいつまでそんなことをいってるんだ。ぼくはもうこの家をすててもいいつもりでいるんだ。由紀子もそうしろといってる」  「まあ」  「由紀子はまだ幼いけれどしっかりした娘だ。あとのことは引受けるから、とにかくふたりで逃げろといっている。ぼくもそのつもりだ。君さえ決心してくれたら。……」  都は蒼白んだ顔を悲しそうにゆがめて、  「由紀子さんみたいに強くなれたらいいわね。でも、あたしには出来ないわ」  「出来ない? なぜだ?」  康雄の声が鞭のように強くなる。じぶんの思うようにことがはこばぬときの、男のわがままな本性なのである。  「だって、あたし、怖いのよ。なにかまた、あなたやあたしの身のうえに、よくないことが起りそうな気がして。……」  都はじっさい怯えている。月光の斑《ふ》のなかにしずまりかえっている疎林のなかを見まわしたとき、彼女はかすかに身ぶるいをした。  「あっはっは!」  康雄はあいての無智をあわれむように、咽《の》喉《ど》のおくでかすかにわらった。  「都はお父さんとうちの叔母の昔話のことを考えているんだね」  「ええ、だって、考えずにはいられないわ。ちかごろまたあの話がやかましくなってきたんですもの。……」  「うちに逗留してるあの大金持ちのお客さんが、ぼくの叔母だという噂のこと?」  「ええ、そう」  「お伽噺だよ。そんなこと。ここいらのひとは単純だから、たれかがそんなお伽噺をつくりだすと、みんなそれに乗ってしまうんだ。話としてはそのほうが面白いからね。あっはっは」  「でも、康雄さん、あなた、その奥さんてかたにお会いになって?」  「いいや、いちども。もっとも会ったところでわからないだろうねえ。ぼくは朋子叔母さんてひとを、写真でだけしかしらないもの」  「でも、お祖母さまは……?」  「それや、祖母にはわかるだろうよ。朋子叔母だったら、じぶんの娘だものね」  「それで、お祖母さまもまだお会いにならないの。奥さまってかたに。……」  「ああ、いちども」  「康雄さん、それをおかしいとお思いになりません。ああして、あそこを借りていらっしゃりながら、いちどもご挨拶をなさらないなんて」  「いや、ぼくはおかしいとは思わないね」  「どうして」  「まあ、お聞き、都。奥さん、奥さんといってるけれど、そのひとはご主人じゃないんだぜ。主人はマリさんなのだ。そのひとはマリさんの生母にはちがいないが、マリさんの養父にとっては単なる使用人にすぎないんだ。だから女主人のマリさんの挨拶があれば、それでよいわけじゃないか。ましてや、日本へきて以来、健康を害しているとあれば、なにも面会を強要することはないと思う。都のお祖父さんはお伽噺に幻惑されてるから、私立探偵を招んでみたり、おばさんに面会を強要したり。……あとで物笑いの種になりゃしないかと、ぼくはそのほうが心配だよ」  都はしばらくだまっていたが、  「でもねえ」  と、まだ心が解けぬようすである。  「でもねえって、どうしたの?」  「いいえ、じつはゆうべうちへ古林徹三って、遠い親戚にあたるひとがやってきたのよ。そのひと、二十三年まえにあの事件があったとき、やっぱりうちにいたんですって。そのひとがきのううちへくるとちゅう、奥さんてかたに出遭ったとかいう話で、あれはたしかに朋子さま、……あなたの叔母さまにちがいないっていってるのよ」  「都」  康雄はやさしく都の髪をなでながら、  「そんなことは忘れておしまい。それよりもぼくたちはいま、じぶんたちのことを真剣に考えなきゃならないんだ。君はいつかいったね。お父さんが気の毒でならないって。お父さんの胸にはいまもなお、ぼくの叔母が生きていて、そのために、お母さんとうちとけることが出来ないんだって」  都は無言のままうなずいた。  「ぼくは君のお父さんみたいになりたくない。あんなにみじめになりたくないんだ。だけど、都、君がいま勇気を出してくれないと、ぼくは結局、君のお父さんの二の舞いになってしまうんだよ」  都は康雄の胸に額をよせたまま黙っている。声は立てないけれど、泣いているのがはっきりわかる。康雄はやさしく髪の毛をなでながら、  「わかった? 都……?」  都は泣きながら、しかし、素直にうなずいた。  「それじゃ、決心してくれるね」  「ええ。……」  と、同意したものの、やっぱり心配そうに、  「でも、康雄さん、どういうふうにするの」  と、都は声をふるわせる。  「ぼくたちはね、君のお父さんやぼくの叔母みたいに失敗しないようにやらなきゃ……でも、こんどは大丈夫だよ。由紀子というシンパがついているからね、あっはっは。あいつはお茶っぴいだけど、とても、気のつく、機転のきくやつだ。あっ、いけない誰か来た。……」  都はおびえたように康雄の胸にすがりつく、康雄は都を抱いたまま、林の影のいちばんふかいところに立ちすくむ。  さくさくと雨あがりの土を踏む音がちかづいてきた。足音は池をまわって、疎林のなかへ入ってきた。  と、思う間もなく、まばらな梢をもれる月光のなかに、黒い影があらわれた。そして、ひとめその姿を見たとたん、都も康雄も思わず呼吸をのんだ。  黒い服に黒いベール。顔は見えなかったけれど、まぎれもなく、いま噂にのぼった君江である。胸に銀の十字架が光っているのが、強くふたりの眼をうばった。しかし、あの歩きかたはどうしたのだろう。まるで雲をふむようなあしどり。……魂のぬけた、ぬけがらみたいなあの歩きかた……。  間もなく黒い影はふたりのまえを通りすぎて、裏の崖下のほうへ消えていった。  その足音が消えるのを待って、都は声をふるわせながら康雄に訊ねた。  「康雄さん、あのかたどこへいらっしゃるんでしょう。この林のおくにはなにがあって?」  「都!」  さすがに康雄の声もふるえている。  「ぼくにもわからない。あのひとが朋子叔母さんだなんてこと、とても信じられない。だけど、この林のむこうには、二十三年まえに朋子叔母さんがとびこんで、二度と出て来なかったという鐘乳洞の入口があるんだ」  「康雄さん!」  「都、君はむこうへいっていたまえ。ぼく、気になるから、ちょっといってみる」  「いけません。いけません。康雄さん。そんなことなすっちゃ……」  「なに、大丈夫だ。まさか鐘乳洞へ入りゃしないと思う。君はむこうへいっていたまえ」  都がとめるのもきかず、康雄はあやしい黒衣婦人のあとを追って、疎林のおくへ踏みこんでいった。 鐘乳洞探検  「マリちゃん!」  と、田代が駄々っ児のような声で叫んだ。  「いったい、どうしたというの。おばさま、なぜこんなにもったいをつけるんだい。皆さんにたいして失礼じゃないか」  さすがのんきな田代幸彦も、どうやらこの場の妙な空気に気がついたらしい。不審そうに眉をひそめながら、マリを視る眼にはどこか詰問するようなひらめきがあった。  「あら、いやな田代さん」  と、マリはやさしく田代をにらんで、  「なにも、もったいをつけるわけじゃないわ。だけどお加減が悪いので、お母さま、ためらっていらっしゃるんじゃないかしら」  「お加減が悪いって、いま聞けば、きのうも教会へいらしたというじゃないか。とにかく、はやくお呼びしていらっしゃいよ。それでないと、みなさんにとても失礼なことになるんじゃない?」  なにかしら、押しかぶさってくるような重っ苦しい空気をかんじて、田代はそれでも取りなしているつもりなのである。マリの母さえ顔を出せば、この重っ苦しい空気もとけるのだろうと、単純な田代はきめている。  「ええ、だからさっき河野先生に、お迎えにいっていただいたんじゃありません? 先生、何をしていらっしゃるのかしら」  マリはいらいらしたように、腕にはめた時計を見る。杢衛はその横顔をにらみながら、疑わしそうに鼻を鳴らした。  金田一耕助はホールの隅から、このなりゆきを興味ふかげに視まもっている。かれはまだ、君江を朋子だときめてしまうほどの勇気はない。しかし、君江が客に顔を見せることを、ためらっているのだとしたら、きっとそれだけの理由があるにちがいないと考える。そして、そのことが金田一耕助にふかい興味をおぼえさせるのだ。  河野朝子がマリの母を迎えにいってから、もうかれこれ二十分はたっている。それだのに母の君江も、迎えにいった朝子もまだ姿を見せないのだ。来客のあいだにひろがってくるギコチなく、重っ苦しい空気は、いよいよきびしくなってきた。  「いや、なに、お嬢さん、お加減が悪いのでしたら、なにもごむりに……」  と、立花町長がおだやかに取りなしたが、しかし、その町長の眼にも、もはや疑惑のいろはかくしきれなかった。  「いや、立花さん」  杢衛がまたそばから、おっかぶせるように口を開いた。  「あんたはそうおっしゃるが、せっかくこうして、みんなでお待ちしてるんだから。……それに、こんどの寄付のお礼もいわねばならんしな」  「それもそうだな」  いままで中立を標榜していた神崎署長も、こんどははっきり杢衛の肩をもった。それだけ一座のひとびとの疑惑がふかまったことを意味している。  金田一耕助は気づかわしげな、また、同時に興味ぶかい眼差しで、マリの横顔を注視している。この娘はいったいどうしてこの場を切りぬけるつもりだろうか。マリが彼女の母親を一同の眼のまえに、さらしものにしたくないらしいことは、さっきからはっきりしているのである。  「カンポ!」  だしぬけにマリが叫んだ。  「ちょっとお母さまを見てきてちょうだい。河野先生はいったいなにをしていらっしゃるのかしら」  ホールの外に立っていたカンポは、陶器のようなかんじのする眼で、ジロリと客を一瞥すると、かるく頭をさげて、足ばやに立去っていった。ギラギラ光るカンポの視線におびやかされて、ホールのなかにはいよいよギコチない沈黙がおちこんできた。  そこへベランダのほうから、都がさりげないようすで入ってきたが、誰もその顔色の悪さに気づいたものはなかったようだ。  間もなくカンポがかえってきた。そして、なにかこごえでマリの耳にささやいていたが、あちらの言葉なので、そばにいる田代にさえもその意味はくみとれなかった。  しかし、マリはびくりとしたように眉根をつりあげ、  「まあ、お母さまも河野先生もお部屋にいらっしゃらないんですって? そ、そんな馬鹿な!」  それがマリのお芝居なのか、それともほんとに驚いたのか、注意ぶかい金田一耕助にもわからなかった。  しかし、杢衛はそれを芝居ととったらしい。意地悪そうに鼻の頭に皺をよせて、  「それはまた妙ですな。お母さん、逃げたんじゃないでしょうな」  「逃げるんですって? 母が……」  マリはふたたび眉をつりあげたが、杢衛に喰ってかかるようなその言葉にも態度にも、どこか調子の弱いところがあり、それが一同の疑惑の視線を招くのである。  「マリちゃん、これ、いったい、どうしたの。おばさま、どうかなすったの?」  田代がマリをふりかえったとき、ベランダから由紀子が駈けこんできた。  「おばさまなら、いまお池のむこうの林のなかで見かけたわ。なんだか物思いにしずんだようすで、鐘乳洞のほうへいらしたようよ」  「鐘乳洞のほうへ……?」  神崎署長が聞きとがめた。  「ええ、そうよ。お姉さま」  「え?」  「おばさま、なんだか夢見てるみたいな歩きかたでしたわ。まるで雲に乗ってるみたいに、ふわふわとした歩きかたで……」  「あっ!」  と、叫んでマリが椅子から跳ね起きたとき、河野朝子があわただしく、ベランダからとびこんできた。朝子はなにか早口に、マリの耳にささやくと、銀色に光るものを手渡した。それは銀の十字架だった。  「先生、それじゃこの十字架が鐘乳洞の入口に……?」  「そうです、そうです。奥さまのお姿が見えないので、お庭へさがしに出かけたところ、由紀子さんが林のなかへ入っていくのを見たとおっしゃるものですから。……」  「でも、先生、お母さまは二階で臥せっていらしたんでしょう」  「ええ、そうですの。それで、みなさまがお眼にかかりたいといってらっしゃいますから、お召しかえをなさいますようにっておすすめして、あたしもお手伝いをしたんでございますの。それから、お母さま、ひとあしさきに階段を降りていかれたので、あたしはあとから降りてきたんですけれど、ここを覗いて見ると、奥さまのお姿が見えないでしょう。それで、もしやいつもの発作をお起しになったんじゃないかと、お庭のほうへ出てみたんですの」  「わかりました」  マリは銀の十字架を握りしめると、  「先生、すみません。スポーツ服の用意をしてください。カンポ、おまえ、あたしといっしょに来て……」  「マリ、いったいどうしたというんだ。おばさま、どうかなすったのかい」  「田代さん、すみません、お母さま、発作を起したんです」  「発作だって?」  「ええ、お母さまはなにかにひどく感動すると、自己催眠にかかって、夢遊病者みたいになるんです」  「夢遊病者……?」  みんなびっくりしたように眼を見張るなかに、杢衛だけがいよいよ疑わしそうな眼のいろになる。さっきから興味ふかげにこの場のなりゆきを視まもっていた金田一耕助も、いまのマリの言葉を聞くと、ほほうというような顔色だった。  「マリちゃん、おばさまにはそんなご病気があったの?」  「ええ、そうなの。あたしが悪かったんですわ。きょう由紀子さんから聞いた、二十三年まえに鐘乳洞へとびこんで、それきり行方不明になったかたのことを、お母さまにお話ししたのよ。しかも、そのかたがお母さまに似てらっしゃるらしいってことまで申上げたの。それがいけなかったんですわね。お母さま、そのときひどく感動してらしたんですけれど、きっとそれが発作を起させたのね。あたし、こうしちゃいられないわ。お母さまをさがしにいかなきゃ……」  マリはホールのなかを見まわしたが、由紀子の姿に眼をとめると、  「由紀子さん、お兄さまはどうなすって?」  「さあ。……」  と、由紀子はわざと都のほうを見ないようにして白ばくれた。彼女は兄が黒衣婦人のあとを追って、鐘乳洞のなかへ入っていったことをしっているのである。  「じゃ、あなたでもいいわ。いいえ、あなたでもいいなんて失礼ですけれど、由紀子さん、鐘乳洞のなか、案内してくださるわね」  「ええ、お姉さま、いつでも」  由紀子がキッパリ答えたとき、  「マリちゃん、ぼくもいこう」  と、そばから田代が口を出した。  「ええ、ありがとう。お願いします。それじゃ、あたし着かえて来ますから」  あしばやに出ていこうとするマリのうしろから、杢衛がどくどくしい笑い声を浴せかけた。  「あっはっは、なんのことじゃ、これは……神崎さん。話がだいぶん面白くなってきたじゃないか。どれ、それじゃわたしも鐘乳洞探検のお供をすることにしようかな。神崎さん、神崎さん」  「はあ。……」  と、神崎署長はとまどいしたような顔を、肉のあつい掌でなでている。  「どうじゃ。あんたもひとつ、いっしょにおいでなさらんか。なにやら面白い芝居が見られそうじゃが……あっはっは」  どくどくしい声をあげてわらう杢衛の顔から、慎一郎と都は情なそうに視線をそらした。  金田一耕助も身づくろいをしながら、ゆっくり椅子から立上った。 蝙《こう》蝠《もり》の窟《いわや》  射水の地底によこたわっている鐘乳洞はずいぶん広く、しかも網の目のように路がわかれているので、延里数にすると、何千里あるかわからぬといわれている。しかもまだ、何人も足を踏入れたことのない個所も多く、そのことがこの鐘乳洞の存在を、いっそう神秘的なものにしているのである。  この鐘乳洞には入口が三つある。そのうちのふたつは昔からしられているものだが、あとのひとつは二十三年まえの事件があったのちに発見されたもので、このことがまた、朋子がまだ生存しているのではないかという、疑いをいだかせる有力な原因になっているのである。  それはさておき、昔からしられているふたつの入口というのが、玉造矢部両家の邸内に位しているのだ。よりによって敵同士の両家の邸内に、鐘乳洞の入口があるというのも、なにかの因縁にちがいなく、それだからこそ、二十三年のその昔、慎一郎と朋子のふたりが、この鐘乳洞を、ひとしれずあいびきの場所にしていたのだ。  さて、スポーツ服に身をかためたマリが、疎林のおくの崖下にある鐘乳洞の入口に立ったのは、それから三十分ほどのちのことである。  一行はマリのほかに案内役の由紀子。田代とカンポは女王様の護衛というかたちで付添っている。杢衛と警察署長の神崎さんは、さしずめ目付役というところだろう。  金田一耕助はただ飄々と、例によってよれよれのきものに袴といういでたちで、一行のしんがりにひかえている。  家庭教師の河野朝子は、お客さまの接待役としてあとにのこった。  鐘乳洞の入口は、あの事件以来、厳重な木柵でかこわれていたが、長い年月に立ちぐされて、いまではないのも同然である。  「あ、お姉さま、ここに靴跡がのこっているわ」  なるほど、由紀子のむけた懐中電灯の光のなかに、くっきりと靴の跡がうきあがっている。それはさきのとがった女の靴跡で、しかもその爪先は鐘乳洞の内部にむかっている。  「あっ、ここにのこっているの、サンダルの跡じゃないか」  田代がもう一種類の足跡を発見した。それはあきらかに木製のサンダルの跡で、しめった土のうえにくっきりと印されている。  「お兄さまかもしれないわ」  由紀子が、声をふるわせた。彼女は都とわかれた兄が、黒衣婦人のあとを追って、この洞窟のなかへ入っていったのをしっているのである。  「まあ、それじゃ康雄さんは、お母さまのあとを追っていらっしゃったの」  なぜかマリの声がふるえたのを、金田一耕助は妙に思った。一瞬、懐中電灯の光のなかに浮きあがったマリの表情が、金田一耕助には妙に空虚なものに見えた。  「とにかく、なかへ入ろう」  田代がまっさきになかへとびこもうとするのを、  「駄目よ、田代さん!」  と、由紀子がませた口調でたしなめた。  「むやみにとびこんじゃ。おばさまの靴跡も、お兄さまのサンダルの跡も、わからなくなってしまうじゃないの」  「ああ、そうか、ごめん、ごめん、それじゃ由紀ちゃん、君のその懐中電灯をぼくにお貸しよ」  「駄目よ。これはあたしのものよ。田代さんはこの蝋燭をもってくといいわ」  まさかこのようなことが起ろうとは思わないから、懐中電灯もそうたくさん、用意してあるわけはなかった。  「ちぇっ、裸蝋燭か。仕方がねえ。それじゃおれがさきにいくからね。由紀ちゃん、すぐうしろからきておくれよ。マリちゃん、大丈夫ですか」  「ええ、あたしは大丈夫。カンポがついていてくれますから」  さすがにマリも顔がこわばっていた。  「それじゃ、金田一先生、しんがりを頼みます」  「ああ、いいですよ。いきたまえ」  「でも、おばさん、どうしてこんな洞窟のなかなんかへ入る気になったのかなあ。おうい、玉造、いるかあ!」  裸蝋燭を手にした田代は、首をちぢめて鐘乳洞のなかへ這いこんでいく。それにつづいて由紀子。由紀子のうしろからマリとカンポ。それを看視するように、杢衛と神崎署長がつづいて、いちばん最後は金田一耕助である。このなかで、懐中電灯をもっているのはマリと由紀子と警察署長の神崎さんだけ。あとはみんな裸蝋燭である。  鐘乳洞の入口はやっと人ひとり、もぐりこめるくらいの広さしかないが、ものの五、六間もいくとだんだん広くなり、それにしたがって天井も高くなる。  「田代さん、靴の跡はまだあって?」  「ある、ある、由紀ちゃん、踵の高い女の靴と、サンダルの跡がついてるよ。だけど、マリちゃん」  「はあ」  「おばさま、夢遊病の発作を起したっていうけど、夢遊病の発作を起すと、暗闇のなかでも眼が見えるの。それとも、おばさま、なにか明りをもってるのかしら」  「わっはっは!」  と、とつぜんマリの背後から、杢衛の笑い声が爆発した。わが意をえたりというような、いかにもどくどくしい嘲笑である。  「田代さん、あんた、いいことをいうなあ。金田一先生、金田一先生」  「はあ。……」  「夢遊病の発作を起すと、暗闇のなかでも猫のように眼が見えるって、なにかそんな話がありますかな」  「さあ。……」  と、金田一耕助も困って言葉をにごした。  「それに、夢遊病者が提灯をぶらさげてたって話も聞いたことがないようだな」  神崎署長も皮肉った。  由紀子がうしろを振返ると、蒼白んだマリがつよく唇を噛みしめている。  「田代さん、あんたよけいなことをいうもんじゃなくってよ。どっちにしても、おばさまがこの鐘乳洞へお入りになって、そのあとを、うちのお兄さまが追っかけていったらしいって、それだけのことがわかってればいいの。それより足跡を見失わないようにしてちょうだい」  「だけど、おばさま、なんだっていまごろこんなところへ……」  「また!」  と、由紀子につよくたしなめられて、  「はい、はい」  と、田代は肩をすくめると、それでもあとは忠実に由紀子の命令を守って、無言のまま暗闇のなかをすすんでいく。ほかの連中も口をつぐんで、全身の皮膚の感覚をもって、この暗闇のおくにひそむ秘密を嗅ぎつけようとしているかのようである。  三つの懐中電灯と、四本の裸蝋燭のまたたきのなかにうきあがった、七人の黒い影法師の集団には、なにかしら、一種異様な緊迫感がひそんでいる。こういう洞窟のなかでも、空気のながれがあるとみえて、おりおり蝋燭の灯が消えそうになり、そのたびに七つの影法師が、伸びたり縮んだり、ねじれたりした。  いちばんしんがりにひかえた金田一耕助は、この冒険に少からぬ魅惑をかんじている。かれにはまだこの探検を喜劇とみてよいのか、それともスリルにとんだ冒険とかんがえるのが至当なのか、はっきりわかっていないのだ。今夜のこの奇妙な探検が、誰かによってあらかじめ組立てられていた筋書きによるものなのか、それとも、はからずも持ちあがった事態なのか、それすらまだかれにはわかっていないのである。  ただ、おぼろげながら感得できることは、マリの母なるひとが、射水の町のひとたちのまえに、顔を見せたがらないらしいという一事である。しかし、それならなぜわざわざ、町のひとたちを招待したのであろう。招待した以上、客のまえに顔を出すことを余儀なくされるであろうことは、わかりきった話ではないか。……  「ひゃあっ!」  とつぜん、先頭に立つ田代が、世にも異様な叫び声をあげてとびあがったかと思うと、かれの掲げていた裸蝋燭の灯がふっと消えた。それにつづいて金田一耕助も、なにやら一瞬の空気の動揺を頬にかんじたかと思うとかれの掲げていた蝋燭の灯もふっつり消えた。金田一耕助も思わずあっと呼吸をのむ。  「由紀ちゃん、由紀ちゃん、いまのはなんだ。たれかがつめたい手で、おれの頬っぺたをなでてったよ」  「なによ、田代さんの意気地なし。蝙《こう》蝠《もり》じゃないの?」  「こ、蝙蝠……?」  「そうよ、ほら、天井をごらんなさい」  由紀子が懐中電灯の光を天井にむけると、なるほど、そこには無数の蝙蝠が、体をさかさまにしてぶらさがっている。  それはまるでボロ布でもぶらさげたようなかっこうで、大半は眠っているらしかったが、なかには鋭い眼をひらいて、下を視おろしているのもあった。完全に眼をさましたのが二、三匹、ひらりひらりと一同の頭上をとんでいる。  「ああ、もう蝙蝠の窟《いわや》へきたんだな」  と、杢衛はあわてて蝋燭の灯をかばいながら、頭上を見上げて呟いた。  「蝙蝠の窟というんですか、ここ……?」  金田一耕助は裸蝋燭に灯をつけなおして訊ねた。  「ええ、そう。どういうもんですかな。ひろい洞窟のなかでもこのへんだけに蝙蝠があつまってるんですな。気をつけてください。また羽根で灯を吹き消されますよ」  「おじさん、蝙蝠はわざとああして灯を吹き消すんですか」  「ええ。そうらしいんですよ。田代さん。蝙蝠は灯をもってるやつが嫌いなんだな」  「ちっ。いやな眼をしてにらんでやあがる。咬みつきゃしないかな」  「悪《いた》戯《ずら》をすると咬みつくかもしれないわよ」  「おどかしっこなしにしてくれよ。由紀ちゃん、ちょっとすまないが、懐中電灯をかしておくれよ」  「あら、どうしたの?」  「びっくりしたひょうしに蝋燭を取りおとしちゃった」  「案外、臆病なのねえ。田代さんは?」  「ちがわあ。誰だって暗闇のなかからだしぬけに、ひいやりしたもので頬っぺたをなでられてみろ。肝をひやさずにいられるもんかてんだ。ああ、あった、あった」  田代が蝋燭をさがし出して、灯をつけなおしているあいだに、金田一耕助は少しそのへんを歩いてみる。  世に天の摂理ほどふしぎなものはない。そこには乳灰色の鐘乳石の柱が、まるで数十、数百匹の白蛇がからみあったようなかっこうをして連なり、それが洞窟の壁をなしているのである。洞窟はもうかなり、ひろくなっていて、天井まで五メートルくらい、洞窟の幅は四メートルくらいもあろうか。床もかたい岩石からできているが、ところどころに水溜まりがあり、また、いたるところに天井からしたたりおちた滴がたまりたまって、鐘乳石のかたまりが、筍のようににょきにょき生えている。  いつまでも立ち去らぬ裸蝋燭や懐中電灯の光に眼をさましたのか、天井を舞う蝙蝠のかずはしだいにふえてくる。  杢衛はとつぜん、金田一耕助の腕をにぎると、片手にもった裸蝋燭で、天井に舞う蝙蝠を指さしながら、骨をさすようなきびしい声でいった。  「金田一先生、あの蝙蝠たちの親か、あるいはその親たちは見ていたんですよ。玉造の朋子が、わしの可愛い倅の英二を刺し殺すところを。……英二の死体が発見されたとき、そのうえを五、六匹の蝙蝠が舞ってましたからね」  その声はマリの耳もとにもとどいたのにちがいない。むこうむきになった肩のあたりが、はげしく痙攣したのを、金田一耕助は見のがさなかった。 洞窟の怪人  それから間もなく、ふたたび態勢をととのえて、一同は蝙蝠の窟を出発したが、しばらくすると、  「さあ、弱ったぞお」  と、先頭をいく田代が叫んだ。  「田代さん、どうかしてえ?」  「どうもこうもねえよ。このへん、岩ばっかりで地面がかちんかちんなんだ。足跡なんかどこにもありゃしねえ」  「あら、困ったわ。それじゃおばさまやお兄さま、どっちへいったかわからなくなってしまう。だってこの鐘乳洞、これからさき、迷路みたいになってるのよう」  「ほんとうか、由紀ちゃん」  「ほんとうよ。お兄さまはいいけど、おばさま迷い子になってしまうわ」  「玉造のやつはどこへいきゃあがったのか。おうい、玉造やあい。康ンベ、やあい」  田代が声を張りあげると、洞窟のはるかおくから、それに呼応するかのごとき声が、とおくはるかに聞えてきた。  「あっ、しめた! 誰かが返事をしてるぜ」  「嘘よ。いまのはこだまよ」  「こだまァ……?」  「そうよ。嘘だと思うならもういちど呼んでごらんなさい」  「ようし、きた。玉造やあい。康ンベ、やあい。……」  叫んでおいて耳をすますと、なるほどしばらく間をおいて、とおくかすかに聞えてきたのは、いま田代がさけんだのと、おなじ言葉の繰り返しだった。  「ほらね」  「ちっ、やっぱりこだまかあ」  田代が、がっかりしたように肩をすくめているところへ、少しおくれてほかの一団がやってきた。  「田代君、どうしたの。なにを大声で叫んでいるんだ」  「いえね、金田一先生、ここまでくると、ほら、このとおり、岩がかちんかちんで足跡なんかどこにも見えないんです。それに由紀ちゃんの説によると、これからさきは八幡の藪みたいな迷路になってんで、おばさま、どっちへいったかって呼んでたとこなんです」  「いや、それならなにも心配はいりません」  と、落着きはらって杢衛がこたえた。  「奥さんはきっと底なし井戸へいかれたにちがいないからな」  「だって、おばさま、底なし井戸がどこにあるか、ご存じのはずがないじゃないの」  由紀子が喰ってかかったが、  「いや、ところが、それをしってるから不思議だというのさ。あっはっは」  杢衛のどくどくしい笑い声が、鐘乳洞の壁に反響して、底しれぬ闇のおくから、魔物の雄叫びのようにもどってくる。  マリは無言のまま唇を噛んでいるが、由紀子は憎らしそうに杢衛の顔をにらんだ。  「由紀ちゃん、なんだい、その底なしの井戸というのは……?」  「なんでもいいの。とにかくいきましょう。お姉さま、大丈夫……?」  「ええ、あたしは大丈夫」  マリは蒼褪めた顔をしながら、それでも由紀子にたいして、感謝といたわりの微笑を忘れなかった。  それからまた七つの奇妙な影法師は、黙々として二、三百メートルほどやってきたが、そこではじめて洞窟がふたまたにわかれているところにぶつかった。  「お姉さま」  と、由紀子は立ちどまってマリのほうへ振返る。  「こっちの路を右へいくと、矢部家の裏の崖へ出られるのよ。おばさま、どっちへいったのかしら」  「そら、左の路にきまってるがな。誰がじぶんの殺した男の家のほうへいくもんか」  「だって、おばさま、そんなことご存じのはずはないわ」  「ご存じでもご存じでなくても、左の路にきまってる。そっちへいけば底なしの井戸があるんだから」  田代はちょっと途方にくれたような表情をして、杢衛とマリ、それから由紀子の顔を見くらべていたが、そのあいだに金田一耕助と神崎署長は左の洞窟へもぐりこんで、地面のうえを調べていた。  「ああ、田代君。やっぱりこっちの洞窟のようだ。ほら、ここに足跡がのこっている」  「それに、ほら、マッチの擦《す》りかす」  と、金田一耕助はほとんど燃えつきそうになった、マッチの軸を一本拾いあげた。その軸はあきらかにまだ真新しかった。  「由紀子さん、お兄さんはたばこを吸うんでしょうねえ」  「ええ、それは……」  「それに、お兄さんはこの洞窟の地理に相当くわしいんでしょうねえ」  「ええ、底なしの井戸まではときどきいきます。あたしもいっしょにいくんです」  「どういうわけで……?」  「はい、あの……」  と、由紀子はちょっとためらって頬をあからめたが、それでもすぐに昂然と首をあげると、  「ひょっとすると、そこから叔母さまがかえっていらっしゃりはしないか。そして、一家の恥辱をそそいでくださりはしないかと、そう思っているからでございます」  と、まるで教師の質問にこたえる善良な生徒のように、敬虔な切り口上でこたえた。  「なるほど、そうすると、これはこういうことになりはしないかな」  と、金田一耕助は杢衛がまた、なにか毒舌を浴せそうにするのをいちはやくさえぎって、  「この洞窟の地理に明るいお兄さまは、ここまでは一本道だから、暗闇のなかを手さぐりでも来られた。ところがここで路がふたつにわかれているので、マッチを擦っておばさまがどちらへいかれたか調べてみた。……」  「しかし、金田一先生」  と、神崎署長がそばから言葉をはさんだ。  「康雄君はそれでよいとして、奥さんはどうしてここまで辿りついたか。暗闇のなかを、あのおびただしい鐘乳石の筍《じゆん》にもつまずかずに。……奥さんはやっぱり猫のように、暗闇のなかでも眼が見えるのかな」  「なあに、だからやっぱり明りを用意していたのさ。あらかじめ、こういう筋書きができていたんだろうよ」  「いや、ここで議論をしていてもはじまらない。とにかく前進をつづけましょう」  「よし、では、また、ぼくが先頭に立ちましょう」  田代は裸蝋燭を取りなおして、地面に印せられた足跡を調べていた。  「田代さん、お母さまの足跡……?」  マリの声はふるえている。これがあらかじめ書きおろされた筋書きによる演出であったにしろ、また、そうでなかったにしろ、この場の情景はマリのようなわかい女にとって、かなり強い衝撃だったにちがいない。  「いや、それがなにしろ、ぬかるみのなかへ深くめりこんでいるので、靴の形まではわからない。しかし、ごく最近、誰かがここを辿っていったことだけはまちがいないようだ」  「とにかく、いってみましょう。カンポ、しっかりあたしにつかまってて」  左の洞窟へ入っていくと、いままでとうってかわって、踝《くるぶし》までめりこみそうなぬかるみである。広さは相当あったが、天井がうんとひくくなって、しかもその天井からいちめんに、氷柱のように鐘乳石がぶらさがっているので、うっかり頭をあげて歩くことも出来ない。おまけにゆく手は底しらぬ闇だ。  「由紀ちゃん、底なしの井戸というのはまだ遠いのかい」  「ええ、まだずっと奥」  「それまで、ずっとこんな路?」  「ううん、もう少しいくともっと楽になる」  「そうか。それで安心した。こんな洞窟がどこまでもつづいていたらやりきれん」  「でも、路をまちがえるとたいへんなのよ」  「たいへんて、どうたいへんなんだい」  「まだ、誰もその奥をたしかめてみたことのない洞窟があるの。なんでも途中に河が流れてるって話だわ」  「地の底に河が流れてるのかい」  「そうよ。逃げ水の淵っていうの。どこから流れてきて、どこへ流れていくのか、たぶん湖水の底へ流れていくんだろうといってるけど、まだはっきりわからないの」  「ちぇっ、薄気味悪いんだなあ」  「そうよ。だから逃げ水の淵からむこうへは、まだ誰もいったひとがないのよ」  「そんな薄っ気味悪い洞窟へ、おばさまはなんだってまた……」  「また、それを……」  「うん、もう聞かない、聞かない。ああ、ここでまた路がふたつにわかれてるぜ」  「左のほうへいくのよ。右へいっちゃ駄目よ」  「右へいったらどうなるんだ」  「いま言った逃げ水の淵……」  「ふうん」  と、田代は裸蝋燭をかざして、右の洞窟の奥をのぞいた。気のせいか洞窟のはるか奥から、河のせせらぎのような音が聞えてくるような気がする。田代は思わずゾクリと体をふるわせた。  「だけど、由紀ちゃん、おばさんがこっちのほうへ迷いこまなかったとどうして保証することができる」  「田代さん」  と、うしろからまた杢衛が、嘲弄するような調子で声をかけた。  「奥さんはこんりんざいそっちのほうへいきっこない。あのひとはこの洞窟の地理をよくわきまえているんだからな」  「田代さん」  と、その言葉をさえぎるようにマリが叫んだ。  「足跡を調べてみて、どっちの洞窟に足跡がのこっているか」  「よし」  裸蝋燭をかざして調べていた田代は、すぐ左の洞窟の床に足跡らしいものを発見した。  「ああ、やっぱりこっちだ。ここに足跡がのこっている」  「古い足跡じゃない?」  「いや、たしかにいま歩いていった足跡のようだ。あっ!」  「田代さん、どうかして?」  と、由紀子が訊ねた。  「ほら、このマッチの擦りかす」  と、田代が拾いあげたまだ真新しいマッチの軸の燃えのこりを見て、一同はしいんと顔を見合せた。  「カンポ、しっかりあたしにつかまってて。あたしなんだか怖いのよ」  じじつ、マリの声はふるえていて、必ずしもお芝居をしているとは思えなかった。  「田代さん、もういちど呼んでみて。お兄さまの名を……」  由紀子も異様な昂奮と緊張に、蒼白く声をふるわせた。  「うん、よし」  田代は呼吸をふかくうちへ吸うと、真っ暗な洞窟の闇にむかって、  「玉造やあい。……康ンベやあい。……」  と、いかにも肺活量の強そうな、ひびきのふかい声を張りあげた。それからしいんと一同は闇にむかって利《きき》耳《みみ》を立てていたが、やがてはるかにかえってきたのは、あざけるようなこだまの声ばかり。  「駄目だな、もういちど呼んでみようか」  「いや、そんなことをしているひまには、どんどん進んでいったほうがいい。どうせいくさきは底なし井戸ときまっているんだ」  だが、そういう杢衛もじぶんひとりではいきかねるらしい。  「さあ、田代さん」  と、促されて、  「ええ、それじゃ……」  と、田代が歩きだしたときである。  「あっ、ちょっと!」  と、低い、鋭い声で呼びとめたのは神崎署長である。  「えっ?」  「みんな明りを消して! むこうから誰かやってくる!」  その声に由紀子とマリは懐中電灯のボタンを押し、ほかのものはいっせいに、蝋燭の灯を吹き消した。  なるほど、洞窟の奥から誰かこっちへやってくる。忍びやかに、ためらいがちに、それでも正確なリズムを刻んで、足音はしだいにこちらへちかづいてくる。その足音の聞える方角からしてわかることは、この洞窟はなかへ入ると、すぐ大きくカーヴしているらしいことである。  間もなく洞窟の壁に揺れるような光の反射があらわれた。安定したその光線の照明からして、それはマッチの焔のようなものではない。誰か懐中電灯をたずさえた人物が、洞窟の奥からやってくるのだ。と、すると、それは康雄ではない。君江だろうか。……由紀子は心臓がドキドキする。  とうとう、懐中電灯を片手にもった黒い影が、十メートルほどさきのカーヴを曲ってあらわれた。  「おばさまあ……?」  思わず由紀子が声をかけ、懐中電灯のボタンを押してそのほうへむけた。そのとたん、  「あっ!」  と、いう叫びとともに、相手はくるりと身をひるがえすと、た、た、た……た、た、た……と、いまきた道を一目散に走る足音が、しだいに闇の洞窟を遠ざかっていく。  「誰か! 待て!」  ちょっと虚をつかれたかたちの神崎署長は、懐中電灯をつけなおすと、すぐそのあとを追いはじめた。  「署長さん、署長さん、ぼくもいっしょに……」  裸蝋燭をつけるひまのなかった田代は、署長のかざす懐中電灯の光をたよりにこれまたあとを追っていく。ふたりの姿はすぐカーヴのむこうに見えなくなった。  「いまのひと、男のようだったわね」  由紀子がふるえる声で呟いたとき、  「カンポ、来てえ、あたしもいってみるわ」  「お姉さま、駄目! 駄目よ、いっちゃ……」  だが、もうそのときにはマリとカンポも、カーヴを曲って迷路の闇にのみこまれてしまって、あとには由紀子と杢衛と金田一耕助のただ三人。 第一の殺人  「まあ、どうしましょう。お姉さま、きっと路に迷ってしまうわ」  由紀子は懐中電灯をふりかざしたまま、暗闇のなかに立ちすくんでいる。体がこまかくふるえていた。  金田一耕助は裸蝋燭に灯をつけながら、  「由紀子さん、この奥にはわき路がたくさんあるんですか」  「ええ、とってもたくさん。これからがたいへんなんです。網の目のようになっているんです」  「由紀子さんは、しかし、底なし井戸へいく路をしってるんですね」  「ええ、それはよく……」  「そう、それじゃ、とにかくいってみましょう。矢部さん」  何気なく杢衛の顔をふりかえって、金田一耕助は思わずおやと眉をひそめた。  なにに驚いたのか、杢衛は張り裂けんばかりに眼を見張って、前方の闇を凝視している。金田一耕助の声も耳に入らなかったらしい。  「矢部さん、もし、ご老人、どうかしましたか」  金田一耕助にポンと肩を叩かれて、杢衛ははじめて夢からさめたように、ぎっくりそのほうを振りかえった。その顔色にはまだおどろきの色がうかんでいる。  「矢部さん、なにか……?」  「いや、いや!」  と、杢衛は手の甲で額をこすりながら、きょろきょろとあたりを見まわしている。  「矢部さん、なにか……?」  「いや、蝋燭……」  杢衛はさっきびっくりした拍子に、手にした蝋燭を落したらしい。  「蝋燭ならそこに落ちているわ」  「ああ、ほんとだ」  金田一耕助はそこに落ちている蝋燭を拾いあげると、それに火をうつして杢衛の手に握らせた。杢衛の手はなぜかかすかにふるえている。  「矢部さん、どうします。前進しますか。それともここから引きかえしますか」  「もちろん、前進じゃ」  杢衛は怒ったようなぶっきら棒で言いすてると、みずからさきに立って歩きだした。  十メートルほどいくと、洞窟は大きくカーヴしていて、そのむこうに漆のような闇がつづいている。もう誰もそのへんにまごまごしているものはなかった。  さっきの男はこのカーヴからとび出してきたのだ。誰もいないと思ってとび出してきたところが、だしぬけに由紀子に懐中電灯の光をむけられて、あわててもときた路へ逃げだしたのである。  「矢部さん、あなたはもしや、さっきのあの男をご存じだったんじゃありませんか」  「どうして?」  と、杢衛は怒ったような眼を耕助にむけると、  「わしには懐中電灯の光しか見えなかった」  「由紀子さん、あんたどう?」  「鳥打帽をかぶってたわね。ただ、それだけ。……それと洋服のうしろ姿と。……」  「金田一先生、あんたは見たんだろう。どんな男だった?」  「いや、それが……あの男がこのカーヴを曲って出てきたとたん、署長さんがぼくのまえに立ちはだかったもんだから。……まあ、とにかくいってみましょう」  それきりあとは無言で、三人は黙々として、底しれぬ闇のなかを歩いていく。みんなどこへ消えてしまったのか、あたりには人の気配はもちろんのこと、灯の色さえも望まれない。  ときどき、由紀子が声を張りあげて呼んでみるのだが、かえってくるのはこだまの音ばかり。墓場のような静けさが、地底の冷気とともに身にしみる。  いくほどに迷路はしだいに複雑になってきて、いたるところにわき路がある。  「由紀子さん、大丈夫でしょうね。路に迷やあしないでしょうな」  「ええ、大丈夫。あたし、お兄さまとよくこの路をいったんですもの」  路は急に広くなるかと思うと、また巾着の口をしぼるように狭くなる。あるところでは、匍うようにして進まなければならぬところがあるかと思うと、また、あるところでは、どんな長い竿をもってきても、天井までとどかぬという洞窟がある。  「金田一先生、ここが『とどかぬ窟《あな》』というてな。二十三年まえ、英二が殺されていたのはこのへんだった」  杢衛の声にはいまさらのように、いきどおりのひびきがこめられている。何年たっても杢衛の胸には、そのときの無念さがくすぶっているのである。  見ると、巌窟をきざんだくぼみに、小さな石地蔵がまつってあった。おそらく英二の冥福を祈って、杢衛がきざませたものだろう。三人はそのまえで手を合わせた。  「ところで、底なしの井戸というのは、まだ遠いのですか」  「いや、もうすぐだ。間もなく崖っぷちへ出るからな、気をつけてくださいよ。足踏みはずすと、それこそ地獄まで落ちてしまいますからな」  やがて三人はその崖っぷちへ突きあたったが、金田一耕助はそこに立ったとき、いまさらのように自然の妙の偉大さに、驚嘆しずにはいられなかった。  洞窟の広さもここまでくると、どれくらい奥底があるのか測りしれない。そこはひとつの真っ暗な世界であった。うえを見ると、どんな長い竿をもってきてもとどかぬという天井が、どこにあるともしれず、闇のなかにおおいかぶさっているのだ。そして下を見ると、いま三人が立っている岩石を、巨大な斧でたちわったように、千《せん》仭《じん》の谷が、奈落までつづくかと思うばかりの闇のなかに落ちている。  「底なしの井戸というのはこれのことですか」  さすがに金田一耕助の声もふるえていた。全身からつめたい汗が吹き出すような感じである。  「いいや、底なしの井戸はこの谷のむこう岸にある。灯りがついていればここからでも見えるのだが……」  だが、その言葉もおわらぬうちに、三人は思わずぎょっと呼吸をのんだ。  まっくらな地底の断崖のむこう岸に、そのときぼっと、かすかな光が見えたからである。それはカンテラの灯らしかった。しかも、そのカンテラをもって、朦朧と闇の中に立っている黒衣の女。……  一瞬、杢衛も金田一耕助も、思わずしいんと呼吸をのんだが、つぎの瞬間、由紀子が気ちがいのように金切り声を張りあげた。  「あっ、おばさまだわ。おばさまだわ。おばさまあ!」  由紀子の声が聞えたのか、黒衣の女はふっとこちらを振りかえった。ベールをあげているので顔が見えたが、マリによく似たその顔は、この世のものとは思えぬほど白く、かつ、淋しげに見えた。  「朋子だ!」  杢衛が思わず絶叫した。  その声がむこう岸にとどいたのか、黒衣の女はカンテラをさしあげるようにして、じっとこちらをのぞいている。  そのとき、カンテラの光をまともにうけて、女の顔はいっそうはっきり浮きあがったが、それこそ、マリの母親にちがいないと思われた。マリのどちらかといえば丸顔なのにくらべると、マリの母は面長なほうだが、それでもふたりのあいだには、ある種の相似がうかがわれる。  「朋子だ! 朋子だ! やっぱり朋子がかえってきおった!」  杢衛は気ちがいのように叫ぶと、いきなり由紀子の手から懐中電灯をもぎとって、かたわらの洞窟へとびこんだ。断崖のむこう岸へわたるには、また、地底の迷路をたどらねばならないのである。  「おばさま、逃げてえ! いま、そっちへ矢部のおじいさまがいってよう。間違いがあるといけないから、はやく逃げてえ!」  由紀子がこちらから絶叫すると、むこう岸の黒衣の女は、それが聞えたのか聞えないのか、不思議そうに小首をかしげてこちらを見ていたが、やがてふうっとカンテラの灯を吹き消した。あとはぬば玉の闇である。  「金田一先生、いきましょう。矢部のおじいさまとおばさまを会わしちゃいけないわ」  「よし!」  と、いったものの、杢衛に懐中電灯をうばわれては、頼るものといったら裸蝋燭一本きり。裸蝋燭をかざしては、そう速く走れない。それに、そこからさきにも、いたるところにわき路があるので、よほど気をつけて進路をえらばないと、とんでもない迷路へ迷いこんでしまうのである。  だが、間もなくふたりは先へいく、杢衛のうしろ姿をはるかむこうに見出した。由紀子ほどこの迷路になれない杢衛は、懐中電灯をもっているとはいえ、そう無鉄砲に走れなかったのだろう。  「矢部さん! 矢部さん!」  金田一耕助がうしろから叫んだが、杢衛にはその言葉も耳に入らなかったのか、あとも見ずに突進していく。  「おじいさま、おじいさま、待って!」  叫びながら杢衛のあとを追うふたりの眼に、むこうからやってくる懐中電灯の光がうつった。  「おや、誰だろう」  金田一耕助がつぶやいたとき、杢衛はちょっと立ちどまって、懐中電灯のぬしになにやら訊ねていた。と、思うとすぐまた気ちがいのようにわめきながら走っていく。  金田一耕助と由紀子が駆けよってみると、それはマリとカンポだった。  「あら、お姉さま」  「由紀子さん、どうしたんでしょう。矢部のおじいさま、気ちがいのように走っていったわ」  「おばさまの姿が見えたのよ。底なしの井戸のそばに、おばさまが立っていらっしゃるのが見えたのよう」  「底なしの井戸……?」  と、マリは声をふるわせて、  「底なしの井戸っていったいどこにあるの。あたしたち路に迷ってしまって……」  「ええ、この奥よ。このへんとくにわき路が多いから、気をつけなきゃあ迷ってしまうわ。お姉さまもいっしょに来てえ」  「由紀子さん、由紀子さん、そして、その底なしの井戸のそばに、お母さまが立っていたってほんとのこと」  由紀子のそばについて走りながら、マリは呼吸をはずませた。  「ええ、ほんとうよ。お姉さまによく似たお顔がはっきり見えたわ」  「だって、こんな暗闇のなかで、どうして顔なんかが見えるの。いったい、どこから由紀子さんは見たの?」  「むこうの崖っぷちから。……おばさま、カンテラみたいなものをぶらさげていらしたわ。それではっきりお顔が見えたの」  「お母さまは……どうして、また……」  マリが喘《あえ》ぐように呟いたとき、とつぜん、洞窟のおくから、怒りに満ちた杢衛の声が聞えてきた。その声はものに狂ったようになにかを罵っているらしかったが、あちこちの壁にこだまして、かえって言葉の意味は聞きとれなかった。  二度、三度、猛り狂う杢衛の声にまじって、ひいッ! と、尾をひいて聞えてきたのは、たしかに女の悲鳴である。  「あっ、いけない。おばさまだわ」  いったん立ちどまっていた由紀子は、またさきに立って走りだしたが、そのとき、わあっと吹きあげるような男の悲鳴が聞えてきた。  「あら、あの声はなんでしょう」  由紀子はまたその場に立ちどまってしまった。いや、立ちどまったというよりは、足がうごかなくなったというほうが当っていよう。それほどいまの声は印象的だった。しかも、それきり、なんの物音も叫び声もやんでしまって、あとは骨を刺すような静けさである。  とつぜん、金田一耕助がはげしく身ぶるいをした。  「マリさん、懐中電灯を貸したまえ。ぼくがひとついってみよう」  「いいえ、あたしもいきます」  「あたしも……」  ふたりの女とふたりの男は、マリのかざす懐中電灯の光をたよりに、また前進をはじめた。  やがてトンネルのような洞窟を出ると、急にあたりがひろくなったのが感じられた。空気の肌ざわりが、狭い洞窟のなかとはちがっているのである。  「お姉さま、ちょっと懐中電灯を貸して……」  マリの手から懐中電灯をうけとった由紀子は、ふるえる手でそれを前方にさしむけたが、  「ほら、むこうに見えるのが底なしの井戸……」  なるほど懐中電灯の光のなかに、井桁に組んだ井戸がまえらしいものが浮きあがっている。  「人が落ちるといけないから、ああして井戸をかこってあるの。あっ!」  「ゆ、由紀子さん、ど、どうかして……?」  「あの井戸のむこうから人間の脚のようなものが……」  そのとたん、金田一耕助が由紀子の手から懐中電灯をもぎとった。そのかわり、マリの手に裸蝋燭を握らせて、  「あなたがたはここに待っていらっしゃい。ぼくがちょっといってみる」  金田一耕助は一同をそこに残して、用心ぶかく井戸のそばへ歩みよった。  由紀子が叫んだように井戸のむこうに誰か倒れている。その顔へ懐中電灯の光をむけて、金田一耕助は思わず呼吸をのんだ。  倒れているのは杢衛であった。杢衛の胸には剣のような鐘乳石が突っ立っていて、むろん、呼吸は絶えていた。  金田一耕助は杢衛がわしづかみにしているものに眼をとめた。  それは君江のかぶっていたショールみたいな大きな紗のベールである。 底なし井戸  「まあ、おばさまのベール……」  いつの間にうしろへきたのか、由紀子が呼吸をのむような声で、  「それじゃ……それじゃ……おばさまが矢部のおじいさまを……」  と、さすがに終りまではいいえなかった。途中で言葉を切ったけれど、そのかわり急にはげしく泣き出した。  跳ねっかえりのお茶っぴいでも、年がいかないだけに、いざとなったとき、由紀子には自制心が欠けているのである。悲しいとか、怖いとかいうのではなく、はげしいショックが彼女の涙腺を刺戟するのだ。霰《あられ》のような涙が両眼からはふりおちて、子供が駄々をこねるように、地団駄をふんで泣き出した。  「いやよ、いやよ、そんなこといやよ。おばさまがこんな怖ろしいことしたなんて、嘘よ! 嘘よ! そんなこと嘘よ!」  子供がいやいやをするように、はげしく頭を左右にふっている由紀子の肩を、うしろからやさしく抱きしめたものがある。マリであった。  「有難う、由紀子さん。でもまだ誰もお母さまが、こんな怖ろしいことをしたなんておっしゃっちゃいないのよ。気を鎮めてね」  「ごめんなさい。お姉さま、でも矢部のおじいさまの握ってるあのショール……あれ、おばさまのショールじゃなくって?」  「ええ、そう、でも、なにか間違いなんだわ。マリのお母さまはけっしてこんな怖ろしいことはしません。由紀子さんはそれを信じてくれなきゃいやよ」  「ええ、ええ、でも……」  と、由紀子はまだ泣きじゃくりながら、  「おばさま、どこへいらしたの? いいえ、どうしてこんな淋しいところへひとりでいらしたの?」  「さあ。……」  と、答えるまえにマリはちらと金田一耕助のほうを見た。  金田一耕助は杢衛の屍体のそばにひざまずいたまま、マリの顔へ懐中電灯の光をむけている。したがって、金田一耕助の姿は暗闇のなかにあり、どういう顔色をしているのかわからなかったけれど、おそらくマリの表情を読もうとしているのであろう。  マリはその光から顔をそむけた。  「それがお母さまのご病気なの。悲しいお母さまの宿命なの。でも、お母さま、間もなくかえっていらっしゃるわ」  マリは由紀子の肩をはなすと、金田一耕助のほうへよってきた。  「矢部さま……もういけませんの?」  と、金田一耕助のそばからのぞきこみながら、ささやくように訊ねる声がしゃがれている。  金田一耕助はものうげにうなずきながら、  「ひと突きでおしまいだったようですね。手のつくしようもありません」  マリは無言のまま金田一耕助の手から懐中電灯をうけとると、杢衛の顔をてらしてみる。  杢衛はもうかれこれ七十だけれど、肉の厚い体はまだみずみずしく、色艶も若々しかった。おそらくこういう兇事がなかったら、まだ幾年かは生きたであろう。しかし、その若々しい肉体もいまはもうつめたくなりかけて、くゎっと見張った瞳の色にもむなしいものが感じられる。頬に光っているみじかい銀色のひげが、妙にいたいたしく思われた。  マリは金田一耕助に懐中電灯をかえすと、杢衛にむかって日本流に合掌した。それから両手を顔におしあてると、声をのんで嗚咽した。それこそ、胸をえぐるような声をあげて嗚咽した。  金田一耕助は茫然として、マリのその横顔を凝視している。  この女はなぜこのように泣くのだろう。じぶんの母が殺したかもしれない男にたいして、なぜこのように涙をそそぐのだろう。いや、それよりもこの女は、さっきから母のゆくえを少しも気にするふうがない。この女は母が杢衛を手にかけて、無事に逃げのびられることを信じて疑わないのだろうか。  しばらくすると、マリはやっと泣きやんだ。ハンケチでしずかに涙を拭きおさめると、  「失礼いたしました。あんまりびっくりしたものですから。……由紀子さんとおんなじね」  たしかにある種の女は、あんまりびっくりするとその瞬間、ただわけもなく涙腺を刺戟されて泣き出すものである。しかし、いまのマリの涙はそれだったであろうか。それにしてはこの女は落着きすぎている。  「先生」  マリは眩しそうな眼で金田一耕助を振返った。  「はあ」  「さっき、矢部さまの声にまじって、女の声が聞えたようでしたわね」  「はあ、たしかに」  と、金田一耕助は言葉をつよめて、さぐるように相手の顔を視る。  「そうすると、矢部さまを殺したのは、女だということになるのでしょうか」  「さあ、そうはっきり断言するのはいささか早計でしょうが、惨劇の演じられたおなじ場に、ご婦人が居合せたということはたしからしいですね」  そのご婦人があなたの母ではないかと、さすがに金田一耕助もいいえなかった。  「金田一先生」  と、マリは臆する色もなく、真正面から金田一耕助の顔を視つめて、  「きょう由紀子さんに聞かせていただいたんですけれど、いまから二十三年まえにも、この鐘乳洞のなかで人殺しがあったということです。そのときも犯人が用いた兇器は鐘乳石だったということですが、こんどもまた……」  「こんどもまた……?」  「はあ、それですから、二十三年まえの事件と、こんどの事件と、どちらもおなじ犯人の手によって、演じられたと考えるのは、あまり考えすぎになるのでしょうか」  いったいこの娘はなにを考えているのだろうかと、金田一耕助はさぐるように相手の顔を視ながら、  「いや、それは必ずしも不合理ではありませんね。論理的にいってありえないことじゃないかもしれない。しかし、些《いささ》かとっぴすぎるようには思われますね」  「とっぴ……? とっぴな考えかただとおっしゃるのですか」  「ええ、まあ、なんとなく……」  と、金田一耕助は相手の眼の中を覗きこみながら、  「それより、マリさん、あなたのお母さまはどこへいってしまったんでしょうねえ。われわれはたしかにここに、お母さま……いや、あなたにとてもよく似た中年のご婦人が、立っているのを目撃したんですがね」  「母は……母はいまごろ、お家へかえってるんじゃないでしょうか。でも、申上げておきますが、さっきの悲鳴は母ではございません」  「どうしてそんなにはっきりとおっしゃれるんですか」  「どうしても。母はそんなひとじゃありませんから」  と、マリは静かに杢衛の屍体のそばから立上ると、  「ああ、崖のむこうに誰か来たようですわね」  なるほど、谷のむこうがわにふたつ三つ灯が見えて、神崎署長の声が聞えた。  「誰だ、そこにいるのは……?」  「ああ、署長さん、はやく来てください。たいへんなことが起ったんです」  「ああ、金田一先生ですね。金田一先生、たいへんなことってなんです。まさか人殺しがあったってわけでもないでしょう」  混ぜかえすように訊きかえしたのは、のんき坊主の田代である。  「あら、田代さん、そんな冗談をいってる場合じゃなくってよ。はやくこっちへ来て……」  「ああ、そういう声は由紀子さんだね」  と、神崎署長の声で、  「こっちへ来いたって、どこへどういけばいいのかわからない。われわれ、すっかり迷い児になってしまって……」  「あら、お兄さまは見つからなかったんですの」  「ああ、会わなかったよ。お兄さまにもさっきの怪しい男にも……由紀ちゃん。そこにもいないのかい」  「ええ、いないわ。どこへいっちまったのかしら」  そのとき由紀子の胸には、ふっと怪しい胸騒ぎがわきあがってきた。  お兄さまもこの洞窟の闇のどこかにひそんでいるはずなのである。そして、そのお兄さまは矢部のおじいさんを憎んでいる。ことに都さんとのことがしれたら、どんなことになるかもしれぬと怖れている。  二十三年まえにも、この暗い洞窟のなかで、玉造家の朋子叔母さまと、矢部家の慎一郎おじさんとが恋をかたって、そのことからひいて、英二さんというひとが殺され、その疑いが朋子叔母さまにかかってきた。そして、こんどもまた、おなじようなことが起るのではないか。いや、すでに起ったのではないか。……  「由紀ちゃん、由紀ちゃん」  そのとき、崖のむこうから田代の呼ぶ声が聞えたので、由紀子ははっとわれにかえった。われにかえると同時にはげしい戦慄が背筋をつらぬいて走るのをおさえることが出来なかった。  「そこにいるのはいったい誰と誰……金田一先生と由紀ちゃんと……?」  「お姉さまとカンポさん。……あたし、お迎えにいきたいんだけど怖くって……」  「カンポ、おまえ、由紀子さんについていってあげて。……由紀子さん、カンポといっしょじゃおいや?」  「いえ、そんなことはありませんけれど……」  「ああ、ここに懐中電灯が落ちている。うまくつくかな」  それは杢衛が刺されたときに、かれの手から離れてとんだものらしく、岩の裂目にころがっていた。金田一耕助がこころみにボタンを押すと、べつにこわれたところはなかったらしく灯がついた。  「由紀子さん、じゃこれを持っていらっしゃい」  と、いいかけて、  「いや、これはこっちへとっとこう。それよりこちら……マリさんの持ってた懐中電灯……これなら気味悪くないでしょう」  「おうい、由紀ちゃん、なにをぐずぐずしてるんだ。署長さんがお待ちかねじゃないか」  「ええ、ただいま。田代さん、あなたがたもそこの洞窟へ入って、最初のふた股になってるところで待ってて。そこまでカンポさんとお迎えにいくわ」  「ようし」  頼もしい田代の声がきこえて、それきり谷のむこうの灯は見えなくなった。由紀子もカンポをひきつれて、こちらから洞窟のなかへ入っていく。  あとには金田一耕助とマリのふたりきり。真夏とはいえ地底の洞窟の空気はつめたく、鬼気が肌に迫ってくるかんじである。ひょっとすると、杢衛を殺した犯人が、まだそのへんの暗闇から、ふたりのようすをうかがっているのかもしれないのだ。  金田一耕助はそっと井戸のそばへよって見た。  岩の裂目にできたその井戸は、直径五尺くらいの不規則な円型をして、そのまわりに井桁に組んだ囲いがしてあり、囲いにはしめなわが張ってあるが、囲いもしめなわもボロボロにくさって、うっかりもたれでもしようものなら、囲いごと井戸のなかへ落っこちそうである。  金田一耕助は懐中電灯を照らして、そっと井戸のなかをのぞいてみた。さすがに底なしの井戸といわれるだけあって、はてしらぬ深い闇の底までは、とうてい懐中電灯の光もとどかない。こころみに岩のかけらを落してみても、小石は井戸の暗闇へ吸いこまれたきり、いつまでたってもなんの反響もつたえてこなかった。  金田一耕助はいっしょに覗きこんでいたマリと顔を見合せて、思わずゾクリと首をちぢめた。  「深いですね」  「深そうですわね」  文字どおりそれは底なしの井戸である。おそらく地獄へでもつづいているのであろう。  金田一耕助が溜息をつきながら、やけになったようにもじゃもじゃ頭をかきまわしているところへ、由紀子とカンポに案内されて、神崎署長と田代幸彦が駆けつけてきた。 ニコラ神父  「金田一先生、ど、どうしたんです。矢部老人が殺害されたんですって?」  肥満型の神崎さんは駆けつけてくるのが苦痛だったらしい。額に汗をにじませて、ゼイゼイと肩で呼吸をしている。  金田一耕助は無言のまま井戸のそばから一歩さがると、懐中電灯の光で屍体をさししめした。  「ふうむ!」  神崎署長はうめき声をあげると、屍体のそばへひざまずいて、じぶんも懐中電灯の光で傷の状態をしらべていたが、  「これじゃ、たったひと突きですな。あっと叫んだがこの世のわかれか。元気な爺さんだったが……おや」  と、署長は杢衛のにぎっているベールに眼をとめる。と、片手でちょっとひろげてみて、  「金田一先生、こ、これはどうしたというんです。ひょっとするとこれは、そこにいるお嬢さんのお母さんのベールじゃないのですか」  「ああ、署長さん、由紀子さんからお話をお聞きじゃなかったですか」  「いや、なにも……ただ、矢部のお爺さんが殺されてる。底なしの井戸のそばで、鐘乳石で突きころされてるって、ただ、それしか聞いてないんだが……」  由紀子はマリをはばかって、それ以上のことはいえなかったのであろう。  「ああ、そう、それじゃわたしから一応、前後の事情を話しておきましょう。マリさんも由紀子さんも、こういうことははっきりしておいたほうがいいんですよ」  「はい」  マリは少しも悪びれたふうはなく、意志の強さを現わしてキッパリ答えた。そのうしろにカンポが忠実な犬のようによりそった。由紀子は田代の腕にすがりついている。  そこで金田一耕助がさっきからのいきさつを、要領よく説明して聞かせると、神崎署長の昂奮はいよいよ大きく、  「それじゃ、そこにいるお嬢さんのお母さんが、矢部老人を殺害したと……?」  と、いまにも飛び出しそうな眼玉をギョロつかせながら、またゼイゼイと肩で呼吸をした。  「いや、わたしはそこまでハッキリとは断言いたしません。ただ、むこうの崖ぶちからここに立っている、マリさんにとても似たご婦人の姿を見たということ。それから矢部老人が朋子だ、朋子だと叫びながら、あの洞窟へとびこんだこと。わたしと由紀子さんもそのあとを追って洞窟へとびこんだが、途中でマリさんとカンポ君に出会ったこと。四人そろって老人のあとを追っかけてくる途中、老人が誰かをつかまえたと見えて、口ぎたなくののしっているのを聞いたこと。そのうちに女の悲鳴らしきものが聞え、ついでわあっと男の……おそらく老人のでしょう、たまぎるような叫びが聞え、それからここへ駆けつけてみると、こういう態たらくになっていたというわけです」  「しかし、金田一先生、それだけ聞けば君江というひとが犯人としか思えないが、金田一先生はそうじゃないかもしれないとおっしゃるんですか」  金田一耕助は『犬神家の事件』の際に大働きをやってのけたので、信州の警察界では尊敬の念をもって、その名を記憶されているのである。  「いやあ、前後の事情から考えれば署長さんのおっしゃるとおりですが、一応大事をとってみたんです。これがぼくの主義でして……それに、さっき出会った怪しい男のこともありますし……」  「それにしてもその婦人は……? その婦人が犯人であるにしろないにしろ、その婦人はそれからどこへいったのか……」  と、言いかけて神崎署長は底なしの井戸に眼をとめた。  「まさかこの井戸へとびこんだんじゃ……」  と、そばへよろうとするのを、  「あっ、署長さん危いですよ。井戸の囲いがくさってるようですから」  と、そばから金田一耕助が注意をした。  「ああ、そう、有難う」  と、神崎署長は注意ぶかく、井戸のなかを懐中電灯で照らしていたが、  「ちょっ、なんにも見えやあしない」  と、舌打ちしながら金田一耕助のほうをふりかえって、  「金田一先生、あなたのお考えはどうなんです。犯人……いや、その婦人はここからどこへ消えたんです」  「さあ、それには三つの場合が考えられますね」  「三つの場合というと……?」  「即ち、この井戸へとびこんだのだろうというのが第一、それから、いまわれわれの辿ってきた洞窟には、たくさんわき路がありますから、そのわき路に身をひそませてわれわれをやりすごし、そのあとで外へ逃げ出していく場合。それから第三の場合としては……」  「第三の場合としては……?」  「いや、それには由紀子さんに訊かねばならない。由紀子さん」  「はい。……」  「この洞窟はここでいきどまりになっているんですか。それとも更にこの奥があるんですか」  「はあ、あの、むこうの崖の下にはまた洞窟があって、それを進むと教会のうしろの山へ出られるんです」  「あっ、それじゃ、さきほどぼくたちが入ってきた入口と、矢部家の邸内にあるという入口のほかに、もうひとつ入口があるんですね」  「ええ、そうなんです。昔はうちのお庭にある入口と、矢部のおうちにあるのと、入口はふたつしか知られていなかったんだそうです。それですからはじめのうちは、朋子叔母さまもこの底なし井戸へ身投げして、死んだんだとばかり思われていたんです。ところが、それから一年ほどたって、教会のうしろの山へ出られるもうひとつの入口が発見されたんです。しかも、その入口が発見される少しまえに、そのじぶん教会にいらした神父さんが、この土地を去ってスペインかどこかへかえっていかれたんです。しかも、その神父さんというのが、とても朋子叔母さまを可愛がっていられたとかで、だから、矢部のおじいさまは、朋子叔母さまは第三の入口から逃げだして、しばらく教会にかくまわれていたのちに、神父さまといっしょに日本をぬけだしたんだと、そのじぶんからそう言ってたそうです」  由紀子の話を聞きおわると、金田一耕助はあらためて、懐中電灯の光でいまおのれが立っている地底の台地をしらべてみる。  その台地は不規則な半円型をなしており、直径にあたる部分は約二十メートルもあるだろうか。そして、その部分は地獄までつづくといわれる谷へ逆落しになっており、三方には果しらぬ天井までつづく崖がそそり立っている。その崖は例によって鐘乳石の柱が何十本、いや、何百本となくよじれあいながら、不規則な屏風のようなたてのひだをつくっている。  「由紀子さん、そして、第三の入口というのはどこにあるの」  「ええ、ここ……」  由紀子はしばらくあたりをさがしていたが、やがて、小さなくぼみを見つけて指さした。  なるほど、それは屏風のひだのふもとにできた、やっと人ひとりくぐれるかくぐれないかというような小さな孔で、それが奥深い洞窟になっているとはちょっと信じられなかった。  「なるほど、この洞窟をつたっていくと、教会のうしろの山へ出られるんだね」  金田一耕助がかがみこんで、洞窟の入口を懐中電灯の光で調べていると、とつぜん、おくのほうからけたたましいわめき声が聞えてきた。  「あっ! あれはなんだ!」  金田一耕助が思わず叫んで立ち上ったとき、ほかのひとたちにもおなじ叫び声が聞えたとみえ、バラバラと洞窟の入口へあつまってくる。  耳をすますと、まっくらな洞窟のはるかおくから、なにかを言い争うような怒号の声と、どたばたと取っ組みあいをするような音が、大きな反響をともなって聞えてきた。  「ああ、ひょっとするとおばさまが、さっき逃げだした怪しい男にとっつかまったんじゃない……?」  由紀子の声はふるえているが、しかし洞窟のおくから聞えてくる声のひびきは、ふたりとも男のようである。  「とにかくいってみよう。田代君、君も来ないか」  神崎署長は頑丈な体をすぼめて、きゅうくつな入口へもぐりこむ用意をしながら、田代幸彦をさそった。  「ええ、いいです。お供しましょう」  お坊っちゃんの田代には、こういう冒険がおもしろくてたまらないのである。  「金田一先生、それじゃここはたのみます」  神崎署長は意味ありげな視線をマリのほうにむけながら、金田一耕助の耳にささやいた。  「はあ、承知しました」  神崎署長が田代をつれて洞窟のなかへもぐりこんだときには、闘争はもうおわったのか、怒号する声も、格闘のひびきもやんで、骨をさすような静けさがしいんと闇の底にひろがっていた。  「お姉さま」  なに思ったのか、とつぜん由紀子がガチガチと歯をならしはじめた。  「ひょっとすると、いまのひとり、うちのお兄さまじゃなかったかしら」  「ええ、由紀子さん、あたしもそれをいまかんがえていたところなの」  「そうよ、そうよ、きっとそうよ」  と、由紀子は恐怖がつのってきたのか、急に泣き声をだしはじめた。  「お兄さま、悪者に出会ってひどいめにあわされたのよ。ひょっとすると殺されたのかもしれないわ。お兄さま、気は強いんだけど、力はあんまりないのよ。お兄さま、きっと殺されてしまったにちがいないわ」  由紀子はヒステリーを起したように泣きだしたが、しばらくすると、洞窟のおくから人の話声と足音がちかづいてきた。その足音はひとりやふたりではないらしく、やがてあのきゅうくつな入口から、ひとつひとつ人影が這いだしてくる。  金田一耕助が懐中電灯の光をむけると、まずさいしょに出てきたのは田代だった。  「あっ、田代さん、お兄さまは……」  「ううん、由紀ちゃん、康ンベのすがたはみえなかったぜ」  田代は両手と膝の泥をはらいおとしながら、首を左右に振ってみせた。その田代のうしろから這いだしてきた男の顔を懐中電灯の光で照らしてみて、金田一耕助はおもわずぎょっと呼吸をのんだ。  それはここへくるとちゅう、汽車のなかで会った男……すなわち、頬に傷のある古林徹三ではないか。古林も金田一耕助の顔をみると、ギョッとしたように無気味な眼をひからせた。  さて、そのあとから這いだしてきた、背のたかい男のすがたをみると、  「あら、ニコラ神父さま!」  と、マリがびっくりしたように眼を見張ったが、マリの言葉をきくまでもなく、金田一耕助にもそのひとが、きのうみた教会の神父であるらしいことがすぐわかった。  国籍まではわからなかったけれど、背のたかい、肉付きのゆたかな白人で、かたいカラーをうしろまえにつけたところから、ひとめでカトリックのお坊さんだとわかるのである。  「おお、マリ、ごめんなさい」  神父はマリを見つけると、達者な日本語で話しかける。  「ちょっと用事があって、こんやの会、出席するの、おくれました。それで、ここ、通っていったほう、早いと思って来かかったら、そのひとに会いました」  神父に指さされた古林徹三はふてくされたような顔をしてつったっている。そこへさいごに神崎署長が這いだしてきた。  ニコラ神父はその署長に訴えるように、  「このひと、わたしのすがた見ると逃げようとしました。わたし、怪しんでとがめると、このひと、だしぬけに打ってかかりました。わたし、ここ、ふたつ三つ打たれました」  マリはふしぎそうに頬に傷のある男、古林徹三の顔をみていたが、すぐその視線を神父のほうにむけると、  「ニコラ神父さま、あなた、もしやマリのお母さまにお会いになりませんでしたか」  「マリのお母さまに……?」  と、ニコラ神父はマリの顔をみて、びっくりしたように眼をまるくする。驚きが露骨にあらわれると小児のように見えるあどけない童顔である。  「ええ、そうよ、神父さま」  と、マリはおっかぶせるような早口で、  「ここで矢部のおじいさまが殺されたんですの」  「えっ、矢部のおじいさまが……」  ニコラ神父はまたびっくりしたように、マリの顔をみて眼をまるくする。  「ええ、そうなんです。そして、みなさんはマリのお母さまが殺したと思っていらっしゃいますの」  神父はしばらく唖然とした顔色で、マリの顔を視つめていたが、やがてむこうにころがっている杢衛の死体に気がつくと、  「おお!」  と叫んで大股にそばへちかより、うえから死体をのぞきこんでいたが、急にくるりとマリのほうをふりかえると、  「マリ!」  と、叫んだその調子には、なにかしら相手の非をとがめるときのような、つよいひびきがこもっていた。  「いいえ、あたし、なんにも知りませんの」  と、マリは早口にいって、つよく首を左右にふると、  「あたしこのかたがたと、むこうのほうで立話をしておりましたの。そしたら、ここで矢部さんと誰か女のひとが、言いあらそっているような声がきこえて、それから、矢部さんの悲鳴がきこえてきたんです。だから、矢部さんが殺されたとき、あたしはこのかたがたといっしょにいたんです」  マリは由紀子と金田一耕助を指さした。  しかし、彼女はなんだって神父にたいして、そのような言訳がましいことをいわなければならないのか。  金田一耕助にはマリというこの女がまるでわからないのである。  「だから、あたしはなにもしらないんですけれど、このかたがたはむこう岸から、ここにお母さまが立っていらっしゃるのを見たんですって。そして、お母さまが矢部さまを殺して、どこかへ逃げたと思ってらっしゃるのよ。ねえ、神父さま、あなた、お母さまにお会いになりませんでしたか」  ニコラ神父はきびしい眼つきで、しばらくマリの顔を視つめていた。それから杢衛の死骸に眼をうつすと、やがておもおもしく首を左右にふった。  「いいえ、マリ、わたし、お母さんに会いません、そこにいるそのひと……」  と、古林徹三を指さして、  「……のほかには誰にも会いませんでした」  と、そういいながら、ニコラ神父はおごそかに胸に十字を切った。 祖母乙奈  なにはともあれこのことを一刻もはやく、家に待っているひとたちに、報らせなければならなかった。と、いって杢衛の死体をそのまま放っておくわけにもいかないので、田代と由紀子がひとあしさきに洞窟を出て、医者や警察に連絡することになった。  田代はマリも誘ったが、  「いいえ、あたしはもうすこしここにいることにします。みなさんがいらしてからいっしょにかえりましょう」  と、その場をうごかなかったのは、おそらく母のことを気にしているのだろうと、田代もしいてはすすめなかった。  「ねえ、田代さん、うちのお兄さま、いったいどうしたんでしょうねえ」  暗い洞窟をさきに立って案内しながら、由紀子にはそのことが気になってならないのである。  「なあに、康ンベのことだから、いまごろはさきにかえってのうのうしてるよ、きっと」  と、康雄のことに関するかぎり、田代はいたって楽観的だった。  「あいつにはそういうところがあるんだ。人騒がせをしておいて、じぶんはケロリとすましている。はたが騒ぐとなにをそんなに騒ぐんだいという顔をしている。学生時代からそういうところがあったよ」  そういえば、そういうところのある兄だった。けっしてエゴイストというのではない。戦後の一家の経済事情の大変化に、ひどい精神的打撃をうけたせいか、田代みたいに底抜けののんき坊主になれないのである。それでいて仲間といっしょに遊んでいても、ときどきとっぴなことを思いつき、みずから率先して実行する。しかし、仲間がそれに興味をおぼえ、熱中しはじめるころには、発頭人のご当人はもう冷静になっているというふうだった。  当人もそういう性癖をさびしいとも、悲しいとも思っているのだが、みんなといっしょに遊んでいられるご身分ではないという反省が、若人らしい無鉄砲な行動に冷水をぶっかけるのである。こうしてかれはいつのまにか、哲学者みたいに周囲から孤立した存在になっていた。  しかし、こんどの場合にかぎって、それだったらどんなにうれしかろうと由紀子は思わずにはいられなかった。どうぞ、お兄さまがこの事件の渦中にまきこまれるようなことがありませぬように。……  「だけど、由紀ちゃん、ほんとなのかい。マリのお母さんがあそこに立っているのを見たというのは……?」  暗闇のなかを由紀子についてあるきながら、田代はまだ腑におちない調子である。  「ええ、それはほんとなの。それはそうと田代さん」  「なあに」  「あたしはじめておばさまのお顔をかなりはっきり見たんだけど、とってもお姉さまに似てらっしゃるわね」  「それはおやこだもの。だけど、どちらかっていうと、おばさんのほうがきれいだぜ」  「あら、あんなこと。……」  「いや、ほんとなんだ。おばさんは純日本式美人なんだね。ものしずかな、やさしさに溢れた……そこへいくとマリはすこしバタくさい。当然といえば当然だがね」  「それにしても。お姉さま、とっても日本語がおじょうずね。むこうの家庭でも日本語つかってらっしゃるの」  「ああ、われわれがいくと日本語つかうね。それというのがご主人のゴンザレスというひと……こんどマリを養女にしたひとだね、そのひとがだいの親日家で、農園の使用人なんかもほとんど日本人なんだ。結局、移民のなかでも日本人ほど勤勉にはたらく人種はほかにいないんだね。そこでしぜん、マリのお母さんが重用され、信頼されるようになったというわけらしい」  「お姉さまのお父さまってかたどういうひと?」  「さあ、それは聞かなかったな。ただいちどおばさまに、お郷里は日本のどちらかってきいてみたことあったけど、だまってて答えなかったな。いつもこう、さびしそうにしてるひとだったよ。だけど、由紀ちゃん、これ、いったいどういうことなのさ、あの底なしの井戸というのに、なにか因縁ばなしでもあるのかい」  由紀子はちょっとためらったが、考えてみるといずれはしれる話である。べつにかくさなければならぬ理由は見あたらなかった。そこで、二十三年まえの事件のてんまつを手みじかに話して聞かせたのち、こんどきたマリの母の君江というのが、その事件の犯人と目されている朋子叔母さまに似ているというのが、今夜の騒ぎの原因だと語ってきかせると、さすがのんき坊主の田代も肝をつぶさんばかりにおどろいた。  「なんだ。それじゃ今夜の事件の背後には、そんな複雑な伏線がよこたわっていたのか」  道理できょうのパーティには、妙にギコチない空気がただようていたが……と、田代もはじめていまこの町に流れている、一種異様な底流に気がつくのである。  「それで、田代さんはどうお思いになって? ブラジルで会ったとき、マリさんのお母さんというひと、そんな暗い過去をもったひとのようにみえて?」  「さあ。……そりゃあ、さっきも言ったとおり、いつも淋しそうにはしていたが、まさかね」  と、ちょっと思いに沈んだ口調だったが、すぐ持前の勝気な性質をとりもどすと、  「だけど、そうすると、由紀ちゃん、もしかりにそれが事実とすると、あの大金持ちのマリが君たちきょうだいのいとこということになるのかい? こいつは凄えことになってきたな」  と、わざとおどけた調子になるのを、  「田代さん、いまはそんなのんきなことをいってるばあいじゃないのよ」  と、年はわかいがしっかりものの由紀子が、暗闇のなかで腹立たしげにたしなめる。  「ごめん、ごめん」  と、田代はちょっと首をすくめて、  「しかし、こいつはひとつ慎重に考えなきゃならん問題だね」  そうはいうものの田代のような単純な頭脳では、とてもこういう複雑な事件を解剖することはおぼつかなかった。田代じしんそういう自覚をもっていたが、それでもいちおう神妙らしく、それきり無言のまま考えこんでしまった。  それからまもなく。——  マリの客間に残っていたひとびとが、田代と由紀子によってもたらせられたこの凶報を聞いて、愕然として色をうしなったことはいうまでもない。  「な、なんですって? お父さまが殺されたんですって?」  おどろいて、ごったがえすひとびとの背後から、たまぎるような女の金切り声が聞えたかと思うと、蒼白の顔面をひきつらせてとびだしてきたのは、都の母の峯子だった。  「あら、おばさん、あなたも来ていらしたんですか」  由紀子はあらわな敵意をみせて、蒼白くひきつった峯子の顔をにらみすえる。わかくて、それだけにセンチメンタルな由紀子は、不幸だった叔母の恋敵なるこの峯子を本能的に憎むのである。  「ええ、ええ、来ておりましたよ」  幼い由紀子の敵意が反射的に反応するのか、峯子はそれがくせのねちねちとした調子で、  「今夜は来ないつもりでしたけれど、急に気になって、来ずにはいられなくなったんです。年頃の娘をもっていると油断ができませんからね。どこに狼がいるかわからないから」  「狼ですって?」  それが兄の康雄を諷刺しているのだとさとって、由紀子は思わずくゎっとする。  「ええ、ええ、そうですよ。世間にはわかい年頃の娘をねらう狼がうようよするほどいるということですからね。ことに貧乏人のあいだに……」  由紀子がなにかはげしい口調でやりかえそうとするとき、そばから良人の慎一郎が、たまりかねたように、  「峯子!」  と、きびしい声でたしなめる。その慎一郎の背後には都がおびえたような顔色でおどおどと立っている。  しかし峯子はかえっていきりたち、  「いいえ、あなたは黙っていてください。いまこちらで聞いたんですけれど、康雄さんと都がしばらくどこかへ雲がくれをしていたというじゃありませんか。そしてこの娘が……」  と、峯子はにくにくしげに由紀子を指さしながら、  「このおしゃまなチンピラ娘が、ふたりのあいだを取りもってるのだと、もっぱら評判ですよ。あなたも気をつけてくださらなきゃ、世間のものわらいの種になりますよ」  と、峯子がますます言いつのろうとするのを、そばから都がいまにも泣きだしそうな声で、  「お母さまったら! そんな、そんな……お祖父さまがお亡くなりになったというのに……」  「田代さん、矢部のご老体が殺されたというのはほんとうかな」  町長の立花老人がそばから呼吸をはずませた。  「ええ、ほんとうなんです。ああ、河野先生、至急、担架になるようなものを用意してください。鐘乳洞のなかでみなさんがお待ちですから。……それから、たれか警察とお医者さんへこのことお報らせになって……」  言下に誰かが母屋へ走った。母屋の玉造家には電話があるのだ。こうして由紀子と峯子との小ぜりあいのあと、客間のなかは騒然たる空気につつまれた。  物を考えることは不得手だけれど、行動的なことに関するかぎり、このさい、田代の右に出るものはなかった。田代の命令で女中が頑丈な物干竿を二本さがしてくると、河野朝子が二階から大きな毛布をもってきた。由紀子や都も手伝ってさっそく担架づくりにとりかかる。  たれもかれもが浮足立って、田代と由紀子にかわるがわる質問の雨を浴せかける。しかし、由紀子も多くは語らず、また、田代もこの事件の背後にかくされている複雑な底流をしったいまとなっては、かれとしては珍しく慎重になっている。  「詳しいことは金田一先生や神崎署長に訊いてください。由紀ちゃんをいじめるのはかわいそうだ」  と、口を緘して、これまた多くを語ろうとしなかった。  当然、客間のなかには不安と恐怖にみちた沈黙がたてこめて、息詰まるような緊迫感がひとびとの胸をしめつける。慎一郎はこの沈黙を傷つけぬように、足音をころして客間のなかを歩きまわりながら、おりおり、さぐるように田代と由紀子の顔を視ている。  峯子は愛嬌にとぼしい、険のある眼つきをして、担架づくりを手伝っている娘の都を視つめていたが、急に気がついたようにあたりを見まわすと、  「それはそうと、康雄さんはいったいどうしたんです。この騒ぎをよそに康雄さんは、どこでなにをしているんです」  その峯子の疳高いキーキー声は、それでなくとも大きな恐怖と不安にとざされたこの沈黙の一群に、より大きな恐怖の爆弾を投げつけたも同様の効果をもたらせた。そこにいあわせたひとびとが、いっせいにギクリと体をふるわせたなかにも、由紀子と都の怯えはひときわ深刻だった。  由紀子もさっきからそれを気にしていたのだし、都は都で、康雄が洞窟のなかへはいっていったことをしっている。……  「由紀子さん、兄さんはどうしたんです。兄さんはあんたがたといっしょじゃなかったんですか」  峯子の声はまえよりいっそういきりたって、まるで相手をきめつけるような調子である。  「いいえ、あたし、知りません。兄さん、どこへいったのか……」  由紀子の声は蚊が啼くように小さくて、しかもかすかにふるえている。そのかたわらでは都も蒼ざめた唇のわななきを、ひとに覚られぬようにとうつむいて、毛布を青竹にゆわえつける作業に没頭している。その指先もかすかにふるえていた。  「あんたが知らぬというはずはないでしょう。ひょっとすると康雄さんも洞窟のなかにいたんじゃないの。そして、その康雄さんが……」  と、峯子の毒々しい声がそこまでいったとき、とつぜん、ベランダのほうからひくい、落着きはらった声がきこえてきた。  「康雄がどうしたというんじゃな。康雄ならここにわたしといっしょにいるが……」  一同がぎょっとして振返ると、康雄にかかえられるようにして、ベランダからなかへ入ってきたのは、康雄たち兄妹の祖母である。  いま玉造家の事実上の主権者である乙奈は、さっきも話題にのぼったとおり、ことし七十三歳の高齢である。同年輩の杢衛が矍《かく》鑠《しやく》として壮者のみずみずしさを保っていたのに反して、乙奈の肉体は戦争以来うちつづく家庭の不幸に影響されて、すっかり健康を蝕《むしば》まれている。康雄の肩につかまってやっと歩行できる乙奈は、痩せて、しなびて、空気の抜けたゴム風船のように皺ばんでいる。しかし、彼女の強い意志は、魂は、彼女の肉体とはべつに、いまもって玉造家の一員として、高い誇りを堅持しているのだ。その証拠にはきっと峯子を視すえた双の瞳に、何者をもおそれぬ不敵な闘志が烈々としてかがやいているのである。 死者と生者との対決  「おお、ご隠居さん、あんた、まあ、思うたよりお元気のようで……」  町長の立花さんが気拙いその場の空気をとりなすように口を出したが、乙奈はそのほうへ眼もくれず、  「そこにいるのは矢部の嫁女のお峯ではないか」  と、この誇りたかき老女にかかると、峯子のごときも呼びすてだった。  さすがに峯子もむっとしたようだが、禿《はげ》鷹《たか》のように鋭い相手の視線に射すくめられると、出かかった言葉も咽喉のおくで凍りついてしまうのである。  なるほど、乙奈は肉体こそ痩せおとろえてしまったが、銀のようにうつくしい白髪といい、痩せて、おとろえているゆえに、いっそうとがってみえる鼻の隆《たか》さといい、あたりを払う威厳と誇りにみちている。  「お峯、そなた、康雄の名前をしきりに呼んでいたようだが、なにかこれにご用かな」  「いえ、あの、べつに……」  と、相手の威厳に圧倒されてちょっとどぎまぎした峯子は、どぎまぎしたことによっていっそういまいましさを掻きたてられたらしく、敵意にみちた視線を乙奈にむけると、もちまえのキーキー声を張りあげた。  「おばさんはなにも知らないんです。こんやうちのお父さんが殺されたんです。鐘乳洞のなかで誰かに殺されたというんですよ。二十三年まえに英二さんが殺された鐘乳洞のなかで……」  「そのことなら知っている」  と、乙奈はその年輩とも思えぬような力のこもった声で峯子の言葉をさえぎると、  「知っているからこそここへ出てきたのじゃ。新蔵が電話を借りにきたので聞いた。それでお峯はそのことを康雄のしわざだとお思いなのか」  「いいえ、そういうわけでは……」  と、峯子はちょっと鼻白んだが、すぐまた負けてはおらぬ強い視線で相手の顔を視かえすと、  「しかし、こういうことがあったときには、関係者はいちおう人殺しがあった時刻に、どこにいたかはっきり申立てねばならぬことになっていると思ったものですから。……それくらいのことはおばさんもご存じでございましょう」  峯子もようやく落着きをとりもどして、日頃のもったいぶった切り口上になっている。乙奈はギロリとそれを尻眼にかけると、康雄にいたわられながら、一同の視線の中心にゆっくり腰をおろしたが、これが貫禄というものだろうか。この小さな、しなびた老婆があたりを払って、客間を圧倒するかと思われるばかりに、大きく浮きあがってみえたことである。  「お峯さん、いま話のあった康雄のことだけれどね」  と、乙奈は禿鷹のような眼をひからせて、  「この子はうちにいたんですよ。わたしといっしょに。……元来、この子はこういう賑やかなこと好きじゃない。そういうところはそこにいるお茶っぴいの由紀子とは正反対にできている。……それはそうと、由紀子、おまえはなにをしているのじゃな」  「はい、お祖母さま、担架をこさえておりますの」  お茶っぴいといわれて由紀子は、ちょっと下唇をつきだしたが、それでも最上級のうやうやしさをもって答えた。  「担架……?」  と、乙奈が首をかしげるかたわらから、  「矢部のおじいさんの死体を迎えにいくためでしょう、お祖母さま」  と、康雄が慇《いん》懃《ぎん》丁重に註釈を加えた。  担架はもうあらかた出来上っていた。あとは警官の到着を待つばかりである。  「ああ、そうか、そうか、杢衛どんが殺されたのじゃったな」  と、乙奈は眼を閉じてなにかを追想するような顔色になったが、すぐまた、ギロリと鋭く瞼をひらくと、  「ところで、お峯や、いまもいうたとおり、康雄は元来こういう席は好きでないのじゃ。しかし、まあ、招待された義理もあることだし、それに、そこにおられる田代さんが、ぜひこちらの女主人のマリさんに会いたいとおっしゃるもんだから、いちおう顔だけ出して義理をすますと、すぐ母屋へひきかえしてきて、いままでわたしといっしょにいたのじゃ。おわかりかな」  峯子がなにかいいかけたとき、どやどやと医者や大勢の警官たちがかけつけてきた。  かれらは田代や由紀子の口から、かんたんにことのいきさつを聞くと、  「それで、うちのおやじは……?」  「署長さんなら鐘乳洞のなかにいます。死体の番をしているんです」  「ああ、そう、それじゃたれかご案内を願えませんか。八幡の藪知らずみたいな迷路だということだから。……」  評議の結果、こんどは康雄が案内に立つことになり、慎一郎も当然、同行することになったが、そのときになって、乙奈が世にも意外なことをいいだした。じぶんもいっしょにいくといいだしたのである。  「お祖母さま、そんな、そんな、あなたがなにもいらっしゃらなくとも……」  康雄はあわててとめたが、強い意志の権化のような乙奈は、いったんいいだしたらあとへはひかなかった。  「いいえ、わたしはいきますよ。杢衛さんとはずいぶん長いあいだの……なんじゃったからの。最後のお別れをせんというほうはない。……と、いってわたしは矢部のうちへいくわけにはいかぬからの」  この女がいる限りは……と、いわぬばかりに峯子をギロリと尻眼にかけて、  「これだけ屈強の若者が大勢いるのじゃ。わたしひとりぐらい、かわるがわる背負うていけぬということはあるまい」  このもっともな乙奈の要請にたいして、いちばんに同意をしめしたのは、これまた意外にも都の父の慎一郎だった。  「承知しました、ご隠居さん、それでは父に会ってやってください」  と、なぜか咽喉のおくに熱い声をつまらせて、  「康雄君、きみとぼくとでかわるがわるお祖母さまをおんぶしていこう」  「はっ、おじさん」  いまや完全に良人《 お つ と》から無視された峯子は、真っ黒な怒りの焔につつまれていたが、さりとて、力ずくでそれを阻止するわけにもいかなかった。  「ありがとうよ、慎一つぁん」  と、乙奈は巾着のような口をよろこばしげにつぼめて、  「それじゃ、まず、あんたにおんぶしていただきましょうか。康雄、鐘乳洞までいったらかわってあげておくれ」  矢部家の一員が玉造家の主権者をおんぶしていく。……それは射水の町の住人たちにとっては、とうてい信じられないことであった。しかし、その信じられないことがいま起ったのだ。慎一郎は欣然として乙奈に背をむけ、乙奈はまたいかにもよろこばしげにその背中にとりすがった。  こうして、立花町長をはじめとして、一同のあきれかえった視線におくられて、この奇妙な一行は、洞窟のおくへ杢衛の死体をとりに出かけた。  後日、その場に立ち会った人物……たぶん、刑事のひとりの口から洩れたのだろうが、死体となった杢衛と乙奈の対面こそ、世にも印象的な光景だったそうである。  康雄の背中からおろされた乙奈は、よろばうように杢衛の死体のそばへ這いよった。  矢部家と玉造家とのあいだにわだかまる、綿々たる憎悪をしっている神崎署長は、乙奈が死体を傷つけようとするとでも思ったか、あわてて彼女を引きとめようとした。  だが、その署長の腕をよこからおさえたのは、康雄とかわるがわる乙奈をここまでおんぶしてきた慎一郎である。  「いいから、お祖母さまのすきなようにしてあげてください」  慎一郎の声は押しころしたようにひくかったけれど、なにかしら強い感情がこもっている。その声のひびきに圧倒されて、署長もおもわず腕をひかえた。  乙奈は杢衛の枕もとにひざまずくと、慎一郎のてらす懐中電灯の光で、しげしげと、杢衛の顔を視つめている。杢衛の眼はまだ見開いたままだった。その瞳はもう生命をうしなって、ただむなしく懐中電灯の光を吸ってかがやくばかりである。だが、乙奈の顔がうえからのぞきこんだとき、一瞬、その瞳がにっこり頬笑んだように思われたのは、懐中電灯をもった慎一郎の手がふるえたからであったろう。  乙奈は見《み》倦《あ》きぬ瞳でしげしげと、杢衛の顔をのぞきこんでいる。その態度なり、視線なりには、なにかしら、神聖な儀式でも執行するもののような敬虔さがうかがわれた。  一同は呼吸をつめ、手に汗握るような想いで、この死者と生者との対決を視まもっている。  マリはカンポの腕によりかかっていた。もとより蒼くこわばっていた彼女の皮膚は、乙奈の出現をむかえた瞬間、いっそう蒼白くそそけだって、なにかしら、叫び出したいのをやっと押えているという風情である。  金田一耕助にとって乙奈ははじめて会うひとだった。しかし、康雄に背負われてきたことによって、それがたれであるかすぐわかった。  なんどもいうとおり、乙奈は年老いて、しなびて、しぼんでいる。しかし、彼女が康雄の背中からおりるとき、金田一耕助はひとめその顔を見て、ああ、このひと、昔はきっと、とても美人だったにちがいないと看てとった。  とつぜん、乙奈の鼻孔から、かすかなすすり泣きの音がもれはじめたので、一同はぎょっとしたように眼を見張って、あらためて、この死者と生者との対決を見直した。  乙奈は両手で顔をおおうている。しなびた指のあいだから涙がつたわりおちて、きらきらと真珠のようにかがやくのが懐中電灯の光で見えた。  「杢衛どんや」  と、乙奈はひくい、沈痛な声でつぶやいた。  「おたがいに、長い、長いたたかいじゃったな。そなたは生涯、わたしを憎みつづけてきなさった。わたしはまたその憎しみに負けまいと、魂をやぶるような苦しみにも、骨をつらぬくような悲しみにも耐えてきました。それもこれも家という一字のためじゃった。……」  それから、また、かなり長いあいだすすり泣きの声がつづいた。それは魂をえぐるような、ふかい、深いところから出る悲痛の訴えであった。涙は滂《ぼう》沱《だ》として指のあいだからしたたりおちた。  「しかし、もうその長い長い苦しみも、悲しみももう終った。そなたもわたしにたいする憎しみを忘れてくだされ。そして、墓のしたで静かに、やすらかに眠ってくだされや。わたしもおっつけいくほどにのう」  それからまたひとしきり、魂もついえるばかりむせび泣いていた乙奈は、やがてやっと落着きを取りもどすと、しずかに涙をぬぐいおわった。  「慎一つぁんや」  「はい、お祖母さん。……」  慎一郎は咽喉をつまらせている。大きな感動がかれの魂をゆすぶっているのだ。いや、魂をゆすぶられたのは慎一郎ばかりではない。そこに居合せたひとびとは、みないちように、なんともいえぬ厳粛な空気にうたれたのである。  「あんたにひとつお願いがあるのじゃが……」  「どういうことでございましょうか」  「杢衛どん……いや、あんたのお父さんのこの眼を、わたしの手でねむらせてあげたいのじゃが……」  「お祖母さん、どうぞ……おやじもきっとよろこぶことでございましょう」  喰いしばった慎一郎の歯のあいだから、かすかにすすり泣きの声がもれた。  「ありがとうよ、慎一つぁん」  老婆はしなびた細い指で、さも、いとしそうにそのかみの恋人の瞼をねむらせた。……  この町に古くから住むひとたちは知っているのである。  若かりしころ、杢衛と乙奈ははげしい恋におちた。しかし、乙奈は玉造家のひとり娘であり、杢衛は矢部家の総領息子であった。杢衛はしかし、矢部家の相続権を放棄してでも、乙奈の良人たらんことをのぞんだ。そして、話はその方向にすすんでいる……と、杢衛じしんは思っていたのに、とつぜん、乙奈が他から婿をむかえたのである。  矢部家と玉造家とのあいだにわだかまる確執は、そのときからはじまったのであった。 古林徹三  宵にいちどあがった雨が、またザーッと軒を鳴らして降りだした。しかもこの雨は夕立のたぐいではなく、どうやら地雨になるらしかった。  ひとびとは雨のしぶきを避けて、あわててフランス窓のガラス戸をしめにかかる。  湿度がたかまると同時に気温もあがったのか、そうでなくとも重っくるしい空気に支配されている玉造家の別館のこのサロンは、ガラス戸をしめきってしまうと、人いきれと煙草の煙で、まるで咽喉でもしめつけられそうな息苦しさだった。  家庭教師の河野朝子はおろおろしながら、  「由紀子さん、あまり遅くなりますし、雨にもなりましたし、もうみなさんに引きとっていただいたほうが、よろしいのじゃございませんかしら。……」  「さあ。……」  と、幼い由紀子がなんとも決断をくだしかねているそばから、  「いや、それはいけないでしょう。河野先生」  と、町長の立花さんはさっきからつくづく弱りきっているのである。  矢部家の老人が殺されたということだけでも、この静かな湖畔の町にとっては、神武以来の大椿事だのに、さっきから直面している玉造家の一族と、矢部家の主婦峯子との、かなり尖鋭化している感情的な葛藤に、さすがもの慣れた立花さんも、ほとほとと匙を投げた感じである。  しかし、それかといってこのままこのパーティを解散すべきでないことくらいはわかっている。  「まあ、もう少し待ちましょう。神崎君がかえってきてから。……あの男から何か訊ねることがあるかもしれませんから」  町長の言葉もおわらぬうちに、そばから峯子が例によってねちねちとした口調でいった。  「わたしはここに残りますよ。誰がお父さんを殺したかわかるまではね。都、あなたもここにいなければいけませんよ」  美しいけれど愛嬌にとぼしいこの女は、生理的にも良人から満足をあたえられることが少く、中年女のヒステリー性が、いっそうその人柄をとげとげしいものにしているのである。  誰もかえろうとするものはなかった。  杢衛と君江のいきさつは、射水の町のすべてのひとが知っている。それだけに杢衛のこのとつぜんの横死については、みんな大きな好奇心につつまれているのである。  落着いてくると一同は、田代と由紀子のふたりにむかって質問の雨を降らせた。  さっきまでの田代なら、それにたいして得意になって弁じたてたことだろう。しかし、この事件の底に二十数年来のふかい暗流があるとしっては、うかつなことはしゃべれなかった。そこで勢い、ひとびとの質問にたいしてこたえるのは、幼い由紀子の役まわりだった。  「まあ、それじゃ、矢部さんのご老人が突き殺されたとき、マリさまは由紀子さんや金田一先生とごいっしょだったんですのね」  由紀子の話を聞いて、家庭教師の河野朝子は、なぜかほっとした顔色だった。  「ええ、そうでしたの、河野先生。あたしども、あたしと金田一先生が矢部のおじいさまのあとを追っかけて、底なしの井戸のほうへいこうとする途中、路に迷ってむこうからやってきた、マリさんとカンポさんに出遭ったんです。そこで立話をしているところへ、矢部のおじいさまのわめくような声が聞えてきたんです」  「あの、……そして、そのとき矢部のご老人は、誰か女のひとと言い争いをしていたとおっしゃいましたわね」  「ええ、そうなの。それですからこちらのおばさまが……」  「ば、ばかな! そ、そんな!」  「どうしてですか、河野先生。矢部のご隠居が誰か女と話をしていたとしたら、こちらの奥さんしかないはずだが……」  もっともな立花さんの質問に、  「はあ、あの、……それはそうでございますけれど。……」  「ございますけれど……」  と、疑わしげな立花さんの視線を、河野女史はまぶしそうに避けて、  「あのようにお優しいかたが、そんな恐ろしいことを……」  と、唇をかんでそれきり黙りこくってしまった。  「由紀子さん、それで、こちらの奥さんのゆくえがわからないというんだね」  「ええ、みんなでずいぶん探してみたんですけれど、どこにも姿が見えませんの。だから、ひょっとすると、またあの井戸へとびこんだのじゃないかって。……」  そのとき、サロンの一隅から、ケラケラとけたたましい笑い声が起ったので、一同がぎょっとしてふりかえると、いうまでもなくそれは峯子だった。  「底なし井戸、底なし井戸って、ずいぶん便利な底なし井戸だこと。二十三年まえのときもそうだった。そして、こんども……ほ、ほ、ほ、立花さん、その手にだまされちゃだめですよ」  「お母さま!」  と、都がそばからこのはしたない母をたしなめようとかかったとき、ベランダの外の雨の中に、ひとびとの足音の気配がして、神崎署長と金田一耕助をせんとうに、探検隊の一行が、少しばかり濡れそぼれた恰好でかえってきた。  峯子は良人のすがたを見ると、  「あなた、お父さんは……?」  と、ベランダの外をすかして見ている。  「おまわりさんに頼んで、直接うちのほうへ送りとどけてもらったよ。うちには文蔵さんがいるから大丈夫だろうが、おまえ、すぐにかえってお通夜の支度をなさい」  「ああ、それじゃ、やっぱりいけなかったんですの」  「うむ」  と、慎一郎はきっと唇をへの字なりに結んだまま、夫婦としては冷淡なうけこたえであった。  「それで、あなたは……?」  「神崎さんの命令で、わたしはもうしばらくここに残っていなければならないんだ」  「康雄さんや玉造のご隠居さんは……?」  「玉造のご隠居は母屋へおかえりになった。康雄君はすぐにここへ来るだろう」  「ああ、それじゃ、わたし……」  峯子はちょっとためらったが、そのとき、マリやカンポやニコラ神父のうしろから、古林徹三が警官に手をとられてやってくるのに眼をとめると、  「あら、古林さん!」  と、弾かれたように大声をあげた。  「あなた、どうして、ここへ……?」  「古林君はね」  と、慎一郎は吐きすてるような声の調子で、  「鐘乳洞のなかをうろついているところをつかまったんだ。それについて古林君は、しかるべき釈明をしなければならないんだよ」  「まあ!」  峯子はさぐるように古林の顔を見ていたが、やがて都をふりかえって、  「都、あなたはさきへかえって、おじいさまのお通夜の支度をしてあげてちょうだい。お母さんはもうしばらくここにいます。誰がなんといっても、お父さんを殺したひとがわかるまでは、わたしはここを動きませんからね」  峯子はきっぱりそう言いきると、梃《てこ》でも動きそうにない顔色だった。  署長の神崎さんは立花さんをつかまえて、何か小声で話をしていたが、  「なるほど、するとわれわれが鐘乳洞へむかってから、誰もここを出ていったものはありませんな」  「はあ。それはわたしが保証する。みんなひとところに集まって、こちらの奥さんと、矢部のご老人の噂をしていたんだから」  「いや、ありがとう。それでだいぶん捜査の範囲もせばまるというもんだ。それじゃ、古林君」  と、神崎さんはもったいぶった咳払いをすると、頬に傷のある男をふりかえって、  「ひとつ、君の話を聞かせてもらいましょうか。なんだっていまじぶん、鐘乳洞のなかをうろついていたのか。……」  誰の眼にも古林徹三の様子はうさん臭かった。尾羽打ち枯らした服装のうえに、頬っぺたにあるあの古傷が、いっそうその印象をわるくしている。  一同が気味わるがって、そっと後じさりしたのも無理はない。  古林は白い眼で、じろりとあたりを見まわすと、ひくい、陰気な声で、ボツリボツリとはなしはじめた。  「みなさんがわたしを怪しまれるのも無理はない。しかし、わたしがどういう人間だかわかってくだされば、なぜ鐘乳洞へはいっていったか、そのわけもしぜんご諒解ねがえると思う。わたしはそこにいる慎一郎君とはふたいとこに当るものです。したがって、わたしのおふくろというのが、こんや亡くなった杢衛のおじといとこ同士になるんです。それはさておき、二十三年まえのあの事件の際、わたしは矢部家に厄介になっていました。それのみならず鐘乳洞のなかで、英二君の死体を最初に発見したのは、かくいうわたしなんです。そういうわけであの事件は、わたしにとっては非常に印象がふかい事件だったわけです。なあ、慎一郎君、そうだろう」  古林徹三は慎一郎の同意をもとめるようにふりかえる。しかし、慎一郎はうなずきもせず、無言のままひかえていた。  古林徹三はむっとしたように下唇をかみしめたが、すぐ自嘲するような笑顔になって、ボツリボツリとあとをつづける。  「あの事件ののち間もなく、わたしは満洲にわたり、そこでまあ、相当の成功をおさめたんです。結婚もし、子供も出来た。ところがこんどの戦争だ。なにもかも一切合財うしのうてしまった。一切が空の空、財産はもちろんのこと、妻子さえもなくしてしまったのです。そして、ごらんのとおり尾羽打ち枯らしてかえってきたが、ほかにいくところもないままに、杢衛おじさんを頼ってきたというわけです。ゆうべ、杢衛おじさんや慎一郎君にあって、どうやらまあ、身のふりかたもつきそうになりました。そのことは、ここにいる慎一郎君に聞いてもらってもわかります」  慎一郎はあいかわらず無言だったが、そばから峯子が言葉をはさんだ。  「そのことなら、わたくしも承知しております」  「ありがとう、お峯さん」  と、古林徹三はかるく峯子に会釈して、  「さて、わたしはここへくる途中、汽車のなかでそこにいるひと……金田一さんとおっしゃるそうだが、……そのひとにお眼にかかった。そして、たまたま話が二十三年以前の事件にふれたうえに、汽車からおりて、矢部の家へいく途中、世にも不思議な人物に出会ったんです」  古林はマリの顔を凝視しながら、  「あとで聞くとそのひとは、鮎川君江と名乗る婦人だということだったが、わたしの眼にはどうしても、二十三年まえに、底なしの井戸へ身を投げた……いや、身を投げたと信じられている、玉造朋子としか見えなかったのです」  マリはだまって聞いている。マリのそばには田代とカンポが、護衛兵のように付添っている。少しはなれてニコラ神父が当惑したように小鬢をかいている。  いつやってきたのか、康雄が由紀子とならんで腰をおろしていた。  古林は言葉をついで、  「わたしにはそれが不思議でならなかった。しかも、矢部のおじもわたしと同じ疑いを抱いていると聞いて、いよいよ強い好奇心にとらえられたんです。そこで、今夜、矢部のおじや慎一郎君、それからお峯さんが出かけたあと、つい、ふらりと鐘乳洞のなかへ入ってみる気になったんです。問題の底なしの井戸がどうなっているか。……なんとなく気になったというわけです。わたしの話というのはそれだけですが……」  なるほど、古林の話はいちおう筋がとおっている。辻褄があっているのである。鐘乳洞のなかをうろついていたからといって、必ずしも怪しむべきではないかもしれない。  「しかし……」  と、神崎署長が質問を切りだした。  「それじゃ、あんたはなぜ、われわれの姿を見て逃げだしたんですか。あの鐘乳洞の曲角で出会ったのはあなたじゃなかったんですか」  「もちろん、そうですが……」  と、古林は語気をつよめると、  「それはやっぱりなんというか、そんなところをひとに見られたくなかったんです。なにしろ、この風態ですから。……」  古林はじぶんの服装を顧みて苦笑をもらした。  「なるほど、それであなたは教会のほうの出口から、逃げだそうとしたんですね」  「そうです、そうです」  「あなたは途中で誰かに会いませんでしたか。たとえば、きのう教会のまえで出会った婦人と……」  「いや、誰にも会いませんでしたね」  と、古林はふたたび語気に力をこめて、  「ただ、あの底なしの井戸を過ぎ、教会堂のほうへ出る鐘乳洞……いや、もちろん、そこをいけば教会堂のほうへ出られるなどとは夢にもしらなかったんですが、……とにかく、そこへもぐりこんでからまもなく、うしろのほうでののしるような男の声がきこえました。いまから思えば、それが矢部のおじと、みなさんが探していらっしゃる問題の婦人だったんでしょう。それを聞くとわたしは驚いて、引きかえそうかどうしようかと、まごまごしているところをこのひとにつかまったというわけです」  と、古林はニコラ神父を指さした。  それについて金田一耕助が、何か言おうとしたときである。だしぬけに、あわただしい足音をひびかせて、駆けこんできたのは刑事である。  「署長さん、こんなものが見つかりました。底なし井戸の途中の岩にひっかかっていたんです」  と、ひろげてみせたものを見て、一同は思わず大きく眼を見張った。  それは夜会服のように裾のながい、そして喪服のように真っ黒な服だった。いうまでもなくマリの母が着ていた衣類のようだ。  「お嬢さん、これ、ひょっとするとあなたのお母さんのでは……?」  手にとって服地を調べるマリの指は、熱でもおびているかのようにぶるぶるふるえた。  「はあ、あの……河野先生、お母さまの服のようだわねえ」  「はい。あたしもそう思いますけれど……」  河野朝子もまっさおに色のくちた唇を、けいれんするようにわなわなとふるわせている。  「そうすると、奥さんはまたあの井戸へ身投げしたことになるのかな」  神崎署長が当惑したように、ロマンス・グレーの小鬢を指でかいているとき、とつぜんサロンの一隅から、はじけるような笑い声をばくはつさせたものがある。  峯子であった。  「よして……よしてください。そんなお茶番。……誰が身投げをするのに着物をぬぐひとがありますか。わたしはその女がどこへ逃げたかしっている」  峯子ははげしいヒステリーの発作にわななく指を、ニコラ神父にむけながら、  「あの女は教会のほうへ逃げたんです。そして、神父さんがそれをかくまっていらっしゃるんです。二十三年まえのときもそうでした。あの女は教会のほうへ逃げていき、当時、あの当時教会にいたパウル神父にかくまわれ、パウル神父が帰国するときともなわれて日本を脱出していったんです。お父さんはいつもそういってらっしゃいました。だから、今夜のことも、みんなこのひとたちがぐるになってやったんです」  そういいながら狂ったように、峯子はマリや康雄や由紀子やカンポ、最後にニコラ神父と順ぐりに、ひとりずつ指さしていくのである。 宮田文蔵  金田一耕助はすっかり当惑しきっている。  杢衛のお葬いは一昨日すんだ。金田一耕助をわざわざこの町へよびよせたそのひとがすでに死亡し、お葬いまですんでしまったいまとなっては、いつまでここにいてよいものだろうか。……  そのことについて慎一郎は、  「どうぞ、ご遠慮なくいてください。父を殺した犯人がわかるまでは……」  と、いっているし、また、妻の峯子も、  「ほんとにそうでございますわね。あの憎らしい朋子のやつのいどころがわかるまで、いつまでもこちらにご逗留くださって結構ですよ」  と、慎一郎にあてつけがましく付加える。  しかし、もともと、じぶんをここへ呼ぶことについては、慎一郎は反対だったということを、金田一耕助も知っているし、それに峯子の言葉にはいつもどこか棘《とげ》があった。  さらに二日三日と逗留しているうちに、金田一耕助は気づいたのだけれど、この家を事実上動かしているのは、慎一郎でもなく、峯子でもなく、峯子の兄の宮田文蔵らしかった。  宮田文蔵というのは、和服のときはきちんと角帯をしめ、洋服のときにはネクタイを忘れないという、いつも服装をととのえている男で、口数こそは多くなかったが、それでいて如才ないところのある人物である。  金田一耕助はもちろんはじめのうちこの男のことを、べつに家をもっていて、この家に通勤しているのだろうと思っていた。ところがのちにわかったところによると、かれもまた引揚げ者のひとりで、妻も子もなく孤独の身を、この矢部家の一隅で飼い殺し同様にやしなわれているのであることがわかった。  文蔵は亡くなった杢衛老人の信用を博していた。およそ世俗的なことにかけては無能力者にちかい慎一郎には、矢部家のかなり大きな家政経営はまかせられなかった。といって杢衛はもうよる年波であった。当然、そこに信頼するに足る番頭のような人物を必要とした。文蔵はそれに打ってつけの人柄だったのである。  戦後、国家の至上命令で農地は解放されてしまった。玉造家などはこの痛手で、ひとたまりもなく没落してしまったのだが、矢部家は大きな山林をもっていた。山林は解放の対象にはならなかったのである。しかも矢部家の持山からは、この地方特有の鉄平石というのが豊富に掘り出された。鉄平石は戦後建築資材として重用視されている。  即ち、戦後矢部家と玉造家との経済力に、大きな懸隔ができたのはそこにあった。  玉造家はこのへんきっての大地主であった。農地をもっていることにかけては、矢部家はとても玉造家の足下にもおよばなかった。そこで杢衛老人はしだいに山林をふやしていった。その山林から鉄平石が発掘されはじめたのである。  つまり、矢部家は鉄平石の出る山をもっているのみならず、それを掘り出して、都会へ送る施設と工場をもっている。戦前はこういうことは、旦那としていささかヒンシュクに値する仕事ということになっていたらしいのだが、戦後の世相の一変から、杢衛老人は堂々と、近在きっての大旦那ということになっていた。  さて、こういう事業を経営している以上、そこに相当腕のある経営担当者が必要なのはいうまでもない。慎一郎にはその資質がかけていた。それを埋めたのが、戦後南方から引揚げてきた宮田文蔵である。  かつて、マニラで対南洋貿易の商社を経営して、かなりの成功をおさめていた宮田文蔵にとっては、この田舎の鉄平石工場を経営するくらいはなんのぞうさもなかったのだろう。かれは杢衛の信頼を博し、下のものからも気受けがよかった。  かれがここに落着くにつけ、周囲のものは妻帯をすすめた。しかし、気にいった女がいなかったのか、それとも独り身の気安さになれたのか、文蔵はなかなかうんといわなかった。女房よりは仕事がだいいちといわんばかりに、毎日、いそがしそうに駆けずりまわっていた。だから、町のひとびとは宮田さんの気がしれない。女房ももち、家も建ててもらって、ちゃんと身分を立てればよいのにと、文蔵の気持ちを不思議がった。  しかし、当の文蔵はひとの噂もどこ吹く風と、当てがわれた矢部家の物置きみたいな小屋をじぶんの手で改造して、結構小綺麗に住んでいる。元来がマメな性分なのである。さすがにこの町ではあそばなかったが、ときどき湖水の対岸の町へは遊びにいくらしい。そこには馴染みの女もいるらしいという噂だったが、かれの働きからすれば、それくらいのことは当然と、杢衛老人も見て見ぬふりをして過してきた。  この宮田文蔵でもうひとつ気のつくことは、都をたいそう可愛がることである。引揚げのときマニラで亡くした娘に似ているとかで、都を目の中へ入れても痛くないほど可愛がった。かれが女房をもって独立することを躊躇しているのは、ひとつは都とべつの家に住むのが辛いのではないかと思われるくらいだった。  しかし、人間というものは、他人のことをいいようにばかりは言わないものである。いやいや、その反対になんとかかんとか難癖をつけたがるものである。ことに相手が羽振りのよい人間である場合には。……  ひとのわるい連中は宮田文蔵のいささか腑に落ちぬ生きかたに対して、ひそかにつぎのような意地悪い憶測を下している。  宮田さんは矢部家の乗っ取りをねらっているのじゃないか。いまに矢部のご老人が死んでしまえば、あとにのこるのは慎一郎さんとじぶんの妹。その慎一郎さんは学者肌で、なんたらむつかしい勉強するばかりで、仕事のことはチンプンカンである。これを騙して矢部家の事業を乗っ取るのは、朝飯前の仕事である。だからその下工作として都さんを手なずけているのではないか。……  人の口に戸は立てられないというのはこのことである。  さて、その矢部家の主権者がとつぜん急死してしまった。果して慎一郎には事業のことも家政のこともいっこうチンプンカンである。ここにいたって宮田文蔵という存在の、この家における比重が目に見えぬ大きな威圧となってのしあがってきたのである。じじつ慎一郎はこの義兄に相談することなしには、お葬いひとつ出せなかった。……  だが、その文蔵も金田一耕助に切望するのだ。  「そんなにご遠慮なさることはありません。ひとつ、いつまでもご逗留なさって、おじさんを殺した犯人をつかまえてください。こんな田舎の警察になにができるもんですか。ひとつぜひ先生の手で犯人を……」  もうそのころには、かつて金田一耕助が、おなじ信州の犬神家における、血で血を洗う相続争いから起った、あの恐ろしい連続殺人事件の解決にあたって、重要な役割りをはたしたことを、射水の町でたれひとり知らぬものはなかった。  内心はともかくも文蔵の言葉にも、いちおうは誠意がこもっているように思われた。したがって金田一耕助は、かならずしも居心地がよかったとはいえなかったけれど、さりとて、このまま東京へひきあげる気にはなれなかった。  二十三年まえの事件だけならばともかく、げんにじぶんの鼻さきで殺人が行われたのである。このままのめのめ東京へひきあげることは、かれのプライドとファイトが許さなかった。  それと、もうひとつ、金田一耕助をこの家にひきとめる理由としては、都という娘のいじらしさがあげられる。  そりのあわぬ父と母とのあいだにはさまれて、いつもおどおどと気をつかっている都を見ると、少くとも事件のかたづくまではここにいてやりたいと思うのである。  杢衛という祖父が生きているあいだは、両親のあいだにそれがひとつの緩衝地帯となっていたのだ。その祖父が亡くなってしまったげんざい、両親のあいだになにか不幸な衝突が起るのではないか。……  都はそれを恐れているようである。  それともうひとつ都は、いまこの家に滞在している古林徹三という男を信用できないらしい。あの男のために、なにかまた厄介なことが起るのではないか。  おなじひきあげ者とはいうものの、敏感な都は文蔵とこの男とのあいだに、いちじるしい体臭の相違をかんじるのである。文蔵がこの家へたよってきたときも、妻も子も財産も、一切合財うしなって、徹底的に尾羽打ち枯らしていた。この点は古林徹三と条件はまったく同じである。  しかし、文蔵の頼ってきたときの印象とまったくちがって、古林徹三の場合、なにかしら暗い、陰惨なものを感じさせるのはなぜだろうか。それはかれの頬っぺたにあるなまなましい古疵と、それからかれが到着した直後に起った事件のせいだろうか。  文蔵はわが身に引きくらべて、古林徹三にたいして親切で寛大である。かれを鉄平石工場のなんらかの部署につけるつもりらしい。しかし、文蔵の表面にあらわれた親切は、ほんとに心の底から出たものだろうか。なんとなく文蔵の伯父さまも、古林徹三というひとをうさん臭く思っているのではあるまいか。……  まだ若い都には父が遁世者のような性格だけに、いろいろ考えることが多いようである。  「そうですか。みなさんがそうおっしゃってくださるならば、はなはだ厚顔のようですけれど、もうしばらくご厄介になることにいたしましょう」  それはお葬いのすんだ翌日の晩のことである。一同に引きとめられるままに、金田一耕助もいましばらくの居坐りを決意すると、さて改めて一同にむかって切出した。  「こういう場合、日本人の習慣からいえば、臭いものに蓋式に、当分のあいだなるべくならば、こんどの事件にふれないのをもってしてエチケットとするようです。しかし、それではぼくの役目がすみません。できるだけはやくこの事件を解決するためには、みなさんが触れたくないとお思いになるような問題にも触れなければなりません。そのことはみなさんもご承知してくださるでしょうねえ」  金田一耕助がそう念をおすと、男の誰もがまだ口をきかないまえに、まっさきに、例によってもったいぶった切り口上で答えたのは峯子であった。  「それはもちろん、そうでございますとも。先生、なんでもご遠慮なしにどんどんご質問くださいまし」  慎一郎は憮然としてひかえており、文蔵はただうなずきながら、しずかに頭髪をなであげている。古林徹三の眼はどこか狐の狡猾さを思わせた。都は無言のままじぶんの膝に眼をおとしている。 慎一郎と峯子  「それではまず奥さんからお訊ねいたしますが……」  と、金田一耕助はそのほうへむきなおって、  「このあいだ……こちらのご老人が亡くなられた晩、あなたは妙なことをおっしゃいましたね。二十三年まえの事件のとき、朋子という婦人は底なし井戸へ身を投げたのではなくて、教会のほうへ逃げていき、当時、あの教会にいたパウル神父というひとにかくまわれ、そのひとが帰国するとき、いっしょに日本を脱出したんだと。……」  「ええ、ええ、そう申しましてございますよ」  峯子はじろりと良人の顔を見ながら、それがくせのねつい調子できっぱりといいきった。  「しかし、それにはなにか根拠があってのことですか」  「根拠といわれると困りますんですけれど、まず第一に朋子……さんがのこしていった、あの奇妙な書置きでございます。——あたしはいきます。でもいつかかえってきます。蝶が死んでも、翌年また美しくよみがえってくるように。——と、いうあの思わせぶりな。……」  「そうそう、そのことはこのあいだぼくも、亡くなられたご老人からうかがいましたが、それで……?」  「それで、父は……先日亡くなりました父は、はじめから朋子さんが死んだということには、ふかい疑いを抱いていたのでございます。しかし、そのころには、この家の裏にある入口と、玉造家の裏にある入口と、そのふたつしか鐘乳洞の入口は、ないものと思われていたのでございます。そして、そのふたつの入口は両方とも、朋子さんが鐘乳洞へかけこんで以来、げんじゅうに見張りがついておりましたので、そこから逃げだした形跡がない以上、やっぱり朋子さんはあの井戸へ、身を投げて死んだのだろうかと、父も半信半疑だったんです。ところが、そののち偶然のことから、教会のほうへ出られる口が発見されましたので……」  「ちょっと待ってください。その入口が発見されたのはいつごろのことですか」  「英二さんの事件があってから、一年ほどたってからのことでした」  金田一耕助はだまって視線を峯子から、峯子をとおりこして庭のほうへ走らせた。そしてそのままぼんやり庭のおもてを視ていたが、やがてまた峯子の顔へ視線をもどすと、  「なるほど、それで……?」  「その時分、あの教会にはパウルという神父さんがいらっしゃいまして、とても朋子さんを可愛がっていたんです。ところが、そのパウル神父というのが、朋子さんの失踪後、十日ほどして急に帰国しているんです」  「あれはなにも急に帰国されたわけじゃない。任期がみちて、まえから帰国することにきまっていたんじゃないか」  慎一郎がにがりきって言葉をはさんだ。  「ええ、それはあなたのおっしゃるとおりでございますけれど……」  と、峯子はあいかわらず押えつけるようなねちねちとした調子で、  「時期が時期でしたからねえ。……それで父は帰国のさい、神父さんが荷物のなかに朋子さんをかくまっていったにちがいないと、いつもそういって口惜しがっていたんです」  「その事件は、奥さんがまだこちらへお輿入れをなさるまえのことですが、そのじぶん奥さんはどちらに……?」  この質問は峯子のいたいところをついたらしく、彼女の眉間にいっしゅんさっと青白い稲妻が走った。  「はあ、あのそのじぶんからあたしはすでにこの家へきておりました。但し、まだ嫁ではなく、矢部家の厄介者だったんです」  自嘲するような峯子の言葉をとりなすように、そばから兄の文蔵が口をはさんだ。  「いや、そのかんの事情は、わたしからお話をいたしましょう」  こんやの文蔵は、白いさらしの肌襦袢がすけてみえる、黒地の縮みに角帯をしめ、ゆっくりと白扇をつかっている。南方から引揚げてきたじぶん、くろぐろと陽焼けしていたのが、ここ数年来の信州住まいですっかりと色がぬけて、どちらかというと色白の、ゆったりとした人柄である。  処世的にはどこか自信のなさそうな慎一郎や、なんとなくおどおどしている古林などからみると、態度なり、口のききかたなりが、よほどおとなっぽかった。年齢も慎一郎よりは四つ五つ上らしくみえ、これでは杢衛老人に信頼されたのもむりはないと思われる人柄だった。  男振りも悪くなかった。  「そのじぶん、わたしどもの家、宮田家というのがすっかり没落してしまって、にっちもさっちもいかなくなっていたんです。しかも、両親があいついで亡くなったもんですから、そこでわたしが決心したんです。わたしが宮田家の跡取り息子で、当時すでに結婚していたんですが、こんなところでぐずぐずしていたところではじまらん。とても宮田家の家運を起すことはおぼつかない。いっそフィリッピンへでもわたって一旗挙げてみたら……と、いうのはちょうどそのころ、わたしの識合いのものがむこうで相当成功していたもんですから、それを頼っていこうということになったんです。さいわい、家内も賛成してくれまして、いくんならいまだ、子供ができてからじゃいきにくくなると、むしろ、家内のほうがすすんでくれた状態なので、そこでそのことをおじさん、……せんだって亡くなったおじさんに相談してみたんです」  と、そこまで語って文蔵は、つめたくなった渋茶で咽喉をうるおすと、また淡々としてあとをつづける。  「それというのがここにいる慎一つぁんと峯子とは、幼いときから許婚者になっていたんです。なんでも亡くなったわれわれ兄妹のおやじというのが、おじさんの若い頃、なにかお役に立ってあげたことがあって、……なに、ごく些細なことなんでしょうが、そういう点、ひどく義理がたいところのあるおじさんで、峯子をじぶんの跡取り息子の嫁にすることによって、昔の恩返しをしようというわけですな。ちょうどそのじぶん峯子は女学校の四年生でした。で、わたしがフィリッピン渡来の相談をもちかけると、おじさんもちょっと考えてはいましたが、けっきょく家内も乗気だときいて賛成してくれ、そんなことなら峯子をうちへ引取ろうと申入れてくれたわけです。そんなわけで、峯子をこの家へたくして、われわれ夫婦はフィリッピンへわたったんですが、あの事件のおこったのはその翌年の夏のことで、そういうわけで峯子は当時、未来の矢部家の嫁としてこの家に寄寓していたわけです。あれはたしかおまえが女学校の五年生のときだったね」  「はい」  峯子は屈辱に頬を青白くけいれんさせながら、それでも例の切り口上でキッパリ答えた。  なるほど、これではその当時、峯子のうけた心の傷《いた》手《で》は深刻だったであろう。そしてそのことがいまもなお尾をひいて、この女を片意地な底意地の悪そうな女にそだてあげたのかもしれない。  「なるほど、するとそのじぶん、あなたはこちらにいらっしゃらなかったんですね」  「はいマニラで便りをききました。どういう事情かくわしいことがわからないので、びっくりしてしまいました。その翌年、峯子の結婚式に呼びもどされて、はじめてその間の事情をしったというわけです」  さすがにそばにひかえている慎一郎をはばかって、終りのほうは曖昧な調子だった。  「古林さんはそのときこちらにいらしたんですね」  「はあ」  古林徹三はちらと金田一耕助の顔をぬすみ視すると、  「それはこのあいだの晩も申上げたとおりで、あのじぶん、夏休みといえば毎年こちらに厄介になっていたもんです。宮田さんのいまのお話でもおわかりのとおり、亡くなったおじさんというのがしごく物分りのいい人のうえに、若者を愛するという気性のひとでしたから。……」  「ところで……」  と、しばらく考えていたのち、金田一耕助は慎一郎のほうへむきなおって、  「あなたがごらんになってどうでしょう。君江という婦人を、朋子さんとおなじひとだとお思いですか」  「いや、ところが……」  だしぬけに話しかけられたので、慎一郎はいささかどぎまぎしながら、  「いや、ところがわたしはいちども君江という婦人に会っていないので……なにしろあのひとは、部屋に閉じこもったきり、めったに外へ出なかったということですから」  「でも、古林さんはあのひとを、朋子さんにちがいないと断言してますわ」  例によって例のごとく、峯子の口調は良人をおさえつけるようにねちねちしていた。  そうだ。そのことは金田一耕助も知っている。教会のまえで君江を見たとき、古林の顔色はまるで幽霊にでも出会ったようだった。……  しかし、その君江はどうしたのか。  鐘乳洞のなかの底なし井戸のそばから姿をくらましたきり、きょうでもう三日目になるというのに、いまだにゆくえがわからないというのは。…… 鐘楼の影  射水の町はいま大さわぎである。  杢衛の死もさることながら、いま町へきているブラジルのコーヒー王の養女の母なるひとが、ゆくえをくらましたというのだから、これはたんに射水の町だけの話題ではなかった。全国的に一大センセーションをまきおこしているのである。  この事件によって信州の山奥の湖畔にある、射水というささやかな町の名が、全国的に大きくクローズ・アップされたといっても言い過ぎではない。  鐘乳洞のなかは、むろん、いくどとなく捜索された。あの底なし井戸のなかも調べられた。  しかし、金田一耕助もその捜索に立会って、あの井戸の底を調べるということは、ぜったいに不可能だということをしった。  土地のひとがその井戸を、地獄までつづいているというのも、けっして誇張でないことがわかった。百ひろにあまる綱のさきにおもりをつけて垂らしても、まだそれは底までとどかないのだ。いったい、それはどれくらいの深さがあるのか見当もつかないのである。  こうして君江の失踪は、謎につつまれたまま、はや五日たった。警察ではちかく、町の青年団をかりあつめて、本格的に鐘乳洞のなかを調べようといっている。  こういう騒然たる空気のなかにあって、マリの態度なり、様子なりこそ、不思議というよりほかはなかった。ときおり彼女も泣くらしく、眼をまっかに泣きはらして起きてくる朝もあったが、それでいて、母のゆくえを心配しているのかいないのか、いつも、  「母はいずれかえってまいります。母はとても信心ぶかいひとですから、きっと神様がお守りくださいますでしょう」  と、誰にむかってもただそういうだけで、それ以上のことはなにを聞かれても語ろうとはせず、また、とくにひどく取乱しているふうも見せなかった。  そのことについては由紀子も不思議がって、  「ねえ、金田一先生、外国でそだつと親子でも、あんなふうに冷淡になるのでしょうか。あたし、お姉さまのお気持ちがわからないわ」  と、あるとき金田一耕助にうったえた。  しかし、その場にいあわせた田代がすぐにそれを打消して、  「そんなことないよ、由紀ちゃん、ぼくブラジルへ招聘されたとき、ゴンザレスさんのお宅でしばらくご厄介になったんだが、あんなに愛情にみちた親子はなかったぜ。影の形にそうごとくって言葉があるが、マリちゃんとおばさんはかたときだってはなれたことはなく、いつもたがいにいたわりあっていたのだ」  「そうかしら」  と、由紀子はなかなか承知しかねる顔色で、  「でも、それならそれで、もう少し人をやとって、お母さまをおさがしするとか、……お金に不自由のないひとですもの」  「ひょっとすると、マリはやっぱりお母さんを疑っているんじゃないかな」  「だけど、それだとずいぶん変よ」  「なにが変なんだい?」  「だって、お姉さまのお母さま、ぜんぜん、杢衛おじいさんと縁のないひとでしょ。おじいさんになんの怨みもないはずよ。もしそれがあるとしたら……?」  と、いいかけて、由紀子は口をつぐんでしまった。もしあるとしたら、マリの母親は、やっぱり杢衛が疑っていたように、朋子叔母ではないかといいたかったのである。  「金田一先生、あなたこんどの事件について、なにか……?」  「いやあ、ぼくはまだぜんぜん白紙。だいいち、この事件の関係者の性格さえも、まだよくわからないんだからね」  金田一耕助は困ったように、雀の巣のようなもじゃもじゃ頭をかきまわしている。  「どうも変だなあ。そういえばマリはすっかり人間がかわってしまったよ。ブラジル時代には、ぼくととっても仲よしだったのに、こっちへきてみると、なんだか、ぼくを避けるように、避けるようにするんだもの……」  不平そうにつぶやく田代の顔を、由紀子は横眼でにらみながら、  「うっふっふ! お気の毒さま。いい気味だといったら田代さん、おこる」  それだけいって由紀子はプイと立ってしまった。  そのあとで金田一耕助は康雄にむかって訊ねてみる。  「その後、お祖母さまはいかがですか」  「はあ。……」  と、康雄はそのことにふれるのを好まないらしく、金田一耕助の視線からおもてをそらせるようにしながら、  「べつに。……」  と、小さくつぶやいて言葉をにごした。  それにたいして金田一耕助もあえて追及しようとはしなかった。  このあいだの晩の、あの鐘乳洞での出来事は、たしかに印象的な情景であった。それはながらく憎みあい、闘いあってきたふたりの男女の、うつくしい和解のシーンでもあったのだろう。しかし、じぶんの祖母の胸に、じぶんの祖父以外の男性のおもかげが、ながく秘められていたのだとしることは、孫としては辛いことにちがいないと、金田一耕助も同情することをしっているのである。  それからまもなく玉造家を辞した金田一耕助は、ふと思いついてニコラ神父をたずねてみた。  独身の神父は、教会のわきにある小さなコッテージに住んでいる。そして、いつかマリの会のとき、手伝いにきていたお作という女が、毎日通いでやってきて、掃除や炊事をしていくのだ。この小さな町の教会には、ニコラ神父と鐘つきの爺や以外にはだれもいないのである。  その神父は金田一耕助の顔をみると、いきなり大きな手をさしのべて、金田一耕助の手をにぎりしめた。  「おお、金田一さん、よいところへきてくれました。わたしとても困りました」  と、金田一耕助をじぶんの居間へひっぱりこんだニコラ神父は、しんじつ困ったようにまんまるな童顔をくもらせている。  「お困りとは?」  「妙な話あります」  「妙な話とおっしゃいますと」  「わたし、不思議でなりません。そうそう、お作さん、お作さん」  と、ニコラ神父がアクセントのちがった呼びかたでお作さんを呼ぶと、お作さんは濡れた手をふきながら、台所から居間のほうへやってきた。そのお作さんの顔にもなんとなく、ただならぬ色がただようている。  「お作さん、ゆうべの話、金田一さんにしてあげなさい。あなた、さきに見つけたのだから」  「はあ、あのお話ししてもよろしゅうごぜえますか」  と、お作さんはなんとなく怯えたような眼の色になる。  「よろし、よろし、金田一先生、わかってくださる。先生、きっとこの秘密解いてくださる。お作さん、お話しなさい」  「はあ、それでは……」  と、お作はおどおどしながらも、やっぱりこの話がしたいらしいのである。  「金田一先生、ゆうべほんとに妙なことがごぜえましただ」  「妙なことというと?」  「それはかようでごぜえます」  と、お作さんがとつとつとして語ってきかせたのは、つぎのような話であった。  きのうもお作さんはここへ手伝いにきていた。そして、あとかたづけをしてひきあげていったのが、九時ちょっとまえのことだった。  お作さんは教会を出て、しばらくいってから、なにげなくうしろをふりかえったが、そのとたんおもわずぎょっといきをのんだ。教会のうえにそびえている鐘楼にだれやらうごく人の影がみえたのである。  「はじめのうちわたしは、鐘つきの爺やさんだろうくらいに思うておりましただが、どうもそうでなさそうでごぜえますから、いまごろだれがあんなところにいるのだろうと不思議に思いましただ。だいいち爺やさんなら、ちょうど、そのまえにお使いにいきましただし、神父さんとはたったいんまさようならをしたばかりでごぜえましただから……」  「ふむ、ふむ、それで……?」  「それで、わたしもなんだか怖うなりまして、ひきかえして神父さんにそのことを申上げようかと、思案しておりますやさきに、むこうの山の陰からお月さんがのぼってきましただで、その月の光でよくよくみると、それがなんと……」  と、お作さんはいきをのんで眼をくりくりさせてみせる。それがいかにじぶんがおどろいたかということの、お作さんとしては精いっぱいの表現なのだろう。  「それがなんと……? どうしたの?」  「いえ、あの、それがあのかたなんで……」  「あのかたとは……?」  「はい、あの、マリさまのお母さまで……」  金田一耕助はおもわずいきをのんだ。  「マリさんのお母さんというと、いまゆくえ不明になっている……?」  「はい」  「そして、警察でやっきとなって捜している婦人のことだね」  「はい、さようで」  「それで、お作さんはどうしたの?」  「どうもこうもごぜえません。すぐにここへとってかえして、神父さんにそのことを申上げましただ。神父さんもびっくりなさってここをとび出して鐘楼をごらんになりましただ」  金田一耕助はニコラ神父をふりかえって、  「それじゃ、神父さん、あなたも鮎川君江という婦人の姿をごらんになったのですか」  「いや、それが……」  と、神父さんは小鬢を指でかきながら、  「はっきりいえません。ベールで顔かくしていましたから……でも、ああいう姿をしているひと、マリさんのお母さんよりほかありません」  神父はそのとき、すぐに鐘楼へあがっていったそうである。お作さんもこわごわそのあとからついていった。  ところがその鐘楼へあがるには、教会の内部と裏側と、ふたつの階段がついている。だから神父さんは内部の階段をのぼっていくとき、お作さんに裏側の階段の下で見張っているようにいったそうだが、それをお作さんに期待するのはむりだった。お作さんはニコラ神父にしがみつくようにして、内部の階段をあがっていったのである。  ふたりが鐘楼までたどりついたときには、むろん怪しの影は見当らなかった。  神父さんとお作さんは、鐘楼のうえからあたりを見まわした。そんなに遠くへいくはずはないから、まだ教会のちかくにいるにちがいないと思ったからだが、そのうちにお作さんが、逃げていく怪しの影のうしろすがたを見つけたのである。  「どちらのほうへ逃げていきました?」  「金田一先生は、どちらへ逃げたと思いますか」  意味ありげなニコラ神父の質問に、金田一耕助ははっとあることに思いあたった。  「あっ、そ、それじゃあの鐘乳洞のなかへ……?」  「そうでごぜえますだよ、金田一先生、わたしがそのうしろすがたを見つけただ。それで神父さんにそう申上げたんでごぜえますだ」  「わたしがそれを見つけたときには、ちょうど鐘乳洞のなかへとびこむところでした」  ニコラ神父はそこでぴったり口を閉すと、鳶色の眼でまじまじと金田一耕助の顔を見ている。お作さんは不安そうにエプロンをひっかいていた。  「それで、神父さんは警察へそのことを……?」  「いいえ」  と、神父さんは当惑したように、まるい顎をなでながら、  「わたし、お作さんに口どめしました。そんなこと評判になる。わたし、困ります。矢部の奥さん、わたし、マリのママさん、かくしているようにいいます。わたし、たいそう、たいそう、調べられました。こんな評判たつ、わたし、また疑われる。それ、困ります。でも、わたし、不思議です。マリのママさん、ここにいるはずない。ゆうべのひと、いったいだれでしょう。不思議です。たいへん不思議です」  ニコラ神父の顔色には、しんじつ当惑のいろがかくしきれなかった。  だが、しかし、それにしてもニコラ神父はどうしてここに君江がいるはずがないと、ああはっきりいい切れるのだろうか。 疑惑のマリ  「ところで、金田一さん」  それからまもなく、お作さんを去らせたニコラ神父は、なにやら深い思案にくれたおももちで、部屋のなかをいきつもどりつしていたが、急にそのあゆみをとめると、くるりと金田一耕助のほうをふりかえった。  「金田一先生、わたし、あなたに訊ねたいこと、あります」  「はあ」  「矢部家のグランド・ファーザー、殺されたとき、マリはたしかに、あなたといっしょにいましたか」  「ええ、それは……」  と、金田一耕助はぎょっとしたように、神父の顔を見なおしながら、  「あのひと、たしかにわたしといっしょにいましたよ。しかし、なにかそれが……」  と、金田一耕助は瞳をさだめて、さぐるようにあいての顔を視つめている。  そういえばこのひとは、あのときもひどくそれを気にしていたが、ひょっとするとニコラ神父は、マリを疑うなんらかの根拠をもっているのではあるまいか。  「マリさんとカンポ君、由紀子さんとぼくと、この四人が立話をしているところへ、矢部のご老人の怒りにみちた罵声がきこえてきたんです」  「そして、それにまじって、女の声がきこえた、いいましたね」  「ええ、そう、女の悲鳴がきこえたんです」  「その女、いったいだれでしょう」  「だから、それがマリさんのお母さんでは……」  ニコラ神父はちょっと黙っていたのちに、  「ああ、そう、そうでしたね」  と、あわてたようにそういうと、それきりまた黙りこんでしまった。  いったい外人の考えは、日本人にはなかなかわからないものだが、このときのニコラ神父の言動はまことに不可解千万だった。神父はマリの母よりもマリじしんを疑っているのではあるまいか。しかし、もしそうだとしたらなぜだろう。  「じつは、そのマリさんのお母さんのことについて、きょうはおたずねにあがったのですが、あのひとはよくこの教会へおまいりにきたそうですね」  「ええ、そう。ときどき。わたし、ゴンザレス氏にたのまれているものですから」  「えっ」  と、金田一耕助はおもわずあいての顔を見なおして、  「それじゃ、あなたはゴンザレス氏をご存じですか」  「いえ、直接にはしりません。マリにあったのもこんど、はじめてです」  「と、おっしゃると……?」  「教会にたくさん寄付してもらいました。マリたちが日本へくるについても、ゴンザレス氏から手紙もらいました。玉造の家、わたし世話しました」  そのことは金田一耕助にとって初耳だったし、そこに、なんとなく怪しい胸騒ぎのようなものをかんじずにはいられなかった。  「失礼ですがゴンザレス氏が教会へ寄付をなすったのは、いつごろのことですか」  「去年の秋、でした」  「それまで、なにかゴンザレス氏と関係でも……?」  「いいえ、ぜんぜん。それですから、だしぬけに、未知のひとからたくさんの寄付をうけて、おどろきました。ブラジルの公使館へといあわせました。ブラジルの大富豪だときいて安心しました」  ゴンザレス氏はまたなんだって、異国の、しかもこんな田舎にある無名の教会に、寄付をする気になったのだろう。だいいち、どうしてこの教会をしっていたのだろう。……  金田一耕助のあやしい胸騒ぎは、いよいよつのるばかりである。  「そうですか。そういうご関係だったんですか。それはちっとも存じませんでした」  と、金田一耕助はあいての顔を注視しながら、  「すると、あなたはもしや、パウル神父というひとをご存じじゃありませんか」  「ああ、せんにここにいたひと……」  と、ニコラ神父は金田一耕助の視線をぴったりうけて、  「名まえ、聞いています。しかし、会ったことありません。時代、ちがいますから」  ニコラ神父の鳶色にすんだ瞳が、まじまじと金田一耕助の眼を視かえしている。まるで、なにかの暗示をあたえるように。しかし、金田一耕助には、それがなんの暗示であるのか見当もつかなかった。  「ところで……」  と、金田一耕助は話題をかえて、  「このあいだの晩、すなわち矢部のご老人が殺された晩のことですがねえ」  「はあ」  「あなた、古林徹三という男を、鐘乳洞のなかでつかまえたでしょう」  「はい、わたし、つかまえました」  「そのときの模様を、くわしく聞かせていただけませんか」  「それ、どういう意味ですか」  と、ニコラ神父の鳶色の眼は、ふしぎそうに金田一耕助のもじゃもじゃ頭を視つめている。  「いや、べつにどういう意味というわけでもないのですが、そのときの状態、つまり、どういう状態のもとで、あなたがあの男を見つけたか、そして、そのときあの男がどういう態度に出たか、それをくわしくしりたいのですが……」  「ああ、そう、それならば……」  と、ニコラ神父の眼からいぶかしそうな色は消えなかったが、それでも金田一耕助の質問に応じて、快活に話しはじめた。  「あの晩、わたし、マリから招待うけていました。ところが夕方になって、信者のひとりが病気だといってきました。そのお見舞いにいったので、約束の時間、おくれました。それで、ふつうの道をいくよりも、鐘乳洞のなかの路、いくほうがはやいと思ったので、そっちの路をいくことにしました」  「ああ、ちょっと」  と、金田一耕助がさえぎって、  「それじゃ、あなたはちょくちょく、鐘乳洞のなかをとおって、マリさんやマリさんのお母さんのところを訪問されるのですか」  「ええ、そう、マリも二、三度、鐘乳洞をとおって、ここへきたこと、あります」  「えっ? なんですって?」  と、金田一耕助ははじかれたような眼で、ニコラ神父を視かえしながら、  「それじゃ、マリさんも鐘乳洞のなかの路をしっているのですか」  ニコラ神父は無言のままこっくりうなずくと、  「それ、マリ、いいませんでしたか」  「いや、いや、それは、ぼく、しりませんでした。しかし、マリさんはどうして鐘乳洞のなかの路をしっているのです」  「わたしが教えました。マリ、とても鐘乳洞をめずらしがりました。それで、わたしが二、三度、案内しました。マリはすっかりおぼえました。河野朝子先生もよくしっています」  「それでは、マリさんのお母さんは……?」  ニコラ神父はしばらくだまっていたのちに、  「それはしっているでしょう。マリがしっている以上は……?」  金田一耕助はふたたび怪しい疑いに、胸がざわめくのをおさえることが出来なかった。  あの晩……矢部杢衛が殺された晩、マリはそれをいわなかった。いや、いや、いわなかったのみではなく、かえって、ぜんぜん不案内のような態度をとっていたが、それはいったいなぜだろう。  しかし……と、金田一耕助にはまたべつの考えもうかんでくる。  マリの母の君江というのが、杢衛老人がうたがっていたように、かつての朋子であったとしたら、彼女は鐘乳洞の地理に通暁しているはずである。と、すればマリはなにもニコラ神父におそわらなくとも、母から直接聞くことができたはずである。  そのことについて金田一耕助は、それとなくニコラ神父にさぐりをいれてみたが、マリはまったく神父によって、鐘乳洞の地理をしったらしい。と、いうことはマリの母の君江という婦人は、やはり朋子ではないということになるのではないか。  金田一耕助はせわしく頭のなかを整理しながら、  「いや、失礼しました。それではあの晩の古林徹三のことをお話しください」  「ああ、そう、それでは……」  と、ニコラ神父はあらためて、またあの晩のことを語り出した。  「わたし、この裏山の入口から、鐘乳洞のなか、もぐりこみました。もちろん、わたし、懐中電灯もっていました。そして、まもなく、底なしの井戸の、少しこちらまで、やってきました。すると、あの男に出会いました」  「ちょっと待ってください」  と、金田一耕助がさえぎって、  「そのとき、あの男はかくれようとしましたか。かくれようとするまえに、あなたに見つかってしまったのですか」  ニコラ神父はびっくりしたような眼の色をして、金田一耕助の顔を視なおしたが、急に小首をかしげると、  「そういえば。……」  と、眉をひそめて、赤ん坊のような手でまるい顔をなでながら、  「少しへんですね。あのひと、かくれようと思えば、かくれることができました。わたし、懐中電灯もっていました。あのひと、わたしが気づくまえに、わたしに気づいたにちがいありません。そこ、まっすぐな一本道でしたから」  「なるほど、それで……」  「わたし、すぐそばへくるまで、あの男に気がつきませんでした。気がついたとたん、あの男わたしの手から、懐中電灯をたたきおとしました。懐中電灯消えて、あたり、まっくらになりました。暗がりのなかで、わたしあの男つかまえました。あの男、逃げようともがきました。わたしの腕に咬みつきました。わたし大声あげました。そしたらまもなく、署長さんきました。田代さんきました。それで、三人であの男、つかまえました」  「そうすると……?」  と、金田一耕助はなにか考えをまとめようとして、ゆっくりともじゃもじゃ頭をかきまわしながら、  「古林徹三というあの男は、あなたの眼をのがれて、つまり、どこかにかくれて、あなたをやりすごそうと思えばやりすごせないことはなかったわけですね」  「さあ。……」  と、ニコラ神父は顔をしかめて、  「しかし、あの道、一本道でした。どこにもかくれるようなわき道、ありませんでした」  「洞窟の広さはどうだったんです。つまり幅ですが、すれちがっていけないくらい狭かったのですか」  「いや、広さはかなりありました。五メートルくらいありました。だから……」  と、ニコラ神父はまた困ったように顔をしかめて、  「あのひと、洞窟の壁にへばりついていたら、あるいはわたしの眼、のがれられたかしれません。それだのに……」  「それだのに……?」  「気がついたとき、わたしの真正面に立っていました。そして、懐中電灯たたきおとしました。たしかに変です。どうしてでしょう」  ニコラ神父はいまになって、そのときの古林徹三の行動に疑惑をおぼえはじめたらしく、しきりに、どうしてでしょう、なぜでしょうをくりかえしていた。  そのあとで金田一耕助は鐘楼と、鐘乳洞の入口をしらべさせてもらったが、べつにこれという発見もなかった。ゆうべ現われた黒衣の婦人は、それがマリの母であったにしろ、なかったにしろ、これという遺留品はのこしていなかったのである。 昏迷の泥沼  金田一耕助はいまやすっかり、昏迷の泥沼のなかへおちこんでいる。  ゆうべ教会の鐘楼へ出現したのが、マリの母の君江であったかどうかはしばらく措《お》くとしても、いったいそこにはどういう意味があるのだろう。  こんどの事件はあきらかに、二十三年前の事件から尾をひいているようだが、二十三年前のその事件では、なにかあの教会が重要な役割を演じているのではないか。すなわち、杢衛老人がうたがっていたように、康雄や由紀子の叔母にあたる朋子という婦人は、底なし井戸へ投身したとみせかけて、当時まだだれにもしられていなかった秘密の通路をとおって、教会のほうへ抜けだし、パウル神父に救われたのではないか。  そして、それがこんどマリの母親と名のって、故郷へかえってきたのではないかと、金田一耕助もいちおう考えてみるのだが、しかし、それだからといって、ゆうべ鐘楼へ出現したというのはいささかとっぴである。これが食に飢えて台所へ現れたというのなら話もわかるのだが、そういう気配はさらになかったと、ニコラ神父もお作さんも強調している。  それにしても、ゆうべ鐘楼へ現れたのが、やっぱりほんとのマリの母親だとしたら、彼女はその後、どうして活きているのだろう。マリの周囲には厳重に警察の監視の網が張られているはずだから、マリにしろ、河野朝子にしろ、またカンポにしろ、その眼をくぐって、君江と連絡がとれようとは思えない。そういう気配があったとしたら、すぐ警察にしれるはずである。  それにしても、ニコラ神父にとってもぜんぜん未知の人であったゴンザレス氏が、遠いブラジルからこの異国の、名もしれぬ教会へ多額の寄付をしたというのも意味深長である。そういうところから考えあわせると、やっぱり君江という婦人が、昔日の朋子のようにもおもわれるが、しかし、それならなぜその婦人は、鐘乳洞のあの迷路を、みずからマリに教えようとしなかったのか。しっていて、昔の思出の恐ろしさに、そのことをマリにかくしていたのか。それとも、やっぱり、ぜんぜんなにもしらない別人なのか。  つまり、金田一耕助のいまおちいっている昏迷の泥沼というのは、君江という婦人が昔の朋子であるかどうかということにしぼられているのである。  事件があってから六日目の午後、金田一耕助が射水の町の警察をたずねていくと、神崎署長もすっかり弱りきっていた。  「どうも金田一先生、君江という婦人は、やっぱりまだあの鐘乳洞のなかにかくれているにちがいありませんぜ」  「ほかから消息はつかめませんか」  「ぜんぜん。駅のほうはあの晩からさっそく手配をしたんですが、汽車を利用してこの町を、立ち去った形跡はまったくありません。そうかといってあれ以来、君江という婦人のすがたを見たものはひとりもないんです」  いや、ないことはない、げんにニコラ神父とお作さんが、それらしいすがたを見ているのだが、それはここでいうべきことではなかった。秘密を厳守するということをニコラ神父にかたく誓ってきたのだから。  「それにしても、まだ鐘乳洞のなかにひそんでいるとしたら、食糧などはどうしてるのでしょう。玉造のほうから送りこまれているという形跡は……?」  「いや、それはぜんぜんありません。われわれは厳重に、あそこの入口を見張っているのですから」  「しかし、洞窟の入口はあそこばかりじゃありませんよ。矢部家のほうにもありますし、それに教会のうらがわにだって……」  「いや、矢部家のほうは大丈夫でしょう」  「どうしてですか。もし、君江というのが朋子だとしたら、慎一郎にとっては昔日の愛人ですから、大いに援助の手をさしのべそうじゃありませんか」  「いやあ、だからこそ、矢部家のほうは大丈夫だというんです。あそこには峯子という細君がいますからね。あの細君は警官以上に良人を監視しておりましょうよ」  「なるほど、そういえばそうですね。しかし、それじゃ、教会のほうの入口はどうです」  「いえね。金田一先生」  と、神崎署長は眼玉をくりくりさせて、  「食糧はあとから送りこむんじゃなくて、あらかじめ用意してあったんじゃないかと思うんです。あの鐘乳洞のなかに……」  「と、おっしゃるのは……?」  「いや、これは先生もあの晩、鮎川家のパーティに出席していられたのだからおわかりでしょうが、あのパーティのいきさつを、あとになってふりかえってみると、万事が矢部の老人を鐘乳洞のなかへ、おびきだすために演出されていたんじゃないかという気がするんです。先生はそうおかんがえになりませんか」  そういわれてみればそんな気もする。はじめからそれを企図していたかどうかは疑問としても、結果からいえばたしかに神崎署長が指摘するとおりである。  「しかし、それはなんのためです。昔じぶんをはずかしめた復讐をしようというわけですか」  「いや、まあ、動機はまだはっきりつかめませんが、あの母と娘がこの射水へやってきたのは、日本へきてから偶然こうなったのではなく、去年から計画していたんじゃないかとおもわれる節があるんです」  と、ゴンザレス氏の教会へたいする寄進の一件を語ってきかせたが、そのことは金田一耕助もニコラ神父からきいてすでにしっていた。  「しかし、署長さん、あの鮎川マリなる娘については、東京へ照会してごらんになったでしょうねえ。まあ、ぼくも新聞でよみましたから間違いはないと思いますが、ほんとうにコーヒー王の養女なんでしょうねえ」  「いや、それはもう間違いはないようです。こっちへやってきた船の船客名簿にも、ちゃんと母と娘の名がのっています。それだけに厄介なんですよ。この事件は。……悪くすると国際問題をひきおこしますし、そうなるとむこうにいる日本人にとって不利ですからね」  と、神崎署長はいまいましそうに眉をひそめた。  金田一耕助のみるところでは、マリの態度はたしかにそれを勘定にいれているようである。国籍が外国にあること、しかも、外国の大富豪の養女であるという身分。——マリはたくみにそれを利用して、警察がわの攻撃を防ぐ楯にしているのである。だから、見ようによってはひと筋縄でいかぬ娘ということもできるだろう。  「しかし、署長さん、マリの母が洞窟のなかにかくれているとして、それからまたそこに十分な食糧が貯蔵されているとして、あの母と娘はこれからさき、どういう手段をとるつもりでしょうねえ」  「それはもちろん、こちらの監視の眼が緩和されるのを待っているのでしょう。おそらく変装のための服装なども用意していたにちがいない。げんにあの晩きていたものは、井戸のなかから発見されたんですからね。だから、こちらの監視がゆるむのを待って、洞窟からぬけだし、町を逃げだすつもりにちがいない」  「しかし、署長さん、それだとしたら、すでにもう抜けだしているのではありませんか」  「それですよ、金田一先生、わたしが心配しているのは……しかし、いままでのところそういう情報は入っていない。さっきもいったとおり駅は厳重に見張っていますし、それに東京のような大都会とちがって、こういう田舎の小さな町では見しらぬ人間はすぐ眼につきますからね」  金田一耕助も一昨日の夜、お作さんやニコラ神父が目撃した鐘楼の影が、マリの母親だとしたら、そのひとはまだこの町のどこかにいるはずだと、神崎署長の説を肯定せずにはいられなかった。  「ときに、署長さん、鐘乳洞狩りはいつ決めなさるおつもりです」  「いや、それについては先生のほうへも、ご連絡するつもりでいたんですが、いよいよあす決行することになりました。県の警察本部からも応援の警官を大勢よこしてくれることになりましたし、町の青年団や消防団も手をかしてくれることに話がきまりました。金田一先生、そのときはぜひ先生にも……」  「はあ、承知しました。ぜひわたしもお仲間にいれてください」  金田一耕助はそれからまもなく警察を出ると、玉造の別館へマリをたずねてみた。  マリはカード・テーブルにむかって、ひとりしょざいなさそうにトランプのカードをならべて、ペーシェンスをやっていたが、金田一耕助の顔を見ると、屈託のなさそうな笑顔をむけた。  「金田一先生、その後、お母さまについてなにか情報が入りまして?」  と、その語気にはいささか挑戦するようなひびきがこもっている。  「いや、ところがそれがさっぱりで……」  と、金田一耕助はわざと投げだすように言い放つと、マリのすすめるアーム・チェヤーに、がっかりしたように腰をおとした。  「あら、あんなことおっしゃって……あたし田代さんからいろいろ先生のお話聞かせていただきました。先生にはもうこの事件の真相、ちゃんとわかっていらっしゃるんでしょう」  さぐるように金田一耕助の顔を視るマリの眼は、悪戯っぽくわらっているようにも見えるし、またその底には不敵な挑戦のようなものも感得される。  「なかなか、そうはいきませんよ。ことにあなたのような聡明なひとにかかってはね」  「あらまあ、先生、それ、どういう意味ですか」  「さあ、どういう意味ですか。あなたのいいように解釈してください」  「と、いうようなことをおっしゃって、あたしに気をもませようという作戦ですの」  「あなたは気をもむような女性ではない」  「あら、まあ、ひどい。あたしそれほど非情な女にみえまして?」  「非情かどうかしりませんが、……どうです、マリさん、その後、お母さんからなにかたよりがありましたか」  マリはまた、金田一耕助の表情をさぐろうとするかのように、瞳をすぼめてかれの顔を凝視していたが、やがて謎のような微笑をうかべて、  「玉造家のひとびとは、あたしがあまり母のことに冷淡だというので、気を悪くしていらっしゃるようですけれど、あたしほんとに母のことは心配しておりませんの。母はあたしよりよっぽど聡明ですから、きっとじぶんでじぶんをうまく処理するでしょう」  「しかし、そのお母さんには、夢遊病の発作がおありだというじゃありませんか」  金田一耕助が皮肉ると、マリはいっしゅん虚をつかれたようにはっとしたが、つぎのしゅんかん、はじけるような笑い声をあげた。  「それだからでございますのよ、金田一先生、あたしが母に安心しておりますのは……?」  「というのは……?」  「つまり、あたしの母というひとは、ときと場合によって、自由自在に夢遊病が起せるひとなんですの」  マリはそこでふたたびはじけるような笑い声をあげた。  金田一耕助は眩しそうな眼をして、わらいころげるマリのようすを視まもっていたが、やがて、ポツンとひとこといった。  「いよいよ、あしたから鐘乳洞の大捜索がおこなわれるそうですよ」  「先生、ごめんなさい」  と、マリはやっと笑いおさめて、  「しかし、いま先生のおっしゃったことなら存じております。河野先生がさっき町できいていらっしゃいましたの」  マリは心憎いまでおちついている。  「ああ、そうですか」  金田一耕助はいささか拍子ぬけの態で、  「ときに、マリさん、あなたはいつまでこちらにご滞在の予定ですか」  「さあ」  と、マリは小首をかしげて、  「この事件が解決するまで、いなければならないでしょうねえ」  「でも、事件が迷宮入りをしたら……?」  「あたし、そんなこと信じません」  「あなたはそんなにたかく、日本の警察官の能力を評価していらっしゃるんですか」  「いいえ、それはそうではございません」  「と、おっしゃると……?」  「金田一先生の才能をかたく信じておりますの」  金田一耕助はまたやられたかとマリの顔を視なおしたが、マリの顔はかたくひきしまって、じぶんを揶揄しているようでも、嘲弄しているようでもなかった。むしろ、ひたむきで真摯ないろをやどしたマリの瞳が、金田一耕助を凝視している。  金田一耕助はなにかふっと、うたれるようなものを胸にかんじながら、  「いや、どうもありがとう」  と、かるく一礼して椅子から立ちあがると、  「あら、もうおかえりですの。お茶もさしあげませんで……」  「いや、いいんです。ああ、そうそう、それよりマリさん」  と、金田一耕助はあたりを見まわし、  「あなた、きのうかきょう、神父さんかお作さんにあいましたか」  「いいえ、お作さんにはあの事件のあった日以来あいません。神父さんには一昨日お眼にかかりましたけれど……」  「ああ、それじゃね、これ、神父さんにはかたく口止めされてるんですけれど、あなただけにはそっと耳うちしておきましょう。一昨日の夜の九時ごろ」  と、金田一耕助はわざと思わせぶりにあたりを見まわし、  「あなたのお母さんらしき婦人のすがたが、教会の鐘楼にあらわれたそうですよ」  マリはいっしゅんぽかんとした表情で、金田一耕助の顔を見ていたが、急にさっと頬に血がのぼったかとおもうと、大きく眉がつりあがった。  「金田一先生!」  と、マリは咬みつきそうな顔色で、二、三歩そばへかけよると、  「それ、どういう意味ですの。いまおっしゃったお話は……?」  「いや、ぼくにもよくわからないんですが、とにかくお作さんと神父さんのふたりが、一昨夜の九時ごろ、教会の鐘楼にあなたのお母さんとそっくりおなじ服装をした人影が、立っているのを見たというんです。むろん、顔ははっきりしなかったそうですけれど……」  マリは穴のあくようなつよい凝視で金田一耕助を視つめていたが、  「それで、その人影、どうしたんですの? ふたりはそのまま見のがしたんですか」  と、マリのその声はしゃがれて、ふるえているようだった。  「いや、もちろん、ふたりは鐘楼へあがっていったそうです。ところがあそこには階段がふたつありますね。内側と外側と……ふたりは内側の階段をのぼっていったんですが、そのあいだにあなたのお母さんに似た人影は、外側をかけおりたとみえて、ニコラ神父とお作さんが、鐘楼のうえからみおろしたとき、鐘乳洞のなかへ駆けこむうしろすがたがみえたそうです」  マリは依然として、灼けつくようなつよい視線で、金田一耕助をみつめていたが、やがて、  「先生、ありがとうございました」  と、かるく一礼して顔をそむけると、その頬にはなにかしら、謎のような微笑がしだいにひろがっていくのが、金田一耕助にははっきりみてとれた。 洞窟狩り  県の警察本部からおおぜいの警官隊がかけつけてきて、町の青年団や消防隊とともに、大仕掛けな鐘乳洞内の捜索がおこなわれたのは、マリの母の君江が失踪してから七日目のことである。  捜索隊は三隊にわかれて、鐘乳洞の三つの入口からなかへ入っていくことになったが、なんといってもいちばん問題なのは、玉造家の背後にある入口である。だから、そこから入っていくのが本部隊格だが、そこでは神崎署長が陣頭指揮にあたっていた。玉造家でもすてておけないので、康雄と田代幸彦がその部隊に参加した。  捜索隊の一行はめいめい鐘乳洞の地図をわたされていた。但し、地図といっても完全なものではない。いままでに判明している部分だけの略図で、その地図からはみだしたところに、蜿《えん》蜒《えん》として地底の迷路がつづいているのだときかされて、ほかから応援にきた警官たちは少からず気味悪がった。  警官たちはみんなむろん武装しているが、青年団や消防隊の連中も、てんでに棍棒だの杖だのをたずさえている。武装していないのは康雄と田代幸彦だけだったが、ただし武装している連中も、けっして手荒なまねをしてはならぬといいふくめられていた。  午後一時、玉造家の裏庭へいさましく勢ぞろいした一行は、そこで改めて神崎署長から一場の訓示をきかされると、いきおいこんで洞窟のなかへ入っていった。その先頭にたったのは、いうまでもなく康雄と田代幸彦である。  たぶんに野次馬性をもっている由紀子は、お友達といっしょに、つぎからつぎへと洞窟のなかへもぐりこんでいく捜索隊の一行を、わざわざ洞窟の入口まで見送りにきたが、マリは出迎えも見送りもしなかった。  由紀子たちがつれだって、母屋のほうへひきかえしてくると、別館のほうからピアノの調べがきこえてきた。それをきくと由紀子はロイド眼鏡のおくの眼をひからせて、ちょっと下唇をつきだした。町中がこんな大騒ぎをしているさいに、のんきにピアノなどをひいているマリの気持ちがわからないと、幼い由紀子は憤慨するのである。  あの事件以来、由紀子はまたあまりうつくしすぎるこの間借人に警戒しはじめたようである。  「玉造、おまえこの洞窟狩りで、マリのお母さんが見つかると思うかい」  「さあね」  と、康雄は気のない返事である。  ふたりとも一応登山服に身をかためているが、手にもっているのは懐中電灯ばかり。このあいだの夜とちがって、きょうは相当の用意のもとに行われる洞窟狩りなので、懐中電灯もいきわたっている。  「田代、君はどう考えてるんだ」  「おれの考えじゃ、この捜索はむだ骨におわるぜ」  「どうして……?」  「だって、あれからもう七日、かよわい女の身で、そんなにながく洞窟のなかに、ひそんでいられるはずがないじゃないか」  「それじゃ、マリさんのお母さんはどうしたというんだ。やっぱり井戸のなかへ投身したというのか」  「まさか」  と、田代はせせらわらうように、  「そのことについちゃ矢部の奥さんというひとが、よいことをいったじゃないか」  「よいことって?」  「君はあのときいなかったかな。井戸のなかへ身を投げるのに、だれがきものをぬぐやつがあるかってね。あっはっは、まったくそのとおりだよ。だから、そのとき、変装用の洋服かなんか用意してあって、それに着かえてもうとっくにこの洞窟をぬけだして、いまごろは東京のホテルかなんかにかくれているさ」  「すると、君の考えでは、やっぱりマリさんのお母さんが犯人だというんだな」  「いや、それとこれとは話はべつだ。あのおばさんにあんな残酷なことできっこないからね」  「しかし、それじゃ、マリさんのお母さんはどうして変装までして逃げだしたんだい」  康雄はなにかにつっかかるような調子である。  「さあ、それがよくわからないんだが、なにかこの土地にいられないような事情があったんじゃないかな」  「そんな事情があるなら、はじめからここへこなきゃいいじゃないか」  康雄の調子はいよいよはげしく、けわしかった。田代はあきれたようにその顔をふりかえり、  「なんだ、君、憤ってるのかい」  「いや、べつに……」  と、康雄は急に鼻白んで、  「憤ってるわけじゃないがね」  と、やっとわれにかえったとき、背後から神崎署長が声をかけた。  「玉造さん、あなたのお考えはどうです。やっぱり田代さんとおんなじに、この大捜索もむだ骨におわるだろうとお考えですか」  「さあ」  と、言葉をにごしたものの、康雄はちょっとひやりとした顔色になった。  うしろから、警察官がくるとしって、はじめはひそひそ声で話をしていたのだが、つい昂奮のために声がたかくなったのである。康雄はいまあらためて、じぶんも一種の疑いの眼でみられていることを思い出している。  「玉造さん、いかがです。あなたのお考えは……?」  「さあ。……ぼくもだいたい田代とおんなじ考えですけれど……」  「田代さんとおんなじ考えとおっしゃると、やっぱり鮎川君江という婦人は、この洞窟のなかにはいないと……?」  「はあ。……」  「しかし、それはどういう根拠で?」  「いや、べつに根拠ってあるわけじゃないんですが、……やっぱり田代のいうように、女の身で七日間も、こんなところにいられるわけがないような気がするものですから……」  「ただ、それだけの理由ですか」  「はあ、それはもちろん」  と、康雄はわざと憤ったような声を立てたが、しかし、なんとなくその調子には力がなかった。  「このあいだのあなたのお話では、洞窟の途中までマリさんのお母さんを尾行していったが、その姿を見うしなったのでひきかえしてきたとおっしゃいましたね」  「はあ……」  と、康雄の返事にはあいかわらず力がなかった。  「それがわたしには解せないのだが、ゆくてには断崖あり、底なし井戸あり、さらにまた人跡未踏の魔の淵もある。そういうところへひとりの婦人が迷いこむのを、あなたはただ手を拱《こまね》いて傍観していたんですか」  「どうもすみません」  「すみませんじゃすまないと思うがな」  神崎署長の言葉はおだやかだが、しかし、その調子の底にひめられた、疑惑と非難は康雄の胸にしみとおった。  「マリさんの話によると、マリさんのお母さんはときどき夢遊病の発作を起すことがあるという。しかも、あんたの目撃したマリさんのお母さんも、雲を踏むような足どりだったということだが、そういう不安定な状態で、ひとりの婦人が洞窟のなかへ入っていくのをあんたはなぜ阻止しなかったか……いや、阻止するまえに、マリさんのお母さんの姿を見うしなったとしても、どうしてあんたはそれをただちにわれわれに報告しなかったか……」  こんどは康雄はあやまりもせず、ただ、無言のまま歩いていく。  田代はどんな顔色をしているかと、康雄のほうをふりかえったが、暗い洞窟のなかではよくわからない。まさかその顔へまともに懐中電灯をむけるわけにもいかなかった。  「玉造。そのとき、マリさんのお母さんは懐中電灯かなんか持ってたの」  「もちろん、そんなもん持っちゃいなかったよ。ただ、足音だけをたよりにつけていったんだ。その足音がばったりきこえなくなったもんだから……」  「それがこのむこうの、路がはじめてふたまたにわかれているところだね」  「さあ、どうだったか。なにしろ、真っ暗がりだったのでよくわからなかった」  「だけど、そこに、まあたらしいマッチの摺りかすがおちていたよ」  「じゃ、そこだろう」  康雄がつっぱなすようにつめたくいいはなったとき、  「ねえ、玉造さん」  と、神崎署長がふたたび質問をつづけようとしたが、そのときである。背後からがやがやわやわやさんざめきながらついてきた、青年団の団員や消防隊の連中のあいだから、とつぜんわっと喊《かん》声《せい》があがった。その声に三人も気がついたが、いつのまにやら一同はもう蝙蝠の窟まできているのである。  このおびただしい侵入者に、蝙蝠どもの大群は気がくるったように洞窟の天井を飛びこうている。なかには勇敢なのがいて、またこのあいだのように、灯を吹き消そうとまいおりてくるものもあったが、きょうは懐中電灯ばかりだから、かれらの羽搏きでは消えなかった。  捜索隊の一行がおもしろがっていっせいに、天井のほうへ懐中電灯をさしむけたので、その明るさが蝙蝠どもの神経を、いっそうかきたてたにちがいない。しばらくのあいだは胡麻をまいたように、洞窟の天井をまいくるっていた。  「おい、みんな、子供みたいなまねはよせ」  と、神崎署長は一同に一喝をくらわせると、  「さあ、前進だ! これからいよいよ迷路が複雑になってくるから、みんな気をつけろ」  ふたたび捜索隊の前進がつづけられる。  「ときに、ねえ、玉造さん」  と、神崎署長がふたたび質問をきりだした。  「われわれにはこの事件……すなわち矢部老人殺しに、あんたが関係のないことはわかっているんだ。われわれ……矢部老人をもふくめた一行が、あの晩、この洞窟へ入ってきたときには、あなたはすでに母屋のほうへかえっていたというしっかりとした証人もいるんです。だから、あの殺人事件に関するかぎり、われわれはごうもあんたを疑っちゃいない。しかし、あんた、なにかかくしてることがあるんじゃないかな。あんたみたいに、単身マリさんのお母さんのあとをつけて、洞窟へ入っていくほど勇気のあるひとが、なぜ、マリさんのお母さんをひきとめなかったか……夢遊病者みたいなあるきかただとすれば、それほどはやい歩調じゃなかったと思う。よしんばマリさんのお母さんが疾走していたとしても、男の足で追いつけないはずはないと思うが……」  神崎署長はそこで言葉をきって、康雄の返事を待っていたが、それにたいして康雄が報いたのは、ただ頑固な沈黙だけだった。  神崎署長はいまいましそうに舌打ちをすると、  「とにかく、あんたはなにかをしっている。あの殺人には直接関係ないにしても、マリさんのお母さんに関してなにかをしっている。それがなんであるかをわれわれはしりたいのだが……」  だが、そこで神崎署長は残念ながら、いちおう、この質問を打切らなければならなくなった。ちょうど路がはじめてふたまたにわかれているところへさしかかったばかりか、矢部家のほうから入りこんできた第二部隊に合流したからである。 洞窟の悲鳴  ここで時計の針をすこしもとへもどして、矢部家の背後にある入口から侵入してきた、第二部隊について話をすすめることにしよう。  いうまでもなく第二部隊も、応援にかけつけてきた警官たちや町の青年団、それから消防隊員などで構成されていて、指揮者は江藤という警部補であった。矢部家でもみてみぬふりはできないので、あるじの慎一郎に義兄の宮田文蔵、それから古林徹三も参加することになった。慎一郎も文蔵もあまり気がすすまないふうだったが、それでは町のひとたちに義理がすみますまいと、例によって例のごとく、峯子の切り口上にうながされて、しぶしぶこの第二捜索隊にくわわることになったのである。  金田一耕助がこの一行のなかにまじっていたことはいうまでもない。みんなそれぞれかいがいしいいでたちをしているなかで金田一耕助だけがよれよれの袴というのが眼をひいた。  可哀そうに都はあの事件のショックでねこんでしまったので、峯子だけが鐘乳洞の入口まで一同を送ってきた。  「みなさん。ご苦労さまでございます」  と、例によって例のごとく切り口上で挨拶をすると、  「あなたも気をつけてください」  と、あいかわらずおさえつけるような調子である。  しかし、慎一郎はつっぱねるようにつめたく、  「なに、大丈夫だ」  と、いいはなったきり、顔をそむけて一同のあとにつづいて、鐘乳洞のなかへはいっていく。そのあとから宮田文蔵と古林徹三、いちばんどんじりが金田一耕助だった。  金田一耕助もこっちの路から入っていくのははじめてだったので、なにかにつけてあたりの風物が珍しかった。  こちらのほうでもてんでに懐中電灯をかざしているので、このあいだとちがって大いに威勢はよかったが、それでも外にかがやいている七月の太陽とひきくらべて、陰森たる暗闇のなかにひろがっている鐘乳洞内の空気は、あの恐ろしい事件の連想もともなってつめたく肌にせまるのである。  「古林さん」  ひときわせまい、トンネルのような洞窟をくぐりぬけると、金田一耕助はほっと身を起して、あとからついてくる古林徹三に声をかけた。  「はあ」  「あなたは二十三年まえ、洞窟のなかで英二君の死体を発見なすったそうですが。……」  「はあ、わたしが発見しました」  と、汽車のなかで出会ったときとちがって、古林徹三も言葉に気をつけているが、それと同時にだいぶん警戒的にもなっている。  「どうです。そのじぶんからみると、鐘乳洞のなかはかわっていますか」  「そうですねえ」  と、古林徹三は懐中電灯の光であちこちと照らしてみながら、  「それほどの変化もないんじゃないですか。もっともわたしはそのじぶん、それほどよく鐘乳洞のなかをしってたわけじゃありませんが……」  「英二君がなくなられてから、入ってみたことがおありですか」  「いや、いちども」  と、古林徹三は力をこめて、  「英二君の葬式がすむと、ぼくはすぐ東京へかえり、それから一〓月ほどして満洲のほうへいっちまったものだから」  「満洲へいらしてからも、矢部さんのお宅とはご交際があったんでしょう」  「いや、それがね、すっかりごぶさたしてしまって……それというのがわたしとしても、気がとがめるところがあったもんですから」  「気がとがめるとおっしゃると……?」  「いや、べつに気がとがめる理由はないのですが、杢衛おじさんの歎きがあんまり大きかったもんですから……なんだか英二君のあの悲惨な最期も、わたしに責任があるような気がして……」  「あなたに責任があるとおっしゃると……?」  「いや、じつはそれはこうなんです。朋子……朋子さんの手紙がみつかって、慎一郎君と朋子さんの計画が暴露し、慎一郎君が奉公人たちの手でよってたかって、一室におしこめられるという騒動が起ったとき、わたしは家にいなかったんです。わたしが外からかえってきたのは、ちょうど英二君が血相かえて、鐘乳洞のなかへとびこもうとしていたところでした。わたしはなにごとが起ったのかと思って、英二君をひきとめてわけをたずねたんです。すると、これこれこういうわけだと、英二君がはやくちにわけを話して、それから鐘乳洞のなかへとびこんだんです。そのとき、なぜわたしもいっしょにいかなかったかと……つまり、それが気がとがめるもんですから……」  「しかし、そのときあなたは、まさかあのような惨劇がおこるだろうとはご存じなかった……」  「それはもちろんそうですが、わたしがいっしょについていたら、あんなことにはならなかったろうと……それだけにあの事件はわたしにとっても痛恨事なんです」  そこへひとあしおくれた慎一郎が、宮田文蔵といっしょに追いついてきたので、  「と、いうわけですから、こんどこうして頼ってくるというのも敷居がたかくて……慎一郎君にもはなはだ面目ないしだいなんです」  「どういうこと?」  じぶんの名前がでたので慎一郎がふたりの話に口をはさんだ。  「いやね、古林さんは渡満以来、すっかりごぶさたしていたということを苦にやんでいらっしゃるんですよ」  「そうねえ。古林君とはあれっきり音信不通になっていたね。このあいだ亡くなったおやじなども、徹三はどうしたのかと心配していたもんです」  「しかし、それにしても妙な因縁ですね。あなたがかえってこられると、とたんにまた、鐘乳洞のなかで事件が起るとは、……いや、これは失礼。もちろん偶然の暗合なんでしょうから、気にしないでくださいよ」  「いや、わたしじしんがふしぎな運命におどろいているくらいですから」  と、あっさり頭をさげたものの、そのときちらりと金田一耕助の横顔を視すえた古林徹三の眼差しには、おだやかならぬ光がほとばしっていたようだ。  金田一耕助はそれに気がついたのかつかなかったのか、なにくわぬ顔色で、  「それはそうと、古林さん」  「はあ」  「このあいだの晩、杢衛老人が殺された晩のことですけれど、あなた、われわれにぶつかって逃げだしましたね。あのとき、杢衛老人、とってもびっくりしていましたよ」  「はあ……」  と、古林徹三はあいての真意をはかりかねるように、金田一耕助の横顔をぬすみ視ながら、  「それは……そうでしょう」  「あなた、なぜ逃げだしたんですか」  「それはあの晩、神崎署長に申上げたとおりです。あんな時刻になんのために洞窟のなかをうろうろしてるんだろうなんて、怪しまれるのがいやだったからです」  「あの一行のなかに杢衛老人がいたことに、気がついていましたか」  「とんでもない。あんな薄暗がりのなかですもの……わたしとしては、相手がだれであろうとも、見つかりたくはなかったんです。しかし、おじさん、なにかいってましたか」  「いや、べつに……口をきくにはあまりにも驚きが大きいというようなお顔色でしたね」  「それはそうでしょう。あのひとにとってはとくに印象のふかいこの鐘乳洞のなかに、満洲からかえってきたばかりの男のすがたを発見したんですからね。あっはっは」  古林徹三はかわいたようなわらい声をあげた。  これで金田一耕助はひとつの事実をつきとめたのである。あの晩、洞窟の途中で出あった男が古林徹三であったことを。あのとき、金田一耕助は杢衛老人や由紀子にもいったとおり、神崎署長のかげにかくれて、あいてのすがたをみていなかったのだが、それがいまはっきりしたというわけである。  しかし、あのとき老人の表情にあらわれた、あの大きな驚きの色は、いま古林徹三がいった言葉で解釈できるだろうか。そこにはなにかしら、もっと深刻な意味があったのではないかと、金田一耕助には思えてならない。第一、古林徹三がああしてあわてて逃げだしたのにも、もっとべつの意味があるのではないか。しかし、あのときにはまだ殺人は起っていなかったのだが。……  金田一耕助の属する第二部隊が、神崎署長の指揮する本部隊と合流したのはそれからまもなくのことだった。  「やあ」  「やあ」  と、いさましい挨拶があったのち、  「どうだった? 江藤君そっちのほうは?」  「第二分隊、異状なしです」  「ああ、そう、それで、金田一先生はいらっしゃるかね」  「はあ、ぼく、ここにいます」  金田一耕助が第二分隊の連中をかきわけてまえへ出ると、  「どうでしょうねえ、金田一先生、問題はこれからさきの迷路にあるわけですが、このままがやがやわやわやと、押しかけていってもいいもんでしょうかねえ」  「そうですねえ」  と、金田一耕助が例によって、雀の巣のようなもじゃもじゃ頭をかきまわしながら、ちょっと返事をためらっていると、そばから田代が口をはさんだ。  「そんなこと意味ないですよ。これからさき、鐘乳洞は網の目のようになってるんだ。みんなぞろぞろ、金魚のうんちみたいにつながっていくなんて能のない話ですよ。ここはいちばん手わけして、探していこうじゃありませんか」  「そうですね。これは田代君がいうとおり、二、三人ずつ組になっていくほうがいいかもしれませんね。みんな地図をもってるのだから」  結局、それがいいということになり、そこで一同はてんでにあいてをきめて、鐘乳洞内の複雑な洞窟を、べつべつにさぐっていくことになった。  金田一耕助は慎一郎と組になることになり、まもなくふたりは一同とわかれて、受持たされた洞窟のなかへわけいっていった。  「まったく驚くべきものですねえ、この洞窟は。……ひとりだととても入ってみる勇気はありませんね」  「わたしなど、子供のころから馴れていますが、でも、ひとりだと心細いですね」  しばらくふたりは黙々として、せまい、しめっぽい洞窟をあるいていった。おりおり、天井にぶらさがっている蝙蝠が、灯の色におどろいて飛び立ったりして、金田一耕助の肝をひやさせた。  もうほかの連中の足音もきこえなければ、わめき声などもとどかない、まっくらな、骨をさすようなぶきみな静けさ。  「ときに、矢部さん」  しばらくして、思いだしたように金田一耕助が声をかけた。  「はあ」  「あなたは二十三年まえ、朋子さんが失踪されると、すぐに結婚されたんですか」  「ああ、いや」  と、慎一郎はちょっと黙っていたのちに、  「すぐというわけではありませんでしたが、結局、そうならざるをえなかったんです。これはこのあいだの晩、宮田のあにきが話していましたが、うちのおやじというのがわかいころ、宮田のおじにひとかたならぬ世話になったんですね。それで宮田のおじおばが亡くなり、家が没落すると、峯子をひきとってうちから女学校へ通わせたのです。父は古風で義理がたい人間でしたから、峯子とわたしを夫婦にするのが、宮田のおじおばの恩義にむくいるに、いちばんいい方法だと思ったんですね。しかし、これはあきらかに父の失敗でしたね」  「失敗とおっしゃるのは?」  「いえね、金田一先生」  「はあ」  「わかい男とわかい娘を、すえは夫婦にしようと思えば、いっしょに住まわせるものじゃありませんね。それじゃ、おたがいに欠点がわかってしまうし、たとえ愛情らしいものが交流したとしても、それは兄と妹の愛情でしょう。だいいち、あまりなれなれしすぎて、異性としての新鮮味にかけてしまう。いまさら夫婦だなんておかしいような気もちになってしまうんです」  それで、玉造家の娘の朋子に接近していったんだと、慎一郎としてはいいたかったのであろう。  「なるほど、そういうこともありましょうね」  金田一耕助はただそう合槌をうっただけで、それ以上は追及せずに、またふたりは暗い洞窟のなかを黙々として歩いていった。  むろん、ふたりともただ歩いているだけではない。地図と照らしあわせて袋小路のような洞窟にいきあたると、いちいち奥をさぐってみるのである。この鐘乳洞のなかには迷路のように錯綜した路のほかに、いたるところに袋のようにいきづまりになった洞窟が散在している。  そういう洞窟のおくをさぐるとき、いつもひとりがなかへ入りこむと、ひとりが外で見張りをしているのである。  「金田一先生」  しばらくすると、こんどは慎一郎のほうから声をかけた。  「はあ」  「古林君はさっきなぜあんな嘘をついたんでしょう」  「嘘……?」  慎一郎の声になにかしら憤りのあるようなひびきをかんじたので、金田一耕助はおもわずその顔をふりかえった。慎一郎の瞳にはふかい疑惑のいろがかげろうのようにもえている。  「矢部さん、古林さんはいったいどういう嘘をついたんですか」  「それはこうです。わたし、すぐあなたがたの背後を歩いていたものですから、聞くともなしに古林君の問わず語りを聞いてしまったんです。古林君はひさしくうちへごぶさたしていた理由として、気がとがめたというようなことをいってましたね。そして、気がとがめたという事情をこう説明したでしょう。つまり、英二が鐘乳洞へとびこむ直前に出会って話を聞いた。なぜあのとき、英二といっしょに鐘乳洞へ入っていかなかったかというようなことを……そうじゃなかったですか」  「ええ、そんなお話でしたけれど……」  「そんなこと嘘です!」  吐きだすようにいいはなつ慎一郎の語気は鋭かった。  「嘘とおっしゃるのはどの点が……?」  「それはこうです。朋子さんとわたしの計画が露見すると、おやじはかんかんにおこって、わたしを洋館の二階へとじこめたんです。その部屋は崖のほうをむいているので、窓からのぞくと鐘乳洞の入口がむこうにみえるんです。わたしは断腸のおもいでその入口をみつめていました。よっぽど窓からとびおりて……とも思いましたが、窓の下には屈強の男が眼を光らせているんですから、そういうわけにもいかなかったんです。そのうちに英二のやつがうちのなかからとびだして、鐘乳洞のほうへ走っていくのがみえました。そのときばかりは、わが弟ながら英二のやつを、八つ裂きにしてやりたいくらい憎らしかったんです。ですから、英二のうしろすがたをわきめもふらずに睨んでいたんですが、英二はだれにもひきとめられずに……いや、その洋館から鐘乳洞の入口までのあいだには、ちょっとした繁みがありましたから、いっしゅん英二のすがたはみえなくなりましたけれど、すぐまた繁みのなかから出てきましたから、そのあいだにひとにあって、事情を説明してたなんて思えません。英二はうちをとびだすと、だれにも逢わずにまっすぐに、鐘乳洞のなかへとびこんでいったんです。いや、そればかりではなく……」  話しているうちにしだいに昂奮してきたのか、慎一郎の語気は熱をおびたように激していたが、そこでちょっとひといきいれると、  「そればかりではなく、英二が鐘乳洞のなかへとびこんでから、わたしはかたときもそこから眼をはなしませんでした。英二につかまった朋子さんのみじめさをおもうと、わたしは胸が張りさけそうでした。ところが、三十分ほどたっても英二がかえってまいりません。そこでおやじが心配したんでしょう。裏庭へ奉公人を集めてなにやら評議をはじめましたが、そこへひょっこり古林君がかえってきたんです」  「どこからかえってきたんですか」  「たぶん裏門からでしょう。裏門はその窓からみえないんですけれど、そっちの方角からちかづいてきたのをおぼえています」  しばらくふたりは黙々として歩いていたが、やがてまた慎一郎が言葉をついで、  「古林君はもう二十三年も昔の話だし、それにわたしが窓からのぞいていたとはしらないものだから、ああいう嘘をついてもとおると思っているらしいが、わたしにとってはあの日のできごとは、きのうのこと、いや、たったいまのできごとのように、新鮮な、いたましい記憶としてのこっているのです」  慎一郎の言葉の調子は、もうさっきみたいに激してはいなかった。いくらか涙をおびた声音で悵《ちよう》然《ぜん》としてそういうと、ふかくふかく頭をたれた。  慎一郎の言葉がじじつだとすると、古林徹三はあきらかに嘘をついたのだ。しかし、古林はなぜそんな嘘をつかねばならなかったのか。  金田一耕助はあたまのなかで、話題がその問題にふれていったいきさつを思いだしてみる。古林徹三はあの事件以来、矢部の家と音信不通になっていた弁解として、ああいう嘘をつきはじめたのであった。と、いうことは久しく音信不通になっていたには、なにかべつの、しかも重大な理由があるのではないか。たんなるズボラで通信をおこたっていたのなら、ごていねいにそういう嘘をならべたてる必要はないわけである。  「古林さんはまさか、鐘乳洞のなかから出てきたんじゃないでしょうねえ」  「いや、それは絶対に。さっきもいったとおり、わたしはかたときも鐘乳洞の入口から、眼をはなすようなことはなかったのですから」  「いったい、それは何時ごろのことでした?」  「夕方の七時ごろ……したがって、そろそろあたりは小暗くなっておりましたけれど、古林君が鐘乳洞のなかから出てきたのでないことだけは断言できます」  「しかし……」  と、金田一耕助がなにかいいかけたときである。  とつじょ奥のほうからきこえてきたのは、けたたましい怒号と悲鳴……ふた声三声、たかく、ながく尾をひいて、あたりの空気をふるわせたかと思うと、やがて洞窟の闇のなかに消えていった。 第二の殺人  「あっ、あの声はなんだ!」  金田一耕助は弾かれたように、声のしたほうへふりかえる。  「なんだかいやな声でしたね。まるで断末魔のような……」  と、いってから慎一郎ははっとしたように、首をつよく左右にふった。じぶんの言葉の不吉さに気がついて、そのまがまがしい印象をふるいおとそうとでもするかのように。  ふたりはそのままの姿勢で、しばらく洞窟の闇のなかで耳をすましていたが、怒号も悲鳴もそのままとだえて、あとは凍りつくような地底の静寂である。その瞬間、全洞窟内は呼吸をとめて、つぎにおこる反応を待ちかまえていたのであろう。そして、その反応がいつまでたってもおこらぬことに気がつくと、俄然、鐘乳洞内の空気は活〓にうごきだした。  あちこちで呼びかう声、あわただしく走りまわる足音。——その騒音がひとつになって、洞窟から洞窟へと反応をつたえてくる。  「いって、みましょう!」  金田一耕助はみじかく、きれぎれにそういうと、はや袴の裾をさばいて走っている。慎一郎もそれにつづいて走りだした。  「金田一先生、いったい、なにが……?」  「さあ、ぼくにもわかりません」  と、金田一耕助も呼吸をきらせながら、  「なんでもないことかもしれない。だれかが鐘乳筍に足をすべらせ、滑ってころんだというような……」  「それだといいんですが……」  しかし、ふたりともそれがそんな単純な悲鳴でなかったことを、全身の感覚をもってしっている。ことに金田一耕助はいまの怒号と悲鳴のなかに、杢衛老人が殺害されたときに耳にした、あの怒号と悲鳴に共通したものを感じるのだ。いきおい不吉なおもいが走馬燈のようにあたまのなかを駆けめぐる。  やがて、路が三つ股にわかれているところで、金田一耕助と慎一郎は数名の捜索隊員にぶつかった。  「あっ、金田一先生! いまの叫びはなんです」  その捜索隊員のなかには康雄と田代もまじっていた。声をかけたのは田代だった。  「君たち、どっちの路からやってきたの?」  「ぼくたち、こっちのほうからです」  と、田代は左側にひろがる洞窟を指さした。  みんなそっちのほうから駆けあつまってきて、いま金田一耕助の出てきた路と、もうひとつの路と、どちらのほうへいこうかと相談していたところだったと、顎紐いかめしい警官がいくらか昂奮ぎみに話しかけてきた。  「よし、じゃ残るひとつはこっちの洞窟だ。たしかにさっきの声は、この方角からきこえてきましたね」  「そうです、そうです。まるで断末魔のような声でしたぜ」  と、田代も慎一郎とおなじようなことをいう。  「田代、つまらないことを……」  康雄はあいかわらずむつかしい顔色である。  「ああ、ごめん、ごめん。まあ、そういったような声だったということさ」  田代が頭をかいているところへ、江藤警部補とほか二、三人、またばらばらと、駆けつけてきたが、いずれも田代たちがやってきた路を追ってきたものばかりで、第三の洞窟からはひとりも出てこない。  地図でみるとその洞窟は、いつか由紀子がいっていた地底の河、すなわち逃げ水の淵へつづいているらしく、いままで一同がさぐってきた部分ほど、地理がはっきりしていないらしい。ところどころに曖昧な点線の部分がある。しばらくは一同評議まちまちだったが、  「金田一先生、とにかく入ってみようじゃありませんか」  江藤警部補の提案に、  「ええ、そうするほかありませんな」  金田一耕助は決然として、袴の股をたくしあげて、まずいちばんに洞窟のなかへもぐりこんだ。その洞窟はからだをかがめて、やっとひとひとり歩けるほどの広さしかなく、したがって捜索隊員も一列縦隊にならぶよりしかたがなかった。  田代と康雄が金田一耕助のすぐうしろにつづき、江藤警部補がそのあとを追うことになった。  「先生、なにか足跡のようなものはありませんか」  「だめだよ、田代君、この水溜りじゃ……」  じじつその洞窟の内部では、天井や岩の裂目から、ひっきりなしに水が滴りおちていて、かたい岩床のうえに浅い流れをつくっている。それでいてその水が、いままで一同のさぐってきた洞窟のほうへ流れてこなかったのは、むこうへ傾斜しているからだということが、進むにしたがってはっきりしてきた。路はしだいに下り坂になってきたが、そのかわり幅員もひろくなって、かたい岩床をえぐって路のほとりにひとつの溝ができている。  金田一耕助はじめ一同は、はじめて冷めたい水のなかからはいあがった。  「金田一先生、足跡は……?」  俄か探偵の田代幸彦はあくまで足跡にこだわっている。  「田代、先生ばかりをたよりにしてないで、おまえ、ひとつさがしてみたらどうだ」  「よし、玉造、おまえも手つだえ」  岩床はかたかったけれど、それでもふたつの靴跡がどうやら発見された。捜索隊はだいたいふたりひと組に編成されたのだから、ここをとおっていったものも、捜索隊のひと組ではないかとおもわれる。岩床のうえは濡れているところもあるが、乾いているところもあり、その乾いた部分のうえにくっきりと、ふたりならんで歩いていった靴跡が、まだ濡れたままのこっている。  「よし、じゃ、この靴の跡をつけていこう」  こんどは田代と康雄がせんとうに立った。  いくにしたがって洞窟のなかはしだいにひろくなり、また、あちこちにわき路がついている。それらのわき路のなかにはすぐいきどまりになるような、浅い袋小路もあったけれど、なかには相当ふかいのもあり、また、なかにはどこかの洞窟へぬけているのではないかと思われるような、底のしれぬ洞窟もあるらしかった。しかも、それらはいずれも地図にのっていないのである。  「おや、おや、こりゃあ、ま、たいへんだな」  と、田代がおどけた調子で感嘆の声を放つのもむりはない。神の摂理の偉大さはいままでにしられている部分より、こっちのほうがはるかにひろいのではないかと思われるほどだった。  しかし、さいわい岩床にはところどころ水溜りがあり、ふたりの先導者もその水溜りを踏まずには進めなかったので、乾いた部分にはいつも足跡がのこっており、それがよいみちしるべになっているのである。  「田代君、もうそろそろなにかないかね。さっきの叫び声がこの洞窟からきこえてきたとすると、そう奥ふかくはないはずだが……」  「しかし、金田一先生、洞窟の反響というのも考慮にいれなければね。ほかへ逃げていきようのない音波は、われわれが考えているよりはるかに遠方までとどくんじゃないですか。しかるによって……」  田代がもっともな理屈をこねているとき、とつぜん、康雄がしっとかれの多弁を制した。  「ああ、ちょっと、あれ、水の流れる音じゃない……?」  康雄の声に一同はぎょっとしたように呼吸をのんだが、なるほどしんと耳をすましていると、暗闇のなかからさらさらと、せせらぎのような音がきこえてくる。それはたしかに悠々と流れる水の音のようだ。  「ああ、いつか由紀子ちゃんがいってた逃げ水の淵というのはここだな。とにかくもう少しいってみよう、足跡は、ほら、まだ、つづいている……」  路はゆうにふたりならんで歩けるくらいの幅員をもっているので、康雄と田代は肩をならべて、懐中電灯の光を前方になげかけながら、せんとうに立って歩いていたが、とつぜん、ぎょっとしたように立ちどまると、  「あ、あそこにだれか倒れている!」  と、異口同音のさけび声が、期せずしてふたりの口からほとばしった。  「な、なに!」  その声にうしろからきた連中もいっせいにかけよってそのほうへ懐中電灯の光芒をむけた。  そして、一同ははじめて気がついたのである。じぶんたちが、すでに地底の河のほとりまできていることを。  幅三メートルくらいの地底の河は、かなり豊富な水をたたえて、ゆっくりと、ほとんど音もたてずに数メートルかなたを流れている。十数本の懐中電灯の光芒のなかに浮きあがった、くろぐろとした地底の河の音もない流れは、ただ、それだけでも一種異様な戦慄をひとびとにあたえずにはおかないのに、なおその河のほとりには男がひとり倒れているのだ。がっくりと頭を河のなかへつけるようにして、背中だけしかみえないので、まだだれともわからなかったけれど。  いっしゅん、そこに立ちすくんだ恐怖の群像のなかから、とつぜん、ふかいすすり泣きのような溜息がもれた。  「き、金田一先生」  と、それは慎一郎だった。慎一郎は恐怖と緊張に声をうわずらせながら、  「あ、あれ、ふ、古林君じゃ……」  慎一郎の声に金田一耕助もやっと呪縛から解けたようだ。やにわに駈けだそうとする田代の腕をとってひきもどすと、  「君はここに待っていたまえ。江藤さん、わたしといっしょにきてください。矢部さん、あなたもどうぞ」  そのへんから地底の河へかけて、岩床がいくらか柔かくなっているので、二種類の靴跡がはっきりのこっている。それを消さないように注意しながら、三人が倒れている男のそばへちかよっていくと、江藤警部補の爪先がからりとなにやらを蹴とばした。拾いあげてみると、きっさきの鋭くとがった、手頃の大きさの鐘乳石だが、鋭くとがったきっさきが、ぐっしょりと血に染まっている。  「畜生! 金田一先生……」  江藤警部補は指でちょっとその血にさわってみて、歯ぎしりをするように金田一耕助をふりかえった。  金田一耕助はその鐘乳石から眼をそらすと、懐中電灯の光芒を倒れている男の背中に浴せたが、顔を見るまでもなくそれがだれであるかわかった。見おぼえのある古ぼけた洋服。——それはさっき慎一郎がつぶやいたとおり、古林徹三にちがいなかった。  それでも、念のために河にむかって垂れている男の顔を、のぞきこもうとして身をかがめた金田一耕助は、そのときはじめて死体の下から流れだした血が、岩床のうえに大きな血だまりをつくっているのに気がついた。  男はたしかに古林徹三だった。金田一耕助はそっと手頸をにぎってみたが、もとより脈搏はとまっていて、そろそろ体もひえかかっている。おそらく杢衛老人とおんなじに、心臓をひとえぐりにえぐられているのだろう。  金田一耕助はゾクリと大きく体をふるわせると、袴の裾をはらって立ちあがった。  「江藤さん、医者をさっそく。……それから神崎さんを探させてください」  江藤警部補がむこうにむらがっている連中に、金田一耕助の意向をつたえると、言下に二、三人、もときた路へととってかえした。  「金田一先生、古林君は……?」  「いけないようです。おたくのお父さんとおんなじですね」  と、金田一耕助が江藤警部補の手にしている鐘乳石に顎をしゃくると、慎一郎はだいたい想像はしていたものの、やっぱり顔色をかえてたじろいだ。  金田一耕助はきょろきょろあたりを見まわしながら、  「ときに、矢部さん、古林さんはだれとコンビになっていましたっけ」  「宮田の兄といっしょでしたが……」  と、慎一郎もはっと思いだしたように、  「それにしても、兄貴はいったいどうしたのか……」  と、あたりを見まわしているうちに、ふと眼のまえを流れている、地底のくらい流れに眼をおとすと、おもわず怯えの色をふかくした。  「金田一先生、兄貴はひょっとするとこの河のなかへ……?」  「まさか」  と、金田一耕助は横に首をふりながら、  「ほら、ここをごらんなさい。さきのとがった女の靴跡と、男の靴跡がこの河の流れにそって下流のほうへつづいていますよ。文蔵さんはおそらく洞窟の魔女のあとを追っかけていったにちがいありません」  「あっ、ほんとだ!」  と、叫んで江藤警部補もあらためて岩床のうえを調べはじめたが、そのときである。  下流のほうからポッカリと懐中電灯の光がみえてきたかと思うと、やがて急ぎあしにこちらへちかづいてくる足音がきこえてきた。  「だれ? そこへくるのは?……」  金田一耕助が声をかけると、  「宮田文蔵。……そちらは……?」  「あっ、そう、こちらは金田一耕助、それから矢部慎一郎さんもごいっしょです」  暗闇のなかをちかづいてきた宮田文蔵は、ぐっしょりと汗をかき、瞳の色もうわずっている。  「宮田さん、あなた、犯人を追っかけていったんですか」  「ええ、それが……もう少しでつかまえるところでしたが、岩につまずいてころんだものですから……」  と、文蔵は額から流れおちる汗をぬぐっている。  みればなるほど洋服のところどころに泥がついていて、右脚を少しひきずっている。その右膝のズボンが大きく裂けていた。  「犯人はどんなやつでした」  と、これは江藤警部補である。  「真黒なスカーフというのか、ベールというのか、そいつをすっぽり頭からかぶったやつで、顔はもちろん見えませんでしたが、たしかに女だったようです」  と、宮田文蔵はつかれたように、かたわらの岩に腰をおとすと、右の膝をなでながら、  「それにしても、この鐘乳洞、おどろくべきもんですな。この河を二十メートルほどくだったところから、また迷路がはじまって、それこそ八幡の藪しらずみたいになっています。おかげですっかり路に迷ってしまって……」  「すると、女はその迷路の地理に通暁してるんですね」  「どうもそうのようでした」  と、文蔵は流れる汗をふきながら、急に思い出したように、古林徹三の死体のほうへ眼を走らせると、  「古林君、いけないんでしょうねえ」  「ええ、そう、そのことについてご説明ねがいたいんですが……」  「承知しました」  と、文蔵がこたえたところをかいつまんで話すと、かれらも金田一耕助や慎一郎がやったとおなじ方法で洞窟のなかをさぐっていたのだ。つまり、ひとりが袋小路のなかへ入ると、ひとりが表で見張りをしているというやりかたを、交互にくりかえしながら、この河のほとりまでたどりついたのである。  「ところが、そこにある……」  と、文蔵はちょっとあたりを見まわしたのち、すぐ河っぷちにある洞窟の入口を、懐中電灯の光でしめすと、  「その洞窟はわたしがなかへ入る番でした。そこで古林君をここに待たせて、わたしがなかへ入っていったんですが、その洞窟案外おくがふかくて、約二十メートルもありましたろうか。わたしがやっとその奥底をたしかめて、こちらへひきかえそうとしたときに洞窟の外で悲鳴がきこえたんです。そこで急いで洞窟からとびだしてくると、ここに古林君が倒れています。しかも、河にそって下流のほうへ、懐中電灯の光が逃げていくのが見えました。そこでわたしが、あとを追っかけ迷路のなかへ踏みこんだんですが、もう四、五メートルというところで岩につまずいて……」  と、文蔵はいまいましげに顔をしかめる。  「それはどのへんでしたか」  と江藤警部補の質問にたいして、  「さあ、どのへんといっても、なにしろ八幡の藪しらずみたいな迷路のなかですから、……もういちどそこへつれてけっとおっしゃっても、まっすぐにはご案内できかねるでしょうねえ」  「それで、つまずいてころんでいるあいだに女は逃げてしまったんですね」  と、これは金田一耕助の質問である。  「はあ、なにしろ向う脛をしたたか打ったもんですから、しばらくはいたくて起きあがれなかったので……」  文蔵はいかにもすまなそうに悄然としてこたえたが、そこへ神崎署長をはじめとして、大勢の警官たちがかけつけてきた。  しかし、万事はもうあとの祭だったのである。  神崎署長の命令で、またあらためて地底の河の下流にひろがる洞窟のなかが、しらみつぶしに捜索されたが、それはただいたずらにこの鐘乳洞の奥底しれぬひろさと、その複雑怪奇な迷路ぶりに、ひとびとを驚嘆させるにとどまって、洞窟の魔女のゆくえはついにたしかめることができなかった。  (それにしても……)  と、金田一耕助は心中ひそかに考えるのである。  犯人はなんといううまいタイミングで、古林徹三を屠ったことであろう。かれが生きていたら二十三年まえの事件に、新しい角度から照明があてられたことであろうに。……  それを考えあわせると、このたびの一連の殺人事件は、やはり二十三年まえの事件に、つながっているとしか思えなくなってくる。…… コムパクトと白紙  射水の町はいまやかなえが沸くような大騒動である。洞窟のなかには魔女が棲んでいる。そして、その魔女はたれかれの見境なしに、ちかづくものを殺すのだ……と。  いやいや、騒ぎは射水の町ばかりではない。鮎川マリというのが国際的な女性だけに、この事件は全国の新聞にとりあげられて、いろいろと揣《し》摩《ま》臆《おく》測《そく》がくだされて、ひとびとの好奇心をあおりたてた。それだけに射水の町の警察署長神崎氏は、国際的な脚光のもとに立たされたかんじで、すっかり当惑しきっている。  そういう騒然たる空気のなかにあって、マリはあいかわらず謎のような沈黙を守っていたが、ただ、じぶんの素性についてはつぎのごとく語ったという。  「あたしはじぶんがどこでうまれたかは存じません。でも、物心ついたころにはもうゴンザレスの家にいました。母はその当時からゴンザレス家の家事取締りをしていたのです。わたしの父が日本人であることだけはたしかですが、どういうひとだったか詳しくは存じません。なんでも母があたしをみごもっているうちに、不慮の事故で亡くなったのだと聞いております。父と母がどういういきさつで、どこで結婚したのか、それも詳しいことはきいておりません。父の名は鮎川太郎というのですが、生国は日本のどこなのかそれも存じません。母についてもおなじことでございますの」  これではまるで雲をつかむような話で、警察がいかにやっきとなっても、調査のしようがないではないか。しかもマリはそれ以上のことについては、なにひとつ語ろうとはしなかった。この謎の女は神秘な謎をうちに秘めて、貝のごとく口を喊して語らないのだ。  第二の事件の場合、警察が手に入れたと思われる唯一の証拠は、岩床のうえに印せられた女の靴跡である。  しかし、それもさきのとがった女の靴というだけで、はっきりとした形状をつかむことはむつかしかった。それというのが、死体のまわりにのこっている靴跡は、爪先だけで歩いていたとみえて、踵のほうはほとんど跡がのこっていない。しかも、地底の黒い河に沿って走っている靴跡は、故意にか偶然にか、女のあとを追っかけていった文蔵の靴のために、ほとんど踏みあらされているのである。これはちょっと興味のあるところで、おなじ方向にむかって走っている文蔵の靴が踏んでいない女の靴跡は、かれがひきかえしてくるときに、ひとつひとつ、ごていねいに踏み消している。  金田一耕助がひそかにそれを指摘したとき、神崎署長の顔色はかわった。  「すると、金田一先生は、宮田文蔵という男に共犯の疑いがあるとおっしゃるんですか」  「いや、まだ、そうはっきりとは断言できませんが、いちおう杢衛老人の殺された晩の、あのひとの行動を調査しておかれたらいかがですか。アリバイやなんか……」  「いや、承知しました」  と、神崎署長は胸騒ぎがおさまらぬ顔色で、  「そういえば、あの男には杢衛老人を殺害する動機が充分考えられますな。宮田文蔵という男は矢部家乗っ取りをたくらんでるんだという噂が、一部にながれているくらいですからね。いや、それではさっそく調査してみますが、そうすると、先生、古林徹三が殺されたのは、杢衛殺しの真相をしっていたからだということになるんでしょうかね」  金田一耕助はしばらく考えこんでいたのち、  「署長さん、それはもちろん、そういうことになりましょうねえ」  と、答えると、  「畜生!」  と、神崎署長ははげしく拳固でデスクをたたいて、  「そういうことなら、あのとき、もう少しあいつをしぼってみるんだった!」  と、口惜しがった。  金田一耕助は金田一耕助で、べつの意味で神崎署長とおなじ思いであった。  その翌日、金田一耕助は思いだしたようにニコラ神父をたずねてみた。  「どうです、神父さん、その後、鐘楼の幽霊は現われませんか」  「鐘楼の幽霊……?」  と、ニコラ神父はさぐるように金田一耕助の顔を見ていたが、すぐ童顔をほころばせて、  「おお、金田一先生、幽霊、あれきり現われません。わたし、安心しました。しかし……」  と、いったんほころばせた童顔を、ニコラ神父はまたひきしめると、  「幽霊、また、ひとり殺しました。金田一先生、それについて先生にお訊ねしたいことがあります」  「はあ、どういうことでしょうか」  「古林徹三、殺されましたね。あの日、マリはどうしておりました。マリもいっしょに洞窟いきましたか」  「いいえ、マリさんは捜索隊の仲間にはくわわりませんでした。マリさんはあの別館で終始一貫ピアノをひいていたそうです。これは由紀子さんというりっぱな証人があります」  「由紀子さん、マリがピアノひくところ、見ていたのですか」  「いいえ、由紀子さんは母屋にいたのですから、直接マリさんの姿をみたわけではありませんが、ピアノの音は小止みなくきこえていたそうです」  金田一耕助はそういいながら、探るようにニコラ神父の顔をみている。ニコラ神父はまぶしそうに顔をそむけながら、  「ピアノは河野先生もおじょうずです」  と、つぶやくようにいってから、はっとしたように金田一耕助と顔見合せると、またいつかのように鳶色の眼で、まじまじと耕助の瞳を視つめている。まるで、なにかの暗示でもあたえようとするかのように。  ニコラ神父はやっぱりマリにたいして、疑惑をもっているらしい。それについて金田一耕助が、なにかいおうとしたときである。ニコラ神父が急に思い出したように、  「おお、そうそう、金田一先生、あなたにひとつ、たのみあります」  「はあ、どういうことですか」  ニコラ神父は机のひきだしをあけると、  「マリのママさん、いちばんおしまいにきたとき、これ忘れていきました」  と、取りだしたのは一個のコムパクトだった。みるとデリケートな唐草模様を彫った黄金の地に、ダイヤをあしらったぜいたくな品だったが、相当使いふるしたものらしく、唐草模様もしっとりと落ちついている。いかにも中年婦人の持物らしく、趣味のよい高雅な品だった。  「金田一先生」  「はあ」  「あなた、もし玉造のほうへおいででしたら、これマリにとどけてくれませんか。たのみます」  「ああ、そう、承知しました」  と、なに思ったのか金田一耕助は、ハンケチを出してていねいにコムパクトをくるむと、  「それじゃ、たしかにマリさんにおとどけしましょう」  と、だいじそうにふところへしまいこんだ。  それから二十分ののち、金田一耕助は玉造家の別館で、マリとむかいあって坐っていた。  マリはあいかわらずつめたく取りすましているけれど、どこかやつれの色がみえていたいたしい。金田一耕助がそれを指摘すると、マリはさびしげなかたえくぼを頬にきざんで、  「それは、先生のおっしゃるとおりでございましょう。こう警察のかたがたや、新聞記者におしかけられちゃあねえ」  「それというのもマリさんが、ほんとのことをいわないからですよ」  「ほんとのこととおっしゃいますと……?」  「お母さんがどこにいらっしゃるかということを……」  マリは瞳をすぼめてまじまじと、金田一耕助の顔をながめていたが、やがてまた謎のような微笑をうかべると、  「ひょっとすると、先生はそれをご存じなんじゃありませんか」  「はあ、だいたい想像がつくような気がするんですけれど……」  「それじゃ、先生から警察のひとたちへ、いっておあげになったらいかがですの。そうすればよけいな手数がはぶけるというものじゃございません?」  「ところが、あいにくなことには、わたしのは想像だけで、これという根拠がないものですからね。それで弱ってるんですよ」  「証拠がほしいとおっしゃる?」  「ええ、そう」  マリは椅子から立ちあがると、なにか考えこみながら、二、三度ゆっくりと部屋のなかをいきつもどりつしていたが、  「先生、それはやっぱり先生の手でさがしていただきますわ、その証拠というのを……」  「あなたから提供していただくわけにはいきませんか」  「ええ、もうしばらく」  「どうしてですか」  マリは立ちどまって、金田一耕助の顔をうえからまじまじと眺めていたが、  「金田一先生、あなたの眼からみればあたしのような女、さぞ馬鹿な女にみえるでしょう。でも、あたしにはあたしの考えがございますの。あたし、この問題に生命をかけているといえば大袈裟かもしれませんけれど、……いえいえ、けっして大袈裟でもございませんのよ。そして、いまのところ着々として成功してると思うんです。だれかがあたしの思うつぼにはまってる……と、そんな気がしてならないんです。そして、そいつはいまに尻尾をあらわすだろう。いいえ、きっと金田一先生がそいつの尻尾をとっておさえてくださるだろうと、それを期待しておりますのよ」  「いや、ご期待くだすって光栄です。しかし、マリさん」  「はあ」  「あなたのご計画はかなり危険なものだとはお思いになりませんか。げんに一昨日もひとり犠牲者をだしましたよ」  「存じております。古林徹三というひとでしたわね」  マリは眉毛ひと筋うごかさず、冷然としていいはなった。  「ええ、そう、あなたはあのひとを気の毒だとは思いませんか」  マリはそれにたいして、なんと答えようかと迷っているふうだったが、やはりつめたい表情をくずさず、  「あのひと、なにかしっていたんですわ。矢部のご老人が殺された晩、あのひときっと犯人をみたのでしょう。それをいわなかったのがいけなかったのね。あのひと、犯人をかばおうとした。それにはそれだけの理由……犯人をいえない理由があったにちがいございませんわね。と、いうことは、それだけあのひとに、うしろ暗いところがあったんじゃございません?」  「しかし、マリさん、うしろ暗いところのある人間なら、殺されてもしかたがないとおっしゃるんですか」  この質問はたしかにマリの急所をついたらしい。一瞬さっと怒りの炎がマリの瞼際を染め、ちょっと言葉にも困ったようだが、しかし、すぐまた落着きをとりもどすと、  「金田一先生、この問題はもうこれくらいにしておいてください。そのほかになにかご用は……?」  これは明かにもう面会はおわったのだから、かえってほしいという意志表示である。  金田一耕助は腰をあげると、  「いや、失礼いたしました。それではそろそろおいとまをいたしますけれど、そのまえにちょっと見ていただきたいものがあるんですが……」  と、手帳のあいだから取りだしたのは、一枚のすべすべしたアート紙である。四つに折ったそのアート紙を、金田一耕助はていねいにひろげると、  「失礼ですが、こういう質の紙をいままでにごらんになったことはありませんか」  「さあ、なんでございましょうか」  と、マリは不思議そうにそのアート紙を手にとってみていたが、裏も表も白紙である。  「いえね、ぼくがこちらへ立つまえに、一種の脅迫状みたいなものが舞いこんできたんですよ。つまり、射水へきてはならぬ。生命が惜しいと思ったら、射水の町へ近よるな……と、いう意味の脅迫状なんです。ところが、その脅迫状というのがこれとおなじ質の紙に書かれていたものですから……」  しかし、これはあきらかに金田一耕助の嘘である。かれのもとへ舞いこんだ脅迫状は、もっと粗悪な紙が使用されていたはずである。マリはしかしそれが金田一耕助のトリックとは気がつかず、  「まあ」  と、眉をつりあげて、  「そういえば、あたしのところへも脅迫状みたいなものが舞いこんでおりますのよ。紙質はこれとはちがいますけれど、……少々お待ちになって。いまもってまいりますから」  手にしたアート紙を金田一耕助にかえすと、マリはそそくさと部屋を出ていった。そのあとでいまマリの手にしていたアート紙を、陽にすかしてみる金田一耕助の唇には謎のような微笑がうかんでいる。そのアート紙を四つに折って、後生大事に手帳のあいだにはさみこみ、ふところへねじこんでいるところへマリがかえってきた。  「この手紙なんですけれど……」  金田一耕助が手にとってみると、それはあきらかにかれのもとへまいこんだ脅迫状とおなじ種類の封筒で、筆蹟をくらますためと思われるわざと四角ばって書いた宛名もおなじであった。  金田一耕助がなかみを出して読んでみると、 -------------------------------------------------------------------------------    マリよ。この手紙を読みしだい、母をつれてこの土地を立ち去れ。ここにいることは、おまえやおまえの母のためにならぬと知れ。 -------------------------------------------------------------------------------  と、ただ、それだけ。むろん差出人の名前はなかった。  「この手紙、いつ受取ったんですか」  「あれはパーティのあった日の朝でしたから、したがって最初の事件のあった日のことですわね」  金田一耕助は注意ぶかく便箋の紙質や筆蹟を調べたが、これまたあきらかに、じぶんのところへまいこんだ脅迫状とおなじであった。  「それ、なにか参考になりません?」  「そうですね。封筒も便箋もしごくありふれたもので、どこででも、だれでも手に入れることができるような品物だし、それにこの筆蹟もあきらかに変えてありますからね」  「こういう紙質じゃ指紋はとれないでしょうしねえ」  「それはむりでしょうねえ。こうざらざらとした紙じゃ……しかし、なにかの参考になるかもしれませんから、これちょっと拝借していってもよろしいでしょうか」  「ええ、どうぞ」  それからまもなく金田一耕助はマリのもとを辞去したが、どういうものかかれはニコラ神父の依頼を果そうとしなかった。玉造家の別館を出たとき、マリの母の君江が忘れていったというコムパクトは、まだハンケチにくるまれたまま、かれのふところにおさまっていたのである。  それからまっすぐに警察を訪れて、神崎署長の部屋へ入っていくと、署長は部下からなにか報告をきいているところだったが、  「ああ、金田一先生。よいところへ……木村君、その話はあとからきこう。ちょっと金田一先生に話があるから……」  木村刑事が部屋から出ていくと、  「金田一先生、このあいだのお話の宮田文蔵ですがね。やっぱり臭いですぞ」  「臭いとおっしゃると……?」  「いや、矢部のご老体が殺されたのは土曜日の晩のことでしたね。ところが土曜日の晩には文蔵先生、いつも湖水の対岸にある岡林の町へあそびにゆくことになってるんです。岡林の町に、〓“みよしの〓”という料理屋があって、そこのマダムの白川雪枝という女……ごたぶんにもれぬ戦争未亡人なんですが、……その女とかなり以前からねんごろになってるんですね。で、毎週土曜日には、仕事をはやめにすませてそこへあそびにいくんです。さすがに泊ったことはないそうですが、まあ二、三時間歓をつくして、かえってくるのはいつも十時過ぎになるそうです。それで文蔵先生ごじしんの申立てによると、あの晩もやっぱり〓“みよしの〓”へ出向いていって九時半ごろまでいたようにいってるんです。いや、はっきり九時半とはいわないんですが、いつものとおりだったというもんですから、こっちは九時半ごろまでいたもんだとばかり思っていたんですが、あなたのサゼストによって調査しなおしてみると……」  「ちがってたんですか」  「いや、文蔵先生、あの晩、〓“みよしの〓”へいったことはいったんですが、八時にはそこを出ているんです。岡林からここまで男の足なら三十分もあれば充分です。ところで、杢衛老人が殺害されたのは、ちょうど八時半ごろでしたね」  「しかし……」  と、金田一耕助は躊躇しながら、  「宮田文蔵さんは杢衛老人が鐘乳洞のなかへ、入っていくことはしらなかったでしょう」  「いや、だから、それは今後の捜査にまたなければなりませんが、あの男にアリバイがないということ。それがわかったというだけでもひとつの進歩じゃありませんか」  「それはそうですね」  と、金田一耕助はなにかを思いめぐらせるような眼つきをしている。  「ときに、金田一先生、あなたのほうになにか……」  「いや、じつはちょっとお願いにあがったんですが……」  と、金田一耕助がとりだしたのはハンケチにくるまったコムパクトと、さっきマリに鑑定してもらったアート紙である。  「お願いというのはほかでもありませんが、このふたつの品から指紋を検出して、比較していただきたいんですが……」  「指紋……?」  神崎署長はぎょっとしたような顔色で、金田一耕助の顔を視なおすと、  「それ、どういう意味ですか。それにこのふた品はどこから……」  「いや、署長さん、それはいずれ指紋が検出されてからお話ししましょう。ただ、あらかじめ申上げておきますが、このコムパクトには少くとも三種類の指紋がついていると思うんです。コムパクトの持主である女性と、それからふたりの男の指紋が……その男のひとりというのはかくいうわたしですが、わたしの指紋は念のためにここへ捺しておきましょう」  と、金田一耕助は卓上にある印肉を、一本一本指につけると、署長にもらった卓上メモのうえに十個の指紋をしっかり捺して、  「それから、コムパクトのほうにはその三人のほかにも指紋が出てくるかもしれませんが、こちらのアート紙のほうにはひとりの女性と、ひとりの男……その男というのがかくいうわたしなんですが、……そのふたりの指紋しかないはずなんです。で、アート紙から検出される女性の指紋と、コムパクトから検出されるであろう女性の指紋と、比較研究していただきたいんですが……」  神崎署長は無言のまま、金田一耕助の顔を凝視していたが、これ以上質問しても、とても返事はえられそうにないとあきらめたのか、  「いや、承知しました。しかし、結果が出たらその理由はお話くださるでしょうね」  「それはもちろん。で、結果はいつごろわかりますか」  神崎署長はちょっと時計に眼を走らせて、  「いま、四時ですね。遅くとも今晩の八時までには結果をおしらせすることができましょう。文書でご報告しましょうか。それともなんならわたしがお伺いしてもいいんですが……」  金田一耕助はちょっとかんがえたのち、  「いや、文書でけっこうです。ただし、このことぜったいに他へおもらしにならないように」  金田一耕助はそれからまっすぐに矢部家へかえった。 母と娘  約束どおりその夜のうちに、神崎署長から指紋についての鑑定書が金田一耕助のもとにとどけられた。  金田一耕助は、注意ぶかい眼でその鑑定書を読んでいたが、読みおわるといかにもうれしそうに、雀の巣のようなもじゃもじゃ頭を五本の指でかきまわした。いつもいうとおりこれが昂奮したときのこの男のくせなのである。  それから金田一耕助は、まるで重大な作戦をねる司令官のような顔をして、しばらくかんがえにふけっていたが、やがて心が決まったのか、机にむかって手紙を書きはじめた。それは鮎川マリにあてた手紙で、かなり長いものになってしまった。  金田一耕助のこの長文の手紙にたいして、マリからさらに長文の返事がきたのは、なか一日おいた翌々日のことである。  金田一耕助はむさぼるようにそれを読んだが、あらかじめ期待していたこととはいえ、やはりある種の昂奮と戦慄を禁ずることができなかった。金田一耕助はその手紙のとくにだいじとおもわれる部分を、二、三度たんねんに読みかえすと、それを机のうえにおいたまま、しばらくぼんやりとかんがえこんでいた。  そこへつめたい飲物と果物をもって入ってきたのは峯子である。  「先生、ご勉強でございますか」  「ああ、いや」  と、金田一耕助は机のうえに散らかっている便箋を、あわててかきあつめると封筒におさめて、さて、どこへしまおうかというふうにあたりを見まわしていたが、結局、ふところのなかにねじこんで、  「いや、どうも……」  と、なんということなくペコリと頭をひとつさげた。  峯子はジロリとそれを見て、しかし、言葉だけはさりげなく、  「到来ものでございますけれど、ひとつお剥きになって……」  と、ガラス鉢にもった梨をすすめながら、  「先生もこんなへんぴな田舎の町で、さぞご退屈なことでございましょうねえ」  「いやあ、べつに……かえって保養ができてありがたいくらいに思ってるんですよ。もっともいつまでもこちらさんのご厄介になっていていいものかどうか。……それに迷っていることは迷っているんですけれど……」  「あら、まあ、そんなこと……もともと亡くなりました父のほうからむりにお願いしたことでございますもの、そのご遠慮には及びませんけれど……しかし、先生」  「はあ」  「先生は署長さんともご懇意のようですけれど、警察のほうでは少しは捜査がすすんでるんでしょうか」  「それは、もちろん、そうでしょう」  「でも、先生……」  と、峯子はうわめ使いに金田一耕助の顔を見ながら、  「あたし、田舎の警察なんか信用できませんわ。あのひとたちにはこんどの事件、とてもむりなような気がするんですの」  「どうしてでしょうか。奥さん」  「だって英二さんのときがそうでしたもの。あのときだって警察はなんにもできませんでした。けっきょく犯人を逃がしてしまって……」  「犯人を逃がしてしまって……とおっしゃるところをみると、あなたもやはり朋子さんというひとを犯人だと思っていらっしゃるんですね」  「あら、まあ、そうじゃございませんの」  と、峯子はびっくりしたように眼を見張る。  「いや、いや、ぼくのお訊ねしたいことは、それではなく、奥さんもやはり朋子さんというひとは、底なし井戸へ投身したのではなく、当時あの教会にいた神父さんにつれられて、国外へ逃走したと考えていらっしゃるんですね」  峯子はちょっと天井をにらむような恰好でしばらくなにか考えていたが、  「いいえねえ、先生」  と、例によって押えつけるようなねつい調子で、  「そのじぶんのあたしは、ほんのまだ娘でございましたから、なんの考えもなかったのでございますのよ。そのあたしにいま先生のおっしゃったような疑いが、だんだん濃くなってきたというのは、やはりこのあいだ亡くなりました父の影響でございましょうねえ。娘じぶんからあたしはとてもあの父を尊敬しておりましたから」  「なるほど、それで朋子さんが国外へ逃亡されたとして、それじゃ奥さんはこんどマリさんといっしょに玉造家へきている、マリさんのお母さんというひとが、その朋子さんだとお考えになりますか」  「それなんでございますよ、金田一先生」  峯子はいくらか膝をすすめるようにして、  「父がそれをいいだしたときには、あたしもまさかと思っておりましたの。なんぼなんでも朋子さんにその勇気はあるまいと思っていたんですの。でも、つぎからつぎへとあんなことが起ってみると、やっぱり父の疑いがほんとうだったんじゃないかって気が、強くするんでございますのよ」  「つまり鮎川君江イコール玉造朋子だと……?」  「はあ、……でも、先生のお考えでは……?」  「さあ、……ぼくの考えはいましばらく保留しとくとして、ちょっと奥さんにお訊ねしたいことがあるんですが……」  「はあ、どのようなことでございましょうか」  「いえね、お亡くなりになった杢衛ご老人が、ぼくに事件の調査を依頼したってことを、しってるひとは何人くらいありましょうかねえ」  「さあ……」  と、峯子はふしぎそうに首をかしげて、  「この家のものはみんな存じておりますわね。それに父は会うひとごとに、いま玉造の別館へきている鮎川君江という女は、むかしの朋子にちがいない、いまに面皮をひんむいてやるんだなんていきまいておりましたから、ほかにも相当おおぜいいたかもしれませんわね」  峯子の言葉はほんとうだろう。お作のような女さえそれをしっていて、マリに注意をしたくらいだから。しかし、金田一耕助を呼びよせるということまではどうだろうか。少くとも杢衛の殺された晩のパーティにきていたひとは、みないちように金田一耕助の出現におどろいていたようである。  「いずれにしても……」  と、金田一耕助は述懐するように、しみじみとした調子で、  「人間の世の中って複雑なもんですね。二十何年かまえの事件……すでに過去のとばりのなかに埋没していたかにみえた事件から、とつぜんまたこうした恐ろしい事件があいついで起るのですから。……」  「ほんとにさようでございますわね。しかし、こんどというこんどは二度とこういう事件が起らないようにしっかりと解決していただかねば……」  と、峯子はさぐるように金田一耕助の顔をみている。  「いや、じっさいそうありたいものですが……」  と、そこで金田一耕助は言葉をかえて、  「ときに、あのときはおどろかれたでしょうねえ。英二さんが殺されたとき……そのじぶん、あなたはすでにこの家へきていられたんでしょう」  「はあ」  「それじゃ、ご主人と朋子さんとの計画がばくろして、ご主人が監禁状態になられたときには、さぞ気をもまれたことでしょうねえ」  「いえ、ところが、幸か不幸かその日、あたしこの家におりませんでしたの。湖水のむこうに岡林って町がございますでしょう。そこに親戚のものがおりまして、そこへ遊びにいってたところが、夜になって英二さんが急に亡くなったからかえってくるようにって、奉公人が迎えにまいりまして……ほんとうにあのときはびっくりしてしまいました」  と、峯子は腰をあげながら、  「でも、ほんとうに長話をして失礼申上げました。すっかりお勉強のおさまたげをして……」  「いえ、とんでもない。ときに都さんのご容態はいかがです」  「はあ、ありがとうございます。あれも父の亡くなったショックから、やっとさめかけているところへまた古林さんのことでございましょう。でも、こればかりは時が解決してくれるのを、待つよりほかにみちはございませんわねえ。あら、あたしとしたことが、また……」  峯子はついにマリの手紙のことについては、一言もふれずに出ていった。それでいて彼女は当然、金田一耕助のもとへマリから長文の手紙がきたことをしっているはずである。それにもかかわらず一言もそのことにふれないというのは、逆にいえばそれだけマリの手紙にふかい関心をもっている証拠ではないか。  それはさておき、その日、金田一耕助がうけとったマリの手紙というのをここにかかげておくことにする。   私の尊敬する金田一耕助先生。(と、そういうやさしい呼びかけから、この手紙ははじまっているのである)   ご同封くださいました指紋の鑑定書、たしかに拝見いたしました。あのとき、先生がアート紙にあたしの指紋をとっておかえりになったのではないかということは、あとになって気がつきました。そして矢部家の女中さんが、先生からおことづかりしたといって、母(?)のコムパクトをとどけてくだすったとき、あたしははじめて先生が、あたしの指紋を必要とされた理由に気がつきました。かしこくも先生が看破なさいましたとおり、あのコムパクトには女性の指紋としては、あたしの指紋よりほかにのこっておりません。のこっていないはずでございます、あたしがひとりで母と娘のふた役を演じてきたのですもの。そして、とうとう先生はそれをもののみごとに証明なさいました、あたしの一人二役ぶりを。   私の尊敬する金田一耕助先生。   先生のご指摘くださいましたとおり、ここにははじめから母はいませんでした。ずっとあたしが母の代役を演じてきたのです。いいえ、あるときは河野先生にもお願いいたしましたけれど。……   では、母はいまどこにいるのでしょうか。母はいま天国におります。旅券が下付されて、日本へむけて出発しようというまぎわになって、母はこの世を去りました。そこであたしは母の意志をつぎ、ひとりで日本へやってきました。いえいえ、ひとりではありません。河野先生に亡き母の旅券を使っていただいて、架空の母とふたりでこの日本へやってきたのです。   では、なぜ、あたしがこんなへんなまねをしていたのか。なぜ、母の代役を演じたりしていたのか。……それをお話するためには、母の前身からお話ししなければなりません。   矢部家のご老人や古林徹三というひとが疑っていたとおり、母はやっぱり玉造家の娘、朋子でした。二十三年まえ、恐ろしい殺人の汚名をきせられた母は、鐘乳洞のなかへとびこむと、絶望の思いを胸にだいてさまよい歩いていました。それを当時はまだしられていなかった第三の入口から、パウル神父に救い出されたのです。   パウル神父は以前から母をわが子のように愛していました。それですから母の疑いののっぴきならぬことをしると、ひそかに母をつれて日本を出発したのです。母はあの底なし井戸のそばに書置きをのこして、神父さんにともなわれ、故国を脱出したのでした。その脱出方法なども、くわしく母からきいておりますけれど、それはここには関係のないことですから、省略することにいたしましょう。当時はパウル神父以外にはだれも教会のほうへ抜ける出口のあることをしらなかったので、母の脱出はみごとに成功いたしました。   さて、日本を脱出した母は、名前も鮎川君江と改め、スペインをへてブラジルへつきましたが、そこであたしをうみ落したのです。金田一先生、こういえばあたしの父がだれであるか、おわかりのことと存じます。   さて、それからのちの母の苦労のかずかずを、いまさらここに申述べることはひかえましょう。やさしいパウル神父の紹介状をただひとつの頼みとして、母は異郷の地で生活とたたかってきました。そして、さいごにえたのが、ゴンザレス家の家事取締りという地位でした。   ゴンザレス氏はふかく母を愛しました。母との結婚を希望しました。しかし、最初の恋に破れ、しかもまだその当時の愛人の面影を胸に抱きつづけてきた母には、ゴンザレス氏の愛情をうけいれる余地はありませんでした。ゴンザレス氏は母を妻とよぶかわりに、あたしを養女にしたのです。   さて、故国をはなれて二十三年、母の胸には望郷の想いがしだいに強くなりました。どうしても、もういちど故郷の山河に接しなければ、死ぬにも死ねぬ気持ちがつよくたかまってきたのです。あたしとしてもいちどは母国を見ておきたく、かつまた、よそながらでも、父なるひとに会っておきたかったのです。   やっと養父の許しがでました。そして、旅券も下付されたところで、とつぜん、母が心臓麻痺で亡くなったのです。母の無念、心残り、なにとぞお察しくださいませ。いえ、いえ、それにもまして無念やるかたなかったのはこのあたしでございました。そこで養父ゴンザレスの強い反対を押しきって、河野先生を母の代役にしたてて、日本へやってくると、ニコラ神父の紹介で、とうとうこの射水の町へやってきたのです。   しかし、ここへやってきてからあたしが母の代役を演じていたのは、気の毒な母のかわりに故郷の土を踏み、この射水の山河に接するがためではありません。あたしにはあたしの考えがございました。それは母の無実の罪を晴らしたいという、ただその一念でございました。   二十三年まえの事件において、母が無実であることをあたしは信じて疑いません。と、すればだれか母をおとしいれたものがあるはずです。そのひとはまだ射水の町に生きているだろうか。もし、生きているとすれば、母がかえってきたことをしって、どのように動揺するでしょう。どのように恐れるでしょう。そして、恐怖と動揺のあまり、尻尾を出さないとも限らない。……これがあたしの考えかたでした。あたしはリオ・デ・ジャネイロの学校にいるじぶん、演劇部に席をおいていました。扮装術には自信があるうえに、あたしがちょっと扮装をこらすと、わかいころの母にたいへんよく似ているのです。   私の尊敬する金田一耕助先生。   ここまで申上げたらあのパーティの晩、母の役割をはたしたのがだれであったか、聡明なる先生はすでにおわかりのことと思いますが、なお念のためにいちおう説明させていただきます。   はじめに母の役を演じたのは河野先生でした。それはしごく簡単なことで、母(?)はいつも非常に特徴のある服装をしています。黒いドレスに黒いスカーフ、ただ、それだけでみるひとには、鮎川君江であるという印象をあたえます。河野先生はそういう姿で洞窟のなかへ入っていき、あの底なし井戸のほとりへ、母の扮装衣裳をのこしてかえってきたのです。そして、あとはこのあたしが引きうけることになっていました。   ところがここにひとつの誤算が起りました。康雄さんが河野先生をつけてきて、あたしどもの欺瞞に気がついたことです。あの夜以後、あたしはまだ康雄さんと膝つきあわせてお話をしたことはございませんけれど、おそらく康雄さんはこの世に……いえいえ、少くとも射水の町に鮎川君江なる人物は存在せず、それがあたしと河野先生のお芝居であることに気がついているにちがいありません。ただ、その直後にああいう事件が突発したのと、あたしの真意をはかりかねて、沈黙をまもっていてくださるのだろうと思います。   それはさておき、河野先生が鮎川君江の扮装衣裳を、底なし井戸のほとりにのこしてくると、こんどはあたしの番でした。そのことについても、先生はよくご存じでしょうが、なお念のためにここに書いておきます。あたしはカンポをつれて先生がたとごいっしょに、鐘乳洞のなかへ入っていきました。あのとき、あたしは鐘乳洞の地理にうといようなふうをしておりましたが、じっさいはなんどかの探検で、かなり詳しくしっていたのです。それですから、機会をみて一同からはなれると、ひと足さきに底なし井戸へ到着し、鮎川君江の衣裳をまとい、だれかに……あの場合は矢部のお祖父さま(ああ、あのひとはあたしの祖父なのです!)に見ておいてもらおうと思ったのです。   あたしたち……と、いうよりはあたしの計画は予期したよりはうまくいきました。洞窟のなかで出会った怪人物のために、あたしとカンポは不自然な作為なしに、みなさんとわかれることができました。あたしはまっしぐらにカンポをつれて底なし井戸へいきつくと、河野先生ののこしておいた衣裳で母になりすましたのです。それから衣裳やカンテラを井戸のなかへ投げこむと、もときた路へとってかえし、そこで祖父といきちがい、それから先生と由紀子さんに出会ったのです。それからあとのことは先生もご存じのとおりでございます。   私の尊敬する金田一耕助先生。   あたしの子供っぽいこの計画……母の再生を示すことによって、二十三年まえの事件の犯人に、大きなショックをあたえようというひとつの冒険……そのためについに祖父を死にいたらしめたことについては、あたしはこのうえもなく悲しく思います。また、このうえもなく後悔しております。しかし、それと同時にあたしはその犯人にたいして、名状すべからざる憎悪と復讐心にもえております。あたしのような女には、このようなこみいった事件の真相は、とても解きあかすことは不可能ですが、それでも女の本能から、こんどの事件の犯人も、二十三年まえの事件の犯人と、おなじであるような気がしてならないのです。   そして、金田一先生。そいつはまんまとあたしの投げたトリックに、ひっかかったではありませんか。そいつはまだ、鮎川君江なる女性がいまや架空の人物であることに気がついておりません。そして、すベての罪を架空の鮎川君江になすりつけるつもりなのでしょう。あの鐘楼に母(?)とおなじ扮装をして出現したというのも、まだ鮎川君江なる女性が、鐘乳洞のなかを彷徨しつつあり、したがってつぎに起るべき殺人事件も、当然、その女性の犯行であるかのごとく見せかける、ひとつの予備行動だったのではありませんか。   私の尊敬する金田一耕助先生。   ずいぶん長い手紙になりましたが、さいごに先生にひとこと申上げたいことがございます。あの事件以来、すなわち祖父が殺害されて以来、先生はあたしがなにもせずに手をつかねて、事件のなりゆきを傍観していたとお考えでしょうか。もし、それだったら先生のお考えちがいでございます。あたしは毎晩、ひとの寝しずまるのを待って、鐘乳洞のなかへもぐりこみました。そして、さがしたのです。鐘乳洞内をはいずりまわるようにさがしたのです。なにか犯人を指摘するに足る、決定的な証拠はないか。遺留品はないかと。……   私の尊敬する金田一耕助先生。   神様はとうとうあたしに味方してくださいました。あたしはとうとう発見したのです。ある重大な、決定的証拠を。犯人を指摘するに足る重大なる物的証拠を。あの底なし井戸のほとりにおいて。……金田一先生、あたしはそれを先生のお眼にかけたいと思っております。先生、お願いです。明晩、かっきり十時にあの底なし井戸のそばへきてください。そうすればあたしが発見した証拠というのを先生のお眼にかけることができます。そして、先生のご意見もきかしていただきたいと思っております。あたしはまだだれにもこのことは打明けてありません。あしたの晩もひとりでまいりますから、金田一先生、あなたもおひとりできてください。だれにもしらさず内緒で。……   私の尊敬する金田一耕助先生。   それではもういちどここにくりかえします。明晩かっきり十時。底なし井戸のそばで。……きっと、きっとでございますよ。それではお待ちしております。 マ リ    金田一耕助は二度三度そのながいながい手紙を読みかえした。  マリがきっとよ、きっとと念をおしている明晩というのは、すなわち今夜のことなのである。  金田一耕助は落着こうとするかのように、何本目かのたばこに火をつけると、虚空に瞳をすえて、なにか考えこんでいるふうだったが、やがてその手紙をスーツ・ケースのポケットにしまいこむと、どこかへふらりと出かけていった。 最後の惨劇  ズボンに編上げという軽快な服装に身をかためたマリは、玉造家の背後の崖の入口から、懐中電灯をふりかざし、単身鐘乳洞のなかへ入っていく。  時刻は九時三十五分。金田一耕助と約束した時間より二十五分まえ。マリは十時までに底なし井戸へいきついて、そこで耕助を待つつもりなのである。  揺曳する懐中電灯のあわい光芒の範囲外は、うるしの闇にとけこんで、底しれぬ静けさのなかに、マリの足音だけが小きざみに反響する。  マリはときどき不安そうに立ちどまっては、用心ぶかくいまきた路を照らしてみる。たれかつけてきはしないかとおそれるように。それでいていっぽうまた、たれかに……たとえば田代にでもつけてきてほしいような気もする。それほど鐘乳洞のなかはさびしく、陰気で、かつ無気味だった。  なんといっても、この数日のあいだに、ふたりの男がそこで殺されているのだから。……  しかし、だれもつけてくるものはなさそうだった。マリは単身鐘乳洞のおくへ進んでいかねばならぬ。むろん、そのほうがいいはずなのだが。……  まもなくマリは矢部家のほうからくる路との合流点まで到着する。  マリはそこに立ちどまり、懐中電灯の光を投げて、しばらく耳をすましてみた。しかし、むこうからくる足音は聞えない。金田一耕助はさきへいったのか。それとももっとおくれてくるのか。  マリはしかたなく、ひとりで奥へすすむことになる。まえにもいったとおり、そのへんから路はしだいに悪くなり、ともすれば粘土性のぬかるみに、編上げの靴をとられそうになる。  ときどき洞窟の天井からしたたりおちる滴が、首筋へおちて肝をひやさせた。  しかし、そういう悪路をしばらくいくと、路はまた固い地盤にさしかかる。そのへんいったい、さかさに剣をうえつけたように、天井から鐘乳がぶらさがっているので、よほど気をつけて歩かないと危険なのである。  とつぜん、マリはぎょっとしたように立ちどまった。うしろのほうから足音が聞えたような気がしたからである。  立ちどまってじっと耳をすましてみる。しかし聞えるものといったら、ポトリポトリと天井から滴のたれる音ばかり。  それでは気の迷いだったのかしら。……  マリはまた歩きはじめる。コツコツとかたい靴音が洞窟の壁に反響する。  コツコツコツ、コツコツコツ……  マリはまた、ぎょっとしたように立ちどまると、いきなり懐中電灯の光をうしろへ投げた。  「たれ……? たれかそこにいるの?」  しかし、返事はなくて、天井で蝙蝠の羽ばたく音ばかり。しかし、マリはたしかに聞いたのである。じぶんのでない足音が、うしろからつけてくるのを。……  マリはゾーッと身をふるわせた。全身からつめたい汗がふきだした。つい最近、この洞窟のなかでふたりの男が殺されたことを思えば、いかに勇敢な人間でも、おののかずにはいられないだろう。  身をひるがえしてマリは暗闇のなかを一目散にかけだした。鐘乳筍につまずいたり、ぬかるみにすベったりして、いくどかころびそうになりながら。……  ああ、もう間違いはない。たしかにたれかが追ってくるのだ。その足音はマリが立ちどまると立ちどまり、マリが駆けだすとその足音も駆けだしてくる。  マリはそれを洞窟に反響するこだまだと思いこもうとしたが、いまはもうそんな気やすめは許されない。  げんにマリはほんのちらりとだったけれど、追跡者のすがたを懐中電灯の光のなかにとらえたのだ。そいつは鳥打ち帽子をまぶかにかぶり、黒い布で眼から下をすっぽりくるんだ男のようだった。すぐ闇のなかへ逃げこんだので、はっきりしたことはわからなかったが、たしかに幻視ではなかった。現実に覆面の男があとをつけてくるのだ。……  それ以来、マリは気がくるったように洞窟のなかを走りだした。懐中電灯をつけたり消したりしながら、脚のつづくかぎり走りに走った。懐中電灯をつけると、あとから追ってくる人物の目標になるし、さりとてまっ暗では一歩もあるけない。  マリは全身からふきだす汗にねっとりぬれ、背中の筋肉に痛烈な痛みをかんじている。いまにもあの鋭い鐘乳石が、ぐさりと突っ立ってくるのではないかと。……  やっとマリは底なし井戸へたどりついた。いそいでつけていた懐中電灯の光を消すと、  「金田一先生……金田一先生……」  と、背後の闇を気にしながら、マリはふるえる声で金田一耕助の名を呼んだ。  しかし、金田一耕助はまだきていないのか、暗闇のなかからはなんの応答もない。マリの声はただいたずらに、洞窟の壁にこだまして、無情にはねかえってくるばかりである。  「金田一先生……金田一先生……」  さけんでいるうちにマリの声は、舌のうえで凍りついてしまった。  ビロードのようにねっとりした暗闇のなかに、なにやらちかづいてくる気配である。猫のように足音をころしていても、空気の微妙な震動が、あるいはいくらか切迫した息使いが、いたいほど皮膚の感覚を刺戟するのである。  マリは全身の毛穴という毛穴がさかだって、つめたい汗がいちじに噴出するような想いであった。微妙な空気の震動に追われて、マリはそっと底なし井戸の周囲をめぐる。それを追うようにして、無言の追跡者も井戸框《かまち》のまわりをまわって、マリの身辺にせまってくる。  暗闇のなかのそれこそ命がけの鬼ごっこだ。  もう声を出して救いを求めることもできない。声を立てたらそれをめあてに躍りかかってくるであろう。懐中電灯をつけてあいての正体をたしかめたいという慾望も、このばあいおさえなければならぬ。明りをつけたがさいご、あいては必殺の剣をふるって突っかかってくるのではないか。  マリの脚はがくがくふるえ、咽喉はからからに乾ききっている。全身の皮膚が凍りつくような痛さをかんじている。  マリはもときた路へ逃げだそうかとおもうのだが、暗闇のなかのめんない千鳥で、すっかり方角感をうしなってしまった。  とつぜん、マリはなにかに躓《つまず》いてまえへのめった。地底のつめたい静寂のなかでは、その音が洞窟の壁にこだまして、大きな反響をあたりにつたえた。……  と、思うまもなく、さっと暗闇の空気をゆるがし、マリの体におそいかかってきたものがある。反射的にマリは体を左にひらいたが、そのとたん、彼女のからだをかすめて、たれかが二、三歩たたらを踏んでまえへのめった。  マリは素速くからだを立てなおし、暗闇のなかでじっとようすをうかがっている。全身の皮膚の感覚であいてのつぎのでかたを偵察している。  むこうもやはりおなじらしい。暗闇の底から切迫した息使いが、おさえきれぬ嵐となって、マリの皮膚につたわってくる。  とつぜん、さっと空気がうごいて、なにものかがマリの真正面からおそいかかってきた。このたびもマリは本能的に身をひらいたが、その瞬間、編上げの靴の底がすべって、マリはかたい岩のうえに転倒した。  「あっ!」  不覚にも悲痛なさけびがマリの口をついてほとばしる。  それをねらって、ザーッと空気が渦をまいて、マリの体におそいかかってきたとき、とつぜん、数本の懐中電灯の光芒が闇をさいて、襲撃者のすがたをありありと照らしだした。  「あっ!」  と、さけんで襲撃者は、いっしゅん眼がくらんだように立ちすくむ。  やっぱりさっきのやつだった。鳥打帽をまぶかにかぶり、風呂敷のようなもので鼻から下をおおうている。そして手にもっているのは剣のように鋭い鐘乳石。  「マリちゃん!」  暗闇のなかからさけんで、マリのそばに駆けよったのは田代だった。  その瞬間、襲撃者は身をひるがえして、懐中電灯の光芒の外にとびだした。  「待てえ!」  と、叫んだふとい声は神崎署長のようである。あわてて一同がふりまわした懐中電灯の光芒が、やっとうしろ姿をとらえたとき、襲撃者は底なし井戸のある台地から、マリがいまとおってきた洞窟のなかへとびこむところだった。  「しまった! 金田一先生!」  「ええ、ああ、そう……」  ここで犯人をとりおさえてしまうつもりだった金田一耕助は、おもわぬ手ちがいにいくらか取り乱して、  「田代君、康雄さん。カンポ君!」  と、言葉をはやめて、  「マリさんをたのみます。われわれはいまの曲者を追っかけますから」  と、署長を追ってもう洞窟のなかにとびこんでいた。  「金田一先生!」  金田一耕助が追いつくと、神崎署長は息をはずませて、  「いまの曲者、だれだかわかりましたか」  「ぜんぜん! 署長さんは……?」  「わたしにもよくわからなかった。宮田文蔵としては、少し柄が小さかったようにも思うが……」  「いずれにしても、すばしっこいやつでしたね。とっさに懐中電灯の光のわくの外へとびだしましたから」  こういうとふたりとも、いかにも落着いているようだけれど、じっさいはそうではなかった。息もきれぎれに話しながら、ふたりとも小走りに走っているのだ。  「金田一先生、こんなことならやっぱり署のものを動員して洞窟の三つの入口を監視させておくんでしたね」  「すみません。はたして犯人が今夜あそこへやってくるかどうか疑問だったのと、それに警察のほうでそういう手配りをしていて、犯人に覚られちゃいけないと思ったもんですから……」  「わたしはまだ詳しい話をきいていないんですが、それじゃ犯人はマリさんからあなたにあてた手紙を読んだんですね」  「読んだというより読むようにわたしがしむけたんです。それよりほかに犯人の尻尾をおさえる方法はなさそうなんでね」  「でも、マリさんが有力な証拠を発見したというのは……?」  「いやあ、あれはトリックだったんです」  と、金田一耕助の声はしずんでいた。  「トリック……?」  「ええ、そう、さっきお眼にかけたマリさんの告白書は、大部分が真実を語っているんでしょうが、あそこの部分だけは嘘だったんです。ぼくがああ書くように手紙で要請したんです」  「あっ!」  と、短いおどろきの叫びが、神崎署長の唇からほとばしった。かれはちょっと立ちどまって、金田一耕助の顔を穴のあくほど視すえると、  「それじゃ、金田一先生」  と、ひどくしゃがれた息苦しそうな声で、  「あの手紙のあそこの部分だけは、今夜犯人をこの洞窟へおびきよせるためのトリックだったとおっしゃるんですか」  「ええ、そう」  「そうすると、あの手紙にあったような、犯人を指摘するに足る動かしがたい証拠というのは……?」  「残念ながらいまのところありません」  「そうすると、今夜犯人を逃がしてしまうと……?」  「今後ちょっとむつかしくなりましょうね。犯人ももうマリさんの一人二役をしってるんですから、今後はもうその手にのりますまいし、いよいよ用心ぶかくなりましょうから」  「畜生ッ!」  署長のするどい舌打ちに、  「いや、どうもすみません」  「いやいや、あなたのことをいってるんじゃない。田代君のことをいってるんです」  田代幸彦はたしかに軽率だったのである。一同が懐中電灯の光で犯人の注意をこちらにひきつけているあいだに、田代が犯人の背後へまわる手はずになっていたのだが、わかい田代は昂奮して、あらかじめ打合せしてあった、その約束を忘れてしまったのである。  「それじゃ……」  と、神崎署長が激昂したように、強い調子でなにかいいかけたときである。とつぜん遠くのほうから女の悲鳴が、ながく尾をひいてきこえてきた。  「あっ、ありゃなんだ!」  ふたりはおもわず立ちすくんだが、そのとたんまたしてもきこえてきたのは、ぎゃあッと蛙をふみつぶしたような声だった。それはまぎれもなくふとい、錆びのある男の声である。  いっしゅん、金田一耕助と神崎署長は、釘着けにされたようにその場に立ちすくんでいたが、つぎのしゅんかん、  「署長さん、いってみましょう」  と、金田一耕助は袴の裾をさばいて小走りに走りだした。神崎署長も懐中電灯をふりかざし、ぜいぜいと息使いもせわしく追ってくる。肥満型のこの署長は敏活な行動には不向きにできているのである。  数分ののちふたりが辿りついたのは、このあいだ。すなわち古林徹三が殺された晩、金田一耕助と慎一郎のふたりが、警部補や田代の一行と落ちあった、あの路が三つ股にわかれているところである。  「署長さん、またあの地底の河のほとりじゃありませんか。なんだかそんな気がするんですが……」  「いってみましょう、金田一先生」  神崎署長の声はうわずっている。もちろんそれは恐怖のためではなく、昂奮のせいだろう。  その洞窟へ入るまえ、ふたりはちょっと耳をすましてなかのようすをうかがったが、あたりは闃《げき》として物音もない。なんとなくふたりでうなずきあったのち、金田一耕助が袴の裾をたくしあげて、まずみずから狭い洞窟にもぐりこんだ。  いちど通ったことのある路なので、金田一耕助はそれほど迷いはしなかった。それでも用心ぶかく足をはこばせているうちに、ふたりは地底の河のほとりまでたどりついた。  「あっ、金田一先生!」  と、神崎署長が呼吸をのんで、  「あれはなんです、あそこにみえる白いものは……?」  懐中電灯の光芒のさきに、なにやら白いものがよこたわっている。くろぐろと音もなく流れる地底の河の河岸っぷちに。……  ふたりはそっと、その白いもののほうへちかよっていった。  そして、それがなんであるかをたしかめたとき、金田一耕助は脳天からくさびでもうちこまれたような大きなショックにたじろいだ。  白いものは浴衣であった。そして、浴衣のぬしは峯子である。  峯子は裾もあらわに倒れている。そして、仰向けに倒れた彼女のはだけた胸のうえに、もののみごとにつっ立っているのは、剣のようにさきのとがった鐘乳石である。  「畜生ッ!」  と、神崎署長は肚の底からこみあげてくるはげしい怒りを、熱風のような息とともに吐きだした。  金田一耕助は茫然たる眼差しで峯子の死体をみおろしていたが、やがてやっと正気にかえると、ちかぢかと懐中電灯をちかづけて、峯子の死体をしらべにかかった。  相当格闘したのであろうか、浴衣のきこなしはひどく乱れて、帯もはんぶん解けている。足になにもはいていないので、懐中電灯の光であたりを見まわすと、二、三メートルほどはなれたところに、下駄が片っぽ裏がえしになってころがっている。もう片っぽはどんなに探しても見当らないのは、地底の河へおちたのだろうか。  金田一耕助は峯子の足のうらをしらべてみたが、はだしのわりにそれほど汚れていなかった。  「金田一先生……金田一先生……」  とつぜん、神崎署長が昂奮に声をふるわせた。  「矢部の奥さん、鐘乳石で突きころされたんじゃありませんぜ。ほら、咽喉のあの跡……」  「えっ?」  神崎署長に注意されて、金田一耕助もあらためて峯子の咽喉に眼をむけたが、そのとたん、魂をゆすぶるような戦慄が、金田一耕助の背筋をつらぬいて走った。  なるほど、峯子の白い咽喉のうえになまなましくのこっているのは、大きなふたつの痣《あざ》である。それはおそらく親指の跡であろうけれど、金田一耕助がいま大きく眼を見張ったのは、ただそれだけのことではない。  ほの暗い懐中電灯の光で気がつかなかったけれど、よくよく見ると峯子の唇は血によごれている。そして、食いしばった歯のあいだになにやらくわえているのである。  「しょ、署長さん、あ、あ、あれ……」  神崎署長もそれをのぞきこんで、  「き、き、金田一先生、ゆ、ゆ、指……」  ふたりはしばらく、ものに憑かれたような眼を視かわしていたが、とつぜん、金田一耕助がはじかれたように身を起した。  「しょ、署長さん! い、いきましょう。犯人は指をかみきられているんです。て、鉄は熱いうちに打て……」  「ようし」  ふたりがもとの三つ股まではいだしたとき、奥から出てきたマリの一行に出会った。  「あっ、マリさん、康雄君、ちょうどいいところで会いました。あなたがたおうちへかえったら警察へ電話をかけてください。鐘乳洞のなかの逃げ水の淵……このあいだ古林君が殺された地底の河のほとりまで、すぐ二、三人警官をよこすようにと……」  金田一耕助の早口に、  「先生、な、なにかまたあったんですか」  と、田代は好奇心に眼をかがやかせる。  「ああ、いや、それはまたあとで……じゃ、康雄君、たのみましたよ。それじゃ、署長さん、急ぎましょう」  金田一耕助と神崎署長がとびだしたのは、矢部家の背後にある入口だった。  「金田一先生、それじゃあなたはかみきられたあの指のぬしを、宮田文蔵だと……?」  金田一耕助はそれに答えず、まっすぐに宮田文蔵の住居のほうへ進んでいく。まえにもいったように宮田文蔵は、矢部家の邸内にある物置きのようなところを改造して、そこにひとり住んでいるのである。  足音をしのばせるようにして、そのほうへ進んでいった金田一耕助と神崎署長は、その建物の障子にうつる影をみたとき、ふたたび脳天からくさびをぶちこまれたような大きなショックをかんじて立ちすくんだ。  だれかが天井からぶらさがっている。……上半身はみえなかったが、宙にぶらりとぶらさがった二本の脚が、窓の障子にうつっている。  金田一耕助と神崎署長がなかへとびこんだとき、宮田文蔵は天井を張ってない物置きのような部屋の梁に、ふとい綱をひっかけて、みずから縊《くび》れて死んでいたのである。  喰いきられた左の小指からポタポタと血を落しながら。…… 大団円  ながい、いやな夏もおわって、九月ともなればもう東京にも秋風が立ちはじめた、その年は残暑がわりにみじかくて、このぶんだと思ったよりはやく秋がきそうだと、新聞にも書いてあった。  そういうある日、金田一耕助は鮎川マリのたっての招待で、帝国ホテルへ彼女を訪れた。  できることなら金田一耕助はこの訪問を回避したかったのだ。しかし、マリからの再三の要請をむげに退けることはできなかったし、それに、そのためにはるばる故国を訪れた彼女の心中を察すると、このまま頬冠りでとおすわけにもいくまいと、とうとう意を決して彼女を訪問したのである。  「いらっしゃいまし。しばらくでした。その節はいろいろと……」  と、彼女が借りているホテルの豪奢な一室へ、金田一耕助をむかえたとき、マリはあいかわらず匂うばかりにうつくしかった。  「いやあ、どうも、あのときはいろいろ失礼いたしました。河野先生もお元気で……カンポ君も……」  こういう部屋に不似合いな、よれよれのきものによれよれの袴といういでたちの金田一耕助を、河野朝子も従者のカンポも、いかにもなつかしげにむかえる。  人間というものは不思議なものである。あの恐ろしい事件をともにしたということが、ひとつの同志愛的な結合をもたらすのかもしれない。そこにしぜん温かな感情が交流して、話もおのずからはずむというものである。  「それはそうと、新聞でその後の消息は拝見していたんですが、いろいろとたいへんだったでしょう」  「ええ、たいへんといえばたいへんでしたわね」  と、すべての屈託を忘れたのか、マリはあでやかな微笑を口許にきざみながら、  「ほんとうを申しますと、先生にもうしばらくいていただきたかったんですのよ。父と娘の名乗りあい、祖母と孫との対面、腹ちがいの姉と妹、いとこ同士の名乗りあいなど、ずいぶん盛りだくさんあったんですけれど、先生たらそのまえに、さっさと東京へ逃げておしまいになるんですもの」  「いや、いや、そういうことはわたしの柄じゃない。しかし、まあ、おめでとうございました。みなさん、およろこびになったでしょう」  「はあ、……ありがとうございます。ああ、そうそう、父をはじめみなさんからくれぐれもよろしくとのことでございました」  「はあ、いや、どうも。ろくすっぽご挨拶も申上げずに引き揚げてしまったものですから、みなさん、さぞ気を悪くしていらっしゃるだろうと思って……」  「いえ、そんなことはございませんけれど、それについてお伺いしたいこともございますもんですから。……河野先生、カンポ、ちょっと金田一先生とふたりだけで、お話し申上げたいことがあるんですけれど……」  マリの言葉に河野朝子とカンポはすぐ、つぎの部屋へひきさがった。  こちらの話を立ちぎくようなふたりではなかったけれど、それでもマリは念のために、みずから立ってドアをしめると、金田一耕助のまえへかえってきて、  「先生、お話しくださるでしょうねえ。事件の真相を……」  と、真正面からきっと金田一耕助の瞳を視すえる。  おいでなすったな!  と、心中どきりとしたものを感じながら、しかし、金田一耕助は視線をそらすこともできず、  「事件の真相って明々白々じゃありませんか。ああして犯人がりっぱに遺書までのこして自殺したんですからね」  宮田文蔵はみずから縊れるまえに、告白状を書いていたのである。  それによると、矢部杢衛から峯子にいたるまでの一連の殺人事件は、全部おのれのなすところであるということであった。そしてその動機はこうであった。  杢衛を殺したのは、矢部家の事業をおのれのものにしたかったせいであるという。ところがその現場を古林徹三にみられたらしいので、かねて不安をかんじていたところ、果して洞窟狩りの日、古林から脅迫をうけたので、これまた思いきって殺してしまった。そして、さいごの峯子殺しについてはつぎのごとく記してあった。   鮎川マリから金田一耕助にあてた手紙を盗み読んで、じぶんはマリが重大な証拠をにぎっていることをしった。しかも、マリは単身底なし井戸へいくという。じぶんはマリを殺害するつもりだったが、失敗して逃げかえる途中、ばったり出会ったのが峯子であった。峯子はかねてからじぶんの挙動を怪しんでいたので、様子をうかがいにきたのである。そのときのじぶんはもう鬼であった。悪魔であった。じぶんはおそれおののく峯子を逃げ水の淵へひっぱりこんだ。   そしてとうとう絞め殺してしまったが、絞め殺しただけでは息を吹きかえすかもしれないと思ったので、鐘乳石でひとえぐり、えぐっておいたのである。   しかし、いまこうしておのれの住居へかえってきて落ちついてみると、もはやおのれの罪ののがれがたいことを思いしった。峯子を絞め殺すとき、じぶんはあれに指をかみきられたが、これ以上のたしかな証拠があろうか。なにもかもうまくいっていたのに、さいごの土壇場になって、こういう破目に立ちいたるというのも、これ運命のしからしむるところであろう。   いまみずから命を断つにあたって、この告白状をしたためるしだいであるが、万事はこのじぶん、宮田文蔵が犯せる罪であって、他のなにびとにも責任のないことを、ここに改めて神に誓うものである。 宮 田 文 蔵    「金田一先生」  と、マリはいくらか蒼褪めた頬に、やさしい微笑をうかべて、  「先生の崇高なお気持ちはよくわかります。しかし、それではあたしはどうなりますの」  「あなたがどうなるとおっしゃると……?」  「いいえ、あたしは母の潔白を証明したいがために、この日本へやってきたのでございますのよ。そして、あんなお茶番までやっていたんですのよ。ところが、宮田文蔵というひとの書置きどおりだとすれば、あたしの母の潔白は依然として晴れないんじゃございません? それじゃ、母があんまり気の毒ですし、またブラジルへかえっても、ゴンザレスの父になんと報告してよいかわかりませんのよ」  マリはしばらく黙っていたのちに、しずんだ調子でつけくわえた。  「先生、あたしはじぶんが残酷な女だということはよく存じておりますの。じぶんの母の潔白を証明しようとすれば、もうひとりの娘……しかも、あたしと父をおなじゅうする可愛い妹の母の罪をあばかねばならないのじゃないかと、せんからあたし、それを懼《おそ》れていたんです。そして、そのことについて、あたしいちおう、先生のご意見をうけたまわっておきたいんですの。あたし、なにを聞いてもブラジルにいる養父以外にはぜったいにしゃべりませんし、また、養父に話したら、それっきり忘れてしまうつもりなんですけれど……」  マリの懇願もむりからぬところである。しかし、金田一耕助に確信をもって話すことがあるだろうか。当事者のほとんどが死亡してしまって、いまではいっさいが空の空なのである。  「マリさん」  と、しばらくして金田一耕助は溜息をつくように話しかけた。  「二十三年まえの事件を蒸しかえして調査するということは、じっさい困難なことなのです。当事者が告白しないかぎりは、それをひっくり返すことも、あるいはそれをそのまま肯定して証明することだってむつかしいでしょう。しかし、こういうご返事では、おそらくあなたは満足なさいますまい。そこで、こんどぼくがしりえた、ごく些細なじじつだけを羅列しておきかせいたしましょう。あとはあなたがその聡明な頭脳で組み立ててください。それ以上のことはとてもぼくには出来そうにありません」  「金田一先生」  マリは蒼褪めた顔にまたやさしい微笑をうかべて、  「それでもけっこうでございます」  「はあ」  と、金田一耕助はたもとからハンケチをとりだすと、ねばつく掌をこすりながら、  「それでは二十三年まえに英二君が殺された日のことからお話ししましょう。当時、峯子さんはすでに矢部家へ引きとられており、また、古林君も夏休みを利用して矢部家へあそびにきていました。ところが、英二君が殺された時刻には、ふたりとも家にいなかったのです」  マリの眉がかすかにぴくりとうえへあがった。しかし、かしこいマリはそれについて、かくべつ言葉をさしはさもうとはせず、ただ熱心に話をきいている。  「しかも、古林君はその日のことについて……つまり帰宅した時刻についてぼくに嘘をつきました」  と、金田一耕助は古林の告白と、慎一郎の思い出話のあいだにある矛盾を語ってきかせると、  「と、いうことは……古林君がそういう嘘言をもって取りつくろおうとしたところをみると、その日の古林君の行動にうしろ暗いなにものかがあった証拠じゃないかと思われるのです。古林君はそのときどこへいってたとは話しませんでした。いっぽう峯子さんは、英二君の急死をしらせる使いがくるまでは、岡林の町にある親戚の家にいたといってましたが、おそらく……」  「おそらく……?」  金田一耕助がちょっとためらいの色をみせるのを、すかさずマリが切りこんできた。  「いや、なに、当時はあなたのお母さんが犯人だとばかり信じこまれていましたから、おそらくふたりにたいして、アリバイ調べなんかなかったろうと思うんです」  マリはすすり泣くような吐息をもらして強くうなずいた。  「さて、二十三年まえのことはこれだけですが、こんどの事件のさいしょの晩です。あれは土曜日の晩でしたね」  マリは無言のまままたうなずいた。  「ところが、土曜日の晩は宮田文蔵氏が、いつも岡林の町の愛人のところへ出向いていって、夜おそくでないとかえらないのです。しかも、あの晩はあなたのお祖父さん、お父さん、妹さんもパーティへ出席しましたから、あとには峯子さんと古林君しかいなかったのです」  マリは眼をかがやかしてまたこっくりとうなずいた。  「さて、そのつぎは洞窟内の出来事ですが、まずさいしょにわれわれは、古林君に出会いましたね」  「ああ、あれはやっぱり古林というひとだったのですか」  「ええ、そう、これは古林君じしんが認めましたからたしかです。ところが、そのときのあなたのお祖父さんのおどろきたるや非常なものだったのです。久しぶりに満洲からかえってきた、親戚のものを思いがけなく洞窟のなかで見つけた……と、ただそれだけのおどろきじゃなかったと思うんです。もっと、もっと深刻なおどろき……」  「わかりました。矢部の祖父はそのとき古林というひとといっしょに、都さんのお母さんのすがたを……」  「いや、いや、マリさん、そこまでは……」  「失礼しました」  と、マリはかるく頭をさげると、  「それじゃ、あとをおつづけください」  「それから、あとはあなたもご存じのとおりです。矢部のご老人が殺害されたとき、たしかにだれか女がその場にいあわせたはずですね。われわれはみんな女の悲鳴をきいたのだから……」  マリは強くうなずいて、なにかいおうとしかけたが、そのまま口をつぐんで金田一耕助のあとの言葉を待っている。  金田一耕助はものうげにもじゃもじゃ頭をかきまわしながら、  「宮田文蔵氏の遺書にはその点にふれてなかった。それがあの遺書の弱身といえばいえましたね。そのほかはわりにうまくできていたのだが……」  と、ひとりごとのように呟いて、それから急にことばをかえて、  「いや、ま、それはそれとして、さてそれから古林君が第三の入口へむかう洞窟のなかでニコラ神父にとっつかまったんですが、ここにふたつの疑問がわいてくる」  「ふたつの疑問とおっしゃいますと……?」  「まず第一に、古林君はどうしてその洞窟をしっていたか……古林君は英二君の事件があってからまもなく、日本をはなれて満洲へわたっている。そして、それ以来射《い》水《みず》とは絶縁状態になっていた。しかも、あの教会の背後に出る第三の入口は、英二君が殺害されてから、一年ほどのちになって発見されたということになっている。それを古林君がどうしてしっていたか……と、いうことですね」  マリは思慮ぶかくうなずきながら、  「当然、だれかつれがあったのではないかということが考えられるわけですね」  「ええ、そう、このばあいは明かにつれがあったらしいんですが、しかし、いろいろのことを考えあわせると、古林君は二十三年以前に、すでに第三の入口の存在をしっていたんじゃないかと思われるんです」  マリはちょっと驚いたように眼を見張って、  「それはどういう意味で……?」  「いや、英二君が殺されたとき、古林君とそのつれが洞窟のなかにいたとしたら、そのひとたちはどこから洞窟を這いだしたか……矢部家のほうは慎一郎さんが見張っていた。まさか、玉造家のほうへ出る勇気はなかったでしょう。と、すると第三の入口しかないわけです」  「ああ!」  と、マリはとつぜん立ちあがって、二、三歩部屋のなかをいきつもどりつしながら、  「それじゃ、あのひとたちはその時分から、教会のうらへぬけるみちをしっていた。と、すれば、あたしの母もそちらから、逃げだしたのではないかという疑問を、もっていたにちがいございませんわね」  「しかし、ふたりとしてはそれはいえなかったわけですね。一年のちに他のひとによって、その抜道が発見されるまでは。……だからあなたの祖父の杢衛さんが、あなたのお母さんがそちらの道から逃げだしたのではないかという疑問を抱きはじめたのは、おそらく峯子さんに吹きこまれたのだろうと思うんです」  マリはうなずきながらまたもとの席へもどって、  「それで、あの晩、祖父が殺された晩、古林というひとにつれがあったのはたしかだとおっしゃいましたが、それはどういう意味……?」  「ああ、いや、それはこうです。古林君が第三の洞窟の途中でニコラ神父にとっつかまった前後の事情を、神父さんに詳しくきいてみたんですが、古林君はあのとき、神父さんに見つからずにすまそうと思えば、すますことができたようです。それをわざと神父さんにとっつかまったというのは、そのすきに、同伴者を逃がすためじゃなかったかと思われる節があるんです」  マリの眉がまた大きくつりあがった。  「そして……そして、それからまもなくあのひとが……峯子さんというひとがあたしのパーティに顔を出したんですね」  金田一耕助は憂鬱そうにうなずいて、  「このことは臆測だけじゃなく、時間的にも一致しそうですね」  「アリバイ……をつくるためだったんですのね」  と、マリはしゃがれたような声で呟くと、はげしく身ぶるいをした。  金田一耕助は憂鬱そうな眼をしたまま無言でひかえていたけれど、あえて否定しようとはしなかった。  「それから、そのつぎが……あの鐘楼の影という順序になるんですのね」  「ええ、そう、そろそろ犯人があなたのトリックにひっかかってきたわけですね。古林徹三を殺すまえに、もういちど架空の鮎川君江……犯人はまだそれが架空の人物とはしらなかったものだから……その人物の実在を印象づけておこうという魂胆だったんでしょう。だから、いわばあの出来事は古林殺しの前奏曲だったわけです。あくまで殺人の罪を鮎川君江におしつけようという……ここで犯人は完全に墓穴を掘ったわけですね」  それからしばらくふたりのあいだに、味の濃い沈黙がながれた。それはマリにとっては勝利の思い出でもあるのだろうが、またいっぽうからいえば悔恨の種でもあったろう。じぶんの投げかけたトリックの網に、犯人がひっかかったまではよかったけれど、そのためにひとひとりの命がうしなわれたのだから。  ながい沈黙ののちに、  「しかし、あの宮田文蔵というひとの役割は……?」  と、マリはとうとう最後の疑問にふれてきた。  宮田文蔵のことを考えると、金田一耕助も胸がいたむらしい。  「あのひとが……」  と、ちょっと嗚咽するような調子で、  「われわれの眼前に大きくクローズ・アップされたのは、古林徹三が殺された晩のことでした」  と、金田一耕助が女の靴跡を消して歩いた宮田文蔵の奇怪な行動について語ってきかせると、マリは両手をにぎりしめて息をのんだ。  「ああ! それじゃそのとき宮田文蔵というひとは、はじめて犯人がだれであるかをしったんですのね」  それからまたふたりはながい沈黙の世界におちこんだが、しばらくしてマリがしいて元気をふるいおこすように、  「金田一先生、ここでは感傷をすてましょう。そして、あたしがいま先生からうかがったことを土台にして、ひとつの話を組立ててみますから、もしちがっているところがあったら指摘してください」  マリはそういってからちょっと思索をまとめようとするかのように、しばらく言葉をきっていたが、やがて暗《あん》誦《しよう》するような調子で語りはじめた。  「二十三年まえ、英二さんというひとが殺されたとき、たまたま峯子さんと古林徹三も鐘乳洞のなかにいました。ふたりがそこでなにをしていたか、そこまで想像をたくましうするのはひかえましょう。さて、英二さんはまずあたしの母をつかまえました。そして、矢部家へひったてようとしました。母はそれをふりきって逃げましたが、そのとき、片袖をもぎとられて、それが英二さんの手にのこりました。英二さんはその片袖をもって矢部家へかえる途中で、はからずも峯子さんと古林に出会いました。……」  マリはそこでちょっと身ぶるいをしたが、すぐまた抑揚のない調子でつづける。  「峯子さんとしてはそんな場所で男とふたりいるところを、英二さんに見られたということは非常な不利でした。そこで、鐘乳石で英二さんを刺しころしてしまいました。峯子さんがやったのか、古林が手をくだしたのか、いまとなってはそれをたしかめるよすがもありませんが……」  マリはそこまで語ってから、金田一耕助の顔色をうかがったが、耕助はそれにたいして否定もしなければ肯定もしなかった。  マリはそれに勢いをえたように語りつづける。  「そして……そして、ふたりはその当時、一般にはまだしられていなかった第三の入口から外へぬけだしたので、だれもふたりが鐘乳洞のなかにいたことをしるものはなく、完全に疑惑の外におかれていました。……以上が二十三年以前の事件の真相でございますわね」  そこでマリはまたちょっと、金田一耕助の顔色をうかがったが、あいては依然として無表情である。いや、その無表情の底にはふかい悲しみが培養されているのである。  「さて、星移り月変りここに二十三年の歳月がすぎました。古林徹三はなにもかもいっさいをうしない、無一物同様になって矢部家をたよってまいりました。古林徹三の武器というか、財産というか、それは二十三年以前の峯子さんの秘密であったでしょう。そこであの土曜日の晩、うちじゅうのものすベてが留守になったのをさいわいに、峯子さんを強要して鐘乳洞のなかへつれこみました。おそらく峯子さんをして、二十三年まえの事件の記憶を深からしめて、じぶんを粗末にしないようにという一種の脅迫だったのではないでしょうか。ところがはからずもそこへ矢部の祖父が入ってきたので、ふたりはおどろいて底なし井戸のそばまで逃げました」  マリはそこでちょっとひと息いれると、  「そのとき、ふたりがすぐに第三の洞窟の入口を発見し、そちらのほうへ逃げていれば問題はなかったと思います。しかし、あの入口はしごく小さいし、それにふたりともしばらくぶりだったので、その入口を発見するまでにはちょっと手間がかかりました。そこへ暗がりのなかへたれかがちかづいてきました。ちかづいてきた人間はそこで扮装をこらしてカンテラをつけました。ふたりはそれをみて、かつてじぶんたちが無実の罪におとしいれた朋子だと思いあやまりました」  マリはそこではげしく身ぶるいをすると、  「母に扮装したあたしは、そこにかつて母を罪におとしいれたふたりの人物がひそんでいて、じぶんでも思いもかけぬ効果をそのひとたちに投げかけていようとは夢にも思いもうけませんでした。そこで、ころあいをはかって扮装をとき、カンポをつれてもときた路へひきかえす途中で、矢部の祖父とすれちがいました。矢部の祖父はそのまま底なし井戸のそばまで走って、そこで峯子さんと古林を発見したのでしょう。そして……そして、そこに二十三年まえとおなじことがくりかえされました。峯子さんか古林のどちらかが、矢部の祖父を突き刺したのです」  マリはそこで吐息とともにことばをむすんだ。  そして、しばらく両手で顔をおおうているのは、乙奈と杢衛のあの腸もついえんばかりの、名残りのシーンを思いだしているのではあるまいか。感傷をすてたといっても、そこは年若い娘のことである。父方の祖父と母方の祖母の、あの劇的な場面はながくマリの記憶にとどまって、終生消えることはあるまい。  「金田一先生」  しばらくするとマリは涙にぬれたような眼をあげて、  「それからあとのことは蛇足になりますから省略するとして、ただひとつお訊ねしたいことがございますの」  「はあ、どういうことですか」  「宮田文蔵というひとの遺書によると、あのひと、あたしから先生に差上げた告白書……と、いうよりは先生の要請によって書いた告白書を盗み読んだとありましたが、峯子さんというひとも、それを読んだ形跡がございましょうか」  金田一耕助はしばらく黙っていたのちに、かすかにうなずきながらこう答えた。  「ぼくは射水の町を立去るとき、ふたつのものを用意していました。峯子さんの指紋と宮田文蔵氏の指紋とを。……どちらもこっそり死体からとっておいたものです。東京へかえってから、おなじ指紋があなたの告白書のうえにあるかどうか、専門家に調べてもらいました。どちらもはっきりのこっていました」  マリはすすりなくような声を鼻からもらして、  「それじゃ、やっぱり峯子さんも……」  「いや、順序からいえば峯子さんのほうがさきでしょう。ぼくは峯子さんに読ませるようにしむけたのだから。その峯子さんが盗み読みしているところを文蔵氏がみた。それでじぶんもあとからこっそり読んでみたのでしょう」  「それでは文蔵さんの遺書にあった、峯子がじぶんを怪しんであとからこっそりつけてきた……と、いうのは逆にかんがえてもよろしいのでしょうねえ」  金田一耕助は力なくうなずいて、  「たぶんあなたのおっしゃるとおりでしょう。そして、もしそうだったら、そのとき、文蔵氏は峯子さんを殺害する決意をしていたのでしょうねえ。ああして、峯子さんの浴衣から帯から下駄から……」  と、金田一耕助はちょっといいよどんで、  「腰のものまで用意してきたところをみると……」  「それは……」  と、マリは鼻をつまらせて、  「どういう意味だったのでしょう。峯子さんを殺害したあとで、着物まで着更えさせておいたというのは……?」  金田一耕助はとつぜん兇暴ともいうべき眼をマリにむけた。そして、いままで抑えつけていた感情が、とつぜん奔り出たように強い調子でひと息にいってのけた。  「それはいうまでもない。峯子さんのやったことをあくまで世間からかくしておくためだったのです。それではなぜにそのようなことをやったか。あのひとは……宮田文蔵というひとはこのうえもなく都さんを愛していたんです。だから、都さんのために……都さんの将来のためにそれをやったんです。殺人者を母にもつ娘よりも、殺人者を伯父にもつ姪のほうが、まだしも都さんの将来のためにいいだろうと思ったからです。これが日本人のもつ愛情、自己犠牲なのです。わかりましたか」  それだけいうと金田一耕助は椅子から立ちあがった。そして、マリがとめようとすることばも待たずにドアから外へ走り出していた。  それから三日ののちに、金田一耕助はマリから一通の手紙と小さな小包みをうけとった。  手紙にはこういう意味のことがしたためてあった。  このあいだはたいへん失礼した。じぶんの詮索癖、あまりにも度を過した詮索癖が先生の感情を害したようで、まことに申訳なく思っている。ことに先生の最後におっしゃったことばはあたしの心臓をつらぬいた。あのおことばを終生忘れぬようにしようと思う。それはさておき、先生がとつぜんかえられたので、じぶんは射水の町を去るとき、矢部の父とのあいだに取りかわした約束を果すことができなかった。矢部の父は先生をお招きしながら、なんの謝礼もしなかったのを気にしていた。だから、じぶんが東京でお眼にかかって、適当のお礼をするであろうと約束してきたのである。いま父との約束を果すために、小包みで粗品お贈りしたから、なにとぞわれわれの意のあるところを汲んで快く納めてほしい。……云々。  と、あって小包みのなかから出てきたのは、ゆうに二カラットはあるであろうと思われる上質のダイヤだった。  金田一耕助はおどろいてホテルに電話をかけてみたが、支配人の返事によると、マリはきのう羽田からアメリカ経由でブラジルへ発ったという。…… 人面瘡 一  「警部さん、警部さん、もし、磯川警部さん、恐れいりますが、ちょっと起きてくださいませんか。もし、磯川警部さん」  障子のそとから気ぜわしそうに呼ぶ声に、やっとうとうとしかけていた金田一耕助は、はっと浅い夢を破られた。  じぶんを呼んでいるのかなと、寝床のうえで半身起した金田一耕助が、片《かた》肘《ひじ》をついたまま聞き耳を立てていると、ふたたび、  「警部さん、警部さん、もし、磯川警部さん、ちょっと……」  と、切迫した男が障子のそとで喘《あえ》ぐようである。それは金田一耕助を呼んでいるのではなく、枕《まくら》をならべてそばに寝ている磯川警部を呼んでいるのである。  若い男の声で、だいぶんせきこんでいるようだが、かんじんの磯川警部は寝入りばなとみえて、灯りを消した座敷のなかで健康そうな寝息がきこえる。  金田一耕助が枕下の電気スタンドをひねると、陽にやけた磯川警部の顔がはんぶん夜具に埋まっていた。みじかく刈った白髪が銀色に光って、地頭がすけてみえている。  「警部さん、警部さん」  と、金田一耕助が寝床から体をのりだして、  「起きなさい、起きなさい。だれかがあなたを呼んでいらっしゃる」  と、蒲《ふ》団《とん》のうえから体をゆすると、磯川警部ははっとしたように眼を見開き、  「えっ!」  と、下から金田一耕助の顔を見ていたが、急に寝床のうえに起きなおると、  「先生、な、なにかありましたか」  「いや、わたしじゃありません。縁側からどなたか呼んでいらっしゃる……」  「えっ?」  と、寝間着にきてねた浴衣のまえをつくろいながら、磯川警部が縁側のほうへむきなおると、障子の外に懐中電灯をもった男の影がちらちらしていた。  「だれ……? そこにいるのは……?」  「ぼくです。警部さん、貞二です。ちょっとお願いがあってまいりました。恐れ入りますがこっちへ顔をかしてくださいませんか」  「なあんだ。貞二君か」  と、磯川警部は寝床から起きあがると、黒いくけ紐《ひも》を締めなおしながら、  「いったい、どうしたんだい、いまごろ……?」  と、障子の外へ出ていった。  貞二君というのは宿のひとり息子である。  金田一耕助はそのうしろ姿を見送っているうちに、ふっと夜更けの肌《はだ》寒《ざむ》さをおぼえたので、夜着をひっぱってふかぶかと寝床のなかにもぐりこんだが、うとうとしかけているところを起されたせいか、なかなか寝つかれそうになかった。  障子の外では磯川警部と貞二君が、なにか早口にしゃべっていたが、やがて警部が障子のすきから顔をのぞけて、  「金田一さん、ちょっと母屋のほうへいってきますから……」  「ああ、そう、なにか……?」  「はあ、貞二君の話によると、なにかまたやっかいなことが起ったらしい。ひょっとすると、またお起しするようなことになるかもしれませんが、それまではごゆっくりとお休みください」  「金田一先生、夜分お騒がせして申訳ございません」  と、貞二君も磯川警部の背後から顔をのぞけた。  「いやあ……」  と、金田一耕助が寝床のうえから半身起して、ショボショボとした眼で笑ってみせると、  「それじゃ、警部さん」  「ああ、そう」  と、磯川警部が障子をしめると、やがてふたりの足音があわただしく、離れの縁側から渡り廊下のほうへ遠ざかっていった。  いったい何事が起ったのか——と、金田一耕助が枕《まくら》下《もと》においた腕時計をみるともう二時を過ぎている。  耳をすますともなく聞き耳を立てていると、ひろい宿のむこうのほうで、なにかしら、ただならぬ気配がしている。宿のすぐうしろを谿《けい》流《りゆう》が流れているのだが、上流のほうで雨でもあったのか、今夜はひとしお岩を噛《か》む谿流の音が騒々しいようだ。  なにか事件があったとすると、それは宿のものか、それとも泊りの客か、いや、そうそう、宿の隠居のお柳さまというのが、半身不随でながく寝ているということだが、そのひとになにかまちがいでも起ったのではないか。たしかさっきの磯川警部と貞二君との立話のなかに、お柳さまという名が出たようだが……  と、そんなことを考えているうちに、金田一耕助はハッとさっき見た異様な情景を思い出した。  そうだ、ひょっとするとこの騒ぎは、さっきじぶんが目撃した、あの異様な光景となにか関係があるのではないか。……  それは一時間ほどまえのことだった。金田一耕助は便意を催して、寝床を出て廁《かわや》へいった。磯川警部はよく眠っていた。金田一耕助は廁に立って、いい気持ちで用を足しながら、なにげなく廁の窓から外をみていた。  今《こ》宵《よい》は仲《ちゆう》 秋《しゆう》名《めい》月《げつ》のうえに、空には一点の雲もなく、廁の外には谿流をこえて、奇岩奇樹が真昼のような鮮かさでくっきりとした影をおとしていた。  眉にせまる対岸の峰々も、はっきりと明暗の隈《くま》をつくりわけてそそり立っている。眼をおとすと、宿の下を流れる谿流が、月の光にはてしない銀《ぎん》鱗《りん》をおどらせて、そこからほのじろい蒸気がもうもうと立ちのぼっている。   名月にふもとの霧や田のけむり  柄にもなく金田一耕助はふと芭蕉の句を思い出したりした。  あれはたしか芭蕉の紀行文にあった句だが、いったいどこへの旅のおりの句だったか——と、ぼんやりそんなことを考えながら用を足していると、忽《こつ》然《ぜん》として、この静寂な俳句の世界へわりこんできた人物があった。  おや……?  と、用をおわった金田一耕助が身を乗りだすようにして瞳をこらすと、いま眼前にあらわれたのは女であった。  年齢は二十六、七であろう。  髪を地味な束《そく》髪《はつ》に結って、フランネルのようなかんじのする寝間着を着ている。月光のせいで、その寝間着がまっしろに見えた。いや、まっしろにみえたのは寝間着ばかりではない。髪も手も素足も(その女ははだしだった)……髪の毛さえも、白いというより銀色にかがやいていた。  それにしてもいまじぶん、若い女がどこへいくのだろう。……  金田一耕助はふしぎそうに、女の動きを眼でおっていたが、そのうちにハッとあることに気がついた。そして、にわかに興味を催したのだ。  その女のあるきかたに、尋常でないものがあるのに気がついたからである。まるで雲を踏むような歩きかただった。顔を少しうしろに反らし、両手をまっすぐに側面に垂れ、わき眼もふらずにひょうひょうとして歩いていく。その歩きかたにどこか非人間的な匂《にお》いがあった。  夢遊病者……?  金田一耕助は職業柄、夢遊病者に関する事件を、いままでに扱ったことも二、三度ある。なかには夢遊病者をてらった事件さえもあったのだが。……  しかし、じっさいに夢中遊行のその現場を、これほどまざまざと目撃したのはこれがはじめてである。金田一耕助は廁の窓からのりだすようにして、月光のなかをいくこの異様な女のすがたを見まもっていた。  女は左手のほうから現れたかとおもうと、廁から五、六間離れたところを横切って、宿の裏手から谿流のほうへおりていった。あいかわらず雲を踏むようなひょうひょうたる足どりで、磧《かわら》の石ころづたいに下流のほうへ姿を消していった。  彼女のいくてには稚《ち》児《ご》が淵《ふち》という、ふかい淵があるはずなのだが。……  女のうしろ姿が見えなくなると、金田一耕助はふっとわれにかえった。気がつくと全身がかるく汗ばんでいる。その汗が冷えるにしたがって、秋の夜更けの冷気が身にしみわたって、金田一耕助はおもわず身ぶるいをした。  このことを宿のものに知らせるべきかどうか。……  金田一耕助はちょっと迷ったが、けっきょく黙っていようと考えた。他人の秘事に立ちいることを懼《おそ》れたのだ。  若い女のこういう奇病を騒ぎ立てられるほど、当人にとっても身寄りのものにとっても、迷惑なことはないだろうと考えたのと、もうひとつには、夢遊病者というものに、案外、怪《け》我《が》のないものだということをしっていたからである。  だから、それから間もなくじぶんの部屋へかえってきた金田一耕助は、となりに寝ている磯川警部を起そうともしなかった。そのまま枕に頭をつけて、まもなくうとうとしはじめていたのだが。……  こういうふうに書いてくると、金田一耕助というこの男が、いかにも冷淡で、不人情な人間のように思われるかもしれないが、かならずしもそうでないことは、諸君もよくしっているはずである。  金田一耕助のように長いあいだ、いっぷう変った特殊な職業に従事している人物にとっては、人間の生命だの運命だのという問題に関しても、おのずから常人とちがった感情があるのもやむをえまい。  それに金田一耕助はそのとき事件に食傷気味でもあったのだ。  東京のほうでむつかしい事件を解決して、その骨休みにと思ってやってきたのが岡山だった。金田一耕助と岡山県との関係は、かれの探《たん》偵《てい》譚《たん》をお読みのかたはご存じと思うが、金田一耕助はこの土地のあたたかい人情風俗がたいへん気にいっているのである。  だから、東京の俗塵をさけた金田一耕助が、しばしの憩いの場所として岡山の土地をえらんだのはべつに不思議でもなんでもない。そこで岡山へやってきた金田一耕助は、さっそく県の警察本部につとめている、お馴《な》染《じ》みの磯川警部を訪ねていった。できれば警部にしかるべき静養地を紹介してもらおうという魂胆だった。  ところがあにはからんや、岡山で金田一耕助を待ちかまえていたものは、またしても厄《やつ》介《かい》千万な殺人事件であった。しかも、その事件の担当者が磯川警部とあってはただではすまない。  事件の捜査が暗《あん》礁《しよう》に乗りあげて、磯川警部が四苦八苦、苦慮呻《しん》吟《ぎん》しているところへ、ひょっこり金田一耕助がやってきたのだから、警部にとっては地獄で仏にあったも同然だった。金田一耕助がいやおうなしに事件のなかへ引っ張りこまれたことはいうまでもない。  金田一耕助は磯川警部にたいする友情としてもひと肌ぬがずにはいられなかった。さいわい三週間で事件の解決はついた。しかも、犯人が自殺してしまったので、磯川警部も事後の煩《はん》瑣《さ》な手続きから解放された。  そこで、そのお礼ごころに磯川警部が案内したのが、この薬《やく》師《し》の湯なのである。そこは岡山県と鳥取県の境にちかい、文字どおり草深い田舎だが、ここの湯は眼病に効《き》くというので、県下ではちょっとしられた湯治場になっているらしい。  磯川警部も一週間ほど休暇をとって、ゆっくりと金田一耕助につきあうつもりで、きょう昼間ここに旅装をといたばかりだったのだが。…… 二  「先生、金田一先生、もうおやすみですか」  電気スタンドの灯りを消して、金田一耕助がまたうとうととしかけているところへ、磯川警部がかえってきた。  「ああ、いや、まだ起きていますよ」  金田一耕助は寝返りをうって、電気スタンドのスイッチをひねると、  「警部さん、どうかしましたか」  「ああ、いや……」  と、金田一耕助の顔を見おろしながら、厚いてのひらでつるりと額を撫《な》であげる磯川警部のおもてには、世にも奇妙な色がうかんでいる。  金田一耕助と磯川警部はもうながいあいだの交際なのだ。だから警部の顔色をみると、金田一耕助にも事件の規模はわかるのだ。耕助は思わず寝床のうえに起きなおった。  「警部さん、なにか……」  「いや、先生」  と、警部は肉の厚い顔をしかめて、  「夜中はなはだ恐れ入りますが、ちょっと見ていただきたいものがあるんですが……」  「なにか事件ですか」  「はあ、こんなところまできて、また事件ではまことに申訳ないんですが、じつはカルモチンの自殺未遂なんです。ただし、そのほうの処置はいたしました。さいわい、発見がはやかったので、命はとりとめると思うんですが……」  物慣れた磯川警部は、カルモチンの自殺未遂ていどの事件ならば、医者がくるまでの応急処置くらいは心得ているのである。  「はあ、はあ、なるほど、それで……?」  「ところが、ここにちょっと妙なことがあって、それをぜひ先生に見ていただきたいんですが……先生にしてもごらんになっておかれたら、なにかの参考になりゃせんかと思うんですがな」  磯川警部の瞳には一種異様なかぎろいがある。それがなにか言外の奇妙な意味を物語っているようであった。  「ああ、そう、それじゃ……」  と、金田一耕助は気軽に立ちあがると、浴衣のうえからドテラを重ねた。さっきから見ると、またいちだんと冷えこむようだ。  田舎の湯治場などによくあるように、この薬師の湯もあとからあとから立てましたらしく、長い縁側や渡り廊下が、まるで迷路のようにひろがっている。外はあいかわらずよい月らしく、しめきった雨戸のすきから、鮮かな光がさしこんで、廊下のうえにくっきりとした縞目をつくっている。足の裏にその廊下の感触がひんやりとつめたかった。  磯川警部の案内で、長い縁側や渡り廊下を抜けて、母屋の裏側にあたっている雇人だまりのまえまでくると、なかから灯りの差す障子の外に黒い影が立っていた。  立ちぎきでもしていたのか、その男は障子のなかのようすをうかがっていたらしいのだが、ふたりの足音をきくとあわててそこを離れた。そして、顔をそむけるようにして、ふたりのそばをすり抜けると、母屋のほうへ逃げていった。  すれちがうとき、金田一耕助がなにげなくみると、右の頬《ほお》におそろしい火傷《 や け ど》のひきつれのある男だった。  「なんだろう……? あの男……」  そのうしろ姿を見送りながら金田一耕助がつぶやくと、磯川警部もうさんくさそうに眉をひそめて、  「変ですねえ。宿の浴衣を着ていたから客でしょうが、やっこさん、ここでなかのようすを立ちぎきしていたんじゃありませんか」  「どうもそうらしいですね」  「頬に大きな火傷の跡かなんかがありましたね」  「そう、だから目印にはことかかない」  磯川警部はふっと不安らしく金田一耕助の顔をふりかえったが、すぐ思いなおしたように障子に手をかけて、  「さあ、どうぞ、この部屋です」  障子をあけるとそこは六畳、いかにも奉公人の部屋らしく、煤《すす》けてゴタゴタしたなかに寝床がひとつ敷いてあって、そこに女がひとり昏《こん》睡《すい》状態で横たわっている。  金田一耕助はその女の顔をみたとたん、思わずほほうっと眼をみはった。  それはたしかにさっきの女、金田一耕助が廁の窓から目撃した夢中遊行の女であった。さっきは夜目遠目でよくわからなかったが、こうしてちかくから見ると、透きとおるような肌をしたなかなかの美人である。  女の枕下には男がひとり、落着きのない、心配そうな顔色で坐《すわ》っていた。年頃は三十前後か、がっちりとしたよい体格をしているが、どこか神経質らしい男である。昏睡した女の寝顔を見まもりながら、しきりに唇をかんでいる。金田一耕助と磯川警部の姿をみると、少しあとへさがって窮屈そうに頭をさげた。  これが薬師の湯のひとり息子で、去年の秋、シベリヤから復員してきたばかりだという貞二君なのである。  「このご婦人は……?」  金田一耕助が女の枕下に腰をおろして、磯川警部をふりかえると、  「ここの女中さんで松代というんだそうです」  「カルモチンをのんだんだそうですね」  金田一耕助が貞二君のほうへむきなおると、  「はあ」  と、貞二君はかたわらの一《いつ》閑《かん》張《ば》りの机のうえにあるカルモチンの箱を眼でしめした。  金田一耕助が手をのばしてその箱を手にとってみると、なかはすっかり空になっている。  「どうして自殺などはかったのかわかっていますか」  金田一耕助が訊ねると、  「貞二君、先生にあれをお眼にかけたら……?」  と、磯川警部がそばから注意した。  貞二君はちょっと挑《いど》むような白い眼をして、磯川警部をにらんだが、やがてふてくされたように肩をゆすって、一閑張りの机のひきだしから、一通の封筒を取りだして、突きつけるように金田一耕助のほうへ差し出した。  金田一耕助が手にとってみると、封筒のおもてには万年筆の女文字で、御隠居さま、若旦那さまへと二行にわたって書いてあり、裏をかえすと松代よりとしたためてあった。かなり上手な筆蹟だが、ところどころ文字がふるえているのは、これを書いたときの筆者の心の動揺をしめすものだろうか。  「なかを見てもかまいませんか」  「どうぞ」  貞二君はあいかわらず、ふてくされたような調子である。  なかは女らしい模様入りの便箋で、そこになんの前置きもなく、いきなり、つぎのような奇妙な文句が、表書きとおなじ女文字で書いてあった。   あたしは今夜また由紀ちゃんを殺しました。由紀ちゃんを殺したのはこれで二度目です。病気のせいとはいえ二度も由紀ちゃんを殺すなんて、なんというわたしは恐ろしい女でしょう。由紀ちゃんの呪いはせんからわたしの腋《わき》の下にあらわれて、日夜、わたしを責めさいなみます。わたしはとても生きてはおれません。いろいろお世話になりながら、御恩がえしもできませず、かえって御迷惑をおかけいたしますことを、じゅうじゅうお詫び申上げます。 松 代      御隠居さま    若旦那さま  金田一耕助は眉をひそめて、注意ぶかく、二、三度その文面を読みかえしたのち、貞二君のほうをふりかえって、  「この由紀ちゃんというのは……?」  と、訊ねたが、貞二君が肩をそびやかしたきり答えなかったので、そばから磯川警部がかわって答えた。  「ここにいる松代の妹だそうです」  「やはりここにいるんですか」  「はあ、この春、松代をたよってきて、そのままここの女中に住込んだんだそうです」  「この手紙には松代君が今夜、妹を殺したように書いてありますが、なにかそういう気配でもあるんですか」  金田一耕助が訊ねると、磯川警部も渋面をつくって、  「さあ、それがよくわからないんですね。さっき松代君がにわかに苦しみ出したので、ほかの女中がびっくりして貞二君を呼びにいったんだそうです。そこで貞二君が駆けつけてくると、そういう遺書が枕下においてあった。それでいま手分けをして由紀子という女の行方をさがしているところなんですがね」  「それじゃ、まだ行方がわからないんですね」  金田一耕助が念を押すように貞二君のほうをふりかえると、  「はあ、まだ……とにかく家のなかにはいないようです」  と、貞二君は吐き出すような調子であった。  金田一耕助は改めてその貞二君の顔を見なおした。この男は松代という女の自殺未遂をどう思っているのか。多少なりとも不《ふ》愍《びん》がっているのか。それとも迷惑なこととして内心の怒りをおさえかねているのではないか。  どっちともとれる貞二君のそのときの顔色だった。  金田一耕助はふとさっき見た松代の姿を思い出していた。雲を踏むような足どりで稚児が淵のほうへおりていった、松代の奇妙な姿を脳《のう》裡《り》にえがきだしていた。  しかし、そのことについてはまだいうべき時期ではないであろうと差しひかえた。いずれ松代が覚《かく》醒《せい》したらそのことについてただしてみよう。  その松代は額にいっぱい汗をうかべて、寝苦しそうな荒い息使いである。顔色がびっくりするほど悪かった。  金田一耕助はまた改めて遺書の文面に眼を落して、  「それにしてもここに妙なことが書いてありますね。由紀ちゃんを殺したのはこれで二度目ですと。……これはいったいどういう意味でしょう。病気のせいとはいえ、二度も由紀ちゃんを殺すなんて……と、書いてありますが、松代君はまえにも妹さんを殺した……いや、殺そうとしたことがあるんですか」  金田一耕助は貞二君を見た。貞二君はあいかわらずふてくされたようすで、ふてぶてしくぶっきらぼうな調子で、  「松代は気が変になっていたんです」  「気が変になっていた……? なにかそういう徴候があったんですか」  「いや、いや、そういうわけじゃありませんが……」  と、貞二君はいくらかあわてた調子で、  「しかし、そうとしか思えないじゃありませんか。でなきゃそんな妙なことを書くはずがない。おなじ人間を二度殺す。そんなバカなことがあるはずがないじゃありませんか。だいいち、今夜、由紀子を殺したというのだって、どうだかわかったものじゃない」  「しかし、それじゃ由紀子さんはいまどこにいるんです。こんな時刻に若い娘が家のなかにいないというのはおかしいじゃありませんか」  そのときまた金田一耕助の脳裡には、ひょうひょうたる足どりで、稚児が淵のほうへおりていった松代の姿がうかんだが、かれはあわててそれを揉《も》み消した。  「なあに、どっかひとめのつかないところで寝ているか、それとも……」  「それとも……?」  「いやさ、だれか男と逢《あい》曳《び》きでもしているのかもしれませんよ。あっはっは!」  こういう場合としては、貞二君のその笑いかたには、なにかしらひとをゾッとさせるような毒々しさがあり、また多分にわざとらしかった。  金田一耕助は眉をひそめて、さぐるようにあいての顔色を見つめていたが、それでも言葉だけはおだやかに、  「いや、できればそうあってほしいものですね。ところで最後に、由紀ちゃんの呪いが腋の下にあらわれて……と、いうのはどういうわけですか」  「ああ、そのこと……」  と、磯川警部は膝をのりだして、  「じつはそれなんです、先生、あなたに見ていただきたいものがあるとさっき申上げたのは……貞二君、金田一先生に見ていただこうじゃないか」  「はあ……」  と、貞二君は答えたものの、その眼にはちょっと怯《おび》えたような色が走った。  金田一耕助はふしぎそうにふたりの顔を見くらべながら、  「なんです。その見てほしいとおっしゃるのは……?」  「いや、じつはこれなんですがね」  磯川警部が掛蒲団をめくるのを、貞二君は毒々しい眼で見つめている。  磯川警部は蒲団を胸までめくると、女の胸を左右にかきわけ、金田一耕助の眼のまえで右の腋の下をむき出しにした。  と、同時に金田一耕助は大きく眼をみはって、思わず息をはずませたのである。  女の腋の下にはもうひとつの顔がある。  もっとも大きさはふつうの人間の顔よりよほど小さく、野球のボールくらいである。しかし、それはたしかに人間の顔……それも女の顔のようである。  眼、鼻、口……と、死人のように妙にふやけた顔だったが、まぎれもなく人間の顔の諸器官を、のこらずそなえているではないか。 三  「金田一先生」  と、磯川警部は呼吸をのむように、  「よく小説や物語なんかに人《じん》面《めん》瘡《そう》というのがありますが、ひょっとするとこれがそうではないでしょうかねえ」  磯川警部のそういう声は、押し殺したようにふるえている。なんとなく咽《の》喉《ど》のおくがむずかゆくなるような声である。  金田一耕助はそれには答えず、無言のまま喰いいるようにその気味悪い腫《はれ》物《もの》を眺《なが》めている。  じっさいそれは世にも薄気味悪い腫物だった。土左衛門のようにぶよぶよとして、眉毛のあるべきところに眉毛がないのが、ある種の悪い病気をわずらっている人間の顔のようである。眼のかたちはありながら、眼球のあるべきところにそれがなかった。唇《くちびる》をちょっと開いているように見えるのだが、唇のあいだには歯がなかった。  ちょうどそれは彫《ちよう》塑《そ》家が人間の首をつくろうとして、なにかのつごうで途中で投げだしたような顔である。そういえばちょうど粘土細工のような顔で、色なども土色をしている。  金田一耕助がそっと指でおさえてみると、ゴムのようにぶよぶよとした手触りだった。  「ふうむ!」  金田一耕助はおもわず太いうなり声を吐き出すと、貞二君のほうをふりかえった。  「このひと、昔からこんなものがあったんですか」  貞二君はギラギラと脂のういたような眼をひからせながら、強く首を左右にふって、  「そんなことしるもんですか」  と、きたないものでも吐きすてるような調子である。  「しっていたら、そんな気味の悪い女、一日だって家におくことじゃありません。とっくの昔に叩《たた》き出してしまってまさあ」  と、恐ろしく残酷な口調でいったが、それでもさすがに気がとがめるのか、こんどは急に弱々しい口調になって、  「しかし、そういえばこの夏頃から、松代はほかの女といっしょに風呂へ入ることをきらって、いつも夜おそく、ひとりでこっそり入っていたそうです」  「そうすると、これが妹の由紀ちゃんの呪いというんですかねえ」  金田一耕助はもういちど、その奇怪な腫物を入念にのぞきこんだが、そのときそばから磯川警部が口をはさんで、  「いや、そういえばその顔は、どこか由紀子という娘に似てるようだと、ほかの女中たちがいってるんですがねえ」  金田一耕助はその言葉を聞いているのかいないのか、医者が難症患者を診療するような入念さで、その腫物をしらべていた。  と、そこへあわただしい足音をさせて、男衆らしい男がふたり、提灯をぶらさげたまま障子の外からとびこんできた。  「若旦那、たんへんです。たいへん……」  と、息を喘《はず》ませていいかけたが、そこにいる金田一耕助に気がつくと、はたとばかりに口をつぐんでたがいに顔を見合せている。  「いいんだ、いいんだ、万造」  と、貞二君はもどかしそうに腰をうかして、  「由紀ちゃんのいどころはわかったのか」  「は、はい……」  「いいんだ、いいんだ。こちらは構わないかたなんだ。由紀ちゃんはどうしたんだ。いったいどこにいるんだ」  と、まるで噛みつきそうな調子である。  「はい、あの、それが……」  「それがいったいどうしたというんだい。もっとはっきりいわないか」  「はい、あの、すみません」  と、万造はあまりすさまじい貞二君の権幕に、いっそうおどおど度を失って、  「あの……稚児が淵に死体となってうかんでいるんです」  「稚児が淵に死体となって……?」  貞二君ははじかれたように立ちあがった。金田一耕助と磯川警部はおもわずぎょっとした眼を見交わせた。  そして、つぎのしゅんかん三人の眼はいっせいに、そこに昏睡している松代のほうへ注がれた。それじゃやっぱり松代が殺したのか……?  「へえ、あの、しかも由紀ちゃんは、素っ裸で水のなかに浮いてるんです」  金田一耕助はしずかに女の胸をかくすと、磯川警部のほうをふりかえって、  「警部さん、あなたお出掛けになるんでしょう」  「はあ……あの、それはもちろん……」  「そう、それじゃわたしもお供しましょう」  「先生、どうも恐縮です。せっかく御静養にいらしたのに、またとんでもないことがもちあがっちまいまして……」  「いいですよ。ちょっと考えるところがありますから……」  金田一耕助は松代の顔から貞二君のほうへ視線をうつすと、  「貞二さん、君も出かけるんでしょう」  「はあ……そ、それはもちろん」  「そう、それじゃちょっと待っていてください。警部さんとふたりで支度をしてきますから……ああ、そうそう、それからこの患者ですがね。みんな出かけたあとで、うっかり意識をとりもどして、また無分別を起すといけませんから、だれか気の利いたものをつけておいてください」  「はあ、あの、それは大丈夫です。まもなく先生がきてくださると思いますから」  こういう山奥の湯治場だから、医者までそうとう遠いのである。  「ああ、そう、それじゃ、警部さん」  「承知しました。それじゃ貞二君、ちょっと待ってくれたまえ」  もとの座敷へかえって支度をするあいだも、磯川警部はしきりに恐縮していた。  「金田一先生、表はそうとう寒いですよ。そのおつもりでお支度をなさらなきゃ……」  「はあ、二重廻しを着ていきましょう」  「そうなさい。わたしもレーン・コートを着ていきますから」  磯川警部はそうとうくたびれた背広のうえにレーン・コート、金田一耕助は例によって例のごとく、よれよれのセルの袴《はかま》に足をつっこんだうえに、さいわい用意してきた合《あい》トンビを肩にひっかけて、もとの女中部屋へかえってくると、松代の枕もとに夜具をつみかさねて、肥《ふと》り肉《じし》の老婆がひとりよりかかっていた。  それを見ると磯川警部は眼をまるくして、  「おや、御隠居さん、あんたが付添いをなさるんですかな」  「はあ、あの……これがあまり不愍でございますから、せめてお医者さんがお見えになるまでと思って、貞二にここへつれてきてもらいました。そちらの先生もご苦労さまでございます」  半身不随のお柳さまは、重い口で挨《あい》拶《さつ》をすると、不自由なからだを動かして、それでもキチンと坐りなおした。  「ああ、そうそう、金田一先生、ご紹介しておきましょう。こちらがここの御隠居のお柳さま、御隠居、こちらがいつもわたしがお噂している金田一先生」  磯川警部はこの薬師の湯とは遠縁にあたっているとかで、祝儀不祝儀にやってくるので、この家の内情にはそうとう精通しているのである。  お柳さまが改めてくどくどと挨拶をするのを、金田一耕助がほどよく応対しているところへ、貞二君も支度をして出てきたので、万造をさきに立てて一同は薬師の湯を出た。  時刻はもう真夜中を過ぎて暁ちかく、なるほど外はそうとう冷えこむのである。月ももうだいぶん西に傾いていた。  稚児が淵は薬師の湯から直線距離にして、五、六丁下手に当っているが、これを街道づたいにいくと、道が曲りくねっているので二十分はかかるのである。しかし、お柳さまの隠居所のすぐ下をながれている谿流の磧《かわら》づたいに歩いていくと、わずか数分の距離だという。  それを聞いて金田一耕助は、磧づたいの道をいくことを提案した。  「先生、危いですよ。大丈夫ですか。石ころ道なんですが……」  「なあに、大丈夫ですよ。月が明るいから提灯もいらない」  磧へおりるまえにふりかえってみると、さっき金田一耕助がのぞいていた廁の窓が、すぐ鼻先に見えている。  松代もこの道をいったのだ。  月がもうだいぶん西に傾いているので、谿谷は片かげりになっているが、金田一耕助の歩いていく磧のこちらがわは、提灯の灯りもいらぬくらい明るいのである。  時刻はもう三時をまわっているので、二重まわしをはおっていても、山奥の夜の風は肌につめたかった。  金田一耕助は磯川警部と肩をならべて、わざと貞二君たちの一行と、すこしおくれて磧の石ころを渡りながら、  「警部さん、貞二君というのはどういうんです。松代という女にたいして、なにかおだやかならぬ感情をふくんでいるようですが……」  磯川警部もくらい眼をしてうなずくと、  「さあ、そのことですがね。わたしもちょっと意外でした。あれはむしろ貞二という男の、自責の念のぎゃくのあらわれじゃないかと思うんですがね」  「自責の念といいますと……?」  「いえね、貞二は後悔してるんですよ。松代にすまぬと思っているんです。しかし、男の意地として、すなおにそれが表明できないんでしょう。貞二というのは元来あんな男じゃない。わたしは子供のじぶんからしってますが、ごく気性のやさしい男なんです。もっとも、ちかごろ魔がさしたといえばいえますがね」  「貞二君はなにか松代に……」  「ええ、松代というのはいちど貞二の嫁ときまっていた女なんです。隠居もそれを希望し、貞二もひところは松代が好きだったはずなんです。それが、由紀子という妹があらわれてから、なにもかもむちゃくちゃになってしまったんです」  「貞二君は妹のほうが好きになったというわけですか」  「ええ、まあね。由紀子という女が貞二を横《よこ》奪《ど》りしてしまったんですね。話せばまあ、いろいろあるんですが……」  磯川警部はいかにもにがにがしげなくちぶりだった。  「ときに、警部さん」  しばらくしてから金田一耕助がまた口をひらいた。  「松代という娘のあの腋の下の奇妙な腫物ですがねえ。あなたはもちろんああいうこと、ご存じなかったんでしょうねえ」  「しりませんでした」  と、警部は身ぶるいをするように、大きな呼吸をうちへ吸うと、  「金田一先生、いったいあれはどういうんでしょう。人面瘡というのは話に聞いたことがありますが、なんだか気味が悪いですねえ」  「さっきの貞二君の話によると、松代君はこの夏頃から、ほかの女中といっしょに風呂へ入ることをきらって、夜おそくこっそりひとりで入浴していたといってましたね」  「そうそう、そんな話でしたが、それがなにか……?」  「いや、と、いうことは夏頃までは松代という娘も、ほかの女中といっしょに風呂に入っていたということになりますね」  「あっ、なるほど。すると、ああいういまわしい出来物ができたのは、夏よりのちということになるわけですね」  「そうです、そうです。いったい医者はあの腫物を、どういうふうに説明しますか。……とにかく変っておりますねえ」  金田一耕助はそれきり黙って考えこんだ。  しばらくいくと、磧はにわかにせまくなって、そこからはどうしても街道へあがらなければならなくなっている。  そのあがりくちで貞二君と万造が提灯をぶらさげて待っていた。そのへんから月の光と縁が切れて、むこうの山の陰へ入るのである。  街道へ出ると稚児が淵はすぐだった。  土地のひとが天狗の鼻と呼んでいる大きな一枚岩が、街道からすこし入ったところに張り出している。その下がふかい淵になっていて、土地のひとはそれを稚児が淵とよんでいる。  稚児が淵はいまはんぶんは月に照らされ、はんぶんは月にそむいて、明暗ふたいろに染めわけられて、しいんとふかい色をたたえている。  天狗の鼻の突端には、おとなの臍《へそ》くらいの高さに木《もく》柵《さく》がめぐらせてあり、その木柵のこちらがわに、五つ六つの人影が、なにか声高にしゃべっていた。  貞二君はそれを見ると急に足をはやめた。金田一耕助と磯川警部もそのあとから足をいそがせた。  「ああ!」  天狗の鼻の木柵は一部分凸型になってつきだしている。ひとをかきわけてその凸部へ踏み出した貞二君は、その木柵に手をかけて、淵のなかをのぞきこみながら、うめくような声を咽喉のおくから搾《しぼ》りだした。  金田一耕助と磯川警部も、貞二君の背後から淵のなかをのぞきこんだが、ふたりとも思わずあらい息使いをした。  月光に染め出された稚児が淵の、にぶく底光をはなつ水のなかから、針のような岩がいっぽん突出している。  土地のひとはその岩を稚児の指と呼んでいるが、その稚児の指のすぐそばに、女がひとりうかんでいる。しかも、その女は一糸まとわぬ全裸であった。月の光に女の裸身がまばゆいばかりにかがやいていた。  稚児が淵の水は、稚児の指をめぐって、ゆるやかに旋回しているらしく、女の裸身も木の葉のようにゆらりゆらりと、突出した岩の周囲をめぐるのである。月の光に女の裸身が、おりおり、魚の腹のような光を放った。  それは美しいといえば美しい、残酷といえばこのうえもなく残酷な眺めであった。  貞二君は爪も喰いいらんばかりに木柵をつかんで、やけつくような視線で女の裸身をみおろしていたが、とつぜん金田一耕助と磯川警部のほうをふりかえると、  「あいつだ、あいつだ、あいつがやったのだ!」  と、噛みつきそうな調子である。  「貞二君、あいつというと……?」  「火傷の男だ! 顔に火傷のひきつれがある男がやったのだ!」  「火傷の男……?」  磯川警部ははっとしたように、金田一耕助をふりかえったが、そのとたん、  「危い!」  と、叫んで金田一耕助が、貞二君の腕をつかんでうしろへひきもどした。  引きもどされた貞二君の腹の下から、木柵が一間あまり、大した音も立てずに、淵のなかへ顛《てん》落《らく》していったのである。  一同は茫然たる眼で、水面へ落下していく木柵をみつめている。 四  金田一耕助はまたいそがしくなりそうだった。  この男はよっぽど貧乏性にうまれついているとみえて、ゆっくり静養もできないように、いたるところに事件が待ちうけているらしい。ことにこの事件のばあい、かれはひとかたならぬ興味と好奇心にもえていた。松代の腋の下にあるあの奇怪な肉腫に、かれはこのうえもなく興味をそそられるのだ。  人面瘡。——  人面の顔をした肉腫に関する伝説は、日本にも中国にも、古くから語りつたえられている。なかには人面瘡が人間の声で歌を歌ったなどという、奇抜な伝説さえのこっているが、それらの多くはとるに足らぬ浮説で、科学的にはなんの根拠もなさそうだった。  たまたま、肉腫に生じた皺《しわ》や凸凹が、眼、鼻、口に符節しているところから、そのような伝説が生じたのであろう。  ところが、ゆうべ金田一耕助の見た人面瘡は、そんな怪しげなものではなさそうだった。  ふたつの眼は単純な皺などではなくて、はれぼったい瞼《まぶた》をひらけば、そこに水晶体の眼球があるにちがいないと思われた。  鼻も偶然の凸所などではなくて、不完全ながら、ふたつの鼻孔をそなえているように見えるのだ。  唇もいろこそ悪いが、たしかに人間の唇のようにみえ、それを開くとそのおくに、歯なみがあるのではないかと思われた。  それでいてその顔は、野球のボールくらいの大きさなのである。  南洋の土人のなかには、人間の生首を保存する方法をしっている種族がある。  それには頭《ず》蓋《がい》骨《こつ》を抜きとってしまうのである。頭蓋骨をぬかれた首は、野球のボールくらいの大きさに収縮するが、それでもなおかつ、もとの顔のかたちを完全に保っているのである。  金田一耕助もある大学の医学教室に、そういう生首の標本が保存してあるのをみたことがあるが、ゆうべ見た松代の人面瘡からうける感じは、そういう生首によく似ていた。  昨夜——と、いうより今暁思わぬ活躍をした金田一耕助は、明方ごろやっと眠りについて、眼が覚めたのは十一時ごろだった。  朝昼兼帯の食事をすませた金田一耕助が、縁側へ籐《とう》椅《い》子《す》をもち出して新聞を読んでいると、谿流の音にまじって、どこかで蝉がないているのが聞える。夜は冷えこむが日中はまだまだ暑いのだ。  新聞にはべつに変ったことも出ていなかった。金田一耕助はそれを小卓のうえに投げ出すと、ぼんやりとゆうべ見た人面瘡のことを考えていたが、そこへ磯川警部が庭のほうから汗をふきながらやってきた。  「やあ、お早うございます」  「お早う……と、いう時刻じゃありませんがね」  と、金田一耕助は白い歯を出してわらいながら、  「警部さんはゆうべ眠らなかったんでしょう」  「はあ。……でも、こんなこと慣れてますからな」  と、磯川警部は赤く充血した眼をショボショボさせながら、それでも元気らしく、金田一耕助のまえの籐椅子にどっかと腰をおろした。  「お元気ですねえ。警部さんは……ぼくはどうも睡眠不足がいちばんこたえます。意気地がないんですね」  「なあに、こちとらは先生みたいに脳ミソを使いませんからな。頭を使うひとにゃ睡眠不足がいちばん毒でしょう」  「ときに、検屍は……?」  「はあ、いますんだところです」  「死因は……?」  「解剖の結果をみなければ厳密なことはいえないわけですが、だいたいにおいて、溺死と断定してもよろしいでしょうねえ」  「解剖はいつやるんですか」  「きょうの午後、ここでやることになってるんですが……金田一先生」  「はあ」  「またお手伝いねがえるでしょうねえ」  「まあね。ぼくでお役に立つことでしたら……それはまあ、そのときのことにしましょう。ところで溺死ということにして、他殺か自殺か過失死か……と、いうことはまだハッキリしないわけですか」  「はあ、そこまではまだ断定できませんが、ここにちょっと妙なことがあるんです」  「妙なこととおっしゃると……?」  「あの稚児が淵の周囲のどこからも、由紀子の着物が発見できないんです」  「ほほう」  「あの女、まさかここから裸であそこまで、のこのこ出向いていったわけじゃないでしょうがねえ」  「なるほど、それは妙ですね」  「はあ、それから、もうひとつ妙なことがあるんです」  「もうひとつ妙なことというと……?」  「いや、あの顛落した木柵ですがねえ。あれはやっぱり鋭利な鋸《のこぎり》かなんかでひききってあったんです。つまりだれかがもたれると、淵のなかへ落ちるように仕掛けてあったんですね。しかも、鋸でひききったあとを、黒くぬってゴマ化してあるんです」  「なるほど」  「まあ、そういうところから見ると、他殺の匂いもするんですが、と、いって、由紀子がその罠《わな》に落ちたとも思えないんです。あなたもご存じのとおり、木柵は貞二君がもたれるまで、ちゃんとしていたんですからね。しかし、だれかがだれかを陥入れるために、あの木柵をひききってあったことはたしかですからね」  「なんだか複雑な事件のようですね」  「そうなんですよ。一見なんでもないような溺死事件に見えてますが、その底にはなにやらえたいのしれない複雑な事情がひそんでいるようです。だから、金田一先生」  「はあ」  「ひとつまたご協力願いたいんですが……」  「承知しました。それで、死体の状態は……?」  「それがまたふしぎでしてねえ」  と、磯川警部は眉をひそめて、  「あの稚児が淵というのは表面はあのとおりおだやかですが、水面下には岩がいっぱいあるんだそうです。しかも、底のほうにはかなり急な渦がまいているんですが、由紀子はその渦にまきこまれたとみえて、全身にひどい擦過傷をうけています。なかには肉のはじけたところもあり、そりゃ眼もあてられない死にざまです」  と、磯川警部はいまわしそうに眉をひそめて、  「もっとも、それらの傷はぜんぶ死後できたものですから、当人としてはべつに苦痛は感じなかったでしょうがねえ」  「このへんのひとたち、あそこで泳いだりすることがあるんですか」  「ああ、そうそう、そのことですがね。だいたい稚児が淵というのはいまいったとおり、そうとう危険な場所ですから、男はともかく女はぜったいに泳いではならぬと、昔からいわれているんです。女が泳ぐときっとたたりがあるというんですね。ところが由紀子という女がアマノジャクで、みんながとめると、よけい面白がって泳ぐというふうだったそうです。だから、いまにたたりがあるぞと、土地のものがいってるところへ昨夜の事件ですから、てっきり稚児が淵のぬしのたたりだというんですよ。田舎のものは単純ですからね」  「泳ぎにいって溺れたにしても、着物のないのが妙ですね。ああいうところで泳ぐばあい、だいたい着物をぬぐ場所はきまってるんでしょう」  「ええ、そう、きのう磧から街道へあがっていったでしょう。あの磧をもう少しいったところで、由紀子はいつも着物をぬいでいたそうですが、それが見当らないんですね」  「それで、溺死の推定時刻は……?」  「昨夜の九時ごろ……九時を中心として、前後に一時間くらい幅をもたせた時刻だろうというんですがねえ」  「すると、昨夜の八時半から九時半までのあいだということになりますが、そんな時刻に女が泳ぎにいくというのはねえ」  金田一耕助は昨夜、廁の窓から松代のすがたを目撃した時刻を思い出していた。  あれはたしか午前一時ごろのことだったが、してみると、あの時刻の松代の行動と、由紀子の溺死とのあいだには、直接にはなんの関係もないわけだ。  「ところで、松代は由紀子の死の責任がじぶんにあるように考えているようですが、その時刻……由紀子が溺死したと思われる時刻における松代の行動は……?」  「さあ、それが妙ですよ。昨夜、松代はわたしたちの座敷につききりでしたよ」  じつは昨夜、金田一耕助と磯川警部は名月を賞《め》でながら、柄にもなく運座としゃれこんだのである。その席には貞二君もつらなっていた。  「あの娘はおとなしくて目立たないから、先生はお気づきだったかどうですか、終始この座敷にいましたよ」  「いや、それはわたしも気がついてましたよ。じぶんも俳句が好きだとかいってましたね」  「ええ、そう、ですから、あの娘が直接手をくだして、由紀子を殺したというのはおかしいんです。なにかそこに事情があることはあるんでしょうがねえ」  「貞二君は火傷の男が怪しいとかいってましたね。ありゃ、いったいどういう男なんです?」  「ああ、あの男……あれは田代啓吉といって大阪からきてるんですが、由紀子の昔の識《しり》合《あ》いらしいんですね」  「なるほど、すると、由紀子を追っかけてきた……と、いうわけですかね」  「まあ、そこいらでしょうねえ。ときおり、由紀子とひそひそ話をしているのを見たものがあるといいますし、それに、あの男がきてから、由紀子はすっかりヒステリックになっていたと、ほかの奉公人たちもいってるんです」  「それで、その男のアリバイは……?」  「ところが、それがちゃんとあるんですね。女中がふたり宵から十二時ごろまで、あの男の部屋でおしゃべりをしていたというんです」  「なるほど、それじゃ……」  「ええ、それほどふかい馴染みでもない客のために、女中がふたりまで、偽証するとは思えませんしねえ」  「貞二君は昨夜、われわれといっしょにいましたねえ」  金田一耕助はしばらく黙ってかんがえていたが、やがて思い出したように、  「由紀子は昨夜、なにをしていたんですか」  「はあ、あの娘はちかごろ眼をわずらっていて、客のまえへは出ないことにしていたそうです。それに貞二との問題がこじれているところへ、なにかひっかかりのあるらしい田代という男がやってきたりしたので、すっかりヒステリーを起していたんですね。ちかごろはとかく部屋にひっこもりがちだったというんですが、まあ、そうでなくてもムシャクシャしているところへ、眼が悪くなっちゃ、いっそう憂うつになるわけでしょう」  「ここの湯は眼病にきくというのに、どうして眼をわずらったりしたのかな」  「それも稚児が淵で泳いだたたりだっていってますよ。田舎のものはたあいがありませんからね。あっはっは」  金田一耕助はゆっくりとたばこを吸いつけた。それからしばらくよく晴れた空へまいあがる、煙のゆくすえを眺めていたが、やがておもむろに磯川警部のほうへむきなおった。  「それじゃ、さいごに貞二君を中心とした、松代と由紀子の三角関係についてきかせていただきましょうか」  「承知いたしました」  金田一耕助の質問に応じて、磯川警部の語って聞かせた事情というのは、だいたいつぎのとおりである。 五  松代が薬師の湯へ女中として住み込んだのは、昭和二十年六月、戦争がまだたけなわのころだった。  彼女ははじめから女中としてここへやってきたのではない。三月の大空襲で大阪を焼出された彼女は、ほとんど着のみ着のままの姿で、郷里の岡山県へ疎開してきたらしい。  しかし、当時の都会人と農村のひとたちとのあいだには、とかく意志の疏《そ》通《つう》をかいていた。農村のひとたちもいいかおをしていれば、つぎからつぎへと疎開してくる都会の連中に、喰いつぶされるおそれがあった。  物資でももっていればともかくも、松代のように着のみ着のままの疎開者は、農村としてももっとも迷惑な存在だった。けっきょくどこへいってもあたたかく松代を迎えいれてくれる家はなかったらしく、彼女はまるで乞食のように諸処方々を転々しなければならなかった。  そして、絶望のあまり自殺一歩手前の心境で、辿《たど》りついたのがこの薬師の湯である。  当時、薬師の湯は軍に徴用されて、傷病兵の療養所になっており、いくら手があっても足りない状態だった。  そのじぶん女あるじのお柳さまはまだ達者だったが、良人はとっくの昔に故人になっており、ひとり息子の貞二君は兵隊にとられて満洲にいた。だから、しっかりもののお柳さまが三人の女中をあいてに、てんてこまいをしているところへ、ころげこんできたのが松代である。  お柳さまは一も二もなく松代をひろいあげて女中にした。猫の手も足りないくらいの当時の事情では、氏素姓、身許しらべなどしているひまはなかったのである。  使ってみると松代はかげ日《ひ》向《なた》なくよく働いた。  松代は口数の少い女であった。それとどっか暗いかげを背負うているような淋しいところがあるのが難だったが、気性のやさしい、細かいところまでよく気のつく、まめやかな性質が、女あるじのお柳さまの気にいった。  傷病兵たちのあいだでも人気があって、松代はひっぱりだこだった。淋しいところを難としても、松代は美人でとおるに十分な器量の持主だった。傷病兵の二、三から求婚されたという噂もあったくらいだ。  やがて戦争がおわって、薬師の湯が昔の経営状態にかえっても、松代はひまをとろうとしなかった。お柳さまもまた松代を手ばなそうとはしなかった。  お柳さまは日ましに松代がかわいくなり、いつか、貞二が復員してきたら……と、楽しい夢想をえがくようにさえなっていた。  ただ、それにたいして大きな障害となったのは、松代の素姓がわからないことだった。  どういうわけか、松代はどんなに訊かれても、じぶんの素姓を打ちあけようとしなかった。故郷が岡山のどこなのか、大阪でなにをしていたのか、いっさい口をつぐんで語ろうとはしなかった。  あんまりしつこく訊くと泣き出すしまつで、どうかすると熱を出して寝ついたりした。なにかしら過去について、よほどひとにしられたくないことがあるらしく、あんまりそれを追求すると、ひまをとって出ていきそうにするのだった。  それがお柳さまにとっては不安の種だったが、しかし、そのことを除いては、松代のすベてがお柳さまの気に入っているので、彼女に出ていかれては困るのであった。  松代が前身をひたかくしにしていることに、絶えず不安と危《き》懼《く》をかんじながらも、お柳さまはやはり松代にたいする信頼をうしなわなかった。  長いあいだ湯治宿を経営していて、いつも数人の奉公人を使ってきたお柳さまは、ひとを見る眼をもっているという自負があった。  だから、松代が過去をかくしているにしても、松代自身に罪科があろうなどとは思えなかった。なにかしら大きな不幸に見舞われて、それを口にするのを潔しとしないのであろうと、お柳さまはかえって松代をいとおしがった。  ことに昭和二十二年の秋、中風で倒れてからというものは、いよいよ松代が手ばなせないものになってきた。お柳さまが倒れたのは、やはり、いつ復員するともわからぬ貞二君の身を思いわずらったからであろう。  松代はじっさいよく働いた。お柳さまにもよく仕えてその面倒も見た。少しもいやな顔もせず、お柳さまのおしもの始末までした。  いっぽう温泉宿の経営も常態に復して、客もだんだん多くなった。松代はそのほうでも骨身を砕いてはたらいた。  いまでは松代は、薬師の湯ではなくてはならぬ存在になっていた。  そこへ待ちに待った貞二君がシベリヤから復員してきた。それが去年の秋のことで、お柳さまのよろこびはいうまでもないが、さらに彼女をよろこばせたのは、かねて彼女がいだいていた夢想が、どうやら実現しそうな気配になってきたことである。  貞二君はすさんでいた。苛《か》烈《れつ》な戦争から戦後の抑《よく》留《りゆう》生活が、貞二君の心をかたくなにし、すさんでとげとげしいものにしていた。その冷えきった魂に人間らしい温味を吹きこんでいったのは松代の存在だった。  貞二君は母のそばに意外にうつくしいひとを発見し、そのひとの母に対する献身的な、やさしい心使いのかずかずを見るにつけて、とげとげしく冷えきった心もしだいになごんでくるのを覚えた。  ちょうど春の氷がとけていくように、かれの魂にも愛情という暖い日差しが訪れてきた。ひかえめながらも、松代の貞二君をみる眼にも、しだいにもの思わしげないろがふかくなってきた。  お柳さまにとってはそれこそ思う壺だった。  若いふたりのあいだに愛情が芽生え、育っていくということは、年老いた母にとってはこのうえもない喜びであると同時に希望でもあったが、ここでも難点は松代の素姓がハッキリしないということだった。  薬師の湯は温泉宿とはいえ、由緒正しい家柄だった。どこの馬の骨とも牛の骨ともわからぬものを嫁にするわけにはいかなかった。ましてや、過去に暗いかげを背負うているとあってはなおさらのことだった。  それにもかかわらず松代は依然として、その過去について口をわらなかった。  このことが障害となって、三人が三人ともこの縁談に心がすすみながら、奥歯にもののはさまったような日がつづいた。  ところがそこへとつぜん、新しい事態がもちあがって、がらりと局面が一変した。それが由紀子の出現である。  ある日、とつぜん姉を頼って、由紀子がたよってきたときの、松代のおどろきようたらなかった。松代をあんなに信頼しているお柳さまでさえ、そのときの松代の態度ばかりは腑《ふ》に落ちなかった。妹が訪ねてきたというのに、松代はまるで幽霊にでも出逢ったように、まっさおになってふるえていた。いまにも気をうしなって倒れそうな眼つきをした。  しかし、由紀子はいっこう平気で、しゃあしゃあとしてこんなことをいっていた。  終戦後、じぶんは神戸や大阪のバーやキャバレーで働いていたが、どこへいっても思わしくないおりから、風のたよりに姉がここにいるときいたからとんできた。都会はもういやになったから、ここで女中に雇ってほしいと。  そうして由紀子はそのまま薬師の湯に住みついたが、この由紀子の口からはじめて松代の素姓がわかってきたのである。  松代はおなじ岡山県のO市でも、有名な菓子の司、福田家の長女にうまれた。  福田屋というのは江戸時代からながくつづいた老舗《 し に せ》で、そこで売出す宝饅頭というのは、岡山でもなだかい名物になっていた。ところが、戦争中砂糖の輸入が杜《と》絶《ぜつ》したころから、しだいに店が左前になって、いまではすっかり没落している。  松代はしかしそのまえから、神戸にある親戚の葉山といううちへあずけられていた。  葉山家の次男譲治というのと縁談がまとまっていて、松代はそこへ花嫁修業のためにひきとられていたのだ。当時、譲治は私立大学の機械科を出て、航空機会社の技師をしていた。  ところがそこへ福田家の没落がやってきて、にっちもさっちもいかなくなったところから、妹の由紀子も葉山家へあずけられることになった。  そこで葉山家では家が手狭になったところから、つい近所にもう一軒かりて、そこへまだ式はすんでいなかったけれど、譲治と松代を住まわせ、由紀子もそのほうへ預けられていた。  そこへ昭和二十年三月のあの大空襲がやってきたのだ。不幸にも葉山家のある付近一帯は猛火につつまれ、譲治は火にまかれて死んだ。そして、松代もそれ以来、ゆくえがわからなくなっていたというのが由紀子の話なのである。  お柳さまはこの話をきいてひどくよろこんだ。福田屋といえば薬師の湯に劣らぬ名家であった。そこの娘ならば家柄としても申分なかった。  ただ、お柳さまにとって腑に落ちないのは、なぜそのことを松代がひたかくしにかくしていたかということである。由紀子の話が真実とすれば、そこにはべつに秘密にしなければならぬ理由は、いささかなりともなさそうに思われる。それがお柳さまにとっては不思議であった。  しかし、それも考えようによっては、女のせまい心から、福田屋の娘ともあろうものが、温泉宿の女中などしていることを恥じたのかもしれない。  それともうひとつ考えられるのは、松代と譲治とのあいだに、もっと深い関係があったのかもしれない。たとえ婚約のあいだがらとはいえ、まだ式もすまぬうちに、そういう関係になっていたのを、ものがたい松代は恥として、それを知られることを恐れていたのではあるまいか。……  しかし、それもあいてが死んでしまったいまとなっては、なんの障害があろうか。むろん処女でないというのは残念だが、おたがいに好きあっていれば、それもたいして問題にはならないだろう。  そこでお柳さまは手をまわして、福田屋のことを詳しく調べてみたが、由紀子の話にすこしも間違いはなかった。  松代はたしかに福田屋の長女であり、葉山譲治という婚約者があったが、それも三月の神戸の大空襲で死亡したということも、ハッキリたしかめることができた。その譲治と肉体的に関係があったかなかったか、そこまではたしかめようもなかったが。……  これで貞二君との結婚に、なんの障害もないことになったので、お柳さまは大喜びだったが、そこへまた思いがけない障害が持ちあがって、お柳さまを失望のどん底へ叩きこんだ。  由紀子と貞二君がひとめをしのんで、おくの納《なん》戸《ど》や土蔵へひそむようなことが、おいおいひとめについてきた。  由紀子というのは姉とちがって、派手で、明るい美貌の持主だが、気性も大胆で、積極的だった。キャバレーやダンス・ホールを渡りあるいてきているだけに、男の心をかきみだすコケティッシュなところもたぶんにそなえていた。そういう女にかかっては、貞二君のごときはひとたまりもなかった。  由紀子は貞二君と姉との関係、お柳さまの気持ちなど、百も承知のうえで、貞二君を誘惑したらしい。  それ以来、薬師の湯にはいざこざが絶えなかった。お柳さまと由紀子とはことごとにいがみあった。しかし、由紀子はお柳さまがどんなにいきり立とうと平気だった。  いちど関係ができてしまうと、貞二君はもう由紀子に頭があがらなかった。由紀子の歓心をかうために、貞二君は日夜きゅうきゅうたるありさまだった。貞二君をすっかり自家薬籠中のものにまるめこんだ由紀子は、じじつ上薬師の湯の女あるじとしてふるまった。半身不随のお柳さまなど眼中になかった。いわんや松代においておやである。  いちど貞二君の嫁として予定されていた松代は、またもとの女中の地位に蹴落されて、妹の虐使に甘んじなければならなかった。彼女は妹にどんなに口ぎたなくののしられても、黙々として立働いた。  貞二君は心中どう思っていたかわからない。あるいはお柳さまにすまない、松代に悪いと煩悶していたのかもしれない。しかし、貞二君のような気の弱い男は、いちど関係ができてしまうと、女に頭のあがらないものである。  由紀子とのあいだに夜毎展開される肉の饗宴が、貞二君の身も心もただらせ、すさませ、貞二君からすっかり理性をうばってしまった。どうかすると昼間から抱きあって、あたりはばからぬ法悦に、のたうちまわっているふたりの姿を、奉公人たちが目撃して、顔を赤くするようなことも珍しくなかった。  こうしてただれたふたりの関係が、一種異様な雰囲気を薬師の湯へただよわせているところへ出現したのが、あの顔半面に大火傷のある田代啓吉という男である。そして、そのことがまた局面を一変してしまったのだ。  一週間ほどまえ、田代啓吉という火傷の男が薬師の湯へやってきたときの、由紀子のおどろきといったらなかった。それはちょうど由紀子がはじめてここへやってきたときの、松代のおどろきにも似ていた。  由紀子はひどくおびえがちになり、ヒステリックになった。たまたま以前から患っていた眼病が悪化したことも手伝って、彼女はめったにじぶんの部屋から出なくなり、貞二君が押しかけていっても、まえのように媚《こ》びをたたえて迎えるようなことはなく、かえってぎゃくに、剣もホロロに追いかえした。  そのことが貞二君をいらだたせ、粗暴にし、なにかしら突発しなければやまぬような、険悪な雲行きになっているところへ持上ったのが、昨夜の由紀子の変死事件であった。……  「なるほど」  と、磯川警部の長い話をききおわった金田一耕助は、考えぶかい眼付きでうなずきながら、  「それで、貞二君は田代啓吉という男を疑っているんですか」  「そうです、そうです。ところがその田代にはアリバイがある……」  「いったい、その田代という男は由紀子とどういう関係があるんです。それはまだわかっていないんですか」  「はあ、それはあとで訊いてみようと思ってるんですが、由紀子がああなったいまとなっては、素直に泥を吐きますかね」  「ああして大火傷の跡があるところをみると、なにか空襲に関係があるんじゃないでしょうかねえ」  「いや、わたしもそれを考えてるんですがねえ」  「松代の婚約者だった葉山譲治という男は、三月の神戸の大空襲で死亡したということでしたねえ」  「はあ。……金田一先生はあの男を葉山譲治だとお考えですか」  「いや、いや、葉山ならば由紀子よりむしろ松代のほうがおどろくはずですからねえ」  金田一耕助はしばらく黙って考えこんでいたが、やがてまた磯川警部のほうをふりかえると、  「ときに松代の容態はどうですか。まだ話ができる状態じゃないんですか」  「はあ、けさがた意識を取りもどしましたが、まだひどく昂《こう》奮《ふん》しているものですから……」  「ああ、そう」  金田一耕助はそのまま黙って、庭にそそぐすすきの穂に眼をそそいでいた。  日差しはまだ暑かったが、秋はもうそこまで忍びよってきているのである。 六  その午後、岡山市から出張してきたT博士執刀のもとに、由紀子の解剖が行われたが、かくべつ検屍の結果をくつがえすような材料も発見されなかった。  由紀子の死因はたしかに溺死で、その時刻も昨夜の九時前後と断定された。  しかし、溺死と断定されたといっても、そこから一足飛びに、自殺か他殺か、それとも過失死か、そこまでは決定するわけにはいかなかった。  不思議なことには、きのう着ていた由紀子の着物は、家の内からも外からも発見されず、それが一《いち》抹《まつ》の疑惑として取りのこされた。しかし、繊維品が貴重品扱いされる当節のこととて、だれかが由紀子の脱ぎすてた衣類を、こっそり持ち去ったのかもしれなかった。こういう山の奥のひなびた山村でも、油断もすきもない時代なのである。  解剖の結果をきいて金田一耕助と磯川警部が一服しているところへ、貞二君がしずんだ顔をしてやってきた。  「先生」  貞二君のようすはゆうべからみると、だいぶんおだやかになっている。  いちじの昂奮がおさまったのと、ゆうべ危いところを救われたことにたいする感謝のおもいが、貞二君の態度からいくぶんなりとも、とげとげしさを拭い去ったのであろう。  「貞二君、なにか用……?」  磯川警部は物問いたげな視線をむけると、貞二君はしょんぼりと頭を垂れて、  「はあ、松代が金田一先生と磯川警部さんに、なにかお話し申上げたいことがあるというのです。ぜひ聞いていただきたいことがあるから、ご迷惑でもむこうの部屋へきていただけないかといっているんですが……」  金田一耕助と磯川警部はふっと顔を見合わせたが、金田一耕助はすぐ気軽に立ちあがって、  「ああ、そう、警部さん、それじゃお伺いしようじゃありませんか」  昨夜の部屋へ入っていくと、寝床のうえに起きなおった松代が、蒼い顔をしてふたりを迎えた。その顔はいくらか硬《こわ》張《ば》っていたが、なにもかも諦《あきら》めつくしたような平静さがそこにあった。  そのそばの積み重ねた夜具にはお柳さまがよりかかっていて、気づかわしそうに松代の横顔を見まもっていた。  松代は磯川警部の顔をみると、ひくい声で昨夜の応急処置の礼をいった。  「いや、いや」  と、磯川警部は厚いてのひらを気軽にふって、  「それはわしのせいじゃない。あんたの運が強かったんじゃな。しかし、そんなことよりも、なにか話があるということだが、体のほうは大丈夫かな。あんまり無理をせんほうがいいよ」  「はあ、有難うございます。でも、どうしてもみなさんに聞いていただきたい話がございますもんですから……」  「ああ、そう、じゃ、ぼつぼつでいいから聞かせてもらおうか」  「はあ……」  松代は強い決意のこもった眼で、金田一耕助と磯川警部を見くらべながら、  「さきほど貞二さまからおうかがいしたんでございますけれど、由紀ちゃんの死んだのは昨夜の九時ごろのことだということでございますけれど……」  「ああ、そういうことになっている」  「しかし、それ、なにかの間違いじゃございませんでしょうか」  「間違いというと……?」  「いいえ、由紀ちゃんの死んだのはゆうべの九時ごろじゃなく、ほんとうは、けさの一時ごろではないかと思うんですけれど……」  磯川警部は金田一耕助と顔見合わせたが、やがておだやかに体を乗りだすと、  「松代君、科学というものをもう少し信用してもらわなければ困るね。けさの検屍の結果も、さきほどの解剖の結果も一致しているんだよ。由紀ちゃんの死んだのは昨夜の八時半から九時半までのあいだにちがいなし」  「はあ……」  と、松代はたゆとうような眼をあげて、磯川警部と金田一耕助の顔を見くらべている。その眼にはかえって不安の色が濃かった。  「しかし、松代君、君はどうして検屍や解剖の結果に疑問をもつんだね。由紀ちゃんの死んだのを一時ごろだと、どうして君は考えるんだね」  「すみません。決してみなさんを信用しないというわけではないのですが……」  松代は瞳に涙をにじませると、溜息をつくように鼻をすすって、  「それじゃ、由紀ちゃんを殺したのはあたしじゃなかったのでしょうか」  と、自分で自分に語ってきかせるようなひくい、思いつめた声である。  「君じゃないね」  と、言下に磯川警部が断定した。  「げんにその時刻には君は、おれたちといっしょにいたじゃないか。おたがいにへたな俳句をつくっていたんだ。そうだろう」  「はい」  「しかし、松代君、君はまたどうしてそんなバカな妄想をえがいたんだ。由紀ちゃんを殺したのはじぶんだなんて……」  「はあ……」  松代はちょっと鼻白んだようにためらったが、すぐ決心をかためたように、キラキラと涙にうるんだ眼をあげると、  「警部さんも金田一先生も聞いてください。わたしには幼いときから、とてもいやな、羞《はず》かしい病気がございますの」  「羞かしい病気というと……?」  「はあ……それはこうでございます。なにかひどく心に屈託があったり、また心配ごとがあったりいたしますと、夜眠ってからフラフラと歩きだすのでございます」  「夢遊病……と、いうやつかね」  磯川警部はおどろいたように眉をつりあげて、金田一耕助をふりかえった。  しかし、ゆうべその現場を見ている耕助はべつにおどろきもせず、松代の顔を見まもっている。お柳さまはあいかわらず気づかわしそうな顔色だった。  「はあ……でも、十四、五のころから、そういうこともしだいに少くなってまいりまして、こちらさまへまいってからは、皆さまにかわいがっていただくせいか、いちどもそういう経験はございませんでした」  「ああ、ちょっと……」  と、金田一耕助がさえぎって、  「そういう発作を起したときには、じぶんでもわかるもんですか」  「はあ、それがなんとなくわかるんでございますの。夢中で歩いてきても眼がさめてから、なんとなくはっと思い当るようなことがございまして……そういうとき、じぶんの着て寝たものや、手脚などを調べてみますと、その痕跡があるんですの。なにかこう、潜在意識下かなにかに、発作を起したという記憶がのこるらしいんですの」  「なるほど、それがこちらへきてからは、そういう経験がなかったんですね」  「はあ、いちども。……ですから、わたしも忘れたつもりでいたんです。ところが、どうでしょう、ゆうべ久しぶりにその発作が起きたらしいんでございますの。いや、起きたらしいんじゃない、たしかに起きたんでございますの」  「それ、どうしてそうハッキリわかるんですか。やはり潜在意識下の記憶かなにかで……」  「いいえ、ゆうべのはもっとはっきりしておりました。眼がさめたときあたしは稚児が淵のうえの、天狗の鼻のとっさきに立っておりましたから……」  「まあ!」  と、お柳さまは怯えたように瞳をおののかせる。貞二君は下唇をかみしめながら、喰いいるようにその横顔を見つめていた。  「それで……」  「ああ、ちょっと待ってください」  と、金田一耕助は言葉をつづけようとする松代を、すばやくさえぎると、  「松代君はなにか稚児が淵か天狗の鼻に、心をひかれることでもあるんですか」  「はあ、あの……」  「いやね、夢中遊行時の行動といえども、かならずしも当人にとっちゃでたらめの行動じゃないと思うんですよ。君はいま潜在意識という言葉をつかったが、夢中遊行時の行動にも、潜在意識下の願望があらわれると思うんだが、君はなにか稚児が淵に……?」  「はあ、あの、そうおっしゃれば……」  と、松代は貞二君の視線を避けるように瞼をふせると、  「あたし、このあいだから死にたい、死にたいと思いつづけていましたから……ひょっとすると、稚児が淵をその死場所ときめていたのでは……」  ふっさりと伏せた長い睫《まつ》毛《げ》のさきにたまった涙の玉が、ほろりと膝のうえにこぼれおちる。お柳さまが貞二君のほうをふりかえると、貞二君はただ黙って暗い顔をそむけた。  「なるほど、それじゃ、君は夢中遊行を起して、稚児が淵へ身投げにいったということになるんですね」  「はあ……あの……そうかもしれません」  松代の伏せた睫毛から、またホロリと涙の玉が膝にこぼれた。  「それから……?」  「はあ……それで気がついてみると天狗の鼻のうえに立っておりますでしょう。わたしもびっくりしてしまいました。いいえ、びっくりしたと申しますのは、天狗の鼻に立っていたということより、またじぶんが夢遊病を起したということに気がついたからでございますわね」  「ああ、なるほど、そりゃそうでしょうねえ」  「それで、あたしすっかり怖くなってあわててひきかえそうとしますと、そのとき、ふと眼についたのが稚児の指のそばに浮いている白いものでございます。おや、なんだろうと覗いてみて、それが由紀ちゃんだとわかったときのわたしの驚き!……どうぞお察しくださいまし」  松代は両手で眼頭をおさえると、呼吸をのんで嗚《お》咽《えつ》した。  金田一耕助と磯川警部、お柳さまと貞二君の四人はしいんと黙りこんだまま、松代のつぎの言葉を待っている。  松代はまもなく顔をあげると、うつろの眼であらぬかたを視つめながら、けだるそうな声で言葉をつづけた。  「あたしじぶんの部屋へかえってから考えました。はい、考えて考えて考えぬいたのでございます。由紀ちゃんは自殺などするひとじゃありません。と、いって眼病が悪化してから、部屋のなかへ閉じこもったきりでしたから、夜更けて泳ぎにいこうなどとは思われません。と、すると、あたしが殺したのではあるまいか。どういう方法で殺したのかわかりませんが、夢遊病の発作を起しているあいだに、あたしが殺したのではないかと……それで……」  「ああ、ちょっと待ってください」  と、金田一耕助はさえぎると、  「しかし、それはまた考えかたが、あまり飛躍しすぎやあしませんか。ごじぶんの夢中遊行時に、たまたま由紀ちゃんが死んだからって、それをじぶんの責任のように思いこむというのは……?」  「いいえ、それにはわけがあるのでございます」  「そのわけというのを聞かせていただけますか」  「はあ……」  と、松代はあいかわらず、放心したような眼を窓外にむけたまま、  「あたしはまえにもおなじような状態で、由紀ちゃんを殺したことがあるんです。いえいえ、由紀ちゃんはああして生きてかえってきましたけれど、譲治さんはそれきり死んでしまったのです。あたしが……」  と、松代はちょっと嗚咽して、  「あたしが譲治さんを殺したのです。嫉妬のあまり譲治さんを殺してしまったのです」  涙こそおとさなかったが、松代の顔にはいたましい悲哀のいろが、救いがたい絶望とともにえぐりつけられている。  お柳さまは怯えたように眼を見張り、貞二君は下唇を強くかみ、金田一耕助と磯川警部は顔見合せた。  「松代さん」  と、金田一耕助は膝をすすめて、  「そのときのことを話してくださいますか」  松代はいたいたしく頬《ほほ》笑《え》んで、  「はあ、なにもかもお話し申上げる約束でしたわねえ。それではお話しいたしますから、みなさんもお聞きくださいまし」  そのとき松代がとぎれとぎれに語ったのは、つぎのようないたましい話であった。  松代と由紀子はふしぎな姉妹であった。由紀子は幼いときから、姉のものをかたっぱしから横奪りするくせがあった。  両親がふたりになにか買いあたえると、由紀子はいつも姉のぶんまで手に入れなければ承知しなかった。姉の持っているものはすべてよく見え、姉の幸福はすべてねたましく、羨《うらやま》しかった。そして、じぶんにだいじなものを横奪りされて、悲しそうな顔をしている姉を見るとき、由紀子はこのうえもなく幸福をかんじるらしかった。  ところが松代は松代で、妹にたいしてふしぎな罪業感をいだいていたらしい。それはじぶんでも説明のつかない罪業感だった。  なにかしら、じぶんは妹にたいしてよくないことをしている。妹にたいして致命的なあやまちを犯している。……  考えてみるとなんの理屈もないそういう罪業感が、ものごころつく時分から松代の心を悩ませ、だから、じぶんはその埋合せとして、妹のいうことならばどんなことでも、きいてやらねばならぬと心にきめていた。  それがいよいよ由紀子を増長させたらしい。  福田家が没落して、神戸の葉山家へひきとられると、由紀子はひと月もたたぬうちに、姉の婚約者を奪ってしまった。手っとりばやく彼女は譲治と肉体的関係を結んでしまったのだ。  だから、葉山の両親が式こそすませていないが、じじつ上の夫婦として譲治と松代にあてがった家で、じっさいの夫婦として夜毎のいとなみをおこなっていたのは、譲治と妹の由紀子であった。松代はひとり女中部屋で寝かされた。  譲治はもう松代に見向きもしなかった。以前かれは松代に迫って、さいごのものを要求したことが二、三度あった。  そのとき、式もすまさないうちにそんなことをと、松代がものがたく拒絶したのが、譲治の気にさわっていたのか、由紀子とそういう関係になると、譲治はわざと松代のまえで妹の由紀子とふざけてみせたりした。しかも、そういうことが由紀子の趣味にも合致していたらしい。  由紀子には露出狂の傾向があったらしく、どうかすると譲治を誘って、わざと姉のまえで抱きあってみせ、あられもない痴態をみせつけることによって、よりいっそうの快楽をむさぼっていたらしい。  そういうことが松代の心をきずつけずにはいられなかった。松代の実家も葉山の両親も、ものがたいひとたちだったから、こんなことがわかったら、ただですむはずはなかった。松代はじぶんのこともじぶんのことだが、譲治と妹のために破局のやってくるのをおそれていた。  「その心配が昂じたのでしょうか、忘れもしないあれは三月の大空襲の夜でした。あたしはながいあいだ忘れていた夢遊病を起したのでございます。そしてただならぬ気配にはっと気がつくと、あたしは譲治さんと由紀ちゃんの寝室に立っていました。しかも足《あし》下《もと》には譲治さんが血まみれになって倒れており、由紀ちゃんがこれまた血まみれになって、あたしにすがりついておりました。姉さん、かんにんして……かんにんして……と、叫びながら……」  疲労が蒼い隈《くま》となって松代の眼のふちをとりまいた。唇もかさかさにかわいて色褪《あ》せていた。松代の眼には涙もなく、ただ痛烈な悲哀がかげのように漂うていた。  「あたしはびっくりしてじぶんの手を見ました。すると、どうでしょう、あたしの手には肉斬り庖丁が握られているではありませんか。……」  松代はのけぞるばかりにおどろいた。そして、じぶんのやったことなのかと妹に尋ねた。  それにたいする由紀子の答えはこうだった。  じぶんと譲治さんが寝ているところへ、だしぬけに姉さんがその庖丁をもってとびこんできて、譲治さんをズタズタに斬り殺し、じぶんもこれこのように。……  と、由紀子がみせた左の胸部からは、恐ろしく血が吹きだしていた。  松代は恐怖のあまり肉斬り庖丁をそこへ投げだし、そのままそこから逃げだしたが、その直後に起ったのがあの大空襲だった。  「なにもかもがめちゃくちゃでした。あたしは恐ろしい罪業と、あの大空襲で気が狂うようでした。一夜の空襲で灰燼と帰した神戸を捨てて、あたしはあてもなく疎開列車に乗りこみましたが、とても郷里へかえる勇気はありません。あたしは恐ろしい罪の思い出をいだいて、岡山県のあちこちを放浪したあげく、とうとう辿りついたのがこの家でございます」  このとき、こらえきれなくなったかのように、松代の眼には涙がにじんだ。松代は涙のにじんだ眼をお柳さまにむけて、  「あのときのご隠居さまのご親切は、死んでも忘れることはできません。罪深いあたしをご隠居さまは、やさしい愛情で抱きくるんでくださいました。ご隠居さまがやさしくしてくださればくださるほど、あたしの心はうずき苦しみました。あたしにとって恐ろしいのは、過去の罪業も罪業でしたが、それ以上に現実に、日夜やさしいご隠居さまを、あざむきつづけているということでございました。たとえ夢遊病の発作中とはいえ、……いいえ、そのようなことはなんの弁解にもなりませんわねえ。あたしはひとを殺した女なのです。ご隠居さまのやさしいご親切を、受入れるねうちのない女なのでございます」  金田一耕助がなにかいおうとした。しかし、松代はすばやくそれをさえぎると、あいかわらずふかい哀愁のこもった声で語りつづけた。  「この春ごろからあたしの右の腋の下に、ふしぎなおできができました。はじめのうちはたいして気にもとめませんでしたが、それがぐんぐん大きくなって、人間の顔のようになりました。あるときあたしは鏡にうつしてそのおできを見て、それが由紀ちゃんの顔にそっくりなのに気がついたとき、あたしはそのまま死んでしまわなかったのが、いまから思ってもふしぎなくらいです。そのときあたしは思ったのです。由紀ちゃんの呪いがこもって、このようないまわしいおできができたのだと……」  松代はふかい溜息を吐くと、しずかにひと滴の涙を指でぬぐうて、  「そのときも、あたしはよっぽど死のうかと思ったのです。あたしが死のうと考えたのは、そのときがさいしょではございません。この家へ辿りつくまで……いえいえ、このお家へ辿りついてからも、なんど死を思いつめたかしれません。しかし、意気地のないあたしには、いつもそれを決行することができないのでした。このいやらしいおできができたときも、あたしは死を思いつめ、迷い、ためらい、じぶんを叱り、ずいぶん苦しんだのでしたが、なんとそこへひょっこりと、死んだと思った由紀ちゃんが訪ねてきたではございませんか」  松代はかすかに身ぶるいをすると、  「由紀ちゃんはかえってあたしを慰めてくれました。なんでも由紀ちゃんはひどい傷だったけれど、危いところでいのちを取りとめたのだそうでございます。由紀ちゃんはいいました。譲治さんの死体は空襲でやけてしまったから、だれもあのことをしっているものはない。昔のことは忘れてしまいなさいと……」  松代の眼からまた放心のいろがふかくなってきた。彼女はうつろの眼を縁側の外へはなったまま、  「由紀ちゃんはあたしを許してくれました。しかし、由紀ちゃんが許してくれても、譲治さんを殺したあたしの罪は消えるものではございません。こういういまわしいおできができたのも、ゆうべのような出来事が起る前兆だったのではございますまいか。由紀ちゃんの呪いはやはりあたしの胎内に宿っているのでございます。ご隠居さま、先生、警部さま、ゆうべ手を下して由紀ちゃんを殺したのは、あたしでなかったかもしれません。でも、そのまえにあたしは譲治さんを殺しているのです。あたしはやっぱり人殺しの犯人でございます」  語りおわって松代はシーンと涙をのんで泣いていた。  磯川警部は唇をへの字なりに結んで、にがにがしげに渋面をつくっている。  松代はこういう告白をする必要はなかったのだ。彼女が語るところが真実としても、いまではなんの証拠も蒐《しゆう》 集《しゆう》することはできないであろう。あの大空襲がなにもかも焼きはらってしまって、松代の罪業はあとかたもなく消滅してしまったのだ。しかし、警部としては職業柄、こういう告白を聞いた以上、聞きずてにするわけにはいかなかった。  磯川警部が困ったように金田一耕助と顔を見合せているところへ、障子の外からかるい咳《せき》払《ばら》いとともに、ひくい、沈んだ男の声がきこえてきた。  「御免ください。田代啓吉でございます。ちょっとお耳に入れておきたいことがあるんですが……」 七  「御無礼はじゅうじゅう存じております。御無礼を承知のうえで立聴きしておりましたのは、いろいろわけのあることでして……ところが立聴きが立聴きですませなくなりましたので、こうして顔を出しましたようなわけで……」  火傷の男は顔半面、赤黒くてらてら光る頬っぺたをひきつらせて、静かに障子の外にすわっている。貞二君は敵意のこもった眼《まな》差《ざ》しで、火傷にひきつった顔をにらんでいる。  お柳さまと松代はふしぎそうな顔色だった。  「ああ、そう」  と、磯川警部はいたって気軽な調子で、  「さあ、さあ、どうぞこちらへお入りください。じつはこちらからあんたのほうへ、出向いていくつもりだったんですが……」  「はあ。それでは……」  と、部屋のなかへ入ってきた田代啓吉は、静かにうしろの障子をしめると、一同にかるく頭をさげて、  「じつはいま松代さんのお話を伺っていて、これはどうしてもみなさんに、申上げておかねばならぬと思ったことがございましたものですから……お聞きくださるでしょうか」  「はあ、はあ、承りましょう。まあ、そこへお坐りください」  磯川警部がすこし膝をずらして席を譲ると、  「はあ、ありがとうございます」  と、火傷の男はまたかるく頭をさげると、  「そのまえに、まずわたしの身分から申上げておかねばなりませんが、松代さん」  「はあ……」  「あなたはわたしをご存じないでしょうねえ」  「はあ、あの、いっこうに……」  と、松代は薄気味悪そうな顔色である。  「いや、あなたがご存じないのは当然ですが、じつはわたしはあなたとおなじ市のうまれのものなんですよ。しかも、由紀ちゃんが神戸の葉山さんのお宅へひきとられるまで、ごく親しくご交際をねがっていたものなんです。いや、もっとざっくばらんに申上げますと、おたがいに、まあ、なにもかも許しあっていた仲なんです」  田代にジロリと尻眼に見られて、貞二君はかっと頬に血がのぼったようである。  「はあ、はあ、なるほど、それで……?」  貞二君がなにかいいだしそうにするのに先手をうって、磯川警部があとをうながした。  「はあ、なにしろわたしにとってははじめての女ですから、まあ、由紀ちゃんのことが忘れられなかったわけです。ところが、そのうち由紀ちゃんは神戸のほうへひきとられていく。なにしろ、ああいう気性のひとですから……いや、じつは郷里にいるじぶんからいろいろ男と噂のあったひとなんです。ご両親はご存じでしたかどうか……それで、ぼくとしても心配で心配でたまりません。むこうでまた男でもできやしないかと思うと、いても立ってもいられないわけです」  「ふむふむ、なるほど……」  「はあ……ところが情ないことにはそのじぶんぼくは徴用で、市をはなれることができない身分で、それだけにいっそうやきもきしていたわけです。ところが、そのうちにわたしは肺《はい》浸《しん》潤《じゆん》にかかりまして……なにが仕合せになるかわからないもので、そのおかげでわたし徴用解除になったわけです」  「なるほど、それで君は由紀ちゃんのあとを追って神戸へいったというわけかな」  と、磯川警部は思わず膝をのりだした。金田一耕助やお柳さま、貞二君の三人も、眼《ま》じろぎもせずに田代啓吉の顔を見つめている。  「はあ、わたし、徴用解除になると、さっそく神戸へとんでいきました。ところが神戸へきてみると、案の定、由紀ちゃんにはちゃんと男ができているではありませんか。それがいうまでもなく葉山譲治君でした」  と、火傷の男は貞二君にチラリと一《いち》瞥《べつ》をくれると、  「わたしはむろんなんどとなく、ひそかに由紀ちゃんを呼び出しました。もとどおりになってくれと歎願したんです。由紀ちゃんはときどきはわたしに、その、許してはくれたんです。その……体をですね。しかし、譲治君と別れようともしなかったんです」  「ああ、そう」  と、磯川警部は貞二君をながしめに見ながら、  「それじゃ、由紀ちゃんは譲治君と関係をつづけながら、しかも、君とも肉体的関係を復活していたというんですな」  「そうです、そうです。わたしのばあいは口止めという意味もあったんですが、やはり根が多情だったんですね。しかも、そういう多情なところに男というものは心をひかれるんです」  「ふむ、ふむ、それで……?」  「はあ、しかし、そうはいうもののわたしにとっては、そういう状態は耐えがたいことでした。やっぱりはっきりじぶんのものにして、郷里へつれてかえりたかったんです。そこでわたしも決心しまして、譲治君とよく話しあうつもりで、葉山家へのりこんでいったんです。いや、忍びこんだといったほうがよろしいでしょう。それが三月のあの大空襲の晩でした」  一同ははっとしたように眼を見交わせた。  磯川警部はいよいよ膝をのりだして、  「それで……?」  「はあ……」  と、さすがに田代も息をのみ、  「ところがどうでしょう。忍びこんだ譲治君の寝室は血みどろで、譲治君は朱《あけ》にそまって死んでいる。いや、殺されていたんです。しかも、由紀ちゃんも胸にきずをうけて……」  「ああ!」  松代はとつぜん恐ろしそうに身ぶるいをすると、  「いわないで……もうそれ以上いわないで……みんな、みんな、あたしのしたことなんですから……」  「いいえ」  と、田代はあわれむように松代をみて、  「だから、ぼくは申上げなければならないんです。あれはあなたに責任のないことなんです。あれは由紀ちゃんのやったことなんです」  貞二君ははじかれたように顔をあげた。そして噛みつきそうな眼で田代をにらむと、  「馬鹿なことをいうな。由紀子がなぜ……由紀子がなぜ譲治君を殺したというんだ」  「無理心中をはかったんですよ」  「無理心中……?」  「ええ、そう」  と、田代は落着きはらった声で、  「これはあとで聞いたことですが、あのじぶん、ふたりの仲が葉山家や、由紀ちゃんの実家にしれて、由紀ちゃんは岡山へつれもどされることになっていたんです。由紀ちゃんはじぶんの魅力をしっておりますから、本来ならばつれもどされても驚かなかったでしょう。譲治君にあとを追わせるくらいの自信はもっていたでしょう。ところがいかんせん譲治君は、徴用でしばられている体です。あのころの徴用といえば国家の至上命令ですから、いかなる由紀ちゃんの魅力といえども、どうすることもできないわけです。そこで無理心中をはかったわけですね」  「そこへ君がとびこんだというわけか」  「はあ、しかし、そのまえに貞二君に一言注意しておきたいんですがね。由紀ちゃんが譲治君と無理心中をはかったからって、由紀ちゃんが譲治君に惚れてたなんて考えたら大間違いですよ。由紀ちゃんは譲治君なんかにちっとも惚れちゃいなかった。いや、あのひとは男に惚れるような性質じゃなかったんです」  「それじゃ、なぜ無理心中など……?」  「なあに、じぶんがいなくなると譲治君が、ここにいる松代君のものになる。それが由紀ちゃんにゃくやしかったんです。あのひと、ちゃんとそういってましたからね」  啓吉は気の毒そうに松代のうなだれた顔を見ながら、  「由紀ちゃんはいつもそうだったそうです。小さいときから姉さんの幸福、仕合せが、うらやましく、ねたましく、姉さんのもっているものは横奪りしなきゃ気がすまなかったそうです。それが昂じて長じてからは、姉さんの男を片っぱしから横奪りして、姉さんの悲しむ顔を見るのがなによりの楽しみになったそうです。だから、そこにいる貞二君のばあいでも、べつに好きでもなんでもなかった。ただ、じぶんがここを出ていくと、姉さんが仕合せになる。それがくやしいと、これは由紀ちゃんがハッキリぼくにいったことですから間違いはないでしょう」  さすがに貞二君は面目なさそうに顔をそむけた。顔から頸《くび》筋《すじ》から火が出るように真っ赤になっているのが笑止だった。  「それで、君はこっちへきてから、由紀子と関係が復活していたの」  「はあ、それはもちろん……あのひとはそんなことちっとも構わないひとですし、それにぼくに弱身を握られてるもんですから……」  「田代さん」  と、金田一耕助がそばから言葉をはさんで、  「三月の神戸の大空襲の夜のことを、もう少し詳しくお話しねがえませんか」  「そうそう、それをお話しするためにここへ顔を出したんでしたね」  と、田代は思い出したように、  「いまもいったとおり、由紀ちゃんは譲治君を松代さんにわたしたくないばかりに殺してしまったのです。そして、じぶんも死のうとしたんですが、元来、あのひと自殺などできるひとじゃありません。薄手を負うて苦しんでいるところへとびこんだのがわたしなんです。由紀ちゃんは助けてくれとわたしに縋《すが》りつきました。助けてくれというのは、傷のことではありません。傷はどうせ浅いのですから。……由紀ちゃんの助けてくれというのは、譲治君殺しの罪をひきうけてくれというのでした。これにはぼくも驚きました。いかにわたしがあのひとに惚《ほ》れてるとはいえ、あまりの身勝手に腹が立ったのです。そこでふたりが押し問答をしているところへ、フラフラと入ってきたのが松代さん、あなたでした」  「おお、おお、それで……それで……?」  と、大きく、強く喘ぎながら膝を乗りだしたのはお柳さまである。  「田代さん、田代さん、それで松代に罪をひきかぶせるように細工をおしんさったんですか」  「はあ、それを思いついたのも由紀ちゃんでした。わたしはじっさいあのとき驚いたのですが、由紀ちゃんは松代さんに夢遊病の性癖があることをしっていたんです。それで、松代さんに罪をなすりつけようと、その手に血まみれの庖丁を握らせたんです。そして、わたしにすぐ出ていくようにと……」  「ああ、それじゃ松代は……それじゃ松代は……?」  「ご安心ください。松代さんにはなんの罪もないのです。この話はけっして嘘《うそ》じゃないんです。その証拠には、ぼくはその夜の空襲で、このように醜い顔になったんです。それにも拘《かかわ》らず由紀ちゃんは……あの面喰いの由紀子は、死ぬまでぼくのものだったんです。こっちへきてからも、ぼくの自由になっていたんです。由紀ちゃんはぼくに殺人の秘密を握られている。だからこういう醜い男でも、眼をつむって抱かれなければならなかったんです」  田代は醜い頬をなでながら物凄い微笑をうかべた。ゾーッと鳥肌の立つような薄気味悪い微笑であった。  「ときに、田代さん」  と、金田一耕助が思い出したように、  「あなた、天狗の鼻の木柵が鋸でひききってあったことをお聞きじゃありませんか」  「ああ、あれ!」  とつぜん、田代の瞳に怒りの炎がもえあがるのを見て、  「あなた、あれについてなにかお心当りが……」  「あれは……あれは……由紀子がぼくを殺そうと企んだんです」  「ああ、そう、それではそのいきさつをお話しねがえませんか」  「はあ……」  田代はハンケチで額の汗をぬぐうと、  「けさ、天狗の鼻の木柵が鋸でひききってあって、貞二君があやうくそこから顛落するところだったときいたとき、わたしは怒りのためにふるえました。ぼくたちはゆうベ一時ごろ、天狗の鼻で逢う約束だったんです。由紀ちゃんはこういいましたよ。あたしが磧からハンケチをふるから、あなたは木柵から身を乗り出して、おなじようにハンケチをふって頂戴と……」  「それで、あなたは出掛けなかったんですか」  「いいえ、出かけましたよ。一時半ごろここを出かけたんです。ところが天狗の鼻へいきつくまえに、由紀ちゃんの死体が淵にうかんでいるのを見つけたんです。それで、そこから引返してきたんですが、もし、そうでなかったら……ぼくが泳ぎのできないことは、由紀ちゃんもよくしっていましたから……」  「ああ、ああ……」  お柳さまがふたたび重い口で叫んだ。  「松代はなんにもしらなんだ。松代はなんにもしなかった。松代はやっぱりわたしの思うていたとおりじゃ。松代は生《き》娘《むすめ》じゃった。由紀子は……由紀子は……」  「あっ、ご隠居さん!」  磯川警部と金田一耕助が左右から腕をのばしたとき、お柳さまは蒲団のはしをつかんで、まえのめりにのめっていた。 八  隠居所へかつぎこまれたお柳さまは、その後もながく昏睡状態をつづけていた。駆けつけてきた医者によって、どんなことがあっても、絶対に体をうごかしてはならぬと厳命された。  自殺未遂におわった松代はもうじぶんの健康どころではなかった。彼女は昼も夜も隠居所へつめきって、憂わしげな眼で昏睡状態にある老婆の、いくらかむくみのきた顔を視つめていた。それは見るものをして感動を誘うような情景だった。  由紀子の葬式をおわった夜、お柳さまはちょっと意識を取り戻したが、しかし、すぐまた昏睡状態におちいった。この間における貞二君の気のもみようは、たいへんなものだったようだ。かれはこのまま母を死なせたくなかったらしい。このまま母に死なれてしまっては、じぶんは生涯立ちなおれないだろうと思われるのだった。  かれはしつこく医者にお柳さまの容態について訊ねていたが、医者もそれにたいして判然たる返事をする自信がなかったらしい。こうした不安な状態のうちに二日とたち三日と過ぎていった。  「金田一先生」  と、磯川警部はうかぬ顔色で、  「すみませんでした。けっきょくまた先生のご静養をふいにしてしまいましたね」  「いや、いや、警部さん、そんなこと気になさることはないんですよ。これで結構ぼくは清閑をたのしんでいるんですから……」  「いや、そうおっしゃられるとどうも……」  と、磯川警部はためらいがちに、  「しかし、先生、こうなると由紀子がどうして溺死したのか、わからなくなってしまいましたね。自殺か、他殺か、過失死か……」  「警部さん」  と、金田一耕助は空にういたいわし雲に眼をやりながら、  「そのことについちゃご隠居さんが、なにかしってらっしゃるんじゃないでしょうかねえ」  「隠居が……?」  「だって、ご隠居さんは卒倒なさるまえに、由紀子は……由紀子は……と、おっしゃったじゃありませんか。あのとき、ご隠居さんはなにをおっしゃるおつもりだったんでしょうねえ」  「金田一先生」  と、磯川警部はその横顔を視まもりながら、  「あなたはあのとき、隠居がなにをいおうとしていたとお思いですか」  「さあ……」  と、金田一耕助は口許に奇妙な微笑をうかべて、のろのろとした口調で、  「それはわかりませんねえ。ご隠居さんにお聞きしなければ……しかし……」  「しかし……?」  「ええ、そう」  と、金田一耕助はきゅうにいきいきとした眼つきになって、  「警部さん、ご隠居さんはかならずいちどは覚醒しますよ。あのひとにはいいたいことがあるんです。それをいわないかぎりあのひとは、死ぬにも死にきれないでしょうからねえ」  金田一耕助のその予言は的中した。そのつぎの日の夕方ごろ、お柳さまははっきりと意識をとりもどした。  それを聞いて金田一耕助と磯川警部は、すぐに隠居所へかけつけたが、意識をとりもどしたとはいうものの、お柳さまは生ける屍もおなじことだった。彼女は身動きはおろか、口をきくことすらできなかった。ただできるのは瞬きをすることと、目玉を動かすことだけだった。  それでも耳はきこえるらしく、金田一耕助と磯川警部がかけつけたとき、お柳さまは隠居所のすぐ外を流れている谿流の音に耳をすましているらしかったが、その顔にはなにかひとをゾーッとさせるような物凄い微笑がきざまれていた。  お柳さまは金田一耕助と磯川警部の姿をみると、なにかいおうとするかのように、口をわなわなと動かした。しかし、言葉が出ないと気がつくと、にわかに眼玉をぐるぐるはげしく廻転させはじめた。  「警部さん、母はなにかいいたいことがあるんじゃないでしょうか」  お柳さまの眼の動きをみて貞二君が磯川警部のほうをふりかえった。磯川警部は金田一耕助の顔を見た。  「ああ、そう、松代さん、あなた聞いてごらんなさい。これはあなたがいちばん適任だ。眼の動きによってなにか判断してみましょう」  金田一耕助の言葉に、  「はあ……」  と、松代は涙声で答えると、お柳さまの耳に口を当てて、  「ご隠居さま、なにかおっしゃりたいことがございますか。金田一先生がご隠居さまの眼の動きで、判断しようといってらっしゃいます」  お柳さまは唇をつぼめて微笑をうかべると、その眼は一同の頭上をこえて押入れのほうへむかっていった。  「先生、ご隠居さまのおっしゃりたいのは、あの押入れのなかじゃございますまいか」  「そうらしいですね。貞二君、押入れのなかを調べてみたまえ」  貞二君は押入れの襖をひらいて、ふしぎそうになかを探していたが、とつぜん大きな声をあげた。そして、そこに積んである蒲団のあいだから引っ張りだしたのは、派手なお召の着物だった。  「あっ、こ、これは由紀ちゃんの着物じゃないか。帯も……長《なが》襦《じゆ》袢《ばん》も……」  一同は弾かれたようにお柳さまのほうをふりかえると、凍りついたようにシーンとしずまりかえった。お柳さまのその顔には、いかにも満足そうな微笑がうかんでいるのである。  松代と貞二君は怯えたように眼を見張って、大きく息を喘《はず》ませている。  そのときお柳さまははげしく瞬きをすると、また眼玉がぐりぐりと廻転をはじめた。松代はその視線を追うていたが、やがて部屋のすみにある、脚のついた大きな木製の耳《みみ》盥《だらい》に眼をとめると、  「ご隠居さま、この耳盥のことでございますか」  お柳さまはそうだといわぬばかりに、またはげしく瞬くと、満足そうに頬笑んでみせた。  金田一耕助はふしぎそうにお柳さまと、その木製の耳盥を見くらべていたが、とつぜんあることに思いあたったらしく、はっとしたように眼を見張った。  そして、いそいでお柳さまの耳に口をよせると、  「ご隠居さん、ご隠居さん、あなたがおっしゃりたいことを、わたしがかわってこのひとたちに申上げてもかまいませんか」  お柳さまはだまって金田一耕助の顔を見まもっていたが、やがて満足そうにまたたきをした。  金田一耕助はちょっと沈痛な顔色で、貞二君と松代のほうをふりかえると、  「貞二君、松代さん、ご隠居さんはね、由紀ちゃんを殺したのはじぶんだということをいいたがっていらっしゃるんですよ。ご隠居さん、そうでしょうねえ」  お柳さまは満足そうに口をつぼめてまたたいた。  貞二君はしばらく唖《あ》然《ぜん》として、金田一耕助の顔をにらんでいたが、やがてさっと満面に朱を走らせると、  「そんなバカな……そんなバカな……母は畳を這《は》うよりほかには、身動きもできない体だったじゃありませんか」  「いや、それで十分だったんですよ」  と、金田一耕助はお柳さまに聞えるように、大きく声を張りあげて、  「人間を溺死させるには、なにも大海の水を必要としないのです。そこにある耳盥いっぱいの水でも、十分に目的を達することはできます。由紀ちゃんはその耳盥に顔をつけた。そこをご隠居さんがうえからおさえつけた。いや、うえから全身をもってのしかかっていったのでしょう。ご隠居さんは身動きこそ不自由ですが、そのくらいのことはできましょうし、あのとおり肥満していらっしゃるから、由紀ちゃんはそのまま水をのんで死んでしまったんです。ご隠居さん、そうでしょうねえ」  お柳さまはまた満足そうにまたたいた。その顔には誇らしげな微笑さえうかんでいるように見えたのである。  「しかし……しかし……」  貞二君はまだ半信半疑の顔色で、  「由紀ちゃんはなぜ、盥のなかへ顔をつっこんだんです。なぜまたそんなバカなまねを……?」  「貞二君」  と、そのとき、そばからおだやかに言葉をはさんだのは磯川警部である。  「それは君の質問とは思えないね。薬師の湯は眼病に効くというし、由紀ちゃんは眼病を患っていたというじゃないか。由紀ちゃんは隠居のまえで洗眼をしていたんだろう。いや、洗眼をするように隠居がしむけたんだろう。隠居、そうじゃありませんか」  磯川警部の質問に、お柳さまは満足そうにまたたきをすると、また目玉をぐりぐり廻転させて、窓のほうへ視線を走らせた。  「ああ、そうか」  と、磯川警部は大きくうなずくと、  「ご隠居さん、あんたはそれから由紀子を素っ裸にして、その窓からうらの谿流へ死体を投げ落したんですね」  お柳さまの満足そうな微笑とまたたき。……  「そして、由紀子の死体は谿流づたいに稚児が淵へ流れていったんですね。それが八時半から九時半までのあいだの出来事だったんですね」  またしてもお柳さまの満足そうな微笑とまたたきである。  「金田一先生」  と、磯川警部は金田一耕助のほうをふりかえると、  「ありがとうございました。これで事件は解決しました。由紀子の全身についていたあの擦過傷は、稚児が淵の岩礁でできたのではなく、いや、それもあったでしょうが、それ以前に谿流をながれていく途中でできたのですね」  金田一耕助は暗い眼をして無言のままうなずいた。  とつぜん、貞二君の咽喉から嗚咽の声がもれはじめた。貞二君は腕を眼におしあてたまま、子供のように声を立てて泣きはじめた。  お柳さまが心配そうにその顔を見まもっているのを見ると、金田一耕助がやさしくその背中に手をかけた。  「貞二君、お母さんがなぜそんなことをなすったか、君にもわかっているでしょうねえ」  貞二君は腕を眼におしあてたまま、二、三度強くうなずいた。  「ああ、そう、それではあなたはお母さんにお詫びしなければいけませんよ。松代さん」  「はい」  「あなたは貞二君のそばについていてあげてください。警部さん」  「はあ」  「われわれはもう失礼しようじゃありませんか。あなたのご用はもう終ったようですよ」  「ああ、そう、じゃ……」  ふたりが障子の外へ出たとき、  「お母さん……お母さん……」  と、貞二君が子供のように泣きわめくのが聞えた。  お柳さまはその夜しずかに息をひきとったが、おそらくそれは大往生だったことだろう。  金田一耕助と磯川警部のふたりは、お柳さまの初七日をすませてから薬師の湯をたつことになったが、その間ふたりは貞二君や松代と、しんみりと話しあう機会をもった。  「貞二君、君は松代君と結婚するんだろう」  「はあ、そうしたいと思っております」  「いつ……?」  「できるだけ早くしたいと思っておりますが……」  「そのほうがいいね。お母さんの一周忌を待とうなんて考えないほうがいいんじゃないか。そのほうが故人の遺志にそうというもんだ」  「はあ、わたしもそう思っております。できたらことしのうちにも式を挙げたいと思っているんですが……」  「ああ、それがいいね。そのほうがお母さんも安心なさるだろう」  「ときに、松代さん」  しばらく沈黙がつづいたのちに金田一耕助が口を出した。  「はあ……」  「あなたのあの腋の下のおできですがねえ」  「はあ……?」  と、松代の顔にはちょっと怯えたような色が光り、それから頬を真っ赤にそめてうつむいた。  「それ、いちどしかるべきお医者さんに診てもらったらどうかと思うんです。なんなら磯川警部さんにO大のT先生でも紹介しておもらいになったら……」  「先生」  と、貞二君が真剣の色を眼にうかべて、  「金田一先生はあのおできについて、なにかお心当りが……?」  「はあ、ちょっと考えてることがあるんですが……」  「金田一先生、それはどういう……あなたになにかお考えがおありでしたら、ここで貞二君や松代さんにいってやってくれませんか」  「いやね、警部さん」  と、金田一耕助はいくらか羞《はじ》らいの色をうかべて、  「これはぼくの妄想かもしれないんです。しかし、いちおうたしかめてみる価値はあると思うんですよ。松代さん」  「はあ……」  「あなた、小さい時分から由紀ちゃんにたいして一種の罪業感をもっていられた。絶えず妹さんにすまない、すまないと思いつづけてこられたということですが、なにかあなた由紀ちゃんにたいして罪の自覚がおありですか。由紀ちゃんにたいしてすまないことをしたというような……」  「さあ、それがいっこうに……ただ、あたしは長女にうまれたものですから、なにかと両親に可愛がられてきましたから……」  「しかし、それじゃ、ご両親は由紀ちゃんをとくにうとんじてこられたんですか」  「いいえ、べつにそんなことは……」  「それじゃ、そんなことあなたの罪業感の理由にはなりませんね。ねえ、警部さん」  「はあ」  「これはあくまでわたしの妄想なんですが、松代さんが罪業感をいだきつづけてこられたのは、由紀ちゃんじゃなく、もうひとりの妹さんじゃないかと思うんですよ」  「まあ!」  と、松代はおどろいて眼を見張り、  「だって、先生、あたしには由紀子よりほかに妹はいないんですけれど……」  「いいえ、あなたのその腋の下に顔を出している妹さんですね」  「あっ!」  と、叫んで磯川警部は松代の顔を視なおしたが、すぐなにかに思いあたったらしく、  「ふうむ!」  と、ふとい鼻息を鼻からもらした。  「先生、金田一先生!」  と、貞二君は膝をのりだして、  「そ、それはどういう意味なんです。腋の下に顔を出している妹というのは……?」  「いやね、貞二君、警部さんはいま思い出されたようだが、戦後こういう記事が新聞に出たことがあるんです。あるところのお嬢さん……ちょうど松代さんくらいの年頃のお嬢さんなんですがね、そのひとの腋の下に原因不明のおできができた。それでお医者さんに切開してもらったところが、人間の歯や髪の毛が出てきたんですね。そこでO大のT先生に改めて鑑定を請うたところが、そのお嬢さん、双生児にうまれるべきひとだったんですね。ところが摂理の神のいたずらで、双生児のひとりがそのお嬢さんの胎内に吸収されていたんだそうです。それが生後二十何年かたって、歯となり髪の毛となって、お嬢さんの体の一部から出てきたというんです。松代さんのあのおできもそれとおなじケースじゃないかと思うんですが、警部さん、あなたどうお思いになりますか」  「いや、そうでしょう。きっとそうです」  と、磯川警部は強くうなずいて、  「それで松代君のもっている理由のない罪業感も説明がつくわけです。松代君はじぶんの体内に吸収されている、ふたごのきょうだいにたいして罪業感をもっていた。つまりそのきょうだいの出生をさまたげたという罪業感ですな。ところが松代君はそういう妹の存在をしらないものだから、それがいつのまにか由紀子にふりかえられていたというわけですな」  「それで、先生」  と、貞二君はいよいよ膝をすすめて、  「そのお嬢さん、おできを手術したお嬢さんですが、そのご経過はどうなんですか」  「いや、なんともないそうですよ。これ、珍しいケースですからね。こちらへくるまえにT先生にお眼にかかって、そのお嬢さんについてお訊ねしてみたんです。そしたらその後結婚して、赤ちゃんもうまれ、べつになんの異状もないそうですよ。貞二君」  「はあ」  「これ、ぼくの妄想かもしれませんが、いちどT先生に診ていただく価値があるとはお思いになりませんか」  「先生」  と、貞二君と松代はふかく頭をたれて、  「ありがとうございます。それはぜひ」  金田一耕助はその翌日薬師の湯をたって帰京したが、それから一週間ほどして貞二君からていちょうな手紙がとどいた。  その文面によると、T先生に診ていただいたところ、やはり先生のお説のとおりであった。そこでさっそく切開手術をしていただいたが、その結果はしごく良好である。T先生からもいずれ医学的な報告がそちらのほうへとどくはずであるが、とりあえずわたしから、お礼かたがたご報告申上げるしだいである。松代の患部から出たもろもろの諸器官はO大へ保存されることになっているが、われわれはその一部分をもらいうけ、松代の退院を待ってあつく葬るつもりである。これによって松代の罪業感も消滅するであろうと、T先生もいっておられる。松代からもお礼の手紙を差上げるべきであるが、まだ右手が使えないので失礼するが、くれぐれも先生にお礼を申上げてほしいということである云々とあり、さいごに十一月の上旬に結婚する予定であると結んであった。  本書には今日の人権意識に照らして不当・不適切と思われる語句や表現がありますが、作品執筆時の時代背景や作品の文学性などを考慮しそのままとしました。 (角川書店編集部) 不《ふ》死《し》蝶《ちよう》   横《よこ》溝《みぞ》正《せい》史《し》 ------------------------------------------------------------------------------- 平成14年5月10日 発行 発行者  角川歴彦 発行所  株式会社  角川書店 〒102-8177 東京都千代田区富士見2-13-3 shoseki@kadokawa.co.jp (C) Seishi YOKOMIZO 2002 本電子書籍は下記にもとづいて制作しました 角川文庫『不死蝶』昭和50年4月30日初版発行          昭和52年2月20日12版発行