暉峻康隆 日本人の笑い   ま え が き  どんなにつらく、せつない時でも、ユーモアの精神を見うしなわないようにしよう。人を悲しませるより、人を笑わせるほうが、はるかに快適な生き方である、とわたしはかねがね思っている。たぶん、それはわたしの生まれつきであるかもしれないし、いかなる時代の文学よりも、笑いが大きな比重をしめている江戸時代の文学を専攻しているせいかもしれない。  いかなる時代の文学よりも、江戸文学に笑いの要素がつよいというのは、それが明朗《めいろう》で、闊達《かつたつ》で、あけすけな庶民の文学だからである。その江戸文学の中で、もっとも庶民的な、したがってもっともユーモアと風刺《ふうし》に富んだ文学は俳諧《はいかい》の落とし子の川柳《せんりゆう》である。俳諧も、はじめは滑稽《こつけい》を看板《かんばん》として出発した民衆詩だったのだが、芭蕉《ばしよう》が出てきて、「さび」だの、「しおり」だのと、すっかり反社会的で優雅な自然詩にしちまった。それで、とくに自然なんぞは酒のサカナとしか思わず、オツにすましたことのきらいな江戸の庶民は、ついていけなくなってしまった。  そういう江戸庶民の要求にこたえて、俳句とおなじ五・七・五という短詩形式で、言いたいことをいわせはじめたのが、初代|柄井《からい》川柳という人である。江戸|浅草《あさくさ》の名主《なぬし》であった川柳は、はじめ俳諧をやっていたが、四十歳のころから、前句《まえく》を出題して付句《つけく》を募集し選評するという、前句付の点者となった。ところが、その選評がすぐれていたので、いつのまにか彼の選評した前句付を、川柳というようになって、今日におよんでいるわけだ。彼の選んだ『俳風柳樽《はいふうやなぎだる》』初編は、明和《めいわ》二年(一七六五)に出ているから、狂歌や漫画文学の黄表紙《きびようし》など、軽妙な機知と洒落《しやれ》と風刺をほしいままにした江戸|戯作《げさく》とその成立流行をともにしているのである。  狂歌はインテリむきで、手が出ない。黄表紙は性《しよう》に合っておもしろいが、人の書いたものを読むだけだ。そこへいくと川柳は、見なれ聞きなれた俳句形式で、季語《きご》などというやっかいなとりきめもなく、自分たちの言いたいことを、今ならば葉書一本ぐらいの手軽さで言えるのだからありがたい。まさに水をえた河童《かつぱ》のように、江戸庶民は彼らのすきな人間とその生活・風俗を戯画《ぎが》化しはじめた。オーソドックスの漫画がそうであるように、彼らはいっさいの虚偽虚飾をひっぺがして、すっぱだかの人間や人生をお目にかける。セックスとても、その例外ではない。いや、それどころか、両性の協力によって成りたち、その性交によって存続している人生であるにもかかわらず、気どって、そしらぬ顔をしがちであるだけに、彼らは好んでその機微《きび》をさぐり、そのための喜びや悲しみやもだえを率直に指摘する。閨房《けいぼう》の秘戯《ひぎ》におよぶことも、しばしばである。それにもかかわらず、直接に官能をシゲキするいやらしさや、しめっぽさがなく、微笑、苦笑、哄笑《こうしよう》をさそってやまない。それはなによりもまず、彼らが対象を突っぱなし、客観的にながめているからである。 [#この行2字下げ]遠くから口説《くど》くを見れば馬鹿《ばか》なもの  当人が大まじめであればあるほど、はたから見ればアホらしいということを、彼らはよく知っているのである。それにまた彼らは、ソノモノズバリの直接的な表現をしない。 [#この行2字下げ]歯は入歯目はめがねにて事たれど  するとなにか一つ、事たりぬものがある、とするとなんだろう、ということになり、いろいろ調べてみると、古来|老《お》いの衰えは歯・目・魔羅《まら》(ペニス)の順序でおとずれるという学説があるということがわかり、なるほど最後のアレだけは、目や歯のように、ほかの物質をもって補強するわけにはいかないわい、ということになって、はじめてニヤリとする段取りなのであるから、ワイセツだとか、いやらしいとかいう騒ぎではないのである。  正統の文学がふれようとしない人情とセックスの機微をとらえ、しかも洒脱《しやだつ》な表現でわれわれを笑わせてくれる川柳は、十九世紀の日本人の風俗や習慣や性生活を如実《によじつ》につたえているのみでなく、裸にしちまえば昔も今も人間は同じであるという実感にあふれている。現代も日本人の大部分をしめている庶民の、時代を越えた笑いがここにある。だからこそ、わたしは、この本を書く気になったのである。なお執筆にさいして、この道の大家《たいか》の故|岡田甫《おかだはじめ》氏と浜田義一郎《はまだぎいちろう》氏に、かずかずの助言をいただいた。ありがとう。この戯書がカッパ・ブックスで出たのは昭和三十六年だから、もう二十年余のはげしい時が流れ、一読ふるめかしい用例が目につくようになった。最初この稿を連載した「漫画讀本」の文藝春秋の文庫本に里帰りするに当たって、できるだけ加筆訂正することにした。   昭和五十八年十月初旬 [#地付き]暉 峻 康 隆 [#改ページ] 目 次  ま え が き  第 一 章 お江戸《えど》の春 [#この行2字下げ]門松《かどまつ》/万才《まんざい》/姫始め/宝船《たからぶね》/ほうろくの効用/口吸い  第 二 章 心中《しんじゆう》のなりたち [#この行2字下げ]ひとり者の生態/最後の抵抗線/心中の禁止  第 三 章 性の抑圧 [#この行2字下げ]医者と親子の謎《なぞ》/腕人形/張形《はりがた》/朔日丸《ついたちがん》  第 四 章 性と掟《おきて》 [#この行2字下げ]混浴/春本《しゆんぽん》の効用/縁切寺《えんきりでら》/聟《むこ》の悲しみ/姦通《かんつう》の戒《いまし》め/間男《まおとこ》の首代《くびだい》  第 五 章 日陰の性 [#この行2字下げ]あいびき/後家《ごけ》の恋/陰間《かげま》/中条流《ちゆうじようりゆう》  第 六 章 女の宿命 [#この行2字下げ]伸び支度/江戸の少年法/不浄の観念/貞操帯  第 七 章 花嫁の条件 [#この行2字下げ]田園の恋/見合結婚/初夜/処女のねうち/持参金  第 八 章 夫婦のいとなみ [#この行2字下げ]夏の風情《ふぜい》/新世帯《あらぜたい》/産前産後のトラブル/か弱き亭主族  第 九 章 老楽《おいらく》の性 [#この行2字下げ]倦怠期《けんたいき》/老《お》いの嘆き/愛人バンク/小便組  第 十 章 神も人なり [#この行2字下げ]保養の薬/神々のいとなみ/せきれいの教え/雲上の嬌声《きようせい》/酒と女の法則一つ  第十一章 庶民の偶像 [#この行2字下げ]玉の入れ場/隠しあな/美男の代表/美女の代表  第十二章 迷える僧侶 [#この行2字下げ]漢語のいたずら/風流僧/老僧の恋/男色の開祖/身がわり首/あとねだり/三人尼  第十三章 英雄の正体 [#この行2字下げ]引きあてた賞品/みずてんの元祖/後家ぐるい  第十四章 栄華《えいが》の夢 [#この行2字下げ]人の上に人を/ひよどり越え/男装の天子/にたり貝  第十五章 寝物語 [#この行2字下げ]いずれもソフト/女の春闘/見かけだおし/女上位/一生一交 [#改ページ]  第一章 お江戸《えど》の春   門《かど》 松《まつ》   三味線《しやみせん》と鼓《つづみ》は江戸の飾り物  近ごろは松の小枝を門口《かどぐち》にたてかけたり、輪飾りをぶら下げてお茶を濁すというケチなことになってしまったが、江戸時代の門松は豪勢なものであった。もともと門松は、平安《へいあん》時代の中期ごろから貴族社会でたてるようになり(それ以前は榊《さかき》)、それが民間にひろがって、竹をそえ、シダ、ユズリ葉をそえたシメ縄をかざるようになったのは、室町《むろまち》時代以後のことである。江戸時代になると、縁起《えんぎ》を祝う町人社会がさかえたので、それがいっそう豪華になり、ことに大名《だいみよう》屋敷の多い江戸では、趣向をこらしたものだ。  鍋島《なべしま》家(佐賀藩)では、ワラで鼓の胴をつくって門松の上にかざり、三味線堀《しやみせんぼり》の佐竹《さたけ》家(秋田藩)では、門松のかわりに人飾りといって、体格のいい中間《ちゆうげん》をえりすぐって、門の左右に五、六人ずつならべたものだ。袴《はかま》のモモ立ちをとったいかめしい中間が、ひとかたまりずつ、作りつけの武者人形《むしやにんぎよう》のように突ったっている風景は、いかにも大名らしく、大江戸の春らしい。そこで、江戸びいきの庶民が、三味線(堀)と鼓は……、としゃれたわけだ。   万《まん》 才《ざい》   才蔵《さいぞう》はつづみで腰をつかうなり   嫁が出ていると万才つけ上がり  正月の街頭風景といえば、戦後はトンと姿を見せなくなった万才が、昔は初春のムードとお笑いを、いやが上にももり上げたものだ。  三河《みかわ》・尾張《おわり》地方(今の中部地方)から出てきた万才の風俗といえば、太夫《たゆう》は、烏帽子《えぼし》に武家の礼服の素袍《すおう》を着て、扇を持ち、脇師《わきし》の才蔵は大黒頭巾《だいこくずきん》をかぶって鼓を打ち、「徳若《とくわか》(常若《とこわか》)に御万才と御代《みよ》も栄えまします……」などと、めでたい歌をうたって門付《かどづけ》したものである。  ところが型どおりの祝言がひとくさりすむと、着かざった奥さんや、お嬢さんやメイドさんたちが出そろったころあいを見はからって、「殿《との》さまもお好き、奥さまもお好き」などとこっけいでワイセツな文句をのべたて、それにあわせて才蔵が鼓を打ちながら腰を使ったり、おかしなしぐさで初春のお笑いをばらまいて歩いた。まことにのどかなお江戸の正月であった。  さて街頭風景の懐古はこのくらいにして、そろそろ家庭へ、屋内へふみこむことにしよう。   姫始め   かかあどの姫はじめだと馬鹿をいい  このところ、お正月ともなると、和服姿がめっきりとふえた。島田《しまだ》や結綿《ゆいわた》のカツラも以前にくらべるとずいぶん軽い。これからいよいよふえるだろう。年に一度ぐらいは仕事着をぬいで、美しくなってもらいたい。ところで、今の着物を小袖《こそで》といったのは、中世まで、礼服の大袖の下にきる下着だったからである。江戸時代にはいってそれが独立し、織り方や染色に工夫をこらし、一六六〇年前後から小袖着物と称するようになって今におよんでいるわけである。あの、世界で一番美しいノーパンの着物が、もとは下着であったのだと思えば、ちょっと味な気持にもなろうというものである。そこで、   松の内うちの女房にちょっとほれ ということにもなるわけだ。うちの古妻もまんざら捨てたもんじゃない、というこの程度ですめば、風流と申すほどのこともないのだが、「姫始めだ」といい出すから、すてておけないのである。  新年の事始めにも、昔はいろいろとあったが、近松門左衛門《ちかまつもんざえもん》作の|『大経師昔暦』《だいぎようじむかしごよみ》(正徳《しようとく》五年・一七一五年)に、「湯殿始めに身を清め、新枕《にいまくら》せし姫始め」ということになれば、これだけでもおよその見当はつこう。 [#この行2字下げ]天和《てんな》二年の暦、正月一日、吉書よろずによし。二日姫はじめ、神代のむかしよりこの事恋しり鳥のおしえ、男女のいたずらやむことなし。 と、十七世紀末の大阪の町人作家・井原西鶴《いはらさいかく》も『好色五人女』でいっている。事実、むかしの暦を見ると、元日または二日のところに、チャンと「姫始め」と書いてある。学者というものは、今も昔もうるさいもので、この姫始めについて、なんだかんだと考証している。一番ほんとらしいのは、昔はむした強飯《こわめし》に対して、釜でやわらかくたいた御飯を姫飯《ひめいい》といったから、正月にその姫飯を食べはじめる行事だ、という説である。そのほか、女子が裁縫をはじめる日だとか、飛馬《ひめ》始めで馬に乗りはじめる日だなどと、諸説フンプンたるものがあるが、西鶴や近松をはじめ江戸時代の民衆は、男女がはじめて情交する日と、かたく信じていたのだから、やぼな学者がなんといおうと問題ではない。だから、川柳でも、   やかましやするにしておけ姫始め と、やっつけているのである。いかがなものであろう、いたす、いたさぬは別として、来年のカレンダーから、正月二日の条に「姫始め」と印刷しては。文部省も日教組も、自民党も社会党も、サラリーマンもOLも、この日はカレンダーをめくった瞬間、超党派で一億総ニヤリ、なごやかな新春をむかえることになるであろう。   宝《たから》 船《ぶね》   宝船《たからぶね》しわになるほど女房こぎ  正月二日の姫始めを取りあげたからには、宝船を見のがすわけにはいかない。明治以来、この習俗はなくなったが、幕末までは元日と二日の宵《よい》に、七福神《しちふくじん》と宝船の一枚ずりの絵を、縁起物として売りあるいたものである。  どの家でもこの宝船を買って、二日の夜、枕の下に敷いて寝たのは、その夜見る夢を初夢というので、吉夢《きつむ》を見ようためである。そこがソレ、二日の夜はうまいぐあいに姫始めということなので、女房も枕の下に敷いた宝船の絵が、しわになるほど漕がねばならぬ仕儀《しぎ》とあいなったしだいである。   宝船|艪《ろ》をおすような音をさせ という句も、女房のフンレイ努力ぶりをいったのであるが、音の出どころは、かつての日本髪女性が用いた舟底の箱枕であるとご承知ねがいたい。  ショートカットで坊主枕では、こういうイキな音は出せっこない。   福神のするを見たもう二日の夜  いくら神さまでも、枕の上で姫始めの艪《ろ》をこがれては、気をわるくなさったことであろう。   ほうろくの効用   宝船ほうろくのいる神もあり  近世文学の学会を東京でやった時のこと、余興《よきよう》に隅田川《すみだがわ》の文学散歩を船でやることになった。やく三時間の予定、途中上陸するのは佃島《つくだじま》だけということだったので、缶詰《かんづめ》のビールといささかの食料品を仕こんで乗りこんだ。  乗合い七十人ほどのうち、若い女性が三分の一ほどである。思ったより川風が身にしみるので、浜離宮《はまりきゆう》のあたりからビールをグイグイとやり出した。佃島《つくだじま》でさかなのツクダ煮を買いこんだのはいいが、小用をたすのをつい忘れたものだから、船が出るとまもなく、どうにもがまんができなくなった。といって四十あまりも若い女性の目が光っているのに、まさか船べりから大川へ放尿するわけにもいかない。差し向かいでのんでいた友人も、ご同様と見えて、浮かぬ顔をしている。  そこでわたしは窮余《きゆうよ》の一策《いつさく》、足もとにころがっていたビールの空缶の飲み口を、缶切りでひろげ、さいわい風よけのレーンコートを羽《は》おっていたので、そしらぬ顔で話をつづけながら、ゆうゆうとやってのけた。  つまり、ビールをもとの缶にもどしたわけである。あわて者がまちがえてはいけないから、あとはただちに大川にほうりこむと、友人もまたわたしにならって、ゆうゆうとやってのけた。ビールの空缶が、こうも見事に物の用に立つとは一大発見であった。みなさんもご婦人づれで釣りなどにお出かけの節は、ぜひ缶ビールを、となるとコマーシャルじみるからよしましょう。  その時わたしは、あの、事を終えた直後のさわやかな気持で、若い女性群を見わたしながら、サゾこの中にはタエガタキヲタエ、シノビガタキヲシノンデいる人もあるであろうと、同情にたえなかった。  終戦後まもないことであるが、わたしの友人が東京まで一昼夜もかかる疎開先から老母をつれもどすことになった。ご存じのように、乗りこんだが最後、トイレに通うなどはもってのほかの状態であり、しかも年寄りはあの方が近いと来ているので、友人も頭をかかえこんでしまった。そこでわたしといろいろ相談したあげく、まだ使えるけれども背に腹はかえられず、中古の水枕を持参することにした。  それから一週間ほどして帰って来た友人の報告によると、ピッタリとして、こぼれる恐れもなく、まことにぐあいがよかったそうである。おまけに、その何回分かたまった水枕を見て、ぐるりの乗客が、老母を病人と勘ちがいして、いろいろ親切にしてくれて助かった、と付録までついての成功談には恐れいった。  今ではマア、たまに船遊びをするか、花火見物に船で出かけるか、沖釣りに出かける時以外にこまることもないわけだが、屋形船《やかたぶね》の船遊山《ふねゆさん》どころか、神田川《かんだがわ》から大川《おおかわ》筋にかけて猪牙《ちよき》船がタクシーがわりに走っていた江戸時代は、とっさにビールの空缶を、というようなことではすまなかった。そこで男は竹筒を用意したものであるが、ご婦人は構造がちがうので、竹筒では用をなさない。それにはそれに似合った形のもの、といえば、あの豆などをいる素焼《すやき》の平ぺったい焙烙《ほうろく》を、船中に用意してあって、その上にしゃがんで用をたしたものである。  ということになれば、主題句の宝船でほうろくのいる神さまはたった一人、女神《めがみ》の弁天《べんてん》さまである。それがまたグッとくるかっこうであるから、   ほうろくへたれると船頭こらえかね  ということになったのは、血気盛んの船頭としては自然の勢いであったろう。  しかし、シートでベーゼどころか、あられもないかっこうを見せつけられる現代の運転手諸君にくらべたら、物のかずではない。   口吸い   口吸えば笄《かんざし》の蝶《ちよう》ひらめいて  このごろの若い諸君は、気取ってベーゼとフランス語を使うので、接吻とか口づけなどは、古典語になりかけている。あいびきがランデブーになり、今ではデートというようになったようなものだ。  接吻というのは、もちろん翻訳語であるが、いつごろから一般に使い出したものか、どうもよくわからない。ノートをとっておかなかったので、作品の名前を忘れてしまったが、たしか明治三十年前後の森鴎外《もりおうがい》の作で、「親嘴《しんし》」という訳語を使っているところを見ると、そのころはまだ接吻は一般化していなかったにちがいない。  どうもキスかベーゼの訳に「親嘴」はおかしい。クチバシを親しくするでは、小鳥籠のトマリ木の文鳥《ぶんちよう》みたいである。  しかしこれは、鴎外先生の訳語ではない。中国人と英人ロブシャイドが協力して、慶応《けいおう》二年(一八六六)から明治二年(一八六九)までの四年間で完成した『英華宝典《えいかほうてん》』に、キスの訳が「親嘴」と「啜面《てつめん》」と、二つついているから、鴎外先生はこの訳語を拝借されたのにちがいない。  というようなわけで、接吻というコトバが一般化したのは、比較的あたらしいことなのだが、いろいろ調べてみると、オランダ語の訳語としてこの世に生《せい》をうけたのは、今から百七十年ほど前の文化十三年(一八一六)といえば、まだ『浮世風呂《うきよぶろ》』の式亭三馬《しきていさんば》や『東海道中|膝栗毛《ひざくりげ》』の十返舎一九《じつぺんしやいつく》が活躍していた、江戸|戯作《げさく》の全盛期のことである。ご存じのように、幕末から明治にかけて英語文化がはいって来るまでは、オランダ文化であった。早くも二百余年前の安永《あんえい》三年に、杉田玄白《すぎたげんぱく》や前野良沢《まえのりようたく》らによって出版されたオランダ解剖《かいぼう》書の翻訳『解体新書《かいたいしんしよ》』には、今なお使っている「処女膜《しよじよまく》」をはじめ、「神経」、「淋巴腺《りんぱせん》」などいう訳語があらわれている。それから四十二年後の文化十三年に、『ズーフ・ハルマ』という蘭日《らんにち》辞典が、長崎《ながさき》のオランダ商館長ヘンドリック・ズーフの手によって完成した。  その辞典のキスの訳語に、「接吻」とあるのが最初である。それからまた、幕末の文久二年に成立した、薩摩《さつま》の侍が訳したので普通に「薩摩辞典」といわれている英和辞典にも、『ズーフ・ハルマ』を参考にしたとみえて、キスに接吻の訳語をあてている。しかし、ごく少数の語学者だけが、これらの辞典を利用したので、なかなか一般化しなかったのであろう。  おもしろいのは『ズーフ・ハルマ』の接吻の訳語の横に、「あまくちトモイウ」と注がしてあることである。たぶん、長崎地方の方言だと思うが、甘口とはよくいったものだ。もっとも、あと口のわるい辛口《からくち》もあるにはあるが、これなどは方言とはいいながら、なかなかの傑作《けつさく》である。  方言はさておいて、接吻とか親嘴とか口づけとかいい出す以前、一般になんといったかといえば、「口吸う」と「口口《くちくち》」である。どうも両方ともソノモノズバリで恐れいったしだいだが、事実なのだから仕方がない。さらにまた、口と口だから、呂《ろ》字ともいったのは、江戸も後期のことであり、遊里《ゆうり》では、江戸以来「おさしみ」といっている。中でも、「口吸う」が古くて一般的であった。すでに、平安時代からいいはじめている。『源氏物語』などのエレガントな貴族文学には、そういうコトバや場面は出てこないが、武家や庶民の生活を取りあげた、羅生門《らしようもん》で名高い『今昔《こんじやく》物語』に、こんな話がある。  最愛の妻に死なれた男が、埋葬《まいそう》する気になれず、死体を抱いて過ごしていた。 [#この行2字下げ]日ごろをふるに、口を吸いけるに、女の口よりあやしきくさき香の出《い》で来たりけるに、すくむ心出できて、泣く泣く葬《ほうむ》りしてけり。  接吻をポイントにした、もっとも古い文学の一つなのだが、いささかエロ・グロすぎる。  江戸時代にはいると、接吻もけっこうじゃないかという気取らない庶民の時代であるから、俳諧《はいかい》の方でも早くから「口吸う」を恋の詞《ことば》として扱っている。もと俳諧師《はいかいし》であった西鶴の『好色五人女』巻四は、八百屋《やおや》お七《しち》の物語であるが、仲をせかれた恋人の吉三郎《きちさぶろう》が、お七のうちへ野菜売りに変装して、デートに行くという場面がある。その宵は雪が降りやまないので、お七の親がそれともしらずあわれんで、土間の片すみにとまらせることになった。夜がふけて冷えこんでくると、お七もまた、それとしらず、  ——さっきの子はどうしました。せめて湯でも飲ましておやり。 と、下女にいいつけると、下男《げなん》の久七《きゆうしち》が心得て、茶碗《ちやわん》に湯をくんで吉三郎にやったが、暗いのをさいわいに前髪などなぶり、はては足をさすってみて、  ——きどくにアカギレを切らしておらぬ。これなら口をすこし……。 と口をよせたが、  ——いやいや、ネギやニンニクを食った口かもしれぬ。 と思いなおす、という場面である。めずらしい男色の接吻シーンである。  日本文学の中でもっとも美しい接吻シーンは、古今を通じて、人情本の為永春水《ためながしゆんすい》の右に出るものはない。  小梅《こうめ》の百姓家の離れをかりて、出《で》養生している丹次郎《たんじろう》のところへ、その年十七の深川芸者|米八《よねはち》が、見舞いがてらデートにやってくる。いろいろとやりとりがあって後、丹次郎が引きよせて口を吸おうとする。  アレサ、マア私もお茶をのむわね、と丹次郎の飲みかけし茶をとって、さもうれしそうにのみ、また茶をついで、二口《ふたくち》三口のみ、歯をならして|くくみ《ヽヽヽ》し茶を縁がわより庭へはき出し、軒端の梅の莟《つぼみ》をちょいと三つばかりもぎりてかみながら、すこし離れて丹次郎のそばに寝ころぶ。  お七のうちの下男でさえも、ネギやニンニクを食った口かもしれぬ、と二の足をふんでいるのに、現代のヤングたちは、彼女がいまさっき餃子《ぎようざ》を食ったかもしれないのに、やにわにむしゃぶりつくのが情熱的だと思いこんでいる。それにくらべると、この十七の米八のふるまいは、清潔でしかも色気たっぷり、永井荷風《ながいかふう》先生が絶賛したのもむりはない。  しかし小説とちがって、五・七・五の短詩型で、接吻シーンをとらえてもっとも美しい句はといえば、俳諧・川柳を通じて、主題句にまさるものはない。江戸時代の町娘は、桃割れか結綿にゆって、黄八丈《きはちじよう》を着こみ、鹿子《かのこ》の帯などしめていたものだ。髪にはお定まりのカンザシ、この場合は銀板を切りぬいた蝶を三つ四つつないだフサがゆれているという寸法である。なにしろはじめてのことなので、大きいショックが伝わって、笄の蝶がヒラヒラときらめく、という美しい情景である。  もっとも、「豆|盗人《ぬすびと》は雛《ひな》をねだられ」というこの句の前句といっしょに見ると、グッとユーモラスになる。豆盗人というのは、アソコの泥棒である。もちろんコッソリいただくわけにはいかないのだから、だましすかしていただいちゃったのであるが、相手はまだ子ども気のうせない十四、五のローティーンなので、お雛さまを買ってえ——とねだられ、くすぐったい顔をしているという場面である。ただし今どきは、お雛さまなんぞねだるようなあどけないローティーンはいない。へたに手を出すと、ヒモつきでゆすられる恐れがあるから用心にしくはない。   おさしみの前に土手をばちょっとなで  いかにもあどけない前句に対して、この方はいささか玄人《くろうと》っぽい、ヘビーデートのありさまである。接吻のことを水商売の世界で「おさしみ」といったのは、それがいかにもおさしみを二人でたべ合っているかっこうだからである。もっとも、この句は表面、板前がいよいよ刺身《さしみ》を作ろうとする直前、マナ板にすえたマグロの土手肉をちょいとなでるという、あのなにげない職業的な所作《しよさ》をよんだものなのだが、しかしそれだけでは川柳にならない。  この土手はやっぱり、|あの《ヽヽ》土手で、前戯の前戯で、気分を出すためにちょいとなでた、というわけである。もっとも、この土手は、皇居前広場の土手で、いきなりナニするのは照れくさいので、あいた片手でもじもじと土手の春草をなでたんだ、と体験にてらしてご解釈のむきは、それでもさしつかえないというのが、川柳の本意である。  いずれにしろ、お正月には和服姿になる恋人をお持ちのみなさんは、土佐《とさ》の高知《こうち》の坊さんではないから、遠慮なく蝶々のカンザシを買ってやって、大いにひらつかせ、かつ、トロのお刺身《さしみ》をいただかれるがよい。 [#改ページ]  第二章 心中《しんじゆう》のなりたち   ひとり者の生態   ひとりもの店賃《たなちん》ほどは内にいず  どうもひとり者というものは、気ままで、さびしくって、愛嬌《あいきよう》のあるものだ。ただしそれは、男の場合で、年ごろの女はひとり者であろうが、ふたり者であろうが、ひとをやきもきさせるだけで、とんと愛嬌はない。昔も今も、かわいげのあるひとり者といえば、男と相場がきまったもんだ。近ごろはまた、インフレ続きで、月給より物価の方がサッサと上がってしまうから、三十すぎないとまともに結婚はできない。いよいよ、おかしく、さびしい独身貴族がふえるだろう。  昔はマンションという便利なものがなかった。といって三|間《ま》も四間もある一戸建てでは不経済かつ不用心だから、たいていは長屋に住むことになり、毎月|大家《おおや》さんに店賃《たなちん》、すなわち家賃をおさめることになる。ところが女房持ちだと、仕事に出ても一人は内におり、仕事がすむとサッサと帰って来て、またいっしょに夜業《よなべ》をはじめることになるわけだから、家賃相当に、あるいはそれ以上に利用することになる。そこへいくとひとり者は、仕事がすんでも道草をくってなかなか帰らないし、時にはまるっきり帰らない晩もあるのだから、「店賃ほどは」と同情せざるをえないわけだ。どうせ律義《りちぎ》に帰ってみたところで、   屁《へ》をひっておかしくもなしひとり者 というふうに、おもしろくもおかしくもない、たださびしいだけの境涯なのだから、雨が降って銭《ぜに》がなく、映画にも喫茶店にも飲み屋にも寄れないで帰った晩などは、   ひとり者|小腹《こばら》がたつと食わずにい ということになるのもやむをえない。  飯《めし》なんぞも、そのつど暖かいのをいただくということは、便利な電気|釜《がま》がある今日このごろでもめんどうだから、   ひとり者こめんどうなと二升たき ということに、どうしてもなりがちだ。  飯はまあ、それで片づくとしても、手のつけられないのは、ちょいとした|ほころび《ヽヽヽヽ》だ。   ひとり者ほころび一つ手を合わせ  アパート中で、一番人のよさそうな|かみさん《ヽヽヽヽ》か、やさしそうなOLに目をつけて、低姿勢で頼みこむ時の情けなさといったらない。  しかしまあ、そのくらいのことは、頼みこめばカタのつく世の中だが、あの方の処理だけは、ごめんどうを願うわけにはいかない。いくら吉原《よしわら》を筆頭に千住《せんじゆ》、板橋《いたばし》、新宿《しんじゆく》、品川《しながわ》という赤線のほかに、六十なん個所の青線のあった江戸時代であったとはいえ、ふところは寂しく恋人はないという状態では、いかんせんである。ましていわんや、売春禁止以後、パンマやトルコが出現したとはいえ、冒険をあえてするという勇気もなければ、銭もない善良なるひとり者は、おのずから自家発電ということになる。   ひとり者となりの娘うなされる  平安《へいあん》・鎌倉《かまくら》のころは「皮つるみ」といい、室町《むろまち》・江戸から現代にかけては「せんずり」(千摺)という自慰《じい》のわざも、いい年をしたひとり者なら、かならず妄想《もうそう》とともに行なうことになる。ことにアパートの隣室の彼女におぼしめしでもあろうものなら、一心不乱に彼女のことを思い描きながら行なうのであるから、ちょうど呪《のろ》いをかけて祈りつめているようなあんばいだ。一念通じて、隣の娘も同じ時刻にうなされているに違いない、と同情したわけだが、陰《いん》にこもって物すごいようで、なんともおかしい。  みずから慰める時は、一国一城のあるじであるから、独居もまた楽しからずやであるが、なにぶんそのほかは留守居がちであるから、いきおい恋人はあるが、デートの場所がないという友だちにねらわれることになる。   ひとり者けちな出合いにかりられる   ひとり者二階をかしてなりこまれ  |千駄ヶ谷《せんだがや》ではなかった、あとにのべる不忍《しのばず》の池の、当時のラブホテルに行く銭もないという仲間にかりられるのだから、「けちな出合い」ということになるのだが、時にはまた、友情を発揮し、見るに見かねて貸す場合もある。ところが、情けが仇《あだ》となって、彼女が妊娠したか、手に手をとって駆落ちか、はたまた心中未遂かということになって、  ——もとはといえば、おまえのところで。 と、どなりこまれる仕儀とあいなったわけだ。  四、五十代のみなさんは、ジャック・レモンとシャリー・マックレーン主演の『アパートの鍵《かぎ》かします』というアメリカ映画をご記憶でしょう。さすがは現代アメリカのひとり者だけあって、留守がちなアパートの鍵を浮気な上役どもに貸して、出世の糸口をつかもうと、抜け目なく立ち回るというプロットである。当然のことながら、日本は江戸版の「長屋の鍵かします」の方が、お人よしでのんびりしているが、そこはそれ、時と所と人情はことなっても、「店賃ほどは内にいず」という、また内にいてもしようがないひとり者の境涯から発生した、似たりよったりのケースなので、なんともおかしいのである。   最後の抵抗線   心中《しんじゆう》があるでつよくもしかられず  友だちに長屋の鍵をかしたために、心中未遂でどなりこまれるはめとなったひとり者も、時いたれば好きな相手ができて、結婚ということになる。しかし、恋愛と結婚の自由を保証されている現代でさえも、たまに心中があるのだから、恋愛はみとめない、結婚は親がきめるという建前《たてまえ》であった江戸時代のことだから、なかなかスラスラと思うように、事ははこばない。すったもんだのあげく、当人たちは心中でもやらかしそうな雲行きになり、親たちは親たちで、これ以上ガンコなことをいったら心中でも、と二の足をふむ状態となり、そこの呼吸ひとつでめでたしめでたしとなるか、愁嘆場《しゆうたんば》となるかが、当時の恋愛結婚のなりゆきであった。  愛しあっている男女が、家庭の事情や社会の事情で晴れていっしょになれないというので、二人で死ぬという心中という行為は、外国にもたまにないわけではないが、なんといっても、日本人の特技である。その証拠には、英語にもフランス語にも、心中に相当する言葉がない。しかし日本でも、心中が全国的に流行するようになったのは、そう古いことではない。  すくなくとも十七世紀の後半、西鶴《さいかく》が活躍していたころまでは、情死のことを「思い死《じに》」とか「相対死《あいたいじに》」とかいって、芝居や小説でもたまにしか取りあげていない。もちろん、心中という言葉はあったのだが、たとえば、   浅からぬ千話《ちわ》のあまりに指切りて   浮かれ女《め》なれど強き心中 という西鶴の先生の西山宗因《にしやまそういん》の俳諧《はいかい》があるように、それは愛しあっている男女が、お互いにまごころを示す行為を意味し、けっして情死をさしていったのではなかった。ところが、情死が流行するようになると、いっしょに死ぬことが最高の誠意のあらわれということになって、いつのまにか心中は情死の代名詞になってしまった。そしてその時期は、十八世紀のはじめ、浄瑠璃《じようるり》作者の近松門左衛門《ちかまつもんざえもん》にとって最初の現代劇『曽根崎心中《そねざきしんじゆう》』(一七〇三)が大阪の竹本《たけもと》座で上演されたころから、といえば大体あたっていよう。  というのは、その翌年に出た『心中大鑑《しんじゆうおおかがみ》』という心中事件の報告文学に、 [#この行2字下げ]きのうも心中きょうもまた、あすか川の淵瀬《ふちせ》かわったことがはやりける。京大坂田舎ひとつひとつ集めければ全部五冊。 とあって、二十一件をおさめ、なおまた、おさめきれないから続編を出す、と予告している。それらはみな、主人への義理、親への義理、身分ちがいなどで結婚が不可能な上に、金もないというので、はげしい伝染病にかかったように、あっけなく心中している。  その原因はといえば、身分ちがいの結婚をみとめないという身分制度と、親や主人の命令どおりに結婚すべしという家族制度に、町人社会の青春が抵抗しきれなくなったからなのだが、もう二つほど、どうしても見のがせない条件がある。  というのは、死なねばならぬ|はめ《ヽヽ》になり、死ぬ決心をした男に引きずられて、  ——あなたを一人死なせるわけにはいかないわ。 というのが、日本の心中の大部分だからである。  男はおとし穴だらけの社会で活躍し、女はその男をたよりに生きる存在で、夫唱婦随《ふしようふずい》、愛する男と運命をともにするのが女性の美徳である、という封建的道徳教育のおかげで、さっさとお供しちまったのである。  それにもう一つ、キリスト教国では、自殺は神のみ心にそむく罪悪であり、心中はそれがダブッているのだから、いよいよ大罪で、とてもあの世で添うことはできないどころか、自殺者や心中者の葬礼《そうれい》を、昔から教会ではいっさい受けつけないしきたりなのだから、アチラの人は心中がしにくいわけだ。ところが仏教国の日本では、この世は火宅《かたく》といって衆苦《しゆうく》充満、あの世へ行けばだれにもじゃまされずに、二人っきりで楽しく暮らせますなどと、無責任なことをいうものだから、大衆はそれがたとえであることを薄々承知していても、せめてあの世で、と死に急ぎしたのも無理はない。   心中の禁止   死に切ってうれしそうなる顔二つ  しかし、いずれにしても、政府は、自分たちが作った道徳や制度へのつら当てに、若者たちがドカドカと心中するのは困るので、幕政改革のために就任した八代将軍|吉宗《よしむね》の享保《きようほう》八年、一七二三年にだんことして取りしまることになった。参考までに、その法令をあげておこう。 一、男女の情死せしは、今より後|死骸《しがい》とりすつべし。一人存命ならば下手人《げしゆにん》たるべし。死骸葬埋《しがいそうまい》なさしむべからず。はた双方ともに存命ならんには、三日が間、市にさらして非人《ひにん》の手につけらるべし。すべてかかる事跡を記して梓行《しこう》(出版)し、ならびに演劇に作りなすことかたく停禁たるべし。もし違犯せばとがめらるべし。  こうなると、うっかり心中はできない。死骸をとり捨て、埋葬をゆるさない、というぐらいは、死んじまえばそれっきりだから、さして抵抗を感じないとしても、生きのこったら下手人、つまり殺人罪で打ち首にするというのだから、心中するとなったら、どうしても死にきらなくては浮かばれない。  そこで、主題句の「死に切ってうれしそうなる」ということになるわけだが、一説にこの句は、シュウトかシュウトメにいじめ抜かれた若夫婦が、いよいよその意地わるじいさんかばあさんが息を引きとった時のうれしそうな顔二つなんだ、というのだが、じょうだんいっちゃいけない。たとえホッとしたとしても、かりにも親と名のついたものが死んだ時に、うれしそうな顔は現代でもできることではないし、ましていわんや、江戸時代にありうることではない。人情として、そういう場合は、嬉しさをおさえた悲しそうな顔二つ、というのが川柳であり、本当である。  だからこの句はやっぱり、片方が生きのこったら殺人罪で打ち首、両方が生き残ったら三日の間さらし者になって、そのあげく戸籍から抹殺されるという、この世の地獄をうまくのがれた満足の顔、ということになる。もっとも、死に顔は安らかであっただけで、「嬉しそうなる」というのは、作者の主観である。だから、   日本橋《にほんばし》死なぬを惜しく言うところ ということになったのである。  三日間さらす場所というのは、日本橋の橋づめであった。なにしろ日本橋は、「お江戸日本橋七つだち」と歌にもあるように、日本のメーンストリート東海道の起点であり、江戸一番のにぎやかな通りのセンターで、人通りは最高だから、みせしめのさらし場として、えらばれたわけだ。そこで三日間、うしろ手にしばりあげた二人をさらし者にするということになると、はじめのうちは好奇心でからかったりしていた群集も、まかりまちがえば、おれもあの身の上、という実感がわいて来て、  ——どうして、うまく死ななかったんだ。 というつぶやきが、聞こえるようにもなろうというものだ。  明治から大正、昭和と、近代化の一途をたどりながら、日本には心中があとをたたない。有島武郎《ありしまたけお》、太宰治《だざいおさむ》といった知識人まで、これに参加している。伝統が生きているらしい。しかし、成人に達すると、基本的チン権とマン権がみとめられて、双方の両親の許可なく、当人たちの合意で結婚が可能になった今日《こんにち》、心中するというのは、よほどのあわて者か、かい性《しよう》なしか、ともかくまともな人間であるはずがない。というわけで、色恋のための心中はほとんど影をひそめたが、倒産やサラ金のための一家心中が目立ちはじめたのは、いかに金権政治の時代とは言いながら、なさけない。しっかりせんかい。 [#改ページ]  第三章 性の抑圧   医者と親子の謎《なぞ》   門口《かどぐち》で医者と親子が待っている  むかし、むかし、わたしが大学生であった時分は、いとものどかであった。金ボタンの制服に制帽という、ウブな学生もいるにはいたが、講義に出る時だけ袴《はかま》をはいて、あとは角帯の着流しという連中が多かった。学生を売物にする料簡《りようけん》が希薄だったのである。  冬になるとドテラに袴をはいて、二重まわしか角袖という山賊みたいないでたちで、カゼの気取りでノドにホータイを巻き、大型の薬ビンに焼酎《しようちゆう》を入れてきて、講義の合間にチビチビやる猛者《もさ》もいた。  何しろたまにカフェーなるものに行くと、白いエプロンを後ろで蝶々むすびにした女給さんがいて、朝顔型のラッパのついた手回しの蓄音機が、今や森繁《もりしげ》の十八番となった『枯れすすき』をはじめ、感傷的な流行歌をとぎれとぎれに流すというスローテンポの時代であるから、ノンビリもいいところである。したがって、教授もしゃれたもので、今のようにお時間だけノートを読んでチョンという、味もそっけもない完全職業型は存在しなかった。とくに文学部の教授は、学者とはいえ、いずれも文人|気質《かたぎ》で、その講義ぶりはおもむきのあるものであった。  大学にはいったばかりの、しかも最初の江戸文学の講義の時のことである。  結城《ゆうき》のそろいに、狂言師がはくような横縞の袴をはいた教授は、たとえば清元《きよもと》と常磐津《ときわず》ぐらいは聞きわける耳を持たねばならぬとか、山の手から吉原へ出かけるには、駕籠《かご》という手もあったが、お茶の水から川船に乗って神田川《かんだがわ》をくだり、柳橋《やなぎばし》で急行の猪牙《ちよき》船に乗り替えて大川に出て、聖天《しようでん》さまの下の山谷堀《さんやぼり》に上がり、土手八丁を通って大門《おおもん》に出る、といったぐあいに、江戸文学を学ぶについての基礎知識をコンセツテイネイに説きしめしたあげく、この「門口で」の句を黒板に書いて言われたものである。  ——もし諸君のうちで、即座にこの句の意味のわかる人があったら、わたしの講義は試験を受けなくとも優をつけてあげよう。  もちろん、だれひとりとして答えられる者はいない。  ——先生、その門口はどこの門口ですか。たとえば忠臣蔵の何段目かの門口といった故事があるのでしょうか。 とだれかがきくと、  ——きみ、それがわかれば、半分はとけたようなもんだ。まあ、きみたちにはまだ無理だろう。そのうちにわかる時がくるから、川柳だなどとばかにしないで、せいぜい勉強するんだネ。  そういって、サッサと出ていかれたので、わたしはあわてて追っつき、  ——先生、せめて出典だけでも教えてください。 ときいたら、  ——ああ、それはネ、普通の雑俳《ざつぱい》集にははいっていないんだ。松浦静山《まつらせいざん》の『甲子夜話《かつしやわ》』という随筆に出ているよ。 ということであった。  そこでわたしは、さっそく、図書館にとんでいった。著者の松浦静山は肥前平戸《ひぜんひらど》の殿さまで、当時の著名な学者、皆川淇園《みながわきえん》や北村季文《きたむらきぶん》について学び、和漢の文学に通じた人であった。八十二歳で天保十二年(一八四一)に没しているが、その生涯をかけた随筆が、『甲子夜話』百巻である。さっそくしらべてみると、なるほど、この句が出ていたが、解釈はしてなくて、「さてさて、町人というものはしゃれたことをいうものだ。」とだけあったのにはガッカリした。  そのまま、忘れるともなく忘れていたが、大学を出ていろいろ経験もつみ、古川柳などをいじっているうちに、つぎのような句を発見した。   腕人形   道鏡《どうきよう》は腕人形もどどつかい   医者親子ともに女帝はご寵愛《ちようあい》  この二句で、やっとわたしは、多年の疑問を氷解するきっかけをつかむことができた。  弓削《ゆげ》道鏡の巨根説は、鎌倉時代からはじまっているが、もちろん所持品の使用が思うにまかせなかった坊主どもや、道具の貧弱な公卿《くげ》どもの劣等感とやきもちによってでっち上げられた作り話にちがいない。しかし、ともかく、ユーモラスな伝説なので、それ以来、おもしろ半分に語り伝えられ、川柳の好餌《こうじ》となったのはいたしかたもない。   道鏡はすわると膝が三つでき   道鏡にさて困ったと大社《おおやしろ》  鎌倉時代の『下学集《かがくしゆう》』に、「道鏡ハ法名ナリ、丹州弓削ノ人ナリ。後に洛《らく》ニ入ル。弓削ノ法皇ト号ス。即チ孝謙帝ノ夫ナリ。馬陰ニ量《はか》ルニ過ギタリ。咲《わろ》ウベシ。」とある。こういう、馬の一物より大きいのを、俗に「馬敬礼《ばけいれい》」という。さすがの馬も恐れいって、敬礼するからである。  そんなわけだから、出雲《いずも》の大社における八百万《やおよろず》の神々の縁結びの席上で、いずれも思案なげ首、これにふさわしい女性があるはずもない、困ったことになったわいと、しばし水を打ったようになったが、やがてひとりの神さまが勢いよく立ちあがった。   道鏡にあるぞあるぞと大社  すなわち、ここに女帝のご登場とあいなるわけだ。膝なみの道鏡をご寵愛《ちようあい》になったということになると、女帝のほうもそれにふさわしい、もしくはそれ以上の広陰ということにしなければ、理屈にあわない。そこで同じく鎌倉時代の『古事談』に、 [#この行2字下げ]道鏡ノ陰、ナオ不足ニ思召サレテ、薯蕷《しよよ》(山の芋)ヲ以テ陰形ヲ作り、コレヲ用イシメ給《たも》ウ。 とつじつまをあわせている。  さてそこで「腕人形」であるが、これは道鏡の場合にかぎるのであって、一般には「指人形を使う」という。アレを用いないで、指を用いるからである。ところがなにしろ女帝のアソコは広いので、指ではまにあわず、さてこそ腕人形を使ったろう、という、まことに失礼なゲスのかんぐりである。 「指人形」はいうまでもなく、人差指と中指をもっぱら用いる。したがって、親指と小指、ならびに薬指は遊軍ということになる。薬指はすなわち医者であり、親指と小指はすなわち親子である。人差指と中指では足らず、医者親子もろとも五指全部を女帝はご寵愛になった、すなわち道鏡の腕人形を好ませられた、というわけである。  ということになれば、もはや主題句の「門口」は問題でない。鉱物質でもなければ、植物質でもない。あの暖かくしめっぽい動物質の門口なのである。  もちろんこの句の場合は、道鏡が使う腕人形の場合と同じく、おのれの医者と親子ではない。他人の医者と親子で、かのいわゆる前戯《ぜんぎ》と称する場合。自動でなく他動である。しかし、もちろん、自動の場合もありうるわけだ。それについて最近、わたしの所へ出入りする若い者が、こんなことをいった。  この五、六年、三十娘はおろか四十娘がふえてきたのは、かつていわれた戦争ギセイ者というわけではない。戦前とちがって、女性が男性をきびしく選択するようになった上に、社会に進出して自活の能力を持つようになったからなのだ、などとわたしが女性進出論をぶっていると、仕方なしに相槌《あいづち》を打っていたその若い者が言った。  ——ところで先生、その三十娘のことを近ごろなんというかご存じですか。  ——なんというかしらんが、三十になろうと四十になろうと、未婚の女性ならミスはミス、オトメはオトメさ。  ——それがですよ。二十《はたち》代まではですよ、まあオトメといっていいでしょう。三十代ともなるとですよ、オトメでは通りません。そこでですよ、オートメというんです。  ——ふうむ、大年増《おおどしま》だから大トメかい。 と軽くいなすと、どすんと落とされた。  ——そうじゃないんです。もうその年ごろになりますと、誇りは高いし、相手はいないし、あの方もオートメーションですませますから、略してオートメというんです。  まことに近ごろの若い者は、フラチ千万《せんばん》である。   張《はり》 形《がた》   弓削形《ゆげがた》はきらしましたと小間物《こまもの》屋  道鏡のはなしが出たので、ここにまた、ふたたび弓削氏に登場していただこう。もっともこの場合は、弓削形であるから、間接的登場である。それにこの句は、オートメにも深い関係がある。  現代は性の解放時代であるから、まにあわせに専属の医者と親子を門口で待たせることがあっても、道具を使用するなどという大時代な、あほらしいことをなさるお人のあるはずはない。戦前はそれでもまだ両夫にまみえずという古い道徳が生きていたから、そういう気の毒な人たちのために、治療用と称して保温器などというおかしな形の道具が、性器具屋の陳列棚にならんでいたものである。  ましていわんや江戸時代は、そういう道徳の全盛期であったから、女性にとって、その方面の不自由さといったらなかった。  それでも一般市民社会の女性は、男性に接触する機会も多かったから、たとえ不義密通といわれようとも、手代《てだい》の清十郎《せいじゆうろう》と契《ちぎ》った姫路《ひめじ》のお夏《なつ》や、寺小姓の吉三郎の寝室をおとずれた江戸|本郷《ほんごう》のお七のように、チャンスもあったわけだが、とくに江戸城の大奥や大名屋敷の奥女中は気の毒であった。  殿さまの住んでいる表と、奥方とそのおつきの奥女中の住んでいる奥は別棟になっていて、ここを公然とおとずれることのできるは殿さまだけ。しかも、お錠口《じようぐち》といって、表と奥との境に内外から錠をおろす出入り口があり、おまけに詰所があってきびしく出入りを監視していたのだから、とても殿さま以外の男の忍びこむ余地はなかったのである。  そういう、世にもきびしい男子禁制にかてて加えて、大奥などで将軍のお手のついたお局《つぼね》は、三十の声がかかると、女盛りであるにもかかわらず「御褥御免《おしとねごめん》」と称して同衾《どうきん》を辞退し、若く美しい自分の部屋子をすいせんし、手前を手前で予備役に編入するというしきたりだったのだから——だれだ、うちでもそうしたいというやつは——気の毒を絵に書いたようなものである。  そこで、増上寺《ぞうじようじ》や寛永寺《かんえいじ》へ代参する機会のあった老女、といっても侍女の頭《かしら》で婆さんではない連中は、坊主と仲よくしたり、その途中、役者買いをしたりしたものである。もちろんそれが表沙汰《おもてざた》になると、お手討ちになったり、島流しにされることはわかっているのだが、それでもなおかつというのだから、気の毒を通りこして、あわれである。老女|江島《えじま》が、役者の生島新五郎《いくしましんごろう》との色事がバレて、信州|高遠《たかとう》へ流され、生涯流されっぱなしで死んだという一件などは、その一例だ。  しかし、そういうチャンスにめぐまれたのは、老女と称する高級奥女中だけで、その下に使われている何百人、何十人の奥女中は、年に一度の宿下《やどさ》がり(藪入り)に、一日だけ浮世の風にあたり、男の匂いをかぐだけであった。そういう男子禁制の女性群のために、指人形ではあまりにもお気の毒であるから、せめては男性をしのんでいただこうと、実物よりも一まわりも二まわりも大きな代用品を考案し、江戸市中の小間物屋で売り出したのが張形《はりがた》である。  一般には国産の牛の角で、高級品は舶来の水牛の角で作り、もちろん中空であるから、お湯を入れて適当にお燗《かん》がつくようになっていたのだから、行きとどいたことである。  そこで、弓削形は、……ということになるのだ。   小間物でなくて大間ものを買い という句もあるように、慣れてくると、どうしても、より大きな弓削形がのぞましい、というのが人情であろう。しかし初心のうちはなかなか買いにくかったと見えて、   いうも憂《う》しいわねば出さぬ小間物屋 と同情している。  これらは、みんな後期江戸の句であるが、こういうご用命はもちろん前期からあった。それを一番最初に取りあげて戯作したのが西鶴で、天和《てんな》二年(一六八二)刊の処女作『好色一代男』巻四「かわったものは男|傾城《けいせい》」の一章である。  さる大名の奥方に召し使われていた奥女中たちは、あたら二十四、五までも、男というものを見ることがまれで、ただもう枕絵を見て、一人で笑ったり歯ぎしりしたりするだけであった。ある日お局《つぼね》の一人が、使い番の女中をよびよせ、錦《にしき》の袋をわたし、  ——これよりすこし長めで、太いぶんには何ほどでも苦しゅうない。今日のうちに求めておいで、と言いつけた。使い番の女中は中間《ちゆうげん》に風呂敷包みを持たせ、通行切手を見せて裏門を通り、歌舞伎《かぶき》のある堺町《さかいちよう》へんの小間物屋に出かけた。奥座敷に通って望みの品を注文したが、あいにく弓削形は品切れだったので、あつらえて引きあげると、ちょうど芝居がはじまるところで、さかんに客寄せをしていた。  そのころ江戸に来て、町奴《まちやつこ》の唐犬権兵衛《とうけんごんべえ》方の居候になっていた三十一歳の世之介《よのすけ》が、伊達《だて》な姿で木戸口にはいろうとするのに目をつけた使い番が、中間によびとめさせた。  ——近ごろさし当たったご難儀《なんぎ》と存じますが、お人柄を見立てて、ぜひにおたのみしたいことがございます。私はさるお屋敷につとめている身でございますが、さきほど親のかたきにめぐりあいました。女の身では及びがとうございます。ご後見あそばし、この所存を晴らしてくださいませ。 と、ひたすら涙をこぼしてかきくどいた。世之介は引かれぬところと、女をまず付近の茶屋にあずけておき、家へかけもどって、くさり帷子《かたびら》に鉢巻をしめ、脇差の目釘をしめしてかけもどり、女をせき立てると、  ——これが命のかたきでございます。ぜひこのかたきをとって思いを晴らしてくださいまし。 と、あわてず騒がず、かの錦の袋をさし出した。とりあえず世之介がひらいて見ると、二十一、二センチほどもあって、何年か使いへらし、先のちびた張形であった。  それについて、こんな江戸|小咄《こばなし》がある。大名屋敷へ奉公に上がっていた娘が、宿下《やどさ》がりで久しぶりにわが家へ帰って来たが、どうも様子がおかしい。母親が心配していろいろしらべると、おなかがふくらんでいる。できたことは仕方がない。  ——相手はだれだえ。 と開きなおって問いただすが、なにしろ娘は身に覚えのないことなので、とほうにくれて返事をしない。  ——それでもおまえ、なんにもしないで、そんなことになる道理がないじゃないか。  父《てて》なし子を産ませたくないばっかりに、母親が愚痴《ぐち》ると、  ——男の人となにした覚えはないけれど、これならしょっちゅう使ってるわ。 と、せっぱ詰まった娘が思いきってさし出したのが、真《しん》にせまった見事なできばえの張形。母親がヒョイと裏を返してみると、根もとに左甚五郎《ひだりじんごろう》作とほってあった。さすがは名人の名作、生きてはたらいたとみえる。   朔日丸《ついたちがん》   朔日《ついたち》で払うは月の滞《とどこお》り  指人形を使ったり、牛の角細工を用いたりしている分には、おなかもくちくならないかわりに、あとくされもない。しかしほん物を用いると、そういうわけにはまいらぬ。たとえ合法的な夫婦の仲においてさえ、貧乏していると、これ以上できては困る、という場合がたびたびあった。  またまた恐れいるが、西鶴の最後の作品『西鶴|置《おき》土産《みやげ》』の中に、こんな短編がある。  なけなしの金をはたいて、愛し合っていた女郎《じよろう》を身請けして夫婦になった男が、女郎上がりだから子どもができないだろうと安心していたら、三つちがいで四人まで、娘《むすめ》の子ができてしまった。  これ以上できたら、一家心中するよりほかはないと覚悟して、「その後は子の事をうたてく、同じ枕をならべながら、人はしらぬ事、もはや十一年、何のこともせざりき。夫婦というたばかりに、世に住む楽しみの一つかけたり。」と、なまじ夫婦にならなけりゃ、子供ができてもなんとか片づくし、浮気もできたのに、となげく律義な男の話である。  それからまた、国学者が書いたらしい雅文調《がぶんちよう》の、ちょいとばかりワイセツな短編集の中にも、同様な話がある。  山奥に子どものひとりある木こりの夫婦が住んでいた。どう計算してみても、このうえ子どもができては暮らしが立たないというので、見込みがつくまで休戦協定をむすんだ。  それから半年あまりたったある夏の日、亭主が山から帰ってくると、女房が、かの愛嬌と威厳をそなえた部分を丸出しにして昼寝していたので、ついフラフラとイトナミにかかったが、なにしろ長い禁欲のあげくなので、女房が目をさますいとまもなく、事はすんでしまった。あとでコレコレシカジカとことわればよかったのだが、照れくさいので知らん顔をしていると、女房は覚えもないのにおなかがせり出してきたので、言い訳のしようもなく家出してしまった、という哀れにもまたおかしい話である。  何しろゴム製品や荻野式《おぎのしき》をはじめ、受胎調節の器具や薬品や方法が、ほとんどなかった時代は、こんな有様だったのだから、なんだゴム製品などと、仇《あだ》やおろそかに思ってはいけません。ところが、江戸も後期の田沼《たぬま》時代、宝暦《ほうれき》のころから、「朔日丸《ついたちがん》」という、毎月朔日に一服のんでおけば、その月中はけっして妊娠しないという、ピルの先輩みたいなのみ薬の避妊薬が江戸で売りだされ、浮気な後家さんや尻軽の娘さんたちに愛用されはじめた。   持薬さと朔日丸を後家はのみ  それをめんどくさがってやめると、   朔日をやめて十五夜腹に満ち ということになったらしい。宝暦ごろから天保ごろまで、朔日丸の句が散見しているから、ききめは相当にあったのであろう。 [#改ページ]  第四章 性と掟《おきて》   混 浴   入込《いりこ》みはぬきみはまぐりごったなり  七、八年まえまでは、正月は家にいて、二日三日を開放し、昼すぎから夜ふけまで、若い衆が入れかわり立ちかわり、十人ぐらいはたむろして、飲み食いしていたものである。相手かわれど主《ぬし》かわらずでも、なんとか持ちこたえたものであったが、この五、六年は寄る年波で、とうてい太刀打ちできなくなった。  さりとて家におればおしかけて来るにきまっているので、暮れのうちから松の内を伊豆《いず》で過ごすようになった。ところが今年は約束の仕事を|ど《ヽ》忘れしたために、元日の夜明けにかけて仕上げねば、出かけられぬ仕儀となった。仕事がすんだら朝風呂で身を清めて出かける段取りをしていたのだが、あいにくガスがもれるということなので、やむなく夜明けに手拭《てぬぐい》をぶらさげて二キロほど遠方の銭湯に出かけた。さほど混んでいない湯船につかっているうちに、フト思いだした。  わたしが大学を出てまもなく、劇作家の第一人者故|真山青果《まやませいか》先生のお宅に、五カ年ほど西鶴研究の助手として通勤していた、そのころ聞いた話である。  なんでも先生が若い時分に、佐藤紅緑《さとうこうろく》氏のお宅にやっかいになっておられた時のこと、まだそのころ赤ん坊に毛のはえた程度のサトウハチロー坊やを抱いて、昼風呂に出かけたのはよいが、センダンハフタバヨリカンバシ、赤ん坊のころから豪傑《ごうけつ》の素質があったと見えて、ハチロー坊やが湯船の中で、堅い大きなウンコをして、それがポカポカと漂《ただよ》いはじめた。  この時、常人ならば大あわてですくい上げ、流しで処理してごまかすところだが、なにしろ青果先生は仙台武士である。すこしもさわがず、大声で番頭をよびつけて、  ——銭をとってウンコの風呂に入れる気か。亭主をよべ。 ときたものだから、一家総出で平あやまり、大威張りで湯をかえさせたという一幕があったそうだ。  銭湯といえば、今のようにはっきりと男湯と女湯が分かれたのは、警察令で明治十八年に湯屋取締り規則をもうけ、厳重に混浴を禁止して以来のことである。それ以前は江戸から引きつづいて、東京もまだおおむね混浴の入込みであった。そこで、   入込みはぬきみはまぐりごったなり という句も生まれたわけである。「ぬきみ」は鞘《さや》から抜き出した抜身で、男性のアレのことであるが、同時に貝殻をとり去った貝の身である剥身《むきみ》の意をかけている。その抜身と蛤《はまぐり》がごった返しているという、まことに天下泰平な風景だったのである。しかし何しろ年寄りだけの混浴ではない。それを楽しみに血気さかんな若者や中年男がおしかけるのであるから、   かの娘来たので湯屋がわれるよう というのはまだ序の口で、   猿猴《えんこう》にあきれて娘湯を上がり  どっからともなく、手長猿のように手をのばしていたずらをする連中があった。湯船が一つで、しかも夜はカンテラで薄暗いのだから、人情というべきか。  娘だから、あきれて湯を上がることにもなるのだが、千軍万馬の内儀《かみ》さんだと、そうはいかない。   せんずりをかけと内儀は湯屋で鳴り  なんだいおまえ、せんずりでもおかきよ、と人まえでやられては、いくらチンピラでも降参《こうさん》である。負けずおとらず、OLの皆さん、ひとつ国電の中でどなりますか。  というようなわけで、男女七歳にして席を同じゅうせず、などとやかましい官製道徳がある一方、江戸の庶民は、職業的なストリップやヌード写真などとはケタ違いの、しかもお安いオタノシミの場所を持っていたのである。だからすっ裸で見合いをして一緒になるのだから、お互いに見当ちがいがすくなかったろうと、うらやましいしだいである。  ところが、ここに松平|定信《さだのぶ》というヤボな殿さまが現われた。寛政《かんせい》三年(一七九一)正月の町ぶれで、混浴を禁じたのだが、ヤボといっても今の役人ほどヤボでなかった証拠に、その町ぶれなるものを紹介しよう。 [#この行2字下げ]もともと男女混浴の銭湯は、場末の町にあったものだが、近ごろでは、盛り場でもやっている。風呂屋どもが、男湯と女湯を別にしては客が来なくなり、暮らしが立たないので、やむなく混浴にしているというのも、無理もないところがあるが、しきたりとはいいながら、盛り場ではどうかと思う。これまでも日をちがえたり、時刻をちがえたりして、男女の別を立てている銭湯もあることだから、これからは場末でも混浴はやめるように。 とまあ、以上のようなやんわりした趣旨である。  さすがに競輪場でファンのアンケートをとるほどトボケてはいないが、何しろ大衆の支持のもとに栄えてきた、競輪などとはケタちがいに実害のない楽しい伝統を禁じようというのであるから、さすがの役人も遠慮したものとみえる。  しかし、こんなに遠慮しながら禁じたのでは、ききめのあろうはずがない。やっと天保の改革(一八四一)のさい、湯船に板仕切りを設けさせるところまでこぎつけただけで、あい変わらずの男女混浴、明治十八年(一八八五)の警察令をまたなければならなかったのである。  このさい言っておくが、男だけが混浴を望んだのではない。女の方でも、あきれながら、どなりながら、せっせと通って見せたり見たりしていたのだから、さすがの幕府も、手がつけられなかったのである。それを明治の新官僚が強引《ごういん》にやめさせた結果、女風呂のぞきの出歯亀《でばがめ》なる人種を発生させたり、ストリップやヌードスタジオなる新商売を生むことになったのだ。それで混浴時代の日本人の方が、お下劣であったというわけでもない。考えさせられる風景ではないか。   春本《しゆんぽん》の効用   ひじを曲げ枕草子を読んでいる  天下泰平といえば、江戸時代はまた春本《しゆんぽん》天国でもあった。もちろん再三再四、いわゆる好色本禁令が出ているのだが、それは表向きのことで、本屋に行けば、どこでも半ば公然と売っているし、気軽に買いに出かけられないお屋敷のご婦人方のためには、貸本屋という便利なご用聞きがまわっていたものである。   貸本屋これはおよしと下へ入れ   放しやれと四五冊かくす貸本屋  滝沢馬琴《たきざわばきん》の『南総里見八犬伝《なんそうさとみはつけんでん》』や春水の『梅暦』など、ともかく人前に出せる文学書のほかに、四、五冊は歌麿《うたまろ》や国貞《くにさだ》などの枕絵をしのばせておき、まちがえてそれを出したふりをして、「これはおよし」と気を持たせて商売をするところである。  さて主題句は、そんな世の中だから、なんの変哲《へんてつ》もないようであるが、これは『論語』の文句、「ひじを曲げてこれを枕とす、楽しみまたその中にあり。」をふまえているということになれば、貧乏ひまありの漢学書生が、吉原に行く銭もなく、しようことなしに貸本屋から借りてきた枕絵の草子にウツを散じている、これまた春日遅々《しゆんじつちち》たる情景である。  なぜ一方できびしい禁令を出していながら、こんなのんきなことにあいなったのかというと、取りしまる方の将軍・大名などの上流社会で、十二カ月の体位を描いた枕絵がもっぱら『完全なる結婚』の代用品として用いられていたからである。  いくらなんでもお姫さまに、口上でくわしいことはご説明もうしあげられないので、極彩色の臨場感あふるる見取り図をお目にかけて、ご教育もうしあげたわけである。   あたり見回し絵のところ娘あけ  上流の武家社会だけではない、町人社会でも大いに性教育のテキストとして実用性があったのだから、掛け声ばかりで、取りしまりに身がはいらなかったのもむりはない。  おまけに武家社会では、春画をかならず具足櫃《ぐそくびつ》に入れておいたものである。   甲冑《かつちゆう》のそばに不埓《ふらち》な書《しよ》をさらし  具足櫃の中に入れてある不埓な書も、ついでに虫干ししてあるという図であるが、これは魔除《まよ》けとして入れたのである。   縁切寺《えんきりでら》   鎌倉の前に二三度里へ逃げ  混浴をたのしんだり、枕絵でひまをつぶしたり、吉原へひやかしに行ったり、今から見ると一見のんびりしているが、これがひとたび公式の男女関係となると、今とはあべこべに気の毒を絵に書いたようなものであった。いっぺん女房になったが最後、どんなヤクザな亭主でも、女房の方から離縁してくれとは言えない仕組みになっていた。  だまっておん出りゃいいじゃないか、といってみたところで、離縁状をにぎっていないと再婚ができないのだから始末がわるい。  一方、亭主の方は、気にいらなければいつでも、三下《みくだ》り半の離縁状をやって追いだせたのである。ましていわんや、亭主と合法的に別れて、好きな彼氏といっしょになりたいというような場合は、せつなかったであろう。  そういう気の毒な女房族のために、家庭裁判所がわりの縁切寺が方々にあったが、中でも有名なのは鎌倉《かまくら》の尼寺《あまでら》、松《まつ》ガ岡《おか》東慶寺《とうけいじ》であった。ここへ逃げこんで二十四カ月、足かけ三年を有髪の尼ですごすごと、自動的に離縁ができたので、思いつめた女房は、江戸から十三里の道のりをすっ飛んで行ったのである。   ついそこのようにかけ出す松ガ岡 である。そうして自由の身になって、好きな彼氏といっしょになると、   ふてえやつ三年まって|〆《しめ》るなり  はじめおかわいそう、あと小にくらしである。  江戸の女房は、ともかく十三里すっとべばかたがついたわけだが、上方《かみがた》の女房はどうしただろう。やはり尼寺にかけこんだらしいが、東慶寺ほど有名な縁切寺はないようだ。そのかわりというわけではないが、京都の清水寺《きよみずでら》と大阪の真言宗持統院《しんごんしゆうじとういん》に、縁切厠《えんきりかわや》というのがあった。厠《かわや》はおトイレである。これにはいって離縁を祈ると、効果てきめんというのであるが、むりもない。そのふんまたがったかっこうと執念《しゆうねん》を想像しただけで、別れたくならない男はどうかしている。それでも昔の男というものは、女房が自分をきらって別れたがっているということを知ると、意地になって引きつけておく、というサムライが少なくなかった。そういう場合、上方の女房はどうしたか。例によって大阪の町人作家西鶴が、千古不滅の妙手を書きとめているので、参考までに紹介しておこう。銭《ぜに》両替屋の亭主が、女房と別れたいきさつを報告した手紙の一節である。 [#この行2字下げ]寺町《てらまち》の白粉《おしろい》屋の娘、器量《きりよう》も十人なみでしたので、これを嫁にもらいましたところ、わたしがいくら夜歩きをしても、まるっきり悋気《りんき》いたしません。どうも合点《がてん》がいかず、様子を見合わせておりますと、わたしをきらってたびたび暇《いとま》をくれと申します。男として何ともくやしいものですから、憎さのあまり引きつけておきますと、まちがったふりで椀皿箱を打ちわり、仮病《けびよう》をつかって昼寝、店の銭をつながせると、余分につないで損をかけ、漬物桶の塩入れ時をかまわず、あたら瓜《うり》やなすびをくさらせ、行灯《あんどん》に灯心《とうしん》を六筋も七筋も入れて輝かせ、傘《かさ》はほさずに畳み、門付《かどづけ》が来るとどかどかと銭や米をやり、毎日わかした湯を水にしてはいるように、女房の手がさわり足がさわると損をします。このままにほっとくとえらいことになりますので、一日も置くが損と分別して、残念ながら、離縁いたしました。  縁切寺もなんのその、家庭裁判所くそくらえ、この手を用いたら、たいていの亭主は今でもふた月とは持つまい。  そうして、すまないけれど別れてくれ、と亭主が言い出した時に、せしめるとよい。星うつり月かわり、鎌倉の東慶寺も今では結婚式場になっている。めでたし、めでたし。   聟《むこ》の悲しみ   入聟はだまって抜いて叱られる  非常手段にうったえて、亭主を経済的にふるえあがらせでもしなければ、別れることができなかったほどにお気の毒だったのは、女性だけではない。男性でも聟養子《むこようし》となると、女房なみにあつかわれ、おおむね恐妻病にかかっていた。うっかり聟養子なんぞすると、財産を乗っとられる恐れのある今時のそれとちがい、江戸時代の聟養子は、嫁と同様のあつかいで、持参金つき、一方的に離縁されることもチョイチョイあったのだから、「小糠《こぬか》三合あったら養子に行くな」というコトワザのとおり、家つき女房の尻《しり》に敷かれっぱなしというのが通り相場だったから、主題句が生まれたわけだ。  もっとも、わたしは、はじめはこの句を、入聟だまって抜いて上《かみ》さんにしかられたのは、台所にデンとすえてある酒樽《さかだる》の口だ、と思っていた。自分が飲み助であると同時に、物事をなるべく下品でなく解釈せざるをえない職業上の習性によるものと思う。  ところがある時、ある所で、この道の先輩にむかって、この解釈を披露《ひろう》したところが、あわれ憫然《びんぜん》たる面持《おもも》ちで、叱正された。  ——それはネ、あんた。このたぐいの川柳というものは、なるべく下品に解釈することになってるんです。まあ、抜いたのは樽《たる》の口と解釈して、さしつかえはないといえばないようなものだが、それでは作者が承知いたしませんねえ。この種の川柳で抜くといえば、そうだ、「披く時に舌打ちをする大年増《おおどしま》」という句を、あんた、どう解釈しますか。もちろんこの舌打ちは、いまいましいから、残念だからの舌打ちですよ。もし酒樽の口を抜く時だとすると、これからいい目にあうんだから、残念の舌打ちなんぞするわけはないでしょう。だから、コノ抜くは、アノ抜くにきまってますよ。  このように理路整然とやられては、心ならずも下品に組みせざるをえない。いったん度胸さだめて下品に身がまえると、そのほかの類句はスラスラととける。   これではどうも是《これ》ではと聟思い   陰に閉じられて入聟みじめなり  上《かみ》さんのセックスが強すぎるのも、困ったもんだ。これがなみの夫婦なら、三度に二度までは撃退できるのだが、聟の身ではそうもならないところが、哀れにもまたおかしい。ましていわんや、組みしかれて馬乗りされたのでは、当方といたしては陰に閉じざるをえない。男子の本懐いずくにかある、と慨嘆《がいたん》せざるをえないだろう。   間男《まおとこ》を捕えたのが聟|落度《おちど》なり  間男されたら、重ねておいて四つにしてもよい、という法律があった時代に、見て見ぬふりをしなければならぬというのだから、「小糠三合あったら」というコトワザが生まれたのも無理はないのである。  しかし、今はちがう。新しい民法にあっては、一人娘に聟をむかえても、それはただちに養子ということにはならない。娘を嫁にやっても、娘に聟をむかえても、また、どちらの姓を名のろうと、結婚と同時に新夫婦の新しい戸籍が成立することになっている。別に養子縁組みの手続きをとらないかぎり、聟が両親の戸籍に編入されることはない。要するに、以前のように家名相続の観念がなくなり、個人の尊厳、両性の同権にもとづいた結婚ということになったのだから、カラッとしたもんだ。また一人娘を嫁にやろうと、聟をとろうと、遺産相続の場合は、半分が女房、残りの半分が娘の取り分になるのだから、財産に目がくれて養子などというつまらぬことはせぬがよい。要するに、われわれ庶民は、何事も一代かぎりで、そのつど新規まきなおしといきたいもんだ。   姦通《かんつう》の戒《いまし》め   ゆげのたつへのこ大家《おおや》をよんでみせ  漬物桶をくさらせたり、メートルをつけっ放しにしたりして、亭主に頭を下げさせる要領のいい女房もあるにはあったわけだが、しかし、なんといっても大勢は、三年間「尼寺へ行きやれ」であった。  別れるだけが目的ならともかく、好きな彼氏といっしょになるために、なぜそんな遠回りをしたかというと、なにしろ亭主とのかたをつけないうちにナニすると、命が二つあってもたりなかったからである。  亭主たるものは、姦通《かんつう》の現場をおさえたら、その場を去らず打ちはたせ、という法律が出ている。今のスリ、かっ払い、その他と同じく、やはり現行犯でないと手を出すわけにはいかない。  そこで駆け落ちということになるのだが、これまたつかまったら、男女ともに|おさん《ヽヽヽ》茂兵衛《もへえ》みたいにハリツケにされるのだから、どっちみち助からない仕組みになっていたのである。なにしろ命あっての物種《ものだね》だから、遠回りして、晴れて、という気の長い話になったのだが、この道ばかりは、いつもそうそう計算ずくではいかない。なあに、現場さえおさえられなけりゃ、あとの減るもんじゃあるまいし、と居直ったが最後、一度が二度になり、二度が三度になるという性質のものである。  そうなると、よほどうすのろの亭主でも感づくが、現行犯でないと文句がいえないので、   重なっていたらいたらと忍び足 ということになるわけだ。しかし町人たるもの、いくらなんでも、その場で殺すという度胸はないし、また片方だけ殺して一人を逃がすと殺人犯あつかいされたので、現場を確認しておいて、お白州《しらす》へ持ちだし、お上《かみ》の手で恨みを晴らすことになる。それには証人が必要なので、大家をよんで来て、抜きたての湯気の立つヘノコ(陰茎)を、とくと鑑定しておいてもらうという場面が主題句である。   言い分はあとでとへのこ納めさせ   二人とも帯をしやれと大家いい  鑑定したら、そのあと始末をしなければならぬ。大家たるもの、らくではない。   間男《まおとこ》の首代《くびだい》   据えられて七両二歩の膳を食い  ところで、訴え出たあとは、ハリツケにするも、助けて島送りにするも、亭主の胸三寸だったのであるが、江戸も後期の川柳時代になると、町人も算盤《そろばん》ずくになってきて、お上へ突きだすかわりに、首代《くびだい》と称して、間男からは七両二歩の金をまき上げたものである。  七両二歩という額がどこから割りだされたかというと、当時額面十両の大判一枚は贈答用で、実勢価格は七両二歩であった。ところが十両以上盗んだ者は打ち首ということになっていたので、打ち首にするかわりに、大判一枚の相場七両二歩をとることにしたのである。それで冒頭の句が生まれたわけだ。ちなみに当時の一両は、今の六万円前後であった。  しかしまもなく、安永《あんえい》・天明《てんめい》のころには、五両と相場が下落したらしい。   女房の損料亭主五両とり   売色のうちで高いは五両なり  なるほど、当時吉原の最高級の|おいらん《ヽヽヽヽ》でも、昼三《ちゆうさん》といって昼間半日の揚代《あげだい》が金三歩だったのだから、その約七倍の五両を、運悪くいっぺんこっきりで取られたのでは、すこし高すぎる。しかし、いくら高くても金ですむということになると、   その憎さ間夫《まぶ》へ女房五両やり と、こっそり首代を回す、かい性のある女房もあらわれることになる。しかしそのヘソクリは、元はといえばそれを受けとる亭主のかせぎなのだから、漫画みたいなものである。  話がそこまでわかってくると、夫婦なれあいで稼《かせ》ぐやつが出てきてもやむをえまい。   女房はゆるく縛って五両とり   五両ずつ亭主に三度とってやり   十五両目になれ合いと評がつき  すべて物事は銭金《ぜにかね》ずくになると、落ちるところまで落ちるものである。あに政治のみならんやである。それにしてもなぜ「筒持たせ」を美人局《つつもたせ》と書くのであろうか。もちろん「筒持たせ」という言葉は江戸時代の初期からあるが、美人局という漢字はあてていない。文字どおり「筒持たせ」と書いている。  女房に目当ての男の筒を持たせるという意味であろうか。ところが中国の『武林旧事《ぶりんきゆうじ》』という書物に、美人局というサギ行為は、倡優《おかま》を偽って姫妾《むすめ》となし、少年を誘惑して事をなすとある。してみると美人局本来の意味は、オカマが女装して男をいっぱいくわせるということなのである。明治になって、なんでもかんでも漢字をあてた時、性的サギ行為というほどの意味で、美人局とあてて、学のあるところを示したのであろう。 [#改ページ]  第五章 日陰の性   あいびき   忍ばずといえど忍ぶにいいところ  ただいま、東京の名物は、いや東京だけではない、大阪、京都、名古屋といった大都会の名物は、バー、キャバレーなどの社交場と、かつてサカサクラゲと称したラブ・ホテルであろう。売春防止法も手伝って、恋愛がいよいよ自由化した結果、青いシトネの利用できる夏場はともかく、暖かい場所を必要とするのであるから、ホテルの数は自由恋愛のシンボルといってよいだろう。  戦前には臨検というものがあって、家族が多かったり、シュウトメが意地悪なため、やむなくホテルを利用する夫婦者であろうと、はたまた商売人であろうと、警官や私服がおもしろ半分にドカドカとふみこんで、住所氏名を書きとめたりしてさんざん油をしぼり、風の吹きまわしが悪いと、恋人同士でも引ったてられたものだそうな。  今思えば、夢のようなはなしだ。近ごろ上方では、OLとその恋人たちが、出勤前のひと時をホテルで過ごすことがはやっているそうだが、すこしせわしいけれど、さぞ爽快《そうかい》なことだろう。  さて、表向き男女関係のやかましかった江戸時代にも、そこはよくしたもので、出合茶屋と称する類似のものがあった。  出合いとは、デートのことである。そのデート茶屋は、今と同じく江戸市中に散在していたのだが、千駄《せんだ》ヶ谷《や》や湯島のように一ヵ所に集まって有名だったのは、上野は不忍《しのばず》の池のほとりであった。かの陽物神で有名な池中に突き出た弁天島に何十軒かならんでいた。今でもそうであるように、蓮の名所だったので、蓮《はす》の茶屋、また池の茶屋ともいったものである。川柳でよんでいる出合茶屋は、ほとんどここといってよいくらい有名であった。  それにしても江戸時代の夜は暗く、女性の外出は困難だったから、蓮見にかこつけたりして、たいていは昼間のデートだったようだ。したがって、人目に立つことおびただしい。   蓮池をこいつと思う二人づれ   合傘《あいがさ》で来るとは太い出合茶屋  世間の噂もなんのその、と覚悟をきめた二人は、正々堂々と出はいりしただろうが、忍ばねばならぬからこそ訪れるのだから、一般はそうはいかない。   出合茶屋あやうい首が二つ来る というヨロメキ組もあったわけだから、いっしょにはいるわけにはいかない。   女中さま先刻からと出合茶屋   さきへ来てめん鳥池に待っている   白鳥の首ほどのばし女待ち  先に行って待っているのは、どうも女ばかりのようである。とくに江戸時代の女性がはり切っていたからというわけではあるまい。徹底的な男尊女卑の時代のことだから、  ——おまえ、先へ行って待っておいで。 かなんかで、男が貫禄を見せた結果であろう。今どきは、  ——あんた、先へ行って暖めといて。 てなもんである。最後の「白鳥の首」は、   出合いする所を白鳥のろり見る という句もあるように、当時は不忍の池にじっさい白鳥が飛来したからなのだが、この二句をソックリ皇居前広場にうつして、ピタリとはまるところがおもしろい。白鳥と腕時計を七三ににらんで、彼氏や彼女を待った覚えのある方は、さぞ、この句が身にしみることでありましょう。  さて、ここを利用する男女さまざまなる中に、   むずかしい帯を解かせる出合茶屋 というのはいかがであろう。  ——これから食事に行くんだが、君もよかったら来たまえ。ちょっとうまいプルニエを発見したんだ。 とまあ、ひけ時に社長か部長にさそわれて、最初はつつがなく車で送られ、三度目あたり気をゆるしてお供をすると、   むずかしいスーツぬがせる出合茶屋   口紅がすっぱり池の茶屋ではげ ということに相なるわけだ。人間というものは、同じようなことを、よくもまあ、あきないでくり返しているもんだ。  しかしまあ、なんといっても、名だたる不忍の出合茶屋で目立つ存在は、たまに宿下《やどさ》がりしてたまの逢瀬《おうせ》を楽しむ江戸城や大名屋敷の奥女中と、後家《ごけ》さんであった。   明日はもう上がると出合いしつっこさ  年になんべんかという、七夕《たなばた》さまみたいなデートだから、いくら燃えても燃えつきない。  ——じれったいわネエ。明日はあたしお屋敷に上がるのよ。また今度といったって、遠い先のことじゃないの。しっかりしてよ。ねえ後生だから。  そのせつない気持は、わかりすぎるほどわかるのだが、すでになんべんか事おわった男性といたしては、「かんべんネ。」というよりほかはない。男性の劣等感のきわまる時である。   根を縛ってももういけぬ出合茶屋   出合茶屋ゆるせの声は男なり  いずこの部分の根をしばるのか、不敏未経験にしてわたしにはわからないが、よほどせっぱ詰まった状態であるにちがいない。ついに「ゆるせの声」とともに白旗をかかげた男性の悲惨さを思うにつけても、タフガイというコトバは、実は女性のためのものであることを再認識せざるをえない。   蓮を見に息子を誘ういやな後家   蓮葉《はちすば》のにごりに後家はしみにくる  奥女中とちがって、時間の制限がないから、後家はゆうゆうたるものである。自分の息子ではない、他人の息子、つまりこれと目星をつけた若いつばめを不忍の蓮見にさそって、帰りにご休憩という段取りである。にごりにそまぬはずの蓮葉のにごりにしみに来る、という句なども、どこか芝居がかっておっとりしている。  どうも、後家さんこと未亡人という存在は、古来気にかかるものらしい。「貞女両夫にまみえず」というきびしい道徳があって、愛していようがいまいが、亭主が死ぬと髪を切って、若い身そらをあたら独身で通すというしきたりなのだから、男としては気がもめるわけだ。性の経験者でありながら空閨《くうけい》を守っているということに、よほど魅力があるのだろう。  しかも江戸時代の後家は、亡夫への愛のしるしとしての独身ではなく、道徳や遺産にしばられてのやむをえざる空閨というのが多かったのだから、せきとめられた春水は、さぞかし四沢《したく》に満ちてせつないことであろうと、まあ想像されるものだから、好色な男どもが、わあわあと騒ぎたてたのである。おまけに後家は、あくまでも道徳上の身がまえで、恋人を作ったからといって、女房族のように殺されたり、男の方も後家さんと仲よくしたからといって、七両二歩の首代をとられたりする心配がないのだから、なおさらだ。   後家《ごけ》の恋   はりかたでいますがごとく後家よがり 「後家という後家に霞《かすみ》のかからぬ後家もなし。」と、例によって西鶴がうまいことをいっている。またいわく、 [#この行2字下げ]今時の後家立つるは、その死跡《しにあと》に過分の金銀|家督《かとく》ありて、欲より女の親類意見して、いまだ若盛りの女にむりやりに髪を切らせ、心にもそまぬ仏の道をすすめ、命日をとぶらわせける。かならず浮名立て、家久しき手代を旦那にすること、所どころに見およびける。かくあらんよりは、ほかへの縁組人の笑うことにはあらず。 と粋法師らしい意見をのべている。遺産と道徳にしばられて、心にもなく後家を立てる後家が多かったわけだが、もちろん中には心底から死んだ亭主を忘れかね、思い出に生きる後家もあったわけだ。だが、そういうしおらしい後家さんでも、なま身であるから、ひだるくないというわけにはいかない。まして、三十後家は立たぬ、のたとえもある。そこで主題句が生まれたわけであるが、これは『論語』の「祭ること在《いま》すが如く」(生きてる人に対するように、まごころをこめて)の文句取りであるからおかしいのである。  一体、江戸時代の後家というものは、亭主が死んで独り身になったメリー・ウィドー、というようなのんきなものではない。第一に切下《きりさ》げ髪といって、髪の毛を首のあたりで切ってモトドリでくくり、端をたらしたものである。男の大たぶさと思えばよい。二度と髪は結いません、浮気はいたしません、というポーズである。   ほれられる程《ほど》は残して後家の髪  切るんなら、いっそ尼になったらいいじゃないか。すこし残すところを見ると、なあに、やっぱり未練があるのサ、などと庶民はなにかにつけてうるさい。  髪を切るだけじゃない。逆朱《ぎやくしゆ》といって、死んだ亭主の石塔に自分の戒名《かいみよう》を彫りつけ、まだ生きている証拠にそれを朱で埋めたものである。これは生前にあらかじめ自分のために死後の仏事|供養《くよう》をすることを逆修というので、つまり逆修の朱、略して逆朱といったのてある。生きていながら死んだ|者ぶん《ヽヽヽ》になる。浮気や再婚なんぞはとんでもない、という意思表示である。そこで、   石塔の赤い信女《しんによ》をそそなかし ということになる。信女は「春色清光信女」などいう戒名である。とかく男というものは、悪性なものだ。そのあげく、   石塔の赤い信女がまた孕《はら》み と相なるわけである。   陰《かげ》 間《ま》   芳町《よしちよう》は化けそうなのを後家へ出し  そこで、かくあらんよりはと、金持の世なれた後家は、後くされのない陰間《かげま》を買いに出かけたものだ。操は心で立てればよい、という理屈である。   芳兵衛と言いそうなのを後家へ出し   芳町は和尚《おしよう》をおぶい後家をだき  近ごろめずらしくなくなったと見えて、あまりさわがなくなったゲイバーは、江戸時代が最盛期である。そもそもこの男色なるものは、女犯《によぼん》を厳禁した仏門、とくに真言宗の高野山《こうやさん》や天台宗の比叡山《ひえいざん》など、人里をはなれた山岳宗門で栄えたものであるが、やがて中世の動乱期をむかえると、家庭生活なんぞ楽しんでいるひまのない武士たちが、もてあそぶようになった。上は将軍から一兵卒にいたるまで、美少年を愛したのだから、盛大なもんだ。  その習俗は、そのまま江戸時代に持ちこまれたのであるが、なにしろお殿さまやお侍が、正々堂々と大っぴらになさることなので、町人たちも負けずおとらず、若い歌舞伎役者を相手にやりはじめ、男色の全盛期をむかえたわけである。  ただし、これは役者のサイドワークで、武家のそれと違って、芝居がはねてから茶屋によんで遊ぶ営業なのだが、江戸も後期になると、歌舞伎とは無関係に、それ専門の陰間茶屋が出現したのである。今のゲイバーとちがうところは、男のくせに男にしか魅力を感じないという黒いセックスの持主でもないノーマルな美少年を、金でかり集めてそれに仕立てた、という点であろう。そして、そこへ出かける男どもも、別に変態だなどとは、当人も世間も思っていなかったのである。  木挽町《こびきちよう》や湯島天神《ゆしまてんじん》、芝神明前《しばしんめいまえ》など陰間茶屋は方々にあったのだが、日本橋の芳町《よしちよう》が右代表で、宝暦・明和(一七五一〜七一)のころには、百人あまりいた、と物の本に見えている。  陰間はおおむね十四、五から十七、八までが限度で、二十をこえると骨太になって、第二軍に落ちることになる。そこで陰間の異名を当時「たけのこ」といった。その心は、成長すれば堅くなって食われない、というのである。  何分、本職はあの方なので、後家さんなんかが買いに来ると、そういう薹《とう》の立った第二軍の陰間をあてがったのである。  花之丞《はなのじよう》などという源氏名はおかしくって、芳兵衛とでもいったらよさそうな、髭《ひげ》の剃《そ》りあとの濃《こ》い化《ば》けそうなのを出したのである。今でもゲイバーをのぞくと、一見バーのママさんふうが、いい気持そうにゲイボーイをからかっている。あんな調子だと思えばよい。さて最後に二句。   去るものは日々にと後家は盛んなり   もう後家をやめねばならぬ腹に成り 『文選《もんぜん》』古詩の「去る者日に疎《うと》し、生ある者日に親し」の文句取りなのだが、あけっぴろげでなかなかよろしい。しかしいずれは、もう後家を……というハメになるのだから、西鶴のいうとおり、「かくあらんよりはほかへの縁組人の笑うことにあらず」である。  風流と称しながら、なぜ再婚などとヤボなことを言い出したのかというと、昭和現在の日本人の平均寿命は、女が八十歳で男が七十四歳になったからである。この分でいくと、いまに日本の年寄りは後家ばかりになる勘定だ。でないとしても、とかく|ひ《ヽ》弱な上に貧乏な日本の男性は、過労で早死しがちだから、残る若後家のみなさんのご参考までに申しあげたのである。  さて、出合茶屋でのデートや、後家さんの浮気は、ともかく非合法であるから、はらんだが最後、うやむやにはすまされない。  後家をやめて再婚したり、それをきっかけに双方の親が折れていっしょになれた、というぐあいにトントン拍子に事がはこべばいいのだが、家庭の事情でそうはいかないとなると、心中するか、堕《おろ》してそしらぬ顔ですます以外にはない。   |中 条《ちゆうじよう》 流《りゆう》   中条へゆくよりほかの事ぞなき  中条流という女医者、つまり産婦人科医は、豊臣秀吉《とよとみひでよし》の臣中条|帯刀《たてわき》にはじまるというから、古いものだ。はじめは文字どおり産婦人科だったのだが、いつのまにかオロシ専門となり、「中条流婦人療治」という看板をかけて、江戸名物となってしまった。   中条でたびたびおろす陰間の子  陰間を買う後家さんでも、なんせ相手は男のことだから、中条のやっかいにならねばならなかったわけだ。   大つぶれだと中条へ芸子いい  たとえば芸者衆だとかバーのホステス衆だとか、せり出したおなかでは商売上どうしても困るという連中などまでひっくるめて、「ゆくよりほかの事ぞなき」の組がおしかけて、繁昌《はんじよう》したのである。  しかし、たびたびやっかいになる常連の後家さんや商売人は、平気で出はいりできたろうが、ことにはじめてのお素人衆《しろとしゆう》は、そうはいかない。   間《ま》のわるさ中条の前二度通り  どうも恥ずかしい、というのが人情であるから、医者の方でも心得たものだ。   静うかなとこで中条はやるなり   中条はそこいら中へ門《かど》をあけ  盛り場のまん中にあったんでは、人目が多くて気の弱い婦人の患者はよりつくまい。それに入口が一つで、すねに傷もつ者同士が顔を合わせるのはまずい、というので、表通りをはなれた静かな所で、出入り口も二、三カ所つけておくというこのやり方は、今でも産婦人科医諸氏の参考になるだろう。   ここへいようと中条へ一人やり   中条の門に立ってるのが相手  痛い恥ずかしい目にあいに行く心細い彼女を、男たるものほっとくわけにはいかない。だが、いくらはいりやすくできているからといって、中までくっついていくわけにはいかんというので、小半町も離れた喫茶店《きつさてん》か汁粉屋《しるこや》で待っていようというのが前句。  まだしかし、彼氏につきそわれて来るのは、めぐまれた方だ。   中条は仏頂面《ぶつちようづら》で母と知り  妊娠したのも知らずにいるあどけないローティーンを引っ立てて来た母親は、今も昔もさぞ渋い顔をしていることであろう。   何さ歴々《れきれき》もおろしにござります  そういう時にいう女医のきまり文句だ。——お名まえははばかりますけどネ、ずいぶん身分のあるお方もお見えになりますよ。 といって、またこういう。   女医者小の虫とはへらず口  小の虫を殺して、大の虫を助けるとは、このことですよ。よく早く決心なさいました。このままでほっといてごらんなさい。一生はめちゃくちゃじゃでございますよ。  これをすこし理屈っぽくした理屈が、今でも通用している。できてしまったことは仕方がないとはいうものの、あいなるべくならば、中条流のやっかいにならないようにしたいもんだ。いくら愛していても、一方的に抜身をふりまわされては危ない。人命に関する戦闘行為については、安保改定ではないが、事前協議などというアイマイなとりきめでなく、拒否権を明確に条文化しておくべきである。 [#改ページ]  第六章 女の宿命   伸び支度   まだ月の障《さわ》りにならぬ姫小松 [#この行2字下げ]十四、五になると、たいがいの家の娘がそうであるように、袖子《そでこ》もその年ごろになって見たら、人形のことなどはしだいに忘れたようになった。人形に着せる着物だ、襦袢《じゆばん》だと言って大騒ぎしたころの袖子は、いくつそのために小さな着物を造り、いくつ小さな頭巾《ずきん》なぞを造って、それを幼い日の楽しみとして来たかしれない。  これは、島崎藤村《しまざきとうそん》の短編『伸び支度』の、書出しの一節である。娘から女へと成長していく母親のない子どもを見まもる男親の気苦労を語ったものだ。そしてもちろん、この書出しの一節は初潮直前の娘らしい変化をいったものだが、主題句もそういう微妙な時期の少女を、風流にいってのけたものだ。  姫小松の姫は、姫百合の姫とおなじで、小さくてかわいらしい意味をあらわす接頭語である。つまり、まだ松が小さいので、月見のさわりにならない、というわけだ。  それでいて女になる直前の、あの中性的なお色気がただよっている。光源氏《ひかるげんじ》が発見して、近い将来に期待をいだいた当時の紫《むらさき》の上《うえ》のような、可能性をはらんだあどけないお色気である。それをサラリと自然にたくして言ってのけた。これこそ風流古川柳の名にあたいする佳句である。   十三でぱっかり晴れし空われに月のさわりの雲もかからず  これは、かの有名なお直参《じきさん》の狂歌師|四方赤良《よものあから》こと蜀山人《しよくさんじん》大田|南畝《なんぽ》先生の狂歌であるが、おなじく自然にたくしているとはいうものの、いささかそっ直だ。みなさんもご存じの「十三ぱっかり毛十六」である。  女の子も十三になると、まだ雑草ははえないが、ぱっかりと形がととのってくる。伸び支度の第一段階というわけだ。しかし、まだ月のさわりはない。サッパリとしたもんだ、というのである。  なぜ十三という年齢が出てきたのか、よくはわからないが、八世紀のはじめの大宝律令《たいほうりつりよう》に、結婚の適齢を男は十五歳、女は十三歳ときめているところをみると、日本では昔から、女はおおむね十三歳ぐらいで、肉体的条件がととのうと考えられていたようだ。もっとも戦後は栄養がよくなったせいで、小学六年といえば十二歳ぐらいで初潮を見る子が多くなったそうだ。この年ごろの女の子を持った親ごさんは、気をくばっていただきたい、とPTAで女の先生に注意されたことがある。   新馬《あらうま》を娘しんまくしかねてる [#この行2字下げ] ある朝、お初《はつ》は台所の流しもとに働いていた。そこへ袖子が来て立った。袖子は敷布をかかえたまま物も言わないで、あおざめた顔をしていた。   「袖子さん、どうしたの」 [#この行2字下げ] 最初のうちこそお初もふしぎそうにしていたが、袖子から敷布を受けとって見て、すぐにその意味を読んだ。お初は体格も大きく、力もある女であったから、袖子の震《ふる》えるからだへうしろから手をかけて、半分抱きかかえるように茶の間の方へ連れて行った。お祖母《ばあ》さんもなく、お母さんもなく、だれも言って聞かせるもののないような家庭で、生まれて初めて袖子の経験するようなことが、思いがけない時にやってきた。  またぞろ引用で恐縮だが、『伸び支度』の袖子が、いよいよ見るものを見た場面である。前もって教えてくれる人のない娘のことだから、びっくりぎょうてん、したわけだ。  たとえ母親があって教えておいたとしても、ある日ある時とつぜん始まったのでは、娘たるもの度を失って、始末しかねるのが当然だ。そこのところをいったのが、主題句で、「新馬」の馬とは、月例のものの異名である。「しんまく」は始末の俗語だから、意味はあきらかだ。そこで、   乗初《のりそ》めに駒の手綱《たづな》を母伝授 という句が生まれ、   初馬に乗ると娘もうまくなり ということになるわけだ。はっきりと、男とちがう自分、女の生理と自覚を持つことになるのだから、うまくならざるを得ない。お色気ありそで、なさそで、ううーん、という黄色いさくらんぼ時代、セックスティーンと相なるわけだ。このころになると、女としての道具立ても出そろうことになる。   江戸の少年法   月を見るころには土手《どて》に薄《すすき》はえ  中秋の名月を鑑賞する九月下旬になると、土手の薄もはえそろう。自然の摂理はまことに絶妙である。中国でいう「池塘《ちとう》春草」が、日本では俳句趣味で、名月のもとにそよぐ土手の薄となったわけだ。   十六で娘は道具そろいなり   十六になると文福茶釜《ぶんぶくちやがま》なり  館林《たてばやし》は茂林寺《もりんじ》の寺宝の文福茶釜は、狸《たぬき》のばけもので、昔から「文福茶釜に毛が生えた」とうたわれている。ともかく「十三ぱっかり」と「毛十六」は、最大公約数である。そこで、   正直にお七はえたと申しあげ   はえたのでお七はどうも許されず という句が生まれたわけだ。  西鶴の「好色五人女」の一人として、事件後三年目に早くも文学に登場してヒロインとなり、最近ではアメリカとソ連で訳されて、世界的な恋人となった本郷の八百屋の娘お七が、火事で焼けだされて結ばれた恋人の吉三郎に会いたさに、放火してつかまり、鈴《すず》ヶ森《もり》で火刑に処せられたのは、天和《てんな》二年(一六八二)、十六の年ということになっている。  その時、お七があんまりかわいそうなので、老中の土井大炊頭《どいおおいのかみ》が、お七こと「十五歳ならば科《とが》も一段引下げて申付くべき間、今一応お七が年を吟味あるべし。」と、奉行《ぶぎよう》に命じた。放火は当時、火あぶりの刑ときまっていたのだが、十五歳以下なら親類にあずけておき、十五になって島流しという少年法があったので、それを適用して助けようとしたわけだ。  ところがお七は正直に、はえました、十六になります、と申しあげたので、奉行といたしてはどうにも許すわけにいかなくなった、というしだいである。  さて、今どきは二十五、六が嫁入り盛りとなったが、江戸時代は十年はやく、文福茶釜のころが適齢期であった。もちろん婚礼の日取りは、その期間をさけてきめるわけだが、不順の向きも多いことだから、   婚礼を笑って延ばす使者が立ち   仲人《なこうど》へ四五日のばす低い声 ということになるのは、やむをえない。  しかし、これなどはまだよい方だ。その日の朝までなんともないので、はればれと嫁入りしたのはよいが、   気の毒さよめった夜からおえんなり ということになっては、万事休すである。ここに「おえん」と申すのは、例の隠語の擬人名であるが、これは猿猴坊《えんこうぼう》の省略である。猿猴坊ではいかめしいから、女らしく「おえん」といって、来潮中の女の代名詞にしたわけだ。それではなぜ猿猴坊(手長猿)と言い出したのかというと、猿の顔と尻が赤いからではない。日本画に、手長猿が四、五ひき手をつないで崖にぶら下がり、谷川の水にうつった月をとろうとしている構図がある。そこで水の月、月水はいくら手をのばしてもとることがならぬというしゃれだ、という説がよいだろう。  だが情がうつってくると、もの珍しさも手伝って、手にもとられず、というわけにはいかなくなる。   不浄の観念   新世帯七《あらぜたいなな》こうしんもするつもり  百人一首の二条院|讃岐《さぬき》の恋歌に、「わが袖は塩干《しおひ》に見えぬ沖の石の人こそしらねかわくまもなし」というのがある。新婚当座はだれしも、人こそしらねかわくまもなき沖の石みたいなもんだ。そんな状態だから、一般庶民は、アレがあろうとなかろうと問題じゃない。それどころか、江戸時代は庚申《こうしん》(かのえさる)の晩に交じわってできた子は大泥棒になると称して、きびしく避けたものが、それさえあえて行なおうという情熱型もあったわけだ。庚申は普通の年で六回、閏年《うるうどし》は七回あった。延長戦はいよいよもってありがたしという心境なんである。  しかし、だれがなんといおうと、世間さまにご迷惑さえおかけしなければ、そこは夫婦の仲の秘め事で、よいも悪いもあったものではない。まったくよけいなお世話だが、事が一家あげての年中行事にかかわってくると、ないしょですますわけにはいかなくなる。というのは、今とちがって女性のほこりであるべきはずの生理を、ケガレと考えたからである。   またぐらのぎんみをとげる月見前   故障の儀あって亭主が臼《うす》をひき  なにしろ日本人は、俳句の季題に「中秋無月《ちゆうしゆうむげつ》」といって、八月十五夜に曇りや雨で月が見えなくても、お月見の用意だけはして句を作るという風流な人種である。それに月待ち、日待ちなどといって、お月さまやお日さまを神聖視しておがむ習慣があったから、お月見に供える団子《だんご》も清浄をむねとし、来潮中の女房は臼で粉をひいたり、団子をまるめたりすることを許されなかったのである。   時も時餅つきに嫁じゅつながり   餅つきに馬上で女房ざいをふり  お月見の団子でさえそうだから、神棚に供えるための暮れの餅つきはなおさらのことだ。まだ指揮権をにぎるにいたらない若い嫁は、手伝いはならず、口出しはならず、じゅつないわけだ。そこへいくと、亭主はもちろんシュウト・シュウトメまでもしたがえた古《ふる》女房は、手出しこそしないが、馬上ゆたかに采配をふることになる。  馬が例のものの隠語であることは、先刻申しあげたとおりだ。  たかだかお供《そな》えの団子や餅でさえ、手をふれさせなかったのだから、ましていわんや、神まいりは許されず、同行しても鳥居まで、ときまっていた。   なぜでもと鳥居の外におえん待ち   殿さまも下女もお馬は鳥居ぎり  乗馬で参詣された殿様も、下馬札の建っている鳥居際で下馬して、あとは徒歩で参詣なさる。生理中のお供の下女は、もちろん鳥居から先へははいれない。下馬札がきいている。今でも古いしきたりのうちに育った折り目正しい婦人は、鳥居をくぐらない。  奥ゆかしいといえば、奥ゆかしいようなもんだが、女の神さまもあることだし、祇園《ぎおん》の八坂《やさか》さんみたいに、夏のお祭りには本妻とお妾さんのオミコシが出るイキな神さまもあることだ。よしにしたがよい。   貞操帯   けしからぬりん気あたまへ判をおし  上等の物は銀製、並みは鉄製で錠前つきの貞操帯は、中世のころ十字軍にしたがった騎士が使用した博物館ものかと思っていたら、たしか去年のさる週刊誌で、戦後貞操帯の製作に熱中し、すでに十数回、特許申請をしたという人物の存在を知って、びっくり仰天《ぎようてん》したものだ。愛し合っていても、裏切るつもりはなくても、とかく人間という動物のかなしさで、よろめくことがあるのだから、恨みっこなしに男子用と女子用を製作し、鍵を交換しておくというのなら、まだ話はわかる。だが、もっぱら女子専用の貞操帯を設計しているというのだから笑わせる。貞操というものは、男には不必要で、しかも女のアソコにだけあるものだ、と考えているのだろう。  まあ、これなどは特別な御仁《ごじん》であって、川柳という風流|滑稽《こつけい》文学を物にした日本の庶民は、そんな馬鹿げたことはしない。大正時代のことだと思うが、こんな話がある。  尾崎紅葉《おざきこうよう》か永井|荷風《かふう》のような、ふだん花街で|浅酌 低唱《せんしやくていしよう》するイキな江戸っ子と思っていただきたい。カミさんもソレ者《しや》あがりか、それに近い下町そだちで、ご亭主が着物を着かえて出かけるからといって、いちいち口に出してやきもちをやく人柄ではないのだが、そこはそれ女ごころ、ひょっとして出先で帯をとくことがあるかもしれぬ、と内心気が気でない。  そこで考えた末、出かけるご亭主の着替えを手伝う時、後からより添って襟《えり》を直しながら、当時のことだから小粒の十銭銀貨を長襦袢《ながじゆばん》と上着の間にすべりこませておくことにした。そうしておくと、出先で角帯をとけば、なにくわぬ顔でご帰館あそばしても、銀貨がなくなっているから、浮気がバレてとっちめられるという寸法である。  ところが、テキもさるものだ。それから何回目かの浅酌低唱のあと、めずらしく帯をとく仕儀となったら、十銭銀貨がころがり落ちた。その時はなんとも思わず、ここちよく夢を結んで、さて起きる段になってフト気がついた。  ——ガマ口から落ちたんでないとすると、さては女房が仕掛けたな。  そこであわてて銀貨をさがしたが、みつからない。妓《おんな》の手まえもあるのでガマ口から別の十銭銀貨をつまみ出して、われとわが背中へしのばせ、何くわぬ顔で車に乗った。さて、お召替えの段になって、銀貨が落ちたのを、そしらぬ顔でザマー見ろとばかり様子をうかがっていると、カミさんはあわてずさわがず銀貨をつまみあげ、しばらく吟味していたが、  ——あなた、お風呂におはいんなさいまし。 といった。銀貨は同じ十銭銀貨でも、年号がちがっていたのである。  こんなしゃれたカケヒキは、イキでコウトウな家庭のはなし、ぐっと下がった庶民の夫婦はそんな生ぬるいことはしない。  ——ちょいと、ちょいと、おまえさん、また寄合いかい。新《さら》の腹掛けなんぞしてさ、おかしいじゃないか。  ——だから、ゆんべから口がすっぱくなるほど言ってるじゃねえか。なんだったらおめえ棟梁《とうりよう》のうちまでついてきねえ。  ——棟梁のうちはわかってるよ。近ごろおまえさん、つきあいだのなんだのといって、まっつぐ帰ってきたためしはないじゃないか。今日はかんべんできないよ。サアお出し。  てんで、亭主のアレをむりやり出させ、封印代用の墨判を、すてっぺんにポンとおす、というのが冒頭の主題句である。  これでは急いで、うっかり汗もかけない。酔った勢いで浮気をしたあとで、できあいの印判を買っておしたりすると、私文書偽造の罪にとわれぬものでもない。まことに恐るべきカアチャン族である。  もちろん亭主がりん気をして、貞操帯を書く場合もあった。  どうもぞろっぺえで安心がならないというので、出かける女房のおヘソのま下に玄米という字を書いておいた。夜ふけに帰って来た女房のソコをまくって調べてみると、白米という字に変わっている。  ——やいやい、こりゃあ一体どうしたわけだ。玄米が白米になってるじゃねえか。 と、亭主がいきり立つと、サテはあいつ、あわててまちがえやがったか、と女房はギョッとしたが、  ——だっておまえ、搗屋《つきや》につかせりゃ、白米になろうじゃないか。 と、なんとなく筋の通った言いわけをしたそうだ。   小田巻《おだまき》をたぐり内儀は下女が部屋  大和《やまと》の国に住む活玉依《いくたまより》姫という美しい娘のところへ、夜な夜な美青年が通って来ていたが、どうしても素姓《すじよう》をあかさないので、ある夜麻糸を巻いた小田巻の糸のはしを青年の衣の裾へとめておいた。あくる朝糸をたぐって行くと、それは吉野山の神社にとどまっていたので、青年はそこの神さまの大物主命《おおものぬしのみこと》であることがわかった、という三輪山《みわやま》伝説が『古事記』に見える。それが後に謡曲『三輪』となり、さらに転じて杉酒屋のお三輪でおなじみの浄瑠璃《じようるり》『妹背山婦女庭訓《いもせやまおんなていきん》』となり、さらにまた転じて、この主題句となったわけだ。  どうも亭主の様子がおかしい。わたしの寝息をうかがってははい出して行く、というので、お三輪の故知にならい、亭主の寝巻の裾につけておいた糸をたぐり、夜ばいの先をつきとめた、という歌舞伎仕立ての働きである。 [#改ページ]  第七章 花嫁の条件   田園の恋   麦畑ざわざわざわと二人にげ  中国の原産で、花王《かおう》と称されている牡丹《ぼたん》は、物の本によると、奈良時代に早くも渡ってきたらしいが豪奢《ごうしや》な鑑賞花として一般化したのは江戸時代であった。西鶴の『好色二代男』に、びんぼうな江戸の町人が夢見るところがある。京の女を妾にして、もの静かな向島《むこうじま》に別荘をかまえ、二百人前の浅黄椀《あさぎわん》を用意し、三町ばかりの牡丹畑をこしらえ、月代《さかやき》も夢見ていてそらせ、というような生活をすれば、一万両あっても二年とは続くまい、というのである。牡丹畑を持ちたいと思うところ、びんぼうでもさすがは元禄《げんろく》の町人だ。その牡丹を描かせて右に出《い》ずるものがないのは、元禄の画家|尾形光琳《おがたこうりん》であり、句吟して右に出ずるものがないのは、天明《てんめい》の俳人|与謝蕪村《よさぶそん》である。花そのもののようにケンラン豪華な蕪村のかずかずの牡丹の句の中で、なんといっても堂々たる風格をそなえているのは、   牡丹散って打ちかさなりぬ二三ぺん であろう。あの重厚な花びらが、風によってではなく自分の重みで、つまり引力によってくずれ落ちるから、打ちかさなるわけだ。  ところで、それは私の現役時代のことだった。早稲田《わせだ》大学の大隈会館《おおくまかいかん》の庭園で、学生四、五人と満開の牡丹を前にして、蕪村のこの句などを講釈していると、一人の学生が大まじめで質問した。  ——先生、打ちかさなりぬ二、三べん、と読んではいけませんか。  ——どうしてそんなふうに考えるんだネ。  ——だって先生、江戸時代の表記法は、丸も濁点も打たないのが普通だとおっしゃったじゃありませんか。だから「二、三べん」とよんでも、まちがいというわけではないでしょう。  ——だがネ、この場合、原本には漢字で「二、三片」と表記してあるんだから、やっぱり「ぺん」と読まなきゃならん。第一「二、三べん」と濁って読んだら、どういうことになるかネ。 と、そこでわたしは一席弁じた。  ——「打ちかさなりぬ二、三ぺん」ならば、二、三ぺんは花びらそのもので、天然自然の現象をよんだ叙景句、つまり俳句で通るわけだ。ところが「二、三べん」と読むと、どういうことになる。「打ちかさなりぬ」は意志的行為ということになるだろう。そうなると、牡丹は植物の牡丹そのものではなく、緋《ひ》牡丹のような彼女、成熟しきった満開の彼女の象徴ということにならざるをえない。一見すねてる緋牡丹のような彼女を、強引にくどき落とした、というのが「牡丹散って」であり、さてその後は、二、三べん打ちかさなったというのであるから、読後感としては、「勝手にしやがれ、ご盛んなこってす。」というよりほかはない、ということになるんだ。  読みかた一つ、それも丸と濁点の打ちかた一つで、俳句ともなれば川柳ともなる。ともに十七音を基本形式とする世界最短の民衆詩の微妙なけじめを、わたしは指摘したかったまでだ。さて、マクラが長すぎた。そろそろ本題にかかることにしよう。  初夏の俳諧季題といえば、牡丹とならんで「麦の秋」がある。「麦秋《ばくしゆう》」ともいって、五月下旬の麦が黄色く熟するころをいうのだが、このほうはおなじ畑でも、牡丹畑とちがって、ぐっと田園的であり、庶民的である。  かつて、若き日のわたしは、東京の郊外の畑の中に建っていた、さる宗教関係の専門学校で、近世文学を講じていたことがある。ちょうど新学期がはじまってまもなく、その日は〈民衆詩の中の民衆詩〉というキャッチフレーズで、川柳のはなしをすることとあいなった。いろいろと俳句との相違をしゃべったあとで、さて句を示す段になって、ふと窓外に目をやると、一面に黄ばんだ麦畑がとびこんできた。そこでとっさに、  ——たとえばですな、麦畑ざわざわざわと、と言いかけて、ハタと詰まった。なにしろゲンシュクな宗教関係の学校のことだし、そのころ、わたしはまだ今ほどスレていなかったからだ。しかしもはや、あとには引けないと覚悟して、「二人にげ」と結んでおいて、さりげなくはなしを続けた。  ——諸君は『未完成交響楽』という映画を見たでしょう。あの中で貴族の令嬢の音楽の教師にまねかれた若き日のシューベルトが、愛しあうようになった教え子の令嬢と、はるかに風車の見える熟した麦畑の中で、追いつ追われつする場面があったでしょう。そういう場面を十七音でまとめたのが、この句なんです。  まことにわれながらアッパレなできであった。だが学生のほうは、なんとなく解《げ》せぬ顔をしている。いちおう筋は通っているのだが、美意識をかなぐりすてた、むき出しの庶民の目でとらえた世相詩という先刻の説明と、このロマンのかおり高き場面とが、まるっきり食いちがっているのだから、むりもない。どうもやっぱり、川柳ということになると、ソノモノズバリでないとまずい。   囲炉裏《いろり》にて口説《くど》きおとして麦の中   麦畑かかしの前もはばからず   麦畑|小一畳《こいちじよう》ほど押ったおし と、こうこなくちゃ困るのである。  スナックで話がついて、ラブ・ホテルヘ直行、というのは都会のはなしである。農村にはそういう施設も余裕もないのだから、   幸いじゃ屏風《びようぶ》のような麦畑 と、青天白日のもとのデートとあいなるわけだ。  しかし、刈入れもま近になった麦畑を、小一畳ほども押ったおされたのではかなわない。   もう一人出るを見ている畑番  畑主の方でも、自己防衛のために見回るので、せっかくのところを逃げださなければならないはめになるわけだ。   山犬に麦の中から二人逃げ  じゃまは見張りの人間だけではない。時には山犬がかぎつけて、ほえかかることだってある。それやこれやで主題句の「ざわざわざわと二人にげ」という情けないことにあいなるのである。  おまけに、せっかくのデート場所だって、年がら年中あるわけではない。利用できるのはせいぜい二カ月たらずのはかなさだ。   あかるむと出合いの屏風かり取られ   これからはどこでしべえと麦を刈り  他人が他人の麦を刈りとるのはやむをえないとしても、自分たちで自分たちの屏風を刈りとるのは、さぞせつなかろう。しかし、そこはよくしたもの、案ずるより産むはやすい。人生いたるところに青山ありだ。   麦ののちずいきの中でまた始め  麦が刈りとられると、あの広い葉が屋根のようにおいかぶさるイモガラ畑がまた、快適なデート場所となる。それも食っちまうと、見通しがわるいので昼間は使いにくいが、あすこの藪《やぶ》のかげ、鎮守の森と、田園の青春はくったくがない。そうして、試験結婚の結果、彼と彼女は晴れて夫婦《みようと》となるのである。  ところが人の目と口がうるさく、手軽なデートの場所もない江戸や京都や大阪などの大都市の善良な若者たちは、そうはいかない。そこで、何とかしてやらないと、お夏・清十郎やお染・久松のように、手代やデッチと乳くり合うようになっては厄介だ、と思った親たちが発明したのが�見合い�という、今でも行なわれている未知の男女をデートさせて結婚の糸口とする合法的なしきたりである。   見合結婚   安堵して母も寝られぬ見合の夜  たいていの若者たちが、結婚の相手は自分でえらんでテストした上で、と思っており、私が仲人した何十組かの教え子たちも、ほとんどその組であった。だから近ごろは、「渾然一体」を「婚前一体」と書く若者があらわれたのである。中には、   白無垢《しろむく》の中でベビーも聞く祝詞《のりと》 (お達者文芸) �お腹《なか》の赤ちゃん、おめでとう�というカップルも珍しくなくなった。それでも五十八年度の調査で恋愛結婚が六〇・七%、見合い結婚が三九・三%という数字が語っているように、見合結婚がすたらないのは、男と女はウヨウヨいても、案外世間はせまいもので、自分たちの守備範囲には適当な相手がいないという若者や一家がすくなくないからである。  正宗白鳥が明治四十四年作の『泥人形』の中で、「目隠しして偶然相触れた男と女が契を結ぶやうな見合結婚をして」と、見合い結婚をけなしている。半封建的な明治・大正時代の見合いは、たいてい一ペんこっきりで、男のほうは気に入らないと断れたが、女のほうは断れないという仕組みだったのだから、白鳥先生が軽蔑なさったのも無理はない。しかし戦後の若者は、親が押しつけた見合いなど、意に介していない。   イヤリング見合いする度ふえてゆき   ばくばくと食べてお見合い断る気   馴れるほど親の気遣う娘《こ》の見合い  いずれも�お達者文芸�の入選作で、ハラハラするのはお母さんたちだけ、幼稚園時代から男女共学の娘たちは、見合い不感症となっている情況がよくわかる。  主題句の母親も似たりよったりのハラハラ組、あしたの返答次第では娘の不名誉、家の面目丸つぶれとばかり、夜の目も合わないというこの古川柳は、江戸後期、寛政初年(一七八九)の作である。実は私はこの川柳を発見するまでは、封建時代にともかく合理的に男女の仲を取持つ見合い制度などあろうはずはない、と決めてかかっていたのである。ちょっと意表をつかれたので、あわてて古川柳を当たってみると、古いところで安永年中(一七七〇年代)からの見合いの句があった。   水茶屋は目出たい銭を二百とり   気に入らぬ方が水茶屋早く立ち   水茶屋も感づいている恥かしさ  江戸時代の茶屋には、色茶屋と水茶屋の二つがあった。酒肴とセックスを提供するのが色茶屋で、戦前の亀戸《かめいど》や玉の井の銘《めい》酒屋がそれに当たる。水茶屋は神社やお寺の門前にあって、若い娘たちが茶菓のサービスをするだけだから、今の喫茶店がそれだ。  第一句は見合い成功、ふつう十文ていどの茶代を、めいめいが十倍の百文ずつ置いたのは、お互いによっぽど気に入ったからだ。第二句は不成功、ちょっと急用を思い出したので、お先に失礼。第三句、昔はこんな|うぶ《ヽヽ》な娘が一ぱいいた。   見たり見せたりで一両十刄  中産階級も上のクラスとなると、見合いの場所もちょっと張り込んで歌舞伎の枡席《ますせき》となる。舞台を見たり、隣りの枡席をお互いに見たり見せたりするわけだ。江戸末期の芝居の桟敷《さじき》(枡席)は一枡が銀三十五刄(約三万五千円)だから二枡で七十刄、金一両は銀六十刄相当だから、つまり一両十刄となる計算だ。うまくいけばいいが。   後生願いのふりをして見合う也  はなやかな歌舞伎の桟敷と打ってかわって、これはお寺の法談の席。信心深いというふれ込みで、本堂で落ち合うのだから、これは男やもめと後家の見合いだ。  喫茶店とか、歌舞伎座とか、本願寺とか、当事者の好みや経済力や年齢に合わせて、両親や仲人たちが見合いの場をかれこれと設営するのは、今も昔も変わりはない。でも中には見合いだと人に知られるのは恥ずかしいから、ぜったいに嫌だと駄々をこねる娘もいる。そこで、   すれ違うように仲人工面をし ということになる。偶然をよそおった路上の見合いとは、芸がこまかい。  ところで現代の見合いは回を重ねるうちに愛し合うようになるというケースが多いとみえて、「見愛結婚」と書く若者が現れた。まことに結構。そうしていよいよめでたく初夜を迎える。   初夜   仲人は母の寝所のさしずもし  今どきの結婚における仲人のように、結婚式場に落ちあって式に立ちあい、披露宴《ひろうえん》で新郎新婦を紹介すれば一巻の終わり、というのなら事はかんたんだ。だが、昔は、行列そろえて乗りこんで来た花嫁と花聟に三々九度をさせたあげく、寝室へまでついていって、屏風を立ててやるところまで取りしきらねばならぬのだから、シンのつかれるはなしだ。おまけに新郎の母親の寝室の位置まで気をくばらなければ、本格的な仲人とは申されない。母ひとり子ひとりの家へ嫁にいくと、母親が襖《ふすま》ごしの隣室に寝起きして、息子と嫁の営みを、まんじりともせず監視するというのは、今でもよくあるケースだ。今とちがって、別居さわぎもならぬ昔のことだから、仲人たるもの、そこまで気をくばらなければならなかったわけだ。  それに仲人だってなま身だ。新郎新婦を寝かしつけるところまで世話するんでは、つい往時をおもい起こして、バレの一つもいって、からかいたくなるのも人情というもんである。   蛤《はまぐり》は初手《しよて》赤貝は夜中なり  さて、なんといっても新婚初夜というものは、めでたくもなまめかしいものだ。そのめでたいお色気をズバリと言ってのけたのが、この句である。そそっかしい人は、これを花嫁のある部分の時間的な変化と受けとるかもしれないが、そうは問屋がおろさない。もっともアソコを蛤にたとえた例は川柳にも多く、普通のことだから、むりもないとはいえ、この句の場合は、少々ちがう。  この句の蛤は、今でも昔ふうな婚礼にはかならず出す吸物の蛤である。そもそも蛤をめでたい婚礼の吸物に使うようになったのは、蛤の貝がらだけはけっしてほかの蛤の貝がらと合わない、つまり一ペんつがいになったら、二度とふたたびほかへ心を移さないという意味からである。そして、この習慣が一般化したのは、享保《きようほう》年中、八代将軍|吉宗《よしむね》がショウレイしたからである。もっとも吉宗の場合は、蛤は四季ともにたくさんあって安価なものだからという、倹約の精神からであった。それはともかく、   蛤は吸うばかりだと母教え   蛤吸物を食ってしかられる とあるように、近ごろとちがって昔の花嫁は汁をすうだけで、実《み》は食べなかったものだ。しかし花聟の方は、遠慮なく実も汁もいただいたにちがいない。そして夜中には、それこそ花嫁持参の赤貝をいただく、というのがこの主題句の正解ということになる。しかし、それはそれとして、やっぱりアソコの変化もついでにいったもんだ、とお考えになっても、それはもはやわたしの関知するところではない。   処女のねうち   花嫁のよがるはできたことでなし  さて、はなしはいよいよ佳境にはいってきた。「できたことでなし」というのは、よくやったとはいいかねる、いただきかねる、という意味だ。試験結婚をへたのちの花嫁ならばともかく、仲人結婚の花嫁が、初夜から嬌声《きようせい》を発してはうまくないというのだが、めっきり懇切ていねいになった現代の初夜教育書でも、ここまでは行きとどいていないようだ。  ところで、なぜ嬌声を発してはいけないのかといえば、今でも日本ではそうだが、花嫁たるものは、当時のコトバでいえば生娘《きむすめ》、今のコトバでいえば処女でなければならない、という不文律があったからだ。花聟も童貞でなければ、というのならわからぬはなしでもないが、一方的なんだから、手前勝手なはなしである。そういう一方的な処女性の要求が強調されはじめたのは、十六世紀以後江戸時代にはいってからのことだ。貞女両夫にまみえず、という儒教道徳のせいもあるが、なによりも身分や財産を長男が世襲するという、この時代の長子相続制が要求したのである。身分や財産をゆずるべき息子を、ほかで仕込まれたのではかなわん、という考えが、血の純潔をもとめ、処女性尊重となったんであって、もっぱらヘソから下のソレなんだから、お寒いはなしである。  もっとも近ごろでは処女の値打ちも下落したと見えて、このあいだ新宿《しんじゆく》を歩いていたら、「純処女喫茶」という看板に出っくわした。つまりスフ入りに対して、純綿という意味なんだろう。ペッティングまでは許すというスフ入りの半処女に対して、バリバリの純処女というわけだ。  ——わたし今晩、まだ処女なのヨ。 というホステスもいる世の中だから、むりもない。しかし、恋愛結婚はみとめない上に、見合いという手順もはぶいてかつぎこまれ、ぜったいに純処女でなくてはという時代のことだから、花嫁たるもの、たとえ経験者であっても、その場にのぞんではカマトトたるべし、しからずんば疑われて離縁されますぞという、まことにコンセツテイネイな教訓をたれたのがこの句である。   花嫁の名にお初とはきついこと  世はあげて花嫁の処女性を要求するご時勢、とはいうものの、花嫁の名前までがお初とは、すこしどぎつすぎやしませんか、と、これまた、いたらぬくまなき庶民のおせっかいぶりである。   花嫁にめんぼくもなく外科をかけ  この花嫁は純綿も純綿、バリバリの純綿であったと見える。また、花聟の方も、社会的経験にとぼしい、特攻精神にもえた青年であったとみえる。ついに激突、もみにもんだあげく、負傷する方はおおむね警棒を持たない方である。流血りんり、めんぼくないが外科にかけたというしだいである。  これは仲人の手ぬかりである。たぶん未経験なはずの若い男女を結合するというゲンシュクなる役割をはたす以上、初夜の心得ぐらいは教えておくべきである。  この春、わたしの友人が、ちょうどこの句のような童貞と処女の仲人をして、新婚旅行に送りだしたまではよかったのだが、あくる朝、旅先から電報がきた。   ウマクイカヌ イカガ スベキヤ  今どきの若者だから、と、たかをくくって教えておかなかったのが、友人の手ぬかりだったのである。外科にかかるどころか、その手前で文字どおり戸まどっている様子なので、いろいろ頭をひねって、折り返し電報を打った。   エンリョナク ヒラケ ゴマ  他人が見てもおかしくないように、あけにくい戸をあけるアラビアンナイトのアリババの呪文《じゆもん》を借用したわけだ。すると翌日、また電報がきた。   カンシャニタエズ イサイフミ  友人の想像どおり、新郎は土地不案内でまごつくし、新婦は羞恥心《しゆうちしん》で堅くなって、受入れ態勢が整わなかったらしい。そこでまた返電していわく、   セイコウヲシュクス  本当はセイコウノセイコウヲシュクスと打ちたかったんだがネ、と友人は楽しそうであった。   湯がしみてにがい顔する里がえり  江戸時代には新婚旅行というものがなかった。これは明治も中期以後の西洋的風俗である。そのかわりというわけではないが、「里帰り」という行事があった。新婦が結婚後、三日目または五日目に実家へ近況報告に帰る儀式だ。外科にまでかかった愛の闘士としては、さぞ湯がしみることであろう、とかんぐったわけだ。しかし、顔はしかめていても、気分はかならずしもそうではない。にがくて甘いよ、うーん、というところだ。   里帰り夫びいきにもう談じ という句が、その証拠だ。   持参金   あばた一つが一両の余の持参  さて川柳には、持参嫁と裸嫁というのがある。どういうわけだか、江戸時代の花嫁は持参金つきであった。新井白石《あらいはくせき》がこの慣習を禁止したところ、自分の娘が年ごろになっても、もらい手がなくて弱ったという話があるくらいである。しかし、通り相場をはるかに上回る金額を持参するということになると、その分だけ、どっか、へこんでいるわけだ。  江戸時代は予防医学が未発達であったから、ハシカとホーソウはかかりっぱなしであった。軽くすめばいいが、重症だと、ふた目と見られぬアバタづらになる。そのアバタの一つが一両余にあたるというのだから、この花嫁はすくなくとも四、五百両は持参したろう。しかし、アバタなどはまだいい方だ。   こわいこと美女で一箱持参なり  美女なのに千両箱を持参するということになると、ただごとではない。それを迎える方も覚悟しなくちゃなるまいが、花嫁の方も、   持参金封を切られて安堵《あんど》する という心境であるのは当然だ。  そこへいくと、是が非でもいただきたい、という裸嫁の方は、持参金のつかぬどころではない。   いもじまでそっちでせいといい娘 「いもじ」は湯もじのなまり、腰巻のことだ。すなわちシミーズからパンティまでそろえてくれなきゃいやよ、というわけだ。おまけに、   美しさ裸で母を持参なり  持参金のかわりにおふくろをつれてこようというのだからすさまじい。裸で、持参金のかわりにおふくろまで持参するというほどの美人は例外として、無給料で一生はたらき詰めというノルマを背負った花嫁が、分相応の持参金を要求されるという習慣は、まことに不都合である。しかし、夫の都合で妻を離縁する場合は、嫁入り道具といっしょに、持参金は返さねばならぬことになっていた。   去りええるものかとおかねにくいこと  持参金に手をつけて、そのうめ合わせができないばっかりに、いやでいやで仕方のない、その名もおかねという金性《かねしよう》の女房を離縁することもできず、  ——離縁できるもんなら、してごらん。 と鼻であしらわれる仕儀にもなったわけだ。  ただし、女房の同意のもとに使った場合と、女房の方から離縁を申しでた場合は、返さなくてもよいことになっていた。 [#改ページ]  第八章 夫婦のいとなみ   夏の風情《ふぜい》   蚊をやく紙燭《しそく》フッ消してまぁ待ちな  どうもやっぱり梅雨《つゆ》の声を聞かないと、夏になったような気がしない。このびしょびしょと雨のふる時期が、陰暦五月にあたるので五月雨《さみだれ》といい、すべてのものが湿っぽくなって黴《かび》がはえるので黴雨《ばいう》ともかき、ちょうど梅の実が黄色く熟する時なので、梅雨《ばいう》と書くのだそうだ。それを「つゆ」とよむのは、万物に露がしたたるからなんだそうだが、おれなんぞ、もはや「からつゆ」だ、とひがみながら物の本をめくっていると、「この月|淫雨《いんう》ふる、これを梅雨と名づく」と書いてあった。なるほど淫雨とはよくいった。のべつにびしょびしょしているんだから、むりもない。  さてこの淫雨があがるころになると、ボーフラもようやく一人前の蚊《か》となって、夏の風情《ふぜい》を添えることになる。けしからん、蚊《か》と蠅《はえ》は、非文明・非衛生の象徴じゃないか。お隣りの中国を見ろ、国民総動員で退治したではないか、とそう言われれば、そのとおりである。だが、中国の蠅などときたら、日本で想像するような生やさしいものではなかったのだ。わたしも陸軍二等兵で三年も中国にいたからよく知っているが、市場など通るとまっ黒な物がぶら下がっているから、なんだろうと近よって見ると、豚肉にびっしり蠅がたかっているのだ。あれでは退治したくなるのもむりはない。  日本でも戦後は、駐留軍がむやみにDDTをばらまいたり、中国視察団のお歴々が「中国には蠅と蚊がいなくなった、えらいもんだ。」と、つまらないことまでむやみに感心したりするもんだから、それにかぶれちまって、蚊蠅|撲滅《ぼくめつ》運動が盛んになったのはなげかわしい。昔の日本人は、少々の蚊や蠅は夏の風情として眺める寛容と風流の精神を持ちあわせていたもんだ。   燃え立ちて顔はずかしき蚊遣《かや》りかな  蕪村《ぶそん》  簾《すだれ》をつった縁側で、蚊遣りをしての夕涼みという風情も、この蚊がいなくなっちまっては仕方がない。ぐっと昔は蚊取り線香なんてものはなかったから、欠けたすり鉢などで鋸屑《おがくず》や糠《ぬか》をいぶしたもんだ。だから風の吹きまわしで、ぼっと燃え立つことがある。部屋の中の行灯《あんどん》なんぞは、あってなきごとし。相手の顔もしかとわからぬ暗い縁側で、若い二人が大胆になって、手なんぞをにぎり合っていると、ぼっと燃え立った蚊遣りの明かりで、はっきりと顔が照らしだされて、わしゃ恥ずかしいという、いとも初心《うぶ》ななまめかしい情景である。といっても、皇居前広場で警視庁さし回しのやぼなパトロールカーのライトをぱっと当てられても、かえって晴れがましく抱きあう近ごろのお若い方々には、とんとおわかりになるまい。  蚊の風情も、このくらいは序の口だ。縁側は人の目もあるが、部屋の中の、それも閨《ねや》ということになると、ぐっとこざるをえない。歌麿《うたまろ》などにも、蚊帳《かや》越しの美人像といえば、浅黄色の蚊帳をすかして見た寝巻姿の美人を描いた浮世絵があるくらいだ。西鶴の『好色一代男』巻五にも、この蚊帳の風情を描いた章がある。  世之介《よのすけ》はある日ふと思いたって、早舟をやとい、室津《むろつ》の郭《くるわ》を一見しようと、大阪の港をこぎ出した。世之介持参の銘香《めいこう》などきき分ける、しおらしい妓《こ》がいたので、それが気にいって、蚊帳をつった部屋でにじみ出る汗をもの憂《う》く思いながら待っていると、女は薄紙に包んだ螢《ほたる》を持ってきて蚊帳の中に飛ばし、水草の花桶まで入れて、「都の人の野とや見るらん」といいながら横になったその寝姿の涼しさ、美しさに、世之介はすっかりイカレてしまったというお話である。  そのもとはといえば、ボーフラであり、蚊であるのだ。季節の自然を享楽する技術において、昔の日本人はうらやましいくらいのものだ。もちろん蚊帳の風情は、これだけではない。   蚊をやくや|褒※[#「女+以」]《ほうじ》が閨《ねや》のさざめごと  其角《きかく》 「蚊をやく」というのは、蚊帳の中にはいった蚊を、紙を撚《よ》って油にひたした紙燭《しそく》の火で焼きころすことをいうのだが、これはずいぶん古くからの習俗だ。延宝《えんぽう》六年というと、一六七八年に成立した『色道大鏡』といううれしい本に、こんな記事が見える。 [#この行2字下げ]明暦のころ、大阪木村家の太夫職に静間《しずま》というあり。蚊をやく事ならびなき上手にて、見るもおもしろかりけり。この静間、蚊帳の内へわざと蚊を追いこみ、茶碗に水を入れ、左にうけもち、右にもちたる紙燭を一あてあつるに、五つ七つは必ず焼きけり。  これなどはまあ、郭のお職《しよく》の芸だから特別として、一般の家庭でも、女房が蚊をやいたのである。そこで其角の句だが、褒※[#「女+以」]というのは中国の古代、周《しゆう》の幽王《ゆうおう》の寵姫《ちようき》である。これはたいしたご婦人で、火の手を見ないと笑わないという火事気違いだったので、王さまは笑顔が見たいばっかりに、事ある場合に兵隊を集めるための烽火《のろし》をしょっちゅうあげたので、いざ本番になった時、兵隊が集まらず、ついにイカレたというおそまつの一席である。もっとも、札たばを見ないと笑わないというご婦人と、どっちがこわいかは、にわかにきめられない。そこで其角の句は、寝巻姿で蚊をやいたあとで、目尻を下げていちゃつくというのは、褒※[#「女+以」]の閨のようなぐあいだ、とまあそれを品よくいったのである。  ところが川柳となると、例によってそうはいかない。   蚊をやく紙燭フッ消してまぁ待ちな  ——おい、蚊がはいったようじゃねえか。  ——おや、そうかい。ちょっとお待ちよ。 とかなんとかで、年増《としま》ざかりの女房が、寝乱れ姿で起きあがり、紙燭をともして、せまい蚊帳の中で蚊を追いかける。  ——あれあれ、ほらごらんよ。 とふんばった拍子に、味なところを拝ませられたのでは、まるっきりその気のなかったご亭主でも、味な気にもなろうというもんだ。   蚊をやいて亭主むほんの気にもなり というわけで、蚊を追っかけるのに夢中になってる女房のすそを、つい引っぱると、紙燭をフッと消して、  ——まぁお待ちよ。 とこうなると、男の方はせっかちで、女の方は落ちつきはらって、というのが通り相場である。   蚊をやいたあとを用いて嫌がらせ というようなわけで、一儀におよんだあと、さて、と始末をしようとしたら、もともとその気じゃなかったので、清掃用のペーパーが手もとにない。ええ、ままよとばかり、もえさしの紙燭の撚《よ》りをもどして用いたというわけだ。それと気づいて女房が、  ——あらまあ、嫌《いや》だねえ、この人は。 というような物ぐさをするのも、夫婦の仲なればこそである。  さて、夫婦の仲といえば、前章は花嫁をマナイタにのせたので、今回はいよいよ新婚当時から倦怠期《けんたいき》へと、夫婦のいとなみを展望することにしよう。   新世帯《あらぜたい》   手にさわる物をまくらに新世帯《あらぜたい》  どうも新婚当時というものは、双方がもの珍しいのだから仕方がない。チャンスさえあればころがって、茶筒があれば茶筒、当たり箱があれば当たり箱、携帯ラジオがあれば鳴りっぱなしで引きよせて枕にする。そこで、昔ならば、   新世帯ひるも箪笥《たんす》の環《かん》が鳴り ということになり、今ならば、   新世帯枕もうなるジャズバンド ということになるわけだ。もっとも、近ごろは枕なんぞいらない。新婚当時はとくに、いつもきちんと丸髷《まるまげ》に結《ゆ》っていたのは昔のはなしだ。   あら世帯ていしゅを見れば今日も内  子どももヨチヨチあるくころになると、もう珍しくもなんともなくなるから、日曜ともなると、川の字なりで動物園に出かけることになる。  ——ねえ、ちょいと、お隣りじゃお出かけにならないのかしらネ。  団地のアパートなぞだと、お隣りの動静は手にとるごとしだ。朝っぱらからムードミュージックなんか、低音で流しっぱなし、時おり、「あれ」とか「いやあん」とか、「うっふうん」とか、あいの手がはいる。  ——馬鹿だな、おまえ。三年まえを考えてごらんよ。 と、そこで顔を見合わせてニヤリとする場面である。   あら世帯となりでもつい過ごすなり  そういうしだいで、一日動物園で遊び、ぐったりとなって早寝したんだが、どうもいけない。いよいよ魅惑の夜がはじまって、疑心暗鬼、隣りでなにか物音がすると、それかとぞ思う状態だから、当方としてもはずまざるをえない。昨夜もついさそわれてそうだったが、今夜もまたというしだいだ。  団地といえば、近ごろは引っこしのトラックがつくと、酒屋、牛乳屋、洗濯屋等々のご用聞きがドッとおしよせ、またたくまに荷物をかつぎ上げるそうな。そんなわけだから、うっかり昼どりなんぞしていると、   天しる地しる二人しるご用しる ということになる。まあ、天や地やご当人たちが知っているぶんにはさしつかえないが、油を売るのが商売のご用聞きにのぞかれたということになると、午前中にそこら中ひろがってしまう。   すこすこの最中だよとご用ふれ   昼どりをふれてご用はくらわされ   ご用ふぜいが言うことと女房消し ということになる。  ——なかなかお盛んだってえじゃないか。  男同士は率直だから、カクカクシカジカだと、満員電車の中でたちまちウワサの出どころがわかり、次の日曜日、ご用聞きにぶっくらわせるということになる。  しかし、うら恥ずかしいインテリの若奥さんともなると、そうはいかない。チクリチクリと岡《おか》焼き半分にいじめにかかるおばさま族に対しては、もっぱら守勢に出ざるをえない。  ——アラマー、さよでございますか。ご用聞きなんてものは、あることないことしゃべるのが商売でございますものネ。  スネではない、アソコに傷もつ身であるから、やんわりとはずさざるをえない。というようなわけで、昔も今も、人の行なうべきでない時に行なう場合は、警戒すべしという教訓である。  さりながら、新婚当時は無我夢中なんだから、いくら人前でいちゃついても、人は大目に見てくれる。  ——やっちょるな。 と、手前の新婚時代を思いだしてニヤニヤするくらいのもんだ。しかし、その時期もすぎて、結婚第二年目あたり、肌もしっとりおちついて人妻らしくなってから、あいも変わらず手放しでいちゃつくと、庶民がだまっていない。   そこかいてとはいやらしい夫婦仲  ——もうちょっと下の方、そこそこ、そこをもっと掻《か》いてよ。  人前もはばからず、かかせる方もかかせる方だが、背中に手をつっこんで掻く方も掻く方だ。これがじいさんとばあさんだと、ほほえましいということになるんだが、こうあつかましくやにっこいのでは、川柳ならずとも、いいかげんにしろ、と言いたくなるではないか。そんな有様だから、   けがれてもよいとはきついはずみよう  月に七日のお客さんの滞在中は、ご遠慮申しあげるところなんだが、男はそれをガマンできない。  ——なあに、あとでひと風呂あびればいいさ。 かなんかで、年中無休の看板をはずすようなことはしない。その精進が実って、やがてめでたくご懐妊ということになっても、ぎりぎりの土壇場までは攻撃の手をゆるめない。   産前産後のトラブル   うしろからしなとはよほど月ぱくし 「月ぱく」は月迫と書く。年末もおしつまって、もはやあといく日もないことをいう。人前で背中をかかせるくらいの女房だから、もちろんいやおうはないのだが、どうもこうせり出すほどせり出しちまっては、敵にうしろを見せないわけにはいかない。中国の表現をかりれば「山ヲ隔テテ火ヲ取ル」であり、日本流でいえば「ウシロドリ」であり、ワンワンスタイルである。そしてついにめでたく出産ということになると、   ご不自由旦那なさいと取揚婆《とりあげばば》 と、産婆にからかわれる仕儀となる。なにしろ江戸時代は産後七十五日、夫婦の交じわりを禁じていた。けがれもいとわず、臨月まで搦手《からめて》から攻めたほどの亭主のことだから、二カ月半にわたる長期の禁欲生活にたえられるはずがない。   初もののように七十五日ぶり   早く寝る女房七十六日目  忍ぶべきを忍び、たえがたきをたえ、ようやく七十六日目の夜をむかえてトキの声をあげる、こんないじらしい夫婦もあるにはあったのだが、おおむね大体そうはいかない。   宮参り時分願ってしかられる  宮参りは産土詣《うぶすなもうで》ともいって、母親が生まれた子どもをつれてはじめて氏神にお参りする風習なんだが、古川柳の当時はおおむね三十日目であった。   宮参りさてまだ四十五日あり という有様だから亭主は頭に血がのぼり、出あるくくらいだから、もういいだろう、と手合わせを願ってしかられたというわけだが、これなどもまあいじらしい部類の亭主だ。  血気さかんで、三日もナニしないでいると鼻血が出るというサムライは、女房が産褥《さんじよく》にふせっているあいだも我慢できない。といって女房を用いるわけにもいかないから、   ひだるいか亭主産婦の伽《とぎ》をしめ ということになる。床払いするまで、看病やお勝手の手伝いに田舎から産婦の妹や従姉《いとこ》をよびよせる。今も昔もよくあるやつだ。  ——ねえきみ、まるっきりの他人というわけじゃなし、それにあとのへるもんじゃないんだから、ちょっとぐらいいいだろう。 と台所なんかで口説《くど》く。女房の方も亭主のすきなことは百も承知だから、聞き耳を立てて、   産婦の邪推大《じやすいおお》ぶりな咳《せき》ばらい  ちょいと物音がしたり、話声が聞こえると、大げさな咳ばらいなどして、しきりに牽制《けんせい》するという劇的シーンである。  わずか二十日《はつか》ぐらいの産褥中でもこれなんだから、宮参り時分になると、なにしろ女房といえどもきらいではないのだから、叱ってばかりはおられない、なしくずしについハジメてしまい、   女房の長血《ながち》亭主の不埓《ふらち》なり ということになる。なおりきっていないところでいたすのだから、だらだらと出血が続くというわけだ。だから、そういうこともあろうかと、   里の母そばにねるので血を納め  実家から母親がのりこんで来て、七十五日そばに寝ていられたのでは、いかにすきものの亭主でも手のほどこしようはない。  まあ、夫婦の仲というものは、性的に多少の行きすぎがあっても、冷たいよりは熱い方がよいにきまっているんだが、それでもあんまり|はめ《ヽヽ》をはずすと、とんでもないことになる。   か弱き亭主族   女房を痛み入らせて医者帰り  どこといって悪いところはないのに、目がおちくぼんで、やせおとろえている。それとあべこべに、枕もとにすわっている女房は、小ぶとりでつやつやとしている。こんなのは医者でなくったって、おおよその見当はつく。  ——奥さん、ほどほどになさらんと、取りかえしのつかぬことになりますぞ。 と、別室で痛み入らせておいて、亭主に対しては、   養生の一つはこれと手でおしえ と、例のかっこうをして見せているうちはいいのだが、回診するたびに、いよいよ亭主はおとろえて、女房はみずみずしくなっていく。   看病が美しいので匙《さじ》を投げ   過ぎたるは医者の匙にも及ばざる  まことに過ぎたるは及ばざるがごとく、薬石効なく一巻の終わりとなっては、なにをか言わんやである。  だがまあ、そういうお盛んな時期もなんとか切りぬけると、いわゆる倦怠期にはいり、攻撃精神はとみにおとろえて、夫婦の仲もお茶漬の味となる。 [#改ページ]  第九章 老楽《おいらく》の性   倦怠期《けんたいき》   女房の味は可もなく不可もなし  倦怠期ともなると、「我《われ》ハ則《すなわ》チ是《これ》ニ異《こと》ナリ可モナク不可モナシ」という『論語』の文句などかりて、女房の品評をするゆとりもあろうというもんだ。  このころから帰宅もおそくなりがちで、バーやキャバレーのマッチが洋服のポケットにはいっていたり、時にはキスマークを首筋にいただいてきたりするようになる。   しののめに女房まわたをしごいて居《い》  一晩中まんじりともせず帰宅を待っていた女房が、しののめに真綿で首をしめるように、じわじわととっちめてやろうと待機していたのだが、そこは女房といえども、女のはしくれだから、   胸ぐらを取った方から涙ぐみ ということになりがちだ。  しかし、なにしろ非《ひ》は当方にあるのだから、しだいに女房がこわくなり、ついに恐妻病となり、   さわりゃ産《う》みさわらにゃたたる山の神 と、深いためいきを亭主がもらすようになった時、はじめて女房の座《ざ》は確固不動《かつこふどう》のものとなるのである。   ものぐさい人だと女房ずり上がり  さて、子どもが二、三人もできると、女房はその正体をあらわして、「さわらにゃたたる山の神」とあいなるというしだいは、すでに申しあげたとおりだが、この山の神というコトバは、室町《むろまち》時代の狂言に見えるから、相当に古いもんだ。これは、正真正銘《しようしんしようめい》の山の神さまが語源で、古来、農村で祀《まつ》る山の神は、男神と女神の両方あったが、そのお祭りはもっぱら女房たちがつかさどっていた。そこで女房のことを山の神というようになったのだが、そこはまた、山の神さまはおおむね荒れ気味だという、スネにきずもつ亭主どもの悲しきユーモアがただよっているようだ。なおまた金田一京助《きんだいちきようすけ》博士のお説によると、古代の田楽《でんがく》舞いに出てくる里の神は、すてきなベッピンであるが、山の神の方はひどくみっともないので、自分の女房を卑下していうようになったという。いずれにしても語源は山の神さまということになっている。   添乳《そえぢ》して棚《たな》に鰯《いわし》がござりやす  仕事から帰ってきて、ウイスキーでも一ぱい引っかけようと思い、  ——なにか、つまむものはなかったかい。 と、隣室の山の神に声をかけると、子どもに添乳をして寝そべったままで、ふり向きもせず、  ——冷蔵庫にチーズの残りがあったはずよ。 と、それっきりで、うとうとしている。仕方がないからモソモソと台所に出かけて、かじるチーズの味気なさ。こんなふうだから、亭主の方もおうちゃくになって、例の仕事にも熱のないことおびただしく、主題句のような状態になることがしばしばである。  ——なんだ、今夜とてもつかれてるんだ。いいようにしろよ。 「山がそこにあるからだ。」などという特攻精神は、若いうちのことだ。年中無休でこき使われ、もはや完全な月給運搬人となりはてた昨今は、もっぱら山麓《さんろく》をうろつくのみだ。そこで、たまりかねて山の方がのしかかって来るという仕儀になるのも、やむをえない成りゆきというもんだ。   老《お》いの嘆き  かくして倦怠期がすぎ、忍耐期もすぎるころになると、   三つのうち目も歯もよくて哀れなり という哀愁の季節をむかえることになる。  かつて『四十八歳の抵抗』の作者|石川達三《いしかわたつぞう》と、某所で会談した時、最近では抵抗年齢を五十八歳ぐらいに引きあげないと話が合わなくなった、と彼は慨嘆《がいたん》していた。まことにおめでたい話だ。近ごろ後輩の還暦《かんれき》祝いに出席したが、数え年で六十一歳だというのに、目と歯どころか、三つそろってご壮健のご様子と拝見した。明治・大正以前の日本人は、「人生五十年」と観念し、七十まで生きると「古来|稀《まれ》なり」と感嘆したもんだ。西鶴は五十二歳で死ぬ時、「人生五十年のきわまり、それさえ我にはあまりたるに」という前書で、「浮世の月見すごしにけり末二年」と、あきらめきった辞世の句を残しているし、芭蕉も三十代から翁《おきな》と呼ばれ、五十一歳で死んでいる。  それが戦後のびにのびて、今では男七十四歳、女八十歳という平均寿命がまだとまらないというのだから、めでたいには違いない。しかし喜んでばかりもおられないというのは、セックス・ライフが男・女とも二十年近くのびたのに、人生五十年時代の老人の性に対する偏見が根強く残っていることだ。  今年の正月の�お達者文芸�の川柳に、   余生とはいつからなりや姫始め という七十歳の男性の句があった。姫始めは第一章で述べたように正月二日の夫婦事始め。今、余生と言えば六十歳か六十五歳以後だろう。世間の皆さんはもう私どもの性生活は終ったものと思っておられるだろうが、私どもは今でも姫始めのしきたりを守ってますョ、というわけだ。だがこの句のあるじは二人暮らしだから出来るわけで、核家族時代になって、六十歳以上のセックス能力のある人々の一人暮らしが、五十七年度で百二十六万余という。偏見を恐れず、堂々と結婚するなり同棲するなりなさるとよい。   茶のみ友達で薬鑵《やかん》の水が減り  江戸時代ではそういう二人を�茶のみ友達�と言った。あんまり茶を呑んだので、やかん頭の腎水《ザーメン》は減る一方。いずれにせよおそかれ早かれ、歯、目、魔羅《まら》の順序で物の役に立たなくなるとご承知ありたい。ところがかんじんかなめのモノはすっかりイカレてしまっているのに、皮肉にも、それより早くイカレるはずの目と歯だけが、しごく丈夫というのだから、哀れが深いというわけだ。だから、   歯は入歯目は眼鏡にて事たれど というなげきもある。なるほど、歯は入歯で、目は老眼鏡でカバーできるが、アレだけはいかんともしがたい。まさか靴ベラを使うわけにもいくまい。故六代目三遊亭円生さんが、七十歳近くなっても御盛んであったのに、   今はただしょんべんだけの道具かな と川柳を披露して、仲間をしらけさせた頃がなつかしい。  さて、その男性の象徴であるいとしき陽物《ようぶつ》を、なぜ魔羅などと、いまわしい名をもって呼ぶのであろうか。その幼名は「おちんこ」という。『摂陽奇観《せつようきかん》』という大阪の出来事を何くれとなく書きとめた江戸時代の書物に、「歌舞伎役者の子ども十歳前後をあつめ、堀江此太夫《ほりえこのだゆう》芝居にて興行なし、大当たり。大阪にてチンコ芝居という。」とある。今でも子ども芝居のことを、上方筋ではチンコ芝居といっている。チンコは大阪方言でいう「ちんこい」また「ちっこい」で、東京の「ちっちゃい」である。その上に親愛の接頭語の「お」をくっつけたのが、すなわち「おちんこ」である。排水という、その一つの用途しか知らない清純無垢《せいじゆんむく》なる「おちんこ」が、長ずるにおよんで、親の意見もうわの空の凶状持ちとなった時、魔羅という醜名《しこな》があたえられるのである。  魔羅とは、古代印度サンスクリットのマラ Mara の漢訳である。その意味は誘惑の神、善行をさまたげる神で、すなわち悪魔という意味だから、もとは彼《アレ》をさしていったわけではない。それをとって、わがいとしき悪漢の名としたのは、日本の坊主どもであった。すでに平安時代から用いている。つまり女人《によにん》禁制の比叡山《ひえいざん》や高野山《こうやさん》の坊主どもが、歯をくいしばって悟りをひらこうとするのだが、なにしろ煩悩《ぼんのう》の根源をぶら下げているので、どうも気が散ってうまくいかない。そこで、コイツはおれたちの仏道修行をさまたげる悪魔だ、魔羅だ、と言い出したのである。鎌倉時代の『古今著聞《ここんちよもん》集』に、「口舌《くぜつ》のたえぬもこれゆえにこそとて、刀をぬいて、おのれがまらを切るよしをして」とあるように、わが子を手討ちにするような短気者も出る始末だから、悪魔よばわりしたのも無理はない。しかしその悪漢も、歳月には勝てず、額とともに、これまたしわだらけのブラブラとなり、自立の精神は薬にしたくもなくなるので、庶民はこれを提灯《ちようちん》という。   提灯をさげて宝の山をおり  せっかく豊満な宝の山にのぼりながら、おぼつかない足もとをぶら下げた提灯で照らしながら、トボトボおりて来るなんてのは、味気ないもんだろうと思う。また、そうなるといよいよあせりが出てくるから、   提灯の骨つぎをする生卵   うなぎの油提灯がよくとぼり  生卵、うなぎ、ごぼう、山の芋《いも》と手当たりしだいに補給することになる。それでもなおかつ言うことをきかない場合は、   美しい手で提灯のしわをのし   新造は干《ほ》し大根によりをかけ と、若く美しい人手をかりることになる。新造というのは、まだハイティーンの若い女郎のことで、川柳における新造買いは隠居ときまったもんだ。   愛人バンク  さて、新婚時代から老楽《おいらく》時代までの、うれしく、はずかしく、情けない種々相を一とおり見わたしたので、そのしめくくりとして、おめかけさんに登場していただくことにしよう。『和訓栞《わくんのしおり》』という江戸時代の辞書に、「めかけ、物にめかけたる女と見えたり」とあるように、古くは目懸と書いている。それに江戸では「めかけ」といい、上方では「てかけ」といった。目をかけた女に対して、手をかけた女というわけだ。  今日では妾という存在は、法的な手続きをふんだ公式の妻以外の非公式な妻、つまりパトロン持ちの女性と考えられている。とすると、今はやりの�愛人バンク�は、非公式の愛人である女性を、合法的に会員である男性に世話する組織というわけである。聞くところによると男性会員の入会金は二十万円、女性会員は半分の十万円で、払い込むと好みのタイプの愛人候補を紹介してくれて、双方が気に入ればあとは御自由にというわけだから、手間賃をとって見合いの斡旋《あつせん》をしているだけ、売春のあっせんをしているわけではない。だから当局も手の打ちようはなく、あまり繁昌するので税務署が目を光らせているだけだそうな。  さて見合いがうまくいっても、けっして正式に結婚するわけではない。男性会員は国会議員の先生がたから有名な俳優やスポーツ選手、会社の社長や重役など、大部分は正式な妻のある夕暮れ族で、女性会員のほうは、お金もセックスも欲しいというギャルたちだそうだから、愛人関係が成立したといってみても、つまりはパトロンと有償・有限の愛人関係、すなわち旦那とめかけの現代版で、愛人バンク業はおめかけ斡旋業というわけだ。  ということになると、別に事あたらしいことではない。遠く江戸のいにしえからあった業種である。江戸時代も正妻は一人だけ、つまり一夫一婦を建前としたが、しかし地位や財産を世襲で受けつぐという世襲制度で、しかも長男相続制であった。旦那に子種がなかったり、奥方が石女《うまずめ》といって不妊症だったりしても、今なら試験管ベビーでお茶を濁せるが、当時は手造りベビーしか望めなかった。これといってゆずる物もない職人や小商人《こあきんど》は、ジャリがいようといまいと悩むことはなかったのだが、将軍家や大小名、中流以上の町人ともなると、家督をゆずるべき男の子が生まれないではすまない。ことに跡つぎがないことを理由に、改易《かいえき》といってお取りつぶしの憂目《うきめ》にあう恐れのあった大小名方では、三年たっても正室《せいしつ》(正妻)にお子が生まれない場合は、殿様よりも家老などの方が、やっきになって側室《そくしつ》(妾)を探し、すいせんしたものである。将軍家などはまたもとよりで、十一代の家斉《いえなり》などは側室四十人、十六腹に子女五十六人を生ませているのは、いくら跡つぎを絶やさないためという大義名分があったとしてもやり過ぎで、さぞおくたびれだったことだろう。  そんなわけで建前は建前として、蓄妾制度は公認されていたのだから、れっきとした愛人バンク業が存在したのは、あたり前である。そこのところを十七世紀末の町人作家・井原西鶴《いはらさいかく》が、『好色一代女』巻一で、次のように絵解きしている。  幕府の役職について江戸詰めになっているさる大名の奥方が、世継ぎの若殿を生まないうちに亡くなられたので、家老どもが心配して、器量と素姓のよい女を十数人えらび、殿のお寝間近くに侍《はべ》らせることになった。ところが殿は見向きもなさらないというのは、関東育ちの女は土ふまずがなくて首筋が太く、心は素直で実意はあるが、とんと色気がないからである。そこへいくと京女は、第一に言葉つきがソフトで可愛らしく、万事に花車《きやしや》風流であるということになって、殿様の好みをそっくり写した美人画をたずさえ、七十余歳の横目《よこめ》(監督役)が京都へ妾《めかけ》さがしに出かけた。  かねて出入りの室町の呉服所に一件を打明けて世話を頼むと、さっそく一流のお妾周旋業者に申しつけ、その手配で百七十余人が集まり、美人コンクールが始まった。ところでお妾の周旋業者は、話がまとまると前渡し金百両(六百万円)のうち十両(六十万円)を手数料として女から取る。またお目見えの際に然るべき着物のない女は、上着、下着、帯、緋縮緬《ひぢりめん》の腰巻まで一式で、一日に銀二十匁(二万円)で貸す。婚礼の貸衣裳と同じだ。  さて、百七十余人もお目にかけたが、一人も横目のお気に召さないので、困った周旋屋が宇治に隠れ住んでいた一代女の噂を伝え聞いて、さっそく迎えてふだん着のままでお目にかけると、持参の美人画よりもまさっていたので、江戸へ連れて行かれて下屋敷に置かれ、側室として御寵愛の身となった。すっかり殿様のお気に召して房事過度、お世継ぎができるどころか、まだお若いのに強精剤の地黄丸《じおうがん》を呑んで、お痩せになる一方だったので、そこでまた家老どもが心配して、「都の女のすきなる故ぞ」と、お払い箱になってしまった。 �過ぎたるは及ばざるが如し�という諺を絵に描いたような結果だが、これが跡継ぎを生むと、側室とはいえ「お部屋さま」と家臣から様づけであがめられ、その親には御扶持米《おふちまい》が支給されたのである。そこのところを、   大名のお手がかかって産みだして [#3字下げ]恋の重荷《おもに》や当座に千石 と西鶴が連句で詠んでいる。  跡継ぎがないとお家の一大事とばかり、側室を押しつけられて、インポになるまで奮励努力する殿様は、サラブレッドの種付馬みたいで、哀れにもまたおかしいが、同じ元禄時代でも町人はそうはいかない。上《かみ》の好むところ下《しも》これにならう道理は、何も現代の金権政治と変りはない。金があって身軽な町人は、お上にならって、もっぱらお楽しみ用に妾を抱えたものだ。同じ西鶴作の『浮世|栄花《えいが》一代男』に、こんな話がある。  今はんじょうの大阪の町人が、郭《くるわ》からの朝帰りで、盛大に夫婦喧嘩をしている。そこへ年配の親仁《おやじ》がやって来て仲裁し、亭主をわが家へ引き立てて行き、女房ともどもさんざん意見したあげく、今日はこれから寺まいりに出かけるところだと、また、かの亭主をつれて出て行った。 それから親仁は、  ——殊勝な顔をして寺へまいるというのも、やきもち焼きの女房を油断させるためだ。さらばわしの気晴らし所をお目にかけよう。 と、つぎから次へ、色とりどりの妾宅《しようたく》を九カ所もつれまわった。中には女の親に金を貸して綿商いをさせ、ゆるりと暮らしているのもあるといったぐあいだ。ひょっとすると今の�愛人バンク�で意気投合したオジンが、この子は水商売に向くと見込んで、喫茶店やパブをやらせるというケースがあるかもしれない。  ——これでも郭通いよりは金がかからないし、内そとのぐあいもわるくない。それに色とりどりであきもこない。ふだんの身なりで家を出るから、山の神が気づくこともない。おまえさんも宗旨を変えなさい。 と意見して、花屋で仏前にあげる高野槇《こうやまき》のしんを一本|三文《さんもん》で買って帰っていった。  こんなわけだから、おなじく西鶴の俳諧に、   年のころ雲なかくしそ手かけもの   晦日《つごもり》までの末のかねごと(約束) とあるように、元禄当時の上方では、月ぎめの妾もあったのだから、この道ばかりはたいして進歩していないようだ。  これが江戸後期の川柳時代になると、何しろ庶民がとらえたお妾像だから、上品というわけにはいかない。   ある夜のむつごと弟二本差し  殿さま、ご寵愛《ちようあい》のあまり、ついお部屋の願いのとおり、弟の町人を士分に取りたて、めでたく二本差しの身となったという、おそまつの一席であるが、もちろん、ねだるにはタイミングが大切だ。   鼻息を考えめかけねだるなり  早すぎてもだめだし、おそすぎてもだめだ。殿さまだってフトコロ具合ってものはあるのだから、頭がしびれかけて、ソロバンなどはじいていられなくなった時、もはやがまんならぬという鼻息の時をはずさず、  ——あの、もうし、うえさま。 とやれば、たいていのことは成功するものだそうである。わたしの友人の作家も、かねて目をかけていた銀座のバーのホステスをくどきおとしてホテルヘつれこんだ夜、鼻息をよまれて、乗用車を一台、闇《やみ》で買わされた、となげいていたから、相手が何十万石の殿さまだと、弟を二本差しに仕立てるぐらい、わけもないことだ。そこのところを人情話ふうにまとめた落語が、殿さまのおめかけの弟の職人が士分に取りたてられ、馬に乗る身となってまごつくおかしみがあるので、旧名を『妾馬《めかうま》』、今では『八五郎出世』と題する六代目|円生《えんしよう》が得意にしていたハナシである。   小便組   おめかけのおつな病いは寝小便  さて、弟を二本差しにしたお妾は、通りすがりに殿様のお目にとまった裏長屋の孝行娘で、プロの妾ではない。しかしもちろん初手からそれをなりわいとする�愛人バンク�の会員がいた。連中は旦那を取っかえ引っかえしないと、前金の支度料が目減りするので、悪知恵をはたらかしたものだ。その代表の「小便組《しようべんぐみ》」について申しあげよう。  江戸はなにしろ参勤交代《さんきんこうたい》で、全国から臨時やもめの侍どもが集まる所なので、めかけの需要が多かった。大名は最前も申しあげたとおり、江戸屋敷に奥方がひかえているから、さし当たって不便はないし、下級侍は五、六十カ所もあった赤線や青線で、安直にすますから、これもめかけの必要はないが、五百石、千石ととる部課長級の侍は、体面上、めかけを持つより仕方がない。そこで江戸の文化がもっとも栄えた宝暦ごろから明和・安永のころにかけて、小便組と称するたちのよくない、しかしちょっとユーモラスなプロフェショナルが活躍したのである。  小便組というのは、前金でお手当を取っておいて、適当な時機を見はからって寝小便をし、おはらい箱になろうという寸法のめかけである。ひとりで寝ていても、承知の上で寝小便をやらかすのはむずかしいのに、旦那といっしょに寝ていてやるのだから、大胆なもんだ。   消渇《しようかち》の気味かと殿も初手《しよて》はきき  消渇というのは、尿《によう》をもらす病気で、糖尿病や女子の淋病などをいう。旦那の方だって、最初の一、二へんはまさかと思うから心配して、  ——消渇の気味なら、さっそく医者にかかったらよかろう。 ということになるわけだ。  そんな人のよい旦那では、寝小便もききめがないというので、   小便は古いとめかけ泡をふき 「てんかん」で泡をふいてそっくりかえったら、いくら人のよい旦那でも、という剛の者もいたのである。   くれぬならかのをしやれと妾《しよう》の母  しかし、若い女性に、それほどの悪知恵や度胸があるはずはない。たいていは遣手《やりて》婆みたいなステージ・ママか、ヒモがついていて、暇をくれないなら小便するか泡をふけ、とけしかけたのである。しかし中には、   小便もこの屋敷ではこらえる気  たれながして、そこそこにおはらい箱になる予定で奉公に上がったのだが、旦那というのが男前で、やさしくて、例の方も過不足なく、しかも金ばなれがよいとなっては、小便どころではない。いついつまでもと打ちこんでしまう場合もあったわけだ。  しかし江戸時代の妾は、お囲い者とも言って、アマであろうとプロであろうと、公認された存在であった。明治になっても当初はそうであった。明治三年十二月に発令された『新律綱領《しんりつこうりよう》』によると、妻妾ともに二等親で、ちゃんと戸籍に親族として記載されているからである。ただし妻の父母は五等親だが、めかけの父母は法的地位をみとめられていない、というほどの相違はあった。この時、めかけの地位を妻と対等にしたのは、江戸以来の慣習にしたがったわけだが、実は明治新政府の役人になった高級侍どもが、それぞれ慣例にしたがってめかけをたくわえていたので、急には、おまえは、と格下げできなかったのであろう。  ところが、キリスト教の解禁とか自由民権思想とか、時代の流れにおされて、明治十五年から、旦那とめかけの関係は、一定の労務に対して報酬を支払う雇用関係に格下げされて日陰の花的存在となり、サラ金業者の妾のお玉が、医科大学生に失恋するという、森鴎外の長編小説『雁』を生むこととなった。しかし戦後の現代は、実質的にはパトロンと愛人の関係なんだから妾にはちがいないのだが、暗いイメージがまったくない。家が貧しいばっかりに、といった新派悲劇調がなくなって、趣味と実益のお付合いということになったからだろう。 [#改ページ]  第十章 神も人なり   保養の薬  前章においてわたしは、行きがかりでやむなく、年寄りの悲哀に筆をおよぼした。たぶん、一読|巻《かん》をおおうて、まなじりを裂かれた方が多々あったことと思う。そのおわびのしるし、というわけではないが、わたしの蔵書の一冊である黒沢|翁満《おきなまろ》著の『酒席酔話《しゆせきすいわ》』の中に、高齢者といえども血わき肉おどる話があるので、ご高覧に供することにしたい。  黒沢翁満は、寛政七年(一七九五)、伊勢《いせ》の国|桑名《くわな》に生まれた人で、松平|下総守《しもうさのかみ》の家臣といえば堅苦しいが、賀茂真淵《かものまぶち》の学風をしたって国学をまなび、とくに和歌をよくし、町人相手の大阪の蔵屋敷《くらやしき》の留守居役となった風流の達人である。世にも名高い雅文調の風流読本『はこやのひめごと』の作者といえば、およそ察しがつくであろう。  さて、『酒席酔話』の中に、「淫事は保養の薬なり」という一章がある。その要点を申しあげると、淫事は大毒で、これを過ごせば腎虚《じんきよ》するという俗説を信じて遠ざかるのはおろか者のすることである。快楽の度数をすごさぬようにして、常時用いれば、あたかも三度の食事のようにのむ適量の酒が、気血をめぐらして保薬となるように、陽気を養って長生きすることは疑いない。みずからためして疑いを去りたまえ、と言い、その一例として「世継物語《よつぎものがたり》」の話をあげている。  堀河《ほりかわ》の為隆宰相《ためたかさいしよう》は、夫人を六、七人持って、毎晩ひとまわりしたという。冬などは、その部屋の炭火が消えると次の部屋へ、というふうに、夜もすがら歩きまわり、朝食は十二時ごろするという生活であったが、それで長寿を保った。「六、七人の妻を一人も休めず、毎夜毎夜淫せるにて、その趣きを悟るべし。」と結んでいるが、これは翁満のいいすぎで、すくなくとも一人に五日か六日ずつの開店休業の日は、いくら平安朝の貴族女性といえどもあったはずである。  おなじ趣旨から取りあげた話に、かの国学の大成者|本居宣長《もとおりのりなが》先生の逸話がある。  宣長の郷里|伊勢松阪《いせまつざか》の近山に、昔から白蛇が住んでいたが、宣長の在世中はまるで姿を見せなかった。ところが宣長が死んだら姿を見せるようになったので、さては翁は白蛇の化身《けしん》であったと見える、というウワサが、そのころ伊勢あたりでひろまった。  さて、宣長は七十二で死ぬきわまで、伊勢山田へ毎月講釈に出むいていたが、定宿《じようやど》にしていた家の主婦が、ある時この白蛇の話をすると、かたわらにいた下女が、 「なんとおっしゃったのでしょう。」 と、念を入れて聞くので、 「おまえも存じあげている本居先生は、白蛇の生まれかわりだということですよ。めずらしいことではないか。」 というと、下女はひどく驚いて、 「まあ、なんて気味がわるいんでしょう。先生はここへおいでなさるたびに、わたしの部屋忍んでこられました。蛇だったんですか。」 といって身ぶるいしたという話だ。  こういったからといって、翁のわる口をいったのではない。その身七十にして、この行ないがあったということは、世にすぐれたことで、だからこそ第一人者となったのだ。 「その気象の高きこと仰ぐべし、貴《とうと》むべし。」 と結んでいる。山田通いも月に一回だから、おれだってそれくらいのことは、と早まらないでいただきたい。  ご存じの向きはご存じのように、宣長先生には鈴《すず》の屋《や》という号があるが、これはダテや酔狂でつけた号ではない。先生は二階に住んでおられて、机上に鈴をおき、もよおされた時に、それをチリンチリンと二ふりされると、奥方が上がってこられる。チリンチリンチリンと三ふりされると、おめかけが上がってくる、という仕組みになっていたことは、知る人ぞ知るである。  わたしなどは奮起しなければならない。というのは、四、五年前に伊勢で学会があった時、旧跡鈴の屋で売っているイミテーションの鈴を買ってきたが、二ふりどころか、ほこりをかぶって机上にある。しょせん、イミテーションはイミテーションにすぎないことを痛感している。  つまり、ああ、おれはもうだめだ、この年で無理をすると、あとのたたりが恐ろしい、という初老の敗北感が、どうもいけないらしい。というのは、同じ『酒席酔話』に、「続淫事は保養の薬なり」という一章があるからだ。  わたしの説に対して、多淫を示して、人をまどわすのはけしからん、と抗議した人があったので、さらば実例をもって答えよう、と次の話をかかげている。  自分の友人で、このコトをためして見た人がある。初老を過ぎてから、百日をかぎって、一晩に三番ずつ行なった。もっとも自分の完了をもって一番とせず、婦人の快楽の期、つまりオルガスムスをもって一番としたというのである。そして百日を過ぎたが、身内壮健なので、また数をまして、四番あて二百日をこころみたが、なお壮健なので、また数をまして、五番あて三百日をこころみたが、いよいよ壮健である。  そこでその後は、数を問題とせず、心のおもむくままに行なうようになった。その結果を調べてみようと、医者に脈をとらせたところが、しきりに行なっていた時の脈は上々で、セックスにうとかった時の脈は、はなはだよろしくなかった、というのである。われと思わん方は、奮起一番、いや奮起三番、保養のためにこころみてごらんになるとよい。  同世代の熟年をゲキレイするために、思わぬ道草をくってしまった。さて、今度は、いささか趣をかえて、庶民の語る日本歴史といきましょう。  歴史は夜つくられる、というのが、つねに人間を、生き物としてとらえる川柳の立場である。  さて、史書というものは、権力の座にある者、もしくは革命的立場にある者が、ヘンサンすると、いつの時代でもとかく自分たちにつごうのいい史実だけを取りあげて強調しがちなものだ。自分たちの立場を正当化しようという政治的な意識がはたらくからだろう。『古事記《こじき》』、『日本書紀《にほんしよき》』、『神皇正統記《じんのうしようとうき》』、徳川幕府が選した『本朝通鑑《ほんちようつがん》』をはじめとして、歴史の史書で、そのうらみのないものはない。  しかし川柳を愛する庶民は、史書に登場する人物や事実だけに着目し、いかなるプロパガンダもいっさい受けつけない。それは匿名《とくめい》という絶好のかくれ蓑《みの》を着た彼らが、本来の庶民精神を発揮し、神さまであろうと、貴族であろうと、英雄であろうと、政治家であろうと、ひと皮むけば、「何いってやがんだい、おれたちとおんなしことをやったんじゃねえか。」という信念にもとづき、その権威をみとめないからである。史上の人物にさまざまな制服を着せる史家に対し、その制服をぬがせ、人間として対等におつきあいを願うというのが庶民の史眼である。   神々のいとなみ   せんずりをクニトコタチの尊《みこと》かき  ずっと昔のそのまた昔、天地陰陽がまだ分かれていなかった時は、卵の中身のようにドロドロとしていたが、それがしだいに澄んで、あきらかなものが天となり、重くにごったものが地となった。その天地の中に葦《あし》の芽《め》のようなものが発生し、それがやがて人形《ひとがた》となったのが初代の神さまである国常立尊《くにとこたちのみこと》で、それから三代目までは男の神さまであった。四代目からはじめて男女二|柱《はしら》の神があらわれた、と『日本書紀』にある。  庶民といえども、『日本書紀』ぐらいは読んでいたわけだが、どうしても興味は下半身にそそがれざるをえない。   ふりまらで豊芦原《とよあしはら》へご出現  最初にこの世に人の形であらわれたもうたクニトコタチノミコトは、アダムとイブのようにゼンストであったにちがいない。もちろん植物より先にあらわれたもうたのであるから、常に立ちっぱなしのアソコをかくすイチジクの葉っぱのあろう道理がない。失礼ながらフリチンでおわしましたろう、とご推察もうしあげたしだいである。  さて、主題句は、なにしろひとりっきりで、女っ気がなく、おまけに常立《とこたち》、つねに立ちっぱなしというのだから、センズリばかりかいておられたろう、と、これまたご同情申しあげたしだいである。   あまったを不足へたして人はでき  あったり前じゃねえか、と、自分の持物と彼女の持物を思いうかべて、鼻の先で笑うような料簡では江戸庶民に笑われよう。この句を正しく鑑賞するには、ちっとばかし学が必要なのである。  四代目から、男女二柱の神さまのご登場とあいなったが、六代目まではまだ、それぞれの持物を使用して、物をうみ出すというお知恵がなかった。ところが七代目の男神《おがみ》イザナギノミコトと女神《めがみ》のイザナミノミコトの代になって、やっとそのことに気づかれた。まず男神の方が、つくづく下半身をごらんになると、成りなりて成りあまれる所が一カ所あったので、女神の方はどんなぐあいになっているだろうかと、  ——おまえさんは、どんなぐあいだい。 とおききになったところを見ると、初代のクニトコタチ時代とちがって、ワンピースぐらいは召していたらしい。そこで女神は、  ——ああら、わが君、わが身は成りなりて成り合わざるところ、一ところはべれけれ。 とおっしゃったので、  ——そうかい、そりゃあちょうどいいや。ンだら、この吾《あ》が身の成りあまれるところを、おまえさんの成り足らざるところに差しこんで、国を産もうじゃないか。 と宣《のたも》うて、はじめて夫婦の交じわり(みとのまぐわい)をなさった結果、蛭子《ひるご》という子どもが生まれた、ということになっている。けっして、そこらにざらにある、お粗末なあまったのや足りないのを用いたという軽々しい話ではないのである。   せきれいの教え   かよう遊ばせとセキレイびくつかせ  しかし、なんといっても、天地かいびゃく以来、最初の行ないであるから、どうしてよいやら、かいもく見当がつかない。『完全なる結婚』をはじめとするコンセツテイネイな手引き書があらわれたのは、人の世も末世となった最近のことである。  双方立つ気じゅうぶん、となった所で、とほうにくれておいでになると、その時セキレイが飛んで来て尻《し》っ尾《ぽ》をピョコピョコと動かして見せたので、なるほど、ああいうふうにしていたせばよいのかとお悟りになって成功なさった、と書紀に書いてある。動物は本能だけで生きているから、教わらなくってもできるのだが、人間はなまじ分別があるから、もたつくのである。   セキレイは一度教えてあきれはて  なんてったって、原始のたくましさだから、一度味をおぼえたが最後、のべつに遊ばされたであろう。教えたセキレイもあきれはてたことであろう、とこんなことは書紀には書いてない。これから先は庶民のかんぐりである。   教えられたもうと橋がみっしみし  お二人の晴れのデートの場所は、天《あま》の浮橋《うきはし》の上と『日本書紀』に書いてあるので、教えたセキレイがあきれるくらいだから、さぞかし橋がみしみしときしんだことだろう、とご想像もうし上げたわけだ。  なにしろ、ほかに人目はないのだから、青天白日の橋の上での営みは、壮烈をきわめたろう。アダムとイブが西洋の青|かん《ヽヽ》第一号とすれば、これは東洋の青かん第一号である。神宮外苑《じんぐうがいえん》、浜離宮《はまりきゆう》、皇居前広場、谷中墓地《やなかぼち》などで、今をさかりの青かん族が、イザナギ、イザナミの末裔《まつえい》であろうとは、今日という今日まで気がつかなかった。  ところでこの健康な「青かん」というコトバのもとは、テキヤ言葉の「かんたん場」、略して「かんたん」である。テキヤ言葉といえども、これはなかなかウンチクのある言葉で、語源は謡曲にもなっている、おなじみの中国の故事『邯鄲《かんたん》の夢』である。  唐《とう》の盧生《ろせい》という書生が、中国|河北省《かほくしよう》の邯鄲《かんたん》という町の宿で、仙人の枕をかりてひとねむりしたところが、ちょっとの間に一生の栄華を夢見て、人生のはかなさを悟ったという話だ。  この邯鄲をとって、一夜の宿を「かんたん場」、また野宿する場所を「おかん場」というのだが、同じ一夜の宿でも、この方は青天井《あおてんじょう》のショートタイムだから、「青かん」としゃれたわけだ。四畳半か六畳ですすけた天井の節穴をかぞえるより、小猿七之助《こざるしちのすけ》が奥女中|滝川《たきがわ》を青かんでしめる時のセリフじゃないが、  ——下駄を枕にしっぽりと、空の星でも数えていねえ。(河竹黙阿弥作『網模様灯籠菊桐』) という状態の方が、よっぽど爽快《そうかい》で、イザナギ、イザナミのいにしえもしのばれようというもんだ。   雲上の嬌声《きようせい》   日本が集まるとイザナギいいはじめ  新婚当時は神さまといえども無我夢中で、とくに女神の方は恥ずかしさも手伝って、オルガスムスがあったのかなかったのか、それさえわからぬ状態であったにちがいない。そこへいくと男神の方は、しょっぱなからオルガスムスに達することになっているのだから、いちはやくその極致の表現を、堂々と告《の》りたもうことになる。 「日本が一ところに寄るようだ」とは、江戸時代においてしばしば用いられた性的極致の表現だが、世界中でこれくらい男性的で雄大な表現はないだろう。なにしろ、その交じわりによって、日本の国々を産みおとされたお二人のことだから、今われわれがもらす「日本が集まる」というあの時の雄叫《おたけ》びは、イザナギノミコトが言いはじめられたのにちがいない、と庶民は考えたわけだ。いささか下品だが、ウンチクのあるかんぐりである。  さて女神の方も、だんだんおちついてこられて「はじめはいっそ恥ずかしい、こわいこわいもいつしかに」というころになると、なにしろ「言霊《ことだま》の幸《さきお》う国」、つまり言葉で幸福を願うと、かならずその言葉のとおり幸福がおとずれるといわれるお国がらのことであるから、女神といえども極致の表現はなされたろう。  しかし、なんといっても神さまのことであるから、当節の江戸の女みたいに、「死にます死にます。」などと、下品なことを口ばしられるはずがない。   あれいっそ神去りますと橋の上  けれども人情にかわりはないのだから、同じ意味のことを神さまらしく上品に、「神去ります」とおっしゃったにちがいない、とお察し申しあげたしだいである。「あれいっそ」という江戸の下町娘のコトバと、「神去ります」の対照が、なんとも愉快である。   朕《ちん》はもう崩御崩御《ほうぎよほうぎよ》とのたまえり  これは恐れおおくも、道鏡を愛したもうた孝謙《こうけん》女帝は、ミカドのことだからこうも申されたろうという、江戸庶民のかんぐりである。いくら当時不敬罪がなかったからといって、おそれ多いきわみである。   酒と女の法則   神代にもだますは酒と女なり  スサノオノミコトが、天《あま》つ国から出雲《いずも》のヒノ川上《かわかみ》にくだってくると、川上でおじんとおばんが一人の少女を中に置いて泣いている。ミコトがわけをきくと、  ——わたしはこの国の神でございますが、八人おりました娘を、毎年一人ずつヤマタノ大蛇《おろち》にのまれ、今年は最後に残ったこのクシイナダ姫がのまれることになりました。どうにものがれようがございませんので、泣いております。  という。そこでミコトが、  ——そんなら、この娘をわたしにくれないか。 というと、  ——おおせのとおりに奉《たてまつ》りましょう。 ということなので、ミコトは立ちどころに姫を櫛《くし》にばかして髪にさし、老夫婦に言いつけて酒を作らせ、ヤマタノ大蛇は頭が八つあるので、八つの桶に酒をみたし、美しい人形を作って、その影が酒桶にうつるように仕掛けておいた。やがてやって来た大蛇は、酒と女がいっしょにのめるというので満悦し、したたかにくらい酔ったところで、ミコトは十握《とつか》の剣《つるぎ》を引きぬいてずたずたに切っ払ったところが、尻《し》っ尾《ぽ》の中から一ふりの剣が出てきた。これがすなわち三種の神器《じんぎ》の一つとなった草薙《くさなぎ》の剣である。 『古事記』や『日本書紀』がつたえるこの神話を聞いたり読んだりした江戸の庶民は、アアやっぱり神代でも野郎をまるめこむには酒と女を使ったんだなあ、と感慨を新たにしたんである。というのは、なにしろ川柳時代の江戸庶民は、田沼《たぬま》時代を経験しているからだ。  戦国時代でもないのに、三百石の小身から身をおこして、五万七千石の大名になり、安永《あんえい》元年(一七七二)には老中となって天下の政治をほしいままに動かすようになった田沼意次《たぬまおきつぐ》は、けだしワイロ好きであった。古今東西、政権のあるところワイロあり、と相場がきまったものだが、田沼時代ほどおおっぴらに、公然とワイロがはばをきかした時代はあるまい。長崎奉行《ながさきぶぎよう》になるには二千両、目付になるには千両ときまっていたのだから、それ以上の要職につくには、多額の金が動いたわけだ。なにしろ田沼自身が、こういっている。 [#この行2字下げ]金銀は人の命にかえがたきほどの宝なり。その宝を贈《おく》りてもご奉行いたしたきと願うほどの人なれば、その志《こころざ》し上《かみ》に忠なることあきらかなり。志しの厚薄は音信の多少にあらわるべし。予日々登城して国家のために苦労して、一刻も安き心なし。ただ退朝の時、我が邸《やしき》の長廊下《ながろうか》に諸家の音物《いんもつ》おびただしく積みおきたるを見るのみ、意を慰するにたれり。(江都見聞集)  時の老中がこういう料簡だから、官吏の進退はもとよりであった。だから、   役人の子はにぎにぎをよく覚え と皮肉らざるをえなかったわけだ。われわれだって、キャバレーや待合における社用族や政治家の取りひきを見せつけられては、今の世もだますは酒と……といわざるをえないではないか。   その後はイナダおろちを丸《まる》でのみ  めでたく|おろち《ヽヽヽ》を退治したスサノオを、イナダ姫がほっとくわけはない。  ——なんてたのもしいんでしょう。わたしの命はあなたのものよ、どうともしてちょうだい。 かなんかで、とうとう女房になって、|おろち《ヽヽヽ》にのまれるはずだったイナダ姫が、スサノオの|おろち《ヽヽヽ》を毎晩まる呑みにするようになったという、うれしいような、こわいような話である。   摘草《つみくさ》に来てはこらえる稲田姫  摘草に来たものの、うっかりオシッコをして、また蛇に見こまれては大変だと、姫はじっとこらえたろう。晩には|おろち《ヽヽヽ》をまる呑みにするくせに、やっぱり女の子は女だと、庶民の観察はまことによく行きとどいている。 [#改ページ]  第十一章 庶民の偶像   玉の入れ場  さっきから、ワイワイ、キャーキャー、ペチャクチャさえずっていた娘たちが、急にピタリと静かになったと思ったら、顔の小さい、足の長い、スラックスをはいたポニーテールの娘が、ツカツカとわたしの前にやってきた。  ——あのう先生、すみませんけどお立ちになってくださいません。  五メートルほどはなれた窓ぎわで、テーブルをかこんでいた残る五人の娘たちも、いっせいにわたしの方を見つめている。  秋の高原のホテルのロビーでの、ちょいとした出来事である。  六人組の娘たちは、きのう中古の乗用車を乗りつけてきた時から知りあって、夕食に食堂で落ちあった時、わたしだけ持参のウィスキーをのむのもぐあいが悪いので、ビールを三本提供したので、いよいよ親しくなった。どっかの短期大学の学生らしい。もちろん名乗りあったわけではないが、ボーイがわたしのことを先生とよぶので、彼女たちもくみしやすいと見て、なれなれしく先生よばわりしているわけだ。けだし先生とよばれると、こっちは気前がよくなるし、向こうは向こうで安心してタカり、かつ、からかえるものらしい。  なにかコンタンがあるんだろうと思ったが、たいくつしていた時なので、娘たちのたくらみに乗ってやるのも一興だと思って、  ——こうですか。 と、フラリと立ちあがった。  するとポニーテールは、しげしげとわたしの下半身をながめている。そのうちに残る五人の娘たちも、いつのまにかポニーテールの後ろに肩をよせ合っている。これまたわたしの下半身をながめては、ボソボソ話しあっているので、  ——一体、どういうの。 ときいたとたんに、わあーときた。  ——だって、左か右かわかんないんだもん。 ときた。  ——二対四で賭《か》けたのに、つまんないわ。  そこで、近ごろとみに感度のにぶったわたしも、ようやく事態を了解した。つまり、彼女たちは、わたしのズボンの中のセックスの位置をサイコロがわりに使ったわけだ。近ごろの娘は、とイキまく前に、ああ、おれの男性も娘たちにとっては、骨細工のサイコロ程度にしか見られなくなったか、と胸つぶれる思いであった。  彼女たちが、セックスの左右を判定できなかったのも無理はない。そもそも、わたしは皇太子殿下と同じ趣味で、ピッタリとしたスタイルを好まず、ユッタリとした英国ふうのズボンを着用していたからである。  ところでズボンをはくようになって以来、日本男性のセックスの位置は、どういうぐあいになっているのか、どうもホテルのロビー以来気になり出したので、懇意《こんい》な近所の洋服屋にきいてみた。  ——そりゃあ先生、百人のうちに九十七、八人までは左ですよ。どういうわけかたまには右よりの方がありますがね。つけ根からそうなってるんじゃなしに、くせなんでしょうね。寸法をはかる時にちゃんと見ておいて、そういうぐあいに仕立てるんですよ。……それに案外多いのが、どっちつかずの中ぶらりんというやつです。たいていまあ中年以上の方で、ズボンをぴったりはかず、すこしずり下げてお召しになってるわけです。かっこうなんかどうでもいい、ゆったりした方がいいというんでしょう。 ということであった。  昔、わたしが兵隊であった時は、かならず右|股下《こした》におさめろと強制されたものだったが、国民皆兵制度《こくみんかいへいせいど》の軍隊がなくなって、日本の男性はどうやら左偏向《ひだりへんこう》したらしい。それにしても、どっちつかずの日和見《ひよりみ》主義が、中年以上に多いというのはおもしろい。せちがらい世の中を、見えも外聞もなく生きるようになると、いつのまにか日和見主義が身につくものらしい。そういえばNHKの�お達者文芸�に、   タカでなしハトでもなくて風見ドリ という川柳があった。世論のぐあいで右がかったり左がかったりするのは、我々庶民だけではないというわけだろう。  それはともかく、今後かような風流ギャンブルをご婦人がたがなさる場合は、右のような事情をのみこんだ上でなさると、また一段とおもしろいことになりましょう。   隠しあな   大職冠《たいしよかん》よくもぐるのに文《ふみ》をつけ  閑話《むだばなし》はさておき、この章は謡曲『海士《あま》』で知られた、大化《たいか》の改新《かいしん》(六四五年)の功労者|大職冠《たいしよかん》藤原|鎌足《かまたり》に、まずご登場を願おう。大職冠というのは正一位相当の冠で、天智《てんち》天皇がその功をめでて、特に鎌足にさずけられた位である。  さて、鎌足の娘は中国の唐《とう》の高宗《こうそう》の后《きさき》であったが、かねて信仰していた奈良の興福寺《こうふくじ》へ、三つの宝珠《ほうじゆ》をはるばるおくって来た。その中の一つは面向不背《めんこうふはい》の珠《たま》といって、どっちから見ても美しいという名玉だったので、讃岐《さぬき》(香川県)の支度《しど》の浦《うら》で竜宮にうばわれてしまった。  そこで鎌足の子の藤原|不比等《ふひと》が、その玉をうばい返すために支度の浦へやって来た。竜宮にある玉を奪いかえすには、もぐりのじょうずな海女《あま》を使うよりほかにしようがないということになって、いろいろ物色し、これはと思うのに目星をつけて、まず仲よくなって、子どもを産ませた上で、実はしかじかと打ちあけてもぐらせた。  ところが玉を奪いかえしたのはいいが、竜宮の番人の悪魚どもに追いまわされて進退きわまったので、「かねてたくみしことなれば、乳の下を掻っきり玉を押しこめ、剣を捨ててぞ伏したりける。」という非常手段をとったという、あわれな話である。  川柳では息子の不比等をおやじの鎌足と勘ちがいして、大職冠といっているわけだ。   塩出しをして鎌足は召しあがり  いきのいい魚の本場の瀬戸内海までやって来て、塩出しをしなけりゃ口にはいらないような鮭《さけ》や丸ぼしをたべるはずはない。だから鎌足公が塩出しをして召しあがったのは、   蛤は初手《しよて》赤貝は夜中なり の赤貝である。  なにしろ海女という商売は、年がら年中、塩水につかってるんだから、そのままでお公卿《くげ》さんの口にはあうまいと考えたのは、理の当然だ。   肥立《ひだ》ったを見て大職冠サテと言い  肥立つ、というのは、産後の母体が回復することをいう。産後の肥立ち、というやつだ。ところがこのごろは、子どもたちは肥立ちもよく、などと書く連中がいるんだから、おそれ入る。  子どもをうませておいて、元気になったところで、サテと切りだしたところなぞは、いささか悪公卿《わるくげ》じみている。  海女の方も命がけの仕事だから、子どものことが心がかりでならない。そこで、「もしこの玉を取りえたらば、この御子を世継の御位になしたまえ。」と、チャッカリと交換条件を出したものだ。   入れどころもっていながら乳の下  大活躍のすえ、乳の下を掻ききって玉を押しこめ、死体とともに引き上げられるということになったわけだが、庶民にいわせると、サテサテ知恵がない、ということになる。しかし、だが待てよ、と考えて、   またぐらに当てがってみる支度の海士《あま》  いくらなんでも、ハナから乳の下を掻っきるわけはない。最初はやっぱり当てがってみたんだが、玉が大きすぎてどうにも仕方がないので、乳の下をということになったんだろう。だから大臣の方も、そのくらいの見当はつけていたから、海女が引きあげられた時、   乳の下かへその下かと大臣《おとど》きき てなことであったろうと、ちゃんと話の筋をとおしている。  さて、ここらで順序として道鏡を出したいところだが、前にふれたこともあるので割愛《かつあい》して、平安朝へ筆をすすめることにしよう。   美男の代表   業平《なりひら》が為《す》るたび伊勢は帳につけ  なんといってもその道のベテランは、平安朝の六歌仙の一人で、小野小町《おののこまち》とともに日本の代表的美男美女にまつり上げられ、江戸時代になると陰陽《いんよう》の神さま、つまり男女のなかだちをする神さまと仰がれた在五《ざいご》中将業平である。その彼は、   業平は高位高官下女|小娘《こあま》 というぐあいに、それこそ上は皇女たちから下は九十九の婆さんにいたるまで、美醜をとわず、手あたりしだいになぎたおしているのだから、五十四歳までにたわむれし女の数三千七百四十二人という『好色一代男』の主人公世之介と双璧《そうへき》の色豪だ。しかも業平は実在、世之介は絵空事《えそらごと》なんだから、けっきょく彼が第一人者ということになる。せいぜい三、四人の女の子を相手にやに下がっている『梅暦』の丹次郎《たんじろう》など、物の数ではない。  ところで、その業平の愛欲一代記である『伊勢物語《いせものがたり》』は、三十六歌仙の一人である伊勢の御《ご》という女流作家が書いたという説があるので、さぞかし伊勢はノートを持って業平のあとを追っかけまわし、そのつど小まめに書きつけたにちがいないと、まあ週刊誌のトップ屋なみに見立てたわけだ。   筒井筒《つついづつ》そばに蜆《しじみ》と唐辛子《とうがらし》   莟《つぼ》み朝顔おっつける筒井筒  業平がまだローティーンのころ、幼なじみの遊び友だちは、となり屋敷の紀有常《きのありつね》の娘で、いつもいっしょに井戸ばたで遊んでいた。しかしやがて年ごろになると、無邪気に遊ぶわけにもいかないので、   筒井筒いづつにかけしまろがたけ、すぎにけらしなあい見ざるまに  しばらく会わないでいるうちに、ぼくもすっかり大きくなっちまいました、と歌をおくったところが、彼女の方も思いは同じであったと見えて、   くらべこし振りわけ髪も肩すぎぬ、きみならずしてだれかあぐべき  長くなった髪をアップスタイルにしてくれるのは、あんただけよ、などと味な返歌をよこしたので、二人はやっと思いを達した、ということになっている。  だが庶民の興味は、ぐっとさかのぼる。蜆《しじみ》は成長して蛤《はまぐり》となり、赤貝となるアレだし、業平の方はなるほどまだ青い唐辛子《とうがらし》だったろう。だからといって業平ほどのスーパーマンが、なにもしなかったはずはない。まだつぼみの朝顔ほどのをおっつけてみるぐらいのことはしたにちがいない、というわけである。  こうして結ばれた幼なじみの恋人がいるのに、性悪《しようわる》な業平は、河内《かわち》の高安《たかやす》に新しい恋人ができてせっせと通いはじめた。しかし賢妻型の彼女は平気でいるので、業平の方が気をまわして、おれの留守に間男でも引きずりこんでいるんじゃないか、とある晩、出かけるふりをして様子をうかがっていると、   風吹けば沖津《おきつ》白浪たつた山、夜半《よわ》にや君がひとり越ゆらん と、間男どころか夜ひとり山を越えて行く亭主の身の上を気づかっているので、業平はまた安心してあい変わらず通いはじめた。だから、   とはよんで侍《はべ》れど腹はたつた山 と同情せざるをえない。  ところがある日業平が高安の女のところへ行くと、近ごろ彼女は安心したとみえて、片はだぬぎになって、手前で飯を盛りつけてムシャムシャやっていたので、業平はすっかり憂鬱《ゆううつ》になり、それっきり通うのをやめてしまった。  これはつまり、美意識の問題だ。苦楽をともにしてきた女房ということになると、いくらムシャムシャと大飯《おおめし》をくらったところで、はなからあきらめているんだから、今さら、あいそをつかすはずもない。だがムードが物をいう恋人同士ということになると、そうは問屋がおろさない。  なりふりかまわず、無我夢中でかっこんでいる姿というものは、本能につかれて美意識を見失った姿である。だから江戸時代でも、京都の島原《しまばら》や大坂の新町《しんまち》、江戸の吉原など、粋《すい》だの通《つう》だのといって美意識やエチケットをなによりも大切にした世界では、「納戸飯《なんどめし》」といって、高級な遊女ともなると、いくら親しくなったからといって、客の前で物を食ってはいけない、人目のない納戸でこっそり食うべきだ、というエチケットが守られたのである。元禄《げんろく》時代の西鶴も、『好色一代男』や『好色二代男』の中で、たびたび露骨な食欲のみにくさをいましめている。現代でも結婚の披露宴で、花嫁はなるべく料理に手をつけない方がよろしい、ということになっているのは、愛情を左右する美意識の問題なのだ。   名歌をば知らず河内で待ちぼうけ  ついに凱歌《がいか》は賢妻の方にあがったわけだ。ということになると、これは成女むき道徳教育の好資料ということになろう。  業平の数ある恋の冒険の中でも、二条の后《きさき》をかつぎ出した話は有名だ。ことに追手に追われながら、彼女を背負って芥川《あくたがわ》を渡る場面は、川柳の好題目だ。   やわやわと重みのかかる芥川   下げ髪へすすきのからむ芥川 というあたりまでは、まあまあだが、   芥川すすきの陰へししをさせ とぶちこわさないと承知しないのが川柳である。  なにしろ業平に関する句は、一千句近くあるので、ここらで切りあげ、女性のベテラン小野小町を取りあげることにしよう。   美女の代表   歌でさえ小町は穴《あな》のない女  むかし、小町針という針があった。『海録《かいろく》』という文政《ぶんせい》ごろの随筆に、小町針というのは、あるべきところに穴がないからの名で、この針はもっぱら刺青《いれずみ》用に使うので、今ではおおっぴらには売っていない、と説明している。しかし小町針は今でもある。穴のかわりにガラス玉などをつけたマチ針が、すなわちコマチ針の略称である。  また泥棒仲間の隠語《いんご》で、土蔵のことを娘といい、土蔵破りを娘師というが、この娘は小町娘の略である。錠《じよう》でしっかり入口を閉ざし、はいる穴のない蔵《くら》という意味だ。  小野小町は穴なしであった、などという失礼で下品なことを考えるようになったのは、もちろん口さがない連中が文学をいじるようになった江戸時代にはいってからのことだろう。たぶん謡曲の『通い小町』は、深草《ふかくさ》の少将の執心《しゆうしん》がことわりきれず、百《もも》夜通ってくだすったらオーケーよ、といったところ、あと一晩という九十九夜目に、雪の中で立ち往生《おうじよう》してしまった、ということになっているので、いくら美人でも、それほどまでに薄情なまねをしなけりゃならんというのは、いうにいわれぬ事情があったからに違いない。つまり穴なしだったんだ、とかんぐったわけだ。   あいわっちゃ小町さなどとついと立ち  小野小町じゃあるまいし、そうつれなくしなさんな、とくどかれた女が、おあいにくさま、わたしゃ小町さ、とツイと立ったというこの句は、そういう考え方から生まれたものだ。  ところで主題句は、紀貫之《きのつらゆき》が『古今集』の序で六歌仙を評した中で、他はそれぞれ欠点をあげているのに、小町についてだけは、「哀れなるようにて強からず、いわばよき女の悩める所あるに似たり。強からぬは女の歌なればなるべし」とひいきしている。きずのないことを俗に「穴なし」というので、アソコはもとより、歌でさえ、といったわけだ。その小町がまた、調子のいい恋歌をたくさん作っているので、   気の知れぬものは小町が恋歌なり できもしないのに、と首をかしげるのも当然だ。  もちろん、穴なし説のもととなった『通い小町』も、見のがすはずはない。   そのわけをいわず百夜《ももよ》通えなり   馬鹿らしさあかずの門へ九十九夜  川柳をよむ庶民はおおむね男性だから、どうしてもふられた男の方へ同情的だ。   百夜目《ももよめ》になにをかくさん穴のわけ   百夜目はす股《また》をさせるつもりでい  少将が九十九日目で行き(雪)倒れになってしまったから、うやむやにすんでしまったわけだが、無事に通いつめたら、なんとかしなきゃならなかったろう。  ——なにをかくしましょう、実は……。 と、ありていに白状するか、それもあんまりだというので、す股でごまかすか、いずれにしろ二者|択一《たくいつ》であったに違いない、と察しのいいところを見せたわけである。   濡《ぬ》れごとは雨よりほかにない女   しっぽりと小町も雨に一度ぬれ  小町の雨《あま》ごい伝説も有名だ。古来、雨ごいの修法《しゆほう》の場として知られた京都の神泉苑《しんせんえん》で、「千早ふる神も見まさば立ちさわぎ、あまのとがわの樋口《ひぐち》あけたまえ」とよんだら、たちまち大雨が降ったという話だ。小町にしては、一世一代の濡れ場だったにちがいない。 [#改ページ]  第十二章 迷える僧侶   漢語のいたずら 「君子《くんし》は淫してもらさず」とは、『論語』や『孟子』など四書五経の音読や漢詩文できたえた近世人のしゃれであり、養生訓《ようじようくん》であり、またその忍耐強きをたたえた名句である。『論語』の「楽しみて淫せず」のもじりだ。いつだったかこの文句を引用した戯文を明治時代の雑誌で発見したので、つれづれなるままに研究室でひもといていると、若者たちが四、五人おとずれて来た。へたなことをいって文学論でも吹っかけられたらやっかいだと思ったので、中でもうるさそうなのにこの文句の部分をつきつけて、  ——君たちはまだ若いし、経験もとぼしいから、この意味はわかるまい。 といったら、彼はせせら笑って言った。  ——このキミ子《こ》ってえのは、お女郎《じよろう》か芸者にきまってますよ。  わたしはガクゼンとして反問した。  ——どういうわけで、そう思うのかネ。  ——淫してもらさずといえば、つまり行なうだけは行なうが、ということでしょう,キミ子という女性がシロウトなら、そんな必要はないわけです。クロウトであればこそ、わが身をまもるためにめったにもらすようなことはしないというわけなんです。  理路整然《りろせいぜん》と大まじめでまくし立てられたのには閉口した。  なるほど、漢文から遠ざかった現代の若者にとっては、クンシと音読するより、キミ子と訓読する方が自然だし、ということになると、彼女はおシロウトでないという解釈は、いかにも筋が通っている。彼の知能指数はけっして低くないわけだ。  知能指数はひくくないけれども、やっぱり勉強をしないと、とんでもないことになるという、いい例がある。少し前のことだが、大学の入学試験に、「空前絶後」という熟語の意味をのべよという問題を出したことがあった。まあ大体は、今までもかつてなかったし、今後もないであろう事と解釈していたが、中にあっぱれな解答があった。いわく、「午前中は空腹で、午後は気絶した」というのである。まさに空前絶後の明解答、これくらいの推理力があれば、勉強しだいでたいしたものになるだろう。  というようなわけで、今どきは、もはや漢文体の風流戯文などは、作る人も読む人もなくなってしまったが、とくに江戸中期から明治中期にかけては、さかんに行なわれたものだ。  沢田東江《さわだとうこう》といえば、林鳳岡《はやしほうこう》門の儒者であるが、書家としてあらわれ、経学文才はおおわれてしまっている。しかし彼はなかなかの通人で、吉原通いの体験にもとづいて『吉原大全』をあらわし、また吉原を舞台とした風流戯文『異素六帖《いそろくじよう》』(宝暦七年・一七五七年刊)をあらわしている。これは仏書『義楚《ぎそ》六帖』のもじりで、異素とは色の義である。すなわち吉原に題をとって、『唐詩選《とうしせん》』の詩句と百人一首の下の句で賛をするといったしゃれたものである。たとえば「はやる女郎」という題に対しては、   春潮夜々深シ(毎晩春の潮が満ちてくる)   人こそしらねかわくまもなし と賛し、「床で骨を折りし女郎」という題には、   孤城|遥[#(ニ)]望[#(ム)]| 玉 門 関《ギヨクモンカン》[#(ヲ)](はるかに玉門をのぞむ)   黄沙百戦|穿《ウガ》[#(ツ)][#二]金甲《キンコウ》[#(ヲ)][#一](戦いがはげしいので鉄のヨロイがぶっこわれる)   みだれてけさは物をこそ思え といったあんばいである。玉門関は万里長城の西端に置かれた関所で、遠征の出入り口であった。しかつめらしい役人が文句をつけてみたところで、『唐詩選』と百人一首じゃ、作者の責任ではないという趣向である。  また古詩にいわく、   両脚山|中[#(ニ)]有[#(リ)][#二]小池[#一](両足の谷間に小さい池がある)   東西南北草|離々《リリ》[#(タリ)](池のぐるりは草ぼうぼう)   無風白露炳波起|[#(コル)](風もないのに白い波が立つ)   一|目[#(ノ)]朱竜出|入[#(リ)]時(一眼のまっかな竜が出入りする時)  江戸の文人たちは、このたぐいの艶詩を作って楽しんでいたのである。  明治時代になっても、学問は和漢洋といって、漢学のしめる位置は大きかったから、落語はもとより小咄《こばなし》も、漢文仕立てのものが多い。このあいだ国電で四谷《よつや》の駅にさしかかると、目の前に大きな料理屋の看板があって、すみの方に「出前迅速《でまえじんそく》」と書いてあったので、わたしは古い明治の小咄を思いだした。  東京の大学に遊学している息子が、近ごろとみに金使いが荒らくなった。苦労性のおやじは、ひとり息子のことなので、じっとしておられなくなり、洋傘《こうもり》に信玄《しんげん》袋を下げて、新橋《しんばし》駅で下車した。ふと駅前の西洋料理店を見ると、看板に大きく「出前迅速」と書いてある。おやじはそれを見てうなった。  ——前ヲ出スコト迅速《じんそく》ナリか、これじゃ息子が金を使うのもむりはない。 とあきらめて、そのまま引きあげた、という話である。このおやじは、日本式に返り点、送りがなで読む習慣が身についていたわけだ。近ごろは中国の古典でも中国音で棒読みするようになったから、こういうとぼけた間違いをしなくてすむようになったのは、学問の進歩とはいいながら、いささかさびしい話である。  それに今どきはそのものズバリでないと、見むきもしないというのは、教養のせいばかりではない。物価に追っかけられたり、サラ金苦で一家心中したり、目の前て人殺しをやられたりするものだから、風流を解するゆとりがなくなったのである。いや、ゆとりがなくなったから、平気で人殺ししたり、軍備の増強を主張したりするようになったのてある。   風流僧   語《かた》るなと詠《よ》んでも馬子《まご》がみなしゃべり  業平と小町を取りあげたついでに、同じく六歌仙の一人、僧正|遍昭《へんじよう》という坊さんの歌よみを取りあげよう。俗名は良峯宗貞《よしみねむねさだ》といって桓武《かんむ》天皇の孫、仁明《にんみよう》天皇につかえていたが天皇|崩御《ほうぎよ》とともに叡山にのぼって出家し、遍昭という。この坊さんがまたイキな坊さんで、   名にめでて折れるばかりぞ女郎花《おみなえし》われ落ちにきと人に語るな(『古今集』) と、自然|諷詠《ふうえい》にたくした、色っぽい歌をよんでござる。   口どめをきれいにされる女郎花 というわけで、女郎花を田舎娘《いなかむすめ》に見たて、坊さんが娘に手を出したんじゃ、女犯《によぼん》の罪にとわれることになるから、お得意の歌できれいに口どめをした、というのである。  ただしかし、僧正ともあろう人が、口とりの馬子なしで馬に乗るはずもないから、いくら口どめしても馬子どもがみなしゃべりちらしたろう、というのが冒頭の主題句である。   われ落ちにきと語るなと後家は落ち  落ちたいけれども世間のこわい後家さんだって、思いは同じだ。  坊さんだって恋もするし、迷いもするという話をもう一つしよう。人のお手本たる身であれば、相当の覚悟をしてかからなければならぬわけだが、それがおまけに、これが最後という老いらくの恋だと、いよいよせつないことになる。   老《おい》が恋わすれんとすれば時雨《しぐれ》かな と、物にとんじゃくせぬ俗人の蕪村でさえもよんでいる。   老僧の恋  さて『太平記』に見える志賀《しが》寺の上人は、世にきこえた高徳の老僧であった。時代は平安期も中期に近い第五十九代|宇多《うだ》天皇の御代のことである。ある日出会った御所車の美女を一目見るなり、恋のとりこになってしまった。美女はたれあろう、菅原道真《すがわらみちざね》をザンゲンした左大臣藤原|時平《ときひら》の娘で、宇多天皇の寵をうけていた京極《きようごく》の御息所《みやすどころ》であった。われを忘れて御所車のあとからフラフラフーラとついて来た老僧をあわれんだ御息所が、みすの中から白い手をさし出してあたえると、上人はその手をしっかりと握りしめて、   はつ春のはつ子《ね》の今日の玉はゝき手にとるからにゆらぐ玉の緒  あなたのお手をとっただけで、わたしの命(玉の緒)はゆらぎます、とよむと、   極楽の玉のうてなのはちす葉にわれをいざなえゆらぐ玉の緒  どうかわたしを極楽へみちびいてください、と御息所は返歌して、老僧をなぐさめたという、はなはだエレガントなはなしだが、そういう上品なことでは川柳にならない。   老僧でゆらぐばかりと手を握り  手をにぎっただけですんだのは、何しろ年寄りのことで、ゆらぐのは玉ばかり、かんじんのものはグッタリしてるんだから無理もない、というわけだ。   手を握るばかり志賀ない老の僧  おなじみ源氏店《げんじだな》における与三郎《よさぶろう》のセリフ「しがねえ恋の情けが仇」の「しがない」は、つまらない、とるにたりないという意味だ。それを志賀寺の上人《しようにん》に引っかけたのがこの句の|みそ《ヽヽ》だが、いずれはわれも人もこうなるのだと思えば、そぞろ風が身にしみる。   男色の開祖   故郷《ふるさと》を弘法大師《こうぼうだいし》けちをつけ  坊さんとセックスといえば、江戸時代の庶民が男色の開祖とみとめている弘法大師を見のがすわけにはいかない。  道鏡《どうきよう》のように女帝に取りいり、政治に口だしをし、法皇と僣称《せんしよう》するような坊主があらわれたのも、奈良時代の仏教がほこりっぽい都市仏教だったからだ。そこでさっさと都を京都《きようと》へ移された桓武《かんむ》天皇は、仏教の方も新規まきなおしで伝教《でんぎよう》大師と弘法大師の二人を中国へ留学させ、新しい天台宗《てんだいしゆう》と真言宗《しんごんしゆう》を輸入し、山の中で落ちついて修行《しゆぎよう》したがよかろうと、天台は比叡山《ひえいざん》へ、真言は高野山《こうやさん》へまつりあげてしまわれた。  その結果、なにしろ何千という坊主どもが、女っ気なしで暮らすことになったものだから、がぜん、この二つのお山が男色の本場になってしまったのは、自然のなりゆきというものだ。  それなのに、高野山の弘法の方だけが男色の開祖ということになっちまったのは、いちはやく女人禁制《によにんきんせい》の看板をかけ、ふもとの女人堂から上へはぜったいに登らせなかったので、サテハということに世論がかたまってしまったのである。  故郷忘じがたく、せっかくの仙術をフイにしておっこった久米《くめ》の仙人《せんにん》みたいな先輩がいるというのに、いくらお宗旨のためとはいえ、自分が生まれた故郷にケチをつけるとは、せまい料簡というものだ。そこへいくと肉食妻帯をゆるした一向宗《いつこうしゆう》はあっぱれだ。   親鸞《しんらん》は世をひろく見てあなかしこ   弘法は裏親鸞は表門  親鸞|上人《しようにん》のお文章は、みんな結びが「あなかしこ、あなかしこ」となっている。そこで弘法のようにきゅうくつなことをいわず、おおいに故郷を、表門をたたえているとふざけたわけだ。   身がわり首   撫《な》でどこが違ってむごい袈裟御前《けさごぜん》  同じ坊さんでも、血なまぐさい武家時代の坊主ともなると、いささか荒らっぽい。しかしお上品でも殺風景でも、江戸の庶民はいささかも動じない。見るところはチャンと見ている。  まずご登場ねがうのは、『源平盛衰記《げんぺいせいすいき》』の時代の乱暴者、宮廷護衛の北面の武士で院の武者所にいたので、人よんで遠藤武者盛遠《えんどうむしやもりとう》、女出入りでしくじって坊主になり、頼朝《よりとも》をけしかけて旗上げさせた荒法師|文覚《もんがく》上人ということにしよう。  このあばれ者が十七で伯母の娘の袈裟御前《けさごぜん》に恋をした。ところが袈裟にはすでに渡辺渡《わたなべわたる》という亭主がいると知って腹を立て、いきなり伯母に白刃をつきつけて、娘をよこせと脅迫したのだから、チョイとした暴走族だ。  娘の方はおどろいたが、こんなのにかかってはお手あげだ。そこで、いくらなんでも夫がいてはこまるから、今晩、夫の寝首をかいてくれと泣きつかれて、脳の弱い豪傑はコロリとだまされて、その晩しのびこんで寝首をかいたところが、それは男の月代《さかやき》頭になって待っていた袈裟御前の首であったという、おそまつな話である。  いくらそそっかしい盛遠でも、寝首をかく前に女か男か頭をそっとなでてみるに相違ない。袈裟御前の方も、たぶんそうするだろうと見当をつけ、月代をそって男の頭になっていたわけだ。そこで庶民は推理する。おなじ性別をたしかめるのなら、頭をなでるなどという遠回しなことをしないで、いきなりアソコをなでてみたらどうだ。そうしたら手にあたるゴツイものもなく、そった頭とちがって、毛もふさふさとしていたろうから、寝首をかかなくてすんだものを、撫でどこをまちがえたばかりにむごいことになった、と慨嘆《がいたん》したのである。  ここのところが落語だと、袈裟御前の男首をかかえてかけ出した盛遠が、あらためて首実検をしようと斬り口に手をかけると飯粒がべっとり、  ——さてはケサの御膳《ごぜん》であったか。 とおとすことになっている。   あとねだり  この盛遠の文覚上人と同時代、同じく北面の武士出身で、同じように出家した歌僧|西行《さいぎよう》がいる。この軟派の西行を文覚が、  ——歌なんぞ作ってにやけたやつだ。出会ったらぶんなぐってやる。 と、かねがね弟子に高言していた。ところがある時、西行がたずねてくると、案に相違で大いに歓待して帰したので、弟子どもが不審がると、西行こそ文覚を打たんずるもの、といったという逸話が伝わっているから、歌よみの西行法師は軟派にはちがいないが、先祖はムカデ退治の伝説で有名な英雄、俵藤太|秀郷《ひでさと》という、威かついおじんだったのである。  この西行が佐藤兵衛憲清《さとうひようえのりきよ》といった時分、恋人にまたの逢瀬《おうせ》をねだったところ、阿漕《あこぎ》、阿漕といわれたという話は、謡曲の『阿漕』に見える。阿漕ヶ浦は三重県津市の海浜で、伊勢神宮に供える神饌《しんせん》の漁場だったので殺生禁断。それを犯してたびたび魚を得た漁夫が処刑されたという伝説による。落語の『西行』はこれを仕立てなおしたものだ。  憲清が自分をしたっていることを知られた染殿《そめどの》院の后《きさき》が、あとにも先にも一度きりのお情をたまわった。別れぎわに憲清が袖をひいてまたのデートをねだると、后は、  ——憲清、それは阿漕じゃ。 といって立ってしまわれた。「逢うことのあこぎが浦に引く網の度《たび》かさならば人も知りなん」という歌の文句で、度かさなれば人目につく、欲をかきなさんな、という意味なのだが、憲清は未熟でそれがわからない。おおいに発奮して出家し、「西へ行くべき西行が、はじめて東《あずま》へくだる時」と、寄席ではたいてい話をここで打ち切ることになっている。  西行が阿漕の意味をたずねたずねて東海道を下っていると、  ——なんとまあ、アコギな野郎だんべえ。 と馬子が馬をしかっているので、西行びっくりしてわけをきくと、  ——はあ、この野郎はさきの宿《しゆく》で腹一ぱい豆をくわせただに、もうはやあとねだりをするだから、アコギと申しましただ。  それで西行はわが身をかえりみて釈然としたという、おそまつの一席である。はからずもこの章は、坊さんオンパレードとなったが、なぜ川柳で坊さんを取りあげるのかというと、当然の欲望を罪悪視し、そのくせ人一倍なやんで、歯をくいしばっているのが、あわれにもまたおかしいからである。   三人尼  比丘《びく》(僧)ばかりをからかって、比丘尼を無視するわけにはいかない。ところで最近仕事と探勝をかねて雲州松江《うんしゆうまつえ》をおとずれ、宍道湖畔《しんじこはん》の宿で、鳥取《とつとり》の友人が酔いに乗じて歌ってくれた『三人娘』という民謡はおもしろかった。   因州《いんしゆう》因幡《いなば》の烏取の   しかも街道のまん中で   三人娘が出あいして   先なる娘は十六で   中なる娘は十七で   あとなる娘は十八で   先なる娘がいうことにゃ   はじめて殿御《とのご》とねたよさは   三つ目のキリでもむがごと   キリリキリリと痛《い》とごんす   中なる娘がいうことにゃ   はじめて殿御とねたよさは   朝倉|山椒《ざんしよ》をかむがごと   ヒリリヒリリとようごんす   後なる娘がいうことにゃ   はじめて殿御とねたよさは   麦|飯《まま》とろろを吸うがごと   トロリトロリとようごんす  深夜放送のセクシーな声やムードでやられるとかなわないが、調子が軽くひなびているので、ひょうきんでおもしろかった。本書がソノラマでないのが残念だ。  ——文句がもうすこしおだやかだとネ、とうに放送されてるんだが。 と、鳥取の友人も残念がっていた。  さてこの三人娘の趣向はずいぶん古いもので、江戸初期の小咄本《こばなし》『きのうはきょうの物語』に三人|尼《あま》のはなしがある。  尼さんが三人づれで歩いていると、道ばたで、馬が|あれ《ヽヽ》をおっ立てていた。彼女たちは尻目にかけて、そしらぬ顔で通りすぎたが、先なる尼さんがこらえかねていった。  ——今の物は、さても見事や、いざめんめんに名をつけよう。  あとの二人が賛成したので、さらばと、先なる尼さんが「九献《くこん》」と名づけた。そのわけをきくと、  ——酒は夜昼なしに、飲みさえすれば心が勇んでおもしろい。その上酒は三々九度といって、九度のむのが正式じゃ。それから上は相手の気根しだい。 といった。  中なる尼さんは「梅干《うめぼし》」と名づけ、  ——見るたびに唾《つば》が出るから。 といった。  後なる尼さんは「鼻毛抜き」と名づけ、  ——抜くたびに涙がこぼれる。 といった。 [#改ページ]  第十三章 英雄の正体   引きあてた賞品   頼政《よりまさ》にならべておいて煩《わずら》わせ  戒律を守る尼さんでさえも、右のとおりなのだから、ましていわんや、勃興期《ぼつこうき》の英雄どもときたら、万事があけっぱなしだ。  源三位頼政《げんざんみよりまさ》といえば、保元《ほうげん》・平治《へいじ》の乱に官軍にぞくして手柄を立て、後に平清盛《たいらのきよもり》に抗して、宇治《うじ》の平等院《びようどういん》で自刃した武将だが、謡曲の『鵺《ぬえ》』では家来の猪《い》の早太《はやた》をしたがえ、夜な夜な主上を悩ましたてまつる鵺という化鳥《けちよう》を退治したことになっている。時に主上は御感《ぎよかん》あって、獅子王《ししおう》という御剣を頼政にくださったのを、宇治《うじ》の大臣《おとど》が渡そうとして階《きざはし》をおりかけた時、ほととぎすが鳴いたので、   ほととぎす名をも雲居に上ぐるかな  今鳴いたほととぎすのように、そなたの勇名は上聞《じようぶん》に達した、名誉なことだ、と大臣がとっさによむと、   弓張月《ゆみはりづき》のいるにまかせて  雲居(皇居)の縁で、弓張月のような弓を射ただけです、と下の句をつけて、頼政は風雅の名もあげた。 この伝説とは別に、頼政には風流な逸話がある。鳥羽院《とばいん》の御所につかえる女官の中で、美人のほまれ高い菖蒲《あやめ》の前《まえ》に、頼政はかねてゾッコンほれこみ、文《ふみ》でくどきにくどいたが反応がない。その頼政の執心が、いつしか院のお耳にはいってあわれにおぼしめし、ある時、頼政を召して菖蒲の前とそっくりの女官を二人、あわせて三人をならべ、  ——この中に菖蒲がおる。望みにまかせつかわすによって、連れてまいれ。 と仰せられた。  頼政は階《きざはし》の下で、四、五間もはなれているから、どれが本物の菖蒲か、見当がつかない。といってデンスケバクチじゃあるまいし、運ぷ天ぷで山かんをはるわけにもいかない。そこで、この多芸多能なる防衛庁長官は一首をたてまつった。   さみだれに池の真菰《まこも》の水ましていずれ菖蒲と引きぞわずらう  さみだれで池の水がまして、どれが真菰か菖蒲かわかりません、とよんだので、院はこの歌でイチコロとなり、おんみずから菖蒲の前を引きだして、頼政にたまわったという。  この二つの伝説を庶民は結びつけて、鵺退治のほうびに菖蒲の前をたまわった、と効果的に演出しているのである。   あの時は気がもめたよと菖蒲いい   いずれとはすこし菖蒲の不足なり  遠目がきかず、とんちの歌のおかげでやっと菖蒲をいただき、家へつれて行って、さし向かいでいっぱい、とくつろいだ時、  ——まったくのところ、ヤレヤレだ。  ——あたいだって、あん時は気が気じゃなかったわよ。 と、十二単衣《じゆうにひとえ》をぬいで地下《じげ》の女房ともなれば、世話にくだけたにちがいない。  ——だけどサア、いずれ菖蒲とおっしゃったところをみると、目うつりなすったんでしょう。それでアンタ、ほんとにあたいが好きだったの?……ほんとかしら。 と、菖蒲がチョイとすねて見せた気持もわかろうというものである。   主従で鵺《ぬえ》と菖蒲《あやめ》を刺しとおし  謡曲に、頼政が鵺を射おとすと、「落つる所を猪《い》の早太《はやた》、つつと寄りてつづけさまに、九《ここの》刀ぞ刺したりける」とある。そこで、鵺を刺し通したのは家来の猪の早太、菖蒲を刺しとおしたのは主人の頼政ということになるわけだ。   早太には菖蒲刀《しようぶがたな》もくだされず   真菰《まこも》でもいいとすねてる猪の早太  二人がかりで仕とめたのに、飛びきりのほうびをもらったのは主人の頼政だけ、早太の方には菖蒲の前とまではいかなくとも、せめてその名にちなんだ菖蒲刀、五月の節供《せつく》の子どものおもちゃぐらいはくだされそうなものなのに、それすらくださらない。だから、さすがに気のいい早太でも、  ——わたしなんざあ、真菰でもよござんすよ。 と、心の中ですねたに相違ないのである。   殿様は鵺から以後のおん朝寝  何しろゾッコンほれていた菖蒲を宿の女房にしたのだから、その当座は床ばなれがわるい。そこへもってきて、早太の方はすね気味なのだから、それがどうも気にかかってしようがない。  ——殿さまも殿さまだ。 と、舌打ちしてるうちはいいが、だんだん腹が立ってくる。   お夜なべがちと過ぎますと猪の早太 と、やきもち半分に諫言《かんげん》することにもなる。しかし相手は主人のことだから、いくらやきもきしたところで歯は立たない。しかも早太は血気さかんの若者だから、自分はともかく、息子の方が承知しない。   頼政はあやめ早太はかきつばた  仕方がないから、われとわが息子をかきつばたということにあいなったという、聞くもあわれな物語である。   みずてんの元祖   妓王妓女《ぎおうぎじよ》ころび芸者の元祖なり  さて、いよいよ平家にあらざれば人にあらずという時代の大ボス、一代の色豪平清盛に登場していただこう。平家の没落を諸行無常《しよぎようむじよう》、栄枯盛衰《えいこせいすい》と見るのも勝手だし、武家の貴族化の結果と解釈するのも勝手だが、江戸の庶民はそれが清盛の好色の結果だという真相にメスを入れる。 『平家物語』の伝える清盛の乱行は、姉妹の白拍子《しらびようし》からはじまる。  白拍子というのは、勇壮な武家の好みに応じて登場した遊女のことで、白い水干《すいかん》(狩衣《かりぎぬ》の一種)に長袴《ながばかま》をはき、烏帽子《えぼし》をかぶり、太刀《たち》をおびるという男装の麗人が、伴奏音楽はなく、笏《しやく》拍子だけで歌いかつ舞ったので、素《す》拍子または白拍子といったのである。  そのころ都に、妓王《ぎおう》・妓女《ぎじよ》という姉妹の白拍子がいて、当時天下無双の舞姫とうたわれていたので、清盛はたちまち目をつけ、姉の妓王を手もとにおき、その母には毎月百石百貫の手あてをあたえた。  ところで、川柳がぼつぼつ流行しはじめた宝暦《ほうれき》・明和《めいわ》の田沼時代に、後の芸者の前身である踊り子なるものがあらわれた。遊芸のできる娘を仕立てたセミプロで、方々の酒席に出張して余興をつとめたものだ。これが後にプロ化して、吉原や深川の芸者となり、今なお余命を保っているわけだ。もっとも、今どきの温泉芸者などは、旦那持ち以外は転び専門で、不見転《みずてん》の名にも価しない。不見転というのは、芸だけを売物にするというたて前なのに、金で相手きらわず転ぶ妓《こ》をいうわけだ。もっともこの不見転というコトバは、もと博打《ばくち》用語である。花札バクチの時、親が勝負でまけても、親としての収人がまけをつぐなってあまりがあると見越し、手札のいかんをとわず勝負に加わることを「みずてん」といい、略して「みず」という。だから元来は、不見点である。   金につまずいて踊り子転ぶなり  セミプロの踊り子も、金につまずいて転ぶのだから、さしずめ清盛に転んだ妓王・妓女は、ころび芸者の元祖にちがいない、というのが庶民の見立てである。  しかし実際は、金で転んだわけではない。なにしろ当代随一の実力者だから、英雄崇拝も手伝って、妓王は清盛のオンリーであることにしごくご満悦であった。  ところがここに、仏御前《ほとけごぜん》という強敵があらわれた。妓王が清盛の手いけの花となってから三年目に、加賀《かが》の国(石川県)から出てきた仏《ほとけ》という、年はまだ十六の白拍子の上手が、都の人気を一手にさらった。このハイティーンは当時のヌーベルバーグであったと見えて、いくら人気があっても、清盛入道殿へ呼ばれないんじゃしようがない、というんで、呼ばれもしないのにおしかけて行った。清盛が腹をたてて追い返そうとするのを、妓王が仲間のよしみで同情して、  ——まだ若いんですから、かわいそうじゃないの。せっかくだから歌わしてごらんなさいよ。  流しのバンドを客に売りこむバーのマダムのような口をきいたので、女に弱い清盛はたちまちその気になって、仏を呼びもどして歌わせ、かつ舞わせたところが、これがイケル。  器量もいささかくたびれた妓王より、一段と食欲をそそる、というので、たちまち妓王を追いだして、仏をあと釜《がま》にすえることになった。かくして、   清盛は仏のために迷わされ  迷った人間を救うはずの仏に、迷わされる身となったわけである。   清盛は仏せせりを床でする   仏だけ坊主とかわす新枕《にいまくら》  仏法にこることを、仏せせりという。せせるはいじるの意味だ。  もったいなくも清盛は、ベッドの中で仏さまをいじりまわす、ふといやつだ、というわけだ。仏の方からいうと、新枕の相手に入道は似合いの好取組だ。   六波羅《ろくはら》の仏で嵯峨《さが》に尼ができ  清盛がうつり気で、仏いじりをはじめ、妓王を追いだしたので、妓王は世をはかなんで尼になる決心をしたので、母親と妹の妓女も同情して、三人とも嵯峨の奥に庵《いおり》をかまえて尼になってしまった。   名は仏でもと嵯峨にて初手《しよて》そしり  見かえられた女の執念というものは、尼になったぐらいで消えるもんじゃないから、おりにふれて、  ——あんちくしょう、仏とは名ばかりじゃないか。 と、カッカとしていたのだが、そのうちに仏の方も、人の身の上はわが身の上と悟って、   あとからも大|振袖《ふりそで》で嵯峨の奥  まだ十六、七の大振袖の仏が、世をはかなんで、清盛の邸をにげ出し、三人の住む庵をおとずれて、尼になってしまったので、口説《くぜつ》の種もなくなり、四人で行ないすますことになった。そこで、   しがらしの果てはありけり嵯峨の奥 と、川柳は結んでいる。  芭蕉と同時代の革新的な俳人|池西言水《いけにしごんすい》は、   こがらしの果てはありけり海の音 という名句をよんで、世に「こがらしの言水」と称された。それをもじって、しがらしの四人が、今では嵯峨の奥でひっそりと暮らしている、としゃれたのである。   後家ぐるい   このごろは後家狂いだと嵯峨でいい  だがしかし、さしあたっての恋敵である仏が、味方の陣営にはせ参じて尼になったのだから、口説の種はなくなったはずだが、そこはやっぱり女で、一度かかわりのあった男の、その後の行状を気にしないではおられない。  あたかもそのころ清盛は、源|義朝《よしとも》の後家の常盤《ときわ》御前を引きいれていた。義朝は平治の乱にやぶれて東国へのがれる途中、尾張《おわり》の長田庄司《おさだしようじ》の家にわらじをぬいだ晩、風呂にはいっているところを、だまし討ちにされた。なにぶん、裸のところを殺されたのだから、庶民はだまっていない。   きんたまをつかめつかめと長田|下知《げち》   常盤《ときわ》めをこれでと長田にぎってみ  この時、義朝の愛妾《あいしよう》常盤は後家になったわけだが、すでに二人の仲には八歳の今若《いまわか》、六歳の乙若《おとわか》、二歳の牛若《うしわか》(義経)の三子があった。  常盤は三人の子どもをつれて、大和《やまと》の伯父《おじ》の家にかくれていたが、母親が平家方にとらえられたのを知って、母の命をすくうべく、清盛の前に姿をあらわした。三子の母といっても、当時まだ二十三歳、常盤めをこれで、と長田がやき餅をやいたほどの美人であったから、好色の清盛が見のがすはずはない。  そのまま邸に引きとめ、三人のおさな子の命と引きかえに、常盤をものにしてしまった。   残念かいいか常盤は泣いてさせ  子の愛に引きさかれて、というより、大事な源氏の血筋をたやさぬため、泣き泣き清盛の意にしたがったに相違ないのだが、しかし、なにしろ相手はベテランの清盛のことだ。   義朝とおれとはどうだなどと濡れ  源氏に負けてなるものか、という意気込みのベテランにあしらわれては、残念の涙いつしか変じて随喜《ずいき》の涙になったにちがいない。   貞女両夫にまみえたで源氏の代   小松殿|開《ぼぼ》が敵《かたき》と世をなげき  しかし、いずれにせよ、敵の清盛に身をまかせたおかげで、牛若は成長して義経《よしつね》となり、平家を西海にほろぼすことができたのである。だから、清盛の長男で、もっとも分別くさかった小松内府重盛《こまつのないふしげもり》が、金が敵というけれど、それどころじゃない、アレが敵と世をなげいたのもむりはない。 [#改ページ]  第十四章 栄華《えいが》の夢   人の上に人を   天は人の上に人をのせて人をつくる 「天は人の上に人をつくらず」という福沢諭吉《ふくざわゆきち》先生の名言があることはご承知のとおりだが、それで思いだした愉快なはなしがある。  慶応義塾《けいおうぎじゆく》の先生方が、賃上げ闘争をおはじめになってまもなくのことであった。  ある晩、かねて親しい義塾の先生の一人と、新宿の飲み屋でめぐりあってメートルをあげていると、談たまたま目下進行中の賃上げ闘争のことにおよんだ。  ——大体ですよ、うちの大学だけじゃない、戦後の私大という私大は、校舎の新築にうき身をやつしているじゃないですか。戦災でやられた分を復旧するのはよいとしてもですよ、戦前以上におっ建てても、まだやめようとせん。その結果が先刻ご存じのとおり、マスプロ大学というわけで、戦前はせいぜい四、五十人を相手に講義していたのが、今ではその四、五倍を相手に講義して、サラリーは戦前よりもぐっと下回っとる。……こんなばかな話ってありますか、これというのも、毎年一億も二億も建物にまわし、人件費の方にまわさぬからですよ。アルバイトをしなけりゃ、セガレを満足に大学にもやれないようなサラリーをそのままにしておいて、建物ばかりいくら作ったって、大学がよくなるわけはありませんや。お宅だってご同様でしょうが。  お説はいちいちごもっともなので、そのつど相槌を打つかわりに、手酌で乾杯していると、彼は決然としていった。  ——わが福沢諭吉先生は、天は人の上に人をつくらず、とおっしゃった。そこでですネ。われわれは今度の闘争のスローガンとしてですよ。「天は人の上に建物をつくらず」という福沢精神をかかげるつもりです。  わたしはすっかりうれしくなって、義塾の応援歌をうたいたくなった。  権威地におちたりといえども、さすが大学の先生はちがったもんだ。知性とユーモアにあふれているわい、と感嘆これ久しゅうしたもんだが、彼がそのスローガンをかかげたかどうかは、保証のかぎりでない。  ところで義塾の福沢精神が、いまなお健在であることは、これで了解することができたが、早稲田《わせだ》の大隈《おおくま》精神の方はいかがなものであろうか。ここんところ、運動部が早稲田精神をしょって立った形で、そのほかの学生は今や大隈さんが何県の出身であるかも知らない、というほどに伝統と無縁の存在になってしまっている、と週刊誌などが無責任なことを書きたてていた。  だがわたしは発見した。早稲田精神はトラックや球場というはなやかな舞台でだけ発揮されるものではなく、ひそひそと、人目につかぬ大学の一隅にも存在している事実を発見した。  早慶《そうけい》戦がすんでからまもなく、文科系の校舎で午後の講義をすまし、学生も引き上げてひっそりとしたところを見はからい、三階のトイレにはいった。たった一人で心ゆくばかり孤独を楽しみながら、おもむろに顔を上げると、マジックインキで字格ただしく書いた落書きが飛びこんできた。  ——天は人の上に人をのせて人をつくる。大隈シゲノブ。  わたしは思わずうなった。本当はここで早稲田のOBとして、老侯を冒涜《ぼうとく》するにもほどがある、とあわてふためいてシズクも切らず事務所に連絡し、消してしまわねばならぬところなんだろうが、あまりの見事さに、応急の処置も忘れて、しばらく鑑賞の時をもった。  まずもって福沢先生は「人をつくらず」といわれたから、早稲田マンとしては「人をつくる」と対抗したわけだろう。  もっとも天が人の上にのせる人が、かならずしも男性であるとはかぎらない。近ごろは性知識過剰になって、新婚初夜に花嫁が上位をとり、下なるうら恥ずかしい男性を、文字どおり仰天《ぎようてん》させるケースもあるというから、あに上下の雌雄《しゆう》を問わんやである。  どっちがどっちであるにしても、結果として人をつくることにまちがいはない。  福沢先生の名言は、自由民権というイデオロギーの結晶だ。それに対して、この無名の若き早稲田マンの迷言は、イデオロギー以前の人道を喝破《かつぱ》している。かがやかしい早稲田自然主義の伝統は、まだ生きているわい、シゲノブなどと老侯にまぎらわしい署名をしたりしてけしからん若者だが、しかし末たのもしい若者がいるものだと、わたしは、ニンマリとほくそえんだものである。ただし、その後まもなく消させてしまったから、現場一見のご希望に応じられないのが残念だ。  つぎにまた、これもすでに消されてしまっているが、同じ校舎の四階の男子トイレの目の前の壁に、   汝《なんじ》は人類の将来をにぎっている と大書してあったのは、つい去年のことであった。わたしもたまたま、その場所で用をたしたことがあったが、ナポレオンか、ヒトラーか、ともかく地球を掌中におさめたような、壮大な気分にしばしひたったものである。  落書きはもと、「落とし文《ぶみ》」または「らくしょ」といって、南北朝《なんぼくちよう》のころからはじまったものだ。つまり正しい政治の行なわれない乱世の落とし子で、うっかり政道など批判しようもんならバッサリやられるにきまっているので、命は惜《お》しいし、言いたいことは言いたいという庶民が、風刺的な戯文や詩歌の形式で政道を批判した匿名《とくめい》の文書を、権力者の家の壁にはりつけたり、わざと道に落としておいて口コミをねらったりしたので、「落とし文」といったわけだ。だから専制政治が確立した江戸時代になると、   落書のこと、おとなは死罪、少人は流罪。 という手きびしい法度《はつと》が、二代将軍|秀忠《ひでただ》の時代、元和《げんな》八年(一六二二)に出ている。国民の声なき声は、やっぱりこわかったものと見える。たとえば、犬公方《いぬくぼう》といわれた五代将軍|綱吉《つなよし》が、補佐役の松平|美濃守《みののかみ》と松平|右京大夫《うきようだゆう》を使って、犬より人間の命を粗末にする政治を強行した時、   民よりも犬を大事にやしないて美濃さいわいを右京ようなし などというような落書きが、ジャンジャン行なわれたのだから、当局はゆううつであったにちがいない。  要するに日本の落書きは、権力政治の落とし子である。だから今日のように、言論の自由、政道批判の自由の保証された時代には、匿名で落書きする必要がなくなったので、落書きはおおむね個人的な欲求不満のハケ口、もしくは、スリルをともなう表現欲の手段となってしまったわけだ。だから現代の落書きは楽書きと書く方がぴったりする。  しかし、まごまごしていると、テロで言論を封ずる暗黒時代が再来する恐れがある。「らくがき」は落書きでなく、いつまでも楽書きであらせたいものだ。   ひよどり越え   うしろからグッと乗りこむ一《いち》の谷《たに》  江戸の庶民が川柳で、貴族であろうが英雄であろうが、遠慮《えんりよ》えしゃくなく、ズバリズバリと痛いところを突いて笑うことができたのも、匿名の気やすさからなのだから、これもまた落書きの一種というべきか。  さて前章に引きつづき、「祇園精舎《ぎおんしようじや》の鐘の声、沙羅双樹《さらそうじゆ》の花の色、盛者必衰《しようじやひつすい》のことわりをあらわす。」という名調子ではじまる平家の運命は、一の谷合戦、ひよどり越えのさか落としで、悲劇の幕が切っておとされた。  木曽《きそ》の風雲児|義仲《よしなか》の軍勢にやぶれた平家一門は、安徳帝《あんとくてい》を擁《よう》して都をすて、まず兵庫《ひようご》の一の谷に結集した。目の前の海には味方の軍船がへさきをならべ、砦《とりで》のうしろは名にしおうひよどり越えの要害であるから、平家一門は安心して、美しい官女まじりに管弦をたのしみ、酒にくらい酔っていた。  ところが相手がわるかった。なにしろ鞍馬《くらま》の谷で天狗《てんぐ》飛び切りの術をおぼえ、弁慶《べんけい》なんぞは笛一本で軽くあしらったおん曹司《ぞうし》義経《よしつね》だ。  ためしに馬を五、六ぴき追いおとしてみたら、三びきだけが、なんとか下までたどりついたので、これならいけるとおん曹司、義経を手本にせよと、まず三十騎ばかりをひきいて、まっ先にかけ落としたので、三千余騎の兵《つわもの》どもも、われおくれじと駆けおりた。そこで、「うしろからぐっと乗りこむ」ということになったわけで、ご期待にそむいてまことに申しわけないしだいである。  しかし、どうもそれだけでは気に食わないとお考えの向きは、この一の谷はむっちりとしたあの子のアノ谷だ、とご解釈なさっても、それは誤解だと責める自信も権利も、わたしにはない。   上を上をと官女なく一の谷  ところでこの句だが、これもまあ表面は、平家の武者どもが食らい酔って前後不覚になっているのを、いち早く後ろの騒ぎに気づいた官女が、  ——しっかりしてちょうだい。そっちじゃないわよ、上よ、上よ。 と泣きわめいているという、至極もっともなありふれた情景である。だがしかし、この泣きはうれし泣きであり、上はある部分の上で、相手方のでたらめな行為に注文をつけているところと解釈しても、ちっともさしつかえはない。   八月《やつき》ごろヒヨドリ越えを攻めている   添乳《そえぢ》しているにひよどり越えをする  これらの句になると、もはや正解も誤解もない。八月ごろになると、女房の腹もめでたくせり出して、正面からの攻撃は困難だから、ヒヨドリ越えの奇襲をかけているところだし、二句目もよくある情景だ。  花嫁の豊満なおっぱいを専用できたのは、せいぜい一年か二年、その後は赤ん坊に独占され、たまの日曜日に昼取りでもと謀反《むほん》をおこしても、自分のしめるべき位置は赤ん坊にしめられている。そこでやむなくヒヨドリ越えという、若き亭主族の哀歓である。   男装の天子   めめっこをおちんこなどと二位の尼  一の谷でさんざんな目にあった平家一門は、船で屋島《やしま》へ、壇《だん》の浦《うら》へと敗走する。その中には多くの官女にまじって、安徳帝《あんとくてい》とその母の建礼門院《けんれいもんいん》、清盛の北の方で安徳帝の祖母にあたる二位《にい》の尼《あま》もまじっていた。  ところでその安徳帝は、実は女の子であったのを、清盛が男子といつわり、むりやりに三歳で帝位につけたお方である。そこへ目をつけた庶民が、めめっこをおちんこなどと……といったわけだ。 「めめっこ」の「めめ」は、女々《めめ》しいの女々、すなわち|女々っこ《ヽヽヽヽ》は女児の性器の俗称である。それに対して男の子の「おちんこ」の「ちんこ」は、小さいという意味の上方《かみがた》コトバで、「ちんこい」とも「ちっこい」ともいう。すなわち、小さくかわいらしいアレという意味である。   人の見ぬ方へ二位殿ししをやり  亭主の清盛とぐるになって、二位の尼が「めめっこ」を「おちんこ」などと言いくるめたにちがいない、太いあまだ、というわけだ。しかし困るのはおしっこさせる時だ。侍女にまかせて、めめっこを人前にさらけ出すようなことがあっては化《ば》けの皮がはげるから、こればかりは 大儀ながら二位の尼が、人目のない船ばたに出て、|しいしい《ヽヽヽヽ》とやったにちがいないのである。   にたり貝   一門は蟹《かに》と遊女に名を残し  一の谷を追っぱらわれ、屋島でまたも追い討ちをかけられた平家一門の運命は、下関市の東方の壇の浦でつきることになった。一千余|艘《そう》に分乗した平家の武者のあらかたは、海底の藻《も》くずとなり、その怨霊《おんりよう》は平家蟹《へいけがに》と化した、とだれともなく言いはじめた。  瀬戸内海でとれる平家蟹の甲羅《こうら》は、しかめっ面《つら》をした人間の顔に似ているところからのこじつけだが、いかにも庶民的な伝説だ。  さいわい長州へ上陸することのできた官女たちは、一難去ってまた一難、生活にこまって遊女となったのが、下《しも》の関《せき》稲荷《いなり》町遊郭《ちようゆうかく》のはじまりであるという。  関《せき》ヶ原《はら》戦後、豊臣《とよとみ》方の侍の娘たちが遊女になり、維新後もお旗本の娘が芸者になった例もあることだから、まんざら根も葉もない話ではないということになれば、   こよのう侘《わび》しゅうはべりしと下の関   あかねさすまで帰さぬと下の関  何しろ官女あがりだから、落語の「たらちね」の女房と同じで、「ああらわが君《きみ》……」といった調子で、大和《やまと》言葉(内裏の女房コトバ)を使って客と口舌《くぜつ》をしたにちがいない。夜の明けるまで帰さないわョ、というところも、「あかねさすまで」といったにちがいない、ともっともな想像である。いずれにしても平家一門の男どもは海へもぐって蟹となり、女どもは陸へはい上がって遊女となって名を残した、というわけである。   門院は赤貝にでもなるところ  ところで、壇の浦での色っぽい方の立《たて》女形《おやま》の建礼門院は、二位の尼がまだ八歳の幼帝とともに入水《じゆすい》したのを見て、今はこうよとおぼし召され、硯《すずり》を左右のふところに入れて海にとびこんだところを、渡辺《わたなべ》の源五《げんご》がお髪《ぐし》を熊手《くまで》にかけて引きあげ、助けまいらせたということになっている。そこで、もしも門院が入水してお果てなさったら、男どもの蟹に対して、赤貝になるところであったろう、というわけだ。  史上有名な女性の魂魄《こんぱく》が海にはいって、性器まがいの貝になったという伝説は、まだほかにもある。ご存じの方も多いと思うが、瀬戸内海は阿波《あわ》の鳴門《なると》のあたりでとれる貝に「似たり貝」というのがある。二、三年前に、この貝をアルコール漬けにしたやつを、わざわざ旅先で手に入れて小生宅まで持参してくれた親切な友人のおかげで、とっくり鑑賞することができた。それがなんともはや、色といい、形といい、大きさといい、そっくりで、しかもあるべきところにはチャアンと春草まがいのものがはえているのだから恐れいった。  ——しかもねえきみ、こいつのとり立てを酢《す》にして食うと、コリコリしてうまいんだぜ。——わが友はいささかサディズムの傾向にあるやにみえた。  この似たり貝こそは、晩年|四国《しこく》に落ちて窮死したという清少納言《せいしようなごん》の魂魄が、この世にとどまったというのである。江戸初期の『遠碧軒記《えんぺきけんき》』という随筆に、「阿波の撫養《むや》に清少納言の墓あり」とあるし、『西鶴名残の友』で、「昔日《そのかみ》清少納言、世に落ちて四国の山家にて哀れむなしくなりけるとなり」といっているから、伝説化する道具立てはチャンとそろっているわけだ。  ところで似たり貝は、阿波の鳴門付近の特産かと思っていたところが、実は岩手《いわて》、青森《あおもり》の近海でもとれることを最近知った。その名も同じく似たり貝という。岩手県|久慈《くじ》市の近海でとれるやつは、大型で色も年増《としま》ふうに紫がかっており、青森県の八戸《はちのへ》辺でとれるのは、小型で娘ぶりだそうである。おまけにおかしいのは、同じ海で男性のそれにソックリの貝がとれるのだそうな。   門院は入水《じゆすい》のほかに濡れたまい   義経も母をされたで娘をし  戦前派の好き者《しや》の目にはかならずふれた雅文調の春本に、壇の浦における義経と建礼門院の情交を描いたものがあった。一説に日本外史の筆者|頼山陽《らいさんよう》の作ではないかといわれるほどの達文である。  もちろん火のない所に煙は立たない道理で、『源平盛衰記《げんぺいせいすいき》』巻四十八「女院六道めぐり」に、次のような一節がある。   みずからは君主にまみえたてまつりて、后妃の位に備わり候いし上は、仮初《かりそめ》の褄《つま》を重ぬべしとこそ思わず候いしに、……九郎判官《くろうほうがん》に生け捕られて、心ならぬ仇名を立ちて候えば、畜生道《ちくしようどう》に言いなされたり。  すでに鎌倉時代の史書が、義経と門院の情交を暗に指摘しているので、これを庶民が見のがすはずはない。  門院はまず身投げして濡れ、引きあげられてからは義経と濡れたもうた、と、これはまあ川柳としては曲のない言い方で、二句目の方がいかにも川柳らしい。なにしろ義経は、その母の常盤《ときわ》御前を清盛にしてやられた腹いせに、清盛の娘の門院をやったのだ、因果はめぐる小車《おぐるま》の、というやつさ、といったしだいである。しかし、さらにまた因果はめぐって、   門院を仕たと讒奏《ざんそう》しちらかし  戦目付《いくさめつけ》の梶原景時《かじわらかげとき》にとって、この一件はおん大将頼朝公へのザンゲンの好材料となり、   西海の九郎(苦労)も水の泡となり  ついに奥州まで逃げたあげくにほろぼされてしまったのも、もとはといえば色を好んだからだという、川柳平家物語、おそまつの一席。 [#改ページ]  第十五章 寝物語   いずれもソフト  長年、悪事をともにしてきた老友六人が、めずらしく会飲することになった。サービス係りは昔悪童の一人の兄貴の恋人であったという吉原の老妓と、これもしわだらけのタイコもちの二人を召集し、多摩川《たまがわ》べりの料亭で落ちあった。要するに実行力を失っても、なお意気盛んなりという、口舌《こうぜつ》の徒の負け惜しみのえせ風流である。  ひさしぶりにこうして居ならんで見ると、頭の黒いの、薄はげの、思い切りよくはげたの、それぞれだ。薄はげや丸はげは、男性ホルモンの旺盛《おうせい》な証拠だ、といばっていたが、そのうちだれかが、  ——問題は外観じゃない。タイムだ、持ち時間だ。 と言い出した。  ——はばかりながら、ぼくなんざ、途中で教育勅語なんぞ拝誦《はいしよう》しなくても、小一時間は持つネ。 と、はげたのが大きなことをいうので、  ——六十すぎると感度がにぶって、みんなそうなるんだ。 と、わたしが水をさしたら、すこしショゲて、  ——そういえば、近ごろ途中で中折れすることがチョイチョイある。  ——つまりソフトになるわけだ。 と、だれかが落ちをとったので、老悪童がいっせいにどっと笑った。中折れ帽子、すなわちソフトをかぶる習慣を失った近ごろの青壮年には、この下《さ》げはわかるまい。  もちろん、これくらいでカブトをぬぐような老悪童ではない。  ——きみたちはそういうけどネ。豆腐《とうふ》と鉄とはどっちが物の役に立つか知るまい。  この難問には、さすがの猛者《もさ》連も鳴りをしずめていると、彼はあたりをにらみまわしていったものだ。  ——鉄は熱くなるとやわらかくなるが、豆腐はお熱いのに入れると堅くなる。いずれが物の役に立つか自明の理だ。  いずれソフトの悪童連、これにはわが意を得たりとばかり、反対の声はあがらずじまいであった。   女の春闘  ——それにしても、戦後女性の自覚はめざましいものがある。いつぞや、ある調査機関で求職者に出したアンケートによると、求職の目的という項では、生活に自信をつけたい、社会を知りたい、技術を身につけたい、というのが圧倒的で、結婚準備という答えはわずか五パーセントだったというんだから、めざましいもんじゃないか。 と、社会学者が場ちがいの発言をしたので、ケンケンゴウゴウと相なった。  ——それはつまり、男がたよりにならなくなった、ということなのさ。 と一人がまぜっ返すと、また一人がいった。  ——いやいや、女が自信を持ちはじめたことはたしかだネ。とくにセックスの面において、戦前までまるっきり無知だったんだが、先生方が商売がてらセッセと啓蒙なすった結果、生娘《きむすめ》でも昔の女房族より物知りになっちまったんだ。それがなにより証拠には、セックス最高論、セックス真昼間《まつぴるま》論、あげくの果ては、性生活は女性がリードすべし、などという勇ましい議論まであらわれたではないか。それが、あらかたうら若い女性の発言なんだから、恐れいる。  口先ばかりは達者でも、体当たりの性攻法を受けとめる体力はとても、という悲哀が言外にあふれている。その点、わたしも人後におちぬ一人だから、事理明快な助け船を出した。  ——それはきみ、セックス最高論なるものは、あくまでも女性の一人よがりなんだ。たとえばだネ。マッチの棒で耳をほじくれば、いい気持で目を細くするだろう。だがマッチの棒は、先っちょがしめって二度と燃えなくなるだけで、いい気持どころじゃない。まるっきりサービスさせられっぱなしなんだ。そういう男性の悲哀も察せぬ最高論なんてものは、ひとりよがりにきまってるサ。真昼間論も一見健康そうだが、有閑《ゆうかん》女性のタワゴトだネ。女性のために昼間はもとより、夜分でも働きづめのわれわれが、うっかりそんな甘言に乗ってみたまえ、昼間は昼間でおつきあいさせられた上に、夜は夜でということになるにきまってるサ。そうなれば仕事はとどこおり、収入はガタ落ち、おまけに勤務先から文句が出て、生活はご破算になることうけ合いだ。それになにより、若いもんだって、そうは体力が続くまい。  要するに社会に対する責任がない上に、その方にかけては段ちがいにタフな女性の一方的な宣言にすぎないのサ。……そういう女というものが、性生活はわたしどもがリードする、ということになったら、どういう結果になると思いますかナ。 と、言葉を切って見まわしたら、みんなシュンとしている。そこでわたしは追いうちをかけた。  ——諸君は専門がちがうから、ご存じないかもしれないが、江戸中期の科学者に、平賀源内《ひらがげんない》という先生がある。この先生が政府も国民もおろかで自分をみとめてくれないのにカンシャク玉を破裂させて、『風流志道軒伝《ふうりゆうしどうけんでん》』という風刺小説を書いてるんです。  その中で、主人公の浅之進《あさのしん》という若者が、百人あまりの手下の唐人《とうじん》といっしょに、難破して女護《によご》ガ島《しま》に漂着するというくだりがあります。その島では男性が漂着すると、女たちはそれぞれ自分の草履《ぞうり》を浜辺にぬいでおき、上陸して、それをはいた男と結婚するという習慣になっていたので、そのとおりにして喜んでいると、女王さまが一行をお城に連れこんでしまったので、国民といっても女ばかりなんだが、これが女王横暴、男性独占禁止のプラカードを押したてて、国会ヘデモ行進をおっぱじめたわけだ。  国をあげて流血の惨事が勃発《ぼつぱつ》しそうな気配《けはい》が濃厚《のうこう》になった時、浅之進の進言で、上下貴賤の差別なく、男性を解放することになった。といって男の数が限られているんで、無条件というわけにはいかんから、いささか資本主義的だが、金しだいということになった。身分が物をいう封建制度よりは進歩的にちがいない。つまり女郎屋じゃない、男郎屋をひらき、日本は江戸吉原のしきたりどおり、男郎の位をさだめ、遣手婆《やりてばばあ》は取手爺《とりてじじい》と改めて店開きをしたところが大繁昌、おすなおすなの騒ぎとなったが、半年もたたないうちに一人残らずあの世へ鞍替《くらが》え、浅之進だけはもともと浅草|観音《かんのん》の申し子だったので、観音さまが木の松茸《まつたけ》とあらわれて身がわりに立ってくださったので、ひとりつつがなく生きのこった、という話です。  そりゃあ夢話にはちがいないが、男が昼夜つとめるということになると、まずこのとおりでしょう。ところが江戸時代以来、女郎がその勤めのためだけで死んだという話は聞かない。死ぬ死ぬというのは口先だけ、一般的にいって、男と女の性生活における順応性と持久力には、これだけの相違があるんです。……いかがです。たえず臨戦態勢にあって、消耗することを知らぬ女性が性生活をリードするということになったら、浅之進一行の運命は期して待つべきものがありますヨ。つまり数々の勇ましい発言も、相手方の能力や条件を無視した、ひとりよがりの迷論であることが、これでおわかりか。というわたしの長広舌《ちようこうぜつ》に、一座はのんびりとくつろいで、めでたい春の宴《うたげ》となった。  さて、どうもこれまで平家方に片よったうらみがあるので、この章では源氏の大将にスポットライトを当ててみたところ、その相手の女というのが、政子《まさこ》といい、巴《ともえ》といい、心配したとおりの男まさりであるのに驚いた。   見かけだおし   おつむりと下は違うと政子いい  源氏の総大将、源《みなもとの》 頼朝《よりとも》が大頭であったというのは、伝説ではない。『平家物語』巻八に、 [#この行2字下げ]御簾《みす》高く巻きあげさせて、兵衛《ひようえ》の佐《すけ》殿出でられたり。その日は布衣《ほい》に立烏帽子《たてえぼし》なり。顔大にして背短かりけり。容貌優美にして言語分明なり。 とあって、人なみ以上に大きかったのだが、それに尾ヒレがついて、大頭は頼朝と足袋《たび》の商標になった福助《ふくすけ》という相場ができたわけだ。  ——ええ、いらはい、いらはい、頼朝公のしゃりこうべ。お代は見てのお帰り。  呼びこみにつられて、フラフラとはいって見ると、ウワサに聞いた大頭にしては、しゃりこうべがいかにしても小さすぎる。そこで文句をいうと、  ——頼朝公おん八歳のしゃりこうべ! という、いとものどかな江戸小咄があるくらいだから、庶民が見のがすはずはない。  流人の頼朝のところへ、流人預かりの豪族北条|時政《ときまさ》の長女|政子《まさこ》が、押しかけ女房としゃれたのは、ただたんに先物買いをしたわけじゃない。頭がでかく、鼻もでかいので、そこを見こんで押しかけ女房となったのだが、案に相違、下の方は人なみであったから、愚痴《ぐち》もこぼそうというものだ。   膝枕政子の股《また》にしびれ切れ  ましていわんや、大頭で太平楽に膝枕なんぞされて、股にしびれが切れると、今さらながら自分の見当ちがいがしゃくにさわって、こんちくしょう、ということにもなるわけだ。   初産《ういざん》に常盤《ときわ》は裂けたかと思い   二度目にはときわ御前はやすく産み  まあ、それくらいでかい頭であったということになれば、母親がその子をうんだ時は、さぞかし大変だったろう。帝王切開《ていおうせつかい》という手もないのだから、それこそ裂けたかと思ったにちがいないし、そのかわり二度目は楽々とうんだろう、というわけである。ことに弟の義経《よしつね》は小がらで身軽な男だったのだから、なおさらだ、というあたりはいいのだが、実は頼朝は常盤の子ではなく、熱田《あつた》の宮司《ぐうじ》藤原季範《ふじわらすえのり》の娘の子である。常盤の子である義経は頼朝の異母弟なのだが、常盤の子の義経の兄貴なんだから、とうぜん頼朝も常盤がうんで手ひどい目にあったにちがいない、と早合点したわけだ。   女上位   木曽殿とうしろ合わせに巴《ともえ》すね  木曽の風雲児、頼朝の従弟《いとこ》の義仲《よしなか》は、頼朝の挙兵に呼応して兵をあげ、倶利伽羅《くりから》峠で牛の角に白刃を結わえつけ、尻尾に葦を結んで火を付けて放つ「火牛の計」によって、押しよせた平家の大軍を破って、いっきょに京都へなだれこみ、平家一門を追っぱらった。だが、なにぶん山家そだちのことなので乱暴ばかりはたらき、頼朝の命令にもしたがわなかったので、とうとう義経らのために、近江《おうみ》の粟津《あわづ》の松原で攻めほろぼされてしまった。  この武骨者の英雄も、陣中つねに巴《ともえ》と山吹《やまぶき》という二妾をともなっていた。山吹の方は病気になって京都にとどまっているから、あまり勇婦ではなかったらしいが、巴の方は最後までいっしょに戦った。勇婦中の勇婦だ。しかも女相撲《おんなずもう》まがいの大女というわけでなく、色白の美人で、甲冑《かつちゆう》に身をかためて荒馬を乗りまわし、いかなる荒武者も歯が立たなかったというのだからすばらしい。  しかし、そこはそれ女のことだから、やき餅をやかぬわけにはいかず、義仲が山吹の陣屋へ出かけたあくる晩は、すねて背中あわせという場面もあったにちがいない。もっともこれは、木曽塚のかたわらに葬られた芭蕉を悼んだ大津|義仲寺《ぎちゆうじ》の句碑「木曽殿と背中あはする夜寒哉」(又玄)のもじりだ。  しかし、とかく、すねたあとは、古今東西はげしいもんだ。   あれいっそもうに義仲動かれず  なにしろ巴は、義仲最後の合戦に、武蔵《むさし》の国の住人|御田《おんだ》の八郎師重《はちろうもろしげ》という大力の剛《ごう》の者を、 「わが乗ったりける鞍《くら》の前輪に押しつけて、ちっとも動かさず、首ねじきって捨ててんげり」 という大力だ。その彼女に、アレいっそもうと、無我夢中で抱きしめられたら、いくら義仲でも身動きのできるわけはない。それくらいならまだいいが、   死にますと言うと義仲ゆるせ死ぬ   抱きしめられて木曽殿|度々《どど》気絶  おなじ死ぬでも、ほんとに息がつまって死ぬんではかなわない。   木曽を抱きしめ緋縅《ひおどし》をねだるなり  やっぱり巴も女の子だから、ぶっそうな鎧《よろい》をねだるにしても、はなやかな緋縅をねだるところはかわいいが、「抱きしめて」というところがおかしい。なにしろいやだなどといおうものなら、息の根がとまるという抱きであるから、色っぽいどころの騒ぎではない。   ちゃうすかと思えば巴首をかき   悪いことよしなと巴首をぬき  さて、これがいよいよ最後という時になって、義仲もさすがは武人、最後のいくさに女を連れていたといわれるのもくやしいから、どこへでも落ちて行け、といわれて巴もやむなく、最後のひと働きを木曽殿にお目にかけてと、ひとあばれしたことになっているが、なにぶん美しい女武者が男武者を組みしいて女上位となるので、かっこうがよくない。  男武者のほうでも、危急存亡《ききゆうそんぼう》の瀬戸《せと》ぎわであることを忘れて味な気持になり、ちょっかいを出して、いたずらすんでねえの、と首を引っこぬかれたであろうと、まことにかゆい所に手がとどいている。  あばれるだけあばれた巴が、今は思い残すことなしと、自害するつもりになった時、潮時を見はからったようにただ一騎、駒をすすめて来たのが、音にきこえた和田《わだ》一門の棟梁《とうりよう》和田義盛《わだよしもり》であった。けさからの奮闘につかれ、戦う気も失せていた巴は、ついに義盛に組み伏せられ、鎌倉へ引きたてられた上で、義盛に懇望《こんもう》されてその妻となり、生まれた子が英雄|朝比奈三郎義秀《あさいなさぶろうよしひで》である。ところが、義秀は義仲の種だという説もあるので、   もらうころ巴|太鼓《たいこ》のような腹  太鼓には、おおむね巴の紋を描くので、ふざけたわけだ。だが前代|未聞《みもん》の女武者巴も、女であることに変わりはない。   ともしびが消えりゃ巴も女なり   こう組み敷きなさんしたと巴いい  最初は戦場で、今夜は閨房《けいぼう》で、いずれにしても和田義盛は寝業《ねわざ》の達者であったとみえる。   一生一交   鼻息を静々とおん曹司《ぞうし》  おん曹司九郎|判官《ほうがん》義経には、すでに一度壇の浦で登場ねがったが、しかし、それは行きずりのチョンのま、本番ともなれば、苦労をともにした愛妾の静御前《しずかごぜん》といっしょに再登場ねがわねばなるまい。   あのとおりだと静へは浪《なみ》を見せ   静に小声弁慶は野暮《やぼ》だなあ  梶原のザンゲンにあって、兄頼朝に追われる身となった義経は、摂州大物《せつしゆうだいもつ》の浦《うら》から船出して、ひとまず讃岐《さぬき》(香川県)へ渡ろうとする。するとそこまでついてきた静を、この際ふさわしからずと、武蔵坊弁慶が追いかえそうとする。義経と静は離れたくない、となれば、静に小声で、弁慶はヤボだなあ、ということになり、弁慶の目をぬすんで、鼻息を静におさえながら別れを惜しむことにもなったに違いないのである。   捨てられてこれはこれはと静泣き  さて、この四国行きは結局だめになり、吉野《よしの》落ちということになったのだが、この吉野山で静はまたもや追いかえされ、ついに捕えられて鎌倉へ護送された。そこで、松永貞徳《まつながていとく》がはじめた貞門《ていもん》の俳人|貞室《ていしつ》は、「これはこれはとばかり花の吉野山」とよんでいるから、静も捨てられて、これはこれはとばかり吉野山で泣いたろう、と察しのいいところを見せたのである。   弁慶と小町は馬鹿だなあかかあ   なぜだえと武蔵静になぶられる  義経と静の仲を、なにかにつけてじゃました弁慶は、まったくヤボな男で、一生|不犯《ふぼん》、もしくは一生一度のかたい男ということになっている。いつからそういうことになったのか、蕪村《ぶそん》の句に、   花すすきひと夜はなびけ武蔵坊 という句があるところを見ると、男性のシンボルみたいに超人的で豪放な生涯が、古くから女っ気を感じさせなかったものと見える。江戸中期の浄瑠璃《じようるり》『御所桜堀川夜討《ごしよざくらほりかわようち》』(元文二年)の弁慶上使の段では、弁慶が鬼若《おにわか》といった青年時代に、たった一度のころび寝でできた娘の話が出てくるから、もうそのころには、一生一交説が行なわれていたのであろう。  そんな弁慶だから、「弁慶さん、なぜだえ」と静にからかわれる場面もあったろう。すると武蔵坊弁慶は弁慶で、   かのとこは武蔵武蔵と一つぎり とにがい顔をして、「汚《むさ》し汚《むさ》し」とはき出すようにいったにちがいない。それにしても「弁慶と小町は馬鹿だなあ」と、江戸庶民の寝物語は率直でよろしい。  ながながとご愛読をいただき、まことに感謝にたえません。まだ源平時代が終わったばかりですが、あまり長いはごたいくつ、ここらで筆をおさめさせていただき、今夜はこれから新宿に出て、古なじみの縄のれんでいっぱいやらせていただくとしよう。   縄のれん毛深いように出はいりし  手でおしわけて頭からぐっと入る、縄のれんもまた風情のあるものだ。 [#地付き]〈了〉 昭和三十六年六月 カッパブックス版(光文社刊)を改訂増補。 外字置き換え ※[#「區+鳥」]→鴎