戸板康二 新ちょっといい話 目 次  ㈵  ㈼  ㈽  後 記  文庫・後記 [#改ページ]   ㈵  政友会の総裁に田中義一という軍人がなって、内閣を組織した。山口県人だったが、「おらが」という口ぐせがあったので、「おらが内閣」といわれ、オラガビールというのが、売り出された。  そのくせ、ラジオでその演説を聞いた記憶がなく、声帯模写で、まねもしなかった。  そういう政治家の綽名《あだな》や口ぐせは、新聞がもっぱら取次いだ。  岡本一平が、昭和四年ごろ、朝日に「新水《しんみず》や空《そら》」という題で、政治家と俳優の顔と姿を描いて毎日のせた連載漫画は傑作だが、四十九人の政治家の部には、綽名が一々注釈のようについている。抄記すると、  桂太郎(ニコポン)、井上馨(かみなりおやじ)、寺内正毅(ビリケン)、床次《とこなみ》竹二郎(洞ヶ峠)、清浦奎吾(鰻香居士)、山本権兵衛(親いも)、一木喜徳郎(報徳先生)、高橋是清(だるま)、後藤新平(ネオ大ふろしき)、島田三郎(皺田喋郎)、浜口雄幸(ライオン)、星亨(押し通る)、大石正巳(野狐禅《やこぜん》)、武富時敏(紅木屋侯爵)、加藤友三郎(ろうそく宰相)、鈴木喜三郎(腕の喜三郎)などとある。  口ぐせのほうでは、  大隈重信(アルンデアルンデアルンデアル)、宇垣一成(そうけえの)、原敬(政治は力だ)、野田卯太郎(よかタイよかタイワッハッハッハ)、山県有朋(わしはサーベルじゃから)、若槻礼次郎(ええことはええ、わろえことはわろえ)  この話を若い新聞記者にしたら、「いまの政治家に綽名はありませんね」という。 「TBSの時事放談で、いくら細川隆元さんや藤原弘達さんが、綽名で呼んでも、誰もそれを流行させる気になりません」。大平正芳さんの「ああ、うう」ではだめなのだという。  吉田茂内閣時代は、こうなると、やはり、綽名がまかり通ったから、今とはちがうようだ。         □  吉田茂元首相の貴族趣味の象徴として、葉巻、そして白足袋と草履の姿があげられた。  その白足袋について、満天下にひろめたのは、おなじ大磯に住んでいた反骨の士、高田保だった。  吉田さんが、小学校に来て講演をすることになった日、あらかじめ教師が生徒に、「白足袋といったりしないように」と注意したといわれる。  吉田さんは、いつもの和服でやって来た。いいつけを守り、生徒は「白足袋」とはいわなかった。しかしコソコソと私語した。 「ぞうり大臣」         □  吉田茂さんが、首相時代に散歩していたら、男の子が、「あ、総理大臣だ」といった。  すると、別の子が、「ばかいってら、総理大臣が、こんな所にいるかよ」 「だって、漫画に似てるもの」         □  吉田内閣のころ、NHKの日曜娯楽版に、冗談音楽の台本を提供するいくつかのグループがあり、ぼくも一員になっていたグレッタント・グループで、吉田さんをさかんに材料にした。  台本はGHQのCIE(民間情報部)に検閲を受けた。ナマの放送だから、直前に中止を命ぜられることもあったが、吉田さんについてだけは、何をいっても、パスした。  二世の通訳と雑談している時に、そのことをいったら、「ヨシダサンは決して、おこりません」といった。  それで作った歌が、「ワンマンワンマンというけれど、わしがいなけりゃ、諸君が困る」という歌詞の歌だった。         □  ワンマンという言葉は、吉田茂という政治家によって定着した。  東海道の戸塚の近くのバイパスを、ワンマン道路といった。  バスの車掌を人件費のために節約して、運転手だけで走る車を、ワンマンカーといいはじめたのも、同じ時代であった。         □  高田保さんは、パリに行ったことがなかったが、文献を渉猟して町の様子をくわしく知っていた。パリに行こうということになり、友人からカンパをしてもらい、送別会もしてもらって、とうとう行かずに終ったのだが、戦争前に、「美術手帖」という雑誌でパリに関する特集号を企画した時、高田さんは、たのまれて原稿を書くことになった。  宮田重雄さんが目を丸くして、「君、パリを知らずに、パリのことを書くのかい」というと、高田さんはニヤリと笑って、 「そうさ、題は�まだ見ぬパリというんだ�」         □  いとう句会の席で、その高田さんがいろんな話をする。おもしろすぎる話が多い。  早稲田にいたころ、漱石の家の前を通ると、「夏目金之助」という表札が出ている。その近くに、「夏目鉄之助」というのがあってね、これが屑屋で、云々。  そういう時に、いる人が、眉毛にツバをつけるマネをした。  久保田万太郎さんの次の俳句は、その時にできた。 「時計屋の時計春の夜どれがほんと」         □  このいとう句会の会場だった旅館を経営していた槇金一は、ノッペリしたいい男だった。綽名を「横町の光氏《みつうじ》」といった。「田舎源氏」の主人公の名前で、横町というところに、何ともいえぬ味わいがある。  ある民間放送局の受付にいる若い女性を、「長姫」と呼んでいるのを聞いて、珍しい姓だと思っていたら、「長屋の姫君」だった。前のと好一対であろう。  三代目小さんの弟子に、柳家小半治という音曲師がいたが、「メンコの頼朝」といわれた。ある程度、立派な顔だったのである。  六代目菊五郎の支配人をしていた牧野五郎三郎のことを、六代目は、「竹細工の乃木さん」といった。この人の顔は、ぼくも知っているが、その通りである。  写真家の秋山庄太郎さんが、歌手の上条恒彦さんのことを、「食べすぎたキリスト」といった。  明治の劇壇の古老に、幸堂得知という人がいて、長い白ヒゲを生やして、堂々たる風貌だった。劇場の桟敷で、局囲を圧したが、せいが低いので、立ち上ると貧弱だった。綽名を「龍頭蛇尾」。  ある会社の永井という重役が、仕事の上で不調なので、おもしろくない顔をしていたら、若いOLがいった。 「スランプ永井」         □  山県有朋が首相の時、衆議院の壇上に立って、演説をはじめようとした時、体中どこをさがしても草稿がないので、狼狽した。  中江兆民が、その時見ていて、後日徳富蘇峰にいった。 「今まで、これほど痛快なことはなかった」         □  酒井|雅楽頭《うたのかみ》を「下馬《げば》将軍」といった。  その話を歴史の講義で聞いていた徳川家正公が、次の週、学友と乗馬をして落っこちた。  その日から、「落馬将軍」という綽名がついた。         □  西園寺公一さんと北京で会った時、しきりに釣りの話が出た。 「よほど釣りがお好きですね」といったら、そこにいた中国の青年がいった。 「お祖父さんが、太公望だから」         □  木村毅さんが若いころ、家族を連れて、夏休みに、興津に行った。  盆の燈籠流しに寄付してくれといわれたので、いくら出していいかわからぬままに、五円出しておいた。  行事の夜、浜辺の茶店にはいると、札が貼り出してあった。   木村毅様 金五円  その次に、   西園寺公望様 金五円         □  吉田茂さんが、カメラマンに水をぶっかけたことがある。  その直後に、ある人が、こういった。 「総理の気持は、わかるような気がしますが、誰にでも、できることじゃありません」 「なァに、大したことじゃないがね」 「はァ」 「わかっただけでは、仕方がない」 「はァ」 「肝心なのは、実際に水をかけることです」         □  古島一雄という老政客は、芝居について何も知らなかった。  いまの中村芝翫の実父の福助が銀座を歩いているのに出会って、「あれが福助よ」とおしえられたが、チラと見て、不満そうに返事をした。 「頭が大きくも何ともないじゃないか」         □  大蔵次官をした谷村裕さんが、戦前、参宮旅行をした。石渡荘太郎という大臣の秘書官だった時代である。  車中で弁当の差し入れがあり、大臣と二人で食べていると、大臣が話しかけた。しかし、フニャフニャいっていて、よくわからない。  よく聞くと、「入れ歯が落ちた」といっているらしいので、床をさがすと、スリッパと靴のあいだに、異様な物体があり、つまみ上げた入れ歯は、カマボコをくわえていた。         □  池田勇人元首相がエケチットといったという評判があったが、日銀総裁・大蔵大臣をした一万田尚登さんのは、もっと凄かったらしい。 「海山千山《うみやませんざん》」「腹《はら》三寸」「一鳥二石の名案」「プラトン輸出」「ロード公団」「ダザンカイ」「神鬼出没」「予正補算」  ある時は「レオナルド・ダヴィンチの壁画」を「ボナパルトの壁画」といった由。  谷村さんの「大蔵省の便所」という本に列記されている。         □  大野伴睦という政治家が、文壇句会に出席した。折しも、大野氏の出身地、岐阜県の羽島に、新幹線の駅を作ることがきまった直後であった。  句会に出ていた吉屋信子さんが、大まじめで挨拶した。 「おめでとうございます。鉄道唱歌ができますよ。駅は消えても消えのこる、名は伴睦ののちまでも」         □  四代目中村芝翫という役者は、「三社祭《さんじやまつり》」のゼンダマナクダマといったり、「太功記」十段目の「帝《みかど》を流し奉る」を「いかだを流し奉る」といったり、とかく楽しい話の多い人だったらしいが、小道具の藤浪与兵衛を可愛がっていたという。  芝翫は藤浪によくいった。 「お前さん、いつまで小道具をやってるんだい、早く大道具におなりよ」         □  サントリーの創立者の鳥井信治郎の知っていた京都の舞妓《まいこ》が、初代中村鴈治郎のファンで、「成駒屋さんが、紙屋治兵衛の扮装のまま一緒に死んでくれはったら、わたし心中してもええわ」といった。  その時、鴈治郎は七十歳だった。         □  正月二日に、大阪の時事新報の記者中井浩水が、玉屋町の銭湯にゆくと、表戸がしまっている。中井さんは勝手を知っていたので、横からはいると、中に初代中村鴈治郎がいて、初湯を独占、鴈之助という弟子が背中を流していた。 「初湯か」「へえ」「この湯へ来るのか」「あんまり来まへんな」という問答のあとで、鴈治郎がいった。 「じつは風呂は嫌いですのや」         □  松竹社長の大谷竹次郎が、大阪で新聞を見ていると、七代目市川中車が中座で演じている清正について酷評が出ている。気の毒におもって、楽屋にゆき、「新聞で悪口が出ていても、気にせんように」というと、「私は新聞を見たこともありません」  東京で中車が、こんどは絶賛された。  大谷社長が、その日たまたま会ったら、上機嫌の中車がいった。「きょうの新聞、見ましたか」         □  十五代目市村羽左衛門が、パリに行った時、老眼鏡を買いに行くというので、渡辺紳一郎さんが、眼鏡屋に連れて行った。  とっかえひっかえ、いろいろな眼鏡で新聞を見て、「読めねえ、読めねえ」という。  眼鏡屋が首をひねって、「盲人じゃなければ、読めないわけがない」といったので、渡辺さんが通訳したら、羽左衛門が大声でいった。 「横文字は、読めねえ」         □  七代目沢村宗十郎が、戦争中、ほかの役者とともに、明治神宮へ戦勝祈願のため参拝した。  社務所で茶の接待があり、宗十郎は、神官に、うやうやしく、自分の名刺をさし出した。  そして、隣りにいた初代中村吉右衛門の耳もとで、こういった。 「メイシジングウです」  吉右衛門がカンカンに怒った。         □  市川猿翁が、京華中学にかよっているころ、歴史の試験があった。  当時は団子という芸名で、毎日放課後、劇場で芝居をしていたりしたのだから、勉強する時間もない。  ろくな点はとれないけれど、先生も目こぼしをしてくれるだろうと思って、問題を見たら、「三方ケ原の合戦」というのだった。  スラスラ書いて、いい点をとった。 「先月歌舞伎座で出たばかり、ああ、役者でよかった」         □  その猿翁が、俳句を日記につけていたという話を聞いた。 「どういう句が多いんです」と尋ねたら、 「グチをこぼしてる句が多いな」  雲仙ホテルで泊った部屋にこの人の句で、「紅梅やけさ俳優の眉を描く 猿之助」という色紙があった。食事を運んで来た女中さんにいったら、 「猿之助さんてよく知りませんが、隣りの部屋に岸恵子さんのがあります。持って来ましょうか」         □  大阪の劇評家で、本業は医師の高安六郎という老先生がいた。吸江と号した。  たまたま喫茶店で、この高安さんと話していると、中村勘三郎さんがはいって来たので、席に招いた。すると勘三郎さんが、いきなりこういった。 「先生、きのう私がおどっている時、居ねむりしてましたね」  高安さんが即答した。 「いいおどりは、ねむくなるものや」         □  勘三郎さんがフランスに行って、「俊寛」を主演した。  鬼界ヶ島に流された俊寛の悲劇である。勘三郎さんがいった。 「島に流された男の話だから、受けたんですよ、きっと」         □  明治のおわりに、自由劇場の公演があって、ゴリキーの「どん底」を、「夜の宿」という題にして公演した。  二代目市川左団次が盗賊ペーペルの役であったが、木賃宿に泊っている浮浪者の役に出ているのが、藤沢浅二郎の俳優学校の生徒の一人だった。  ペーペルの前を通る時、舞台でていねいに頭をさげて、「失礼いたします」と毎日その男は挨拶した。         □  山本安英さんが歩いていると、たくましい青年に声をかけられた。 「はァ」と返事すると、相手が説明した。 「夕鶴」の時に、子役で出演させていただきました、というのである。  山本さんが、さけんだ。 「まァ、どうしましょう」         □  薄田研二《すすきだけんじ》という俳優が、築地小劇場でひとり舞台の時、セリフを忘れて絶句したと思って、ドギマギした。  じつは、そこはセリフなしで、退場する場面だった。  プロンプターが、「出てゆくんだ」と小声で教えたら、薄田さんは大きなジェスチャーでどなった。 「出てゆけ!」         □  俳優座で、東野英治郎さんが「リア王」をした時、最後に敵に捕えられて病み衰えている王を、小さな車にのせて来る演出があった。  客席でささやいている会話。 「あの車、何だろう」 「リアカーだよ」         □  劇団民芸の南風洋子さんが、以前、北林谷栄さんの隣りに住んでいた。  北林さんが大声でセリフの稽古をしていると、南風さんの家で飼っていた犬が、おどろいて吠えた。  すると、北林さんが戸をあけて叫んだ。 「役者の家の飼い犬が、声におびえて吠えるなんて、そんなことがあってよろしいの」         □  ぼくは、この北林さんの家を訪ねたことがある。「悲劇喜劇」で、いろいろな俳優の持ち役について談話を聞く企画があり、北林さんからは、「泰山木の木の下で」の女主人公である老女の話をしてもらったわけである。  夏の夕方行くと、「風呂をわかしておきましたから、はいって下さい」という。  せっかく焚いてくれたのだからと思い、汗をかいていた時なので、喜んで浴びさせてもらった。  その話を、北林さんの親切というふうに話したら、十日ほど経つと、伝説がもうできていた。 「戸板は、北林さんに背中を流してもらったそうだ」         □  宇野信夫さんの「ひと夜」という芝居を演じる時、金子信雄さんが、主役の使うホウロク灸の小道具を買いに行った。  そのホウロクは、カワラケ(土器)で、ぬれた新聞紙で包んで、耐火させる馴らし方が必要だと、先方が教えてくれた。 「新聞紙は、何でもいいの」と、冗談口調で訊いたら、大まじめに、 「夕刊のほうが、どうも、いいようです」         □  三越劇場の「モナリザの微笑」の時、松竹の別館の稽古場の梯子段が急で、上って来た十朱久雄さんが、「この階段はこわくてね」とイキを切らしながらいった。  ぼくはいった。 「昔からカイダンはこわいものです」  すると、原保美さんがいった。 「ふだんは、私が、それをいうことになっているんです」  その日、ぼくは作者として、家から三時のお茶受けを持って行った。  押入をあけた所にあったものだが、向うで開くと、ブリキのカンだった。見ると、数日前に、実川延若さんから貰ったセンベイである。  原さんが、うれしそうにいった。 「エンジャクなんぞ、センベイのゆくえを知らんや」         □  喜多六平太が大森から荻窪に引越して五日目、日がくれて家がわからなくなった。  店にはいって、「このへんに喜多さんて家ありませんか」といったら、「さァ、知りませんな」という。 「何でも、名高い人ですが」 「一向に、存じません」         □  森本美喜という明治の笛の名人が、自分の笛を質屋に持って行ったが、あずかってくれない。「こんな笛じゃ困ります。音が出るかどうかわからない」 「じゃアおれが吹こう」といって吹きはじめると、いい音が出た。そして外に人が集ってたという。  喜多六平太が、その話をとりついで、最後にいった。 「もちろん、その笛は、五円貸してもらって、流してしまったんだ」         □  若いころ、杵屋六左衛門さんが、稀音家《きねや》浄観を訪ねると、「きょうは神様に会わせる」といった。  床の間の神棚の前にすわらせて、「ここには君の先祖も、うちのおやじもいる。長唄界のみたまがここにはある。きょうは、長唄をどう作曲するか、とっくりと君に教えよう」といった。  六左衛門さんが畏まってきいていると、浄観さんが、「まず五十銭お出しなさい」         □  藤原義江がウィーンにいた時、レセプションで、歌ってくれといわれたので、「ぼくはピアノの伴奏がなければだめだ」というと、人波をかきわけて、見たような顔の男があらわれ、「ぼくが弾こう」といった。  あとで聞くと「未完成交響楽」で主演したハンス・ヤーライだった。 「ピアノはうまかったですか」 「そりゃア、何しろシューベルトだからね」         □  山田耕作さんは、のちに耕作の作に竹カンムリをつけた。  頭に毛がないから、ケを二つのせたので、竹カンムリのつもりではないという。新聞社がこの人のために、活字を作らなければならなかった。  その山田さんが箱根に行って、ホテルの大浴場にはいっていると、ドヤドヤと人がはいって来る。  私語が耳にはいった。 「カラタチが、温泉にはいっている」         □  石井好子さんがスペインのレストランに行った時、ビールが飲みたいので、フランス語でボーイに、「ビエール」といったが通じない。  やむなく、英語の辞典で「ビール」の個所を指して見せると、ボーイは目を丸くしている。  よく見たら、指しているのが bier(棺桶)だった。         □  田中路子さんが、インコを飼っていた。  一九四五年、ウィーンの家にロシア兵がはいって来て、ピストルをふりまわしたりした時、そのインコがペラペラしゃべったら、「ロシア語をしゃべるのか」といって、その兵隊はインコと夢中になって話しはじめ、危険を免れた。 「ほんとうに、ロシア語だったんですか」 「じつは、日本語だと思うんだけど」         □  ある会社の社長が、西条八十に社歌を作ってもらおうと思って、たのみに行った。  ついでに、「みんなで歌えるたのしい歌」をもうひとつ、別にお願いしたいといいだした社長が、「トンコ節だの芸者ワルツだのと、不健全な歌が多いので困ります。ぜひ先生には、明るい歌を」というと、西条さんがしずかにいった。 「トンコ節も、芸者ワルツも、私の作詞です」         □  杉山|其日庵《きにちあん》が、豊沢団平に義太夫の稽古をしてもらった。 「鎌倉三代記」の時姫のクドキで、「おもいやって呉れもせで」というところで、「クレーモオセーデ」と語っていたら、団平が、「牛にならぬように願います」といった。 キョトンとしていると、 「�クレーモオセーデ�の�モオ�がいけません」         □  豊竹山城少掾に、義太夫を稽古してもらっていた実業家が、「うまくなる秘訣は」と聞いたら、 「うまくならなくても、いいのですよ」といった。 「いやらしくさえなければ、よろしいのです」         □  久保田万太郎さんが、山田抄太郎さんをさそって、銀座のバー小唄に行った。  戸をあけると、いく人かの客が小唄を歌っていて、三味線を女の人たちが弾いて、いつものように賑《にぎ》やかである。 「おや先生、お連れがいらっしゃるんですか」 「山田抄太郎さんだ」  その瞬間、店の三味線の音が、バッタリ火に水を注いだように、とまった。         □  杵屋六左衛門さんが俳句を作って、久保田万太郎さんに見せて、 「こんなものをつくりましたが、直していただけませんか」というと、言下に、 「これが直さずにいられますか」         □  その六左衛門さんから、聞いた。  名古屋でタクシーに乗って、弟子とワイワイ話しながらホテルまで行くと、運転手がいったそうだ。 「漫才はどこでするんですか」         □  八代目市川中車は、「私は中年から役者になったんです」と、しじゅういった。  当人は、子役の時から舞台に立った兄弟たちにくらべて、よほど、ハンディキャップがあると思いこんでいたようである。  いつか会った時、ぼくは念のため、尋ねてみた。 「中年というと、四十くらいですか」 「いや、十八歳です」         □  山田五十鈴さんが、音曲の名人立花家橘之助を主人公にした「たぬき」という芝居を、芸術座で上演した。  三味線を本格的に習って、みごとに、演奏してみせ、その年の芸術祭大賞を受けた。  歌舞伎の女形の尾上多賀之丞が見にきた。山田さんには、自分のお父さんの新派の女形だった山田|九州男《くすお》に似ている感じがして、なつかしい人なのだ。  楽屋に来てくれたので、甘えて、「いかがですか」と訊くと、多賀之丞さんがいった。 「あんたも、好きだねえ」         □  菊五郎劇団が「群盗南蛮船」を撮った時、撮影の都合で、前に撮ったシーンのすこし前のところをもう一度撮ることになった。  市川照蔵という役者が出ていたが、同じ扮装をさせられて、また同じ場所に出ることになったら、この老優がぼやいた。 「この前の時は、種板を入れてなかったんでしょう。それならそうと、ことわって下さい」         □  片岡仁左衛門さんが、高峰三枝子さんと共演している時、第二部で、高峰さんが「湖畔の宿」を歌って いるのを聞いて、目を見はっていった。 「あの方、歌も歌えるんですねえ」         □  榎本滋民さんが、新派の芝居を書いた時、花柳章太郎と稽古場で意見が合わず、不きげんな花柳はさっさと帰ってしまった。  翌日になった。榎本さんが劇場にゆくと、まだ花柳は来ていない。  そばにいた役者が、「花柳がおくれて来た時、犬の話をするから、見ていてごらん」といった。  二十分ほどすると、戸口が賑やかになり、花柳の声がした。こういっている。「いまねえ、犬がナニしているのを見ていたんで、つい遅くなってしまって」         □  新派の花柳武始さんが、車を買って走らせたが、中古車で、故障のある部分があった。  大阪で、芝居のかえりに深夜の国道を走っていると、ラジエーターに穴があいていたらしく、水が漏れて、ボンネットから蒸気が出る。  友人の家にかけこんで、大きな声で、「奥さん、洗面器に水をいっぱい入れて持って来て下さい。それから脱脂綿と包帯」とさけんだ。  近所の人がそれを聞きつけると、飛んで来て尋ねた。「けが人でも出たのですか」         □  三遊亭円生が、皇居に行って一席、御前口演することになった。  演目は「御神酒《おみき》徳利《どつくり》」であるが、その日、円生は、まんじゅう一折と、甘納豆一袋を持って行った。 「これは?」と侍従が尋ねると、 「はじめて伺うのに、手ぶらじゃァね、どうも」 一応、前例にないことだが、「御嘉納」に相成ったそうである。         □  昭和五十三年の春、円生が、歌舞伎座で独演会を催した時、中村勘三郎さんと対談した。  舞台での対談がおわった時、円生さんが、勘三郎さんにいった。 「わたし、一生に一度でいいから、花道を引っこみたいんですが、むずかしいもんでしょうな」 「いいや、ただ歩けばいいんです」 「ちょっと教えて下さい」 「まァ、こう歩いて、ここで足をとめて、袖をこのように胸にあてて」と勘三郎さんが教えた。  五、六歩円生さんは歩いて、全部は歩かなかった。しかし、みごとに、さまになっていた。         □  先代の鈴々舎馬風という落語家は、客にむかって、文句をつけながらしゃべるという変わった芸風であった。 「これから話す、みんな笑え」といった調子である。にらみが利いた。  刑務所に行って、「満場の悪漢諸君」といったそうだ。そのあとがいい。 「まァみんな、仲よく暮らすんだな、お揃いを着てるんだから」         □  林家三平さんが高血圧で入院した時、一部の報道で、「三平師匠、芸にゆきづまって錯乱」というのがあった。  なぜだろうと、一門の者がしらべたら、入院したのが、逓信病院だったためであった。 「テイシン病院といったのが、セイシン病院になったんです。もっとも、そう思われても仕方のないところが、ホンのチョッピリ、ありましたがね」         □  ある落語家がある年のくれに、鴨下晁湖画伯を訪ねて、「浪花節の一座に買われて旅に出るんですが、私にはテーブル掛けがありません。浪曲師がみんなテーブル掛けを使っているんですから、私もひとつ持ちたいんです」とねだって、富士山に桜の花という華やかなのを、一枚こしらえてもらった。  鴨下さんは、喜んで帰って行った落語家を見送っていった。 「浪花節の一座なんて、うそだよ。あのテーブル掛けを浪花節の誰かに売るんだ」         □  ある恐妻家の芸人がいた。これも固有名詞をわざとつかわない。  その芸人の妻女が、足を踏みはずして、二階から階段を転げ落ち、腰を打った。出先に電話がかかる。 「大丈夫かい」と、さすがに気になって尋ねると、「いのちに別条はありません」 「そりゃアよかった」といって電話を切った。そばに二人の老いた落語家がいて、将棋をさしている。 「どうしたんだい」と訊かれたので、これこれこういうわけだと説明した。  老人の一人が、しずかに駒を盤におきながらいった。 「世の中って、そう、うまくは行かないよ」         □  落語家の符牒で「ヨイショ」というのがある。お世辞をいうことである。ヨイショと持ち上げるというのが語源らしい。  古今亭志ん駒さんは、アンケートの回答で、「好きなもの」という所に、ヨイショと書いた。         □  小沢昭一さんが六本木のすし屋にはいって行ったら、芥川比呂志さんがいて、だいぶ酔っているらしい。小沢さんは、「芥川比呂志さん万歳」といって、まわれ右して帰った。  そして後日、こういった。「守りのヨイショです」         □  藤本真澄さんは、俳優がスキャンダルにまきこまれた時、ニコニコしていた。  いつも、こういうのだった。 「品行がわるくてもいい、品性さえ悪くなけりゃ」  オツにすましている男を指して、 「あの男は品行がいいけど、品性がわるい」 「何を基準にするんです」 「カンだよ。絶対当る」  藤本さんの作った映画に、すくなくとも、品性の悪い作品はない。         □  著名な女流歌人の三ケ島|葭子《よしこ》は、独特な芸風を持つ俳優左卜全の実の姉である。  左ト全さんも、歌を作った。しかし、そのことについて、大変てれて、夫人には旅先から歌を送ったが、あまり人には吹聴しなかった。 「三ケ島葭子は、お姉さんだそうですね」といわれた時、それには答えず、とぼけてこういった。 「左幸子は娘じゃがね」         □ 「大菩薩峠」の映画を撮る時に、大河内伝次郎が剣士の高野弘正に、タテをつけてくれとたのむと、「ひと晩考えさせてくれ」といって帰った。  翌日、稽古で、机龍之助が三人しか斬らないことになっているので、大河内が、 「もっと景気よく斬らせてください」というと、 「いろいろやってみたが、これだけしか、だめだ」         □  ロケーション先の食事に、大根の煮つけが出た時、浦辺|粂子《くめこ》さんは箸を決してつけない。 「おや、お嫌いですか」といったら、 「だって、とも食いになるもの」  この話を聞かせてくれた黒沢組のスタッフが、付け加えた。 「ほんとの大根たちは、うまそうに食べてたっけ」         □  天津乙女さんは、ハンドバッグに、万年筆を入れたことがないそうだ。 「むかし、表を歩くと、サインしてくれといわれましてね。たいてい書くものを持たずにたのむ人が多いのです。ですから、書くものがないとことわるために、持たないんです。持っていて、持たないというほど、すれてはいなかったんです。そのころの癖が、ついているんですよ」         □ 「言ってしまった」というのを、上方の方言で、「ゆうたった」という。  宮城まり子さんが、鈴木治彦アナウンサー司会のTBSモーニング・ジャンボに出て、二十年に及ぶ吉行淳之介さんとの長いつきあいについて、はじめて告白した。  質問に答える形だったが、終始、てれていた。しかし、話しおわったあと、宮城さんは、うれしそうに叫んだ。 「ゆうたった、ゆうたった」         □  倉本聰さんが書いていたが、テレビの脚本では、簡単な字画の名前を考えると、たすかるそうで、一《はじめ》という名だと、じつに楽だという。  NHKの大河ドラマ「勝海舟」の脚色をたのまれた時、「海舟」なら、わりに字画がすくないと思って喜んでいたら、打ち合せの時、プロデューサーが、ひややかにいった。 「台本には、麟太郎と正確に書いてください」         □  その倉本さんが、ニッポン放送に在社していたころ、急に派遣されて、遭難事故のあった富士山に行ったことがある。  いろいろ苦労があったが、とにかく現地から電話で状況を報告して、中継という役目を無事にはたし、ホッとして帰って来た。  翌日、局にゆくと、部長がちょっといらっしゃいというので、ついてゆくと、編成と報道の管理職が渋い顔ですわっていて、「録音をきいてみたまえ」といった。  テープに現場からおくった声が流れて来た。自衛隊が出動したことを倉本さんは、こう叫んでいた。 「朝から、自衛隊のやつらが」         □  島津保次郎という監督は、至って大ざっぱな人だったらしい。 「イタリアにあった小説で、宮廷生活を暴露したのがあったなァ、ヘチマコロンじゃなし」とつぶやいているので、そばにいた助監督が、「デカメロンじゃありませんか」といったら、 「そうそう、そのメロンだ」         □  吉村公三郎監督が、戦前「暖流」という作品を演出した。  批評を見ると、「キザな映画だ」というのが多いので、気にしていた。  岩田豊雄さんに不安を訴えたら、こういった。 「原作のほうがキザだ。原作よりも、その作者(岸田国士)は、もっとキザだ」         □  小津安二郎監督の十七回忌の日に、故人を追慕する人が集って会をしたが、行ってみると、雰囲気が小津作品そのものだったので、訊いてみたら、そのへんにある小道具が、すべて小津組の映画で使ったものだったという。  笠智衆さんが読経をした。生家が寺だから、みごとに大役を果たした。  この話をした横山隆一さんは、こういっている。「私は背が低いので、ますます小津さんの映画に出ているようでしたよ。ロー・アングルのカメラというわけ」         □  小山明子さんが、大島渚監督の夫人であることは、知られている。  フジテレビの小川宏ショーで、小山さんが出演して、キモノについて、しゃべっていた。  小川さんが、突然尋ねた。 「小山さんは、やはり、和服では、大島がお好きですか」 「はァ」といったあと、小山さんは、真っ赤になった。         □  大映の社長だった永田雅一さんには、ラッパという綽名があった。  新聞記者がある時、尋ねた。 「滔々《とうとう》とお話を伺っていると、なるほどラッパとはうまくつけたと思いますが、いったい誰がいいだしたんでしょうね」  永田さん、ケロリと、 「私自身がつけた綽名です」         □  ある時期、大映で「母」という作品があたってから、似たような映画が次々に作られた。三益愛子さんが主演して、宣伝のキャッチフレーズに「四倍泣けます」。 「柳の下にドジョウが何匹でもいる」といわれたのもこのころで、「母」という字を入れた映画を企画し続けた。  しまいには、タネがなくなって、 「ハハのんきだネというのは、どうだ」         □ 「浪花女」を撮影する時、田中絹代さんが京都に行くと、駅に大ぜい出迎えに来ていた。手をさしのべる年配の男がいて、「さァ荷物をどうぞ」というので、いちばん大きなカバンを渡した。 「溝口先生はどこにいらっしゃるんですか」と、愛想のつもりで、田中さんが、その人に尋ねたら、 「私が溝口です」         □  溝口健二監督が「山椒太夫」を演出した時、安寿姫と厨子王の母親の役を田中絹代さんが演じた。監督は、「肉食はいけません、菜食だけにしてやせて下さい」と命じた。女優は、命令に従った。  撮影がおわったので、待ちかねていた田中さんは、京都の町にビフテキを食べに行った。  さてダビングといって、声を入れる仕事になった時、田中さんが「厨子王」と叫ぶ場面で、二時間同じセリフをいってもOKが出ない。  録音室からレシーバーをつけて出て来た溝口さんがいった。 「あなたの声に、きょうはツヤがある。声がちがっている。何か食べたでしょう」  結局、「厨子王」というのに五時間かかって、やっと「これでいい」といわれたら、夜の十二時になっていた。  田中さんがいっている。 「ほんとに鬼に見えましたよ、あの日の先生」         □  山本嘉次郎さんと、文藝春秋の本社の近くの料亭で会った時、すわると、すぐ桜餅が出た。  このごろの、例のビニールで作った葉で包んである。 「この葉っぱ、どうして作るか知っていますか」という。 「いいえ」 「ビニール栽培ですよ」         □  東宝で「忠臣蔵」を作った時、懸賞で配役当てを公募した。  浅野内匠頭の奥方を、瑤泉院《ようぜんいん》という。夫が死んだあと、仏門にはいってからの名前である。ところが、撮影所に届いて来るはがきを見ると、瑤泉院という下に、志村喬というのが十五、六通あった。  老いたる僧とまちがえたのである。         □  その時、内匠頭に扮したのが、若き日の加山雄三さんである。  たまたま、映画三田会で会った時、加山さんがぼくに質問した。 「瑤泉院ていうのは、内匠頭より年上ですか」 「そんなことはないはずだが、どうして」というと、つまらなそうな顔をしていった。 「いや、司葉子さんときまったものですから」         □  宝田明さんが映画に出演していたが、ある場面のセリフをいうイキが悪いというので、監督がいつまで経っても、リハーサルを続ける。  NG、NGで、宝田さんは、泣きたくなった。共演の高峰秀子さんがそばにいたので、「ねえ、どうしたらいいか、教えて下さいよ」といったら、女優はじっと見返して、こう答えた。 「わかっていたって、もったいなくて、教えられますか」         □  東宝の岡本喜八監督は独身時代に、夏は月に一回、冬は二カ月に一回ぐらいしか、入浴しなかったそうだ。  結婚してからも、週に一回か、十日に一度という程度である。 「浮雲」で成瀬組の助監督をしていたころ、高峰秀子さんがこういったと、岡本さんは、「ななめがね」という本に書いていた。 「喜八ちゃんのそばを通ると、西部劇のウマヤのにおいがする」         □  撮影所で、小道具の人が義眼を床におとして、一生けんめい探しながら、つぶやいていた。 「わしも、おち目やなァ」         □  東宝の撮影所で、藤本真澄さんが、宣伝部の斎藤忠夫さんを呼んで、「君にいいたいことがある」といい、手帳をあけた。そして、「ええと、何だっけなァ、宣伝課長を叱ること、と書いてある。要するに、今後気をつけたまえ、わかったら帰ってよろしい」  この話、社長物のシリーズで、さっそく使った由。         □  團という字を、略字で団と書く。團伊玖磨さんは、団と宛名に書いた郵便物を一切拒否するそうだ。  東宝映画に団令子という女優がいた。  この場合、団とポスターにも書いていた。ファニー・フェースと呼ばれたひとである。  本名は森令子、団という姓を考えたのは、藤本真澄さんだったが、理由を訊いたら、「うん、彼女風邪をひいていたんでなァ、風邪の薬にダンというのがあるじゃないか」         □  森繁久弥さんに教わったのだが、三木のり平さんが、いつぞや大森辺で、こんなことがあったと話したそうだ。 「ずいぶん前ですがね、遊んだあと、仲間と三人で駅まで行ったら金がないので、持っていたポルノ写真を出札口にほうりこんで、新橋三枚といいました」 「ほほう」 「すると、その写真をじっと見たらしいタイミングがあってから、三枚の切符が、スーッと出て来ました」         □  永来重明さんに聞いた話だが、森繁久弥さんの家で、むかし来客があって、酒をもてなしたが、いい気持でのんでいるうちに、あらかたビンがからになってゆく。  森繁さんが、「おかわり」と叫ぶたびに、夫人がこまって、卓の下で、森繁さんの足を蹴っていた。簡単に買いたせる時代ではなかったのだ。  そのうちに、客がそそくさと帰って行ったので、森繁夫人がいった。 「あんなに合図したのに、あなた、おかわりおかわりとおっしゃるんですもの」 「ちっとも知らなかったよ」  夫人は、客の足を蹴飛ばしていたのだ。         □  フランキー堺さんが、パリに行った時、宮田重雄画伯の長男が向うにいた。宮田さんのいわゆる巴里息子である。  二人でエッフェル塔にのぼって、欄干にみやげ物屋で買ったナイフで、名前を彫りつけることになった。  帰国したフランキーさんが、お父さんに報告した。 「彼が見張りをして、私が彫っていると、彼がいうんです。ついでに上に相合傘《あいあいがさ》を書けって」         □  篠田正浩監督が、「夜叉ヶ池」を撮影しおわって、記者会見に出た。  主演した坂東玉三郎の話をする時、雄弁で鳴らした監督は、絶句した。なぜなら、主語で、一々つかえるのである。 「彼女、いや彼が、彼のもっている、彼女のよさを、ええ、わからなくなっちゃった」         □ 「火の鳥」という映画に出演していた木原光知子さんが、クランク・アップしたあと、友人にこういったそうだ。 「私と一緒の場面に出ていたのが、美輪明宏、ピーター、カルーセル麻紀。私がいちばん男みたい」         □ 「青春の蹉跌《さてつ》」という映画で、桃井かおりさんが台本を見ていると、「故郷に錦をかざる」と書いてある。 「錦」が読めないので、共演している萩原健一さんにきいた。「ワタだよ」と、ショーケンと呼ばれる俳優は即答した。  そばにいた助監督があわてて、「ニシキですよ」と注意すると、ショーケンは、眉も動かさずにいった。 「ああ、ニシキワタっていうもんな」         □  テレビドラマのリハーサルの時、ディレクターが松原智恵子さんに、 「この役は、つけまつげをしないで下さい」といった。  すると松原さんが、 「あの、これ、自前《じまえ》なんですけど」         □  中村メイコさんが、名古屋でタクシーに乗ったら、運転手が、「あんた、メイコに似ているね」といった。  そういう時、わざと土地の方言でしゃべったりして、本物とちがうイメージを作るのが、メイコさんの方針である。  降りる時、いくらか遊んだ埋め合せのつもりもあったので、メイコさんが、「お釣りはいらないわ」といった。すると運転手がこういったそうだ。 「ほかの女優の名前をいいましょうか」         □  黒柳徹子さんが、NHKテレビの「連想ゲーム」に出演したことがある。まだはじまったばかりのころで、女性チームのキャプテンは、中村メイコさんだった。 「バケツ」という問題の時、黒柳さんにメイコさんが、「ブリキ」といったら、すぐに黒柳さんは、「キツツキ」といった。  瞬間、尻とりだと思ったのだそうである。         □  黒柳徹子さんと会って話している人が、相手の顔を見ながらいった。 「直接お目にかかっていると、案外、早口じゃないんですね」 「そうですか、電波に乗ると、早くなるのかしら」         □  小川宏ショーに投書をしようと思って、はがきを書いていた主婦が、「いつも小川さんは」と書いた時に、その夫がのぞきこんで目を光らせ、「小川って誰だい」と、とがった声を出した。  主婦がいった。 「大丈夫よ、心配しなくても。停電になると、会えない人だわ」         □  その小川宏ショーに、以前、加賀富美子という可憐なキャスターがいて、俳句を作っているらしく、時々、新作を披露したりしていた。  その加賀さんのインタビューが、東京新聞にのったのを読んでいて、うれしくなった。  記者は、彼女の俳句について書き、「加賀の富美女は、次にこういった」としていたからである。         □  やなぎ句会に出席したら、その日は不運にも、ぼくの句に一向人気がなく、選の時に、やっと一点はいっただけで、十数人の出席者の中で、最下位であった。  会場は、赤坂のホテルニュージャパンの日本間で、部屋の隅に、石庭の模型があったりする。  ゲストのぼくが、しょげて、帰り支度をしていると、大西信行さんが、「その石庭の小石でもお持ちになりますか」という。 「えッ?」と訊きなおすと、 「甲子園の砂ですよ」         □  永六輔さんの家に、ある雑誌の人がカメラマンを連れてゆき、永さんのお母さんを撮影しようとした。  永さんの家は、浅草のお寺である。  お母さんは、向い側の寺の前に行き、写して下さいといった。「うちの寺は小さいから」         □  永さんが、ラジオでいった。 「このごろの子供は、小づかいを貰いすぎます。小づかいは、すくないなと思う位がちょうどいい。お布施《ふせ》は、多いなと思う位が、ちょうどいいのです」         □  TBSラジオで、週一回、永さんが朝から夕方まで出演している時があった。歯科医に昼前に行き、午後また行った。いつ行っても、永さんの声がしている。  按摩が横町の入口で犬を踏み、ずっと先の出口で、別の犬を踏んで、「この町内の犬は長いなァ」といったという小咄を思い出した。         □  戦争中、渡辺紳一郎さんが、現役のパリパリの記者の時、イタリアから宰相ベニト・ムッソリーニの長女が来日、車中談をぜひとって来いといわれた。しかし警備がきびしくて近寄れないので、一度も会わずに、しかし記事は書いた。 「日本に来てうれしかったのは、駅にとまるたびに、父の名が呼ばれるからです。ベニト、ベニトと」  それが翌朝の新聞にのり、渡辺さんは社会部長から金一封を贈られ、朝日新聞は、イタリア大使館から、厳重な抗議を受けた。         □  渡辺さんは外国語の達人だった。  英語、フランス語、スペイン語が、ことに得意だったが、エスペラントも、うまくしゃべることができた。  渡辺さんは、こういっていた。 「ぼくは、エスペラントを、その国の人のように話せると、いわれたものだよ」         □  九州に八幡放送局ができた時、開局祝に、「私の秘密」の公開録画をおこなった。  たまたま、仕事で行っていて、同じ場にいたので、ぼくの目で見ているのだが、土地の製薬会社の社員が、何か渡辺さんにたのみに来ていて、会社の製品を山のように持ちこんだ。どうぞ、お持ち帰り下さいというわけである。  旅先で大荷物を渡すというだけでも無神経な話で、渡辺さんは見る見る、不きげんになった。そして、「ぼくは薬なんかいらない」という。 「しかし、せっかく持って来たのですから、お受けとり下さい」と若い社員も強引である。 「ぼくは、そういう薬の見本なんか、ほうぼうから貰うので、ありがたくもないんだよ」 「まァ、そうおっしゃらずに」  押し問答をしているうちに、とうとう癇癪玉《かんしやくだま》が破裂した。  渡辺さんが、どなった。 「一度、ぼくの家に来てみろ。もらった薬だけをしまっておく部屋があるんだから」         □  渡辺さんから直接聞いた話である。これも「ベニト」と同じように、作り話であろう。  ある女流舞踊家が、病気になって、容体は軽くなかった。  この女性は、歌舞伎俳優の八代目市川中車とは、かなり親密な仲だったと伝えられる。  うとうとしている病人の耳もとで、医者が看護婦に、「注射を」というと、病人は、薄目をあけて、こういったというのである。 「チュウシャ? 今は会いたくないわ」         □  ある美貌の女性で、目の大きなひとがいて、日比谷の近くのビルで、すし屋を開業していた。  その店で、渡辺さんが友人と食べて勘定を払い、外に出た。  友人が、「ママはあいかわらず、きれいだね。目が大きくて、魅力がある」というと、渡辺さんはニヤリと笑って、 「ママの目も大きいが、こっちの目も飛び出しそうだ。あんまり高いので」  以上二人の女性について、固有名詞はわざと伏せて書くことにした。         □  銀座を、背広を着てノー・ネクタイで歩いた最初の人物が、渡辺さんだといわれる。今なら何でもないが、戦争前は、それは服飾のルール違反であった。  社会部長の鈴木文史朗さんが、注意した。 「きみ、やはりネクタイはつけて歩きたまえ、朝日のために」  渡辺さんが、きり返した。 「ところで部長、Mボタンをかけて下さい。朝日のために」         □ 「私の秘密」のレギュラーだったから、藤浦洸さんと渡辺さんは、親しかった。テレビの録画の時に必要があって、藤浦さんが渡辺さんから、一万円用立ててもらった。  それをいつ返そうかと思っていると、数日のちにパーティーがあり、その席で渡辺さんが大きな声で、「汁粉を三杯食べてみせるが、一万円、賞金に賭けないか」といっている。意味がわかったので、藤浦さんが手をあげた。  まわりの人たちは、おもしろがって見ている。渡辺さんが三杯目をあけると、拍手がおこった。 「はい一万円」といって、藤浦さんが渡辺さんに手渡すと、藤浦さんは、そのへんにいた芸能人たちにとり囲まれた。中には、こういった人もいた。 「私にもやらせて下さい。五杯一万円でいいですよ」 [#改ページ]   ㈼  島村抱月が、ロンドンに留学している時、日露戦争がおわった。  下宿の少女が来て、「あなたの国のアドミラル(提督)は、勝利に結びつきそうな名前ね」といった。  抱月は、少女が何をいっているのかわからなかった。首をかしげている日本人を見ながら、少女が、じれったそうにいった。 「だって To go じゃありませんか」         □  九州に行った菊池寛が、旅館の野立ち看板に、「見晴らし絶佳」と書いたのを見て、うれしそうに、いった。 「きみ、こっちでは、景色のことを、見晴らしというんだね」  そばにいた大佛次郎さんが、「日本中、どこでも、そういうよ」というと、 「ああ、そうか」         □  菊池寛が、大正時代に、劇作家組合を作ろうと思い立った時、こういったそうだ。 「洗濯屋みたいに、われわれも、ひとつ組合を作ろうじゃないか」         □  横光利一が、原稿用紙をにらみつけている。一行だけ書いてあった。  翌日も、そうして、にらんでいた。  のぞいたら、こう書いてあった。 「今日はきのうの続きである」         □  尾崎士郎が、文藝春秋の文士劇で、「忠臣蔵」に出演してくれといわれた。  赤穂浪士の役をことわって、吉良の付人である清水一角に出た。 「義士なんかに出たら、もう国には帰れない」郷里が、三州の吉良なのである。  尾崎さんと高田保合作の歌がある。 「吉良の殿様よい殿様」というのだ。 「少数意見さ、つまり」         □  尾崎士郎が、相撲について、いろいろしゃべったあとで、 「念のためにいいますが、実物にあたってみないと、理論だけじゃわからないものがありますね。女郎買いと同じです」         □  泉鏡花は、写真をとられるのが嫌いで、カメラを見ると、ふるえ出した。  そのくせ自分は写真を写し、自宅に暗室まで持っていた。 「何を撮るんです」と尋ねたら、 「女のひと」  吉田茂元首相もカメラ嫌いだった。吉田内閣の時代、新聞社に入ったカメラマンに部長がいった。「目に見えるものなら、何でもとれ。吉田さんの時だけは、あらかじめ、私に相談しろ」         □  森鴎外の「即興詩人」の初版は、四号活字で組んである。  鴎外が、大きな活字を使ったのには、こういう考え方があった。 「私はこの本を母親に読んでもらいたいんです」         □  高浜虚子が、御木本幸吉翁を訪ねたら、何のご馳走もないからといって、海に連れて行った。  そこに海女《あま》がやって来て、全裸になり、水中に飛びこんで、貝をとって来た。  御木本翁が虚子をじっと見て、 「お気に入ったかな」         □  志賀直哉全集を岩波書店で作る時に、編集同人として、武者小路実篤、長与善郎、柳宗悦、里見※[#「弓+享」]、梅原龍三郎、谷崎潤一郎、広津和郎、滝井孝作、谷川徹三、尾崎一雄、網野菊という連名があり、志賀さんの長男の直吉さんと、阿川弘之さんが加わった。  最初の集りの時に、阿川さんが挨拶した。 「何分、直吉さんと私は、著者とのつきあいが浅いものですから」         □  ぼくの実見した光景である。  ある会合で、志賀直哉さんと広津和郎さんが、松川事件の話をしていた。  里見※[#「弓+享」]さんが近づいて、だまって聞いていたが、急に質問した。「松川事件って、何だい?」  二人は顔を見合せて、しばらく黙っていたが、志賀さんがいった。 「説明するのに、時間がかかるね」         □ 「シラノ」を訳した辰野|隆《ゆたか》さんは、自分の訳本を暗記していた。  パリに行って、コメディ・フランセーズで「シラノ」を見た時、こう思った。 「舞台のフランス語が、日本語として、出て来る」         □  車谷弘さんが、内田|百※[#「門がまえ+月」]《ひやつけん》さんに小唄をきかせた。 「いかがでしょう」といったら、百※[#「門がまえ+月」]さんがしばらく黙っていて、 「正しい日本語です」         □  渋沢秀雄さんが、いとう句会で、「汐干の子逆光に砂を砕き走《は》す」という句を作った。 「芸術写真みたいな句です」久保田万太郎さんがいった。  すると、誰かがいった。 「ただし落選した芸術写真」         □  慶応の予科の時に、英文学史を教わったのが、戸川秋骨さんだった。  戸川さんのお嬢さんにエマさんがいること、その名前がエマーソンからとったことを、学生は知っていた。  講義が年代を追って進行、次の週はいよいよエマーソンが出てくるという時に、学生が、そのことを質問しようと話し合っていた。  その週、戸川さんは順々に話してゆき、やがて、「エマーソンは飛ばします」といった。         □  文芸評論家の服部達は、するどい目を持った人物だったが、自殺した。  死ぬすこし前に、ある夫人を訪ねて、こういったそうだ。 「日本になぜ、立派な文学が出ないか知ってますか。あなた方が貞淑だからです」         □  泉鏡花がかつて、若き日の里見※[#「弓+享」]さんを評して、「きせるをアイクチのように使う男」といった。  久保田万太郎さんは、こういう表現に酔う人だった。戦後間もなく、その久保田さんと歩いていると、新橋の駅の前で、神田伯龍にあった。  無精ひげをはやし、じじむさい姿だった。久保田さんはいきなり、こういった。 「片岡直次郎が、丈賀になってしまった」。これは「天保六花撰」の芝居に出てくる色男と按摩の名前である。  そういうと、伯龍はさびしそうに笑ったが、久保田さんは、別れたあと、得意そうな顔をしていた。         □  里見※[#「弓+享」]さんが、新聞小説を書くことになった。書きはじめるすこし前に、新聞社から、担当の記者が来て、「今連載している佐藤春夫先生の文章に、むずかしい文字が使われているので困っています」といった。  里見さんが、白い歯を見せていった。 「予防注射をしに来たな」         □  久保田万太郎さんは、空襲で焼け出される覚悟を、一年も前からしていた。  若い時と大震災の時と、二度火事にあい、三度目だといつもいっていたが、なかなか焼けず、昭和二十年五月二十四日に、やっと、越して行ったばかりの三田綱町の家で焼けた。  渋沢秀雄さんに宛てた葉書に、 「二十四日早暁、きわめて無事に罹災」         □  渋沢さんが、宝塚歌劇団を引率してサンフランシスコに行ったが、あまり入りがよくなかった。  帰って来て会社に報告した時、こういった。 「五月になっても、薄ら寒かったのです。天候のせいで、興行は不振でした」といったあと、ひと息入れて、「ナポレオンも天候には負けております」         □  久保田万太郎さんが、若い夫人を貰った直後のことである。  酒席で、夫人がはしゃいで、「あたしが赤坂にいた時ね」と話しはじめたら、久保田さんが、いった。 「赤坂、赤坂って、大学じゃあるまいし、自慢そうにいうことはないよ」         □  久保田万太郎さんは、樋口一葉については、研究も発表しているし、その代表作を劇化して、数編をのこしている。  久保田さんに会って、ヨイショのつもりで、「一葉は若死にして、惜しかったですね」という人があったが、ニベもない返事だったそうだ。  こう答えたというのである。 「一葉が長生きして、おばあさんになった姿なんか、見たくないね」ひと息入れて、 「芸術院の総会で、出会ったりして」         □  植草甚一さんは、編集スタッフに重宝がられた人だったという。  空白ができた時に、たのむと、所要字数で、適切な原稿を書いてくれる。  ウメクサ甚一といわれた。  こういうシャレを、出版社ではよくいう。  昔、久保田万太郎さんが、小説に渋滞して、「あとは次号に続く」としたがった。原稿のおわりに(未完)と書いて届けて来たのを見て、改造社の山本実彦社長が苦笑しながら、「またミカンぶねか」         □  川口松太郎さんが、丹羽文雄さんに、ある日、こういった。 「君、人間は四十をすぎると、自分の顔に責任を持たなければいかんぞ」  丹羽さんが感心して、うなずこうと思っていたら、川口さんが言葉を続けた。 「と、リンカーンがいった」         □  岩田豊雄さんの還暦を祝う野球が計画された。文壇人と文学座の試合で、里見※[#「弓+享」]さんはセンターを守り、ヒットを打った。  終わってから「敢闘賞」といって、賞品をもらった。席に戻ろうとすると、「副賞があります」というので、何だろうと思っていたら、杉村春子さんが来て、頬にキスした。  昭和二十八年の話である。         □  花森安治さんは、長髪にパーマをかけていた。スカートも穿いたが、頭も女性にまぎらわしかった。  池島信平さんと花森さんが旅行をして、おなじ部屋に寝ていた。マッサージをたのむと、目の見える女性がはいって来て、池島さんにいった。 「何でしたら、奥様から先にいたしましょうか」  どうしましたと池島さんに訊いたら、 「ぼくは、飛び起きたよ」         □  火の会の講演旅行で、草野心平さんが、中島健蔵さんと佐藤敬さんに同行した。  車中、二人が早口の雄弁で、とめどもなく、しゃべっている。 「おい、富士山だ」と草野さんが教えても、中島さんは「お前は富士が好きな男だな」といったきり、まだ、しゃべっている。  草野さんは、その時以来、中島さんに「プロペラ」、佐藤さんに「自動ピアノ」という綽名をつけた。         □  中島健蔵さんが、フランス文学の講義を講習会でしていた時、演壇でしじゅう、時計を見ていた。  お父さん遺愛の金時計である。 「ぼくの時計は、しじゅうとまるんだ」とそのあとで中島さんがいったので、「だって何度も見ていたじゃないか」と誰かが笑うと、 「止まっているかどうかを見ているんだ」  佐藤正彰さんがいった。 「それじゃ、ケンチの時計は、ストップ・ウォッチじゃないか」         □  こういう伝説がある。  今日出海さんと、臼井吉見さんが、九州の講演旅行に行った。  案内された宿が、田圃《たんぼ》の真ん中で、まわりの田に食用ガエルがいて、しきりにブウブウ鳴いている。 「うるさくてかなわん」と二人が文句をいい、しかし、就寝した。その夜はカエルが鳴かなかった。  二人のイビキが大きいので、カエルが鳴りをひそめたというのである。         □  真船豊さんが戦前、大陸に旅行した。それまで和服しか持っていなかったので、洋服を新調した。そして、それから靴を買った。  今日出海さんと歩いている時、真船さんが質問した。 「靴って、こんなに痛いものかね」  見ると、小さな靴を穿いている。 「君、これは足に合っていないじゃないか」 「ぼくは靴屋が出してくれたのを、だまって買ったのだ。下駄は、そうだろう?」         □  小林秀雄さんが、湯川秀樹博士と雑誌で対談したあと、永井龍男さんと歩いていた。  永井さんが、対談に出て来たエントロピーという言葉について尋ねると、小林さんが、「平面へ平面へと、移動するエネルギーの法則だ」というふうに説明する。  そういう直後、永井さんは鶴岡八幡宮の溝《みぞ》に落ちていた。  手をのばしてもらって、永井さんは這い上ったが、小林さんがポツンといった。 「つまりな、これがエントロピーの法則だな」         □  千家元麿という詩人が、歌をみんなの前で、歌うことになった。 「いま、ちょっと、声が出るかどうか、たしかめてみる」というので、みんながじっと待っていると、いきなり、 「キャーッ」といった。         □  長与善郎さんがある時、「紀元節というものが好きだ」といった。  ふしぎに思って、理由を尋ねると、 「建国がどうとか、そんなことじゃないんだよ。雲にそびゆるという歌が好きなんだ。ただそれだけだ」  長与さんは、「どうでもいい」と独り言をいうくせがあった。 「ぼくは話をして、よくツバを吐く。ツバを吐かない時は、どうでもいいっていうんだ」         □  ある人が武者小路実篤さんの家を訪ねると、カボチャを写生していて、書き損じてまるめた紙が散らかっている。 「これ、もらっていいですか」というと、武者小路さんがその紙をとりあげて、「これはにせものだ、本物をあげる」という。  待っていたら、新聞紙にカボチャを包んで持って来て、 「ハイ、本物」         □  武者小路さんのところに、就職したい若者のために、一言何か書いてやってくれというたのみが来た。  武者小路さんは、若者が片親育ちと聞いて、何とかしたいと思った。しかし、当人に会っていない。問い合わせて、「いい人なのか」と確かめた。  そして、返事を聞くと、スラスラと名刺に書いた。 「いい人だそうです」         □  武者小路さんは、ひとりで返事をするくせがあったそうだ。 「奥さんの具合はどう」といって、ひと息入れて、相手が何もいわないのに、 「そう、もういいの」         □  これも武者小路さん。  宿につくと、富士山に向かって画架を立て、さっそく描きはじめたが、見ると、富士山の脇の山を描いている。理由を訊いたら、 「富士山は、芸術になりすぎてる」         □  正宗白鳥さんは、軽井沢へのゆきかえりに、他人の小説を熱心に読んでいた。  しかしこういった。 「ぼくは自分の小説は読んだことがない。書いてしまうと、もう面白くないんだ」         □  正宗さんが、しみじみこういったそうである。 「身のまわりを見てくれる美少女がいたら、軽井沢の別荘を、やってもいいんだが」         □  深沢七郎さんが、はじめて正宗さんを訪ねた時、どうしても、大きな池がある家だと思いこんでいた。  なぜそう思ったかと、あとで考えたら、名前が白鳥だからである。  同時に、正宗という姓なので、「先生の家は、あの、桜正宗の」といったら、「関係ないよ」という返事が帰って来た。  正宗さんに深沢さんが、「いい小説か、わるい小説か、先生は、何できめるのですか」と質問したら、正宗さんが答えた。 「うん、カンだな」         □  深沢七郎さんの「楢山節考」が劇化され、歌舞伎座で上演されたことがある。  舞台稽古を深沢さんは見に行っていたが、尾上松緑の息子が三代目市川左団次の老婆をすてに行くところを見ていたら、可哀そうでたまらなくなり、大声でさけんだ。 「お母さんを連れて帰ることにして下さい」  するとそばにいた演出助手がいった。 「そんなこと、今ごろ、おっしゃっても、困りますよ」         □  文藝春秋の初代社長、菊池寛は、色紙によく、こう書いた。 「読書随処浄土」  二代目の社長、佐佐木茂索さんは、時々こう書いた。 「ひとみなのいのちほろばばほろぶべし おのがいのちにつつがあらすな」         □  今東光さんが講演旅行に行って、旅館で持ちこまれた色紙に、墨痕美しく、筆を動かしている。  筆を持つのが苦手の作家が、いまいましそうな顔をしていった。 「坊さんは、塔婆を書きなれてるからな」         □  朝日新聞の大記者だった杉村楚人冠が、若い記者に、こういったそうだ。 「新聞記者というものは、鉛筆と手帳をむやみに出すものじゃない」  ところで、現代劇を劇場で見ていると、新聞記者というと、かならず、鉛筆と手帳を出す。演出家も、それを俳優にすすめる。稽古場で、たまたま楚人冠の話をしたら、俳優がいった。 「せめて、小道具でも使わなければ、ぼくは記者には見えませんよ」         □  杉村楚人冠が東京駅で、二等車の切符を買おうとしていると、花柳界の女性らしい年増が、いきなりつきのけるようにして窓口の前にかけ寄り、「早く下さいよ、急いでいるんだから」と、カン高い声で叫んだ。 「どちらへ」と訊く。当然であろう。女性は、じれったそうに叫んだそうである。 「うるさいわねえ、どこだって、いいじゃないの」  杉村さんが思った。 「おもしろいが、記事にはならない」         □  柴田錬三郎に聞いたのだが、水上勉さんが、何かの役に立つので、「上様」と書いた領収書を人からもらっておいた。  その話をして、水上さんがいったそうだ。 「ぼくの場合、便利だぜ。水と書きたせばいいんだから」  中日ドラゴンズの監督が料亭で領収書をもらった。「上様」と書いてある。  監督は笑っていった。 「中様と書いて下さい」         □  円地文子さんと、「銀座百点」の座談会が例月会場の吉兆で催されてから二、三日のちに、また同席した。 「戸板さん、きのうは昼間、仕事で、四谷の丸梅に行ったんですよ。夜は、また吉兆」 「ぜいたくですね」と溜息をついた。 「きょう、私が何を食べたかご存じ」 「さァ」 「インスタント・ラーメン」  こういう会話は、芝居にはならない。         □  一九七四年に中国に招かれて行った時、文化界代表団の団長は、土岐善麿さん、ぼくが年齢順で、副団長だった。  杭州のホテルにゆくと、すこし前にアメリカのニクソン大統領が来て泊った部屋が、団長に割り当てられた。  隣りが、ぼくの部屋である。朝食の時に、ぼくはこういった。 「土岐先生、ぼくの部屋にきっとキッシンジャーが泊ったんですよ」 「うーん、きっとそうだ」  それから二十日ほど経って、東京で土岐さんと会ったら、こういわれた。 「杭州でニクソンの部屋に泊った話は、よそうや」 「なぜです」 「アメリカにあやかって、喜んでいるようで、みっともない」         □  この旅行の時、北京の故宮で、中国の出土品の展示を見た。  すばらしい青銅で、古代に作られた名品が陳列されている。一点一点、丁重に扱われているのがわかった。  当時八十八歳の土岐さんが、部屋から部屋へ移ると、敬老の精神に富む中国人は、そのたびに、うしろに椅子を持って行って、すわらせようとする。  土岐さんは口をとんがらせながら、いった。 「ぼく、出土品じゃないんだがねえ」         □  中村真一郎さんは若いころ、童顔だといわれた。  二十歳の時、横光利一を訪問したら、こういわれたそうだ。 「ぼくは原則として、中学生には面会しないことになっているんだが」         □  武者小路実篤さんがいった。 「ぼくは図画は小学校で六点ぐらいだった」 「文章は」 「作文も六点、よかったのは算術」         □  徳川夢声と武者小路実篤の「問答有用」の対談。 「キングの別冊、拝見しました」 「キングは書いてないよ」 「だって、さっき読んで来たんですよ」 「そうかね、キングにも書いたかね(笑)。面倒くさくなって書いちゃう、あれなら一日で書けるんでね」         □  浅野長武という旧広島藩十九代の当主に当る元侯爵に、徳川夢声さんが会った。  大名の日常生活について、いろいろな話が出た。どうしても、セックスに関して尋ねたくなったが、何といっていいか、わからない。 「最後にやっと思い切って、私は質問したんです」 「何といって」 「しようがないから、こう訊きました。あのゥ、ご夫婦のおんことは」         □  夢声さんの所に、長文の手紙が来て、重量過多で、不足料金をとられた。  開封したら、こう書いてある。 「この手紙は多分、不足税をとられるであろう。これに対して、夢声がどういう処置をとるか、実験するのである」         □  徳川夢声さんが最も忙しい時、元日にいろんな局から、自分の声が六回電波に乗ったことがあると話していた。 「東京新聞の土方さんという記者が、ラジオ評を書いてね」 「ほう」 「うまいことをいいましたよ」 「何ていったんです」 「夢声の声も日に六度」         □  夢声さんが、松永安左エ門さんの茶室に案内され、にじり口を通って、大きな溜め息をついた。  そして、釜の前に端座している主人にこういった。 「戦争中に、窓から汽車に乗ったことを、思い出しましたよ」         □  夢声さんが三笠宮崇仁殿下と、「問答有用」で対談した。 「俳句をお作りになるそうで」 「月に一度、クカイに身を沈めます」 「いや、おそれ入りました」 「それでも十二句作るんですよ」 「ほほう」 「四句八句です」  この宮様は、ぼくと同年同月の生れである。卯の四緑は、シャレが好きらしい。         □  徳川夢声さんが、七尾伶子さんと、NHKラジオの物語の連続放送で共演していた。  ある日、本番の直前に、七尾さんが、手洗いに立った。  あとを見送って、徳川さんがポツンとつぶやいた。 「れい子小水世の習い」         □  徳川さんが、某団体が標語を公募した時の審査員になったことがある。  審査の当日、玄関で靴を穿いていると、 「お父さんどこにゆくの」と、まだ小学生だった長男の一雄さんが訊いた。  徳川さんは「青葉繁れる」の歌の一節をもって答えた。 「父は標語におもむかん」         □  それで思い出したが、井上ひさしさんの「青葉繁れる」という長編を読むと、少年時代に、若尾文子という映画女優にあこがれ、「あの女性でもトイレに行くのか」と思ったと書いてある。  井上さんは、その後、自分のノートに、これからの人生の予定を、その時点での現実に即して書くことが、しばしばあったが、紆余《うよ》曲折のあとで、とにかく、「若尾文子と結婚する」という一行が、かならず出て来たという。  実際には、好子夫人という伴侶を持つわけだが、先年、夫人とあるパーティーで話していたら、この夫人がこういった。 「困っているんですよ、私」 「どうしたのです」 「主人がフランス座にいたでしょう」 「ええ」 「そのころ、奥さんは何という名前でおどっていたのかとよく訊かれるんです」         □  林不忘が創造し、大河内伝次郎が演じて、天下に周知された丹下左膳というキャラクターがある。  ナゾナゾがあって、「目が三つ、手が一本、足が六本は何だ」「丹下左膳が馬に乗ったところ」。スフィンクスの謎のパロディでもある。  この林不忘は時代小説を書く時の筆名で、現代小説の時は牧逸馬、西洋種の小説の時は谷譲次という筆名を使った。  全集が出た。「一人三人全集」というのである。         □  NHKテレビで「おはなはん」を放映しているころ、原作者の林謙一さんの家の前を、小学生が通りながら、「ここ、おはなはんの家だよ」「ウソだい」「ウソじゃないよ。おはなはん、この家の中にチャンといるよ」「じゃ、テレビここから写してんのかい」などといっていた。  その林さんの家の前に、池田勇人元首相の私邸があった。  池田内閣当時、タクシーに乗っている林さんが運転手に、「信濃町」という。赤坂見附まで来て、道をどう行くかと訊かれたので、林さんは、こう説明した。 「これまっすぐに坂を上って、赤坂離宮(今の迎賓館)のとこをまわって、皇太子殿下の家の前を通って、総理大臣の家の前でとめてくれ」  運転手がどなった。 「旦那、酔ってんですか、頭はたしかですか」         □  林謙一さんは、日曜画家として著名で、チャーチル会の世話役でもある。  ときどき個展を開くが、ある時、会場に林武さんが来て、一点買って帰ろうとした。 「冗談じゃありません」というと、林武夫人がいった。 「家の二階の階段を上ったところに、かけておきます。きっと画商が持って行きますよ。サインが同じ林だから」         □  中島弘子さんが、パリに行っている時、藤田嗣治画伯を訪ねたら、「きょうは焼き芋屋ごっこをしよう」といった。  自分で、フライパンの上で、芋を焼き、窓をあけて、「焼き芋やァ、焼き芋」と叫ぶ。豆しぼりの手ぬぐいまで持ち出して、鉢巻をした。  中島さんは、「お芋を買わせていただこう」と思っていたら、「君は金魚屋だよ」  仕方がないので、中島さんが叫んだ。 「金魚やァ、金魚」         □  徳川夢声さんに菅原通済さんが会った時、何かの話のついでに、「剣は鬼面なりといいますからな」と菅原さんがいったら、夢声さんが、「孫子ですか、呉子ですか」と訊いた。 「宮本武蔵ですよ」とからかったら、真っ赤になって、「私、そんなことを、いいましたかな」         □  航空工学の大家の木村秀政さんが、犬山のホテルで、たまたま余興に出て来た日本舞踊を見ながら、妙な顔をしていた。 「このおどりはうまいんですか」というので、「さァ」と渋っていると、 「どうも、加速度がよくついてないようですな」         □  佐佐木茂索さんが、伊東に疎開している幸田露伴翁に、 「大みそかには、そばをお届けしましょうか」というと、翁はいった。 「ありがとう、しかし、年越しそばは町人の食べるものだ」         □  芥川龍之介に、こういう話がある。  中国に旅行する客船の甲板で、中央公論を持っている芥川の所に、船長が来て雑談をしていた。  チラリと芥川の持っている雑誌を見て、船長がいった。「その雑誌もいいけど、小説がのってるんでね」  芥川は、「そうですねえ、小説さえなければねえ」といったそうである。  芥川は書いている。「私は船長から、以来、格段の信用を博した」         □  芥川龍之介が、横山大観に会った時、「君、絵かきにならないか。私が三年みっしり仕込んでものにして見せる」といった。  芥川はくやしがって、「大観はひどい、小説をやめて芸術に専念しろというんだ。文学を芸術と思っていないらしい」といった。  しかし、芥川がそののち、小穴隆一にいった。 「大観からひとつ教わった。香典の包み方だ。あれはいい」  紙幣をロウソクのように巻くというのである。         □  片岡鉄兵を名のったにせ者が、関西にいて、多くの人たちをだましていた。  神戸の喫茶店で、たまたま、その人物と、本物の鉄兵が会ったので、自分が片岡だと名のり、不心得を懇々と説いて忠告した。  相手は神妙に聴いていたが、しばらくすると顔をあげて、いった。 「あなたも、よく似せてますね」         □  鉱毒事件で、今様《いまよう》佐倉宗吾といわれた田中正造は、栃木県下都賀郡の郡長をしていた吉屋信子さんのお父さんの家に、よく来ていたそうだ。  酒を出すと、こういった。 「肴はいりません。青トウガラシをやいて、ミソをつけて下さい」  幼女時代の吉屋さんが、その姿を見ていて、後年思い出してこういった。 「いいおじいさんでしたよ、サインしてもらいたくなるような」         □  長谷川伸さんが、俗にいうクリカラモンモン、つまり全身に彫り物をしているという伝説が、かなり広く流布されていた。  長谷川さん自身が、いっている。 「どこかのゴシップに五、六行書かれたのがもとで、ひろがっちゃった。それがまた、うまいんだ。長谷川伸の体には、花札が全部貼ってある。ただひとつ、青丹《あおたん》の菊がない。足の裏をヒョイと返すと、そこに彫ってある、というわけだ」 「ほほう」と、話術のうまい長谷川さんの話に聞きほれていた相手が、「それで、先生、どうなさいました」というと、 「趣向に、感服したね」         □  その長谷川さんが、大杉栄とまちがえられて、しじゅう尾行されたという話も、おもしろそうによくしていた。  富山でつかまりかけて逃げたあと、新橋演舞場にいる時に、二人の刑事がついている、そのあと浅草の帰りにバスに乗っていたら、丸橋忠弥みたいにとり囲まれたと話したあと、こういった。 「順の来かたが、富山、演舞場、そしてバスのとりまき、これで幕切れでチョン、脚本の書き方と同じで、チャンと布石がしてあって、筋がはこぶのだ」         □  野村胡堂さんが報知新聞記者だった時、社長からいわれて、「銭形平次」という続き物を書きはじめることになった。  そして、それは長く「オール讀物」の目玉でもあり、いきのいい主人公は、今も大川橋蔵のテレビで、いつまでも人気がある。  何で銭形という名前を思いついたのですかと訊いたら、野村さんがいった。 「社の屋上で眺めていたら、銭高組という名前が目にはいったんですよ」         □  猫の好きな坂西志保さんは、近所の見知らぬ猫にも、余っている魚を与えた。  ある日、はじめて見る猫が来たので、台所の入口のたたきの上にアジをおいてやると、それをくわえて、上にあがって食べはじめた。坂西さんがうっかり、いった。 「失礼しました」  誰にも見とられずに、坂西さんがなくなった時、寄りそっている猫が、そのままゆくえ知れずになったという話がある。飼い猫に「ポツダム」「ミノスケ」という名前をつけていた。  石坂泰三さんが、坂西さんから貰った子猫に「全学連」という名をつけて、「こらッ、全学連」と叱りつけたという話を聞いたが、尾上菊之助が七代目菊五郎になった時、尾上松緑さんがこういった。 「こら菊五郎と、これからはいえるなァ」         □  それで、菊五郎の話になる。  朝日新聞の門田勲さんが、入社した直後、六代目のところに行けといわれた。この役者が、勲六等を貰った時である。  応接間に出て来た菊五郎が、ふところの分厚い書きぬきを手でたたきながら、 「ああ、忙しい、忙しい、なんですか、いったい」といった。  だいぶ待たされて、カンシャクを起こしていた門田さんは、こういった。 「そんな失敬な挨拶があるか。それに、ふところの本を片づけてきたらどうだ」  菊五郎は、これはまことに失礼をいたしましたと、丁重に詫びた。  そんなやりとりで、取材もできなかったので、勲章についても何も聞かず、記事も書かなかった。  菊五郎は、自分のことを書かなかった朝日の本社に来て、礼をのべたそうだ。 「どんなひどいことを書かれるかと思っていました。ありがとうございます」         □  ジャン・コクトーが来日した時、歌舞伎座に行って、六代目菊五郎の「鏡獅子」を見た。  その時に受けた感銘で、後年、映画「美女と野獣」が作られた。  美女と野獣というのは、流行語から定着して、未だに、むくつけき男となよやかな少女が並んでいる時に、それをいったりするが、この作品の基底に歌舞伎があることは、知っていてもらってもいいと思う。  この時、菊五郎を楽屋にコクトーが訪問したら、もう扮装が完成していた。  菊五郎が、感心したそうだ。 「あの人はえれえんだろうな。握手する時に、こっちの手の白粉が落ちないように、そっと握って行ったよ」といった。  初代花柳寿輔の三十三回忌で、のちに寿応になった二代目が「土蜘《つちぐも》」を演じた。  六代目がその時、後見に出ているのを、ぼくも見た。 「銀座百点」の座談会で、寿応にその話をしたら、こういっていた。 「六代目が私に数珠《じゆず》をそっと渡すんですが、所作舞台に手の甲をそっとつけて、数珠が板にふれる音の立たないように、気をつかってくれましたよ」         □  歌舞伎座の受付にいて、昔の本郷座のお茶子以来四十年つとめてやめた藤宮|勢以《せい》さんに聞いた。  戦後、東京劇場の受付にいたら、六代目菊五郎がはいって来て、「お勢以、来月はぼく出るからな、いいか、たのむよ」といって、ニコッと笑って、 「どうだ、うれしいか」         □  四代目市川門之助の子の男寅《おとら》(のちの三代目左団次)は、少年のころに、六代目菊五郎にあずけられた。  いよいよという時、菊五郎の家に親子で挨拶に行くと、菊五郎がいった。 「まかせて下さい、私に」  門之助がいった。「どうぞ、煮て食おうと、焼いて食おうと、結構です」  後日、左団次が話していた。 「煮て食われちゃ大変だと思ったね、私ゃ」         □  佐々木邦は、明治学院を卒業している。 「むかしから、ぼくの同窓は、就職に苦労したもんだ」 「ほう」 「名前がいかん。メイジガクイン、メシガクエンというんだもの」         □  誤植の見本というべきものを、佐々木邦が小説の中で、とりあげている。 「何しろ、油から油に手を入れて、互いに見かわす彦と彦と来た日にはね」という会話がある。袖から袖、顔と顔のあやまりなのだ。  慶応の図書館で、この本を読んでいたら、親切な読者がいたと見える。  油のわきに袖、彦のわきに顔と、わざわざ赤い鉛筆で書きこみがしてあった。誤植を訂正したつもりなのだ。         □  戦前、鹿島孝二さんが、ユーモア作家クラブの会合に出席した。佐々木邦さんと二人で、会場の八重洲園の二階から見ていると、夕立が降って来た。  タクシーが店の前でとまると、辰野九紫さんが降りて小走りに店に飛びこむ。 「中野さんなら走りませんね」といいながら見ていると、中野実さんが次のタクシーから降り、和服にもかかわらず、平然と雨に打たれて、八重洲園にはいった。 「体の大きい人は走りませんよ」と、佐々木さんがいった。  次のタクシーで降りた徳川夢声さんは、片手でカバンを頭にのせて店にはいる。 「獅子さんはきっと、降りずに、帰りますよ」と佐々木さんが予想した通り、次のタクシーの獅子文六さんは、とまった車のドアをあけて、雨の具合を眺め、バターンとドアをしめて、走り去った。  次はサトウ・ハチローさんである。「どうするだろう」と見ていると、サトウさんは、タクシーのドアから手をひらひらと出して動かす。八重洲園のサービスガールが、カサを持って駆け寄り、二人は相合傘で、悠々と到着した。佐々木さんがいった。 「サトウさんらしいですね。覚えておきます」         □  吉川英治さんの「新平家物語」の朱鼻の伴卜という役のイメージは、当時の自民党の長老大野伴睦から思いついて、バンボクをトモウラにしたが、途中からバンボクにしてしまった。  その吉川さんのところに、大野伴睦のスケッチを書いた色紙を持って来て、サインしてくれといったファンがいる。  吉川さんはスラスラと、賛をした。 「伴睦相中紅一点」         □  アジア・アフリカ作家会議で、時々、中野重治さんに会った。  その席で、中野さんは、木下順二さんや、堀田善衛さんに、よく、「これは君に訊いておきたいのだが」と前置きして、いい話題に導入するのだった。  モスクワ芸術座が二度目に来日した時、日生劇場で中野さんが、ぼくのうしろの席にいた。  挨拶すると、「ちょっと訊きたいが」といわれたので、「何でしょう」と勢いづいて、ふり返った。中野さんが続けた。 「あの、君、便所は、どこ?」         □  和田芳恵さんが、樋口一葉の研究をしている時、夜中に目をつぶっていると、一葉が出て来たそうだ。和田さんが説明した。 「ここはこうですか、と尋ねると、ちがうわ、と答えたりするんです」         □  バーの一隅で、男性がパイプカットをしたとかしないとかいう話がはじまった。  すると、そばにいた柴田錬三郎さんが、例の通り口をへの字に曲げたまま、「そんな話はよせ」といった。  座が白けそうになったので、ホステスが、「こんな話、いけなかったかしら」と気を使うと、 「だって、わしはシバレンもの」         □  宮田重雄さんの知っていた老妓は、改まった外国の挨拶を割りに心得ていたという。  よくおぼえたねと賞めたら、「コツがあります」といった。「フランス語の、ご健康をという乾杯の時はボン・サンテ、坊さんの手ですよ。英語の新年おめでとうは、法被《はつぴ》、縫うの、いや」         □  福島コレクションの福島繁太郎さんは、海苔餅《のりもち》の時に、餅一枚に、海苔を一枚使って、ふろしきのように巻いて食べた。  宮田重雄さんが、訳を聞いたら、 「だって、そのほうが、早く巻けるもの」         □  ある席で、小唄の好きな人たちが、かわるがわる唄うことになったが、三百円払って、一回唄うというルールになった。  つまり金さえ払えば、いくら唄っても、いいのである。  伊藤|熹朔《きさく》さんが、うれしがって、一曲歌っては、そばにいた夫人に、「三百円おくれ」という。  夫人が、苦笑していった。 「パチンコ屋じゃないのよ」         □  歴史的仮名づかいも、すっかり遠いものになった。ぼくでもつい先日、むかしの小学校唱歌の勅語奉答歌の歌詞を見て、「あなたふとしな」(発音では、あなとうとしな)がスラスラと読めなかった。  尾崎一雄さんが、井戸替えの話を書いた時、読者から手紙が来て、「先生の家の井戸がいつオナラをするかと思って読んでいたのですが」とあった。  いろいろ考えてわかった。尾崎さんは「井戸が|へ《ヽ》をする話」という仮名づかいをしていたのだ。         □  それで思い出した話がある。  幕末の名君といわれた福井の藩主松平春嶽が、手洗いから出て来たので、待っていた小姓が、ヒシャクで手に水をかけようとしたら、知らん顔をしている。 「殿様、いかが遊ばされました」 「いまのは、屁ばかりじゃった」         □  文士劇で、村上元三さんが、「荒神山」の吉良の仁吉に扮したことがある。  顔を作ってくれたのが、島田正吾さんだった。  舞台がおわってから、村上さんが、「いかがでしたか」と訊くと、島田さんがいった。 「顔の色はよかったですね」         □  この時、安濃徳《あのうとく》といういやな男の役に扮したのが、玉川一郎さんである。  悪役といえばきっとことわるだろうと思ったので、「東海道に顔の利いた、りっぱな親分」というふうに説明して、引き受けてもらったのである。  配役がきまった日に、みんなで食事をしに行くと、女中さんが来て、「こちら、何の役をなさるの」と尋ねる。  玉川さんが、うれしそうに、「安濃徳だよ」といったら、 「ああ、映画で見ましたわ。金語楼さんがやってましたっけ」         □  玉川一郎さんが、若いころ銀座の伊東屋につとめていて、パリに注文伝票を書いた。玉川さんは外語の仏文科出身だから、フランス語ができる。伝票の余白に、 「イル プルー ア トーキョウ(東京は雨だ)」とらく書をした。  二、三カ月経って、パリから品物と一緒に出荷伝票が着いた。隅のほうに何か書いてあるので、読んでみたら、「ア パリ オシ(パリも雨だ)」  と書いてあった。         □  玉川さんに、初孫ができた直後に会ったら、「このごろ、金がかかって、仕方がない」とぼやく。 「どうしたんですか」と尋ねたら、こういった。 「娘に孫を連れて来させて、一時間いくらの時間給を渡すから」 「文藝春秋」の「眼・耳・口」に似たコラムを、玉川さんが、ある雑誌で担当していた。 (車中にて)(銭湯にて)(投書)とカッコして、いろんな町の声を書きとめている。 「よく集まりますね」といったら、 「全部創作」         □  戦後に国技館が蔵前に移ってから、サトウ・ハチローさんは、相撲を見なくなったという。  なぜですと尋ねたら、 「私は両国の橋を渡らないと、だめなんだ。あの橋を渡ると、相撲を見るほか、仕方がない。蔵前だと、ほかに用があります」         □  木村伊兵衛さんが、小学校の時、浅草公園でオモチャの写真機を買った。三円五十銭だった。  それで撮影した写真で、ちゃんと撮れていたのが、十二階と谷中天王寺の五重の塔だった。 「なぜ、そんな写真ばかりとったのです」と弟子が訊くと、 「ほかのものは写らないよ。みんな動くからね」         □  昔ムーラン・ルージュの座主の佐々木千里さんの所に、座員が、金を借りに行くと、いろいろ考えた末、佐々木さんがいった。 「いま、金がない。ぼくの懇意な金貸しがいるから、紹介しよう」         □  大蔵貢さんの子息が、お父さんに小づかいをねだった。すると、大声で叱った。 「お父さんはやらない。どっかへ行って、拾って来なさい」         □  近藤日出造さんが、ニューヨークのレストランで、メロンを注文した。  二回いっても通じない。  三回目に、発音を変えてみた。  そうしたら、女の子が、ミルクを持って来た。         □  横山隆一さんが、はじめて大先輩の岡本一平さんを訪ねた時、清水崑さんも一緒だった。  玄関に立つと、「あがれ」といわれたので、応接間に通った。  一平さんは、二人の顔を公平に見ながら、「きょうの面《つら》はいいな」といった。  それを聞いた仲間が、「そんなに、いいつらかね」といったら、崑さん、 「似顔にしやすいって意味。ただそれだけさ」         □  坂口安吾と出会った横山隆一・泰三の兄弟がさそわれて、夜おそく、坂口家に行って飲み直したことがある。  通された部屋は、廃品回収業者の仕切場のように、乱雑だった。  そこを片づけて、すわらせてもらって、大きなビンにはいった焼酎を飲んだ。  当然泊ることになったが、坂口安吾がびっくりした。隆一さんが洋服の下に、派手なパジャマを着ていたからである。         □  横山隆一さんは、トンボを捕るのが好きで、いつぞや庭で、トンボを夢中になって追いまわしていた。  ふと気がつくと、縁側で、下の男の子が、編集者と、パチリパチリ将棋をさしている。  横山さんは、こう思ったそうだ。 「あんまり、健全な家庭とは、いえないな」         □  だいぶ前のことだが、横山さんが、物置を改造して、ホームバーを作り、酒をひとりで楽しんで飲んでいた。  朝出かけようとすると、四人の子供が玄関に見送りに来て、声をそろえて、挨拶した。 「マスター、行ってらっしゃい」         □  マスターで思い出したが、ぼくの失敗談がある。新派の芝居で、女性の作家の書いた脚本にすし屋が出て来る。  みんながその店の主人をマスターと呼んでいるのがおかしいと劇評で書いた。あとでわかったのだが、「松さん」と呼んでいたのだ。         □  漫画家の黒鉄ヒロシさんは、かわいらしい童顔である。だから、ある時期まで、ヒゲを書いていた。しかし、おしぼりでとれてしまうので、ヒゲを立てた。  だが、それでも、少年に見える。原稿料を受けとった時、郵便局員が、「だれか大人はいないんですか」といったそうだ。  近所の男の子は、もっと幼いと思っているらしく、会うと、フンと声をかける。つまり、同じ年ごろの仲間に対する挨拶なのだ。         □  赤塚不二夫さんのお父さんが、NHKの受信料の集金をしているという話を聞いたことがある。  ところで、その区域では、料金支払拒否の加入者はひとりもいず、みんなこころよく支払うという。 「えらいもんですね」と感心すると、 「ぼくの色紙を送っているんですよ」         □  時差ぼけとよくいう。乗物が早すぎて、人間の生理が追いつかないのである。  開高健さんの話であるが、空港で青ざめた男がひとり、スーツケースに腰かけて、虚脱したようにしている。 「どうしたんです」と尋ねたら、「おれはこの国に旅に来たんだが、ジェット機で先に着いて、おれの魂が追いつくのを待っているんだ」といったというのである。         □  開高健さんが、阿川弘之さんの健啖《けんたん》におどろいたという。あの開高さんをびっくりさせるのだから、上には上があるものである。  大阪の辻静雄さんの家で、十二時間ぶっつづけに食べかつ飲んだ阿川さんは、タクシーでホテルに戻ると、窓から街を見おろして、「素《す》うどんが食べたいな」といった。  翌朝、うどんやにゆき、ホテルですしを一人前食べ、マンジュウをつまんだ。開高さんが感嘆して、「帝国海軍がどうして負けたかわからない」というと、小声で阿川さんがいった。 「陸軍、あいつらがいけなかった」         □  NHKテレビで「えり子とともに」というドラマが長く放送されていた。  その劇中で歌われた歌が、「雪の降る町」である。  作者の内村直也さんが、ぼくにいった。 「こういう歌を作っておくといいぜ。歌われるたびに、著作権があるから、配当が作者のふところに来る」 「いいですね」と相槌を打ったら、しばらく黙っていて、 「ただし、冬だけだがね」         □  星新一さんは、「クスリハホシ」というキャッチフレーズで有名だった星製薬の御曹子である。  もちろん、いまはSF界を代表する作家だが、外国に行った時、ほめられたそうだ。 「�星��新��一�とは、いかにもSFを書く小説家らしいペンネームです」         □ 「オイルショック」で思い出した。夏のおわりに、話芸家の高橋博さんがいった。 「水と油ってのは気の合わないものですね」 「ええ」 「それなのに、どうして、気を揃えて、たりなくなるのかな」         □  巌谷大四さんは、日本のお伽噺《とぎばなし》の元祖である小波《さざなみ》を父としている。学生時代に、「小波の子だから大波になれ」といわれ、東京新聞のコラム欄「大波小波」を創設以来、愛読したという。         □  光文社の神吉晴夫社長が、廉価版の新書を出そうと思い、シンボルマークに、鳳凰だの、キリンだの、いろいろ考えたが、どうも満足しない。  ある日、家に帰ると、清水崑さんが絵を送って来ている。鳥居の前で合掌している河童が、「神吉大明神たのみます。もうしばらく待って下さい」と書いた色紙である。「よし、これでゆこう」というので、カッパ・ブックスができた。  角笛を吹く河童、神吉さんは、「ラッパのかわりにカッパ」とよくいった。         □  波多野|勤子《いそこ》さんが、家の中で長男とやりとりした手紙を「少年期」という本にしたのは、光文社である。初版は五千部だった。  ほめた書評があったが、部数はのびない。高田保さんが「ブラリひょうたん」に、「母と子が同じ家の中にいて、手紙のやりとりをするなんて異常家庭である」と書いた。  そんなふうに悪口をいわれたら、急に売れ出して、三十万近く出た。  この時代は、ベストセラーの悪口をいっただけで、書評家の地位が確立したといわれる時代でもあった。         □  山崎朋子さんが、住んでいる家を立ちのけ、と家主から迫られていた。  その時、山崎さんは「サンダカン八番娼館」で、大宅壮一賞を贈られた。  すると、家主は、今までの強硬な要求をたちまち撤回した。  山崎さんは今その時のことを思い出して、 「あれは、大宅賞というより、大家賞だったんではないかと思うんです」         □  矢内原伊作さんは、もと東大の総長だった矢内原忠雄さんの長男である。  何しろ、聖書に関する権威だから、伊作は、旧約に出て来るイサクからとったのだろうと思って、尋ねたら、悲しそうな顔で、伊作さんは答えた。 「そうじゃないんだ。生れたのが松山、親が伊予の国で作ったから」         □  前川博司さんが、「イヌに学べネコに学べ」という本を書いた。  犬や猫の気持になって筆をとったというので、私は動物のゴースト・ライターのつもりですというコメントが週刊誌に出ていた。  それを読んだ女子学生が、「よかったわ、卒論のテーマができた」というから、訊いてみたら、 「夏目漱石はゴースト・ライターだった」         □  遠藤周作さんには、電話でいたずらをするヘキがあった。  いきなり友人に、作り声で電話をかけ、「都の清掃部ですが、お宅の便所は一穴《いつけつ》ですか、二穴ですか」などと訊いたりするわけだ。  そういう話を聞いたあと、遠藤さんと話していた新聞記者が、話のついでに、「お兄さんがいらっしゃるそうですが、どこにおつとめですか」と尋ねたら、すこし照れて、 「電電公社です」         □  遠藤周作さんが講演で、こういった。 「私は慶応の仏文科を二番で出ました」  シーンとして聴いている。 「卒業したのは二人です」  拍手がおこった。         □  劇作家の清水邦夫さんが、前橋に行って、駅の近くのおでんやで飲んでいると、作業服を着た七、八人の男があらわれ、いつの間にか、一緒になっていた。  翌朝目がさめると、ゆうべの男たちのあいだに寝ていた。プレハブの飯場《はんば》である。 「あんた、仕事、ないんだろう。一緒においでよ」というので、ついて行った。  それから五日、みんなと働いたという。 「何をしていたんです」 「歩道橋の低い所にペンキを塗りました」清水さんは、いい人である。         □  小田島雄志さんは、よく田中小実昌さんと、まちがえられるそうである。頭のぐあいなのかも知れない。  小田島さんがひいきにしていた劇団の女性が、結婚することになり、その祝いの会の肝煎《きもい》りをしていると聞いたので、ある新聞記者に、ぼくが、「光源氏が紫の上をお嫁にやる心配をしているようなものだね」といったら、 「わるいじゃありませんか、光る源氏なんて」         □  小田島雄志さんは、シャレの名人で、東大の教室でも、英文学の講義のあい間にジョークをしきりに連発するらしい。  ある時、試験の答案に、女子学生が、   先生、きょうは私のほうからひとつシャレをお聞かせします。   マイ ファーザー イズ マイ マザー   答えは裏をどうぞ  と書いていた。  裏を返してみると、   私の父はわがままです  と書いてあった。 「それで、どうしました」と尋ねたら、 「もちろん、優をつけておきましたよ」         □  むかし小杉放庵が、中川一政さんに尋ねた。 「足立源一郎君は、どうしてるかね」 「例によって、山を描きに行ったよ」 「ふうん、石井鶴三君は」 「夏季講習会に行ってる」 「ふうん、みんな、たのまれて越後から来た米つきだな」         □  福田平八郎は、旅館の宿帳に「画家」と書かず、「文具商」と書いた。 「生家が、文房具屋なんですよ」 「ほう」 「富田渓仙は、材木商と書くそうです」 「ほう」 「材木商富田鎮五郎。こうしておけば、色紙なんか、決して持って来ない」         □  安井曾太郎さんの描いた「安倍能成像」は、人物画の傑作とされているが、完成までに半年かかった。  その半年の間、当時安倍さんが校長をしている一高に安井さんはかよったのだが、 「モデルの期間中、頭を刈らずにいてくれ」とたのんだ。  できあがったころ、安倍さんは、到底人間と思えない頭をしていた。         □  小絲源太郎さんが、若い画学生だったころ、二代目市川猿之助(のちの猿翁)から誘われて、夏の夜、隅田川で仲間たちと舟遊びをしたことがある。  酒と肴を積んで、海賊が船の上で酒もりをしているという趣向を思いついた。  猿之助が一切の費用を持ち、新橋の七人組といわれた芸者をのせ、大川を海にこぎ出す。人気役者を知っている群衆が川べりから見物に出て、舟で追いかけたり、大さわぎになった。  舟の上には、海賊会だから、つまり盗んだ品物というわけで、藤浪の小道具からはこんで来た千両箱などが用意されている。  夕刻まで遊んで、日がくれた。さァ飲み直そうという時に、提灯をつけた迎えの舟が漕ぎ寄せ、ヒラリと猿之助が飛び乗ると、七人組の美女たちも、あとについて、サーッと引きあげてしまった。  トンビにアブラゲをさらわれた若い画家たちは、ボンヤリ猿之助たちを見送っていたが、しばらくして、千両箱を一人の若者が、水の中に蹴こんだ。  そして、べそをかきながら、つぶやいた。 「バカにしてやがる、千両箱が水に浮いているじゃないか」         □  小絲源太郎さんが、若い時、美しい女性からいわれた。 「ストリンドベリに似てますね」 「どうお答えになりました」 「うれしくなかった。深刻な顔というだけだもの」         □  ある年、耳飾りを片っぽうだけつけたり、色のちがう靴下を片方ずつ穿いたりすることが流行した。  小絲源太郎さんが書いている。 「そういうのを、ピカソ好みというんです」  その小絲さんの友人の所に、老女が来て、「嫁につれられて、ピカソを見に行ったが、ちっともわからない、嫁はわかってるらしい。私がわるいのでしょうか」といったという。 「君、何と答えたんだい」と訊くと、 「仕様がないから、ピカソのような返事をしておいたよ」         □  洋画家の鈴木信太郎さんと同姓同名の鈴木信太郎さんが、「シラノ」の共訳者の一人であるフランス文学者で、郵便はしじゅう「混線」した。  画家の鈴木さんは、杉並区荻窪、仏文学の鈴木さんは豊島区巣鴨に住んでいた。  ある時期から、画家の鈴木さんのほうに、毎月「馬酔木《あしび》」(俳誌)が寄贈されるようになった。  宛名は、豊島区荻窪となっていた。         □  昭和十年ごろの話だが、上野の不忍池《しのばずのいけ》の蓮の花が咲く時に、ポンと音がするという説があって、実際に音がするかどうか調べることになり、新聞社が、植物学の大家である牧野富太郎さんを、朝早く池のほとりまでつれて行った。  しかし、その時間、いろんな町の音がして、気がつくと、花が開いている。判定はできなかった。  牧野さんが、こういったそうだ。 「こんな、ばかばかしい目に会ったのは、はじめてでございます」         □  ニューヨークの日本料理屋のことを、小林一三さんが随筆に、「こんなまずい料理を食べたことがない」と書いたのを、その店の主人が読んで大いに憤慨した。 「これでも、アメリカ人の味覚に合うように永年研究したんですよ。アメリカ人に失礼です」         □  渋沢秀雄さんが旅先で、人里に迷い出た子狸《こだぬき》を飼って、ようやく餌づけができたという人と懇意になった。  案じながら帰宅すると、留守中に一通の電報が届いていた。タヌキイヨイヨゲンキ、ゴアンシンコウという電文である。  夫人が渋沢さんに質問した。 「どういう暗号なんですか」         □  小西得郎さんがむかし、大阪球場で、中継放送の解説をしていた。  すぐ近くに酔っ払った観客がいて、アナウンサーが小西さんに話しかけると、小西さんのこわいろで返事をしてしまう。それがそのままマイクにはいる。小西さんは、いやけがさして黙ってしまった。アナウンサーも、当然口数がすくなくなった。  すぐ局に投書が来た。「小西得郎の解説、どうして、いつもより下手で、解説もいい加減だったのか」         □  奥野信太郎さんが、終戦の前年、赤坂の福吉町にある古本屋にはいったら、店の主人が、いま永井荷風のところから引きとって来たという古雑誌の束をほどいている。寄贈された雑誌の包装をそのまま、封も切らずに、売りとばしたものであった。  その中に大きな袋があって、持つと重い。古本屋が紙を破いたら、愛読者が送って来たのか、ジャムの缶が二つはいっていた。  奥野さんは、ひとつ貰って帰った。         □  門田勲さんが、造り酒屋に見学に行くと、この家では、酒を作る工程にそれぞれ由緒《ゆいしよ》ある労働歌があって、それに合わせて仕事することになっていると聞かされた。  なるほどと思っていたが、ある場所にゆくと、中から「長崎の鐘」の歌がきこえる。戦後に藤山一郎さんの歌った歌である。  ハテナという顔をしたら、さっきの人が間の悪そうな顔で、いった。 「ここでは、桶のフタを洗っているだけなんです」         □  春風亭柳橋さんは、落語の中で酔っ払いが歌を歌う場面を入れた。  たとえば、「時そば」のようなはなしの時に歌う歌は、いつも調子はずれだった。それで、音痴のくせに歌なんか歌わないほうがいいと、忠告する人もいた。  じつは、柳橋さんは、少年時代に、三越の音楽隊の一員であった。         □  狂言作者で、勘亭流の文字を書かせては日本一といわれる竹柴蟹助さんが、「私の敵」という意味の題名の文章を書いているから、誰のことを書いたのかと思ったら、死んだ芸人で、音曲の名手だった柳家三亀松のことだった。  なぜ敵なのかと思って読むと、 「三亀松さんは私に似ていて、私はよくまちがえられました。ちがうことは、向うがむやみにもてるんです」         □  むかし、セネターズのチームに三人の投手がいた。  白木義一郎、黒尾重明、赤根谷飛雄太郎である。三人とも姓に色がついている。  山口瞳さんが、こういった。 「大下弘の青バットのヒントは、きっと、ここから来てるんです」         □  西武ライオンズの野村克也という選手が、色紙をたのまれると、こう書く、 「生涯一捕手」         □  近鉄バファローズの栗橋茂外野手が、はじめてホームランを打った時、監督がベンチに帰って来た栗橋を迎えて、しずかに尋ねた。 「今のボールは何やった」 「ハイ、ボールは美津濃のです」         □  大相撲が数年前、北京を訪問した時、武蔵川理事長が、泊っているホテルの水洗便所の、水を流す仕掛をこわしてしまった。  それは水槽の上に出ている鉄棒をひくと、底の栓がぬけて水が流れるという、最も単純な構造だったのだが、力のある人が操作したはずみで、ぐあいの悪いことになったのであろう。  後年そのホテルにぼくが泊った時、中国人の通訳がその話をして聞かせて、こういった。 「理事長、考えこんで、いろいろと、仕切り直しをしたそうです」         □  テレビで毎場所、解説をしている玉の海梅吉さんは、現役のころ、土俵が不振になると、本所の回向院《えこういん》にある、鼠小僧次郎吉の墓参りをしたと語っていた。 「なぜですか」と訊くと 「とるのは向こうが先輩です」         □  能見正比古さんは、相撲にくわしい作家であるが、力士の血液型をしらべてデータを集めようと思い、いろいろ訊くが、要領を得ない場合が、すくなくなかった。  ある力士は「わしはニイガタです」と答えた。  高見山に尋ねたら、ニヤリと笑って、こういったそうだ。 「ビール型ス」         □  この高見山は、ハワイ・マウイ島出身だが、山口瞳さんが、いつぞや、「関取のまわしの色は、とてもいいオレンジ色ですね」といったら、こう答えたそうだ。 「いや、ミカン色ス」         □  翔鵬という力士がいる。  何と読むんですかといわれて、「ショウホウです」 「お父さんは何をしているんですか」 「父親は新潟市のショウボウ(消防)です」 [#改ページ]   ㈽  富士山について、書くことにしよう。  富士山頂で気象を観測している科学者がいて、同窓会に出席した。 「景色のいい所で、仕事をしていて、うらやましい」といわれて、こう答えたという。 「しかし、ぼくのいるところでは、富士山が見えない」         □  中川一政さんの「腹の虫」という本で教わった話である。  むかし、梅原龍三郎さんが、伊豆の三津《みと》海岸の別荘を借りて、富士山を写生していたことがある。  そこへ、門下の宮田重雄さんが行って、梅原さんが絵を描いている窓の下で、自分も富士山を描きはじめた。  すると、二階の窓から見ていた梅原さんが大きな声で、どなった。 「もっと富士山を大きく描け」         □  伊豆の大仁《おおひと》ホテルの大浴場は、大きなガラス窓の向うに、晴れた日、富士山が真っ正面に見えるように設計されている。  久保田万太郎さんが、戦後このホテルにいた時に訪ねて、浴場に一緒にはいった。  ほかにも数人の男がいて、「いい景色ですねえ」「何ともいえない眺めですなァ」などと話し合いながら、窓のほうへ行って、富士山の美しさに感嘆している。  ふと見ると、久保田さんは、富士山を見ようとせず、そっちのほうに背中を向けてばかりいる。巨体を、縮めているようにも見えた。 「どうなさったんですか」というと、 「裸で富士山を見るなんて、そんな恥かしいことが、できますか」         □  いつか湯河原に泊った翌朝、天気がいいので、十国峠にドライブした。  富士山がよく見える。  新婚旅行らしい一組の男女が、カメラで、富士山を背景にして、パチパチ撮り合っている。  そこへ男連れが二人来て、じっと景色を見ていたが、その一人がいった。 「この景色、前に見たことがあるような気がするな」しばらくして、「そうだ、銭湯の絵だ」         □  静岡県のある町で、老女が病の床についた。寝ている二階の窓から、富士山が見える。それを眺めるのが楽しみだといっているのに、雨が降ったり、曇ったりする日が多く、毎日、富士山の見えない日ばかり続いた。  老女の孫の中学生が縁側のガラス戸に、富士山の絵を、そっと描いた。この家から見える大きさに描いたのである。  老女は、たいへん喜んだ。そして元気になった。  親類が見舞に来た時、その老女が、こういったそうだ。 「うれしいじゃありませんか、このごろは、天気が悪くても、富士が見えるんですよ」         □  学生のころ、白井喬二さんの「富士に立つ影」を持って、友人と銀座の富士アイスにはいった。永井荷風さんがよく来ている店だった。  今でもそうだが、ガラス窓にも描いてある店のマークは、スプーンを立てた富士なのだ。ぼくの本を見て、料理を運んで来たウェイトレスがニッコリしていった。 「うちは、富士に立つ匙《さじ》です」         □  国民新聞の編集主幹だった結城禮一郎さんは、アイデアマンで、宣伝のために、富士山麓から豚の群を追いながら東海道を上京させようとした。結果は失敗だった。  豚がまるっきり、動かないのであった。         ■  大相撲の本場所がはじまると、何となく、そわそわするという人が、すくなくない。  好角家がこれだけ増えたのは、NHKのテレビが中継し、夜(東京では)テレビ朝日が大相撲ダイジェストを放映するからであろう。  ひところ、取口の分解といって、勝負がきまったあと、もう一度スローモーションで、決まり手をじっくり見せていた。それがこのごろは、すぐビデオで再生し、必要によってはスローにして見せたり、緩急自在になった。  しかし、両力士の姿がカチカチ動く、むかしの素朴な取口の分解もなつかしい。  忘年会のジェスチャーに、夫婦げんかを取口の分解で、という課題が出て、じつにうまくやって見せたので、惚れこまれて、良縁をえたOLがいたそうだ。  群衆の動きに、照明がストロボを点滅させると、観客には、それが取口の分解の感じになって映る。それをはじめて演出で試みたのは、劇団雲時代の芥川比呂志さんの「榎本武揚」の時ではなかったかと思う。  これを見ていた同席のジャーナリストが、口々に、「取口の分解だね」と語り合ったのだけは、たしかである。  今は普通、勝負がきまった時、すぐその一番を、もう一度全く同じに再生するのを原則としている。草柳大蔵さんが、現役のころの鶴ケ嶺関の取組をそのお父さんとテレビを見ていたら、上手投《うわてなげ》で負けた。すぐテレビが録画を再生すると、お父さんが、いまいましそうに、いった。 「おなじ手で、また負けてしまったじゃないか」         □  力士の誠実という話。名前はさだかでないが、世話になった人の亡くなった時、大雪で、その本宅の前まで、霊柩車が行けなかった。  その時、いまの二子山親方は、現役力士(先代若乃花)だったが、ひとりで柩《ひつぎ》をかついで道まで出たそうだ。         □  相撲を見ていると、いよいよ自分の出る番になった時、両手で、顔をピシャッと叩く力士がすくなくない。  これは、学生相撲がすることだと聞いたが、そうなると、輪島関が横網になってからの流行ということになるだろうか。  叩くのは、筋肉を緊張させ、戦意をもりあげるのに役立つらしい。  山口瞳さんに聞いた話だが、将棋の米長邦雄八段が、それをまねて、対局中にピシャッと叩いた。ところが、大変痛かったそうだ。  じつは、眼鏡をかけたまま、叩いてしまったのだ。         □  高見山という力士が、週刊誌で、インタビュアーをしている。「そうスね」という風に、その言葉が表記されているが、テレビを通じて聞いたあの何とも形容しにくい声を思い出しながら読むと、実感がある。  その対談で、高見山関が、相撲に勝つ秘訣《ひけつ》を、逆にゲストから質問された時に、答えた言葉が、なかなかいい。 「ミル タツ ダイジョウブ」というのである。  ハワイから来た観光団が、国技館にはいって来た。「よくいらっしゃいました」と出迎えると、旗を持った先頭の紳士が、 「高見山の見物です」         □  去年の九州場所のいく日目かの相撲を見ていた。向う正面の桟敷に、元佐田の山の出羽海親方が来ていて、いい助言をしていた。連敗力士も、気を落しては、いけないというのである。 「後半、一勝一勝ずつでも勝とうとすることです。焼け跡の釘を拾うように」         ■  飯沢匡さんと劇場の客席でならんで話していた。たまたま、週刊誌で読んだある漫画家のエッセイがおもしろかったとぼくがいうと、飯沢さんは大きくうなずいた。  それから、ほかの話をしていたが、飯沢さんは、思い出したように、いった。 「漫画家はうまいエッセイを書きます。しかし、エッセイストに、漫画は描けませんね」         ■  磯崎新さんは、大きな建物をいろいろ設計している建築家である。  煙草を吸わないことが、一緒に中国を旅行していた時にわかった。  それで、ぼくが、こういった。 「よく植木屋の親方が、一服しながら、木を眺めて、あの枝を切ろうと思いついたりするというじゃありませんか。つまり、煙草を吸うのも仕事のうちだって。磯崎さんも、その意味で、煙草を吸いながら、工事の現場に立ったらいいのに」  すると、磯崎さんが答えた。 「庭の松の木なら、すぐ行って枝を切れますが、ぼくたちの仕事では、手おくれですよ」         □  その中国で、鴨の料理を食べに行ったことがある。通訳の青年が、「この店のメニューは、はじめから終りまで、全部鴨です」と説明した。  そして、運ばれて来る皿を、一々、「これは鴨のももの肉」「これは鴨の皮」というふうに教えたが、そのうち、どう見ても、鶏の肉らしいものが出て来た。 「これは?」と訊くと、「鴨の友達です」         □  突然電話でコメントを求められることがある。急にいわれても、即答できない場合が多い。そんな話をしていたら、岡本太郎さんが、 「思い出した。万国博の太陽の塔に男がはいりこんだ時、旅先のホテルまでさがして、電話で感想をといわれた」という。  岡本さんの作った塔だから、タワー・ジャックという事件で、コメントを求めたのは、ごく自然の着想だろう。 「その時、太郎さんは、何と答えたんです」といったら、 「さぞ、見晴らしが、いいだろうね、といっておいたよ」         □  映画監督の篠田正浩さんの夫人は、女優の岩下志麻さんである。志麻さんが、俳優野々村潔さんを父とし、伯母に、河原崎長十郎夫人のしづ江さんがいることを、ぼくは知っていた。  そういう縁続きのことのほうが、先に頭にうかんだので、篠田さんに、「どういうご縁で?」と、つい尋ねてしまった。  すると、篠田さんは、ただちに答えた。 「職場結婚ですよ」         □  バスのターミナルで、車に乗りこんでから、「渋谷まで行きますね」と念を押すと、運転手がだまって、行先を標示する文字を、指さす。  失礼だと思って、ムッとした顔をしたら、「すみません、飴《あめ》が口にはいっているので」と、妙な発音でいった。         □ 「マリー・アントワネット」という芝居の稽古場で、臼井正明さんと雑談していた。  ルイ十六世が、王妃と二人でお茶をのむ場面が終ったところである。 「フランスの作家のシャルル・ルイ・フィリップという名前は贅沢だね、王様の名前を三つも使っている」といった。  すると、臼井さんは、ニコニコしながら、「三冠王ですね」         ■  明治の人の話を書く。  同志社を創立した新島襄は、幼名|七《し》五三太《めた》という。天保十四年一月、まだしめ繩が張ってあった時に生まれたからだ。  呱々《ここ》の声をあげたのは、安中藩の江戸屋敷であった。  元治元年に函館から、汽船でアメリカに渡った。船長からジョゼフと呼ばれたので、それを略してジョー、襄の字を当てて、生涯の通称にしたのである。  同志社を開校してから、明治十三年に生徒がストライキを起こした。その時、新島襄は講堂で、みずからの不徳を責め、校長が罪人を罰するのだといって、ステッキで自分を打つと、そのステッキが三つに折れた。  ストライキの首謀者に、若き日の徳富蘇峰がいた。一応事が落着したあと、何となく気まずいので退学する決心をし、校長に帰国の費用を貸してくれとたのんだ。  新島襄は、さすがにあきれて叱ったが、徳富は友人に、「先生は人間というよりも神様みたいな人だから、つい甘えたんだ」と弁明している。         □  郵便事業を開拓したのは、文化切手の一人にもなった前島|密《ひそか》である。 「はがき」「かわせ」「切手」というふうに大衆の耳になじみやすい呼称を考えたのも、当を得ていたが、「切手」ときめて公布したら、「かつぶし屋みたいだ」といわれたそうである。  飛脚便《ひきやくびん》という言葉を使おうと思ったが、二字のほうがいいので、「郵便」に決着した。郵便とは、平たくいえば、宿場《しゆくば》のたよりという意味だ。  ポストが街に立てられた。箱に郵便と書いてある。地方から上京した人が「垂便」と読みちがえて、用をたそうとした話がある。差入口《さしいれぐち》という字もあるので、まぎらわしい。  しかし、それはかなり上のほうなので、男はつぶやいた。「西洋人が使うのだな」         □  正岡子規は、夏目漱石の親友であった。  牛込喜久井町に漱石が住んでいる時に、子規が訪ねて、早稲田から関口あたりを二人で散歩したことがある。  その時、漱石は、水田を見ながら、 「あの苗の実はいったい何だね」と尋ねた。米のなる木を知らなかったのだ。  その後、漱石は、ロンドンに留学した。子規が死ぬ十カ月前、それは明治三十四年十一月ということになるが、漱石に送った手紙が残っている。 「モシ書ケルナラ僕ノ眼ノアイテルウチニ今|一便《イチビン》ヨコシテクレヌカ」と書き、そのあとに、こう書いてある。 「ロンドンノ焼イモノ味ハドンナカキキタイ」         □  日本にベースボールを伝えたのは、明治十二年にアメリカから帰った鉄道技師の平岡|煕《ひろし》である。一本の棍棒《こんぼう》と三個の硬い球を持って来ただけで、ミットもグローブも、マスクもプロテクターもない。  素面素手《すめんすで》で試合をするのだから、 「いのちがけだった」(平岡談)  明治二十年、第一高等中学校の寄宿舎にいた学生がチームを作った。その時、捕手をしたのが、正岡子規で、ベースボールを「野球」と呼んだのも子規と伝えられる。  ついでながら、中国は現在「棒球」である。  子規が、野球を歌に詠じている。 「久方のアメリカ人《びと》のはじめにし   ベースボールは見れど飽かぬかも」  もうひとつ、 「今やかの三つのベースに人満ちて   そぞろに胸の打ち騒ぐかな」  満塁の光景が、みそひと文字になった。         ■  友田恭助という俳優は、ほとんど酒がのめなかったが、築地座の「小暴君」「大寺学校」などの芝居で、酔っ払う役がじつにうまかった。  河合武雄(新派)、市川猿翁(歌舞伎)も飲めないのに、酔っ払いが上手だった。かえって、客観的に観察できるからだろう。  それを立証する話が、友田の場合にある。  久保田万太郎さんが、「飲めないくせに、どうして、そんなにうまく、舞台で酔っ払えるんだろう」と感心したら、こういった。 「何いってるんですか。ぼくは先生のマネをしているんですよ」         □  劇団民芸が地方巡演に行った時、大きな川のほとりに出た。  北林谷栄さんがいった。 「ドン川(ロシア)みたいね」  細川ちか子さんがいった。 「見たこともないくせに」         □  演出家の早野寿郎さんが、「早野塾」という俳優養成の私塾を作った。  やがて「早野演劇研究所」としたが、近年、その呼称を変更して「八起《やおき》塾」に改めたというのである。 「なぜ名前を変えたんです。早野といったほうが、誰が先生だとわかって便利なのに」といったら、 「だって研究生が、私トイレはハヤノへ行ってからするのよ、なんていうんだもの」         □  桃井かおりさんは、文学座の研究生だった。  実習のために「アンナ・カレーニナ」の稽古をしている時、一日三食とも、カレーライスを食べていた。  それほど、好きなのである。仲間が呼んで、 「アンナ・カレーナ」         □  砂原美智子さんと、オペラの公演の前月に会った時、たいへん忙しいと歎いている。 「そんなに稽古が忙しいんですか」と尋ねると、悲しそうにいった。 「なぜ、トスカが券を売って歩かなければならないのかしら」         □  北條秀司さんと、島田正吾さんが話していて、二人とも正式に結婚式をあげていないことがわかったので、長谷川伸さんを媒妁人に願って、改めて合同で式をすることにしたいと思った。 「お願いします」と二人そろって、たのみに行くと、長谷川さんが手をふって、 「だめだよ、だって、うちも式をあげてないんだから」         □  その島田さんの「ふり蛙」におもしろい話が出ている。おもしろすぎるようでもある。  戦争中のことだが、辰巳柳太郎夫妻が、明石の海岸を散歩していると、霧がスーッと晴れて淡路島が見えて来た。  民子夫人が辰巳さんに訊いた。 「あなた、あれ、アメリカですか?」         □  昭和三十三年にモスクワ芸術座が来て、新橋演舞場で公演をした。すばらしい舞台で、新劇の俳優はみんな感動、歓声をあげた。  久保田万太郎さんが、暗くなってから客席に着き、「桜の園」を見ていた。  序幕がおわって、場内があかるくなったら、隣に東山千栄子さんがいた。日本の「桜の園」でラネーフスカヤ夫人を持ち役にしている女優である。 「感想を訊きたいと思ったが、何だか尋ねにくかったんで、だまっていた」 「それで、どうしました」というと、 「ぼくは新聞記者には、なれないと思った」         ■  梅の話をしよう。  京都の北野天満宮に行った。菅公は梅と牛をこよなく愛したといわれ、天神様は、梅を境内にかならず植えている。  北野の場合は、公園のようになった梅林があって、参詣した男女の休息する茶店がその中にある。  宮司の香西大見さんが、語った。  春めいて来ると、放送局や日本交通公社やホテルから、電話がしきりにかかるのだという。質問はきまっている。 「お社《やしろ》の梅は何分《なんぶ》咲きですか」あるいは、「見ごろは、いつですか」 「いちいち大変ですね」と同情した。 「じつはこれが難問なんです。五十種類も梅があるので、見ごろが一カ月以上、どこかにあるんです」         □  湯島天神にも、梅林がある。  新派の当り狂言の「婦系図《おんなけいず》」は、この社を場面にとって、早瀬|主税《ちから》とお蔦《つた》の悲劇が、清元の「三千歳《みちとせ》」をよそ事《ごと》浄るり(さりげない伴奏)にして、演じられる。  喜多村緑郎の八十何歳のお蔦を見ていたら、梅の木が倒れかかったのを、右手でおさえながら、大道具の職人が出て来て支木《しぎ》に釘を打ち直すまで、背中を向けたまま動かず、しかし、セリフをいい続けていた。  感心したのは、その手が終始、女の肩の線になっていたのだ。まさしく、女だった。         □  主税とお蔦の仲をさくのは、主税の将来を思ってそうしたという酒井俊蔵、二人が呼んで「真砂町《まさごちよう》の先生」という人物である。  本郷の真砂町に住んでいたという、作者泉鏡花の設定であった。  昭和五十三年の春に、二代目市川翠扇さん、玉川一郎さんと、東京12チャンネルの「わたしの東京」という番組に出演した。  大正時代の小学校をテーマにしたので、真砂小学校をえらんだ。  翠扇さんが、その朝、小学校に着いて、校長室にはいると、いそいそと挨拶した。 「真砂町の先生、お早うございます」  三人で小学校唱歌を歌ったりしたのだが、翠扇さんも、玉川さんも、その年に急逝してしまった。         □  その翠扇さんは、お母さんが九代目市川団十郎の二女であった。  翠扇さんの前名を市川紅梅という。  十数年前、文壇句会に出席したら、席題がいくつか貼り出されていた中に、紅梅というのがあった。  久保田万太郎さんが、小さな声で、 「紅梅や団十郎の孫娘というのは、駄目だろうね」といった。 「駄目でしょう」と答えた。  久保田万太郎さんの作を否定したことが、一度だけあるわけだ。         □  丸山章治さんは、徳川夢声さんの門下生であったが、昭和十四年ごろ、談林俳句と称する傑作を数十句作った。  季題がシャレになっていて、そのくせ、みごとに俳句の体をなしているのである。  臘梅《ろうばい》という十二月に咲く梅の句がある。 「臘梅のあわてふためき咲きにけり」  というのである。         □  日本語の「うめ」と「うま」は、中国語の「梅《メイ》」と「馬《マア》」の音がそのまま輸入されたので、昔は「むめ」「むま」と書いた。  広州の公園を歩いていると、梅の老樹があったので、「うめ」とつぶやくと、通訳の青年が、「中国語をご存じですね」         ■  沢村貞子さんは、NHKのテレビ小説で、「おていちゃん」が放映されていた時、インタビューだの、座談会だの、講演だので、大変忙しかったらしい。  何かで、その対談の記事を見ていたら、「下町のよさって何でしょう」という質問があった。  沢村さんの答がみごとだった。 「春の淡雪《あわゆき》のようなもので、手にとってお目にかけられるものでは、ありません」         □  水谷八重子さんの家に、三度、どろぼうがはいったそうだ。  最初の時は、白金にいたころで、三人組の強盗で、かなりこわい思いをしたらしい。  二度目の時、八重子さんがいる部屋のとなりに男が忍びこんだ。  娘の良重さんと、緋多景子さんと、二人で浴室にはいったと八重子さんは思っていたのに、人の気配がするので、どちらかが先に、はいったのだと考え直した。  浴室の戸の前に行って、「誰がはいっているの?」と訊くと、中から「二人で、はいっているんです」と答える。  八重子さん、首をかしげて、 「まだどなたか、いらっしゃるわ」といった。  なお、もう一度はいったのは少年であったという。 「どうしました」と訊くと、 「犬になつかれて、つかまりました」         □  最近聞いた話。  浅香光代さんが、中国のハリを学ぼうとして、北京に行き、因士という専門の資格をもらって帰国した。  時々、くたびれると、自分の膝《ひざ》の俗にいう三里《さんり》に、ハリを打つのだそうである。  浅香さんがしみじみいった。 「自分にハリを打つのは、ずいぶん気兼ねするものだわね」         □  川路龍子さんは、はじめ河路という姓にするつもりだった。  松竹の重役の城戸四郎さんが、「川路のほうが、サインをするのに、便利だよ」といったので、いまの芸名にした。         □  SKDの出身者やベテランが時々あつまって、たのしい会合を持つのだが、その会の名前を「カンナの会」という。 「オンナではなくカンナだ」とよくいう、あのいい方からとったわけだ。  もちろんカンナの花のつもりでいたのだが、ある時例会を開いた場所の入口に、気を利かせて、カット風に絵が文字の上に出してあった。それはカンナ屑の絵だった。         □  武原はんさんは、しずかに舞台で舞う女性だが、阿波の生まれのせいか、景気よく賑やかにおどるのも好きである。  楽しくなると、すぐおどりだすくせがある。  もう三十年も前の話だが、鎌倉に久保田万太郎さんを訪ねた時、久保田夫妻と海岸に散歩に行くと、月がいいので、うかれ出して、浜辺で、おどりだした。  ほかにも人がいて、じろじろ見ている。  久保田さんが、こういったそうだ。 「なにぶん病人のことですから」         □  興行会社や映画会社で発売するスターの肖像を入れたカレンダーは、あれで、序列に苦労があるようだ。  たとえば一月に出るのと、八月に出るのとでは、当人の受ける感じがちがう。こしらえるほうは、誰にもうらまれたくはない。  宝塚の順みつきさんの時は、九月にすることが一遍にきまったという。  ジューン(六月)から、みつき目なのだ。         ■  矢野誠一さんに聞いた。  なくなった桂文治という落語家が、長いあいだ入院していた。  金がかかって大変だと病人がしきりに気にするので、弟子たちが師匠を安心させるために「ひいきの客がこの病院を下さったんですから、安心して養生してください」といった。「そうかい、そうかい」と聞いていたが、死ぬ直前に、弟子を呼んでいった。 「私が死んだら、この病院はお前さんにあげるよ」  いよいよいけないという時、おかみさんが「二と三とたすと、いくつですか」と訊くと、だまって首をふった。  弟子が「二円と三円とでは」といったら、文治さん、「五円」と答えた。         □  林家三平さんが、車を運転して、ついスピードを出しすぎて、つかまった。  窓から首を出して、「三平です」といったら、「それがどうした」といって、罰金をとられた。         □  思い出したが、むかし林家正蔵さんが、京都に行っていた時、湯屋に行った。暑い時である。  宿が近いところだったので、浴衣をかかえたまま、裸に近い格好で、かけ出してゆくと、警官につかまってしまった。  正蔵師匠が弁解した。 「どうもすみません。田舎と思ったものですから」大西信行さんから聞いた。         □  春風亭柳橋さんが、酒のCMに出ていたことがある。  ベルクラブの忘年会で会った時、師匠に、 「あの酒、おいしいんですか」と訊いた。  すると、困ったような顔をして、 「あのね、私、のめないんです」         □  柳亭小痴楽さんは、痴楽さんの弟子である。師匠に叱られて「名前をとりあげるぞ」といわれた。 「すみません、全部とりあげられては、困ります。上の一字だけ、とって下さい」といって、もっと怒られた。  上の一字をとると、柳亭痴楽になる。         □  このごろの若い落語家は、寄席やホールの高座にあがる時は、紋付を着るが、外を歩く時は、洋服である。  ジーパンを穿いている人もいる。  若手の一人が、ジーパンを脱いで、高座にあがって行ったら、老年の落語家が、それを見て、いった。 「穿いてりゃジーパンだが、置いてありゃボロだ」         □  田辺茂一さんに聞いた話。  桂伸治さんが、新宿のキャバレーでの仕事を引き受けていたが、何かの都合で、予定が変更になった。  マネージャーが、「キャンセルになりました」というと、「あいよ」とうなずいていたが、夜、新宿へ行って、キャンセルというキャバレーをさがしたというのである。         □  柳家小さん師匠と、ある会で、ならんで食事をした。  外国の話が出た。一度だけ南米に行って、長旅にこりごりしたという感想は、「文藝春秋」の池田弥三郎さんたちとの座談会で聞いていたが、しかし、わざわざ招いてくれるファンがいるのはしあわせだと思って、「どこで、話したんです」と聞いたら、頬を染めて、 「いや、行ったのは、剣道のほうで」         ■  医院の待合室で、近所の老女に会った。 「どこかお悪いのですか」と訊かれたので、「いや、血圧をはかってもらうんです」というと、しばらく黙っていたが、ぽつんといった。 「むかしは血圧なんて、なかったのにね」         □  麹町にある出版社の入社試験に来た若者が大ぜいいる。 「どうしてこの社を受ける気になったのですか」と尋ねるのが、冒頭の質問とだいたいきまっている。ひとりの青年がこう答えた。 「うちが荻窪なので、中央線に近いところが便利だと思ったんです」  入社したそうだ。         □  ある大学のゼミナールで、テーブルをかこんで、討論を開いた。  橋本という学生がしゃべったあと、女子学生が論じはじめた。じつは、この橋本君、何となく受ける印象から、ゴエモンという綽名《あだな》がついていた。  女子学生が話しはじめた。 「いま、ゴエモンさんが、このテーマについて否定なさいましたが……」  教授がたしなめた。 「ゴエモンさんなんていうのは、キミ、おかしいよ。ちゃんと、名前をいうべきだよ」  女子学生がすなおにわびた。 「すみません。いま、石川さんが、このテーマについて……」         □  バスに女性の声で、停留所を告知するアナウンスが録音で仕掛けられていることに、大方の乗客は、馴れている。  男しか乗務員がいないのに、ソプラノの声が運転台から聞こえて来るのにおどろくのは、アテレコのテレビの洋画を見ていて、「この西洋人は、なぜ日本語がうまいんだろう」と感嘆するのにひとしい錯覚であろう。  しかし、電話で録音された声を聞いて、向うに現在、人がいてしゃべっていると思う錯覚は仕方がない。  ぼくもよく、時報を電話で聞いて、 「ありがとう」といって、切ったりする。  しかし、つぎのは、おかしい。  バーの電話で、スポーツ・ニュースのダイアルをまわした人が、こういっているのを耳にしたことがある。 「セ・リーグはいいんです。阪急と近鉄は、どうなりましたか」         □  電電公社の人から話をきくと、電話は機能がどんどん開発されてゆくらしい。家庭のプッシュホンで、ごく簡単に新幹線の予約もできるという話を前に聞いた。  そういう時に、好奇心が湧きあがるくせがあるので、こんど何かの機会に、こう訊いてみたい。 「しばらくすると、家の茶の間の電話機のわきに、指定券が下から出て来る器械が、できるんじゃありませんか」         □  郵便局で、書籍小包について質問した。  ただの小包よりも、書籍と表に書いて出すと、料金がだいぶ安くなるということを、聞いたからである。  女の局員が、親切に教えてくれた。 「まず、ボール箱でも、厚い紙袋でも、ふつうの包み紙でもいいですが、左右か、上下か、どこかに一カ所穴をあけておいてください」 「穴をあけるんですね」 「中身を見せるためです」  礼をいって帰ろうとすると、規則を見ながら局員が大声で呼びとめた。 「何ですか」 「いい忘れました。第一に中身が書籍であること」         ■  シャレが、新聞の見出しに、多くなった。特にスポーツの記事に目立つ。シーズンになると、毎日のように試合の結果を報道するので、せめて見出しにでも凝らないと、退屈してしまうのだろう。  プロ野球のセントラル・リーグが混戦になっている時に、最初に「乱セ」と書いたのはどこの誰だか知らないが、以来大いに使われた。  いよいよ追いこみの時期に、三つのチームが一ゲーム差ぐらいで、順位を毎日変えている年の見出しで、うまいのがあった。 「セントラル デッド ヒーティング」         □  シャレは野球の記事ばかりではない。  去年の夏、西ベルリンで開催されたシンクロナイズド・スイミングの世界選手権大会で、日本の双生児の姉妹が二位に入賞した時、毎日新聞の特派員が打電して来た記事には、「ソーセージの本場で、双生児の売り込みに、藤原姉妹は成功した」と書いてあった。         □  山下家に五つ子が生まれて、鹿児島の病院で育てられている時に、誰かがいった。 「九州に新しい子守唄ができた。五つ子の子守唄」         □  慶応の高校は横浜市の日吉《ひよし》にある。  その高校の学生たちが、クリスマスのころに、コンサートを開くことになって、会の名称をいろいろ考えたが、なかなか名案がない。  ふいに一人が思いついて、みんなが即座に賛成したのがある。 「日吉コノヨル」         □  北條秀司さんが、若いころ箱根登山鉄道という会社につとめていた。  その会社の監督官庁に、長崎惣之助さんがいたが、会社の業績が不振で、株主配当が八厘という年があった。  長崎さんが、ひやかした。 「箱根八厘だな」         □  宝塚にいたころの安奈淳さんに、記者がインタビューをした。  その記事がおもしろかった。ほんとうに、この女優がいったとすれば、大したものである。 「アンナジュンって、ドンナジュンと質問したら、答えていわく、ヘンナジュン」         □ 「日日是好日《ひびこれこうじつ》」という言葉がある。  侍従長の入江|相政《すけまさ》さんの随筆集は、この五字を題名にしている。  上野の本牧亭から発行されている「ほんもく」という機関紙に、沢田一矢さんが、エッセイを連載している。  その題が「日日これ口実」         □  新国劇の島田正吾さんは、漬物がすべて、苦手なのだという。  それをきいた村上元三さんがいった。 「しんこ食う劇なのにね」         □  神田のアテネ・フランセの前を通った時、「この建物は、何だろう」といった人がある。  永井龍男さんが、答えた。 「アテテ・ゴランセ」         □  テレビを見ていると、七代目になったばかりの尾上菊五郎さんが、アナウンサーから尋ねられている。 「音羽屋さんは、朝型ですか? 昼型ですか?」  ちょっと間《ま》があって、 「私は女がたです」         □  木の実ナナさんは、コノミナナではなく、キノミナナが正しい。説明する時に、いう。 「キノミキノママとおぼえて下さい」         ■  アメリカに留学している息子に、母親が手紙を書いて、「久しくあなたの歌を聞かないのが、さびしい」といってやったら、まもなく、テープが送られて来た。  いつも家族がみんなで歌う歌だった。  その母親は、テープを聞きながら、自分も声を和し、その歌声を再びべつのテープにとって、アメリカに送り返したという。  昔なら、想像もつかない話である。         □  親戚で、渋谷に眼科医を開業している家がある。ぼくの学生のころに、徴兵検査があって、自分の目のぐあいをあらかじめ見てもらいに行った。そして、左が弱視であることがハッキリしたりした。  今でもおぼえているが、小学生の男の子が待合室に出て来たので、声をかけた。 「大きくなったら、何になるの」  月並な質問だ。  すると、坊やが右の人さし指を目の下にあてたので、赤んべえをしたのかと一瞬思ったが、じつは「目の医者になる」という意味だった。  いま、その時の子供が、院長になっている。         □  去年、神津友好さんが書いていた。  ある工事現場に行くと、めぐらした板の塀《へい》に節穴が何カ所かある。  上のほうの穴に「大人《おとな》用」とマジック・インキで書いてあった。  すこし低い穴に「子供用」、そして、ずっと下のほうの穴に「犬用」。         □  京都は修学旅行の団体が、シーズンになると、おびただしく出かけてゆく都会である。  いろんな話があるが、いちばん困っているのは祇園の舞妓《まいこ》で、盛装してポックリ(京都ではコッポリという)を穿いて歩いていると、とりかこまれて、サイン攻めにあう。 「修学さんが来やしたから、逃げまひょう」と路地に避難するそうである。  寺町の通りを歩いていたら、修学旅行の女子生徒が、宿から町の湯屋に、打ちそろってゆく姿を見た。ネグリジェを着て歩いていた。  三条大橋のそばの旅館の前から、修学旅行の生徒が、バスで京都見物を終えて、出発しようとしている。  旅館の主人が大きな声で、いっている。 「坊ちゃんたち、大きくなったら、また、いらっしゃい」         □  帝国ホテルのエレベーターで、十七階のバーに上ってゆく時、乗りこんで来たアメリカ人の大男がよろけて、停止ボタンのところに肩をぶつけてしまった。  その瞬間、二階から十七階までの文字板が一斉に点灯し、エレベーターは、一階ごとに一旦停止して扉を開閉させながら、ゆっくり昇ってゆく。  アメリカ人が、(もちろん英語で)いった。 「私の巨大な肩をお詫びします」         □  京都|山科《やましな》の一燈園には、すわらじ劇園というグループがいて、しじゅう地方を巡演している。  その劇団の人たちは、どの土地に行っても、劇場あるいは公民館に着くと、まず便所の掃除をしてから、稽古をはじめるという。  一燈園をはじめた西田天香さんの奉仕という精神を徹底させた訓育が、伝統として生きているのである。  すわらじ劇園は小さな舞台を持っているが、その緞帳《どんちよう》は、古いハンカチをつないだものだ。観客が忘れて行ったハンカチを集めて作ったのである。         □  NHKのテレビを制作している人たちが、長いあいだ作ってみたいと思っていて、手のつけられないものがあるという。 「いったい何です」と訊いたら、 「CM」         ■  テレビにレギュラーで出ている人は、顔をおぼえられているから、世間がせまいと、よくいう。悪いことは、自然できない。  NHKの「私の秘密」という番組があったころ、藤浦|洸《こう》さんと会ったら、「どこヘ行っても、知らない人から挨拶される。まァ指名手配のようなもんだな」         □  十年も水戸黄門をテレビで演じた東野英治郎さんは、旅先の車中で、当然、よく声をかけられるという話である。 「それはいいんですが、ただ困るのは、向うが直立不動で、かしこまっているんです」         □  これはごく最近、NHKテレビの「この人と語ろう」に、藤原|釜足《かまたり》さんが出ることになって、予告をしたら、 「歴史で有名な藤原さんが出るのですか」という問い合せがあったそうだ。  じじつ、戦争中、藤原さんは、大化の改新の功臣藤原鎌足とまぎらわしい名前ではいけないといわれて、一時、鶏太と称していた。         □  その藤原さんがテレビの「徹子の部屋」という番組に出ていた。  四十分ちかく、CMをあいだにはさんで、長い対談があり、おもしろく聴いていた。最後に黒柳さんが、「どうもありがとうございました」というと、藤原さんは、「いや、いや」といったあと、しずかに尋ねた。 「それで本番は何時からですか」  いままでのは、リハーサルだと思っていたらしかった。         □  黒柳さんは、独特の髪かたちをしている。いちばん欠点が隠れ、いいところが強調されるスタイルを、考えてもらったのだという。  たとえばマッシュルームとでも呼びたいスタイルだ。  そんな話をしていたら、小田島雄志さんが、「あのアタマには、ちゃんとした名前があるんですよ」といった。  英文学者に教わるなら確実だと思って、「何というんですか」と尋ねたら、 「徹子のヘヤーというんです」         □  この黒柳さんが、だいぶ前にNHKのテレビ小説「繭子《まゆこ》ひとり」に、出演した。  それ掃除婦の役であったが、かつらをつけ、メーク・アップをしたら、別人のようになった。ディレクターが顔を合わせても、気がつかない。  扮装を完成してしまったら、NHKの廊下を、やはり片隅に寄って通る気持になったそうだ。馬士《まご》にも衣装の逆である。         □  テレビの司会者というものには、それぞれ性格があって、それが売り物になったりする。  参議院にはいった木島則夫さんには「泣きの木島」、落語家の桂小金治さんには、「怒りの小金治」という枕ことばがあった。  小川宏さんが、「私には、枕ことばがないんですが」といったら、黒柳さんが、 「春の小川というのはどうかしら」         □  小川宏ショーに、チンパンジーの子を抱いて出て来た夫妻があった。  可愛らしいチンパンジーが、人間の赤ん坊のように、飼い主の腕の中で、目をパチパチさせている。  露木茂さんだったかが、「年は、いくつぐらいなんですか」と尋ねると、夫妻が小声で、「いくつだったかな」「そうね」といったやりとりがあって、即答が返って来ない。ちょっと間《ま》があいた。  小川さんが、いった。 「干支《えと》がサル年だということだけは、わかっているんですが」         ■  歌舞伎役者の話。  昭和三十年に中国に先代市川猿之助一座が行った時、ぼくも同行した。  演目は、猿之助主演の「勧進帳」と「吃又《どもまた》」、ほかに半四郎と松蔦(いまの門之助)の「男女道成寺」である。 「吃又」の主人公、絵師の又平が死を決意して、石の手水鉢に自画像を描くと、奇跡でその絵がべつの側にぬけるという場面がある。中車さんの土佐将監が、燭台を持って出て来て、右手をあげて感心するところで、 「奇妙奇妙」といったら、北京の劇場の観客が爆笑した。  中車さんは、何か失敗でもあったのかと思って青ざめたそうだが、聞いてみたら、中国では、珍しいものを見た時に、日本人にほとんど近い発音で「奇妙奇妙」というのだと教えられた。  ご愛敬に一カ所、俳優が中国の言葉をセリフに入れたのだと思ったわけだ。以後、毎ステージ、中車さんは笑われっぱなし。         □ 「忠臣蔵」の四段目で、塩冶判官《えんやはんがん》が切腹して、遺体を駕籠におさめたあと、奥方と家老が焼香してから、諸士を代表して、原郷右衛門が拝礼する。  その時、いまは「御名代《ごみようだい》」といっているが、昔は「御代香」といった。 「なぜ変えたんです」と尋ねたら、某古老がいった。「ゴダイコウは困る、役者に大根《だいこ》は禁句です」         □  昭和五十二年新橋演舞場で「オセロー」が上演された時、尾上松緑さんが病気になって、急に河原崎権十郎さんが代役をつとめた。  これは大変な苦労だったと思われるが、そのオセローをはじめて演じた日に、楽屋で記者が感想を求めたら、「ついに舟が岸を離れたといった感じです」といった。  うまいことをいうなァと、その記者は、大変感心して、翌日、その「オセロー」を見に行ったら、権十郎さんが、花道から、舟にのって出て来た。         □  尾上松緑さんが、いつか、いった。 「客席で赤ん坊に泣かれるのが、いちばん困りますよ」 「なぜです」 「こっちが、現代人になってしまう」         □  中村雀右衛門さんが、大谷広太郎時代、はじめて女の役をした。感じはどうかと尋ねたら、小声でいった。「ぼく、女のつもりで、やっているんです」         □ 「忠臣蔵」の大序に、大名が大ぜい出て来るが、大幹部以外の役はセリフもなく、黙って、足利|直義《ただよし》について、花道をはいるだけだ。  ある役者がそのならび大名に出ていて、友達に屋号で声をかけてもらったという。それだけでもおかしいが、その役者は、子供に、「お父さんの役、どんな役なの?」と質問されて、こう答えたそうだ。 「塩冶判官の友達さ」         □  むかし片岡柳蔵という役者がいて、子供を叱る時に、「お父つァんはな、これでも天子様から十一番目にえらいんだ」といった。  じつは、この役者は、陸軍特務曹長なのだ。大元帥の次が元帥、以下、大将、中将、少将、大佐、中佐、少佐、大尉、中尉、少尉、その次というわけである。         □  大正初年に、あるプレイボーイが千人の女を斬ったという話を聞いて、十五代目市村羽左衛門が、こういったそうだ。羽左衛門だからいい。 「その人、ひどい近眼じゃないのかね」         ■  だいぶ前に、安藤鶴夫さん、尾崎宏次さんと、京都に行った。四月中旬のうららかな日に、嵯峨の祇王寺をたずねると、瀬戸内晴美さんが「女徳」という小説に書いた庵主の美しい尼僧が庭に出ていた。  上から花ふぶきが降って来て、地面に敷かれて模様を作る。  ところで、見まわすと、その寺の中には、桜の木が一本もない。どこか、ほかの地内にある木から、花が散って来るらしかった。  尼僧が、キョロキョロしているぼくらに、教えるようにいった。 「ここには桜はないのどすえ、よそから散らして来ます」 「どうも、そうらしいですね」と相槌を打つと、ニッコリして、 「この寺は、花まで、ひと様のお世話になっております」         □  誰だったか、落語家が、「長屋の花見」のマクラだと思うが、「昔は、上野、向島、飛鳥山と、花いっぱい賑やかでございました」といった。 「花いっぱい」というのは、いい言葉であった。         □  落語家で思い出したが、戦争前には、時々「鹿芝居《しかしばい》」というのが催された。  落語家のしろうと芝居で、歌舞伎を演じた。つい吹き出すような女形になって出演した、高座の名人の写真が残っている。  岡本綺堂の「番町皿屋敷」を上演したことがあるそうだ。  序幕が赤坂山王様の花ざかり、町奴《まちやつこ》と喧嘩をしたあと、青山播磨という美男の旗本が、羽織を着て、紐を結んでいると、上から、花が散って来る。  初演以来、これを当り役にしていた二代目市川左団次の「散る花にも、風情があるなァ」というセリフまわしは絶品で、このあいだ片岡孝夫が演じた時も、高島屋の口跡になってしまっている。  綺堂の書いたセリフに、先々代左団次が節をつけてしまったわけだ。  鹿芝居で、この播磨を演じたのが誰だか、さだかでないが、舞台でハプニングがおこった。天井の簀《す》の子《こ》にあがって、花を降らせる裏方が、パラパラ、パラパラッと落すはずなのを、うっかり籠を倒して、一度に大量の花びらが、播磨の上に落下して来たのだ。  けがはしなかったろうが、風情も何もあるものではない。 「二十四孝」というはなしを思い出したのだろう、青山播磨の扮装をした落語家が、大声でいった。 「天の感ずるところだなァ」         □  このごろの子供には、散文的で、まったく愛敬《あいきよう》というものがないのがいる。 「花咲爺」の話を聞いていて、正直爺さんが桜の木に灰を撒《ま》くというところがおわったら、話して聞かせている父親にいったそうだ。 「空気が汚染するじゃないの、パパ」         □  祖父に聞いたのだが、乃木大将が「朝日」という煙草を愛用したと、その没後に喧伝されたら、「朝日」を吸いはじめた人が、多かったという。  フィルターつきではなく、口付《くちつき》と称する紙巻煙草があって、「大和」「敷島」「朝日」が、売り出されていた。前の二つは早くなくなった。  本居宣長の歌に、「敷島の大和心を人問はば朝日に匂ふ山桜花」というのがあると、大学で教えられた学生が、感心していった。 「よくもまァ、うまく煙草の名前を、よみこんだものだ」         ■  乗り物の話。  地方の都市でタクシーにのっていたら、そのタクシーの会社が無線で車に連絡して来る。  ところで、そんな会話を、運転手と会社とのあいだに交わすのが合法なのかどうかはよくわからないのだが、様子を見ていると、のせている車の主は、会社の社長の息子らしく、無線で話しかけているのが、その父親らしいのである。 「とにかく一度昼に帰って来い、どうぞ」 「いやだよ、話はもうわかっているんだ、どうぞ」 「何度いったらわかるんだ、どうぞ」 「知らないよ、どうぞ」  どうぞが、おかしい。         □  駅の出札口で、駅員とやりとりをした時代に、よく聞いた話は、こういうのである。  あわてた人が、たとえば目黒の駅で、「目黒一枚」といった時、「ただです」というわけだ。 「ここが目黒ですよ」と、こわい顔をするよりも、よほど愛敬があっていい。  自動販売機になってから、こういう話が、まるでなくなってしまった。         □  新幹線に乗っていて、誰かが立って、戸の外に出て行くと、すぐ壁のランプがつく。  手洗いに人がはいったということを知らせるための点灯である。乗客にむだ足をさせまいという国鉄の親切なのだろうが、花もはじらうような婦人が出て行った直後のランプは、何となく気の毒な感じが、しないでもない。  渋沢秀雄さんがいった。 「あのランプ何というか、ご存じですか。トイレッ灯《とう》というんです」         □  いつか、新幹線で京都に行く時、藤枝のそばで、停車してしまった。停電したわけではない。「風速が十メートルを越したので、危険だから、風当たりの弱い所にとまって様子を見ているのです」というアナウンスがあって、五時間待たされた。  同じ車両に、たまたま中村鴈治郎さんが、夫妻で乗っているのに気がついたので、近づいて挨拶すると、 「これがほんとの風待《かざまち》や」         □  春日|三球《さんきゆう》・照代というめおと漫才が、「地下鉄を地面の下にいれる時、どうしていれるのかがわかりません。それを考えると、夜もオチオチ寝られないんです」というギャグが大受けに受けて、人気者になったのは、昭和五十二年である。  ところで、都営地下鉄が、新しく路線を延長した時、この二人をわざわざ招いて、車両をある場所から地下に収納する現場を見せた。  ヘルメットを冠った三球さん照代さんが、のぞきこんでいる写真が新聞にのったが、気の毒に、その後訊いたら、 「もう地下鉄のギャグが、漫才では使えなくなりました」         □  田辺茂一さんが、夜更けの銀座の店で、車を呼んでもらったのだが、いつまで経っても来ない。 「二台呼んだら、すぐ来るよ」といった。  なぜですか、とホステスが訊く。 「だって、ツーといったらカーというじゃないか」         □  故人になった狩野近雄さんと名古屋から東京まで、新幹線で、たった二人のことがあった。通路に立って、ゴルフの初歩を、ぼくに教えようとする。  なるほど、グリーン車だった。         ■  明治の話を書く。  夏目漱石の「吾輩《わがはい》は猫である」の上巻が発売されたのは、明治三十八年十月である。 「吾輩は」というのが、たちまち流行語になった。  翌年、登張《とばり》竹風が、帝大(東大の前名)で講演をした。題は「吾輩は日本人なり」というわけだ。  壇上にあがった竹風は開口一番、こういった。 「吾輩は猫ではない、日本人である」         □  なお、その明治三十九年に、漱石の所に来た年賀状に、猫の絵はがきが非常に多かったという。  それは夏目家に保存されていたが、女婿《じよせい》の松岡譲さんが、それを見ていながら、一瞬、こう考えたそうだ。 「三十九年は、ねこの年だったのかな」         □  細菌学を日本に樹立したのは、森本薫の伝記劇「怒濤」の主人公でもある北里柴三郎博士である。  博士がドイツで学んだ世界的権威のローベルト・コッホが日本に来たのは、明治四十一年である。  日本の女性が気に入って、お花さんというのをハウスキーパーとして、連れて行ったという話がある。  学者たちがコッホと懇談した時、一人が尋ねた。 「先生、ペストについて、最も重要な予防措置を教えて下さい」  コッホは、しずかに答えた。 「猫を飼いなさい」         □  明治二十年代に、近松門左衛門と名のった文学者がいたらしい。「歌舞伎新報」の雑録にも、一度名前が出て来る。  伝記は不明だが、勝手にそういう筆名を使ったのであろう。ぼくが古書展で入手した、薄い小冊子がある。  明治二十四年二月に、淡海書房から出版された新作浄るりの活字本で、「近松門左衛門訂正」という肩書があり、名題《なだい》は、  西郷隆盛桜島の段         □  森鴎外と斎藤緑雨(別名正直正太夫)が本郷の青木堂という茶房で休んでいると、あとから学生が二人はいって来た。  何もしゃべらずに、一人がテーブルの上に指で字を書き、もう一方が、しきりにうなずいている。  緑雨は、耳の不自由な若者かと思って同情しながら、チラッと見ると、コップの水でテーブルの上に書かれた文字が見えた。  右 鴎外  左 正太夫         □  この緑雨は、見聞したいろいろな話を「おぼえ帳」「ひかへ帳」の二冊に、書きとめている。  その中のひとつ。実業界の紳士たちが英語を勉強する仲間を作り、パーレーの万国史をテキストにして、大学の先生についた。  ある日、その仲間の四人が料理屋で食事をしている時、ふと思いついて、先生を呼ぼうということになった。  よせばいいのに、英語まじりで、「いつものティーチャーを呼んでおくれ」と女将に命じると、まもなくひとりの女性が、嫣然《えんぜん》と現われた。  愛称を、ちいちゃんという芸者だった。         □  のちに東京市長になった永田秀次郎は、青嵐《せいらん》という俳人で、高浜虚子に師事した。京都の警察部長をしていた時、譴責《けんせき》処分を受けた。次の俳句を叱られたのである。 「サーベルの足にからまる暑さかな」         ■  おもしろすぎる話は、作り話と考えていいのかも知れないが、伝説として生かしておけば、無意味でもない。  鯉のぼりに、二本の鯉がひるがえっているのを見て、「どちらがオスだろう」と話している時に、かたわらにいた貴婦人が、 「コイに上下のへだてはございませんよ」といった。  そういったのは、九條武子夫人だったということになっている。         □  三浦|環《たまき》が一九一五年五月三十一日に、ロンドンのオペラハウスで「お蝶夫人」を初演した。客席は正装の男女で満員である。  二幕目で、ピンカートンの船が長崎の港にはいって来て、大砲が一発嗚る。ヒロインは望遠鏡をのぞきながら歌っている。ところが、一発でいいはずの大砲が、続けざまに、ドンドン鳴る。  ふと見ると客席はからっぽである。  この日、ドイツから、ツェッペリン飛行船がはじめて空襲に来たので、聞こえていたのは、高射砲だった。         □  石川啄木がある日、同郷のよしみで原敬にハガキを書いたという話がある。 「貴下のような天下の大政治家と、私のような天下の大詩人が会談したら、さぞ愉快なことでありましょう」  当時の啄木は朝日新聞社の校正係に勤務していた。返事は来なかったと、松崎天民が伝えている。         □  アメリカから西部劇のスターが日本に来て、三條大橋を渡ると、高山彦九郎が御所の方角を遙拝している銅像を発見した。  そして、案内している男に質問した。 「なぜ、この人物は頭の上に、ピストルをのせているのか?」  西部劇のスターというところが、この話のミソである。         □  松竹を作った初代社長、大谷竹次郎さんには「坊さんの出る芝居が好きだ」という伝説があった。 「娘道成寺」のように、大ぜい所化《しよけ》の登場するおどりは、特に気に入っていた。 「喜撰」「鳴神」「河内山」「二月堂」「延命院」高僧悪僧を問わない。大谷ではあるが、宗旨は門徒でなくてもいい。 「なぜ、坊さんが、そんなに好きなのですか」と城戸四郎さんが訊いたら、 「坊主丸もうけ、ときまっているやないか」と答えた。         □  初代中村吉右衛門が、「清正誠忠録」を演じている時、ジャーナリストが、人からたのまれて、ブロマイドにサインしてもらおうと思って、楽屋へ行った。  すると、苦い顔をして、首を振っていった。 「私は清正です」         □  大正十二年九月一日、関東大震災、初震がグラグラッと来た時、青山杉作さんは、麹町の友田恭助の家にいた。  一旦納まった時、さっき悲鳴をあげた青山さんが「しまった」と叫んだ。 「あの時、なぜシャレが出なかったのかね、ジシンを持てとどなればよかった。修行がたりないなァ」         □  連合艦隊が遠洋航海に出て、赤道に近づいた時、下士官が水兵に冗談をいった。 「望遠鏡で見ろ、赤道が見えるだろう」  水兵は目をこらし、「ハイ見えます」と答えた。 「どうして、わかる?」 「水の上に赤い筋が引いてありますッ」         ■  ロンドンのホテルのラウンジで、 「ティー」と注文したら、ボーイがうやうやしく、 「インディア オア チャイナ?」  と訊いた。印度つまり紅茶か、中国茶かと尋ねたわけだ。  日本の旅行者が目を丸くして、 「アイ アム ジャパニーズ」         □  まちがいは、しじゅうある。  映画やテレビのセットに置いてある小道具を、カメラの角度を変えた時に、片づけることを、なぜか「わらう」という。語源としては、「とりはらう」の「はらう」の転訛《てんか》とも考えられるが、よくわからない。 「君、机の上の花瓶、わらって」と助監督が命ぜられたのだが、別の用事があって、しばらくそのままにしていた。  監督が癇癪《かんしやく》をおこして、「早くわらって」とどなりつけたら、セットの隅にいた若い俳優が、自分がいわれたのだと思い、「アハハハ」と笑ったそうだ。         □  小林信彦さんに聞いた話だが、エド・サリヴァン・ショーをテレビ放映する時、井原高忠さんが、声を吹き替える仕事のために、麹町のスタジオを電話で予約した。  翌日行ったら、墨くろぐろと、部屋の名札に、 「江戸裁判所」         □  祖父の庭に、サイカチの木が贈られて、トラックで運んで来た。  孫娘がいて、「この木、花が咲くのかしら」といったら、祖母が、 「サイカチの花が咲いたよって歌があるじゃないの」         □  ダグラス・フェアバンクスが昔、日本に来たことがある。精悍《せいかん》な、アメリカの大スターだ。  その白い歯でチョコレートを食べてもらうと爽快だろうと考えて、明治製菓がある日、写真を撮らせて下さいと申しこんだ。  快諾した俳優が、カメラの前で、大型のチョコレートを持って微笑した。そのチョコレートは、宣伝写真用に作った小道具で、実物大の板に銀紙をかけ、さらに包装紙をつけたものだった。  撮影が終ったら、フェアバンクスは、いきなり、紙をむいて、かじろうとした。         □  NHKでむかし「女の街」というラジオドラマを放送することになって、アナウンサーが題名、スタッフ、配役を告げる。  台本を見ながら、担当者が仲間と、「逆にすれば、街の女だね」と冗談をいっていたが、そうしたら、いよいよ本番になって、 「街の女」といってしまった。         □  久保田万太郎さんに、新橋の老妓が、こんなことをいったそうだ。 「このあいだ、演舞場を出て、散歩したんです。右へ右へと歩いて行って、しばらくしたら、また演舞場の前に出て来ましたの」 「ほう」 「それでわかったんです」 「何が」 「なるほど、地球って、やっぱり、丸いんだと思いました」         □  戦争中には、いやな思い出も、つらい言葉も、限りなくある。  戦死者の遺骨が郷里に送還されることを、新聞は「無言の凱旋」と書いた。  鷲尾洋三さんが大陸に出征している時、小学生から慰問袋が届いた。中に、片かなで書いた手紙がはいっているので、ホロリとしながら読んだが、おわりのほうに、 「デハ ムゴンノガイセンヲマッテマス」         ■  片かなの出て来る話ばかり。  秋山安三郎さんがむかし「今の落語家では、文楽、志ん生、金馬、柳橋と指を折って来て、さて五人目がいない」という文章を書いた。  すると、林家正蔵さんから手紙が来て、こう書いてあった。 「先生の小指はリュウマチですか」         □  辰野隆さんが、シャルル・ボードレールの研究論文を発表した。  その直後に、仏文学者たちが食事をしながら、その論文の話をしていると、かたわらにいたお内儀《かみ》が、 「おもしろいでしょうね、ボートレースの研究ですか、私もあれは大好きです」         □  高田好胤さんは、野球が好きで、甲子園の大会のころ、ラジオが気になって、当時の管長の橋本凝胤さんに叱られたという話を聞いたことがある。  NYというイニシャルをつけた野球帽を冠っている高田さんに、信者が、「ニューヨーク・ヤンキースの帽子ですね」といったら、 「とんでもない、奈良薬師寺ですわ」         □  仏文学者の池田立基さんが、むかしフランスに留学した。戦争のずっと前だから、もちろん、船で行くわけである。  マルセイユの港について、「やっとフランスに来た。これがヨーロッパだ」と感慨ぶかげに、左右を見まわしながら波止場《はとば》を歩いてゆくと、向うから長い材木を持った労働者が来て、ぶつかりそうになった池田さんに、 「アタンシオン!」といった。 「いいなァ、フランス語は」と思いながら耳を傾けたが、よく考えると、 「気をつけろ!」と、怒鳴られたわけなのである。         □  松下幸之助さんのところに記者が取材に行くと、何かの話から芝居の話題になり、ちょうど開場したばかりの国立劇場の話が出た。  寄り道をするが、そのころ、中央線の国分寺と立川のあいだの国立《くにたち》の町に、国立劇場を建てたらおもしろいなどと、悪童がしゃべっていたのを、おぼえている。  松下さんに、「ひとつ、劇場をお建てになったら、どうです。日本生命が日生劇場を作ったように」と記者がいったら、松下さんがニッコリしながら、 「建ててもよろしいが、その時には、ナショナル・シアターとしてもらいたいですな」  といったという。伝説らしくもある。  余計な注釈と思うが、ナショナル・シアター、訳せば国立劇場である。         □  画家の秋野卓美さんは、イタリア料理が好きらしい。  しかし、夫人に注文する時、よく言いまちがえをするのだということを、自身、書いていた。 「グラタンのことを、マカロニ・ウェスタン。ピザパイのことを、ペチャパイといってしまうんです」         □  ぼくが仕事場にしている赤坂のホテルに、だいぶ前だが、一見ハーフのように見える、美しい女性が働いていた。  部屋を掃除に来ている時に、こっちは、手を休めて、廊下に出た。 「すみました」というので、中にはいり、「あなたは、外国人から、どこの人かって訊かれたりしない?」と尋ねてみた。 「時々、訊かれます、私服の時に」 「何て答えるの?」と、ぼくも少々興味があって、返事を待った。すると、 「メイド・イン・ニュージャパン」         ■  もう一回、片かなが出てくる話をならべる。  倉橋健さんがニューヨークにいた時、知っている商社マンから電話がかかった。社長夫人が「なんとか通り」というミュージカルを見たいといっているんですが、という。  日本を立つ時に、その夫人が誰かにすすめられたらしいのだが、「なんとか通り」ではわからないので、問い合わせて来たわけだ。  倉橋さんは「それなら、シャーロック・ホームズを主人公にした�ベーカー・ストリート�でしょう」と教えた。  ところが、見て社長夫人は不満だったらしい。 「こんな筋じゃなかったようです」というのだ。いろいろ考えたら、「なんとか通り」とは、「ハロー・ドーリー!」のことであった。         □  八代目三津五郎さんと北海道を旅行した時に、宿の食卓に、スモークト・サーモンが出た。このクンセイは、王子製紙の工場でこしらえるんです、紙の工場に、いい燃料があるんですという説明だ。  その次の日、昼食にエスカルゴが出ている。三津五郎さんが、ぼくにいった。 「このごろは日本でも、この食用カタツムリを養殖しているそうです。たしか、千葉県だったと思います」         □  そこで、ぼくが、「そのエスカルゴを養殖している会社、ご存じですか」というと、三津五郎さんは目を丸くした。「どこですか」 「でんでん公社ですよ」  三津五郎さんに、怒られた。         □  いたずらの話になると、筒井康隆さんに教わったこの話が、唸《うな》らせる。  フランク・シナトラが、ディーン・マーチンを自宅に招待した。  丁重な手紙と、飛行機の切符と、もうひとつ、パラシュートがマーチンの家に届けられたというのである。         □  もうひとつ、イキな話。これは伊丹十三さんに聞いた。  名レーサーのスターリング・モスは、ふだんは、自転車に乗っているというのである。ただ、それだけの話であった。         □  中村汀女さんが、パリにいるお弟子さんに招かれてフランスに行く途中、体の調子がよくないので、アムステルダムの病院で診察をしてもらったという。  一日だけ、オランダ医学を体験したというのである。俳諧味のある話であった。         □  マリリン・モンローが来日した日に死んだ漫画家の小野佐世男さんには、途方もない法螺《ほら》ばなしがあった。  南方から帰って来た時、小野さんが、玉川一郎さんに、こう話した。 「ジャワに敵前上陸した時、海岸にサルがいて、兵隊ごっこをしているんだよ。その中のボス猿が、何とタバコをくわえている。われわれがあがってゆくと、そのタバコをすてて逃げて行く。何を吸っているんだと思って、拾ってみると、それがピースなんだ。つまり�戦争と平和�ってわけ」 「ほほう」  と答えて、一応感心したが、玉川さんが少し経ってからいった。 「しかし、あの戦争のころ、ピースはまだ発売されてなかったぜ」  小野さんがすこしも騒がず、答えた。 「そこが畜生のあさましさ」         □  東宝の社長をしていた田辺加多丸さんがなげいた。珍名なので迷惑するというのだ。 「電報がタナベカタ マルサマとなっているんです。犬になったようだ」         ■  これは、京わらんべの伝える話である。  先年、エリザベス女王が来日された時、京都のつるやで、食事をさしあげた。  その料理に、アユが出た。女王は、賞味されたという。 「何とおっしゃったのだろうね、ヴェリー・グッドかね」 「そんな平凡な感想は、いわれない」 「じゃア、どういうお言葉だ」 「ハウ アユ」         □  外国に旅行した時に、言葉が通じない場合、絵ごころのある人は、ずいぶんトクをする。次に物まねのうまい人が、身ぶり手ぶりで、説明をする。  タマゴが食べたいというので、まずニワトリのまねをして、コケコッコーと鳴いたあとタマゴをうんで見せた。  ボーイが尋ねたそうだ。「日本では、オンドリがタマゴをうむのですか」         □  三浦環のように体格のいい歌手で、天下のプリマドンナとよばれた名人もいるのだから、ふとった歌手が卑下することはないが、戦後、「椿姫」をグラマラスな女性が歌った。  口の悪い批評家が、「アンコ型の椿姫では、情《じよう》が移らないね」といった。 「何をいってるんですか」と反論した人がいる。「昔から、アンコと椿はつきものです」         □  まだ通用するシャレだと思う。何しろ、有名な映画だったから。 「石川五右衛門が、煮立った釜に入れられて死ぬまぎわに、何といったか、知ってるか」 「辞世《じせい》を詠んだといわれている。石川や浜の真砂《まさご》は尽きるとも世にぬすびとの種は尽きまじ、という歌だ」 「新説が出たんだ。女の名前を呼んで、死んだんだとさ。イマニエル」         □  あるパーティーに、鳶《とび》のかしらが来て、木遣《きやり》を歌った。渋い、いい声で、すこし前に歌っていたプロの歌手の演歌なんか、吹っ飛んでしまった。 「えらいもんだねえ、永年、きたえた声だねえ」と感心していると、 「これが、ほんとのキヤリアーというんでしょうなァ」         □  ハンカチーフのことを、山の手育ちの者は、ハンカチという。ぼくは「ハンカチの鼠」という本をこしらえている。  それに対して、東京も下町っ子のほうは、ハンケチなのである。  ホワイト・シャツがワイシャツになり、プディングがプリンになるのだから、和風英語の場合、カでもケでもいいが、ある国語学者に問い合わせたら、言下に、「それはハンケチです」といった。 「手拭《てぬぐい》を半分ですませた。つまり半けちですよ」  その学者は、銀座の生れだという。         □  神官が集まっての慰安旅行で、マージャンをしていたそうだ。敗色の濃い若者が、気勢のあがらぬ顔で遊んでいる。 「あなたは、どこの神社?」と尋ねたら、「カモ神社のネギです」         □  アラブのほうから、大臣が日本にたびたび来ている。これはだいぶ前の伝説である。ホテルに案内したら、自動ドアがあいた。  大臣は目を丸くしながら、秘書をかえりみて、何かささやいている。 「どうおっしゃったのですか」  と通訳に尋ねたら、 「大臣がおっしゃいました。ヒラケゴマっていわなくてもいいのか」         ■  人名と地名の話。  ある時、国立劇場で「新版歌祭文」を上演した。ある雑誌に、演目の紹介がのっていて、「新版歌左衛門」となっていた。  電話で取材したのだろうが、役者に歌右衛門がいることを知っての上の錯覚かも知れない。         □  東山千栄子さんが、大正のおわりに築地小劇場にはいって間もなく、衣装を着たまま、楽屋の廊下にあるベンチに、身を横たえていると、ある俳優がいった。 「衣装着て寝たる姿や東山」         □  昭和のはじめに歌舞伎座で「玄宗《げんそう》の心持」という芝居をした時、反乱をおこした兵士が「楊貴妃を倒せ」「亡国の源《みなもと》を倒せ」とさけぶ場面で、役者たちの声が小さい。それにガヤガヤいっているばかりで、セリフがつぶ立たない。  演出者が、「めいめい、自分のセリフを工夫して、しゃべるように」と命じた。舞台稽古再開、「さァもう一度行こう」ということになる。「楊貴妃を倒せ」から、はじめた。  市川八蔵という役者が、勢いこんでいった。 「頼朝を倒せ」  演出家がどなった。「何で、そんなことをいうんだ」 「でも亡国の源を倒せというセリフがありましたから、工夫したんです」 「何だって」 「源の頼朝です」         □  舞台装置家の伊藤|熹朔《きさく》さんが、新橋の駅で酔っているところを、新劇ファンの青年が介抱して、自分の家に連れてゆき、ひと晩とめたという話がある。戦後間もないことだ。  佐貫百合人さん著「蟻屋《ありや》物語」によれば、その学生は後日、劇団民芸の演出家岡倉士朗さんに、しみじみ、いったそうだ。 「伊藤先生って、ほんとにキサクな方ですねえ」         □  戦後、今日出海さんが文部省芸術課長に就任した。文化行政を監督に来るアメリカ人の名前を、ネルソンといった。その人が来るという前ぶれがあると、今さんは、課長室の黒板に、こう書いた。 「午前十時、ネルソン提督来訪」         □  日本の駅名で、その占領時代に、アメリカ兵をびっくりさせたのが、大分県の宇佐である。ローマ字で、USAと書いてあるわけだから。  その町で売っている土地の名産物にメイド・イン・ウサと書いてあるか、どうかは知らない。         □  戦前、北海道に旅行した人が、駅に着くと「へかりの」と横に書いてある。 「やはりアイヌ語から来た地名かな、めずらしい」と思って、よく考えたら、「のりかへ」を逆のほうから読んでしまったのだ。  今は、「のりかえ」と書く。         □  いつかNHKの仕事で、札幌から帯広にゆく途中、富良野《ふらの》という駅にとまった。同行のプロデューサーに、冗談をいった。 「ここは、ズボンのできる町でしょう」すると、 「そうですか、それは知りませんでした」といわれたので、困ってしまった。あの人、今でも、そう思っているのでは、ないだろうか。         □  地下鉄の駅で、「サンエチゼンまで、ここからいくらですか」と尋ねた人がある。  耳馴れない地名なので、くわしく問いただしたら、銀座線「三越前《みつこしまえ》」のことだった。         ■  NHKの山川静夫アナウンサーは、さしみが好きだという。  ほんとですかと訊いたら、 「放送と魚は、ナマがいいようです」         □  宮田重雄さんは、梅原門下の洋画家でもあったが、本職は医者である。戦争では、軍医として動員された。久保田万太郎さんが壮行会の時贈った句に、 「星今宵若き軍医は兵に召され」  というのがある。  宮田さんは毎年、文藝春秋の催す文士劇に出演した。ある時、「先代萩」の栄御前《さかえごぜん》に扮した。政岡は舟橋聖一さんだった。  栄御前が腰元大ぜいを従えて、花道から出て来るところが、貫禄十分だった。  宮田さんの病院の婦長が、見物に来ていて、次の日、こういったそうだ。 「出ていらっしゃるところが、立派でした。院長先生のご回診のようでした」         □  中村伸郎さんは、映画で、よく会社の社長の役で登場する。  新劇のベテランがワキにまわって、主役を助けるわけだが、いつも社長で、部長とか課長とかで出たことは、一度もないという。 「若い時から、そうでしたか」 「ええ、社長ときまっているんで」 「なぜですか」 「母親のいいつけです」         □  志賀直哉さんは、麻雀が大好きだったという話である。  日記を見ると、「麻雀をした」ということが、しじゅう出て来る。  没後に、岩波書店から全集が出た。日記収録の巻の初校刷を、編集責任者の阿川弘之さんが見ると、「雀」の活字がたりなくなったと見えて、途中から、「麻〓」になっている。これは活字のない時に、かわりに組んでおく、俗称ゲタである。  阿川さんがいった。 「雀が下駄を穿いては困る」         □  杉森久英さんが、鳥取県の米子市に講演にゆくことになった。  大阪の空港で、スシを食べたら、穴子がおいしかったそうだ。 「米子へ行って、その話をしたら、受けましたよ」 「はァ?」 「こういったんです。穴子を食べて、米子へ行こう」         □  上野動物園の中川志郎さんと初めて会ったのは、友人の娘さんの結婚式の席である。  その時、ちょうど、妊娠したのではないかと噂されていたパンダが、ことしもだめだったと報道された直後だった。  祝辞を述べるために立ち上った中川さんが、まずこういった。 「ほんとは、この席に、私が出てまいっては、いけないのかも知れませんが」         □ 「都市の論理」その他、ベストセラーになった著書をたくさん持っている羽仁五郎さんが、テレビに、花柳幻舟と出ていたのを見た。幻舟さんは羽仁さんのガールフレンドだという。時々論争もするらしい。そんな話が出た時、幻舟さんがいった。 「議論していても、がんこで、決して説をまげない方です。そして、こういうんです。年《とし》の論理だって」         □  川端康成さんは、酒がのめなかった。バーにゆくと、いつもこう注文した。 「ジンフィズ ウィザウト ジン」         ■  雨にちなんだ話をしよう。  ロンドンに行った時、ベーカー・ストリートを歩いていると、急に雨が降って来たので、しばらく休んだ。  窓から外を見ると、キリリと巻いて、一見ステッキのように見える雨傘《あまがさ》を抱えて、紳士が小走りに行く。 「せっかく、カサを持っているのに、なぜ、ささないのだろう」と思った。それを店の主人にいうと、ニヤリと笑って、 「あの紳士のカサは、雨とは直接、関係がないのです」         □  歌舞伎あるいは剣劇などの夏芝居には、本水《ほんみず》という手法がある。  舞台の上に穴のあいた樋《とい》(芝居道ではトヨという)を渡し、そこに導入した水を、キッカケで降らせるわけだ。  大阪に尾上卯三郎という、立ちまわりの得意な役者がいた。老齢になったが、本水でことしも何かしたいという。  周囲の者が、年が年だからといって、制止しようとする。卯三郎は敢然といった。 「ぬれなければ、身の毒や」         □  雨男《あめおとこ》と呼ばれる人物がいて、皮肉にも旅行社につとめていた。国内の旅行でも、彼がゆくと、かならず一日は大雨が降るのだそうだ。  仕事を離れた旅行を、その雨男が計画、学校の友達を誘って、九州を一周した。みんな、カサを用意している。  ところが、その時に限って、五日の旅のあいだ晴天が続き、最後に羽田で解散した時、友人のひとりがいった。 「こんどは、カサが無駄になったね」  雨男が申しわけないという顔で、挨拶した。 「ご期待にそわなくて、すみませんでした」         □  福島県の温泉旅館に泊った時の話だ。あいにく、着くとすぐ雨が降って来た。  まだ日も暮れないし、町をひとまわりして来ようと思って、玄関に出た。カバンから出した折り畳みのカサをひろげていると、宿の少女が、「カサなら、うちのがあります」といって、番傘《ばんがさ》を持たせようとする。  しかし、宿の名前の書いてあるあのカサは、浴衣にでも着替え、下駄をつっかけて出る時なら似合うが、こっちはまだ駅から来たまんまの姿であった。  洋服で、あのカサは、サマにならない。 「いいんだよ、持って来たこのカサがあるから」とわざわざ見せると、少女が、泣き出しそうな顔をして、 「でも、うちのカサだと、宣伝になるんです」         □  カンカン照っていたと思うと、急に降り出すことがある。そういう時、見ると、ちゃんとカサをさして歩いている人がいる。 「用意のいい人もいるものだ」と感に堪えていったら、アッサリ、こういわれた。 「このごろは、安いカサを、どこでも売ってるんですよ」         □  雨という文字を雅号に使った文人はすくなくない。劇作家中村吉蔵は、はじめ春雨だったし、詩人に秋田雨雀、野口雨情、横瀬夜雨、俳人に皆吉爽雨、漢詩人に土屋竹雨、探偵小説家に森下雨村、女流作家に長谷川時雨がいた。  エッセイストの青木雨彦さんも、筆名だが、昭和五十三年は受賞したり、いい仕事をしたりして、幸運な年だと書いていた。 「月形半平太なら、月さま雨が、だが、雨さまツキが、というところでした」         ■  今日出海さんの書いた話の請け売りである。  杉道助さんが慶応の大学生だったころ、親しい同学の友だちと、二人が一人の女性に好意を持っていることがわかった。  いろいろ考えた末、率直に尋ねてみることにした。「ぼくたち二人のうち、どちらが君は好きか。答えてくれたら、片方は、あきらめることにする」  こういうと、その女性は、苦しそうな表情で答えた。「ご好意はうれしいんですけど、私は、あなた方お二人でない方を、お慕いしているんです」  それを聞いて、二人の慶応ボーイは、しょんぼりした。  女性が、沈んだ一座の空気を明るくしようと思ったらしく、「さァ三人で、応援歌でも、歌いましょうよ」といった。  そして、先に立って、歌い出した。 「都の西北、早稲田の森に」         □  慶応の予科にいたころ、父親が大阪に転勤したので、ぼくはひとりで暮すことになった。自分でさがしたアパートが六本木にあって、階下がレコード屋である。  朝から晩まで、発売されたばかりの「東京音頭」を、大きな音量でかけていて、やかましくて仕方がない。  三日ほどいて、そこを逃げ出して、芝公園|山内《さんない》の素人下宿に移った。どうも「東京音頭」という曲は、それ以来、好きにならない。  そういう話をしたら、相手から反問された。 「東京音頭がきらいで、よくヤクルトが応援できますね」         □  鈴木義司さんに教わった話である。  オールスターの試合を見に行っていたら、野球をあまり知らない人を案内して、入場した人がいる。  連れて来られたほうが、場内を見まわすと、大きな声でいった。 「オールスターなんていうけど、揃いのユニフォームも、持っていないのか」  もう一人のほうが、早口の小声で答えた。 「あとで説明する」         □  王貞治選手の話で好きな話がある。  ある試合で、大きなホームランを二本打った。試合がおわってから、記者が、さぞ上機嫌だろうと思って、談話をとりにゆくと、浮かぬ顔をしている。 「どうしたんです、大きいのを、二本も打ったというのに」 「しかし、そのあいだに、併殺打を打っている。あれが、よくない」         □  阪神タイガースが優勝した時の投手の一人、小山正明選手は、芥川比呂志さんと、よく似ている。帽子をかぶらせたら、そっくりである。  入院中に、テレビでナイターを見ていた芥川さんが、つぶやいた。 「こうして見ていると、何だかぼくが投げてるような気がする」         □  これはあまりに有名な話だが、審判の権威が問題になった時に、よくいわれるエピソードである。  二出川延明さんが、パ・リーグの現役アンパイアの時に、塁審のジャッジの問題で、試合が中断した。  アウトと判定された選手も、そのチームの監督も、厳重に抗議する。 「審判、ルールブックを読んでみてくれ」と監督が真っ赤な顔をしていうと、二出川さんはニッコリ笑って、いった。 「ぼくがルールブックだ」         ■  尾上九朗右衛門さんが復員して来た時、父の六代目菊五郎は帝劇に出ていた。  菊五郎は、汗にまみれ日にやけた息子の顔をじっと見て、目をうるませていたが、劇場の支配人を呼んで、こういった。 「芝居に出ていない伜だけど、きょうだけ憲法違反で、楽屋の風呂に入れてやりたいんだがね」  この話をして、九朗右衛門さんは涙をうかべていた。父親に、めっきり似て来た顔である。         □  その菊五郎に、ずっとあずけられていたのが市川|男女蔵《おめぞう》で、戦後、三代目左団次を襲名した。  若い時から、芝居がすむと、菊五郎について芝公園の家に行き、一緒に食事をし、芸談を聴く。そして、結局は泊ってしまう。 「そんなことをしていたから、一月のうち、芝に泊ったほうが多かった」と話していた。 「六代目の話って、そんなにおもしろいんですか」と尋ねたら、クスッと笑って、 「話もおもしろくはあったが、戸板さん、芝のほうが、第一、えさがいいからね」         □  七代目松本幸四郎は、セリフおばえが悪いといわれた人である。 「勧進帳」の弁慶と、大森彦七と、高時だけは決して間違えないというのだが、たとえば「白浪五人男」の勢揃いの日本駄右衛門のセリフで、つかえたりした。  川尻|清潭《せいたん》という古老が、「あんなセリフは、お客でも知っていますよ」といったら、 「素人《しろうと》のおぼえるセリフというのがありましてね」         □  坂東玉三郎さんが昭和五十二年に「天守物語」の富姫を演じたあと、NHKのテレビで、この女形を録画構成にして放映した。  その時、玉三郎さんは、演出家の意図《いと》という時に、「演出家のイズ」と発音した。  もっとも、この誤りには同情の余地がないでもない。 「天守物語」で富姫の恋する美男の名前が図書之助《ずしよのすけ》というのだ。トショノスケだと思ったら、ズショノスケだった。図の読み方に迷ったのだと同情した。 「イト イズ ミステーク」とでもいうか。         □  新派の花柳章太郎が、まだ若いころ、師匠の喜多村緑郎に、小っぴどく叱られた。  花柳は、だまって、口をとんがらせて、小言を聞いている。  喜多村はいらいらして、「これほどいっても、わからないのか。グウとでも、いってみろ」と、どなった。  すると、花柳が「グウ」といった。  そばにいた高田実がいった。「喜多村君、この男、見どころがあるぜ」         □  喜多村と同世代で、三|頭目《とうもく》といわれた残りの二人が、男役の伊井蓉峰《いいようほう》と、女形の河合武雄である。  伊井の芸名は、父親が北庭筑波《きたにわつくば》という写真師だったので、筑波に対しての富士山(芙蓉山)の意味でえらんだというのだが、美男だったので、「いい容貌」から来ているのだと思った人がいる。楽屋でそんな話をしていたら、河合がツンとして、いった。 「私だって、可愛い武雄なんだよ」         □  喜多村の門弟の伊志井寛が、関東大震災のあと、大阪に行って、邪劇に出演していた。劇評家の三宅周太郎が、前途有為の俳優のために悲しんだ文章を書き、最後を電文で結んだ。  オンミキトク スグカヘレ         ■  むかし吉村公三郎さんが、まだ助監督の時代、島津保次郎さんの名前で発表する原稿を、代作させられたことがあるそうだ。  ある日、大庭秀雄さんと銀座を歩いていると、向うから、島津さんが来る。  大庭さんが、吉村さんをつついて、いった。 「君のペンネームが、やって来た」         □  小津安二郎監督は、辛辣《しんらつ》な毒舌を時には吐いたらしい。  撮影所の前にいると、セットで主演している若いスターが、すごい外車に乗って、あけてもらった門を、はいって行った。  そばにいたプロデューサーをかえりみて、小津さんがいった。 「撮影所ってところは、やっちゃ場(青物市場)だな、まるで」 「はァ」と怪訝《けげん》な顔をすると、 「大根が車で来るじゃないか」         □  小津さんが、色紙をたのまれると、よく書いたのが、「鯛夢出鳴門円也」の七文字であった。 「何と読むんですか」と訊くと、「鯛の夢鳴門を出でてまどかなり」と読んで聞かせる。 「ははァ、瀬戸内海ですな」 「もうひとつ読める」 「何でしょう」 「タイム イズ ナット マネー」         □  成瀬巳喜男監督の撮した「鰯雲《いわしぐも》」という作品があって、中村鴈治郎さんと、杉村春子さんが、年配の夫婦の役をした。  セットで待っている時、鴈治郎さんが、杉村さんに、「舞台では何をなさるんで、この次」と尋ねた。 「国姓爺《こくせんや》という、矢代静一さんの書いた芝居で、錦祥女《きんしようじよ》をしますの」と答えると、 「それは、それは」といった。  そして、「私も、若い時に、錦祥女をしてますワ」 「まァ」 「錦祥女が二人寄って、じいさんばあさんですなァ」         □  黒沢明監督が、人の頭をなぐる音を、何とかしてダビングしたいと思い、いろいろ試みたが、録音室のミキサーは、首を振って、採用しない。  だんだん、いらいらして来た黒沢さんが、マイクをなぐりつけたら、技師が叫んだ。 「OK」         □  谷口千吉監督が「おなかが痛い、ガンかも知れない」といったので、夫人の八千草薫さんが心配して、「神様、主人をガンから救って下さい。ケーキを断《た》ちます」と祈った。  それを聞いた倉本聰さんが、同情していると、八千草さんがいった。 「でも、カステラはケーキじゃありませんし、ババロアもちがいます、それからアップルパイ、この三つは食べていいんです」         □  撮影したフィルムを、編集するずっと以前に、撮影所の試写室で見る。それをラッシュという。  ラッシュを見ながら、「なかなか、いいじゃないか」という人がいたら、伊丹十三さんがいった。 「ラッシュは、いいにきまってる。問題は、それをどう、つなぐかだ」         □  今村昌平監督はスタジオの中に建てた家を好まない。ロケーションがずっといいといつも思う。 「だって、セットには、風が吹かない」         ■  正宗白鳥さんは、写真をとられるのがいやで、逃げまわっていた。  田沼|武能《たけよし》さんが、いくら追いかけても、何のかのといっては、ことわる。 「軽井沢にゆく時に、先生が上野駅で列車を待っていらっしゃるところを、そっと撮りますよ」と田沼さんがいったら、正宗さんは顔色を変えて、さけんだ。 「そんなことをしたら、おまわりさんに、いいつける」         □  巌谷大四さんが講演旅行に行った時、一行の中に清水幾太郎さんがいた。  着いた土地で、清水さんが名刺を出した。肩書に、二十世紀研究所としてある。  先方はしげしげと名刺を見つめたあとで、こういった。 「ああ、梨を研究していらっしゃるんですか」         □  長唄の山田抄太郎さんが、芸術院会員になった時、祝電が来た。 「ゴニュウイン オメデトウ ゴザイマス」         □  ドイツから、歌手の田中路子さんが帰国して、帝劇のミュージカルスに出演することになった。  スタッフと宣伝部が田中さんのそばで、いろいろ相談している。「まずマスコミにわかってもらわなければね」「田中さんをマスコミに紹介する必要がある」「マスコミは大切だからな」  田中さんが、質問した。 「ちょっとちょっと、そのマスコミさんて、どんな人なの」         □  横光利一さんは、長男が勤め人になったので、生活時間帯を変えることにした。一般家庭と同じように朝起きて、午前中から仕事をするわけである。  訪ねて来た編集者に、横光さんがいった。 「朝、ものを書くと、思想が変わるものですなァ。トルストイは、あれは、朝書いた作品ですなァ」         □  二・二六事件の時、緒方竹虎さんは、朝日新聞の幹部だったが、反乱部隊が社を襲って、面会を求めたので、代表者として会うことになった。後日その話をして、緒方さんが述懐した。 「エレベーターの中で考えたよ」 「何を考えられましたか」 「勘定を払ってない店が、あったようだなって」         □  秋元松代さんが、帝劇に「近松心中物語」を書きおろした。稽古を見ていて、あまり気にいらない。やっつけてやりたい人間がいると、秋元さんは、手を得物《えもの》に擬しながら、つぶやいていた。  初日があいた時、秋元さんは上機嫌で、ニコニコしている。プロデューサーが近づいて、「もうお怒りはとけましたか」というと、答が返って来た。 「武器よさらば」         □  漆芸家の松田権六さんと話していた高尾亮一さんが、「私はウルシに弱くて、すぐかぶれるんです」というと、松田さんがいった。 「私も、かぶれた」         □  門田勲さんが戦争中、つとめていた朝日新聞の計画部で、靖国神社の境内に戦車をならべた。すると門田さんのお父さんが、お母さんに、こういったそうだ。 「あれも招魂社の広場で、見せ物をやるようになったか」         ■  古島一雄は、犬養毅の親友だったが、日本新聞にいたころ、正岡子規と目黒に行って、たけのこ飯を食べた。  その店の可愛らしい娘が、子規にはたいそう気に入ったように見受けられた。しかし、古島には何もいわなかった。  しばらくして、子規から来た手紙の末尾に、俳句が書いてある。 「筍《たけのこ》に目黒の美人ありやなしや」         □  福富臨淵は、洋行がえりの巨漢で、教えに行っている学校の教室で酒を飲むという奇人である。しかし、謹厳な杉浦重剛と、ウマが合った。  福富が「杉浦に団十郎の忠臣蔵を見せたい」といって、芝居茶屋に招いた。杉浦が行くと、茶屋では、芝居を見に来た人とは思わず、「今幕があいておりますから、しばらくお待ち下さい」というので、杉浦は正座して、その座敷で待っているうちに「忠臣蔵」は終ってしまった。福富が茶屋に戻り、「どうしたんだ」と訊いたが、もうどうにもならない。  それっきり、杉浦重剛は、生涯、芝居を見なかったといわれる。         □  佐々木高行という老侯がいて、内親王のご養育係であった。毎日新聞の小野賢一郎記者が、その姫宮の婚約発表の日に訪問したが、記事がとれない。  床の間を見ると、軸があって、雅号がちがうが、木戸孝允の書らしいので、「これは木戸さんですね」というと、急に、機嫌がよくなった。  取材を終わって、写真を一枚というと、「私は写真はとらん」とはねつける。「では、この木戸さんの軸を」といって許可をとり、目くばせしてカメラマンに、侯爵の顔を撮影させた。  翌日、佐々木家から、社に女の声で電話がかかった。「父が、新聞に写真が出たのを見て、小野さんを手討ちにすると申しております」といってから、小さな声で、「親戚に配りたいので、父の写真を、二十枚ほど、焼き増しして下さいませんでしょうか」         □  新渡戸稲造《にとべいなぞう》博士が、芸者の出る宴席にいた。老妓が、三味線を持って、「咲いた桜になぜ駒つなぐ、駒が勇めば花が散る」と歌うのを聞いて、感心して、「日本にも、こんなに立派な歌があったのですか」といった。  芸者が、目を見はって、何といったらいいかわからず、「おそれ入ります」と答えると、博士が尋ねた。 「作者は誰ですか」         □  野村胡堂が、盛岡中学にいる時、同級でのちに海軍大将になった及川古志郎が、一級下の学生を連れて来て、「こいつ、何か書いているそうだ、見てやってくれないか」といった。  一見、こまっちゃくれた、その少年がさし出した新体詩のようなものに手を入れて、直してやった。  この少年が、石川啄木になった。         □  逗子の海岸通りに、泉鏡花が避暑をしていた夏の一日、新聞記者が訪問した。  警官に道を訊いて、やっとたずね当てたが、帰ろうとして、その警官に再び会うと、向うから、声をかけて来た。 「お尋ねするが、あの泉という人は、いったい、何をしている人なんですかな」         □  金子堅太郎が、若い者と会っている時、西郷隆盛をはじめて見たという話になった。 「その時、西郷さんは神田橋に住んでいた。木綿の着物、木綿の袴、ひやめしぞうり、刀をさして若党《わかとう》を一人連れて、門から出て来た」 「どんな感じでしたか」と訊くと、 「上野の銅像、そっくりだった」         ■  堀口大学さんの家に、三好達治さんが訪ねてゆくと、二階に来客があって、用談中だという。  階下で待たされているうちに、たまりかねた三好さんは、プラカードのようなものをこしらえて、二階の客に見せようとした。  そこには、こう書いてあった。 「大学をわれらの手に 全学連」         □  大学という名前は、しかし、徳川時代からある。浅野|内匠頭《たくみのかみ》の弟は、浅野大学といった。主君切腹ののち、この大学による浅野家再興を、大石内蔵助が願い出た話は、有名である。  しかし、堀口さんの名前は、めずらしいにはちがいない。  佐藤春夫さんが、かつてこういったという話を聞いた。 「大学にもいろいろあるが、堀口大学が、いちばんいい。そこには、ほんとうの学問がある」         □  堀口さんの父上は、堀口久萬一という外交官であった。大学という名前をえらんだ動機は知らない。  徳川時代の葛飾北斎の娘はお栄といったが、絵を学んで、のちに雅号をえらぶ時に、応為《おうい》という名を考えた。 「どういう意味ですか」と尋ねられた時、こう答えたと伝えられている。 「父親が、私を呼ぶ時に、おういといつも呼ぶんだもの」         □  大衆作家で、直木賞として記念された直木三十五は、三十三歳の時に、直木三十三と称したが、次の年、直木三十四、また次の年、直木三十五とした。 「どうして、それで止めたんですか」と訊かれたら、こう答えた。 「三十六になったら、きっと、三十六計逃げるにしかず、とまぜっ返すやつがいると思ったからさ」  本名植村宗一、直木の姓のほうは、植を二つに分けたのである。         □  吉田茂という名士が二人いた。ひとりは総理大臣、もうひとりは、そのころ神社本庁の最高責任者、二人のところに届く生鮮食料品が、しじゅう混乱する。知らない人から来るのだ。  大磯の吉田さんが提案した。「とにかく、来たものは貰っておくことにしよう。あとは時の運だ」         □  三木のり平さんの本名は、田沼則子という。タダシと読むめずらしい名前である。  女とまちがえられたために、召集が来なかったという説がある。  和田芳恵さんが、小説を書き出したころ、女流作家だと思って、ラブレターを送った読者がいると聞いた。  山口瞳さんが、北海道を旅行している時、空港のカウンターに呼ばれた。機内のバランスを考えるために、女性の体重をはかることになっているのだ。  山口さんが行くと、係員は尋ねた。 「おつれの方は、どうなさいました」         □  藤原義江という名前だって、テノール歌手として、あまりにも周知されているから、みんな不思議に思わないが、じつは女の名前と思われるはずだ。  杉村春子さんが、劇団新東京の「東京の理髪師」という芝居に出た時、扮《ふん》した女流歌手の名前が、二村義江というのだった。  演出者が説明した。 「二村定一の二村と、藤原義江の義江を、いっしょにしたのさ」 「何だか、変ですねえ」 「きっと、いい声が出るよ」         ■  動物に関する話をする。  明治二十六年まで生きていた歌舞伎の狂言作者の河竹黙阿弥の家には、太郎というネコがいて、口がおごっていた。  近所の魚屋では、河竹家から注文があると、大声でどなったそうだ。 「太郎にバカにされないようなものを持ってゆけよ」         □  銀行の定期預金を契約する時に、架空の名義で作る人がいるそうだ。違法なのだから、それがわかれば、チェックしないわけには行かない。  ただ、おもしろいことがあると、銀行に永年つとめた友人がいって、笑った。 「架空の名前に、玉雄なんていうのがある」 「ほう」 「うちで飼っているネコの名前を、つい使うんだ。良心があるんだよ、やっぱり」         □ 「ネコまたぎ」という言葉がある。ネコでさえ、またいで行ってしまうほど、うまくない魚のことである。  渥美清さんは、勉強家で、しじゅう劇場や映画館に行って、芝居を見、映画を見ているそうだ。  ところで、渥美さんと親しい俳優が、公演をしている時、ひまなはずの渥美さんが見に来なかった。その俳優がつぶやいた。 「渥美ちゃんが来てくれないんじゃ、ネコまたぎなのかな」         □  梅原|猛《たけし》さんは、京都芸術大学の学長である。構内を散歩していたら、事務員がイヌを散歩させている。 「名前は何というの」と尋ねると、もじもじしている。通りかかった女子学生がいった。 「タケシっていうんです」         □  コメディアンで、近年、故人になった沢村いき雄さんと、いつか雑談していた。  もとは帝劇で、七代目宗十郎の弟子だったということを知っていたので、「歌舞伎に出ていた時代に、思い出の役があるでしょう」と訊いた。  すると、うれしそうに、「そりゃア、私だって、師匠や先代の幸四郎さんに、ほめられたことはありますよ」という。 「何の時ですか」 「舞台の陰でやった、犬の遠吠え」         □  地方のある町で、祭りの日に、大名行列の仮装をして、練り歩くことになった。  馬をほうぼうから調達し、戦国時代の武装をした人々が、定刻、きめられた場所から出発したが、途中で、その行列が渋滞する。  何頭かの馬が、町のところどころに来ると立ち止ってしまうのである。  調べてみたら、それは、ゴミを集めに来る馬車をいつも引いている馬で、ポリバケツを置く場所を知っていたのだ。         □  去年、中国の大同に行った時、雲岡の石仏を見物に行った。  岩壁に仏像が彫られていて、その脇に、絵が描いてある。馬に乗っている人の絵もある。  案内してくれた女性がいった。 「いつか木下順二先生が来て、馬の足が実物とちがっているといわれました」  劇作家の木下さんは、馬の権威なのである。         □  吉田茂さんは、愛犬を決してクサリにつながなかった。  どうしてですかといわれたら、ニッコリ笑って答えた。 「ぼくは、監獄にいたことがあるからね」         ■  岡本綺堂は、はじめ狂綺堂と称した。  狂言綺語《きようげんきご》をつめて、雅号にしたのだが、やがて、上の字をとったのである。  なぜ、三字を二字にしたのかと問われて、 「だって、狂気堂と書いてよこす手紙が、ちょいちょい、あるのだよ」         □  岡|鬼太郎《おにたろう》は、劇評家として、畏敬されていた。岡さんを崇拝してやまなかった初代瀬戸英一は、劇作の道にはいる前に、劇評を書いている。  筆名を、閻太郎《えんたろう》といった。  由来を尋ねられた時、小声で答えた。 「こういっちゃ悪いけど、閻魔は鬼よりも、つよいからね」         □  石割松太郎さんは、早大の教授で、文楽の研究では権威だったが、劇評は辛辣で、六代目菊五郎のお三輪など、はげしく批判した。  一般に、ほめることをしない型の人であった。辰巳柳太郎さんが、悪く書かれたので憤慨して、文句を言いにゆこうと思っていると、 「松太郎という人なら、町内にいるよ」と聞かされたので、教えられたとおり、行ってみた。  すると、表札には「川口松太郎」と出ていた。         □  松居松葉は、筆名を五十歳の時から松翁と改めた。  ショウヨウという音が、坪内逍遙とまぎらわしいからだろうと思って、ある役者がたしかめると、 「松翁の翁は、奈翁の翁だよ」  奈翁とは、ナポレオンのことである。         □  高田保さんは、ある時期、新国劇の文芸部にいて、いい脚本を書いた。  しかし、作品の総数は、すくない。  興行師や役者と話している時、こんな風な筋で、こんな場割で芝居を作ろうという。じつにおもしろそうなので、みんなが、「ぜひ、それで行きましょう」という。  しかし、それっきりになってしまうことが多かった。 「書く書くといって書かない保《たも》っちゃん」  という川柳ができた。  初日がいつで、スタッフが誰でというふうに、体制ができはじめると、筆を執る意欲を喪失したのである。 「高田さんは、あまのじゃくなんで、困りますよ」と新国劇の理事をしていた俵藤丈夫さんがこぼしたら、久保田万太郎さんが、即座にいった。 「反逆は、あの人の道楽です」         □  もっとも、その久保田さんも、筆の遅い作家で、「春琴抄」を新劇座のために脚色したが、公演の初日前に、序幕しかできなかった。花柳章太郎の女主人公は、たった一言「佐助」というセリフで、立ち上るだけである。  未完の作品の一幕だけ出して、あとは旧作「雨空」を上演したが、幕外に川口松太郎さんが出て、観客にわびた。  川口さんがいった。「あれは、久保田先生に聞いてもらうつもりの挨拶だった」         □  菊池寛さんが、大映の社長になった時、東宝に森岩雄さんを訪ねた。  そして、こういった。 「君、映画はストーリーだね、そうだね」 「そうです」と森さんがうなずくと、 「じゃァ、ぼくは帰る」         □  飯沢匡さんが、書いていた。 「女性が男性にネクタイを贈っても、相手が気に入るか、どうか、わかりません。ネクタイなんかやめて、私なら、フンドシのほうが、ありがたい」         ■  北條秀司さんの「太夫《こつたい》さん」は、昭和三十年一月の初演だが、新派の女形花柳章太郎から、京都の島原のくるわを舞台にして書かないかといわれて、筆をとった作品である。完成までに、三年かかった。  いつまで経ってもできないので、川口松太郎さんが、「おれが書くけど、いいかい」といった。  北條さんも、少々投げ出したい気持になっていたので、「いいよ」というと、花柳が、 「北條秀司に、吉原を書いてもらおうとは思わない。それと同じで、川口松太郎に島原を書いてもらうつもりはない」  といった。  それで、それから小一年かかって、やっとできあがったのだそうだ。         □  中野実さんは、劇作家でもあり、小説家でもある。忙しい人なのだが、自宅に電話を設置しなかった。  俗に隠し電話といって、じつは電話を引いているのに、番号簿からはずしてもらっている人がいるが、中野家のは、正真正銘、電話とは無縁だった。  あるジャーナリストが、渋谷の中野さんの家の近くで、夫人が公衆電話から出て来る姿を見たので、その足で訪ねた中野さんに、「やっぱり、電話があったほうが便利じゃないですか。奥さんがわざわざ外にかけにゆくのは、気の毒ですよ」というと、ニコリともせずに答えた。 「だって、ほうぼうから、かかって来るじゃないか」         □  菊田一夫さんが、若い俳優の媒妁人をたのまれた。新郎は、品行方正という評判の、堅い男である。  翌月の稽古にはいると、結婚したばかりの男優が、よく遅れて来る。見ていると、何となく、目がくぼんだりしていて、気勢があがらない。  菊田さんが、稽古場の隅に呼びつけて、小言をいった。 「いいかげんにしろ。いつまで、めずらしがっているんだ」         □  東北の山村を舞台にした芝居の時、方言を正確にいおうという意図のもとに、その県出身の老人に、稽古場に来てもらった。教わって、みんなが、とにかく、それらしくしゃべるようになった。  稽古がとれて、上機嫌の演出家が席を立とうとすると、若者が来て、「あの、公衆電話はありますでしょうか」と、方言でいう。 「ご苦労さん、もう稽古はすんだんだから、普通にしゃべっていいんだよ」  というと、 「私、方言指導をたのまれた父に付き添って来た息子なんですが」         □  芥川比呂志さんが「夜叉ヶ池」の演出を、病を押してなしとげた。  稽古場に、記者がカメラマンを連れて行くと、 「目ざわりだから、車イスは片づけなさい」と、スタッフの一人に命じたが、パチパチ撮られているうちに、ふと独り言のように、いった。 「どうも、車イスがあったほうが、絵になるようですね」         □  朝日で劇評を書いていた秋山安三郎さんは、現実的に観察する目を持っている人で、劇場の手洗が、男性用にくらべて、女性用のがすくなすぎるという記事を書き、芸術座は、あきらかに、その提言に従って、女性用のスペースを倍増したといわれる。  新聞に一度書いたあと、一般の雑誌にも、観客の人口比を考えて、女性の観客のために手洗の数を確保すべきである、という随想を発表した。  雑誌が届いたので、秋山さんが、自分の文章を読み直したら、文末に、カッコして、(筆者はトイレット評論家)。         ■  池田弥三郎さんが、電話を内閣官房からもらった。「シュトケン委員会の委員になって下さいませんか」といっている。  首都圏といえば、東京とその周辺のことだから、出席して役に立つ発言ができると思い、承知した。  すると、しばらくして、委員就任を受諾する書類に、捺印して返送してくれるようにという手紙が届いた。よく見ると、スト権委員会であった。         □  林謙一さんがアテネに行って、パルテノンの前にいると、日本人の観光客が来て、 「これは、何年ぐらい前の建築なのでしょうか」と訊く。 「ざっと、二千五百年前といったらいいでしょう」と答えると、感心したように、 「えらいもんですなァ、二千五百年前に、もうギリシャには、銀行があったんですなァ」   そういえば、銀行の建物は、しばしばこの宮殿に似ているようである。         □  宮崎に、宮崎観光の経営する「こどもの国」という公園があって、園内に広告を出させないという方針を守っていた。  ベンチにチョコレートの名前が書いてあったり、薬のポスターを貼り出させたり、そういうことを禁じていた。  そこにはいった人が、つぶやいた。 「何だか、NHKみたいだ」         □  巨人軍の長嶋監督は、代打あるいは投手交代を主審に告げる時、ゼスチャーをする癖がある。 「代打高田」という時に、バットを振る形をする。「ピッチャー新浦」という時に、投げる動作をする。  いつかテレビを見ていたら、何か考え事でもしていたのか、一塁にランナーが出た直後に出て来て、「淡口」といいながら、バントの手つきをした。         □  銀座のしにせのご隠居といわれる老女が、女子高校に孫娘が入学した祝いに、洋服を買ってやった。  仕立て上がったのを着て、その少女が祖母の前に出たら、目を丸くして、 「まァひどい、せっかくのお祝いに、ケチがついた」という。 「おばァちゃま、どうして」 「だって、左前じゃないか」         □  百貨店のエレベーターガールの立っているそばに、名札があるが、正しくフルネームを表示しないことになっている。  手紙なんかが来て困るからだ。しかし、責任をとらせる意味で、イニシャルを示すのが普通である。  山口富士子ならF・Y、司三千代だったらM・Tというわけだ。  大島のぶ子という美女が、銀座のMという百貨店(じつは三軒ある)にいて、美しいので何かと声をかけたり、せまったりする男がいる。 「困るだろう」と上司が同情したら、 「名札をさします」といった。  考えたら、「NO」である。         □  ルノアールの展覧会を見に行ったら、若い女の子が、連れの男の子に、大きい声でいったそうだ。 「ルノアールって、梅原龍三郎のような絵をかいたのね」         □  木村伊兵衛さんに、どうすれば写真をよくとれるか質問した人がいる。  木村さんは、ゆっくり口を開いた。 「まず、レンズのフードを、はずしなさい」         ■  ぼくの直接聞いた言葉ばかり、書く。  内田百※[#「門がまえ+月」]さんと、銭湯の話をしていた。 「湯ぶねの隅で、昔は湯をすくって口に入れ、ウガイをした人があったものです」という。 「ずいぶん、非衛生ですね」と顔をしかめたら、百※[#「門がまえ+月」]さんは、キッとなって、 「当人が汚いと思わなければいいのです。衛生とは、そういうものです」         □  花森安治さんの暮しの手帖社に、遊びに行っていた。花森さんの学校友達のような人が来て、「最近の雑誌、一冊読ませてよ」といって、貰っていった。  花森さんは苦笑しながら、ぼくにいった。 「出版社に来て、雑誌をくれというのは、金をくれというのと同じだ」         □  安藤鶴夫さんが、夏の暑いさかりに、結婚式に招かれた。新婦と親しかったのである。  新婦から前日、「どうぞよろしく」という電話があったので、「服装は、どうしたら、いいのかね」と訊いた。 「お暑い時ですから、どうぞ楽な格好でいらっしゃって下さい」 「ぼくは暑がりだから、軽装にさせてもらいます」といって、電話を切った。  翌日、披露宴の席に行くと、案内されたのは、メイン・テーブルである。安藤さんだけ開襟シャツ、まわりの人は、みんな黒を着ている。 「あんなに恥かしかったことはない。おまけに、二人目に祝辞をしゃべらされて」とぼやく。 「何を話したんです」 「人間ウソをついてはいけないという教訓を、懇々と述べました」         □  綿谷|雪《きよし》さんが、戸伏太兵という名で、淡路の人形芝居の本を書いた。  戸の字が同じなので錯覚したと見えて、柴田錬三郎さんが、パーティーで会うと、いきなり、「この間、戸板さんの人形芝居の本を読んだ、おもしろかった」という。 「あれは、戸伏太兵さんだ、ぼくではないよ」  といったら、しばらく黙っていたが、 「戸板さんは、人形芝居のことを書く時は、戸伏太兵という名前にするのかと思ったんだ」         □  フジテレビで、昔、女性サロンという番組があって、週に一回、演劇の時間に行って、誰かと対談した。  ある時、ゲストが木下サーカスの社長であった。ぼくと一緒に毎回出ていた女性のアナウンサーが、話の途中で、急に質問した。 「いまでも、人さらいって、あるんですか」         □  京大教授で、英文学者の山本修二さんとは、京都にゆくと、酒席でよく一緒になったが、グイグイと豪快に飲む半面、目の前に出て来る料理には、ほとんど箸をつけない。 「すこし召し上ったほうが、いいんじゃないですか」というと、 「ぼくは昔から、飲んでいる時は、食べないことにしています。これが信条です」 「どういうわけですか」 「吐いた時、何か出てきたら、みっともないじゃありませんか」         □  森繁久弥さんは、書斎にすわって原稿を書こうとすると、どうも筆が動かないという。 「楽屋だの、稽古場の隅だの、ちょっと待っている時間が、いちばん書ける。考えると書斎なんて、無駄ですねえ」         ■  マイクのテストの時に、「本日は晴天なり」という。天気が悪くても、そういうが、これは、英語を直輸入したらしいという説を聞いた。  It's fine todayというフレーズの中に、発音のパターンがもりこまれているから、伝声機関の実験に用いるとかいう話だ。  数学界の巨匠だった岡潔さんは、よく講演をたのまれたが、会場に行って、聴衆の態度が気に入らないと、たいそう機嫌を悪くしたという。  ある時、町の中学校に招かれたが、岡さんの好まない雰囲気であった。  定刻、壇上にのぼったこの学者は、マイクを手に持つと、「本日は晴天なり、本日は晴天なり」といっただけで降壇、さっさと帰ってしまった。         □ 「子育てごっこ」を書いた三好京三さんは、歌が大好きで、若いころは、レコードで、歌謡曲でも何でも、片っぱしからおぼえて、歌うのだった。  小学校に奉職して、まだ若かった三好さんが、ある時講堂でひとりで歌っていると、ブラリとはいって来た人が、「弾いてあげようか」といって、ピアノで伴奏をしてくれた。  股旅道中物の歌謡曲から、シャンソン、そしてハワイアンと、演目は広い。ところが、その人物は、すべて前奏から後奏までみごとに弾く。  三好さんも意地になって、レコードでおぼえたのではない「北上夜曲」を、歌いはじめた。すると、その人物はまたしても弾いてくる。そして三好さんが、「これはボーカル・ソロです」といっても、ピアノをやめぬばかりか、「そこはちがう」といったりする。ムッとしていると、彼はいった。 「ぼくが曲を作ったんだ」         □  昭和五十四年になくなった大下弘さんは、三十年前、青バットのホームラン・バッターとして有名で、同じ時代の、川上哲治さんの赤バットと、プロ野球打者の双璧《そうへき》といわれた。  そのころNHKのラジオの人気番組に「二十の扉」というのがあり、レギュラー・メンバーは、宮田重雄、塙《はなわ》長一郎、大下|宇陀児《うだる》、藤浦洸、柴田早苗という顔ぶれだった。  ある日、大下さんが休んだ日に、川柳の川上三太郎さんがゲストで出演、本番の前に挨拶をして、冒頭、こういった。 「きょうは、大下が休みなので、川上がピンチ・ヒッターに出てきました」         □  暮しの手帖社のパーティーの前日に、劇場に行っていた。雪の降って来る芝居が、二番目狂言に出ている。  翌日の会に、中谷《なかや》宇吉郎さんが来るのがわかっていたので、ぼくは幕が降りた時、客席の前のほうに行って、紙の雪を拾い、マッチ箱に入れた。  翌日、中谷さんに、「歌舞伎の雪です」といって見せると、「三角ではない、四角ですね、最近変わったんだ」といった。  芝居の雪についても、博士だった。         □  新国劇の老女優、久松喜世子さんが病気で寝ているところに、むかし劇団にいて、今はやめてフリーになっている男優が、見舞に行った。ほんとは、やめてもらいたくなかった役者だった。  薄目をあけた久松さんに、その役者が、 「私です、おわかりになりますか」というと、久松さんは、「沓掛《くつかけ》時次郎」の安宿のおかみさんに扮している時のような口調で、答えた。 「忘れて、たまるものかい」         ■  ラジオやテレビで、聴いたり見たりしたクイズの傑作を、今でもいくつか、覚えている。 「話の泉」は、NHKがアメリカ人から示唆されたラジオの番組だが、はじめのうちは、「とんち教室」めいた性格があった。 「さしつさされつ」という題で、酒のほかにうまい答を求めることがあったが、常連の一人の徳川夢声さんが、うとうとしたような顔をしているのに、司会の和田信賢アナウンサーが呼びかけると、目をつぶったまま、こう答えた。 「蜂《はち》のけんか」         □ 「逆になっているのが正しいもの」という問題の出た時、あらかじめ切腹のことは口に出さないでくださいという内示があったと聞いている。  腹を切る時に敷く畳は、裏返しが法だからで、正解としては、神父のカラー、捕手の野球帽なんていうのがあった。         □ 「とんち教室」で、先に�物は付け�の答を解答者が発表、あとから出て来た題に心をこじつける問題が出た。  春風亭柳橋さんが、「古いズボン」といって、場内に示された題が「瀬戸内海」。  師匠すこしも騒がず、 「つぎつぎにシマが見える」         □  その司会をしていた青木一雄アナウンサーが書いていた(「文藝春秋」昭和五十四年八月号)なかに、石黒敬七さんのパピプペを上にならべた都々逸《どどいつ》というのがある。  パリが何だ  ピカソが何だ  プップップーの  ペッペッペ  というのである。何ともおかしいが、玉川一郎さんが記憶していたのは、パピプペポでつくったとして、「パリが何だ ピカソが何だ プップップの ペッペッペ ポイ」というのだった。 「先生」の記録のほうが正しいと思うが、「ポイ」がついているのもいい。それに、このポイに、玉川さんの感じもこめられている。         □  テレビの「私の秘密」のごく初期だったが、妙齢の美女が、右手のとばりをかかげながら出て来た。出ながら、左の耳飾りを忘れたという顔をして一度退場、両耳のを揃えて再び登場して席についた。  秘密は「私たちは一卵性双生児です」というので、さっきの女性と、あとの女性は、姉妹だが別人であったわけだ。  これは、たしか、当らなかった。         □ 「私の秘密」は、その日のゲストに出ている著名人と、縁のある人物を「対面」させるのが興味をひいた。望月優子さんの前に、久しく会わない実父があらわれたりした。  守田勘弥さんの時に、「私は守田家のお手伝いです」といって、二十二、三の女性が出て来て横顔を見せて立ったが、わからなかった。  最後に、じつは、二日前に来たばかりの娘という説明があったが、喜の字屋は、ぼやいた。 「無理ですよ、あなた。二日ともおそく私は家に帰って、あの子を一度も、見てないんだから」         □ 「ジェスチャー」は、男のキャプテンが柳家金語楼さん、女のキャプテンが水の江滝子さんであった。  金語楼さんには、その容姿を思い切り、おもしろく見せようとする題が出たものである。  ある時、「寝冷えをしたタコ」というのがあって、珍妙な顔をして見せ、満場が腹を抱えた。終わって小川宏アナウンサーが、「師匠、もういいんです」といったら、金語楼さんが、口をとんがらかしていった。 「冗談じゃない。とっくに、やめてる」         ■  NHKテレビの演出家の和田勉さんは、仕事中に、独特の言語表現を用いるので有名である。たとえば俳優が、 「どこを見てたらいいのですか?」と尋ねたりすると、 「目線《めせん》は無限大」とさけんだりする。  スタジオのリハーサルが終わったあと、一人の俳優が、「和田さんの話し方って、すごいね、あれはどういう言葉なんだろう」とつぶやくと、女優がいった。 「和田弁じゃないの」         □  放送作家の向田邦子さんが、タクシーに乗って帰宅した。マンションに近づいたので、ハンドバッグから戸口のカギを出し、車がとまったところで、料金を運転手にさし出す。  すると、運転手がすこし当惑したような顔で、かすれた声で、「本気にしていいんですか?」といった。  気がつくと、向田さんは、左手に千円札を持ち、運転台にのばしたほうの手には、マンションのカギが握られていた。         □  むかし、外国から来ていたポパイの漫画に、こんなのがあった。ポパイの妻のオリーヴが、乳母車で赤ん坊を押して行く。  すさまじい工事現場の騒音の中を通っても、赤ん坊は、スヤスヤ眠っている。そこを通りぬけて、オリーヴが安全ピンを落す。その音で、赤ん坊が、ワーッと泣き出すというのである。  田中澄江さんと旅行をしている時、何かの話から、この筋を話すと、田中さんは、大笑いをした。 「まるで、私みたいだわ」 「なぜですか」 「私ね、大変な山を歩いて、無事に東京に帰って来て、渋谷の町でころんで、足をくじいたの」         □  倉本聰さんが、地方に旅行をして、宿屋に泊った。宿帳を記入してくれといってきたので、ペンをとり、職業欄にはライターと書いた。  それから、いつも使っている、使いすてのライターで煙草の火をつけ、外の景色を眺めていると、番頭がはいって来て、宿帳をじっと見た。そして、倉本さんに呼びかけた。 「お客さんは、そのライターを売って歩いていなさるのかね」         □  NTVのプロデューサーの秋元近史さんのお父さんは、先年没した著名な俳人、秋元不死男さんである。(劇作家の秋元松代さんの実兄でもある)  秋元さんに、タレントが、「お父さんは、何をなさっているのですか」といったので、 「父はハイジンです」と答えたら、タレントは、気の毒そうにいった。 「それはそれは。秋元さんも、大変ですねえ」         □  テレパックのプロデューサーの武敬子さんが、パリに行った時、案内してくれた旧知の女性がいて、たまたま、百武《ひやくたけ》けい子というのであった。  めずらしい偶然である。つまり、名前が武さんの百倍の女性ということになる。  その奇縁をおもしろがって、TBSの支局の人と話していると、ホテルの主人が興味を持って、何があったのかと尋ねたので、説明した。 「ほほう。百と一の関係だね」 「ええ」 「古いフラン(通貨)と新しいフラン」 「どういう意味ですか」 「デノミですよ」  とフランス人が、首をすくめて言った。 「二十年前に、百フランが一フランになるということが、あったんです」         ■  夏目漱石の家を、門人のひとりが急用で訪れると、山房の中で、異様なうなり声がしている。  へんだなと思ったが、玄関をあけると、しずかになった。  先生の前に出た若者が、「さっき、声がしておりましたが」というと、漱石は、間の悪そうな顔で、いった。 「ひとりで謡《うたい》をさらっていたんだ」         □  森鴎外は、宮内省の図書頭《ずしよのかみ》に就任していたことがある。陸軍軍医総監の軍服で出仕し、葉巻をくゆらしながら、居室を行ったり来たりして、速記をとりに来る鈴木春浦に、原書から直訳して聞かせるという、ハイカラな日常だった。  毎日、ある時刻に近づくと、部屋につとめている少年を手招きして、買物を命じる。  日課のように、少年は飛び出して行って、買って来た品物を、鴎外にさし出した。  それは、焼芋だった。  当時、焼芋を買いに行く使いを命じられた劇作家の森永武治さんから聞いた。         □  徳冨|蘆花《ろか》は丹念な人で、知人の名簿にデータを克明に記入して、机の引き出しに入れていたといわれる。  帳面が二冊あって、それぞれの表紙に、こう書いてあった。   善人帳   悪人帳         □  内田百※[#「門がまえ+月」]が、横須賀の海軍機関学校につとめることになった。着任の日、礼服を着て登校した百※[#「門がまえ+月」]は、教室の壇に上るとき、足をすべらして尻餅をついた。  立って教官を迎えていた学生は、このアクシデントに、何の反応も示さず、眉も動かさずに、直立不動の姿勢をとっている。しつけがゆき届いているのに、おどろいた。  それからしばらくして、百※[#「門がまえ+月」]が鼻の下にたくわえていた八の字ヒゲを、ある日、急に剃りおとした。そして、翌日、教室にはいってゆくと、生徒はこんども、まじめな顔で迎えた。  しかし、誰かがクスンといった拍子に、全員が笑い出して、ひっくり返るようなさわぎになった。 「風船が破裂したようだった」と、百※[#「門がまえ+月」]は、ぼくに直接語った。         □  百※[#「門がまえ+月」]がある時、その海軍機関学校の近くに間借りをした。通うのに便利だからだが、どうも朝、遅刻する。  それについて百※[#「門がまえ+月」]は、こう説明している。 「遠くから通っていると、途中で遅れをとり戻すことができる。しかし、近すぎると、それができない。遅れをとり戻す時間がないんです」         □  芥川龍之介が若い作家に、自作の俳句を聞かせては批評をさせる。  一句、二句と披露すると、「いいですね」「しかし、二句目のは、あまりよくない」といった。 「じゃアこれは」と、また一句。 「まァまァですね」というと、芥川はニヤリと笑って、 「これは、芭蕉だよ」         □ 「微苦笑」という言葉を作ったのは、久米正雄である。  戦後、鎌倉のカーニバルに出席している久米に、新聞記者がカメラマンを連れていって、 「先生、微苦笑という表情をとらせてください」  といった。  久米が、黙殺していると、 「ああ、いまのが微苦笑なんだ」  という声がしたので、ふり返って、さけんだ。 「これは、ちがうんだ」         ■  月にちなんだ話を五つ。  アメリカの宇宙飛行士が、月世界に到着した実況を、全世界の人類が、テレビで見ていた。  この日、アメリカ人でいて、ごく少数ではあるが、頭からこの壮挙を信用していない人間がいたという話をきいた。(新聞の外電の記事で読んだ)  彼らは、テレビを酒場で横目に見ては、酒をのみ、陽気に笑いながら、こんな会話を交わしていたそうだ。 「どこの砂漠でロケーションをしたのか知らんが、わりに、それらしく見せているじゃないか」 「それにしても、引力のない所を歩いているように見せている、あの演技はかなりのもんであるなァ」         □  子供のころ、おもちゃ屋に、フィルムの断片を二銭玉で買いに行った思い出話を書いた。そのころ、フィルムは、新聞紙で張った袋をアトランダムに引いて、何が当たるかわからないというスリルがあった。  青い月光のが引き当てられると大喜びをしたと書いたら、古い友人が手紙をくれて、 「一度ぼくは子供の時、三軒の店で一日に三枚、青いのを引いたことがあります。まだそのころのぼくには、ツキがあったようです」         □  フィルムで思いついたわけでもないだろうが、戦後に大阪で、舞台照明の仕事をしている人たちが、能舞台に色のライトを当てるという試みをしたことがある。 「照明能」と称して、「猩々《しようじよう》」に赤いライトを当て、「松風」の月光に青いライトを当てた。あんまり、評判はよくなかったらしい。  それを見たある作家が、二カ月ほどのちに、同じ大阪の能楽堂で、いつものように、色のライトを使ったりしない能を見物した。  たまたま、同じ「松風」が出て、シテを名人が演じた。  すると、その芸で、おのずから、舞台に、ありありと、月の光が見えた。         □  新歌舞伎と称する明治以後の脚本の中に、渓谷を流れている川の場面というのがあって、月の光が反射しているという効果を、初演の時から見せようと、スタッフが苦心して来た。  たとえば「大森彦七」「修禅寺物語」が、それである。  そういう舞台が幕をあけると、月光がみごとにできているので、役者の出てくる前に、客席から声がかかる。  ある時、いきなり、「大道具」という声がかかった。たまたま、照明の担当者の家族が見ていて、たまりかねて、「電気室」と叫んだ。  以後、そういう時に、「電気室」という声がかかるようになった。         □  地方まわりの新派の劇団というのが、大正時代にはおびただしくあった。そういう一座の話である。  座長は女形で、ある時「金色夜叉《こんじきやしや》」を出し物にしていた。むろん、お宮が持ち役である。ところが、貫一の役者とひょんなことから座長がけんかをして、その役者は無断で休演してしまった。  仕方がないので座長は、弟子で、顔だけは一応二枚目の青年を急に貫一にして開演することになったが、芸がまるっきり駄目なのである。  師匠にクソミソにいわれて稽古をし、とにかく幕をあけたが、体はふるえる、セリフはまちがえる、散々である。  さて熱海の海岸の見せ場で、どうしたわけか、肝心の所に来て見上げると、月が出ていない。一月十七日今月今夜というあの月が出ない。お宮が小声で注意した。  舞台裏に向かって、「月、月だよ」と貫一が小声でいった。「どうしたんだ、月だ、月番はどうした」 「ばか」とお宮が小声で貫一に浴びせた。「長屋の花見じゃないんだ」         ■  電話特集。  ぼくらの子供のころは、電話には女性の交換手が出て、番号をいうと、つないでくれた。 「何番、何番」と問いかける声をおぼえているが、だから「鴨《かも》なんばん」と応じるといったコントがあった。  今は、すべて自動式で通話ができるから、女性の声を聞くためには、番号問い合せにかけるほかない。一〇四番の局を見学に行ったことがあるが、問い合せの六十数パーセントは、番号簿でごく簡単にわかるものらしく、こうなると、単に女性の声を求めている加入者もいるのかも知れないと思う。  広い職場の隅に、非番の女子職員が各自別々に持っているイヤホンが、かけ並べてあり、そのほとんどに、アクセサリーがついている。  鳥と蝶が多いのは、空を飛びたい潜在願望のあらわれかと考えた。 「決して腹を立ててはいけません」という掲示が出ていて、女性の主任がいった。 「お客様は神様と思わなくては」  ことわっておくが、この言葉を聞いたのは、三波春夫さんより前であった。         □  公衆電話が、一通話三分間と制限された直後、商魂たくましい業者の売り出したのが、きっかり三分で砂が降りる砂時計だった。  そのころ、田園調布の駅の赤電話で、長々としゃべっている女子学生がいて、うしろにいるぼくに気がつくと、「待たせて怒られそうだから」といって、切ろうとしている。左手に持っている砂時計が、もう降りきる直前だ。  ついぼくが笑うと、ふり返った少女、 「大丈夫らしいから、もうすこし」といって、十円入れて、砂時計をさかさまにした。         □  銀座に「小唄」という酒場がある。そこに行っている友人に、急な用事ができたので、電話番号簿でさがしたが、出ていない。  あとで聞いたら、「バー小唄」で出ていたのだが、ぼくは「小唄バー」を引いていたのだ。  どうちがうのかと尋ねたら、「小唄バーさんですかといわれたら、いやじゃありませんか」         □  バーを京都で経営している藍谷《あいたに》芳子さんが、常連の大学教授の家に電話をかけて、店の名前の「芳子」よりも、姓を名のったほうがいいと思った。奥さんが出たので、「先生いらっしゃいますか、藍谷です」といったら、 「何ですって、逢いたいですって」         □  中島健蔵さんに聞いた話。  だいぶ前だが、中島さんが北京に着いて、空港から、ホテルに行った。  部屋に通ると、間もなく、新聞の支局から電話がかかったので、取材に熱心な記者だと思って、 「何ですか、必要があったら、いつでも会いますよ」というと、「すみません、日本シリーズは、どうなっているんでしょう」         □  それで、野球に話がとぶが、巨人軍の長嶋茂雄三塁手が引退する直前、いつも四番打者だったこの選手を、川上監督が時々一番で打たせた。  そのころ、「長嶋一番、電話は二番」といってたいそう受けたが、「カステラ一番、電話は二番」のもじりである。 「テレビのCMが通用しなくなったら、誰にもわからないこのシャレは、オッフェンバッハの「天国と地獄」のメロディーでいうことになっていた。         □  電話を借りて料金を払わない客が多いので、ある小料理屋では、小型の神殿を作って、その中に送受器を入れた。  そして、その前に、木の箱を置いて、れいれいしく墨書した。  電話大明神 お賽銭箱《さいせんばこ》         ■  二代目実川延若は、知り合った女性のひとりひとりのデータを、こまかに帳面にしるしていたと伝えられる。  舞台で色事《いろごと》を演じて無類の味があったのは、そういう私生活のつやっぽさが反映したといわれるが、息子の現延若さんは、いたってマジメ人間で、芸はべつとして、そういう面では、親ゆずりではない。 「その帳面を発見した時は、もう、びっくりしましてね」 「どうしました」 「焼いてしまいました」 「惜しいことをしましたね」というと、 「だって、子供の時から知っている、いろんなおばさんの名前が書いてあるんですもの」         □  上方舞吉村流の家元の雄輝さんは、おもしろい人で、いつか酒場のカウンターの前の一本足のイスの上に、キチンと正座して飲んでいた。 「カクテルパンティ」といったりするらしいが、外国にゆく時に、注射をしなければいけないといわれ、旅行社の人に質問した。 「弟子をかわりに注射にやっては、いけませんか」         □ 「屋根の上のヴァイオリン弾き」に出演している森繁久弥さんが、楽屋にはいろうとすると、女性のファンが大ぜいいて、その中の一人が、花をくれた。  あとから来た森繁夫人が、その少女に尋ねた。 「アンナジイさんでなくて、ほんとは、アンナジュンさんにあげる花だったんじゃないこと」         □  芸術座で「|※[#「さんずい+墨」]東綺譚《ぼくとうきたん》」が出ている時、金子信雄さんと中村玉緒さんが、ある場面で、長い会話を交わす。  大道具のうしろに、玉緒さんの愛児が、まだ幼くて、母親をさがして、ウロチョロしている気配がしていた。  玉緒さんが金子さんに、セリフをいいながら、小さな声で、「子供がやかましくて、すみません」         □  芸術座で「縮図」が出ている時、森光子さんに、黒柳徹子さんが、映画で見て来た名舞踊手イサドラ・ダンカンが、首に巻いていたスカーフの端《はし》が車輪に巻きこまれて、首がしまって死ぬ話をして聞かせた。  舞台に出て、二人で芝居をしていると、森さんが、小声で、「イサドラ・ダンカンよ」といっている。  ハッと気がついたら、森さんのしている襟巻の端を、黒柳さんが踏んでいた。         □  沢村貞子さんのお母さんは、NHKテレビの「おていちゃん」で、日色ともゑさんが名演技を見せた役の、あのひとだ  気がよくて、若い時から面倒見がよく、いろいろな人に、しじゅう物を贈っていた。  お母さんがなくなったあとで、近所の女性が集まっている時、沢村さんが、「母は何も残して行ったものがなくて、形見《かたみ》をさしあげられません」と挨拶すると、そこにいたひとたちは、声をそろえて、 「とんでもない。ずっと、いただいていました」         □  若山富三郎さんが「ノートルダム・ド・パリ」の寺男に出演、名前はカジモドというのである。  新聞記者に、このニュースを告げると、質問があった。 「もう一度いってください。若山さんの役は、何ですか」 「カジモドです」 「名前は何というのです」 「ですから、カジモド」というと、ふしぎそうに尋ねた。 「何という貸元ですか」         ■  岡本太郎さんが、青森県の浅虫温泉に行った。夜の食事の時は、飲んでいて、ほとんど何も食べずにいた。  同行者が案じていると、翌朝は元気に、モリモリごはんを何杯もおかわりする。 「それにしても、朝からよくそんなに召し上れますね」と感心すると、 「アサメシ温泉」         □  山口瞳さんの絵の展覧会が開かれたので、立川まで見に行った。  裸婦のデッサンがひとつの壁面にならんでいるのを、ていねいに見ていると、山口さんが、声をかけた。 「左から八番目のポーズが、ちょっといいでしょう」 「ほう」なるほど、挑発的な姿態をしている。 「裸婦のHです」         □  小田島雄志さんが、コラムでなげいている。  むかしの学生は、とにかく本を読んだ。今の学生は読書をしない。そのかわり、旅行だけは、熱心に実行する。しかし、それだけでは、学問は身につくまいと結論したあとで、こんなふうに書いていた。 「ホテルの光ヤドの雪では、文よむ月日も重ねられない」         □  明治座の広田一さんと話していると、たまたま、むかし広田さんが大阪にいたころ、八代目坂東三津五郎の「龍虎《りゆうこ》」という新作舞踊が初演された時の話になった。 「あの時は、たいへん苦労をしました。虎のほえる声はわかっているんですが、龍が、何と鳴くかという問題になりましてね」 「なるほど、動物学者に尋ねるわけにもいかない」 「いろいろ考えたあげく、やっときまったんです」 「何と鳴いたんです」と訊くと、 「リュウ」         □  大正末期の剣劇を見せる、いわゆるチャンバラ映画についた弁士のセリフは、きまっていた。主人公が刀を構えている。御用ぢょうちんの捕手《とりて》がとりかこむ。「寄らば斬るぞ」というと、和洋合奏で、「勧進帳」の曲になる。  そういうなつかしい思い出を、二十代の学生に話していたら、 「寄らば斬るぞ、ですか。いいなァ」 「うむ、いいだろう」 「いい殺し文句だなァ」         □  永瀬義郎さんは、版画の世界の大先輩である。若いころ、版画を展覧会に出陳していると、当時のことだから、風紀係の警官が会場にやって来た。  叱られるような絵はなかったし、第一、構図が前衛的で、抽象に近いのもある。  警官は、ためつすがめつ見ていたが、首をかしげ、小声で永瀬さんにいった。 「これが、ハンガですね」 「はい」 「半画というのは、半分描いて、半分想像させる絵なんですな」         □  山本直純さんが、野坂昭如さんと話をしている時、たまたま余技の話になった。「ぼくは安保のころ、転んだりして弱かった。だから、発奮して、キックボクシングをはじめたんです」と野坂さんがいうと、山本さん、 「キックも涙の物語ですな」         □  戦争中、ゼイタクハテキだ、というポスターを貼り出しておいたら、夜中に誰かが一字つけたして、  ゼイタクハステキだ         ■  英文学者の戸川秋骨が学生の時、小用《こよう》をたしていると、隣りに講義を聴いているケーベル先生が来て、ならんで用をたしながら、「スピノザをどう思うかね」と(もちろん)英語で尋ねたが、そんな時に、とっさに返事はできるものではなかった。         □  その秋骨が、奥野信太郎さんにつれられて、銀座のバー・サイセリアに行った。  ひとりの女性が気に入って、「ひいきにするよ」と小声でいったので、「どこがお気に召したんですか」と訊くと、 「樋口一葉に似てるじゃないか」         □  戸川秋骨が築地にいたころ、近所の銭湯にはいると、若い者に背中を流させている老人がいて、大きな目で、ギョロリと見た。  どこかで見た人だと思って考えたが、声を聞いた瞬間に、わかった。  九代目団十郎であった。         □  もうひとつ、秋骨の話。秋骨、奥野さん、近眼の学生と三人で、百貨店の食堂にはいって、注文した。  女の子がメモをつけていたが、うっかりその紙をおいたまま、行ってしまった。  秋骨がのぞいてみたら、「すし三 ヒゲ ハゲ メガネ」と書いてあった。         □  泉鏡花がこわがったのは、カミナリと犬であった。カミナリは、ラジオの予報よりも早く、予感がしたという。  犬がいると、まわり道をして通った。水上瀧太郎が、「どうして、あんな可愛い動物をこわがるんですか」と訊いたら、 「ウナギみたいな顔をしているじゃありませんか」         □  志賀直哉が、老女たちとマージャンをしているところに、新聞記者が行くと、立ち上って、そこにいる三人の女性を紹介した。 「ぼくのバール・フレンドだ」         □  菊池寛には、和服のたもとにクシャクシャの紙幣を入れていて、それを出して、小づかいとして渡すという伝説があった。 「無頓着なんですね、たもとにじかに、お金を入れたりなさって」と若い女性の読者が真偽をただしたら、秘書がいった。 「学生のころなんか、もっと無頓着だったらしいわ。制服を着て釣りに行って、上着のポケットに魚を入れて、帰って来たそうです」         □  室生犀星が、堀辰雄夫人と話している時、突然こういった。 「俳句を作るのをやめました」 「まァ、なぜですの」 「何だか、このごろ、うまくなりすぎたから、おもしろくなくなった」         □  長谷川伸の股旅物《またたびもの》の脚本を、地方だけまわっている役者が、題名と人名だけ勝手に変えて上演するということが、よくあった。ひとりの弟子が来て、「金沢で見たのは�関の弥太っぺ�そっくりでしたが」というと、 「私のことづてを伝えてくれ」といった。 「挨拶をさせましょう、さっそく」 「決して脚本料なんか送るな、といって下さい」         □  三田小山町時代の久保田万太郎を訪ねた記者が、前夜、日暮里の石井柏亭の家に、どろぼうがはいったそうです、と雑談のついでに話した。 「きっと崖から庭におりて、裏口にまわったのだろう」というので、「よくそんな推理がおできになりますね」と感心した。  万太郎がいった。 「だって、隣りに私は住んでたんです」         ■  無声映画の時代、俳優がセリフを覚えていなくても、口を動かしていればいいということがあった。上映の時は、弁士が、かわりにいってくれるのだから。 「国定忠治」が撮影されている時、イロハニホヘトチリヌルヲと片岡千恵蔵さんがしゃべったと、稲垣浩監督が話していたが、田中栄三が、大正末期、きげんの悪い女形のヒロインの役をしながら、セリフの途中で、「きょうは気が乗らない」と口を動かしたのが、フィルムにそのままおさまった。  一般の人にはわからなかったが、常設館で吹きだした観客がいた。読唇術《どくしんじゆつ》のできる男性だった。         □  いつか「駅前温泉」という映画で、腹をかかえるようなおかしな場面があると聞いて、見たいと思っていたが、試写を見そこなった。ひとりで常設館にはいって、おかしくて、涙を流さんばかりに大笑いした。  終わって、場内が明るくなったら、すぐ真うしろに、東宝の森岩雄さんがいた。うれしそうにぼくの肩をたたいて、 「だいぶ、お気に入ったようですな」         □  かつて、大映の撮影所に、大浴場ができ、某月某日「入湯式」というのがおこなわれたという。  永田雅一社長が、モーニングを着て、神官のおはらいのあとで、ゆうゆうと服をぬいで、その浴場に飛びこんだと聞くと、藤本真澄さんが、社長物のどこかで使えるといって、大いに張り切り、シナリオのプランをメモに書いたりしていたが、急にやめて、 「だめだ。東宝のシャシンに、大映の社長が出て来てはいけない」         □  栗島すみ子さんと、浅草の古くから映画のブロマイドを売っているマルベル堂で会ったことがある。  ぼくの子供のころの松竹の大スターは、いまだに若々しかったが、二人で店先を眺めていると、栗島さんは、一番上の列から、写真をていねいに見ていて、ため息をついた。 「世の中、変わったわねえ」         □  入江たか子さんと会った時、むかし見た「滝の白糸」の話をしはじめたら、手をふって、「あれは先代の入江たか子ですよ」と笑った。  そばにいた娘の若葉さんがいった。 「まあ私、ママを何と呼べばいいのかしら」         □  高峰秀子さんが、かいがいしい娘の役を演じている時、監督は山本嘉次郎さんだった。  娘が立っていると、うしろを通る男が、その尻をスーッとなでるというアクションがあって、シナリオは、「ふり返ってにらみつける」である。 「デコ、自分でセリフ考えていってごらん」と監督がいった。本番になった。男が尻をさわる。高峰さんが肩越しにどなった。 「何だい、色気づきやがって」  一同ゲラゲラで、本番を撮り直した。         □  淡島千景さんは、空を飛ぶのが嫌いで、絶対に飛行機には乗らない。 「なぜ、嫌いなんですか、こわいんですか」という人があった。 「だって、トイレにはいると、下から見られているような気がするんですもの」         □  岩下志麻さんは、強い近視だそうである。おしぼりを、バナナと間違えたりする。  あるパーティーの席で、足もとに銀色のライターらしいものが落ちていたので、拾おうとするが動かない。ボーイが飛んで来て、「それはガスの栓です」  これがほんとのガスライターだと、いうことになった。         ■  桃川|燕雄《えんゆう》という講釈師は、安藤鶴夫が「巷談本牧亭」で小説にしているが、奇人であった。佃島の住吉亭で演じていると、酔った客がやじったので怒りだし、けんかになった。  高座から飛びおりて、あばれる客を上から、強い力でおさえこむ。大さわぎである。  住吉亭のおかみさんが飛んで来て、どなった。 「ここは柔道の道場じゃありません」         □  先代の笑福亭|松鶴《しよかく》が汽車に乗っていると、外国人が降りて行ったあとに、英字新聞が置いてあったので、とりあげて、漠然と見ていた。  顔見知りの新聞記者が見つけて、「師匠、その新聞、さかさまだよ」といった。  すると、松鶴がクスッと笑って、 「将棋欄を見ているんですワ」         □  柳家金語楼は、頭の毛がないのを、しじゅう笑いのタネにした。  益田喜頓さんと歩いている時、小雨が降って来た。 「年はとりたくないもんです。こんな雨でも、身にしみる」と喜頓さんがいったら、すかさず、金語楼がいった。 「何をいってるんですか。私なんか、モヤでも感じます」         □  新派の女形の英《はなぶさ》太郎が、森繁久弥さん主演の「七人の孫」というテレビドラマに、老人の隣りの家の老女の役で出た。  テレビに女形が出るとは思いもよらない記者が、楽屋でいった。 「英さんそっくりの女優が、テレビに出ていますよ」  英がとぼけて、「どんな役者だろう」というと、「おかしな顔の女優ですよ」         □  早川|雪洲《せつしゆう》は、一九二〇年代にハリウッドでスターの列に加わった俳優である。  徳川夢声がきき手の「問答有用」で、この人が、「私の名前をそのままとって、今でも向うの撮影所には、セッシュウというものがありますよ」といったので、夢声がおどろいて、 「それは、大変なことですね。ところで、セッシュウって何ですか」 「私がアメリカの女優とラブシーンをした時に、乗った踏み台です」         □  フランキー堺さんが、この雪洲と話していると、「ハリウッドでは、大物になると、呼ばれても聞こえないふりをしているものです」とさとしたので、社長学のひとつだと思って傾聴していたら、「早川さん」という声がした。  すると、雪洲は「はい、はァい」と立ち上がって、いそいそと出て行った。         □  文楽の人形つかいの名人吉田文五郎が、芸術院会員になって、宮中に招かれて、食事をした時の話を、ジャーナリストにした談話が文献に残っている。 「御所に着くと、車のところまで、お姫様が迎えに来て下さいました。それから長廊下を通って、食事をしにいきました。食事は洋食で、シャモが出ました」  この文五郎は、八重垣姫の人形を持って行き、皇后の前で使ったが、ノミをとるしぐさをお目にかけたという話である。         □  第二国立劇場についての会合があった時、一人の新劇の俳優が話しはじめると、藤原義江がさえぎって、「オペラの小屋をまず作って下さい」といった。  出ばなをくじかれた俳優がなげいた。 「向うは、声がよく通るから、かなわない」         ■  今日出海さんがエジプトのアスワンに行った時、ホテルに、イギリスの考古学者夫妻が泊っていた。  学者のほうは、砂漠に調査に行っている。夫人のほうは、庭にビーチパラソルを立てて、一日中、タイプライターを打っている。  変わった女性だと思って見ていたが、あとでわかった。そのひとは、アガサ・クリスティであった。         □  淡谷のり子さんと音楽評論家が話していると、「イタリアでは、あいつは頭がよくないという時、彼はテノールだといういい方があるんですよ」と教えられた。  淡谷さんは、キョトンとして、 「あら日本でも、あいつテイノーだっていうじゃありませんか」         □  NHKの坂本朝一会長に聞いた話。  放送に関する国際会議に出席している時、議長の名前が、おぼえにくい。  みんなでいささか当惑していたら、やがて進行係があらわれ、議長が間もなく来るという予告をする時、「刑事コジャックが、来られます」  似ていたのである。全員にわかったそうで、場内が楽しくどよめいた。         □  高田保が戦争中のノートに、こんなことを書いている。 「あんた、いつも、ガンコノコエにおくられてと歌っているが、カンコノコエなのよ」 「そんなものかね」  出征兵士を送る歌の歌詞「歓呼の声」のことだが、そのころ、毎日新聞の「うそクラブ」に、「伊豆の大島では、出征する兵隊さんが、アンコの声で送られる」というのがあった。よく問題にならなかったものである。         □  花柳章太郎が、フランキー堺さんとはじめて会った。「フランキーです」といわれて、 「これはこれは、野球の方で」         □  大正時代に、カルピスのキャッチフレーズに「甘くすっぱいカルピスは、初恋の味」というのがあって、たいへん評判がよかった。広告文案としては画期的だろう。  社長の三島海雲が、新聞記者から、「初恋の味って何ですかと子供に訊かれたら、どうしますか」と質問された時、即答した。 「何でもないことです。初恋の味はカルピスの味と答えれば、いいのだから」         □  一九五三年に、益田義信さんが、梅原龍三郎さんとシャンゼリゼを歩きながら、「先生、パリも変わりましたか」というと、梅原さんはこう答えた。 「うん、何しろ、街路樹が大きくなったなァ」  誰にでもいえる言葉ではない。         □  幸田露伴が死んだというニュースが、ラジオで放送された時、京都の老妓が、あわてふためいて、「ええ?(坂東)好太郎はんが死なはったんどすか」         □  日ソ対抗バレーの接戦の試合が終わったあと、中継放送していたテレビ局のアナウンサーが、控え室に帰ると、オレンジジュースを息をもつがず、グッと飲んだあと、手を出して、 「ジュース アゲン」         □  森繁久弥さんの「屋根の上のヴァイオリン弾き」の千秋楽に、カーテンコールが十数回くり返された。  森繁さん、さすがにくたびれて、 「バナナを売ってるような気がするよ」  片かなの話で、まとめた。         ■  大正・昭和の歌舞伎名優の話を、すこし。  十五代目市村羽左衛門は、のんきな役者だという定評があった。じつは、ズボラではなく、演じたその芸同様、キチンとしていた人だというが、とぼけていたらしくもある。  地震をこわがらないというのを、自慢にしていた。こういう考え方からである。 「ゆれて来たと思ったら、こっちも、それに合わせて、体をゆり動かしています。そのうちに、やんでしまいます」         □  この羽左衛門と名コンビといわれた六代目尾上梅幸は、怪談狂言の名人だった。どういうわけか、漬物がきらいで、見ただけで、ゾッとして、顔色が変わったという。  巡業で信州に行ったら、土地の習慣で、宿の女中が、菜漬を皿に山盛りにして、持って来たので、飛びのいて、廊下に出ていると、主人が挨拶に来た。 「音羽屋さん、今夜拝見いたします。四谷怪談は、さぞこわいでしょうな」というと、梅幸はこういった。 「私の芝居より、あの皿の中のもののほうが、よっぽど、こわい」         □  先代中村鴈治郎は、ワンマンであった。  大阪中座で、当り役の「引窓」の十次兵衛を演じていた時、自分の登場する前に、見物が、毎日ワーッとどよめいて、「河内屋ァ」という声がかかる。  揚幕からのぞくと、濡髪という力士にふんした二代目実川延若が、母親に声をかけて、二階に上がる時に、何ともいえない、いい顔をするのだ。  その日、芝居がすんでから、延若を呼んで、鴈治郎がいった。 「河内屋、わて、あんさんに、頼みたいことがおます」 「何だす」 「二階に上がる時のあの思い入れ(表情)、明日から、やめてほしい」         □  六代目尾上菊五郎は、親ゆずりで、円朝原作の塩原多助をたびたび演じた。  初役でその多助をした時、毎日、青という馬と別れる場面を演じていたので、馬と親しい気持になっていたが、道に、日射病で倒れている馬がいると聞いて、飛び出してゆくと、多助のセリフの上州沼田の方言で、「馬よ、わしは多助でがんす。起きてくだせいよ。しっかりしてくだせいよ」と馬方のいる前で、いった。  馬は動かず、馬方もぼんやりしている。菊五郎じれったがって、 「芝居ごころのないやつらだなァ」         □  初代中村吉右衛門は、高浜虚子の「ホトトギス」の常連で、俳句がうまく、りっぱな句集を残してもいる。自信もあったらしい。  ひとり娘の正子《せいこ》さん(いまの幸四郎夫人)をつれて、菊人形に行ったら、吉右衛門の似顔の人形があった。  正子さんが、「菊人形すこし似ている吉右衛門」といったら、目を丸くして聞いていたが、そばにいた弟子をふり返って、 「どうだい、私のよりも、うまい俳句を作ったよ」といった。  俳人という前に、もっと子ぼんのうだったのである。         □  菊五郎の弟子の尾上多賀之丞が、雑誌の劇評を読んでいたら、気に入らない個所があった。  息子の菊蔵さんが、不きげんになっている父親の様子を案じて、「何かあったんですか」といった。  女形だから、露骨には怒らない。 「雑誌の劇評だよ。まァ、あの先生、何しろお若いからねえ」         ■  井伏鱒二さんが、「酒ってものは午後一時ごろから、うまくなるね」と述懐した。 「なぜでしょう」と編集者がいったら、 「気圧のせいだろう」         □  司馬遼太郎さんの所に、大きな質屋の教育ママとでもいうべき母親が訪ねて来た。  ぜひ息子を、大学に入れたいという。 「お宅のあとをつぐなら、商科がいいでしょうな」 「はい、しかし、むずかしければ、美学でもと思いまして」 「はてな」と思って、わけを尋ねたら、 「質草の鑑定に、役立つかも知れませんから」         □ 「おはなはん」を書いた林謙一さんが、狩猟に行った。  山の中で、木に寄りかかっていると、何となく小料理屋へ行ったようなにおいがする。  そばにいた猟師に、そう話すと、ニッコリ笑って、「林さんが、もたれている木がクロモジなんですよ」  クロモジは、つま楊枝《ようじ》を作る木なのである。         □  田中澄江さんが、京都で新聞社の仕事をすることになり、「裏方の取材をしてきてくれ」といわれた。「東(本願寺)に行って下さい」  田中さんは、「南座」の「裏方」のところに、飛んで行った。         □  シナリオ作家の井手俊郎さんは、野球について何も知らなかった。  新聞を見たり、テレビの音が聞こえたりして、野球用語が出てきても、何のことやらわからず、ポカンとしている始末であった。  東大を出て中日ドラゴンズにはいった井手という投手がいた。  映画人の集まりの時に、誰かが井手さんに、「あなたと同姓の、プロ野球の選手があらわれたよ」といった。  井手さんが、ほんのり頬を赤らめていった。 「うちの息子なんです」         □  村上元三さんが、文士劇に出た話を、尾上辰之助としていた。 「うちの家内のやつ、とんでもないことをいうんだよ。私が白粉《おしろい》をつけて舞台に立っているのを見ていると、気持が悪くなるんだって」  すると、辰之助が、間髪を入れずにいった。 「ぼく、話を聞いただけで、気持が悪くなる」         □  山口瞳さんは、シャレをいうのがあまり好きではないというが、ふと口をついて出る言葉に、まんざら嫌いとも思われない名句がある。  さきごろ、歯を入れたときに、「入れ歯は、何となく肌に合わない。はめる前にタバコを吸っても、うまくない」というコメントがあって、「歯のない所に、けむりは立ちません」とつけ加えた。  そのあと、別の所で、池波正太郎さんと対談をした山口さんが、いった。 「いやですねえ、歯がなくなるなんて、これがほんとうの、老いるショックです」         □  團伊玖磨さんが、茶道のグループから、自分たちの仲間のために、会の歌を作曲してくれと懇望されたが、気が進まないので、固く辞退した。  それなら、誰かいい人を紹介してくれというので、一筆手紙を書くことにした。「ジャズの調子の歌を作ってくださればいいと思います」と一応助言して、最後に書きそえた。 「リズムは、チャチャチャが、いいでしょう」         ■  金《かね》の話をならべる。  永井荷風という作家は、莫大な遺産を残して、孤独な死をとげた。  戦後、多額の預金をしている銀行の通帳を、電車の中で落とした。拾ったのが、アメリカの兵隊である。  届けて来たのはいいが、荷風は、落としたのを知るとすぐ銀行に連絡していたから、その帳面は何の意味もなさなかった。  兵隊にはなにがしかの謝礼はしたらしいが、先方の期待とは、だいぶケタが違っていた。親しい雑誌記者が、 「先生、よくすぐそんな風に、手続きがおできになれましたね」というと、荷風はニコリともせず、 「元来、私は銀行員ですぜ」         □  内田百※[#「門がまえ+月」]という筆名は、郷里の岡山にある百間川という川の名前から、とったといわれているが、それをすこしだけひねって、百鬼園ともいった。 「百鬼園はヒャクキエン、シャクセンに通じます」といった。借銭とは、関西のほうでいう借金である。  内田百※[#「門がまえ+月」]が債鬼にせめられた話は、自身、いろいろ書いている。原稿料の前借は、もちろん、珍しいことではなかった。  そんな時に、出版社にあらわれる百※[#「門がまえ+月」]は、「きょうは錬金術をしに来ました」といった。         □  徳川夢声が結婚して、子供ができて、一家そろって旅行に出たことがある。  宿屋にはいると、思ったよりも立派な部屋で、サービスもいい。これは茶代を相当はずまなければならないと思い、内心ヒヤッとした。予算がだいたい決まっていたからだ。  その時の話をして聞かせて、 「気がつくと、口の中で、オチャダイオチャダイ、といっているんです」         □ 「布施無経《ふせないきよう》」という狂言がある。  坊主が檀家《だんか》に行って帰る時に、お布施をくれない。何とかして、そのことを相手に知らせようと苦心するという筋だ。  こういうことは、僧ばかりでなく、まれには講演に行った講師にもあるだろう。  福田|恆存《つねあり》さんの「現代の英雄」という脚本で、いかがわしい易者が、いつまで経っても謝礼が出ないのに、たまりかねて催促するセリフがある。三越劇場で、千田是也さんが演じた声まで、耳に残っている。 「見料というわけじゃアないんですけど」と言うのである。         □  河竹黙阿弥の「髪結新三《かみゆいしんざ》」の中で、カツオ売りが、新三の家の前で魚を切り身にして、すり鉢に入れて下剃りに渡す。  新三が金を渡すのを忘れている時に、じつにうまい催促をする。 「置いてゆきましょうか」         □  同じく黙阿弥の「河内山《こうちやま》」の芝居で、上野の山の使僧になりすました河内山|宗俊《そうしゆん》が、松江出雲守の屋敷に行って、家臣が茶を持って来ると、「あいなるべくは山吹の茶がひとつ所望いたしたい」という。  山吹色をした小判がほしいというナゾをかけたので、気をきかせた家臣が、さっそく、紫のフクサをのせた金包みを届ける。  幕切れに、香をたいて黙想している河内山が、そのフクサをのぞいてみようとして、時計が鳴るので、あわててすました顔をするというしぐさがある。  小芝居でそこを見た、劇通の遠藤為春が、なげいた。 「金包みをのぞく所は、河内山でなくて、当人の地金《じがね》が出てます」         ■  押しつまって来たころに、寄席やホールの落語をきいていると、はなし家がマクラに、よくこんなことをいう。 「何ですねえ。暮れだというのに、こうやって、のんきそうに落語をきいているなんて、気楽なご身分だといいたいが、じつは、うちにいると借金取りが来たりして、ロクなことがない、落語でも聞こうか、なんて方もいらっしゃるんで」というと、たいていドッと来る。  ある年末に、ある落語家が、座敷に呼ばれた。十二月二十九日の夜、料亭に午後八時に来いという。その前に、二カ所で出て、同じマクラをふった。  料亭には、十人ほどのお客がいて、みんな深刻な顔をしている老人であった。何となく浮かない雰囲気である。  わざと、同じマクラをふって笑わせようと思って、「旦那方はのんきな顔をしてらっしゃるが、これで、案外苦労がおありで、うちにいても仕方がないから、落語でもというところじゃないかと思いますが」とやった。  一席おわって、控え室に引っこんで来ると、料亭のおかみさんが青い顔をして、 「ちょいと、ちょいと、何て失礼なことをいうの。きょうのお客様は、大企業のお歴々ですよ」といった。 「どうも、あいすみません」とあやまって、廊下に出ると、さっきいた客の一人に呼びとめられた。 「君、君」 「はい」叱られると思っていると、 「君に、どうして、うちの会社の苦労が、わかったんだ」         □  これは前に書いたことがあるが、再録させていただく。  初代中村吉右衛門の弟子に、秀十郎という老優がいた。千谷道雄さんの「秀十郎夜話」という本の主人公である。  歌舞伎のことはくわしく知っていたが、ほかのことは、何も知らなかった。  松本幸四郎さんが、「オセロー」をサンケイホールで演じた時、この秀十郎が一座に参加して、ヴェニスの貴族の役をもらった。  しかし、舞台げいこの時から、秀十郎は不満そうな顔をしている。近づくと、ブツブツ、老優は、ひとりごとをいっていた。 「何だって、この年になって、サンタクロースのような格好をしなければ、ならないんだ」         □  遠州の森から上京して、腕のいい棟梁《とうりよう》の弟子となり、釘の打ち方、カンナのかけ方から仕込まれた職人が、努力して、広沢工務店という企業の主となった。  郷里が森で、姓が広沢というのだから、浪曲の虎造の熱狂的なファン。レコードも数多く集めては、きげんがいいと、しじゅう故人の十八番をうなるのが楽しみである。  ところが、息子のほうは、大学の工科を出て、父の家業の手助けをたのもしくしてくれるのはいいが、趣味が、合わない。  父親は浪曲一辺倒だが、息子は洋楽のクラシックが好きで、休みの日には、LPに夢中になっている。このごろは、何とか交響曲というのに凝《こ》って、日曜日には、朝から晩まで聴いている。父親が部屋に飛びこんで、「いいかげんにしろ、これはいったい何だ」「バッハです」「ふうむ、バッハは死ななきゃ治らない」  パンダが来た時に、「中国は四川省だってね、パンダの生まれよ」といった広沢工務店主、すべて、おしゃべりが虎造に結びつく。  その息子が、いつの間にか、働いているほかの若者に洋楽の趣味を吹きこみ、楽器を持たせて、演奏まで企てているのを知って、父親は仰天した。こそこそ何かやっていると思ったら、どこかで練習をしていたらしい。  年のくれに、人を集めて聴かせるというので、父親がびっくり、「いったい何をやるんだ」  息子すまして、 「ハイ、歳末ですから大工《だいく》シンフォニー」 [#地付き]〈了〉 [#改ページ]   後  記  二年前の正月に初版を刊行した「ちょっといい話」は、思いがけず、多くの読者を得る本になった。  書評もいろいろ出たし、読後感を書いた手紙が、未知の読者からのをふくめて、数知れず届いた。その中には、自分の持っているちょっといい話をぜひ聞かせたいという趣旨のものが、すくなくなかった。  そして、そういう文通がきっかけで、遠隔の地にいて、まだ顔も姿も知らないが、折にふれて情報を交換するペンフレンドができた。十代の女子学生も、そういう中にまじっている。ぼくの人生にとって、たのしい経験であった。  フジテレビの小川宏ショーが、木曜日の朝の番組に、「私のちょっといい話」というコーナーを作ったりした。その第一回に出た時に色紙に書かされたぼくの字が、コーナーの題字として、毎回出るようになったのは、晴れがましいことだった。  新聞や雑誌にも、ちょっといい話が発表された。そういう企画が喜ばれるのは、ぼくとしては嬉しいことで、これからも、読者から、知名人(には限らぬが)についてのとっておきの話が、どんどん寄せられるようなら、詩歌における詞華集(アンソロジー)ではないが、そんな話を編集して、一冊の本をこしらえてもいいと考えている。 「ちょっといい話」が発売されると、すぐ「サンデー毎日」から、こういう話を連載したいといわれた。しかし、本に書いた直後、そう話が手もとにあるはずはない。すこし待ってもらって、次の年の一月から年末まで、五十一回「いろんな人の話」という表題で、毎号一ページずつ書いて行った。  週刊誌は春夏秋冬を追って発行されるのがわかっているので、正月にまず富士山の話題ではじめ、花や月や雪、あるいは梅雨のころの雨、年のくれには金というふうに、歳時記ふうの季題をえらんだりするほか、その回ごとに、何か主題をきめて書くように配慮した。  ㈼は今回、「新 ちょっといい話」のために新しく書き下した分である。ぼく自身が直接聞いた話や、味わった体験もむろんあるが、人から教わったおもしろい話も、たくわえた耳袋から出して、書いていった。「いろんな人の話」を一旦バラバラにして、書き下した文章とともに、内容別に編集しようかと思ったのだが、連載されたものを、そのまままとめて読みたいという人がかなりいることがわかったので、二、三カ所誤記とわかった個所を手直しした程度で、スクラップ・ブックそのものを、㈽に収めることにした。  その結果、「ちょっといい話」にのっている話が二つほど、こちらのほうにもはいっている。それから、敬称の使い方が、新しく書いた分と、週刊誌の分とで、多少ちがっている。それは、ご了承いただきたい。 「新 ちょっといい話」に書き下した分も、前の本と同じく、自然に手もとに蓄えていった人の逸話、聞いて微笑してもらう世間ばなしのたぐいだが、最近読む本の中でピカリと光ってぼくの目を射たり、聞き耳を立てる訳でなくても、電車の中の乗客の私語が印象に残ったりする場合が多くなっていて、二番煎じといわれない程度のタネは集まったと思っている。それらを㈵と㈼に適当に分けて、編集した。  こういう話を書きためている時に、しみじみ思うのは、元来みんな人間は善良だということである。  ちょっといい話を、閑文字で天下国家のために有益とは思われないと、苦い顔をする評論家もいたらしいが、ジョークを嫌い、ユーモアを解そうとしない人は、そんなに大ぜいいるはずはなく、多くの人が、ぼくの本をたのしんで読み、笑ってくれたらしいので、じつはホッとしている。  この本の原稿を書きあげてからも、いい話をすこし聞かせてほしいという注文を、方々の雑誌から貰うことがある。まだあとからあとから、新しい話はたまっていくので、喜んで要望にこたえているわけだが、正題もしくは副題に、「みんないい人」と書くことにしようかと思っている。 「オール讀物」には、「ちょっといい話」というコラムが引き続いてのっていて、ぼくの本が一方で、それと同じ題名を名のっているのは恐縮だが、そもそも最初の本の時に書きそえたような発生事情があるので、お許しを得たい。  文藝春秋出版局の小田切一雄氏には、本づくりのために、前の時も、こんども、丹精を願った。深謝の意を表したい。   昭和五十五年六月 [#地付き]戸 板 康 二   文庫・後記 「ちょっといい話」に引き続いて、「新 ちょっといい話」が、文春文庫に加えられた。この二冊は、単行本として刊行された時から、多くの読者から、投書というだけではなく、いろいろ心のこもった手紙あるいは葉書をいただいた。  むろん、誤って書いた事柄に対する指摘もあったが、著者が友人としゃべっている時、微笑してうなずいてくれている反応と似たような、暖かい春風の吹く山から帰って来たこだまとでも形容したい便りが多かった。  ことに、私にはこういう話がありますが、といったものも、すくなくない。一々お礼も出せぬままになった場合が多かったが、手箱にそういう「いい話」が、ずいぶんたまった。  ぼくは、いろいろな人物の挿話や伝説が大好きで、その後も「週刊文春」や「オール讀物」に、ちがうスタイルの人物志を書いたが、そういう仕事の出発点に置かれた意味で、文庫に収められた二冊は、ぼくの好きな本ともいえる。  どこから読んでいただいてもいい軽装本である。それが読者に楽しんで下さる時間を作ることができれば、著者として、この上ない本懐である。   昭和五十九年一月 [#地付き]戸 板 康 二 単行本  昭和五十五年七月文藝春秋刊 外字置き換え ※[#「區+鳥」]→鴎