戸板康二 新々ちょっといい話 目 次  人物歳時記  人物風土記  後  記 [#改ページ]   人物歳時記 [#地付き]〈一 月〉  大名の能という話題からはいろう。何となく新年らしいと思うからである。  大正九年に旧彦根藩主で伯爵の井伊琴童(雅号)が、観世の舞台で「邯鄲《かんたん》」のシテをみずから舞った。もともと、能楽の好きな家系である。  当時、能評の第一人者といわれた坂元雪鳥が評を新聞に書き、「立ちあがる時に片手をついたのは、見苦しい」と評した。  井伊伯がそれを読んで、「ふだんアグラをかいたことがないので、どうしてもうまく立てないのだが」と呟《つぶや》いた。この話が雪鳥の耳にはいると、後日、こういうふうに書いてた。 「アグラをかかない生活のあることを我々|下司《げす》は想像にも及ばぬところ、台上の動作が円滑を欠いたのも当然、少々恐縮に存じます」  大正時代らしい話であろう。         □  元日という季題で作られた俳句は、いろいろ知っているが、芥川龍之介の「元日や手を洗ひをる夕ごころ」というのが、独特なふんい気を持つ作品だ。  永井龍男さんがいっていた。 「この句から、かるた会で札を読んでいる声が聞こえるような気がする」         □  歌舞伎の「鈴ヶ森」という芝居で、白井権八が、声をかけてくれた相手が幡随院長兵衛だと知って、「スリャあの噂《うわさ》に聞いた長兵衛殿か」というと、「いやそれは自分ではない、昔の目玉の大きな長兵衛だ」という意味に打ち消してけんそんするセリフがある。  この役を演じて来た先輩を指したもので、目玉の大きなというのは、団十郎を暗示している。  十一代目市川団十郎は、晩年、わがままをいって休場したりすることがあった。  ある年、正月の芝居に出たくないといっているので、松竹の重役の遠藤為春が社長の使者として、くどきに行った。  遠藤さんは話がうまい。「堀越さん(本名)、団十郎を春芝居に見ていかにも正月を迎えたような気持になる。そういうことを、いったものですよ。あなたも市川団十郎になったのだから、それだけの責任をとっていただきたいな」といった。  大体、即答をしない役者だったが、この時も団十郎は、しばらく黙っていて、「わかりました。しかし、それは昔の目玉の大きな、芸のうまい、立派な団十郎のことじゃありませんか」と答えた。  遠藤さん、すかさず、「あなたの今いった言葉は、鈴ヶ森の長兵衛のセリフそっくりだ」 「はァ?」 「それだけ自信があるんだから出なさい」  とうとう十一代目、首をたてにふったが、狂言は「鈴ヶ森」ではなかった。         □  富士山を撮影したら日本一といわれたのが岡田紅陽という写真家である。  いつもよく晴れた富士が写せますね、と感心した相手に、岡田さんがいった。 「雨の日に東京を出てゆくと、向こうに着いた時、大体晴れてるのです」         □  昭和二十年一月、斎藤茂吉の家に、岩波書店の店員が訪れた。召集令状が来たので、挨拶《あいさつ》に行ったのである。 「お別れに色紙を書いて下さいませんか」  茂吉は快諾して筆をとり、 [#2字下げ]夕されは [#2字下げ]大根の葉に [#2字下げ]ふるしくれ [#2字下げ]いたくさひしく [#2字下げ]降りにけるかも  と五行に書いた。  その席にいた田中隆尚さんが「前からこういう書き方をなさいますか」と尋ねると、茂吉がいった。「いや今度がはじめてだ」そして、「一体ぼくは書き方を知らないんだ」 「茂吉随聞」という本に出ている、いい話である。         □  明治三十八年、帝政ロシアとの戦争で、旅順が陥落、水師営で第三軍司令官の乃木|希典《まれすけ》が、ステッセルという将軍と会見したのは、一月五日である。  この日、各国の従軍記者が写真を撮らせてくれと申しこんだのを、乃木ははじめ承知しなかった。先方の気持になってみろというのだった。しかしあまりやかましくいわれたので、両軍の将校が全員着刀しての記念撮影ならいいということになった。残っているのは、そういう一枚だ。  ところが別にアメリカから活動写真(映画)の技師が機械を持って来ていて、どうしても撮影させてくれというので、結局会見の場所に来る途中の乃木、ステッセル両将の姿をカメラにおさめたのが残った。このいわゆる実写フィルムが後年山口県長府の図書館で発見された。そこには撮影を決して許可しなかったはずの「水師営会見」の現場が、なまなましく撮られている。  乃木が学習院院長のころ在学して、のちに「回想の乃木希典」という本を出した三島|通陽《みちはる》がふしぎに思って調べると、図書館長から返事が来た。 「映写してみたら、前の乃木さんと、あとのステッセル将軍はたしかに本物ですが、会見の場面の乃木さんは、日活の山本嘉一でした」         □  福地|桜痴《おうち》(明治三十九年一月四日没)は旧幕臣で、維新後早く洋行、帰国して東京日日新聞(毎日新聞の前身)を創業したジャーナリストの草わけである。  明治十八年、今日《こんにち》新聞が明治十傑を公募した時、この桜痴が新聞記者として最高点になったので、野崎左文という記者がその経歴を書くため、下谷茅町の家を訪ねた。全盛のそのころ、池の端の御前と呼ばれた桜痴は、「わが輩(以前はこういういい方を猫でなくてもした)の履歴は半日や一日では語りつくせぬ。自分で書いておくからとりに来てくれ」といい、数日後、美濃紙十二行に墨書した自伝十六枚を左文にわたした。  後年、左文が桜痴にあらためて「自伝を書きませんか」といったら、「わが輩の伝記は、明治十八年で止めておく」といった。  その時、桜痴は、歌舞伎座の立作者だった。九代目市川団十郎のために脚本を書く生活であったが、桜痴にとっては、失意の時代であったらしい。         □  勝海舟(明治三十二年一月十九日没)が、晩年まで田安家の近所の料理屋に食事をしにゆくことがしばしばあった。青柳というその家に押しつまってから行き、景気がよさそうだなと愛想をいうと、おかみがわざわざ挨拶に来て、「元気そうに揃《そろ》いの半天を着せて店の者を働かせ、年越の準備をしているので、景気がよさそうに見えるかも知れませんが、じつは一文の銭もないので、主人は才覚に出ています。でも、金がなくても、するだけのことをしておきませんと、人気が落ち、お客様からあの家の魚はくさっているといわれます。ですからどんなに苦しくても、店の者にも隠して、明るい顔をしているのでございます」といった。  外交の駆け引きのコツを教わったと思った海舟は紙入れから三十両出して、これを用立ててくれといった。  のちに返金されても受けとらずに、海舟がいった。「これは月謝だ」 「ありがとうございます」と受けとったおかみがいった。「ところで殿様。月謝って、何ですか」         □  エノケン(榎本健一、昭和四十五年一月七日没)は大酒家だったが、あまりものは食べなかった。ミカン一つで一升酒を飲むという伝説があったので、記者がインタビューの時に確かめたら、首をふって、「とんでもない」。 「やっぱり、誇大宣伝でしたね」 「ウンニャ、一升は一升、ミカンのほうはひと房」         □  夏目漱石(慶応三年一月五日生まれ)の話。  内田百※[#「門がまえ+月」]が書いているが、漱石山房の面会日に行ってすわっていると、暁星小学校に在学していた純一と伸六という二人の子息がいきなりガラッと襖《ふすま》をあけて、 「わがはいはねこである、わァい」といった。 「吾輩は猫である」に書かれているが、漱石の本郷区駒込千駄木五十七番地の家に、賊がはいって、衣類をたくさん盗んで行った。  盗難を届けて一週間ほどすると巡査が二人連れで来て、賊がつかまったから明朝浅草の日本堤《にほんづつみ》署に出頭するようにという。そういう脇に、ふところ手をしているやさ男がいたのを、漱石夫妻は刑事だと思って、そのほうに丁重に頭をさげたが、それが賊だった。ふところ手していたのは、縄で手が縛られていたのだ。  翌日警察にゆくと、盗まれた品物は返って来たが、漱石の綿入れは対《つい》の袷《あわせ》に縫い直してあり、ふだん着は洗い張りされ、裾《すそ》の切れた女物のコートも直してある。  鏡子夫人がいった。 「一年に一度ぐらい、はいってくれると、ありがたいわ」         □  漱石の主治医は真鍋嘉一郎といい、松山中学で英語を習った弟子である。ある日誤訳に気がついたので、真鍋が「字引にはこう書いてあります」と手をあげて指摘すると、漱石はすました顔でいった。 「君の字引がまちがっている。すぐ直しておき給え」         □  中央公論の編集長だった滝田|樗陰《ちよいん》が、紙と墨を持ちこんでは、漱石に字を書かせる。喜んで書いて渡しているのを見て、門人の森田草平が、「私たちにはちっとも書いて下さらないのに、滝田さんにはずいぶん書かれるのですね」というと、漱石がいった。 「だって君たちは、私の字をくさしてばかりいるじゃないか。滝田は、ほめるよ」 「じゃァ今度からほめます。書いて下さい」 「もう遅いよ」         □  漱石が熊本の五高で教えていたころ、質問の好きな学生がいて、何でも根掘り葉掘り尋ねる。その時に、寺田寅彦も同じ教室にいたのだが、あんまりうるさく訊《き》くので、面倒臭くなったと見えて、漱石はこういったそうである。 「そんなことは、君、書いた当人に聞いたって、わかりゃしないよ」         □  明治二十七年ごろ、新橋の名妓に、ぽん太とおえんというのがいて、絵葉書が売り出された。漱石がおえんのほうのを一枚買って帰り、机の前に飾ったという。  森田草平の「夏目漱石」を見ると、散歩区域の牛込榎町の宗柏寺の隣にあった鰹節屋《かつぶしや》のおかみさんが、漱石の気に入っていたらしく、その顔が、おえんと似ていたというのである。  明治四十三年修善寺の大患後の入院生活中、大塚保治博士夫人である歌人の楠|緒子《なおこ》が死んだ。漱石の最も好きなタイプの美女だった。  追悼句があって、代表作の一つといわれている。   ある程の菊投げ入れよ棺の中         □  NHKテレビの大河ドラマ「獅子の時代」に出て来たように、ナポレオン三世の招待に応じて当時の将軍徳川|慶喜《よしのぶ》の弟|昭武《あきたけ》が万国博の開催されたパリヘ出発したのが、慶応三年(一八六七年)一月二十一日だった。  一行の中に渋沢栄一がいて、ヨーロッパの文明を日本に移入するきっかけとなる。銀行も保険も商工業も、この機会にくわしく得た知識が役に立ったわけだ。  渋沢秀雄氏はその末子だが、晩年の栄一がフランスのことわざを原語で教えてくれたと書いている。論語でないところがおもしろい。そのことわざが、「強者の申し分はつねに最上」だったというのも、天下の大実力者が記憶していたことばだけにおもしろい。         □  大佛《おさらぎ》次郎が「パリ燃ゆ」にくわしく書いたパリ・コミューンの内乱は、プロシャとの戦争に敗れたフランスに勃発《ぼつぱつ》したわけだが、のちに元老になった西園寺公望《さいおんじきんもち》が政府から留学を命じられてパリに着いたのは、ナポレオン三世が捕虜になった明治四年であった。二十二歳の西園寺は、それから十年、花の都で青春の日をすごした。  当然ヨーロッパの新しい思想の影響を受けたはずだが、パリ・コミューンの回想を問われると、いつも答えた。 「あの時はおどろいた。馴《な》れないことをしろといわれて、汗をかきました」  演説でもしたのかと乗り出して反問すると、「そうじゃない。町を歩いていたら、石を積んでバリケードを作る手伝いをさせられた」。         □  昭和のはじめに朝日新聞の特派員として、パリにいた渡辺紳一郎が、パリ・コミューンについて本を読んだ翌朝、戸外に出ると、舗道の隅に剥がされた敷石が山と積んであり、赤旗が立っている。ジャーナリスト気質で「革命だ」と一瞬息をのんだが、赤い旗は交通遮断の標識で、道路工事がはじまっていたのである。         □  日露戦争の総司令官だった陸軍の大山|巌《いわお》元帥は鹿児島の人である。パリに行った時、スピーチを求められて、随行した通訳に「よかたのむ」といった。  通訳が長々と挨拶すると、聴衆はおどろいて、日本語は短い表現で非常に多くのことを伝えるようにできていると感心したという。  じつは、「よかたのむ」は「よろしくたのむ」で、適当にしゃべっておいてくれと、大山はいっただけなのであった。         □  パリには虫の標本だの、化石だの、博物に関する研究材料を売っている大きな店があって、「ナチュラリスト」という看板が出ている。自然科学を学ぼうとする趣味が、広く普及しているのである。  大正二年パリに行った自然主義文学の巨匠島崎藤村が、この看板を見て、「自然主義がこんなに大きな字で書いてある」と思い、膝《ひざ》を打って感動した。そして、うなずいて、 「さすが、エミール・ゾラの国だ」         □  高峰秀子さんが戦後パリに行った。結婚はしていなかったが、少女という年でもなかったはずである。  しかし、元来この女優は童顔である。ちょうど髪も短く切っていた。だから、愛くるしいので、ベベ(赤ちゃん)という愛称で呼ばれた。  寄寓した家のマダムが、着いたばかりの高峰さんをつれて真っ先に行ったのが、動物園だった。  そして、ニコニコしながら、高峰さんの顔をのぞきこんでは、こう教えてくれた。 「これがライオンよ。これがクマ」 [#地付き]〈二 月〉  二月三日は節分である。世間一般に豆を撒《ま》く行事にさけぶ言葉は、「福は内、鬼は外」であるが、丹波(京都府)綾部の九鬼《くき》藩では「福は内、鬼は内」というそうである。  ついでに先年、京都で足利家の主であった惇氏《あつうじ》さん(惇氏氏とは書きにくい)から聞いたのだが、将軍家としての歴史の古い同家では、年頭の挨拶で、主君に対して「殿、ことしはなにとぞお旗あげを」と言上《ごんじよう》する習慣があったそうである。         □  新派の古典「婦系図《おんなけいず》」で、酒井先生の娘の妙子が、河野家のどら息子に待合に連れこまれた時に、居合わせたお蔦が危機一髪の場面から救い出す一幕がある。  卓上の塩豆をぶつけて「鬼は外」という、気の利いた幕切れだ。喜多村緑郎が演じたのを見て、「泉鏡花はうまいものだ」とほめた劇評家に向かって、喜多村はニコリともせずにいった。(大体ニコリともしない人だった) 「五代目菊五郎が『花井お梅』の中で、豆をまく幕切れをこしらえているのを、まねただけですよ。泉さんは、御存じなし」         □  大正十一年二月一日に没した山縣有朋《やまがたありとも》は、元老で、国葬がいとなまれたほどの超大実力者だった。大勲位、功一級、公爵、元帥と、位《くらい》人臣をきわめた陸軍のぬしでもあった。権威欲が強かったが、理由を新聞記者に問われた時、山縣は答えている。 「私の家は身分の低い下士で、士族ではあっても、一般の武士に土下座させられた。そういう家に育って、えらくなろうと思わぬやつがあるか」         □  東京の椿山荘《ちんざんそう》は、この山縣の残した庭園の一つだが、ほかに小田原に古稀庵、京都に無隣庵という、それぞれ、ぜいたくな別荘を持っていた。  山縣は、明治天皇にこういう話をしたという。「京都では、御所の次に、私の無隣庵がいい庭でございます」  それを聞いた西園寺公望が、憮然《ぶぜん》として(京都弁で)なげいた。 「遠慮して、御所の次にというてるけどもな、それは、京都一ですいうてるのと、おんなじ」         □  大正天皇が皇太子時代に、山縣有朋の古稀庵を訪れた時の写真が二枚残っていて、山縣は、一枚は和服に袴《はかま》を着け、一枚は蓑《みの》と笠《かさ》を着けている。山縣の没後、その伝記を作る時に、多くの人は巻頭にこの写真を出したがった。大礼服のよりも人間味があって、含雪と号した老翁のいい面が出ているからだ。  しかし、結局、その写真は伝記にのっていない。大正十一年という時代、天皇がかつて臣下の家を訪れた写真などは、公開禁止だったのである。         □  山縣有朋は、和歌をたしなんだ。旧派の歌だが、たのまれれば書いた短冊が残っている。明治天皇が歌人だったので、政治家でも、軍人でも、「敷島の道」だけは、趣味と名のるのに遠慮がなかったらしい。  戦前、陸軍の歴史を書こうとして、陸軍を育てた山縣の遺墨を集めていた人が、山縣の直筆ですばらしい歌が発見されたと聞いて、古書展に飛んで行ったが、読みくだして呆然《ぼうぜん》とした。歌はこういうのだった。 [#2字下げ]雪のあした(朝)のかん酒はすこしぬるてもだいじない         □  陸軍は長州、海軍は薩摩といわれた。NHKのテレビ小説「虹を織る」で、「そうですか」という時に、「そうでありますか」といっていた。萩の方言なのだ。  陸軍は、長州弁を採用して、「そうであります」を兵隊言葉にしたのである。         □  明治二十四年に、五代目菊五郎が風船乗りの浄瑠璃《じようるり》を上演した時、イギリス人スペンサーにふんした音羽屋に英語で演説させたのは、福沢諭吉(明治三十四年二月三日没)の企画だった。  スピーチを演説という言葉にしたのは福沢だが、慶応義塾の三田の山には、演説館という明治以来の建物が残っていて、都の文化財に指定されている。  エンゼツを、半分しゃれたつもりで、演舌と書く新聞記者がいた。それを見ると、福沢はいやな顔をした。そして、こういった。 「演説は、舌だけでするものじゃない」         □  諭吉というのは、めずらしい名前である。中津の藩士であった父の百助が、たまたま「上諭条令」という中国の法律書を読んでいる時に生まれたからだという。  福沢を主人公にした芝居を、真山青果が書いている。戦後、占領軍の指令で、歌舞伎も各興行に現代劇を一本上演しなければならなくなった時、ざんぎり頭だからまァいいだろうというので、その福沢劇を七代目松本幸四郎が主演、アメリカの役人をごまかした。  久保田万太郎が演出者だったが、初日の前に東京劇場の前の絵看板を見ると、福沢|輸《ヽ》吉と書いてある。万太郎がふんがいして、「無知だなァ全く。いくら輸入時代になったからといって、車ヘンにするなんて」といった。  みんな黙って聞いていたが、輸の字を輸入にだけ使うわけではないのだから、考えればおかしい。今は、輸出の時代、そして、車ヘンというのは、辻つまがあいすぎている。         □  福沢諭吉の高弟の一人に、小泉|信吉《のぶきち》がいた。そのひとり息子が信三である。  少年時代の小泉信三は、ぬけ目がなくて、きかん気のいたずらっ子であった。信三の長女の秋山加代さんによると、福沢がある日、信三を叱って、「この子は今に泥棒になる」といった。同じ文の中で、加代さんが次のように書いているのを読んでふき出した。 「しかし父は、泥棒にはならず、塾長になりました」         □  福沢の「福翁自伝」を見ると、文久元年に徳川幕府が遣欧使節を派遣した時、通訳として福地桜痴とともに随行、約半年ヨーロッパを視察している。  切手を貼《は》って投函した手紙が相手に届くというのにおどろいて、三日もかかってその制度をしらべたりしているが、イギリスで議会を見学した時、保守党と自由党の議員が食堂にいるのを見て、こう語っている。 「あの人とこの人とは敵だなどというて、同じテーブルで酒を飲んで飯を食っている。すこしもわからない」         □  慶応を出ている獅子文六は、伝記小説を書くのが好きで、パリの日本館を作った薩摩治郎八を書き、死ぬ前は、益田太郎冠者という帝劇の喜劇作家をモデルにした小説を考えていた。  福沢諭吉を書かないかとすすめられたが、結局書こうとしなかった。理由はと尋ねられての答えは、こうだった。 「あの先生は、順調すぎる」         □  三田通りの理髪店に、福沢の写真がかけてあった。ひとりの大学生が髪を刈ってもらいながら、それを見て、「福沢諭吉って小沢栄太郎に似ているな」とつぶやき、たまたま隣の椅子にいた先生に「不謹慎」と叱責《しつせき》されたという事件がある。  新聞の隅にそれが出た直後、慶応出身で映画プロデューサーの藤本真澄が、「福沢先生の映画を企画して、小沢を起用するか」といった。そしてちょっと黙って、いった。 「商売には、ならんなァ」         □  女性の話を六つ。  昭和三年二月七日、四十二歳で敗血症のため没した九條武子は、西本願寺の大谷家から、九條男爵家にとついだ女性で、明治以来の麗人として名高いが、結婚生活は不幸だった。  佐佐木信綱門下の歌人で、「踏絵」という歌集もあるが、「無憂華《むゆうげ》」という随筆集が若い女性の間に歓迎されて、ロングセラーになっていた。  美女だから伝説ができた。二ひきの鯉のぼりがあって、「どちらがオスか」というクイズが座談に出た時、「コイに上下の別はありません」といったのが、このひとだということになっている。         □  その晩年、吉屋信子が満員電車にのっていると、武子がつりかわにつかまっているので、立って席をゆずろうとしたら、「あのお年寄にゆずってあげてくださいません?」といわれたので赤面したと、「私の見た人」に書いている。  仏教界の花といわれた女性なので、かえってこの慈善的なひと言がつくり話めくが、この話に真実性を与えるのは、その直後に、雑誌社の編集者が近づいて、こういったとあるからだ。 「おふたりとも、座談会のお帰りですか」         □  この九條武子が劇になった。昭和四年七月明治座所演、作者は北村小松である。松竹は「九條武子」という題で予告したが、敬語をつけるよう当局にいわれて、「九篠武子夫人」とした。演じたのは、いまの|芝※[#「習+元」]《しかん》の父で、明眸《めいぼう》と気品をうたわれた五代目中村福助であった。  女主人公が貧しい家に贈り物を持ってゆく場面がある。はじめて書くが、ぼくの「マリリン・モンロー」で、貴婦人が少女時代のヒロインの住むスラム街を訪ねる場面は、これから思いついたのである。         □ 「煤煙《ばいえん》」という森田草平の小説は、作者が体験した実話を書いたのだが、塩原の奥の尾花峠で心中未遂におわった相手の女性は、当時二十三歳の女学生、平塚明子である。  この女性が、三年後の明治四十四年に新しい女の立場を宣言、「青鞜《せいとう》」という雑誌を作り、いまでいうウーマンリブの旗をかかげた。森田とは事件の直後にわかれ、雷鳥(晩年は|らいてう《ヽヽヽヽ》)が筆名。生まれたのが明治十九年二月、没したのが昭和四十六年五月。  大正二年に年下の奥村博史と同棲、二年目に出産した。二十九歳なのに、新聞には「中年ゆえに難産」と書いてある。「若いツバメ」という流行語は、このカップルがはじまりだが、語源については、こう伝わっている。 「雷鳥だから、ツバメさ」         □  平塚雷鳥のグループの新しい女がしきりに話題になった時、宮中に出仕したのち実践女学校を創立した下田歌子が眉《まゆ》をひそめて、こういったそうだ。比喩《ひゆ》が、おかしい。 「新しい女なんて、めずらしくもありませんよ。江戸時代に、奴《やつこ》の小万《こまん》というひと(女の侠客《きようかく》)がいたじゃァございませんか」         □  それで思い出した話がある。  昭和十四年二月十八日に四十七歳で没した岡本かの子は、歌人であり、小説家であり、漫画界の巨匠岡本一平の妻であり、画家岡本太郎の母であった。厚化粧で童女のようなこの女性を、ぼくも「三田文学」の紅茶会でたびたび見たが、かの子が女学校を出た直後、信州|沓掛《くつかけ》で「山に来て二十日経ぬれどあたたかくわれをば抱《いだ》く一樹だになし」という歌を作った。  少女のころのかの子を知っている一平がこの歌を見て、こう思ったという。 「八百屋お七みたいな女になった」         □  明治二十六年まで生きた狂言作者|河竹黙阿弥《かわたけもくあみ》(文化十三年二月生まれ)に、朝日新聞の劇評を書いていた|響庭篁村《あえばこうそん》が、「あなたの芝居に出た役者で、いちばんうまかったのは誰ですか」と尋ねたら、「そうですね」とちょっと考えたあと、「四代目の関三十郎《せきさんじゆうろう》」を挙げた。  いわゆる明治の三大名優の団・菊・左ほど有名ではないが、「白浪《しらなみ》五人男」の初演の時、日本駄右衛門に扮《ふん》した人である。  この篁村と坪内|逍遙《しようよう》(昭和十年二月没)が、官報局長の高橋健三の官邸で、黙阿弥の自作脚本「上総市兵衛」の本読《ほんよ》みを聞いたことがある。  逍遙はその時(正確には明治二十四年十一月)七十六歳の黙阿弥の朗読のうまさに感心して、「こわいろらしく読むわけではないのだが、役者の名からセリフに移るあいだに、いつとなく、ぼかすようにうっすらと色がついて、女となり、男となり、老人となる。そして菊五郎や半四郎が目に見えて来る、淡泊な味がおもしろかった」と語っている。  黙阿弥は、この日のために、入れ歯を新規に作らせたそうである。         □  黙阿弥が若いころ、作者仲間で、しろうと芝居をしゃれに演じたことがある。  本読みがうまい人だから、セリフは申し分ない。義太夫を語っている太夫が感心して、舞台を見て、二度びっくり。彼はこういった。 「形は、まるで、物になっていませんでした」         □  五代目尾上菊五郎は、この黙阿弥に、自分が主役を演じる狂言を二十いくつも書いてもらっている役者である。  明治三十二年十一月の歌舞伎座で、九代目市川団十郎が「紅葉狩《もみじがり》」を演じ、菊五郎が維茂《これもち》という武将になった。その時わざわざ特写した活動写真のフィルムが残っていて、今でもときどき上映される。  戦後それをはじめて見た時、維茂が鬼女を追いかけてはいる場面で、わざわざ刀をかまえて美しい形を見せてからかけこむのが、雨が降ったような画面からも見ることができた。  それを見ていた新聞記者たちが、そういう菊五郎の芸風についてしきりに話し、わかるような気もするが、結局五代目という人が、もうひとつよくわからないとしゃべっていたら、その場にいた古老の川尻|清潭《せいたん》が、じれったそうにいった。 「早くいえば、五代目ってのはね。湯呑《ゆのみ》の上に塗り物の蓋《ふた》をのせたりするのが、大嫌いだったんです」 「なぜでしょう」 「蓋の裏に、湯気が泡になって溜まるのが、いやなんです。それで、おわかりかな」         □  新派の名優井上正夫は、昭和二十五年二月七日、湯河原の定宿《じようやど》向島園旅館で急逝した。  死ぬ前に歌を歌ったというので、辞世の和歌のことかと早|合点《がてん》した記者が、付き人に、「その歌を教えてください」といったら、「マルマル坊主のはげ山は」といい出した。「お山の杉の子」という童謡を楽しそうに、歌っていたのだった。         □  井上はセリフに四国|訛《なま》りがあった。出身地は愛媛県の砥部《とべ》である。その訛りがちっとも苦にならないどころか、芸の魅力になっていた。当たり役の「大尉の娘」の森田慎蔵を、先代の幸四郎が演じた時も、娘を呼ぶ「露子!」のいいまわしがつい井上みたいになっていたのが、ふしぎだった。  井上の芸談をとりに行った記者が、「先生のセリフには、独特のくせがありますが、苦心なさっているんでしょうね」といったら、例の訛りで井上はこう答えた。 「苦心なんかありません。うまれたまんまです」そりゃァ、そうだろう。 [#地付き]〈三 月〉  秩父宮は、スポーツの宮様といわれた。 「雍仁《やすひと》親王実紀」の中で、九月ごろ、御殿場の別邸で妃殿下と望遠鏡を覗《のぞ》いて富士山の白く見える所が雪か霜かを当てるゲームに興じていられた姿を見た主治医が、「平安朝の遊び」にたとえて語っている。  しかし、それと同時に、秩父宮の山のぼりに寄せる郷愁が、ぼくには想像されるのである。         □  明治五年、宮中に出仕し、皇后に歌をほめられ、歌子という名前をいただいたというのが、実践女学校を創立した下田歌子。結婚するまでの本名は平尾せきという。  英国に留学した時、ヴィクトリア女王にたびたび拝謁しているが、はじめてバッキンガム宮殿に招かれた時は、和装大礼服である袿袴《けいこ》を着て行った。そして、一年半滞在しているあいだにおぼえた英語で話したという。         □  歌人の与謝野晶子《よさのあきこ》が戦前、ほかの歌人とともに、自作の大仏の歌「鎌倉や御仏《みほとけ》なれど釈迦牟尼《しやかむに》は美男におはす夏木立かな」をレコードに吹きこんでいる。  そのいいまわしが、史上の貴婦人を演じて無類だった五代目中村歌右衛門とよく似ているのに気がついた。  下田歌子も与謝野晶子も、「源氏物語」の口語訳をしている。この二人の才女が、王朝文学を講義するのにふさわしい語調と風格を持っていたのは、偶然ではない。         □  この際登場していただくもうひとりの女性は、大隈重信の長女、大隈熊子である。婚家から帰って、生涯両親につかえたのだが、才気あふれるひとで、おもしろいことをいった。  ある人が、「なぜ、熊子なんて名前を父上がつけたのでしょうね」と同情していったら、カラカラと笑って答えた。 「父の幼名は八太郎です。私に熊子とつけて、八さん熊さんを揃えたのですよ」         □  琴の名手|宮城《みやぎ》道雄は、昭和三十一年六月二十四日夜、関西の演奏会にゆくために乗りこんだ夜行列車「銀河」から転落し、病院にはこばれて死んだ。親友の内田百※[#「門がまえ+月」]が「東海道刈谷駅」にその最期をくわしく記している。  宮城道雄は天才少年だった。十六歳で「水の変態」という名曲を作った。朝鮮でその演奏を聞いた伊藤博文が感心して、「この次来た時、東京に連れてゆく」といったが、伊藤は暗殺されてしまった。河竹繁俊は「芸道名言辞典」の解説で、宮城の「人をたよるものではない」という言葉は、これから来ていると述べている。解釈が合理的で、おもしろい。         □  鶴沢道八(長く三世竹本津大夫の相三味線だった)の芸談を見ると、「酒屋」のクドキの「今ごろは半七さん」のあとのチンという音をやっと弾けたのは、夜中に眠れずにいた時、耳にひびいた音のおかげだったという。それは宿屋の庭のつるべから井戸にしたたる雫《しずく》だった。         □  能の大鼓《おおかわ》の川崎|九淵《きゆうえん》の録音をNHKがとる時、マイクを前に置いたら、「私の音はうしろで鳴るのだ」といって、背後にマイクを置き直させた。空前絶後の話である。         □  富崎春昇が、門弟富山清琴におびただしい数の曲を教えたが、いつもこういった。 「仰山《ぎようさん》品物があっても、ほこりだらけはあかん。いつもハタキをかけとき」         □  山田抄太郎が出先で三味線を借りた。「うちのは安物で、鳴りません」というのを、持つなり弾いて、ニッコリ笑っていった。 「ちゃんと鳴るじゃありませんか」 (今回は桃の節句にちなんで、内裏雛《だいりびな》、三人官女、五人囃子にした)         □  桃の節句の芝居で、舞台に雛壇を飾るのは、歌舞伎古典の「妹背山《いもせやま》」と、井伊大老の芝居である。  桜田門の変は万延元年三月三日で、大雪だった。昭和二十八年に井伊を市川猿翁が演じた「花の生涯」の時、三代目中村時蔵が不服そうにいった。「私のセリフは、桃の節句にこの大雪、というだけなんですよ」  昔の役者はセリフのすくないのを、喜ばなかったようである。  ついでに書いておくが、雛壇の内裏雛を、大道具が男雛を左、女雛を右に置いてしまうことがよくある。しかし、徳川期までなら、その並べ方のほうが正しい。いまの内裏雛のならべ方は、「御真影《ごしんえい》」といわれた天皇と皇后の写真の掲揚位置に従って、変わったのである。         □  桃のついでだが、山岡鉄舟が三遊亭円朝のはなしを向島|水神《すいじん》の八百松の座敷で聴いた時、「桃太郎を一席聞かせてくれ」といったという話がある。  話芸の大家が子供でも知っている桃太郎を、冷汗をたらしながら口演したが、うまくしゃべれなかったという。  安藤鶴夫が「雪の日の円朝」という芝居に書き、中村勘三郎や島田正吾が主演したが、この場合、うまくしゃべれないところを上手に演じなければならない。皮肉なむずかしさがある。         □  明治二十三年三月二十三日に死んだ唐人《とうじん》お吉《きち》という女性がいる。安政四年に下田に来たアメリカ総領事タウンゼンド・ハリスの相手にえらばれた芸者で、ラシャメン(洋妾)第一号といわれた。新内の「明烏《あけがらす》」が絶品だったと伝わる。  ハリスは謹厳な紳士で、そんな女はいたはずがなく、看護婦がわりに徴用されたという説もある。実説は不明だ。  下田の村松春水という郷土史家がその伝記を公表、十一谷《じゆういちや》義三郎が「唐人お吉」という小説を、中央公論と朝日新聞に昭和三年から四年にかけて書き、お吉ブームがおこった。  真山青果が戯曲「唐人お吉」を書いて、二代目市川|松蔦《しようちよう》が歌舞伎座で演じ、のちに山本有三も「女人《によにん》哀詞」を書いた。  十一谷の「ちりがみ文章」という本を見ていたら、お吉に夢中になっていたこの作家が、ことしからお吉を離れると宣言した随筆がある。理由を読んで、笑ってしまった。いわく、 「ぼくは結婚するから」         □  井伊大老、お吉、円朝で三題|噺《ばなし》になるが、筆者のからむ話を書かせてもらう。  舟橋聖一の「花の生涯」は、NHK大河ドラマにもなった井伊直弼の伝記小説である。唐人お吉の挿話があって、お吉がハリスに望まれたので、夫の大工鶴松が役所に呼ばれて、離婚を強要されるところがある。  新聞で読んでいたら、鶴松はくやしくて、頭の中に、芝居の「かさね」や「牡丹燈籠《ぼたんどうろう》」の女房殺しの場景を思いうかべたと書かれていた。おびただしい文献をもとにした長編だが、ここだけは作者のミスである。  なぜなら、「牡丹燈籠」は、円朝が中国の「牡丹燈記」を翻案しての幕末の口演だが、劇化されたのは明治二十五年である。鶴松がその芝居を見ているはずはない。  著作集が出る直前、作者が電話をかけて来て、「花の生涯」で何か注意することはないかというので、「前から気がついていたのですが」と前置きして、この話をした。  舟橋聖一の声が絶句したようにやみ、そそくさと電話が切れたが、すぐまた、かかって来た。そして、舟橋さんがいった。「こわいねえ」  これは、いい話だと思っている。ぼくの自慢話のつもりは、毛頭ない。         □  麹町の内山下町に鹿鳴館《ろくめいかん》が落成したのが、明治十六年十一月、開館式の日、招いた西洋人の舞踏会があって深夜におよんだので、二十九日午前一時新橋発横浜行の臨時列車を仕立てたという。  日本人もダンスを習わなくてはというので、翌年六月講習をはじめた。十八年には、軍楽教師ルルーが、外山正一(明治三十三年三月没)の「抜刀隊」の詩に、ビゼーの「カルメン」の中のスペインのマーチに暗示をえた曲をつけて発表した。  この歌詞は西南戦争の時、百人の剣道の達者な巡査で組織して作った決死隊に与えた形をとっているが、いきなり「敵の大将たるものは、古今無双の英雄で、これに従うつわものは、共に剽悍《ひようかん》決死の士」と西郷隆盛の軍をほめているのが、めずらしい。  鹿鳴館の夜会に、壮士の抜刀隊があばれこむ事件が、その後に発生した。三島由紀夫の芝居にも出て来る。         □  槌田満文氏の「名作365日」を引いてみて、銀座の時計屋のおかみさんが、明治二十三年三月二十六日、上野で開かれた第三回内国勧業博覧会の開会式の日に、彰義隊の戦いの時に奇妙な形で対決した乞食と再会すると、相手は政府の高官になっているという筋の小説があるのを思い出した。  芥川龍之介の「お富の貞操」である。  この博覧会の時に、新聞にざれ絵が出た。大黒様がソロバンを前に、腕組みして考えこんでいる図なのである。これは地口《じぐち》になっているので、「だいこく、かんじょう、わからんかい」         □  明治四十一年三月、シカゴのヘラルド・トリビューンから委嘱されて、時事新報が公募した全国美人投票の結果が発表された。  一位が、九州小倉市長末弘正方の娘ヒロ子(十九歳)だった。二百三高地といわれたひさし髪にリボンをつけた写真が残っているが、入江たか子型の美女である。  しかし在学していた女子学習院は、このことで、末弘ヒロ子を退学させた。  翌四十二年一月、アメリカで発表された全世界美人投票では、一位二位三位がアメリカ、カナダ、スウェーデンで、末弘ヒロ子は六位であった。  数年前、女性風俗史の本を書いた時に、この美人投票について解説したら、編集者がうなずきながら、いった。 「何となく、オリンピックと、似てますねえ」         □  明治四十四年三月、洋画家の松山省三が銀座の国民新聞社の前に、カフエ・プランタンを開業した。名づけ親は小山内薫、プランタンはフランス語の春である。  このプランタンの息子が、前進座の河原崎国太郎で、その子の松山英太郎・政路兄弟が青山にプランタンという店を近年開いた。  今はみんな正確にいうが、当時は多くの人が|ブ《ヽ》ランタンといったらしく、初代柳家小さんに至っては、ブライカンとおぼえていた。         □  日本に救世軍士官が来て伝道を開始したのは、明治二十八年九月であるが、すぐに入隊した山室軍平(昭和十五年三月十三日没)はやがて指導者となり、廃娼運動を推進した。  しかし当然、いろいろな妨害があり、大正二年に二千数百戸を焼いた神田の大火の火元が、三崎町の救世軍大学植民館だというデマが飛んで、窮地に立たされた。  山室は事実無根と思ったが、万一の場合を考え、「罪を天下に謝す」文章を新聞に公表、その直後真相がわかり、救世軍は世人から温かく見られるようになった。  この話を山室がすると、かならず聴衆がクスッと笑ったという。偶然こんなふうにいうからだ。「それから世論の風向きが変わりました」         □ 「海」の昭和五十六年一月号で、谷川俊太郎氏と対談した野上彌生子さんが、娘のころ琴の稽古にかよった家は幕臣で、そこに樋口一葉(明治五年三月生まれ)の父親が出入りしていた、一葉の文名が高くなったら、「おなつも出世したものだ」といったという話をしている。一葉と十三しか年のちがわない明治の少女のそういう話は、それだけで貴重である。  一葉は二十四歳で、胸部疾患のため早世した。そのために薄命の佳人の印象がつよい。  昭和二十年代に売り出された文化人切手十八種の中で、唯一人の女性だが、この印刷の原画になった写真も、鏑木清方の描いた肖像画も、楚々《そそ》たる美人である。  しかし、あの年で「たけくらべ」をはじめ、人心の機微を描破した才女だけに、したたかな面もあったらしい。  一葉の小説が評判になり、訪れる人が多くなった時、毒舌のコラムニストで、かなり癖のつよかった斎藤緑雨が手紙を出して、「お宅に集まる者に、ろくなのがいない。そんなつきあいはおやめなさい」と書いた。  緑雨がやがてこの手紙を返してくれといった時、一葉はすぐ返送したが、文面のコピーをとっていて、日記の中に、緑雨はゆすりまで働くしたたかな人物だとしたためている。つまり、四つ相撲をとっているのである。         □  それとは別に、一葉をひいきにした森鴎外のような人もいた。「文學界」(第一次)の同人たちは、みんな若かったから、この作家を、末の妹のような気持で見ていたムードがある。後年、英文学の分野でそれぞれ名をなした三人が、一葉について述べた言葉に、いまなお実感があるようだ。  平田|禿木《とくぼく》は、「美人ではなかった。色は浅黒く、髪の毛も赤味がかって、それをギュッと引っつめて結っていた。しかし興に乗って熱をこめて語る時に、目が輝いて魅力的だった」といった。目に見えるようだ。馬場孤蝶は、「西鶴を読みはじめてから、急に小説がうまくなった」といっている。  そして、戸川秋骨は、昭和初年、奥野信太郎に誘われて銀座のバーに行き、ひとりのホステスを見て、なつかしそうにさけんだ。 「このひと、一葉に、よく似ている」         □  先年の一葉忌の催しには、ずいぶんファンが集まった。ここ数年、一葉の作品を朗読して来た幸田弘子さんも口演、瀬戸内晴美さんが故人を語った。  瀬戸内さんは、田村俊子、岡本かの子に次いで一葉の評伝を書いたが、この席で話している声がテレビから聞こえて、こういっていた。「結論的にいえば、一葉というひと、そんなに貧しかったわけではないと思います」         □  瀬戸内さんは一葉未完の小説「うらむらさき」の後半を書き加えた。幸田さんがそれを読んでいるのを聞いたが、文化人切手の刷り色が、九代目市川団十郎は助六の鉢巻と同じ色の江戸紫、一葉のが古代紫ではなかったかと思いつき、帰宅して確かめたら、あいにく|こい紅《ヽヽヽ》というインキであった。         □  中国で樋口一葉の代表作が翻訳されている。その選集を、ぼくは昭和四十年に北京の書店で買った。訳名がめずらしい。  劇化されて訪中公演の演目にもなった「大つごもり」が「大年夜」、「にごりえ」が「濁流」、そして「たけくらべ」が「青梅竹馬」というのである。  おもしろいのは、葉が簡体字で「叶」になっているので、「樋口一叶選集」と背文字が印刷されている。  この字、歌舞伎関係者の好きな字だ。「大入叶《おおいりかのう》」の「叶」だからである。 [#地付き]〈四 月〉  エープリル・フールについて。  昭和二十一年四月一日、帝劇に出演していた六代目菊五郎の茅ヶ崎の家が焼けた。  その知らせがあった時、劇場の支配人が顔色を変えて伝えると、菊五郎はニヤニヤ笑って、「だめだよ、きょうは四月一日だよ」といった。  ほかにも、それを聞いて見舞う者がいたが、そのたんびに、とり合わない。  夜、湘南電車で茅ヶ崎まで帰った。駅前の、自転車をあずけてある茶店にはいって行くと、その店のあるじが、「どうも大変なことになりまして」という。  菊五郎が、鼻で笑って、つぶやいた。 「みんな、ぐるになって、いやがる」         □  四月馬鹿と訳された、このうそをついてもいいといわれる日が日本に紹介されたのは比較的早く、明治二十九年に書かれた泉鏡花の「六之巻《ろくのまき》」にも出て来る。しかし、この習慣は、俳句の季題にはなかなかならず、昭和八年に刊行された改造社の歳時記にはのっていない。  しかし、今はどの歳時記にもある。  例句、無名の俳人の作である。 [#2字下げ]声甘き女優の年や四月馬鹿 洗亭         □  永井荷風は人嫌いで、見知らぬ者が訪ねてゆくと、出て来て、「先生は、お留守です」といったという。  夏目漱石の場合は、居留守をつかって、相手が疑わしそうにしている時、ツカツカ玄関まで出て行って、「いない者はいないんだ、私がいうのだから、たしかだ」といった。  この話を聞いたある作家(名を秘す)が、「先生は、お留守です」を試みたら、編集者が笑っていった。 「漱石や荷風だからいいんで、先生では、だめです」         □  その漱石が死んだ時、何の関係もない僧が来て、いく晩も夏目家に泊まりこんで行ったという話がある。一応読経はしたのだし、香典を盗まれたわけでもないので、それはそれで、いいのだろう。  近年、立派な通夜や葬儀にあらわれて、隙《すき》を見ては何かをせしめてゆく老女がいて、警察にもマークされていた。この老女、いい服装でマナーもよく、いかにも仏と縁の深い弔問客らしく見せる特技を持っていた。  老女があらわれると、葬式の格が高く見えるとさえいわれていたが、舟橋家に不幸があった時、喪主の聖一が秘書に、そっと尋ねたそうだ。 「あの婆さん、来たかね」         □  歌舞伎の早がわりの時、主役によく似た息子や弟が、主役らしく見せて観客の目をくらます演出があり、その影武者を昔から「ふきかえ」という。インフレで通貨を質の悪い金属にふきかえるというのが語源らしい。  前進座で「奴凧《やつこだこ》」という芝居をして、※[#「習+元」]右衛門の主役吉五郎が塀の上を駆けて通る場面の身の軽さに感心したので、演出の宇野重吉さんにそれをいったら、ニヤッと笑って、「あすこだけは、梅之助君がかわっているのだよ」といった。 「奴凧」の評を書く前の日に知った。聞いてて、よかった。         □  NHKテレビで、毎週一回、四分の三まで堂々とウソを放送する番組があった。「ホントにホント」というゲームだ。 「まことしやか」という言葉を、見るたびに思い出した。         □  銀座のバーに「マントゥール」というのがある。フランス語で、「うそつき」という意味。珍しいのはマッチの図案で、丸の中に、舌が二枚、単純な筆法で描かれている。         □  桜の話を五つ。  敗戦後に、ワシントンのポトマック河畔の桜が満開の写真を見て、日本の花が海の向こうで春を満喫しているのに感慨を持たなかった者は、すくないであろう。  この桜は、大正元年に、時の東京市長尾崎行雄が、日米親善のために、アメリカの首都に寄贈したソメイヨシノほか十種三千本の苗木が成長したものである。  いま毎年さくら祭りが催されるが、日本でも昭和四十年以来、さくら祭りが催され、「さくらの女王」を選出する。初代女王は、中原光子という美女だったが、ワシントンにさくらの使節として派遣された時、付き添って渡米したのが、尾崎の次女の相馬雪香さんだった。  ワシントンの地名は、初代大統領ジョージ・ワシントンから来ている。この人物が少年の時に、桜の木を切った過失をわびた正直さが立志伝の挿話として有名だが、ポトマックの桜がその桜だと思いこんでいる人が、かなりいるそうだ。         □  桜という字を筆名や芸名に用いる場合があるのは、日本人として当然であろう。  明治七年、東京日日新聞の主筆、のちに社長になった福地源一郎は、桜痴居士と号した。変わった文字の組み合わせであるが、この文人は吉原の遊廓に耽溺《たんでき》したつわもので、明治文学全集の年譜(柳田泉編)の明治元年・二十九歳のところには、「吉原通いは依然としてつづける」と出ている。めずらしいケースだ。  吉原の大門《おおもん》の柱に、桜痴が明治十四年に書いた詩句が彫ってあったが、花の吉原といわれたくるわに凝りかたまったのを、みずからあざけって、号を桜痴としたのではないか。  この桜痴が若いころ、英語とフランス語の私塾を開いたが、塾頭が吉原に居続けて教室に来ないので、生徒が憤慨して、塾の家具調度を売りとばしたという話が残っている。         □  桜について書かれた小説で最も美しいのは、谷崎潤一郎の「細雪《ささめゆき》」の中に出てくる平安神宮の花見の描写であろう。  この作品とは別に、谷崎家で働いた女性について書かれた「台所太平記」が劇化された時、「お手伝いさん」たちが、京都を離れている作家を慰めるために、熱海の家の庭にしだれ桜を紙でこしらえる場面があった。脚色者松山善三のアイデアである。         □  吉屋信子句集の、昭和三十六年のところに、「酒場には紙の桜の弥生かな」がのっている。  大正時代のカフェが造花の桜を飾ったのは、一種の花街という感覚かも知れないが、独特のムードである。  昔のカフェそっくりのインテリアで、ラッパの蓄音機が「籠の鳥」を鳴らしていたりする店が、京都の千本丸太町にある。天久というこの家に、内田吐夢監督に連れて行かれた。エプロン姿の女給(とわざと書く)が、美人ポスターの前にいる光景は、大正時代にタイムマシンで帰ったようだった。  それをマダムにいったら、小声で答えた。 「ただし、お勘定は、現代の時価どす」         □  チェーホフの「桜の園」のラネーフスカヤ夫人の役は、築地小劇場以来、東山千栄子の当たり役であり、七十二歳まで演じ続けた持ち役だった。  後年、劇団雲が「桜の園」を上演した初日に、ラネーフスカヤを演じた文野朋子に、カーテンコールで、東山が花束を贈ったのをおぼえている。  東山千栄子の葬儀が御殿場の自宅で営まれたのが、昭和五十五年五月十日、その日庭の一隅に、おそい桜が満開であった。         □  明治は、海外の文明を貪欲《どんよく》にとり入れ、いわゆる和洋|折衷《せつちゆう》を試みて行く「開化」の時期だった。  そういう時期の食文化の傑作は、あんパンである。加藤秀俊氏の「一年諸事雑記帳」によると、このパンは、明治八年四月四日、天皇が旧水戸藩の東京下屋敷に行幸の日に、銀座木村屋のあるじ木村安兵衛が焼いて、食卓に供したものだという。  侍従の山岡鉄舟が剣道を通じて木村と親しく、その発明を評価して天皇に試食を願ったのだというのであるが、お好みに合い、以後宮中にも納入して、皇后も愛好された。  鉄舟が木村屋の看板を書いたのも、そういう縁があったからだが、この店は以来、あんパンを名物にしている。戦前、へそに桜の「花」の塩漬けのはいったのが、おいしかった。  ライスカレーに福神漬をそえることを考えた人物は、残念ながら、わからない。         □  京都四月の名物として、祇園の歌舞練場で行われる「都をどり」がある。これは東京に遷都のあったのち、火が消えたようになった町の賑いをとり戻すために、明治五年、京都府知事長谷信篤が思い立ち、仙洞御所の博覧会とあわせて、新橋小堀の松の茶屋で三月十三日に開演、八十日のロングランをしたのがはじまりであった。  最初は、府の参事槇村正直が世界国名をよみこんだ歌詞を作り、曲は杵屋庄三がつけ、片山春子がふりつけをした。  以来戦争の一時期をのぞいて行われ、現在は外国にもチェリー・ダンスとして知られている。主題は変わるが、「都をどりはヨーイヤサ」で舞妓の総おどりから始まり、背景と小道具を変えてゆくパターンも、つねに変わらない。  ただひとつ、変わったものがあるといわれている。茶屋の女将《おかみ》に聞いた。 「それは舞妓はんの背丈どす」         □  NHKテレビで放映したドラマの題名「男子の本懐」は、昭和五年十一月に東京駅で狙撃された首相浜口|雄幸《おさち》が、傷口をおさえながらいった言葉だと伝えられる。  しかし松本清張監修「明治百年100大事件」には、これは新聞記者の創作となっている。それはそれでいいのだろう。  明治十五年四月七日、時の自由党党首板垣退助が岐阜の旅館の玄関で、相原尚※[#「(耳+火)/衣」]に刺されたとき、「板垣死すとも自由は死せず」と叫んだというのも、この事件が劇化された時に作者がこしらえたセリフらしい。  板垣が刺された年の七月、岐阜末広座で上演された「花吹雪|伊奈波《いなば》の黄昏《たそがれ》」という、事件を諷したきわもの劇は、新派ではないが、二十四年六月に東京中村座で演じられた川上音二郎一座の「板垣君遭難実記」では、青柳捨三郎の板垣が「自由は死せずじゃ」と間のぬけた棒読みでいったという、観客の回想が残っている。今となっては、史実でも伝説でも、どっちでもいい。         □  清水次郎長が、興津の清見寺に、咸臨丸《かんりんまる》の戦死者記念碑を建てたのが、明治二十年四月であった。  東郷元帥の副官をして、その伝記を書いた小笠原長生が、海軍少壮士官のころ、次郎長が清水の向島に開業していた末広という汽船宿にとまったが、そのとき次郎長がその石塔を見に行くようにすすめた言葉が、佐橋法龍氏の「清水次郎長伝」に引用されているが、土地の方言まるだしで、こういったそうだ。 「名ミャー(名前)がわからニャーから、ただ石塔を建てておいたのさ。あとで山岡(鉄舟)さんがこれをきいて、そりゃエエことしたと、壮士墓とキャーてくれたのさ。じきそこだから、行っておミャーりをしておくれ」         □  洋画界の開拓者というべき黒田清輝がパリで描いた「朝妝《ちようしよう》」という作品は、フランスの女性が全裸で、鏡の前で朝の化粧をしている姿を写生している。  黒田がこの油絵を出品したのは、明治二十八年四月に京都岡崎で開催された内国勧業博覧会であるが、地元紙の日出新聞が風紀をみだすものという記事を掲げて攻撃した。しかし、黒田は譲らず、警察も下半身に布をかけて展示を黙認、結局、妙技二等賞を受賞して、絵は住友家が買った。三百円であったというから、大変に高価といえる。  二年後、早稲田系の文学雑誌「新著月刊」に、同じ黒田が持って帰った画集のヌードが口絵にのり、こんどは風俗|壊乱《かいらん》罪で告訴されたが、結局、無罪になった。  弁護に立った石橋忍月が、こう説いた。 「美術学校では裸婦をモデルにしている。それに第一、温泉では堂々と男女混浴が行われているではないか」  山本健吉さんは、文芸評論家であったこの忍月の嗣子である。         □ 「軍艦行進曲」という曲は、いまは戦争中の「大本営発表」を思い出させるので、感じがちがっているが、初めて演奏されたのは、明治三十三年四月三十日、神戸沖で行われた観艦式の当日である。  作詞鳥山啓、作曲瀬戸口藤吉。戦後NHKの「話の泉」で、よく似た曲二つをならべて当てさせる出題があり、このマーチと同時に聴かせたのが、「ウスクダラ」であった。  ついでに書いておくが、「汽笛一声」の鉄道唱歌の初版が刊行されたのが、おなじ年の五月である。         □  箱屋殺しで入獄していた花井お梅が十六年の刑を終えて釈放されたのが、明治三十六年四月、汁粉屋を浅草で開業、たまに色物《いろもの》席に出たりしていた。一昨年没した三遊亭円生は、お梅に抱かれたことがあるという。  どんな女でしたといったら、何をカン違いしたのか、目を丸くして、「なに、抱かれたって頭を撫《な》でてもらっただけです。円童といって子供の落語家の私には、においがしただけ、ウフッ」         □  学生時代、日本一のテニスの名手といわれた佐藤次郎の急死は、ショックだった。  昭和九年四月五日の夜、イギリスに向かって航行中の箱根丸から、マラッカ海峡に身を投じた。前年全英庭球大会に参加、三位に入賞してからノイローゼになっていたのである。  当時読んだ新聞記事が忘れがたい。 「月夜の海は、佐藤選手には、テニスコートに見えたのではないか」         □  昭和十七年四月十八日、アメリカの艦載機の東京空襲があったが、まだ爆撃のこわさを知らぬ市民は、のんきだった。  古川緑波が大井町の駅の歩廊にいた時、目の前の鐘紡の工場が爆撃され、腰をぬかしたという。緑波はその日、こうつぶやいた。 「おどろいたね、空襲をカブリツキ(劇場客席の最前列)で見物したんだからね」         □  戦局が深刻になった昭和二十年四月十一日、渋谷東横で文学座の「女の一生」が初日をあけた。映画館を借りての公演だが、開場のころ、地下の雑炊《ぞうすい》食堂に行列ができていた。  演出者の久保田万太郎が、その群衆をなるたけ見まいとしながら、劇団の戌井市郎に低い声でいった。「とにかく時間が来たら、あけなければいけないだろう」  戌井さんが気の乗らない顔で、「そうですねえ」といった。いく人客がはいるか、不安なのだ。しかし入口をあけた時、行列の人々は劇場になだれこんだ。万太郎と戌井さんが、だまって握手した。目が光っていた。  続演五百七十九ステージ、第一回の日の話である。         □  明治四十五年四月十三日、二十七歳の若さでなくなった石川啄木は、そのファンが多く、著書が長く読まれている点で、無類の歌人である。  伝記劇もいくつかあるが、ぼくの見た前進座の「若き啄木」(藤森成吉作)、芸術座の「悲しき玩具」(菊田一夫作)の啄木が、中村※[#「習+元」]右衛門と松本幸四郎(当時、市川染五郎)、つまり両方とも歌舞伎役者が演じているのがおもしろい。         □  啄木が盛岡中学にいた時、二級上に金田一京助、一級上に野村胡堂がいた。  金田一が中学を出て上京する送別会が開かれ、その返礼に京助の姉の経営する駅前の旅館に招かれた時、胡堂と啄木は、うまれてはじめてライスカレーを食べたという。  胡堂が「面会謝絶」という本に書いている。「(私は)不思議な珍味に肝をつぶした。(啄木は)うまいとも何とも、いわなかったようである」         □  中学時代に、文学好きな仲間がユニオン会というグループを作っていたが、啄木の片意地な性格を嫌って、ほとんどの友人が絶交した。  終生つきあったのは、金田一だけであった。しかし、四十年忌の時に、一同が渋民村の歌碑の前に集まって、「絶交解消式」という式をあげたという。あまり類のない催しといえるだろう。         □  北海道には啄木の歌碑が十あるそうだが、釧路の南大通りにあるのは、「小奴《こやつこ》といひし女のやはらかき耳朶《みみたぶ》なども忘れがたかり」ほか二首で、啄木が親しんだ芸者がのちに開業していた旅館のあとにある。俗に「小奴歌碑」といわれている。  啄木はフェミニストで、花柳界の女も大いに愛した。小奴以外にも、日記に名前が出てくる市子その他がいる。  しかし、遊びにほんとうには馴れていなかったのだろう。新詩社の素劇《そげき》(しろうと芝居)で、料亭の場の客の役で出ている啄木が、女歌人のふんした芸者が座敷にはいって来て、「こんばんは」と挨拶した時、両手をついて平身低頭したので、観客がひっくり返って笑ったという記事が残っている。         □  この素劇の時に知り合った踊りの師匠の姉妹が、浅草で芸者になっていたのを呼んで、啄木が「スバル」の原稿料で、北原白秋をご馳走したという話がある。  柳川の造り酒屋の若旦那が、貧しかった啄木におごられたのだが、啄木の通夜の時、白秋が金田一京助にこういったという。 「酒と女の遊びを私に教えたのは、石川君なんですよ」         □  死ぬ年の一月に、啄木は金に困って、朝日新聞社の僚友、杉村|楚人冠《そじんかん》に窮状を訴える手紙を書いた。社の人たち十七名がカンパをして、三十四円四十銭を集め、編集局長で啄木の同情者だった佐藤北江が病床に届けた。  月給が二十円の啄木にとっては大金だが、その中の二円五十銭を投じて、この歌人は、クロポトキンの「ロシア文学の理想と現実」の英訳本を買っている。  同郷人で啄木研究家の吉田孤羊は、それについて、「貧しいレンブラントの所に、年下の友人が、食い物以外に使うなといって送った金で、レンブラントが絵の道具を買ったのと、同じです」といっている。         □  与謝野夫妻が啄木について語った談片がある。おもしろい対照をなしている。  晶子はいう。「石川さんはおシャレで、仙台平のはかまの、きぬずれの音がしたんですよ」  鉄幹はこういった。「初対面の時、私はこう思った。東北人には法螺《ほら》ふきが多いんだなと」 [#地付き]〈五 月〉  独特のふんい気を持った美人画家の小村|雪岱《せつたい》が描いた八幡太郎の武者絵が、銀座のはち巻岡田にある。  当主の初節句の時に、描いてもらった絵だという。雪岱は、その時先代のはち巻の主人にいった。 「美人画でなくても、描くんですよ」  じつは雪岱は、松岡映丘の門下であった。         □  鍾馗《しようき》というのは、ひげが特徴の大男で、唐の玄宗の夢に出て来て、病魔を払ったといわれる、中国の故事にある伝説の人物である。  鬼よりつよいこの鍾馗は、虫よけの藤沢樟脳の広告に、絵が出ていたのをおぼえている。  明治のはじめにあった、小野小町の小町|紅《べに》と加藤清正の清正香(歯みがき)は両方ともなくなったが、似たようなのが中将湯の中将姫で、今でも商標として、花櫛の美女の顔が知られている。  東郷ハガネの元帥の顔、仁丹の街頭広告の大礼帽のひげの顔(伊藤博文の嗣子博邦がモデル)も、遠くなりにけりだが、浅田飴がCMに、かつての「先代萩」の若君と千松《せんまつ》の絵と「たんせきに浅田飴、すき腹に米の飯」のキャッチフレーズを使わないのも、時世だろう。         □  明治三十年代、新橋芸者のお鯉(本名、安藤照)が、十五代目市村羽左衛門に続いて力士荒岩亀之助と浮名が立った。  日露戦争の時の首相桂太郎にお鯉をとりもったのが児玉源太郎である。側室になったために、講和条約に不平を持った国民の焼き打ちの時は、赤坂榎坂町の桂別宅にいたお鯉も、いのちからがら逃げ出したという。  たまたまこの時、同町内に、福原|駿雄《としお》という少年がいた。小学五年生であったが、これが後年の徳川夢声である。夢声の自伝には、その妾宅が家賃三十円程度の家だった、とある。         □  お鯉口述の自伝が二冊の本になって、昭和のはじめに刊行され、二年十月の公園劇場の新派公演に、「お鯉もの語」として劇化された。主人公に扮したのは、河合武雄。  女形の喜多村緑郎が、荒岩に扮しているのは珍しく、「演芸画報」にのっている写真を見ると、千代の富士によく似ている。  女性史研究家がお鯉については冷淡なので、さりげなく尋ねたら、こういった。 「お鯉には、思想がありません」         □  昭和七年五月八日に慶大生|調所《ずしよ》五郎が、湯山八重子という麗人と大磯の坂田山で死んだ。歌謡曲に「天国に結ぶ恋」というのができ、一般には「坂田山心中」といわれている。  坂田山の隣の王城《おおじろ》山に自宅のある高橋誠一郎さんがいっていた。 「坂田山を金太郎がいた山だと思っている人が、案外多いようです」         □  金太郎が長じて、源頼光につかえ、いわゆる四天王の一人坂田ノ金時《きんとき》(公時が正しい)になったという故事があるから、錯覚するのだろうが、金太郎が「熊にまたがりお馬のけいこ」をした山は、箱根連山のひとつである足柄山である。  戦後、この山の頂に茶店があって、まるまると肥えていかにも健康そうな少女が、ひとりでかいがいしく働いているのを、地方版の記者が記事にして、「金時娘」と呼んだ。  何年かたってその茶店に行ったら、その女性は結婚して、子供もできたと聞かされた。「金時が、山姥《やまんば》になった」のである。         □ 「山姥」は、能にも、それを原典とした歌舞伎舞踊にもある。主役は金太郎の母だ。  喜多六平太は、いい芸談を残している能の名人だが、語録の中で、こういっている。 「山姥の山は、果しない山です」 (今回は端午の節句にちなんで、武者絵、鍾馗、鯉、金太郎をそろえた)         □  昭和二十年五月六日、疎開先の長野県湯田中温泉の万屋に滞在していた十五代目市村羽左衛門は、老衰のため急逝した。  久保田万太郎は追悼句をよんでいる。 [#2字下げ]おもかげをしのぶ六日のあやめかな  万太郎はそれから十八年のちの五月六日に、梅原龍三郎氏の家に招かれ、すし種の赤貝を誤嚥《ごえん》して死ぬ。  万太郎の追悼句を佐藤春夫が霊前にたむけた。 [#2字下げ]春泥に委《ゆだ》ねて君を忘れめや  そして、この春夫が、翌年の五月六日、朝日放送で自伝を口述する録音中に心臓の発作で落命する。  六菖忌が、三つ重なっている。         □  羽左衛門が遺体となって旅館の離れの一室に横たわっている時、窓の外から山桜が散ってそのいくひらかが胸の上に乗った。そばにいた者が掃こうとしたら、妻女の春子が「そのままにしておいてください」といった。前髪のよく似合った不世出の美男役者は、しずかに目をとじていた。  歌舞伎界の古老川尻清潭は、この時東京にいて、松竹の社員から羽左衛門の死について聞かされたのだが、最後の日のこの情景を、自分が見たようにいろいろな人に話す。ぼくは三回、それを傍聴したが、聞くたびにデータがくわしくなり、小説風になっていった。最後には、清潭が話をこうしめくくった。 「胸の上に桜が散りしいていて、まるで、三浦之助(「鎌倉三代記」)の緋《ひ》おどしのよろいのようでしたよ」         □  終戦になる前から、ぼくは清潭の昔ばなしを聞きに、その家にしばしば行った。  昭和二十年ごろ、清潭のいたのは、芝明舟町の芳盟荘というアパートである。清潭が「靴ぬいですぐ座敷とは春寒し」という句を作った小さな部屋にいると、配給ですよ、とモンペ姿の老女が乾パンを届けに来た。これが、若いころ大阪でさわがれた芸子の豆千代であった。当年、六十いくつであったか。  なぜ年の見当までつくかというと、この女性は、南地の置き屋|伊丹幸《いたこう》(女主人は井上馨の寵妓《ちようぎ》だった小継)から出ていた往年の美少女で、草田|正《しよう》が本名、明治三十四年、十六歳で落籍《ひか》されて、光村|利藻《りそう》の大阪北浜の別宅に囲われたという文献があるからだ。  そしてその文献とは、利藻の創立した光村原色版印刷の作った「光村利藻伝」の年譜に明記されている。この大冊には豆干代の写真もあり、豆千代の香水風呂伝説もくわしく述べられている。  実業家の伝記で、二号について堂々と書いたのは珍しい。この伝記は、新橋の名妓ぽん太を妻にした鹿島清兵衛と共に東西の驕児《きようじ》とうたわれた利藻の一代男ぶりを、おもしろく読ませる。         □  明治時代の金で三千万円を蕩尽《とうじん》したといわれる利藻は、終戦のころ、豆千代を東京に招いてアパートにかよって来たが、全盛期には金にあかして竹内|栖鳳《せいほう》(西洋にゆく前は棲鳳)の絵を収集した。品川弥二郎が建てたドイツ風の須磨の別宅に、灘万の板前をつけて滞在させ、海岸に蛸《たこ》を撒いて写生させたという話もある。         □  栖鳳は写生に熱心であった。日本橋の鳥料理屋の末広の主人は、以前玉子屋で、やはり料理屋をしていた栖鳳の家と親しかったので、絵をずいぶん持っていたが、大正十二年の関東大震災ですべて焼いてしまった。  何かまた書いてくださいといわれた栖鳳は六十歳だったが、長い間かかって、末広に絵を届けた。見れば葱《ねぎ》が二本描いてある。 「いくらうちが鳥屋でも、葱二本ですか」といったら、栖鳳が「見とおくれやす」と八百屋の通い帳を示した。みると連日、葱ばかり、竹内家は買っていた。         □  昭和九年五月三十日、海軍記念日の三日のちに、元帥東郷平八郎は八十八歳で没した。  明治三十八年五月二十七日、日本海海戦の日にこの提督が訓令した「皇国の興廃此一戦にあり」云々の文字は、生涯おびただしく揮毫《きごう》を依頼され、筆をとったようである。署名の下に、八の字の下に横に一文字をひいた花押《かおう》(書き判)が必ず書きそえられている。  ある人がこの書き判を見て、「これは軍艦の形でございますか」と尋ねたそうだ。  岩崎|昶《あきら》氏の「映画が若かったとき」によると、明治のそばやに、「千客万来 東郷平八郎」という掛け軸がよくあったという。実物ではないだろうが、何となく、おかしい。         □  元帥は、シャツのボタンまで自分でつけたという。艦上生活で馴れていたのだろう。衣食住に、至って無頓着でもあった。  老年になっても、家族が世話を焼こうとすると、「これでいいじゃろ」といって、首をふる。そういう口癖があった。「水交社記事」の追悼号に、戦艦三笠の勤務をしていた部下の話がのっている。 「バルチック艦隊の砲弾が飛んで来て危いので、閣下に司令塔におはいりくださいというと、閣下はこういわれたのです。『まァ、これでいいじゃろ』」         □  知らない人が物を送って来ると、元帥はそれを返送させた。副官がいない時、自分で荷札を書いて小包を作ることもあった。  その時に、「東郷家執事」と筆で書いたのだが、受けとった者が首をかしげて、こういったと伝えられる。 「執事というのは、字体まで、元帥に似てしまうんですな」         □  文字で思い出したが、昭和七年五月十五日に、首相官邸で銃撃されて死んだ犬養毅は、中国のすぐれた書家のようなみごとな字を書いた政治家である。木堂《ぼくどう》と号した。  孫文はじめ中国人の友人も多かったし、風貌も中国の文人に近い。書を愛し、自分で筆をとることを好みもした。文房具にくわしく、いいものを使っていた。  手紙の返事は毛筆でかならずしたためていたが、ある時そういう一通が古書市に出たと聞いてから、万年筆を使うことが多くなった。しかし、友人の多くは残念がったらしい。  犬養家に残っていた手紙の多くは末尾に、こう書いてあった。 「恐縮ながら御返事は毛筆で願ひます」         □  木堂の嗣子が、健《たける》といって、芥川龍之介の弟子となり、小説を書いている。犬養健の代表作に、「一つの時代」「南京六月祭」がある。  一方、東郷平八郎の嗣子|彪《ひよう》は、菊作りの名人であった。         □  昭和三十六年五月十六日に、八十九歳でなくなった喜多村緑郎は、「滝の白糸」の白糸、「不如帰《ほととぎす》」の浪子、「婦系図《おんなけいず》」のお蔦の演出を残した新派の名女形であったが、久保田万太郎は喜多村の死を聞いた時、まっさきに思いうかべた役を、「風流線」の河童の多見次だといっている。  喜多村はハイカラな人で、煙草はパイプ、酒はウイスキー、寝室にはいる前にナイトガウンを着用した。  大阪にしばらくいて帰京する時、文人仲間の岡村柿紅、吉井勇、久保田万太郎といった人々にみやげに持って来たのが、シェークスピアの姿を形象した小さな人形だったという。芸者にふんする役者のすることとは思われない。第四回芥川賞の作家である冨澤|有為男《ういお》がこの話を誤伝しているが、そのまちがえ方が、おかしい。 「喜多村は何とナポレオンの人形を持って上京した」         □  明治三十年代、海老茶の袴をはいた女学生が自転車をのりまわした。小杉天外の「魔風恋風」は、そういう娘の風俗を描いている。  若き日の三浦環(昭和二十一年五月二十六日没)も、サイクリングの草分けだった。三十四年ごろ、虎の門から上野音楽学校にかよう彼女のうしろに、十数台の自転車がついて走った。田辺尚雄氏の「明治音楽物語」に、「つまり送り狼、私どもは洋楽ドウスル連と称した」とある。ドウスルドウスルと声を掛け、女義太夫のかけもちの車について歩く連中がドウスル連である。         □  三浦環が世界的に有名になってから、ワシントンの日本大使館で第一次大戦終結の祝賀会があって招かれたが、環の提示したプログラムを見て、大使夫人は「アメリカの国歌なんか歌わないでもいいのよ。どうせ余興だから、子守唄か何かをどうぞ」といった。  しかし、「お蝶夫人」のアリアを歌い終わった時、「マダム・ミウラ」と呼びかけて近づき、うやうやしく手にキスした紳士の顔を見たら、当夜の主賓ウィルソン大統領だった。  ウィルソンがいった。 「私たちのために、アメリカの国歌を歌ってください」         □  一九一九年、イタリアに行き、三浦環はプッチーニを訪れた。義太夫の「柳」の木遣《きやり》音頭をこの作曲家のために歌ったのはその時だが、プッチーニの家の裏山にゆくと、和風のあずま屋があって、「お蝶夫人」の舞台装置そっくりだった。         □  三浦環は、リサイタルで、歌のあとに聴衆に話しかけるのが好きだった。その日本語のアクセントは、西洋人の話し方に近かった。 「お蝶夫人」のレコードに、環の口跡がのこっている。「けがれに生きるより、操に死ぬるがまァし」         □  歌人の与謝野晶子(昭和十七年五月二十九日没)は、夫の寛(筆名鉄幹)とのあいだに、十三人の子供をもうけ、十一人を育てた。  死ぬ時に、枕もとにいる子女を見まわして、「私はしあわせでしたよ。あなた方に会えたのだから」といった。  十一人の中から、ひとりの歌人も出ていないというのも、むしろ、さわやかである。         □  晶子の生家は、堺の駿河屋という菓子商である。結婚する前の名は鳳晶《ほうしよう》。その作品と同じように、何ともいえぬ壮大華麗な名前である。  新派の水谷八重子が実名の伝記劇にいろいろ出演した中で、顔がいちばん似て見えたのが、「晶子|曼陀羅《まんだら》」(佐藤春夫原作)の時だった。晶子の顔は、まねられる顔なのだろう。         □  石川啄木が、与謝野晶子の家で、着物のほころびを縫ってもらった。啄木の日記に、 「実の姉のようだ」         □  晶子が子供の雑誌のために書いた「Aの字の歌」というのがある。「私の好きなAの字を、いろいろに見て歌ひましょ」というので、以下九節、掘立《ほつたて》小屋の入り口、遠い岬の燈台、象牙の琴柱《ことじ》、白水晶のプリズム、沙漠をゆく人、山頂、鵞《が》ペン、三角|頭巾《ずきん》の尼僧、ピラミッド、ピエロの帽子に見立てている。  空想力もゆたかだが、子供に話しかける母親の姿が見えてくる童謡であった。         □  昭和十三年、色紙に書かれた与謝野晶子自筆の短歌が、レートクレームの新聞広告に凸版になって出たことがある。  吉井勇のは珍しくないが、晶子のはあまりない。その歌はこういうのである。 [#2字下げ]てのひらへ天《そら》の銀河の雫《しずく》ほど涼しくおつるおしろいの水 [#地付き]〈六 月〉  両国の回向院《えこういん》の地内で相撲が行われていたが、明治四十二年六月二日に、国技館が落成開館した。建築に一年十カ月を費やしている。  国技館というのは、硯友社《けんゆうしや》の作家であった江見水蔭の命名である。いま、日大の講堂になっている建物だ。  力士が両国橋を渡って歩く姿が、川風の心地よい夏場所の時などことに威勢がよかったが、蔵前に国技館が移ってから、それを見る機会を失した。  本所に横網町《よこあみちよう》という町名があって、北原白秋に「江戸の横網うぐいすの鳴く」という歌があるが、地方の人は、まちがって、横|綱《ヽ》町だと思っていたらしい。         □  江見水蔭は、自宅に土俵があったというから、自分もとるほどの相撲好きだったのであろう。  相撲にくわしい文士に、尾崎士郎、舟橋聖一がいるが、斎藤茂吉も、ひいきにしていた同郷(山形)の出羽ヶ嶽文次郎についてはたびたび書いている。  この力士は、小島貞二氏が直接きいたところでは、身長六尺八寸五分(二・○七メートル)体重五十四貫(二〇二・五キロ)の大男で、関脇で横綱を二人倒しているが、三段目の十一枚目まで落ちて引退、昭和二十五年に没した。  この力士は、電車で絶対に腰かけなかった。三人分の席を占めることになり、人が笑うからである。彼は茂吉に訴えて嘆いた。 「身のおきどころがないんす」         □  昭和十四年の春場所(当時は一月場所をこう呼んだ)の四日目に、六十九連勝を続けていた無敵の横綱双葉山定次が、安芸海に負け、五日目に両国、六日目に鹿島洋に負けている。新聞にいろいろな文章がのり、尾崎士郎は運命観の立ち場から、長谷川|如是閑《によぜかん》が心理的な角度から論じたが、六代目菊五郎は、こういった。 「総がかりで研究されるんだから、たまらない」  ところで、当の双葉山が、ひと言、じつに正確な表現で、自分について語っている。 「負け癖がついたんでしょう」         □  この双葉山の娘が早世して、父親を悲しませたが、この少女は小学生の時、校内の相撲大会で優勝した男の子を先生が指さして、「誰かかかってゆく子はいないか」というのを聞くと、いきなり組みついて、苦もなく投げ飛ばした。         □  美術のほうでは、明治の新聞に取組の絵を描いた鰭崎《ひれざき》英朋、「大菩薩峠」の挿絵を描いて広く知られた石井鶴三が相撲通であるが、梅原龍三郎さんも、昭和十年代に横綱|男女《みな》ノ川登三の土俵入りを油絵で描いている。  宮田重雄がいった。 「鯛に富士山、桜、そして土俵入り。ふつうの絵かきが見向きもしないものばかり、先生は描くんだなァ」         □  東京電力の会長だった菅礼之助は、裸馬という筆名で「錦島三太夫の死」という小説を書き、劇化もされている。  大蛇潟から錦島になったこの親方を、生涯、申し分ない形で後援したらしい。  この裸馬が築地の東家《あずまや》という料亭にウイスキーを置いておくと、栃木山守也(のちの先代春日野)が来て飲むので、「栃木山飲むべからず」と書いてボトルにはった。  栃木山が見ていった。 「ありがたい、公認されました」         □  スポーツニッポンの社長だった狩野近雄は、食魔といわれたほどの健啖《けんたん》家で、巨漢でもあった。横綱審議会の委員になり、その会合に出るため玄関を上がり、廊下をゆこうとしたら、呼びとめた若い衆がいった。 「親方、相撲協会関係の部屋はあっちです」         □  六月十日は、時の記念日である。  六月四日のムシ歯予防デーといった語呂合わせとはちがい、このほうは千三百年前、天智天皇が漏刻《ろうこく》(水時計)を宮中に置いて、鼓または鐘で時を知らせることにした日というれっきとした由緒がある。  時の日ともいって、季題にもなっている。青木月斗の句に、「時の日の鐘鳴らしゐる野寺かな」がある。六月十日に誕生した子供に、「時男」とか「時子」とか命名することも多いそうだ。  戦後、NHKの藤倉修一アナウンサーがインタビューしたラク町(有楽町)のお時さんが、六月十日生まれかどうかは、確かめていない。         □  大正七年まで、東京帝国大学の優等卒業生には、恩賜の銀時計が授与された。 「銀時計」というのは、エリートの別名になっていたし、卒業式には天皇の行幸があった。 「銀時計」とともに、いまは忘れられたのが「ドン」である。明治四年から昭和四年まで、旧江戸城の本丸で、近衛連隊の兵士が正午に空砲を発射して、東京市民に時を教えた。夏目漱石の文章に、「腹のへった時に丸の内でドンを聞いたような」というフレーズがあり、午砲という字を当てていた。  昭和四年からサイレンになり、戦争中は警報とまちがえるので廃止された。いまはテレビ・ラジオ、そして電話が時を教える。  一一七番の電話で、時報を聞いて、礼をいっている人が、よくある。         □  いまの羽左衛門の父、六代目坂東彦三郎は時計マニアで、いろいろ収集もしていたが、根岸の家に、グリニッジ天文台に合わせて正確な標準時を示す時計まであった。  この役者には、しばしば「大時計」という声がかかった。個人の趣味が掛け声になっているのは、珍しい。         □  俳優の佐分利信さんが、「執行猶予」ではじめて演出をした。映画の監督は、本番が開始されるとメガフォンで「用意」と声をかけ、タイミングをはかり、「スタート」というのが普通である。クランクインの鎌倉駅のロケーションで、佐分利さんは、「用意」といったあと、「ドン」といってしまった。  その時、飯田蝶子が駆け出したという伝説が、松竹の撮影所には伝わっている。         □  女湯の話では、戦後NHKのラジオが「君の名は」を放送する毎週木曜の午後八時半、女湯がからになるという話があり、じつはこれは、このドラマを映画化する松竹の宣伝部が流した風説だともいう。  それと別の女湯だが、数年前TBSの「時間ですよ」という連続ドラマが、おふろ屋の経営者の家庭を材料にしていて、時おり浴場がチラリと出るというので人気になっていた。  クラス会のかえりに寄った酒場で、その話が出て、ちょうど今夜が放映の日だとホステスがしゃべっていた。ニコリともしないでその席にいた某省の局長が中座したので、役人はおちおち飲んでもいられないのかと同情し、そばにいた女性に尋ねたら、 「さっきお帰りになりました。何だか、今夜見なければならないテレビがあるとかで」         □  青森放送のプロデューサーに、伊奈かっぺいという筆名の詩人がいる。  シャレのうまい人であるが、いつかテレビの「徹子の部屋」に出ていて、青森県の方言の話になった時、こんなことをいった。 「東北弁は好きです。でも困る時もありますね。アナウンサーが青森の言葉でしゃべると、ぐあいが悪い。七時の時報なんか、セイコウ社の時計が、シチズンをお知らせします、ではね」         □  昭和二十三年六月十九日、失踪していた作家太宰治の遺体が、玉川上水で発見された。この日は、太宰の誕生日でもある。  墓のある三鷹の禅林寺で、毎年いとなまれる法要の日を「桜桃忌《おうとうき》」という。文学史では、正岡子規の糸瓜忌《へちまき》、芥川龍之介の河童忌《かつぱき》とともに、広く知られている。  最後の作品「桜桃」にちなみ、また、この六月がサクランボのシュンでもあるからだが、桜桃忌は、音感もいい。  若い読者が、毎年顔ぶれの大部分を変えて、寺内に集まるのだが、同じ寺に分骨されている森鴎外の墓のことを、彼らの多くは知らない。         □  太宰治という筆名は、友人が万葉集をパラパラと開いて、この字はどうだといったのを、うなずきながら聞き、すぐそれにきめたという。夫人の津島美知子さんは、そういうきめ方が太宰らしいといっている。         □  井伏鱒二氏は、太宰にとって、やはり一番こわい人だったと思うが、井伏さんが、太宰は小説の話になると、きちんとすわり直した、自分の作品の話の時もすわり直したと書いているのは、いい話である。         □  太宰は、字を書くのが好きだったようだ。ことに酔って興に乗った時に、書くくせがあり、没後二十年目の展覧会に出陳されたのは、ほとんどが酔筆だった。  ある時、旅先の料理屋で、酔った太宰が、「書きたくなった、紙と筆をもって来てくれ」とさけび、いろいろ書いてたのしんだが、勘定書に、紙代、筆代が計算されていたので、呆《あき》れた顔をしたという。         □  太宰は、青森県金木の名門の子だったが、いわゆる貴族趣味に対して、複雑な屈折があった。学習院を出た志賀直哉が、太宰の「斜陽」の中の丁寧語を批評したのにカッとなって、「如是我聞《によぜがもん》」でいろいろ書いたのは、精神的にまいっている時でもあったろうが、太宰の苦い表情を見せている。  学習院で志賀よりずっと後輩で、こっちは貴族趣味を徹底させたいふりをした三島由紀夫が、なぜか、太宰を嫌い、太宰というと、ムキになった。  その三島が、矢代静一氏と太宰を訪ねた時のことが、野原一夫氏の回想にも、矢代氏の自伝にも出て来る。  三島が太宰を好きでないと、直接いうと、太宰が「嫌いなら、ここへ来るはずはないさ」といったという話は、なまなましい。  ぼくは、太宰の「水仙」という作品で、招かれた家で出されたシジミ汁の具のミを食べていた時、「それ召し上がるんですの」と尋ねられて、主人公が当惑する場面を、いつも思い出す。         □  太宰治に津軽の訛りがあったのは、当然である。  田辺茂一氏に聞いたのだが、戦前、ある晩、のんでいて、わざとベランメエの東京弁で、太宰がしゃべった。  すると、店のあるじが訊いた。「あんた、国はどこ?」         □  太宰と一緒に死んだのは、山崎富栄というちょうど十歳年下の女性である。  この女性が死をせまったと伝えられるのを弁護して、長篠康一郎、片山英一郎両氏が本を書いた。ぼくは直接には、太宰も富栄も知らないが、スタコラサッちゃんという綽名《あだな》があり、かいがいしく太宰に奉仕した感じがよく出ているといつも思う。  劇になった太宰治が二編あり、「桜桃の記」(伊馬春部作)、「或る作家の生涯」(椎名龍治作)では、この富栄を、丹阿弥谷津子と、山岡久乃が演じている。         □  明治二十四年六月二十三日、芝山内の紅葉館で、大槻文彦の「言海」完成祝賀会が催された。十七年かかって作りあげた辞書だが、このあと「大言海」が書き続けられる。しかし大槻は昭和三年八十二歳で病没する時に、|さ《ヽ》行まで、筆をとっただけである。  祝賀会の出席者は、伊藤博文、勝海舟、榎本武揚、谷干城というような、実力者三十数名だった。  福沢諭吉も出席と返事したが、主賓の親友で前日本銀行総裁の富田鉄之助が、当日のスピーチを依頼に行き、伊藤博文の次にといったのが気に入らず、結局欠席した。  高田宏氏の「言葉の海へ」に出ているのだが、そのすこし前に、大槻が福沢の家に、刷り上がった「言海」をもって訪れた時、五十音順で編まれているのに福沢が眉をひそめて、こういったそうだ。 「寄席の下足札が、五十音でいけますか」         □ 「言海」「大言海」で、大槻文彦は、日本語を語源的に考えるのを楽しみ、そして苦労している。その言葉に、「私は語源に中毒している。要するに私は狂人だ」         □  明治四十年六月十七日から十九日にかけて、総理大臣の西園寺公望は、神田駿河台の私邸に、文士を招待した。  この集まりはその後、芝の紅葉館や柳橋の料亭で、大正五年まで、七回にわたって行われた。いまの首相官邸の文化人招待とはちがい、西園寺がパリで知ったサロンを、自分がホストになって作ろうと試みたものであろう。出席者の人選は、竹越|三叉《さんさ》が近松秋江にたのんだ。  三叉は、ハイカラ紳士の見本といわれ、西園寺のブレーンの一人だ。二十名をえらんだ時、秋江は自分の名を書かなかった。そのために、自分だけ招かれなかった。         □  招かれて辞退したのは、坪内逍遙、二葉亭四迷、夏目漱石。漱石が、「ほととぎす厠《かわや》なかばに出かねたり」という句で返事をしたのが、この時である。  この会を雨声会という。最初の会の夜、降っていたので、広津柳浪が杜詩の「雨詩ヲ催ス」の句を引いてつけたとも、また第二回の会合のとき、寄せ書き帖の題簽《だいせん》に、幸田露伴が書いたともいう。つまり二説があるわけだ。  あとから招かれた永井荷風がよろこんで出席しているのを、反骨作家としてふしぎだという人もいるが、珍説もある。 「荷風も、西園寺さんも、フランスにいた人だからね。それに、二人とも独身だった。気が合うんだろう」  注釈を加えると、二人とも女性嫌いではない。西園寺家は琵琶を家伝とする堂上公卿で、弁財天に遠慮して、代々妻を入籍しなかったのである。  ついでに書きそえるが、ある時西園寺公望が琵琶を弾くのを聞いた人がいた。決して、うまくなかったという。         □  大正七年六月二十三日、上野の太平洋画会のアトリエで、文展製作のためのモデルの選考会が行われた。  洋画と彫刻のモデルになろうと志望した男女六十七名を、中村不折、満谷国四郎、新海竹太郎、朝倉文夫らが審査した。  えらばれた者の名前に、男の名をあげず、女性のほうだけが、新聞に年まで入れて書かれているのが、記者の関心度を思わせておもしろい。  外人二人をふくめた百余人の物見高い見物人がいたというが、記事には、こうある。 「徴兵検査のように別室で待っているのを呼び出し、立て、すわれ、失敬をしろ、手を腰にあてろと、指揮官が命令した」 [#地付き]〈七 月〉  人名考を主として書く。  七月に没した著名な文人の数は多いが、この月の九日が、偶然、上田敏(大正五年)、森鴎外(大正十一年)、戸川秋骨(昭和十四年)の共通した忌日である。  三人とも、外国の文学を日本に移植した業績を持っている。  鴎外は西洋の名前が好きで、子供に外国人と同じクリスチャン・ネームをえらんだ。  長男が於菟(オットー)、長女が茉莉(マリ)、早世した次男が不律(フリッツ)、次女が杏奴(アンヌ)、三男が類(ルイ)。そのほかに、不律の前に生まれるはずで流産した子が男だったら半子(ハンス)と命名する予定だったという。         □  鴎外は腎臓病が死因になったのだが、病気が進んでいるのに、検尿をいやがって承知しなかった。しげ夫人が、目がはれるほど泣いて懇願したので、やっとその気になり、尿を入れた瓶を、親友で医者の賀古鶴所に届けたが、それに添えた手紙に鴎外は書いた。「これは小生の小水には御座無く、妻の涙に御座候」  この賀古は鴎外の遺言を受けた人だが、鴎外が死んだ直後、宮内省から来た弔問使に、夫人を紹介して、いきなり「これが未亡人です」といった。         □  鴎外の弟の森篤次郎は、劇評家の三木竹二。森を三木、篤のカンムリをとって竹、次を二としたのである。  その妹の喜美子は、鴎外がドイツ留学中に親交を持った医学者小金井良精に嫁し、生まれた次女が星新一氏の母である。         □  鴎外の子女と逆に、帰化した外国人が、日本の名前に改めるケースは明治以来いろいろ例があるが、ギリシャ人ラフカディオ・ハーンの、最初の赴任地松江にちなんだ(つまり「八雲立つ出雲八重垣妻籠みに八重垣作るその八重垣を」の歌)小泉八雲が名高い。  東京帝大の教授だった八雲は、上田敏が大学院にいたころ提出したレポートの読後感に、こう書いた。「英語で思考し、英語で表現できる一万人中一人といってもいい秀才」         □  上田敏は明治四十年から翌年にかけて、欧米旅行をする。その時、パリの寄席コンセール・ルージュで永井荷風に会っている。その後、慶応義塾に招かれた時、京都から動けない自分のかわりに荷風を推薦したのは、そういう因縁もあったらしい。  上田敏のひとり娘は瑠璃子。嘉治隆一夫人だが、「瑠璃」という字を見ていると、「海潮音」「牧羊神」の名訳の輝くような詞章が自然に思い出されるから、おもしろい。         □  島崎藤村は「文學界」の同人として、戸川秋骨とは、古い文学仲間であった。  秋骨が死んだ時に、藤村が弔問に来た。自動車から降りた藤村は、玄関に向かって歩いて行ったが、突然立ち止まって、上を見あげた。そこには、サルスベリの花が満開であった。その姿が、花道の役者のようであったと、長女のエマさんは回想する。  秋骨が「エマソン論文集」(上)を訳して出版した年に生まれたのでエマ。ラルフ・ウォルドー・エマソンは、アメリカ十九世紀の詩人・文芸思想家である。         □  七月二十四日に死んだ芥川龍之介の命日は、その晩年の作から「河童忌」といわれる。ある時期まで、田端の天然自笑軒で、追悼の集まりが持たれた。  芥川の三子は、比呂志・多加志・也寸志という。比呂志氏の名は菊池寛、多加志氏は親交のあった画家の小穴隆一からとったと伝えられる。  芥川の号に澄江堂《ちようこうどう》というのがある。「澄江という女性が好きだったんじゃないか」と、菊池寛がひやかした。じつは隅田川である。         □  昭和七年に封切られたフランス映画「巴里祭」は、昭和五十六年三月に死んだルネ・クレールの作った傑作で、主演女優アナベラ(七月十四日生まれ)を、忘れじの女性として青春の日をかえりみるファンは、すくなくあるまい。  原題はカトルズ・ジュイエ、七月十四日である。つまりフランスの革命記念日の祝日をいうのだが、これを「巴里祭」と訳したのはみごとで、いまは日本でこの日を一般に(現在はカナにして)パリ祭という。  しかし、この訳名を誰が考えたか、東宝東和映画でも、よくわかっていない。  ついでにいうが、もちろん、七月十四日を旗日にしているのは、パリだけではない。         □  映画の訳名で、もうひとつうまいのは「昼下《ひるさが》りの情事」、はじめ「午後の恋」と直訳していたのを、この題はどうだろうと提案したのは、東京新聞の映画記者だったという。  外国映画の題名に、まるっきり違う字を当てる例が多く、「望郷」「旅情」「哀愁」「慕情」がそれだ。また訳としては正しい場合でも、漢語や雅語を使ったのが、大正以降すくなくない。ローレライが「美人郷」、昭和のはじめには「煩悩《ぼんのう》」「痴人哀楽」なんて題のアメリカ映画もあった。         □  一般の訳語にしても、いま何げなく使っている言葉も、誰かの工夫で定着したわけで、いわば読み人知らずだが、出典をしらべるとおもしろい。  映画は、以前は活動写真で、明治二十九年の神戸・又新《ゆうしん》日報の記事の中に出たのが最初といわれ、これをひろめたのは、東京日日新聞の創始者、福地桜痴といわれている。  映画のほうは、ぼくもよく知っている劇評家の本山|荻舟《てきしゆう》が、自分の造語だと書いているが、それ以前に幻燈のことをそう呼んでいたらしい。会社名も日|活《ヽ》から大|映《ヽ》になった。         □  アイルランド民謡の「夏の名ごりのバラ」は里見|義《ただし》作詞の「菊」となった。そして一般には、歌い出しの歌詞から「庭の千草」と呼ばれる。  イギリス民謡の「ホーム・スイート・ホーム」のホームを家庭と訳したのは福沢諭吉で、「埴生《はにゆう》の宿」の作詞者は里見義である。         □  広田栄太郎氏の「近代訳語考」に教えられたのだが、哲学は西|周《あまね》、社会は福地桜痴、生存競争は加藤弘之、人格は井上哲次郎、雑誌は柳河春三、民法は津田真道のそれぞれ造語。  郵便は前島|密《ひそか》だが、葉書、切手、為替と、やさしい表現を選択したのは功績である。封筒という言葉以前の状袋《じようぶくろ》も、のこしておきたかったが、もう文房具屋でも通用しない。         □  銀行、保険は中国から来た言葉。逆に、労働組合が中国に輸出された。  ハネムーンの蜜月は直訳で和製。だがキスを接吻《せつぷん》としたのは、中国の十九世紀末の聖書だそうで、日本では尾崎紅葉が「風流京人形」に使ったのが、明治二十一年である。         □  山本嘉次郎監督の実父が、親子どんぶりを発明したという話で、鳥肉と卵だから親子、肉が牛か豚になると、他人《たにん》どんぶりという。これは関西で使う言葉である。  サトウハチローが、山本にいった。 「へえ、カジさんは、親子どんぶりの子かい」 「二十四の瞳」の映画で、大石先生が修学旅行の時、前に教えた女の子の奉公している食堂にゆく場面があり、その少女が口汚くののしられた直後、「他人どんぶり一丁」というカットに感心したのを、おぼえている。         □  藤浦洸がしみじみといっていた。 「明治にできた日本語に、うまいのがあるね。万年筆に、魔法瓶。それから、乳母車」  みんな、命名者は不詳である。         □  祇園祭にちなんで、京都の話を八つ。  新島襄が同志社を京都に作る時、御所の北の地所を斡旋《あつせん》したのは、旧会津藩士の京都府顧問山本覚馬で、薩摩屋敷のあった場所である。  すると、神官や僧侶が、キリスト教の学校の設置に猛反対。やむなく、開校はみとめるが校内では聖書の講義をしないことにして、創立が許された。明治八年の十一月である。新島はしかし動じなかった。近所の廃屋を修理し、そこで聖書を読むことにした。 「ここを三十番教室といおう。私が教壇に立てば、そこが学校だ」         □  高山樗牛の代表作に「滝口入道」があるが、この作者は、山形県鶴岡の人で、京都に行ったことがなかった。  大学文科に在学中、同級生の姉崎嘲風が京都の人なので、地図をひろげて、御所から嵯峨までゆく道筋、沿道の風景の説明を聞いただけで、この小説を書いた。  樗牛の京都は、空想の所産である。         □  銀閣寺の疏水に沿って、桜の並木がある。画家の橋本関雪が、大正十一年に三百本の苗木を植えたのが育ったものだ。  関雪が夫人と散歩している時、桜の木の皮が剥がれていたり、枝が折れたりしていると、あたふたと帰宅し、納屋から縄を持ち出して、その木を補強しに駆け戻ったという話が伝わっている。         □  東海道線で、初代市川猿翁と偶然同乗した若いジャーナリストが、「どちらへ」と尋ねると、「京都の恋人に会いにゆくんです。ご一緒にいかがです」と誘う。  好奇心もあり、いそいそついてゆくと、車で大原の三千院につれて行かれた。そして、大和ずわりの阿弥陀様の前で合掌、隣に立っていた青年にいった。「これが私の恋人」         □  井上八千代さんを、ある用件で訪問したことがある。前もって連絡し、時間をきめて新門前の家にゆく。  玄関をせっせと掃除している女性がいたが、その動作のみごとなのにおどろき、しつけがさすがにゆき届いていると思って、刺《し》を通じようとして、ヒョイと顔を見たら、それが八千代さんだった。         □ 「風流|懺法《せんぽう》」という小説を書いた高浜虚子に、「追羽子や油のやうな京言葉」という句がある。  もうひとつ、「田楽と初子《はつこ》のほかに望みなし」というのがあって、これは祇園の名妓と呼ばれた初子に贈った句である。  京都のある席で、この俳句の話が出た時、そばにいた少女が、「その短冊うちにありますえ」というので、何となくみんなが沈黙して、顔を見合わせたが、よく事情を聞いて納得した。  初子さんの家から出ている舞妓であった。         □  木村伊兵衛がスイスの友人を案内して、裏千家を訪れた。お点前《てまえ》が終わると夜になっており、露地の両側に、適当な間隔で置かれたぼんぼりの灯が、打ち水に映えて、何とも美しい。  二人の写真家は感心して、外に出て、車に乗った。そして、思わず同時に叫んだ。 「しまった、撮影するのを忘れてしまった」         □  もう二十年も前になるが、台風のあと間もない時に、大原の寂光院に行った。塀が無残に倒れている。  庵主が小さな声でいった。 「あいにく塀がこわれておりまして、はずかしい。何や帯がとけているようどすわ」         □  一九一二年七月三十日に、明治が終わる。当時の日本人は、天皇の死を、自分たちの時代の終焉《しゆうえん》と感じる心持ちがつよかったようである。  夏目漱石の「こゝろ」は、そういう国民感情をふまえて書かれた。そういえば、この作家の一番著名な写真は、諒闇《りようあん》(天皇の喪)の最中らしく、黒い腕章をつけている。         □ 「降る雪や明治は遠くなりにけり」は、中村草田男氏の句。「や」と「けり」、切れ字二つの異例の句だが、誰も気にしないし、誰の句であるかも知らずに、ことわざのように、今や流布している。  草田男氏がいる宴席で、芸者が「明治は遠くっていうじゃありませんか」と、作者に教えたという話を、ぼくはNHKの「朝の訪問」のインタビュアーとして、聞いた。         □  明治という年号を企業名にした例は、明治生命、明治製菓(製糖・乳業)、明治屋、明治書院、明治物産、明治図書出版。  学校で明治大学、明治学院。  固有名詞で、おもだったものを挙げても、こんなにあるが、大正の大正琴、大正えび、大正デモクラシーというふうには、熟語になっていない。         □  犬山の名所の明治村は、明治に建てられたさまざまの建物を移築して、永久保存する日本でも珍しい記念施設である。  昭和三十九年開設、初代村長に推挙された徳川夢声がはにかみながら、「長になったのははじめてです」といった。  山高帽に紋付という姿で開村式に出席した夢声は、鏡に自分をうつしてみて、つぶやいた。 「われながら、御木本真珠王そっくりだ」         □  明治という文字を題名にした芝居がある。 「明治一代女」は、花井お梅を描いた川口松太郎氏の作。むろん、西鶴の小説から借りた表現だが、おそらく、あれこれ思案したりせず、ズバリきめた題だろうと思う。 「明治の雪」は、北條秀司氏の作で、樋口一葉が女主人公。 「明治の柩《ひつぎ》」は、宮本研氏の作。田中正造を書いている。三編とも、実在のモデルがいるわけだ。         □  学生のころ、祖父の家に行っていたら、来客があった。その会話が、隣室にいたので、きこえてくる。 「ほほう、先生は慶応ですか。私は明治です。大先輩ですね」と客がいった。  何となくトンチンカンだと思っていたが、考えて、わかった。出身校の話ではなく、生まれた年の話をしていたのである。         □  明治十八年九月、木村熊二がキリスト教主義教育を意図して、麹町下六番町に開いたのが、明治女学校である。創立者夫妻の没後、巌本善治が経営に当たり、新鮮な校風が全国的にみとめられていたが、二十九年に火災で焼けた。三十年に巣鴨で再興、四十一年十二月に廃校になった。  火事は二月五日。十日に校主巌本の妻、筆名若松|賤子《しずこ》が病死して、同情が集まった。この女性は「小公子」の訳者である。         □  喜昇座というかつての小芝居が、久松座から千歳座と、経営者がかわるたびに改称、明治二十六年十一月に、初代市川左団次が座主になって開場した時に、明治座と称して、今日に至る。  この劇場は戦前から、東京の大劇場の中で新派の本拠になっていた。  花柳章太郎の家は柳橋にあったので、散歩しながら楽屋入りができると喜んでいたが、晩年、原宿に移転した。いわく、「明治座が遠くなりにけり」。         □  女流文学者の賞に、田村俊子賞というのがある。瀬戸内晴美さんが評伝を書いた作家だが、筆名ははじめ佐藤露英といった。露英の露は、師事した幸田|露伴《ろはん》から一字もらったのである。  露伴は昭和二十二年七月三十日、市川市菅野の仮寓で長逝した。八十二歳。本名は成行《しげゆき》。号の露伴は、はじめて世に問うた「露団々《つゆだんだん》」の露からとった。この作家は、はかない露が好きであった。         □  八人兄弟だったが、兄に千島に行った郡司成忠大尉、弟に西洋史の幸田成友博士、妹にピアニスト幸田延、バイオリンの安藤幸子という人々がいて、みごとな家系である。  ひとり娘が幸田|文《あや》さんである。文さんが婚家の商用で街に出ている時、朝日新聞社の電光ニュースを見ていたら、コウダロハンという字が現れたので、変事かと胸がつぶれそうになった。しかし、それは最初の文化勲章をこの作家が受賞するという報道だった。         □  露伴は、中国古代の学者のことでも、日本の昔の武将のことでも、町内に住んでいて見聞したように、その事跡を語り、風貌を語ることができたといわれる。  釣や将棋の話になると、とめどもなく、その蓄積を披露して倦《う》まなかった。  何でも貪欲《どんよく》に知ろうとして、街道を歩いていて、雑草を噛んでみたりしたという。  松脂《まつやに》がどんな味であるかも、試してみたと語った。「甘くないものだとわかっていたので、史書を読んでいる時、元が朝鮮に松脂で砂糖を作れ、作れなければ船を作れといったのが、難題を持ちかけたのだとすぐわかった」と話したあとで、ちょっと顔を赤らめて、露伴はいった。 「じつはあとで、甘い松脂もあったがね」         □  露伴は刀をかなり持っていた。氷雨《ひさめ》という銘のあるのを愛し、庭でよく振っていたという。所蔵品の中に、清水次郎長のズボン差しという刀もあった。         □  子供は知らない言葉を、大人に聞きたがる。  文さんが、新聞を配達する若者がしゃべっていた言葉を父に尋ねて、「ねえ、バンダイヅラって何のこと」というと、露伴は答えた。「おれみてえなのさ」         □  露伴は外国映画や、ルパン、ホームズも好きだった。「新青年」も愛読した。  ポーの「渦巻」の話を文さんとしている時、「万一のために教えておく。渦は藁《わら》一本でも縦にまきこむものだが、もし渦に巻かれそうになったら体をえびのように曲げればいい、底まで行った時の衝撃もすくないし、底を蹴って浮き上がることができる」といった。  たまたま、その翌日、文さんは女子学院の帰りに、吾妻橋で一銭蒸汽に乗ろうとして水に落ちたが、前日聞いていたので、あわてなかったと語っている。  そういうのを、つまり庭訓《ていきん》というのであろう。         □  露伴が斎藤茂吉と対談しているのが、活字に残っているが、おもしろい話がたくさんあって、何回読んでも楽しい。  その中に、ぼくを喜ばせる話がある。名力士といわれた横綱の梅ヶ谷(藤太郎・二代目)が水交社に行って相撲をとった時、握力計というものがあり、「関取の力をこれではからせてくれ」というのを、キッパリことわった。「こんな機械で力を調べられるのはいやだ」というわけだ。しかし、そこにいた貴顕(露伴の表現)があんまりいうので、プリプリしながら、梅ヶ谷が握ったら、機械がこわれてしまったというのだ。  なぜぼくが喜ぶかといえば、この話をしたあとで、露伴がこういうからである。 「ちょっといい話でしょう」 [#地付き]〈八 月〉  昭和十二年八月二十日に、産児制限論を説いたマーガレット・サンガー女史が来日した。  すぐできたのが、「子はサンガーのミステーク」。         □ 「全国民総ざんげ」という表現を、東久邇《ひがしくに》首相が記者会見で言明したのが、昭和二十年八月二十八日。それが「一億一心」という戦争中の標語と合成されて、「一億総ざんげ」ができた。大宅壮一が昭和三十年に発明したのが「一億総白痴化」。  三國一朗氏によると、テレビで「何でもやりまショー」の司会をしていたころだったとある。司会している身として、身につまされて、そう思ったのだろうが、特定の番組をあげていったのではない。  昭和三十六年の秋、NHKがイタリア歌劇団を招聘《しようへい》した時、演目のひとつに「アイーダ」があった。凱旋《がいせん》の場面に、どうしても本物の馬を出したいというので、やっと一頭借りて来たが、本番で音楽を聞いておどろくといけない。  そこで、馴れさせるため、毎日オペラのレコードを聞かせることにした。  坂本朝一氏がNHKの会長の時、この話をして「馬の耳にオペラでした」。         □  京都の大文字《だいもんじ》という行事は、毎年八月十六日(旧暦の送り盆)に行われる。近ごろ、大文字焼きという人が増えたが、ただしくは大文字。  これは盂蘭盆《うらぼん》の送り火を、山の上で焚《た》くわけで、午後八時から時間をすこしずつあけて、「大文字」「妙法」「船形《ふながた》」「左大文字」「鳥居形」と点火してゆく。  ほかの日に点火したケースが、何回かある。明治二十三年四月八日の琵琶湖疏水完成の時、三十八年六月一日の日本海海戦勝利の直後、同年十一月二十五日の東郷元帥凱旋の日に「大文字」を焚いた。  また、大正天皇即位式の時に「左大文字」の上を一画増やして、「天」にして焚いたという話が残っている。  一昨年の春だった。京都にいて朝刊を見ると、前夜「大文字」が突然点火されたので市民がおどろいたが、調べたら、学生が懐中電灯を持って大ぜいで登山し、一斉に点灯したのだったとある。軽犯罪にもならないので、不問に付したと書いてあったが、その時、四条の辺でうろうろしていたのに、見そこなって惜しいことをしたと、今でも残念に思っている。         □ 「日本のいちばん長い日」はベストセラーで、映画化もされた。じつは|日本の《ヽヽヽ》というのだから原典があり、第二次大戦の時の連合軍によるノルマンディ上陸を書いた本である。その映画は「史上最大の作戦」として封切られた。  その長い日が昭和二十年八月十五日なのはいうまでもない。このすこし前に、憲兵隊の拘置から解放され、癰《よう》をわずらって大磯で床についている吉田茂を、国民服を着た近衛文麿が見舞っている。  近衛は吉田の顔を見るなり、大声で「憲兵はいないだろうな」といった。吉田は「回想十年」の中で、この話を書き、「さすが摂政関白であった」といっている。         □  徳富蘇峰はその時、八十三歳。降伏反対の演説会を八月二十日に日比谷で開くことをきめていたが、十五日終戦。十八日から自分の心境を後世に残すために「頑蘇夢物語」の口述をはじめた。ずっと老蘇と称していたのを、これから頑蘇と改めることにし、戒名もこしらえた。「百敗院泡沫頑蘇居士」というのである。  しかし、十二年のちに病没したあと、葬儀は赤坂霊南坂教会で挙行されたから、この戒名は正式には用いられなかった。         □  八月十七日に、鎌倉の養生院で、島木健作が死んだ。胸部疾患であった。  終戦になるらしいということを、数日前に川端康成から聞き、「これからやり直しだ」とつぶやいていたという。  やっと自由に何でも書ける時代が来たのを知りながら、再起できなかったのだ。         □  もうひとり、自由主義者として清廉な外交評論家の清沢|洌《きよし》が、その年の五月二十一日、終戦を知らずに肺炎で死んでいる。  九年後に刊行された「暗黒日記」の序文に、馬場恒吾は、もうすこし生きていてもらいたかったという意味の文章を書いて、痛恨している。  その日記は一般の日記帳三冊と大学ノート二冊に丹念に書かれ、筆写すると四百字詰二千五百枚ほどの量があった。  この日記、近衛文麿とも親しかった清沢が耳にした、いわゆる極秘の情報だの、いろいろな人物の談片を書きとめていて、永井荷風の日記と同じような興味がある。  たとえば正宗白鳥が、戦争を楽観している作家と会った直後、清沢に「文士はダメだ。文士の会にでるのは嫌だ」といったとか、中野正剛が「イギリスは強敵だよ、カイゼルもナポレオンもやられたんだから」といったとか、緒方竹虎がその中野の自殺した直後に「サラブレッドはきたない馬小屋につながれると、やがて自分で死ぬそうだ」といったとか。         □  清沢の日記のあとをうけたような、長與善郎の日記。昭和二十年八月ソ連参戦後の十日から、二十一年十月二十一日までの分が「遅過ぎた日記」として、朝日文化手帖に、上下二冊収録されている。  終戦の日、長與は書いている。 「日本も思ったほど馬鹿ではなかったとみえる。まだ忠臣賢臣もいたのだ」「でかした鈴木(貫太郎)」         □  戦争末期には、こんな混乱もあった。小泉タエさん(信三博士次女)は、海軍の軍令部が疎開していた御殿場の分室につとめていたが、この役所には何の連絡もなく、八月十五日は予定通り出張のため外出した。  ところが、背負っていた袋に「軍令部」と書いてあるので、群衆が情報を聞きたがる。終戦をそういう人々から逆に教えられ、急いで分室に引っ返したというのである。         □  昭和三十七年八月八日に没した柳田国男は、日本民俗学を樹立した大学者だが、その前に詩人であった。文体では泉鏡花に影響されたといっているが、若き日の交友には、自然主義系統の作家が多い。  新劇の公演は明治四十二年の自由劇場が最初だが、柳田は、その母胎ともいうべきイプセン会のメンバーに加わっていて、脚本の合評にも参加している。  明治三十五年の「太陽」に、紀行文「伊勢の海」を松岡梁北の名で書いた。松岡は実家の旧姓、梁北はヤナキタである。  柳田姓は、ヤナギ|タ《ヽ》と濁らないのが正しいのだそうである。         □  その「伊勢の海」を読んで、南から日本に流れ着く実に思いを托した詩が、島崎藤村の「椰子の実」で、大中寅二が作曲、ラジオ歌謡で広く知られた。伊良湖崎《いらござき》には、詩碑が立っているが、柳田国男は晩年に、「海上の道」という論文を書いた。         □  岡書院の社長であった岡茂雄氏の回想記に、「本屋風情《ほんやふぜい》」という本がある。めずらしい題名だが、柳田国男が機嫌のわるい時に、会食した席にいた岡氏を「本屋風情が」といったのを、おぼえていて使った由。  序文に「柳田先生を記念して」。         □  柳田は大正二年、紀州田辺にいた南方熊楠《みなかたくまくす》を訪問した。  南方はそれを喜んだのだが、照れ屋なので、柳田の宿屋に来て大酒を飲み、翌朝|掻巻《かいまき》のふとんを頭から被《かぶ》って、袖口から声を出して柳田と話したということになっている。         □  折口|信夫《しのぶ》は、柳田が編集していた「郷土研究」に投書していた。柳田は、その名前を、匿名《とくめい》だと信じていた。オリクチにシノんでいるという意味の筆名だと思ったのである。         □ 「演芸画報」の写真を見ながら、折口がぼくにいった。「この羽左衛門(十五代目)は、柳田先生に似ている。やっぱり、いい顔なんだね、先生は」  しかし、その役は「黒手組助六」の権九郎という三枚目の番頭だった。もっとも、そういう役の顔だから、似て見えたともいえる。与三郎では、そういうわけにはゆかない。         □  柳田国男の成城の家の書斎には、文字通り万巻の書が、整理されて棚にならんでいた。その本に囲まれた中央の、いちだん高くなった床の椅子にかけている碩学《せきがく》がぼくにこういった。 「人間なんて、一生かかっても、そんなに本は読めるものではない」         □  長谷川如是閑の家が空襲で焼け、どこに住もうかと思っていると、柳田が「成城に来ませんか」とすすめた。  如是閑が「寒くありませんか」と訊くと、柳田がいった。「寒いといっても、手ぬぐいが棒になるようなことはない」  如是閑が嘆じていった。「民俗学者って、おもしろいことをいうものだな」         □  柳田国男は夜眠れない時、天井の格子を碁盤に見立てて、連珠の手を考えたり、鉄道の駅名を順々に思い出したりしたという。あるいは、五ケタの数字を漠然と思いついて、足したり引いたりしてみることもした。「これが胸算用というんだ」         □  田山花袋の小説「妻」は、柳田家にむこ入りする松岡国男の縁談を材料にして書かれた。  青春の日の柳田は、抒情的な、美しい詩を書いている。岩野泡鳴は「消極風可憐美」と評し、日夏耿之介《ひなつこうのすけ》は「真実の純情の美」とほめた。         □  阿波おどりの月なので、徳島にかかわりのある話を、いくつか書く。  小泉八雲のあとに、日本に永住し、日本の女性を愛したので有名なのは、ポルトガル人モラエスだろう。  ぼくの学生時代に、「およねと小春」という花野富蔵氏の翻訳が出て、よく売れた本だった。  ヴェンセズラウ・ジョゼ・デ・ソーザ・モラエスは、生物学者で作家で、海軍の軍人である。マカオから来日して、大阪松島の芸者福本よねが気に入り、身受けして神戸領事時代十一年同棲した。  お米《よね》の死後その郷里徳島にゆき、お米の姪の斎藤小春と数年同棲、大正五年小春が死んでからは、昭和四年まで、ひとりでこの町にさびしく生き続けた。徳島は、リスボンに似た都市だという説は、いい話である。  ついでに書くが、古典劇では、お米は「伊賀越道中双六」の沼津、小春は「心中|天網島《てんのあみじま》」に出て来る美女で、阿波は人形|浄瑠璃《じようるり》の本場である。女の親が、そういう名前をとって娘に名づけたと空想してみるのも、楽しい。         □  徳島出身の武原はんさんは、地唄舞の名手である。昭和五十四年百七歳で死んだ彫刻家の平櫛|田中《でんちゆう》は、百になっても材料を買いつけ、まだ制作を続けるといっていたが、このおはんさんを彫るつもりだったそうだ。  田中の彫った「鏡獅子」は、六代目尾上菊五郎をモデルにした大作で、いま国立劇場のロビーにある。アトリエで、六代目が裸で、後仕手《のちして》のポーズをとっている写真は、じつにみごとな印画で、名優の芸の迫力が伝わって来る。         □  武原はんさんが、鎌倉の久保田万太郎の家で、阿波おどりのひとこまを、立って演じて見せた。手と足を同じ方に出す、ナンパというおどり方を説明する時に、そうしたわけだが、おもしろかったのは、地唄舞の時のように、きびしく端正な表情で構えて見せた阿波おどりだったということである。         □  宇野千代さんが、阿波の人形師天狗久の本を書いたのを、戦争中読んだ。最近は、「青山二郎の話」を読んだ。  武原はんさんが青山二郎と結婚していたとはっきり書いてある。  青山二郎は後輩を鍛えた。鑑賞眼に長じている達人で、「青山学院」と呼ばれるグループの中心人物だったという。  装本をよくしたが、最初に意匠して表紙をつけたのは、自分の借金帳であった。         □  淡路島にも人形浄瑠璃があり、人形師がいる。阿波から移入され、いくぶん変化しているわけだが、いつぞやこの島にゆくと、徳島県とのあいだの鳴門海峡に面して福良という港町があり、その町から東にのびる松並木の街道は、阿波の殿様が江戸に参勤交代で往復する道だと説明された。  アワジ島は、すると、阿波路島を語源と考えていいのかも知れない。         □  徳島出身の作家に、瀬戸内晴美さんがいる。仏門に入って、寂聴という。  まだ髪をおろす前の瀬戸内さんの家に、京都へ行っては泊めてもらったのが、唐十郎氏の状況劇場のメンバーであった。朝出発する時に、劇団員が家の前に整列して挨拶するのは壮観だったそうだ。  瀬戸内さんがいった。「アングラの人たちって、礼儀が正しいんですよ」         □  八年前に中国にいった時、瀬戸内さんも一緒だった。夜行の寝台車で、瀬戸内さんがぼくの上段に寝てくれた。軽々と柱を伝わって、寝台をよじのぼるので、目を見はっていたら、この作家は、いかにもうれしそうにいった。 「私、むかし陸上競技の選手でしたのよ」 [#地付き]〈九 月〉  里見※[#「弓+享」]氏の長編小説「多情仏心」の最後は、主人公藤代信之の死ぬ場面であるが、そのとき大正十二年九月一日の朝になっていたと、さりげなく書かれているのが、大きな効果になっている。  残暑のきびしい日がこれからはじまり、午前十一時五十八分、大地震が関東地方一円を襲うのである。信之がそれを知らずに死ぬということに、一種の感動さえあるのだが、この作品は前年から大正十二年のくれまで時事新報に連載され、その間に大震災があったわけだ。         □  九月二日に山本権兵衛の第二次内閣が発足、最初の閣議は、官邸の庭で行われた。 「『地震加藤』の舞台のようだ」と書いた雑誌記事がある。  復興という言葉が固定したのは、この時からで、復興院という役所が生まれ、その年の春まで東京市長だった後藤新平が、総裁に就任、都市計画を根本的にたて直そうとした。市長時代に立案しかけていた施策を、たまたま具体化できたわけだが、じつは構想のスケールの半分も実行できなかった。 「大風呂敷」という綽名で、ジャーナリズムが呼んだ。二十二年後の空襲の時に、再び思い当たるまで、後藤の評価はおくれた。         □  ぼくの持っている珍品に、大正十二年の年末に売り出された「大正震災かるた」というのがある。「月の屋案・川端龍子画」のいろはかるたで、|い《ヽ》が「いのちからがら故郷へ」。以下罹災者の経験をよみこんでいるのだが、こんなかるたができたのも、国全体からいうと、局地的な災害だったからであろう。  少々のんきすぎる気も、しないではない。         □  震災で銀座や浅草や上野が焼けたので、焼けなかった新宿が東京一のさかり場になった。それにつぐのが、牛込の神楽坂と麻布十番。その十番の映画館を改造して、五代目歌右衛門が出演するにあたり、松竹はあわてて「麻布明治座」と改称した。         □  七代目幸四郎の父、藤間勘翁は、安政の大地震を知っていたので、すぐ人力車に夜具と手まわりの品と米味噌を積み、二重橋前の広場に行った。まだ一組の家族しかいなかった。         □  永井荷風の麻布市兵衛町の偏奇館は、難を免かれた。九月一日の夜は河原崎長十郎一家が来て、庭先で露宿している。十日のちに、二組の家族がこの家に仮寓するが、今村という家の孫娘のお栄の魅力を、「断腸亭日乗」の九月二十三日のところに、筆をきわめて記し、「俄《にわか》に美しき妹か、又はわかき恋人をかくまひしが如き心地せられ、野心|漸《ようや》く勃然《ぼつぜん》たり」。荷風、もっとも四十五歳である。         □  上六番町の家で、震災を体験した泉鏡花が翌日書いた「露宿」という文章は、描写の巧妙、登場する実在人物の姿を活写して、みごとな記録であり、小説でもある。  久保田万太郎が親子三人で庭先に出現する部分が、ことに、おもしろい。         □  西條八十は地震の時、淀橋柏木の家の近くの理髪店で髪を刈っていた。家には老母と幼い女の子二人がいて無事だった。池袋に入院している夫人を見舞い、月島の兄の家の安否を問うためにその方角に向かったが、結局上野の山内で、多くの避難者と夜をあかした。  その夜、不安にかられている群衆の心を、一人の少年が吹いたハーモニカの旋律がしずめたのを見て、八十が歌謡に目を向けることになる。  以前、八十は不忍池畔の上野倶楽部というアパートを仕事部屋にしていた。 「赤い鳥」に発表した「(唄を忘れた)かなりや」も、そこで書かれた。そのあとに、この童謡の自筆の歌碑が立っている。昭和三十五年に建てられた。         □  九月十三日は乃木忌。大正元年のこの日、明治天皇の霊柩車|発引《はついん》の時間に、自刃した乃木希典夫妻の命日である。  保存されているその家の横を赤坂一ツ木のほうに坂が下り、これを乃木坂という。地下鉄の千代田線の駅名にもなっている。全国的にも、個人の姓から出た地名が駅になっている例は、めずらしい。         □  殉死という封建武士道の古例を実行して、大正以降、偉人といわれ、神に祀《まつ》られた。旅順の二百三高地攻略の作戦は失敗だと、近年の史家や作家がハッキリ書いているが、何となく人気のあった将軍である。 「リクグンノ ノギサンガ ガイセンス スズメ メジロ ロシヤ(以下略)」の尻《しり》とりは、明治四十年代の子供は、みな知っていた。  顔も親しみやすかったのかも知れない。死の当日大礼服で撮った記念写真が、そのまま昭和十二年から朱色の二銭切手(葉書用)になり、終戦まであったので、現在四十代以上の日本人ならば、しじゅう見た顔である。(封書の四銭切手が緑の東郷元帥の顔だった)  今はすたれた百面相という芸にも、乃木大将というのがあって、ほとんどの芸人が演じた。ヒゲをつけ軍帽をかぶって、失敬をするだけですむのであった。 「乃木に似し祖父コスモスの庭にあり」という今村寛二の句がある。         □  乃木式という言葉が、大正時代に使われた。質実剛健、あるいは禁欲といった道徳的な生活を意味する。  しかし、乃木は若い時には大酒で乱酔もしたし、遊里にも行っている。いわゆる話せない朴念仁《ぼくねんじん》ではなかった。  長男の勝典が人の家に泊めてもらい、朝洗面の時に湯を供されたので、辞退して水にしてもらったと、帰宅して得々と報告したら、「人の好意を無にするものじゃない」と叱られたそうである。         □  晩年、イギリス国王の戴冠《たいかん》式に東郷と二人で使節として派遣される時に、カバンをこしらえた。気を利かしてカバン屋が K.Nogi という字を入れて届けた。  副官が、「閣下はマレスケ。キテンではない。新しく作り直すように」といっているのを聞いて、乃木がいった。 「どっちだっていいじゃないか、キテンを利かせろ」         □  二百三高地とは、海抜二百三メートルのロシア陣地で、ここを攻めるのに大きな犠牲を払った。爾霊山《にれいさん》と字をあてたのが乃木である。  以後、ひさしを出した束髪のヘアスタイルを二百三高地というようにもなった。         □  アメリカの従軍記者スタンリー・ウォシュバンに「乃木」という本がある。乃木には鬼のような非情と、部下を泣かせる人情があって、二重人格者だと評し、「ジキルとハイド」だと書いている。  ウォシュバンがほかの記者とちがって乃木から親しまれたのは、将軍のアキレス腱《けん》を見ぬいていたためで、彼は乃木の詩を読んでは、こんなふうにいった。 「この詩はシェークスピア、これはテニソンに似てます」  松居|松翁《しようおう》の「乃木大将」が二代目市川左団次によって演じられた時、幕外に出てウォシュバンの本を引用したナレーションをしゃべったのが、門弟の市川荒次郎である。         □  ステッセルから贈られた白アラブ馬の子が、乃木が院長をしていた学習院にいた。「えだ」という名だったが、「朶」と書く。乃木をつめたのである。  乃木の愛馬が口を利く芝居が「しみじみ日本 乃木大将」。井上ひさしの作で、小沢昭一の芸能座が昭和五十四年に上演した。         □  明治三十五年九月十九日、正岡子規没。三十六歳。その忌日は一代の俳人だから、歳時記の例句も多い。子規忌のほかに、辞世(痰一斗|糸瓜《へちま》の水も間に合はず)から糸瓜忌、獺祭忌《だつさいき》ともいう。これは中国伝説でカワウソが自分の祭に捕った魚を並べたように、本が散らかっている書屋の主だという子規の別号からの名称であった。         □  子規は日記に、食べることをしじゅう書いた。「仰臥漫録」に、明治三十四年十月一日、親子丼(飯ノ上ニ鶏肉ト卵ト海苔トヲカケタリ)とある。  子規の歌集「竹乃里歌」の中には、戯れに作った歌がすくなくない。  画家中村不折の住所を、門人の芳雨が尋ねたのに対して答えた歌に、「折れ曲り折れまがりたる路地の奥に折れずといへる画師は住みける」。         □  明治十七年、十八歳の時の随録「筆まかせ」の中に、ベースボールを紹介した記述がある。 「すべて九の数にて組み立てたるもの」で、九人ずつで勝負も九度、ピッチャー(横文字で書いてある)の投げるボールも九度を限りとする、とある。九十七年前のノートである。  野球の歌の自筆が、後楽園の野球博物館に展示されている。         □  昭和十四年九月七日、鉛筆の走り書き「露草や赤のまんまもなつかしき」を絶筆にして病没した泉鏡花は、好悪《こうお》がはげしかった。雷と犬が嫌い、病気がこわいのですべて煮ないと食べられない、グラグラと煮えるような燗をして酒をのむ。「泉燗《いずみかん》」といわれた。         □  里見※[#「弓+享」]さんの著書「私の一日」の中に、鏡花に文章の批評をされた話が出ている。公園の大砲の描写で、「あの大砲には夜露がおりてない」、待合の夏の座ぶとんの描写では、「ひやりとしない」といわれたという。  二葉亭四迷のロシアの小説の訳文に、足場の上にいる職人が、下にいる友達に呼びかけて、「どうだった? 女は、コーカサスの」とあるのをほめて、鏡花はこういったという。 「普通の順序では、言葉が足場の高みから、下の往来まで、声が落ちてゆきませんよ」         □  慶応義塾の図書館に、鏡花の遺品、自筆原稿、著書、蔵書が寄贈されたが、その中に、横山大観が裏の白羽二重に梅と雀と水仙を描いた黒紋付の羽織がある。  正月、尾崎紅葉の家に年賀にゆく時、鏡花はこの羽織をふろしきに包み、門の前で着て来たのと着かえ、帰りにまた門外でぬいで包んだ。         □  明治元年九月十九日に水戸で生まれた横山大観は、十四歳の時、床屋に行ったら、「ちぢれっ毛だね」といわれたので、以後八十九歳で死ぬまで、二度とよそでは髪を刈らなかった。二カ月に一度、夫人が刈り、外遊した時は、同行の菱田春草が、ハサミを入れた。         □  大観は酒を愛した。壮年期は一升酒、晩年でも一日四合はかかさなかった。菜食で、特にゴボウが好きで、美術学校時代には綽名にゴボウといわれた。  独特な風貌で、髪は黒々とし、眼光が光っていたが、その大観の顔を知らぬ人間もいたと見える。大正十二年、院展に四・一メートルという長さの「生々流転《せいせいるてん》」を出品した時、大観の前で、大声で連れにこういった男がいた。 「絵はまずいが、狙いはいいね」         □  西郷隆盛が西南戦争で死ぬのは、明治十年九月二十四日であるが、その年の八月に、東の空を見あげると、毎夜八時ごろに光る星があらわれ、「千里鏡」(望遠鏡)で見ると、大礼服の西郷陸軍大将が右手に新政厚徳の旗を持ち、馬にまたがっている姿が見えるという噂が流れていた、と伝えられる。  これがいわゆる「西郷星」で、錦絵まで売り出された。         □  まだ生きているうちからそうだったのだから、その人気は、西郷の死を信じたくないという形で、生きてロシアに行ったという話ができる。源義経がジンギスカンになったという伝説と同じパターンである。  ある男がペテルブルグ(今のレニングラード)の町で、軍隊の調練を行っている西郷に会ったという話が、いちばん痛快である。  西郷さんではありませんかと声をかけると、こう答えたというのだ。 「左様でごわす。ここで不自由もしてはおらんが、ロシアではフンドシを売っていないので困り申《も》す」         □  明治二十四年、ロシアの皇太子ニコライ親王が来日、大津で巡査津田三蔵に狙撃されて負傷する。  この事件は、皇太子とともに、西郷が桐野利秋らの幕僚を従えて日本に帰って来るという噂を耳にした津田が逆上したのだという説がある。津田は西南戦争に従軍していた。  この生存説について、北辰新聞は、読者の世論調査を企画した。         □  西郷隆盛の銅像は高村光雲の作で、明治二十六年に計画され、三十一年十二月十八日に除幕式が行われている。今も上野の山にあるあの銅像だが、猟に行く平服で犬を連れている庶民的な姿にしたのは大山巌の案であった。  イタリア独立の志士ガリバルディの銅像から思いついたのである。         □  西郷の銅像ができた時に、遺族たちは「ちっとも似ていない」といったと、樺山資紀(発起人代表)が語っている。  彰義隊の墓に背中を向けているという批判もあった。西郷の銅像がどこを見ているのだという話がすぐできたが、「世界を見ているのだ」という。気宇壮大を意味するのではない。世界というのは、銅像の視線の方角にある、じつは牛肉店の店名なのだ。  昭和十五年、いわゆる皇紀二千六百年を記念して、正倉院|御物《ぎよぶつ》がはじめて東京に運ばれ展覧会が催された。行列が博物館入口から延々と、この銅像のあたりまでのびた。 「銅像のところがサイゴ」と、新聞がシャレを書いた。         □  九代目市川団十郎が、明治十一年二月の新富座で、さっそく西郷劇を演じている。作者は河竹黙阿弥で、本外題《ほんげだい》は「西南雲晴朝東風」。オキゲノクモハラウアサゴチと読むのだが、文字だけ見ると、天気予報のようだ。  前月の興行に、予告編として、登場人物に扮した役者が無言劇を一幕見せた。「西郷のだんまり」というのだが、宣伝も利いたし、事変直後のきわものだったため、大当たりだった。団十郎は、これから南洲にあやかって、三升という俳名《はいみよう》のほかに、団洲と称することになる。         □  西郷の芝居はその後、岡木綺堂(城山の月)、山本有三(西郷と大久保)、真山青果(江戸城総攻)などが書いたが、異色なのは、池田大伍の「西郷と豚姫」で、若き日の西郷が京都の料亭の仲居と恋をする話である。相手も大女というのがおもしろい。  大男と大女が別れを悲しみながら、おむすびを食べる。東儀鉄笛主演で無名会初演の時は、女が川田芳子で「豚姫」ではないので、不本意ながら、「西郷とお玉」として、舞台にのせた。 [#地付き]〈十 月〉  国勢調査がはじめて行われたのは、大正九年十月一日で、以後、本調査を十年に一度行うことになっており、いつも期日は同じである。  この十月一日はまた大東京祭で、都の役所や公立学校は休むが、昭和七年のこの日、明治十一年以来の東京十五区を、郊外の郡部を合併して三十五区にした。         □  昔その十五区をきめる時に、委員会の席で候補名をあげたにちがいないが、まず江戸で朱引《しゆびき》といわれた円の中で、こんな地名を拾って行ったと想像される。 「芝《ヽ》で生まれて神田《ヽヽ》で育ち」(俗謡) 「下谷《ヽヽ》上野の山かつら」(尻とり) 「お江戸|日本橋《ヽヽヽ》七つ立ち」(俗謡) 「四谷《ヽヽ》ではじめて会うたとき」(新内) 「本郷《ヽヽ》もかねやすまでは江戸の内」(川柳) 「本所《ヽヽ》に蚊がなくなればお正月」(同) 「おん京|京橋《ヽヽ》なんなん中橋」(まり唄) 「ぬしは麻布《ヽヽ》で気が知れぬ」(口碑)  戦後、昭和二十二年に、三十五区を改めて二十二区にした。         □  三十五区の大東京ができた時、歌舞伎座に岡本綺堂が「東京の昔話」という新作を書きおろし、二代目市川左団次が松の家露八という旧幕臣の幇間《ほうかん》にふんした。  同じ月、松竹少女歌劇が報知新聞公募脚本入選作の「大東京」を演じ、女優名を地名にちなんでつけた。日暮里子《ひぐれさとこ》、渋谷正代、江戸川蘭子、三田早苗、並木路子。新派にやがて移る竹内京子は、大東京子といった。         □  以前、電話局に地名がついていた時代がある。交換手に、たとえば「四谷の六四一九」というふうに申し込むわけである。  俳優座が昭和二十七年に上演した「現代の英雄」(福田恆存作)は、登場人物の名前をすべて、電話局の姓にしていたのが、おもしろかった。小沢栄太郎の浪花梅吉、中村美代子の赤坂蝶子、永井智雄の茅場正吾、楠田薫の高輪貴志子といったたぐいである。  電電公社の社史には、のっていない。         □  三十五区を二十二区にする時、大森と蒲田を合併して大田区にしたり、芝、赤坂、麻布を港区にしたり、ずいぶん無理な命名があった。町名をさっさと廃止するのと同じで、東京の地名に愛着を持たない役人の独断がおもしろくないので、どうせ新設する区名なら、もっと下世話《げせわ》にしたらどうだろうと、東京新聞に「千夜一夜」を書き続けていた須田栄氏と雑談した問答がノートに書いてある。そのまま写す。 「目黒さんま区」「王子は稲荷区」「それなら、麹町の猿(落語の「廏火事」)区はどうです」「それは無理だ(笑)」「深川が、芸者の羽織区」「本所の置いて区というのはどう?」「………」「七不思議に置いてけ堀というのがある(笑)」  麻布はといって「連隊区」というのが出たところでやめた。このシャレは、昭和二十年以後に生まれた人には、わからないだろう。         □  若い映画人と話していて、「さんまは目黒にかぎる」といったら、大まじめで彼はいった。 「いまは、ラブホテルは目黒にかぎるというんです」         □  三島由紀夫の「肉体の学校」の中に、中年の女性を「豊島園《としまえん》」と綽名で呼ぶ個所がある。豊島区は、年増区ということになるか。  練馬は大根区にすればいいとも話していたのだが、雨宮恒之氏が、東宝の演劇担当重役のころ発見したデータによると、日本俳優協会の会員に、練馬区に住んでいる人は、いなかったそうである。         □  秋七題。  双葉山(のちの時津風)は、大分県中津の在、天津村の出身で、本名を龝吉定次《あきよしさだじ》という。名字の「龝」は珍しい字で、読めない人が多いはずだが、歌舞伎の世界にいる者は、すぐわかるのだ。 「千秋楽」という時に、芝居のほうでは、「千穐楽」とするからである。江戸時代に劇場の火災が多く、焼けると興行は中止され、関係者が生活に窮する。だから火をおそれて、秋のツクリの火を忌んだのである。字源を見ると、「穐」のツクリが、もっと字画の多い正字になっており、「秋の本字」と記している。  文字といえば、サンマはふつう秋刀魚と書く。刀のような形をした秋の魚だからである。  夏目漱石は、三馬と書いた。         □  昭和五十五年九月に没した河上徹太郎は、心やさしい人であった。  古谷綱武氏がある日、その家を訪ねて手洗にゆくと、朝顔と俗称する便器に鈴虫がいる。河上にそれを話すと、ニッコリ笑って、こういった。 「うん、だから、ぼくは、きょうは朝から庭で小便しているんだ」         □ 「白玉の歯にしみとほる秋の夜の酒はしづかに飲むべかりけり」の若山牧水は、「私は酒豪ではありません。旅先で私に下さるなら、いつもの晩酌の三合で結構です。もしかしたら、もう一本添えてくださってもいいのです」と書いている。  かけつけ四合というわけである。         □  昭和十五年に発表された真船豊の戯曲「十三夜の明月」には、三つの筆名を持つ作家が登場する。三つの筆名といえば、昭和十年、三十五歳の若さで急逝した牧逸馬(現代小説)、林不忘(時代小説)、谷譲次(外国種の小説)を思い出す。  真船のこの作品が雑誌にのった時、いきなり久保田万太郎がいった。 「読んでないけど、これはいけません」 「なぜですか」と尋ねたら、「十三夜の明月なんて季題はありません」。         □  明治四十一年の秋、岡本綺堂は、ひとりで伊豆の修善寺に遊んだ。  頼家の墓を詣で、土地の古老から話を聞いているうちに、不遇な将軍の死を史劇に書こうと思いつき、滞在中に構想をまとめて帰京、翌年三月に「修禅寺物語」一幕三場を脱稿した。  しかし、この戯曲が「文芸倶楽部」にのったのは四十四年一月で、その年の五月に、ようやく二代目市川左団次一座で初演された。  ちょっと考えられないことだが、綺堂の名作が二年近く、書斎の箱にはいったまま眠っていたのである。         □  昭和五十五年五月の歌舞伎座で、「四季」というおどりが出た。梅幸が秋の章で、夫の帰りを待つ妻が砧《きぬた》を打ちながら悲しむ場景を演じた。  梅幸がふと気がついた。この部分は、作者の九條武子の私生活が反映していたのだ。  武子の夫である男爵九條|良致《よしむね》はロンドンから妻を帰国させ、そのまま十年戻らなかった。         □  終戦後、占領時代のNHKのラジオに「日曜娯楽版」という番組があった。  グレッタント・グループという執筆陣の一人だったぼくは、コントの台本をいくつか書いたが、「秋の言語学」というのがあり、夫婦の会話を挿入したのをおぼえている。  こういうのである。割にうけた。  夫「秋だねえ」妻(しみじみと)「あきたわねえ」         □  十月十日は体育の日として、いまは国民の祝日になっている。昭和三十九年のこの日、東京オリンピックが開会式を挙げた。  日本で運動競技会が最初に行われたのは明治七年で、三月二十一日に築地の海軍兵学寮で開催されている。  この時は、競陣遊戯会という名称であった。イギリス人の教官ダグラスが教えたアスレティック・スポーツを、こう訳したのである。         □  石井研堂の「明治事物起原」には、海軍卿の勝海舟の許可を得て行われた当日のプログラムが掲げられているが、ひとつひとつの競技につけた名前がむずかしい。  たとえば十二歳以下の生徒に百五十ヤード走らせるのを「雀雛出巣」(すずめのすだち)、二人三脚を「狂蝶趁花」(ちょうのはなおい)、幅跳びを「文魚閃浪」(とびうおのなみきり)というので、中華料理の品目あるいは麻雀の役のようである。  その後、体操共進会と呼んだ例もあるが、運動会という名称が定着したのは明治二十年代で、同時に、学校の運動会が興行的な色彩を持ちすぎていると批判の声が、すでに出ている。  子供が歌った「梅干の歌」という俗謡があって、その中で、「運動会にもついてゆく」とある。いかにも、明治の日本である。  日の丸弁当という言葉があった。         □  北海道で札幌農学校のアメリカ人の教官が教えたアイススケートが、内地に移入されたのは明治三十年代だが、さかんだったのは信州の諏訪湖だった。  土地の男女が凍結した湖上ですべったのは、諏訪式軽便スケート下駄というのである。鋼鉄製で、いかにも日本人好みの用具になっていたようだが、この話をしていた古老がひと言つけ加えた。 「もともと、諏訪という所は、ノコギリ鍛冶の多いところですからな」  諏訪の歌人島木赤彦は、四十一年に早くもスケートの歌を作っている。 [#2字下げ]高照れるアークの下にさむざむにスケート人《びと》の数かぞふべし [#2字下げ]須波人《すわびと》は馴れて遊べや沖遠き氷の上に月にすべれり         □  スポーツ小説というのは、昔の少年雑誌にのったものだが、スポーツを背景にした青春小説としては、田中|英光《ひでみつ》の「オリンポスの果実」が傑出している。  昭和七年の夏、ロサンゼルスのオリンピックに早大クルーの一員として参加した作者が、知り合った走高跳の相良八重に寄せた愛情を描いたもので、はじめは「杏の実」という題であった。         □  女優の一の宮あつ子さんは、女学校時代、陸上の選手だったという。  健康な姿がポスターに写され、それがキッカケで芸能界にはいった。何年前かということについては、ふれずにおく。         □  福島県の二本松の駅をおりたら、掲示に、「安達原 黒塚 三百メートル」と書いてあった。その話、三田純市氏にいきおいこんでして、「とにかくあの黒塚が三百メートルの所にあるんだから」といったら、即座に「グリコですな」。  いうまでもなく、現在も生きている江崎商会のキャッチフレーズである。  ランニング姿の少年が、両手をあげてゴールのテープを切る瞬間をえがいたポスターに、「一粒三百メートル」として栄養価を宣伝したのだが、この距離がいかにも手ごろである。  大正広告史で、「カルピスは初恋の味」「クスリはホシ」とともに、三大PR文といわれる。         □ 「明治世相編年辞典」を見ると、明治十八年十月三日の横浜毎日新聞に、日本橋本石町の大野時計店が万年筆を売り出した、とある。  万年筆の語源については、丸善の万吉という店員が売り広めたから、「万吉筆」または「万さん筆」の転化だと「丸善社史」にのっているが、元東京市会議長の大岡育造が命名したという説もある。         □  明治二十年に丸善がまず売ったのは、スタイログラフィックペンというので、書く時に紙に軸先をつけると針がひっこみ、その針の周囲からインキが出る仕掛けで、今一般に使用されるファウンテンペンは三十年ごろ売り出され、はじめペン付万年筆といわれ、やがて万年筆になった。  ファウンテンペンを直訳すると泉筆だが、日本では墨汁を入れた類似品の特許がだいぶ前から出願され、二十三年に名古屋、二十四年に大阪の商人が、泉筆と称する別の商品を扱っている。         □  明治四十五年に、夏目漱石が「余と万年筆」という文章を書いている。これは丸善にいた内田魯庵からもらったオノトを使って書いたのだが、このころ丸善では、多い時では一日百本売れたそうで、値段は十円から最高三百円。ペン先一銭、水筆三銭の時代に、ずいぶんぜいたくな買い物だったはずである。  漱石はペリカンを持って、「それから」と「門」を書いたらしい。ブルーブラックの印気(漱石の当て字)が嫌いで、セピアを入れたりしていた。門弟の小宮豊隆は、師匠にならって、セピアを使っていた。         □  柴田宵曲の「明治風物誌」に、万年筆を泉筆として、沼波瓊音《ぬなみけいおん》が作った俳句と歌が紹介されている。 「泉筆に水を通すや夏に入る」「泉筆の墨の出悪しくなりにけり厭《いや》な人来る兆《しるし》なるらむ」というのである。         □  明治の歌に「君が目は万年筆の仕掛にや熱き涙が流るる流るる」というのがある。  石川啄木の作である。  正岡子規のふしぎな歌を、ついでに紹介する。古歌の「年のうちに春は来にけり一年《ひととせ》を去年《こぞ》とやいはむ今年《ことし》とやいはむ」を揶揄《やゆ》したもので「日本人と西洋人とのあいの子を日本人とやいはむ西洋人とやいはむ」         □  昭和五十三年に玉川一郎が書きおろした「泉筆・万年ペン・万年筆」は、貴重な文献で、しかも万年筆のコレクターだった著者のこの文房具に対する執着がノロケのように示されていて、おもしろい。  その中にアメリカ人が「丸善の(アテナ)インキは宛名しか書けません」と、日本語でシャレをいったという話が出ている。         □  串田孫一氏の家にこそ泥がはいったが、被害は三本の万年筆と、飲みかけの煙草の箱だった。「泥棒の訓練場として、私の仕事場が選ばれたような気がした」と、氏は「文房具」という本に書いている。         □  新橋の常磐津の名手といわれた小時が、酒席でメモに万年筆で字を書いていた。久保田万太郎がいった。 「万年筆を持った芸者がサマになるんだ。世の中は変わったねえ」         □  きれいな万年雪、きれいとはいえない万年床。オモトという百合科の植物は、万年青と書く。  先年、小説に万年青の鉢と書いたら、誤植されて、万年筆になっていた。ぼくは雑誌社にハガキを書いた。「オモトは万年青です。万年筆はオノトです」         □  明治三十六年十月三十日に病没した尾崎紅葉の行年は、三十七歳である。  紅葉という号は、生まれた町が芝神明町だったので、目と鼻の先にある紅葉山にちなんでいる。つまり、増上寺の山号であり、のちに芝公園になった山だが、そこにできた紅葉館にも、文名高くなってからしじゅう行き、門弟の巌谷小波のロマンスがこの「クラブ制社交場」で生まれたのは、奇縁だった。         □  紅葉の実父は街の彫刻師で、谷斎《こくさい》と称したが、つるつる頭で緋ぢりめんの羽織を着て、花柳界の宴席に出入りし、幇間のようなことをしていたので、紅葉は父親について人に決して語らなかった。  しかし、女優の千歳米坡《ちとせべいは》が、紅葉に対して、意見をした。 「お父つァんのことを恥ずかしがるなんて、とんでもない、牙彫《げぼり》の職人だけで、息子に大学の教育が受けさせられるもんですか」         □  明治十二年五月、新富座に「高橋お伝」の芝居が出た時、法廷の場面の傍聴席に赤羽織の男がいて、劇中ふり返ったら、ほんものの谷斎だったので、見物がどっと笑った、と笹川臨風が語っている。  それだけ、広く顔を知られた名物男だったのであろう。         □  内田魯庵に、ドストエフスキーの「罪と罰」という小説のあることを教えたのが、紅葉であった。紅葉は、嵯峨の屋お室《むろ》が来て、この作品の筋を、「モグモグしながら妙な手つきをして話すのが、実におもしろかった」といった。  魯庵がこれを聞いて丸善に行ったら、三冊入荷した英訳本の一冊が残っていたので、すぐ買った。のこりの二冊は、坪内逍遙と森田思軒が買ったと店員がいった。  明治二十二年の話である。         □  青野季吉は佐渡の人であるが、この島の小木の老妓お糸が秘蔵している三味線を見ている。その裏皮には、紅葉がおけさの文句「来いちゃ来いちゃで二度だまされた、またも来いちゃでだます気か」と書いている。  紅葉は、濃茶《こいちや》が好きだった。         □  紅葉が硯友社で出していた「我楽多文庫」で、西洋の疑問符(?)について解説をしている。そして、この記号の由来に三説あり、Aは耳の形、Bは耳掻の形、Cはわらびの形と述べている。         □  紅葉の小説に挿絵を描いた武内桂舟は硯友社グループでは先輩格で、その四番町の家に紅葉が行っては書斎で原稿を書いたりしていたが、話に夢中になり、結局、三行しか書けないというようなことがよくあった。  桂舟がからかった。「折角来たのに三行か、君は来三行《らいさんぎよう》だな」(頼山陽のもじりである。念のため)         □  明治三十四年一月八日の夜、牛込の吉熊で、硯友社の新年宴会があり、泥酔した小栗風葉が桂舟につかみかかり、制止した師匠の紅葉にまで、むしゃぶりついた。  紅葉はその時、声を放って嘆き、慰めている芸者小ゑんの膝に泣き崩れたという。 「十千万《とちまん》堂日録」に「風葉狂酔して一場の波瀾を生ぜり」と書いてある。         □  紅葉の遺影と全く同じポーズをわざととって写した写真が、喜多村緑郎にある。ある時、雑誌に、それが誤って「紅葉山人」として掲載されたことがあり、喜多村は喜んだ。しかし泉鏡花は、苦い顔をした。  鏡花の「婦系図《おんなけいず》」の酒井先生が、紅葉をモデルにしているのは、あまりにも著名である。 [#地付き]〈十 一 月〉  十一月七日は、ソヴィエト・ロシアの革命記念日である。  この日を誕生日にしている作家が二人いて、一人は久保田万太郎(明治二十二年)、もう一人は北條秀司氏(明治三十五年)である。 「私はこう見えても、ロシアの革命の日に生まれたんです」と得意そうに万太郎がいった時、そばにいた女性が、「でも、先生の文学と、ロシアの革命と、ずいぶん、ふんい気がちがいますね」と応じた。  万太郎が憮然《ぶぜん》として、つぶやいた。 「だって、向こうのほうが、あとじゃないか」         □  久保田万太郎の還暦を祝う会が、昭和二十四年の十一月に三越劇場で催された。  そのころ、万太郎は君子夫人と再婚した直後で、「鈴ヶ森」の白井権八に扮した。幡随院長兵衛は、やはり十一月生まれ(明治二十四年十一月二十三日)の久米正雄であった。  駕《かご》の中から権八に声をかけるセリフで、久米が「お若えの」といってから、ちょっと黙ってしまったので、絶句したのかと思ったら、ニッコリ笑って続けた。 「いやさ、お若えのを最近もらったお人、お待ちなせえやし」         □  久米正雄の話で、とてもいいのがある。  艶子夫人がピアノを買って、練習していた。久米が、「せっかくのピアノなんだから、うまく弾けるようになってくれ」といったが、一向にほめてくれない。  旅行をして帰って来た久米に、夫人が「きいてください」といって、ピアノの部屋で、レコードをかけた。コルトーの演奏するショパンであった。  それを聴いていた久米が、隣の部屋からはいって来た夫人にいった。 「大分上達したようだね。しかし、レッスンは続けたほうがいいな」         □  安井曾太郎の肖像画の中でも、F夫人像は広く知られている。これは福島繁太郎(昭和三十五年十一月十日没)の夫人慶子を描いたのである。  慶子夫人が、夫について書いた「うちの宿六」は、じつにおもしろい本で、文藝春秋から刊行されたが、珍談奇談がいろいろ出て来る。  福島コレクションの所有主だったから、絵が好きなのは当然だが、あるとき寝ていると、湯たんぽが熱いので、やけどでもするのではないかと思って、福島が大声でさけんだ。 「おいユトリロが熱すぎる、何とかしてくれ」         □  北原白秋(昭和十七年十一月二日没)は、水都柳川の造り酒屋の子に生まれた。その処女詩集「邪宗門」は、百円で自費出版されたが、一応、定価をつけて書店で販売された。  この本が出た明治四十二年、白秋より四歳年下の室生犀星は、金沢の在、金石町《かないわちよう》の裁判所につとめ、八円の月給だったが、一円五十銭の「邪宗門」を金沢市の本屋で買い求め、金石に帰ると、得意になって、それを小脇に抱いて町を歩きまわっていた。  犀星が回想して、こう書いている。 「何だってあいつは、菓子折を抱えてうろついているんだろう、と思われたらしい」         □  北原白秋作詞、山田耕筰作曲というのは、横綱がガップリ四つに組んだ相撲のようなものだが、「赤い鳥」にのった「からたちの花」は、一節ごとにメロディがすこしちがっている。  標準語のアクセントを正しくふまえて、作曲しているからだ。何でもないようでいて、これは尊敬すべき姿勢だったのである。         □  大正二年十一月二十二日、徳川|慶喜《よしのぶ》が七十七歳で病没した。当時の新聞を見ると、死を報じた記事に、発病から永眠のすこし前にたまご酒を口に入れたことまで書かれているし、葬儀についても、じつにくわしい報道が行われ、東京人の最後の将軍に対する感情が、そうしたニュースを求めていたのがわかる。 「新聞集録大正史」で知ったのだが、三十日午後一時に挙行された葬儀は、神式であるという理由で、ゆかりの深い寛永寺から葬場の提供をことわられ、上野公園図書館脇の広場で行うことになった。  住職の大照大僧正の談話があって、「残念ながら天台宗の本山で、祭壇に生魚を供えられては困りますので」。         □  慶喜の伝記は、渋沢栄一が書いた。渋沢の伝記は、幸田露伴が書いている。 「伝は大正六年に成り、慶喜は同二年に薨《こう》じたが、伝成って後慶喜は永き生命を得た観がある。渋沢栄一は徳川慶喜によって世に出たのであるが、栄一が慶喜に対したのは、実に始あり終あるものであった」         □  一橋家のころから慶喜に仕えた渋沢は、静岡から東京に再び出て来た慶喜から、回想を聴く談話会を催した。「昔夢会《せきむかい》」というこの集まりの筆記の一部が、東洋文庫に収められているが、一座の者が慶喜を「御前《ごぜん》」と呼んでいる。  慶喜はよく話した。才気煥発だった。後藤象二郎と小松|帯刀《たてわき》という、したたか者が幕末に謁見して、その論鋒に威圧された話は、伊藤痴遊が伝えている。  写真を見ても聡明さが知れるが、洋服姿も、不似合いではない。幕臣川村清雄によると、慶喜は油絵を描いた。鉄砲、投網、謡曲もうまく、将軍になる前、京都では西洋馬具で打毬《だきゆう》をしたという。タイツにモールの飾りの上着をつけた写真を見ていると、メヌエットぐらい、踊りそうだ。  早くから豚肉を食べたので、「豚一《ぶたいち》」(一は一橋の一)と綽名された慶喜は、つまりスマートな人物だったのである。         □  司馬遼太郎氏が「最後の将軍」に書き、渋沢の正伝にも出ている話だが、少年のころ、慶喜は寝相《ねぞう》を正しくするために、顔の両側に内側に刃を向けた刀を置いて眠ったというのである。こんな育ち方をした将軍は、ほかにないだろう。         □  明治三十一年三月二日、慶喜は、はじめて参内した。この日、余人をまじえず、寝殿で天皇皇后に拝謁、皇后は慶喜の杯に、手ずから酒をすすめた。  この皇后(のちの昭憲皇太后)は一條忠香の御息女、慶喜正室美賀子も忠香を養父としているので、近親のよしみもあったのだろう。         □  慶喜を書いた劇は、真山青果の「将軍江戸を去る」ただひとつ。寛永寺大慈院ののちに恭順の間といわれる一室で書見している姿を、二代目市川左団次が初演した。  青果は、その本を「宋臣言行録」と指定している。  青果はこの戯曲を書いた時、小石川第六天に住んでいた。慶喜が晩年に住んだ屋敷と同町内である。         □  高浜虚子が旧藩主の久松家に俳句の指導に行った日、藩主の実父の慶喜が来ていて、会食の時、「先生、一つお酌しましょう」といった。松山の低い士分の池内庄四郎を父としている虚子は、この日、蕪村の「牡丹切つて気の衰へし夕哉《ゆうべかな》」という句に感動を示した慶喜の姿とともに、自分の感慨をこめて、「十五代将軍」というみごとな短編を書いている。  慶喜を弔問した日、虚子の作った句は、 [#2字下げ]鐘|冴《さ》ゆる第六天をもどりけり         □  武者小路実篤が、人間はお互いに助け合って働くべきであるという信念にもとづき、「新しき村」を作ろうとしたのが、大正七年三十三歳の時で、その年の十一月十四日に、宮崎県|児湯《こゆ》郡|木城《きじよう》村に四町歩あまりの土地を買い、家を一戸建てた。  昭和四十三年、この村が五十年経ったのを記念して、立派な記念の本ができた。         □ 「白樺」には、この武者小路実篤、志賀直哉という、対照的な作家がいて、親友だった。  志賀は神経質で、木の枝の先にたまった露まで気になるという性格であった。  それに反して、武者小路のほうは、天衣無縫の無頓着である。  志賀が書いている。「武者(と呼んでいる)は、私をいつも、反省させる」         □  武者小路は、歩きながら、話している相手を押して、道の片方に寄ってゆく癖があった。歩き方もうまくなく、泥の道をゆくと、裾《すそ》にいつもハネを上げていた。  ある時、歩いていて、着ている羽織が肩からぬげてしまったが、考えごとをしていたので、しばらく行ってから気がつき、戻って行ったら、道の上に、羽織が長々と寝そべっていた。         □  明快で、単純な表現で書かれた武者小路の作品は、小説も戯曲も読みやすい。  劇の場合は、ナイーブなので、出ている人がみんな善人に見える。その「息子の結婚」を劇団民藝が上演したが、米倉|斉加年《まさかね》が父親の役で出ていて、こういった。 「はじめ、どこがおもしろいのかと思っていたんですが、稽古《けいこ》にはいったら、何だか、ポカポカと暖かになったようで、たのしくて仕方がありません」  戦争中に「三笑」を書きおろしたが、滝沢修の主演した芝居を見て感激した安藤鶴夫は劇評に、こう書いた。 「よい人間になりたくて仕方なかった」         □  武者小路が「忠臣蔵」を劇として書いた。「木竜忠臣蔵」というのだ。  まちがえて「モグラ忠臣蔵」と読んだ人がいたが、モグラは土竜である。作者は笑って答えた。「これは、僕流忠臣蔵ということだよ」         □  三宅周太郎が、何をしても許される人が三人いた、といった。 「トルストイ、十五代目羽左衛門、そして武者小路実篤」         □  明治製菓の宣伝部で出していた「スヰート」という雑誌の表紙を依頼にゆく使者を命ぜられ、部長の前で、取次の人に何というかのリハーサルをさせられて、井の頭の近くの武者小路家に行った。  ところが、ベルを押したら、三和土《たたき》に足袋《たび》のまま下りて戸を明けたのが、武者小路だったので、ぼくは絶句した。         □  昭和二十一年ごろ、その家の近くの公園の中で、武者小路は、アメリカ兵に襲われて、金をとられた。  新聞記者がコメントを求めたら、 「あんまり愉快ではないが、しかし、向こうにも、事情があるのだろう」         □  串田孫一氏が、銀座の植物について調べようと思い、京橋のたもとで、アカザにウドンゲがついているのを発見したので、虫めがねで見ていた。  すると、大男が近寄って、笑顔で尋ねた。 「何をしているの? おもしろい?」  武者小路実篤であった。         □  昭和十五年十一月二十四日、九十二歳で没した最後の元老、西園寺公望《さいおんじきんもち》は伝記も数冊あり、逸話も数多く残っている。  堂上貴族で、明治のはじめ、パリ・コミューンのころのフランスに留学した新人で、帰国して東洋自由新聞という進歩的な新聞の社長になったというだけでも、異色だった。政界の策士といわれ、本名が策太郎の小泉|三申《さんしん》に口述した自伝の中で、パリの女との交渉をあけすけに書いているのも、おもしろい。         □  明治元年、西園寺は山陰道鎮撫総督に命ぜられ、烏帽子直垂《えぼしひたたれ》で馬に乗って丹波に出た。この時、官軍の錦の旗をかついで同行したのが、西郷隆盛からあずかった力士花の峰とその弟子たちである。  翌年フランス語を習うため長崎に行っていた西園寺の所に、京都からちょうど巡業にゆく花の峰に二百両をあずけて、届けさせたが、この力士がその金を全部使ってしまった。  花の蜂が坊主になるといって詫びると、西園寺がいった。「お前の坊主頭を見たってはじまらない。それよりも、金をあずけたほうが、いけない」         □  パリで親しくつきあった光妙寺三郎の遺子が築地小劇場にいた。のちに築地座の名脇役者といわれた東屋《あずまや》三郎で、その父の死後、西園寺があずかっていた。  岸輝子さんはこの俳優と結婚したが、東屋は昭和十年五月大阪の巡演先で倒れた。病院の費用も葬儀費も、西園寺家がすべて引き受けたと、岸さんは著書「夢のきりぬき」に書いている。  東屋が中学生になった時から、公爵家では食膳に銚子を一本つけたこと、西園寺が待合に行く時、よく連れてゆかれたということも同じ本に書いてある。         □  西園寺家の家紋はひだり巴《ともえ》である。  まだ若い時だが、西園寺が柳橋の芸者数名に、巴の紋のついた着物を与えると、その中の一人が大喜びをしていった。 「私の旦那が二人とも、巴の紋なんです」         □  西園寺の養子八郎は、毛利家から来ている。縁組の話の時に、八郎がいった。「ぼくなんかが行ったら、あの家をつぶしてしまうかも知れないよ」  これを聞いた時、西園寺は、「ぜひその男を所望したくなった」といっている。         □  大森にいた壮年期の西園寺が、森ヶ崎の海岸のよしず張りの茶屋で唐詩選を読んでいた。夏の単衣《ひとえ》に袴をはいている姿を見て、そのへんにいた若者が、「商人のくせにむずかしい本を見ている」と噂をしている所に、夏のフロックコートを着た伊藤博文が来たので、みんなびっくりしたそうだ。  そういえば、西園寺の顔は、京都の商家のご隠居といった感じがある。余談だが、自伝を筆録した三申は、三代目柳家小さんと、うり二つであった。         □  伊藤博文のあとを受けて、政友会の総裁になり、大会で演説をする時、西園寺は白いリンネルのフロックコートを着て登壇した。 「インドに来ているイギリス人が夏着るものを着ただけです。ほんとは赤のネクタイをしたかった」         □  新聞の見出しでは、西園寺を園公としていた。これがエンコウなのか、オンコウなのか、結局誰も読むだけで発音はしない文字である。  雅号としては、陶庵、竹軒、不読というのがある。生をとじた興津の家は、坐漁《ざぎよ》荘。太公望とは関係なく、渡辺千冬が柳下原の文から思いついて、西園寺にすすめた呼び名であった。 [#地付き]〈十 二 月〉  金銭について。  大蔵省から、現在使われている高額紙幣の意匠が変更されるという発表があった。一万円が福沢諭吉、五千円が新渡戸稲造、千円が夏目漱石になるのである。  翌日のテレビや新聞で「わが輩は千円札である」といった人が三人いた。 「一万円の上に札を作らず」といった人が二人いた。いずれも平凡だが、「むかしイノシシというお札があったが、こんどはネコか」といったのが、まァ秀逸か。         □  漱石の門下、内田百※[#「門がまえ+月」]の号は、郷里岡山の川の名から来ているのだが、あまり金を借りる話ばかり書いたので、「シャッキンの語呂合わせのヒャッケン」だという誤説が流布した。         □  文学座が、宮本研氏の脚本で「金色夜叉《こんじきやしや》」を上演したが、この原典が尾崎紅葉の最後の未完小説であるのは、有名である。  ロマンスの主人公である明治の一高生、間《はざま》貫一が、恋人のお宮の心変わりで人生観を変え、高利貸になるというのは、発表されたころとしては、大変新しい作意で、モリエールやゾラを愛読した作者でなくてはという気がする。  紅葉はまた、モリエールの「守銭奴《しゆせんど》」を翻案して、「夏小袖」という喜劇を書いている。 「もらうものなら夏でも小袖」というケチに徹した主人公が五郎右衛門という。  高利貸を明治の言葉でアイスといった。氷菓子(アイスクリーム)のシャレで、「金色夜叉」の貫一がすでに使っている。  月賦をラムネというたぐいの流行語である。         □  三越落語会の演目をたのまれて作った時、歳末なので「金《かね》」にちなんで「芝浜」とか「夢金」とか「にらみ返し」とかを並べた。  劇場から電話がかかって、「おかげ様で、五十人の団体があり、券は売り切れました」という。 「どういう団体ですか」と尋ねたら、「銀行でございます」         □  NHKの東京落語会に、「金がかたき」という新作を書いたことがある。  金のあり余る国で小判を捨てにゆく話だが、三笑亭夢楽さんが演じてくれた。思いついて、楽屋に入船堂の小判形のせんべいを届けたら、趣向を喜んでくれ、マクラにそのことをいって、「戸板先生も、しゃれた方で」とつぶやく。悪い気持ではなかった。  たまたま聴いていた友人がぼくにいった。 「あのマクラも、君が書いたのかね」         □  もう一つ私事だが、東山千栄子さんたちとヨーロッパをまわった時、毎日通貨の呼称が変わるので、閉口した。  ドイツで、冗談に、「きのうシリング、きょうマルク、あすはフランじゃないかいな」というと、東山さんがまじめな顔をして「もう一度おっしゃってください」というから、くり返した。すると、まじまじとぼくを見つめながら、「アアコリャコリャってところで、ございますね」。         □  昭和三十三年十二月七日に没した正岡|容《いるる》は、演芸評論家の先駆で、落語と浪曲に特にくわしかったが、奇人でもあった。  小学生の時、同級の生徒からライオンと綽名で呼ばれていたというので、蛇《じや》は寸にしてのたとえの通り、少年にしてすでに毒舌家だったのかと思ったら、そうではなかった。  ライオン歯磨の社長の令嬢で、年上の女学生がガールフレンドだったからだという。  その弟子である劇作家の大西信行氏が伝記を書いているが、正岡は六年生のころ、昼休みに無断で学校をぬけ出して、その令嬢に、電報で恋文を打ちに行ったとある。         □  詩人の岩佐東一郎の家で、正岡が北林透馬と飲んでいた。大西氏も同席していたそうだが、北林が「いつも和服を着ているのはなぜかね、ぼくなんか帯がとけたら困ると思うんだが」と尋ねた時、正岡が立ち上がって、帯をといた。  そして「こんなものが結べないのか」といいながら、角帯をもう一度結ぼうとしても、なかなか結べない。  大西氏をふり返って正岡がいった。 「すまないけど、結んでおくれ」  落語の「蟇《がま》の油」のサゲのようで、何ともおかしい。         □  昭和四十六年十二月十二日、七十九歳で病没した桂文楽は、近年の落語界の名人で、同じ演目を、いつもキチンと寸分たがわぬ呼吸《いき》と間《ま》で話すというのが定評であった。  最後の高座は、八月三十一日、国立小劇場の落語研究会の「大仏餅」だった。  その前の日も、東横寄席の円朝祭でおなじ噺をしているのだが、この日は演じている最中に、セリフがどうしても思い出せずに、絶句してしまった。  文楽は「申し訳ありません。もう一度勉強しなおしてまいります」といって、深深と頭を下げると、舞台から退場した。  弟子の小勇が、泣きながら、いった。 「師匠はここのところ、ズーッと、途中で噺ができなくなった時にあやまる口上を、稽古していました。高座へ出る日は、ちゃんと朝のうちに、いつも、していたんです」         □  久保田万太郎のひとり息子で劇作家の耕一が、父親よりも先に早世した。その葬儀の日に、本郷の喜福寺に文楽が来たが、なぜか、古風なフロックコートを着ていた。文楽は窮屈そうに靴を履き、緊張しきった顔で、人形が歩くような足どりで、石畳の上を進んで来る。  そのへんにいた人々が、サーッと左右にわかれて、この落語家に道をあけた。  文楽が正面をキッと見つめたまま、つぶやいていた。「では、通らせていただきます」         □  文化勲章を贈られた昭和四十四年の十二月十三日に病没した獅子文六(岩田豊雄)は食べることが大好きだった。むろん味覚が発達していたが、食通といわれると、苦い顔をした。  大阪でコメディ・フランセーズの公演を見たかえりに、たこ梅で、主人の切って出したタコを食べながら、同行した松島雄一郎氏にこういった。 「フランスの芝居を見たあとで、タコを食うなんてのもオツだね」  食味についての語録がいろいろある。 「天ぷらの時、エビ(巻海老)をまず食べる。しかし三つ四つでやめる。エビはうまいが、すこし他愛がない」 「ギンボは天ぷらになるために生まれたような魚だ」  幸子夫人が語っている。 「食事が、私には、毎日、真剣勝負でございました」         □  昭和四年十二月二十日に没した洋画家岸田|劉生《りゆうせい》は、銀座で精綺水《せいきすい》という目薬を売っていた吟香の子で、弟が辰弥といって、宝塚のグランドレビュー「モンパリ」の作者である。明治のハイカラな一族だったといえよう。  劉生の絵でいちばん有名なのは愛嬢を描いた麗子像である。鵠沼の家で、その絵をかいているところを、中川一政氏が見ている。  そばに秦夫人がずっとついているので、どうしてだろうと思ったら、母親がいないと、モデルが退屈するからだというのだった。  劉生は目が近いので、画布に顔を近づけ、腕枕で手をささえてかいている。  中川氏が「ぼくはどうしても形がとれない」というと、劉生がいった。 「ぼくもじつは形がとれないのだよ」  中川氏は、「腹の虫」という本にこの話を書き、「上には上があり、下には下がある」         □  岸田劉生は、少年時代の八代目坂東三津五郎に、浮世絵を見ることをすすめた。  劉生の「歌舞伎論」は、「演劇美論」という名著にくわしくのべられているが、劉生好みの芝居は、こういうのだといっている。 「泥絵の具のような、芸術的卑近美」         □  昭和三年十二月二十五日、日本橋茅場町の中華料理店の偕楽園で、その月、築地小劇場で上演された「晩春騒夜」の作者上田文子が、スタッフと出演者を招待した。この女性が、円地文子さんである。  その席で会食中の小山内薫が、心不全で急逝する。食事の前に遅参している女優を案じて小山内が、「道に迷いはしないかしら」といった言葉が、まことに印象的だったと、円地さんは書いている。         □  小山内が東京帝大の学生のころ、武林無想庵、吉田白甲、川田順などの仲間と七人で、「七人」という同人雑誌を作ったとき、表紙の絵を有島生馬に依頼した。  有島は苦心して、博物館でいろいろ写生、七つの表情をした仮面をとり合わせ、南天の一枝を書きそえた。  多少得意そうな気持もあって、有島が師事している藤島武二に見せに行ったら、アッサリこういわれたという。 「七つ南天というからな」         □  昭和三十一年十二月二十六日に没した演出家の青山杉作に、ある時、「稽古日数が少なくてすみませんが」と劇団の者がいうと、青山はニッコリ笑いながら、いった。 「大丈夫ですよ。時間があればある、なければないで、初日までには、まとめて見せますよ。私は商売人ですから」         □  昭和二十年のくれに、新劇合同公演の「桜の園」が上演された。最後のステージがおわった時、演出の青山杉作が、ラネーフスカヤの東山千栄子にいった。 「ふしぎなことがあるものですね、あなたでも、歌わずに芝居ができるんですね」  東山は自伝に書いている。 「二十年目に、はじめて、先生にほめられました」         □  昭和四十四年十二月二十七日に没した松竹社長大谷竹次郎は、坊さんの出る芝居が好きだという評判があった。「娘道成寺」「鳴神」「二月堂」「河内山」等々。「坊主まるもうけ」というわけでもないだろうが。  それとは直接関係ないが、歌舞伎座が、建物の感じだの、鳩がいることなどの理由で、近くの本願寺とまちがえられた。  ある月の芝居の初日に、まちがえて喪服の女性が車でのりつけた。社員がそこにいた大谷に、「いやですね、えんぎでもない」といったら、 「まァええやないか。それに私も、大谷や」         □  十二月二十五日がキリストの降誕を祝う祭りの日、クリスマスであることを知らない人はないだろう。  クリスマスを X'mas と書くことがあるが ' を入れるのは誤りである。Xはギリシャ語でクリストスと書く文字が、これではじまるからなので、略したわけではない。  福原麟太郎の直話。「いつかラジオで、エクスマスといっていたので、何だろうと思っていたら、クリスマスのことでした」         □  クリスマスはもちろん、歳時記の冬の季題であるが、例句がいちばん充実しているのは、昭和五十五年に出版された景山筍吉編「キリスト教歳時記」である。  高浜虚子の句に、「日本語の洒落《しやれ》もいふなりクリスマス」。在留何十年という宣教師であろう。         □  昭和四十五年に出版された元山玉萩編「ハワイ歳時記」は、四季の変化のない島で作られたために、季題がちがっている点がめずらしい。しかし、クリスマスはむろんある。  玉萩自身の句。「クリスマス聖樹《ツリー》飾れば島の雪を欲《ほ》り(雪がほしい)」  ホノルルでは、句会がさかんに行われるという話である。         □  久保田万太郎の俳句に、「クリスマス真つ暗な坂あがりしが」というのがある。 「この坂は小石川ですか」と尋ねたら、「どうして」と反問された。 「切支丹坂だと思ったのですが」というと、じっとぼくを見て、万太郎がいった。 「妙なことを考える人だね」         □  日本で新約聖書が完訳されたのは、明治十三年である。外人の宣教師がまず訳したのを基礎に、奥野昌綱、松山高吉、高橋五郎が協力して、労作をしあげた。  旧約のほうは、明治二十年に、プロテスタントの宣教師たちの委員会ができ、植村正久、井深梶之助といった人々が協力したが、植村の「詩篇」「イザヤ書」は、名訳として知られている。  明治につくられたこの聖書の中の多くのフレーズが、格言のような形で、知識人を経て、ジャーナリズムに流れ、日本人にも親しまれているが、口語訳になったら、すくなくともぼくの年代の者には、文学的魅力が、だいぶ減ったような気がする。         □  一方、讃美歌(いまは賛美歌と書くのだが)は、ヨーロッパやアメリカの古典的名曲のメロディを、日本人に教えた。  讃美歌がうたいたくて、教会にかようという者もいたそうで、これを「讃美歌クリスチャン」という。         □  田村隆一氏編「サンタクロースの贈物」は、推理小説でクリスマスを描いた作品を集めた本だが、日本のが七編ある。しかし、一般の小説には、クリスマスを書いた作品が、すくないようだ。  石坂洋次郎氏の「若い人」の女主人公江波恵子が、その日に間崎という教師の下宿に寄る場景を、「日本文学三六五日」の板坂元氏と、「名作365日」の槌田満文氏が、ともにあげている。唯一例なのだろう。         □  シャレをいいたがる癖が、われ人ともにないわけではないが、いつぞやラジオで、クリスマスケーキの売れ方で、その年のケイキがわかるといっていた。  伊丹十三氏がアレルギーをおこしそうなシャレが定着している。年のくれだからというわけだが、昭和のはじめから、クリスマスを「苦しみます」、サンタクロースを「さんざん苦労す」と、漫才がしゃべったりするのだ。 [#改ページ]   人物風土記 [#地付き]〈伊 勢〉 [#2字下げ]蓬莱《ほうらい》に聞かばや伊勢の初便り  新年の飾り物の伊勢海老をよみこんだ芭蕉の句であるが、ぼくはこの句だけ、長唄の節をつけて、小学生のころに、おぼえた。  そのころ、杵屋佐吉が、こういう五七五を節づけし、三味線の楽譜も作ったのである。  たまたま例句がこれで、何を例句に使ってもいいのだが、隣の家でくり返しくり返し、この蓬莱の句を、うたっていたのである。         □  徳川時代は、伊勢参りが人生の必修科目になっていて、無一文で道中を歩いていても、「お伊勢様にゆく」というと、米や銭を喜捨された。そういう慣習の一端が、真山青果の「御浜御殿」の中に出て来る。  幕末の「ええじゃないか」の集団心理も、伊勢神宮に対する庶民信仰だが、今そういう心持ちがないのに、三年前、いまヤクルトの伊勢孝夫コーチが、セ・リーグ優勝に貢献する安打を放つと、スポーツ紙は見出しに、「伊勢大明神」と書いた。         □  明治十九年に死んだ三代目中村仲蔵の「絶句帖」は、劇界珍談集というべき奇書である。その中に、東海道の旅をしている一座の子役が病気になり、「千本桜」二段目の安徳天皇に代役を立てる話がある。  小屋の前を通りかかった伊勢参りの少年をつかまえて、入水《じゆすい》の場面の御製《ぎよせい》のセリフだけ教えて、いわせた。 「今ぞ知る御裳裾川《みもすそがわ》の流れには波の下にも都ありとは」というだけだが、この少年は、日本橋の店で働いている小僧で、御製を棒読みにしたあとで「ヘン人をつけ」(馬鹿にするな)といった。「大変な帝《みかど》があったもの」と書いてある。  この話、伊勢神域の川が出て来るのが、伊勢参りと重なって、手がこんでいる。         □  明治三十七年に三十八歳で没した文人、斎藤緑雨は、仮名垣魯文の門人で、その号は、本所の緑町に住んでいたからだが、別に正直正太夫という筆名があった。  これは、伊勢の神職で、太《だい》神楽《かぐら》を奉納する家が、代々名のった通称である。歌舞伎の「伊勢音頭」では、コミカルな味のある敵役《かたきやく》になっていて、六代目菊五郎が晩年、好演した。  緑雨がこの筆名をえらんだのは、生国が伊勢の神戸《かんべ》(現在の鈴鹿市)だったからである。         □  明治十六年十月の新富座に、「伊勢音頭」が上演された時、一番目が「妹背山」であった。「妹背山」は、愛し合う男女が両親の不和で、吉野川をへだてた両岸にいて、逢われずにいる悲劇である。  この「伊勢音頭」の古市油屋の奥庭の場に、音頭をおどる踊り子の役で、東京のほうぼうの花柳界からえらばれた芸者が出演したが、男女が同じ楽屋にいては風紀上よくないという警察の干渉で、女性たちは裏に借りた家で化粧をした。そこで落首が、 [#2字下げ]楽屋まで芸者と役者妹背山         □  伊勢の松阪というと、情報化時代かつグルメ文化の広がった今日、和田金の牛肉をまず思い出す人が多いが、この町に、百八十年前に没した大学者、本居宣長《もとおりのりなが》のいた鈴屋という旧居が保存されている。  童謡「めえめえ子山羊」「青い眼の人形」「七つの子」を作曲した本居長世は、この宣長四代目の子孫である。  ぼくの師事した国文学者は折口信夫であるが、先年、井伏鱒二氏の「駅前旅館」を読んでいて、うれしくなったことがある。  井伏氏は、旅館の番頭の名前を、本居と折口にしていたのである。 [#地付き]〈富 士 山〉  初夢を「一|富士《ふじ》、二|鷹《たか》、三|茄子《なすび》」という。これは日本の三大|仇討《あだうち》だという説と、徳川家康のいた駿河の名物だという説とある。  前のほうでは、富士は曾我兄弟の夜討をさすので、歌舞伎の曾我狂言には、何かというと、遠景にこの山を描いて、舞台をかざる。  その背景とよく似た富士を、パリのオペラの舞台で見た。「蝶々夫人」の長崎の海の正面に、フジヤマが描かれていたのだ。         □  富士の裾野は、時代劇映画の撮影にしじゅう使われる。もちろん、曾我兄弟の出て来る往年のフィルムには、富士山を画面に入れようとした。  サイレント時代に、映画を早撮りするので有名な吉野二郎という監督がいて、「曾我」を快晴の日の午前中に撮りあげたが、めったにない上天気なので、もったいないと思い、午後、十郎と五郎にふんした俳優を、神崎与五郎と馬士《まご》の丑五郎にして、「東下《あずまくだ》り」を即席でこしらえた。  一日に二本、映画を作った監督として、ギネスブックに通報したい。         □  戦後、稲垣浩監督が、「戦国無頼」の長篠の合戦のモッブシーン(群衆場面)を、裾野で撮影した。馬を五百頭集めたが、そのうち三百頭は人をのせたことのない駄馬だった。  アメリカ軍の戦車隊が演習の邪魔だといって来たので、許可を受けたロケだといったら、「おお、ムービー」と叫んで、将校も兵士もすわりこんで見物、無線機まで貸してくれた。  その時、通訳をしたのが、山口淑子さんだった。         □  富士山の東南に、宝永山という突起がある。宝永四年に噴火した時にできた峰だが、小学の同級生で頭にこぶをこしらえた少年を、綽名《あだな》で「宝永山」とみんなが呼んだのをおぼえている。  ある劇場の曾我の芝居の背景に、富士山が大きく描かれ、宝永山が描いてあったそうだ。         □  昭和二十五年度ミス・ニッポンが決定した時、多くの人がつぶやいた。「名前がまずいい」  山本富士子といったからである。  この女性はやがて芸能界に入るが、初めて劇場の舞台をふんだのは、昭和二十七年十二月、京都の南座の文士劇で、「白浪五人男」勢揃いの弁天小僧を演じている。  ニッポン駄右衛門ではなかった。         □  江戸から見える大きな山が二つ。「鞘当《さやあて》」のセリフではないが、「西に富士が嶺《ね》、北には筑波」で、東京の地名には、九段と麻布に富士見町があり、日暮里に筑波台があった。その山の見える町という意味である。  銭湯《せんとう》(公衆浴場)の浴槽の正面の壁には、風景画が描かれていたが、富士山が圧倒的に多く、筑波山を描いたのを見たことがない。  筑波を見ながら、湯の中で汗をかいていると、蟇《がま》になったように見えるからではないか、と私考する。         □ 「北には筑波」のセリフをもじって北庭筑波と名のった写真師が、明治のはじめにいた。そういう仕事も芸術だから、のちの活動写真の弁士と同じように、雅号を用いたので、塙《はなわ》吉野という女性の写真師もいて、これは四代目沢村源之助(花井お梅の恋人)の姉だった。  筑波の息子が新派俳優の伊井蓉峰である。親が筑波、子が富士山(芙蓉峰)というわけ。  きわめつき二枚目の美男役者だから、「いい容貌」とつけたというのは、伝説である。 [#地付き]〈日 本 橋〉  前回の延長だが、富士見町という以外に、江戸で富士山が見えるというのでつけた町名が、日本橋の駿河町であった。  川柳の「駿河町畳の上の人通り」は、この町にあって、三越の先祖にあたる呉服商越後屋の賑わいをよんだものである。         □  日本橋の上で、奴《やっこ》が槍《やり》をふっておどる舞踊を、初演した二世関三十郎の名前をとって「関三奴《せきさんやつこ》」という。背景には、当然、富士が描かれている。  ところでこの日本橋は、慶長八年以来の歴史を持っているが、木橋なのでたびたび火事で焼けている。現在、高速道路の下になってしまった石造の橋は、明治四十四年四月三日に完成、渡りぞめの式が行われた。  橋柱に「日本橋」という字を書いたのは、世が世なら十五代将軍でいたはずの徳川慶喜だった。  渡りぞめの人数の先頭に立ったのが、本町四丁目で三代三夫婦そろっていた木村源兵衛の一族、浜町二丁目にいた当年百九歳の老女金子房、元大工町にいて当年八十九歳の老翁小筆英茂の八人であった。         □  大阪の道頓堀にも、日本橋というのがかかっているが、東京のがニホンバシなのに対して、大阪はニッポンバシ。日本橋筋一丁目を略称して、ニッポンイチという呼び方も行われている。  大阪から来ていた大学生が、東京の橋をニッポンバシというので、訂正して、くわしく説明したら、大まじめな顔でいった。 「ニホン、ニッポンと別ないい方をするのですか。共産党と社会党のようなものですね」         □  泉鏡花の「日本橋」は、劇化されて新派古典の当たり狂言である。序幕に石の橋が出て来るが、じつはこれは日本橋よりひとつ川上の一石橋《いちこくばし》である。一石という橋名は、徳川時代、両岸に向かい合って後藤という家の屋敷があったからで、つまり五斗と五斗で一石なのだ。  金座の役人をしていた後藤の子孫が、フランス文学者の後藤末雄である。         □  大正四年に「日本橋」が真山青果の脚本で初演された時、若い女形の花柳章太郎がお千世《ちせ》という半玉に扮し、それが出世役になった。昭和十三年、花柳がもう一度同じ役を演じた時、西河岸の地蔵堂に、お千世の絵姿を小村|雪岱《せつたい》に描いてもらった額を奉納、鏡花が「初蝶のまひまひ拝す御堂かな」という句を、賛した。  その額は戦災をまぬがれ、三越ロイヤル・シアター筋向こうの地蔵堂の向かって左側の壁に、今でもかかっている。         □  田山花袋は十歳の時、京橋の有倫堂という書店に奉公した。後年、本町で「太平洋」という雑誌を作った。そして丸善にかよった。花袋は「東京の三十年」に、子供の時から、日本橋を毎日渡ったと書いている。  花袋が石造の日本橋を渡ったのは、四十歳の春だったということになる。         □ 「お江戸日本橋七つ立ち 初のぼり」ではじまる東海道五十三次をよみこんだ俗謡は、エロティックな歌詞があるので、教科書にはのせられなかった。  水上瀧太郎がその全文を知るために苦労したことを「貝殻追放」に書いている。         □  いまは東急日本橋店だが、以前は白木屋。夏目漱石は「吾輩は猫である」の中で月並《つきなみ》を定義して、「中学生と白木屋の番頭を足して、二で割ったようなもの」と書いている。 [#地付き]〈土 佐〉  高知の桂浜は、月の名所で、県人で大町桂月という文人の号も、それから来ている。  この太平洋を見はるかす海岸に立っているのが、銅像の坂本竜馬である。りりしい眉をして海をにらんでいる。  桂浜の遊園地に、尾長鶏がいた。そして、闘犬の土俵もあったが、その建物の壁にルールが掲示されていた。絶対に人間の相撲ではありえない一カ条がある。いわく、「尾を垂れて股《また》にはさんだら負け」。         □  高知市の西南に佐川《さかわ》という町があり、維新の元勲でのちに宮内《くない》大臣になった県人田中光顕の蔵書を図書館にした「青山《せいざん》文庫」がある。  書庫にはいったら、故人のコレクションとして、黒岩涙香の著作がズラリと棚にならんでいた。         □  植物学者の牧野富太郎が、この佐川の出身で、記念植物園がある。この博士を、新国劇で島田正吾が演じている。作者は、池波正太郎氏であった。  おなじ町に、司牡丹《つかさぼたん》の醸造元がある。二十年前、映画史家の筈見恒夫がこの酒を土佐からもらった時、ぼくに声をかけた。なぜかあわてて彼は、こういった。「司葉子をもらったんだが、飲みに来ない?」         □  高知城の大手門のところに、藩祖山内一豊の妻の銅像がある。しとやかな姿で名馬の手綱を持って、立っている。  夫が馬を買う金に窮している時、それを助けた賢妻として、かつては淑徳の見本とされた女性である。  しかし、この話をして聞かせた先生が、女子中学生に質問されて困ったという話がある。女の子は、こう尋ねたのだ。 「それは、へそくりだったんでしょうか」         □  土佐という国名に「南国」という枕ことばを定着させたのは、ペギー葉山の歌った「南国土佐を後にして」であろう。  この歌には、よさこい節が挿入される。坊さんがカンザシを買うのを目撃された高知市の播磨屋橋の欄干《らんかん》には、カンザシがデザインされている。         □  ある年の秋、受賞した漫画家の横山泰三氏が、記者のインタビューに答えて、「私の風刺漫画は、つまりはイゴッソウです」といった。この郷土の鼻っ柱のつよい人物を呼ぶ、独特の言葉である。         □  イゴッソウを英国紳士の型で包んだのが、白足袋の宰相といわれた吉田茂である。その語録は多いが、「愛読書は銭形平次」といったのを、低俗ときめつけたのは早とちりで、チャーチルのシャーロック・ホームズの向こうを張ってみせたのである。  大磯の吉田邸の迎賓室を、「海千山千楼《うみせんやませんろう》」と命名した。  薄井恭一氏の「豆腐屋の喇叭《らつぱ》」の中に、吉田の談話があって、 「あるじがそうだというんではありませんよ。訪ねて来るやつがそうなんだ」 [#地付き]〈秋 田〉  土佐の次に、日本犬の産地として、秋田がある。ふしぎに、この県から出た劇作家が多い。水木京太、金子洋文、八木隆一郎、中山善三郎、大江良太郎、青江舜二郎、野口達二。  雪国の炉ばたで、老人の昔ばなしがさかんに行われた伝統が、会話で進行するドラマを書く作家を生んだと説く言語学者もいる。         □  酒もうまい。有名なのが「爛漫」と「両関」である。  湯沢の醸造元では、「雪国」という銘柄の酒を戦後に売り出した。川端康成の書がレッテルになっている。  東北のこり五県の酒造りが、「しまった」と口惜《くや》しがったそうだ。それほど、いい名前である。コロンブスの卵だ。         □  秋田には、年越しの夜に、鬼の面をかぶって家々をまわり、火にあたって怠けている者をいましめるという民俗行事がある。すわりダコを剥がしに来たという意味で、ナマハギと称し、その夜の鬼の姿をした若者が、男鹿《おが》半島の展望台にアルバイトで出ていて、観光客とカメラにはいったりしている。  秋田出身で美学の権威、沢木四万吉の姪が、折口信夫を訪ねて、歌人としての筆名をつけてくださいとたのむと、「生萩」と書いてくれた。雅致のある名前だと喜んでいたら、命名の理由が伝えられた。 「あんた、秋田の人だから、ナマハギ」         □  秋田に行った時、菅江真澄の墓参をした。この人は約百五十年前に没した民俗学者で、諸国の風俗のアンケートを求めたことでも名高い。東北と北海道を旅した紀行文が七十以上あるが、晩年秋田藩史を執筆、その領内で世を去った。  菅江真澄を広く紹介したのは、柳田国男である。近年、劇作家の秋元松代さんがその評伝を書いた時、故人のたどった道を、自分の足で全部歩いて踏査したという話である。  東宝映画のプロデューサーだった藤本真澄が、柳田国男の本を読んでいたので、「映画の企画にするんですか」と尋ねたら、「なに、ぼくと名前が同じだからさ」。         □  金子洋文氏が室生犀星の「あにいもうと」を脚色して、水谷八重子が二十九歳で初演した。男にすてられて、やけになり、ふしだらな生活におちこむ|もん《ヽヽ》という女に扮し、これがお嬢様女優といわれた八重子の新しい境地を開いた、画期的な作品だった。  金子氏はその舞台を回想して、「全身が光にぬれていた。私は八重子に負けたと思った」と書いている。         □  八郎潟という秋田県の入り海が、昭和二十七年に立案されてから、十二年かかって干拓され、かつて水面だった所に、大潟村《おおがたむら》という新しい村が誕生した。  その村の役場がいかにもハイカラな建物なので、理由を尋ねたら、村長が説明した。 「干拓を指導に来たオランダ人の技師が、さっさと自分の国と同じ建物を作ったのです」         □  秋田県湯沢の近く西馬音内《にしもない》の盆おどりは、男が彦三頭巾《ひこざずきん》で覆面して着流し、女は編み笠という扮装でおどる、じつにみごとなものだ。  ある年、東京から見物に行った記者が、その群舞の中に、ひときわ優雅におどる若者を発見、大したものだと舌をまいて帰京したが、あとで聞いたら、大江良太郎に連れられて来ていた、(今の)市川海老蔵であった。 [#地付き]〈紀 州〉  紀州も日本犬の産地、そして蜜柑の国である。  紀の国は、木の国が語源というが、ぼくは、蜜柑だから黄いの国だと思っていた。  和歌山藩は徳川御三家の一つ。落語の「紀州」は将軍の跡目をのぞんだ尾州侯が鍛冶屋をのぞいたら、親方が焼けた鉄を水に入れた音が「きしゅう」といったのでがっかりするという、ナンセンスだが、何となく楽しい小品である。         □  和歌山市の豪商の家の子で、慶応三年生まれ、昭和十六年に七十五歳で没した南方熊楠《みなかたくまくす》は、記憶と語学力が抜群で、底知れぬ知識を広く持っていた巨人であるが、その奇行に関する逸話は、平野威馬雄の「くまくす外伝」の中だけで、数十もある。  十歳の時から本屋で「和漢三才図会」を立ち読みしては暗記し、家に帰って写本にし、十五歳までに百五巻完成したというのが、その学的生涯のはじまりである。         □  アメリカに渡ってアルバイトをしたのが、巡業曲馬団の書記で、各国語をそういう生活のあいだにおぼえて行ったというが、南方自身、「書記といっても、サーカスの女の子に来たラブレターの返事を代作したのさ」と語っている。樋口一葉が「にごりえ」に出て来る丸山町の岡場所の女にたのまれて、手紙を代わりに書いたのとともに、いかにも無筆の多かった時代の話らしい。         □  イギリスから帰る時、素寒貧《すかんぴん》の南方のためにロンドンの大学総長が四十五ポンドを贈ったが、わざと三等船室をとり、出帆前にその金でありったけのビールを買い占め、同じ船室の仲間にふるまった。  その船が香港につくまで、すべての一等船客が、ビールを飲めなかった。         □  昭和四年、天皇が紀州田辺の神島で植物を採集された時にご案内、そのあとお召艦長門に行って御進講をした。南方熊楠は献上する粘菌類の標本を、キャラメルのボール箱に入れて、持って行った。         □  和歌山県出身の佐藤春夫は、一夜で数十枚の小説を書いたこともある。そういう才人だから、遅筆の久保田万太郎を、「あの人病気なんじゃァないか」といった。  万太郎が小説を未完にした時、改造社社長の山本実彦が苦い顔をして、「また|みかん《ヽヽヽ》船か」といったら、そこにいた春夫がいった。 「私は紀州だが、みかん船じゃァありません」         □  同じ紀州から、有吉佐和子さんが出ていて、「紀ノ川」「有田川」「華岡青洲の妻」など、郷土の題材で書いている。  帝劇に「紀ノ川」が上演され、映画と同じ司葉子が主演した。この時、ある新聞記者がいった。「これがほんとの大河ドラマですね」         □  和歌山県は御坊《ごぼう》に、能や歌舞伎で有名な「道成寺《どうじようじ》」がある。安珍《あんちん》・清姫の伝説が絵巻になって、寺宝である。小林古径の名作の原典でもある。  住職の小野宏海師が、寺の絵巻を説明する弁舌が評判で、安珍が美青年だという時の形容が、年々変わるというのをたのしみに聴きにゆく好事家《こうずか》もいるそうだ。  ぼくが行った時は、こうだった。 「安珍はいい男、ジェームス・ディーンか錦之助」 [#地付き]〈水 戸〉  梅にちなんで、水戸について書く。  水戸っぽという表現があるが、これは悪口ではなく、義公(光圀《みつくに》)、烈公(斉昭《なりあき》)を藩主にいただいたこの町に育った反骨を意味する。  水戸の地名は、いうまでもなく、天下の副将軍といわれた黄門(中納言の唐名)光圀で知られた。ことに最近では、東野英治郎が演じて、昭和四十四年以来十二年も続いたテレビドラマが、この人物を大衆に親しませた。  助《すけ》さん(佐々木助三郎)格さん(渥美格之進)という二人を従えた老公が全国を歩く架空の物語は、身分を隠してのちに本性をあらわす意外性と、珍道中記という、二つのパターンの組み合わせで、二重の効果があるわけだが、じつはこれは、講談や浪曲がさきで、無声時代の映画も人気を呼んだ。  映画の黄門に扮したのは、山本嘉一という川上音二郎一座出身の役者で、べつに乃木大将も当たり役であった。  そういえば、「乃木大将と蜆《しじみ》売り」「那須野の将軍」という講談は、あきらかに、黄門の物語の焼き直しかと思われる。         □  トラブルをみごとにさばいて、黄門がホッホッホッと笑うのは、東野の発明である。新劇俳優がこわいろの対象になったのは、水戸黄門がキッカケであろう。  東野が旅をしていると、いろいろな人から声をかけられるが、みんな、じつに低姿勢だという。光圀と会っているような気持になるのだ。  東野がちょっと入院したことがあった。それを聞いてあわてた記者が「コウモン病院ですか」と質問して叱られたという伝説がある。         □  青少年が礼儀を知らないといって、ある中学校の校長が、懇々と説諭した。次の朝礼の時、その校長がはいってゆくと、講堂の床に生徒がみんなすわって、両手をついて、深々と頭をさげたので、小言はいってみるものだと思っていると、一人が校長に小声で告げた。 「先生、水戸黄門ごっこです」         □  そういえば、松竹大船のスターとして「暖流」で好演した水戸光子(昭和五十五年没)は福島の人だが、本名関場ミツ子から芸名を考える時、水戸光圀を意識したのではないかと考える。  ルバング島に二十九年いた小野田寛郎氏があこがれたと伝えられた女優だ。         □  歌舞伎には、明治以後解禁されたので、徳川代々の将軍大名に扮する役者が出てくる。歌舞伎座初開場の演目に、黙阿弥の「黄門記」がえらばれ、九代目市川団十郎が光圀を演じて以来、岡本綺堂、大森痴雪の黄門劇があったが、ぼくはその二つを五代目中村歌右衛門と三代目中村梅玉で見た。  そのあと、宇野信夫氏の脚本で、初代中村吉右衛門が光圀に扮し、その百姓姿の扮装が、いかにもサマになっていると、一座していた六代目尾上菊五郎が評した。  しかし、そういったあと、一言つけ加えたそうだ。 「だが、水戸黄門の百姓姿は、どこかちぐはぐのほうが、いいんじゃないかね」         □  昭和六年の日活映画「侍ニッポン」は、大河内伝次郎・梅村蓉子の主演、郡司次郎正《ぐんじじろまさ》の原作によるニヒルな浪人の姿が、不況時代のふんい気を表徴していた。 「ミス」「マダム」「ミスター」と、ほかにも「ニッポン」を書いたが、「侍」だけが有名になった。主題歌がよかったせいもある。「人を斬るのが侍ならば、恋の未練がなぜ切れぬ、(略)新納鶴千代苦笑い」というのだが、二番に「水戸は二の丸三の丸」という歌詞があった。新納はシンノウでなく、ニイロと読む。 [#地付き]〈名 古 屋〉  紀州、水戸と並んだので、徳川御三家ということで、今回は名古屋の順になる。  暁星小学校の同級生に、徳川義龍という少年がいて、その父は尾州藩主十七代目の義親侯であった。  義龍氏は次男、その兄が侍従をしている義寛氏だが、級友だから、うちでその噂《うわさ》をすることがある。「徳川がこんなことをいうのさ」などという。うちにいた老女が、なげいた。「徳川がなんてね、世が世なら」         □  この義親侯は学習院に在学中、ジンマシンで苦しみ、転地療養にシンガポールに行った時、サルタンの手配してくれた計画に従って、虎狩りをしたという話が報道され、以後、「虎狩りの殿様」と呼ばれた。  その著書「最後の殿様」はおもしろい本である。サルタンが一青年のために、二十二名の兵士、二百名の勢子《せこ》、六十四頭の猟犬を用意したと書いてあるのに、おどろいた。  麻布富士見町の徳川家に遊びに行ったことがあるが、広い廊下のすみに、象の足でこしらえた屑《くず》入れがおいてあった。         □  タモリという異色のタレントが、名古屋の悪口をしきりにいうのが評判になっていたことを、永六輔氏も「オール讀物」の「七転八倒」に記録した。  一九八八年のオリンピック名古屋招致の夢が破れた日に、タモリ氏にコメントを求めた新聞が数紙あったが、さすが能弁家も、これには当惑したというから、おかしい。その新聞の中の一紙は、ロッキード事件のコーチャン証言のニュースを聞いた時、越路吹雪(愛称コウちゃん)の家に電話をかけたことがあった由。         □  数年前、春分の日に、名古屋で僧の説教を話芸として聞かせる催しがあり、それを聞きに行って、その夜一泊した。  出演した小沢昭一氏、演出の早野寿郎氏と歓談している時、宿の老女がビールを運んで来たので、「この大須の観音の近くに、むかし廓《くるわ》があったそうだけれど、どのへんなのかしら」と質問したら、何ともふしぎそうな顔をして、答えた。 「お客様、あなたの泊まられているこの家が、昔の遊廓です」         □  中日チームの中堅手に、のちに監督にもなった中利夫氏がいた。現役のころ、新聞を見ていたら、中(中)──中日と書いてある。  その夜、ある酒場でマージャンの好きな友人に、「中・中・中というんだから、おもしろい。ドラドラドラのドンだ」と話していたら、その店の野球ファンの女将《おかみ》 が、 「ドラドラじゃありません、ドラゴンズですよ」         □  名古屋から遊びに行くのに、犬山の明治村という新しい名所ができた。  この村に、横浜で文明開化の時代に開店した大井という、すき焼きの店が、昔のままの建物で保存されていて、今でも、牛肉を食べさせてくれる。  以前使っていた鍋に、砂糖をまず敷いて、そこに割り下を入れ、煮てゆく手順も「大井」流だという。ある時、二階の部屋でそのすき焼きを食べた。「何から何まで、昔のままです」と案内してくれた谷口吉郎博士がいったが、「ただし値段だけは、ちがいます」。         □  陶磁器を生産する瀬戸市から名古屋に通じる道路は、愛知県でいちばん整備されているという。  瀬戸の人から、その自慢話を聞いて、「なぜだろう」といったら、さも心外そうに答えた。「そうしないと、運ぶ品物がこわれます」 [#地付き]〈熊 本〉  肥後の熊本。肥前・肥後の「肥」は火で、阿蘇という大きな火山があるからだ。  名古屋の殿様の虎狩りで、加藤清正を思い出して、今回は九州に飛んだのだが、清正の没後にこの英雄をまつった「清正《せいしよう》公様」は、日蓮宗の寺院で本妙寺という。  清正は、家康から毒まんじゅうを食べさせられ、半年後に死んだという伝説がある。「清正誠忠録」という史劇が、それによって明治に書かれ、初演は九代目団十郎だった。  この団十郎のあと、清正に扮するのを喜んだのが初代吉右衛門で、吉田絃二郎がこの役者のために書いた三部作は、「二条城の清正」「蔚山城《うるさんじよう》の清正」そして「熊本城の清正」。  三木鶏郎氏が、NHKラジオの日曜娯楽版のために作曲した「ぼくは特急の機関士で」の歌詞に、「加藤清正甘党で、トラ(酔払い)を退治て、毒まんじゅう」。         □  県人に女性歌手が多い。水前寺清子、八代亜紀、石川さゆり、それに上月晃。  新聞人も多い。毎日新聞を大きくした本山彦一。朝日では夏目漱石に作品を書かせた池辺三山。戦後の社長長谷部忠。  テレビの「時事放談」の細川隆元氏は、藩祖細川勝元と一字しかちがわないが旧華族ではない。話をおもしろくする名手なので、朝日の後輩の渡辺紳一郎が、リュウゲン・ヒゴの守と呼んだ。家紋は九曜星である。  放談のテレビでおかしかったのは、広島カープが優勝した時、広島県人の藤原弘達氏が得意になっていたら、細川氏がさえぎって、「何をいってるんだ。古葉監督は熊本人ですよ」。         □  阿蘇を雅号にした徳富蘇峰は、昭和三十二年、九十五歳で死んだ。これこそジャーナリストと史家を兼ねた巨峰である。  しかし、この蘇峰ほど、信奉者と反感を持つ者とが相半ばしている人物もめずらしい。  五歳下の弟健次郎は、蘆花と号した作家であるが、兄の経営する国民新聞に書いていた小説「黒潮」の内容を兄に干渉されてから、兄弟仲が悪くなり、明治三十六年ごろから義絶していた。  しかし、昭和二年、伊香保で療養中、重態になると、急に兄に会いたくなり、ウナ電を打ち、かけつけた蘇峰と二十数年を経て会見、その九月十八日の夜に死んだ。         □  蘆花は明治三十九年六月、ひとりでロシアのヤースナヤ・ポリャーナに、トルストイを訪問している。その時、「本を読んで文学を書くというのではいけない。生活から作品を生まなければだめだ。君は百姓ができるかね」といわれ、帰国するとすぐ自分で農耕する土地をさがし、四十年二月に、当時の府下千歳村粕谷に住み、そこを動かなかった。  いまの京王線に近い蘆花公園がそれだが、愛子夫人の記憶では、移転した時、その家から郵便局まで一里半(六キロ)、ポストヘ十町(一キロ強)、豆腐屋へ五町(五百メートル強)も歩かなければならなかったという。         □  熊本県|八代《やつしろ》に、元禄時代に藩主松井直之が建てた屋敷がそのまま、松浜軒という旅館になっている。「阿房列車」の連作の中で、内田百※[#「門がまえ+月」]が名を明記している唯一の宿だ。         □  この国江津湖畔に生まれた中村汀女さんは、女流俳人として第一人者である。先年門人に招かれてパリに行ったが、途中で病気になったので、フランスに着くと、大事をとって入院した。  紹介者が「日本を代表する詩人」といったのに敬意を表して、病院長が汀女さんを見舞いに来た時、胸に勲章をつけていたという話である。 [#地付き]〈奈 良〉  三月十二日の夜、奈良東大寺の二月堂で行われる修二会《しゆにえ》は、十三日午前二時ごろ、良弁杉《ろうべんすぎ》の下の井戸から御香水《ごこうすい》を汲みとる行事があるので、「お水取り」と呼ばれ、この土地の人ばかりでなく、関西では、「お水取りがすむと暖かになる」という。  一度、内陣にすわって、籠《こも》りの僧の沓《くつ》の音(芭蕉の句)を聞き、夜を徹したが、食堂《じきどう》で熱い粥《かゆ》を供せられて宿に帰る暁のけしきもいい。  北條秀司氏と一緒だったが、氏|曰《いわ》く「こういう朝帰りはいいね」。         □  三島由紀夫の「宴《うたげ》のあと」は、元外交官のロマンスを小説にしたものだが、モデルにされた外交官有田八郎が、名誉棄損で訴え、その裁判記事によって、プライバシーという英語を、日本人が知った。 「宴のあと」を映画化するつもりで、東宝はお水取りの実写をフィルムにしていたが、裁判沙汰になったため、中止した。  お水取りの翌月、花ざかりの奈良に行き、春日野で民族衣装の朝鮮の人たちの花見を遠くから見た。人々が唐の服を着た青丹《あおに》よし奈良の都、さながら天平時代のようだった。         □  奈良には、もうひとつ、十二月十六日に、春日若宮の御祭《おんまつり》という名の祭礼がある。一の鳥居をくぐった所にある松の前で演じられる芸能が、古風を伝えている。  その前夜、御神体をお旅所《たびしよ》に送る儀式もいい。絹のとばりで囲った神様の列は、撒《ま》いた香木の上に松明《たいまつ》の火を散らしながらしずかに進み、この渡御《とぎよ》の時間、市中一切の電燈を消すのが、戦前の慣例だった。  今はそうはゆかない。ぼくが戦争直後二度目に行った時、アメリカ兵がフラッシュを焚《た》いて撮影、絹垣の中の神官の姿まで、見えてしまった。         □  奈良には進駐軍が多かった。これも占領中、アメリカ独立記念日の夜に打ちあげた花火が落ちて、東大寺の本坊が焼けた。  アッという間に占領軍用列車で、木曾からヒノキの木材が運ばれて来たそうである。         □  大正十四年から昭和十三年まで、志賀直哉は、奈良に住んだ。前の五年が幸町、あとの九年が上高畑、この間に「座右宝《ざうほう》」という美術図録を三年がかりで完成、刊行した。  昭和四年には里見※[#「弓+享」]氏と中国に行ったが、その不在中、近所に住んでいた瀧井孝作氏が、マージャンの牌《パイ》を借りて使っているうちに汚れてしまった。志賀の帰国の前に、瀧井氏が揮発油で洗って返しにゆくと、志賀が笑って、「こんなことだろうと思って、新しいのを買って来たよ」といった。  昭和のはじめだから、マージャンでは早いほうであろう。作品には、この遊戯のことは、書かれていない。         □  奈良の若草山の近くの旅館に泊まったら、その部屋に井上政次氏の書がかけてあり、そこでこの学者が「大和古寺」を執筆したのを知った。  宿の娘が来て、原稿を書いているぼくに訊《き》いた。「お寺のこと、書いてるの?」         □  奈良に住んでいた数学者岡潔は、すばらしい発見を生涯にいくつもしたが、問題がからりと解けた時のことを全部記憶していた。たとえば理髪店の椅子の上で、たとえば車に乗っていてトンネルをぬけた時というわけで、浴場のアルキメデスと同じだ。  天才かつ奇人だったので、昭和三十六年に中野実が「好人好日」という喜劇に書いた。主演の森繁久弥氏の芸談、「演技の計算をして、初日に答が出ました」というのが、おかしい。 [#地付き]〈福 井〉  前に書いたお水取りの行事の日、奈良東大寺二月堂前の井戸に水を送る行事が、福井県小浜の若狭彦神社の神宮寺で行われる。  やはり修二会なのだが、ここの祭りは素朴で、観光的なムードはなく、村人がこぞって参加する。  遠敷川の水の中で、住職が読みあげた祭文を川に流す。そこにある祠《ほこら》から、水が奈良につながっているというのである。  白洲正子さんがこれを見に行ったら、月があって、雪が降って来た。溜め息をついて、 「何という、うまい演出なんでしょう」         □  福井県は、むかしの国でいうと、越前と若狭ということになる。  東京都中央区(旧京橋区)の越前堀は、八丁堀の町と霊岸島とのあいだの運河。徳川時代、松平越前守の中屋敷が島にあったからだ。ついでにいうが、レイガン島といっても、アメリカの大統領とは何の関係もない。  越前という国名を広く日本人になじませたのは、将軍吉宗の治世に、長く江戸町奉行をつとめた大岡越前守|忠相《ただすけ》である。  いまでもテレビの時代劇で、たとえば加藤剛が演じたりするし、落語の「三方一両損」は「多かァ(大岡)食わねえ、たった一膳(越前)」というサゲになっている。  大岡政談と呼ばれるさまざまの事件簿の多くは、中国から来た種らしいが、天一坊事件は、たしかにこの忠相が処理している。岡本綺堂の「権三《ごんざ》と助十《すけじゆう》」も、大岡様のお裁きで、めでたしめでたし。  もうひとつ、男に狂った女が罪を犯した時、忠相が母に「女はいつまで男を求めるのでしょう」と訊いたら、無言で火鉢の灰を指したという「いい話」がある。         □  福井で育った彫刻家の高田博厚は、昭和九年から二十六年間パリに住み、日本人のために尽力した。帰国する時に、手もとにあったすべての制作をこわして来たが、東京西落合のアトリエで、その数点を作り直した。  こわした話を聞いて、「どうしてそんなことをしたのですか、もったいない」といわれた時、高田はしずかに答えたそうだ。 「大丈夫だ、また作れるよ。ぼくの指が、ちゃんとおぼえている」         □  若狭の本郷村(いまの大飯町)に生まれ、郷里とその周辺の風土を書いた水上勉氏は至って律義な人である。ぼくの友人にたのみごとがあり、これから伺うと電話をかけて来たので、手紙でどうぞと返事をしたら、手紙を書いてそれを持ち、友人の家の郵便受けに入れて、だまって帰ったそうだ。         □  水上氏は、まず推理小説で出発している。その初期の作品を先日見ていたら、どこかで聞いたような名前が、登場人物のちょっとした脇役に使われている。  しばらく考えてわかった。雑誌の編集者の名前を、もじっていたのである。         □  足羽町出身の俳優に、宇野重吉氏がいる。昭和初年の「火山灰地」のころから見ているが、「火山灰地」だの戦後の「炎の人」などのナレーターとして、魅力のある独特な話し方が印象的である。  演出家として、会話にポイントをおく人で、だから音感をたっとぶ。「民藝の仲間」という機関紙の連載に「民藝春秋」と命名した。シャレというよりも、自然に出て来た韻律だと解したい。  テレビドラマを「電波写真劇」、芥川比呂志を「芥川飲み介」、そういう綽名《あだな》をつける。  いつぞや銀座の金田中《かねたなか》で座談会があり、おくれて来た宇野氏がごく自然にいった。 「キンデンチュウと思って、さがしてたんだ」 [#地付き]〈上 州〉  福井の越前に、富山の越中、新潟の越後、以上三つが越《こし》の国。上越線は上州を通って越後にゆくが、上州はカミツケヌ→カミツケ→コウズケ。もうひとつ、シモツケヌ→シモツケがあって、古名|毛野国《けぬのくに》の二ブロックが群馬県と栃木県になる。上野《こうずけ》を上州、一方の下野《しもつけ》を野州《やしゆう》といいならわした。  ところで、その上州といえば、近世、かかあ天下にからっ風、長脇差というのが名物。富岡の人でNHK会長にもなった新聞人、阿部真之助が日本恐妻会会長といわれたのは、偶然ではない。  評論家として、「マクラの真之助、サゲの保(高田)、サワリの壮一(大宅)」という定評があったと、朝日新聞の新・人国記(昭和三十九年刊)にある。         □  前橋の農家に生まれた佐藤|垢石《こうせき》は、釣りの名手で酒仙、つくりばなしがうまい奇人だった。垢石というのは、アユの好む水垢《みずあか》のついた石という意味だが、人に字を説明するのに、「コウは土偏に皇后陛下の后、石は沢庵石の石」といった。  主宰していた雑誌「つり人」の表紙を記者が藤田嗣治にたのみに行ったら、こういった。「アカイシとは珍しい名前だなァ」  それを聞いた垢石、アユをわざわざ藤田に届け、 「アカイシの寸志、これを召しあがると事後の疲れを知りませぬ」  それで思い出したが、垢石がフランス人を訪問したら、酒を出してくれない。飲みたくて仕方のないこの老人は、さけんだ。 「ノム、ノム、ムッシュー」         □  片岡千恵蔵氏が藪塚の出身。十一代目仁左衛門の弟子で、大正十五年、市村座の春芝居、「菅原」の道明寺の輝国の家来の役で出ている時、六代目菊五郎が、「ソッポ(顔)はいいんだから活動写真に出たらいいぜ」といったので、翌年マキノ・プロにはいり「万華地獄」でデビューした。  映画では、小林桂樹氏が榛名町の生まれ。群馬交響楽団を描いた「ここに泉あり」に主演で出ている。         □  上州には、政界の大親分が現存、二人でひとつの選挙区に対立しているが、江戸時代には国定忠治、大前田英五郎、安中草三といった、べつの大親分がいた。「やくざ考」という名著を著した田村栄太郎も高崎の人だ。  新劇出身の沢田正二郎が新国劇をはじめた時、行友李風《ゆきともりふう》の書いた忠治劇は、劇団の当たり狂言として継承され、「赤城の山もこよい限り」のセリフは、沢正のこわいろで、今でも使う人がいる。  昭和四年に没した沢田の病名が中耳炎だった。まさか死ぬと思わなかったので、新聞も、「忠治がチュウジ炎」と書いたりしていたのであった。  その後、真山青果と村山知義が「国定忠治」を書き、この親分が唯物史観で描かれてゆく。岩波文庫の青果集を編集する手伝いをした時に、「忠治」を収め、書名もそれにしようと提案したが、結局スンナリゆかずに、「玄朴と長英」になってしまった。  ぼくは冗談をいった。「国定《くにさだ》教科書ならいいんですか」         □  前橋生まれの萩原朔太郎を主人公にした菊田一夫の「夜汽車の人」で、市川染五郎(いまの幸四郎)が詩人にふんし、恋人の写真の前で手品を見せる場面があった。  昭和十二年ごろ、朔太郎はアマチュア・マジシアン・クラブの会員になっていた。  五年のちに死んだ父親の机の上に「手をふれるべからず」と書いた原稿紙があったので、娘の葉子さんが見たら、焼きすてる規則になっている手品のタネ明かしであった。 [#地付き]〈北 海 道〉  北海道は、近ごろでは「知床旅情」、古い民謡では「ソーラン節」という旋律でも広く愛されるものがあるが、文学では石川啄木の歌、戦後では原田康子さんの「挽歌」、三浦綾子さんの「氷点」等が、その風土を背景にして人々に親近感を与えた。 「挽歌」がベストセラーのころ、建築家がもてたという話を聞き、いつか磯崎新氏にそれをいったら、「今でも、もてますよ」。         □  八代目坂東三津五郎と講演旅行に行ったことがある。札幌郊外の開拓博物館を見学した。道産品を展示している部屋で、木炭の見本をていねいに見ている。 「お茶の風炉《ふろ》には、どの炭がいいかと思って」  キザなことをいって、キザにならない、ふしぎな役者であった。         □  一泊だけで引っ返す旅行をしたこともある。やはり札幌のホテル三愛(当時)の八階のバーのカウンターで、雪を見ながらのんでいた。  目の前の大きな窓の外に、牡丹《ぼたん》雪が舞っている。豪華な雪見酒だった。隣にいた円地文子さんが、「大変ね、雪を屋根から降らせる役も」としみじみいう。  ぼくはあわてて、「これ、本物なんですよ」。         □  芸術座の啄木の伝記劇「悲しき玩具」(菊田一夫作)で、主人公の愛した釧路の芸者小奴にふんした浜木綿子さんが、芸術祭の奨励賞を贈られた。  どう見ても、北海道の漁港の花柳界の女の感じがあったのでおどろいたが、その後会って、どういう工夫をしたのか尋ねた。  浜さんはケロリとした顔で答えた。「何となく、きたなく、笑ってみたんですよ」         □  人材が輩出している北海道である。  久保栄は、父が札幌の商工会議所の会頭までした実業家だったが、プロレタリア演劇の雄となった。「五稜郭血書」「火山灰地」「林檎園日記」と、郷土に取材した戯曲を書き、べつに小説「のぼり窯《がま》」を遺作にした。  仲間が久保をクボチンスキーと呼んだのはおかしい。ロシア名前だからいい。  綽名といえば、札幌生まれで、参議院議員で死んだ森田たまが「もめん随筆」でデビューした時、「昭和の清少納言」といったのは、版元中央公論社の広告文と思っていたが、最近知った。そう称したのは、徳富蘇峰だったという。         □  摩周湖に行った時、弟子屈《てしかが》の町を通ったら、当時現役の横綱だった大鵬の生家の前を通った。観光バスがとまっていた。  この家の玄関には、大鵬だけでなく、柏戸の写真も出ていたそうだ。「ここに来るお客さんの半分は、柏戸関のファンなんですもの」と母親の納谷キヨさんがいった。         □  札幌から千歳空港までゆく弾丸道路の島松に、明治九年、八カ月農学校の教頭をしていたクラーク博士の記念碑が立っている。 「ボーイズ・ビー・アンビシャス」と声をかけて教え子の前から去って行った教育者の言葉を「青年よ、大志を抱け」と訳し、偉大な足跡を伝えているが、帰国後企画した海上大学に失敗、鉱山に手を出して再び倒産、貧窮の中で死んだクラークを、近年公然と山師と呼ぶ本も目にした。 「ボーイズ・ビー・アンビシャス」は、「坊主たち、がんばれ」という程度だったという。  それはどうでもいい。クラークがいたために、農学校を慕い、後年の内村鑑三、新渡戸稲造が育ったのである。 [#地付き]〈長 崎〉 「お蝶夫人」のオペラでは、二幕目の花の二重唱がぼくは大好きだ。桜にちなんで、長崎に行こう。  徳川時代、長崎には出島があり、鎖国日本では唯一の開かれた窓だったが、江戸から見ると、地の果てだった。長崎奉行所づとめを命ぜられた大田蜀山人は、大坂に立ち寄ったとはいえ、文化元年から翌年、往復とも約四十日の旅をしている。  数年前、長崎のホールに出ていた村松英子さんが電話をかけて来た時、「このあいだのシャレの意味がわかりました」という。「江戸のかたきを長崎で討つ」という、昔のことわざを思い出した。         □  長崎は雨にちなんだ歌が多い。NHKの仕事で行っていた時、佐世保のボタ山が雨で崩れた。斎藤茂吉の名歌に「あはれあはれここは肥前の長崎か唐寺《からでら》の甍《いらか》に降る寒き雨」。  茂吉は独身のころ長崎にいて、家に十五歳の少女が手伝いに来ていたが、女は天主堂で三菱造船所の工員と知りあい、恋仲になった。  茂吉は男から来た恋文の束を、女の留守に盗み読み、おもしろいところを手写しておいたのを、後年火災で焼いて、「これはどうも惜しくないようで惜しい」と書いている。  その手紙は、いつも「デウスさまのみめぐみにより」で、はじまっていた。         □  長崎県の離島、生月島《いきづきじま》の隠れキリシタンが、先祖伝来のオラショを先年、国立小劇場で公開したが、その原型をローマの節まわしで調査したら、あがりさがりや、間《ま》のとり方がだいたい合っていたという。  表向き、僧に経を読んでもらう生活をしながら、祈祷文をこのように親から子へ伝えて行ったということだけでもすごい。         □  長崎に行った時、町を案内してくれた郷土史家の渡辺庫輔は、芥川龍之介の最後の弟子であったという。和服を着て、早足で歩く、気さくな老人だったが、長崎弁で話しているのをそばで聞いていて、まるでわからなかった。「長崎墓所考」という好著がある。  帰京して、芥川比呂志に、この人と会った話をしたら、うれしそうにいった。 「渡辺さんは、はじめてぼくをカフェにつれて行ってくれた人ですよ。ただし、ぼくの五つの時です」         □  渡辺庫輔の書く字は四角張っていた。神経衰弱になっていた芥川龍之介は、渡辺にあてた手紙の中で、その字が今の自分には毒だ、愉快に眺められない、「今度からはもう少し柔かにしてくれ給へ」と注文している。  芥川はこの年少の弟子を、与茂平という愛称で呼んでいた。  大正十一年五月、長崎に十二日滞在し、帰宅してから渡辺に滞在中の世話になった礼状を書き、「水飲めば与茂平恋し閑古鳥」という俳句を書きそえている。         □  平戸は詩人藤浦洸の生まれた町である。その平戸に行った時、本屋にはいったら、藤浦の随筆集「蝸牛の角」が二十冊ほど棚にならんでいたので、さっそく買って旅のあいだに読み終えた。  帰ってその話をすると、「二十冊もならべて、みっともない。すこしずつ置いたほうが売れるのに」と苦笑したあとでいった。 「でも、何となく、景気としてはいいな」         □  NHKテレビの「私の秘密」のレギュラーで、日本中に顔が売れ、「指名手配と同じだ」と笑っていた藤浦が、銀座で電通の社長吉田秀雄に会ったら、「あんな番組に出ていると、顔が変わってくる、まるで、神経のアンテナだ」といわれた。藤浦は書いている。 「ほんとうは、キツネつきとか、うらない婆さんといいたかったのだろう」 [#地付き]〈鎌 倉〉  昭和二十七年、久保田万太郎が作った俳句に、こういうのがある。 [#2字下げ]鎌倉の春豊島屋の鳩サブレ  鶴岡八幡宮の近くの菓子店で売り出した鳩の形をした西洋焼き菓子だが、これはつまり、CM俳句である。  引き札のかわりになる歌や句を依頼される例はめずらしくなく、吉井勇は京都のいろいろな店のために作歌している。  鎌倉に五十年住んだ高浜虚子が、明治製菓のために作った句がある。 [#2字下げ]秋もはや熱き紅茶にビスケット         □  鎌倉には明治以来、小説家、詩人、エッセイストなど、この土地を好んで住んだ文人が多く、「鎌倉文士」というのが文壇の一隅に、どっかと座を占めている。この表現は、士という字があり、鎌倉武士と対応するので落ちつくのかも知れない。  大船駅の近くの野立ち看板に「鎌倉公」というのがあり、頼朝が何で出て来たのかと思って、よく見たら、鎌倉ハムであった。         □  実朝の歌集は、「金槐集《きんかいしゆう》」である。槐《えんじゆ》は中国で将軍を暗示する。金は鎌倉の金偏《かねへん》を残したのである。  実朝の兄の頼家が、岡本綺堂の「修禅寺物語」に出てきて、「鎌倉などには夢もかよわぬ」とつぶやくセリフを十五代目羽左衛門がじつにうまくいった。その羽左衛門が鎌倉山に別荘を建てた。  鎌倉山にいた女優に、田中絹代がいる。倉本聰氏の「さらばテレビジョン」を見ていたら、このかつての大スターが黒白のテレビをじっと見ている孤独な姿が書かれていて、それがあわれに思われるが、どこか晩年の北條政子のようでもある。         □ 「鎌倉や御仏なれど釈迦牟尼《しやかむに》は美男におはす夏木立かな」は、与謝野晶子の代表作。この一首で、長谷の大仏は連日観光客があとを絶たぬ。  市の観光課員がいった。「晶子先生のおかげです」  大佛《おさらぎ》次郎の筆名は、この裏に住んだからである。         □  松竹の大船撮影所だけに通用する映画の術語がある。  スタジオで撮影の時、「鎌倉のほうに向いてくれ」というふうにいうのである。もう一方は、東京。 「鎌倉を向いて立って」リハーサル、テスト、そして本番。これがほんとの「いざ鎌倉」であった。         □  北大路魯山人も鎌倉にいた。横山隆一氏も、鎌倉は長い。ある時、背広をあずけておいたクリーニング店が焼けてしまい、店がその弁償として、べつの洋服をくれた。  横山氏が横須賀線で、魯山人に会ったら、同じ洋服を窮屈そうに着ていて、曰く「君も洗濯屋から貰《もら》ったのか」。         □  毎年夏になると、鎌倉ペンクラブが由比ヶ浜で「鎌倉カーニバル」を催し、実行委員長をずっと久米正雄がつとめた。こういう役目を引き受ける最適の文化人であった。  久米正雄の「夏の日の恋」という芝居を、大正十五年に浅草の松竹座で見ているが、その記憶の中で、海岸に麦藁帽をかぶって出てきて、岡村文子のモダンガールに夢中になる主役に、作者自身が出ていたような気がしていた。  もちろん、それは、文士劇に出た久米をその後見ているための錯覚だが、最近調べたら、俳優が作者の顔の通りにメークアップしたというのであった。二代目左団次が自由劇場のボルクマンの時に、イプセンの顔をこしらえたのと同じである。 [#地付き]〈信 州〉  花の名所は全国に数えきれぬほどだが、信州の高遠の桜もみごとで、内藤藩の城跡の公園の花ざかりは、人の群れで歩けないほどである。「天下第一桜」という碑が立っているが、同じ場所に大きな石碑があって、こちらは何も字が彫られていない。  これは、この町に生まれ、台湾総督や東京市長を歴任した伊沢多喜男の顕彰碑だが、その生前の企てで、当人が頑として許さなかったので、やむなく無字の碑にしたという説明の碑が、脇に建っている。  この伊沢の次男が飯沢|匡《ただす》氏である。         □  伊沢多喜男の実兄が、近代教育を日本で開拓した修二である。伊沢修二の功績のひとつは、音楽を普及させたことで、小学唱歌を制定したのが明治十四年。日本の雅楽や俗楽と、スコットランド、古代ヨーロッパの歌の音律が似ているのを発見、その名曲を移入した。  しかし、そういう歌を学童に歌わせるのを誰も賛成しない。そこでスペイン古謡を「蝶々」という歌にし、バイオリンで弾いて幼児に聞かせたら、喜んで歌って、おどりあがった。それが、唱歌の出発原点であった。  伊沢修二が後年いった。「これでホッとした。それまでは、四面|楚歌《そか》だった」         □  岩波茂雄は、諏訪の中洲という村の生まれ。出版社をはじめる前、大正二年に神田神保町で古本屋を開業したが、正札販売という原則を厳守、値切る客と店先でしじゅう論争したという。  そのころの岩波を回想した人の談話に、「いつも和服にヘコ帯、腰に手拭をぶらさげていました。西郷さんの銅像だと思えばいい」。         □  昭和十年、岩波はひとりで欧米旅行をしている。往復の船内仮装舞踏会で、岩波はシーツを身にまとって、ガンジーに扮した。  ドイツに行った時、ミュンヘンのビアホールで美しい少女と肩を組んで歌ったというのを聞いた女婿《じよせい》の小林勇が、「ドイツ語ができないのに、よく意気投合しましたね」といったら、「馬鹿だなァ、男女の間に言葉なんか、いらないんだ」と答えた。岩波は、この年、五十五歳であった。         □  作家平林たい子も諏訪の人。  文学者が徒党を組むのを評して、「とかく目高は群れたがる」という名言をのこした。  おかしいのは、晩年の平林が熱帯魚に夢中になっていたことである。 「魚は、ウソをつかないわ」とつぶやいたといわれる。夫、小堀甚二とトラブルのあったころの言葉と伝えられる。         □  木曾馬籠に生まれた島崎藤村には、信州を書いた作品が多い。  岡本一平は容姿をたくみに似せて描く名手であったが、その漫画に、藤村が苦虫をかみつぶしたような、そのくせ、何となく上機嫌に見える横顔で、扇をひざに立てたように正座している絵がある。  注解にこうある。「いろはかるたの�|へそ《ヽヽ》も身の内�を思いついた時の島崎藤村」         □  一平の子の岡本太郎氏が推奨したといわれる|ぬれ《ヽヽ》仏が下諏訪にある。石の阿弥陀仏であるが、どことなく、万国博の時に作られた太陽の塔に似ているのがおもしろい。  この下諏訪に綿の湯という温泉があり、みなとや旅館は、文人画人がよく泊まる。宿の前の道しるべの石は、里見※[#「弓+享」]氏が字を書いたものである。  永六輔氏が、みなとやで岡本氏と会ったので、「ごぶさたしました」といったら、太郎さんが返事をした。これが何とも「ご挨拶《あいさつ》」である。 「俺には、過去はない」 [#地付き]〈近 江〉 「ゆく春を近江の人と惜みける」は芭蕉の名句で、琵琶湖の水が光っている点で、ほかの国でなく、近江が動かせないといわれている。  オウミは淡水の海ということである。近江は遠江《とおとうみ》と対照するが、遠江は遠州、近江は江州、ゴウシュウと発音する。         □  毎年かるたの選手権大会が、大津の近江神宮で催される。小倉百人一首の配列が、この社の祭神天智天皇の「秋の田の」ではじまるので、うまい場所を考えたものだ。         □  中国の洞庭湖の南の二つの川の景色が、瀟湘《しようしよう》八景、それをまねた「八景」見立ては日本にもいろいろあるが、近江のが最も著名。  原典にならって暮雪(比良)、帰帆(矢走《やばぜ》)、秋月(石山)、夕照(瀬田)、晩鐘(三井)、落雁(堅田)、晴嵐(粟津)、夜雨(唐崎)、とならんでいる。  瀬田の唐橋が特に大衆になじまれ、関西には「いそがばまわれ瀬田の唐橋」という諺《ことわざ》がある。  曾我廼家に対抗して、堅田出身の志賀廼家淡海が一座の役者に与えた芸名には、唐橋、晩鐘、帰帆、銀波、白石、秋月という雅号ふうなのが多い。         □  石山寺には、紫式部が「源氏物語」を執筆した部屋がある。この寺に行った時、山門をくぐると、朗々とした読経の声がしたので、さかんな法要がいとなまれているのかと思ったら、録音テープだった。         □  舟橋聖一の蔵書が彦根市に寄贈されたのは、「花の生涯」で井伊大老を書き、それを代表作にしたという理由である。  桜田門で暗殺された井伊|掃部頭直弼《かもんのかみなおすけ》を書いた戯曲が、さらに中村吉蔵と北條秀司氏にある。北條氏は、新国劇のために書いたあと、松本白鸚(八代目幸四郎)のために、書き直している。  昭和五十六年の十一月、白鸚は「井伊大老」で最後の舞台をつとめた。そのころ、北條氏から来た葉書に「役者も大老、作者も大老」。         □  琵琶湖の名物は、日本のフォアグラといわれる珍味の鮒《ふな》ずし、それにやはり淡水魚のヒガイ。このヒガイは鰉と書く。  中国にはない文字なので、しらべてみたら、明治天皇の好物だったからという。         □  昭和二十九年の近江絹絲のストライキは、三島由紀夫が「絹と明察」という小説にしたほどの事件で、長引いて、世に「人権争議」といわれた。この表現には、無意識だが、「人絹《じんけん》」(人造絹糸つまりレーヨン)の音感がひそんでいるような気がしてならない。         □  ちりめんの作られる江州長浜の町に、曳山《ひきやま》歌舞伎というのがあって、四月の八幡祭りの日に四台の山車《だし》が出て、小学生が古典歌舞伎を演じる。  NHKでわざわざ東京まで呼んでテレビで紹介した時、インタビュアーをたのまれて出演した。  テストのあとで、もじもじしていた子が、べそをかきながら「トイレヘ行きたい」と叫ぶ。  それが「輝虎配膳」の女房役お勝の扮装をしていたのが、おかしかった。         □  昭和五十六年の国体の時、湖岸雄琴のトルコ風呂が一斉に自粛休業した。TBSの「モーニングジャンボ」の女性キャスターが、ネオンの消えた暗い町を探訪、密室にカメラを持ちこんだビデオを放映した時、こういった。 「こんな時でなければ、はいれません」 [#地付き]〈広 島〉  日本の城に漢学者がつけた呼称があり、岡山城が烏城《うじよう》、姫路城が白鷺城、仙台城が五城、そして広島城が鯉城《りじよう》。  プロ野球の広島東洋の愛称がカープなのは、その鯉から来ている。  スポーツ紙や各紙の野球のページの大見出しは、競争がはげしいせいもあって、シーズン中は毎日趣向でしのぎを削る。カープの強い時は「鯉の滝のぼり」、あまり強くない時は「まないたの鯉」と書いたりする。  ある時、連敗していた週、「目下鯉わずらい」。         □  昭和初年の宮中席次トップ三人は、元老西園寺公望、海軍元帥東郷平八郎、そして旧広島藩主浅野|長勲《ながこと》であった。この浅野侯は幕末、大名の生活をした人である。  かつて「文藝春秋」誌上で、この殿様に大名の日常、しきたりなどをくわしく尋ねる対談がのった。聞き手は三田村|鳶魚《えんぎよ》で、この速記は、別の「幸田露伴にものを聞く」その他十の座談会とともに、「涼風夜話」という本(昭和十二年青年書房刊)にのっている。  食べ物にねずみのフンがはいっていても、切腹する者が出ては困るので我慢するとか、小姓や腰元が戸口にいるので、大きなおならも出来ないというような話があり、鳶魚が「腹を立てることはないか」と訊くと、「ありませんな、怒りつけることもできません。再び大名になるものではありませんよ」と答えている。         □  本郷の西片町十番地といった所は、阿部伯爵の屋敷あとで、阿部氏は広島の二番目の城下町福山の藩主である。長勲公の弟が正桓といって、これも同藩最後の大名だった。  この福山から、英文学者で希代のエッセイストだった福原麟太郎博士、作家の井伏鱒二氏が出ている。二人とも福々しい相で、福山は名前もいいが、風土もゆたかなのであろう。  劇作家の小山祐士氏も福山の人。処女作「瀬戸内海の子供ら」以降、郷土を舞台にした戯曲を書き続け、当然のことだが、「泰山木の木の下で」「日本の幽霊」などで、原爆のおそろしさを書いている。井伏氏の「黒い雨」と同様、広島県人の怒りである。  小山氏は、音楽を劇中にうまく挿入する点でチェーホフと似ているが、耳もよく、音感に長じている。いつぞや、小山氏が三味線で、メンデルスゾーンのバイオリン協奏曲の一節を弾いたのを聴いている。         □  杉村春子さんが演劇にあこがれて築地小劇場にはいった時、面倒を見たのが青山杉作。杉村の杉は杉作の杉である。  はじめ、生まれた広島の訛《なま》りが耳立つので、セリフをいうのに苦労したが、初舞台の時はその心配はなかった。オルガンを弾くだけの役だったからである。         □  杉村さんは早口である。テレビ朝日の「徹子の部屋」に出た時、聞き手もゲストも早口なので、その内容は一般の人より三〇パーセントも多かったという。  途中で、この二人の女優が顔を見合わせて、「早口ですね、先生も」「あなたも早口ね」と確認し合ったあと、ちょっとした沈黙があり、またペラペラと、安心して早口でしゃべった。         □  昭和三十八年にソ連に杉村さんが行った時、同行した。  モスクワのメトロポールというホテルに古い友人がいたそうだが、杉村さんが、「あの人変わってるのよ、部屋の浴槽で鯉を飼っているんですよ」といった。  広島出身の女優と鯉が、遠い国で話題として結びついたわけである。 [#地付き]〈岐 阜〉  岐阜という地名は、周の文王が岐山によって天下を掌握した故事にちなんで、織田信長がえらんだといい、日本中の県名で、こういう例はほかにない。  信長の前に美濃を領治していたのが、斎藤道三で、この人物を主人公にした「国盗《くにと》り物語」がNHKテレビの大河ドラマになってから、力士が大関から横綱をねらうことを「綱盗り」というようになった。以前はいわなかった一種の流行語である。         □  長良川の鵜飼《うかい》が、この県の名物。毎年五月十一日にはじまり、十月中旬まで、毎夜舟が出る。のどに水をふくみ吐き出すという行動、いわゆる含嗽《がんそう》を、うがいというのは、鵜が鮎《あゆ》を吐き出すことから来ているのだろう。         □  八世紀、元正天皇の御代のこと、養老という土地に甘い泉が湧いたので、改元して、養老という年号になった。それがフィクションとなり、親孝行の息子のために、滝の水が酒に変わったという伝説ができたが、大衆酒場に「養老乃瀧」というのがあって、うまい屋号である。  昭和十年代にバートン・クレーンという東京駐在のアメリカの記者がSPに歌を吹きこんでいる。酒のみの讃歌というべきもので、曲はアメリカの俗謡、歌詞は、「酒のみは酒のめよ、酒のめばオイなまけ者、水はとてもおいしいが、酒のめば僕楽しい、万歳、乾杯、養老の滝を持って来い、もしなければスットコドッコイ、おい、酒のめ酒のめよ」というのである。  訳詞は東宝映画の大プロデューサーだった森岩雄である。この人、じつは、あまり酒はのめなかった。         □  郡上八幡《ぐじようはちまん》は、県内の水の町といわれる。平甚《ひらじん》というそばやが有名だが、訪れた山口瞳氏は色紙に句を求められ、「時雨るるや平甚創業三百年」と書こうと思い、念のために主人に店の歴史を尋ねたら、今が九代目だという。三百年は経ってるでしょうといったら、「いいえ、そばやというのが二百年前にできたのですから」といわれ、ただちに句の下の部分を「二百年」に直した。 「酔いどれ紀行」に山口氏は書いている。「いい加減なものだ」。たいへん、おかしい。         □  NHKの戦後のラジオドラマ「向う三軒両隣り」に、中津川生まれの人物が出て来て、その作家が紹介してくれたこの町の旧家に、招かれて行ったことがある。  川の近くに、二つ並んだ奇岩があって、男女一対になっている。皇族が来た時、何という岩かと訊かれたら何と説明しようかと、市の幹部が会議を開いたという。 「それでどうしました」と尋ねたら、その時連れ立っていた旅館の番頭が、大まじめな顔でいった。「天佑《てんゆう》とでも申しましょうか」「はァ」「宮様のおいでの時、モヤがかかりました」 [#地付き]〈宮 城〉  井上ひさし氏の「青葉繁れる」は、桜井(大阪府)が舞台でなく、仙台を背景にした小説である。伊達政宗以来の仙台藩の城を、青葉城というからだ。  伊達という言葉は、伊達男、伊達の薄着、近ごろあまりいわなくなったが、伊達めがねといった熟語になり、おしゃれといった意味を寓している。  土地の俗謡に「わしが国さで見せたいものは、むかし谷風いま伊達模様」というのがある。戦争が終わった直後に、銀座で宝くじを売っている前を通った久保田万太郎がつぶやいた。「むかし勝札いま宝くじ」。全集にはのっていない。         □ 「先代萩」は伊達騒動を劇化した歌舞伎の通し狂言で、先代で仙台を利かせている。  幼君にかしずく政岡という役があり、史実では側室だった三沢初のことなのだが、女形の扮する至難な大役。三沢初の墓のある目黒の円融寺の境内に、扮装した政岡の銅像があり、モデルになったのが、六代目尾上梅幸ということになっている。  実際は病後の梅幸がモデル台に立てなかったので、門弟の梅朝が衣装をつけ、かつらを冠って、アトリエに日参した。  梅朝がいっていた。「舞台では代役はつとめませんでしたが、死んでも本望です」         □  県人には、劇作家が多い。  仙台の民謡に「さんさ時雨」がある。 「さんさ時雨か、茅野の雨か、音もせで来て、ぬれかかる」というのだが、十七年前、北京に行った時、岩沼の人である代表団長の久板栄二郎が、宴会で郷里のこの唄《うた》を唄った。  歌詞を通訳したいというので、いろいろ説明したが、元の日本語に不明確な部分があり苦心させる結果となった。久板氏は温厚だから、すまなそうにあやまる。 「余計な唄を唄って、すみません」         □  塩釜出身の劇作家の松居松葉は、のちに松翁と改名したが、劇場専属の狂言作者によらない、外部で書いた脚本がはじめて歌舞伎に上演されたという人で、その「悪源太」を明治三十二年に初代市川左団次が演じた時は、万《よろず》朝報の社員だった。  大正のはじめ、三越の嘱託だったころ、帝劇で演出もした。「今日は帝劇、あすは三越」という百貨店のキャッチフレーズは、当時の松葉のひとり言からはじまったという説もある。         □  もうひとり、真山青果も仙台の出身。明治四十二年に原稿のコピーを二つの出版社に見せていたら、たまたま同じ月、二つの雑誌にのってしまったという珍事があり、二重売りと騒がれたのを自責して、名を秘め、亭々生という筆名で新派の座付作者になった。そして、後年の傑作を書く道をこつこつと築いた。  意志と努力と才能と幸運とが、「真山青果全集」二十二巻をのこす結果となった。         □  伊達騒動の悪人と伝えられた原田甲斐(歌舞伎では仁木弾正)を、じつはいい人だとしたのが、山本周五郎の「樅《もみ》ノ木は残った」で、大河ドラマにもなった。  ただし、山本は山梨の人である。         □  坪内逍遙の文芸協会に参加した上山草人は、青年俳優として大阪に巡業中、旅館で喧嘩《けんか》をして、結局、退団した。そして妻の山川浦路と近代劇協会を創立する。  そういえば、松翁も青果も、人間も作風も、血気さかんな気質を思わせる。  草人が逍遙に送った過激な文章の建白書を見て、逍遙が情なさそうにいった言葉がのこっている。 「こういう詩人とは、おつきあいできません」 [#地付き]〈日 光〉 「奥の細道」の中で、俳人芭蕉が東照宮を参拝したのは、元禄二年四月一日、旧暦だから新緑の美しい季節であった。 [#2字下げ]あらたふと青葉若葉の日の光  という句は、日光という地名をよみこんでいる。そういう遊びが、俳諧にはある。         □  東照宮の贅《ぜい》をつくした構築の大半は、三代将軍家光の治世である宝永年間、わずか一年五カ月の短期間に完成されたというが、家光は自分の造った建物が見たさに、十回も社参している。  陽明門を日暮門《ひぐらしもん》というのは、見あきないので、いつのまにか日がくれていたという意味だが、「日光を見ずに結構というな」と韻をふんだ言い伝えもあった。  イタリアの「ナポリを見て死ね」と同じである。その話を聞いたあと、ローマに帰る観光客が、成田空港に行ったら、アナウンスをしていた。「本日、日航は欠航です」         □  東照宮拝殿の回廊に、左甚五郎の作と伝えられるねむり猫がある。  真船豊が、テレビのはじまる前に、この猫を主人公にしたラジオドラマを書いた。テープの回転で早口にしゃべらせるという趣向であった。         □  早口で思い出した。いつぞやNHKの仕事で宇都宮に行ったあと、黒柳徹子さんと同乗して、中禅寺湖まで車で上った。秋だった。  馬返《うまがえし》から、いろは坂というヘアピンのような曲折が三十ほどあって、運転のむずかしい道である。むかしはカーブが四十八あったので、いろはといったのだが、黒柳さんは、紅葉のいちばん美しいのはどこと尋ねて二十八カーブと聞かされ、「わァごきげん、私の年よ」といった。それが何年前か忘れたが、この女優が、その時、車の窓際にいたのは、たしかである。         □  いつのころからか、毎年「太郎杉」という名前で、年賀状が届く。  切られようとしていた名木の杉の保存会から来るのだが、数年前、四等の景品が、その太郎杉のはがきで当たった。  柳の精が子供を生む芝居は知っていたが、杉からお年玉を貰おうとは思わなかった。         □  明治三十六年五月二十二日、那珂通世という東洋史の大学者の甥《おい》で一高生の藤村操が、「巌頭の感」という遺書を残して、華厳《けごん》の滝に投身したが、この滝は自殺の名所となり、以後四年間に、百八十人の若者が死んでいる。 「人生不可解」という操の表現が流行語となったが、滝にゆくまで乗った車の車夫に、途中で買った羊羹《ようかん》を「これ、食べてください」といって渡したのも、いささか不可解である。  当時の新聞に、こんな歌がのっている。 [#2字下げ]雲霧は深き望みの滝壺《たきつぼ》に消えて湧き出る巌頭の感         □  両国の国技館の菊人形を見た時、土俵のある所から、仕掛けによって菊で飾った日光の陽明門がせり出したのでおどろいた記憶がある。大正のおわりと思う。  歌舞伎の舞台に本物そっくりの陽明門をかざったのが、明治十九年十一月千歳座の「月白刃梵字彫物《つきのしらはぼんじのほりもの》」。  石川五右衛門の出る南禅寺の山門の大道具から思いついたのだろうが、棟梁《とうりよう》長谷川勘兵衛苦心の傑作で、幕があいた時、劇場の中が怒濤《どとう》のようにどよめいた。この装置をそのままパリの万国博に運んだ。  梵字徳次郎の役で出ている五代目菊五郎だけは、苦り切っていった。 「冗談じゃない、みんな、大道具の噂しか、しやがらねえ」 [#地付き]〈佐 賀〉  もう一度、市が青葉の美しい城を持ち、県花に樟《くす》をえらんだ佐賀で、新緑の薫風を味わおう。  城を昔、葉隠城《はがくれじよう》と呼んだという説もあるが、二代目の藩主鍋島光茂につかえた山本常朝が主君の没後、殉死が禁じられたので出家し、その草庵を訪れた若い藩士田代陣基に語った武士のマナーや殿様の言行録が、そのまま残ったのが「葉隠聞書」である。  略して「葉隠」。「武士道というは死ぬ事と見つけたり」の一句のために、俗に「鍋島論語」というこの本は、戦争中大いに読めとすすめられたが、三島由紀夫は、戦後二十二年経って「葉隠入門」を書き、同じ年、自衛隊に四十五日入隊の体験をしている。         □  鍋島といえば、この県にはいろいろ美術工芸品があるが、色鍋島の十二代今泉今右衛門氏、濁手《にごしで》の十三代酒井田柿右衛門氏は人間国宝。  柿右衛門の始祖は、柿の実から色を発見したといわれ、榎本虎彦の「名工柿右衛門」は、十一代目片岡仁左衛門の当たり役だった。六代目尾上菊五郎は、溝口健二監督の映画でこの役を演じるはずだったが、実現を見ずに死んだ。  ただしこの劇、じつは翻案らしく、役の名も、柿右衛門の娘がお種、弟子が栗作である。家族あわせじみている。         □  佐賀出身者で大物は、大隈重信である。青年に九州男児の代表者をあげさせたら、一位の西郷隆盛はわかるとしても、二位三位が西郷輝彦と武田鉄矢、五位が大隈だった。  それを紹介したテレビのキャスターの言葉、「早稲田を出た人が多いから」。         □  大隈は大正十一年、八十四歳で死んだが、人生百二十五年とつねづねいっていた。政治家で、早大を創立した教育家だから、毎日数十人の面会者がいたが、春風のようなふんい気で人と会ったといわれる。  演説の時、「あるんであるんである」というのが口癖であった。  早稲田出身の永井柳太郎が「大隈重信」という脚本を書き、母校創立五十年に、東京劇場で二代目市川左団次に演じてもらったが、じつにうまく似せて扮装していた。  渥美清太郎が「演芸画報」に、この劇を「芝居見たまま」として紹介、三十年記念祭の場面で、「例の調子で演説したのであるんである」と書いているのは、おかしい。         □  伊藤博文や乃木希典の書をよく見るが、大隈重信の墨跡は、何も残っていない。  若い時に、習字の先生に字を見せたら、「到底物にならず」といわれたので、憤然と筆をすてて、生涯二度と手にしなかったと、牧野謙次郎の「維新伝疑史話」にある。  しかし、当時八太郎と称した十七歳の大隈が学友に贈った惜別の辞というのが残っていて、そんなに金釘流でもない。第一、首相や大臣をして、重要文書に筆で署名しないわけにはゆかなかっただろう。         □  佐賀の人で、ぼくも知っているのは、劇作家の三好十郎である。  代表作は、劇団民藝のために書きおろしたゴッホの伝記劇「炎の人」であるが、三好は、ずっと画家になるつもりでいたという。  初夏に林の道を歩いたりすると、いろいろな緑の色が見えすぎ、その刺激でめまいがして卒倒するほど敏感だった。  ゴッホは他人ではなく、自分はどうもゴッホを食べたらしいといっている。 「炎の人」の執筆中、机の脇にイーゼルを立て、カンバスをのせ、指で油絵の具をカンバスに塗りたくりながら、書き進んだ。  このゴッホ、滝沢修の傑作でもある。 [#地付き]〈岩 手〉  宮沢賢治の「雨ニモマケズ」という詩ほど、多くのパロディを持っている作品はすくない。  短歌では、石川啄木のがパロディ化されている。この二人が、ともに岩手県人である。  宮沢賢治はシャープペンシルを首から吊《つ》り、野山を歩いて、何でもかでもスケッチするのが癖だった。そして、それをもとに作詩したが、原稿の手直しは、すさまじかった。         □  県の名物「わんこそば」は、藩主南部利直が三百六十年前、江戸との参勤交代の途中、花巻城で椀に盛ったそばを食べたのが起源。  ところで今年、花巻のコンクールで三十三歳の会社員が、五分間で百六十一杯食べた。感想「当分そばは、たくさんです」。         □  盛岡出身の平民宰相、原敬の号が一山《いちざん》。どういうことですかと訊かれた時、「一山《ひとやま》百文さ」といった。未開発のこの地方の山地は、そんなに地価が安かったというのであろう。  ついでに書くが、釜石や宮古の海岸までゆく途中の山脈に、東北のウラル山系と綽名をつけている。         □  アイヌの叙事詩ユーカラ七十五編を採集、言語学で前人未到の功績をあげ、文化勲章を受けた金田一京助は、啄木の歌友で、学友に野村胡堂がいる。  金田一はアイヌ語をよく知っていた。  北海道の登別高校の校歌を作った伊馬春部氏が、歌詞の冒頭に、偉大で神々しい風土という意味の文字を入れたいと考え、博士にアイヌ語で何というのでしょうと、パーティーの席で尋ねたら、ただちに「そうね、シノ・イリカ・カムイネ・モシリでいいでしょう」  どちらかというと不愛想なアイヌの人たちが、博士だと何でもしゃべる。アイヌ語で、愛想のよい声をかけるからであった。  博士の弟子に当たる折口信夫が、「アイヌの村で美丈夫の先生が、メノコ(女子)とまちがいをおこさないのは、えらい方だ」といったそうだ。         □  金田一もそうだが、同じ県人の海軍元帥米内光政のヨナイも、東北のアイヌ語系の姓である。近ごろは、横溝正史の作品の名探偵、金田一耕助のほうが、広く知られてしまった。  江戸の名探偵、銭形平次は、野村胡堂の捕物控の主人公。毎週テレビで、大川橋蔵が主演していたが、舞台では、初代市川猿翁、十三代目片岡仁左衛門、高田浩吉が演じている。  愛読者は多く、折口信夫もよくいっていた。「オール讀物が来ると、何となく、銭形平次を読んでしまう」         □  講道館十段の三船久蔵は、少年のころ、郡役所につとめていた。上司が呼びつける時、「オイ給仕」という。三船は返事をしない。 「なぜ黙っているのだ」と叱られたら、「私はキュウゾウです、キュウジではありません」。         □  歌手の千昌夫氏が岩手の出身者で、アメリカ生まれのシェパード夫人とともにCMでイワテケーンと叫んだので、県から表彰されたというのが、何となくおかしい。 [#地付き]〈山 形〉  サクランボの季節なので、この果物を特産にしている山形県について書く。  昭和二十二年八月、地方巡幸の天皇の宿泊所として最初にえらばれたのが、上の山温泉の村尾旅館である。  その時、天皇が侍従長に、「旅館というものは、泊まるために便利にできているものだね」。         □  果物のほかにも、山形県からはいろいろな野の幸山の幸が出ている。タケノコもいい。  ぼくが明治製菓に入社して研修を受けた時、専務が会社の製品についていちいち説明した。 「缶詰では、次にタケノコ、これは山形のを特注している。羽後のタケノコです」  その時のノートに、「雨後のタケノコ」と、ぼくは書いている。         □  歌人斎藤茂吉は県の金瓶村《かなかめむら》の生まれ。生家の姓は守谷。青山脳病院長の娘である輝子夫人の聟《むこ》養子になった。長男茂太氏が父の業をつぎ、次男の宗吉氏は北杜夫という筆名で芥川賞を受け、「どくとるマンボウ」など一連の作品で世に出た。斎藤一族をモデルにした「楡家《にれけ》の人びと」という長編もあるが、輝子未亡人は、世界中を今でも旅行して歩く元気な老女である。  その言行録「快妻物語」は、茂太氏の著。中に茂吉が理想の書斎として、客間と兼用、近くに便所のあること、一隅に床を敷き、虫よけの薬を常備とあり、茂吉が小用が近く、仕事の最中ゴロリと寝る癖があり、虫に好かれる体質だったと書いている。茂吉は戦後、DDTを入手して、驚喜したそうだ。         □  喜劇俳優伴淳三郎は、東京生まれだが、父の生地米沢の方言をわざと口跡にして、ファンを納得させた。葬儀の時、山形の「花笠音頭」のテープを式場に流した。         □  串田孫一氏に「荒小屋記」という本がある。東京で空襲にあい、何の縁故もなかった新庄市の在に当たる村に家族と住み、自給自足の生活をした時の体験が書かれている。荒小屋は、村の字《あざ》である。  新劇俳優の庄司永建氏は、新庄の人で、子供のころ、東京から少年倶楽部が運ばれて来る汽車の時間を知っていて、目を輝かせながら待った話を、ラジオでしていた。いかにも風土感のある話だった。         □  天童市の特産品の将棋は、幕末の藩士吉田大八がはじめた。ウルシで書く書き駒、大正以降の彫り駒、昭和以降のスタンプ駒と種類も多い。木地はイタヤ、ハビロ、マキ、ツゲ。年産、約二百五十万組といわれる。  毎年桜まつりの時、舞鶴公園で人間将棋という催しがある。昔大名が腰元と小姓とを、駒に見立てて戦わせた故事にならい、別の場所の対局を刻々伝え、花柳界の女性と、若者が前後左右、斜めに座席を動かすのを、階段状の客席から見物する。独特のショーともいえる。  川端康成が見に行って、その場にいた芸者に名前を尋ねたら、「駒子です」といったというのは、ぼくのフィクションである。         □  月山《がつさん》という山は、森敦氏の作品で有名になり、その読み方もみんながおぼえた。  月山に近い櫛引村に生まれた富樫|剛《つよし》という少年が、のちの横綱の柏戸である。  この柏戸に相撲をとらせたのは、小学校の女の先生だった。         □  米沢に行った時、沖正宗が開発したワインをのんだ。フランスの土を運び、ブドウを植えて、長い時間をかけて醸造したという。  シャトー・モンサンというので、何のフランス語かと訊いたら、「酒造の屋号が山屋五兵衛だから略して山五、つまりモンサンです」。 [#地付き]〈沖 縄〉  六月二十三日は、沖縄慰霊の日。  具志堅、渡嘉敷というボクサーは、ともに沖縄の人であるが、この県の姓は、ほかにない独特の文字と響きを持っている。  ぼくが個人的に知っている人にも、伊波、上地、比屋根、古波蔵という姓があった。城という字のある姓は、シロと読むことにしているが、元来は、グスクと発音した。  沖縄の古典芸能、組踊りの創始者である三世紀前の玉城朝薫も、タマグスクが正しい。  NHKテレビ初期の「私の秘密」に出た人で、沖縄の話題の主がいた。玉城《たましろ》と名のったが、渡辺紳一郎が、「タマグスクさんですね」と呼びかけ、たちまち正解した。         □  昭和の初めまで、沖縄には玉城盛重、新垣松含という二大名優がいて、その二人をはじめ、代表的な人たちの一座が昭和十一年に上京した。慶応にいたころだが、ぼくも日本青年館での公演の手伝いをした。 「花売の縁」という演目に出る子役の猿の手袋を買いに行き、百貨店に子供のがないので大人のを求めて渡した。  その舞台を見た後輩の学生が丹念にノートをとっていたのを後日読んだら、こう書いてある。「猿の手袋は、すこし大きいのを使うらしい」         □  日本青年館に毎日かよったので、「花風《はなふう》」というおどりの振りを覚えてしまった。  覚えたといったら、一級上の池田弥三郎という学生が、顔色を変えていった。 「たのむから、見せないでくれ」         □ 「花風」に限らないが、沖縄の女性の舞踊の衣装も髪も、何ともいえない情感がある。その公演の時の名護《なご》愛子という踊り手の顔や姿が、いまだに目に残っている。  沖縄では少女をミヤラビという。メ・ワラベ(女童)であろう。芥川龍之介の歌に、「そらみつ大和扇をかざしつつ来よとつげけむみやらびあはれ」がある。         □  戦後政界でつよい印象を残した日本共産党書記長の徳田球一は、国頭郡《くにかみぐん》名護の生まれ、球一の球は、琉球の球だろう。  国会で質問演説に立つ時、吉田茂首相のそばを通るが、わざとツンとうそぶいてゆくのがおもしろいと、吉田はニコニコしながら語っている。この話、吉田と徳田、二人の面目を伝えて、こころよい。         □  朝鮮戦争のあと、共産党が地下に潜った時期があり、徳田の姿も消えた。  当時石神井に住んでいた劇作家の小沢不二夫は、頭のはげ方や風貌が似ているので、よく徳田にまちがえられ、尾行されると嘆いていた。  新橋行きのバスに刑事らしい男が二人いて、じっと注目している。終点直前に、小声で語る会話が聞こえた。 「どうも、違うらしいな」「そりゃそうだ。徳球が今ごろバスに乗っているはずはないよ」         □  昭和三十八年、六十歳で死んだ詩人、山之口|貘《ばく》は、戦後久しぶりに、生まれ故郷の那覇に帰った。  ふるさとびとに会い、昂奮《こうふん》して、ガンジューイ(お元気ですか)と呼びかけたら、「沖縄語お上手ですね」と、標準語でいわれた。貘は、「弾を浴びた島」という詩に、そのことを書いている。  詩作が年に四編か五編。何度も何度も、あっちを直し、こっちを直す。そして、ウンウンうなる。 「弾を浴びた島」が発表されるまで、貘は四年二カ月と、三百枚の原稿用紙を費やした。 [#地付き]〈新 潟〉 「荒海や佐渡に横たふ天の川」は文法的におかしいといわれるが、芭蕉の名句。七夕にちなんで、今回は新潟県である。  その佐渡に「野呂松《のろま》人形」というのがある。短いが、一応狂言のような筋を持った演目がいろいろあり、ひょうきんな顔をした喜之助というのが主役で、最後にこの人形が、客席のほうに放尿して終わることになっている。  仕掛けで飛ぶ水を浴びると、子宝にめぐまれるという言い伝えがあるのもおかしいが、国立劇場でもNHKでも、堂々とこの演出を公開した。それぞれ、会議で慎重に検討したそうだ。         □  佐渡という島を独立させようと、大まじめに考えている人がいたと聞いたが、その人物は、サド侯爵と綽名されているそうだ。  そういえば、東宝の元社長で、NDTの生みの親で、越路吹雪を育てた大プロデューサーで、「西部戦線異状なし」を訳した秦豊吉の筆名は、丸木砂土。いうまでもなく、マルキ・ド・サドから来ている。         □  新潟市に、美術史家で歌人で書家の会津八一の記念館がある。  秋艸道人《しゆうそうどうじん》というこの歌人には、「鹿鳴集」という、奈良の寺や仏を詠んだ作品を集めた歌集がある。格調のある名歌がいろいろあるが、釈迢空《しやくちようくう》がこういっていた。 「会津さんの歌は、全部が平がなだというところがいいのだよ。それもひとつの独創です」         □  柏崎の浜辺に、良寛堂という建物がある。坪内逍遙の「良寛と子守」の主役で、独特の書体を持ち、挿話に富んだこの僧の名を広めたのは、早稲田の教授だった糸魚川の人、相馬御風である。  安田|靫彦《ゆきひこ》の書も良寛風だが、御風のは、もっと似ている。  御風は昭和二十五年五月八日に没したが、その日、神宮球場で早法戦が行われていて、ラジオでは、早大の校歌が聞こえていた。それを聞きながら、六十七歳の御風が目をとじたと思いたい。 「都の西北」ではじまる校歌は、作曲が東儀鉄笛、作詞がこの御風だったからである。         □  太平洋戦争がはじまった時の連合艦隊司令長官、山本|五十六《いそろく》は旧姓高野。長岡藩士の家の六男だったが、父が五十六歳の時の子なので、こういう名前がついた。  阿川弘之氏の「山本五十六」もいい小説だが、カッパ・ブックスから出た長男義正氏の「父・山本五十六」も好著である。  昭和十八年五月二十一日、前日の戦死が夫人と長男にだけ告げられ、公式発表までは、極秘だった。当時の日本人には、ショックだったからである。  親しいものにもいえず、義正氏が道を歩いていると、涙があふれて来た。国民服の中年の人が近づいて、「どこか体の具合でもわるいのか」と訊く。「いえ、父が戦死したのです」とだけ答えると、相手は、それはと言いかけ、そっと去って行ったという。  この文章が、印象的である。         □  一度、十日町の成人式の日に、講演をたのまれて行ったことがある。川端康成の「雪国」の湯沢の駅から車で行った。このへんは雪が深いので、一月ではなく、青葉のころに、公会堂で式典が行われる。  十日町は織物の町で、生産高は、京都をしのぐといわれる。式場に整然と腰かけている娘さんたちの|つけさげ《ヽヽヽヽ》の着物が、いかにも見事だ。「地元だけあって、いい品物が安く買えるのですね」といったら、市長の春日由三氏が、さも嬉しそうにいった。 「これは、みんな、この人たちが自分で織ったのですよ」 [#地付き]〈山 口〉  明治の元勲で、長州出身者の数はおびただしい。  戦前の日本海軍の戦艦、陸奥と長門は、本州の両端の国名をとったのである。それで、オペラ歌手長門美保さんの愛称が「軍艦」。         □ 「山口県は、夏みかんと陸軍大将が名産」と書いたのが、佐々木邦。陸軍を生んだ大村益次郎も育てた山縣有朋も、長州人だ。  大村は暗殺されたが、その銅像が靖国神社にある。NHKの大河ドラマ「花神」(司馬遼太郎原作)で中村梅之助が巧みにメークアップしたが、大頭で眉が太く、「火吹きだるま」と綽名された骨相。銅像も似顔で作っているから、その眉に、ハトがとまっている。  大村はテレビドラマに出る前は、顔も知られていなかったが、同じ県で長府出身の乃木希典の顔は、戦争中の切手、最近は映画「二百三高地」の仲代達矢の扮装で広く知られる。  もっと売れているのが伊藤博文。これは千円札になったのだから、当たり前だろう。  博文の長男は博邦といって、美髯《びぜん》をたくわえ、ピンとはねあげていた。この博邦が大礼服で羽根飾りのついた帽子を冠った顔が、戦前、東京では町名表示板になっていた。スポンサーは仁丹であった。  伊藤家代々の墓が品川区大井にあり、伊藤町という町名だった。現在は西大井と改称。         □  明治十六年にできた鹿鳴館は、開国日本の外交上の必需品だった。伊藤博文は、ここで行われた夜会で、ローブ・デコルテを着た美女を見そめたと伝えられる。  三島由紀夫の書いた「鹿鳴館」にも、伊藤博文が登場する。誰が演じても、顔が似ている。作りやすい顔なのであろう。  近藤富枝さんの「鹿鳴館貴婦人考」(昭和五十五年講談社刊)の中に、丹念に外交文書でしらべあげた夜会食卓のメニューや、ダンスの時演奏された曲目が書かれている。         □  映画女優の田中絹代は下関の人、昭和二十四年に渡米して帰った時、夜サングラスをかけ、群衆にハローと呼びかけ、そのために反感を買った。いつぞや会った時、その話が出て、「あの時は死のうと思いました」といっていた。  この女優がNHKのことを、なぜかNHといった。NHKのテレビ小説のナレーターをしていたころ、担当のディレクターが大まじめにたのんだ。「田中先生、NHKとおっしゃって下さい。NHだけだと、ニッポン放送になってしまいます」         □  NHKの紅白歌合戦に出場した山本譲二という若い歌手は、北島三郎門下で苦節十年、歌をあきらめようと思っていた時、「みちのくひとり旅」で大ヒットした。  下関高校の選手として、甲子園に出場した経験があるが、なかなか試合には出してもらえず、九回二死後、ピンチヒッターで出て、ヒットを打ったという。同じパターンである。  その実父は下関でタクシーを運転しているが、ラジオで息子の歌がはじまると、車をとめて、一曲おわるまで、しずかに聞いているという。いい話である。         □  もうひとつ、これもNHKの番組だが、ラジオしかなかったころの人気番組に、「二十の扉」というのがあった。  九州での公開録音のかえりに、下関の駅に一行がいると、「亀の子せんべい、亀の子せんべい」と売りに来る。  レギュラー・メンバーの塙《はなわ》長一郎が、売り子に「亀の子だわしはないのかね」といった。売り子がすまなさそうに、「あいにく、たわしはありません」。 [#地付き]〈軽 井 沢〉  高原に行ってみよう。  軽井沢は、夏の避暑地として、一種の社交界の移動する先にもなっている町であるが、開拓したのは、イギリスの宣教師だった。  小川和佑氏の「文壇資料・軽井沢」によると、日本人が最初に建てた別荘は、明治二十六年、海軍大佐八田裕次郎によるもの。ホテルはその翌年、亀屋旅館主佐藤万平の「万平ホテル」だという。  万平ホテルとは、いかにも明治らしい命名だ。         □  江戸の川柳に出てくる軽井沢は、宿場の飯盛《めしもり》のことで、旅人を相手にする下級の商売女である。中山道《なかせんどう》の本陣があって、栄えた町だったにちがいない。  イギリス人が軽井沢に心ひかれたのは、故郷のスコットランドの村に似ていたからだという。日本ライン、日本アルプスと呼びはじめた西洋人と共通する心理だろう。         □  現在の軽井沢は、別荘地としては過密で、無秩序な若者が夏のさかりに歩きまわって騒々しく、西洋人はずっと前にこの町から野尻湖のほうに逃げ出した。  皇太子のロマンスが広く知られてから、テニス族が軽井沢にふえ、コートの数も町の面積に比しては大変多い。         □  軽井沢に長く住んでいた人に、野上彌生子さんがいて、浅間山のことなら、何でも知っている。鬼女山房と称する家から見える山の動静を記録したという。  軽井沢にゆく作家では、正宗白鳥に逸話が多い。堺誠一郎氏によると、白鳥のところに頼み事があって、夏に訪問したら、「冬には誰も来ないが、夏になると、大ぜい訪ねて来る」といったそうだ。         □  軽井沢を象徴する作家が堀辰雄で、「美しい村」はこの土地の風土を描いた名文。  大正のおわり、鶴屋旅館に泊まっていた芥川龍之介と室生犀星が、同宿のある夫人のために、女持ちの小さな扇子に俳句を書いていた。芥川は「明星のちろりに響けほととぎす」と書いた。  そのあと、興にのって二人はあり合わせの紙に書いて、破いたりする。たまたま芥川が「野茨にからまる萩のさかり哉」と書いたのを、そばで見ていた少年がねだった。  その少年が、堀辰雄である。役者の揃《そろ》った芝居を見ているようだ。         □  柴田錬三郎は「軽井沢は本妻の町である」と書き、十返肇は「軽井沢文学は、何となく薬くさい」といった。         □  梅原龍三郎氏は、噴煙をふきあげる浅間山を描きたいと思って、カンバスを山の見える窓際に立て、毎日待っていたが、なかなか爆発しなかった。  それとは逆の話だが、ぼくがある夏、神津牧場のかえりに、軽井沢まで出たら、突然、浅間山から煙がふき出した。「あなたは運のいい人です」といわれたが、幸運なのかどうかはわからない。         □  ぼくが祖母のいる沓掛《くつかけ》(軽井沢より一つ先で、いま中軽井沢という)に行ったのは、小学生のころだが、碓氷峠を登る汽車は、当時アプト式鉄道といった。軌道の中央の棒と車の歯車をかみ合わせ、坂をすべらぬように仕掛けたもので、アプトは、スイスの技師の名である。 [#地付き]〈伊 豆〉  伊豆へゆこう。  徳川綱吉の治世下、伊豆から回航された御用船の安宅丸が、夜な夜な伊豆へ帰りたいと泣くというデマを飛ばした悪人がいて、「黄門記」にも出てくる。その泣き声をまねて、「伊豆へゆこう」。  なお、この船の繋留《けいりゆう》されていた町が、深川の安宅町である。         □  伊豆というのは温泉と海と山。川端康成の「伊豆の踊子」は五回映画化された小説で、いまの東海道線には踊り子号という特急が走っている。  源実朝の名歌は、「箱根路をわが越え来れば伊豆の海や沖の小島に波の寄る見ゆ」。         □  昭和二十三年の近江俊郎の大ヒット曲「湯の町エレジー」は、野村俊夫作詞、古賀政男作曲、「伊豆の山々月あわく」ではじまる。  ぼくはこの二番の「ああ相見ても晴れて語れぬこの思い」の個所を、なぜか「相見てののちの心にくらぶれば」と誤っておぼえていた。百人一首と混同したのである。         □  伊豆の温泉はゆたか。イズという国の名も、イデユの動詞、イヅ(旧かな)が語源だろう。  土地の名所や旅館名をガイドする本に、むかし「伊豆の番頭」というのがあって、うまいネーミングだと思った。  思い出したが、やはり伊豆に、肩こりに塗る水薬があって、「按摩《あんま》のびんづめ」と称していた。子供のころ、何だろうと思った。         □  戦前はよく、伊豆を旅して、古風な旅籠《はたご》などの戸袋に、波に日の出といった絵をしっくい細工にしたのが目についた。そういう細工の名人で、伊豆の長八という人がいたために、方々の村に作品が残ったのだ。         □  天城の麓の湯ヶ島町に、井上靖氏が六歳の時から育った旧宅が残っている。  大正七年、二高在学中の川端康成が、湯ヶ野の湯本館の共同湯に踊り子がはいっているのを見た。その宿の隣の共同湯には、村の男の子が毎日はいりにゆく。  川端、井上という二人の作家が、ここですれちがったであろうと、大谷晃一氏の「文学の土壌」は想像している。         □  韮山《にらやま》に反射炉の旧跡がある。この設備を作った江川太郎左衛門の孫が辰野|隆《ゆたか》夫人で、辰野博士はそのことを、うれしそうな顔で、ぼくに話してくれた。         □  修善寺温泉の新井旅館には、初代中村吉右衛門がよく泊まっていた。天平《てんぴよう》風呂へゆく廊下が、どこかで見た建物に似ているので尋ねたら、「二条城を模したので」。清正を当たり芸にした播磨屋が喜ぶわけだ。  大正十四年五月、ここに芥川龍之介が逗留《とうりゆう》したが、佐佐木茂索に書いた手紙に、同宿の泉鏡花夫妻が離れにいる絵を描いたり、ざれ歌を書いたり、上機嫌である。  歌は「思へば九月一日の、地震に崩れかかりたる、門や土塀を修善寺の」ではじまる。         □  佐佐木茂索がふさ夫人と昔、吉奈温泉のかえりのバスで、幸田露伴夫妻と同車、露伴が大声でワサビや椎茸の話を夫人にしているのを聞いているが、挨拶はしなかった。のちに座談会の時、露伴にその話をしたら、「そうでしたな、たしかハイカラな奥さんと一緒で」。  戦争直後、露伴が伊東の松林館に泊まっている時、その土地にいた佐佐木はいろいろな食物を届けた。岩波の小林勇が、その伊東に来た時、露伴は「佐佐木という人は、親切な人でね」といった。 [#地付き]〈大 阪〉  七月二十五日、大阪最大の祭礼である天神祭が行われる。橋が近代化したため、昔のような船渡御《ふなとぎよ》が行われなくなったとはいえ、船の列が桜の宮まで列を作ってのぼってゆくけしきは壮観である。  ある年、天神橋のところから船にのせてもらい、祭りに参加したことがある。途中で、文楽の竹本土佐大夫の船とすれちがった。 「船別れだすな」と声をかけて行った。「朝顔日記」の一段の名前でいったところがいい。         □  大阪方言事典というのは、四天王寺の僧、牧村史陽の労作で、昭和三十一年に千円の本だったが、全巻大阪人が自分の言葉に持つ愛着があふれていていい。  カマトトまで出ている。これは宝塚歌劇の生徒からおこったと書いてある。ガメツイというのはない。これは菊田一夫が「がめつい奴」を書いてから流行させた言葉。麻雀のガメるから来たという説もある。         □  大阪方言にモッサリというのがある。高安吸江によれば、語源は目くさりだとある。やぼくさいことで、やはり大阪の洋画家小出楢重は、下手な模倣を評して、「モッサリしたヴラマンク」といった。  宝塚の「ローズパリ」の劇中歌「モンパパ」に「うちのパパモッサリ服、うちのママ流行の服」というのがある。白井鐵造氏が大阪弁を使ったのである。         □  ついでに小出楢重が「めでたき風景」の中に書いている名言。 「大阪人は浄るりさえ語らしておけば、一番立派な人に見える」         □  東京人の谷崎潤一郎が、大正十二年の大震災のあと、関西に住んで、「蓼《たで》食う虫」「春琴抄」「細雪《ささめゆき》」という、上方風土を背景にした名作を書く。「卍《まんじ》」は大阪の女のレズ(当時は使わなかった言葉)を描写しているが、女が女の肌を評して、アンペイのようなと書いているのがわからず、調べたら、ハンペンだった。         □  大阪の棋士で名人といわれた坂田三吉を、大阪出身の北條秀司氏が「王将」という戯曲にした。演出の時、将棋をさす場面に関して、作者はノーコメント。北條氏は、将棋について、何も知らなかったからである。         □  織田作之助の「夫婦善哉《めおとぜんざい》」の蝶子は、ヤトナである。ヤトナは、雇い仲居の略称で、宴会に出張して配膳するほか、三味線をひいたり歌ったりもする。  明治三十九年に、ヤトナの組合が出来た時、料金がきまった。当時の金で、普通三円、婚礼五円、黒紋付十円。ヤトナは夫はいるが子供はいないという女性が多く、独特のふんい気がある。  岸本水府の川柳に、「連れ立って帰るやとなは世帯じみ」。         □  初代中村鴈治郎の時代、松竹の作者だった食満《けま》南北の家で書生をしていた長谷川幸延も、きっすいの大阪人である。  青山のバーでのんでいる時、幸延が酒の肴《さかな》に出た小皿をほめて、 「ここの揚げ物はいつもうまいなァ」  おかみが喜んだら、 「しかし、ここの水割りは、いつも、うすいなァ」         □  大阪の画家鍋井克之は、随筆家としても一流だが、素人しばいもなかなかうまかった。顔も似ていたが、市川寿海の役柄でよく舞台に出た。  写真を見せてもらった時、「寿海そっくりですね」といったら、 「向こうが、私に似てますのや」 [#地付き]〈青 森〉  八月三日から七日まで、青森県で行われる「ねぶた」は、秋田市の竿燈《かんとう》、仙台市の七夕祭りとともに、東北夏の三大行事で、毎年テレビでも中継される。  青森市のが組ねぶた、弘前市のが扇ねぶたといわれ、大きな絵の描かれた行燈《あんどん》が囃《はや》されながら町を練り歩く。 「ねぶた流れろ」といい、眠りたがる悪霊を追い払うという考えからはじまっている。         □  弘前に親類がいるので、学生のころ、そのねぶたを見に行ったが、上町と下町で、石合戦をしていたので、これがまた別の見ものだった。暴動でもおこったのかとあわてて雨戸を閉めたら、笑われた。  その旅行の時、下北半島の最北端の大間という町まで行ったが、宿屋がないはずだからといって五所川原から紹介状を携え、警察署長の官舎に泊まった。  帰京して母に「大間では、警察に泊めてもらった」といったら、顔色を変えて、母がいった。 「一体、お前何をしたんです」         □  津軽の訛りには馴《な》れている。  青森市に生まれた劇作家寺山修司氏に初めて会った時、「君は津軽ですか」と訊いた。  だいぶ経ってから、寺山氏がいった。 「初対面で青森弁のことをいきなりいったのは、戸板さんだけですが、だから、はじめから、気楽なんです」  歌手で小泊出身の三上寛氏が、寺山氏のこわいろをいかにも寺山氏のいいそうな言葉で、こしらえ、それをタモリ氏が継承して、芸にした。作家の声帯模写が芸になるというのは、あまり、例がない。         □  津軽は藩主の姓で、同時にこの県の西の地方の総称である。  金木出身の太宰治が、昭和十九年、小山書店の新風土記叢書のために書きおろした「津軽」は好きな本だが、これを書く前に、兄で政治家の津島文治に、 「参考書はありませんか、名所案内でもいいのですが」  と尋ねたというのが、何とも、おかしい。         □  津軽の人の姓は、何となくわかる。鳴海、工藤、佐藤が多い。今、小山内、福士も、東光、薫、幸次郎といった文学者の姓で、青森県がルーツである。  十和田湖の近くの蔦温泉に墓のある大町桂月は、じつは土佐の人。ぼくが戦前行った時、奥入瀬《おいらせ》渓谷に沿って走るバスのガイドが、桂月が書いた文章を、のべつに朗誦していた。         □  ブルースの女王、淡谷のり子は、青森の呉服屋で生まれた。歌では訛っていないが、話し方は純粋の津軽弁で、それをいかしてテレビのCMに出た。文学座の太地喜和子が淡谷の伝記劇を演じて、ムードが似ているのにおどろいた。  淡谷の回想記をいろいろ読んだが、おもしろいのは、地方に巡演した時の話である。降りた駅にポスターが貼《は》ってあった。「ズロースの女王来る」         □  相撲のさかんな県で、名力士、若乃花(先代)と栃ノ海が、二人とも津軽、しかも花田という本名である。  二子山親方になる前の若乃花が、このごろの力士はすぐ土俵を割ると嘆いたあとにいった言葉。 「土俵の外が断崖絶壁だと思って、ふんばればいいのです」  もうひとつ同じ親方の名言。ちょっとした負傷で休場するなという戒めに、 「土俵の怪我は土俵でなおせ」。 [#地付き]〈兵 庫〉  八月に関西に行くと、甲子園の高校野球を一回は見た。この甲子園の名称は、できた大正十三年の干支《えと》が甲子《きのえね》だったからで、六甲の甲とは関係がない。甲子園の名物をファンにラジオで語らせていたが、一に浜風、二が敗戦校チームの持って帰る砂、三がスタンドで売る氷(カチワリという)、そしていつも見られるとは限らないが、PL学園の人文字だそうだ。 「甲子園の砂」がいつはじまったのか、どの学校が最初にしたのか、明らかでない。  わかっているのは、大会本部が砂をわざわざ、ベンチの前に用意することである。         □  明治二十五年に、一軒の小屋しかなかった宝塚の寒村を湯治場にした。四十三年、箕面《みのお》有馬電気軌道という私鉄ができた時も、農家が数軒、わずかな客を泊める程度だった。大浴場を作り、遊園地にしたのが、四十四年。  小林一三は、そういう場所を開拓したのは、電車に客を乗せるためだと説明している。  室内プールを設置したが、利用者がいないので、その空間で余興をはじめることになり、三越の少年音楽隊をまねてはじめたのが少女歌劇で、初公開は大正三年四月だった。         □  新国劇の辰巳柳太郎が、五十年前に一時、宝塚国民座にはいって、宝塚の芋屋の二階に下宿していた。  井戸端で米をといでいると、「手つきがいいね」とほめてくれたのが、隣に住んでいた天津乙女だった。  これが、ほんとうの「筒井筒《つついづつ》」の仲。辰巳は播州|坂越《さこし》の人である。         □  神戸の生田神社に、英文のおみくじがあって、外国人に好評である。自動販売機で出てくるが、大吉が「エクセレント・ラッキー」。  宮司のコメント。「国際親善のためですから、凶はありません」         □  神戸の洋服屋の家に生まれた中国人の少女が、宝塚にはいってトップスターとなる。鳳《おおとり》蘭で、愛称ツレは、本名荘芝蘭の中国読みから来ている。珍談の多い女性だが、ファンの大会で「シェーン」の主題曲を歌っている時、どうしても歌詞が出てこない。そこで腹をきめて、「歌詞を忘れたよゥ、ラララーン」と歌ったのだが、それがそのまま、レコードになってしまった。         □  谷崎潤一郎の「細雪」にも、その風土が的確にえがかれているが、阪神間の住宅地、芦屋の周辺は、大宅壮一をして「日本の特等席」といわせた町で、大阪の大きな商家の主人が住んでいる。  丸尾長顕氏に「芦屋夫人」という小説があり、流行語になった。この土地には、宝塚の熱烈なファンが多く、ロウケチ染がさかんになったのも芦屋からだったと伝えられる。         □  淡路島に行った時、岩屋の町で食事をした。その料理屋の女将《おかみ》が挨拶に来て、「うちの息子が、東京で芝居のまねごとをしてまして」という。  学生演劇でもしてるのかと思って、「大学はどちらですか」と尋ねたら、「あの、山口崇と申すのですが」。         □  姫路の公園に、この市の出身者で名誉市民に最初に推された詩人、三木露風の「赤とんぼ」の碑が立っている。山田耕筰作曲の童謡は、NHKのラジオでも主題曲にしているほど有名だが、標準語としての「赤とんぼ」のアクセントを、この曲が教えているといわれる。  吉行淳之介氏が先ごろ、この曲がシューマンのピアノ・コンチェルトの或る部分にそっくりだと書いたので、ちょっとした騒ぎだったらしい。しかし、これは露風とは関係ない。 [#地付き]〈徳 島〉  いま八月十二日から四日間、盛大に行われる阿波踊りは、民俗芸能の中で世界的にも広く知られている。蜂須賀家政が築城した時、町民が祝っておどったのがはじまりというが、阿波踊りという名称は、昭和初年、林鼓浪の命名という話で、古くはない。  しかしいまは一般名詞に近い。トルコ風呂の泡おどりという俗称が、パロディとして存在することでもわかる。         □  蜂須賀家は、小六という人物がいわば野盗のようなものであった。しかし若き日の秀吉が、禄を与えられたという縁で大名になったわけだ。  明治時代、大名華族が御所に集まっている時、蜂須賀|茂韶《もちあき》侯が、謁見の間の控え室にあった葉巻を一本口にくわえ、もう一本を押しいただいて内がくしにしまったのを見て、同席の誰かが、「さすが、お家柄だな」とひやかしたという話があり、それがいつしか、天皇が笑いながらからかわれたという伝説になっている。しかし、これは、ちょっといい話だ。  茂韶を父とする蜂須賀年子の「大名華族」という本は、おもしろい文献である。         □  浄瑠璃の「阿波の鳴門」や、吉川英治の「鳴門秘帖」の鳴門。鳴門海峡で、潮流の落差によって生じる海水の渦が奇観で、徳島の港から、それを見る観潮船というのがしじゅう出ている。  初代猿翁の弟の市川小太夫と講演旅行に行っている時、「カンチョウは、まだなさいませんか」と宿の主人に問われて、おどろいた記憶がある。丁度、便秘していたわけではないが。  小太夫と船で鳴門を見て帰る時に、「観潮船殺人事件」というのはどうですかといわれた。小太夫にそういう小説の構想があったのかも知れない。役者ではあったが、同時に、この人は探偵作家だったからである。  筆名は小納戸容、コナン・ドイルなのだ。         □  阿波踊りの時に、いろいろなグループが、おどってゆく。その仲間を「組」といわず、「連《れん》」と呼ぶ。  徳島出身の武原はんさんが、戦後、久保田万太郎主宰の俳誌「春燈」に毎月投句して、筆名を「青山れん」としていたのは、この連だったのではあるまいか。  おはんさんは、かつて青山二郎夫人だったからである。         □  昭和五十四年に病没した小田仁二郎は、かつて徳島生まれの瀬戸内晴美さんと結婚していたのだが、その死後、瀬戸内さんが小田のために文章を書き、記念誌を刊行している。  それがじつに自然に行われるのは、二人の間に離婚後もかよい合った心持ちが美しかったせいもあるが、ひとつには、瀬戸内さんが仏門にはいっているためでもあろう。  京都嵯峨野鳥居本にある寂聴尼の庵《いおり》に、近くに住む片岡仁左衛門が詣でて、だまって拝んで帰ってゆくそうだ。         □  円地文子さんと瀬戸内さんは、ある時期、東京大塚のマンションの上と下に、仕事場を持っていた。  瀬戸内さんが髪をおろすと聞いた時、円地さんがすぐ尋ねた。 「あなた、あんなにたくさんある着物を、どうなさるの」         □  浮世絵の東洲斎写楽の伝記は、ハッキリしていない。  天才をねたまれて腕を切られたとか、じつは葛飾北斎だとか、版元の蔦屋重三郎だとか、足かけ二年たらずで筆を折った理由もわからない。謎《なぞ》の絵師である。  定説は蜂須賀侯お抱えの能役者だというのだが、史料はとぼしい。墓は徳島の本行寺にある。 [#地付き]〈石 川〉  九月三日は、能登半島一の宮に墓のある、歌人釈迢空の忌日。  金沢は三大作家の出身地で、近代文学館で東京以外に最初に出来たのが、石川県であった。しかも、館長は女性(文学史家・新保千代子さん)である。  まずその第一が、泉鏡花だが、近年鏡花文学賞が制定され、近代文学館から「鏡花研究」という雑誌も出ている。 「滝の白糸」で女主人公が村越欣弥と会う場面を、鏡花は新派の舞台では卯辰橋とした。小説では天神橋なのだが、「プログラムの上にすわったりする人がいると、天神様にわるいから、名前を変えました」。         □  その天神橋の近くに、古い遊廓がある。  映画評論家の筈見恒夫父子と三人で金沢に行った晩、そのくるわは大変に賑っていた。なぜなら、それは昭和三十三年三月三十一日で、遊里閉鎖の最後の晩だったからだ。  しかし、行ってみたかったが、やめた。筈見がつぶやいた。 「ゆきたいが、子供を連れてもゆかれないし、宿屋に一人置いてゆくわけにも行かないしな」  その「子供」が、親のあとをついで、評論を書いている筈見有弘氏である。         □  二人目の作家が、鏡花と同じく、尾崎紅葉に師事した徳田秋声。秋声の描く女性像は絶品だが、その言葉にこうある。 「私は芸者を風俗的に描こうとは思わない。芸者と令嬢との間に、本質的区別が、私にはない」  村松梢風は秋声を、「まったく気取りというものがない人だ」といっている。         □  三人目が室生犀星。犀川の犀を号に入れている。  三人の作家が、いろいろな角度から、女性を書いていて、微妙なちがいを示している。  犀星のひとり娘で「杏っ子」のモデルの朝子さんが、「四季との語らい、金沢そして能登」という風土記を書いたのが、おもしろい。         □  石川県から出た永井柳太郎という雄弁家がいる。  憲政会の代議士として、議会で演説をし、「西にレーニン、東に原敬」と名調子で述べたのは、いまだに語り草になっている。  永井は、郷土の古人で豪商だった銭屋五兵衛と、母校早稲田の創始者である大隈重信を、劇に書いている。  元文部大臣永井道雄氏の父である。         □  石川県は加賀と能登だが、加賀は加賀の国の住人という「勧進帳」の富樫のセリフで、子供の時から耳になじんだ地名である。  安宅の関の旧跡に、その「勧進帳」三役の陶像がある。銅像でなく、九谷の陶像なのが珍しい。  ここで売っている「関所せんべい」の箱の絵が、何とも大正の味で、よかった。  せんべい屋の老女がいった。 「まだ、本物の勧進帳を、私は見てないのですよ」         □  松任《まつとう》の町にある加賀の千代女の旧跡に、例の「朝顔」の短冊があるが、「朝顔や」となっている。朝顔につるべをとられて、花をいたわった女が隣の水を貰ったという定説が狂いそうだ。 「朝顔や」となると、つるべを悪童に隠された娘が、やむなく貰い水をしたともいえる。  角川源義がたてた説である。 [#地付き]〈富 山〉  九月一日に富山県|八尾《やつお》で、「風の盆」という町をあげての祭りがある。大正時代はニワカが主役だったが、今は、おわら節である。  このおわら節は、「一本刀土俵入」のお蔦が歌うので、耳になじんだ曲である。  富山県の旧国名の越中は、一メートル弱の簡易化したフンドシの通称。細川忠興が発明したといわれる。  テレビのクイズで、あと一問あてればハワイヘ行くという時に「クラシック・パンツとは」という問題が出たのに、フンドシと答えるのがいやで、わかっていたのに棄権した女子学生が、去年、評判になった。  淑女はまだいたようである。         □  越中富山の薬というのは、出張販売で、渋紙の袋に入れて、家々戸別にくばり、一年目に回収にゆき、その間に服用された分の代金を受けとる独特な商法。壁にかけた袋がぼくの家にもあった。  角川書店が、女性文化講座の時、一応配本して、読まなかったら返してもらうシステムをとったのは、この県水橋町出身の社長角川源義が、売薬とおなじ手を用いたのである。         □  角川源義が国学院大学を卒業する年、友人と論文を書きに、氷見の近くの柳田という村に行った。  ヤナギダという電報が来て、高岡まで迎えに来いというので、行ってみると旅の帰りの柳田国男であった。「柳田という村が見ておきたかった」というのだ。  大あわてで大掃除をして、とにかくこの大学者を学生の合宿に案内、一夜明けた朝、部屋をのぞくと、柳田国男が大きな目をあけて、天井を見ている。 「くもの巣が残っていてすみません」というと、ニッコリ笑って、 「私は野鳥を聴いているのです」         □  魚津は蜃気楼《しんきろう》で有名である。  この天然現象は、土地が限られているばかりでなく、毎年何月何日に出るとは限らないので、漆間元三氏の「習俗富山歳時記」にはのっていない。  蜃気楼は、大気の密度のちがいによって、反射光線が空中にひとつの風景を写しだす現象で、むかしは大きなハマグリが、景色を吐き出すのかと思ったらしい。  だから、中国では蜃楼ともいい、和訳して、カイヤグラといった。         □  池田弥三郎が慶応の教壇をおり、魚津に開かれた洗足学園の短大を作りに行った。  着いて間もなく、蜃気楼があらわれたが、予報が出て、テレビのカメラが待機、魚津の町がそれを見るために朝からざわめく様子を、「魚津だより」という最後の著書に書いている。  昭和五十五年五月十二日に漁港から撮影したその蜃気楼の写真ものっていて、珍品である。  漠然と、ゴビの砂漠の景色でも出るのかと思う人がいるそうだが、日本海をへだてた対岸のソビエトの景色が出るのだ。  池田からの来信に、「魚津は親切な町です」とあった。         □  世界演劇祭が開かれた場所は、富山県東|礪波《となみ》郡|利賀《とが》村という山の中である。  鈴木忠志氏が早稲田小劇場の本拠を移し、都市に集中している演劇文化を地方に浸透させようとして数年前にえらんだ。  フェスティバルは、六カ国十三の公演が参加し、さかんなものだった。早稲田小劇場がどうしてこういう村を発見したのか。  ふと考えたら、方角が都の西北であった。 [#地付き]〈愛 媛〉  松山は、九月十九日が忌日の正岡子規の郷里だが、じつに多くの俳人を出している。高浜虚子は、「ホトトギス」をついだ直系の弟子だが、新傾向に走った河東碧梧桐。そのほか、年代順にいうと、内藤鳴雪、柳原極堂、五百木瓢亭、寒川鼠骨、近い時代で石田波郷と中村草田男氏。  虚子は碧梧桐について、「二人の関係は、二つのコマみたいなもので、ぶつかったり離れたり」と述懐し、そういう意味の句を作っている。         □  松山中学に英語を教えに行った夏目漱石の「坊つちやん」は多く読まれ、モデルが誰だという噂が、申し送りになっていた。この小説、松山の方言を広く流布もした。  漱石が熊本の五高に転任したあと、この中学にはいった安倍能成は、謡曲をおなじ宝生新に教えられていたため、その山房に出入りし、漱石門下四天王の一人といわれたが、気骨のある哲学者だった。  戦後文部大臣の時、旅行に出る天皇を見送りに行った原宿駅の待合室で、MP(米軍憲兵)が煙草を吸っていたら、「ノースモーキング」といって、手をのばして、くわえている口から離させたという話がある。  安倍は鉄道唱歌を延々と歌う人だったが、「汽笛一声」ではじまるこの歌詞を作った大和田建樹も同県宇和島の人。そういえば、新幹線を作った十河《そごう》信二は、新居浜の人だ。         □  松山から道後にゆく途中、軍人の銅像があったので、近づいたら、日本海海戦の時、三笠にのっていて、バルチック艦隊発見を報ずる電文に、「本日天気晴朗なれども波高し」という短文を付け加えた海軍中将秋山|真之《さねゆき》だった。  東城鉦太郎の日本海海戦の油絵で、秋山の姿だけが実際とちがっているそうだ。じつは、陸軍下士官のように上衣の上からバンドをしめ、剣を吊っていた。六尺ふんどしをしていたため、これが都合のいい格好だった由。  秋山は子規と親友で、神田の同じ下宿にくらしたことがある。子規が死病の床で着ていた羊毛の蒲団は、ロンドンに行っていた秋山から贈られたものである。  秋山が洋行する時の子規の句に、   君を送りて思ふことあり蚊帳に泣く         □  道後温泉に、ホテル奥道後があり、佐世保造船再建にのりこんだ坪内寿夫氏が、何もない渓谷に建てた細長い建物と、付設の遊園地がある。  ずいぶん長い建築ですね、といったら、 「私は造船からはじめたので、ホテルも船みたいになったのです」  柴田錬三郎の「大将」は、坪内氏がモデルだった。         □ 「大将」より前に、獅子文六の「大番」という長編がある。株屋で名物男、ギューちゃんと綽名された相場師を主人公にした作品だが、その郷里は宇和島となっている。この作者は、宇和島の近くの岩松という町に、昭和二十年、戦争がおわってから再疎開して、二年住んだ。 「大番」と「てんやわんや」は、そこにいたために書くことができたともいえる。         □  宇和島は、伊達家十万石の城下町である。 「宇和島騒動」という事件で、犠牲になった家老の山家清兵衛は、その怒りをしずめるため和霊神社に祀《まつ》られているが、この山家は、ヤンベと読むのが、めずらしい。 [#地付き]〈鹿 児 島〉  鹿児島県から出た人材は多い。長州とともに、薩摩が明治維新をなしとげた国だからでもあるが、島津藩は徳川の治世下、独立の気象があり、意識して独特の言葉を使ったともいわれる。  その薩摩言葉は、東京人には、テレビやラジオのはじまる前にも、耳になじんでいた。  警察官に鹿児島人が多かったからで、「オイコラ」という呼びかけも、薩摩弁から出たという説がある。         □  お国かたぎが、男は武骨だったという概念があり、西鶴、近松、並木五瓶から岡鬼太郎に至る「五大力」の世界、つまり小万源五兵衛の物語では、恋愛の場面のふんい気に似つかわしくない男が描かれている。  西鶴の場合は、娘が女ぎらいの男に男装して近づくという、ふしぎな設定まである。         □  薩摩と名のつく絣《かすり》、焼酎、そしてその原料の芋。鹿児島県では、サツマイモといわずにカライモという。岡部冬彦氏が話していた。 「ナポリに行った時、スパゲティ・ナポリタンといったら、妙な顔をされました」  桜島のある鹿児島とナポリとが、姉妹都市になっているので、この話はおもしろい。         □  子供のころ、 「はたち(廿)ばかりの小座頭《こざとう》(※[#「こざと」])が、立って生まれてチョボ一ボウ、林の下から手を出した」  という言い伝えを、小学校で教わった。  薩摩という文字を、こうしておぼえるというのだが、この二字をまちがって書くと、叱られるというような感じが、あったのかも知れない。         □  鹿児島県にも、沖縄と同じように、この土地らしい姓がある。伊集院、伊地知、迫水、それに東郷、西郷、南郷、そして北郷《ほんごう》。  東郷平八郎、西郷隆盛について今さら書く必要もないが、若い世代は、東郷だと画家の青児、その子で歌手のたまみ、西郷だとやはり歌手の輝彦をまず思い出すようである。         □  西郷吉之助という祖父の名をそのままついだ政治家は、見るからに隆盛の孫らしい偉丈夫である。  鹿児島市の城山にも、上野よりもっと堂々たる隆盛の銅像があるが、旧跡の案内役をしている老人が、西郷さんそっくりだったので、おどろいた。  そういえば、大口出身の海音寺潮五郎(本名は末富東作)も、西郷型の体格の作家で、長編「西郷隆盛」を書いている。         □  かならずしも父の仕事を世襲しなかった人が多い。  陸軍の大山巌の子の柏《かしわ》氏が考古学者になり、海軍の東郷平八郎の子が菊づくりになった。  大蔵省の高官有島武の子に、武郎、生馬、里見※[#「弓+享」]という三人の兄弟作家が出ている。武郎の長男が俳優の森雅之である。  明治の元勲吉井友実の孫に歌人吉井勇。大久保利通の孫に歴史学者の利謙。元老になった松方正義の末子が共同通信社長かつ山岳家の松方三郎。本名は十三郎、じつは十三男であった。         □  明治十年九月二十四日、城山で自刃する前に、西郷のいった言葉、「東京はどちらでごわす」。  大山巌は大正五年十二月十日に死んだが、臨終の直前に、柏氏に「雪の進軍」の軍歌レコードをかけさせて聴き、「愉快じゃった」といって目をとじた。 [#地付き]〈埼 玉〉  九州の薩摩芋に対して、東京人の芋は、川越方面の埼玉県のが多い。戦後、リュックサックを背負って買い出しに行った経験も、ないわけではない。  芋畑を見たことのない山の手の子が、こんなにドクダミが生えているといって、ひどく叱られたという話を聞いた。母親が散々あやまって、売ってもらったそうだ。         □  川越には喜多院に、江戸時代のいい建築があるばかりでなく、町に昔の江戸の祭礼のふんい気が、そのまま缶詰のように、保存されている。  数年前、永井龍男氏と同行して、秋の祭りの日に行ったが、山車《だし》の前を、手古舞の女性がゆっくり歩いてゆく姿を、はじめて実感した。 「縮屋新助」の美代吉よりは、だいぶ年増のねえさんたちだった。         □  春信を思わせる美女を描き、舞台装置と新聞小説の挿絵に独特な画風を示した小村|雪岱《せつたい》は、東京育ちだが、出身地は川越で、だから先年最初の回顧展が、大宮の県立美術館で催された。  雪岱は酔ってごきげんになると、両手の指で唇を左右にぐっと引いて、妙な顔をするくせがあった。  歯垢《しこう》をとるようにとすすめる歯磨のCMをテレビで見て、その顔を思い出す。         □  大宮に生まれたモダンダンスのアキコ・カンダのために、「小町」という台本を書いたことがある。  新聞社の若い記者が、「そういえば、アキコさんは、大宮でしたね」といったら、「ハイ私は大宮です。小野小町は大宮びとでした」         □  埼玉県人としての大物は、渋沢秀雄氏の父で、敬三氏の祖父に当たる渋沢栄一元子爵。幸田露伴が正伝を書いた明治の先達で、文明開化期にこの人が開拓し経営した事業は、数百といわれる。生地は深谷に近い血洗島という珍名のところ。  秀雄氏が「攘夷論者の渡欧」という本をまず書き、戦後「父・渋沢栄一」(実業之日本社刊)、「渋沢栄一」(時事通信社刊・一業一人伝)を書いた。  幕末、一橋藩士で、徳川昭武に随行したフランスから明治元年に帰国して、静岡県勘定組頭を命じられたのが二十九歳。年譜を見ると、九十二歳で死ぬまで就任した役職が百四十七、七十歳の時辞任した会社の役職が五十九あった。  その年譜に、実業界での就任辞任は、第一銀行以外、書いてない。         □  秀雄氏は、父がいった言葉をいろいろ書きとめているが、「私がもし一身一家の富むことばかりを考えたら、三井や岩崎(三菱)にも負けなかったろうよ」。  そういったあとで、「これは負け惜しみではないぞ」。         □  大佛次郎の「激流」は、渋沢の伝記小説だが、一高の学生が渋沢の二号の宅を発見して、噂話をする話がある。  のちに秀雄氏が父の明治四十年代の日記に、しばしば「一友人ヲ問ヒ帰宅ス」とあるのを見たが、これが愛人のことだったという。フランス語の「アミ」の意味なのだろう。         □  真山青果が、「将軍江戸を去る」を書く前に、渋沢栄一を訪ね、フランスから帰国早々駿府(静岡)の宝台院に幽居している元将軍に面謁した時の話を、二時間聴いた。  明治元年冬、その寺の一室で頭をさげていると障子があく。家臣が御出座と告げるのかと思って顔をあげたら、それが慶喜だったという。ちがう場所にして、青果の劇はその情景を巧みに表現している。 [#地付き]〈島 根〉  十月には、八百万《やおよろず》の神が出雲に集まるという言い伝えがあり、日本諸州の神が不在になるので、旧称を神無月、カミナヅキが転じてカンナヅキ。ただし出雲の国だけは、神有月《かみありづき》といった。  大社の正殿の両側に、十九社ずつの小さな祠《ほこら》がある。神様の宿泊する宿である。  俳句の季題に、「神の留守」というのがおもしろい。万太郎の句に、「神の留守今戸の狐ならびけり」。         □  古事記にある歌から、出雲の枕ことばが「八雲立つ」または「八雲さす」。  ギリシャ生まれのイギリス人、ポーリック・ラフカディオ・ヘルンは、松江中学で英語の教師をし、土地の女性小泉節と結婚したが、五年のちに帰化申請、小泉八雲と改名した。没後の戒名も、正覚院浄華八雲居士。長男の一雄は、ラフカディオのカディオをもじったのである。         □  徹底的に日本的な生活を好み、ハイカラな風俗を嫌った。東京帝大の講師になってから、日本橋に買い物にゆき、「これいくらですか」と日本語で尋ねたら、女店員が英語で返事をしたので、顔色を変えて出て来てしまった。         □  八雲の死後、二十五年生きて、昭和のはじめに死んだ節夫人が、思い出話にこう語っている。 「ヘルンの好きな物。西、夕焼け、夏、海、遊泳、芭蕉、杉、淋しい墓地、虫、怪談、浦島、蓬莱《ほうらい》。場所ではマルティニークと松江、美保関、日御崎、焼津。食べ物と嗜好品ではビフテキとプラム・プリンと煙草。嫌いなものは、うそつき、弱い者いじめ、フロックコートとワイシャツ、ニューヨーク」         □  歌舞伎の始祖は、出雲大社の巫女《みこ》で、土地の鍛冶屋の娘のお国と伝えられる。  戦後、この女を主人公として花田清輝が「ものみな歌で終る」という戯曲を書き、別に前進座で津上忠氏劇化(有吉佐和子原作)の「出雲のお国」が舞台に上がった。  かつて、明治四十三年七月の歌舞伎座で、市川|女寅《めとら》が六代目市川門之助を襲名した時の新作狂言に、伊原青々園が「出雲の阿国」を書いた。  伊原が島根県人だというほかに、おもしろいのは、この門之助も同県人だったのである。         □  出雲の民謡|安来節《やすぎぶし》を大正のはじめに、日本中にひろめたのは、初代の渡部お糸。  東京に進出させ、浅草に定打ちの小屋を出すように斡旋《あつせん》したのは、島根県人であった、内閣総理大臣若槻礼次郎である。         □  出雲とちがって、同じ県でも、石見《いわみ》は、言葉までちがうようだ。  気風もガラリと変わる石州亀井藩の城下町津和野は、近年人気の出た観光地だが、この土地からの出身者としては、森鴎外、徳川夢声、新劇女優の伊沢蘭奢。作家伊藤佐喜雄はこの蘭奢の子で、母親によく似ていた。  鴎外については、弟の潤三郎、妹の小金井喜美子、長男の森於菟、長女の森茉莉、次女の小堀杏奴、三男の森類と親族がそれぞれ書いて、みなおもしろい。         □  類氏の「鴎外の子供たち」の中に、鴎外が西欧の戯曲の翻訳の時、口述筆記させた鈴木|春浦《しゆんぽ》のことが出て来る。  衣紋をぬいた和服で、鴎外の前にすわり、信玄袋から出した紙と鉛筆で、机を使わずに書きとったが、鴎外のほうは縮《ちぢみ》のシャツに軍袴《ぐんこ》でキチンとすわり、片手で洋書をもち、葉巻をふかしながら、 「母、それは何という返事だい、マル」  という。  春浦が復誦しながら書いてゆく、というのだ。目に見えるようだ。 [#地付き]〈山 梨〉  ブドウの季節にちなんで、甲州。甲斐《かい》の国は山峡のカイという意味であるが、県になって山梨となったのは、おもしろい。山があるのにヤマナシ県といった。  甲州から東京へ来る今の中央線が、以前は甲武鉄道だった。四谷見付の陸橋にカブトの彫刻がついているのは、甲州の甲なのだ。         □  徳川時代は天領、つまり幕府直属で、圧政だったため、甲州人は昔の領主武田家に信仰に近い心持ちを持っている。  辻邦生氏が、自分の祖先で甲州の武将だった人物を小説に書き、「甲州人はみんな自分を信玄の子孫だと思っている」と書いている。武田家の旗じるし「風林火山」は、井上靖氏の小説で広く知られるようになった。映画「影武者」は、信玄の死のなぞを巧みに映画化した黒沢明氏の大作で、撮影中、主演俳優が勝新太郎から仲代達矢に代わった。         □  武田勝頼が亡び、名家を日本から消した戦場が天目山。「この試合は今季セ・リーグの天目山」といったりするのは、天王山のまちがい。  天王山は京山崎にあり、秀吉と光秀が戦った場所である。         □  武田家の菩提寺が、塩山の恵林寺。ここで名僧快川が火中にあって、「心頭滅却すれば火もまた涼し」といったのは有名である。  水原秋桜子がこの寺を訪ねたかえりに、塩山駅前の食堂で昼食をとっていたら、近所から火事が出たので、あわてて避難したという話をした時、こう付け加えた。 「凡人は、火もまた涼しなんて、すましていられませんからね」         □  源平時代に雨宮勘解由という武士がいて、山ブドウとはちがう種類のブドウを発見、自分の屋敷に移植したのが、甲州ブドウの起源といわれる。雨宮家はブドウ栽培を以来延々と続けている旧家である。  三百年のあいだに、ブドウを棚で作るようになり、明治六年に、雨宮作左衛門という人が、輸入されて横浜の倉庫に死蔵されていた鉄の針金を見て、それをブドウ棚に応用した。         □  阪急、東宝、宝塚歌劇といった関西のさまざまな企業をはじめた小林一三は、甲州韮崎の出身、慶応義塾にいて、岡鬼太郎の同級生だった。  在学中、花柳界を全く知らないのに、「忍恋之助」という芸者の小説を書き、やがて時事新報に逸山人の号で、時代物「お花団子」を書いたが、同じ時、現代小説を書いたのが、田山花袋。  文章を書くのが、死ぬまで好きで、十巻の全集を残したが、異色なのが「大臣落第記」、史料として残っているのが「芝居ざんげ」である。         □  山本周五郎は、かたくなに受賞を拒む人だったが、新聞に写真がのるのがいやだからだという伝説がある。韮崎出身。  ごく初期に講談雑誌に寄稿した。心やすい編集者が原稿料を届けに来て、「こんどの小説は出来がよくなかった」と気軽にいったら、マッチを擦《す》って、貰った紙幣に火をつけた。  その場に居合わせた土岐雄三氏が、「灰のまま持ってゆけば銀行でとりかえますよ」というと、火箸で灰をかきまわしてしまった。         □  和田芳恵が、「日の出」の編集者をしていた時、尾崎士郎を訪ねたら、山本がいて、何もいわないのに「私は日の出のような雑誌には書かない」といったので、妙な人だと思ったと書いている。何とも、おもしろい。 [#地付き]〈岡 山〉  桃の産地である岡山にゆく。  この池田家の城下町には、後楽園という名園がある。  市の造り酒屋で生まれた内田百※[#「門がまえ+月」]と、伊里村の旧家に生まれた正宗白鳥、ぼくがこの二人と親しく会ったのは、やはり幸せだった。そして、その印象は、ともに強烈である。 「スヰート」という明治製菓のPR誌に、毎号百※[#「門がまえ+月」]の随筆をもらっていたが、日本郵船の本社に行って、手渡された原稿をひらいて読むのが習慣だった。  それから二十数年経って、百※[#「門がまえ+月」]から指名を受けて対談することになり、ステーションホテルで会ったが、いきなり、 「貴君《きくん》は私のいる前でいつも原稿を読んだ。そのあいだ、私はどうしていいか、わからなかった」  といわれた。ずっと、そう思い続けていたのかも知れなかった。         □  百※[#「門がまえ+月」]が軽金属でできたシガレットケースを、明治製菓の宣伝部に届けてくれた。  中に片かなで書いた手紙がはいっている。 「貴君ハ煙草ヲノムト思フノデ差上ゲマス モシ喫煙シナイノダツタラ急ニ吸ヒハジメル必要ハアリマセン」         □  百※[#「門がまえ+月」]は夏目漱石に師事し、漱石の吸う煙草までまねて、朝日を吸った。 「もっとも、同じほうが便利でもあった」と百※[#「門がまえ+月」]はいった。「先生の所に行ったかえりに、先生の所にある煙草をもらって帰ったんだから」         □  正宗白鳥と田村秋子さんと三人で、「婦人之友」で鼎談《ていだん》をしたことがある。もちろん、芝居が話題だった。  白鳥が「君は田村さんの舞台は知っているの」と尋ねたので、得意になって、「ハイ、ずいぶん、見ています」といったら、白鳥がソッポを向いて、 「ぼくは、九代目団十郎を見ている」         □  中野重治は、白鳥を「傍若無人の大人間」と呼んだ。大人物といわないところに、ある程合いがある。  大ぜいの作家がソ連大使館に招かれて、会食をしたことがあり、食後にみんなに一筆ずつ書いてもらった。  白鳥はこう書いた。「ウォツカを飲んでみたが、苦かった」         □  井伏鱒二氏が、ある席で、久保田万太郎と樋口一葉の作について話をしていたら、白鳥が、「一葉は『たけくらべ』だけだ。ほかはつまらん」といった。  井伏氏が、織田信長の小説を書いている時、白鳥と会った。会話を現代語にしておけばよかったのに、おなじ元亀・天正の時代の言葉をしらべようとしたので、むずかしい、一向にわかりません、というと、白鳥が、「うん、わかるもんか」といった。  井伏氏は、白鳥を、「いきなり結論を出す人だった」と追悼文に書いている。         □  皇居の園遊会に招かれたかえり、白鳥は考えごとをしながら、神田の交差点の赤信号を悠々と歩いてゆき、派出所に呼びこまれた。  警官が名前を尋ね、「どこから来たのかね」といったので、「宮城」と答えた。 「どこの球場だ」 「天皇陛下と会って来た」  警官はじっと老作家を見つめて、 「もう行ってもよろしいです」         □  河出書房の竹田博氏が、白鳥の家に行ったら、椅子にまたがり、背もたれにアゴをのせて、ラジオの美空ひばりの歌を聞いていた。そこに、菊池寛賞決定の電報が届いた。「君が来ると、いいことがあるな」 [#地付き]〈香 川〉  桃の次に栗。後楽園の次に、栗林《りつりん》公園のある高松に、瀬戸内海を渡る。  菊池寛は高松の人。「父帰る」には、土地の方言が書かれ、生まれた町の風土感がよく出ている。  短い一幕物を多く書いたのは、愛読したアイルランド劇の影響である。         □  菊池寛は、六大学野球では断然早稲田びいきだったが、高松商業の出身である宮武三郎と水原茂がいたので、慶応も応援したい。しかし、一方の早稲田にも、高松中学を出た三原脩がいた。  こういう大選手のいた昭和六年の「話の屑籠」に、菊池が早慶戦のあと、「早大前の商店街に、5A対4早稲田大勝と書いてあった。ひいき心にAをつけたのがおかしい」と書いている。  勝っているあと攻めのチームが、九回裏を戦わないで試合が終わるというルールを、当時の菊池寛は知らなかったらしい。         □  文藝春秋の文士劇、「時の氏神」と「父帰る」に出演した作者自身の姿を見たことがある。 「父帰る」で、菊池は父親の役で出て、最後に連れ戻されて帰って来るということになっていた。 「作者がいいというんだから、いいだろう」。         □  菊池の友人の芥川龍之介と久米正雄は漱石山房に行っていたが、京大生だった菊池はそういう機会もなく、大正五年の夏、二人に連れられてはじめて会い、やつれているのにおどろいた。そして、 「漱石先生に会って、二、三日は幸福だった」  その年末、漱石が死んだ時、菊池は時事新報の記者として、記事を書いた。         □  菊池の秘書だった佐藤みどりさんによれば、夜行列車で大阪からの帰りに、洗面所ではずした入れ歯がなくなったといって大騒ぎをしたあと、靴をぬいだら、底から出てきた。 「あったよ」「履いていてわからなかったんですか」というと、「だって、そんなところにあるはずがないと思っているから」。         □  宮武という姓は、慶応の大投手以外に、同じ県の羽床村の庄屋の家に慶応三年に生まれた奇人の姓でもある。  幼名亀四郎、亀は外が骨なので、外骨《がいこつ》と号し、戸籍も改めてしまう。士族が威張っているのがいやで、「讃岐平民宮武外骨」の八文字の実印を使った。大正五年、雑誌に廃姓広告を出し、以後廃姓外骨と称した。喜寿の昭和十八年、その外骨を「とぼね」として、改名通知を出し、八十九歳で死ぬ。         □  明治三十六年の「明治畸人伝」以来、奇人として紹介された文献八冊、正伝は昭和五十五年河出書房新社刊、その家に寄寓した吉野孝雄氏のがある。飽くことを知らぬ、おもしろい本だ。種田山頭火という俳人がいった。「子規は、死んで極楽にゆける日本人には名和昆虫翁、清沢満之の二人しかいないといったが、私はもう二人追加する。南方熊楠と外骨」  奇人奇人を知る。         □  好きなことを自由に書き、本を作り、発禁になり、投獄もされた外骨が心血をそそいだのは、博報堂社長瀬本博尚の後援で、昭和二年東京帝大内に作った「明治新聞雑誌文庫」。反体制奇人の出入をこばもうとしたのに対し、吉野作造が「外骨は希代の偽悪者なのだ」といって説得した。  吉野の発言は、外骨を救い、大学をゆたかにした。じつはその前に話を持ちこんだ京橋区中央図書館は、館長姉崎嘲風が寄付を拒絶している。 [#地付き]〈鳥 取〉  桃と栗、その次に梨の鳥取県にゆこう。  この県は、昔の国名でいうと、因幡《いなば》と伯耆《ほうき》。国立公園になっている大山《だいせん》をはさんで、雨の因州、風の伯州といわれる。  綽名の好きな土地で、米子が「小大阪」、境港が「小神戸」、年に百万の観光客が訪れる砂丘の東の浦富海岸が「山陰の松島」。         □  大山は、志賀直哉の「暗夜行路」に出てくる。主人公時任謙作が、この山の中腹にいるという設定で、夜のあけてゆく景色の描写は、みごとである。  大山に行って、中食をしたら、その家の離れに、志賀がしばらくいたという部屋が文学遺跡になっていた。         □  作家では、「富士に立つ影」の作者白井喬二が米子の人。本名は井上義道。母の生家が歌舞伎の白井権八の屋敷あとなので、その姓を借り、字づらのいい名をつけた。左右均衡なのもいいと語っている。  大正九年に発表した「怪建築十二段返し」は、時代小説なのに、奇妙な仕掛けの建築や催眠術だのエレキだのが出てくるのが珍しく、この時から筆名を使用した。  大衆文芸という言葉は白井の発明、その編集で「大衆文学全集」計十巻を昭和二年に刊行した。         □  米子中学で白井と同級であった詩人の生田春月は、昭和五年五月に、すみれ丸という船から瀬戸内海に投身自殺した。  米子にも小豆島にも記念碑があるが、八代目市川団蔵が昭和四十一年六月、舞台を引退したあと四国の遍路にゆき、島に渡って春月の死について知った。そして、自分も船から入水《じゆすい》して死ぬのである。         □  鳥取史には、尼子家再興につくした勇士山中鹿之助がいて、菩提寺は、その名にちなんで幸盛寺という。 「うきことのなほこの上につもれかし限りある身の力ためさん」が鹿之助の作と伝えられている。  土岐善麿博士からいつぞや電話で、「君に聞けばわかると思うのだが、山中鹿之助の限りある身の力ためさんの歌、何に出ていたかね」と訊かれた。 「国歌大観」に出ていないのでといわれたが、「ぼくは講談で聞いたのですが」と答えた。多少不機嫌そうに電話が切れ、まもなくもう一度博士がかけて来ていった。 「そういえば、ぼくも講談で聞いたのだ」         □  田中千|禾夫《ちかお》氏は父祖代々、鳥取の人で、戦争中長崎から一家が疎開していた。夫人の澄江さんはNHKテレビ小説の「虹」の舞台に、鳥取をえらんでいる。  千禾夫氏の曾祖父に当たる平田眠翁は、鳥取池田藩の御典医で、本草の研究家。十二巻の大冊「因伯産物薬効録」という大著がのこり、雄松堂書店から復刻された。専門の学者のほかに田中夫妻が文章を寄せている。  澄江さんが「虹」のロケで、景勝院という寺の地内にはいって行ったら、眠翁の碑にいきなりぶつかったそうだ。         □  鳥取藩士小倉彦九郎の妻が夫の江戸詰の不在中、男とまちがいをおこした事件を近松門左衛門が「堀川波の鼓」に書き、歌舞伎の演目になっている。  田中澄江さんがこれを、「つづみの女」という戯曲に書いたのは、鳥取に縁があるからだ。俳優座で、杉山徳子という女優が主演、着付けと動きを、女形の尾上梅幸が指導した。  今井正監督が作った映画「夜の鼓」は、有馬稲子主演であった。 [#地付き]〈大 分〉  紅葉の耶馬渓に遊ぶつもりで、大分へ。  この県の名前は、小学生のころ、早くおぼえた。「すべって転んでオオイタ県」といったからである。  ついでに余談をならべると、この県の宇佐八幡は、道鏡の野心を粉砕した神勅を和気清麻呂に伝えた由緒正しい神社だが、宇佐の駅の看板を見てアメリカ人がびっくりしたという。USAとローマ字で書いてあったからである。         □  耶馬渓という名前は、山国川のこの渓谷を発見した頼山陽がつけたといわれる。菊池寛の「恩讐《おんしゆう》の彼方に」に出てくる青の洞門は、罪亡ぼしのために僧になった了海が二十余年かかって自力で掘ったものだが、その脇をアッという間に車で通って、何となく申し訳ない気がした。         □  日田の町に昔山陽と親しかった草野という旧家がある。家蔵《かぞう》の人形の数がおびただしく、雛祭のころ、蔵から出して棚にならべていると聞いて、RKB毎日の演出家と、同家を訪問したことがある。  いろいろな人形があって、たのしかった。コレクションに対していささか寄与したのは、離れておいてあったお染と久松の人形を、ならべかえる助言をしたことだ。  帰京して、東山千栄子にこの話をしたら、喜んで、 「人形の家でございますわね」         □  野上豊一郎夫妻は、夏目漱石の門下であるが、野上博士の号は臼川《きゆうせん》、二人とも臼杵市の出身である。  夫人は彌生子さん、九十八歳で健在、筆をいまだにとっている。  谷川俊太郎氏が対談で、「おばさま」と呼びかけているのは、彌生子さんと四十五ちがい、父の徹三氏すら年下なのだから、おかしくないが、尾崎一雄氏の回想記について、彌生子さんが、「まだ若いのに、思い出話なんて」といったのは、おかしい。  尾崎氏は八十二歳であった。         □  昭和二年に毎日新聞社が、昔からの日本三景と別に、新日本八景をえらぼうと、読者から公募した。その時、山で、福岡県との境にある英彦山《ひこさん》が高点を得た。  数年後に、この名勝を主題にした俳句を再び公募、全国から十万という数の中で一位になったのが、杉田久女の句で、「谺《こだま》して山ほととぎすほしいまま」。  英彦山神社の参道の脇に、句碑が立っている。  この山は、奥州の羽黒山と同じように、九州における山伏のメッカだった。土地の伝説に、山をとび歩く巨人の存在、宙をゆく天狗の物語があるが、それは山伏を見た里人の錯覚だろうといわれる。         □  竹田に少年期をすごした滝廉太郎が、この町の古城のイメージから、名曲「荒城の月」を作っている。歌詞は土井晩翠だが、歌そのもののイメージは、竹田ではないらしい。晩翠は、仙台の人であった。  竹田と福岡県柳川が姉妹都市になっていて、二つの町をつなぐ国道を、俗に北滝道路と称する。柳川の北原白秋、竹田の滝のかしら文字である。         □ 「演芸画報」の安部登は、大分県高田の生まれで、本名の豊は、豊後から来ている。筆名に、ぶんごと名のってもいた。  県人愛のつよい人で、同郷と聞くと、すべてがよかった。  昭和三十二年十一月二十七日に病没したが、その日が大相撲九州場所の千秋楽、県人の玉乃海が平幕優勝した日である。  安部はそれを聞きニッコリ笑って死んだという。 [#地付き]〈宮 崎〉  宮崎に十数年前行って、観光施設がきめこまかく整備されているのに、おどろいた。宮崎交通の岩切章太郎という、当時の会長のアイデアが、随所にあるらしかったが、日南海岸に面した「こどものくに」という広い遊園地に、ひとつも広告がないのもよかった。  宮崎駅前の大通りに、フェニックスの並木があるのも南国らしいが、その木に高低がある。どうして不揃いなのかとタクシーの乗務員に尋ねたら、いかにも得意そうに説明した。 「市の歌の楽譜になっているんです」         □  当時は、新婚旅行というと、空路宮崎に飛ぶというのがパターンで、ホテルのロビーにも、それらしいカップルが大ぜいいた。  ある日、巨人軍のキャンプに来ていた長島茂雄監督が、新夫婦にとり囲まれた。  ホテルの社長が居合わせて、「監督、何か一言おっしゃってください」とたのんだら、ちょっと考えていたが、 「皆さん、今日も、がんばってください」  並み居る一同、大いに恐縮した。         □  大正七年、この県の児湯郡木城村《こゆぐんきじようむら》に、一町歩の畑地、三町歩の草地、一戸の家を買って、「白樺」の作家武者小路実篤がはじめたのが、「新しき村」である。  昭和四十三年十一月十四日、東京の文京公会堂で、その満五十年を祝う会があり、武者小路が、こういった。 「ともかく今日は嬉しい。人類を祝福した」  その時作られた「新しき村五十年」というA5判五百余ページの本は、立派な史料であるが、この年、村の面積は九ヘクタール、建物百余棟と記されている。  新しき村に入居している人々について、村民とも、会員とも、同人ともいわず、「兄弟姉妹」としているのが、武者小路流でいい。         □  若山牧水は、新しき村の北方にある尾鈴山のふもと坪谷村に生まれている。  旅と酒とを愛したので、特に「白玉の歯にしみとほる秋の夜の酒はしづかに飲むべかりけり」が有名だが、この一首は、明治四十二年、信州の小諸で作られた。  当時二十四歳。以来、酒仙といわれるが、酒で健康を害し、昭和三年沼津で、四十四歳の若さで死ぬ。  牧水が晩年、自分の酒について、「朝二合、昼二合、夜二合、計一升」と書き、付記して、「桝目がちがうといい給うな。この液体の特質だ」。  同じく歌人であった若山喜志子との間に生まれた嗣子の名が、旅人《たびと》。万葉の歌人の名でもある。         □  牧水の学んだ中学は延岡である。内藤七万石の城下町だが、夏目漱石の「坊つちやん」では、松山の中学から、この延岡に|うらなり《ヽヽヽヽ》(教員の綽名)が転任することになったのにいたく同情して、「人間と猿とが半分ずつ住んでいる所」などと書いている。  宮崎市出身の作家中村地平(本名治兵衛)は、新風土記叢書の「日向」で、「そんなばかなことはない」と怒っていた。         □  県南の飫肥《おび》から出たのが、日露戦争の時の外務大臣小村寿太郎。宮崎地方でツラアレといって、華やかなふんい気を嫌う風があり、外交官が出たのは異色と評された。  この小村は、だから駐米公使の時も単身で赴任した。同じく公使でイギリスから帰国の途中、加藤高明がワシントンに夫妻で立ち寄り、二人で「東京から奥様を呼び寄せたら」としきりにすすめた。小村が答えていった。 「一人が気楽ですよ。みっともないつらの女房を連れて、外国で恥をかきたくない」 [#地付き]〈福 岡〉  九州人の藤浦洸が、博多に泊まって翌日タクシーに乗り「福岡駅」といったら、西鉄の駅に連れてゆかれたとおどろいていた。福岡県庁のある福岡市の駅は、国鉄の場合、博多なのである。  ちなみに、福岡という駅は、北陸本線にもあって、富山県の町である。         □  博多では、十一月に恒例の九州場所がある。ふぐ(この土地では|ふく《ヽヽ》という)の季節である。力士たちは、その料理を楽しみにしてゆくが、親方たちから、素人の手で鍋を煮たりしないように注意される。  昭和五十六年の九州場所で、いい取組というわけでもない相撲をひとつだけ忘れずにおぼえている。何日目かに物言いがつき、行司のミスと判明、いわゆる|さしちがえ《ヽヽヽヽヽ》だが、力士が蜂矢であった。         □  博多といえば、帯、人形、どんたく、泉鏡化の愛した博多節、近松門左衛門の作に出てくる博多小女郎、それから特に、博多にわかという方言でしゃべる喜劇がたのしい。この芸能は、目がつらをつけて演じるのだが、その目がつらが、せんべいになっている。  博多なぞなぞ、というのもある。  博多ことばで、二重に寓意のかかる「物はづけ」で、グループが、雅号名で試合をしたりする。石田利久の傑作が、近年、西日本新聞から本になった。「秀吉」とかけて「日没の決勝戦」、心は「点火取って対抗となる」のたぐい。         □  福岡は黒田節の黒田藩、小倉は小笠原藩、小笠原流という礼法を伝えた。小笠原長生は、東郷元帥の副官で、その史伝を書いている。  小倉では、岩下俊作という作品数のすくない作家の「富島松五郎伝」が、古典として知られる。映画「無法松の一生」は、戦前は阪東妻三郎の主演。戦後は三船敏郎で、カンヌ映画祭のグランプリをとった。この時、監督の稲垣浩が打ってきた電報が、 「トリマシタ ナキマシタ」  芝居では新国劇の辰巳柳太郎、戦前の文学座に加入した丸山定夫が名舞台。阪妻の映画で、吉岡夫人に扮した元宝塚の園井恵子が、丸山とともに広島で被爆して死んだのは、ふしぎな因縁である。         □  若松の石炭仲仕の親分玉井金五郎を父に持つ火野葦平は、九州の河童を書いた。火野の作品で、若松の山の上にある河童を封じこめた塚を見に行ったが、真夏のさかりで、暑くて目まいがした。山をおりて宿に着いてその話をしたら、「あの祠《ほこら》の所が日本一暑いところです」。  火野は愛酒家だが、もっぱらビールだった。ある時、友人と二人で痛飲して、ふと気がついたら大瓶が六十本ならんでいた。  昭和十四年、火野より二年おそく芥川賞をもらった長谷健は、「あさくさの子供」が受賞作だが、生まれは柳川。  愛酒家で、豆腐が好き。酔っ払うと眠って目をさまし「ここはどこ?」と尋ね、「しばらく」を「しらばく」という癖があった。  火野が名づけて「豆腐院此処何処白獏居士」。自動車事故で急死した。         □  久留米の青木繁という天才画家の子の福田蘭童は、松竹蒲田のスター川崎弘子とのロマンスも有名だが、尺八の名手だった。  志賀直哉が伊豆の大洞台にいたころ、毎日のように遊びに行っていた。そのころの回想記「志賀先生の台所」もおもしろいが、「蘭童作家記」(昭和三十一年近代社刊)は十三人の文士との交遊記で、じつにたのしい。  ただ、仲人もしてもらい、いろいろなことで面倒を見てもらった菊池寛については、たった二ページしか書いてない。蘭童いわく、「書くことがありすぎたので簡単にしておきました」。 [#地付き]〈千 葉〉  冬の芝居はいろいろあるが、雪の子別れというのは、哀れが二重に涙をさそう。  それは、佐倉の義民伝。名主の木内宗吾が、藩政の横暴を将軍に直訴するために江戸にゆく直前、妻子に会いに来て、出立する日の場面であるが、三角に切った紙の雪をおしげもなく降らせる。  この宗吾の役を得意にした七代目市川団蔵は、子役を使うのがうまかったが、ある時、子役が一座に多くいたので、宗吾の子を一人増やしてみごとに演じたという。  団蔵がいった。 「もう一人二人数が増えても、芝居にして見せる」         □  弁天小僧のセリフに「お手長講《てながこう》と札つきに」というのがあり、盗人の手が長いことから来た仮の造語と思ったら、成田山に「お手長講」という講中があった。  不動様の向かって右側に立つ脇侍の異名が「お手長」なのであった。         □  昭和五十四年八月、ちょうど甲子園で高校野球大会が行われている時、千葉県の一部は大さわぎだった。  鹿野山神野寺の住職が飼っていた二頭の虎が脱走していたからである。  甲子園をフランチャイズにしている阪神は、八月は球場が使えないので、長期のロードに出る。 「八月のタイガースだから外に出ても仕方がない」  といった人があるが、地元の人たちは、ふるえあがった。  当時聞いたコント。 「理髪店に行ったら、親方がいない。どうしたのだと尋ねたら、職人が、千葉県にゆきましたという。何しに? 虎がりに」         □  私事だが、昭和四十二年、「女優の愛と死」という芝居を書き、丹阿弥谷津子主演で上演した時、女主人公の松井須磨子が明治三十六年にとつぎ、四カ月で離別されたという木更津の割烹《かつぽう》旅館鳥飼楼に、そのころ働いていた少女が健在だというので話を聞きに行った。  七十九歳の老女が、六十数年前の思い出を語ってくれた。         □  その日、カーフェリーで着いた港の波止場の近くの寺に、蝙蝠安《こうもりやす》の墓というのがあったので、びっくりした。「切られ与三《よさ》」の狂言で、与三郎とお富が潮干狩の遊山先であい、ひと目惚れする見そめの場はなるほど木更津だが、安のほうはこの海と関係ないのである。         □  木更津という地名は、日本武尊《やまとたけるのみこと》が水死した妻の弟橘媛《おとたちばなひめ》への追慕の情去りがたく、「君去らず」だったから名づけられたと伝えられるが、歌舞伎ファンは、与三郎のセリフの「命の綱の切れたのを、どうとりとめてか木更津から、めぐる月日も三年《みとせ》ごし」で耳になじんでいる。  もうひとつ、木更津には、野口雨情が大正のおわりに作った「証城寺の狸囃子《たぬきばやし》」の証城寺がある。  月夜に花ざかりの萩はあるが、狸はいない。この童謡の作曲は中山晋平だが、昭和三十二年、アーサー・キットの編曲で逆輸入され、一時若者が喜んで口ずさんだ。         □  東京に近い市川には、戦後、幸田露伴と永井荷風という二人の大作家が住んだが、ともに終焉《しゆうえん》の家は借家だった。  露伴が昭和二十二年八月二日に葬られた日、荷風は弔問に行ったが、いろいろな人がいたので、中にはいらず、遙拝して去った。  日記には「余は礼服なきを以て式場に入らず門外に佇立《ちよりつ》してあたりの光景を看《み》るのみ」と書いている。 [#地付き]〈福 島〉  福島県で、誰でも知っているのは、会津若松の白虎隊《びやつこたい》と、民謡の中に出て来る小原庄助という人名だろう。  この県の中だと、若松以外の土地でも、花柳界で芸者が剣舞にして、白虎隊の若者の死を演じてみせる。  小原庄助と称する奇人は実在したといわれ、その子孫がいつぞや雑誌にのっていた。         □  歌謡曲で、この県は、おびただしい代表選手を輩出している。  作詞家では「湯の町エレジー」の野村俊夫氏、福島民友の記者だったという。「東京ラプソディ」の門田ゆたか氏、「高校三年生」の丘灯至夫氏が、それぞれ福島市と郡山市出身。  作曲家では、「島の娘」を作った佐々木俊一氏が双葉郡の人。古関裕而(本名勇治)氏は福島市の呉服商に生まれ、独学で「露営の歌」から戦後の「鐘の鳴る丘」、NHKのいろいろな主題曲など、数え切れない作曲をした。早稲田の「紺碧の空」、慶応の「わが覇者」を作っているので、早慶戦の神宮球場、一塁側と三塁側の両方のスタンドで古関メロディが同時に歌われたりする。  歌手では、「愛染かつら」の霧島昇氏が双葉郡出身、「お富さん」の春日八郎氏が会津坂下の人。         □  文壇では、横光利一が東山温泉で生まれている。五十歳で死んだが、小説の神様といわれた。まじめな人で、それが逆にユーモラスな逸話になっている。  毎日新聞の社友になってヨーロッパにゆき、絶望したという。こういう人も珍しい。しかし、その旅行から、「旅愁」と「欧州紀行」を書いた。岸田国士はいった。 「フランス語が全然しゃべれないで、パリの小説を書く人もめずらしい」  今日出海氏がパリに行った時、ひと足先に横光がきていたが、東京にいる時の長髪に黒マントとは打ってかわった姿で、襟《えり》にカーネーション、髪に香油をつけていた。  当時、若き日の岡本太郎氏がいて世話を焼いたが、「パリにはリリシズムがないですなァ」などといって、退屈している。  岡本氏は、「日本から、抜き身の短刀が一直線に飛んで来たようなものだ」といった。         □  パリに駐在していた毎日の記者城戸又一氏が、 「アンドレ・ジッドに会いませんか」といったら、 「向こうが会いたいといったら会いますが、会いたいとは思いませんなァ」  といったあと、ニコリともせずに、横光がいった。 「第一、こっちはジッドを知っているが、向こうはこっちを知らないんだから」         □  横光の伝記小説「台上の月」を書いた中山義秀は、その高弟ともいえる人だが、白河の北の大屋村に生まれた。水戸藩士の孫で独特の風格があり、酒と日本刀を愛し、「月に吠《ほ》えるいっぴき狼」と綽名された。  二十年前、ある雑誌で、文壇人を日本史上の人物になぞらえて表す企画があったが、最初の会合で一発できまったのが、中山の平手造酒《ひらてみき》と、平林たい子の神功皇后であった。         □  劇作家真船豊は、安積郡《あさかぐん》福良の人。初期の「寒鴨」「鼬《いたち》」「狐舎」などは、会津の方言で書かれた。独特の作風だが、「裸の町」にチャーハン屋の場面というのが出てくる。  劇評家の渥美清太郎が真船に、「チャーハン屋って何ですか」と訊くと、「チャーハンを食べさせる店です」「シナ料理屋のことですか」「まァそうです」。  久保田万太郎が、わきできいていて、いった。 「こんにゃく問答だね」 [#地付き]〈横 浜〉  クリスマス前後、何となく港町が思い出されるのは、ふしぎである。  横浜には明治のはじめに、外国人をのせる車夫が使った英語というのがある。その英語をまちがって聞き、煉瓦をのせた車のまわりにあった金属板がブリキになるといった誤解も発生した。  洋犬をカメといったのも、「カム」と呼んでいるのに、はじまる。  そのころ、シェークスピアを訳した英人記者がいて、「ハムレット」の「生か死か、それが問題だ」を、「アリマス、アリマセン、アレハナンデスカ」と訳した。         □  横浜で、歌曲や童謡が生まれた。淡谷のり子一代の傑作「別れのブルース」(藤浦洸作詞、服部良一作曲)は、メリケン波止場の灯が見える窓ではじまり、平野愛子の「港が見える丘」(東辰三作詞作曲)は、公園名になった。  五木ひろしには、「よこはま・たそがれ」(山口洋子作詞、平尾昌晃作曲)がある。この歌も、できて十年以上だ。  童謡では「赤い靴」「青い眼の人形」(ともに野口雨情作詞、本居長世作曲)。  あとの歌はおわりのほうで、アメリカ生まれのセルロイド人形が「仲よく遊んでやっとくれ」という。久保田万太郎が一人息子の耕一に命じて「仲よく遊んでくださいな」と歌わせた。  理由は、「やァとくれ、なんて日本語はありません」。  この童謡の碑が、山下公園にある。         □  松竹の重役になって死んだ歌舞伎通の遠藤為春が、横浜の喜楽座で、素人芝居に「勧進帳」の富樫をした。  若い頃だから、平社員で小づかいもない。が、その時、汽車だけは一等にのった。 「羽左衛門の役をするのに、三等に乗るわけにはゆかない」         □  獅子文六は、横浜の絹物商の子で、岩田豊雄の本名で書いた「朝日屋絹物店」という芝居があり、新劇座で、柳永二郎と村瀬幸子が共演したのが、昭和九年である。  明治二十年に、手工でハンケチを作る女の工員が熱をあげて見る大衆劇を、「ハンケチ女工がハンケチで泣く芝居」といい、当人は喜ばないはずだが、ハンケチ役者という表現もあった。関三十郎の弟子で、伊勢佐木町の賑座に出ていた関三之助が、それだった。         □  横浜の人では、高橋誠一郎がいる。浮世絵のコレクターで、昔はいつも三田に和服で出勤していた。背が高いので、「私はいつもはずかしいんです」といった。  吉川英治も横浜育ちで、雉子郎の号で川柳を作っていた時代がある。会などのスピーチで、真赤になった。  獅子文六は、目を白黒させて、ひどく照れた。「ああ」「うう」という間投詞を発した。  ハマっ子はみんな、はにかむ人であった。         □  長谷川伸も横浜の人、本名は伸二郎、都新聞にいたころは、山野芋作という筆名であった。  自伝に横浜の明治三十年代の空気が示されている。べつに横浜についてのいろんな話を書いた「よこはま白話」(昭和二十九年北辰堂刊)は、独特の史料。横浜にいた新派の森三之助から聞いた話が、ことにおもしろい。横須賀の軍港に巡業に行き、衣装の軍服につけひげなどして歩くと、水兵が敬礼する。憲兵隊が飛んで来て叱った。 「役者ならそれらしく化粧して歩け。君たちはまぎらわしくていかん」  そういいながら付け加えた。 「ただし君の上衣は陸軍中将だが、ズボンは近衛騎兵の下士官、軍帽は大佐で、吊っているのは海軍のサーベルだ」 [#地付き]〈京 都〉  双六《すごろく》やかるたと同じように、「人物風土記」も、京都で打ちあげることにした。この月、南座は恒例の顔見世、正面の|まねき《ヽヽヽ》と称する、役者の名前に定紋をのせた看板が見ものである。  顔見世にいちばん多く出演しているのが、片岡仁左衛門だという。 [#2字下げ]顔見世ややぐらの月も十五日 秋桜子         □  昔は南座と対立した北の芝居もあって、劇場のやぐらが向かい合っていた。「京の四季」の歌詞の「そしてやぐらのさし向かい」は、そのことを意味しながら、炬燵《こたつ》で男女が語り合う姿を連想させる。日本的な、手のこんだ表現である。  祇園に限らないが、京都の茶屋の座敷に、ひと間、続いた部屋がついていて、そこで芸子や舞妓がおどる。それを国立劇場の舞台に移して見せるのは、実感としてまるでイメージがちがうことになる。 「京の四季」のほかに、「祇園小唄」(長田幹彦作詞)があいかわらず、二大演目。         □  幕末、維新の元勲といわれた人々はまだ若く、京で大いに青春をたのしむ時を持った。  西郷隆盛は自分と同じような大女を可愛がった。奈良富という茶屋の仲居のお虎が気に入って、「お虎といると、おいどんの一番安心な時だ」といった。  いよいよ東征の旅に出立する日、お虎は西郷の駕《かご》のわきに寄り添って泣きながら、三里の道を大津まで見送った。  西郷は、「いくさの門出に虎に送られるとは幸先《さいさき》がよい」と喜び、別れる時三十両渡したという。  池田大伍の戯曲「西郷と豚姫」にも描かれた史実である。         □  京都を書いた小説の数は多いが、ぼくが好んで何回も読んだのを、数編あげる。  谷崎潤一郎の「細雪」、四月上旬の平安神宮の花見の場面がすばらしい。これこそじつは、谷崎源氏であろう。  高浜虚子の「風流|懺法《せんぽう》」、この俳人の色気がよくわかる。  瀬戸内晴美さんの「京まんだら」は、女性の目で見た祇園という点が特色。  夏目漱石の「京に着ける夕」、こんなに寒い文学はない。  大佛次郎の「帰郷」、映画化された時、原作に出てくる金閣寺が焼けてしまっていたので、場面を俗称苔寺にした。それから、西芳寺におびただしい観光客が来るようになった。         □  梅原龍三郎氏も、安井曾太郎氏も、京都の人である。  安井の人物画は、特徴をみごとにとらえる至妙な技術が無類だが、いつぞやその回顧展に行ったら、「F夫人像」の前に、モデルの福島慶子さんがいたので、ふしぎな気がした。  絵のほうが、ほんものみたいだった。         □  朝日新聞社の文庫本「わたしの渡世日記」のカバーは、著者の高峰秀子さんを描いた梅原氏の、これもいい肖像画である。  京都にいた国語学の巨匠|新村出《しんむらいずる》は、高峰さんのファンで、上京した時、わざわざ麻布の家を訪ねたという。  谷崎潤一郎も、高峰さんが好きで、松山善三氏夫婦を熱海に招いて、ご馳走した。谷崎も京都で晩年の大半をすごした。  京都の人に愛される女優ということになる。         □  いろはかるたのパロディで、大坂志郎・京マチ子の両優が夫婦役の時に発表しようと考えているのがある。 「京の役は大坂の嫁」 [#地付き]〈了〉 [#改ページ]   後  記  この本に収めたのは、「週刊文春」に二年間にわたって毎号書き続けた挿話の集録である。 「ちょっといい話」「新 ちょっといい話」の二冊を作ったあと、新形式で、故事や逸話を書きためようとしている時、この企画を示されたので、よろこんで着手した。  この本の前半は「人物歳時記」、後半は「人物風土記」となっている。  それぞれ明治以降に限り、この一世紀のあいだに広く知られた人物にまつわるいろいろな話を書いたのだが、データに誤記があってはいけないので、一応史料をたしかめはしたものの、どういう話であるかは、前から知って、記憶に残っていたことが大部分である。  ただし、その記憶の原点でまちがったおぼえ方をしていることもあったし、確認した文献そのものがちがっている場合もあり、週刊誌の読者から懇切な指摘をされることもあった。  むろん、それは訂正しているが、若干の補筆以外は、連載の文章をそのまま残した。 「歳時記」のほうは、その号の発行される月日に合わせて、時に季題にちなみ、あるいは、その週に誕生や物故の日を持っている人物にふれてゆくようにした。 「風土記」では、日本を都道府県別にした上で、季題に目をくばりながら、ならべて行った。ひとつの県が二回出てきたり、特にある地域だけが挙げられたりする不揃いな点もあるが、話題の選択からきた結果なので、ご了承ねがいたい。  こういう作業をしながら感じるのは、一般の人々が、むかしも今も噂《うわさ》ばなしが好きだということである。  テレビが普及し、ジャーナリズムが発達したために、どんな些細《ささい》な話でもたちまち伝わる反面、七十五日どころか、三日過ぎると大半は忘れ去られるといった現代にくらべると、情報交流のとぼしかった明治・大正の時代が残した話は、粒よりで、ひとつひとつに深い味わいがあるという感慨を持った。  読者にいささかでも、日本人が百年のあいだに知った挿話・伝説をお目にかけられれば幸せである。 [#2字下げ]昭和五十八年十二月 [#地付き]戸 板 康 二 単行本  昭和五十九年二月文藝春秋刊