戸板康二 ちょっといい話 目 次  ㈵  ㈼  ㈽  ㈿  後 記  文庫・後記 [#改ページ]   ㈵  正宗白鳥さんには、戦後、軽井沢から上京する時、リュックサックに、茶だんすの引出しを一つずつ入れて運んだという伝説がある。  リュックサックが、さかさまだったという伝説がある。  銀行に金をあずけた時、通帳の帳尻を確認しなかったら、つけ落ちになっていたという経験があって、それを小説に書いている。  この正宗さんと、よく目黒の三井銀行で会った。  大きな声で、「君、今月の歌右衛門は、どうだね」といったりするので、みんなが、びっくりして見ている。         □  正宗さんのことでは、これは尾崎一雄さんが書いているのだが、軽井沢の喫茶店で、志賀さんの子供さんたちとアイスクリームを食べているところに、正宗さんがはいって来て「アイスクリーム」と注文した話がいい。  ちょうど、尾崎さんたちのところで、アイスクリームが売り切れてしまったわけなのだが、店員が「アイスクリームはありません」というと、だまってこっちのテーブルをじっと見ていて、プイと出て行ったというのだ。  正宗さんが、目に見えるようだ。  深沢七郎さんが、正宗さんを訪問して、「桜正宗はお宅で作っているのですか」と質問したと伝えられる。         □  正宗白鳥さんが、歌舞伎の新作脚本を見物していた。  つまらない筋で、セリフもよくない。  幕間《まくあい》になったら、正宗さんは、隣にいた連れに聞かせるともなく、つぶやいた。 「こんなセリフを覚えるなんて、頭脳の浪費だな」         □  佐藤春夫さんが、「文藝春秋」に文芸時評を書いた時、とりあげた作品の作家全部に、「先生」という敬称をつけた。大変皮肉だった。  中村光夫さんと論争をした時の文章の題に、「おうい中村君」。  もっとも、この題の歌謡曲はもう忘れられかけているから、後世には、意味が通じなくなるだろう。         □  志賀直哉さんは、年配の女友達を、「ばある・ふれんど」といった。  シャレをいわない人ではなかった。「赤西蠣太」の恋人が小江《さざえ》というのも、つまり、そういうウイットである。  佐佐木茂索さんが芝の城山町に越したと聞くと、こういったという。 「城山の西郷さんにならないように、気をつけて下さい」         □  佐佐木茂索さんが、池島信平さんをひどく叱ったら、池島さんがいった。 「佐佐木さん、私には、もう孫がいるんですよ」         □  講演旅行の先で文士が小唄を歌って聞かせていると知った佐佐木さんが、電報を打った。  ムシノネヤキイテヤルノモボダイシン         □  池島信平さんが、佐藤春夫さんに、 「先生は少年時代、どっちかというと、不良のほうではありませんか」といった。  いつものように、ニコリともせず、 「進歩的といって下さい」         □  三好達治さんが、巌谷大四さんに語った。 「私の随筆集に『夜沈々《よるちんちん》』というのがあります。あれは家賃々々なんです。もうひとつ『風蕭々《かぜしようしよう》』というのがあります。貸せ少々なんです」         □  内田|百※[#「門がまえ+月」]《ひやつけん》さんに、「阿呆列車」という連作がある。  旅行が目的ではなくて、国鉄に乗るのが楽しみなのである。いつも平山三郎さんが同行した。文中、「ヒマラヤ山系」というのは、平山さんである。  グリーン車の出来る前である。或る時、いつものように、一等車が当然とってあると思った百※[#「門がまえ+月」]さんは、あいにく満席で、一等がとれませんでしたというのを聞いて、烈火のようになった。  それで、国鉄当局としては、あれこれ苦心して、やっと一等車の席を用意した。  名古屋から乗りこんだ百※[#「門がまえ+月」]さんは、すぐ食堂車にはいり、連れとビールを飲み出してご機嫌になり、気がつくと、東京に着いていた。         □  作家によって、独特の用字法があるのを、知っておいたほうがいい。  夏目漱石は、サンマのことを、秋刀魚とは書かず、三馬と書いた。「浮世床」を愛読したためかも知れない。  泉鏡花は、豆腐《とうふ》の腐がいやなので、豆府と書いた。この作家は、煙草は、もっぱらキザミだった。  久保田万太郎は、「泉先生の豆府の府の字は、水府(愛用のきざみ煙草)の府から来ている」といった。  斎藤茂吉は、絶対を絶待と書いた。森鴎外のひそみにならったのではあるまいか。  内田百※[#「門がまえ+月」]のボイは、食堂やホテルのボーイのことだが、これは漱石流である。         □  この内田百※[#「門がまえ+月」]さんは、新仮名づかいを決してみとめない作家だったので、すべての新聞が新仮名になってからは、原稿依頼を一切ことわっていた。  まだ「仮名づかい原文のまま」という除外例の許されない占領時代に、百※[#「門がまえ+月」]さんの気に入っている記者が来て、百字ほどのコメントをぜひお願いしますと、懇願した。  身びいきの強い百※[#「門がまえ+月」]さんは、とうとう承知したわけだが、できあがった原稿は、終始旧仮名で、しかも新しい表記と一個所も、矛盾《むじゆん》していなかった。         □  内田百※[#「門がまえ+月」]さんがいつか、憤然として、こういう話をした。 「うちの近所に、盲学校があって、目の不自由な子供たちが、歌をうたっていた。�白地に赤く日の丸そめて、ああ美しや日本の旗は�──めちゃくちゃです。腹が立って、泣きそうになりました」  まったく、無神経な話である。  それで思い出したのだが、ずいぶん前のこと、テレビを見ていると、森繁久弥さんが、やはり目の不自由な子供たちの前で、歌っていた。 「七つの子」という、童謡である。 「からす、なぜ鳴くの。からすは山に、かわいい七つの子があるからよ」と歌って行く。  二番は、「山の古巣へ、行ってみてごらん」というのだが、森繁さんの表情が一瞬こわばった。舞台に出ていて、セリフが思い出せずギクリとしたような感じの顔だった。  なぜそんな顔をしたのかが、すぐわかった。森繁さんは、「まるい目をした、いい子だよ」という歌詞にぶつかって、困ったなと思ったのであろう。  しかし、歌は、わずかなタイミングのずれはあったが、「まるい顔した、いい子だよ」と歌われたのである。         □  山本有三さんが率先して、漢字制限を実行した。  筆名自体に、使えない文字を持つ日夏耿之介さんが、憤慨していった。 「われらの国語を、路傍の石のごとく動かすのはやめろ」         □  谷崎潤一郎さんが、ジャン・ギャバンという俳優の名前を評して、 「ハサミの落ちる音みたいだ」  ジャン・マレーを、ジャム・ママレード、ラナ・ターナーを、ダンナ・サーマ、ロナルド・コールマンをドナルト・オコルマンなどともいったそうだ。 「細雪」の中で、ウィンナ・シュニッツェルのことを、シュニッツレルと書いているのは、作家の名をつい思い出したのかも知れない。         □  小宮豊隆さんは、初代中村吉右衛門の話をしている時以外は、どちらかというと、無表情で、こわい人だった。  その小宮さんで、おかしな話がある。  終戦直後に、バスのステップのところに乗るようなまわり合わせになり、ふりおとされた。  その時、若者がかけ寄って、「おじいさん大丈夫ですか」といったら、「おじいさんとは何だ」と怒ったというのである。  しかし、これは、その若者から誰かが聞いたというほどのデータもないので、伝説かも知れない。  お洒落《しやれ》の小宮さんが、老人といわれるのを厭《いや》がっているのを知っていた誰かが、こしらえたフィクションではないだろうか。  この話を、小宮さんと親しい小泉信三さんにすると、小泉さんは、「ぼくの聞いているのはちがう」といった。 「大丈夫ですか」と若者がいった時、小宮さんが、「大丈夫だ、と思う」といったら、「と思うとは、なんだ」と怒ったというのである。どっちかが、怒ったことには、なっているのである。         □  小宮さんはいつも、セピア色のインキで書く人だった。  ある時、新書判の「夏目漱石」を下さることになって、そのインキを入れた万年筆で、ぼくの目の前で、見返しに署名をされた。 「戸板康|三《○》様」と書かれたので、思わず「アッ、ちがいます」といってしまった。  小宮さんは、そういったぼくを鋭い目で、しばらく見つめていたが、三の字の一番上の棒を右にのばし、タスキをかけて、点をポンと打った。  それで、「戸板康弐様」ということになってしまった。         □  西脇順三郎さんに慶応で、言語学を教わった。  次から次と、うまい発音で、英語の単語が飛び出す。  突然、先生は一番前の学生に、訊いた。 「よく公園でのませる、あの白くて温い飲料、あれ何といいましたかね」 「甘酒ですか」と学生が答えた。  先生、しきりに照れて、 「日本語はむずかしくて」         □  久保田万太郎さんがパーティーに出席すると、人の波をかきわけて、老婦人が来た。 「私をおぼえていらっしゃいますか」という。 「おぼえています」と反射的に答えると、そばに岡鬼太郎さんがいて、 「日本語はむずかしいですね」  といったので、久保田さんは帰りの車の中で煩悶《はんもん》した。しかし最後に自ら慰めた。 「つまり売り言葉に買い言葉」         □  久保田万太郎さんが戦後に、再婚した若い夫人をつれて、伊豆の大仁《おおひと》に行っていたことがある。  久保田ジュニアは耕一といって、そのころ東宝につとめていた。  ある時、久保田さんから、「耕一をつれて大仁まで来てくれ」といわれた。新妻《にいづま》と、息子を引き合わせたかったらしい。  二人で大仁に行ったが、親も子も希代の照れ屋なので、座敷での会話は、白けっぱなしだった。  仕方がないので、きみ夫人と耕一君と三人で、娯楽室におりて行くと、ピンポン台がある。  夫人がはしゃいで、「耕ちゃん、ピンポンをしましょう」という。すると、耕一は浮かぬ顔をして、小声でぼくに、「やりたくないよ」といった。 「なぜ」と訊くと、「だって、ぼく、これでも慶応では卓球部の選手だったんだよ」なるほど、それでは、勝負にならない。  しかし、せっかく夫人の気分が乗っているのだから、つきあってやればいいのにと思って、「一度とにかくやってみたまえ」といった。  耕一も承知して、ラケットを持ち、夫人と球の打ち合いがはじまった。  ところが、選手だなんていっているのに、ちっともうまくない。むしろ夫人のほうが優勢である。「耕一のホラか」と思って、よく見たら、彼は左手で打っていた。         □  そのきみ夫人が、鎌倉材木座の家から、飼っていた犬を、散歩につれて出た。  その犬は、雑種だったが、おとなしく、また可愛らしかった。  しばらく行くと、向こうから、スピッツをつれた奥さんが来る。  久保田家の犬が、そのスピッツに近づこうとすると、向こうはさも厭らしそうに、スピッツを抱きあげた。  犬の心理はわからないが、そうされると、こっちの犬は、つい、飛びつこうとする。  飛びついて、スピッツのどこかを、噛んだ。  さア、こうなると、先方は怒る。 「うちの犬が出血しました。どうしてくれるんです」という。  きみ夫人は、内心おもしろくなかったが、一応丁重にあやまった。  しかし、スピッツ夫人は、一向に、表情をやわらげず、ヒステリックな声を、愛犬と同じようにキャンキャン立てている。  きみ夫人が、とうとう癇癪《かんしやく》をおこして、こういった。 「奥さん、そんなことをいっていたら、犬だって反感を持ちますよ」         □  ほととぎす厠《かわや》なかばに出かねたり  というのは、西園寺公望公が文士を招待した「雨声会」に出席できないのをことわった夏目漱石の手紙の末に添えられた俳句である。  日本演劇社で、昭和二十年一月二日に、新年の顔合わせがあった。戦争中だが、少々の酒を酌みかわしているうちに、渥美清太郎さんと安部豊さんが、些細《ささい》なことから口論をはじめた。  社長の久保田万太郎さんが、ちょうど手洗に立ったあいだの出来事である。  一応おさまったところに、やっと久保田さんは帰って来たが、ぼくに、 「ほととぎす厠なかばに出かねたり」  とささやいた。         □  久保田万太郎さんと、高山から来て東京に店を開いている精進料理の店に行った。  久保田さんは、一向においしいという顔もせず、黙々と食べていたが、帰りに玄関を出ると、すぐに大きな声で、 「ああ、トンカツが食べたい」         □  久保田万太郎さんが、毎日新聞の主催した日本早まわり競争の選手の一人になって、青森県に行き、十和田湖から帰って来た。 「ばかにしている」と、しきりに怒っているので、「何があったんです?」というと、 「だって、十和田湖の近くで、食用金魚というのがあるのさ」 「はア」 「金魚ってのは、煮ても焼いても、食べられないものに、きまっているじゃないか」         □  久保田さんがオスロに行った時、もと日本に留学していたオルセンという青年が、通訳もし、案内役もつとめてくれた。  帰る時に、「日本に帰ってから何か送ってあげたいが、何がいいですか」と訊くと、 「湯豆腐のなべと、朝顔の種」  といった。  お安い御用だといって、東京に着いてから、さっそく、二つを小包にした。  しばらく経って、オルセンさんから手紙が来た。こう書いてあった。 「朝顔のほうは、どういうわけか、咲きません。白夜《びやくや》のせいかも知れません」         □  久保田さんが鎌倉にいる時、横須賀線で東京に、毎日のように出て来た。 「きょうは疲れているなと思う時は、戸塚と保土ヶ谷のあいだのトンネルが長いなアと思う」といった。 「帰りはどうですか」というと、 「夜は飲んでいるから、わかりません」         □  日本演劇社にいたころ、十二月中旬である。北海タイムスの文化部の記者が来て、「久保田万太郎先生に、元日の紙面用に、短歌を十首作っていただきたいのですが、お伝え下さい」という。  三十代だから、こっちも若気《わかげ》の至りで、「俳句のまちがいじゃありませんか」といえばよかったのに、「さア、俳句ならともかく、短歌作るかしら」と、独り言のようにいった。わるいことをした。  その記者は間がわるそうに帰って行ったが、すぐ戻って来て、くやしそうに、これも独り言の感じで叫んだ。 「俳人だって、たまには、短歌ぐらい作るでしょう」         □  これと似た話がある。むかし、「三田文学」の編集長をしていた和木清三郎さんが、内田誠さんを訪ねて、明治製菓の売店で話しているそばに、ぼくもいた。  その年、戦争中なので、六大学野球を一回戦だけの一本勝負にしたので、野球ファンの和木さんは、おもしろくない。それをきめた文部省体育局長の小笠原道生さんの悪口を、しきりにいう。いささか罵詈雑言《ばりぞうごん》に近かった。  内田さんの奥さんが、この小笠原さんの妹だったのを、和木さんは知らないのだ。内田さんは苦笑していたが、さすがに不機嫌になって、「小笠原は私の義兄なんですがね」といった。  和木さんは、一瞬気をのまれたかに見えたが、すぐ立ち直っていった。「それは丁度いい。ぜひ私のいったことを、お伝え願います」         □  久保田万太郎さんがヨーロッパから帰って、パリで歌を作ったという。  西洋では、俳句ができないというわけだ。  その一首、   巴里に来てわがのる馬車をひく馬の   蹄の音の高く悲しき  というのを、辰野|隆《ゆたか》さんに披露したら、 「ハハア新古今ですな」         □  渋谷の東横ホールで、三代目市川左団次と七代目中村芝※[#「習+元」](当時福助)の二人で、チェホフの「犬」を出し物にした。  久保田万太郎さんがいった。 「渋谷で犬なんていうと、ハチ公の芝居だと思やしないかな」  同じ東横の劇場で、劇団民芸が木下順二さんの「冬の時代」を上演していた。  ビルの壁に「冬の時代」という垂れ幕が下った。荒畑寒村さんがそれを見て、ふと目をわきのほうに遣《や》ると、 「冬物大売り出し」  この垂れ幕を、俗にフンドシというのだが、日経ホールで、劇団雲が小島信夫さんの「一寸さきは闇」という脚本を上演していた時に見にゆくと、フンドシに、 「一寸さきは闇・雲」         □  あるプレイボーイが、夜、町を歩いていると、若い女が誘ったので、車に同乗し、その女がいつも使っているホテルまで行った。  朝、目がさめて、カーテンをあけて外を見ると、正面に東横百貨店が見える。その見え方から、このホテルが渋谷の、自分の家の近くにあったことがわかった。  酔っていたので、ついそんなことになったのだが、町内の妙な場所に、初めて会った女と泊ったのは、どうもまずいと思った。  一階の廊下に洗面所があるので、備えつけの歯ブラシで歯をみがいている時、窓のすぐ前に、自分の飼っている愛犬が来て、上を見あげ、キュンキュン啼《な》きながら、ちぎれるように尻尾《しつぽ》をふっている。 「向こうへ行け」ともいえないので、知らぬ顔をしていると、愛犬はホテルの壁に前足をかけて、必死に啼く。  とてもゆっくりしているわけには行かないので、不審そうな顔をしている女に、適当な口実を設け、引きあげることにした。  ホテルの外に出ると、自分の家は、坂をもうすこし上って左に曲った所であった。その道が、すこしまわり道なので、ふだん通らなかったから、ゆうべは気がつかなかったのだということがわかった。  プレイボーイは、一度坂をおり、大まわりして帰宅したが、愛犬はもう門の所にいて、歓迎の意を表したという。  この話は、犬が可愛らしいので、誰に話しても喜ばれる。  ぼくは、久保田万太郎さんにも話した。すると、久保田さんは、うれしそうにいった。 「渋谷の犬は、みんな名犬だね」         □  久保田万太郎さんを宗匠にした、いとう句会というのがあった。渋谷南平台にある「いとう」という旅館をいつも会場にしたのである。  その句会をはじめたのは、明治製菓の宣伝部長をしていた内田誠さんである。水中亭《すいちゆうてい》という号だった。  なぜ水中亭という号をえらんだのかと尋ねたら、「わかりませんか」とニヤッと笑った。「子供の時から私の綽名《あだな》が河馬《かば》なんです」  ぼくは、昭和十四年四月から、四年ほど、この内田さんの部下だった。  明治製菓では、「スヰート」という、今でいうPR誌を出していて、戦前のある時期、ぼくが編集していた。  当時、中川蕃さんが社長だった。この中川さんと岡山の中学で同級だったのが、内田百※[#「門がまえ+月」]さんである。  そういう縁故があったので、百※[#「門がまえ+月」]さんが、「スヰート」に毎号、巻頭の随筆を書いてくれた。  ところが、百※[#「門がまえ+月」]さんが会社に来ても、内田宣伝部長は、会おうとしない。  どうしてだろうと思って、ぼくはある日、思い切って質問した。  すると内田さんは苦笑しながら、こういった。「だって、ぼく、いやだよ。�スヰート�を読んで、この会社のいろんな人が、ぼくに、なぜ百※[#「門がまえ+月」]という号をつけたのかと訊くんだもの」 「なるほど」 「ひどい奴は、ヒャクブンといったりするんだ」  内田さんも随筆家だから、まちがえられて、愉快でなかったのだろう。         □  その内田さんが、ある時、食卓の真ん中に花瓶があると、相手の顔がよく見えないので邪魔だということを書いた。ちょっと、おもしろい考え方だと思って読んだ。  なるほど、それから内田さんと食事をしに行くたんびに、見ていると、内田さんは、卓上の一輪ざしを、うるさそうに片づける。かならず、それをした。  たしか、京橋の東洋軒に行った時である。内田さんは、その日に限って、花瓶をどうにもしない。やがて、やっと気がついたように、やっぱり一輪ざしの花瓶を持ち上げて、横に移動させた。  そして、きまり悪そうにいった。「余計なことを書いたので、面倒くさくて」         □  宣伝部には、毎日、いろいろな人がやって来る。  広告代理店の人、それから印刷会社の人。幸いにぼくは、ずいぶん多くの話題を、そういう人たちから仕入れた。  光村原色版印刷につとめていた鴨光三さんも、毎日京橋の本社に来て、内田さんと話をして帰ってゆく。そばで聞いていると、大変な博識である。  内田さんは、鴨さんから聞いた話が、おもしろかったので、それを随筆に書いた。その文末に、(鴨光三氏に負うるところ多し)と付記した。そういうところが、内田さんは、律義《りちぎ》だった。  いい忘れたが、この鴨さんは、美術学校を出ている。結局画家にはならなかったが、絵の鑑賞力はさすがだった。  内田さんの随筆を、小学生だった鴨さんの長男が見て、「鴨光三氏に負うるところ多しって、どういう意味なの」と尋ねた。  鴨さんは、意味を話して聞かせた。  それから一週間ほどして、その少年が、学校の宿題で、風景画を水彩で描いていた。  鴨さんが見ると、色が悪いので、「こうしたらいい」と絵の具を使って、ちょっと直した。  その絵がいい点をもらって、返されて来た。鴨さんが何げなく裏を見たら、「鴨光三氏に負うるところ多し」と書いてあった。         □  内田誠さんを訪ねた小唄の師匠が、「名前を変えたいと思うんですがね、どうも、まわりにいろんなやつがいて、この世界はうるさいところでね、腹が立って仕方がありません」とブツクサぼやいたあと、 「何かいい名前、ありませんか」  といった。  内田さんは即座に紙に書いて渡した。 「小唄幸兵衛」         □  酒場の隅で、客が昔の話をしていたが、「大正八年」とか「昭和三年」とかいえばいいのに、「西暦でいうと、何年」と表現している。  気障《きざ》でたまらないと思って、しかめ面をしていた、ほかの客が、とうとう、どなった。 「うるせえな、セイレキ富五郎」  その話を昔、内田誠さんから聞いたので、こんな話を作った。  酒場の隅で、気障な客が、イタリアのミラノのスカラ座で見て来たオペラの話をして聞かせている。 「ええと、見たのは、椿姫、それからカヴァレリア・ルスチカーナと道化師、トスカ、トスカの次は何だったかな」  しかめ面をしていた、ほかの客が、どなった。 「トスカの次は、大船にきまってるじゃないか」         □  秦豊吉さんが、代議士の登場する「赤い絨氈《じゆうたん》」というミュージカルを製作して、知っている政治家を招待した。  終ってから、「いかがでした」と尋ねると、こういう返事だった。 「国会のほうがよっぽどおもしろい」         □  その秦豊吉さんが、日劇のショーを演出する時、真木小太郎さんの前で、音楽家に、「あの曲を縮めろ、この曲はとってしまえ」といっている。 「どんどん変えていいんだ。音楽は憲法じゃないんだ」         □  和木清三郎さんが「新文明」という雑誌を作っていた時、印刷会社への支払いが、とどこおった。  社長が、ベースアップを社員から要求された時、「和木さんが払ってくれないから」と返事をしたので、組合員が四、五人で、自由ヶ丘の和木家に押しかけると、庭に大きな犬がいて、吠え立てる。  犬が吠えたというだけでも、腹が立ったのだが、よく考えると、こんなぜいたくをしているくせにという気持になった。  印刷会社の社員が、「こんな犬を飼って、犬に肉を食べさせる金があったら、うちの会社に支払って下さいよ」とどなったのを聞いて、主人がしずかに答えた。 「肉を買ったりするので、金がないのです」         □  和木清三郎さんは、ある時期、直木三十五によく似ていた。  そのころ、こんなことをいっていた。 「宿屋の廊下を歩いていると、向こうから直木さんが歩いて来る。気がついたら、突き当りに、大きな鏡があったんだ」         □  明治製菓の何代目かの社長の浦島さんは、亀太郎という名前だった。  シャレたつもりで、お父さんが考えたのだろうが、やはり、これは当人には、迷惑だったらしい。  旅館に泊って、宿帳に「浦島亀太郎」と書くと、「冗談なさっちゃ困ります、本名を書いて下さい」と、よくいわれたそうだ。         □  明治製菓のPR誌「スヰート」に、毎号、池部|鈞《きん》さんが、広告の漫画を、一ページずつ描いていた。  絵ができると、詰襟の制服を着た大学生が届けに来る。  受けとる女の子は、あんまり愛想のいい顔もせずに、応対していた。  しかし、ある月から、その女の子がソワソワしだした。  使いに来ていた学生が、映画に出演したからである。漫画家の長男の池部良さんだった。         □  辰野隆さんは、おもしろいことをいう先生だった。  鈴木信太郎さんと共訳した「シラノ・ド・ベルジュラック」は、その後、別の訳本があらわれないほどの名訳である。  ある時、渋谷の「とん平」のカウンターで、隣り合わせになったので、「先生と鈴木先生と、どういうふうに分担して翻訳されたんですか」と尋ねた。  すると、辰野さんは、こともなげにいった。 「あなたが読んで、いいなアと思ったら、そこは辰野訳です」  辰野さんは、中年からゴルフに熱中した。一年に三百六十六回、打ちに行ったという。 「ゴルフって、そんなにいいんですか?」 「もう骨がらみだね」         □  この辰野さんに、謹厳無類の弟子がいて、昭和十年ごろだから、船に乗ってフランスに留学することになった。  研究室に出発の挨拶に来たその助教授に、教授が訓戒を垂れた。 「パリにゆくと、たまに、向こうの女性と交渉を持つ機会があるかも知れない。あぶないから、そういう時のために、予防の用具を持って行くほうがいい」 「はア?」 「ぼくのいってること、君、わかっているのかね」 「横浜から、用意してゆくんですか?」  辰野さんは苦り切っていった。 「ゲートルじゃア、あるまいし」         □  スミスという飛行士が来て、青山の原っぱで飛んで見せた。一人五円の観覧料をとったといわれる。  辰野隆さんのお母さんが、それを見ながら、「どうぞ危いことはおやめになって下さい、国に親御《おやご》さんが、おいででしょう」         □  辰野さんは、その母堂のいいつけだといって、決して飛行機には乗らず、決してフグを食べなかった。  講演旅行の時、辰野さんだけは、大阪から汽車に乗り、ほかの人は、みんな日航に乗って、先に帰京した。 「お一人で退屈だったでしょう」と、後日世話人がいったら、 「いいえ、退屈はしませんでした。ずっと、みなさんの追悼文を考えていたから」         □  辰野さんが、東大の試験の時、学生に作文を書かせた。  題は「学生よ、どこに行く」というのである。すると、「買い出しに行く」と書いた答案があった。 「採点はどうしましたか」  と訊くと、 「及第点をつけました」         □  辰野さんが、明治三十六年に、大阪の内国博覧会に連れてゆかれ、「その時はじめてウォーターシュートに乗りましたよ」という。 「どんな気持でしたか」 「生まれた時の気持と同じだったな」         □  祇王寺の住職は、もと照葉といった女性で、瀬戸内晴美さんの「女徳」に書かれているように、同じ寺に老人を住まわせていた。  老人のかしずき方は、「春琴抄」の佐助のようだった。  その話を耳にした辰野隆さん、 「そういうのを、マイジイヤというんです」         □  ある会合で、ヘドロの公害だの、空気の汚染だのについて、みんなが、侃々諤々《かんかんがくがく》しゃべっていると、颯田琴次《さつたことじ》ドクターが、ポツンといった。 「そんなこといったって、みんな、煙草を吸っているじゃ、ありませんか」         □  颯田さんのお母さんが、ピアノの演奏を聞いたあとで、 「いい音だね、しかし折角やっているのに、なぜ左手で弥次馬をするんだろう」         □  星島二郎さんと遠藤|新《あらた》さんは、無二の親友だった。  遠藤さんは建築家で、大正十二年にできた帝国ホテルの前の建物を設計したライトの助手として働いた人である。  星島さんが衆議院議員になった時、遠藤さんは、こういった。 「君は代議士、ぼくも大技師」         □  阿部真之助さんが、新聞社からもらう定期券で、阪急に乗っていた。車中は満員である。  小林一三さんが近づいて来て、 「立ってくれないか」という。 「なぜ」 「君は、ただじゃないか」         □  徳川夢声さんに、真珠王の御木本幸吉さんがいった。 「私はもう志摩から動きませんよ。奈良の大仏が京都に移っては、いかんからなア」         □  週刊朝日の「問答有用」は、徳川夢声さんがいつも聞き手だった。  内田百※[#「門がまえ+月」]さんが出席した時、会がおわって、謝金を編集長が渡したら、烈火のごとく怒って、 「こういう金は、翌日家に届けるのが礼儀というものです。今ここで、袋ごとちぎって、川に投げこみたい」といったので、 「申しわけありません、では、明日あらためて、お宅にお届けします」と詫び、返してもらおうと思って手を出すと、 「きょうは、もらっておきます」         □  文字では表現しにくい話が二つある。  徳川夢声さんが、華族の大ぜいいる徳川家一門の新年会に、漫談をたのまれて、紀州の徳川邸に行った。  控え室に通されて、煙草を吸っていると、侯爵夫人がはいって来て、いった。 「あなた、徳川さん?」 「はい」 「わたくし、と・く・が・わ」  この話を、じつにうまく、夢声さんは、話した。  これは、そばにいて、ぼくが見ていた話である。  東をどりの「万葉|飛鳥《あすか》の夢」の取材旅行に、ついて行った。  奈良の春日神社の林檎《りんご》の庭という前庭で雅楽を見ることになり、腰かけて待っていたら、向こうからアメリカ人の一行をつれて、旗を持った日本人のガイドがやって来た。  作曲者の杵屋六左衛門さんがいて、ガイドをたまたま知っていた。  六左衛門さんは、つかつか近づいて、大きな声で、「シバラアク」といった。  アメリカ人が目にはいったので、つい錯覚したのだろう。         □  徳川夢声さんは、内田誠さんと中学が同級だった。大森の内田家を訪問した時、居合わせたが、茶の間の水屋《みずや》の水道がガボガボと鳴っているのが聞こえたら、「ここの家の水道は、腹話術ができますな」といった。  内田家が戦後、大磯に引っ越した。そこに徳川さんが来て、こんなことをいった。 「二等の切符を買ったんだが、二等車がこんでいたので、三等のすいている席にすわりました。検札があったが、知らん顔をしている。車掌が通路に来るたんびに、その顔をじっと見たんだが、何ともいわない」 「それで、どうしたんですか」 「気がついたら、大磯に着いたので、降りました」  或る家に弔問にゆく道で、徳川さんとバッタリ会った。番地がわかりにくいので、ぼくが交番にはいって尋ねた。  出て来て、「このごろのおまわりさんて、年が若くなったものですね」というと、ニッコリ笑って、「戸板さん、それは、あなたが、年とったんですよ」  昭和二十六年に、講和条約が締結された時、この条約をどう思うかというコメントが、各界名士に求められた。  徳川さんのは、「中学生がはじめて買ってもらった腕時計に、故障があるような気持」というのだった。         □  徳川夢声さんが、はじめて文壇句会で、内田百※[#「門がまえ+月」]さんに会った。  会場は麹町だった。帰りに寄りませんかといわれ、徳川さんは、番町の内田邸の前まで行ったが、もう遅いと思ったので、門口で中を見まわしただけで、辞去した。  荻窪の家に帰ると、しばらくして、門の外に誰かが立っている気配がしたので、戸をあけると、百※[#「門がまえ+月」]さんがいて、「あなたは、せっかく人の家に来ていながら、サッサと帰られた。あれは礼儀として、よろしくない。私はそのことを御注意しようと思って、参上した」という。  帰ろうとした百※[#「門がまえ+月」]さんが、悠然とハイヤーにのりこんだのはいいが、エンジンの故障で動かない。  その夜初めて会った二人で、車のあと押しをしたという話である。         □  内田百※[#「門がまえ+月」]さんのところに、戦後まもなく、当時創刊されたばかりの雑誌から、原稿を依頼に来た。 「書けません」といって、ことわっていると、目の前にいる編集者のうしろに、もう一人の人物がいるのに気がついた。  そのもう一人が、右手に一升びんを提げているのが見えた。 「どうなさいました」と訊いたら、 「困りましたよ、仏頂面《ぶつちようづら》をしようと思っても、一升びんが見えた時から、口もとが、つい笑ってしまうんです」         □  小泉信三さんは、六代目菊五郎よりも好男子だとさえいわれるほどの立派なマスクの持ち主であった。  その顔を、昭和二十年五月の空襲で、損じてしまった。火傷ですっかり容貌がかわったのだ。  もちろん、小泉さんにとってこれはショックでなかったといえば、嘘だろう。家族や親しい友人は、まさに九死に一生を得たと呼びたい、生命をとりとめた喜びを祝いはしたが、同時に、その顔について、何も言葉にできなかっただろうと想像される。みんな、触れずにいた。  小泉さんは、家に引きこもっていた。顔を人に見せたくなかったのだ。もちろん、公式の場所に出て行く気もしないでいた。  しかし、ある日、ステッキをついて、三田通りに出てみた。散歩をしている姿を見ても、慶応義塾の人でそれと知っている者は、遠慮して、声をかけずに行く。それがわかるので、小泉さんはうつむいて歩いた。  ところが、復員して来たばかりのゼミの教え子が、前に立って、話しかけた。 「小泉先生ですね、ひどい目に合いましたね」大きな声だった。  そういわれた時に、小泉さんの気分は、解放された。それから、どこにでも出かける気持になった。  率直なその青年のひと声が、小泉信三という人格を、復活させたのである。         □  昭和三十八年に、ヨーロッパに、ぼくが行くことになった。当時毎日新聞にいた日下《ひのした》令光さんと同行である。  発つ前に小泉先生に会うと、「ロンドンに加代(長女秋山加代さん)がいます。じつは持って行っていただきたい本があるのですが、お願いできますか」といわれた。  お安い御用ですといい、広尾の家まで行って、一冊の書物をあずかり、鞄に入れて旅に出た。  ロンドンに着いて、さっそく秋山家を訪問すると、いろいろな日本料理が用意されていた。モスクワをまわって行ったので、何十日ぶりかの、故国の味である。  日下さんと二人で、御馳走になって、宿に帰ったのだが、その時思い当った。  あの本はもちろん加代さんに読ませたい一冊だったにちがいないが、小泉さんは、ぼくたちに、日本の味を味わわせたかったのだ。  秋山家に、どうしても行かせるようにするために、軽装本をあずけたのだ。         □  小泉さんは野球殿堂の一人に加えられた。事実、ベースボールは、大好きであった。  六大学野球の始球式に、ストライクを投げたというのが、終生の誇りのひとつであった。  神宮球場で、慶応の試合がおわって、スタンドから下りて行った時、小泉さんがいて、挨拶する機会が、毎シーズン何回もあった。  もちろん、慶応が勝った時は、うれしそうに、「いい試合でしたね」といった。  負けた時でも、点がそんなに開いていない時は、「いい試合でした」だった。  昭和三十五年の秋に、早慶戦が、決勝戦で引き分け、続いて引き分けが二度あり、六連戦で結局早稲田が優勝したことがある。  六回戦のかえりに、小泉さんに会った。「いい試合でしたね」といって、ひと息入れ、「といいたいところですがね」         □  テレビに出ている時、プロデューサーから、時々、紙を渡されることがある。  犯罪ドラマの犯人を当てるNHKの「私だけが知っている」という番組に、徳川夢声さんが探偵長として、レギュラーで出ていた。  指紋をつけずに、塗り物の菓子の鉢の蓋をあけて、中のまんじゅうを子供が食べたという、すこしも残酷ではない話があって、その前に、小学生がそれらしいものを持っているところがモニターに映っていたから、トリックは、すぐわかった。 「これは、セロテープを使ったんだ」と口々にいっていると、紙がまわって来て、「セロファンテープといって下さい」と書いてある。  あとで理由を尋ねたら、「セロテープ」というのは、或るセロファンテープの会社の商品名だったのである。  その徳川さんがなくなった時、サトウハチローさん、七尾伶子さんたちが追悼座談会を、NHKテレビで録画して、ぼくが司会者だった。  初期の「話の泉」で、「さしつさされつ」という題が出た時、「蜂のけんか」といった話とか、何かの標語の審査会にゆく日に玄関で靴を履きながら、「父は標語におもむかん」といった話などが出て、スタジオに笑い声がしきりに起こる。  紙がまわって来た。「すこししめやかに」         □  高田保さんはパリにあこがれ、パリについて書かれた本を読み、地図と写真をしじゅう眺めていたから、パリの土地カンは、ほとんど完成していた。  やがて、念願のパリゆきがきまり、日本橋のエムプレスで送別会が開かれ、堀口大學さんから詩を贈られたりしたが、肝心の旅券が下付されない。  半年後にやっとおりたが、洋行費を使ってしまったので、結局パリにはゆかなかった。  後年、高田さんがいった。 「パリの景色が目に見えて来るんだが、風景写真の組み合わせなんで、乗り物も人間も、動かないんだ」         □  本郷の菊富士ホテルに、若き日の高田保さんがいて、毎日コーヒーばかり飲んでいた。出歩く様子もない。  同じ下宿にいた三宅周太郎さんが、ホテルの主人にいった。 「あの人、コーヒーの入れ方ばかりに苦労して、一体何になるつもりでしょう」         □  高田保さんが新聞小説を書いたことがある。さし絵は、宮田重雄さんだった。  宮田さんが旅行にゆくから、すこし書きためようと思って、これからの筋を聞くために電話をかけると、高田さんがいった。 「ネコを十匹、いろいろな格好で十回分、描いて下さい。さし絵があるんだから、さし小説があっても、いいでしょう」         □  安藤鶴夫さんを、アンツルとつめていうのが、ジャーナリズムの通称だった。  安東次男さんが、「芸術新潮」に時評を連載して、アンツグ時評としたのは、アンツルが前にあったからであろう。  安藤さんの所に、新聞社から電話があって、「安藤先生ですか、ちょっとお待ち下さい」といい、「おうい、アンツル出たよう」という声が耳にはいった。  別の男が送受器をとって、「失礼しました。安藤先生でいらっしゃいますね」  安藤さんは、憤然と答えた。 「いいえ、アンツルでございます」  名前をつめていわれた作家では、別に久保田万太郎さんがいる。  ある時、ある出版社に、久保田さんとはいって行ったら、事務所の黒板に、大きく、白墨で、こう書いてあった。 「午後二時 久保万来社」         □  中山義秀さんが、横光利一さんに、文学を志すについての心得といったものを尋ねた。  横光さんは、ただちにいった。 「まず机の前に端座することを、おぼえなさい」  横光さんが、新響の演奏会で「運命」を聴いたかえりに、銀座の「はせ川」に行き、興奮していったそうだ。 「君、ベートーヴェンは複雑だね」  内田百※[#「門がまえ+月」]さんが日本郵船の嘱託をしていたころ、新田丸が就航、その処女航海に、横浜から神戸まで、文士たちを招待したことがある。  観音崎の灯台が見えて来ると、横光さんが内田さんに、まじめに訊いた。 「あれは、われわれの船のために、つけているのですか」         □ 「銀座のバーも高くなったので、このごろはあまり行きません」と、吉行淳之介さんがいうと、川端康成さんが、ジロリと見ていった。 「じゃ、払わなきゃいいじゃありませんか」         □  岩田豊雄さんは、希代の健啖家《けんたんか》だった。  本郷の天満佐《てんまさ》に一緒に行ったことがある。  エビ、穴子、キス、かきあげと、それぞれ二つずつ食べて、天丼を平げた。健啖ぶりは、小気味がよかった。  外に出て、拾ったタクシーに同車すると、すぐ岩田さんは、こういった。 「君、東京でいま、ウナギはどこ?」         □  大佛次郎さんが町を歩いていたら、女の人がお辞儀をしたので、「やアしばらく」と挨拶して別れたが、それが自分の家のお手伝いだったのに、気がついた。  その夜、したたか飲んで、大佛さんは帰宅した。この話をして、 「酔ってでもなければ、玄関をはいってゆけません」         □  水木京太さんが、戦前、イプセンの本を集めていた。  神田の神保町をバスで通ると、或る店の前に旗が出ていて、Ibsen と書いてあるので、次の停留所で降りて行ってみると、   10sen  だった。テンセン・ストア(十銭均一の店)だったのである。         □ 「月山」というのは、森敦さんの芥川賞受賞作だから、字では知っているが、一般に、正確に読まれているかどうかは、明らかでない。  山形県の山で、ガッサンが正しい。  戦前、日本橋の丸善別館の近くに、「月山」という汁粉屋があった。「学鐙」の編集長の水木京太さんがぼくを連れて行った時に、こういった。 「ぼくはここの店の名を読ませて、学力をテストするんです」         □  長谷川伸さんは、電車の中で乗客をじいっと観察するくせがあった。 「それをネタにするつもりだが、一度、巾着《きんちやく》切りとまちがえられてね」         □  長谷川さんが強い地震の時に、敏捷に庭に飛び降りた。  そして、少し照れながらいった。 「気が早すぎたが、すましていて怪我をしても、つまらない」         □  村松梢風さんが、編集者に、 「仕事をしていない時、ぼくが何を考えてるかわかりますか」といった。 「さア何でしょう」 「女のことですよ」         □  尾崎士郎さんは、よく浪曲の節で、   青きは鯖《さば》の肌にして   黒きはひとの心なり  と口ずさんだ。 「いい歌ですね」  とほめたら、「この詩は、夢の中で作ったんだ」といった。         □  英文学者の山本修二さんが、八十一歳の正月を迎えた年賀状に、 「ことしは九九《くく》の声をあげます」         □  江戸川乱歩さんに初めて会った時、「先生は、推理小説を読んでいらして、ずいぶん早くから犯人がおわかりになるんでしょうね」と質問した。  江戸川さんは大きく首を振って、答えた。 「わかるもんですか、わからないからこそ、楽しく終りまで読むんです」         □  木々高太郎さんが、長男の林峻一郎さんが文学を志したについて、「三田文学」の仲間を招いて、峻一郎さんを紹介しようとした。  みんなが、ひとりずつ立って、激励の言葉を述べることになった。  ぼくにも話せというので、「折角医学部を卒業したのに、文学の道に進むなんて、もったいないと思います。ぼくが病気になったら、峻一郎さんに電話をかけて、診ていただきたいと思います」といった。  すると木々さん、莞爾《かんじ》と笑って、 「戸板さん、伜は精神病理学なんですよ」         □  戦後、まだ食べ物の不自由なころ、中国人が、いとう句会のメンバーに御馳走したいといっているという話があって、安藤鶴夫さんが取り次いだ。  乗り物もまだないころで、鎌倉に住む久米正雄さんや小島政二郎さんは、東京に泊ることにして、会場の青山の或る家に行った。  当然、いろいろな皿が出て、久しぶりに満腹するつもりでいたが、一向に、何も出て来ない。  散々待たされ、いらいらした一行は、腹を立てて帰ろうと立ち上った。  すると、そこに、中華ソバが丼にはいって、届けられた。  小島さんは、立ったまま、それを食べた。  安藤さんも、中にはいって大変困ったらしいが、この話をして、こういった。 「立ったまま食べた小島さんを見て、そのすさまじい怒りが、ハッキリわかった。怒る時はああするものだ」         □  丸岡明さんがべろべろに酔っ払って帰宅した。タクシー代もないので、車を門の前に乗りつけたら、夫人が出て来た。  丸岡さんは、てれ隠しに、夫人に「ヤイ金を出せ」といった。  ところが、家の中に、じつは強盗がはいっていて、金を渡すことになった、その瞬間にベルが鳴り、夫人が出て行ったのである。 「金を出せ」という声を聞くと、その強盗、飛び上って逃げ出した。         □ 「新劇」という雑誌で、毎年演技賞を若い俳優に贈っていたころ、北原武夫さんが、アンケートの葉書に毎年毎年、同じ名前を書いて、送って来た。  公卿敬子(同人会)  というのである。  その後、気がつくと、北原夫人になっていた。         □  長谷川|如是閑《によぜかん》が、三宅雪嶺を芝居にさそったが、「うん」と生《なま》返事していて、うれしそうな顔もしない。  しかし、ことわったわけではないので、一応席をとって、当日案内すると、座席につくなり、ふところからオペラグラスを出した。         □  それで思い出した。  祖母がなくなる前、危篤という状態が、四日も続いた。  熱海の旅館に、東京から来た主治医が詰めっきりだったが、いつまでも死なない。  しかし、とうとう、臨終になった。  その死を家族に告げた直後、その医者は、上着のポケットから数珠を出して、合掌した。         □  平林たい子さんという人は、ポツリと、おもしろいことをいう作家だった。  その言葉でいちばん名高いのは、「とかく目高は群れたがる」というのである。  思い出したが、田中澄江さんが、京都の新聞社に勤めている時、女優の日高澄子さんを訪問して記事をとった。インタビューのあいだ、終始「目高さん」と呼んだという話が伝わっている。  平林さんでは、もうひとつ、こういうのがある。  月の量産おびただしい流行作家の噂を編集者がしていたら、平林さんは、さりげなくいった。 「あの人は、人間ではなくて、タイプライターですよ」         □  平林さんは、動物が好きで、いろいろなペットを飼っていた。  円地文子さんが、「徳、禽獣に及ぶね」というと、平林さんは、こう答えた。 「動物は裏切りませんからね」         □  八木隆一郎さんが、はじめて映画のシナリオを書いて、先輩に見てもらった。  その先輩は、「このシナリオには、流れがない」という。「流れ」「流れ」と何回もいった。  八木さんは憤然として、礼状に書いた。 「シナリオは質札ではござらぬ」         □  三島由紀夫さんの目黒区緑ヶ丘の家の客間のソファの上に、ぬいぐるみのライオンがあった。  或る日、事典の「アメリカーナ」のセールスマンが来て、散々講釈したが、三島さんは、「ノー・サンキュー」で押し通した。  アメリカ人のセールスマンは、あきらめて立ち上り、ぬいぐるみを指さして、 「グッド・ライオン」  といって、出て行った。  三島さんは「グッドバイ」といった。         □  中野実さんが、三つの月刊誌に連載を書いていた時、編集者にいった。 「ゆうべは、怖い夢を見て、うなされたよ」 「どんな夢ですか」 「原稿用紙のような牢屋に入れられた夢」         □  中野さんは、電話が嫌いで、自分の家にはつけなかった。  なぜいやなんですかと尋ねたら、 「だって、ほうぼうから、かかるじゃないか」         □  サトウハチローさんがいった。 「上田敏訳の�海潮音�、永井荷風訳の�珊瑚集�を読んでいると、原作は、あんなにうめえこといっていないんじゃないかと思うね」         □  菊田一夫さんが、NHKラジオの「鐘の鳴る丘」の演出をしていた時、スタジオで、出演している子供たちを、きびしく叱った。  或る日、リハーサルの時、すこし早目にスタジオにゆくと、子役が二人、グランドピアノの下にはいっている。 「隠れん坊でもしてるの」といって、のぞいて見ると、白墨でこう書いてあった。 「菊田先生のバカ」         □ 「放浪記」の時、菊田一夫さんを小鹿番《こじかばん》という俳優が演じて、よく似ていた。  菊田さんは、鼻の下に、いわゆるチョビひげを立てていた。晩年は、そのヒゲに白いものがまじった。  東宝の中で、菊田さんを「専務」とも呼んだが、親しい気持では、「ヒゲ」といっていた。  ある時、社員の一人に、菊田さんが、「あした午後一時の新幹線で、大阪にゆくからね」といった。 「わかりました」という返事のテンポがのろかったので、機嫌をわるくした菊田さんは、「わかったんだね、手帳に書きなさい」と命じた。  部下が、手帳を開いて、書きこんだのを見て、菊田さんが、「見せなさい」といって、手もとに取りあげ、また怒った。  翌日のところに、「午後一時新幹線ヒゲ」と書いてあったのだ。         □  舟橋聖一さんの家を、円地文子さんと、瀬戸内晴美さんが訪ねて、話しているところに、家の人があらわれて、小声でささやきながら、一枚の紙を見せている。 「フォアグラはあるね」「ワインは何」という会話が、何となく耳にはいる。  瀬戸内さんは、てっきり、今夜は西洋料理を御馳走になるものと思っていた。  しばらく経ったら、舟橋さんがいった。 「タクシーを、そろそろ呼んであげましょうか」         □  近藤信行さんの書いた追悼文を読んで、武田泰淳さんが、こうつぶやいたことがあるのを知った。 「ビールを飲んで書いたときと、ウィスキーを飲んで書いたときと、字体がかわっているかな」         □  パーティーの会場では、受付があって、会費を払ったあと、芳名録に署名をすることになっている。  受賞のシーズンに、二人あるいは三人を、一度に祝う会というのがあったりすると、芳名録がその主賓の人数だけおいてあって、参会者は、それぞれに署名する。これは当然である。  もとは、硯と筆だけであったが、近ごろは筆で書くのに馴れない人もいるので、サインペンが置いてあることがある。  大分前だが、演出家の菅原卓さんと、或るパーティーの受付で、一緒になったことがある。  毛筆とサインペンと、両方置いてあったが、菅原さんは、躊躇なく、筆をとった。  菅原という姓の人は、やっぱり筆法正しく書くわけだと、「寺子屋」の外題《げだい》を思い出しながら見ていると、じつに勢いのいい、三字の署名ができあがった。 「こんなうまいサインの隣に書くのはつらいですよ」といいながら、その次に、ぼくも署名した。  菅原さんは、ぼくが書き終るのを見ていて、「戸板さんの字のほうがいい」といった。 「とんでもない」 「私のは、小切手に書く字です」  菅原電機の社長は、しずかにこういった。         □  演出家の菅原卓さんと、劇作家の内村直也さんは、じつの兄弟である。  あるパーティーで、すぐ近くにいたが、兄弟だから、かえって話そうと努力もせず、無言で並んで立っていた。  すると、親切な人が来て、 「御紹介しましょう。こちら、菅原卓さん、こちらは内村直也さんです」  内村さんは、だまって、お辞儀をした。  菅原さんは、すましていった。 「はじめまして」         □  堀口大學さんのところに、こういうふしぎな手紙が来たという。 「貴大学の入学規則書をお送り下されたく候」         □  井伏鱒二さんが、京都の木屋町に泊っていると、宿の女の人が来て、「川の音がうるさいでしょう」という。 「ヤマメ釣りに行くから、馴れてるよ」 「え、ヤモメ釣りですか?」 「ヤモメ釣りは、餌代《えさだい》が高いだろう」というと、相手はまじめな顔で、 「私はヤモメどすけど、餌代はいりまへん」         □  井伏鱒二さんに、二日酔をなおす秘訣《ひけつ》を尋ねたら、ぬるい湯にはいって、段々熱くしてゆくのが、いちばんいいといった。 「そのあと、どうします」 「きまってるじゃないか、また飲みはじめるんですよ」  山口瞳さんの「酒飲みの自己弁護」に、書いてある。         □  戦後、平川唯一さんが、NHKで英語会話を放送することになり、毎日、その前に英語のテーマソングを電波にのせた。 「証城寺の狸囃子」のメロディーで、「カム・カム・エヴリボディ」というのである。  そのころ、永井龍男さんが、こういった。   朝のラジオかじかむエヴリボディかな         □  中野重治さんが、講談社の大久保房男さんに、質問した。 「ちかごろ、金もうけのために、文学をする人間が出て来たって、ほんとうかね」         □  ある出版記念会で、主賓が花束をもらっている時、中野重治さんが、こういったそうだ。 「あの花のパラフィン紙はとったほうがいいね。あれでは、情《じよう》がうつらない」         □  尾崎一雄さんが、昭和のはじめの或る夏、軽井沢に遊んだ。師事している志賀直哉さんがいたので、訪ねて行ったのだ。  逗留《とうりゆう》しているうちに、金がたりなくなったので、電報為替で送金してもらったが、ハタと気がついたのは、印鑑を持って来なかったことである。  東京なら、三文判《さんもんばん》を町で売っているから、それを買えばいいが、軽井沢では、そうもゆかない。  ところが、同じホテルに、たまたま尾崎|咢堂《がくどう》翁の弟の行輝さんという人が泊っているのを思い出した。  そうだ、尾崎さんに貸してもらえばいいと思い、たのみにゆくと、快く承知したあと、「しかし、君、旅行に出る時、ハンを持たずに出るとは不注意だよ」と、懇々とさとされた。  尾崎行輝さんが、秘書を呼んでいった。 「この尾崎さんに、印鑑を貸してあげなさい」  すると秘書がいった。 「持って来ておりません」         □  野上|彌生子《やえこ》さんは、今でもたえず読書している。その野上さんの家には、若い女流作家が訪問する。あらゆる意味で、ためになる助言をしてもらえるからだ。  若い作家の一人が、前もって電話で都合を訊いてから、野上家に行った。 「あなたが来るというので、あなたの小説を読んでいたのよ」といわれて、大変嬉しかった。 「ありがとうございます」と礼を述べ、その作品について、気のついたことがあったらおっしゃって下さいといった。 「そうね、読んでいるうち、気になったことがあったわ」  主題についてだろうか、話のはこびがまずかったのだろうか。若い作家は、あれこれ思いめぐらした。  野上さんが、今まで読んでいた本を手渡した。見ると、赤鉛筆で、文章が直されていたというのである。         □  川口松太郎さんが、花柳章太郎さんの台本を見ると、ある個所に「川口大声」と書いてある。 「何だい、これは」と訊くと、 「稽古の時にお前が大きな声を出して、どなったんだ。ここで川口が大声を出したと思うと、セリフを忘れない」         □  北条秀司さんと、岡本綺堂さんの話をした。「綺堂先生は、よほどウナギが好きだったらしい」という。 「自分で、そう書いているんですか」 「いや書いてはいないが、証拠がある」 「何です」 「半七が、のべつにウナギ屋に行く」         □  浅草の鳥屋で、古くからある金田が、一度閉店して、別のところに越したという噂を聞いた。  浅草に家があるという学生が、三田に来ていたので、「君、金田はどうしたか、知ってる?」というと、 「ピッチャーのですか」  田中澄江さんが、国鉄にいたころの金田正一さんに、紹介された。 「こちら、国鉄の金田さん」 「まア、おつとめは、どこの駅ですの」         □  田中澄江さんが、酒のことを随筆に書いていた。  飲んでも、家の人にわからないようにした、時にはウソもついた。  そう書いたあとに、 「まだ、受洗する前だった」         □  伊馬春部さんが、大宅壮一さんとパーティーで話している時、たまたまアングラと呼ばれる芝居の話題が出た。  伊馬さんが、大宅さんに語源を質問した。 「なぜ、アングラというんでしょう」  大宅さんが、伊馬さんを上から下まで見ていった。 「アンダーグラウンドですよ。ちがいますか」         □  阿木翁助さんは、十数年前、亡くなった加東大介さんとしばしばまちがえられた。  何かのパーティーで、並んでカメラにおさまっているのを見たが、ほんとによく似ていた。 「人気俳優と似ているんだから、悪い気持はしないでしょう」  といったら、 「冗談じゃない。飲みに行った時、釣りをもらいにくい」         □  横溝正史さんが、横須賀線の車中で眠りこんで、横須賀まで行ってしまった。  駅の前の旅館に泊ることにして、玄関に立つと、「のりこしさんですか」         □  草野心平さんは、はじめ水道橋のそばに、「火の車」という酒場を開いた。 「火の車としておけば、税金をとりに来ないでしょう」  その後、新宿御苑の近くに、「学校」という店を持った。 「学校としておけば、家の人が安心して、来させてくれるでしょう」         □  村上元三さんが、文士劇で、「忠臣蔵」の六段目に出る二人侍の一人に扮した。  すっかり支度もできて、揚幕に待機していると、「先生、お電話です、原稿はどうなったかといっています」と告げられた。  村上さんがいった。 「千崎弥五郎が小説の心配なんか、できるか」         □  山口瞳さんが、高橋義孝さんのお母さんの通夜に行っていると、向こうのほうに、春日野親方(元栃錦)がいて、見知らぬ老人と話している。  山口さんがそばに行くと、老人が親方に、「本所に住んでいるんですが、湯屋に行くと、えらい相撲取りがはいって来て、弟子が大ぜいまわりについて、手や足や背中を洗う。大げさだねえ」という。 「いや、あれは稽古の時に、いろいろ教えてもらうお礼にやってるんですよ」と親方が説明すると、老人はまじまじと見て、 「あなた、相撲のことにくわしいねえ」         □  河出書房新社で「現代文豪全集」というのを計画したことがある。結局実現はしなかったが。  編集部の坂本一亀さんが、丸谷才一さんに話した。 「交渉にゆくと、どの作家も、二つ返事でした」         □  寺山修司さんは、今は天井桟敷という劇団を主宰して、劇作家として知られているが、前は詩人、その前は歌人だった。 「短歌では、誰が親しいの」と訊いたら、「宮柊二さん」といった。 「ほう」 「だって、向こうもシュウジでしょ」         □  井上ひさしさんの「モッキンポット師の後始末」に出ている話だが、いかにもおもしろいので書く。  上智にいる時の先生が、どこで働いているのかと訊いたので、「フランス座」と答えた。ストリップ劇場であるのは、いうまでもない。 「どんな劇場なのですか」 「コメディー・フランセーズとでも、申しましょうか」         □  作家には、いろいろな伝説がある。  丹羽文雄さんは、四十枚の小説を書く時、原稿紙を四十枚重ね、ホチキスでとじてから、書きはじめるというのがある。  笹沢左保さんが忙しい時、宿屋に泊って、床の間の脇の、違い棚の前に立って、原稿を書いたという話があった。  花登筐《はなとこばこ》さんは、新幹線の中で、連載小説一本を書くといわれる。  昔の松居松翁は、夜行で大阪にゆくまでに、三幕物の芝居を書いた。         □  大分前だが、遠藤周作さんと、近藤啓太郎さんが、有馬稲子さんに会った。  遠藤さんが、「あなたはどこか、インド象に似ていますね」といった。  有馬さん「インドというよりも、私はギリシャ像に似てるといわれますよ」  近藤さん「ギリシャに象がいたかなア」         □  遠藤周作さんが、秘書に車を運転してもらっていた時、スピード違反でつかまった時の会話を、あらかじめ考えていたら、それを利用する事態になった。  遠藤さんが散々叱って、「あれほど注意しておいたのに、どうしたのだ」というと、警察官が「まアまア」となだめ、「ほんとに、こわい社長さんだね」と同情した。  しかし、罰金は、とられた。         □  侍従長の入江|相政《すけまさ》さんが、タクシーを拾って、「坂下門から皇居のほうに入って下さい」といったら、運転手がニコニコして、「旦那、だいぶご機嫌ですね」といったそうだ。  その入江さんは、玉川一郎さんと同い年で、明治三十八年生まれの親しい友達で「三八会」を作っている一人だが、その会のあった日、玉川さんたちが、入江さんのためにタクシーを止めて、運転手に、「この人は侍従長で、御所の中に住いがあるのだから、そこまで送ってあげてくれ」と、わざわざくわしくたのんだ。  皇居といって、酔余の冗談だと思われると、困るからである。  運転手が、「よくわかりました」とうなずいたあと、「ところで、あなた方は何ですか」         □  田辺茂一さんが、病院に見舞に行った。これならいいと思って、更科の御前そばを持参した。  ちょうど病室にはいった時に、院長の回診があったので、隅の椅子で待っていたが、回診がおわってゾロゾロ出て行く一群の最後にいたインターンに、念のため、「そばは、病人にどうでしょう」と尋ねると、「更科のなら大丈夫ですよ」と答えた。  田辺さんは、腹の中で考えた。 「藪が更科を褒めたのは、はじめてだ」         □  東京新聞に、早田|敏《びん》という映画記者がいた。友田純一郎さんの実弟である。  この早田さんは、身なりをあまり、かまわないたちで、みんなが、背広をとにかく着るようになった戦後、いちばん遅くまで、国民服のようなものを着ていた。  そのころ、酔っぱらって駅のベンチで寝ていたりすると、介抱するふりをして金をとる者がいた。今もある犯罪だが、そのころは、もっと物騒で、東京新聞の文化部では、軒並みやられた。  ところが、表でいつも寝てしまう早田さんだけは、一度も盗難にあったためしがない。  みんなが「なぜだろう」と首をかしげていると、早田さんはニッコリして言った。 「とられたあとみたいだからな」  三越名人会で、古今亭志ん朝の「蔵前駕籠」を聴いている時、この話を、思い出した。         □  日本演劇社が築地にあって、業務部長は、もと「演芸画報」にいた安部豊さんであった。  事大主義のところがあって、肩書のついている人には、無条件で敬意を表した。  終戦後の或る冬の日に、訪問客があった。秘書らしい青年を同伴した老紳士である。  脇の机にすわっていたぼくは、一見して、それが、前《さき》の内閣総理大臣である芦田均さんとわかった。  安部さんは人見知りをするたちで、自分の目の高さに板囲いをし、入室して来た人物をそこからのぞいて、知人だと伸び上って挨拶し、知らない人だと頭を垂れて、素知らぬ顔をするのだ。  その時、安部さんは、芦田さんということがわからなかった。  暖房もろくにない時代だったので、芦田さんも同行の人も、外套を着たままである。仕事をしていたぼくも、同僚も、安部さんも、外套を着ていた。  芦田さんは、社長の久保田万太郎さんに会いに来たのだが、見まわして一番年配の安部さんに近づき、「久保田さんは、おいでですか」といった。  当時この社では、社長を「先生」と呼んでいた。大抵の来客が先生というのに、この客が「久保田さん」といったのに対して、安部さんは不満だったらしい。  仏頂面で、「あなたは?」と尋ねた。  芦田さんが、名刺を紙入れから出して渡すと、安部さんは名状しがたい顔で、狼狽した。  そして、立ち上って、あわてて外套をぬぐと、部屋中の人に向って、「みんな外套をぬぎなさい」         □  安部豊さんは、几帳面な人で、規律がやかましかった。壁に達筆な文字で、  就業午前十時  終業午後五時  と書いた大きな紙を張っていた。  ある週、どういうわけか、毎日のように電車が遅延して、安部さんは、三日続けて、二十分ほど出社が遅れた。  四日目の朝、また遅れて来た安部さんは筆をとると、「午前十時」「午後五時」の下に、「頃」という字を書きこんだ。         □  奥野信太郎さんは、旅先などで、色紙を持ち出されると、相手が女性の場合は、かならず、名前を尋ねた。 「美代子です」と答えると、「今宵美代子のうつくしきかな」と書くのである。日本中に、そういう固有名詞だけちがう、同文の色紙があるのではないかと思う。  書かれた女性が、わるい気持がするはずがない。そのへんは、女ごころの機微《きび》をよく知っていた。         □  文壇句会で、その奥野さんが、居合わせた俳人たちに、短冊を書いてもらった。  ほかにも、書いてもらった人たちがいて、デパートの包み紙をひろげて包んだりしながら、「折れたりしないでしょうかね」などと、私語していた。  奥野さんは、澄まして、その短冊を、ワイシャツの背中にさしこんだ。  ほかならぬ奥野さんのことだから、中国の習慣かと思って尋ねると、「これは堂上|公卿《くげ》がすることですよ」といった。「お公卿《くげ》さんは、笏《しやく》を背中に入れるものです」  それで思いついて、「句会の短冊」という小説を書く時、それを使った。これは、芭蕉の短冊が紛失する筋であった。雑誌の企画で、ゲストに犯人を当ててもらう趣向だった。  歌舞伎俳優の市川小太夫さんが、見事に当てた。「さすがですね」というと、「だって、�奥州安達原�の貞任《さだとう》をごらんなさい」と嬉しそうだった。         □  十数年前、請求書が一向に来ないバーに行った奥野信太郎さんが、「払って帰ろう」というと、「先生、いつでもいいんですよ、第一、いくらぐらいあったか、忘れちゃったわ」とマダムがいう。ぼくも、そばにいた。  奥野さんは、「しかし、今日は払って行きます。ちょうど持ち合わせているから」といった。 「そうですか」 「おいくらになるの」  マダムは帳面も見ないで、「六千八百三十五円になります」 「ほう、だが五円というのは半端だね」 「いつか先生、葉書を一枚、ここでお使いになりましたのよ」         □  劇評家の秋山安三郎さんは、明治二十三年うまれで、ぼくの父親よりも年上だったから、すべて、ぼくらの世代とは、もののうけとり方がちがっていた。  新幹線のできる前の国鉄に、特二《とくに》というのがあって、やはり座席が、ボタンを押すと、うしろに倒れる仕掛になっていた。  ある時、名古屋の西川流のおどりの会を見に行こうとして、その特二に乗った秋山さんは、近所の乗客に教わるのがシャクなので、自分で倒してみようと思ったが、とうとう座席がビクとも動かないまま、降りる駅に着いてしまったと笑っていた。  同じ人が、新劇を日経ホールに見に行ったが、ちょっと開演時間におくれ、エレベーターには誰もいない。  自動なのだから、自分で動かせるわけだが、どうにも不安なので、芝居を見ずに、帰ってしまった。         □  この秋山さんと一緒に、文化放送の座談会に出たことがある。  録音がおわると、隣の部屋の拡声器で、今しがたテープにとったみんなの声が流されて来る。いわゆるプレイバックである。  しかし、秋山さん以外の出席者は、それにあえて耳を傾けようともせず、雑談していた。  秋山さんだけは、自分の発言をもう一度聞こうとして、拡声器のほうに歩み寄った。  歩きながら、秋山さんがつぶやいた。 「みんな、すれてるなア」         □  川尻|清潭《せいたん》さんは、芸談をたくさん本にしている。それは、貴重な文献である。  川尻さんに、「役者の芸談を、どういう風にとったのですか」と尋ねたら、 「それはあなた、役者と親しくなることです」 「どうすれば、親しくなれるのですか」 「その役者の競争相手の悪口を、いうことです」         □  川尻さんの義弟の鹿塩秋菊《かしおしゆうぎく》は、深川にもとあった三十三間堂の堂守で、怪談の名人といわれた。 「何か話して下さい」というと、ニッコリして、いつもこういった。 「今日は足のあるほうにしようか、足のないほうにしようか」         □  藤浦洸さんが、ローマに行っていると、新婚早々のスーザン・ヘイワードが来ていた。 「あれはスーザン・ヘイワードだ」と話し合っているのが聞こえたと見えて、向こうから近づいて来て、なつかしそうに話す。  よく考えたら、イタリア人は、スーザン・ヘイワードを知らなかったのだ。  誰も相手にしてくれなかったのだ。         □  玉川一郎さんが、石黒敬七さんに、 「先生は柔道八段だそうですが、四段や五段なんか、ブンブン投げておしまいになるんでしょう」と訊いた。  旦那の答。 「キミ、陸軍大将が鉄砲を撃ったら、いちばん、うまいと思いますか」         □  池田弥三郎さんが、慶応の国文科の助教授をつとめて、六年になった。  塾長に会った時に、池田さんは、こういった。 「私は、助六《すけろく》です」  その年、教授に昇格したそうである。         □  池田弥三郎さんの長男が生まれたので、お七夜にお祝いに行った。  新富町の家の二階に上ると、赤ちゃんが、スヤスヤ眠っている。 「大きな子だね」と感心したら、  池田さんが、おどろいた声で、 「おいおい、それは半年前に生まれた兄貴の子だよ」         □  池田弥三郎さんが、慶応の校舎の廊下を歩いていた時、ツルリとすべった。  女子学生がかけ寄って来たので、「大丈夫ですか」というかと思ったら、 「先生、ロウカ現象」         □  或る会合の席で、宝石の話が出て、東畑精一さんが、「サファイアって、高価なものですね」という話をした。  宝石のことなんか、まるっきりわからないので、黙って聴いていた。  すると、そばにいた和達清夫さんが、ぼくを振り向いて、 「だって、あれ、炭素でしょ」         □  いつのころからそうなったのか、音楽会に行くと、曲がおわった時に、立ち上って、「ブラボー!」と叫ぶようになった。  それが外国から来たすばらしい演奏家の場合なら、まだ許せるにしても、あんまりよくない演奏の時でも、「ブラボー!」なのだ。  倉橋健さんが嘆いて、「ブラボーじゃなくて、ベラボーですよ」         □  渡辺紳一郎さんが、いった。  地名というものは、やはり重要で、ものをそこに作ったりする時、できるだけ慎重にしたほうがいいというわけだ。 「だって、空港のことを、ひとつ考えたって、わかるじゃありませんか。あれが羽田だから飛行機にふさわしいが、落合だったら、どうします」         □ 「演劇界」の利倉幸一さんは、京都の人である。  祇園祭を見物して帰京した直後に会ったので、「あの鉾《ほこ》に乗っているお稚児《ちご》さんは、大変なものなんですね。家でも、別な部屋で、別に食事をするんですってね」というと、「ぼくの小学校の時、同級生にお稚児さんができて、祭りのあいだ、みんなと机を離して、すわらせるんだよ」と話してくれた。 「祭りがすむと、どうするんです?」 「ぼくは、なぐってやったよ」         □  花森安治さんが、推理小説を読みながら、電車に乗っていた。  前夜から読んでいた早川ミステリーの一冊が、いよいよ名探偵によって事件の絵ときになる、ファンにとって、たまらなくうれしい所まで来たら、声をかけられた。  折角佳境に入った所で、読書を中断することになった。 「あの時ほど相手を憎らしいと思ったことは、なかったよ」         □  その花森安治さんが、みずから主張する服装論の建前を貫くため、スカートをはいていた時期がある。  毎日新聞が、正月の読み物として、いろいろな人の対談を企画し、花森さんには、大石よし江代議士を組み合わせた。  大石女史は、はじめから、花森さんを女性だと思って話していたのがわかったので、途中で司会者がわざと、「花森先生、女性の風俗について、男性の立場から、何かおっしゃって下さい」といったのだが、女史は、そんな言葉に耳も傾けず、滔々《とうとう》としゃべり、帰りがけに花森さんの肩をたたいて、うれしそうにいった。 「ま、お互い、女同士、がんばりましょうや」         □  舞台装置家の妹尾河童《せのおかつぱ》さんが、ナポリに行っていた時出会ったアメリカ人の夫婦は、スーツケースを一個盗まれたと話しながら、ニコニコ笑っている。  盗難に遭って、喜んでいるのは変だと思って訊いたら、こう返事した。 「私たちはあらかじめ、その土地で、どういうものをたべ、どういうものを見物するか、調べて旅行に出た。ナポリでは、こんなことがあるはずだと聞いた。つまり、その通りになったんだ。ナポリは完全にわれわれのものになった」         □  日下令光さんと、イタリアの首都を歩いていた。二人は、その二週間ほど前に、モスクワにもいた。  ロシア語の文字は馴染みがなく、どう発音するのかさえ、わからないので、意味を考えてみる気にもなれなかった。  イタリアに来ると、とにかく、長年親しんで来たアルファベットが看板に出ているので、ホッとした。  日下さんが、「みんなスラスラ読めますね」といったので、ぼくが答えた。 「だって、ローマ字だもの」         □  渡辺プロの渡辺美佐さんに、芸能記者が質問した。 「あなたの育てた人で、一番優秀だと思う人は誰ですか」  美佐さんは、ちょっと考えて、「そうね、渡辺晋かしら」         □  志賀直哉さんの長男の直吉さんが、岩波書店にはいった。  直吉さんは、「さすがに一流の出版社」といわれるのが、大変照れくさいので、「どこにおつとめですか」「出版社です」「何をやっているんです」「編集です」「雑誌ですか」という問答の時、いつもこう返事した。 「�夫婦生活�ですよ」  鱒書房から出て、大変売れていた雑誌である。         □  角川書店で、婦人のための文化講座を出版することになって、いつもとちがう売り方を考えた。  とにかく本を各家庭に配って、読んでもらうのである。そして一定期間が過ぎると、回収に行き、気に入った人には買ってもらうというのだ。  社長の角川源義さんに、「何だ、それじゃ、富山の薬と同じじゃないか」といった。 「ええ」 「ところで、あなたの郷里はどこ?」 「富山です」         □  ある時期、二科展に毎年出品していた画家で、スミノウィッチという名前の人がいて、とうとう入選した。  おもしろい記事になりそうなので、美術記者が訪ねてゆくと、レッキとした日本人であった。  がっかりしたような顔の記者に、その人がいった。 「私は何も、ロシア人だと詐称したわけではありません。ロシア人だとそちらが勝手に思うだけだ。私のは筆名で、つまり夏目漱石というのと同じです」         □  岡本一平が、チャリティー・セールを同情週間といった時代に、似顔絵を奉仕した。ある人の顔を描き上げると、しげしげ見ながら、「似てませんな」という。 「もう何年か経つと、あなたは、こういう顔になるんです」         □  岸田劉生が、中川一政さんにいった。「この間、銀座を歩いていたら、バーナード・リーチがキモノを着て、子供を大勢つれて歩いていたよ」 「そう」 「リーチモノノ子|沢山《だくさん》」         □  横堀角次郎さんは、画家で、群馬県人である。上州の侠客、国定忠治を崇拝して、国定教科書をうっかりクニサダ教科書と読んだほどである。  田崎|草雲《そううん》の描いた国定忠治の像を見て、横堀さんは、ますますうれしくなった。  その顔が、横堀さん、そっくりだったのである。         □  パリのパレ・ロワイヤルの裏に、グラン・ヴェフールというレストランがある。  宮田重雄さんが、福島慶子さんと食事をしに行くと、帰りに支配人が、「プランセス並びに閣下、ぜひまたお越しを」と挨拶した。外に出て、宮田さんが、「ぼくたちを東洋の貴族と思ったらしい」というと、福島夫人、 「あの店にゆくと、誰でも、姫君と閣下にされるの。ガイドブックにも出ているわよ」         □  梅原龍三郎さんは、富士山や桜や鯛を描いている。俗っぽくなく、こうしたモチーフにとりくむのは、なまやさしいことではない。  宮田重雄さんが、幸田露伴翁に会ったあと、梅原さんに、「ジャガ芋に毛の生えた仙人のような人でした」と話すと、梅原さんがしみじみと、 「そういう顔が描いてみたいなア」         □  むかし梅原龍三郎さんが、パリにいた時、ピカソのアトリエに案内してくれた人がいた。  階段を上りながら、小声で注意した。 「描いている姿を見て、笑っちゃいけませんよ」         □  中川一政さんが、夫妻で、洋食のフルコースを食べていると、アスパラガスが二本のった皿が、ステーキのあとに出た。  夫人が小声で、「これ、どう食べるんでしたかしら」と尋ねた。  中川さんが、「半分残すんだよ」といった。  すると、夫人は、一本半食べて、半分残した。         □  マリリン・モンローが夫のディマジオと来日したのは、昭和二十九年二月一日だが、漫画家の小野佐世男さんは、モンローを出迎えにゆくつもりで家を出、朝日新聞社に寄ると、飛行機の到着が数時間おくれるという。  それで、隣の日劇ミュージックホールでも見て時間をつぶそうと思って、コツコツ階段をあがったが、心臓を悪くして死んだ。  小野さんは、モンローと同じ感覚の美人の絵をかいた画家であった。         □  この小野さんが、ジャワから帰って来て、永井龍男さんにいった。 「ジャワに上陸した時、兵隊が、ラクダの缶詰がありますといって持って来た」 「へえ」 「見ると、キャメルの五十本入りなんだ」  当時ジャワに行く人に、「デング、マラリア、オノサセオに気をつけろ」といういい伝えがあったと、永井さんは書いている。         □  小絲源太郎さんの生家は、上野の池之端の「揚げ出し」という料理屋である。  鴎外の「雁」に出て来る松源も親類で、源太郎の源も、その屋号にちなんでいるという話である。  小絲さんのお母さんが、昔、帳場にすわっていると、目つきのよくない男が二人やって来て、寄付を強要している。  お母さんは、それを、ことわった。  すると、二人のうちの一人が、「おかみさん、この男は乱暴者ですから、気をつけなければいけませんよ。何しろ、尾崎行雄さんの所へ暴れこんだんですからね」といった。 「尾崎行雄って、何です」 「え、尾崎さんを知らないんですか」 「どういう人です」 「えらい人です」 「えらい人の所に暴れこんだりして、それはあなたが悪い」  とうとう二人組は、撃退された。         □  伊藤|熹朔《きさく》さんが、まだ美術学校にいたころである。すでに舞台装置を一生の仕事にしようと思ってはいたが、そういう分野については、劇壇の人たちも、よく知らない時代だった。  土方与志さんの演出で、はじめて装置を担当して、明治座の楽屋にいると、伊藤さんに面会人があった。  楽屋番の老人が来て、こういった。 「舞台|掃除《そうじ》の伊藤さんって人、いますか」         □  伊藤熹朔さんと、弟の俳優千田是也さんは、二人並ぶとちがう顔だが、よく似ていた。  伊藤さんが歩いていると、「千田先生、サインして下さい」という。はじめ、ことわっていたが、面倒臭くなって、やがて、たのまれると、「千田是也」と大きく書いて、下に小さく「兄」と書いた。  熹朔さんの弟子の伊藤寿一さんは、作家の森敦さんにそっくりで、新幹線の車中で、若い女の子にとりまかれて、「森先生、サインをお願いします」といわれる。 「人ちがいだ」 「うそでしょう」 「ほんとに、ちがうんだよ」というと、女の子はコソコソ相談していたが、 「人ちがいでもかまいませんから、森敦とサインして下さい」         □  朝倉摂さんは、以前日本共産党員であったが、事情があって、脱党した。  朝倉さんの住んでいる町の名前が改正になった時、困ったような顔で、 「いやだわ、元代々木だなんて」         □  横山隆一さんの家は、鎌倉の小町である。  ある時、藤沢税務署から郵便が来たので、宛名を見ると、 「鎌倉市小男 横山隆一殿」と書いてあった。  その横山さんが、毎日新聞社の机で、漫画を書いていると、入社したての少年が、のぞきこんで、「おじさん、絵がうまいなア」といった。  学芸部の記者が、声をかけた。 「邪魔をしちゃいけないよ、その人、遊んでるんじゃないんだ」         □  横山隆一さんは、寝つきのいい人である。  秋好馨《あきよしかおる》さんは、毎日、睡眠薬をのむ。  秋好さんが横山家に泊った時、薬をのんでいるのを見て、「何分すれば効いて来るのか」と尋ね、「三十分たてば、ねむくなる」というので、試みに横山さんも、服用した。  五分経って、横山さんがいった。 「さきに寝るよ」         □  瀬戸内晴美さんが小説に難渋しているのを見て、「プロって大変ですね」という人があった。  瀬戸内さんが答えて、「いいえ、私はアマです」といったというのだ。 [#改ページ]   ㈼  幕末にアメリカに行って、正装のパーティーというものに出た幕府の高官の手びかえ。 「男はタスキがけ、女はもろ肌ぬぎにこれあり候」         □  幕末、吉原のくるわに、桜川|善孝《ぜんこう》という幇間《たいこもち》がいた。  死ぬ前に、「金は残してあるよ」と小声で家族にいい、臨終の時に天井《てんじよう》を指さしたので、さっそく探してみると、小判の形の石を紙に包んで、その紙の表に、こう書いてあった。「うそのつきじまい」         □  狂言作者河竹|黙阿弥《もくあみ》の楽しみのひとつに、小さな火種から火をおこすというのがあった。  それを知らない小屋の男が、作者部屋の火鉢に、カンカンおこった炭を、山のように持ってきて、「景気よく入れましたよ」といった。  当分、黙阿弥は、その男と口を利かなかった。         □  勝海舟が、中橋《なかばし》の骨董《こつとう》屋にはいると、自分の書が出ている。  多分、顔は知らないと思って、店の主人に、「この幅《ふく》はいくら?」と訊くと、主人がいった。 「それはそうと、先生、色紙を一枚、書いて下さい」         □  新島襄がある時、勝海舟を訪問して、「日本にも、耶蘇《やそ》教の学校を建てたいと思います」といった。  海舟は、新しいものに好奇心を持っている人だったので、すぐ膝を乗り出して、「何年で建ちますか」と尋ねる。「さア、二百年というところですか」と答えたと伝えられる。同志社はもうすこし早くできた。         □  山岡鉄太郎に会った時、清水の次郎長が、こういった。 「先生から手紙をいただくのは、ありがたいんですが、字がむずかしくて読めません。私が読めるような手紙を下さい」  そのすぐあと、鉄舟が次郎長に送った書簡が残っている。 「このあひだは、ありがたし。この品あげる。      六月二日 [#地付き]やまおか」            □  榎本|武揚《たけあき》は、ベランメエでしゃべったといわれる。  イタリアに行った時、レストランで、メニューを見ながら、連れに、「高くても、こういう所じゃア、まからねえんだろうな」としゃべっていた。  ボーイが来たので、冗談のつもりで、 「まからねえか?」というと、間もなく、マカロニを持って来た。         □ 「鹿鳴館《ろくめいかん》に行ったら、バザーというのがありまして」という小咄《こばなし》を、三遊亭円朝がしたそうだ。 「あっちでも、買わされ、こっちでも、買わされましてね。考えてみれば、ロクメイカンだ。|シカ《ヽヽ》(はなしか)が泣くのは、当り前」         □  三遊亭円朝が、五代目菊五郎の塩原多助を見ていると、馬の別れで、はじめから青という愛馬を見ながら、セリフをいっているので、「余計なことですが、馬に話しかけてもわからないというつもりで、正面を向いて、独り言のように、しゃべっているうち、ふと馬の涙に気がつき、それから、馬の顔を見たほうが、よくはありませんか」といった。  菊五郎が喜んで、助言通りにした。  菊五郎がその時、円朝にいった。「師匠は、みんな一人でできるからいいね」         □  明治二十年に、天皇皇后の前で、歌舞伎が演じられた。演劇史では、天覧演劇という。  場所は、麻布鳥居坂の井上|馨《かおる》の屋敷で、茶室びらきの日に、行われた。  二日目、皇后の前で、「寺子屋」が演じられている時、松王女房千代のクドキで、皇后が御落涙。それを見た末松|謙澄《けんちよう》が、女形の二代目坂東秀調に、道具のかげから声をかけた。 「お泣かせ申しては、おそれ多いぞ」         □  明治三十年四月に、お茶の水の崖の上で、士族の松平|紀義《のりよし》が、おこのという女を殺して、水に死骸を投じた。天下に轟いた事件である。  その直後に、こんな小咄が流布した。 「松平紀義が人を殺して、逃げて、姉の家に着いた。ハアハア言って、のどが乾いたというと、姉さんが、ひえたお茶を湯呑に入れて出すと、顔色を変えて、いけないいけない、お茶の水には懲り懲りした」九代目市川団十郎作といわれる。         □  似顔の人形のことを、明治時代は生き人形といった。  その生き人形の名人の安本亀八に、陸軍省から、「将官、佐官、尉官、下士官の人形を作ってくれ」という命令が出たが、この中でいちばんむずかしいのが、尉官の顔だったそうである。  亀八は散々考えた末、街を歩いて、大尉らしい顔を物色した。すると、いかにも「これが大尉」という顔の人がいたので、近づいて、「あなたの顔を写生させて下さい」とたのんだ。話してみたら、その人は、退役陸軍大尉だったという。         □  大正六年に七十九歳で死んだ歴史学者の重野|安繹《やすつぐ》の家には、大ぜいの美しい少女がいて、かしずいていたという。  どうして、こういう女の子を家に置くのかと聞かれた時、こう答えている。 「昔から、老松を養うのには、姫小松《ひめこまつ》を周囲に植えるものです」         □  野口米次郎教授の慶応での講義を、そのまま直接話法でとったノートが残っている。  その一節。 「シェークスピアッて男がいます」  それから何十年も経って、ポーランド人のヤン・コットが、本を書いた。 「シェークスピアは同時代人」         □  斎藤|緑雨《りよくう》は、毒舌家である。  大同新聞と国会新聞が合併した時、こう評した。 「黒砂糖と黒砂糖は、まぜても黒砂糖」  緑雨にアンケートを出して、好き嫌いを質問した答が、残っている。  嫌いなもの 電話、済生学舎の生徒、壮士芝居。  好きなもの 一ハンケチ、二鳥、三ソバ。         □  斎藤緑雨が書いたというので、最も知られているアフォリズムは、   筆は一本なり、箸は二本なり。衆寡敵せずと知るべし  というのである。  十返肇さんの評論集「筆一本」は、この警句に由来する。  別に緑雨作と知らずにいるのが二つある。   何だ坂こんな坂   酒は飲まぬが御酒《ごしゆ》ならいただく         □  斎藤緑雨の「ひかへ帳」に、こんなことが書いてある。 「朝の男湯は、ゆうべの火事のうわさを聞くところ、夜の女湯は、さっきの沢庵《たくあん》の礼をいうところ」         □  埼玉県大宮の温泉旅館の明治中期の広告文を、斎藤緑雨が、書きとめている。 「追々季節に成り候はば、蛍御飛散相成候」  伊原青々園は、緑雨に私淑して、右の肩の下った文字まで、そっくり似てしまったといわれる。         □  上田|万年《かずとし》の所に、斎藤緑雨から手紙が来たので、開いてみると、 「拝啓 [#地付き]草々」     とだけ書いてある。  博士はうなずいて、「わかった、金を貸してくれというんだ」         □  黒岩|涙香《るいこう》が、大戸平《おおとひら》という力士をひいきにしていた。  この力士の弟子が時々、「先生、羽織を貸して下さい」とか、「帯を貸して下さい」といって借りに来る。  ある時、返して来た羽織のたもとから、質屋の受けとりが出て来た。  涙香がいった。 「あいつは四十八手のほかに、妙な手を考えている」         □  ロンドンの空港の税関に、日本語をしゃべるイギリス人がいて、「カンコウ? ショウヨウ?」と尋ねる。  入国の目的が、観光か商用かと質問しているわけだ。  坪内博士が、もしロンドンに行って、その男に「カンコウ?」と尋ねられたら、「ノー、アイ・アム・ショウヨウ」といっただろう。  シェークスピアを全訳した坪内逍遙は、じつは外国に一度も行かなかった。  坪内逍遙は、若いころ、春迺家《はるのや》おぼろという筆名で、戯作《げさく》を書いている。  後年、むかし書いた小説を、みずから「旧悪全書」と称した。         □  坪内逍遙と森鴎外が、没理想について論争をしたのは、文学史上著名なことである。  上山草人が、逍遙の文芸協会を飛び出して、近代劇協会を創立、鴎外に「マクベス」の翻訳をたのみに行った。  鴎外は、草人がつれて行った衣川孔雀《きぬがわくじやく》という美しい女優について、日記に本名まで書いている。  しかし、鴎外は、シェークスピアの作品だから、自分ひとりでは責任が持てないといって、訳稿を逍遙に届け、目を通してもらった。その原稿が、早稲田の演劇博物館にある。         □  坪内逍遙が、熱海の双柿舎《そうししや》の入口の額を、会津|八一《やいち》に依頼した。翌日持ってゆくと、「よく、すぐこんな字が書けるね」とほめた。  じつは、徹夜して二百枚書いたのだ。         □  会津八一博士が、講演をきいていると、会場の窓からウグイスが舞いこんで、博士の髪にとまった。  しかし、それを一向気にせず、頭を微動もさせずに、話をきいている。  そばにいる人が、立ち上って、そのウグイスを捕えようとした時、博士がどなった。 「馬鹿者ッ、捕えようとするようなやつの頭に、ウグイスは止まらない」         □  アンケートというものが、大正時代にもあって、森鴎外のところに、往復はがきが来て、「愛蔵の品は何ですか」という質問である。  鴎外は考えた末に、こう書いた。 「少々美術品らしき妻」         □  西山松之助さんに教わった。  大漢和辞典を作った諸橋轍次《もろはしてつじ》博士が、こういったそうだ。 「ゆうべ、うちの孫が、おじいちゃん、その長いヒゲ、どっちに置いて寝るのといったので、床にはいってから、ああでもない、こうでもないと考えて、ひと晩眠れなかったんです」         □  益田孝というのは、画家の益田義信さんの祖父に当る実業家だが、パリに行って、ホテルに着くと、いきなり暗い部屋に通されたので、内心おもしろくない。  何だってこんな部屋に通したのだ、とボーイにいおうとしていると、その部屋が上にあがり出したので、仰天した。  それはエレベーターだった。         □  日露戦争の時、総司令官の大山|巌《いわお》が、旅順の前線本部にいたが、別に命令も出さなかった。  参謀長の児玉源太郎が、大山|元帥《げんすい》のところに行ったら、寝台にねていたので、ゆりおこすと、ゆっくり大きな目をあけて、「やっぱり、私が起きなきゃならんですか」         □  古市公威《ふるいちきみたけ》教授が、東京帝大で、フランス語の演習をしている。  鳥についての描写を訳しながら、「これはしばしば人家の近くに来て、褐色の斑点《はんてん》を持つ小鳥の一種」といったので、聴いている辰野隆さんが、「先生、それは雀のことでしょうか」と尋ねたら、 「そうかも知れん」         □  近衛|篤麿《あつまろ》が、ウィーンに行っているころ、辻馬車のことを「雲助《くもすけ》」と呼んだ。  その国の言葉では、ドロシュケである。  和田垣謙三博士が、近衛公からそれを聞いて、いった。 「雲泥の差ですな」         □  和田垣博士は、このようにシャレが好きだった。  人に本を貸す時に、こういう文字を刷った紙をはさんで渡した。   この本蔵《ほんぐら》を、おかるなら、   早野勘平に、お返し九太夫《くだゆう》 「忠臣蔵」である。         □  東京帝大で、民法を教えていた先生が、印鑑について講義をする時、「インカン遠からず区役所にあり」というシャレが、学生の申し送りになっていた。  毎年、そこに来ると、同じシャレをいう。たまたま、学生が見たら、ノートに、それが書いてあった。         □  尾崎紅葉がガンで、自分の死期を予感している時、丸善にブリタニカが入荷したというので、ゆくと、売り切れていた。  やむなく、百円以上もするセンチュリーを買った。 「まもなく死ぬんだが、やっぱり見ておきたかった」と内田魯庵にいったという。  石田三成は、これから四条河原に行って処刑されようとする時、柿を食べないかといわれて、「冷えると毒だ」とことわっている。         □  二葉亭四迷は、クタバッテシメエから来ているというのが通説だが、雅号や芸名の由来は、案外知られていない。  里見※[#「弓+享」]さんの姓のほうは、電話帳をひろげて、指を立てたところにあったものだという。 「では※[#「弓+享」]のほうは」と雑誌の記者が訊いた。 「指で、トンと突いたのさ」         □  泉鏡花の弟に豊春という人がいて、「兄さん、私に号を考えて下さい」といった。 「斜汀」  と書いて、渡した。 「いい名前です、ありがとうございました」というと、 「シャテイ、つまり舎弟だよ」         □  夏目漱石が、東京帝大の校庭を歩いていると、学生が話しているのが聞こえる。 「漱石翁が書いたものに出ている」とか何とか、いっている。  漱石は近づいて、「翁といっては困る。私はまだ、そんな年寄りじゃない」  学生があわてて、「いいえ、先生、翁といったのではありません。オウはオウでも、キングのことです」 「漱石王か、それならいい」といったと伝えられるが、何となくフィクションくさい。  もうひとつ、これは喧伝されている話で、授業中に、左の手をふところに入れてノートをとっている学生がいる。いかにも横着に見えたので、そばに寄って、「君、講義を聴きながら、懐手をしたりして、行儀がわるい、手を出し給え」というと、学生が、「先生、私、左手がないんです」と答えた。  漱石は困って、「私もない知恵をしぼって、しゃべっているのだから、君も、ない手を出し給え」といった。  これは、野上豊一郎さんが、「新小説」の漱石追悼号に書いているから、実話だろう。         □  野上彌生子さんが若い時、漱石山房を訪問した。玄関の前に立つと、何とも形容のできない声がきこえる。  不安に思っていたら、ハタと声がやんだ。  漱石が、謡曲を稽古していたのである。         □  幸田露伴翁をかこむ座談会があって、 「頼山陽は、どうですか」という質問が出た時、ただちに、「さればさ」と答えた。 「白石《はくせき》は、山陽よりいい、山陽は、市価が高いんだね」ともいったらしい。 「大菩薩峠をお読みですか」という質問に対して、露伴の答は、 「のぞきました」         □  徳冨|蘆花《ろか》の死ぬ前に、義絶していた兄の蘇峰《そほう》がかけつけて、兄弟が、久しぶりに和解した。この時、各紙が写真と記事をのせたが、要領を得ない。  朝日新聞だけは、一ページにわたって、読者がその場に居合わせたという実感を持つような記事をのせた。  それを書いた陶山密記者は、現場にいたわけではない。蘇峰と蘆花の書いたものをくわしく読んで、社の机の上で、記事を作ったのである。         □  五・一五事件で撃たれた首相の犬養毅《いぬかいつよし》に、或る政治家の話をして、 「あの人も、タガがゆるみましたね」  といったら、 「タガがあったのかね」         □  田中館愛橘《たなかだてあいきつ》博士は、理論物理学の大家だが、ローマ字運動にも熱心だった。  新聞記者が、談話をとりに来ると、博士は、いつも、こんな風にいった。 「ローマ字で書いてくれるなら、どんな話でもするよ」         □  寺田寅彦は、エッセイストとしても一流の物理学者であった。  大正十二年に、アンナ・パヴロヴァがロシアから来て、「瀕死《ひんし》の白鳥」を帝劇で演じることになったので、「中央公論」が感想を書いていただきたいと依頼した。  しかし、結局書けなかった。首をかしげながら寅彦はいった。「重心の置き方を、つい力学的に考えてしまうので」         □  木下杢太郎、北原白秋、石井柏亭というような若い芸術家が、明治四十一年に、「パンの会」を作って、両国の三州屋を会場にして、近代浪曼主義の旗をかかげた。  このパンは、ギリシャ神話の牧羊神のことである。バレエの「牧羊神の午後」は、ドビュッシーの曲だ。  会をさかんに催しているところに、刑事が来て、うさんくさそうに見ていたが、結局帰った。帰りがけに、こうつぶやいた。 「社会主義者の会じゃないのか」         □ 「白樺」という雑誌を、若い作家たちが作っていた大正初年に、オーギュスト・ロダンが、はるばる彫刻を送って来た。  箱をあけると、詰め物がある。  一同狂喜して、「ロダンの彫刻だ。ロダンのおが屑だ」         □  奇妙な表現だが、千家元麿は、午前二時に、日の出を予感するというほどの情熱家だといわれた。「白樺」の同人が、長与善郎さんの家に集まっている時、ひとり席をぬけて海岸に行き、帰って来て、大声で報告した。 「ぼく、浜でキスして来たんだ」  大正初年の話である。         □  永井荷風の家に、じつの甥で、詩人の阪本越郎が訪問した。  親類縁者を何よりも嫌った荷風さんは、玄関に出て来て、 「先生はご不在です」         □  永井荷風は、第二次大戦後、浅草の踊り子と親しみ、その楽屋に行ってニコニコしていた。  荷風が文化勲章を贈られるという記事を、新聞で読んだ踊り子の一人がいった。 「ニフウ先生って、えらいのね」         □  向島の百花園の前を通って、しばらく行くと、永井荷風の「※[#「さんずい+墨」]東綺譚」の玉の井の町があった。  芥川龍之介が、百花園の手前の道で、マリをついている女の子を見た。  通りかかった男が、その女の子に、「百花園は、こう行けばいいの」と尋ねると、すましてマリをつきながら、独り言をわざと聞かせた。 「みんな、百花園ばかり聞くのね」         □  芥川龍之介が結婚する前に、婚約者に送った手紙が、全集の書簡集にはいっている。 「私はおいしいものなら、何でも好きです」  菊池寛さんが、夫人にいった。 「今度生れかわっても、君と結婚するよ」  川口松太郎さんは、結婚式のスピーチで、「どうか三益愛子のような奥さんになって下さい」というそうである。         □  芥川龍之介が「奉教人の死」を書き、その末尾に、この小説は最近入手した「れげんだ・おうれや(黄金伝説)」という切支丹の文献によって書いたという注を加え、その小冊子の表紙には、天使がラッパを吹いている絵が描かれているとまで書いた。  切支丹本を収集しているマニアは、目の色を変えた。内田魯庵が、早速飛んで行って、「その本を見せてくれ」というと、芥川は、ニッコリ笑っていった。 「それも創作ですよ」         □  徳田秋声が、水守《みずもり》亀之助と、本郷座で立見をしていると、秋声はステッキをニューッと前に出し、そこにいる観客の頭を叩いて、 「君、君、帽子をとり給え」         □  徳田秋声と山田順子が住んでいる家に、佐多稲子さんが行って、泊めてもらうことになり、秋声が押入れに寝て、佐多さんが、山田順子とひとつ布団に寝た。 「先生、窪川さん(当時の姓)の足、とてもすべっこいのよ」と順子がいうと、秋声が押入れの中から、いった。 「今夜は、おもしろい晩だな」         □  徳田秋声夫人の通夜に、葛西善蔵が、ダブダブのモーニングを来て、弔問に来た。そして、自嘲するように、 「チェホフ作中の人物です」         □  柳田国男さんの大きな書斎に通された。文字通り、万巻の書に囲まれた部屋である。そこで、こういう言葉を聞いた。 「人間って、一生に、そんなに本は、読めるものではありません」         □  折口信夫という先生は、ポツリと、突然、おもしろい人物評をした。  弟子の一人で、役所に顔の利く人物がいた。その弟子が、文部省の話をして帰ると、 「あの人が役所に行くのは、子供が、交番に遊びにゆくようなもんだね」         □  その折口先生が、島木赤彦という歌人をつれて、歌舞伎座の芝居を見に行った。 「伊賀越道中双六」の沼津が出ていた。  それを見ながら、赤彦が小声で、訊いた。 「いったい、あの印籠《いんろう》は何だね」  先生がいった。 「そう簡単に話せるものですか」         □  金田一京助さんが、七十歳の時に、釧路に行った。  すると、昔石川啄木の恋人だった小奴《こやつこ》が、まだ生きているという話を聞いた。会ってみませんかといわれて、会った。  その女性は、六十五ぐらいだった。  金田一さんが尋ねた。 「小奴さんのお母さんですか」         □  福沢諭吉は、毎年正月になると、奥平藩の藩邸に、年賀の挨拶にゆくのが、しきたりだった。  羽織袴で正装して、姿見《すがたみ》の前に立ち、こう嘆いたという。 「ああ、これで、大小さしたいな」  この話、小泉信三さんから聞いた。         □  与謝野|晶子《あきこ》が、有島武郎について、こういったそうだ。 「武郎さんは、まるで光源氏のような人ですね」         □  与謝野晶子には、源氏物語の口語訳があるのだ。日常自分のつくる歌にも、古語がむろん用いられた。  ある日、麹町富士見町の家の二階に、弟子たちが集まっている時、前の道で大きな音がしたので、そのうちの一人が、縁側に出て行って、手摺に両手をかけて、のぞこうとすると、与謝野さんが、叫んだ。 「危いわよ、古くなっているから」 「何がですか」とふり返ってきくと、「その、おばしまがよ」といったそうである。         □  同じく女流歌人で、岡本かの子さんの話がある。  四月号の短歌雑誌に、「桜五十首」をたのまれた。雑誌は三月に出るので、締切は二月中旬である。  まだ寒いのに、頭の中で、満開の桜を考え、花吹雪を想像して、一生けんめい、歌を作った。  空想の花で、みごとな五十首ができ、この連作は傑作といわれた。雑誌が出た翌月、季節が来たので、やっと花が咲いた。  岡本かの子さんは、その桜を見たとたん、吐き気を催したそうである。         □  泉鏡花が、夏目漱石の没後、「新小説」の追悼号で、こう語っている。 「夏目金之助、字と形と姿と音《おん》と音《おん》のひびきが好きでした。どうしても、岡惚れさせられる名前です」         □  鏡花は、犬が大きらいだった。 「だって、犬って、うなぎみたいな顔をしてるじゃアありませんか」  雷もきらいで、朝から予知できたという。  浪花節も嫌いだった。  鏡花の没後に、「婦系図《おんなけいず》」を浪曲にしたいという申し入れがあった時、久保田万太郎さんがいった。 「先生が生きていたら、どんな顔をしただろう」         □  島崎藤村が、パリにはじめて行って、石川三四郎の紹介で、下宿(パンシオン)にはいった。 「なぜひとりで来たのです。奥さんを、どうして連れて来ないのですか」と主人が尋ねたら、「女房は死にました、ホ、ホ、ホ」と笑った。  下宿の主人が、石川さんに、こわごわ訊いた。 「狂人じゃないんでしょうね」         □  島崎藤村が、重態になった田山|花袋《かたい》の枕もとに行って、「君、死ぬって、どんな気持がする?」といった。  花袋、「ひどい男だ」         □  島崎藤村が、前田晁さんに、ある日、厳粛な表情でいった。 「君、石というものは、重いものだね」  横光利一さんが、鷲尾洋三さんと飲みながら、こういった。 「酒を飲んでいて、今から酔うぞという、その境い目の所が、じつにおもしろいんですなア」         □  明治のむかし、高浜虚子が、宗匠格で、久松伯爵家で開かれた運座(句会)に出席した。  その席にいた温厚な老人が、しずかに声をかけ、杯に酒をついでくれたりした。  虚子は、身分のそんなに高くない松山藩士だった父親のことを思い出して、何ともいえない思いにひたっていた。  なぜなら、その老人は、徳川|慶喜《よしのぶ》だったからである。         □  種田|山頭火《さんとうか》の住んでいる庵を、句友の大山澄太が訪ねると、一人分の食事を出した。 「一緒に食べようじゃないか」というと、山頭火がいった。 「うちには、茶碗が一つしかない。君がすむのを待って食べる」         □  坊野寿山《ぼうのじゆざん》は、川柳を長年作ったが、ほかの人とちがって、花柳界を材料にした作品が多い。  これを「花柳吟」といった。  岡本文弥さんが、その花柳吟のいくつかを紹介した中で、たまらなくおかしいのが、ひとつある。   禁酒した芸者を呼んだつまらなさ  新派で、そういう喜劇を、市川翠扇主演で見たかった。         □  ユーモア小説を、全集になるほど沢山《たくさん》書いた佐々木邦さんは、英文学者で、マーク・トウェーンの翻訳も読まれている。  読んだり書いたりするのは、まめであったが、家の中のことは、何もしない。  夫人が愚痴をこぼして、「ほんとうに、あなたって方は、縦のものを横にもしないんだから」といった。  佐々木さんは、ニコリともせずに、答えた。 「毎日、横の文字を縦にしているじゃないか」         □  戸川秋骨さんの家は、門から玄関の所までが洋風で、中に進むと和風になっていた。  佐々木邦さんが訪問して、奥に通された時に、こういった。 「なるほど、翻訳家の家だ」         □  その戸川秋骨さんを、奥野信太郎さんが、銀座のバーに案内した。すると、ひとりのホステスが大変気に入ったらしい。 「どこがいいんです」と奥野さんが尋ねると、 「だって、樋口一葉に似てるじゃないか」         □  勝本清一郎さんの所に、学生が来て、「卒業論文に樋口一葉を書こうと思うんです。一葉について、一言でいうと、どういう人でしょう」といった。  ずいぶん横着な質問である。  勝本さんは、少々腹が立ったが、我慢して、答えた。 「一葉は、絶対、処女です」         □  菊池寛さんが、一高生のころ、上野図書館に、毎日のように行った。履いている物を「ひどい草履だね」といわれたので、腹を立てて、「図書館の下足のおやじいつまでか下駄をいじりて世を終るらん」という啄木ばりの歌を作って、大学ノートに書いた。  作家になってから、菊池寛が図書館に行くと、昔の老人が、閲覧券売場の窓から、 「やア、長い間、来ませんでしたね」と声をかけた。  この話が、短編「出世」になった。         □  菊池寛さんが、宇野浩二さんの小説を、「大阪落語のようだ」と評した。  すると、宇野浩二さんが、すぐ切りかえして、 「ぼくのが大阪落語なら、君の歴史小説には、張り扇の音がする」         □  微苦笑という言葉を、久米正雄さんが作った。  ある日、久保田万太郎さんと、「演芸画報」を昔つくっていた安部豊さんと、三人で、銀座三十間堀の「はせ川」にはいってゆくと、久米さんが飲んでいた。  安部さんは、大分の人で、直情径行、ちょっと癖があった。いきなり久米さんをつかまえて、「前に雑誌の用事であなたを訪ねたら、裸に近い格好で、私の前に出て来た。ずいぶん失礼だと思った」といった。  久米さんは、頭をかいて、「青年の客気でしたかな」と軽くいなしたが、「微苦笑」というのは、この顔だと思った。         □  その久米さんと吉川英治さんが、若い時の話をしているのを、傍聴していた人の話である。いかにもお二人の純情な感じが出ているので、とりついでおく。  久米さんが、顔を赤らめて、まずこういったそうだ。 「ぼくの学生のころは、そう、友達に妹がいると、一応その少女に、恋愛してみることになっていたよ」  すると、吉川さんが、目をしばたたきながら、相づちを打った。 「わかるね。ぼくは少女と話していると、やっぱり少女とおんなじ動悸を打ったものだよ」  ちょっといい会話ではないか。         □  吉川英治夫妻が、ゴルフをしていた。  吉川さんの打った球が、藪の中にはいってしまった。  ちょうど、その時、吉川夫人の球が、いいところに乗っていた。  夫人が、吉川さんにいった。 「何でしたら、これをお打ち遊ばせ」         □  昭和十五年ごろの話。  渋沢秀雄さんが、アメリカに行った時、ウォルト・ディズニーと会って、「舌切雀」の話をした。  つまり、こういうストーリーで、ディズニー独特のアニメーション・フィルムが見たいという意味をこめて、話したわけである。  すると、ディズニーは、すぐこう反問した。 「舌を切られた雀が、どうして口を利くことができるのであるか?」  この話を聞いた久保田万太郎さんがいった。 「日米会談なんて、ムダだと思います」         □  渋沢秀雄さんが、久保田万太郎さんに、いとう句会の席で、 「私の俳句は、一向進歩しませんで」  といったら、言下に、 「いえ、あなたの俳句は、退歩しています」         □  空襲で、三田綱町の家が焼けた直後、久保田万太郎さんが、渋沢秀雄さんにあてた手紙の冒頭。 「二十四日早暁、きわめて無事に罹災」         □  石坂洋次郎さんが、慶応の予科に入学して、ワグネル・ソサエティーに入れてもらおうと思い、先輩を訪ねてたのむと、 「君、おたまじゃくしを知っているか」  といわれた。  楽譜が読めるか、というわけだ。  石坂さんは、「ハイ知ってます」といい、歌い出した。 「おたまじゃくしは蛙の子」         □  志賀直哉さんに、戦前、豊田正子さんの「綴方教室」の話をした編集者が、「あの子は、先生の影響を受けてるようです」といった。  すると、志賀さんは、 「みんな、ぼくのに似てるというが、そうじゃない。こっちが子供らしいんだよ」         □  斎藤茂吉さんがひいきにした、同郷の出羽ヶ嶽文治郎は、身長一九五センチ、体重一三三キロの大男であった。  斎藤茂太さんが、出羽ヶ嶽が円タクから出て来る姿を目撃した。茂太さんは、こう思った。 「よくあんな大きなのが、はいるものだ」         □  佐藤春夫さんは、山高帽を冠ることがあった。鼻眼鏡とともに、佐藤さんのハイカラであるのを証明した。  ある時、それを論じる文士の前で、佐藤さんは、小さな声で説明した。 「私の頭が小さくて、私のサイズの帽子がないんです。たまたま、子供用の山高帽子があったから、冠っているんです」         □  この佐藤春夫さんは、とりつく島のないような所があって、雑誌の編集者でも、若い者は、訪ねて、十分も持たないといわれた。  安藤鶴夫さんが訪問して、向かい合って、何か話したいと思ったが、何をいいかけても、軽くうなずくだけで、黙っている。  そのうちに、佐藤さんのうしろのガスにかけてあった鍋が、ふきこぼれそうになった。蓋が持ち上る。夫人は出かけたらしく、そのへんにはいない。  安藤さんが、「先生鍋が」というと、佐藤さんは、「わかっています」といって、振り向こうともしなかった。         □  佐藤さんが信州佐久に疎開している時、「三田文学」の長尾|雄《ゆう》さんが、訪問することになった。  きっと長尾さんも困ったろう、と噂しているところに帰って来たので、「しんどかったでしょう」と慰めたら、「ひと晩、泊って来ました」         □  武者小路実篤さんの還暦の会の時の挨拶がいい。 「こういう催しをされることは、不愉快でないことは事実です」  同じ武者小路さんが、媒酌をした。新郎新婦を紹介する時、名前を忘れて、新郎に、 「君、何といったっけ」 [#改ページ]   ㈽  ある中年の女優(としか知らない)が、古い映画を見ていたら、若く美しい女優が画面に出ている。  誰だろうと思って見ているうちに、それが十数年前の自分だということに、気がついた。  女優はさけんだ。「くやしーい!」         □  新劇の女優で、最初にスターになったのは、文芸協会にいて、のちに芸術座を島村抱月と作った松井須磨子である。  坪内逍遙は、翻訳劇を上演するつもりがあったので、長野県の松代《まつしろ》から出て来た、あまり風采の上らない受験生を、身長が大きいというだけの理由で、自分の俳優養成所に入所させたといわれる。  成績表の備考に、「体格のみ」と書いてあったという。田中栄三さんから聞いた。  しかし、舞台で、美女の役を次々に演じてゆくうちに、須磨子は美しくなって行った。抱月との恋も、それを助けたといえそうである。  五代目中村歌右衛門が、松井須磨子を見て、ほめている。  大正期最高の女形がみとめたのだから、これは名誉なことである。  もっとも、歌右衛門にとって、芸というよりも、魅力のある異性だったと解釈できないこともない。         □  歌右衛門とよく花柳界で遊んだという、歌舞伎界の古老の遠藤為春さんは、須磨子びいきで、松竹がこの女優を歌舞伎座に出演させた時も、この人が斡旋《あつせん》した。 「須磨子はいい女でしたよ。私はこのひとが好きでしてね、いろいろ考えましたよ」  と、ぼくに話してくれた。 「どうなさいました?」 「須磨子に似た芸者を買いました」         □  松井須磨子は、島村抱月と芸術座という劇団を作り、女座長になった。  ある時、地方巡業に行くと、土地の名家に招待された。  座員一同の前に、膳部が運ばれて来たが、抱月が箸をとらずにいた。  すると、須磨子が抱月にいった。 「先生、据え膳食わぬは男の恥ですよ」         □  高田実が、歌舞伎座で、「直侍《なおざむらい》」の入谷《いりや》のそば屋に出て来た四代目尾上松助の按摩|丈賀《じようが》を見て、嘆じた。 「こんなにうまそうに、そばを食べる役者は、ほかに、あるものか」  この高田は、新派の団十郎といわれたほど渋い芸風の役者で、「金色夜叉《こんじきやしや》」の荒尾譲介が、芝公園の幕切れでお宮にいう「覚悟とは読んで字のごとしじゃ」というセリフまわしを、みんな真似《まね》したという。 「不如帰《ほととぎす》」の片岡将軍も、当り役だったが、浪子の臨終の場で、地球儀に手をのせてちょっとまわし、うしろ向きに泣く姿がじつによかった。  たまたまそれを見た歌舞伎役者の五代目中村芝※[#「習+元」](のちの五代目歌右衛門)が、感心して、弟子を見にやらせた。  翌日、「地球儀をうまく使っただろう」というと、「地球儀はありましたが、何にもしませんでした」  それを聞いて、芝※[#「習+元」]がいった。 「毎日ちがうことをするんじゃ、だめだ」         □  東儀|鉄笛《てつてき》が、無名会で、「秀吉と淀君」に出演した。  秀吉の顔のメーク・アップにこまった末、大隈重信の顔にして出た。  それを見た大隈侯がいった。 「うん、秀吉そっくりである」         □  二代目尾上多見蔵は、中芝居、小芝居の役者から弟子にしてくれとたのまれると、まずそばにいる弟子に、舞台を見にゆかせた。  そして、「まったく大根です」といわれると弟子にした。 「相当に達者です」といった時は、入門をことわった。  多見蔵は、よくこんなことをつぶやいた。「弟子は、大根にかぎる」         □  新国劇の沢田正二郎が、当時帝劇の隣にあった警視庁で取り調べを受けていた。大正十二年九月一日の午前十一時である。  一座が公園劇場に出ていて、楽屋にすしが差し入れられたのを、座員が車座になって食べていると、ぶらっと入って来た警官が、花札賭博をしているのだと誤認して、「御用」と飛びこんだのを、若い者が逆になぐったことから、大事件に発展したのだった。  沢田という俳優は、時々自分が神になったような気がするといったりする人であったから、尋問している刑事に、こういった。 「正義の士を、そんなふうに扱ったりすると、天変地異がおこりますぞ」  それから五十八分経って、関東大震災が勃発した。         □  行友李風《ゆきともりふう》が筆をとった「月形半平太」は、沢田正二郎の当り狂言になった。  劇中、半平太が、二人の芸子と一人の舞妓に囲まれて、持てて仕方のない場面があって、いかにも、よく描けている。 「どうして、こんなものを思いつかれたんです。大したものだ」とほめた人がある。  作者は、顔を赤らめて、いった。 「なアに、これは梅ごよみを使ったんです」         □  久松|喜世子《きよこ》さんは、沢田正二郎の相手役をつとめた女優である。  沢田さんの話をして下さいといったら、顔を赤らめて、 「何をお話ししても、ノロケになりますから」  その時、七十歳だった。         □  伊井蓉峰が、弟子をつれて市電に乗ったら、車掌が空いている席を指して、「おすわりなさい」と声をかけた。  伊井が弟子に、「祝儀をやってくれ」といった。         □  ローシーという演出家がいて、河合武雄の公衆劇団の人たちに、ライフ・スタディーの講義をした。  急いで走ってみろという時に、ローシーは、こう叫んだ。 「ファイア、ファイア」  よく考えたら、「火事だ」といって走らせたわけである。         □  五代目中村歌右衛門が、「桐一葉」の淀君をする時に、精神病院に行って、患者を観察した。  淀君が、ヒステリーの発作になる場面があるからだ。  廊下を歩いていたら、向こうから来た女の患者がふり向いて、大きな声で、 「まア成駒屋さんも、ここに、いらっしゃったんですか」         □  初代中村鴈治郎は、調子のいい人で、楽屋に訪ねて来る人に、愛想よく挨拶をした。  ある新聞記者が来たら、 「どうも先日は」「きょうは御|見物《けんぶつ》で」「どうぞごゆっくり」と立て続けにいう。  記者は嬉しそうに帰って行ったが、その直後、鴈治郎が男衆に尋ねた。 「今の、誰や」         □  十五代目市村羽左衛門が、パリに行って、ルーヴルで、ミロのヴィーナスを見た時に、つまらなそうな顔をしていった。 「手の切れた女に用はない」  渡辺紳一郎さんが、「花の巴里の橘や」という本に書いている。  この羽左衛門は、パリで買物にゆくと、店員に、 「こ、れ、い、く、ら」  とゆっくりいった。         □  六代目梅幸が、二度目の発作で倒れたのは、「ひらがな盛衰記」の延寿《えんじゆ》という母親の役をしている時だった。  同じ舞台に、源太の十五代目羽左衛門、千鳥の六代目菊五郎がいた。一門がそろっていて、異変に気がつくと、すぐ幕を引かせた。  四日のちに梅幸は死ぬのだが、抱えられて部屋に行く途中、しきりに手を動かそうとする。  六代目が、痛ましそうに、いった。 「兄さん、裾を気にしているんだ」  名女形らしい話である。         □  東久邇宮稔彦《ひがしくにのみやなるひこ》王が、昔、六代目菊五郎の部屋をよく訪れたという。  六代目は、それがうれしくて仕方がない。 「波野を呼んで来い」といって、初代吉右衛門に挨拶に来させた。  吉右衛門がはいって来て、殿下にいった。 「私は寺島さん(菊五郎の姓)とは、懇意にしておりまして」         □  六代目尾上菊五郎が、宇野信夫さんを、京都醍醐の三宝院に案内した。 「ここは時雨《しぐれ》の時がいいんでね」といったが、その日は晴れている。  寺の広間で、お茶をのんでいると、サーッと雨が降って来た。  六代目がいった。 「親切な寺だ」         □  六代目菊五郎が、戦争中、大川橋蔵さんをつれて、買い出しに行った。  農家にはいって行き、「菊五郎です」といったら、ジロリと見て、 「どこの村の菊五郎だっけ」         □  菊五郎が、船で釣りに出かけることになったが、いつも船を漕ぐ船頭が来ず、その若い息子が艪を押している。  愛嬌のない若者で、愛想ひとついわない。  菊五郎がたまりかねて、「おい、私を誰だか知っているのかい」といった。  すると若い船頭は、チラリと見て、 「知ってますよ、菊五郎でしょう」         □  小津安二郎さんが六代目尾上菊五郎と話している時、「ここに大ぜい人がいて、その中の一人がこっちを見たので、挨拶する。向こうも、ゆうべはどうもといって、すぐ目をそらすといった、そういう目の使い方を、カメラでとらえるのに、どんな演出をするんです」と質問した。  小津さんは、「何べんでもやらしてみて、自然にできるようになったら撮ります」と答えた。  菊五郎がいった。 「ハンケチを振ってやればいい。そうするとヒョイと目がそっちに行く。生理だから、無理がない」         □ 「生きている小平次」の初演の時、印旛沼の舟の場で、十三代目守田勘弥が、六代目尾上菊五郎の太九郎《たくろう》に、水の中に突き落される。そのあと、太九郎が必死になって竿で突く。劇評が、「この時の菊五郎が、竿をじつにうまく使った」と書くのを読んで、勘弥がいった。 「奈落で、竿の先を握って芝居をしている俺の身にもなってみろ」         □  二代目市川左団次が、新作で、セリフをいいまちがえた。すると、そのセリフをもう一度はじめから悠々といい直した。  見物は、誰も気がつかなかった。         □  十三代目勘弥は、あごの長い役者だった。  ある時、一条|大蔵卿 長成《おおくらきようながなり》に扮して、奥殿《おくでん》の物語のところで、「いのち長成、気も長成」というと、大向《おおむこう》から、 「あごも長成」         □  子役時代の市川照蔵が、歌舞伎座の簀《す》の子《こ》(天井)に上って、九代目団十郎の芝居を見ていたら、履いていた片方の草履がぬげて、舞台に落ちた。  幕になって、呼びつけられて、散々小言をいわれたが、「私が落ちたんじゃない、草履を叱って下さい」といった。  団十郎が呆れて、 「お前にあっちゃかなわねえ、これから落ちないように、お前から、草履にいっとけ」         □  七代目沢村宗十郎が、「大森彦七」で千早姫を演じた時、一日、小道具の面を忘れて、川の場面に出てしまった。  大森彦七は七代目幸四郎だが、千早姫を背負って、川を渡ろうとする時、ふりかえると、被衣《かつぎ》をあげたとき鬼の面をつけているはずの宗十郎が、面をつけずにいる。  びっくりしたが、よく見ると、一生けんめい、鬼の顔をしていた。         □  初代中村吉右衛門は、何かというと、医者を呼ぶくせがあった。  医者が来て、「何でもありませんよ」というと、機嫌がわるくなり、「こりゃいけませんな」というと、「ありがとう」と返事をした。  ある日、主治医に電話すると、晩酌をすませて、かなり酔っているから、明日にしてくれませんかといった。 「とんでもない、こっちは死ぬか、生きるかだ」と吉右衛門は叫び、「とにかく、来てもらうように」と家人にせっつく。  先生はタクシーで駆けつけた。まず脈をとろうとして、懐中時計をポケットから出したのはいいが、文字盤のほうではない、裏のほうを見ながら、吉右衛門の手首を握った。  時計が裏だとわかった瞬間、吉右衛門は、「うーん」と、目をまわしてしまった。         □  二代目実川延若は、芝居の帰りに行く家が、何軒もあった。  ある日、きょうはどこに行くといって出て行った延若が、本宅に帰って来た。  夫人が、「おや」という顔をして出迎えると、「あ、ちごうた」といって、回れ右して、出て行った。         □  中村雀右衛門の父の先々代大谷友右衛門は、六代目であった。  四十代から、老け役が巧者で、従って、いつも脇役を演じた。主役の邪魔にならない人だった。  遠慮がちな好人物で、鳥取に巡業している時、大地震があった。  みんなを先に逃がして、自分が逃げおくれて、家の下敷きになって死んだ。片岡我童さんは、その時、先に出たので、足をいくらか痛めたが、いのちは助かったのだ。  この友右衛門は、自分が六代目だということを、二長町《にちようまち》の市村座にいた時も、その後も、人に話さなかった。  誰かに訳を訊かれた時、こう答えた。 「六代目は、菊五郎ひとりで沢山です」         □  七代目坂東三津五郎さんと、その子の坂東簑助さん(のちの八代目三津五郎)が戦後、占領軍の将校の集会で、おどりを見せることになった。  金屏風の前の素おどりで、「子宝三番叟」をおどるわけである。  二人が出て行くと、アメリカ人たちは、椅子に足を組み、反り返って、煙草をふかしていた。  中央から左右にわかれ、大きくまわって、前に出る。「位取《くらいどり》」という、日本舞踊独特の風格を、いまだかつて見せたことのないほど見事に七代目が示し、おどりにかかる時、チラと見たら、アメリカ人たちは、みんな膝を正し、煙草を揉み消して、じっと舞台に見入っていた。  おわって、さかんな拍手が送られた。  楽屋に帰った三津五郎が、きびしい顔をしていった。 「俊《とし》ちゃん、戦争には負けたけれど、今日は勝ったねえ」         □  真山青果の「東郷平八郎」の序幕で、玉川べりに東郷元帥が通るのを群衆が待っている。  市川猿翁が、東郷狂の青年で、元帥について、四十分ひとりで群衆を相手に演説する。そのセリフを、当時は二代目猿之助だったが、築地明石町の道を歩きながら、何本かの電信柱を目標に曲がってはひとこま覚えるようにして、暗記した。  明治座の初日、四十分の長ゼリフが終ると、上手から二代目市川左団次の元帥が出て来て、無言で群衆の歓呼にこたえながら、花道にはいる。左団次が、さらってしまった。  猿翁さんがいった。「冗談じゃねえや」         □  山野一郎の話のマクラに、 「チューインガムは、噛んでいる間は、うまいんですが、残ったカスは、始末に困るもので、おへそのゴミをとる役にしか立ちません」というのがあった。  猿翁さんがそれを聞いて、「なるほど」と、いたく感心している。 「何がお気に召しましたか」 「私は、ヘソを掃除するのが趣味なんですよ」         □  猿翁一座が、中国に行った時、一日、蘇州に遊んだ。ぼくも同行した。  通訳の青年が、食事中に、「ここは蟹《かに》のうまい町で、蟹の料理がまもなく出ます」といった。 「何という料理です」と尋ねたら、 「芙蓉《ふよう》の蟹と書きます」  居合わせた一同が、声をそろえて、 「ああ、フウヨウハイですか」といったら、青年はびっくりしていった。 「どうして、皆さん、正確な発音をご存じなのですか」         □  三代目中村時蔵さんは、子福者であった。  四人の男の子を、三代目歌右衛門追善興行の時に、一度に初舞台を踏ませた。  年の順にいうと、のちの歌昇(歌六、三代目歌昇の父親)、獅童《しどう》、梅枝《ばいし》(五代目時蔵・信二郎の父親)、錦之介である。このほかに男が一人、女が五人いたのだ。  この女形に、「お子さんが大ぜいで、大変ですね」といったら、 「いつも誰かが泣いています」         □  戦争中、アメリカやイギリスの捕虜が労役をしているのを見て、日本の婦人が、「おかわいそうに」といったというので、非国民と非難された。何とも、奇妙な話である。そのころ書かれた、飯沢匡さんの「鳥獣合戦」に、オカワとイソニという人物が登場する。  しかし、こういう表現は、戦後にもあったのだ。十一代目団十郎になった海老蔵主演の「霧笛」という芝居の時、青年が洋館の床に雑巾《ぞうきん》がけをしている場面になったら、うしろの客席で、声がきこえた。 「おかわいそうに」         □  八代目坂東三津五郎さんが、番匠谷《ばんしようや》英一さんの「源氏物語」を新劇場で上演することになった。  じつは、初日間際に禁止された芝居だが、その稽古の最中に、女の子が生まれた。 「名前をどうしましょう」  と尋ねて来たので、 「ケイコにしておけ」  といった。  次女の慶子さん(池上季美子さんのお母さん)が、その時の赤ちゃんである。         □  中村勘三郎さんは、むかし大酒家で、長谷川伸さんがそのために書きおろした「檻《おり》」の主人公のようなところがあった。  大病をして退院して来てから、酒を体が受けつけなくなった。  どうしたんでしょうといったら、 「ぼくはね、こう思ってるんです、酒を飲めない人の血を、輸血されたんだろうって」         □  八代目松本幸四郎が、文学座に参加して、「明智光秀」を主演したことがある。染五郎(九代目幸四郎)兄弟も出演して、高麗屋一門が、一時、新劇の世界に引っ越したわけだ。むろん、弟子も付き人も、ついて行った。  そのことがあった次の年の三月に、文学座の創立記念日のパーティーがあって、幸四郎さんも行っていると、余興のバラエティーがはじまった。  劇団の若い俳優が、舞台の真ん中の椅子に悠然とかけている。  うしろから、うちわで別の俳優が、その人物をあおいでいる。  その人物が「煙草」というと、一人の俳優がシガレットケースを差し出し、くわえた煙草に、うやうやしくライターで点火する。  何の芝居だかわからないので、そばを通った女優に、「何をやってるんです?」と尋ねると、ふりかえって、「幸四郎ごっこ」         □  十三代目片岡仁左衛門さんが、「伊達の与作」の芝居で、わが子の役で出ている子役に向かって一生けんめいセリフをいっているのに、子役がちっとも自分の顔を見ないので、小声で「お父さんを見なさい」といった。  この子役は、幼い馬士《まご》の三吉だから、ひいている馬が舞台に出ている。子役は、あいかわらず仁左衛門さんを一向に見ず、その馬のほうばかり見ている。  幕になってから、「どうして私を見ないんだ、お父さんを見るようにと、あんなに注意したのに」というと、子供が無心な顔で、 「あの馬に、ぼくのお父さんがはいっているんです」         □  この片岡仁左衛門さんは、その我当《がとう》時代、こっちがまだ大学生だったころから、知っている。  その後、ぼくが劇評を書くようになったので、「戸板先生」というようになった。  初代吉右衛門にしても、ぼくを「先生」といったくらいで、「先生と呼んで灰吹きすてさせる」の「先生」だとも思わないが、あがめ尊んでいるわけでもない。 「お社《しや》の先生」という言葉が、興行界にはあるので、つまり、劇評家は「先生」ということになっているにすぎない。  いつか京都の南座を見に行っていると、支配人が、廊下でぼくに、「きょうは松島屋の誕生日で、子供たちが集まって会食します。先生もいらっしゃいませんかという伝言です」という。  食事は遠慮して、夜の八時ごろ、五条の家を訪ねた。嵯峨に移る大分前で、長男の今の我当君も、まだ少年だった。  仁左衛門さんと二人で、座敷で話している時、「先生、きょうは、先生といわずに、戸板君と呼ばせて下さい」といった。  フランスでは、テュトワイエといって、複数でなく、単数の二人称でしゃべるのが、君僕《きみぼく》のつきあいということになっている。  テュトワイエはもとより願わしいので、「ぜひ戸板君で話して下さい」と答えた。  すると仁左衛門さん、ちょっと座り直して、「ときに戸板君」         □  中村鴈治郎さんが、人間国宝に指定された。祝電が届いたりして、大さわぎである。  ところが、御本人、何となく、浮かない顔をしている。 「どうしたんです」 「人間国宝になると、競馬なんか、できなくなりまっしゃろ」  ちなみに、歌右衛門、芝※[#「習+元」]の両氏も、競馬が好きだ。鴈治郎さんと三人とも、なるほど屋号が成駒屋である。         □  歌右衛門は四代目まで加賀屋だった。金沢の出身で、だから三代目までの墓が、金沢の市内にある。  いつぞや、町を歩いた時に墓参をして、その時、同行の友人に撮ってもらった写真を、歌右衛門さんに送ったら、礼状が来た。  その冒頭に、 「いつも舞台から、お顔は拝見しておりますが」         □  三島由紀夫さんが、新婚旅行の時、京都に行って、南座に出演している中村歌右衛門さんと会った。  歌右衛門さんが、中座して、席に戻って来た。 「電話をかけていたので、失礼」 「いいえ」 「別府に電話をかけたんです。高崎山のお猿さんに。お二人が行ったら、引っ掻いてあげるようにって」         □  日本経済新聞の岡田聡さんは、先代尾上菊次郎の養子である。  戦後、苦労して南方から復員して来て、尾上梅幸さんの家を訪問した。  座敷に座っていると、天井を大きな音をさせながら、ネズミが走った。  岡田さんは、梅幸さんにいった。 「あれも食べられるんですよ」         □  尾上多賀之丞さんが、つやつやした肌をしているので、「どうして、そう、お若いんです」と訊いた。  すると、「寝る前にベルツ水で、頬ぺたをマッサージするんです。ずっと、そうして来ました」といったあと、こっちをじっと見て、 「今からはじめても、だめですよ」         □  ある時、歌舞伎座で、初代吉右衛門と六代目歌右衛門が、「新口《にのくち》村」を上演した。  その月の新聞に、「客席は閑古鳥《かんこどり》」という記事が出ると、松竹の大谷竹次郎社長がくやしがって、大入りの日に、舞台と客席とを写した写真を撮って、その社に送れと命じた。  カメラマンの吉田千秋さんが、工夫して、新口村の農家の障子の向こうから舞台を撮れば、役者のうしろ姿と、満員の客席が画面に納まると思い、障子にそっと穴をあけてカメラをそこから出したら、監事室から人が飛んで来ていった。「困るよ、カメラが前に出て来るので、段々、穴が大きくなる」         □  三代目坂東秀調という女形に、三人の男の子があって、二男が市川高麗蔵、三男が坂東簑助、この二人は、現役の歌舞伎役者である。  長男も、坂東又太郎という芸名で、ある時期まで、舞台に立っていた。その後、どういう事情か、転業した。警察官になったのである。  新橋の駅の近くを歩いている時、向こうから来た制服の巡査が、前に立って挙手の礼をしたので、びっくりした。「又太郎です」といったので、もう一度、びっくりした。  彼の父親の秀調という人は、昔、長唄の名手だった。寄り道をするが、新派の「婦系図《おんなけいず》」の小芳という役をした。めの惣の場面で、下座《げざ》の伴奏に「勧進帳」の三味線をしきりに弾くのは、この秀調がいたためで、その演出が型になった。  そういう人の息子だから、やはり、長唄の心得は、あったのだろう。  又太郎さんが、愛宕署に勤務すると、すぐ管内をパトロールする任務を与えられた。オフィスや商店の多い街である。  或る日の昼さがり、街を歩いていると、オフィスとオフィスのあいだの路地《ろじ》をはいった突きあたりの家から、三味線が聞こえて来た。  いま時めずらしいと思ったが、その家に対して、注意をしたくなった。  しかし、思い止まって、通りすぎた。  でも、しばらく歩いてから、やはり声をかけたほうがいいと思って、戻った。  家を尋ね当てて、格子戸をあけると、三味線の音がやんで、若い娘が出て来た。警察官が立っているので、怪訝《けげん》な顔をしている。 「何でございましょう」と、心配そうにいう。  又太郎さんは、しずかにいった。 「余計なことかも知れませんが、気になるのでいいます。あなたの弾いている三味線、二(の糸)の調子がちがっていますよ」         □  市川笑猿さんが、十代目岩井半四郎になった直後に会うと、「いや、おどろきました」と目を丸くした。 「どうしたんです」 「襲名したと思ったら、墓が九つついて来ました」         □  中村秀十郎という老優が、八代目松本幸四郎主演の「オセロー」に出て、ヴェニスの貴族になった。 「情ない、サンタクロースのような格好をさせられて」  しかも秀十郎さんは、サンタクロースというのは、デパートの前で、暮にビラを配るものだと、思っていたのである。         □  片岡我勇という珍優がいて、人一倍大きな声でセリフをいって、芝居の調子を狂わせる名物男であった。  見合いをした時に、それがエチケットだと思って、いきなり相手の手を握って、手前に引き寄せようとしたので、女性がキャッと飛びのいたという。 「野崎村」の船頭をしている時、舟ばたから或る日、転落した。  我勇は、いきなり浪布《なみぬの》の中を、抜き手を切って泳いだ。         □  黙阿弥の「魚屋宗五郎」の序幕に、磯部|主計《かずえ》之助《のすけ》邸奥庭の場面がある。  愛妾のお蔦が、失踪した飼い猫をさがしに出て来る。猫の名を「玉」というのだが、坂東玉三郎さんのお蔦は、別の名にしていた。「玉や」といったら、客が笑うと思ったからである。  六代目菊五郎一座の地方巡業で、大酒のみの尾上華幸という女形が、舞台に出る前、一杯ひっかけて、お蔦の姿で、花道を出て来て、 「玉や、ウーイ」         □  嵐徳三郎という女形は、前の芸名を大谷ひと江といった。これは大谷友右衛門の家とはまったく関係がなく、大谷竹次郎の大谷なのである。  内海繁太郎さんが指導していた日大の歌舞伎研究会で、歌舞伎を実演していた人々を、松竹の俳優にした時に、自分の姓を与えたわけだ。  その話をしていたら、大川橋蔵さんがいった。 「私も、東映に行った時、大川博さんから名前をもらったのかと、よくいわれました」         □  利根川|金十郎《きんじゆうろう》さんは、もと市川家の門弟で升十郎《ますじゆうろう》といった。  何かのことがあって、破門された。  それで、市川でない利根川の姓を自分で作って、屋号を紫屋にした。  紫という色が好きで、自分の家の猫を、紫の塗料で変色させてしまった。 「助六の鉢巻とは、ちがう紫です」         □  市川少女歌舞伎が、明治座に出たことがある。その時、三階から全然声がかからないので、支配人が気にして、大向《おおむこう》同好会に相談したら、「どうも、声がかけにくい」という。 「女の子だからですか」 「そうではありません、全部成田屋だから張り合いがない」         □  喜多村緑郎さんは、芸の虫で、新聞なんぞに興味がなかった。  昭和十六年十二月に、日本の海軍機がイギリスの戦艦を沈めたという話を聞いた弟子が楽屋に飛びこんで、くわしく話すと、眉も動かさずに聞いていて、 「そうかい、ところで衣裳の色だがねえ」         □  花柳章太郎さんは、女形であったが、女性とのつきあいは、ずいぶんあった。  子供の時、家が芸者屋で、目の前に美しい女が着飾っているのを朝な夕な見ていたのが、後年大変役に立ったといっていた。  さて、晩年の花柳章太郎の言葉、 「このごろは女の人を見ても、何ともない仏心ばかりで、多情はなくなった」         □  緋多景子さんに聞いた。  ジョセフィン・ベーカーが来た時、花柳章太郎さんは、「ジャーマン・ベーカリーが来たんだって」といった。  フランキー堺に紹介された。 「フランキーです」というと、 「野球の方ですか」         □  廓の場面が新派の演目にあって、花柳さんは、主役のおいらんである。  女優が、それぞれ遊女に扮して、賑やかな色の衣裳を着て、ならんでいた。  舞台稽古で出を待っている時に、花柳さんが、そばについている弟子に、指さして、 「きれいだろう」といった。  弟子は、うなずいて、 「チンドン屋みたいですね」         □  小堀誠というのは、新派の役者だったが、築地小劇場の初開場にも出演しているので、外国の芝居についても、とかく話したがった。 「かのバーナードが」とよくいう。  花柳さんが、 「バーナード・ショーまでいうものだよ」  といったら、小堀さん、憮然《ぶぜん》として、 「そんなものかね」         □  いつか水谷八重子さんに、「今まで男装の役をいくつかしてるでしょう」と尋ねたら、「ええ、ありますよ。ハムレットと、そうそう、明治女書生。こんなものかしら」といってから、 「ああ、忘れてました。天地《てんち》会」  天地会では、とんでもない男の役が、割り当てられるのである。たとえば、「白浪五人男」の日本駄右衛門。         □  帝劇女優の一期生で、数年前になくなった村田嘉久子さんは、おもしろいひとだった。  劇団世代が、「二葉亭四迷」で芸術祭の賞をとった時、祝賀パーティーがあった。村田さんはその芝居に特別出演していたので、当然パーティーにも出席した。  かえりにタクシーを拾って、ぼくと演出家の早野寿郎さんと二人で、村田さんを、南品川の家の前まで送って帰った。  すると翌日はがきが来て、礼を述べたあとで、「あれからどこへ道行をなさいましたか」とある。はじめ、ピンと来なかったが、気がついて大笑いした。  早野さんは、姓が「忠臣蔵」の二枚目と同じなので、勘平という綽名《あだな》があるのだ。         □  その村田さんは、明治四十四年に、最初の帝劇が出来た初開場の時、「頼朝」という山崎紫紅の新作の序幕に、腰元の役で出ていて、最初のセリフをいうまわりあわせになった。ついでにいうと、日生劇場の第一声は、「物みな歌でおわる」に出演した佐々木孝丸さんである。  昭和四十一年に古い建物をこわして、新しい帝劇ができた時、村田さんが、偶然にも、開場式の日に、はじめに挨拶することになった。 「うれしいでしょう」というと、うなずきながら、目をうるませていたが、「そういえば、若いころ、帝劇には、いろいろな思い出があります」と話しだした。 「どういう話です?」 「私ね、海老蔵(十一代目団十郎)さんも、幸四郎(八代目)さんも、松緑さんも、みんな抱いているんです」  三人とも子役で、この女優と共演しているのであった。         □  市川翠扇さんが芸名を紅梅といった昔、「二十の扉」に出た。  そのころは、進駐軍の取締りがやかましく、クイズ番組にまで、規制があった。 「話の泉」の、裏返しにするのが正式なものは何かという問題で、例えば、神父のカラーと答えるのはいいが、「切腹の畳は困る」というので、解答者に、武士道の作法については触れないで下さいとたのむといった、厄介なことがあった。  街でGI(兵士)の腕にぶらさがっている女性のことなんかは、いかなる形ででも、絶対にタブーだった。 「二十の扉」は、まずギーイッと戸のあく音がして、藤倉修一アナウンサーが、「二十の扉」というと、解答者が、「それは動物ですか」「食べられますか」などと、一言ずついうのが演出になっていた。  トゥエンティ・クェスチョンズというアメリカの番組通りの構成である。  ゲストでこの女優が出演した日、まず宮田重雄さんが「植物ですか」、塙《はなわ》長一郎さんが「スポーツに関係ありますか」、柴田早苗さんが「固いものですか」、藤浦洸さんが「虫ですか」といい、「市川紅梅さん」とアナウンサーがいった。  本番、ナマである。  女優が、よく通る声で、いった。 「それはパンパンガールですか」         □  東山千栄子さんは、おちついていて上品にいうセリフが、無類の女優である。ふだんも、物に動じないところがある。  俳優座の田中邦衛さんが、「東海道四谷怪談」に出演している時、臨時にマチネーがあった。どうしたことか、田中さんは、開演時間を一時間おそいものと思いこんでいたので、扮装にかかるとしても、まだ大分あると安心して、六本木のパチンコ屋で、暇をつぶしていた。  一方、劇団では田中さんが来ないので、大さわぎをして、急に代役を立てることにした。  そろそろ時間が来たと思った田中さんが、劇団に向かって歩いてゆくと、東山さんが、ゆっくり近づいて、おだやかな微笑を浮かべながら、しずかにいった。 「何だか、みなさんが、おさがしになっていたようですよ」         □  田村秋子さんのお父さんは、田村|西男《にしお》という作家で、江戸っ子だった。  大正時代の新劇も、いろいろ見ていたようだが、演芸通話会という素劇《そげき》のグループの一人で、自分たちは、近代劇はとりあげず、もっぱら歌舞伎の古典を演じていた。  西男さんが出る芝居で、中内蝶二の「大尉の娘」がとりあげられたのは、めずらしいケースだったが、若き日の秋子さんが、井上正夫という名優に指導されて、露子を演じ、それが芝居の道にはいるキッカケになった。  築地小劇場の女優になって、最初に土方与志《ひじかたよし》邸に行った時、庭でダルクローズ(体操)の稽古をしている先輩たちを見て、秋子さんは、「外国に行ったような気がしました」と話している。  それほど、今までいたところと違う世界へ娘をやることになったので、西男さんは、はじめ、かなり躊躇《ちゆうちよ》したらしい。  第一、震災前に時折見た新劇には、東京人があまりいなかった。上山草人のように、仙台弁でファウストを演じた役者が、一方の指導者だったのだ。  西男さんは、築地小劇場に、前から知っていた小山内薫《おさないかおる》を訪問して、おそるおそる尋ねた。 「うちの娘には、訛《なまり》がありませんが、それでも、新劇はできましょうか」         □  岸輝子さんがロシアにゆく時、ナホトカに向かう船が津軽海峡を通った。  たまたま、何かの都合で、船がとまると、岸さんは、しみじみといった。 「やっぱり、海峡ってせまいのね」  モスクワに行って、モスクワ大学を見学して、出て来てバスにのると、岸さん、「ねえ、今の大学、何という大学なの」  安保反対のデモを新劇人たちがした時、千田是也さんは、列の先頭に立っていたが、夫人の岸さんは参加しなかった。 「だって、何だかいやよ。岸を倒せって、みんな、いうんだもの」  岸さんが大塚道子さんと一緒に、銭湯に行っている時、気持がわるくなった。 「困ったわよ、二人とも、裸でしょう」  大体、そうだろう。         □  ぼくがソ連に新劇俳優と行った時、ハバロフスクからモスクワまでついて来たロシア人の通訳は、まことに好人物だったが、日本語は、そう達者ではなかった。 「あした、クレムリンで、ボリショイのバレエを見ます」というので、出し物はと尋ねたら、「ガチョウの池」といった。  もちろん「白鳥の湖」のことである。  岸輝子さんが、その時、すぐいった。 「日本のバレエには、時々、ガチョウの池があるわ」         □  名犬の品評会のカタログを見ていたら、「村瀬犬舎」というのがあり、くわしく文字を読んだら、村瀬幸子さんの所有だった。  そういえば、村瀬さんとヨーロッパに行った時、みんなで町を歩いていると、一人だけいなくなってしまう。しばらくすると、息せき切って追いつくので、「どうしたんです」と尋ねたら、「横町に、あんまり可愛い犬がいたから」といった。  セルロイドのケースに、愛犬の写真を御主人の北村喜八さんの写真と背中合わせに入れて、旅に持って来ていた。  ある日、「うちにも犬がいます」といったら、目を輝かせて、「種類は」という。「雑犬です。でも英語をひとつだけ知っています」 「まア」 「一といってごらんというと、ワンと答えます」といったら、「あきれた」といって、大きな口をあけた。         □  岡田嘉子さんが若いころ、松竹の「松風村雨《まつかぜむらさめ》」に出演して、継子《ままこ》をいじめる母親の役をした。  娘の子役に出ていたのが、高峰秀子さんだったが、リハーサルのあとで、こう岡田さんにいった。 「あんないじめ方じゃ、泣けやしないわ」         □  金子信雄さんの家では、丹阿弥谷津子さんよりも、男のほうが厨房で働きたがる。  事実、金子さんは料理がうまい。  二人の男の子に、両親の味はと訊いたら、 「お母さんのはスナックの味、お父さんのはレストランの味」         □  芥川比呂志さんが、はじめて映画に出たのは、五所平之助監督の「煙突の見える場所」だった。  その仕事がおわった直後に会ったので、 「舞台とは、勝手がちがう?」  と尋ねたら、「大変にちがいます」といい、ちょっと経って、こう付け加えた。 「何しろ、地面の上を歩くんです」         □  文学座の北村和夫さんが、俳優になって間もなく、俳優座の小沢昭一さんに会った。  二人は早稲田の同級生である。  北村さんがいった。 「お互いにコシタンタンと頑張ろうぜ」  同じ文学座の長岡輝子さんが、東北巡業の時に、旅館の雨戸をあけたら、雪が積もって、みごとな景色《けしき》である。  大きな声で、 「ごらんなさい、一網打尽《いちもうだじん》よ」         □  田島義文さんは、新演劇人クラブ・マールイのあるマンションに住んでいる。  劇団で用がすんで別れようとして、「近いから便利だね」といったら、 「やはり、うちに帰るのに、二時間やそこらはかかります」というから、わけを訊くと、 「一度どこかの店に行ってから、帰るからですよ」         □  梅野|泰靖《やすきよ》さんが、ロシアの芝居の「初恋」に出演して、巡業に出ることになったが、その留守のあいだに、夫人が出産する予定日が来るのがわかっていた。  ゆく先々のスケジュールを渡し、男の子の時は「チキュウハアオカッタ」、女の子の時は「ワタシハカモメヨ」という電報を打つようにといった。  いうまでもなく、宇宙船にのったガガーリンと、テレシコワの有名な言葉である。  ロシアの芝居の上演中だから、ちょうどいい。         □  ルイ十六世を、リヴァロール伯爵がさかんに批判した。それを聞いた王様が、内相のマルゼルブを呼んで、「ぼくはどうしたらいいのか」というと、内相は、 「陛下、王様の真似をなさって下さい」  河盛好蔵さんの「エスプリとユーモア」に出ている。 「マリー・アントワネット」の時、池田一臣さんがルイ十六世に扮したので、この話をしたら、 「ぼく、どうしたら、いいんですか」         □  奈良岡朋子さんとならんで、文楽を見たことがある。三越の三つ和会の公演だった。「酒屋」が出ていて、桐竹紋十郎が、お園の人形をつかった。  幕になって、奈良岡さんが、「やっとわかりました」といった。 「何がです」 「今ごろは半七さんて、これなのね」         □  佐々木孝丸さんが、メーデーの日に、映画のロケーションに行っていた。  昼休みの時に、組合に属しているスタッフの青年が来て、「インターを一緒に歌いませんか」という。 「何なら、歌詞を書いてあげますよ」  インターナショナルの歌を訳詞したのは、佐々木さんなのである。         □  早野寿郎さんと太地喜和子さんと関根恵子さんの三人が、六本木のバーにいたので、合流した。  太地さんにぼくが、「あなた大分飲むんでしょう? どのくらい飲むの」と尋ねたら、一本指を立てた。 「毎日ボトル一本か、すごいな」というと、関根さんがおどろいて目を見はっていった。 「まア、私の倍だわ」  つまり、関根さんも、二日に一本なのだ。         □  小沢昭一さんが、芸能を採集するために、自分も万歳の姿になって、村を歩いた。  その顔を見て、「どこかで見たようだ」とささやく声が聞こえる。 「テレビで見た顔だ」という声もある。  ある家で、万歳をひとくさり演じて帰ろうとすると、奥さんが、おひねりを呉れながら、 「早くテレビにまた、出られるようになって下さいね」         □  しかし、小沢昭一さんは、テレビも、ドラマの出演交渉は、いつもことわっている。何といってことわるのかと尋ねたら、 「こういうんです。光源氏の役以外は、出演しません」         □  NHKの「刑事コロンボ」の主役の声の吹き替えは、いつも、劇団|昴《すばる》の小池朝雄さんが担当している。  なかなか評判がいいので、当人も、まんざらでもなかったらしい。 「コロンボ」が放映されてから一年目ぐらいに、はじめて会ったので、「コロンボ、なかなかいいね」というと、いやな顔をした。  おやッと思って、顔を見たら、 「みんな、このごろ、コロンボのことしか、いわないんだもの」         □  二枚目といわれる役者は、自然に出て来る言葉がちがう。  昔、三代目尾上菊五郎は、しじゅう鏡を見ながら、「どうして俺は、こんなにいい男なんだろう」といっていたそうだが、今の俳優でも、そういうのに似た表現を、思わずする場合がある。  高田浩吉さんが、大分前だが、インタビューに応じて、「私は健康管理に気をつけてます。そうしなければ、美貌が保てません」といった。  長谷川一夫さんが、テレビでしゃべっていた。 「私と同じ年ごろのお客様が、私の舞台を見て、あの年でも、美しく見えると思って下されば、その方々が元気を失わないだろう、そう思って、私は芝居に出ているんです」  尾上多賀之丞さんに聞いた話だが、「忠臣蔵」六段目の老母おかやを演じた時、勘平の十五代目市村羽左衛門の所に行って、「私はどうしたら、よろしゅうございましょう」と尋ねると、「適当にやっていてくれればいいんだよ。どうせ、お客様は、勘平しか、見やしないよ」といったそうである。         □  旗一兵さんの「花の春秋」という本は、長谷川一夫さんの評伝である。  その出版記念会に、旗さんの母校立教の野球部の選手が出席した。長嶋茂雄三塁手、杉浦忠投手、本屋敷《もとやしき》錦吾遊撃手である。 「サインして下さい」  という声がして、三人が、会場の隅にいる長谷川さんを、とり囲んだ。         □  フランキー堺さんの愛犬が、近所で子供を集めて熱演していた紙芝居の小父さんの足に噛みついた。  カンカンに怒っていると聞いたので、町内の世話ずきが、堺夫妻をつれて、紙芝居をしている人の家に詫びに行った。  なおも相手はブツブツつぶやいているので、町内の紳士が、なだめようとして、大きな声でいった。「まアまア、お互いに、芸術家なんだから」         □  小豆島に行ったら、「二十四の瞳」という打ち菓子を売っていた。箱の蓋をあけると、目玉の形をした落雁が二十四、はいっている。  いささか不気味だ。  その話を、中村梅之助さんにしたら、 「目玉商品ですね」         □  八千草薫さんは、ヒトミちゃんという愛称を、宝塚時代から持っている。 「二十四の瞳」の大石先生を芸術座で演じた時に、八千草さんが首をかしげていった。 「ざんねんながら、二十四じゃないわ」         □  吉行和子さんが、旅に出ている時、車中で、弁当を買って来た劇団の仲間が、蓋をあけた。  うなぎ弁当である。 「このうなぎ、養殖かしら」と、ひとりの女優がいった。  吉行さんは、目を丸くして、 「あら、うなぎは和食でしょう?」         □  早稲田小劇場で、「鏡と甘藍《かんらん》」という鈴木忠志さんの芝居を上演した。  劇中、舞台の上から、キャベツが何十となく降って来て、そこにいる俳優たちが、それをかじる場面がある。  ナマのを、毎日食べるわけだ。  終演後、俳優がトンカツ屋に行って食事をしたが、脇づけのキャベツは、みんな残したそうだ。         □  左|卜全《ぼくぜん》さんは、歌人|三ケ島葭子《みかしまよしこ》の実の弟で、きわめて個性的な俳優だった。  いつも松葉杖をついていたが、足が悪いわけではない。遠くからバスが来ると、松葉杖をかついで停留所まで走った。 「左幸子は、わしの娘じゃ」と時々いった。         □  山田五十鈴さんが、戦争中、「B29って、いつも私をねらっているようだわ」といった。 「これがスターの言葉だ」といったのは、NHKのディレクターの和田勉さんである。  その和田さんが、スタジオで、俳優に、 「メセン(視線の目標)はどうします」  と訊かれた時、 「無限大」といったのは、有名な話である。         □  宮城まり子さんと、「オリバー」の初日に、帝劇の廊下で会った。  ベルが鳴ったら、劇場の人が、「お席は二階の正面、浩宮《ひろのみや》様のそばです」と告げた。  まり子さん、大変てれて、こういった。 「まアいいわ、わたし、宮城《きゆうじよう》だから」  同じ女優の、シャイな感じが、こんな時にもわかった。 「来月の末に、私、|リタイサル《ヽヽヽヽヽ》をするの」  リサイタルというのが、恥かしいのである。         □  フランキー堺さんが、だいぶ前に書いている話だから、公表を許してもらうことにしよう。  新珠三千代さんが、京都にロケで行っていた時、目にものもらいができた。  それが治るまでは、撮影が進行しないので、迷惑をかける。新珠さんは気をつかうたちだから、自分のためにみんなが待っているのを気にして、旅館の女中さんに、「いい目医者がないかしら」と相談した。  すると、「いい医者が嵯峨にあります。大田といって、嵐山電車の駅からタクシーで十分ほどのところです。火箸《ひばし》でジーッと焼く荒療治ですけど、すぐ治ります」という。  そこで、新珠さんは助監督と一緒に、嵯峨に行った。いわれた通り、一度駅の前まで行き、車を走らせたが、乗って三分ぐらいのところに、大田という大きな看板の出ている病院があった。 「タクシーで十分じゃなくて、徒歩で十分だったのだわ」と思って、その前で車から降りた。  じつは、大田という病院が、親戚同士で、いま新珠さんのはいって行こうとしたのは、眼科のほうではなく、精神科のほうだったのである。  それとは知らず、新珠さんは、若い助監督と一緒に、玄関をはいってゆく。  院長が看護婦と出て来て、「さア、こちらへ」と、親切に案内する。新珠さんは、「宿からきっと電話を入れてくれたのだろう」と思いながら、診察室にはいった。 「さア、ここにおかけなさい」といわれたので、「新珠三千代でございます」と挨拶して腰かけた。  院長が新珠さんを見ず、助監督のほうを見て、「このひと、いつから、そう思いこんでるんですか」         □  波乃久里子さんと、東ドイツのポツダム離宮を見に行った。  森の美しい町である。 「ここが有名なポツダムですよ」といったら、 「まア、ポツダム大尉のポツダムって、ここですか」         □  木の実ナナさんが、歌手としてデビュー早々、芸能記者が訪ねて、「将来何になりたいと思っているんですか」と質問した。  ナナさんは、ニッコリ笑って、 「小股の切れ上った女に、なりたいわ」         □  十数年前、若い俳優が、遊びに行って、そのとき逢ったおいらんに手紙を書くと、返事が来た。 「あんたも早くえらくなって、故郷に綿《わた》を飾って下さい」         □  昭和五十一年、宝塚歌劇団の鳳蘭《おおとりらん》さんが、自分で運転していると、夜間の一斉取締りにぶつかった。  交通係の若い警察官が、運転台をのぞきこんで、「どこに帰るんですか」と尋ねたので、「宝塚」と答えた。  鳳蘭の顔を、その警察官は、知らなかったらしい。 「店にゆくんですね」 「いえ、店ではありません。歌劇団の生徒です」と答えた。  すると、警察官は、急に目を輝かして、何かいおうとしたが、反省したと見えて、ひとりごとのように、こういった。 「うちの妹が、�ベルばら�を、見たがってるんだがな」         □  鳳蘭さんの愛称はツレ、本名の中国の名前から来ているらしい。  このスターがパリに行くと聞いたので、 「向こうへ行ったら、きっと、ツレビアンといわれるよ」といった。  その洒落《しやれ》を、「歌劇」という雑誌に書いたら、「トレビアンといわれるよ」になっていた。  編集長が、親切に、直してくれたのである。         □  モスクワ芸術座の女優タラーソワが東京に来て、「桜の園」のラネーフスカヤを演じている時、舞台で涙がサーッとこぼれるのを見た。すぐれた演技者は、ほんとうに泣くのだという定説が、以後劇壇の常識になった。  その後、ある劇団のある女優が、舞台で涙を流しているのを、批評家がほめたら、別の女優がいった。 「あのひと、涙腺《るいせん》の具合がわるいのよ」         □  ジャン・ルイ・バローが、はじめて日本に来た時の記者会見に出ていると、 「あなたの芝居は、アンチ・テアトルですか」という質問があった。  バローさん、ニッコリわらって、 「アンチ・モーヴェ・テアトル(悪い芝居に反対)のつもりです」         □  御三家という言葉がはやる。  歌謡曲で、橋幸夫、舟木一夫、西郷輝彦のことを、こう呼んだのは、女性週刊誌あたりかも知れない。  しかし、昔から、そういういい方をした。  松竹蒲田で、島津保次郎、池田義信、牛原|虚彦《きよひこ》の三監督を、「御三家」と呼んだという。  それを聞いた野村|芳亭《ほうてい》という監督がいった。 「すると、わいは、将軍やな」         □  小津安二郎さんの祖母は、小津さんが映画の仕事をするのに反対だった。  或る時、その老女が映画館にはいると、島津保次郎監督の撮った作品を上映していた。 「おやおや、うちの安二郎は、はずかしいので、島津保次郎なんて名前を使っているんだね」         □  選挙の時に、「私を男にして下さい」という演説をする候補者がいる。 「男にする」という表現は、いかにも政治家らしい。  似たような表現でも、性が異ると、ニュアンスがまるでちがう。  水の江滝子さんが、石原裕次郎さんのことで、東宝映画の藤本真澄さんに頼みごとがあって訪問し、縷々《るる》説いたあとで叫んだ。 「私を女にして下さい」         □  藤本真澄さんが、ヴェニスの映画祭に行くことになった。  その直前のパーティーで、山本嘉次郎監督が挨拶した。 「ヴェニスに行ったら、ゴンドラには、乗らないで下さい、ガンになるといけません」  黒沢明監督の「生きる」で、志村喬さん扮するガンで死ぬ老人が、「ゴンドラの唄」を歌ったからである。         □  東宝の争議の時、撮影所の大部屋の俳優が、千円の給料をもらうことになって、藤本真澄さんにいった。 「とうとう私も、千両役者になりました」         □  シナリオ作家の三村伸太郎さんは、「師匠」と呼ばれていた。縫紋《ぬいもん》の羽織を着て袴をはいて出た席で、浪曲の大家とまちがえられたからだという。  稲垣浩監督のあだ名は「イナカン」、稲垣監督を約したのである。  三村さんが、そのイナカンから思いついて書いたのが「伊那の勘太郎」であった。  伊那に行ったら、勘太郎の墓ができていたそうだ。         □  時代劇のロケーションの時、電柱が目ざわりで、このごろは、松の幹のような模様の布を巻きつけて、カムフラージュすることを考えた。  稲垣浩監督に聞いたのだが、もとは、こんなことをいったそうだ。 「いい街道だが、浅野内匠頭やな」「なんでや」「デンチュウがうらめしい」         □  溝口健二さんが、パリのルーヴル美術館に行き、ゴッホの絵をじっと眺めていた。  長いあいだ、黙って見ていたが、やがて、周囲にいた人々をふり返って、 「ゴッホは狂人でした。みんな、狂人になんなさい」         □  内田|吐夢《とむ》さんが、日活で「人生劇場」を撮る時、少年時代の青成瓢吉が登る、ふたまたになったイチョウの木が必要なので、関東五県を、助監督が車でさがしまわったが、手ごろなのがない。  すると、調布の撮影所から五十メートルのところに、ドンピシャリの木があるのを発見した。  この映画、ファースト・シーンから、クランクインをした。シナリオのカット通りの順序で撮影することは、めったにないのである。         □  或る映画女優が、仕事とは関係なく、芝浦の沖で小舟に乗っていて、小用をたしたくなった。  まさか、人目のあるところでは、できない。  大急ぎで舟を陸地に近づけようとして、速度をフルにすると、モーターが加熱して、舟火事になりかけた。  山本嘉次郎監督が、その話を聞いて、いった。 「私に消させてといったら、大女優なんだがなア」         □  山本監督が、日本アルプスのふもとの山深い村へ、ロケーションに行って撮影していた。 「トラックアップして、ヒンケン(佐伯秀男)のアップになって、オーバーラップすると、チータン(竹久千恵子)ナメのデコ(高峰秀子)のバストで、フェードアウト、オールチョンや」と、メガフォンで指示していると、そばにいた老人が、近寄って来て、ふしぎそうに質問した。 「一体あんた方は、どこ人《じん》かね」         □ 「馬」という映画を撮影している時、高峰秀子さんが、子役に出ていた。  ある日、撮影にはいろうとしたら、主演の少女が泣いている。山本嘉次郎監督が、「どうしたんだ」と尋ねると、助監督、それは黒沢明という名の青年だったが、近づいて来て、小声で、 「デコは、馬が、じつは、こわいんです」         □  木村英一というスポーツ・ニッポンの演劇記者がいた。前は六代目菊五郎の弟子で、尾上栄二郎という俳優だった人である。  山本嘉次郎監督が、白磁にうっすら紅のさしている花瓶をこよなく愛し、銘をつけて秘蔵していた。  木村さんが山本家に行った時、それを卓上に出して、得意そうに、「これは、はじらいと名づけた花瓶だよ」というと、じっと見て、 「まア、せいぜいジンマシンというところだね」         □  五所平之助監督に、ある人が、 「五所先生というのは御本名ですか」と訊いた。 「いえ」 「本名は何とおっしゃるんです」 「おかるの兄さんです」  相手は、歌舞伎をまるで知らない。 「お、か、る、のって申しますと」 「平右衛門ですよ」  ところで、戸塚の国道の松並木の、吉田元首相が作ったバイパスのすぐ前に、「清方の松」というのがある。  鏑木清方さんとどういう関係があるのか、くわしくはわからないが、そういう松のあることを、久保田万太郎さんが、「さんうてい夜話」に書き、「おかるが勘平の女房とは知らない運転手が」という表現をしている。  いとう句会で、五所さんから聞いたのが、残っていたようにも思われる。         □ 「一に草人、二にウレシュウ、三四がなくて、次に馬」という言い伝えがあったのを、昔聞いたおぼえがある。  ウレシュウというのは、里見※[#「弓+享」]さんの「多情仏心」の西山|普烈《ふれつ》のモデルといわれた、もと松竹蒲田のスター江川|宇礼雄《うれお》さんの愛称である。  NHKの「私だけが知っている」に、一緒に出ていた。それで、ぼくの小説に登場する刑事が、江川という名前なのである。  昭和四十一年が午年で、或る新聞で、上山草人・江川宇礼雄対談を企画した。  江川さんが、「あしたは上山さんと久しぶりで会います」という。 「何がテーマですか」と訊くと、 「例の馬の話ですよ」         □  戦争中、ロケーションに行った俳優やスタッフは、宿に着くと、すぐ酒をさがして歩いた。  ある薬局に、「養命酒」を見つけた俳優、酒好きなので、その店先で、栓をぬいて、ラッパ飲みにして、「ああ、うまかった。もう一本」  薬局の主人が、苦い顔をして、いった。 「ここは、酒場じゃありませんよ」         □  小林正樹監督の撮った「切腹」という作品は、ヨーロッパでも「ハラキリ」という名で、評判になった。  この主人公は、金を無心して、貰えなければ切腹するというと、どうぞそうなさいといわれて、竹の刀で腹を切るという悲惨な人物である。  音楽を担当したのは、武満徹さんだった。  キャッチフレーズというわけにもゆかなかったが、宣伝部で、こんなことをいった。 「切腹もタケミツ、音楽もタケミツ」         □  大映で製作した「羅生門」が、カンヌの映画祭で、グランプリをとった。  新聞記者が来て、社長の永田雅一さんに、「グランプリ、おめでとうございます」という。 「グランプリとは、一体何の事だね」  説明されて、 「ああそうか、歳末大売出しで、タンスがあたったようなものだな」         □  吉村公三郎さんが、宿屋の洗面所で、顔を洗いながら、「森の石松」の浪曲を鼻唄にしていたら、隣で洗っていた人が、 「ありがとうございます。私、広沢虎造です」         □  名前は伏せたほうがいい。匿名にする理由は、あとでわかるのだが、或る映画監督のにせものが、地方の町で、女をだました。  何のなにがしと詐称したのだから、罪は深い。しかも、子供ができてしまったのに、男は女を捨てて、失踪した。  当然のことだが、女は上京して、撮影所にやって来た。ぜひ監督に会わせてくれという。  撮影所長が、監督を呼んで、こんな女が来ているが、心当りはないのかといった。 「とんでもない、そんな罪なことを、私がするはずはありません。にせものです」という。  所長が、それを取り次いで説得したが、女はどうしても、一度だけ会わせてくれという。監督はいやがったが、会って顔を見せたら、あきらめるだろうと所長がすすめたので、渋々、女のいる所長室にはいって行った。  女は、監督の顔を見ると、ゲッソリしたように、「やっぱり、あの人は、嘘をいっていたんだわ」といった。  それで所長が、「顔がちがっているんだから、あきらめて、お引きとり下さい」というと、女が「ええ、ちがっています」といって、急に泣き出した。  そして、泣きじゃくりながら、独り言のようにいった。「向こうのほうが、もっといい男でした」  監督が、あとで所長に、口をとがらせていった。 「だから、会うのは厭だといったんです」         □  フジテレビの小川宏ショーに「御対面」という番組があったころ、船越英二さんが出演した。  その日局の用意したゲストの一人に、以前船越さんが山本富士子さんと共演した「私は二歳」の時の赤ちゃんに出ていた少年がいた。もう小学生になって出て来た。  船越さんを見ると、いきなり「パパ!」といった。  船越さんは絶句した。         □  ジャン・マレーが日本に来た時、中村メイコさんに関心を持ち、パーティーに招待してくれた。  それでメイコさんは、和服の盛装で出かけてゆくと、ジャン・マレーはキョトンとしている。 「私です」というと、おどろいて、 「君は男の子じゃなかったの」         □  榎本健一(エノケン)の演目に、チャップリンの感じがあるというのが、定評だった。  榎本さんは、それをいやがって、こう語っている。 「チャップリンは参考にはしているが、決して真似はしないよ。第一、ぼくは、オペラの出だからね」         □  榎本さんの一口評というのがある。  古川ロッパを評して、 「ぼくより、よっぽど器用だ。それがあの人の欠点。器用すぎて、何でも真似になってしまう」  この次のが、おもしろい。丸山定夫について、こういった。 「喜劇をやらせたら、あのくらいヘタなのは、世界中にいないよ」  福田良介の芸名で、エノケン一座に、丸山がはいった直後の言葉だった。         □  大陸に戦争がはじまったころに、防空演習があって、その実況を、徳川夢声さんと、古川ロッパさんが掛け合いで、銀座の服部時計店の屋上から中継放送することになった。  NHKは今でもそうだが、特定の企業名、店名、商品名を、ハッキリいってはいけないという規則がある。  飛行機が、松坂屋の方から、松屋の方に向かって飛んでゆくといえば、話が早いが、当時はことに監督官庁が逓信省で、やかましく規制したので、そうはいえない。 「只今、敵機らしいものが、Aデパートの上空から、Bデパートの上空に向かって、飛んでいます」といった。  二人はため息をついて、「ビタミンじゃアあるまいし」         □  古川ロッパさんが、戦争中役人に呼びつけられ、「ロッパと仮名で書くのは敵性英語のようでいけない、漢字で書いて下さい」といわれた。  帰って来て、ロッパさんがいった。 「アスピリンを、漢字で書いてみせてくれ」         □  そのあと、ロッパさんは、もう一度役所にゆき、「私の名前のロッパを禁じたって、エンタツ・アチャコなんていうのが、あるじゃアありませんか」と抗議した。  すると役人が、すまして、いった。 「しかし、エンタツ・アチャコは、漢字で書けない」         □  古川ロッパさんと、渋谷のハチ公前で会った。「とん平」に飲みに行こうと誘う。 「いや、これから、砂防会館に民芸の芝居を見にゆかなきゃならないので、失礼します」 「ほう、何をやってるの」 「�楡《にれ》の木陰《こかげ》の欲望�」 「作者は誰です」という。  おや、知らないのかしらと思ったが、「オニールですよ」というと、 「フルネームでいって下さい」 「ユージン・オニール」 「おや、オニールは、あなたの友人ですか」  これがいいたかったのだ。         □  古川ロッパさんが、新橋のアマンドで、コーヒーをのんでいた。間もなく立ち上ったので、「お帰りですか」と声をかけると、 「いや、これから女のところにゆくんだ」 「へえ」というほかない。 「新コマ姐さんのところさ」  新宿コマ・スタジアムの稽古場のことだった。         □  古川ロッパさんが、渋谷の「とん平」で、何かのことで機嫌を悪くして、急に立ち去ろうとした。おかみさんも、まわりにいた飲み仲間も、オロオロしている。  ロッパ氏は苦り切って、「じつに不愉快だ、この店には、もう来ない」といい、のれんをくぐった所で振り返って、「とんぺい最後の日です」。みんなホッとして、「ロッパさん、あしたも来るよ」         □  文楽の人形つかいで、名人といわれた初代吉田玉造は、道具屋にしじゅう行って、何か骨董を買うのが道楽だった。  人が、「にせものをつかませられませんか」と尋ねたら、こう答えた。 「長年人形を遣っているから、品物を手にのせると、重さで本物かどうかわかるのや」         □  宝生流の野口|兼資《かねすけ》が、イングリッド・バーグマンの「ジャンヌ・ダルク」を見た。見おわって、がっかりして、 「助かるのかと思ったら、ハリツケになってしまいましたよ」         □  稀音家浄観が、名古屋の松坂屋で、岐阜ちょうちんを買って、一万円出したら、「お釣りがここにはありません、ちょっとお待ち下さい」といわれた。  弟子を見かえって、「ちょうちんにツリがねえ」         □  今井慶松は盲人だったから、もちろん、譜を見ずに、琴の曲をおぼえた。  弟子たちが、譜を見て弾いていると聞いて、師匠はこう嘆いた。 「フばかりあてにして、まるで金魚だ。そういうのをフベンキョウというのです」         □  宮城道雄に、劇評を書かせた新聞がある。「雨の念仏」という随筆集を読んで、感心したからである。  これは目のみえる人には書けない、と思われる一節があった。 「赤ん坊が、舞台の真ん中で泣いていない」         □  富崎春昇が、三越名人会で、繁太夫節の「帯屋」(桂川|連理 柵《れんりのしがらみ》)を語ることになった。  家を出る時、袴をつけながら、 「さア、三越へ帯を売りに行て来まひょ」  と、検校《けんぎよう》はいった。         □  若いころ、清元志寿太夫さんは、横浜で店員をしていたが、朝早く公園に行って、浄瑠璃の発声練習をした。  すると、向こうから警官が来たので、叱られると思って、声を出すのをやめた。  ツカツカ、警官が近づいて、こういった。 「もっと続けなさい。清元は、私も好きだ」         □  アルフレッド・コルトーが東京に来て、ウェーバーの「舞踏への勧誘」を演奏した。  この曲は、おわりのほうで、最高潮に達して、それからもう一度、ピアニシモになるのが、舞踏会のあとの淋しさを表現している。  その日、最高潮のあとの小休止で拍手した聴衆がいる。  コルトーは「アタンデ・シル・ヴ・プレ(どうぞ待って下さい)」といって、それから最後まで弾いた。         □  三浦|環《たまき》が、パデレフスキーの伴奏で、「蝶々夫人」のアリアを、アメリカで歌った。  パデレフスキーは、独立後、初代のポーランド大統領でもあった。クレマンソーが講和条約の時、「世界一のピアニストが、なぜ政治家に成り下ったのですか」と質問したというエピソードのある名演奏家だ。  歌いおわった歌手のところに、大きな花の籠が届けられたのを抱えて、あとずさりしてお辞儀をしていると、水がこぼれて、パデレフスキーの服を、したたか濡らした。  三浦環が、あわてて詫びると、ピアニストは、微笑しながらいった。 「いいえ、マダム・ミウラ、あなたがあんまり素晴らしく蝶々夫人を歌ったので、ガウンが泣いています」         □  沢田柳吉が、金竜館で、ピアノを演奏した。初日にタキシードを着てステージに上ったが、楽屋で、「あんな貴族の服を着るのは、おかしい。民衆の姿で弾くべきだ」という声がおこったので、翌日は、よれよれの縞の着物に兵古帯を巻きつけて出て、ベートーヴェンの「月光」を弾いた。  ところが、そんな格好なので、聴いているほうは、調律しているのだと思った。曲が終って幕がおりたら、「おい、何にもやらないで幕をおろすのか」と客席から声がかかった。         □  大正八年に、金竜館で、オペラの「カルメン」を初演した。清水静子のカルメン、田谷力三のホセ、清水金太郎のエスカミリオという配役である。  初日に、篠原正雄さんが、オーケストラ・ボックスにはいって、前奏曲がはじまった。  すると、一見職人風の観客が、篠原さんの背中をたたいて、「おい、楽隊なんかやってないで、早く芝居をはじめろ」         □  その「カルメン」の時、ミカエラを演じている安藤文子さんが、小道具の手紙を忘れて出た。しかし、たまたま、懐中に自分の手紙があったのを思い出して、持ち出し、ホセの田谷力三さんに小声で、「見ないでね」といって手渡した。  田谷さんが、おかまいなしに、開いてみると、「恋しき戸山英二郎さままいる」  戸山英二郎は、藤原義江さんの当時の芸名である。         □ 「カルメン」のドン・ホセという問題が、NHKラジオの「私は誰でしょう」に出たことがある。  なかなか解答者がわからないので、司会のアナウンサーが、ヒントを与えた。 「昔、正午に、鳴ったものがあります。ご存じですか」 「ドンです」 「お天気の時に、ふとんを干します。その干すという動詞の命令形を次につけて下さい」 「わかりました。ドン・ホシナサイ」         □  原信子さんが、ミラノのスカラ座にいたころ、ロシアからシャリアピンが来て、「ボリス・ゴドノフ」を演じることになり、男の子の役をしてくれと頼まれたと、山根銀二さんに話していた。 「どうしました」 「シャリアピンに抱っこされるのが、いやだったので、ことわったわ」         □  五十嵐喜芳さんが、語っていた。 「藤原義江先生に、いつもいわれたものです。オペラの歌手は、いついかなる時でも、ホテルで食事をすることのできる服装でいなければいけないって」  それは、その通りだろう。  しかし、その藤原さんが、こんなことをいった。 「オペラだけやっていたんでは、ビフテキは食べられない」         □  戦争末期に、藤原義江さんが、静岡で独唱会をして、サンタ・ルチアを歌っていると、楽屋に特高警察が来て、質問した。 「イタリア民謡と書いてありますが、ムッソリーニのほうですか、それともバドリオのほうですか」         □  戦争中の話。古川ロッパと藤原義江が、「音楽大進軍」という映画のロケで、三島の牧場に行った。  牛がいて、モーと鳴いた。  藤原義江が、それをじっと見ながら、いった。 「うまそうだなア」         □  景色を八つ数えるしきたりは、中国の|瀟 湘《しようしよう》八景から来ている。  日本では、近江八景がいちばん広く知られているが、江戸の名所で、「吾妻八景」があり、もっと範囲をせばめて、「深川八景」がある。それぞれ、唄になっている。  近江八景を当てさせると、六つぐらいまで答えて、あとの二つが思い出せない人が多いのが、ふしぎで、「当るも八景、当らぬも八景」という。  神奈川県の「金沢八景」は、駅名になっているので、東京人は知っている。ここのも、近江と同じように、夜雨、晩鐘といった、原典以来の表現を用いて、景色を数えているはずだ。  團伊玖磨さんが、お父さんの伊能《いのう》さんと料理屋で食事をしながら、世界の八景をえらぼうということになった。  えらぶという以上、世界中を歩いて、見て知っているのだから、ずいぶん贅沢な話題だということになる。  パリの夜雨、ナポリの帰帆、ヒマラヤの暮雪、トレドの秋月、ニースの晴嵐、ロッホ・ローモンド(スコットランド)の落雁、ゴールデン・ゲートの夕照と挙げて行ったが、晩鐘がなかなか、きまらない。ヨーロッパの古い街に、名鐘がいろいろあるからだ。  そばにいた女中さんが、みかねて口をはさんだ。 「ミレーの晩鐘というのが、あるじゃございませんか」         □  車が渋滞して、二進《につち》も三進《さつち》も行かない時、團伊玖磨さんは、業《ごう》を煮やして、つぶやいた。 「自動車がこう殖えるのは、夜中に駐車場で、くるまが交尾しているにちがいない」         □  アキコ・カンダさんの「万葉のおんな」の音楽を担当した広瀬量平さんが、千秋楽の日に見に来て、楽屋にいた。  電話がはいって、「広瀬先生いらっしゃいますか」と、部屋を順々にコロスの少女のひとりが、大きな声で聞いて歩いている。 「杉野はいずこは知っていたが、広瀬をさがす話は、はじめてだ」とつぶやいた人がいた。         □  邑井一《むらいはじめ》という講釈師がいた。  晩年、病床で速記をとらせていた。  槍で刺された人物の描写をしながら、「胸から腹に血がダラーッと」といったら、思わず速記者が、胸をのぞきこんだ。         □  一竜斎貞丈さんが、落語家について、ぼくに、こんなことをいった。 「近ごろの落語は、マクラがあって、フトンがありませんな」         □  講談の一竜斎貞山さんが、酔っ払って、交番の前を通る時、誰何《すいか》された。 「お前は何だ」 「私はコウダンシ」というと、 「ばか野郎」と叱られた。         □  老いても、芸人には色気がなければいけないといわれる。  桂文楽師匠が戦後、宇野信夫さんに会った。「このごろ、あのほうは、どうです」という質問を受けた。  ウフッと笑って、「ええ、まア、多少」         □  その文楽師匠が、「壺坂」の義太夫を稽古していた。ちょうどその時、国立小劇場に文楽協会の公演があって、「壺坂」が演目にえらばれた。  客席の文楽師匠は、熱心に傾聴している。休憩時間に、挨拶をして、「きっと聴きに来られるだろうと思っていたら、やっぱり、いらっしゃってましたね」といった。  すると師匠は、目を丸くしていった。「おやおや、スッカリ手が回ってますな」         □  林家正蔵さんのおかみさんは、東京駅で撃たれた浜口雄幸首相が、間もなく死んだことを知っていた。  その後、五・一五事件の時に、犬養首相が暗殺された。  師匠が、「また総理大臣が殺された」といったら、おかみさん、目を見はって、 「二度も殺されるなんて、運のわるい人ですね」         □  三田純市さんから聞いた話。  大ぜいで近鉄の車中で、シャレをいい合っていたが、さすがに笑いくたびれたので、もうシャレはよそうということになった。  すると、そこに、専務車掌がはいって来た。  笑福亭松鶴さんが、申し訳ないという顔をしながらいった。 「車掌が出て来て、こんにちは」         □  やなぎ句会に招かれ、居並ぶ永六輔、小沢昭一、江國滋、矢野誠一、三田純市の諸氏の俳句を選んだが、柳家小三治さんのを、あいにく一句もとらなかった。  ひと足先に帰るので、靴を履いていたら、小三治さんが来て、ぼくの耳もとでいった。「先生は、俳句は上手《じようず》だと思うんだけど、えらびかたは、へたですねえ」         □  ある落語家がマージャンをしていた。  そのうちの二人は、新劇俳優で、夫婦だった。ただし、芸名なので姓はちがっている。  終わって、その夫婦が、先に帰って行くと、落語家が、残った一人に、低い声でいった。 「今出て行った二人、あれ、できてるよ」         □ 「吾輩は猫である」の中に、刑事が、捕まえた泥棒の縄尻を持って、苦沙弥先生の玄関に立つと、先生が、まちがえて、いい男の泥棒に挨拶する場景が描かれている。  三代目|蝶花楼馬楽《ちようかろうばらく》が、仲間を縄でしばって、その縄を持って、二人で電車に乗り、だまって降りようとしたら、車掌が「御苦労さま」といって、切符を買わずにすんだ。  この話を聞いて、二人組で、真似をしたのが見破られた。両名は反省して語った。 「ああ、にこやかに話してちゃア、いけないんだね、やっぱり」         □  悪口とか、綽名《あだな》とか、いい芸人ほど、それがなかなかうまい。  錦城斎典山という講釈の名人は、口が悪かった。「あいつの顔色は、大掃除の時に、たんすの裏から出て来た白足袋のようだ」というのがある。死んだ一竜斎貞丈さんから聞いた。  三遊亭円生さんが、皇居に行って、天皇の前で「御神酒徳利《おみきどつくり》」を口演することになり、いよいよ明日という時、週刊誌から電話がかかって、「もし御前で失敗したら、どうします?」と訊いた。その話をした円生さんは、いかにも腹を立てたように、「こういうのを、大学を出た与太郎というんです」         □  三代目の三升家小勝という落語家は、マクラに世相をチクリと皮肉る癖があった。「何だか知らねえが、このごろは、チータカチータカ女の子が脚をあげたりすると、お客が喜ぶなんて、世も末だよ、まったくの話が」などという。  これを、ある宴席でいったら、シーンとして誰も笑わないので、不審に思って、料亭のおかみに訊いたら、「きょうのお客様は、宝塚の小林一三さんですよ」         □  客に一対一で話しかける話し方をしたのが、三平さんの実父の林家正蔵と、鈴々舎馬風だった。馬風が刑務所に慰問にいって、「満場の悪漢諸君」とやったという話が、伝わっている。         □  六代目菊五郎のそばにいた牧野五郎三郎という支配人は、四角いあごをして、白い髭《ひげ》をそのまわりに、はやしていた。菊五郎が評して、「竹細工の乃木さんだぜ」  菊五郎が、若い役者の「忠臣蔵」の稽古を見ていた。七段目で、三人侍《さんにんざむらい》が、一力の奥にはいる時、のれんを手であけたら、客席からどなった。 「おでんやに行ったんじゃないよ」  刀であけると、さまになるのだ。  その菊五郎が死んで、通夜の時、市川三升(死後、十代目団十郎を追贈された)が、遠藤為春さんと、二代目河原崎権十郎とがいるところに来て、「いま俳句ができましたよ」といった。 「どういう句です」 「碁敵《ごがたき》に死なれてひとり虫を聞く」  権十郎が、即座にいった。「碁敵といっても、井目風鈴《せいもくふうりん》つきの碁敵だ」  この話も宇野信夫さんに、教わった。         □  伊藤一葉という奇術家が、おしゃべりをしたあとで、「何か、御質問は」というのが受けて、しまいには、CMにまで出て、同じことをいった。  スタジオで会った記者に、一葉がいった。 「質問されると、困っちゃうんです」         □  三國一朗さんが、神戸のレストラン、キング・ザームに行った時、灰皿をもらった。  裏を見ると、STOLEN FROM THE KING'S ARM と焼きつけてあったそうだ。  キング・ザームから盗んだもの、というわけだ。         □  三國さんは、野球が嫌いだそうだ。  或る時、印刷物が届いたので、開いてみると、「ライターズ・クラブ」という球団ができ、キノトールさんが、監督をするというのだ。  五十八人の物書きの名前が、発起人にならんでいた。 「それで、どうしました」と尋ねたら、 「ブルータスお前もかと、五十八ぺんいいました」         □  トニー谷さんが、舞台で、「私、これでも学習院を出ているんです、深川の」といった。みんな、ドッと笑う。  二、三日経って、劇場に投書があった。 「学習院の卒業生の名簿をしらべたが、トニー谷という名前は、のっていません」         □  高橋博さんが、埼玉県の久喜に行ったら、たまたま小屋がけの芝居があった。  はいって見ると、演目は「実録|小平《こだいら》事件」というのである。強姦魔のドキュメントだ。  かなりきわどい場面を見せて、幕になった。その引き幕に、墨黒々《すみくろぐろ》と、「忠孝」。         □  東宝歌舞伎のラジオの舞台中継に、高橋博さんが解説に出ていた。  立ちまわりが、はじまった。  長谷川一夫さんの役が、刀をふりまわして、群衆を斬ってゆく。しかし、その動きを、一々微細に説明するわけにも、ゆかない。  高橋さんは、力をこめて、こういった。 「とにかく、強いんです」         □  戦争前、まだNHKといわなかった時代の東京放送局に、松内則三《まつうちのりぞう》という名アナウンサーがいた。  野球や相撲の中継放送がうまく、「早慶戦」「朝潮・武蔵山」というレコードが、ポリドールから売り出されたほどだ。  さしつかえがあるといけないので、野球は五対五の引き分け、相撲のほうも痛み分けになっていた。  松内アナは、「夕闇せまる神宮球場に、カラスが三羽」という描写で知られている。実際に飛んでいなかったという説もあるが、カラスは外苑に、いるにはいるのである。  川柳もうまく、「右左伝令が飛ぶ急なこと」といったり、早大の捕手の伊丹安広さんが三振した時、「キャプテンがいたみ入りやの三度ぶり」といったり、なかなか立たない若葉山の時、「若葉山紅葉のころに立ち上り」といったりした。  正月、大変いい声で鳴くというウグイスを、わざわざ借りて来て、「ホーホケキョ」という声を放送しようということになった。  スタジオに籠を持ちこみ、待っていたのだが、環境が変わったのにおびえたのか、ウグイスは、なかなか鳴かない。  全国中継なので、松内アナは、ハラハラした。長い長い空白の間があったが、さんざん気を持たせた揚句、やっとひと声、「ホーホケキョ」と鳴いた。  思わずアナウンサーがさけんだ。「価千金《あたいせんきん》! 初音《はつね》の一声」  歌舞伎の外題《げだい》のようである。         □  RKB毎日に、仕事で行っている時、最近婚約したばかりの女性アナウンサーがいて、会食した。そのアナウンサーは、午後九時に天気予報を読まなければならないので、中座することになった。 「おしあわせに」というと、 「明日も明後日も、晴、晴、晴」         □  戦後のアナウンサーでは、和田|信賢《しんけん》といううまい人がいた。「話の泉」の司会者として知られ、のちに、ヘルシンキで行われるオリンピックの中継放送のために渡欧、病を得て、異国で死んだ。  その和田アナが、まだ元気な声で、現地から送って来た言葉がいい。「街角に立って見ていますと、こちらには、トランプのキングやクイーンみたいな人が、大ぜい歩いております」         □  NHKの野瀬アナウンサーが、国技館から中継放送をしている時、解説の玉の海さんに、大内山という力士の足が大きいという話をすると、玉の海さんがいった。 「そうそう、あの人の靴の中で、ネコが九匹子を生んだ位ですよ」  山川静夫さんに聞いた。  この山川さんが司会をしている番組に、京塚昌子さんと佐良直美さんが出演して、デュエットで歌った。  本番の放映中だったが、山川アナウンサーが思わずいってしまった。 「使用前、使用後という感じですねえ」  ふとった人をからかったというので、投書で叱られたそうである。         □  山川静夫アナウンサーが、地方局にいて、マージャンをした直後に、天気予報を読むことになったが、思わず「トンナンの風」といってしまった。         □  NHKの効果マンの岩淵東洋男さんが、内幸町の建物に指導に来ていたアメリカ人と、同じエレベーターに乗って、うっかり足を踏んでしまった。  何といって詫びていいかわからないので、とりあえず「サンキュー」といったそうだ。         □  野球の中継は、原則として、ナマ放送である。だから、時々、ハプニングがある。  NHKラジオが、プロ野球の中継をしていた。  或る打者がボックスに立って、バットを振ったら、ファウルチップになって、球が捕手の股間に飛びこみ、その選手はバッタリ倒れて、七転八倒の苦しみだ。  当然タイムである。監督やコーチが駆け寄って、のぞきこんでいる。その時のアナウンサーは、経験の浅い新人だった。  職責上、この出来事を正確に伝えようと思ったが、どういっていいかわからない。「急所」もおかしいし、もっと露骨な表現は、もちろんタブーである。 「痛そうです、苦しんでいます」といって絶句、冷汗を流していると、解説者の小西得郎さんが、しずかにいった。「女の人には、わからない、痛さですねえ」         □  飛田|穂洲《すいしゆう》さんは、学生野球の草分けである。朝日新聞に書いた「甲子園の浜風心して吹け」という一句は、伝説的に記憶されている。  その飛田さんが、いった。 「ぼくの学生野球は、妄執《もうしゆう》でね、芭蕉にとっての俳句のようなものなんです」         □  南海ホークスの中堅手の広瀬|叔功《よしのり》選手は、盗塁の名手といわれた。まだ阪急の福本選手がいないころだった。読売ジャイアンツに柴田勲選手が入団して、広瀬以上に足が速いというように宣伝された。  たまたま六本木の「ノム」で、広瀬選手に会ったので、「柴田ってそんなに早いんですか」というと、すぐ答えた。 「もっと速い人が、いくらもいるようですよ」         □  中日ドラゴンズのマーシャル選手が、巨人戦に出ている日、名古屋の球場に、マーシャルの夫人と男の子が見に来ていた。  男の子が、はしゃいで、ダッグアウトの上で、はねまわった。  負けていたので、巨人ファンは、機嫌が悪い。大声で、どなった。 「うるさいぞ、コマーシャル」         □  苅田久徳さんは、昭和初年に法政大学にいた名ショートだった。  苅田さんの全盛の時、打者が打つと、球の来るところに、すぐ行けたので、正面から捕ることができた。  まちがいなく、そのポジションを守った苅田さんに、観衆が馴れて、あまり拍手もおこらなかった。  やがて、苅田さんの力がすこし衰え、球にかろうじて追いつくようになった。  すると、大きな拍手がおこるのだ。つまり、それがファイン・プレーに見えるのだ。  いつか、後楽園の記者席で、巨人大洋戦を見たことがある。  三対一で、投手もいいので、ほぼ巨人の勝と思い、八回のおわりごろに、苅田さんは隣の席で観戦記をほとんど書き上げていた。  ところが九回の表に、投手がにわかに崩れて満塁になり、次の打者の打球が左翼のスタンドに飛びこんだ。  何ともいえない苦い顔をして、苅田さんはぼくをチラッと見ると、独り言をいった。 「だから、もうすこし待とうと思ったんだ」         □  初代貴乃花(のちの藤島親方)の実兄二子山親方が、若乃花という横綱だったのは、ことわるまでもない。  その若乃花が力士をやめるという噂が、しきりに流れたが、相撲協会も当人も、否定していた。  民放のアナウンサーが、デンスケ(携帯録音機)を持って、横綱の家に行き、一問一答した。遠まわしに、「いつごろまで、相撲をとるおつもりですか」と訊くと、「体力の続く限り」と答えたりして、すこぶる要領をえない。  その時、奥から、横綱の長女で、当時まだ幼かった女の子が、出て来て、だまって立っていたが、急にお父さんの頭を指していった。 「コノヒト、インタイスルヨ」         □  力士で思い出した。  双葉山(のちの時津風親方)が、戦争中に、六代目菊五郎を訪ねたら、そのころどこにもなかったスコッチが出て来た。  双葉山は、うまそうにグラスで、ストレートにして飲み、「ああ、おいしい。きょうは、優勝旗を貰《もら》った時よりもうれしい」といった。  小泉信三さんの二女のタエさんは、この双葉山が大好きだった。  一度土俵を見たいと、お父さんにせがんで、はじめて国技館に連れて行ってもらったが、その日、六十九連勝をしていた双葉山が、安芸ノ海に負けた。  双葉山よりもうすこし前の時代だが、松内アナウンサーと別に、栗島|狭衣《さごろも》という相撲評論家が、中継放送をしたのを聞いた。  栗島さんは、往年の松竹蒲田の大スター栗島すみ子さんの実父である。アナウンサーとちがって、講談のような口調で、しゃべった。 「さアいよいよ立つ、いよいよ立ちます。ああ、立たない」というような放送だった。  昭和四十年に、大相撲がモスクワに行ったことがある。ミコヤン外相の歓迎の挨拶が、おかしい。 「あなたがたは、裸の大使です」  昭和四十八年には、中華人民共和国にも、大相撲が行っている。横綱が琴桜と北の富士だった。桜と富士だから、いかにも日本から行った感じがある。  場内のアナウンスが、出場する力士の四股名《しこな》を一々告げるのは日本と同じだが、中国では、当然中国読みにする。  北の富士はペプシだった。以後、この横綱がコカコーラを飲まなくなったというのは、フィクションであろう。         □  土佐の人は、酒好きが多いという。 「ショウショウのめます」というのは、二升のことだと、高知で聞いた。  しかし、力士の酒量は、もっとすごい。  ある力士が十両になった時、客に招かれて、どの位のむのかと訊かれたので、 「一升は飲めます」といったら、先輩に叱られた。 「二升までは、なめますといえ」         □  フランスの名女優サラ・ベルナールに、名優になる秘訣を尋ねたジャーナリストがいる。  ニッコリ笑って、 「熱心と、そして、野心」   ㈿  コナン・ドイルが、パリで馬車に乗って、ホテルに行き、降りる時チップを渡すと、御者が、「ドイルさん、ありがとうございます」といったので、おどろいて、「どうしてわかったのだ」と訊くと、ニッコリ笑って、 「何でもないことです。まずあなたが、ニースからパリに来ると新聞に出てました。あなたは見ただけで、イギリス人とわかります。それから髪の形も、ニースの床屋の刈り方ですし」というので、舌をまいて、シャーロック・ホームズ以上だと思っていると、「そうそう、それに、鞄《かばん》に名札がついています」 「小説新潮」のカラー・ページで読んだあと、タクシーを馬車に直して、人に話すと、かならず受ける。  コナン・ドイルだから、おもしろいのである。むろん、創作であろう。しかし、名探偵の推理のパターンをみごとにマスターしている。         □  昔のムーラン・ルージュの脚本に、「世界文学全集」というのがあった。  まず「シャーロック・ホームズ」。  窓があって寝台がある。名探偵がそこに来て、巻き尺であちこち寸法をはかり、「犯人は、ここからはいったにちがいない」とひとり、うなずく。  そこに、アパートの管理人が来て、「旦那、現場はもう一階上なんですがねえ」 「椿姫」というのが、傑作である。  ヒロインの所に、父親が来て、息子と別れてくれと、懇々とたのむ。  うなずいたマルグリットが、サーッとカーテンを引くと、若い男の写真が額に入れて七つほど、壁にかけてある。 「お父様、お宅の坊ちゃん、この中の誰?」というのである。         □  ムーラン・ルージュの寸劇には、こういうのもあった。  幕があくと、キリストの扮装をした俳優が、十字架を背負って出て来る。キリストは、よろめきながら歩く。  別の男が出て来て、おどろいていう。 「おお、あなたは、キリスト様では、ありませんか」  キリストが答える。「イエス」  おしまい。         □ 「プラーゲ旋風」というのは、舞台の真ん中で、楽隊が西洋の曲を演奏している。  下手《しもて》から、プラーゲらしき人物があらわれ、その前を通る時、楽隊は身ぶりだけして、音を出さない。プラーゲが通りすぎると、また音楽がはじまるのである。  プラーゲとは、国際音楽著作権なるものの存在を、日本に教えに来た人物である。         □  NHKのラジオで、架空実況放送という番組を作って、時々放送していた。台本は、おもに西沢実さんが書いた。  昔の事件を、現場で見て、中継しているように、アナウンサーがしゃべるわけである。  関ヶ原の合戦の架空実況放送の時、局に電話がかかって来た。 「これは当時の録音を使っているんですか」         □  山水《やまみず》女学校で国語の教師をしていた時に、「すだれ」の語源という話をした。  ほんとうは「垂《た》れ簾《す》」なのが「すだれ」になった。こういう例はまだ、「下うず」が「くつ下」になったように、いくらでもあると話し、「消しゴム」が「ゴム消し」になったのも同じだと説明した。  すると、うしろのほうの生徒が、手をあげて、「もうひとつあります」 「何だね」 「カレーライスとライスカレー」         □  その女学校で、入学試験の口頭試問を、手伝ったことがある。  一人ずつ名前を呼ぶと、はいって来る。  見ただけで、おしゃまという感じの女の子が、しなを作りながら、前に来て、腰をかける時に、「はじめまして」といった。  別の女の子だが、こういう質問をした。 「あなたは何か、スポーツをしてますか」 「駆けるのが好きです」 「しじゅう駆けるの?」 「はい、雨が降らなければ」 「きのうはお天気でしたね、きのうも駆けましたか」 「いえ、きのうは、外に出ませんでした。家にいました」 「何をしていたんですか」 「口頭試問の練習をしてました」         □  子供のおもしろい言動というのが、いろいろある。 「あの男、三十になるってのに、まだ女を知らないんだ」というのを聞いて、 「パパ、どうして? ぼくだって、女なら知っているよ」  国技館で、腰の肉がたるんで、ぶるんぶるんとしている力士が、土俵に上るのを見ていた男の子、 「ぼく、カスタード・プリンが、食べたくなったよ」  産院にはいっている母親が、無事に出産したという電話がかかり、父親が、祖母に、 「二人とも、元気のようです」  と報告したら、 「わア、ふた子なの」  自動ドアの前に立った男の子が、大きな声で、「ひらけ、胡麻《ごま》」と叫んだ。  歌右衛門さんの政岡が、「先代萩」御殿の幕切れに、千松の死体のそばに近寄ると、子役がごく低い声で、CMソングを歌っていたという。         □  或るデパートの刃物売場で、ハサミを買おうとした客が、「よく切れるのかな」というと、店員が、「おつかいようで」といって、ひどく叱られた。  あとで訊くと、昔からある諺を、全く知らなかったという。  もっとも、なまじ知っているつもりで、ちがった意味で使われては、困る諺がある。 「先生、ぼくたちの同窓会に、ぜひご出席下さい。枯木も山の賑わいです」といった卒業生がある。  池田弥三郎さんの所に、暑中見舞の葉書が来た。帰省している学生である。 「先生の御健康を、草葉のかげから、祈っております」  しばらく劇界を離れていた人が、演劇の世界に帰って来た。挨拶状をもらったあとで、表で会ったので、声をかけると、 「やっぱり、蛙《かえる》の子は蛙です」  という。どうもわからない。よく考えると、「川だちは川で果てる」のつもりだったらしい。  ある新劇俳優が、自分より若い俳優を、激励しようと思った。そして、 「君は実際、うどの大木だよ」  これは、「栴檀《せんだん》は双葉よりかんばし」の誤りである。  徳川夢声さんが、講演をたのまれて、壇上に立ち、「この頃はネコもシャクシも」といって絶句した。場所は検番で、聴衆は、新橋の芸者衆であった。         □  力士が野球をして、ノーダウン・フルベースになったら、「無死満員」だと喜んだ。「満員御礼」から来ているのだろう。  むかし、大学生の客が、吉原に登楼した。おいらんが、帽子をしみじみ眺めながら、こういった。 「あなた、いつ、大学を廃業なさるの」         □  戦争直後に、どういうわけか、今だにわからないのだが、裏千家の近所の、庭の美しい料理屋で、はじめからおわりまで砂糖で出来ている会席料理があって、「幕間《まくあい》」の関|逸雄《いつお》社長に案内された。  突き出しも甘味、汁は汁粉、魚は餡で出来ているといった調子で、いく皿も出て来るうちに、食べられなくなってしまった。  この献立で、いちばん恐れ入ったのは、最後にすまして、もう一度汁粉が、「食後の甘味」として、出て来たことである。  そのころ、米を自分で持って行かなければ、食事はできないということになっていて、しかしじつは、料理屋のほうで炊いた飯が、料理のあとに出た。  これがアルマイトの組み立ての弁当箱にはいって、食卓に供される。  御飯だけ、客が持って来たという建前を示しているわけだが、弁当箱が全部、お揃いで、それぞれに、料理屋の名前が、はいっていた。         □  英語で、酒のことを、スピリッツともいう。  空港の税関で、「ハヴ・ユー・スピリッツ?」と訊かれた日本人、胸を張って、「ヤマトダマシイ」  コーヒーが来て、ボーイがミルクを出すと「アイ・アム・ブラック」といった人がいるそうだ。         □  加藤守雄さんが、バスで代官山を通ると、DATE HOTEL という看板が出ているので、何ぼ何でも、デート・ホテルは露骨すぎると思ったが、よく考えると、伊達《だて》邸跡の伊達ホテルだった。         □  村松英子さんから聞いた話。  米軍のキャンプの食堂に、アルバイトで行っていた学生がある。愛想がいいので、みんなから可愛がられていた。  ことに、代金を受けとる時の声が大きくて、明るいのだ。  そのキャンプの中で、いちばんえらい米軍の大佐が、夫人をつれてその食堂に来た。  もちろん、その青年は、はりきってサービスした。  翌日、彼はクビになった。  食堂の主任が、大佐に理由を尋ねたら、 「あの若者は、失礼だ。うちのワイフに、マイ・ダーリンと呼びかけた」といった。  学生は、「毎度ありイ」といったのだ。         □  これも村松さんの話。  若い女性が働いている職場があって、その娘がいい感じなので、ボスが結婚させようと思った。  電話でその話をしているボスが、「とにかく、その子は、ヴァージンだし」というと、聞き耳を立てていた娘が、憤然として、さけんだ。 「わたし、日本人です」         □  おなじ村松英子さんの知っている女性で、日本人と結婚したスウェーデン人がいる。  日本語はかなり話せるが、漢語の単語がわからない。  それで、言葉を分解して、記憶するのだそうだ。 「リトル・ゲスト・ファイアプレース」とおぼえて、これが、焼却炉。小・客・炉なのである。         □  立川談志さんの結婚の時に、古今亭志ん生が、挨拶に立って、「きょうは、くやしいほど、いい天気で」  中村勘三郎さんの二女の千代枝さんが、八代目沢村宗十郎さんの二男の精四郎《きよしろう》(いまの藤十郎)さんと結婚して、披露がホテルオークラで行われた時、橘家円蔵さんが、祝辞をのべた。 「きょうの御縁組は、新宿のようでございます。中村屋と紀伊国屋が向かい合っております」  この円蔵師匠は、シャレがうまい。いつか、「お宅は」と尋ねたら、「芝|明舟町《あけふねちよう》」というから、「いい所ですね」というと、「だって、橘家ですもの」  念のためにいうと、橘屋十五代目市村羽左衛門の家が、明舟町にあったのだ。  結婚披露で、媒酌人の新夫婦紹介の時に、或る人がうっかり、いいまちがえをした。 「新婦は、ピアノにまことに堪能で、玄人《くろうと》はだかでございます」  和達清夫さんが、気象台長をしていた時、結婚披露のスピーチで、「新郎新婦が明日いらっしゃる箱根は、予報では、日本晴れです」         □  京都の演劇雑誌「幕間」が、とうとう、やめることになった。  やめる位だから、社運は傾いている。しかし、最後の号だけは立派なものにしたいと思って、今までの寄稿者に、「原稿料が今度はさしあげられませんが、何か書いて下さいませんか」とたのんだ。  長年、書いて来た三宅周太郎さん、山本修二さんはじめ、大ぜいの評論家や俳優が、こころよく筆をとり、談話をした。  めったにない、贅沢《ぜいたく》な目次になった。  社長の関逸雄さんが、ぼくにいった。 「雑誌を、やめるのが、いやになりましたよ」         □  日本演劇社にいたころ、某出版社から、電話がかかった。 「すみませんが、鶴屋南北先生の電話番号を教えて下さい」  代議士がミュンヘンで、これからゲーテの家を見に行くといわれて、 「あらかじめ、ゲーテさんに、ことわっておいたほうが、よくないかね」  ローマのコロシアムを見て、「イタリアは復興が遅れている」といった人では、ないらしい。         □  常陸山という横綱がいて、名力士だった。ひいきにしてくれる政治家の宴席に招かれると、一筆|揮毫《きごう》してやろうといわれた。筆と紙が運ばれて来て、雄々しい文字で、 「力抜山 気蓋世」(力、山を抜き、気、世を蓋《おお》う)  と書き、「これをあげよう」といわれた。  常陸山は、じっと見ていたが、うれしそうな顔をしない。 「これは楚の覇王といわれた項羽が、垓下《がいか》で作った有名な詩のはじめの六字だ」と説明されたが、ニコリともしない。 「気に入らんのか」 「先生、力抜け山は困ります」         □  文字といえば、こんな話も聞いた。  東郷平八郎元帥の墨跡というのを、いろいろな所で見るが、ほとんどが、日本海海戦の時のあの信号の文字である。  元帥に、「揮毫をお願いします」というと、「また皇国の興廃を書くのかな」といったそうである。  それと同じような話だが、俳人の内藤鳴雪に、「先生の句をお願いします」と色紙を出すと、「一系の天子かね」といった。 「元日や一系の天子不二の山」というのが、鳴雪のいちばん有名な作なのである。         □  洋服を嫌いな人というのがいる。それには理由がある。  岡鬼太郎さんのは、 「人間の手足がむきだしにわかって、あさましい」  室生犀星さんのは、 「用をたすたんびに、ズボンに手垢がつくじゃないか」         □  牛島肇という友人がいた。電話が石島とよく聞きちがえられるので、「牛若丸の牛です」といつもいう。ある時、そういったら、 「ああ、牛鍋のギュウですね」  素子という女性が、「味の素の素」といったら、「毒素の素かね」といわれたという話もある。  孝子というひとを二人知っているが、「私のタカコは、親不孝の孝です」と、二人ともいう。  赤坂で料亭を開業している山上磨智子さんは、「マチコのマは、歯磨の磨きです」といった。         □  観光バスには、ガイドが乗っている。  そのガイドの帽子が、航空会社のスチュワーデスのとよく似ているのは、意味があるのだろう。  ガイドがバスの沿線の名所について説明するのを聞いて、いろんなことをおぼえる得もあるが、あまりうまくないシャレをいうのは閉口だ。  この案内の文句は、会社の幹部がつくったり、時には郷土史家や、学校の先生にたのんで書いてもらったりするので、その台本を、シナリオという。  時々、沢山のバス会社のガイドの合同コンテストが催されて、入選者がテレビに出て来ることがある。  いつぞや、下田までゆくバスの行きのガイドが、「デコボコ道なので、ご迷惑をかけます」といった。いい挨拶だと思った。  しかし、帰りのガイドは、もっとよかった。 「みな様、この辺は伊豆名物、えくぼ道路と申します」         □  たった一句だが、おもしろい言葉がある。  それをいった人の顔まで見えるようなのを、並べてみよう。  菊池寛「文才のある文学青年ほど、困ったものはない」  木村伊兵衛「美人を撮る時は、いつも、惚れちゃうんですよ」  藤田嗣治「きれいなネコより、私は、汚いみじめなネコが好きです」  高浜虚子「選句は、選者の創作です」  名医真鍋嘉一郎「一病は長生の基」  吉川英治「大衆は大智」  初代中村吉右衛門「小唄は、私の独り言でございます」  小林一三「金を儲けたという実感がないんです」  武者小路実篤「雑誌にたのまれたら書く。ことわるより書くほうが早い」         □  巨匠大家というものは、淡々としている。  武者小路実篤さんが、いつか、こんな話をしたそうだ。 「ぼくは、書く前に、何にも考えないし、書いたトタンに、忘れてしまうんだよ」  山田耕筰さんが、音楽記者にしみじみ述懐《じゆつかい》した。 「いい歌だなと思って聞いていたら、君ねエ、それは、ぼくの曲だったんだよ」  舞台装置の伊藤熹朔さんと、新橋演舞場の横を歩いていると、ちょうどその日が千秋楽で、大道具《おおどうぐ》の張り物を、トラックに積みこんでいる。それは、伊藤さんのプランによる装置が、解体されているところだった。  伊藤さんは、しばらく黙っていたが、ポツンとつぶやいた。 「大道具って、二十五日たつと、ちゃんとこわれるように、できてやがる」  松竹の大谷竹次郎さんが、劇場の廊下を歩いている時に、劇評家や新聞記者に会うと、「こんにちは」とも、「おはよう」ともいわなかった。  いう挨拶は、つねに、たったひとつである。「とにかく、褒《ほ》めてください」  劇評家の大先輩である三宅周太郎さんが、こんなことをいった。 「あの芝居はひどかった。居ねむりも、できませんでしたよ」  三宅さんの親友で、水木京太さんという劇作家がいた。七尾伶子さんのお父さんだ。  或る時期、朝日新聞の劇評を担当して、劇場をまわっていた。その時、たまたま会うと、水木さんは、しげしげぼくの顔を見ながらいった。 「芝居を見て帰ると、ひどくくたびれる。スレてないので、どうしても疲れるんでしょうね」         □  ロイド・ジョージが、クレメント・アトリーに、ウィンストン・チャーチルを評していった言葉というのを、つい先日教わった。三人とも英国の宰相の地位についた人だから、贅沢な挿話だ。 「チャーチルは、一つの事について、解決策をいつでも六つは持っている。そのうちの二つは正しいのだが、惜しいことに、どれが正しいのか、自分でわからないのだ」         □  ウィンストン・チャーチルがいった言葉で、うれしくなるのは、 「世界中の赤ん坊は、みんな私のような顔をしている」  というのである。フランクリン・ルーズヴェルトの言葉で、 「野球でおもしろいのは、七対六という試合だ」  ヤルタに飛ぶ時、記者団に、「どこへ行くんです」といわれたら、「シャングリラ」と答えている。「失われた地平線」に出て来る架空の地名である。  先年フォードが、アメリカの大統領になった時、 「フォードですが、リンカーンのように、一生けんめい仕事をします」  といったのも、うまい。         □  慶応にいた時、喫茶店で、友人と「シルヴェストル・ボナールの罪」を読んだという話をしていると、そばにいた福田元次郎という、ひたすら歌舞伎の好きな友人が、「作者は誰」と、突然訊いた。 「アナトール・フランス」 「どこの国の作者?」 「フランスさ」と答えると、待ちうけていたように、いった。 「つまり、日本駄右衛門だね」  ところで、エドワード・ロッドというスイスの文学者は、「スイスのアナトール・フランス」といわれた。  エドワード・ロッドのことを聞いたアナトール・フランスがいった。 「それなら、アナトール・スイスじゃないか」         □  丸谷才一さんの本で教わったのだが、婦人雑誌の口絵にのっている料理の写真は、そういうものばかり撮る専門のカメラマンが写すことになっているのだそうだ。  もし、普通のカメラマンが写したあと、その料理を食べると味がよくないという話を、レストランのチーフから聞いて、プレイボーイに話したら、 「ファッション・モデルも、仕事のあった日は、味が落ちる」         □  萩原|蘿月《らげつ》という宗匠に、慶応で俳諧史を教わった。  酒びたりの人で、教壇に、酒のはいった魔法瓶を持って上ったという伝説がある。  俳諧史の単位をとりそこなった友人にたのまれて、大塚の家まで行った。  玄関に立って、「先生、いらっしゃいますか」というと、夫人が出て来て、 「角の酒屋さんの二階で、寝ています」         □  下谷の根岸に、御行《おぎよう》の松というのがある。  おどりの「雨舎《あまやど》り」、岡本綺堂の「相馬の金さん」の舞台にもなっている。  戦争前に、老木が大変弱って、今にも枯れそうなので、町内の人たちが醵金して、植えかえようということになった。  それで、枝ぶりのいい松をさがし、某月某日トラックにのせて、根岸まで来た。  トラックが真っ正面に止まった時、老木は、音も立てずに、倒れた。         □  岡本綺堂に、「おさだの仇討」という脚本がある。  昭和十一年に、阿部定の事件がおこり、おさだの話で持ち切りになったのを見て、松竹が、この芝居を上演したら、きっと当るだろうと思った。  東京劇場で、三代目中村時蔵主演ときまり、ポスターを出すと、警視庁から差し止められ、「品川の仇討」と改題して、舞台にのせた。  残念ながら、宣伝効果はなかった。         □  和田金《わだきん》という伊勢松阪の肉屋は、丹精して牛を育てている。  ある日、一頭の牛が食べ残した。  和田金の主人は、残したその飼料を、食べてみたそうである。  この話、荻昌弘さんに教わった。         □  戦争中に、学童疎開で、小学生が地方に、集団で移動させられた。  子供たちを訪ねて、東京から父兄が行きたがるのを、往復の乗物の混雑や空襲の危険を考えて、学校のほうでは禁じることになった。  しかし、それにもかかわらず、内緒《ないしよ》で、子供の所に出かけて行った母親がいる。  信州の山の温泉旅館の裏山からまわって近づいて来た母親を見つけた子供が、喜んで部屋を飛び出して、外に出た。  先生が呼びとめると、「でも、お母さんが、そこに来ているんです」という。 「お母さんが、止められているのに、来るはずはない。それは、お母さんではなくて、山の狐が化けたのだろう」と、大きな声で、向こうにも聞こえるようにいうのが、耳にはいったのだろう。  母親がひと声「コン」といった。         □  近衛文麿公と話している人が、陽明文庫にこういう本があるかと尋ねると、「あれは戦争で焼けました」といった。 「それは惜しい、疎開なさらなかったんですか」 「いいや、応仁《おうにん》の乱の時ですよ」  徳川|義親《よしちか》さんと話す機会があったので、「名古屋の徳川美術館に、なぜ出雲の阿国の草子があるんですか」と質問すると、 「あれは大阪から来たものですよ」 「大阪のどこの美術館にあったんでしょうか」 「いいえ、大坂の落城の時に、持って来たんです」         □  ふしぎなまわり合わせというものがある。  日生劇場と東京宝塚劇場は、有楽町にあって隣接しているのだが、日生で、劇団雲が「じゃじゃ馬馴らし」を上演している時、東宝のほうは、「キス・ミー・ケート」を上演していた。  シェークスピアのその作品の、ミュージカル化である。  日生で、劇団四季が「ひばり」を上演している時、東宝に美空ひばり一座が出ていた。  知らずに、美空を見るつもりで日生のほうにはいってしまった老夫婦が、ジャンヌ・ダルクに扮した藤野節子さんを見て、 「変われば変わるものだなア」         □ 「赤と黒」は、いうまでもなく、スタンダールの名作だが、題名は、赤が軍人、黒が僧侶を意味するといわれる。(フランスでは、ルージュ・エ・ノワールを略して、単にルージュという)  赤と黒を対照させる趣向は、しかし、江戸時代にもあった。「どんつく」という常磐津のおどりに、「黒々だんべい」「赤々だんべい」というのがあって、 [#この行2字下げ]派手を見しらす鯨帯、雲の稲妻、光る朱鞘に黒伊達羽織、またも目に立つ黒助稲荷の赤い鳥居が、すぽぽん花火の真の闇、熊に金時、日の出に馬、赤と黒との色くらべ  という歌詞がある。  寺山修司さんが、こう書いていた。   〈赤と黒〉安いジョニー・ウォーカーと高いジョニー・ウォーカー         □  筒井康隆さんの「乱調文学大辞典」を見たら、  ○岩波書店 「星の王子さま」以外にSFを出したことのない一流出版社  ○ピーター・パン 子供の三角関係(ピーターとウェンディとティンカー・ベル)を描いた小説  とあった。         □  大阪では、日本橋をニッポンバシという。日本橋一丁目にあった薬屋が、「日本一のクスリ屋」という看板を出した。町名の通称をうまく使ったわけだ。  すると、少し先の薬屋が、「世界一のクスリ屋」という看板を出した。 「日本一」のほうは、しばらく経つと、こう書き直した。 「町内一のクスリ屋」         □  舞台稽古を見ていると、舞台で母親が玄関の戸をしめる時、じつにいい間《ま》で、汽車の汽笛が、二回鳴った。  そばに効果を担当した青年がいたので、「汽笛二声ですね」と、シャレのつもりでいったら、大まじめに、 「はい、二つ入れました」         □  大陸で戦争がはじまったばかりのころ、慰問袋が前線に送られると、中にはいっているチョコレートの包み紙のマークを二十集めると何、五十集めると何といったふうに、景品と引きかえになるのを、一兵士が知った。  桐生にいる自分の子供のために、その兵士は、部隊の仲間にたのんで、包み紙を貰い、それを明治製菓の本社に送って来た。  この話を聞いた朝日新聞が、父性愛の美談として記事にし、見出しを、「チョコレートと兵隊」とした。  火野葦平さんの「麦と兵隊」を、もじったわけである。  さっそく、東宝がこの話を映画にすることになり、桐生にロケーションに行った。  その兵士の息子は、眉目秀麗な少年であった。映画に出る少年俳優よりも美しかった。  ロケについて行った映画記者が、まちがえて、子役でない少年をとりまいて、インタビューをはじめた。  宣伝部員だったぼくは、某日、「チョコレートと兵隊」のフィルムを持って、下田の海軍病院に慰問に行った。  映画がおわると、院長が、患者たちのまだいる時に、挨拶した。 「本日は森永製菓の方々の御好意で」とはじまったから、舞台に飛び上って、「明治製菓です」というと、 「もとい、明治製菓の方々の……」         □  学生の頃に、アメリカから球団が来て、グローヴという投手の球が、見えないほど速かった。  スモーク・ボールといわれた球である。  戦後、まずシールズという球団が来た時、友人をさそって見にゆき、ゆくみちで、スモーク・ボールの話をして聞かせた。  後楽園球場に着くと、シート・ノックの直後で、アメリカの選手たちが、ショーとして、球がないのに、打ち、拾い、一塁に投げ、内野をひとまわりする動作を見せていた。  いわゆるシャドーというのである。  友人が、感に堪えていった。 「すごいねえ、内野手でも、見えないほど球速があるんだなア」         □  ある俳人が、ある時あわてて、家を出る時、左の足に、普通のヒモのついた靴、右の足に、ヒモのないスリップオンという靴を履いて出かけてしまった。  駅まで来て気がついたので、電話をかけて、奥さんに届けてもらった。  その人が、銀座の酒場でその話をした時、左右に美しいホステスがはべっていた。  Aは何となくのんびりした、ねむそうな女性、Bは頭の切れそうな、油断のならない女性だった。  客の失敗談を聞いて、まずAが、尋ねた。 「奥さん、二つ持って来て、二つ持ち帰ったんですね。大変ねえ」  次にBが、質問した。 「先生の右にいる私と、左にいるノリちゃんと、どっちにヒモがついていると思います?」         □  酒場で、みんなが、戦争中のことを話していた。あの頃、絶対に肌身離さないものが、誰にもあったはずだという話になり、そういうのは、職業上大切な品物じゃないか、ということになった。  洋服屋ならミシン、料理人なら包丁、植木屋ならハサミ、大工の道具箱といった話になった。  たまたまそこに、いつもむずかしい文字を使って文章を書く評論家Aさんと、義理堅くて、ちょっとでも知っている人の告別式には欠かさず顔を出すBさんがいた。  マダムがいった。 「Aさんは、漢和字典を持ち出したんじゃありませんか」 「マダム、Bさんは、何だと思う?」 「決まってるじゃないの。黒いネクタイ」 「マダムなら、何を持ち出すんだろう」 「昔はべつよ。今なら、ツケの帳面」         □  あるバーにはいった客が、その店の名前がよくわからないので、ホステスに尋ねた。 「モワティエって、どういう意味?」  じつは、「半分」というフランス語なのだが、そのホステスは知らなかった。 「何だ、君。自分のつとめている店の名前ぐらい、おぼえておけよ」というと、彼女は、ムッとしたらしく、 「しじゅう、店が変わるんですもの、一々おぼえていられやしないわ」         □  あるカウンター・バーに、漫才の夢路いとし、喜味こいしが、客に連れられてはいって来た。こういう人たちだから、当然、おもしろい話題があり、話術も抜群だ。  マダムが身をよじって笑い、涙をふきながらいった。「二人ともほんとにおもしろい方だわね。漫才でもなさったらどう?」         □  ぼくの行っていたバーの女あるじが、廃業して、小さな会社を開業した。  しばらくして、用事があったので、その会社に電話をした。  すると、前の店のバーテンをしていた青年の、耳になじんだ声が、電話に答えた。 「社長いますか」というと、「お待ち下さい」といい、大きな声で、 「ママさーん!」         □  あるパーティーに出席していると、十五、六人の座をとり持っている女性がいて、訊くと、それは花柳界の女性でも、バーのホステスでもなく、宴会に派遣されるバンケッターのクラブの一員だというのである。  会が終る時までいて、三人で帰ろうとすると、そういう女性のひとりが、 「ついて行ってもいいかしら」  という。  愛嬌のある、感じのいい女性だったので、三人が三人とも、「ぜひ来たまえ」と答え、タクシーで別の場所に飲みに行った。  その中の一人は、特に親切にしていたが、向こうもまんざらでもないという感じに見受けられた。  その男性を、酒場の廊下に立った彼女が、手招きしている。嬉しそうにいそいそ出て行ったが、戻って来てぼくに、つまらなそうにいった。 「いくら頂けますか、といってるんだ」  向こうは、つまり、ずっと働いていたのである。         □  仕事を手伝ってくれていた学生が、指に朱肉のついているのに気がつかず、ぼくの大切にしている本を手にしていて、その朱肉が、ページの角に、指紋まで残した。  ぼくが愉快な顔をしなかったので、気にした学生は、急に立ち上って外出した。  やがて帰って来て、べそをかくような表情でいった。 「朱肉が消えるインキ消しのようなものはないかって、文房具屋で尋ねました」 「何か、あったかい? いいものが」 「文房具屋の人がいいました。朱肉が簡単に消えるようだったら、社会の秩序が乱れますって」         □  小笹ずしの主人の寿平八郎さんは、まことに、めでたい姓だが、祝儀の時にも、不祝儀の時にも困るそうだ。  結婚の祝に、水引の上と下に、「寿」と書くわけにもいかない。  香典の時は、「ことぶき」と仮名で書くそうだ。  川喜多かしこさんは、仮死状態で生まれたので、こういう名前がついたといっている。  手紙のおわりの「かしこ」は、川喜多さんは、書きにくかろう。         □  花王石鹸の宣伝部の人に、昔会って話をしていた。 「なぜ、花王石鹸っていうんです」 「顔の石鹸ですよ」  事もなげに、答えた。         □  学生のころ、祖父の家に来て、草むしりをする老婆がいた。 「キクとイサム」という映画に出て来る北林谷栄さんの役の、渋紙色のあの老女とそっくりであった。  祖父や祖母が、「おしっちゃん」と呼んでいるので、「どういう字を書くの?」と直接尋ねたら、うらめしそうな顔をして、いった。 「八百屋お七のお七だよ」         □  ある座談会で、ある俳優が、急に腹を立てて、席を立ってしまった。  司会者が、あわてて追いかけて行ったら、ふり返って、 「速記の人にそういって下さい。中座《ちゆうざ》と書いて下さい」         □  茂野|吉之助《きちのすけ》さんは、古河系の実業家だったが、冬篝《とうこう》の号で、青木|月斗《げつと》の俳誌「同人」の投句家だった。  毒舌家で、歯切れのいい人だった。  友人の藤木|秀吉《ひできち》さんの家が、六甲にあって、裏山で松茸がとれる。  茂野さんを招いて、茸狩《きのこがり》をすることになったが、すこし賑やかにしたほうがいいので、八百屋で買った松茸を、ところどころに立てておいた。  ところが、藤木さんのお嬢さんが、それを手伝って、ついうっかり一本だけ、逆に置いてしまった。  つまり、笠が下になり、軸が上を向いているわけで、そんな生え方をするキノコは、世界中にない。  茂野さんは、目ざとくそれを見つけて、藤木さんにいった。 「お手植の松茸だな」         □  落語の「寝床」は、義太夫を聞かせたがる旦那の話だが、これは長唄である。  住友の小畑|忠良《ただよし》さんは、中村※[#「習+元」]右衛門の後援者で、この俳優が、北京から帰って、はじめて大阪に出演した時、見に行った日に会食する機会があった。  小畑さんは、長唄を習っていて、正月になると、社員に聞かせるのが、恒例である。自宅に招いて、小畑さんは、一段高いところで、師匠に弾いてもらって、曲を次々に歌っている。 「静かにしていれば、何をしながら聞いてくれてもいい、といったのですが、それでも何となく、一人減り二人減りで、とうとう四人だけ残りました」 「その四人は、だまって拝聴していたんですね」 「隅で、マージャンをしてました」         □  ソヴィエト連邦だから、今はソ連というが、帝政時代のロシアは、露西亜と一般に書いた。  ところで、日魯漁業だけは、日露と書かず、特別な字を使っている。  経済記者が、社長の平塚常次郎さんに、「なぜ魯という字を使うのですか」と尋ねたら、 「魚という字があるからですよ」         □  近藤日出造さんが、裏千家の先代家元夫人に会った時、「お茶はどこのが、いいのですか」と尋ねたら、 「東京の新橋のおすし屋で、大きな茶碗で飲むのが、いちばん、おいしゅうございます」         □  即席食品というのを、今はインスタントという。ラーメンがはじめだが、いろいろなものが開発されて、どこの家庭の台所にも、置いてある。 「ほんとうに、便利な世の中になったもんだね、ねエ、おばアちゃん」と若い奥さんが姑にいうと、苦い顔をして、 「こんなもの、昔からあったよ」 「まさか」 「懐中じるこ」         □  テレビで、デーゲームの野球を見ていると、ものすごい音がして、停電になった。  門を飛び出して見ると、うちのすぐそばの四つ角の電柱に、タクシーがぶつかり、そのショックで、電線が切れたのだった。  怪我《けが》はなかったのかと思って、様子を訊こうと近づいて行った。  そこへ、筋向こうの家から、ヒゲを生やした男が出て来て、叫んだ。 「テレビが見えなくなったじゃないか」         □  北京の東安市場《とうあんしじよう》の「和風」という日本料理屋に、先年招かれた。サシミや酢の物や味噌汁もある。びっくりしたことに、秋田の「爛漫」という酒が、燗をして、卓上に供された。 「日本から取り寄せているんですか」と通訳をしてくれている青年にいったら、 「ハイ天津から、陸揚げします」 「なるほど」 「テンシンランマンです」         □  中国から帰って来たジャーナリストが、話した。 「かえりに広州の動物園で、パンダを見て来ました。わざわざ檻から出してくれたんですよ。笹が山のようになっているところへ、四頭がノソノソ出て来て、その笹をとりかこむんです」 「可愛かったでしょうね」 「マージャンでも、はじめるように、向かい合っていましたっけ」         □  アメリカに、「勧進帳」の映画を持って行って見せたら、「この役人(冨樫左衛門《とがしのさえもん》)は、ずいぶん家来がいますね」といわれたそうだ。  番卒が三人と太刀持が一人しかいないのに、なぜそんなことをいったのかと思って、反問したら、うしろにいる長唄囃子連中が、全部家来だと思っていたのである。  同じアメリカ人がいった。 「あの役人は、サラリーをもらっているのに、自分の義務を果さなかった」         □  大分前だが、友人とタクシーに乗っていて、最近読んだ「文藝春秋」の或る読み物について話していた。 「文藝春秋」と、誌名をたしか二、三回いったと思う。  急に車のスピードがすこし落ちたので、どうしたのかと思ったら、運転手がふり返って、ニッコリしながらいった。 「私の友だちに、池島というのがいましてね、文藝春秋の社長なんです」         □  或る夜タクシーに乗ったら、メーターを倒すのを忘れていたのが、家の近くに来てからわかった。  無意識にしたエントツだった。 「いつも、いくら位です」 「五百円あげよう」 「いや五百三十円、それとも四百八十円にして下さい」 「なぜ」 「タクシーの料金には、ハンパがあるものですよ」         □  夜おそくタクシーを拾って、中原街道までゆくあいだ、問わず語りに、老年の運転手が、おしゃべりをする。  チャキチャキの東京弁で、巻き舌だ。 「若い時は、私も散々遊びましたよ。道楽の果に、こんなカゴ屋になりました」         □  小田島雄志さんは、毎日のように、東宝劇場の支配人である大河内豪さんと会っていた。仕事のあとで、寄る店が共通していたからだ。  週刊文春に、イーデス・ハンソンと小田島さんの対談がのった。 「毎日ぼくはシェークスピアと飲んでいる」という表現があった。  大河内さんがいった。 「ぼく、シェークスピアですか?」         □  日劇の地下の喫茶店でボヤを出した時、五階のミュージックホールでおどっていたダンサーは、消防車で救出された。  無事でよかったというので、翌日、劇場の全員で、乾杯した。 「さア、もう一軒ゆこう」といって支配人が立ち上ったら、踊り子たちが、異口同音《いくどうおん》にいった。 「ハシゴはもうこりごりしたわ」         □  日劇ミュージックホールのプロデューサーをしていて、若くして死んだ橋本壮輔さんが、脚本を書いた。  店員がはいって来て挨拶するところで、   毎度ありイ(|がとう《ヽヽヽ》を略す)  と書いてあった。  美人を意味する「別嬪」という字を「別浜」と誤記していたので、「女扁だよ」と注意すると、頭を掻きながら、「おれ、浜木綿子が好きだからなア」         □  矢野誠一さんに聞いた話。  矢野さんが、茅ヶ崎に住んでいたころ、いつも湘南線に乗っていた。  国鉄のいわゆる順法ストの時、夜おそい電車の中で、中年の紳士が、通りかかった車掌をつかまえて、ブツブツいい出した。 「君ね、朝の電車が遅れるのはいいよ。会社に着くのが遅れるだけだからね。だが、帰りの電車が遅れると、まことに迷惑する。家に帰って、くわしく事情を説明しなければならないじゃないか」  すると、初老の紳士が、この紳士に近づいていった。 「お宅も養子ですか?」 「うどんや」の「あなたも風邪《かぜ》ですか」と同じ口調で話したほうがいい。         □  これも矢野誠一さんから聞いた話。  古今亭志ん朝さんが、新幹線に乗っていた。「古今亭志ん朝さん、お電話がかかっています。九号車までおいで下さい」  立って通路を歩いて行くと、みんながジロジロ見る。  アナウンスの係に、「志ん朝はやめてくれ」とたのんだ。すると次の電話の時に、 「東京都の美濃部さん、お電話です」  志ん朝の本名は、美濃部|強次《きようじ》という。         □  誰がいったかわからない傑作というのがある。 「子はサンガーのミステーク」「ティッシュの好きな赤えぼし」といった、いろはがるたもじりも、おもしろい。 「胸に一物、手に荷物」も、おもしろい。  好きなのは、これである。 「青春と、貸したY本は二度と帰って来ない」         □ 「エビはロブスター、カキはオイスター、じゃア、シャコは?」という言葉遊びがある。 「シャコは、わからない」 「ガレージ」というのである。  これと同じようなのに、 「醤油《しようゆ》は野田、味醂《みりん》は流山《ながれやま》、酢は?」 「わからない」 「すわ鎌倉」というのだ。  ある人が、これを問いかけて、 「酢は?」 「さア」 「いざ鎌倉」といってしまった。         □  シャレの好きな筝曲の先生がいて、腰を打ったといって、三越劇場の廊下を、大儀そうに歩いていた。 「どうなさったんです」 「階段から落ちたんです」  というので、 「六段からですか」  といったら、 「ちょうど、足が千鳥でした」         □  小咄は、ひろめられてゆくあいだに成長するようだ。 「中国人と舟の中で会ったので、すしをすすめて、お生まれはどこですかと尋ねたら、四川省、パンダの生まれですと答えた」という話を作った。  ことわるのも野暮だが、三十石船の森の石松のパロディーである。  それを渡辺保さんに話したら、 「すしは笹巻きがいいでしょう」         □  推理小説の倒叙というのは、犯人がどういう犯罪をおかしたかをまず書き、その事件が、どんな風に解明されてゆくかを、順序立てて記述する手法である。「刑事コロンボ」が、それだ。  しかし本格の推理小説は、事件が発見され、作者が小出しに示す手がかりを、探偵が注意ぶかく見ながら、謎をといてゆくので、犯人は終りの章で、はじめて読者にわかるという構成になっている。  中には、最後の章をまず見ておいて読む、という悪趣味な読者もいるが、普通は、じっと最後まで辛抱して、犯人にたどりつくのである。  アメリカで夫が、妻の読んでいる途中で、犯人を教えたというのが理由で、離婚の訴訟が起されたという外電がある。  いちばん情ない話を聞いた。 「貸本屋で早川ミステリーを借りたら、扉の裏の人名表の或る個所に、鉛筆で、犯人と書いてあったんです」         □  やくざ映画で、いきなりビール瓶を叩き割り、それを武器にして喧嘩をする映画がある。  それを見た翌日、玄関のベルが鳴ったのであけると、両手に一本ずつビール瓶を持って酒屋が立っていた。  反射的に、身構えたそうだ。         □  タレントというのではなく、普通の人に、テレビやラジオでインタビューをした時、思いもかけない答がかえって来て、うれしくなることがある。  寝台をみごとにこしらえる職人が、テレビに出て、よく自分の作品が新婚夫婦への贈り物になるという話をした。 「それは、何よりのお祝いになりますね」  と、女のアナウンサーがいった。 「はい、汗をかいてこしらえたんですから、汗をかいて使用していただきたいものです」  これは戦前のラジオである。  長野県の柏原《かしわばら》に、俳人小林一茶直系の子孫がいるのがわかり、アナウンサーが訪問した。 「あなたも俳句をお作りになりますか」と質問されると、その小林さんは、長いあいだ黙っていた。そして、やっと、口を開いて、こう答えた。 「わしゃ俳句は作りません。そのかわり、田を作る」         □  花柳界では、おもいがけない珍談がある。  大阪の北の老妓が、パリにゆきたくなって、国鉄の駅の窓口に行って、「パリ三枚」といったそうだ。  地下鉄を、近いから「チカテツ」だと思った女性もいる。  これは、宮田重雄さんから聞いた話だが、ある料亭で、送別会があった。 「このたび、ご渡米になる山田さんにおかれては」と挨拶しているのを聞いた赤坂の老妓が、小声で、「ゴトべイって何ですか」と尋ねた。 「アメリカにゆくことさ」 「まア、アメリカが、ゴトベイですか」 「うん」 「では、フランスは?」 「ゴトフツ」 「じゃア、ドイツは、ドドイツね」  或る時、築地の料亭に、大学の先生が行った。  若い女の子が来て、から布巾《ぶきん》で、桐の火鉢をキュッキュッと音がするように拭いている。  つい声が出た。 「あなたは、癇性《かんしよう》だね」  ニッコリ笑って、その子が答えた。 「いいえ私、フカンショウです」         □  しょっちゅう火箸で炭を動かす癖のある人がいた。暖房が、電気あるいはガスになってしまった今日では、昔話である。  何しろ、「火いじりをすると、寝小便をする」と教えるほど、マナーとしてはよくないことになっていることなので、その人の奥さんが、火箸をとりあげてしまった。「碁どろ」のはなしに似ている。  その人は、火鉢の中のよくおこった炭を眺めながら、口の中で何かいっている。奥さんがそばへ寄って耳を澄ませたら、「あっちの炭をこっちへ、こっちの炭をあっちへ」  或る雑誌の座談会があって、或る料亭に行き、政界の古老に思い出話をしてもらっていると、その家の女将が、昔の政治家を知っているので、そばから口を出して、うるさくて仕方がない。  たまりかねて、司会者が、「おかみさん、しばらく黙っていて下さいませんか」といったら、ムッとした顔で、口をとじた。  また話がはじまると、おかみさん、しゃべりたくて仕方がない。  司会者がふとそっちを見ると、口だけ、パクパク動かしていた。         □  野坂昭如さんがCMに出て、「ソ、ソ、ソクラテスか、プラトンか」と歌っているのを見ていた老女が、 「気の毒だね、しゃべり方のうまくない人をテレビに出して」         □  親戚に男六人の兄弟がいて、全部卒業した学科がちがっていた。  その話を、明治中期に生まれた老人にしたら、「長男から順々にいって下さい」という。  なぜくわしく知りたいのかと思ったが、隠す必要もないから、「長男が医学士」といったら、手を胃の上にあてた。 「胃がくし」のつもりらしい。  法学士というと、頬を隠す。農学士というと、脳(頭)に手をやる。工学士というと、手の甲を隠す。  文学士といったら、口の端をブルンと鳴らして、手を当てた。  そのあとが理学士なので、どうするかと思ったら、左の手の甲に、片仮名でリと書いて、その上に右の手をのせた。         □  そば屋で、そんなに大きくない構えなのに、出入口が自動ドアになっている店がよくある。  何でわざわざ、こんな設備をするのかと尋ねてみたら、 「だって出前に行く時、便利です」  銀座のすし屋で、付け台に並んで食べている客の背中の上の方に、テレビが置いてある。 「これじゃ、見えないじゃないか」といったら、主人がすまして、 「握りながら職人が見るんです」         □  このごろ、ホームメード・クッキーと称する商品ができたが、正しい意味としては、自家製であろう。  ある家を落語家が訪問したら、夫人が菓子を出して、「ホームメードですの」という。 「ホームメードって何です」 「家で作るということで、宅では、マヨネーズでも、アイスクリームでも、みんなホームメードですの」と得意になる。  そこに、ヨチヨチ幼い女の子が出て来た。 「奥さん、このお子さんも、ホームメードですか」         □  銀座に街頭写真というのがあって、歩いていると、パチッと二眼レフのカメラで写し、名刺を渡す。  自分のスナップがほしければ、その名刺にのっている場所に注文するというシステムだった。  ある日、歩いていると、カメラを向けたから、反射的に立ち止ったら、向こうは、歩きながら、シャッターを切った。         □  ソバのツユのことを、このごろ、タレという人が多くなった。  玉川一郎さんにいわせると、「そんなことをいうのは、ばかタレである」         □  電話が夜中に鳴ると、うるさくて仕方がないという人がいて、電話局に苦情を訴えると、「音を小さくする設備もあります」といった。 「余計な費用がかかるのですね」 「そりゃ、仕方がありません」 「弱ったな」といっていると、相手は親切な人で、「何なら、座布団でくるんでおくと、音が聞こえません」という。  その人は、つい、こういう時に、冗談をいう癖があるので、 「その座布団の布は、何がいいでしょう」といったら、大まじめで、 「ツムギのが、いちばんいいようです」         □  おなじく、電話の話。  やはり夜中に電話がかかったりしては、迷惑だと思う人が、電話帳に名前をのせない隠し電話を引いた。  ところが、夜中にベルが鳴る。 「とんでもないことだ」と思ったが、反射的に送受器をとったら、酔っぱらいがまちがって、かけて来た電話だった。         □  田園調布に、築地小劇場に出演していた俳優の家があった。  むかし弟がその前を通って、「相撲が住んでいるんだね」というから見たら、「汐見洋」         □  甥の妻が、パリに行くというので、こことここだけは、ぜひ見たほうがいいと、リストを作って、渡した。  ルーヴル、凱旋門、サクレ・クール、ナポレオンの墓というふうに書いて、「ここは、ぼくもみんな見て来た」と話して聞かせた。  しばらくして帰って来ると、「伯父さまのいらした所、みんな参りました。ただ一カ所だけ行かない所があります」というから、「どこなの?」と尋ねたら、「男のトイレ」         □  男の便所に、汚さぬようにという注意書が、出ているのを時々見る。  三越の別館に所用があって行き、手洗に行くと、壁に、「遠方を汚さぬこと」という札が張ってある。  遠方まで汚す人がいるのかとびっくりして、三越の人に尋ねたら、この百貨店の隠語で、遠方というのは、便所のことだった。  ついでに書くと、三越では、食堂を喜左衛門という。最近、新館に「喜左衛門」という、客用の和食堂が出来たのは、おもしろい。 「そうじする人の心を考えて、心しずかに真ん中にせよ」という道歌《どうか》が書いてある便所があった。  帝国ホテルの近くの、コリドー街のメイツという音楽喫茶の男便所に、横文字の掲示が出ていた。  何だろうと思って近づいて読んだら、英語で、「君のは、君が考えているよりも、長くない」と書いてあった。 [#改ページ]   後  記  ぼくは歴史を読むのが好きだが、ことに、本の中に書かれている伝説的な話と、いろいろな人物に関する挿話に興味をひかれる。  西洋史に登場するジャンヌ・ダルク、マリー・アントワネット、ナポレオン一世、マリリン・モンローを戯曲に書いてみる気になったのも、これらの英雄あるいは美女が、伝説に富み、挿話を多く残しているからである。  日常、しじゅう人のうわさをするのも、一種の伝説作成で、或る友人から聞いたおもしろい経験談を、さっそく夜更けの酒場でうけ売りしたりすると、その話がまわりまわって、ふくらんで、データがいくぶん変わって、ぼくの所に戻って来ることが、珍しくない。  ゆきつけの店での飲み仲間と情報を交換するのは、その話題が他人の悪口や醜聞でない限り、まことに楽しい時間で、そんな時に仕入れた話の中の傑作は、日記に要点だけ書きとめられている。 「オール讀物」に「ちょっといい話」という一ページのコラムがあって、岡部冬彦さんが書いていた。  パーティーで岡部さんに会ったら、「三カ月書いたあとでバトン・タッチして下さい」といわれた。そして、その通り、あとを引き受けたが、やがて、矢野誠一さんが書くことになり、さらに野球記者の高田|実彦《みつひこ》さんが書いた。  ぼくのが連載されている最中、文藝春秋の小田切一雄さんが、「ああいう話で、一冊本ができませんか」といった。もとより好きな道であるから、さっそく承知して、ノートをこしらえ、段々原稿紙を書きためて行った。  この本は、そういうキッカケで、出来あがったのである。  おもしろいといって、聞いた人が一応笑ってくれる話ばかりで、大体そういう話は、最後が、落語のサゲのような一句で、まとまる。本の中の大部分の話の末尾を、サゲに似せて、行を改めて組んだのは、そのためである。  中に出て来る話は、多少の潤色は施されているが、架空のものはない。  もっとも、ふとしたことから思いついたコントが、いくつかある。これは、いささか悪のりの感があるが、やはり、笑ってくれる�よき友�に、ほかの実話とともに耳を傾けてもらった話なので、読者の寛容を得たい。  ぼく自身が直接聞いた名言といったものが多い。久保田万太郎、辰野隆、徳川夢声、古川ロッパというように、親しくしていただいた先輩の話が、当然多くなった。  それから、友人が聞いた話というのが、かなりある。一々ことわらないが、その友人のこしらえたフィクションは、おそらくないだろう。しかし、あったっていい。  そのほかに、エッセイ集や座談会の速記を読んでいて、感に堪えた話が、いろいろ入れてある。これも、それを読んだ直後に、おもしろがって、人にしゃべったために、ぼくの頭に残っていたものだ。歴史の本から拾えば、まだ何かと材料があるが、三浦一郎さんの「世界史こぼれ話」とはちがう性格の本にしたかったので、ごく少々、幕末から明治大正あたりまでの、ちょっといい話を書くにとどめた。  話の主人公の姓名は、勝海舟、夏目漱石のように、すでに歴史の中に定着している人については、敬称を廃した。  知っている人は、会って話した時、「先生」と呼んでいる相手でも、一応、「さん」にした。はじめ敬称を一切やめるつもりでいたのだが、親しい友人や芸能界の人たちの芸名の場合は、呼び捨てでもさしつかえないが、人に話して聞かせる時の口調を文体に変える時、やはり、「さん」は必要なので、こんなふうにしたのである。  二百字詰の原稿紙に、一話ずつ書いて、それをためて行ったのだが、ペラ一枚というのが多かった。  組んでみると、四行か五行で終る話が、圧倒的に多い。  それを十行、十五行の話に仕立てることは、むずかしくもないのだが、それをあえて、しなかった。わずかに、新珠三千代さんの目にものもらいができた時の話が、比較的くわしい筋立てになっている。  じつはこの話は、文中にもことわったように、フランキー堺さんが、「週刊読売」に連載した自伝の中に書いていたのを、ぼくが演出を考え、病院の名前も仮にきめて、いろいろな場所で話してゆくうちに、何となくまとまったものである。  いつだったか、「週刊文春」のゴシップ欄に、「小沢昭一氏は戸板氏からこの話を十何回も聞かされた」と出ていたのでおどろいたが、小沢さん以外を数えれば、延べ十何回は、話しているようである。  試行錯誤をくり返した末に、この話は、新珠さんが眼科と思ってはいった病院が、じつは精神科だったということを、さきに売っておいたほうが、より効果的である。  新珠さんを仰天させる事情が発生したあと、「じつはそこは精神科だった」といったのでは、どうも、うまく行かない。  現存の人たちが、この本の中で、読んだ人から、つまり笑われるので、その点はまことに申し訳ないが、迷惑をかけるはずのない話に限った。  また、飛びぬけておもしろい話については、それを聞かせてもらった友人、そのことを書いていた友人を一々明記したつもりだが、中には誰に聞いたか、わからないのもあるし、人からじつは聞いたのだが、ぼく自身の経験のように、今ではなっているのもある。  むかしは、髪結床で待っている町内の者同士で、噂ばなしをしたものである。そういう話題が巷に流れ、固い文字を使えば、「巷間に流布」されて、それがものの本に残った例が、すくなくあるまい。  この本の中にある話は、一応人畜に害を与えない反面、世の中を裨益するとも思われない。ただ、何となく、ぼく自身が長いあいだに収集したコレクションを、すすめられたのを幸いに、本にしたというわけである。  本になった機会に、それが巷に流れて、もしかすると、ブーメランのように、ぼくの目の前に戻って来ることもあるのではないかという期待も、ないわけではない。  いちばん厄介だったのは、書いた原稿の分類である。一冊を四つほどに分けて編集したいという出版社側の要望があったが、整理してみると、芸能関係の話が、どうしても多い。いつも会って話しているのが、おもに演劇人だからである。  また歌舞伎俳優とか落語家とか、古風な人たちの言動は、おのずから滑稽なムードを持っている。花柳界の女性や、近代的な知識のない老人の感想も、自然に小咄ふうなニュアンスがある。そういう話をまず終りのほうにまとめた。  ㈵は、ぼくの知っている作家や文学者の話をまとめた。エッセイスト、演出家、学者、詩人、ジャーナリスト、画家の話が、それに続く。その多くが、ぼく自身の見聞にもとづいている。  ㈼は、ものの本で見た話と、人から聞いた話である。高浜虚子が徳川慶喜公に会った話は、その小説「十五代将軍」から出ているが、いい話と思ってよく話すので、加えておいた。  ㈽は特に演劇に関する話を、書きためた。仕事の場で直接聞いたものや、ぼく個人の経験が当然多い。それに続いて、映画人、邦楽、洋楽、落語、講談、司会者、アナウンサー、野球選手、力士の話が出る。放送とスポーツの接点に小西得郎さんが登場する。最後のサラ・ベルナールの話は、この章のしめくくりに、名女優の名言をのせたわけである。  ㈿は文字どおり、種々雑多の話を、アトランダムにならべた。むかし、「週刊東京」に、「街の背番号」という記事を毎週書いたのを、なつかしく思い出した。  以上、四つのブロックに分けて書いた話の中に、青蛙房《せいあぼう》から刊行された「街の背番号」や、その後、三月書房から出してもらった数冊のエッセイ集や、丸の内出版の「いろはかるた随筆」の中にはいっている話が、若干あると思う。  しかし、約九割が書きおろしである。方々で吹聴した話ではあるが、ほとんどが、こんどはじめて活字になったわけだ。  最後に、書名のことである。  こういう本は、昔の随筆だと、「耳袋」「甲子夜話」といった表題になる。  大正以後にも、薄田泣菫に「茶話」、杉村楚人冠に「湖畔吟」というたぐいの名前の本があった。しかし、どうも、漢語を使った書名は、文章と似つかわしくない。ぼく自身にも、ピッタリしない。そこで、「あの人のこんな話」というのを思いついて、提案したのだが、すこし表題としては長いという説があった。  本の名前は、楽譜でいうと一小節におさまるのが無事なのだという。結局、「ちょっといい話」という、コラムのタイトルを使ってはといわれたので、甘えて、その題で刊行することになった。あらためて、このコラムの僚友にお礼申しあげる。  この本は、どのページをあけて、どこから読んでいただいてもいい。  そして、多少でも、微笑していただければ、筆者のしあわせ、これに過ぎるものはない。   昭和五十二年十二月 [#地付き]戸 板 康 二    文庫・後記 「ちょっといい話」を、文春文庫として、刊行することになったが、単行本の本文を、一部の誤記を訂正しただけで、そのまま踏襲した。  単行本を出したあと、「新ちょっといい話」を続けて作り、その後も、「週刊文春」に、「明治百年」「人物風土記」という題をかぶせて、「ちょっといい話」を書き続けた。いまも、まだ書いている。  ある時期、フジテレビの小川宏ショーが、毎週一回「私のちょっといい話」というコーナーを設けたこともあったし、「ちょっといい話」という表現が、流行したようにも思われる。  これは、著者あるいは筆者として、嬉しいことである。いまの世の中に、こういう話を喜んで、読んだり聞いたりする方々がいるというのは、いかにも楽しい。  文庫刊行を機会に、また多くの方々が、読んで下さって、その生活の中の「ちょっといい話」を、話題にされる機縁になればと思っている。   昭和五十七年六月 [#地付き]戸 板 康 二  単行本  昭和五十三年一月文藝春秋刊 外字置き換え ※[#「區+鳥」]→鴎