リターンマッチ 〈底 本〉文春文庫 平成十三年九月十日刊  (C) Masaharu Goto 2002  〈お断り〉  本作品を「文春ウェブ文庫」に収録するにあたり、一部の漢字が簡略体で表記されている場合があります。  また、差別的表現と受け取られかねない表現が使用されている場合もありますが、作品の書かれた当時の事情を考慮し、できる限り原文の通りにしてあります。差別的意図がないことをご理解下さいますようお願い申し上げます。 〈ご注意〉  本作品の全部または一部を著作権者ならびに(株)文藝春秋に無断で複製(コピー)、転載、改ざん、公衆送信(ホームページなどに掲載することを含む)することを禁じます。万一このような行為をすると著作権法違反で処罰されます。    目  次  第一章 夜  学  第二章 道  場  第三章 攻  防  第四章 硬  派  第五章 敗  北  第六章 亀  裂  第七章 夏   あ と が き   番外篇 フェルナンデスの男——一九九五年   文庫版あとがき 記憶——二〇〇一年      章名をクリックするとその文章が表示されます。 [#改ページ]  リターンマッチ [#改ページ]   第一章 夜  学

     1  甲子園球場で野球のない日、大阪・梅田から神戸行きの阪神電車の特急に乗ると、最初に止まる駅が西宮駅である。約二十分。ここで普通電車に乗り換えると、ものの一分ほどで|香櫨園《こうろえん》という小さな駅に着く。  六甲山中から発した水路が、何本か細い川となって大阪湾に注いでいるが、この駅下を走っている川は|夙川《しゆくがわ》と呼ばれている。川の両岸は緑の多い散歩道として整備されていて、犬をつれた婦人や老人の姿とよく出くわす。  海に向かって散歩道を歩いていくと、十数分で浜に出る。周囲は閑静な住宅街が続いている。この途中に、兵庫県西宮市立西宮西高校がある。灰色のコンクリートをコの字形にどんと置いたような校舎である。  一九九〇年四月末。新学期がはじまって間もない日である。数日ぐずついた天気が続き、この日も、ようやく咲き誇った桜の花びらをほとんど地面に叩き落としてしまうような、強い、切れ目のない雨が降り続く日であった。  学校の正面玄関を入ってすぐ右手、職員室の隣に狭い部屋がある。入口には「職員休憩室」という札が掛かっているのだが、教職員組合の事務所として使われているようだった。雑然とした感じの部屋で、真ん中に細長いテーブルがあり、壁側にクッションの効かなくなったソファーが置かれている。テーブルには、吸い殻が山盛りになった灰皿、コーヒーカップ、爪切り、わら半紙、『英英大辞典』、『シグマ実力問題集』、さらには『朝日ジャーナル』、『月刊地域闘争』といった|類《たぐ》いの雑誌が山積みになっている。競馬新聞も見える。  夕刻。男がひとり、マイルドセブンを差し込んだ短いパイプをくわえながら電話をしていた。無造作に、ただ切っただけという髪の毛はかなりの白髪まじりである。浅黒く、スペイン風とでもいおうか、深みのある顔立ちに、口髭がよく似合っている。口もとに、苦笑とも微笑とも受け取れるものを浮かべながら、男は電話を続けていた。 「まあな、しゃぁないけどな、うん……」 「………」 「お|母《かあ》はんはどういうてるんや?」 「………」 「授業のほうはまあええがな。練習だけでもやりに来いよ。せっかくはじめたんだから」 「………」 「ン? 明日? 家で寝とるんだったら来いよ。遅くなってもええがな」 「………」 「風邪気味? そんなもん汗かいたら治る」 「………」 「そうか。まあ、待っとるから」  男は受話器を置くと、「雨降るとこうなんだから」と、独り言のような口調でいった。そして「まあなぁ」といってから、「クックックッ……」という小さな笑いを挟むのである。 「で、どうなんですか。来るんですか」と問うと、「さあなぁ」とまた独り言のようにいって窓の外を見やった。外は篠突く降りになっていた。どうやらあまり期待できそうにないと告げているような空模様ではあった。 「……問題を抱えている子ばっかりでね、定時制の子というのはどっかで負けてしもとるんやね。逃げてしまってるというか、アカンタレなんですわ。まあ逃げたい気持もわからんことないけどね」  ——授業は受けなくていいというのは? 「せめてクラブ活動だけでもということなんですがな。……しかし実際、授業なんて、どれだけのモンなんやろうね。授業で教えられることなんて世の中生きていく上で関係ないよね。ホント、学校なんてなくても、誰もなんにも困らんのとちゃうのかいな」  そういって、男はまた、吐息にも似た、小さな笑いを発するのであった。  |脇浜義明《わきはまよしあき》という。英語の教諭である。この高校に赴任して二十年近くになる。長らく教職員組合の委員長を務め、一九八四(昭和五十九)年、この学校にボクシング部が発足して以来、部顧問を務めている。電話の相手は、ボクシング部に入部して日の浅い生徒だった。  西宮西高校は定時制高校である。  はるか以前、この校舎で全日制と定時制が併用されていた時期もあったが、現在は定時制専用となっている。生徒数が少ないので使用されていない教室もある。教室とグラウンドに照明が灯っている以外、外見は全日制高校と違うところはないが、その内部はというと、全日制とは少々様子が異なる。  まず制服姿の生徒がいない。髪形などまったく自由であるようで、|流行《はや》りなのであろう、髪の一部を黄色っぽく染めた生徒もいる。厚化粧をした女生徒と廊下で出くわすと、一瞬、ここはどこだったか、と思ったりもするのである。もちろんそういう目立つ外観の生徒は少数であって、全体の印象はおとなしい感じの若者が多い。  廊下のところどころにコーラやコーヒーの自動販売機が据えつけられている。その横に「煙草はなるべく吸わないでおこう」という標語を記したボール紙が貼りつけられていたりする。  定時制高校は四年制であるから、年齢でいえば十五歳から十九歳までの生徒がほとんどであるが、|二十歳《はたち》を超えた生徒たちもかなりいる。数は少ないが、すでに中年になった生徒もいる。煙草を吸ってもいい年齢に達している生徒もいるわけだ。それに、そういうことには別段うるさくない校風であるようで、職員休憩室にしたところで、ソファーにふんぞり返って煙草を吸っているのが先生ではなく生徒だったという光景だって何度か見かけたものである。  授業は夕方の五時三十五分から、四十分間授業が四コマある。  四時過ぎになると、教師たちが学校にやってくる。隣に職員室があるのだが、脇浜はまずこの休憩室に現われる。この部屋は彼の根城になっていて、同僚と雑談するのも、生徒と冗談をいい合うのも、生徒の家に電話をするのもこの部屋だった。この部屋はなんとなく居心地がいいのか、あるいは生徒のひとりがいうように“喫煙室”ともなっているのだろう、夕方になると誰かが部屋にやってきてにぎやかである。  パイプを口から離すことはめったになく、例の笑いを|撒《ま》き散らしながらいつも座の中心にいる人物、というのが、まずはこの部屋における彼の立ち居振る舞いであった。  授業時間がくると、脇浜は、わら半紙十数枚とチョーク一本を持って部屋を出る。  この年、彼が担当しているのは、一年生と四年生の英語である。一年生の英語のクラスは学力別にA、B、C、Dの四クラスに分かれていて、Aクラスはもっとも学力の低い生徒たちが集められている。彼は一年生ではこのAクラスを担当している。  小さな教室で、黒板を前にして、凹形に横長のテーブルが並べられている。この日は、男子生徒が五人、女子生徒が三人座っていた。クラスとしては二十人なのであるが、常時出席してくる生徒は八人から十人程度である。  教科書はない。教材は私製のもので、わら半紙に「基本文」が記されていて、その下に「練習問題」が何題か記されている。うしろの戸棚には、国語辞書、和英辞書、英和辞書が十冊余り並んでいて、筆記用具だけあれば授業が受けられるようになっている。  基本文には、 [This is a map](これは、地図です) [This is an orange](これは、オレンジです)  が示され、練習問題として、同種の例題の訳、ばらばらの単語を並べ変えて英文にするもの、絵が示されていて英文に直すものがそれぞれ数題記されている。  いずれも中学のはじめに学ぶ範囲のものであろうが、ABCのアルファベットからはじめなければならない生徒もいる。したがって、一年生のAクラスはほとんど中学英語の復習である。  脇浜が英文を読んで唱和させるのであるが、返ってくる声は小さい。授業がはじまってもまだ漫画本を読んでいる生徒がいる。私語も聞こえる。黙ってただぼんやりと座っている生徒がいる。明らかに理解できていないと思われる生徒もいる。  練習問題がはじまると、脇浜は生徒の席にやってきて、一人ひとり添削する。 「よっしゃ、うん」 「apple の前は an やったな。ややこしいけどそうなっとるんでな」 「うん、そうや。おうとる」 「お前さんは h と n がまるで一緒やな」  授業とは関係ない話も口から出る。 「|飯《めし》は自分で作ってるのか?……そうか、妹と交替でか」 「肉屋でどんな仕事しとる?……スジ肉を庖丁でバラすやつな。あれは先生もやったことあるけど、あれができたら一人前やな」 「一週間ぶりやな。なにしとったんや? ン? 目ばちこができて? そんなん関係ないやないか」  そういわれた女生徒が答えた。 「だってみんながじろじろ見るもん」 「そうか、そんなもんかなぁ」  そう答えながら、脇浜の口もとからは例のクックックッが|洩《も》れた。  茶色に毛を染めた女生徒がいた。体格のいい|娘《こ》で、派手な格好をしている。「女番長」というのが脇浜が彼女につけた|渾名《あだな》であったが、別段“不良少女”というわけでもなさそうで、愛らしい顔立ちをした愛嬌のある生徒だった。 「先生な、エエモン見せたろ思って持ってきてん」  といいながら、彼女は鞄の中から数枚の写真を取り出した。彼女のボーイフレンドなのであろう、ふたりで写っているスナップ写真だった。 「なかなかエエ男みたいやないか」 「そう思う?」 「けどな、世の中、いろんな男がおるからな。|騙《だま》されたらいかんゾ。騙されるくらいならこっちから騙してしまえ。とにかく、悪い男がうじゃうじゃおる」 「先生みたいにな」  そんなやりとりに、脇浜は今度は声を出して笑った。  授業時間は四十分であるが、どの教師に訊いても、四十分をもたせるのは大変という。後半になってくると、明らかに空気がだれてくる。脇浜の授業は特有の引き込む力があって、生徒たちをそらさないのであるが、それでも私語やあくびが聞こえてくる。 「あんな娘がいるとなにかほっとするんやね。授業が乱れるからと嫌がる先生もいますけど、あんな娘、好きなんですわ」  教室を出てから脇浜は私にそういった。  担当の授業が終わると、いったん脇浜は職員休憩室に戻り、古びた黒いショルダーバッグからビニール袋の包みを取り出すとそそくさと出ていく。授業のない日は、六時頃になるとビニール袋を持ってすーっと休憩室から姿を消す。  行き先は、校舎から渡り廊下を隔てて建っている「道場」である。正式には「市立西宮西高校格技場」という。この一九九〇年の春先に完成したばかりのボクシング専用体育館である。  プロ・アマを含め、これほど万事整ったボクシングジムも少ないであろう。鉄筋二階建ての建物で、片面に六メートル四方の公式リングが据えられ、残りは板の間となっている。周りの小部屋は、着替え室、筋力トレーニング室、シャワールーム、トイレなどとなっている。もちろん、グローブ、ミット、ヘッドギア、サンドバッグ、ウォーターバッグ、パンチングボールなど、ボクシングの練習に必要な用具類もあり余るほど揃っている。  一高校の施設としては|贅沢《ぜいたく》過ぎるほどにも映るのであるが、それは市民への施設開放という趣旨のもとに、西宮市アマチュアボクシング協会との共同使用施設として建てられたからだ。脇浜は西宮市アマチュアボクシング協会の役員も務めている。  夕方から市アマチュアボクシング協会に所属する選手たちが練習をはじめている。また、授業には出ずにボクシングの練習だけをやりにきている生徒もいる。脇浜が早い時間から道場にやってくるのはそのためであるし、また彼自身、学校にやってくる目的の大部分が、この道場における活動に占められていることは明らかであった。  道場の二階に事務室があって、ここで脇浜はグレーのスポーツウェアとズボンに着替える。ナイロン袋に入っているのは着替えの下着である。いったんステテコと腹巻き姿になるのだが、それがふと、一九四一(昭和十六)年生まれという世代を感じさせたりもする。  練習着に着替えている途中で、すでに彼はボクシングという世界に全身を投じているのであった。ステテコ姿のまま、事務室の窓から下のリングに目をやって声を張り上げるのである。 「ガードして。ガード!」 「ダッキング!」 「そう、そこで行って! 休むな!」 「考えんと前に出ろ!」  そして、着替える間ももどかしげに、階段を駆け降りていく。  高校ボクシング部にとって最大の目標であるインターハイ(全国高等学校総合体育大会)の兵庫県大会が迫っていた。  リングには、くりくりした眼に、あどけない表情をした少年が上がっていた。脇浜が両手にミットをはめてリングに登った。  男は少年を挑発するように、パンチを受けるたびに|檄《げき》を飛ばした。 「そう、そうや!」 「もっとしっかり打ってこんかい!」 「なんじゃ、それは。……そう、それや!」  少年のパンチは、五十になろうとする男のミットを激しく突き上げる。男の顔がそのたびに一瞬歪んで、目を閉じる。息が上がってくる。それでも男は歯をくいしばって檄を飛ばす。 「ええか、しんどいときが勝負や。自分がしんどいときは相手もしんどいンや。そこでがんばらんかい」  というのが、男からよく洩れる言葉であった。  男は超人的な肉体をもっているわけではなかった。練習に疲れると、リングに登る階段にどっかり腰を下ろす。|側《そば》に彼専用のアルミの灰皿があって、マイルドセブンに火をつける。体育館はもちろん禁煙であるのだが、この“道場主”だけは例外であるようだった。そして男は、煙草の煙を吹き上げながら、またリングに向かって声を張り上げるのである。  三時限目や四時限目に担当する英語の授業があると、いったん練習指導を中断する。リング下で汗の染みついた下着を着替えることもある。五十前というには引き締まった躰をしているが、やはり年相応の肉体である。肩から背中にかけて、点々としみが広がっている。下着の上からジャンパーを引っ掛け、そのまま教室に向かうのである。 「授業がいっちゃん嫌いやわ」  それもまた、男の口癖のひとつであった。  そして授業が終わると、その足で道場に戻ってくる。部員が揃うのは四時限目の授業が終わる九時過ぎからで、それから十時半頃まで、男の声がこの道場から途絶えることがない。  私が西宮西高校を最初に訪れたのは、このときから遡って二年ほど前の夏の日であった。この学校のボクシング部を紹介する新聞記事を読んだことが契機となっている。確か、「定時制高校でボクシング部が活発な活動。ボクシングでアカンタレ直し」というような見出しが載っていたように思う。  当時私は、プロボクシングの世界を取材していたさなかで、高校ボクシング部出身のボクサーとも知り合いになり、彼から高校時代の思い出を何度か聞いたことがあった。プロとアマチュアは次元の違う世界であるが、一度はアマチュアボクシングの世界も|覗《のぞ》いてみたい。そんな気持でぶらっと西宮西高校を訪れた。  薄暗いお堂のような古びた建物の中で、ふたりの生徒がリングに上がっていた。大勢の練習生たちでごった返すジムの風景を見慣れていた私には、ひどく静かで、どことなく|侘《わび》しい光景に映った。  この折り、印象に残ったのは、口髭をはやした中年男の出で立ちだった。確か、ランニングとステテコ姿で、板の間に転がったタイヤの上にあぐらをかいて座り込み、盛んにリングに向かって声を張り上げていた。それはプロのジムでは決して見かけることのない光景であったし、ましてや「高校の先生」というイメージからも随分と隔たっていた。そのときは挨拶を交わした程度であったが、変わった先生もいるもんだ、と思ったものである。  二年後、道場がすっかり立派な体育館に変わっているのに驚いた。きっと体育館の建て替えを学校当局や教育委員会に働きかけた末の成果なのだろう。脇浜と再会して、最初に訊いたことはそのことである。  ところが彼は、「どうも|馴染《なじ》めんねぇ。好き嫌いでいうと、前のオンボロ道場のほうがよっぽど好きなんやけどね。別に建て替えてほしいといったわけでもないんだが」というのである。  ——では、どうして? 「市の教育委員会にしてみたら、脇浜にこんな施設をあてごうておけば、ボクシングばっかりやって組合運動もおとなしくなるやろ、というところだったんやないですかな。クックックッ……」  それが、口髭の男から聞いた最初の「クックックッ……」であったと思う。  この一九九〇年春の大雨の日から、平均すれば月に三、四度というペースになろうか、私はこの学校に定期的に足を運ぶようになった。そのたびごとに私は、彼の笑いに接することになる。それは、苦笑であったり、疲労を込めたものであったり、|微《かす》かに自虐的なものを含んだものであったり、またときには心からの笑いであったりした。  私は、この男の笑いに接するのが好きであった。  それは、いってみれば、この世を生きていく上で日常的に遭遇するもろもろの事象に対する吐息のようなものであろうが、それが私のなかのどこかと共鳴していたのだろう。そして、そのつど、少しずつこの人物への理解を深めていったようにも感じている。  これまで私は、「教育問題」という分野には一貫してうとく暗いままであった。ときおり、マスメディアを通して伝えられてくるさまざまなニュースを、ごく受身の姿勢で見ては読み流すという以上のことをしたことはない。  自分自身を振り返っていえば、学校という場所は、ともかく目をつぶって通過してしまえばそれでよい、というのが正直なところであったような気がする。運が悪かったのか、あるいはひねくれていたせいか、良き思い出として残るような学校体験もなければ、人格的に深い影響を受けた教師像も思い浮かばない。学校や教師という存在自体が、なにやらうとましいものというのが私の一貫した固定観念であった。  学校と無縁になって二十年、この西宮西高校は、すっかり忘れていた学校という世界との久々の出会いであった。  西宮西高校は定時制高校であり、のちに触れるように、やや特異な校風を有している。脇浜義明という教師も、現在の一般的な教師像からすればこれまた明らかに「特異な教師」ということになるであろう。  これから、ボクシング部という場所を中心にして、この教師と彼のかかわった生徒たちのことを綴ってみたい。それが、現在の一般的な「教育問題」や「青少年問題」にかかわりのあることなのか。あるとしても、それが、教育問題や青少年問題に対するなんらかの「指針」や「示唆」に値するものであるのかどうかということは、正直いってよくわからない。ただ、それは、ごく普通の「学校嫌い」であり、またごくネガティブな傍観者であった私に、折々に「学校」という言葉のもつ本来の響きを聞かせてくれたものであったことだけは確かであった。      2  脇浜義明が「特異な教師」であるとすれば、まずもってそれは彼の来歴から由来しているであろう。  脇浜は自分の歩みについては寡黙な人だった。その一端を聞くだけで、これは尋常なものではないと思わずにおれないのであるが、そういう話になると、だいたい照れながら笑い話として語ってしまう。同僚の教師たちから訊き出したものを含め、荒い筋を追うとこうなろうか。  脇浜は神戸の下町である|新開地《しんかいち》で生まれ育っている。まだ敗戦の|余燼《よじん》がくすぶる時代、とりわけ新開地は港湾を前にしてもっともアナーキーな空気をたたえていた。この地は、神戸を本拠とする広域暴力団・山口組が最初に根を張った地でもある。屑鉄を持っていくとカネになる寄せ場があり、市場の奥には警察の治安の及ばぬ迷路があった。脇浜から伝わってくるある種の迫力は、少年期から青年期にかけて過ごした境遇と無縁ではないだろう。  母子家庭で育ち、弟がひとりいた。父の顔は知らない。成人してから戸籍を見ると「私生児」となっていた。母はやがて再婚するが、新しい父はふたりの子供をつくって、やがて姿を消す。飯炊きと|拳骨《げんこつ》と弟たちの子守り、というのが幼い日々から思い浮かぶものである。菜っ切り庖丁を握りしめ、親父を殺してやると思いながら新開地の夜をさまよい歩いた暗い記憶がいまも残っている。  小中学生時代は「ワルひと筋」だったという。「喧嘩ざんまいの日々」で、|垂水《たるみ》署の「ゴンタクレリスト」にも名前が載っていた。マイクで年末警戒を呼びかけながら巡回してくるパトカーが、自宅前を通りかかると、急に「脇浜は家におるか」と声をかけてきたりしたこともあって、これにはまいったものだ。「垂水署の小坂」という刑事の名前を脇浜はいまも覚えている。  出歩くときには、たいていポケットに手製のナイフを入れていた。ヤスリをグラインダーで研ぎ上げてナイフにしたもので、このナイフを使っての喧嘩もさんざんやったものだ。使うときは、刃の上に人差し指を置いて、切っ先は一、二センチにする。これだと深く突き刺さることはないから、|大事《おおごと》にはならずに済む。不良少年の知恵であった。太ももには、その傷跡がいまも何箇所か残っている。  一度、不良少年たちの大立回りがあった。一方のグループの大将格が脇浜で、警官隊が出動して大騒動になった。警官が駅々に張りついて身動きならず、チェーンを腹に巻いてドブ川を|這《は》いずって逃げ回った夜もあった。  手におえない不良少年であったわけだが、いつしか脇浜は不良少年たちの心の底を知っていく。夜、|溜《た》まり場に集まるのは、自分と同じように、家にいてもおもしろくないからであり、人肌恋しさからであり、寂しいからなのであった。躰のなかに|鬱屈《うつくつ》がメタンガスのように溜まっていく。そのガスに引火するものがあればなんでもよい。喧嘩は日頃の|鬱憤《うつぷん》の|捌《は》け口に他ならなかった。  不良グループは、彼がはじめて出会った社会でもあった。「不良の倫理」といえばそれまでであるが、人がこの世をわたっていく上で大事なことを身につけていく。喧嘩はバラ(大勢)ならバラで、サシ(一人)ならサシで決着をつける。警察署の中に入れば、仲間を売らない、名前を吐かないといった類いのことである。  のちに教師になってから、脇浜は生徒の喧嘩騒ぎを調べる立場にたたされることに幾度となく遭遇する。すぐゲロをするような生徒には好感をもてなかった。自分が尋ねておきながら、「お前な、そう簡単に仲間の名前をいうようではいかんぞ」と“説教”したこともあった。  小中学校を通し、長期欠席生徒だった。学校にまつわるものに、心なごむような思い出はほとんどない。  勉強はけっこうできたのだが、子供心に傷つくことが多かった。たとえば、教師が遠足の費用として学校に持ってくるべき金額を黒板に書き出す。当日になると、持ってこない生徒の名前を読み上げたりする。そんなことが重なると、遠足が終わる日まで、学校に行かなかった。  昭和二十年代。たいていの家庭は貧しく、遠足代を持参できない生徒たちがけっこういた。けれども、そういうことに無神経な教師が多かった。のちに脇浜は教師になってから、同僚の教師に対しても、金銭にかかわることで生徒たちを追い込むことを神経質なほどに許さなかったのは自らの経験に拠っている。  わずかに、学校とのかかわりとして残っているのは、ひとりの女性教師との「作文交換」である。  中学のときの国語の先生で、学校にほとんど出てこない脇浜少年に、作文を書いておいで、とよくいった。題材はなんでもよく、とにかくなにか書いてきたらいいというのである。書いたものを渡すと、赤鉛筆で添削して、もう一度書き直してくるよう勧める。この教師にどのような意図があったかは不明だが、ふたりだけの「綴り方教室」が少年に活字というものに親しむ契機を与えた。このときの体験がなければ、のちに高校に進学したいとも思わなかったろうという。高校で文芸部というクラブに所属したのもそんな体験があったからである。  母親は病身で、すでに中学時代から異父弟のふたりを含め、三人の弟にメシを食わすことが脇浜少年の肩にかかっていた。新聞配達から屑鉄集めまで、少年の手でできる仕事はなんでもやった。  中学を卒業すると、脇浜は神戸港の中心に位置する川崎重工業神戸造船所の養成工になる。川重、神戸製鋼、三菱造船、及びこれに関連する下請け会社というのが神戸における主要な仕事先であり、中学を出ると四割方はすぐに就職する時代だった。初任給は四千三百円だった。  社員は正門から、職工は別の門から入ることが義務づけられていた。養成工であるから、しばらくは簡単な造船工学の授業と溶接などの実習を受け、その後「銅工」と呼ばれるところの、配管の折り曲げを受け持つ部署に配属された。  仕事はただ賃金をもらうために耐え忍ぶものであり、前途になんの希望も感じなかった。川重かあるいは町工場の職工として生涯を終わるという以外、どんな未来図も浮かんではこなかった。  十代半ばの少年の心理をリアルに思い出すのは、私にはもう困難になっている。ただ、彼がこの前後、「少年自衛隊」の試験を受けたり、「移民局」を訪れたことがあるという話を聞いて、なんとなく了解する思いはするのだ。  家庭の問題とか、カネがないとか、それはそれで辛いことであるが、若い時代、もっとも耐えがたいのは「希望」の不在ではなかろうか。希望が、「逃亡」と重なって映る時期はあるものだ。脇浜が少年自衛隊や海外への移民を志したのもその種のことであったろう。港にあった移民局を訪れると、係官はまともな相談とは受け取らず、それでも多少事情を訊いて少年に同情したのか、うどんを食べさせてくれたりした。  やがて脇浜は養成工を続けながら、神戸市内にある|湊川《みなとがわ》高校の定時制に入学する。一九五六(昭和三十一)年である。  たいした向学心もなかったというが、|僅《わず》かに残された小さな希望らしきものとして、定時制高校が残ったのである。この当時、新聞の求人広告には、「高卒(ただし定時制は除く)」と記されているものが多く、定時制高校を卒業したところで新しい前途が期待できるわけではなかった。  この時代、定時制高校への進学は企業の歓迎するところでもなかった。大企業のなかでは、「夜学に行ったらアカになる」というのが年配の職工たちのアドバイスであり、残業のきつい中小企業では夜学へ行けるような時間的余裕はなかった。そういうなかで定時制高校にやってきている生徒たちの多くは、いわば上昇志向型の、向学心旺盛な勤労青年であった。この点が現在の定時制高校生と際だって異なる点だろう。  やがて脇浜は川重の養成工をやめる。養成工の指導教官と口論したのが直接のきっかけで、|啖呵《たんか》を切ってその足で会社を出てしまった。 「いばっている人間」「もっともらしい|御託《ごたく》を並べる人間」「道徳や倫理を説く人間」——が、彼のもっとも反発を覚える人種であった。その指導教官となんで口論したかは忘れたというのであるが、脇浜の反発を喚起するなにかがあったのだろう。  脇浜の少年時代から現在までを貫いているものをひと言で表せば「反抗」ということになろうか。  事実、二十代における脇浜の愛読書のひとつはカミュの『反抗的人間』だった。大学に通っていた頃、「革命か反抗か」をめぐってサルトルとカミュの論争がたたかわされていた。いっぱしのマルキストとなっていた脇浜であったが、文句なく、カミュの「反抗」に軍配をあげたかった。それは、論理ではなく、「気分として反抗のほうが好きやネン」というあたりからきたことであったが、そういう気質はいまも脇浜という人物の周辺に漂っている。  さて、啖呵を切って、自分では格好良く会社をやめたつもりであったが、世の中は甘くはない。心配してくれる人は誰もいないし、家でふてくされている余裕もなかった。次の日から日銭を稼がなければならない。  手っ取り早い仕事は、港の仕事である。早朝、港の寄せ場に行けば手配師たちが待ち構えている。手配師の運転するワゴン車が向かった先は、なんと数日前にやめた川重神戸造船所であった。これにはさすがに格好がつかず、顔見知りに合わないようひやひやして働いたものである。  臨時の社外工が配属される先は、ほとんどが船台下の、もっとも過酷な労働現場であった。  臨時工として船底で働いていたときのことだ。バシッという大きな音とともにワイヤーが切れ、人の悲鳴が聞こえた。そして脇浜の目の前に、地下足袋をはいたままの、膝から下が切断された血だらけの脚が飛んできた。少々のことでは驚かない度胸の座った若者も、このときばかりは青ざめたものである。  川重の養成工をやめたことが母親に知れ、一時家を追い出されて、港にある一泊五十円の木賃宿に住み着いたのもこの頃である。  住人はほとんどが日雇い労働者であり、夜になると花札|博奕《ばくち》が開かれた。仕事も家も苦痛の対象であり、明日の希望とてなにもない。気持は|荒《すさ》んでいた。座に加わろうとした。博奕場を取り仕切っているのは片腕のない中年の男だった。 「坊主よ、そんな歳からな、こんなところに来るもんじゃない」  と説教された。  生意気盛りの年頃である。虚勢を張ってなお座に居座ろうとすると、ジロッと目で一喝されて動けなくなった。すでに知り尽くしていると思っていた港・神戸の、もうひとつの底辺ともいうべき世界を知ったのもこの頃であった。  以降、脇浜は転々と仕事を変える。教師になるまでに就いた仕事は優に二十を超える。船員見習い、風呂屋手伝い、印刷工、旋盤工、溶接工、ゴム工場、タオル屋、牛乳屋、運送屋、港湾労働者……などなどである。鉄工所だけでも出入りしたところは十指を超える。  仕事先はほとんど新聞広告によって探していたが、湊川高校の就職係の世話によって行ったところもあった。彼があまりに頻繁に仕事先を変えるものだから、そのつど就職係の先生から「今度は辛抱せいよ」といわれたものである。  内職をして生計を立てていた母親は病気がちで、すでに彼が一家の生計を|賄《まかな》う立場にあった。日銭のいいところというのが仕事先を選ぶ第一基準で、仕事先を再三変えたのもそれがあったからである。さらにいえば、常に「反抗的若者」であったことも、仕事が長続きしない理由に加えるべきであろう。  本来、高校に行く余裕があったわけではない。母親はいい顔をしなかったし、|穀《ごく》つぶしとののしられたりもした。  高校の授業に興味をそそられることはなかったが、本を読むのは好きだった。仕事の帰り道、|元町《もとまち》の古本屋で立読みをするのが癖となった。どうにもほしくてたまらず、もらった給料で『明治・大正文学選集』の古本を買ってしまったことがある。南京虫の湧いたようなゾッキ本だったが、それがわかって母親からは叱りとばされた。  体操用のシューズが買えず、昼間の生徒のものを無断で借用し、盗んだと名指しされたこともある。学校はどこまでいっても恥辱を覚えるところであった。  仕事に追われて、定時制高校を長期欠席していた期間がある。ただどういうわけか、担任の女性教師が黙って彼の授業料を払ってくれていたことをのちに知った。この先生とは個人的な交流ができ、家に寄ったり、本を借りたりしたこともある。高校を卒業できたのはこの先生のおかげでもあるが、教師というものに感謝した数少ない体験である。  定時制高校を卒業した脇浜は、市立神戸外国語大学の二部(定時制)に入学する。  町工場の住人のままで終わりたくない、というのが大学進学の動機だった。神戸外大を選んだのは、「仕事ができて、近くて、安くあがる大学」ということからである。誰でも入れた時代というが、定時制高校から国公立大学に入学するのは至難のことである。よほどよくできたのであろう。  ただし、普通の大学生が送るような学生生活ではなかった。  入学した年の前年が六〇年安保の年である。大学内には学生運動の余熱が充満していた。毎日のようにデモがあり、たびたびストライキが打たれたが、彼自身、デモに参加したことは一度もない。そんな余裕はなかった。  母親は彼が四年生のときにガンで亡くなる。中学生を頭に三人の弟たちは食べ盛りになっており、毎日、「米びつにいくら残っているか」ということが頭を離れたことがなかった。弟のひとりが警察沙汰になる問題を起こして、その後始末に走り回るのも長男の役目だった。  朝、牛乳配達をして、それから仕事に出て、夕方、授業時間ぎりぎりに学校に駆け込むという日々が続いた。  仕事は、高学年になると、神戸港の倉庫会社のひとつ、川西倉庫の港湾荷役に落ち着いていく。肉体的にはきついがもっとも稼げる仕事であったからである。それに、書類もなにも必要なく、早朝、寄せ場に行ってアブレなければ仕事が見つかるというシステムが性に合っていた。潮風と、荒々しくもまた直截な男たちの世界が彼は好きでもあった。  船内荷役、はしけを使った荷揚げ、また岸壁での玉掛けと、なんでもこなした。川西倉庫に入る荷で多かったのは綿花で、|鋼《はがね》でがんがんに締め上げられた綿花は鉄のように丸く堅くなっている。それをころがしながら二輪車に載せて倉庫に収めるのであるが、屈強な若者も音をあげる重労働だった。仕事に向かう前、川西倉庫の側にあった「ホワイト」という喫茶店で、この当時の新語であろう「ミーコ(ミルクコーヒー)」を注文するのが唯一の楽しみであり息抜きであった。  神戸外大の同級生たちとはあまり言葉が通じなかった。この頃、ベストセラーになっていたのが芥川賞を受賞した柴田翔の『されどわれらが日々—』である。学生運動に「挫折」した若い男女の物語は、この時代の青春の書として受け入れられていた。  脇浜も読んでみた。違和感ばかりが残った。クラスの討論会で発言したこともある。 「こんな弱い世界がなんで美しいとされるのか。党(共産党)の矛盾をもってなんで自分の悩みとしてしまうのか。まったくもってあほらしい話ではないか」  同窓生には「右翼学生」と思われていたようだった。  学生自治会がストを打ち、夕方、校門で参加を呼びかけられた日がある。が、脇浜はそれを断わって学校を出ようとした。仕事に出て稼ぎたかったからである。すると校門でピケを張っていた学生に、「お前、独善家か!」と悪罵を投げつけられた。自分がなぜ、そういう言葉を投げつけられるのか。スト破りをするつもりはさらさらない。学生運動家がいっていることにまんざら反対でもない。ただ自分は、そういう運動に参加する余裕がないだけである。それをどういえばいいのか。彼らにそういう私事を洩らすこと自体が屈辱だった。  脇浜は教員になってから組合活動家になるが、活動家に多い「観念左翼」とはまるで肌合いの違う活動家になったのは当然であったろう。  同僚の教師から、脇浜の「凄さ」というものを何度か聞くことがあった。けれども、脇浜にいわせれば、それは単に目のつけどころが違うからなのだという。  生徒が学校に来ない。先生たちがまず思うのは、勉強嫌いによるサボリということであろう。  けれども脇浜がまず思うのは、「履いてくる靴がないからじゃないか」という類いのことである。それは自分自身が体験したことだったからである。幼い頃、家にゲタが一足しかなく、銭湯に行くのも、母親からひとりずつ順番に履いて出たこともあった。  卒業生の就職先が決まる。就職担当の先生にとってはそれで終わりということになろうが、脇浜にとってはそうではない。  仕事が決まったことで真っ先に思うのは、「定期代はあるか」ということである。彼にとって、仕事が見つかることでまず意味したのがそのことであったからである。  現在、そういう類いの心配は|杞憂《きゆう》として片づけていい時代であろう。ただし、他の教師たちが生徒たちを教壇から見ているとすれば、彼はいわば地べたの底から見詰めているように感じられるときがある。  脇浜が学生時代、学生運動家たちに、言葉としていったことはないが、腹のなかで思っていたのはこのようなことである。  ——盗みをしてはいけない。スト破りをしてはいけない。それはその通りだ。けれども、やってはいけないことをやらざるを得ない人間もいるのだ。右も左もない。結局、泣きをみるのはその日を食わなければならない人間ではないか……。  神戸外国語大学を卒業した脇浜は教師という職業を選んだ。とくにこれをしたいというものもなく、「デモシカの|類《たぐ》い」であったという。  大学に在学当時、脇浜は高卒の資格で神戸市役所の職員になった時期もある。病床の母親に市役所の試験を通ったというと、ひどく喜んでくれた。これが母親から|褒《ほ》められたほとんど唯一の記憶である。ただし、お役所勤務はいかにも肌に合わず、大学卒業後も勤める気持はなかった。  神戸外大の卒業者は、語学の専門大学という性格上、商社を志望するものが多く、彼もそういう希望を抱いた時期もあったが、一家の大黒柱であるから家を離れることができない。四年生になって、とりあえず教員の免許を取っておこうと思ったのがきっかけで、結局、他に選びたいと思う仕事とも出会わず、卒業するとそのまま教員になった。  最初の勤務地は兵庫・播州地方にあった小野高校(全日制)で、ここに四年間籍を置く。次に龍野実業高校(定時制)で一年、次いで母校である湊川高校(定時制)で三年間教鞭をとったのち、西宮西高に移ってきている。一九七二(昭和四十七)年のことである。  こうして見ると、脇浜にとって、学校というのはほとんどすべてが夜学であったことになる。      3  人は誰しも、いくつかの「|貌《かお》」をもっている。外に向かって日常的に|晒《さら》している貌もあれば、他人には見せぬ貌もあるであろう。私は脇浜という人物から「複雑さ」を感じることは一度もなかったが、いくつかの貌を感じることは折々にあった。  夕方、道場にまだ部員の姿が見えないとき、二階の事務室で、英訳の作業に没頭している姿を見るときがある。  一九九〇年の春に、ニューヨーク在住のポール・スイージー、またパリ在住のサミール・アミンという思想家に会いに出かけ、アミンの『社会主義の未来』『現代第三世界における民主主義の問題』という論文を訳して組合新聞に連載している。また、アメリカにおける公民権運動や反戦運動の活動家で、その後ゼネラル・モーターズに入って労働運動家になったエリック・マンの『GM帝国への挑戦』と題する大部の本を訳して出版している。  学校内で英語の教師たちと一緒に読書会をもっているのだが、最近まで使われていた教材はシェークスピアで、脇浜がチューター役を務めていた。一七世紀の英文を読解するのはかなりの英語力が求められよう。英語教師の八木司朗によれば、「脇浜さんの英語力はへたな大学の教師よりある」とのことである。  脇浜は龍野実業高校に勤務していた頃、英語学を専攻して神戸大学大学院文学研究科修士課程に二年間在籍した。これは彼にとって、中学以来の久々の昼間の学校だった。アメリカで「構造言語学」という分野が脚光を浴びはじめていた頃で、これにアンチの立場に立つ「意味論」を学びたかったという。  同僚の教師から聞いた話では、この頃、脇浜はフルブライト留学生試験に合格し、渡米することになっていたのだが、ベトナム戦争激化のあおりで取り止めになったそうだ。本人に確かめると、フルブライト留学生というのは間違いで、ハワイ大学にあるイースト・ウエスト・センターの留学生試験にパスしただけとのことであるが。  英語学への探求は、「つまらんことに関心をもった昔話」というのであるが、いわば純粋学問へのなみなみならぬ関心というのが脇浜のもっているひとつの貌である。  脇浜のショルダーバッグにはいつも洋書が何冊か放り込まれている。ミステリーのペーパー・バックが多いようだが、私などよくわからぬ表題の原書を見るときもある。職員休憩室の机の上に、ロバート・ポール・ウルフの『アイロニーの効用』といった本が読みかけのまま置かれていたりする。そして、その本に挟んであるのが競馬新聞であったりするのが、脇浜という人物の一端を切り取っているようである。競馬はだいたい「2—5 一本」で、これは「考えるのがめんどくさいから」とのことである。  阪神間には競輪場や競艇場もあるが、ぶらっと出かけるときもある。  数年前のこと。場内で予想紙を売っている女性に「まあ先生」と声をかけられた。生徒とその母親だった。女生徒も母親を手伝って予想紙を売っていた。彼女たちから、大きな声で「先生、先生」といわれるたびに、これにはまいった。「予想紙買うから、その声、小そうならんか」といったものだ。  好きな作家はヘミングウェイ。軽いものでは、たとえばペーパー・バックにあるロス・マクドナルドの『動く標的』が好きだ。ポール・ニューマンの主演による映画のほうで知られていよう。表紙はボロボロになっていて、何度か読み込まれた本のようだ。 「こんな探偵の話が好きなんですわ。つまらん浮気調査のような仕事を依頼されて、行く先々でドジを踏んで、家に帰れば嫁ハンに怒られて、と……。それでも性懲りもなくドタバタ動いて生きていく。そんな主人公に共鳴してしまうんやね」  脇浜はあまり酒は呑まない。学校の帰り道、よく焼き肉屋などに一緒したが、ビール一本もあれば十分というほうである。食事を済ませると銭湯に行くのがいつものコースである。  この銭湯が趣味のひとつといってもいいであろう。私も何度か付き合った。陽気に談笑しながらゆっくり湯船につかってなかなか出てこない。長風呂である。ボクシング部の部員たちから、脇浜が、ちょっと風呂に行ってくると出かけてしまい、そのまま授業も流してしまったことがあると何度か耳にした。そんなズボラな面もある。  神戸港のはずれに、知人たちと共有で小型クルーザーを持っている。年に何回か、魚釣りを兼ねて瀬戸内海に乗り出す。別段魚釣りが趣味というわけでもない。夜明け前、船が波頭を切ってまっしぐらに進んで行く。|舳先《へさき》に立って潮を浴びながら、頭のなかはなにもない。そんな時間が好きだという。  こうして並べていくと、授業、ボクシング、組合活動、英訳と研究会、風呂に競馬にクルーザーと、同僚のひとりが「脇浜さん、いつ寝ているのかな」というのもうなずけるのだ。  脇浜に、同僚の先生がそんなこといっていましたよ、といったことがある。 「クックックッ……。アホウなことばっかりやっとるからね。こうなにかして駆けずり回っとらんと落ち着かんというか、そういう|質《たち》の男なんやろうねぇ」  というのが彼の答えであった。  教師になって脇浜が打ち込んできたものは、さまざまな教育活動であり、組合運動である。西宮西高校内に「朝鮮文化研究会」や「部落問題研究会」を作り、外に向かっては、定時制高校生の就職差別の撤廃を進める運動の中心となってきたのは彼だった。  レッテルを貼れば、脇浜も「左翼教師」ということになろうが、その来歴からしても、いわゆるインテリ左翼という枠からは随分とはみ出している。世にイデオロギーを振り回す人がいるものだが、私との付き合いのなかでも、脇浜からその種のことを耳にしたことはない。  一九七〇年代の後半、自治体に定時制高校生の就職門戸を開けさせたこと、電電公社における在日韓国・朝鮮人生徒の就職試験拒否を撤回させたこと、修学旅行を全額公費負担にさせたことなどが、西高組合運動の大きな成果として残されている。いずれも彼の力に依るところが大きかった。  脇浜は、「これまで本気でやった闘争で負けたことはないなぁ」という。  同僚の教師たちがいうように、具体的な問題を取り上げてその壁を突破していく手腕において彼は抜群だったようである。交渉相手が応接するであろう論理と対応。それに立ち向かう反論と仕掛け。そういう運動の渦中に入ると「怖いほど頭が回る」のだそうだ。  脇浜は神戸市北区の自宅から、車で学校に通っている。運転をしていると具体的な戦術が次々と湧いてきて、口笛のひとつも吹きたくなってくる。個々の、せめぎ合う場面において、彼は燃えた。  現在、全国的にも珍しいと思われるのだが、西宮西高校の教職員二十数人の組合加盟率は百パーセントである。それは過去の組合運動の遺産と脇浜の存在によってであろう。上部団体は兵庫県高教組ということになるわけだが、県高教組は共産党系が執行部を握っており、十年前に統一労組懇への分担金の負担を拒否したことから西高分会は除籍されている。その後、上部団体に所属しない「兵庫県自立高等学校教職員組合」にあって活動を続けてきたが、現在は連合系の日教組に組合執行部が代表で参加する「部分加盟」という形態をとっている。  それは政治路線上の問題でもあったのだろうが、それを別としても、脇浜という人物は、いわば日教組的なタテマエ世界からはもともとはみ出していたようである。現に、日教組主催の教育研究会などで発表される「教育実践の成果」を聞くのがたまらなく恥ずかしく、また嫌いであるという。 「こんな実践をしてこんなに生徒が良くなりましたという話を聞くと、人間そんな簡単に変わってたまるかい、と思うしね。だいたいワルを静めたら学校が良くなったという発想からしておかしいんじゃないか」  大きな闘争に負けたことがなく、組織率百パーセントの組合を率いる脇浜に与えられた|渾名《あだな》は「影の校長」であり、教育委員会筋からは西宮西高校を指して「脇浜解放区」とも呼ばれているそうだ。  けれども、脇浜自身からよく洩れるのは、 「文部省と日教組が対立して争ってきたかのように見えるかもしれんが、両者はメダルの裏表みたいなもんでね、どっちも好きになれんなぁ」 「もう組合運動なんてオモロナイわ。なにかを根本的に変えていくような気が全然せんもん」 「日教組の組織率が低下しているのも当たり前やないの。近頃の組合なんて、俺が新人教師だっても入る気せんよ」 「教師でございなんて恥ずかしいワ。自分自身を振り返っても、学校で学んだもんなんてなにひとつないんだから。だいたいが教師って嫌いやネン」  という類いの言葉である。  それは、脇浜の本音の部分であり、また長年、教育活動や組合運動に携わってきたものの疲労や徒労感でもあるのだろう。そしてそれはまた、具体的な課題は解決されたとしても、肝心の定時制の高校生自身がどう変わったというのか、という現状への深い|苛立《いらだ》ちが込められているようにも聞こえるのである。      4  定時制高校は、かつて脇浜が生徒として在学していた当時とはすっかり|様《さま》変わりしている。向学心旺盛な勤労青年も存在してはいるが、総体的なイメージは随分と変わっている。  社会科(歴史)の堀川敏朗教諭の言を借りれば、「受験競争という価値基準からすれば最後の高校」が定時制高校である。それは生徒自身の話から判断しても|的《まと》を射ているようである。  高校への進学がほとんど義務教育化している。“いい学校”を目指す競争は|熾烈《しれつ》の一途をたどり、“できる子”から順番に、有名私学、公立校、“二流”私学へと収まり、どこへも行き場のない“落ちこぼれ組”に残された“最後の学校”として定時制高校が存在しているというのである。  西宮西高校のボクシング部員、及びかつて部に所属したOBたちに、なぜ定時制高校に来たのかと問うと、中学を卒業するとすぐ働く必要があったので、とはっきり答えたのはひとりだけだった。彼らの答えのなかでほとんど共通していたのは、「高校ぐらいは出ておかないと」というものである。  定時制高校とは、受験競争という世界で「負け組」に属した生徒たちが、高校卒業という資格を目指してやむを得ずやってくる場、というのが|忌憚《きたん》のないいい方になるであろうか。  そして、その因果関係というには曖昧ではあるが、ある類型として彼らを選び出すこともできる。  西宮西高校に入学する生徒は、この数年、毎年百三十人前後である。一九九一年四月現在でいうと、一年生百三十一人のうち、母子家庭の生徒が四十一人、父子家庭が八人、孤児が一人となっている。計五十人の生徒が“欠損家庭”の子弟たちということになる。また形式的には両親が揃っていても、事実上離婚している家庭の子も少なくない。三割から四割の生徒たちが片親育ちという。この率が年々増えていることが近年の傾向である。“安易に”離婚する時代の反映であろう。もちろん、離婚家庭の子弟が一様に学力が落ちるわけでは決してないが。  また、西宮市域を中心に、在日韓国・朝鮮人や同和地区出身者の子弟もかなりいる。  家庭環境や生活上の困難を抱えた子弟が相対的に多いのがこの定時制高校の特徴である。  こういう事情は、以前も大なり小なり同じであった。ただ、定時制高校生の気質は随分と変わってきた。  堀川は兵庫県明石市の出身で、一九七八(昭和五十三)年に大阪教育大学を卒業している。「なんとなく教師なら勤まりそう」と思ったのが教職を目指した動機である。この数年、西宮西高校教職員組合のなかで、脇浜が委員長、堀川が書記長を務めているが、別段学生運動家出身というわけではない。学生時代、「七〇年安保」や「全共闘時代」はすでに過去の出来事であり、彼もノンポリ学生のひとりであった。控え目でごく温厚な人柄の教師である。  彼が大学を卒業した当時、また現在もそうであるが、教職課程を専攻して卒業しても教師の口は狭き門であり、とくに社会科はそうだった。そういう事情を勘案して、彼は兵庫県の試験を受けるさい、赴任先としては「全日制・定時制・|僻地《へきち》を問わずどこでも可」にマルをした。定時制に行っても、三年間辛抱すれば全日制への転任希望を出せると耳にしていたこともあった。赴任した西宮西高校がはじめての夜学体験であった。  煙草を吹かす生徒に驚き、私語が絶えない授業に立腹し、教室での「番長争い」に戸惑い、長期欠席生徒に頭を痛めながらやがて定時制高校に馴染んでいった。数年たつと、全日制高校への転任希望届けを出すことをやめた。静かな教室で授業をしてみたい気持ももちろんあったが、それはどこかで「逃亡」していくようにも思えたからである。また一方で、「問題学校」で教師を務めるやりがいもそれなりにあった。  定時制高校生の気風ということでいえば、この十数年の間に明らかな変化があるという。  堀川が新米教師として西高にやってきた当時は、一学期から夏休みまで「騒ぎが絶えない」のが常態であった。つまり教室の中で、特定の個人もしくはグループが主導権を握ることがはっきりするまで、星雲乱れる状態が続く。一応の秩序が定まるまで、喧嘩や|揉《も》めごとが絶えないのである。  荒っぽい生徒が目立ったわけだが、それだけにまた「生活の匂いのする子」がいた。年は十代後半でも、その人生体験においては、新米教師など及びもつかない遍歴を経ている生徒もいた。たとえ問題は起こしても、一対一の「大人の話」ができる生徒たちが大勢いた。  そういう生徒たちは、たとえ教師をてこずらせはしても、たいてい旺盛な生活力をもっていた。学校や教師など関係なく、自力で人生を切り開いていく。そういう安心感を抱かせる生徒たちだった。  こういう傾向は、脇浜が新任教師だった頃はいっそう顕著だった。  脇浜の思い出では、「戦地帰りのオッサン」に立ち往生したことがある。戦前、学校で「神」と教えられた天皇が、戦後教育のなかでは「象徴」と一転する。その中年生徒は、若い教師に授業でその合理的な説明を求めたが、答えに納得せず、職員室の脇浜のところまで押しかけてきたという。  また年配の数学の教師によれば、マイナスとマイナスを掛けるとプラスになるという授業に怒り出した生徒がいた。借金に借金を掛け合わせるとプラスになる、そんな馬鹿なことがあるか、というのである。いろいろ説明しても納得せず、困り果てたという。  したがって授業は、教師のほうにも、ひとつ間違うとねじ込まれるという緊張感があった。  こんな話はいまや遠い昔話である。近年では、一学期のはじめに教室が荒れることもほとんどない。その代わり、無気力、無関心、無反応が年々深まっているように堀川は感じている。  それは、学力や知識の問題というよりも、考える力、あるいは問題を受け止めてそれを組み立てようとする力自体が低下しているのではないか。またそれは、定時制高校に来る生徒たちの多くが、小学校の頃からすでに「捨てられた子供たち」であったことからきているのではないか。さらにそれは、小中学校における教員たちの問題というよりもむしろ、切り捨てざるを得ない構造から由来しているのではないか——というのが堀川の分析である。  小中学校で学ぶべき科目の多さと内容の高度化があるが、近年、学習指導要項ではカリキュラムは削減傾向にある。それでも授業にまるでついていけない子供たちがいる。授業の目的は流れ作業的にカリキュラムを消化することであり、そういう子供たちに合わせることはできない。「お客さん」として切り捨てざるをえない。  そういう生徒たちをなんとかしようとする教師自体が少ないのも事実であろう。中学から上がってくる内申書を見て、堀川は毎年|溜息《ためいき》を洩らす。一年間で欠席日数が百日を超えるような生徒に対して、その理由として「頭痛」とか「腹痛」とかひと言だけ記入されているようなものが多いのだ。  生徒の気風が変わってきたのは、就業構造の変化もあるだろう。  一九九一年四月にまとめられている西宮西高校全生徒(三百八十八人)の就業調査によれば、トップは「アルバイト」で百五十七人、「正社員」は百四十九人で第二位、次いで「無職」が六十四人、「家業」が十三人となっている(長期欠席・五人)。  選り好みさえしなければ、仕事を見つけること自体は難しくない時代である。生徒たちの希望は、製造業の「正社員」よりも、「三K」ではないアルバイトあるいはフリーターに置かれているようだ。「生活の匂い」が稀薄になるのも当然であろう。  定時制高校生の|気質《かたぎ》も世の流れとともに変わっていく。そのことは彼らの責任ではないし、別段そこに問題があるわけではない。  教師たちが嘆くのは、いわば人としての基本的な成り立ちの部分の|脆弱《ぜいじやく》さ、あるいは人間関係における基本的なルールの欠如といったものを感じさせる生徒が増えていることに対して、である。  人の話を黙って聞くことができない。一対一のごく普通の会話ができない。目を合わせて話すことができない。簡単な約束事が守れない……。そんな生徒たちが少なからずいる。  保健体育の教諭でボクシング部の副顧問を務めている海老原大裕は、現在の定時制高校生の気質を「つなぎの人生」という言葉でいい表した。  すなわち、仕事にしてもはっきりした定職にはつかずにアルバイト的なものでつないでいく。カネが溜まれば単車を買い、なければローンでつないでいく。食事もその日の気の向くままに外食で済ます。学校やクラブも友人も、はたまた人生観自体もそういう「つなぎ的」なものとしてあるのではないか、というのである。  現状への否定的な言葉だけ選んで羅列すれば、 「マイナスバネが働かなくなった」 「勝負するのをひたすら避けてきた子ら」 「|糠《ぬか》に釘」 「|賽《さい》の河原で石を積んでいるような」  という声である。  生徒たちの名誉のためにいっておけば、もちろん彼らのすべてがそうだというのではない。私が多少とも付き合った生徒たちを思い浮かべても、むしろきちんとした若者のほうが多かった。また、外見は“問題児”のように映ったとしても、その表皮をめくっていけば、ナイーブな若者像が|透《す》けて見えてくる。  ただ、一般的な印象からいえば、教師たちの嘆きが根拠のないものとは思われない。その種のことは、私の乏しい体験でも少なからずあったことである。彼らに人格的な不信を抱くことは一度もなかったが、「脆弱さ」と「|歯痒《はがゆ》さ」を感じることは何度かあった。現在の定時制高校生の気質をひと言でいえば、“だるい子ら”という言葉が当てはまるだろうか。  こういう定時制高校の現状に、人一倍憂いと憤慨を抱いてきたのは、生粋の夜学育ちである脇浜であったろう。  西宮西高校職員組合の機関誌『西西組合新聞』にこんな一文を寄せている(一九八八年二月十日付)。脇浜の個人史の上に築かれている教育観、あるいは人生観の一端がうかがえる。   《わるい通知簿を持って帰ってきても、親は笑っただけだった。学校の成績では金持ちに勝てないことをよく知っていたし、その点で子供に勝負させる気もなかったのだろう。それに、どうせすぐ世の中に出て働いて家計を助けなければならないのだから、上の学校に行くような良い成績は不要だった。しかしケンカに負けて帰ってきたときは怒った。もう一度出かけて殴り合ってくるまでは家に入れなかった。だから貧乏人の子は成績は悪いがケンカには強いというのが通り相場だった。それは人生に必要なことだった。なけなしの誇りだった。    いつの頃からか貧乏人の子がケンカに弱くなった。そのうえ怠け者で、横着で、金持ちのように不人情になった。〈アカンタレがほんまにアカンタレになりよった〉と古老は嘆く。京大がアメフトに優勝したのは象徴的だ。唯一の誇りであった肉体と腕力からも疎外されたら、ぼくらには一体何が残るというのだ。肉体と腕力のうえに、貧しい人たちのやさしさがあった。ゴンタクレが消えるとき、やさしさも失われていく……》  脇浜が教師になって二十数年、さまざまな教育活動や組合活動を行い、個々の問題では成果をあげながらも空しさを重ねていったとすれば、この定時制高校の状況と無縁ではなかったはずである。そして、彼がボクシング部という場でなぜかくも熱い情熱を注いできたのかというわけも、このなかに潜んでいるように思えるのだ。 [#改ページ]   第二章 道  場

     1  西宮西高校にボクシング部ができるに当たっては、在日韓国人の兄弟がそのきっかけをつくっている。兄を|黄《フアン》|金秀《クンス》、弟を木村光秀という。兄弟で名字が異なっているのは、兄が本名で、弟が通名で通っていたからである。  学校や社会のなかで、本名で通す在日韓国・朝鮮人の子弟たちが徐々に増えてきている。それは本来当然のことであろうが、日本社会で生きていく便宜上、通名、あるいは“混名”のままで通す生徒もいる。  西宮西高校では、本人から相談を受けた場合、本名のほうがいいのではないかという勧めはするが、基本的には本人任せである。  木村光秀によれば、「子供の頃から木村姓だったし、黄というのがどうもしっくりこんので」とのことである。「別にどっちでもよかったんだけど」ともいう。大柄な躰つきでいかにも|逞《たくま》しく、このことからもうかがえるように、こだわりのない性格をしていた。  西高に在学中、彼は、自動車の塗装工場に勤務し、卒業後もその仕事を続けている。いずれ鈑金塗装の店を自分で持つという夢をもっている。彼ならきっとそんな夢も実現させるだろう。そんなエネルギーが伝わってくる青年であった。  以前私は、在日韓国・朝鮮人の若者たちと付き合う機会をもったことがあるが、それが|強《し》いられたものであるかどうかはともかく、一般的な日本人の若者よりもはるかに生活力旺盛な一群の若者がいることを知った。どのような困難があろうと、なんとか自力で道を切り開いていくであろうと感じさせるものをもった人たちである。会ってすぐ、彼もまたそういう部類に入る若者であるように思われた。  その|醸《かも》し出しているものからして、少年の頃は相当のやんちゃ坊主であったのだろう。その点を訊いてみると、「三度のメシより喧嘩が好きで」という答えが返ってきたものだ。  彼にはボクシング部発足のいきさつを知りたくて会ったのだが、話の多くは西宮西高校で体験したことに費やされた。卒業して数年になる。とくに用事はないのだが、ときおり学校にやってくる。道場を|覗《のぞ》いたり、脇浜たちと会っておしゃべりをするためだ。彼にとって、西高がおそらくはじめての、その名に値する「学校体験」であったように思われるのである。  小学校・中学校を通して、彼にとって、学校とは「嫌なところ」であり、例外はあるにせよ、教師とは「嫌な奴」であった。  それには彼が在日外国人であったこと、相当の「ゴンタ」であったことに由来するところもあろうが、最大の原因は「終始(勉強の)できん側に属したこと」にあった。  中学時代。宿題をしてこなくて授業中に立たされることは慣れっこになっていたが、授業で使う「振り棒」で耳を弾く教師がいた。冬、かじかんだ耳に振り棒は応えた。 〈こんなもんなんぼでも受けたる。その代わりお前のいうことは金輪際聞いたらん!〉  と思って耐えたものだ。そういう反抗的態度が伝わるのであろう、よけい教師から反発を買ってしまう。  体罰より耐えがたかったのは、「無視される」ことである。席順に生徒たちに答えを求めながら、彼だけを飛ばしてしまう教師がいた。当てられたら答えられるかどうかはわからない。しかし、はじめから飛ばしてしまうというのは、かなりひどい|苛《いじ》めであろう。あるいは反対に、あえて難しい問題を当てて困らせる教師もいた。  中学のときからときおり隠れて煙草を吸っていた。ゴンタたちがよくすることであろう。教師に見つかって、往復ビンタを喰らわされた。バレるはずがないのにどうしてわかったのか。調べてみると、彼の「不良仲間」で、一番“ゲロ”をしやすい生徒に目をつけてしゃべらせたものとわかった。別に殴られるのはかまわない。だが、「やり方が汚い」と彼には映った。  このような話は、彼の話を聞いてそのまま書いているのであるから、事実関係としては割り引いて考えるべきであろう。しかし、西高の生徒たちに小学校・中学校の思い出を訊くと、同種のことを、それこそゲップの出るほど耳にする。とりわけいまの時代に、安易に「体罰」を振るう教師が多いのはどうしたことか。確か「体罰」は学校教育法で禁じられた違法行為であったはずである。それは|措《お》くとしても、ひとりの生徒のなかに、何年何十年と|忌《い》まわしい記憶を残していくだけでも、「体罰」とはなんと愚かしい行為であるかと思うのである。  もちろん、そういう教師ばかりだったわけではない。彼は勉強はできなかったが、スポーツは万能だった。少年野球の中心メンバーであったし、体育授業では、跳び箱、マット運動、サッカーと、なんでもよくできた。小学校六年のとき、「木村君は運動は一番だね」といつも|褒《ほ》めてくれる女性の教師がいた。褒められるともっとうまくなろうと努力する。努力するからますます上手になる。するとまた褒めてくれる。学校が楽しいと思った数少ない体験である。  中学を卒業すると、一年間、職業訓練校に通い、その後、塗装屋に勤めはじめる。西高に入学したのは「冷やかし半分」だった。  二歳年上の兄(金秀)は事情があって大阪の私立高校を中退してしまっていた。高校は出ておかないとという親の勧めで、兄は近所にあった西高に入り直すことになった。兄が行くなら「ついでに」ということで、彼も一緒に入学する。兄は二十歳、彼は十八歳だった。定時制高校では、こういうケースはよくあることである。  したがって、気持の上からいえばまったくネガティブな高校進学だった。親には「試験を受けて合格したらすぐにやめるからな」と広言していたほどである。彼が思っていたのは、〈馬鹿馬鹿しくていまさら黒板に向かって座ってられるか。それよりも俺は手に職をつけてカネを握ってやる〉ということだった。  ところが、しばらく学校に通っているうちに、〈様子が違うな〉〈これが学校かいな〉と思うことが増えてきたのである。  まず違っていたのは授業のあり方である。彼のいい方を借りれば、「一を聞いて十飲み込む人間ではなく、十を聞いて一しか飲み込めない人間に合わせた授業」であった。  社会科の授業で、いまだに記憶している話がある。人間がなぜ生まれたのか、という話である。宮先生という教師の説明はこうだった。  人類の先祖は木から降りてきたサルたちだった。森林を離れたサルたちはやむなく立つことを覚えた。やがて自分たちを守るために火をおこすことを覚え、食べ物を得るために槍を持つことを覚えていった……。教室に座っていて、自分が抱く〈なぜ〉という疑問に応えてくれる授業ははじめての体験だった。  数学と英語は好きにはなれなかったが、社会、歴史、商業簿記の授業を受けるのが楽しみだった。授業中に質問をするのもはじめての経験だった。やがて彼は、〈勉強も悪くないな〉と思うようになっていった。  もうひとつは、先生と生徒の関係である。  西高では先生と生徒の関係はほとんど対等だった。言葉遣いもそうであったし、教師から一方的に命令されることはまずない。それが定時制高校という特性なのかどうか、「なんとなくぬくもりのある先生」が多い。教師と生徒という上下の関係に慣れていた彼にとっては、〈こんな自由でええんか〉と思ったほどである。もちろん、教師が生徒に体罰を加えることなどまったくなかったし、そういうことは雰囲気としてもおよそ考えられないことだった。  生徒同士の争いごとやさまざまなことはあったけれども、彼にとって西高は「ええ学校」であった。そして「冷やかし半分」で入学した高校を四年間通って卒業する。卒業なんて、入学時には思いもしなかったことである。卒業式の日、卒業証書をもらって、心からうれしかったことを覚えている——。  過去を懐かしむ気持は誰にもあるし、人は楽しかったことを記憶に残していくものだ。そのことを勘案してもなお、彼にとって、西高が良き学校としてあったことがよく伝わってくる。それは、他の卒業生の話からも大なり小なり返ってくるものであった。  ある卒業生は、西高を「寺子屋だった」といったものだ。  その点を脇浜に問うと、こんな答えが返ってきた。 「まあ寺子屋がなんであるかようわからんが、学校に来たものに合わせてやるのが寺子屋だとすれば、ここはある種の寺子屋ではあるかもね。ABCがわからなければABCから、割り算がわからなければ割り算からやるのがモットーですから。いま学校はそうはなっとらんわけよね。生徒がわかってもわからなくても教科書通り進めるということですから。ただ別段、寺子屋方式がいいと思っているわけではなくて、やらざるを得ないからやっとるだけなんですけどね」  スポーツ好きだった木村光秀は、ウェートリフティングのクラブに入った。とはいっても定時制高校のクラブのことである。彼が創部者のような存在で、数人が気が向いたときに集まる同好会だった。体育館の壁にウェートリフティング雑誌から切り抜いた写真を貼りつけ、ひと組だけあったバーベルを見よう見まねで挙げてみては、各自が力自慢をしているというのが練習風景だった。  兄の黄金秀も無類の格闘技好きで、兄弟で空手や拳法の真似ごとをする日がよくあった。そんな格闘技好きが高じて、兄が「ボクシング部をつくろうやないか」といいだした。一九八四(昭和五十九)年四月である。弟が三年生になった春、兄が一年生のときである。年次からいうと兄も三年生になっていなければならないわけだが、出席日数が足らず、兄はずっと留年を続けていた。  ふたりは脇浜のところに相談にいった。ふたりとも脇浜の授業を受けたことはなかったが、「なんとなく相談ごとは脇浜先生という空気があって」出向いたとのことである。  ところが脇浜は、「うーん、ボクシング部なぁ、どうやろうなぁ」といって、あまり乗り気のない表情をする。さらにふたりが、とにかくやってみたいというと、 「どうしてもやりたいというんやったら、まず部員を集めてこい。それから考えよか」  というのが脇浜の返事だった。      2  脇浜が木村兄弟に気乗りのしない返事をしたのは理由がないこともなかった。  一九八四年春といえば、脇浜が西宮西高校に赴任して十二年目に当たっている。この当時、学校教育や組合運動にかかわることで、心底情熱を燃やせるような対象にはあまり出会わなくなっていた。問題の根本的な解決があったかどうかはともかく、表面的には定時制高校を取り巻く環境は随分と改善されてきていた。  彼が怒りに駆られて行動するような問題が起きたのは、赴任して数年の間に集中している。彼がぽつんぽつんと話したことから拾ってみると、いまでは信じられないような事柄も起きている。  地方から出てきている女生徒がいて、彼女は看護婦の見習いを兼ねて西宮市内の個人病院に住み込みで働いていた。真面目な生徒であったが、だんだんと学校に顔を見せなくなった。なにか事情が生じていることは、長年教師稼業をしておれば勘でわかることである。  折りを見て彼女の住んでいる個人病院を訪ねていった。事情はすぐに判明した。看護婦見習いとは名前ばかりで、お手伝いさん代わりに日夜働かされており、学校に通いたくても来れないのである。彼は雇用主の医師に会って、少なくとも労働基準法の範囲内に基づいた取扱いをしてくれるよう談判した。  このようなことは、個人企業主のもとで働く定時制高校生にとってよくあることである。けれども、彼女から、風呂に入るのは飼われているスピッツが入ったあとからだと聞いたときは絶句した。医師夫婦には、「人権問題」という立場からもう一度話をせねばならなかった。  授業中に、手首から血をしたたらせた卒業生が飛び込んできたのも、この頃だった。Kという女性で、彼女は同和地区の出身者であった。  西高内に「部落問題研究会」をつくったのは脇浜である。西高に通ってきている生徒たちの多くは西宮市・芦屋市・宝塚市の居住者であるが、いずれも市内に同和地区がある。発足して数年は、脇浜が中心になって活動が続いていた。  彼の基本的なスタンスは、「朝鮮文化研究会」もそうであるが、問題の解決は当事者が中心になって当たれ、というものである。ただし、外部の人間にもできることはあって、たとえば就職差別の問題を解消することはそのひとつだというものである。  Kもその研究会に何度か顔を出したが、やがてやめてしまった。Kは男|勝《まさ》りの、勉強のよくできる生徒だった。やめるとき、Kは脇浜にこういった。 「先生たちが差別、差別というから差別があるのと違いますか。そっとしておいてさえくれたら差別なんてなくなってしまうのに」  彼女は卒業して、美容師になった。脇浜とは音信が途絶えていたのだが、卒業して約一年後、突然、授業中に、カミソリを手にした彼女が飛び込んできたのである。  修羅場の数を踏んできたことにおいては人後に落ちないはずの脇浜も、このときばかりは驚いた。傷口を見るとかなり深い。授業は即中断して、彼女を近所の病院に担ぎ込んだ。  落ち着いてから事情を訊いてみるとこうなのだった。  彼女には付き合っている男がいて、婚約まで話が進んでいた。家族同士の付き合いもはじまり、彼女は自分が同和地区の出身であることを打ちあけた。すると男の態度が急によそよそしくなり、婚約の破棄を一方的に通知してきた。それを苦にした彼女は発作的に手首を切り、切ってから脇浜の顔を思い出して学校に駆け込んできたというのである。 「自分の手首を切るくらいなら、そんなしょうもない男はドツキ回してやらんかい」と脇浜がいうと、「先生らしいいい方やね」といって、彼女は笑った。  その後数年して彼女は別の人物と家庭を持ち、二児の母親となっている。いまもときおり、脇浜を訪ねて学校にもやってくる。  脇浜が、差別問題や在日韓国・朝鮮人の生徒たちへの就職門戸を開かせる運動に熱心に取り組んできたのはこのことがひとつの契機となっている。最近では、問題が解決されたというわけではないが、露骨な差別問題として浮かび上がってくるような事例は少なくなった。  脇浜が打ち込んできたもののひとつに、先に触れた「兵庫県自立高等学校教職員組合」がある。「自立」という言葉に、上意下達型の組合運動を脱皮しようとする意気込みが込められている。ただしこれも、県内レベルではさほどの広がりもなく、八〇年代に入ると少数派組合として固まってしまう。どのような運動も、やがては日常のルーティン・ワークとしての活動に落ち着いていくものだろう。彼はそういうなかに「やりがい」を感じ取るタイプではなかった。  一九八〇年代に入って高校に入学してくる生徒たちは、一九六五(昭和四十)年以降に生まれた世代ということになる。生まれたときから高度経済成長のなかで育った子供たちである。生活上の困難や家庭上の問題を抱えた生徒たちが少なくないとはいっても、脇浜たちの世代が昭和二十年代に体験したものとは次元が異なろう。脇浜は生徒たちと言葉が通じなくなったと感じたことはないが、彼自身のハートに響いてくるような、そういう生徒の層が年々薄くなってきたのは確かだった。  なによりも、ひと筋縄ではいかぬ「ゴンタクレ」が少なくなった。代わって目につくのは、虚弱体質の、怒りなどはじめから抜き取られてしまっているような、そういう子供たちである。喧嘩騒ぎは少なくなっても、教室の空気は年々よどんでいくように感じられるのだ。 「いまの子はなにかに本当に真剣になったことってあるんかいな」 「はじめから負けてしもうとるか、あるいは負けてしもうとるということにも気づいてないんじゃないか」 「いくら黒板に字を書いたところで人間変わりはせんよ」  などというのが、この中年教師から洩れてくる嘆き声であった。  一九八四年は、脇浜の年齢でいうと四十三歳である。いうならば仕事も家庭もそれなりに落ち着いたものとなり、新しい世界を開拓するのは意欲はあってもエネルギーを欠く年頃といってもいいであろう。  木村兄弟がボクシング部創設の話をもってきた頃、脇浜は「あまりヤル気なかったな」という。ひらたくいえば、脇浜は、なにもかもに、いいかげん|倦《う》んでいたのであろう。  さらに、彼らの持ち込んできたものが問題であった。ボクシングでなければ、別段、どうということはない。だいたい、生徒のいってくることに水を差したことなど一度もない。しかし、ボクシングにはそうそう簡単に安請け合いはできない事情があった。  ボクシングは、脇浜にとって唯一、|疼《うず》くような若き日の思い出を呼び起こす対象であったからである。湊川高校の定時制の生徒であった頃、彼はボクシングをしていたのである。  二年生のときだった。友人の|朴《パク》という生徒が、「ふたりでボクシングやってみいひんか」と誘ってきたのを受けて、脇浜はボクシングをはじめた。  脇浜はこの頃、川崎重工業神戸造船所の養成工だった。前途に希望はなく、家も職場も学校も憂鬱なるところであり、周りはすべて閉ざされていた。ボクシングでなくともよい。どこかで閉塞状況に風穴をあけてくれそうなものがあればなんでも飛びつきたい。そんな気分の日々だった。ボクシングなど、喧嘩に似たものであろう。喧嘩だけは自信がある……。  裸電球が体育館の片隅をボーッと照らし出していた。サンドバッグがひとつだけぶら下がっていて、それに向かってひたすらパンチを叩きつけるのが練習だった。リングもなければミットもなく、またミットを受けてくれる教師もいなかった。  高校のクラブであるのだから、指導教官がいたはずであるが、記憶にない。四、五人の部員が集まって、各自勝手に縄跳びをしてサンドバッグを打っていたというのが脳裏に残っている光景である。  クラブが発足してすぐ試合があった。「関学高校の西口」という対戦相手を覚えている。初戦は判定負けだった。“喧嘩に負けた”ことが無性に悔しかった。これが発奮材料になり、練習を重ねてその年の兵庫県高校ボクシング新人大会で優勝する。  高校の県大会、市民大会、大学で開かれるアマチュア試合など、試合のお呼びがかかると必ず出向いた。  試合ぶりは、「まずは自分が打たれてから入っていく」流儀だった。喧嘩の作法を踏襲していたことになる。やがて打たれても打たれても前に突っ込んでいくブルファイターになった。勝ったり負けたりであったが、どの試合においても、その日会場にやってきた観客をもっとも沸かす選手になった。 「いま思うと己の恨みつらみを試合でぶつけていたようなもんでね、相手には悪いことしてたな」  と振り返る。  彼のクラスは、体重からするとフェザー級(五十四〜五十七キロ)だったが、強い選手は軽量のフライ級(四十八〜五十一キロ)、バンタム級(五十一〜五十四キロ)に多い。強い相手を求めて減量し、フライ級で出場したこともあった。通常は強いパンチ力を避けるためにクラスを落とすわけだが、彼の発想は逆だった。減量をし過ぎて栄養失調となり、それがもとで|脚気《かつけ》になったこともあった。  ボクシングはもちろん、喧嘩ではなかった。練習の積み重ねなしに試合に勝つことはむつかしい。単純そうに見えて、ひとつの技を身につけるまでには多大の反復練習を要する。そして体重のコントロールをはじめ、もっとも自己管理が求められるスポーツでもある。  また一方、リングに上がれば、頼りになるのは二本の腕だけであり、相手との条件はまったく同じである。ここでは彼がなにものであるかを問われることはない。全日制であろうと定時制であろうと、医者の息子であろうと母子家庭の子供であろうと関係はない。彼はボクシングというスポーツにのめり込んだ。  生活に追われ、希望のない日々を送った十代。ボクシングだけは自身のなけなしの誇りを懸けたものだった。兵庫県高校ボクシング新人大会で優勝したとき、はじめて自尊心というものを覚えた。母親には、ボクシングなどという「余計なもの」をしているとはいっていない。優勝してもらった賞状とカップの置き場に困って、見つからぬよう押し入れの奥にこっそりしまい込んだ。じきに無くなってしまったが、それまで、己の人生に表彰されるものがあろうとはついぞ思いもしなかった。悪くはないものだった。  ボクシングにまつわるものだけは、「青春」という言葉が微かに匂っているようなものとして、脇浜の記憶の隅にとどまっていた。  木村兄弟が持ち込んできた話は、彼に二十数年前の思い出を呼び起こしていた。自分のなかで|僅《わず》かに動こうとしているものがあった。けれどもまた、こう思い直してもいた。果たしていまの子らに、|熾烈《しれつ》でかつ持続的な辛抱を求められるあんなスポーツが勤まるのだろうか……。      3  山下和美が、黄金秀からボクシングをやってみないか、と声をかけられたのは西宮西高校に入学してひと月ほどたった日である。夜の学校というものに、なんとか慣れてきた頃だった。  彼がこの高校にやってきたのは、ひとつの典型的な事例ということになろうか。小中学時代を通して勉強嫌いであり、全日制高校への進学を断念した。が、親から「高校ぐらいは出ておかないと」といわれ、また自分もそう思い直して西高に入学した。  意志的な眼をしている。小柄ではあるが、身の動きからして、いかにも運動神経の良さを感じさせる。その機敏さは性格にも現われているようで、はきはきとした明朗な若者である。  彼の所属したクラスは一年C組で、A、Bが普通科であるのに対し、このクラスは商業科である。黄青年はすでに二十三歳であり、また大柄な躰つきもあって、山下たちからすれば「オッチャン」と映っていた。黄がすでに二年連続留年していることも知られていた。「ごついオッチャン」ではあったが、面倒見のいい性格もあって黄はクラスの人気者だった。  黄から声をかけられたさい、山下はすぐ、是非やらしてください、と返事をした。彼はボクシングに大いなる興味を抱いていたからである。小学生時代、漫画本の『あしたのジョー』は繰り返し読んだ愛読書だった。中学のとき、一時ボクシングジムに通いたく思い、『ボクシングマガジン』に載っている広告を頼りにジムに電話をしたこともある。入会金一万円、月謝一万円と聞いて、この折りは断念した。  黄の話では、何人か仲間を集めてきたらボクシング部が発足できる手筈になっているとのことだった。  山下が声をかけたのは、C組のクラスメイトである安田裕志、辺見誠彦、高橋卓也などだった。このうち山下、安田、辺見の三人は西宮市内の同じ中学の出身で友だち同士だった。辺見は西宮市内にある鉄工所に勤務していたが、ここに普通科の薄井長門がいて、辺見が誘ったことから薄井も参加してきた。  黄の呼び掛けとともに集まったのは他にも数人いたが、山下、安田、辺見、高橋、薄井の五人はその後四年間(薄井は三年間)、ボクシング部のメンバーであり続け、西高ボクシング部の第一期生を形成する。辺見は目と耳に障害があり、主にマネージャー役を担当する。  黄自身はこの後間もなく結婚して西高を退学し、三年生の弟の木村光秀が後を受けて部長格になる。彼の場合も年齢が二十歳を超えており、公式試合には出ることができない。したがって、脇浜と山下たちの間をつなぐ兄貴分という格好で参加していた。  木村には、集まった連中が、いかにもひ弱で頼りなげに映って仕方なかった。小柄でひょろっとした躰つきもさることながら、性格的にみてもそうなのだ。まあまあしゃべるのは山下ぐらいで、彼は「|茶目《ちやめ》」であった。他の四人はといえば、伏し目がちの、どこにいるかよくわからないというタイプである。〈こいつら、すぐにケツ割るデ〉と思ったものである。  それは脇浜の印象とも重なっている。ランニングひとつさせても、|直《す》ぐバテてへたり込んでしまう。とにかく体力がないし、ゲンコツの握り方も知らないものがいた。〈喧嘩したこともないんかいな〉と思って呆れたものである。  別段家庭環境は関係なかろうが、この五人のなかでいうと、山下は父子家庭の、また安田と高橋は母子家庭の生徒である。身内を不幸な事故で亡くしたものもいる。いわばそれぞれが「わけありの」生徒たちであった。  山下和美の両親は彼が小学校一年のときに離婚をして、以来父と妹との三人暮らしを続けてきた。そのせいというわけでもなかろうが、ずっと勉強嫌いであった。彼もまた、小中学校時代は、木村光秀にとっての学校とそっくり重なっているようである。  中学校時代の思い出を訊くと、授業がおもしろくないから居眠りの常習犯であったこと、眠っていると「ジャッカル」と|渾名《あだな》をつけていた女の先生に机ごとひっくり返されたことがあること、運動神経が良く体育の授業だけが楽しみであったこと、などをあげたものである。  一番嫌だったのは、遠足などの行事ごとだった。朝早く仕事に出る父親に、弁当を作ってくれとはいえなかった。近所の弁当屋で買ったもので済ませていたが、肩身の狭い思いをした。参観日に親が来たことは一度もない。ともかく「学校のことで家にかかわってくることが嫌」であった。  西宮西高校ではその種のことはまったくなかった。彼もまた「学校が楽しいと思ったのは西高がはじめて」といった。  ボクシング部の発足に当たって、不思議なことがあった。日頃腕っぷし自慢の番長クラスの生徒はひとりもやって来ず、また入部したとしてもすぐにやめていった。ボクシングは、はったりも駆け引きも一切通用しない。虚勢はすぐに|剥《は》がされてしまう。だからであったのだろう。  木村兄弟に山下たち数人が加わったところで、部が発足した。一九八四年五月であった。  ボクシングというスポーツは、やろうとすればそれなりの用具がいる。水泳のように海水パンツひとつでいいというわけにはいかない。  まず練習場であるが、当初は体育館の片隅を使い、しばらくして、ほとんど使われないままに放置されていた空手・剣道場を使うことになった。校舎の裏側に建っている古いお堂のような木造の建物である。中は薄暗く、トイレの戸はつぶれ、天井には|蜘蛛《くも》の巣が張っていた。  この道場について、山下和美の記憶にこびりついているのは、道場全体がなんともいえずに|黴《かび》臭かったことである。屋根の瓦がはがれていたからであろう、大雨が降ると雨漏りがした。窓には網をかぶせた曇りガラスがはめ込んであるのだが、それもところどころ割れている。サンドバッグを叩くと、窓ガラスがビシビシと震えるのだった。人気のないときはまるで「お化け屋敷」だった。  一同が集まって練習をはじめたのは、梅雨にかかる季節である。割れガラスから|隙間《すきま》風が吹き込んできて、それはそれでいいのだが、道場全体が「|藪蚊《やぶか》の巣」になっていた。夏の季節、彼らがもっとも悩まされたのは下着の上からでもおかまいなしに刺してくる|獰猛《どうもう》な藪蚊であった。  当初は用具類がひとつもない。集まっては、体操と縄跳びとランニングだけを繰り返していた。しばらくすると道場の板の間に、四角にガムテープを貼り付けてリングの目安とした。また、柔道部が使っていた古い畳を何枚か重ねて壁に立て掛け、マジックで、|顎《あご》、ボディ、レバーに当たる箇所にマルを書き、そこを叩いてサンドバッグ代わりにしたりした。  部員のなかで、それまで脇浜をよく知っているものはいなかった。山下たちの英語の担当は脇浜ではなく、その道場が彼らと脇浜のはじめての出会いの場であった。  彼らが授業が済んで道場に集まってしばらくすると、顧問の脇浜がやってくる。必要なこと以外はほとんど口をきかない。愛想というものがない教師であった。準備体操と縄跳びが済むと、彼らを横一列に並ばせ、 「ボクシングは左や。とにかく左を出せ!」  といって、左のジャブとストレートを出す練習ばかりをさせるのである。  道場で顔見知りになってから、山下は学校の構内で脇浜と出会うと、「こんにちは」と声をかけたものだ。けれども、脇浜はほとんど返事らしい返事をしない。わずかに、口の中で、「うん」とか「ふん」とかいうだけである。道場で会っても、だいたいがブスッとした顔をしている。  部員たちのほうも、偶然誘いがあって、いわばおもしろ半分に集まってきただけである。別にどうしてもボクシングの技を磨きたいと思っているわけではない。  そんな雰囲気が伝わるのか、彼らの顔を見るたびに、この顧問の教師は、〈お前ら、ほんまにやる気あるんか〉という表情で|睨《ね》めつけるのである。〈気むずかしくて嫌な先生やな〉というのが、部が発足してしばらく、山下が思っていたことである。  この顧問先生は、しばらくすると、さまざまなボクシングの用具類を持ち込んできた。  最初は小さなサンドバッグだった。これは脇浜が自宅の縁の下にほうり込んでいたもので、皮はぼろぼろになって黴がはえたような|代物《しろもの》だったが、ないよりはましだ。  この中に砂を詰め込んで鎖を渡し、天井からぶら下げた。サンドバッグはこのひとつしかないものだから、これを挟んでふたりが向かい合い、相互に打ち合うのである。山下と安田がやっているとき、鎖の止め方がいいかげんであったからであろう、サンドバッグがドサッと落ちてきて腰を抜かしたこともあった。  さらに顧問先生は、どこで都合をつけてくるのか、グローブ、ミット、ヘッドギア、ノーファールカップと、次から次へと用具を持ち込んでくるのである。ほとんどが中古品であったが、練習ならそれで十分である。  脇浜は手先が器用で、モノを工夫して作ることが好きだった。  使われなくなったバスケットボールやバレーボールを手に入れてくる。|剃刀《かみそり》で切って穴をあけ、中に古い下着などを詰め込んでテープで蓋をする。これをボディを鍛えるためのボールに転用するのである。  ボクシング部が発足したのは五月という中途半端な時期であるから、学校からクラブ予算は出ない。脇浜によれば、「ごついカネでもないし、こっちも好きでやってんのやし、好きなことでカネを使うのは当たり前のことやし」という。ポケットマネーで買い揃えていたのである。  部が発足して半年もたつと、一応の用具類も揃い、ボクシング部はクラブ活動として軌道に乗ってきた。この頃になると、部員より先に、脇浜が必ず道場にひと足先に入って待ち構えていた。  季節は冬になった。隙間風が吹く道場は寒い。道場の裏手にグラウンドが広がっていて、隅に掘っ立て小屋のシャワー室があった。蛇口をひねってお湯になるのが数分後のことで、お湯にならないときもあった。冬場、シャワー室で震え上がったというのが、この一期生たちが一様に記憶しているひとこまである。そのせいか、よく風邪を引いた。けれども、顧問先生だけは平気であるようだった。  風邪など汗を出したら治る——というのが、彼らが等しく覚えているところの、顧問先生の“指導方針”であった。また「栄養をつけないかん」というのも口癖で、学校の食堂からその日余った牛乳を確保して、道場に持ち込んでくる。そして、彼らが牛乳が好きか嫌いかはおかまいなしに、「これを飲んで元気だせ」というのである。  ——いつの間にか脇浜は夢中になっていたのである。      4  薄井長門から聞いていたのは、阪神・西宮駅から大阪よりに三つ目、|久寿川《くすがわ》という駅だった。駅を降りると、頭上に高速道路が重なっていて、少し先の西宮インターチェンジで阪神高速道路と名神高速道路が合流している。道路下の周辺はほこりっぽい感じで、アパートと町工場がまだら模様になって続いている。  駅から数分、岩崎製作所はそんな一角にある町工場である。くすんだ灰色のスレート張りの建物で、入口を入ると、左手に大きな工作機械が数台並んでいて、右手には赤錆と油をたっぷりと吸い込んだ土間が見える。  夕方。土間に据えつけられた低い作業台の側で、安全靴を履き、グレーの作業着を着た小柄な若者がしゃがみ込んでいた。  足もとに、コの字形になった鉄の枠が積み重ねられている。ボルトでとめた|繋《つな》ぎの部分を、さらに溶接をして固めているところだった。繋ぎ部分に、左手に持った細い溶接棒をあてがい、右手はボンベから伸びたホースの先を掴んで器用にガスを吹きつけていく。火花が大きく散ると、顔面にさっと手持ち面をかざす。さらに合間合間に煙草をくわえる。彼にとっては、こんな作業はほんの片手間にこなせるものであることが見てとれる。  その時間はもう勤務時間が済んでいて、工場で残業をしているのは、彼と中年の男女がいるだけだった。男女のほうは、土間の片隅で、これまたなにかの部品であろう、小さな金型の穴あけをしていた。  薄井からは、「会長」の親方がいて、「社長」の婦人がいる小さな工場であると耳にしていた。きっと彼らがそうなのだろう。太い黒ずんだ手をした親方は、いかにも下町の住民らしい雰囲気を漂わせた人物であった。  仕事が一段落して、私が薄井と話し込んでいると、親方も話に加わってきた。この製作所は防衛産業関連のさまざまな部品を作っている下請け工場で、従業員が十一人、薄井が工場長格を務めているとのことだった。 「まあ岩崎の|親父《オヤジ》といえば、このあたりではヘンコで通ってます。知らんもんはおらん。この子にも、そらびっくりするほど残業をさせて、ガンガン仕込みました。もう一人前です。いまはこの子に任せておったら間違いはない。私ら子供おりませんネン。証文は書いておらん、証文は書いておらんがあとを取ってくれたらと、まあそう思っておるわけです」  若者は、親方のそんな|褒《ほ》め言葉を照れたような表情で聞いていた。  親方がいうように、彼はきっと腕のいい職人なのだろう。腕が良くて、口数が少ない。若者はいま、工場街に|棲《す》むそんな男たちの世界にすっかり溶け込んで暮らしているようだった。  薄井がこの工場に勤めはじめたのは中学を出てすぐである。中学校からの紹介だった。  彼は四年間の高校生活を通して、学校も工場もほとんど休んだことがない。定時制高校生のなかで、四年間同じ職場に勤めるのは珍しいといっていいが、彼は卒業して数年たついまもこの製作所に勤めている。そこにも彼の生真面目な性格が表れているようである。  薄井が西宮西高校に入学したのは、いわば旧来型のタイプといっていいであろうか。家族のなかに長期入院者がおり、姉が私立高校に進学していたこともあって、全日制高校への進学を諦めた。  それまで喧嘩をしたことが一度もないというほどおとなしかった彼が、ボクシング部に入ったのは、単なる好奇心からである。それに、通いはじめた高校が自分に合っていると感じたことも、クラブ活動をしてみようかと思う伏線になっていた。  中学時代、別段「落ちこぼれ生徒」でも「問題児」でもなかった彼であるが、高学年になるとなにもかもが高校受験のために集約されていく学校のあり方は苦痛だった。いったん高校進学を断念した彼にとっては、勉強に身が入らず、授業時間はただ早く過ぎ去ってくれればいいと思うものになっていた。  西高は、中学とは随分と校風が異なっていた。  まず授業に興味がもてた。目の前に迫った入学試験のための授業ではなく、万事のんびりとしていた。すべての課目がそうだったわけではないが、新しい未知のことを知っていくおもしろさがあった。  中学と一番違っていたことは、先生の態度である。中学時代、問題児でもなかった彼であるから、教師からとりたてて叱られたり苛められたりした体験はない。ただ、進学を断念した彼に目をかけてくれる教師はいなかったし、なんとなく差別感を抱かせる教師が多かった。それに、高圧的に出てくる大人には反発するという性格をしていた。要は学校がおもしろくなかった。  この高校は先生と生徒という垣根がほとんどなく、生徒にとって先生は「兄貴分」というのが一番ぴったりしていた。彼の気質に合った。  毛を染めたり、派手な格好をした生徒たちもいたが、それはそれで別にどうということはない。日常の規範についてはまったくの自由であったが、それでいてなんとなく規律があるようにも感じられた。  規律というのは、生徒同士のいざこざはあったとしても、ある一線を越えてはやらないという|黙契《もつけい》のようなものである。たとえば中学の頃、夜中に教室の窓ガラスが割られていたり、ボヤ騒ぎがあったりということが起こったが、西高では四年間通して、その種のことは一度もなかった。  当時、「暴走族問題」がマスコミを賑わせていた。西高に通ってくる生徒の多くがバイク通学であることから、学校付近では、西高の生徒が暴走族であるような受け取り方をされた時期もあったが、実際はそんなこともなかった。  高校に入学した当初は定時制高校というこだわりがあったが、入学してしばらくすると、彼はこの学校が好きになっていた。仕事を終えて、学校に行くのが億劫であったり、ボクシングの練習が辛かったという思い出こそあれ、学校にかかわることで嫌な思いをしたということはない。卒業してからも、全日制高校に進学しなくて良かったと思ったものである。  薄井をボクシング部に誘ったのは、同じ岩崎製作所に勤務していた辺見誠彦である。辺見は山下たちと同じ中学の出身で、その関係で入部していた。  辺見は声をかけてはみたものの、薄井がボクシングをやるとは思わなかった。そういうタイプには見えなかったからであるが、薄井はすぐ「俺もやってみたいな」と返事をした。  薄井によれば、とりたててボクシングに興味があったわけではなく、学校と職場の他にもうひとつやることがあってもいいか、と思ったのである。それに定時制高校のクラブである。同好会のようなものであろうし、たいしたものではあるまい。そう思えた。  その予想はまるっきり外れる。そして、ボクシング部は、彼の高校生活にもうひとつの思い出を刻むことになる。学校のことは年々薄れていくが、ボクシング部にかかわることはひとつひとつが鮮明だ。  入部して半年ばかりたった頃だった。顧問の先生から、「おい、お前の勤めているところで余っている鋼材はないかいな」と相談をもちかけられた。それも、思い出のひとつである。  脇浜が薄井に鋼材のことを尋ねたのは、手製のリングを作ろうとしてのことだった。  ボクシングはなんといってもリングあってのスポーツである。けれども、こればかりは手軽に買える代物ではない。次年度にクラブ予算がついたとしても、体育クラブの予算は年間数万円に過ぎない。それならいっそのこと自分で作ってやろうと脇浜は思い立ったのである。  まず必要なのは、コーナーポストと土台であるが、知り合いの鉄工所から錆びた鉄柱とアングルを安く手に入れた。パイプ、チェーン、ボルト、ナットの類いは薄井が鉄工所から運んできた。薄井の父は建設業の土壁を作る「下地屋」をしており、そういうものを作るんだったら、といろいろアドバイスをしてくれた。  まずはコーナーポストであるが、四方に鉄柱を立て、相互にチェーンを十字に渡し、ネジで締めつけることによって鉄柱をもたせるようにした。要所要所は溶接で固定しなければならないが、穴あけや溶接などは脇浜にとって昔取った|杵柄《きねづか》である。が、|何分《なにぶん》、素人の作ったもの、立てたはずの鉄柱が倒れてきて何度か作り直したものである。  リングのマットは、正規のものは、底からいうと、木の板があり、厚さ三センチほどの羊毛を|縮絨《しゆくじゆう》させたフェルトが挟んであって、表面にキャンバスが貼りつけてある。同じものを作るのは無理である。そこで、底は鉄のアングルを並べて土台とし、その上に板を敷き、フェルト代わりに柔道部が使っていた古い畳を並べた。キャンバス代わりにはテントの布地を貼りつけた。テントが伸び縮みしないよう、表面には水性ペンキを塗りつけた。三本のリングロープは、麻の|紐《ひも》で代用し、上からビニールテープを巻きつけた。要した費用は全部で十万円余りだった。  一辺が四・八メートルと、正規のものに比べると狭く、低いリングだった。マットはところどころ|窪《くぼ》みがあり、端からは畳がはみ出している。ロープは|緩《ゆる》んで弾力はなく、ドンとぶつかると間から飛び出て転落してしまう。リングらしきものという代物であったが、ともかくリングであるには違いなかった。  手作りのリングが完成したのは、部が発足して八か月後の一九八五年一月だった。  リングができてから、顧問先生のボクシング熱はいっそう高まっていった。  脇浜は、生徒たちの繰り出すパンチをミットで受けるのが好きだった。挑発する言葉をかけると、|渾身《こんしん》込めてパンチを打ってくる。ガードするミットの間から、相手の眼の光が差し込んでくる。ぎらぎらしている。きれいだと思う。それは授業では決して見ることのないものだった。それは、脇浜にもまったく新しい発見だった。  ここには、パンチを打つものと受けるもの、ふたりの間に介在する夾雑物は一切なく、肉体がもろにぶつかり合う。  日常、教師と生徒の間には、「書類」が介在する。出席簿、テスト、通知簿、内申書、偏差値……。それらは、数字で示される指標としては正確ではあってもそれ以上のものではない。彼が、どんな過去を引きずった、どんな気性の、どんな若者であるのか。書類はなにも答えてくれはしない。  脇浜は、ミットでパンチを受けながら、彼らの気持が手に取るようにわかるのだった。今日、家でなにかあったのか、仕事をやめたのか。あとで確かめると外れることはまずなかった。  少年たちがボクシングをはじめたのはほとんど偶然である。好奇心か、あるいは喧嘩に強くなりたいというようなことだったのかもしれない。けれども、部が発足して半年もたつと、他の教師たちから意外な声が聞こえてくるようになった。  それまで挨拶をしなかった生徒が挨拶をするようになった、授業に遅れなくなった、表情が明るくなった、活気が出てきた、などなどである。食堂のおばさんたちからも、部員たちが今日の御飯はおいしかったといってくれた、といわれたりする。さらには、学校当局からすれば札付きの組合活動家であった脇浜にとって、校長から感謝の言葉をかけられたのは長い教員生活のなかでもはじめてのことだった。  これは近年になってからのことであるが、近隣の定時制高校のなかで、西宮西高校への志願者数は多い。ボクシング部の活動をマスメディアが報道したことが何度かあり、その影響もあるようだった。市の教育委員会がボクシング部の活動を表彰したこともある。ともかく、脇浜のボクシング部にかかわる活動に対してだけは、世間は好意をもって迎えてくれるのである。  そういう声を聞くことはうれしいことではあるが、脇浜には面映ゆく、過大に受け止めることはしなかった。また内心、どこかで〈違うんだ〉とも思っていた。  人間、そう簡単に変わるものではない。そんなに簡単に変わってたまるか、というのが脇浜の体験的信条でもあった。第一、ボクシングを少々やったぐらいで、そうそう“いい子”になってもらってはオモロナイではないか——。  ただ脇浜は、自分自身の体験から、ひとつだけ確信できることがあった。  それは、強くなれば他者に優しくなれる、ということである。本当に強ければむやみに腕力を振るうことはない。自分に自信があればつまらぬことにかかわることをやめるものだ。自分が|荒《すさ》んでいるから他者に当たるのである。自分が弱いが故により弱いものを苛める。弱いものがより弱い障害者を苛める。その構造こそ、脇浜が半生を懸けて闘ってきたものに他ならなかった。  少年たちがゴンタクレだとすれば、“正道”に立ち返ってくれと思ったことは一度もない。ゴンタクレならまっとうなゴンタクレになれ。ゴンタクレのままチャンピオンになってくれ——。それが彼の願いであった。  さまざまな事情から定時制高校にやってきた少年たちにとって、ボクシングが|敗者復活戦《リターンマツチ》だったとすれば、脇浜にとっては、授業や教育活動や組合運動では得ることのできないものを、もろの肉体のぶつかり合いのなかで得んとする試みであった。黒板の前や言葉のやりとりでは決して得られぬもの。そして彼が愛してやまなかったゴンタクレたちが、その内側から崩壊している。彼はぶつかり合いを選んだのである。それは、脇浜にとっても、|敗者復活戦《リターンマツチ》であるのかもしれなかった。 [#改ページ]   第三章 攻  防

     1  兵庫県下の高校ボクシングは、八代学院高校(現・神戸国際大学付属高校、神戸市)、県立兵庫工業高校(神戸市)、県立|飾磨《しかま》工業高校(兵庫県飾磨郡)、県立|武庫《むこ》工業高校(尼崎市)、市立姫路高校の五校が盛んである。この二十年をみても、県下の大会ではこの五校のいずれかが団体での優勝、準優勝を飾っている。  西宮西高校のボクシング部が発足して間もない時期である。脇浜は部員たちに一度、|生《なま》のボクシングを見せてやろうと思って、八代学院へ部員たちを引率していった。八代学院の体育館には、正規のものではないが、リングが備わっていた。この当時、高校でリングを備えた学校は少なく、県下のアマチュアボクシング大会はこの学校で開かれることが多かった。  野球やラグビーなどを除くと、高校の運動クラブにとって最大の行事はインターハイ(高校総体)であるが、彼らが出向いたのはこの年(一九八四年)のインターハイ県大会だった。この大会は毎年六月に開かれているから、部が発足してひと月ほどたった頃ということになる。  山下和美は、八代学院の体育館がどうにも居心地の悪かったことを憶えている。西高の部員数人が体育館の隅に固まって試合を見ていたのだが、そこだけがぽつんと静かだった。他校の生徒たちはリングに向かって盛んに声援を飛ばしている。休憩時間になると、学校が違ってもすでにお互い顔見知りなのであろう、冗談をいい合って談笑している。西高の部員たちに話しかけてくる他校生はいなかった。新しくボクシング部が発足して試合の見学に来ている、ということは知れているようだった。けれども、本当にお前たちにボクシングができるのか、という雰囲気なのだ。  定時制だから馬鹿にされてるのかな、と山下は思った。それは被害者意識のなせることだったのかもしれないが、彼らのいる一角に寄せられる視線はやけに冷やかだった。  昼間っから学校にだけ行っている奴らには負けられん——。彼のなかで、ボクシングに強くなりたいと思った最初の契機だった。  高橋卓也は、リング上の試合を見て度肝を抜かれた。生の試合を見るのはもちろんはじめてであるが、こんなに激しいスポーツとは思ってもいなかった。  彼がボクシング部に入ったのは、同じクラスの山下に誘われたからであるが、「いちびり半分」の入部であった。〈ボクシング、かっこええな〉と思って、深く考えるまでもなく彼らについてきただけのことだった。  アマチュアボクシングの試合模様は、プロのそれとはかなり違う。選手のスタイルも、上半身はランニングシャツを着ている。頭部と顔面への打撃を緩和するため、ヘッドギアの着用が義務づけられている。グローブもオンスの重たいものが使われる。試合の優劣はダメージよりも正確なヒット数によって決まる。プロの試合でときおり見られるような、血だるまになりながら延々と殴り合うような試合はない。試合時間も、高校生の場合は一ラウンド二分間で三ラウンドである。  それでも、鼻血による出血はよく見られるし、ダウンもある。重大事故も|希《まれ》には起こっている。  高橋にはショックだった。帰り道、脇浜にこういっていた。 「先生、ボク、こんなスポーツようせん。あんな血が出るようなもん、こわくてできません」 「うーん、そうか。でもな、練習さえきちんとして、トレーニングを積めば別に危険なスポーツやないぞ」 「いや、ボクにはとてもあきません。マネージャーやったらやらしてもらいます」  ——高橋卓也は、ボクシング部OBのなかではよく学校に顔を見せるほうである。現在は造園会社に勤務している。今でも夜、暇つぶしと汗をかくことを兼ねて道場にやってくる。当初私は、この青年がボクシング部のOBであるとは思わなかった。まるで気の弱そうな、温和な若者だったからである。  道場二階の事務室で彼と会っていると、脇浜が入ってきた。 「よう、久しぶりやな。まあまあ、ふてぶてしくなりやがって」  と、脇浜はいった。  いまの彼がふてぶてしく映るとしたら、以前の彼はまったくもっておとなしい若者だったのだろう。  彼のいないとき、脇浜はこういった。 「山下や薄井は運動神経が良かったけど、高橋はまるでなかったからなぁ。苦労した子でね、試合に出ては負け、出ては負けでしたから。随分辛かったと思いますよ」  試合を見てすっかり|怖気《おじけ》づいた高橋であるが、マネージャーではなく選手としてクラブにとどまった。それは、とりあえずは、「いま自分が抜けてしまったら、せっかくできた友だちがいなくなるし、学校もおもしろくなくなる」ということからだった。  それに、表面的なものとは別に、彼は芯の強い若者だった。  彼もまた、小学校六年生のときに両親が離婚をし、以来母親と妹との三人暮らしを続けてきた。定時制高校を選んだのは、公立高校に入るには学力不足であり、また学費のことから私立高校を断念したからである。西高の四年間は印刷会社に勤務し、給料の半分は母親に渡していた。  ボクシングの練習はおもしろいというものではなかったが、続けていると躰が丈夫になっていくように感じられる。ミット打ちをしても、息の続く時間が長くなる。毎日の練習は苦ではなかった。半年もたつと、授業中は睡眠に|充《あ》て、練習を主眼に学校にやってくるようになっていた。  高橋がリングで他校の生徒とはじめてグラブを交えたのは、兵庫工業高校とのスパーリング親善大会だった。これは文字通りスパーリングで、二分間打ち合って、時間がくるとレフェリーが両選手の手を上げて終了を宣告する。  リングに上がった。わずか二分間がとてつもなく長い時間に感じられる。すぐに腕がだるくなって上がらない。相手のパンチが当たると、ヘッドギアがあってもドーンと衝撃がくる。 〈ああ、とんでもないものに首を突っ込んでしまった〉  そう思って後悔した。終了のゴングが鳴ると、ほうほうのていで、彼はリングを降りた。  試合をはじめて経験したのは、「一九八四年度・兵庫県高等学校ボクシング競技新人大会」である。これは通称「新人戦」と呼ばれている大会で、年度末の二月、主に一年生と二年生を対象に行われる。新しいリングができたということで、その記念も兼ねて、この年の新人戦は西宮西高校のリングで行われた。 〈試合になったら痛い目に遭わされるだろうな〉  高橋には、そのことばかりが頭にあった。びびっていた。相手は八代学院高校の生徒であったが、どんな試合であったかは憶えていない。一ラウンド、相手のパンチを立て続けに食らっているうちに、レフェリーが両者を分けて高橋にRSC負けを宣告した。  RSCはアマチュアボクシングだけにあるルール名称で、レフェリー・ストップ・コンテストの略である。両者の技量に格段の差があるとき、あるいは負傷によって試合の続行をストップすべきとレフェリーが認めたときに下される。通常、一ラウンドに二回ダウンがあるとRSCになる。プロにおけるTKOとほぼ同じ意味である。  続いて、西宮市民大会、インターハイ県大会、国体予選、神戸市民大会など、試合があるたびに彼はリングに上がった。連敗、しかもRSC負けばかりである。  脇浜は焦っていた。山下、安田、薄井などはけっこう勝ちを収めている。新人戦では、山下と薄井が最後まで勝ち残り、決勝戦で薄井が山下を破り、モスキート級(四十五キロ以下)の新人王になって敢闘賞まで獲得した。バンタム級の高橋だけが勝てないのだ。  重量級なら選手の数が少ないから、普通に練習をしておれば、ひとつやふたつ勝つことは難しくはない。バンタム級は五十一キロ以上五十四キロ以下で、選手層が厚い。試合の組み合わせ表を見るたびに、脇浜はまず高橋の対戦相手に目がいった。大会を重ねるにつれて、他校の高校生の力はだいたい掌握していた。運が悪いというか、高橋の相手はいつも強敵であった。可能ならば、対戦相手の“操作”をしたいと思ったときもあった。  高校のクラブ活動である。別段、勝敗にこだわることはない。ただ脇浜は、なんとしてもひとつ試合で勝たせて、彼らに勝つ味を味わわせてやりたかった。彼らはこれまで勝った味を知らないのだ。小学校からはじまる受験戦争で負け、家庭環境で負け、カネで負け、喧嘩で負け、その上スポーツでも負けるとなれば、これはもう負け犬もいいところだ。負けることが当たり前となってしまって悔しいともなんとも思わなくなってしまう。  高橋自ら「どんくさかった」というように、彼は反射神経に劣っていたこともあったろう。スタミナもガッツも「並以下」であった。それに「諦めのいいほう」でもあった。相手が強いとわかると、すぐ〈もうアカン〉と思ってしまうのである。脇浜のいうように、負け犬根性が染みついていたのかもしれない。  ただそれにも増して、連敗は彼の性格に基因するところが大であった。やんちゃでもゴンタでもなかった彼は、それまで喧嘩をした記憶はない。そんなこともあってか、自分から先制してパンチを出すことができない。スロースターターで、二、三発パンチを食らってはじめて躰が熱くなってくるのだった。  一年から二年生にかけて、彼の戦歴は八戦八敗、そのほとんどがRSC負け、というものだった。「なんの気なしに試合に出て、なんの気なしに負けてしまう」ことを繰り返していた。  七戦目か八戦目である。西高で開かれた西宮市民大会での試合だった。RSC負けを宣告され、リングを降りたところで、ふいにぼろぼろと涙が出てきた。タオルで拭いても拭いても涙が止まらない。  |堰《せき》を切ったように、躰の芯から悔しさが噴きあげてきた。どうしても勝てない。同じ高校生のはずだ。相手が全日制の生徒だからと反発したことはない。ただ、自分は昼間は働いて、夜、学校に行っている。それでも練習量は彼らに劣らないはずだ。だのに自分だけがどうしても勝てないのだ。自分で自分が情ない。ただ情なくて泣けてくる。悲しみとも違う、それはいまだかつて知らぬ涙であった——。      2  ボクシング部が発足して約一年、手作りのリングが完成し、部員たちも頻繁に対外試合に出るようになった。部の活動が軌道に乗っていった背景には、ひとりのコーチの存在がある。西宮市の水道局に勤務する中村康夫である。  中村は大学時代にボクシングをはじめ、水道局勤務以降は西宮市アマチュアボクシング協会に所属して、国体や社会人選手権大会に何度か出場している。県チャンピオンになったこともある。  西宮西高校にボクシング部が発足した直後である。中村は、西高の出身者で水道局に勤務している同僚から、ボクシングを教えてくれる人を探している、という話を耳にした。中村は三十代に入っており、すでに選手としては現役を退いていたが、ボクシングに対する興味と情熱はまだまだ盛んなものがあった。  ボクシングは不思議なスポーツである。リング上で、グローブをはめてふたりが殴り合う。単純で、考えようによってはこれほど“野蛮な”スポーツもないであろう。けれども、プロ・アマを問わず、ボクシングはこの世界にかかわったものを、奥深いところで|虜《とりこ》にして永く飽きさせない。「まだ|疼《うず》くものが残っていた」のである。  自身を振り返って、敗北の悔しさに涙したもの、勝ちたいと思って死にもの狂いで努力したもの。それほど己が打ち込んだものはボクシング以外にない。ボクシングは中村にとって、趣味としてのスポーツという位相を超えたものであった。  中村はすぐに、お手伝いしたいと返事をした。夜は時間がつくれるし、また定時制高校ならば、とも思った。中村自身、高校時代は「落ちこぼれ」で、定時制高校生というものに親近感があったのである。  中村が西高の道場を覗いた頃は、用具類もなく、もちろんリングもない。体育館の板の間にガムテープが貼りつけてあるだけだった。 「子供たちがボクシングをしたいといってきましてな、まあごそごそやりはじめとるわけなんです。暇なときに手伝ってもらえたらありがたいんですが」  口髭をはやした教師はそういった。  脇浜は高校時代にボクシングをやってはいたが、技術的な指導という面では素人である。持ち前の猛烈ぶりを発揮して、ボクシングの技術指導書を片っ端から読破していたが、その道の専門家の助力を得たいと思い、協会に声をかけて頼んでいたのである。  さっそく中村は、家にしまい込んでいたサンドバッグにボロ切れを入れて持参してきた。他にも、リングシートやグローブなども持ち込んできた。  西宮市アマチュアボクシング協会は、市中央体育館の地下に練習場をもっており、中村はときおりここでコーチを務めてもいた。したがって、教えることにおいて経験者であったが、定時制高校生と接するのははじめてである。  中村には当初、彼らがひ弱く映って仕方なかった。腕立て伏せひとつできない生徒がいるのには驚いた。  協会の練習場とは随分と雰囲気が異なっていた。アマチュアとはいえ、協会に所属する選手たちは少なくともボクシングが好きで、腕を磨くことに意欲的である。ところがこの学校の生徒たちは、肝心の意欲という点において乏しいのである。あらゆるスポーツは、勝ちたいと思うことによって技量が上達するものであろう。その前提条件が稀薄に思われてならないのであった。  ボクシングは単純なスポーツに見えるが、基礎の技術がしっかりしていないと勝つことはむつかしい。基礎技術は反復練習によって身についていく。躰が自然とリズムと動きを覚えていくわけだが、そのためには毎日繰り返すことが大切である。  ところが、脇浜とふたり、道場で待っていても部員がひとりも来ない夜がある。そして、“集団サボリ”が定期的に起きるのである。翌日、脇浜が一喝してことは収まるのであるが、とにかく中村の眼から見て、なにかにつけて「ちゃらんぽらん」に映って仕方ない。  中村はもともと、一番激しいスポーツに挑戦してみたいと思ってボクシングをはじめた。ボクシングは「嘘がないスポーツ」だった。練習をすれば確実に技量が上達するし、技量の上回るものが試合に勝つ。勝つ味を覚えると練習に身が入る。するとまた勝つというように好循環を生んでいく。  中村は彼らに勝つ味というものを教えてやりたかった。そのためには厳しく指導するのが一番である。 「コーチと仲良くなろうと思うな」  とよくいったものである。  ただ、その|手綱《たづな》の|捌《さば》き方がむつかしい。厳しくすれば逃げていく。甘やかすとだらけてしまう。途方に暮れた。  それでも部が発足して数か月たつと、中村は少しずつ手応えを感じはじめた。まずは、彼らがきちんと挨拶をするようになったことである。 「こんにちは」 「今晩は」  と、中村の顔を見ると声をかけてくる。当たり前のことといえばそれまでであるが、当初はそんなこともできない部員のほうが多かった。  彼らと付き合いはじめて一年もたった頃である。部員たちから、唐突に五百円玉を数枚手渡されたことがある。みんなで集めたものらしい。これで家の子供におやつのひとつも買って下さい、というのである。どうやらその数日前、夜は早く帰って子供と遊んでやってほしいと嫁サンに叱られた、とこぼしていたのを聞きつけてのことであったらしい。週に三日も四日も深夜帰りになるボランティア活動に対する部員たちのお礼であった。それは、万事ちゃらんぽらんに映る少年たちの、また違う一面であった。  中村には脇浜が「不思議な先生」と映っていた。  自分のことについてはほとんどしゃべらない。脇浜が高校時代、ボクシングをやっていたことを知ったのも随分とたってからである。当初ボクシングは、片手間にやっているという感じもあった。  西高の先生たちから、脇浜のことが自然と耳に入ってくる。脇浜は組合運動のリーダーであって、西高内では「影の校長」と呼ばれる教師であるらしい。事実、脇浜は組合や教育活動で多忙そうであった。脇浜の学校内における振る舞いは、校長や教頭よりも「はるかにえらい人」であるようにも映った。  ところが、ボクシング部の活動が軌道に乗り出すにつれて、この「影の校長」は尋常ではない打ち込みようを見せはじめるのである。訊けば、脇浜にも「嫁ハンと子供が三人いる」という。クラブ活動などいいかげんに切り上げて、家に早く帰りたい日もあろうと思うのであるが、毎晩、練習終了時まで道場を離れない。  このクラブは、生徒のほうはいいかげんで、顧問の先生だけが超熱心だわいと、中村はよく思ったものである。  他の教師から、脇浜のボクシングへのかかわりについて「あそこまでやるとはね」「熱中もここに極まれりですな」「組合も飽きてしまったんですかな」というような声が耳に入ってくる。  中村からみても、脇浜の情熱はどこからきているのだろう、と不思議に思えるときがあった。脇浜がボクシング自体が好きであることは確かであるが、しかしそれだけで説明するには無理がある。それは、折々に浮かぶ謎であった。  部員が十人を超えた時期があった。ミット受けもひとりでは手が回らない。中村が山下たち二、三人を、脇浜が他の生徒を受け持つ格好になった。中村はとくに山下に目をかけた。山下には、スピードと勘の良さとバネがあった。向かってくる気迫もある。ボクシングは努力のスポーツであると同時にすぐれて素質のスポーツでもある。コーチにとって、素質のある選手を教えてこそやりがいがある。  山下は一方でまた「調子もん」であった。練習の音頭取りも山下であったが、遊びやサボリの音頭取りもだいたいが山下の|仕業《しわざ》であった。  一度中村は、練習中に山下に手を出したことがある。だらだらとやる気がない様子を見て思わずかっとなったのである。ただし、山下は明るい性格の子であり、ミットでごつんとやったぐらいでは応えはすまい、と思ってのことでもあった。  そばに、脇浜がいた。脇浜はなにもいわなかった。その後もこのことにかんしてなにかをいわれたことはない。けれども中村は、なにもいわれなかったことで逆に、しまったことをしたと思った。脇浜がそれを気に入っていないことは明らかであった。  脇浜は生徒に対して、だいたいがぶっきらぼうに対応するし、優しい言葉遣いもしない。けれども、生徒に手を出すようなことは絶対になかったし、万一他のものがそのような行為に走ればそれを恥ずかしいと思わせるようなものを宿していた。  中村は部発足から二年余り、西宮西高校ボクシング部のコーチを務め、その後身体をこわしたりして遠ざかった時期もあるが、現在もときおり顔を見せて部員たちの指導に当たっている。  脇浜という人物の一端をなんとか理解したと思ったのは数年もたってからである。  ひとつ、中村が確信して思い至ったのは、同僚の教師たちには厳しいが生徒たちには無性に優しい人、というものだった。  そもそも脇浜は教師になってから、生徒に手をあげたことは一度もない。ただし、大人に対しては二度あるそうだ。  一度は、教師になって最初に勤めた小野高校の教頭に対してである。学校に赴任した初日、「英語教師を命ず」という辞令を手渡され、書類に判子を押せといわれた。その日、脇浜は判子を持ってくるのを忘れた。忘れましたというと、教頭はねちっこく教師の心得を説き、「だいたいお前は教師の条件に欠けておる」と説教した。  さらに二、三の押し問答が続いて、かっとなった脇浜は、他の教師が見ているなか、教員室でその教頭に背負い投げを食らわしていた。 〈なりとうて教師になったんやないワイ。|馘《くび》にするなら馘にせい。いつでも港に帰れば弟たちのメシを食わせるぐらいはできるんだ〉と思いながら——。  脇浜によれば、現在なら間違いなく馘になっていたというのだが、当時は「アバウトなところがあって」、この“暴力事件”は不問に付され、その教頭ともその後仲が良くなったとのことである。  もうひとりの“被害者”は兵庫県教育委員会の幹部で、組合との団交中での出来事だった。  一九七〇年前後、若い“反戦派教師”がいた頃で、教科書を使わないその教師を県教育委員会が解雇処分にした。団交の席でこの問題をめぐって激しいやりとりとなり、脇浜は「お前が馘を切った張本人か」といいながら、幹部のネクタイを掴んで引きずり回したというのである。  いずれも、|褒《ほ》められたことではなかろうが、脇浜の性格からして十分にあり得る、またさもありなんと思える話ではある。  札付きの不良少年であり、喧嘩ざんまいに明け暮れた彼が、生徒に対しては決して手を出さないというのは不思議にも思える。  一度、なぜ? と尋ねたことがある。 「殴っても殴り返してこれない立場にある相手に暴力を振るうというのは|気色《きしよく》悪いやん」  というのが彼の答えだった。      3  定時制高校のクラブは、全日制のそれとは性格が異なる。なんといっても生徒たちの多くは昼間働いている。一九九一年度の場合でいえば、水曜日の三、四時限が「特別活動」という名目でクラブ活動に割り当てられているが、他の曜日は四時限まで授業がある。授業が終わるのが午後九時だから、練習時間も一時間程度がせいぜいである。運動クラブといっても同好会的なものにならざるを得ないし、またそれで当然ともいえるだろう。  ところが、脇浜が顧問を務めるボクシング部だけは様相が違う。練習日は部が発足当時、月水金土の四日間(のちに毎日となる)であったが、九時から十一時近くまでびっしりとある。また、授業をサボって練習のためだけにやってくる生徒のために、早い時間からこの顧問は待ち構えているのである。学校というものは、クラブ活動よりは授業優先がいわずもがなの決まりであろうが、この顧問は逆だった。  春秋の季節になると、日曜日は対外試合やスパーリング大会がある。試合が近づくと練習は毎日となり、そのうちずるずるとそれが日常となった。夏休みや冬休みにも練習日が設定され、折々に合宿が組まれるようになった。  遠征すれば交通費などもいることになるが、それは脇浜がほとんど自分で負担していた。「自分の道楽も兼ねているから」というのであるが、ともかく熱心なのである。あるいは熱心過ぎるのである。  用具を整え、手作りのリングを作り、毎日生徒たちより早く道場に現われ、休日も私費も部活動に投じてなおもの足りなげなのだった。それは何事もやりはじめると徹底せねば気が済まないという性癖からきている部分もあろうが、ボクシングというスポーツが彼の資質によほどぴったりと合うものであったのも確かだろう。  部の発足からすれば四年余りのちのことであるが、脇浜は組合新聞に「人生とボクシング」と題する次のような一文を寄せている。   《“何故ピンポンをやるのか”は質問になりにくいが、“何故ボクシングをやるのか”は質問になる。それだけこのスポーツには人生臭さが漂う。ボクシングは、ひっきょうボクシングだけなのだが、人生の方がボクシングに似ているのかもしれない。それもたいてい、暗いハードで不安定な面で。苦痛、ストイシズム、克己、苛酷さ、単調、当たらないパンチ、一瞬の油断で食うパンチ、恐怖、逃したチャンス、等々無数のメタファーや文学的比喩で語ることができる。    ある公認会計士が、私達のドキュメンタリー“夜間高校ボクシング部の夏”(関西テレビ放送で放映されたテレビドキュメンタリー——筆者注)を食い入るように見つめ、奥さんに次のように言った。「これが教育だ。子供に、闘うこと、人生は闘いだということを教えているんだ」。    陳腐な比喩——。“闘争”がボクシングと人生の最大の共通項だと考える人は多い。しかしリングで闘う二人は、お互い相手に腹を立てていないし、恨んでもいない。むしろお互いに相手を尊敬している。闘う前にグローブを合せ、闘い終ったら抱き合って尊敬と感謝の気持を表明する。これは人生の闘争にはないことだ。    それに体重規制もあり、初心者とチャンピオンが闘うようなミスマッチもない。これに対し、人生の闘いはほとんどミスマッチだ。ほとんどがアンフェアでダーティな闘いだ。    リングの上では確かに人生に似たドラマが展開する。言葉をもたない心理的なドラマが。何しろ公衆の面前で自己の真実を、自分の体力と精神力を、どこまでできて、どこまではできないかを証明しなければならない。これは人生に似ているというが、人生は誤魔化しが効くが、リングの上ではそれは効かない。金持ちの親や有名校に所属していることは役に立たないし、逆に母子家庭だといっても差別されたり、代わりに同情や甘やかしもない。裸の自分が残酷なまでに暴きたてられる。だから教室で番長格の少年の多くが、私の勧めにもかかわらず入部してこないのだ。バレるのがこわいのだ。反対に弱虫が思わぬ自己発見をして強くなることがある。   「人生が楽しいか」と尋ねられて答えられないように、「ボクシングが楽しいか」と尋ねられたら答えられない。実際自分でやっているときや、今のようにコーチしているときは、苦しいときはあっても、楽しいことは絶対にない。済んでから語るときは楽しい。これは「楽しむ」スポーツではないことは確かだ。    一瞬一瞬を生きていくスポーツ。自己に挑戦する作業という意味で、堅苦しく真面目に考えた人生と似ているのかもしれない》(『西西組合新聞』一九八八年十一月五日付)  ボクシングというスポーツを過不足なく語っているように思える。  ただし、部員のほうは、当初はいわばもの珍しさ程度からボクシング部に入ってきたものがほとんどである。ボクシングへの過剰な思い入れなどはないし、高校のクラブのひとつとして参加しているのである。  脇浜は彼らに言葉としてその種のことを口にすることはない。だが、潜在的であれ、そこに「人生」や「敗者復活」の|片鱗《へんりん》を見んとしている男と、少年たちの間に|齟齬《そご》をきたしていくのは避けられないことだった。意地悪くいえば、男は空回りしているのであった。  部員のなかで、脇浜がはじめは熱心なありがたい先生と映っても、やがては「|鬱陶《うつとう》しいなぁ」「もうたまらん」「ついていけん」という声が高まるのももっともなことだった。  山下和美、辺見誠彦、薄井長門、高橋卓也ら西宮西高校ボクシング部の一期生たちが一様に憶えていることも、このことである。それが行き違いや亀裂となって現われることがしばしばあった。そして、そのことがまた、彼らが、この|頑迷《がんめい》|固陋《ころう》といえば頑迷固陋な中年教師への理解度を少しずつ深めていく契機となったようにも思えるのである。  山下和美の話——。  一年のときだったかな、台風が接近していて近畿地方に警戒警報が出されていたんです。授業中に校長先生から、授業を打ち切って全校生徒はすぐ帰宅するように、という校内放送がありました。教室を出て道場の前を通りかかると、脇浜先生が待ち構えていて、こういいましたね。「さあ、今日は時間がたっぷりあるぞ」って。  薄井長門の話——。  二年のときだったと思いますけど、理科室から失火してカーテンなどが燃えたことがあったんです。大きな騒ぎとなり、こんな日は当然クラブ活動は中止です。生徒が帰りはじめると、脇浜先生が校門のところにやってきて、「ボクシング部だけはやるぞ!」と大声を張り上げている。びっくりしたなぁ。  辺見誠彦の話——。  具合の悪いことに、英語の担任が脇浜先生だったんです。授業の終わり頃になると、席を回って練習問題を添削してくれるんですけど、ぼくの席に来ると、「さあ、今日はサンドバッグを思いきり叩けよ」と声をかけてくる。手にチョークやわら半紙を持ちながらワンツーの出し方を教える。みんな笑ってるんだけど、お構いなしです。とにかく授業中に一度はボクシングの話を耳にしました。  高橋卓也の話——。  脇浜先生とは、道場で会う前に、食堂で会うんです。一時限と二時限の授業の間に三十分の夕食時間があって、その時間になると生徒のほとんどが食堂に集まってくる。脇浜先生もやってきて、部員が来ているかどうか、また授業が終わると逃げ帰らないように念押しにやってくる。よくこういわれました。「とにかく牛乳を腹一杯に飲め。それからサボってはならんぞ。授業はサボってもええけどな」って。  毎日、練習が終わって学校を出ると、十一時を回った。彼らはよくこんな会話を交わしながら帰ったものである。 「定時のクラブなんやからな、ちょっとやり過ぎやないの」 「ええかげん、鬱陶しいなぁ」 「ええ人やけど、こうゴンゴンやられたらたまらん」 「みんなでやめよか」 「でもな、借金までして用具を揃えたという話や。みんながここでやめたらちょっと可哀相やないの」 「ああまでしてもらうとやめにくいなぁ」 「ボクシング部の奴は女嫌いといわれてるのん知ってる? 他の奴らはデートやなんやかやと遊んでるのに」 「えらい迷惑や」  そして、四年間の間には、“集団休部事件”が何度か起こった。  高橋卓也が憶えているのは、「原チャリ休部」である。  十六歳になると、五〇ccの原動機付き自転車の免許資格が取れる。若者の間で人気が高いのは四〇〇cc以上のいわゆる単車であるが、新車だと七、八十万円はする。手っ取り早く入手できるのは「原チャリ」で、通勤・通学上からも便利である。  高橋も原チャリの免許を取った。同じ時期に免許を取った友だちから、練習がてらバイクで走ろうや、と声がかかった。  先に触れたように、高橋は試合に出れば負けるということを繰り返していた。しかし彼はボクシングの練習は嫌いではなかった。脇浜に対しても、ときにうるさく思うことはあっても嫌な先生では決してなかった。  高橋にとって、勉強しろといわずにボクシングの練習をやれというような先生は小中高を通して脇浜がはじめてだった。そしてこの先生は、ときに「風呂行こか」と誘ってくれる先生であり、ときには明石沖までクルーザーに乗せてくれる先生でもあった。  けれども、ボクシングの練習と比べれば、バイクで走ることは抗しがたい誘いである。授業が終わるとすぐに学校を抜け出し、しばらく道場に行かなかった。それは、バイクの免許を取ったときにだけ起こったのではなく、「ボウリング大会」や「マクドナルドでの|集《つど》い」のさいも同様であった。  そういうことがきっかけで部をやめてしまうものが多いなか、高橋は四年間、紆余曲折はありながらもボクシングを続けた。遊びごとの日々が続くと、辛かったはずの練習が懐かしくなってくるのである。それが、ボクシング部をやめなかったもっとも大きな理由である。ボクシングは確かに、不思議な魔力を秘めたスポーツだった。  薄井が憶えているのは「ブルース・リーの一件」である。  道場にみんなが揃った頃、山下が「今日、ブルース・リーの映画見たいなぁ」といった。脇浜の姿はまだなかった。テレビの放映は夜九時からであるから、急いで家に帰れば間に合うことになる。「みんなで帰れば怖くないか」という薄井のひと声で、全員トンズラをしてしまった。  翌日、脇浜はカンカンになって薄井にいった。 「何が映画じゃ、チャラチャラしやがって」  薄井によれば、脇浜の説教は「長くて一分」で、聞かされるほうは「台風」が収まるのを待てばよかった。  薄井にとって、脇浜が鬱陶しくあっても「ええ先生」であることはもとより承知していたことである。忘れがたいことは山ほどある。一年生の終わり、新人戦で山下を破って優勝し、敢闘賞を獲得したとき、脇浜が我がことのように喜んでくれたのもそのひとつである。  他の部員が私用かサボリか、いずれにしても西高から彼だけが「合同合宿」に参加したことがある。他校のボクシング部員たちと一緒に行われる合宿である。脇浜はたったひとりの生徒の合宿のために付き合ってくれる先生でもあった。  要は、少年たち全員が、この中年教師の性格も想いもそれなりに承知していたのである。しかしそのことと、彼らが脇浜の思い通りになるかどうかはまた別の問題であった。  最大の“集団休部事件”は、「西宮えびす祭り」の折りだった。彼らが二年生の秋の日のことである。  西宮西高校から歩いて数分のところに西宮えびす神社がある。境内にこんもりと緑が茂る大きな神社で、全国のえびす祭りの総本社ともなっている。例年、秋の「えびす祭り」にはたくさんの夜店が並ぶ。この日は学校の授業も短縮されて八時で終わりとなる。短縮授業ということで、脇浜は道場で手ぐすね引いて部員たちを待ち構えていた。  授業が早く終わると、教室で山下が、今日は練習休んで神社に行くわ、といった。ふいに練習でしぼられるのがいやになったのである。すると部員たちは俺も俺も、といい出した。他のクラスの部員たちもそれに加わった。  彼らはこっそりと、また勇んで学校を抜け出した。  人波でごった返す神社の境内をワイワイいって歩きながら、山下は、だんだんと気持が沈んでいくのを感じていた。はじめははしゃいでいたみんなも、妙に神妙な顔をしている。今頃、先生、ひとりで道場で待ってるやろなぁ……。そう思うと楽しい気分にならない。そして、みんなもそう思っているのがわかるのである。だが、いまさら引き返すことはできない相談だ。  道場のマットの隅に腰を下ろして、脇浜は深夜まで待っていた。今日はもう来ないとわかっていても、電灯を点けて待っていた。意地だった。そんなとき、ミット受けで慢性関節炎になった|肘《ひじ》がよけい|疼《うず》いてくるのである。 〈また裏切られたか……〉〈ボクシングをやりたいといってきたのはお前らのほうなんだぞ……〉〈あんなガキどもに振り回されて……〉〈所詮、ドン・キホーテだったのか……〉  ボクシングはいわば自分の趣味という部分がある。しかし、大部分は生徒たちのためにと思ってやってきたことである。家庭も自分の時間も随分と犠牲にしてきた。そう思うと、だんだんと腹が立ってくる。立ち上がり、ひとり、サンドバッグに向かってパンチを叩き込む。泣きたい気持になった。 〈そんな嫌ならやめてしまえ。こっちだってせいせいするぜ〉〈いや、そういったらこっちの負けだ。奴ら、きっと戻ってくる……〉  男は、まるで少年のように、精神を裸にされて悶々としていたのである。  その日、コーチの中村康夫が側にいた。  日頃、とりわけ校長や教頭に対しては傲岸不遜ともいえる態度を崩さない脇浜が、こんなとき、無性に寂しげな表情を、無防備に他者に|晒《さら》した。  このような日はそれまでも、またその後も、何度かあった。だいたいは次の日、みんなが顔を出すと、「お前らは!」と一喝して、それで終わりだった。だが、えびす祭りのときは、部員たちは数日連続して休んだ。祭りが三日間続いたこともあったし、先生が怒っているのが目に見えている。台風が収まるのを待ったほうがいいと判断してのことだった。  四日目、みんなが揃って顔を出すと、脇浜はそれまでとは違う感じで怒っていた。本気で怒っているのである。少年たちにはそう映った。なにしろ先生自らが、道場の鍵を閉めてしまっているのである。  部員たちが「もう一度教えて下さい」といってきても、うんといわない。何日かして、やっと脇浜は彼らにいった。 「ほんまに反省しとるなら、一人ひとり、反省しとるという作文を書いてもってこい。そうしたらもう一度だけやってやってもいい」  高橋が書いた“反省文”は以下のような文面だった。 「今回ぼくたちは嘘をついて練習を休んでしまいました。もう二度としませんので部活動を再開してください。お願いします……」  ヒゲ先生とゴンタクレたちの綱引きだった。そんな日々はいまも続いている。      4  山下和美は、西宮西高校に在学中、スーパーに食料品を供給する卸店に勤めていた。卒業後は、父親と一緒に、建設会社の下請けとしてビル建設の基礎工事を受け持つ「仮枠大工」の仕事を続けている。  日に焼けて|逞《たくま》しい。ボクシング部在籍中は、四十五キロ以下というもっとも軽いモスキート級で通した。現在も細身ではあるが、モスキート級の選手だったとはちょっと信じられないほどである。  西宮市内にある文化住宅にひとりで住んでいる。かつての部員仲間から「きれい好きの山下」ということを耳にしたことがあったが、その通り、部屋の中はきちんと整理整頓されている。目につくのは、部屋の|鴨居《かもい》のところに、数枚、額に入った写真が掛けられていることである。いずれも、彼が出場したインターハイや県大会における試合の写真である。そんなところにも、この若者が高校ボクシング部の日々を大切なものとしていることが伝わってくる。  山下は、高橋、辺見、安田、薄井というメンバーが揃った第一期生のなかでもっとも素質に恵まれていたようである。  三年生になった一九八六(昭和六十一)年、山下は兵庫県高校総体(インターハイ県大会)のモスキート級で優勝する。県大会の優勝者がすなわちインターハイへの出場資格を獲得する。高校のボクシング部にとっては夏のインターハイへの出場者を出すことが最大の目的であり、部発足三年目にして西高ボクシング部はひとつの目標を達成したことになる。  脇浜は部員たちの勝ち負けにはほとんどこだわらなかったし、それぞれが力一杯やればそれでいいというのが指導方針だった。ただ、もちろん部員のなかからインターハイへの出場者を出したことはうれしかった。この年、インターハイは広島市内の体育館で開かれたが、脇浜は山下とともにはじめて全国大会に出向いた。  各県で、とくに層の厚い軽量級を勝ち抜いて全国大会に出場してくる選手たちはかなりの強豪ぞろいである。すでに大学のボクシング部から目っこをつけられている選手たちもいるし、プロを目指している選手もいる。のちにWBA世界ジュニア・バンタム級チャンピオンになる鬼塚勝也(福岡・豊国学園)はこの年のライトフライ級の優勝者であり、また山下のモスキート級にはのちに日本ジュニア・フライ級チャンピオンになる|八尋《やひろ》史朗(東福岡高校)などもいた。  山下は一回戦を勝ち、二回戦は不戦勝、三回戦で判定負けした。彼自身の感触では、一ラウンドはポイントを取り、二ラウンドは取られ、三ラウンドは五分の分かれだと思えた。三ラウンドに入るとスタミナが切れて、手数があまり出なかった。判定は二対一であったが、〈まあ、仕方ないか〉と思える結果であった。  試合が済むと、山下は体育館の隅に座り込み、その後の試合に目をやっていた。脇浜はいつになくにこにこ顔で、「ええ試合やった。胸張って帰ろうかい」と声をかけた。  その日の全試合が終わった。脇浜は山下の姿を探して体育館を見渡すと、彼はまだ同じ場所に座り込み、顔をタオルで覆って下を向いていた。  兵庫県内からの出場者は、広島市内の同じ旅館に泊まっていた。全国大会に出れば、学校は違っても県内の選手たちの間で仲間意識が芽生える。彼らが山下のほうに行こうとするのを脇浜は押しとどめた。 「しばらくほっといたろ。そのほうがええネン」  それは、脇浜がボクシング部を発足させて以来、「もっともええ光景」であった。若者が、敗北の悔しさに|嗚咽《おえつ》してひとりで泣いている。それはかつてなく、脇浜の胸に染みる情景であった。  山下によれば、事実はやや異なる。試合に負けて泣いたことはある。けれども、この広島の大会ではなかった。判定負けという結果にも、自分では納得していた。減量の辛さから解放されることで、ほっとした気持もあった。平素で五十キロ弱はあったから、四、五キロの減量はきつい。トイレの水まで飲みたいと思ったほどである。「だから脇浜先生、汗拭いていたのと間違ったんじゃないかなぁ」というのである。  どちらが事実だったのかはわからない。当事者がそういうのであるから、おそらく山下のいう通りであったのだろう。脇浜は、事実あったことではなく、自分が見たいと思っていた光景を見ただけなのかもしれない。ただ、それはいまも脇浜の記憶に刻まれたシーンであり、その後彼がボクシング部の活動を持続させていく上で、ふと己を支えてくれた情景であったことも間違いのないところなのだ。  第一期生たちは四年生になった。  部員たちの対外試合で一番変わったことといえば、一、二年生時、連戦連敗を続けていた高橋がめっきり力をつけたことである。  高橋がはじめて試合で勝ったのは二年生の終わり、八代学院で行われた練習試合においてである。三ラウンド打ち合って判定勝ちした。  試合が済むと、両者はいったんコーナーに戻る。リングサイドに座った三人の判定者の結果が出たところで、レフェリーが両選手を呼び寄せ、勝者の手を上げる。自分の手が上げられた一瞬の感触を、高橋はいまもよく憶えている。それは、胸のなかがつんと高まるような、えもいわれぬ味を伴うものだった。  一転、高橋は連勝街道を突っ走る。卒業してから、高橋は四年間の成績を勘定してみたことがある。八連敗したのちの戦歴は十二勝三敗だった。  脇浜によれば、また高橋自身も認めるように「どんくさいことに変わりはなかった」のであるが、彼は打ち合っても下がらないファイターになった。試合が終わってみればけっこう僅差で勝っているのである。勝利の原動力となったのは「自分は勝てるという自信」だった。  一九八七年六月、インターハイ県大会の季節がやってきた。会場は西高道場。四年生にとっては最後のビッグゲームである。西高の部員たちがなかなかの力をつけていることは県下に知られるようになっていた。  下馬評では、モスキート級の山下が優勝候補。ライト級の安田もひょっとすればという評判であり、バンタム級の高橋は大穴というところだった。  高橋は勝ち進んだ。一回戦は一ラウンドRSC勝ち、二回戦も三ラウンドRSC勝ち、三回戦は判定勝ち、四回戦は判定勝ち、五回戦が決勝である。相手は市立姫路高校の選手で、彼が優勝候補だった。  一ラウンドと二ラウンドは五分の分かれだった。高橋がコーナーに戻ると、セコンド下の山下が怖い顔をしていった。 「つぎ行かんと負ける。ここで行ったら勝てる。絶対行くんよ」 「わかった。絶対行くから」  そう山下に答えた。  三ラウンド。打ち合った。必死だった。ここで行かないと悔いが残る。そう思って前に突っ込んだ。パンチが当たったのかどうかよくわからない。相手のパンチを受けたことはわかる。顔面で受けながらなお、前へ前へと突っ込んだ。ロープに詰めて打ちまくる。脇浜の「そうや、そこで行かんかい!」という割れ鐘のような声が耳に残っている。自分のほうが圧倒しているのだ。そう思ったところでゴングが鳴った。  高橋の判定勝ちだった。両手を大きく上げながら、高橋は思っていた。 〈人と殴り合って優勝してしまうなんてどうなってしまったんだろう……〉  山下、安田も勝ち残り、西高から三人の優勝者が出た。  最後のミドル級の試合が終わると、表彰式である。県大会の表彰は、まず高校単位の団体表彰からである。各級とも優勝者が五点、第二位が三点、第三位が一点を与えられる。山下、安田、高橋が優勝し、また二年生の上村|一八《かずや》がフェザー級で第二位に入ったことにより、西宮西高校が「一九八七年度・第三十一回兵庫県高等学校総合体育大会ボクシング選手権大会」の団体総合優勝をとげた。部発足四年目にして成しとげられた快挙であった。  団体優勝は自動的に決まる。その後は「最優秀選手賞」「優秀選手賞」「敢闘賞」の個人表彰がある。選考するのは、採点を務めた市アマチュアボクシング協会の役員と各学校の先生たちである。  最優秀選手賞は山下かな、と脇浜は思っていた。昨年に続いての連続優勝であるし、スピード、パンチの正確さ、ディフェンス力などからして最優秀選手に選ばれてもおかしくはない。ただ、脇浜は自分の学校の選手であるから、とくに発言もせずに黙っていた。  話し合いがはじまってすぐ、最優秀選手には高橋が選ばれた。技量が圧倒的に優れているとは思えない。けれども、役員たちの間にも、高橋が八連敗を経てここまでのしあがってきた選手であることは知れわたっていた。そういう“情実”も加味されたものであることは脇浜にはすぐにわかった。  夏、インターハイの全国大会は札幌の中島体育館で行われた。三人はインターハイに出場することよりも、はじめて飛行機に乗ることに興奮していた。高橋は一回戦で敗退、安田は三回戦まで勝ち残って七位に、山下は四回戦まで勝ち残って五位に入賞した。  彼らの卒業が迫ってきた。  山下と安田は、インターハイでの活躍が目にとまって、近畿大学のボクシング部から勧誘がきた。入学金免除などの条件がついた“特別入学”である。高橋にはこなかった。ボクサーとしての素質を勘案されてのことだろう。同じ県大会の優勝者でありながら、高橋だけが話がない。少年の心は穏やかではなかろう。高橋によれば「別にどってことはなかった」というのであるが、脇浜のほうが気に病んでいた。生徒が“差”をつけられることに対して、脇浜は神経質だった。しかしこればかりはどうすることもできないことである。  なお山下と安田は近大に進学をするが、大学のボクシング部には馴染めず、ふたりとも一年余りで退部し大学も中退している。  西高を卒業する彼らの心配はボクシング部のことだった。入部者はぽつぽついるのであるが、ほとんど長続きしない。下級生のなかで部を続けそうなのは二年生の上村一八ぐらいである。部員がひとりという状態が続くならクラブの存続も危うい。 「脇浜先生どうすんやろな」 「ボクシング部がなくなったらがっくりしてしまうだろうな」 「用具揃えて、道場作って、みんなパアになってしまうんだったらたまらんやろな」  卒業間際になって、彼らはよく話し合ったものだった。妙案は浮かばない。  先生のためにせめてお前だけでもボクシングは絶対続けよ——後輩の上村に、彼らが何度もいい渡したのはこのことである。  彼らはそういう心配を脇浜にいったわけではない。彼らが脇浜に心配をかけるのはいくらかけてもいいわけであるが、逆に、彼らが脇浜のことを案じているというのはどうにも|様《さま》にならないことであった。そんなことを少しでも洩らせば、「なにを生意気なこといいやがって」と、一喝されるのが落ちであろう。四年間の付き合いで、彼らは脇浜という男のことをすっかり飲み込んでいた。  一九八八(昭和六十三)年三月。卒業式がやってきた。講堂での式が済むと、卒業生と先生たちが食堂に集まり、簡単な食事が出され、懇談し、その後に散会するのが習わしとなっている。  脇浜はズボラなところがある。卒業式や入学式も姿を見せない年がある。ズボラというより、形式的な式典類一切が嫌いなのであろう。けれども、この年の卒業式には顔を出していた。  食堂で、山下、安田、高橋、辺見たちが揃って脇浜のところにやってきた。なにやらおずおずした様子である。 「先生、これ」 「ン? なんやこれは」  山下が花束を、高橋が包装紙にくるんだものを脇浜に手渡した。ひとり千五百円ずつ出し合って買ったもので、包装紙の中にボールペンのケースがおさまっていた。何度も相談して決めたものだった。脇浜の好物は煙草とコーヒーであるが、贈物としては格好がつかない。ボールペンなら役に立つ。  脇浜は包装紙をめくって、ボールペンを取り出すと、いつもの不機嫌そうな声でいった。 「えらい高いもんくれるんやな」  渡すほうも受け取るほうも、すっかり照れてしまっていた。  脇浜は彼らになにかいおうとした。が、喉が干上がってしまったように、言葉が出てこない。ようやく、「今日な、飲みにいって騒ぐんじゃないぞ」——そんなとんちんかんなことを口にしたりした。脇浜はほとんど|狼狽《ろうばい》していた。そんな気配をさとられぬよう、彼は場違いなしかめ面をしていた。  卒業式が済んでしばらくして、脇浜は一通の手紙を受け取った。山下和美の名前が記されている。教師になって以来、手紙と盆暮れの届けものには縁がなかった。はじめてともいえることである。|怪訝《けげん》な顔で脇浜は封を切った。  山下が手紙を書いたのは考えあぐねてのことである。卒業式が済んで、彼らは脇浜にいい忘れたことがあるのに気がついた。言葉としては、なんの礼もいっていないことである。いい忘れたというより、どうにもその種のことを面と向かってはいえなかった。第一そんなことをすれば、脇浜のほうが逃げ出してしまうだろう。だから相談をして手紙を出すことにしたのである。  山下が手紙を書いたのは生まれてはじめてのことだった。文房具店に行って、便箋と封筒を揃えることからはじめた。何度も辞書を引いて書いた。   《……先生、この四年間、熱心な指導をありがとうございました。今、自分たちが歩んできた道を振り返ると、先生と知り合う前の僕たちは、何をやっても中途半端でした。しかし先生の熱心な指導のおかげで、僕たちは精神的にも大きく成長し、熱心な試合ができて深く感謝しています……》  文面はありきたりのものではあったが、儀礼としての手紙ではなかった。彼らが手紙を出してくること自体、尋常なことではない。  あのチャメが……サボリめが……心配ばっかりさせやがって……。脇浜は文面を見ながら、この四年間にあった出来事を走馬灯のように追想していた。  山下についていえば、こんなこともあった。四年生の秋、インターハイが終わればもう主だった行事はないが、山下は毎日練習を続けていた。大学に進んでボクシングをやりたいという気持が固まっていたからだ。そこで脇浜は、彼を、京都で開かれた全日本アマチュア選手権の少年の部に出場させた。ところがこの試合で、山下はダウンを奪われ、しばらく起き上がれなかった。  そして、リングを降りてきて、しきりに吐き気を訴える。脇浜は大慌てになって、京都市内の病院に山下を運び込んだ。山下はベッドに横になり、点滴を打ってもらってようやく落ち着いた。それでも吐き気が治まらないという。脇浜は内心、青くなっていた。頭部に損傷があるのかもしれないと思ったのである。ベッドに付き添って、ひと晩、寝ずに過ごした。  のちにわかったことは、点滴を注入されると、吐き気を催すことがしばしばあること。またずっと後になって山下が白状したことによれば、ダウンを奪われて起き上がれなかったのではなく、どうにも起きる気がしなかったから倒れていたこと。さらに、病院では気持がいいのでそのまま寝てしまったというのである。脇浜が過剰に案じてしまっていたわけである。そんなひと晩もあった——。  花束と、ボールペンと、この一通の手紙が、部発足以来四年間、脇浜がこの間に支払ったものへの報いであった。それは、|些細《ささい》なものではあるが、しかし一方でそれは、教師|冥利《みようり》につきるところの、これ以上ない報酬でもあったろう。  あのペテン師めが……下手な字を書きやがって……。目頭を熱くしながら、脇浜は何度も何度もその手紙を読み返した。 [#改ページ]   第四章 硬  派

     1  山下、高橋、辺見、安田、薄井、さらに“兄貴分”として木村光秀(黄弟)がいた四年間が、西宮西高校ボクシング部の第一期の時代である。道場や設備はお粗末であり、再三サボリ事件があり、その種の|軋轢《あつれき》は絶えなかったわけであるが、部の“黄金時代”だった。彼らは再三問題を起こしながらも、脇浜の期待に応えた。それが多分に|擦《す》れ違いや誤解まじりのものであったとしても、脇浜が見たいと思っていた光景を彼らは実現した。そして、彼ら自身、この学校で思い出に足るものを刻み込んで卒業していった。  一期生が卒業したのは一九八八(昭和六十三)年春である。以降九三年度末まで、ボクシング部に短期間を含めて所属した生徒の延べ人数は百数十人に達しているが、四年間所属した生徒はひとりを除いて生まれていない。卒業生は四人いるが、彼らはいずれも学年途中の入部者である。  部員が定着しない背景には、さまざまな要因がある。生徒たちの側に、また脇浜の側にも|僅《わず》かではあれ、あったというべきであろう。それについてはのちに触れることもあるだろう。  私は西高に日常的に出入りするようになってから、練習が終わると、脇浜や、保健体育の教諭でボクシング部の副顧問を務めている海老原大裕たちと連れ立って、近所の焼き肉屋やお好み焼き屋に行くことがよくあった。そんな席で、ふたりから、これまでボクシング部に所属した生徒たちについての寸評がよく|洩《も》れたものである。  一期生たちを別にすれば、「上村|一八《かずや》」という名前をよく耳にした。彼は山下たちの二年後輩で、一期生を除けば、初期の時代、ボクシング部に四年間所属した唯一の部員なのであるが、卒業はしていない。授業にはほとんど出なかったからである。いわば「ボクシング部卒業」というわけである。  彼は、脇浜に忘れがたいいくつかの思い出を残しており、出る話はだいたいその繰り返しなのであるが、やがて私は、脇浜はこの若者が好きだったのではないかと思うようになった。教師も|畢竟《ひつきよう》、好悪の感情をもった人間である。脇浜は生徒たちに対しては、神経質なまでにその種のことは見せない教師ではあったが、なんとなく伝わってくるところはある。  私は上村のボクシング部時代を直接には知らない。最初は彼が残していったいくつかの逸話を聞いて、興味を引かれた。さらに、何度か会ううちに、脇浜がお気に入りだったわけもうなずけた。  上村一八がどういう若者であったかは、その入部のいきさつが象徴していよう。  宗一雄という部員が上村の入部に介在している。  宗一雄は在日韓国人の子弟であるが、その生い立ちも、ヤンチャぶりも、人となりも、またボクシング部における立場も、木村光秀と酷似している。年齢は木村よりひとつ下であるが、ふたりは幼馴染みである。宗が西宮西高校に入ったのも「|光《みつ》が行っているから」というのが理由のひとつだった。宗は、二年生の二学期から西高に途中編入をしている。一九八五年であるから、ボクシング部が発足して一年余りのちということになる。  宗は、中学を卒業すると、職業訓練校に一年在籍してのち、大阪・池田市にある機械メーカーに三年間勤務している。この会社に勤めながら、兵庫県立川西高校の定時制に通っていた。川西高校を選んだのは職場に近かったからである。  定時制高校に通うようになったきっかけは、職場で、仕事にかかわることでさまざまな改善案を出す「提案書」という制度があり、そのためにきちんと漢字を覚えたかったからという。  えらく真面目だったんですね、と訊くと、 「見かけによらんでしょ」  といって、彼は豪快に笑った。  彼の体重は九十キロを超えている。在学時から八十キロはあった。ボクシング部に入った動機のひとつは減量であったそうだ。顔立ちも雰囲気もゴツイという印象を与える青年である。  父親が砂利や廃材をダンプで運搬する仕事をしており、やがて彼もその仕事を受け継ぐ。勤めていた会社に未練はなかったが、高校は続けたく思い、地元にあって、かつ光も通っているということで、西高へやってきた。  新しい高校にやってきて彼は、「いっぺんにフヌケしてしもた」そうである。  彼によれば、川西高校は「昼間の学校が夜になっただけ」で、授業を受け、勉強するだけの学校だった。西高は「ホンマの定時制」であって、「万事チャランポラン」であり、同時に「ゴッツ雰囲気のええ学校」だった。  教師たちが違っていた。授業が済んで、「風呂行こか」と声をかけてくる教師がいるのには驚いたものだ。脇浜だった。銭湯を出て、居酒屋に入ってビールを飲む。教師は酒はまるっきり弱かったが、話はおもしろい。生徒に対してというよりも、ひとりの男として話をしてくる。宗はこの「教師|面《ヅラ》せん男」が気に入った。  その教師が教えているという、ボクシング部を|覗《のぞ》いてみた。薄暗く、古い道場で、「頼りないような奴らばかり」が練習をしている。|侘《わび》しいような風景ではあったが、〈ええなぁ〉と宗は思った。薄汚くて、ハングリーで、がんばってる。正面きって口にすることは一度もなかったが、それは、彼が心動かされる数少ない光景だったのである。  もともと「格闘技好き」であったし、宗は即、入部を決めた。彼は入学時ですでに二十一歳になっていたから、高校生として試合に出る資格はない。毎日練習には出ても試合には出ない。したがって自然に、木村弟と同じように、部員たちの“兄貴分”というのが彼の役割になっていく。  彼は二十歳になるとすぐ、五トン以上のダンプを運転できる大型一種の免許を取り、父のもとで運送の仕事をはじめた。廃材や残土を中心に、注文があれば、近畿一円、ダンプを駆って走り回った。当時受注で多かったのが、サントリーの工場から出るビール|瓶《びん》を破砕した廃棄物で、これを十トンダンプに満載し、京都・山崎から神戸・六甲アイランドの埋め立て地まで運ぶ。一回運んでいくらの請負いで、当時の単価は一回で一万七千円だった。朝六時に家を出て夕方まで、三往復はこなしたものだ。  そして夕方、家に帰る余裕がないものだから、十トンダンプで学校まで乗りつけ、校舎横の道路に駐車して、授業に出るのである。  彼はやがて、ボクシング部のみならず、学校全体の“ワル”を取り仕切るところの、いわば“元締め”的存在になるが、それは、その体躯と、親分肌の風貌と性格に加えて、その通学風景における迫力もあってのことだったのだろう。  ——宗は卒業後も、ときおり学校に顔を見せる。脇浜も、宗については、部のOBというよりも、心許した友だちといった感じで、その会話も遠慮はない。 「この前、風呂屋に行ったら、Bがおってな、えらい神妙に、先生ごぶさたしています、といいよるんよ。ところがいつまでたっても湯船から出よらんわけよ」 「わかる。出られんわけや」 「|蛸《たこ》入道みたいに真っ赤になって、先生、もうちょっと|浸《つ》かってから出ますといいよってな、クックックッ……。ピンときたから知らんふりして出てやったんやが」  Bは西高に在籍したことのある生徒である。背中のモンモン(刺青)を脇浜に見られたくなかったというわけである。  卒業生にはいろいろな職業に就いているものがいる。神戸の新開地でアルサロの店を出しているものもいる。脇浜が一度顔を出したさいには、ひどく歓迎してくれた。「べっぴん揃えます」といって大サービスをしてくれたのはいいのだが、「これがオバンばっかりでエライ目におうた」とのことである。  宗がやってくるとだいたいがそういう類いの話に終始する。そして最後には、たいてい次のような話で終わるのが常だった。 「またひとりやめよってなぁ。裏切られてばっかりや」 「期待し過ぎるからそうなるんや。前からいっとるやろ。生徒に期待し過ぎたらアカン、と」  いわば、脇浜のボヤキやグチの聞き役というのが、昨今の宗の役割でもあるようだ。  さて、宗が西高の三年生になってしばらくした頃だった。 「先生、ええゴンタいるみたいよ。声かけてみるわ」  と、脇浜にいった。宗は常々脇浜から、ゴンタがおればボクシング部に誘ってみてくれ、といわれていたからである。それが上村一八だった。  上村は宝塚市内の中学を卒業して、西宮西高校に入学している。中学時代は勉強嫌いで通し、進学したい気持もなかったのであるが、「高校ぐらいは」という母親の勧めで西高にやってきた。彼もまた両親が離婚をしており、母と妹の三人暮らしをしていた。西宮の高校を選んだのは、担任の教師が偶然勤務したことがあって勧められたからである。  西高には、他の市町村から通学している生徒もいるが、地元西宮市からの通学者が圧倒的である。クラスのなかで、入学当初はだいたい同じ中学出身者がグループをつくる。いわば西宮市出身者たちが幅をきかすわけである。  上村のクラスには宝塚出身者はおらず、顔見知りの生徒もいない。当初、クラスのなかでぽつんとしていた。  彼が入学したのは一九八六年で、山下たちが三年生の年である。この時代が、激しい「番長争い」があった最後の頃だった。クラスでは西宮グループのボスが番長になり、それで秩序ができつつあったのであるが、ひとり、横を向いていたのが上村である。  上村によれば、別段、自分から喧嘩を売っていったわけではないというのであるが、集団で威圧をかけられると生理的に反発を覚える性分をしていた。宝塚ではちょっとは鳴らしたものである。ただし、徒党を組んで喧嘩をしたことはない。やるなら一対一でこい。それが、彼の流儀であった。自然と、徒党を組む連中は虫が好かない。  上村一八はきりっとした顔立ちに、よく光る眼をもった若者である。それは取りようによっては「反抗」とも受け取られよう。西宮グループは「敵対」と受け取ったようだった。新学期がはじまって一週間ほどたった日、授業が済むと、番長から呼び出しがかかった。 「お前、番(長)やるつもりか?」 「いいや、別に。俺はなんでもない」  それが、番長グループと上村の、その後十日余りにわたる“抗争”の皮切りだった。  グラウンド、便所、廊下の隅……。そんなところで、連日殴り合いとなった。それまで喧嘩で後れを取ったことはなかったが、数人、あるいは十数人対一人となればどうにもならない。あやまれば、つまりグループの傘下に入るといえばそれで終わりなのであるが、それだけは死んでもいう気はない。  毎日、顔を|腫《は》らして帰ってくる。翌朝も顔中にあざができている。母親は、学校行くのんやめたら、というのだが、そうなると意地でも休めない。そんな|質《たち》だった。  少年は決意した。  押し入れにしまい込んでいた「警棒」を取り出し、ベルトに挟んだ。通信販売で買った喧嘩道具である。いままで使ったことはなかった。振ると先が飛び出して棒になる。先に鉛が仕込んである。使えば単なる怪我では済まない。だが、やるつもりだった。番長を半殺しぐらいにはするつもりだった。  その日は教室に出ず、廊下の隅のほうで授業が終わるのを待っていた。相手の番長がひとりになるときを狙って、一気にけりをつけるつもりだった。  そこへ、見知らぬ大男がぬーっと現われてきていった。 「上村というのはお前か」  宗だった。  相手も準備しとったか、このオッサンに勝てるか、|手強《てごわ》いな……。さすがの上村も、「一瞬、びびった」。  大男は、狭い部屋に上村を連れていった。職員休憩室である。上村はそんな部屋に入ったことがない。こんな狭いところでやるつもりか、たまらんな、でも、こっちも男だ、かなわぬまでもやってやる……。  ところが、どうも話が違うのだ。 「お前のことは聞いとった」「ええ根性、しとるやないか」「ワシ、中に入って話つけたるわ」——などと大男はいうのだった。  宗は、この年、入学してきた新入生たちのクラスで|揉《も》めごとが起きているのを耳にしていた。ひとりで番長グループを相手にしている奴がいるという話だ。興味を引かれた。喧嘩騒ぎも目撃していた。ボクシング部のことも頭にあって、偶然その日、上村を掴まえたのである。 「こいつですわ」  宗は、職員休憩室にいたもうひとりに向かっていった。浅黒い顔の、口髭をはやした男が、ニヤニヤしながら座っていた。  上村の前に座ると、男はいきなり右手を差し出した。 「……?」 「手、握ってみい。ン? もっと思いきり握らんかい!」  上村は握力には自信があった。日頃から鍛えていた。りんごを握り締めて割ったこともある。けれども、その男の握力は並はずれていた。|渾身《こんしん》の力を込めて、なお及ばない。  手を引っ込めると、男はいった。 「ええ力しとる。今日からボクシングやれ!」  それが、脇浜との出会いであった。  次の日、宗は西宮出身のグループを全員集め、こういった。 「もう喧嘩やめ。上村はワシの友だちや。これからこの男に手ぇ出したらワシが承知せんぞ!」  それで騒ぎがほぼ収まった。上村は番長とも、その後はけっこう仲良くなった。  もうひとつ、脇浜とのかかわりで上村が覚えていることがある。入部してひと月ぐらいたった日のことである。  道場へ番長グループの“残党”が押しかけてきたことがあった。まだ決着が着いていないと思っている数人のグループだった。  上村は、カタをつけようと道場を出ようとした。脇浜がいた。上村が事情を説明すると、脇浜は道場にいた部員たちのほうに向かってこういった。 「そんなつまらん連中はみんなで袋叩きにしてしまえ!」  エライ先生もいたもんやな——と上村のほうが驚いた。  脇浜の目に上村が留まったと同じように、上村に、脇浜という教師は、強い印象を残した。      2  上村一八は、西宮西高校にボクシング部があることは、入学式の日に知っていた。廊下の壁に、「ボクシング部新入部員募集」と記された貼り紙が目に留まったからである。ただ、スポーツというものに関心がなかった。そんなものをしたところでなにになるのか。〈ナンボのもんじゃい〉と思っていた。  宗と脇浜に、いわば“強制入部”させられた格好でボクシングをやりはじめたが、このスポーツをすぐに好きになったわけではない。暇つぶし半分、というところであった。  入部してしばらくした日である。 「どうや上村、スパーリングやってみるか」  と、脇浜がいった。  望むところである。グローブにヘッドギアなどつけた殴り合いなどなんであろう。かったるいわい、と思ってリングに上がった。  スパーリングは、基礎技術がきちんとついてはじめるのが普通だから、通常は入部して半年から一年たって行うものである。技術はもちろんなきに等しいが、上村は筋肉質のいい躰をしている。気性は申し分ない。そんなところから、脇浜が大丈夫と判断したのだろう。  相手は山下が務めた。 「山下よ、こいつは少々ドツイてもかまわんからな」  と、けしかけるように脇浜がいった。  体格は自分のほうが上回っている。先輩を倒したら悪いな、とさえ上村は思っていた。が、脇浜のひと言で、上村は激しい勢いで山下にぶち当たっていった。  左右のフックを思いきり振り回した。当たればダウンするほどの力感溢れるパンチではあったが、当たらない。山下は軽くいなしている。やがて、スーッ、スーッとパンチを出してきた。それが、まるで避けられない。  運動神経には自信があった。喧嘩なら、パンチがくるな、ということがわかる。芯を外すことができる。ところが山下のパンチは、くるな、という一瞬がわからない。あるいはくるなと思ったときにはすでにパンと当てられてしまう。焦った。けれども、どうにもならない。まったくおもちゃにされてスパーリングは終わった。ショックだった。  山下だけではない。薄井を相手にしてもそうであるし、さほどスピードがあるとは思えない高橋と対戦してもそうなのだった。惨めだった。 〈ボクシングは喧嘩と違う〉  それが、上村が骨身に染みて思ったことである。それがまた、彼がこのスポーツに打ち込む契機となった。  上村は、入学してしばらくは授業に出ていたのであるが、やがてボクシングの練習だけをやるために学校に来るようになった。  この頃、彼は宝塚市内にある食品工場で働いていた。ハムを作る部署に所属し、最終工程の、ミンチを染めるための染料を注入する作業を割り当てられていた。湯気が充満している作業場は蒸し暑く、また油断をすると火傷をする。楽な仕事とはいいがたかったが、仕事に疲れて学校を休みがちになったというわけではない。勉強というものに、どうにも興味がもてなかったのである。  彼のクラスの担任は、英語を教えている八木司朗だった。  八木は一九四九(昭和二十四)年生まれであるから、いわゆる団塊の世代のひとりである。教職員組合のなかでは副委員長を務めているが、書記長の堀川敏朗(社会科)と同じように、あたりの柔らかい感じの人物である。  八木は教員になって、兵庫県内にある定時制高校に勤務し、その後西宮市内の進学校に移り、さらに西宮西高校に転勤している。上村が入学してきた年でいうと、西高に来て七年目に当たっていた。この学校のこともひと通りは体験してきたわけである。進学校と定時制高校の比較を訊くと、彼の答えは私が予期していたものとは違っていた。 「一見、問題のない学校と問題だらけの学校ということになりますが、必ずしもそうとはいえないように思うんですね。進学校の生徒たちは、いわゆる問題を起こす子は少ないわけですが、内部にさまざまな屈折なり鬱積したものをもっている生徒が多い。こちらのほうは、いわば最初から問題が表面化していて、かえってわかりやすいという面はあると思うんですよ。もちろん大変ではありますがね」  授業に出てこない上村も、もちろん“問題児”であった。  生徒が一人ひとり抱えている問題に対してなにができるのか——それが教師になって以来、八木が自問自答してきたことだった。 「根本的なところでいえば、おそらくできることは極めて小さいだろうな、というのが実感ですね。できることは、生徒と付き合ってやること、話を聞いてやること。ほとんどそれに尽きるのではないでしょうか」  入学当初、上村が番長グループと|揉《も》めていることも八木は知っていた。上村には「相手にするなよ」とはいったが、自然に決着を待つしかないだろうとも思っていた。  上村が授業に出てこないことについては、あえてどうこういわなかった。別に授業だけが学校ではない。クラブ活動だけであっても、そこで彼が打ち込めるものをもっていればそれでいいと思ったからだ。 「自分自身を振り返ってみても、勉強なんて嫌いだったし、十六、七のときにやりたいことなんてなかったですからね。教師をやっていながらこんなことをいうのはヘンですが、いまだに学校がいいものだとも、どうしても必要なものだとも思えない。ただ、生徒たちが一生懸命になる対象はあったほうがいいとは思うんです。クラブ活動であっても、あるいはたとえそれが“暴走”であってもね。要はどこかで光ってくれていたらそれでいい。そう思っていますけどね」  八木の話は、タテマエとしていうなら、教師からほとんど聞かれることのない言ではあろう。  この学校を訪れるようになって、もし自分が教師だったらなにができるだろう、と私は折りに触れて思った。答えは、やがて八木のそれとほとんど重なっていったような気がする。教師と生徒の間だからなにかができる、あるいはできなければならないとするのは、願望であり、錯誤であり、取り繕いではないのか。そもそも、人が人に対して、本当にできることなどあるのだろうか。あるとしても、それは、こうしたからこうなったというような直截なものではないだろう。それはきっと、長い時間のなかで、結果としてひとつの契機を得たというような形の、|迂遠《うえん》なものであろうと私には思える。  上村によれば、八木とは深い付き合いはなかったが、「話しやすい、いい先生」であったという。  上村が一年生の終わり、県下の新人戦が近づいていた頃だった。上村はテクニックはないが、馬力は人一倍ある。フェザー級の新人王はまず堅い、と脇浜は思っていた。  そんな日、上村の祖母が亡くなった。葬儀には八木や脇浜も顔を出した。 「試合、どうする? せっかくやから出てみるか」 「………」  どうしても試合に出なければならないというわけではない。ただ脇浜は、上村本人が試合に出たいというなら悪くないだろうと思って勧めてみたのだった。  上村は試合の日に学校に現われなかった。 「ゴンタ」で突っ張ってはいても、十六歳の少年である。可愛がってくれた肉親が死んだ。それだけで張り詰めていたものが消えてしまったのである。  ガッツはあっても根気に欠ける。それになにかあるとガッと崩れてしまう。そんなところが、この少年にはあった。  一期生のすべてにサボリ事件があったように、上村にも長期の休部期間があった。彼が二年生の秋、半年近く学校に現われなかった。  二年生時のインターハイ県大会、一期生の三人が優勝した年であるが、上村は決勝では敗れたもののフェザー級で準優勝した。大きな目標が終わったということもあったのだろう。  上村によれば、ボクシングが嫌になったわけでも、脇浜と|仲違《なかたが》いしたのでもなかったのだが、友だちに誘われて単車で遊ぶことを覚えたのがきっかけだった。お決まりのコースといってよかろう。  夜、友人と連れ立って単車に乗って走り回り、帰り道、缶ビールを買い、海岸に出て気勢をあげる。そんな日々が続くうちに、ボクシングの練習をするために学校に行くのが嫌になってきた。ついだらだらと休んでしまった。ただ、単車友だちは酒も煙草もやっていたが、彼は口にしなかった。気持のどこかで、ボクシングのために悪いと思っていたのである。  彼の二年生時の担任は、社会科の堀川敏朗だった。堀川は脇浜とも八木とも近しい間柄だ。上村のことはよく耳にしていた。上村は授業には出てこないので、付き合いもできないわけであるが、道場を覗いたりしながら、一応の関係は保持していた。  上村がクラブにもさっぱり出てこなくなったということで、堀川は上村の家に行ったことがある。顔を合わせると、明日から行きます、というような返事をするのだが、明日になると出てこない。そんな繰り返しだった。宗や山下が上村宅を訪ねたこともあったが、結果は同じだった。  堀川はさじを投げた。もうあの子は出てこないだろう。担任として一応の務めは果たした……。  ところが、脇浜の判断は違っているようだった。堀川の報告を受けると、 「まあしばらくほっとこか」 「いまはなにいうても聞く耳もたんやろ」 「そのうち現われるようになるで」  などといって、自信ありげなのである。  脇浜はこの頃になると、少年たちのサボリについては読めるようになっていた。多くは、いわば一過性のオコリのようなものであって、その時期にはなにをいっても効き目がない。時期がたてば帰ってくるものは帰ってくる。上村はきっとその口だ、と。  脇浜の予測した通りだった。  三か月もすれば、上村は夜遊びにすっかり飽きてしまった。そこには、試合のリングに上がる際におぼえる震えるような緊張や、渇き切った喉を潤す水道水の美味や、あるいは自分はここで何事かをしているのだという充足感は求めるべくもない。  上村は道場が恋しくなったのである。  ところで、この少年は意地っ張りであった。堀川や宗を通して、脇浜がいつでも帰ってこい、といっているのは耳にしていた。しかし、そうおめおめと戻れるものではない。道場の入口近くまでは来るのだが、なかなか足を踏み入れることができない——。そんな日が何度かあった。ひと言、脇浜に|詫《わ》びをいえばことは済むのであるが、そのひと言がいえないのだ。  道場の外で上村がうろうろしている様子を、脇浜はとっくに知っていた。 「あっ、なにか走ったぞ。アタマの黒いネズミだ。あっ、また走った」  などといいながら、脇浜もまた、上村に声をかけるチャンスを逸していた。脇浜も相当の照れ屋である。ひと言が出ないのだ。  このふたりは、その性格において似ていたのかもしれない。結局、宗が見るにみかねて“間に入った”。  上村がうろうろしているところを宗がひっ掴まえ、無理やり道場の中に連れていった。 「入れ、入れ。なに気にしとんネン。……先生、また来よりましたわ」  それで一件落着となった。  脇浜は上村のサボリについて、読み切っていたように語るのであるが、それは一面であって、のちに起こった同種のことから推測するに、やはり相当に心を痛め、傷ついていたのだと私は思う。  脇浜は豪放|磊落《らいらく》な性格をしているが、一方でまた繊細で傷つきやすい部分をもっている。  宗はこれまで、脇浜と一度だけ仲違いをしたことがあった。  宗は在日韓国人三世である。祖父の代に日本に渡ってきて、祖父は信州地方のダム工事の仕事にたずさわっていたという。父母は自分たちの生い立ちについては、子供に語ることはほとんどなかった。家では日本語を使っていたし、宗自身も朝鮮語は話せない。両親は、子供に聞かせたくない話のあるときのみ、母国語を使った。  宗にとって、西宮西高校に転入してきて、「朝鮮文化研究会」の活動に接したことが、祖国のことを知る契機となった。  毎年秋に、学校の文化祭がある。一年生のとき、宗は文化祭で、チャンゴやドラを使って、韓国の伝統舞踊を企画した。それまで遠かった祖国の文化に、この手で接してみたいと思ったのである。ただ、そうなれば、道具もいるし、予算もいる。さっそく校長のところに行って談判をした。  それが脇浜の気に入らなかった。やることに対してではない。校長のところへ足を運んだことに対して、である。脇浜にすれば、そもそも学校内に朝鮮文化研究会を作ったのは自分であるし、生徒たちの活動を支援してきたという自負がある。校長など、そういう活動の足を引っ張ることが職務であるような存在ではないか。なぜ校長のところへなど行くのか、というわけである。  宗にすれば、そういういきさつは知らないし、責任者に話をしたほうがことは早いと思って校長のところへ足を運んだだけである。ちょっとした行き違いであったのだが、ふたりの関係はもつれた。  それからしばらく、脇浜は宗に口をきかないのであった。宗にすればわけがわからない。ようやく、気がついた。脇浜が|拗《す》ねているのは、要はなぜ俺のところに最初に相談に来んのか、ということだったのだと。  そういうことがあって、宗は脇浜という教師の別の一面を知るようになった。宗が脇浜の人間像として使った言葉は、「ヘンコ(変骨)」「頑固」「仁侠」「寂しがり屋」などといった類いの言葉である。それは、私が脇浜との接触を重ねるにつれて抱いていった印象と多分に合致している。  一期生・高橋卓也の上村評は、「どうしょうもないゴンタやけど、むっちゃエエ奴」というものだった。  上村は、道場内では、無駄口をたたかない若者だった。ひとりでぽつんとしているときが多い。そんな性格なのであろう。先輩たちは、彼のゴンタぶりを、ときおり顔を腫らしてやってくることから知った。一度、顔中傷だらけになって現われたことがあった。ただ、なにがあったのか、訊かなければ本人から語ることはなかった。  それは、上村の記憶では、「宝塚駅の乱闘」であったろうという。  二年生の春だった。練習を終え、電車を乗り継いで、阪急・宝塚駅に着くのは夜の十一時半頃である。まばらな乗客のなかで、三人の若者が向かい合わせに座っていた。三人組が「メンを切ってきた」。強い目線を向けてくることで、相手の目線を逸らすと、いわば降参しましたという合図になる。  上村はそれまで、メンを切ってこられて、目線を逸らしたことは一度としてない。とくに、多勢をかって威圧をかけてくるような輩にはもっとも喧嘩の闘志が湧く。  駅のホームで乱闘となった。|何分《なにぶん》、練習を終えてへとへとに疲れている。ふたりまで叩きのめしたところで、三人目にうしろから後頭部を強打されて転がった。あとは殴る蹴るのされ放題である。だが、転がされても転がされても彼は立ち上がった。そして、自然とボクシングのファイティングポーズが出る。三人組はもう気味悪いと思ったのであろう。最後には、やられたはずの上村が、改札口から逃げる三人組を追いかける格好で乱闘に終止符が打たれた。  家に帰って鏡を見ると、右目の下を大きく切り、鼻血はもとより、口や耳からも出血していた。  翌日、腫れ上がった顔で道場に出ると、脇浜は不機嫌そうな顔をしてこういった。 「喧嘩するなとはいわんがな、それじゃ練習ができひんがな。どつきあいは練習ができる範囲にしとけ」  上村の“反省”は、〈三人ぐらい相手にして負けてるようではボクシングやってる値打ちがない。もうちょっとは強くならんとな〉というものであった。  彼のゴンタぶりは、この乱闘事件ひとつを紹介しておけば十分であろう。  もうひとつ、彼には顕著な一面があった。彼が上級生になったときに、それはよく見られる光景だった。  ボクシング部に入部してくるものは、どういうわけか弱々しい感じの生徒が多い。タイプとしていえば、上村は例外的タイプである。先輩たちがそういう生徒たちを教えるわけであるが、やりようによっては|苛《いじ》め放題ということになる。大学や高校のボクシング部で重大事故が伝えられることが|希《まれ》にあるが、多くは、試合での事故よりも、練習時における上級生による下級生苛めから起こっている。  脇浜はその種のことをもっとも嫌ったから、西高で起きる心配はなかったが、脇浜や海老原のいない時間に、下級生苛めをやろうと思えばできる。  上村は、スパーリングでも、新入生や弱いものに対してはほとんど打たなかった。むしろ自分が打たれるままにして、防戦一方になる。それは脇浜たちがいようがいまいが関係なかった。脇浜が叱責しても同じである。この若者は、そういうところがあった。  脇浜が上村に目をかけたのは、臆測するに、その立ち居振る舞いが、かつての若かりし頃の自分を|彷彿《ほうふつ》させるものがあったからだろう。それに加えて、この若者が生来宿している優しさが透けて見えたからでもあったろう。  道場には、見学に女生徒が現われる日もよくあった。ハンサムな顔立ちの上村が目当ての生徒もいるようだった。海老原が、「おい、もてるな」とひやかすと、そんな折り、この若者はひどく照れた。海老原によれば、上村は「近頃珍しい硬派」であった。      3  一九八八年春、山下たち一期生が卒業していった。残ったボクシング部員は、三年生の上村一八、重光康克、それに転入生や新入生を合わせて数人であった。  重光康克は、上村の中学時代の同窓生で、二年生時に西宮西高校に転入してきた生徒である。  西高には転入生が少なくない。毎年、なんらかの事情で全日制高校を途中退学した生徒たちがかなりの数、途中入学してくる。定時制高校は、全日制からの“ドロップアウト組”の受け皿としての役割も果たしているといえようか。  重光の場合も、転入に至るまでに、またその後も、挫折や試練があった。  彼はサッカー少年だった。サッカーをやるという目的で、宝塚を出て岡山県内の私立高校に入学するが、一年で退学してしまう。レギュラーになれる見通しがなかったことと、家からの仕送りが苦しくなったことによるものだった。両親に「高校は出ておかないと」といわれ、上村の通っている西宮西高校に転入してきた。スポーツが好きだった彼は、上村に誘われてすぐボクシング部に入った。  ところで、彼には病気があった。西高での健康診断で尿から|蛋白《たんぱく》が検出され、さらに精密検査をするとネフローゼ症候群という病に冒されていることが判明した。入院治療をして一応の症状は治まったが、完治しにくい病である。日常生活に不自由はないのであるが、過度の疲労は禁物だ。試合数もライトフライ級およびフライ級で十戦余り数えているが、病気が判明して以降は、身体と相談しながら練習をしたりしなかったり、という日々である。  彼は、一九九四年現在も、西高に在籍している。授業日数が足りず、留年を続けているからである。  というわけで、重光は西高およびボクシング部の“古狸”といっていい。職員休憩室や道場でよく顔を合わせた。顔を合わせると、屈託のない笑顔を見せる若者だった。ものおじしない性格なのだろう、脇浜たち教師ともよく談笑している。  上村の近況も重光から入ることが多かった。上村が“卒業”してからも、ふたりは親しい友人である。最近も、「昨日、カン(と彼は上村のことを呼ぶ)と飲みにいってエライ目に遭いましたわ」という。  何事かと訊くと、飲み屋で喧嘩騒ぎとなり、ふたりで数人を相手にして「勝った」というのであるが、「服がボロボロになってしもうて」とこぼすのである。「カンと飲みにいくときは、ホント、ええ服着ていかれへん」というのが、話の落ちであった。  重光とはさまざまなことを雑談したが、ふたつのことが私のなかに残っている。  あるとき、「世の中って嫌なことばっかりでしょ」と、ぽつんといったことがある。  彼がこれまでについた仕事を訊いていたときだった。日本料理屋の板前見習い、警備会社の警備員、建設現場のアルバイト、スーパーマーケットの配達、運送屋の運転手、大工見習いなどの職歴がある。建設現場のアルバイトには上村とふたりで通った時期がある。将来は、宅建免許を取って不動産屋をしたいともいうのだが、「気持がころころ変わって」と、確たる将来像は固まっていない。  そんな話題が出たあとで、ぽつんとそうつけ加えた。それは、この一見快活に映る若者が、これまで世間で味わってきたもののなかから生まれた溜息のようにも聞こえて、耳に残ったのである。  もうひとつは、脇浜にかかわりのあることである。  重光が十七歳になったとき、どうしても単車がほしくてたまらなくなった。ホンダのCBR400Fというタイプで、中古でも四十数万円はする。親にねだってみたが駄目だという。諦めきれない。  キャッシュが無理ならローンで買う手がある。書類を揃えた。ただ、未成年者には保証人がいる。脇浜の顔が浮かんだ。親でも駄目だったものである。重光は半分諦めながら脇浜に頼んだ。 「ふーん、そんなに欲しいか。しゃぁないな」  といって、あっさり書類に判子を押してくれた。脇浜はほとんど何も訊かずにオーケーしてくれた。そのことが、彼にとって、「嫌なことばかりの世の中」における例外的出来事として記憶に刻まれている。  それにしても、他のものならいざしらず、先生が生徒の単車購入の保証人になるというのもめったにない話であろう。脇浜に確かめると、「そんなこともあったかなぁ」と、ほとんど忘れていた。  あまり聞いたことのない話ですね、というと、 「うーん、そうか。普通の先生はそんなことせんか。ワシが変わっとるのかなぁ」  といって、例のクックックッを洩らしたものだった。  それが“教育的”なことかどうかはわからないが、要は、教師と生徒ではなく、対等な個人として生徒と自然に付き合うというのが脇浜流なのだろう。生徒一人ひとりが求めているものは当然違う。それにすべて応えることはできないにせよ、できることはするというのが彼の流儀であるようだった。  もちろん脇浜は“慈善家”ではない。西高生全体から見れば、脇浜という教師と触れ合う生徒はごく少数であろう。それに彼は、学校で起きる日常のことに子細に対応するタイプの教師ではない。ボクシング部のように、情熱を傾けうる対象以外には、おおむね無関心であるようにも思える。ただもちろん、ボクシングだけが関心事というのではない。  彼の情熱は、それが“挑戦”という形をとるとき、もっとも熱くなるようである。ボクシング部とは無関係であるが、脇浜のことを深く記憶にとどめている女生徒がいる。  |李幸子《イコジヤ》という。現在は三十代に入り、大阪外国語大学(二部)に通いながら会社勤めをしている。勤務先では通名の日本名で通している。自立した社会人といおうか、落ち着いた感じの女性である。  李幸子は、在日韓国人三世であるが、来歴からくる第一の特徴をいえば“孤児”であることであろう。二十代半ばになって西宮西高校に入ってきたのもそのこととかかわりがある。  両親はともに在日二世であったが、彼女が幼児のときに離婚をしている。以来、母ひとり子ひとりの家庭で育っている。母は洋裁をして生計を立てていた。在日であること。母子家庭であること。当然、さまざまな困難があったと思えるのだが、そういう点はさらっと流してしまう人であった。  彼女は兵庫県尼崎市で育ち、市内の高校に入るが、事情があって二年生で中退してしまう。その後は、いくつか会社を変わりながら事務職に就いてきた。  勉強をしたい、できれば大学にすすんでみたいと思ったのは、二十代に入ってからである。会社勤めをする上で、高校中退という経歴はなにかとハンディがある。それに、学校を中途半端に終えてしまったことが、心残りに思えてきたのである。大学受験の資格を得るためなら、通信教育や検定を受ける手もあるが、定時制高校に入るのがもっとも確実な道に思えた。ただ、そうは思いながらも踏ん切りがつかず、すぐに行動には結びつかなかった。  彼女が二十五歳のとき、母親がガンで亡くなる。戸籍上の父親は存在していたが、実質、天涯孤独になってしまった。  この頃、西宮市内に転居しており、「市政ニュース」で、定時制高校生の中途募集という記事を見て心が動いた。勉強してみたいという気持もさることながら、学校へ行けば「人恋しさ」も紛れるだろうと思えた。ひとりで生きていくという決意とは別に、独り暮らしの|寂寥《せきりよう》感は深かった。  かつて在籍した高校における単位が認められて、彼女は三年生として途中編入する。一九八六年春である。西宮西高校は、それまで彼女が経験したどんな学校とも違っていた。  毎日授業を受けにきているクラスの生徒は二十人ほどで、男子が三分の二を占めていた。三年生であるから、クラスメイトはすでに二年間、通学している生徒たちである。それなりに学校に定着している生徒たちであるのだが、それでも彼女にはびっくりすることばかりだった。教室でおおっぴらに煙草を吸う男子生徒がいる。授業中に私語が絶えない。すっかり眠り込んでいる生徒もいる。彼女には、教壇の先生が気の毒に思えて仕方なかった。  途中編入者であるから、もちろん知った生徒はいない。授業時間はいいのであるが、休憩時間が辛い。ひとりぽつんと過ごさなければならないからだ。自分から話しかけていけばいいのだが、彼らより年上だという気持もあって、なかなか打ち解けていけない。  学校に通いだしてひと月もたった日である。ひとりの男子生徒が、「李さんというんですか」と話しかけてきた。うれしかった。久々、オフィスにおける業務上の会話ではない会話であったからである。  やがて彼女は、「この学校が好きになった」。  品行方正とはいいがたい生徒たちも、別段、「不良」というわけではない。一見粗野な振る舞いをみせるものほど、その実、生き方の下手な、その分純粋な部分をもった生徒たちであることが多い。実社会の経験を重ねてきた彼女には、そういう点はよく見抜けた。  授業中の私語についても、確かに良くないことではあるが、実は彼らも、自分と同じように「普通の会話」に飢えていることからきているのではないか。  このことは堀川も指摘したことがある。中学を出てすぐ職についたものたちにとって、周りの職場にいるものはほとんど上司か大人たちである。そこで交わされる会話は、大部分、仕事上の指示かそれに類したことであろう。彼らが切実にしたいと思っている話題、たとえばバイクであれ異性のことであれ、それは同世代が横にいる場所でなければ語り合えないわけである。  李幸子が脇浜を知ったのは、三年、四年次の英語の担当が脇浜だったからである。  彼女が西高が好きになった理由に、教師たちから受ける「それとなく感じる温かさ」があった。授業中、騒ぐ生徒がいても、いちいち目くじらを立てる先生はいない。なんとなく包容力のある先生が多く、それが校風をつくっているようにも思えた。二年間在籍して、学校にかかわることで嫌な思いをしたことは一度もなかった。  ただ、脇浜については、少々印象が異なる。まずは「変わった先生だなぁ」というのが第一印象であった。他の先生は、授業のベルが鳴る前に教室にやってくる。ところが脇浜は、ベルが鳴ってもやってこないときがしばしばあった。生徒が職員休憩室に迎えに行くのであるが、「すまん、すまん。すっかり忘れとった」といいながら、くわえ煙草でどたばたと教室に入ってくる。風呂上がりのバスタオルを引っ掛けてやってくる日もあった。そういう「愉快な先生」でもあったが、怖い感じがあって、個人的に親しい口をきいたことはなかった。  三年生の夏前だった。授業中に脇浜が、大学進学を希望するものがいたら個人授業をしてもいいから申し出るように、といった。クラスのなかで彼女だけが手を挙げた。西高にも慣れ、大学に進学したい気持がいっそう固まっていたからである。  以降、脇浜の、李幸子への個人授業がはじまった。職員休憩室を使って、ボクシングの練習前、あるいは終了後の時間が割り当てられた。特別な授業ではなく、彼女が受験参考書を何ページかやってきて、それを脇浜が添削する。その繰り返しである。  彼女は、ありがたく思いつつ、この時間がとても苦痛だった。脇浜が容赦なかった(と彼女には思えた)からである。 「こんなことわからんか。常識やがな」 「お前さん、英語より日本語を勉強するのが先決や」 「同じこと間違うのはアホウや」  その通りと思うことばかりである。だからよけい応えた。脇浜の前に出ると堅くなってしまって、スムーズに言葉が出ないのだ。  職員休憩室で勉強をしていると、ボクシング部員の上村たちが入ってくるときがある。と、脇浜の態度はころっと変わって(と彼女には思えた)、急ににこにことし出すのである。なぜ先生はボクシング部員にはあんなに優しいのか。彼女はほとんどジェラシーさえ覚えるのだった。  一度、脇浜からきつく叱責されて(と彼女には思えた)、担任の|畦田《あぜた》豊年に泣きついたことがある。畦田は彼女と年齢が同じで、ソフトな感じの人物である。彼には話しやすかった。  畦田は社会科(日本史)の教師で、一九八二年から西宮西高校に勤務している。関西学院大学の出身で、はじめての赴任先が西高だった。堀川や八木たちの世代とはひと回り違うことになるが、学校や生徒に対するものの見方はよく似ていた。  この学校の教師であることは、「毎日かなわんなと思うことに追われつつ、ときにほっとさせられることが間に入って、それでもっている日々」と表現した。そっくり同じことを、堀川からも耳にした。  彼女に泣きつかれた畦田は、冗談ぽく、こう答えたものである。 「脇浜先生に泣かされているのはお前さんばかりじゃないんだよ」  畦田は教職員組合のなかで会計を務めている。脇浜委員長に、ときに小言をいわれる若手のひとりであった。  脇浜はもちろん、李幸子に辛く当たっているつもりは少しもなかった。「常識や」も「アホウ」もいわば彼の日常語である。いま風の、とってつけたような“|婉曲《えんきよく》語”は彼の|語彙《ごい》のなかにはない。さらに思うに、彼はやんちゃ坊主やゴンタクレを馴らすことには|長《た》けていても、女生徒のデリケートなハートに付き合うことはいささか苦手だったのかもしれない。  彼女は畦田から、「脇浜先生がもっと自分を利用するようにしたほうがいいといってたよ」という伝言を受け取った。けれども、「利用」というような関係は結べそうになかった。李幸子にとって、脇浜は一貫して「怖い先生」であった。  先生のほうがサジを投げていずれ個人特訓はなくなるだろうと彼女は思っていた。内心、願っていたといってもいい。ところが脇浜はいっこうにやめようとはいい出さない。ひとりの生徒に付き合っている暇はないのに、である。職員休憩室には、脇浜を訪ねて、生徒、ボクシング部員、同僚の先生、外部の客人たちが頻繁に出入りする。授業、組合、ボクシング、他の諸活動と、脇浜が人一倍多忙であることはよくわかる。  夏休みも冬休みも、個人特訓は続いた。脇浜にとっては、休みになってもボクシング部の練習に出てくるわけで、その前後の時間が個人特訓に割り当てられた。  受験参考書に目を落としながら、彼女はよく思ったものである。——自分のようなデキの悪い生徒に先生はなぜ付き合ってくれるのだろう、と。  畦田から「脇浜先生はみんながへこたれても決してへこたれることはせん人だ」といわれたことがよぎった。それはその通りなのだが、ではなぜ彼はそうなのか。彼女には謎だった。  四年生の夏になって、英語の個人特訓には岡田琢史という生徒が加わった。彼は尼崎市内の定時制高校から三年次に編入してきた生徒で、ボクシング部員でもあった。関西大学への進学を希望しており、脇浜が個人特訓への参加をすすめたのである。  岡田にとって、脇浜は「わかりやすい先生」であった。  岡田は三年からの編入生徒であり、ボクシングのほうは脇浜の期待の選手ではなかった。  ある日、岡田が遅れて道場に顔を出すと、いきなり脇浜がいった。 「おい岡田、今日は準備体操せんでええからリング上がって上村の相手やれ!」  試合が迫っていて、出場選手はスパーリングの数をこなさなければならない。それに焦っていることがわかるが、しかしいくらなんでもこれはえこひいきのし過ぎというものであろう。そういわれて岡田は、腹が立つより笑ってしまった。脇浜の腹がミエミエであったからである。見ると、脇浜のほうもバツが悪かったのか、照れ笑いしている。憎めないところがこの教師にはあった。  脇浜は、ボクシング部員たちにガミガミと小言をいう。岡田もそれにはうんざりしたものだが、若いものに合わせないところがいいとも思った。ガミガミいわれても、裏があったり含むところがあるわけでないことはわかることである。  岡田が卒業後、西高に顔を出した日がある。 「岡田よ、お前、カネあるんか?」  と、脇浜が唐突にいう。  そして、ポケットからもぞもぞしながら財布を出し、封筒を突き出した。あとで開けてみると三千円が入っていた。  のちになって彼は思った。〈先生、オレが顔を出したことで喜んでくれたのかな〉と。それは、いかにも脇浜流だと思えた。  李幸子と岡田琢史は、この個人特訓の効果もあったのだろう、所期の目的の大学に入学した。岡田は関西大学に入ってからもボクシングを続けている。  李幸子は西高を卒業後もときおり学校に顔を出す。西高はいまも「大きな存在」であり続けている。畦田や堀川などとは近況についていろいろ話をするのだが、脇浜の前に立つと、以前の癖なのか、なんだか堅くなってしまう。 「先生、こんにちは」 「うん、元気か。がんばっとるか」  というような短い会話で終わってしまう。  それでも、彼女は脇浜に会うとほっとするものを感じる。大学でも会社でも、彼のような存在に出会うことはついぞないからだ。かつて抱いた疑問は氷解したとはいいがたいが、脇浜と日常的に接することがなくなってから逆に、少しずつ、この教師への理解がはじまっていったようにも思えるのだ。  脇浜は私にも、なぜ彼女への個人授業をしたのかということを説明したことはない。臆測に過ぎないが、それはかつての彼の歩みと無縁ではないだろう。定時制高校の生徒だって勉強さえすれば希望する大学に進むことができる。それを実証したかったのだろう。それが困難とされるが故に、彼のファイトを|掻《か》き立てる対象となったのだろう。さらに付け加えれば、随分と困難を引き受けて生きてきたこの女生徒への共感もあったのかもしれない。  かつて脇浜から一度も優しい言葉などかけられたことがないにもかかわらず、彼女は、この教師からそんな言葉を随分ともらってきたような、そんな気がしているのである。      4  上村一八は“四年生”になった。インターハイはじめ公式試合に出られるのは、十九歳になるこの年が最後である。  脇浜が語り、それに海老原がうなずき返す。ふたりが私に繰り返して聞かせてくれる“ひとつ話”は、インターハイ県大会を前にした頃の、上村の状態であった。 「上村の奴、あの頃はホント、気合い入っとったな」 「ほんとですね。もともと寡黙な子だったけど、ほとんど口もきかないようになってね」 「そう、こう沈んだような感じになってな」 「どうしてだったんでしょう」 「決意してたんだろ。男がなにかに本気で決意したときはしゃべらんようになる。そうでなきゃならんわさ」 「あいつなりに心しとったんでしょうね」 「ゾッとするような凄味があった。ホント、良かったよなぁ」  それは、かつての山下の「ひとりで泣いとったシーン」と匹敵するところの、脇浜にとって、もっとも良き情景であるようだった。  ボクサー・上村には、体力とスタミナがあった。半面、スロースターターであることと、テクニックに欠けていることが難点だった。パンチは力としてはあるのだが、切れはいまひとつである。試合ぶりは打って打って打ちまくるというもので、これは脇浜好みのものであった。  以前記したように、上村は二年生時、インターハイの県大会で準優勝をとげている。三年生時も当然期待されていたのであるが、怪我のため出場できなかった。  ——県大会を前に、随分と練習を重ねていた日のことである。その日、遅い時間になって、右手の小指にぐるぐる包帯を巻いた上村が現われた。 「なんや、どうしたんや?」 「ドアで指を挟んで……」 「それじゃ練習できんぞ。どうする」 「左手は動きますから……」 「片手でボクシングはできんがな。医者はどういってる」 「折れてると……」 「骨が折れてどうしてボクシングができる。今年はパアや」  脇浜は不機嫌極まりなかった。  ドアに挟んだ云々は|咄嗟《とつさ》に出た嘘であった。もともと家にあった重たいストーブを持ち上げたさいに指を痛め、それに喧嘩が加わって悪化したものらしい。そのうち治るだろうと思って、我慢してボクシングの練習もしていたのだがいっこうに良くならず、痛くなるばかりだったので、医者に診てもらった。亀裂骨折という診断だった。  そんなわけで、上村にとって四年生時のインターハイは、二度目の、また最後のビッグイベントであった。  彼が四年生になった頃、ボクシング部は部員としては数人を数えていたが、重光は休みがちであり、一、二年生もなかなか部に定着しない。そんなわけで、道場での練習は、脇浜と上村のふたりという日もけっこうあった。  上村は独りでいるのが苦にならない|質《たち》をしていた。むしろ好きでもあった。相性の合わない人間といると、すぐに気詰まりになってしまう。ただ、脇浜とは、一緒にいるのが嫌だと思ったことは一度もない。脇浜が機嫌が良くても悪くても、それは変わりなかった。  ふたりして練習を終えると、よく脇浜は上村を焼き肉屋か銭湯に誘った。そこで出るのは相変わらずボクシング談義だった。説教といえなくもないのだが、不思議に上村は、それを聞くことが嫌いではなかった。 「ええか、ボクシングは根気や。お前はもう一歩のところで根気がない。それが欠点や。とにかく手を出したもんが勝つ。一発じゃいかん。三発出して止まる。その癖をつけてしまう。ええな」  湯船の中で、腕を動かし湯を跳ね飛ばしながら、男は飽くことなく語り続けるのであった。  そして男は、うんと機嫌のいいとき、「チャンピオンになったらな、うちの娘にも引き合わせてやる。まあ、お前のほうが食われてしまうのが落ちやろがな」といったりした。この頃、脇浜の長女は大学生で、たいそうな美人という評判だった。  もちろん、それで発奮をしたというわけではない。上村によれば、インターハイ県大会を前に、口数が少なくなっていたのは自分では気がつかなかったという。ただ、期するところがあったのは事実だった。  四年間、脇浜という教師と付き合った。さまざまなことはあったが、脇浜やボクシング部にかかわったことで、不快なことはひとつとしてなかった。ボクシングを除けば、ふたりに共通の世界はない。それでいて「どこかで噛み合っていた」。それはおそらく、人としての根本のところで重なり合う部分があったのだろう。  そして、いつの頃からか、上村には不思議な思いが湧いていた。  この先生は、なぜ自分にこんなにも熱心にボクシングを教えてくれたんだろう——ということである。  休日もちっとも家におらんので嫁ハン怒っとるわ——などと耳にすることがある。でも休もうとは決してしない。なぜなのだろう……。  それは、面と向かって脇浜に訊くことのできない問いだった。脇浜にはなんでも話すことができたが、その種のことだけは|質《ただ》すことができなかった。  四年間、脇浜になんの礼もしていない。母親にいって、二、三度、お菓子のようなものを届けてもらったことがある。翌日、脇浜から「オカンにつまらんことさすな」といわれたものだ。またそんなことで済む話ではない。勉強を放棄してしまった自分は卒業するということもない。どうすればいいのか。上村が辿り着いた答えは、勝って先生に喜んでもらう、ということだった。自分ができることはそれしかない。  もちろんそんなことを口にしたことはない。その種の想いは自分の内部にだけ秘めたものだった。大事なことは口に出せばぶちこわしになってしまう。とりわけ脇浜のような男に対しては。そのことを若者は知っていた。 「第三十三回兵庫県高等学校総合体育大会(インターハイ県大会)」は、一九八九年六月、西宮西高校ボクシング道場で開かれた。大きな試合で旧道場が使われたのはこれが最後となった。  西高では、フェザー級から上村一八、モスキート級から西賢二、ライトウェルター級から松田幸久の三人が出場した。西と松田は一回戦で敗退した。ふたりはともに二年生で、この一年間、なんとかボクシングを続けてきたのだが、区切りがついたということもあったのだろう、この後しばらくして部を退部している。  上村は決勝まで勝ち残った。相手は八代学院の山川雅彦という選手だった。  山川は二年生ながら、スピードとセンスに優れた評判の選手だった。この翌年のことであるが、山川はインターハイの県代表に選ばれ、全国大会でも勝ち抜いて三位に入賞している。  上村と山川の一戦は、一ラウンドから激しい打ち合いとなった。  上村の感触では、一ラウンドはポイントを取られ、二ラウンドで取り返したと思った。スロースターターで、どうしても一ラウンドは様子を見てしまう。「喧嘩流」の名残りであった。  ただこの頃、彼は自分のボクシングに自信をもっていた。春以降、練習量は他の高校のどの選手に比較しても負けていないはずだ。それに、ボクシングがなんであるのか、ようやく掴めたとも思っていた。脇浜が口が酸っぱくなるほどいう「切れ」という意味がわかってきた。ボクシングのパンチは、力ではなく、スピードとタイミングである。そのことが飲み込めたように思えた。相手のパンチをよけることも多少は覚えた。もっとも、うまいボクサーではまったくなかったが。  上村のいい方を借りればこうだ。 「石の上にも三年やって、この頃やったら、昔の宝塚駅の三人組などまとめてのばせるほどに強くなっていた」  三ラウンド。上村はラッシュした。スタミナだけは自信がある。手数で圧倒する。山川のダッキングやウィービングをかまわず、上村は強引に打ちまくった。リングを降りると、脇浜がご満悦という顔で待ち構えていた。上村の判定勝ちだった。  夏、上村と脇浜は、神戸港からのフェリーに乗って、インターハイの開催地、愛媛・松山に向かった。  各都道府県の予選を勝ち抜いた勝者が全国大会に出場する。それなりの力量の持ち主がやってきているわけであるが、会場に行くと、下馬評が耳に入ってくる。いわゆるボクシング有名校というものがあって、それらの学校に有力どころがいる。フェザー級では奈良県の代表が優勝候補という話だった。  上村は一回戦は不戦勝、二回戦でこの奈良県代表と対戦した。インファイトの同タイプで、一ラウンドから三ラウンドまで、両者ガンガンと打ち合った。手数と馬力で圧倒して、上村の手が上がった。上村にとって、四年間、四十戦近く重ねた試合のなかで、これがもっともうれしい勝利であった。  優勝候補を倒した。次を勝てば準々決勝である。大魚を得ることも夢ではない。ふたりが滞在した松山市内の旅館には、兵庫県の他校の選手や付き添いの先生たちも泊まっていた。上村の評判が高まるにつれて、脇浜はもちろん上機嫌であった。  ワシが苦労して育てた選手で……旅館の喫茶室で、脇浜の誇らしげな声が聞こえていた。  三回戦。上村の相手は、九州の高校のサウスポーの選手であった。  問題の一戦であった。脇浜が私に繰り返し語った話はいろいろとあるが、この試合の結果こそ、もっとも頻度が高い。この試合の話題が出ると、脇浜は常に悔しさを|滲《にじ》ませながらいうのだ。すなわち、「あれは完全に勝っとった」と——。  上村は、負け試合を取り繕っていうようなことはない若者だった。ただこの試合については、三ラウンド中、一発も相手のパンチをもらっていないという。一ラウンドが終わったところで、相手のだいたいの力量はわかるものだ。倒せると感じた。ただ、詰めが甘いのが上村の欠点であった。弱い相手を完膚無きまでに痛めつけることができない性格から由来しているところもあったのだろう。  ともあれ、実感でいえば、「ボコボコにやっつけた」試合だった。ところが、レフェリーは相手の手を上げた。  リングサイドにいた脇浜は、一瞬、レフェリーが上げる手を間違えたと思った。が、そのままだ。脇浜は真っ赤な顔になって、審判席に怒鳴り込んだ。そんな行為に走ったのは、後にも先にも、この試合以外にない。審判員の説明では、上村の左フックがオープンブローで、減点を取ると僅差で負けているというのである。左フックは上村の得意のパンチで、これまでオープンブローと判定されたことはない。納得がいかないが、そういわれれば引き下がるしかない。憮然とした脇浜のところに、相手選手のセコンドについていた先生がやってきて、「拾わせてもらいました」といった。様子を見て気の毒と思ったのであろうが、もう判定は覆らない。  この試合結果については、小さな波紋があった。  その日の試合終了後、「西宮西高校の関係者の方、おられましたら大会本部席まで至急おいで下さい」という放送が繰り返しあった。脇浜は怒り心頭に発していて、会場を飛び出してしまっている。連絡がつかず、兵庫県の他の高校の先生が代わりに本部席まで行った。  夜、旅館で、事情がわかった。その先生の話によれば、かつてのオリンピック選手で、自国の選手の指導にあたっているルーマニア人がこの大会に招待されており、上村の一戦を観て、その感想を伝えたいというのだった。ルーマニア人によれば、この日、全試合を見たなかで、上村がボクサーとしてもっとも素質に恵まれている、オープンブローという判定はボクシング規則に照らし合わせても判定ミスである、というような話であった。  脇浜の機嫌はたちまち直った。判定結果はもうどうしようもないが、上村と脇浜にとって、ひとつの慰めではあった。  試合当日にやってきた海老原たちとも合流し、翌日、教師と若者はフェリーに乗って、神戸へと向かった。若者にとって、生涯はじめての、「賭ける」という言葉を遣って恥じない、そんな凝縮した時間が過ぎ去ろうとしていた。  ——この夏からいえば、四年の歳月がたっている。  一九九三年夏。上村一八は、神戸港の奥まった内港の一角にある三菱倉庫の前に、四トン車を乗りつけていた。突堤には、外国の貨物船が二隻、横づけされている。濁った海面に、ぎらぎらした陽光が照りつける夏の盛りの日であった。  その日の荷はカリフォルニアから来た大きなフルーツジュースの缶だった。倉庫の係員が、パレットに缶を山積みに載せ、素早くトラックの荷台に移し換えていく。作業は小一時間で終わった。係員から伝票を受け取ると、上村はすぐ車を出した。すっかり仕事が手の内に入っているようだった。トラックを高速道路に乗り入れ、西宮にある食料品会社に向かう。  宝塚に本社のある運送会社に勤めて二年余りになる。いくつかの職を経て、この仕事に落ち着いた。ひとりでできて、人とおしゃべりをする必要のない仕事。そんなところから、“卒業”したら長距離トラックの運転手になろうと思っていたのだった。近畿一円はもとより、九州や関東にも出かけることがある。  この日、私は助手席に乗って、一日、彼と一緒に過ごした。話はつい西高時代のことに戻っていく。在籍した四年間、やり残したことはないという。ただ、小さな後悔はある、ともいった。インターハイが終わって、その後、ボクシングをやめてしまったことである。  脇浜は、ルーマニア人から上村の素質を指摘されて、おおいに意を強くしたようだった。上村に、成人・社会人の部でボクシングを続けてみたらどうだい、と勧めた。三年後にはバルセロナ・オリンピックがある。努力と運次第では、ひょっとしてオリンピック選手になれるかもしれない。そんな夢をいったこともある。  ただ上村には、当時、「三年後」というのはあまりにも遠い先のことのように思えた。オリンピック選手云々という言葉も、夢よりも幻想としか思えなかった。それよりも、メシを食い、きちんとした仕事につくのが先決だ。それに、こんなきつい練習をこれから続けるのも億劫だった。それやこれやで、脇浜は勧めてくれたけれども、うんとはいわなかった。  なぜあのとき、「三年後」をそんなにも遠いことと思ったのだろう。ボクシングを続けることをなぜ無意味と思ったのだろう……それが後悔の中身である。  あの年のインターハイで不利な判定をされたことについては、とくに悔しいとも思わない。思い出すのは、インターハイを前にした数か月、ひとつのことに集中して過ごした日々のことである。それを思うと、いまも躰の芯がほてってくる。それ以降今日まで、そんな時間が訪れることは一度もなかった。  それはまた、旧い道場とその|主《あるじ》であった教師の像と二重映しで浮かんでくる日々である。西高にめったに足を運ぶことはないが、その記憶が薄れることはない。  一年前、仕事の帰り道だった。ふと思って、トラックを校舎に横づけして、すっかり新しくなった道場を覗いた日がある。 「いよぉ、久しぶりやないか。手伝っていけ」と、口髭の男はいった。  上村はミットをはめ、見知らぬ部員たちのパンチを受けた。 「アカン、アカン。なっとらん。もう躰がなまっとる。お前がそんなヘッピリ腰じゃ、生徒の練習にならん。失格! しばらく毎日ここへきて鍛え直せ」  リング下から、男は盛んにそんな悪たれをついた。それは、男が上機嫌のときに発する、逆説的言動であることを若者はもちろん知り尽くしていた。  また行こうかな。先生、待っとるからな……路上が闇に包まれてくるそんな時間、運転席でハンドルを握りながら、折々に差し込んでくる想いである。 [#改ページ]   第五章 敗  北

     1  私が西宮西高校に通いはじめたのは、一九九〇年の春である。上村一八が“卒業”していった年であり、ボクシング部の部員は初期の頃とはがらりと入れ代わっていた。ときおり練習に来るものを含め、部員数は七、八人だった。学年でいうと三年生もいたが、ボクシング部の経験でいえば、すべて一年生たちだった。  四月末、新しくできた道場の「落成記念」を兼ねて、西宮市アマチュアボクシング大会が開かれた。私がアマチュアボクシングの|生《なま》の試合を見たのはこのときがはじめてである。成人・大学生の部が済むと少年の部に移り、西高からは三人の選手が登場した。最初に登場したのが|福原克司郎《ふくはらかつしろう》という部員だった。黒いトランクス、黄色のランニングシャツを着ていた。西高ボクシング部のユニフォームである。ピンク色に染まった頬に赤いヘッドギアが食い込み、きらきらとした眼がのぞいていた。  彼は、ボクシング部のなかで、私が最初に顔を覚え、親しく口をきいた部員だった。くりくりとした眼と、まだあどけない顔立ちが印象的だった。口数は多くはないが、訊けばなんでも答える素直な若者だった。  脇浜によれば、かつて福原の母親が西高に在籍したことがあり、いろいろ因縁がある生徒という。  福原は二年生であるがほとんど授業には出ておらず、せめてボクシング部だけでもという“上村方式”の生徒だった。彼はこの年の二月に行われた「一九八九年度・第二十四回兵庫県高等学校ボクシング競技新人大会(新人戦)」のバンタム級において優勝している。「素質は上村以上」というのが脇浜の言だった。  リング下から見ると、上半身は薄くて、まだ少年の躰つきであるが、のびやかな肢体をしている。繰り出すパンチにスピードがある。脚はほっそりと長い。私はかつて、プロのジムで有望といわれるボクサーたちを見てきたが、体型からいうと、こういう躰つきがもっともボクシングに適しているようだ。脇浜の期待も十分根拠があるように思えた。  試合は、一ラウンド、福原の鮮やかなRSC勝ちに終わった。相手の八代学院の生徒はダウンを奪われて立ち上がれず、プロでいうKO勝ちである。この日、福原は最優秀選手賞をもらった。  試合場に、西高ボクシング部の部員たちの姿が見えた。この年の部員は、三年生の福田悟が年長者である。二年生のときにボクシング部に入部してきた。彼は交通事故による頭部損傷の後遺症があって、試合は禁じられていた。青白い肌をしたもの静かな部員である。二年生に福原とFと|清亮典《せいりようすけ》。Fは新人戦のライトミドル級に出場して好成績を収めたのだが、その後は練習も来たり来なかったりという様子であった。清亮典は入部して間もない生徒で、肺に病をもっている。一年生には吉村直之がいた。彼はこのなかでは一番がっちりした躰つきをしているのだが、ほとんど口をきかない。私がなにかを尋ねても、目線をそらせてしまって、ひと言ふた言答えるのがやっとという無口な若者だった。  といったあたりが主だった部員で、脇浜流にいえば「問題を抱えている子ばっかり」ということになる。福原以外の部員たちについては次の章で触れたいと思う。ともあれ新年度を迎えて、福原克司郎を中心に、新しいメンバーによる部活動がはじまっていた。  夜、八時頃になると、福原は道場に現われた。彼が道場に現われるトップバッターである日が多かった。授業には出ないから、“早出”ができるわけである。  ロッカールームで上下の黒いトレーニングウェアに着替えて、道場の板の間に現われる。頭にうっすらパーマがかかっているときもある。「似合ってるよ」というと、「そうですかぁ」といって、にっこりする。屈託がなかった。  そんな時間、この学校に来るまでのことを尋ねたりした。彼もまた、定時制高校生の、ひとつの類型に当てはまる生徒といえようか。  母子家庭で、一歳違いの弟がひとりいる。弟も西高の生徒で、ボクシング部員の一覧表に名前が出ているのであるが、校舎でも道場でも姿を見かけることはなかった。授業もボクシング部も長続きせず、やめてしまったとのことである。  福原克司郎が西高に入学したのは、全日制高校の受験に失敗したからである。入学してすぐ、ボクシング部に入った。休部期間もあるが、この一年、ボクシングを続けてきた。授業のほうはほとんど出ていない。  ——授業になぜ出なくなったの? 「勉強が好きやないですし……。でも高校は卒業しておいたほうがいいと思っているから、これから出るかもしれないけど……」  ——いまどんな仕事を? 「この一年の間に三度替わった。レストランのウエーターをやって、次に引っ越し屋のバイトをやって、その次に食料品会社の運転助手。いまは休憩中」  ——どういう基準で仕事を? 「楽で時間給のいいところ。いま時給の相場は、喫茶店で六百円ぐらい。いいところで八百円。月収でいうと、七、八万円かな」  ——将来、こんな仕事をしてみたいというようなものは? 「全然わからない。まあいってみれば、楽でカネが儲かる仕事かな」  ——いまほしいものは? 「単車。十七歳になったら免許が取れるから。でも六、七十万はするし、貯金しないと買えないんだけど」  ——なぜボクシングを? 「漫画の『あしたのジョー』が好きだったし、おもしろそうだと思って。入学してしばらくやって、夏はサボって行かなかったんだけど、海老原先生が家に来てくれて、脇浜先生が待ってるからといわれてまた来るようになって……。それからはだいたいずっと」  ——おもしろい? 「うーん、どうかな。練習はおもしろくないけど、でもやめたら他にすることがないし……」  ——ボクシングをやっていていいなって思ったことは? 「去年の十一月、神戸で新人大会があったんです。はじめての試合だったんだけど、RSCで勝って、このときはめちゃくちゃうれしかった。いままで生きてきたなかで一番うれしかった。勝ったから」  ——勝つ味を覚えたから続けてきたといっていいかな。 「それもあるけど、サボると不思議にまたやりたくなってくる。バイトのない日は夕方まで家で寝てるでしょ。そのまま起きて家でテレビ見ていてもおもしろくない。躰を動かしたくなってくる。道場に来て汗をかいたらやっぱり気持がいいし」  ——全日制の生徒には負けたくないという気持は? 「そんな気持はあまりないです。ハクイ奴はやっつけたいと思うけど」  ——脇浜先生についてどう思う? 「ええ人だと思うけど、変わった先生やと思う。だって、普通だったら授業に出ろというでしょ。先生は授業なんて出なくていいからボクシングやれというもんね」  ——なぜそういうんだろう? 「……わからないけど、きっとボクシングがめちゃ好きなんじゃないかな」  ——鬱陶しく思うときも? 「道場に来て、先生がおらんかったらホッとする。ミット打ちでも、他の先生だったら休めるけど、脇浜先生は休めないから」  ——脇浜先生はいないほうがいい? 「そうでもない。焼き肉屋に連れていってくれたり、親切なところもあるし……」  ——ボクシングは続きそうかな? 「それは絶対続ける。素質あるといわれているし、もっと強くなれると思うから」  何回か出会うなかで、十六歳の少年から返ってきた答えである。このような答えは、他の部員たちの声とも多分に重なっている。  高校卒業という肩書きへの願望は強いが、それをてこに何かを、というわけではない。仕事は“フリーター”で固まったものではなく、生きていく上で芯になるようなものはまだ見つかっていない。将来像もまだ見えていない。当面ほしいものはある。ボクシングについては是非強くなりたいという執着はないが、他の遊びでは得られない充実感をリターンしてくれる。そういう味は知っている。ただそれも、かけがえのないものとして存在しているわけではないようだ。脇浜という教師については、彼の一面は十分伝わっているのであるが、深い理解が及んでいるとはいいがたい。  部員たちはまだ十代半ばから後半の少年たちである。自己が生きていく上で確固としたものが定まっていないのは当然であろう。ただそれを勘案してもなお、印象としていえば、素直といえば素直、もの足りないといえばもの足りない、といえようか。  脇浜がこの学校のボクシング部で接してきたのは、多くはこのような生徒たちだった。彼らと脇浜は、ときに触れ合い、通じ合い、また擦れ違い、あるいは亀裂を生んでいった。  福原がボクシング部に入って一年、他の部員たちは長くて数か月、いまはまだ両者の関係は曖昧であり、人間関係の端緒が得られたという段階であろう。それがどのようなものに発展していくのか、あるいは消え去ってしまうのか。それはまだ誰にもわからなかった。  部員たちは道場にやってくると、まずラジカセにテープを入れる。アップテンポの曲が流れ出す。曲に乗ってゆっくりと躰を動かす。道場の壁には、練習メニューが貼ってある。  まずは準備体操から入り、躰がほぐれたところで、鉄アレイを持ってジャブとストレートの練習を繰り返す。これがほぼ三ラウンド。グローブをつけ、水が入った赤いウォーターバッグを叩く。これが一、二ラウンド。それが終わると、シャドーボクシングを三、四ラウンド。  ここまでがいわばウォーミングアップである。リングに上がり、軽く打ち合うマスボクシングを二、三ラウンド。その後、ミット打ちを三ラウンド。試合が近づくとスパーリングがある。  その後は個人練習に移り、サンドバッグを三ラウンド、パンチングボールを一ラウンド、ロープ跳びを三ラウンド。あるいは道場二階にある筋力トレーニング室で、腹筋、ベンチプレス、足上げなどをこなす。ひと通りのメニューが済むと、青いマットの上で柔軟体操をして終了となる。びっしりやると一時間半はかかる。かなりハードな練習メニューだ。  この年、部の指導教官としては、脇浜、海老原、それに若い数学教師の田中敏陽が加わっていた。三人が手分けをして、部員のミット受けやマスボクシングの相手を務めるのであるが、率先して練習を取り仕切っているのはもちろん脇浜であった。  脇浜は一度、「みんな平等にミット持ってやらんとね。子供たちはそんなことには敏感なんですわ」といったことがある。海老原や田中と比べると、一打、一打に気合いを入れながらミットを打たせる脇浜は厳しい。それでも生徒たちは、脇浜に受けてもらって満足するところがあるのだろう。  脇浜のミット受けは、福原が相手のとき、もっとも熱気がこもっているように見えた。期待の選手には熱が入る。それは指導者として仕方のないことであろう。  脇浜が両手にミットをはめてリングに登る。通常のミット受けが終わると、左手は「特別ミット」に持ち替える。両手ともこれをはめることもある。表面に革を張った太長い“円筒”で、これまでプロのジムでも見かけたことのない代物だった。  これは脇浜が自分で考案したもので、円筒の中に“把手”があって、そこを握って構えるのである。円筒の下が肘までくるから、立てて構えるだけでアッパーまで受けられる。その後しばらくして、円筒は「キックミット」に代わった。これは空手やキックボクシングの練習用に開発されたものであろう、長方形の革張りのミットで、裏側に把手とバンドがついている。円筒やキックミットを使うようになったのは、「ガタガタに」なってしまった肘の関節を少しでもいたわってやるためだ。事実、脇浜の両肘は変形してしまって、真っ直ぐに伸びない。 「ガンガンこい!」 「肘締めて!」 「しつこくこい!」 「なんじゃそれは。このクソジジイ、と思って打ってこい!」 「辛抱くらべや。そう、そのパンチ!」 「リズム、リズム」 「一、二、三のリズム」 「よし、ひとつ覚えたな」  十六歳の少年のパンチが、男の持つ円筒を突き上げる。少年の吐く息が荒くなり、男の息も上がってくる。|煌々《こうこう》と光るライトの下、少年の黒いトレーニングウェアと男の灰色のウェアが、何度も交差してはもつれた。やがて両者の流す汗が、リングサイドまで飛び散ってくる。  ボディ打ちの練習道具もある。これも脇浜の考案物で、毛布を腹に巻いて、その上から剣道の胴をつけた代物である。  ボディ打ちは応えるのであろう。いいパンチが入るたびに、男の顔が一瞬歪んで目を閉じる。背骨がじーんと|痺《しび》れるような衝撃がくるという。はさんだ毛布が落ちてしまうことがある。それでも、ゴングが鳴るまで中断はしない。パンチをもろに食らってあばら骨にひびが入ったこともある。  練習に疲れると、男はいつものようにリングの階段に腰掛け、煙草に火をつける。口髭にも汗の粒が点々とへばりついている。肩で息をし、煙りを吹き上げながら、周りの部員たちに向かってまた声を張り上げるのである。  ある日、そんな時間に校内放送があった。「脇浜先生、おられましたら至急校長室までおいで下さい」という声が聞こえてくる。  ところがそんな放送も、脇浜の耳には大事なものとしては入っていない。繰り返しあって、「うるさいなぁ。ほんならちょっといって喧嘩してくるわ」といいながら、上からジャンパーを引っ掛けて出ていく。  帰ってきた脇浜に、どういう用件だったのかと訊いた。毎年、生徒に求める提出書類のなかに、収入証明を含めるかどうかが学校側と教職員組合の話し合い事項になっていて、教育委員会から再三の要求があり、校長が脇浜に最終的な了解を求めてきた、というような話であった。「改めて話し合いましょうかといって席を立ってきた」というのであるが、いま彼の関心事がそこにないことは明らかであった。  道場に戻るなり、「こらぁ、右じゃなくて左。左出さんかい」といいながら、リングに駆け上がっていく。  このような光景を、道場に顔を出すたびに私は繰り返し見た。それはすでに、この学校にずっと以前からある風物詩であるようにも映ってくる。そしていまにして思えば、その後、男と少年たちの間に起きたことの推移はどうあれ、彼らが毎晩、このような熱い時間をもったことこそ何ものかであったようにも思えてくるのである。      2  一九九〇年度のインターハイ県大会の日程は、六月三日、九日、十日の三日間、西宮西高校の新道場で行われることが決まった。三日(日)が予選、九日(土)が準決勝、十日(日)が決勝である。西高からはバンタム級で福原、ライトミドル級でFのふたりがノミネートされていた。  ところがFは、試合の数日前から道場に姿を見せなくなっていた。試合日が近づくと姿を消すことがこれまでにも再三あった。また試合とは無関係に、ひどく落ち込んでしまうときがあり、そうなると学校にも現われなかった。  私はそれまで、Fとは二度ほど立ち話をした程度だったが、非常におとなしい感じの生徒だった。ひとつ印象に残っているのは、Fが他の部員とスパーリングをしていたときの光景である。Fは上背があって、いい躰つきをしていた。  リング下から、脇浜が盛んに、 「F、お前から先に行ったらいいんだ。手を出して。行ったら当たるから」  と声をかける。それでもなお、Fは自分からはほとんど手を出そうとしない。終始、打たれてから打ち返すというスタイルは変わらなかった。 「自分から行けん子でね。優し過ぎるのか弱過ぎるのか……」と、脇浜は私のほうを向いていった。  試合の三日前、練習終了後、学校の近くにある焼き肉屋で、脇浜と海老原と同席した。その日、Fの自宅まで行って様子をみてきた海老原の報告を受けて、さてどうするか、という表情で脇浜は考え込んでいた。  ボクシング部内では、いわば脇浜が怒り役、海老原がなだめ役を演じているようであった。  海老原大裕は保健体育の教諭である。一九五二年生まれで、宮崎の出身である。宮崎県内の公社に勤務したのち教職につき、西高には一九七七年から赴任している。この数年、ボクシング部の副顧問として、いわば脇浜の片腕役を担ってきた。スポーツ刈りがよく似合う明朗な人物である。山下や上村など、かつての部員に訊くと、脇浜とは違った意味で海老原を懐かしがった。上村によれば、海老原とは「腕相撲の好敵手」であったそうだ。年齢が脇浜よりひと回り下だから、その分、生徒たちには近しい存在であったのだろう。また気さくな人柄もあったのだろう。  Fについての海老原の報告は、かんばしいものではなかった。  海老原の話では、Fに会ってはみたものの、ほとんど一日中寝ているとかで、学校にもアルバイトにも行っていない。家族は母と兄がいるが留守がちで、ほとんど独りっきりで過ごしている。訪ねてくるような友だちもいない。退屈するとぶらっと公園に行って時間をつぶしている。ボクシングももうやめたいということで、とても試合に出るような心境ではない、というようなことであった。  Fについては、こういう状態はこれまで何回かあって、そのつど脇浜や海老原が手を差し延べ、なんとか引っ張ってきたのが実情だった。別段ボクシングをやめてもいいわけだが、それが同時に、学校や他のものからもFを切ってしまうことが目に見えていることを、脇浜も海老原も案じていた。 「海老さん、悪いけど、もう一度訪ねてやってくれるかい。その上で様子見ようか」というのが、その席で脇浜が出したとりあえずの結論だった。  |側《そば》で聞いていても、教師にとって際どい判断が迫られている問題であることがわかる。教師は生徒とどのような関係をもってよしとするのか、どの範囲まで責任をもてるのか、そしていつかかわりを切ることが許されるのか、という問題である。  脇浜はときおり、常にこの種のことを抱える教師の悩みを洩らしたものだ。 「なんだかんだいっても、学校に来る子はいい。来ていない生徒が三分の一はいるわけだ。実際問題、そこまでは手が届かないわけだけど、それを思うと気が滅入ってくるね」  脇浜は若い頃、生徒の家や職場を訪ねることをよくした。義務としてというより、それを「おもしろい」と思ってやっていたという。足を運べば、学校では気がつかない生徒の素顔が見えてくる。また親たちとも知り合いになる。思わぬことにぶち当たることがある。それをおもしろいと思ってきた。同僚でもそういう教師が多かった。  最近では、教師の日常業務が多忙になったこともあるのだろうが、そんな風潮はすたれてきた。とくに若い先生は、自ら足を運んで直接、生徒と接することに熱心でない。  それを指して、脇浜は、 「いまの若い先生を見ていると、授業して、会議に出て、時間がくれば帰っていく。いったい教師やっとってオモロイんかいなと思うね。生徒との直接的な切り結び合いを避けてしまうんやね」  と批判の目を向けたりする。  少々若い教師の肩をもつとすれば、こういう実践は、本気でやろうとすれば随分としんどいことである。そこに「おもしろさ」を感じるようになるには、まずもって教師の側に使命感と人間的力量がなければなるまい。それがなければ、「切り結び合い」などできっこない。  それに、教師の側が「切り結び合い」を意図しても、それを避けて遠ざかっていく生徒たちがいる。その壁の前で、脇浜も海老原も苦悩していた。  Fもそのひとりといっていいだろうか。その後若干のいきさつはあったが、Fは試合日に現われず、やがてボクシング部からも学校からも去っていった。私の見るところ、それは教師の責任範囲であったとは思えない。ただ、教育もまた、残るのは結果である。その後、Fという名前が出るとき、ふたりの教師の口もとには苦い吐息のようなものが浮かんだものだ。それはまた、Fのときばかりではなかった。      3  六月三日、西宮西高校の道場は色とりどりのトレーニングウエアを着た選手たちでいっぱいになっていた。背中に入った校名から見るに、八代学院、県立武庫工業、県立飾磨工業、県立兵庫工業、市立姫路高校の選手たちが大半を占めている。いずれもボクシングにおける県下の強豪チームである。午前十時から計量と検診があり、午後から試合というのが例年のならわしである。  身長、体重、体温、脈拍、血圧を計り、瞳孔、膝反射、胸腹部などの医師検診がある。福原は、身長百七十センチ、体重五十三・五キロで、バンタム級の上限を〇・五キロ下回ってクリアー、検診事項もすべて問題なかった。  地元ではあるが、西高からの出場選手は彼ひとりである。いつも使っている道場隅のロッカールームで、彼はひとりぽつんといた。私の顔を見ると、 「夕べは眠れんかった。こんなんはじめてです」  といった。  彼はすでに試合数としては五戦を体験しているのであるが、インターハイ県大会は別ものであるようだった。脇浜は前日、練習を終えた福原の肩を揉みながら「来年の肩ならしのつもりで行こうかい」と声をかけていた。また私にも、福原は実質一年生であるし、去年の上村とは違って勝敗はどちらでもいいといったりした。ただ、出る限りは勝ちたいのが人情である。  計量が終わると、海老原がビニール袋から巻き寿司、バナナ、アリナミンドリンクを取り出して、福原に渡した。本人がそういう準備をしていまいと見越してのことである。福原は平常の体重よりマイナス二キロ程度で、きつい減量ではない。それでもこの数日、飲み物や食べ物は抑え気味にしてきた。若い肉体はあっという間にそれらを腹に収めた。試合は午後一時からで、それまで暫時休憩である。  レフェリーとジャッジを務める審判員は各学校の先生と西宮市アマチュアボクシング協会のメンバーで、全員、白いシューズ、白いズボン、白いワイシャツに黒の蝶ネクタイ姿である。脇浜のそういう姿を見るのははじめてのことで、日頃のジャンパー姿を見慣れた目には、少々奇異に映る。  ただし、態度は変わらない。道場内でひとり、煙草を差したパイプをくわえ、うろうろと動き回っている。福原を掴まえ、「ええか、一、二、三のリズムな。基本通りやったらええからな」と身振り手振りでアドバイスを送る。また他高生であっても顔見知りの生徒を見かけると声をかけ、先生たちとは冗談話を繰り返し、ざわめきの中心にいることには変わりはなかった。  午後一時、西宮西高校の校長による開会挨拶があり、試合がはじまった。  道場のおよそ三分の一をリングが占めている。片面のリングサイドにパイプ椅子が数列並べられ、選手、先生、コーチ、それに協会・大学ボクシング部の関係者やアマチュアボクシングのファンたちが腰を下ろしている。自校の生徒がリングに上がると大きな声援が飛ぶが、プロの試合につきものの|辛辣《しんらつ》な野次などはもちろんない。ゴングを鳴らすのも選手紹介のアナウンスも女生徒たちで、いかにも高校の運動クラブの行事らしかった。  一番軽いモスキート級(四十五キロ以下)から試合がはじまり、福原の試合は十一試合目に組まれていた。試合が近づくと、バンデージを巻き、グローブをはめる。海老原がグローブの紐を締め、結んだ紐にビニールテープを巻きつける。このあたりはプロの作法と同じである。グローブは茶色で、ナックルパートの部分のみが白い。重さは十オンス(二百八十四グラム)と、プロでいえばミドル級クラスの選手がはめる重たいグローブである。パンチの衝撃力を緩和させるためだ。  出番が近づくと、選手たちは道場の周辺でウォーミングアップを繰り返し、口数はめっきり少なくなっていく。選手の周辺には、ボクシング特有の、重苦しい緊張感が漂っていく。 「ハラが痛くなってきた。自信ないです」  福原は私のほうを見て、小さな声でいった。  試合は二分三ラウンド。プロの十回戦のような、後半のスタミナを計算に入れた駆け引きはない。選手たちはいきなり打ち合って、全力でぶつかり合う。一分が過ぎるとふらふらになってしまう選手が多いが、試合自体はおもしろい。  ダウンがあると、審判はテンカウントを数える。立ち上がれないときや戦意喪失となった場合、カウントアウトを宣告するのはプロと同じである。ただ、ダメージがきついと判断されたり、ダウンがなくとも一方的な試合になれば、すぐRSCを宣告して試合終了となる。  審判から「ボックス!」という声もよくかかる。これは「ボクシングをせよ」という意味で、手を出せという指示である。  福原は赤コーナーからリングに上がった。青コーナーから登場したのは、姫路高校の四宮賢一という選手で、三年生である。がっちりした躰に、|顎《あご》の張った精悍な顔をのせている。一見したところ、これは|手強《てごわ》い、と思われた。  青コーナーからは盛んな声援が飛ぶのであるが、赤コーナーからは小さい。西高の部員たちは、この時間になっても二、三人が見えるだけだった。日曜日の午後、仕事休みのところが多いはずである。他の部員の試合は関係がないということなのか。そういう風景は、その後も変わりなかった。私には少々気になったことである。  試合は、福原の圧勝だった。  リーチとスピードではっきり勝っていた。左の軽いジャブ、右フックが再三ヒットする。一分半過ぎ、左のショートストレートが決まって四宮はダウン。すぐに立ち上がったものの、今度は福原の鮮やかな左フックが顎に決まってまたダウン。レフェリーは即、RSCを宣告した。  福原は喜色満面といった表情でリングから降りてきた。彼はいつも、実に笑顔がいい若者だった。荒い息の合間に、 「……ええ、うれしいです……とにかく気持いい……ビデオ撮っておいてもらったら良かったな……負けると思ったから頼まんかった」  などという言葉を繰り返した。  側にやってきた脇浜は、しかめ面をしながら、 「四宮は去年上村とやったときより弱なっとった。たまたまパンチが当たったんや。フックに頼ったらいかん。基本はストレートや。わかったな。ストレッチしとけ」  などといった。が、側を離れると、顔はにやついている。御機嫌だった。  その呼吸を、もちろん若者も飲み込んでいた。「先生、勝ったら怒るから」といって笑った。  中年の男が脇浜のところにやってきて、名刺を差し出した。実業団のボクシング部の肩書きが刷ってある。福原の試合は、専門家の目に留まるものであったらしい。事実、この日の全試合のなかで、彼の勝ち方がもっとも鮮やかだった。 「前途が開けてきたみたいだね」というと、若者はもう一度、にっこりと笑った。  六月九日、土曜日。朝から細かい雨が落ちていた。季節は梅雨時に入りかけていた。  準決勝。福原の相手は八代学院の辻岡考史。福原と同じ二年生で、背丈があって同じような躰つきをしていた。  試合時間が迫っている。海老原が道場前のコンクリートに福原を呼び出す。手を出し、軽くパンチを受ける。 「いいよ、いいよ。そのリズムな」  海老原は選手を鼓舞する言葉を繰り返し投げかける。福原は無言でうなずき返す。銀色の稲妻模様が入った黒いリングシューズが、濡れたコンクリートの上を小刻みに跳ねる。 「どうだい、躰、軽いかい」  海老原の問いに、「ええ」と若者は答えた。青白く、沈んだような顔色をしている。リングに上がる寸前の時間。選手にとってもっとも嫌な時間である。しかしそれは同時に、緊張と不安の織り交ざった、えもいわれぬ味を伴う時でもあるのだ。プロ、アマを問わず、ボクシングから去った選手たちが一様に懐かしむのはこの時間だった。  一ラウンド。両者はいきなりノーガードのまま打ち合った。辻岡はKOを狙っているように、躰ごとぶつけるようなパンチを振り回す。福原も負けずに応戦する。両者の躰がもつれ、バッティングし、リングロープから大きくはみ出す。レフェリーが両選手を分ける。その一瞬あとだった。辻岡がバタンと倒れた。福原の小さなパンチが入ったらしい。 「一気に決めてしまえ!」  脇浜の大声が飛んだところでゴング。  二ラウンド。一転、両者打ち疲れたのか、パンチが出ない。 「左のあとすぐ右!」 「足使って!」 「踏み込んで!」 「手出せ! 出したら当たる」  脇浜の声に触発されたかのように、福原がワンツーを繰り出す。辻岡もフック攻撃で応戦するが、一ラウンドに比べると両者スピードが落ちた。福原、やや優勢。  三ラウンド。辻岡が攻勢に出る。福原に鼻血が出てストップがかかる。たいしたことはなさそうであるが、攻守は再三入れ代わる。辻岡は激しい勢いで突進するが、決め手はない。たたみかけようとするところに、福原のフックが決まる。辻岡が腕を抱え込む。脇浜の「ホールド! ホールド!」と叫ぶ声。続いて「下から! 下から!」の大声。福原の一瞬の必死の表情が見えたところで終了のゴングが鳴った。  レフェリーは採点に加わらず、三人のジャッジの合計で勝敗が決まる。先生たちは自校の選手が登場するときは、レフェリー、ジャッジに加わらない。  私の目には、一ラウンドははっきり福原がとり、二ラウンドはやや福原が優勢、三ラウンドは辻岡優勢と映った。  アマチュアボクシングの採点は、プロとは基準が異なる。規定では、ベルトラインから上の上半身にパンチが当たったときワンヒットとされる。オープンブローや腕に当たったパンチ、またナックルパート以外のパンチは無効である。ダウンを奪ったとしても、それ自体に特別な点数は与えられない。得点は二十点満点で、ワンヒットを三つ浴びた選手に一点が差し引かれる。  ということになっているのだが、それがワンヒットかどうかは多分に主観によるし、ジャッジが、アマチュアボクシング協会のレフェリー資格をもっている人もいるし、単に高校ボクシング部の顧問になりたてという先生たちもいる。採点の眼にかなりの差はある。さらにダメージが除外されているから、試合印象と結果が違うことに、この後たびたび出くわすことになった。  三人のジャッジの採点は、ひとりが58対58のドロー、ふたりが、59対57、60対55で福原の勝ちを告げていた。福原の手が大きく上がった。  翌六月十日、日曜日。決勝戦である。今日勝てば、昨年の上村に引き続き、西高からインターハイへの出場者が出ることになる。  対戦相手は、八代学院の三年生、松浦繁二。長身の選手である。彼がこのバンタム級の本命だった。  午後二時十五分。リングに向かう福原の肩に手をかけて、海老原がいった。 「これで最後や。思いきっていこ。今年はインターハイに行けるなんて思ってなかったやないか。負けてもともとや。また来年もある」  インファイトの福原とアウトボクシングスタイルの松浦。好試合となった。一ラウンドは福原がとり、二ラウンドは松浦がポイントをとったと思えた。八代学院はこの大会にもっとも多くの部員を出場させている。松浦への大きな声援が続く。  八代学院ボクシング部コーチの北浦俊尚は大音声の持ち主で、「コーラー!」「行かんかい!」「みんな声出せ!」などと|叱咤《しつた》する。風貌もいかつく、県内の高校ボクシング界にあって、いわば脇浜と並ぶ名物コーチであった。その立ち居振る舞いからして、正直いって好感はもちかねる人物と映っていたのだが、のちに福原にかかわることもあって、私はその印象を変える。  三ラウンド早々、福原得意の左フックが決まった。松浦も足を使って回り込み、長いリーチを生かしたストレートを返す。軽い感じのジャブもよく決まる。それをかい潜っての福原のフック攻撃。熱戦だった。渾身込めた福原の左フックが大きく空を切ったところで試合終了となった。  引き分け、あるいは僅差で福原か、とも私には思えた。が、レフェリーは松浦の手を上げた。採点は三者とも59対58の一点差で松浦を勝者としていた。  脇浜は笑っていた。 「クリーンヒットもらったからな。まあしゃあない。でもええ試合やった。ようがんばった。また基本からやろな」  福原に向かって、いつになく、脇浜の口から|褒《ほ》め言葉が続いた。そして最後に、大声でつけ加えた。 「声に惑わされるアホウな審判もおるからな」  リングでは試合が続いている。  福原はロッカールームに入り、腰を下ろし、コンクリートの床に足を投げ出した。ランニングを脱いで、裸になる。白い肌に、パンチの跡が赤く染まっている。ヘッドギアをとった頭から湯気が湧き立ち、拭いても拭いても全身から汗が噴き出してくる。しばらくじっと下を向いていた。それからやおら下着を着て、ジャンパーに手を通した。眼が合った。 「勝ったと思ったけど……でもパンチももらったし……リーチ長いので届かんかったです……」。ひと呼吸置いて、「あーあ、終わったか」といった。  次の試合のレフェリーを終えた脇浜がロッカールームにやってきた。なにもいわず、福原の肩に手を置いて、しばし肩を揉んでいた。部屋を出るとき、私に向かって小声でいった。 「応えとる思いますわ。でもそれでいいんでね」  十七歳になったばかりの若者にとって、おそらくははじめての、骨身に応える敗北であったろう。敗北を|糧《かて》に、新たな出発をはかること。若い人生を生きるとはほとんどそれと同義ともいえるだろう。「それでいい」という脇浜の言葉が自然に聞こえた。      4  インターハイ県大会からほぼ三か月、夏が到来し、また過ぎていった。二学期がはじまって間もない日である。久々の西宮西高校だった。夕方早い時間で、道場にも職員休憩室にも人の姿がない。空腹を覚えて、食堂に足が向いた。それまでもときおり利用させてもらっていた。  校舎の裏から渡り廊下を隔てたところにプレハブ建ての食堂が建っている。六時十五分から五十分まで、一時間目と二時間目の間が営業時間である。  献立は、スパゲティと野菜、カレーと果物といった簡単なもので、いつも牛乳がついている。その日の献立はごもく飯だった。生徒は百五十円、先生たちは二百九十円である。事務所に行けば食券が販売されていて、部外者——というのも私ぐらいであろうが——でも利用できる。うまいという食事ではないが、とりあえず空腹はおさまる。  海老原の顔が見えた。隣に腰を下ろした。 「頬がげそっと|痩《や》せている子がいるでしょう。夏休みが終わるといつもそうなんです。これぐらいの食事でも大きいんですよ。きちんと夕食をとっていない子がいますんでね」  そういわれて見渡してみると、確かにそんな生徒たちがいる。  海老原によれば、生徒の家庭が“崩壊”してまず現われることは食事の影響であるという。家できちんとした食事をとらなくなる、あるいはとれなくなる。空腹になればそのつどどこかでなにかを食べる。三食を間食で済ませているような生徒がいる。そういう生徒にとって、学校の食堂のもつ意味は大きいわけだ。定時制高校生と全日制高校生の体力比較の数値を見たことがあるが、身長、体重、胸囲とも、定時制高校生が下回っていた。それには、こういう事情も影響しているのだろう。  授業を覗いてみた。夏に英気を養ったというような雰囲気はない。まだ夏の終わりの倦怠を引きずっているような、|弛緩《しかん》した空気が漂っていた。  脇浜は三年生のクラスの教壇に立っていた。 [He said "I was hugry then"] [He said that he had been hungry] 「これ一学期にやったな。同じ意味やな。意味はどうやった?……俺はそのときごっつハラがへっとったと彼はいった、ということやな」  脇浜の授業はユーモアがあって、生徒たちを引き込んでいく。ただハナから英語を学ぼうとする気持のない生徒には、教師がどのような工夫をしようとも無力であろう。事実、脇浜の冗談には笑いが洩れるのであるが、そのときどきの条件反射的反応に終わってしまう。授業の後半になると、あくびや私語が増えてくる。そんな空気を察してのことだろう、「二学期の最初だからこれぐらいにしとこか。ごくろうさん」といいながら、ベルが鳴る前に、脇浜は授業を切りあげた。  廊下で私と顔を合わせると、こういった。 「授業嫌いやネン。生徒も嫌いやネン」  他の教師たちの授業もときおり覗いたが、ちょっとこれはひどいな、と思ったものである。教師を公然と無視して、居眠りや私語を繰り返す。漫画本を読む。ウォークマンをつけたまま座っている。廊下にいる友だちと大声で話し続ける。あるいは教室からぷいと出ていく生徒がいる。それらはまあ見逃すとして、全体として生徒たちが“無反応”であることが私には一番気になった。教師が問いかけても、まず答えが返ってこない。 “無反応”状況を打破するために、教師たちはさまざまな工夫をこらし、やがては疲れ果てて諦め、生徒たちと同じように、ただ時間が過ぎてしまえばいいと思っていく……。  若い先生の多くは、いったん西宮西高校に赴任しても、全日制高校への転任希望を出す人が多い。社会科教師の堀川は、「静かな教室でサマセット・モームでも教えてみたいという気持もわかりますよね」といったものだ。もし自分が教師ならきっとそうなるだろう、と私は思ったものだ。 『西西組合新聞』に、無署名であるが、脇浜は「休み明けの授業」と題して、次のような一文を寄せている。   《しばらく休みになって生徒たちから離れていると、“普通の”平均的感覚がよみがえってくる。それまで毎日、生徒との接触で身につけたものはもろくて、一般的・社会的通念にもみ消されてしまう。    正月が明けて、久しぶりに教室に向かうぼくの足は、だから、軽く、頭の中は話したいこと、伝えたいこと、議論したいことで一杯で、提示の方法をああだこうだと計算しながら、教室の戸をあけた。とたんに、現実がぼくの楽天的なムードをぶちこわす。よどんで疲れきった空気が、休み中につちかった楽天主義をたちまちしぼませる。まぁはじめは仕方がないとして、と、気を取り直し、生徒たちに働きかける。教室のあちらこちらで交わされる私語、教員への無視と無関心と闘い、何とか注意をこちらに向けさせようと悪戦苦闘を始める。    やっと教室にはぼくという先生が存在していることを分からせるのに成功して、授業に入る。説明が始まると、たちまちぼんやりして退屈してしまう顔、すぐに隣の生徒と交わされる私語、まったく関心を示さず、机の上に頭を横たえて眠りこける生徒。もうどうしようもない。大声を出して叱る。一応の授業雰囲気はその瞬間成立する。しかし、授業に入ったとたんにすぐに崩れる。また叱る。くりかえし、くりかえし、とうとうこちらが負けて、はやくベルが鳴らないかと思いはじめる。こちらの心を読んだのか、生徒の一人が“センセ、まだ終れへんの”とさいそくする。授業終了のベルは生徒もそうであろうが、ぼくにも解放のベルで、逃げるように職員室に帰る。    生徒は勉強するものだという社会的偏見は現実の前で破壊された。生徒は勉強しないものなのだ。しかし学校へはくる。一定の通過儀式みたいなもので、それ以外の意味は、学校は生徒にとってもっていないのだろうか。もちろんこうなったのは、歴史的・社会的現実があって、生徒を倫理的に説得してみても解決のつく問題ではないだろうし、また、ぼくを含めた教員の質を責めても解決のつく問題でもないと思う(文部省や一部の教育運動家はそうしたがっているが)。    ぼくは学者でも評論家でも教育運動家でもない。生徒と接する教員で、できればその仕事は楽しくやりたい。せめて生徒とコミュニケーションぐらいは成立させたいと願っている。新年のしょっぱなに早速このあんばいでは、先が思いやられ、暗い気持なのである。今年も去年と同じく、重い足をひきずっていくか。嗚呼!》(一九八七年一月十四日付)  それでもなお、生徒たちとのとぼしい回路を通じさせ、徐々にコミュニケーションの輪を広げていくこと。教師のなすべきことはそのことしかない。無反応と見える生徒たちのなかで、教師の“熱”を確実にひろっていく生徒もいる。それは以前に触れたボクシング部OBたちの声を思い出すだけで十分であろう。  しかし、全体の数からいえば、そういう生徒たちが少数であることも事実である。そこで、授業以外の場で、という発想がでてくるのも容易に理解できる。英語には興味をもたなくとも、走ることには情熱を燃やしうる生徒がいる。脇浜が選んだのはボクシングという世界だった。  ただ、この場においても悪戦苦闘は続いていた。  福原が姿を見せなくなっていた。この頃、道場でも、脇浜はいまひとつ元気がなかった。福原の“失踪”が要因のひとつになっていたことは明らかだった。  夏休み中もほとんど連日、ボクシング部だけは活動していた。やってくるのは一年生の吉村直之、尾形|貴実《たかみ》、二年生の清亮典らで、部の中心となるべき福原の姿はなかった。インターハイ県大会が済むと、練習は来たり来なかったりという日が続き、やがてぷっつりやって来なくなった。  インターハイ県大会の決勝での敗戦がこたえたというわけではなさそうだった。あの日、確かにしょげてはいたが、「来年は絶対勝つ」といって帰っていった。脇浜によれば「いつものサボリ病」というのであるが。  九月半ばである。海老原が福原の家を訪ねてみるというので、私も同行した。  福原の家は、学校から車で数分のところにあって、小さなアパート住まいだった。彼と、髪の毛を茶色に染めた弟と、ひどく恐縮して迎えてくれた母親がいた。狭い部屋は洗濯ものなどがちらかっていて、その間から電話がのぞいている。ちゃぶ台を挟んで、私たちは向かい合った。  以前の彼ととりたてて変わった様子はない。ウイスキー会社のアルバイトに行っているとのことで、仕事はきちんとしているという。学校に来なくなったのは、友だちに誘われ、近くの|香櫨園《こうろえん》の浜に行って酒を飲んだり、バイクに乗ったりで、ついずるずると、というようなことを彼は話した。お決まりのコースである。ボクシングがやりたくなって、道場に行こうと思っていた矢先だという。これまたお決まりの心境といえるかもしれない。  海老原との問答が続いた。 「だったら明日からでも来いよ」 「だって怒ってるから……」 「誰が?」 「脇浜先生が……」 「別に怒ってないよ。この前も脇浜先生が訪ねてきてくれたんだろ。なんていってた?」 「……自分が大事にしてるもんは大切にせなあかんぞと」 「その通りやないか。みんないいかげんで済ませていたら、友だちもなにもかも失ってしまうぞ」 「………」 「すんません、とひと言いって入ってきたらええんや」 「前もあったし、今度はきっときつく怒ってると思うから」 「怒られてもええがな。バーンと一発どつかれて終わりや。それにお前も知っとるやろ、脇浜先生は生徒に手を出すような人やないぞ。先生はな、子供の頃はワルで、お前らの気持はよーわかってる人や。家で勉強してたら親に電気代もったいないと叱られて、公園に行って街灯の下で本読んだという話を聞いたこともある。苦労してる人や。お前らのことは百も承知や」 「………」 「Uのときもそうや、Fのときもそうやった。あれだけ熱心にボクシング教えて、結局いなくなってしまった。多少は知っとるやろ。どれだけ悲しんではったかわかるやろ。それで今度はお前や。だいいち気の毒やないか、ええ。お前らのために、あれだけする人ほかにおるか。この頃、背中がちぢかんで小さく見えるわ。お前が帰ってきてなんで怒る」  話し合いは、明日から来るということで、一応落着した。海老原は、「来れんときには必ず電話するんだぞ」といいながら、念を押すように、ちゃぶ台にあったメモ用紙にマジックで道場事務室の電話番号を大きく書いた。  家を出て、海老原のバンに戻った。学校への道を走りながら、私はいった。 「これで大丈夫みたいですね」  そのように私には思われた。私が福原に尋ねたのは、ボクシングが嫌になったんじゃないかい、ということだけだった。それに対して、彼は、はっきりとそうじゃないと答えた。その言に偽りが含まれているようには思えなかった。  ただ、海老原は慎重であった。 「そうあってくれたらとは思いますがね。わからんですよ。まあ五分五分かな。安心はできん。……何度も何度もこんなことばかり繰り返してね、要するに教師っていうのは根気の商売ですわ」  翌日、福原は道場にやってきた。脇浜は別になにをいうわけでもなく、それまでと同じように、福原のミットを受けていた。練習が済んでから、少年は小さい声で私にこういった。 「先生、そんなに怒ってへんかったわ」  とりあえず、一件落着だった。      5  秋から冬にかけて、高校ボクシング部の行事は、大きな大会としては国体があるが、あとは市民大会、社会人大会(の少年の部)、他府県の高校との交流試合などがある程度である。西宮西高校からは、国体出場の予定選手はおらず、部の日々は練習だけが続いていた。  この頃、私が西高に立ち寄るのは十日に一回程度であったが、いつも顔を見るのは、吉村、清、尾形の「三人組」、よく顔を合わせるのが三年生の福田悟、関本恭夫といったあたりで、福原はいたりいなかったりだった。ボクシング技術は日々の練習量に比例する部分があるのだろう、福原はスパーリングで、力量的に圧倒しているはずの吉村に一方的に打たれたりする。年度はじめには見られなかった光景であり、前途多難を暗示しているようにも映ったものである。  年を越し、脇浜からの年賀状には短い通信が記されていた。   《吉村と清が育ち、尾形がよくがんばって、勝つまでにはいかないものの、対等に打ち合えるようになりました。福原はカンバックして調子に乗っていたのですが、生活が苦しいのか、遊びが忙しいのか、この休みは練習を全休。困ったものです》  三学期がはじまって、二月には新人戦がある。「三人組」はこれを目標としており、脇浜のミット受けも、彼らを相手にすると自然と熱が入っていた。福原はまったく姿を見せないようになっていた。脇浜の口からも、「福原」という名前が聞かれることがなくなってきた。私が口にすると、「もう何度かチャンスは与えたつもりだからなぁ」という。見切りをつけたという口振りのようにも受け取れた。  新人戦が済んで、ひと区切りついた頃だった。香櫨園駅の近くに、西高のOBがやっているお好み焼き屋がある。私は福原のことを確かめたい魂胆もあって、練習後、脇浜と海老原を誘った。  海老原はあの後も何度か福原の自宅を訪れている。「ワンパターンの返事」があって、当座は顔を見せるのであるが、またすぐに来なくなってしまう。その繰り返しということだった。  この数日前、私は不在であったが、福原が久々道場に顔を出したという。ただ、彼ひとりではなかった。バイト先の知人とともに道場にやってきて、数分、見学してそのまま帰っていった。脇浜は声をかけず、福原もなにもいわなかったという。 「ひとりで来るのが照れくさかったんやろな。わかるけどなぁ。ただ、来るなら来るで、ひとりで照れくさそうに入ってきてもらいたかったなぁ……。こっちも腹立つから、もう来るなと怒鳴ってしまうけど、ひょっとしてまた来てくれるんやないかと内心では思ってたりしてね、クックックック……」  いつになく脇浜の口調は寂しげであった。  ——見切りをつけたということになりますか? 「……まあなぁ。しかし切っても切ってないんよ。やめられたこっちの負けですから。|惚《ほ》れた女みたいなもんよな。別れたようでいて、いつか帰ってくるのをいつまでも待っとるといいますかな……。ボクシングなんかやめてもいいんよ。でもそのあとが見えとるわけでしょう。シンナーとまでいかなくても、バイクか酒かパチンコか、きっとそんなところでしょう。それがわかっとるからね……。でもいつまでも甘い顔ばかりしているのもナンだしなぁ……。ジレンマですわ」  また季節がめぐっていった。新年度がスタートし、やがて一九九一年度のインターハイ県大会がはじまろうとしていた。  その場限りの言葉だったのかもしれないが、かつて福原は私に、「絶対」という言葉を二度口にしたはずだ。ボクシングは絶対続ける、来年のインターハイ県大会は絶対勝つ、と。私にはその言葉が耳に残っていた。それに|一縷《いちる》の望みを託してもいたのだが、六月、インターハイ県大会の日まで、彼が道場に現われることはなかった。  六月二日、日曜日。大会初日の全試合が終了してから、私は福原の自宅に足を向けた。歩いても十数分の距離である。学校を出て、海岸線にそって大阪方面に向かって歩いていく。このあたりは|灘五郷《なだごぼう》と呼ばれる酒造会社の大きな建物がいくつか建っている。赤レンガ造りの旧い建築物も見える。人通りはあまりない。  強い雨が降っていた。確か、一年前もそうだった。道場前の濡れたコンクリートの上で、試合前のシャドーボクシングを繰り返していた少年の軽やかな足さばきが浮かんだ。  あれから一年、彼の身に起こったこと、その過程における彼の心の動きについて、おおよその見当はついていたが、本当のところはわからない。見当は、主に脇浜や海老原の話を通してつけた推測である。それが的を射ていたとしても、一面で教師の判断であり、大人の眼を通したものである。私にそれ以上の理解ができるはずもないが、やはり直接会って確かめたいとは思った。  彼は不在だった。あらかじめ電話はしていない。玄関先で、母親と立ち話をした。  母親によれば、克司郎は学校には行かなくなったけれども、ボクシングは好きで、弟とふたり、家で練習を続けているという。アパートの軒下にサンドバッグのようなものが吊り下がっていた。  ボクシング部や脇浜先生とかかわりあることでなにかあったようなふしはありませんか、と私は訊いた。 「とりたてていうようなことはなにもなかったと思いますよ。先生たちには本当によくしていただいて申しわけないと思っております。ただ、気の弱い子でしょう、だからそうなってしまったと思うんですが……」  一週間後の日曜日にまた寄りますといって、家を辞した。一週間後に準決勝がある。もし都合が悪ければ私の自宅に電話をしてほしい、という伝言を残した。電話はなかった。  一週間後、彼は家で待っていてくれた。髪が赤茶色に染まっていることと、ややふっくらとしている以外は、以前と変わった様子はなかった。神戸沖のポートアイランドにある運送・梱包会社で、木枠を作る仕事に出ているという。すっかり日に焼けていた。  ひと通り、近況報告を聞いたあと、私は、草色の表紙の冊子を黙って彼に差し出した。インターハイ県大会の組み合わせ表である。一年前、彼がリングで全力で闘った辻岡考史(八代学院)の名前がある。また彼が新人戦でグローブを交えた田中裕一(八代学院)や|奧邨《おくむら》恵三郎(武庫工業)の名前も見える。  しばし無言で、じっと目を落としていた。 「辻岡どうでした……。ふーん、田中はフライ級か……。奧邨はフェザーに上げたか。減量がきつそうだったから……。ここに宮本誠也っているでしょ。スパーリングでやったことある。全然たいしたことなかった……」  表紙を閉じ、黙って私に返した。  ——どうだい、もう一度やってみるというのは? 「………」  ——一度会社の同僚と一緒に道場に来たことがあったよね。あれ、脇浜先生、気に入らなかったみたいだね。 「あのときは中古車センターの会社で働いていた。社長が空手をやってるとかで、ボクシングの話をしたらすごく乗ってきて、一度見に行きたいというので行ったんだけど……」  ——ひとりでは行きにくかった? 「うーん、どうやったかな……」  ——先生、どういった? 「なにしに来たんやって」  ——先生も機嫌悪かったんだろうな。 「そうみたい」  返ってくる口数は少ない。ただ、脇浜のそういう対応にこだわっている様子はなかった。脇浜先生のことで一番覚えていることはなんだい? という問いに対しては、風邪を引いたおりに二千円くれて風邪薬を買って飲めといわれたことをあげたりした。  他の教師やコーチに対しても、同様だった。海老原は何度も訪ねてくれたし、八代学院コーチの北浦俊尚も、また以前触れた西高ボクシング部の創設時以来のコーチである中村康夫も自宅まで来てくれたことがあるという。  北浦は試合場では傍若無人といった態度をみせる人物で、選手たちを大声で|叱咤《しつた》する。他の高校の生徒の自宅まで訪ねて行ったというのはまったく意外に思えた。のちに会ったときに確かめたところでは、西高との合同合宿で福原を教えたことがあり、その素質を惜しんで、ということだった。「脇浜さんに匂わされて」ともいった。中村にしても同じことだったのだろう。  部活動を休んで、他校のコーチまで心配して自宅に来てくれるというのはあまりない話であろう。そこまでしてもらって、また彼自身ボクシングが嫌いでないというのであるから、部をやめてしまったことがいよいよ理解しがたいことになる。肝心の「なぜ」という疑問には、どうも要領をえない。  察するに、誰かが家に来てくれたおりには、そのつど、明日から道場に行こうと思う。ところがひと晩寝てあくる日になると、そういう決意は稀薄になってしまっている。そこへ友だちから誘いの電話があって……というような繰り返しであるようだった。  福原の口から、もう一度道場に行くという言は結局聞かれなかった。それはすでに時期を逸していることを、彼なりに理解しているように私には感じられた。  ひと通り、訊くべきことは訊いたように思えた。事態を理解しえたようでもあり、またどこか合点がいかないような気持が私にはしていた。  話が済むと、彼は隣の部屋に入り、置いてあった「枕」を手にした。右手に持ってぐるぐると回し、今度は左手に持ってぐるぐると回す。そこには砂が詰めてあって、ボクシングをやることに備えて、手首を訓練しているのだという。  そんな様子を見て、私は話をしてみる気になった。それは、それ以前も何度かぼんやり思ってみたことであった。プロでやってみる気はないか、ということである。  それまで脇浜にもそれとなく相談してみたことがある。福原の場合、授業に出ることは放棄しているのであるから、高校の卒業資格を得ることは無理である。またたとえインターハイの全国大会に出場できたとしても、それだけで人生が開けていくわけではない。目標がはっきりしていないことが、根気のなさにつながっているように私には思えた。アマチュアボクシングをかじりかけただけとはいえ、相当の素質はあるようだ。ボクシングは好きだという。それならば、思いきってプロの途を選ぶのは熟考に値する選択だと思えた。十七歳という年齢はやりはじめるには適齢期である。  ところが、脇浜はその選択に否定的だった。「あの世界のことはいろいろ聞いておるんでねぇ」というのが返事だった。  生徒の進路ということについて、概して脇浜は慎重だった。ボクシング部員についても、これまでプロ入りを勧めたことは一度もない。素質のある選手については、それを武器に大学進学を勧めるケースが多かった。  脇浜のそういう志向はわからぬでもない。プロボクシングはスポーツではあるが、同時に興行の世界でもある。プロ野球やサッカーのJリーグとは世界が違う。報酬も小さい。成功するのは数百人に一人であろう。リスクは高い。  ただ私は、プロボクシングについては、これ以前、取材者としてであるが、大阪にあるボクシングジムに長く通った経験をもっていた。誰もに勧められる世界ではないが、ひとりの若者の生き方として考えた場合、その「燃焼」という価値観に立つならば、決して悪くない世界だと私には思えた。紹介できるジムにも心当たりはあった。  もちろん、そういう“勧め”は、「取材者」としてはしてはならぬことである。それは越権行為である。ただ、ことここに至っては、ひとつの選択肢として話してみることは許されるだろうと思った。  それに、私に具体的な話をさせたのは彼のほうだった。「プロ」という言葉を出したとき、彼の眼ははっきりとわかるほど輝いたからである。  私が心当たりにしていたジムは、大阪・西成区|天下茶屋《てんがぢやや》にあるグリーンツダジムというジムで、井岡弘樹という世界チャンピオンを出している。会長の津田博明、トレーナーの竹本吾一と長く付き合った経緯があり、彼らの人柄からもひとりの若者を紹介することに躊躇するものはなかった。  数日後に手配を済ませ、また事後了解ではあったが、脇浜や海老原の耳にも入れておいた。そのさい、脇浜はとくに反対するニュアンスはなく、「高校のボクシングに音をあげた福原に、果たして石にかじりついてもという世界が勤まるのかなぁ」とだけいった。  そのうちジムに入門したという連絡があるだろう、と私は思っていた。ところがいっこうに連絡がない。グリーンツダジムに顔を出すと、津田や竹本から、あの話どうなりましたか、と訊かれたりする。あるいはこれも、“その日だけの決心”だったのだろうか……。  もう夏に入った頃だった。福原から唐突に電話があった。大阪・梅田からグリーンツダジムまでの道順がわからないので教えてほしい、という話だった。電車の乗り換え駅と道順を詳しくいって、電話を切った。  切ってから、気がついた。ジムを紹介してからかなりの月日がたっている。これからでは顔を出しにくい、一緒に行ってほしいということではなかったろうか、と。お安いことである。折り返し電話をしようとして、思いとどまった。  いやしくもプロボクサーになろうというのである。ジムは、ある種の決意というものを己に課した若者たちの世界である。たとえ道順がわからなくても照れくさくとも、それはひとりで訪ねるべきところである、と。  ——福原克司郎との関係は、この電話以来途絶えている。その後、学校の道場に見かけることはなかったし、また現在までのところ、グリーンツダジムから彼が入門したという知らせも受けていない。  脇浜が、この部員にかかわることで、その“総括”ともいうべき言を吐いたのは、インターハイ県大会を前にして福原と連日道場で練習を重ねていた日々からいえば三年余りもしてからである。  一九九三年夏、脇浜と私は、栃木県の日光市のホテルで、数日同じ部屋に寝泊まりしていた。久々、西高からインターハイの全国大会に出場する選手たちが生まれ、会場が日光だった。  夜遅く、私たちは部屋のテーブルを挟んでとりとめもない話を繰り返していた。脇浜は何杯かコーヒーを飲み、私のほうは水割りを重ねていた。  そんな席で、脇浜は唐突にいった。 「福原についていえば、こっちの負けですよ。はっきりと敗北だ。それはあのときからわかっていた。諦めずにもっと手を差し延べてやったらよかったのかもしれない。わかってはおった。……でもね、もういやだったんだわ。福原がいやになったとか嫌いになったんじゃない。自分の若い頃を思い出すんだ。いつも人の責任にして逃げてしまう。そんな自分のことが思い出されてもういやになったんだ……」  脇浜は苦いものを吐き出すような口調でいった。  正直いえば、福原への脇浜の対応について、私にはやや不満なものが残っていた。教師としてあれ以上することはないと理解しつつ、もう一度か二度、どこかで手を差し延べることはできたのではないかという思いである。脇浜との付き合いのなかで、折りに触れて、福原の名前を私は出した。こうすべきだ、といったことはない。それは私などが口を挟むべき性格のものではない。それに、脇浜のなかに、第三者が域を越えて言及することをやんわりと拒絶するものもどこかに感じられた。  それでもなお、私には微かなわだかまりは残っていた。その言葉を聞いて、わだかまりは消えていった。  この教師が、くどいほど〈もう一度〉ということを考えなかったはずはないのだ。それでいて、どうすることもできなかった。「敗北」という言葉に、脇浜が負った傷が十分過ぎるほどに込められている。  福原克司郎については、これまで書いたことが誤解を生まなければよいと願っている。私はこの若者に、もとよりなんの悪感情ももっていない。大人たちの“期待”からすればいささか意志薄弱であったかもしれないが、それはそれだけのことである。いま|二十歳《はたち》そこそこの若者が、今後、どのような場でどのような対象と出会うかは未知のことに属している。記したことは単なる過去の中間報告である。  若者と脇浜の間についていえば、その関係を瓦解させるようななにかがあったわけではない。一時的なわだかまりや誤解があったとしても、それをおぎなって余りあるつながりもあったのだ。たとえ短い季節であったとしても、この教師とくりくりとした眼をした少年の練習風景は、他のどの部員のときよりも私を魅了した。少年と男の間に、熱い夏の季節があった。ただ長続きはしなかった。  あてずっぽうとしていうなら、この若者が、短い夏の季節を、またこの口やかましい中年教師が何者であったかを理解するのはずっとのちのことであるような気がする。一般的にいって、少年に、自分の父親のことを真に理解するときが到来するのがそうであるように。 [#改ページ]   第六章 亀  裂

     1  彼らのことを、脇浜は「三人組」と呼んでいた。ときに「三バカ」あるいは「問題児たち」と呼ぶときもあった。|清亮典《せいりようすけ》、吉村直之、尾形|貴実《たかみ》の三人である。一九九〇年夏の時点でいえば、清は二年生の十六歳、吉村と尾形は一年生の十五歳だった。  この年の夏、福原が姿を見せなくなり、道場における脇浜の情熱はもっぱらこの三人組に注がれるようになっていた。夏休み中もほぼ毎日夕方から練習があり、この“夏期特訓”に参加しているのがこの三人だった。もちろん、西宮西高校の運動クラブのなかで夏期特訓などをもうけているのはボクシング部だけである。  夕方、校舎にもグラウンドにも人気はない。道場入口の鍵が閉まっているときもあって、そんなとき、私は道場の裏手に広がるグラウンドに出て、隅にあるベンチにごろんと横になったものだ。夕日を浴びたグラウンドはしんとしていて、どこからか蝉の声が流れてくる。まどろんでいると、とっくに忘却の彼方に消えてしまっているはずの、小学校時代の校舎がふっと浮かんできたりする。少年期の長い時間を吸い込んだ学校は、何十年も記憶の底に沈んでいて、ふとした折りに|甦《よみがえ》ってくるもののようである。  パタン、という車のドアを閉める音で目がさめる。道場前の中庭に教員用の駐車場がある。神戸市北区に住んでいる脇浜も車で通勤している。それが脇浜の車であるときも何度かあった。古ぼけた小さな乗用車である。 「嫁ハンがやっと組合がおさまったと思ったらボクシング病なんやね、といいよってね、ホント、病気ですわ」  顔を合わせると、いつもそんな軽い冗談を口にした。この夏は趣味であるクルーザーもほとんど出していないという。 「あの三バカどもが来なければ休んでもいいんだが、来よるんよなぁ、毎日。お前、アホウやなぁという顔をして見ると、向こうもニッとして、先生もアホウやなぁという顔をしよってな、クックックッ……」  夏期特訓はもちろんクラブ活動の延長にあるもので、学校行事でもなんでもない。「病気」とはいわないまでも、脇浜個人のいわば“趣味・道楽”の類いといえないこともなかった。本人自ら、「生きがいといえばもうこれしかないんでねぇ」といったりする。  時期としていえばこれより少しあとになるが、脇浜に教頭に昇格する話がもちあがっていた。脇浜も五十歳である。かつての組合運動の同志たちのなかで、教頭や校長になっているものもいる。  たとえ脇浜の動機が“道楽”であったとしても、夏休みまで、私事をほったらかしにして担当するクラブ活動に打ち込むというのは、教育委員会的立場からしてもこれは表彰ものということになる。事実、ボクシング部の活動に対しては、歴代の校長からも文句が出たことは一度もない。  たとえ“行き過ぎ”という批判はあり得たとしても、脇浜が万事“熱心なる教師”であることに疑いの余地はなかった。教頭昇進云々は、“うるさい教師”を管理職に祭り上げてしまおうとする意図があるのやもしれなかったが、一般的に考えてみれば、その“昇進”も妥当な人事であろうと思われた。  ただ、脇浜はこの話を一蹴のもとに断わっている。理由はわかってはいたが、念のためにと思って訊いてみたことがある。 「教頭になるのがいかんと思ってるわけじゃない。やりたい人がやったらいいし、組合の連中がなったとしてもケシカランとはちっとも思わん。だけど、自分がなってもちっともオモロナイもんな。捨てるもんのほうがずっと多いもん。だいたい職員室にジトッと座ってね、いったいこの俺になにをせいというのよ。それよりも、吉村がガーッとやる気になったりとかね、あのひ弱な問題児たちが強くなるのを見ていくほうがよっぽど楽しいもんな」  脇浜が「ひ弱な問題児たち」というのも、うなずけるところはあった。この三人もそれぞれに「問題」を抱えた生徒たちだった。  清亮典の場合でいうと、まず肺気胸という病をもっていた。子供の頃からずっと病弱だったという。いまはそういう|痕跡《こんせき》は外見からはうかがえない。背丈があって、細身ではあるが|痩《や》せた感じはない。整った顔立ちをした若者で、建設現場の仮枠大工の仕事をしているせいもあるのだろう、日に焼けてたくましい。快活というほうではないが、ものおじしない性格をしていた。  彼がこの学校にやってきた理由は、これまでに触れた生徒たちとよく似ている。  小中学校時代を通して、学校嫌いだった。宿題をしたためしはなく、したがって先生に|褒《ほ》められたことはなく、学校や教師にかかわることで良き思い出はない。ただ、単なる勉強嫌いではなく、好きな学科には意欲がわく。数学は好きで、西高でも成績はトップクラスという。英語は「外人がしゃべるもの」ということで興味なく、国語・社会の授業は「まったく聞き流している」とのことだ。  どうやら自分の納得することには前向きになれる性格のようだ。彼と話をしていたとき、中学時代における制服問題が話題にのぼった。 「学校って規則、規則ばっかりでしょ。でもその規則がなんで必要なのか、誰もいわない。学生服をなぜ着なきゃならんのか。先生に訊いても、そうなっているからそうなんだ、というばかりだったもんね。とにかく縛られることは嫌いなんだ」  そういう気性の彼にとって、自由といえば自由、ちゃらんぽらんといえばちゃらんぽらんな西高の校風が気に入ったのもうなずける。「いままで通った学校のなかでは最高にいい」という。  彼が西高にやってきた理由として列挙したのは、全日制高校の受験に失敗し、勉強は嫌いだが高校ぐらいは出ておかないとと思い、当分は学生でいたい気分もあって、というものである。他の生徒たちと多分に重なっているが、ひとつ、「給食があるので」という理由はこれまで耳にしたことのないものだった。彼もまた両親が離婚をしており、家族は父親と新しい母親と姉の四人ということだが、いろいろと事情があるようだ。  ボクシング部に入部したのは、世界ヘビー級チャンピオンのマイク・タイソンのファンであったこと、西高ボクシング部の活動を取り上げた関西テレビ放映のドキュメンタリー番組(『夜間高校ボクシング部の夏』)を見たことが契機になっている。一年生の夏に入部をしたが、「しんどい」「だるい」「ガミガミいわれる」等で、一年間は行ったり行かなかったりという日々が続く。  二年生になって、「かなり本気で」部活動に打ち込むようになった。  顧問先生への印象は、最初は「こわいオッチャン」であり、しばらくすると「けったいな先生」となり、やがて「エエ人」というように変わっていった。おそらくそれは、脇浜という人物に接する少年たちが一様に思う印象の流れであろう。  この当時、脇浜の清への寸評は、「一年前は風邪ばっかり引いとった子でね。ボクシングやりたいというから、まず医者の診断書をもってこいとまでいった。すっかり丈夫になって、ふてぶてしくなりよって。歯応えでてきたよ」というものであった。  吉村直之は、色白で童顔の、ぽっちゃりした感じの若者である。この当時、脇浜の一番の期待の星だった。なによりも、いい躰つきをしている。パンチ力がある。先輩の福原を相手にしたスパーリングでも、さほど遜色はない。彼は中学のとき、柔道をしていた。初段だという。清や尾形と比べると、肩幅と胸の厚さが目立つ。それはきっと、中学時代の鍛練の賜物なのであろう。  彼は中学三年の終わりから、西高の道場に出入りしていた。 「両親が連れてきたんでびっくりしたな。テレビを見て西高にボクシング部があるのを知ったというんだ。親が、この子は勉強は駄目だがなにかひとつスポーツをやらせたい、よろしく頼むというような話でね、珍しい話だったんで覚えているんだ」  というのが吉村にかかわる脇浜の話である。  吉村によれば、「ひとつのことならできる|質《たち》」とかで、中学時代、勉強はからきし駄目だったが柔道は続けた。柔道よりはボクシングのほうがおもしろそうだと思い、両親に話してやってきたという。西高の評判はなんとなく伝わっていて、「この学校は授業に出席さえしていたら卒業できると聞いていたので」ということだ。  仕事は、親戚のやっている印刷会社の手伝いをしている。毎日ではなく、連絡があれば行くというような状態で、のんびりとした勤務のようである。  彼はいつも、小声で、ぼそぼそとものをいった。見るからに無口である。私との関係でも、顔馴染みになってからも、ほとんど応対らしきものがない。なにか訊いても、ひと言かふた言、ぼそっとした答えが返ってくる。そんなわけで、|瑣末《さまつ》なことであるがくっきりと覚えていることがある。  一九九一年六月、つまり彼と顔見知りになって一年余りのちのインターハイ県大会の日だった。私が西高の道場に入ろうとすると、入口で「後藤さん、はい」といってスリッパを出してくれた。それが多分、彼のほうから声をかけてきた最初のことであったと思う。そんな淡い関係ができるまでかれこれ一年かかったことになる。思うに、別段“変人”というのではなく、極端にシャイな性格なのであろう。  子供の頃から喧嘩ひとつしたことがないという。スパーリングでも、まず自分からは打っていかない。リング下の脇浜たちから怒鳴られて、ようやく手を出すスタイルで、それは二年生になっても変わらなかった。 「ええパンチしとるのになぁ。まともに打ち合ったらまず負けん子なんだけど、それがなぁ……。気分屋さんですわ」  というのが、その後、脇浜から繰り返し耳にしたことである。  私から見ても、はっきりと練習に気が乗っていない日がある。落ち込んでいる様が見てとれるのである。どうしたんだい、と訊くと、「自分でもわからへん。悪いほうばっかり考えてしまう。もういやになってきた」というようなことをぼそぼそと答えるのだった。  体力と素質は問題なくて、いわゆる“精神面”に問題ありというのが吉村であるようだった。 「影みたいな子でね。虚弱体質というか、ボクシングなんかできるんかいなと思いましたがな」  というのが、尾形貴実についての脇浜評である。  当初私は、道場にいても、尾形の存在に気がつかなかった。そういや道場の隅で躰を動かしている子がいたな、という感じである。確かに影が薄いといえば薄い部員だった。身長は百七十三センチあるのだが、体重が五十キロ余りしかない。いかにも細くて弱々しい。  吉村が無口だとすれば、尾形は極端に無口だった。それは、私など部外者に対してだけではなく、脇浜や海老原や他の部員に対してもそうであった。  年に何度か合宿があって、道場二階の小部屋に部員たちは寝泊まりする。ある日、海老原がびっくりしたという表情でいったものだ。 「尾形と吉村の様子を見ていると、一日中口きかんもんな。あのふたり、あれで退屈せんのかな」  そんなわけで、この若者と喫茶店で話をしたりはしたのだが、よくわからないところのほうが多い。ただ、人とのコミュニケーションをとるのが苦手なだけで、真面目な若者のように思われた。  彼は入学して間もなくボクシング部に入部している。  ボクシングは子供の頃から興味をもっていた。入部当初は練習がきつくてよく休んだ。しばらくして躰が慣れたのか、練習にもついていけるようになった。中学時代はよく風邪を引いたり腹をこわしたりしたものだが、随分と丈夫になったように思う。是非四年間続けていきたいと思っている。  学校の授業は、ときどき遅刻はするが、ほぼ毎日出ている。仕事は新聞配達で、朝刊だけを受け持っている。ボクシングの練習を終えて家に帰るのが十一時半頃で、寝るのは十二時を越す。朝、四時前に起きて、自転車で販売店に向かう。配り終えて帰宅するのが六時頃。改めて寝床に入り、昼過ぎに起きる。午後はテレビを見たり漫画を読んだりで、夕方学校にやってくる。  家族は母と姉と弟とがいる。将来のことは考えてはいないが、車関係の仕事につくことができればと思っている。  ——というあたりが、彼から訊き出したことだった。  十五、六歳の少年に、その内面を言葉豊かに表現してもらおうとするのは無理であろうが、それにしても、吉村と尾形については、いささか反応が乏しい感がいなめない。それは部の前途多難を暗示しているようにも思えたものである。  二学期に入った日だった。道場二階の事務室で、脇浜がテレビ画面に見入っている。それは、清と吉村がこの夏の終わり、大阪にあるプロのボクシングジムに出かけて、ジムの練習生たちと対戦したスパーリングの様子が収められたビデオだった。それはふたりにとって、はじめての“他流試合”だった。  脇浜は眼を細め、すっかりご満悦という表情である。 「清の奴、胸ドキドキでリングに上がってますわ。……ほうら教えた通り打って……ほら当たった……また当たった。……あぁアカン……そう、そこで行って!……ホント、一年坊主どもはおぼこいもんだわ、クックックッ……」  それは、手塩にかけたひな鳥が巣を離れて初飛行するさいに、|側《そば》で、おっかなびっくりで見やっている親鳥を想起させた。脇浜にとっては、すでに何度か見た画面のようだ。彼らの成長を私に見せたかったのだろう。ビデオを片づけながらこういった。 「なんでそうおどおどするんかと|歯痒《はがゆ》いくらいおどおどしとる。そう思って見てると、つくづく思うんですな。こいつらきっと、これまで、どこでもつまはじきされて生きてきたんやろなって。いったい世の中、なんでこいつらがにこっと笑っておられるような場所を作ってやらんのかと。まあ、ここがそうあってくれればとは思いますがね」 「三人組」が入部して実質数か月。それぞれに問題を抱えた、いささか頼りなげな部員たちではあるが、ともかく、髭先生の情熱を傾けうる生徒たちが部に定着しようとしていた。      2  例年二月半ばに、兵庫県高等学校ボクシング競技新人大会がある。この新人戦は、新しくボクシングをはじめた部員たちの登竜門というべきもので、部にとってはインターハイ県大会に次ぐ行事ともなっている。対象は一、二年生であるが、定時制高校生の場合は三年生でも出場資格がある。清、吉村、尾形の三人にとっては、最初の大きな試合を迎えようとしていた。  脇浜と海老原は、何度か、彼らをどのクラスで出場させるかを相談していた。  体重でいうと、吉村は日頃五十八、九キロであるからフェザー級(五十四〜五十七キロ)でちょうどよい。清、尾形のふたりは五十三、四キロであるから少し減量すればフライ級(四十八〜五十一キロ)で出場できる。ただそうなると、試合でふたりが対戦する可能性が出てくる。できるだけ避けたいところだ。  脇浜は他校の選手たちの情報収集にも熱心だった。 「なにしろこれまで、人生勝ちましたという経験のない子らだからね。なんとしてもひとつは勝たしてやりたいのよ。抽選がうまくいけばなぁ」  道場二階の事務室で、他校の部員たちのメンバー表を眺めながらつぶやいている。新人であるから、たいした情報はないのであるが、スパーリング大会などで、ある程度有力どころはわかっている。  大会が近づくと、尾形はフライ級、清はバンタム級(五十一〜五十四キロ)で出場することが決まった。これは、「昼間、力仕事をやっとるほうを楽させて」という判断からだった。  道場の隅に|秤《はかり》があって、前の壁に、練習前と練習後の体重を記入する一覧表が貼りつけられている。これから試合の日まで、徐々に体重を落としていけばいい。ところが三人とも、すんなりとした下降カーブをたどっていない。  これがまた、脇浜の嘆きの種となっていた。三人にとって、減量など生まれてはじめての経験である。自己コントロールがなかなかできないようだ。試合日が迫ると体重は落ちてきたが、今度は三人揃って風邪を引いてしまっている。「ワシなんか二日ぐらいメシを食わなかっても平気やったがな。ホント、ひ弱いわ」というのである。  練習風景からも、いまひとつ意気は揚がっていなかった。  リング上で、清と尾形が、大きなグローブをはめてマスボクシングをやっている。日頃、清のパンチはスピード感があるのだが、減量のせいか、精彩がない。尾形はさらに輪をかけて元気がない。いかにも顔色が悪く、これで試合に出て大丈夫かと思ってしまうほどである。ふたりの間にはかなり力の差があるのだが、尾形は打たれっぱなしになって、ダッキングやウィービングもせず、下を向いてしまう。 「尾形よ、パンチはよけないかんぜ。やられとるばっかりじゃいかんがな」  下から海老原が声をかける。叱責ではなく、頼み込んでいるような口調であった。  試合日が近づくと、脇浜はにこやかな顔になる。選手の気持を乗せていこうとするのだろう。それがいつもの流儀であったが、見るに見かねてリングに駆け上がっていくときもあった。  吉村もまた、まったく覇気がなかった。もともと元気なときが少ないのだが、落ち込んでいる様が見てとれる。どうしたんだいと訊いても、「なんかだるいんですわ」というだけである。脇浜の説明では「ときどき自閉的な症状が出てくる」というのであるが、その後の推移からみて、おおむね試合日が迫るとそのような気分になるようであった。  試合の前日、外は雪がちらついていた。三人の体重はようやく、リミット近くまで落ちた。軽い練習を切りあげて、二階事務室のストーブの周りに集まって、毛布をかぶる。汗を出し、体重をしぼろうというわけだ。  尾形と吉村はいつもの通り、なにもいわない。わずかに清が海老原としゃべっている。 「先生、明日、秤に乗るのはパンツひとつですよね」 「そうよ、パンツひとつよ」 「もしオーバーしていたらどうなるのかな」 「そらお前、フルチンで乗り直してみてもいいぞ」 「………」 「でもな、測ってくれるのは可愛い女生徒だぞ。どうする」  そんな海老原の冗談に、はじめて毛布の中から微かな笑いが洩れた。  一九九一年二月十七日、日曜日。前夜から降り出した雪が、西宮西高校のグラウンドを白一色に染めあげている。中庭の駐車場に止めてある車のフロントガラスには、溢れるほどの雪がたまっている。関西地方には珍しいほどの積雪だった。  昼前、まだちらほらと白いものが落ちている。寒い日だった。午前中の計量が終わり、三人は道場の隅に座り込んでいた。三人とも計量と医師の診断をパスしたのであるが、青菜に塩といった様子である。  とくに尾形の顔はいつもよりいっそう青白い。体重は四十八・五キロと、フライ級の上限リミットを二・五キロも下回っている。明らかに落とし過ぎだ。  吉村は一回戦不戦勝だった。清の対戦相手は市立姫路高校の生徒で、海老原によれば「どってことないだろう」とのことだ。尾形の相手は八代学院の平井宏育という選手で、なかなかの強敵であった。平井については、これ以前、西高の道場で行われたスパーリング大会での様子を私は記憶していた。サウスポーの選手で、なかなかのスピードの持ち主だった。「うまいこといかんわ」と、脇浜がこっそり私の耳もとでいった。  清は一ラウンドRSC勝ちを収めた。いきなり打ち合って、気がつくと相手が倒れているという試合だった。 「ドツキ合いもいいところですな」  横にいた海老原が苦笑まじりにいう。  テクニックもなにもなく、ただがむしゃらに腕を振るう。そんな試合が続く。選手たちは、リングに上がれば、教え込まれたこともうわの空なのだろう。  尾形は立ち上がりから苦戦した。のっそりとリング中央に現われたところ、平井の先制攻撃を食らった。以降、守勢一方だ。身長とリーチで平井を上回っているのだが、それが生かせない。しばしば|懐《ふところ》に飛び込まれて、立て続けにパンチを食らってしまう。ときおり尾形もパンチを出すのだが、有効打とはなっていない。ヘッドギアから覗く平井の眼はぎらぎらと光っている。あたかも、か弱いカモシカを射止めんとする豹という図であった。  三ラウンド、平井の攻勢で尾形の躰が大きくのけ反ったとき、観客席にいた脇浜が両手を交差させた。リングサイド下の海老原がすぐにタオルを投げ入れた。ふたりの間でしめし合わせていたことなのだろう。 「三ラウンド、四十五秒、平井君の棄権勝ちでした」  リングサイドに座った女生徒のアナウンスが響く。リングから降りてきた尾形は、鼻と唇から出血していた。 「いい試合やったやないか。ようがんばった」 「今日はこれでええ。次は勝とうや。今度今度」  海老原と脇浜が声をかけた。  うなずきながら尾形は、ふいに両眼から涙を落とした。海老原が紐をほどいて、グローブを脱がせてやる。尾形はされるままになってうつむいている。やがてリングサイド後方のパイプ椅子に座り込み、彼は長い時間、黙ってしゃくりあげていた。  午後三時過ぎ、その日の試合はすべて終了した。なにか言葉をかけてやりたいと思いつつ、浮かんでこない。それに、どんな気のきいた言葉もいまは無効であろう。道場を出ようとした私に、小さな声がかかった。 「今日は尾形君の涙が見られてよかったですね」  リングサイド最前列の長椅子に、負傷した選手に備えて、医師と保健の先生が座っている。声の主は、西高で保健を担当している大石美智代だった。  大石は、清楚な雰囲気をもった若い女性である。  それまで立ち入った話をしたことはなかったが、試合のある日には顔を合わせていた。ボクシング部第一期生の山下からも、彼女の名前を耳にしていた。在学中、ぶらっと保健室の大石を訪ねたことがよくあったという。それは、年齢が近いので話しやすいということもあったのだろう。また、生徒たちの気持をどこかですくい上げてくれる部分を、この若い教師がもっていたからなのだろう。  新人戦の日からしばらくして、私ははじめて保健室を訪ねた。  大石は一九八五年に大学を卒業し、西宮西高校に赴任している。養護学校で働く希望をもっていたというが、「たまたま」西高が勤務先となった。  もちろん定時制高校ははじめての体験で、当初は「びっくりすることばかり」だった。煙草を吸う生徒、髪を黄色に染めた女生徒、絶えない喧嘩騒ぎ、と淡路島ののどかな学校で育った彼女にはド肝を抜かれる出来事が続く。保健室に押しかけてきた男子生徒に鍵を掛けられ、監禁まがいの仕打ちをされたこともある。家に帰って涙した日もあった。  以来六年を経ている。それは、一見不良ぽい生徒たち、また容易に心を開かない生徒たちの内面を知っていく年月でもあった。  保健室にやってくるのはほとんど女生徒たちである。なかには、ひとりの教師が引き受けるには重た過ぎる相談事もある。  付き合っている男のタチが悪く、妊娠させられて捨てられ、困り果ててやってきた生徒もいた。中絶の費用を貸してくれないかというのが相談事だった。六年間の間に、同種の相談事が十数件はあった。  驚き、憤り、呆れ、やがて「目線を下げること」を覚えた。説教をすることは簡単だ。けれども、そんなことはなんの解決にもなりはしない。まずは、それに至るまでの事情をじっくり訊き出す。生徒の生い立ちや家庭環境を知っていく。自分が生徒と同じ境遇にあったとしたら、同じことが起こったかもしれないとよく思った。そう思うと、彼女たちが近しい存在に思えてくるのだ。  教師といえども、いい解決法をもっているわけではない。ただひとつ、強くいいきかせるのは、生命が宿ることの重さである。そのことを繰り返し強調しつつ、最終的な選択は当人に任せるしかない。いいことだと思ったわけではないが、中絶費用を渡してやったケースもあった。  数年後、そういうかかわりのあった女生徒から便りがきた。男との関係は整理がついて、元気に働いて暮らしているという文面が綴ってあった。そして、かつて大石が用立ててやった金額が同封してあった。それはうれしい便りではあったが、同時に、果たしてあれでよかったのか——とは思うのである。  大石の口から洩れるのは、表層の風景からは見えてこない定時制高校のある断面である。保健室は、ある種の“駆け込み寺”ともなっていた。おそらくこの若い教師が引き受けている問題の重たさは、他のどの教師のそれと比べても遜色はないはずである。  私は新人戦の日のことを訊いた。  ——尾形君のことを知っておられたわけですか。 「よくは知らないのです。でもとっても無口な子でしょう。どこか気にかかるといいますかね。吉村君もそういうタイプですよね」  ——そういう生徒が増えているといえますか。 「私の在籍している間でいっても、そういうタイプの生徒が増えているように思いますね。おとなしいというより無反応な子供たちが多くなっている。尾形君や吉村君は、ある意味では現在の定時制高校の象徴じゃないかしら」  ——彼らはなぜそうなんでしょう。 「尾形君や吉村君については具体的には知らないけれども、そういう生徒の多くは、これまで家庭でも学校でもほうりっぱなしにされてきた子供たちという共通項があるように思えるんです。学校不信や教師不信の前に大人不信がまずあって、その距離のまま高校まできてしまっている。彼らの沈黙にはそういうわだかまりを感じます。それが、大人からすれば、無感動、無機質、無関心な子供たちと映っているんじゃないかしら。もちろん一概にはくくれないし、性格というものもあるんでしょうけどね。実際問題、こっちだってハラ立つことが多いんだけど……」  ——学校はなにができるということになりますか。 「とてもむつかしいですね。ほとんどなにもできないといったほうが正直な答えかしら。ただ、付き合った生徒たちから、何年かして、年賀状をもらったり、電話をもらったりすることがあるんです。そんなときはうれしいし、ああそういう子だったのか、見えていなかったなと思い直すこともあるんです」  ——大人の理解度も問題だと。 「ひとつ思うのは、私たちが知っているのは彼らのほんの一面だということ。とっても陰気な子がいて、彼の勤めている酒造会社を覗いたことがあるんです。すると、学校での姿とは違っていて、職場の人と楽しそうに話している。ああ彼は外ではそうなのかと思って、ほっとしたことがありましたね」  ——どこかで輝いてくれていたら、ということになりますか。 「それはすごく思いますね。職場でもいいし、クラブ活動でもいいし、他の場所だっていい。どこかで一瞬の若さを発揮していてくれたらいいなっていうことは心から思いますね」  この若い教師の言に、私はおおいに納得するものを覚えていた。 〈一瞬の若さ〉。尾形の涙を、そう受け取ってもいいだろうか。彼女が見たかったものは脇浜や海老原の見たかったものであり、また私の見たかったものであるに違いなかった。      3  清と吉村は決勝まで勝ち残った。  二月二十四日、日曜日。その日も風の冷たい日で、校門入口の水たまりに薄氷が張っていた。  道場一階の隅のロッカールームに、部員たちが集まっていた。清と吉村は、石油ストーブの前でしゃがみ込み、予選で敗れた尾形、三年生の福田悟や関本恭夫の姿も見える。  ロッカールームは六畳ほどの広さで、真ん中に、綿のはみ出た布団が敷かれている。周りに、ロッカー、剣道具、荷物台、石油缶などが並んでいる。部員たちにとって、ロッカールームは着替えの場所であり、また脇浜や海老原の視野の及ばない休憩室でもあった。 「福原」と名前の入ったロッカーの上に、黒いボクシングシューズがぽつんと置かれている。うっすらとほこりをかぶっていて、持ち主の長い不在を物語っていた。  清と吉村は、珍しく、快活に語り合っている。こんな上機嫌の吉村を見るのは珍しい。  シューズに紐を通しながら清に語りかけている。 「シューズの紐、どれくらい余して締めたらいいのかな。いつも悩むんよ」 「長かったら靴に回して締めたらどうなん?」 「そうやね、そうするか」 「昨日、寝られた?」 「あんまり」 「俺もあんまり」 「……シューズはええんやけど、俺、足太いよってな、かっこ悪いわ」 「そんなことないやん」 「ううん、太いのん見せるのんいややねん」 「あーあ、ハラ減ってきたな」 「うん。試合が終わったら、思いっきりメシ食ってやる」  十六歳と十七歳の少年は、そんな会話を続けていた。今日が最終日ということもあるのだろう。吹っ切れたものが感じられた。  海老原が入ってきた。パン、|蜂蜜《はちみつ》、レモン、バナナなど、試合前の軽い食べ物を手にしている。 「どうや吉村、こうなったらドツキ合いをせにゃしゃぁないんだぜ。思いきっていこうかい」  吉村は食べ物を口に入れながら、 「先生、わかってる」  と、珍しく明瞭な口調で答えた。  またドアが開く。白いワイシャツに蝶ネクタイ姿の脇浜だった。審判員の制服である。何度か見慣れた姿ではあるのだが、どうも板についていない。脇浜にかかると、石油ストーブも灰皿代わりになっている。煙草を手に、ウロウロ歩き回りながら語りかけるのだ。 「ええか、清、相手はたいしたことない。リーチもなんもかも、お前が上回っとる。ぱーん、ぱーんとジャブな、それからストレートや。吉村、お前さんは強いんや。基本通りな、基本通りやりゃ、負けることはない、ええな。……海老さん、新人戦は鼻血出たらストップかけられやすいから冷やしタオル用意しとこか」  などといって、ドアをがちゃんと閉めて出ていく。  そして二、三分もすると、またドアがガラッと開いて、「ええか、清、吉村」という声が落ちてくる。いつもの、試合前の風景であった。  黄色のランニング、黒のトランクスが西高ボクシング部のユニフォームである。黒いボクシングシューズには銀色の稲妻が入っている。他校の部員のなかには、膝下までくるボクシングシューズではなく、単なる運動靴で代用しているものもいる。  海老原は「かっこじゃ負けとらんぜ」といいながら、ロッカールームからふたりを送り出した。これまた何度か耳にした|台詞《せりふ》であった。  試合前、小さなハプニングがあった。  道場の板の間で、グローブをつけた清のパンチを、脇浜が両手を出して受けていた。試合前の軽いウォーミングアップである。 「相手がひとつ出したらお前はふたつ、ええな」といったとき、清のアッパー気味のパンチが脇浜の|顎《あご》にまともに入った。脇浜はグラッとした。 「先生、大丈夫?」  心配そうに、清が覗き込む。  苦笑いしながら、脇浜は答えた。 「そう、そのパンチや。忘れたらいかんぞ」  打ちどころが悪かったのだろう、ひとりになってから、脇浜は顔をしかめ、しきりに口を開け閉めしている。そんな光景は、日頃の練習時においてもときおり見られた。  清は一ラウンドRSC勝ちをおさめた。  二時過ぎ、「絶不調ですわ」という言葉を残して、吉村がリングに上がった。相手は、八代学院の辻村真哉という選手で、同じような背丈であるが、吉村のほうが躰つきはたくましい。  吉村の試合運びは、じっくり見て、やおらパンチを繰り出すというものである。上半身を小さく振って、低い姿勢から、パンチを放つ。動きに柔軟性がある。それに、なんとなくじりじりと相手を追い詰めていく威圧感がある。  切れるパンチではないが、ときおり重い左右のフックがドンと入る。腕や肩の上からでも、辻村にかなりの衝撃を与えているようだ。スピードは辻村のほうが勝っているのだが、いつの間にか、コーナーに詰まって守勢に回っている。迫力に差がある。吉村には意外とボクシングセンスがあるのかもしれない。  終始、吉村の攻勢が続く。三ラウンドはじめ、頭の下げ過ぎでレフェリーから注意を受けたが、大勢に影響はない。決め手の右フックが決まると、辻村の躰が浮き上がる。辻村の顔面が真っ赤に染まっているのに対し、吉村はほんのりとしたピンク色だ。それが優劣の差を示していた。 「ええぞ、吉村!」  リング下から飛んだ脇浜の声と同時に、終了のゴングが鳴った。採点は、60対58、60対56、60対57と、吉村の完勝だった。  全身から汗を噴き出した若者がリングから降りてきた。  ——どうだった? 「メシ、メシと思ってやりました。終わったら思いっきりメシ食えるんだとばっかり思って」  ——完勝だったね。 「そうですかぁ。わからへんけど、とにかく今日家に帰ったら、破産するほどメシ食ってやる」  吉村直之についていえば、淡い関係ではあったが、私は三年近く、この若者と付き合ったことになる。いま振り返ってみても、一年生の終わり、兵庫県ボクシング新人大会の新人王に輝いたこの日が、もっとも鮮明に残っている。体調が良く、いわゆるバイオリズムも合致していたのであろう。躰一杯から、勝利のほてりが溢れていた。若者は輝いていた。  表彰式では、清が最優秀選手のトロフィーをもらった。判定であったからだろう、吉村への賞はなかった。それでもふたりは、トロフィーを抱えてロッカールームに持ち帰り、撫で回していた。 「脇浜先生、今日はなんにもいわなかったな」 「珍しいなぁ」  私服に着替えながら、ふたりはそんなことを話している。ロッカールームの中から、リングの向こう側で、口もとに小さな笑みを浮かべた脇浜の姿が見えた。      4  新学期がはじまった。三人組は、清が三年生、吉村と尾形が二年生に進級した。  毎年、新年度になると新入部員が入ってくる。この年、一九九一年度でいうと、四月から五月にかけて、二十数人が入部してきた。“一日体験者”が約半分、数日でやめてしまうのが数人で、五月の連休明けのこの日でいうと、新入部員は八人を数えるのみだった。  この八人が部に定着してくれれば、上級生と合わせて部員は十三名になる。かなり活気づくことになるのであるが、「茶色やら赤いのやらがおるが、さあて」というのが脇浜の言であった。髪の毛を指してのことである。  道場のリング周辺は、一年前と比べて数はにぎわってはいるのであるが、活況とはいいがたい。三人組のなかで、吉村はどうやら鬱の季節のようである。清は仕事がきついということで、部の練習も休みがちだった。尾形も姿を見せない日が増えていた。ただ彼は、春先に行われた市民大会で、判定ではあったがはじめて勝利を収めた。「はぁ、なんとか……」というのが勝利の弁であった。  この日、練習が済むと、久々、脇浜と風呂を共にし、帰り道、国道沿いで遅くまでやっている喫茶店に入った。脇浜はいつもコーヒー党である。  私が西宮西高校に出入りするようになって、一年がたっていた。明るい電灯のもとで見ると、脇浜の頭も幾分白髪が増したようである。  いつものことではあるのだが、山下たち一期生や上村の思い出が出た。やがて話は、そんな時代と現在の比較に移っていく。三人組はそれなりにがんばってはいるのだが、以前の部員に比較すると歯応えに乏しい。いわば脇浜の愚痴であった。 「山下なんぞ、ミットを打つふりしてこっちの顔を狙ってきよったもんな」  ——どうして? 「いやさ、こっちが鼻血でも出せば休めるから。すんませんとかいいながら、狙ってきやがってさ。たまらんわけだが、歯応えはあるよね。そういう連中ね、このくそジジイと思ってきよるような奴がおらんようになった。古典的ゴンタクレは上村で最後やったなぁ」  どうしてそのような若者が現われなくなったのか。偶然なのか。数年の違いで、若者の気質が変化するようななんらかの背景があったのか。そのあたりをめぐって、意見を出し合ってみたが、よくわからない。  この日、脇浜がいったことで、もっとも残ったのは“危険な一瞬”である。ミットを受けながら、一瞬、自分のほうが打ち込んでいる。そういう危険な一瞬があるというのだ。 「別に生徒たちに腹を立てているわけじゃないんだが、どこかでぶつけてるんかなぁ……。これだけやってるのに、なぜなんだ、と思うときはあるよね。自分の時間とか仕事とか、犠牲にしてきたもんもあるわけでしょう。……あるいは自分が歳をとってきたということなのかもしれん。一瞬、吉村のパンチがよけられん。以前はなかったのにね。そんなことに対してかもわからん。文学的というか、ようわからん形而上学的な一瞬があるんですわ」  それは、よく了解できるように思えた。脇浜は以前、「見返り」がほしいと思ったことはないがやはりほしがっている部分もある、といったことがある。  五十代に入り、十代の若者と肉体において切り結ぶことはきつい。山下たちとボクシング部をはじめた四十代前半と比べても、年々、疲労度は増していよう。それと逆比例するように、部員たちからの反応が乏しくなっていく。己はいまここでなにをしているのか。いったいなんのために身を削るようなことをしているのか。用意された答えは一応あるのであるが、実感としては乏しい。日々、自問自答するなかで、答えは拡散していく。そして、“老い”の足音だけが着実に忍び寄ってくる。「形而上学的な一瞬」を解きほぐせばそういうことになろうか。  脇浜におけるボクシング部の活動は、どこからみても無償の行為である。だが、そこに、なんらの「見返り」も求めていないわけではないのだ。それなくして、誰も、何年も活動を持続できはしない。  脇浜の欲している見返りは、まずは生徒たちが強くなることである。ボクシングの技能が上達することである。それにも増して、悔しさの発露や、勝利への執着や、人間的感情の表現といったもろもろのものを含んだ動的な反応である。要するに、この教師が求めているのは、平凡な“生きがい”ということであった。  そういうものが、現在の部員にいささか乏しいことは、私の目からしても歴然としていた。それがこの教師に疲労感を蓄積させていた。  数日前、海老原から、先の日曜日、脇浜が卒業生の仲人をつとめたことを耳にしていた。その席で、その話題を出すと、卒業生のなかでもう十数人、仲人を引き受けてきたという。 「ワシのところに頼んでくるような奴は、よっぽど他におらんか、カネがないか、どっちかや。出来の悪いのんばっかりや、クックックッ……」  それは脇浜の|諧謔《かいぎやく》であった。口調は決して苦いものではなかった。  個々の事情はわからないが、高校を卒業して何年かたって、在学時代の教師に仲人を依頼してくる。脇浜はずっと担任をもっていない。卒業生たちは、在学中にどこかで、この教師と触れ合ったのだろう。気楽に頼める人だからということなのかもしれないが、それはやはり、この教師のどこかにひかれるものがあってならばこそであろう。ものがじっくりと発酵するように、この教師を受容し理解していった生徒たちもいるのではないか。そうであるならば、それも見返りのひとつと考えていいものだろう。  疲労の蓄積と、折々にふと返ってくる小さな反応のなかで、この教師は歳月を重ねていた。  またインターハイ県大会の季節がやってきた。西高からの出場選手は、ライトフライ級の関本恭夫(四年生)、フライ級の尾形貴実(二年生)、バンタム級の清亮典(三年生)、フェザー級の吉村直之(二年生)の四人である。力量的に関本と尾形はむつかしいとして、清と吉村は、新人戦の闘いぶりからして、全国大会への出場も大いに可能性があると私には思われた。  各級の優勝者が全国大会への出場権を得る。波はあったけれども、この一年間、曲がりなりにも、彼らは練習を続けてきた。練習量の蓄積は、全日制高校生のそれと比べても決して劣るものではない。ただし、“やる気”の横溢という前提条件があるわけであるが。  尾形と関本は一回戦で敗れた。戦前の予想では両者の相手は強敵だった。ともに試合は接戦となり、試合ぶりは悪くはなかった。  吉村は、一回戦は軽く突破するだろうと見られていた。相手は市立姫路高校の選手で、とくにマークされている選手ではない。が、結果は裏目と出た。  私には、四か月前の、新人戦決勝における試合ぶりが脳裏に残っていた。スピード感こそ乏しいが、パンチ力と柔軟性のある動きによって、相手をロープに詰めて圧倒してしまう。強い、という印象を残したものだ。  ところが、今回は、ゆっくりとしたペースが、のっそりという感じに映る。試合前から生気がまったく見られない。手数が少ないのはいつものことだが、守勢一方だ。打ち込まれ、ロープに詰まって、やおらワンツーを返す。それでもパンチ力があるから、決まれば相手の選手はぐらっとくる。先手を取ったらきっと圧倒できるだろうに、と何度か思った。見ていて|苛々《いらいら》する試合ぶりだった。  リング周辺から脇浜や海老原が盛んに叱咤激励するのだが、一ラウンドから三ラウンドまで、吉村の試合ぶりは変わらなかった。判定は二対一だった。  リングを降りてきた彼は、「すいません」といった。もとより、試合結果がどう出ようと、私などに謝るべき筋合いのものではない。ただこの一年、夏休みや冬休みを含め、随分と練習を重ねてきた。その総決算となるべき試合にしては、彼自身にとって、あまりにも惜しいように私には思えた。  にやにやした顔つきの脇浜が側にやってきた。 「バカたれが。まともなパンチ、一発ももろてへんやないか。なんじゃい!」  脇浜は試合ぶりにも、判定結果にも不満そうだった。その日、帰り際まで、ひとりぶつぶつといっている。 「吉村、勝っとったぜ」 「まあしゃぁないけどな」 「しょうもない試合やりやがって」 「手数だけの差や」 「しかしパンチもらっとらん。審判、どこ見とる」  吉村と同じように、脇浜にとっても、この試合は、この一年の区切りだったはずである。その心境は痛いほど伝わってくる。  吉村からは、「来年がんばる」という言葉が一応聞こえてくるのだが、決意がこもったいい方ではない。しばらくすると、道場の隅で、清や部員たちと談笑している。照れ隠しなのかもしれないが、試合結果への悔しさはうかがえない。なんだか肩すかしを食らったような気持である。  全試合が済んでから、二階の事務室に吉村がやってきた。部屋に忘れものをしたようだった。吉村の姿を見ると、脇浜は大声でこういった。 「吉村、キンタマの毛を剃ってしまえ!」  他の学校の先生たちも大勢いた。爆笑が湧いた。つけ加えて、またこういった。 「手数さえ出しとったら勝っとったのに……」  生徒本人はすんなり結果を受け入れて、先生のほうがいつまでもふっきれない。この一年の、西高ボクシング部の在り様を象徴しているがごとき光景であった。  この日から数日たった日だった。練習中、吉村は脇浜から小言をいわれていた。帰り道、彼と連れ立って道場を出た。  ——なにをいわれたん? 「先生も一生懸命やってんのやから、お前もやる気見せてくれって」  ——先生のこと、|鬱陶《うつとう》しい? 「正直、ついていくのがしんどいときはある。なんでこんなに一生懸命やってくれるのか、ようわからんし……」  ——先生、元気なかったよな。 「うん、なんか悲しそうな顔でいわれた。だから、がんばってみようかなっては思ったけど……」  ——やる気は? 「なんとか……。先生にいわれたから……」  ——先生のためじゃなくて、自分のためにがんばらないと。 「うん、そう思っても元気が出ないときは出ないし。自分でも|歯痒《はがゆ》いけど……」  ——新人戦のときはよかったよね。 「あのときはすごく乗れた」  ——なぜ? 「どうしてだったか……、自分でもわからん」  そんなやりとりであった。  脇浜のいうことはわかる。ただ、そういわれたからといって、急に自分の内側からやる気が起きるわけではない。いつ、内部から燃えるものが出てくるのか。それは自分でもわからない。新人戦のときのように、ふっと乗れるときはある——。  そういうことのようだった。そういう気質なのだろうと思う。そうであるなら、それは当人を責めてみてもせんなきことである。もの足りなくはあっても仕方がない。乗るときもまたいつかくるのだろう。彼については気長に待つしかあるまい。そんな風に私も思うようになっていた。  清は好調だった。  一回戦は一ラウンドRSC勝ち、二回戦も文句のない判定勝ちを収めた。三回戦が準決勝である。もうふたつ勝てば優勝だ。部にとっても、上村以来、二年ぶりに全国大会への出場者が生まれることになる。  私の見るところ、清は“問題のない”若者だった。持病の肺気胸もすっかりいいようである。ときおりサボリの日もあったが、二、三日たてばけろっとしてやってくる。「汗かいたら気持いいです」と、屈託がなかった。ただ、試合の出来不出来がはっきりしていた。ぽきんと折れてしまう|脆《もろ》さのようなものもあった。  インターハイ県大会の頃よりあとのことであるが、清は尾形と試合をしたことがある。バンタム級で登録したところ、偶然、他校の生徒が少なく、そうなってしまったのである。  立ち上がりから清が尾形を圧倒して、一ラウンド半ば、タオルが投入された。  リングから降りてきた清は、ボロボロと涙を流しながら、海老原にいった。 「先生、もうこんなんイヤや、今度から俺、もう棄権するからな」 「勝負の世界や。しゃぁないやないか」 「それでもいやだ。絶対イヤやからな」  十七歳の若者の涙であった。尾形も同じように泣いていた。  一段落してから、海老原は私にこういった。 「気持はわかりますけどな。まあしかし、ふたりとも今日のことは忘れんでしょう」  そういった後、海老原はなんとなく上機嫌であった。  清のボクシングスタイルは、吉村とは好対照である。長身とリーチを生かして、ジャブとストレートで優位に立つというものである。スピードがあるときは、よくパンチが決まる。手数で相手を圧倒してしまう。ただ、パンチ力はさほどない。また、受け身に回ると棒立ちになって、打ち込まれてしまうシーンもときおりあった。インターハイ県大会では、一回戦、二回戦とも、長所が出た。  三回戦。一九九一年六月八日、土曜日。梅雨どき特有の、蒸し暑い日であった。  私がロッカールームを覗くと、彼がひとり、ぽつんと座っていた。  ——どうだい? 「ねぶたい。すごくねぶたい」  ——作戦は? 「なし。いつもなぁんにもなし」  そういって、彼はおかしそうに笑った。  試合前、選手たちは緊張感を漂わすものだが、彼はその度合いが少ない選手だった。  対戦相手は、武庫工業高校の宮本誠也。清と同じくらいの身長があって、彼が優勝候補にあげられていた。  この一戦は、私が西宮西高校の道場で観戦した試合のなかで、屈指の好試合となった。  両者とも、ワンツーを繰り出すオーソドックススタイルで、正面から渡り合う。両者、気負いが勝って、打ち合ってのち再三ロープにもつれる。パンチの正確度は乏しいが、好ファイトが続く。一ラウンド、清が口を切ったが、たいしたことはないようだ。パンチの数で清、威力で宮本がやや上回っていた。  三ラウンドに入って清の鼻血が加わり、高校生の試合としては珍しく、|凄惨《せいさん》な色を帯びる。宮本も返り血を浴びて、上半身は真っ赤。両者とも疲れたのだろう、連打が出なくなったが、それでも一歩も引かない。終了ゴングが鳴ったとき、道場全体から大きな拍手が巻き起こった。  ドローか、と思えたが、三人の審判はいずれも僅差で宮本の勝ちとしていた。  清はリングを降りると、道場の隅にあるトイレに駆け込んだ。  洗面台に、何度も何度も血の混じった唾を吐いて、蛇口をひねった。うがいをして、それから頭から水をかぶる。タオルで顔を拭きながら、 「絶対、勝っとった」  といった。  鏡越しに、顔が合った。私に確認するように、いった。 「絶対、勝っとったよね」  それからひと呼吸おいて、また同じ言葉を繰り返しながら、バタンとドアをぶつけてトイレから出ていった。  彼のこんな|剥《む》きだしの悔しさを見るのは、はじめてのことである。それ以前もそれ以降も含め、私の見た限りにおいては、ただ一度のことだった。全力で闘い、それでなお、及ばなかった。悔しさがよく伝わってくる。このとき私は、この若者に対してはじめて、ぼんやりと共感のようなものを覚えていた。      5  一九九一年度、ボクシング部にはふたりの四年生がいた。  ひとりは福田悟。彼は二年生のときに入部しているから、旧道場時代を知っている唯一の部員であるが、頭部に交通事故の後遺症があり、試合には一度も出場していない。もうひとりは関本恭夫。彼は三年生のときに入部してきた部員で、公式試合としていえば、六月のインターハイ県大会一回戦でリングに上がったのがただ一度の経験である。ふたりとも商業科の同じクラスに属していた。  福田悟を道場で見かける日はけっこう多かった。ただ、「試合に出ない選手」ということで私の関心が小さいこともあったのだろう、印象の薄い部員だった。  青白い肌の、ほっそりと痩せた体躯をしている。脇浜の評を引用すれば、「女の子にもいじめられるほどおとなしい」生徒で、道場での振る舞いもおよそ目立つことはない。浮かぶのは、道場の板の間で、両手にミットをはめ、他の部員たちのパンチを受けている光景である。二階にある事務室に上がってくることもないし、脇浜や海老原と話をしている姿もあまり見ることはない。いつの間にか道場に来て、いつの間にか姿を消しているという感があった。  彼の来歴を訊いたのは、私が道場に出入りするようになって、かれこれ半年もたってからのことだった。彼が西宮西高校にやってくる背景は、これまで触れた部員たちのそれと多分に重なっている。  定時制高校に入学したのは、公立高校の受験に失敗したからである。芦屋市に自宅のある彼が、西宮にある定時制高校を選んだのは、「面倒見のいい学校という評判を聞いていて」とのことである。  母ひとり、子ひとりの家庭という。父親の顔は知らない。母親はずっと働きに出ていたから、いわゆる「鍵っ子」であった。どのような家庭であるかを知らないわけであるが、彼の様子から臆測するに、ひっそりとつつましい母子家庭の像が浮かんでくる。  五歳のとき、乗用車にはねられて、頭部に重傷を負った。事故の模様は一切記憶にない。命があったのが奇跡といわれた。いまも頭部に、その折りの手術跡が残っている。  いまはほとんど後遺症はないというが、小中学校を通して、定期的に襲ってくる頭痛に苦しめられた。それでも、がんばり屋だったようである。中学時代はサッカー部に所属した。ただ、うまくはなかった。へまをすると、罵声を浴びる。高校でボクシング部を選んだのは、ひとりだけのスポーツだから、とやかくいわれることがないと思ったのが理由のひとつになっている。  医師の診断で、試合に出ることは禁じられている。自然とミット受けが彼の受け持ちになった。嫌ではない。そういう役目の人間も必要だと思うからだ。他の部員の試合にも、用事がない限り、応援のために道場に行く。もっとも、声を出して声援を送ることはないのであるが。  試合に出られないことは納得している。けれどもやはり、出たいのが人情だ。練習をしていても、一体なんになるのか、と思うときがある。練習を休んでも、他の部員のように、脇浜や海老原からうるさくいわれることはない。気楽と思う半面、寂しく思う日もある。  そんなことから、長く練習を休んだ時期がある。すると、道場が恋しくなってくる。体内に汗が溜まったような気分になって、道場に足が向くのである。それに、部をやめてしまったら、「単なる普通の生徒」になってしまうように思う。それが、三年間、曲がりなりにも、部に所属してきた理由である。  福田悟のボクシング部生活は、目立つことなくひっそりと存続していた。  関本恭夫につけた脇浜の渾名は、「ウッちゃんナンちゃん組」というものだった。関本が入部してきたのは三年生の五月であるが、他に三人の連れがいた。友だち同士誘い合って、学年途中から冷やかしがてら入部してくる。よくあるケースである。ただほとんど長続きはしない。  渾名の由来は、脇浜から見て、いかにも軟弱だと映ったのであろう。確かに、関本もまた、福田に似た体躯の持ち主で、態度もまるで目立つところがない。  四人のうち三人はすぐに部をやめてしまった。関本ひとりが残った。  彼によれば、それは「根性」があったからではなく、格闘技が好きだったことと、なんとなくやめてしまうのが惜しいように思えたからである。二年間、仕事を終えて学校に出るだけ、という日々の繰り返しだった。もの足りなさがあった。ボクシングの練習は楽しいというものではないが、道場を出ての帰り道、それまでの学校生活にはない充足感があった。ここには、日常の退屈や倦怠を断ち切ってくれるなにかがあった。  入部して一年、四年生になった四月、 「関本よ、検定を受けてみるか」  と、脇浜がいった。  高校生が公式試合に出場するには、県アマチュアボクシング連盟と県高校体育連盟が認定する検定をパスする必要がある。趣旨は危険防止のためである。検定には、ルールに関するペーパーテストと、体力・技術をみる実地テストがある。実地テストは、各学校で開かれるスパーリング大会がこれを兼ねており、むつかしいテストではない。  関本はほぼ毎日、練習に出てくる部員だった。それまで市民大会に二度出場しているが、公式試合の経験はない。卒業まで一年しかない。部に入った以上はインターハイ県大会に出たかろう。そう思っての脇浜の勧めだった。もとより関本に異存はない。関本は検定をパスした。  インターハイ県大会の一回戦は、六月二日に予定されていたが、少々問題があった。四年生の修学旅行が五月末に組まれていて、帰ってきてその翌日が試合日である。練習はいいとしても、減量が問題であった。  関本はライトフライ級(四十五〜四十八キロ)にエントリーしていた。常時五十三、四キロで、試合日が迫ると五十キロ前後にまで体重を落としていた。このあとのコントロールがむつかしい。闘うエネルギーを損なわない範囲で体重を落としながら、試合当日、リミットぎりぎりに体重をもってこれればベストだ。  三泊四日の信州旅行の間、関本は体重のことばかりが頭にあった。再三、旅館のヘルスメーターに乗って体重を確認した。そのときどきによって、食事の量を半分、あるいは三分の一に減らした。  西宮に帰ってきた日、体重は四十九・五キロを示していた。一日で一・五キロを落とさないといけない。試合まで、飲まず食わずで通すことを決めた。修学旅行を理由に、試合放棄をしてもよい。けれども、関本は試合に出たかった。一年間、やってきたことを無駄にしたくなかった。それに、試合が、四年間の高校生活に思い出を残してくれるようにも思えたのである。  見かけとは逆に、彼は|芯《しん》の強い若者であるようだ。そのことを、私は試合で見せつけられた。この試合は、私が見た西高ボクシング部の部員たちの試合のなかで、記憶に残る試合のひとつとなった。  相手は、八代学院の平井宏育。数か月前の新人戦で、尾形貴実を一蹴したサウスポーのボクサーである。強敵だった。なお平井は、この年のインターハイ県大会で最優秀選手賞を獲得している。  青コーナーからリングに上がった関本は、伏目がちに足もとを見詰めていた。自信なげである。減量のせいもあるのだろうが、肌色はさえず、いかにもひ弱い。彼はボクシングシューズではなく、普通のズック靴を履いていた。それもまた、即席でリングに上がった選手のように映る。  一ラウンド。開始早々から平井の低い姿勢からのフック攻撃が決まる。以前よりパンチのスピードが増したようだ。ストレートがよく伸びる。関本は再三棒立ちになる。RSCか、と思う。が、関本は踏み止どまった。打たれながらも、基本通り、ワンツーを返していく。平井の攻勢、関本の守勢という形は二ラウンド、三ラウンドも変わらない。関本は二ラウンドから鼻血を出し、いっそう旗色は悪い。だが、よく持ちこたえた。パンチ力とスピードはないが、手数が出る。力の差は歴然としていたが、ボクシングにもっとも必要な、苦しいときに踏み止どまり、そして闘う、という気迫が|滲《にじ》み出ていた。 「ええぞ、関本!」  リングサイドから脇浜の声が飛ぶ。平井が持て余し気味になっている。もうRSCはない。そう思ったところで、終了ゴングが鳴った。  判定の結果は明らかだった。  リング下に降りてきた関本は、ティッシュペーパーで鼻血を抑え、荒い息で矢継ぎ早に言葉を発した。 「しんどかったけど、なんとか……」 「途中、倒されるかもと思ったけど……」 「三ラウンドもってくれたから……」 「KOはされたくなかった」 「足、がくがくです」 「全部出せました」 「ああ、やっと終わったか……」  安堵と高揚と満足感。若者からはそんなものが立ち上っていた。  秋になると、四年生には就職シーズンがはじまる。  この年、四年生の在籍数は八十九人である。一年時は百三十人であったから、入学者の約七割が卒業することになる。こういう割合は毎年ほぼ変わらない。アンケート調査によれば、八十九人のうち、四十五人が転職、すなわち西宮西高校の卒業と同時に新しい仕事につくことを希望し、六人が大学及び専門学校への進学を希望している。残り三十八人は現在の仕事の継続を望んでいる。  卒業生の就職を担当してきた小林益明教諭によれば、こういう傾向もこの数年変わっていない。転職を希望しない生徒たちは、現在の職場に満足しているように受け取れるが、必ずしもそうではなく、いいところがあれば変わりたいという希望をもつ生徒も少なくない。  この年の就職戦線はまずまずとのことだった。求人会社の数はけっこうあるのであるが、大企業は少ないし、金融機関などは従来から定時制高校生を採用していない。内定者の企業分野で目につくのは、スーパー、電機販売会社、酒造会社、食品販売会社、化粧品会社などである。第三次産業のサービス業が主力で、製造業は少ない。  この点、脇浜が定時制高校に在籍した頃とはまったく様変わりしている。ちなみに、かつて神戸における定時制高校生の三大仕事先であった神戸製鋼、川崎重工、三菱造船に勤務している在校生はひとりもいない。求人構造の変化と、また若者たちの志向からであろう。  またかつては、門戸を閉ざしている企業に対して、いわゆる「見習い」という身分でもぐり込み、実績を積み上げて「正社員」に上がっていく道がわずかながら開けていた。そういう|艱難辛苦《かんなんしんく》に耐えて希望する職種につくというような志向は消えている。脇浜によれば「だからボクシングも|流行《はや》らん」ということになるのであるが。  福田と関本は、ともに転職希望組だった。  福田は西高在学中、いくつかの仕事を経ている。生協のアルバイト、ガソリンスタンド、飲食店、造園会社などである。いずれも一時的な仕事と思ってきた。卒業をして、きちんとした仕事先を得たいと思ってきた。業種や職種への希望はとくにないが、「工場はいやだな」という。これも近年の傾向といっていいだろう。  関本の場合は、電機メーカーの下請け会社、溶接会社での勤務をそれぞれ一年余り経験し、その後は新聞配達をしてきた。彼も卒業を機に定職につくことを望んでいた。  秋も深まった頃、ふたりとも、違う企業であるが、スーパーへの就職が決まった。  一九九二年二月二十五日、西宮西高校の講堂で四年生の卒業式が行われた。  背広姿のふたりを見るのははじめてのことである。どことなくぎこちない。|袴《はかま》姿の女生徒の姿も見える。教室で担任教師からの話があったあと、紅白の幕が張られた講堂で、学校長より一人ひとりに卒業証書が手渡された。 「誠実」「永遠の青年」「生涯学習」「激動の世界」「真実一路」……そんな言葉をちりばめた学校長の挨拶が続く。うしろの席に、父兄と教諭たちの姿が見える。脇浜の姿はなかった。久々休暇をとって、「嫁ハン」と旅行に出ていたというのであるが、彼がこのような文字通りの儀式を嫌うわけがなんとなくわかるようにも思えたものである。  数日前、私はふたりに道場で会っていた。尋ねたことは、西高とボクシング部の思い出である。共通した答えもあればそうでない点もあった。 「ここはホント、ええ学校でした」  と、福田はいった。  自由であること、規制がないこと、先生がよかったことなどをふたりは共通のものとしてあげた。  ボクシング部については、実質一年余りしか所属しなかった関本のほうが明瞭に語った。 「学校のことよりボクシングをやったことのほうが大きいです。ボクシングを抜いたら、はてなにが残るかなぁって思いますよね」  ——一番の思い出は平井戦だよね。 「ええ、いまではすごくいい思い出です。負けたけど、減量を含めて、これまであれほど一生懸命やったことなんて一度もなかったですから」  ——脇浜先生については? 「ひと言じゃいえんです。叱られたこともあったけど、がんばったときはすごく褒めてくれた。とにかくあんな先生はどこにもいなかった」  福田はボクシングをやったことについてはよかったという。躰が強くなり、細かった腕も太くなった。口べたで人見知りする性格も随分と変わった。ただ、「思い出は?」という私の質問には口ごもった。  三年間、一度も試合に出ることがなかった。やむを得ない事情があったわけだが、そのことに彼はこだわっていた。 「二回ほど脇浜先生にいったことがあるんです。試合に出してほしいって。でも先生はダメだって」  はじめて聞くことである。脇浜に確かめたところでは、その通りだったという。部を預かる責任者としては、医師の許可が出ない以上はどうすることもできないことである。  ——先生も辛かったと思うけどね。 「試合に出る部員と出ない部員は扱いが違うんです。筋トレやっていたら、マスボクシングの相手をやってくれといわれたこともあるし、試合に出ないもんは焼き肉屋にも誘われないし……」  脇浜が試合に出ることのない福田に冷たく当たったということはないはずである。福田の励みになればということで、四年生時、彼を部のキャプテンにしたりもした。ただそれは、福田には大きな意味はもたなかった。  それに、脇浜が試合に出る部員を中心に部活動を回してきたのは事実である。私の見た範囲でいっても、確かに脇浜は自分の眼鏡にかなう部員を可愛がる傾向があった。小さなことであっても、残りの部員たちの心を傷つけてしまう。そのことに生徒たちは敏感なものだ。それはおおいにありうることだった。脇浜の欠点であった。  さらに考えれば、部の担当教師がどのような存在であったかは、卒業していく部員にとっては付随的なことである。脇浜がどうこうというより、部員自身が思い出に足るものをもっていれば、脇浜の像もそれに重なって映ってくる。そうでない部員にとっては、脇浜の存在もかすれたものに過ぎない。関本と福田の相違は、主要にはそのことにかかわってのことなのだろう。      6  また新しい年度がやってきた。一九九二年春。この頃、いま振り返っていえば、西高ボクシング部はドン底といっていい状態にあった。  一年前の春、入部してきた二十数人のなかで残っているのはただひとりだった。永田正人という部員で、彼は|喘息《ぜんそく》の持病をもっていた。試合も練習も無理はきかない。脇浜によれば「病人ひとりが残りよった」ということになる。途中入部者では木下晴夫という三年生がなかなか練習熱心だった。また新年度になってから新しい入部者がちらほらいたが、これは例によって、定着するのかどうか、海のものとも山のものともわからない。  一番の問題は「三人組」であった。尾形と吉村は三年生、清は四年生になっていた。吉村と清が順調にきていれば、今年こそインターハイへの出場も夢ではなかろう。  ところがこの三人組、しめし合わせたように道場から消えてしまっている。  まず尾形であるが、道場に現われず、やがて学校の授業も休みがちになっていた。  吉村は腰痛という持病をもっていたのであるが、それが悪化して、長期休部という事態になっていた。脇浜によれば“イタイイタイ病”の気配もあるという。  清には「彼女」ができて、デートの時間もつくれないボクシング部には嫌気が差したとかで、退部してしまったのである。  当然のことながら、脇浜はさっぱり元気がなかった。職員休憩室で顔を合わせると、手にした『西西組合新聞』を指し示しながらこう自嘲したものだ。 「何年たっても、同じことを繰り返して、同じように裏切られて、アホウなことしてますわ」  四年前の変色した新聞で、日付は一九八八年七月十四日となっている。上村が三年生で、“嘘の小指骨折”をしてインターハイ県大会を棒に振り、他に三、四人、入部間もない部員がいた頃である。  新聞では、「口に出してみたい言葉」と題して、脇浜はこう記している。   《ヨメはんに「出ていけ」と怒鳴ってみたいといったら、中年丸出し。大概は、加藤登紀子の歌う「…少年は街を出る」なんて聞きながら、家出する少年に自分のイメージをダブらせて感傷にふけるのが関の山。    家庭では弱いトオチャンも職場では強いぞ。いい加減な生徒をビシビシ叱り、若い教師から鬼軍曹と恐れられ、管理職も一目置くぞ。しかし、ひとつだけ口に出したいが出せない禁句が、家庭内と同様、職場でもある。それは自分が顧問をしている運動部の選手に、「キサマのような奴は辞めてしまえ」と怒鳴ること。それを言ったら、今の生徒は本当に辞めてしまうからである。    中年のトオチャンにも青春時代があって、歯をくいしばって頑張った美しい思い出がある。先輩や先生から「辞めてしまえ!」と怒鳴られ、くやし涙を流しながら、自分をムチ打って、頑張ったものだ。今、それと同じことをやれば、即座に運動部は解体してしまうことは目に見えている。腕立て伏せの回数も、自分の若い頃の半分しか課していないのに、不平・不満はその反対に数倍ある。    ちょっと熱を込めて指導すれば、翌日は欠部する。腕や腹や背中が痛いと訴え、保護者から電話がかかってくる。だからいつまでたっても、初心者の段階で、技量が計画通り伸びない。センセは何度も、「オレについてこれないようなら辞めてしまえ」と言いたくなるのであるが、そこをグッと我慢、何とかダマシダマシ指導をしている。何しろセンセにとって、このクラブが唯一の楽しみ。もはやないに等しい青春の炎を自分で燃やしていると思っている場なのである。    情熱をかたむければかたむけるほど、それだけ数多く裏切りというシッペ返しをうける。ズタズタに傷つきながらも、センセは今日も練習場に足を運び、やってきてくれた数少ない生徒に精魂傾けて手ほどきを行っていらっしゃる》  やや戯画的にも書いているが、この十年、脇浜がこの学校で繰り返してきたことを端的に物語っている。脇浜にとって、部員がいなくなってしまうこと以上の危機はなかった。  尾形は学校にも姿を見せなくなった。自宅に訪ねていった海老原によれば、どうも要領を得ないという。ボクシング部でなにかがあったわけではない。風邪を引いて体調を崩したのがきっかけで、なんとなく部も学校も嫌になったという。また、レーサーになりたいとか、水商売をやりたいとか口走り、それも思いつきを口にしているだけのようで、「わけがわからん」という話であった。  のち、私も彼の自宅を訪ねたことがある。家に人気はなかった。玄関先に連絡をほしいというメッセージを残しておいたのであるが、彼からの連絡はなかった。  吉村の腰痛は椎間板ヘルニアとわかり、しばらく入院することになった。部への復帰があるのかどうか、見通しはまったくなかった。  清の退部は一時的な気紛れともみられていたのだが、六月のインターハイ県大会が終わり、夏に入っても、彼の姿は道場になかった。  清は自分のロッカーのドア裏に、写真を数枚貼りつけていた。いずれも、試合や練習風景を撮ったプリント写真である。それが、この若者のボクシングへの想いを物語っていたように思え、彼の退部が私にはどうも合点がいかなかった。部内でトラブルめいたことがあったとも聞かない。  ロッカー内の荷物はすっかり取り除かれていて、写真も一枚残らず、はぎ取られていた。彼の退部は本気であるようだ。ただ、授業には出ているという。何回か彼のクラスの教室に出向いたのであるが、掴まらない。自宅を出てひとり住まいをはじめたとの話も伝わっていたが、正確な住所がわからない。  一年前の夏、「三人組」は、猛暑のなか、連日道場にやってきていた。夏休みの終わり、“夏期特訓”の打ち上げということで、道場入口前のコンクリートの上で、“野外焼き肉パーティ”が開かれたものだ。いつものように、清がぽつぽつと喋り、吉村と尾形は黙って箸を運んでいる。そんな意気上がらぬパーティではあったが、その場にいた全員に、ひとつのことをやりとげたという充足感が漂っていた。そんな日々が白日夢であったように、道場はガラーンとしている。  この頃、脇浜から一度、自宅に電話があった。 「ほとほと嫌になっとるんですわ」 「もうええわ、と思ったりね」 「そりゃバイクに乗りたかろうし、デートもしたいだろうさ。わかるさ。わかるけどなぁ……。でもあと半年の辛抱じゃないか。こうなりゃマネージャーに女の子でも入れようか」 「山下の頃は、チャランポランしやがっても、どこかに仁義あったよな。先生に悪いとかさ。そんなもの、ないんかなぁ」 「こんなことあると、ホント、バァーと歳をとるなぁ」 「まぁ、新しい一年坊主がおるから、シコシコやりますわ」  そんなことをいって、脇浜は電話を切った。これまで自宅に電話をもらうことはあったが、具体的な連絡や用件があるときに限られていた。漠然と近況を話してくるというのはないことである。彼の焦燥が感じられた。  九月に入って、道場にやってきた山下和美から小さな情報が入ってきた。  山下は私の顔を見るなり、「この頃先生、元気がないのん、清のせいでしょ。見たらすぐわかるから」といった。  その数日前、山下は学校近くにある銭湯で、偶然、清と顔を合わせたという。山下はときどき道場に現われたし、もちろん清の顔を見知っている。清が退部したことも耳にしていた。なんとか復帰させる方向で話をもっていこうとしたが、不首尾に終わった。別れ際、山下は清にこういった。 「お前な、このままボクシングやめてしまったら絶対後悔するぞ」  清からの返事はなかった。  その一件を私に告げたあとで、山下はこう付け加えた。 「いまの子ら、脇浜先生のええところを知る前にやめてしまう。それがごっつ残念です」  秋が深まっても、状況に変化はなかった。  尾形はまったく学校に現われなかった。  吉村は一応腰痛は治まったが、強い運動は避けたほうがいいということで、部に復帰してはこなかった。ただ彼は四年生になってから、ときおり道場に現われ、後輩たちのミット受けを手伝ったりするようになった。脇浜や海老原が勧めたからである。リング上で、にこやかな表情の吉村を見る日もときどきはあった。  十月の終わり、食堂で清を見かけた。数人連れと一緒であったが、ボクシング部員ではない。テーブルを挟んで、私は彼と夕食をともにした。気をきかせてくれたのか、彼の連れは別のテーブルに移っていった。いろいろと訊きたいことが私にはあった。  彼の顔を見るのは約半年ぶりである。  以前は短い髪をしていたのが、長く伸ばした髪形に変わっている。前髪は茶色に染めた跡が残っていた。髪形はいいとして、表情に生気がない。かつてはつやつやとしていた顔に、吹き出もののようなものも見える。どこかが崩れてしまっている。別人の感があった。なにか痛ましいものを感じさせる様子だった。  目線をはずして、彼はぼそぼそと答えた。  ——彼女ができたので部をやめたと聞いているんだけど。 「……あの子とはもう別れた」  ——じゃあ、どうして? 「躰、壊したから。頭も痛いし目もかすむし……」  ——脇浜先生にいってみた? 「いってみたけど、先生、信じてくれへん。全然、信じてくれんもん」  ——海老原先生は? 「海老原先生も頑固だから」  ——ボクシング、嫌いになった? 「うーん、どうかな……。でもボクシングは保証がないから。怪我をしても」 “保証”という言葉が、急に天から降ってきた言葉のように聞こえた。いわれてみればその通りであるが、以前の彼からは聞かれることが決してない言葉であったろう。|咄嗟《とつさ》に出た、その場だけの言葉なのか。  この十日ほど前、彼がひょっこり道場に現われ、ひとりで練習をして帰っていったことを私は耳にしていた。脇浜のいない日であったが、それを確認してのことであったのだろう。  ——練習に来たと聞いているんだけど。 「……四月、五月は、もう絶対ボクシングなんてせえへんと思っていた。そう思っていたけど、まあ、ちょっと懐かしくなったりして……。ボクシングは嫌いじゃない。でも、脇浜先生のやり方は嫌いだ。枠にはめようとするでしょ。あれじゃ伸びるものも伸びない。だから先生の下ではもうしない」  いうことをそのまま額面通りには受け取れない。それよりも、彼が、脇浜の目を盗んで、道場にこっそりやってきたこと。そのことに、すべてがいい尽くされている。  食事の時間は終わっていた。彼の食器皿はまだ半分も片づいていない。私のほうもそうだった。食器皿を手にして、彼は立ち上がった。 「脇浜先生を恨んでなんかいない。いい人だっていうことはわかってる。わかってるんよ。だから、卒業前にね、行く。ありがとうございましたっていうから。……先生は強い。みんな、先生みたいに強くない。強くないんよ……」  目にうっすらと涙が溜まっていた——。  なぜ、どうしてこんなことになってしまったんだろう……。  脇浜は脇浜で、清が練習に来なくなって以降も、彼のことを案じていた。インターハイか国体に出して、それなりの成績を収めれば、それを武器に大学進学の手筈を考えていたりしていた。  亀裂がどこでどう生じたのか。ちょっとした歯車の狂いが、どうしようもないところに生徒と教師を追いやってしまっている。「彼女」ができて練習に来なくなる。自然で、また|瑣末《さまつ》なことだ。小さなわだかまりが、時間がたつと大きく肥大し、思わぬところにふたりを追いやってしまっている。生徒は傷つき、教師もまたどっぷりと傷ついている。  複雑なことはなにもなかったはずである。しかし、それが人間の関係の際どいところなのか。私がひとつ気づいたことは、五十一歳の大人と十八歳の少年の関係は、世の多くの人間関係がそうであるように単純ではないということである。年上の教師と生徒との関係は、一見上意下達のように映るけれども、そうではない。十分に互いを了解し、また悲しいことに十分、傷つけ合うものである。  私は清に、たとえこのまま部をやめてしまっても、二年間、ボクシングを一生懸命やったことは忘れないでほしいといった。彼がたとえどのようなやめ方をしようと、またたとえその後どう生きようと、二年間の歳月は動かない。そう思いたいのである。  私には、「三人組」のそれぞれに、脳裏に刻まれたシーンがある。清についていえば、三年生時、インターハイ県大会の準決勝で敗れ、「勝っていた」とうわ言のように呟きながら洗面台に血の混じった唾を吐き続けていたときのことを。吉村についていえば、一年生の終わり、新人戦において、霧が晴れたような表情で勝ち続けた日々を。尾形についていえば、同じ新人戦の一回戦で叩きのめされ、黙って泣き続けていた日のことを。そして真夏の季節、蒸し風呂のような道場で繰り広げられた夏期特訓の日々——。それらは、その後の推移とかかわりなく、消えることはない。  もとよりそれは、脇浜に移し変えて考えることはできない。その過程であったさまざまなことは慰めにはなったとしても、教師の仕事は、他の多くの仕事がそうであるように、やはり結果において総括されるべきものである。  教師は、その仕事を続けるなかで、ときに「教師|冥利《みようり》」という報酬を受け取り、ときに「傷」を負う。双方を重ね合わせながら|螺旋《らせん》状に歩んでいく歳月が教師稼業というものなのだろう。「三人組」とのかかわりにおいても、その双方があった。振り返っていえば、脇浜に、後者の|疼《うず》きをより多く残したとはいえようか。  清が私にいった、卒業前に行くという“約束”は、果たされることはなかった。 [#改ページ]   第七章 夏

     1  木下晴夫という若者について、脳裏に焼きついている光景がある。  一九九二年五月三十一日、日曜日。インターハイ県大会の初日である。私は前日まで東京におり、当日、西宮西高校の道場に着いたのは午後二時過ぎだった。試合開始時間よりかなり遅れてしまった。二日酔いで出発が遅れたのと、ダービーの馬券を買うために大阪・梅田の場外馬券場に立ち寄ったせいだった。まったくもって己の怠慢であったが、どこかに〈今年はまあいいか〉という|弛緩《しかん》した気分があったのも確かだった。  この頃、清、吉村、尾形の「三人組」がいなくなり、部の活動は沈滞していた。脇浜と海老原から、この年のインターハイは「さんざん」「参加するだけ」などという言葉を聞かされていたので、それが知らずと伝染してしまっていたのである。  西高からは、二年生の永田正人、三年生の木下晴夫がエントリーされていた。ただし、永田は気管支|喘息《ぜんそく》という持病があって、その様子を見ながらという状態で、結局は棄権している。出場者はフェザー級の木下だけだった。木下は三年生ではあるが入部して一年に満たない部員で、キャリア不足は|否《いな》めない。  道場に入ったとき、フェザー級の試合が済んで、ライト級の試合がはじまっていた。しまったと思ったが、文字通り、後悔先に立たずである。  海老原の様子から、どうやら木下は負けたようである。 「いい打ち合いをしよったが、二ラウンドにダウンとられてね、まあしょうがないな」  というのが、海老原の寸評だった。  道場に、木下の姿がない。試合が済んですぐの時間である。どこに行ったんだろう……。  私は小さな用事を思い出し、職員休憩室で電話を借りようと、道場を出て渡り廊下を歩いた。左手にグラウンドがある。グラウンドの隅に、鉄パイプで作った台が置かれている。その上で、黄色のランニングシャツ、黒いトランクスを身につけた部員がしゃがみ込んでいるのが目に入った。がっくりと頭を垂れ、微動だにしない。木下晴夫だった。  五月晴れの、明るい陽射しがグラウンド一杯に差し込んでいたが、台の周辺だけは、ひっそりと|陰《かげ》っているように映った。  この日、もう一度、若者を見た。  すべての試合が終わっていた。各学校の選手たちは姿を消し、審判員も二階の事務室に引き上げている。  リングのロープに、フードのついた小豆色のカッパを着た若者が寄りかかっている。長い間、同じ姿勢でじっとしていた。それからやおら、彼は道場の中央に出て、シャドーボクシングをはじめた。すっぽりとフードを|被《かぶ》り、半時間近く、道場の中を動き回る。シューズの下から発するツー、ツーという音が低く響き渡っていた。木下だった。  今日のことは、後日に訊くべきことだろう。そう思って、私は道場を出ようとした。私の姿を認めた彼は、こういった。 「あれ、ダウンじゃない。スリップや」  ——木下晴夫について特筆すべきは、なにはさておいても、このようなボクシングへの執着と闘志である。それは、これまでの部員にはないものであったし、三人組の状況と比較していえば、“異星人”のごとき感もなきにしもあらずだった。  小柄ではあるが、がっちりとした体躯をしている。激しい気性が顔立ちにそのまま現われていて、眉と眼の間が狭く、その間から鋭い眼光がのぞいている。私がひそかに彼につけた|渾名《あだな》は「ウルフ」というものであった。  脇浜にとっては、久々に現われた、手応えある部員であったろう。事実、木下が入部してきたとき、私への説明は、 「少年院からいま出てきましたというような、ホカホカのワルが入ってきよった」  というものであった。  永田正人は、このウルフと比較していえば、まったく正反対である。  色白の、端正な顔立ちをしている。持病のせいもあるのだろうが、いつも微熱があるような、繊弱な雰囲気がある。口数も少ない。ただ、外面とは別に、この若者は強いものを宿していた。そのことを、何度か私は見せつけられることになる。  一九九二年から九三年において、西高ボクシング部には、さまざまな出来事があった。それまでと同じように、脇浜を落胆させることはしばしば起こったし、また脇浜の個人史において衝撃が待ち構えていた。その間にまた、熱い季節も点在した。その中心を担ったのはこのふたりである。  木下晴夫は、中学時代、ラグビースクールに通っていた。激しく肉体をぶつけ合うこのスポーツが、彼は好きだった。ポジションはフォワードとバックスをつなぐスクラムハーフ。このポジションは、俊敏な動きと気の強さが求められる。うってつけだった。ただ、パスをするより自分がボールを持って強引に突っ走る癖があって、しばしば注意を受けた。もっとも「カエルの|面《つら》に小便」ではあったが。  中学を卒業すると、ラグビーの強豪チームがある大阪の工業高校に進んだ。  ラグビー少年であると同時に、相当のゴンタでもあったようである。中学生の一時期、髪形は「金髪の角刈り」をしていたというから、相当のものであったろう。彼のいい方によれば、「かなりエグかったで」ということになる。  土曜の夜は「暴ヤン」にも参加していた。単車を駆って、深夜、集団で道路を走り回る暴走族である。「ポリ」と追いつ追われつのカーチェイス。そういう“紙一重”のなかで感じる仲間との「一体感」が好きだった。  こう書くと、典型的なやんちゃ坊主の像が浮かんでくるが、少々違う一面もある。たとえば小学生時代、彼の描いた絵がコンクールで入賞し、ユネスコの絵画本で紹介されたことがあるという。いまも油絵描きが趣味のひとつである。  粗野のなかの繊細さ、あるいは強靭さのなかの|脆《もろ》さ。一見相反する両面を、彼との付き合いを重ねるなかで私は折々に感じることになる。  高校一年生のとき、ラグビーの練習中に右足首の|靭帯《じんたい》を損傷し、それをかばっているうちに|膝《ひざ》も痛めてしまう。数か月で傷は|癒《い》えたが、めっきり走力が落ちた。レギュラーを外され、それと同時に、チームの監督の態度ががらっと変わった。そう彼には思えた。ラグビー部をやめ、やがて学校にも行かなくなってしまう。  しばらく家でぶらぶらしていたが、両親から高校は出ておかないとと説得され、近所にあった西宮西高校に入学してくる。一九九一年九月、二年への編入である。  彼は西高に来てすぐ、ボクシング部に入部している。格好の「|鬱憤《うつぷん》晴らし」と思ったのである。  こういう“歯応え”のある部員は久々のことだった。脇浜がおおいに気に入ったわけは容易に理解できる。海老原はこう評したものである。 「自分の少年時代を|彷彿《ほうふつ》させるんでしょうな、えらく仕込んでますわ」  永田正人は木下と同じ一九七四(昭和四十九)年生まれであるが、学年は一年下である。全日制高校を一年途中でやめ、翌年、新たに一年生として西高に入学してきたからである。  彼はいつも、鞄の中に、喘息止めの「噴霧器」を入れている。手のひらに入る小さなピストルのような器具で、“引き金”を引くと霧状の気管支拡張剤がシューと出てくる。発作が起きると、喉の奥に向けて引き金を引く。そうするとだいたいは治まってくれる。単なる対症療法であるが、他に有効な治療手段がない。  彼が全日制高校を中退したのは、病気のせいも多分にあった。  入学式の前日、夜中にひどい気管支喘息の発作が現われた。噴霧器では効果がなく、病院に担ぎ込まれた。呼吸器を装着され、点滴を受けてようやく症状が治まった。一学期の間、週に一度はこのような発作に襲われた。夜、ひどい寝汗をかき、悪夢にうなされて目覚めると、発作が起きているのである。学校は休みがちになり、やがて休校状態になる。  二学期に入って、病状は治まりつつあったが、学校に馴染めず、復学する気持がなくなっていた。専門学校に入ろうかとも思ったのであるが、高校卒業の肩書きはほしく思った。兄が西高の卒業生で、雰囲気のいい学校という話を聞いて、一年遅れで入学してきたのである。  四月、入学してすぐ彼はボクシング部に入った。部があることは兄から聞いて知っていた。ボクシングが好きだった。強くなりたいと思った。強くなれば、病気も治まるように思えたのである。  この年度のはじめ、“一日入部者”を含め、二十数人がボクシング部の門をたたいている。一年後、残ったのは彼ひとりである。 「ひ弱な喘息もちが残るとは、世の中、わからんもんだ」  脇浜が何度か私にいったことである。 「ウルフ」と「喘息もち」。一方は体力と気力において心配はないが、その“素行”において問題がありそうだ。一方は素行と性格に問題はないのであるが、体力に危惧される点がある。これから部活動がどのような展開を見せるのか、五里霧中であった。      2  一九九二年の年が明け、私はしばらく中断していた学校通いを再開させた。木下と永田の新人戦が迫っていたからである。  この頃、道場である出来事が起きた。私が西高に顔を見せなかった日のことで、後日、脇浜からそのことを耳にした。木下にかかわってのことである。  リング上で、木下が、入部してまだ日の浅い部員とスパーリングをしていた。木下が圧倒するべきところ、逆に打ち込まれている。思い通りいかないことに苛立った木下は、新入部員を|足蹴《あしげ》にした。それを脇浜が見た。 「こらーっ、木下! なにをしとる!」  リングから降りてきた木下は、「なに!」というなり、脇浜に掴みかかってきた。脇浜が躰をかわして木下に腰投げをくらわした。前代未聞の出来事であった。 「ボクシング部ができてから、俺に掴みかかってきたのは奴がはじめてだ。海老さんなんか青い顔しとったが、あのワル、負けん気だけはあるわな」  この一件は尾を引かず、木下は翌日もケロリとして道場にやってきた。  ところでこの若者は、こういう行動からは考えにくい一面も垣間見せるのであった。  この頃、西宮西高校に赴任してきた商業・簿記の教諭である前橋賢一が、ボクシング部の指導教官に加わってきていた。脇浜、海老原に彼を加え、三人が手分けをして部員たちのミット受けを受け持つ。吉村は腰痛で休みがちだったが、清、尾形はまだ元気に練習に参加していた頃である。ひとりだけにかまけているわけにはいかない。  脇浜自身は、選手を選り好みしてミット受けをするわけではなかったが、試合に出る選手を重点的にみる傾向がある。生徒にすれば、脇浜を相手にすれば、口うるさいし、息が抜けない。やりづらかろうと思うのだが、しかしまた、脇浜に受けてもらって練習をしたという気にもなるのであろう。  ある日、道場の隅で、脇浜は例の「クックックッ」を洩らしながらこういった。 「昨日、木下の奴、泣いとるネン。海老さんに訊いたら、ワシが永田ばっかりミットを受けて、自分は相手してくれんというんやて。そんなことないのになぁ。永田は永田で、ワシが木下ばっかり相手をして、と|拗《す》ねとる。ようわからんが、まあしかし、可愛いもんですわ」 “粗野な乱暴者”はまた、傷つきやすい少年の心をもっていた。  私が西高の道場に出かけたのは、週に一度程度であるが、他の部員はともあれ、木下の顔が欠けていることはまずなかった。授業にも出ている。ただし、|覗《のぞ》いた限りにおいてであるが、教室のうしろの席に座った彼は、教壇のほうはまったく無視している。手もとに視線を落として、バンデージを巻いては|解《ほど》き、解いては巻くという作業を一心に繰り返していた。この若者がボクシングに熱中していることに疑いはなかった。  サンドバッグを打ち込むパンチは力感溢れている。スタミナも十分そうだ。ただ、躰の柔らかさには欠けている。身のこなしに軽快さがない。足もいわゆるじり足である。永田とのスパーリングでも、終始圧倒しているようで、逆にパンチを浴びて切り返されたりする。思うようにいかず、明らかに苛立っている様が見える日もある。「腰投げ事件」もそんな日に起こったのであろう。  十時半頃、部の練習が終わる。たいてい最後に着替え終わるのが彼だった。みんなが引き上げているのに、まだひとりで動き回っているときも再三あった。  木下は、脇浜のことを、「オッサン」あるいは「ワッキー」と呼んだ。ちなみに、私は「オッチャン」であった。木下のつけた「ワッキー」なるニックネームは、この後学校内にも広まって、他の教員からも折々に耳にするようになる。  彼の家は、西高からすぐの距離にあって、自転車で通学している。最後に道場を出て、自転車をひっぱりながら帰宅する彼に同行した日があった。  確かその日も、脇浜に小言をいわれていた。  ——なんだったの? 「構え方がどうのこうのというんやけど、ガミガミとうるさい。あんまりうるさいと、腹立つから口きかんネン」  ——|煩《わずら》わしい? 「うーん、そうでもないな。一応、いうことに納得はいくから。オッサン、真剣でしょ。だから、聞いたろと思うんやけど、ついなぁ……。それに怒り出したら、人の話を全然聞かん。オッサンの悪い癖や」  ——どういう人なんだろうね。 「ジジイの躰に|鞭《むち》打ってやっとるわな。嫁ハンに叱られたとかこぼしながらでもやめよらん。よっぽどボクシングが好きなんやろと思うな。でもそれだけやなくて、なにか別に懸けてるようなものもあるんやないかな、ようわからんけど……。とにかく、ワッキーは怒ってもなにしても、冷とうないでしょ。そこがええと思うな」  この若者が、脇浜という教師を正確に把握していることを私は感じた。  木下にとっては先輩に当たる「三人組」についての感想にもそれが感じられた。 「後輩の俺がいうのはおかしいけど、みんなすごくお人好しやと思う。人、良すぎるんや。吉村さんなんか、スパーリングでも、最初に自分からは絶対打ってこないもん。そういう人やから、ワッキーはもの足りんのと違う?」  時期はあとのことになるが、脇浜と三人組との間で生じた亀裂の要因のひとつは、そのことに潜んでいたことも確かであったろう。  木下と最初に話をしたとき、一瞬、言葉の意味がわからないこともあって、「暴ヤン」という言葉がもっとも残った。土曜の夜も練習があるから、いまはそういう時間はないはずである。  ——この頃、暴ヤンは? 「もうしとらん。この頃は喧嘩もせんな」  ——どうして? 「やっても勝つからな。勝つとわかっていたらオモロナイもん。喧嘩いうのは、|真面《マジ》でやろうとしたら、切れなあかんでしょ。もう、命投げ出すで、とかさ。やってるときはええけど、終わったら後味悪いんやね。そこがボクシングと違う」  ——ボクシングのどこが好き? 「どういうたらええかな、練習しとっても、自分で自分ががんばっとるな、と思えるときあるでしょ。そんなん、ええなって思うな。ラグビーでも、練習が済んで、自動販売機でジュースなんか買って、道路で座り込んでみんなとわいわいいいながら飲むときが好きやった。そんなこと、ボクシングでもあるでしょ」  こう語ったとき、彼はやや照れていた。  自分の行為にかかわる内面を、過不足なく表現するすべを、この若者はもっていた。  例年、二月はじめに新人戦が行われる。試合の三日前、道場二階の事務室には、「一九九一年度・第二十六回兵庫県高等学校ボクシング競技新人大会」と標題の打たれたパンフレットが届いていた。永田が出場を予定しているバンタム級は九人、木下のライト級には四人が登録されている。永田は三つ勝てば、木下は二つ勝てば優勝できる。  練習が終わって、事務室には脇浜と永田がいた。永田は喘息が心配であったけれども、ここしばらく発作は出ていない。減量もうまくいって、あと二キロ程度だった。  永田は毛布にくるまって、ソファーに寝そべっている。汗を出そうというわけである。側に脇浜が座り、永田の足を揉んで語りかけている。 「どうや、ええ気持か。王様みたいやな」  上機嫌のようである。新入部員のなかで唯一、「病気もちの虚弱児」であった彼が部にとどまり、新人戦に出るまで成長してきた。脇浜なりに、感慨があったのだろう。  永田のほうは、脇浜に足など揉まれて、すっかり照れていた。  下の道場のリングでは、木下がひとり残って、シャドーボクシングを繰り返している。窓越しに、脇浜はいつものようにどなった。 「左から。左から入って右や! 足はもっと膝を使え! それからいいかげんにやめて上がってこい!」  こちらを振り向くと、こういった。 「あのアホウ、ほっといたらいつまでもやっとる」  これまた、機嫌のいいときの口ぶりだった。  二月の第一日曜日。一回戦の予選である。 「夕べは眠れなかったです」  そういって永田はリングに向かった。  対戦相手は清川聡という八代学院の生徒で、背丈があって、骨太の躰つきをしている。色白の坊ちゃん顔をしている永田と比べると、いかにも強そうだ。  予想は外れる。  ゴングが鳴ると、永田は一気にラッシュした。彼はサウスポーである。右のジャブをたて続けに打ちながら清川の|懐《ふところ》にもぐり込み、左右のフック、ストレートを連打する。一ラウンドから三ラウンドまで、その繰り返しである。完全に相手を圧倒している。ただ、ラウンドの後半になると、ラッシュが止まる。打ち疲れてしまうのだろう。 「倒れんかと心配するわ」  客席で横に座った脇浜がいう。珍しいことに、脇浜は黙って試合を見ていた。  判定は、文句なく永田の手が上がった。 「ナイス・ファイト!」  海老原の声を受けると、永田はにっこりと笑った。 「二分間、長かったです。五分にも感じて。もうすぐ鐘が鳴る、もう鳴ると思っても、全然鳴りません」  弾んだ声で、若者はいった。  私は、ラッシュ戦法について尋ねた。練習でもそういう様は見なかったし、まったく意外だったからである。 「前から決めていたんです。発作が起こるかもしれないから、その前に行こうと」  その後、彼の試合を十戦近く、私は観た。勝ち負けや試合の出来不出来は別にして、彼のボクシングはすべてこのラッシュ戦法であった。心配と痛ましさのようなものを覚えながらも、私は彼の試合を観るのが好きであった。思い返してみても、彼は言葉として、私の記憶に残るようなものを吐くことはなかったが、試合自体で十分に語りかけてくるものがあった。  永田はこのラッシュ戦法によって、二回戦と決勝戦を勝ち、バンタム級の新人王に輝いた。  木下の試合スタイルは、対照的である。身の動きにスピード感は乏しいが、力感がある。シューッ、シューッと、小さな声を出しながら、相手を追い詰めていく。そして、打ち合いに持ち込んで圧倒するというものである。相手のパンチももらうが、自分のパンチも当てる。いわば肉を切らせて骨を断つ戦法で、いかにも彼に|相応《ふさわ》しかった。  一回戦は、頭を下げて減点を取られたが、文句なく判定勝ちを収めた。二回戦が決勝である。相手は兵庫工業の吉田元樹。なかなかの有望選手と伝えられていた。  木下の試合になると、リングサイドからかかる脇浜の|叱咤《しつた》はもっとも頻度が高くなる。試合ぶりが声を誘発するのであろう。 「左、左!」 「なにしとる。教えた通りいかんかい!」 「そう、喧嘩流でええ。ないアタマ使うな、手を出せ!」 「下がるな。とどまって打ち合え!」 「容赦なく打て!」  といった具合である。  試合は一ラウンド、二十二秒、木下のRSC勝ちに終わった。  |顎《あご》の先からぼとぼとと汗を落としながら、木下はリング下に降りてきた。脇浜はヘッドギアを拳でゴツンと叩きながらいった。 「なんじゃ。うしろ下がって。ゴンゴン行きゃいいんだ」 「途中で目が見えんかった」 「ン?」 「ヘッドギアが下がってきて」 「そんなもん気にせんでええ。前に出る。そうしたら狙わんでも当たる」 「そやけど、見えんもんは見えん」 「根性で行かんかい。とにかく四十点や。ストレッチしとけ」 「うん」 「うんやない、はいや。わかったな」 「はあ……」  脇浜が離れると、木下は口を|尖《とが》らせていった。 「勝ってなんで怒られにゃならん。ワッキー、勝ったら怒りよる。悪い癖や」  一年前の清と吉村に続いて、この年も二人の新人王が生まれた。西高ボクシング部においてはつねに先のことは定かではなかったが、ともあれ、新入部員にとって、一年間の区切りとなる上々の成果であった。      3  腹まわりに毛布を巻き、その上から剣道の胴をつける。それが脇浜の考案したところの、ボディ打ちを受ける出で立ちだった。毛布が衝撃を緩和してくれるとはいえ、応えるのであろう、しばしば顔を|歪《ゆが》めるシーンを見たものだ。事実、そのせいで、何度か|肋骨《ろつこつ》にひびが入ったことがあるという。  前橋賢一が、この「ボディ打ち用具」をつけて、リングに上がっている姿をよく見かけるようになっていた。さすがの脇浜も年相応に辛いのであろう、若い前橋にその役目を|委《ゆだ》ねることが多くなっていた。  前橋はがっちりした体躯に、スポーツ刈りの頭をしている。|朴訥《ぼくとつ》な感じの教師である。西高では商業と簿記を担当している。  前橋は、香川大学に在籍時、交通公社の添乗員のアルバイトをしていた。修学旅行にもよく付き添った。大学生の目からみても、なんとなく頼りなげな先生が多く、それなら自分もできそうだと思って教員の道を選んだという。子供が好きなこともあった。  二年間、兵庫県下の養護学校での教員を経て、西宮西高校にやってきた。ハンディのある子供たちに接してきたせいか、定時制高校の状況にはさほど違和感はなかった。ただ、通常、学校には必ずあるところの、「校則」がないというのには驚いた。  ボクシング部の副顧問のひとりになったのは偶然である。女子バレーとボクシング部のポストがあいているといわれ、ボクシングを選んだのであるが、これが「運の尽き」であった。  脇浜は前橋という教師を信頼しているようだった。見ているとそれとなくわかるところがある。前橋にとって脇浜は大先輩であるが、部員に接するすべは、側に脇浜がいようがいまいが関係なかった。そういう裏表がないところが脇浜の眼鏡にかなったのだろう。世代が近いということもあるのだろうが、部員たちの気持もよく掴んでいるように思えた。  先にも触れたが、一九九二年のインターハイ県大会は、「三人組」がいなくなり、永田と木下だけが選手登録をしていた。永田は前夜、喘息の発作が出て欠場してしまう。  脇浜は例によって、「気合いが足らん」ということで片づけてしまうのだが、この場合は、前橋の観察眼のほうが当たっていたと思う。  試合の数日前、永田は体重が落ちずに苦しんでいた。喘息の徴候もあったようだ。ただ、自己のことはあまりいわない若者だった。  喘息を抑えるため、噴霧器を使い過ぎると、副作用で体重が増え気味になる。無理して減量をすると体調を崩して、また発作が起きる。体重オーバーは脇浜のいうような「不摂生」ではなかった。後日になって前橋よりそのことを耳にした。前橋がそういうのは、永田がこの教師にだけは話していたのだろう。  脇浜はよく目配りがきくのだが、ある部分においてはアバウトであった。そういう点を、この若い教師がうまくフォローしているようでもあった。  前橋の脇浜評はこのようなものである。 「やっぱり凄いと思います。麻雀したり酒飲んだり風呂入っているときは|好々爺《こうこうや》なんだけど、ああ自分には到底できんな、と思いますものね。一番感心するのは徹底性ということ。ボクシングが好きなんでしょうけど、それにしてもあそこまではできるもんじゃないですよ」  ——なにが彼をそうさせていると? 「さあどうなんでしょう。僕にはわからないし、誰にもよくわからない謎じゃないですか」  ——かなわんなって思いませんか。 「がみがみいわれるし、休みもないし、そう思うときはある。そういうことではいろいろと不満はあるけど、人間としての不信はないということになりますでしょうか」  脇浜とこの若い教師はうまく噛み合っているようだった。  ただ、前橋のような例は少なくて、脇浜から若い教師たちへの不満を耳にすることはしばしばあった。  例年春、西高ではひとりかふたり、教師が入れ代わる。若い世代の多くは、全日制高校への転出を希望する。出たい教師に見合う転入者さえ確保できれば、出入りの数はもっと増えるだろうという。着任してくる教師の多くは、大学を出たばかりの新人教師である。人事異動の季節になると、脇浜から決まったようにボヤキ話が聞かれるのである。  西高ボクシング部にとってさっぱり盛り上がらなかったインターハイ県大会が済んで間もない頃だった。例によって、風呂帰りの焼き肉屋での席である。  その日、新任の若手教師たちと組合の会合の場があり、そのこぼれ話であった。 「どんなことやりたいんやと訊くとね、判で押したように、生徒の個性に応じた多様性ある教育とかぬかしよって、ホント、嫌になるわ。よう恥ずかしげもなくそんな言葉遣うなぁと思ってさ。この頃の若い連中はいったいどういう神経しとるんかいなぁ。一緒に酒飲もかという気にもならん。そんな野郎に限って、教育心理学がどうじゃこうじゃとほざきよる。アンタ、そんなもんで、現実のこの子らどうしまんネン、といいとなるわ」  そういう生硬な言葉を遣う若い教師たちが、やがては現実のなかで鍛えられて成長していくのだろうとは思う。ただ、脇浜が、“公式論”をぶつような若い世代に対する苛立ちも私にはよくわかった。  この頃、「三人組問題」に加えて、ある部員の問題を抱えていたからである。  Kという部員である。数か月前に入部してきた生徒で、大柄な体躯をしていた。練習には来たり来なかったりの部員で、私は彼と話をしたことはない。いずれそのうちと思っている間に、姿を消してしまっていた。したがって、詳しいことは知らない。両親が離婚をして、母子家庭の生徒ということは聞いていた。  道場でKの姿が見えないので、脇浜に「K君、どうしてます?」と訊いたことは何度かある。 「親に単車を買ってもらえんとかで、もう出てきよらん。ちょっとしたことがあるとすぐグスンとなってしまう。ひ弱いといおうか、|脆《もろ》いといおうか。福原や清のケースと同じですわ。もうワンパターンやね」  という。さらに、 「この頃思うんですわ。いまの子ら、あの終戦直後の時代に放り出されたら、果たして生きていきよるんやろか」  と、いったりする。  私が西高に出入りするようになって三年目に入っていた。それは親しさの度合いを増した証左でもあろうが、次第にこの教師から、嘆きの声を聞くことが増えていったように思う。生徒たちとも、若い教師たちとも、通じ合うことが乏しくなってきた。脇浜はそんな疎外感を抱いているのではないか。  もうひとつ、この三年間でいっても、脇浜の生徒に対する対応がいささか性急になっているように思えた。それは、通じない世代が増えてきたことと、彼自身が五十代に入ったことともかかわりがあるのかもしれない。  Kについても、詳細を承知していないのであるが、そのことを感じたものである。  Kについて、担任の教師が、何度か道場の脇浜のところに相談に来ていたのを私は見ている。担任がKの自宅に足を運び、その折りには学校に出てくるような返事があって、結局は出てこない。そういう繰り返しのなかで、さてどうするか、という相談だった。  ある日、道場の入口で、 「もう切ってしまえ。ワシのほうはもうええわ」  と、脇浜がKの担任に答えていた。  このときの脇浜の|憔悴《しようすい》した厳しい表情がいまも私の脳裏に残っている。  その日、脇浜は道場での練習を海老原と前橋にまかせ、二階の事務室からなかなか下りてこなかった。私が顔を出すと、黙って原稿用紙を差し出した。Kへの手紙だった。  以下のような文面が記されていた。   《私はお前に何度もいったように、信用が世間で生きていくうえでの武器だ。信用は築くのに何年もかかり、崩すのは一日でできる。信用は自分で作るものだ。親とか他の人間を悪くいう前に、自分のことは自分で責任をとる。そのことが信用をつくる前提だ。    私はお前をボクシング部から切った。ボクシングを通して、一人前の人間になる手掛かりになればと、一緒に努力してきたつもりだ。除名するということは、私の敗北でもある。    私はたとえ相手が親であっても、貧しいものや弱いものを苛めるような奴は軽蔑する。お前は親のことをボロクソにいいながら、無理難題をふっかけて甘えているだけではないか。一人前の男のすることじゃない。    一からやり直す勇気をもて。私も負けることは嫌いだ。だからいつでも待っている。本当にボクシングが好きなら、お母さんと一緒にもう一度道場に来い。いつでも待っている……》  手紙を封筒に詰めながら、脇浜はいった。それは、脇浜との付き合いのなかで耳にしたもっとも悲痛な言葉であった。 「ひとりの子供が堕ちていく。それがわかっていながらどうすることもできん」  この手紙が、おそらくは救いの手にならないことを、脇浜は知っていた。知っていて、なお|一縷《いちる》の願いとして書いている。他に、どうすることもできない——。事実、この後、この手紙に応えるようなKからの応答はなかったのだ。  このようなことは、ボクシング部の発足以来、あるいはそれ以前を含めて、幾度となく繰り返されてきたことなのだろう。  人が人に対して、本当にできることなどあるのか。この学校に来て、幾度となく湧いた思いがまたよぎった。その問いの前で、この教師は苦しんでいた。解答はない。“個性の尊重”も“教育心理学”も無力なことは明らかだった。  Kに対し、もっと別の対応策があったのか、あるいはもっと時間をかけるべきであったのかどうかということについては、保留をしておきたい。部外者の無責任な印象でいえば、やや性急に映ったというだけである。脇浜ほどの経験を積んだ教師が、そう決断した背景にはそれなりの根拠があったのだろう。いえることは、ひとりの生徒を“切る”ことによって、返り血を浴びるように、この教師がまた新たな“傷”を刻んだということだった。      4  西宮西高校の校門を出て、南へ十数分も歩いていくと、香櫨園浜と呼ばれる海岸線に出る。阪神間では数少ない|渚《なぎさ》が残されていて、突堤の角にヨットハーバーがある。阪神地区にある大学ヨット部の艇庫なども並んでいる。白く霞んだ沖のほうから、こまかく刻まれた波頭が微風に乗って打ち寄せてくる。一九九二年七月末、鼻孔に潮の香りが漂う、夏の盛りの夕だった。  ハーバーに一軒だけあるレストランを訪ねた。ここで木下晴夫がコックをしていた。厨房で、長靴にエプロン姿の彼が見えた。客がとぎれたところで、手持ちぶさたのようである。狭い厨房の中で、軽くシャドーボクシングの格好などをしている。目が合うと、ニヤッとした。眼光鋭いリング上とは別人のようである。  勤務時間が終わると、彼がチャリンコと呼ぶ自転車を引いて、一緒に歩いて西高に向かった。この夏、一年前とメンバーは入れ代わったけれども、夏休み中の特訓は続いていた。  自転車のハンドルに、黒い色のボクシンググローブがぶら下がっている。道場に揃っているものではない。ナックルパートの部分が薄いメキシコ製のグローブで、姉にプレゼントしてもらったものだという。  学校への道すがら、彼のほうから口にしたのはボクシングにかかわることばかりだった。  まずいったのは、ふた月前、ダウンをとられて判定負けしたインターハイ県大会における試合である。繰り返しビデオを見たという。 「あれはやっぱりダウンじゃない。スリップや。けど、攻め込んでいたように思ってたけど、ビデオ見ると、俺のほうが下がり気味になっている。あのあたりで負けとされたと思うんよ。でも三ラウンドは俺が盛り返している。今度やったら負けんからな。もう自信あるぜ」  ここまで、市民大会などを含めると、彼は六戦をしていた。勝敗は五勝一敗である。ひとつの敗北に彼はこだわっていた。  いま悩んでいることは、構え方だという。  脇浜の指導は、大きく相手に立ちはだかるように構えよというものであるのに対し、西宮市アマチュアボクシング協会の指導員からは、丸く小さく構えたほうがいいといわれ、迷っているという。このことは道場での練習でも口にして、ちょっぴり脇浜の機嫌をそこねたりしていたのであるが。 「プロはどうしているんだろうなぁ。きっとすごいんだろうなぁ。見てみたいなぁ」  彼のそういう口調につられて、私は、大阪にあるグリーンツダジムならいつでも話を通せるよ、といった。福原の一件があったのでどうかとも思ったのであるが、見学ぐらいなら問題はない。後日連絡をしたところ、彼はすぐに行ったようだ。ジムの竹本吾一トレーナーより、「えらく元気のいい奴が来ましたよ。スパーリングまでしていきましたわ」という連絡を受けた。  ともあれ、この若者は、ボクシング好きということにとどまらず、|類《たぐ》いまれなほど、負けん気と研究熱心さをもった部員であった。  生活もボクシングを中心に考えている。朝起きると、浜周辺でのランニングは雨の日も欠かさない。柔らかい砂の上でダッシュを繰り返し、それからロードワークに出る。竹本に「ボクシングは一にも二にも走ること」とアドバイスされてからは、走る時間をいっそう増やした。  仕事はこれまで、土木作業や廃棄物収集車に乗っての力仕事をしてきたのであるが、学校に近いということで、ハーバーでのコックの仕事を見つけた。仕事としては楽なのだが、夕方からの練習に遅れ気味になるのと、試合前も休むことができない。それで、次の仕事の当てはないが、レストランでのバイトは近日中にやめるつもりという。仕事も含め、ボクシングを選択基準の第一に置いていた。  私のほうは、ちょっとしたことであるのだが、訊いてみたいことがあった。  この日よりしばらく前のことである。道場二階の事務室に脇浜がひとりいると、木下がどかどかと上がってきた。 「オッサン、これ」 「ン?」 「四国に行ってきた。土産や」  木下はそれだけいうと、菓子箱のようなものを机に放り投げ、すたすた下に降りていったというのだ。中身は「紅葉まんじゅう」だった。 「あの木下が土産を買ってきたというんで、もうびっくりしたわ」  脇浜は笑いを噛み殺しながらいったものである。  どうして? と私は木下に訊いた。 「ワッキー、酒呑まんでしょ。甘いもんなら好きかと思って」  表面上は強気一点張り、気遣いなど無縁と思える少年の、少々異なる一面であった。  この夏、道場に顔を見せていた部員は、木下、永田の他には、二年生の蔵本圭介、一年生の三島直、中村友信といったあたりである。  蔵本は西宮市アマチュアボクシング協会の紹介で西高にやってきた生徒である。中学のときからボクシングが好きで、三年生時から協会に通っていた。いったん専修高校に入学するのだが、一年でやめてしまう。西高のことは協会の指導員から耳にしており、高校生活を持続してかつボクシングもやれるということで、この年の春二年生として転入してきた。ボクシング好きということであるが、木下とは異なり、目立たないおとなしい感じの若者だった。  三島のことを、脇浜は「マイコ」「マイコ」と呼んでいた。由来は、自宅が神戸市|垂水《たるみ》区の舞子という地区の近くにあるからで、かなり遠方から通っている生徒だった。クリクリした感じの少年で、そのニックネームがよく似合っていた。  彼が西高にやってきたのは全日制高校の受験に失敗したからであるが、西宮市内の定時制高校を選んだのは、ボクシング部に入りたかったからである。テレビ朝日のニュース番組「ニュースステーション」で、西高ボクシング部のことが紹介されたことがあり、短いレポートではあったが、彼に強い印象を残した。小学六年生のとき、将来なにになりたいかというアンケートがあり、彼はクラスでただひとり「ボクサー」と書いた。中学時代、唯一の愛読書は『ボクシングマガジン』だった。  入部してくる部員のなかでは珍しく、真っ直ぐに部に飛び込んできた部員である。「脇浜先生のいう通りやっていればきっとチャンピオンにもなれると思います」と、いうこともけれんみがない。“ボクシング一直線”というのが三島少年だった。  中村も全日制高校の受験に失敗して、西高に入学している。ボクシング部への入部はクラスの友人に誘われたからというのであるが、彼だけが残った。上背があって、柔らかい躰つきをしている。ミット打ちを見ていると、なかなか力感がある。無口でおとなしい若者であるが、内に秘めたるものも感じられる。  三人とも入部してまだ半年足らずである。これからの行方はまったく定かではなかった。  この年の夏も、お盆と日曜日を除いて、ボクシング部だけは毎日練習があった。夏休みも終わりに近づいた日、夏期特訓の打ち上げということで、家庭科教室を借りて、モツ鍋を作ることになった。台風の接近が伝えられる風の強い日だった。  海老原たちが材料を仕入れてきて、みんなで手分けをして料理する。木下が器用にフライパンをひっくり返す。日頃、厨房で働いているだけのことはあった。  参加した部員は他に、永田、蔵本、三島、中村。先生たちは、脇浜、海老原、前橋の他に、新任の数学の教師で、新しく部の副顧問をつとめることになった谷川智康。また、ときおり道場にやってくる西宮市アマチュアボクシング協会の小谷昌平の姿もあった。飲み物は、大人たちは缶ビール、部員たちは麦茶である。 「しかし考えてみれば、台風が来ているこんな日に、勝手に教室使って好きなことやってるわけですからね、他の学校なら考えられん」  鍋にうどんを入れながら、海老原がそういうと、脇浜は小さく、「フッフッフッ」と答えた。「脇浜解放区」と呼ばれるのも、この自由度の|所以《ゆえん》であろう。 “打ち上げ”というには静かな席であった。脇浜が「なんぞおもしろい話でもせい」というのだが、そういわれても急に出るものではない。生徒たちのテーブルでは、ときおり木下が冗談をいうくらいで、部員たちは黙々と鍋をつついている。  それでも、ひと区切りついたという充足感が、教師たちの席にも、生徒たちの席にも漂っていた。たとえ小さなことであっても、何事かをやりとげたあとには満足感がある。それなくしては、どのような充足も得られない。その平凡な事実を、この学校に来て改めて知ったように私は思っていた。  山盛りあった鍋もあらかた片づいた。全員で手分けして、後片づけと掃除を行う。散会して外に出たあと、上半身裸の木下が追いかけてきた。何事かと振り向くと、大きな声が聞こえた。 「オッチャン、新しい仕事見つかったわ。トラックやけど」      5  取材ノートによると、一九九二年九月十九日となっている。夕方近く、私は西高の職員休憩室に顔を出した。とくになにか目的があるというわけでなく、もっともこの頃になるとほとんどがそうであったわけであるが、ちょっと覗いてみるかという気分で西高に出かけた。英語を担当している八木司朗だけが部屋にいた。かつて上村一八の担任をしていた教師である。 「後藤さん、神戸で脳関係のいい病院というとどのあたりになりますか」  かつて私が、医学関係の本を書いたことがあって、そういうことから尋ねられたようだった。訊けば、脇浜の奥さんが昨夜自宅で倒れ、神戸市内の救急病院に収容されたものの容態がおもわしくないようだ、というのである。  神戸で、脳神経科医、脳外科医に知っている医者はいなかったが、神戸市立中央市民病院には知人の心臓外科医がいた。中央市民病院は医療レベルの高い病院として知られており、その夜、その外科医にとりあえず連絡をしてみた。  夜、脇浜から電話が入った。もう少し詳しい事情がわかった。前日の深夜、脇浜が帰宅してみると、居間に買物から帰ってきた姿のままの奥さんが倒れていた。すぐに救急車を呼んで病院に運んだのであるが、買物のレシートに打ち込まれた数字からすると、倒れてから数時間はたっていた。診断はくも膜下出血で、予断を許さない状態という。救急病院は看護の態勢がいまひとつで、可能なら大きな病院に代わることも考慮したい、というようなことだった。  知人の外科医によれば、いったん病院に入ってしまうと、転送がなかなかむつかしいとのことであったが、話を進めてもらうよう改めて頼んだ。だが、それも無駄に終わった。その三日後、八木より、脇浜の奥さんが亡くなったという連絡が入った。  ボクシング部員は全員、神戸市北区にある脇浜の自宅で行われた葬儀に出席した。脇浜の様子は、木下によれば「トラ人形」だったという。 「すごくたくさんの人が来ていた。オッサン、来る人来る人ににこにこして頭下げていたけど、トラ人形みたいに機械的に頭を下げているだけだ。頭カラッポで、誰が誰かもわかってないみたいだったなぁ。俺の顔も見てるようで全然見とらん。すごく応えてると思いますわ」  以来、脇浜はしばらく学校に顔を見せなかった。  海老原、堀川など、脇浜と親しい教師たちに訊いても、落ち込み様がひどいという。堀川は、「脇浜さん、もう家を出て道場の二階の部屋で暮らすといい出すんじゃないかな」といったりする。  教師たちも脇浜のプライバシーについてはほとんど知らなかった。脇浜が私事を洩らすことがなかったからである。亡くなった奥さんについても、『西西組合新聞』やボヤキ話のなかでときおり登場する「嫁ハン」という以上のことは誰も知らない。  秋も深まってから、脇浜は学校にやってきた。授業をし、道場で練習を指導し、その点では同じなのであるが、以前とははっきりと違う。リング下の階段に腰を下ろして、ふーっと放心したような表情をする。なにより、怒鳴り声に張りがないし、その回数もめっきり減った。練習の途中で、海老原や前橋に任せて引き上げることも再三あった。  以前の脇浜ではないことを、誰よりも部員たちが知っていた。 「ワッキー、全然乗ってないわ。ミット受けていても、他のことを考えとる。このバカタレって言葉も出んもんな。なんか寂しいわ。永田とも、なんとか元気つけたらないかんと話してるんやけど、俺らじゃどうすることもできんしなぁ。どうしたらええんかな……」  この頃、練習後、私は何度か脇浜と連れ立って焼き肉屋やお好み焼き屋に足を運んだ。海老原や堀川が一緒の日もあった。  そんな席で、「嫁ハン」のこともはじめて聞かされた。  脇浜が十代の終わり、湊川高校の定時制に通っていた頃の同級生で、同じ文芸部のクラブ員でもあったという。彼女の父親は新聞記者で、戦時中、従軍記者として南方に派遣されていた。終戦間際になって、帰国途中、乗っていた輸送船が沈められ、母子家庭になってしまった。脇浜と所帯をもって以降は、神戸市役所、次いで小学校の事務職員として働いてきたという。 「よう喧嘩もしたし、別れる別れないでもめとったときもあったんですがな……。でも五十年のうちかれこれ三十年も一緒におった奴なんでね、どうしょうもないですわ。家に電話して、ああ誰もおらんかったんや、と思い直したりね……」  脇浜には三人の子供がいると耳にしていた。長男と長女は社会人となって自活しており、次男は大学生で下宿暮らしをしている。最近では夫婦ふたり暮らしであったという。 「誰もおらん家というのは陰気なもんでね。山下の頃、ようあったでしょう。道場で待っとっても誰も来ん。ぶらーっとサンドバッグだけが下がっとる。しーんとして、あのボクシングジム特有の寂しさね。そのうち誰か来るやろと思いながら、結局誰も来ない。だんだん気分が滅入ってくる。あれとよう似てるなぁ」  そんな話を繰り返す脇浜に対し、海老原や堀川は慰めごとはいわず、黙って聞いていた。  そんな日々が続くなか、小さな出来事があった。 「昨日、あの連中が集まってくれて、まあうれしかったわ」  道場で顔を合わすなり、脇浜がいう。久々の笑顔であった。  阪神・|今津《いまづ》駅の近くにあって、私たちも何度か出入りした「将軍」という焼き肉屋で、“脇浜を励ます会”がもたれたという。音頭取りは山下和美だった。彼の呼びかけで、ボクシング部一期生から高橋卓也と宗一雄、二期生からは上村一八と重光康克、教員では海老原と大石美智代が参加した。  海老原によれば、山下から電話があり、とりあえず集まりをもちたいので来てほしいとのことだったという。脇浜は上機嫌で、終始、以前と変わらない立ち居振る舞いだった。勘定をするさい、脇浜の分は「いま、先生より稼ぎが多いから」という上村が強引に払った。 「そうか、雪降るな」  というのが、脇浜の謝辞だった。  そんなこともあって、脇浜は少しずつ元気を取り戻しつつあるようであった。が、そうでない日もあった。  道場に行っても脇浜の姿が見えない日がある。しかも、学校はもとより、海老原にもなんの連絡もないという。かつてないことである。 「いま脇浜さんの頭には、学校も組合もなにもない。ボクシング部さえもないと思いますわ」  脇浜のいない道場は、ぽっかりとあいた空白感があった。主人公のいない劇場という以上の、埋めがたい欠落感があった。脇浜がいてもいなくても、海老原や前橋がいるから、練習自体に困ることはない。ただ、脇浜には、その「非存在」によって改めてその存在を感じさせるようなところがあった。その代役は誰も務めることができない。  これより少し以前、脇浜は、 「学校にいてもさっぱりおもしろくないから、カンボジアでも行って、PKOの自衛隊員を逃がすことでもやってやろうかなって思っとるのよ。ボクシング教えるのが嫌になったわけじゃないけど、いったいなんになるのかと思ったりするしな……。これから冬になるでしょう。寒くなると嫌だなぁ……」  といったりした。  脇浜からはじめて耳にしたボクシングへの懐疑の言葉であったが、それは単なる一過性の“世迷い”として受け止めるべきものであろう。年の瀬がそこまで来ていた。いまは冬だ。西高ボクシング部にとって、いまは時が過ぎゆくことを待つだけであった……。      6  一九九三年一月から四月まで、私は西高に一度も足を運んでいない。四か月間もまったく学校に行かなかったというのは、ないことだった。この間、慣例の新人戦があり、見たい試合もあったのだが、これも欠席した。多忙に追われてであったが、しばらくは休みにしたほうがいいかという気持もどこかにあった。  脇浜がこの学校からいなくなるとか、ボクシング部の活動をやめてしまうとか、そういう可能性は|微塵《みじん》も考えなかった。あり得ないことだった。その程度には、この人物のことを知ったと思っていた。年末、ふと懐疑的なことを洩らしはしたが、その場限りの|言質《げんち》であって、重い意味はない。脇浜にとって、夫人がかけがえのない存在であったのと同じように、ボクシング部はかけがえのない存在であった。時間さえ経れば、以前と同じような姿を見ることができるだろう。そういう時期を待って、また通いたいと思ったのである。  五月はじめ、久々に西高の校門をくぐった。職員休憩室には誰もいない。校舎と渡り廊下を通り抜けると、右手にグラウンドが広がっている。その向こうは、低い家並の住宅地が続いている。空はまだ明るくて、毛筆で薄くなぞったような雲が流れている。風薫る五月の夕だった。  道場の手前に来ると、いつものように、混ざった音が響いている。ミットを打つ音、サンドバッグをぶら下げた鎖の|軋《きし》む音、そして聞き慣れた男の怒鳴り声であった。  木下、永田、三島、中村、それに見知らぬ数人の少年たちがいる。この春、入部してきた新入部員たちであろう。  いつものように、|皺《しわ》くちゃになったグレーのスポーツウェア姿で、男は板の間でミット受けをしていた。それに疲れると、リング下の階段に腰掛けて、マイルドセブンに火をつける。指に煙草を挟み、リング上の選手たちに身振り手振りで指示を出すものだから、周辺はもう灰だらけである。  リングでは、木下がひとり上がって、軽くシャドーボクシングをしていた。 「おい、今日何キロやった?」 「五十五やったか五十六やったか……」 「アホウ、体重ぐらい覚えておかんかい」 「フェザーは切っとるで。切ってるからええやん」 「ええことない。バンタムははじめてやろ。バンタムでの動きをみたろうと思うとるんじゃ」 「………」 「とにかく左、左と入ってから右を出す。狙わんと入る。ええな。うまいボクシングやろうと思うな。お前には無理なんやから。アタマで考えるんやなしに、動きを躰で覚え込んでしまえ」 「いつもアタマを使えというとるやないか」 「お前のないアタマじゃ、出てくる知恵もしれとるわい」  インターハイ県大会がひと月先に迫っていた。一年前、木下はフェザー級(五十四〜五十七キロ)で出場している。今年は一ランク下で出ようというのだろう。彼は普段は五十八、九キロであるから、バンタム級(五十一〜五十四キロ)でも、減量は可能だ。 「オッサン、怒鳴り出したら、こっちのいうこと全然聞きよらん」  リングを降りてきた木下は、私のほうを向いていった。  木下は四年生になっていた。インターハイへの出場も今年が最後である。ランクを下げれば、一般的にいえば相手のパンチ力が軽減される。最後の勝負に出たということなのだろう。  永田は前橋を相手にミット打ちを繰り返している。私の顔を見ると、ニコッと笑う。彼はいつも笑顔のいい若者だった。足さばきも軽快で動きにスピードがある。体調もいいようだ。永田は三年生ではあるが、入学が一年遅れており、彼もまた十九歳になった今年が最後のチャンスだった。  脇浜によれば、二月の新人戦では、三島がフライ級の、またこの半年前に入部してきた三井清司がウェルター級の新人王になったという。これに、蔵本、中村を加えれば、インターハイ県大会への出場者は六人になる。木下ひとりだった一年前とは大違いだ。  まだ中学生といった顔立ちの新入部員たちの姿がある。  ——どんなもんですか? 「いつもといっしょや。十人ほど入ってきて、残ってるのは四人かな。しかしまぁ、わかるわな。サボリ放題で過ごしてきて、落ちこぼれて定時制にやってきた。昼間は仕事、夜は授業。なんかの拍子でボクシング部に入ってきた。来たとたん、ヒゲ生やした変なオッサンがおって怒鳴りまくっとる。やっとられんわなぁ、クックックッ……」  男はもとに戻っているようだった。  道場の入口があいて、生徒たちが入ってきた。部員ではないようだ。おずおずと脇浜に近づいて、こういった。 「先生、今日の授業、休講ですか」 「ああ、そうやったな。すまんすまん、忘れとった」  男はすっかり、もとに戻っていた。  暑い夏の予感がかすめた。  一九九三年度のインターハイ県大会は、五月二十九日、三十日、六月五日、六日の四日間、西宮西高校の道場で行われることになった。土、日を使っての二週間、例年通りである。  西高からは、フライ級に三島直、バンタム級に木下晴夫、蔵本圭介、フェザー級に永田正人、ライト級に中村友信、ウェルター級に三井清司と、計六人がエントリーされた。  これまでの実績と年齢からして、木下と永田には十分チャンスがありそうだ。他には二年生ながら、“ボクシング一直線”の少年、「マイコ」こと三島が力をつけている。ウェルター級の三井はまだ三戦しかキャリアがないが、重量級は登録者が少なく、ひとつ勝てば優勝だ。優勝者がイコール兵庫県代表としてインターハイへの出場権を得る。この年は栃木県・日光が会場予定地になっていた。今年こそ、ひとりかふたりは全国大会に駒を進めてくれる選手が出るかもしれない。毎年そういう期待で見詰めながら、この三年間、全国大会は無縁だった。勝負の行方はもちろんわからない。  期待はまず木下であったが、ひとつ問題があった。肋骨の骨折が完治していなかったことである。  一九九二年の秋、練習で左胸の肋骨を痛め、ほうっておいたところが痛みが去らない。レントゲン検査の結果、亀裂骨折していることがわかった。それがようやく治癒した九三年一月、寝転んで上に前橋に乗ってもらい、ボディを鍛えているさいに、「ボキッ」という音がした。今度ははっきり骨折とわかった。その傷の痛みがときどきぶり返しているようだった。  本人は、そういうそぶりは見せない。これはインターハイ県大会に入ってからであるが、前夜から痛みがひどくなり、「オッサンには内緒で」、医者にもらった痛み止めの「とんぷく」を大量に飲み、試合に出た。試合当日、頭がボーッとなって、まったく発汗しない。ただごとでない様子に、脇浜が問い詰め、白状したひと幕もあった。そんな状態で、RSC勝ちした。「クソ根性だけはあるガキだわ」と、脇浜を驚かす。  このふたりは、互いに、「オッサン」「アホウ」といい合うのが常となっていたが、それは関係が噛み合っている証しであったろう。  この頃、学校近くの喫茶店で、木下はこんな風にいった。 「ワッキーとふたりで、一年半やってきて、ここまでこれた。俺がこんなんいうたらおかしいし、照れくさいけど、恩返しというか、そんなことできんかなとは思ってるんよ。あのオッサン、喜ばしたろかい、という気はあるよな。それはモノじゃ返せんわけでしょ。だから勝ちたいというか、勝ったらいつも、ワッキー、怒ったふりして喜ぶから。しみったれた話やけど……」  永田については、持病の喘息が心配であった。一年前のインターハイ県大会では、前夜に発作が起きて欠場している。  喘息がもっとも頻繁に起きたのは一年生のときだった。ミット打ちをするとよく起きた。脇浜たちには黙って、ロッカールームに入り、鞄から気管支拡張剤を仕込んだ噴霧器を取り出して喉に吹きつけた。ただし、噴霧器の使用は一日十回以内と回数制限されていた。効かないときもある。入院して点滴を受けたこともしばしばあった。  二年生になると、発作が起きるのは、週に二、三回程度になった。症状も軽くなった。ただ、減量をすると、ひどい症状になることがあった。それが一年前のインターハイ時である。  三年生になると、発作の度合いは月に一、二回程度になった。いまも、朝夕飲み薬を飲んでいるのだが、喘息を忘れているときのほうが多い。随分と丈夫になった。ボクシングをやってきたおかげだという。この三年間、ボクシング部をやめようと思ったことは一度もない。  彼が持病を飼い慣らしながら、この激しいスポーツを持続してきたのは驚きである。木下のファイトが剥き出しのものであるとすれば、彼のそれは、内に秘めたるものだった。私の見るところ、脇浜は、あくまで脇浜流の流儀においてであるが、木下を可愛がり、前橋が永田に目をかけているように映った。それぞれに通い合うところがあるのだろう。  ここまで永田の公式試合の戦歴は、六戦四勝二敗というものである。負けたふたつの試合は、いずれも三ラウンドまで持ち込まれて判定負けしている。三ラウンドに入ると、咳は出なくても息が苦しくなる。一気のラッシュ戦法は、自己の弱点をカバーせんとする苦肉の策でもあった。  今度も一気のラッシュで行きます——いつものように、もの静かな表情で彼はいった。  木下のバンタム級と永田のフェザー級にはエントリーしている選手が多い。バンタム級は十三人、フェザー級は九人。優勝するには、それぞれ四戦と三戦を勝ち抜かなければならない。激戦であった。  永田は一回戦は不戦勝、木下はRSC勝ちした。木下の二回戦の相手は、兵庫工業の保井恵一で、彼は一年前のインターハイ県大会バンタム級の優勝者であり、最優秀選手賞まで獲得している。「保井にさえ勝てば」という言葉が、脇浜と海老原から何度となく洩れた。  一ラウンド、両者はいきなりリング中央で打ち合い、休む間もなくインファイトを繰り返す。両者、同じようなタイプのファイターだった。木下が低い姿勢から左、右と入る。保井も同じように返していく。木下が猛り、保井は落ち着いて応酬する。勢いでやや木下優勢か。  二ラウンド半ばになって、はっきりと保井が優位にたった。軽い足さばきで木下の突進をかわし、的確なパンチを決める。木下は棒立ちになる。打ち疲れたのか、勢いが一気に|萎《しぼ》んだ感があった。はっきりと保井がポイントを取った。 「木下、これで最後や。みんな出せ!」  休憩時間に、脇浜の大きな声が飛ぶ。  三ラウンド、木下はラッシュした。なにか叫びながら頭から突っ込んでいく。顔を打ち、一転ボディ攻撃、さらに上と、二分間、休む間もなく打ちまくった。この攻撃が、練習時、繰り返しやっていた攻撃パターンだった。保井のパンチをもらっても、いさいかまわずラッシュ、さらにラッシュ。場内大喚声のなかで終了のゴングが鳴った。  判定は微妙だった。僅少差で木下かと思ったが、私の目も客観的ではない。レフェリーは採点に加わらず、三人のジャッジのメモを集めて、審判長に渡す。それを補助員の女子高生がアナウンスする。結果が出るまで、レフェリーがリング中央で両選手の腕を取って立っている。  リング上で、木下はじっと下を向いている。 「勝敗は赤コーナー木下君の判定勝ちでした」  木下の手が大きく上がった。  リング下に降りると、木下は拍手をして待ち構えていた人たちのところに飛び込んでいった。兄、姉、それに中学時代の恩師という。顔をくしゃくしゃにしている木下が見えた。  それを、遠くのほうから脇浜が見ていた。 「あのゴンタクレがボロボロ泣いとる。悪くはないもんですわ。これだけ手のかかる奴もおらなんだ。ちょっとばかりはええ目をさせてもらわんとね……」  永田は一回戦は不戦勝、二回戦は一ラウンドRSC勝ちした。木下は保井戦でまた肋骨を痛めたようだ。二ラウンド、攻勢が止まったのはそのせいだった。それでも「とんぷく」で痛みを抑え、三回戦をRSC勝ちする。両者とも決勝まで勝ち残った。  フライ級の三島は、一回戦、好試合をしたものの判定で敗れた。バンタム級の蔵本は一回戦をRSC勝ちしたものの、二回戦、判定で敗れた。  ライト級の中村は、一回戦、判定で敗れた。力量で、相手がかなり上回っていた。それでも、常に前に出る好ファイトだった。リングを降りると、脇浜の前に立った。色白の頬が、打たれたパンチで赤く腫れている。 「なんで負けた?」 「……スタミナ」 「もうひとつは?」 「………」 「打ったあとや。打ったあと、顔がガラ空きになってる。防御も大事やな。ひとつ、勉強したな」  短く切った中村の頭から汗が噴き上がっている。脇浜は破顔一笑という表情になった。そして、その頭に手を置いて、頭を前後に揺すりながらいった。 「良かった。ええ試合やった」  若者はふいに顔を歪めると、しゃくり上げた。涙が、ボロボロっと前に落ちた。  六月六日、日曜日。空のよく澄んだ日であった。今日、県大会の優勝者が決まる。  木下の対戦相手は、二回戦で蔵本に判定勝ちした|飾磨《しかま》工業の亀田友宏。試合前、木下は自信たっぷりの表情だった。合同合宿で亀田からダウンを奪ったことがあるという。その自信通り、最初から木下が圧倒する。亀田は木下のパンチをモロに浴びて、再三腰砕けになった。二ラウンド、三ラウンドとも、余裕をもった試合運びが続く。判定は、60対58、60対56、60対56と、木下の完勝だった。  試合中は盛んに、「倒してしまえ!」「そこで決めろ!」と野次を飛ばしていた脇浜は、試合が終わるとしかめっ面をしている。 「レフェリー、一ラウンドで止めないかん。なにをしとるんだ」  といいながら、審判長の席に行って文句をつけている。  そういう風景はそれまでの試合でもあった。危険防止ということについては、脇浜は神経質だった。  そのあとで木下を掴まえると、短くいった。 「まあまあや。そこらでストレッチしとけ」  いつもの脇浜流であった。  永田は一気にラッシュした。ゴムまりが弾けたという勢いで突っ込んでいく。相手の飾磨工業の前田和彦のヘッドギアがふっ飛んで、試合は中断する。その後もラッシュに次ぐラッシュ。どこにこんな爆発的なエネルギーが潜んでいるのか、と思うほどである。 「あせらんでいいぜ」  前橋の、よく通る声が響いた。  二ラウンドも開始早々から一気のラッシュ。前田が防戦一方となったところでレフェリーはストップをかけた。永田のRSC勝ちだった。 「咳が出る前にと、それだけ思って……」  荒い息をつきながら、若者はそういった。  ウェルター級の三井清司も、二ラウンド、RSC勝ちを収めた。三井は県立高校の受験に失敗して、西高に来ている。おっとりした感じの若者である。「脇浜先生の目を盗んで遊びたいです」といいつつ、「取柄はガッツと根性です」と語る屈託のない若者であった。  ライトミドル級、ライトヘビー級、ヘビー級の重量級は、いずれも登録者が神戸国際大学付属高校(旧八代学院高校)の選手がひとりだけで、登録者が自動的に優勝者となり、三井の試合を最後に、すべてのスケジュールが終了した。  決勝まで残った全選手、それにレフェリー、ジャッジがリングに上がり、表彰式がはじまった。団体優勝は神戸国際大学付属高校。この数年、大会に多くの選手を出すこの高校が団体優勝を重ねている。第二位には、三人の優勝者を出した西宮西高校が入った。優勝者を出したのは四年前の上村一八以来であり、三人もの優勝者が生まれたのは、山下和美、高橋卓也、安田裕志が勝ち残った一九八七年以来六年ぶりということになる。個人表彰では、木下が優秀選手賞に選ばれた。これまた高橋の最優秀選手賞以来のことだった。大会会長の西宮西高校校長が、選手一人ひとりの名前を読み上げ、賞状とカップを手渡す。  脇浜はリングには上がらず、うしろの席で煙草をふかしている。表彰式の途中、一度、大きな声をあげた。 「コラーッ、木下。ちゃんと頭下げんか!」  すべてのスケジュールが終わった。他校の部員や先生たちも引き上げていく。道場に、静かなときが戻っていた。  リング上に、木下と永田だけが残っている。木下はロープに頭を乗せて足を投げ出し、その横で、永田が腹這いになって寝転んでいる。  賞状を手にした木下が、永田に語りかけている。 「鉛筆で書いてある名前、墨で書いてほしいな。自分で書けということなんかなぁ」 「いや、あとで先生が書いてくれるっていってたよ」 「そうやな。俺のへたな字じゃ値打ないもんな」  ふたりは互いに賞状をかざし、微笑している。ところどころ血に染まったキャンパスの隅に、しばし勝利の余韻が、とどまり|溜《た》まっているようであった。      7  一九九三年夏は、近年|希《まれ》にみる冷夏となり、稲作や果樹作物への悪影響を危惧するニュースが連日のように伝えられていた。事実、よく雨が降り、強い陽射しが照りつける夏らしい日は数えるほどだった。ただ、ここ西宮西高校では、久々、熱い夏を迎えようとしていた。  栃木県日光市体育館での全国大会は、八月二日からである。七月に入ると、西高の正面校舎には、「祝全国大会出場・ボクシング部/バンタム級・木下晴夫、フェザー級・永田正人、ウェルター級・三井清司/高校勤労生徒を守る会」と記された垂れ幕が掛けられた。「高校勤労生徒を守る会」というのは、十数年前、教育行政における定時制高校への差別を解消しようという趣旨のもと、生徒、卒業生、保護者たちの手で結成された団体で、いわば西宮西高校の後援会的存在である。  待望の全国大会への出場者を出した。その割には、ボクシング部も脇浜の日々も、表面的には変わりなく、淡々としていた。 「日光へ行く子と行かない子に分かれてしまう。夏の特訓も例年通りでええんかなと思ったりね。残るものは寂しいもんで、辛いところありますわな」  何事も、生徒が差をつけられることに気をもむ脇浜らしい心配だった。 「インターハイといっても、さあ行こうや、という目標に向けて努力する過程に意味があるんでね、行ってしまえばどってことないしな」  といったりする。  全国大会というのは、いわゆるボクシングの名門校が幅をきかせていて、プロのジムや大学のコーチの目に止まるためにハッスルする有望選手もいるという。  脇浜にとっては、山下と行った広島、山下・高橋・安田たちを連れての札幌、さらに上村と向かった松山と、三度全国大会の経験がある。試合数がやたらと多く、スケジュールだけがどんどんこなされていく感じがあって、さほど強い印象はないという。さらに上村の「判定問題」もあって、いい思い出もないわけだ。 「若い先生ががんばってるし、前橋さんに引率してもらって、年寄りは留守番に回ろうかな」  といったりもする。  脇浜は私の耳に入れるようなことはなかったが、費用の問題もあるようだった。西高のボクシング部の年間予算は数万円である。部のOB会のある学校や、歴史のある高校ならば、遠征費など寄付で十分|賄《まかな》えるのであろうが、このあたりは定時制高校のつらいところである。のちに前橋に訊いたところでは、市長と教育長から多少のカンパをもらい、他は先生たちの自己負担でなんとか補ったとのことだった。  というようなことも付随的にはあったわけだが、脇浜が不参加を口にするのは、最初のことが一番の理由であろう。ただし、西高の部員が日光市体育館のリングに上がるとき、側に脇浜がいないという図はちょっと思い浮かばない。 「あんなこといってますが、当日になったらきっと駆けつけますから」  というのが、海老原の言だった。そのように、私にも思えた。  もとより道場の練習における脇浜の気合いは十分なものがあった。  ひと通りの練習メニューが終わると、サンドバッグとウォーターバッグを叩いて最後となる。永田と木下がバッグを叩きはじめると、脇浜はバッグが動かぬよう抱え込み、一打一打に声をかける。 「そうや!」 「もうひとつ!」 「足使って!」 「足から入る!」 「よっしゃ!」 「切る感じで打て!」 「突き上げ!」 「休むな!」  冷夏とはいえ、真夏の道場は蒸し暑い。ランニングを着た上半身はもとより、すっかり白さが増した頭も汗びっしょりだ。バッグが揺れるたびに、汗が落ち、足もとの床に点々としみをつくっていく。  それはいつもながらの風景ではあったが、ひと味違う気配もある。道場の隅でたたずんでいると、足掛け四年、この道場で起きたさまざまなことが走馬灯のように浮かんでは流れていく。西高ボクシング部にとって、ひとつの決着のときを迎えようとしているように、私には感じられた。  永田は好調を持続しているようだ。一方、木下に“異変”があった。当然大張り切りになるに違いないと思っていたところ、そういう様子がない。振る舞いが、以前に比べるともの静かなのである。肋骨を再度痛めたこともあったろうが、それで落ち込むような若者ではない。  練習前、阪神・西宮市駅前の、いつも行く喫茶店に誘ったりした。なにか心配事でもあるのだろうか。役には立てまいが、話を聞くことはできる。 「別に変わったことはなんにもないで」  いつもの調子でさらっという。 「朝、ロードワークに出るとき、校門の前を走るようにしてるねん。垂れ幕見上げると気持ええわ。わき腹のことはあるけど、ここまできたらコンディションもへちまもない。要は喧嘩しに行ったらええんやと思ってるんよ」  どうやら、私の取り越し苦労のようだった。  ただ、少々、雰囲気が違う|節《ふし》はある。  どんな決着をつけたいと思うかい、と訊いてみた。彼のことだから、優勝してプロになりたいとでも答えるのかと思ったところ、えらく“地味な”答えが返ってきた。 「勝つに越したことはないけど、納得というんですか、とりあえずやったなという形が残ったらいいなということですかね」  木下の“異変”は、脇浜たちは先刻承知していた。  道場の事務室で、脇浜と海老原がいた。練習は済んだ時間で、下の道場から部員の姿は消えている。  海老原が笑いながらいう。 「木下の奴、こういって帰りましたわ。今日はこれぐらいにして帰ります、お先に失礼します、だってさ。もうびっくりするわ」  脇浜も、おもしろくて仕方ないという表情で答えた。 「この前も、階段上がってきて、いいよったぜ。ありがとうございました、って。あのアホウに敬語遣われると全身からジンマシンが出るわ」  ——なぜ急に? 「あのときの上村と一緒さ。男の子が決意したらみんなああなりよる。手にとるようにわかるわ、クックックッ……」  前橋が引率者となり、三人の選手とともに開会式の前日に現地に入る。脇浜は試合当日に駆けつけ、海老原が留守番役をつとめることになった。八月二日は開会式と検診・計量、三日から試合であるが、西高の三人は四日に一回戦が組まれていた。  私は二日の午後、日光に入った。日光市役所の近くにあるホテルに荷物を置き、タクシーで兵庫県の選手たちが泊まっている旅館に向かった。市街地を過ぎると、道路の両側に杉林が続いている。見事な巨木がつらなる斜面がある。緑したたる杉林に、|小糠《こぬか》雨が吸い込まれるように降り続いている。肌寒い夏であった。  兵庫県の選手たちに割り当てられた旅館は、市内のはずれにある小さな和風旅館だった。ひと部屋に、兵庫の選手たちが全員入っていた。モスキート級からライトヘビー級まで、十人である。西高が三人、残り七人全員が神戸国際大学付属高校の部員である。ふた月前は敵同士であったわけだが、ここでは同郷の仲間である。部員たちは、もともと合同合宿などで顔馴染みである。朝、一緒に走り、ひと晩同じ部屋で過ごせば近しい仲になるのだろう、なごやかな空気である。  部屋の半分は布団が敷きっぱなしになっていて、漫画本の『ジャンプ』などが散乱している。選手たちは、道場のリングで見るときよりずっと幼く見える。木下と永田だけが十九歳、他はまだ十七歳と十八歳である。  食堂には、カレーのシチューに、卵焼き、味噌汁、酢のもの、野菜、果物といった夕食の献立が並んでいる。木下と永田はすでに体重リミットを切っているという。それでも注意をして相当残す。|賄《まかな》いのおばさんが「みなさんお替わりがないので御飯が残ってしまって」とこぼす。元気盛りのスポーツ選手が集まった宿舎で、御飯が残るというのはボクシング競技ぐらいだろう。  夕食が済むと、部屋に帰って合同ミーティングである。神戸国際大学付属高の北浦俊尚コーチが取り仕切る。北浦は試合場で、いつも大音声を張り上げる人物で、脇浜と並ぶ県下の名物先生であった。付属高は毎年、全国大会への出場者を出しており、北浦の話は堂に入ったものだった。付属高は明日、三人の出場予定者がある。 「勝つためにやってきた。ここまで来た以上は、一日でも長くいようやないか。強豪校といわれる学校でも、本当に強い奴はひとりぐらいだ。名前負けすることはない。全国大会は、とにかく手数。パンチが当たる当たらん、効く効かんはあんまり関係ない。手数出してるほうが有利に見える。わかったな」  ミーティングの途中、脇浜が部屋に入ってきた。予定より一日早い。気にかかってのことであろう。予想通りのようである。  北浦のあとを受けていう。 「チンとなったらすぐ行く。とにかく先に先に手を出す。ええな。一回戦は人数多いから、レフェリーが試合をすぐ止めるケースがある。とにかく、先に先に攻撃さえしとったら問題はない。それから会場の冷房がきついかもしれんぞ。躰冷やさんように、着替え多めにもっていけ」  旅館は満員で、脇浜は私と一緒にホテルのほうに泊まることになった。  翌日、雨のなか、会場の日光市体育館に向かった。会場入口の表示板には、大きく「平成五年度全国高等学校総合体育大会/第四十七回全国高等学校ボクシング選手権大会」と記されている。  体育館の中は、ふたつのリングが設営され、椅子席、立ち見席とも超満員である。二階席からは、花咲徳栄高校(埼玉)、日章学園(宮崎)、興南高校(沖縄)、東福岡高校(福岡)、新田高校(愛媛)、作新学院(栃木)、南京都高校(京都)など、有力校の横断幕や部旗が下がっている。  リングには、色とりどりのランニングシャツ、トランクスを身につけた選手たちが登場し、流れ作業のようにばたばたと試合が進み、終わっていく。永田の出場するフェザー級でいうと、三日、四日の一、二回戦だけで三十試合が組まれている。  リングがふたつあると、ゴングの音がまぎらわしく、どうも試合に集中できない。大規模の大会となればこのようなものにならざるを得ないのだろうが、やや味気ないような気がする。それでも、体育館の内外とも、シャドーボクシングを繰り返す選手たち、応援団、地元の女子高校生たちの姿が溢れ、終日、喚声とざわめきが絶えなかった。  脇浜に対し、心底ボクシングが好きなんだと、改めて思う。客席から遠くのリングを交互に眺め、見知らぬ選手の動きを食い入るように見詰めている。試合が白熱すると、 「そこで行って!」 「ラッシュ!」 「右、返して!」 「見んと行く!」 「審判、ローブロー取らんかい!」  などと、身振り手振りで声援を送るのだった。  その日、一回戦に出場した神戸国際大学付属高の選手の成績は一勝二敗であった。付属高の最後の選手の試合が終わったところで、兵庫組はバスで宿舎に引き上げることになった。風呂、夕食、ミーティングと、昨日と同じスケジュールの時間が過ぎていく。  木下、永田、三井は、体重コントロールもうまくいっていた。やや顔が青白いのは、減量のせいである。口数が少なく、一見、沈んだような様子は、試合を間近にしたボクサー特有のものである。ことここに至っては、語ることもない。  部屋でのミーティングが済んで、脇浜がゴロンと布団に横になったとき、「イテテテ……」と声を出してわき腹を押さえた。例のボディ打ちで痛めたものであろう。すかさず木下がいった。 「医者に行っとるのか」 「こんなもん、ほっといたら治る」 「行かないかんと何回もいっとるやろ。もうジジイの躰なんやから」  教師と生徒の会話としてはまるで逆であった。 「ワシのことは心配せんでええ。お前さんが明日、ええ試合をすりゃいいんだ」 「うん、ええ試合はする。けど教えてもろたこと、みんな忘れたような気ィするわ。うまい試合はようせんで」 「それははじめから期待しとらん」 「それじゃミもフタもないやん」  そんなふたりのやり取りを聞いていた前橋と永田と三井が声をたてて笑った。前夜は上々の雰囲気で暮れていった。  翌日、午後一時。試合時間が迫ってきた。  まずフェザー級の永田が選手控室に向かう。パンツの上からノーファールカップをつけ、上から黒のトランクスをはく。トランクスと黄色のランニングシャツは、この大会用に新調したものである。背中に大きく、「兵庫」と記された布切れが縫いつけてある。バンデージを巻き、グロービング室に入る。  ここに係員がいて、バンデージの中に異物が入っていないかどうかを確認し、紐の結び目をテープでとめる。これで封印しましたということで、もう巻き直すことは許されない。別の係員が、数試合前の選手が使ったグローブにドライヤーの熱気を当てて、中を乾かしている。前橋がこれを受け取り、永田が手を差し込むと、紐を堅く締める。さらにヘッドギアの紐も何度か締め直す。すべての準備が終わった。  リングサイドで、脇浜の差し出す両手に、永田は軽くジャブを繰り出した。 「それでええ。ええで。チャンスだと思ったらメチャメチャ行く、な。切れたらタオル投げてやるからな」  脇浜のアドバイスに、若者はこっくりうなずいた。  セコンドはひとり。前橋がついた。ゴングと同時に、永田は突進した。最初の右フックは大きく空を切った。対戦相手の坊主頭の選手は、驚いたという表情を見せた。身長は永田より低いが、がっちりした躰つきをしている。選手一覧表には、北北海道・旭川工業高校/森康彦と記されている。  リング中央で、両者、二度、三度と打ち合う。永田は再度ラッシュに入った。ショートパンチを決め、同時に相手からクロスカウンター気味のパンチをもらった。これは好試合になる、と思ったときだった。レフェリーが試合を中断、永田に注意を与えている。なにがどうなのか、わからない。試合再開。ふたりがもつれ合う。レフェリーが再度、ストップをかけた。審判席に向かい、中央に戻ると、青コーナーを指した。永田の反則負けだった。永田の姿勢が低く、バッティングの反則ということらしい。  脇浜は近くの客席から真っ赤な顔で怒鳴った。 「ダッキングしているだけじゃないか。どうして反則なんだ!」  もう判定は覆らない。厳密にルールを適用したということなのだろうが、この三年間の終着点にある試合としては、あまりにもあっけない幕切れだった。 「負けは負けでもええ。が、これじゃ、子供に説明できん」  脇浜は、客席をかき分けながら、兵庫の選手たちが座っている客席に向かう。そこへ永田も戻ってきた。 「アホウな審判もおるということや」 「気にせんでええ。なんにも負けとらん」 「これまでやってきたことが大事や。こんな結果、忘れてしまえ」  脇浜と北浦のそんな言葉を、若者は黙ってうなずきながら聞いていた。いつもの淡々とした表情だった。ひと息おいて、若者はいった。 「ここまでこれたし、いいんです。帰ってもボクシング続けます……」  ウェルター級の三井は、一ラウンドRSC負けした。兵庫勢の敗戦が続いている。  木下の相手は、福島・福島農蚕高校の佐藤貴広という選手だった。身長は木下より頭ひとつ高い。ヘッドギアから、精悍な表情がうかがえる。  低い姿勢で飛び込んだ木下の連打で試合がはじまった。佐藤も打ち返す。木下の連打と佐藤のカウンター気味のストレートの応酬となった。タイプは違うが、好ファイトとなった。佐藤のパンチは威力がありそうだ。佐藤のアッパーが決まると、木下の顔が反り上がる。が、例によって、いさいかまわず木下流の突進。手数でやや木下リードか。  二ラウンド。後半になって木下が守勢に回った。県大会における保井戦がよぎる。「やりよったか」。横に座った脇浜のつぶやくような声が聞こえた。立て続けに佐藤のパンチを浴びて、木下の顔は真っ赤。これ以上ない必死の表情が垣間見える。はっきりと佐藤が優勢だ。  三ラウンド。木下は勝負に出た。低い姿勢から前へ前へと突っかけていく。また保井戦を想起する。けれども、あの日と比べるとスピードがない。足がばたばたとした感じで、パンチが流れ気味だ。頭の下げ過ぎで、減点を取られる。再開。また一気のラッシュ。再度のラッシュ。脇浜は声を出さず、「うーん」と|唸《うな》っている。佐藤のアッパーを食らいながら、木下が右フックを返したところで終了ゴングが鳴った。  五分か、やや佐藤優勢か。  判定は佐藤だった。リング横に、採点の数字をはめた掲示板がするすると上がる。ふたりの審判は59対58、60対57で佐藤、ひとりは逆に59対58で木下の勝ちとしていた。  顔を歪めながらリングから降りてきた木下は、そのまま足早に医務室に向かう。やはり故障があったようだ。脇浜もすぐ後を追った。  しばらくして、左わき腹に大きな白い|絆創膏《ばんそうこう》を貼りつけた木下が、兵庫の選手たちが待つ客席に戻ってきた。 「多分折れとるみたい。でも。しゃあない。精一杯やった」  うしろで、脇浜がにこにこ顔で立っている。木下の肩に手を置いて、その肩を揉みながらいった。 「ようやった。ええ試合やった。まあ、根性だけはあるわ。空回りはしとるが」  それだけいうと、脇浜はまたリングのほうに戻っていった。  木下の顔が歪むと、眼の下に透明なものが溢れてきた。 「オッサンが……あのワッキーがはじめて|褒《ほ》めてくれよった」  そういうと、若者は立ったまま、小さく肩を震わせ続けていた。  西高の三人はいずれも一回戦で敗退した。  夜になって、旅館入口にあるソファーに、脇浜、前橋、私の三人は座り込んでいた。ホテルまで行ってもらうタクシーを電話で呼んだのであるが、なかなかやってこない。神戸国際大学付属高校の部員は、四人のうち一人が一回戦を勝って、明日の二回戦以降に進むことになった。西高組は本日で予定終了である。明日、前橋が部員を引率して西宮まで帰ることになった。  北浦が、上がり|框《かまち》のところに置いてある赤電話から電話をしている。学校関係者のようだ。今日の試合の報告をしている。もう一本、電話をかけた。口調から彼の家であるようだ。  北浦の電話が済むと、今度は脇浜が立ち上がって、赤電話に小銭を入れた。ちょっと躊躇して、それからダイヤルを回した。 「ああ海老さん、こっちは全滅や。そっちは?……ああそう、案の定やな。……そうか、うん、明日は顔出すよ……」  短いやりとりをして、脇浜は受話器を置いた。ようやくタクシーがやってきた。  その日も雨が続いていた。ヘッドライトに夜道が黒々と光っている。車はゆっくりと市街地に向かって走っていく。 「受話器上げてから、ああ家にかけても誰もおらんのだと思って……。こんなとき、かける相手のある人が|羨《うらや》ましいね」  そういって、しばらく、脇浜は黙っていた。 「六十歳の定年まであと八年か。ほかにもう、なぁーんにもないもんな、生きがいなんて。だからね、なんだかんだいっても、あのガキどもに手を合わせて感謝せにゃいかんのよね、クックックッ……。この頃思うんですわ。教育なんてもんはないんだと。せいぜいあるのは、こっちが汗をかいてやってみる、子供にやらせてみる、褒めてやる、その繰り返しじゃないのかって。いまそんな場がほとんどない。それが問題なわけでしょう」  ——案の定というのは? 「いや、中村がサボっておらんというのよ。案の定や。同じ一年坊主でやってきて、三井は日光まで行った。三島は県大会で三位になったから国体近畿ブロックの試合に出る。自分はなんにもない。がっくりしてサボっとるんよ。心配していた通りや。明日帰ったら気合い入れないかんなぁ、クックックッ……」  そういうと、脇浜は煙草に火をつけ、車の窓ガラスを大きくあけた。細かい雨滴と一緒に、ひんやりとする空気が流れ込んできた。一九九三年八月。脇浜の夏はまだ終わってはいなかった。 [#地付き](了)

   あ と が き  本書は、定時制高校におけるボクシング部の活動を綴ったノンフィクションである。主人公は、部の顧問である高校教師であり、部創設以来、約十年に及ぶ彼の悪戦苦闘を記した物語ともなっている。  私がこの学校に通いはじめたのは、一九九〇年春であり、それ以前の事柄を含め、本書では一九九三年夏までの出来事を記している。  当初、このような長い期間、この学校に通うことになろうとは、思いもしなかった。およそノンフィクションと呼ばれるものは、出会いがあり、思わぬ展開があり、人々との付き合いを重ねるなかで、結果として、ひとつの作品が生まれるものであろう。本書もその通りの道筋をたどった。  この間、私をこの学校に引きつけてきたものは、主人公である教師の、広い意味における〈人格〉であるように思ってきた。彼への批判を記している箇所もあるが、本書がこの中年教師への〈共感〉に支えられていることは明らかであろう。ただ、書き終えてふと差し込んでくる別の想いもある。この教師の歩みに比肩するどのような体験も私は持ち合わせていないが、青年期から今日までの歩みは、私もまた|敗者復活戦《リターンマツチ》の道を淡くトレースしていたのかもしれないと。それが、奥深いところで、この学校に引きつけられてきたものであったのかもしれないと。  本文中でも触れたところであるが、この学校のボクシング部の試みが、いまいわれる「教育問題」や「青少年問題」の指針となりうるものであるのかどうかという点はよくわからない。私が確実にいえるのは、以下の三点であるような気がしている。  この学校に出入りした期間、私は折々に「学校」という言葉を想起したこと。そして、すべてとはいわないまでも、部の活動にかかわった生徒たちに、思い出に足るものを残していること。さらには、彼らのこれからの長い人生においても、この教師のような存在に出会うことはおそらくはないであろうということである。  本文中に登場する名前は、イニシャル名を除き、すべて実名である。当時、また現在も含め、未成年である生徒たちが含まれている。その点で躊躇するところもあったが、少なくとも私自身が、一度以上会い、こちらが書き手であることを伝え、書く了承を得て付き合ってきた生徒たちを匿名にするのはむしろ非礼であると思い、そのような判断をした。なお、イニシャル名・実名を含め、未成年等の事情を鑑みて、配慮した点もいくつかある。ご寛容ご賢察いただければ、と願っている。  本書の出版にあたっては、文藝春秋第二出版局の藤沢隆志、島津久典、デザイン室の坂田政則の各氏にひとかたならぬご尽力をいただいた。もともと出版局では、斎藤宏氏、ついで浅見雅男氏にご担当いただきながら、脱稿が遅れに遅れ、“三代目”に当たる島津氏の手をわずらわすことになってしまった。もう三か月、もう半年と、この部の動きを見たかったからというのはほとんどいいわけであって、責任は筆者の怠惰のせいである。これで負債を完済したとは思っていないが、少しは軽減されたようにも思え、ほっとしている。またこの間、終始貴重なアドバイスをしてくれた白石一文氏に、社の友人各位を代表する形で感謝しておきたい。  最後になったが、本書の主人公である脇浜義明氏、西宮西高校の先生たち、ボクシング部員、OBたちなど、長い間、胸襟を開いて筆者に付きあってくれたすべての関係者各位に深い感謝の意を表する。  一九九四年 秋 [#地付き]後藤正治    番外篇 フェルナンデスの男——一九九五年

 詩人・石原吉郎に、「フェルナンデス」というタイトルの詩がある。  石原は長くラーゲリの囚われ人となり、その固有の体験を深く|反芻《はんすう》した詩は現代詩のなかで確固たる位置を占めた。  ところで、私は石原の遺した一連のエッセイのファンであるが、詩の愛読者ではない。メタファーの使い方に特有のものがあって、理解が行き及ばない。あるいはその峻烈なる「断念」をうたいあげた詩に、うなだれる他はないものを感じて敬遠していった。  そんななかで、フェルナンデスは例外である。全詩集のなかでも、あたかも冬に咲く寒椿のように、そこだけポッとした明りをたたえて存在している。   フェルナンデスと   呼ぶのはただしい   寺院の壁の しずかな   くぼみをそう名づけた   ひとりの男が壁にもたれ   あたたかなくぼみを   のこして去った   〈フェルナンデス〉   しかられたこどもが   目を伏せて立つほどの   しずかなくぼみは   いまもそう呼ばれる   ある日やさしく壁にもたれ   男は口を 閉じて去った   〈フェルナンデス〉   しかられたこどもよ   空をめぐり   墓標をめぐり終えたとき   私をそう呼べ   私はそこに立ったのだ  ずっと以前に出会ったこの詩を、最近になって思い起こすようになった。ふっと、フェルナンデスの像と重なるような男と出会ったからである。  脇浜義明という。兵庫県西宮市にある定時制高校・市立西宮西高校の英語の教諭である。十年前、学校にボクシング部をつくり、その顧問をつとめてきた。拙著『リターンマッチ』の主人公をつとめていただいた教師である。私としては、本書ではボクシングを描きたかったわけではなく、ましてや教育問題を論じたい意図もなく、この教師の人間に引かれてノンフィクションを書いたというのが動機のすべてである。  スペイン風といおうか、深みのある浅黒い顔立ちに口髭が似合っている。愛想はない。頑固一徹な中年男というのが第一印象である。ときおり、話の語尾に、苦笑とも自嘲ともつかぬ、クックックッという小さな笑いをはさむ。  付き合っていけば、ちょっと並外れた力量の持ち主であることが容易にわかる。  それはまず、彼の個人史に由来している部分が大であろう。昭和二十年代前半、神戸の下町・新開地で少年期を過ごす。母子家庭で育ち、父親の顔は知らない。中学生時代から一家の大黒柱として働き、かつ極めつきの不良少年として成長する。  中学卒業と同時に川崎重工の養成工となり、以降、さまざまな職を転々とする。定時制高校に入り、はじめて活字に親しむことを覚える。神戸外国語大学の二部を出て、定時制高校の教師となる。彼にとって学校というのはほとんど夜学を意味した。  組合活動家となり、さまざまな問題で成果をあげるが、満たされない。なによりも彼が愛してやまなかったゴンタクレたちが少なくなった。ひ弱く、|虚《うつ》ろな定時制高校生たちが年々増えてきた。体力や喧嘩においても、進学校の生徒たちに負けてしまう。いったい、教師ってなんだ。授業もなにもかもがむなしい。  脇浜は組合新聞に次のような一節を寄せている。   《わるい通知簿を持って帰っても、親は笑っただけだった。学校の成績では金持ちに勝てないことをよく知っていたし、その点で子供に勝負させる気もなかったのだろう。しかしケンカに負けて帰ってきたときは怒った。もう一度出かけて殴り合ってくるまで家に入れなかった。だから貧乏人の子は成績が悪いがケンカには強いというのが通り相場だった。それは人生に必要なことだった。なけなしの誇りだった。いつの頃からか貧乏人の子がケンカに弱くなった。京大がアメフトに優勝したのは象徴的だ。唯一の誇りであった肉体と腕力からも疎外されたら、ぼくらには一体何が残るというのだ。ゴンタクレが消えるとき、やさしさも失われていく……》  その「解決」を、男は肉体のぶつかり合いに求めたのである——。 『リターンマッチ』は、この教師とボクシング部員たちの物語である。男の情熱は、当然というべきであろう、再三再四、空転する。彼らは通じ合いながらも、|齟齬《そご》をきたし、傷ついていく。あるいは、遠回りしながら触れ合っていく。本書のほとんどを、男と少年たちとの関係性を書くことに費やしている。  物語は一九九三年夏までのことを記しているが、それ以降も、西高ボクシング部にはさまざまな出来事があった。男の言を借りれば「同じこっちゃ。裏切られてばっかりで」というのであるが、それは彼特有の言い回しであって、ヒゲ先生とゴンタクレたちの攻防が途絶えることなく続いているということである。  阪神大震災は西宮を直撃した。死者だけで千人を越えた。震災は西高ボクシング部にとっても衝撃であったが、男と少年たちの間に、ちょっとした新たな関係性を付与したようにも思える。余話として、そのことを記しておきたいと思う。  私が西高を訪れたのは地震三日目、一月十九日である。雑誌の取材にかこつけてであったが、親しく付き合った部員や先生たちの安否が気遣われ、まっさきに足を向けた。そのことが確認できたのは後日であったが、幸い在校生と教員のなかでは死者は出なかった。ただ学校事務長が倒壊家屋の下敷きとなって亡くなっている。  脇浜は神戸市北区に住んでいる。十九日の段階では、道路は寸断され、電話もつながらない。学校に脇浜の姿はなかった。顔見知りの教師に脇浜の名前を出すと、「連絡が取れないのですが、あの人のことだから大丈夫でしょうよ」という答えが返ってきた。それで私も納得してしまっていた。  根拠もなにもないのだが、脇浜については、家が倒壊しようとなお|瓦礫《がれき》の中から這い出てくるかのごときイメージがあって、ほとんど心配はしていなかった。後日、自宅の倒壊はまぬがれたことを聞く。ただ「ワシのことは誰も心配しよらん」という愚痴を聞いて、悪いことをしたようにも思ったのである。  部員たちの活躍ぶりも耳に入ってきた。  三井清司君。三年生。初対面のとき、「取り柄はガッツと根性です」といった。屈託のない若者である。  あの日、西宮市内にある自宅は半壊した。避難先の小学校に向かう途中、全壊した家の下敷きとなったおばあさんを見た。 「助けて、助けてやって!」  という家族の悲鳴が聞こえる。付近にいた数人の男たちと一緒に救出に当たった。瓦礫の中から引きずり出そうとして握ったおばあさんの足の感触を生々しく覚えている。  彼の父は、大火災に襲われた神戸・長田区にあるゴム工場で働いていた。会社の建物は無事だったものの、機械がつぶれ、自宅待機の状態が続いている。また長田で一人暮らしをしていた祖父の姉が、倒壊したスーパーの下敷きになって亡くなっている。  蔵本圭介君。四年生。口数の少ないおとなしい感じの若者である。  宝塚市の市営アパートに住む。アパートは無事だったが、倒れてきた|箪笥《たんす》などで部屋はめちゃめちゃになった。揺れが一段落して、外に近所の人たちが集まったが、隣の一人暮らしのおばあさんの姿が見えない。なにかの下敷きになって動けないのではないか。  部屋のドアを叩くも反応がない。兄と二人、ドアを蹴破って飛び込むと、おばあさんは|箪笥《たんす》の下敷きになって息も絶え絶えの状態だった。外に担ぎ出し、車で病院まで運ぶ。腰骨の骨折という重傷だった。彼らがドアを蹴破らなければ亡くなっていたかもしれない。  部のOBを含め、類似した話を他にもいくつか耳にした。  彼らは一九七〇年代半ばの生まれである。離婚家庭であったり、さまざまな問題を抱えた生徒が多いとはいえ、生まれたときからモノだけは溢れていた。水や食料の欠乏を体験したのは今回がはじめてである。数多くの死傷者に身近に接したのもはじめての体験である。  脇浜が今回、長田地域の惨状を見てまず浮かんだのは、敗戦直後、母親の手に引かれて目撃した新開地の空襲跡だった。「またか」というのが、最初に浮かんだ言葉だったという。  決定的な時代体験の相違が両者にある。そういう世代の落差が、|擦《す》れ違いや空回りを生んだ遠因であったことも間違いのないところであろう。  いま私は、ちょっとした空想に誘われている。  脇浜によれば、生徒たちがかかわった救出劇にあたっては、「ワルほど役に立っとる」ということになる。ただし、全面的な評価は下していなくて、 「瓦礫の中から助け出しました、遺体を運びましたといっても、目をそむけて足を持ちましたという話ばっかりや。遺体を運ぶときはきちんと両手で頭をもって運ばんかいといってやったんだが……。まあ、怖いんやろな、わかるけどな、クックックッ……」  というのである。  口調は苦いものではない。部員たちの多くが、少なくとも修羅場にさいして逃げることはしなかった。それは、ひょっとして部の活動にかかわってある思わざる成果であったのかもしれない。もしそうであるなら、男の機嫌がいいのもうなずけるというものである。  少年たちのなかで、震災の体験は長く残っていくだろう。体験がなんであったかを知るには、時を要する。反芻し、追想し、消えかかるなかで呼び起こしながら、体験はひとつの意味となっていく。それはまた視野の広がりや他者への理解力の深さにもつながっていく。とするなら、彼らにとって、頑迷固陋と映っているに違いないこの中年教師の像にも、新たな理解を及ぼす契機となるのではないか、と。  二月二十六日、日曜日。西宮西高校の体育館で、兵庫県ゴールデングローブ選手権大会が開かれた。毎年この時期に開かれているアマチュアボクシングの大会であるが、観客席には例年にない顔ぶれが並んでいた。  震災で家を失った被災者たちが、講堂で生活を続けている。大会はその「慰労」という趣旨を込めて開かれた。選手の参加費や医師への謝礼などもプールされ、義捐金として寄付された。脇浜のアイデアだった。  部員たちは、授業や練習時間の前に、水運びや救援物資の配給を手伝うボランティアも続けてきた。  私にとって見慣れた試合風景ではあったが、この日ばかりは、リングに登場した高校生たちが、ひと皮もふた皮もむけてやけにたくましく映ったのである。  つい先日、学校に顔を出すと、脇浜がひどく怒っている。震災にかかわってのことである。  講堂で生活することを余儀なくされている被災者たちは、一時期の三分の一、六十数人にまで減ってきたが、残っているのはどこにも行く先のない高齢者がほとんどである。  脇浜によれば、行政当局は学校施設からの追い出しを意図しているという。また被災者たちの子弟の学校給食費の負担が問題となっていて、その日、教育委員会に交渉に行ってきたという。 「お前ら、前例がなければ何ひとつやらんというのか、と怒鳴り上げてきたんやが」  と、いまだ怒りさめやらぬ表情でいうのだった。男の日々は、変わることなく続いていた。  ヒゲ先生とゴンタクレたちの日々も、これまた途絶えることなく続いている。  昨年入部してきた新二年生たちは、毛髪を指していうなら「赤や金色ばっかり」だ。警察ざたを起こしている少年もいる。 「あの子には次の試合でなんとかひとつ勝たしてやりたいのよ」  という。それはこれまでに何度となく聞いた台詞であった。  彼らはこれまで、受験戦争や家庭環境やさらにはスポーツにおいても、勝つことを味わったことがないのだ。勝つことが大きな意味をもつことが人生にある。それに、勝てば部をやめない。勝てばボクシングの練習がおもしろくなる。夜の溜まり場にも行かなくなる。そういう意図を込めた、顧問教師の勝利への願いなのだった。  裸になれば、むしろひ弱な躰つきの少年たちがリングに上がっている。  脇浜はリング下から叱咤を繰り返し、やがてもどかしげに両手にミットをはめてリングに駆け上がっていく。 「なんじゃ、そら。もっとしっかり打たんかい!」 「このクソジジイと思って打ってこい!」 「よっしゃ! それや!」  この三年間、耳なれた声が、リング周辺に飛び散っている。変わったことは、男の髪の毛が随分と白さを増したことである。  このような日々が、果たしてどのような普遍的な意味をもつのかということに関しては、正直、いまも私にはよくわからない。現在いわれる教育問題や青少年問題の指針となりうるものかどうかと訊かれたとしても、さて、と口ごもってしまう。もしそうだといえば、脇浜のほうがきっと照れて逃げ出してしまうことだろう。  人は人に対して、そうたいしたことができるわけではない。教育も|畢竟《ひつきよう》、人間の関係であるならば、例外ではありえない。が、それでもなお、人は人から、ひとつの〈契機〉を受け取っていく。それが、時として思わぬところに人を導いていく。そして、たとえ短い期間であっても、またたとえ擦れ違いのままに終わったとしても、この教師に接した少年たちに、なにものかを刻んできたことは確かだと思われる。フェルナンデスが寺院の壁に残した《しずかなくぼみ》のような——。    (『文藝春秋』95年6月号 大宅壮一ノンフィクション賞を受賞し、編集部の求めに応じて寄稿)   文庫版あとがき 記憶——二〇〇一年

 久々の市立西宮西高ボクシング部だった。いや、二〇〇一年四月から兵庫県立西宮|香風《こうふう》高校と校名が変わった。西宮西高は定時制であったが、香風高は午前、午後、夜間に授業をもついわゆる単位制高校となっている。定時制高校の統廃合の流れに沿ったものであるが、勤労生徒の仕事が昼間とは限らない時代、単位制高校はそういう世の移り変わりに対応しようとする試みでもある。  校舎と運動場を含めた配置替えと建て替えが行われ、新校舎の正面入口など、どこかの会館のロビーに来たかと思わせるほど、様変わりしている。  格技場も新しい建物になった。リングやサンドバッグなどは旧来のものが使われているが、真新しく映る。初代からいえば三代目のリングということになる。  脇浜義明が、古ぼけた道場に手づくりのリングを作ったのは十七年前のこと。以降、部活動を続けた卒業生がいない年もあったが、この部にかかわった部員たちは、年間数人としても延べ百人は超える。初期の卒業生はもう三十代の半ばとなっている。随分と時は流れた。  ただ、リング周辺の風景は変わらない。訪れた日、他校との練習試合が行われていた。 「踏み込んで! 左!」 「腰が浮いとる! 下からや!」 「すぐ! 先にいかんかい!」  リング下から、口髭の男が、身振り手振り、大声を発する。頭髪がほとんど白くなったことを除けば、私には見慣れた光景だった。  金髪の部員がリングに上がっている。金髪などいまや驚かないが、耳たぶからピアスが下がっているのには少々驚く。  試合を終えた選手がリングから降りてくる。全身から汗が吹き出し、したたり落ちる。打ちのめされ、下を向いたままの金髪の部員。 「ようやった。ええ試合やった」  男はニヤと笑う。さらに破顔一笑となって部員の背をどんと叩く。それもまた見慣れた光景だった。  おい、そのピアスな、牛のように鼻につけてみたらどうだ——男のジョークに若者は逃げ出して行った。  阪神大震災以降、部にかかわって特記すべきことはいろいろとある。  震災の年の夏、西宮西高ボクシング部は久々、県大会で総合優勝をとげ、|塾山《みのりやま》竜一(フライ級)、三島直(バンタム級)、中村友信(ライト級)、三井清司(ライトウェルター級)の四人が、岡山で開かれたインターハイ全国大会に出場した。塾山はフライ級のチャンピオンとなったが、ボクシング部開設以来はじめての快挙であった。  塾山、および三島の二人は卒業後、プロボクサーになる道を選び、いまプロという世界で奮闘している。塾山は全日本バンタム級の新人王にもなった。部からプロボクサーが生まれたのもまたはじめてである。  そんなこともあってだろう、西高ボクシング部のことはテレビメディアでも随分と取り上げられた。  定時制高校には珍しく、入学希望者も多く、ボクシング部員も増えている。女子部員の姿を見るようにもなった。  落ちこぼれ、虚弱、いじめ、不登校、引きこもり……病んだ少年少女たちの姿が大きな社会問題として肥大している。社会的な要因なり処方箋が折々に提示されながら問題は深刻化するばかりだ。  言葉ではなく、生徒たちと裸でぶつかり合う。いまの世にある希な場所。西高ボクシング部が目を引くのはそのせいもあったろう。“金八先生物語”——。  けれども、過剰な評価は滑稽であるし、過小な評価もまた誤りであろう。  脇浜が生徒たちに残したものは、小さな〈|埋《うず》み火〉ではなかったか。いま振り返ってそう思う。  本書に福原克司郎という若者が登場する。ボクシングセンスに溢れた若者で、新人王にもなったが、長続きせず、中途半端なままに部から去っていったことは第五章で記したとおりである。  最近、この若者について、脇浜は思わぬ消息を耳にした。  阪神電車のプラットホームで、身なりのいい小太りの中年女性から声をかけられた。見覚えがない。「カツシローが随分とお世話になりまして……」といわれたところで、福原の母であることを思い出した。彼女もまた、往年の教え子であった。  母によれば、克司郎はいま、山陰地方に住んでいる。無線技士の試験を受けて合格し、蟹漁の漁船に乗っているとのことだった。先般、脇浜の登場するテレビドキュメンタリーを見てひどく懐かしがり、シーズンがきたら蟹を送りたいので先生の自宅の住所を調べておいてほしいといわれているというのである。  途中で去っていった部員のその後を知ることは少ない。彼が新たな世界で一人前の社会人として生きていること。彼女の身なりも、母と子の現況の一端を伝えているようである。  良い知らせであった。ひょっとして、かつてともに汗をかいた日々が、若者がなにかと出会うことにかかわりあったのではないか。そう思うことは許されるだろう。脇浜にとってそれは、遠い日に買った外れ馬券が利子をつけて戻ってきたごとく、これ以上ない吉報だったのである。  ——格技場での練習は続いていた。  ソファーに腰を下ろし、脇浜は中華弁当の「王将」に箸をつけ、食べ終わると葉巻に火をつける。例によって欠けた茶碗が灰皿代わりだ。  訊けば、「王将」には三年生の部員の一人が勤めており、脇浜のために毎晩ひとつ、もってくるのだという。葉巻は、先頃卒業していった四人の卒業生が、煙草好きの脇浜に贈った記念の品だった。  脇浜のズボンのポケットから、しわくちゃになった手紙が出てきた。卒業生の一人、真木大作の母よりのもので、住所は北海道|勇払《ゆうふつ》郡|早来《はやきた》町となっている。四年間の脇浜の指導に対する礼状であった。   《……大作の四年間と先生の退職前の四年間が重なりました。……大作が先生に背を向けない限り、先生が大作に背を向けることはない、そう言い聞かせておりました。……ぶつかってほしい、逃げないでほしい、いじけないでほしい、やめないで、あきらめないでほしいと願っておりました。……バイク事故も起こしたり、先生の白髪を増やす生徒の一人であったと思います。……大変でしょうが、体の続く限り、無理をなさらず、子供たちとのかかわりを続けていってほしいと願っております》  脇浜によれば、大作は早来町にある牧場の「悪ガキ」で、中学時代、はや煙草を吸っていたそうだ。ボクシングが好きで、この学校のことをどこかで知り、やってきたという。  真木大作が主将をつとめた昨年度、西高ボクシング部は県大会では六階級を制して総合優勝、真木自身は近畿地区のライト級チャンピオンにもなった。スポーツ推薦で大阪の桃山学院大学に入学し、大学でボクシングを続け、ときおり西高にも顔を出すという。他の三人の卒業生もボクシングという一芸を生かして大学に進んでいる。  しばらくして、私はこの北海道からきたという若者に会いに行った。  大阪のホテルの喫茶店で向かい合う。きらきらした目をした若者だった。いま、自身のやるべきものを確かにもっている。そんなものが伝わってくる。会っていて、気持が良かった。  手紙や脇浜の話にある通り、父はノーザンファームという競走馬を育成する牧場で働き、母は町の図書館に勤務しているという。中学時代、相当のやんちゃ坊主で、勉強というものにからきし興味がもてず、授業を抜け出しては体育館で遊んでいた。唯一、興味を抱けたものがボクシングだった。少年らしい強さへの憧れで、中学を出てすぐ、どこかのボクシングジムに入る道も考えていた。  そんな思い出を聞いたあと、私は尋ねた。  ——で、どうしてわざわざ兵庫県の学校に来たのです? 「あなたの書いた『リターンマッチ』を読んだからですよ」  ボクシング好きの息子のために、母が図書館から借り出してきてくれた本だった。高校に進学しつつ、好きなボクシングをする道もあるよ、といわれた。それは彼にとって生まれてはじめての読書であった。  思いもよらない答えだった。これまで、拙著に対し、読者からさまざまな声を届けてもらってきた。ただし、目の前で、拙著を読んで自身の進路を決めたという人物に会ったのははじめてのことだった。  ——で、そのことはよかったのでしょうか?  一瞬、答えに間があった。とても長い時間に私には感じられた。 「もちろん、百パーセント良かった」  ほっとした。それはかつてない種の安堵感であった。  もちろん、この本が進路を決める契機になったとしても、それを良きものとしたのは、脇浜であり、西高であり、結局は彼自身である。  中学卒業を前にした四年前の春、まずは母が電話で脇浜と連絡をつけ、父と一緒に空路、西宮にやってきた。初対面では、脇浜はあまりものをいわなかったが、本の通りの先生とは思った。  父は、自身の進路は自分で決めろという考え方の持ち主で、やる限りはやり通せとだけいった。母も同じであった。  西高への入学は問題なかったが、住む場所と仕事先を見つけなければならない。幸いというべきか、震災の余燼がくすぶる当時、神戸界隈の建設業界は好況で、求人誌を見て尼崎市内にある建設会社の寮に住み込んだ。二年後、不景気になって会社が傾き、以降は引っ越し屋やうどん屋のアルバイトをしながら神戸市内でアパート住まいをしてきた。  四年間の戦歴は、四十三戦三十五勝八敗。ボクシング部の思い出の断片を耳にしたが、それは本書で記したことと多分に重なっている。  ——脇浜先生との一番の思い出はなにになりますか? 「練習終わって、毎晩のように一緒に風呂に行って帰ったことですかね。バーベキューも一緒に食べたし、クルーザーにも乗せてもらったし、ほんと、いまとなっては楽しい思い出ばかりです」  脇浜に会ったとき、しきりにバンデージを巻いた手首を振っていた。しくしくと痛む。長年のミット打ちで、肘も肩も、いまや「ガタガタ」だ。  けれども、また思う。生徒たちに勤務先の食べものを差し入れされ、嗜好品をプレゼントされ、好きな銭湯で背中を流してもらう。いま、そんなことを味わっている教師が他のどこにいるのだろうか、と。 「なんのかんのいうても、あのガキどもがいるからおもろうやってこられたんでね。ボクシング取ったらもうなぁーにもないもん。ガキどもにアタマ下げて感謝せにゃいかんわ」  いつか耳にした台詞であったが、それはまったくもって実感であるに違いない。  男はこの歳月の間に、多くを支払い、また多くを受け取ってきたのである。  桃山学院大学はボクシングではなかなかの強豪校である。西高時代、真木は近畿チャンピオンになったが、そのクラスの選手は部内にごろごろいる。体の堅いのが欠点で、ボクシング技術はうまいとはいいがたい。 「でも、どうやら一年の代表選手にも選ばれそうなんです。脇浜先生の指導は、とにかく気合でいけという“気合主義”と思い込んでいたんですが、意外といってはなんですが、技術指導も悪くはなかったみたいです」  そういうと、真木はおかしそうに笑った。  部活動だけでなく、授業にもよく出ている。学部は社会学部。「生まれてはじめて」勉強し、なにかを学んでいくことに興味をもちはじめている。  先頃、授業中に、携帯電話がブルブルとふるえた。画面を見ると発信者は「ワキハマ」とある。  彼らが卒業する間際、脇浜も携帯電話を持ちはじめたが、中年男のこと、細かい操作がよく飲み込めない。メールの打ち方、入れ方を教えたのは真木たちだった。  脇浜からのはじめての電子メール。言葉は短く、四文字だった。 「走れよ!」  授業中、目を落とし、その四文字を見つめていると、思わず口もとがほころんだ。そして、男と過ごした日々がよぎり、熱いものが走った。  二〇〇一年春、脇浜は六十歳の定年を迎えた。兵庫県教育委員会は、「教育功労者賞」を脇浜に贈った。通常これは、長く校長職にあってとくに功労があったという校長に贈られるもので、一切昇進せず、三十数年間ヒラ教師をまっとうした教諭への授賞はまれである。脇浜の感想は予想した通りのものだった。 「さんざん喧嘩してきた相手に表彰されるなんて気色悪いわ」  加えて、週六時間、英語の授業をもつ講師として高校に残ることも決まった。  ガキのころから働いてきたからもう働くのは嫌——といったん断わったが、それでもといわれて受けた。  脇浜は西宮市アマチュアボクシング協会の役員もしている。西高のリングは協会の練習場を兼ねているから、脇浜が高校退職後もこの格技場に現われてもおかしくない。いや、脇浜の姿がないリングなど私には考えることができない。  それでも、講師という教職ポストがあれば、生徒たちの指導にも名目が与えられ、事実上これまでと変わりはないことになる。リング周辺の風景は今後も続く。真木の母からの手紙にあったごとく、体の続くかぎり、これからも長く、この場所に存在し続けてほしいと私は願う。少年たちのために、また男のために。県教育委員会はまったく正しい決定を下したのである。  二〇〇一年 夏 [#地付き]後藤正治    単行本   一九九四年十一月 文藝春秋刊 [#改ページ]          文春ウェブ文庫版     リターンマッチ     二〇〇二年九月二十日 第一版     著 者 後藤正治     発行人 笹本弘一     発行所 株式会社文藝春秋     東京都千代田区紀尾井町三─二三     郵便番号 一〇二─八〇〇八     電話 03─3265─1211     http://www.bunshunplaza.com     (C) Masaharu Goto 2002     bb020902