七姫物語《ななひめものがたり》  ある大陸の片隅。そこでは、七つの主 要都市が先王の隠し子と呼ばれる姫君を 擁立し、国家統一を目指して割拠した。 その中の一人、七宮カセンの姫に選ばれ たのは九歳の孤児カラスミだった。彼女 を担ぎ出したのは、武人のテン・フオウ 将軍とその軍師トエル・タウ。二人とも、 桁違いの嘘つきで素性もしれないが、 「三人で天下を取りにいこう」と楽しそ うにそう話す二人の側にいられることで、 カラスミは幸せだった。しかし、彼女が 十二歳になったとき、隣の都市ツヅミがカ センへの侵攻を始める……。  第9回電撃ゲーム小説大賞〈金賞〉受 賞作。時代の流れに翻弄されながらも、 自らの運命と真摯に向き合うひとりの少 女の姿を描いた新感覚ストーリー。 高野《たかの》 和《わたる》 1972年生まれA型。2002年、人生半分使った投稿歴 の末、第9回電撃ゲーム小説大賞〈金賞〉を受賞。し かし、受賞作がはったりばかりの大風呂敷なため、受 賞取り消しにされないかと怯える今日この頃。 イラスト:尾谷《おたに》おさむ 兵庫県出身。小さい頃から宮崎駿氏の映画が大好きで、絵に もいろいろと影響を受けている。好きな俳優はナタリー・ポ ートマンとリバー・フェニックス。好きな飲み物は紅茶。イ ラスト以外に風景画なども描いたりする。 目次 序  命月 一月 二節 空澄 七月 三節 雪終 二月 四節 高夏 八月 五節 名無月 十月 六節 雪祭 十一月 七節 終月 十二月 終節 あとがき  序 命月 一月 「この子にしようぜ」  降ってきた言葉にまぶたを開く。  私の頭の上に、背高《せいたか》さんが一人。 「ほら、背筋が素直でさ、着飾れば、いいとこの嬢《じょう》ちゃん出来るよ」  ひょいっと身軽に、背高さんが身を屈《かが》めてくる。  私の顔を覗《のぞ》きこんでくる、笑った口元。 「ようっ、名前なんていうんだ?」  私に向けられた明るい声。  顔を上げて見えたのは、男の人の匂《にお》いがする笑顔。  若い大人《おとな》の顔。彫りが深くて、硬そうな頬《ほお》の骨がくっきりしていた。  華やかに紳びた黒髪の下に、強いクセのある笑い方。  その匂いが怖《こわ》くて、間近な窓掛の後ろへ隠れる。  埃《ほこり》っぽい布地が、私をほとんど覆《おお》い隠してくれた。 「かあっ、逃げたぞ? この俺《おれ》見てよ」  背高《せいたか》さんが声を上げた。空気が揺れるような声。  それがひどく大きいから、私は裳裾《もすそ》を強く引き寄せ、目をつむって小さくなる。  背に当たる閉めきられた窓枠の硬さ。板戸越しの冷気が、私の首筋を撫《な》でてゆく。  冬色の空気。首を縮《ちぢ》める。  堅い木窓の向こう、外は雪催《ゆきもよう》なのだろうか。しばらく、ここを出ていないから判《わか》らない。  背高さんはふくよかな袷《あわせ》の厚着だけど、私や、この施設にいる他《ほか》の子達は、まともな単衣《ひとえ》さ え持っていない。  今日《きょう》、外から来たこの人とは違う。 「やっぱ、顔が派手《はで》なガキにするかな。あとあと楽しめるし」  背高さんの声が恐《こわ》くて、私がさらに身体《からだ》を小さくしようとする。  両|脇《わき》を強く身体に寄せた時 「その子は賢明だよ。君に近づくような女は信用できない」  そう、新しい声がした。  背高さんの向こうから。 「トエ、モテねえからって僻《ひが》むなよ。俺がいい女紹介してやっからさあ」  背高さんが背後に向かって、ひどく気安い声を上げる。  背高さんの隣《となり》に、誰かが、トエと呼ばれた人がやって来る足音。板の間に響《ひび》く革靴。  私は目を閉じているから、どんな人だか判《わか》らないけれど、その新しい声が、何だか優《やさ》しく聞 こえて、両肩の力が抜ける。 「結構だよ。それより、君は女か酒で死ぬと保証するよ」 「ありゃ、刃《やいば》に死すとかさ、策謀《さくぼう》の果てに死ぬとかじゃないの?」 「それは僕が押さえる。が、君の不摂生までは面倒《めんどう》みきれない」  背高さんとトエさんという人の会話がしばらく続いたけれど、何だか騒《さわ》がしくて、私にはよ く判らない会話だった。  ちょっとずつ、目を開いて足元を見る。  素足の自分。大人達の冬作りの革靴。踏まれたら、私が痛そうだった。  しばらくして 「来るかい?」  トエさんの声を耳にした。  やけにはっきり聞こえて、そっと、私は裾間《すそま》から顔を出した。  顔を上げてみる  普通の、ごく普通の人が、私の前に立っていた。  同じ年頃《としごろ》の背高《せいたか》さんを背後にして、短い黒髪とおだやかな表情をした男の人。 「一人だけの女の子が僕らには必要なんだ。ただ必要な時に立っていてくれればいい」  その人は少し身を屈《かが》めて、日線を私に合わせてくる。  元々、大人《おとな》の人にしては小さめな人だと気がつく。 「ここにいるより、少し幸せかも知れないし不幸かも知れない。面白《おもしろ》い世界を見られるかも知 れないし、結局、ここに戻ってくることになるかも知れない。変わった道を、一つ選んでみな いかい? 君に損はさせないよう、努力はするよ」  私は怯《おび》えたまま、その人の目を見た。  一重《ひとえ》の柔らかい目元、だけど、どこか意地悪な年上の男の子に似た目。  それが、真面目《まじめ》そうに私の目を見ていた。  少しすると、その人が目を伏せた。 「悪いが、僕は善人ではないんでね。見つめ合うのは苦手だ」  そう言って、ちょっと大げさに息を吐く。 「テン、やはり君に任す。他《ほか》の子供を当たってくれ」  向けられた言葉に、背高さんがけらけら笑う。 「けっ、ガキ手なずけて嫁作ろうなんざ、十年早いんだよ」 「丈夫そうなのにしよう。あまり将来の保証はしてやれないからね」  もう二人とも私を見ていない。  隠れている私を遣いて、二人の男の人達はどこかへ行こうとした。  多分《たぶん》、ここにいる他の子供を、私以外の誰《だれ》かを連れに行くのだ。  ここにはたくさんの子供がいる。  似たような、私と似たような子がたくさん。 「脅かしてすまない。元気でね」  私に向けられた言葉だが、視線はもう他の子を捜している。  膝《ひざ》を曲げていたトエさんが立ち上がり、それから、ゆっくりと私に背を向けた。  その先では、背高さんの方が、もう足早に去ろうとしている。  不意に恐《こわ》くなった。  真っ暗な部屋の中に残されたように。知らない内に、自分の玩具《おもちゃ》を落としたと気がついた時 みたいに。 「……あっ……」  日の前で小柄な背中が揺れた峙、私は小さく声を上げた。  ゆっくりと、去りかけた背が振り返った。  ほっとする。なぜだか、 「何だい?」  柔らかい声が訊《き》いてくる。 「……あ……」  また恐《こわ》くなる。  何か、何かを言おうとした。言えなくて、俯《うつむ》く。  言葉が恐くて、胸が重くて深い感覚。 「恐かったかい? 悪いね」  ちょっとだけ、振り返った顔が笑った、  声が出せなくて、泣きたくなった。  初めてだった。多分《たぶん》、初めて男の人の困った笑顔を見た。  泣き方も判《わか》らなくて、私は立ちつくした。  ただ、ずっと立っていた。  そのはずだった。  気がついたら、背後から風に乗った生地が頬《ほお》と背中を撫《な》でていた。  すきま風が冷気を呼び込む。  多分、外はもう雪景色。  手の中にざらついた感触。  気がついたら、目の前にいた入の袖《そで》を掴《つか》んでいた。  厚着の外套《がいとう》。目立たない色の広袖《ひろそで》。  袖口を握る自分の指先だけを見る。  振り返って、私を見下ろしている顔は見られない。  目が合うのがとても恐い。 「……名前は?」  答えられなかった。 「僕はトエル・タウ。あいつはテン・フオウ」  私は、ただ、その服の端を強く掴んだだけ。 「じゃあ、君に名前を一つあげよう。どうせ、これから君には新しい名が必要だから」  私は頷《うなず》いたかも知れない。 「カラスミ。僕らと来るならそう名乗りなさい」  聞いたことのある言葉。 「そう、七月の東和詠《とうわよ》み名《な》。空澄《からすみ》だよ」 「おっ、拾ったのかよ、それ」  頭の上から大きな声。テンという人の声。  ゆったりとだけれど、長い足なので素早い背高《せいたか》さん。  去るのも早ければ、戻るのも早い人。  怯《おび》える間もなく、やたらと長い手が私の肩に伸び、ぽんと置かれた。  硬くて大きくて暖かい手のひら。 「よっし、お前、お姫様やれ」   何だか楽しそうな声。  何のことか、考える間もなかった。  背高《せいたか》さんが構わず続ける。 「いいか、俺《おれ》が将軍、コイソが軍師。お前がお姫様な。三人で大下を取りに行くそ」  仲良さそうな相方を傍らにして、どこか高い所に顔を向けて笑い出す背高さん。  私は口を開いて立ちつくしたのだと思う。  天下という言葉が、何なのかも知らない。  目の前の人達が何なのか、聞かされたことが何なのか、頭がいっぱいになる。  ただ、やたら楽しそうな背高さんの高笑いだけが、はっきりと鮮《あざ》やかな光景。  私の中で、知らないことと、知りたいことが溢《あふ》れそうになる。  何か知っていそうな、どこかいつも考え事をしているような、もう一人へ視線を向ける。  困ったような顔。だけど、何だか、楽しそうな顔。  色々なことが、頭と胸をいっぱいにする。  私はその年、九つだったと思う。  歳《とし》始めの一の月、命月《みことづき》。  それが、カラスミと呼ばれるようになる私が、嘘《うそ》つきのトエ様と出会った日のこと。  それから、あの背高のテン様と出会った日のこと。  あの時のことで、私が覚えているのは、これだけ。  全《すべ》てが始まった日のこと。  私達が三人になった口のこと。  三年前のあの日のこと。  三人で見た夢の始まり。  始まりは、ここから。 一節 空澄 七月  耳を澄《す》まさなくても、いつもの朝が始まる。  ほら。 「テン! テン・フオウはどこだ!」  また始まった。  トエ様がいつものように喚《わめ》いていて、私は可笑《おか》しくなってしまう。  どうして、この人達は、いつも同じようにケンカするのだろう。三年間も。  向き合っている大鏡《おおかがみ》の中、来完成の私が笑いを堪《こら》えられないでいる。 「姫様」 「あっ、はい」  背中からの実直な声に、私は背筋を伸ばす。  銅台座の錫《すず》張り鏡面《きょうめん》。映り込む私の影が居ずまいを正す。  朱《しゅ》の丸椅子《まるいす》に座す私。背後から伸びるしなやかな二本の腕が、私の髪を捉《とら》え直す。  声と腕の主は、鏡越しに私が瞳《ひとみ》を向けても、視線を返すことはなく、仕事に専念している。  私付きの女性で、衣装役という一番身近な役目を担ってくれる人だ。  鏡に浮かぶ無表情な衣装役さんは、髪を梳《す》く手を休めない。その様子《ようす》もいつも通り。  鏡の中では、十二歳の私が澄まし顔をして、いつものように手際よくお姫様にされていく。  毎朝寝ぼけ眼《まなこ》の私は、半時近くの時間を掛けて、鏡の中で変容していく。  東和七宮《とうわななみや》という称号を持つ姫殿下《ひでんか》に。 「朝風もさまぬ内から、左大臣は何をしているのでしょうか。将軍もまた懲《こ》りずに軽忽《けいこつ》なこと です」  鏡に向けて、澄まし顔でお姫様の顔をする私。毎朝、着付けが終わる頃《ころ》、こうした言葉で私 は七宮の姫になり変わる。 「お諫《いさ》めしましようか?」  誰《だれ》か近くに控える侍女さんを呼ぼうかと訊《き》かれるが、形式的な問いだ。 「いえ、やらせておきましょう」  あのお二人は懲りないから面白《おもしろ》い人達だ。 「懲りない諍《いさか》いが楽しいのでしょう。あの方々は」  そう続けると 「姫殿下もそのようで」  衣装役さんに返される。  見抜かれている。だから肩の力を抜くと、私の耳元に長い鬢《びん》が付けられ始める。  さらさらとした素直な付け髪。  胸元まで流れる代物《しろもの》。銀の細工|紐《ひも》で毛先が結ばれる古式の髪型を継承した鬘《かづら》。  色は私の地毛の、明るい色合いの黒に合わせてある。  支え留めを含めた髪飾りが組まれる。  本当は肩までしかない私の後ろ髪も、髢《かもじ》が添え加えられることで、背の中程まで届く。  それから、櫛《くし》を通して全体を揃《そろ》えると、衣装役さんが化粧道具を手箱台に置いた。 「終わりました」  澄《す》まし顔が目を閉じ、一歩下がる。 「よいお手並みです」  鏡《かがみ》の中の衣装役さんにお礼を言うと、彼女が私の背に深々と畏《かしこ》まる様子《ようす》が映し出される。  それから、あらためて自分の正面を見据えてみる。  鏡の中にいる私は、本当の私とまるで違う。  艶《あで》やかな裾《すそ》長の姫装束に身を包む、風雅で豊かなお姫様。  刺繍《ししゅう》細工こまやかな羽衣が肩と胸元に広がり、薄青《うすあお》に染めた絹地に涼しげな雪山を思わせ ている単衣《ひとえ》。  夏帯は新緑。季節色に染められた綾絹《あやぎぬ》。  耳元と背中で組まれる古式結いの髪も、淡い白粉《おしろい》の肌も、衣に焚《た》き込んだ香に包まれ、精緻《せいち》 な清楚《せいそ》さを演じてくれる。  涼やかで軽やかな姫君。  小さく小首を傾《かし》げてみる。  からりと、後ろ髪に付けられた色硝子《いろがらす》の短冊《たんざく》が揺れる。  どうして、こうも衣装役さんの千並みは鮮《あざ》やかなのだろう。  根が田舎《いなか》娘なので、高貴さだけは手が届いていない気はするけれど、誰《だれ》も疑わない東和《とうわ》のお 姫様像。  今日《きょう》も、その役が始まる。  静かに息をつく。  耳を澄ますと、まだ室外からトエ様の声が聞こえた。  まだ喚《わめ》いてる。あの人。 「ご苦労でした」  そっと、朱椅子《しゅいす》から身を立たせる。 「左府殿《さふどの》の許《もと》に参ります。取り次ぎは無用です」  左大臣の略称を告げながら、衣装役さんと、その背後に控える侍女さん二人に振り返る。  慣れた様子《ようす》で控える人々に横顔を見せ、私は衣装部屋を出た。  左右に広がる回廊で一人になり、声のする方向を探れば、小柄な背中が板廊下の先に見えた。  肩を震《ふる》わせて進む背後に、早足で駆け寄ってみる。  私の背で、短冊《たんざく》が硝子音《がらすね》揺らめかす。  文官服と呼ばれる、緩《ゆる》やかで動きやすい束帯《そくたい》に包まれた背中へと近づく。  肌をほとんど見せない金身を包む物で、礼服の廉価《れんか》版だとトエ様自身は言う。  それに姫装束の私が追いつくには、少しだけ手間取った。裾《すそ》が長すぎるから。  私も妃殿下仕様の、実務的な単衣《ひとえ》を作ってもらおうと、いつも思う。  多分《たぶん》、ひらひらとか装飾とかが大分付くのだろうけど。毎度、これでは大変だ。 「朝から楽しそうに出かけましたよ」  トエ様の背後にとりつく私。  見たところ、ここにいるのは二人だけだから、言葉づかいに地の私が顔を見せる。 「今日《きょう》は戻らないみたいです。今は亜麻色《あまいろ》の髪の女の人と一緒のはずです」  私が早足のまま告げると 「昨日は黒だったろうが!」  振り返らないまま、トエ様の足が速くなる。  足は長くないけれど、トエ様は短かい距離ではひどく速い。 「はい、中原風《ちゅうげんふう》に云《い》うと、連日相手が変わる円舞《えんぶ》なのだそうです」  私の声も、その足と一緒に速くなる。  見上げる背中はあまり大きくない。  この人は、今年、十二歳になる私に比べて、頭二つほどしか上背がない。  小柄な身体《からだ》は素早く廊下を歩む。 「くっ、あの根無し草め」  また新しい言葉をトエ様は使った。  昨日は確か歩く不渡り手形とか、季節草《きせつそう》とか、テン様のことを形容していた。  季節草というのは、季節が変わると幾《いく》ら探しても見つからないという意味らしい。  テン様がいようといまいと、ほとんど言いたい放題な人だったりする。  回廊内に、トエ様の速い足音が響《ひび》きわたる。  床材が木材なので、音も高い。  ここは平城《ひらじろ》の二階層だから、廊下はそれなりに長かったものの、私達は城内の端から端まで、 すぐに行き着いてしまった。 「ちぃっ、外か」  トエ様は舌打ちして立ち止まり、傍らに開けた窓から外を眺めた。  私もそれにならう。  場外の陽《ひ》ざしには、夏の明るさ。  もう七月の末、季節|詠《よ》み名《な》で言えば空澄《からすみ。  私の名になる外の景色。四角い窓枠から、背が高くなり始めた夏草の群生が望める。  二階層とはいえ、堅固な石造りの土台上にある城は、高い視野を私達に与えている。  見渡す大地は緩《ゆる》やかな丘陵《きゅうりょう》が続く荒れた草原。西の果てに霞《かす》む山々は西方山脈《せいほうさんみゃく》。  大陸の東に位置する、東和《とうわ》と呼称される土地は、今日も豊かな陽の光に満ちていた。  ここは西北都市部の守護城《しゅごじょう》【七宮《ななみや》城】  石造りの城|壁《へき》の上、火矢を通さないというふれこみの、厚い土壁《つちがべ》を表に張り巡らせた木造城。  私達は、その二階の外周廊下を歩んでいた。  ほぼ円陣形の、簡素《かんそ》なお城だ。  城と言うより、本当は中継補給基地と言った方がいいとトエ様は言う。  群雄並ぶ乱世。ここ東和が位置する東部盆地は、中央の勢力争いからこぼれた地方だ。  西から北へ延びる西方山脈に囲まれているため、中原《ちゅうげん》と呼ばれる都の方と隔絶され、大陸 の中央政権からほぼ独立した地方。  人口だけが多く、どちらかと言えば戦国の世の避難所として、中央から逃れる人々の溢《あふ》れる 都市群国家【東和】。  その一つ【カセン】。  東和で七つ目に数えられる宮都市《みやとし》。  その辺境|警備《けいび》の出城《でじろ》として、広野の一角に造られたのが、この城なのだそうだ。  元々は石材で一階層だった物を、トエ様とテン様が木材で二階層や楼閣《ろうかく》を増築したお城。  戦禍がこちらまで無いのをいいことに、城主のテン様が好き勝手やったらそうなったらしい が、私はよく知らない。  内側に広く、外側には狭い角度で組まれた硬質木材の窓枠に、二人で手を添える。  攻められた時、城中から外を窺《うかが》いやすく、囲み手からは攻めにくい工夫。それは私達の視野 を、並んだ位置からの角度で手狭に選ばせる。 「いるか?」  左に立つトエ様には、右手側が奥深くまで見え 「いませんね」  右に立つ私の角度では、左手側が奥深くまで見える。  見える光景は、お瓦い背丈の高い草原だ。  初夏を思わせる朝の光に、のどかな景色。  途中、草の群生が切れるのは小道と塹壕《ざんごう》。  随分先に林や丘が見える。おそらく、そうした光景の向こうにテン様の出払い先がある。  どこかの、豪族の奥様か令嬢《れいじょう》のところ。  ここからは、のどかな広野しか見えない。  小さな牧場ほどの敷地《しきち》を、簡素《かんそ》な城壁《じょうへき》と塹壕《ざんごう》で囲んだこの城は、私が居着いてから二年半、 一度も争いの中に入ったことがない。  何度かテン様が中心で軍事行動や野盗狩りを行ったことこそあるが、兵は常時は三百人足ら ずで、ちょっとした都市|自衛《じえい》団程度でしかないと、大方の人には思われている。  召集すれば、兵力五干は何とかなると、二人が話しているのを聞いたことがあるけれど、実 祭には見たことがない。 「まったく、僕に全権を任せればいいんだ、あいつは僕の指揮下にいるべきだ」  トエ様がまだ喚《わめ》いているから 「でも、トエ様はテン様の軍師ですし」  私は落ち着いて宥《なだ》めた。 「策を授けるにも、本人がいないじゃないか。今日は軍議《ぐんぎ》だと言い含めてあるのに」  いつものように、私達はテン様を捜しつつ、不穏《ふおん》な会話をする。  それから、私は傍らの横顔を見上げた。  まだ若く見えるけれど、大人《おとな》しい顔立ちは、表情次第で何歳にも見える。  黙《だま》ってれば穏《おだ》やかなのに、喚いていると、ひどく子供っぽい顔をする。  人の良さそうな顔立ちなのに、妙に皮肉な顔もする。  その見上げる横顔は初めて会った頃《ころ》から、ほとんど変わらないように見える。ただ、私の背 が少し高くなったから、近くに見えるようになったけれど。  大人なのに、どこか子供っぽい雰囲気もある人。  もうすぐ、二十代の終わりだと、何年も前から私には言っているけれど、対外的には三十代 だと語っているらしい。  本当は幾《いく》つなのか、多分《たぶん》、ほとんど誰《だれ》も知らない人。知っているとしたら、あの相方の背高《せいたか》 さんぐらいだと思う。  そんなトエ様と私の側《そば》へ、侍従《じじゅう》の一団が回廊を歩み寄ってきた。  ご高齢《こうれい》の侍従長さんが前に立っている。  従えているのは私の侍従団。 「姫殿下《ひでんか》。それに、タウ左大臣殿」  侍従長さんが恭《うやうや》しく黙礼《もくれい》した。皆も続く。 「これは侍従長殿、今朝《けさ》もお早く」  トエ様の声が執務用に変わる。  居ずまいを正しながら、トエ様は廊下の端に身を寄せた。  素直な直立。  私に道を空けたのだ。 「朝から声を荒げてしまい、姫殿下《ひでんか》に、自重せよとたしなめられました。至らない身を引き締《し》 めなければなりません」  白々しいことを、もつともらしく言う。  相変わらずトエ様は変わり身が早い。  私も馴《な》れた。  きっと、他《ほか》の人達もある程度そうなのだろう。  先程のようなぞんざいな口の利き方こそ、人前では、まず見せないけれど、この人の二面性 自体は誰《だれ》もが知っている。 「姫殿下、本日もご機嫌麗《きげんうるわ》しゅうございます」  深々と、あらためて朝の挨拶《あいさつ》を私にする侍従長《じじゅうちょう》さん。 「変わりなく」  私も略礼をする。  再度、深々と挨拶する侍従長さん。背後の侍臣《じしん》さん方もあらためて続く。  そして、侍従長さんは顔を上げると 「それでは、本日のご予定はいかがなさりますか?」  予定の確認をしてきた。  職務に忠実な人。ここ一年くらいは、まったく予定など変わらぬ日々が続いているのに。 「いつも通りに。定例会を、その後……」  トエ様の方を見る。  顔を伏せたトエ様は何も言わない。好きにしろと云《い》う意味だと感じる。 「昼までは、ここにいるトエル・タウと、今後の協議《きょうぎ》を散策がてら行いましょうか。午後は 未定ですか、いつも通り、修学時間となるでしょう」 「はっ、つつがなくお過ごしを」  侍従長さんが頭を下げる。  ふと、その頭髪が以前に増して白くなったと感じる。  かんもうそう言えば、流行の感冐を患っていたらしいと思い当たった。 「御老、お風邪《かぜ》の具合はよろしいのですか? 忠臣の健在ありてこその仮宮《かりみや》です。お身体《からだ》をご 自愛なさってください」  そう言うと、トエ様の口元が少し引かれるのが目の端に入った。 「勿体《もったい》ないお言葉。姫殿下のお心づかいに老臣が身も引き締《し》まります」  本当に感動したのだろうか。皆さんと揃《そろ》って平伏するご老人。  しばらく、そうした儀礼《ぎれい》が続くと 「僭越《せんえつ》ながら、先程より、フオウ将軍のお姿を捜しているとお聞きしました」  侍従長さんの言葉に、私達は顔を合わせる。 「所在をご存じでありますか?」 「はっ」  トエ様が尋ねると、侍従長《じじゅうちょう》さんの部下が外窓を手で指し 「あちらに先刻より」  侍従長さんの言葉が続く。  私とトエ様で、二人して窓枠に顔を寄せ外を眺める。  先程と変わらない。  石造りの城壁《じょうへき》の向こうに、ただ広い広野が目に映るだけ。  風に靡《なび》く夏草の豊かな光景に、ふと、妙な動きが見えた。変な揺れ。  動物、狸《たぬき》か、山犬《やまいぬ》か。狼《おおかみ》は城のずっと背後、山脈周辺にしか出現しないはず。 「あのバカ」 「え?」  トエ様が舌打ちすると、その途端《とたん》、赤い輝《かがや》きが視界に映った。  ぽっと、動きのあった一角に伸び上がる揺らぎ。  炎だ。  すごい勢いで左右に広がる。  火の道がある動きだ。油をしみこませてあるのだろう。  急速に広がる火の手。水分の多い夏草がじわじわと焼き上がる、  あっという間に城周辺の一角が燃え上がる。 「ひゃっほうっ」  妙な声がした。  広がる草原の中から飛び出してきたのは、着崩した羽織《はおり》の軍服姿。  陽光と炎を照り返す長身の男性。  ここからでは小さいけれど、やけに明るい笑顔がはっきり見えた。  細身の背高《せいたか》に、目鼻のはっきりした、鋭《するど》い顔つきの人。  彫りの深い顔立ちは整った男らしいものだけど、大きく崩れやすい。逆に、その崩れた笑顔 がひどく人懐《ひとなつ》っこい。  何だか、やたら、楽しそうな横顔。  はしゃいで上下する肩には、穂先《ほさき》が筒に入ったままの豪快な槍《やり》が一槍《いっそう》担がれていた。  背高さんに続いて、あちらこちらから、その配下の人達が数十人、出現してくる。 「将軍! 火付け早過ぎますよ!」 「油使い過ぎじゃあないですか!」  後から来た人達が、口々に背高さんに詰め寄る。皆、軽装だが軍服や武装をしている兵隊さ ん達だ。  間違いなく、あの人の指示だ。この火事。 「ハハハハっ、悪い、悪い!」  背高《せいたか》さんの高らかな笑い声が、ここまでもよく聞こえる。  何せ、何もない草地に孤立する城。城壁《じょうへき》の向こうからでも、声はひたすらよく通る。  全然、変わらないな。この人も初めて会った頃《ころ》と。 「こ、これは、また派手《はで》に」  侍従長《じじゅうちょう》さんが驚《おどろ》きの声を上げる。  この人も詳細は知らなかったのだろう。  誰《だれ》も、背高さんのすることは判《わか》らない。 「将軍は、草原での訓練をすると言っていらしたのですが……」  侍従長さんの声が呆《あき》れる。 「で、ありましょうな。火攻めの実地訓練でしょうが……」  応じたトエ様の言葉は丁寧だが、その声は震《ふる》えていた。  お怒りだ。  そっと、距離を取る私。侍従長さん達も悟ったのだろう。無言で続く。  何だ何だと、城のあちこちで声が上がり始める。  風は少ないから煙はそれほど来ないが、異常な匂《にお》いがやがて届き始めた。  燃えにくい夏草を無理に燃やした時の、不完全な燃え具合の匂い。  いや、風向きが急にこちらへ変わり始めて、そのうち、私達の視界が白くなり始めたりする。 とてもまずい。  私達が咳《せ》き込み始める。肩を震わすトエ様を除いて。  やがて、煙が辺《あた》り一面|蔓延《まんえん》し始めた時、何が可笑《おか》しいのか、まだ続いてるけらけらとした背 高さんの爆笑《ばくしょう》が引き金となる。 「テン・フオウっ!! 何をしてる!!」  いつものように、トエ様の怒声が城下に響《ひび》きわたった。  そうして、 「いやさ、火攻めの修練を……」 「もっと、遠くでやれ!」 「だって、うちの領地、小さくて手頃《てごろ》な場所がなかったから」 「ああゆうのは枯れ草でやる物だろう!」 「いや、備えあれば憂い無しとか……」  だんだん小さくなるテン様の声。 「いいか! だいたい、君はなぁ!」  ほとんど、城の中にいれば、誰《だれ》でも聞こえるようなトエ様怒りの追及が、その日一日続いた。  その夜も更《ふ》け始めた頃《ころ》  中原《ちゅうげん》語。私達の使う東和《とうわ》言葉より洗練された都言葉の修学を終え、私は七宮《ななみや》城の大守閣へ 上った。 「姫殿下《ひでんか》、このような所へ参られては」  長弓と長槍《ながやり》を抱えた若い衛兵《えいへい》さんが、篝火《かがりび》の下から、慌てた声を上げてきた。 「東征《とうせい》将軍は上でしょう。責めねばなりません。公式以外にもです」  止める衛兵さんを制して、私は天守内部に入り、樫材《かしざい》の梯子《はしご》に手を掛けた。筒状の外壁《がいへき》に護《まも》 られた、天守上層への唯一の経路。  東征将軍はテン様の役職だ。私が与えたことになっているが、東征という呼称には別に何の 後ろ盾も根拠もない。  本当は右将軍、右府《うふ》という地位なのだけれど、単にただの将軍では、他と区別がつきにくい ので、それなりの武人は、立派な名前を付けたがるらしいのだ。  どこの地方もそうだという。政権の所在がはっきりしていないから、地方屈、}とに勝手な命名 や任命がまかり通っているらしい。  この時間、テン様はよく天守閣に上る。特に、トエ様に怒られた夜はそうらしいと、侍女さ ん達の話だった。  でも、きっと嘘《うそ》だ。  薄暗《うすくら》がりで、梯子に取りつく。  慣れない木梯子に少し手閥取りつつ、テン様一人の場所を目指す。  そのために、昼間の裾長《そでなが》や装身具をやめ、粗野な格好をしている。  散策用の軽い衣装だ。両足をそれぞれ包んだ広がりのある生地を足首の銀糸で止めてある細《ほそ》 袴《ばかま》だから、比較的、脚絆《きゃはん》の男の子のように動ける。  早く、実務服か何か作ってもらおう。  見上げた頭上に小さな灯《あか》りの漏《も》れ。 「よいしょよいしょ」  天守閣とは名ばかりの展望台は、城の中央付近にある物見|櫓《やぐら》に、それなりの外層をしただけ の物だ。  巫女《みこ》姫たる七宮の居城に、あからさまに軍事施設は似合わないので、梯子と骨組みを漆喰《しっくい》と 石材で簡潔《かんけつ》に囲っただけだったりする。  それでも、かなりの周囲が見えるので、実際、警戒《けいかい》には役に立つし、建物としての見栄えも それなりにいいのだそうだ。  テン様は天守閣、トエ様は単に楼閣《ろうかく》と呼び、付近の人達は七宮《ななみや》塔と呼んでいるらしい。  七宮は私だから、私の塔なのか。  そう思っても、ここ二年ほどで五回くらいしか上がったことがない。  実際、大方がこんなものだった。  絹の衣類を与えられ、宝玉を幾《いく》つも持とうと、多少の修学を積もうと、ここにいる自分は十 二歳の子供に過ぎない。  七宮の空澄《からすみ》姫か。  複雑な思いを胸に梯子《はしご》を上る。  ぎしぎしと微細な音を立てるが、子供の体重だから揺らぎはない。一階層分くらいの高さで 楼内に及ぶ。  篝火《かがりび》に灯影が僅《わず》かに浮かぶ空間へ、頭を出そうとして 「やってくれたね」  トエ様の声だ。  私ではなく、楼内の相手に向けられた声の響《ひび》き。  ほら、やっぱり。  多分《たぶん》、下の衛兵《えいへk》さんもここでの密会を知らなかったのだろう。ここの警備《けいび》はそれほど厳重《げんじゅう》で はない。 「あの夏草、燃やしてくれて助かった」  続いた、トエ様の声。  穏《おだ》やかな語り口は昼問とは全く違う。 「そろそろ、密偵なりなんなりが来そうだったからな。手近な群生は滅らした方がいい」  応じるテン様の声も、悪びれず堂々としている。 「三宮《さんみや》と四宮《しのみや》、どちらかが動きそうだ。君がうまく調練の失火と偽ってくれたから、こちらが 迂閣《うかつ》にも見せられるし、敵の攻め手も減らせたよ」  どうせ、そんなことだと思った。  この人達はいつもそうだ。  十回に九回は、平気で嘘《うそ》を並べる。  判《わか》ってるんだから。私。  音を立てぬよう、そのままで聞き耳を立てる。 「なあに、ちょうど御婦人に逃げられて腹が立ったからな。うまく自棄《やけ》になる理由が出来た」  そう言い終わると、けらけらとしたテン様の笑い声が続く。 「見る目ある御婦人に感謝《かんしゃ》だ」  楽しそうなトエ様の声。 「ぬかせ! が、どうやら、実家がシノギ調和党についたらしい」  シノギは四宮《しのみや》姫の後衛《こうえい》だ。運河の輸送力と技術工業で財をなした四宮ツヅミ都市。その都市 運営の代表者達。政《まつりごと》にも多大な影響《えいきょう》力を持つという。 「何せ、カセンは豊かなのは農地と山間部での林業ぐらいか。この城も町中にはないから、余 計、田舎《いなか》者になる」 「他《ほか》は大都市か城下町だからな。うちは後発。ここしか、まともに城らしい城は残ってなかっ たからな」  二人の談笑が続いている。  七姫《ななひめ》最後の私は、やっぱり、他の姫より小物なのだろうか。  どうも、話に聞くところによると、他のお姫様は立派な宮殿に住み、豪奢《ごうしゃ》きわまりない生活 をしているらしい。  今よりいい暮らしをしたいとは思わないけれど、弱小すぎると言うのなら不安になる。  心配して耳をそばだてると、テン様が少し声の色を変え始める。 「他の動きは読めたか?」  あまり笑っていない色。 「四宮ツヅミ都市の戦力は四千の兵。金があるから諸群と傭兵《ようへい》併せて最大八干だ。三宮《さんみや》のナツ メ都市が平時八干に傭兵で一万を超える。連携されれば兵力一万八千、僕らは辛《つら》い」  二つの都市は隣国《りんごく》ともいえる距離に位置し、私達のカセン都市とは微妙な力関係で向き合っ ている。 「盗賊《とうぞく》の類《たぐい》は追い出した。総力を向けて、うちは五千。護《まも》りきるにはぎりぎりだな」 「そう、ここは西から北に延びる西方山脈《せいほうさんみゃく》越えを警戒《けいかい》した城だ。カセンの後方を中原《ちゅうげん》から護 ると言えば聞こえはいいが、東和《とうわ》都市群からは辺境。僕らの地盤《じばん》都市カセンまでも行軍は半日 近い。奴《やつ》らに都市部を狙《ねら》われる可能性がある  「攻城戦の火攻めはこれで牽制《けんせい》した。三宮と四宮はカセン都市制圧を優先するか、ここを先に 潰《つぶ》しに来るか」  難しい話で、私にはよく判《わか》からないが戦争の動きがある。それは埋解できたし、不利そうな のも判った。 「一宮《いちみや》と潰しあわせたかったんだが、あそこの姫は違うな」 「ああ、だから、後方を窺《うかが》う僕らが先に狙われるか」  一宮姫はもっとも有力な姫だ。七人の宮姫の中でも私等とは違う。おそらく、本物の東和姫 だと言われている人。  他勢力のことを色々考えていると 「空澄《からすみ》姫、いかがなされた?」  不意に声を掛けられる。 「は、はい、将軍……」  慌てて、顔を上げると、楽しそうなテン様の顔があった。  すぐ、登り切った先。 「わぁっ」  慌てて退こうとして、梯子《はしご》から落ちそうになる。  長い両手が私の脇《わき》の下に伸びた。  ひょいと、何事もないように受け止める.  大きな手。見た目以上に硬い。 「捕まえた。カラ」  そのまま子供みたいに、小さな子供みたいに抱え上げられる。  私には考えもつかない、大きな腕力。  どこまでも伸びるような長い腕。 「おっ、大きくなったな」 「テ、テン様!」  抱えられた楼内《ろうない》は大人なら五、六人連座できる場所で、四方に私の背丈ほどの壁《かべ》が張り巡ら されていた。  その上の開けた部分から、遠くの土地までが見渡せる。  テン様に抱えられたそのままの位置。その肩越しに、遠くカセンのほのかな街灯《まちあか》りが稜線《りょうせん》 で滲《にじ》んでいる。壁際には稜線を背にしたトエ様の立ち姿。 「重要会議だ。判《わか》るね、カラスミ」  諭《さと》すトエ様の声。 「ご、御免なさい。わ、私、立ち聞きするつもりは……」 「さて、どんなお仕置きをしようかな」  抱えた私を見上げるテン様の言葉に、顔が崩れそうになる。  不動の両腕に抱えられ、私には抗《あらが》うすべもない。  その上、テン様の腰には小刀が差し込まれており、傍らには弓具やらも転がっているのが見 受けられる。  何か、恐《こわ》いことになってしまった。  私が何だか泣きそうになった途端《とたん》、テン様が破顔した。 「かわいいな、カラは」  わっ。  突然、抱き寄せられ、お人形のように振り回される。  な、何? く、苦しい。 「俺《おれ》達が俺達のお姫様を怒るわけないだろう? お前が怒っていいんだよ」  耳元で聞くテン様の楽しそうな声。 「おいで、姫殿下《ひでんか》」  トエ様も穏《おだ》やかな声で告げると、その場に座した。 「三人で作戦会議だよ。昔みたいにね」  三人で、昔みたいに。  泣きたくなるぐらい、優《さや》しい言葉。 「付き合うか? 夜は長いぞ」  ようやく胸元から放してくれたテン様が、それでも私を抱え上げたまま聞いた。  子供を可愛《かわい》がるような、屈託のない表情は、まるでいい人みたいだった。  本当は悪い人だということを、不意に忘れてしまいそうになる顔。  初めて会った時と同じように。  懐《なつ》かしいあの頃《ころ》みたいに。  三人の関係が始まった頃みたいに。  だから、私は躍躇《ためら》わず 「はい」  はっきりと返事した。 二節 雪終 二月  息吹月 三月 「ほら、一人で服着られるか?」 「絹だからね。昨日までの麻布とは違うからね。高いから、破いたり汚しちゃダメだからね」 「やっぱ、どこかから女連れてこようか、世話役をさ。俺《おれ》、引っかけてくるよ」 「いや、もう少し二人だけで何とかしないと、素性がばれやすい」 「おめえ、歳《とし》は九つだっけ?」 「さて、中央よりの標準語から教えて、礼節を仕込まないとね。王子よりは楽だよ。女の子だ から暴れても程々だ」 「まあ、雪終《ゆきおわり》から息吹月《いぶきづき》のお披露目《ひろめ》まで時問があるし、とりあえず、旨《うま》いもん食《く》わせて太ちせ ようか、がりがりだし」 「君、取って食うような言い方するなよ」 「いいか、嬢《じょう》ちゃん。よく聞けよ。食って食って食いまくれ。世の中食ったもん勝ちだからな。 食い続けな。俺についてこい」 「やめろ。君の食費は莫迦《ばか》にならない」 「しっかしよ、先月、五姫《いつひめ》が出てきたからな。早くしないと、この子が十姫《とおひめ》とかにならなけれ ばいいがな」 「カラスミ。被衣《かずき》の着方判《わか》るかい? 内着《うちぎ》の胸紐《むなひも》の結び方はこうだよ。古式振り袖《そで》は初めてか い? 下帯は判るよね」 「ん、カラ? どうかしたか?」 「もしかして、カラスミという名前、嫌いかい? カラは空を表し、スミは澄《す》んだ穏《おだ》やかさを 意味する。夏空のように曇《くも》りなく豊かという意味なんだよ」 「そうそう、何せ、東和《とうわ》の姫の名前だからな。象形文字が与えられる貴族名だぞ」 「黒曜姫殿下《こくようひでんか》や琥珀《こはく》姫に、名前負けしないようにしないとね」  確か、確かこんな風だった。  初めて会った時の後。  それから、テン様が着替え終わった私を両手で抱え上げたんだった。 「これはこれは、姫殿下、君が臣《おみ》の武官テン・フオウにございます。お見知り置きを」 「並びに、文官のトエル・タウにございます。以後、よろしくお願いします」  どう答えていいか判らなくて、私が二人の顔色を窺《うかが》っていると 「ほら、苦しゅうないとか言いな」  テン様に言われて、慌てて声を出そうとすると 「いや、あい判《わか》っただよ」  トエ様が口を挟むので、そっちにしようとすると 「いんや、苦しゅうないだ! 王族らしさに庶民《しょみん》はしびれる」 「ご大層だな。日嗣《ひつ》ぎ血筋を誇張しない方がいい。雅《みやび》すぎては武家の支持が弱くなる」  そのまま、口論になる二人。  それから、私を散々放っておきながら、二人で私に詰め寄って来たんだった。 「どっちがいい?」  私が困って愛想笑いしたら、二人も笑い出したんだ。  あの頃《ころ》は、何もかも手探りで、結局、大|騒《さわ》ぎしたあげく、三人で笑い続けた。 「ほら、姫御前《ひめごぜ》はまっすぐ歩く。頭の本落とさない」 「見ろ。俺《おれ》がお手本を……あれ?」 「いいか? 先代王の玉英《ぎょくえい》がお前の父だ、なに、本当かって? さあ。何せ、女好きの子沢《だく》 山《さん》だから隠し子一杯当たり前だからな」 「歳《とし》と性別があえば、テンか僕が自分で王子をやるんだがね」 「この世界の中心、中原《ちゅうげん》での大戦争が拡大してる。十年以内に、この東和《とうわ》盆地も狙《ねら》われるだ ろう。それ故《ゆえ》、乱雑な都市群をまとめなおし、国家社会として機能させる必要がある。名ばか りだった王室こそ、その主軸にふさわしい。僕らで、この地方をまとめるんだ」 「おーい、マキセ都市に六姫《むつひめ》出てきたぞ」 「よし、馬にも乗れるようになったか。いざとなったら、さっさと逃げないとな」 「ぼ、僕もやるのか? こんなでかいの暴れないか?」 「利害関係だ。カセンはこのまま辺境で終わりたくない。それなりに独立心があるが、このま までは都市として人気を失う。周辺都市に人口が流出するのを恐れている」 「姫のいる都市は格式高く宮都市《みやとし》と呼ばれる。末席に入りたいのさ」 「いいんですか? 私で? 何もできない私で?」  夕焼けの高地で、私はカセンの街が赤く染まるのを見下ろしていた。  林業が盛んな街だったから、古い街並みには木造が多く、林業が底をつき始めてからは、漆《しっ》 喰《くい》と石材の家々が混在することになった街。  人口は二十万近くと言われている。夕方|故《ゆえ》、炊事の煙が家々から立ち上る景色。 「出来るさ。二ヶ月もしないで、それなりになってくれた。後は部下さえしっかりしていれば いい。偉いさんとはそういうものさ」  トエ様がそういうと、テン様が続く。 「宮姫《みやひめ》のほとんどが、同じように担ぎ出されたお飾りさ。みんな知ってる裏話、ただ、それが ないと話が始まらなかった」 「どうしてですか?」 「楽したかったのさ   トエ様の言葉。 「露骨《ろこつ》な戦争を避《さ》けたかった知恵と呼んでやってもいい。が、だから、つけ込まれる」  つけ込まれるとはどう言うことか、聞こうとして、私は少し恐《こわ》くなって聞きそびれた。 私の傍ら、二人連れ立つ姿を見上げる。 その向こうに群青《ぐんじょう》の空。積み雲が、夕山の向こうへ流れて行くのが見えた。  一日、陽は照っていたけれど、息吹月の始まりは、まだ風冷たかった。  銀細工のなされた御輿《みこし》は、四人の大人《おとな》達に抱えられ、しずしずと進んだ。  前と左右、隙間《すきま》越しに見え隠れする御簾《みす》の向こう。沿道に並ぶ人達の姿が見え、微《かす》かな声が 聞こえてくるが、意味までは聞き取れない.  音曲《おんぎょく》が鳴っているからだ。  私の前後に楽隊が並び、穏《おだ》やかな鈴と笛の音を鳴らしている。  曲調は明るいが、音色《ねいろ》は涼しい。  音色師《ねいろし》達は古風な曲目を迂路《うろ》の道すがら繰《く》り返し、繰り返し続ける。 「姫殿下《ひでんか》、皆、好意的です」  網簾《あみすだれ》越しに、追従するテン様の畏《かしこ》まった声が聞こえてくる。  周囲を固める一団は警護《けいご》の兵で、テン様が近衛隊の責任者をしてくれている。  ゆっくりと街を周圓し、そののちに、カセン中央に位置する宮、玉水府《ぎょくすいふ》に辿《たど》り着く。  石造りの精緻《せいち》な階段の上にある、木造平屋の、清楚だ《せいそ》が巨大な建物だ。  祭祀《さいし》場を兼ねた、前の王の仮別所の一つなのだそうだ。規模はそれぞれだけれど、何処《どこ》の都 市にも一つずつはあるという。 「空澄姫殿下《からすみひでんか》、御登城」  案内役の方が抑揚を抑.えた、だけれど、独特の拍子で声を上げる。  御輿《みこし》が王水府《ぎょくすいふ》の正面広間に据えられ、右の御簾《みす》があげられる。  ゆっくりと、白綾《しらあや》の衣装に宝玉と白金の額飾《ひたいかざ》りを身にした私が、精緻《せいち》な石畳に降り立つ。  朱塗りの高足沓《たかあしくつ》が音を立てた先、石畳の所々に微細な染みがあった。  雨跡に見えたが、違うとすぐに知れた。  目の前を、白い破片が過ぎたから。  雪。  ゆっくりと、天を仰ぐ。  微細な雪が、ほんの微《かす》かに降り始めていた。  見上げる空は暗いが、深くはないから、白い雲のなだらかさが、どこか異世界を演出してく れる。  雪終《ゆきおわり》の月は過ぎたけど、東和《とうわ》の三月は、まだ僅《わず》かな息吹《いぶき》を見せるだけだった。 「つつがなく御成長され、府内一同、全霊《ぜんれい》持ちまして、御身御霊《おんみみたま》の健やかさをお祝い申し上げ ます」  畏《かしこ》まり、私の前に立つ頭巾《ずきん》姿の神僧《しんそう》達、宮という作られた聖域と、四季世《しきよ》に仕える、俗世か ら離れた人達。  藍色《あいいろ》の礼服に、白い羽織《はおり》を着込んでいる。  この日の儀式《ぎしき》を司《つかさど》る方々。 「姫殿下、先王であらせられる玉帝《ぎょくてい》の御心霊に御手を触れなされませ」  恭《うやうや》しく頭を下げ、制約された難しい動きで後方への道をあける神僧方。  広い空開が空いた。  兵や神僧の方々は、広場の端に陣取り、中央にはただ一つの祭壇《さいだん》だけがあった。  複雑な円が、不可思議《ふかしぎ》な意図で絡み合う朱と黒の彩色がなされた円台。  揺らいで曲る螺旋《らせん》。閉じられた階段模様。  まだ誰《だれ》もそこにいない。  そこに立てと、言われているのは私だ。  生前、先王が山脈から来る風の命たる精霊に、そこで挨拶《あいさつ》をしたという。  契約の儀式だと。  大河の流域等では、川の命たる精霊と挨拶するという。  特に根拠のない自然への民間信仰だと、トエ様は言うが、強い信仰ではなくても、意識の底 に根付いた信仰だとも言っていた。  自分の心と精霊《せいれい》の命の交わりを交感といい、それを私が次代としてやり直すのが、この都市 の守護姫《しゅごひめ》としての契約になる。  この場合、私は神事においては仙姫《やまひめ》という称号で呼ばれるらしいし、川や泉と契約すれば、 水姫《みなひめ》という言葉を賜《たまわ》るのだそうだ。  前に進めと教えられ、前に進めと状況が示していた。  だけど、私は、ふと、振り向いてしまう。  私の背丈ほどの御輿《みこし》。その背後、今登ったばかりの石段があった。  精緻《せいち》な九十九段。  教えられた数も、今し方、御輿が揺れる度に数えた数も同じ。  そこに、大勢の人が詰めかけていた。  階段を、その下の道を埋め尽くす人達が、どこまでも、高台から見下ろせる限りに、カセン の街路全体に人が溢《あふ》れている。  声を潜《ひそ》め、私を見守っている。 「あっ」  声が洩《も》れる。  圧倒的な視線の数に、たじろぐ私。  足が竦《すく》む。  見渡せば、兵と仕切り縄《なわ》の向こうに、無言で佇《たたず》む人々の列。  注目の先に、私一人いるのだと気がついたら、膝《ひざ》が溶けてしまいそうになった。  心の音が熱くなりそうになる。 「大丈夫、俺《おれ》の真似《まね》しろ」  私だけに届く小さな声がした。  気がつけば、傍らに片膝をつき、両手で武人組をしているテン様、  平伏していて、表情は見えない。  俺の真似?  私の知っているテン様?  目の前に座るテン様ではない。記憶《きおく》にあるテン様だろうと思う。  そこにいるテン様は嘘《うそ》つきで、わがままで、大《おお》げさで、騒《さわ》がしくて、人でなしで、大食らい で、大酒のみで、傲慢《ごうまん》で、それから……  思い出したら、頬《ほお》が笑った。  ああ、そうか。  この人、落ち着いているんだ。  どんな時も、本当は誰《だれ》よりも冷静なのだ。  私は両目を閉じて息をつき、それから、空を見上げて目を開けた。  雪は微《かす》かに降り統けている。  静かに行こう。この雪のように。  どうせ、うまくいかなかったら、別の子が呼ばれるだけ。私が責任を取らなくてもいいはず だから。今日《きょう》までおいしいものが食べられただけで、運も十分良かったと思えるなら、きっと、 損はしていない。  ずるく考えたら、ちょっと落ち着いた。  視線を降ろす。  しばらく人々を静かに眺めて、それから、円台を向いた、  両|膝《ひざ》に歩けるだけの血が通い始めたから、高足沓《たかあしくつ》が音を立てた。  てくてくと、出来るだけ、しずしずを目指し、私は前へ進む。  円台は、大樹《たいじゅ》の輪切りをそのまま漆《うるし》と彩色で加工した物だった。  おそらく、この都市がまだ開拓されたばかりの頃《ころ》、切り倒された古木の成れの果てなのだう  上がらせてもらう。  立ち上がる。そこへ。  楽隊の音曲《おんぎょく》が、霊《れい》を慕う物悲しい音に変わる。曲の展開は、局《つぼね》を変える合図。 「祭霊《さいれい》よ祖霊よ」  声が上がる。  府の祭司長らしき人の声。 「祭霊よ祖霊よ」  神僧《しんそう》方が続く。呪詛《じゅそ》の響《ひび》き。 「続け、民草《くさたみ》よ」  それはトエ様の声だった。  振り向くと、階段の最上段で両手を挙げるトエ様。  重々しい神事の装束に身を包み、いつもと違う顔をしていた。 「祭霊よ祖霊よ」  まばらに応じる声が階下から上がる。  人々のざわめきが僅《かす》かに聞こえる。  サクラを混ぜておくと、トエ様が言っていたのを思い出す。  サクラって、お花ですかと訊《き》いたら、手駒《てごま》だと笑われた。 「我らが御影《みかげ》の心霊よ」 「我らが御影の心霊よ」 「我らが御影の心霊よ」  三つの声は、先程より高かった。 「御脈の風の精霊《せいれい》よ」  今度の声はさらに大きい。  揃《そろ》いの悪さが、人の多さを私に教える。  それでも、私達は一体感を持とうとしていた。 「繋《つな》がりの詞《ことば》を」 「繋がりの詞を」 「繋がりの詞を」  さらに大きく、さらに広く。  だんだん、声が揃い始める。 「宮を紡ぐ姫よ。御詞《みことば》を賜《たまわ》りくだされ」  それは、トエ様の言葉だった。 「賜りくだされ」 「姫殿下《ひでんか》」  群衆が声を上げる。  儀式《ぎしき》が進み、立ち登り始める興奮《こうふん》。  ざわめきの広がりに危機《きき》感を覚えたテン様の配下が、階段で人を抑えにまわる気配《けはい》。  ぼう然としていると、跪《ひざまず》いたまま顔を僅《わず》かに上げたテン様と目が合った。  急げと言う目。  頷《うなず》く。  ここで抑えないと、私の方がついていけない。早く終わらせれば、早く帰してもらえるはず だ。  一度右足を地につけたまま前方へ差し出し、ゆっくりと引き戻す。  すり足、爪先《つまさき》を小さく上げ、下ろす。  間を持った、ゆったりとした動作。  右手を下方から前方に差しだし、胸元に一度引き寄せる。  確か、それから両手を開けと。  言われてあるように、ゆっくりと両手を左右に開き、胸を張る。  私の動きに周囲が気づき、楽隊が演奏を止《や》める。  人のざわめきも近くでは収まる。  私の言葉を聞こうと。 「共に」  一言ロにした。  小さい。  駄目《だめ》だ。声が思ったほど出ない。  汗が背中に流れる。 「共に!」  もう一度、大きく言う。 「紡がれる四季世《しきよ》にて、生は死に、死は生に、我らは共に紡ぎ、揺らぎにたゆたいて道行く。 霊《れい》と理《ことわり》を在《ましま》す詞《ことば》で示す」  肩の力を一瞬《いっしゅん》抜く。  そのまま、身体《からだ》から力が抜けそうになり、慌てて全身を奮《ふる》い立たせる。  まだ、大事な言葉が残っている。  気力を奮う。  声が出た。私の声でないかのように。 「生かされる事を、生かしてゆく事を、ここに契約します。東和空澄《とうわからすみ》の名において、皆様方の ご承諾、祭祀《さいし》滞り無く済みしをもって、ここに預からせていただきます」  終わった。  教えられた言葉を全《すべ》て。  不意に、身体から力が抜ける。 「あ」 「姫殿下《ひでんか》新生に祝福を!」  神憎《しんそう》の方々が私の周りに殺到した。  そのまま、倒れ掛けた身が仰向《あおむけ》けに空に掲げられた。  多くの人の手で。 「あっ、何?」 「天地《あめつち》と民よ。今一度、御承認あれ」  神僧達の声に、私の声はかき消される。  力の入らない身体が、自い空へ捧《ささ》げられていた。  見上げる白い空から、白い破片が零《こぼ》れてくる。  ああ、そうか。  ぼんやりと思う。  私はこの空に捧げられた飾りなのだ。  きっと、そういうことだと、私はぼんやりと思った。  ただ、捧げられるということがなんなのかは、よく判《わか》らなかった。  ただ今は、人々の歓声が谺《こだま》し、この興奮は、やがて夜を徹《てっ》した祭りへと移りゆくと知れた。  ぼんやりと、人々の手に身を任せる。  弛緩《しかん》した身体は、なかなかまともに戻らなかった。 「よくやったぞ。カラ」  交感の儀式《ぎしき》が終わると、テン様が私を抱え上げて喜んだ。  本殿の奥、蝋燭《ろうそく》の灯火《ともしび》だけの閉めきられた涼しげな空間。 「大変だったね。食事を済ませたらすぐに寝なさい。民の祭りは他《ほか》に任せてある」  トエ様も特に喜んでくれ、テン様から奪い取るように私を抱えた。  溶けた雪片の滴が、私の髪から零《こぼ》れる。 「君は七宮姫《ななみやひめ》だ」 「ナナミヤ?」  そうだと、トエ様が領《うなず》く。 「他に六人、君と同じような事をした女の子がいる。皆、本物かどうか疑わしいけれど、他の 街でお姫様をやっている。それぞれの思惑《おもわく》の下でね」  不思議《ふしぎ》に思う。  どうしてそんなことになったのだろう。そんなにいるなら、今更《いまさら》、私なんかいらないような 気がした。 「判《わか》らないかい?」  トエ様は複雑な笑顔を見せた。  私の表情で、気持ちを察してくれたのだろうと思う。  ゆっくりと私を降ろしてくれる。  自分の足で立つけれど、ふわふわして感覚が何か変だった。  風が吹いたら、そのまま、ここにへたり込みそうだった。髪がちょっと重たい。 「皆、自分のお姫様が欲しかったのさ。前の王様が自分の生まれ育ったシンセンという都市だ け大事に育てたから、今度は自分達の都市を大事にしてもらいたいのさ」  ああ、そうなのか。  でも、何か足りない気がする。 「でも、トエ様もテン様も、大事な物なんてないんでしょう?」 「あるぜ。街じゃないけど欲しい所がな」  予知していたような、テン様の声。 「どうしても、欲しい場所がある。なあ、トエよ」  トエ様も苦笑気味に頷く。 「どこか教えてやろうか?」  いたずらっ子のような、もったいぶったテン様の笑顔。 「いいか、三人だけの秘密だぞ」  トエ様もその言葉に頷く。 「そいつはな……」 「カラスミ?」 「あ、はい」 「どうした? 酔ったか?」  楼内《ろうない》で、私達はお茶を飲んでいた。  私はぼんやりとしていた現実感を取り戻す。  テン様はお酒を、トエ様は中原茶《ちゅうげんちゃ》を、私は東方紅茶を、それぞればらばらに口に運ぶ。  お茶は下の衛兵《えいへい》さんを呼んで用意させ、テン様が楼内まで組紐《くみひも》で吊り上げた、釣瓶《つるべ》井戸のよ うにして、少しの荷物が引き上げられるようになっているのだ。 「昔のこと、思い出しちゃって」  茣蓙《ござ》の上で居ずまいを正し、じゃれあう二人に笑顔を向ける。 「初めて会った時とか、交感の雪とか」  手の中で陶器の中の温《ぬく》もりを揺らしてみる。 「懐《なつ》かしいねえ、十年くらい前か」  いい加減なテン様がぐい飲みをあおる。 「三年だ」  応じてトエ様が、湯飲み茶碗に中原茶を注《つ》ぎ直す。 「あの頃《ころ》は貧乏だった。好きな中原茶も七日に一度しか飲めなかった」  遠い目をして語る。 「俺《おれ》だって、酒は……」 「毎日飲んでた」  トエ様と私で突っ込む。  三人で笑いあう。 「でも、おいしい物食べてましたよ。私」 「君はそれ以前が貧しすぎたからな。未来の東和姫《とうわひ》ともあろう子がね」 「でも、あの後が大変でしたよね」  言ってから、しまったと思うと、テン様が口惜《くちお》しそうに拳《こぶし》を震《ふる》えさせた。 「府中《ふちゅう》の呆《ぼ》けめっ」  府中とは、この場合は玉水府《ぎょくすいふ》の運営部のことだ。  その人達は私達に、中原の軍勢が山越えしてくるのを警戒《けいかい》させようとした。  だから、都市中央の玉水府に住めると思っていた私達の思惑《おもわく》は外れ、この僻地《へきち》の城詰めとな ってしまった。 「あそこまでは順調だったんだけどね」  トエ様がお茶を啜《すす》り 「カセンは名目だけ宮姫《みやひめ》が欲しくて、飾りそのままにするつもりだった」  解説を続ける。 「他《ほか》の勢力を刺激したくもなかったようだが、じわじわと三宮《さんみや》と四宮《しのみや》に押されてきた。だから、 僕らを呼び戻そうとしている」 「それって?」 「都市中央に冬の前に移動する」  トエ様が予定を示した。 「どうせ、冬山は中原《ちゅうげん》だろうとなんだろうと越えられない。府中《ふちゅう》は春先から舞所《まいどころ》という名目 で屋敷《やしき》を増設している」 「長かったねえ、まあ、調練とか、色々覚えたからいいけどよ」  テン様は三ヶ月ほどで、この城の兵を半数ずつ入れ替えた。  熟練兵は少ないが、その分、大抵の市民、農家の青年が、多少は兵の経験を持った。  徴兵も志願兵も取りやすいようにしたのだというのがテン様の話だ。  単に、田舎《いなか》の平和ボケした社会では、そこまでの義務しか通せなかったというのが、トエ様 の話。  二人の話は片方だけ聞いていると、全然違う話になる。  現場のことは俺《おれ》に任せうが、テン様の言い分なので、大抵はテン様の好きに行われ、後でト 工様が大|騒《さわ》ぎで調整する。  どういう訳か、無茶《むちゃ》で嘘《うそ》つきなのにテン様は若い兵隊さん達に人気があった。  若いから実戦の経験は少ないはずなのに、妙に現揚に強いのだそうだ。小規模ながら、麾下《きか》 の直属百五十|騎《き》は、東和《とうわ》指折りの旗本《はたもと》と呼ばれているらしい。  古参兵等の不満はトエ様が子細を取りしきり、それでもダメな時、恥ずかしながら私の出番 となる、  彼等へ、労《いたわ》りの言葉と施しを私の名で送ると、大方は丸く収まってきた。  私の名で出される軍令や律令《りつりょう》、成案は実際、ほとんど、補佐役のトエ様が上奏するものなの だけれど。  私は彼等の象微として、守護《しゅご》し、守護される憧《あこが》れの役をやる。  テン様が力を、トエ様が知恵を、私が心をそれぞれ支え合う。  三人で補い合う。 「行政にも、こちらの思惑《おもわく》をある程度浸透させた。ここからでも半分は動かせる。軍権は七割、 後は民心がどれだけ、姫殿下《ひでんか》を求めるかだ」 「カラの番だな」  二人に顔を窺《うかが》われ、たじろぐ私。 「で、でも、姫なんかより、政治家とか将軍とかがもっと欲しいと思いますよ。皆さん」  慌てて話を相手に押し返す。 「そうでなければならないんだけどね。本当は」 「本当は?」 「楽したいんだよ」  昔、どこかで聞いた言葉。  そう言ったテン様は酒瓶《さかびん》を投げ出し、横になった。  屋根と壁《かべ》の間に星空を見上げる。 「恐い軍人や政治家を呼ぶと、自分達の判断の責任が重くて恐《こわ》い。だから、柔らかい枕《まくら》を間に おく。それが、お前だよ」  すごく難しいことを、テン様はたまにすごく簡単《かんたん》に言う。  どう答えたらいいだろうかと考えていると  ぐおぉぉ 「あれ?」  いびきが聞こえた。 「テ、テン様!」  慌てて近寄ってみると、しっかり眠りこけている。 「酔って寝ちゃった」  この人はいつもそうだ。好きなように寝て、好きなように遊ぶ。 「そういうヤツだ」  昔からそうだと言いたげに、トエ様がぼそりと呟《つぶや》く。その声も少し眠たげで、諦めた口調だ。 「でも、風邪《かぜ》ひきます」  一応、揺すったり名前を呼んでみたが、どうにもならない。初めて出会った頃から、こうな ると、トエ様でさえ起こせない。  有事とあれば、不思議《ふしぎ》なくらい素早く起きるのだけれど、有事なんて、早々あって欲しくは ない。  諦めて、星空を仰ぐ。 「月が高い」  呟く。  仕方ないか。  自分の座に戻り、紅茶を味わう。 「カラ」 「はい?」  トエ様に応じる。   カラと呼ぶ時は、何だか優《やさ》しい時。 「戻りたくないかい?」 「どこにです」 「只《ただ》の子にだ」  真面目《まじめ》なのだろうか、少し苦手な話題。 「一度、只の子供に戻るかい」 「出来るんですか?」 「出来るよ、もしもの時は、君は本当に普通の子に戻るといい」  もしもというのは、お城を逐《お》われるときだろうか。元々、本物の姫でもないし。 「もう、紅茶飲めなくなりますね」  私の手の中。ほぼ完全な月の顔が、紅茶の水鏡《みずかがみ》に揺らいでいる。  紅茶は高い。この辺《あた》りでは採れない。  お姫様に成れて一番|嬉《うれ》しかったのは毎日ご飯が食べられ、毎日お風呂《ふろ》に入れることで、二番 目に嬉しいのが紅茶の香りを知ったことだった。 「僕はこの地で紅茶が栽培できる社会を作るよ。中原茶《ちゅうげんちゃ》もね」  嘘《うそ》ではないと思う。  蚕《かいこ》の副業を農家に勧めさせ、絹《きぬ》の生産を上げさせたのはこの人だ。山越えの交易者を招き、 玻璃《はり》の技術を呼び込んでもいるし、紙の生産はカセンが宮都市《みやとし》の中でも群を抜こうとしている。 物騒《ぶっそう》な話では、遠方の鉱山都市と火薬の取引も行っているらしい。 「変わるものですね。世の中って」 「ああ、僕は世界を変える。君やテンを使ってね」 「テン様は私やトエ様を使って大下取りですよ」 「競争だな」  小さく笑う声。  この人は、実際、自信家だった。本当は、テン様と中身が一緒なのかも知れないと、よく思 う。  夜風が僅《わず》かに吹き、寝ころんだテン様が身を捩《よじ》る。それでも、テン様は目を覚まさず、やが て、私は紅茶を飲み干す。  しばらくして、仕方ないとトエ様を振り向くと、壁《かべ》にもたれて動かないトエ様。 「トエ様?」  慌てて、今度はトエ様に寄る。  もしかしてと、トエ様を観察すると静かに寝息を立てている。 「お酒飲んでないのに、トエ様まで」  どうしようかと、途方に暮れる。  他《ほか》勢力との水面下の争いでも続いているのだろうか、二人とも、いつもより疲れている気が した。  起こすと悪い気がするが、幾《いく》ら夏期とはいえ、このまま朝を迎えられては堪《たま》らない。  軍権と行政権を持つ二入に、風邪《かぜ》で寝込まれたりしたら、どうしていいか判《わか》らなくなる。  楼内《ろうない》を見渡す。  端に簡単《かんたん》な炊事道具。それと夜警《やけい》用の毛布が二つ。  とりあえず、少し、二人を寝かせてあげよう。  毛布を見つけて、そう考えた。  まず、テン様に毛布を掛けて、それから、トエ様に掛けて、それから、私は中央に座して、 新しい紅茶を用意する。  しばらく、そのままでいたけど、二人ともいつまで経《た》っても起きない。  どうしようか。  このまま私は部屋に戻ろうか。  薄情《はくじょう》だと思われたらどうしよう、  衛兵《えいへい》さんを呼ぼうかと思案する。  大《おお》げさかとも悩んでしまう。  第一、主君たる私と一緒なのに、文武筆頭の二人が揃《そろ》って居眠りなんて、人には見せられな いと思う。  そのうち、空気が夜の深みを見せ始める。  くしゅっ  まずい気がしてきた。  このままでは、私一人風邪をひくような気がする。  トエ様なら何とかなるかな。  幸い、楼閣は狭い。  よいしょよいしょと、壁《かべ》に滑らせトエ様を引きずる。  小さい頃《ころ》、野良仕事を手伝っていたから、町の子よりは力に自信があったけれど、思ったよ りトエ様は重かった。  テン様の傍らまで寄る。良くも悪くも、こちらさんも目覚めようとしなかった。 「あちゃ、テン様お酒臭い」  寝たままのテン様とトエ様の間に座り込み、二人の毛布の裾《すそ》半分をそれぞれ分けてもらう。 右にテン様、左にトエ様。 「温々《ぬくぬく》」  小さく呟いた私は、外縁《そとべり》に頭と背を預け、暖と居場所を乎に入れる。 「小さい頃《ころ》みたいだ」  三人が初めて維んだ頃、お金が無くて、一つの寝台に三人で寝たことがあった。  確か、季節外れの嵐《あらし》の晩。私が恐《こわ》くて泣き出して、床で寝ていた二人を呼んだのだ。  片方だけ呼ぶのが、何か恐かった気がしたのだと思う。嵐の中に、残された一人が消えてし まいそうで。  私は屋根と横壁《よこかべ》の間に星を見上げる。  小さく、息をつく。 「ねえ、トエ様、テン様……」  そっと呟《つぶや》く。 「三人で、どこまで行けるんでしょうね」  返事はなく、私は星空を見上げて考えた、  降るような大きな星の群が、あの時の雪のように見えた。  あれから三年。  夏の星座。遠い世界。永年《ずっと》、高い。  見上げ続けているうちに、私もいつか眠りについた。  あの雪の日に倒れそうになった時、あのまま倒れていたら、どうなっていただろうかと考え ながら。  かたっ  物音に意識《いしき》が微睡《まどろ》みを離れる。  気がつけば、半身《はんみ》の温《ぬく》もりが遠くなっていた。 「テン様?」  そこにいたはずの長身がいないと気づく。 「何だ。起きたのか?」  いつもと変わらない、高い位置からの声。  見上げると、長身が手すりに上半身を預ける物見の後ろ姿。 「トエと寝てろ、この俺《おれ》様が見守ってやるから」  トエ様を笑う口調。 「起きてたんですか?」 「俺はトエと違って寝起きがいいんだ」  よくもまあ、そんな嘘《うそ》を。 「しっかし、トエが寝てると狸《たぬき》みたいだな。くたーって感じがさ。タヌキ、タヌキ」  後でからかってやろうと、愉快げに肩を上下する背中。何だか気に入ったらしく、けらけら 笑って狸《たぬき》という呼び名を連呼している。  この人の前で恥ずかしい失敗は出来ない。きっと、何年もからかわれて遊ばれるのだ。 「何見てるんですか?」 「夜、ここを攻めるとしたら、どう布陣されるか、地形を見てたのさ」  私は眠ったままのトエ様を起こさないようにしながら、毛布を這《は》い出る。  いつの間にか、テン様の毛布が私に掛けられていた. 「戦争、本当に起きるんですか?」  振り向かないままの長身の背に寄ると、壁板《かべいた》にくり貫《ぬ》かれた矢狭間《やはざま》に目を落とす。  だいたい、テン様の見ている光景と同じ辺《あた》りが目に入るが、月明かりだけでは、よく様子《ようす》が 見えない。 どれほどの時間が経《た》ったのか、夜はより深くなっていると、空気が教えてくれた。 「さてね、少なくとも山を越えた中原《ちゅうげん》軍はそのうち来るだろうな。平和だった東和《とうわ》の肥沃《ひよく》さ は、長年の乱世に疲弊《ひへい》した中原を潤す」  でも、今テン様が見ているのは西方山脈《せいほうさんみゃく》の向こうではなく、東方の平原の向こうだった。  そちらはカセン都市や四宮《しのみや》ツヅミ都市、それに三宮《さんみや》ナツメ都市が控える方角だ。  視線を上げて、長身を見上げる。  月がその後頭部の向こうに輝《かがや》いていた。  私の視線に気づき、月暈《つきがさ》の中、見上げた横顔が頬《ほお》を弛《ゆる》ませる。 「火は起きるものだ。この世の中は火で出来たものだからな。炎が世界を作り出す。なら、ど う火を操るか。そこが勝負所さ」  気まぐれなのか、珍しく饒舌《じょうぜつ》だった。  普段《ふだん》は、もっといい加減な人だ。  この人と、二人きりで真面目《まじめ》な話をした記憶《きおく》が無いくらい。  トエ様と三人でならよくあるけれど、実際、この人達の会話は半分以上、私を玩《もてあそ》ぶことに主 眼が置かれているとも思う。  長身が動く。  いつものように、長い両手が私の両脇《りょうわき》に伸びて、高々と抱えられる。  楼閣《ろうかく》の手すりに自身の背中を預け、くつろぐように私を見上げるテン様。  私の髪が、夜風に揺らぐ。  夜風に乗り届くのは、テン様の匂《にお》い。今日《きょう》はお酒の香りだけ。たまに、血の匂いがする人。  私を掲げる両腕のそこかしこにも大小の傷跡。  この人は軍人なのだ。 「覚えときな」  笑顔だけれど、少しだけ正直そうな声。  暗くて、こまやかな表情は読めない。 「人はな、人間はな、炎を背負って生きてるんだ。炎の魂がないヤソは面白《おもしろ》くも何ともねえ。 ただ、小手先がうまいか下手《へた》かぐらいの差しかねえんだ。そんなヤツは適当に飯食って寝てれ ばそれでいいんだ。熱は上へと向かう。炎のあるヤツだけが、ぞくぞくするような高い価値が ある」 「炎の……価値ですか?」 「そうだ」  ひどく楽しそうな頷《うなず》き。 「高く、高く、上までだ。俺《おれ》という花火を操るのは、麗《うるわ》しの我が姫殿下《ひでんか》かな、それとも、やか ましい狸《たぬき》軍師かな」  そう言う余裕げな表情の向こうには、暗い地表が広がり、ちょうど頭の後ろに、昼間の火災 の跡が黒々と月光を閉じこめている。  ぽっかりとした黒い穴。誰《だれ》にも見通せない。  明るい炎はよく見えるけど、誰も触れない。  残すのは炭と灰だけ。 「カラ、天下が欲しいか?」  唐突だけれど、屈託のない問い。 「いえ、あまり欲しくないです」  自然に答えた。  炎なんて私は持っていない。少なくとも、この人みたいには。 「何で、俺達について来た?」  気まぐれだけど、素直な問い。 「世界って何なのか、見てみたかった」  多分《たぶん》、そうだと思う。  本当は世界じゃなくて、目の前の人達のことや、自分のことが知りたかったのかも知れない。  何か知りたくて、何か判《わか》りたかった。  それが何なのか、まだよく判らない。  小さな頃《ころ》から、永年《ずっと》、考えているけれど。  そう言えば、この人はどう答えるだろう。  傍らの人はどう答えるだろう。  そして、いつか、大人《おとな》になった私はどう答えるのだろう。  聞きたいと思う気持ちが少し、聞かなくても判るような気持ちが半分。残りは何だか判らな い。 「どうして私を選んだんです?」  別のことを訊《き》く。  何度も訊きそびれてきた言葉、 「一目で本物だと閃《ひらめ》いた」 「嘘《うそ》つき」 「疑い深そうな顔してたからだよ」 「そんなことないです」 「おめえは知りたがり屋だ」  何故《なぜ》か、満足げな声。 「欲のあるヤツは好きだ、俺《おれ》は欲のないヤソには何の興味《きょうみ》も無い」  あの日の私の欲は、多分《たぶん》、憧《あこが》れだった。そう思う。  テン様は機嫌《きげん》良く続ける。 「変化の時代っていうのは夜だ、火を近づけなければ道は照らせまい。俺が火だ。お前は一番 いい席で世界を見るといい」 「恐《こわ》いです。火傷《やけど》しますよ」  火や力の権化《ごんげ》。それが、私にとっての、この人だった。トエ様は知恵の象徴。 「ああ、気をつけな。だが、うまい飯も火の使いようだ。うまい物食いな」  いつもの破顔。人懐《ひとなつ》っこい。 「いいか、カラ。よく訊きな。もし、俺達に負けがこんだりして、やばくなったら、俺もトエ も捨ててさっさと逃げな」  笑いながら、そんなことを口にする。 「私が?」 「そうだ。いざとなったら俺も逃げるから、お前も逃げな。お互い長生きしよう。炎は高みへ と走るんだ。いつかな、世の中あの月へ届く日も来る。百年ぐらい長生きすれば、その時代を 見られるかも知れないぞ」  とんでもないことを言うのだけれど、お月様を二人して見上げる。  満月を少し過ぎた明るい月が、何だか、いつもより身近に見えた。  何となく、手が届くような気がして、何となく、手を伸ばしそうになった。 「欲しいものは遠いんですね」 「人間は無い物ねだりの生き物だ」  ふと、気がつく。 「酔っていないんですね。お酒に」  月に視線を向けたまま呟《つぶや》く。 「まあな」  軽い笑い声。  でも、今までの会話の中で、一番、嘘《うそ》のない言葉。  この人は、お酒を飲んでも本当は酔っていない。眠り込むことはあるけれど、お酒に正体を 無くすことはない。  他人が酔っている時こそ、本当は誰《だれ》よりも醒《さ》めている人だ。  こうして、何かを眺めている時の方が、この人の心は動いているのかも知れない。  疲れ始めた首を下ろすと、目と目が合う。  手の中の一瞬《いっしゅん》の動きも見逃さず、心の全《すべ》てを見通すように、テン様は目を細める。 「いいよな。高い所は」  多分《だぶん》、きっとこれも本音。  こんな時、上を見ている時、本当に楽しそうな目をするのだ。この人は。 「でも、テン様」 「ん・」 「高い所は風冷たいです」  夜風が、さっきから、どんどん身体《からだ》の熱を奪っていく。せっかく、温々《ぬくぬく》だったのに。 「ハハハ、悪い悪い」  楽しそうに、本当に楽しそうに笑う人だった。  それから、眠りこけるトエ様をテン様が蹴《け》り起こして、私達は作戦会議と称した酒盛りを続 けた。  それは、星と月の明るい夜だった。  朝起きると、私は与えられている私室で目を覚ました。  衣装役さん達が着替えさせてくれたのだろうか。覚えもないのに夜間着にきちんと着替えて いる。  何事も無いかのように、トエ様は執務室に籠《こも》り、テン様は朝から部下を指揮して昨日の火の 始末に働いている。  顔を合わせても、楼内《ろうない》での酒盛りの話は出なかった。  夢だったのかな。  楽しかった。ひどく楽しく幸せな夜だったから、だんだん、そんな気がしてきた。  そう考えれば、いつも計算高いトエ様が無防備に寝ぼけるなんて嘘《うそ》みたいだし、いつも遊ん でいるテン様が、現場以外で真面目《まじめ》な顔をするなんて信じられなくなってくる。 「ふう」  回廊の一角、出窓の一つから空を眺めて、その下で働くテン様達を眺めていると、  くしゅん  背後で小さく、くしゃみの音。  振り返ると、執務室の扉。  聞こえてきたのはその向こうからで、そこには大抵、私の補佐役で、テン様の軍師でもある 人だけがいる。  自然に、はにかんでしまう。 「狸《たぬき》さんも風邪《かぜ》ひくんだ」  私は昼食に薬湯《やくとう》の用意をしようと決める。トエ様の好きな中原茶《ちゅうげんちゃ》と一緒にと。  その、途端《とたん》、 「何だとっ!」  室内から怒声。  間髪《かんぱつ》入れず、ばんっと音を立てて、トエ様が執務室から飛び出してきた。 「ひいっ! 御免なさい! 御免なさい! もう狸なんて口が裂けても言いません!」  慌てて回廊の角に縮《ちぢ》こまる私に、目もくれないで 「テン! テン・フオウはどこだ!」  いつもの喚《わめ》き声。 「この請求《せいきゅう》書は何だ!?」  書類の束《たば》を抱えて喚き散らしている。 「あ、あの、火の始末……外ですよ」  恐る恐る告げると、礼だけ口にして、いつもの早足。  あっというまに消えて行く。 「ど、どうしたんだろう? 今度も何かの作戦なのかな?」  あの二人は、疑い出せばきりがない方達だ。  どきどきしている胸を落ち着けると、ふと、足下に白い物。  トエ様が落としたのだろう書類の一枚。  カセン特産の薄紙《うすかみ》。林業の盛んだったカセン地方では、一般にまで高く普及している上質紙。  拾って目にして、止まってしまう私。  ……何……これ? 「演技じゃないや……」  呟《つぶや》きが洩《も》れる。 「テン様、どこで何してるんですか? 何をどうしたら、こんなお金が……?」  誰《だれ》か答えてと、私は見たこともない高額面《こうがくめん》に途方に暮れた。  使い込みを糾弾《きゅうだん》する怒声が、やがて、風に乗って届いてくる。  いつもの様子《ようす》に、そのうち、私は可笑《おか》しくなって笑い出す。  開け放たれた回廊の窓。そこから見えた夏空は澄《す》んでいて、季節の風が心地よい。  季節の名、空澄《からすみ》は、私の名前なのだから。  私は十二歳の初夏《はつなつ》を、こんな風に毎日過ごした。 三節 高夏 八月  麻の服が、ひどく懐《なつ》かしい。  絹の肌触りに慣れすぎると、堅く重い気がするけれど、これが本来の私の服装だと思う。  東和《とうわ》の夏は短く、高夏《たかなつ》の末になると、袖《そで》無しでは朝夕が少しだけ寒い。  夏期が終わりに近づき、涼しくなるから長袖の単衣《ひとえ》で、ちょっとだけ野暮《やぼ》ったい感じ。  ただ、それが気安くて、着心地良くて落ち着く。  だけれど 「ほら、そばかすも付けて、髪も荒れさせて、もっとがさつにいこう」  この所業はひどいのだと思う。 「ううっ、ひどいですよっ! いつもは着飾れ、着飾れ、お白いしろ、お白いって言うのに っ!」  私達のやりとりに、衣装役兼化粧役の侍女さんも呆《あき》れている。  それはそうだろう。  毎日、毎日、田舎《いなか》娘をお姫様に見立てているのに、いきなり本来の姿に戻せなんて。  ああ、中原《ちゅうげん》から取り寄せた高価な大鏡《おおかがみ》に、そばかすの貧弱そうな子供が一人映っている。  着る物は、孤児院に流される物を買い取ったらしい使い古し。  丈の短い麻服に、両足は緩《ゆる》やかな割り袴《はかま》。  造りがしっかりしているのが救いで、何だか半分男の子のような格好。  どう見ても、本来の私だ。流石《さすが》に、そばかすはないはずだと思うけど。 「もっと、肌の色、野良仕事に慣れた色にならないのか?」 「無茶《むちゃ》言わないでください! 普段《ふだん》、日焼けするなって言ってたくせに!」 「うーん、遊牧民の子供を拾ったということにしたいんだが、まあいいか」  ときたま、トエ様はとてつもなくいい加減なことを言い出す。  輪をかけていい加減なテン様が、すぐに同意するから堪《たま》らない。  私だって自分の身が可愛《かわい》い。どうして、こんな目に遭《あ》うのだろうか。普段、いい服着て、い いご飯を食べている代償《だいしょう》なのだろうか。 「よし、仕上げがすんだら驢馬《ろば》に乗りたまえ。僕は馬車だ」  いつもと逆のことを言う。  もっとも、トエ様は馬車に相乗りしたがって、めったに馬には乗らないけれど。 「では、待っているから」  さっさと、衣装室から姿を消すトエ様。  トエ様の足音が遠のいてから 「姫様、どうなされたのです? 退位されるおつもりですか?」  いつも無口な、衣装役のお姉さんが訊《き》いてくる。  この人だけが、私とトエ様テン様の、いい加滅な上下関係をはっきりと知っている。  最初は、あらゆる形で忠実な上下関係を演じるつもりだったけれど、身近な大人《おとな》の女性には 隠せなかったのだ。  私は以前も今も子供だから。それに、あの人達は恐ろしくいい加減なのだ。 「退位も何も……私はカセン都市にしか承認されてない姫だから」  口で言って、勝手にやっているだけで、正式な即位なんてしていない。季節ごとに祭祀《さいし》や儀《ぎ》 式《しき》を、言われるまま幾《いく》つかこなしただけだ。  でも、まさか、本当に、いきなり普通の子に引き戻されるとは。あの夜から、まだ一月も経《た》 っていないのに。 「よろしいですか、お気をつけください」  細く長身の衣装役さんは、きつい容姿の人だけど、こまやかな気配りをしてくれる人だ。 「東征《とうせい》将軍テン・フオウにも七宮《ななみや》左大臣トエル・タウにも。あのお二方は、特別な方です」 「特別? そうですね」  変な二人。もしかしたら、この東和《とうわ》盆地で一番、可笑《おか》しな二人かも知れない。  鏡《かがみ》の中で私の顔が笑う。 「ご存じでないようですね」  鏡の中、衣装役さんの表情はほとんど変わらない。口調も。  この人はめったに心の様子《ようす》を見せない。  三十代なのか、四十代なのかも判《わか》らない。 「お二人方は、氏素性《うじすじょう》の知れない方々なのです」 「え?」 「十年ほど前、ふらりと東和都市群に、ツヅミ、マキセ、クラセ、そしてカセンに現れました。 それ以前のことは誰も知りません」  私の髪を弄《いじ》りながら、新しい生地でも説明するかのように彼女は続ける。 「そのころ、二十歳前後だったという話ですが、瞬《またた》く間に商家や権力者に取り入り、財を成し、 すぐに破綻《はたん》し、その度に都市を流転しました。その末、カセンでは姫殿下擁立《ひでんかようりつ》により成り上が りました」  誰も教えてくれなかった、私が出会う前の二人の話、  私は黙《だま》って話を聞き続ける。 「左大臣は大河上流の貿易商のご子息だという噂《うわさ》があります。将軍の方は、中原《ちゅうげん》から流れて きた傭兵《ようへい》崩れという噂があります。それだけです」  一息ついてから 「彼等は山師です」  穏《おだ》やかな容貌《ようぼう》が告げた。 「ヤマシ?」  聞いたことのない言葉を日の中で呟《つぶや》く。  何かいかがわしい響《ひび》きだけれど、嫌悪を呼ぶ類《たぐい》ではない。  私の知識は、教養のために修学したこと以外は、トエ様とテン様の言動に集約されている。 その中に無い言葉。  トエ様がテン様を罵《ののし》りそうな言葉に思えたけれど聞いたことがない。  使わないのは、自分も該当する言葉だからだろうか。  一度、聞いてみようと思う。 「教えてくれて礼を言います。えーと」  鏡に映る無表情に笑いかけ、私は名前を聞こうとした。 「衣装役。そう呼んでくだされば結構です。あるいは髪結いの女と名指してください」  やっぱりと、私はため息をつく真似《まね》をする。  この人は、どうしてか、私に名前を教えてくれない。  もう三年近いお付き合いなのに.このまま、当分、会えなくなるはずなのに。  思い出したように訊《き》いてみて、軽くいなされる。そんな関係が変に心地よくて、結局、本気 で問うことはなかった。  ちょっと、そんな月日が遠くなりそうで、ちょっとだけ淋《さび》しい気がする。 「私は姫付きとしてお城を離れることは出来ませんが、もしも、お召し替えが必要ならば、い つでもお呼びください」 「お召し替えですか?」  何のことか判《わか》らないで聞き返す。 「もしものことです」  返事は簡潔《かんけつ》で、これ以上、このことには触れなかった。  そして、最後まで表情を変えず 「くれぐれもお気をつけください」  もう一度、彼女はそう言った。  痛い。痛い。お、お尻《しり》が。 「トエ様ぁ、もうダメてす」  前を行く、色無しの箱馬車に声を掛ける。  覗《のぞ》き戸の網越し、トエ様が後方の私に目を向けてくれる 「君は僕の世話係だろう。取引先まで後、半分だ。耐えたまえ」  言われて田舎《いなか》道の前を見る。そこには、遥《はる》かな丘陵《きゅうりょう》が連なり、所々に緑の森が見える。  このずっと先に、カセン都市があるはず。  テン様は、よく馬を走らせて行くらしいが、私の行ける道とは思えない。  夏が終わりかけ、秋の近くなる穏《おだ》やかな時期なのが唯一の救い。  だけど、山土に砂利を敷《し》き詰めて、簡単《かんたん》に整地された田舎道というのは、慣れない身にはと ても辛い。 「トエ様、私、半時も驢馬《ろば》に乗ったことありませんよ」  小走り程度の緩《ゆる》やかな道行きだけれど、もう朝から長いこと走り続けてる。  まだ、行路は半分も来ていないのに、 「今日はよい経験だ。将来役に立つよ」  ひ、ひどい。  昨日までお姫様だったのに、このぞんざいな扱いは一体……。  くすくすと、周りを固める騎兵《きへい》の方々も笑っている。  トエ様の護衛《ごえい》隊だ。  うう、この人達、いつも私に毎朝、調練の挨拶《あいさつ》に来るのに。  騎兵《きへい》は毎朝、朝駆けの挨拶に城周辺を周回するので、私は祭祀《さいし》の都合がない限り、欠かさな いで見送るのだけれど、彼等は私が七姫《ななひめ》の空澄《からすみ》だとまるで気づいていないようだった。  いくら、二階層の閲兵《えっぺい》台の高みだからって、そんなに違うように見えるのだろうか。それと も、お飾りのお姫様のことなんか、普段《ふだん》から、真面目《まじめ》に見ていないのだろうか。 「おい、カラカラ。大丈夫か?」  明るい声が私に掛けられる。 「将軍、何ですか? それ?」  騎兵さんが楽しそうに話にのってくる。 「我らが姫にあやかってだな、田舎娘に名前を付けてやったのだ」 「おお、流石《さすが》、将軍。素晴《すば》らしい名付け」 「そうだろ、そうだろ、わっはははは」  ひ、人でなしっ。  将軍といったら、七宮《ななみや》の近衛《このえ》にも、カセンの守備軍全部にも一人しかいないのだ。 「東征《とうせい》将軍命名、軍師付き世話係カラカラ嬢《じょう》なり」  誰《だれ》かの言葉に、一行は大爆笑《だいばくしょう》。  特にテン様の心底楽しそうな笑い声。  お腹《なか》抱えることはないでしょうに。 「仕方ない。乗りなさい」  見かねた様子《ようす》で簾窓《すだれまど》から顔を出し、ようやく、トエ様が馬車に手招いてくれた。 「ほ、本当ですか!」 「ただし、姫殿下《ひでんか》には内緒《ないしょ》だぞ。臨時《りんじ》とはいえ公式の車なのだからね」  私、姫殿下なのに……。  出がけの衣装役さんの言葉は、このことだったのかと痛感する。 「ほらっ、しっかりお仕事するんだぞ」  騎兵さんの一人が驢馬《ろば》を引き取ってくれる。  あっ、結構、いい人。  私は路上に降りるが、止まらない馬車に気がつく。  ああ、走って乗り移れということ? 「ま、待ってください」  私は情けない声を出して、馬車の縁《ふち》に乗り移った。  箱馬車の中は極楽だった。  普段《ふだん》私が使用する、暖かみのある朱塗《しゅぬ》り馬車は公式の七宮《ななみや》姫用で、ここでは使えない。  黒塗りは貴族階級、白塗りは富豪、上位公式使節が薄墨色《うすずみいろ》、他《ほか》は素材色を生かしたもの以外 の馬車は認められていない。  東和《とうわ》の古くからある慣習《しゅうかん》だそうだ。それ以上は教えてもらっていない。 「ひ、ひどいです」  泣きつくと、トエ様は困った顔を崩した。 「すまない。君はまだ正式にはカセン都市には迎え入れられない。だが、そろそろ、君を戴《いただ》く 都市を知らなければならない時期だ。極秘|潜入《せんにゅう》だよ」  もっともらしいことを続ける。 「長いことお姫様役で、そろそろ解放もしてあげたかったしね」 「顔が笑ってますよ」 「うっ……テンほどではないよ」  箱馬車には四人分の席が一列進路向きにあり、私はトエ様と少しだけ距離を取って座る。  ただ、何かほっとする。  楽なのだ。肩が。  テン様もトエ様も、何処《どこ》ででも、そう呼べる。東征《とうせい》将軍や左大臣と呼ばないでいい。  ひと前で無理をしなくてもいい。  田舎《いなか》娘を演じうと言われたけれど、それは困らなかった。何せ、お姫様の役を何年もやって いるから、演じるということには大方慣れた。  いや、演じるのをやめたのかな。これは。  ぼんやりと私は考え、横に座り書簡《しょかん》に目を通すトエ様を見る。 「休みなさい」  全《すべ》てを見越したような声に、無意識に頷《うなず》く。  轍《わだち》の踏みしめる走行音と、周囲を行く馬の蹄《ひづめ》の音。  ああ、外と違う。  車内とは、ひどく単調な所だったと、あらためて知る。随分、長いこと馬車でばかり移動し ていたから、何気なく忘れていた事実。  何となく、そうしたことを感じ取る。  しばらくして、久しぶりによく動いたと思うと、急速に眠気が来る。  やはり、疲れたのか、私はそのまま眠りについしまった。 「アハハハッ!」 「な、何ですか?」  けたたましい笑い声がして、目が覚める。 「トエ! 俺《おれ》は先に行くからな!」  箱馬車の外から聞こえる声は、いつもの明るい声。 「こらっ! 僕の警護《けいご》はどうした!」  木窓から車外へ顔を出し、叫んでいるのは、いつものトエ様。 「俺は自由に生きる!」 「やかましい! 散々白由だろうが!」  騎兵《きへい》さん達のゆっくりとした足が速いものに変わると、あっという間に遠のく。 「あ、あのう?」  居ずまいを正してトエ様に声を掛けると、トエ様は簾《すだれ》と窓板を閉め、私の傍らに座り直した。 「テンが逃げた。どこかの豪族の家に押し掛けるらしい」  仕方ないと肩を竦《すく》める。 「そんな、カセンまでに襲《おそ》われたら!」  この辺は治安はいいはずだが、勢力争いをしている組織《そしき》とかもあるはず。  この箱馬車にはお歳《とし》をめされた御者《ぎょしゃ》さんと、トエ様しかいないのに。騎兵の方達がいなくな ると、守りはほとんどないのに。  失礼だけれど、トエ様が格別にお強いなどと聞いたことはないし、思ったこともない。 「カセンは目の前だ、郊外の豪族の屋敷《やしき》に向かったのさ   言われて、慌てて窓の木版戸を開き、私は外を眺めた。  気がついてみれば、硬く整地された都市路を、馬車は走っていた。  風の切れ間に、昼間の草原の匂《にお》い。  馬車の横乎には広い平地。  背後、遠くに山や丘。そして、進路を見る。  なだらかな丘陵《きゅうりょう》の向こうに、白い街並みが見えた。  午後は深く、陽《ひ》ざしに僅《わず》かに赤い色が混じり始めた遠景。  黒が多い屋根の群。白く塗られた家壁《いえかべ》。数千、いや、万に及ぶ家屋の連なり。  それが、建ち並び、大地がそこだけ盛り上がるような圧倒的な様子《ようす》を見せている。  一つ一つ、微細に違う家々の積み重ねが、人の生活の場を広げる様子。  お城ほどの大きな建物は、十もないけれど、なだらかな平地に人が群れなす土地へ、私達の 進む道が繋《つな》がっている。  それは、何年かぶりに目にする、懐《なつ》かしい都市の遠景だった。  城壁《じょうへき》都市ではないカセン都市は、四方の大通りにだけ検問が設置されていた。  整地された舗装《ほそう》路は大通り門の範囲《はんい》しかないので、大規模な輸送や移動はそこだけの監査《かんさ》で いいのだそうな。  後は見張り台やらで周囲を警戒《けいかい》しなければならないのだろうが、どの程度やっているのか、 今の私は知らない。  長いこと平和だったから、あまりやっていないと聞いているけれど。  検問でのトエ様は顔見せだけで、守衛《しゅえい》隊に挨拶《あいさつ》された。  この人は月に一度は、三日ほど足を運んでいるから当然で、私は侍女見習いだというご一言で 済まされた。  そのまま、私達が通行した北門の先に宿があり、そこで馬車は止められた。 「ここ何ですか?」  馬車を降りると、それなりに格式がある三階建ての宿を眺めた。  切妻《きりづま》屋根の角張った中原風《ちゅうげんふう》の木造館で、うちの城より、見かけが立派なような気がする。 「僕の副業だ」  トエ様は、荷物を宿から出てきた案内人に手渡しつつ答えた。 「ここの主人は僕だ。三階は僕とテン、貴重な外来、そして姫殿下《ひでんか》の専用となっているんだ」  そんな話、初めて聞いた。  呆《あき》れた顔をしてしまう。この人は、もしかして商人さんをやっていれば、それでいいような 気がする。 「まだ、姫殿下も泊まったことがない。テンもたまにしか泊まらないよ。さあ、どうぞ、お嬢《じょう》 さん」  私を促すトエ様の顔は、様子《ようす》を窺《うかが》う意地悪だったので、私は顔を見せないでその足に続いた。  建物の外装は文化の進んだ中原風の堅牢《けんろう》な造りで、城造りに似た簡素《かんそ》なものだった。  内部には、それを緩和《かんわ》させる豊かな木彫りの壁《かべ》細工が目立って見えた。  宿の一階と二階は、少し瀟洒《しょうしゃ》という程度だったけれど、三階は七宮《ななみや》城の内宮《ないぐう》と大差ない大 がかりな装飾がなされていた。  もっとも、それらは 一見、高級そうではあったけれど、対外用の飾りでしかない。本当に高 価な仕様を、実務派のトエ様は嫌《いや》がる癖《くせ》がある。  私達の中で、美術品や装飾品の価値が真面目《まじめ》に判《わか》るのはテン様ぐらいだ。お金持ちとの交遊 が激《はげ》しいせいか、物を見る目が肥えているらしい。  だから、内装などの見立ては大抵、テン様がやるのだけれど、派手《はで》すぎると半分はトエ様が 変更していたりする。  そんな中で、トエ様の専用室だけは、この人好みの、飾り無い質素なものだった。七宮城に あるこの人の私室と変わらない。  ただ、蔵書《ぞうしょ》が異様に多く、特注の本棚が壁を埋め尽くしているのだけれど。  そこで二人、くつろいで今後を語る。 「さて、君に姫殿下《ひでんか》の部屋を使わせるわけにはいかないね」  寝台に腰掛けて、トエ様は頭を掻《か》いた。 「次官用の予備部屋を用意させている。ここの隣《となり》だから、いつでも来たまえ」 「次官?」  向かい合って丸|椅子《いす》に座る私は、そんな役職はうちにはないはずだと思う。 「何《いず》れ、必要になると思ってね」  政治の話なのだろう。多少しか、私には判《わか》らない。 「今から秋の間に、そう、今のうちに普通の街を体験したまえ。冬には、府中《ふちゅう》の傍らに屋敷《やしき》が 用意され、仮宮《かりみや》となる」  それは新しい七宮の居城なのだろう。 「街、今日《きょう》から歩いていいですか?」  その話題はまだ先のことだろうと、日の前のことを訊《き》いてみる。 「数日はダメだ」  返事はにべもない。 「今日は僕の仕事を見て欲しい。少し下働きらしい動きを関係者に示して欲しい」  ああ、なるほどと思う。  つい、お姫様を演じないでよいので忘れていたが、今度はその役をやらなければいけないの だった。 「その後なら、よろしいですか?」  訊《き》いてみると、しばらく考える顔をしてから頷《うなず》いて 「この子と、一緒ならね」  顎《あご》をしゃくるトエ様。  部屋の奥を見うという動きに、何かと首を回して、それから声を無くした。  そこに男の予がいた。  灰色の髪と灰色の目。  少し異国の匂《にお》いのする顔立ち。  歳《とし》は私と同じくらいだろうか、背丈は少しあるけれど、まだ幼さのある顔立ちは、あの衣装 役さんのように無表情な少年。  細身の身体が《からだ》、清潔《せいけつ》そうだけれど、色|褪《あ》せた黒装束に包まれている。  身体に密着した黒服の上に、何処《どこ》にでもあるような灰色の羽織《はおり》。よく見ると、異国風の不思《ふし》 議《ぎ》な格好だけれど、少し見ただけでは気がつかない地味な姿。  どこか、記憶《きおく》の片隅にある立ち姿。  知っている人だった。 「日影《ひかげ》さん?」  テン様が遊びで象形文字を与えた少年。  二年ほど前、一度だけ、私の前に立った人。  それが、私に何の関知もさせず、部屋の隅に立っていた。 『カセンで拾ってきたんだ。使えるぜ』  確か、そう言ってテン様が城に連れてきて、私に引き合わせた灰色の少年。  声一つ出さず、私をちらりとだけ見た。そんな男の子だった。  どういうわけか、その日、その時しか姿を見ず、テン様がどこか外部の部署に連れていった のだろうと思っていた少年。  そんな人が、そのままで大きくなって、肩幅に逞《たくま》しさを持ち、肌を少し褐色《かっしょく》にして、こうし て私の前に立っている。 「今度のことのために呼びつけた。大方は言い含めてある」  ヒカゲさんを見ている私に、トエ様が語り続ける。 「ヒカゲはカセンの地理に詳しい。案内も補佐もできる。残念だが、僕は顔が知れていてね、 それほど闊歩《かっぽ》できる身分ではない」  トエ様は残念そうに肩を竦《すく》めた。  まあ、早婚の地方では親子ほども歳《とし》が違うから。それでなくても、都市では一緒に歩きにく いのかも知れない。ヒカゲさんとならば、年子《としご》の兄妹にも見えるだろう。  そんなことを考えつつ席を立ち、私はヒカゲさんの前に歩んだ。  立ち止まり、小首を傾《かし》げ、両指を胸元で重ねる略礼を取る。 「七宮《ななみや》の空澄《からすみ》です。御健勝のご様子《ようす》で何よりです」  返事はなく、ヒカゲさんは微動だにせずに私を見つめている。  何か恐《こわ》い沈黙《ちんもく》。  ああ、そうか。 「ごめんなさい。カラスミです。よろしくお願いします」  いつものクセで、お姫様|面《づら》したのが悪いのだと、地顔ではにかんで平伏する。  それでも返事はなく、微動だにせず立ちつくすヒカゲさん。  どうしよう。何か閲違えたのか。  一度、顔を合わせているというのは勘違いか何かだったろうか。何せ、一度しか顔を合わせ ていないような来訪の方々は大勢いる。  焦っていると 「ヒカゲ」  見かねたとトエ様が声を掛ける。 「姫殿下《ひでんか》は友人を必要としている。君は誠意の限りに姫殿下に応じろ」  その言葉に、ヒカゲさんの目が、私からトエ様に向けられた。  変わった動きだった。  身体《からだ》は揺れさえもせず、灰色の両の目だけが鋭《するど》く動く。  その口がゆっくりと動く。 「……いいんですか」  ようやく、微《かす》かな声。小さな独り言のような、トエ様への確認の言葉。  感情を感じさせないのは衣装役の侍女さんに似ているけれど、もっと飾りの無い声。  何かの、簡素《かんそ》な器具が声を発したような、平坦な印象を受ける声。 「許可する。いや、必要ならば、いつでもいいと、初めて会った時に告げたはずだ」  事務的な[調をするトエ様だが、この人の言葉には、いい意味でも悪い意味でも、必ず感情 の動きが見えると思う。  頷《うなず》く動き。ここで、やっと普通の人の動きが見えたが、少しだけだった。  瞬《まばだ》きをして、私に向き直る少年。 「名はヒカゲ」  相変わらずの声で名乗り始める。 「あんたを護《まも》るから、呼びたければいつでも呼べ。出来るだけ近くにいる」 「そうですか……よろしくお願いします」  よく判《わか》らないまま了承すると、そのまま私の傍らを通り過ぎ、部屋の出入り口へと歩き出す ヒカゲさん。 「どちらへ?」  この地方は本来引き戸が主流だが、中原風《ちゅうげんふう》の開閉戸を開く背に訊く。 「どこにでもいて、どこにもいないのが俺《おれ》の仕事だ」  そして、扉の向こう、廊下へ姿を消して行く。  しばらく、私は呆然《ぼうぜん》とした。 「何なんですか? 変わった方ですね」  扉に向いたまま呟《つぶや》くと、トエ様が頭を掻《か》いていた。 「照れ屋なんだ」  ぼそっと、答えてくれる。  それから 「気が付かなかったかい?」  問いかけが来る。 「ええ、最初から部屋にいたんですか?」  素直にすごいと思う。  あんな守備兵がいたら、泥棒《どろぼう》みたいな犯罪者なんていなくなるんじゃないだろうか。 「違うよ、彼には音が無いのさ」 「え?」  トエ様に目を向けると、私の方を見ないで、開け放たれた窓枠に腕を立てて、宿の中庭を見 下ろしていた。  午後の陽ざしが僅《わず》かに緩《ゆる》い。 「君の傍らを歩く音、戸を閉める音、廊下を行く音、何も聞こえやしなかったよ」  そう言われれば、覚えがない。 「東方の果てに無音の技を持ち、あらゆる隠密に長じた集団がいたという。幼い頃《ころ》から修練を 積み、困難を克服した者達」  唄《うた》うように語って、トエ様は口元だけで笑った。  角度的に、その顔はほとんど見えなかったけれど、こういう時、この人は必ず笑みを作るの だと私は知っている。 「ほとんど、廃《すた》れてるらしいが、彼は彼等の、数少ない生き残りだよ」  めまぐるしく、数日が過ぎた。  中原茶《ちゅうげんちゃ》を運んだり、書類を抱えたり、トエ様の後ろをてくてく、てくてく。  ある時は外回り、ある時は執務室、ある時は社交場に。そのうちには、外務用の侍女服が支 給されてしまった。  こんなはずじゃなかったのに。 「左府殿《さふどの》には姫殿下《ひでんか》によろしくとお伝えください。我が商会は援助は惜しみません」  そう口にする財界人に、トエ様が侍女服の私を指して 「姫殿下のお側《そば》づき見習いです。公式には自分が、非公式には彼女が、姫殿下に御誠意の数々 を伝えましょう」  などと言うから、後でトエ様が席を離れると言いい寄られて 「よいか? おじさん達のことを姫様に、それから将軍によく言っておくれよ」  そうしてお金や貴石《きせき》を握らせられたりする。  ある時は貴族やら華族やらの宴席で 「お優《やさ》しい姫殿下が、路頭に迷っていた孤児を拾い、自分に預けてくださりました。彼女のよ うに一日も早く、姫のお役に立ちたいという子供達が、七宮《ななみや》城や周辺村落には大勢います」  などと言うから 「まあ、姫殿下は社交場に出ないと噂《うわさ》されておりましたが、そのような施しに力を注いでおら れましたとは」  「いえ、奥様。東征《とうせい》将軍も前にそう申されていましたわ。本当でしたのね」  生き証人にされてしまった。  ある時は豪族の屋敷《やしき》で 「ナツメ都市とツヅミ都市の勢力争いで離散した家族を捜す少女です。他都市の圧政横暴の犠《ぎ》 牲《せい》を止めましょう。なにとぞ、今後とも、お力添えを願います」  などと言うから 「戦《いくさ》はいかんのう、時代を変えねばな」  武家屋敷で正座して、難しい話になったりする。  ……あたし、何役やればいいんだろう? 「どひぃ」  与えられた私室で寝台に転がると、天井を見上げる。  シンセン都市の画家が描いた薄墨《うすずみ》の天井画には、どこか遠い渓谷の遠景。  静かな穏《おだ》やかな時間。  寝台横の半開きの窓辺には、赤い色が混じっている。  もうすぐ、四日目の夕方だ。 「トエ様って……嘘《うそ》つきだなぁ」  しみじみと一人で呟《つぶや》く。 「どうして、片っ端から嘘がつけるんだろう?」  つい、ある外回りの帰り道で、本人にそう訊《き》いてしまった。  答えは笑って 「どうせ世の中は嘘で出来ている。だから、どうせなら面白《おもしろ》い嘘をついてみようと思ってね」  まるで詐欺師の言い分だけれど、何だかんだと言いくるめられてしまった。  名人芸だと思う。私も人のことは言えないのだけれど、つくづくそう思う。  どうも、半分は私を困らせて楽しんでいるのだけれど、次から次へと、空澄《からすみ》姫は理想化され てる気がしてきた。 「お姫様って難しいよなぁ」  このままでは、時が来ても、元の姫に戻るだけでは足りない気がしてくる。もっと完璧《かんぺき》なお 姫様をやらないと追いつかない。  それに、もっと問題なのはテン様だ。  どうも、この人が一番いけない気がしてきた。  人づてに聞くと、どうやら、そこら中で、こんな話をしているらしい。 『姫殿下《ひでんか》は私に、戦争の無い世界を創ってくださいと涙ながらに訴えられました』 『マキセ都市とクラセ都市の卑劣な嫌《いや》がらせに、連夜侍女と涙にくれ、それでも、昼間は気丈 に部下達を指揮していらっしゃる』 『東和《とうわ》の希望の役割はカセンが握る。シンセン都市を倒した後は、カセンこそ王都として再開 発すると常々おっしゃっておられる』 『聡明《そうめい》さでシンセンの黒曜《こくよう》姫に、美貌《びぼう》ではツヅミの琥珀《こはく》姫に、人望ではスズマの翡翠《ひすい》姫に比類 し、慈愛《じあい》では他《ほか》を寄せ付けないのが我が姫殿下《ひでんか》なのだ』  まだまだあるよ。三日しか出歩いていないのに。  ……どうしよう……逃げたくなった……。  とにかく、私が山奥で、大して城を出ずに教育を受けてる開、お二人が、軍事より、こっち に力を入れていたらしいのが判《わか》った、 「一宮《いちのみや》のシンセン黒曜姫から、二宮《にのみや》スズマの翡翠姫、三宮《さんみや》ナツメの常磐《ときわ》姫、四宮《しのみや》ツヅミの琥 珀姫、五宮《いつみや》クラセの浅黄《あさぎ》姫、六宮《むつみや》マキセの萌葱《もえぎ》姫、そして七宮《ななみや》カセンの空澄《からすみ》姫。七都市に七人 の姫君か」  独り言を続ける。 「七姫《ななひめ》はみんな、こんな苦労をしているのかな」  会ったことなんか一度もない。同じ境遇《きょうぐう》の人達のことを考える。  他《ほか》の都市は擁立《ようりつ》する力がなかっただけで、本当はもっと増えても不思議《ふしぎ》ではなかった七人。 最後の一人が私。  先代の王様は沢山《たくさん》の妻妾《さいしょう》や愛人がいたらしく、何人、庶子《しょし》がいても不思議ではなかったとい う。。  本家がまとめて流行病《はやりやまい》に倒れ、暗殺もあったりして、結局、濁流《だくりゅう》から後継者を捜す羽目にな った王制の存亡。  もしかしたら、私以外は本当にみんな、先代の子供だったりして。  そこまで考え、まさかと笑う。つもりだったけど、寝台から慌てて身を起こす。  急に心配になってきた。ありそうな気がしてきたのだ。  何せ、あのテン様とトエ様だ。  もし、仮に、本当にそうだと知っていても、気にしないで偽物を立てて喜ぶ気がする。  考えたら、すごくあり得る。 『お気をつけください』  七宮城を出る時の注意が耳に谺《こだま》する。  このことだったのだろうか。 『この子にしようぜ』 『丈夫そうなのにしよう。あまり将来の保証はしてやれないからね』  あの三年前のいい加滅な言動からしても、何だかそんな気がしてくる。  みんな偽物らしいという話だったのに、実は私だけ偽物だったりしたらどうしよう。  他《ほか》のお姫様は、本当に真面目《まじめ》で、綺麗《きれい》で、後衛《こうえい》の方々も、うちと違って立派な方々だったり したらどうしよう。 「逃げようかな……やっぱ」  そろそろ涼しい時間なのに、背中に汗が走ったりする。  いや、落ち着こうひとまず。  何か、考がえば考えるほど、恐《こわ》いことになりそうな気がしてきたから、落ち着かなければと 考える。  窓辺に出て、外の空気を吸おうと考える。  寝台を乗り越え、お城で、私達の帰りや呼び出しを待っている侍従長《じじゅうちょう》達には見せられない、 だらしない動きで窓辺にへばりつく。  漆塗《うるしぬ》りで磨き上げられた窓枠に身をのせて、外へ顔を出す。 「ふう」  火照《ほて》った顔に、晩夏《おそなつ》の風が吹き付ける。冷たい峙期を予感させるけど、まだ熱を持つ風。  ありがたい優《やさ》しさに感じられる。  そして、赤みがかった陽光に目を細める。  そろそろ、陽が落ちていると理解できる時聞。遠い西の地平に落ちようとしている太陽。そ の下方が空気のぶれに揺らめいている。  鮮《あざ》やかな光景は、家々の屋根の向こう、草々の立つ原野を染め始めている。  人のざわめきに視線を落とす。  窓の下、宿の前の大通りを行き交う人々。  仕事帰りなのか、家路を急ぐ人が多い気がする。城に籠《こも》もっていたら、見られなかっただろ う、のどかな風景。  耳を澄《す》ませば、ざわめきに談笑や、日論が断片となって聞き取れてくる。  日常かな、これが。  ぼんやりと感じ取る。  油所《あぶらどころ》があるスズマが紛争中のため、灯《とも》り油は貴重だ。それ故、都市中央以外は夜が早く、 行き交う人々も早足に見える。  羽織《はおり》姿の行き交いは、町衆《まちしゅう》の活力で、たまに、流行《はや》り初めの、身体《からだ》に密着する中原《ちゅうげん》服造り が見受けられる。夏服の単衣《ひとえ》に混じり、秋物の重ね着もそこかしこ。  お城や周りの村落では見られなかった光景。  何か他愛のない豊かさ。  ああ、これはトエ様の言いぐさだな。  気がついて笑っちゃう。  知らず知らず、考え方の嗜好《しこう》が似てしまう。 「結局、もう遅いかな」  呟《つぶや》くと、少し気が楽になった。  もう一度、家々の向こうに夕日を見据えて楽にする。  夕映えの下、幾《いく》つかの家で明かりが灯り始めている。  ふと、勾配《こうばい》屋根の切れ間に、高台の公園を見つけた。  何かの記念に、人によって造られた小さな丘陵《きゅうりょう》が城の土台のようにあり、花木が立ち並ん でいるようだ。  東和《とうわ》は祭り上げに円錐《えんすい》に近い丘陵を、無ければ人工的な高台を用いる。私の契約した玉水《ぎょくすい》 府《ふ》もそうだった。  割と小さめだから、目に入ったのは特に名もない存在なのだろうと思う。  歩いて、すぐに行き帰り出来る距離。 「行ってみよう」  無意識に呟いて窓から離れると、私は夜問用の筒外套《つつがいとう》を羽織り、私室を出た。  艶《つや》のある板張り廊下に出ると、隣《となり》の部屋のトエ様は、お客さんと話をしているようだった。  もう公式な仕事ではないはずだ。微《かす》かに聞こえてくる声も、お客さんの一方的で事務的なも のだった。  多分《たぶん》、情報屋さんなのだろう。  気づかれないように、その前をひっそりと通り過ぎ、階段へ向かう。 「……ツヅミのコハク姫が……圧力……斥候《せっこう》……」  切れ切れに、報告の断片を耳に拾いながら、階下へ降りて行く。  うまく宿の人達とも折り合いをつけ、私は宿前の大通りへと出た。  そのまま、トエ様に見つかるまいと、人込みに紛れ、大通りを西へ進む。  窓から、大方の道は記憶《きおく》したつもりだ。  すぐに辿《たど》り着けるはず。  雑貨屋の前を抜け、乾物屋の前を抜け、民家の界隈《かいわい》を抜け、道行く人の波に逆らうように歩 き続けた。  風鈴の音がどこかの軒先。  高く脆《もろ》い色は硝子《がらす》造りで、軽く鈍いのは竹風鈴。それに陶器の音も遠く。  夕顔《ゆうがお》の咲く家々。夕涼《ゆうすず》の街。  所在なげに向日葵《ひまわり》が並ぶ庭先では、小さな子供達が、まだ声高く遊んでいる。  影さす茜色《あかねいろ》の路上。長い影を連れて行く人々。  そんな光景の中を歩いていた。  別に大きな目的はなかった。  違う景色を目にしたかった。違う空気を吸いたかった.それだけだった。  それで、何だか、懐《なつ》かしいくすぐったさを周りに感じたりする。  でも、この街の中、この家々には、私の居場所は無いのだろう。  やがて、高台の足下、石段に立つ。  三十段ほどだ。  これならば、宿の三階窓より高さは下なのだろう。それは、窓からも判《わか》ったが、室内とは違 った景色が見えればそれでよかった。  元気良く、今日《きょう》、最後の元気を用いて石段を上る。  私が階段を上りきった時、最後の子供達が帰る瞬間《しゅんかん》で、最上段ですれ違う。  小さな子達と入れ替わり、私が一人、階段上。  目に映るのは、夕焼けに染まる広場だった。  夏落葉が風に舞《ま》う静かな景色。  もう、人影のない、ちょっとした更地《さらち》を、鎮守《ちんじゅ》の木々が囲んでいた。  常磐《ときわ》の木々に囲まれた円形の広場。そこは地肌むき出しだが、硬く、よく安定した山土だっ た。  小さな町祭りやらの祭事にちょうどよく、集会所、そして子供の遊び場になっているだろう 空間。  人がいないと、やたらもの悲しい場所だけれど、静けさが欲しかった私は気にしなかった。  茜色《あかねいろ》の広場。木立達が影法師を長く伸ばして、地面の上で背比べしているような景色。  足下でも、小さな砂利達が身の丈の倍以上ある影を従えていた。  西日を探してみれば、遠く、遠く、なだらかな平野の向こうに幾つかの山々が見えて、その 頭に赤みの深い夕日。  ちょっと、息を呑《の》む。  ほとんど、無意識に広場を西へと横切り始めた。  顎《あご》をあげて、広がる展望に目を見開く。  世界は茜色と影の色だった。  風に行く流れ雲が、夕色と影色に染まって遠く、近い空を、もつれ雲が柔らかく広がってい た。  やがて、ちょっとした高さの木立が並び、景色を楽しむための長椅子《ながいす》が作りつけられた高台 の一端へと辿《たど》り着く。  そこからは西に広がる街並みと、その向こうに広がる平野が望めた。  視線を少し落とせば影に染まる家々の群、夕餉《ゆうげ》の煙が立ち並ぶ灯火《ともしび》の窓が見て取れた。  何だか、暖かい光景。 「綺麗《きれい》……」  考えないで呟《つぶや》く。 「そうですね」 「はい……えっ?」  頷《うなず》きかけて、はっとする。  すぐそこ、傍らからの声。ちょっとだけの距離がある左側。  慌てて、そちら側に顔を向けた。  そこに、小柄な人影があった。  西の端、私が立った広場の隅には作りつけの長椅子《ながいす》があった。それには気がついていて、そ こに座ろうかと思っていた。  だけど、先客が一人いることに全然気づいていなかった、  広がった景色に目を奪われて、人影と木立の影法師に区別がいかなかった自分に気がつく。  それに、色|褪《あ》せた木造の長椅予に座した人は黒衣で、背もたれの向こうで穏《おだ》やかだったから。 「あら、お声を掛けてくれたのではないのですか?」  澄《す》んだ声が私に問いかけていた。 「あ、あの、おじゃましましたか?」  どう答えたらいいか判《わか》らなくて、たじろいでしまう。 「いいえ、くつろいでいただけですから」  私の反応が可笑《おか》しかったのか、彼女が小さく笑った。  長い黒髪が陽《ひ》ざしを跳ねて揺れ、頭の上で黒帽子が軽く上下する。  黒衣の、そして、長い黒髪の人だった。  黒単色の姿は喪服のようで、お葬式帰りに見えた。ただ、上着は割とおしゃれな外套《がいとう》で喪服 には思えない。  陽光を吸収した黒い影は、季節的に暑いはずだが、多分《たぶん》、陽の高いうちは木陰か何かにいた のだろうと思う。  生地自体は薄絹《うすぎぬ》で、帽子も夏帽子のようだった.、 「夕涼みですか?」  変な始まりをごまかそうと、訊《き》いてみる。 「ええ、夏はこの時間が一番好きです。暑いんですよ。この色」  広袖《ひろそで》を纏《まと》った両手を小さく広げ、茜色《あかねいろ》を照り返す頬《ほお》に笑顔を浮かべる人。 「なら、この時期は黒の衣は避《さ》けた方がいいと思いますよ」  私だって夏は薄色しか着ない。 「そうなんですが、この色|趣味《しゅみ》でして」  ちょっと、とぼけたような、そのくせ真面目《まじめ》そうな声。 「趣味なんですか、じゃあ、仕方ないですね」  テン様もトエ様も趣味のためには、どんな自腹もいとわない人だから、そういう人の気持ち はよく判《わか》ったので頷《うなず》いてしまう。  だけど、多分《たぶん》、変な受け答えだったのだ。  だって、座ったまま私の方を向いていた彼女は不思議《ふしぎ》そうに私を見つめて、それから指先を 口元にあ.てて笑い出したのだから。 「そんな返事をいただいたの、初めてですわ」  よほど興《きょう》に入ったのか、顔を伏せて、しばらく笑いをこらえたりする。 「ごめんなさい……笑ったりして」  少しして立ち直ると、穏《おだ》やかな眼差《まなざ》しが私に向き直った。  ゆったりとした挙動で、長椅子《ながいす》に座り直される黒衣の姿。肩に羽織《はおる》る上着は、全身を包み込 む長い外套《がいとう》だった。  紅《あか》い陽に煌《きら》めいて、淡い刺繍《ししゅう》が裾先《すそさき》に見える。  一房の胡蝶蘭《こちょうらん》。 「貴女《あなた》は、どうしてこちらに?」  はっきりとした澄《す》んだ声が私に向けられた。 「私、あの……」  落ち着いた、優雅《ゆうが》とさえいえる様子《ようす》に、また慌ててしまう。  向けられた声と、視線が素直に綺麗《きれい》すぎた。  端正な、とても端正な少女が私の前に座っていた。  切れ長の瞳《ひとみ》と、細い顎《あご》。一つ一つが、宝玉に刻まれた彫細工のように整った目鼻と唇。  私が出会った全《すべ》ての人の、誰《だれ》よりも白い肌と、誰よりも黒い髪。  背中で一つに束《たば》ねた黒髪と、それに負けない黒さの瞳が、夕焼けを反射する少女の頬《ほお》と鮮《あざ》や かに対照的だった。 「夕焼けを見に来て、そのう、お一人かと思いまして、お声を掛けさせていただきました」  見とれてはいけないと目を伏せて、慌てて変な嘘《うそ》で取り繕《つくろ》う。気がつかなかった間抜けさが、 恥ずかしくて耳が熱くなったりする。  気がついたら、胸がどきどきしていたから、落ち着こうと言葉を探す。 「淋《さび》しいですものね。居合わせているのに、お声が掛けられないのも」 「そうですね」  静かな返答は、どこか優《やさ》しく聞こえた。思いつきの嘘なんかお見通しな、何でも知っている 大人《おとな》の表情。 「いえ……その……おじゃましましたね」  良い言葉を探しながら、彼女と顔を合わせると、とても軟らかい表情をしていた。  よく見ると、私より年上のようだった。  大人びた顔立ちに落ち着いた表情は、何歳も年上にさえ感じられるけれど、二つか三つ上ぐ らいにも思える。  お姉さんと呼んだ方が良さそうだ。  年上さんなのだと思ったら、少し胸が落ち着いてくれた。 「構いませんよ、アテはありませんから」  どうとでも取れる断片的な言葉を口にして、彼女は西の空に目をやった。  私もそちらに視線を向けた。  半円の茜色《あかねいろ》。  いつの間にか落陽は、その身の下半分を遠い山間の起伏に隠していた。 「綺麗《きれい》ですね」  黒衣の上で形の良い唇が動くのを横目に 「そうですね」  と返事する。 「あの山々は西方山脈《せいほうさんみゃく》の末端です。おかしいですよね、東和《とうわ》からは西方山脈という呼称でよろ しいのでしょうが、中原《ちゅうげん》からは東方《とうほう》山脈と呼ばれてるんですよ」  紛らわしいと、くすくす笑う声。 「あの山々が北へ大きく広がり、大きな陸路を塞《ふさ》いでいますから、西の彼方《かなた》に広がる中央のも め事も遠いんです。あの陽《ひ》の先には足下がありませんから」  東和では西方に位置するカセンよりも、遥《はる》か西のことを耳にする。  正確かどうかも定かでない地図で、昔、あの二人や、侍従団の方々が教えてくれたことを思 い出す。 「山々の、そのずっと向こうには、人もまばらな僻地《へきち》があって、やがて、南から入り込んだ海 が見えるのだそうです。海の向こうには中原の南縁《みなみふち》へ海路が続くそうですが、あまり行き交 いはないそうです。東和にとっても、中原にとっても僻地同士ですから。それより、南洋へお 互い向かうのだそうです。暖かい上地を求めて」  東の果ては海が囲んでいて、北寄りには四方山脈が、南からは入り込んだ内海が東和を包ん でいるらしい。もう少し長く大きな土地ならば、東和は半島と呼ばれる地形の中にあると、昔、 トエ様に教わったことがある。 「海……いいですね」  見たことのない名前だけの存在に少し憧《あこが》れる。内地に生まれれば、旅行家以外は、生まれた 土地や、働きに出た都会しか知らないのが当たり前だ。  旅行家は特別な商売人か、ご遊覧《ゆうらん》の特権階級に限られている。後は、多分《たぶん》、昔のテン様達の ような流浪人ぐらい。 「揺らぐ広野ですよ。足下に底がない」  どこかで見たことがあるのか、躊躇《ためらい》いのない言葉。 「そうですか」  小さく返事をして、落日の光景を眺め続ける。  私達は、そのまま沈黙《ちんもく》して、夕日が消えてゆくのを眺めた。  七割方沈んだ頃《ころ》、青葉木菟《あおばずく》が鳴き始めた。  視界の上の方に、輪郭がはっきりし始めた夕月と、瞬《またた》く早星。  こーんと、どこか遠くで鐘《かね》の音。  水時計を備えた時司《ときつかさ》の、高くて重い音色。  穏《おだ》やかな速さで、夕暮れを送ってゆく。 「そろそろ、刻限ですか?」  もう夕涼みには遅い時間だと訊《き》いてみる 「刻限ですね。ですが、急ぎません」  応じた黒影は黒帽子の鍔《つば》を上向きに傾《かし》げて、頭上を仰ぐ。私も続く。  高みには雲の群が赤く、そして影色を滲《にじ》ませている。  陽が見えなくなっても、残滓《ざんし》は淡く夕暮れの景色を続けている。 「お一人ですか?」  訊かれたのは私の方。 「はい。ちょっと一人になりたくて、お世話になっているところから抜け出してきました」 「奇遇ですね。同じです」 「やっぱり、おじゃまでしたか」 「いえ、厭《あ》きたところでした」  ちょっと変な気のする会話。それが何かくすぐったい。  向こうもそう思ってくれたのだろう。黒帽子を被《かぶ》り直す横顔で口元が綻《ほころ》んでいた。 「でも、そろそろ帰らないと、ここらは急に暗くなります」  鐘の音が終わる頃、黒衣がゆっくりと立ち上がった。  黒帽子は私より、頭一つ高い位置。 「そうですね」  同意する。私もそうは思っていたが、何となく切り上げにくくなっていた。 「帰りの階段はどちら? ご一緒しませんか?」 「私こちら」  お互いが手を出して示したのは、西の階段と東の階段で、顔を見合わせて、どちらからとも なく笑う。  笑い方も、何だか子供っぽい私と、上品な彼女。真似《まね》しようとしても、ちょっとうまくいか ない。何だか、それも可笑《おか》しく思えた。 「では、ごきげんよう」 「きげんよう」  黒衣の人と、私は背を向け合い、夕映えの中で別れた。  一度、振り向くと、彼女の姿はもう視界には無くなり、何となく淋《さび》しくなって東の階段の最 上段に立つ。  そこにも、黒衣が見えた。  灰色混じりの人影。  見下ろす階段の途中に、片膝《かたひざ》を抱えた少年の姿があった。  陽《ひ》の当たらない暗い階段の途中で、私を見上げる眼差《まなざ》し。 「ヒカゲさん」  いつからいたのだろうか、全く気が付かなかった。 「暗くなった。迎えがいる」  短い言葉が、彼の筋だった。 「黒衣の女の人……見ました?」  同じような格好だったと、前を行く背に訊《き》いてみる。その背丈も同じくらい。  灰色の羽織《はおり》の下に黒衣。ただし、こちらさんの服は荒く着込まれていて、色がやや薄《うす》く見え る。薄墨色《うすずみいろ》という感じ。  彼のとは違い、あの人の深みのある黒衣は、かなり高い生地だろうと思えた。造りもこまや かで、この辺の意匠《いしょう》ではない気がする。  黒綾《くろあや》という言葉は、あんな夏衣《なつごろも》に使われるのだろう。  夏燈《なつともし》の戻り道。人通りは随分と減り、代わりに、かわほりが忙《せわ》しなく夕空に舞《ま》う。 「綺麗《きれい》な人でしたよ。品のいい方で。もしかして、どこか外回り先の、名家のお嬢《じょう》様かも知 れませんね」  思い出すだけで、どきどきしてる自分を感じたりする。  あの人なら、きっと、私なんかより、空澄《からすみ》姫をきちんと演じられるのだろう。そんなことを 思いながら、遠囲しに自分の気持ちを伝えようとしてみる。  だけど、返答は予測通り無い。  多分、宿の外に出た時から追従されていたのだろうが、彼はそれを口にしない。  多分、テン様やトエ様に何かしら報告する際も、最低限のことしか語らない少年なのだと思 える。 「……夕飯の鴨《かも》はカセンの名物だ」  燈火《とうか》を纏《まと》う宿屋敷《やしき》が見えた頃《ころ》、ぼそっと呟《つぶや》きがあって、目を丸くする。  そのまま、私を振り向かずに、宿にも戻らず、手近な小径《こみち》へと姿を消すヒカゲさん。消えて ゆく先には人影もなく、灯蛾《とうが》だけがちらちらと舞っていた。  どこで食事を摂《と》り、どこで寝るのか、彼の日常はテン様やトエ様もよく知らないらしい。  そんな背中を見送り、立ちつくしてしまう。 「もしかして気をつかってくれた?」  しばらくしてから気が付いて、私は急に、あの無口な背に親しみを覚えた。  何だか、ちょっとしたことが嬉《うれ》しくなる。  そんな幸せを感じながらも、私は夕焼けを一緒に眺めた人のことが、どういうわけか頭から 雛れなかった。  茜《あかね》色の世界で影色の服が佇《たたず》む光景が、何だか、忘れられなかった。 もっと、お話したかったのだと、うまく話せなかった自分が恥ずかしくて、耳元が熱くなっ たりした。  そして、名前を聞き損ねたことを後悔し、また会えることを不思議なくらい切望した。 四節 早風 九月  私達がカセンに居留して、一月が経《た》とうとしていた。  その間、テン様は一度だけやって来て、三日三晩宴会をやり、そのまま姿を消した。  お城に手勢はほぼ帰したようだが、本人の挙動はトエ様にも教えていないらしい。  何か、二人の密約があるとは思うけれど、どうも私には見当がつかない。  トエ様は来月には、姫殿下《ひでんか》が府中《ふちゅう》の承認を得てカセン都市に迎え入れられると話を進めてい た。何やら仰々《ぎょうぎょう》しい宮行列を組んで、話を盛り上げようとしているようだ。  その空澄《からすみ》姫殿下は、今は七宮《ななみや》城の奥の院に籠《こも》り、祭祀《さいし》の修行中ということになっている。 俗世との交流を絶った禊《みそ》ぎの日々。侍従団《じじゅうだん》や衣装役といった、限られた人たちの前にしか 姿を見せていないというお話。  もちろん、トエ様が適当に作ったお話だけれど、人々が疑う様子《ようす》はないらしい。  元々、巫女《みこ》としての属性が強い宮姫《みやひめ》達は、私に限らず人前に出ることは少ないらしいのだ。 実際、支持者の方々がお城に謁見《えっけん》に来ても、私は薄綾《うすあや》の向こうで畏《かしこ》まっていたりして、直接顔 を合わせることは少なかった、  その一方では、三宮《さんみや》と四宮《しのみや》、ナツメとツヅミが共謀《きょうぼう》して軍を集めているという不穏《ふおん》な風聞 がカセン全体を占めていた。  カセンに一番近い二つの都市は、もっとも豊かな東和《とうわ》中央を本来は狙っている。そのため、 後方に位置する七宮カセンを早めに叩《たた》いておきたいというのが、噂の内容だ。  本当だと、トエ様は教えてくれた。 「僕らも最終的には東和中心のシンセンあたりを支配下に治めたい。そうすれば、途中の三宮 ナツメ、四宮ツヅミ、五宮《いつみや》クラセ、六宮《むつみや》マキセとは敵対するのが避《さ》けがたい」  遠くの二宮《にのみや》スズマ以外は敵にするのが、トエ様の語る私達の現実だった。  ここの地理的条件では、私達と四宮ツヅミ都市、三宮ナツメ都市は、早い時期に互いに競《せ》り 合うしかないらしい。  お姫様でいえば、一番近くの四宮ツヅミの琥珀《こはく》姫、それに三宮ナツメの常磐《ときわ》姫が私達の当面 のお相手になる、  琥珀姫は七姫《ななひめ》の中で最も美しく、常磐姫は七姫の中で最も苛烈《かれつ》だという。  どうやら、いきなり大物相手らしい。  もっとも、その前にカセン内部での権力争いがあるようだけれど、それはトエ様のお仕事の ようだ。  カセンの実力者達は紛争状態になる前に、遠すぎる七宮《ななみや》城から都市へと私を移し、戦力の一 本化を図りたいと考え始めている。  そこに、私達のつけ込む隙《すき》があるというのが、トエ様の狙いらしい。 「戦争というのはね、長い目でやるなら先手必勝じゃないんだよ。先に手を出させれば、相手 は加害者、自分等は被善者。正当|防衛《ぼうえい》に持ち込むのは基本だよ」 「ずるいんですね」  そう玄《つぶや》くと 「そうだよ。だから、やらずに勝てるなら一番ありがたい、テンは戦《いくさ》働き出来ないと残念が るだろうがね」  トエ様は笑った。 「政治も商いも似たような駆け引きさ。ずるい分、批判や攻撃《こうげき》を受ける悪役を、きちんとやっ てみせるのが大人《おとな》の仕事だね」  そんなことを口にしていても、この人はどこか楽しそうだった。  基本的に悪役好みなのだろう。  何《いず》れにしろ、どこかで何かしらが争っていて、それが都市同士の大きな抗争になると、他《ほか》の あらゆる物事に影を落とす。  私としては僻地《へきち》とはいえ七宮城には愛着もあるし、周辺村落を犠牲《ぎせい》にしたくない。だから、 都市利権の話なのだから、それぞれの都市間だけで何とかした方がいいとは思う。  かといえ、都市には人も多.いから、その分悪くしたときの被害も大きいらしい。  付き合いこそないけれど、行き交う街の人々の生活は大事にしたく思える。  また都市が持つ商業組合が戦火で潰《つぶ》れれば、村落の生活基盤も危ういのだそうだ。貨幣収入 などが成り立たなくなる。  複雑な話らしい。  退けば、カセンは大都市に搾取される衛星《えいせい》都市になりさがるのだろうから。それは庶民《しょみん》の暮 らしを長く苦しめるとも聞く。  一度、足を止められた都市は、よほどのことがない限り、一世代分は安定や繁栄《はんえい》に影が落ち るともいわれている。  私だって、小さな頃《ころ》、施設にいたのは当時の不景気のためらしい。小さかったから、詳しく は知らないけれど。  今も、それほど経済状況は好転していないそうだ。それはそれで、多くの人が苦しむのだと、 ある程度、身をもって知っている。  どう転んでも、誰《だれ》かや何かが傷を負う。  丸く収まる道は、どうもないらしいと、何となく自分で判《わか》ったような気がする。  そんな重たい胸の内に反して、私の下働きは本格的になり、誰一人疑いを持たない日々が続 いていた。  何冊もある帳簿《ちょうぼ》の入った鞄袋《かばんぶくろ》を抱えて、相も変わらず、嘘《うそ》ばかりついているトエ様の後ろ をてくてく、てくてく。  何だか、これが本来の私達の関係のような気がしてきた。  どうも慣れちゃうらしい、私は。  人々の間では、空澄《からすみ》姫は七宮《ななみや》城で健在となっているのだから、貧相な格好の子供に誰《だれ》も興《きょう》 味《み》を持たない毎日が続く。  私自身も、今頃《いまごろ》、七宮城には別の女の予が迎えられているのではという気がしたりする。  それもいいかと、たまに思う。  ドエ様にしても、特に何も言わないで、肉分の仕事に打ち込んでいた。 「米と麦の相場が変動……」  トエ様は伝書鳩《でんしょばと》の手紙に思案し、何らかの騒乱《そうらん》が起きると予感している様子《ようす》だった。  忙《せわ》しなく、資産の運用を繰《く》り広げている.  そんな忙しさの中で、私はほとんど別行動は取らなかったし、取れなかった。  黒衣の女性に会えることもなく、それどころか、ヒカゲさんとさえ会わなかった。  それが、今日になって、ようやく、自由な時間が出来た。  午前を利用して、あの高台に向かい、少しくつろいで、それから、午後からは玉水府《ぎょくすいふ》に向 かった。  カセンは舗装《ほそう》路がしっかりした都市で、乗り合い馬車も整備されていた。  北門付近から巾央まで、一日に六往復もある。便利な話。 「見る物を見たら帰りは早くね」  そう言って見送ったトエ様は、その立場|故《ゆえ》、非公式に府へ訪れるわけにはいかないらしい。 そんなことで、保護者《ほごしゃ》同伴というのだろうか、十人ほどの人数が乗る屋根付きの乗り合い馬車 に、ヒカゲさんと二人小さく座る私。 「久しぶりですね」  隣《となり》に座るヒカゲさんだけど、返事はなく、流れる街並みに目を向けて、私の方を向くことも ない。  その姿は、同じ衣を沢山《たくさん》持っているのか、何度会っても同じような格好だ。  灰色の髪の下、その表情も以前と変わらない。  私の方は動きやすいけど角張った毎日の仕事藩から、柔らかな町娘さん風の衣装に着替えて いて、それが、どう見えるのか訊《き》いてみたかったのだけれど。どうもそういうことには興味が ない様子だった。  仕方なく、風景に気を取られるフリをして、見慣れない街と人を観察したりする。  緩《ゆる》やかな蹄《ひづめ》の音。軽い轍《わだち》の響《ひび》きが、弱く流れる風に乗る。  取り巻いて流れて行く人の群は、昼の街を賑《にぎ》やかに彩っていた。  カセンは周辺村落の林業と農耕、それに都市部の紙商《かみしょう》で成り立つ地方だ。  それ故《ゆえ》に、他の都市より素朴な印象があるのだという。  二十万人の人口は東和《とうわ》では多い方だ、大方の都市の人口は十万前後だというから。  もっとも、最大都市シンセンの公称百万人には遠いけれど。  さらに中原《ちゅうげん》には億を数える人がいるともいうが、正直、私にはカセンの人の多ささえ、本 当はどの程度か理解しきれていない。  記憶《きおく》にある、祭祀《さいし》の高台で振り返った人の列、あの圧倒さだけだった。だから、何処《どこ》まで行 っても人の行き交いが消えない馬車からの風景が、少しだけ都市生活というものを実感をさせ てくれた。  それぞれに手に職を持ち、それぞれに違う生活がある様子《ようす》。  多様さが変化を生む都市の豊かさ。  うまく自分では言い表せないけれど、ぼんやりとトエ様受け売りの言葉を考えた。  嘘《うそ》つきだから、あの人達。  ちょっと、そんなことを慰う。  戦争なんてと思う。ここから見える人々も豊かなのだから。  また何か騙《だま》されているような気がする。  きっとそうだと思うし、その方がいい。騙されるのには慣れてるから.、  街を見て、人を見て、そんなことを思う。  乗り合い馬車が、馬の気まぐれで止まる時間。手すりに両腕と顎《あご》を乗せ、空を眺める。  高夏《たかなつ》の空は、まだ夏空。雲が白く、そして北から南へ、遠く遠くへと走る。  風は秋の匂《にお》い。数日もすれば早風《はやかぜ》の九月。 「過ごしやすくなったね」 「ああ」  ヒカゲさんも、ちょっとだけ、私に合わせて空を眺めてくれる。  今日《きょう》、初めて返事が貰《もら》えて、何か嬉《うれ》しくなる。  それから、途中、二度ほどの休憩《きゅうけい》と乗り換えに、広場でヒカゲさんと間食する。  賑わう露店《ろてん》から、甘いトウキビを買ってきて、二人で囓《かじ》る。  好きに味付けさせてくれるから、何だか楽しい。  私は塩茹《しおゆ》で、ヒカゲさんは砂糖《さとう》茹で。 「おいしい」  多分《たぶん》、今朝《けさ》、取れたて。トウキビは大好きだけど、お姫様をやっていると普段《ふだん》かぶりつけな い。  だから、毎年夏になると、これ見よがしでテン様が食べ歩く。  だからこそ、今のうちに味わおうと、思いっきりかぶりつく。  幸い、今、私と一緒にいる人は、大変|寡黙《かもく》だから、恥ずかしい真似《まね》をしても黙っていてくれ そうなのだ。  ちらっと、横目を向けて、相変わらずの表情に安心する。  隣《とな》り合って食べるヒカゲさんも、無表情は変わらないけれど、食べる姿は自然体だった。 「甘いの好きなの?」  訊《き》いてみる。 「好き嫌いはない」 「へえ、偉いんだね。私、酸《す》っぱいのが駄目《だめ》なの」 「……俺も好きじゃない」 「はは、本当は一緒なんだ」  かみ合わない会話も、何だか慣れると気にならない。 「ねえ、この格好どう思う?」  だから、袖《そで》を広げたりして訊いてみたりする。 「子供服」 「あー、ひどいなあ」  全然、悪気がないから怒るに怒れない。割と好きな格好だったのに。  そんなことをしているうちに 「ヒカゲでいい」  先に食べ終わったヒカゲさんがそう呟《つぶや》いた。 「呼び方のこと?」 「……」 「ヒカゲさん?」 「ヒカゲでいい」 「えーと……」 「……」 「ヒカゲ……さん?」 「……」 「えーと、ヒカゲ……行きましょうか?」  恐る恐る呼び捨てにすると、ようやく、頷《うなず》いてくれる。  気が付くと、こうした不器用な会話が心地よかった。  きっと、テン様やトエ様の嘘《うそ》つきぶりと反対なので、それが、私には新鮮《しんせん》だったりして、あ りがたいのだと思う。 「何ですか、これ?」  府中《ふちゅう》、玉水府《ぎょうすいふ》周辺の市街に降り立つと、そこは便乗商売の巣窟《そうくつ》だった。 「こ、これが、空澄《からすみ》姫ですか?」 「そうだよ。お嬢《じょう》ちゃん。すごい別嬪《べっぴん》さんだろう? わざわざ、宮姫《みやひめ》専属の絵描きが描き下ろ してくださったんだ」  土産《みやげ》物屋のおじさんは、にこやかに商品見本を渡してくれた。  絵巻物に極彩色で描かれた美貌《びぼう》の姫君は、絶対私と関係ないと思う。  第一、専属の絵描きさんなんていないはずだけれど。 「全三十七巻。続刊も予定されてるし、これは内密の話だが、姫殿下《ひでんか》ご入城の噂《うわさ》もあって、大 判絵巻の制作も始まってる。姫殿下様々さ」  予約特典もあるという話に、頭が痛くなる。  他《ほか》にも姫殿下|羽織《はおり》とか、姫殿下|団扇《うちわ》とか、姫殿下|護符《ごふ》だの、姫殿下菓子まである。そこら中 に、土産物屋がひしめいている。  しかも、結構な繁盛《はんじょう》のようだった。  特に若い男性が大量に買い込んでいくのは、ちょっと恐《こわ》かった。  こんなの何にするのだろうか。 「どうしよう。こんなに美化されてたら、入城なんてできないよ」  ヒカゲさんに情けない声で同意を求める。  返事はなく、ヒガゲさんは不思議《ふしぎ》そうに絵巻と私を見比べていた。  そんなに不思議そうに見なくてもいいのに。  店のおじさんにお話を聞くと、どうやら、どこのお姫様にも、こうした取り巻き商売がある らしい。  それで少し安心したら、ここは特に盛況な都市だと言われて、肩を落としたくなった。  実はテン様とトエ様が、この商売の上前を資金源にしていると私が知ったのは、いつの間に か、姫殿下お守りなる物を買わされた後だった。  玉水府の階段の途中でも泣きたくなった。  ここは元々小山だったのだろう。九十九段なんて、まともな高さじゃない。  ヒカゲさんは何もいわず、二段ほど上で立ち止まっている。 「こんなの御輿《みこし》担いだ大人《おとな》って変」  三年近く前のことを今さらながらに呆《あき》れる。  あの時は、緊張《きんちょう》で自分のことしか考えてなかったのだ。  だが、他《ほか》の都市には、もっと長い階段があるというから気が遠くなる。  府中《ふちゅう》に住めなくてよかったと思う。  しかし、今度、私はここら辺に引っ越す予定なのだ. 「ヒカゲさんは、細いのに鍛《きた》えてあるんだね」  そう言うと 「ヒカゲ」 「うん、ヒカゲですね」  無表情で訂正される。  私は、階段の途中で階下へ目をやる。  長い石段を、参詣《さんけい》の人が結構行き交う。  府中の祭祀《さいし》は祖霊《それい》を自然霊と奉《たてまつ》るという。  それほど、教義がしっかりしているわけでなく、自然と人の生の積み重ねに感謝《かんしゃ》しなさいと いう話なのだそうだ。  トエ様が教えてくれたことだから間違いないと思うけれど、あの人は簡略《かんりゃく》化が激しい人な ので、迂闊《うかつ》に信じると困ることがあったりする。  七姫《ななひめ》の中には宗教|組織《そしき》に関《かか》わる者もいるというけれど、ほとんどが、この民話的な世界観を 背負っているのだそうだ。 「積み重ねか」  呟《つぶや》く。  階段の下に広がる家々の連なりと、遠くの街の切れ間を目に焼き付ける。  街は大きくなる。  そうすれば、人の目で捉《とら》えきれなくなるだろう、裾野《すその》の広がり。 「だから、階段好きなんだね。この地の人って」  少し先に立つ、ヒカゲさんを見上げる。 「……」  返事はないけれど、振り返る無表情のどこかが、何だか好意的に見えた。  それから、頑張って登りきると、神僧《しんそう》達の奉《ほう》ずる玉水府《ぎょくすいふ》の本殿が正面に見える広場へたど り着く。  玉水府本殿は、それほど大きな建物ではなかった。  建物は実用より装飾性が強く、神僧の方々も通いで、そこに暮らしているわけではない。  府中は、この高台の周囲をも指し、そこに、神僧の修行場、生活の場があり、その一角に私 達の住む屋敷《やしき》が造られるという。  本殿に参じて、繊細《せんさい》な古式礼を行うと、周りから変な目で見られた。私がやったのは正式な もので、一般では略式でいいのだという。  そんなことは、知らなかったから、ただの女の子の時でよかったとヒカゲさんに言うと 「宮姫《みやひめ》は古式が義務だ」  言われたらそうだった。  それから、高台の端囲《はしがこい》いに手をやり、順番に周囲の遠景近景を探る。  ここならば、まだ都市の全景がぎりぎりで見られる遠景。それでも、遠くには白んだ気配《けはい》が 漂うけれど。  そして 「あれね」  近景、高台のすそ野に建設途中の建物を見つける。  薄《うす》い朱色《しゅいろ》の建物で、カセンの一般建築の切妻《きりづま》ではなく、古式風の台形の屋根が見下ろせた。  大きさはトエ様の宿|屋敷《やしき》くらい。  城ではなく、機能的なお屋敷という印象。そこかしこに、雅《みやび》やかな祭祀《さいし》風の造りも含んでい るようだけど、華やかさは無いように思える。 「中、出来てるのかな?」  外観はほとんど出来ているように見えた。  最悪、未完成でも住むことになるだろう。  トエ様はあまり気にしないだろうし、テン様は都市郊外の軍|駐屯《ちゅうとん》地の方に動くだろう。  ヒカゲさんは答えなくて、私の傍らで周囲を警戒《けいかい》していた。  木槌《きづち》を叩《たた》く音や、金具が擦《こす》られる音。耳を澄《す》ませば大工仕事がよく聞こえてくる。  地上の人のざわめき、頭上の木々では鳥のさえずり。  のどかな光景。  長いこと私はその光景を眺め、ヒカゲさんも何も言わないでそのままでいた。 「ヒガゲさ……ヒカゲは、あそこにもついて来てくれる?」  独り言のように呟《つぶや》く。 「二年前、トエ様にあんたの護衛《ごえい》役を仰せつかった。俺《おれ》は解雇されない限り、どこまでもあん たを護《まも》る」 「あはは」  乾いた笑い声を上げる私。 「解雇なんてあり得ないよ、トエ様、よほど気に入っていないと、私付きの役なんて与えない から」  実直そうな彼が解雇されるなら、私の方が先でも不思議《ふしぎ》ではない。 「じゃあ、この二年間は鍛《きた》えてたんだね。ずっと、姿見なかったし」  だから、丈夫だし、特技があるのだろう。もしかしたら、テン様に武術も叩き込まれている かも知れない。流石《さすが》に、私は武術は教えられなかったけれど、テン様はあれでも名の知れた武 人なのだ。  ヒガゲさんは答えないで、広場を見渡す。  私も、身を翻《ひるがえ》し広場に視界を戻した。  広場には一般参拝者のまばらな姿と、餌《えさ》にありつこうとする荒れ地の鳥の群。  荒れ地の鳥は、胸に膨《ふく》らみがある形をしていた。動作の遅い鳥。厳《きび》しい自然の生存競争下よ り、人の営みにとけ込んでの生息をする。  私が三年前、儀式《ぎしき》をした広場中央にも鳥の群。よほど近寄らないと、彼等は人から離れない。  平和な光景。  そう思っていると、変わった人影が現れた。  広場の中央に立ち、黒い長衣《ながぎぬ》を緩《ゆる》やかに纏《まと》った人影。 「あの人?」  黒帽子の下、覚えのある横顔が、穏《おだ》やかな正午の陽ざしを受けていた。  長い黒髪を背に広げ、本殿の方を向いている、  すうっと、右の足が前に出される。すり足で引き戻される。  間《ま》を取った、緩やかな仕草《しぐさ》。  黒い裾《すそ》を翻し、両の手が前に差し出される。  覚えのある動きに、目を見開く。  九歳の私がうろ覚えでやった動き。  少し、形式が違うけれど、契約の礼。 「ヒカゲ? あれは?」  ヒカゲさんの沈黙《ちんもく》は、いつもと違った。質問の意味が判《わか》らないと私を見ている。  彼の知識の範囲《はんい》ではないのだろう。  私は、その間も視線を動かせなかった。  優雅《ゆうが》な、自然体で為《な》される動きは、私よりも、私についた神僧《しんそう》の指導《しどう》者よりも確かなもの。  綺麗《きれい》な口が微《かす》かに動く。  口の動きを合わせてみて、多分《たぶん》、契約の言葉だと感じる。  最後の段階まで進もうとした時、ふと、長い髪が風に乱れて、その人の視線が外れた。  その目が私を見た。  一瞬《いっしゅん》の沈黙。それから、彼女はゆっくりと髪を直し、肩を落として私の方を向いた。  微笑んで小首を傾《かし》げる。  知っている上品で、端正な容貌《ようぼう》。  あの夕焼けで出会った、あの黒衣の女性だった。 「今のは?」  並んで木陰で休み、私は彼女に訊《き》いた。  ヒカゲさんは離れた所で景色を見ている。 「空澄《からすみ》姫です」  品良く彼女は微笑《ほほえ》んだ。  黒髪が淡く揺れる黒帽子の向こうで、遠景の街並みが、浅秋《あさあき》の風に浮かんでいる。  黒衣は夏の物より幾《いく》らか厚手で、生地と岡じ色合いの刺繍《ししゅう》は竜胆《りんどう》だった。 「何年か前、ここで儀式《ぎしき》した方。真似《まね》をしてみたんです。舞踊《ぶよう》とかに通じると思いましてね。 ご存じですか?」 「人並みには……」  曖昧《あいまい》に応じる。  彼女の動きはごく短いものだった。神僧《しんそう》も一般の人も、それほど気づかなかったようだから、 私も気づかなかったふりをしないといけない。 「綺麗でしたよ」  率直な、罪のない言葉を選ぶ。 「よかった。不敬ではと睨《にら》まれたのではないか心配しました」  彼女は静かに微笑んでくれる。  木立からの落葉が、彼女の鍔広《つばひろ》の黒帽子に降り、私がそれを取ると、彼女が私の肩に乗った 別の一葉を取ってくれる。  お互いの動きが重なり、指先が触れ舎う。  くすっと、彼女が行き違いを笑い、私もつられる。そのまま、二人、あの夕暮れに戻ったよ うに笑い合う。  細い素直な指と、私の指が絡み合って遊ぶ。 「お会いできてよかった」 「私もです」  彼女の言葉に私も大きく頷《うなず》く。 「クロハと申します。貴女《あなた》は?」  訊かれて困る。こちらでは姫付きとか見習いとか役職で呼ばれたりしていて、偽名といえば、 あれしか考えていなかった。 「……カラカラです」  こんな時にひどい名前。頭に浮かぶテン様の笑顔がいつにも増して憎らしい。 「カラと呼んでください」  せめて、これにしておきたい。 「可愛《かわい》らしいお名前ですね」  ひっそりとした心づかいが胸に痛い。 「クロハさんは、この辺《あた》りの方ですか?」  話題を変えようと訊《き》いてみる。 「いいえ、旅行者ですの」  服装からして明らかに違うから、やはりと思う。発音にも、この地方の訛《なま》りが見えない。 「ああ、同じですね。私は家の都合次第で、この辺りに住むかも知れませんが」  出来るだけ、嘘《うそ》にならないように本当のことを言う。 「カセンは程良いところです。宮都市の中で一番素朴です」  宮都市の中で一番|田舎《いなか》と言われている気もするけれど、他《ほか》の衛星《えいせい》都市群から見れば都会であ り、世間からは程良く親しまれているらしい。 「そうですね。こんな物を売っているくらいですから」  私は懐《ふところ》から紙細工の箱を取り出し、左の手のひらに広げてみた。  厚紙の折り紙の中から、透明な玉が一つ。  青色の文様が、螺旋《らせん》風に閉じこめられた披璃《はり》の玉。 「空澄《からすみ》は水硝子《みずがらす》の別名ですか」  透明な硝子を、俗に水硝子と呼ぶ地方があるから、彼女はそう言った。  トエ様あたりが硝子造りを広めようと、何やら私の名前にこじつけをしたのだろう。そんな 姫殿下《ひでんか》お守りを眺めたクロハさんは、微笑《ほほえ》ましいという顔をした。 「四宮《しのみや》ツヅミでも琥珀《こはく》の装身具が好まれています。ですが、こうした蜻蛉玉《とんぼだま》の方が求めやすく てよいと思いますよ」 「何か脆《もろ》そうですけどね。ちょっと、安っぽいかも知れないし」 「その代わり、組工しやすく、豊かな表情があるものですよ」  そんな風に言ってもらえると、何だか嬉《うれ》しい。 「ソヅミからいらしたのですか?」  はにかんで訊いてみる。 「半月ほど前に、あちらから参りました。大きな川の畔《ほとり》に栄えた街ですから、賑《にぎ》やかで力のあ る土地でした」  カセンはあまり水の便がよくないから、その辺が羨《うらや》ましく思える。 「あちらのお姫様は人々に慕われているのでしょうか?」 「ええ、空澄姫と同様に」  はて、空澄姫は、あまり慕われていない気がするのだけれど。  解釈に迷っていると、クロハさんがくすくすと笑った。  つられて、私も照れ笑いする。  そんな会話をしていると、遠くで時司《ときつかさ》の鐘《かね》が鳴り始める。  心地よく鐘《かね》の音を聞きながら、並んで、高台からの景色に目をやる。 「そう言えば、あの屋敷《やしき》は空澄《からすみ》姫の新居だそうですね」  この木立の根一兀からも、あの建設中の仮宮《かりみや》が目に入る。お昼時なのだろう。鐘の音に合わせ て、作業の音が消えている。 「え、ええ、立派そうですね。そんな話もありますね」  一度応じてから、公式発表はまだ無いはずだと取り繕《つくろ》う。 「でも、空澄《からすみ》姫は七宮《ななみや》城を出てくるべきではないでしょうね」  社殿の屋根を見下ろす横顔に、生真面目《きまじめ》な表情が出た。 「どうしてでしょうか?」  何か恐《こわ》い噂《うわさ》でもあるのかと、不安を抑えて訊《き》き返す。 「姫は知りません。七宮の中で一番、世俗を離れることが出来ていた方ですがら」 「何をです?」 「利権の象徴をする過酷《かこく》さです。ご覧《らん》なさい。刻限です」  彼女が促したのは、仮宮を見下ろす方向。  何事だろうかと、台形の屋根を見ていると。  轟音《ごうおん》が起きた。  仮宮から。  揺れる大気。背後で鳥達が飛散していく羽ばたきと鳴き声の喧噪《けんそう》。  震動《しんどう》を呼ぶくぐもった音が、窓枠の部分を突き破り、台形屋根を陥落させるのが目に映る。 整っていた台形の半ばに歪《いびつ》な亀裂《きれつ》が走り、そこから黒煙が上がる。  息が、止まる。  何、火事? 「火薬です」  答えがあった。すぐ、私の耳元で。 「離れろ!」  人々の物々しいざわめき、建物の倒壊《とうかい》音に被《かぶ》さるのは、初めて聞く少年の鋭《するど》さ。  クロハさんの居た位置に、抜き放たれた小刀の一筋、  陽光|弾《はじ》く一閃《いっせん》。  砂塵《さじん》を起こす灰色の人影が、私達を裂く。  信じられないヒカゲさんの早技。そして、それを予測していたのだろう黒衣が見せた回避《かいひ》の 速さ。  鍔広《つばひろ》の帽子が縁《ふち》に鋭利《えいり》な切り込みを受け、宙に舞《ま》った。  落葉に混じり、へたり込む私の膝頭《ひざがしら》にそれが舞い降りる。  クロハさんの位置には、別の黒衣が立ち、灰色の背中に隠していた小刀を構えている。  そして、木立の向こうには、半身を隠して立つ純粋|無垢《むく》な黒衣。それは長い黒髪を秋風に靡《なび》 かせていた。  影が広がるような光景。  落とす影の先には、黒煙を上げる仮宮《かりみや》の光景。  だけど、それよりも、私の目に映るのは変わらの微笑《ほほえ》み。 「クロハさん?」  名前を呼ぶ声が震《ふる》えた  彼女は、何事もなかったように小首を傾《かし》げて微笑んでいた。  束《たば》ねていない黒髪の広がりは深く、彼女の背後で陽《ひ》ざしを呑《の》み込んでいた。 「カラさん。お気づきでしょうが、私は貴女《あなた》と敵対する者です」  優《やさ》しい声。相変わらず。  だけれど、笑顔が静かに消えていく。 「嘘《うそ》……」 「あちらでは、亡くなられた方もおられるでしようね」  ヒカゲさんとの距離を取りつつ、彼女は下方に面差しを向け、穏やかに告げた。  私は震えながら、黒煙の匂《にお》いを感じ取り、仮宮へと、もう一度、目をやる。  黒煙の中に、火勢が見え、そして、逃げまどう大工さんや職人さん達。  怒声や悲鳴。  中から怪我《けが》人が逃げてくる。そして、逃げ出す間もない人達もいるのだと理解できる。  辺《あた》り一帯、人々が不意の事態に騒然《そうぜん》とする様子《ようす》が感じ取れる。  人々がそちらへと殺到して行く中、取り残されるように向き合う私達。  背中と首筋に、冷たい汗が流れる。 「……貴女がなされたのですか?」  恐る恐る、彼女に視線を戻す。  いつからか、彼女も私を見つめていた。  「ここだけではありませんよ。七宮《ななみや》城には今頃《いまごろ》、三宮《さんみや》ナツメの手勢五千が強襲《きょうしゅう》しているでし ょう。常磐《ときわ》姫は戦力は惜しまない方です。そして、協力関係にある四宮《しのみや》は、カセンに同時侵攻 を仕掛けました。一つはこれ、一つはトエル・タウ」  息を呑《の》む。  トエ様の宿|屋敷《やしき》。  あそこには大した警備《けいび》はない。軍隊どころか、強盗団相手ぐらいがやっとだ。もし、爆発《ばくはつ》物 や火矢を受けたら。 「斬《き》る」  ヒカゲさんが動く。  彼の足の筋肉が動き出す瞬間《しゅんかん》。  とん。  動きが止まった。  小さな音に。  私の足下。転がった硝子《がらす》玉の傍らに、小さな刃物が刺さっていた。  槍《やり》の穂先《ほさき》を細く鋭《するど》くして、柄《つか》をつけたような小さな刃物。  黒塗りの刃《やいば》。  クロハさんの手から放たれた短剣。  胸元に寄せる、その手に三本、同じ物が握られている。 「毒です」  お判《わか》りですねと、微笑《ほほえ》む黒影。  灰色の背中は何も言わない。  ヒカゲさんのあの動きなら避《よ》けられるのかも知れない。でも、彼が避けたら、背後で固まっ ている私が無防備になる。 「練習はしましたが、得意ではありません。当たるかも知れません」  少年の肩越しに、屈託のない笑顔。  身動きできない私達に、いや、私に視線を向け、彼女は目を細めた。 「お逃げなさい。私は貴女《あなた》達に、偶然、出会いました。幸せな偶然です」  淡々と、冷静な声が告げる。 「貴女が七の宮姫《みやひめ》であると報《しら》せてはありません。常磐《ときわ》を筆頭に、多くは貴女が城にいると思っ ています、たとえ、路頭に迷っても、二人でなら生きてもいけるでしよう」  少し沈黙《ちんもく》して 「カラさん。貴女は普通に生きていく方が幸せになれます」  もう表情はなかったけれど、声色が優《やさ》しかった。  すうっと、木立から黒衣が離れ始める。 「待って! 貴女、貴女まさか?」  一般の人達の狂騒《きょうそう》に紛れる黒衣。  消える寸前、こちらに向いた顔が口を動かした。  さよなら。そう言っていた。  そして、背を向けて階段へと消えてゆく黒髪。  竦《すく》んだ足に力が無く、立ち直れないまま見送る私。  呆然《ぼうぜん》とする私の前では、背中の鞘《さや》に小刀をしまうヒカゲさん。  その無表情が、いつもより厳《きび》しい。 「戻るか?」  訊《か》かれたが、即答できなかった。 「カセンに侵攻は四宮《しのみや》の手勢? ……なら、七姫《ななひめ》で最も美しいと呼ばれる四宮は……ツヅミの 琥珀《こはく》姫?」  私は、それだけを小さく呟《つぶや》いて、鍔裾《つばすそ》に切れ目の入った黒帽子を両手に引き寄せる。  しっかり握りしめようとして、ほんの少し前、指が絡んだ感触を思い出す。温《ぬく》もりが忘れら れないで、五指が力を失う、  体の真ん中から、何だか変になっていた。 五節 名無月 十月  トエ様の宿|屋敷《やしき》は、流石《さすが》に爆発《ばくはつ》物にはあわなかった。  だけど、民聞人を装った武装集団に火攻めを受け、一昼夜、焼け続けた。  それらは四宮《しのみや》の配下だとは名乗らず、偽姫を掲げる悪を糾弾《きゅうだん》する過激派を名乗った。  仮宮《かりみや》爆破もそうだ。  だけれど、火薬の管理は各政権|厳《きび》しく、簡単《かんたん》には手に入らない。どこかの都市の作為がある のは、多少の理解があれば気づくことだと思う。  多様な噂《うわさ》が流れ、その内の何割かは加害者側の作為によるものだと私にでも判る。  幾《いく》つかは、もっともらしかった。  大きく迂回《うかい》進路を取って、七宮《ななみや》城を襲撃《しゅうげき》した常磐《ときは》姫一派の工作だというのが最も多い。  彼女は他《ほか》の姫に対して、一番、攻撃的で、最弱ともいえる七宮から潰《つぶ》しに掛かった。あるい は、悪名高いテン・フオウ将軍の野心を警戒《けいかい》したという話だ。  次に有力なのは、四宮ソヅミの裏工作。ツヅミ都市は距離的に一番近い。カセンは七宮を失 えば四宮に従属するのが適当。  常磐姫の動きと結託。あるいは便乗である。  私の知る限り、これが一番、真実に近い。  で、それらに確かな証拠は無いし、あっても騒然《そうぜん》とした状況下だ。それぞれの噂が尾を引い て、どんどん増えていた。  それらの中でひどいのは、トエ様とテン様の不仲説だった。行方《ゆくえ》知れずになっているテン様 が主導《しゅどう》権を争い、トエ様を抹殺しようとしたというのだ。この話には類例が沢山あり、私を巡 る愛憎のもつれというのもあったりした。  私、まだ十二歳なのに……  もっとひどいのは、貴族の奥様方の間で噂《うわさ》される、トエ様とテン様の、特別な関係のもつれ とかだったり。  そして、私はあの日以来、トエ様もテン様も見つけられなかった。  詠《よ》み名《な》、異称は暦より、季節の移ろいを意識《いしき》した使われ方をする。  だから、暦の上では八月でも、秋風が強くなり、夏惜しむようになれば、もう早風と人は口 にし始める。  九月は秋だ。東和《とうわ》は北よりの土地だから、南方のような残夏《ざんしょ》の匂《にお》いは淡い。  僅《わず》かな高夏《たかなつ》の気配《けはい》が微睡《まどろ》む夕闇《ゆうやみ》。  秋の宵《よい》は肌寒くて辛《つら》いから、過ごしやすい夏の宵が、今しばらく続いてくれるようにと、ぼ んやりと願う。  夕焼けの高台から見下ろす焼け跡。  柱が数本、残っているだけのトエ様の宿|屋敷《やしき》跡だ。  一軒だけ、別格で建てられた屋敷|故《ゆえ》、隣《となり》近所の家屋と離れており、飛び火の被害は少なか った。  今思えば、それを見越しての火攻めだったのかも知れない。  黒衣の影と二人、長椅子《ながいす》に座り、その様子《ようす》を眺める。茜色《あかねいろ》と影色の光景を。  今度の黒衣は灰色混じりの少年で、向いている方角も陽《ひ》の昇る方だったけれど。  あれから、二日|経《た》った。  焼け跡に死体はなかった。  残らなかったのかも知れない。  宿屋敷を包囲した集団は、一般人は脱出を許したのだ。残されたのは三階に一人いたトエ様 だけだという。  テン様は、以前から行方《ゆくえ》不明だ。  もしかしたら、五千の兵に攻め立てられている七宮《ななみや》城の中に立て籠《こも》っているのかも知れない が、その方面からの情報は完全に遮断されている。  召集すればこちらも五千の兵力。そうは聞いていたが、召集する二人が共に不明ではどうし ようもなかった。  警戒《けいかい》していたから、城内には五百の兵が臨時《りんじ》召集されていたはずだが、十倍の兵力が相手だ という。  城攻めには三倍の兵力が必要。その程度の基礎《きそ》は聞いたことがあるから、いつ陥落の報が届 いても不思議《ふしぎ》ではないと思う。 「化かされちゃった」  力無い呟《つぶや》きを、ヒカゲさんが隣《となり》で聞いてくれる。 「テン様達に聞いているかも知れないけれど、私、血筋なんてはっきりしないの」  ヒカゲさんになら、話してもいいと思った。  もしかしたら、この事実は、もう私一人しか知らない事になってしまったかも知れない。  心細くなる。 「お姫様の役をやって、三人で頑張って高いところに行こうって、約束したの」  三年前の事が、何か、一月《ひとつき》くらい前の出来事に思える。 「演じていたの、ずっと、お姫様」  目を閉じて、七宮《ななみや》城での日々を思い出す。  見上げる背中を追いかけていた毎日。 「でも、あの人の方が、もっと演じていたの。恐《こわ》いお姫様を」  黒衣の面影。クロハさん。  優《やさ》しいお姉さんと、冷たいお姫様を使い分ける女性。端正で鋭《するど》い人。 「勝てないよ……あんなの」  泣き言だけど、他《ほか》に何も思い浮かばない。  手も足も出なかった。もしかしたら、残りの六人の宮姫《みやひめ》は、揃《そろ》ってあれくらいなのかも知れ ない。 「俺《おれ》が居る」  短い回答。 「必要なら暗殺してみせる」  彼になら出来るかも知れない。だけど、私はあの人を殺したいと思わなかった。  嫌いじゃなかった。好きだった。  多分《たぶん》、テン様やトエ様のひどい遺体でも見ないと、私には憎むことも出来ない。  あれらの事態が、あの人の指揮ならば、市民にも被害が出たというのにだ。まだ軍隊を動か す常磐《ときわ》姫の方が憎みやすかった。  返事が出来ずに、沈黙《ちんもく》する私。 「トエ様は逃げ上手だ」  夕日に背を向けているから、陰になってお互いの表情は見えないけれど、私の気弱さをヒカ ゲさんは知っているのだろう。  だから、いつもより、口数が多い。  もしかしたら、テン様やトエ様が口数が多い人だから、いつもは遠慮《えんりょ》していたのかも知れな い。 「食え」 「うん」  何処《どこ》から仕入れたのか、トウキビを差し出すヒカゲさん。  気づかってくれている。元気を出さないといけないと思い、大きく頷《うなず》いてかぶりつく。 「あ、甘い!?」  驚《おどろ》くほど甘い。甘すぎてトブキビの昧がしないような気がする。 「何これ?」 「トウキビ」  返事は簡素《かんそ》だ。 「俺《おれ》が茹《ゆ》でた」  もしかして……。 「あのう、もしかして、さ……お砂糖《さとう》水で賄でたのかな? それも沢山《たくさん》のお砂糖で」  頷《うなず》いて、かぶりつくヒカゲ。  かぶりついて、咀嚼《そしゃく》しないで止まる。  どうするのかと見ていたら、気にしないで食べ始めた。 「少し甘すぎた」  少しじゃないと思う、  これは小さい子用の味付けだと、知っているのか知らないのか。  でも、まだ温かかった。 「そうだね」  私も食べ始める。  二人して、とっても甘いトウキビを、夕日が落ちるまで食べ続けた。  今度は焼こうとか、塩味にしようと話しながら。  三日目の朝が来た。  私達二人は北門周辺の朝市に出た。  着の身着のままの生活の中、三日目にしてカセンでの騒乱《そうらん》は沈静化していた。  目立たないように人込みに紛れる。  行き交う人々は、普段《ふだん》より多い気がした。  表面的なだけかもしれないけれど、変わりない生活を続ける市井《しせい》。  いつ三宮《さんみや》と四宮《さんみや》の侵攻が来るか判《わか》らなくても、ご飯を食べて人が生きていくことに変わりな い。  だから、市場には毎日と変わらないように食べ物の匂《にお》いが混じり合っていた。  私達は建ち並ぶ露店《ろてん》の軒先で、人込みに紛れて、今日《きょう》の食べ物を買い込む。 「ほら、四つでこんだけ。もっと買っておきな。この時期この価《ね》は安いんだよ」  恰幅《かっぷく》豊かな野菜市場の奥さんに、林檎《りんご》を乎渡される私。  横から買い物袋に詰め込むヒカゲさん。  お代を払う私に 「お嬢《じょう》ちゃん。食い物は日持ちする物を今のうちに買い込んでおきなよ。これから、どうなる か判らないからね」  市場の奥さんが親切に教えてくれた。 「食べ物、入らなくなるんですか?」  戦争とは、そういうモノだろうかと、不安に訊《い》いてみる。 「そんな滅多《めった》なこと言うもんじゃないよ」  大笑いされる。 「タウ・トエがいなくなったんだ。物価が跳ね上がるかも知れないさ」  タウ・トエはトエル・タウの蔑称《べっしょう》だ。  トエ様は市井《しせい》の方には好かれていないらしいから、そんな言葉遊びが起きるらしい。  この三日間で初めて耳にした。  身近な人の蔑称を聞かされるのは不愉快だけれど、トエ様という呼び方自体は、私とヒカゲ さんの特権だと確認できる嬉《うれ》しさもある。  元々は、テン様が勝手に人の名前を縮《ちぢ》めただけなのだけれど。 「アレも変な男だけどね、いなけれゃいないで困ったもんさ。あいつがいると、金の回りはと にかくよかったからね」  私の筆頭文官は、何だか市中では宿六《やどろく》扱いされているらしい。 「左府《さふ》さん。タウ左大臣さんは、そんなに変な人なんですか?」  私も変な人だと思うけど、外から見ても、やっぱり、変な人に見えるのだろうか気になった りする。 「あの男は、七宮《しちみや》の姫様が物知らずなのをいいことに、したい放題なのさ」  奥さんは七宮をナナミヤと呼ばずに、シチミヤと呼んだ。ちょっとした言い換えが、親しん だ響《ひび》きをしてもいるし、軽くあしらった気配《けはい》もする。 「そうなんですか? テン様の方が勝手気ままだと思ってました」 「テン様?」 「あっ、いえ、東征《とうせい》将軍さんって、悪い噂《うわさ》多いですよね」  じろっと晃られて、たじろいで言葉を濁《にご》す。 「いいかい、お嬢《じょう》ちゃん?」  奥さんは大きな胸を揺らして背筋を正すと、私に講釈《こうしゃく》し始める。 「あいつの顔がいいからって、あの遊び人に近づいちゃだめだよ。何度か姿を見たことがある けど、あいつはね、この界隈《かいわい》を通る度に、違う女の子連れてるんだからね」  違う方向に勘ぐってくれて助かる。  どうやら、テン様の名を呼び、嬌声《きょうせい》を上げる女性陣は本当に多いらしい。  私には気が知れないけれど。  あの人の側《そば》にいると、何をされるか判《わか》ったものじゃないのに。きっと、綺麗《きれい》なお姉さんには 優《やさ》しいのだろう。 「そうそう、タウ・トエの悪さの話だったね。あいつはね、この宮都市《みやとし》の背後にある七葉《ななよう》の座 を狙《ねら》っているのさ」  七葉《ななよう》は七つの都市の商業組合の俗称だ。七葉と呼ばれる巨大|組織《そしき》に、八枝の交易路が財界を 形成している。  琥珀《こはく》姫の背後にあるシノギ調和党も七葉の一枚。その一つの形態だ。  小都を意味する宮都市《みやとし》という呼び名。それを王都、大都等に昇格させるため、七葉はそれぞ れ鎬《しのぎ》を削るのだという。 「ここの一葉は姫殿下《ひでんか》を盾にして言いくるめてあるし、いざとなればテン・フオウの武力もあ る。その上、やり手だからね、あっという間に、この街の不良財政をやりくりしちまった」 「じゃあ、よくなっていた物価が上がるんですね」  どうやら、悪政をしていたわけではないらしいので安心する。 「ああ、仕入れが悪くなっちまうからね。あいつは、あたしんら商売人には優《やさ》しかったから ね」  奥さんは賑《にぎ》わう市場を見渡し 「でもね、ああいうヤツは金のあるヤツと無いヤツとの差をこしらえちまうのさ。景気がよく なるほどね。今度の戦争だって、もしかしたら、あたしんらやタウ・トエが稼《かせ》ぎすぎて、金が 回らなくなった隣《となり》のツヅミの商売人達を怒らせちまったかも知れないね」  肩を落として息をついた。 「そうなんですか?」  てっきり、権力争いなだけだと思っていた私には、衝撃《しょうげき》的な言葉だった。 「まあ、何事も程々が肝心さ。あたしんらも今度のことで、でかくしすぎた商いに火がついち まうよ。その前に、戦争でも何でも手早く終わってくれないとね」 「そうですね。大変なんですね。皆さん」  私は俯《うつむ》いて頷《うなず》く。 「まあ、空姫《そらひめ》さんにご多難がなければいいけどね。あの二人がいなくなって、あの幸|薄《うす》い姫さ んがお城落ちしたら大変さ」  空姫《そらひめ》さんが空澄《からすみ》姫のことだと気づくのに、少し時間がかかった。 「私、あっ、姫殿下さんが?」  そこまで話が及ぶとは思わなかった。  よほど、この奥さんが話し好きなのか、私が世問知らずなので、心配してくれたかのどちら かだろうと思う。  あるいは両方であったり、お得意を増やす商いのすべなのかも知れない。 「あたしも見たんだよ。あの雪の日のお姫様を」  ちょっと声を潜《ひそ》める様子《ようす》にどきりとする。 「そりゃあ、綺麗《きれい》なお姫様さ。御輿《みこし》を降りたところをさ、ほんの一瞬《いっしゅん》、小さな声を上げる様子 を遠巻きに見ただけだけれど、小さな背中に宮の重みを背負っているお姿には、あたしんら、 居合わせた者は涙したもんさ。お嬢《じょう》ちゃんも、あんな綺麗《きれい》なお姫様を見たら感動するさ。お嬢 ちゃんは小さかったから見られなかったかい?」 「私は……私もそこにいたんですけど、大勢の人と、それと、静かに降る雪しか覚えてませ ん」  それは残念と、奥さんはしたり顔だ。  そのうち、市場の他《ほか》の人も話に加わり、私は大勢の人達が、空澄姫殿下《からすみひでんか》を見たと騒《さわ》ぐのを、 ぼんやりと眺めた。  その問、灰色の少年は何も言わないで、ずっと隣《となり》にいてくれた。  市場や街をさまよううち、幾《いく》らかの情報は得られたが、嬉《うれ》しい話は特になかった。  トエ様は火付けから逃げたという話もあるが、財産と運命を共にしたという説も強く、テン 様は逃亡して、地方豪族の家に身を寄せているというのがもっぱらの噂《うわさ》だ、  空澄姫殿下は城を枕《まくら》に討ち死にする覚悟ではないかと憶測《おくそく》があったり、お優《やさ》しさ故《ゆえ》、配下を むざむざ死なすわけにはいかないと、無血開城での降伏とさえも言われていた。  本当は、ここにこうして、そぞろ歩いて放浪しているのだけど、どうやら誰《だれ》にも気づかれて いない。それだけが、安心の材料だった。 「情報屋?」 「うん、トエ様関係の方で誰か知らないかな? 情報屋さんから何か聞けないかな」  私の提案に、ヒカゲさんは少し考えた。  隠れて逃げている方が、トエ様達が機《き》を窺《うかが》っているとしたら正しいと思う。  でも、そうしている間に七宮《ななみや》のお城が陥落したりしたらと考えると、何かしないといけない 気がする。  衣装役さんや侍女の方々、侍従長《じじゅうちょう》や衛兵《えいへい》さん。七宮のお城には、良くしてくれた方々がい るのだから。  何かお仕事をしたいのだと思う。  そうしていると、恐《こわ》いことを考えないですむような気がする。 「一人知ってる」  ついてこいと、前を行くヒカゲさん。 「物騒《ぶっそう》なところに住んでいる。離れるな」  そんな次第で、私達が歩く先は、繁華《はんか》街に隣接《りんせつ》する古い居住区だった。  ひどく色|褪《あ》せた木造の家々は、地震《じしん》など来たら一溜《ひとた》まりもないし、大火災や戦争の炎にも、 あっという間だろう。  道も水たまり跡の窪《くぼ》みが多く、そこかしこに石ころや草むらが点在している。  たまに草に埋もれたあばら屋も見えるほど。  今まで見た都市部の他《ほか》の家々とは、何十年分も隔たりがあるような空間。 「こういう所、まだいっぱいあるの?」 「世の中は半々だと、テン様は言う」  陽《ひ》も高いのに、仕事がないのか、ぶらぶらと家の前にたむろする大人《おとな》達。陽に焼けて走る子 供達。端居《はしい》だろうか、軒先で居眠りする老人。  皆、私達を見ると、表情が少し変わる。  その目が少し恐《こわ》い。  きっと、場違いな、よそ者なのだろう。  まだ使い込まれた古着を着ているから、極端には目立たないと思うけれど。 「昼間は滅多《めった》に手は出さない。常に大きな道の真ん中にいれば」  夜とかは駄目《だめ》という意味だろうか。  先を行くヒカゲさんはいつも通りの口調と歩みだけれど、どうしても、私はおっかなびっく りになってしまう。 「追いかけてくるよ」  気がつくと、恐いお兄さん達が五人ほど後方に見え隠れする。 「少し行くと、俺《おれ》達の行き先が判《わか》るから手を引く」 「どうして?」 「縄張りがある。大きな情報屋には、取り巻きや手下がいる」  言葉どおり、私達が進むうち、舌打ちする様子《ようす》で彼等は引き返し始める。  代わりに、私達は、より不穏《ふおん》な、荒廃した地域に足を踏み入れてしまったけれど。  崩れかけた家々は幽霊屋敷《ゆうれいやしき》さながらで、屋根に草木が生えているのが見えたり、苔生《こけむ》してい たり。  昼問から羽虫の数も多い。  人影はひどくまばらになり、一瞬《いっしゅん》見えても、すぐに消えてしまう。  でも、視線や気配《けはい》をどこかに感じる気がするのだ。  不意に、ヒカゲさんが足を止める。  立ち止まって、砂利|敷《し》きがいい加減な道の向こうを見ると、行き止まりだった。  左右に、比較的高い塀があり、その先に一軒だけまともそうな建物がある。  ここらにしては生活感のある古い木造平屋家屋。それが、裏手側を見せているらしい。  目にする建物の裏手付近。屋根を貫く短い煙突からは白い煙が立ち、それから、こちらの壁《かべ》 側、高い位置に見える明かり窓からは湯気が立ち上っている。  どうやら、お風呂《ふろ》場のようだ。しかも、昼間から、のどかに入浴中のご様子《ようす》。 「こいつはここの窓越ししか話をしない、この家の門は中からしか開けられないし、容入を招 くこともない」  ヒカゲさんは私に祝線を向けて、 「あんたは出来れば黙《だま》ってろ、隙《すき》は見せられない男だ。この通り」  告げ終わると、今来た後方に目をやる。  低い唸《うな》り声が聞こえた。  それと、迫る速い足音。  振り返るより速く、ヒカゲさんが動く。  私の背後に素早い抜き手。  きゃんっと、鳴き声。 「下がってろ」  私の背後へと進み出る灰色の羽織《はおり》。  それを遣いかけて振り向いて、声をなくす私。  犬がいた。  足が竦《すく》む。  唸《うな》り声を低く抑えた犬達が、十数匹も。  今来た道一杯に広がって陣取っていた。  牙《きば》を剥《む》き、前脚を低くして、こちらを睨《にら》み付ける凶暴な一群。  ヒカゲさんが喉《のど》を叩《たた》き伏せたらしい犬が一匹、すぐ私達の側《そば》で苦しげに悶《もだ》えているが、後の 犬達は今にも飛びかからんばかりだ。  ようやく、この塀に挟まれた先の窓越しが交渉口だという、不自然な地形の意味を理解した。  後方を押さえて、不適当な客を排除するために造られているのだ。 「シゲモリ」  ヒカゲさんが振り返らずに声を上げた。  今、彼が背を向けている窓に向かっての呼びかけ。 「あんたの情報を買いたい」  返事はなかった。  湯は沸かしているが入浴中ではないのか、それとも、話す気がないのか。窓を見上げてみた 私にも窺《うかが》い知れない。 「皆殺しにするぞ」  恐《こわ》い言葉に、窓枠からヒカゲさんに視線を戻す。  ヒカゲさんは羽織の背中から、彼の小刀を抜きつつあった。  黒塗りの鞘《さや》に、方刃《かたば》の白刃《はくじん》。 「駄目《だめ》、殺さないで」  口にしてから、護《まも》ってもらいながら身勝手だったと、慌てて口を閉じる。  だが、返事は意外で、早かった。 「判《わか》った」  抜き掛けた刃《やいば》を収め、無手で立つ少年の背。  音もなく、その身が前へと進んだ。  先頭の犬達も虚《きょ》をつかれたようだ。  素早い回し蹴《げ》りが、瞬《またた》く間に二匹を叩《たた》きのめし、甲高い悲鳴を上げさせる。  それが、合図だった。  残りの犬が一斉に吠《ほ》え、彼に群がる。 「ひぃっ!」  臆病《おくびょう》に目を伏せる。  きゃうんっ  悲鳴が聞こえた。  動物達の。 「ヒカゲさん!?」  慌てて臆病な心を振り切り、目を見開けば 「何!?」  私のすぐ足下に、のたうち回り、鳴き声を上げる獰猛《どうもう》な一匹。  暴れる砂煙に、その全身が巻かれている。 「もっと離れろ」  無条件で声に従い、数歩、行き止まりの窓壁《まどかべ》へと後ずさる。  視線をあげると、犬の半数が凄《すさ》まじい鳴き声を上げながら地面を転がり回っていた。  声も出さず、失神したらしい一匹を残りの群に投げ捨てるヒカゲさん。  よく判らないけれど、群を圧倒する灰色の背中は汚れ一つない。  対する犬の群は、威圧されたように包囲しながらも、じりじりと後ずさり始めていた。 「シゲモリ。まだやるのか」  もう一度、振り返らない呼びかけ。  だけれど、窓のすぐ下まで寄った私にも、何の応答の気配《けはい》も感じられない。 代わりに、大達の群の向こう、前方から 「ハヤナギ、ツグナミ、スズカゼ!」  甲高い声が上がった。  犬達の群の向こうに、塀の上から飛び降りてくる小さな身体《からだ》。  ぼろぼろの、大人《おとな》用の帷子《かたびら》に全身を包んだ小さな子供。 「よくもやったな!」  犬達よりも怒気激しく、ヒカゲさんを睨《にら》んでくる。  この子が、おそらく犬達の番人だ。 「やれ、ナツシロ!」  子供が指笛を高く吹く。  新たに、子供の後に続いて飛び出してくる斑《まだら》の影。  大型犬。  子供の倍、いや、ヒカゲさんより大きい。  赤毛に茶褐色《ちゃかっしょく》の斑。  他《ほか》の犬が単なる野犬にしか見えないのに、この新たな犬だけは違う。  牙《きば》を剥《む》き、口の端から涎《よだれ》を垂《た》らす姿は他と同じ獰猛《どうもう》さだが、他の犬と違って慎重で、そして 力強い。  地面を踏みしめる足の太さなど、他の犬の三倍はある。  明らかに、犬達の頭目だ。  じりじりと、間合いを詰めてくる大型犬。  だが、唸《うな》り声一つ上げない。  猟犬。飛びかかる瞬間《しゅんかん》だけしか吠《ほ》えない。 「シゲモリ」  三度目の呼びかけ。 「四度目はないそ」  何の感情もない淡々とした声。それだから、躊躇《ためら》いの無さが生む圧迫感。  息詰まる睨《にら》み合いに、私はおろか、犬使いの子供さえ言葉をなくして見守る時聞。  間合いが縮《ちぢ》まり、大型犬とヒカゲさんが、一触即発に入る瞬間。 「退《ひ》け」  声がした。  私の背後。頭上。  高い窓の向こうから。  ちゃぽんと、湯の音。  目を剥《む》いたのは子供だった。  ぼさぼさの髪を振り乱して、首を振る。  「オジジ! こんなヤツら、ナソシロなら一|噛《か》みだ!」  ヒカゲさんの肩越しに、窓を睨んで声を荒げる。 「音無《おとな》しの小僧。東征《とうせい》将軍の部下だったかな。用件を聞こう」  子供を無視した声は、浴室に反響《はんきょう》しているが、老人の声のようだった。 「オジジ!」  躍起《やっき》になる子供。 「その男に刀を抜かせるな」  窓の位置は高く、おそらく湯舟《ゆぶね》につかる身では、こちらの様子は音に聞くだけだろうに、そ の老人は全《すべ》てを見ているような指示を出す  一緒の小娘が止めてなければ、今頃《いまごろ》、ナツシロ以外は血の海じゃ。娘さんに感謝《かんしゃ》しておけ」 「う、うぐっ」  悔しそうに私を見て、首を振る子供。  音切《おとき》り呼ばれる東方《とうほう》の名刀。いかにナツシロとて、相打ち狙《ねら》いが精一杯だ。判《わか》ったら退《ひ》 け」 「行くぞ、ナツシロ!」  老人の言葉が終わるのを遮るように、声を荒げて道の向こうに走り出す子供。  ナツシロと呼ばれる大型犬も、残りの犬も後に続く。  身動きがすぐに取れなかった犬達も、やがて、仲間を追って消えて行く。  その間、誰《だれ》も声を出さなかった。  戦いの砂埃《すなぼこり》が収まった頃 「情報が欲しい」 ヒカゲさんが窓に向かって告げる。 「金は?」  返答は早い。 「なかろう。儂《わし》は即金しか信じん。それとも、音切りを質草にするか。それなら、考えてや る」 「音切りは俺《おれ》の命。拠《よ》り所だ。やれん」  ちゃぷんと、湯の音。 「帰れ。たとえ、タウ・トエが相手でも儂は儂のやり方は変えん」  それっきり、声も音も途絶《とだ》えた。  ヒカゲさんも黙《だま》ってしまう。 「あのう、シゲモリさん」  存在を忘れられていた私が、そっと口を挟む。 「あのう、情報屋さんの命は何ですか」  返事はないし、ヒカゲさんも何も言わないで無表情だった。 「情報ですよね。情報の交換もお仕事の内ですよね。こちらの情報を売って、それでお支払い できませんか」  返事を少し待つ。  幾《いく》らかの間を待ち、私は肩を落とした。  諦《あきら》めようかと、傍らの少年に声を掛けようとする頃《ころ》。  ちゃぷっと、湯の音、 「そうか、お前がタウ・トエが連れて歩いていた娘か」  シゲモリさんの声。 「何者だ。出自が複数あり判《わか》らない」 「トエル・タウとはぐれました。あの方の情報と交換でいいですか?」 「行方《ゆくえ》は判らん。捜索がまだ続いているところからすると、逃亡しているようだ。あの男は隠 れ家を複数用意しているからな」  少し安心できる言葉。そして、交渉の成立を知る。 「私はお側《そば》付き見習いで、姫殿下《ひでんか》の新宮《しんみや》入城前に、カセンと府中《ふちゅう》の内情を下見しに送り込まれ ました。タウ補佐様の指名です」  嘘《うそ》はついていない。  お側付き見習いは今の役職の名前だし、仕事の内容も本当だ。  ただ下働きらしく見せようと、トエ様の役職を小さく捉《とら》えて呼んだりしたけれど。 「出自は? タウ・トエの隠し子という噂《うわさ》もあるぞ」 「それは嘘です。小さい頃《ころ》、施設で拾われました。それで、お仕事をもらいました」 「何故《なぜ》、複数の出自のウワサがある?」 「あの方々は嘘つきですから」  幸い、私については、これ以上聞かれなかった。ここから先は、はっきりと嘘をつくか、正 体をばらすかのどちらかしかない。  上手に言葉を濁《にご》せる相手には思えなかったから、助かったと胸をなで下ろす。 「七宮《ななみや》のお城はどうなっていますか? 姫殿下以下の安否がかかっています」  テン様は今頃、多勢に無勢で苦戦しているのかも知れない。 「それは二、三日しないと判らない。最重要な情報だ。今は何もない」  それから、シゲモリさんはテン様が手を出している御婦人の名前を訊《き》いてきた。  幸い、何人かは覚えていた。 「今度は、こちらから提供します。新宮になる段取りでした舞所《まいどころ》の火災。黒装束、黒帽子の女 性が関与していました」 「それは複数の目撃《もくげき》を受けている。裏付け一つ分の価値だな」  私は静かに息をして、胸を落ち着ける。 「彼《か》の人は何者でしょうか」  東和四宮《とうわしのみや》、琥珀《こはく》姫。  答えを待つ。 「ツヅミの有力者の館や三宮常磐《さんみやときわ》姫の別宮で姿を見たという情報がある。それ以上は知らんし、 見返りの情報が弱すぎる」 「そうですか」  私は、これ以上、有効そうな情報を持っていない。たとえ、まだ聞き出せるとしても、ここ までで手が尽きる。 「テン・フオウとトエル・タウの不仲は本当か?」  楽な質問が振られて安堵《あんど》する。 「嘘《うそ》です。あの方々は兄弟みたいな関係です。お互い、相手を弟だと思って兄貴風を吹かせる ような方々です」  言ってから、あまりに身近な捉《とら》え方を口にしてしまったと気がつく。 「そ、そういうことが、お城の侍女の先輩《せんぱい》方の通説です。本当だと思います」  慌てて付け足してから、見返りの情報を求める。 「最後後に一つ、私達の逃げ隠れは、どこが適当ですか?」 「四宮《しのみや》が焦らなければ、都市部に紛れるがよかろう。ここらはやめておけ。情報屋は他《ほか》にもい る。ここで、お主らは目立ちすぎた」  湯の音がした。  湯から出る音と、その場を去る足音と水音。  もう、窓の向こうには誰《だれ》もいなかった。  顔を合わせて頷《うなず》いて、私達は引き上げることにした。  そこを後にし、元来た道を辿《たど》る。  しばらく来た道を戻ると、見覚えのある人影があった。  大型犬に寄り添う子供。  ふてくされた顔で、私達を睨《にら》んで道の真ん中に立っている。 「ん」  私達が目の前まで来ると、私に何かを差し出した。 「何?」  見ると、荒い包装材に包まれた蒸《ふ》かし芋《いも》の一種だった。  まだ温かい。 「お姉ちゃんに。オジジの命令」  ヒカゲさんの方は見ようとしないで、私の胸元に突きつける。 「ありがとう。二人で食べるね」  お礼を言うと、突きつけた食料を自分に引き戻す。 「こいつ、犬いじめた」  思いっきり、ヒカゲさんを睨《にら》み付けて、また私に突きつける。 「俺《おれ》はいい」  ヒカゲさんはいつもの調子で固辞する。  でも、一人で食べきれそうにはなかった。  どうしようかと思ってから、ふと、ふてくされた子供の顔を見て、ひとつ気がつく。 「じゃあさ、お姉ちゃんと二人で食べようか?」  目を丸くして、その女の子は頷《うなず》いた。 「お名前は?」 「ツヅラ」  素直な返事。 「お姉ちゃんはカラって呼ばれてるの」  女の子は不思議《ふしぎ》そうな顔を一瞬して、それから 「変な名前」  とても素敵な笑顔を見せた。 「こうだよ」 「あれ? うまくいかない」 「下手《へた》だね、お姉ちゃん」  草笛をうまく吹けなくて、また笑われてしまう。 「でも、鬼灯《ほおずき》なら鳴らせられるんだよ」 「それぐらい誰《だれ》だって出来るよ」  小さな河原の土手で、午後の日を浴びながら、二人して並んで座り込む。  ヒカゲさんは少し離れて風草《かぜくさ》や川面《かわも》を眺め、ナツシロはツヅラという名の飼い主の側《そば》で伏せ ている。  けしかけなければ、大人《おとな》しい犬のようだったし、この子も怒らせなければいい子だった。生 活がかかっているから、すぐにムキになったりしたのだと思う。  だから、ヒカゲさんも警戒《けいかい》はしてないようで、蜻蛉《かげろう》が行き交う中に佇《たたず》んでいる。  風草やすすき野の中に立つと、この人は風景に溶け込んでしまう。そんな少年が、気がつい たらいなくなっていそうで少し恐《こわ》くなる。 「お姉ちゃんは、お城勤め?」 「うん、いつも将軍とかに苛《いじ》められているんだよ」  嘘《うそ》じゃない。出来るだけ本当のことを話す。 「ねえ、お姫様ってどんな人?」  困った質問をされてしまう。 「そうだね、割と間抜けな人だよ」  正直に答えた。 「そうなの?」 「うん、あんまり役に立たないし、丈夫なのと、大人《おとな》しいのが取り柄かな」  他《ほか》に思いつかなかったりする。  聞くところによると、どこかのお姫様は歌って踊れたりするらしいが、正直、私はその道を 諦《あきら》めている。  私やトエ様には音曲《おんぎょく》の才幹《さいかん》が致命的に欠けているのだと、背高《せいたか》な軍人さんに大笑いされてい るのだ。とても格好悪い思い出。 「綺麗《いれい》ってウワサだよ」 「衣装とか、お化粧が綺麗なんだよ」 「そんなこと言ってると、そのうち、クビになっちゃうよ」  また笑われる。  どこに行っても、私は笑われるんだな。 「そうだね、気をつけるよ」  お城勤めをしてなかったら、この子と同じような暮らしをしていたのかな。  犬と戯《たわむ》れる子供の笑顔が、何だか切ないぐらい懐《なつ》かしく感じられた。  やがて、夕闇《ゆうやみ》に色|褪《あ》せた小径《こみち》を、私達は歩いていた。  草笛をいつかきちんと教えてと、小さな約束をして、もう何時間も過ぎた。  たまに、赤みを残して薄暗《うすぐら》い空を見上げて、はぐれ雲の行方《ゆくえ》を捜す。さっき見つけたはぐれ 雲が、遠くの風に流されて、いつの間にかずっと遠かったりする。  そうやって私の足が遅くなると、いつの間にかヒガゲさんが立ち止まって待ってくれていて、 慌てて追いつく。そんなことを繰《く》り返す。  小さな子にナツシロと一緒に見送られてから、何だか淋《さび》しくなっていた。  人の温《ぬく》もりを感じたり、自分がどんな人か考えたり、行くあてのない身で考え事が多いと、 不安になりやすいのかもしれない。  何《いず》れにしろ、暗くなりかけた時間、私達はまた二人きりだ。  会話もそうはない。  そんな二人がそぞろ歩くのは、家々と塀に囲まれた人気《ひとけ》のない道だった。  実は手頃《てごろ》な一夜の宿を探していた。  昼間は街を彷徨《さまよ》い、夜は空き家の片隅に転がり込む。  毎日がそんな調子だった。  何とヒカゲさんは、持ち歩く三種類ほどの針金で、大方の錠前《じょうまえ》を開けられた。明かり窓か ら侵入し、中からかん組きやらを抜いてくれることもあった。  未《いま》だに、ほとんど足音を聞いたことがない技といい、本当に暗殺でもさせたら無敵なのでは と思えてくる。  いざとなったら、二人で泥棒《どろぼう》でもしたらお金持ちになれるかも知れない。そんな不届きなこ とを考えてから、私は別にいらないのだと思い当たる。 「ヒカゲさん」 「ヒカゲ」 「そうだね、あのね、ヒカゲ」  前を歩く背に声を掛けるが、大した返事はない。でも、聞いているのが彼だ。 「当分、トエ様達が見つからなくても一緒にいてくれる?」 「当然だ」  気弱でずるい匂《にお》いのする言葉に、いつも通りの簡素《かんそ》な返事。 「お仕事だから?」 「ああ」 「でも、報酬《ほうしゅう》無いよ」 「それなりには貰《もら》ってある」 「でも、もう貰えないかも知れないよ」  お二人がご無事だとしても、宿|屋敷《やしき》を焼失して、これで城が陥落したのなら破産のような気 がする。  お二方もそうだけれど、衣装役さんや他《ほか》の侍女さん、侍従長《じじゅうちょう》をはじめとする侍臣の方々、 衛兵《えいへい》さん方、皆、無事でいられたらよいのだけれど、今の私には、迂闊《うかつ》にトエ様の宿屋敷跡に さえ近づくことができない。  何もできずに逃げているだけだった。  ヒカゲさんは立ち止まって、私の方を見た。  一緒に立ち止まる。  暗くて、その表情は判《わか》らない。 「あんただって、大して貰っているわけじゃない」 「私は、好きでやっているから」  おいしい紅茶やらで買収されてもいる。  ヒカゲさんは前を向いて歩き出す。 「俺《おれ》もそうだ」  慌てて追いかけると、いつも通りの声がした。  その言葉の意味を考えていると、不意に前を行く足が止まる。  音がしないので、気づくのに遅れ追突してしまう。 「ど、どうしたの?」  硬い筋肉と肩胛骨《けんこうこつ》に鼻をぶつけてたじろぐ。  離れる時、その背に仕込まれた小刀の鞘《さや》に私の指先が触れた。 「敵だ」  躍動《やくどう》の気配《けはい》。風が鳴るのを聴《き》いた気がした。  呟《つぶや》きを残し、俊足の抜き打ち。  前方の暗がりへ。  音切《おとき》りの白刃が走った痕跡《こんせき》が僅《わず》かに見えた。 「ぐうっ!」  男の、大人《おとな》の呻《うめ》き声。  それから、水滴が地面に落ちる音。  何の音か、よく判《わか》らなかった。  人が地面に崩れる音がして、ようやく、人の血が滴る音だと気がつく。 「ヒ……」  名前を呼ぶより早く、黒影と化したヒカゲさんが別の暗闇《くらやみ》に走る。  もつれ合う足音。跳ねる砂利の音。  攻防。  流石《さすが》に、僅かにヒカゲさんの足音らしきものを感じる。  今度は声もなく、また一人地に伏した。  ただ、からんと、捧が転がる音が聞こえる。多分《たぶん》、槍《やり》が転がる音。  ヒカゲさんは、とんでもない強さなのだと私は知った。狭い路地で暗闇から繰《く》り出される槍 を避《よ》け、斬《り》り勝つのは桁《けた》違いの技量がいる。  槍と剣の演習ぐらいは、遠目に見学したことがあるから、間合いの違いが圧倒的なのは私に も判る。 「ヒガゲさん! 大丈夫?」 「来るな!」  鋭《するど》い声に、踏み出そうとした足が止まる。 「血の匂《にお》いは覚えない方がいい」 「あっ?」  人の死が、目の前にあるのだと、ようやく理解した。 「戻るぞ」  ヒカゲさんが戻ってきて、刃《やいば》を持たぬ左腕で私の右手を掴《つか》んだ。  小走りに駆け出すので、慌ててついて行く。 「どこへ?」 「今のは訓練された兵卒だ。仲聞がいる。残党狩りだ」 「そんな、私を?」  そんなはずはない。私が七宮《ななみや》姫だと知られていないはずだと思う。 「トエ様を捜している?」  あの火付けでは亡くなられていないと、敵方も考えている。そう思い当たる。 「多分《たぶん》」  小さくなっていた気持ちが、急に熱くなる。  生きていく自信が、急に湧《わ》いてきた。  トエ様が無事なら、テン様だって無事だろうと、何の根拠が無くても思えてくる。  握られた手を強く掴《つか》み直す。 「よかったな」 「うん」  振り返らない一言が、驚《おどろ》くぐらい優《やさ》しかった。  しばらくして、後方で呼び子が鳴り響《ひび》いた。  争った跡が発見されたのだろう。  やがて、小径《こみち》を遡《さかのぼ》る私達の前に、手差し照明の上下が見えた。  追っ手だ。  無言で脇道《わきみち》に進路を変えるヒカゲさん。  見る見る暗くなる夜道は迷路のように入り組んでいて、どう進行しているのか私には判《わか》らな くなってくる。  包囲が早いか、脱出が早いか。ヒカゲさんは黙々《もくもく》と前を行く。  彼一人なら、どうとでもなるけれど、私の足はそれほど速くない。 「圧力だ。市警《しけい》団を黙《だま》らせている」  息の荒い私の気を紛らわそうというのか、何の乱れもないヒカゲさんの言葉。 「多分、琥珀《こはく》姫の先兵隊だ」  ヒカゲさんの先導《せんどう》が、ゆっくりと止まった。 「何だ。あれ」  呆然《ぼうぜん》と、この人にしては呆然とした呟《つぶや》き。 「はあ、はあ」  返事をするために呼吸を整えつつ、私は彼の視線の先を見た。  北の淡い空の下に、砂煙が上がっていた。  地平から少し浮き上がる程度で、それほど高さはないが、広範囲《こうはんい》に起きている。 「これ……はあ、はあ……兵隊の行進」  切れ切れに言葉にする。  教えてもらったことがある。  低く広がる土埃《つちぼこり》は、主に歩兵の進軍に見られると。 「数は数千」  ヒカゲさんが呟《つぶや》く。  北からの数千の兵力。北には七宮《ななみや》城と、それを包囲する寄せ手五千。 「常磐《ときわ》軍なのか?」  呻《うめ》くような呟きが終わるより早く、新たな呼び子、近い気がした。  身近に包囲網が出来始めていた。  無言で私達はまた走り出した。  頭上では、かわほり達が忙《せわ》しなく暗い茜《あかね》空に羽ばたいていた。 六節 雪祭 十一月  さっさと逃げろ。  テン様の言葉を思い出す。  食った者勝ちとか逃げろとか、あの人はまるで食い逃げ犯のような人だ。  逃亡の緊張《きんちょう》感についていけないのか、私はぼんやりとそんなことを考える。  汗にまみれた身体《からだ》が重く鈍い。  喉《のど》と肺がひいひい言っている。潰《つぶ》れそう。 「囲まれた」  力無く見上げる木立の上から、呟《つぶや》きと共に黒影《くろかげ》が舞《ま》い降りる。  少し手広い街路の一角。左右には、それなりの民家が高い塀を連ねている。  夜が深くなれば、民家の人々が外へ出ることはそうはない。夜間の外出が事実上禁止されて いるような状況でもある。  この夜の市街には私達と、夜警《やけい》の兵達だけなのかも知れない。 「敵は速い」  傍らに立つ少年の報告。  ここからは寄せ手は見えないけれど、高い位置からは、そうした兵の動きが確認できるらし い。  だけれど、既に私は息が切れていて、舞い戻ったヒカゲさんに返答する元気もなかった。 「あんたは休まないと走れない。ここにいろ」  彼はそう言うと、私を張り巡らされた塀の一角に連れ込む。そこには、ちょっとした塀の窪《くぼ》 みが設けられてあった。  私の背丈ほどもある水樽《みずたる》が三つほど並んでいる。防火か何かの備えなのだろう。  その陰に私を座り込ませる。 「俺《おれ》が他《ほか》の道へと敵を引きつける。あんたはここに隠れていろ」  反論無く頷《うなず》く。  確かに、私を連れていては、包囲を突破できそうになかった。  ヒカゲさんだけならば、塀や屋根を飛び跳ねて逃げ回ることも容易《たやす》いだろうと思う。  現に先程の木立への跳躍《ちょうやく》も、軽々としていたのだから。 「俺が戻る前に、もし敵に見つかったら大人《おとな》しく捕まれ。あんたの体力はすぐには戻らない。 多少の兵が相手なら、俺が助けに戻る方が早い」  下手《へた》に逆らって、怪我《けが》をするなという意味だと思う。  そうしたら、余計足手まといだ。 「いいか、あんたは俺《おれ》が護《まも》る。テン様もトエ様も必ず見つかる」  そう言い放ち、駆け出そうとする腕に、自然に手が伸びた。  色|褪《あ》せた袖口《そでぐち》を掴《つか》むと、不思議そうな目と、目が合った。 「気をっけてね」  情けないほど、これぐらいしか言葉が思いつかなかった。  無言で頷《うなず》くと、黒影《くろかげ》は月光と僅《わず》かな街|灯《あか》りだけの闇《やみ》にとけ込んでいく。 「……ごめんね」  微《かす》かに呟《つぶや》くと、私は何もせず、ただ体力の回復を待った。  じっと、呼吸に集中する。  どうして何もできないのだろう。  ぼんやり思う。  せめて、もっと賢明だったら、もう数日身を隠すことに専念したのに。  せめて、もう少し体力があれば、今頃《いまごろ》包囲をかいくぐっていたのかも知れないのに。  それでも、ヒカゲさんはまだ頑張ってくれている。だから、悔いはあるけれど、弱気は見せ られない。  ただ、じつと耐える。  膝《ひざ》を抱えた身体《からだ》は熱く、心臓《しんぞう》と肺はまだ激しい。  身体の熱が、少しでも早く消え去ることだけ願う。  そのうちに闇夜に喧噪《けんそう》が走り、やがて遠のいていく。  誘導《ようどう》は成功したようだった。  ヒカゲさんならば、うまくやれる。不安はそんなになかった。  ただ、彼が戻ってくる前に私が走れるようになるか、それが恐《こわ》かった。  私が元気になることで、戻ってくるヒカゲさんを安心させてあげたかった。  だから、息を整えるのに専念する。  もう秋の宵《よい》なのだろうか。夜の秋気《しゅうき》で思ったより早く汗が引きはじめ、胸が落ち着き始め る。  これで、どうにかなりそうだと思い始めた矢先、ちゃりっと、街路の一方から足音がした。  砂利を踏みしめる密《ひそ》かな足音。  ヒカゲさんが消えたのとは反対方向で、そして、ヒガゲさんならば足音はない。  足音が近づいてくる気配《けはい》に、私は息を潜《ひそ》め、小さく身を固めた。  聞こえてくる足音は一つで、規則正しくこちらに向かってきた。  ついに、私の潜む物陰から、数歩の距離で立ち止まる。  呼吸を浅くして、ただひたすら耳を澄《す》ます。 「カラさんですね」  息が止まる。  問いかける声は静かで、そして何だか優《やさ》しかった。  覚えのある声、覚えのある呼び方。  嫌《いや》になるくらい簡単《かんたん》に、肩の力が抜け落ちた。  そっと、物陰から様子《ようす》を窺《うかが》う。  星月夜の下、街路地の上。人、一人。  黒帽子は新調したのだろうか、見覚えのある黒衣が夜気にとけ込み、端正な白い顔が月明か りに浮かんでいた。  夜会が誰《だれ》よりも似合いそうな衣装。  月下芙人は、穏《おだ》やかに私に微笑《ほほえ》む。 「こんばんは」 「クロハ……さん」  おそらくは偽名だろうけれど、どう呼んでいいか判《わか》らずに私は呟《つぶや》いた。  どうしていいか判らないまま、私は物陰から這《は》い出て、黒衣の麗人《れいじん》と対峙《たいじ》した。  少しだけ距離を取る。  彼女は今日《きょう》は一人ではなかった。  遥《はる》か後方の街路口に、四人ほど大柄な男性が整列しているのが見えた。  私達に背を向け、彼女の後方を警備《けいび》しているようだ。おそらく、彼女の護衛《ごえい》の武官なのだろ うと想像する。 以前、出会った日々も、彼等は遠巻きに存在していたのかも知れないが、今まで、予想一つ していなかった。  多分《たぶん》、私の目には、黒の彼女が強過ぎたのだと思う。 「今日は偶然ではありません」  声もなー様子を窺う私に、彼女が口を開いた。  黒帽子をそっと脱いで、左手に抱えると 「迎えに来ました」  そう告げた。 「迎え?」  意外な言葉に半歩下がる。  恐《こわ》かった。優しい言葉を掛けられるのが。 「トエル・タウの死亡が確認できず、都市制圧先兵も、都市内通者も苛立《いらだ》っていますから、こ のような無粋《ぶすい》な真似《まね》が起きました。このままでは、貴女《あなた》の身も危険です。貴女が外回りした先 の幾《いく》つかは、三宮四宮《さんみやしのみや》に呼応していますから」  トエ様が敵の手に落ちていないらしいのは朗報だけと、内通者というのは辛《つら》い話だった。 「私は今夜、この都市を離れて、一時本拠地に戻ります。だから、迎えに来ました」 「わ、私を? どうして敵なのに?」 「私の敵は粗暴な野心家達です。貴女を憎く思ったことはありません」  そして、彼女は私に帽子を持たない右手を差し出した。  あの日触れた、細く綺麗《きれい》な白い指先。 「ですから、来ませんか……一緒に」  恐《こわ》いくらいに、優《やさ》しい声。 「一緒に、クロハさんと?」  怯《おび》えて、また半歩下がる。 「はい、嫌《いや》ですか?」  一歩近づく黒衣。  月光に、その顔の半分がひたすらに明るく輝《かがや》く。脆《もろ》い危うさを感じさせ、そのくせ、穏《おだ》やか な慈愛《じあい》に満ちた顔。  気が付けば、それが、すぐ目の前に近づいていた。  まるで口づけが出来るぐらいの身近な距離。 「あっ?」  そっと、細い両腕に両肩を抱かれる。  彼女の左手の先から、私の背中を包むような黒帽子。 「駄目《だめ》、私、走り回って汚れているから」  慌てて、わけの判《わか》らないことを口走ると、彼女の目が優しく細められる。 「お互い様です、私の手も血にまみれています。私達は同類です」 「同類?」 「ええ、お互い独りぼっち。だから、仲間です」  抵抗しようとして、言葉が思い浮かばず、手足の力が抜けそうになる。  そのまま抱きすくめられて、声もなく佇《たたず》んでしまう。  そっと、黒帽子が私の後頭部を覆《おお》い始める。  人の匂《ひと》い。香の匂い。  この人らしく、気高く優しい匂い。  何もかも、力を無くして委《ゆだ》ねてしまいそうになる。  疲れが癒《いや》されてしまう感覚。 「今なら、私の手で逃がして差し上げられます。無事に生き延びてから、赫互いのことを考え ましょう」  不意に、逃がしてくれると言う言葉を聞いた時、ヒカゲさんの顔が思い浮かんだ。  別れ際の言葉。  瞬時《しゅんじ》に頭の中を走る人達。  それはトエ様やテン様、お城の人達で、街で会った人達で、だから、身体《からだ》に力が戻る。 「駄目《だめ》っ!」  突き出す両手で拒絶して、私は優《やさ》しい腕から逃げ出す。  クロハさんは、怒らなかったし、驚《おどろ》きもしなかった。  ただ、黒帽子が、その足下に静かに落ちていた。  力無く右手を下げ、左乎でその二の腕を握りしめている黒影《くろかげ》。  そして、淡く微笑《ほほえ》み、 「行くのですか、どうしても」  静かに訊《き》いた。  何だか悲しい問い。  私は頷《うなず》いた。 「私には私の居場所があるから、帰る場所があるから、だから……」  声が詰まる。 「私にはその黒帽子は似合わないから」  もう言葉が思いつかなかった。 「そうですか」  屈《かが》んで手にされる黒帽子。  長い黒髪で月下の世界に影を揺らせ、彼女はゆったりと起きあがる。 「ねえ、カラさん。貴女《あなた》の擁立《ようりつ》者達はどのような方々ですか?」  夜の世界を従えたような立ち姿が、私に問いかけてきた。 「え?」 「トエル・タウと、テン・フオウのことです」  どう答えていいか、混乱してしまう。  でも、答えないといけないと思う。  トエ様もテン様も、嘘《うそ》ばかりついていたけれど、いつも私の聞いに答えてくれていたから。 それに、目の前のこの人も、不思議《ふしぎ》なくらいに誠実だったから。 「あの人達は、嘘つきで、ずるくて、強くて、たまに優しくて、たまに残酷で」  変なことを口にしながら、頭の中を思い出が走る。  名前はと訊かれた。  お姫様をやれと言われた。  テン様がけらけら笑って、トエ様が苦笑したりする。問いかけるのが私。  何でも出来そうな人と、何でも知っていそうな人。何でも知りたかった私。  大事な物なんて無いのでしょうと私が訊《き》いた。  あるぜ、一つだけ欲しい場所がと、背高《せいたか》さんが答えた。  始めた頃《ころ》の記憶《きおく》。三人で。 「だから、憧《あこが》れて、背伸びして、追いかけて追いかけて」  何を言ってるのか判《わか》らない自分。  教えてやろうか、そいつはなと、秘密のお話。  楽しそうな二人組。  その中に入りたかった。だから。 「悪い人だけど、ずるい入達だけど、私の一番大切な人達です」 「それが、貴女《あなた》の物語ですか」  黒影《くろかげ》が笑った。どこか、私の一番大切な人達と同じように。 「ねえ、カラさん」  もう一度、彼女は私に呼びかけた。 「七姫《ななひめ》の物語というものをご存じですか?」  問いかけておいて、彼女は自分で続きを口にし始める。 「豊かな気候に恵まれて、山と海に守られて、穏《おだ》やかな歴史に温々《ぬくぬく》と育った世界。東和《とうわ》という 土地で、暖味《あいまい》な慈《いつく》しみで作り出された七つの偶像」  黒帽子を片手に、彼女は両手を広げ、戯《おど》けた仕草《しぐさ》をした。道化役者のような行為も、この人 がやると、何だかひどく様になったりする。 「それに、多くの人々が群れました。利権のため、保身のため、愛情のため、夢のため、野心 のため、信仰のため、先祖のため、子孫のため、庶民《しょみん》のため、それらは様々です。大半は切実 で、大半は悪質でした。外圧という条件もそれに拍車をかけたのでしょう」  まるで歌詠《うたよ》みのように流れる独白は、穏やかに続く。 「やがて、偶像と、その取り巻きはごく自然に肥大化し、身動きが取れずに腐り始めました。 澱《よど》んだ血抜きが白分で出来ない方々は、ごく自然に他者と争い、他者の生き血を啜《すす》り、曖昧な 責任で曖昧な保身を図り始めました」  小首を傾《かし》げて、一人舞台の主役は微笑《ほほえ》む。 「悪質な物語ですね。まったく」  小さな子供の悪戯《いたずら》を眺めたような口調だった。 「望もうと望まないと、時は流れ、世界は揺れて、移ろう季節の下で、それぞれは譲《ゆず》り合えず に争うでしよう。各自に事情があり、格差があり、それらの都合は淘汰《とうた》されなければ息苦しく 溢《あふ》れかえってしまうからです」 「貴女《あなた》も、クロハさんもそのようなお立場なのですか?」  ようやく、問い返すことが出来た。  影色の輪郭は、月明かりを弾《はじ》く肩を竦《すく》める。 「身の上話は嫌いです。ですが、宮姫《みやひめ》が背負う背景はそれぞれ大差ありません」  それは、私にも身に覚えがある気がした。腐敗、あるいは怠惰という温床があったから七宮《ななみや》 の姫は擁立《ようりつ》され、私達は台頭できたのだろう。 「貴女の物語は、いえ、貴女方の物語は七姫《ななひめ》の物語の中で激しく逸脱しています。どうでもよ ろしいのでしょう。実際、残りの六姫のことなぞ、貴女達は」  多分《たぶん》、その指摘は正しい。良くも悪くも、私はあの二人を追いかけているのが楽しくて、あ の二人は、多分、あの二人で競争を楽しんでいた。  東和《とうわ》の利害も未来も二の次だった、  ただ、この人だけは、目の前で、まるでお芝居をするように立ち振る舞《ま》うこの人だけは私に とって特別なのだと思う。  私は、この人の何もかもが好きだったから。 「あの二人、テン・フオウやトエル・タウが何故《なぜ》、東和の先立つ物語を無視したか判《わか》る気がし ます。六姫の誰《だれ》かではなく、何故、新たな姫を、貴女を掲げたのか」 透き通る声は一人で続く。 「澱《よど》んだ世界が、澱んだ物語が疎《うと》ましかったからでしょう。だから、彼女達、あるいはそれに 群がる彼ら達に、ことごとく抵抗している」  彼女は一息ついて、それから、目を細めて私を見つめた。 「少し、羨《うらや》ましいです。貴女が」 「だったら、クロハさんこそ、クロハさんこそ、私の側《そば》に来てくれればいいのに」  心底、本当にそう思った。もしかしたら、この入は私より、あの二人に近く、もしかしたら、 あの二人以上かも知れない。  だって、この人は私にとって理想のお姫様そのものだったから。私がいつも思い描く、理想 の姫殿下《ひでんか》みたいな人だったから。  私の言葉に、クロハさんは笑った。私が予想したとおりに、躍躇《ためら》いのない笑顔で。 「私の目的は東和の、世界の整理です。疎ましくない営みが出来る相応なる世界。違うのでし ょう? 貴女達の夢はもっと愉快な劇《げき》でしょう」  お別れが近づいているのだと、何となく判《わか》った。 「もっと、お話ししたかった。好きなんですよ。クロハさんのこと」  素直に呟《つぶや》いた。 「私もです」  鈴が鳴るような屈託のない声が応じる。 「貴女《あなた》のお話好きですよ。そして、割と、私は私のお話が気に入っているんです」  多分《たぶん》、こう笑う。そう思ったとおりの表情で、そう思ったとむりの物腰で、彼女は告げた。  だから、何だか泣きそうになった。 「カラさん。お互いの役へ戻りましょう」  お芝居は終わったと声色で告げて、鍔《つば》の広い黒帽子を胸元へ寄せる。  軽く埃《ほこり》を払うと、深く被《かぶ》り直す。  僅《わず》かに少し俯《うつむ》いてから、顔を上げた彼女は私の背後を指さした。 「あなたのお迎えです」  静かに告げる。  振り向いた先には、少し離れたところに十字路。そこに、僅かに肩を上下させる灰色と黒の 少年が立っていた。  来いと、一度だけ、小刀を持たぬ手が招いた。  嬉《うれ》しくなって、躊躇《ためら》わずに走り出してから、私は一度だけ背後を振り返った。  月下に浮かぶ麗人《れいじん》は、しばらく立ちつくしていて、ちょうど、私が振り向いた時、そのきび すを返していた。  近づいてみると、ヒカゲさんの利き腕と右頬《ほお》に血が付いていた。 「返り血だ」  私が何か言う前に、彼は告げた  こんなに人を斬《き》らせてしまったというのに、私は優《やさ》しい言葉に従いかけたことを後悔した。 「ごめんね」  それしか言えない。 「無事ならそれでいい」  変わらない簡潔《かんけつ》さが嬉しい。  そのまま、やはりトエ様は無事らしいと話しながら、私達は走り始めた。  頭の端に、あの人の顔を思い浮かべながら。  ヒガゲさんの作ってくれた血路で、ある程度の逃亡はうまくいったけれど、包囲の網は思っ たより大きかった。  いつしか、じわじわと私達は追いつめられ、結局石段を上り、あの、いつもの高台へと戻っ てしまった。  本当に戒厳令《かいげんれい》がしかれたのか、夜が満ちた街並みに、一般人は全く見えなくなっていた。 「どうしよう? 私捕まろうか?」  子供だから、うまくいけば、言い逃れできるかも知れない。だけど、ヒカゲさんは無理だっ た。  手に血の匂《にお》いが染みついている。  そして、ヒカゲさんだけなら、この包囲でも闇《やみ》に紛れるのは難しくない。  彼は返事をせず、逆手《さかて》に抜いた小刀の血を払っていた。  血糊《ちのり》がつけば、それだけ斬《き》れ味が落ちる。  トエ様と豪族の屋敷《やしき》に行った時、豪放な武人が家宝の武具を見せながら、そんなことを言っ ていた。  まだ斬る気なのだ。この人。  どんな名人と名刀も、二十人も斬れば叩《たた》くしかなくなる。  そんなことも聞いていた。だから、多勢の中で、十人も斬れたらいい方だと思う。  包囲は百人に届くかも知れない。 「ねえ、逃げて。後で助けに来てくれればいいから」  とにかく、ヒカゲさんだけでもと、適当なことを言う。これ以上、敵方とはいえ人も死なせ 「大丈夫だよ? あたし、演技うまいんだから! 恐《こわ》くないよ」  夜が深くなり過ぎて、あまり表情が読めないまま、私はヒカゲさんに詰め寄る。 「本当だよ? 二年も離れていたから知らないと思うけど、あたし、小さい頃《ころ》から演技してき たから、今度も騙《だま》せるよ。得意なの」 「嘘《うそ》だ」  返事は早く、短かった。  暗闇の中、表情もよく判《わか》らないまま、私達は向き合い続けた。 「どうして?」  訊《き》き返す。 「あんたは不器用だ」 「知らないクセに」 「二年間、一緒だった」  目を見開いても、視界は変わらない。 「必要なかったから、姿を見せなかった。あの城は、たまに密偵。一、二度の暗殺。それが来 ただけだったから」  どうして、こんなに淡々と語るのだろう。  淡々とした言葉に、どう反応していいか判《わか》らないで、かぶりを振る。 「……不器用なの……ヒカゲだよ」  返事はない。 「ねえ、トウキビ、また食べよう。逃げてよ? ここは何とかするから」  声が震《ふる》えていた。堪《こら》える。 「私、本当は血にも慣れてるし、小さい頃《ころ》、何度か見たことあるから、人殺しだってあまり気 にしないし、ずるいことだって結構知っているし、だから、平気だよ」  今度は、ヒカゲさんが、かぶりを振る番だった。 「常磐《ときわ》軍が来たなら、城に姫が不在だと知れたはずだ」  どうしようもないことを、私はこの人に言わせてしまった。  私のために黙《だま》っていてくれたのだと、ようやく気がつく。 「泣くな」 「……泣いて……ないよ」 「俺《おれ》は夜でも見える」 「そんなの……黙っていれば判らないのに……知らないフリしてよ」 「そうか」 「……そうだよ   呼び子が規則的な音を繰《く》り返すのが耳に届いた。高台を囲んだ包囲が、完成したようだった。  さらに、北からの軍勢は北門を怒濤《どとう》の如《ごと》く通過し、都市に入って来ていた。  北門の警備《けいび》など、紙のようなものだったのかも知れない。  背中合わせに立って、私達は西と東の階段口を見つめた。  広場の中央。 「トウキビ食べようね」  背中越しに頷《うなず》く気配《けはい》。  包囲が一斉に、石段に取りつき始める足音が聞こえた。  突如、喚声《かんせい》が起こり、乱れた。 「何?」  怒号らしき声が、下方で起きる。  馬の嘶《いなな》き。肉と武具のぶつかり合いの音。北からの軍勢が、包囲陣と接触したのだと気がつ く。 「まさか……」  ぶつかり合う人の群が争う喧噪《けんそう》。視界には見えなかったけれど、そうとしか思えない乱れた 狂騒《きょうそう》の限り。  高い鋼《はがね》の音。金属のぶつかり合いが続く。  身を少し離して、二人して顔を見合わせる。  何も言わないけれど、言いたいことはお互い判《わか》った。  掃討。  百に満たなかったろう包囲陣が押しつぶされ、算《さん》を乱してゆくまでの時間は、本当に瞬《またた》く間 だった。  戦闘《せんとう》はすぐに終わったようだが、軍勢を止めるのは倍の時間がかかった。 「おーい、トエか? カラカラか!?」  東の石段の下から、軍勢のざわめきを抑える大声が届いた。  この声は、この言いぐさは、あの人しか居なかった。 「テン様!」  駆け出す私。  罠《わな》かと思ったのか、その前に出ようとするヒカゲさん。  そして、石段の最上段に立ち、私は眼下を見下ろした。  百を数える騎馬《きば》の軍勢が周囲の道を押しつぶし、溢《あふ》れかえる中、松明《たいまつ》に囲まれた騎馬隊から 進み出てくる長身。  装飾の多い革鎧《かわよろい》を脱ぎ掛けた姿は、懐《なつ》かしいとさえいえる人。  片手の馬上槍《やり》を地面に突き刺し、その人が胸を張ってみせる。 「よっ、待たせたな」 「テン様!!」  階段を駆け下り、そして、最後の数段を飛び越えて、変わらない胸に飛び込んだ。  走り続けた汗の匂《にお》いと、鎧の匂い。それと、帷子《かたびら》に焚《た》き込んだ香の匂いがした。  血の匂いに混じって。  しばらく、私は声も出せずにそのままでいたし、テン様もそれを受け入れてくれた。 「よしよし、いい子にしてたか」  場違いなぐらい優《やさ》しい声で、私を抱きかかえて、顔をよく見せうと言う。 「トエとはぐれたか?」  うんうんと、私は大きく頷《うなず》く。まだ上手《うま》く声が出せなかった。  この人が変わらないのが、ただ嬉《ただ》しかった。  見たところ傷はないようだった。返り血を浴びているのだろう。 「ヒカ、よく働いた」  泣きそうな私を豪腕であやしながら、テン様は階段半ばに立つヒカゲさんに声を掛けた。 「姫殿下《ひでんか》の大切なお側《そば》づきを護《まも》った功績《こうせき》。この東征《とうせい》が確かに見届けた。お前達の証言が七宮《ななみや》の 城で待つ姫殿下《ひでんか》に大義を与えよう」  頷《うなず》くと、ヒカゲさんは階段を上り始め、そのまま姿を消した。 「隠れて援護《えんご》がヤツの本来の仕事だ」  私が訊《き》くより早く、テン様が私にだけ聞こえる囁《ささや》きをした。 「将軍、今の小僧は?」  テン様の馬廻《うままわ》りが側《そば》に寄ってくる。騎馬《きば》兵の筆頭たる有力な方達。 「トエが飼っている情報屋だ。姫様が可愛《かわい》がっている見習いを保護《ほご》してくれた。手当をはずん でやらねばな」  周囲はそれで全《すべ》て納得顔をする。何の澱《よど》みもなく嘘《うそ》を並べるのが、この人らしかった。  いつもの様子《ようす》に、何だか私が落ち着き始めた時。  戦笛《いくさぶえ》が激しく鳴り響《ひび》く。 「何?」  テン様の呟《つぶや》きを掻《か》き消すように、遅れて鬨《とき》の声が、市の中心方向から上がる。 「何事か!」  テン様の叱責《しっせき》。 「敵襲《てきしゅう》! 歩兵部隊!」  物見の兵が声を荒げて、私達の陣を駆ける。 「数は!」  問いただしながら、両手で抱えていた私を片手だけに変え、自分の馬へ戻るテン様。 「数四十。装備は大弓と長槍《ながやり》。囲んで馬を潰《つぶ》す陣形。四宮《しのみや》の制圧|先遣《せんけん》隊」  私達に告げたのは、いつ舞《ま》い戻ったか灰色の少年。 「早い。流石《さすが》、情報屋」  心地よさげに応ずると、私を抱えたまま、馬に飛び乗る。  とんでもない膂力《りょりょく》と、格別な手足の長さが並みの騎馬兵と違う真似を許すのだろう。この人 の強み。 「軽く突破するぞ。北門より外へ走り抜け、後発隊と合流。多勢をもって巻き返す」  テン様が命ずるや、私を自分の鞍《くら》の前に乗せた。  こ、怖《こわ》いよ、これ。  昔、無理矢理鍛錬《むりやりたんれん》させられた大人《おとな》しい農耕馬ではない。荒々しい赤毛の首が、私の身体《からだ》の下 で動いている。馬の熱い体臭にむせる。  馬鹿《ばか》みたいに、一際大きい軍馬だった。 「鞍と鬣《たてがみ》にしがみつけ!」  言い放つや、手綱《たづな》が引かれ、馬が前脚を上げ嘶《いなな》く。  ひいっ、地面がどこ?  目の前で首が動いてる。動いてるよ。  馬にしがみつくのが恐《こわ》くて、邪魔《じゃま」》だと知りながらも、テン様の胴にしがみつく。  鎧《よろい》を着込んでいるように硬い腹筋。 「かあっ、色男だね。俺《おれ》って。ハアッ!」  軽口を叩《たた》いてからの咆哮《ほうこう》。そして衝撃《しょうげき》。  騎馬《きば》が躍動《やくどう》する。  拾う槍《やり》を片手に、テン様が一騎駆け、統く馬廻《うままわ》りの方々。  ぎらつく鋼《はがね》の刃《やいば》が祝界の端を上下し、世界がばらばらに動ーのを感じた。  よく、ここから先は判《わか》らない。  怪我《けが》はしなかったから、馬上から落とされなかったのは確かだと思う。  ヒカゲさんが馬の足を護《まも》るため、人並み外れた併走をしていたようだから、落ちても助けて くれたのかも知れない。  市外へ出るまでの、多分《たぶん》、僅《わず》かな時間。  私は人事不省《じんいふせい》だったらしい。  ただ脂ぎり埃《ほこり》にまみれながらも、恐ろしく楽しそうなテン様の顔はよく覚えていた。  戦闘《せんとう》や危機《きき》的な状況に酔いしれる顔を。  鬼《おに》のようでも悪魔《あくま》のようでもない。ただひたすら楽しそうな口元を。  ひどく長い手で繰《く》り出される長槍が、圧倒的な聞合いで、立ちふさがる者達を叩き伏せてい く。何故《なぜ》か、そんな、恐《こわ》いところだけしっかり覚えていたけれど。  市外の野営地で合流を待つ時問。  馬から降ろされた私は水を貰《もら》い、たき火の側《そば》にへたり込んでいた。  手足がへろへろで、水袋を持つにも、手首の力が上手《うま》く入らない。 「平気か」 「うん」  平気だとは思う。私はそういう子だ。  太股《ふともも》から下の感覚がまだ戻らないけれど。 「わりいな、出来るだけ戦闘は避《さ》けたんだがな。おめえは後方に下がっていろ。ここは俺の仕 事だからな」  兵馬に休息を取らせたテン様はとても気安い。戦闘の刹那《せつな》以外は、ひどく落ち着いているの がこの人だ。  だから、私は何か悪い夢でも見ていたのかと思うことにした。  そうでないと、頭が戻ってくれない。 「初めから七宮《ななみや》城を落としに来るのは、トエも俺《おれ》も調べがついていた。あそこを相手に陣を張 る位置は俺が一番知っているからな、騎兵《きへい》で夜襲《やしゅう》。兵糧《ひょうろう》焼いて降伏させたのさ」  テン様は城にいると見せて、伏せて雑いた少数|精鋭《せいえい》の騎兵で奇襲したのだという。  周辺の住民は来襲前に引き上げさせていたから、なおさら、実のある情報が来なかったのだ という。  敵は武装を剥《は》がされ、一部は捕虜《ほりょ》に、一部はこの軍に編入させ、一部は食料を持たせて返し たのだそうだ。  大きくない七宮城では、数千の捕虜は管理できないのだ。 「まあ、普段《ふだん》の放蕩《ほうとう》は敵を油断させる芝屠よ。うっははははっ!」  けたたましく笑うが、どこまで信じていいかは、いつも通りに謎《なぞ》だった。  先程の戦闘《せんとう》は激しく思えたけれど、あれでも、多分《たぶん》、この人なりに最小限の流血だったのだ と思う。  快楽的な入だけど、この人の武によって、衣装役さん達も、私も助かったのだ。 「お互いに無事切り抜けられて、よかったと思います」  ありがとうございますが、素直に言えなかったけれど、テン様の大きな手が私の頭を嬉《うれ》しげ に撫《な》でた。  ちょっと、私も嬉しい。 「でも、トエ様の方は……」  こちらに御一緒ではなかった。 「ああ、生きてるぞ」  深刻な私とヒカゲさんに、明るい返答。 「ほれほれ」  テン様が懐《ふところ》から出したのは、小さな紙片だった。  丸められた変形のあるもの。 「ああ、鳩《はと》の」  伝書《でんしょ》鳩の足につけられたものだと気がつく。  開いてみると、見慣れたトエ様の字で、カセンの動向が記されており、私の安否が気《き》づかわ れていた。  末尾に記された日付は、咋日のものだった。 「よかったな」  ヒカゲさんの言葉に、答えようと思ったけれど、胸が詰まって声が出なかった。  翌朝までに、公称四千、実質二千の七宮軍は都市要所を制圧。  入り込んでいた四宮《しのみや》の手勢を蹴《け》散らし、内通者と思われる要人、一般人が拘束された。  そして、あの宿|屋敷《やしき》の焼け跡で、私はもう一人の大事な人と再会した。 「無事で何よりだ」 「こちらの台詞《せりふ》です」  相変わらずのとぼけた声に、私は泣き出してしまった。  テン様は丈夫だけれど、この人は普通だから、無事なのが何よりも嬉《うれ》しい。  話を聞いてみると、トエ様は隠していた副業が沢山《たくさん》あり、あの日は、その内の一つに出払っ ていたのだという。そのまま隠れて生活し、私達を捜していたそうだ。 「予想を超えた動きだった。三宮《さんみや》ナツメの常磐《ときわ》は好戦的だが、消極的な琥珀《こはく》は、常磐の有利を 見なければ動かないと決めつけていた」  トエ様の情報戦は、そう結論づけられていた。  独走する常磐姫に、力関係で、やむを得ず荷担しているのが琥珀姫なのだという。 「琥珀姫は恐《こわ》い人です。とぼけているだけだと思えます」  私が、あの黒衣の麗人《れいじん》の話をすると、トエ様は息をついた。 「化かしているのは僕らだけではないということか。危うくやられるところだった」  不明を恥じ入り、長いこと唸《うな》り続ける。 「宿屋さんなくなりましたね」 「帳簿《ちょうぼ》は確保している。それで何とでもなる」  この人は建物より、帳面の方がお金の基本だと信じていたから、その辺に未練はないようだ った。 「痛いのは蔵書《ぞうしょ》だよ。活版ではない、本物が多かったのでね」  トエ様は珍しくなった肉筆|書籍《しょせき》を収集していたそうで、延々と、こちらを残念がる。 「私、服がもう無いんです」  持っていたお小遣《こづか》いで数日分の着替えと生活晶を揃《そろ》えたら、それで空っぽの財布になってし まった。  本当はもっと真面目《まじめ》なお話をしようと思ったのに、気がついたら変なことを口にしている。 だけど、そんな距離が何だかすごく嬉しい。 「ああ、それなら心配ない」  そう言って、トエ様は北門の方を指さした。 「ちょうど、予定通りに来てくれた」  指の先に、朱色《しゅいろ》の馬車があった。  二頭立ての、大きくはないが、瀟洒《しょうしゃ》な形式をしている。  宮姫《みやひめ》だけの公用車。  轍《わだち》の滑らかな走行音と蹄《ひづめ》の音が、私達の傍らで止まる。  そして、そこから」人の女性が現れた。 「お久しゅうございます。姫殿下《ひでんか》」  降りてきたのは、この人も本当に懐《なつ》かしく思える人だった。 「衣装役さん」  彼女は私を一瞥《いちべつ》し 「ひどい格好ですね」  言葉とは裏腹《うらはら》に、どこかいつもより穏《おだ》やかな声だった。  そして 「お召し替えをなさいますか?」  こう訊《き》いた。 「頼みます」 「畏《かしこ》まりました」  お召し替えという言葉の意味は、説明してもらわなくても判《わか》った。  私も、少しだけ成長していたから。  自木の湯舟に伸ばす手足。  擦《す》り傷もないけれど、何か重く不自巾な感覚が和らいでいく。  柑橘《かんきつ》の子葉《しよう》が浮かぶ湯の中で、膝《ひざ》を抱えて背を丸める。  一人だけの時。  月明かりの下、一人座り込んでいたあの時のように。  あの時は、まるで偶然のように、あの人が現れた。  もう遠くにいるのだろう。黒帽子の後ろ姿を思い出す。少し、胸が痛くなる。  悪い子だ。亡くなった方達のことより、あの背が、あの横顔が、あの微笑《ほほえ》みが気になる。  来ませんか。  耳に残る、あの分岐《ぶんき》への誘い。違う道が私を誘っていた。  それでも、結局、私は元の場所に戻った。 「だって、選べるのは一つだけだから」  波立つ水面《みなも》。揺らぐ秋草。  子供の頃《ころ》、見上げたのは連れ立つ背中。私は手を伸ばした。  だから、此処《ここ》に居る。  半端だと、あの背に追いつけないから。この道を行くしかない。  いつか見た夢が、まだ続いているから。 「もう一つの私。いや、違うのかな。七つの私。違う場所で、違う選択を背負った私」  声に出してみる。  声がこもる。湯の香りが揺れる。 「命月《みことづき》から始まって、雪終《ゆきおわり》、息吹《いぶき》、櫻帰《さくらがえり》、緑渡《みどりわたり》、水面《みなも》、空澄《からすみ》、高夏《たかなつ》、早風《はやかぜ》、名無《ななし》、雪祭《ゆきまつり》、終月《しまいづき》、十二の詠《よ》み枝葉《えだは》、時言葉《ときことば》」  詠み名、異称。巡る季節、亘《わた》る月日に人々が求めた淡い価値。 「黒曜《こくよう》、翡翠《ひすい》、常磐《ときわ》、琥珀《こはく》、浅黄《あさぎ》、萌葱《もえぎ》、そして……」  それは季節の名の一|欠片《かけら》。私が始まりに与えられ、受け入れた名。  湯浴《ゆあ》みを終え、肌を整え、髪を梳《す》き、大鏡《おおかがみ》に裸で向かう。  場所は玉水府《ぎょくすいふ》、本殿。  借り切って、仮宿舎にしてしまった。  大きな騒乱《そうらん》が続けば、大方の禁忌《きんき》は破れると、補佐の職務にある人が語った。  禊《みそ》ぎのお時間お守りしますと、将軍職の人が誓った。  広い、祭霊《さいれい》への祭祀舞台《さいしぶたい》の上に、私と衣装役さんがいる。  古木、霊木で作り上げられた古式造りの舞台は、稀《まれ》な儀式《ぎしき》にだけ使われる空間で、人の匂《にお》い が薄《うす》く、その分、木材の香りが香《こうば》しい。  締《し》め切られた本殿の奥。裸の私を衣装役さんが眺めた。 「少しだけ、成長なされましたね」  変わらない口調に、躊躇《ためら》わずに頷《うなず》けた。 「皆様方は、お気づきにならなかったのですか? 貴女《あなた》様が姫殿下《ひでんか》であられることに」  背中の肌に香油を塗り込みながら、衣装役さんが聞いた。 「ここに居た私は、姫殿下ではありませんでしたから」  考えなくても、言葉が出た。 「何も知らない女の子でした。本当に何も知らなかった女の子でした。トウキビがおいしいっ て知ってるだけの」  何を言っても、この人は全部聞いてくれる。 「テン様が好きで、トエ様が好きで、それから、自分が好きで、ヒカゲさんが好きで、クロハ さんが好きで、トウキビが好きで、夕焼けが好きで、うたた寝が好きで、そうした他愛のない ことが好きな女の子でした」 「次は胸です」 「世の中とか少しだけ知っていて、ほとんど知らない子供でした」 「足を開いて」 「楽しかったんです。本当に色々なことが、永年《ずっと》」 「着付けに移らせていただきます」 「色々な人に会いました。私と違う人達、素敵《すてき》な人にも出会いました」 「お顔、綺麗《きれい》になりました」 「ありがとう」  白|無垢《むく》の羽織《はおり》と、洞じ色彩の、裾《すそ》が広く長い古式姫装束。帯は夏帯から秋帯へ、帯色は祭祀《さいし》 用の朱《しゅ》。  鏡の中で、ようやく様《さま》になる。  宝玉、貴石《きせき》、各所に取り付けられていく。  髪を真っ直《ま》ぐ後ろに揃《そろ》え、銀の鈴|紐《ひも》で留め、耳元の後れ毛に長い付け毛をする。  胸元まである。  空澄《からすみ》姫の特長。  これがなかったから、余計、誰《だれ》にも判《わか》らなかったのかも知れない。  髪飾りには紅玉《こうぎょく》と軟玉《なんぎょく》。  目を閉じて、合わせ髪を梳《す》かれることに集中する。  静かな、誰にも邪魔《じゃま》されない時聞。 「山|裾《すそ》で積雪が増え始めました」  衣装役さんの声。続く。 「出立の際、風花《かざはな》が七宮《ななみや》のお城にも参りました」 「そうですか」   私の声が続く。 「早いのですね。今年の雪祭《つきまつり》」 「はい」  そして、髪が硫かれ続ける。  やがて、その手が働きを止める。 「目を開ければ、そこに姫殿下《ひでんか》がいらっしゃいます」  背後で静かな声。 「よろしいのですか?」  私に逃げ道をくれる。  この人はすごく優しい。  カラさん、貴女《あなた》は普通に生きた方が幸せになれます。  もういいよ。  優しさはいっぱい。もういい。 「構いません」  衣装役さんの手が離れ 「終わりました」  告げて、数歩の距離を取って行く気配《けはい》。  目を開けば、そこに、十二歳のただの女の子は居なかった。  驚《おどろ》くほど神聖で、透明で、素直な、自い姫君。  東和七宮《とうわななみや》 空澄姫殿下《からすみひでんか》。  人は私をそう呼ぶ。 七節 終月 十二月  しずしずと石段を上る人々を、長いこと私は佇《たたず》んで待ち続けた。  神僧《しんそう》が、文官が、武官が、民衆が、府中《ふちゅう》全域に、整然と溢《あふ》れるのを一人感じる。  両の眼は閉じている。  いつかは雪だったけれど、今は風に舞《ま》う落葉と、暖かな秋の陽ざしが私に、そして人々に降 りかかる。  やがて、雪が降るのだろう。行く秋の最後のような、穏《おだ》やかで、少し薄寒《うすざむ》の風。  山繭《やままゆ》の飾り旗が、祭祀《さいし》場の四方で揺らめく。  七の字が染め抜かれたその緑は少し眩《まぶ》しいのだろう。耳と肌で風を知り、そんなことを思う。  長い長い時間、私は身じろぎせず立ち続け、やがて、定刻を示す鈴が高台から全域へと流れ た。  ゆっくりと、私は目を開き、予想通りの人の群を静かに眺めた。  溢れるような入々が、私の挙動に小さな声を洩《も》らす。  どよめきを受け流し、私は祭壇《さいだん》の上に立つ。  そして、四宮《しのみや》妃がいる、やや南よりの束、ツヅミ都市の方向を手差した。  ここからは広い平原を挟み、肉眼では霞《かす》んで見えない都市。 「集いし、民と祭霊《さいれい》に、変わらぬ四季世《しきよ》の巡る一時《いっとき》に感謝《かんしゃ》します」  私の声がする。  私でないかのように。  紛れもない私の声で。 「我らカセンの民はいわれない圧力を受け、四宮、三宮《さんみや》に虐《しいた》げられた日々を過ごしました。 元々は、同じ祭霊の加護《かご》を持ちながら、私達は違う土地、違う空間に息を紡いできました。吐 息の紡ぎが大気の繋《つな》がりでありましょうに、距離感が熱と熱の違いを生み、彼等は互いの繋が りを信じられなくしました」  数え切れない人達が玉水府《ぎょくすいふ》を囲み、石段の最上段。祭祀《さいし》の舞台に立っ私を注目していた。  九十九段の上、あるはずのない百段目に立っ私を。 「琥珀《こはく》姫は大気と大地と人の遊離に不安に怯《おびえ》え、傲慢《ごうまん》な常磐《ときわ》姫に、その名の由来足る貴石《きせき》の魂 を譲《ゆず》りました。貴石とは彼《か》の人の命の欠片《かけら》です。琥珀姫は欠損した魂を持ちながら、四季世紡 ぐ現《うつつ》なる世界と契約し続ける姫皇女《ひめみこ》です。七姫の中で、今、最も、哀れな脆弱《ぜいじゃく》さを持つ人間で す」  私の知る黒影《くろかげ》は違うけれど、嘘《うそ》をついている気はしない。  秋気《しゅうき》に乗る声に躍躇《ためら》いは見つからない。 「脆弱な魂は広げてはいけません。それは祭霊を汚し、人を汚し、街を汚し、歴史という、私 達の四季世の紡ぎを血潮と涙で濡《ぬ》らすでしょう」  初めての演説。  他《ほか》の宮姫達も、あの人もこうしているのだろうか。  私は生まれて初めて語り紡ぐ。 「四宮の魂は汚れています。紡がれし人々の上に立つ資格などありません。皆様方にもお判り でしょう」  見渡す人々は、恐《こわ》いくらい真摯《しんし》に耳を傾けてくれる。  静寂が世界を包んでいても、声が届く距離には限界がある。  どこまで、私の声は届くだろうか。  そして、何処《どこ》まで届かなくても効果があるだろうか。  小さな頃《ころ》の私を、遠目に見たという人々を思い出す。  あれから、三度ほど、四季世は過ぎたけど、また幾度《いくど》も四季世は続いていく。  私は、私達は、何度、四季世の紡ぎに吐息の紡ぎを交わせるのだろう。 「全軍、全人民の魂をお借りいたします。魂と言葉と力と命。全《すべ》てを奉《たてまつ》り、攻勢に出ます」  宣言する。 「全軍総|攻撃《こうげき》。理《みち》なすままツヅミの四宮《しのみや》姫を高台より引きずり降ろします」  歓声が上がった。  将軍の指図した軍勢に、そうでなく、言葉が届いた民達に。  そして、届かなかった人達にも。  広がる。  津波のように。  雪崩のように。  炎のように。  四季世《しきよ》に流れる時のように、決して止まらない大河のように。  四宮 琥珀姫殿下《こはくひでんか》の許《もと》へと。 「えらくなったじゃねえか」  舞台《ぶたい》から降り、本殿奥へ引きこもると、誰《だれ》よりも早く声を掛けてきたのは東征《とうせい》将軍テン・フ オウ様だった。  ここは不浄の場所なので武装はなく、儀式《ぎしき》用の直垂《ひたたれ》を纏《まと》っている。  その胸には、空色の地に緋色《ひいろ》の炎があしらわれた紋章。私の旗色と、この人の紋。 「もうカラカラじゃないな」 「はい」  頷《うなず》く。 「でも、その名前、好きだから覚えていてください。そうすれば、いつか、またそう呼んでも らえますから」  ふふんと、テン様は笑った。  それから大《おお》げさに、両手を重ねる武人礼を取って、私の前に片膝《かたひざ》をつく。  それで、やっと、私と同じ目線。 「我は姫殿下の武の権化。我が矛《ほこ》、我が剣、我が兵馬は、姫殿下より預かりし物」  不思議《ふしぎ》なほどに、この人は真摯《しんし》な眼差《まなざ》しをすることがある。 「姫殿下の名の下、最善の働きと成果をお約束します」  きびすを返し、テン様は片手をあげて本殿を出ていった。  すぐに出撃するのだ。  最前線。  そこが、良くも悪くも、この人が好む場所だとあらためて思う。 「台本にはあそこまでなかったはずだ」  トエル・タウ左大臣は、活版印刷用に演説を原稿へと書き写しながら 「どこで覚えた? あのような言葉を」  ゆったりとした質間をした。  本殿の端、縁側《えんがわ》でひなたぼっこをしながらである。  もう人々は退《しりぞ》けている。 「トエ様です」  意外そうな顔はなかった。 「ほとんど、私の中はトエ様です、ただ、トエ様の中にはトエ様しかいないけれど、私は私の 中に何人かの人達を受け止めました。そこだけ、少しだけ違うだけです」 「君が此処《ここ》にいることに感謝《かんしゃ》する」  原稿から私に視線を移し、トエ様は真顔で言った。 「時紡ぐ偉大な祭霊《さいれい》の加護《かご》が君にあるといい。僕も、その一部かも知れない」  口数の多い人が、口を細めて、何故《なぜ》か、それ以上は口にしなかった。  その穏《おだ》やかな顔が、誰《だれ》よりも優《やさ》しかった。ときたま、この人のことを、お父さんと呼びそう になるくらい。  そして、お兄さんぐらいにしておかないと怒られるのが、何よりも私の日常だった。 「……」 「何も言ってくれないのね」  回廊の角、相変わらず、無口なヒカゲさん。 「綺麗《きれい》だ」  声をなくして、私ははにかんだ。 「ありがとう。本当に」  笑顔で、もう一度 「ありがとう」  心から言う。  いつも通り、反応はないと思った。 だから、帰ろうとすると 「服脱げ」  とんでもない声が背中に掛けられる。 「へ? な? 何?」  慌てて振り返る 「いい服汚れる」  いつも通りの簡素《かんそ》な声。 「トウキビ」  どこからか、何本も持ち出してくる。 「早く終わらせて、それからだ」 「うん、約束だから」  ヒカゲさんの手中のトウキビは、遠方から取り寄せたばかりの最上級品だった。 「よろしいのですか」 「はい」  お茶を啜《すす》りながら二人して正座して、私達は本殿奥で向かい合う。  お茶菓子は、何と、この人、自家製の羊羹《ようかん》だ。 「結構なお手前で」 「恐れ入ります」  祭祀《さいし》用の淡い色灯籠《いろとうろう》。その蝋燭《ろうそく》だけの光の下、二人で語り合う、 「この戦いは七宮《ななみや》カセンの圧勝でしょう。志願兵、義勇兵、傭兵《ようへい》、本軍と併せて三万四千人」  とんでもない戦争を始めてしまったと、私は背中に汗が走り始める。  だけど、あの時は止まらなかった。  御菓子を勧められ、受け取る手が少し重い。 「ご心中、お察しします」  羊羹を頬張《ほおば》る衣装役さん。  私も頬張る。  うっ、これは…… 「甘すぎました」  先に食べ終わった人の一言。  どうして、こう驚《おどろ》くほど甘い食べ物と、私は縁《えん》があるのだろうか。  もしかして、これが祭霊の縁?  実は私、この祭霊というものがよく分からないんだけれど。  人と時の紡ぎ合いという意味らしいけれど、はっきりした枠はないらしい。だいたい、伝統 文化なので、元々、口伝《くでん》なのだから、絶対的な答えも価値も無い。  それが、私達なんだろうと、私の補佐を束《たば》ねる人はいつか笑った。 「三宮《さんみや》ナツメと四宮《しのみや》ツヅミ。全軍併せても一万八千、実質動かせるのは一万五干弱でしょう。 カセンも前線に送れるのは三万以下でしょうが」  何せ今度はこちらが攻め込む番である。  ただし、四宮ツヅミだけを狙《ねら》う。  それは私の意志で、トエ様も頷《うなず》いてくれた判断だった。  二つの都市を一気に落とすのは辛《つら》い。勝つことより、勝った後の方がだ。  混乱した制圧は弾圧や軋轢《あつれき》、そして暴走を生むと感じる。  あまり犠牲《ぎせい》は出したくはない。もうここへ来るまでにも、多.くの方が亡くなっているのだか ら。  四宮を落とすことで、好戦的と言われる三宮を封じ込めればとりあえずいい。  たとえ勢いが無くなっても、二つの都市の力は圧倒的だと、彼等が身をもって教えてくれた ことだ。  時間をかければ、政治経済の面で、向こうから折れる可能性もある。  それを嫌《いや》がったのはテン様だ。  一気|呵成《かせい》は、あの人の軍入としての真骨頂なのだ。  勢いで勝って、勝って、勝ちまくるが理想の人である。 「問題は、桁《けた》違いの戦力を得た若い将軍です」  テン様。東征《とうせい》将軍の事を衣装役さんは気にしていた。  戦っている時の、あの楽しそうな姿を思い出す。多分《たぶん》、単騎《たんき》でもかなり強く、衆を率いるこ とも群を抜く方。  気分屋だが冷徹《れいてつ》な好戦家。  極端な戦力集中を避《さ》け、一万ずつ指揮権を分けたため、この戦争には他《ほか》に二人の将軍を任命 した。  拝東《はいとう》将軍と山豪《さんごう》軍である  これは、カセン地方における、過去の将軍の名前を借用した臨時《しんじ》な代物《しろもの》で、正式な任命では ない。  カセン都市地方軍の長老格と、シンセンで汚職にまみれて、十年も軍事から離れていた軍入 家系の豪族。  どちらも何とか行軍が指揮できる程度だと、トエ様が嘆いていた。でも、テン様一人は歯止 めが無くて危険なのだ。政治面、資金面での力関係もある。  トエ様自身は中継役で、補給路を担当するので手一杯なのだ。  それと、文と武の役割分担にもこだわりもあるらしい。 「でも、前回は三割もの敵兵を帰してあげましたし、意外に、わきまえた方だと存じます」 「時間がなかった。掃討する間も惜しかった。それだけだと存じます」  二人して、言葉を発する度にお茶を啜《すす》る。 「圧倒的兵力が、短期決戦を可能とすれば、被害は少ないはずです」  何《いず》れにしろ、そうしなければならないとトエ様が言っていた。秋の収穫《しゅうかく》期が終わり、軍に 人が集められるのは今だけだから。  冬が本格化する前に、決着をつけなければならない。 「敵が一人ならばよろしいでしょうが、琥珀姫は傀儡《くぐつ》です」  この人に、あの黒影《くろかげ》との出会いは語っていない。  傀儡にしては、誰《だれ》よりも鋭《するど》い人。私が知る最上級の女性。  何の傀儡なのだろうか。  琥珀姫の背後には、ツヅミ都市のシノギ調和党と呼ばれる行政|組織《そしき》があると聞く。  東和《とうわ》の中央を、中原《ちゅうげん》の北から外辺境と呼ばれる南の僻地《へきち》まで流れる大河流域。その運搬貿 易を司《つかさど》り、莫大《ばくだい》な富を得る人達。  七葉《ななよう》の一つに数えられる一派。  そこに強烈な力や、強靭《きょうじん》な人物が入るのだろうか。  私にとっての、テン様やトエ様に当たる人。  それは常磐《ときわ》姫でもない気がする。  私が知らない事情が多いのだろうか。それは、まだ判《わか》らない。あの夜の独白さえも、一度た りとも、彼女は彼女自身の事情には触れなかった。 「何《いず》れにも、事情はあるでしょう。七宮《ななみや》とて、一枚岩ではありませんから」 「東征《とうせい》将軍テン・フオウと軍師トエル・タウ。彼等の帥が崩れた時、カセンのみならず東和は 混迷期に入るかも知れません」  この人は、敵よりも味方の方を気にしているらしい。 「私が前線についていって……」 「いけません」  強い否定。 「姫殿下《ひでんか》を血で汚さぬため、前線は頑張るのです。この活力はそうしたものです一  そして、彼女は最後のお茶を一息で飲み干すと 「絶頂の前線で、戦争終結時に姫殿下が琥珀姫を直接処断する意向であると。そうした噂《うわさ》が流 れているそうです」 「噂?」  知らない話。  「おそらく、トエル・タウの牽制《けんせい》でしょう。琥珀姫が凶刃《きょうじん》に倒れぬよう、空澄《からすみ》姫殿下の名に 血の汚れがつかぬように。そして……」  少しだけ、考える間を取って 「テン・フオウの暴走を考慮《こうりょ》して」  静かに、正座のまま礼をする。 「差し出がましい言葉に耳朶《じだ》をお向けいただき、心より感謝《かんしゃ》いたします」 「いえ、お心《こころ》づかいに感謝をするのはこちらです。展望が広がりました」  深々と頭を垂《た》れ、私は先に立つと 「ところで一つだけ、教えていただきたいのですがよろしいか?」  かねてからの質問をしようとした。 「衣装役でよろしいと存じます」  座したままの返事は早い。  読まれた。  どうしても、名前を聞き出せない.  せめてもと、私は他《ほか》のことに切り替えた。 「その衣装役が、何故《なぜ》、斯《か》くも見識《けんしき》であられるのですか?」 「そのような者もあるのが、四季世《しきよ》の正道と願うのは、特別な事ではないと存じあげます」  返事はいつも早く、簡潔《かんけつ》だった。 「では、もう一つだけ、愚昧《ぐまい》の問いに答えてくださりませんか」 「何事でしょうか?」  私は、以前から知りたかった、もう一つの事柄を訊《き》いた。  少し驚《おどろ》いた様子《ようす》で、それから、彼女は静かに答えてくれた。  思ったより、彼女はずっと若かった。  四宮《しのみや》への宣戦布告により、日に見えて七つの宮都市、七姫達が動きを見せた。  まず、良識《りょうしき》派を自認する二宮スズマの翡翠《ひすい》姫は和平調停を私に勧めてきた。その書簡《しょかん》は善 良ではあったけれど、内容に乏しいとトエ様が握りつぶした。  三宮《さんみや》ナツメは常磐《ときわ》姫を筆頭に、侵略者|空澄《からすみ》姫に絶縁《ぜつえん》状を叩《たた》きつけてきた。元々、書簡のやり とりさえしたことがなかったけれど、事実上の宣戦布告という意味らしい。  五宮《いつみや》クラセは六宮《むつみや》マキセと同盟を強化。浅黄《あさぎ》姫と萌葱《もえぎ》姫は友好条約で、諸侯への牽制《けんせい》と勢力 拡大を目指し始める。  大国|一宮《いちみや》シンセンだけは、地方の些細《ささい》な諍《いさか》いに、我関せずの姿勢をとり続けた。一宮|黒曜《こくよう》姫 は沈黙を守っている。 「何《いず》れにしろ、黙《だま》って降伏しない限り、何らかの血は流れましょう」  侍従長《じじゅうちょう》は沈痛な面持ちで私に告げた。 「それは、七人もの姫が現れた時から決まっていたこと。諸侯、群雄よりは巫女《みこ》姫の方が慎《つつ》ま しいと考えたのが、元々、不遜《ふそん》な過ちだったのでしょうな」  七姫《ななひめ》は、それぞれ、諍《いさか》う理由を、はじめから背負っているのかも知れない。 「では、御老臣は私になぜ仕えたのです?」  府中、仮宮《かりみや》となった本殿で、お城から来てくれた侍従長《じじゅうちょう》に訊《き》いてみる。 「七人もいれば、どなたかが、善政の道標となりましよう。競い合うことで、磨かれる貴石《きせき》が、 我らが姫殿下《ひでんか》です」 「だと、よろしいのですが」  自信の湧《わ》かないことを言われてしまった。  始まってしまえば、せめて、無駄《むだ》な血が流れないことを、祈るぐらいしか出来なかった。  私達の懸念《けねん》は杞憂《きゆう》に終わる。  そう考えて差し支えのないような情報が、戦争|勃発《ぼっぱつ》より七日めで府中に届けられた。  琥珀《こはく》姫からの和議《わぎ》の申し立てだった。 「和議ということは降伏を意味します」  トエ様配下の文官が私に報告をする。  城守として侍従長達はお城へ戻り、私の帰りを待つことになると、私の随身《ずいじん》は目新しい人で 満ちていた。 「この状況では大きな譲歩《じょうほ》しか和議の交渉材料はありませんからな」  補佐代理として、府中に上がった文官は先勝祝いの準備をしなければという話までした。  情報は確からしい。  四日目、前線の一翼《いちよく》、山豪《さんごう》将軍の陣に琥珀姫の第一補佐官自身が親書を持参したのだ。  ツヅミまでの行軍距離は普通で六日。大軍|故《ゆえ》の慎重さで八日近く掛ける予定だったので、も う少しで交戦が始まる、ぎりぎりの防衛《ぼうえい》線での事だ。  その日の内に、中継地から軍師トエル・タウも早馬で呼ぶ軍議があった。  ただ、その後の報告がないのだ。  交戦前より味方|優勢《ゆうせい》それは気楽な話だが、いかなる内容の和議なのか、見当もつかないし、 その後の軍の動きも不明だった。  十日目。  前線より、第二報があった。  初戦に臨《のぞ》んで大勝。  十一日目。  第一報は誤報 連勝。  十二日目  山豪《さんごう》将軍負傷 都市包囲綱完成。  何かおかしい。  大部分の人達がそう思ったが、現場との齟齬《そご》は仕方ないと落ち着いた。私達は戦争に馴《な》れて いなかった。  何せ、勝っているのは間違いないらしい。  そして、十三日目  琥珀《こはく》姫捕縛|姫殿下《ひでんか》の指示を仰ぐ。  責任署名はテン・フオウとあり、同じ日付で、また別の書簡《しょかん》も受け取った。  護送《ごそう》させるべし、府中で禁固刑として様子《ようす》を見よ。  それの署名はトエル・タウとあった。  所見の不統一に、現場で意見が対立しているようだと知れた。  テン様は私に一応の伺いを立てておいて好きにさせうということだろうし、トエ様は現場で 政策決定は避《さ》けるべきだと考えているようだ。二人とも、強引に自分の意見を通す気はないら しい。  どちらを優先して信じるべきか、そして、戦勝気分のカセンでは、姫殿下の出立をと声が上 がっていた。  中継地まで出向き、そこで琥珀姫を迎える。それが、私の選んだ折衷《せっちゅう》案だった。  そこが自分の役割だと思えた。  即日の出立。  護衛を兼ねた入れ替え兵千人と、ヒカゲさんを伴って。  足を進めてみれば様々な情報が入った。  どうやら和議《わぎ》申し立てを検討している内に、突発的に戦端がひらき、二つの防衛戦をテン様 指揮の下、我が方が撃ち破ったらしい。 その、あまりの突破の速さに琥珀姫が 『テン・フオウは鬼《おに》か魔物《まもの》か』  と恐怖したという話が、まことしやかに流れていた。  いささか早すぎる噂《うわさ》だし、あのお二方が士気高揚に流したものにも聞こえる。  ただ大規模な戦《いくさ》は初陣《ういじん》となるはずの東征《とうせい》将軍が、圧倒的な兵力を臨機《りんき》応変に動かす様は、軍 中でも鬼神《きしん》かと噂《うわさ》されているのは確かなようだった。  耳にするところによると、中原《ちゅげん》の最新の軍規と訓練。組織編成を取り入れているのが良か ったらしく、将軍の出身は、やはり中原と噂《うわさ》されているらしい。  本人は訊《き》かれると、伝説の覇王《はおう》が夢枕《ゆめまくら》に立って教えてくれた等とうそぶくらしい。  そうこうするうち、私は実状を誰《だれ》よりも知るはずの軍師の陣へと辿《たど》り着いた。 「これが和議《わぎ》の提案だ」  カセンから三日ほどの距離にある中継地は、小規模な開拓村の跡地を利用したものだった。  四半世紀前に潅概《かんがい》工事の失敗で放置された土地に、古い収穫《しゅうかく》倉が残っており、それを補修 したのだそうだ。  村の集会場だったという石塔が、トエ様の本陣となっていた。  新しく持ち込まれたのだろう。真新しい円卓で、手渡された書簡《しょかん》は本物だという。 「琥珀《こはく》姫自身による廃位宣言。三宮《さんみや》ナツメとの同盟|破棄《はき》、ツヅミ都市の総意による空澄《からすみ》姫への 忠誠宣言、向こう三年間の賠償《ばいしょう》金、軍備削減、新兵採用の停止……」  悪い内容には見えなかった。  自分への忠誠など、面映《おもは》ゆいけれど。 「幾《いく》つか協議の余地はあるが、第一交渉としては申し分なかった」  トエ様は、伸びすぎた前髪を右手で掻《か》き上げた。  これで講和《こうわ》に持ち込む。そう意気込むトエ様に三人の将軍が反対した。  テン様があおったというのが、トエ様の言い分だった。  交戦必至の出鼻をくじかれて、軍の熱が止まらなくなっていたのだ。三人とも、それぞれ思《おも》 惑《わく》がある。  それでも、譲歩《じょうほ》を繰《く》り返しているところを拝東《はいとう》将軍の先方が夜襲《やしゅう》にあった。  よりによって、拝束将軍の一族が指揮していた陣だった。  ここで講和すれば、拝東将軍だけが被害を受けたことになる。  そうした間隙《かんげき》に、今度は山豪《さんごう》将軍の後方が夜襲を受けた。  こちらも、山豪将軍の子息の死を招く。  激怒する二将に、初めから、大軍の指揮に情熱を燃やす東征《とうせい》将軍。  講和は打ち捨てられた。本当に、夜襲の相手が四宮《しのみや》か証拠もなく。 「三宮は四宮の降伏を許さない。自分達の身が、次は危ないからね」  こうして交戦となり、連勝となる。  怒涛《どとう》の攻めだと、敵味方が異論《いろん》のない攻撃《こうげき》は、一気に城塞《じょうさい》都市ツヅミの水際まで屈いた。  そこで、三宮の援軍が現れ、挟撃される形となる七宮《ななみや》軍。 「テンは、これが狙《ねら》いだった」  挟撃《きょうげき》してくるのを、テン様は待っていた。包囲を二将に任せ、一軍をもって三宮《さんみや》の精鋭《せいえい》を 迎え撃ったのだ。  攻めに入っていけないのなら、引きずり出して喰《く》えばいい。あの人の考え方だと思う。兵力 は互角。数は七宮《ななみや》、騎馬《きば》は三宮が上。テン様は最初から三宮戦を想定していたから、馬止めの 備えで見事な勝利を収めるに至った。  猛攻に敗走する三宮ナツメを、随一の勇将が率いる軍勢だったと、あの人は触れ回った。  敵を褒《ほ》め称《たた》えることにより、その上をいく自らの力を誇示する東征《とうせい》将軍。  三宮の援軍が目の前で絶たれた。それが、四宮《しのみや》に動揺を与え、そして、 「その日の夜、鎖《くさり》に繋《つな》がれた琥珀《こはく》姫が城壁《じょうへき》の上から引き落とされた」  琥珀姫|捕縛《ほばく》の意味は、こういうことだった。  ツヅミは陥落していないのだ。未だ、籠城《ろうじょう》をしている。 「ひどい話です」  いたたまれなくなる。 「救いなのは、何人かの兵卒、側近、市民が姫と共にいたいと投降してきたことだ」 「それで、琥珀|姫殿下《ひでんか》はどちらに?」 「もうここにいる。この部屋の地下室だ。出来るだけ、人の日に触れたくないそうだ」 「僕はここにいる」  地下室の階段口で、トエ様は座り込んだ。 「随分と嫌われているのでね」  私は、ヒカゲさんと二人だけで、地下室の階段を下りた。  地下|牢《ろう》代わりの空間は、そのまま土壁《つちがべ》の粗末な造りだったが、案外に奥行きが広く、廃墟《はいきょ》に なる前には、居住にも使われていたのだろうと思えた。  その一角、彼女は運び込まれた寝台の上で、こちらを向いて座り込んでいた。  長い髪が、淡い照明の下、ざらついた印象を与える。  鼻梁《びりょう》の通った顔立ちは華やかで、だけれど、ひどく疲れた様子《ようす》だった。  簡素《かんそ》な水衣《みなごろも》姿は、私の来訪を待っていたようだった。 「貴女《あなた》が……四宮?」  気怠《けだる》い雰囲気に、声が控えめになる。 「七宮の空澄《からすみ》か? お初にお日に掛かる。四宮琥珀である」  思ったより、しっかりとした声。姫殿下として振る舞《ま》っていただろう日々を感じさせる声。  だけど、違った。 「どうなされた? このような格好が目障りか? 許されよ」  じゃりっと、金属音。  持ち上げた彼女の両手には、鎖《くさり》こそ自由の利く長さだが、無骨《ぶこつ》な手枷《てかせ》が填《は》められていた。 「違う……あの人……琥珀《こはく》姫じゃないんだ……」  ヒカゲさんを見ると、静かに頷《うなず》いてくれる。 「だって、この人の髪、肩までしかない。あの背中を覆《おお》うような長い黒髪じゃない」  黒衣の影と、目の前にいる女性は別人だった。  全くの別人、美人なのは一緒なのだけれど、この人は暖かく柔らかい美しさで、あの人は他 を寄せ付けない鋭《するど》い美しさ。  年格好さえ違う。この人は、私より四、五歳は上だろう。  私の不用意な言葉に、琥珀姫が眦《まなじり》をあげた。 「なるほどな、貴女《あなた》も会ったのか……あの女に」 「知っているの? クロハさんを」  意外な言葉に、私は彼女の側《そば》へ足を進めた。 「そう名乗ったのか。あの女」  複雑そうに表情が引きつっていた。 「黒い羽、いや、黒の玻璃《はり》だろうか。その遊び名に当てられた文字は」  琥珀姫は私の興奮《こうふん》を受け流すように、俯《うつむ》いて別の方向を向く。 「あれが来てから、あらゆる意味で雲行きがあやしくなった。それまでは、それなりにうまく やっていたのにな」  遠い過去を見る目で、寝台の角を見る。 「常磐《ときわ》もあの女に、たぶらかされたのかも知れない。今の常磐は歯止めがない」 「何なの? あの人は誰《だれ》なの? 教えてください!」  見えない苛立《いらだ》ちに興奮すると、琥珀姫は私の顔を見上げた。  静かに、私の年齢《ねんれい》を確認するような観察。 「友達になれると思ったのか」  まるで全《すべ》てを悟った、老人のような声を出した。  急に、彼女の体から力が抜けたような気がした。凛《りん》と張りつめていた彼女の空気が淡く散っ た感触。 「私もそう思った」  静かに続ける琥珀姫。その声も、ひどく穏《おだ》やかな色をしていた。 「でも、違う。誰もあの女の友人にはなれない。あれは、孤独で、それを楽しむ人だから」  判《わか》らないと、私は首を振る。  諭《さと》すような声は続く。 「彼女も七姫《ななひめ》の一人。七姫の中で、最も聡明で、最も強くて、最も孤独で、最も悲しい女。東《とう》 和一宮《わいちみや》 黒曜姫殿下《こくようひでんか》」  琥珀《こはく》姫は、淋《さび》しそうに微笑《ほほえ》んだ。 「旧王都シンセンに君臨《くんりん》する、七姫最大勢力を持つ女。それが彼女よ」 「どちらへ、姫殿下?」 「紅茶を用意します。琥珀姫と過ごすために」  地下室からの階段の途中、私の執務長は澄《す》まし顔でよそ行きの言葉つかいをした。 「訊《き》きたいことがあ.ります」  私が真面目《まじめ》な顔をする。 「シンセンの黒姫のことかい」  帰ってきたいつもの顔、いつもの言葉づかいに頷《うなず》く。 「修学しているだろう。東和一宮黒曜姫殿下。七姫の長女。本来、彼女が東和のただ一人の姫 だった」  少しだけ、考えるような顔をして、トエ様は続ける。 「聡《さと》い子だよ。聡すぎるかも知れない。それ故《ゆえ》に疎《うと》まれてもいる。彼女の血が淡く、彼女の生 まれが遅すぎたため、諸勢力が乱立する隙《すき》があった。僕らを含めてね」  肩を竦《すく》めながら、遠い目をする。 「いや、シンセンという、最大の力と長い系譜《けいふ》を持つ都市を基盤《きばん》に持ったのが、彼女の不幸か も知れない。僕やテンが入り込む隙のなかった古都は、その大きさと歴史故、腐敗が激しく、 どうしようもない面を持つのだからね。田舎《いなか》で成り上がった僕らのような余裕は彼《か》の地では望 めない」  伸ばしすぎた前髪を指で掻《か》き上げ、口元だけで笑う。 「だから、自分で動いている。諸勢力を排するため、そして、取り込むためにね。おそらくは、 こういうことだろうね」 「口説かれました」 「同士が欲しかったのだろう。あの子も辛《つら》い立場だ」  複雑な顔をしながら穏《おだ》やかに続ける。 「彼女が自分で動いているのは、それだけの人物であると同時に一人と言うことだ」 「最大の力を持つ方なのにですか」 「それ故にさ」  そう呟《つぶや》いた時、この入は、この人らしい顔をしていた。 「君が此処《ここ》にいることに感謝《かんしゃ》しているよ。つくづくね」  もういいだろうという口調で立ち上がり、トエ様は右手を私に差し出した。  二本指の先に挟まれた小さな紙片。文《ふみ》のようだった。 「彼女が導《みちび》いた現実もあれば、僕らが築いた現実もある。前線からの早馬が届けてくれた。今《いま》 頃《ごろ》、ツヅミは陥落しているよ」  私が琥珀《こはく》姫と初めて対話した頃、テン様は隣接《りんせつ》する大河からの水路を破壊《はかい》し、ツヅミを降伏 させていた。  ツヅミは大河支流との共存に生きる街で、それを失うぐらいならばと、強硬派と市民に内部 対立が勃発《ぼっぱつ》したのだ。  既に、大河と契約した琥珀《こはく》姫を差し出した人達だ。心理的な行き詰まりは激しかったのだろ う。  カセン側の入城は、一部では歓迎されたともいう。  テン様は略奪を禁じ、整然と強硬派の指導《しどう》者層を公開処刑。  城壁《じょうへき》の要所を破壊すると、ツヅミ軍のあらゆる武器を没収して、全軍退去した。  あからさまな、三営《さんみや》ナツメ都市への挑発だった。  三宮が無防備なツヅミに手を出せば、世間の誹《そし》りをもらい、さらに兵力分散の愚を犯してテ ン様に攻撃《こうげき》の口実を与える。  クラセ、マキセ、そしてシンセンが手を出してきても、テン様自身は痛くもなく、新たな戦 略の大義名分を手に入れられる。 「これで、トエにもカラにも言い訳できるな」  退却時、けらけらとした笑いに混じり、こんな独り言があったという。  そして、この戦いの活躍《かつやく》で、テン様は武人として、その名を天下に轟《とどろ》かせた。 「気がついたら、身動きが取れなくなっていた」  何度目かの琥珀姫の独白。 「氾濫《はんらん》する大河を押さえるように、あの街を押さえたかった。無駄《むだ》に経済力を浪費する虚《むな》しい 街を」  トエ様はもう忙しく、今は私と、部屋の隅に控えるヒカゲさんだけだった、 「人の欲は止《とど》まらない。近隣のナツメは経済の負けを軍事力の誇示で補い始め、お互いに無干 渉ではいられなくなってしまった」  救われない事情。 「新興《しんこう》のカセンに双方の不満をぶつけて、その連帯感で両都市の仲を睦《むつ》まじくする。それが、 四宮《しのみや》ツヅミの処世術だった。その仲介を、あの女がやった。最大のシンセンには逆らえないし、 クラセ、マキセ、スズマは地理的に遠く、同盟の価値も薄《うす》い」  淡々と、どうしようもなかったと、他人事《ひとごと》のように語る彼女には、もう何の力も残されてい ないようだった。  美しかった容貌《ようぼう》も、疲れの深さで、ひどく色|褪《あ》せて見える。 「でも、名高い一宮がなぜ、このようなことを」  あらためて、事情を訊《き》いてみる。  琥珀《こはく》姫は何か考えがあるようだが、それには答えなかった。 「私より、空澄《からすみ》姫の方が彼女に近い。貴女《あなた》が考えなさい」  その言葉は意外だった。  琥珀姫は、私の動揺に苦笑した。 「テン・フオウは恐ろしい男だった。トエル・タウもだ。私には、毒を身近におく器量も、魂 もなかった。琥珀は自分より大きなものを内包できないから」  苦笑は、淋《さび》しいものになる。  目的のある人の苦笑は強がりで、目的のない人の苦笑は淋しがりなのかも知れない。あるい は両方だろうか。 「敗者に出来ることは、敗北を真摯《しんし》に受け止めることだけだ。それが、失った部下達への慰《なぐさ》め にもなる」  言いたいことが言えて、肩の荷がおりた。  どこか、そんな様子《ようす》だった。 「今後、私はどうなる?」  琥珀姫は鎖《くさり》を玩《もてあそ》んで訊いた。 「大河支流の、遥《はる》か下流に流そうと話が出ています」 「そうか、流罪の僻地《へきち》か」  彼女は寝台に身を沈めた。 「疲れた。休ませて欲しい。静かに」  鎖が音を立てる。  ツヅミの民が付けた鉄枷《てつかせ》を、彼女は外そうとはしなかった。  そっと、私はその場を離れ、小さく礼をする。  そして、控えていた灰色の人影を伴い、立ち去ろうとした。 「七宮《ななみや》の姫」  小さな呼び声に立ち止まり振りかえると、手元の鎖を玩ぶ琥珀姫のロ一元が動くのが見えた。 「お気づきか、空澄|姫殿下《ひでんか》、貴女の為《な》したこと?」  何のことか判《わか》らず、言葉を待つと、ゆっくりと私に向けられる苦笑。 「貴女《あなた》は私に何の興味《きょうみ》も無いのだな。トエル・タウも、あのテン・フオウも、黒曜姫殿下《こくようひでんか》も そうだった」  悲しい苦笑。 「私は私のことで手一杯だった。それが私の現実だった、夢を見る力さえ、そうはなかった」  掛ける言葉が見つからない。 「笑わないか、空澄《からすみ》姫殿下。私は貴女や黒曜姫殿下と一緒に……」  声が掠《かす》れて、それから、琥珀《こはく》姫殿下は瞳を閉じた。 しばらくして 「お健やかに、四季世《しきよ》豊かに、つつがなくあられますよう」  それは、お別れの言葉。 「琥珀姫殿下も、つつがなく四季世をお過ごされますよう」  悲しいことに、それだけしか、本当にそれだけしか、私は彼女に何も求めていなかった。  それが、彼女の言葉の意味だった。  やがて、時期が来て、私はカセンに戻ることになり、彼女は流罪の船に流され、その後、あ ちらからの音信はなかった。  ただ、彼女を慕うツヅミの民が、後年、何百人も、その流罪地へ入植して行くことになる。  やがて、その地は大きく発展することとなる。 終 節  秋が行き過ぎても、冬空はまだ浅く、高く澄んでいた。  立ち止まって見上げる。それから、目を閉じる。 「どうした?」  少し距離を取った、背中からの声。 「あのね、空、眩《まぶ》しいから、目が痛くなっちゃった」  外へ出て、まだ少ししか時間がたっていないから。 「そうなのか」 「うん」  人払いされた陣の中庭。二人きりでぼんやりと立ち続ける。  目の奥が熱い。 「空って高いんだよね」  痛くなった瞼《まぶた》の下、青く広がる景色を思う。  薄《うす》いすじ雲は柔らかく広がり、遠くまで広がっていた。  高すぎて、澄みすぎて、広すぎて、穏《おだ》やかに怖くなる光景。  鮮《あざ》やかに瞳《ひとみ》が映すには、光が強すぎる時間。だから、それが綺麗《きれい》だった。  遠くで鳥の声。 「あんた、気がつくと空を見るんだな。上ばかり見たがる」  珍しく、自分から言葉を発するヒカゲさん。 「うん、私、空姫《からひめ》さんだから。好きなんだよ、眩しくても空が」  瞼を開いて、瞬《またた》く。  まだ瞳は少し痛く、思うほど空色の視界に馴染《なじ》めない。  それでも、空の色を眺めていたいと、こうしていたいと思う。  ぼんやりと、そんな時を過ごす私に、ぼんやりと付き合ってくれる人が背中の向こう。  空の色、薄く広がる雲を眺め続けながら、色々と、色々と考えたりする。  しばらくすると、背中から 「上見ていろよ。そうやって。あんた、空背負って笑うのが一番似合うから」  付き合ってくれた入の、いつも通りの声。 「本当?」  問い返す声が笑っちゃっている。だって、この空は大きくて、私にはとても大きくて仕方な いから。どこまでも続くから。  いつも通り、ヒカゲさんの返事はなかった。それでいいかなと思う。 「やってみるね。多分《たぶん》、私、この役好きだから」  見上げるのを止《や》めて、背後を振り返る。  いつも通りの立ち姿が、私の笑顔を見てくれた。  カセンへの凱旋《がいせん》のため、軍の再編成を急ぐ中、トエ様は昼下がりに私と本陣の上に聳《そび》える塔 に上った。  小さな物見の塔だ。  野鳥の住みかにされていたようで、ちょっと埃《ほこり》っぽい。  もう終月《しまいづき》。七の旗をはためかせる風は冷たく、私達も冬衣に替えていた。 「七姫《ななひめ》は六姫《むつひめ》になりました。前進しましたか、私達」 「それなりにね」  琥珀《こはく》姫の退場により、ツヅミは宮都市としての地位と力を失った。その分、カセンは大きく なったものの、他勢力と睨《にら》み合いが始まっているらしい。  それぞれに思惑《おもわく》があり、事情がある。一度の勝利で大局が決まったわけでもない、  だからだろうか、何だか、この人は満足していないみたいだった。 「嬉《うれ》しくなさそうですね」 「手こずったのでね」  思い切って聞いてみると、苦笑混じりの返答だった。  私は姫装束だったけれど、今は二人きり、高夏《たかなつ》の頃《ころ》と変わらない二人の空気。 「テン様にですか?」  それとも、琥珀姫にだろうか。 「金勘定さ。思ったより金が掛かる。それに、君に手こずった」 「わたしにですか?」 「思ったより早く大人《おとな》になりそうだ。大人の女は手が掛かる。もっと子供でいて欲しいな」 「ひどい勝手ですね」  呆《あき》れてしまう。 「冗談だ」  トエ様は一人で笑ってから、真顔になって、草木色落ちた景色を眺めた。  いや、冴《さ》ゆり始めた風を見ているのかも知れない。寒波がやってくる前に、早めに陣をひく ことを考えているはずだから。  だけど、この人は、そんな時ほど別のことを口にする。 「琥珀《こはく》はね、弱い子だったよ」  ぽつりと、独り言のように呟《つぶや》く 「以前、君に会う前、ツヅミで商売をしたことがあり、少しだけ謁見《えっけん》したこともある」  初めて聞く話だ。 「真面目《まじめ》なだけが取り柄でね、下手《へた》に神々《こうごう》しく綺麗《きれい》だから担がれてしまった。あの頃《ころ》、僕達は あのまま彼女に仕えることもできた」  多分《たぶん》、この人は私が出会った麗人《れいじん》が彼女ではないと気づいていたのだろう。こういう告白の 仕方が、この人の癖《くせ》。 「どうしてツヅミに仕官しなかったんですか、二人とも?」  いつものように、トエ様は笑った。 「騙《だま》すのが辛《つら》くてね。彼女は君ほど丈夫でないんでね」  ひどいと詰め寄ると、何が可笑《おか》しいのかトエ様は笑い転げた。 「面白《おもしろ》くなかったのさ。彼女はいい人過ぎてね、それだけだった」  どうやら、私はいい人ではないと思われているらしい。  悪いお姫様なのだろう。多分、きっと。  それ。てもいいかと、少し思う。 「騙し合えるのは幸せなんだよ」  笑い納めに、トエ様は呟いた。  ひどくいい加減に聞こえるけれど、それが私がこの人から直接聞くことが出来た、たった一 度の本音だった。  しばらくして、前線から引き上げたテン様とは、遠乗りに付き合う馬上でお話をした。  無論、また無理矢理連《むりやり》れていかれたのだ。  厚着をしてきても、風切る大気は頬《ほお》に痛い。季節の移り変わりを肌で感じる。  テン様の荒馬。その熱い首にしがみついていると、いつも通り、人の頭上でけらけら笑って 「ちっと、琥珀姫はな、美人美人というから期待して捕まえてみたら、人生疲れ切ってんだよ。 干物みたいだったな」  何もそこまで言わなくてもいいのに、この人は身も蓋《ふた》もないことを言う。 「まあ、次の常磐《ときわ》は強いらしいし、人生先は長いし敵は多いさ」  そのうち笑うのをやめる。 「お前は、食って食って食いまくれよ。元気がないヤツは、敵でも味方でも面白くないから な」  目が痛くなるような、白い雲さえまぶしい高空を見上げ 「そんでな、世の中、全部、騙《だま》くらかしてひっくり返しちまおうな。面白《おもしろ》くよ」  どこまでも快楽主義者なのだと、私はつくづく呆《あき》れてしまう。 「沢山《たくさん》の血を流してもですか?」  恐《こわ》い質問をする。 「おめえはそうやって質問している時が一番|可愛《かわ》いな。トエは嘘《うそ》ついてる時が一番だ」  目を細めて、テン様は続ける。 「そうだな。血を薙払《なぎはら》って行くさ。俺もトエも、おめえが顔を合わせた一宮《いちみや》の姫もな」 「私もですか?」 「そうしたいか?」 「いいえ、誰《だれ》の命も、もったいないと思います。誰の血も、誰の気持ちも」 「なら、いざとなったら、俺の敵になれ。トエと二人でも、あるいは、一宮の姫とでも組んで な。俺を敵だと判断したらな」  すごい恐いこと、考えるのが恐くて考えなかったようなことを、楽しそうに口にする人。 「俺は誰の挑戦も受けるぞ。まあ、可愛い女の子は斬《き》らないがな」 「どうして、そんなに戦うんですか?」  この人には怒りも憎しみも悲しみもない。  この人の相方もだ。 「戦う価値がある相手がいるからだろ。競《せ》り合えるってのは幸せなんだよ」  何か、どこかで聞いたような言葉。  どうしても欲しい場所がある。  いいか、三人の秘密だぞ。  そいつはな、この世の頂点だ。  あの日、この人はそう言ったのだ。  あの日見た夢。  それは高くて遠くて、とんでもなくて、だから、この人達らしくて。  夢みたいな言葉に憧《あこが》れて、何も知らずに追いかけて、背伸びして、  結局、いつも、この入が前にいると、私は嬉《うれ》しかった。元気が空から降ってくるようで、こ の人が走ると道が増えていくようで。  だから、これからも、この人に、この人達に、多くの人々が付き合っていくのだろう。  だから、私も演じていこうと思う。この役をどこまでも。  小さな頃《ころ》に見た夢は、まだ続いているから。 「おっ」  テン様が馬を抑え、声を上げた。 「始まったな」  言葉の意味を探ろうとした時、私の頬《ほお》に小さな冷たさ。すぐに消える。  二人して、空を見上げる。  見上げた空に、淡く震《ふる》える薄片《はくへん》。  雪訪れて、冬色が世界を包みだした。    そして、季節が巡る。 あとがき  初めまして、読者の皆様。  この度、電撃《でんげき》文庫さんからデビューさせていただきました、高野和《たかのわたる》と申します。  このお話は、第九回電撃ケーム小説大賞で金賞をいただいた作品です。  高野は不勉強でして、電撃さんのこの賞が、圧倒的に人気な新人賞だとは知りませんでした。  もちろん、電撃文庫さんの話題作は少しずつチェックはしていたのですが、何せ、すごい作 品数が出版されてますから、全容は見えておりませんでした。  最終候補に残ったという連絡を受けたあたりで、初めて、現在のジュブナイル業界や、電撃 ゲーム小説大賞の競争の激しさを理解し、この賞での受賞が大変な栄誉だと知ったくらいです。  こんな、危なっかしい新人ですが、皆様、どうかよろしくお願いします。  さて、このお話を最初に思いついたのは1995年くらいでしたでしょうか。  キャラクターはもっと古かったりします。テンとトエルは、高野が中学を卒業した頃《ころ》に考え た二人組でした。ずっと、こいつらは高野の頭の中で好きかってやっていました。  こいつらの物語を世に出したいと思い、まず、あやしげな和風世界をイメージしました。  ところが、こいつらはかなり厄介《やっかい》な連中でして、直接書くのは大変疲れる連中でした。  じゃあ、女の子を主人公にして、横から見ればいいと考えたのが、この物語の始まりです。  男二人組では色気が足らないだろうと、可愛《かわい》い女の子を出してみようと思ったわけです。  どうせなら、妙な大人《おとな》達を見上げるお子さまの祝点で、変わり種なジュブナイル作品になら ないかと期待して始めました。  二年ぐらい温めてから書き始めて、何度も挫折《ざせつ》して、最初に完成したのは1999年くらい だったでしょうか。それから、何度も何度も、少しずつ作り直し続け、こうなった次第です。  よく金賞を獲《と》らせてもらえたと、自分でも思うくらい、危なっかしい作品になりました。  世界観が独特と審査貝の方々から評価していただきましたが、世界観なんかどうでもよかっ たというのが本音です。そこを褒《ほ》められるとは、ほとんど考えていませんでした。  和という名前を背負って生きてきましたから、和とは何か、日本とは何か、日本人とは何か、 和風浪漫とは何か。そうしたテーマこそありましたが、それ以外はそれほどありません。  見たかったのは物語だけでした。ひどく古典的で、そのくせ、探してもどこにもないお話、 カラや、テンとトエル、クロハや、ヒカゲ、衣装役達を見てみたかったのです。  そんな中、カラはしっかり主人公をやってくれました。実は作者は悪役達にばかり夢中で、 尾谷《おたに》先生の素敵《すてき》なイラストを見るまで、この子が主役なのを半分忘れていました。  ですが、気がついたら、この子の笑顔は驚《おどろ》くほど豊かで、とても大切なモノになっていまし た。  さてさて、皆様方に、この子達のお話は、どう受け止められたのでしょうか。  願わくは、お楽しみいただけますようにと、心より祈っております。  最後になりましたが、この場を借りて、関係各位にお礼を申し上げさせていただきます。  まずは七姫物語《ななひめものがたり》を評価してくださった電撃《でんげき」》文庫様と、審査員の方々に。特に安田均《やすだひとし》先生と 広井王子《ひろいおうじ》先生には、過分なほど暖かいお言葉をいただき、いくら感謝《かんしゃ》しても感謝しきれません。 お二人のお言葉は生涯の自信になります。  授賞式で声をお掛けくださった、数多くの先生方にもお礼を申し上げます。申。ても、佐藤《さとう》ケ イ先生が七姫物語に目を通してくださり、面白《おもしろ》かったと言ってくだざったのは本当に感激でし た。  プロデュースしてくださった担当編集さんには、何もかもお世話になりっぱなしでした。篤 くお礼申し上げます。イラストを担当していただき、七姫に足りなかった豊かさを提供して くださった尾谷《おたに》先生にも感謝しています。ファンの一人として、これからのご活躍を切に願っ ております。  それから、働き者の親達に。ご迷惑、ご心配を掛けた多くの方々に、たくさんの謝辞を。  受賞を喜んでくれた、家族、友人、知人達に幸ありますよう。  苦しい時、自分を支えてくれた登場人物達にも感謝。この受賞は彼らに捧げます。  そして、誰《だれ》よりも何よりも、今、この本を読んでくださった、ここにいる貴方《あなた》に最大の感謝 を。  ご一読、ありがとうございました。                                        高野和《たかのわたる》