TITLE : 単位の進化 講談社電子文庫 単位の進化  高田誠二 著  目 次 序章 宇宙をかけめぐる『単位』 第一1話 単位の博物誌   悪魔の手の内   単位の謝肉祭(オン・パレード)   神仙境の音律   ヒトという名の動物の計測学   手の長い登場人物   ホッテントットとドレスメーキング 第二2話 万物の尺度——人間   すばらしいもの——人間   古今東西を歩きまわる   アッピア街道の行進   はだしの王者,スタジオンを疾駆する   お茶一杯の遠近感   “生きるもの”から“働くもの”へ 第三3話 あとの半日は……   よい(グーテン)モルゲンとわるいモルゲン   プロイセンの牛とザクセンの牛   あとの半日は……   魔女の算術 第四4話 単位は権力者の手で   東西ドイツの悲劇,太閤秀吉の偉業   単位の政治学   単位の法律学   権威の“圧力”をはかる   暑さも寒さもおかみの意のまま   “山高きがゆえに尊からず”,されど……   政経学部から理工学部へ 第五5話 ドナウのほとりの天文学者(ケ プ ラ ー)   ウルムの町にやってきたケプラー   ケプラーの度量衡行政感覚   ケプラーの多能標準器   酒ますにうるさいドイツ人   泉の水とドナウの水   泉の水は心してくめ 第六6話 花のパリの“王の足”   はなやぐパリ   一王,一法,一度量衡   パリ城郭のトワズ尺   トワズ尺,海を渡る   地球はまるくないというが……   僅かなずれを追い求めて   花のパリの“王の足” 第七7話 単位はひとびとの手に   旧体制下の無政府状態(ア ナ ー キ ー)と革命下の統一運動   世界の精神を傾けるために——田中館先生のアッピール   はと派の思想家コンドルセ壇に立つ   逃亡前夜のルイ王,天文学者カシーニと対話する   名匠ルノワール腕をふるう 第八8話 “メートル”をたずねて三千里   似たもの同士の学者,旅に出る   “メートル”をたずねて三千里   燃えるパリを望みつつ 第九9話 キログラムの難産   化学者ラボアジェの実験,流産におわる   不注意の記録に注意を!   能吏ラボアジェ,一〇〇100万の徴税収入と三〇30万の予算をにぎる   鉱物学者アウイの苦衷   キログラムの誕生 第十10話 自然を計測するための自然から得た単位   工科将校プリエゥルの光と影   粛清,再開,難渋そして再会   確定原器献呈の盛儀 第十一11話 メートル法は地球をおおいメートル単位は地球との緑を切る   らつ腕外交家,苦汁を味わう   “万国博”ひと役を買う   国際原器への道   地球からの脱出   現実主義者の先見の明 第十二12話 ハードウェアからソフトウェアへ   日本のメートル原器の里がえり   八重のとびら   バラの園にねむるごついいれもの   原器は神聖なり,犯すべからず   形あるものはこわれる   ハードウェア主義へのアンチテーゼ   ソフトウェア主義への道   歴史のらせん   光——長さの単位と尺度を具現するもの 第十三13話 原子単位の世界   地球よりも永久不変な   もっと——純粋な——光を   物理学の新しい波   よろめく原子,ゆらぐ光   笛吹き天使を検問する悪魔   失業した悪魔の第二の職場   メートル原器を弔う   法律の中の原子物理学   並んだ,並んだ,はんぱな数が   レーザーと黄鐘管 終章 一億分の一1億分の1の狂いもなく   キロ,キロ,キロ……   単位は多様化する   過保護のいましめ   核家族にも四4種の単位   一種類の量には一系統の単位   ミス・メートル   単位の表わす量の大きさ   単位の文法——接頭語のルール   基本単位から組立単位へ   運動をはかる単位   力学的な量とその単位   国際単位系という新しい文法   より正確な単位へ   単位——科学と技術を結ぶもの あとがき 単位の進化 序章 宇宙をかけめぐる『単位』 ◇  ◇  ◇  ◇ ヒューストン 了解。着陸にはいる。高度九〇〇900メートル。 着陸船 了解,着陸を行なう。高度六〇〇600メートル。 母船 いいぞイーグル,ゴーだ。 着陸船 高度四八〇480メートル。 ヒューストン 高度四二〇420メートル,まだいい調子だぞ。 着陸船 了解。三五35度,高度二二五225メートル——七〇〇700フィート,三三33度,五四〇540フィート,三〇30度,——四〇〇400フィート,沈下速度毎秒二・七2.7メートル,まっすぐ前進——一〇五105メートル……。  うまくいきそうだ。沈下速度毎秒一・八1.8メートル——着陸六〇60秒前……。  あと九9メートル,沈下速度〇・七五0.75メートル,少しほこりが上がっている……。  あと三〇30秒——OK,エンジン停止! ヒューストン,こちら静かの海の基地。イーグルは着陸した。  一九六〇1960年代の幕切れをみごとに飾ったアポロ11号の快挙——この息づまるような月面到着の情景——このエクサイティングな宇宙交信!  ——いらい半年,日本の「おおすみ」の成功も報道されたいま,われわれはクールな気分でアポロの記録を読みかえすことができる。そして,この交信文のなかに,われわれの主題——「単位」——がいくつもちりばめられていることを知る。  メートル——これが「長さ」の単位であることは,どなたもご存じであろう。しかし,“現代”のメートルという単位がそもそもどんな手順で定められているのかを,即座にきちんと説明できる人は,はたして何人おられるだろうか。 『地球の大きさから?』——とんでもない! 『メートル原器で?』——残念でした!  現代のメートルの定めかた——その定義と手順——を理解するために必要な予備知識を,ざっと並べてみよう。  まず「同位元素」とか,「(量子力学的な)準位や遷移」とか,「(分光学的な)記号2p10および5d5」とかの近代以後の物理学の理論上の知識。つぎに,「熱陰極放電管」とか,「陽光柱」とか「窒素の三重点」とかの現代的な物理実験上の知識。そして 一六五〇七六三・七三 1 650 763.73 という,ひどくはんぱな数字の知識。さらに,他の「単位」——メートルという単位をきめるのにあたって,他の「単位」の応援が必要だというのは,考えてみれば奇妙なことだが——たとえば,電流密度は何アンペア毎平方センチメートルとか,温度何ケルビンとかに関係する知識。  メートルについて語ろうとするものは,およそこの程度のことを心得ていないかぎり,気軽に飲み屋でメートルをあげることもできないのである。  宇宙交信文にもどろう。今度は「秒」が目にとまる。「時間」の単位の話は一段とめんどうである。以前には「平均太陽時」あるいは「平均恒星時」という,“図に書いて説明することのできる”方法で,時間の単位がきめられていたのだが,先年それが「暦表時」という,“公式を使わなければ説明できない”しかも“一九〇〇年一月〇日1900年1月0日という不可思議な日付に結びついた”方法に,改められた。  それでけりがついたのかと思っていたら,今度は“セシウム同位元素一三三133の基底状態……超微細構造……遷移……放射の周期…… 九一九二六三一七七〇 9 192 631 770 ……”と,メートルの話をうわまわる現代物理的むずかしさと,はんぱさのぬりこめられた方法が,登場してきた。なぜこんなにたびたび変えなければならないのだろう。時の単位だからときどき変える必要があるというわけでもないだろうに。  ところで読者は“アポロの日”の前後に,「地球と月との距離」を数量的に考えてみる機会をお持ちになったことだろう。さよう,それはおよそ四〇40万キロメートル,これをメートル単位になおせば四4億メートルになる。こんなバカでかい数値を表わすには,一〇10の何乗というのを使うに限る。四4億なら,数字の四4のあとへ0(ゼロ)が八8個ならぶのだから,地球から月までの距離は, 四×(一〇の八乗) 4×108 メートル。  アポロのニュースからもうひとつ思い出していただきたいのは,宇宙飛行士たちが月面へ置いてきた“反射鏡”のことである。月面は意外にほこりっぽかったらしいが,この鏡はほこりの影響をさほどひどく受けることもなく,ひとつの使命を果たした。すなわち,地上からこの鏡めがけてレーザー光線を送り,それがはねかえって来るまでにかかった時間をはかって,「地球と月との距離」をくわしく調べることができたのである。  実験はアポロ到着のひと月ほど後に,アメリカのメリーランド大学の科学者の手で行なわれた。日本時間一九六九年八月二十日1969年8月20日午前十一11時半の時刻での「距離」がこうして求められ,結果は, 三・七三八〇四五九×(一〇の八乗) 3.738 045 9×108 メートル となった。いっぽう,これまで正しいと考えられていた方法で計算すると,同じ時刻での距離は, 三・七三八〇四五五×(一〇の八乗) 3.738 045 5×108 メートル となるはずであった。ここにおいて 〇・〇〇〇〇〇〇四×(一〇の八乗) 0.000 000 4×108 メートルすなわち四〇40メートルの差が問題になった。  レーザーと反射鏡による今度の測定のほうが正しいものとすれば(おそらく実際にそうであろうが,われわれは——というより筆者もしくはその仲間は——こういう新しい実験結果に対してはおく病と呼ばれるほどに慎重であるほうがよいと思っているので,“仮定法”で書く),従来のデータに四〇40メートルほどの誤り(誤差あるいは不確実さ)があったということになる。  四〇40メートルといえば,月着陸船の高さ(七7メートル)のおよそ六6倍にあたる。月面におりた人たちが歩きまわったのも,ほぼ同じくらいの範囲だったのではあるまいか。そうすると,従来の方法だけで議論しているかぎり,「地球からの距離」に関しては,宇宙飛行士たちの行動範囲全体と同程度の誤りを犯すおそれがある,あるいはそれと同程度の不確実さがつきまとっている,ということになる。  全長四4億メートルに対して誤差(不確かさ)四〇40メートルとは,比率として,つまり相対的な誤差(不確かさ)として,どれほどのものに当たるのか。数字のけたに注意して割り算をすると,答は一〇〇〇万分の一1000万分の1,つまり, 〇・〇〇〇〇〇〇一 0.000 000 1  すなわち,一〇10のマイナス七7乗 となる。ひと口にいえば従来の方法の正確さないし精密さ(精度)は,相対的に(一〇10のマイナス七7乗)の程度だったのである。  さて,メリーランド大学の学者の意見としては,今度の測定の精度は,四4メートルぐらい。つまり従来よりもひとけた,よくすることができたという。そうだとすれば,月までの距離に対して,着陸船の高さほどの誤りもないほどの精度が獲得されたことになる。相対的に(一〇10のマイナス八8乗)までいけるというわけだ。  ひと口に(マイナス七7乗)から(マイナス八8乗)へというと,コンピュータに慣れた人なら, 「位(くらい)取りをひとつずらすだけのことだ」と,いとも軽くお考えになるかもしれない。  しかし,「このひとけた」は,筆者もしくはその仲間,つまり計測の単位や精度のことにいつも気を配らせられているものたちにとって,なみなみならぬ感慨をひきおこすのである。というのは,前にふれた「メートル単位」の変更(「メートル原器」から「同位元素,量子力学的,分光学的エトセトラ」への)が,まさに(マイナス七7乗)から(マイナス八8乗)への移り変わりに対応しているものなのだからである。  一1メートルの(一〇10のマイナス六6乗)を一1マイクロメートル(または一1ミクロン)という。従来のメートル原器で定められていた一1メートルという単位には,マイクロメートルのもうひとけた下,すなわち〇・一0.1マイクロメートル程度の不確実さが伴っていた。これはちょうど(マイナス七7乗)に相当する。  もういちど問うことにしよう——なぜ,メートル単位の定めかたが「同位元素エトセトラ」というめんどうなものに変更されたのか? ほかでもない,“従来のメートル”につきまとっていた(マイナス七7乗)の不確かさを消しとめて,単位の精度を向上させるためだったのである。そしてここに(マイナス七7乗)の壁は破られ,(マイナス八8乗)がみごとに確保されたのだった。  メートル単位の精度がこうして(マイナス七7乗)から(マイナス八8乗)へとひとけた向上されたのは,公式には一九六〇1960年の国際会議(第一一11回,国際度量衡総会)においてであった。その六〇60年代の最後の年に,人類は月に足跡とそして反射鏡とを残し,月までの距離の精度もまた(マイナス七7乗)から(マイナス八8乗)へとひとけた向上されるに至った。  われわれも,ミスター・アームストロングの向うを張って,照れくさがらずに言おう—— 『(マイナス七7乗)から(マイナス八8乗)への一歩は,たったひとけただが,人類にとっては偉大な躍進だ』と。  さて筆者はこの小さな本のなかで“単位の偉大な躍進”の足どりをたどってみたいのである。それも,“最後の一歩”のはなやかさにのみ目を奪われてしまうことなしに,そこに至る何十歩,何百歩の足跡を筆者なりに勉強しながらたどってみたいのである。  時として現代ばなれしているとも思われるような,そんな古い足跡になぜこだわるのか? と質問されるかもしれない。まじめに答えれば,『それを知らざれば最後の一歩の意義を解しえず』だからであるが,もっと気のきいた答もできる——『それを知らざればアポロ交信の意味を解しえず』と。  筆者が言いたいのは,あの現代最先端の宇宙交信記録のなかの,はなはだ目ざわりな単位「フート」のことなのだ。  同じ「高度」を言い表わすのに「メートル」あり「フート」ありとは,一体どういうことなのか。あの宇宙交信の“一通話”はいくらにつくのか知らないが,二本立ての表現のせいで通話料はだいぶ無駄に払われたはずだ。NASAは金持だ(った?)から通話料など意に介しないかもしれぬ。しかし,この二本立てのために無駄に費やされたものはいろいろとあるだろう。少なくとも,宇宙飛行士や同時通訳氏や科学解説者氏の頭脳は,この不合理な二本立てのために,何回となく無駄ばたらきをさせられたに違いない。 「偉大な躍進」の中にさえこうまでもしつこく巣くっている不合理ないくつかの単位——筆者のこの本もそれらのために何ページかを費さねばならないだろう。それも無駄なことだろうか。不合理な単位をこの地上から,いな,少なくとも月までの宇宙空間から“消す”ためには,かれらの正体をつきとめておくこと必らずしも無駄ではあるまい,と思うのだが。  ともあれ,アポロは偉大な躍進のすえ,太平洋の一角にぶじ帰還した。われわれの“地上の単位”の研究も,それにあやかって,太平洋の一角から始めることにしよう。 第一1話 単位の博物誌 悪魔の手の内  西太平洋のヤップ島は巨大な石の貨幣で有名だが,そこの原住民はまことにユニークな宗教的観念をもっているそうだ。手近の百科事典で調べてみると,目に見える肉体とまったく同じ外観をした霊魂の存在を,かれらは信じている由である。  しかし,「まったく同じ外観……」というこの記載は,計測学的な検討の対象になりうる。というのは,原住民が使う「長さの単位」に二2種があって一方は“人間”に属し他方は“悪魔(デモン)”に属するとされているからである。前者は,ひろげた手の「親指の先から人差し指の先までの長さ」,そして後者は,ひろげた手の「親指の先から中指の先までの長さ」である。  古代日本で「あた」といい,イギリスでスパン(span),ドイツでシュパンネ(Spanne)といったのも,ひろげた指の先の距離で定めた単位(二二22ないし二八28センチメートル)だったが,人間の単位と悪魔の単位とを使いわけたところに,ヤップ人の思考様式の独自性がうかがわれる。 単位の謝肉祭(オン・パレード)  ヤップ島のデモンの魔力も植物までは及ばなかったのであろうか。同地の体積単位は人間的・悪魔的の区別なしに,植物をもととして一義的に定められていた。すなわち「ココやしの実——ただし,よく実っていて中くらいの大きさのもの——のからの容積」が体積の単位であって,その名は「ダグ」。ほぼ一1リットルに当たる。手近のうつわをもって体積単位をきめた例は, たる==英:バレル(barrel),独:アイメル(Eimer),ファース(Fass),オーム(Ohm) ビールのジョッキ==独:ザイデル(Seidel),ショッペン(Schoppen),クルーク(Krug),仏:ショピーヌ(chopine) のようにたくさんあるけれども,すべて人工のうつわに由来したものである。それらに比べると天然のやしの実の利用は異彩を放っている。なお,「よく実っていて中くらいの大きさの」とただし書きがついているところは,今日いう標準器の規格化の考えに通ずるわけで,これもおもしろい。  酒類の体積を表わすための単位の中にもいろいろあるが,「牛の頭」あるいは「ブタの頭」となると,天然の動物の部分から来たのか,人工のうつわから来たのか,さっぱりわからない。しかし,ずいぶんあちこちで使われていたらしく, 英:hogshead(hogとは“ブタ”および“ブタのようにフケツな人”の意) 独:Oxhoft, Okshoofd, Ochsenkopf, Schweinshaupt スウェーデン:Oxhufvud デンマーク:Oxehoved といった具合である。フランスのhoquetもこれらと類縁のものらしい。しかし,主として北ヨーロッパのゲルマン系民族が用いた単位,ということができるだろう。  たけだけしいゲルマンの民が動物の頭がい骨をうつわにして酒をくみかわす情景などを思い浮かべたくなるが,「いわれはわからない」とウエブスターの辞典は正直に書いている。  同じ牛だがまことに平和的なのは,インドの体積単位「牛の足あと」である。「やわらかい土を牛が踏んだ時にできるくぼみの体積」と定義されるのだそうだから,実に奇抜ではないか。インドには「牛の叫び」という長さの単位もある。これは「牛の叫びが聞こえる距離」。長さの単位が音響学的に定義されるという点でもおもしろいが,インドで牛が神聖視されていることを考え合わせると,ここにも魔術のにおいがただよっているように思われてくるのである。 「叫び」の仲間には「にわとり」も入る(ボルネオ)。「くたかけののどの笛」の聞こえる範囲というところである。ペルシアでは「らくだが一1時間に歩く距離」を単位にして旅程をはかった。ドイツには「猫のひととび(Katzensprung)」という表現がある。「向う三軒両どなり」ぐらいの範囲のことである。「カンガルーのひととび」というのがオーストラリアあたりで使われてはいないだろうか。  もっともこれは,月面歩行の宇宙飛行士たちの偉業を記念するための単位にするほうがよいのかもしれない——舞台はオーストラリアではなくて月面である。「地上のカンガルーがひととびする距離の六6倍」をもって“一1オルドリン”と定めたらどんなものだろう。  日本には“くじら尺”というのがあったが,クジラの巨体の寸法とは無関係。そのものさし(おもに和裁用)が昔クジラのひげで作られたことがあったからだそうである。針仕事に飽きた娘さんがクジラのひげでちょいと背中をかく——ほほえましい情景ではないか。 神仙境の音律  音響学的に長さの単位をきめるという話で忘れてならないのは,中国・朝鮮・日本でかつて尊重された「黄鐘管(こうしようかん)」のことである。  伝説をそのままここに書くなら,衣服・家屋・弓矢・医薬の元祖,すなわち人類文化のもとを開いた中国最初の帝王・黄帝(こうてい)は,宮廷音楽師・伶倫(れいりん)を夏(か)の国の西方,崑崙(こんろん)山の北に派遣して,竹を採集させた。その中から内径の一様なものを選び,節の間で切って笛を作り,これを吹いて黄鐘(こうしよう)という音階基音を定めた。そしてこの調子笛の長さによって「長さの単位」を制定し,この笛の内容積によって「体積の単位」を決め,さらに,この笛の中に入るくろきびの質量によって「質量の単位」を制定した。  このやり方は,神仙の術・孔孟の思想などとの関連において理想像視され,また権威づけられた。のみならず,「波動現象にもとづいて長さの単位を定める」という点で,物理的な興味を誘いもした。じっさい,近世以後の日本の度量衡史家は,競って黄鐘管の来歴や意義の考証をくりひろげたし,現今でもこの問題を歴史的に,あるいは物理的に,研究しようとする人は少なくない。  たしかに,黄鐘管による長さの単位の定め方,およびそれからの誘導による体積と質量の単位の定め方は,「やしの実」や「牛の足あと」と比べれば格段に合理的・体系的である。しかし,黄帝は明らかに架空の人物であり,崑崙も今日の崑崙山脈とは別の,位置さえ定かでない神仙境をさしていた。また「くろきび」は中国北部の主食として神聖視されていたと言われる。結局,黄鐘管の制度もやはり,神秘のにおいに包まれたものと見なければならないようである。 ヒトという名の動物の計測学  古代中国の話を続けることとしよう。『論語』の中に次のような孔子の言葉がある—— 「子のたまわく,指をのべて寸を知り,手をのべて尺を知り,肘(ひじ)をのべて尋(ひろ)を知る」  人間のからだの寸法をもとにして長さの単位をきめた例は,さきに調べたヤップ島のものをはじめ,世界各地にどっさり認められる。からだの部分を表わす普通名詞が,長さの単位の名称にそのまま使われていた(あるいは今でも使われている)例をひろってみよう。〔 〕内は,どこの国の言葉であるかを示す。〔イ〕はイタリア,〔オ〕はオランダ,その他は自明であろう。  足:フート(foot)〔英〕,フース(Fuss)〔独〕,フート(voet)〔オ〕,ピエ(pied)〔仏〕,ピエーデ(pi重e)〔イ〕。  肘(ひじ)(前腕,旧用語では下膊(かはく)):エル(ell)〔英〕,エルレ(Elle)〔独〕,エル(el)〔オ〕,ブラッチオ(br�io)〔イ〕。はじめの三3つはラテン語ulnaに通ずる。オーヌ(aune,仏)もこの系統に属するものらしいが,言葉の上でのつながりはわからない。  親指:ダウメン(Daumen)〔独〕,ドイム(duim)〔オ〕,プース(pouce)〔仏〕。  ツォル(Zoll)〔独〕は,親指の先から第一関節までの長さとされていたそうだが,ツォルという言葉は親指とは無関係である。  インチ(inch)〔英〕は,親指の幅(あるいは大麦の粒三3個の長さ)できめられたものだが,インチという言葉はラテン語uncia(一二分の一12分の1の意味)から来ているので,これも言葉の上では親指(や大麦)とは無関係。つまりインチはフートの「一二分の一12分の1」を表わす言葉である。  ついでに記せば,オンス(ounce)〔英〕も同じラテン語unciaに由来し,したがってこれも一二分の一12分の1の意味。常用ポンド(商業の分野で用いる)の系統では,ポンドの一六分の一16分の1を常用オンスとするが,トロイ(troy)ポンドの系統(薬業の分野で用いる)では,ポンドの一二分の一12分の1をトロイオンスとしていた。トロイ系のほうが語源に忠実だったのである。  インチとオンスとが語源および語義を共有しているとは,われわれには連想しにくいことである。ラテン語をていねいに書けば,長さのインチのもとはuncia pes(pesは“足”,英語のフート)であり,質量のオンスのもとはuncia libra(libraが英語のポンドにあたる)である。ポンドという単位の記号lbはこのlibraをちぢめたもの。  つぎは,両手をひろげた時の両方の指先の距離:ファゾム(fathom)〔英〕。これは「ひろげた腕」の意味の古代英語f?thmから来たもの。ブラース(brasse)〔仏〕も同様のものだが,このフランス語にちょっと飾りをつけてembrasserという動詞に直すと,“抱く”その他の意味のシャンソン向きの単語ができ上がる。  同程度の長さをドイツではクラフテル(Klafter)ともいい,ファーデン(Faden)ともいう。前者は“腕をひろげる”ことに関係するが,後者はそれには無関係で,本来の意味は「糸」である。昔のドイツ人が糸を手にもってひろげながら,この長さを定めたのかと思いたくなるが,ドイツのファーデンは一1海里(一八五二1852メートル)を千1000等分して定めたものだそうであるから,「手をひろげて張った糸」とは無関係である。  しかし,ファゾムもファーデンも,おもに海の広さや深さをはかるのに使われていた。考えてみれば,前に書いた孔子のたまわくの「肘(ひじ)をのべて尋(ひろ)を知る」の“尋(ひろ)”はまさにファゾム,ブラース,クラフテルと同じ意味のものであった。千尋(ちひろ)の海といえば,きわめて広い,あるいは,きわめて深い海のことである。  近ごろ海洋開発の話がはずんでいるようだが,諸家のご高説の中には“千尋の海”といった——非科学的な,しかしながら優雅な——言葉はめったに表われない。筆者も久しぶりにこのみやびやかな言葉を使う羽目に陥ったので,念のため字引きを引いてみたら,たいそうむずかしい字の雅語が書き添えてあった。 「栲縄(たくなわ)」というのがそれである。こうぞなどの繊維でつくった縄のことだそうで,万葉や枕草子から引用した文例が示されている。「千尋の栲縄」というのもあれば,「栲縄の千尋にもがと願いくらしつ」という意味ありげなのもある。  国語辞典のおかげで,日本語の表現のゆたかたさを復習したような気がする。“なわ”はドイツ語のファーデンに当たり,“ひろ”は英語のファゾムに当たる。“たくなわのちひろ”とは,ドイツ語以上,英語以上のゆたかな表現というべきではないだろうか。 「たくなわの」は,「長(なが)」にかかる枕言葉のはたらきもする。“長々しさ”を表現する言葉としては,百人一首でおなじみの「足びきの山鳥の尾のしだり尾の」がポピュラーである。いかにも長々しい風情のこもった上の句だと,毎年かるたをするたびに感心させられるが,計測学的に言えば,山鳥の尾はいくらしだっていようとも千尋の栲縄ほどに長くはない!  海洋開発にいそがしい方々は“たくなわのちひろ”などと悠長なことをおっしゃる暇はないことであろう。海洋の計測のほうの術語としては測条,測索というのが“たくなわ”に相当するものとして用いられているようである。字義の上ではまことに申し分のない術語だが,いささか索莫の感を禁じ得ない。なお英語のファゾムは,動詞として広義に「はかる」ことの意味にも用いられる(この本の“あとがき”を参照していただきたい)。  そのほか,手のひら(palm〔英〕,〔オ〕,palmo〔イ〕)とか,指の幅(digit〔英〕,Querfinger〔独〕)とか,げんこつ(Faust〔独,オーストリア〕)とか,あげてゆくと際限はなさそうだ。普通の学校では教えてくれないような古典語(ラテン,ギリシアなど)や開発途上国の言葉まで調べてゆけば,もっともっとおもしろいのが見つかることだろう。  学校といえば,子どもが小学校から帰ってきて,「きょう計測があったよ」と報告してくれることがある。身長や体重をはかったのだそうである。小学校の関係者は“計測”というとまず“からだの寸法や目方をはかること”を考えるらしい。 『ことほどさように計測は,ヒトという名の動物の寸法や目方と結びついているのだ』——などといってしまうと,言葉の遊びに陥ることになるが,古今東西の単位を並べ立ててきたわれわれにとって,次のような陳述はすこぶるもっともらしいもののように響くではないか——。 『人類が原始的・魔術的な思考様式からぬけ出して,つまりヤップ島の悪魔(デモン)の手の内から脱出して,合理的・数量的な表現の尺度を求めようとしたとき,何よりもまず自分たちの肉体そのものに準拠することを考えたのは,きわめて自然なことであった』  最後に注意をひとつ——。われわれが今まで調べてきたのは,主として「ヒトのからだの部分を表わす普通名詞が転用されてできた単位名」だったのである。フート,ファゾム〔英〕,エルレ〔独〕,ドイム〔オ〕のように歴史上で重要な単位の名前が,まさにその例を提供している。そういうもののほかに「からだの部分を表わす普通名詞の転用ではないが,もともとヒトのからだの部分の寸法にもとづいて定められた単位」もどっさり存在した。インチ〔英〕,ツォル〔独〕が好例である。  さて,イギリスのフートとインチがこのふたつのカテゴリーのそれぞれの代表例のように見えるので,ついでにその系統のヤードを吟味しておこう。英和辞典によれば,ヤード(yard)は“棒”,“さお”の意味をもつ。ヒトのからだの部分の寸法とは少しも関係がないように思われる。しかし,この情報化時代において読者はあるいは独創的にして奇想天外な連想に到達されるかもしれないと,筆者はおそれ,また微苦笑する。  読者が何を連想なさろうとも,筆者はそれをさしとめる権利をまったく持たないが,読者の連想されるものが,安田徳太郎博士の指摘(『人間の歴史』2,昭和二十七27年版なら二二八228ページと二七八278ぺージ)するそれと合致するのであったら,筆者はその読者の,計測学上および解剖学上の,誤りを指摘する義務をもつといわなければならない。なぜなら一1ヤードという長さは,およそ九〇90センチメートルにも及ぶのだから。  伝えられるところによれば,ヤードの起こりは,「ヘンリー一1世の鼻の頭から親指の先までの長さ」,あるいは「アングロサクソン人の腰のまわりの長さ」である。 手の長い登場人物  耳の長い人物はサン・サーンスの組曲『動物の謝肉祭』に登場してしまったから,われわれの『単位の博物誌』の最後には“手の長い(しかしもちろん盗癖はなかったであろうところの)人物”の登場を要請しよう。  ペルシアの王ダーラヤヴァーシュ一1世(西暦前およそ五五八——四八六558—486年,ギリシア名はダリウスまたはダレイオス)は,古代オリエントの専制君主の中では際立って善良温厚な名君であったが,並はずれた体格の持主でもあった。すなわち腕がすこぶる長くて,それを下にのばして立てば指先はひざに及ぶほどだった。  このペルシア,今日のイランには,「らくだの毛の太さ」(およそ〇・六五二0.652ミリメートル)と称する単位があって,地方色を濃厚に発揮しており,また往古のイスラム文化における計測の精密さを後世に伝えているが,人間のからだに準拠した単位ももちろん用いられていた。  ペルシア語の発音はこみ入っているらしいが,それに当てはめたドイツ綴りから転読しておくと,指の幅がエングシュト,肘(ひじ)(前腕,ell〔英〕やElle〔独〕に相当)がデストという具合である。このデストは〇・五六0.56メートルと評価されており,西欧の「前腕」と同族であるとみなされる。  ところが,デストと並んで「ゼール・イシャヒ」と名づけられた単位もあった。そして,筆者が見たドイツ書には,このペルシア語にあてて「王の前腕(k嗜igliche Elle)」という説明が添えられていた。その長さは,実に一・一二1.12メートル!  ペルシアの古代体制の基礎を築いた,敏腕にして長腕のダリウス一1世と,この長大な「王の前腕(ゼール・イシヤヒ)」とは,はたしてたがいに関係しているのかどうか,それは実はわからない。  ともあれ,こんな風に古今東西の奇妙な単位を調べてゆくと,おもしろい話はあとからあとから見つかって尽きるところがない。「ダリウス一1世,ひと呼んでロンギマヌス(Longimanus「長い手」の意味)」の話と,「ペルシアの単位,王の前腕(ゼール・イシヤヒ)=一・一二1.12メートル」の話とを,別の記事で独立に知ることを得た筆者は,ペルシア美術の細密画(ミニアチユール)に見いるような気分で,このふたつの事柄を結びつける糸の存在を空想してみたくなるのである。  日本の古典『古事記』に,「景行天皇の御身長,一丈二寸(ひとつえあまりふたき),御脛長,四尺一寸(よさかひとき)」とか,「反正天皇の御歯,長さ一寸,広さ二分(ふたきた)」とかの記事がある(小泉氏の著書による)。これらも現今の単位からすればまことに長大であるが,からだの“プロポーション”としてはかくべつ異常ではない。当時の単位が「小さかった」から数値が大きくなったのだと解すべきである。  後年の研究家,伊藤東涯は著書『制度通』〔享保九9(一七二四1724)年〕で,和漢の諸例(たとえば五尺の童子といった表現)を調べて,一般に四4割引き,すなわち六掛け(〇・六0.6倍)すると常識に合う,と述べている。 ホッテントットとドレスメーキング 「身体髪膚(はつぷ)」は親からいただいたもの,すみずみまで大切にするのが孝行のはじめだと,先哲は教えた。すでにわれわれが見たとおり,ヤップ島の長さ単位は,まだ悪魔の手の内からぬけ切っていないようだが,文明社会の長さ単位を定めるためには指先からかかとまで,人体のさまざまな部分が動員され大切にされている。かの先哲もさぞ安心し,また「人間は万物の尺度なり」と宜言したギリシアの哲人プロタゴラスもきっと満足するに違いない。  そう言えばまだ書き落としがあった。東部アフリカのある地方の未開人は高さを表現するのに「ひざの高さ」,「腰あるいは太ももの高さ」,「あばら骨の高さ」などと言うそうだ。これらは単位と呼ぶよりは「目盛(スケール)の上の定点」と呼ぶべきであろう。  そして,どなたもがお気づきになるだろうが,これらのアフリカ自然民の設定した「定点」が,どれもこれも,現代の文化的女性の強い関心を引き寄せる“座標点”にあたっているのはまことにおもしろい。 「ひざ上何センチ」は気になるがほかのはピンとこないという,武骨な男性のためにあえて書き足すが,洋裁の基本量は,床に近いほうから順にヒップ(H),ウエスト(W),バスト(B)と称せられる。それぞれ所定の高さ定点において,高さ座標に直交する平面で対象物を切って得られる断面の,ひとまわり(ただし,くぼんだ部品は無視して)の長さを意味する。  イギリスのヤードの起源に二説あることを前に書いたが,その一説を洋裁用語に翻訳すれば,「ヤードの起源はアングロサクソン人の(W)」となる。ところで,アフリカのほうではHとWとの区別が厳密でなくて「腰あるいは……」とあいまいである。かれらに比べて現代の文化圏の女性はさすがに洗練されている!  ただし,地理学・人類学に弱い女性もすこしはいるだろうから,ふたたびあえて書き足すが,これらの定点を設定しているのは「東部」アフリカのひとたちであり,いっぽう,グラマラスな(H)で有名なホッテントット族は「南西部」アフリカに住む。  筆者の調査は残念ながら南西アフリカにまでは及び得ないのであるが,そして現代のホッテントット族が洋装をするかどうかも確め得ないのであるが,もしもかれらが洋装をするのであれば,現地の女性は疑もなく(H)と(W)とを厳密に区別することだろう——現代文化圏の洋装女性と同様に! 第二2話 万物の尺度——人間 すばらしいもの——人間 すばらしいものがこの地上にいる。 それは苦もなく機関車を持ち上げる手を持っている。 一日に何千キロメートルも走ることのできる足を持っている。 見えないものを見る目を持ち,他の大陸で話すことも聞く耳も持っている。 それは,思うままに,大地の様子を変え,森林を植えつけ,海と海とを結びつけ,砂漠をもうるおす。 このすばらしいものとは,一体,何であろうか。 (イリン,『人間の歴史』から)   今日この詩にはこんな一行を加えなければならない。 「それは,仲間を遠い月の表面にまでも送ることができる」。  このすばらしいもの,人間——「道具」を手にして,身のまわりの自然界をつくり変えるすべを心えた人間は,かつての「万物を人体の尺度ではかる」習慣に加えて,「万物を人間の能力ではかるという発想を獲得するに至った。  もう一度ヤップ島人に登場してもらうことにしよう。かれらは「苦もなく機関車を持ち上げる」ことはできないまでも,重いもの(あの有名な大石貨など)の重さを量的に表現することを知っている。それは,「片腕の力」,「両腕の力」,「全身の力」,「えりぬきの力持ち何人分の力」という風に,順序づけられている。 「質量と力との区別をわきまえていない」などと,きいた風の批評をするのはやめたほうがいい。今日でも,質量の比較はそれに作用する重力の比較をもって行なうのがもっとも実際的であるし,力の表現は,既知の質量に作用する重力(ないしそれに抗して物を持ち上げるための人間の筋肉の能力の度合——これがまさにヤップ島方式である)をもってするのが,もっとも具体的であると言えるだろうから。 古今東西を歩きまわる  新幹線のひかり号を時速二〇〇200キロメートルで一1日じゅう走らせれば,「一1日に四八〇〇4800キロメートルも走る」ことになる。古くから「道のり」を表わす単位として「一1時間の行程」,「一1日の行程」などは,それこそいたるところで使われていた。  昔の日本の一1里は,ほぼ「一1時間の行程」に当たるものだし,宿場の間隔は「一1日の行程」を考慮して設定されていた。もっとも,旧東海道五〇〇500キロメートル(およそ一二五125里)を五十三次に分けると一1区間は平均およそ一〇10キロメートル(二2里半)で,一1日の行程としては短かすぎる。実際には一1日に四4ないし五5区間を歩いたのであろう。  あのレジャー道中『膝栗毛(ひざくりげ)』の弥次郎兵衛・喜多八コンビは,「花のお江戸を立ち出で」て第一日,「既にはや日の西の山の端に近づきければ,戸塚の駅になんとまるべしといそぎ行く……」という旅程だった。横須賀線の東京・戸塚間は四〇・九40.9キロメートル,およそ一〇10里である。弥次・喜多両氏も,脱線の多い割にはなかなかよく歩いたもののようだ。途中には宿場が四4つある(品川,川崎,神奈川,保土ケ谷)。  ペルシアに「らくだで一1時間の距離」というのがあったことは,すでに書いた。例のペルシア王,長手(ロンギマヌス)のダリウス一1世は,今の地図で言えばイランからイラク,シリア,トルコを経てエーゲ海方面に至る壮大な国道を建設した。学問に王道はないというが,長手王の手に成ったこの王道は,延長二〇〇〇2000キロメートルあまりの堂々たるものだった。  古代ギリシアの史家ヘロドトスの書『歴史(ヒストリエ)』が伝えるところにしたがって後代の研究家が計算した結果は,「王道の全長二五〇二2502キロメートル,平均日程九〇90日,一1日の行程二七・八〇27.80キロメートル,宿場の数一一一111,宿場の間隔は平均して二二・五二22.52キロメートル」となっている。  古い時代の話のついでに記せば,ヘブライの「一1日行程」は,エジプトの長さ単位スタジア(二一〇210メートル)の二〇〇200倍すなわち四二42キロメートルとされている。これは弥次喜多の一〇10里にほぼ等しい。  また古代ゲルマン人は,一1日の行程を「ラスタ(rasta)」と称した。rastaは今のドイツ語rasten(休息する)と関係がありそうだから,ラスタは休憩,宿泊と通ずる言葉であろう。つまりこれも宿場を思わせるわけだが,例の「大移動」のゲルマン人のことであるから,弥次さん・喜多さんとは違って,いかつい旅をほうふつさせる。かれらが毎日どのくらいのペースで「大移動」をしたのかをさぐる数値的データは,残念ながら見当たらない。 「歩く」という繰り返し動作の「単位」は,「一歩」である。一歩の歩幅が長さの単位として用いられることは,時と所を問わず共通である。英米の陸軍ではそれをペース(pace)と呼び,七六・二76.2センチメートルに当たるものとしている。ドイツのシュリット(Schritt)は七一71ないし七五75センチメートル。  ところが,パッスス(passus)というラテン呼びで古代ローマ人が使った単位は,一四七・九147.9センチメートルに当たる。ペースやシュリットと比べるとまさに二2倍である。もちろん,古代ローマ人だけがひどく大またに歩いたわけではない。一1パッススは,一1「複歩」だったのである。  パッススという単位は歴史のかなたに消えてしまったが,「パッススの一〇〇〇1000倍」という単位は,千載の年月に耐えて生きながらえた。すなわちラテン名ミリアリウム(milliarium複数はミリアリアmilliaria)がそれであって,一〇〇〇1000パッススつまり一四七九1479メートル,これがいわゆる「マイル」のおこりである。  一1マイルの長さがいくらなのかについても話せば長いのであるが,現今の日本でいう一1マイルは一六〇九・三四四1609.344メートルであることだけを付記しておく。  念のために,もうひとつ付記するが,このようにめんどうな換算比を暗記しようなどと志すことは,ぜひとも止めていただきたい。メートル系以外の単位のことのために,われわれの頭脳の記憶機構が一部分といえども占有されてしまうのは,はなはだ愚劣な,もったいないことである。  ただし,マイルの語源ミリアリウムの「ミリ」だけは,大切になさるように。それは,ミリメートル,ミリリットル,ミリグラムのミリすなわち「一〇〇〇分の一1000分の1」を表わすところの,メートル法の表わし方の中で重要な接頭語なのだから。 アッピア街道の行進  さて,一1複歩のパッススを一〇〇〇1000倍してミリアリウムという単位ができたのであるが,元来われわれは「歩く」ことの話をしていたのであった。道草をくいすぎぬようにしよう。古代ローマ人は一1日にどれほど歩いただろうか。文献を見ると,一1イテール・ペデストレ(iter pedestre)イコール一八・七五18.75ミリアリアというのがあって,これが「一1日の行程」を意味する由である。  iterは旅行の意味(英語のitinerary——旅行プラン——はこれから出た言葉)。また,pedestreは徒歩の意味(交通標識の「歩行者優先」が英語ではpedestrian priorityとなることを思い出していただきたい)。ここで計算をしてみると,一1イテール・ペデストレは二八・七28.7キロメートルとなる。  ローマ人の徒歩旅行のテンポは,弥次喜多やヘブライ人よりはかなりおそく,ペルシアの王立“自然歩道”のテンポにほぼ近い。それにしても一八・七五18.75ミリアリアとはいかにもはんぱであるが,この数字がどこにどう通ずるのかはわからない——すべての道はローマに通ずると言われるにもかかわらず!  ともあれ,そのローマに通ずる道を,たとえばアッピア街道を,ありし日のローマの軍勢が一1日二八・七28.7キロメートルのテンポで威風堂々と行進したのかと思うと,興趣は尽きない。イタリアの作曲家レスピーギの名作『ローマの松』の終曲『アッピア街道の松』は,まさにこの古代ローマの軍勢の行進を幻想的に,近代管弦楽のパレットでえがき上げたものである。  壮麗なファンファーレにいろどられたこの行進曲のテンポを,楽譜で調べてみたら,〓=六六66すなわち一1分間に六六66拍とあった。つまり,この曲に乗って行進すれば一1分間に六六66歩,言いかえれば三三33「複歩」だけ歩くことになる。  さて,かれらの一1複歩「パッスス」は,一四七・九147.9センチメートルであった。ここで大まかに計算してみると,行進のはやさは,毎分四七47メートル,毎時二・八2.8キロメートルとなる。そしてかれらの一1日の行程「イテール・ペデストレ」が二八・七28.7キロメートルであることは,前に書いたとおり。あとは割算をするだけである——レスピーギの指定したテンポで一1日行程のノルマを踏破するためには,十10時間歩き続けなければならない! つまり,朝八8時に行動を開始し,ひる一1時間の大休止をしたら,夜の七7時まで足を休めてはならないのである。  古代ローマの幻想にさそわれてあれこれ計算してきたが,考えてみれば行進曲にもいろいろと種類はある。アメリカ軍楽隊のお得意のスーザの曲などはすこぶる急ピッチで軽快であるし,ベートーベンやショパンの葬送行進曲は,アダージョ・アッサイの重厚沈痛なものである。古代ローマ軍の行進も,一貫して〓=六六66だったはずはあるまい。  カエサル(シーザー)がローマに帰ったあとを追って,クレオパトラが都入りした時には,正規の堂々たるテンポ〓=六六66だったかもしれない。しかし,カエサルが暗殺されたあとエジプトへ急ぎ帰った彼女の一行の足なみは,スーザのマーチよりもはやかっただろう。そして,のちにアントニオも自殺し,クレオパトラも「エジプトの御代(みよ)しろしめす人の最後ぞ,かくありてこそ」と,みまかる。その葬儀の列の行進のテンポは,もちろんアダージョ・アッサイであったに違いない。 はだしの王者,スタジオンを疾駆する  アッピア街道の幻想は一挙に現代へ飛ぶ。この街道をはだしの王者アベベ選手がさっそうと駆けぬけたのは,一九六〇1960年ローマ・オリンピックのマラソン競技の時であった。いらい四4年のあいだ,東京の街はオリンピックスタジアムの建設に明け暮れたが,この「スタジアム」という言葉がまた長さの単位と結びつく。  古代ギリシアのオリンピアで行なわれたスポーツ競技が,今日のオリンピックの起源であること,またペルシア(例の長手王ダリウス一1世治下の)の軍勢を,ギリシア軍がマラトンの野で撃ち破ったときに勝報をアテネに届けた伝令の力走が,マラソン競技の起源であること——,これはよくご承知であろう。  さて,そもそも昔のオリシピアの競技場のレースコースがギリシア語でスタジオン(σταδιον,複数はスタジアσταδια)と呼ばれていたのであった。この言葉が今のスタジアム(英,stadium,複数はスタジアstadia)になったわけだが,それと並んでギリシア語スタジオンは競技場のレースコースの長さをも意味することになった。その値は地方により多少ちがったけれども,オリンピアについて言えば,一1スタジオンは一八〇180ないし一九〇190メートルに相当するものであった(ヘブライの一1日行程の話のところで書いたように,エジプトの「スタジオン」は二一〇210メートルに相当する)。  つまり,今日の二〇〇200メートルレースの程度の競技のできるコースがあったわけだが,それを往復する競技,すなわち四〇〇400メートルレースに近いものもあったそうで,往復の長さ二2スタジアは別の単位で一1ディアウロス(διαυλοσ,diaulos)とも呼ばれた。ついでながらギリシアではのちにとりきめを設けて,あらたに一1スタジオンは一1キロメールに等しいと定めることにしたそうだが,キロもメートルももとはギリシア語なのだから,一1キロメートルは一1キロメートルと呼べばよいと思うのに,わざわざそれを一1スタジオンと名づけるのはわれわれには理解しにくいことである。 お茶一1杯の遠近感 「歩く」話のリズムに乗って東海道,ペルシアの王道,ローマはアッピア街道と遊びまわってしまったが,このあたりで「お茶を一杯」飲むことにしよう。ただし,話のほうはまたもや飛んで,今度はチベットの農民が走る長さの単位のことに移る。その名は「お茶一1杯の距離」!  まず,煮えたぎるあつさのお茶一服をたて,それが自然に冷えて飲みごろになるまで待つ——それまでの時間のあいだに走ることのできる長さを「お茶一1杯の距離」と称するのだそうである。チベットの話などというと西遊記の孫悟空のはなしのようなフィクションかと思いたくなるが,この話にはれっきとした証人がいる。  世界の最高峰エベレストは一九五三1953年,ハント隊のヒラリー,テンジンによってはじめてきわめられたが,それに先立つこと三十30余年の一九二一1921年,ハワード・ビュリー隊は北側すなわちチベット側から世界最初のルート踏査を試み,およそ七〇〇〇7000メートルの高さのノース・コルに達した。有名なマロリー,アービンの遭難より三3年前のことである。  このハワード・ビュリー隊の調査はきわめて綿密であって,自然科学上にも寄与するところ大であったが,われわれがいま調べているような事柄についても,貴重なルポルタージュをもたらした。報告によれば,チベットの農民はこの「お茶一1杯の距離」という表現で距離を言いあらわし,調査隊が実際に見聞・検証したところから言えば,お茶一1杯の距離の三3倍がイギリスのマイルの五5倍にあたるとのことであった。一1マイルはおよそ一・六1.6キロメートルであるから,お茶一1杯の距離はほぼ二・七2.7キロメートルになる。  ここでもすこし計算をしてみよう。オリンピックの一1万メートル(一〇10キロメートル)レースの記録は,例のザトペック(一九五二1952年)の場合で二十九29分十七17秒〇0だから,これをおよそ三十30分と見て,このピッチで二・七2.7キロメートル走るとしたら何分かかるだろうか? 答は八8分と少々になる。  沸騰している水コップ一1杯が飲みごろにひえるまでの時間は,八8分といった程度のものだろうか。やや長すぎるように思うが,厳密なことは水の量,コップの材料(熱伝導率,熱放射率),周囲の温度,通風の様子などをきめて議論しなければならない。茶の湯の心得のある方の実感などお聞かせいただきたいものだ。  この単位の「二2倍」,「三3倍」……の考え方については,当然ながら独特な注意が必要である。この単位の「二2倍」は,お茶「二2杯」が飲みごろにひえる時間ではない。同時にわかしたお茶二2杯を同じ状態でさましてやる場合,二2杯とも同じはやさでひえてゆくのだから,時間は一1杯の時と同じであって,決して「二2倍」にはならない。  この単位の二2倍の長さをきめるには,まず一1杯の沸騰水をコップにみたして駆け出し,それが飲みごろにひえたなら,時を移さずもう一1杯の沸騰水をコップにみたして駆け出す,という手順が必要である。この測定実験はかなりの技能がないとできないだろう。  もちろん,実際には二2キロメートルあまりの距離という実感ができ上がっていて,その二2倍,三3倍……を考えればよいのだが,「お茶のひえる時間,そしてその間に走る距離」とはいかにも「生活の知恵」的でおもしろい。 「ふたりでお茶を」ではなく「一1杯のコーヒー」を前に待ちぼうけを食わされている,彼ないし彼女,あるいは,煮たった湯を鉄びんからくんでお茶を入れながら,長火ばちにひじをついてご亭主の帰りを待つ奥方——ジェスチュア・クイズ的な連想を誘う単位である。 “生きるもの”から“働くもの”へ  さて,イリンの詩を読みかえすまでもないことだが,人間の能力にはまだまだたくさんの可能性が宿されている,そのさまざまな能力に対応してさまざまな単位が考えられているという話も,まだまだ続く可能性を宿している。たとえば「たいこの音の届く距離」,「呼べば答える距離」,「やり投げの及ぶ距離」等々。  そう言えば,「目で見える距離」すなわち「視程」というのは今でもまじめな意味で使われる(ただしこれは「長さの単位」ではなくて,「天候ないし公害の度合いを反映した,ある種の量」というべきものだろう)。どれもこれもひとくせありげで,せんさくしたくなるけれども,考えてみると「やり投げの及ぶ距離」などは,オリンピック委員会の議題でこそあれ,計測学の本質に触れる話題ではあるまい。われわれの探訪もこのあたりで打ち切ることにしよう。  ただし,この第二2話を閉じるにあたってわれわれは,重大な手ぬかりをしてきたことを自認しなければなるまい。われわれは,「道具や言葉を使いこなす存在としての人間の能力」をほとんど無視してしまった——イリンの詩の真意はむしろこの種の能力を讃美することにこそあったのに。 “持つ”,“歩く”,“走る”などの,「生まれながらの(あるいはしごき上げられた)人間の能力」から,どんな単位が導き出されてきたかを知ったわれわれは,つぎに「道具や言葉を使いこなして働き,生産する存在としての人間の能力」に関係した単位を調べることに進もう。そして今までのような羅列的話法をすてて,ひとつの主題——「家畜を使いこなして田畑をたがやす人間の能力に関係した単位」——の事例研究(ケース・スタデイ)をやってみることにしたい。 第三3話 あとの半日は…… よい(グーテン)モルゲンとわるいモルゲン 「ゲ ントヒンチク八三一・五831.5モルゲ ンコウサクオワル」(ゲントヒン地区八三一・五831.5モルゲン耕作終わる)  一九四七1947年の早春——日本での出来事と引き比べてみれば,あの二・一ゼネストがマッカーサー司令部によって禁止された直後のころ,東ドイツのアルベルチという学者は,新聞に出たこの電文を見てすっかり考えこんでしまった。  敗戦後二2度目の冬のきびしさをやっとのことで乗り切ろうとしていたドイツにとって,春の農作の手はずを整えることは何よりも大切な仕事であったから,東ドイツのゲントヒンという地区の農耕がはかどっているとの報道は,多くのドイツの人の胸に(あるいは胃に?)ぐっとこたえるものだったに違いない。  しかし,アルベルチの頭脳を占有したのはジャガイモやワインのことではなかった。「モルゲン」というただひとつの単語が彼をとりこにしてしまったのである。  モルゲンとは,英語のモーニングに相当するドイツ語で,その意味はもちろん「朝」である。朝起きてからひるめし時まで,ドイツ人はだれでも「グーテン(よ    い)・モルゲン(朝    を)」と呼びかわし,にこやかにあいさつをかわす。たとえ二日酔であっても,オフィスに入れば部屋じゅうの人たちとこのあいさつをやりとりし,それに大抵は握手も伴わせるのだから,なかなか丁重なものである。時にはグーテンが切り捨てられて,モルゲンだけになることがあるけれども,日本の無愛想な「オス」などというのよりはずっと上等である。  ところで,同じグーテン・モルゲンも,昔の農民の間では,現代オフィスのビジネスマンのとは違った意味をこめて使われていた。農村のひとびとにとって,モルゲンとはもちろん朝を意味する言葉でもあったが,同時に「牛一1頭で朝のうちに(午前中に)耕すことのできる畑の広さ」を表わす言葉でもあった。  だから,朝まだき野良に出た農夫たちがかわすグーテン・モルゲンというあいさつには,「ひるまでにどっさり耕作ができますように」というほどの意味がこめられていたのである。働きもののドイツ農民の気質が,こんなところにもにじみ出ているのだろう。  さて,問題の電文に出てきたモルゲンは,よい「朝(モルゲン)」とはまったく無縁で,実は「畑の広さ」の単位を示す言葉だったのである。そしてそれはアルベルチの目には,はなはだ目ざわりで不都合な,「わるいモルゲン」として映じた。だからこそ彼は考えこんでしまったのである。 プロイセンの牛とザクセンの牛  世に調べ魔という人種が存在するが,アルベルチはまさにそのひとりであるようだ。この新聞記事を見て以来,かれは地図を開き百科事典をあさり,ハンドブックをひもといて,せんさくに熱中した。  まずわかったのは,モルゲンという面積単位がメートル法の単位ではないことである。そしてドイツは,一八七〇1870年代の始めからメートル法専用を法律できめているのだから,今どきモルゲンなどを持ち出すのは法律的に「わるい」ことに相違ない。  それはそれとして,昔のモルゲンは一体どれほどの面積だったのか? 調べてみるとおよそ〇・二五0.25ヘクタールである。したがって八三一・五831.5モルゲンは二〇〇200ヘクタール余りとなる。このあたりからアルベルチの推理は多角的に発展する——同じ面積でもヘクタールで二〇〇200いくらと表わすよりは,モルゲンで八〇〇800いくらと大きな数で表わすほうが景気がいいとでもいうつもりなのだろうか? あるいは,メートル法が普及した今日でも,この地方では古来の土着の単位を使うほうが,便利だという特殊事情があるのだろうか?  そこでもう一度くわしく新聞を見ると,この電報の発信地はブランデンブルク地区のイェリヒョウとなっている。しかし,これは今の東ドイツでの呼び方であって,統一ドイツ(第二帝国(ライヒ)の成立=一八七一1871年)以前のことにさかのぼれば,地名そのものがせんさくの対象になる。すなわち,かつてブランデンブルクはプロイセン(英語で呼べはプロシア)王国に属し,イェリヒョウとゲントヒンはザクセン王国に属していた。  さて,ここに至ってアルベルチの調査は混乱の極に達した。ハンドブックによれば,プロイセンの一1モルゲンは 〇・二五五三一二 0.255 312 ヘクタールだが,ザクセンのそれは 〇・二七六七一二 0.276 712 ヘクタールなのだそうである。耕された八三一・五831.5モルゲンは,プロイセン流 に換算すれば二一二212ヘクタールになるし,ザクセン流に換算すれば二三〇230ヘクタールになる。一体全体どうなっているのだろう!  この経験はアルベルチにとってよほどショッキングなものであったとみえ,そののち十10年間かれは凝りに凝ってこの種の単位のことを古今東西にわたり調べ上げ,一九五七1957年に六〇〇600ページ近い大著をものした。電文にまつわる調査の一件は,この本の序文にしたがって筆者が要約しつつご紹介した次第。  一行余りの電文にきっかけを与えられて,ついに六〇〇600ページの本を仕上げたこのドイツ人の執念も大したものだが,その本に記載されたモルゲンの実態もわれわれの想像を絶するものがある。スイスやオーストリアは別として,いわゆるドイツ国内だけを見ても,モルゲンには四〇40いくつかの種類があった。  地方ごとに違うというだけでなく,一地方でも「森」のモルゲンと,「畑」のモルゲンを使い分けている例がある。それらをここで網羅的に列挙するのは,まったく無意味であろうからやめるが,極端な例だけはお目にかけておきたい。  最大のモルゲンはオルデンブルク地方のものであって,その一1モルゲンは 一・二二五六 1.225 6 ヘクタールにあたる。最小のはホンブルク地方のもの,その一1モルゲンはわずか 〇・一九〇六四四三 0.190 6443 ヘクタールでしかない。  ザクセンの牛はプロイセンの牛に比べて,(〇・二七六…割る〇・二五五…0.276… ÷ 0.255…)倍ほどよく働いたのだろうか。しかしこれは一1割足らずの違いであって,その程度の個人差——ではなかった,個牛差?——はありうるだろう。だが,オルデンブルクの牛がホンブルクの牛の六6倍以上もよく働くとは,いくらなんでも信じがたい。勤務評定に著しい格差があったのだろうか。  オルデンブルクは北西ドイツ,北海に近い地方,ホンブルクはフランクフルト・アム・マインに近い温泉地である。同じことなら,すこし働いてひる飯にありつける(そして温泉でレクリエーションのできる)ホンブルクのほうがずっと有利だ。オルデンブルクの牛たちは,さぞかし出かせぎをしたかったことであろう。 あとの半日は……  モルゲン(午前)の話が終わってひる飯の話になったから,もうひとつドイツのあいさつ用語を研究しておこう。ひる飯の時刻になると今度は「マールツァイト(食事の時)」とあいさつする。筆者自身の経験をご披露することになるが,正午ぎりぎりの時分に仲間(ドイツ人)に出会ったので「グーテン・モルゲン」と握手を求めた。  彼は右手をすぐ差し伸べて握手を返してくれたが,あいている左手の腕時計をやおら見て「マールツァイト」とあいさつをよこし,時計を見ろという。それは確かに正午を何秒か過ぎていた! いかにもドイツ人らしい,理づめのユーモアである。  こういうドイツ人気質をだんだんとのみ込んでからは,こちらもうまくなった。後日その人に招かれて「十一11時に来い」と言われた。そこで三十30秒ほど前からかれの家のドアの前に立ち,ポケットにしのばせたトランジスタ・ラジオの時報を待つ。ポーンと鳴ったらすぐブザーを押す。かれはいそいそとドアをあけ,「君はピュンクトリッヒ(パンクチュアル)だ。うちの時報もいま鳴ったところだ」などという。  哲人カントは,毎日おなじコースをおなじ時間割で散歩したそうだ。ひる休みに四人五人と連れ立って——それもしばしば歩調を揃えて整然と足を運ぶのだから,こちらはくすぐったくなってしまうのだが——散歩をするドイツ人も,午後一1時になれば職場へもどる。そしてあいさつは「グーテン(よ    い)・ターク(日  を)」に変わる。ひる前に一1モルゲンを耕してから一服していた牛も,午後の仕事にとりかからなければならない。さて,午後はどれだけの面積を耕せばよいのだろう。  アルベルチの分厚い本で捜したかぎりでは,「牛一1頭でひるから(午後いっぱい)耕すことのできる畑の広さ」という単位は見あたらない。そのかわりに「ターゲスウェルク(一  日  の  仕  事)」というのが見つかった。これも地方ごとにまちまちだが,問題はモルゲンとの関係がどうなっているかである。  前にモルゲンのことで引き合いに出したプロイセン,ザクセン,オルデンブルク,ホンブルクでは,このターゲスウェルクは使われていなかったらしいので,ターゲスウェルクとモルゲンとのつき合わせはできない。他の地方,たとえばバイエルン(英語呼びではババリア)やバーデンについて調べると,ほぼ(地方によっては正確に), 一1ターゲスウェルク=一1モルゲン である。ただウュルテンベルクだけは, 一1ターゲスウェルク=一・五1.5モルゲン とはっきり定めていたそうである。  話は一段とこみ入ってきた。ウュルテンベルクの牛は,午前に一1モルゲン,一1日に一・五1.5モルゲンを耕したと解釈するのが字義にふさわしいと思われる。してみれば,午後の作業量は〇・五0.5モルゲン,すなわち午前の作業量の半分ということになるが,メンバー交代制でないかぎり午後は能率が下がるものだし,冬ともなればドイツの日はたいそう短かくて,たちまち「グーテン(よ    い)・アーベント(夕  方  を)」の時刻になってしまうのだから,午後のノルマを少なめにきめているのは当を得ている。  だが,この解釈でゆくとバイエルンやバーデンの牛は午後をどんな風に過ごすことになるか! デカンショ節のデカンショとは,デカルト,カント,ショーペンハウエルの三哲人の名に由来するのだと,旧制高校で先輩から教えられた。散歩の時間割まできめていたカントの午後の日課がどうなっていたかは知らないけれども,バイエルンやバーデンの牛どもは午前中に一1モルゲンを耕したのちには,デカンショ節さながらに「あとの半日は寝て暮らしていた」と結論せざるを得ないようである。 魔女の算術  アルベルチばりのせんさくによって,モルゲンとターゲスウェルクとの関係を突きとめようと志したのだが,筆者の試みは奇妙な結論に到達してしまって,ドイツの牛たちにけ飛ばされかねない事態に陥った。心を入れかえて彼の本をじっくり読んでみようとするのだが,読むほどに話は錯雑になるばかりである。  働き手は「牛一1頭」だとばかり思っていたのだが,別のページには「そのころ農耕の用に供しえた手段によって」とあるし,別の単位「ヨッホ(別称ユック,ユーヒァルト,ヤウヒァルト,ヤウヘルト)」の説明では「一1連の牛で一1日に」とある。一1連が何頭で編成されるのかはわからない。それでいてこのヨッホも〇・五0.5ヘクタール程度,すなわちモルゲンと大差はないらしい。   魔女(大げさ口調で) なんじ会得すべし。 一より十を作れ, 二を去らしめよ, ただちに三を作れ, しからばなんじ富まん。  (ゲーテ,『ファウスト』第一部 相良守峯訳による) 「一1連の牛で一1日」も「一1頭の牛で半日」も大差ないとは——やはり魔女の国の算数塾に入門しないと会得できないもののようだ。  魔術は思いのほかに根づよくわれわれの身のまわりに生きながらえている。アルベルチは古い単位の魔力にとりつかれて調べ魔になってしまったのかもしれない。その魔力を調べつくそうとしながら,彼はそれを征服しきれなかったようである。なぜなら彼の書物には,いくつかつじつまの合わないところがあるのだから。あげ足取りのようで気の毒だが,当のモルゲンの値のことでもこんな不統一を露呈してしまっている。  序文では,前に引用したとおり, プロイセンの一1モルゲン= 〇・二五五三一二 0.255 312 ヘクタール ザクセンの一1モルゲン = 〇・二七六七一二 0.276 712 ヘクタール  しかし,本文の諸単位一覧表では, プロイセンの一1モルゲン= 〇・二五五三二二 0.255 322 5 ヘクタール ザクセンの一1モルゲン = 〇・二七六七一 0.276 71 ヘクタール と記載しているのである。 第四4話 単位は権力者の手で 東西ドイツの悲劇,太閤秀吉の偉業  現代ドイツのことというと,だれもがその東西“二”分割の悲劇のさまを脳裡に描くだろう。今からわずか一〇〇100年前,十九19世紀後半にやっと統“一”されたドイツ(第二)帝国がこうして“二”分割されてしまったのは,たしかに悲劇的なことに違いないが,帝国成立前のドイツのこま切れ状態に対比してみるかぎりでは,今の“二”分割などはものの数に入るまい。前章でわれわれが見たいくつもの地名——ザクセン,プロイセン,等々——は,一国の諸“州”というようなものではなくて,それぞれ“ひとつの国”だったのである。  島国に育ったわれわれ日本人は,いくつかの島に住む同系民族がすんなりと一国家を形成してきたのだと考えることになじみ切っているせいか,統一前のドイツ地方のような,大陸の一部に同民族の群小諸国が乱立しているさまを想像することには慣れていない。祖国の歴史のうえに類例を求めようとすると,ひとりでに織田信長の頃の群雄割拠の戦国時代を思い浮かべてしまう。そして,天下統一の大業をなしとげた太閤・豊臣秀吉はやはり偉かったと,あらためて気づくことになる。  それにしても秀吉がただの勇将に過ぎなかったというのなら,なにもこの本で引き合いに出すことはない。その秀吉をなぜ取り上げるのか? 彼の事績,とくに,彼の天下統一を成功に導いた重要な事績のなかに,われわれの主題と関連することがらが,歴然と存在するからである。その事績とは何か? いわゆる「太閤検地」と「石高制」とである。それはいつ頃のことであったのか? 十六16世紀の末葉,すなわちドイツ第二帝国成立に先立つこと三3世紀の頃のことであった。  この問題については,幸いにも安良城盛昭氏のすぐれた研究がごく最近に発表された(『太閤検地と石高制』,NHKブックス,昭和四十四44年)。ここでは同書のほんの一部分を拝借させていただくにとどめよう。 単位の政治学  秀吉の天下統一は近畿地方を根拠地として達成されたが,そのことは,新たな農民支配体制の創出なしには実現不可能であった——この事実に関して安良城氏は次のように緻密(ちみつ)な考察を進めてゆく。  なぜならば,秀吉の天下統一は,武力的=暴力的な過程を通じての全国統一であり,したがって秀吉にとっては,第一に,武力による天下統一を可能とする強大な家臣団をその根拠地において培養する必要に迫られており,第二に,天下統一過程に必要とする厖大な兵糧米を,根拠地において確保する必要があり,さらに第三に,根拠地における農民の反抗・逃散が防止されなければならなかったが,この天下統一のために不可欠な三つの前提条件は,その第一・第二の前提条件と第三の前提条件の間に明瞭な矛盾関係があり,この矛盾は,新たな農民支配体制の創出なしには解決不可能だったからである。  すなわち,天下統一のために不可欠なこの第一・第二の前提条件は,究極において,農民よりできるだけ多量の年貢を搾取することなしには達成されず,このことは,土一揆・国一揆・一向一揆が激しく闘われた近畿地方では,直ちに,農民の反抗・逃散を惹き起こしかねないところのものであり,したがって,第一・第二の前提条件の達成は,第三の前提条件の達成と明らかに矛盾しているといわねばならないのである。  この矛盾に一定の解決を与えたのが,石高制に基づく太閤検地にほかならなかった。天正十年,山崎の合戦直後に山城で開始され,爾来近畿地方にまず施行された太閤検地は,秀吉の天下統一にとって不可欠なこの三つの前提条件を,秀吉の根拠地近畿地方につくり出すことに成功しているのである。  太閤検地は,律令体制社会成立期における斑田収授制,明治維新期に実現された地租改正,敗戦直後に実施された農地改革とならんで,中央政府の手により,統一的規準のもとに,日本全土にわたって施行された日本歴史上の四大土地制度変革の一つとして数えられる,劃期的な土地制度変革であった。  太閤検地の施行過程が具体的に知られるのは,文禄三(一五九四1594)年の南九州島津領の太閤検地の場合である。  安良城氏はこの島津領の場合について,史料にもとづくくわしい研究を進めているが,当時の公文書をここに書き写しても仕方があるまいから,以下,同氏による解説のほうを引用させていただくことにする。  第一条は,耕地の丈量に際しては,あぜ溝を除いて,三〇〇300坪(五間×六〇間5間×60間)一反の基準が定められ,第二条以下は,村々を上・中・下・下々に区分し,一反あたりの法定米収穫高である石高を田畑別にそれぞれ定めている。この折の『検地尺』が現存するが,それは縦〇・四五0.45メートル,横〇・〇六0.06メートルの檜材でできており,その表には,石田三成が『石田治部少(花押)』と署名しており,その裏には『此寸を以,六しゃく三寸を壱間に相さため候て五間に六〇間を壱たんに可仕候』と記されている。一間六尺三寸一間6尺3寸・三〇〇坪一反300坪一反は太閤検地の検地丈量の一般的基準であり,各国の太閤検地の場合もこの島津検地と同様に,基準となる『検地尺』が検地奉行のもとにあったと考えられるのである。  この「検地尺」の模型は,東京大学史料編纂所に保管されており,先年の「度量衡の歴史展」に公開展示された。  このように具体的な基準のものさしまで整備して全国統一の実をあげていったという点は,秀吉のやり方の現実的な性格をあからさまに物語っているものといえるだろう。 単位の法律学  安良城氏の著者には,“わいろによって検地を軽くすませようとした場合の罰則規定”とか,“検地奉行人が検地に際して権威をかさに村々で無理難題をしいることを防ぐための規定”とか,「検地もれ」のこと,領主と農民の「なれあい」のこと,等々が,詳論されている。「計測のことに関する法律的規正の必要性」の例証を,われわれはここでどぎつく見せつけられるのである。  この種の法律的規正についても考察すべきことは多々ある。秀吉のばあい,規正はもっぱら“権力側の政策の遂行のため”のものだったように見える。今日,われわれが持っている法律的規正は,『計量法』およびそれに関連する諸規定のなかに盛りこまれている。その『計量法』の第一条は,「この法律は,計量の基準を定め,適正な計量の実施を確保し,もって経済の発展及び文化の向上に寄与することを目的とする」とうたっている。近年この法律の運用をめぐって“消費者保護”の思想がクローズ・アップされてきているように感ぜられる。“権力者のための”法律から“消費者のための”法律にいたるまでには,少なからぬ年月が必要であったわけだ。 権威の“圧力”をはかる  時の権力者が単位のことに意を用いたという例を,われわれはあとでいくつも見ることになるだろう。フランク王シャルマーニュ,ウルム侯ルドルフ二2世,イギリスではヘンリー一1世,同八8世,エドワード一1世,エリザベス女王,フランスではルイ十四14世,同十六16世そしてナポレオン。わが明治維新の要路のひとびともまたその例に含められよう。  話の間口をもうすこし広げて,“権力と測定とのかかわり合い”というタイトルでも設けることにすれば,話題は一段と豊富になる。近ごろの雑誌や新聞で目に触れた話の種をふたつお取り次ぎしてみたい。 暑さも寒さもおかみの意のまま  その昔スペインの英君フィリップ二2世は,国の中心に都をおくのだといって,地図の上に対角線をひかせ,そのぶつかったところへ都をつくった。それがマドリードである。住む人間の都合などはもちろん勘定に入っていない。「半年の氷室,半年の地獄」とよばれるそうだが,とにかく大変なところである。  だから夏になると政府は北部海岸に移り,役人,側近,顔役,それに外国使臣がこぞってこれについていってしまうので,マドリードには,まあウダツの上がらない庶民だけが残ることになる。この庶民の話題はもっぱら暑さである。 『どうにも今日は暑いね。四〇40度を少しこえたそうだ』 『四〇40度? 馬鹿なことをいいなさんな。この暑さはどうしても四五45度さ』 『でも今日の夕刊にはちゃんと四〇・二40.2度とでてますよ』 『君,いい年してまだ新聞のいうこと信じてるの? この暑さはどうしても四五45度ですよ』 『でも君,新聞はレティロ公園の寒暖計の温度をちゃんと気象台がはかって,それを発表してるんだぜ』 『だから君はおめでたいっていうんだ。レティロ公園の寒暖計だって,気象台だって,ありゃみんな政府が作ったもんですよ。いいかげんなもんだ。レティロの寒暖計がね,四〇40度って時は本当は四五45度なんだ。大体政府なんてものは国民に本当のことを知らせたくないんだから。それに新聞だって,政府の息がかかってるんだぜ。みんなグルさ……』 スペイン庶民の政府に対する信用は大体この程度とみられる。 (小島亮一氏『文芸春秋』昭和三十六年九月36年9月)  “山高きがゆえに尊からず”,されど……  近ごろ(昭和四十四44年)北アルプスの剣岳の高さが話題になった。昭和五5年に大日本帝国陸地測量部がつくった地図では,三〇〇三3003メートルとなっていて,剣岳は全国一三13個の“三〇〇〇3000メートル級”高山のひとつに数えられていたのだが,国土地理院であらたに測量した結果によれば二九九八2998メートル。そこで剣岳は“二〇〇〇2000メートル級”の山に格下げされることになったそうである。 “山高きがゆえに尊からず”というが,地元の人にとってこの“格下げ”は一大事であるらしい。以前の値は,地元からの政治的圧力で“水まし”されたものなのではないかとのうわさも出ているそうだが,三〇〇〇3000メートルの物体(固体!)に対して五5メートルもの伸び縮みを与えるような“圧力”(張力?)とは,たいしたものではないか。  (『朝日新聞』昭和四十四44年による)  政経学部から理工学部へ  安良城氏の専門的な研究にさそわれて,われわれは“権力と単位”のつながりの様相いくつかをかいま見ることができた。しかしその代償としてわれわれは,「理学部や工学部のではなく,法学部あるいは経済学部のゼミナールにつき合いさせられたかのような」気分で,この第四4話を離れなければならない。  じっさい,右に挙げた権力者たちが単位の問題について考え実行したことは,少数の例外をのぞき,理工学的とくに計測学的に見て,ほとんど「児戯」にひとしいものであった。  太閤・秀吉の「検地尺」にしても,その一1尺を表わす目盛線二2本(間隔を今日の単位ではかれば〇・三〇三0.303メートル)を明示するために——というよりは,目盛線を塗り消さんばかりの筆勢で——,さらに酷評すれば,目じるしが太ければ太いほどものさしの権威が高いのだぞといいたげに,「毛筆」で太くくろぐろと,さよう,太さ三3ミリメートルほどに,×じるしがえがかれている。後年の「メートル原器」の標線の太さは六6ないし八8マイクロメートル,一九六〇1960年ごろに標線引きなおしをした(第十二12話)各国のメートル原器では,標線の太さは三3マイクロメートル程度になった。  秀吉のブレイン石田三成の署名と花押で権威づけられたこの検地尺も,その×じるしの太さをもって精度を評価するならば,メートル原器の一〇〇〇1000倍ほどに“不確実”であったとしなければならない。  計測学的に興味のある単位や標準器がつくり出されるようになるためには,権力者が理工学者をブレインとして登用し始めることが必要なのであった——イギリスにおける王立学会(ロイヤル・ソサエテイ),フランスにおける科学アカデミー(アカデミー・デ・シアンス)がその顕著な例を提供する。  われわれは,これらの学会の成立する時代よりやや以前に,もっと個人的な関係において学者が登場する例を,第五5話で見てゆくことにしよう。 第五5話 ドナウのほとりの天文学者(ケ プ ラ ー) ウルムの町にやってきたケプラー  毎夏ひらかれる現代音楽祭のおかげで,いくらか知られるようになったドナウ・エッシンゲン——ドナウ川はこのあたりに源を発してアルプス北側を東へ東へと流れてゆく。川幅は次第にひろがって,ウルムに至れば舟による交通の便がひらけ,リンツ,ウィーンを経て東欧諸国から黒海までの舟旅が可能になる。このウルムの町で生まれたアインシュタイン(A. Einstein)が量子論・相対論の流れを大幅にひろげ,いらい現代物理学の大河がとうとうと流れ始めたことは,よく知られているところであろう。  話はそれよりもおよそ三〇〇300年前にさかのぼる。天体運行の法則を明らかにして近代物理学の進展に寄与したヨハンネス・ケプラー(Johannes Kepler)は,一六二六1626年にオーストリアの百姓一揆(今日なら農民紛争と呼ぶのであろうか)に出くわし,リンツからこのウルムの町にやってきた。彼はこの機会を利用して,数十年来の天文研究の成果をまとめた表を完成し出版した。  この価値ある表は,スポンサーだったルドルフ二2世の名を記念して『ルドルフ表』と命名されたが,またウルム表とも呼ばれる。スポソサーといってもこのルドルフ侯は——天文学ではなく——占星術に凝っていたのである。だからケプラーは,星うらないの暦,つまり天候や政治的事件,名士の死などを予言するバカバカしいカレンダーをこしらえて,めしの種としなければならなかった。いわく「娘の占星術がパンをかせいでくれなければ,母の天文学はきっと飢えを忍ばねばならなかったでしょう」  しかし,彼は,はじめて予言暦をつくった時にオーストリア農民紛争をうすうす感じて,それを暦におりこみ,その適中によって大いに名声を高めたそうである。ガリバー旅行記を書いたスウィフトも予言暦ではたいそう手のこんだいたずらをしたと伝えられているが,それは十八18世紀に入ってからのことであって,十六16世紀から十七17世紀にかけて波らんの多い生涯を送ったケプラーにとって,占星術はきわめて深刻・重大な意味をもつものだった。  何分にも時代は三十年戦争(一六一八1618年から)にさしかかる頃である。彼の母は魔女呼ばわりされ裁判にかけられて死んだ。ケプラーがそういう時代の人であったことを心にとどめたうえで,彼の別の仕事をたどってみよう。  当時としては造反的だった新教の信者(プロテスタント)ケプラーは,新教の町ウルムにきてやっと落ち着きを感じ,天文表の出版に精を出したわけだが,ウルムの市庁はケプラーの数学的才能に目をつけ,同地の度量衡(この言葉になじんでおられない読者は,第七7話の田中館先生の話を参照していただきたい)の調査をケプラーに命じた。かれが提出した調査報告書は今もウルム市立図書館に保存されているそうである。  ケプラーはかねて回転体の体積,とりわけ酒だるの容積の計算のしかたを,深く研究し,一六一五1615年リンツ滞在中に『酒だるの新立体幾何学』という本を発表して,今日いうところの積分学の思想に近い考えのもとに九〇90種もの計算例を示した。  その動機というのが,ぶどう酒を買おうとした時に商人の容積算定法のでたらめさに気づいたからだそうであって,愛飲家の意地きたなさもこういう効用をもたらすのであればまことに結構である。ともあれケプラーには,市庁からのこの委託研究をこなすための下地は,じゅうぶんにたくわえられていた。 ケプラーの度量衡行政感覚 『試論——ウルムのさまざまな度量衡をいかにしてたがいに関係づけ維持すべきか』と,題するケプラーの答申書は,次のような実にはっきりとした見解のもとで書き綴られている。 「古い条令を廃棄し無効にしてしまうことは支配者にとってはたやすいことであるのかもしれないけれども,その種の処置は一般市民の立場から見れば迷惑でしかない。そこで,現存のさまざまな度量衡を整理し規格化しようとする際には,ごく僅かな変更をもって事態を処理するのがよい」  そしてケプラーは,当時の度量衡の来歴や相互関係を丹念に調べ,きわめて現実的・即物的な判断をくだした。 「ウルムの現行の質量標準ツェントネル(Zentner)は,ケルンの町の貨幣制の質量標準と結びついていて,ゆい緒の正しいものであるから,これは残す。また,ぶどう酒の容積標準は,エスリンゲンの町のアイメル(Eimer)単位と等しいものであるが,ウルムの町はぶどう酒のことでは他の地方に依存するところが多いのだから,容積標準も今のエスリンゲン系のままにしておくのがよい。同じことは長さの標準エルレ(Elle)についても言える。なぜなら,麻布(リネン)の取引が広い地域にわたって行なわれているという事情を考慮すべきだからである。  これらの標準を残すことにして,それ以外には穀物の容積をあらわすためのトライド標準(Traid-Mass)だけを残し,これを,ウルム地区だけでの規正の用に供するとよい」  トライド標準という名前は,穀物(Getreide)の標準(Mass)をつないでちぢめたものであろう。  ケプラーが権力者の気ままをしりぞけて一般市民の便宜を尊重したこと,また商工業の現勢をよく見きわめて的確な判断をくだしたこと——このふたつのことから見ても,ケプラーがただの職人的天体観測者ではなかったことがよくわかる。彼の進歩的でしかも現実的な思想傾向は,この答申にもはっきりとあらわれているのである。 ケプラーの多能標準器  さて,ケプラーの多面的な才能のなかでもっともきわ立っているのは,何といっても論理的な構想力の方面でこそあるだろう。天体の複雑な運行の情報から,あの美しい諸法則をひき出したかれの頭脳は,新しい度量衡標準器のデザインにあたって,きわめてユニークな作品を生み出すことに寄与したのであった。  その標準器というのは本質的にはひとつの中空円筒にすぎないのだが,それひとつで長さ,質量,体積(液体および穀物)の単位をあらわすことができるようになっている。  まず,この円筒の内側の深さ(五八・四58.4センチメートル)は,ウルムのフース単位の二2倍に等しく作られている。それから,内側の直径(六〇・二60.2センチメートル)は,同地の長さ単位エルレをあらわしている。長さの単位に二2系統が設けられることになるのはいささか不合理であって,どちらかを優先するというのであれば,もちろんフース系統だけにするほうがよい。なぜならフースは,ヨーロッパ各地の「足」単位(フート,ピエ,ピエーデなど,第一1話を参照)と近親関係にあるからである。  それにもかかわらず,長さ単位に二系統を立ててエルレをも尊重したのは,前に書いたとおりの現実的対策とかかわり合うところなのであって,リネンの売買の流通機構をそこなわないためには,エルレ単位を残しておきたいという考えによる。そこで,フースとエルレの二2単位を示す標準器を作っておかなければならないわけだが,ふたつの長さをひとつの標準器で示すことにした点,そしてそのために円筒という形を利用した点,いずれもケプラーの発想の論理的傾向をうかがわせるものと言えるだろう。  たしかに,ひとつの立体図形でふたつの長さをあらわすことのできるもの,その中でもいちばん単純なもの……と考えてゆくと,円筒に思い至ることになるに違いない。  もちろん,へ理屈を言えば,ひとつの平面図形たとえば長方形によってふたつの長さを示すこともできる。だが,この発想は,標準器の多能性(versatility)という面で,ケプラーの発想よりもずっとまずしい。なぜならケプラーは,この円筒形標準器をもってふたつの長さばかりか体積,さらに質量の標準までも定めることにしたのだから。 酒ますにうるさいドイツ人  ケプラーが設計したこの標準器は,すず製で内面はよく磨かれており,外側には四4本の足と四4本の腕が設けられていて,その形態(フオルム)や装飾は美術的にも価値の高いものとされている。鋳造はハンス・ブラウンという人が受け持ち,一六二七1627年,すなわちケプラーがウルムにやってきたその翌年に完成され,シュタントネル(Stantner)と名づけられた。ブラウンは,鐘(教会の塔につり下げられていて日曜の朝の寝坊をさまたげるベル,ドイツ語ではグロッケン)の鋳造家であった。  さて,様式美のことをぬきにしてしまえば,この標準器は要するに中空円筒形のうつわでしかない。われわれは,前に書いた寸法(センチメートル単位で表わした)を使ってこのうつわの容積をたやすく計算することができる。読者は自身で計算してみていただきたい。要するに, (直径)×(直径)×(円周率)×1|4×(深さ) (直径)×(直径)×(円周率)×1−4×(深さ) を求めればよいのである。答はおよそ一六六166リットルとなるだろう。  この程度の計算はケプラーの時代においても別段むずかしいものではなかったはずである。数学者ケプラーに研究を委託するまでもなく,市庁の役人自身で計算できたに違いない。“酒だるの数学”に力を入れてきたケプラーにしてみれば,もっと複雑な形の標準器を提案し,自分があみ出した高等数学をもって標準器の容積を計算してみせ,役人や市民を煙にまくこともできたのである。しかしケプラーは,そんなことをするキザな学者ではなかった。円筒という単純・明快な形,すなわち直径と深さとをキチンと定めれば体積がキチンと定まるという性質の形を選んで,標準器の仕様をきめたのである。  そのあとの仕事はといえば,この円筒形のうつわの容積の何分の一1あるいは何倍をもって,所要の体積単位を規定すれば足りる。実際にケプラーは,そのようにして「アイメル」その他の単位を定め,また酒ますを規格化した。  このような手順については別にどうということもなさそうだが,実はこのあとに手のこんだ話が続くのである。酒ますの規格化というのがなかなか複雑であって,清酒とどぶろくの区別あり,ビール,ブランデーの類と果実酒の類との区別ありという風なのだから,もうろうとした酔眼で史書を眺めていたのではとうていのみこめない。  ドイツ人が酒ますのことにうるさいのは,古今を通じてのことであるらしく,筆者はつい数年前に出たドイツ計量法規の解説書を見た時にもそのことを痛感した。それというのは,筆者がドイツの国立研究所に滞在していた時に何度かお見かけした高齢の法学博士の著書の新版のことなのだが,謹厳そのものの風さいにふさわしい,き真面目なこの書物の中に,たった一1枚だけ図面が出ているのである。それというのが酒ますの仕様に関するものであって,その前後のくだりには酒ますの法律的規正のことがこと細かに説明されていた。  理詰めのドイツ人も酔っぱらえばたわいのない百鬼夜行ぶりを発揮する。ミュンヘンあたりの大ビアホールに立ち寄ったかたはご存じだろう。みんな机の上に踊りあがり肩を組んで陽気に騒ぎまわっている。酒ますの理屈などどこ吹く風といわんばかりのほがらかさだ。この有様と,アルコール類の計量法規の研究に余念のない老博士の痩躯と,このふたつを思い浮かべるたびに,筆者はほほえましくも感じ,また少々あほらしくも感ずるのである。  しかし,どこでもよろしいが,たとえばハイデルベルクの酒場でワイングラスをシャンデリアにかざしてムードにひたってご覧になるとよい。こがね色に輝くグラスには,“法律で定められた”液面表示線がありありと認められるはずである。その高さまでワインをそそいで卓に供するのが酒蔵のおやじの“法的”責任なのだ。  日本にもます酒ということはあるが,これはもっぱらふんい気を楽しむためのものであろう。今でも地方の民芸品などで“合”,“升”の文字を焼きつけたうつわが見られるけれども,その容積は昔の単位の合や升とは関係がない(むしろ関係があってはいけないのである——これらの旧単位で取引することは昭和三十四34年以後さし止められたのだから)。考えてみれば,おちょうし何本とか,シングルだダブルだとかいうのは,ずいぶんあいまいなものだが,徳利やブランデーグラスのあの美しい姿をケプラーばりの高等数学で解析して“飲む”のでは,いっこうに酔いがまわらなくて,かえって高くつくことになりかねない。  結局,びんに詰めて売買する時に分量がキチンとわかっていさえすれば,こと足りるというべきだろう。その点わが国ではメートル系のリットル,ミリリットルに整然と統一されることになったのだから,立派なものである。  ドイツでも,いい加減にうるさい規定はやめることにしたらよかろう。そうすれば,例の老博士も研究の手間がはぶけて,しかも液面表示線などの無粋なアクセサーのつかない好みのグラスで,ゆっくりとワインをお楽しみになれることだろう。 泉の水とドナウの水  ケプラーの多能標準器のもうひとつの任務は,質量の標準を現実に示すことであった。彼の度量衡行政的な,また論理的・数学的な才能はわれわれがすでに知ったところであるが,彼の才能はまだまだ尽き果てはしない。泉の水のように,あるいはドナウ川の水のようにゆたかなケプラーの才能のうちの,物理的な方面が,質量標準のことにあてられた。  古来の質量標準器は,石,貨幣,穀粒,宝石,おもり(分銅)などで構成されてきていた。すなわち一1個または多数個の特定の物体(もっぱら固体)の質量そのものが,標準の役をになっていたのである。この種のしくみはいかにも直接的でそれなりのよさを持っているけれども,他方に本質的な弱点を潜在させている。というのは,標準器であるその特定物体がすり減ったり失われたりした場合の処置が,原理的に不可能だからである。  すでに書いたようにケプラーは,ケルンの貨幣制質量標準によりどころを求めはしたが,ウルムの質量標準器については“特定の物体”の考えを排除してしまった。かわりに考えたのは,“特定の物質”をよりどころとすることであった。くわしく言えば,“一定の体積”の“特定の物質”の質量をもって質量の標準を規正することを考えたのである。  さてケプラーは,シュタントネル標準器をこしらえて体積標準の問題に解決を与えた。そこで,“特定の物質”を選び出してやれば質量標準のことも片づくわけである。いったいどんな物質を彼は選んだのだろうか。酒好きだったらしいケプラーのことだから,特定の銘柄のぶどう酒などを選び,そのぶどう酒のシュタントネルいっぱいの質量をもって,質量標準を定めたであろうか。  たとえ酒好きであったにしても,ケプラーはやはり物理学者であった。物理的に見て酒などよりずっと純粋な物質H2OH2O(水)を彼は選んだ。そしてそれも,「泉の水ではなくドナウ川の水」と指定している。彼の提案の核心はこうである——「シュタントネル標準器いっぱいのドナウ川の水の質量の七分の二7分の2をもって質量単位とし,これを一1ツェントネルと称する」  この標準器の体積は計算ずみであって,それがほぼ一六六166リットルであることをわれわれはもう知っている。ドナウ川の水の密度は一1キログラム毎リットルとしてよかろう。そこでこのうつわいっぱいの水の質量は,一六六166キログラム。したがって一1ツェントネルは,四七47キログラムと少々になる。  このわれわれの計算に重大な誤りはなかったようだ——ウルムの一1ツェントネルが何キログラムに当たるのかは,実はもうはっきりしないのであるが,各地域のツェントネルの値として一覧表に示されている例(およそ五〇50例)は,大体四二42キログラムから五四54キログラムの範囲に入っており,また一八六八1868年の北ドイツ地区の条例では一1ツェントネルをおしなべて五〇50キログラムに統一している。われわれの得た答四七47キログラムなにがしは,決して的はずれではない。  この計算例のように古い単位の値を数字の上でせんさくしてみるのは,なかなかおもしろい仕事ではあるのだが,実をいうと,右に示した例の程度に気持よくつじつまが合うのは稀なのである。右上の例にしても,もともとケプラーがよりどころとしたケルンの貨幣の質量との関連をたどってみたくなるわけだが,十二12世紀にはどうで一五二四1524年にどうなって一八三〇1830年代の関税同盟で統一されて……という次第なのだから,なんともこみ入っている。いろいろと数字をいじってみたが,一1ツェントネルは四四44キログラムいくらと出た答が,ひとまず上できという程度であった。 泉の水は心してくめ  ケプラーが定めた質量単位ツェントネルとケルン貨幣の質量との関係は,われわれの手ではこれ以上せんさくし得ないようであるが,ケプラーの考えた標準器の物理的な意味についてはまだまだ考察すべき余地がある。  まず,一定体積の特定物質の質量,とくに水の質量をもって,質量の標準を定めたというその構想についてであるが,われわれの目に触れる文献の範囲でいえば,ケプラーのこの業績がもっとも古いもののようである。メートル法の初期に,一〇10センチメートル立方の体積の水の質量を一1キログラムと定めたことは,多くのかたがご存じであろう(この本でも後にくわしく書く)。  だが,それは十八18世紀もおわり間近の頃のことであるし,イギリスの王立学会で一1フート立方の体積の水の質量が,一〇〇〇1000オンスに近いことが論ぜられたのは,メートル法の起源よりは古いものの,十七17世紀の後期のことである。どちらにしてもケプラーの仕事よりは後のことに属する。ついでに記すと,イギリスの体積単位ガロンは,一〇10ポンドの質量をもつ水の占める体積と定められたもの(この定め方は一九六三1963年のイギリス法規にも——もちろんもっと厳密な表現で——うたわれている)であって,この考え方の起源は十九19世紀初期にあるといわれている。  このような史実と引き比べてみるならば,ケプラーの構想の卓抜さ,そして先取権は,明りょうになってくる。しかも,「泉の水ではなくドナウ川の水を」とうたっているところが物理的に厳密であって,おもしろい。  海外旅行の手引き書に出ていることだが,ドイツやフランスの地下水はひどい硬水である場合が多く,したがって泉の水をそのまま飲料用に供するのはしばしば有害である。「ひげづらの兵士に娘さんが泉の水をくんでやる」というのはソビエトのうただ。ドイツやフランスの娘さんが兵士に泉のなま水を飲ませることがあるとしたら,その娘さんはレジスタンス運動の一闘士として兵士たちに腹痛の害を与えようとたくらんでいるのかもしれない。  筆者自身は,幸か不幸かそんな娘さんには遭遇しなかったけれども,バイロイトの宿でうっかりなま水を飲んだらたちまちやられてしまって,同地のワグナー劇場のまわりをひとめぐりするのも切ない有様だった。これにこりて以後もっぱらビールやワインを常飲することにしたのは,いうまでもない。関西の灘地方の良質の水があの美味な日本酒を生みだすという話を思い浮かべては,水質のこんなにも悪いドイツでどうしてこんなにもうまいビールやワインがつくられるのかと,いぶかしみもしまた感謝もしたことであった。  ちなみに,日ごろ洗濯などしたためしのない旧式の日本亭主が海外へ単身で(あるいは男性ばかりのチームで)出かけると,洗濯に難儀して平素の主婦の労を今さらのように認識するといわれるが,この難儀と認識とは水の質のわるさによって倍増されているのである。  ことほどさように,ドイツの泉の水の質はわるい。そのわるさの食物学的,家政学的研究はさておいて,物理学的,計測学的な立場とくに「計測標準のための物質」としての適否を考えるという立場からすると,ドイツの泉の水はひとかどのくせ者であると思わなければなるまい。  水の物性データ,たとえば凝固温度,沸騰温度,電気伝導度,比熱,粘度などはさまざまな意味で基準にされてきているが,硬水に関するこれらのデータは純粋な水(H2OH2O)に関するものとは,多かれ少かれ異なる。しかも,その差異の度合は硬水のかたさ(広義にはH2OH2O以外の不純成分の濃度)により,まちまちである。それをもって基準をさだめるのはどうも心配だ。  われわれが調べてきた水の“密度”についても事情はまったく同じである。こっちの泉の水と,あっちの泉の水とでは,あまさは同じであるとしても,不純物濃度の差による密度の違いがあるだろう。密度の基準を泉の水に求めるのは,たしかに思慮不足のことのようである。  ケプラーはこのような事実に思慮をめぐらせて泉の水を敬遠し,ドナウ川の水を採用したのであろう。ドナウの水の密度がはたしてどれほどに一定であったのか,またケプラーがそれについてどれほどの知見をもっていたのか,その点を筆者はくわしく述べることができなくて心残りであるが,ともあれ後代(一八六七1867年)ヨハン・シュトラウスがあの流麗な合唱つきワルツを書いた頃にもなお,ドナウは“青く,美しく”ウルムの町をうるおしていたのである。ケプラーの時代のドナウ川が字義どおりの“汚れを知らぬ”水をたたえていたであろうことは,証拠をあさるまでもなく信じておいてよいのではあるまいか。  なま水にうらみをこめてバイロイトを去った数日後に,筆者はリンツから舟でウィーンに向かった。舟べりから見るドナウの水は,シュトラウス・ワルツ集のレコード・ジャケットのカラー印刷のそれほどには“青く”もなく“美しく”もなかった。映画「第三の男」でおなじみのプラータ遊園地の大観覧車は公害性のもやの中からわれわれを迎えてくれた。  同市でそのとき開かれた国際会議(国際法定計量機関Organisation Internationale de M師rologie L使aleの総会)の見学旅行コースには,最近できたドナウ川上流の大発電所が含まれていて,ここ芸術の都ウィーンにもこの種の公益事業と,そしてそれと抱き合わせの公害の流れが,押し寄せていることを教えられた。筆者は,この見学旅行もすっぽかしオーストリア計量検定所の見学さえさぼって,もっぱらブラームスの像に見入ったり,ベートーベンの家のあたりで雷雨に出くわして感激したり,物理学者ボルツマンの墓を探訪したりしていたのであるが,同会議へ正規の日本代表として出席された方(当時の計量研究所長,玉野光男氏)のお話によれば,同地の計量検定所は最新の設備をもつ立派なものであった由。  筆者は今にして思うのである——所長が国際会議で副議長に選出され,壇上で緊張しておられるのを議席の片すみから眺めているばかりで結局何の役にも立たなかったのだから,あい間にこのドナウ川ぞいの現代的な計量検定所を訪問しておくべきであった。そこにはきっと効率のよい蒸留装置があってドナウの水をジャンジャン蒸留していただろうから。いや今となればドナウの水と限定する必要はないわけだ。どこの泉の水であろうと,イオン交換樹脂なり蒸留装置なりで純化してありさえすれば,それは標準の物質として立派に通用するのだから。 第六6話 花のパリの“王の足” はなやぐパリ  時は十七17世紀の末,所はパリ——絶対君主制の地歩を着々とかためつつあった太陽王ルイ十四14世治下のフランスの都は,年ごとにはなやかさを加えつつ,いちずに繁栄の道をたどっていた。ルーヴルの王宮は改築され,郊外には華麗壮大なヴェルサイユ離宮が造営される。バロック芸術は高潮の域に達し,科学は王立アカデミー(一六六六1666年創立)を拠点として近代化への歩みを進め始める。  重商主義の財務総監コルベールのもとに,パリの商工業も隆盛の一途をたどり,道路や運河の整備は商品の流通と人間の移動とに大きな便宜を提供するようになる。やがてフランス全土を統一する商業条例が施行され,地域社会的な商業慣行は次第に意味を失い,同業組合(コルポラシオン)(ギルド)の機能は官僚統制機構に組みこまれて追々に衰微してゆく。 「新たに誕生した国家はその統一の実を挙げるために度量衡の統一を必要とする(天野清,『明治度制の起原』)」——ルーヴルやヴェルサイユの主人たちは,このことの必要性をじゅうぶんに知っていた。十六16世紀の太閤・秀吉と同様に。  ヨーロッパの歴史をさかのぼれば,古く八8世紀にシャルマーニュ,すなわちフランク王チャールズが度量衡統一をくわだて,かなりの成功をおさめたという事績を知ることができる。その広大な版図にあまねく一1系統の度量衡をゆき渡らせようとして,シャルマーニュは標準のものさしを作り,それを王宮に保管させた。しかし,彼の治世の末期には早くも統一がそこなわれ始めた。封建諸侯はそれぞれの利害にマッチした度量衡を勝手に制定し,それを領内の法律でオーソライズしてしまう。諸侯が度量衡の全国的統一を望むはずはなかった。 一王,一法,一度量衡  歴世の王たち——といってもわれわれにはさっぱりなじみがないようだが——たとえばルイ十一11世,フランソワ一1世,アンリ二2世も度量衡の統一を試みたが,結果は上首尾とは言えなかった。アンリ二2世の場合については,こんな風である。  彼は一五五八1558年にひとつの案を三部会に上程するところまでこぎつけた。三部会というのは,旧体制下のフランスの三3つの階級すなわち僧族,貴族,平民のそれぞれの代表で構成されていた全国的な代議員会であって,その第一回は,一三〇二1302年パリに召集されたというから,おこりはたいそう古いわけである。当初にはかなりの政治的実権をもっていたこの三部会も,王制の基盤がかたまってくるにつれて次第に弱体化し,王からの諮問に答える機関,ないしは王権がみずからの危機に際して支持を要請するための機関になりさがっていった。  この三部会がフランス大革命直前の一七八九1789年に,実に百七十170余年ぶりに召集されたことは,革命史冒頭の重要な史実として知られている。  同年六6月,三部会は“国民議会”に変容するが,これは平民(いわゆる第三身分)がみずからの手でなしとげたものであって,国王の法律的権力はここにおいて国民の代表の側に移る。  続いて七7月,議会の名はふたたび改められて“立憲国民議会”となる。のちに述べるが,メートル法の原則がタレーランによって提唱されたのは,この立憲国民議会の壇上においてであった。さて,その間にも事態は急テンポに進み,ついに下層庶民も蜂起し大挙してバスチーユの獄を襲う——同年七月十四日7月14日のことであった。後年の日本でこの日を“パリ祭”と呼ぶようになったことは,ご承知のとおりである。  一五五八1558年の三部会のころ,王権はいわばのぼり坂をたどっていた。革命の機運などはもちろんいっこうに熟していなかった。時の王アンリ二2世は,革命というようなこととはおよそ無関係なままに,三部会を召集しえたわけであって,その意味でなら彼はしあわせな君主のひとりであったと言える。そしておそらく彼は,彼の提案する度量衡統一案が全国の三3階級からの代議員によって支持されると期待していたであろう。当時の三部会の役目は,王の提案を支持することにこそあったのだから。  しかし,その提案——フランス全土の度量衡を首都パリのそれに合わせること——が,すんなり受け入れられるほどに世間は甘くはなかった。当時の世間のきびしさを叙述するには,次のような言葉を借りてくるのがもっとも適切であろう—— 「度量衡改革の議は“一王,一法,一度量衡”という標語にたくみに織りこまれて,三部会への提案としても一度ならず表明されたのであったが,貴族たちの保身的反対や同業組合からの圧力,そして当時はびこっていた無秩序から何らかの便益を受けていた連中の抵抗によって,絶えず妨げられた」(アンリ・モロー) パリ城郭のトワズ尺  さて,太陽王ルイ十四14世がヴェルサイユ離宮の造営に情熱を傾けていたころのパリは,政治・経済・産業・芸術・学問の一中心地として,なかんずく“商品”と“人間”の流通の要衝として,独特な意味をもち始めていた。度量衡の統一もまた,王権の拡大を象徴すること以外に,この時代にふさわしい独特な意味をもち始めるのである。  新しい意味とは何か。それは,太陽王の時代のパリの標準のものさしのありさまの上にいみじくも反映している。この時代に整備された標準のものさしは,シャルマーニュの時代のように王宮の中にしまいこまれたりはせず,パリの町中で白日のもとにさらされ,市民のだれもがそれを自分の用に供することができるようになったのである。  この標準尺の長さは今日の単位で表わせば一・九五1.95メートルほど,つまりほぼ二2メートルであった。名づけてトワズ・デュ・シャトレ(Toise du Ch液elet),シャトレとはとりでの意味だから,このものさしは“とりでのトワズ”と呼ばれていたわけである。そのいわれはと言えば,この標準尺が市内のグラン・シャトレ(大とりで)の階段のすその外壁に備えつけられていたからである。  それがとりでの壁に備えつけられた一六六八1668年いらい,自分のものさしを検査したいと思う市民は,望みの時にこの場所へやって来て,自分のものさしをこのトワズ尺にあてがってみればよいようになったのである。  グラン・シャトレはプチ・シャトレ(小とりで)とともに,パリのシテ(セーヌ川の中の島,パリ発祥の地)に渡るふたつの橋の守りをかためていた。  このような交通(したがってまた軍略上)の要地に度量衡の標準器を備えつけて市民の用に供するということは,イギリスをはじめヨーロッパのいくつかの都市で行なわれていた。西ドイツ,ブラウンシュワイク市の旧市役所の玄関口に取りつけられたエルレ尺は今もそのままに保存されている。西ドイツのこの方面の担当機関(連邦・物理工学研究所,Physikalisch-Technische Bundesanstalt)は,第二次大戦後ここブラウンシュワイクを本拠とするようになったが,同研究所の職員の案内で市内見物をする人は,たいていここへ連れて行かれて昔の標準尺の話を聞かされる。 トワズ尺,海を渡る  パリのグラン・シャトレは一八〇二1802年(大革命のさなか)に破壊され,標準尺トワズ・デュ・シャトレも失なわれてしまった。しかし幸いに,この標準尺の写し(コピー)がいくつか作られていた。そのうちで有名なのが,トワズ・デュ・ペルー(Toise du P屍u)とトワズ・デュ・ノオル(Toise du Nord)のふたつである。ペルーは南米の国,ノオルは北方の意味である。なぜこんな名前がつけられたかというと,前者は赤道直下のペルーで,後者は北極に近いラップランドで,測量のために用いられたからなのである。  これらの遠征測量は,地球の形を研究する目的のもとにパリの科学アカデミーの事業として行なわれた。くわしく言えば緯度差一1度に対応する地表上の弧の長さが,赤道付近と極地付近とで等しいかどうかを調べたのである。それらがたがいに等しければ,「地球は球の形をしている」という説がはっきり検証されることになり,逆に等しくなければ「地球は回転だ円体の形をしているという説に軍配が上がることになる。  回転だ円体だとしても,赤道に沿う周囲の長さと子午線に沿う周囲の長さとでどちらが大きいのかについては,かねてから説が分かれていて,実地の検証が望まれていた。この大測量の結果,「回転だ円体の説」それも「赤道に沿う周囲のほうが長いという説(ニュートン)」にがい歌があがり,地球物理学の歴史の上の新しい時代が開かれてゆくことになるのだが,われわれはそっちのほうの話に“遠征”してはいられない。  ただし,この遠征測量がパリの科学アカデミーの指揮のもとで実行されたという点には,注意を払っておくべきだろう。このアカデミーがルイ十四14世の治下で創立されたことはすでに述べたとおりだが,同アカデミーがメートル法の基礎がためのために偉大な貢献をすることを,われわれはすぐあとで見ることになるだろうから。  遠征測量が始められたのは一七三五1735年であった。学者のはたらき,とくに学者の“集団”のはたらきが,世間の耳目を集めたり世間につよく影響を及ぼしたりするようになったのは,この時分からだと言えるのではあるまいか。われわれの『単位の進化』の中では,およそ一1世紀前の一六二〇1620年代のケプラーのはたらきが目にとまるけれども,ケプラーのはたらきはいかにも“個人プレー”のスタイルで進められている。  学者のはたらきの推移に注目する意味で,遠征測量“隊”の主要メンバーをここに書きとめておこう。ペルー隊にはブーゲ(P. Bouger),ラ・コンダミーヌ(Ch. M. de La Condamine),ゴダン(L. Godin)が,そしてラップランド隊にはモーペルテュイ(P. L. M. de Maupertuis),クレイロオ(A. C. Clairaut),またセルシウス(A. Celsius)がいた。  必ずしも第一級の有名学者ばかりではないが,前にあげたフランソワ何世とかアンリ何世とかいう王たちよりは,ずっとなじみ深い近代科学者の名がここに見出される。“測定”のことに関心を寄せているわれわれにとっては,光度計のブーゲ,温度目盛のセルシウスのふたりの名が,とりわけて親しみ深く思われるではないか。 地球はまるくないというが……  地球がバスケット・ボールのボールのような球ではなく,回転だ円体であるということはこのようにしてわかってきたのであるが,だからといって地球をラグビーのボールのようにとがったものだと考えるのははなはだしい見当はずれである。  具体的なイメージをとらえていただくためには,地球のミニアチュアの断面図をご自分で作図してごらんになるとよいだろう。だ円の作図だから正式には画びょう二2個と糸一1本が必要なのだが,何もそうあわてて道具を準備なさらなくてもよい。まずはコンパスだけで見当をつけてみることにしよう。  縮尺は一億分の一1億分の1とする。半径六三・八63.8ミリメートルの円と半径六三・六63.6ミリメートルの円とを,同じ点を中心にして——つまり同心円として——作図していただきたい。そして,円の中心を通る十字線を引く(教科書ふうに言えば,円の中心を通りたがいに直交する二2本の線分を引く)。左右にのびる線と“大きい”ほうの円との交点をA,A′A′とすれば,A,A′A′は赤道上の点になる。いっぽう,上下にのびる線と“小さい”ほうの円との交点をB,B′B′とすれば,それらが北極および南極になる。そこで,A,B,A′A′,B′B′,Aとなめらかに,ふたつの円の間をすりぬけながらつないでゆけば,子午線面で切った地球断面のミニアチュアができ上がる。  右の一節のような記事は,どれほどおもしろおかしく書いたところで,しょせん教科書臭から脱却しきれるものではない。したがって“ものぐさ”な読者は,コンパスを持ち出すどころか,右の一節を読むことさえ敬遠なさるだろう。まことに失礼な言い草だが,そういう読者にとって,右の一節のトリック的なおもしろさは無縁であると申し上げなければならない。まことに残念なことだが……。  上の一節のような記事は,どれほどおもしろおかしく書いたところで,しょせん教科書臭から脱却しきれるものではない。したがって“ものぐさ”な読者は,コンパスを持ち出すどころか,上の一節を読むことさえ敬遠なさるだろう。まことに失礼な言い草だが,そういう読者にとって,上の一節のトリック的なおもしろさは無縁であると申し上げなければならない。まことに残念なことだが……。  読者のコンパスの先はじゅうぶんにするどかっただろうか? それをぐるっとまわす時に,中心点はぐらつかなかっただろうか? 半径がわずか〇・二0.2ミリメートルしか違わないふたつの円を美しい同心円として仕上げることのできる方があったら,筆者は少なからぬ尊敬の念を抱くであろう。  地球が球で“ない”といっても,その“球からのずれ”の度合いはこんなものなのである。縮尺一億分の一1億分の1で地球の断面をえがこうというのであれば,先が〇・二0.2ミリメートルほどに太くけずられたコンパスで“円”をえがけばよろしい!  もともと作図のきらいな方のために,あるいは,右上の練習問題で作図の腕に自信を喪失された方のために,今度は計算問題をさし上げることにしよう。それは,「右上に述べたふたつの円の円周の長さの四分の一4分の1を求めよ」というものである。四分の一4分の1というのだから,図の十字線で切られた円弧,すなわち中心から見て九〇90度の範囲内に含まれる円弧の長さを求めよということである。  ついでにそれを一1億倍していただこう。その答は,実際の地球表面の上の弧の長さを推定するのに役立つわけである。そしてさらにその答を一〇〇〇1000万で割っておいていただきたい。正解はこの本のあとのほうのどこかでお示しすることになるだろう。この問題が“メートル法の歴史”の上のひとつのハイライトになるのである。 僅かなずれを追い求めて  従来のほとんどすべてのもっとも偉大な科学上の発見というものは,正確な測定と,その測定結果の数量をごく微小なふるいの目にかけてより分ける辛抱強い長い間の労働とに対する報酬にほかならざるはなかった。 ——ケルビン卿(Lord Kelvin)   めんどうな作図や細かい計算を強制してしまって恐縮であるが,ブーゲ,ラ・コンダミーヌ,モーペルテュイ,クレイロオといった連中は,要するにこの程度の“球からのずれ”を検証すべく,あるいは赤道直下であるいは北国のはてで,骨の折れる測量作業をあえてしたのであった。 “球からのずれ”——それは,われわれの作図の上ではほとんど見きわめられないほどに“僅か”なもの,日常的にはほとんど問題にならないほど“僅か”なものなのである。しかし遠征測量隊にとっては,その“僅か”なずれを“見きわめる”ことこそが“問題”であったのだ。  僅かなずれを見きわめること——ここには,十九19世紀的なケルビン風の言い方でなら「精密科学(exact science)」と「精密技術(precision technics)」との,現代的な言い方でなら「計測学」の重要課題のひとつが提示されている。遠征測量隊の力量や装備は,まさにこの課題にこたえうるだけの水準に達していなければならなかったのである。  測量隊の力量のほどは,先に書いた学者リストから推察できるとおり,決して低いものではなかった。では装備のほうはどうだっただろうか。測量隊の装備で何が大切かといえば,「長さ」の測定器と「角度」の測定器とがただちにあげられる。角度測定器についてはくわしく述べることができないが,天文観測—→角度測定—→それらの歴史の長さ——と連想の糸をたどってみれば,この時代の角度測定技術のレベルは相当に高かっただろうと思われる。  問題はむしろ「長さ」測定のほうにこそあった。測量では,いわゆる基線の長さの測定が決定的に重要である。ペルー隊が用いた基線測定装置は,その頃あらたに考案された独特のものだったそうだが,その種の測定のおおもとの基準がどんなものであったかと言えば,ほかならぬトワズ・デュ・シャトレ——例のパリのとりでに備えつけられていた鉄製のものさし——がその役を果たしていたのだった。  それは,一六六八1668年にそこへすえ付けられて以来,雨風にさらされてさびてしまったばかりか,時を選ばぬ市民たちの“共同利用”のせいですっかりいたんでしまっていた。作図の問題で体験していただいた程度の僅かな差を見きわめるための基準のものさしとしては,はなはだたよりないありさまだったのである。  このようなありさまだったからこそ,トワズ標準尺の写し(コピー)がいくつも作られたのであるが,中でも遠征測量用の標準尺は,ラングロワ(Langlois)という人の手で念入りに仕上げられた(一七三五1735年)。担当者ラングロワの名は,別のところ(第七7話)で述べるルノワールと同様な意味において記憶されるべきであろう。  ラングロワが作った標準尺のうち,いわゆるトワズ・デュ・ペルーは,遠征測量の大任を果たしたのち,パリの科学アカデミーに収められ,のち一七六六年五月十六日1766年5月16日づけでフランスの法定標準尺に採用された。もとのトワズ・デュ・シャトレが一八〇二1802年の動乱で失なわれてしまったことを前に書いたが,実はその時すでに,トワズ・デュ・シャトレは公式の標準器の資格をトワズ・デュ・ペルーにゆずり渡してしまっていたわけである。  このトワズ・デュ・ペルーが,「メートル」の設定に際して大活躍をすることになるのだが,その話は次の章にゆずり渡すのがよかろう。トワズ・デュ・ペルーは今もパリの観測所(オプセルバトワール)にきちんと保管されている。 花のパリの“王の足”  われわれは,トワズと名づけられたものさしの活躍ぶりをかなりくわしくたどってきた。そしてこのトワズから,次の時代の「メートル」がつくり出されてゆくありさまに目を移そうとしているのであるが,この場であっさり“トワズの章”を閉じてしまおうとしても,どことなく未練がつきまとう。釈然としないものが残るのはいったいなぜなのだろうか。  その理由は,こんなにも活躍し,こんなにも尊重された“トワズ”というものさしの,あるいは“トワズ”という“単位”の,起源や来歴をわれわれが話題のそとにほうり出してしまってきたからなのだ。  ウルムの町の度量衡を整備するにあたって,ケプラーが“旧来”の度量衡にじゅうぶん気を配ったことを,われわれは前に学んだ。単位の歴史のうえであれほどに大きな意義をもったトワズにも,それなりの由緒ただしい系図があるのではないだろうか。  さて,この種のせんさくとなれば,例のアルベルチ氏にたよるのが一番の早道であろう。もう一度あの厚い本を取り出して「フランスにおける度量衡の発展」の一節を眺めてみよう。  予想のとおり,くわしい考証がくりひろげられている——フランスの好事家(フイロローグ)ビュデいわく,ドイツの近代科学技術の開祖バウエル(ラテン名アグリコラのほうで知られている人)いわくという調子で,近世フランスの単位と古代ローマの単位との関係(というよりは食い違い)が論証されているが,肝心の“トワズ”については,それがパリのシャトレに備えつけられたことの他には,次のようにしか書かれていない。 「その全長はほぼ一・九五1.95メートルであった。この長さの由来は,まったく不明である」  あの調べ魔アルベルチがこうもぶっきらぼうに投げ出してしまっている以上,われわれにどんなせんさくができるというのだろう! 釈然として“トワズの章”を閉じようというわれわれの悲願? は,ついに満たされることはあるまい。  ただしひとつの突破口はある。アルベルチにたよるまでもなく,いろいろな本で知ることができるのだが, 一1トワズ=六6ピエ・ド・ロワ という簡単な関係があったことは確実である。ピエ・ド・ロワ(Pied de Roi)——これを直訳すれば“王の足”である。ペルシアの長手王の話をはじめ,“王さま”の手や足の寸法に結びついた単位のことをわれわれは何回となく聞かされてきた。現にこのピエ・ド・ロワが長手王の時代の単位キュービットの二分の一2分の1にあたると見る説もある。  ルイ王朝下,政治・外交・経済・商工業・芸術,そして科学と,万事がけんらんとした光を放ち始めた時代の,花のパリのどまん中に,“王の足”と結びついた単位トワズの標準尺が鎮座していたのだ! どこの王さまのどの足の長さと関係があったのかもよくわからぬままに,市民はそれを尊重して自分たちのものさしを検査していたのであり,また遠征測量隊の学者たちもこの単位の写しの標準尺をよりどころにして,地球物理学上の意義深い知見を獲得したのであった。 「パリの単位は,それをすべての人に強いるべきものと考えようとしても,それに値するだけの優位性をすこしも備えていなかった。しかも標準器が損傷すればたちまちにして統一は失なわれるではないか。その時あらためて標準器を作るのだとしたら,われわれの望むところとは反対に,混乱は以前にもまして累加されるではないか。  ここにおいて待ち望まれるのは,科学の手によって天然の標準器が確立されること,そしてまた必要により標準をたやすく再現するための方法が明らかにされること——このふたつである。それは,十七17世紀の後半に至ってようやく芽をふいた」  メートル法の歴史の根本資料を集大成したビグールダン(G. Bigourdin)は,著書(Le Syst塾e M師rique..., son Etablissement et sa Propagation Graduelle...,一九〇一1901年)の序章において,右上の意味のことを述べ,ただちに筆を進めて“科学の手による単位”の創造の歴史の叙述に入ってゆく。  われわれも,トワズや“王の足”のおこりへの未練をふり切って,次の話に進むこととしよう。 第七7話 単位はひとびとの手に 旧体制下の無政府状態(ア ナ ー キ ー)と革命下の統一運動  この見出しには四4つの要素——旧体制,無政府状態(ア ナ ー キ ー),革命,統一運動——が含まれているが,それら四4つのつながり具合はいささか奇妙である。普通の,すなわち多くの場合“政治”中心の,歴史の本の見出しであるなら,旧体制と統一,革命と無政府状態という風なつながりになるに違いない。  四4つの要素の並び方が対角線的にかけ違っている点——数学の行列の話みたいであるが——,そこにわれわれの“単位”の歴史の特徴とおもしろさがある。 「いつの世にも,社会的交流のあるかぎり,商業取引が円滑にまた不正なく行なわれるためには,度量衡が必要である。しかし,十六16世紀の末の事情はこの目標の達成にはほど遠く,各種各様の単位があって収拾するすべもない混乱状態をひき起こしていた。単位は,国ごとに異なり,州ごとに異なったのみでなく,都市ごとにさえ異なり,また同業組合すなわちいわゆるギルドごとにも異なっていた。  このような事態が,不正・詐欺ないしは果てしない不和やいさかいをひき起こし,かつ科学の進歩をいちじるしく妨げたということは,申すまでもない。  この事態にあって,問題に学問的根拠を与え,かつ完ペキな改革を成就させるには,何が必要であったか。ひとつには,一七八九1789年のフランス革命がなしとげた偉大な転換,すなわち封建制と王制とをあとかたもなく消滅させることを目標としたあの大革命であり,ふたつには,このようなひたむきの前進が国際的意義をになっているのだということを,現実において示したフランス科学者の意欲であった」 (アンリ・モロー)   大革命とフランス科学者とがなしとげたもの——それは,いうまでもなく“メートル法の創始”であった。  さて,この大事業を叙述するにあたって筆者は一体どんな語り口を借りたらよいのだろう。歴史のあらすじはわが国のメートル法普及運動のためのパンフレットなどを通じて,すでにひろく知られているであろう。しかも先年,小泉氏の著者『度量衡の歴史』が公にされ,メートル法の正史を日本語でくわしく読むことができるようになった。どんな仕事が筆者のペンのために残されているというのか。  筆者は,前掲モローの所論のなかに指針を見出しうると考えた。“あの大革命”がメートル法創始にとって“どんなふうに”必要であったのか。「科学者の意欲」がこの大事業を“どんなふうに”リードしたのか。この二2点に目をそそぎながら,第七7話から第十10話までを——“人間文化史”と呼べるようなスタイルに仕上がることをひそかに念願しつつ——綴ってみたいと思うのである。  さて,この筋書きにそう話のいとぐちを,わが国のメートル法運動の大先輩・田中館愛橘先生にお願いしよう。 世界の精神を傾けるために——田中館先生のアッピール 「さて,度量衡とは三つの漢字で書いてあるが,実は普通の人にはそれが何の事かよくわからない。“度”とは物差しのこと,“量”とはますのこと,“衡”とは天びんのことである。  これらをどこへ行っても同じもので通るようにしたら,学問の事はもちろん,商売でも,また機械や建物に使う材料などにも非常に便利になる事はずっと前から考えられていて,エジプトやギリシアの盛んな時代から色々な人がそれを論じたのであるが,いよいよこれをまじめになって,これまであるものをすてて,世界中同じものを使う事にしようと腹を定めてかかったのは一七九〇1790年にフランスの議会でタレーラン・ペリゴールという人が,度量衡統一に関する動議を出して,それが議決された時に始まるといってよい。  ——そこで上の決議を実行するために即刻フランスの学士院に特別委員会を設けてその方法を調べさせた。委員の議した問題の中で一番大切なものは長さの単位を何に基づけるかというのであった。これについては二つの案があった。一つは,四五45度の緯度において一1秒を振る単一振子の長さをとること,次は地球の赤道から極までの長さを測ってそれの一〇〇〇万分の一1000万分の1をとることであった。  前者は実験が簡単で,まずパリ天文台で測定して,それから四五45度の価(ママ)を計算して導き出すのであり,後者は,地球の赤道から極までの子午線の長さの約一〇分の一10分の1の処をしっかり測って,それから子午線の一〇〇〇万分の一1000万分の1を割り出すのであった。  この前者は後者に比べて仕事が大層楽でまた早くできることは,だれにもわかる通り委員もそう思ったのであったが,中にひとり“世界中の国々すべてに同じ物差しを使わせるようにしようというのは途方もない大仕事である。この大仕事を世界にうなずかせようというのは容易な事ではない。これにはそれ相当の大仕事をしてそれの大切な事とそれをまじめにやるという決心とを示すにふさわしい事をしなければならない”というのがあって,皆これに賛成し,これを行なう目論見(もくろみ)を立てて,翌年の三月に政府に報告した。すなわち世界の精神を傾けるためにこの大仕事をする事になったのである」  右上の引用は『岩波講座 物理学及び化学』,第一回配本の五5(昭和四年六月4年6月),科外特別題目(一),“メートル法の歴史と現在の問題”から。編輯雑記によれば,「田中館博士は貴族院議員,東大名誉教授でメートル法実施にもっとも熱心に尽くされており,現に国際委員として活動せられております。同先生は去る五月十六日5月16日東京を出発,パリに向われました。置きみやげとして残されたのが,メートル法の歴史と現在の問題です。御旅行のプログラムをうけたまわりますと,六月四日6月4日からパリの国際メートル会議……」とある。  田中館先生は一九〇七1907年いらい国際度量衡委員としてながく活動してこられたが,記録によれば昭和六6年(一九三一1931年)には同委員を辞され,かわって長岡半太郎先生が就任された。この講座記事を置きみやげに残して出席された昭和四年五月4年5月の国際委員会は,田中館先生にとって最後の出席の機会となったもののようである。しかしその後,長逝されるまで一貫してメートル法運動に尽力されたことはよく知られているであろう。  右上の講座記事は,先生のお人がらのよく反映した,いきのいいアッピール文だと言えよう。文中の史実の記載には多少の訂正・加筆を要するところがあるけれども,そんな末梢的なせんさくは筆者ごときものにのみふさわしいのであって,われわれは右上の文の中に先覚者たち——すなわち一七九〇1790年代のフランスの政治家・学者たちと,それから昭和初年の田中館先生——の雄大な意想をこそしっかりと読みとるべきである。なお,田中館博士のアッピールに出てくる“秒振子”については終章で述べる。 はと派の思想家コンドルセ壇に立つ  さて,筆者の自任するせんさく業を開始しよう。まずタレーランが提案を出した“議会”とは,くわしくは“立憲国民議会”——例の三部会から“国民議会”を経て一七八九年七月1789年7月に成立したものである。決議実行のための委員会については,その主要メンバーをここにあげておくことにしよう——。ペルー,ラップランドの遠征測量隊に比べると,ぐっと“大物”化していると思われるので。  ボルダ(Jean Charles Borda),モンジュ(Gaspard Monge),ラプラス(Pierre Simon de Laplace),ラグランジュ(Joseph Louis Lagrange),クーロン(Charles Augustin de Coulomb)そしてラボアジェ(Antoine Laurent Lavoisier)——いずれも“だれそれの定理”とか“だれそれの法則”とか“だれそれの方法”とかいう呼び方でちょいちょいお目にかかる名前であるだろう。  ところで,委員の中にやや異色な人物が含まれていた。それはコンドルセ(Marquis de Condorcet)である。数学なども勉強し三体問題に関する論文でアカデミー会員になった人だそうだが,現代の理工系の人間にはあまり縁がない。むしろ哲学や教育の方面のかたのほうがよくご存じであろう。いわゆる“百科事典派(アンシクロペデイスト)”の啓蒙思想家であり,著者『投票による決定の確率』の思想を実行に移そうとして政治に入り,革命の前半期には政治上のリーダーとしてもかがやかしい活動をしたが,いわば“はと派(ジロンド)”であったため,のちに投獄され“未来をバラの花の中に望みながら”自殺した。  このコンドルセは,メートルやキログラムを決定するための実験には参加しなかったせいでもあろうが,メートル法の歴史のうえではあまり“大物”視されてこなかったようである。実を言えば田中館先生の記事で「中にひとり“世界中の……”というのがあって」と無名あつかいされたそのひとりが,このコンドルセなのである。  貴族院でメートル法普及を唱えられた田中館先生と,立憲国民議会でメートル法創始を訴えたコンドルセと,このふたりの学者の間の親近の度はかなり高いと思うのだが,どうして無名あつかいなさったのか,むしろ不思議な感じがする。コンドルセが“はと派”だったからというわけではよもやあるまい。ともあれ,理科のことにも通じていたこの文化人・政治家コンドルセは,メートル法創始の大事業を“世の中”へ手際よく持ちこんで,いわゆる“根まわし”をした点,ひとかどの人物であったに相違ない。  コンドルセの主張の眼目は,田中館先生が講座記事の中でずばりと要約なさったとおりなのであるが,筆者は役目がらコンドルセの演説の一部を日本語になおしてご紹介しておきたいと思うのである——その格調の高さを伝え切れないであろうことは承知のうえで。 「科学アカデミーの御推挙にしたがいここに測定単位選択の件に関し御報告申し上げることは,小生の光栄とするところであります。(中略)アカデミーの提案する事業は,いまだかつて例を見ぬ大規模のものでありまして,その遂行の任にあたる国家に対しアカデミーはふかく敬意を表する次第であります。  さてアカデミーは,かりにも独善的と見なされかねまじき事情,すなわちフランス固有の便益や国家的偏見をうかがわせるごとき事情はことごとく排除すべく,大いに意を用いて参りました。この事業の原則あるいは細目が後世に伝えられるということはあり得ましょうが,そもそもいずれの国がそれを建議し実行に移したのかは判別しがたくなるでありましょう。度量衡統一の事業の意義はまことに大であります。すべての人の意にかなう単位系を選択することが肝要なのであります。  この事業の成否は,一(いつ)にかかってこの単位系がよって立つところの基盤の一般性の有無に帰するのでありますが,その点に関しアカデミーの見解を申し述べますならば,旧来の度量衡に準拠することはもちろん当を得ず,さりとて振子を用いる簡略な測定実験をもって満足すべきものとも思われません。(中略)文明の開化と人類の友愛の進歩をめざす立憲国民議会の高邁な理念を顕現すべきこの大事業が,アカデミーの応諾に値しないはずはないと,アカデミーはみずから確信する次第であります」  アカデミーの提案を認可し,所要の指示を与えた布告は一七九一年三月二十六日1791年3月26日づけで可決され,その四4日後発効した。  学者たちはいくつかの小委員会を編成してそれぞれ受け持ちの実験の準備にとりかかった。 逃亡前夜のルイ王,天文学者カシーニと対話する  実験担当委員の顔ぶれが確定したのは一七九一1791年の春,くわしくいうと,名簿が議会で承認されたのは四月十三日4月13日,名簿が国王ルイ十六16世のもとに受理されたのは六月十九日6月19日であった。こんな日付はいかにもささいな事のように思われる。しかし,この六月十九日6月19日は,ルイ王にとっては一生の大事の前日にあたっていたのである。  革命は嵐のようにつき進んでいた。王はかねてからパリ脱出をくわだてていた。その準備は王党派の要人によってひそかに進められ,決行は六月二十日6月20日深夜という計画のもとに手はずが整えられていた。  脱走は予定どおりに決行された。二十20日夜,王は召使の身なりに姿を変え家族とともに馬車でパリをぬけ出しヴァレンヌというところまでのがれたが,途中で見とがめられ,同二十五25日,兵士たちがさかさまに捧げる銃の列——喪のしるし!——の間を通ってパリへもどる。  この逃亡は,ルイ王がヨーロッパの列強の支援を誘い出そうとしてたくらんだもので,世にヴァレンヌ逃亡の事件と称するが,帰路の有様は“王制の葬式”そのものであった。  この大事をたくらんでいた王が,決行はいよいよ明日に迫るという日に,例の委員名簿の奏上を受け,また委員諸公に拝謁を許したのである。向こう見ずなプランの実行を翌日に期しているとは思えぬほどの落ち着きと冷然さを見せながら,王は,まわりに並んだ委員諸公と言葉をかわした。  カシーニ——彼はドランブルやメシェン(後述)とともに子午線測定を担当することになっていた(実際にはそれに参加せず,ボルダとともに秒振子の実験を担当した)。——そのカシーニと王との対話は,こんな風だった——  ルイ王「子午線の測定をまた始めようとのことに聞いたが,この測定はそなたの父や祖父がかねてすませていたのではなかったか? そなたはもっと上首尾にやる自信をもっておるのか?」  カシーニ「陛下,父や祖父の時よりも多くの便宜がこのわたくしに与えられておりませんでしたなら,もっと上首尾に仕とげてご覧に入れるなどと申し上げるはずはございません。  父や祖父の使いました測定器は,角度を測りますのに十五15秒程度より細かいことは定めがたいものでございましたが,ここに列席しておりますボルダ殿の考案された測定器のおかげをもちまして,わたくしは一1秒という細かさで角度を測ることができるのでございます。わたくしに歩(ぶ)があると申し上げますのは,ほかならぬこの点についてでございます」  イタリア出身のカシーニ家は,音楽におけるバッハ一族に似た,天文学の名家系をなしていた。一六八三1683年からの,あるいは一七三九1739年からの,かなり大規模な子午線測定が,この家系の人によってなされている。メートル法のための実験を担当したのは一七四八1748年生まれのカシーニ(Jacques Dominique Cassini)。 名匠ルノワール腕をふるう  子午線測定を命じた布告の発令いらい十五15ヵ月が過ぎた。機械技師ルノワールは,いろいろな角度測定器のほかに基線測定用の白金製ものさしや,秒振子実験装置の部品も製作しなければならなかったので多忙をきわめていたが,この頃にはボルダ式の反覆経緯儀四4つと放物面鏡つきの信号灯いくつかをようやく完成することができた。  このルノワール——“色彩の魔術師”と呼ばれた印象派の画家Renoirとは一1字違いのLenoir——は,この種の科学機器の製作と取り扱いにかけては腕ききの技能者であったとみえ,右に列挙したもののほかにも,よい仕事をどっさりなし遂げた。  ボルダやラボアジェが受け持った膨張率測定実験(一七九二1792年ごろ)には全面的に参加したし,一七九五1795年完成の暫定的な黄銅製メートル標準器(le M春re provisoire)の製作にも腕をふるった。特筆に値するのは,ルノワールが作ったいくつもの比長機(ものさしなどの長さを比較測定するための装置)である。  新しい標準尺たとえば右に書いた暫定メートル(メートル・プロビゾワール)ができ上がって,それを古い標準尺と比較するような場合には,例外なくルノワール作の比長機が用いられた。のみならず,とくに重要な比較測定実験は,ルノワール自身の手で実行されている。  この種の重要な実験の記録は,文書保管所に収められており,そこには,実験責任者のサインが書きとどめられている。そこで,当然の成り行きとして,“責任者(サインした人)”の名は後の書物にたびたび麗々しく記載されることになり,やがては“責任者名”というよりもむしろ“功労者名”としてながく伝えられるようになる。  ところが,責任者の資格でサインをしているのは,もっぱら学者であって,技能者たとえばルノワールのサインの入った記録文書というのはきわめて少ないようである。暫定メートルにしても,製作はルノワール,旧尺度(既述,第六6話のトワズ・デュ・ペルー,このころ科学アカデミーに保管)との比較はルノワール作の比長機,しかもチェックのために採用した二2本の旧トワズ尺はルノワール所蔵品というふうであって,ルノワールの寄与は顕著なのであるが,こうしてでき上がった暫定メートル標準器(現在はパリの工芸館に保存されている)への記銘は,「極より赤道に至る距離の一〇〇〇万分の一1000万分の1に等しきメートル,アカデミーのトワズ尺により検度……,パリ,共和暦第三3年草月(プレイリアル)二十一21日,ボルダ,ブリッソン」とあるばかりで,ルノワールの名はいっこうに出てこないのである。  ボルダ,ブリッソン両人は高名の学者であって,アカデミーのメートル法運動(プロジエクト)の第一歩から参画していたのであるから,標準尺に銘が残るのは当然なのであろうが,ルノワールの名がさっぱり表に現われないのはどうも不当なことのように思われる。  名匠ルノワールは,のちの確定メートル原器(le M春re d伺initif)——これも文書保管所に収められたので“アルシーヴのメートル(メートル・デ・ザルシーブ)(le M春re des Archivs)”と呼ばれる——の整備についても余人のなしえぬ貢献をした。メートル・デ・ザルシーブのこと,それが立法府に献呈された時のことを,われわれはあとで知ることになるだろう。  名技能者ルノワールのはたらきはまだまだ続く。一八一〇1810年にはザクセン王国(今の東ドイツの一地方)のために鉄製メートル尺を作った。その箱のふたには「科学用機器技師,パリ,ヴァンドーム広場通り……」と,肩書から住所まで書きしるしながら,銘となると相変らず「ルノワール」と姓しか書きとどめていない。  この技能功労者に敬意を表すべく筆者はその他にもいろいろ調べてはみたのだが,彼のフルネームはどうも定かにできない。M・アレクサンドル・ルノワール(一七六二—一八三九1762—1839年)というのが人名事典にあるが,これは別人らしい。 第八8話 “メートル”をたずねて三千里 似たもの同士の学者,旅に出る  さて,ルノワールの手に成る経緯儀その他の測量器具をたずさえて子午線測定の旅に出かけたのは,ドランブルとメシェンのふたりであった。かれらは,科学アカデミーの会員(アカデミシヤン)であったし,この測量のほかに天文学などでも立派な仕事をしたので,その生涯や業績はくわしく伝えられている。まずフルネームを書いておこう。ジャン・バチスト・ジョセフ・ドランブル(Jean Baptiste Joseph Delambre)とピエール・フランソワ・アンドレ・メシェン(Pi屍re Fran ?ois Andr� M残hain)——名前からしてなかなか立派な響きをもっている。  しかしかれらは,タレーランのような聖職者でもなく,コンドルセのような貴族でもなく,カシーニのような学者の家の出でもなかった。一七四九年九月十九日1749年9月19日アミアン生まれのドランブル,一七四四年八月十六日1744年8月16日ラオン生まれのメシェン,いずれも若い時には家庭教師をして生計を立てた。学問に志しながら環境に恵まれない人が家庭教師となって糊口をしのぐという話は,キュリー夫人に限られているわけではない。  ほどなくふたりともパリ科学アカデミーの会員になる。しかし,革命の進行につれてこの王立アカデミーは旧体制の遺物ときめつけられ,大御所ラボアジェのとりなしもむなしく一七九三1793年に解組される——過激派の絶叫するダンコフンサイの声はよほど高かったのであろう。それにかわる機関として同九五95年に国立学術院(アンスチチユ・ナシヨナール)が編成され,ふたりともそのメンバーとなる(ついでながらこのアカデミーは十九19世紀に復活され今も高い権威を保っている)。また後年には両人とも緯度観測所で仕事をした。  非常によく似た経歴をたどってきたドランブルとメシェンとは,気質のうえでも少なからぬ親近性をもっていたようである。すなわち,情報を収集し記録し体系化することは両人の得意のわざであったし,また文筆活動も両人の愛好するところであった。  この,似たもの同士のふたりが,メートル決定のための大測量作業を受け持つことになり,指令が出されてから十五15ヵ月間,測量用具の整備の終わるのを待ちに待っていたわけだが,かれらが待ち望んでいたものがもうひとつ別にあった。かれらは,王庁から下付されるはずの“お墨付”の到来を待ちこがれていたのである。  機械技師ルノワールが腕をふるって準備してきた測量用具のなかに「信号灯」が含まれていたことは,すでに書いた。これは,観望すべき二2地点が遠く離れている時あるいはその間に霧が立ちこめている時などに,夜間,信号をとりかわすための道具であって,光源と放物面鏡とで構成されていた。従来の信号機では連絡の困難だった二2地点の間の交信が,ルノワールのこの装置によって可能になったのだそうである。  ところで,信号機の用途は,測量とか鉄道とかの平和的な方面に限られているわけではない。西部劇映画でおなじみの“のろし”は,戦機熟すと見たインディアンがはだか馬にむちをくれて奇襲を敢行するための合図の役をする。同類は,昭和元禄の現代にも大菩薩峠あたりのゲバルト学生合宿の“実習教材”に加えられていたかとも思われるが,信号機が軍事に役立つことは,ギリシアの昔からベトナムの当今に至るまで変わりはない。  バスチーユ獄開放を発端としたフランス革命も,かずかずの血なまぐさい騒乱にいろどられて進行したのであるから,強力な信号機をかついで各地を歩きまわる連中に疑惑の目がそそがれるのは当然であった。ドランブルたちは,この信号機が騒じょうとは無縁であることを証明する“お墨付”の交付を待っていたのである。  一七九二年六月二十四日1792年6月24日,その書類はようやく届いた。かれらの信号灯,反射鏡,観測地点を保護すべく地方官署に特別な配慮を命じたこの指令書は,しかし,“国王”ルイ十六16世の側からのもの,言いかえれば,没落寸前の状態にあった旧権力が発行した文書の中でも,まさにどんじりのほうに属するものだったのである。もう一度,書類の日付に注意しよう。それが届いたのは六月二十四日6月24日であった。王制の崩壊は,それから五〇50日足らず後の八月十日8月10日にやってくる。  ドランブルたちがこうしてやっと手に入れた文書も,やがては一1枚のただの紙切れになりさがり,後には,保護の役目どころか,嫌疑の種をまく役目しかしなくなった。しかしそれは後日の話——お墨付を受け取るやいなや,メシェンは実にその翌日の二十五25日に,ドランブルも一1日おくれの二十六26日に,行動を開始した。 “メートル”をたずねて三千里 『クオレ』という本をご記憶ではないだろうか。原作エドモンド・デ・アミーチス,『愛の学校』とも訳される。『単位の進化』という本などを読んでくださる方の書棚には,『クオレ』はもう並んでいないかもしれないが,お宅の子どもさんの本棚にそれが並んでいる確率はかなり大きいはずである。  筆者の“幼年”文学歴の回想の中には,『クオレ』のなかでも,『母をたずねて三千里』という題の一編が強く焼き付けられている。今や中年になった彼は『単位の進化』の著者として,この“三千里”の“里”という単位を話の種にしようとするのであろうか?  おかあさんをたずねて,マルコはたったひとりで,とおいがいこくへいくのです。……イタリアをでてから,二十七27日めに,アルゼンチンのみやこ,ブエノスアイレスにつきました。……「メキネスさんはコルドバへひっこしましたよ」「きみのおかあさんもコルドバへいったよ」……つぎのあさはやく,マルコはコルドバゆきのきしゃにのっていました。……「メキネスさんは……」「ツクマンへいきましたよ」……マルコはやっとツクマンへたどりつきました。……「メキネスさんは,このまちにいないよ」……  愛と忍苦の旅を続けるマルコ少年のこの物語は,こんなふうに,これでもかこれでもかと,続くのである。さよう,それは,イタリア人がフルコースのこってりしたご馳走をあとからあとから平らげてゆくさまを連想させもするし,また,イタリアのレリスモ映画の残酷リアリズムを連想させもする。  さて,われわれは幼年文学の研究をしているのではなくて,“単位の進化”あれこれをさぐりつつ,今やメートル法創成期の測量隊の足どりをたどっているところであったわけだ。そして,ようやく行動を開始したドランブルとメシェンの活躍の情景に,筆を進めるべき段階にさしかかっていたのであるが,筆者が利用できる範囲では一番くわしくて直接的な種本,すなわちドランブル自身の手記は,かれらの経験事実そのものの意外性のゆえと,そして事実をありのままに書きとどめたドランブルのリアルな筆致のゆえに,この中年の筆者を,幼年むけリアリズム文学への回顧に誘い出して道草を食わせずにはおかなかったのである。  さて,マルコ——ではなかった,メシェンは,ルノワール作の反覆経緯儀二2台をすでに受け取っていたので,“お墨付”を手に入れた翌日さっそく旅に出た。  そもそもかれらが測量すべき区間は,地中海に面したバルセロナ(スペイン)から北上しピレネー山脈の尾根で国境を越えてフランスに入り,パリを東寄りにかすめてドーバー海峡のダンケルクまで,直線距離で一1一〇〇100キロメートルほどである。かれらはこれをふたつに分けて受け持つことを申し合わせた。すなわちメシェンは南部,バルセロナからロデーズ(フランス南部)に至るおよそ三〇〇300キロメートル,ドランブルはロデーズ以北のおよそ八〇〇800キロメートル。この分担は不公平なように思われるが,従来の測量実績を考慮のうえで割り出されたものである。  つまり,ピレネー山脈の北側のフランス領の部分は,これまでに二2回も測量されていたのに対して,国境の南のスペイン領部分は,いまだかつて測量されたことがなかったから,情報蓄積のとぼしい南寄り部分は距離を短くして,負担のバランスをはかったのである。  もちろん,受持区間の長短とはかかわりなしにさまざまの困難に出会うであろうことを,ふたりはじゅうぶん覚悟していた。それにしても,最大の困難がパリの市の門のすぐ外に待っていようとは!  南へ向けて旅立ったメシェンは,三3つ目の宿場エッソンヌで暴徒に行く手をはばまれた。かれらは何を見ても,反動的な陰謀ときめつけるのだった。メシェンは,暴動市民の手からのがれるのに大骨を折りながら,役人たちのひ護のもとにかろうじて旅を続けた。  いっぽうドランブルは,経緯儀をまだ一1台しか受け取っていなかったので,二2台目の引き渡しがあるのを心待ちしつつ,一1台目のほうだけをたずさえて,パリにいちばん近い観測点へ下見に出かけた。出かけたといってもパリを遠く離れたわけではなく,モンマルトルの丘まで足をのばしただけのことである。当節の花の都パリでいえば,ほんの町はずれにすぎない。  そんな手近なところに頭痛の種が待ちぶせしていようとは露しらずに,ドランブルは丘をのぼっていった。そこの教会には高い塔があるはずだ,塔のいただきからは四方の窓を通してあたり一帯を見渡すことができるはずだと,彼は信じ切っていた。だが,彼の目に映じたのは,ひどくいためつけられた塔でしかなかった——東洋の美文家なら“いらか破れて月,中天にともしびをかかぐ”と詠嘆するところであろうか。ドランブルのなげきは,何よりもまず,観測点設定不可能ということに通ずるのであった。  ドランブルの記憶によれば,一七四〇1740年この塔で大規模な観測が行なわれたはずだったのだが,今この塔のたたずまいをまのあたりに見れば,彼の記憶のほうに誤りがあると思わざるを得ないほどだった。どこか感違いをしているのだろうか——この疑念はながく彼の脳裡を去らなかったらしい。  疑念の氷解は——これは後日談に属するが——両三年後におとずれた。ミルサンという人の筆とエッチングに成る銅版のパリ近郊図絵(一七三五1735年の作品,版元はデローシェ)を見たドランブルは,くだんの教会の絵に見事な尖塔が写されているのを認めた。ミルサンが制作をした一七三五1735年,塔はそこにそそり立っていたのだ。そのいただきに観測者が居並んで天を仰いだという話も,同四〇40年のことというからには,別段おかしくはあるまい。“そこに塔がある”はずだとドランブルが信じていたのは,それなりにいわれのあることだったわけだ。塔は,ミルサンの銅版画以後の半世紀あまりの間に——むろん,革命進行裡の騒然とした世情のゆえにであろう——みるかげもなく落ちぶれてしまったのである。さすがの情報取集家ドランブルもそこまではキャッチできなかったというべきか,あるいは,彼の情報網がもっぱら天界に向けて張られていたために,地上の動乱の情報への感度がわるかったというべきか。  何はともあれ,モンマルトルの丘の塔が役に立たないことは明白だった。そこですぐに考えたのは,市内の大学町カルティエ・ラタンの一角にそびえるパンテオン(会堂)を利用することであったのだが,要人の伝える消息によるとこの建築物に手を加えようという計画があるらしい。これは運のわるい鉢合わせだった。  ふたたび考えなおして,モンマルトルのかたわらに新営されたベルベデーレの塔をあたってみる。しかしこれは,ダンマルタンから観望すると,まわりの建物のなかにうもれてしまうので失格。ではアンバリードのドームは? サン・マルタン・デュ・テルトルから見通せないのでダメ。  ドランブルの手記が「母をたずねて」を連想させるのは,まさにこういうくだりにおいてなのである。とどのつまりはパンテオンを使うということに落ち着いて,パリ地区の観測点選定の話はめでたく一段落になるのだが,マルコがひとりの母をさがしあてて『クオレ』の一話に大団円をもたらすのとは違い,ドランブルたちは一〇〇〇1000キロメートル余にわたる三角測量の観測点の網を張りめぐらさなければならないのである。  観測点の網の目の細かさと同様に,ドランブルの手記は,かれらの難渋をこと細かに語りつづけてゆくのだが,われわれは,この網目をいちいちたどるのはそろそろ止めることにしよう。 燃えるパリを望みつつ  暦はもう七月十五日7月15日になっていた。  二2台目の経緯儀もでき上がっていたので,七月十五日7月15日パリを離れ,東北方コンピエーニュに向かう。ジョンキエール,クレルモンなどでの体験——今度は“下検分”ではなく,“本番”の観測である——をドランブルはふたたびリアルに書きつづってゆくのだが,この手記とのおつき合いは今度こそ切り上げることにしよう。しかし,筆を惜しむあまりに,八月十日8月10日のできごとまで取り逃がしてしまってはなるまい。  八月十日8月10日がどういう日であったか——それは“お墨付”の話のところですでに書いた。その日ドランブルはダンマルタンにいて,その地の由緒ある教会の塔から,パリはモンマルトルの丘の塔を観望しようとしていた。銅版画の一件から明らかなように,この丘の塔は“観測装置をすえつける”のには不適格になっていた。しかし,“観測される(照準される)”ための目標物としては立派に役立つと考えられたのである。  十10日の朝,ドランブルの仲間のルフランセ・ラランドがパリへ向かった。そしてその夜モンマルトルの丘の上に“信号灯”——前に書いたルノワール作の——をかかげるという手はずになっていた。  夜になった。ダンマルタンに残ったドランブルは,信号灯のともるのをひたすらに待つ。しかし彼が見たのは,チュイルリー宮殿のあたりの燃えさかる火の手ばかりだった——前夜来“蜂起”した人民は,地方から上京してきた連盟兵とともにチュイルリー王宮に迫り,果敢な攻撃を続けていた。まさに“パリ燃ゆ”の一夜だったのだ。  市内のできごとを知る由もなかったドランブルは,「(ダンマルタンの)塔の上でむなしく夜の十10時まで待った」とのみ書いて,その日の手記を淡々と結んでいるが,まさにこの“十10時”の頃に,チュイルリー宮攻防戦の幕は閉じ,世界史上の一大転換期がおとずれたのである。歴史書はいう——蜂起を知ったルイ十六16世は王宮わきの馬匹調教場にのがれ身をひそめていたが,夜の十10時ごろ,チュイルリー宮籠城軍はルイ王の指示にしたがい銃火をおさめた。王制はこの夜,決定的な打撃を受けたのである。  九9月,王制は廃止され,共和国が生まれる。やがて恐怖の時代(レーヌ・ド・テルール)—— 第九9話 キログラムの難産 化学者ラボアジェの実験,流産におわる  ドランブルとメシェンがフランス,スペイン各地で難渋しながら「メートル」確定のための測量点をたずね歩いていたころ,化学者ラボアジェはパリ・マドレーヌ通りの私邸に鉱物学者アウイ(Ren� Just Ha毓)をまねき,共同して「キログラム」決定のための実験を進めていた。  かれらの実験の手順はこうである——ドランブルたちがきめてくれるはずの「一1メートル」(ただし,さしあたりは古い子午線測定にもとづく,いわゆる“暫定メートル(メートル・プロビゾワール)”)を一〇10分割して〇・一0.1メートルすなわち「一1デシメートル」を求める,それを三3乗した体積「一1デシメートル立方」を導き出し,“溶けつつある氷の温度”においてこの体積を占める蒸留水の質量を定める——それをもって質量の単位「一1キログラム」とする〔ただし,この頃に選ばれていた呼び名は「キログラムあるいはグラム」ではなくグラーヴ(grave)であった〕。  読者はこの手順がケプラーのそれ(第五5話)と似ていることに気づかれるであろう。ケプラーがウルムの町の役場のためにデザインした標準器についても,「長さ」→「体積」→(特定の物質)→「質量」という発想が応用されていたのだった。  しかし,このふたつの仕事の間には一1世紀以上の時が流れ,単位のことを考えるために人類が利用しうる物理的化学的な情報の量は飛躍的に増大した。ラボアジェたちが使おうとした“水”は,泉の水でもなくドナウの水でもなく“蒸留水”であり,またその温度を明確に指定すべきこともかれらはよく心えていた。  実験のしかたもずっと近代的になっている。すなわちかれらは,「既知容積のうつわに水をみたしてその水の質量をはかる」という手法ではなく,「体積既知の固体(白金製の円筒)の重量を水中および空気中ではかって“水の密度”を求める」という手法を採用した。この円筒は“名匠”のひとりフォルタンの手で作られた。  ラボアジェの実験のしかた,とくに補正の手順の綿密さを証拠だてる史料は少なくない。たとえば体積決定に使ったものさし(フランスの当時の標準尺,トワズ)の温度に関する補正,分銅に対する空気浮力の影響の補正などは,まさに模範的なものだったそうである。 不注意の記録に注意を!  しかしながら歴史はきれいごとによってのみ綴られるものではない。「“蒸留水”を使い“溶けつつある氷の温度”で密度をはかる」という申し合わせに対して,かれらは必ずしも忠実ではなかった。ラボアジェ全集所載の実験ノートを調べた人の報告を見よう。  たとえば一七九三年一月三日1793年1月3日からの実験——場所はラボアジェの私邸——では,大きなうつわにくんであった水が使われた。おそらくはセーヌ川の水であろうが,それをろ過しておいて,翌四4日に本測定が始められる。温度は午前中が六・五6.5度,午後には六・二6.2度であった。  定量化学のもとを開いたラボアジェのことだから,ぜひ蒸留水を使いたいと思っただろう。温度もなるべく零度に近づけたいと思っただろう。しかし,革命の推移は,あるいはまたアカデミーの要人たちの性急な督促(研究管理?)は,ラボアジェたちが実験に“凝る”ことを許さなかったようである。  行き過ぎた解釈をふせぐために書き添えるが,かれらは蒸留水と,ろ過して作った水との密度の差についても正当な注意を払っているし,温度の違いに伴う密度の差についてもひととおりの補正はしている。そして,フランスの旧来の質量標準器ピル・ド・シャルマーニュとの関係づけもいったんはすませていた。しかし,この実験結果は,あくまでも予備的なものと見なされるべきであった。  この場所に,注意事項を三3つほどさしはさんでおくことにしよう。  第一にこの頃,“質量”と“重量”の区別は必ずしも厳密でなかった。公式の記録の上でもpoidsという言葉が両方の意味に用いられている。両者の区別が明確に宣言されたのは第三3回国際度量衡総会(一九〇一1901年),つまり二十20世紀に入ってからのことであった。しかし,これらふたつの言葉の混用は,今でも時おり見られると言わなければなるまい。  第二に温度。ラボアジェたちは“溶けつつある氷の温度”での値を求めることを申し合わせていた。この温度が一定であること,すなわち温度定点として役立つことは,つとに知られていて,十八18世紀前半にファーレンハイト(D. Fahrenheit),セルシウス(A. Celsius)レオーミュール(R-A. F. de R斬umur)は,それぞれの温度目盛を提案するにあたり,いずれもこの定点に着目している。  ラボアジェたちも,この温度定点における水の密度を測定しようとしたわけだが,すでに述べたように,実験は六6度あたりで行なわれ,その結果に補正をほどこして0度での値が求められたのであった。  以上,話を簡単にするために,すべて度(℃)で書いたが,なまの実験ノートにはセルシウスの℃とレオーミュールの゜R(ランキンのではない)とがごっちゃに書かれているそうである。温度計測の基準にも混乱のあったことがわかって興味ぶかい。なお,“0℃の水”の申し合わせは,のちに“密度最大の水”ということに変わってゆく。  第三には質量(ないし重量)単位の名前が問題になる。この段階での命名は,キログラムではなくグラーヴであった。同じ内容のものをキログラムと名づけることがきまったのは共和暦第三3年芽月(ジエルミナール)(一七九五1795年),いわゆる確定キログラム原器(le Kilogramme d伺initif)が作られ文書保管所に収められて“文書保管所のキログラム(キログラム・デ・ザルシープ)(le Kilogramme des Archives)と呼ばれるようになったのは,メートル・デ・ザルシーブと同じく共和暦第七7年収穫月(メシドール)(一七九九1799年)——そこに至るまでになお幾多の曲折があったことは,メートルの場合と異なるものではない。  ドランブルとメシェンが大変な苦労をしながらも,遂には所期の仕事をし上げたのに対して,ラボアジェとアウイは不幸にして心ならずも途中でこの意義深い仕事から離れなければならなかった。われわれは今,メートル法創始の歴史の中のもっとも暗い一面に接触しようとしているのである。 能吏ラボアジェ,一〇〇100万の徴税収入と三〇30万の予算をにぎる  ラボアジェは,度量衡委員会のなかでもっとも傑出した学者であり,しかももっともよく働いた人物のひとりであった。そのはたらきは質量単位決定実験に限られてはいなかった。実験の方面では,白金と黄銅との膨張率の差を求めるなどしてカシーニ,ボルダ担当の秒振子実験に必要なデータを提供したこともある。この実験の装置を作ったのが例のルノワールだったわけだが,装置はマドレーヌ大通りのラボアジェ邸に運びこまれ,実験は質量のほうと同様に彼の私邸で行なわれた。  ラボアジェのはたらきが事務的な面にまで及んでいたことを,われわれは記憶しておくべきだろう。かれは科学アカデミーおよび度量衡委員会の会計担当者として,この大事業の財務あれこれの処理にも精励した。遠隔の地に出張中のドランブル,メシェンと文通し,かれらに必要な費用を送りつけるのもラボアジェの役目だった。  この大事業のための予算は,一七九一1791年に諸委員会が編成された頃には総額三〇30万リーブル,質量単位関係がはじめ一万二〇〇〇1万2000リーブル,のち増額されて二2万リーブルだったそうである。  当時の一1リーブルは今の一〇〇〇1000円あまりに相当すると思われる。  したがって総予算は三3億円余,質量単位関係の予算は二〇〇〇2000万円余と見ればよかろう。研究所で仕事をしていらっしやる方は,身近の研究費の規模と引き比べてみていただきたい。  財務担当委員ラボアジェにとっては,予算額の多い少ないはさておいても,会計上の手続きの煩雑さが頭痛の種だったそうだ。会計を受けもつ役人のあたまは,大革命のまっただ中においてさえかたさを堅持しなければならないものなのであろう!  本務の質量単位決定実験について言えば,すでに触れたとおり,じゅうぶんな蒸留水も調達しえぬほどのあわただしさの中でではあったが,一七九三1793年初頭には第一段階の測定を完了していた。そしてその結果に対して,彼一流の綿密な補正をほどこし,あらたに制定されるべき単位の一1グラーヴが,旧単位一1グレンの 一八八四五・二五 18 845.25 倍にあたることを確認した。そのノートはラボアジェ全集にも収録されているそうである。  さて,ラボアジェとアウイは,引き続いてこの実験をもっとくわしく,またもっと大規模におし進めていこうと考え,実際にその準備を手ぬかりなく実行に移していた。なによりも蒸留水を,それも大量に,用意しなければならない。円筒の寸法測定ももっとくわしくやりたい。実験の温度条件をひろく取ることも必要だ。大形の天びんを整備しておくべきだ——それには度量衡委員会から機械技師フォルタンにあてて発注の手続をとってもらうことにしよう,等々。  しかしこの年の後半,ラボアジェの身辺の事情は悪化の一途をたどっていった。九9月には家宅捜索,十一11月には拘束令状がやってくる。翌年,共和暦第二2年花月(フロレアール)十九19日(一七九四五月八日17945月8日年),この有為な学者は,“共和国に無用の存在”ときめつけられ,その生涯は断頭台(ギロチン)の一撃によって閉じられた。  ラボアジェほどの学者が,なぜ“共和国に無用の存在”ときめつけられ断罪されたのか? 裁判の推移を決定的に支配したのは,裁判長が発した次のような質問であったといわれる——「フランス国民に対しあらゆる種類の不当徴税をなし,……徴税組合の事業に必要な投資金に対し,あるいは他の種々の保証金に対する利益として,法律は四分と規定しているにもかかわらず六分をとり,国庫に納められるべき金額をみずからの手中におさめ……もってフランス国民を欺き,フランスの敵を利するがごとき陰謀の存在を認められるや」  この発言じたいが欺まんを含み,陰謀視されるに値する由であるが,いずれにしてもラボアジェがかつて“徴税組合”に関係し“徴税請負人”として働いていたことは,彼の立場を徹底的に不利なものとした。  彼はこの仕事に対しても,まじめさと研究心をもって望んだ。そしてそこから得た収入は,彼の“私邸”での実験研究費となってかずかずの学問的業績を生みもしたが,同時にまた,“徴税組合の前を通るたびに深いため息をする”庶民の憎しみを買うものとなった。“能史”ラボアジェが,この仕事から得た利益は一〇〇100万リーブルを越える由,読者はこの数字を前述の度量衡委員会総予算の数字と突き合わせてご覧になるべきである。 鉱物学者アウイの苦衷  アウイは,結晶学上の業績をもって知られている人であるが,また司祭という肩書をもつ聖職者でもあった。当時のあらあらしい世情はこの聖職者の生涯を平穏とは無縁のものにした。  一七九〇年十一月1790年11月,立憲国民議会は全国の聖職者に要求して新憲法への忠誠を誓わせた。受諾派と忌避派と,聖職者の世界にもふたつの陣営が構成される。これを忌避したアウイは,以後なにかにつけてにらまれることになる。  それにもかかわらずアウイは,ラボアジェを救うためボルダとともに勇敢な奔走を試みた。その相手は公安委員会であった。このときアカデミーはすでにつぶされていて,度量衡の仕事は公衆教育委員会の所管するところになっていた。公安委員会が公衆教育委員会と協議の末にくだした判断は,しかしアウイたちの期待とはおよそ反対のものでしかなかった。はねかえってきたのは,度量衡委員会の粛清という恐るべき決定だったのである。 「一般大衆の心情を好転させるためには,王制をにくみ共和制に忠誠を誓うところの信頼すべき人たちにのみ,この仕事への参加を許すことにしなければならない」——この理由のもとに公安委員会は「ボルダ,ラプラス,ラボアジェ,クーロン,ブリッソン,ドランブルの面々が度量衡委員会メンバーたることを本日かぎり停止する」と宣告し,「測定器,計算書,ノート,メモそのほか手もとにある関係物件いっさいに財産目録を添え,度量衡委員会の他のメンバーに引き渡す」ことを要求したのだった。共和暦第二2年雪月(ニヴオーズ)三3日(一七九三1793年)のことである。  この除籍名簿にアウイの名は含まれていないが,この頃を境にしてアウイは度量衡の仕事から意識的に遠ざかるようになった。質量単位の実験は,アウイが弟子のなかから推挙したルフェーヴル・ジノー(Louis Lef思re-Gineau)の手で一七九六1796年に再開される。助手役はファブローニ(Jean Valentin Fabbroni)であった。 キログラムの誕生  この第二期実験は,ラボアジェ,アウイの時ほどの気ぜわしさに責められることもなく,ふたりの先任者の意図したところにほぼ近い綿密さで進められた。第二期実験のもたらした意義深い成果はふたつあった。  その第一は,水の温度と密度との関係についての知見,とくに“温度四4度で水の密度が極大になること”の発見である。第二の成果は,いうまでもなく新しい単位キログラム(前述のグラーヴではなく)の確定であるが,この第二の成果の中には第一の成果がさっそくに織りこまれたのであった。  新単位キログラムの定義は,前のグラーヴ(一七九三1793年)の時やキログラムの名称決定(一七九五1795年)の時の,“溶けつつある氷の温度で一1デシメートル立方の体積を占める蒸留水の質量”ではなく,“極大の密度をもつ蒸留水……”と改められたのである。そして,新単位一1キログラムは旧単位一1グレンの 一八八二七・一五 18 827.15 倍に当たると決定され,それを具現する白金製の原器“アルシーヴのキログラム(キログラム・デ・ザルシーヴ)”が作られる。  さて,アルシーヴの原器が立法府に提出された日(共和暦第七7年収穫月(メシドール),一七九九年六月二十二日1799年6月22日)の盛儀のさまを,われわれは後に見ることになるであろうが,この晴れの日をアウイがどんな風にすごしたのか,今その点に触れておきたい。アウイはその頃になっても学者の会合などにはきちんと顔を出していた。しかるにこの盛儀には遂に参列しなかったのである。 「その日に参列をあえて辞したアウイの胸の奥には」と,近年の某科学史家は一論文の末尾に書く——「委員諸公の非礼なしうちに対する最後の抗議がひそめられていたのではあるまいか」と。  ビランボオ(A.Birembaut)というフランスの科学史家が発表したこの長い論文中の“委員諸公の非礼なしうち”の内容は,「旧単位の取り違えやラボアジェたちの実験データの取り扱いをめぐってラボアジェ,アウイとアカデミー委員会との間に不愉快な事情が生じた」ことをさしているのだが,旧単位の乱脈さばかりか学者間の心理的かっとうの錯雑さも,われわれの想像を絶するものであったことをこの論文で事こまかに見せつけられて,筆者はいささかげんなりしたことであった。 第十10話 自然を計測するための自然から得た単位 工科将校プリエゥルの光と影  ラボアジェたちの実験があれほどいい線までいっていたというのに,そして,貴族の出のボルダや憲法への誓いを拒否したアウイ——すなわちとかく革命下の世の中では住みにくい思いをしていたひとびと——までが,ラボアジェを救うための運動に立ち上がったというのに,思いもかけない度量衡委員会粛清の通告をもってこたえるとは,公安委員会もまったくひどいことをしたものだ!  徴税請負人ラボアジェ,貴族ボルダ,非宣誓司祭アウイはともかくとして,ラプラス,クーロン,ブリッソン,ドランブルといったひとびとは,いったい何の理由で除籍されなければならなかったのか。  公安委員会の通告文の中でその他に判決理由めかして書いてあることといえば,「信頼すべき人」か否かという項目だけではないか。公安委員会がラプラスやクーロンを「信頼すべからざる人」と判定したというのなら,いったいどこからそんな情報を得たのだろうか。  こうしてわれわれは,推理作家のように,あるいは昔の裁判の蒸し返しを依頼された弁護人のように,考察を進めたくなるのであるが,われわれはパリの科学史家のごとくに文書保管所の古文書をあさりまわって論文をものすわけにはゆかない。以下筆者がご紹介しようとするのは,「“粛清された側”のドランブルが残した手記からビグールダンが著書中に引用した」事柄だけである。  ここにおいてプリエゥル・ド・ラ・コートドオル(Prieur de la C冲e-d'Or)という人物の名が浮かび上がってくるのである。  この人はメートル法の歴史の上で一種独特なはたらきをしたのだが,その名前には少々とっつきにくい事情がつきまとっている。そのせいでもあるまいが,従来あまり着目されなかったようである。そもそも彼にはふたつの名前がある。もともとプリエゥル・デュ・ヴェルノワ(Prieur du Vernois)といったのだが,途中で前記のように変わった。  そのせいでわれわれは,ふたりの人が同時代に存在したかのように感違いしがちである。さらにまずいことには彼の名が“ヴェルノワの僧院長”あるいは“コートドオルの僧院長”という妙な訳(?)で紹介されたことがあって,つごう四4人の別人がいたという誤解をさえひき起こしかねなかったのである。  彼は軍人で,工兵科の将校であった。革命中期,公安委員会が組織されるに及んでそのメンバーとなる。任務は軍政と軍需品調達の統理であった。次第に権勢を拡大し,やがて政府内切っての要人と目されるに至る。このプリエゥル・ド・ラ・コートドオルが度量衡委員会粛清の張本人であろうと,ドランブルは手記の中で推理しているのである。  この工科将校は,度量衡委員会の学者連中と接触する機会をいくらでも持つことができた。後述(第十一11話)するように彼は,メートル法創始の大事業の出発点において,意外なほどに重要な役割を演じていたのである。その縁で彼は度量衡委員会の会合にしょっちゅう顔を出し,ボルダ以下の学者と同席し議論にも加わったりしていた。  学者の話題がいつもメートルやキログラムのことに限られていたとは誰も考えないだろう。動乱の世の会合である!——革命の推移,各党派の政見そして行動,どれひとつとして切実な話題でないものはなかった——今日の大学の先生がたが学生運動の推移,学生活動家の各党派の主張や行動に気をお使いになるその心労も,容易なものではあるまいとお察しするが,世の中全体がほんものの大革命の波にもまれている最中の学者の政論は,段違いに深刻なものだったことだろう。  プリエゥル・ド・ラ・コートドオルは,学者の政論に接する回数を重ねるにつれて,何人かの学者の政治上の見解の中に“好ましからぬもの”を認めるようになった。なかでもラボアジェ,ボルダ,クーロンの主張は,公安委員会にとって耳ざわりなものだった。  以上はドランブルの推理でしかない。プリエゥルが“イヌ”だったなどと簡単に言えるものではない。しかし,ドランブルの推理を裏づける資料は,われわれの目の前にさえたやすく姿を現わしてくる。それは,われわれがすでに引用した公安委員会の通告文——例の「一般大衆の心情……」に始まるどぎつい文書——への“署名”である。  八8名の連署の中には,ビョー・ヴァレンヌとかロベスピエールのような政界の大物も見え,カルノー(父)のような技術史上に知られた人の名も見える。そして,ほかの誰のものよりも強い印象をもってわれわれの目にとびこんでくるのは,筆頭に立つ署名プリエゥル・ド・ラ・コートドオルなのである。 粛清,再開,難渋そして再会  筆者はドランブルの推理の線に沿って,プリエゥルのはたらきの“影”の部分の紹介に多くの文字を費やしてきた。かれが筆頭に署名した公安委員会からの粛清文書は,最大の不幸をラボアジェの上に,そしてそれに次ぐ不遇をアウイの上に,もたらしたと言えるだろう。しかし,ラボアジェ以外の度量衡委負会メンバーは,日ならずして再召集され,新たに追加されたメンバーとともに曲りなりにも仕事を続けてゆくことになる。  もちろんかれらの難渋も続いた。スペインに出むいたメシェンは一時は亡命者同然の身の上にもなったし,機械の事故で大怪我をしてしばらく測量を放棄したこともあった。フランス国内の測量を続けるドランブルの苦労話にも政情の推移はおのずから反映する——  エルマンという土地では,観望台の尖塔がこわれて骨組だけになってしまったことがあった。ドランブルは,観望を確実にするため,そこに白布をまとわせた。しかし,この布の色はまずかった。白は王家の色,とりもなおさず反革命の色なのだ。住民たちは,なにが反革命の旗じるしをあげる動きでもあるのかと,恐れおののくのだった。ドランブルはそこで一計を案じ,白布の一部分に赤い布をかさね,別の部分に青い布をかさねることにした。  そうすれば,立派な“三色旗”ができあがる! 自由・平等・博愛の旗じるしそのままの観望標識はなかなかよいアイディアだったようで,この分ならどこでも通用すると思われたが,“それにしても白地が多すぎるのはあやしい”とうさんくさげに目をこらす人があったりして,ドランブルの内心はふたたびおだやかではあり得なくなり,結局はその地の官憲に願い出て,標識の保護を仰がなければならなかった。  ドランブルとメシェンによる測量は一七九八1798年の夏ごろにようやく終り,ふたりはその年の十一11月にパリへもどった。ドランブルは測定の途中で何度もパリに立ち寄っていたが,メシェンにとって,パリとの再会はいったい何年ぶりということになるのだろうか。なんと彼は途中では一1回もパリに帰還していないのである。したがってこの再会は,一七九二年六月1792年6月に,例のお墨付をもらった翌日の出動いらい実に六6年半ぶりなのであった。  さしもの難事業にもこうして終結の希望がおとずれ始めた。プリエウル・ド・ラ・コートドオルが筆頭に署名したあの粛清通告文も,この偉業を中道にざ折させるほどの罪過を犯しはしなかったわけである。 確定原器献呈の盛儀  共和暦七7年収穫月(メシドール)四4日(一七九九年六月二十二日1799年6月22日),確定メートル原器および確定キログラム原器は,時のフランス立法府——元老会議(Conseil des Anciens)と五百人会議(Conseil des Cinq-Cents)——に提示され,その日のうちに,フランス共和国文書保管局(アルシーヴ)に納められた。そのゆえにこの原器が「アルシーヴのメートル」とも呼ばれることは,すでに述べたとおりである。  この献呈という晴れがましい役をつとめた人はけだし相当の“大物”であったに違いないのだが,不思議なことにその人の名はわからなくなってしまっている。例のメートル法の歴史の本を書いたビクールダンは,このくだりで“(おそらくはラプラス)”とカッコつきで推理的意見を書きこんでいる。  “ラプラスらしい”という,この推理にはどことなしに信ぴょう性が感ぜられる。ラプラスと聞くと,われわれはあの天体力学や確率論をまず思い出してしまうものだから,学者すなわち高潔の士という類型的な連想に走りがちであるが,この連想はラプラスにはまるで通用しないもののようである。  貧農の出でありながら近所の金持の恵みを受けて軍の学校に学び,若くしてそこの教官になる。やがて政界に身を投じ,後年ナポレオンについたりそむいたり,ひとたび王政復古と見れば恥じるところなく売名運動をして侯爵の位を獲得する。  宇宙のあらゆる物理的事象の未来を予言する魔物(デモン)という想像上の怪物(怪獣?)を考え出したのは,ほかならぬこのラプラスなのであるが,ラプラスの生涯そのものが右に書いたとおりであって,ひとかどの“怪物”性で色どられていると言わなければならない。  原器献呈式の主役をこの怪物ラプラスが買って出たのだという推理,かならずしも不自然ではなかろう。  このラプラスとおぼしき人物が立法府の議員を前にしてぶった演説は,次のようなものだった。 「度量衡の統一がもたらすであろう便益は,いつの世にも多かれ少なかれ感じとられていたのでありますが,国ごとに,また一国の中にさえ認められる習慣の違いや偏見が,この問題に関する完全な協調や完全な改革をさまたげておりました。世のひとびとが抱く敬遠の念を打破するためには,何かひとつの大きな事件,政治上のひとつの強烈な衝撃が必要だったのであります。  現実には,どこの国も,勝手に選んだ測定基準を用いているかぎり,それを他国に採用させる権利を持ちうるはずはなく,またそこに期待を寄せることもできないでありましょう。  それゆえにこそ,すべてのひとびとが等しく関心をもって見守るような自然界の原理をとらえることが必要だったのであり,さらには,すべての人の心をひるがえすに足りるほどの便利さを備えたものを選ぶことが,必要だったのであります。ここにおいて科学アカデミーは,地球の周囲の長さの何分の一1かをもって測定の単位を定めるにしくはないと判断いたしました。そして結局,赤道と極との間の子午線弧長の一〇〇〇万分の一1000万分の1という定めかたが選ばれたのであります。  人類が測定しうる最大にして不変の物体から導き出されたこの単位が公衆の嫌悪を買うということは決してありません。むしろ興味を引かずにはおかないものとなりましょう。  家庭の父親にとっては,こんなひとりごとを口にすることができるという楽しみもあるのです——『わが子をはぐくませるこの土地は,地球全体に対してこれだけの部分にあたっているのか。してみればわたしも,全世界の共有者のひとりとして,これだけの分け前をわがものにしているといえるのだな』と」  やがて演説の調子は変わり,この大事業に貢献したひとびとへの讃辞が続く。そこでは,「ヨーロッパの追慕の的,篤学の士ラボアジェ」をはじめ,大業なかばにして他界したひとびとの名も挙げられる。そしてそれに続くくだりが,われわれの知る名匠たち(第七7話)のために当てられている—— 「委員諸公とともにここに臨席しておられるふたりの高名の技能家,市民ルノワール君と市民フォルタン君の功労に対しても,われわれは一言を寄せたいのであります。両君は,他に類を見ぬ技量をもって,ボルダ式経緯儀その他の,市民ドランブル,メシェン両君の用に供する機器を,あるいは,市民ルフェーヴル・ジノー君に託された重量単位の仕事に必要な機器をつくり,もってこの事業の大成に貢献されたのであります。(中略)  いまやわれわれは,自然界を計測するための,自然界から得た“メートル”を所有しているのであります。そして“キログラム”——これは,ほかでもないメートルから生まれたものなのであります。  これらの原器は,各位のご高覧を得たのちに国立学術院の手で国立文書保管所に収納されます。その保管には厳重な配慮がなされるはずであります。  粗野なひとびとの無知や暴力が横行しようとも,原器の意義・栄光・権限を理解する一国家の勇気と愛国の情と節操とに手むかってまで,原器の奪取をあえてすることは決してありますまい。(後略,第十一11話参照)」  この盛儀の日——われわれの知るひとびとのうえにどんな運命がおとずれていただろうか。メートル法生みの親と呼ばれるタレーラン(第七7話)は,アメリカに亡命して山師のような生活をしながら故国の政情をうかがっていた。  コンドルセは獄中で自殺(第七7話),ルイ十六16世(同),ラボアジェ(第九9話)はギロチンにかけられ,他界。ボルダは四4ヵ月まえに惜しくも世を去った。アウイ(同)は,心たのしまず,欠席。メシェンはスペインでの怪我の後遺症になやみつつ列席(五5年後に死去)。  カシーニ,ドランブルも,もう五十50代になっていたが,長命だった彼らはそののちにもよい仕事をどっさりした。この日,学者と同席の栄誉を与えられた名匠ルノワール,フォルタンのはたらきもまだまだ続く。そして,この日の花形と目されるラプラスは,その後ますます権欲にかられてゆく。  最後にこの日の五百人会議の“議席”を見よう——そこには,かつての工科将校,公安委員プリエゥル・ド・ラ・コートドオルの姿が——少なくとも彼の坐るべき席が——見られたはずである。  一七九〇1790年代のほとんどすべてを費したこの大事業は,こうして晴れがましく,ひとつの段落を迎えたのである。世の中ではナポレオンが,じりじりと頭角をもたげ始めていた。 第十一11話 メートル法は地球をおおいメートル単位は地球との縁を切る らつ腕外交家,苦汁を味わう  メートル法創始の大事業の口火を切っておきながら,その後外国をうろついていたタレーランは,ナポレオンがのさばり出したころフランスへもどり外務大臣としてかえり咲いた。以後彼はウィーン列強会議をかきまわしたりして,らつ腕の外交家の元祖と称されることになる。  そのらつ腕のタレーランでさえ,メートル法外交では苦汁を飲まされたのであった。すなわち一七九〇1790年,彼は例の提案(第七7話)を立憲国民議会へ提示するとともに,イギリスにあてて協力かたを申し入れた。  当時イギリスにも度量衡改革の動きはあって,両国の学者間——体制的にいえばパリの科学アカデミーとロンドンの王立協会との間——に了解が成立しそうな気運はかもし出されていた。なぜなら,その直前の八九89年にはイギリスでもミラー(John Riggs Miller)卿の名で“秒振子による長さ単位”が提案されていたからである。しかし外交上の返書は,まことに冷たいものだった——「英国政府は仏国政府の提案に同調し得ざることを遺憾とする。協定は実行不可能と看做(みな)されたり」  このような外交上のいきさつを知ったうえで,例の原器献呈式におけるラプラス(とおぼしき人物)の演説——さらには,かつてのコンドルセのそれ(第七7話)——を読みかえすとき,われわれはこれらの演説にぬりこめられた“政治的”臭いの濃さを再確認して驚きもし,またうなずくことにもなるのではあるまいか。  でき上がった原器を前にして演者が「すべての人の心をひるがえすに足りるほどの」ものと見えを切ったところで,それだけでメートル法の前途が平坦にされるものではなかったのである。その歩みはビグールダンの書物の副題がうたうとおり,“緩慢な普及(propagation graduelle(のろのろした伝わりかた))”でしかなかった。  イギリスの了見の狭さを指摘することはたやすいが,イギリス独自の度量衡制度がかなり確立されていたという事情を,われわれは見すごしてはなるまい。王位協会や物理学者ファラデイ(Michel Faraday)もこのことに力を入れ,おこりこそ“児戯”に類するものであった(第一1話)とはいえ,ヤード・ポンドの体系にも近代の科学・技術の知見と所産は惜しみなくつぎこまれていった。  時代はやや下るがアメリカにおけるメンデンホール(Thomas Corwin Mendenhall)の功績も著名である。この人が明治初年に来日教師として田中館先生らを指導し,メンデンホール賞を残し,この賞の第二2号が光波干渉測長の権威,渡辺襄氏(かつての中央度量衡検定所所長)に授与されたこと,それらもまた著名な史実であろう。  さて,メートル方外交の正史についても小泉氏の書物をおすすめすることにして,われわれは「人の心をひるがえさせる」ための,人心の機微の研究を試みよう。 “万国博”ひと役を買う  がんらい国際的な協調というものは,かた苦しい会議の決議文などだけでは,なかなかしっくりとゆかないものである。むしろ,お祭さわぎのような機会に国際的連帯のムードがわっと高まり,それがきっかけになって次第にじっくりと国際協調の実があがってゆくことが多い。東京オリンピックの閉会式のムード——あれが大切なのである。オリンピックにも計測の話題は多いが,今お話したいのは,七〇70年の日本の最大の行事,“万国博”のことである。  一八五一1851年のロンドン万国博は,メートル法が万国博にデビューする機会を与えるものとなった。パリのコンセルバトワールが,メートル制の分銅やますをはじめて出品したのである。続いて五五55年(パリ)万国博には,フランスの技能者の手に成るメートル制の計測器が,また六二62年(ロンドン)万国博には,イタリア人技師がつくった同類のものが出品された。  六七67年(パリ)万国博は,学界・産業界の“人心をひるがえさせる”のに大いに役立った。ほとんどすべての参加国からの代表者によって「度量衡・通貨委員会」が編成され,メートル法を科学・工芸・産業・商業に適用することの実益,鉄道・電信・対数表などと同様にメートル法が労働の経済,ひいては富の増大をもたらすであろうことの認識などが,委員会報告として宣言され,また,科学論文・諸統計・郵政・教育などにメートル法を専用すべきことが各国政府に勧告されたのであった。  万国博だけのお手柄とは言えないが(実際に測地や地磁気のほうの研究の広域化も,単位の国際的統一をつよくうながしたわけだが),たしかにこの頃から諸国の“人の心はひるがえされ”はじめたようである。一八六九1869年にナポレオン三3世が世界各国に向かって声をかけたのが効を奏し,翌七〇70年には二四24ヵ国の代表がパリに集まり,普仏戦争で少々もたつきはしたが,七二72年から七五75年早春にかけて“メートル外交”の成果は大いにあがった。一八七五年五月二十日1875年5月20日,「メートル条約」成立。ただちに批准したのは一七17ヵ国であった。  その頃の話としてよく引き合いに出されるのはドイツである。国家統一のうえで後進性をあらわしていた(第三3,第四4話)この民族は,六六66年に北ドイツ連邦を組織,六八68年同連邦にメートル法を導入,七〇70—七一71年普・仏(プロイセン・フランス)戦争に勝利,ドイツ(第二)帝国成立,七二年一月一日72年1月1日を期してメートル法専用を法制化,というふうに,じつに着々と“国家ならびに単位”の統一をおし進めたのであった。  かくしてプロイセンの牛もザクセンの牛も,同じ国家に属し同じ耕地面積単位で勤務評定されるはずになったのだが,やはり多少のとりこぼしは免かれなかったとみえ,後年アルベルチ氏をして困惑に陥らしめ大著をものさせしめたのである(第三3話)。 国際原器への道  メートル法普及へのルートが,こうして徐々にしかし確実に切り開かれていったころ,もう一1本の重要なルートがそれと平行してつくられていた。それは,新しい単位メートルとキログラムとを具体的に現わす新しい標準器の整備に通ずるルートであった。 “平行”といったのは正しくなかったかもしれない。なぜならメートル法普及のルートが,文字どおり“地球”表面のすみずみに及ぼうとしていたのに対して,標準器整備のルートは一七九〇1790年代に設定された地球を基準とする軌道(ルート)(第七7,第八8話)から次第に離れ,やがて“母なる地球”との縁をたち切ってしまうことになるのだから。  新しい標準器——名づけて「国際メートル原器」と「国際キログラム原器」——の完成へのルートにも,その構造や材料を研究した学者,鋳造や加工を担当した名匠の事績はたくさん残されているし,外交史的な話題,とくにその材料(白金九〇90とイリジウム一〇10の合金)の調達をめぐる英仏間の競合(コンペテイシヨン)のことなども興味深いのだが,筆者はそれらとの付き合いを断ち切って,逆に読者とのお付き合いを深めるべく質問を提出することにしよう。  第一問,「国際メートル原器の具現する一1メートルとは,どのように定められたものなのでしょうか?」 「(筆者は第十10話でアルシーヴの原器のことをえらく強調しておった——しからば)それは,アルシーヴのメートル原器の具現する一1メートルに等しく定められたのである」  正解! しかし質問はいもづる式にしかも意地わるく続く。第二問,「そうすると,地球の極から赤道までの子午線の長さの一〇〇〇万分の一1000万分の1に等しいわけですね?」  田中館先生のお話(第七7話)以下をすなおに読んでくださった読者の答は,つぎのようでなければならない——「しかり,そのためのドランブルたちの苦心のさまを,きみは第八8,第十10話でくどいほどくわしく語ってくれたではないか」と。  残念ながら——読者,筆者,ドランブル,メシェン,ルノワール,フォルタン等々にとってまことに残念なことながら,それは正解でない。正解——国際メートル原器の具現する一1メートルは「アルシーヴのメートル原器が具現していた一1メートル」に等しく定められたが(それだからこそ),『地球の極から赤道までの子午線の長さの一〇〇〇万分の一1000万分の1』に正確には等しいものとはならなかった。  国際キログラム原器についても話はまったく同じであって,その質量は「アルシーヴのキログラム原器の具現する質量」に等しく定められたが(それだからこそ),『〇・一0.1メートル立方の体積を占める,密度最大の水の質量』に等しいものとはならなかったのである。 地球からの脱出  右上の問答の最後の,「……」に等しく『……』に等しくないという言い方は,読者にとって不審ないし不信の対象となるに相違ない。即刻に種あかしをするのが筆者のつとめというものであろう。  ドランブルとメシェンは,またラボアジェの遺志をついだルフェーヴル・ジノーらは,それぞれ「……」と『……』とを等しくすることにあれだけの情熱を注入した。ルノワールやフォルタンのような名匠たちは,アルシーヴ原器をつくるに当たって「……」と『……』とが等しくなるように,技量のかぎりを尽した。しかもなお,そこに“食い違い”の介入することを回避しきれなかったのである。  とはいえ,この食い違いをかれらの罪過と呼ぶ権利をだれが持ちうるだろう! アポロが月に届いた今でさえ,月までの距離に関して四〇40メートルの食い違いが問題になっているではないか(序章)。  一七九〇1790年代の功労者たちの腕前を明らかにするために,筆者は——読者が退屈なさることなどお構いなしに——数字を並べておくことにする。  メートルに関しては, 「……」=『……』×〇・九九九七七 「……」=『……』×0.999 77  すなわち食い違いは〇・〇二三0.023パーセント。  キログラムに関しては, 「……」=『……』×一・〇〇〇二八 「……」=『……』×1.000 28  すなわち食い違いは〇・〇二八0.028パーセント。  それにしても,「……」が尊重され『……』が敬遠されたのは,なぜか。“地球の大きさ”や“水の密度”は,自然界に見出される“単位具現者”として,あんなに宣伝されたというのに。  それも結局は科学的・技術的知見の増大によってもたらされたというべきだろう。たとえば地球の寸法——それはドランブルらの測量以後にもますます精密・大規模に調べられ,そこからは地球物理学上の数々の意義深い成果が生まれる。いわく「地球は単純な回転だ円体ではない」,「地球の形は時間と共に変わる」,「地球は何やらぶわぶわした物体だ」等々。地球物理学上のこれらの成果は,計測学の言葉に翻訳すれば,単位具現者としての地球の“非”適格性を証明するものでしかなかった。  第六6話のなかばで計算問題を出しておいたが,半径六・三六6.36センチメートルのほうからは 〇・九九九五 0.999 5 なにがしメートル,六・三八6.38センチメートルのほうからは一・〇〇七1.007なにがしメートルとなったはずである。  すなわち,ふたつの円の間をすりぬけてえがいただ円の弧の長さ(極から赤道に至る子午線に相当するもの)からは,いかにも一1メートルにごく近い値が得られそうな感じがする。  この計算問題は六・三六6.36とか六・三八6.38とか,つまり三3けたの細かさで答を出せばよろしいのであるから,右上の程度に「一1メートルにごく近そうだ」と感じていただければじゅうぶんである。では,もっと細かくいうとどうなるのか?  地球物理学のほうで現今とりまとめられているところによれば,六・三六6.36に対し 六・三五六九〇八 6.356 908 ,六・三八6.38に対し 六・三七八三八八四 6.378 388 4 。これらを使って“だ円としての子午線の長さの四分の一4分の1の一〇〇〇万分の一1000万分の1”を求める計算……これを問題として読者に課するのは見合わせよう。筆者自身もへきえきしているのだから。  答は——ハンドブックに書いてある!—— 一・〇〇〇二二八八 1.000 228 8 メートル。一1メートルとの食い違いは,〇・〇二三0.023パーセントほどである。〇・〇二三0.023パーセントという数字を読者はこの本で,数ページ前に,ご覧になったはずである。  それにしても地球物理学では大層けた数の多い値が使われているわけであるが,これは地図作製などの目的のためにとりまとめ(あるいはむしろ,とり決め)た値なのであって,くわしい本を見れば,いろいろな学者(ベッセル,クラーク,ヘイフォードその他)によりいろいろな値(たがいに〇・〇一0.01パーセントほど違う)が発表されていることがわかる。しょせん地球は,単位具現者として“好ましくない”のである。 現実主義者の先見の明  単位具現者として地球は好ましからぬ存在であるということは,実はタレーラン提案よりさらに以前に,ある人によって注意されていた。地球に準拠する案を批判して,その人はいう——「この目的のために必要な最初の作業がぼう大であることはさておき,それをチェックすることの困難もさておき,またチェックを日常的に行なうことの不可能性さえさておくとしても,この方法で得られる正確さの度合をはっきり言い表わすこと自体が容易でないと考えねばならぬ」と。  この現実主義的な意見を著書(一七九〇1790年,パリ)の中で主張したのは,われわれの知るプリエゥル(第十10話)なのである。この主張は一七九〇1790年代にはしりぞけられてしまっていたわけだが,次の世紀の七〇70年代,“地球”か“アルシーヴ原器”の択一に迫られたとき,ひとびとは,プリエゥルの主張に——それを思い出したかどうかは別だが——抗することはできなかった。新しい単位は地球という自然物をはなれて,“国際原器”およびその写しともいうべき“各国原器”という人工の物によって具現されることになる。  一八八五1885年(明治十八18年)メートル条約に加盟した日本にも,“日本の原器”が届けられた。到着は一八九〇1890年(明治二十三23年)であった。 第十二12話 ハードウェアからソフトウェアへ 日本のメートル原器の里がえり  一九五六年九月二十七日1956年9月27日(木)の『サン写真新聞』(現在,廃刊)第一面は,八8枚の大きな写真に少々の記事を加えて,“メートル原器のお里がえり”を大々的に報道した。見出しにいわく, “物差しの元締”パリへ   もっと精密に生れ変る『メートル原器』  そのあとに続く記事というのがいかにも新聞記者調の作品なのであるが,簡にして要を得ているので,ここに引用させていただくことにする。〔……〕は筆者がおぎなったもの。  各家庭には必ず一つはある物差しの基準となる『メートル原器』が,メモリ線の引き直しと一1ミリごとにメモリ線を入れるため,二十六26日午前八8時,羽田空港発エア・フランス機で中央区銀座東六6 通産省工業技術院〔中央計量検定所〕の八8つのトビラを出て三十六36年ぶりにフランスに旅立った。  明治十八18年日本はメートル条約に加盟,同二十三23年初めて正(一つ)副(二つ)原器が届いたもので,以来一回パリ郊外にある国際度量衡局で検査した〔一九二一1921年〕だけで,メモリ線は一〇〇〇分の八1000分の8ミリもあり,おまけにデコボコという有様。これを一〇〇〇分の四1000分4ミリの細さにし,そのデコボコをまっすぐにして現代生活に即応するような精密な原器を作ろうということになり,十月一日10月1日から開かれる国際度量衡委員会に出席する東大山内二郎教授にたくしてパリ行きとなったもの。  白金九〇90パーセント,イリジュン〔正しくはイリジウム〕一〇10パーセント,重さ三・三八3.38キログラム,長さ一・二1.2メートル〔正しくは一・〇二1.02メートル〕の同原器は,約一〇〇〇1000万円もする代物とあって,同日朝五5時には警護の警官が羽田まで目をヒカらせるものものしさ。また震動があってはと赤子をだくようにソッと飛行機に積み込まれた。パリの国際度量衡局で厳密な検査の末,スイスの通称シップ社で線を入れ,いままでなかったミリ線を加えて半年後に面目一新,この物差しの元締はご帰国される。 八重のとびら  八8枚の写真はいずれも警備のモノモノしさにピントを合わせたもので,なかなかおもしろくとられている。まず,原器の荷づくりであるが,長さ一・〇二1.02メートルのものをキリの箱に入れ,次に金属製の筒に入れる。ここまではいわばきまりの荷づくりであって,その有様は今でも計量研究所においでになればご覧になれる。この里がえりに際しては,金属製の筒のそとへ特別のこんぽうがほどこされた。  荷づくりは前日までに終わっていた。したがってその朝,原器はこんぽうされたまま,中央計量検定所の原器保管庫の中に厳重に保管されていたのである。さて,羽田までの輸送のための車が同所につく。建物のトビラが開かれる。そのあとのトビラのくどさが記者およびカメラマンの関心をつよく引き寄せたようである。四4枚の写真に添えられた説明句も拝借してしまうことにしよう。  メートル原器の入っている室の 第一のトビラが開かれる。……続いて三つ目を開けて……またまた五,六のトビラをくぐり……七つ目のトビラを開けて さらにその中の金庫のトビラの中に鎮座しとるのだが,この日はコンポウしたものが七つ目のトビラの中においてあった…。  原器が羽田についてからの模様は,「空港警備員を先頭に,地元警官と護衛警官に厳重に守られながら,しずしずと飛行機に積み込まれた……」と報道されているが,写真を見ると,こんぽうされた原器そのものは,当時の検定所所長や部長ら,同検定所の四4人のお偉がたの手でおもおもしく運ばれている。 バラの園にねむるごついいれもの  原器の輸送のことに寄せて余談をもうひとつお許し願うことにしよう。一九五六1956年の輸送にあたっては,産業工芸試験所の研究によるモダーンなこんぽうが用いられたのであるが,それ以前の長距離輸送——といっても,日本へ“よめ入り”の一八九〇1890年と,定期検査で里がえり(一九二一1921年)の二2回だけであろう——には,たいそうごつい金属製の外装容器が用いられたらしい。  今やそれら——メートル原器用とキログラム原器用それぞれ一1個——は,計量研究所前庭のバラで囲まれた植込みの奥に記念物として飾られているのであるが,その場所がたまたま筆者の研究室の窓の真下なので,親近感のゆえをもってこれらの外装容器のことを書いておく次第である。先年あらたに塗装されたのでさほど古くは見えないが,日清戦争前に原器の保護役としてはるばる海をこえてやってきたのであろうから,よわい八十ほどの代物(しろもの)であるに違いない。  メートル原器用のは横長の筒の形,キログラム原器用のはずんぐりした鐘の形——台石の上にふたつ並んでいるさまはさしづめめおと人形とでも言いたいところだが,なにしろごつくてどっしりしているから優雅な連想を誘う存在とは言いがたい。さらにまずいことには,それをのせている石の台というのが昔の火薬づくりのひきうすと関係があるものだそうだし,めおとの間には昔の大砲の筒も飾られている。  連想はむしろぶっそうなもののほうにこそ及ぶようだ——さよう,ふたつのいれものは小形の魚雷と機雷というところであろうか。そしてまた思う——白金イリジウム製の原器といい,このごついいれものといい,まさに,今日いう“かなもの(ハードウエア)”ではないか。アルシーヴの原器いらい,単位具現の役はもっぱらハードウェアによって演ぜられてきていたのだなと。 原器は神聖なり,犯すべからず  筆者は学校を出てからずっと計量研究所で仕事をしており,原器の外装容器に関しては現在もっとも有利な座席を与えられているので,朝な夕なそれらを鑑賞しているのだが,考えてみると,“ほんもの”の日本国原器というハードウェアを見た回数は片手の指の数にも達しないようである。まして,ほんものの“おおもと”たる「国際原器」となれば,筆者ごときはその建物(パリ近郊セーヴルの国際度量衡局)を見る機会をもったことだけでも光栄と心えなければならない。  日本国原器は,第二次大戦末期に柿岡の地磁気観測所へ疎開された。その折の話らしいが,キログラム原器(あるいは副原器)をガラス容器ごと白布に包み胸先にささげて運んでいたら,すれ違う人はみな丁重に敬礼したそうである。護国の英霊の遺骨と思ったのだった。  ともあれ原器という名のハードウェアは,しばしば“神器”とさえ呼ばれて,原器庫の奥ふかくに奉安されていたのだ——いわば,フランク王シャルマーニュの時代(第六6話)に逆行したかのように。  さて,日本のメートル原器はこんなにも大切にされて“里がえり”をし,予定よりずっとおくれはしたが,五5年ほど後の六一年三月61年3月に日本へもどってきた。しかし,帰ってみれば……中央区銀座東六6にはもはや中央計量検定所はなく,その移転先である板橋区板橋(現在の加賀一1丁目)の建物の看板はその年の七7月に“計量研究所”と改められることになった。  話が浦島太郎の物語めいてきた——保管の任にあたる役所が移転していようと改名していようと,“帰ってきたメートル原器”はもちろん前と同様に丁重に輸送されて,板橋の新しい原器庫にふたたび厳重に収納されはしたのだが,この原器のうえにおとずれた運命は浦島太郎のそれとたしかに似ていた。 “日本におけるあらゆる長さ測定の究極(おおもと)の基準”という任務は,その時すでにこの原器というハードウェアのもとを離れて,別のもの——いわゆる「クリプトン八六86のだいだい色のスペクトル線の波長という現代物理学的なむずかしいもの(序章)」——のほうへ移ってしまっていたのである。 形あるものはこわれる  そのむかし原器をがっちりと抱いて海を渡ったという例の外装容器——筆者は研究室の窓からそれを眺めて機雷や魚雷を連想しつつこう思うのである——「原器を輸送する船が機雷や魚雷に見舞われたら一体どうなったのだろう? “神器”の保管・輸送の責任者が切腹したところでどうにもならなかっただろうに」と。  残念ながらこの種の危惧(きぐ)の念は筆者の独創に属するものではない。すでにアルシーヴ原器献呈式の演説(第十10話)で,ラプラスらしき弁士は次のように述べている。 「とはいえ,測定の基準を具現するこの金属製の物体が地震によって打ちのめされ,あるいは雷火の一撃によって溶かされることは,ありえましょう。しかしながら,立法府の議員たる市民諸君,これほどの研究の成果である普遍的測定基準が喪失するということは,国家の名誉にかけても,また公衆の実益という見地からしても,あってはならないのであります」  地震といい雷火の一撃といい,さすがに議会演説ともなればどえらいことを引き合いに出すものだ! 日本の原器は関東大地震に打ちのめされることもなく,また第二次大戦の空襲激化期には疎開されていたので(中央度量衡検定所の建物の一部が焼かれたにもかかわらず)焼い弾や爆弾の一撃で溶かされることもなかった。国際原器のほうは疎開もされずにパリ郊外の地下室で——さながら抵抗(レジスタンス)運動の闘士のように——がんばりとおし,使命をまっとうした。  しかしながら,天災・人災その他もろもろの原因による“喪失”は,ハードウェアの宿命である。単位を具現するハードウェア標準器の被災の例として,われわれは,例のパリのとりでのトワズ尺が市街戦で破壊されたという話を知っている(第六6話)が,この手の話でいちばん劇的なのはイギリスのヤードとポンドの標準器の火難の事件(一八三四1834年)であろう。  画家ターナーの名作『国会議事堂の火災』(一八三五1835年)で後世に伝えられているこの大火事は,下院の事務室に保管されていたヤード標準器の一部を溶かし,ポンド標準器をだいなしにしてしまった。水難のほうでは——機雷・魚雷の一撃という例はないようだが——一七三〇1730年代の遠征測量(第六6話)の時に一1本のトワズ標準尺が海に落とされ,さびてしまったという話もある。 ハードウェア主義へのアンチテーゼ  すでに第十一11話で述べたとおり,十九19世紀末葉の“メートル法国際化”の時代には,“ハードウェア第一義”の理念がつよく支持され,“アルシーヴ原器から写しとったもの”として国際原器が作られた。しかし,どんな理念(テーゼ)にも“それと対立する理念(アンチテーゼ)”は提示されうる! ハードウェア第一義の理念に対するアンチテーゼは,何よりもまず「形あるもの(ハードウエア)はこわれる」という命題を論拠として,いともたやすく提示されうるのである。  ハードウェア主義に対するもうひとつの重要なアンチテーゼは,“ハードウェアの恒常性(インヴアリアンス)への疑義”を論拠として提示されうる。ものさしの来歴を考証する史家は“偽長”という言葉をしばしば用いる。数値上の——故意または過失による——取り違えのためではなく,ものさしという物体そのものの長さの長年月の間の物理的変化によって,長さ測定に誤りが導入されることをさす。  一般にはものさしが“伸びる”のだそうだが,ヤード標準器(材料は銅,すず,亜鉛の合金,いわゆるベイリー・メタル)はあきらかに“ちぢみ”を示している。これは金属学的に興味ぶかいことであって,ファラデイも多少の考察を試みたそうだが,何分にも五〇50年間に二2マイクロメートルという僅かなちぢみだから,実験的に調べるのは容易ではない。メートル原器(材料は白金,イリジウムの合金)については,目にとまるほどの変化が検知されたことはない。  フランク王シャルマーニュの標準尺(第六6話)は長年の間にひどく伸びたのだそうだが,これは構造上の欠陥と使いすぎのたのである。鉄製のこの標準尺は,両端を小さな枕木のようなもので支えた形に置かれていたので,ほかのものさしをもってきてこれと比較する時には,ものさしを標準尺の上にのせなければならなかった。その重みで標準尺はたわむ(図のa)。それを何度となくくりかえしている間に,標準尺は少しずつ伸びたのである。  ついでながらメートル原器も,ふたつの枕木(ただし直径一1センチメートルの円筒,すなわちローラー)で支えられていたが,ふたつのローラーの軸の間隔は五七一571ミリメートルと指定されていた。このはんぱな寸法は,“原器がそれ自身の目方のためにたわんでも標線間の長さが変わらないように”選ばれたものである(図のd)。くわしく書けば,(原器の全長一1〇二〇020ミリメートル)×(ベッセル支持法の係数〇・五五九四0.559 4)  この支持法にせよ,よく知られた断面の形(図参照)にせよ,力学的な(また,ある意味では経済的な)吟味の末に選ばれたものであって,ハードウェアとしての仕様はそれなりになかなかよくつくられていた。 ソフトウェア主義への道  われわれは第一1話いらい,さまざまな単位のことといっしょに,“単位を具現するもの——標準器”のこともあれやこれやと調べてきた。たとえばヤップ島人にとって,“ひろげた指”は悪魔的(デモーニツク)および人間的な長さの単位の標準器なのであり,また“ココやしの実のから”は体積単位を具現する標準器であった。これらは一体ハードウェアなのかソフトウェアなのか。  具体的なものであることからいえばこれらはハードウェアであろうが,原器のような“特定のただひとつのもの”ではない。“ひろげた指の先の間の長さはほぼ一定である”あるいは“ココやしの実のからの体積はほぼ一定である”という知見が基本的な役目をしていることからいえば,これらはソフトウェアであるともいえよう。  しかし“ほぼ”一定では心細いとなると,おそらく“酋長の指”とか,あるいはすでに書いたように“中くらいのココやしの実”とか,やはり特定化(スペシアライゼーシヨン)ないし規格化(ノーマライゼーシヨン)が考えられてゆくことになるであろう。やはり,“物体”に準拠したこれらの標準器は,ハードっぽい感じである。  ではケプラーの標準器シュタントネルはどうか。たて・よこの寸法で長さの単位を具現し,内容積で体積の単位を具現するという意味で,このうつわは疑いもなくハードな標準器であったが,“それをみたすドナウ川の水の質量”が質量の単位を具現するという意味では,かなりソフトなものだったといえる。そこでは“ドナウ川の水の密度は一定である”という知見が活用されているのだから。  もっとも,“泉の水でなくドナウの水”というあたりには,まだまだ特定化・規格化のにおいが濃い。ケプラーの発想にそって,“特定化・規格化からの自由”を確立したのは,ラボアジェ一派であった。  かれらは,“自然界に存在するもの(ドナウの水とかセーヌの水とか)のなかから選び出す”という発想とは縁を切って,“自然界に存在するものに(蒸留という)技術的操作を加えて抽出して得た物理的・化学的に純粋な(H2OH2Oという)物質”に着目した。かれらは,“H2OH2Oと名づけられた物質の密度は一定である”という,まことに正当な,一般性に富んだ知見を活用したのである。  ラボアジェたちの実験そのものには多少あやふやな点があった(第九9話)。また,その後の知見,たとえば温度のこと,あるいは重水D2OD2O——さらにくわしくいえば二2種類の水素HとDおよび三3種類の酸素160160と170170と180180(つまり同位元素)の,いく通りもの化合物——の存在のことをもってラボアジェたちを批判するのはたやすい。筆者がここで力説したいのは,かれらの“理念の明確さ”である。  単位具現の理念がハードウェア主義から解放されてソフトウェア主義への道を見出したのは,ほかならぬラボアジェの時からだと,筆者は評価したい。そのすぐれてソフトな頭脳がギロチンという兇悪なかなもの(ハードウエア)によって切りおとされなければならなかったとは! われわれは,歴史の現実のきびしさをふたたび痛切に教えられるのである。 歴史のらせん  歴史の歩みはらせんに沿うかのように進められるという。われわれが見ている単位具現の理念の歴史も,時にはハードウェア主義に徹し,時にはソフトウェア主義に近接しながら,全体としては,より一層の正確・精密・恒常・普遍を指向しつつ進んできた。  われわれはおもに“長さ”と“質量”の単位に着眼しているわけだが,おもしろいことに,長さ単位の歴史のらせんと,質量のそれとは,必ずしも同期せず,時おり,ずれた進み方を呈するようである。  一七九〇1790年代のメートル法創始期に,長さのほうは地球という——自然界に存在するもののなかから選ばれた,そして極度に“特定化”された(なにしろ宇宙にただひとつしかない!)——ハードウェアをよりどころとしていたが,質量のほうは,体積に関してこそ地球に準拠していたとはいえ,密度に関しては明らかにソフトウェア主義をとっていた。ところが,続く“原器(アルシーヴ,国際,各国)”の時代には,長さも質量も徹底したハードウェア主義に立っていた。  そして現代,質量のほうは相変わらずハードウェア主義をよりどころにしているのである。キログラム原器という特定の物体は,今もなお,そしてこれからもなお,神器のように大切にされなければならない。  日本のキログラム原器のことを担当する方の仕事ぶりをわきから見ていると,ここにも“名匠”ありの感を強くする。かりに原器の表面が原子層ひと皮ぶん薄くなったとすると,質量は〇・〇一0.01ミリグラムほど,すなわち一1キログラムに対して(一〇10のマイナス八8乗)の割合で,減るのだそうである。 「分銅はピンセットで扱う」という注意さえ無視して指でつまんでしまうような心ない実験者は,キログラム原器を扱うための道具や手順のものものしさと,そして何よりも担当者の心がまえとを一1度は見聞なさるべきである。名匠のおかげもあってキログラムという単位の精度は(一〇10のマイナス九9乗)——一〇億分の一10億分の1!——と評価され,“時間”の単位につぐ斯界第二2位の最高級精度と見なされているのである。  ハードウェアによってではなく,素粒子の静止質量とか格子欠陥のまったくない結晶とかのソフトウェアによって質量単位を具現させるという考えは,もちろん尊重すべきであり,またカッコいいには違いないが,一〇億分の一10億分の1の壁を破るだけの迫力をそれらに望むことは目下のところ幻想に近い。  いっぽう長さのほうは,大きく旋回して今や徹底したソフトウェア主義に立つことになった——旋回が公認(オーソライズ)されたのは,われらの日本国メートル原器がお里がえりをしていた途中の一九六〇1960年においてであった。 光——長さの単位と尺度を具現するもの  あらたに着目されたのは,もちろん原器のような物体ではない。それどころか,水のような物質でもない。それは,形もなければ質量もない“光”であった。かたくて重いかなも(ハードウエア)のに対立するという意味のものを,ソフトウェアと呼ぶのなら,これほどソフトウェアらしいものはほかにはあるまい。  光が波であること,ふたつの光が重なると強め合ったり弱め合ったりして,いわゆる干渉を生ずる場合があること,干渉によって生ずるしま模様は,ふたつの光の波の通ってきた道のりの差(光路差)の中に波がいくつ含まれているかによってきまること,つまり,光の干渉という現象が波長を“単位”とする長さの“尺度(ものさし)”の役目をすること——筆者はここで光学や光波干渉測長法の教科書のぬき書きをしようとは思わない。ただ,光の波が長さの“単位”を具現するのみでなく,長さの“尺度(ものさし)”をも具現するという点に注意をうながしておきたい。  メートル原器の二2本の主要な標線は,一1メートルという“単位”を具現することだけを役目にしていた。それをもとにして〇・二0.2メートルとか,〇・〇三0.03メートルとかのはんぱな長さを割り出す手順,またこうして割り出された〇・〇〇一0.001メートル(一1ミリメートル)などの小さい単位をつなぎ合わせて,端から〇0,一1,二2……ミリメートルという風な“目盛”のついた“尺度(ものさし)”をこしらえてゆく手順——別段どうということもなさそうに思われるだろうが,これも決してたやすいものではない。 “最小の労力で最高の正確さを”得るための手順の論理(ロジツク)が組み立てられてはいるが,その実行はやはり“名匠”の技量なしには不可能であろう。里がえりした日本メートル原器に一1ミリメートルごとの目盛があらたに刻まれたのも,このような意味でなかなか重要なことだったといえる。  それに反して光は,その“ひとつの波”で長さの単位が与えられるという性質とともに,その“波がいくつ”という数によって長さの尺度が与えられるという性質をも備えているのである。  ソフトかハードかの議論に立ち入るまでもなく,長さ測定のための道具として“光の波”が“原器プラス尺度”に対してもつ優位性は,すでに明らかであるといえよう。  さて筆者はまた意地わるく,大事なことを伏せてきてしまった——役に立つ光は「波長が一定」であって「干渉しうる性質をもつ(いわゆる可干渉的(コヒーレント)な)」ものでなければならない!  光は——造物主が「光あれ!」といった時このかた?——自然界に存在し続けてきた。しかし,右上のような条件をみたす光は,自然界にひとりで存在するものではない。  筆者は前に述べた——ソフトウェア標準器とは,「自然界に存在するものに技術的操作をほどこして抽出して得た純粋な物質の性質を利用する」ことによって成立する,と。光の波による標準器の成立が宣言されるまでには,「純粋な光」を自然界から抽出するための「技術的操作」の大量の投入と,そしてもちろんそれを支える「科学的知見」のぼう大な蓄積とが必要であった。 第十三13話 原子単位の世界 地球よりも永久不変な 「科学の現状において,われわれが考えることのできるもっとも普遍的な長さの標準は,どこにでも存在していてしかも明確な線スペクトルをもっている物質,たとえばナトリウムから放射される特定の光の,真空中での波長であろう。このような標準は地球の大きさの変化とは無関係であって,地球という物体よりも自分たちの書いたもののほうが永久不変だと期待するひとびとなら,きっとこのような標準を採用することだろう」   J・C・マクスウェル『電磁気学』(一八七三1873年)序説「量の測定について」から   ここに抄訳したのは,物理学史上第一級の古典であるマクスウェル『電磁気学』の,はじめのほうの一節である。きわめ付きの古典というものは——文学書にかぎらず——まさにそれならではの魅力を,すみずみまで,いや行間にさえ,いっぱいにたたえている。  とりわけわれわれを感動させるのは,ソフトウェアの価値に対するマクスウェルの信念のあつさである。「自分たちの書いたもの」——まさにソフトウェアのことである!——は「地球という物体よりも永久不変だ」と彼は信じ,また,そのことを「期待するひとびと」の存在をも彼は信じたのだ。  マクスウェルは,この名著を仕上げてから六6年後の一八七九1879年に世を去った。さて,そのころ“単位の歴史のらせん”はどんなコースをたどっていたのだろう。イギリス製の合金で最初のメートル系原器がつくられたのは一八七八1878年,アルシーヴ原器との比較がなされたのは一八八一—八二1881—82年,国際原器が決定・公認されたのは一八八九1889年。要するに“らせん”は徹底的にハードウェア側を進んでいたのである。  しかし,その頃すでにらせんはつぎの旋回への助走にかかっていた。トップ・ランナーは,新大陸アメリカからメートル法の本山・パリ近郊の国際度量局へ招かれたマイケルソン(Albert Abraham Michelson)。いわゆるマイケルソン干渉計の考案者として知られている彼は,有名な相対論的実験(マイケルソン・モーレーの実験)をしとげたのち,一八九二1892年からメートル原器と光の波長とを比較する実験に情熱を傾け始める。しかも,この仕事は決して彼ひとりの興味によって開始されたのではなく,国際度量衡委員会の権威ある勧奨(一八九一1891年)によって開始されたのである。歴史のらせんは,マクスウェルがさし示したとおりの進路を目ざして,いちはやくしかも公然と,旋回しはじめた。 もっと——純粋な——光を  一八九五1895年,マイケルソンの仕事は,早くもこんなレポートを書くところまで進んだ—— 「……ナトリウムのスペクトル線はあまりにも複雑であり,それを用いた測定はあまりにも不正確であって,出発点として選ぶに値しないことはただちにわかった。  私ははじめのうち……水銀の緑色光がわれわれのあらゆる要求をみたすものであろうと考えた。しかしさらに研究を重ねたすえ,水銀その他いくつかの元素のほとんどすべてのスペクトル線は,程度の違いこそあれ複雑な構造をもっていることが知られた。  数少ない例外のうちで,カドミウムは最上位といってよい。そのスペクトル線は,純粋さ,明るさ,配列の都合よさ,点灯しやすさなどの点で,波長の標準を得るために,これまでに研究したすべての元素のうちで最適のものとして選ぶに足りる。……  カドミウム蒸気が発する非常に明るい赤色光は,ほぼ理想的に簡単な構造をもっている。この線による干渉縞の可視度は指数曲線的に減少し,光路差が二五〇250ミリメートルに達するあたりで消滅する。一〇〇100ミリメートルにおいては可視度はなお最大値の半分以上である」 (増井敏郎博士の訳による)  筆者はここでまたケプラーの“ドナウの水”やラボアジェの“蒸留水”を思い出さざるを得ない。質量標準を具現するための物質に要求される基本的な性質は,“密度の一定性”であるけれども,もう少しくわしく言えば,“純粋に(密度一定な姿に)しやすいこと”,“たやすく手に入れられること”,“密度が小さすぎもせず大きすぎもしないこと”,“環境条件(温度,圧力など)で密度があまり変わらないこと”なども大切な資格にあげられる。  ケプラー,ラボアジェはまことに正当にも“水(H2OH2O)”に目をつけ,その純粋な姿を次第に追いつめていったのだった。 “光の波による単位と尺度”を具現するための光には,どんな資格が要求されるか——その条件をマイケルソンは右上のレポートの中でほとんど余すところなく述べている。マクスウェルが例示したナトリウムの線スペクトル(もちろん有名な黄色のD線であろう)は,明るさ,実現しやすさの点でこそ有利であるとはいえ(明るくて実現しやすいからこそ早くから人の目につきやすかったわけだが),純粋さ(波長一定性の度合,つまり単色性(モノロマチツク)の度合)の点では,“いずみの水”といい勝負というところだった。  不純な(いろいろの波長——いろいろの色?——の光がまざり合った)光というものは,それを単位の具現者として資格審査すれば,具現される単位がひと通りではなくていく通りもあるという意味で,たちまち減点されることになる(たとえて言えば原器の標線が太くてぼけていること——太閤・検地尺の筆勢のような——に相当する)。  のみならず不純な光をもってしたのでは,長い道のり(長い光路差)の果てに鮮明な干渉のしま模様をつくらせることができないのである(同じ道のりの果てに,ひとつの波長の光は強め合って明るく見えても,別の波長の光は弱め合って暗くなってしまうのだったら,鮮明なしま模様ができるはずはない)。つまり不純な光は,それを“尺度”の具現者として資格審査した時にも,具現されうる“長さ”が短い——守備範囲がせまい——という意味で,やはり減点されてしまうのである。  マイケルソンのレポートで“可視度”というのは,おおまかに言えば,右に述べたしま模様の鮮明さの度合のことであり,したがって“可視度の消滅する限界の二五〇250ミリメートル”がカドミウム赤色スペクトルによる“尺度”一1本の守備範囲ということになる。  マクスウェルのナトリウム黄色光からマイケルソンのカドミウム赤色光へ——この進歩の幅は,ドナウの水から蒸留水への進歩の幅よりも大きかったと言えそうである。なぜならナトリウム光はカドミウム光より一〇〇100倍ほども不純であって,その守備範囲はせいぜい数ミリメートルに過ぎないのだから。 物理学の新しい波  マクスウェルは古典電磁気学の体系を美しく仕上げた人なのだから,古典派の大家(ク ラ シ シ ス ト)と目されるのは当然だが,熱学とくに気体論では確率の考えを物理に導入して統計力学への道を開いてもいる。彼もまた次の時代の物理学の胎動を感じとっていた人のひとりであるといえよう(ブルーバックス『マクスウェルの悪魔』を参照されるとよいであろう)。  しかしながら,マクスウェルのばあい,「ナトリウムがなぜ特定の波長の線スペクトルを出すのか」を解明して,“自分で書いて”残すためには,その生涯は短かすぎた。  思えば分光学(スペクトロスコピー)は,十九19世紀後半からの物理学の大きな関心事のひとつであった。特定の原子,あるいは分子がどんなスペクトルを発するか——ぼう大な知見が集積され分類される。スペクトルが原子・分子の個別的性質をあざやかに示すということは,ブンゼン,キルヒホッフの指摘(一八五九1859年)いらい疑う余地のないものとなる。経験的な規則が相ついで提示される。にもかかわらず,その統一的解明は,二十20世紀に持ち越されなければならなかった。  いうまでもなく,その第一歩はプランク——ブンゼン,キルヒホッフの指摘の前年の生まれ——の量子仮説(一九〇〇1900年),第二歩はアインシュタイン——マクスウェルの死の年の生まれ——の光量子論(一九〇五1905年),第三歩はボーア——バルマーがスペクトル系列を定式化した年の生まれ——の原子構造論(一九一三1913年)である。そして第一次世界大戦後の一九二〇1920年代,シュレーディンガー,ハイゼンベルクらの戦後派学者によって量子力学が建設され,スペクトル解読の理論的な“かぎ”が完成する。  単位の歴史のらせんの新しい進路をさし示す点において,マクスウェルはすこしの誤りをも犯さなかったけれども,現実の“原器”の光への転進が世間で公認(オーソライズ)されるに至るためには何よりもまず現代の物理学の——奔放ともいうべき——発展が必要だったのである。  量子力学という新しい大波(ヌーベル・ヴアーグ)が世界の理論家を興奮させていた一九二〇1920,三〇30年代,何人かの経験ゆたかな実験家たちは,マイケルソン推奨のカドミウム赤色スペクトルの波長の精密な決定(メートル原器との比較)に腕をふるっていた。故渡辺襄氏らの実験結果がその中にあって,国際間に高い声価を獲得したことを,われわれは記憶にとどめておきたいものである。 「メートル原器にかわる新しい長さ標準器としてカドミウム赤色スペクトルを」という声はひときわ高まり,その正式採用の機運は,一九三五1935年ごろには熟し切ったかに見えた。しかし間もなく“水”が入った。ふたたび「波長の純粋さへの疑義」が提示され,そして世界はふたたび大戦に突入したのである。 よろめく原子,ゆらぐ光  そもそも特定の原子が,特定波長の線スペクトルを出すのはなぜか? 波動方程式を引っぱり出したりせずに,“ブルーバックス”調の説明をしなければならないわけだが,筆者がそのまねごとをやってもせいぜいこんな風で,いっこうにスマートではない。 「原子は核と電子とから成り,電子は離散的(とびとびの)な軌道のうえにのみ存在することができるので,各電子がどの軌道のうえにあるかによって,原子のもつエネルギーの準位(レベル)も離散的な値だけをとる。  そとから何かの形でエネルギーを受け取って(励起されて)準位の高い状態におかれた原子は,準位の低い状態へとび移る(遷移する)時にひとかたまりの光エネルギーを出す。その光エネルギーの大きさは準位間のエネルギー差に等しく,したがって離散的な値をとる。  一方,そのひとかたまりの光の波長はエネルギーに反比例するので,やはり離散的な値をとる。ゆえにいくつかの特定波長の線スペクトルが現われるのである」  準位を“階段”になぞらえ,ひとかたまりの光を“粒のようなもの”になぞらえば,いくらかはわかりやすいかもしれないが,こういうたとえ話が遠からず破たんを生ずることは目に見えている。  破たんの第一——準位が大理石の階段のようにがっちりしたものなら,線スペクトルの波長もきっちりときまるだろうのに,なぜ現実の光は“不純”なのか。  破たんの第二——光が粒であるなら,それが“干渉”してしま模様を表わすとは一体どういうことなのか。  破たんの第三——原子(あるいは電子)はある準位(軌道)から他のどれかの準位(軌道)へジャンプするとき,前もって行先を(自由意志によって?)選んでいて,それに見合うエネルギー(したがって波長)の光を出すというのか。  筆者は,もう一回だけ努力して,破たんのほころび目をつくろうことにしよう。  第一——準位の階段は,ところどころ荒っぽくできている(超微細構造の説明のつもり!)ので,ジャンプの時の踏み切りがよろめいて波長が乱れることがある。電場や磁場がある時には,階段の間隔が狂ったり小刻みに割れたりする(シュタルク効果,ゼーマン効果)ので,やはり波長が乱れる。  第二——粒といっても,ひとつながりの波のかたまりなのである。だから,ひとつながりの範囲内では波としての性質をもち,干渉してしま模様をつくることになる。ついでながら,光が強い弱いというのは,波のかたまりすなわち粒の個数が(ある時間内に)多い少ないということに相当する。強い光とは,こまかくぶつ切りにされた粒が,ポンポンたくさん出ているようなものであるわけで,したがってひとつながりの範囲,言いかえれば波として干渉できる範囲が小さい。  第三——粒子に意志があるはずはない。どこへでも勝手にジャンプできるように,切符をいろいろもらっているようなもので,切符には行先および出すべき波長が書いてある。そして,ある時間内に使える切符のうち,A行きは何枚,B行きは何枚ときめられている。ただし,その時間内のいつ,どこ行きのジャンプをするかは勝手であって,平均として割りあて枚数がきまっているにすぎない(遷移確率の説明のつもり!) 笛吹き天使を検問する悪魔  破たんのほころび目をつくろおうとしても,“つくろえばまたほころびる”というみじめな連鎖が続くことになりそうだ。それを断ち切るために,筆者は“確率”という言葉だけに視線を固定することにしよう。原子がよろめき,光がゆらぐというのも結局は確率の話に帰着すると思うから。  それにしてもこの確率という言葉を,われわれはマクスウェルの話のところでチラと見たわけであった。彼は,気体の原子や分子が飛びまわる速さや方向が,確率の法則にしたがうということをはじめてはっきりと述べた。つまり,どれだけの速さのやつが平均として何割あるという風に。そして,速いやつとのろいやつを区分けする関所の番人という想像上の人物を考えた。それが有名なマクスウェルの悪魔(デモン)である。  この番人が職務をまっとうすることは実は不可能なのだけれども,かりにこの悪魔がカドミウム蒸気の中に検問所を店開きしているとすると,彼は速い原子,おそい原子が入り乱れて飛びかうのをまのあたりに見ることになる。しかも,それらの原子のうちのいくつかが例の赤色スペクトルを出しながら飛んでいるのも,見ることだろう。  さて,この悪魔が精密な分光器を所持していて,関所を通る原子の出すスペクトルをくわしく調べているとすると,同じ赤色スペクトルでも原子ごとに波長が少しずつ違っていることを認めるだろう。彼が注意ぶかく検問を続け,原子のふるまいと波長との関係の調書を,親分のマクスウェル先生に提出したとすると,先生はやおら会心のほほえみを浮かべてこうおっしゃるだろう——「この調書はわたしの確率論的気体論を裏書きするものになっておる」と。  この波長のよろめきは,ドップラー効果のために生じているのである。音や光などの源が近づく時は,その振動数が大きくなり,源が遠ざかる時は振動数が小さくなるというドップラー効果の説明というと,かならず汽車の汽笛のことが引き合いに出されるようだが,汽車と原子では目方が違いすぎる。“笛を吹く小天使(エンジエル)”などはいかがだろう。  カドミウム原子という天使がおおぜい笛を吹きながら飛びまわっていて,ときどき検問にひっかかる。笛の音程(周波数)は“遷移の切符”に書いてあって,もともと一定なのだが,天使は気まぐれなので速く走ったり,のろのろ遊んでいたりする。たまたま検問所を通る時にモーレツなダッシュをしているとすると,悪魔が聞く笛の音程は,ドップラー効果のゆえに,切符の指定する音程とは違ってしまう。  天使は気ままに千鳥足でふらつき回っているようだが,マクスウェル先生は,その気ままさを確率の法則にまとめたのであって,悪魔のさし出す「笛の音程の検問調書」が「音程の確率分布」ひいては「天使のよろめきの確率分布」と符節するのを知れば,さぞかし嬉しく思ったことだろう。  悪魔のほうはどうも音程のずれが耳ざわりでならない。そこで「どうしたら音程をそろえられるものでしょうか」とマクスウェル親分にうかがいを立てる。先生は立ちどころに答える——「温度を下げて天使どもをこごえさせてしまえばよい」  こごえた天使たちは,飛びまわるのをやめて静かに笛を吹く。悪魔は,澄み切った音だけを聞いて満足する。しかしやがて彼は退屈さに耐えかねることになるかもしれない。検問所を通る天使の数はがた落ち,笛を吹く天使の数もがた落ち——悪魔は,昔の高温の頃を思い出して嘆く——「わしは雑踏と騒音(ノイズ)に包まれた高温都市の検問所につとめていた時が,いちばんしあわせだった。あの頃は生きがいがあった」などと。 失業した悪魔の第二の職場  マクスウェルの悪魔が失業していると聞いたら,さっそくにも彼を雇い入れたがっただろうと思われる人たちがいた。第二次大戦末期の話である。その第一のグループは,原爆研究のためにウラン二三五235をつくろうとしていた人たち(アメリカのみでなく,日本でも小規模ながらそれは試みられた)。第二のグループは,純粋な光を得るための純粋な原子をとり出そうと努力していた人たち。  この人たちが悪魔を雇い入れたがっていたといっても,採用条件にうたう職務内容は“原子の速さを見分ける”とか“天使の笛を聞き分ける”とかではなくて,“原子の質量の僅かな差を区分けして同位元素を分離する”ことであった。この職務は,第一グループの人たちにとっては,原子核分裂反応の邪魔をするウラン二三八238という同位元素を除いて,濃いウラン二三五235を入手するために必要だったのだが,第二グループの人たちにとっては,原子の発光スペクトルの波長をよろめかせる邪魔な同位元素を除去して,都合のよい同位元素一種だけを取り出すために必要だったのである。  戦前から尊重されていたカドミウムについて言えば,同位元素は八8種(質量数で表わせば一〇六106から一一六116まで)あり,従来の実験ではそれらが自然にまざった状態にあるものを発光させていたのだが,このうち質量数一一四114のものがもっとも純粋な光を出すことがソ連の学者たちによって明らかにされるようになる。ただしそれは後年のことであって,大戦中には,ドイツでクリプトン八六86が,アメリカで水銀一九八198が,それぞれつくり出され,前者のだいだい色の光,後者の緑色の光が,次第に注目を集めるようになった。  水銀一九八198は金一九七197から元素人工転換によってつくられるそうだが,これはかつて長岡半太郎先生がなさった“水銀から金をつくる”研究と通ずるところがある。いっぽうクリプトン八六86は,天然クリプトンから「熱拡散」という方法で分離される。ひと口にいえば,“重いものは腰が重く,軽いものは尻が軽い”ことを利用する方法であるが,区分けをするには長い長い筒の中に電熱線を通した装置を使う。ドイツの例(一九五七1957年)では,六6万キロワット時の電力量と二〇〇〇2000立方メートルの冷却水とを使い,六6ヵ月かかって純度九九・五99.5パーセントのクリプトン八六86を〇・五0.5リットル(常温常圧)得たそうである。 メートル原器を弔う  さて筆者は「線スペクトルの光の波長を乱す」原因を前にいくつかあげたが,同位元素分離の成功によって“準位の階段”の荒っぽさ(超微細構造)という曲者は消されることになった。その他の原因のうち,“磁場”はことさらにマグネットを置いたりしなければ,まず心配はないが,“電場”のほうは,原子を発光させるために常用される“放電”という手段と密接につながっているので,“放電電流の選び方(放電管の切り口一1平方センチメートルあたり何アンペア)”に注意を払う必要がある。  マクスウェルの悪魔が検問所で径験したとおり,波長は,発光原子の運動(速さと方向)によって変わるから,光をとり出して観測する“方向”をきめる必要があるし,速さのほうはおさえつけるほどよい(温度を下げるほどよい)が,あまりひやすと発光原子の数(笛吹き天使の人口)が減りすぎて光(音)が弱くなってしまう。そこで適当な“温度”を選ぶ必要があることになる。  一九五〇1950年代,ドイツのクリプトン八六86派,アメリカの水銀一九八198派,ソ連のカドミウム一一四114派が中心となって,“原子”,“電流(の密度)”,“方向”,“温度”そしてもちろん“遷移の始点と終点”等々の選択をめぐる国際的討論が熱心にくり広げられた。  裁断は一九五七年九月二十五日1957年9月25日にくだされた。国際度量衡局で開かれていた専門家の会議(メートルの定義に関する諮問委員会)は,クリプトン八六86のだいだい色の線スペクトルの光波を最良のものと判定し,“メートル原器にかわる新しいメートル単位具現者”として,それを採用することを満場一致で承認した。  会議室に続く廊下の一隅の小テーブルには黒布でおおった“祭壇”がしつらえられ,模型のメートル原器が飾られて,かたわらには燭台が供えられていた由。同六〇60年,この移行は国際度量衡総会で公認(オーソライズ)された。メートル原器はこうして七一71年にもわたった重い任務から解放されたのであった。 法律の中の原子物理学  第五5話の「単位の法律学」のくだりで筆者は『計量法』という法律のことを紹介した。法律というのものは裁判や税金のことばかりをうたっているのだとお考えになる方の偏見を訂正するために,計量法のぬき書きをお目にかけてしめくくりとしよう——実はこれが,序章でお約束した「新しくてむずかしいメートル単位」の正体の,厳正な表現になっているのである。  この法律文に盛りこまれている事柄の意味を筆者はひと通り説明したつもりであったが,大切なのをひとつ落としていた。2p10と5d5という記号のことである。筆者の流儀をもってすれば,これらは“準位”の階段の番号であって,“遷移の切符”に書かれている終着駅と乗車駅との名前というところである。  それにしても,“法律”の条文の中にこんな原子物理学上の記号が書かれているというのは,たぐいまれなことであろう。法律の条文というものは,役所の法制担当事務官や法制局の専門家の手で一字一句ごとに吟味されたすえ,国会にかけられるわけだが,研究所の物理屋はこの記号を法科出の人たちに説明するのに大骨を折り,ついに「これは番地のようなものだ」とくだいて納得してもらったという。さしづめ,「二2丁目p番地十10号と五5丁目d番地五5号の間の引越し」というところであろうか。 並んだ,並んだ,はんぱな数が  最後に——これも序章いらいのお約束の——はんぱな数のいわれを書かなければならぬ。法律条文中の, 一六五〇七六三・七三 1 650 763.73 のことである。最後まで意地悪ぶりを発揮して,これにまつわる計算問題を出すことにしようか。右上の数の逆数すなわち, 一÷一六五〇七六三・七三 1÷1 650 763.73 を計算せよ。  答—— 〇・六〇五七八〇二……×(一〇のマイナス六乗) 0.605 780 2…×10-6。  割り算の答にメートルという単位をつけてみる。一〇10のマイナス六6乗の〇・六0.6メートルなにがしとは,〇・六0.6マイクロメートル(ミクロン)なにがし。これが,実は, 「国際メートル原器で定義されていた一1メートルを単位としてはかった。クリプトン八六86の……真空の下における波長」 なのである。さかのぼって 一六五〇 1 650 ……が何を意味するかは,もうおわかりであろう。「クリプトン八六86の……波長」を 一六五〇七六三・七三 1 650 763.73 倍したもの——それが「新しいメートルの定義」であるが,それはまた「今日の計測学的な知見と技術とから判断される限りにおいて,古いメートルと合致している」のである。もうひとつ思い出しておこう——それはまた「アルシーヴのメートル原器で定義されていたメートル」の直系の写し(コピー)にもなっているのである。  しかし,このはんぱな数を単なる伝統の継承のしるしと見てはならない。標線の太さが七7〜八8マイクロメートルもあったメートル原器によっているかぎり,“測定の神様”と呼ばれる名人の技量をもってしても,一1メートルという単位に〇・一0.1マイクロメートル程度のあやふやさがつきまとうことを回避できなかった。それは相対的に一〇10のマイナス七7乗に当たる。  今や一1メートルはクリプトン八六86の光で定義され,その「最高に純粋な(マイケルソン・レポートにあった“可視度の消滅する限界”で言い表わせば,およそ八〇〇800ミリメートル)光の波」の単位と尺度とは,相対的に一〇10のマイナス八8乗の確実さをもって——しかも原器のようなただひとつのハードウェアにつきまとう不都合さから解放されて——具現されることになったのである。  われわれはふたたび誇りをもって言おう——原子による単位の確立は,人類にとって偉大な飛躍であった,と。 レーザーと黄鐘管(こうしようかん)  しかし,単位の研究にも休息はない。光の波で単位を具現させるといえば,今日だれもがレーザーを思い浮かべるだろう。アインシュタインの脳裡に宿った(一九一七1917年)“誘導放射”の考えが,実験家のもとで手なづけられたのは,クリプトン光波の公認の直後のことだった。“原器”ができた直後に“光波”への助走が開始されたことを知るわれわれは,今あらためて“歴史のらせん”の意味を考えてみるべきなのではあるまいか。  なお,レーザーの光の“純粋さ”は従来の(自然放射)光のそれとはけた違いによいが,その誘導放射の光の純粋さは,「“人工の共鳴器”による,“自然”放射光からの抽出」で支えられている。レーザーをもって長さ単位を具現させようとするのであれば,もうひとつ新しい“理念”の考察が必要となろう。  筆者流のたとえをもって新理念の考察への座興としよう——笛吹き天使たちをオルガンパイプの中で遊ばせ,吹奏させる。共鳴周波数の音だけが“強め合い強め合い”して,純粋な音が外へ取り出される。パイプの寸法がきっちりしていれば,きわめて純粋で強い波が得られる。それをもって単位と尺度を具現させることができる。これがレーザー標準器のひとつの“似せたからくり(シユミレーシヨン)”になると思うのだが,筆者はあるものを連想してにやにやせざるを得ないのである——いわく,古代中国の“黄鐘管(第一1話)”を—— 終章 一億分の一1億分の1の狂いもなく キロ,キロ,キロ……  序章を離れて太平洋へ探訪に出かけた時いらい,われわれは古今東西の単位や標準器の成り立ちをたずねたあげくにようやく,「クリプトンの光によるメートル」と「国際原器によるキログラム」とが“一〇10のマイナス八8乗”すなわち“一億分の一1億分の1の狂いもない”という驚くべき正確さ・精密さで保持されているさまを知ることができた。  さてここで初心にかえってアポロ11の宇宙交信記録を見なおすと,角度が何「度」,速度が何「メートル毎秒」をはじめ,時間,面積,圧力などの量の単位も目にとまる。アポロという巨大なシステムを管制する基地では,さらに体積,力,温度,流量,電流,電圧など,簡単には並べ切れないほど多種多様な量がそれぞれの単位で計測されていることだろう。  月面や宇宙開発基地に出かけるまでもなく,われわれは身近なところでもいろいろな量の単位を見聞することができる。たとえば国鉄の駅や工場あるいは工事現場をインタビューしてみよう。そして「キロとはなんのことですか」と質問してみよう。回答は大変まちまちになるにちがいない。  出札係やみどりの窓口氏なら「長さ」のキロメートル,小荷物や貨車の係の人なら「質量」のキログラム,“出発進行”氏なら「速度」のキロメートル毎時,配電の人なら「電圧」のキロボルト,「電流」のキロアンペア,「電力」のキロワット,「電力量」のキロワット時,「弱電」の人なら「電気抵抗」のキロオーム,通信の人なら「周波数」のキロヘルツ,機関車工場の人なら「力」の重量キログラム,「圧力」の重量キログラム毎平方センチメートル,河川の土木工事現場の人なら,「質量流量」のキログラム毎秒……。 “キロ”という一つの言葉が職場ごとにたいそう違った意味で使われていることになる。国鉄にも計測の専門家はいるはずだが,その人たちからは一体どんな回答がもどって来ることか! “キロなになに”というべきところをはしょって単に“キロ”と呼ぶのは量の区別を無視したけしからぬことだと非難される向きもあろうが,この種の略称(愛称?)は“働くものの知恵”から出たことであるから,別段とがめるには当たるまい(“キロ”そのものの意味はあとで説明する)。筆者は,そんなことよりはむしろ,“量の種類の多さ”を問題にしたい。 単位は多様化する  単位は年を追って増産されてゆくようだ。先年,放射能問題が世間を騒がせた時にはキュリー,レントゲン,ラドその他の単位がしきりに報道されたが,同じ放射線の強さを表わすにもいろいろな流儀があるので,科学担当ジャーナリストは,解説に骨を折っていたように見受けられた。超音速の航空機が普及してくると,「音の伝わる速さを基準にした速さの単位・マッハ」が子どもたちのマンガにまで登場する。この一両年の新種としては,水の汚染を示す公害の度合の単位「BOD」(生物化学的酸素要求量)が深刻な話題を提供している。  どぎもをぬかれたのは「メガデス」——戦争の殺りくの度合の単位だと聞くが,おそらく“一〇〇100万人の生命をうばう殺りくの暴威”をもって単位としたものであろう。メガとつく単位といえば原爆・水爆の破壊力を表わす「メガトン」もある。メガとは“物騒な”という意味の接頭語かと疑いたくなるが,テレビやFM放送の「メガヘルツ——メガサイクル毎秒ともいった——」は“一〇〇100万回毎秒”という周波数の単位であって,べつだん物騒なものではなく,むしろ愛されるべき単位に属する。  このようにして,さまざまな量それぞれに対応する単位やそれらの呼び名を列挙してゆくと,じっさい際限がない。しかも,どの単位,どの呼び名にもひととおりの来歴がつきまとっている。筆者のような語り口をもってしたのではブルーバックス何冊分かのスペースをもらってもなおしゃべり足りないだろう。  筆者はここでふと第六6話あたりの事情を思い浮かべる。その頃の“際限もない単位の無政府状態(ア ナ ー キ ー)”は,メートル法の成立と普及のおかげですっかり解消したのだと思いたいところなのに,われわれは終章まで来てまたもや“際限がない”などと書かなければならないのだろうか。そのような問題を,ひとりの市民としてもう少し深く考えてみよう。 過保護のいましめ  ヨーロッパには今でもこんな迷信がある——子どもたちの背たけや体重を測ってはいけない,測定が子どもたちに害を与えるかもしれないから,というのである。  測定や観察の操作が対象の状態を乱すという問題は,具体的な計測の実践においても,また哲学的な観測理論の考究においても,ひと筋なわでは片づけえない難問のひとつとされているのだが,背たけや体重を測られた子どもが,一体どんな害を受けるというのだろう。測定が発育を阻害するとはとても信じられない。  しかし,二十20世紀が七7割がた終わった今日,この迷信は,それも文化の程度の高い都市の若い母親たちに対する警告として,意外な説得力を持つのではあるまいか。子どもが生まれると役所から母子手帳というのが交付される。そこには乳幼児の身長や体重の平均値がこまごまと印刷されているし,いとし子のデータを記入する欄やグラフのスペースがふんだんに提供されている。合理主義のママたちがわが子のデータを一1日に何回となく書きこみたくなるのは,無理のないことのように見える。  それは決して悪いことではないが,心配なのはこだわり過ぎである。たとえば体重だが,新生児の体重は三3キログラム程度,それがお誕生までにおよそ三3倍になる。このたくましい成長の過程は平均として母子手帳所載のグラフのような傾向をたどるわけだが,ひとりひとりについて見ればずいぶん開きがありうるし,一1日の間にもこまかい変化はする。そんなことはよくご存じのはずの合理ママなのだが,なまじ手帳とはかりが手近にあるせいか,一1日なん回も,しかも一1グラムのけたまで測っては一喜一憂する。あげくの果てに,ギスギスの神経質なやせっぽちやデブでのろまの肥満児ができ上がる。  たしかに,測定のし過ぎは子どもに害を与えるようである。育児の本でもないくせにママへのお説教をあえてしたのは,数や量の魔力にひっかかってしまうママが,世間に時おり見かけられるからである。話を単位のことにもどすと,グラムという単位の選び方にそもそもの問題があるとも言えそうだ。  単位がグラムときめられているばかりに,ママたちは一1グラムの増減まで見きわめて神経をすりへらすことになり,ひいてはグラム・ノイローゼに陥るのではあるまいか。もしそうだとすれば,グラム・ノイローゼ防止策として次のような提案が出て来てよいはずである——乳幼児の体重を健全に評価するための新しい単位を導入し,その一1単位は一〇〇100グラムに等しいとする。この新単位の呼び名は,近ごろ評判の高い育児博士にあやかって 一1スポック=一〇〇100グラム としたらよいだろう。そうすると,新生児の体重は二八28スポックとか三一31スポックということになり,お誕生の頃には八六86スポックとか九四94スポックとなって,なかなか調子がよい。そして途中の発育状態を評価するには,「ひと月あたり五5スポックの増加」という程度の,のびのびとした表現をすることができる。 核家族にも四4種の単位  一1歳の誕生日の体重がほぼ一〇〇100スポックなどというのは,いかにもめでたい感じであるし,だいいちおぼえやすくて便利だ。  ところで,小学校に入ってはじめて“計測”(第二2話)を受けるころ,男の子(A一郎くんと呼ぼう)たちの体重は一八18キログラム程度,われわれの単位で言えば一八〇180スポックくらいになることだろう。一1歳の誕生日の体重と比べて,二2倍にはなっていないわけだ。体重増加の速さもずっと小さくなり,七7歳では「ひと月あたり一1スポック」ほどににぶる。  体重増加の速さがにぶるのと平行して,ママの関心も育児から教育のほうへぐっと傾いてゆく。以前あれほど熱中していた体重測定はだんだんとうとんぜられて,毎週毎月はおろか一1年に一1回,それも幼稚園や小学校での体重“計測”の通知をちらと眺める程度になってしまう。  このような成行きを考え合わせると,学校に通い始めた子どもの体重を評価する段になればスポック単位はもう細かすぎると言うべきである。キログラム単位で,たとえばA一郎くんは一八18キログラム,B子ちゃんは一七17キログラムと表現すれば十10分ではないか。  せっかくスポックという単位を導入してみたのに,その通用期間は案外みじかいと認めざるを得ないことになった。A一郎くんたちも幼稚園や学校に通い始める頃にはスポックとの縁を切ってしまうべきである。そして,弟や妹がスポックとつき合っているのを見ながら, 「ぼくはもうキログラム組なんだ。パパやママと同じ仲間に入ったんだ」 と宣言すべきだ。いつまでもスポックにかかわり合っていては,精神的な離乳もおぼつかない。  さて,そのころパパやママには,中年というレッテルが,ひそやかにしかし確実に,しのび寄り始める。晩しゃくパパやスタイル・ママは,一1キログラムの体重増加にさえ気を使う。一方,ソーレツなしごきに耐えて社会のトップを切ろうとするパパは,体重すなわち体力すなわちもとでと心得て,一1キログラムも失うまいと気を配る。  われわれは育児だけのためにスポックという単位を提唱した。その発想を拡大することが許されるものなら,中年のパパやママのためにもそれぞれ好みの単位を提供してあげたくなる。たとえばスタイル・ママのためには, 一1ルリ=一・五1.5キログラム をささげることにする。六〇60キログラムのママは, 「美容食のおかげで四〇40は越えませんのよ」 などとおっしゃればよろしい。他方,ソーレツパパには, 一1タイホー=〇・五0.5キログラム くらいが適当だろう。連夜の残業で五〇50キログラムを割ったとしても,この単位で言えば一〇〇100になる。「横綱大鵬には及ばぬまでも,ボクシングなち立派にヘビー級。さあ,あすもソーレツに働こうぜ」という次第で,根性の錬成策として合宿セミナーだの孫子兵法の学習だのよりは,ずっと効率(エフイシエンシー)が高いのではないだろうか。  このような思いやり深い提案が,ある日,ある核家族において,採用されたと仮想してみる。たった四4人のメンバーなのに,ひとり残らず違った単位で体重を言い表わすことになるわけだ。すなわち,ソーレツパパは一〇〇100タイホーであり,スタイル・ママは四〇40ルリであり,一1年生のA一郎くんは一八18キログラムであり,その妹,生まれて半年のベイビーは七〇70スポックという風に。  根性高揚のため,美容のため,精神的離乳のため,あるいは育児ノイローゼ解消のためとは言いながら,小ぢんまりした核家族の中に四4種類もの質量単位が横行しなければならないとは! 一1種類の量には一系統の単位  筆者のふざけた提案は,本来の趣旨とまったく対立する結果しかもたらさないものであることを,みずから暴露したようである——たった四4人の家族が自分の体重を言い表わすのにてんでんばらばらの単位を使うことになったら,遠からずママはノイローゼ症状に陥るだろうし,その容色もおとろえ始めるだろうから。  思えばこの提案は,われわれが第五5話までに見てきた古今東西の単位の錯雑さを現代のマイホームの中へ再現させようという,戯画の役をしたにすぎない。正論は——わざわざ書くまでもないはずなのだが——“一1種類の量には一系統の単位だけを使う”ということに尽きる。質量という量にはキログラムの系統の単位だけを使うのがよい——スポックもタイホーもルリもナンセンスだ。  こう書けば当たり前のことのようだが,“一1種類の量に一系統の単位を”ということの完全実施が,そしてまさにそのために“世界の精神を傾けて”構築されてきたメートル系単位の完全実施が,なんと困難であったことか! そして現在でもまだなんと困難であることか!  わが国の事情は——A一郎くんやB子ちゃんにとっては幸いにも無縁であろうけれど——パパやママにとっては,むかし学校の算術で悩まされた“諸等数”とか“単位換算の問題”とかの追憶とともに,あまり愉快でない記憶として今なおとどめられているのではあるまいか。なにしろメートル系以外に日本古来の(といっても明治以後じつはメートル系から換算で定められることになった)尺貫系と,イギリス派の(これも一九五九1959年以後メートル系から換算で定められることになった)ヤード・ポンド系とが,雑居していたのだから。  日本の単位統一運動にしても,決してすんなりとはかどったものではない。こなた田中館先生を元祖とするまじめで熱心な推進者あり,かたやがんこで国粋主義的な反対者ありだった。昭和三十三33年ごろ肉屋が四〇〇400グラム売りをしていたのをご記憶ではないだろうか。従来の一〇〇100匁(め)(三七五375グラム)に結びつけたこの建値(たてね)がレールの転てつ機(ポ イ ン ト)のような役目をして,三〇〇300グラム,五〇〇500グラムというようなグラム建(だて)が日常生活にどんどん浸透し始めた。 ミス・メートル  今日,人の心をメートル法にひるがえさせ切れずにいるのは,アングロサクソン系のいくつかの——しかしながら弱小などとは決してきめつけがたい——国だけとなった。アメリカは,さる一九六二1962年,日本の計量研究所所長・玉野光男氏を招いてメートル法化のための手ほどきの講演を乞うたにもかかわらず,アポロ11の月面からの交信の中に「フィート」の現役ぶりを暴露するというていたらくである(序章)。  イギリスは,通貨制度の十進法化の実績に力を得ていらい,目下,メートル法“専用”への移行におおわらわである。その様子をひとつご紹介しよう。  ロンドン発AP——すばらしくプロポーションのいいビキニ・スタイルの娘さんのおかげで,“メートル思考法”もなじみやすくなることだろう。彼女のサイズは九一四914—六一〇610—九一四914だ。頭の切り変えのすんでいない人なら三六36—二四24—三六36と言うところだが……。  イギリスの建設産業研修所がつくったポスターのことを新聞(Japan Times,一九六八年十二月七日1968年12月7日)は右上のように報道した。数字は第二2話の(B),(W),(H)そのもの。彼女の魅力をもってイギリス人の思考法の切り変えをしようというのである。ちなみにこのモデル嬢の身長は五5フィート七7インチ半——「メートルになおすといくらかしら」とまわりの人にたずねたが,答がなかった由。“人の心をひるがえらせる”のもまた難いことである! 単位の表わす量の大きさ  スポック,タイホー,ルリの話にはもう少し教訓があると筆者は自負している。質量という一1種類の量を表わす単位はたしかに一系統だけあればよい。しかし,それはキログラムの系統に限られるわけではない。スポックの系統ひとつが使われるのなら,それはそれで不都合ではない。そしてやはり“育児”のことだけを重視するのなら,スポックのほうが便利だといえる。  ではなぜスポックを二の次にし,キログラムをもとにするのか? この問に対して筆者は,ズバリと答えることは実はできないのである。答弁はせいぜい「キログラムのほうが,より広い分野で都合よく使われる大きさだから」という程度でしかない。  ここに至れば,話の核心は“約束(とりきめ)”という点に移ることになる。メートルおよびキログラムという大きさそのものの選定についてさえ,異論はいくらでも提出されうるのである。たとえばポールというドイツ人の物理教科書を見よう。 「日常の用に供するためのものとして,メートルは大きすぎるし,ミリメートルは小さすぎる。エルレあるいはフートの程度の長さを単位にえらび,それを一〇〇100分割しておいたなら,疑いもなく,それが工業上で便利な単位としてひろく国際的に実用されるようになったであろうに。思うにメートル法の創始者たちは,かんなややすりの使い方も心得ていなかったのだろう」  キログラムのほうは,本当のところをいうと,名前自体が“単位の大きさの選び方”の不手際さをさらけ出しているのである。メートル法創始期には“グラム”(すなわち,キログラムの一〇〇〇分の一1000分の1)がまず考えられたのだが,いかにも小さすぎるのでその一〇〇〇1000倍をキログラムと名づけ,しばらく後にキログラムのほうを基本的なものと考えるようになった。  国鉄の話のところで並べた“キロ”は元来,一〇〇〇1000倍すなわち(一〇10の三3乗倍)を表わすために導入された接頭語なのである。その同類としては,前に〔第二2話〕でのべた“ミリ”がよく知られている。こちらは,一〇〇〇分の一1000分の1すなわち(一〇10のマイナス三3乗倍)を表わす接頭語である。この種の接頭語も,メートル法創始期いらい,いろいろ変遷を余儀なくされてきたのだが,現今ではかなり整然とした約束のもとに使われるようになった(後述)。  それで,長さのほうは基本がメートル,その一〇〇〇1000倍および一〇〇〇分の一1000分の1倍がそれぞれキロメートルおよびミリメートルであって,不都合はないのだが,質量のほうは基本がキログラムとなったばかりに,はなはだ具合がよろしくない。  その一〇〇〇1000倍をキロキログラムと呼ぶわけにも参らぬので特別に“トン”という呼び名を使うことにしているし,キログラムの一〇〇〇分の一1000分の1はもともとグラムであるわけだが,規則マニアはこれをミリキログラムと称したがることだろう。ミリグラムは実際に使われるが,これはもちろんグラムの一〇〇〇分の一1000分の1であるから,基本のキログラムから見れば一〇〇万分の一100万分の1に当たる。つまり質量のほうでは,基本のものにキロの接頭語がつくことになったせいで,接頭語の使いかたが変則的になっているわけである。  質量単位の系列の呼び名の不都合は,基本とされているキログラムを改名して“キロのつかない”名前にしてやれば解消する。その趣旨の新名称として“ベス(bes)”,“マス(masse)”,“ネオグラム(neogram)”,“ケージー(kg——これは,キログラムの記号としてでなく,新しい名前としてケージーと読ませる趣旨のもの)”などが提案されたことはあるが,公認されるには至っていない。  もとになる単位の大きさの選定に関してこのような異論があるにもかかわらず,われわれはなぜメートルやキログラムを尊重するのか? 本当の意味の科学的ないし論理的根拠は,結局のところ,ないというべきである。  それを尊重するのは,つきつめれば,約束としてこれだけ世界に普及したものだから,というにすぎない。メートル条約というもの,あるいはわが『計量法』をはじめとする各国の単位に関する法律というものの存在は,いずれも“約束”としての単位制度の性質をあからさまにうたっていると考えなければなるまい。  ただ,筆者の私情としては,単に“約束だから”,“法律があるから”それを尊重するのだという論調は好まない。それに加えて“先人たちがこれほどの苦労の末に築きあげたものなのだから”それを尊重するのだ,といいたいのである。 単位の文法——接頭語のルール  約束としての単位の体系ということは,言葉に関する“文法”を思い出させるところがある。言葉も地方により時代により変化し流動するものだが,それがひろく世間に通用するためにはやはり,文法というルールが必要である。  単位に関するいろいろな表現のルールも決して統一・固定されてはおらず,毎年のように開かれる国際会議のたびに新しいルールが“決議”されたり“勧告”されたりするので,われわれでさえ応接に骨を折る始末である。わが国の『計量法』も国際的約束を原則的に採用することにしてはいるが,その採用時期や内容については多少の独自性をもってのぞむ場合もある。流動してゆく約束の,その時その時の詳細は,官報や国立研究機関の刊行物,あるいはハンドブックなどを見ていただくほかに手がない。  ここでは,いかにも“文法的”な,接頭語の規則(ルール)を示しておこう。これは,一九六〇1960年代以後重視されるようになった「国際単位系(Syst塾e International d'Unit市,略称SI)」の現行の約束をそっくり写したものである。  キロ,ミリはおなじみのものだし,この本でもすでに何回か言及した。メガも前に出てきたが,べつだん“物騒な”といった意味のものではなく,一〇〇100万倍すなわち(一〇10の六6乗倍)を表わす接頭語なのである。そのほか,センチは日常生活にじゅうぶん定着したようだが,普通にはセンチメートルの愛称になっている。またヘクトはもっぱら面積の単位アール(一〇〇100平方メートル)に占有されヘクタール(ヘクト・アール)となって土地問題に登場する。  またナノは時間のナノ秒(セコンド)に,ギガは周波数のギガヘルツ(ギガサイクル毎秒)にそれぞれ独占されている感じであるが,本来どんな単位にでも(ただし一1回かぎりだが)つけてよいはずのものであって,“独占禁止”はここでも尊重されるべきである(一1回かぎりというのは,キロキロとかミリマイクロとか,ふたつ以上を重ねて使ってはいけないという意味)。  実際的な感覚を身につけるために,例をあげよう。われわれが何度もつき合った地球の寸法——極から赤道までの子午線の長さ——は,約一〇10メガメートル,アポロのおかげでぐっと近くなった感じの月までの距離はおよそ〇・四0.4ギガメートル,太陽までの距離はおよそ〇・一0.1テラメートル,太陽から冥王星までの距離はおよそ六6テラメートル。つまり接頭語の表の中で上から三3番目に位置するテラをメートルにつけてやると,われらが太陽系程度の大きさまでは難なく表現できるわけである。  小さいほうに進むと,ビールスの大きさがマイクロメートル程度,原子の大きさがナノメートル,原子核がピコメートル,電子がフェムトメートルにそれぞれほぼ対応する。アトメートルで表わすほど小さいものは,ちょっと考えられない。しかし,“時間”のほうで言うと,素粒子の寿命のなかにはアト秒よりさらに五5けたも短いのがあるそうだから,アトという接頭語までではまだ不足とも言える。  接頭語の大部分はラテン語,ギリシア語つまりヨーロッパの古典語(いわば死語)から選ばれた。特定の現存国語から選ぶのは“外交上”おもしろくないという配慮があったからである。しかし最近ではそうも言っていられなくなり,小さいほうのフェムト,アトはデンマーク語の一五15,一八18という言葉がもとになってつくられた。  われわれ日本人には当然のことのように見えるがこれらの接頭語は徹底的な十進法で構成されている。つまり基本の大きさの一〇10倍,一〇〇100倍,一〇〇〇1000倍,……あるいは一〇分の一10分の1,一〇〇分の一100分の1……という系列が守られている。イギリス系の単位の上のけた,下のけたの割り出し方を正確に暗記している方がおいでだろうか。十進法は,メートル系およびその拡張である国際単位系の,一大特徴をなしている。  量の測定に十進法を使い始めたのは,中世の中近東の商業取引においてであるといわれる。それをヨーロッパに普及させたのは,オランダの力学者ステフィン,またフランスの百科全書派(アンシクロペデイスト)の物理学者ダランベールであるといわれている。  ついでに私見を述べておきたい。接頭語がたくさん制定されたのを知って筆者はひとつの提案を述べた(『科学』,一九六四年十一月1964年11月,六一八618ページ)。これらの接頭語を“数詞”のほうに利用し,単位は基本のものだけにしようというのである。たとえば七五三753メートルを七7ヘクト五5デカ三3メートルというように。数詞にも議論は多い(三3けた区切りと四4けた区切り,など)が,右上の提案は,変則的な数詞をもつ西欧人にも通用するだろうと考えている。たとえばフランスのquatre-vingt-onze m師resはneufデカunメートル,ドイツのF殤fundsechzig Meterはsechsデカf殤fメートルとやればよいと思うのである。  なお,接頭語の系列は十進法というよりは千進法,つまり三3けた区切りにつくられているというべきである。これは欧語の慣習から来たものなので日本の万,億,兆……の四4けた区切りとは合わない。筆者の提案する数詞は,その意味での国際統一に寄与するとも思われるのだが——。 基本単位から組立単位へ  筆者は第一1話いらいもっぱら「長さ」,「質量」の単位のことを,そしていくらかは「面積」,「体積」その他の単位のことを,お話してきた。そして終章に入ってあらためて“量の種類の多さ”に驚き,しかも今だに他の量の単位のことをほとんどお話せずにここに至ってしまった。  長さ,体積,質量(または重量)の三3つはいわゆる度量衡として大昔から重視されてきたし,面積は農業・土木などの関係でやはり早くから問題にされていた。筆者の話が以上の四4つの量に力を入れてきてしまったのは,当然のことだったとも思われる。  ところで,長さの単位をメートルときめれば面積の単位は平方メートル,体積の単位は立方メートルと,これも“当然のこと”としてきまるのだろうか。当然のことのように思うのは,われわれが面積を正方形の集まりとして——方眼紙やタイル(“水道方式”算数教材!)などを使って——考え,また体積を立方体の集まりとして——サイコロのような積木の教材などで——考えることに,慣れてしまっているからにすぎない。少しひねくれてはいるが,面積の単位は半径一1メートルの円で定めてもよいし,体積の単位は半径一1メートルの球で定めてもよい。  また何も長さをもとにしなくたって差支えはない。たとえば面積の単位をまず定め,その名前はヘイとでもしておいて,逆に長さの単位は“ヘイの平方根”というように導き出したってかまわない。  長さ,面積,体積の三3つの量は,幾何学的に単純な関係にあるから,どれかひとつの量の単位をもとにして他の量の単位を導き出す手順は,比較的わかりやすいわけだが,それにしても右に述べたようにいろいろな流儀がありうる。その中のどれを選ぶかといえば,目安は“便利さ”,“簡単さ”などの要素から与えられるにすぎない。そしていうまでもなく現今,どこの国でも長さ—→面積—→体積と順を追って“基本量”の単位(基本単位)から“組立(くみたて)量”の単位(組立単位)を誘導して定めているわけである。 “簡単さ”という点で,平方根(二分の一2分の1乗),立方根(三分の一3分の1乗)などの“分数のべき数”が入ってくる組立方は,明らかに不利である。平方(二2乗),立方(三3乗)……,あるいはその逆数(マイナス一1乗も含め,マイナス二2乗,マイナス三3乗……)だけで,組み立ててゆくのがよろしい。あとでお見せする国際単位系の諸単位はぜんぶ後者の,すなわち“正負の整数のべき数”だけで組み立てられた体系につくり上げられている。このような体系は,“コヒーレントな体系”と呼ばれて,近ごろ大いに尊重されるようになった。  電磁気に関する諸量を“分数のべき数”ぬきでたがいに結びつけることは,前世紀からの難問のひとつであった。少し古い電磁気学の書物でその説明をご覧になれば,迷路をさまよう感を味わうことができる。  さてこうして長さ,面積,体積の幾何学的量の問題は一段落になる。角度(平面角,立体角)は長さの比,面積の比として誘導され,次元(ジメンシヨン)のない量と考えられるものだが,便宜上,平面角はラジアン(および度,分,秒),立体角はステラジアンという単位で表わすことになっている。 運動をはかる単位  つぎに物理的な量のうちまず“運動”に関する諸量を考えよう。常識的に,長さ,時間,速度の三3つの量とそれぞれの単位とが必要であることがわかる。長さのことはすんでいるが,時間と速度とではどちらが“より基本的”な量であろうか。  速度が一定なら“進む距離”と,“所要時間”とは比例する。距離一定として考えれば,速度と時間とは反比例する。基本量を「長さと時間」に選ぼうと「長さと速度」に選ぼうと,残る速度あるいは時間は“コヒーレントな”関係で導き出される。論理的にはまったく対等であるが,現実には「長さと時間」—→速度のしくみをとるのがやはり便利であろう。  ついでながら土地売買の広告に“駅から何分”というのがあって,しばしば物議をかもす。あれは“速度一定”を前提として“距離”を“時間”におきかえて表現しているはずなのだが,“足で歩く速度”と“車で走る速度”とのすり変えが介入しうるところに物議の種が宿されている。やはり距離は距離(長さ)として,メートルあるいはキロメートルですなおに表現するのがよい。  さて,長さと時間とを基本量に選べば,速度,つづいて加速度が定義され,また,すでに導入されている量たとえば体積と組み合わせて“単位時間に流れる物質の体積”すなわち“体積流量”などがすんなりと導入されることになる。  ところで,第二の基本的な量「時間」の単位“秒”のことだが,それもまた原子物理的なむずかしい表現で定義されるようになったことは序章で予告した。序章にちりばめた言葉——セシウム同位元素一三三133の……“超微細構造”の“準位”の間の“遷移”……——を見ていただくなら,新しい「秒」の定義が新しい「メートル」の定義ときわめて近親的なものであることはおわかりであろう。  ただ大きな違いは,メートルが“波長”にもとづいているのに対し,秒が“振動の一1周期”にもとづいているという点にある。その点だけを強調して,あとはブルーバックス『時とは何か』など他の本におまかせすることにしたい。セシウム一三三133という同位元素の選定,準位の“番地”の選定,もとの(天文学的)秒とつじつまを合わせるための“はんぱな数”のこと,いずれも考え方のうえではメートルの場合と同様である。  長さのメートルと時間の秒とが,ともに量子論的な電磁波の放出(または吸収)にもとづいて定義されることになったという点には,“真空中の光(電磁波)の速度”の一定性という問題が関連している。“駅から何分”の話と形式上おなじことだが,物理の基礎にふれるところがあろうから,ここで注意をうながしておく。  長さの単位と時間の単位との結びつきという点では,われわれが何回も話題にした「秒振子」(第七7話)も独特な意味をもっている。振幅の小さい単振子の周期は,振子の長さとその場所の重力加速度とできまる。メートル法創始期の人たちは,一1秒打ちすなわち周期二2秒の単振子の長さ(一1メートルにごく近い)をもって,すなわち“時間の単位”と単振子というからくりとから,“長さの単位”を誘導しようと考えたのである。読者はこの考えの欠陥をたやすく指摘することができるであろう。 力学的な量とその単位  さて,長さ,時間に続く第三の基本量には何をとるべきか。物理学の論理的しくみからすればやはり“力学的”な量がほしい。そしてここでまた議論はふたつに分かれる。“質量”優先か,“力”優先か,のふたつである。  この点については,マッハ,キルヒホッフ,ヘルツらの力学の“哲学”——ややくわしく言えば力学の“公理”の問題——いらいの論究が尾を引いているばかりか,理学者と工学者との間での“便利さの判断”の違いも根づよく影響しているのである。しかし,いわゆる国際単位系では,質量を優先して基本量と見なし, (質量)×(加速度)=(力) というニュートンの運動法則の助けをかりて“力”という量およびその単位を定義している。ごく実際的な言い方をもってしても,質量単位キログラムが原器によって(一〇10のマイナス八8乗)まで確定しているのに比べて,力の標準それ自身を——現実の多くの場合,地球の重力の支配のもとで——独立に定めることの確実さはおとると言わなければなるまい。  重力の加速度の絶対測定も近年すばらしい精度で行なわれるようになったが,そうして知られる事はといえば,重力が場所により時刻により,また潮せきや他の天体の運行状態により,まことに複雑に変化するということにほかならない。“緯度四五45度の地点の海面の高さの重力”をもってその基準と見なすといった考え(秒振子による長さ単位の例)などは,もはや通用しない。  今日の“力”の単位「ニュートン」の定義は,“質量一1キログラムの物体に一1メートル毎秒毎秒の加速度を与える力の大きさ”であり,またいわゆる重力系の“力”の単位,「重量キログラム」の定義は,“質量一1キログラムの物体に九・八〇六六五9.806 65メートル毎秒毎秒(という規約された大きさ)の加速度を与える力の大きさ”である。  質量と力との関係についてはまだまだ論ずべきことがある。現在の約束では両者のつなぎをニュートンの法則に受け持たせているが,そのかわりに“万有引力の法則”を引き合いに出してつなぎをさせることもできる。ただしその場合には“時間”の考えが宙に浮いてしまうので不便ではある。  こうしてわれわれは,諸量の定義,相互関係,いくつかの法則をにらみ合わせながら,結局は“便利さ”,“簡単さ”を判断の目安として“約束”を設けつつ,長さ,時間,質量の三3つを基本量と見なして“基本単位”の組をひとまず構成するところまでたどりついた。この選定が“便利”で“簡単”というご利益をどれほど持っているかは,図を一見してもらえば理解されるだろう。いわゆる力学的な量とそれら単位は,事実上すべてこの三3つの基本単位からコヒーレントな関係ですらすらと導き出されるのである。 国際単位系という新しい文法  これまですでに,われわれは“単位系”というものの考え方をかなり吟味してきた。こんにち約束されている,いわゆる国際単位系の力学の領分は,右に述べたとおり「メートル・キログラム・秒」を基本単位として,すなわちmks単位系として構成されている。他の力学単位系を列挙することはもう止めよう——いずれも不便,複雑,時には不合理なものとしてしりぞけられたのだから。  しかし,アポロの基地で,あるいは国鉄の現場で,計測される量は,力学的なものに限られてはいない。温度,熱量,エントロピーなどの“熱学”量,電流,電圧,抵抗,静電容量,インダクタンス,磁束,起磁力などの“電磁気”量,光度,光束,照度などの“測光”量——それらすべてを“力学”量の単位に結びつけて表現することは,不可能とは思われないが,明らかに不便であり複雑である。その議論に深入りすることもこの辺で断念して,あとはもっぱら“約束”の紹介にもれを生じないよう気を配ろう。  国際単位系としては,熱学量には「熱力学温度」,電磁気量には「電流」,測光量には「光度」をそれぞれあらたな“基本量”として導入し,基本単位の名称として順番に「ケルビン」,「アンペア」,「カンデラ」を使うことにしているのである。それぞれの定め方を,文献抄録的に書きこんでおく。(その後化学量の基本量「物質量」とその単位「モル」が追加された。)  温度計測の基本となる熱力学温度の単位ケルビンは,「“水の三重点(純粋な水とその氷と水蒸気とが平衡して存在する一定温度)”の熱力学温度の二七三・一六273.16分の一1」。ここではカルノーの法則およびその定式化である熱力学第二2法則が採用され,水という純粋な物質の性質が利用され,またセルシウスの温度目盛以来の伝統が尊重されている。  電流の単位アンペアは「真空中で一1メートルの間隔で平行に置かれた細長い二2本の導体の一1メートルあたりに一〇万分の二10万分のニュートンの力が及ぼし合う時の電流」。ここでは,電流による力の法則が採用され,メートルおよびニュートンという力学量単位が採用されているが,特定の物質や物体に依存する要素はまったく含まれていない。  光度の単位カンデラは「白金の凝固点の温度にある完全黒体の六〇万分の一60万分の1平方メートルの平らな表面の垂直方向の光度」。ここではプランクの黒体放射法則が着目され,白金という物質の性質が援用され,従来の“燭(しよく)(キャンドル・パワー)”という単位の伝統が尊重されている。なお測光学では,“人間の目の分光感度(の相対値の規約)”がつねにものをいっていることを,注意しておきたい。  こうして国際単位系というものは,七7つの基本単位をもとにして整然と体系化され,表に示すような組立単位を制定して普通の理工学的計測の必要には十分こたえ得るものとなっている。その約束,来歴,いわゆる文法,そしてこれらの単位を具現する標準器,それらを護持する人たちの苦労——そこまで知っておいてやろうという読者がおられるのなら,筆者は嬉々として研究所の出版物の入手や参観ご案内のお世話をしたいと思うのである。この文法書は,単位の来歴の文化地理図をもって閉じることにしたい。 より正確な単位へ  われわれはこの本で単位というものの意味や成り立ちをかなりくわしくたどってきた。“悪魔の手のうち”を脱しきれない単位,神仙境の世間ばなれした単位,魔女の算術のたすけを借りずには理解できないような単位……。そして最後に現代物理学でいかめしく武装された単位。世界中に約束された単位系。  しかし一体,単位あるいは計測に関することがらは,なぜそんなに大切なのだろうか。  どんな科学にも何かしら精密な計測器が所属しており,観測結果を“測られた量”として表現することの可能性を観測者に提供しつつ科学を進歩させてきたのである。  このような計測器をその科学の具象的な代表物と見なすのは当を得たことである。また,文化的な生活の万全の秩序は,一1本のものさし,一1組の分銅,一1個の時計によっていみじくも象徴されるものと言えよう。 マクスウェル『Theory of Heat』から    自然科学において計測,したがって単位が重視されなければならないこと——それを,われわれのよく知る〔第十三13話〕マクスウェルは,ほとんど余すところなく,語ってくれる。今日,月までの距離というような自然科学的知見に関しては,まさに一億分の一1億分の1——クリプトンの光による単位とまったく匹敵するこまかさ——が実際に話題になっているのである。  物理学の基礎にかかわりのある基本的な定数——真空中の光の速度とか,プランクの定数とかボルツマンの定数とかも,諸量の単位のこまかさにぎりぎりのところまでくわしく問いつめられようとしている。このような基本的定数に関する世界中のデータを集めて解析し,何年おきかに大規模な整理をして発表する一群の学者がいるが,かれらの報告に見られるデータの精度が年代を追ってぐんぐんとよくなり,残された僅かな不確かさのかなりの部分は“単位”の不確かさに帰着させられそうにも見える。  いっぽう,文化生活の秩序といえば,寺田寅彦先生の随筆にこんな意味の一編があった——街を散歩しながら,目にとまる時計の正確さをチェックしてみると,下町ではかなり狂ったのが多いのに対して,山の手のは総体によく合っている——というのである。  時間の“人間的単位”ということを考えてみよう。太古の農民にとっては一1年,せいぜい四季が単位であったろうが,今やサラリーマンの時間割は“月”給から“週”給へ,また“月”刊誌から“週”刊誌へとこまかくなり,手帳には“時間”ときには“分”きざみでスケジュールを記入するようになり,そしてテレビタレントたちは“秒”きざみで仕事をするようになった。  生活時間のこま切れ化に拍車をかける要素はいくらでもある——乗物のスピードアップ,物資・エネルギー・情報の大量なしかも高速の流通,そして決定的な要素はコンピュータの普及。それが喜ぶべき文化の向上の象徴であるかどうかはさておき,時間の計測,したがってその単位の正確さへの要請は,年とともに高まるものと考えなければならない。  単位とは違い,比率としてのこまかさを表わす仕方にパーセント(百100のうちいくつ)というのがあるが,近ごろの公害問題や有害食品問題では牛乳中にDDTが何ppmというように,ppm(百100万のうちいくつ)というのもざらに見られるようになった。すなわち一〇〇万分の一100万分の1(一〇10のマイナス六6乗)のこまかさが日常生活にどしどし入ってきているのである。 単位——科学と技術を結ぶもの  さてふたたび,“生きる人間”から“働く人間”へ目を移そう。  人間は道具を作る動物であるといわれるが,近代の技術人は測りつつ製作する人でなければならない。物を測ることは究極においては物を支配しようとすることである。 天野清『測定及び製作 誤差論』から    われわれは何人もの“名匠”の事蹟を見てきたが,“ものをつくる”面での現代のすう勢はどんな言葉で象徴されるだろうか。いわく,大量生産,互換性,信頼性,省力化,自動定寸,集中管理,品質管理,熱管理,そしてシステム・エンジニアリング——どれひとつとして“計測”と無縁のものはないであろう。  アポロという巨大なシステムをつくって見事に働かせたそのバックグラウンドに,どれほどの計測技術の活躍があったか。筆者はそれを具体的に書くことはできないが,アメリカの測定単位担当機関NBSの歴史に“スプートニク旋風”の一時期があったという事実は,そのあたりの消息をよく伝えるものと解してよいだろう。  ソ連のスプートニクの成功にショックを受けたアメリカが何の不足をもっとも痛切に感じたかといえば,ほかでもない計測の標準の整備不足——とくに,巨大な力(ロケットの推力など)の計測標準の不備——であったという。以来NBSの大拡充,郊外の広大な敷地への移設が着々と進められたことを,われわれは驚異の念をもって注目していたのだが,それがアポロの成功に通じていることは疑いないであろう。  科学と技術とのつながりは,他のどんな点においてよりも,生産の場で技術を成りたたせているもろもろの成素(素材や手段)が測られるということによって,まず実現する。だから,道具や機械のような生産労働の手段,そうした労働の対象,つまり材料や資源を量的に測定する必要が出はじめたとき,計量の道具を通じて技術は,科学の法則の世界へと近づいてゆくのである。ここでなら,科学の法則は技術へといつでも門戸を開いてくれる。 三枝博音『技術の哲学』から    人間を他の生物と区別して“考える人(ホモ・サピエンス)”ともいいまた“作る人(ホモ・フアーベル)”ともいう。このふたつの面における人間の営み,すなわち科学と技術との,つなぎとしての計測の役割を,右上の所説ほど明快に宣言した例は,おそらく他にあるまい。  われわれは,計測の基礎となる“単位”そのものが科学と技術との有機的な協同に支えられて,めざましい進化をとげてきたことを知った。その“単位”が科学と技術との有機的発展のかなめとなることをいま教えられたわれわれは,単位の歴史のらせんが,またそれを心棒とする科学・技術の歴史の大きならせんが,今後ますます多彩に展開してゆくことに期待を寄せつつ,原始単位から原子単位への進化の文明史を閉じることにしよう。 あとがき  つたないながらも一1冊の本をようやく仕上げることができた。ものを書くことはきらいではないけれども,日ごろは短い——音楽でいえば歌曲のような——ものばかり書いているので,今度のようにいくつもり話を並べて構成する——組曲ないし交響曲のような——ものをまとめるのには,思いのほか骨を折ってしまった。  書き上げた骨休めにブラームスの一1番など聞いてみると,いやはや実に精妙をきわめたものだと痛切に感ずる。この小著を交響曲になぞらえるとは,身のほど知らずもはなはだしい。  それはそれとして,この「あとがき」がどんな風に印刷されるのかしらと思い,既刊のブルーバックスの一1冊の後ろの方を見ていたら,「奥付」の上半分の「発刊のことば」が目についた。わたしにとってますます気の重くなるような事が書いてあるので,なおのことへき易してしまうが,ともかくも「科学は難かしいという先入観を改める表現と構成」が望まれていることはわかる。  してみれば——と,わたしはみずから気安めをすることにきめた——形式美の精妙をきわめた交響曲が「クラシック音楽は難がしい」という先入観の打破には必ずしもふさわしくないのと同様に,この本もあまり取りすましたものにしてしまったらかえって趣旨に反したであろう,と。そして今ここに積まれた原稿紙がもしも五線紙であるなら,その表紙には“喜遊曲(デイヴエルテイメント)”と題を書けばよかろう,と。  この喜遊曲の各楽章の主題(モチーフ)を選ぶにあたってもっとも多くの恩恵を受けたのは, (1) H. j. v. Alberti:Mass und Gewichtf (1957, Berlin) (2) G. Bigourdin:Le Syst塾e M師rique (1901, Paris) (3) M残hain und Delambre;Grundlagen metrischen Systems, Ostwsld's Klassiker Nr. 181, f (1911, Leipzig) (4) J. Terrien:Le Changement de la d伺inition du M春re (1960, Paris)  の四4書であった。  教科書的,史料的な文献として,左のものを参照されるよう,お勧めしておく。 (1) 計量研究所編『計量技術ハンドブック』(改訂版,近刊,コロナ社)。 (2) 小泉袈裟勝,『度量衡の歴史』,(コロナ社,一九五九1959年)。  日ごろ啓発していただいている先生,先輩,友人各位にお礼を述べたいのだが,「喜遊曲でなく交響曲を書け」と叱られそうなので,謝辞をつらねることは見合わせる。ただ,先輩・川田裕郎博士——この仕事を筆者に勧めてくださった方——には,こだわりなくお礼を——unfathomable gratitude(測り知れぬ謝意,第二2話参照)という言葉で——申し述べたい。また,科学“以外”のことばかり書きたがる筆者のくせを適確に計測して,ふんわりした制御をほどこすというむずかしい役を担当された編集者・小枝一夫氏には,心からねぎらいの言葉をおくる。   一九七〇年四月1970年4月 高田誠二  本書は, 一九七〇年四月,講談社ブルーバックスB‐154として 1970年4月,講談社ブルーバックス(B-154)として 刊行されたものです。この電子文庫版では,親本掲載の写真,および図版の一部は割愛いたしました。 単位(たんい)の進化(しんか) 講談社電子文庫版PC  高田誠二(たかだせいじ) 著 (C) Seiji Takada 1970 二〇〇二年一月一一日2002年1月11日発行(デコ) 発行者 野間省伸 発行所 株式会社 講談社     東京都文京区音羽二‐一二‐二一2-12-21     〒112-8001 ◎本電子書籍は,購入者個人の閲覧の目的のためのみ,ファイルのダウンロードが許諾されています。複製・転送・譲渡は,禁止します。 KD000158-0 戻る 戻る  戻る  戻る  戻る  戻る  戻る  戻る   接頭語の規則   10の累乗倍 接頭語の名称 接頭語の記号 1012テ  ラT 109ギ  ガG 106メ  ガM 103キ  ロk 102ヘクトh 10デ  カda 10-1デ  シd 10-2センチc 10-3ミ  リm 10-6マイクロμ 10-9ナ  ノn 10-12ピ  コp 10-15フェトムf 10-18ア  トa 戻る