高田 文夫 正しい団塊の世代白書 目 次  ごあいさつ  第1章  噺家篇  第2章  プロ野球篇  第3章  歌謡曲篇  第4章  プロレス篇  第5章  オリンピック篇  第6章  大相撲篇  第7章  CM篇  第8章  祝儀・不祝儀篇  第9章  私生活篇  第10章  漫画篇  第11章  日本映画篇  第12章  ポップス篇  第13章  ラジオ篇  第14章  コメディアン篇  第15章  洋画篇  第16章  雑誌篇  第17章  昭和三十三年篇  第18章  アメリカ産TV篇  第19章  昭和二十三年篇  第20章  GS・フォーク篇   あとがき   文庫の為のあとがき  ごあいさつ 嬉しい。 なにが嬉しいってこうして一冊の本にまとまったことが無性に嬉しい。 戦後ベビーブームの申し子として生まれ、ビートルズエイジやら全共闘世代やらと色々と呼ばれてきた団塊の世代のひとりとして、このような懐しくてためになる(ダメになる?)本がこの世に生まれたということがなにより嬉しい。 戦後のドサクサの昭和二十二年、二十三年、二十四年に生まれた我々は、ちょうど古いことも新しいことも知っている現代のかすがいみたいな人種である。 若い人達には貧乏だった日本の中に咲いたあの文化を、我々の世代にはただ意味なく酒の肴に読んで頂いて、なつかしさのあまり涙ぐむよな想い出上手になってもらえればこれ幸い。 初めてテレビがやってきた昭和三十年代、ブラウン管の中に力道山が長嶋茂雄が栃若がそして林家三平がいました。 東京オリンピックだって背伸びしてひらいちゃいました。僕たちの青春でした。 それは日本という国の青春時代でもありました。 ビートルズだって武道館に来てしまいました。 そんな時代のあのシーン、このシーンが、この本には満載です。 団塊の世代から団塊Jr.のイチゴ(十五歳くらい)世代へ、まさにこれは渋谷で生まれ世田谷で育った町っ子の戦後芸能スポーツ文化史です。 平成も二年となったいま、戦後の昭和四十年間を無駄になつかしみ、無意味に笑いとばすのも楽しいものです。 ちなみにこのエッセイ(雑文)は、昭和六十三年(一九八八)の春から『小説現代』(講談社)に連 載したものです。 その間に昭和から平成となり、石原裕次郎・手塚治虫・美空ひばり・春日野(栃錦)という団塊の世代のシンボル、神とも言うべき人々も亡くなられました。 確実に昭和という時代が遠くへと消えていこうとしています。 さあ読む酒の肴『正しい団塊の世代白書』の始まり始まり。 なつかしの昭和三十年代・四十年代の大ヒットパレードです。  高田文夫 懐しくてためになる 正しい団塊の世代白書  第1章——噺家篇  戦後ベビーブーム世代だの団塊の世代だのビートルズエイジだのとマスコミに言われつづけてきた我々も、とうとうみんな不惑《ふわく》の四十歳突入である。あたりを見渡せば、北野武こと源氏名をビートたけしと名乗る我が悪友が昭和二十二年生まれ、文豪への道をひたすらつきすすむ筆を持った巨人・景山民夫も二十二年生まれ、そして私がジュリーと同じ二十三年生まれで、森田芳光ド天才監督が二十四年生まれと、まさに、ひとっかたまりの才能世代。  そこで我々が、この四十年間、なにを見てなにを感じて来たのか思いつくまま筆のむくまま書きつづるは題して「正しい団塊の世代白書」。  この小説誌(小説現代)とてほとんどの読者層がすでに同世代、読みすすむうち「ああそうそう!」「いたいた、そんな奴」と思いあたることが相当あるはず。  しかし歳かっこうが同じだからと言ってすべて原体験が同じであるはずもなく、あくまでも町っ子、東京っ子の私が体験したものばかり。テレビが五年前にやっときたとか、三年前にはじめて外人を見たなんて田舎《いなか》の方々には当てはまらないかもしれないが、そこんところはど〜かひとつ、長い目で見て頂きたいと……こう思う今日この頃の栃錦のお尻なのであります。  しかし食事どきに見る栃錦のケツのきたなさは今で思えばほとんど放送禁止だったはずだ。よくああいうものを平気で茶の間に流していた。いい時代だったんだな。中には「オレは大きくなったらあのケツのおできになりたい」なんて本気になって言ってた奴が、クラスに必ずひとりは居たんだから不思議な世代である。  そんなことはともかく、少なくとも�TV�や�笑い�で日々の糧《かて》を得ている売笑の徒としては、まず最初に何に影響をうけたか、そこから始めなければなるまい。東京っ子としては何たって基本は落語と噺家《はなしか》たちである。たしかにキラ星のごとく輝くコメディアン達は沢山《たくさん》いたが、何だかわからないけど面白いことを言う人が噺家だった。口に新しいと書いて噺、それで一家をなすから噺家。どうも近頃の噺家は新しいこと、今のことを話せなくなってたけし・タモリにとって変わられてしまっている。  テレビというメカがまだ家に来なかった頃、いつもラジオから流れていたのは、金馬の「居酒屋」と今輔《いますけ》のお婆さん落語と御存知「痴楽《ちらく》つづり方教室」であった。必ずクラスにひとりやふたり、あの語呂《ごろ》のいいつづり方をスラスラと言える奴が居てみんなから尊敬された。  私達よりちょいと上の世代なら柳橋であり可笑なのだろうが、我々は痴楽で落語に入っていった。その頃は志ん生・文楽《ぶんらく》などが大看板で、芝浜《しばはま》の三木助や可楽なんてとこが大人達にとっちゃたまらん存在だったのだろうけど、ガキにゃ古典落語の味わいなんざわかりゃしないからただ面白いことを言う人がえらかった。  そしてどこの家にも昭和三十三年頃から茶の間にテレビジョンがやってきてそりゃもう大さわぎ、テストパターンまでズーっと見ていたというありさま。  テレビの中で最初に知った落語家といえば「ジェスチャー」の柳家金語楼《やなぎやきんごろう》と「お笑い三人組」の三遊亭小金馬《さんゆうていこきんば》でしょう。もうこの頃になると金語楼は噺家というよりマルチタレント、筆も立つえらいお笑いの先生という感じ。ここに三十七年四月の視聴率というのがあるがそれを見ると一位がプロレスで五〇・七パーセント、二位にジェスチャーの四七・三パーセント、六位がお笑い三人組で三二・四パーセントとある。今のテレビで噺家が出る番組でベスト10に入っているものなど皆無《かいむ》である。昔は噺家がみんなバラエティ番組をつかさどっていたのだ。ちなみにNHKの「お笑い三人組」とは、噺家の小金馬、講談の貞鳳《ていほう》、ものまねの猫八というみごとな寄席トリオで構成されていた。  フジテレビには平日の昼間「お笑いタッグマッチ」というのがあり、司会の柳昇のトロンボーンがなんとも情けなくておかしかったのを子供ごころに覚えている。今おもえば昭和三十三年に落語芸術協会で団体真打が誕生し、そのキャンペーンというか売り出しの為《ため》のキャスティングであったのだろう。「殿!」「なんだ三太夫」の、大声の小円馬《こえんば》そして伸治《しんじ》(今の文治)、夢楽《むらく》、柳好《りゆうこう》、小南《こなん》らが居たように記憶する。  三人ずつの二チームに分かれてタコとクマを持って噺を作り問答するという実に他愛のないものだったが、必死になって早く家へ帰りこの番組を見た自分も可愛いと思う。  これに対抗するようにNET(今のテレビ朝日)日本教育テレビでは「お笑い七福神」を用意した。そうだ、10チャンネルは昔は教育テレビだったんだ、アハッ。日曜の新宿末広亭、さじきには解説の真山恵介と若き日の馬場雅夫アナウンサー。真山氏はいつもベレー帽をかぶりなんともモダンなおじいちゃんだなと思ってみんな見ていた。小せんが大ボケ役でいつも口のまわりに黒くスミをぬられるのを楽しみにしていたような気がする。  そして三十七年にはサラブレッド志ん朝が真打に昇進、それはもう大さわぎだった。  若くてハンサムでおもしろい、お父さんはなんたって志ん生である。こわいものはない。  折りからの週刊誌ブームで「週刊新潮は明日発売でーす」のCMが流れ、それにひっかけた「サンデー志ん朝」という番組が日曜の昼さがりフジテレビで始まった。たった十五分間の番組だったが、その週の事件やニュースをコント仕立てにして中学生の我々には欠かせぬ人気番組だった。夜はNHKの「若い季節」でコメディーの主演と、若き日の志ん朝師匠はまさにマスコミのちょう児であった。外車に乗ってテレビ局へ入る姿などがグラビアをかざり、東京のお笑い好き少年達のあこがれの的であった。  そして時代は三平・歌奴《うたやつこ》ブーム。来る日も来る日もチャンネルをひねれば爆笑王、林家三平が「どーもすいません。こっちからこっち休め」で日本中を笑いの渦に巻き込み、死者が毎日三人ほど出た。  ライバル歌奴(今の円歌)は「山のアナ・アナ・アナ……あなたもうねましょうよ」の「授業中」で大スター、一日一回は「授業中」がテレビかラジオから流れた。「浪曲社長」というネタもすてがたく、これを演《や》れる素人《しろうと》が必ず町内にひとりやふたり居たものである。  そしてついについに待ってましたの真打|談志《だんし》誕生である。東京っ子は二ツ目の小ゑん時代から彼には注目し、いち目置いていた。 「歌まね読本って番組に出てる小ゑんって若い奴さ、生意気そうだけど、言うことが面白いんだぜ」  なんてもっと若い我々は小生意気に評論していた。ライバル志ん朝に先を越された若き日の天才は三十八年に五代目立川談志を襲名《しゆうめい》。以来、我々に本当の落語の楽しさを教えつづけてくれる。  高校生になった団塊の世代は全員談志師匠が書いた「現代落語論」で目をさまさせられる。あれをカルチャーショックと言わずしてなんと言おう。落語に関する本など今でも売れるはずもないが、当時東京ではベストセラーの一位だったのだ。みんなむさぼるようにしてそれを読んだ。そうだったのか、古典落語ってこんなにいいものだったのか……読んだ仲間はみんなバカになった。今まできいてきた落語は一体何だったんだ、なんでもっといい噺をきいておかなかったのか……十六歳十七歳の胸は痛んだ。そのまま噺家になる犠牲者も多く出た。我々の世代、小遊三《こゆうざ》・楽太郎《らくたろう》から小朝《こあさ》までの世代の噺家全員が、あの一冊でプロになっているのは事実である。  天才は落語や本だけでなく、番組作りでも才能を発揮し、「金曜夜席」といっていたNTVの番組を「笑点」とし、今までの下らない駄ジャレのら列の大喜利《おおぎり》を、ウィットとブラックジョークに笑いをしぼりことごとく成功させていくが、その毒をきらう野暮《やぼ》な田舎者も多かったのも事実である。実に好き嫌いのハッキリとしたいい芸風である。好きな人間にとっちゃあのしゃべりは麻薬みたいなものなんだが。  この頃にメキメキとテレビラジオで売り出し、家まで建てちゃったのが月の家円鏡(今の円蔵師)である。ナゾかけだけで家を建てたとまで言われ、表札には�月の家円鏡�とあって裏返すと「そのココロは?」と書いてあるとまで言われた。橘家升蔵から四十年に円鏡で真打、兄弟子三平の「よし子さん」のむこうをはって「うちのセツコ」で稼ぎまくった。  当時�セツコ�という名前の女性はそれだけでみんなから笑われてしまったという悲惨な事実もある。そして当時「しろうと寄席」なるチックタックが司会の番組があり、黒門町《くろもんちよう》こと名人文楽が審査員席に居た。今おもえば大変な番組である。仲間も多くこの番組にチャレンジしたがみんな駄目。少年時代の小朝はこれに出て、文楽師から「ぼっちゃん!! よーがすよ」と言われて将来の道を決めた。  少年時代の鶴太郎はこれに出て、「犬と猫のものまね」をやったというから昔からバカだったのである。この番組のアシスタントディレクターが(早い話、一番身分の低いつかい走りのディレクター)、若き日のあの横澤氏であるというのも笑わせる。  四十年前半、大阪には「ヤングOH! OH!」という番組が生まれ、それまでくすぶっていた上方《かみがた》の噺家達が一気にスターになっていった。仁鶴《にかく》・三枝《さんし》がワーッと全国的な人気を得て、若手噺家集団「ザ・パンダ」を売り出した。みんな入門二年三年の若者である。それが文珍《ぶんちん》・八方《はつぽう》・きん枝、そして今は亡き小染《こそめ》である。文珍も八方も私と同じ二十三年生まれ、こうして団塊の世代は実社会へと巣立っていったのである。大学生の私はこのテレビを見ながら、早く放送作家になって面白い芸人を次々と生み出していきたいと心にちかったのでありました。  団塊の世代白書・噺家篇まずはこれにて読み切り!  第2章——プロ野球篇  なんたって我々団塊の世代、ガキの頃から娯楽といえばプロ野球しかなかった。ちょっとでも空き地があればすぐに三角ベースで金田と長嶋の対決が再現されるのである。み〜んな心は長嶋なのだが、四打席四三振するのが、ちょっといやだった。これ程強烈なデビューというのはないだろう。  我々の世代は川上・大下・青田・藤村、ましてやスタルヒン・沢村などという選手は、伝説の中、メンコの中にしか残っていなくて、やはり昭和三十三年四月五日の後楽園球場、巨人対国鉄戦が我々のプロ野球史のスタートと考えていいだろう。  子供達の胸は果して長嶋はあのにっくき金田を打てるだろうかという一点に集中し、前の晩なんか眠れなかったものだ。結果は御存知の通りの四タコ、やはりプロはすごいとひと晩中ウンウンとうなったものだった。み〜んな空振りをする長嶋のものまねをいち早くマスターした。我々の世代なら誰でも�空振りの長嶋�という一芸はできるのである。  杉浦、本屋敷《もとやしき》と共に立教三羽烏としてプロ入りした長嶋は、すぐに我々のあいだでは�胸毛三羽烏�として名をはせた。あの頃男らしさとは胸毛だったのである。我々が作った胸毛御三家は、�長嶋・朝潮・由利徹�である。朝潮とは朝潮太郎、そう�日本誕生�に出て怪演した弱い横綱である。  四三振によってスタートした我々のプロ野球史は、その後夢のようなシーンを次々と目にしていくのである。長嶋だけでこの章をついやしてしまいそうなので話を他へもっていくが、やはりよほどのヘソ曲りか変り者でないかぎりみんな巨人軍ファンであることに間違いはなく、今おもえば、野球帽はYGマークしか売っていなかった。当時の巨人軍、いい選手がいっぱい居ました。少年野球どこのチームも背番号3ばっかしで小生の居た世田谷は千歳船橋の少年シャークスもみんな3だったのだが、小生だけは競争相手の居ない2をすぐにつけた。勿論ショート広岡でござんすよ。広岡のあの華麗なプレー、よござんしたネ。打つ方はいつもからっきし駄目で2割ちょいとなんだが、守備がカッコよかった。いかにも都会的だった。小生は毎日、朝刊が来ると昨日の広岡の打撃成績を見ても四の一だから、それまでの打数と安打に各々足しては打率を計算していた。毎日つけるのが日課であった。広岡の打率なんざ新聞に載っていないのである。  ファースト川上は翌年入ってきた王にその定位置をゆずることになるのだが、二塁にはたしか�むっつり右門�とかあだ名される土屋が居た。ちなみにキャッチャーは森の前の藤尾である。外野にゃ与那嶺だ坂崎だ十時《ととき》だ加倉井だとズラリと居た。中でも魅力的だったのが与那嶺がつれてきたエンディ宮本。百万ドルのスマイルと呼ばれて三振かホームランの大バクチ。ここぞという時にでかいのをかっとばしてくれて、エンディ宮本、もともとは敵国の野郎なのに根は結構いい奴なんじゃねーかと皆なで噂した。  投手だって別所・大友・藤田・堀内(庄)・安原、そして�泣くな義原また明日がある�とスポーツ紙の見出しを今だに想い出させる、すぐにツメをはがす義原投手。三十四年に早実から王貞治が入ってきていやぁ打てなかったこと。我々は前年のルーキー長嶋を見ているからなんとも王が情けなかった。  そして球史に残る天覧試合が六月二十五日、実を言うと私の誕生日がこの日だから今だに鮮明におぼえているのである。巨人藤田・阪神小山の先発と役者がそろい長嶋・坂崎・王のホームランがとび出し、村山をひっぱり出し、これを長嶋がさよならホームランとまさに絵にかいたような展開。今だにあのさよならホームランはファウルだと言い張る村山氏が悲しい。  その年の日本シリーズ、これまた盛りあがる巨人−南海。長嶋・杉浦宿命の対決ってやつですな。�杉浦血染めの四連投�で南海が日本一となり、杉浦の右手のマメは、破れて血がふいていた。まだテレビは白黒だったのに杉浦の投げるボールが赤かったのは誰でも目にしている。試合後のインタビューに答える杉浦。 「今一番したいことは?」 「ひとりになりたい」  クゥ〜ッと泣かせるじゃありませんかこの台詞《せりふ》。この優勝祝賀会でチームメイトが杉浦にビールを頭からかけ、この日からあのビールのかけ合いというパターンがスタートする。  三十五年の日本シリーズはたしか大洋−大毎。大毎の永田ラッパが野球帽をかぶって観戦するも、大洋のエース秋山登が四連投、近藤昭仁がMVPだった。  三十六年はまたまた巨人−南海、これはもうスタンカとエンディ宮本のなぐりあいしかない! この頃の少年野球にはなにかというとすぐに乱闘が盛り込まれた。本気になって暴れる奴がいて、陰でそいつをスタンカ野郎とののしった。  乱闘ついでに想い出すと四十三年のバッキー対荒川のケンカ、あれも強烈でした。阪神のバッキーが王にビンボールを投げ、怒った師匠荒川が飛び出しバッキーを襲う。バッキー退場後、投げた権藤(正利)の球が今度はみごとに王の頭にゴーン。アハハ、これまた乱闘これも面白かった。スタンカといいバッキーといい昔の外人はプロレス的でスリリングでよかった。近頃の外人はちとおとなしすぎる。どうせ出かせぎに来てるんだもの仇役として盛りあげなくてはいけない。今度ガリクソンに小言を言っておこう。まッバルボンは愛嬌があったけど。  そして三十七年には、浪商から怪童尾崎が東映フライヤーズに入ってきた。あの頃はスピードガンなんてものが無かったから計っていなかったが、楽に二百キロは出ていたと思われる速さである。嘘じゃない。私はこの目で見たのだから。我々世田谷ッ子はみんなパは東映フライヤーズファンであった。なんたって世田谷に駒沢球場というプロ野球のフランチャイズがあったんだから、いま考えると夢のようである。田んぼの中、自転車に乗って悪ガキ達はいつも駒沢球場へかけつけた。エースに江戸ッ子土橋。 「いいぞ! この魚屋のセガレ!!」  なんて訳のわからない声援を送った。張本が居た。本塁を日本一ケンカっ早い山本八郎が死守した。 「山本! なぐれーッ」  と意味もなくあおった。毒島などという選手も居た。毒と書いて�ブス�と読ませる。クラスのぶさいくな女はみんな�毒島�と呼ばれた。駒沢のたんぼの先に選手の寮があった。試合が終ると若き日の張本らはたんぼの中を歩きながら寮へ帰っていく。それを自転車をひきながらゾロゾロついていく。おちゃめな私は「ハリモトのバ〜カ!!」などと愛するが故に思わず言ってしまい、「このガキー!」とバカ〜ンと頭をなぐられた。張本さん、あの日なぐったのは僕のこの頭ですよ。私は次の日から学校で「張本になぐられた男」として人気者となった。そしてついにその暴れん坊軍団東映フライヤーズが日本シリーズに進出した。三十七年、相手は阪神である。土橋の快投で勿論日本一に。東映の大川オーナーは背番号100のユニフォームを作って着てみせた。  その後プロ野球は巨人軍のV9時代となってしまうのであるが、それ以前の選手達、各チームのいかに個性的で魅力的であったことか。東映をはじめとして中西・稲尾・豊田の西鉄ライオンズ。中西太のホームランの大きさと言ったら今でも伝説化しているが、福岡で打ってそのボールが広島でみつかったというのだからおどろきである。  大毎時代の山内、これも良かった。シュート打ちの名人と言われ、オールスターのように賞品が出ると意味なく打ちまくり、みんなもって帰ったドロボー野郎である。中日に居た森徹・江藤慎一これもよく打った。江藤なんざロッテへ行き、両リーグで首位打者になったほどである。テスト生からはいあがった�生涯一捕手�の南海野村、戦後初の三冠王として子供ごころに強烈な想い出を残してくれた。ヘンテコリンな打ち方をする大洋の近藤和彦。�天びん棒打法�などと呼ばれたが、今ではその天びん棒の意味すらわからない。西鉄から巨人へ助っ人の五番として呼ばれた高倉なんて渋い選手も居ましたな。中日には中なんて好打者も居たっけ。南海には杉山という変なかまえのバッターが居た。  阪神の三宅・吉田の三遊間が敵ながら魅力的だった。どんな強烈なゴロでもあのふたりのあいだは決して抜けなかった。�長嶋・広岡と三宅・吉田、どっちの三遊間がすごいか�がいつもホームルームの議題だった。広島に居た大和田もよく打った。八時半の男、宮田もたのもしかった。エースのジョー城之内の帽子もよかった。タレント板東だって昔は中日でよかったものだ。梶本・米田・権藤(博)、完全試合の島田源太郎……まぶたを閉じれば次から次へと我々世代だけのスターが想い浮かぶ。  第3章——歌謡曲篇  私はカラオケで光GENJIを歌う四十歳である。私と同世代の連中は会社でも課長だの部長だのと呼ばれ、同級生の中にはすっかりハゲてる奴も居る。中にゃすでに女房に先立たれ、墓参りだけを楽しみにしているというとんでもない奴まで居る始末。  私は芸能界、放送界という時代のとっ先で飯を食ってるせいか流行には敏感……というか、嫌でも耳に入ったり、仕事でそういう話が出るのである。先日もカラオケへ行き、ここは一発光GENJIだろうってんで酔った勢い、 「行くぞ、パラダイス銀河!! Fの28番」  すかさず我らが団塊の世代、 「いいねェ、パラダイスキング!! 高田も古いよなァ。パラキンはなにやんの? �シェリー�? �電話でキス�? �ミスターベースマン�でもお願いしましょうか」  だと。情ない。�パラダイス銀河�を�パラダイスキング�と間違えておるのである。誰がダニー飯田なんだ!? キューピーって誰なんだ、エッ!? あんたら家へ帰ればガキ達がローラースケートはきながら歌っておるのを知らないのか? モロボシなんつってもわからんだろうな? と言って、知ってても全然えらくないがね。たまたま歌えてしまう私が異常な四十歳なのかもしれないがね。そんな事はともかく我々の世代は一体どんな音楽……(といってもあの頃は歌謡曲しかなかったが)……で育ってきたのか今回は振り返ってみよう。  五人兄弟で末っ子だった私の家は、ませた姉たちが買ってくる歌謡曲のレコードでいっぱいであった。LPみたいな大きさのあのシングル盤、中央に歌手の写真が入っているヤツである。  圧倒的に多かったのが美空ひばりを中心に当時の三人娘、「テネシーワルツ」の江利チエミ、「青いカナリア」の雪村いづみである。最初に耳にした上手な歌が美空ひばりだったせいか、今でもあの方が大好きで、東京ドームの�不死鳥ひばり�まで行ってしまったのはこの私です。その上、その時のビデオを今年の誕生日プレゼントに弟子共から贈られてしまったのも私です。我々の世代が最初に出会った天才が美空ひばりと長嶋茂雄なのです(このふたりこそ即、国宝にすべきと私はとなえているのですが、誰も相手にしてくれません)。  その他、高田浩吉(よかったよなァ伊豆の佐太郎)、青木光一、鶴田浩二なんていうレコードが沢山あったように記憶する。母は三橋美智也の「おんな船頭唄」を歌いながら、台所でコップ酒をあおって夕飯の仕度をしていた。ラジオ・テレビからはフランク永井、和田弘とマヒナスターズ、松尾和子といった都会的なムード歌謡があふれ出た。あの頃はテレビでも「ビクターアワー」だの「コロムビアアワー」だのレコード会社の名前を冠にしたテレビの歌番組があったのだ。今では力関係が逆転し、テレビ局の方が歌わせてやるんだと言わんばかりである。  三十二年のヒット曲、フランク永井の「有楽町で逢いましょう」など、実を言うとできたばかりのそごう百貨店の、早い話がCMソング。歌詞の中にそごうのその字も出てこないのが粋《いき》なものであるが、二番の歌詞に「小窓にけむるデパートよ」とある。本来は三浦洸一の為の曲だったようだが、低音の新人に白羽の矢がたてられた。そういえばこの後、牧伸二がネタで歌う「やんなっちゃった」は、  ♪フランク永井は低音の魅力   神戸《かんべ》一郎も低音の魅力、水原弘も低音の魅力   漫談の牧伸二 低能の魅力〜ッ  と思いっきりテレビ・ラジオでいやという程歌っていたが、このネタすら現在は放送不可である。  フランク永井と共に低音の魅力と謳《うた》われた水原弘の「黒い花びら」が第一回のレコード大賞受賞曲。今でも田舎《いなか》へ行くと水原弘のアースの看板が貼ってある薬屋があるが、勿論この人も亡くなっている(フランク永井さんは生きていらっしゃいます)。当時は松本清張の『黒い画集』や『黒地の絵』などが流行し、ちょっとした黒ブーム。それに目をつけた放送作家永六輔が、作曲の中村八大の為に一夜づけのにわか作詞家として書きなぐった一曲がこれ。当時レコード大賞などというものを誰も知らなくて、権威もなにもなかった。まさか、こんにち大みそかの人気特番、TBSの切り札になるとは誰が予想し得たであろうか。たしか第二弾で「黒い落ち葉」というのも出しているような気がする。我が家にレコードがあったよな、たしか……。  一番上の姉がバタヤンと呼ばれた田端義夫のファンで、母親の目を盗んで実演に行ってしまう。昔は歌謡ショーは実演と言って、映画と交互に一日三回ステージほど、映画館でよくやっていたものなのです。ガキだった私の子守りを母から言いつけられると、 「ふみお! アメ買ってやるから黙ってんだよ」  といつも幼い私の手をひいて渋谷の実演へ行った。なにごともなかったかのように夜、家へ帰るのだが、お調子者の私が、ホウキをギターのように抱え「オッス!」と片目を細めて真似したので母にすぐにバレて、 「お前、またバタヤン行ったネ!」 「行ってないわよ。どうしてわかるの」 「ふみおをごらん!」  指さされた私は何も知らず、映画館で見たおじさんと同じカッコウをしていた。すぐにばれるはずである(その母も姉も今は仲良く天国でケンカをしているはずである)。  そして時代はロカビリーブーム。「ロックンロール」と米西部丘陵地帯の音楽である「ヒルビリー」をあわせた名称がロカビリー。三十三年の二月が第一回の「ウェスタンカーニバル」である。  ステージには興奮したギャルがパンツを投げる、ブラジャーを投げる、それはもうすさまじいのひと言。いくら少年隊だ光GENJIだと言ったところでパンティは投げてもらえない。飛びかうテープの中、歌いまくる平尾昌晃、山下敬二郎、ミッキー・カーチスの御存知「ロカビリー三人男」。ひとりは「わたしの城下町」などで作曲家として復活し、ひとりはあの爆笑王・柳家金語楼のせがれという現在のジュニアブーム・七光りブームの先べんをつけ、もうひとりは子供がこのほどデビューした。  三人男につづけとばかりに出たのが「三人ひろし」。井上ひろしに守屋浩に水原弘である。水原はこののち、かまやつひろしと入れかわる。あの頃はなんだって三人で売り出してしまうのである。このウェスタンカーニバルの日劇の舞台をふんでいるミュージシャン達が現在の大手プロダクションの社長たち。たとえば、和田アキ子の居るホリプロの堀威夫氏、松田聖子のサンミュージックの相沢秀禎氏、タモリの田辺エージェンシーの田辺昭知氏だって勿論そうだ。この時カッサイを浴びた人達が、現在はそれを送り出す側にまわっているのも時代である。  そして三十五年、私が中学一年の時に、「九人兄弟の末っ子なのに、呉服屋のセガレだからいつもいい着物を着てること」と世の女性達にため息をつかせた橋幸夫が「潮来笠《いたこがさ》」でデビューする。ちなみに坂本九も九人兄弟の末っ子だった。あの頃はどこも沢山産んだんですネ。  橋につづいて遠藤実門下から三十八年には舟木一夫がデビュー。着物の橋、「高校三年生」を歌う学生服の舟木、世間の女性は「やけに安あがりな衣裳の歌手が出たわね」と小声で言った(この後「女学生」を歌った安達明、そして紫の学生服・藤正樹と、安あがり歌手の歴史はつづくのだが。いまどき学ランで歌ったらひっぱたかれるだろう)。  三十九年にはクラウンから「君だけを」で西郷輝彦がデビューし、ついに�御三家時代�をむかえる(�新御三家�というのが野口五郎・西城秀樹・郷ひろみである)。橋・舟木・西郷のあとに三田明を入れて�四天王�などと言い切ろうとしたが、この作戦はいまいちだったような気がする。  いまだにカラオケで一番歌われるデュエット曲、俗に業界の言う�ギンコイ�……「銀座の恋の物語」が出たのもこの頃の三十六年。石原裕次郎と牧村旬子というこの曲のみの歌手である。きっと�ギンコイ�一曲でも歌唱印税はすごいだろうなと余計な心配をする私も日本作詞家協会の一員(ヒット曲は皆無《かいむ》)。  我々団塊の世代から上は、今だにカラオケとくれば石原裕次郎だが、うける選曲を教えよう。みんなが裕次郎を歌っている流れの中で、 「オレ……Gの5番……霧笛が俺を呼んでいる」 「なあに、それ? やっぱり裕次郎の曲?」  ときくアーパーなアルバイターホステスに、 「裕次郎もいいけど、オレはやっぱり赤木圭一郎だな」  とひと言決めるのである。なんたってカッコいい曲だし、一発でステキってなもんである(実はとてもやさしい曲なのだ。誰でも歌える)。 「裕次郎みたいに生きてえらくなって、そしてみんなに心配されて亡くなっていくのも男だけど、オイらは赤木圭一郎のように、パッと咲いてサッと散っていった男の方が好きなのさ」としゃべりながら口笛を吹くのである。 「赤木圭一郎はジェームス・ディーンさ。オイラの心の中ではいつも青春を生きている」  と、波止場をみつめて言うのだ(カラオケ屋のどこに波止場があるというのだ!? 見渡せば海猫みたいにギャアギャアうるさいホステスばかり)。  この節、私はこの「霧笛が俺を呼んでいる」にこっている。しかし結局は「なに言ってんだこのバカ!」てなことになり、気がつくと大勢で、「スーダラ節」から始まり「五万節」「ホンダラ行進曲」「ゴマスリ行進曲」とクレージー・キャッツのヒットメドレーに移っている哀しき団塊の世代、こりゃシャクだったの昨日今日である。  第4章——プロレス篇  力道山vs.木村政彦で幕をあけた日本のプロレス史、その後ジャイアント馬場・アントニオ猪木時代を経て、いま、ついにひとりのセメント男、前田《まえだ》日明《あきら》が、若者達の心をつかんで離さないアイアンクローなのでありますよ。  セメントとはこの世界で言うところの本気・マジな戦いのことで……プロレスに興味のない方が読んでも面白くないかこんなこと? まぁいいや、なにしろ我々の世代にとってプロフェッショナルレスリングはまさに国民的スポーツだったのであるからして許して頂だい。要するに力道山の熱気がまた前田によって帰ってきて、三十年ぶりにワクワクしてるって事を言いたかった訳さ。ごめんね、言い方が下手で。 「力道山物語」などという映画、我々は一体何十回見ただろう。子供ごころにあの大相撲のまげを落とすシーンが悲しくて落涙の涙を落とした訳さ。ン? 言葉が無駄か?  柔道王・木村政彦とセメントの日本選手権を闘ったのが二十九年、木村が力道山の金玉を蹴《け》っちゃったばかりに、力道山がマジになってひっぱたいちゃった。本気になったら金蹴りとか張り手が一番早いんだということが子供ごころに分ったものだ。街頭テレビで大人達にまじって見るプロレス、痛そうで痛そうで大人になったら、絶対レスラーにだけはなるまいと心に誓ったものでした。  近所のソバ屋などはこのプロレス人気でひともうけをたくらみ、金曜日の放送の前日には「おそば券」を売り出した。この券を買っておかないと、そば屋にあるテレビジョンを見せてもらえないのである。試合が始まってしまえばそばなど食べるはずもなく、テレビを見せるだけでボロもうけだった。  横綱だった東富士《あずまふじ》が入ってきて大さわぎとなり、憎き外人レスラー達をやっつけてくれた三十年。なんたってインパクトが一番強かったのが、ベンとマイクのシャープ兄弟、てっきりライト兄弟みたいな飛行機野郎かと思っていたが、そうではなかった。キング・コング、ジェス・オルテガ、プリモ・カルネラ、ダラ・シンなんて名前のひびきはオールドファンにはたまらんでしょうな。  鉄人ルー・テーズとの死闘は三十二年三十三年あたり、ルー・テーズの必殺技バックドロップ、あれはこわかった。これを力道山が河津掛けなんて間抜けなひびきの技で防ぐんだもの、興奮しましたよネ、御同輩。しかし僕らの力道山の空手チョップは世界一だった。�黒い魔人�ボボ・ブラジルが来た時は東京はともかく、九州はパニックだった。九州では女性のあそこをボボと呼ぶ。ブラジルからボボが来たというので大さわぎ、やはり日本人とは形が違うのかなどと思ってかけつける助平おやじで体育館は超満員。出てきたボボを見ると、黒くてやたら頭《ず》つきをする男、ガックリ来たエロ爺いも多かった。  神宮の絵画館前でバス四台をひっぱった単なる見世物グレート・アントニオ、たしか密林王とか呼ばれてました。  日本に最初に来たマスクマンはミスター・アトミック、その後ミスター・Xなども来るが、「白覆面の魔王」ザ・デストロイヤーが一番強かった。力道山との4の字固めの攻防は今でも語り草。センセーショナルだったのは御存知「吸血鬼」ブラッシー、いきなり鉄の歯ぶらしで歯をみがいてる写真などがスポーツ紙をかざり、幼い僕達は恐怖におびえた。リングの中では力道山をかみつきまくり大流血、カラーテレビではなく白黒だったが、茶の間ではじいさん連中がどんどんショック死していって社会問題にまでなったが、中学生の僕達は死なずに大笑いしていた。 「プロレスの神様」カール・ゴッチ、ニードロップで耳をそぎ落とした男として有名なキラー・コワルスキー、たしかその後、�そぎ落とされた男�もやって来たが、そんなもん自慢にはならない。鉄の爪アイアンクローのフリッツ・フォン・エリックも不気味だった。額の他にもストマックをつかみ、これは�胃袋づかみ�と呼ばれ、皆な真似して中には「玉袋づかみ!」などといって襲ってくる級友もいて弱った。  ただ意味なく太ったカルホーンなんてのも居たし、ミイラ男ザ・マミイなど、ただ身体中包帯しているだけで、たたくと白い粉が出るだけという強くもなんともない男も来た。ナゾの男などと言って羽田に着くのだが、どうやって税関を通ったのだろう。まさか全身包帯のまま来た訳でもあるまい……それでも良い子はこわがった。  そういえば試合と試合のあいだに必ず三菱の電気掃除機でリングをきれいにしていたが、あれは一体なんだったのだろう。今どきあれをやったらひっぱたかれるだろう。  馬場と猪木が入門してきたのが三十五年だから、考えてみれば、あのふたりも三十年近くリングにあがっていることになる。すごいものだ。この馬場・猪木の前の日本人レスラーも泣かせる選手ばかりだった。いつも力道山とタッグを組んでいたプロ柔道出身の遠藤幸吉、ちょびひげなどをたくわえダンディなんだが、外人に攻められるとすぐ、「いてて、いてて」と言う声がマイクに入り、我々は「いてての遠藤」と呼んだ。時々「いてて、いてて。それは痛い」と思わず小声で外人に知らせていたりして、笑わせてもらった想い出がある。 「火の玉小僧」吉村道明、いくつになっても小僧だった。徹底的に外人にいためつけられて、最後の最後に回転エビ固めを決めるというパターンの逆転男だった。怪力|豊登《とよのぼり》もすごい。いつも裸足で両腕をポコーンポコーンと鳴らすだけで外人をふるえあがらせた。大した技はなくただ単なる力持ち。ゲタでひっぱたく芳《よし》の里《さと》、いつもあやしいユセフ・トルコ。ジャイアント馬場、アントニオ猪木と共に三羽ガラスとして注目を浴びたが、ただ全身毛むくじゃらだけという技しかなかった悲しいマンモス鈴木、国際プロレスの社長となった吉原功。レフリーは決まって沖識名《おきしきな》が外人からTシャツをびりびりに破かれていた。九州山というレフリーも居た。時々グレート東郷が助《すけ》っ人《と》に来た。額から血を流しながら首をすぼめ不気味に相手レスラーににじり寄っていくこわい存在だった。敵になったり味方になったりしてよくわからないキャラクターでもあった。  そして運命の昭和三十八年がやってくる。ケネディ大統領が暗殺されたりしていやな年だった。リングでは魔王デストロイヤーのもつWWA世界王座に力道山が挑戦し、1対1で引き分けた。六月には田中敬子さんと結婚し週刊誌をにぎわせた我らが力道山だったが、十二月八日、赤坂のナイト・クラブでヤクザに下腹部を刺されてしまった。力道山より強い男がこの世に居るなんて信じられなかった中学生の我々、生きていてくれの願いもむなしく、一週間後に亡くなってしまった。これには本当におどろいた。あの天下無敵の空手チョップもヤクザのドスには勝てないのか……同じことがつい先日も起こった。あの暴れん坊ブルーザー・ブロディが、やっぱり刺殺されたのだ。これの犯人はレスラー、控え室でギャラのことかなんかでもめて刺されたらしい。鬼に金棒ならぬレスラーにドス、これじゃ勝てやしない。たった十三年間のリング生活で、これだけ日本人に夢と勇気を与えてくれた力道山は、やはり偉大だった。我々世代の神でもあった。  力道山亡きあとのリングは吉村・遠藤・豊登・芳の里の四本柱の合議制という訳のわからない運営となっていくが、怪力豊登を看板になんとか人気を保とうとするも、豊登がたしか金銭問題でゴタゴタし失脚、いよいよ世界の巨人、ジャイアント馬場時代がやってくる。そういえば、ジャイアント馬場がまだ読売巨人軍の投手だった頃、ユニフォーム姿の馬場正平を見たことがあるというのもひとつの自慢のタネだ、アハハ。しかし元プロ野球選手のプロレスラーというのも珍しい。アントニオ猪木は陸上だし、ジャンボ鶴田はアマレス、天龍はすもう、坂口は柔道、長州だってアマレス、阿修羅原はラグビーと現役の中にもプロ野球出身は皆無《かいむ》だ。ジャイアンツ時代の馬場、とにかく球は速かったのだが、コントロールがまったく無くて球がどこへ行くのかわからなかったらしい。  まッそんな事はともかくジャイアント馬場、そしてアントニオ猪木の燃える闘魂時代へと移っていく。BI砲と呼ばれ夢のふたりがタッグを組んでいたこともある。  若き日の馬場。あの巨体に似合わず意外に多くの技を使ったものだが、圧巻は何といっても16文キック……16文という数え方がレトロでいい。そして四十一年に初めて見せた32文ドロップキック、あの巨体がかつては飛んでいたのである。それを見てジャンボ機と間違えたという人が居るくらいである。一方猪木はカール・ゴッチから伝授された御存知、卍固《まんじがた》め。これに夢中になった人も多かった。世界中が注目したモハメド・アリとの異種格闘技、柔道のルスカとの一戦、�熊殺し�ウイリー・ウィリアムスとの手に汗握る熱戦と数々の話題を提供した猪木。村松友視氏をして「私プロレスの味方です」と言わしめたあの�闘魂�。闘魂はもはや燃えつきてしまったのか。  しかしプロレスはいつの時代も若者達を熱くするニューヒーローを生みつづける。ここへ来てまた新時代をむかえようとしているのだ。ジャイアント馬場ひきいる全日本プロレスには天龍源一郎が、アントニオ猪木の新日本プロレスには藤波辰巳が、そして新たに旗あげされたUWFには前田日明と楽しみな選手がそろっている。またまた私の心に、少年時代のあの熱気が、興奮が、身ぶるいが……戻ってきそうな日本のマット界なのである。   第5章——オリンピック篇  我々の世代、オリンピックといってもおぼろげながら記憶にあるのが、せいぜいメルボルン、ローマあたりからで、ハイライトはなんたって「あの日ローマでながめた月が、今日は都の空照らす」の東京五輪である。  それ故、三段跳びの織田幹雄やら南部忠平、前畑ガンバレ! など知るはずもなく、ターザンだったワイズミューラーが百メートル自由形で金など夢のまた夢、ザトペックがヘルシンキで金を獲得した選手だったなんてのは後から知ることで、ザトペックとは阪神の村山投手(元監督)のミドルネームかと思っていたくらいである。  なんとなく選手名で子供ごころに覚えているのが一九五六年(私が八歳の時)、メルボルン大会での小野|喬《たかし》、たしか�オノに鉄棒�なんて�鬼に金棒�のシャレで新聞の見出しを飾ったりしたんですよネ。シャレで覚えています。そして四百メートル自由形の山中毅《やまなかつよし》、たしか�山中強し�なんてシャレになっていませんでしたか?  一九六〇年、ローマ大会では一位ローズ、二位山中、三位コンラッズで大熱戦の大盛りあがり、クラスの中でも水泳のうまい奴は何故かコンラッズと、あだ名されたものでした。  女子では百メートル背泳ぎの田中聡子、水泳といえば山中と田中の話題なので、幼い僕達は「あのふたりできてんだぜ」などと訳のわからないことをぬかしていたものでした。  そしてついに昭和三十九年、一九六四年東京オリンピックがやってくるのです。高校一年生だった僕達はもうなにがなんだかわからず、大さわぎでした。十月十日の開会式にあわせる為、日本全国上へ下への大さわぎ。十月一日には東海道新幹線がやっとのことで開通し、どうにか五輪には間に合いました。「死の川」と呼ばれていた隅田川も大浄化作戦によりある程度の悪臭は収まりました。まさに臭いものにはフタ。高速道路は走る、どんどんビルは建つで、僕達の東京が変化していってしまいます。夏に大流行だった銀座のみゆき族もオリンピックがくるからと何故か姿を消してしまいます。もう何がなんだかわかりません。何しろ世界中の人がこの東京に集ってしまうんだ〜ッということだけで大人達は頭がパニックです。「もはや戦後ではない!」「東京はすごいんだ」という事を世界にアピールするチャンスなのです。「欲しがりません勝つまでは!!」なんて時代錯誤のタスキをするババアまで現われたりします。参加国は九十四ヵ国、選手数は五千五百四十一人です。そんなことより僕達高校生はオリンピックを学校単位で見るスケジュールが組まれ、授業が無いというだけで嬉しくてたまりませんでした。世界中から外人さん達がいっぱいくるからと、意味もなく英会話をマスターしようとさえしました。中には「オレはフランス語をマスターする」なんて奴やら「ロシア語覚えて、そのままソ連にわたるぜ」なんてスパイみたいな事を言い出す高校生までいました。「五輪に国土を美しく」などという合言葉のもと白いかっぽう着でほうきを持ったおばちゃん達がお掃除隊などというものを結成し、東京中をきれいにはき出したりもしました。タクシーの運転手なんざ大変です。 「外人から何かきかれても答えられるように」なんて英会話の特訓をさせられていました。もう日本中が五輪一色、大笑いです。  聖火が日本中をまわります。山梨県では天野幸夫という卓球部の高校生が聖火を持って走りますが、途中、クラスメートにからかわれ聖火を持ちながら「プッ!」とふいて笑って走ってしまいました。それを地元の新聞社カメラマンがカシャ、見出しに「なんと不謹慎な聖火ランナー!!」、その不謹慎野郎が現在の三遊亭|小遊三《こゆうざ》というスポーツ形態模写のうまい悪友の噺家《はなしか》です。我々世代、みんなオリンピックではえらい目にあっているのです。たしか聖火の最終ランナーは坂井義則という方でした。「戦争を知らない世代」というので話題になりました。我々世代の代表ってことですかな。それにしても間抜けな小遊三とはえらい違いです。そして十月十日の開会式、いい天気でした。空には五つの輪を描いた飛行機雲、♪ワッワッワッ〜輪がいつつ〜ッ、と我々東京の高校生は「ミツワ石鹸」のCMパロディーを歌って祝いました。  いま想い出しても東京オリンピックには、色んな選手が居たもんです。 「東洋の魔女」これには泣きました。中には「東洋のマゾ」なんて言ってムチで打たれて、泣いてるつまらないシャレの男も居ましたが、感動は「黙って俺についてこい」の大松《だいまつ》監督ひきいる根性女子バレーボールチーム。河西、宮本、半田などという名前を並べただけで、もうあの感動がよみがえりませんか。回転レシーブなる言葉も流行し、何かというと我々は回転したものでした。学校へ行って遅刻しそうになると校門の所で一回転して、回転登校などと言って入り……そんな訳ないか?  なにしろ皆な日本中が回転したのは間違いないのです(回転寿司がここから始まったというのはウソです)。女子八十メートルハードルの依田郁子《よだいくこ》だって、スタートの前に必ずバックのトンボを切って精神統一、あれを真似て首を痛めた高校生は何人も居ます。  男子体操個人総合優勝の遠藤幸雄、�ヤマシタトビ�の山下、�ウルトラC�なんて言葉も目新しく、やたらなんにでも�ウルトラC�を使った覚えがありますな、御同輩。  チェコのチャスラフスカもべっぴんで東京五輪に咲いた名花、あの姿に、テレビを見ながら変なことをしたニキビ面《づら》の高校生も沢山いたはず。のちのビートたけしの「コマネチ!」、あれと同じである。若き男子の哀しい性《さが》が女子スポーツ選手を性の対象にしてしまう場合もあるのです。ごめんね不謹慎で(小谷実可子のあの水着姿だって、助平なことに使っている高校生が居るはずである。居ないとは言わせないぞ、おじちゃんは!!)。  柔道の無差別級では神永にオランダのヘーシンクが袈裟固《けさがた》めで勝ってしまって、あれはシャレにはならなかった。  お家芸柔道が負けちゃまずいよな。  重量あげフェザー級優勝は三宅義信、世界新を二十回も書きかえた男として有名な三宅、たしか大会二日目にして日の丸をあげた選手だった。ヘビー級、早い話が世界一の力持ちはソ連のジャポチンスキー、名前がなんともおかしくて当時「こんにちは、ジャポチンスキーです」というあいさつが流行したものでした。ジャーク、スナッチ、プレスの合計で572・5キロをあげているとんでもないソ連人です。  感動を呼ぶのはいつの五輪でもマラソン、話題はエチオピアからやってきたアベベ・ビキラ。ローマでは裸足《はだし》で走って金、東京も裸足で走るのかと思ったが靴をはいていやがった。世田谷に高校のあった我々は学校総出で甲州街道までマラソンを見に行った。勿論《もちろん》、円谷幸吉《つぶらやこうきち》を応援する為である。てっきり裸足のアベベかと思った私は、ポケットに数本の画びょうを学校から忍ばせ、道路にまきびしのようにまいてやろうかとも思ったが、アベベ選手、くやしいかな靴をはいていた。ゴール直前で円谷はヒートリーに抜かれ惜しくも銅、しかしあの姿は感動的でした。この四年後「もう走れません」と遺書を残し自殺、二十七歳の若さだった。  私と同い歳だった木原光知子は高一で百メートルの背泳ぎに出場、とっとと予選失格してしまった。そのせいかもしれないが彼女は、四十になった今でも独身である。先日番組で対談した時「いい男はいないか?」とやたら攻めまくられた同い歳の私である。  のちにプロ野球入りして代走屋になった百メートル陸上の飯島も東京五輪である。  外人選手にもヘイズ、ショランダー、フレーザーとなつかしい名前が浮かぶ。  それにしても、あの頃の日本はどうしてあんなに強かったのだろう。ローマの時に金メダルは4個だったのが東京五輪ではなんと16個も金メダルを獲得しているのです(ちなみに東京五輪の金はアメリカ36、ソビエト30、日本16、イタリア、ハンガリー共に10である)。  この東京五輪をピークに六八年のメキシコでは11、七二年ミュンヘンでは13、七六年モントリオールでは9、ロスでは10、そしてソウルでは4個であった。さあいよいよバルセロナ五輪、一体誰が、どこのどいつがどんな活躍をみせてくれるのだろうか。 ♪オリンピックの顔と顔、ソレトトント、トトント顔と顔〜……そういえばスペインにも三波春夫センセーのような無駄に明かるい国民的大歌手はいらっしゃるのだろうか。「東京五輪音頭」のように「バルセロナ五輪音頭」というのは無いのだろうか?  まッどちらにしても四年に一度、楽しませてもらおうじゃないの……どうせ金なんかあんまりとれないんだろうな、グッスン。   第6章——大相撲篇  千代の富士の三十九連勝という記録、御存知の通り双葉山《ふたばやま》の六十九、大鵬《たいほう》の四十五に次ぐ史上第三位、おまけに史上単独二位の二十九回目の賜杯《しはい》である(ちなみに一位は大鵬の三十二回)。なんと年齢が三十五歳の大ベテラン、三十歳をすぎてから益々《ますます》強くなるとは惚れぼれする(私はウルフに抱きすくめられたいと時々思うことがある)。  あの双葉山でさえ六十九連勝をした時は二十三歳から二十六歳、大鵬だって二十八歳の時の四十五連勝なのである。三十五歳でこれだもの。四十二歳の門田と同じだわな(門田のあのホームランを見る度《たび》に同い歳である我々団塊の世代は勇気づけられるのです)。  絶対負けなかった憎き横綱、あの北の湖の記録すら平気で破るとは……やはり千代の富士はただものではない。なによりカラーまわし全盛のいま、キリリと真っ黒けのまわしというのがたまらないのです。たしかに昭和が生んだ名力士のベスト5には入る横綱だと思う(輪島はベスト50でもあやしい……)。  では、我々世代は戦後一体どんなおすもうさんを見て育ってきたのだろうか(ちなみに東海大相模を�とうかいだいすもう�と読んだ男を私は知っている。相撲と相模の区別がつかないのである)。のちの時津風《ときつかぜ》こと双葉山が土俵を去ったのが昭和二十年だから勿論《もちろん》、我々は生まれていない。あとから噂で、この名横綱の話をきくだけである。  少年時代はなんといっても今なお語り草の�栃若《とちわか》時代�である。ものごころついて知った横綱は、のちにプロレス入りした第四十代|東富士《あずまふじ》、豪快な突っ張りで筋肉隆々第四十一代|千代《ちよ》の山《やま》、めんこで人気の太った第四十二代|鏡里《かがみさと》、美男横綱として女の人に人気の第四十三代|吉葉山《よしばやま》であるが、一番インパクトが強く、少年達誰しもが憧《あこが》れたのが、名人・江戸っ子横綱の第四十四代栃錦と、四十五代・土俵の鬼若乃花である。四十六代の朝潮太郎、これは誰も憧れなかった。胸毛ばかりすごくて妙に腰がモロい力士だったのである。�栃若�でも私は栃錦がめちゃくちゃ好きで、あのお尻のおできになりたかったくらいである。�マムシ�とあだ名され、何度も病気であぶなかったが、常に奇跡的に復活し、私達悪童を夢中にさせてくれた。ベーゴマも私は�栃錦�というものしか使わなかった。  しかし人気は悲劇的要素の強かった若乃花の方があったように思う。映画にまでなった「土俵の鬼・若乃花物語」、あれは泣けましたなァ、御同輩。まさに人情噺の一代記、第一室戸台風でリンゴ園が全滅し、一家は室蘭へ。そして父が戦争でけがを負い、幼い頃からクズ鉄回収などのアルバイト(グッスン)、小学校を出ると沖仲士と、きくも涙の物語、この時重い荷を背負ったのが後に役に立つのです。  入門しても小さくて苦労の連続。やっと大関になり横綱へあと一歩という昭和三十一年秋場所直前、長男の勝雄君がチャンコ鍋で大火傷をし、ついに幼い命を失ったのだ。泣けた泣けた。愛児の初七日の法要をすませ、すぐに秋場所土俵にあがった若乃花、首からは数珠。まさに鬼気迫る強さで勝ちすすみ、全勝でむかえた十三日目、相手は鏡里で優勝と横綱がかかった大一番に、あろうことかヘントウ腺で四十度の高熱、ついに場所入りできなかった。こうして横綱昇進は見送られることとなるのだが、あれには日本中が泣いたものでした。「土俵の鬼」を見て、日本中の良い子は若乃花ストーリーを頭の中へたたきこまれたものです。�悲劇の大関�からみごと横綱となり�土俵の鬼�へ、まさに日本人好みの大浪花節でもありました。しかし幼い頃からひねくれ者の私はやっぱり栃錦の方が好きでした。  その頃の関取というとまさに個性派ぞろいで、三役・平幕に魅力的な方がいっぱい居ました。誰がなんといおうとぶっちぎりで好きだったのが、�褐色の弾丸�と異名をとった房錦、五月人形の金太郎さんのような童顔でひたすら突っこんで行くのです。前を見ると誰もいなくて、はたき込みなどというパターンが多かったのですが、好きだったなァ。よく三賞をとり、三役入りするのですが、またすぐに負け越して平幕へ、このあたりが人間くさくてよござんしたねェ。  ひたすらもぐり込む�潜航艇岩風�なんて力士も居て、�センコーテー�などとアナウンサーが言うので、子供ごころにあれは春風亭みたいなもので、落語家かとも思ったりしました。�センコーテー岩風�……口に出すだけでもなにやら甘酸っぱいものがこみあげてはきませんか。  信夫山などという相撲巧者もいました。顔の長い奴はみんな大内山とあだ名されました。やせてた私は勿論、鳴門海です。顔がぶさいくな奴は三根山。安念山・成山・琴ヶ浜などと並べられた日にゃ、うれしくて思わず「中で出してもいいわよ」と言いそうになります。  私達は行司にだって想い出があります。そうです、十九代のひげの伊之助。「伊之助、涙の抵抗」には本当に涙したものでした。三十三年秋場所、北《きた》の洋《なだ》対栃錦戦。両者同時に土俵を割るのですが、伊之助の軍配は、北の洋にあげかけて栃錦へという回しウチワ。物言いがついて大さわぎ、協議の結果は四対一で北の洋。しかし伊之助老、白いひげをゆらし土俵をたたいて自らの判定を主張。十分以上の物言いでした。伊之助はもともと立浪部屋の行司で、北の洋は今を時めく立浪《たつなみ》四天王のひとり、気持としては北の洋にあげたいところを、勝負で栃錦とみたのにああなんたること! 伊之助は行司の権限を越えた行動をとったとして出場停止となってしまうのです。み〜んな「伊之助爺ちゃん、可哀そう」と枕を濡らしたものでした。 �栃若時代�のあとを受けて、三十六年に�柏鵬�が同時横綱昇進を果たします。第四十七代柏戸、柔の大鵬に対し、まさに剛でした。入幕した時は富樫と言っていました。強さからいったら、大鵬と互角だったのに記録的に低かったのは、けがや病気のせいでしょう。  第四十八代大鵬、なんと二十一歳四ヵ月という史上最年少で横綱になりました。まさに大横綱、記録は書いても書ききれません。入幕当時など女の子がキャーキャーさわぎまくり、大鵬の取組時間には女湯がガラガラになったといわれたから今の光GENJIなど比ではありません(モロボシ、くやしかったら女湯ガラガラにしてみい! �君の名は�だってそうだったんだぞ。ン? いまどき銭湯行く奴なんざいねぇって!? ごめんネ)。しかし「巨人・大鵬・玉子やき」は知ってるだろう。だったら今どき「巨人・光・ハンバーガー」などと言うか? 言わねえって!? 第一巨人が人気がない? 御説ごもっとも。まっ、そんな事はともかく大鵬はまさに社会現象だった。  では双葉山と大鵬、もし闘わば……これはわからん。古い人は「バカ者、双葉山の頃は年六場所もなかったんだ。それでも六十九連勝だぞ」と言うだろうし、我々は「大鵬に決まってらぁ。なんたって樺太《からふと》出身だぞ」と切り返すだろう。現代っ子だったら、千代の富士がいち押しだろう。こればっかしは実際に闘えないから判らない。私個人としては�負けない横綱大鵬�よりも、男っぽさのただよう柏戸の方が好きだった。  この柏鵬に続いて横綱となったのが栃ノ海(小兵でした)、そして平幕優勝力士は横綱になれないというジンクスを破った佐田の山、急逝した玉の海……この代あたりまでが僕らの横綱である。  その後の輪島・北の湖時代になってしまうと相撲への興味がグーンと薄らいでいってしまう。  しかしどうして少年時代、あれほどまでに大相撲に夢中になったのだろう。他に娯楽がなかったのか? 日本中がみんな相撲通だった。ちょっとした空き地があれば男の子は相撲をとっていた。ひざとかひじに誰でも赤チンをぬっていた。四十八手すべて言える奴が居た。四十八手すべてかけてくるすごい奴もいた。中には大《おお》銀杏《いちよう》を結って学校へ来る奴もいた(これは居ない)。相撲の弱い奴は、手作りでみごとに軍配をこさえ行司を専門につとめた。小さい奴は呼び出しになった。中にゃトロフィーになった奴までいた。日本中が大相撲のファンだった。栃錦が若乃花が毎日気になった。この節、小錦が気になるなんて奴の話などきいたことがない。番付を集めている小学生なんか見たこともない。  あの大相撲の熱気は一体どこへ行ってしまったのだろう。カムバック雷電《らいでん》為右衛門《ためえもんもん》! 帰ってきて谷風梶之助《たにかぜかじのすけ》! 何処へ行ったの小野川喜三郎〜ッである(アハハそんなに古くはないか)。  やはりフンドシ一丁、レディの前でケツを出しているというのが今日びのワンレンボディコンギャルにはトレンディーではないのかもしれない。こうなったら化粧まわしをケンゾーかタケオ・キクチにでも作ってもらうか……ごっつぁんです。   第7章——CM篇  我々世代が一番最初に目にした耳にした強烈なCMというとやはり、「ワッワッワーッ輪がみっつ」のミツワ石鹸ではないだろうか。たしか天才、三木鶏郎《みきとりろう》の曲だと思うが、なにしろ単純で覚えやすく効果的だった。大好きだった「名犬ラッシー」を見ると、必ずこのCMが流れた。目玉の大きないま思えば気味の悪い人形のCMだった。これといい勝負が「カステラ一番、電話は二番、三時のおやつは文明堂」である。同じセコ人形CMでは、シスコーンの「エンヤカヤカヤカヤッ エンヤカヤカヤカヤッ!」という訳のわからないかけ声で、何故かインディアンの子供が踊る世界の朝食。子供ごころに外国ではみんな朝、シスコーンにミルクをかけて食べるとだまされた私は、母に買ってもらい一週間ほどこれをつづけたが、すぐに腹が減るので、やはり外人には、なりたくないものだとメシと焼きのりにもどった。  アニメにも名作が多く、御存知アンクルトリスはすごいのひと言。なんたってトリスを呑むと段々下から顔が赤くなっていくのがすごいじゃありませんか。「サンセット77」「ルート66」「87分署」などサントリーの提供番組には必ずこのアンクルトリスが登場した。そういえば、あの頃はサントリーと言わず寿屋と言っていませんでしたか? 77・66・87と数字がついたのもサントリー番組の特徴ですな。今だにつづいているアニメCMの代表は三木のり平の「なにはなくとも江戸むらさき」。私はシスコーンに江戸むらさきをつけて食べたことがある(大きなお世話だ!)。なんともインパクトが強かったのが、「ペンタックス、ペンタックス、ペンタックス、ボーエンだよ、ワイドだよ、ワイドだよ」のアサヒペンタックス。たしか熊倉一雄の声だったと思う。あの頃、声はなんだって熊倉一雄だった。今ならみのもんたか?  動物だって負けてはいない。そう、「ララミー牧場」の時に登場するバヤリースオレンジのチンパンジーである。あの野郎、サルのくせにいい芝居していい味出すんですわ。色んなパターンのストーリーがあって、みんなショートコントになっていたのがみごとである。淀川長治のパロディーまでサルがやりやがったのには笑った。  力道山といえば三菱の電気掃除機が連想されるように、あの頃は番組とスポンサーが一体化していて、あの番組というとすぐにCMを思い出すのが嬉しい。一社提供がほとんどだったんだなァ。 「日真名《ひまな》氏飛び出す」といえば必ずドラマの中に三共ドラッグストアが出てきたものなァ。中でもすごいのが、大村崑の「とんま天狗」。番組の主題歌を毎回歌うのだが、その歌詞たるや「トントンとんまの天狗さん……姓は尾呂内、名は南公」だもの。そんな名前の奴が居る訳がないっつーの。この番組の提供がオロナイン軟膏だったのだ。これはすごすぎてつっこむ気力すらない。  その後、藤田まことの「てなもんや三度笠」では、必ず藤田まことが悪漢を斬りすてて、ふところからクラッカーを出し、「おれがこんなに強いのも、あたり前田のクラッカー」とやっていたのはあまりにも有名。「やりくりアパート」では大村崑と佐々十郎が「ミゼット!」を連呼していた。こういうのは大阪発の番組がうまい。  以下昭和三十年代から四十年代へ思いつくままCMをテンポよくあげていくと……(いくつ思い出すか、あなたもチェックしてみて下さい) 「リボンちゃん、リボンジュースですよ〜ッ」のリボンジュース。「セクシーピンクXYZ」のキスミー。たしかこれは野坂昭如・いずみたくコンビの作詞作曲。 「くりくり三角、小さなドロップ、ヴィックス、ヴィックスなめてごらん」CMを歌わせたらナンバーワンの楠トシエの歌である。 「ミュンヘン・サッポロ・ミルウォーキー」のサッポロビール。この意味が小学生の私にはわからず、「ミュンヘン、札幌、ビル大きい」ってどういう意味なのだろうとズーッと悩んでいた。 「アスパラで生きぬこう」のアスパラの弘田三枝子。この「生きぬこう」が法的にひっかかって「やりぬこう」にたしか変更したと覚えている。まさにダイナマイトミコちゃん、弘田三枝子は元気の素だった。  対抗して渥美清が「丈夫で長持ち」とユベロンのCM。寅さんもとうとうお国から賞をもらった(しかし六十歳とはお若くみえます)。「タンパク質が足りないよ」と、注意してくれたのがマミアンの谷啓。 「キャベジン、お世話になります」とくさい芝居の玉川良一。  いきなり「呑んでますか」と問いかけてきたアリナミンの三船敏郎、大きなお世話だっつーの。 「おめえ、ヘソねえじゃねェか」とカエルをいじめたコルゲンの保積ペペ。 「母ちゃん、いっぱいやっか」と神聖をみせた伴淳三郎、たしかこのCMが流れているあいだに清川虹子と別れたため、最初の「母ちゃん!」という台詞が自粛された。この頃、私は清川虹子の家のすぐそばに住んでいた(小田急沿線の千歳船橋である)。 「明治マーブルチョコレート」の上原ゆかりちゃんのなんと可愛かったことか。ゆかりちゃんも今や立派な人妻だろう……クゥ〜ッ淋しいッ。あの七色のチョコレートが私は好きで毎日一個ずつ買い、そのせいで今や立派な虫歯野郎である。  一番バカバカしかったのが植木等の洋傘のCM「なんである、アイデアル」これは腹が立つほど下らなくて良かった。あのCMでみんなワンタッチの傘を持つようになった。ちなみにこのアイデアル、丸定商店という会社の商品である。私、調べました。ハイッ。  もっと情ない駄ジャレCMは、私の師匠でもあります名人談志が若き日にやっていた。「ホンコン焼きそば、ホンコンにうまいよ」アハハ。プロの噺家の言う洒落じゃない。  三平師匠なんざ「甘くてどうもすいません」だもの。渡辺の即席しるこなどという訳のわからないものを宣伝していた。エノケンだって「渡辺のジュースの素」だもの。「ホホイのホイでもう一杯」という詞が意味不明で楽しい。 「コニカはコニカ、いいとおもうよ」と言ったのは松村達雄、「私にも写せます」と一歩間違えれば頭の不自由な人みたいなことを言ったフジカシングル8の扇千景。  妙に説得口調で語りかけたナショナルの泉大助「ズバリ当てましょう」がなつかしい。 「ブタブタ子ブタ、おなかがすいた、ブー」のエースコックの即席ラーメン。本当にお世話になりました。チキンラーメンなんか、ポリポリかじって「ウーン、これならビールのつまみにもいいな」などと言っていた小学生の私でした。  S&B即席カレーの「インド人もびっくり」、あのコピーはなんだったんでしょうか。インド人差別にはならないんでしょうか。 「ゴホンときたら龍角散」これなんざ名コピーでしょうな。「ゴホンときたら龍角散、ご本といったら講談社」アハハどうです? 芸人作家としてはヨイショも忘れないでしょ。  レナウンの「ワンサカ娘」、あれも三十年代としては秀逸でした。「どこまでも行こう」と歌ったブリヂストン、「うちのテレビにゃ色がない」と情ないことを言っていたサンヨー電機。 「うれしいとメガネが落ちた」オロナミンC。 「みじかびの、きゃぶりきとればすぎちょびれ すぎかきすらのハッパフミフミ」と詠《よ》んだパイロット万年筆の大橋巨泉、まさか今になって「巨泉のこんなモノいらない!?」……「巨泉! お前が一番いらない」と茶の間の素人からつっこまれようとは誰が予測したでありましょうか。  そして我々世代のズリネタCMチャンピオンは〜ッ!? 「オーッ、モーレツ」のパンチラ小川ローザの丸善石油であります。あれにゃ本当に興奮しました。あのポスター、私も一枚かっぱらい、部屋に貼り、ずいぶんとお世話になったものでした。本当に可愛いいモデルさんで私は熱狂的なファンでありました。たしかレコードも出している大音痴歌手でもありましたが、買ったのを昨日のことのように覚えています。今でも逢えたらきっとドキドキしちゃうだろうな。それほど好きでした。小川ローザ……ああなんという甘いひびき。  まッそんな訳で団塊の世代のCM経験はワッワッワーッワがみっつに始まり、小川ローザでとうとうCMを性の対象にしてしまうのです。ごめんね、こんな奴らで……。   第8章 ——祝儀・不祝儀篇  今回、思いついちゃったのが祝儀・不祝儀篇。我々団塊の世代も様々な笑顔や涙を見て育ってきました。  子供ごころにショックだったのが昭和三十年のジェームス・ディーンの事故死。姉がジェームス・ディーンの大ファンで「スクリーン」なんて雑誌をいつも見てはウットリとしておりました。たしか「スクリーン」とか「近代映画」、あの頃、うちの親族がみんなで出していたんですよネ。「映画評論」の名物発行人・高田俊郎は今だに元気です。すっかり好々爺になって、私にあうと小づかいを欲しがる俊ちゃんです。変な親戚ばっかしのボク……。親戚中、おやじも含めて、みんな出版社をもっていたヤクザ者ばかりです。ごめんなさい。  そんなことはともかく、我々は「エデンの東」で「オデンの東」というシャレを作っては喜んでいた小学一年生でした。「理由なき反抗」にも「理由なきハンコ」などというシャレがあって、三文判を盗んではただ意味なく押していました(相当つまらないシャレだったと思います。その頃、私はまだコント作家ではなかったんだから許して頂だいませ)。  三十一年には柳好が亡くなっています。流れるような語り口の「野ざらし」の柳好です。師匠談志は今回の私の真打のあいさつ状の中でこの藤志楼は現代の柳好であるとさえ書いて下さいました。 (どうだ、景山!! オレはマジで噺がうまいんだ。直木賞だなんてものもらってチヤホヤされて図に乗っているようだがそんなもなぁ、99回もつづいていて沢山居るんだ。しかし、作家から真打になったのは日本古典芸能史上、私が初の快挙! 少しゃ尊敬しろよ)  三十二年には池内淳子と柳沢真一というカップルが結婚しすぐに離婚。今だに理由は不明。しかし我々ませたガキ達は「柳沢真一が夜、とんでもないことを要求するんだぜ、イッヒッヒ」などと笑っていたものでした。  赤線が消え、長嶋茂雄が入団した三十三年には、林家三平の御祝儀・真打昇進です。ということは三平師匠から丸三十年たって、この私が真打になったってことですな。これもなにかの……。あの時のテレビはすごかった。三平師匠を中央に口上のメンバーが大豪華、志ん生・文楽・円生・正蔵(のちの彦六)その他ズラリ居て、一番若いのが小さん師匠という夢のオールスター興行。どれだけ落語界が三平に期待していたかがこの顔ぶれからうかがえる。  三十四年、私が小学校五年の時に高倉健と江利チエミが一緒になりました。チエミが呼ぶ「ダーリン」が流行語にもなりました。  そして四月十日……勿論、皇太子様と美智子妃殿下の御成婚です。これが見たくてテレビを買った貧乏人も多かったはずですが、我が家には勿論とっくにテレビはありました。  ミッチーブームと呼ばれ、この年に生まれた女の子はたしかほとんどが美智子のはずです。  三十五年、全学連のデモで樺美智子さんが亡くなりました。そんな中、ヌーベルバーグだなんてぬかしていた大島渚監督が小山明子と結婚、たしか美女と野獣なんてからかわれていませんでしたっけ!?  浅沼稲次郎氏が右翼に刺殺されたのもこの年、あの瞬間のニュースフィルムを見ると今でもドキドキしてしまいます。  この年の暮れに石原裕次郎・北原三枝の結婚があるはずです(間違っていたらごめんなさい)。裕次郎の次をになうはずだった永遠のトニー……別にトニー谷ではありません……赤木圭一郎が日活撮影所でゴーカートで死亡、三十六年二月十四日、バレンタインデーの日の事故でした。私の姉がファンで、なにをプレゼントしようか悩んでいた矢先、テレビからとびこんできたニュースです。ショックでした。私も好きでトニーの映画はいつも経堂《きようどう》(小田急線にある)で見ていたものですからくやしかったです。数年前、仕事をかねてトニーの墓参りに行ったことがあるのですが、今だに毎日墓前にはトニーが好きだったハイライトが届けられています(これが理由で、実は私も十七歳から四十歳のこんにちまでハイライトをすいつづけているのです)。  なかなかうまく死ねなかった先代三木助も、この三十六年に亡くなっています。今の桂三木助の父です。うまく死ねないくやしさを安藤鶴夫先生が活写している本が沢山あります(知らない田舎者はアンツル全集を読め!!)。  三十七年にはマリリン・モンロー謎の死、中学生だった我々はモンローのパイオツがまぶしかったものです。おふくろの目を盗んでは「スクリーン」でモンローの写真に見入っていました。いま、うちの長男が同じ中学生。あの野郎は私の目を盗んで……ン? 少年ジャンプを見ていやがる(オレの方がませてたなァ〜)。  この年美空ひばり・小林旭のビッグカップルが結婚しています。  三十八年は本当にいやな年。翌年東京オリンピックが開かれるというのに、ケネディ大統領は暗殺されちゃうし、「幕末太陽伝」という史上最高の喜劇映画を作った川島雄三監督は死んじゃうし、十二月にはとうとう力道山と馬風《ばふう》が死んじゃった(ン? 力道山と馬風を一緒にするなって!? オレの心の中では同じくらい大切なんだよ、ほっといて頂だいか)。  そしてすぐ一ヵ月後の三十九年の一月には私が最も愛し、笑いに目ざめさせてくれたコメディアン八波《はつぱ》むと志《し》が交通事故で亡くなっているのです。今でもこのコメディアンがもっとも好きです。三十七歳という若さでの死である。今の私は八波さんよりも長生きしてしまった。……たけしも八波むと志が一番好きだったと言っていた。  同じ三十九年に天下の二枚目佐田啓二も交通事故で亡くなっている。この時、中井貴一はまだ二歳であった。東京オリンピック一色だったこの年、大好きな落語界では大看板を次々と失っていく。八月二十三日、三笑亭可楽、二日後の八月二十五日には三遊亭円歌、そして十一月八日は、私も十八番にしている「居酒屋」の三遊亭金馬と、戦後落語のエースたちが続々と天国名人会へと行ってしまった。  こうして四十年代へと突入し、文楽まだまだ現役、志ん生寝たっきり、円生のみが名人と呼ばれる時代となる。ちなみに我が師匠、立川談志が真打に昇進したのは、三十八年のことである(この時はうれしかったものさ)。立川談志二十七歳・高田文夫十五歳の遠い昔のことである。  あれから二十五年、いま談志は五十二歳の長嶋茂雄と同じ歳、いま藤志楼は四十歳の門田選手と同い歳。まッいいか。人生いろいろである。悲しいこと嬉しいことみんなまとめてひっくるめ、祝儀・不祝儀篇まずはこれにて読み切り。  もう大変なんすから……身体だけは大事にして下さい(林家三平名言集より)。  第9章 ——私生活篇  この連載も意外な方達に好評で、「今度オナペットの歴史やって下さいよ」だの、「団塊の世代の正しいパンツ史なんかできませんか」だの、リクエストして来る輩《やから》まで出る始末。そこで今回は我々団塊の世代が昭和二十年代三十年代、いったいどんな私生活を送っていたか、身のまわりの、あれこれ篇をお届けしよう。  アトランダムに列挙していくので思い当たることがあったら、「そうだそうだ、あったあった」と黙認して下されば結構。私のようないいとこの子も、そうでない悪いとこの子も、あの頃は皆な同じような体験をしたはずだから安心するように。  まず必ず近所に居たのが�青洟《あおばな》の少年�。少し固めの鼻汁をローソクのようにたらし、そで口でぬぐうからそでがテカテカな奴。今おもえば栄養の関係で、あれは蓄膿《ちくのう》らしいのだが、なかなかすごいものだった。庭には必ず井戸があり、夏場はスイカを冷やした。沢山ガキが集るとまずは馬乗り、我々世田谷の方では台つぶしと呼んだ。チビだのヤセッポチだのは標的にされ、皆なに乗られて必ずつぶれた。「つぶれ! つぶれ!」とか「ちんぎれ! ちんぎれ!」などとはやされ、泣き泣きまた馬になった。  英字ビスケットってのもありましたな。必ず自分の名前をFUMIOとか作ってから食べるのだが、�じゅんこ�という女の子は必ずJUNKOの�J�をとられてしまい、「UNKO! UNKO!」とはやしたてられた。�釘《くぎ》さし�に�Sけん�なんてのもやりましたな。何故かSの外に島があり、そこで休めるんですよね。アメリカザリガニはとりに行きませんでしたか? 我々の方ではあれをマッカチンと呼び、殻をむいて肉だけフライパンでいためて食べたものです。カエル釣りのエサとしても使用したもんです。そこへやって来るのが煙突掃除のおじちゃんです。何処の家にも必ず煙突があって毛虫のおばけみたいなもんで掃除してくれたっけ。みんな三波伸介の「びっくりしたなぁもう」みたいに口のまわりを真黒けにしていました。そしてやってくるのが押売りです。「昨日、ムショから出てきたんだけどよォ、ゴムひも買ってくれよ」とすごみます。「ムショと言いますと……税務署?」なんてボケる母親はいません。町にはダイハツやくろがねのオート三輪が走っています。  ガキ大将は子分達を歌でいびります。「バカ、カバ、チンドン屋、お前の母ちゃんデベソ」。何故か母ちゃんのデベソが悲しかったりするのです。チンドン屋さんももう見かけません。ミチコなんて子は「ミッちゃん、ミチミチウンコたれて、紙がないから手でふいて、もったいないからなめちゃった」などと見られてもいないのに歌われてしまいます。  ジャリッパゲの子はもっと気の毒です。「ひとつやふたつは良いけれど、三ツ三日月ハゲがある、四ツ横ちょにハゲがある、五ツいっぱいハゲがある、六ツむこうにハゲがある、七ツななめにハゲがある、八ツやっぱりハゲがある、九ツここにもハゲがある、十でとうとうジャリッパゲ」と歌いこまれてしまいました。  なんだか嬉しかったのがお袋が着ているかっぽう着のポケットです。魔法の袋みたいでした。何だって入っているのです。鼻をかんだあとにかわいたチリ紙、輪ゴム、それに何故か五円玉。キャラメルは勿論、グリコにカバヤに紅梅です。そういえば薄くスライスしてあった紙石鹸ってありませんでした? すぐに消えてしまいましたねぇ。  夏の夜の帝王は蚊帳《かや》です。海にみたてて泳ぎました。吊ってしまってからは電気が消せない。一匹入ってしまった蚊が気になって眠れない。色々想い出はあります。蝿帳《はいちよう》とかいってごはんをカバーするものもありましたネ。黄色い蝿とり紙が天井から下がっています。魚屋などへ行くと数十匹がペタッとくっついていました。ハエもカも多かったがネズミも多かったようです。ネズミ捕りを仕かけておいて朝見に行くとたいてい二匹か三匹捕まっています。この処理が私の仕事でした。このネズミ捕りをそのまま水につけて溺死させ、それを原っぱにすてにいくのです。何とも残酷でした。  意味なく学校では肝油《かんゆ》をのまされます。あれは一体なんだったのでしょう。「キンギョーエ金魚」と売りに来ます。「竹や〜サオダケ」もきます。石焼いもも来れば「ゲンマイパンのホヤホヤ」と玄米パンも売りに来ます。ラッパを吹いて豆腐屋さんもきます。なんだって売りに来ます。夏はアイスキャンディーもきます。そしてハイライトは、汲《く》み取り屋さんが来ます。長い柄のヒシャクでもってウンチをとりにきます。みんなあの頃はボッタンとお釣りのくる汲み取り式の便所でした。トイレットペーパーなんて勿論ないから新聞紙を小さく切っておいてあるのです。ふいたあとお尻を見ると、「力道山、怒りの空手チョップ」なんてついているのです(そんな訳ないって?)。  グリコから初めてアーモンドチョコが出た時はパニックでした。うちのお袋などすっかりなめちゃってからアーモンドを出し、「このチョコレート、種があるよ」などといってはき出しました。検便の日もいやでした。マッチ箱に自分のウンチを入れて行くのですが、どうもうまくできません。中には途中で犬のクソをひろって持っていったすごい奴もいます。検査後は勿論パニックで、「北野のクソの中から人間のものとは思えない菌が発見された」と大さわぎです。いたる所に肥溜《こえだめ》がありました。夏などお天道様《てんとうさま》に照らされ表面がカチカチになり、まるでピザみたいでした。必ず一回はみんな落ちたはずです。泣きベソで家へ帰るとお袋が、「銭湯行っといで!」。来られたお風呂屋は気の毒です。  校門のすこし横には必ずあやしげな物売りが出ていました。ヒヨコ売り、ウサギ売り、シンコ細工、粘土屋ETC。子供ごころにワクワクしたものです。冬はダルマストーブにコークスが定番。お弁当を温めたりしましたっけ。さっきのいじめ歌で忘れていたものがありました。ミッちゃんやハゲ以外にも差別の対象がありました。そうです、デブです。「デーブデブ、百貫デブ、電車にひかれてペッタンコ」という歌です。ミッちゃんもハゲもデブもその他|出目金《でめきん》(オレか!?)、鼻ペシャ、ちんちくりん、あんぽんたん、おたんこなす、ダッチョまでがいじめられました。足の大きさだって問題です。「バカの大足まぬけの小足、ちょうどいいのがオレの足」なんて歌までありました。給食のコッペパンにピーナツバターなんざグーとも言わせません。揚げパンもありました。サッカリンなんてのもなつかしいでしょ? シスターボーイなんてとんでもない呼び方もありました。今で言うおかまなんですが、女装した丸山(美輪)明宏がTVに出てこう呼ばれていました。クラスでもちょっとナヨナヨした子がいると「あいつシスターボーイだぜ」などと言いました。  最近すっかりみかけなくなったのが電車やバスの中で平気で赤ちゃんにおっぱいを吸わせているお母さん。下手すりゃ一車輛全員片乳を出しておっぱいをすわしているなんて光景もありました。私など思わずよそのおばさんのおっぱいにむしゃぶりついたものです(ウソウソ!)。あとその昔なにかというと「滋養がつく」と言って色んな物食べさせられませんでした? なんだって「滋養! 滋養!」です。あの滋養とは一体なんだったのでしょう。栄養とも違うようですし……。意味がわかりません。  あと居たのが傷痍《しようい》軍人。白衣で戦闘帽、松葉づえ、必ず駅前に立っていました。お金が集ると松葉づえをはずしてスタスタ行ってしまうのを目撃した私です。誰も見た訳でもないのに何だかそのひびきが恐かった人さらい。「言うこときかないと人さらいが来るよ!」と必ず言われます。この人さらいにさらわれた子はサーカスか見世物小屋に行くと教えこまれ、意味なくサーカスが哀《かな》しかったものです。紙芝居が来ればもうこっちのものです。あの拍子木の音をどれだけ心待ちにしたものか。たいてい五円持って練りアメ、酢コンブ、ソースせんべい、型ぬきなどを買うのです。黄金バットに心ふるわせ、一番最後のなぞなぞまで楽しみます。  スケーターという不思議なものにも乗りました。勿論《もちろん》フラフープが欲しくてお袋に並んで買ってきてもらいました。「腸捻転になる!」と噂がとび、すぐにみんなやめました。ホッピングもそうです。たき火も娯楽のひとつでした。竹馬にものりました。学校では脱脂粉乳も鼻をつまんで呑みました。昭和三十三年には日清の即席チキンラーメンが出ました。カルチャーショックとはこのことです。どんぶりに入れて熱湯をそそいで三分間、これはすごかった。そのままポリポリかじってあとからお湯を呑む奴もいました。  提灯《ちようちん》ブルマーの女の子はいまどこに? 停電もなくなりました。あの頃は台風がくる度に停電し、意味なくワクワクしたものです。台風一過のあと落ちているクリなどひろうあの楽しさ、富山から薬売りがくれば四角い紙風船をもらって楽しみました。ニコヨンという言葉も死語になりましたネ。寝押しする奴ももういません。火鉢すらありません。月刊平凡の性の悩みのページもありません。「自慰をすると頭が悪くなるって本当ですか?」とマジメにドクトルチエコに相談する人もいません。ヘチマのたわしだって赤い丸いポストだって湯たんぽだってローラーのついた電気洗濯機だって……赤線だってもうありません。  あ〜あ、楽しかったよなぁ、あの頃。  第10章——漫画篇  平成元年、手塚治虫先生が亡くなられた。まさに我々世代の神であり、未来を教えてくれる先生でもあった。「アトム大使」から始まる「鉄腕アトム」でどれだけ夢と希望とやさしさを教えられたものか。  最後に手塚先生にお逢いしたのは、昨年十一月の私の真打昇進披露パーティーであった。先生は体調が悪いにもかかわらず、病院を抜け出し談志師匠と私に「おめでとう」を言いにかけつけて下さった。すっかりやせていらしたのがその時気になったのだが……。私に花束をそっと会場の隅で手渡すとまた病院に戻られた。つつしんで手塚先生の御冥福を祈ります。未完の「火の鳥」完結篇には鉄腕アトムが登場する構想もあったとか……。「少年」に連載されていた鉄腕アトムによって幕明けした我々の漫画史、生みの親である天馬《てんま》博士、そして育ての親お茶の水博士にも感謝である。  昭和三十四年に「少年マガジン」「少年サンデー」の少年漫画週刊誌が創刊されるまで、我々は月刊漫画誌で飢えをしのいでいた。光文社の「少年」、講談社の「ぼくら」、秋田書店の「冒険王」、少年画報社の「少年画報」。「少年探偵団」の連載があった為、江戸川乱歩《えどがわらんぽ》監修による少年探偵手帳が付録についた「少年」にまず人気が集まったように思う。少年探偵団は読み物であったが、ラジオ人気もすごかった。♪ボ・ボ・ボクらは少年探偵団の主題歌は今でも口をつくし、BDバッチは今でも欲しいと思う。鉄腕アトムもアニメ化されたが、その前に実写版というのがあって、これが実にセコく情ない代物。実写版のアトムだけは今だに見たくはない。 「少年画報」から飛び出したヒーローは武内つなよし作「赤胴鈴之助」。千葉周作門下の赤胴鈴之助は真空斬り、宿敵、竜巻雷之進はいなずま斬りで僕達悪ガキの心をワクワクさせる。ラジオからは「う〜ん ちょこざいな小僧め 名を 名を名乗れ!」「赤胴鈴之助だ!」という台詞があって主題歌となる訳だが、このちょこざいなというひびきがなんともおかしかった。ちょこざいは今では死語である。大映で映画化もされた梅若正二の鈴之助、林成年《はやしなりとし》の竜巻雷之進を祖師谷大蔵《そしがやおおくら》にあった砧《きぬた》コニーという小汚ない映画館の暗闇の中から息をこらして見ていた。目先のきくおもちゃ屋はあの赤胴を売り出したが、買うお金なんか勿論無い我々は文房具屋からボール紙を買ってきて胴の形に切り、赤く塗りひもを通してお手製の胴を作った。おもちゃの竹刀《しない》はどうにか買えたので、それで赤胴ごっこをやるのだが、鈴之助になれる奴はひとから「ちょこざいな小僧め 名を 名を名乗れ!」ときっかけの台詞を言ってもらわないと登場できないというなんとも間抜けな段取りだった。そのかわり真空斬りを出せば、みんながハラホロヒレハレみたいになってくれるのだから御機嫌だった。  赤胴鈴之助の流れをくむのが、堀江卓の「矢車剣之助」。こちらはかごが飛んだりタルがころがったりの大スペクタクルで、やたら拳銃を放った。この短筒にはいったい何発タマが入っているのかとあきれさせるほど連射できるもので、撃っても撃ってもタマは出た。一番多くの人数が死んでいる漫画ではないだろうか。高校時代この堀江卓の親せきだという奴がクラスにいてやはり堀江という苗字だったので意味なく尊敬した覚えがある。  現代物では勿論、川内康範原作・桑田次郎画による「月光仮面」。実体は祝十郎という探偵なのだが「どこの誰かは知らないけれど、誰もがみんな知っている」と訳のわからない歌われ方をしてしまう。敵役はサタンの爪が有名。ませたガキは、「月よりの使者、月経仮面、イッヒヒ」などと笑っていましたが、私にはその意味がわかりませんでした。月光仮面ごっこも大流行し、何故かみんな白い布にお月様、サングラスというセットを用意したものです。  同じ桑田次郎ものでは「|8《エイト》マン」があります。8マンの正体が東八郎という名の刑事というのも今となっては泣かせますが、♪光る海、光る大空、光る大地〜の主題歌、作詞はなんとマエタケさんこと前田武彦、歌ったのがあの克美茂という今となってはものすごいものです。「8マン」といえば「丸美屋」、「丸美屋」といえば「8マン」というくらいイメージが固定した人気アニメにもなりました。のりたまの8マンシールなんざ皆な何十枚も所持していました。これまた桑田次郎で「まぼろし探偵」。これも人気がありました。普段は知恵と勇気の進くんなのですが事件が起るとまぼろし探偵になっちまうのです。桑田という人は余程変身ものが好きだったのでしょう。こちらまぼろし探偵は、赤い帽子に黒マスク黄色いマフラーなびかせて、探偵にしてはちょっと目立ちすぎる色使いです。  桑田次郎のヒット連発に対抗し「赤胴鈴之助」の武内つなよしも探偵ものでヒットを飛ばします。御存知「少年ジェット」です。こちらにはシェーンという愛犬を配し、武器は赤胴の時の真空斬りと同パターンのミラクルボイス「ウーヤーター」です。我々もどれだけミラクルボイスの特訓をしたものか。木にむかい、「ウーヤーター」とやるのですが、木は倒れてくれません。宿敵はブラックデビル……(数十年たって明石家さんまによってこのダーティーヒーローはブラウン管に再登場しました)。♪ゆこうぜシェーンよ、とりこになっても負けないぞ、と歌われたシェーンもかしこい犬でした。渋谷の駅前にハチ公の銅像が建っているのだから新宿の駅前にシェーンの銅像をという動きがごく一部の人々のあいだで盛りあがりましたが、まったく無視されました。  テレビドラマ化の際、撮影所が近所にあったせいもあって、千歳船橋の我が家のまわりでよくロケをしていましたが、子供ごころに作り話だなどとは思いませんから、息をひそめて遠くから見ています。「来いジェット!!」「出たなブラックデビル」緊張に包まれ見ている僕達。そこへ「OK!!」の大声がひびきます。なッなッなんと昼休みなのでしょう、ジェットとブラックデビルが仲良く話などしながらお弁当を食べているではありませんか。ショックでした。一体どうなっているのだ!? 一体、何を信じたらいいのだ? これから先日本の平和はどうなるのか? 僕達は金しばりにあったように二人を見ています。とどうでしょう、二人はキャッチボールまで始めました。その晩ふとんにもぐり込み、頭をかかえたのは私ひとりではありません。テレビの少年ジェットでオープニング、シェーンがかごをくわえカレーを買いに行く酒屋は家がひいきにしていた酒屋で、毎週写るから「おばさん、シェーンまた来たの?」と真剣にたずねた可愛いい小学生でした。丸美屋が8マンなら、主人公にスポンサーの名前をそのままつけてしまったものも登場します。「ナショナルキッド」です。何故か私はあまり見ませんでした。  スポーツものではなんと言っても福井英一の「イガグリくん」です。本名を伊賀谷栗助・通称イガグリくん。ものすごい名前です(まるで漫画です。アッ漫画か!?)。イガグリくんの家はたしか床屋でした。ライバル山嵐。まさに熱血柔道漫画で、学生服を脱ぐといきなり柔道着などというとんでもない着こなしも教えてくれました。漫画の主人公になるほど、柔道はメジャーなスポーツだったのです。  そしていよいよ野球漫画の時代です。私がわりと好きだったのは「ライナー君」ですが、わちさんぺいの「ナガシマくん」というのもありました。スポーツものはみんな「〇〇君」というタイトルです。そしてついに漫画週刊誌から「スポーツマン金太郎」というとんでもないプロ野球漫画が登場します。熊と共に巨人軍に入った金太郎、ライバルの桃太郎はたしか阪神に入団します。これは傑作でした。  ギャグ漫画に目をやれば、小さい頃から杉浦茂という方が不思議な画風でハチャメチャをやっていました。当時も人気はあったのでしょうが、いまの時代ならバカうけという漫画です。ひと時代早過ぎたのかもしれませんがまさしく天才です。  印象的だったのは前谷惟光という漫画家でひたすらロボットばかりを主人公に描きまくり「ロボット三等兵」などという戦争ものを描いていました。ハッキリ言ってロボットばかり描いているので頭が痛くなりあまり好きになれませんでした(ごめんなさい)。やまねあかおに・あおおになどという人をなめきった名前の漫画家さんもいました。いつもほのぼのとした笑いで、個人的には愛読させてもらいました。  ここまで書いてきて大変なことを忘れていました。「高田! この野郎! あれが入ってねえぞ!」という声が聞こえてきそうです。ごめんなさい。発表します! 横山光輝の〜ッ、とここまで来ればもうお分りでしょう、「鉄人28号」です。これを落とすと団塊の世代では仲間はずれです。金田正太郎が自由に操縦する鉄人28号、♪ビルの町に、ガオ〜、夜のハイウェイにガオ〜 である。子供ごころに誰しも一度はあの操縦器を手に入れることを夢見たものです。あれさえあれば鉄人を動かし学校もこわせるしと宿題をやってない夜は、いつも考えていました。そしてクラスに必ずひとり、妙に鉄人28号を上手に描ける奴がいました。あの鉄の光沢などみごとに描いちゃうのです。みんなから正太郎と呼ばれていませんでしたか?  続々と現われた漫画のヒーロー達を見てみんな漫画家になりたいと思ったものです。その夢は中学に入る頃には挫折をむかえるのですが、そのまま大きくなって大人になって漫画家になってしまった高橋春男センセー 君は今回、こんな話の中からどんなイラストを描いてくれるのかな? できあがりを楽しみにしておる。とりあえず今回は漫画篇のおそまつ、ウーヤータ〜ッ!  第11章——日本映画篇 「レインマン」がアカデミー賞をとった今日この頃、日本映画はと目をやれば伊丹十三監督の成功以来、俳優・タレントの監督ラッシュ。勝新だ山城新伍だとつづき、ついに我らがビートたけしも作り出した。男の職業の中で映画監督くらい面白いものはないと言われるがその通りだろう。監督のひと言で何百人ものスタッフが動くのだから男みょうりここに極まれりといったところ。やはり映画は楽しい。日本映画の全盛期に幼少時代を過ごした我々世代はいつまでも映画に夢を見る。  テレビなど無かった時代、まず心ときめいたのがあの三角マークの東映である。�義理欠く、人情欠く、礼儀欠く�の三かくマークとも言われるが、岩にザップーンと波があたりザーンと三角が表われる時の胸踊る気分などどう表現していいものか。ものの本によるとあの岩へザンブリコは昭和二十九年頃からだとか。最初にとりこになったのはお子様時代劇の「里見八犬伝」「笛吹童子」「紅孔雀」である。デビューしたての中村錦之助・東千代之介のなんとカッコよかったことか。「笛吹童子」の姉妹篇として大友柳太朗の「霧の小次郎」シリーズもあった。いずれも波乱万丈のストーリーに忍術をからめ妖怪をちりばめるといった大サービスでいつも不気味な吉田義夫よ、あっちへ行けであった。この頃のポスターには必ず「時代劇は東映」のコピーが付いていた。これで目ざめた日本中の良い子は東映のチャンバラ映画に夢中になり、当時二本立てで毎週新作という映画を二流館に落ちてくるまで待ち、三本立てで見まくった。あまりに東映マニアになり野球もパでは東映フライヤーズのファンとなった。私は自転車でいつも駒沢球場へかけつけた。  格から言うと片岡千恵蔵・市川右太衛門より数段下なのだが、その分台詞が下手な(それじゃどこもいい所が無いって!?)大友柳太朗が個人的には大好きで子供だましのような……いや本当に子供をだましたスルメのような形の「快傑黒頭巾」に身も心もささげた。映画のポスターに曰く「斬る! 射つ! 唄う! これが大友のお家芸決定版!!」ときたもんだ。斬るとか射つなら恐いけど唄うってのはあまり恐いような気がしないのだが。でもあのアバウトさを許してしまおう。  大御所・千恵蔵は「大菩薩峠《だいぼさつとうげ》」やら「血槍富士《ちやりふじ》」、一方の雄・市川右太衛門はもうこれしかなく「旗本退屈男」。キンキラキンの着物に「ブワッハハハ」と豪快に笑いながら登場する退屈男、衣裳代だけでも大変だったろう。タイトルはなんにだって「謎」をちりばめ、曰く「謎の百万両」だの「謎の幽霊島」「謎の珊瑚屋敷」「謎の南蛮太鼓」「謎の童神岬」「謎の怪人屋敷」「謎の決闘状」「謎の蛇姫屋敷」だの沢山あって、てめぇの方がよっぽど謎だっつーの。ひたいにあんな三日月の傷をつけたド派手な侍《さむらい》、謎だらけだよな。ちっとも疑うということを知らない無垢《むく》な私でした。  千恵蔵・右太衛門の両看板、年に一度のオールスターでは顔を合わせるのですがポスターの顔写真のサイズも映画の中の台詞の数も秒数もまったく同じだったと言われます。お互い一歩もゆずれなかったのでしょう。お正月作品のオールスターものとしては「任侠清水港」「任侠東海道」「任侠中仙道」「勢揃い東海道」なんてところがありますな。  ニュースター錦之助は「一心太助」シリーズでいなせぶりを発揮、大久保彦左衛門役の月形竜之介といい味を出していました。そしていよいよ美剣士、大川橋蔵の葵新吾《あおいしんご》のシリーズです。「新吾十番勝負」のシリーズがあり、当たったので「新吾二十番勝負」、追加オーダーみたいに「新吾番外勝負」も作られていきます。コピーに曰く「剣の道に終りはない」ですと。それほど当ったシリーズでありました。マイナーなシリーズに「柳生《やぎゆう》武芸帳《ぶげいちよう》」があり、近衛十四郎《このえじゆうしろう》がひとり気を吐いていましたが、いまいち子供達にうけはよくなかったようです。時代劇以外でも東映はヒットを飛ばし、代表作があの千恵蔵の多羅尾伴内《たらおばんない》シリーズです。「ある時は片目の運転手、またある時は、手品好きのキザな紳士……」と七ツの顔を持つ男なのだが、片目の運転手なんて変装、余計に目立ってしょうがない。千恵蔵には多羅尾伴内の他にも金田一耕助のシリーズもあって探偵としても忙しかった。  東映以外のチャンバラスターには「むっつり右門」「鞍馬天狗」のアラカンこと嵐寛寿郎、「丹下左膳」の大河内伝次郎……このふたりは小さい頃、ものまねの対象にもよくなりました。大河内伝次郎の殺陣《たて》は素晴しいものがあったと思います。  男ばかりのチャンバラ映画の中にあって咲いた花一輪、幾多のお姫様女優がいる中で私が心ときめいたのが千原《ちはら》しのぶです。子供ごころにこんなきれいな人がこの世にいるのかと疑った程です。上品でとても結構でした。この千原しのぶがある映画で(作品名は忘れました)、悪代官に犯されそうになるシーンがあったのです。その時です、生まれて初めて勃起なるものを意識したのは……。股間が妙にはちきれんばかりになりポーっと赤くなってしまいました。今でもこの想い出が鮮烈で、千原しのぶの写真を見るとついほおを赤らめてしまうおちゃめな四十歳です。  この数年後、市川雷蔵の「眠狂四郎」シリーズでもやたら興奮したのを覚えています。眠狂四郎も濡れ場の多い時代劇でしたよね。  そして僕らはチャンバラから日活へと移っていきます。そうです、ヒーロー石原裕次郎の登場です。みんな髪型を慎太郎刈りにしました。ポケットに手をつっこみ、足をひきずるように歩いて真似ました。「嵐を呼ぶ男」を見てはドラマーになろうとスティックを買い込み、「俺は待ってるぜ」を見てはジャックナイフを買い込み、ケンカするのもこわくてジャックナイフでエンピツをけずってしまいました。赤いハンカチなんか十枚くらい買いこんでしまい母からあやしまれたりもしました。タフガイ裕ちゃんに続いて出たのが、マイトガイの小林旭。「渡り鳥」シリーズを真似て今度は皆なギターを買い込み背中にしょって何故か中学へ現われました。そして�永遠のトニー�ナイスガイ赤木圭一郎です。あの壮絶な死を真似て皆なゴーカートで壁につっこみ……そんな奴はいません。これらの作品に必ずからむのが宍戸錠、二谷英明、沢本忠雄、川地民夫らです。そして、必ずクラブかキャバレーで踊っているのが白木マリでした。どんな港へ行こうがどんな地方へ行こうが踊り子で必ず白木マリが居るのです。あれは不思議でした。  監督の名前で映画を見るようになったのは、やはり黒沢明です。中学時代に「用心棒」「椿三十郎」とたてつづけに公開され、黒沢作品に興味を持ち、名画座でさがしては「生きる」やら「蜘蛛巣城」「隠し砦の三悪人」などを見て、三十八年には「天国と地獄」です。金持ちの子供の誘拐事件の話なのですが、パートカラーとして煙突の煙に色がついているのにはおどろかされました。この手法、パートカラーはこののちピンク映画で多用され、ベッドシーンとなり女性が脱ぎ始めると色が使われました。高校時代、授業をさぼってはかけつけ、「色がついたら起こしてくれよ!」を合言葉に館内で昼寝を楽しむニキビ面でありました。  今村昌平の「にっぽん昆虫記」だの勅使河原宏の「砂の女」だの今井正の「越後つついし親《おや》不知《しらず》」だのの芸術の香り高き名作も、僕らニキビ面の少年にはいやらしい対象でしかなく、犯されるシーンばかりを楽しみにせっせと映画館へ通いました。「卍」の若尾文子なんか相当スケベっぽかったと思うんだけどなァ〜。  そしておなじみ「駅前シリーズ」やら一連の植木等映画で笑わせて頂き高校時代に若大将を経てついに我々は高倉健と大学時代に出逢うのです。学園紛争の真只中、我らが健さんは池袋の文芸地下にオールナイト五本立てでいつも居ました。悪い親分のひと言に客席からは「ナンセーンス!!」が飛び、健さんの「死んでもらいます!」の決め台詞に「異議な〜し」の大合唱大拍手です。  私もすべて見せて頂きましたが、大きく分けて健さんものには三ツのシリーズがあります。まずは「網走番外地」シリーズ。これには「網走番外地」「続・網走番外地」「網走番外地・望郷篇」「北海篇」「荒野の対決」「南国の対決」「大雪原の対決」「決闘零下30度」「悪への挑戦」「吹雪の闘争」とあり、これまでが橘真一が主人公。つづいて「新・網走番外地」シリーズとなり主人公の名は末広勝治。これは「新・網走番外地」「流人岬の血闘」「さいはての流れ者」「大森林の決闘」「吹雪のはぐれ狼」「嵐呼ぶ知床岬」「吹雪の大脱走」「嵐呼ぶダンプ仁義」と四十七年まで作りつづけられます。個人的には「望郷篇」が最高だと思うのです(ちなみに「男はつらいよ」も「望郷篇」が一番泣かせる)。健さん着流しシリーズは「日本侠客伝」シリーズ、これは十一本作られている。そして最高傑作シリーズと名高い「昭和残侠伝」シリーズ。花田秀次郎と名乗る一匹狼と宿敵・風間重吉。これを演じた池部良がいいんだわさ! ラストはおなじみ「唐獅子牡丹」の名曲が流れ、雪の中、健さん・池部の御両人が番傘さしてなぐり込みという古典芸能のような様式美なのだが、どれだけこのふたりに、何もできない学生の自分達をオーバーラップさせ、声援しつづけたことか。我々世代まさにあの映画こそが青春でした。ここにその九本を列記すると「昭和残侠伝」「唐獅子牡丹」「一匹狼」「血染の唐獅子」「唐獅子仁義」「人斬り唐獅子」「死んで貰います」「吼えろ唐獅子」「破れ傘」である。 ♪義理と人情 はかりにかけりゃ〜ッか。やっぱりヤクザでなくとも義理が重たいこの業界ではある。僕の花田秀次郎はいま何処へ!? ありがとう健さん……である。また、読んでもらいます!!  第12章 ——ポップス篇  近頃、我々世代がカラオケなんぞへ行くと吉幾三《よしいくぞう》の「酒よ」だの、北島三郎の「北の漁場」だの、すっかり、ド演歌路線になってしまって、おっさん然としているが、まだまだ身体の中の熱き血の中にはエルビスが、ビートルズが、そしてキングストン・トリオ、PPM(ピーター・ポール&マリー)なんてさわやか青春フォークのメロディーまでがキッチリ残っているのである。  考えてみればポップスの波をドーンと受けているのが我々世代で、それは小学校の高学年の時、ニュースの中でみた今は無き日劇の「ウェスタンカーニバル」のシーン、第一回が昭和三十三年だから、あの長嶋茂雄様が巨人軍に入団した年でもある。ロックンロールの爆発は多分、映画「暴力教室」の中から「ロックアラウンドザクロック」が流れた時に始まると思うのだが、それをうけてエルビス・プレスリーが登場し、すぐさま日本へ入り込みロカビリーなるものを生み出した。  ロカビリー三人男とは勿論、平尾昌晃、ミッキー・カーチス、山下敬二郎の、いま思えばとんでもない不良歌手。「星は何でも知っている」と歌った平尾昌晃はなんだかいやらしっぽく、これに夢中になっている姉達を見ると不潔だなァと単純に思った小学生でした。ミッキー・カーチスもなんだかインチキ外人くさく思え、本当にこういう人達に日本は負けたんだろうかと訳のわからない考え方までしてしまいました。山下敬二郎というとすぐおふくろが「あ〜あ、金語楼の息子も不良になっちゃって!」と言いました。その頃、ジェスチャーに出ている金語楼とマンボズボンにリーゼントの山下敬二郎がどうしてもむすびつきませんでした。それでもやっぱり我々は子供です。ホウキを持ってきてはそれをギターに見立て、 ♪君は僕より年上とォ〜ッ まわりの人は言うけれど〜  などと真似たりしました。テレビのニュースは舞台にブラジャーやらパンティが投げられるショッキングな画像を写し出しています。  ウェスタンカーニバルの人気はとどまるところを知らず次々に和製ポップスのスターを生み出していきます。なんでも�三人なんとか�とまとめるのが好きな日本人は、水原弘・井上ひろし・守屋浩を三人ひろしと呼びこれまた超人気を呼びます(水原弘のあと、かまやつひろしというパターンもあります)。そして寺本圭一・飯田久彦・藤木孝・スリーファンキーズ・ほりまさゆき・紀本ヨシオ・鹿内タカシらが「イカす」歌いっぷりで女の子のハートをつかみまくります。  そんな中でぶっちぎりのトップスターの座をつかんだのが九ちゃん、坂本九です。今の若い人には、いつもニコニコしていていいおじさんだったというイメージだろうが、若き日の坂本九の中にはロックンロールの血が流れていた。♪ティカティカ ティカ がよくてレコードを買った「グッド・タイミング」、♪ヤムスタファ ヤームスターファとなんだかわからなかった「悲しき六十歳」……そういえばいつもパラダイス・キングことパラキンが一緒に居たっけ。 ♪チンタレーラリルンナお屋根のてっぺんでェ〜の森山加代子も居た。ジェリー藤尾も居たっけ。しかし今、考えるにあの♪ティカティカ ティカ ツーユーはどういう意味だったんだろう。中学に入り英語を習いたての僕らにはよく判らなかった。「恋の片道切符」の♪チューチューチューレインもそうだし飯田久彦が歌った「ルイジアナママ」の♪あのコはルジアナママ ホニオリンもよくわからなかった。ホニオリンとは何なのだろう。ホニオリン!? これからズーッとあと大学に入ってから�ホニオリン�が�フロムニューオリンズ�であることがわかった。ポップスターであったニキビの九ちゃんも昭和三十六年に出した、「上を向いて歩こう」あたりからすっかり隣のいいお兄さん風になっていく。一連のヒット曲は勿論、永六輔作詞・中村八大作曲による�六八九トリオ�の作品である。NHKテレビ「夢で逢いましょう」から生まれたこの曲は、その後、昭和三十八年には「スキヤキ」というなんともはやのタイトルで全米ヒットし、ビルボードで四週連続トップ、世界の九ちゃんになった。その九ちゃんも飛行機事故で不幸な最期となってしまったのは御存知の通り。  坂本九のデビュー曲「悲しき六十歳」でもわかる通り、そう言えば当時のポップスはなんだって悲しきだった。♪リッスン トゥザ リズム オブ ザ フォリレンと悲しく僕の胸をぬらす「悲しき雨音」、たしか滝という意味のカスケイズが歌ってました。ヘレン・シャピロは「悲しき片想い」、エルビスは「悲しき悪魔」(ヘ〜イ リル デビルだもの)、パット・ブーンなんざ ♪ターミー カンガルーダンスポップの「悲しきカンガルー」。あの頃はカンガルーだって何故か悲しかったようです。ニール・セダカは「悲しきクラウン」(この歌好きだったなァ)。♪ロンリー ロンリー ロンリーソルジャーボーイの「悲しき少年兵」などもありました。デル・シャノンの大ヒットは「悲しき街角」(この人、このあと街角シリーズなどと言って「花咲く街角」なんてのも出していますよネ。坂本九も歌ってました。レコード持ってたもの)、その他「悲しき16歳」などもありました。どうしてあの頃、みんな悲しかったのだろう。安保と関係あるのだろうか? (それは西田佐知子の「アカシアの雨が止む時」かアハハ)  エルビスと坂本九を中心に動いた僕ら世代の中学ポップス体験は、ついに高校に入るとテケテケテケのエレキブームと衝撃的な出逢いをする。勿論ベンチャーズである。「エレキは不良!」の合言葉のもとPTAはエレキ狩りを始めるが、ニキビ面の我々はそんなこたァおかまいなし。次々エレキを買い始める。なんたってノーキー・エドワーズの指さばきである。ウォーク ドント ランを「急がば廻れ」と題し、その後、矢つぎ早にエレキサウンドは日本の少年達を夢中にさせていく。「ダイヤモンドヘッド」「パイプライン」「十番街の殺人」「キャラバン」「ブルドッグ」。「キャラバン」でのアドリブ早弾き、ベースをドラムスティックでたたくという演奏法におどろいたりしたニキビ面、日本には寺内タケシという名人がガンバッテおりました。ベンチャーズのレコードは東芝からの四曲入りのコンパクト盤というのが人気でした。レコード屋からかっぱらったおちゃめな体験をもつ人も多いはず。あっオレだけか!?  エレキ狂いの若者が居る一方、ボブ・ディランの流れからフォークソングも又、ブームと相成った。みんなJ・F・ケネディのアイビールックを真似、キングストン・トリオやらブラザース・フォー、PPMの曲をエレキ野郎達よりは上品に口ずさみハモッたりなんかしていました。「トムドゥリー」だの「漕《こ》げよマイケル」だの「パフ」だの、いま、おもえばちと恥ずかしい。必ず「風に吹かれて」をディランを気取って歌う奴がいて何故か人生を諭《さと》してくれたりした。若年寄りみたいな言い方で人の世の切なさを説かれたりしちゃうと、妙にレコードを盗んだ自分を反省してしまって、よくわからない多感な季節だった。誰かも書いていたが、歌の中では必ず戦争に行く奴はジョニーという名前だった(あの頃、よくジョニーが死んだんだよな)。日本でもマイク真木の「バラが咲いた」と共にフォークで人気歌手が生まれ、ヒット曲も誕生した。個人的には荒木一郎の「空に星があるように」に始まる一連の曲が好きで、こんな私でもオセンチになったこともある(あ〜ぁ恥ずかし!!)。  そしていよいよ大真打、イギリスはリバプールの港町が生んだ四人組、御存知ビートルズの登場である。出ばやしは「プリーズプリーズミー」に「抱きしめたい」。日本でのアルバム発売が昭和三十九年、いやぁ私は好きで好きでレコードはすべて買い込み、映画の「ビートルズがやって来る ヤァ! ヤァ! ヤァ!」なぞは三十回位映画館へ足を運びました。  そして本当に日本までやって来てしまったのが四十一年、武道館コンサートのチケットなどなかなか手に入らず、やっとこさ親父がなんとか一枚手に入れ、わたしは小便ちびる思いで武道館へ行った高校三年生でした。ドリフターズやらブルーコメッツが前座をつとめていました。正直な話を書くと、私のすぐ後の席がスパイダースの田辺昭知氏でした。てっきり前座はスパイダースかと思っていたのでしたが、何故かブルコメにもっていかれました。スパイダースのリーダー田辺氏はどんな気持でこのステージを見ていたのでしょう。私はその前にちょこんと座っていた来年受験をひかえたアイビー小僧のド素人でした。  今でもつかれたりすると夜中、二十年以上も前のレコードをひっぱり出し、あのサウンドを楽しみます。あの時見たジョン・レノンが、ポール・マッカートニーが、ジョージ・ハリスンがリンゴ・スターが、僕の青春をとりもどしてくれます。なんだかんだ言ってもビートルズってすごかったよなァ。自分の感性が一番良かった時代にビートルズを共有できたことが我々世代の誇りでもある。ビートルズよ永遠なれ……ではあるが坂本九だってすてがたい。我々世代のポップス体験はロカビリーに始まりそしてビートルズで幕を閉じる。この後、大学生となる我々は学園闘争と共にそのリズム感までを風化させ、四十となって演歌野郎になり下がる(成りあがる?)のである。  しかし、我々の血の中にエルビスとビートルズがたっぷりと入ってやんでい。バカにするなボディコンギャル! オレ達のカラオケ演歌の中にゃロックスピリッツがいっぱいよ、オウッ!! (なにをからんでんだろーね、この人ぁ)やっぱり歳か……。  第13章 ——ラジオ篇  私はいま毎朝十時すぎには有楽町にあるニッポン放送へ入り、十一時半から午後一時までの一時間半、松本明子嬢を従え「ラジオビバリー昼ズ」なるおかしな番組のパーソナリティをやらせて頂いているのですが、これが楽しい。これが面白い。月曜から金曜までの週五日間の生放送、その日起きた事件やらニュースを、私のこの四十二歳にしておちゃめな思考法で笑いとばし、タクシーの運転手さんやら内職をしているおばちゃん達から拍手とハガキを頂いているのです。悪友ビートたけしと共に約十年、深夜放送で若い衆相手にオンエアをしつづけてきたのですが、さすがに体力も無くなり昼間の顔、大人向きのしゃべりとネタになってきました。  そこで今回は私の大好きなラジオの話です。ラジオの名放送といえばあの三十八回叫びつづけたという「前畑ガンバレ」でもわかる通り、いかに主観的にしゃべってしまうか、より人間的な肉声で話すかがポイントなのではないでしょうか。テレビがタテマエならラジオはホンネ。よりパーソナルなメディアがラジオと言えそうで、私など町を歩くと八百屋のおばちゃんあたりから「聞いてるよー」てなこと言われ、まさに毒蝮三太夫《どくまむしさんだゆう》の世界であります(マムシさんこそ、ラジオが生んだ名人芸と言えましょう。玉置宏《たまおきひろし》さんもうますぎるけど……)。  そこで我々の世代は一体どんなラジオ番組を聞いて大人になったのか考えてみましょう。 「前畑ガンバレ」は勿論聞いてはいませんし、ラジオ界最高の名人芸、徳川|夢声《むせい》もあまり記憶にはありません。昭和二十六年に民間放送が誕生したり、五球スーパーから三木トリローグループの「日曜娯楽版」が流れ、大人気を得たなんてことも資料の中、日大芸術学部の放送学科で学んだくらいです(このトリロー門下に永六輔・野坂昭如・五木寛之氏らが居た)。  おふくろがいつもつけていた茶色い木の箱の中からは「一丁目一番地」が流れ、いつも金馬(先代)と志ん生がなんだかわからないけどおかしそうな噺をしていた。自らダイヤルを合わせるようになったのは「う〜ん ちょこざいな小僧め 名を 名を 名乗れ〜」の「赤銅鈴之助」あたりからだ。  そしてついにトランジスタラジオなるものが現われ、みんなで聞くラジオから、ひとりで聞くラジオ時代へ。ツーッと伸ばすアンテナがなんとも自慢だった。そんな所へテレビジョンが出現したからもの珍しくて、一気に家中がテレビのとりことなり、テストパターンの動かぬ画像まで息を殺してみつめていた。  テレビの登場で主役の座をうばわれたラジオがまたまた脚光を浴びるのが、我々団塊の世代が高校生から大学生への時代である。一歩先をいくませた高校生は「まだテレビなんか見てんの? ラジオの方がすすんでるぜ」と試験勉強をしながらラジオのとりこになっていくのである。「ながら族」なる言葉が流行したのもこの頃。  文化放送の「ユアヒットパレード」やら「S盤アワー」でアメリカンポップスを仕入れ、ノートにビルボードのランキングなどを毎週つけていたっけ(大学ノート五冊ぐらいたまったと思う)。  山の手の高校生だった我々のあいだでは通称�ラジ関�、ラジオ関東を聞くのがファッションで、くろすとしゆきらが出演していた「アイビークラブ」やら、巨泉・前武・永六と呼ばれた放送作家達が毎日フリーにしゃべるトーク番組の元祖「きのうの続き」に耳を傾けた。小林信彦氏も出ていました。エンディングの「今日の話は昨日のつづき、今日の話はまた明日。提供は……」というコメントに「ああ、もう終りか……」とつぶやいたニキビ面でありました。荒木一郎の「空に星があるように」の曲で始まるひとりしゃべりの番組も大好きで、荒木一郎の曲を聴きながらラブレターを書いたことも数度です。「バイタリス フォークビレッジ」なんてのもなつかしいひびきですな、御同輩!  そしていよいよ我々団塊の世代がヤングと呼ばれた時代、我々をターゲットに深夜放送が開始されます。昭和四十二年、私が大学一年生の時です。ニッポン放送は「ビタースウィートサンバ」の軽快な曲に乗せて「オールナイトニッポン」のスタートです。まさに若者文化の輝きみたいな時代でした。「君が踊り 僕が歌うとき 新しい時代の 夜が生まれる 太陽のかわりに音楽を 青空のかわりに夢を フレッシュな夜をリードする オールナイトニッポン」てなことを言ってラジオはまたまた黄金時代を迎えます。  スタート当時は現在のようなタレントさんがしゃべる番組ではなく、主に局内の人間でまかなっていました。これが面白いのなんの。我々は一発で夢中になりました。ブッチギリで人気があったのが、御存知カメ&アンコー。亀淵昭信《かめぶちあきのぶ》・斎藤安弘のおふたりです(おふたりは現在、この私、仕事でお世話になりっぱなし。時の流れはおそろしい。カメさんなんざ現在LFの常務でっせ。個室に居るんだから、参っちゃうよなァ)。  糸居《いとい》五郎・高崎一郎なんて方々も大人気でした。カメ&アンコーの「水虫の歌」なんざ、リクエストハガキを書いた自分が今おもえば情ないアハハ。  文化放送は「セイヤング」で土居まさる・みのもんた・橋本哲也なんてところが看板、レモンちゃんだった落合恵子さんも人気でした。「走れ歌謡曲」でもしゃべっていましたよネ、たしか。  TBSもあの頃はすごかった。「パックインミュージック」で、永六輔・愛川欽也・野沢那智と白石冬美、北山修もやっていました。ナッちゃんチャコちゃんは「もうひとつの別の広場」と本も出し超ベストセラー、若者達の兄貴的存在。私個人的にはラジオの永六輔氏が好きで、すべて聞きまくり、投稿マニアでもありました。芸の魅力を教えられたのも永氏の語りからです。初めて私の原稿(原稿というほどでもない。早い話、作文に毛のはえたヤツ……の毛をぬいたようなもん。ン?)が放送電波に乗ったのも永氏の番組でした。「私の日曜日の過ごし方」みたいなテーマの日、私は永氏の江戸趣味に目をつけ嘘《うそ》八百書きつらね、朝から浅草の投げ込み寺へ行ってお女郎さんの供養をしただの、言問《こととい》だんごを買った帰り上野|本牧亭《ほんもくてい》をのぞいただの、まさにアンツル安藤鶴夫の本のうけうりを書きつらね、「やっぱり桂文楽はようがすネ」など訳知りに書き、まんまと賞金をせしめました。 (やな十九歳だなァオイッ)と思えばこれが放送でもらった初めてのお金、まさかこれが本業になるとは……。  世間は学園紛争、ヒッピー、サイケ、アングラ。その時のラジオスターに黒田征太郎《くろだせいたろう》が居ました。ニッポン放送の「青春ホットライン」です。私は二十歳をこした大人ですから悩みごとの相談など勿論しませんでしたが、当時の高校生からは圧倒的な支持のされ方で、進学の悩み・性の悩みなどに対してバカヤロー的な答で頼れるいいお兄さんでした。クロセイこと黒田征太郎はまだ無名のイラストレイターでしたが、その大阪弁のニュアンスになんとも味があり、ラジオというメディア、あの頃という時代背景ならではのスターでした。いまから自殺をするなんて女の子からの生電話もあり、それはド迫力もの感動青春路線でありました。 「パンチ・パンチ・パンチ」のモコ・ビーバー・オリーブの三人娘も若い衆にとっちゃいいおかずでした。  そして最もしびれたのが「談志・円鏡の歌謡合戦」。これはよござんしたねェ。脳味噌の回転がもっとも早い頃の談志・円鏡(現円蔵)両名人のアドリブ合戦。そのテンポ、その会話のセンス、バカバカしいナンセンスな話題の数々、どれをとってもピカイチでした。東京っ子はこの会話に最も憧れました。スピード、シャレッ気申し分ありません。大学時代にこれをやはり聞いていたという景山民夫と共に真似をして数年前にニッポン放送で番組をやったことがあるのですが、とうていあのふたりのかけあいには足もとにも及びません。ナッちゃんチャコちゃんと共にラジオが生んだ最高の名コンビ名タッグと断言できます。  さぁあれから二十年、聞く側だった私が逆に語る側に……寄席がいまいち元気がなくなった今、本来の寄席の楽しさである、今日起きたことをすぐさま面白く脚色し、お聞かせするという作業に最も適したメディアのラジオ、現代の噺家こそラジオのパーソナリティでありましょう。「噺家は世情のアラでメシを喰い」「講釈師 見てきたようなウソをつき」噺家と講釈師のところをラジオパーソナリティと置きかえてもおかしくないよう、私も努力する次第であります(ハッキリ言わせてもらうといまラジオで面白いのは私と吉田照美であります。それにしてもテレビでの照美は何故あんなにつまんないんだろう。やっぱり奴はラジオ屋なんだな)。  いまのラジオ、�面白いのが高田と照美、うまいのが玉置宏、やっぱしすごいのがビートたけし�とつけ足したら手前味噌か!? ごめんネ、言いたいこと言って……。みなさんもう一度ラジオを聞いて下さい。  第14章 ——コメディアン篇  美空ひばりさんの死で日本中が涙したが、私の個人史をひもといてみると一番最初に涙した芸能人の死は、なんといってもコメディアン八波むと志の交通事故死だった。四十歳を目前にした脂《あぶら》ののり切った芸人の死は、中学生だった私にふるえと衝撃を与え、翌日私に学校を休ませるほどのインパクトを与えた。私がこの世で一番最初に愛したコメディアンが八波むと志だったのだ。  たしかに小学生時分、テレビにはまだエノケンやら金語楼は出ていましたが、さして面白いとは思わず、足の悪いお爺ちゃんと頭の毛の不自由なお爺ちゃんだぐらいにしかふたりの喜劇王をとらえていませんでした。  なんたって面白かったのは、由利徹・八波むと志・南利明の脱線トリオです。二十九年からスタートしたNTVの「お昼の演芸」にレギュラー出演し、ストリップ小屋仕込みの下らないコントの数々に腹をかかえるおませな小学生でした。「チンチロリンのカックン」の大ボケで道化そのものの由利徹に人気は集中するのですが、なんともすて台詞とつっこみの素晴しい八波むと志に私はしびれました。八波氏が出ている新聞など小学生ながら切り抜いてスクラップしたほどです。  そうこうしている内にフジテレビの日曜昼に「サンデー志ん朝」、平日の昼十二時五十分から毎日「おとなの漫画」が始まります。「サンデー志ん朝」は若き日の朝サマこと古今亭志ん朝名人。いまは「人情は人の華、あっしはドライではありません」なんぞ言っておられますが、当時は志ん生の若旦那ということで、ものすごいミーハー人気。元祖二世タレント、なんたって噺家の分際《ぶんざい》で外車で局にのりつけるのですから、いかにドライでカッコよかったかわかるようなもの。藤村俊二・熊倉一雄・谷幹一らと一週間のニュースを株式市況に見立ててやっていました。「おとなの漫画」は勿論、クレージー・キャッツの出世作、作・青島幸男はあまりにも有名。  平日の昼放送している訳ですから、僕らは見られないので学校の塀をのりこえダッシュで帰宅しテレビを見、なにくわぬ顔をして午後の授業をうける中学生でした。  そして三十六年にスタートしたのがNHKの名作「夢で逢いましょう」。NTVの「光子の窓」と共にバラエティショーの原点です。ズブの素人 (服飾デザイナー)の中島弘子を司会にもってきたするどさ、コメディリリーフの渥美清、今月の唄の名曲群……、やはり構成の永六輔の力は偉大でした。  そうこうしている内に日曜日の六時から七時は、お笑いファン、コントマニア、ギャググルメにはたまらないゴールデンアワーとなっていくのです。六時から御存知藤田まこと&白木みのるの「てなもんや三度笠」。まず三十分間大阪発の芝居仕立てコメディーを見て、六時半からは待ってましたクレージー・キャッツの「シャボン玉ホリデー」です。この二本に関してはもうすでにあまりに多くの人々が語りすぎたし書かれすぎたので、ここでは省かせて頂きますが、主役連中は勿論のこと、脇にいいコメディアンが揃っていました。「てなもんや」で言えば財津一郎扮するところの蛇口一角《じやぐちいつかく》なるあやしい素浪人。「ヒッジョーにサミシ〜〜イ!」なんて言って刀をペロペロなめちゃうんですからとんでもないエンターテイナーです。主役を喰うことしか頭になかったようです。 「シャボン玉」の方にはまだボーヤだったなべおさみに小松政夫、いい味を出していました。なべおさみの「やすだ——」のキントト映画など日本コント史上ベスト5に入るものと断言できます。  ちなみに私個人的に言わせて頂くとクレージーの中では谷啓氏が一番好きでした。みんなの目が植木等に行きそうですが、私はなんたってダニー・ケイをもじった谷啓が好きです。そば屋へ入っておそば一杯ひと前では恥しくて食べられないというシャイさに好感をもちます(私もひとりでお店へいまだに入れません)。  ピン(ひとりの意)ものでは「アベック歌合戦」で、晩年の光を放っていたあやしげなトニー谷。 「踊って歌って大合戦」でワースト番組に輝いた林家三平などの活躍もありました。  そんな時代から我々団塊の世代が大学へ入る四十二年頃にはお笑い演芸ブームがやってきます。この頃の演芸ブームのものすごさは五十五年のMANZAIブームといい勝負、量という点では四十二、四十三年の演芸ブームの時の方がすごいと思われます。  まず飛び出したのが「お昼のゴールデンショー」にレギュラー出演し毎日新作コントをぶつけてきたあのコント55号です。面白かった。これは本当に面白かった。萩本欽一こと欽ちゃんと坂上二郎ことジローさんのコンビはブラウン管からはみ出して飛びまわったのです。「飛びます、飛びます」「思いおこせば十三年前〜ッ」のなんと楽しかったことか。我々の世代はみんな大学をさぼって有楽町のヴィデオホールへ生コントを見に行ったものです。現在のニッポン放送の隣にヴィデオホールがあり、そこから毎日生放送していたのです(時間帯は今の「笑っていいとも」の枠です)。  トリオブームとも言われたこの演芸ブーム、次々とスターが登場します。  東八郎さんひきいる♪コモロ〜〜ッの「トリオ・スカイライン」。東八郎のつっこみはこの頃から東京でナンバーワンでした。晩年の東さんしかしらない若い人はボケ役かと思われるでしょうが、東さんはつっこみの名手なのです(つっこみの門下に欽ちゃん、たけしが居る)。このトリスカでつっこまれていたボケが小島三児である。  三波伸介さんひきいるのが「てんぷくトリオ」。「びっくりしたなァもう」はあまりにも有名。当時の座付作者は井上ひさし、後期が前川宏司である。  内藤陳センセーひきいるのが「トリオ・ザ・パンチ」、「ハードボイルドだど」の名台詞は今だに残る。  個人的に最もバカバカしくて好きだったのが♪親亀の背中に子亀をのせて〜〜ッの何故か忍者スタイルのナンセンストリオ。これはいいチームだった。何処へ行ってもうける珍しいチーム。大阪には横山ノック・フック・パンチの「漫画トリオ」。面白かった。パンチは今の上岡竜太郎氏。  東京にドンキー・カルテットなる大学生うけするチームがあり、リーダーは小野ヤスシ。メンバーにジャイアント吉田・祝勝・猪熊《いのくま》虎五郎……この名前だけみてもすごい。猪熊虎五郎と勝負できる芸名といったら毒蝮三太夫ぐらいしかいない(たけし軍団三軍に玉袋筋太郎というのがいるがこれもみごとなネーミング)。  その他、漫談ピン芸ではケーシー高峰、東京ぼん太、漫才では晴乃チック・タック(このコンビがお笑いで最初に女の子の追っかけがついた)、名人芸の獅子てんや瀬戸わんや、このふたりは確実に面白かった。噺家で三平・談志・円鏡(現円蔵)らがスターだった。  これらすべてがとっかえひっかえ出ていたのが、日曜昼、牧伸二氏の「大正テレビ寄席」である。♪バーゲンだよォ〜〜といえば思い出す人も多いはず。この時牧伸二のアシスタントをしていたのが現たけし夫人だからこれまた笑える。この時、牧伸二の弟子でギター漫談をやっていたのが泉ピン子さんだからもっと笑える。 「大正テレビ寄席」は色物《いろもの》の宝庫でありました。昭和四十五年我々団塊の野郎達が大学を卒業するあたりまでつづいた演芸ブームですが、その後ピタリと演芸人・お笑い陣の活躍は減り、これから十年の時を待つこととなります。五十五年ついに吹き荒れたMANZAIブーム、B&Bが居た、ザ・ぼんちが居た、紳竜が居た、ツービートが居た。この時は私は現場でたけしとネタを作っていました。皆さんはあの時何をしていましたか?  そしてこのMANZAIブームから十年……お笑いの嵐は十年周期でやってくるというのが私の説ですが、今度くるのは今年から来年……果してどんなコメディアンが誕生するのでしょうか(ちなみに資料として書いておきますが、四十五年から五十五年の不毛の十年間これを笑いで埋めてくれたのが、せんだみつおとずうとるびとデストロイヤーです。アッそれにあのねのねの二人組が居ました)。  今でも好きなコメディアン(芸人)BEST3を挙げろと言われると(1)八波むと志(2)ビートたけし(3)立川談志となってしまう団塊笑芸人マニアです((4)はやはり三平(5)は志ん生かな)。  大好きなお笑い芸人さん達の話を書き出すとどうもキリがないのですが、ひとつ情報を。いま「銀座カンカン娘」がヴィデオ化されレンタルもされていますが、この笠置《かさぎ》シヅ子の映画の中にあの志ん生師匠がいっぱい出ています。おじいちゃんの噺家役でラストには一席演じるシーンもありますので志ん生マニアは是非とも必見。�動く志ん生�なんざめったに見られるものではないのですから。  ちなみに八波むと志氏のテレビのヴィデオは一本もありません。映画の中には何十本も脱線トリオとして出ていますが、本来の面白さはテレビの中のコントにしかありません。映画で見て八波氏をつまらないと思わないように……。  それから……今回はコメディアン篇だから言うのではありませんが、私の監修で「昭和のTVバラエティ」という本が太田出版から出ています。丸三年もかけて資料を調べて作った本なのでTVとお笑いに興味のある方は是非御一読を……。最後はCMになっちゃってごめんなさい。  第15章——洋画篇  この連載もむかえてこれで十五回目、普通だったら「そろそろ一冊の本にまとめましょうか?」という動きがあってしかるべきだが、まったく人気がないのか、担当の中島が与太郎なのか、編集長に読む力がないのか、私が嫌われているのか、皆目見当がつかないのですが、やっぱり悪友BT君が昔なぐり込んだ会社だからしょうがないのか、一冊にしてくれそうもない(仲間内の団塊の世代連中は早くまとめて一気に読みたいと言ってくれるのだが……まッいいか)。  そんな事はともかく硬派の映画誌「映画評論」をズーッと出版しつづけたあの高田俊郎が、八十四歳の天寿をまっとうした。私のおじちゃんである。お通夜には古い映画人も来て下さり、ありがたかった。このおじちゃんから小さい頃、いつも「ふみお! 映画は沢山見なくちゃ駄目だよ」と教えられ、子供の頃から人一倍見てきたつもりである(最近は不精《ぶしよう》になって見なくなっちまった。よくない)。  そこで今回は、「洋画篇」である。ずいぶんと長い前振《まえぶ》りになってしまったが許して頂だい。  先日このイラスト(注 電子文庫版では割愛)を描いてくれている高橋春男めと中野翠《なかのみどり》(自称映画評論家)センセと私の三人で「我が愛しの映画館」をテーマに某誌で放談をしたのですが、そこでなんと大変なことを聞いてしまった。春男めは若き日に喰うに困って映写技師をやっていたことがあるというのだ。とんでもない野郎だったのである。それも無免許でフィルムをいじっていたとは……そんな隠された暗過ぎる過去をもっている方がこの駄文に絵をそえてくれるなんて。おそれおおくて春男めの家の方に足をむけて眠れるというものだ。  この例を出すまでもなく人間というものは少なくとも映画とはかかわって人生を送って来ているものだ(アハハ強引だなァ。参ったか!?)。  かんがみるに……(なんだい、この言葉は?)、私はどのような映画体験をしてきたか。まず一番最初に洋画を見せてもらったのが「シェーン」である。これはうちのおやじの兄貴(高田新という売れない反体制の詩人だった)に連れていってもらったのだが、鮮烈に覚えているラストシーンの「シェーン、カムバック」。よござんしたねぇ。日本公開が一九五三年だから五歳か六歳か七歳で見たのだろう。〇・六秒の早撃ちアラン・ラッド。おもちゃのピストルを腰につけちゃ、何十回、何百回と早撃ちの練習をしたものです。  そしてよく見せられたのがディズニー映画の数々、「フラバァ」なんてピョンピョン跳びはねるバスケット・ボールの映画は下北沢のオデヲン座で見ました。  先日、芝居を見に下北沢へ行ったらオデヲン座が無くなっていた。これはショックだった。僕ら世田谷の子は下北沢オデヲン座が洋画のお教室だったのだ。  子供ごころに見てなんとも切なかったのがヴィットリオ・デ・シーカの「自転車泥棒」、なんと貧しさとは不幸なものかと、金持ちのボンボンのボクちゃんはそう思った。この映画を見て二度と自転車は盗むまいとも思ったものでした(ン?)。  そして三本しかない一連のジェームス・ディーン映画です。「エデンの東」「理由なき反抗」「ジャイアンツ」、子供が見てもジェームス・ディーンってカッコいいなと思いました。小学校も高学年の僕らは、おふくろにジーパンを買ってくれとせがみました。  そんな頃、映画館へ行けば必ずかかっていたのが西部劇です。「シェーン」で目覚めた僕らの心はみんなカウボーイです。かぶっているテンガロンハットは実は水が10ガロン入るからそう言われるようになったのだということも知るようになりました。ジョン・フォード監督、ジョン・ウェイン主演コンビの「駅馬車」、このふたり日本でたとえると黒沢明・三船敏郎ってことですかネ(うまい見立てだ! ン? この見立て誰かやってる?)。同じジョン・フォードでヘンリー・フォンダの「荒野の決闘」、フロンティア・スピリットですな御同輩。  決闘ものでは「OK牧場の決闘」「真昼の決闘」なんてのもたてつづけに見ました。「真昼の決闘」のゲーリー・クーパーなんざ超人気でした。クラスで腹をこわした奴は、必ずみんなから「おおッ下痢〜クーパーだ」なんてシャレではやしたてられました。  我々団塊の世代が中学へ入るともう「ウエスト・サイド物語」一色です。みんな学校へ指をパチンパチン鳴らして来たものです。ジョージ・チャキリスにあこがれ、ナタリー・ウッドみたいな女の子を学校の中で物色しました。ケンカのときも「ジェット団」と「シャーク団」に分かれたりしました。意味なく急に歌い出したりもしました。大きくなったらミュージカル・スターになりたいなんてとんでもない事まで言い出す奴まで現われる始末です。チャキリスの真似をして、いきなり足をサッと上げたため、どれだけ腰を痛めたものか……。  そのくせ何度も再上映された「禁じられた遊び」を見て泣いたりしませんでしたか? ギターを買ってもらって禁じられた遊びを弾きませんでしたか? あれは今思えばちと恥しいわな。  こうして高校へ入った僕達はアラン・ドロンとジャン・ポール・ベルモンドに魅了されていきます。  勿論、ビートルズにはお熱でしたが、彼らは音楽ということで……映画「ビートルズがやって来る ヤァ! ヤァ! ヤァ!」はちなみに私、三十回見ました。  アラン・ドロンの魅力はなんてったって「太陽がいっぱい」、名匠ルネ・クレマン監督です。ラスト・シーンのあの落ちには参りました。「地下室のメロディー」もよござんすネ。「冒険者たち」の頃までよござんした。この「冒険者たち」はリノ・バンチェラという相手役にもめぐまれていました。「地下室——」の時はジャン・ギャバンが居たし、アラン・ドロンは、いい相方と組んでます。  その点、私が好きだった方のジャン・ポール・ベルモンドはまさにピン、ひとり芸の魅力です。あの大きな鼻も、愛嬌があってよかったですネ。「勝手にしやがれ」(勿論ゴダールです)「気狂いピエロ」(これまたゴダール)……この映画、過日テレビ放映の時には何ともインチキくさいタイトルで放送されていました。「気狂いピエロ」は「気狂いピエロ」なのである。変な題だから見逃した人も多いと思う。「リオの男」なんて迷作もベルモンドにはありましたよね。僕はベルモンドが好きでした。  その頃「アイドルを探せ」なんてヨーロッパの歌手がいっぱい出てくる映画がやってきて、シルヴィ・バルタンに心ひかれた高校生の僕でした。ジョニー・アリディとできているなんて噂を耳にしてむしょうに腹が立ったニキビ面、シルヴィ・バルタンを犯す夢までみてしまいました(ああいけないボク!)。  大学生となった団塊の世代、僕は日大芸術なのでいきなり授業で「戦艦ポチョムキン」を見せられました。こんな映画あったんだ? エイゼンシュテインの名も十八歳になってから知りました。「これがモンタージュ技法です」なんて教わったって、だからどうしたってなもんです。赤ん坊を乗せた乳母車が落ちていくシーンはみごとに「アンタッチャブル」がパクッてますよネ。まッいいか。  大学時代はまさにニューシネマの嵐が吹き荒れ、私も芸術家の卵のはしくれ、沢山見せて頂きましたよ。公開年月日は順不同に思いつくまま、「俺たちに明日はない」。ボニーとクライドの切ないふたり、哀しいじゃあ〜りませんか。八十発以上ぶちこまれる弾丸、私はフェイ・ダナウェイの中に入る玉になりたかったものです。  ポール・ニューマン、ロバート・レッドフォードの「明日に向って撃て!」真似て彼女を自転車の前に乗せてコケたものです。バート・バカラックの音楽がよかったですな。 「イージー・ライダー」。これまたよかった。後日もの書きになった私は「イージー・ライター」と呼ばれた。 「真夜中のカウボーイ」、これでダスティン・ホフマンが好きになりました。そして名画座でひたすら見たチャールズ・チャップリン「黄金狂時代」、「街の灯」、「独裁者」、「モダン・タイムス」、「ライムライト」。しかし私はバスター・キートンの方が好みではありました。  以上のような映画体験をもつ団塊の世代、「あの映画が抜けてるぞー」というお怒りはごもっとも、私の個人史なのでありますからお許し頂きたい。  そう言えばあれほど大学時代足しげく通った新宿の日活名画座はどうしただろう。たしか和田誠氏がいつもポスターを描いていて、いい映画館だった。安いというのが何よりの魅力だった。痴漢もおかまも沢山うごめいていた。こういうのを文化という。いまの映画館は金ばっかりかけてあまり良くありませんネ。映写技師だった高橋春男君はどう思うかな? やっぱり家でビデオのカウチなんとかかネ。いまこそ名画座と寄席を作るべきである。これを町の文化という。最後は訳判らなくなりましたが、「洋画篇」まずはこれまで。   第16章——雑誌篇  創刊ブームがあったかと思うと、人知れず消えていくものがあったりで、これでなかなか雑誌の世界も大変なようである。男性誌もいまいちらしいし、女性誌も各社出すわりには、当たったのはほんのひとにぎり。「Hanako」ってのは人をなめきった誌名がよかったのかしらん。だったら男性誌は「Daisuke」でも出すか? これが本当の「大助・花子」って、お前は浪花の夫婦漫才か!  そんな事ぁともかく今回の正しい団塊の世代白書は、雑誌篇であります。我々団塊の世代の少し上の世代のマスコミ人てのは、まことに頭がよくて、頭数の多い我々世代のみにターゲットをしぼって雑誌を創刊しつづけます。これがまたまんまと当たるから客商売はやめられまへん。ヘイッ、毎度おおきに。わいが浪花の商人だすの世界なのである。我々世代の二大バイブルともいえる雑誌は小学生時代における「少年マガジン」「少年サンデー」の創刊、そして高校生になった我々を待ちぶせしていたのが「平凡パンチ」。漫画週刊誌と平凡パンチはまさに戦後文化の最たるものでしょう(そのパンチが廃刊しちゃうなんて……やはり時代なのでしょうね、グッスン)。それでは早速、雑誌史をひもといてみましょう。ひもを解いたら本がバラバラになるって……そんな古典落語みたいな洒落は入れないように。  我々が幼少期(それほど立派なものじゃないが)楽しんでいたのが月刊の漫画誌であります。赤胴鈴之助・まぼろし探偵が載っていた「少年画報」、矢車剣之助の「少年」、七色仮面の「冒険王」。「ぼくら」なんてのもありました。すべて月に一回の生理出版で、一回読んじゃうと一ヵ月もワクワクして待たなければならないのですが、あの頃(昭和三十年代前半)は時代がやはりゆるやかだったのか、案外待つことが平気でした。テレビなんかまだ茶の間にはありません。おふくろと駅の方まで買い物に行くと、本屋へ立ち寄りあれこれながめます。数種類ある月刊漫画誌をながめていると決まって「どれか一冊だけだよ!」と言います。私は「少年画報」を買ってもらうことが多かった気がします。友人に毎月「少年」を買う奴がいて、読み終るといつもとりかえっこをしたものです。  また月刊誌は付録が魅力でした。  十大ふろく十二大ふろくはザラで正月号なんざ二十五大ふろくなんていって、本誌がふろくをかみきれなくてビッグバーガーみたいになっていました。  女の子には「なかよし」なんてのがあって、姉達が見ていました。表紙を飾っていたのが小鳩くるみとか松島トモ子です。上の姉はたしか「それいゆ」とかいう雑誌を愛読していました。髪型なんかの特集があるおしゃれ誌だったような気がします。  そして昭和三十四年、歴史的な雑誌が創刊されます。我々悪ガキ達をお得意様に「少年マガジン」の創刊です。すぐ後を追って「少年サンデー」が登場します。漫画週刊誌は三十円でした(創刊号は四十円)。「少年マガジン」第一号の表紙は胸毛の朝潮太郎が少年を抱えているものです。表紙には「毎週木曜ぼくらの週刊誌」とコピーがあります。大ずもう春場所特集号となっていますから、いかに当時おすもうが子供たちにも人気があったかわかろうというものです(うちのセコジャリなんざ、今すもうなんか見向きもしません)。  三月創刊した「マガジン」を追って四月に「少年サンデー」です。こちらの表紙は長嶋茂雄。こうして我々は毎週毎週、つづきを読めるスピードになれていきます。月刊から週刊へ、時代はどんどん変化していきます。小学生も高学年になるとテレビで見たスポーツヒーローのことをもっと知りたくて雑誌を買うようになります。おこづかいはいくらあっても足りません。長嶋と夢の三遊間を組んでいる広岡の記事が読みたくて「週刊ベースボール」を買います。だけどくやしいかな、西鉄ライオンズの中西・豊田・稲尾の記事でいっぱいです。力道山の白黒写真見たさに「プロレス&ボクシング」、そして栃錦・房錦が好きで「月刊大相撲」という具合です。  家には姉がおふくろから怒られながらもそっと買ってくる「月刊平凡」「月刊明星」がありました。ふろくの歌本で松島アキラの「湖愁」の歌詞を三番まで覚えました。  色気づくのは中学生の常、ただやみくもにエロ本が見たかったものです。その時の帝王はなんといっても「百万人の夜」です。大人びた友人がどこでどうやって手に入れたのか、この本を毎月調達し、みんなで胸躍らせまわし見したものです。いやぁ〜興奮したなぁ。先生にみつかるとやばいからとエロ本は必ず校舎の裏の塀を乗り越え草むらの中にしのばせておくのですが、夜露で水をふくんで三倍くらいの厚さになってしまいます。それでも一頁一頁めくっていくあの胸のときめき、甘酸っぱくも熱いものが股間に走る十三、十四の童貞野郎ではありました。「特集! パリの娼婦たち」なんて書かれていた日にゃ、もうチンボはトレビアン、やりてーなぁボンジュールであります。 「百万人の夜」を読まない日は「スクリーン」「映画の友」であります。いきり立ちそうな股間を押え、オードリー・ヘップバーンやらジョン・ウェインの似顔絵を描いて送ったりする奴もいました。私は絵ごころが無かったので、似顔絵は描きませんでした。  そしていよいよ高校へ入ると「平凡パンチ」の創刊です。大橋歩《おおはしあゆみ》描くところの若者群像の表紙が新鮮でした。山の手のボンボンのぼくらはこぞって表紙のようなかっこをしました。VANの石津謙介を神様のように慕い、綿のボタンダウンシャツを着て尾錠《びじよう》の付いたコットンパンツをはきました。バミューダショーツなんてのも教わり、ストライプのシャツにバミューダで銀座のみゆき通りをうろついたりしました。いわば山の手のおぼっちゃま風がVANで、JUNはどちらかというとお水っぽかった気がします。銀座や渋谷で女の子に声をかけナンパするのですが、結局は家へ帰り、パンチの中折りのヌードグラビアのお世話になり、青春を噴出させました。あの頃は毎晩ひとり上手でしたから、いかんせん一週間同じ金髪女性ではさすがにあきてきて「平凡パンチ」も日刊にならねぇかななどと思ったものです。そののち「パンチOH!」なんてのも出ましたな。  パンチに対抗して、「週刊プレイボーイ」も出ましたが、その陰にかくれて出た「F6セブン」なんて若者誌を知っているのは私ぐらいのものでしょう。「ボーイズライフ」なんてのもありましたね。  やりたいさかりはおしゃれのさかりでもあり、男の子がおしゃれをするようになったのは我々世代からです(それまではバンカラがカッコいいといわれていました)。バイタリスなんてのが登場し、アイビーカットの髪にぬりたくったりしました。おしゃれな我々は皆な月刊「MEN’S CLUB」を揃えていました。 「ミュージック・ライフ」も毎月買い求め、星加《ほしか》ルミ子のビートルズインタビューなどドキドキして読みあさりました。あの頃、ハッキリ言わせて頂くならブスだった星加ルミ子を何故か意味なく尊敬していました。あれは一体なんだったんでしょう。湯川れい子も尊敬したっけ。ビートルズやらローリング・ストーンズのことをよく知っているというだけで後光がさしていたような気がします。  リバプールサウンズよりもシネマだという映画青年は「キネマ旬報」「映画評論」です。  高校も三年になると「話の特集」が創刊され、ちょいと背伸びした奴はこれを読んでいました。  大学へ入った団塊の世代、待っていたのは学園闘争、そんな中またあの「少年マガジン」が再ブームとなります。漫画を読む大学生ということで話題にもなりました。人気があったのが、「あしたのジョー」、「銭ゲバ」、そしてひたすらゲバルトで鼻血ブーの谷岡ヤスジ漫画です。「少年マガジン」と「朝日ジャーナル」をあわせよむというのが昭和四十年代中頃までの大学生のスタイルでした。もっとこだわる連中はカムイ伝の「ガロ」と火の鳥の「COM」を読んでいました。ガロといっても「学生街の喫茶店」のロンドンブーツ三人組ではありません。漫画誌です。  その頃、あらゆる雑誌に雑文を書いていた超売れっ子のテディ片岡というライターがいました。どの雑誌を読んでもテディ片岡です(この少し前には野坂昭如センセがそうでした)。軟派もののコラムならテディ片岡と当時の大学生は決めつけていました。この人がのちの片岡義男です。  そんな頃、なんとも不思議な雑誌がありました。三ヵ月とか六ヵ月に一度とか、いつ出るかはわからないのですが、ポツンポツンと出ていたものに「落語など」という雑誌があります。ザラ紙で印刷も悪く、なんだかうさんくさいのですが、漫才のネタなどが速記本で載っていたりするのです。  こんな雑誌まで読んでいたおかしな大学生ではあります。こんな雑誌を読みあさってきた我々世代もとうとう四十を越え、今や「月刊現代」「文芸春秋」などという総合誌が似合ういい中年になってしまいました。僕らの「少年マガジン」と「平凡パンチ」はいったい何処へ行ってしまったのでしょうか……。   第17章——昭和三十三年篇  寄席の灯がひとつ、ふたつと消えていきそうな今日この頃、益々立川藤志楼として芸に磨きがかかり、極く一部のもののわかる識者から名人・爆笑王の名をほしいままにしている「ひょうきん族」が終って、時代の変り目をお肌で感じつつも今やラジオパーソナリティー・ナンバーワンの放送作家もやる高田文夫です。  ン? なんだいこの文章は!? まッ早い話、落語はうまくて面白いし、DJも日本一だけど、ものかきとしちゃ二流かなって訳よ。近頃、芸がわかる文化人とか評論家が居なくなっちまったから放送作家(プロの立場からみて)として、藤志楼の芸とラジオの喋りは超一流だと言いたい訳。誰もほめてくれないから自分でほめる。チクショー、オレの才能に嫉妬してやんな。  そんな事はともかく今回の団塊の世代白書はちと趣向を変えまして、ひとつの年にこだわってみたいと思う。  昭和三十三年! そう、この年こそ戦後のターニング・ポイントの年ではないでしょうか。「コメディアン篇」「洋画篇」などとテーマ別にお送りしていたこのシリーズ、今回は昭和三十三年にスポットを当ててみましょう。この年くらい我々世代にあらゆる影響を与えてくれた年はありません。なんといっても野球の楽しさを教えてくれたあの長嶋茂雄サマが巨人軍に入団した年なのです。どれだけの数の少年達があの背番号3で野球ファンになったことか……。それが現在までつづき、一茂が我がヤクルトで3を付け、それをウチの愚息が応援しております。二代にわたっているのです。  栃若時代を作ったあの若乃花が四十五代横綱になったのもこの年です。今や弟の若旦那・貴花田が最年少関取として話題ですものね。笑いの横綱・林家三平が真打に昇進したのも三十三年です。今ジュニアのこぶ平が若手真打としてガンバッテいます。それにしてもミスターのデビュー戦の四打席四三振は感動的でした。たしか開幕戦の前の日のスポーツ新聞で対決する金田投手と後楽園のレフトスタンドで写真を撮り対談、「ここへたたきこみます」みたいなことを言っていたような気がします。あれにゃワクワクしましたよネ。十歳だった僕らはその日みんな眠れず、次の日、目を真赤にして登校したものです。同じ三十三年に難波というすごい三塁手も入ったんですが、ミスターの陰に消えてしまいましたよネ。  ほとんどの人が覚えていないと思いますが、大洋に島田源太郎という投手がテスト生として入団してます。この島田、数年後に完全試合をやり一躍名を知られ、スポーツ紙では「島田の逃げるカーブ!」などと書きたてられました。クラスに島田という奴がいていつも早退しちゃうので、みんなから「島田の逃げるカーブ」と言われていました。その島田はそのまま学校からも逃げてしまい、やめちゃいました。今でいう登校拒否児童なのでしょう。  そして売春防止法が実施されたのもこの年です。三月三十一日をもって赤線はなくなりました。もう吉原という廓《くるわ》の世界も落語・歌舞伎の中でしか味わうことができません。あと五年も早く生まれていれば赤線にも間に合ったのかもしれませんが、十歳ではいかんともはや女郎買いという訳には参りません。  ロカビリー・ブームを巻きおこしたウェスタン・カーニバルの第一回もこの三十三年です。テレビの芸能ニュースで見ては、興奮してパンティを投げつけるお姐様方の姿になんだかわからず甘酸っぱいものを感じたのは私だけではないでしょう。  テレビはついに百万台を突破し、東京タワーもこの年完成しお披露目しました。出来てすぐに学校からバスで見学に行き、333メートルとはどれだけ高いものかドキドキしたのですが、なんのことはない120メートルの展望台まででガックリ。てっきりてっぺんの333メートルまで行けるものと思っていた幼き私でした。完成してすぐに行ってから三十年、そういえば以来一度ものぼっていません。案外東京の人間はみんなそんなものかもしれません。それにしても当時「エッフェル塔よりすごいんだ! これは世界一なんだ!」と妙に誇りに思ったりしませんでした?  テレビがこの年百万台になったら電話も東京だけで五十万台になっています。電話とテレビがいよいよ一般家庭に入ってくる訳ですよ。  そんな中、大ブームを起すのがフラフープ。いま思えばあの輪っかは何だったのでしょう。若い娘が昼日中からストリップのグラインドの動きをしてからに……。まさに日本中がさかりのついた犬のよう。アッという間に広がり、サーッと消えたブームでしたが、フラフープ屋はあれでどれくらいもうけたのでしょう。ちなみに当時のお値段は二百七十円。  お金の話ついでに一万円札が発行されたのもこの年。考えてみりゃ、三十年以上そのままなんですなぁ。五万円札・十万円札ってのが出てもいいと思うけど……しかし落とした時に十万円札は相当痛いやネ。  そして我らが永遠のヒーロー「月光仮面」がテレビでスタートしたのもこの年。色んなものが三十三年には誕生しているでしょ。「月光仮面」、当初は十分番組の帯でやっていました。夕方六時になると白マスクにあえるからベーゴマやったり手打ち野球をしている手を止めて、みんな一気に家へ帰ったものです。テレビのない子は友達の家へ行く訳ですが、奥でお婆さんが寝てたりすると子供ごころに妙に気をつかって、「これ見たらすぐ帰りますから……」なんて言ったりしてる所へ台所からトントントンとまな板と包丁の音、そこへ「ト〜フ〜ッ」なんて通ったりしてまさに昭和三十年代ですな。  食べ物で思い出しました。そうです。この年、衝撃的なものが誕生しているのです。「お湯をかけて三分間」のあの日清のチキンラーメンの登場です。ガスも炭も使わず、ただお湯をかけるだけでラーメンがお手元に……これにゃおどろきましたな。それまで日清といえば戦争しか知らなかった我々が日清の下にラーメンとつづいておどろかない訳がありません。たしか当時三十五円のこのチキンラーメン、そのままかじってビールのつまみなんて言ってるおやじもいました。しかし、封を切ってラーメンのかたまりを丼に入れ、お湯をかけ、ふたをして「1・2・3・4・5」と正確に百八十まで数え、息をこらしてふたを開ける時のあのときめき、あれだけは鮮烈に覚えています。感動的でしたよねぇ。中には学校にチキンラーメンをしのばせて来て休み時間にみんなに分けている奴もいました。バリバリのメンをかじって喜ぶ団塊の世代、とんでもない奴はメンを口にふくんで、あとからお湯を口に流し込んだりします。インスタントラーメンにはカルチャーショックを受けました。  巷には「おーい中村君」「星はなんでも知っている」なんて曲が流れています。そこへビッグニュースが流れます。この節は紀子さん人気でものすごいですが、それよりもすごかったのがミッチーブーム。たしか「週刊明星」がスクープしたと思いますが、「皇太子妃に正田美智子さんが内定」と報道、ついに十一月に正式発表となりました。世紀のロマンスということで、マスコミは大さわぎ、何だかわからずみんなテニスを始めちゃったりしました。結婚式は翌三十四年、パレードを見たくて、また日本中がテレビを買ったのです。  皇室のミッチーブームから、我々のチキンラーメンブームまで様々な現象が一挙に起きた三十三年ですが、マドンナ時代を予想させるような女性がらみのニュースもいくつかありました。神戸は三宮に�主婦の店�をキャッチフレーズにした安売りの店ダイエーが誕生しています。スーパーマーケットの始まりです。それが今、プロ野球をもつ時代ですからすごいものです(しかし西武はデパートだけにまけないけど、ダイエーはスーパーだけにまけやすいという悪い洒落もあります)。  ミッチーブームにあやかって「女性自身」が創刊したのもこの年、以来女性誌は、あいかわらずやっております。土井たか子などアイドル並みにあつかわれてますからすごいものです。  三島由紀夫の「美徳のよろめき」が売れ、人妻のよろめきなるものがブーム。この年まで日本では人妻の不倫は皆無だったものですが、この本の人気でよろめかなければ人妻にあらずとばかりに浮気が市民権を得るようになりました。ですから昭和三十四年頃に産まれた連中は、ちゃんと自分の父親を確めた方がいいですよ。このよろめきブームは半端なものではなくウチの近所の奥さん連中もみんなヨロヨロよろめいていましたもの。友達の家へ遊びに行くと友達のおふくろがみんな知らないおじさんと布団に入っていました。しかしこれもフラフープと同じでブームはアッという間に去りました。そんな訳で紀子さんから貴花田まで、現代を解く鍵はすべて昭和三十三年にありとにらんで今回の団塊の世代白書はこれまで。   第18章——アメリカ産TV篇  吉本ばななの「キッチン」を森田芳光が映画にしたというので試写会を見たのだけれど、さっぱりわからなかった。団塊の世代もとうとうボケたか、自分の頭が悪いのか? 考えてみれば、森田監督も私の一歳年下で団塊の世代、学生時代は私がメシを喰わしてやってたものなのだが、どこでどうなったのか、奴さんは、同じ日大芸術の後輩、若いばななセンセの作品を映像化なさる。ボケない感性の秘密はどこにあるのか。  我々の世代、吉本ときけば父・隆明か関西のお笑いプロダクションを連想。今の若い人は吉本とくれば、ばなななのだ。だけど「キッチン」の主演を張った新人さんは妙にようがしたネ。  そんな事ぁともかく十八回目を迎えたこの「懐しくてためになる正しい団塊の世代白書」今回は何をやるかって〜と、その昔テレビの初期に見たアメリカもののTV番組。いまアメリカのコメディとか西部劇ってやってませんよネ。どうしてだろう? アメリカものといえば深夜のCNNかMTVだものなぁ。  我々の少年時代、昭和三十年代というのはアメリカものが花ざかり。やたら外人がゴールデンタイムで芝居してたものなぁ。その頃の笑い話に、お婆ちゃんが西部劇をテレビで見ていて、「まぁこの外人さん、なんて日本語がうまいんだろうネ」なんてのがよくありましたもの。吹き替えという技術を年寄りが知らなかったというだけの話なんですが、よく三平師匠が言ってたりしました。  外人さんナンバーワンは勿論「スーパーマン」。 �弾丸《たま》よりも早く、力は機関車よりも強く、高いビルもひとっ飛び、遠い星から地球へやってきた奇蹟の男……、彼はクラーク・ケントと名乗って正体を隠し、メトロポリスの新聞社デイリー・プラネットの記者となって、正義と真実を守るため、日夜たたかいつづけているのです�なんていきなり言われた日にゃ心ドキドキ、胸ワクワクものでした。たしか提供はライオン歯磨で、我が家もさっそくライオンにした覚えがあります。当時からCM効果ってのはすごかったんですネ。いざひと仕事となってクラーク・ケントが変身する為、電話ボックスへ入るのですが、スーパーマンになっちゃった後、あの背広上下は一体どうなっちゃうのだろうかと毎回心を痛める小学生の僕でした。  また声をやっていた大平透が渋くて良かったですよネ。大平透が、他の番組に素で出ていたりするとひとり心の中で、「この人はスーパーマンなんだぞ。ひょっとしたら飛んでいっちゃうかもしれないんだぞ」とつぶやいてブラウン管を見つめていたりしました。大平透がスーパーマンである事を知っていたのは、日本中で自分ただひとりだと思っていたのです。すいませんウブで……。またスーパーマンの胸の「S」の文字が大きくなると「M」になって、最後は「L」になるなんて悪い冗談がありましたが、それは信じませんでした。スーパーマンの胸に「L」の文字なんておかしいですもんね。  西部劇も沢山ありました。スティーブ・マックィーンの「拳銃無宿」、妙な長さの銃を持っていました。そして「ローハイド」に「ララミー牧場」。フランキー・レインの主題歌。 ♪ローレン ローレン ローレン ローハイド!! ビシッ!!(ムチの音)  よござんしたネ。「ララミー牧場」はなんたってロバート・フラーの演じるジェス・ハーパーの人気がものすごく、来日した時なんざパニックでした。ジェスは流れ者で牧場の主がスリム、その弟がアンディ。じいやも居ましたネ。解説が淀川長治氏でした。ジェスのラブシーンがあるなんて予告した次の週は、日本中の女こどもは盛りあがっちゃって大変で、夜になるのをドキドキしながら待っちゃって、お互い妙に言葉数が少なくなったりして、家中がギクシャク。親もウロウロ落着かず、どうもおかしな一夜だった。ジェスが裏の小屋でなにかHなことをするらしい……ああもう考えただけで……おませな女の子はそれを想像しただけで妊娠してしまったのでした。ジェス・ハーパーことロバート・フラーのあの異常人気は、今おもえば一体なんだったのでしょう。  私が好きだったのがチャック・コナーズの「ライフルマン」。 ♪何処からやって来たのやら いかつい顔にやさしい目……  たしかそんな日本語の歌もありました。これに刺激されおもちゃのライフルを集めたものでした。  保安官もので「ガン・スモーク」、銃身の長いコルト45のセールスマンにしてガンの使い手「コルト45」、色々ありましたよネ。  お子様西部劇にして人間ではなく犬が主人公の「名犬リンチンチン」、飼い主の少年が何故か騎兵隊員。あれは不思議でした。アメリカという国はあんな小さな子供の頃から騎兵隊に入って訓練をしているものなんだと妙に納得、これじゃ日本が戦争に負けるのも無理ないわと変な感心をしていた小学生の僕でした。  ついでに言えば同じ犬もので「名犬ラッシー」なんてのもありまして、こちらはワッワッワ! 輪が三つのミツワ石鹸がスポンサー。ラッシーに影響されて我が家でも犬を飼ったんですが、こいつが、とんでもないバカ犬で、近所の犬をかたっぱしからはらませては帰ってきていつもあやまりに行っていました。ラッシーのように何でも言うことをきく犬なんていませんよネ。  犬ではなく馬で人間の言葉をしゃべる「ミスター・エド」なんて番組もありました。おかしな馬でした。  西部劇以外では「ベン・ケーシー」「逃亡者」が人気でした。�男・女・誕生・死�なんて記号をみんな訳もわからず覚えちゃって、大きくなったらベン・ケーシーのようなお医者さんになりますなんてぬかす輩もいっぱい現われた。私はベン・ケーシーよりもそこから名前を付けた、医学漫談のケーシー高峰の方が好きだった。逃亡者の方もリチャード・キンブルで、職業は医師。毎週毎週ジェラード警部に追っかけられちゃって、気がつきゃ三年以上逃げまわっていた。しまいにゃ片腕の男じゃなくジェラード警部が真犯人だなんてデマまで流れちゃってよく分らない話でした。  またアメリカ産のホームドラマがすごい人気です。ものすごくでっかい冷蔵庫はあるし、開けりゃコーラだの肉だのハムだのがいっぱいあるし、二階にゃバス付きの子供部屋だもの。それ見ながらせまい四畳半で生玉子に梅干しでメシかっくらってるこっちの身にもなれっての。ウ〜ン、これじゃ戦争負けるわなと、またまた思ったものでした。「パパは何でも知っている」だの「うちのママは世界一」だもの。みんなキラキラしていました。  そう言えば両親のことをパパ・ママなんて洒落た呼び方をするようになったのは、この「パパは何でも知っている」「うちのママは世界一」の頃からだと思う。それまでの日本では「おやじ」「おふくろ」あるいは「おとっつぁん」「おっかさん」であった。子供の頃に母親のことをママと呼ぶとテレビで知り、継母はママ母だと思い、だったらあとから来たおやじはパパ父というのかと思っていた変な子供でした。  日本でも負けじと千秋実・乙羽信子で「ママちょっと来て」なんてホームドラマを作ったけど、やっぱし貧乏くさかったですよネ。たしか脚本は、若き日の野末陳平だと思いますが……。  フレッド・マクマレーがパパ役だった「パパ大好き」なんてのもありました。どいつもこいつも子供たちが平気でガールフレンドを連れてきたりデートしたりしてるんだ、これが。日本じゃ考えられないもの。妙に皆な明るくのびのびしてて、それを見る度に余計にひくつになってしまう日本の子供たちでした。 「ルート66」なんて青春ものもあって、車でつっぱしる話なんですが、こっちはしょうがないから自転車を乗りまわしながら、 ♪ゲッチューキックス オン ルート シィクスティシィクス〜ッ  なんてやけ気味に歌っていました。  そして熊倉一雄の声が変にマッチしていた「ヒッチコック劇場」。こわいものみたさで息を殺して見ていました。「ミステリー・ゾーン」などというのもありました。  そしてなんといっても楽しかったのが「ディズニーランド」です。花火がバンバンバーンとあがるオープニングから胸おどらせ、その晩どれだけの数の子供達が素敵な夢を見たことでしょう。昭和三十年代のアメリカ産TV番組の数々、ここに資料があるので書ききれなかった番組名を挙げておきます。いくつ想い出せるか、あなたもあの頃に帰ってみませんか? 「サンセット77」、「シカゴ特捜隊M」、「ハイウェイ・パトロール」、「タイトロープ」、「モーガン警部」、「ハワイアン・アイ」、「サーフサイド6」、「アンタッチャブル」、「バークにまかせろ」、「87分署」、「ドビーの青春」、「保安官ワイアット・アープ」、「テキサス決死隊」、「シャイアン」、「快傑ゾロ」、「コンバット」、「幌馬車隊」、「連邦保安官」、「ローン・レンジャー」とまだまだあるのですが、いかがですか? ほろ苦い三十年代が帰ってきましたか?  あの頃の日本ってまだまだアメリカにコンプレックスを持っていたんですよネ。まさかコロムビアもロックフェラーもみんな日本のものになっちゃうとは誰が考えたでしょうか。アメリカ人を見てあがっていたあの頃の日本の方が国全体が可愛かったような気がします。日本という国の青春時代だったのかもしれませんね。  第19章——昭和二十三年篇  さまざまな事が起きすぎた感のある平成元年も、何とかやりすごせました。我々、団塊の世代も男性軍は厄歳《やくどし》にあたり、みんなあまりいい事もなく静かに年が過ぎ、厄があけてくれるのを待っている状態である。同世代のプロデューサー連中に逢うと、ここしばらく我慢して来年は一緒に何か面白い番組を作ろうネが合言葉、そう言やぁ今年はバラエティ番組、お笑い番組の看板「ひょうきん族」「今夜は最高!」などが消えていった。たけし・タモリで喰って来た我々世代のテレビ屋も、お笑い第三世代とやらの台頭で、少しおとなしくせざるを得なくなってきた。  そこで今回は、一体我々はどんな年に生まれ、同じ年に生まれた人にどんな人が居るかを考えてみたい。題して団塊の世代白書昭和二十三年篇。毎日グラフの別冊で「サン写真新聞昭和23年」という本が出ているので買わせていただくと、なんとまあ暗い年だったのですネ。 「東条英機ら戦犯七名絞首刑」があって、あの「帝銀事件」が起きた年に我々は生まれている訳です。「太宰治|入水《じゆすい》自殺」などというのもこの年で、なにしろ戦後のドサクサでありました。  私が「オギャー」と産声をあげたのは渋谷の富ケ谷、写真を見ると何もない渋谷です。町には笠置シズ子の「東京ブギウギ」が流れていました。この歌声だけは私もこの耳でしっかり聞いていました。たしかラジオからは「鐘の鳴る丘」が放送されていましたよね。毎回、赤ん坊ながら聞いていて、登場する戦災孤児達の運命がどうなっていくのか、気が気ではありませんでした。  さぁそんな年に生まれた人にどんな方々がいるのか、今回はそれがメインです。いわば昭和二十三年生まれ大名鑑。芸能界には玉置宏さんや牧伸二さんらの�昭和9年会�というのがあって有名ですが、23年会だってこれはかなり豪華な顔ぶれです。  二十二年組にはビートたけし・景山民夫らが居るのですが、ネズミ歳の二十三年には……ものを書く職業では、まずつかこうへい先生。すごいじゃありませんか、熱海で殺人事件ですよ。二十三年ならではの作風です。橋本治先生、なんたって東大闘争の「とめてくれるなおっかさん」です。団塊そのものですな。ねじめ正一、旬の作家ですな。たたけばホコリの出そうなあの顔、苦労してきたんでしょう。中山千夏、誰がなんといおうが「がめつい奴」の名子役です。ン? 元参議院議員? 四十一にして元なんざ、真似のできることではありません。  出た! 糸井重里、我々世代で、田舎者でこれだけ成りあがった人も珍しいです。先日も東京ドームでのUWF異種格闘戦を御一緒させて頂いたのですが、後光すらさしていました。一行一千万と駄ボラをお吹きになってましたが、とりあえず巨人バンザイです。  またまた出ました! 山本益博。すごいじゃありませんか。落語評論家から身をおこして料理評論家、口のわるい演芸人は「落語を喰い物にした男」などと言ってますが、売れない芸人なんざひがみ半分なんですからほっとくことです。まったりとしたいい仕事をしています。同じ歳にこんなグルメが居ることが僕の誇りです。 「スローカーブを、もう一球」、いいですね。山際淳司。ストレートで顔めがけてビンボールを放りたくなるほどいい文章です。僕もスポーツにめざめました。ピンク・レディーだ、山本リンダだでヒットを飛ばしまくった作詞家の都倉俊一、もともとお家がいいのでしょうネ。あの上品さ、若旦那の気品、とうてい我々町の子には真似のできない立居振舞いです。我々の言うお大尽の子だったのでしょう。  なにッ!? 今をときめく舛添要一、あの先生も二十三年生まれですか? 国際政治学者ときた日にゃ、へへーッと言うしかありませんな。最近マスコミに売れすぎて妙におだやかになってしまったのはつまらないですね。顔がこわいのですから、もっともっとヒール(悪役)に徹しなければいけません。そんなこっちゃ全日本プロレスに入れません。 「タンスにゴン」のCMを作った市川準、相米慎二という映画監督だって同い歳です。  ひとりすごい人を忘れていましたよ。我々世代の稼ぎ頭、年収ナンバーワン、御存知三毛猫ホームズ赤川。参ったなぁ。あんな大金持ちが居るのか? 赤川次郎と書いてあるだけで本が売れるという。尊敬という言葉では言いつくせません。まあ二十三年だけでも二百七十万人産まれたというのですから、二百七十万人の中にひとりぐらいは、こういうお金持ちもいるでしょう。あまり収入のことにふれるのはやめましょう。気が重くて先に進まなくなります。  さぁそれでは�出る側�にはどんな方々がいるのか。これまたすごいキャスティング。  歌手部門ではまず私とまったく同じ二十三年六月二十五日生まれの沢田研二。ザ・ピーナッツから田中裕子です。文句のつけようがありません。ジュリーは我々にとって永遠の青春です。演歌の帝王、五木ひろし。これも文句なし。四回も五回も芸名を変えついに花ひらいた五木節、ようがすね。顔がでかい大川栄策。「さざんかの宿」は昭和史に残る名曲でした。瀬川瑛子・金田たつえ・ちあきなおみと来た日にゃおどろいたでしょ。  目を閉じて何も見えずの谷村新司だって、乱入野郎泉谷しげるだって、おまけにつければにしきのあきらだって黙っていない。まだまだ居るぞ前川清、忘れちゃならない由紀さおり、右手の恋人ミニスカートのジャケットにはお世話になった黛ジュン、森山良子だってまだまだ健在、男と女の日吉ミミと、どうですこのキラ星のごとく輝くシンガーの皆様、テレビ東京の年末特番だってこれだけのメンバーはブッキングできないでしょう。  俳優タレント部へと目をやれば……美しさでは日本一だと個人的に信じてやまないいしだあゆみ。「七人の孫」から見てましたよ。歌手になって「あなたならどうする」、これが良かった。そして女優として今やナンバーワンの美貌を誇ります。死ぬまでに一度でいいからデートしてみたいものです(同い歳という縁で何とかならねぇものかなぁ)。岡田可愛・前田美波里・宇津宮雅代・中村晃子なんてところが居るけど、これまた好みの篠ひろ子。自殺未遂を起こした時は、この胸が痛みました。まさかオレのせいじゃねぇだろうな、ひろ子はすぐ思いつめるからなぁ……オレも罪な男よなぁ……今すぐ飛んでいって抱きしめてやるぜと言った所で目がさめました。篠ひろ子もきれいですよネ。  男性軍は、あおい輝彦・山本コウタロー・石橋正次・柄本明・岡本信人・篠田三郎などという方達が居ます。  そして私と関係の深いお笑い界では……。「トラキチ」、御存知、月亭八方。中村氏が駄目だったら次の阪神監督は八方で動いているという説もある。古典・新作両方をこなし、今や上方落語界にあって中心的存在。私も大好きな噺家さんです。そして「ええチチしてまんなぁ。乳頭の色は?」の鶴光節が今でもさえる笑福亭鶴光。案外知られていないのですが、この師匠の古典落語への愛情の深さはなみなみならぬものがあります。人気者桂文珍。彼の新しいものへの勉強のとりくみ方は学ぶべき点がいっぱいあります。東京の噺家では桂米助・古今亭右朝・三笑亭夢太朗。みんな仲間ですから悪口は書けません。  今はレポーターとしておなじみ夏木ゆたか、昔は青春歌手でした。売れない青春歌手のおかしなしゃべりに目をつけTVレポーターへの道を歩ませた張本人は私。今のようにタレントになってよかったのかもしれない。当人は三田明の線をねらっていたのだが、あのまま行けば誰もみむきもしないだろうアハハ。  米屋のロクちゃんこと斎藤清六、とりあえず性格だけは人一倍よく人一倍気も小さい。そのへんの焼き鳥屋にフラリと一緒に入れない男なのである。どうしてときくと「素人が清六清六清六!」とつっこんでくるから気をつかっちゃうのだそうで、この人ぐらい素人からつっこまれるプロも珍しい。素人でもつっこめるボケというのはよく考えるととてもすごいのかもしれない。そのかわり人一倍ライヴには足を運び、どこのプロレス会場へ行ってもコントのライヴへ行っても落語の勉強会へ行っても必ず後の方の席にめだたぬようにひっそりと居る。好きなのだ。私がつけたキャッチフレーズが、 「日本一客席の似合うタレント」。斎藤清六、いまだ独身である。  そして最後に野球界では、江夏豊・門田博光両名人。これは申し分ありませんな。門田が今だに現役だという事実が我々は嬉しいのです。門田の放つアーチにどれだけ我々団塊の世代が夢をたくすことか。フレーフレー門田である。  そんな訳で昭和二十三年生まれ名鑑いかがだったでしょうか。あなたも自分と同じ年に生まれた有名人を探すと案外面白いかもしれませんよ。まッ我々はあたま数が多いからこれだけの才能が輩出したのかもしれませんが……。  第20章——GS・フォーク篇  なんたって一九九〇年である。それがどうしたと言われれば実もふたもないのですが、今や時代は「イカ天」なのだ。こういう小説誌にイカ天などという言葉は登場しないと思うので説明させて頂くと「イカすバンド天国」なのである。早い話、土曜の深夜に三宅裕司の司会でやっているギンギンのアンポンタンが出てくるアマチュアバンド番組である。それが何故かヒットしているのですよ。原宿の「ホコ天」に土曜の「イカ天」、私が歌う「テレサ天」てなもんである。  しかしよく考えてみると、素人バンド人気は今に始まったものでもなく第一期は何たって我々の世代である。我々団塊が高校生時代、一気に吹き荒れ大盛りあがりをみせたあのエレキブーム。すごかったものです。エレキをひく子は不良だと言われながらも、ベンチャーズのモズライトやらグヤトーン、テスコを買い求めました。町中がテケテケ響いていました。私はギターが弾けなかったのでなんだか判らず、とりあえずドラムのスティックだけは買ってきたのですが、ドラムスセットが無いので仲間に入れてもらえず、あわてて秋葉原へ行き、当時流行した真四角のボーカルマイクを買い求め、�楽しいおしゃべりと歌�という役でバンド入りしました。  その頃フジテレビに「勝ち抜きエレキ合戦」というナウなヤングの憧れの番組があり、我々のバンドもオーディションを受けたのですが、あっさりと落とされてしまいました。その時、レギュラーで出ていたのがディック・ミネ氏の御子息が居たシャープ・ファイブ、歌は安岡力也が居たシャープ・ホークスです。♪ひびけ ひびけエレキ〜〜ッ、なんてテーマソングを歌ってつっぱっていた力也氏は国士館高校だったと思います。同じ世田谷に高校があった僕は強そうな力也氏を遠くの方からいつも尊敬の目でみていました。このシャープ・ホークスには「遠い渚」という渋めの曲があります。  たしか「勝ち抜きエレキ合戦」には宇野重吉氏の御子息、あの寺尾聡がザ・サベージとして勝ち抜いていたと思います。  そして昭和四十一年には本物のビートルズが来日し、いよいよGSブームの到来です。GSといってもガソリンスタンドがブームになった訳ではありません。グループサウンズです。加山雄三で「エレキの若大将」などというのも公開され、田中邦衛だってエレキにしびれたものなんです。  GSとくればやはりまず、あのムッシュかまやつ、かまやつひろしが居たザ・スパイダースでしょう。「ダークな背広にブーツをはいて、フリフリフリフリフリフリ……いかしたエレキ小脇にかかえ……」の「フリフリ」は結構なもんでござんした。まさにモンキーダンス。「ノーノーボーイ」も名作中の名作。リーダーが現田辺エージェンシー社長・田辺昭知。そして人気者、堺正章・井上順が居たから音楽性と共に楽しいおしゃべりがうけていた。切ない「夕陽が泣いている」を聴いては胸が痛んだ受験生でありました。  アイドル性が高かったのはジュリーこと沢田研二が居たザ・タイガースに、ショーケンこと萩原健一が居たザ・テンプターズ。 ♪チョッコレート チョッコレート チョコレートは明治  なんて甘いCMをやっていたタイガース、デビュー曲は「僕のマリー」、すぐに出した「シーサイドバウンド」、そして「モナリザの微笑」でぶっちぎりの人気を博した。途中、加橋かつみに代って岸部シローがメンバーに入ったりもしました。なつかしのGS復活! なんていう企画だとドラムスのピーこと瞳みのるだけはいつも参加しません。たしか学校の先生になったとかいう噂です。  京都出身のザ・タイガースには大宮出身のザ・テンプターズ、ショーケンがまだあどけなかったものです。「忘れ得ぬ君」でデビュー、「エメラルドの伝説」なんてのを歌い、しまいには、♪オ〜ママ、ママ、で始まる「おかあさん」なんてのまで歌い、よく分らなくなってきた(余談ですが、当時のレコード・ジャケットはみんなサイケデリックな画調で妙にメラメラしていましたっけ)。  失神バンドとして女の子を熱狂の渦にたたきこんだのはオックス。赤松愛と野口ヒデト(現在真木ひでと)がいました。「ガールフレンド」というヒット曲があるのですが、客が失神するのがみものとまさに因果はめぐる見世物の世界。  おとなのチームとしてジャッキー吉川とブルー・コメッツ、「青い瞳」なんて素敵な曲があります。「ブルーシャトー」は昭和四十二年のレコード大賞に輝いています。センチメンタルサウンドとでも呼ぶ日本調がうけたのかもしれません。「ブルーシャトー」は子供達にも替え歌として親しまれ、 「森トンカツ 泉ニンジン かこんにゃく まれ天ぷら 静かにんにく 眠るルンペン……」  なんていう放送禁止にほとんど近いレトロなルンペンが登場します。今の子供にルンペンなどと言っても通用しないでしょう(レゲエのおじさんと呼んでいるようですネ)。  寺内タケシとブルージーンズに居た加瀬邦彦が作ったのが、ザ・ワイルドワンズ。さわやかな湘南サウンドで、「想い出の渚」という今やスタンダードにすらなった曲があります。ドラムスの植田芳暁の軽いしゃべりが人気でした。  似たようなカレッジ系のヴィレッジ・シンガーズ、「バラ色の雲」「亜麻《あま》色の髪の乙女」なんて甘さで勝負してました。妙に女子大生に人気があったグループです。 「好きさ好きさ 好きさ お前のすべて〜〜ッ」とスティックを差し出して、女の子をキャーッと言わせたアイ高野が居たのがザ・カーナビーツ、「恋をしようよジェニー」なんてヒット曲もありました。暗いザ・ジャガーズは「君に会いたい」。  横浜に居てハマッ子をしびれさせたのがゴールデン・カップス。不良っぽくていいチームでしたよ、まったくの話。デイブ平尾、ミッキー吉野なんかが在籍していました。曲は勿論、超名曲「長い髪の少女」。GSの中でも一番ロックしてました。私、個人的に言わせて頂くならGSの中ではこの「長い髪の少女」が一番好きでした。その頃髪の長い子とつきあっていて憧れてたんだよなあ〜〜グッスン!  その他マイナーなチームとして「あなたがほしい」のハプニングスフォーやら「トンネル天国」のザ・ダイナマイツ、そしてザ・リンド&リンダーズ、ザ・スウィングウェスト、ザ・クーガーズなんてのまで知っていたらあなたは相当のGS通、今でいえば�GSおたく�であります。  こんなGSが流行する一方、若者たちはアコースティックギター一本のフォークソングにも傾いていったのです。このあたりが今思うとよくわからない。マイク真木の「バラが咲いた」ののどかさから反戦フォークへと学園紛争と共に移行し、新宿ではフォークゲリラなるものも。  マイク真木らと共に山の手のおぼっちゃまフォークで人気があったのが黒沢久雄のいたザ・ブロードサイドフォー。みんないいとこの子という風情で我々貧乏人はいじけたものです。  そんな中、夜中のラジオからフォーク・クルセイダーズの「帰ってきたヨッパライ」が流れ、なんだ、なんだ、と思っている内に「イムジン河」。そんな中、出てくるのが岡林信康「ガイコツの唄」、高石友也「受験生ブルース」、高田渡「自衛隊にはいろう」、遠藤賢司「カレーライス」。みんな真似してギターを持ってがなっていました。何故かみんな自分で歌まで作って反戦をうったえていました。どうしてあんなに生真面目な時代だったんでしょうネ。いま思うと、我々団塊の世代が大学生時代のキーワードは反戦フォーク・学園紛争・サイケデリック・アングラ・ハプニング・ヤクザ映画・フーテン・ジーンズにゲタばき・火炎びんでした。  そんな世の中を笑うようにザ・ダーツの「ケメ子の歌」なる変な曲もヒットしました(今で言えば「麦畑」のようなきわものでしょう)。それにしてもフォーク集会が開かれていたあの頃の新宿というのは奇妙でしたよね(ホコ天でにぎわう今の原宿より変でした)。  西口からは歌声が流れ、東口へ出るとグリーンハウス。早い話、フーテンがゴロゴロしていた芝生がありました。平気でシンナーを吸っていました。何故か※[#「風」の中が「百」]月堂には反体制的な臭いをさせた文化人っぽいのが集り、さそり座やモダンアートではアングラと呼ばれるよくわからない芝居をやっていた。五十鈴などという朝までやっているおでんの酒場があって、そこで映画の助監督みたいのやら演劇青年が口論している。DUGとかビレッジゲートなんてジャズ喫茶ではこむずかしい顔して一日中ねばってる貧乏青年はいるし、まさに新宿は当時、時代のとっ先に居た……つもりでした。  私はそのあいだを小走りに抜け末広亭で談志を聞いてはゴールデン街の先輩の店で安く酒を呑ませてもらっていました。どうも町中が野暮ったく思えていました。聞えてくる若者たちの反戦フォークに背をむけ、地下鉄で中野坂上まで行き、小唄を習っていたという変な大学生ですから、今おもえば「ナンセンス!」で「自己批判」をせまられようってものですな。GSからフォーク、そして小唄へ。早い話、ギターから三味線へと流れた僕の唄。  今の時代だってみんながみんな「イカ天」をやっている訳ではなく、中にゃ今頃、尺八でも練習している若者がいるかもしれない。我々の時代だって全員が全員反戦フォークを歌っていた訳じゃないのだから、それはそれでいいのである。色んな奴がいていいのだ。あの時代はあれ一色だったなどと決めつけると時代を見間違えてしまう。団塊の世代はみんな全共闘くずれという訳ではないのです。そのさなかに小唄をうなってた道楽者が居たというのが文化なのです。  あとがき  いまこうして僕たちのあの時代を想い返してみると、すべてが躍動していた。  そしていつも感動していた。もう二度と僕たちのビートルズは、僕たちの長嶋茂雄は現われないと思うが、こんな素敵な人達がいたんだよということだけは、子供たちの世代にも伝えていきたいと思う。記憶力とギャグだけで毎回押し切ってきたような原稿でしたが、それを嫌な顔ひとつ見せず受けとってくれた『小説現代』の中島隆さんありがとうございました。  そしてこうしてみごとに一冊にまとめあげてくれた名人芸の持ち主「スコラ」の中尾竜一さんと金子かおりさん、お世話になりました。そしてそして、なんといっても私のバカッ話に毎回つきあってイラスト(注 電子文庫版では割愛)を描きつづけて下さった尊敬する高橋春男画伯、本当にすいませんでしたねぇ。  みなさまに助けられながらこうして高田は今日も生きているのです。長い間、無駄噺におつきあい頂きありがとうございました。なによりも読んで下さったあなたに感謝、多謝です。我々はもう少しあの時代にこだわって生きて行きたいと思います。  文庫の為のあとがき  文庫化するにあたってもう一度読み返してみたのだが、この原稿を書いていた時からすでに五年の月日が経過。たった五年でまた時代は大きく変化をみせている。その時その時を誰かがキチンと記録し、時代の空気とにおいみたいなものを次の世代に伝えなければ、�大衆文化�というものはなかなか理解できない。  文庫化には�下町小僧�なぎら健壱さんと講談社文庫の堀山和子さんにお世話になった。ありがとうございます。   一九九三年 初秋 高田文夫 本書は、一九九〇年五月、スコラ社より単行本として刊行されました。 本電子文庫版は、講談社文庫(一九九三年一〇月刊)を底本としましたが、文庫版掲載の写真・イラストについては割愛しました。