高田 宏 言葉の海へ [#表紙(表紙.jpg)] [#裏表紙(裏表紙.jpg)] [#小見出し]  序  章  霜月の風が庭の木を揺すっている。つい眠っていたらしい。火鉢の炭火が白く弱っていた。冷える。  |いよ《ヽヽ》はねむっただろうか。  自らをはげますように、枇杷《びわ》が花をつけました、とつぶやいて、妻が本郷の大学病院に入院したのは、先月の暮れであった。洋医ベルツ氏にまで診てもらっているけれども、日ごとに痩《や》せてゆくのが目に見える。腸|窒扶斯《チフス》が死病だとは知っている。助からぬかもしれぬ。だが、せめてこの『言海』の出来上るのを待ってはくれぬものか。  明治二十三年が過ぎようとしていた。東京府北豊島郡金杉村(のち下谷区上根岸町)、いまの台東区根岸、上野の山から風が吹きわたってくる家で、数え四十四の大槻文彦が、八、九分まで組みあがった『言海』のゲラに朱を入れている。  辞書の校正は芯《しん》のつかれる仕事だ。全頁がひとつの有機体で、どこかひとつをいじれば無数の言葉が声を挙げて検討を迫ってきた。ただ一行のために、買い漁《あさ》った和漢洋の書物の山を探しまわり、気がつくと何時間かを失っている。三校、四校のゲラが朱変してゆく。  住込みで校正を手伝ってくれた中田邦行を脳充血で失ったのが去年の初夏。それからは大久保初男ひとりを助手に、この仕事を進めてきた。その大久保が先月、徳島の中学校へ赴任して行った。新しく来てもらった助手には多くを望めない。  時間はいくらあっても足りなかったが、この時期に来て、文彦から時間を奪う不幸がかさなった。次女|ゑみ《ヽヽ》が風邪をこじらせ、結核性脳膜炎で苦しみながら幼命を落した。あと四日で満一歳、かわいいさかりであった。何日もおかず、妻|いよ《ヽヽ》が病に臥《ふ》した。はじめは、ひと月近い幼女の看病に疲れはてたのであろうか、と思っていたのだが——。  |いよ《ヽヽ》を娶《めと》ったのは六年前の明治十七年師走、文彦三十八、|いよ《ヽヽ》二十四。浅草今戸町からこの金杉村に越して、遅すぎた結婚ではあったが若い妻との家庭で、十数年来の仕事『言海』が、ようやく姿をあらわそうとしていた。  いま三十になる妻が少女であったころから、自分はこの辞書をつくってきた。思いさだめて興し、祖父の誡語《かいご》「遂げずばやまじ」の心で積んできた仕事である。  昼に夜に本郷の病院に通った。病のひまをうかがっては家に帰って校訂の仕事に就くのだが、心はここにない日がつづく。 「あの子をなくしたのも、私が衰弱していて乳が悪かったせいでしょうね」と、病床の妻が自らを責める。「こんな辛さも笑って話せる日がいつかは来るかしら。来ますわね」とも言う。痩せ衰えた妻の言葉にうなずき、胸をいため、その一方で文彦の心は、家にある『言海』の校正刷を追う。  もし伝染すれば十数年の辛苦が水の泡《あわ》となる。いま自分が倒れるわけにはいかぬ。今日明日の知れない妻の傍《そば》にいて、病気の伝染をおそれなければならぬのは辛い。だが、『言海』はおれにしか出来ない。  伝染をおそれていると、妻に気づかせてはならぬ。子を亡くし自身も生死の危ぶまれる妻に、それだけは知られてはならない。  時間がほしい。世に出ることはないかと一時はあきらめかかった『言海』が、ようやく刊行できるようになって、去年の五月に第一冊を出した。インクの匂う辞書を神棚に上げて、たくさん召しあがれと、|いよ《ヽヽ》が祝いの酒を酌んでくれた。あれから一年半、苦行がつづいている。刊行が大幅に遅れて、予約購読者からの苦情が満ちている。第三冊を出してからでも、もう半年が過ぎた。読者のためにも、自分のためにも、そして何よりこの国のために、完成がこれ以上のびてはならない。  眠っている|いよ《ヽヽ》が、「お仕事……」と言う。嫁いで来た日から、妻は『言海』の完成を待っていた。自分の病気で夫の仕事の滞るのを、いま帝国大学病院の病床で辛がっている。  妻は『言海』の完成を待てぬかもしれない。死相が見えていた。 [#ここから1字下げ]  洋医「ベルツ」氏も心をつくされけれど、遂に十二月廿一日に三十歳にてはかなくなりぬ。いかなる故にてか、かゝる病にはかゝりつらむ。年頃|善《よ》く母に事《つか》へ我に事へ、この頃の我が辛勤を察して、よそながら、いたく心をいため、はた、家政の苦慮を我におよぼすまじと、ひとり思をなやましてまかなひつゝありける状《さま》なりしに、子のなげきをさへ添へつれば、それら、やう/\身の衰弱の種とはなりつらむ。 [#ここで字下げ終わり]  子と妻を失った明治二十三年が過ぎ、翌年の初春、文彦は明治八年以来の『言海』編纂《へんさん》をふりかえる文を書いた。およそ一万二千字。終冊の末尾に「ことばのうみ の おくがき」として付した。引用したのはその一部分である。 [#ここから1字下げ]  半生にして伉儷《こうれい》〔つれあい〕を喪《うしな》ひ、重なるなげきに、この前後数日は、筆|執《と》る力も出《い》でず。強ひて、稿本に向かへば、あなにく、「ろ」の部「ろめい」(露命)などいふ語に出であふぞ袖の露なる。 [#ここで字下げ終わり]  一族の墓地、高輪《たかなわ》東禅寺に妻を葬った文彦が、墓誌に書く。「年僅か三十、断弦は続《つ》ぎ難し、嗚呼夫《ああそ》れ悲し」  この国にはじめての近代国語辞書『言海』は、|いよ《ヽヽ》が逝《い》って百日余、明治二十四年四月十日に第四冊(「つ」以下)を刊行して成った。  芥川竜之介の「澄江堂雑記」にも、高見順の「言海|礼讃《らいさん》」にも、唐木順三の「『言海』の大槻文彦」にも引かれているのが、「ねこ」の項である。 [#ここから1字下げ、折り返して2字下げ] ね-こ[#「ね-こ」は太字](名)|猫[#「猫」に二重傍線]| 〔ねこまノ下略、寐高麗《ネコマ》ノ義ナドニテ、韓国渡来ノモノカ、上略シテ、このまトモイヒシガ如シ、或云《アルイハイフ》、寐子ノ義、まハ助語ナリト、或ハ如虎《ニヨコ》ノ音転ナドイフハ、アラジ〕古ク、ネコマ。人家ニ畜《カ》フ小キ獣、人ノ知ル所ナリ、温柔ニシテ馴レ易ク、又|能《ヨ》ク鼠ヲ捕フレバ畜フ、然《シカ》レドモ、窃盗ノ性アリ、形、虎ニ似テ、二尺ニ足ラズ、性、睡リヲ好ミ、寒ヲ畏《オソ》ル、毛色、白、黒、黄、駁《ブチ》等種種ナリ、其睛《ソノヒトミ》、朝ハ円ク、次第ニ縮ミテ、正午ハ針ノ如ク、午後|復《マ》タ次第ニヒロガリテ、晩ハ再ビ玉ノ如シ、陰処ニテハ常ニ円シ。 [#ここで字下げ終わり]  漢文調の引きしまった文で、過不足なく猫を言いつくしている。猫のひとみの説明など、猫好きならば読み返しては、うなずく。  国語学者大野晋氏が言われるように、「形容詞・副詞などよりも、物をあらわす名詞の説明に詳しく強い」のが、『言海』の特長である。  物をあらわすには自分を排除しなくてはならない。大槻文彦は頑固なくらいに、それに徹した。しかし、『言海』の紙背にはいつでも大槻文彦がいる。見出語の選択にも、語原の説明にも、語義の解釈にも、その文体にも、文彦が自分を抑えるほどに、大槻文彦が浮んでくる。『言海』には大槻文彦の全生涯が凝っている。  いまの辞書づくりと違って、明治前期の辞書は、ほとんどが個人の手に成った。山田美妙の『日本大辞書』もそうである。これは美妙が『言海』に対抗して出した辞書で、口述筆記で急いでつくったせいもあろうが、美妙個人の色が生まに出ている辞書である。随所に勝手なおしゃべりが入るばかりか、「言海ナド○○ト解シタモノノ、コレモ心得ガタイ。思フニコレハ……」といった『言海』批判まで入れている。それなりに面白いけれども、美妙の辞書では物はあらわれにくい。山田美妙という作家の感覚と好みが前に出てしまうからだ。  大槻文彦の『言海』は、ひとりの人間が十七年、自分を顕《あらわ》すまい、物を顕そうとつとめながら、古今雅俗の語と格闘し、自国語の統一をめざしてつくり上げたものである。その裏に抑えがたく生れた個人の色であった。  いずれ後で引用するが、文彦が「上毛温泉遊記」で梅毒患者の悽惨《せいさん》な温泉治療を写しているのを読むと、物を顕すことに徹しつづけた人の、文のおそろしさが知れる。のちの文芸諸家が、『言海』を読むのは、辞書に張っているそのおそろしさのためだろう。  鎖国開国の議論に血が流れたあとに、明治国家が立っていた。近代国家がいそがしくつくられている。学校、官営工場、中央銀行、政党、内閣、憲法、民法……。昨二十三年には第一回帝国議会が開かれた。  だが、それでは足りない。近代国家には近代国語辞書が要る。一国の国語の統一は、独立の基礎であり標識である。それなくして一民族たることを証することは出来ぬ。同胞一体の公義感覚は持てぬ。  いま、おれの『言海』がある。ウェブスターの英語辞書、リトレのフランス語辞書に比肩するには後日の増補が要るだろう。しかし、この国にはまだなかった日本普通語辞書が、ここにある。独立の基礎たる国語の統一は、ここから出発する。   敷島ややまと|言葉の海《ヽヽヽヽ》にして拾ひし玉はみがかれにけり  後京極 『言海』の終頁にかかげた歌である。書名の因るところであり、文彦の自負でもある。 [#改ページ] [#小見出し]  第一章 芝紅葉館明治二十四年初夏 [#この行8字下げ]大津事件——重なり合う三つの円——言海出版祝賀会      1  モスクワの東千五百キロ、ウラル山脈の東麓《とうろく》にチェリャビンスクという町がある。明治二十四年(一八九一)、ロシア政府は、この町から東へ、西シベリアの大草原と中央シベリアの樹海を横切って日本海北部のウラジオストクにとどく七千六百キロの鉄道建設に着手した。シベリア鉄道である。  安政の開国から三十余年しか経っていない。数ヶ月前やっと議会を開いた日本に、これは無気味な匕首《あいくち》であった。十数年前からその計画が伝えられ、おそれられていた、帝政ロシアの東漸策である。 「魯国遠大の策を回《めぐ》らし、先《ま》づ東洋を握り、漸次欧州に着手すべき勢ひ推し知られて畏《おそ》るべし。」  ロシア皇太子ニコライ・アレクサンドロヴィッチが来日したのは、その明治二十四年五月である。のちに皇帝ニコライ二世となり、極東侵略を進めて日露戦争をまねき、ロシア革命のなかで退位し、最期はシベリアで処刑されることになるこの青年皇太子は、満二十三の、額の広い美青年である。来日は、シベリア鉄道の東端ウラジオストクでの起工式への出席を機に、ついでに足をのばした遊覧であった。  だが、英米仏らとともに、幕末以来いまだに不平等条約を押しつけてきている強大国ロシアである。明治政府はニコライの歓迎に最大級の準備をととのえた。五月九日、ニコライの乗艦が入港する神戸には、有栖川宮《ありすがわのみや》乗艦の八重山《やえやま》をはじめ、軍艦|武蔵《むさし》、高雄《たかお》がならんで待った。祝砲、式典。有栖川宮同行の神戸、京都の見物。京都ではこの夜、如意岳《によいがたけ》の大文字、船岡山の船、衣笠《きぬがさ》山の左大文字などを一斉に点火して皇太子を歓迎した。  ところが翌々十一日、事件が起ってしまった。滋賀県庁で昼食をすませ、人力車で出発した直後、警護の巡査のひとりがいきなり抜刀してニコライに斬りかかった。刀はニコライの山高帽子を切り、右頭部を後から前に薙《な》いだ。ニコライに同行のギリシャ皇太子の杖《つえ》で倒された犯人が、何者かに斬られて重傷を負って捕えられた。ニコライの傷は頭蓋骨《ずがいこつ》には達していなかった。  事件は大津事件とも湖南事件とも呼ばれる。  おととしの晩秋、黒田|清隆《きよたか》内閣が条約改正問題で倒れ、あとを継いだ山県有朋《やまがたありとも》も、この春、条約改正案をめぐって閣僚と意見が合わず、辞表を出していた。五日前の五月六日、ようやく松方正義が首相に就任したばかりである。  条約改正問題は、すべての内閣の難問であった。明治十六年につくった鹿鳴館《ろくめいかん》も、井上|馨《かおる》外務卿の苦心の条約改正策だ。しかし井上が秘密裏に進めた新条約案は、輸入関税率の引上げと引替えに、全体としては安政の不平等条約よりもひどいものだった。政府法律顧問ボアソナードがその内容を知り、各高官に井上案の危険を説く。ヨーロッパ帰りの谷|干城《たてき》農商務相が職を賭《か》けて井上案に反対する。下火の民権運動にふたたび火がつき、新聞の政府追及が激しくなる。大臣の椅子を捨てた谷干城をたたえる大集会が靖国神社の境内で開かれる。条約改正問題が、右翼も左翼もまきこんで、ナショナリズムの感情を揺りうごかして行った。  黒田内閣の外相大隈重信があらためて条約改正に取り組むのだが、欧米列強の力の壁は強固だった。厳秘のうちに調印をすませた大隈案の弱腰が知れると、新聞『日本』に拠る国家主義者を先鋒《せんぽう》に、民権派も連携して反政府運動がひろがり、政府部内では伊藤博文と大隈が対立。大隈が国粋派の壮士に爆弾を投げつけられて重傷を負い、黒田内閣の総辞職で、大隈案の条約改正がつぶれた。それがおととし、明治二十二年の十月だった。  その月、『言海』の第二冊が出版された。印刷の遅れ、校正助手の死、原稿訂正の難航のなかで、文彦の心は急《せ》き立てられていた。不平等条約の改正がなくては、この国は独立国ではない。おれの辞書は、条約改正のための大きな力になるはずだ。鹿鳴館の欧化策ぐらいで西洋とならべるわけがない。軍備も経済力も要るだろう。と同時に、一国の独立を証するに足る国語の整備が要る。そのもとを成す辞書と文法が要る。  条約改正問題の動きに耳をすませながら、文彦は辞書の仕事をいそいだ。  新外相青木周蔵が昨年二月から、イギリスとの条約改正交渉に入っていた。青木案は、たびたびの苦い経験を背景に、文字通りの改正案としてイギリスに示された。イギリスのほうも、ロシアがシベリア鉄道計画を具体化して極東進出をさかんにしている国際状況のなかで、日本に対等条約を認めることに利を見はじめていた。青木の交渉は順調に進んできた。青木案に反対の山県首相が辞職し、伊藤博文の意を汲《く》む松方正義が、つい先週、首相に任じられたところである。  そこへ大津事件であった。  政府はおどろき、あわて、おそれた。翌日の新聞は、大津事件を憂うる天皇の詔勅をかかげ、前夜の御前会議の模様を伝えた。  ロシア皇太子が東京訪問をとりやめて帰国されるようなことがあってはならぬ。負傷がすこしでも癒《い》え次第、枉《ま》げて上京していただかねば、というのが会議の結論である。西郷|従道《つぐみち》内相と青木周蔵外相のふたりが、会議の席からただちに、臨時列車を仕立てて京都へ向った。  旅のついでの日本遊覧とはいえ、皇太子ニコライが東京訪問を取りやめて帰国するようなことになっては、今後の日露関係がどうなるか分らない。事件の翌朝はやく、天皇自身も京都へ発《た》った。新橋駅では、皇后、皇太子、各宮家、松方首相以下各大臣、伊藤博文伯爵ら数十人が、暗い表情の天皇を見送った。  次の日、天皇はニコライを京都の宿に見舞った。ニコライの母ロシア皇后から、治療はロシア軍艦においてせよとの電報がとどく。軍艦に帰るニコライに、明治天皇が同行する。  天皇は西にとどまり、東京との間に慌しい連絡がつづく。「繁劇中、郵便は遅れる」と新聞が報じた。  できるかぎりの謝意を示して、あとは息をひそめて、ロシアと欧米列強の反応を待つしかなかった。吉原は鳴物を停止し張見世《はりみせ》を遠慮した。ロシア皇太子への御見舞状が一万通を越え、その翻訳に兵庫県庁まで動員された。 『朝野新聞』は見舞状の翻訳の心配をしている。犯人を憎む情を示そうとして、「其《その》肉を寸断し、以《もつ》て之を啖《くら》はんと欲す」というような文があるだろうが、それをそのまま英語に訳するようだと困る。修辞上のことで西洋人をおどろかせ、日本を誤解させることのないように。  五月二十日の夕方七時すぎ、京都府庁前で若い女性が、剃刀《かみそり》で咽喉《のど》と胸とを切って自殺した。畠山|勇子《ゆうこ》、二十七歳。所持品のなかに、「露国皇太子様」「日本政府様」「内外の御方様」に宛てた遺書が、家族への遺書とともにあった。女性解放のために法律をまなぼうとしていた一女性が、今度の事件に思いつめて、死をもって露国皇太子の東京訪問を希望したのだった。  自分はこの世に成し遂げたいこともある。けれどもこのたびの事件は、痛恨悲憤のきわみである。このままでは日本の官民が挙げて信実をつくしても、結局は、かの狂漢の兄弟としか見られないであろう。それを恐れるがゆえに、天皇からたまわった尊い命を自ら絶つことにした。かの狂漢を除けば、日本国人四千万の思いは私と同じなのである。内外諸国民は私の死に、そのことを御察し下されたく候。  勇子の自刃は深い感動の波となって、ヘルンやモラエスに美しい文章を書かせた。だが彼女の絶命の時間には、ニコライを乗せたロシア艦隊はウラジオストクへ向って日本を遠ざかっていた。  ニコライ離日の十日後、青木周蔵が外相を辞し、つづいて内閣の大改造が行なわれた。黒幕にいた伊藤博文伯がふたたび枢密院議長の席に就いて、危機はひとまず収まった。  だが、大津事件は政府高官の胸にも国民の心にも、条約改正問題と結びついて色濃く焼き付けられた。国際社会でのこの国の不安定な立場が、あまりにもあざやかだった。  新しく外相に就任した榎本|武揚《たけあき》が、青木案を受けつぐ条約改正案を大車輪でつくりあげた。しかし、大津事件が各国を硬化させてしまっている。交渉は前にまして難航するだろう。  条約改正の成らないのは、「我が国情を彼れに通ずる」中立不偏の新聞がないためでもあると、政府内有力者らが欧字新聞の発行を計画する。大津事件の暗影をなんとかして拭い去りたい、焦りにちかい思いであった。  大槻文彦の『言海』が完成したのは、こういう時であった。文彦の使命感と自負とが、この「時」と深くかかわっている。この国が半国家であることの悲しみが、大槻文彦という人間と『言海』という辞書との根にある。      2  明治二十四年六月二十三日、火曜日。  朝から晴れて、昼のうちはすこし汗ばむかと思ったが、陽が傾くにつれてむしろ肌寒い。若葉と紫陽花《あじさい》の季節だ。  東京市南西部の、東京湾を望む高台にある芝公園の紅葉館に、四時ちかく、つぎつぎに馬車や人力車が到着した。大槻文彦の『言海』完成を祝って、祝宴に集まる人びとである。  明治八年に稿を起してから十七年が過ぎていた。文部省報告課員であった二十九の青年洋学者は、いまは四十五の壮年である。学者として知られるようになってはいたが、英学者とか国学者とか、肩書が落着く学者ではない。職も、文部省に身を置くような置かぬような、明治社会のエリートではあっても、いうところの出世とは縁のない仕事をしてきた。その自分に不満はない。自ら恃《たの》むところがあるからだ。  杉田玄白、前野良沢の仕事を継いで、この国に蘭学を根づかせた祖父、大槻|玄沢《げんたく》。西洋を深く識《し》った漢学者で、はやくから開国論をとなえた父、大槻|磐渓《ばんけい》。その孫、その子として、おれが興した辞書の業はまちがっていない。十七年の大半を近代日本辞書の編纂と、そのための近代日本文法の構築にあててきた。これはおろそかな仕事ではない。  うぬぼれではなく、『言海』の完成は、この国が祝うべき事件なのだ。同郷仙台の友、富田鉄之助君のすすめで今日の祝宴を開くことになったのだが、そのとき、「少数でもよろしゅうござりますから、えらい方々のお集りであるなら願いたい」と言ったのを、あの友は分ってくれた。  富田鉄之助は、幕末以来の年長の友だ。長い海外生活を経て、帰国後日本銀行の創立に働き、副総裁から総裁に進んだが、大蔵大臣と衝突して辞めた人物である。昨秋の帝国議会開設にあたって、渋沢栄一や岩崎弥之助とともに、民間から選ばれて貴族院勅選議員となっている。  明治前期の人物は、しばしば実業家兼学者、文学者兼政治家、ジャーナリスト兼政治家兼文学者、等々である。富田もただの実業家ではない。明治初期を長く米国で暮し、ニューヨーク副領事のかたわら明六社海外通信員でもあり、自分の学んだニュージャージー州の商業学校長ホイットニーを森|有礼《ありのり》に推して日本に招かせてもいる、新しい時代のつくり手であった。商業専門教育機関が近代日本に必要だとして、ホイットニーの渡日に力をつくしたのである。その商法講習所が、のちには一橋大学に育ってゆく。紅葉館の祝宴を報ずる新聞のなかには、「経済学者富田鉄之助」とするものもあった。  文彦は江戸生れだが、幕末、一家の仙台帰住で、同藩の俊才鉄之助を識った。激しく動く世に、ふたりの居場所はかけちがうことが多かったが、洋学本流の家に育った文彦の世界観と、海外を実地に見た鉄之助のそれとは、いつも通じ合っていた。育てているナショナリズムの強さが似ていたと言ってもいい。あさはかな文明開化とは遠いものである。  鉄之助も文彦も、当然のように明六社の社員になっていた。維新の敗者の側であった幕府開成所系の洋学者集団、明六社。そこに集まった人びとが、政治家とはすこし違うところで、明治前期日本の舵《かじ》を取っていた。明六社そのものは早くに解散しているが、明六社を構成した人びとの仕事は続いている。文彦の『言海』が、そのひとつである。富田の日本銀行創設も。  その富田鉄之助が、文彦に親しい高崎|正風《まさかぜ》のところへ、『言海』祝宴の相談に行った。高崎は大乗気で、自分も発起人に加えてほしいと言う。話はその場でまとまり、富田と高崎を筆頭に、仙台出身の名士十余人を加えた開宴発起人がそろった。  高崎正風は五十五歳、宮中顧問官で御歌所長、旧派歌壇の中心人物である。十余年前には天皇側近の侍補として、岩倉|具視《ともみ》らの政府を攻撃した宮廷派の一員であり、薩摩出身ではあっても、薩長藩閥への批判者であった。維新戦争の敗者東北諸藩人がそうであるように、藩閥という強いが古い尻尾《しつぽ》から切れているだけに、自藩の目でよりも、より多く日本の目で見る心を持っていた。  文彦が高崎を識ったのは、「かなのとも」の会を通じてである。日本語の仮名書きという革新運動と桂園派歌人との組合せは、それだけを見ると唐突だ。だが、高崎には、とにかく日本を前進させねばならぬとする国士の情があり、それはまた文彦のものでもあった。ふたりは明治十六年に創立した「かなのとも」(のち「かなのくわい」に発展)の創設メンバーであり、会のなかの婦人組織「をんな組」にそれぞれの妻を入会させて、家族ぐるみの交際をしてきた。  そういう高崎正風と富田鉄之助とが、この日の祝宴の筆頭発起人である。  芝紅葉館の『言海』出版祝賀会に集まった顔ぶれを見ていただきたい。東京日日、日本、読売の記事に挙げられている名前と、文彦が後年自伝で挙げている名前を合わせると、次のようである。明治二十四年六月二十三日の、各人の主な役職等を付しておく。 [#ここから1字下げ、折り返して10字下げ] 伊藤博文     伯爵 枢密院議長 山田|顕義《あきよし》     伯爵 貴族院議員(前司法大臣) 勝 安房《あわ》(海舟) 伯爵 枢密顧問官 大木|喬任《たかとう》     伯爵 文部大臣 榎本武揚     子爵 外務大臣 谷 干城     子爵 貴族院議員(元農商務大臣) 土方《ひじかた》久元     子爵 宮内大臣 杉孫七郎     子爵 貴族院議員(前宮内次官) 花房|義質《よしもと》     宮内次官(元露国特命全権公使、前農商務次官) 細川潤次郎    貴族院全院委員長(元司法次官) 辻 新次     文部次官(旧明六社員) 加藤弘之     帝国大学総長、貴族院議員(旧明六社員) 西村茂樹     宮中顧問官、貴族院議員(元文部省|編輯《へんしゆう》局長、旧明六社員) 津田|真道《まみち》     衆議院副議長(旧明六社員) 浜尾 新《あらた》     専門学務局長、貴族院議員 菊池|大麓《だいろく》     理科大学長、貴族院議員 重野|安繹《やすつぐ》     文科大学教授、貴族院議員 物集《もずめ》高見《たかみ》     文科大学教授(元文部省記録課長) 木村|正辞《まさこと》     文科大学教授 黒川|真頼《まより》     東京音楽学校・美術学校教授 関 直彦     東京日日新聞社長、衆議院議員 高田早苗     読売新聞主筆、衆議院議員 陸《くが》 羯南《かつなん》     日本主筆 矢野竜渓     前郵便報知新聞主宰者 伊達菊重郎    旧仙台藩主次男(英国留学前の青年) 伊達宗敦     男爵 貴族院議員(旧仙台藩主別家) 船越 衛     宮城県知事 松平正直     熊本県知事 大槻修二(如電《じよでん》) 日本音楽学者(文彦の兄) 高崎正風     男爵 宮中顧問官 富田鉄之助    貴族院議員(前日本銀行総裁、旧明六社員) [#ここで字下げ終わり]  ここに何人かの仙台出身名士を加えた人びとが、この日の来客であった。文彦が、少数でいいから『言海』を祝ってほしいと思った顔ぶれがこれである。一冊の本の出版祝賀会としては大袈裟《おおげさ》とも見え、例がないくらいに政治の世界の色が濃い。だが、それが、『言海』という辞書が明治日本に占めている位置を示しているのだ。明治二十四年六月二十三日の夕方という「時」と、芝公園の紅葉館という「所」とに、この三十余人の「人」を触媒として、『言海』という結晶が析出している。  参会者を貴顕|碩学《せきがく》の諸士と呼べばそれまでだが、この顔ぶれには実は三つの焦点がある。中心をすこしずつずらしながら互いに重なりを持っている三つの円と言ってもいい。或る人は三つの円全部の重なるところにいる。或る人は二つの円の重なりのなかにいる。一つの円の、他円と重ならないところにいる人も、しかし、三つの円がつながっているからには、他円と全く無縁というのではない。  円の一つは「条約改正への関心」であり、二つは「反藩閥の心情」、そして三つが「洋学を背景にした国家意識」だ。ナショナリズムとも呼べる感情が、この三つを結んでいる。  はじめての国会が開かれたのが、つい半年前だ。この新しい国家をどう育ててゆくか。この宴の人びとの胸には、その思いがある。その点では、ここにはいない反政府運動の人びとも同じことだ。『言海』祝宴の人びとも自由民権運動の人びとも、市井の庶民より何歩か先のところで、新しい「日本」を実らせようとしていた。そこへ先月の大津事件である。思いは深まっている。  一つめの円「条約改正」では、まず榎本武揚。大津事件で、各国公使との条約改正交渉は中断されているが、外相に就任してからこの三週間、榎本は条約問題に没頭してきた。青木前外相案の細部を修正した新条約案がほぼ成って、今日午前の火曜定例閣議で、首相以下各相の諒承《りようしよう》を得た。明日にも、イギリスをはじめ各国公使にこの案を提示して、交渉に入らなければならぬ。大津事件後のいま、交渉は苦しいだろう。しかし、どうあっても新条約を通さなければならん。  この宴に来ている大木文相が、榎本案に全面賛成であった。大木喬任はかつて参議時代に、新不平等条約ともいうべき井上馨案に猛反対したひとりである。山田顕義も、同様、井上案に反対した。山田は司法相として、ボアソナードの協力で法典編纂をすすめてきた人間である。井上案の危険を説くボアソナードの言に、山田の「日本」が耳をかたむけたのだ。山田にかぎらない、司法畑の人びとには多かれ少なかれ、それがあった。元司法次官の細川潤次郎にも、民法編纂委員であった津田真道にも。民法編纂総裁であった大木喬任にも。  井上案に反対して大臣を辞めた谷干城。井上案に強い反対表明をした勝安房。井上案を切り捨て、つづく大隈案に対立した伊藤博文。  天皇側近の宮廷派の人びとも、谷干城を推して新不平等条約に反対する反政府運動に、共感を持っていた。この日の祝宴出席者では、高崎正風、土方久元、花房義質、杉孫七郎らの宮内省畑の人びとがそうだ。宮廷派の人たちはまた、反藩閥でもある。 「反藩閥」の円の中央には、旧幕系の人びとがいる。勝安房、榎本武揚。戊辰《ぼしん》戦争に敗れた仙台藩出身の参会者たち。津軽出身で谷干城と親しい陸羯南や江戸育ちの高田早苗ら、ジャーナリスト。宮廷派に接近している矢野竜渓も。  二年前の夏、家康の江戸入府三百年大祭が上野東照宮で大がかりに開かれた。その世話役が、箱館戦争を戦って敗れた榎本武揚であった。藩閥政権に伍しながらの榎本の反藩閥が垣間見《かいまみ》えていた。 『言海』祝宴の顔ぶれからは、そういう�感情の人脈�が次から次へと手繰られる。  旧幕系には、幕府開成所の流れの人びともある。ことに、かつての明六社のメンバーたち。 「反藩閥」に重なりながら、三つめの円「洋学」の核をなす人脈である。大槻文彦本人、発起人の富田鉄之助、辻新次文部次官、加藤弘之帝大総長、西村茂樹宮中顧問官、津田真道衆院副議長。浜尾新、菊池大麓ら開成所系の人たち。洋学を背景にするこの人脈には、藩の次元を越える国家意識がはやくから強い。  明治二十四年のいまでは、ただの外国かぶれの洋学者がいる。外国を蔑視《べつし》して技術だけを採ろうとする者もいる。だが、幕末維新の洋学は、藩が崩れ国家が生れてゆくなかでのものだった。和魂洋才というお手軽なものではない。和魂を支えるだけの国家意識は、この国にはまだなかった。洋学修業を通し、また留学体験を通して、自分ひとりで「日本」を見つけ、育てていかなければならなかった。  幕末のオランダに三年間学んだ榎本武揚も、そういうひとりである。  イギリスに密航留学したことのある伊藤博文も、いまや薩長政府の重鎮でありながら、奇妙なことに反藩閥の人びとと共有する感覚を身につけている。幕末維新の洋学者と同じ道を通ったからであろう。明治三年から四年にかけての米国出張、四年から六年の岩倉使節団副使としての欧米視察が、若年の留学体験を補強していた。  条約改正問題で少年時からの友井上馨を見捨てたのも、ただ反対運動に押し切られてのものではあるまい。政治家としての状況判断も当然あっただろうが、伊藤自身のなかに、反対運動の人びとと共通する感覚があったはずだ。簡単に言えば、「(藩閥)政府より日本が大事」ということだ。この紅葉館でも、当時自分を窮地に追い込んだ谷干城と喜んで同席している。発起人たちも、伊藤はそういう人間だと、自然に思っていたのだろう。  福沢諭吉が、当初は出席予定であった。  明六社の中心メンバーのひとりであり大槻の家と縁の深い福沢にはスピーチもお願いしたいと言って、富田鉄之助が福沢を訪ねて承諾を得た。ところが数日後、祝宴での演説次第書を見て、福沢は出席を止《や》めてしまう。一貴顕(たぶん伊藤博文)の次に自分の名前があったため、「私は貴顕の尾につくのはいやだ、学者の立場から政事家と伍をなすを好まぬ」と、一度は約束した出席をことわったのだ。  福沢の在野精神と言われる行動の一端ではあるが、見方を変えれば、政治からの安全圏への避難である。明治中期という政治の時代に、福沢のこの姿勢は、実りがないという意味をふくめて、不実であった。明六社が明治六年から八年にかけて活動した時期の、国家育成の気が、いまの福沢にはない。  明六社というのは雑多な傾向の新思想家の有志集団ではあったが、それなりに共通の行動様式を持っていた。そのひとつは、国民の知識と道徳とを啓蒙《けいもう》してゆくこと、もうひとつは、政策に直接かかわって、政策の批判をしながら国家の進路を自分たちの手で正してゆくことであった。明治八年の讒謗律《ざんぼうりつ》公布をめぐる意見の分裂で、明六社は自然消滅したが、その後の旧明六社員は考え方はばらばらでも、それぞれに明六社の行動様式をのこしている。もともと明六社にあっても、直接の政策からは離れた位置にいた福沢だけが、『明六雑誌』廃刊後は、そこから最も遠くに退いてしまった。  富田が祝宴への出席を依頼に行く前に、出来たばかりの『言海』を持って、文彦が福沢の家を訪ねた。そのとき福沢は、「結構なものが出来ましたナ」と言いながら、『言海』の語順が五十音順であるのに眉をひそめた。 「寄席の下足札が五十音でいけますか」  五十八歳の福沢にはイロハ順が染みついていて、五十音は感覚の上で受入れにくかったのだろう。「小学でもハヤ二十年来五十音を教へて居ることに思ひ至られなかつたのでもあらうか」と、文彦が、抑えた口惜《くや》しさを洩らしているが、頭のなかの思想などではない、身体感覚のようなところでの福沢諭吉の保守性がここに出ていた。変革を拒もうとする心の傾きである。『言海』は福沢には新しすぎた。日本普通語辞書が、この世界で、この国で持ち得る意味など、思いの及ばぬことであった。  明治二十四年の日本は、そういう老人性とは真反対のところにいる。憲法をようやくつくりあげ、国会を開いたばかりの、赤子の皮膚を持つ国である。初の近代国語辞書『言海』は、この国と呼吸を合わせている。福沢の欠席は文彦と発起人に残念なことではあったが、福沢諭吉が脱けていることでかえって、この日の紅葉館に集まった人びとが、ひとつの有機体に見える。一見異様な組合せの三十余人が、三つの重なり合う円でつながり、その全部に流れるナショナリズムの感情に、国会開設や大津事件などが醸し出す時代の雰囲気《ふんいき》がまじりあう。  病気や旅行で不参の客も十数人あったようだが、この夕方、品川沖を望む高台の、きらびやかな館に顔を合わせた人びとは、ちょうど結婚披露宴の顔ぶれが花婿花嫁の過去現在を語るように、そのまま、大槻文彦と『言海』とを語っていた。  文彦にとってこの宵はもちろん得意の時であったが、その人生の明確な中心点でもある。幼少時からのすべての時間が、祖父から父へ、父から子へと流れてきた大槻家の学の血が、この一点にたばねられ、じりじりと昇りつめてきた。  一国の辞書の成立は、国家意識あるいは民族意識の確立と結ぶものである。明治国家にとっての、そういう辞書が『言海』であった。だが、この仕事は、はじめ国家事業であったものが、まもなく個人の仕事に転じ、大槻文彦というひとりの人間が国家の代りに十七年を費してきたものである。その年月を支えるには、父祖伝来の血が必要であった。また、自分と国家とを重ね合せるための、文彦自身の歴史が必要であった。  初夏のこの宵、その仕事の完成にふさわしい参会者が集まった。明日からの文彦の後半生は、時間の流れとは逆に、やはりこの宵にむかって、エネルギーがたばねられてゆくだろう。文彦の人生の頂点がこの宴であったと言うのではない。宴の前の四十四年と宴の後の三十七年の、文彦の全人生が、「紅葉館祝宴」という中心点へむかっているのである。  一万二千字もの長文の跋《ばつ》を、完成した辞書の巻尾につけた文彦が、さらに追記を書く。 [#ここから1字下げ] 「ただ一部の書を作り成し得たればとて、世に事々《ことごと》しき繰言《くりごと》もする人|哉《かな》、心のそこひこそ見ゆれ」などあながちに我をおとしめ言はむ人もあらば、そは、丈夫を見ること浅き哉、と言はむ。 [#ここで字下げ終わり]      3  紅葉館はいま東京タワーのあるところ、増上寺のうしろの紅葉山《もみじやま》のいただき近くにあった。金地院の山つづきで、一帯が杉などの林。館の庭には楓《かえで》の大樹が数株、背を競っている。  岩崎弥太郎、小野金六らの実業人が呼びかけて、十年前の明治十四年に一万円の巨費で建てた貴顕紳士の宴会場である。館主は旧南部藩士で、脱藩して蘭学《らんがく》をまなび、勝安房や大鳥圭介らと識っていた、いまは七十近い野辺地老人。長州藩の蘭学教授をしていた時に木戸|孝允《たかよし》や伊藤博文と交わり、維新の激動期には南部藩のために奔走、明治になっては京都で外国語学校長や日本最初の女学校専務をつとめている。宴会場の主にしては奇妙な老人だが、『言海』の祝賀会場の主と考えると、むしろぴったりする。紅葉館を会場に選んだ富田ら発起人の考えにも、そのへんのことが入っていただろう。(ひと月ほどあとの、富田鉄之助の東京府知事就任祝賀会は、帝国ホテルを選んでいる。)  四時すぎ、昼のうちの蒸暑さはなく、林の若葉を渡る風が涼しい。足下には増上寺の屋根、その先には品川の海の縮緬《ちりめん》波がきらめいている。右手は羽田の森、左手遠くには房総半島が霞《かす》む。  来客が席についた頃合をみて、発起人総代の富田鉄之助が立った。発起人一同に代っての来賓への謝辞と、今日の会の趣旨を述べる。  つづいて西村茂樹。「十七年間の辛勤」と題するスピーチである。  西村はいま六十四、宮中顧問官、昨秋の国会開設にあたって貴族院議員に勅選されている、教育界の大物である。  旧佐倉藩士で、佐久間象山に師事し、維新後に佐倉藩大参事を経て、上京後は深川佐賀町に家塾を開いていた。明治六年の春、米国弁理公使を解かれて帰国した森有礼が、西村に面会をもとめた。その用件が、明六社設立であった。  若い森が、米国の学界の模様を熱っぽく話した。米国では学者は、おのおのその学ぶところに従い、「学社」を起して互いに学術を研究し、かつ「講談」をなして世人を益している。日本の学者はと見れば、互いに孤立して、世のためになることは何もしていないではありませんか。このごろの日本を見るに、道徳の衰頽《すいたい》はとどまるところを知らないさまです。これを救えるのは、西村さん、あなたがたのような、学問もあり経験も積んだ人たちのほかにないでしょう。そういう学者の団体をつくって、「一は学問の高進をはかり、一は道徳の規範を立て」たいと思うのです。  西村は、はたちほども年下の青年の言葉に耳をかたむけた。よし、都下の名家に相談しよう。福沢諭吉、中村正直、加藤弘之、津田真道、西|周《あまね》、箕作秋坪《みつくりしゆうへい》あたりがよかろう。  福沢らの賛成があって、第一回の会合で社名が「明六社」ときまった。社員間の討論のほかに、月一回、上野の精養軒で演説会を開くことにした。翌七年三月には『明六雑誌』が創刊される。演説会も雑誌も、この国に生れたばかりのものだった。 『言海』は「演説」「雑誌」を見出語に採用している。語として十数年のうちに定着していたからではあるが、旧明六社員の文彦は、迷わず採ったものだろう。新しい語の採用には、どうしても編纂者《へんさんしや》の世界が映る。 [#ここから1字下げ、折り返して2字下げ] えん-ぜつ[#「えん-ぜつ」は太字](名)|演説[#「演説」に傍線]| 衆人ノ前ニテ、己《オノ》ガ意見ヲ演《ノ》ベ説《ト》クコト。 ざつ-し[#「ざつ-し」は太字](名)|雑誌[#「雑誌」に傍線]| 種種ノ事ヲ雑《マジ》ヘ記シタル書。多クハ、期日ヲ定メ、続物《ツヅキモノ》トシテ板行スルモノニイフ。 [#ここで字下げ終わり]  明六社創設のとき、西村が挙げた名前は、すべて洋学に縁のふかい人たちである。西村自身も、洋学者に匹敵する知識を持っていた。西村はまもなく東京修身学社(のち日本弘道会)を起す、明六社中最右翼の考え方の持主ではあるが、新しい国家には和漢二学の人間は役に立たぬことを知っていた。西洋を知る人間こそがこの国の発展に役立つ。そうして集めた明六社員の定例演説会には、官吏や学者が陸続と押しかけて、その演説で目をひらかれ、知識をたくわえて行った。  明六社設立の年の暮れちかく、西村は五等出仕編書課長として文部省に入った。一年前に八等出仕で文部省入りした大槻文彦は、そのころ宮城師範学校長に転出して仙台にいた。文彦が西村に出会うのは、翌々明治八年二月、西村が文彦を本省の報告課に呼びもどした時である。西村課長四十八歳、文彦二十九歳。  文彦が、『言海』の跋文《ばつぶん》に書いている。 [#ここから1字下げ]  本省より特に帰京を命ぜられて、八年二月二日、本省報告課(明治十三年に、編輯局と改められぬ)に転勤し、こゝにはじめて、日本辞書編輯の命あり、これぞ本書編輯着手のはじめなりける。時の課長は西村茂樹君なりき。 [#ここで字下げ終わり]  国語辞書の編纂は明治新国家の文部省にとって、発足以来の宿題であった。七、八人の碩学を集めての辞書づくりが試みられたこともあるが、議論に日が暮れてうまくいかない。むしろ優れた若手一人か二人にやらせたらどうかというのが、その学者たちの意見だった。  選ばれたのが大槻文彦と榊原芳野である。大槻磐渓に就いて詩文をまなんだことのある西村は、磐渓の子文彦のことはかなり知っていた。新時代の辞書づくりには和漢の学だけでは足りない。碩学たちの仕事が挫折《ざせつ》したのも、ひとつに、洋学が欠けていたからである。大槻文彦なら洋と漢がいけるだろう、和の榊原を相談役につければいい。  榊原は文彦より十五年長の既成の国学者である。同じ文部省の仕事でも『古事類苑』のほうに向いている。以前の辞書編纂委員の助言もあって、西村はまもなく、日本辞書編纂を文彦ひとりにまかせた。文彦が近年独学で身につけた国学の理解を評価したことも一因であった。これ以後、西村は文彦の仕事にまったく干渉しなかった。進行状況を訊《き》くでもなく催促するでもなく、文彦のほうで気味のわるいようなものだった。  十年も経った或る日、西村は、新しく編輯局に入ってきた男の、局中はさぞかし多士|済々《せいせい》でしょうな、との問に答えて言った。 「ひとり奇人がおりますな。大槻という男で、これという専門の学があるわけじゃないが、わが国の語学はよく調べているようだ。これが大したさむらいで、日本辞書の編纂という一大事業をまかせてから、かれこれ十年にはなるというのに、倦《あ》きもしないで強情に頑張っておる」  西村は文彦の志を諒としていた。明六社の消滅後、東京修身学社を起すときに、西村は文彦を誘っているのだが、そのとき文彦が、いまは日本語法創定に専念したいという、礼をつくした漢文の返書を西村に呈した。日本文法と日本辞書を一体のものとして創り出そうとする文彦の人生を、西村は理解している。  新入局の男から西村局長の話を聞いて、文彦は嬉しかった。 [#ここから1字下げ]  その「強情をとこ」の月旦〔人物評〕は、おのれが立てつるすぢを洞見せられたりけり、「人の己を知らざるを憂へず」の格言もこれなりなど思ひて、うれしといふもあまりありき。 [#ここで字下げ終わり]  明治初期の官庁は、人も組織も仕事も、くるくる変った。十年もつづく仕事はめずらしい。それを黙ってやりつづけさせたのは、西村の、これも強情であった。  日本辞書編纂の業が成ったのは、おのれが強情によるなどと言っては、身のほど知らずと嗤《わら》われよう。これ、ひとえに西村局長が、無言のままに支えていてくれたからだ。   西村君は、実にこの辞書成功の保護者(Patron.)とや言はまし。  明治十八年四月、西村は、草稿の成った『言海』に漢文の序を書いた。国家にとっての国語辞書の重要性を説き、ついに大槻文彦ひとりの手で困難な編纂事業が成しとげられ、欧米のそれに匹敵する辞書の第一歩が踏み出されたことを讃《たた》えた。その年、西村は宮内省に転出し、保護者を失った『言海』は、出版までにいくつもの壁にぶつかることになる。  紅葉館の祝宴で冒頭のスピーチが西村茂樹であるのは、だから当然のことだ。西村は、自分が文部省編輯局長時代に果したいと思った事業のひとつが国語辞書の編纂であったこと、それを大槻文彦ひとりに任せたことを話した。十年もの間、自分は何ひとつしてやれなかったが、文彦君の仕事にまったく干渉しなかったことが、彼をしてこの大著述をなさしめた原因のひとつにはなっていようかと思う。『言海』の草稿が成ってまもなく、自分は宮中へ出仕することになったのであるが、それからさらに六年余、文彦君の十七年間の辛勤がみのったことを心から喜ぶものである。  紅葉の図を描いた襖《ふすま》が開け放されている。六十四の年を思わせない、張りのある西村の声音が、山内の林に吸いこまれていった。文彦は、すこし離れて下座に坐っている兄修二をちらっと見た。十三年前に他界した父磐渓に、この宴を見せたかった。  スピーチの二人目は加藤弘之、五十六歳。  万延元年、加藤は日本人で最初にドイツ語をまなんだ。やがて幕府直参の開成所教授職並となり、維新後新政府に入って明治四年には文部|大丞《だいじよう》。西村に誘われて明六社の一員となる。民撰《みんせん》議院尚早論で大井憲太郎と論争、いまは帝国大学総長である。  大槻文彦が開成所の前身、洋書|調所《しらべしよ》にまなんだのは文久二年の秋の短い間で、加藤はまだそこにはいない。知り合うのは、鳥羽伏見戦の一年前、文彦が仙台から江戸にもどって二度目の英学修業のため、一時開成所に身を置いたときである。明治になってからは、明六社の仲間でもあって、交際が繁くなっていた。 「言海編成の保護者に謝す」と題して、加藤は、いま長い話を語った西村茂樹を賞した。加藤には官僚の世界が、文彦以上に分っている。西村が文彦に黙って時を与えたことが、どれだけのことであるか。  大槻氏の功労は賞めても賞め足りないものでありまするが、ただいまのお話にもありましたように、西村氏がその保護者として終始あたたかく見守られ、奨励よろしきを得たること、そのことに吾人は感謝したいのであります。その保護なくしては、今日この一大事績を目にすることはなかったでありましょう。  紅葉館美人と呼ばれる女中たちが茶をはこんでくる。いずれも二十歳前後、なかの数人は先年野辺地館主が京都へ出向いて招《よ》んできた者たちである。顔立ちがよく、宴席の所作に品がある。とりわけ踊りに格がある。  茶碗は京の錦光山幹山六兵衛の作。初夏の陽が傾いて、紅葉図の襖が立てられた。東京という繁華の町の中央部にいることを忘れる。  伊藤博文枢密院議長の祝詞朗読がはじまった。  長州藩の足軽の子は、いま日本第一の実力者である。一昨年二月、念願の憲法を発布、去年の秋には国会を開設して、初代貴族院議長をつとめた。壮年五十一。新国家の政治家として、残る大仕事は条約改正である。鹿鳴館を建て舞踏会を開いて、欧化の宣伝につとめたこともあった。だが、まだ何もうまく行っていない。あれから数年、日本にもやっと欧米に誇れる国語辞書ができたか。こういうものの積み重ねこそ国の力であろう。もう鹿鳴館の時代ではないな。  諸君、余はもとより浅学寡聞、あへて諸君の清聴を汚すの当らざるを知るといへども、高崎君等の懇切要望せらるると余が衷心に大槻君の言海の大成を欽喜《きんき》するとの余り、みだりに朝野文学の大家に対し、ここに一言せんとするに至れり。諸君、余が不似を咎《とが》められざれば幸|甚《はなはだ》し。  伊藤博文が「言海の大成を欽喜する」と言ったのは、ただの修辞ではない。  重版後の『言海』巻頭には、「宮内大臣ヨリ編者ヘノ御達」が朱で印刷してある。『言海』を宮中へ献上したことへの沙汰であるが、通常は「御前ヘ差上候」の文字があるだけなのに、特別に、「右ハ斯道《シドウ》ニ裨益《ヒエキ》不少《スクナカラズ》、善良ノ辞書ニシテ、精励編輯ノ段御満足ニ被思召《オボシメサレ》候」の一文が加えられている。あとで聞くとこの一文は、評議の席で伊藤博文が、後進の奨励になろうからと言って特に加えさせたものであった。 [#ここから1字下げ]  そもそも我国語は新古雅俗の多きが上に、外国語|梵語《ぼんご》の移入せるものも亦《また》すくなからず。殊に二十余年来文明諸国と駢進《へいしん》するの方針を取れるより、制度文物の大より風俗習致の小に至るまで輸入せざるはなく、したがつて日に月に新意義を有せる言辞文字を増し、その言と文との懸隔をして一致ならしむるの必要を感ぜるや極めて切なりといへども、未《いま》だ著しく効績を文芸上に顕《あらは》すに至らざるは、最も遺憾とする所なり。  およそ社会はその進歩と共に事物を増し、したがつて言辞文字を滋《ふや》すものなり。我国の如き駟馬《しば》〔四頭立て馬車の馬〕に鞭《むち》を加ふるの勢をもつて長足の進歩をなすものにありては、にはかに複雑に趨《おもむ》かざらんと欲するも得べからざるなり。もし今にして一大指南車を与へざれば則《すなは》ち言文ともに紛乱し、遂に名状すべからざる変体と成果てんことを憂ふるは、ただに文学家のみに止《とど》まらざるなり。 [#ここで字下げ終わり]  実際、明治前期は、つぎつぎと新語が生れた時代であった。「園遊会」「自転車」「馬車」「腰弁当」「ペケ」「すばらし」「すてき」等々、切りもない。それら新語のどれを辞書に採り、どれを捨てるか。文彦にとって、それはひとつの難問であった。  いま挙げた新語のうち、文彦が『言海』に採用したのは、「自転車」「馬車」「ペケ」「すばらし」で、「腰弁当」と「すてき」は後の『大言海』に入ってくるが、「園遊会」はついに不採用である。 「ペケ」の語釈は、こうなっている。「ペケ(句)〔無来《マレイ》語 Pergi ノ転トモ云《イフ》、愚案、和蘭《オランダ》人、馬鹿ヲ Baka ト記シタルヲ、英人、べけト読メルニ起レルナラムカ〕横浜居留地ニ行ハルル訛語《カゴ》、「可《ヨ》カラズ」トイフ意ヲナス。」  戊辰戦争前の一年ばかり、文彦は横浜に住んで、居留地の米人に英語を習っていた。「愚案」として、自分の考えを書き込んでいる裏には、そのときの体験がある。  伊藤博文の祝詞がつづいている。 [#ここから1字下げ]  邦人もし欧文を学ばんと欲せば則ち先づ文典に通じ、しばらく年月を積み、その識得する所の語辞を増すにしたがひて言文を巧みにして遂に普通より進んで専門に入るも未だ難事とせず。然るに外人の邦語を学ぶにあたりてや、定準とすべき文典の具備するなきを以《もつ》て、あまねく書を読むの楷梯《かいてい》なく、止むを得ず勉《つと》めて他人に接し苦学多年わづかに日常の語に通ずるを得るも、その謬訛《びようか》の甚しき、吾人をして噴飯せしむるものあり。たまたま外人の日本に文典なしと唱ふる者あるは、その妄《もう》や弁ずるを待たずといへども、畢竟《ひつきよう》彼をして此《こ》の嘆声を発せしむるものはそもそも邦人の罪にして我文学上の一大欠典にあらずや。 [#ここで字下げ終わり]  伊藤は文久三年に井上聞多(馨)らとイギリスに留学し、新政府発足当時は外国事務局判事としてパークス英公使やサトウ通訳官などと親しくしていたし、明治三年秋から四年春にかけては米国へ金融制度の調査に出張。さらに四年の秋から一年半は岩倉使節団の副使として、欧米諸国を訪ねている。安政不平等条約の改正打診のためであり、条約改正にも必要な近代文明の摂取のためであった。  伊藤はたんに権力の座を占める政治家であるだけではない。英語をよくし外国の事情に通じた当代一流の開明知識人である。その伊藤がかたる語学学習についての意見には、それだけの説得力がある。 [#ここから1字下げ]  今大槻君が十余年の辛苦に成れる言海を繙閲《はんえつ》するに、先づ欧州の文法に則《のつと》りて我文典を画定し、よりて以て根拠となす。たとへ専科の言語を彙集《いしゆう》せざるも日常吾人の用ふるものはその新字訳語に論なく粗々《ほぼ》これを収めて遺漏なからしめ、その数無量四万に垂《なんな》んとし、近古雅俗及び外国語梵語をも網羅し、仮字解訓ともに精確にして、索引その方〔区別〕を弾《ただ》し、ことごとく施すに名動形副等の品字を以てせり。その乱麻を断ち迷雲を排せるの偉功に至りては、あに余の贅《ぜい》するをもちひんや。(略)余が前来叙述したる欠典に応ずるに足るものは、ひとり此の言海を推さざるを得ざるなり。想ふに将来本邦の言辞を学び文詞を味《あぢは》ふ者の、その恩沢を被るや、尠少《せんしよう》にあらざるべきなり。 [#ここで字下げ終わり]  文彦は、『言海』と並行して『広日本文典』の著述に力をそそいできた。その完成にはまだ年月がかかるけれども、骨格はすでにできている。「語法指南(日本文典摘録)」として『言海』巻頭七十九頁にわたって載せたのがそれだ。日本で最初の、世界に比肩できる近代文典だと自負している。伊藤博文が「先づ欧州の文法に則りて我文典を画定し」と、「語法指南」に着目してくれたことが嬉しい。  後日、文彦は『広日本文典』の序論に書いた。「一国の国語は、外に対しては、一民族たることを証し、内にしては、同胞一体なる公義感覚を固結せしむるものにて、即《すなは》ち、国語の統一は、独立たる基礎にして、独立たる標識なり。されば、国語の消長は、国の盛衰に関し、国語の純、駁《ばく》、正、訛は、名教〔道徳〕に関し、元気に関し、国光に関す。豈《あ》に、勉《つと》めて皇張せざるべけむや。」  日本語は諸外国語とくらべて「大いに優《まさ》る所あり」とも言う。「学者の工夫を積まば、何ぞ、漢文をも凌駕《りようが》し、洋文をも圧倒するにいたらぬ事のあらむ、〔それができていないのは〕文〔日本語〕の罪にはあらず人〔これまでの学者〕の罪なり」と。  文彦は、たんに辞書づくりの職人とか学者とかであるところから、はるかに遠くにいた。ここに言い切っている使命感なしでは、十七年間ほとんど独りの力で近代日本語辞書を生み出すことはできない。国の独立、国の盛衰、国の道徳が、大槻文彦の最大関心事であった。文彦の心と政治家伊藤博文の心とは、双生児のように似ている。  だから、文彦が明六社に加わったのは偶然ではなかった。あるいは明治二十四年のいま、『言海』の著者がもっとも強く明六社を生きている。今日の宴の出席者に条約改正問題の関係者が目立つのも、また偶然ではない。辞書編纂者大槻文彦は、『琉球新誌』『小笠原島新誌』などの、領土論の著者でもあった。林子平から流れる、近代世界の認識を背景にした国家意識がそれらの著作を書かせ、それはまっすぐに『言海』にみのっていた。国家の命運、国家の尊厳に、知識人として身を投ずるのが、明六社という結社であり、文彦はその生き残りであった。  伊藤伯爵の演説が、終りに近づいている。 [#ここから1字下げ]  今日辞書を編纂するの至難なるは西村君すでに言海の巻首に論ぜり。またこの業に従ふの多難なるは大槻君の自跋《じばつ》において之《これ》を知るを得ん。君が自家の事として筆せられたる、伉儷《こうれい》〔つれあい〕を失ひ愛子を先だたせたる条の如きは、人をして酸鼻に堪へざらしめ、その言や躍々として神あり、すこぶる後学を激励するに足るの好文字たらずんばあらず。  余もまた著者と同じく本著を根拠とし他日一層完全なる辞書の出《い》でんことをねがふ。且《か》つ著者年歯なほ壮途多望なり、願くは終生王父君〔祖父、蘭学者大槻玄沢のこと〕の誡命《かいめい》を服膺《ふくよう》し斯文《しぶん》〔この道〕のためにますますその力を致す所あらんを。  余はつつしんで著者が勤勉この大業を成したると西村君の董督《とうとく》そのよろしきを得たるを謝し、会衆諸君とともに一大光明を我文学に得たるを賀するために、いささかここに蕪辞《ぶじ》を述べて諸君の清聴を煩すことしかり。 [#ここで字下げ終わり]  伊藤博文がゆっくりと座につく。大きな拍手が起った。だれもがすがすがしい思いであった。陸羯南が翌日の『日本』にこの宴を報じて、「近来珍らしき嘉会」と書く。  つづく辻新次文部次官の祝詞の内容は知り得ないが、辻は開成所教授手伝、教授試補、開成所の後身の南校校長を経て、文部省設立以来新国家の文部行政の核にいる。四十九歳のこの文部首脳は、教育界多士のなかでも、とりわけ人望があった。伊藤伯の演説のあとを受けるに十分の人物である。  フランス学に明るい辻は、文彦同様、途中から明六社に加わっていた。開成所、明六社、文部省と、辻新次と大槻文彦の縁はふかく、いまは亡い森有礼(憲法発布の日に暗殺された)が文部大臣の頃には、ふたり招かれて森の家で食事を共にしたこともある。そのとき森が文彦に、「君が多年苦心した辞書を早く出版したいものだね」と語ったこともあった。『言海』の草稿はすでに成っていたが、西村局長が去った文部省内で保管されたままになっていて、文彦としては気を揉《も》んでいた日々のことだから、森文相の言葉は光明であった。しかし草稿の処置がどうなったか、さらに二年はどうしたわけか音沙汰なしだった。  辻は祝詞にそんなことを含めたかどうか。あるいは、第三者、たとえば西村の後任の伊沢修二編輯局長あたりを非難することになるのをはばかって、そのへんにはまったく触れなかったかとも思われる。この日の参会者にふくまれていて当然の伊沢修二の名がないのは、招待しなかったのか、招待されても何かの理由で欠席したのか。  日が傾いてきたのだろう、巣に帰る鳥の鳴く声が聞えてくる。  和漢洋の学に通じ一世の奇人大学者で通っている二歳上の兄修二(如電《じよでん》)が、文彦を手招いた。二人して下座にならんで坐る。  大槻如電が着座のままで来賓諸氏に謝辞を述べはじめた。音曲の学とともに実技のほうでも名手である如電の声は、低くおさえながらよく透《とお》る。  ……愚父磐渓がつねに私に語っていたことでありまするが、お前は江湖|磊落《らいらく》疎放の人間である、しかしながら弟の文彦がいる、文彦が我が文事の跡を襲《つ》いでくれるであろうから、お前は能《よ》くその補佐をなせ。その言は今も耳に残っております。父はすでに十三年前、七十八歳の天寿を全うして逝《ゆ》きました。今月はあたかもその祥月にあたります、不思議の縁であります。また、それゆえひとしお喜びが深いのであります。……  ゆっくりと語りながら、感激家で弟思いの如電の目がうるんでいった。「其《そ》の口上|恰《あたか》も団州の劇を見るが如くなりし。然《しか》れども弁や明に、情や深し。聴く者いづれも庭の梢《こずゑ》の若葉の露と共に袂《たもと》を湿《うる》ほしぬ。」 「主客をしてソヾロに感涙に烟《むせ》ばしめたり」「主客共に覚へず感涙を催したり」と、各紙とも如電の謝辞のときの模様を伝えている。  最後に文彦の謝辞の順が来たが、のどがつまるようで、ほとんど何も語れない。「文彦氏も一言の謝辞、無量の意を込めたり。」  しばらくは席上声がなかった。やがて発起人総代の富田鉄之助が宴に移る旨を宣して手を拍《う》つと、にぎやかに女中連が膳をはこんでくる。  舞台では紅葉館名物の、女中たちの踊りがはじまった。献酬歓語、中座する人もなく祝宴がつづく。富田氏をはじめ仙台諸名士が同郷人文彦氏に示す好意の厚さが、参会者たちにこころよい。誰も彼も酒をすごした。惜しみながら宴を閉じたときには、すでに九時半であった。  新聞が、「嗚呼《ああ》この会実に美挙といふべし。昔ジョンソン辞書を著すにあたり、チエスタル、フヒールド伯その事業を助けずして醜を万世に伝へたりき。それとは事かはりてこの会を催されたる諸氏の志また優なる哉」と報じているのは、宴席で出た話をもとにしたものででもあろうか。  酔った頬に芝山内の夜気が爽快《そうかい》である。南の風が吹いて、潮風をはこんでいるらしい。空は半ば晴れ、月が高くかかっている。  大槻文彦の、生涯をたばねる一日が終った。 [#改ページ] [#小見出し]  第二章 洋学の血 [#この行8字下げ]異国船——祖父玄沢——父磐渓——海防論——洋書調所      1  大槻文彦は弘化四年(一八四七)十一月十五日、江戸の木挽《こびき》町四丁目、いまの新橋演舞場の近くで生れた。仙台藩江戸住いの儒学者大槻|磐渓《ばんけい》の三男である。  この日は冬至で、冬至は一陽来復というところから、実名を清復《きよしげ》とつけられた。長兄は幼いうちに死んでいて、実際には二つ年上の兄修次郎(のち修二、如電)の次の男子だったけれども、三男であるため通称を復三郎《ふくさぶろう》という。明治になって文部省に出仕する年に、文彦と改めた。のちに復軒と号するのは、冬至に由来する「復」をふたたび使ったものである。  弘化四年という年はわりあい平穏な一年であった。前年、その前年とつづいた江戸の大火もこの年はなかった。だが、四十七歳の父、大槻磐渓は、自分のなかのいらだちのようなものを抑えかねていた。異国船の来航が頻繁《ひんぱん》になっているのに、幕閣はその日暮しの対策しか立てていない。世人はほとんど何も知らずにぼんやり生活している。異国とこの国との関係をどうつけたらいいのか。手をつかねていたら、どうされるか分らぬ。おれはこのまま漢学をまなんでいていいのか。  異国船が姿を見せはじめたのは百年も前のことだが、根室、浦賀、長崎などに入港して通商を要求しだしたのが、磐渓の生れる前後のことだった。その後、しばらくは来航が間遠になったようであった。  と思っていたら、十年前、浦賀に米国船モリソン号が入港しようとして、これを砲撃する事件が起った。三年前からは各国の船が押し寄せている。フランス船が琉球《りゆうきゆう》に来て通商を要求した。オランダの軍艦が開国をすすめる国書を持って長崎に入った。次の年は米国船が浦賀に、英国船が琉球と長崎に。去年も英国の艦船やフランスの軍艦が、再三琉球に来た。米国東インド艦隊の二隻は浦賀に来て開国をもとめた。フランス艦隊三隻は長崎に。デンマーク船も浦賀に。紀州沖に出没する異国船もあった。  幕府は、開国は拒否するものの、あまり事をかまえたくはない。この春も浦賀奉行に対して、異国船の取扱いは平穏にとの通達を出した。その一方で、防衛計画は進めなくてはならない。伊豆半島から房総半島にかけての海岸警備の強化を命じ、砲台築造をいそがせた。しかし、諸藩の軍事力が増大するのは困る。諸藩の大砲備付けには厳しい制限をつけた。  翌嘉永元年、大槻磐渓は、「時勢に考ふるところあり、文武両刀使ひを決意」して、大塚|瑪蜂《めほう》の門と江川太郎左衛門塾に入門、西洋砲術をまなんで藩兵の調練に専念する。その「時勢」というのは、およそ右のようなことであった。 『言海』の著者が生れた弘化四年の前後は、そういう時代である。  文彦の父が異国船の動きに敏感なのは、外国の事情に通じていたからである。磐渓は漢学者として世に立ってはいるが、それは、その父|玄沢《げんたく》が、洋書を訳するには文を能くしなければならぬからと、わが子に洋学を継がせるために漢学をまなばせたものであった。  磐渓は、少年時から父親の語る外国の話を聞いて育った。長じては長崎にも学んだ。父の縁で洋学者との交友が多い。磐渓ほど世界を知る漢学者はいなかった。  大槻文彦は、その祖父から父へとつづく学統と志を継ぐのである。祖父玄沢は文彦の生れる二十年も前に死んだ人ではあったが、文彦も修二も、この偉いおじいさんのことを聞きながら成人した。おじいさんの著書も数多く家に伝わっている。玄沢の洋学が、大槻家に満ちていた。世の人びとが、大名も町人も学者も、外国のことはほとんど何も知らず、意に介することのなかった時代に、大槻の家では西洋と同じ太陽暦の正月を祝ってきた。オランダ、イギリス、アメリカ、フランス、ロシアなど、異国の名が日常茶飯に口にのぼった。ナポレオンが語られ、写真術が話された。      2  玄沢とも磐水とも称した文彦の祖父は、日本の蘭学史そのものを生きた人であった。  杉田玄白と前野良沢にまなび、両師の名から一字ずつをもらったのが玄沢という名だとされている。言うまでもなく、明和八年(一七七一)三月四日、蘭書『ターヘルアナトミア』の解剖図を手に、中川淳庵らとともに|千住骨ヶ原《せんじゆこづかつぱら》で腑分《ふわけ》を見て、その翻訳にとりかかった玄白と良沢である。「玄沢」という名は別に由来するという考証はある。その通りであろう。しかし大槻玄沢自身は、この国に蘭学を根づかせてゆく生涯を通じて、自らの名に両師を継承する自分を見、そのことに誇りを持ったにちがいない。  大槻玄沢、名は茂質《しげたか》、宝暦七年(一七五七)いまの岩手県南部の一関《いちのせき》に近い磐井《いわい》川のほとり、陸中国西磐井郡中里村に生れた。やがてその父|玄梁《げんりよう》が仙台支藩一関藩の医員となって一関に移り住み、十三歳から藩医の建部《たけべ》清庵について医学をまなんだ。  この先生はすでに六十ちかい人だったが、奥州の田舎にいながら、好奇心が旺盛《おうせい》で、新しい時代の動きに敏感だった。将軍吉宗が青木|昆陽《こんよう》と野呂元丈の二人にオランダ語の学習を命じたのが二、三十年前のことである。近くは山脇東洋が、宝暦四年の腑分の観察記を『蔵志』として刊行。平賀源内はタルモメイトル(寒暖計)をつくっていた。蘭学(洋学)前史が動いていた。  一方で、長崎を源流とする阿蘭陀《オランダ》流外科というのが、古くから弘《ひろ》まっているのだが、これはどうもたよりない。長崎へさえ行ってくれば誰でも阿蘭陀直伝などと言って一流を起したりしているけれども、膏薬《こうやく》や油薬で腫物《はれもの》を療治するぐらいのものである。来朝のオランダ人医師に就いて実習はしたかも知れないが、彼の国の文字をまなび医書を研究したとはとても思えない。秘伝として伝えられる阿蘭陀流外科の書を見ても、実際はどれも中国の医書からの抜書を、それらしくつなぎ合せたものばかりだ。若い頃からオランダ流医学に関心のつよい清庵先生は、ずっと不満を持ちつづけてきた。  杉田玄白らが千住骨ヶ原で腑分を見る前の年、この先生は江戸に出る弟子に宛名《あてな》のない一通の手紙を持たせた。オランダ流医学についての日頃の疑問と意見を書き上げたものである。江戸でその道の名家に会って返答をもらってくるように。  弟子は江戸で諸家に質《ただ》したが、真にオランダ流医学をまなんでいる者はいない。清庵の疑問に答はなかった。二年ほどもしてようやく、蘭書の訳業という大業を仕遂げたらしい、杉田玄白なる医師を探しあてた。清庵の手紙は玄白の眼をたちまちにとらえた。 「長年医学をまなんできた者ですが、日暮れて途《みち》遠し、あるのは疑問ばかりです。もはや老齢、明日にも死ぬかも知れぬ身ではありますが、然るべき御方に意見を質さないままでは遺恨が残りますゆえ、遺言のようなつもりでこの手紙を書き誌した者であります」  清庵は阿蘭陀流外科への疑問を詳細に数え上げていた。オランダにも内科婦人科小児科の病はあるはずなのに、来朝のオランダ人医師に外科医しかいないのは何故であるか。長崎でその医師らにまなんだという人びとが、オランダ医書を習っていないのも不審である。本草《ほんぞう》学の蘭書があるとは聞いているが、オランダの医学書はいったいどれくらい伝えられているのか。  正真の阿蘭陀流医学がこの国に成就するには、彼の地の医書の翻訳がなければなりますまい。むかし中国で仏教の経典を漢訳したように、だれか有識の人が出てオランダ書を正しく日本語に訳してくれたならば、と思うこと久しいのであるが、なにぶん僻遠《へきえん》の老医、なにごとも出来ませぬ。こういう大業は、都会の地にて豪傑の人が起ち唱えないかぎり、成らぬものであります。  この手紙を読んだのが、闇夜の手さぐりのようにして『解体新書』を翻訳してきた杉田玄白であった。小人数の仲間との、内輪に進めてきた、苦しい訳業である。この国ではじめての大業である。その、いかに大業であるかを知る人が、遠い奥州の地にいたとは。  玄白はただちに返信を書いた。「あなたのような人と知り合えたのは千載の一大奇遇です。」  以来、二人の間にたびたび手紙が往復し、のちにその一部が玄白の弟子たちの手で編纂されて、『和蘭《オランダ》医事問答』として刊行されるのであるが、清庵先生はなにしろもう年で、江戸に出ることはなかった。代りに息子を江戸へ出し、つづいて門人の大槻青年を玄白のもとへ送った。大槻玄沢二十二歳のときである。  杉田玄白はこの青年の人物と才能が気に入った。自分がオランダ医学を教える一方、前野良沢のもとでオランダ語をまなばせた。偏屈者の良沢も、この弟子を受入れた。  杉田玄白がのちに『蘭学事始』で、大槻玄沢を評している。「この男の天性を見るに、凡《およ》そ物を学ぶこと、実地を踏まざればなすことなく、心に徹底せざることは筆舌に上せず。一体豪気は薄けれども、すべて浮きたることを好まず。和蘭の窮理学には生れ得たる才ある人なり。」  この評は、孫の文彦にもほとんどあてはまりそうだ。文彦はおじいさんの性格を継いでいるのかも知れない。すくなくとも、豪放磊落の兄修二よりも、ずっと祖父似であろう。  大槻玄沢はその後長崎にもまなび、仙台藩江戸詰医員となって、京橋水谷町に家を構えた。その家塾を「芝蘭堂《しらんどう》」という。以来、蘭学志望の青年たちの多くが、この塾を訪ねることになる。芝蘭堂からは、宇田川玄随、橋本宗吉、山村才助、稲村三伯、宇田川玄真らの俊才が育って、それぞれ日本の洋学草創期の重要な仕事をして行った。そして玄随や玄真の門からも、玄沢の孫弟子にあたる多くの蘭学者が巣立った。校長大槻玄沢、顧問杉田玄白とも言える芝蘭堂は、この国の洋学(蘭学)の源泉であった。  大槻玄沢が七十一歳の生涯を終えるまでの四十年あまりと歿後《ぼつご》の何年間か、京橋の彼の邸では毎年、太陽暦による新年の祝いの宴が開かれた。「オランダ正月」である。玄沢の友人の蘭学者たちが招かれたのだが、いってみれば、これは日本洋学界の年次総会であった。「オランダ正月」とも「新元会」とも呼ばれたこの宴で、蘭学者たちが西洋風の料理を食べながら、新しい年の蘭学の進歩をいのり、学問精進を心に誓ったのである。  玄沢には、長崎遊学前後に著わした『蘭学階梯』上下二巻がある。天明八年刊のこの本が、日本の蘭学発展の原動力となった。オランダ語学習の入門に、この本を通るのが、草創期に蘭学を志す者の唯一の道であった。上巻には、蘭学の発祥からの歴史、下巻にはオランダ語の文字、訓法、語法などが解説されていて、語彙《ごい》の頁には例えば Zon, Maan, Sterre などのオランダ文字が大きく示され、それぞれの語の上と下に、「ソン」「日」、「マーン」「月」、「ステルレ」「星」と、読み方と意味が誌されている。辞書と文法をふくむ、「蘭学入門のすべて」であった。  玄沢は多作の人で、刻本十五(四十五巻)、稿本二百以上の著作があるが、なかでも力をそそいだのが『重訂《ちようてい》解体新書』であった。杉田玄白にたのまれて『解体新書』を増補改訂したこの本に、大槻玄沢は二十年ちかい歳月をかけた。門人の教育と他の著作のあいだの、根気づよい仕事である。 『重訂解体新書』の出版は文政九年(一八二六)、玄沢七十歳、死の一年前である。杉田玄白の『解体新書』から約五十年、玄白も良沢もすでに亡く、蘭学者は次の世代に入っていたが、その出発点となった『解体新書』の決定版がようやく世に出たのである。厳密な改訂と注釈のほかに、新しいオランダ医書からの解剖図なども数多く加えた、オランダ医学全書である。刑場での腑分見学の時代から、蘭学は長足の進歩をとげていた。  杉田玄白が晩年に書いた、蘭学創始のころの回想記が『蘭学事始』であるが、玄白から草稿の補筆訂正をたのまれた玄沢は、これに『蘭東事始』の題をつけている。「蘭すでに東せり」の意であった。一関の清庵先生がのぞんだような学問が、すでにこの国に立っていた。学の勝利の半世紀である。玄沢はそれを謳《うた》いたかったのだ。  文化八年(一八一一)には、大槻玄沢は幕府が新設した天文方|蛮書和解《ばんしよわげ》御用の役に就いた。外交文書の翻訳と幕府所蔵蘭書の翻訳が仕事である。外国の書を訳することが中央政府の正規の事業となったわけだ。師の杉田玄白が『蘭学事始』に、その喜びを書きつける。 [#ここから1字下げ]  昔、翁〔自分〕が輩《ともがら》のかりそめに企てし学業なりしに、今、翁が世にありて顕《あき》らかにかゝる厳命〔蛮書和解御用の命〕を蒙《かうむ》り奉りしは、冥加《みようが》にもありがたく、翁が宿世の願ひ満足せりといふべし。なにとぞ生民広済《せいみんこうさい》のためにと思ひ立ちてとりつきがたきこのこと〔蘭学〕に刻苦せし創業の功、終《つひ》に空《むな》しからず。 [#ここで字下げ終わり]  玄沢の長子|玄幹《げんかん》(磐里《ばんり》)や弟子宇田川玄真も、やがて同じ役に出仕する。その玄幹の発案があって、蛮書和解御用の翻訳官たちは、外交文書の仕事と並行して、ショメルの大百科(フランス語日用百科の蘭訳増補版)を分担して訳述した。『厚生新編』と題されるものである。  フランス革命直前にディドロらが編集した『百科全書』を持ち出すまでもなく、百科事典とはひとつの文明そのものであり、思想の集大成であるものだ。オランダ(西洋)の大百科を翻訳しようとの試みは、西洋文明の全体像を知るための、的を射た事業である。壮大な計画であった。  玄沢の関心は草創の人らしく多方面にわたっている。医学のほか、語学、物産、外交と、訳書著書が行列する。だが、そうして外国を知ってゆくほどに、玄沢の気がかりは海防であった。世界のなかでのこの国の位置を見さだめ、正しい情況判断の上で海防策をとらねばならぬ。ロシアの風物国情を、漂民から聞きとり蘭書から書きぬいて『環海異聞』『北辺探事』の二著とし、これを幕府に上しているのは、そのためであった。玄沢のなかに、藩とか幕府とかを越える、「日本」というものの芽が萌《も》えはじめていた。それが、子の磐渓、孫の文彦へとつづく、大槻家の学の根になってゆく。  大槻文彦は、この祖父の血を受けて育った。開成所の前身洋書調所に入学するのも祖父の志を継ぐためであったが、祖父たちが拓《ひら》いてきた洋学をこの国のために生かすことが、文彦の生涯をつらぬく事業であった。  祖父の遺稿の校訂をつづけたのも、兄修二や成島柳北《なるしまりゆうほく》とともに白石社を起して、新井白石の遺著の校訂と出版に時を費したのも、洋学の伝統を正すためである。『西洋紀聞』『采覧異言《さいらんいげん》』などの白石の著作こそは、杉田玄白や祖父らが育ててきた蘭学の遠い萌芽《ほうが》であった。信長や秀吉の時代の南蛮文化の流入は別として、日本の洋学史の序章は白石の二著にはじまる。  宝永五年(一七〇八)イタリア生れの宣教師ヨワン・シロウテが屋久島に密入国した。これを翌年、江戸小石川の切支丹屋敷で吟味した新井白石の記録が『西洋紀聞』である。  あやしげな片言の日本語とイタリア語とを交えて語るこの男の言うことは、オランダ語しか解らない通詞たちの手に負えない。白石は三人の通詞を従えて、シロウテと問答した。 「長崎の人に陸奥《むつ》の方言は理解できぬことが多いだろうが、同じ日本のこと、推し量れば、当らずと言えども遠くないところが分るはず。世界地図を見ればイタリアとオランダは同じヨーロッパにあり、長崎と陸奥ほども離れていない。通詞の者たちはそれぞれ、こう言っているのであろうと推し量るところを申せ。遠慮はするな。判断するのは私だ」  イタリア語をオランダ語から推し量り、わずかに通じ合うラテン語を介し、シロウテのくずれはてて何やら分らぬ日本語を通して、双方懸命の問答であった。シロウテも並ではない才能の持主であったが、それにまして白石の智力と気魄《きはく》はすさまじい。通詞を必要とせぬほどに、白石はシロウテを問いつめていった。ときには手ぶり語を交えながらも、白石はついにキリスト教の教理の矛盾をつくところまで、シロウテと議論をかわす。そうして聞きとった西洋の事情の真偽を、一年後オランダのカピテンにたしかめたうえで著わした世界地理書が『采覧異言』である。  白石とシロウテの問答は、文明と文明の互いの自己主張による討論であった。「洋学」の芽にそれがある。ただ西洋の文物習俗におどろくような、一種の暢気《のんき》さとはすこし違うもの。これが日本の洋学の伝統に流れている。杉田玄白らの洋学の出発にもひそんでいるのだが、洋学は、西洋の事情を知り、西洋の学を継ぐだけのものではなかった。西洋を知ることで、西洋から自らを区別すること。そこには国家意識の種子があった。 [#ここから1字下げ、折り返して2字下げ] くに[#「くに」は太字](名)|国[#「」に二重傍線]| (一)スベテ一《ヒト》区域《カギリ》ノ地ノ称。(二)道《ダウ》ノ内ニテ、数郡ヲ統ブル土地ノ分界《ワカチ》ノ称。州[#「州」に二重傍線](三)大名小名ノ、都ニ居テ、其領地ヲ呼ブ称。「—許」—詰」—替」封国[#「封国」に二重傍線](四)他郷ニ居テ己ガ郷貫《フルサト》ヲ称スル語。「—ヘ帰ル」郷国[#「郷国」に二重傍線](五)地球ノ上ニテ、大小、境ヲ成シテ、他ト異ナル政府ノ下ニ統ベラルル土地ノ称。「日本ノ—」支那ノ—」英吉利ノ—」国[#「国」に二重傍線] 邦[#「邦」に二重傍線] [#ここで字下げ終わり]  文彦が『言海』で定義したその五つの「国」を、いかにして自らのなかで統一するか、ことに(四)の「国」と(五)の「国」とをどう重ねるか。それが洋学の宿題であり、文彦の青年期をつらぬく宿題でもあった。文彦の父磐渓もまた、その問を繰り返しながら幕末維新を生きたのであった。      3  大槻磐渓、本名|清崇《きよたか》、通称平次。大槻玄沢四十五歳のときの子で、末子である。玄沢が家塾芝蘭堂を開いてから十五年が過ぎ、「オランダ正月」も七回をかぞえていた。  父玄沢の、洋書の訳業には詩文の才のある者が要るという考えで、磐渓青年は湯島の昌平黌《しようへいこう》に入学、学長林述斎のもとで、詩文の才を伸ばしていった。家では洋学にとりまかれ、学校では選《え》りぬきの俊才に交って、磐渓ははやくから、内外の事情に通じた新しい型の知識人であった。  二十七の年、京大坂から長崎への旅に出る。途中、父の蘭学の知己や、昌平黌の同窓生、儒学の先輩を訪ねながらの旅であるが、名古屋では訪ねた蘭学者から顕微鏡を借り出して、宿に帰って小虫や布切、精液までを観察している。「群蟻ノ争ヒ聚《アツマ》ルガ如ク、|※[#「虫+吉」、unicode86e3 ]※[#「虫+厥」、unicode87e9 ]《キツケツ》〔ぼうふら〕ノ浮遊スル」のに似た精液が、西洋の解剖図にあるのと同じであることに感心する磐渓青年は、やはり千住骨ヶ原で腑分に立会った蘭学者の血を引いている。文政十年(一八二七)の一夜、顕微鏡で精液をのぞいている儒学の英才。それは同時代人からはみ出ている、新種の教養人であった。  磐渓青年は、京都で頼山陽《らいさんよう》に会う。父玄沢の知己の蘭学者に紹介状をもらって訪ねるのだが、はじめはこの青年をすげなく扱っていた山陽が、青年の差し出す文稿を読んで気に入った。若年でこれだけの漢文が書ける者はいない。山陽は磐渓を書斎に招いて、酒を飲み、詩文を語った。明日は平野へ花見に行くからついて来ぬか、と言う。翌日、山陽は、愛人や叔父ら数人に磐渓を加えて、日の暮れるまで花の下で酔い、語り、夜は茶屋に席を移し、庭に数十の灯をかかげて飲みつづけた。  頼山陽は『日本外史』をようやく完成しようとしていた。ほぼ成稿と言える原稿を、前夜山陽の書斎で、磐渓青年も見せてもらっている。いずれ帰京の前にゆっくり読ませてもらう約束もしていたのだが、酔った勢いで磐渓青年が『日本外史』の批評をはじめた。修辞上の小さな問題には山陽もうなずいていたのだが、全編の構成にかかわることを難じだしたのには山陽が怒った。二十数年来の自信の作である。若僧がなにを言うか。 「山陽大声一喝シテ曰《イハ》ク、是《コ》レ腐儒ノ論ノミ。余〔磐渓〕、瞠然《ドウゼン》トシテ言ナクシテ罷《ヤ》ム。」  怒鳴られてびっくりした青年の顔が見えるが、のちに頼山陽は磐渓の評を採って、『日本外史』の構成上の改訂を行なった。磐渓は文彦ら子供によくこの話をした。「わしが一時の妄言《ぼうげん》も暗に山陽を助けないでもなかった。」  この旅の途中、父玄沢急病の報《しら》せが届いて、磐渓はいそいで江戸に帰った。奥州一関から出て五十年、蘭学をこの国に樹《た》てた大槻玄沢は、春三月、息子の帰りを待たずに七十一歳の生涯を終えた。  父を失った磐渓は長崎へ遊学に出た。父の蘭学を継ぐ心であった。長崎では西洋砲術の高島秋帆《たかしましゆうはん》と識《し》った。だが、シーボルト事件の余波でわずか一年あまりで江戸に帰り、やがて藩(仙台藩)から、江戸住みの学問稽古人を命じられて、一家を構えることになった。四書五経の研究が本業となって、蘭学者への道はあきらめなければならなくなった。しかし、外国への関心までが消えるわけではない。父玄沢がそうであったように、磐渓もまた、百科全書派風の多岐にわたる仕事に手をつけてゆく。  文彦の生れた弘化四年、磐渓は四十七の壮年となって、自藩他藩の子弟に儒学を教えるかたわら、すでに何冊もの著書を刊行し、漢学者として詩文家として一家をなしていたが、西洋を知ることにおいても、この国に数少ない人間のひとりであった。  この年に出した自らの全詩文集『寧静閣一集』には、西洋砲術の歴史を論じた漢文や、表意文字と表音文字の国際比較を行なった漢文のほか、ナポレオンの一生を詠じた「仏蘭王詞」と題する漢詩まである。「王、名ハ那波烈翁《ナポレオン》、姓ハ勃那把児的《ボナパルテ》、地中海|格爾西加《コルシカ》島ノ人」にはじまり、ナポレオンの死と、死後二十年の国葬をも誌している。ナポレオンの国葬が行なわれて数年も経っていない。磐渓は同時代のヨーロッパの出来事を、ペリー来航以前のこの国で、およそつかんでいた。  そういう磐渓であったから、時勢に考えるところがあり、翌嘉永元年、「文武両刀使ひ」を決意して、西洋砲術をまなびはじめるのである。磐渓は書斎だけの学者ではなかった。  文彦の幼年時代には、父磐渓はすでに西洋砲術を修めて、仙台藩の江戸藩兵に西洋流の軍事訓練をはじめている。家塾での漢学教授もやめてはいなかったが、心はそれよりも、揺れうごく時代のほうに向いていた。それも、国内の政治権力の動向への関心というよりは、この国と外国との関係への心くばりであった。  文彦は五、六歳の頃から家学を授けられた。塾生らとならんで四書五経を教えられ、漢詩文をつくらせられるのだが、父の磐渓は息子たちの教育については、きわめて放任主義であった。勉強しようが怠けようが、何とも言われない。  ひとつには、子供の勉強どころではないという、国際感覚からくる危機感があったからだ。ペリーの艦隊があらわれる時が目前であった。磐渓は時々、子供たちに言う。 「お前たちには睾丸《こうがん》をくれてやったのだから、それぞれ勝手に志を立てるがよい」  この時勢に、幼い子らに言えるのはそれだけだ。それが、時代に先んじた父親の思いであった。この言葉を言うときの磐渓には、行動する知識人の気魄がある。文彦がのちに書く。「是れが千万の小言よりも身に染みていさゝか奮発したのである。」  しかし磐渓は、子らをただ突き放しているのではない。文彦が三つ、修二が五つの年に、「修復二児歌」と題しての詩がある。修は修次郎(修二の幼名)復は復三郎(文彦の幼名)だが、そのなかで、「大児ハ白石ノ如シ、着着人ニ後《オク》レズ、小児ハ黒石ノ如シ、歩歩|只《ヒタス》ラ身ヲ顧《カヘリミ》ル」と、二人の子の性格を見ぬいている。のちに、我が文事を継ぐのは下の子のほうだとも言っているのは、文彦の、祖父ゆずりかも知れない地道な根気強さを見てのことである。「大槻の次男は何時《いつ》行ってみても机に向っている」と言われる文彦だった。  そういう文彦に父親が言う。お前は文臣で身を立てるのであろうから、武芸は強いてやれとは言わぬ。だが、馬術だけは出来ないと困る。水練も、いざの時の生死にかかわるものだからやっておけ。そう言って、馬術と水練は三年ずつ習わせた。肝腎《かんじん》なところだけは、きちんと抑える父親であった。      4  嘉永六年(一八五三)六月三日、文彦の七つの年に、ペリー提督の率いるアメリカ艦隊が、琉球に立ち寄ったあと、浦賀にあらわれた。  以前から海防を論じ、対外政策を論じてきた磐渓である。嘉永二年には『献芹微衷《けんきんびちゆう》』五篇で対外問題を論じ、幕閣に上書していた。ペリー艦隊来航という大事が出来《しゆつたい》して、磐渓のような外国を知る学者は、にわかに貴重な人材となった。磐渓は、師林述斎の子でこの年|大学頭《だいがくのかみ》を継いだ林復斎のために、浦賀への情報収集の往来にいそがしくなる。  海防論はすでに六、七十年前、西洋事情を知った林子平が、『三国通覧図説』『海国兵談』の二著で論じていた。二著とも幕府によって発禁処分にされ、版木も廃棄されて、子平は国もと仙台で禁錮《きんこ》の身となって死んだが、この林子平と大槻玄沢が友人であった。  玄沢と子平は、仙台の縁もあって、互いに影響し合った。玄沢の海防論は『環海異聞』を書いていることにも現われているのだが、西洋を知ることが海防への関心に展開するのは、子平にも玄沢にも当然のなりゆきであった。その海防論を、子の磐渓が実践を伴って継いだのだ。さらにその子の文彦が、明治になって、北海道、琉球、小笠原などの辺境領土論をつぎつぎに書くのも、同じ気持からであった。  明治九年、三十歳の大槻文彦が、その著『小笠原島新誌』の序を、「吾ガ郷ノ林子平、嘗《カツ》テ三国通覧ヲ著ス」の言ではじめ、林子平への深い傾倒を吐露する。林子平から大槻玄沢、磐渓、文彦へとつづく海防論は、日本の洋学史のひとつの背骨なのである。この四人にはまた、仙台という「国」もあった。北辺の対露海防への強い関心が、林子平と大槻一族の心に流れている。子平の二著は、まず北海道各地の情況を探検し、ついで長崎で海外事情を調べて書かれたものだ。玄沢の『環海異聞』、磐渓の『献芹微衷』ともにロシアを扱っている。文彦が最初に書くのも『北海道風土記』である。極東へのロシアの野心こそが、第一の脅威であった。  ペリー艦隊の来航を目にした大槻磐渓は、浦賀に往来して、開港論を主張する。と同時に気にかかるのが北辺である。老中阿部正弘に意見書を提出した。ロシアとの国境をいまのうちに定めないと、この国の北辺は危い。そのために一刻も早くロシアとのあいだで国境交渉に入るべきであろう。ロシアと隣交を結ぶことで北辺を安定させ、その力を借りてイギリスを防ぐ。中国での阿片戦争の例がある。開港にあたってイギリスだけは排すべきではないか。 「陣羽織ザット異国の洗張りほどいてみたら|うらが《ヽヽヽ》大変」のような落首で、世人は不安をまぎらせていた。「世間馬鹿誰か第一、蘭医小僧」と、蘭学者を悪者に仕立てていた。  開国か攘夷《じようい》かの議論が火を吹いた。多くは攘夷論であった。国際情勢に無知なままに、攘夷論者は開国論者を腰抜けとののしった。安政六年、露仏英蘭米の五国に神奈川、長崎、箱館が開港されて、攘夷論の火はさらにあおられた。開国論の磐渓に、身の危険を感ずる日々がつづく。  そのころ、咸臨丸《かんりんまる》で渡米した木村|摂津守《せつつのかみ》が、『ペリー日本紀行』の原書を持ち帰って、大槻磐渓に手渡した。日本の歴史を大転回させた提督の手記である。二年前に結ばれた日米修好通商条約の不平等をどうすればよいのか。それを思えば、いまは前にもまして欧米を知るべきときだ。ペリー提督の日本紀行は必ず役に立つものを秘めているはずだった。磐渓は藩主|伊達《だて》侯に進言して、この本を英学者に訳させ、自分で校閲にあたった。日本語にない言葉に対して、磐渓がひとつひとつ訳語を選定して行った。  その文久元年正月、十五歳になった文彦は、林大学頭の門に入った。  二月、ロシア軍艦が対馬《つしま》に来て、対馬藩士民と衝突した。幕府は外国奉行を急派して露艦の退去を勧告したが、その後数ヶ月、対馬に居坐られてしまう。  浪人らの外国人襲撃事件が相ついで、騒然とした時勢の秋の日、皇女和宮降嫁の行列が江戸へ向っていた。年の暮れには、福沢諭吉、箕作秋坪、福地源一郎らが、遣欧使節の随員として品川を出発して行った。 「万国東西ニ交通シテ虎視|眈々《タンタン》」のなかで、嘉永、安政、万延、文久の時が流れ、この国は半国家の状態であやうく立っていた。その、諸国から不平等条約を押しつけられた半国家状態は、維新の内乱を経て明治国家が生れたあとにもつづいてゆく。『言海』祝賀の明治二十四年にも、それはつづいていた。      5  文久二年(一八六二)九月、文彦は洋書調所に入学した。数え十六歳、秋の深まった頃である。  前月|閏《うるう》八月下旬に幕府が参勤交替の制度を大幅にゆるめて、大名妻子の帰国を許していた。文彦が自伝に「諸侯の家族の土着令」と言っているもので、それに伴って江戸住い家臣団の帰国も予想されていた。洋書調所での勉学は、あるいは長続きしないかも知れない。  薩長土《さつちようと》尊攘派の活発な動きのなかで、会津藩松平侯が新設の京都守護職に就いていた。父磐渓は、信ずるところに従って開国論をとなえている。十六の少年にも、時代の激動が日々に伝わってくる。そのなかで祖父玄沢の志を継いで洋学をまなびはじめる文彦であった。  入学の朝、父は文彦を書斎に呼んで、前にも話しきかせたことのある玄沢の言葉を、あらためて言いきかせた。 [#ここから1字下げ]  およそ、事業は、みだりに興すことあるべからず、思ひさだめて興すことあらば、遂げずばやまじ、の精神なかるべからず。 [#ここで字下げ終わり]  のちに『言海』跋文《ばつぶん》を書き出すときに、文彦はまず、この言葉を挙げる。「おのれ、不肖にはあれど、平生、この誡語《かいご》を服膺《ふくよう》す」と。文久二年秋の朝の緊張が、祖父の言葉とともに鮮かに浮んでいた。  文彦が入学した洋書調所は、五月までは蕃書《ばんしよ》調所と言っていた、洋学の教育と研究のための幕府の機関である。田安門外にあった蕃書調所を一橋門外に新築移転して、名称を改めたのだ。さらに翌文久三年八月には開成所と改称され、幕末維新期の急増する洋学需要に応える中央機関として、整備拡充されてゆく。  文彦の入学の頃は、幕府が洋学の育成に本腰を入れはじめたところであった。この一、二年来、蘭学のほかに、英学、ドイツ学、フランス学が設立され、物産学科や数学科も新設されていた。当初は幕臣の子弟だけを入れていたが、しばらく前からは各藩の子弟に入学が許されるようになり、入学を奨励する布達も出されていた。  大槻文彦少年は、ここで英語と数学をまなんだ。まもなく一家が仙台へ移住したため在学はわずかのあいだだったが、新設の学校の熱気のなかで、十六歳の年齢は、何もかもを吸いとろうとした。短い在籍でも、文彦にはここが「母校」となった。  そのうえ、これはもともと祖父玄沢や叔父玄幹が外交文書と洋書の翻訳事業をつづけてきた、蛮書和解御用の伝統を継ぐ機関である。玄沢が他界して二十数年、黒船が来航しはじめる嘉永安政の時代になると、外交事務が頻繁になって、西洋語学教育の必要がますます現実のものとなった。西洋事情の調査もいそがなければならなかった。勝海舟、川路|聖謨《としあきら》らの外交官僚に箕作阮甫《みつくりげんぽ》らの蘭学者を加えて設立委員とし、安政三年に設立、翌四年に開校したのがこの学校であった。  文彦が入学した頃の教官のうち、主な人びとは次のようである。  蘭学、とくにオランダ医学の長老、箕作阮甫が校長格。  蘭学と英学の西周、オランダ法学の津田真道は、文彦入学の直前に、幕府初の海外留学生としてオランダへ向っていた。  蘭学出の加藤弘之は、二年前から幕命でドイツ語をまなんでいた。  箕作阮甫の孫で去年から英学教授手伝並となっている箕作|麟祥《りんしよう》は、まだ十七の若さである。蘭学に代って重要になってきている英学には、手塚律蔵をはじめ、蘭学をしのぐ教授陣がそろってきていた。  シーボルトに学んだ植物学の伊藤圭介が物産学科の教授、やがて日本に西洋経済学を移植する神田|孝平《たかひら》が数学科の教授である。  いずれも、この国の近代化の軸になってゆく教官たちであった。この人たちに接し、数十人の英才たちと起居を共にして、文彦はわずかの日々のうちに、少年から青年へと変貌《へんぼう》した。  洋書調所の授業は朝五時にはじまる。晩秋の五時はまだ薄暗い。終るのは夕方七時、暮れきっている。一日十四時間の大半が英文典の会読と輪講、そして素読であった。体系づけられた教育法があったわけではないが、この短期集中方式によって、語学の力は一日ごとにいやでも進んでゆく。 『言海』の次の諸項には、文彦の幼時からの漢学習業の記憶とともに、洋書調所の朝晩がかさなっているはずだ。 [#ここから1字下げ、折り返して2字下げ] くわい-どく[#「くわい-どく」は太字](名)|会読[#「会読」に傍線]| 数人集リテ、同ジ書ヲ読ミ合ヒ、意味ヲ解キ、疑ヲ論ズルコト。 りん-|か《コ》う[#「りん-|かう」は太字](名)|輪講[#「輪講」に傍線]| 数人、順番ニ講釈スルコト。 そ-どく[#「そ-どく」は太字](名)|素読[#「素読」に二重傍線]| 書物ヲ読ミ習フニ、意義ヲ解クコトナク、只声立テテ文字ノミ読ムコト。ソヨミ(初学ニイフ) [#ここで字下げ終わり]  いまの辞書では、例えば『広辞苑』第二版の「会読」の項は、「二人以上の人が寄り集まって読書し、その意味を研究しあうこと」となっている。『言海』の語釈と同じと言えば同じだが、しかし、「意味ヲ解キ、疑ヲ論ズル」から思われるような、一行一行の細部にわたる読解と疑問点をめぐる議論という意味合いは薄い。むしろ本の内容全般にわたる研究といったニュアンスがある。別の辞書では、「多くの者が寄り集まって読書をすること」とだけしていて、「意味ヲ解キ、疑ヲ論ズル」側面をはぶいている例も今は多い。語の意味そのものが時を経て変っているのだろうが、なにより『言海』のこの語釈の具体性には、辞書|編纂《へんさん》者大槻文彦個人の体験が照り返している。 「語」は人間集団の共有物であるけれども、生きている語ならば個人の体験とかさねられる。「会読」という語はかつてそのように生きていた。だが、いまは実体をほとんど失っている語だということだ。「読書会」「読書サークル」「勉強会」などの語のほうがいまは生きていて、しかしそこには、一語一語一行一行を読み解き疑問点を論じ合う「会読」はない。作者の思想だの何だのを論ずるだけである。「輪講」も衰え、「素読」は死にそうになっている。  この文久二年、蕃書調所では正月から『官板バタビヤ新聞』を木活字で印刷、発行していた。外国の新聞を抄訳して、海外事情を報道することを主にしている。わが国はじめての新聞だ。洋書調所でもこれを引継いで、『官板海外新聞』として刊行している。洋書調所は洋学教育の学校でもあり、また、幕府の当面緊急の用をつとめる翻訳局でもあり、新聞のほかに種々の出版を行なう政府出版局でもあった。  出版のなかには、『英和対訳|袖珍《しゆうちん》辞書』と『英吉利《イギリス》文典』がある。 『英和対訳袖珍辞書』は三年前の安政六年、堀達之助を主任に、蕃書調所の英学教官が総動員で編輯《へんしゆう》にかかった。H・ピカールの英蘭辞典(一八五七年版)が底本で、そのオランダ語のところを日本語に訳すという安直な方法だったが、時代は英和辞書を緊急に必要としている。わずか二年ほどで稿を終え、洋字は鉛活字、和字は木活字をつかって洋書調所の印刷機で印刷した。語数二万弱、活字本英和辞書の最初である。慶応年間から明治初期にかけて増補重版され、「開成所辞書」と呼ばれて英語学習者の必携書であった。  安政から文久にかけては、蘭学から英学への転換期であった。長崎でも大野(福井県)でも美作《みまさか》(岡山県)でも英学教科書の翻刻が行なわれ、英学が徐々に優勢になってゆく。蕃書調所の英学教科書も、安政ごろに西周らの校閲で『伊吉利文典』として出版された。数年前、米国から帰国した中浜万次郎がロンドンで出版されたばかりの The Elementary Catechisms, English Grammar を持ち帰り、それを蕃書調所が鉛活字をつかって復刻したものである。小冊子ではあるが、最新の英文法を問答形式で叙述していた。  後の版では、内容は同じだが、組版と装丁をすこし変えて、題名を『英吉利文典』としている。文彦のつかったのは、たぶん古い版だ。小型版で緑色の表紙。六十四頁という薄さから、学生たちは「木の葉文典」と渾名《あだな》した。  洋書調所の英語学習はこの二冊をもとに進められた。自分で持てぬ者には学校備付けのものが、教室内にかぎって貸与された。文彦が「木の葉文典」を持っていたかどうかは分らないが、どちらにしても六十四頁の小冊である。二ヶ月に足りない在学ではあっても、暁方からの集中学習で、ひと通りはあげただろう。  "What is Language?"(言語とは何か)、"Language consists of articulate or spoken sounds which express thoughts"(言語は音節に分けると否とを問わず音から成り人の考えを表わす)にはじまる文法の体系は、十六歳の文彦の目にあざやかであった。言葉というものは、こんなにも生きているのか。  五十を過ぎた大槻文彦が、この英文典を振り返っている。 [#ここから1字下げ]  鉛製活字にて鳥の子紙両面|摺《ずり》洋装なり。当時唯一の英文典なりしかば凡《およ》そ英学に入る程の者は此《この》書より入らざるはなかりき。然《しか》れども小さき本にして紙数も僅《わづか》に八十ページ許《ばかり》なるものなりしかば人、渾名して「木の葉文典」などいひて固《もと》より浅薄なるものなり。されど今の洋学家の四十歳以上の人にして此文典の庇蔭《ひいん》に頼らざりし人はあらざるべし。文彦も其《その》一人に漏れずして此書より英学に入れり。されば言海も広日本文典も遠く其《その》淵源《えんげん》をたづぬれば此書より発せり。今昔の感なきにあらず。 [#ここで字下げ終わり] 「八十ページ許」というのはおよその記憶であって、実際は六十四頁であるし、文彦の創る日本文典の時制は後に箕作秋坪塾でまなんだときの『ピネヲ英文典』に拠っているのだが、はじめにまなんだ「木の葉文典」が、どうしても、文彦の学のなつかしい故郷であった。  洋書調所は開成所になり、明治に入っては開成学校と改称した。けれども、名前はどう変ろうとも、文彦にとってはそれが母校であり、その母校でつかった教科書が、自分の生涯の仕事である『言海』『広日本文典』の出発点であった。出発点からゴールへ、文彦の時間が、重く、しかし確実にうごいてゆく。  文久二年、文彦が「木の葉文典」に取り組んでいるころ、榎本釜次郎(武揚)は航海術習得のためにオランダへ向っている。留学を終えたときには、幕府がオランダに発注した軍艦開陽丸を指揮しているだろう。幕府の兵制改革が進んでいた。陸軍はフランス式の歩兵砲兵騎兵の隊別を採った。  横浜に牛鍋《ぎゆうなべ》屋が開業した。下岡|蓮杖《れんじよう》という男が写真館を開いて評判になった。もっとも、文彦には写真はめずらしくない。父磐渓の弟子のひとりが万延元年の遣米使節に随行して、米国から写真道具一式を持ち帰った。いろいろ研究をかさねて磐渓の写真を撮ったのが二年前のことだ。昔、旅の宿で顕微鏡をのぞいた儒学者はハイカラだった。子供たちには種痘を植えて、「大槻の家はオランダ気違いで子供を殺す」と悪口を言われていた。  近代は目に見える形ではじまっていた。  対馬ではロシアが、病院や倉庫を建てて我がもの顔にふるまっている。清国《しんこく》への欧米各国の経済侵略が、洋書調所の新聞に詳しく報じられる。二年目に入ったアメリカの内戦南北戦争の戦況も、かの「|林※[#「石+徑のつくり」、unicode785c ]《リンコルン》」の動静とともに、新聞編輯者である洋書調所教官たちの関心事だ。文彦ら英学生の学習は、その「現代」と貼《は》り合せである。  文久二年のこの国は、すでに世界と素肌で触れていた。「藩」と呼ぶ国と「日本」と呼ぶ国とが、文彦のなかで交錯する。ふたつの国をどう重ねていいかは分らぬままに。  玄沢が奥州磐井川のほとりから江戸に出て以来八十数年が過ぎている。大槻家がその江戸を離れ、藩の地へ移り住む日が近づいていた。 [#改ページ] [#小見出し]  第三章 父祖の地 [#この行8字下げ]仙台帰住——磐井の激流——友      1  文久二年(一八六二)は秋口から雨がつづいた。六十二の大槻磐渓は、その雨のなかをせっせと出歩いている。  老中脇坂|淡路守《あわじのかみ》とは数年来の交わりであった。会えば、攘夷一色に塗りつぶされてゆく時勢を憂え、つい時間を過ごした。将軍侍医の桂川|甫周《ほしゆう》とも話が合う。開国と国防が、洋学の知識と目で世界を垣間見《かいまみ》てきたふたりに共通の結論だった。攘夷論の馬鹿どもを排して、幕府を世界情勢に対応できるものに改造しなければならぬ。お題目のように攘夷をとなえる薩州長州が権力をにぎったら、この国はどうなるか。欧米の軍事力は一撃のもとにこの国を倒すだろう。いま選べるのは開国佐幕の道だけだ。  おととし咸臨丸で米国へ渡ってきた軍艦奉行木村摂津守ともよく話した。木村は磐渓の友人の子で、漢学の門弟でもある。米国土産にペリーの日本紀行を持ち帰ってくれた。咸臨丸航海長の勝海舟とは、木村を介して識った。木村の従者に世話をしてやって渡米した福沢諭吉も、ちょくちょく訪ねてくる。彼らから聞く米国の実見談は、磐渓の世界知識をなまなましいものにつくっていた。  甫周をとりまく江戸の文人グループと、墨田川に舟を浮べて、詩をつくり酒を飲む日もあった。若い仲間には成島柳北二十六歳もいて、その才気と斜に構えたところのある精神に対していると、時勢の憂いをいっとき忘れて心がやすらぐ。長男の修二と気が合うらしい。磐渓も、時には小唄をうたい役者のこわいろを真似る。けれども、舟遊びからの帰り道ですでに、磐渓の胸には時勢の心配が湧《わ》いてくる。父玄沢ゆずりの、物事を真正面から考えてしまう愚直さであった。  火鉢を抱えていたいような十月はじめの或る夜、修二と文彦は二階の書斎に呼ばれた。外から帰ったときの父の顔色から、とうとう決まったのだと思った。数日前、国もと仙台へ帰住せよと藩令があったことを、兄弟はおよそ知っていた。 「寧静」の二字を大書した扁額《へんがく》が掛かっている。父はこの書斎を寧静閣と称し、自分の詩文集に『寧静閣集』の名を冠して第一集第二集を刊行している。もっとも、部屋は狭い。細長い五畳敷に書棚からはみでた本が積まれていて、父と兄弟が坐ると空きがない。  二十年ばかり前の天保十四年の冬、鍛冶橋《かじばし》から出た火で木挽町《こびきちよう》二丁目の家が全焼、蔵書の大方を灰にした。翌年工面してやっと今の家を建てたときには、この部屋は書斎とは名ばかりで、書物はないに等しかった。新材と青畳の匂う、あっけらかんと明るい書斎で、磐渓は詩をつくった。 「辛苦営成宅一|廛《てん》」にはじまる七言絶句。「書物は全部燃えてしまったが、なにまだ舌はある。この舌で三十年はしゃべってみせるさ」とうたった。四十男の負け惜しみのようではあったが、新築の浮かれ気分をばねにして、自分を鼓舞したのだった。  この家で翌年修二が生れ、一年おいて文彦が生れた。  それから十数年が過ぎた今、書斎も磐渓も年をとった。修二は十八歳、藩主伊達|慶邦《よしくに》公へのお目見えもすませている。文彦も十六歳、祖父の血を引く学才が見えはじめている。磐渓の頭はすっかり白い。  細面で端正な大槻家の顔で、その父が語る。  このたび仙台帰国の藩命があったことは、修次郎(修二)も復三郎(文彦)も知っていよう。江戸に留《とど》まる策のないではないが、今日その命をお受けすると決めてきた。  そちたちは江戸に生れ江戸に育ってきた者だ。本国とは言っても見も知りもせぬ仙台へ行くのは嫌なことであろう。  しかし知ってのように、おれはペルリ来航の最初から、開国論を立て通している。西洋のことを知るほどに、鎖国攘夷はたわごとに過ぎぬと思うばかりだ。攘夷を叫んでほんとうに西洋と戦えば、この国は一撃で倒され、西洋列強の属領に分断される。すでにペルリの艦隊が来てしまったいま、むしろこれを好機に西洋の文物を採って、一日も早くこの国の底力をつけることが肝腎だ。  ひとたび開いた国をいままた鎖《とざ》そうというのは愚の骨頂。黒船来航を福に転ずる工夫をしなければならん。旧を棄て新を図るのだ。いや、区々たる貿易の利などを言うのではない。いまはまさに国家の体制を改め、軍政を大改革して、もって富強の業を興すべきときなのだ。  もっともその方策にはいろいろある。おれの考えは、列強のうち特にロシアとの隣交をはかるのを上策としている。国防の上からみて、北辺で領土を接するロシアと事を構えるのは危うい。それにここ数十年来の外国船の来航を見るに、ロシアがいちばん礼節を重んじていると、おれは思う。近頃は対島で横暴な振舞いがあるようだが、古くレックスマンやレザーノフが漂民を送り返して通商を請うて来た時には、そのたび我が国法を重んじ、節度ある士の態度であった。  イギリスはいけない。領土の野心をむきだしの彼らには、他国に対する礼節の念がまるでない。弘化、嘉永以来のその強引なやり口は、そちたちも聞いていよう。清国の阿片戦争の例もある。父祖の地を外国の属領にすることがあってはならんのだ。  世界の形勢は、いまこの国が一歩を誤ることを許さない。しかしつくづく時勢を見るに、わけもわからず攘夷攘夷と騒ぎ立てる馬鹿者どもが満天下のありさまだ。実にたわけている。だが、今日の攘夷論の火は簡単には鎮められそうにない。天下に開国論を公言してきたおれなどは、いかなる変事に遭うやも知れぬ。  攘夷家連中がおれを国賊とか腰抜武士とか呼んでおること、同学の旧友の幾人もがおれとの交際を断っていることは、すでに耳にしておろう。この際に処するには、断然仙台へ帰るのが得策と思う。江戸に留まったがためにつまらぬことになっては、主君の恥辱にもなる、家名にも傷がつく。妻子の安全もはかりがたい。  諸侯家族の江戸住いが免じられ、われらの藩でも仙台へ帰住せよとの君命があったのは、むしろ好い機会であろう。そちたちの将来を思い、この数日いささかの迷いもあったが、よって江戸を引払うことに決めた。この月のうちにも出立するゆえ、こまごま備えをしておくよう。  江戸はおれにとっても離れがたい故郷である。おととさまが天明六年江戸に一家を定められて七十七年、御出府から数えれば八十年の余にもわたって、この大槻の家は江戸に根をおろし、名を築いてきた。いま江戸を離れればいつまた帰るか、或《ある》いは帰ることがあるかないかも、この時勢ではわからぬ。その心づもりで友らとの別れもすませておくよう。よいな。  それから復三郎。そちの英学修業は緒についたばかりだ。洋書調所でまなべる日は数えるほどしか残らぬが、一日を二日にも三日にもしてまなんでおけよ。  おれがおととさまより漢学修業を命じられたのは、蘭書をこの国の格調ある文に移し替えるためであった。外国の言葉をまなびその書物を読み解いても、それを自らの言葉で誤りなく美しく表わせなければ世の役に立たぬ、とのお心である。さいわい復三郎は文の修業に見るべきものがある。いまからの世が用とする英学をしっかり身につけて、必ずや世の役に立たせよ。次子のそちは家学を継ぐ要のない身、この国の洋学に賭《か》けられた玄沢さまの夢をおろそかにすまいぞ。  長い話が終った。雨戸を木枯しが揺り、ときどき強い雨足が打ちつけている。「異存はないか」との父の言葉に、長男が背筋を張って答えた。 「臣として君の命を奉じ、子として親の命に服するが人のつね、このたびの国帰りに異議のあろうはずがありませぬ」  次男がつづけた。 「同じでござります。父上の御申聞け、一言たりともおろそかにはいたしませぬ」  言葉の上だけでなく、父を信ずること厚い子らであった。数年ののち、戊辰戦争後に捕われの身となり死罪は免れぬと見られた父磐渓の身替りを、自分にも捕吏が向けられている時に願い出る子である。明治二十四年初夏、紅葉館の『言海』祝宴の夕、壮年となった兄弟の胸にまず去来したのは、この夜の父の顔であり、押え改まった声音であった。  磐渓が「江戸に留まる策のないではない」と言ったのには、事情があった。黒船騒ぎ以来交わりを深めていた林復斎が三年前に他界して、その子学斎が若くして大学頭を継いでいるのだが、この学斎が家格を別にして磐渓を師として親しんでいた。青年学斎は磐渓に仙台帰住の命があったことを知ると、なんとかして師を江戸に留めたいと願った。そのためには磐渓を幕府の儒官に任じてもらえばよい。大槻磐渓の学からいっても当然の処遇ではあり、大学頭の推挙ならば幕府も仙台藩も異存のないところだ。  学斎の好意はありがたかった。江戸に留まれる魅力もあり、儒家として幕官に任じられることは本来は願ってもない出世である。仙台藩での役といえば、天保三年に学問稽古人、嘉永四年に西洋砲術稽古人を命じられているが、これはいわば学生ということで、役職と呼べるものではない。六十二の白髪頭になっても、江戸の学界で重きをなしても、江戸住いのうちは稽古人である。  文久二年十月二十五日、いまの暦では十二月なかばの冷えびえとする朝、大槻家の六人は江戸を出立した。磐渓、妻|悦《えつ》、修二、文彦、十三歳の雪と十一歳の和歌。  悦は磐渓の三度目の妻である。学問稽古人を命じられ一家を起した年に迎えた最初の妻は、細く美しい才女で、わずか半年で短い生涯を終えた。二度目の妻を娶《めと》ったのは二年ばかりしてだった。郡山藩家臣大野氏の娘、二十歳、名は淑《よし》。大柄で血色のいいこの淑が、文彦らの母である。いまは嫁いでいる長女春と次女陽、二歳で死んだ長男順之助、修二と文彦の兄弟、二人の妹、と七人の子を生んで、ようやく育児から解かれて何年も経たぬ四十三の夏、コレラに冒されて慌しく去った。四年前、文彦の十二の年である。翌安政六年、磐渓の三度目の妻として大槻家に嫁入ったのが、継母の悦である。すでに初老、髪に白いものがまじっていた。  仙台までの道は長い。風は冷たいが、磐渓は駕籠《かご》の覆いを上げては家族に話しかけた。この二十年、かぞえてみると仙台への道を六往復している。  ——あれが筑波の山だ。  ——そろそろ白河の関が見えるはずだが。  葉を落した木々が鋭い。濃い灰色の空が低く、遠くつづいている。これが故国奥州だ。家の者に語りかけながら、磐渓は、故国に引き寄せられてゆく自分の心におどろく。  江戸を出てしばらくは、思い切って江戸を捨ててきたことに一種の爽快《そうかい》さがあった。火事で蔵書を失ったあとの、あの新宅での居直ったような感じと似ている。旅中の詩稿にも「自づから覚ゆ一身の軽きを」の一行を入れた。半生を過した江戸がまるで嘘のようだった。出立の前にいそがしく幾多の人に会ったことも、遠いことに思えた。出家得道すればこういう気持であろうか。うじゃうじゃした世の営みから切れて、雲と水に漂ってゆくときの身の軽さ。  修二は長男らしく道中案内図をひろげては旅程を調べている。ものにこだわらぬたちの修二にしては、めずらしいことだ。はじめての故国への旅に、昂《たかぶ》った心があるのだろう。  復三郎(文彦)はいつ覚えたのか、はやりうたをうたっている。あいつは本の虫かと思ったが、案外なところがある。ま、これが旅というものだ。  雪と和歌は母の前をはしゃいで行く。嬌声《きようせい》が重い空をはねかえしている。 「千里ノ寒程|能《ヨ》ク自愛セヨ」と、送別の宴で別れを惜しむ詩を贈ってくれたのは、作州藩主松平確堂公だった。宴の夜、あの児らは江戸を去るのを辛がってめそめそしていたものだが、なんのことはない、その「千里ノ寒程」の寒風のなかで、無邪気に笑いころげているではないか。  送別の宴では老中脇坂淡路守も棚倉藩主松平誠園御老公も、惜別の詩を贈ってくれた。漢詩の持つ勁《つよ》さが胸をついてきたものだ。あの夜は強いて朗らかに酒を酌んだが、いまのような軽さはなかった。いまは、宴の夜が遠い日の芝居の舞台のように見える。  旅の宿をかさねて行く。行燈《あんどん》の残り火に、枕をつらねて側に眠っている妻と四人の子を見る。この一晩ここに眠っているこれだけの人間。これもまたちゃんとした一家ではないか。住居などはなくとも、いま、ここに父と母と子らという繋《つなが》りを持った人間たちがいる、そのことだけが現実と思える。  須賀川では、川辺の居酒屋で盃《さかずき》をかたむけてきた。奥州|訛《なまり》が耳にこころよい。自分では話せなくても、これが故国の言葉だと思う。ふいに帰心|箭《や》の如くになる。幾度か訪れた父祖の地一関の、磐井《いわい》川|厳美渓《げんびけい》の、岩を噛《か》む碧水《へきすい》が浮ぶ。磐渓の号はあの渓流に感動して得たものだから、故国に住むのは初めてとはいえ、帰心と呼んでもいいだろう。はずかしいくらいの、不思議な、なまなましい帰心だった。  二本松が過ぎ白石が近くなると、磐渓の雲水の思いは薄らいで、そのぶん故国が急速に磐渓の心を染めて行った。  十一月七日、江戸の木挽町を出て十二日目に仙台藩領に入る。その夜白石泊。  白石の宿では、磐渓はすでに雲水の境を去り、現実に還っていた。その夜得た絶句六篇は、すべて当今の時勢のなかでの仙台藩の政事のことである。「強兵の策果して何《いづ》くに在りや、微臣富国論を献ぜんと欲す」と、故国のために働かねばならぬという、現実の思いに急《せ》き立てられている磐渓である。  十一月九日、仙台着。  とりあえず勾当台《こうとうだい》にある藩校|養賢堂《ようけんどう》の構内の空家に、六人家族が仮住いすることになった。養賢堂学頭大槻|習斎《しゆうさい》のはからいである。  大槻習斎はその父|平泉《へいせん》のあとを受けて学頭職に就いていた。平泉の祖父が磐渓の祖父の長兄にあたる大槻|清慶《きよよし》である。  大槻宗家は代々仙台藩西磐井郡|山目《やまのめ》(現在一関市内)に住み、周辺十三ヶ村、平泉《ひらいずみ》や中尊寺から一関にかけての大肝煎《おおきもいり》の職を二百年にわたってつとめている。  その六代目清慶、つまり文彦からみれば曾祖父の長兄にあたる人が、学問詩文を好み、その後も代々の当主に好学の風が継がれてきた。菅江真澄《すがえますみ》、松崎|慊堂《こうどう》、頼《らい》三樹三郎らが奥州一関に遊んで、大槻宗家の代々の主たちと風雅の交わりを持っている。俳人であり地方史家であった清慶が、学者一族大槻家の源流と言えようか。  清慶の孫の代に、儒者として別家をたてたのが、養賢堂を全国諸藩の藩校のなかでも屈指のものにした大槻平泉であり、嘉永三年平泉の歿後は、子の習斎が学頭職を襲っている。その一方で、玄沢にはじまる洋学の大槻別家がある。  松崎慊堂が学者一族として、西に頼氏、東に大槻氏あり、と言ったのも当然だった。  十一月十九日、大槻磐渓は御|近習《きんじゆ》兼養賢堂学頭|添役《そえやく》を命じられた。習斎を補佐する副学頭になったのである。禄二百石、長年の稽古人という名目がとれた。  文彦は、養賢堂に入学した。  仙台藩校養賢堂はいまの宮城県庁と仙台市役所一帯を占める広大な敷地を持ち、中心には、井型に区画された二十五室を有する大講堂(三千名収容)があった。昭和二十年の戦災で焼失したが、建物の構造と教室の配置や名称に特色のある、諸藩の藩校に類を見ないものだった。  養賢堂を改革し整えたのが、大槻平泉である。江戸と長崎でまなんだのち一時昌平黌に出仕していたが、文化六年に養賢堂学頭に任じられると、それまでの平凡な藩校の大手術にかかった。  学校財政の基礎に学田一万二千石を置き、学舎である講堂と付属諸施設を改築、江戸の恩師林大学頭述斎の助言をもとめて学制の全面刷新を行なったのだ。  教授法の改革、蘭学など諸講座の増設、教員登用試験制度の新設、学生への文房具の官給、他藩からの留学生寮の設置、聖廟《せいびよう》の建築、印刷所と図書館の付設。また、江戸に住む大槻玄沢の協力を得て、医学館と施薬所を藩校から独立させてもいる。いまの大学の医学部と付属病院にあたるもので、内科外科を持つ総合西洋医学校は当時仙台藩だけのものだった。医学館教授には小関三英や、玄沢門下の蘭方医が迎えられた。  平泉在任の四十余年で、養賢堂は総合大学となり、藩の文化行政府ともなった。  いま、子の習斎が、その改革をさらに進めている。時代の動きに、磐渓と同じくらいに敏感な習斎である。兵学講座に鋳砲、操銃、造船の各科を置いて西洋式訓練とゲベール銃を採用、ロシア語講座を新設、工学部にあたる開物方を設けて技術の研究指導機関とし、産業の開発をいそがせている。数年前の安政四年、日本で初めての洋式軍艦「開成丸」が松島湾内の造船所で進水したが、その建造の中心になった力は大槻習斎と養賢堂であった。  養賢堂を幕末の日本で指折りの洋学研究機関に育てた習斎は、同時に庶民教育にも力をそそいでいる。養賢堂内に商人や農民の教育機関日講所を設けるほか、養賢堂分校の形で、仙台市内に小学校を試みに開設している。藩の富国強兵には、まず教育の底辺の拡充が、長期計画として立てられねばならぬとの考えである。      2  文彦ら一家の仙台での生活がはじまった。北国の冬はきびしいが、父親は意気さかんで養賢堂の役職に打ち込み、「江山信美|是《コ》レ吾ガ州」と、故国に帰った喜びを筆にしている。(この詩句をのちに志賀|重昂《しげたか》が『日本風景論』を書き起すのにつかった。)  仙台藩では攘夷論者は数少ない。それでも何人かの過激な攘夷党の若者らが、開国論の大槻磐渓を許してはおけぬと、徒党を組んで論難に来る。大声をあげて罵《ののし》る者もいる。そのたび磐渓は、世界の大勢から説き起して、鎖国攘夷の愚と危険とを主張した。流行の正義をかざして来るだけの彼らとは、持っている情報の量が桁違《けたちが》いである。若者のなかには、攘夷論から開国論に、いつか自説を翻す者もあった。  そのひとりには、星|恂太郎《じゆんたろう》がいる。一時は仲間と語らって、反動学者大槻磐渓とその共鳴者|但木《ただき》土佐を斬る企てをたてていたのだが、磐渓の論が気になりだしているところへ、斬るはずの相手但木土佐の屋敷へ呼ばれた。藩政の責任者土佐は、恂太郎らの斬奸《ざんかん》計画を知って、攘夷の愚と外国の文物をまなぶことの大切をさとすために、この若者を呼んだのだ。  恂太郎はこの日から土佐と磐渓に心服、やがて土佐のはからいで横浜へ勉強に出る。横浜のアメリカ商会で働きながら洋学をまなぶ恂太郎は、のちに、やはり横浜へ出る文彦の友となり、幕末の青春を重ね合せてゆく。戊辰戦争の終期、不運にも出撃の機会を失う仙台藩最強の洋式軍隊があったが、その額兵隊《がくへいたい》千二百人を組織し訓練したのが、このときの星恂太郎青年である。  この冬、全国の諸侯に京都に参集せよとの勅書が、幕府を通じて伝達された。仙台藩主伊達慶邦も明文久三年二月はじめの上洛《じようらく》を決めた。  京都では薩長尊攘派が公卿《くげ》の一部と手を組んで、幕府に攘夷の実行をせまっている。開国と公武合体をとなえる者たちがつぎつぎ、天誅《てんちゆう》と称して斬られている。秋には生麦事件、つい先日は江戸のイギリス公使館焼打事件が起った。薩摩藩主島津久光の、藩兵を率いての上洛。初代京都守護職に任じられた会津藩主松平|容保《かたもり》の入京。薩長土各藩の藩内政治勢力の血まみれの変動を背景に、山陽から九州にかけての十数藩の藩主の入京が相つぎ、将軍|家茂《いえもち》と将軍後見職一橋|慶喜《よしのぶ》の上洛が予定されて、政局の中心は京都に移ろうとしていた。  伊達慶邦は、このたびの上洛の顧問に大槻磐渓をえらんだ。開国佐幕の立場をとることを腹に決めてのことである。藩内尊攘派の首脳たちが、上洛を前に建議書を出してきて、仙台藩を尊攘に立たせようとした。御前会議では、尊攘派と佐幕派のかつてない激論がたたかわされ、会議が終ると慶邦は、尊攘派首脳たちを謹慎あるいは閉門に処した。  磐渓は上洛に際して、長子修二は家に留め、次子文彦を連れて行くことにした。上洛の命を受けたときから、死を決していたためである。連れて行く子の安全もはかれない。家系を絶やさぬため、長子を残すのだ。  文久三年正月、磐渓と文彦の旅仕度が調って数日後の出発を待っているところへ、このたびの供奉《ぐぶ》を免ずる、代りにただちに林子平の碑文|撰作《せんさく》を命ずる、との藩命が届いた。  死を決した大役をはずされて、磐渓は茫然とした。夜、磐渓は文彦を側に置いて飲みに飲んだ。酒好きの磐渓にしてもめずらしい大酒である。青ざめた磐渓が、ひとりごとのように言う。 「おれはまたこの命《いのち》を偸《ぬす》んだ」  文彦は、事情はおよそ理解しているものの、何か言わないではおられない。なぜでござりますか、と問う。 「今度の御上洛は、日本という国の大事にかかわっておる。また、一藩の方向の定まるところである。しかるに京大坂では、かの攘夷論が沸騰の勢い。だが、おれの畢生《ひつせい》の持論は知るとおりの開国論で、けっして翻すことはできぬ。学者として国を思えば、開国こそ国の良図、おれが論は枉《ま》げられぬ。おれが京へ行けば、必ずおれが論を張る。おれが論を張れば、かの狂暴の徒の刃《やいば》は免れぬ。供奉の命のあった日から心に死を決してきた。修二でなくそのほうに随身を命じたのも、それゆえである。しかるにいま御役を免じられたのは、幸というか不幸というか。君命とあれば服すほかはないが」  父自身の口から父の決意を聞いて、十七歳になったばかりの文彦の目から、こらえようなく涙が流れ出た。死を決意した父が自分に随行を命じてくれていたことにも、胸がせきあげてくる。父はこの私を男として遇し、信じてくれた。それを打ち明けてもくれた。  翌元治元年の夏、佐久間|象山《しようざん》が京都で尊攘派に暗殺された。父磐渓と互いに行き来して、外国の事情とこの国の行く道を論じ合ったお人である。嘉永四年に象山先生が中津藩のカノン砲試射を指揮なされ、江川太郎左衛門塾で同門の父上が、許しを得て助力なされた。それ以来のお交わりで、おふたりの開国論は、おふたりの議論のなかで強められたもの。  あの象山先生が、開国論のゆえに凶徒の刃にかかられた。殿の供奉で京へお出《い》でになっていたら、父上も同じ運命に斃《たお》れられたのであろう。佐久間象山の訃報《ふほう》を耳にして文彦の脳裏を走ったのは、そのことだった。  磐渓が京都行を免じられたのは、執政但木土佐の配慮によるものだった。磐渓が死を決しているのを察した土佐が、ひとつには京で尊攘派を過度に刺戟《しげき》しないためでもあったが、藩にかけがえのない学者磐渓の身を案じての処置であった。幕末の仙台藩で執政と呼ぶ首席家老をつづけた但木土佐は、藩中でも磐渓を信ずることもっとも篤《あつ》く、その開国佐幕論を磐渓によって育て、やがて奥州列藩同盟の中心人物となって、戊辰の敗戦後処刑される。  二月三日、春近いとはいえ雪もよいの空の下、但木土佐はじめ二千二百の士を従えて、伊達慶邦は京へ向った。  連年の凶作に加えて、昨年は夏から冬にかけての麻疹《はしか》の大流行があった。村々は疲れ、藩の財政は破産寸前である。京へ行けば大藩の進退を問われる。この上洛についても、幕府からの命とは別に、京の関白|近衛《このえ》家から内勅が来ている。将軍上洛に先立って単独に入京し、攘夷の態度を表明せよというのである。御前会議での藩論の二分も、この内勅の諾否をめぐるものだった。結局は内勅無視の断を下して、尊攘派を切り、幕命による上洛に出発したのだが、内にも外にも難問はかさなっている。幕末の藩主はそれぞれに悩みを持ったはずだが、去就の注目される大藩を統べる身の慶邦である。心中の苦悩は、蔵王の雪のように深い。  慶邦は三月末仙台に帰ってきた。在京わずか二十日あまり。すでに莫大な出費である、これ以上の経費は使えない。そのうえ、京都での尊王攘夷と開国佐幕の対立が激しすぎる。不評を買おうとも、火中から身を退《ひ》きたかった。  同じ頃、雪どけを待って、文彦は一関に出かけた。山目《やまのめ》の宗家を訪ねること、そして何よりも、父の雅号の由来する磐井川の渓流を見たかった。  一関まで二日、一関城下からしばらく北へ歩くと磐井川に出る。東流して北上川に流れこむ磐井川は、すでにこのあたりは流水満々の大河である。雪どけ水が音をたてて流れて行く。  大橋を渡れば山目、さらに二町ほど先の小高いところに、老松を目印のようにして大槻宗家がある。磐井の流れの先に、焼石、栗駒《くりこま》らの奥羽の背骨をなす山々を遠望する位置だ。  北へ二里すれば中尊寺。中尊寺の裏道を降り、小さな流れに沿って左へ折れれば衣川の柵跡《さくあと》に出る。小流は衣川、かつての蝦夷《えみし》軍団の南方最前線であり、京都朝廷軍団の前進基地であった。  この川も丘も、軍団のざわめきを、そして奥州藤原氏の管弦の音を聞いてきた。  文彦はここにきて、奥州を実感した。父の「帰心」と同じものが自分の血にあるのを知った。  幕末の青年たちが、多くは藩意識からの脱却を歴史によって強制されてゆき、そのための内心の軋《きし》りを耐えたのと逆に、文彦はむしろ、洋学によって先行する国家意識を土壌に、仙台帰住の間に故里《ふるさと》を発見して行った。そこから育つ文彦のナショナリズムは、故里を抹殺《まつさつ》していったナショナリズムとも、勝者のエゴである藩閥意識を枷《かせ》とするナショナリズムとも、自然違ってゆくだろう。  磐井の流れに沿って西へ上ってゆくと、三里ばかりで厳美渓の渓谷である。  茶褐色の石英安山岩群のあいだを、オリーヴグリーンの水が押し込むように流れ走っている。白い泡《あわ》と飛沫《ひまつ》が無限に変化する。  激動する流れは止《や》むことがない。逆巻き、流れ込み、岩を割るかとぶつかり、水の悲鳴かと思う音をたて、しかし、渓谷の法則にしたがって流れ、下流へ落ちてゆく。すぐ下の広々とした浅瀬を、水はすでにのどかに流れている。  文彦は小半日、平らな岩に坐って、水の流れを見て飽きなかった。これが磐井川だ、そして、これが時勢の流れだ。      3  磐井川から仙台に帰った文彦は、ふたたび養賢堂での勉学に精を出した。  朝六時登校、午後二時下校、その間一般生徒の教科は四書五経などの経書の素読、講釈、会読、それに習字、剣術といったところだ。文武兼修は義務づけられている。文彦も一刀流の剣術を習うことになったが、いっこうに上達しない。「何で首を曲げておるのだ。大学や朱子の章句では剣術はできないよ」などと、立合の相手にひやかされたりしていた。  しかし漢学のほうはすでに十分に力を積んでいる。小学講究、四書講究、七経講究に分れた教員登用試験をつぎつぎに受けていった。  登用試験を受けるには、まず自分で易経なら易経をとくと会得したうえで、易経の試験を受けたいと申し出る。試験日が決まると、その日その書物を持って試験座敷に入り、書物を机の上に置く。五、六人の試験官がその書物を手あたり次第にひろげて、受験者は、ひろげられた所を講釈させられる。落第すれば日を改めて出直すのだが、文彦は論語で一度落ちただけで、まもなく養賢堂教員となった。  仙台に来て一年にならない文久三年九月二日、十七歳の大槻文彦は養賢堂|主立《しゆだち》(助教)を命じられた。下から三番目の教職だが、それでも学頭以下六十名ほどの教官の一員である。年二両の給金も支給される。なにより、仙台藩が任命する正規の役に就いたのだ。生徒には自分より年長の者も多い。大槻一族としての自負心が、若者らしく満たされた。  養賢堂内の仮住いから、秋空の高い日、北一番町の新邸に移り住んだ。磐渓撰文の林子平の碑も建った。遠く鹿児島湾では、イギリス艦隊と薩摩藩の砲撃戦が行なわれていた。数時間で城下の一割が焼かれたと聞く。京都では公武合体派のクーデタが成功し、各地で尊攘派が衰えてゆく。仙台藩にも大槻家にも、しばらくの平穏がつづいた。  慶応元年七月、養賢堂学頭大槻習斎が亡くなった。十月、磐渓が新学頭に就任。  学頭になるとすぐ、磐渓は新事業を計画した。養賢堂を時勢に合わせてさらに改革しようとしたのだ。尊攘派はふたたび力を得、国内政治も対外関係も緊迫している。仙台藩の近代化が、磐渓には心せかれた。  ところがその性急さが、事務官の反撥を買った。古株の事務官が、学田一万二千石の財政を押えている強みで、新米の学頭なにするものぞと横柄な態度に出る。そのうえ、この男が学校予算を小細工して私利を得ていることがわかった。前任の習斎は物事に頓着《とんじやく》しないたちの人だったが、磐渓は小悪事といえども見逃せないほうだ。両者は対立状態になった。  事務官は古顔で世事に長《た》けた男だから、藩校内にも藩庁にもしかるべく手を打ってゆく。学者磐渓が太刀打ちできるはずがない。結局なにもできぬまま、磐渓はヒポコンデルを起して病床についてしまった。世間では磐渓が発狂したと噂《うわさ》して、「大槻は同じ木なりと思ひしに今度の槻はきがちがふ也」という落首までつくられた。  事務官との抗争に疲れはて床についた磐渓は、就任後半年もしない慶応二年三月辞表を出し、あわせて隠居願を出した。翌月、長男修二が家督を相続、磐渓には多年の学問出精抜群なるをもって隠居料を特に賜わることとなった。  真正直にむきになる磐渓だったから、一種のノイローゼにかかったのだが、学頭職を辞めるとまもなく元気になった。学頭のような管理職には不向きだったのだろう。翌年は藩主の学問相手を命じられ、明治元年戊辰の年には、藩政の中枢に参画してゆくことになる。  文彦は、藩から洋学稽古人を命じられた。父が学頭を辞めてしばらくしてのことである。  養賢堂の洋学教師を師として、洋書調所以来の洋学をはじめた。ところがこの教師が、専門が蘭学で、文彦のやりたい英学にはそれほどの知識はない。英書も教えてはくれるのだが、すこし世をすねているのか、酒ばかり飲んでいて、知識欲のさかんな二十歳の青年には物足りなくてしかたがない。これでは十分な稽古ができない。  英学をやるには英米人に就くのが近道だ。それには横浜に出なければならぬ。  父も兄も賛成してくれた。父は江戸の留守居役|大童《おおわら》信太夫に手紙を出してくれた。藩の許可も得た。  年長の友人富田鉄之助も、文彦の横浜行を応援してくれた。のちに『言海』祝宴の発起人になってくれる富田は、このとき三十二、江戸から一時帰国していた。  富田と知り合ったのは、文久二年、文彦が初めて仙台に住んだときである。江戸で蘭学と高島流西洋砲術を修めた富田が、そのころ藩の西洋兵法講武場主の役に就いていた。帰住してきた大槻磐渓は、西洋砲術の江川太郎左衛門塾で学頭をつとめてきている。磐渓一家の仙台到着以来、養賢堂構内の大槻家に、富田鉄之助が毎日のように姿を見せていた。磐渓に会いにくるわけだが、講武場主とはいってもそのころはまだ二十代の青年のこと、いきおい修二や文彦の話相手になることが多かった。  翌文久三年の正月、富田は蒸気機関並びに海軍術稽古人を命じられて江戸へ発《た》って行った。江戸では勝海舟の氷川塾に入門して、のち慶応三年には勝の息子|小麓《ころく》のアメリカ留学に付添役をたのまれるほど、勝の厚い信頼を受ける。それだけ有能で誠実な青年だから、藩のほうでも大事の用というと富田の名が出る。氷川塾に籍は置いていたが、この三年ほどはしばしば藩命で、京大坂へ情報探索に出かけ、諸藩の士と往来していた。昨年は水戸で武田耕雲斎の乱が起ると、水戸に接近する仙台領の民情視察を命じられ、乱の一味の脱走者と誤認されて危ういところだった。いったん江戸にもどってから、この夏仙台に帰省した。  文彦は帰省中の鉄之助に兄事した。横浜へ出なくてはならぬと心を決めたのも、ひとつには富田の語る江戸横浜の話に刺戟されてのことであった。  慶応二年九月十一日、文彦は仙台を出立して江戸へ向った。それから十幾日かして、富田鉄之助も緊急の密命で京へ発った。  仙台の四年間で、文彦はおとなになった。二十歳の若者は、才能ある者ならば成熟しきっている。養賢堂の教官としてもすでに三年の経験を積んだ。富田鉄之助と同じく、仙台藩の俊秀と目されている。背も十分伸びた。文久二年の冬空の下を家族とともに仙台へ向って旅をしていた十六歳の文彦とは、肉体も精神も変貌《へんぼう》している。同じ風景のなかを、いまはひとりで、逆に江戸へ向って南下しているのだが、四年間で身につけたものが自然の自信になって、足どりにためらいがない。  仙台で友を得たことも大きかった。富田鉄之助はもちろんそのひとりだ。某々、某々、と文彦は歩きながら数えてみる。いずれも才能ゆたかな友だ、いつかまた江戸あたりで会うことになるだろう。  のちに『言海』の稿本を文部省から下賜されて、私費で出版することになったとき、不足の資金を出してくれるのが、これらの友である。文彦が跋文《ばつぶん》に同郷の友の名を書き誌す。  かくて、稿本は、文部省中にて、久しく物集《もずめ》高見《たかみ》君が許《もと》に管せらるときゝしが、いかにかなるらむ、はて/\は、いたづらに紙魚《しみ》のすみかともなりなむなど、思ひいでぬ日とてもあらざりしに、明治二十一年十月にいたりて、時の編輯《へんしゆう》局長伊沢修二君、命を伝へられて、自費をもて刊行せむには、本書稿本全部下賜せらるべしとなり。まことに望外の命をうけたまはりて、恩典、枯骨に肉するおもひあり、すなはち、私財をかきあつめて資本をそなへ、富田鉄之助君、及び同郷なる木村信卿君、大野清敬君の賛成もありて、いよ/\心を強うし、踊躍《ようやく》して恩命を拝しぬ。  富田鉄之助はこのとき日本銀行総裁、木村信卿はいまの国土地理院の基礎をつくった人で陸地測量官陸軍少佐、大野清敬は第七十七国立銀行の役員である。 [#改ページ] [#小見出し]  第四章 戊辰の父と子 [#この行8字下げ]英学修業——京へ——奥羽戊辰戦争——嘆願      1  千住の橋を渡ると、どこがどうなのか、やっぱり江戸だな、と思う。遠くから町が匂ってくる。文彦の、もうひとつの故里があった。  見なれていたはずの町並が妙に違うことが多い。棟上げをしている家を見て思いあたった。相変らず火事が多いらしい。  文彦はまっすぐに、芝|愛宕《あたご》下の仙台藩中屋敷へ向った。  中屋敷は二町四方のひろびろした敷地を持ち、北、東、西の三方に低い足軽長屋、南に面して馬場、まんなかが整地された調練場で、側に順造館という学校がある。  以前は足軽長屋と馬場のほかは草むらと木立が放りっぱなしになっていて、蝉《せみ》が鳴き蝶が飛ぶ、足軽の子らの遊び場だった。江戸の中心部にいるとは思えない空地だった。  この屋敷に七年前の安政六年、仙台から新任の江戸留守居役が着任した。まだ二十八と若い大童《おおわら》信太夫であった。留守居役は公儀使《こうぎづかい》ともいって、江戸に在駐する藩の外交官である。  信太夫が中屋敷を、いまあるように作り変えた。彼は内外の情勢に敏感だった。仙台の養賢堂は大槻平泉以来それなりに時勢を反映していたが、江戸に来てみるとやはり立ち遅れのあることを認めざるを得ない。江戸屋敷の藩の子弟教育を改革しなければならぬ。  順造館を建てた。調練場をつくった。時勢に遅れぬよう、洋式歩兵の訓練をするためである。目下、幕府陸軍所教官をまねいて、洋銃による足軽歩兵隊を調練している。  ただし学校のほうは簡単にはいかない。教育は短期のものではない。彼はいまのところ組織立った教育よりも、個々の有能な才の発見と開発に意欲を持っている。こういう時勢では、そのほうが効果があるだろう、と。  しかもその方向は、旧来の和漢の学であってはならない。欧米をまなぶ者に俊才が出てこなければ、仙台藩もこの国も危ない。  大童信太夫は、仙台藩の洋学学生のパトロンであった。  着任してまもなく信太夫は、大槻磐渓を介して福沢諭吉を識《し》った。ふたりはこれからの日本の青年の教育について語り、共鳴することが多かった。翌万延元年、諭吉が咸臨丸で渡米したときには、信太夫は藩金二千五百両を預けて、洋書の購入を依頼した。洋学を志す若者たちのために、最新の洋書をできるかぎり備えてやりたかったからだ。  はじめて日本人だけで操艦して太平洋を渡るという、命がけの冒険航海に出る咸臨丸だ。そこへ二千五百両もの公金——咸臨丸が二万五千両だから、乗って行く船の一割にもあたる金だ——を預けようという無茶な話である。しかし福沢は大童の人柄と考え方をよく知っている。大童も福沢をよく知っている。福沢は気軽にこの金を預り、四ヶ月後の五月に品川に帰港したときには大量の洋書を持ち帰ってきた。  信太夫はいまも築地|鉄砲洲《てつぽうず》の福沢の塾へちょいちょい顔を出している。いまでは福沢塾は、英学をやるならここだという評を得て、各地から塾生が集まって来ている。信太夫は諭吉に会いに行くというより、塾の学生たちに会って、見どころのある者には高価な洋書を買いあたえたり、酒食を饗《きよう》したりするのを楽しみにしている。他藩の人間であろうが信太夫は気にしない。日本の将来を支える洋学生のパトロンと、自ら任じているのだ。  文彦が中屋敷に着くと、但木《ただき》土佐がわざわざ書いてくれた書状を出すまでもなく、信太夫はさっそく酒の用意をした。 「磐渓先生の子息だ、飲めるだろう」  文彦は飲みながら仙台の近況を報告した。自分のこれからの英学修業のことを相談した。 「鉄砲洲の福沢先生の英学塾もあるが、直接英米人に就いて学びたいということならば、もちろんそのほうがよかろう。横浜には父上の暗殺を企ておった、例の星恂太郎がいるぞ。いまはウエンリート商会という米人の会社のクラークをやっておる。外人の教師や住いのことはおれがなんとかできようが、横浜の詳しいことは星に相談してみろ。  横浜の太田町に、藩で建てた小さい家がある。木村大三郎とは仙台で知合いだったそうだな、もう二十七のはずだ、フランス学に精を出している。あれが監督格で、ほかに二人、十三、四の子供で高橋和喜次という暴れん坊と鈴木六之助というおとなしいのがいる。ふたりとも見どころのある子だ。はじめはドクター・ヘボンの奥さんに就かせていたんだが、ヘボンさんが帰国したあと、いまは宣教師のミスター・バラの奥さんに就いて英語の稽古をしておる。  この三人に和喜次の祖母が世話役で付いて、煮炊き洗濯などをやっておる。星もときどき立ち寄るそうだ。まあ、仙台藩の横浜駐屯所だな。住いはあそこがよかろう。先生もとりあえずは、バラ夫人かミスター・バラかにたのむことにしよう」  フランス学の木村大三郎というのは、のちに『言海』出版に出資してくれる木村信卿である。  高橋和喜次はのちの大蔵大臣高橋|是清《これきよ》である。翌慶応三年の夏富田鉄之助が勝小麓に付添って米国へ留学するときに、勝海舟のすすめで、仙台藩からも高橋と鈴木の二少年を留学させた。米船コロラド号で富田らは上等船客だったが、二少年は芸州藩の脱藩者らとともに、四百人ばかりの中国人移民にまじっての下等船客だった。航海中ずっと富田鉄之助が、ふたりの面倒をみた。もっとも、子供のくせに無類の酒飲みの高橋少年には、鉄之助もかなりてこずったらしい。  文彦は横浜へ行く前にひと月ばかり、もう一度洋書調所——いまは開成所——で、英学の基礎勉強をしていくことにした。  開成所では久しぶりの再会に教官たちが喜んでくれた。英学の箕作麟祥は文彦の一歳年長で、ことのほかなつかしがった。麟祥は近頃フランス語をはじめていると言う。明年フランスの首府|巴里《パリ》で開かれる万国博覧会御用の内命があったためだ。麟祥は今年結婚したばかりで、そのせいでもあるまいが、晴ればれしている。  麟祥に会うと文彦は急に、おれはまだ修業中の未完成品だと感じてしまう。だが麟祥のほうはそんなことに頓着しない、根っからの人の好さがある。育ちの良さだろう、会うたびに惹《ひ》かれる知己だ。子供のときに足を痛めて右脚が不自由なのだが、会っていると、そのことも忘れさせられてしまう。  数学の神田孝平は『経済小学』を翻訳中、加藤弘之はつい最近幕府の直参に挙げられ、西洋の政治学、法律学、哲学の研究にも幅が出ている。文久二年にオランダへ留学した西周と津田真道が去年暮れに帰国して、ともに教授職に就いていた。  古巣にもどった文彦は、やはり仙台では得られない精神の昂揚《こうよう》に、夜中にふいに目が開く日がつづいた。  幕府軍の第二次長州征伐が失敗していた。大坂城中で二十一歳の将軍家茂が死去、一橋慶喜が徳川家を継いだが、将軍職にはついていない。不気味な政情である。  それらのことが、むしろ遠い世界のように思えた。目は広い世界に向けなければ。こんな狭い国で蝸牛《かぎゆう》角上の争いをしていて、いったいどうなる。  しかし事実は長州藩内で変化が起っていた。文彦らは知らないが、洋書に目を開いた高杉晋作や大村益次郎らの開国討幕派が力をたくわえていた。薩長同盟の密約が交されていた。一年あまりのち、それが否応なく文彦や磐渓を渦に巻き込んでいくはずである。  イギリス人グラバーのような�死の商人�が、歴史の裏でいそがしく馳《か》けまわっている。  文彦が開成所へ通いだして一ヶ月近くたった十月二十日、恵比須講の日に、横浜で昼の大火が起った。文彦が住むはずの太田町の家も焼けてしまい、木村も、高橋と鈴木の二少年も、高橋の祖母を抱えるようにして江戸の中屋敷に逃げ帰って来た。新興地横浜の日本人町の三分の一は焼け、外国人居留区域の四分の一が火につつまれた。運上所も焼けた。攘夷浪人の放火と噂された。  安政六年の条約で開港された横浜は、それまでは九十戸ばかりの農漁村だった。条約には神奈川開港と明記していたが、幕府は東海道の主要宿駅である神奈川を避けて、南の横浜村に、波止場や外国人居留地、税関事務その他の外国関係事務を扱う運上所を建設し、沼沢を埋め立て、掘割をつくり、道路を整備した。アメリカ総領事ハリスらが、開港地の変更は条約違反であると抗議したが、幕府は、横浜は神奈川の一部だとして押しきった。  日本人商人たちが出店をつくるように、奨励というよりは強制にちかい横浜振興策がとられた。外国人商館も港として条件のよい横浜に、つぎつぎと建設されていった。神奈川から横浜へ移転する外国領事館も増えて、翌万延元年には横浜の繁栄は神奈川をはるかにしのいでいる。外国人居留区では、広い街路に街灯がともり、教会、公園、競馬場、墓地、屠牛《とぎゆう》場などがつくられ、下水道も整備された。  横浜の近くには馬で遠乗りをする外国人男女の姿が見られた。周辺の太田屋新田を埋め立てて設けた遊廓《ゆうかく》に、英語、フランス語、オランダ語、ロシア語などが飛び交った。貿易の利で景気のいい日本商人たちもよく遊んだ。外国人の下働きをしている中国人たちも見かける。 「アナタ、ペケ、アリマス」といった片言が聞かれる。「ペケ」は「横浜居留地ニ行ハルル訛語《かご》」で、「可《ヨ》カラズ」の意、マレー語起源とも言うが、文彦は Baka(馬鹿)の転でもあろうかとしている。 「ドンタク」も居留地生れの日本語である。「蘭語 Zondag.ノ訛。日曜日。休日。」(『言海』で Zundag.とあるのは誤植か)「半ドン」の語ものちに派生してくる。  外国人、日本人の、官吏の馬車が通る。錦絵画家たちが「横浜絵」を描く。牛肉屋ができる、時計屋ができる、写真館がならぶ。横浜案内の絵図や本が売られる。≪The Japan Herald≫≪The Japan Times≫などの英字週刊新聞が居留地で発行される。 「文明開化」が、すでに始まっていた。  慶応二年の横浜大火は、幕末維新前後滞日二十五年のイギリス書記官アーネスト・サトウの家も焼き落した。朝九時ごろに半鐘が鳴りはじめ、サトウが屋上の物見に上がってみると、半マイルほど先に火炎が天に冲《ちゆう》しているのが見える。この日の横浜を、サトウが『一外交官の見た明治維新』に書きのこした。(坂田精一訳) [#ここから1字下げ]  居留地の背後の空地へ出ると、ここでも、ごった返しの、すさまじい光景が現出していた。日本人町の一番火勢の激しい場所は、周囲が泥沼でかこまれている小さい島であった。木の橋一つで横浜の他の町につながっているのだが、その橋はもう避難民でいっぱいで、歩いても、泳いでも、安全な場所へ渡ることはできなかった。  火炎は激しい勢いで外国人の倉庫、住宅などの間を荒れ狂い、午後四時前には倶楽部《クラブ》ハウスだけを残して、海岸通りの半分を焼きはらった。一時は、夜に入らないうちに居留地の全部が烏有《うゆう》に帰するのではないかと思われたが、そんな事になったら、ヨーロッパ人はみな船に避難しなければならなかっただろう。 [#ここで字下げ終わり]  大火のあと、新しい橋はとりあえずは木でつくられたが、のちに鉄で架けかえられた。運上所も、それまでの木造から日本最初の洋風建築で再建された。橋々の関門の警備がきびしくなり、横浜へ出入りするひとりひとりが吟味されている。  文彦の横浜行はこの火事でしばらくのびた。はやく実地の勉強がしたかったが、開成所でまなんでおくことも多い。それに、ちょうど好い機会なので、福沢諭吉、成島柳北、林学斎、桂川甫周といった旧知への挨拶もすませた。  横浜大火が攘夷浪人の放火だとささやかれるように、政治勢力としての尊攘派はまだ雌伏しているものの、単純な攘夷浪人の数はむしろ増えていた。  このころ福沢諭吉はヨーロッパ旅行から帰り、幕府直臣にあげられていたが、幕府翻訳方で福沢の同僚の手塚律蔵や東条礼蔵はそれぞれ一度は危うい目に遭っていた。外国のことを言う奴はすべて売国奴だと思う連中のこと、洋学者などはとりわけ許しがたいらしい。話してわかるような相手ではない。  福沢が自伝に書いている。「マア/\言語挙動を柔かにして決して人に逆《さから》はないやうに、社会の利害と云ふやうな事は先《ま》づ気の知れない人には云はないやうにして」、もっぱら著述翻訳と英学教授法の工夫をして、「世間の事には頓と頓着せず、怖い半分、面白い半分に歳月を送《おくつ》て」いた、と。 [#ここから1字下げ]  刀なんぞは生れてから挟《さ》すばかりで抜《ぬい》たこともなければ抜く法も知らぬと云ふやうな風をして、唯用心に用心して夜分は決して外に出ず、凡《およ》そ文久年間から明治五六年まで十三四年の間と云ふものは、夜分外出したことがない。 [#ここで字下げ終わり]  十二月二十八日、この年の暮れも押しせまって、文彦はようやく念願の横浜に引越した。ただし公けに横浜に入れたわけではない。武士は公許がなければ、関門から内へは入れなかった。文彦らは刀を捨て丸腰になって、町人に身をやつしての横浜入りである。腰がふわふわ軽いが、どうせ差していても役立てられる腕前ではない。文彦は「平新吉」という変名をつかった。大槻家が平氏の流れだからだ。のちに『言海』の跋文に「平文彦」と署名したのと同じ考えである。  住いは浅間《せんげん》山下のクリーニング屋の座敷で、ここに文彦、木村、鈴木の三人が下宿、高橋少年は本町通りにあるイギリスの銀行のボーイになって、支配人の家に住み込んだ。  文彦は、アメリカ人宣教師バラ氏に就いて英語をまなぶことになった。バラはアメリカ人宣教師の最古参で、夫人とともに英学塾を開いている。先頃離日したヘボンの同僚でもある。(眼科医で宣教師のヘボンは、ヘボン式日本語ローマ字綴り法を創始した、あのヘボンである。翌慶応三年にその労作、二万語を収めた和英辞書『和英語林集成』を上海《シヤンハイ》で印刷する。名前は正しくはヘプバーンだが、在日当時から�ドクター・ヘボン�で通っていた。)  学資は父の厄介にならぬと、文彦は仙台を出るときから決めていた。何で稼《かせ》いだらいいかと考えているところへ、バラ氏からの話があった。居留地百一番館のイギリス人宣教師でベイリーという人が、先月末(慶応二年十一月二十六日、一八六七年一月一日)『万国新聞紙』という、木版で不定期刊の日本語新聞を創刊して、日本人編輯員をもとめている。報酬は一ヶ月五十|分《ぶ》、つまり十二両二分という。養賢堂なら、それで暮すわけではないが指南役の三年分の給金だ。(福沢諭吉の塾で教師の給料が月に四両、これで一ヶ月暮せた。)格調のある日本文が書けて、英文も多少は読め、それでいてお高くとまった学者ではなく気軽に外人の下で働いてくれる人間となると、そのくらいの値打ちがあったのだろう。とにかく、勉強にもなり稼ぎにもなる好い仕事だった。  ウエンリート商会につとめている星恂太郎も、銀行のボーイの高橋も、暇があると文彦らの下宿に来る。もちろん同郷人の親しさだが、金まわりのいい文彦の懐もあてにした。文彦のほうもそれは承知している、大喜びで振舞った。ほかにも横浜で知り合った友人で金に困っている者がいると、おれの家に来いと言っては、いつでも四、五人の食客がごろごろしていた。たまにベイリーからの月給の支給が遅れたりすると、「なんだ、まだ貰って来ないのか」と、食客のほうから文彦が叱られる具合だ。  文彦が二年後に横浜を去ったあと、のちの自由党のリーダー星|亨《とおる》なども、この『万国新聞紙』の編輯に入った。文彦の食客のひとりだったかもしれない。「兎《と》に角此《かくこの》大槻は日本最初の新聞記者だ」というのが、明治になっての文彦の自慢話だった。  まだ覚束《おぼつか》ない英語で、文彦は欧米の新聞の翻訳をし、記事を書き、編輯をした。合衆国大統領リンコルンの暗殺者逮捕を報じ、ロンドンの日本産生糸相場を論じ、「日本政府に於《おい》て江戸より横浜に至る間に試《こころみ》に伝信機〔電信〕を施し行はん事を勧むる者ありと聞けり」と伝聞を誌して、「伝信機」の利を説き、その実施方法への私案を述べたりもした。  パリ万国博覧会に参列している将軍慶喜の弟徳川|昭武《あきたけ》一行の記事を載せ、その通訳についたフランス人が彼《か》の地の新聞に怪《け》しからぬことを書いていると憤慨もした。「カシヨンなるものは世人の能《よ》く知りたる如く、日本に在りし時は日本政府に拘《かかは》りたる『ジャッパンヘラルド』といへる新聞紙の頭取なりし其《その》時は、将軍は日本の実の国君なりと記載せしが、方今にては反対したる事を言ひ出せるのみならず、尚《なほ》頑固にして愚なることを言へり。各々の大名は大将にして、大将は大君即《たいくんすなは》ち将軍なりと。斯《か》く佞奸《ねいかん》変説の人を此の如き高位なる日本大君の尊弟の側に侍《はべ》らしむるは解せざる所なり」という具合である。  ヘボンの和英辞書が刊行されたことも報じた。「簡便確実にして且《かつ》鮮明なり。英学に志ある諸君は座右に置かずんばあるべからず。然《しか》れども多分にあらざれば、速《すみやか》に買はずんば及ばざるべし。横浜三十八番にて売り出せり。」      2  一年ちかくが流れた。渡米する富田鉄之助を見送って三月《みつき》。慶応三年、二十一歳の秋が深い。バラ氏の塾での勉学はひととおり終った。この先は同じアメリカ人宣教師タムソン氏の個人教授を受けるのがよかろう、とのことだった。  そのタムソン氏に教わりはじめたばかりの十月上旬、一書生が商館で盗みをしたとかいうので、横浜中の書生狩りが行なわれ、書生は総放逐になった。文彦も逐《お》われて、江戸の仙台屋敷へ帰った。  この先どうするかと考えている或る日、大童《おおわら》信太夫の部屋に呼ばれた。  十四日に京都で将軍慶喜が大政を朝廷に返上した、という報知がこの日江戸に届いていた。(京都では十三日、薩長二藩に討幕の密勅が出ている。)政治はとうとう大爆発を起そうとしていたのだ。磐井川の渓で見たあの激流のように、いま、流れ込む水の全エネルギーが、岩と岩にせばめられた急傾斜の流路へ向っている。  朝廷は、全国諸大名の京都参集を命じている。ほとんどの藩が、どう行動していいか迷っているだろう。  大童信太夫は仙台の執政但木土佐へ急使を出した。と同時に自分は一刻も早く京へ上って、情報の収集にあたると決めた。いずれ藩公か但木土佐殿が上京されるだろう。それまでに情報を把握しておく者が要る。仙台への急使には、その行動予定を書状にして渡した。大槻復三郎(文彦)が役に立つと思うので京へ連れていく、とも書いた。また、御上京の際、中屋敷に近年調練をつづけた洋式歩兵小隊がおるので、この隊をお連れくださるよう。 「というわけだ、復三郎。今日一日は江戸の情勢をできるだけ調べる。明日は早朝に京へ発つ。大事のときだ。しっかり腹をくくって働いてほしい。諸外国とのかかわりも難しいことになろう。復三郎の英語が役立つようになるやもしれぬぞ」  信太夫と文彦は、早打|駕籠《かご》六昼夜で京都へ上った。普通なら十四日の旅程だ、中長者町小川の仙台藩邸に着いたときには、ふたりとも物も言いたくないくらい疲れていた。  京都には殺気が流れている。徳川慶喜の大政返上がほんとうのところ何を目論《もくろ》むものか、これからの世がどうなるのか、武士ばかりではなく商人も職人も、だれもが息をひそめ、目を光らせている。  血なまぐさい事件の、ここ何年かつづいている京では、自分は関係がないと思っている人でも、余所目《よそめ》から見れば多かれ少なかれどこかおかしかった。灰汁桶《あくおけ》の栓口から灰汁がしたたるように、すこしずつ狂気がたまっている。もっとも、余所目のほうもあやしいものだ。この国全部が、集団ヒステリーにかかっている。横浜という、この国ではないような土地に一年ばかり居た大槻文彦は、その毒から離れていた少数者のひとりだろう。  文彦は大童信太夫の指示で京の町を馳けまわっている。京案内の絵図で地理もおよそのみこんだ。「藩の国事に奔走する者の最年少者」であることが、文彦の自負心にこころよかった。同時に、この時勢を、ことに町の様子を、できるだけ落着いてみようとする冷静さがある。  ちょっと見には不断と変りなく見える京の町に、耳を傾けるとさまざまの流言が流れていた。大政を返された朝廷は大弱りで、明日にももう一度、幕府へ大政をあずけ直すそうな。朝廷と薩長を恐れて大政を返した将軍に、旗本たちがあいそをつかして、いまの将軍を隠居させるそうな。江戸では薩長相手の戦争準備で、旗本軍の一部はもう京へ向っているそうな。天皇をひそかに奪って大坂城へ移すたくらみが進んでいるそうな。薩摩の殿様が将軍になられるそうな。いや、なんでも外国の軍勢が押し寄せてくるそうな。  その京の町に、見るから異様なことも起っていた。八月ごろ名古屋あたりではじまったというが、踊り狂う人の群れが、昼夜かかわりなしに、あちらの道、こちらの露地にあらわれた。褌《ふんどし》ひとつの男、腰巻だけの女、女の着物を着た男、男の着物を着た女、歌舞伎役者のように顔を塗りたてた男女、——ひとりとして普通の姿はない。夜だと頭上に赤提灯《あかぢようちん》をかかげている。手を振り足拍子をとって唄い、踊り狂い、金持の家に踊りこんで酒食を食いちらし、踊り疲れればどこの家でもかまわず眠り、目が開けばまた踊り出す。   えいじゃないか えいじゃないか   もろてもえいじゃないか   食うてもえいじゃないか   飲んでもえいじゃないか   おそそに紙はれ   破れりゃまたはれ   えいじゃないか えいじゃないか  年寄りも子供も、若い娘も、分別ざかりの男たちも、年にはかかわりなかった。太鼓や三味線の鳴物入りで、「えいじゃないか、えいじゃないか」と、踊りに酔ってゆく。  文彦には、なぜだかはわからない。しかし、こういう狂があっても不思議ではない実感が、慶応三年の日本にはある。唄の文句はいろいろに変るようだったが、その二、三を懐中の覚え帳に書き留めた。  昔から何十年かに一度「お蔭《かげ》参り」「抜け参り」の群れが踊り狂うことは聞いていたが、これは伊勢へ向うのではないらしい。不気味だった。  おかげ-まゐり[#「おかげ-まゐり」は太字](名)|御蔭参[#「御蔭参」に傍線]| 伊勢ノ内外宮ヘ、国中ノ民、挙《コゾ》リテ絡繹《ヒキツヅ》キ詣《マウ》ヅルコト、数十年ヲ隔テテ、時時、此事アリ。  十一月なかばを過ぎて、但木土佐が、江戸の例の洋式歩兵を率《ひ》き連れて京に入った。仙台には十月末、朝廷からの召命が、信太夫の急使と前後して着いていた。さまざまの議論があって、結局、藩主慶邦公が動かれるのは情勢を見てからと決めた。藩主病につき但木土佐が代理で上京、としたのである。  実際、どの藩でも同じような結論を出していた。朝廷の命に応じて藩主が上京しているのは、京都に近い十幾つかの小藩と、薩摩、越前《えちぜん》、尾張《おわり》、安芸《あき》、彦根くらいである。  仙台藩主は上京すべきか否か。但木土佐以下京にいる者に課せられているのは、そのための判断資料の報告であり、それに基づく意見具申である。  十一月二十八日には薩摩兵の大軍が入京した。その数は三千とも一万とも噂される。西宮には長州兵千数百が宿陣しているようだ。大坂には会津と桑名をはじめ一万を越える幕軍が集結中と聞く。  京都の空気は日を追って張りつめている。薩摩を主力とする討幕派諸藩の藩兵が、あちらこちらに群をなしていた。早い時間に店仕舞いをする商店が増えている。  京都守護職配下の新撰組《しんせんぐみ》と見廻組が、討幕派諸藩士の行動を押えこもうと、厳戒体制を布《し》いている。十五日の夜には河原町三条下ル蛸薬師《たこやくし》角の醤油屋の二階で、坂本竜馬と中岡慎太郎が、見廻組に襲われて斬られた。  この「殺気粛然たる間」に、文彦は、それらの情報の収集や確認に走りまわっている。但木、大童らの藩邸首脳は、連日の会議、建白書の作成、諸藩との外交交渉である。  藩邸には幕末仙台藩きっての才能と識見の人物があつまっていた。  但木土佐、五十歳、大槻磐渓と気を通じる藩執政、勝海舟が奥羽第一の人物と呼ぶ開国論者。戊辰戦後、死罪。  大童信太夫、三十六歳、西洋文明を見据え、洋学書生の世話が道楽の江戸留守居役。いまは京都仮留守居役を兼ねる。福沢諭吉がのちにこの人の助命に奔走する「気品の高い名士」。  玉虫左太夫、四十五歳、かつて北海道の山野を跋渉視察、万延元年遣米使節団の計画を知ると大槻磐渓にたのみこみ、磐渓の奔走でポーハタン号の渡米使節団に従者として随行、帰国後、『航米日録』八巻を藩主に献じている。もちろん開国論、公武合体論である。文久の初年から江戸、京坂地方、薩長の諸藩の形勢を探索している。戊辰戦後、死罪。  三人に共通する考えは内乱の回避である。ここで内乱を起すのは国を滅ぼすもとになるという、世界情勢の認識が基礎にあった。そのうえで仙台藩がどう行動すべきかを考えている。京都の市民には、いまに大藩仙台が起《た》って薩長を押えるだろうと期待する者が多かった。しかし仙台はいっこうに動かない。優柔不断、どっちつかずに見える。だが、それは、仙台藩京都藩邸首脳の、非戦の道を探しもとめる懸命の努力の外見にすぎない。  しかし薩長らの討幕計画は、土佐藩との提携にも成功していた。すでに武力革命の方向にエネルギーを集中し、とどめようのない力になっていたのだ。  慶応三年十二月九日朝、薩摩藩兵が完全武装で、大砲まで曳《ひ》いて市中に押し出した、と報《しら》せが入った。文彦が偵察に出された。みぞれまじりの薄雪の町を走った。五分ほど走り烏丸《からすま》通りに出て、はっと足がとまった。御所の中立売御門に、ものものしい警備だ。すぐ南の蛤御門《はまぐりごもん》も、遠目だが同様らしい。道路の通行も禁じているようだ。軍装から見てもやはり薩兵のようだった。  薩摩が主導権をにぎっての、薩摩、土佐、尾張、越前、安芸、五藩のクーデタが起っていたのだ。御所の門すべてが押えられた。御門警備についていた会津と桑名の藩兵は追い出されていた。長州軍も京の入口ちかくまで来ている。西郷隆盛が戒厳体制の総指揮をとり、朝廷内では岩倉具視らの画策が進んでいた。公武合体による諸藩連邦構想を持っていた土佐藩主山内容堂は裏切られていた。  この日の暮れがた、御所のなかで、十六歳の明治天皇が、「王政復古の大号令」を読み上げた。将軍職を廃し、幕府を廃絶する。京都守護職、所司代を廃止する。朝廷の政治機構を改革し、総裁、議定《ぎじよう》、参与の三職を置いて、往古のごとく天皇が万機を親政する。  慶喜のいる二条城に、激昂した会津や桑名の兵がつめかけた。比叡《ひえい》から寒風の吹きおろす暗い町に、戦いのはじまらぬうちにと、京の町から避難して行く人びとの列がつづいた。  同じ時刻、朝廷ではすでに新政府が、徳川慶喜の処遇を議論している。深夜、土佐公の反対を押し切って、慶喜に辞官納地を命ずる決定が下された。討幕派クーデタが勝った。翌朝、尾張と越前の両藩主が、討薩の主戦論で騒然としている二条城の慶喜のもとへ、この深夜の決定を伝えた。  仙台藩の但木土佐たちは、十一日になってこれら一連の動きをほぼつかんだ。しかし、どう動いていいか、誰にわかるものでもない。二条城を訪ねて幕閣の所見を問うしかない。土佐らは文彦も連れて二条城へ行き、老中板倉|伊賀守《いがのかみ》と面談したが、特別得ることはない。控えの部屋で待っていた文彦が、会津兵の一人から、仙台は何をしておるのかと、満座のなかで罵《ののし》られたくらいだ。二条城の幕兵六千、会津兵三千五百、桑名兵千五百らは、この城を拠点に薩摩と戦おうとしていた。  この情勢に対しては、兵力なしでは何もできない。仙台藩も兵を呼び寄せねばならぬ。土佐、信太夫らは、兵員輸送の蒸気船を手配した。藩主の上洛《じようらく》をもとめる急使も出した。  朝廷政府内では山内容堂の巻き返しが進んでいる。慶喜の官一等を減じ朝廷経費の一部を献上させ、そのうえで慶喜首班の諸侯連合政府をつくろうという工作である。  慶喜は暴発寸前の二条城から、十二日夜大坂城へ向った。部下の興奮をしずめるためだと朝廷に届けていたが、薩摩の大久保|利通《としみち》らはこれを、大坂城に勢力を結集して持久策をとり、その間に薩藩を孤立させ、朝廷工作を通じて勢力を挽回《ばんかい》する作戦と見ていた。  この日から十数日、討幕側と慶喜・容堂側の政治戦がひろげられる。十二月十六日に慶喜は大坂城で各国公使を引見し、慶喜政権の正統性を諸外国が認めるという既成事実をつくる。朝廷内では山内容堂が、自説をたくみに通していく。二十八日には容堂案による辞官納地受諾回答。慶喜・容堂側の巻き返しがほとんど完成した。  しかし、薩摩の西郷の謀略が別のところで進んでいた。薩摩藩江戸屋敷の浪士と無頼漢数百人を組織して、江戸市中を横行させ、暴行|掠奪《りやくだつ》による治安の攪乱《かくらん》をはかっていた。関東の各地でも同じことをやった。これに便乗する強盗放火も激発する。江戸と関東一円、十二月には混乱し、不安に満ちていた。幕府と諸藩の兵は警備に釘《くぎ》づけされた。そして何より、西郷のこの挑発に遂に乗ってしまった。薩摩屋敷の浪士らが江戸警備の庄内藩屯所に発砲したのを機に、庄内藩兵千人を主力とする二千の兵と薩摩屋敷が交戦、薩摩屋敷は焼きはらわれた。十二月二十五日未明である。  この事件が二十八日、大坂城に急報された。「薩討つべし」の将兵に火をそそいだ。城内の主戦論をもはや押えられない。慶喜は慶応四年正月一日、薩摩藩の罪状を挙げて「討薩の表」を朝廷に提出した。同時にこれを諸藩に伝え、至急兵を出すように命じた。京都の朝廷政府への宣戦布告である。連合政府構想はつぶれた。西郷の謀略が成功した。  京都から仙台まではあまりに遠い。どんなに急いでも片道十日はかかるのだ。十二月九日のクーデタ以来、つぎつぎと仙台への急使を出していたが、その返事さえないうちに激変が起ってしまった。  但木土佐は九日のクーデタ以来、熊本藩の家老と共同で、在京諸藩の重臣会議をたびたび開いて、朝廷への建白書を出していた。どの建白書もだいたい、新政府の方針を決めるにあたっては特定少数の藩だけの意見によることなく、全国諸藩の衆議を尽されるようにされたい、という趣旨のものであり、結局は連合政府案を支持する建白である。  いまや、それは無意味になっていた。慶喜の大坂軍はすでに京へ向って進発したらしいという噂《うわさ》だ。市内の動静を探らせてみると、薩摩も、先日入京を許された長州も、すでにかなりの兵が出動している。残っている兵も出動準備がととのっている。土佐藩邸も、元旦早々というのに、あわただしく人が動いている。  二日の夜おそく但木土佐が復三郎(文彦)を呼んだ。夜の明けぬうちにも大坂へ向って出かけてくれ。大坂からの幕府軍がどこまで来ているか、また、その様子はどうか、詳しく見てくるのだ。  慶応四年正月三日暁、ひと気のない京の町を、旅装の大槻復三郎が南下して行く。正月が来て二十二になった。  京都の底冷えは仙台よりきついな。仙台と言えば、父上はお元気だろうか。京に来て一度便りを出し、そのお返事をもらっただけだ。休む間なしの日がつづいたからな。  五条大橋を渡って鴨《かも》川沿いに南行、東福寺で長州兵の一隊に止められたが、仙台藩の門鑑を見せて伏見街道を下る。空が明るくなった。  伏見の町に入ると、そこはもう臨戦体制だった。薩長土軍の胸壁が築かれ、砲がならんでいる。伏見奉行所には幕兵、新撰組、会津兵らがいるらしい。それを三方から包囲している。  通行が規制されている。鳥羽伏見を指して幕軍が進軍中だという。避難民の数が目立ってくる。京から南へ出る者は止められ、逆に北へ向う者だけが目を光らせた薩兵の間をひとりずつ通されていた。大坂へ向うのは難しい。  いったん竹田街道をもどり鳥羽街道に出る。しかしここも封鎖されている。街道を避けて畑中の道を歩いているうちに迷ってしまった。畑に坐り込んで握り飯を食べる。暗いうちからの歩きづめで、ふくらはぎが張っている。  目の前に沼がひろがり、灰褐色のかいつぶりが、頭からひょいと水にもぐった。沼の先に川が見えている。地図を出してみると、あれが宇治川のようだ。大坂から来て鳥羽へ向う道と伏見へ向う道の、ふたつの道にはさまれたような位置だ。ここで待てば大坂からの幕軍が見えるだろう。  つい眠っていた。妙な衝撃音で目をあけると、すっかり太陽が傾いている。つづいて猛烈な砲声が次から次に響いた。鳥羽の薩長軍が、いつのまにか鳥羽街道にあらわれていた幕軍に、一斉砲撃をしていた。しばらくすると、伏見のほうからも、川向うの街道の幕軍に砲撃を開始した。  戊辰戦争の始まりだったのだ。  その夜じゅう、文彦は戦場を歩きまわっていた。これが戦争というものだ、何もかも見ておかねばならぬ。  村はずれの小山で戦争見物をする弥次馬がいる。そこからは伏見の町の燃えるのがよく見えた。負傷者をはこぶ手伝いをした。爆風で地面に叩きつけられた。危険地帯は避けているつもりでも、銃弾が身近に飛んで、あわてて移動した。迷子を背にして百姓家を探した。泥まみれになって走った。  あけがた砲声銃声がとだえた。幕軍が淀《よど》の方面へ後退したようだった。  濃い霧がこめている。寒い。文彦は納屋を見つけてもぐりこんだ。疲れはてていたが、目ばかりは醒《さ》めている。  ふいに納屋の近くを多数の足音が絶え間なく馳けぬけていく。幕軍がふたたび反撃に出たらしい。  四日の夜おそく、ようやく戦場を脱け出した文彦が、京都の藩邸にもどった。但木土佐への報告をすませると、今度はどっと眠り込んだ。  六日朝、前日の淀藩につづく津藩の裏切りで、幕軍は総くずれになって大坂へ潰走《かいそう》した。  但木土佐は藩邸の全員に妄動《もうどう》を禁じ、形勢をじっと見ている。  戦時に非戦中立をつらぬくのは、難しいことだ。評判も悪い。つらぬくには強い意志の力が要る。  但木や大童、あるいは玉虫らは、この時期ずっと「慎重派」と見られているが、たんに慎重で決断を先にのばしているのではない。非戦中立、非戦平和をつよく選んだための、外見上の「慎重」なのだ。若い文彦も同じだった。父磐渓もそのはずだ。外国を知り、世界情勢を見ている者の、それは必然の結論なのだから。  鳥羽伏見で敗れた幕軍は大坂城に拠った。この堅城で戦おうとする主戦論の大勢のなかを、六日夜慶喜は少人数で脱け出て、船で江戸へ帰った。  慶応四年正月七日、新政府は慶喜追討令を出す。東海、東山、北陸、その他各道の鎮撫《ちんぶ》総督がつぎつぎに任命され、政府軍が進発。沿道諸藩は軒なみに「勤王」のあかしを立て、政府軍に兵を差出す。  慶喜は、江戸城内の主戦論者やフランス公使ロッシュからの再挙の勧めを拒絶して、恭順をつづける。  但木土佐は、正月十五日、十七日、つづけさまに新政府から呼び出された。奥羽鎮撫の政府軍に仙台藩挙げて協力せよというのである。そこまではいい、しかし十七日の御沙汰書にはおどろいた。「其ノ藩一手ヲ以《モツ》テ本城〔会津〕ヲ襲撃スベキノ趣出願、武道ヲ失ハズ憤発ノ条神妙ノ至リ御満足ニ思召《オボシメ》サレ候」とある。そのような出願の覚えはない。土佐の申立てに対して新政府は改めて二十日、「出願|云々《うんぬん》」を削った沙汰書を渡した。しかし仙台藩一藩で会津を征討せよという命令には変りがない。(出願の真相は不明とされているが、仙台藩|尊攘《そんじよう》派のだれかの策謀だったのであろう。)  土佐も信太夫も、政府軍の会津追討には義がないとは思うが、勅命を無視することはできないし、時勢の流れ方からみても、結局は会津に無血降伏をすすめるほかはないと考えている。薩長の無道なやり方で戦いに追い込まれた会津の人びとは、あの藩の気風からみても死を決して戦おうとするだろう。  鳥羽伏見では、双方武力を背後にしながらも外交交渉が数時間つづいていたのだ。そこへいきなり砲撃をはじめたのが薩摩軍だった。そして、すくなくともその日の夜おそく「錦旗」が薩長軍に下賜されるまでは、会桑幕軍と薩長軍の私闘だった。その会津がいま「賊」とされている。降伏交渉は至難だろう。しかし、それをやらねばならぬ。  数ヶ月後には但木土佐らは奥羽列藩同盟を率いて、政府軍と戦っている。戦いたくはないのに戦いに追い込まれて戦っているのだ。この正月の土佐らには思いも及ばぬことだった。  正月三日に仙台を発《た》ったふたりの使者が、十五日、ようやく京都藩邸に着いた。仙台の大方の意見は「王政復古はすでになったことではある、しかしながらわずか二、三藩の奸徒が幼帝を擁して私欲をはかろうとしている以上、しばらくは天下の動静を見て、正義の諸藩と協力し、時機をえらんで藩主が上京、衆議によって帝座を安んじ奉る」というもので、藩主伊達慶邦の上京は見送られている。  いまは何を言うにしても、藩主とその兵の上京がなければ発言力を持たない。土佐は国元の決定に落胆したが、遠国の情報不足が判断の立ち遅れをまねくことは仕方がない。鳥羽伏見の戦争の報は今日あたりようやく仙台に届いたころだし、その後の状況はまだ何ひとつ国元では知らないのだから。  二月七日、仙台から三好|監物《けんもつ》が兵二百を指揮して京都に到着、十六日には但木土佐が東征軍受入れ準備のため仙台へ向い、三好が京都藩邸の責任者になった。  この三好に文彦の兄修二が随行して来た。一年三ヶ月ぶりの再会だった。 「父上の御様子はどうだ」  磐渓は一時のヒポコンデルが嘘のようで、老齢だが身心充実して、藩公の信頼が篤く、いまや仙台藩主の政治顧問のようになっている。二つ三つお若くなられたようだぞ、と兄が言った。  鳥羽伏見の戦いの様子など、事こまかなお前の書状を見て、喜んでおられた。ただ、お前の身を案じておられたぞ。無茶はするな。復三郎の学問が役立つときまで、生命を粗末にするな、とな。  二、三日して大童信太夫も京をはなれた。文彦にも、あとから江戸へ来いということだった。 「大童氏今日早打ニテ江戸ヘクダリ候。小生ハ少々アトヘ残リ、大坂ヘ蒸気船着キ候ハバ、右ヘ乗組、不日江戸ヘ罷《マカ》リクダリ候ツモリニ御座候」  父磐渓への報告である。 「京師マヅモツテ平穏。関東親征ノ令発ス。マタ遷都ノ議論〔参与大久保利通の大坂遷都論〕モ近日コレアリシ由。」  舞台の中心は東に移ろうとしている。  二月十六日、仙台からの使者が伊達慶邦の建白書を持って入京した。慶邦の意によって磐渓が起草したものである。「五事の建白」と呼ばれ、以後の奥羽諸藩の基本理念となった。  長文の建白を要約すると次のようになる。原文は一行一句に政治効果を配慮し、委曲をつくした大文章である。  弊藩は僻遠《へきえん》の地にあり、朝廷の御決議の深旨も、つまびらかにはわからない。畿内の形勢もただ伝聞するだけで、真偽虚実を明らかにしがたい。そういう片隅の固陋《ころう》の意見を申し上げるのは恐れ多いことであるが、このたび既に、広く意見をもとめるとの御方針を打ち出されたうえは、黙していては臣としての分を果せないと考えるので、左のことを言上奉る次第である。  第一。今回の関東御征討は、慶喜軍の会桑二藩が官軍に発砲しかけたためと布告されている。その「叛逆《はんぎやく》紛れなき大逆無道の朝敵」を追討せよとの御命令ではあるが、慶喜のほうでは、薩藩勢がいきなり発砲してきたと言っている。「倉卒紛擾《そうそつふんじよう》の間の発砲、いづれが先いづれが後、分明に相わきまへざる風聞もこれあり。」朝廷の御沙汰を疑うわけではないが、「人心の疑惑十に八九はこれあるべく」そのため人心が一定しないのである。  第二。徳川氏が戦乱を鎮めてこのかた二百数十年、この国を平和に保ってきたことの功は大きい。嘉永以来|外夷《がいい》に対する幕府の処置には不当な点があるかもしれないが、すでに「深衷より政権を朝廷に帰し奉り候上、また何事か企望いたし朝廷に背き奉るべき哉《かな》。」これもまた人心の疑惑のあるところである。  第三。王政復古、紀綱一新によって、万民は朝廷を父母のごとくに仰ぎ奉り、「一夫その所を得ざる者なきを欣慕《きんぼ》し奉り候。」しかしいま兵を動かされるのは、すなわち万民を水火塗炭の苦に陥れることになる。これは「幼帝の聖慮」に出たものではあるまい、と、これも人々の疑惑である。  第四。慶喜は既に京を退去して、その後じっと恭順の態度をとっている。先年長州藩が闕下《けつか》において発砲したときには、一旦は朝敵の汚名を着たが、やがて発砲は一時の誤りであるとして、寛大の御|仁恕《じんじよ》をもって許されている。慶喜だけが祖先の大功すらも顧みられず、叛名を定められてしまっては、「諸藩の心服は勿論《もちろん》、下々|賤民《せんみん》に至るまで感服はいたすまじきか」と、大方の疑惑である。  第五。すでに十余国の外国との交通のある今、天下に兵を動かして四海かなえの沸騰するようなことになれば、彼等が坐して傍観することはないであろう。「各国帝王の指揮を受け、いかなる挙動に及び候も計り難く、しかる時は御国辱を宇内万国に流せられ候姿にも相成り、人心の疑惑のみならず、寒心|杞憂痛哭《きゆうつうこく》いたし候者、また十に八九はこれあるべし。」  以上のように考えるので、御追討のことはしばらく措いて、広く諸藩の論をつくして、不偏不党の立場で慶喜の処置をなされるよう願い奉るものである。「万民の服、不服」を問われることなく性急に御討伐なされては、海内《かいだい》分裂し群雄割拠する時代にもどらぬともかぎらない。臣慶邦はひそかにそれを恐れ、心を痛めて、この建白を奉る次第である。  この建白を読んで、京都藩邸の三好監物は、即座に握りつぶす決心をした。来月はじめには新政府の奥羽鎮撫使が出発するといういま、こんな建白を出しては藩のためにならない。いかに正論でも、あまりに時機を失している。こんな寝言を起草する、老いぼれの磐渓にも困ったものだ、と。  在京の伊達分家宇和島藩主に相談して、三好は藩主に無断で建白の不提出を決め、月末に建白書を持って仙台へ帰った。  藩主慶邦は怒った。朝廷がこの建白を採用するとは、はじめからあてにしていない。和平の主義を天下に宣《の》べることが目的なのだ。それを途中で勝手に遮《さえぎ》りおって。  慶邦は再度、建白上呈の使者を出した。この使者が途中で気がふれてもどると、三度目の使者を出した。さきに幕府老中へも、東北諸藩へも、玉虫左太夫などの信頼できる家臣を派遣して、建白書の趣意を伝えさせ、そのうえで磐渓に起草させた建白だ。東北諸藩の意を代表したものでもある。この政治姿勢は、採用と不採用とにかかわらず、朝廷に伝えなければならぬ。  四月六日、建白書は却下された。  どういう経路でか、この建白書の全文が、この年江戸で柳川|春三《しゆんさん》らが創刊した、日本人の手では初めての新聞、『中外新聞』に掲載された。旗本御家人はもちろんだが、薩長のやりかたに憤慨している諸藩も、江戸の町人たちも、喝采《かつさい》をおくった。東北の大藩仙台が、時流に媚《こ》びず敢然と公明正大の論を張った、と。  誰が新聞に持ち込んだのか。但木土佐、大童信太夫、玉虫左太夫、慶邦自身に命じられた或る人物、等々、どの可能性もあるが、建白書を写しとれる立場で、新聞|編輯《へんしゆう》の経験があり、江戸の知己が多く、起草者磐渓の息子で、建白の内容に深く共鳴する人間であり、それが握りつぶされるのを口惜しく見ていた人間、つまり二十二歳の血の気の多い大槻文彦をあてはめてみることも、無謀な想像とは言いきれない。  新聞発表によって、慶邦の目的は半ば達せられた。  他方、薩長藩士はこれを憎んだ。仙台討つべしを叫ぶ者もあった。      3  宮城丸が遠州沖を東航している。春の海が長くうねる。船は、仙台藩が最近アメリカから購入したものだ。  京都藩邸にいた仙台兵約二百人を乗せて、三月十日、奥羽鎮撫使一行の先発として大坂を出航した。九条道孝総督、大山格之助と世良《せら》修蔵の両参謀など新政府の東征軍六百余人は、一日おくれて三隻の蒸気船で出航し、松島湾へ向っているはずだ。  文彦は宮城丸の甲板で、海と陸地を眺めて飽きなかった。遠望する長い陸地、あれが「日本」だ。徳川を乗せ、仙台を乗せ、薩長を乗せている。江戸の陽気な町人たちを、横浜居留地の外国人たちを、乗せている。  この宮城丸は、会津を討つ先発隊として海を走っている。ペリーの艦隊が通った同じ海を、ペリーの国が建造した船でだ。明日は横浜に入港して、大童さんが星恂太郎のつとめているアメリカ商会から買い入れた武器弾薬を大量に積み込む。但木殿は、自分のいのちを賭《か》けても会津との戦争は避けると言って、仙台へ帰って行かれた。しかし、万一戦いになれば、なんの恨みもない会津の人たちの胸を射抜く弾丸だ。  大童さんも星も、複雑な気持だろう。しかし、使わぬに越したことはないが、この時勢に武器弾薬は多いほどいいこともたしかだ。  イギリスが薩長に、武器弾薬を貸しているとか。兵も貸そうと言ったと聞く。フランスは徳川氏に同じような申出をしたらしい。さいわい江戸には勝海舟さんがいる。内乱を早く収めることひとつに決めて、囂々《ごうごう》たる討薩の衆論のなかで、非戦の策を進めておられる。  いまの国乱に外国から手を出され足を踏み込まれては、戦争はかならず長引く。疲れ切ったあげくに、さてどちらが勝っても、外国が戦費の補償を要求する。金はない。それならばと、大きく出れば北海道をいただこう、九州をもらおう、ということになるかもしれぬ。小さくても、対馬とか琉球ぐらいは奪われる。  慶邦公の「五事の建白」の御趣旨もそこだ。三好殿が握りつぶしたけれども、いかに藩の立場を考えたとはいえ、考えが狭すぎるのではないか。建白奉上中止を知れば、父上もずいぶん落胆されるであろう。  但木殿の上京の折りに、父上が贈られた長詩。あれは父上の開国佐幕論の精髄だった。父上も、父上と意気投合の但木殿も、俗流の佐幕論じゃない。尊王佐幕と呼んでいいか、西洋の「立君定律国」(立憲君主国)をめざしておられるわけだ。  西洋には、立君定律の政体がある。大宰相が政権を執っていて、それが失敗すれば倒れる。野心ある者が争奪するのも、ただ大宰相の地位であって、国王はその上にあってつづいてゆく。大政の責任を負って成敗交替するのは大宰相にとどめている。我が国の将軍政治はもとからそれと同じ形であり、これを活用すれば立君定律の政体を持って世界に伍していける。  政治権力というものは、野心ある者が奪い取ろうとするのが常のことだ。支那では古くから、野心ある者が時の天子を倒して自ら天子になるという革命が絶えず、二十余度も天子の代が変っている。さいわいこの国では、政権の争奪興亡が将軍かぎりで済んでいて、皇室はその上に万世一系、連綿として続いてこられた。たまたま天子様御自身が政権争奪のことにたずさわられると、承久《じようきゆう》や元弘《げんこう》の乱のようなことが起り、天子様を佐渡の島|隠岐《おき》の島に移し奉るようなことになる。天子様を権力争闘の多い政務にあたらせ奉るのは、神聖を涜《けが》すわざであり、ついには累を皇室に及びまいらせるに至る。  あながちに徳川氏でなくともよいが、将軍政治、すなわち立君定律の政体がなければならぬ。それが父上の信念だ。  久しぶりの休暇といってもいい船上の生活で、文彦の考えることは尽きなかった。英学からこのところ離れていたが、この旅で、洋書をひらく時間もできた。  このころ新政府首脳は、「攘夷」を下ろしてしまっていた。攘夷をせまって幕府を攻撃してきた連中が、「大勢まことにやむを得ず、このたび朝議の上、断然和親条約取り結ばせられ候」と布告、一転して対外交渉に力を入れていた。相変らずの尊王攘夷主義者らが、「奸雄《かんゆう》岩倉の裏切り」を叫ぼうとも、外国からの新政権承認をとりつけないわけにはいかない。  外国公使団はミカド政権とタイクン政権の双方を対等に承認し、両者の交戦に局外中立を宣言した。英仏が互いに牽制《けんせい》していた。  ミカド政権の唯一承認ではなかったけれども、新政府はその国際地位を確立した。在来政権のほかに新政権を認めさせたのだから、むしろ勝利だった。 「攘夷」の旗は下りた。  二十年あまりのち、この新政権が、憲法を発布し、議会を召集して、立憲君主政体を完成させる。磐渓の望んだ「立君定律」であった。文彦の『言海』は、その新国家が世界に伍すために、欠くことのできないもののひとつになるだろう。  新国家の憲法をつくった伊藤博文は、宮城丸が文彦らを乗せて走っているころ、新政府の参与職外国事務局判事として、神戸で外交交渉に明け暮れていた。密出国の英国留学から帰って四年、かつて品川御殿山のイギリス公使館焼打ちに加わった俊助(博文)は、いまや長州藩指折りの開国論者であり、海外事情通である。  同じとき、幕府陸軍総裁勝海舟は、西郷隆盛と会見、江戸城の無血開城交渉に成功している。  オランダ留学から二年前、新造軍艦開陽丸で帰国した榎本釜次郎(武揚)は、品川沖に幕府連合艦隊を率いて、勝の意見を蹴《け》り、徹底抗戦を腹に決めている。  それぞれの生き方であった。それぞれの生き方だが、新国家誕生の同じ急流のなかにあった。磐井の渓《たに》の急流のように、両脇から塞《せ》かれて、ひとつところへ押し流れていた。  二十三年後の明治二十四年六月二十三日、文彦も俊助も、海舟も釜次郎も、芝の紅葉館の同じ座につらなり、生れたばかりの明治新国家を、それぞれのやり方でだが、等しく愛していた。但木土佐が生きていれば、彼もまた同じであっただろう。  松島湾|寒風沢《さぶさわ》に集結した奥羽鎮撫使の一行は、剣付鉄砲を肩に、鼓笛を響かせて仙台に入った。養賢堂を宿舎とし、鎮撫総督本部を置いた。  但木土佐がこの本部に呼びつけられる。仙台藩は会津追討の勅命を受けながら、まだ一度も兵を動かしていないではないか、という叱責《しつせき》である。  土佐ははじめから会津を討つ気がない。総督本部に督促されてやむなく兵を動かすが、藩境への形だけの出兵である。徹底したサボタージュをしながら、玉虫左太夫らとともに、会津藩の降伏工作を進めた。  そして、会津藩との難しい折衝に成功した。  奥羽二十七藩の重臣を白石にあつめた。仙台藩主伊達慶邦と米沢藩主上杉|斉憲《なりのり》も白石に入る。二十七藩連署の嘆願書が作成された。会津が降伏を申し出ているので、これを受諾してほしいというものである。仙米両藩主がこれを鎮撫総督に提出。閨《うるう》四月十二日である。  しかし、総督本部、ことに参謀世良修蔵は、これを新政府首脳にはかることなく一蹴《いつしゆう》した。「朝敵天地に入るべからざる罪人に付、御沙汰に及ばせられ難し、早々討入り成功を奏すべきもの也」  江戸薩摩屋敷焼打ちの庄内藩も、会津とともに東征軍から仇敵視《きゆうてきし》されていた。数日前、ささいなことを理由に庄内藩討伐令が出ている。これはもう、朝命を奉ずる官軍と称しても、私怨《しえん》で行動する無頼の徒ではないか。  そしていま、奥羽二十七藩の連署が、子供の使いをあしらうように無視された。会津の降伏条件については簡単に受入れられるとは思われなかったが、会津対鎮撫使の問題は、すでに全東北対新政府の問題に発展していた。  参謀世良がもうひとりの参謀大山に宛てた密書を、福島藩士がうばった。世良は密書に「奥羽皆敵」と記していた。仙台藩士七人福島藩士三人が世良の宿を襲撃、暗殺した。  四日後の二十三日には奥羽二十五藩の重臣がふたたび白石にあつまり、仙台藩を盟主に軍事同盟を結んだ。もはや嘆願ではない、不戦と和平を、組織した武力同盟を背景にかちとろうというものだった。五月三日には仙台城で、奥羽二十五藩に北越六藩を加えた三十一藩が正式に同盟条約書を議決、奥羽越列藩軍事同盟が成立した。会津と庄内の軍事同盟も、事実上これに加わっている。三十三藩を組織した「北日本政府」である。  五ヶ月にわたる奥羽越全面戦争がはじまった。  奥羽越同盟はまず太政官あて建白書を議した。同盟の基本理念の作成である。思想としてはさきの慶邦の「五事の建白」と変らないが、ここでははっきりと世良や大山らの奥羽鎮撫使を非難し、言外に薩長政府を難じ、会津庄内両藩と徳川家への朝廷の寛仁な処置をもとめている。  軍事同盟を背景にして、天皇から奸賊薩長を切りはなし、奥羽越同盟政府が真の勤王を行なうという構想が、そこにある。  この建白の起草は同盟主の仙台藩にまかされた。草案は大槻磐渓。だが、あまりに激越だったため、草案をもとに玉虫左太夫が起草しなおした。  同盟本部は白石城に置かれた。「白石公議所」である。ここで軍事戦略だけでなく、政治構想までが、諸藩の�衆議�にかけられた。  旧幕臣との提携、江戸の処置、諸外国との外交権の樹立。上野の彰義隊戦争のあと輪王寺宮《りんのうじのみや》が、会津から米沢を経て仙台に入ると、宮を軍事総督とし、そのもとに仮太政官を設置、旧幕府の老中二名をそれに任じた。さらに、この宮を新天皇として即位させ、列藩同盟の主に戴《いただ》くという新天皇政府の樹立も構想された。「大政」と改元する予定も立てられていた。  開港場新潟港が同盟政府の管下にあったため、外国公使団も、この北日本政府を認めざるを得ない。  五月、白石公議所の但木土佐と、仙台の大槻磐渓との間に、頻繁《ひんぱん》に連絡が交された。磐渓が同盟からロシアへ宛てた親書案などを起草する。それを持って文彦が白石へ馳《か》けつける。磐渓の学問と思想が現実の政治に適用されていた。アメリカ公使に宛てた親書では、奥羽越同盟対新政府の戦争を、アメリカの南北戦争になぞらえている。  文彦はこの五月、ふたたび汽船で江戸へ出た。出た、というより、潜入したのだ。江戸や横浜の事情に明るく、英語ができ、そして江戸言葉の文彦ほど、「潜伏探偵」に適した人物はなかった。役割は、江戸での諸連絡と武器弾薬の調達。奥羽越同盟の死命にかかわるものである。  もちろん文彦ひとりがこの役をやったのではないが、仲間の探偵たちは次から次に捕縛され、殺された。仙台弁だったためである。江戸育ちで江戸弁の文彦は、もっとも優れた密偵だった。  商人姿になって、以前横浜に入るときにつかったことのある「平新吉」を名乗り、江戸の情報を集めて報告書をつくり、横浜で武器弾薬を買い入れ、調達した船で仙台へ送った。 [#ここから1字下げ]  江戸市中の関門には、兵隊が抜身の槍で固めて居る、露顕すれば、即座に突殺されるといふありさまであつたけれども、生命は固《もと》より捧《ささ》げて居る、死んでも構はぬが、扨《さて》、生きて居て働かねば、任務が立たぬといふ場合であつた、しかし、青年血気の時であつたから、面白半分でもあつた。青年の心には、太平打続き、君公の禄を、代々、唯|食《は》んで居た、今は、一身で数代の藩恩に報いねばならぬといふ一念ばかりであつた。 [#ここで字下げ終わり]  七月八月、奥羽越同盟軍は各地で敗退、同盟諸藩のうち離反するものが相つぐ。  九月四日、米沢降伏。十一日、仙台藩の主戦論者は総退陣に追い込まれ、降伏と決定。翌十二日、艦隊を回航してきた榎本武揚が仙台に入り、降伏派と激論。  新政府は九月八日、「明治」と改元した。  このころ文彦は、彰義隊の残党と武器とを、横浜で雇った外国帆船に乗せて、仙台へ向っていた。途中誤って相馬藩の海岸に船を着ける。相馬は先月同盟を離反している。相馬に進駐している熊本藩兵が文彦の船に入ってきたが、これを辛うじて欺いて出帆。  ところが仙台近くになって暴風雨に見舞われた。やっとの思いで松島湾に入ったところで、暗礁に衝突、船は砕けて沈んでしまった。人間は泳いで岸にたどりついたが、苦心してあつめてきた武器は海に沈んだ。  だが、その武器はすでに不要にちかかった。藩論は一変して降伏と決まり、父は郷里の西磐井郡山目へ退居していた。兄の修二は、京都での任務を終えて、福島近くの軍で戦っていたが、同じころ仙台の家にもどった。急転した時勢のなかで、大槻家が危機に面している。文彦は、母と、嫁ぎ先の郡山から帰っていた長姉の春を山目へ送りとどけた。書物家財も送った。しばらくぶりの父と時局を語り、酒を酌んで、仙台の家にもどった文彦は、兄と二人で形勢をうかがっていた。  十月、大槻兄弟はともに国事に奔走した科《とが》で有罪とされ、捕吏を向けられた。兄弟は外国船で横浜へ逃げた。  文彦はふたたび横浜で英学の修業にとりかかった。兄は京都へ行った。 「戊辰の役の私の任務は、苦しかつた、従軍した方がよかつたらうと思つた」と、七十を過ぎて文彦が回想している。  仙台藩の降伏が決まって十日あまり、九月二十二日に籠城《ろうじよう》一ヶ月の会津が降伏。翌々日に南部、さらに三日して庄内が降って、奥羽越軍事同盟は敗れ去った。  会津と庄内の降伏は力尽きてだったが、仙台藩のそれは違った。前線での敗戦は相つぎ、会津藩につぐ多数の死傷者を出してはいたが、仙台の城はまだ敵を迎えてはいなかったし、戦力もあった。戊辰戦争末期には、横浜から帰った星恂太郎が、仙台藩最精鋭の洋式軍隊額兵隊をつくり上げていた。だが、藩の首脳陣が、激論の末に降伏派の手に落ちた。戦局の不利を背景に、勤王党が政治に勝ったのだ。  額兵隊の出撃準備が完了したその日に、藩論が降伏に決まった。星恂太郎と額兵隊の一部は翌月、榎本艦隊に投じて箱館へ向った。明けて明治二年五月、榎本武揚を総裁とする蝦夷島共和国が亡んで、鳥羽伏見戦争からつづいた反新政府軍の抗戦が終った。  仙台藩家老但木土佐は、もうひとりの家老とともに、戦争主謀者として東京と改称された江戸へ護送され、北海道で榎本軍が降伏した次の日、「雲水の行衛《ゆくへ》はいづこむさし野をただ吹風にまかせたらなん」を詠み残して、切腹。非戦和平をもっとも望んだ土佐が、戦いに追い込まれ、戦いの指揮をとり、その責を生命で払わされた。      4  仙台藩では長い間|分《ぶ》のわるかった尊攘派が、降伏後の藩政を牛耳った。新政府東征軍の意向をも越えて、彼ら勤王党は佐幕党狩りに狂奔した。  明治二年四月、大獄がはじまった。  玉虫左太夫、大童信太夫、そしてもちろん開国佐幕論の大本で但木土佐のブレーン、五事の建白の起草者、大槻磐渓。数十人の戦争責任者に捕吏が向けられた。  宮城丸を購入し、大童信太夫らと連携して銃器など戦略物資の補給に才腕をふるった戦時財政担当官、松倉良助。大槻文彦は江戸横浜で、兄の修二は京大坂で、このラインの任務に就いていた。その松倉も捕吏に追われた。  俗に「鴉組《からすぐみ》」と呼ばれたゲリラ隊衝撃隊の隊長、細谷十太夫。彼は近在のやくざ七十人を組織して、夜襲を軸にして敵陣の攪乱と謀略に転戦した。「細谷カラスと十六ささげ〔棚倉藩十六人の抜刀隊〕なけりゃ官軍高枕、トコトンヤレトンヤレナ」と俗謡にうたわれるほど、政府軍からおそれられた。  二十四という若さでありながら、やくざ集団を統率して、夜戦という、もっとも統制力を要する軍事行動を成功させた稀《まれ》な才能であった。と同時に、彼は意味のない殺人を許さなかった。敵後方の攪乱という作戦のために、殺人は不用のことだとした。婦女暴行と金品強奪を繰り返していた政府軍の十余人を逮捕した時にも、二度とやったら斬ると言って放している。そのことで十太夫の名はさらにおそれられたが、これを、年に似合わぬ老成と言ったらよいのか、若さの持つ潔癖と言ったらよいのか。近代へむかって動いている日本の、新しい青年の像であり、そこに流れる倫理観であった。  その細谷十太夫が捕えられた。  大槻磐渓はその前に、退居していた西磐井郡の郷里から捕吏に護送され、親類預けとなって身柄を拘束されていたが、この大獄でただちに入牢《じゆろう》となった。勤王党では当然のこととして、死刑者名簿に加えている。  横浜の文彦のところに父入牢の報《しら》せが届いたのが五月に入ってすぐのことだった。文彦と修二が仙台から逃げて半年、さいわい横浜までは捕吏の手はとどかなかったし、京都へ逃げた兄も無事でいた。ただ、この潜伏中気がかりなのは父のことだった。  逃げる船の船底で、波の音のなかで兄と話したのも、そのことだ。反対派にも父上の門人は多いことゆえ、まさかとは思うが、しかし楽観はできぬな。万一のときには、父上の御門人や知己のうち、西国の諸侯などの力を借りることも考えておかねばならんだろう。  仙台からの報せを聞いて、文彦は、やはり来るものが来たと思った。自分自身、召捕りを逃れて潜伏中の身である。だが、父を救わなければならぬ。そのことに迷いはなかった、火の中に入る思いだったが、その日のうちに横浜を出立して六昼夜で仙台に帰った。七年前の文久二年、家族ではじめて仙台へ帰った時には、江戸からでも十二日かかった道である。早打|駕籠《かご》を雇うような金はない。夜も惜しんで歩いた。  通り過ぎた東京の町は、女芝居がはやり、奥羽の戦争も、戦いの後の人びとの運命も、いまはかかわりなく、いつもの生活がつづいていた。明治二年の梅雨は、気温が低く、冷え冷えとした雨が降りつづいた。暮れきった街道を、もうひとつ先の宿場までと、冷雨に濡れた文彦が足を速めて行く。  仙台に帰った文彦は、考えに考えた計画を、磐渓隠匿の罪で仙台の親類預けになっていた山目宗家の大槻専左衛門に相談した。  五月十日、戊辰戦後の藩権力の中枢になっている松の井御殿内の議事局に、文彦が出頭した。新政府占領軍の下に、占領軍以上に苛酷な論をなす勤王党の連中があつまっている所である。そこへ、自分を父の身替りにして牢に入れ、老齢の父を釈放してほしい、と願い出たのだ。 [#ここから1字下げ]  維新後|其《その》両人〔大童信太夫と松倉良助〕は仙台に帰て居た所が、サア其仙台の同藩中の者から妙な事を饒舌《しやべ》り出した。既に政府は朝敵の処分をして事済《ことずみ》になつては居るが、内からそんなことを云《いひ》出して、マダ罪人が幾人もあると訴へたからには、マサカ捨てゝも置かれぬと云ふ所から、久我大納言を勅使〔新鎮撫使〕として下向を命じた、と云ふ政府の趣意は甚《はなは》だ旨《うま》い。此《この》時に政府は既に処分済の後だから、成《な》る丈《た》け平穏を主として事を好まぬ。ソコデ久我と仙台家とは親類であるから、久我が行けば定めて大目に見るであらう、左《さ》すれば怪我人も少ないだらうと云ふ為《た》めに、態《わざ》と久我を択《えら》んだと云ふことは、其時私も窃《ひそか》に聞きました。政府の略は中々行届いて居る、所が仙台の藩士が有らうことか有るまいことか、御上使の御下向と聞いて景気を催し、生首を七ツとやら持て出たので久我も驚いたと云ふ、そんな事まで仙台藩士が遣《や》つた。 [#ここで字下げ終わり]  福沢諭吉の自伝の一節である。  生首七ツというのは、玉虫左太夫ら切腹させられた七人の首のことだ。  大童と松倉は東京へ逃げて福沢諭吉にかくまわれ、福沢の怒りから出た奔走で、のちに無罪にちかい形で助命された。大童も松倉も、死罪候補で、探索の手は東京までのびていた。  その大獄の元締である議事局へ、身替り嘆願で磐渓の息子が出てきたのである。議事局でもおどろいた。青年が死を決して父親を救おうとしているのだから、一歩も退《ひ》かぬ殺気が張っている。若い人間だけの美しさがある。  仙台勤王党の首領株で議事局議長の桜田良佐は、かつてその叔父が大槻平泉と養賢堂学頭職を争って敗れたために、大槻一族にことに含むところがあったが、この青年の気魄《きはく》には押された。  議長以下、議員の列座するなかで、文彦が、大槻家の面長な顔に薄く血をのぼらせて、膝《ひざ》にこぶしを置いている。 「天朝の命であるから、そのほうの願意はかなわぬ」 「しからば天朝へ哀訴します」 「いや、それは越訴《おつそ》である」 「父磐渓の門人、知人に、諸侯などもありますゆえ、そちらからならば越訴とはなりますまい」  若者は、頑固だ。桜田は根負けして、願書は天朝へ取りつごうから、過激なことをせずに家で謹慎して待つように、と申し付けた。  鎮撫使総督府の参謀のひとりが、罪人一覧表のなかに大槻平次(磐渓)の名前を見て、高名の儒者で、ことに老齢でもある、これを酷刑にしてはかえって鎮撫使の世評を落すことになると判断、磐渓は六月末、死刑者名簿からはずされて家跡没収のうえ永揚屋《ながあがりや》入り、つまり終身刑に決まった。  ただし、そのための一度の訊問《じんもん》もない。欠席裁判での判決である。  その間、文彦は繰り返し議事局へ身替りの催促に行き、手をかえ品をかえての願書を出していた。磐渓は西洋砲術皆伝の者であるから、それを門弟が受け継がぬままにしては、現今の時勢から言っても国家の損失であると、親類門人連署しての赦免願も出した。  吟味中揚屋から永揚屋へ、磐渓が転送される夜、文彦は提灯《ちようちん》をかかげて門前で待った。父が、同じく永揚屋入りに決った何人かと一緒に門から出て来た。久々に会う父親である。  護送の役人がいるが、父の傍《そば》に寄り添って歩く。誰もとがめない。牢屋敷まで十町あまりの道を、父は愉快げに語った。八十日の獄中生活にも、顔色はすこし青いようだが、脚もしっかりしておられる。文彦は嬉しさで、十町の道のほとんどを、涙を流しつづけた。牢屋敷に入る父の後ろ姿に、胸が塞《せ》かれた。  家では母や姉が深夜の祝い膳を用意して、文彦を待った。美しい娘になった妹の雪が、文彦兄さんのおかげだと言っては、笑顔をつくろうとしては、顔じゅう涙で濡らしていた。  兄の修二へは急ぎの書状で報せた。文彦自身は妙な具合で罪を問われるのを免れたが、兄が帰って来てはどうなるかわからない。兄上だけは、前々からお願いしているように、まだしばらくは京で身を潜めていてほしい、と念を押した。仙台から外国船で逃げた時にふたりで話し合ったように、なんとしてでも父上をお救い申し上げる。いまはそれを復三郎ひとりに任せていただくほうが得策だと思います。  それから半年、文彦は父の救出に全力を傾ける。  議事局への再び三度《みたび》の身替りの催促。門人連署の赦免願の作成。獄中の父との連絡。  獄卒に手をまわして父との手紙の往復ができた。そういう密使役をする獄卒を「天狗《てんぐ》」と呼んでいた。天狗にたのんで、手紙、衣服、食物などを差入れてもらう。着物の襟《えり》などに紙幣を縫い込んでおく。獄卒は手紙一通いくらと金をとった。  獄中の磐渓からの手紙には、いつも獄中の詩作が添えてあった。そういうなかに、「一星火無シ冬|闌《タケナハ》ニ到ル」などの詩句を見ると、母はどうにかして綿入れを差入れようとし、無事を念じて塩断ちをし、茶断ちをした。  奥羽に雪が降りはじめていた。蔵王《ざおう》は真白になっている。三十年来の寒さが来た。  この冬のあいだ、父上を獄中に置くことはできない。  文彦は、父を重病人に仕立てる策を立てた。いい具合に父と同室の国事犯の人びとは、父の門人か門人同様の人ばかりである。獄医も父の門人であった。その人たちに申し合せてもらい、父を重病危篤につくろって、それゆえ御赦免願いたいと申し出た。  だが、何の沙汰もない。年が暮れてゆく。大《おお》晦日《みそか》、「悲痛|遥《ハルカ》ニ思フ城北ノ家」にはじまる絶句。元旦、「囚人迎フヲ得|古稀《コキ》ノ寿」の詩句のある絶句。磐渓は獄中で七十歳を迎えた。  その元旦、突然、「大槻平次病気につき出牢|仰付《おほせつ》けられ親類締り」となったのだ。文彦の苦心が、とうとうみのった。  親類一同会しての、明治三年元旦の祝宴であった。大盃《たいはい》の酒を、父がうまそうに傾けた。  問われて父は、獄中のことを話した。  獄吏が来て入口をあけ、「何の誰殿お出ッきりでござい」というのが、吟味中揚屋での死刑の意味だった。同室の者が、飯のあまりでひそかに造った酒を酌みかわしなどして、しばらくして本人は出て行って斬られる。首を斬る音が獄舎のなかに聞えてくる。いつ誰が呼び出されるかわからない。誰も、一度も吟味を受けずに、或る時「お出ッきりでござい」と呼ばれて、斬られた。磐渓は、死を覚悟していた。  かつて養賢堂学頭在職時は、小役人の意地悪にあってヒポコンデルに罹《かか》った父上だが、自ら義と信ずるところには、「堂々たる筋を立てられたのであるから、びくともなされず凜々乎《りんりんこ》浩々然として居られた」のである。  文彦は、八ヶ月余りの父の入獄のあいだに、以前よりはるかに身近く父を感じていた。  父を、より深く信じた。  父は、子を、目を見張る思いで見た。  父と子は、もはや離れられない。七十歳の父と二十四歳の子は、互いに一身と信じた。  急転する時代には世代の裂け目があらわになる。子が父と自分との谷間をはかることで明治の日本が育っていったが、大槻文彦にはそれがなかった。父と子は、逆に、美しく信じた。  しかしそれは、明治前期の一側面でもあり、奥羽戊辰戦争の一側面でもある。また、洋学家系がつないだ父と子でもある。 『言海』祝宴の夜の文彦の脳裏には、だから父磐渓が生きていた。兄修二の磐渓追懐の言が列席者を搏《う》ったのも、それゆえだった。  父と子の、さらにその父祖の血の、切りようのないつながりのなかで、『言海』は生れた。大槻一族というパターナリズムと、奥羽というリージョナリズムと、日本というナショナリズムが、洋学という西欧合理主義に補強されながら、ひとつになっていた。  大槻磐渓は明治三年二月、改めて蟄居《ちつきよ》を申し付られ、三月、文彦は東京に出た。  その秋、伊勢にいる兄を迎えに行き、兄もようやく仙台への往復ができた。翌明治四年正月、兄修二は海軍兵学校寮へ出仕、三月、父磐渓は蟄居を免じられ、謹慎となって外出が許され、翌月、謹慎も解けて自由の身になった。 [#改ページ] [#小見出し]  第五章 遂げずばやまじ [#この行8字下げ]辺境を論ず——独立たる標識——日本辞書|編纂《へんさん》の命——言葉に賭ける      1  父の入獄中、文彦の最初の著作が成った。『北海道風土記』三十巻である。出版はしなかったが、のちに樺太《からふと》についての建議と併せて政府へ一部献上した。  明治二年の暮れ、いつもの年よりよほど早い雪が舞っている。朝のうちに片平町の牢屋敷へ出向いて綿入れを差入れてきた文彦は、午後いっぱい机に向っていた。『北海道風土記』の最後の一行を書き終えて、かじかんだ指に息を吐きかける。獄中の父を思うと、火鉢にあたる気にはなれない。  見たことのない蝦夷《えぞ》地が、吹雪に閉ざされ、白い轟音《ごうおん》の世界となって見える。その向うにロシアが見え隠れする。  蝦夷地が北海道と改称されて十一国に区分されたのは、この秋八月なかばのことだった。文彦が父の急に仙台へ馳けつけた五月、箱館の五稜郭《ごりようかく》が開城、榎本武揚軍が政府軍に降って、最後の戊辰戦争が終った。蝦夷共和国は潰《つい》えたが、明治新政府の北海道開拓がはじまった。樺太ではロシアが、兵営陣地を構築している。  蝦夷地への関心は、祖父玄沢以来、世界の情勢を知る洋学家系大槻家の人びとに強い。文彦は子供の時分から、ロシアが蝦夷地に垂涎《すいぜん》していることを聞かされて育っている。祖父の『環海異聞』『北辺探事』など、家に伝わる著作を読んできた。北からの侵略を憂え、ロシアと蝦夷との関わりを書いて幕府要人へ呈出したものである。  同郷仙台の人で、祖父玄沢と親交のあった林子平には、『三国通覧』がある。我国の隣境、朝鮮、蝦夷、琉球の形勢を説き、ロシアの南下に備えての蝦夷地の開拓と海防の急務をとなえていた。子平のもう一冊の著書『海国兵談』は、「細《ひそ》かに思へば江戸日本橋より唐|和蘭陀《オランダ》まで、境なしの水路なり」の言で知られるが、これも前著の続篇《ぞくへん》で、外国からの侵略への対応策を示した兵書である。そして二著ともに、重点は蝦夷地に置かれていた。  ロシアの南下が必然であること、それに対しては蝦夷地の早急の開拓と確保がなされねばならぬこと、——それが、大槻玄沢らの蘭学者やオランダ人と交わって識《し》った海外事情から、子平が抽《ひ》き出した結論であり、信念であり、焦燥の思いであった。子平は二著を無理算段して出版した。  しかし、林子平の出版はすこし早すぎた。大槻玄沢の『蘭学階梯』出版の二、三年前のことである。蘭学も洋学もまだ芽をふいたばかりの時であり、数年前にロシア船が蝦夷地へ来て通商を要求したことなど、世の人は知りもしなかったし、幕府の首脳も僻地《へきち》の出来事として忘れ去ろうとしていた。  幕府は子平を罰した。「取留《とりとめ》もこれなき風聞又は推察を以《もつ》て異国より日本を襲ひ候事あるべきの趣、奇怪異説等取交ぜ著述いたし」地図などを添えて書写または板行したことは、不届のいたりであるにつき、在所仙台での蟄居を申し付ける、という判決である。著書は板木とともに没収され、林子平は仙台で幽閉のまま一年後に病死した。  二十年ほど経って大槻玄沢が『環海異聞』『北辺探事』でロシア事情を蝦夷地との関わりで著わした頃には、幕府にとっても対露政策はすでに急務となっていた。とはいえ、それらの著作の出版はもちろん不可である。玄沢にしても、幕府の要人がロシア事情を知ってくれ、その対策を立ててくれればよい。林子平の焦燥は玄沢の焦燥でもあった。西洋の医術に目をみはり、新しい学問を取入れていくのも洋学だったが、海外の事情に通じて、国防の策に急《せ》かれる思いをするのも洋学であった。  玄沢の子で文彦の父である大槻磐渓の時代には、国防は現実のことになっていた。嘉永六年の黒船来航で、海外事情通の磐渓は仙台藩侯や林大学頭のもとで奔走、幕府首脳への種々の建白を上書して開国を論じた。「米利幹《メリケン》議」「魯西亜《ロシア》議」などである。  磐渓はその「魯西亜議」を、「私義昔年環海異聞を編著仕り候大槻玄沢と申す者の次男に御座候、魯西亜国之義は弱年の頃より膝下《しつか》の談に時々承り及び」と書き出して、環海中に孤立して四面から敵を受けている我が国としては、隣国ロシアと手を結ぶことで安全を保つのが上策であるとした。林子平や大槻玄沢の対露警戒とは一見逆のようで、しかし、ロシアを日本の国防上最重要国と見る点では一致している。  同じ仙台藩の工藤平助も、林子平の書の二、三年前に『赤蝦夷風説考』を著わして、老中田沼|意次《おきつぐ》へ献じていた。平助もやはりロシアの南下への警告を表明しているのだが、方策としては積極貿易の策をとり、そのための蝦夷地開発計画を提案したものであった。磐渓の積極外交策と通じるものがある。平助の建議にもとづいて田沼は壮大な開発計画をたてたのだが、田沼の失脚で計画も流れた。  黒船から数年たった安政六年、幕府は蝦夷地を奥羽の諸藩に分けて、その守備と開拓にあたらせた。仙台藩には蝦夷の東半部、日高国あたりから根室およびエトロフ、クナシリの両島が割り当てられた。このとき磐渓は、藩公にあてて蝦夷仙台領経営の三策を上申している。  その一は、藩士のうち父兄の俸禄にたよっている無禄の二、三男およそ一万人を、屯田兵として蝦夷地に土着させること。  その二は、不毛地を開拓するには、西洋の利器便法を用いねば成功しない。開墾に詳しい西洋人を雇い入れるべきであること。  その三は、交易所を設けて外国と交易すべきこと。海産物や皮革が交易品となろうこと。  この三策で十年経てば富国強兵の基礎はでき、北方に新日本ができるであろう。  かつて林子平を処罰した幕府が、奥羽諸藩を通じるという間接策ではあるが、蝦夷地開拓に乗り出していた。磐渓は蝦夷地開拓策に、子平、平助、玄沢以来の夢を賭けた。それは、同様に開国と国防を説いて蛮社の獄で追われて自刃した仙台人、洋学者、高野長英の夢でもあった。  だが、磐渓の策はすぐには成らなかった。それどころではない幕末維新の数年が荒れ、磐渓献策から十年の明治二年、獄中の磐渓とは無関係に、明治新政府がほぼ同じ北海道開拓策を打ち出していた。  仙台藩士の二、三男の移住も、別のかたちで進んでいる。戊辰戦争の敗戦で領地を三分の一に減らされた仙台藩では、住む場所と生活の糧《かて》を失った人びとが北の新天地に移住するよりなかった。他藩領となった仙南五郡の支藩領主と藩士たちは、小さくなった新仙台領内の荒地開拓にも入ったが、およそ千四百戸八千人の仙台藩士と家族たちは、支藩主や家老を指導者として、北海道へ集団で移住した。石狩の荒野で鍬《くわ》をにぎり、不毛ではないかと思う土地に立ち向い、秋冬の寒気と戦って、藩ぐるみの苦闘で近代北海道をすこしずつ拓《ひら》いていった。  戊辰の敗戦のあと、世の中は皮肉なことに磐渓の望んだように進んでいる。新政府は積極開国で動いている。北方問題にも、蝦夷地を改称、北海道開拓使を置くという意気込みを見せている。権力闘争が一応収束したいまは、それが当り前だった。当り前のことを主張しつづけた父が獄につながれているのは、思えば変な話だが、権力の帰趨《きすう》のことだ、変なことはいつでもある。  父の救出だけが気がかりの毎日ではあったが、八ヶ月の間、そのことだけで時間がふさがっているわけではない。むしろ、戊辰戦争中の密偵時代などにくらべれば、いまは時間がいくらでもある。祖父や父の著書に目を通し、戊辰戦争の日々をいくらか離れて眺めている。  幕府も新政府も、二十三歳の青年文彦の目には、戊辰戦争を通ったことで、以前とはどこか違っていた。色がうすれていたというべきか。どちらの色も、あの内乱で洗い流されて、どちらもたいして違わなくなっていた。開国佐幕も尊王|攘夷《じようい》も、どこか無味無臭の感じであった。その代りに「日本」というものが、色と匂いを持ちはじめている。  庭に降りて露を載せた秋の雑草を踏むとき、町はずれを歩いていてふいに上げた目に蔵王の薄雪が映るとき、夜ひとり灯をともしながら書物を読み外の雨音を耳にするとき、「日本」が匂い立ってくる。そして、その言葉の先に、アメリカが、ロシアが、イギリスが音を立てていた。  幼い日から身のまわりにあった「洋学」が、蘭学が、英学が、想像の上の祖父の顔や開成所の人びとの顔とかさなりあって、江戸の町の匂いを立てている。その匂いが、ここ仙台の土地と景色と物音のなかに流れ込む。流れ込んでひとつになって、なつかしいけれども新しい、或る匂いをつくっている。とらえようがなかったが、それが「日本」であった。それは江戸の匂いでもあり仙台の匂いでもあり、海の風に乗ってくる異国の匂いを混じえたものでもあった。幕府や薩長の匂いではなかった。 『北海道風土記』を文彦に書かせたのは、その「日本」の匂いであった。祖父と父が気がかりにして来た蝦夷地、この北奥の地の先人たちが、林子平や工藤平助らが案じてきた蝦夷地が、ようやく開拓されることになった。  西国に居ては分らないかもしれない、はっきりした北辺への感覚が、奥羽の人びとの血には流れている。その感覚は同時に外国への感覚であり、それがこの土地から多くの洋学者を生み出した。この土地が生んだ洋学者は外国の技芸学術の習得に止《とど》まろうとしなかった。国際関係への関心と国防への熱い思いが誰をもつらぬいていた。蝦夷地が目前にあったからである。そのことが「日本」を嗅《か》ぎとらせていた。  戊辰の敗戦は奥羽の敗戦ではなかった。奥羽は権力から落脱することで、「日本」の匂いをつくっていくだろう。それは、権力を手にした薩長には、西南戦争という大手術を通過するまでは、いくぶん難しいことであった。  文彦は蝦夷地北海道についての集められるかぎりの書物を集めた。それらを集大成したものがいま編輯《へんしゆう》されなければならない、それは自分の仕事だ、と思った。  年が明け父の出獄からしばらくして、その「序」を書いた。漢文でおよそ九百字、大槻文彦のその後の著述の底に流れるナショナリズムの宣言である。  ——この国の北辺の要地蝦夷の重要性を知り、その開拓に志す慷慨《こうがい》の士はこれまで幾人かあった。吾が郷仙台の林子平がその第一である。  その後、近藤重蔵、最上《もがみ》徳内、間宮林蔵の諸子がそれぞれ書を著わしているが、吾が祖父大槻玄沢もまた蝦夷とロシアとの間の事歴について若干の書を成している。幕府が蝦夷地を奥羽列藩に割《さ》いて賜わった時には、父磐渓が藩主に開拓策を建議した。余は弱年ではあったが此《これ》等の事を家で見聞して、ほぼ北地の情状を知り、年来ひそかに「慷慨の志」を抱いてきた。  そもそも古今、志ある者が此の嘆を発してきた理由は、世界の六分の一を占める強大無比のロシアが北に蟠屈《ばんくつ》して我が隙を窺《うかが》っているのを考えるからではないか。  ロシアが国家の体を為《な》したのは近々百余年前で、はじめはヨーロッパの北方に蠢《うごめ》く一|夷族《いぞく》、一小国に過ぎなかった。英主|彼得《ピヨートル》氏が襲位してはじめて開物につとめ、遂にアジア北部数万里の地を併呑《へいどん》、東はカムチャツカに至り、更に南下して我が蝦夷諸島を蚕食、択捉《エトロフ》島にまで及んできた。択捉島はのちに我が国がほぼ恢復《かいふく》したとはいえ、猟虎《ラツコ》島(ウルップ島)以北は永久に彼の有に帰し、それ以来、「隙ヲ伺ヒ機ニ乗ジ、苟《イヤシク》モ少虚アレバ則《スナハ》チ尺寸ヲ掠《カス》メ、以テ南出ヲ図ル」。  阿片戦争にあっては百方を欺罔《きもう》して黒竜江以南五百里の地を取って朝鮮北境に逼《せま》り、ここに至っては我が北辺環海はロシア領にほとんど包繞《ほうじよう》されんとしている。寒心なからざるべけんや。  唐太《からふと》(樺太)島は従来北緯五十度を境界として、以南は我が国に、以北は満洲《まんしゆう》に属していたが、満洲がロシアに帰するに及んで此の島もロシア領に入った。安政元年我が国がロシアと和親を結ぶや、彼は猟虎島を以て唐太と換えんことを請うたが、我が国はこれを断った。慶応元年に二使がロシアの都に赴いて境界の確定にあたったのであるが、応接に不得要領で遂に唐太は両国雑居の地と変じ、ロシアは島の南端に鎮台を置き、大船巨艦を停泊させ、傲然《ごうぜん》我が地を専有している。雑居条約に曰《いわ》く、両国人民先に来り住む者が此地を有すと。それならばロシアは必ずや数百千人民を移殖して、寸地を残さず全島を自領にするであろう。  そもそもロシアが我が北辺を望むこと此の如く切なるは何ぞや。けだしその国土は曠漠《こうばく》として大であるが、全土が北方に僻在して、気候は寒く土地は痩《や》せ、南方諸国とは比べもできぬ。それ故にかつてはトルコを取らんと欲し、英仏がこれをとどめる黒海の戦があった。やむを得ず東洋に転じているが、蝦夷と満洲朝鮮を包み込み東洋を雄視するのに百年を待たず、やがては世界をも席巻《せつけん》する勢いである。今はロシアはすでに我が国と同盟の国であり、それ故に外面は親睦《しんぼく》をよそおっているが、内にある豺狼《さいろう》の心は掩《おお》うべくもない。  我が国家は今や蝦夷を改め北海道となし、国郡を区分して、大いに開拓の業を弘《ひろ》めんとしている。聖略の遠大、皇威の強張、まことに喜ぶべきことであるが、ロシアは必ずやこれに対処してくるであろう。これ余の歓喜慷慨こもごも至るゆえんであり、此の編著をなさざるを得なかったわけである。『北海道風土記』と名づけ、全三十巻、その形勢、地理、史事等、巻を逐うて編み、ロシア記事を諸巻末に付す。  文彦の民族意識を生んだのが、洋学であり江戸であり、大槻家の血であり仙台であり、奥羽の土地であり、それらすべてを坩堝《るつぼ》で熔《と》かし合せる戊辰内乱であった。  明治六年には『琉球新誌』と『琉球諸島全図』を出版した。琉球の所属をめぐって支那から異論が出た時に、琉球がどの点から見ても日本の所属であるという理由を説いて、その地理歴史を編纂したものである。序文にも、地勢、沿革、人種、言語、文字、政体、保護関係、帰化、征服、王統の十箇条の理由を挙げて論じている。  林子平以来の辺境領土へのつよい関心の産物であり、二十代の文彦を育てていった新しい民族意識の産物であった。これらの著作を書くなかで、文彦の「日本」はさらに匂い立ち、色をあざやかにし、手ざわりを持っていった。藩閥意識を拭い切れない薩長新政府の多くの若者の「日本」は、文彦の「日本」にくらべてはるかに色あせていた。或いは、観念の産む虚像にすぎなかった。  文彦がつづいて『小笠原島新誌』を出版したのも、当然のなりゆきだった。明治政府の小笠原島開拓に英米両国から横槍が入った時に書いたもので、これも、その地理歴史を詳述して、小笠原島が正当に日本領であることを証明しようとした著作である。  林子平の『三国通覧』は朝鮮、蝦夷、琉球の三地の地図に説明を加えたもので、付録に小笠原島の地図と説明がある。文彦の二十代の著作は、朝鮮を除いてだが、林子平のあとをたどっていることになる。文彦自身、『小笠原島新誌』の序に書く。「余ヤ林子《リンシ》ト嘆ヲ同ジフスル者ナリ、常ニ其書ヲ継ギ以テ増訂補述スル所有ラムト欲ス。嚮《サキ》ニ北海道風土記琉球新誌ヲ著シ二地ノ事ヲ縷述《ルジユツ》ス。今官|将《マサ》ニ小笠原島開拓ノ事有ラムトス。余是ニ於《オイ》テ持論ヲ陳《ノ》ベザルヲ得ズ」  この序で、いずれ「朝鮮ノ編」に及ぶつもりであることを謳《うた》っているが、これは成らなかった。三十代に入ってからは、雑誌への寄稿も多くなったが、なにより『言海』の編纂に時間と精神を集中してゆく。雑誌論文にも「日本文法論」「君主ヲ称スル語各国相似タルノ考」「外来語源考」など、言葉への関心が、やはり国語学者というより洋学者の肌合であらわれるのだが、それでも林子平の後を継ぐ志はつづいている。明治十一年、三十二歳の「竹島松島ノ記事」は、小さな朝鮮編であった。  隠岐と朝鮮との間の無人の島、竹島松島の二島は日本海の好漁場にあって江戸幕府開府の頃から日本と朝鮮が領有を争ってきた島であり、いまだに日韓係争の地となっている。 [#ここから1字下げ]  両国ノ間ニ此|曖昧《アイマイ》ノ地アリ棄テヽ開カズ後来|若《モ》シ外人ニ有セラレバ独《ヒトリ》其利ヲ失フノミナラズ一旦緩急アラバ利害ノ関スル事少カラジ。今ヤ北ハ唐太千島ノ交換アリテ魯国トノ紛紜《フンウン》ヲ終ヘ、西ハ朝鮮ト和成リテ葛藤《カツトウ》始メテ解ケ、東南ノ小笠原島、英人既ニ其所有ノ権ヲ放棄シ、南方ノ琉球モ亦《マタ》将ニ其両属ノ名ヲ処置セムトス。此時ニ当リテ此二島ノ事|措《オキ》テ問ハザルハ亦遺憾トスベシ。其ノ後《オク》レテ人ニ制セラレシ唐太《カラフト》ノ如ク、其数年ノ異議ヲ起シヽ小笠原島ノ如キハ、我レ竹島松島ニ於テ望ム所ニアラズ。乃《スナハ》チ二島ノ事ヲ記シテ世ノ志士ノ説ヲ起サムトス。 [#ここで字下げ終わり]  林子平を継ぐ文彦のナショナリズムであった。領土の確定に示されたその心は、言葉にも向けられる。 [#ここから1字下げ]  必ズヤ名ヲ正サンカ、名ハ其物ノ実ヲ標スル所以《ユヱン》ニシテ、其名ノ正シカラザルハ其物ノ体面ヲ汚ス所以ナリ。事物皆|然《シカ》リ、国ノ称号殊ニ然ラザルベカラズ。外人我国ヲ訛称《カシヨウ》シテ「ジヤパン」又「ヤッパン」ト呼ブ。然レドモ我国ノ称号ハ日本《ニツポン》ナリ、決シテ「ジヤパン」「ヤッパン」ニハアラザルナリ。然レドモ外人ノ訛称スルハ尚《ナホ》可ナリ、今我国人ニシテ洋文ヲ草スル者|率《オホム》ネ皆外人ノ称ヲ用ヰ、我官府外国公信ノ洋文ニ至ルマデ果シテ然ルカ否ハ余|未《イマ》ダ深ク之ヲ探リ知ル事|能《アタ》ハズト雖《イヘド》モ、余ガ眼ニ触ルヽ所ノ者ハ現ニ新紙幣郵便切手ノ面ニ於テ「ジヤパニーズ」ノ文字ヲ標スルヲ見ル。余甚ダ其当否ヲ決スルニ惑ヘリ。 [#ここで字下げ終わり] 「日本『ジヤパン』正訛ノ弁」と題するこの論は、つづいて、なぜ日本が Japan となったかの語源考証を行なったあとで、例えばネーデルランド人はけっして英称の「ダッチ」に甘んぜず、清国は「支那」の号をしりぞけ、琉球人は自ら沖縄人《オキナンチウ》をとなえることを挙げ、日本人だけが外国からの称呼を改めずにいるのは、「之《コレ》ヲ不見識トイハザルベケンヤ」と結んでいる。  明治に入っての洋学需要は大きかった。福沢諭吉の慶応義塾(英学)、箕作秋坪の三叉《さんさ》学舎(英仏学)をはじめ、多くの私塾に生徒があつまった。明治五年の東京の洋学私塾だけを見ても、二十ばかりの私塾で千人にちかい生徒がまなんでいる。洋書を懐に袴姿《はかますがた》で歩く女性も見られる世になっていた。「古昔の事を賤《いや》しみなどして、日本人ともつかず、外国人ともつかず、独り別なる一箇の偽西洋人」と見られる人間も多くなっていた。  洋学書生は幕末の洋書調所や開成所でまなんだ文彦らから、次の世代に移っている。「洋学」もまた変質してゆくのはやむを得ない。  さらに十年ほどして、明治はじめの洋学書生がすでに世の中で働いている明治十四年、文彦は小さな譬《たと》え話を書く。「蜜蜂《みつばち》熱地に移りて蜜醸さぬ話」という。  ヨーロッパからオーストラリアへ移住した或る男が、この土地には花が多いけれども蜜蜂がいない、本国から蜜蜂を移したなら大儲《おおもう》けができるだろう、と考えた。さっそく良種の蜜蜂を大量に取り寄せた。ところが一、二年はよかったのだが、やがて蜜蜂が蜜をつくらなくなってしまった。考えてみると、蜜蜂は一年に一度の花の時に、冬籠《ふゆごも》りに備えて蜜を貯えているわけで、年中花の絶えないオーストラリアでは、蜜を貯える必要がない。結局この男の企ては失敗に終り、物笑いの種となった。  この話を文彦は、「我が国のまのあたりにもかゝるわざする人すくなからずかし」と結ぶ。  外国文化の移入が手軽でないことを、文彦は、ナショナリズムの形成とないまぜの自らの「洋学」から知っていた。  洋学は、熱地に蜜蜂を移入するためのものではない。ヨーロッパに蜜蜂のあることを識れば、熱地には熱地の蜜虫を見つけ出して、育てる。それが見識であり、また、利にもつながるはずだ。自らの土地のものを創り出さないでは、他の土地の人たちと肩をならべて付合えるわけがない。  大槻文彦は、西洋文法と西洋辞書に良質の蜜を見た。そして、この日本の土地にふさわしい蜜を、足もとから見つけ出し、育てようとした。日本文法と日本辞書を、この国に育てなければならぬ。それなくして欧米人と付合うのは不見識であり、恥ずべきである。  文彦の「洋学」は、そういう「洋学」であった。  仙台から東京に出た文彦にもどろう。明治三年三月、二十四歳の青年が、戦乱は熄《や》んだが革命はまだ進行中の国の首府へ、父を救った安堵《あんど》と誇りと、一書を成し了《お》えた昂《たかぶ》りをかかえて、奥州街道を歩いてゆく。この三、四年ですっかり健脚になっていた。気がつくと、ずいぶん先を歩いていた人を追い越している。  白石、二本松、白河、宇都宮と、東京に近づくにつれて桜が二分、三分、五分と開いてゆく。利根川を渡り粕壁《かすかべ》、越ヶ谷、草加のあたりは、もう七、八分に咲いている。  上野の山は花吹雪だろう。  英学も数学もやり直そう。  とりたてて目標があるわけではなかったが、無性に学問がなつかしかった。  文彦は足を速めて、またひとり旅人を追い越した。      2  母校の洋書調所は、四年前に江戸に出たときには開成所、今度は大学南校になっていた。明治三年五月、文彦には三度目の入学である。十六歳の冬の二ヶ月足らず、二十歳の秋から冬への三ヶ月ほどと、合わせても五ヶ月にならない母校だったが、今度はゆっくりまなべそうだった。  大学南校は新政府の人材育成センターであり、文部行政府でもある。旧幕時代からその傾きをつよめていたが、いま政治担当者に必要なのは「洋学」である。大学頭や昌平黌《しようへいこう》の学ではない。  幕府を倒した新しい政権に「攘夷」を期待する声は、いまも満ちている。しかし、イギリスに留学した長州の伊藤博文や井上馨、そのふたりから海外知識を得ている木戸孝允らにとって、攘夷は寝言でしかない。薩摩の大久保利通らは、この頃はまだ、大宝令の昔にかえろうとする「王政復古」を描いているけれども、木戸らにとっては、西洋近代国家と肩をならべられる国家造りが急務である。洋学を武器に、国家の改造をいそがなければならない。  木戸は鳥羽伏見戦の直後に政府部内で版籍奉還を主張したが、握りつぶされた。だが、藩を残したままでは国家の近代化はとてもできない。その秋と翌二年正月、伊藤博文が二度の建白で公然と廃藩論をとなえたが、これも政府の内部からも外からも反対されて潰《つぶ》れた。版籍奉還だけは二年六月に実現したが、廃藩置県にはさらに二年もの月日を待たなくてはならない。藩意識は政府の内にも外にも根づよい。西郷隆盛たちの古い意識が、すくなくとも西南戦争までの十年、いつでも一方の強い力であった。  大槻磐渓らが海外からまなんでいた「立君定律国」へは、まだ遠い。外国を識る人間、自藩意識から脱け出している人間が、ひとりでも多く要る。そういう人間の集まりが、ひとつは大蔵省であった。昨二年七月の官制改革以来、大隈重信、伊藤博文、井上馨、五代友厚、細川潤次郎、渋沢栄一、前島|密《ひそか》らが大蔵省に結集して、近代化政策を進めている。  もうひとつは蕃書調所以来の幕府洋学者群である。福沢諭吉、加藤弘之、中村正直、箕作秋坪、箕作麟祥、西周、神田孝平らの洋学者が、洋学私塾と大学南校を拠点として、西洋の思想、制度、学術を取り込んでいる。あくる明治四年七月の文部省創設で、そのほとんどが文部官僚となってゆくであろう。  蕃書調所から洋書調所、開成所と経てきた大学南校を母体とする文部省は、旧幕系洋学者群を糾合して、明治初期のこの国の大改造を担ってゆくであろう。勝者の側に立たなかった彼らは、大蔵官僚よりさらに、藩の意識から遠いところにいる。権力奪取の戦争が終ったあとの、社会と文化の革命の駆動力である。  文彦もやがてその一員となってゆく。文部省に出仕し、彼らが結成する明六社にも加わってゆく。自分のなかに生れた「日本」を育ててゆく。それは自然の筋道であった。  文彦は大学南校で一年ちかくまなんだ。  政府の近代化政策顧問でもあるフルベッキなど、外国人教師がつぎつぎに南校に着任した。政府は各藩に命じて若い人材を南校へ差出させた。十五万石以上は三人、五万石以上は二人、五万石未満は一人、学費は南校持ちで「人材成育」するというのである。  十六から二十歳までの若い学生が、藩ごとに選抜されて全国からあつまってくる。いずれ彼らが次の時代をつくってゆくであろう。だが今のところ、それぞれ自藩の期待を背にした、学問もまだ稚《おさな》い青少年である。なかには単純に西洋にかぶれてゆく者もある。  年齢の違いばかりではなく、文彦にはなじめない空気になってゆく。大学南校は、良くも悪くも帝国大学へむかって出発している。洋書調所、開成所を経て、戊辰戦争をくぐってきた文彦のような人間が住むところではなくなっている。文彦は、のちの安定期の国家を運営してゆく彼らの世代にではなく、草創期の国家を形成してゆく旧幕洋学者群の世代に属していた。  明治四年の三月、文彦は大学南校をやめて箕作秋坪・奎吾《けいご》の英学私塾|三叉《さんさ》学舎に入った。  ここでの教育法の軸になっているのが、例の洋書調所流の輪講だった。生徒が輪になって坐り、ひとりずつ順にテキストの一節を講釈する。他の生徒がその解釈に異論を出す。互いに自分の解釈を主張して闘い、最後に先生が誰の解釈が勝ちと判定して白星を付ける。敗者は黒星である。それを順に繰り返して一冊の原書を読み了える。白星に喜び、黒星にくやしがる。白星を取るために、字引がボロボロになるほど下調べをして教室に出る。  輪講のほかに、長文の暗誦《あんしよう》もあった。  文彦は夢中になった。気を詰めすぎて耳が遠くなったことさえある。半年後の九月には塾の幹事(塾長)になっていた。 [#ここから1字下げ]  当時諸藩などから洋書の翻訳を頼みに来る。むづかしいものは十行二十字一枚で二円から三円ぐらゐ。やさしいものでも一円から五十銭出した。これを賃訳と云つた。書生に金廻りのよい者があり、私なども取つたものだ。又諸藩から学資を沢山に呉《く》れて書生を出す。書生に有福な者もあつた。それが放蕩《ほうとう》する、両刀は帯びて居る、酒に酔つて乱暴する、手が付けられぬ。年長者も多かつたし、私も幹事で取締りに随分困つた事もあつたが、そんな話は止《や》めにしよう。併《しか》し今の顕要の地位に居る者に此時の書生が随分ある。東郷平八郎さんなども学生で居られた。皆々気概があつて今の書生の薄志弱行のやうではない。 [#ここで字下げ終わり]  文彦の修業時代は終ろうとしている。何をなすべきか。 『北海道風土記』を書かせたと同じ心が、日本文法の創定を思い立たせていた。西洋文法を知るほどに、「方今我国ノ文学ニ就キテ最大ノ欠典トスルハ日本文典ノ全備セル者ナキナリ」の思いが、文彦のなかに蓄積している。「是《コレ》ナキハ独《ヒトリ》我国文学ノ基礎立タザルノミナラズ外国ニ対スルモ真ニ外聞悪シキ事ナリ」として、英学と並行して国学の独習をはじめた。  のち『言海』の巻頭に置かれる「語法指南(日本文典摘録)」が、その第一回の答案であったし、さらにのちの「広日本文典序論」には、先にも引いた宣言が書かれる。 [#ここから1字下げ]  一国の国語は、外に対しては、一民族たることを証し、内にしては、同胞一体なる公義感覚を固結せしむるものにて、即《すなは》ち、国語の統一は、独立たる基礎にして、独立たる標識なり。 [#ここで字下げ終わり]  三叉学舎幹事の二十五歳の洋学生の胸中に、この宣言の種が落ちたとき、その父がそのまた父の誡語《かいご》として語った言が結びついた。「およそ、事業は、みだりに興すことあるべからず、思ひさだめて興すことあらば、遂げずばやまじ、の精神なかるべからず。」  大槻玄沢から流れる学者家系の決意である。  仙台で蟄居の父磐渓は、文彦が三叉学舎に移った三月、減刑されて謹慎となった。海軍兵学寮の教官になった兄修二が、繰り返し父の東京移住を請願していた。  謹慎が解かれたのが四月末。五月八日には父は妻や娘とともに東京に着いた。とりあえずは三女の雪が嫁いでいる本所の大築家に落着く。文彦の妹雪は、去年、かつて磐渓のもとで『ペリー日本紀行』を訳した大築(手塚)拙蔵に嫁している。  一家再会の祝宴につづいて、磐渓の帰京を待ってくれた人びとの祝宴。  成島柳北、桂川月池、松平確堂老公、箕作秋坪、福沢諭吉、川上|冬崖《とうがい》ら、二十数人もの客で、手狭な雪の家はごった返した。文久二年仙台帰住の送別の宴で泣いた雪が、いまは座敷からの笑声を耳に、台所で嬉し涙をぬぐっている。  この年から翌五年の秋に文部省に出仕するまで、思いさだめた日本文法の創定のために、文彦は西洋文法と日本文法の比較研究をつづける。英文法を主に、オランダ語、ドイツ語、フランス語、ロシア語についても、その国語の文法の構造と文法の形成史を調べた。ラテン語文法にもさかのぼった。  幼い頃から親しんでいる漢文の語法も思い合されてくる。梵語《ぼんご》も素通りはできない。  日本語はどうか。語法の学のはじまりを強いて探せば、平安末に束脩《そくしゆう》(入門の際の贈物)を持参して師に就いて歌文をまなぶようになった頃、師弟の授受に起ったことのようだ。藤原|基俊《もととし》の著と伝えられる『悦目抄《えつもくしよう》』や、くだって『定家仮名遣《ていかかなづかい》』が、当時の師伝の様を伝えている。鎌倉室町を通じて、宮廷歌人らがいちおうは語法を伝えて来た。  江戸開府以後は、まず契沖《けいちゆう》が、梵音学から漢字音を考え、万葉集の真名の音に及んで、古仮名遣法を発見した。その『和字正濫抄《わじしようらんしよう》』では動詞の活用にも言及している。その後、谷川|士清《ことすが》の『和訓栞《わくんのしおり》』が音韻活用を論じ、富士谷成章《ふじたになりあきら》の『かざし抄』『あゆひ抄』が品詞を四別し、動詞の正変活用に分け入っている。やがて本居宣長の『てにをは紐鏡《ひもかがみ》』『詞玉緒《ことばのたまのお》』で係結《かかりむすび》の法などが定まり、その子の本居|春庭《はるにわ》は『詞八衢《ことばのやちまた》』『詞通路《ことばのかよいじ》』で活用と自他を一定した。本居父子の説を補う諸書は、のちに数多い。  富士谷成章あたりから日本文典の形がととのってくるわけで、本居春庭の二著などは失明の国学者が命を刻むようにして書き上げた渾身《こんしん》の作である。  しかし、西洋文法を識る文彦の目には、先人たちの仕事が不満足なものに映る。先人の苦心は尊敬するけれども、一国の国語文法としては、あまりにも欠陥が多いのではないだろうか。  文法が科学になっていない。もともと「歌学家一派の高尚なる専門」の事柄に属していたため、世間の人びとには縁のないものであったし、契沖以来の語学家にしても、「解しがたく誤りやすき局部」ばかりを論じていて、迷いようのないことには触れていない。しかしそれでは、一科学としての文法ではない。遺漏が多く、文典の体裁を備えていない。  西洋ではローマがギリシャ文化を知ろうとしてギリシャ文法がつくられ、ローマの発展に伴って他国人がローマと交通し、その言語をまなぼうとしたことからラテン文法が整備された。そののち各国も、十七世紀頃から自国の文法をつくり、次第に精密化して、現在では普通教育必修の学としている。  各国が互いに交通すれば、互いにその国語を知らぬわけには行かない。その際、文法の誤りは交際の過ちとなる。我が国では従来、外国との交通がすくなかったために、お互いにこの国のなかだけで、おぼろげにでも意は通じ用は足りるとして、文法の必要にもその教育の必要にも思い及ばずに来た。  ようやく今、欧米との交通がはじまり、洋学が盛んに行なわれるようになった。外国との交際で、「おのずから意を通ず」とは言っておられないだろう。法律文や契約文においては、ことさら然りである。一科学としての文法の書なくして、一国の独立はない。  文法の比較考究に没頭している文彦は、二年後に『琉球新誌』に取りかかるまで、ほとんど何も書かない。唯一の例外が、年少の師箕作|奎吾《けいご》の夭逝《ようせい》を哀惜した「箕作奎吾墓誌」である。  箕作奎吾は箕作秋坪の長子で、箕作麟祥の従弟《いとこ》にあたる。麟祥は文彦より一歳年長、奎吾は五歳年少だ。ともに洋学家系の箕作家と大槻家は、家ぐるみの交際である。『言海』の祝宴にも、奎吾の弟、菊池|大麓《だいろく》が出席している。祝宴当時は理学大学長で、後日帝国大学総長、文部大臣を経る、その菊池大麓の依頼で文彦が『箕作麟祥君伝』を編むのは、さらに先のことになる。(箕作秋坪の長兄省吾は仙台支藩水沢藩士の子で箕作|阮甫《げんぽ》の養嗣子となった人であり、水沢時代には後藤新平の母に論語などを教えた人であるが、この人も若くして死んだ。年二十六。その碑文を書いたのが文彦の父磐渓であり、後年秋坪の歿《ぼつ》にあたって碑文の草案をつくるのが文彦の兄如電である。洋学両家の関《かか》わりはあまりに煩わしくなるのではぶくが、箕作家の人びとは若年の死が多く、とりわけ長命の家系の大槻家の人びとが、いつも墓誌を草する役にまわっている。)  奎吾は十一歳で、麟祥に就いて英学をはじめた。四年後の慶応二年には開成所教授補に任じられている。麟祥は十六で蕃書《ばんしよ》調所教授手伝並に出たが、それをも凌《しの》ぐ少年教官である。  その冬ロンドンに留学、三年後に帰朝。新政府に任官して、明治三年には大学少博士正七位に進んでいる。四年の春、職を辞して父秋坪の三叉学舎を手伝う。文彦が三叉学舎に移る決心をしたのには、ひとつにそのこともあった。年下だが畏敬《いけい》する奎吾に就いて、自分の英学を仕上げたいとの気持があった。英国の大学で異例の成績を収めてきた奎吾からは、まなぶことがどれだけあるかしれない。  奎吾が職を辞したのは、すこし身体《からだ》の具合が悪かったためでもあったが、戊辰の政変で英国での勉学を途中で打ち切って帰ったことでもあり、この際落着いて学業に専心したいという、学問の虫がなさせたことでもあった。それに、役人はどこか肌の合わぬところがあった。虚弱なことと合わせて箕作家の癖かもしれなかった。  文彦と奎吾は、上野の花、隅田川の月と、折々に出かけた。奎吾は年長の文彦を立てて控え目であったが、話の端々に窺《うかが》える奎吾の博覧強記と、イギリスという国への観察眼が、いつでも文彦をおどろかせた。本を書けばよいのに、と勧めると、 「私の学業はまだまだです。西洋の有益の書を翻訳して世に弘めよとおっしゃるかもしれませんが、それとても容易なこととは思えません。後世に謬《あやま》りを及ぼしてはことですからね」  そう言って一書をも公けにしなかった。  洋学者が争って著書を刻している時に、留学までした英才が黙しているのは、むしろ奇異であった。生来の学者のせいであった。長く生きて書を成すのを、見たかった。  晩夏六月、風の死す日にその奎吾が逝《い》った。近年|稀《まれ》な旱《ひでり》がつづき、シベリアからの悪疫が伝染していた。  半月後の夜、文彦は両国橋で花火を見上げている。奎吾と来るはずだった。納涼の舟が、不思議がられるほど少ない。 「噫《アア》、君スデニ逝ク、之ヲ継グハ後生ニ在リ」  奎吾には幾度か語った日本文法を、何年かかっても完成しなくてはならぬ。  百日ののち、文彦は奎吾の墓誌を書いた。『北海道風土記』から『琉球新誌』への三年ちかく、唯ひとつの文章である。  年長の心友、富田鉄之助はニューヨークにまなんでいる。  渡米の翌年戊辰内乱のニュースに、故国が心配で、勝小麓少年を人にたのんで帰国したが、勝海舟に大喝された。馬鹿者、なんのために帰って来たのか。いまや幕府の消長諸藩の興廃など問題じゃない。ただ皇国あるのみだ。世界の大勢を知る人間が要る、とりわけ東北にその人物を補うために、お前をアメリカにやったのだ。軽々に帰って来るとはなにごとか。  同じ頃、仙台藩降伏のあと横浜に逃れていた文彦は、一日鉄之助に会えた。勝先生に叱られたこと、アメリカのこと。文彦からは、戊辰戦争のこと、磐渓のこと。  鉄之助は、心を残しながら、一ヶ月のちに横浜を発《た》って、ふたたびアメリカへ向った。  翌明治二年秋、初の政府在外留学生に指名されて学費を支給され、昨三年十一月からはホイットニー校長の商業学校で財政学を修めている。  フランス留学から帰朝した箕作麟祥は、新政府に出仕してフランス民法を訳し、いま文部少博士兼司法少判事、すでに政府内翻訳の第一人者である。  紅葉館の祝宴で祝辞を述べる加藤弘之は、この年三十六歳、天皇の洋書侍講を経て、文部|大丞《だいじよう》。局次長くらいの地位にいる。  伊藤博文は三十歳、三十代が大半の若い政府首脳のなかでも最年少だ。この秋十月、特命全権大使岩倉具視の副使として、木戸孝允、大久保利通らと欧米へ出発した。日本政府首脳の半分の長期大旅行である。目的は不平等条約の改正であり、そのために欧米諸国に日本の事情を知らせ、欧米事情を視察して日本の制度を改革することである。二年間の欧米旅行は、保守派だった大久保利通をも変え、帰朝後は西郷隆盛と激しく対立させるようになる。すでに世界を識《し》っていた伊藤博文は、冷静に諸国を見てきた。制度文物、見られるかぎりを詳しく見た。洋行はのちの宰相博文を、第一級の知識人に仕上げる。  五稜郭で敗れた榎本武揚は、いまはまだ鍛冶橋監獄につながれている。黒田清隆の奔走で赦免され、北海道開拓使の一員となるのは、翌五年のことである。  伊藤、榎本とは、文彦はまだ直接には出会っていない。だが、軌跡は年を追うて接近している。伊藤の開国論はすでに海外視察によって個々の文物に及んでいる。言語の問題、国語の問題は、政治家伊藤博文の視野に入っている。文彦も戦った戊辰戦争を生き抜いた榎本は、やがて北海道の開拓に熱情を注ぎ、つづいて駐露特命全権公使として、樺太千島の領土問題でロシアとの談判に力をふるう。文彦の「樺太建議」と『北海道風土記』が榎本の手もとにとどくだろう。      3  明治五年十月三日、文彦は文部省八等出仕となった。一等の文部卿から十三等の少書記までの中間の地位で、陸海軍では中尉が八等である。卿以下約二百五十人の文部省の一員となった。  前年の七月に文部省が設立され、一年あまりが経っている。大木|喬任《たかとう》が文部卿である。(紅葉館の祝宴には大津事件後の内閣改造で新文部大臣として出席しているが、大木にとっては二度目の文相であった。)  大木は新政府の文部行政の軸に出版の仕事を置いた。大学、大学南校、大学東校にあった語学と翻訳の掛《かかり》を統合して編輯寮を発足させ、教科書の編纂《へんさん》と洋書の翻訳にあたらせて、それらの出版をいそがせた。明治四年から六年にかけての二年余で、編纂書四十四冊、翻訳書九十一冊を出版し、地球儀や地図|帖《ちよう》なども出している。単純平均で毎週一冊以上の出版である。権力交替後の革命の進行には、海外知識の普及が欠かせなかった。洋学がこの国を作り変えて行くであろう。  福沢諭吉の『西洋事情』『世界国尽』『学問のすゝめ』などが売れに売れ、地方ではそれらの海賊版が横行する。文部省のすさまじいばかりの出版も、官から民への押しつけではなく、すでにそれだけの需要を持っていたのだ。  まもなく第一級の洋学者集団「明六社」が結成されるのも、アメリカ帰りの森有礼の発案ではあったが、自然のなりゆきでもあった。明六社の演説会には聴衆があふれ、『明六雑誌』は売切れ、ときには増刷までしなければならなかった。  杉田玄白、前野良沢から大槻玄沢を経て育ってきた「洋学」が、いまは千、万の単位の人びとのものとなっている。  玄沢の孫の文彦は、その「洋学」の先頭|牽引《けんいん》集団である文部省に入り、明六社に加わってゆく。兄修二も文彦に先立って、海軍兵学寮教官から文部省八等出仕となっていた。  文彦と修二の兄弟はともに編書課員である。(文彦出仕の前月、編輯寮が編書課と改められた。)修二は夏以来、常用漢字の数を減らすようにとの大木喬任の意を受けて、二、三の同僚と協同で、新撰字《しんせんじ》の編輯に従っていた。  文彦に命じられたのは、英和辞書の編輯である。洋書調所出版の『英和対訳|袖珍《しゆうちん》辞書』が、通称『開成所辞書』とも呼ばれて版をかさねていたが、文彦もつかったこの辞書は幕末激動の時代に大急ぎでつくられたものである。新しい英和辞書が必要であった。  明治二年刊の『改正増補和訳英辞書』(通称『薩摩辞書』)もつかわれていた。しかしこれは、『開成所辞書』再版からのいわば海賊版であった。北海道開拓使が五年七月に『英和対訳辞書』を刊行して、開拓使学校の全生徒に配ったが、これも『開成所辞書』の簡略版である。辞書の数がすくなく、学校備付けの辞書を学生が全員でつかっていた頃にくらべれば、ひとりひとりの手もとに辞書が置かれるというのは、隔世の感であった。だが、次の仕事は、もっと充実した辞書である。文部省として当然の計画と言えよう。  二十六歳の大槻文彦は、その任にふさわしい学究となっていた。祖父玄沢が二十七歳で『蘭学|階梯《かいてい》』を著わし、この国で初めて西洋文字を刊行してから八十数年。英和辞書編纂の命に、文彦は奮い立った。  文部省編書課は、役人というより学者の集まりである。課員のひとりひとりが、別々に本を編んでいた。翌六年十一月に編書課長に任じられた西村茂樹が後日、『往事録』に書いている。このとき文彦は新設の宮城師範学校長に赴任していて本省にはいないが、当時の文部省編書課の様子が目にうかぶ一文である。 [#ここから1字下げ]  余が編書課長となりたる時、課員の分担せる所は、伊藤圭介、日本産物誌を編纂し、阪田莠、資治通鑑《しじつがん》に訓点を加へ、田中義廉、小学読本を編し、榊原芳野、稲垣千顆別種の読本を編し、小野寺丹下、魯語《ろご》辞書を編し、浅岡一、和仏辞書を編し、桑田親五、合衆国小史を編し、大槻修二、久保吉人、小沢圭二郎は本邦辞書を編し、山本信実は算術書を編し、木村正辞、黒川真頼は本邦歴史を編し、川田剛は(官吏に非ず報酬を与へて編輯せしむ)大日本史の後を継ぎて歴史を編す、内田五観は暦を編し(此《この》時暦は文部省の管理となり居れり)南部義籌、仮字文典を編す、(略)又前文部卿〔大木喬任〕の時より百科全書の編あり、是は英人チヤムバー氏の原書を訳するものにして、其訳者は本省の官吏に限らず、広く世界の洋学者に托《たく》す、是又脱稿の上、本課にて是を校正して出版するなり、此校正者は皆編書課中にあり、(略) [#ここで字下げ終わり]  ここで「校正」というのは、いまの校正とはすこし違っている。この頃の洋学者には和漢の書に通じない者が多く、翻訳した文章がそのままでは使えなかった。訳ができるごとに必ず漢文に通ずる者に訳文を修正させ、これを「校正」と呼んだ。  大槻玄沢が子の磐渓に漢学を修めさせたのは、西洋の書を格の正しい日本語に翻訳させるためであった。磐渓もまた自らの子に同じことを伝えた。洋学本流の大槻家の学問には、だからいつでも漢学が並行している。文彦の英学が、やはりそうだった。英学と漢学の両方に通じている文彦は、英和辞書の編者にふさわしい人間であった。  十九世紀欧米諸国のナショナリズムの展開は、各国に国語大辞書を生み出させている。ドイツではグリム兄弟が、二十年前から『ドイツ語大辞典』を刊行中である。フランスではリトレの『フランス語辞典』が、十年余を経て終巻を迎えようとしている。アメリカでは、初刊から四十数年の『ウェブスター英語辞典』の改訂が進められている。イギリスでは、ジョンソン博士の英語辞書が批判され、『オクスフォード英語辞典』編纂の企画が熟している。十九世紀後半から二十世紀はじめにかけては、国家意識が明瞭にされてゆく時代であり、国語辞書の時代であった。  それらの辞書と前後して刊行されることになる文彦の『言海』は、世界の国語辞書史の流れに日本の国語辞書を合流させるものであるが、明治五年のいま、英和辞書の編纂を命じられたことは、文彦にその流れを見させることであった。新しい英和辞書の編纂のためには、英語の辞書の歴史を調べることがまず必要だった。  文彦の目に、欧米の国語辞書と国家意識との結び付きが映る。辞書と文法との結び付きが映る。辞書編纂者は「語の批評家」ではなく「語の歴史家」でなければならぬという、イギリス言語学会のジョンソン批判に共感する。のちの『言海』で「語原」を重視する文彦の辞書編纂方針が、このときに根をおろした。 「文法」について、後に文彦が『言海』巻首の「本書編纂ノ大意」に書く。「辞書ハ、文法(Grammar.)ノ規定ニ拠リテ作ラルベキモノニシテ、辞書ト文法トハ、離ルベカラザルモノナリ。而シテ、文法ヲ知ラザルモノ、辞書ヲ使用スベカラズ、辞書ヲ使用セムホドノ者ハ、文法ヲ知レル者タルベシ」と。  文彦の英和辞書は完成しなかったが、文彦に「辞書」の理念をのこした。  新設の文部省にはすることが多すぎる。あれもこれも、と、時には混乱を起している。この年はじめて文部省師範学校が建てられ、文彦は文部省出仕後半年の翌六年四月、この学校へ出勤を命ぜられ、あわせて教科書の編輯に従事することになった。  仙台で養賢堂教員をしたことでもあり、教えることには慣れていたが、英語や数学だけではなく、物理学までも文彦が教えた。そのうえ、各学科の教科書までつくるのである。日本で最初の教科書作成であった。ずいぶん荒っぽい教育だが、漢学などの素養の深い生徒を入学させていたので、知識はみるみる吸収された。新しい知識を持つ人材の速成がもとめられていた。新しい時代を創り出すことに、がむしゃらに走る人びとの群れがあった。  だが、文彦のこの生活は三ヶ月に足りなかった。文部省は東京につづいて大阪と仙台に官立師範学校を設立することにした。宮城師範学校の開設が文彦にまかされた。 『琉球新誌』『琉球諸島全図』を刊行したばかりの文彦が、東京師範学校の卒業生数人を連れて仙台へ向った。  師範学校の敷地は、旧養賢堂の構内である。ここに、木造だがペンキ塗りの、仙台にはじめての西洋造りの学校を建てた。  建築の指図をする文彦の胸に、文久二年に仙台に移住して養賢堂構内に仮住いをした頃のことが去来する。  攘夷論に凝りかたまって父磐渓をなじりに来た星恂太郎のこと。戊辰敗戦のあと額兵隊を率いて榎本軍に投じた星は、箱館五稜郭で敗れ、一年ちかく弘前藩に監禁されていたが、いまは北海道開拓使の一員として働いている。  仙台に住んで識った富田鉄之助のこと。富田は昨年の岩倉使節団一行の訪米の折に、岩倉、木戸、大久保、伊藤らの政府首脳の知遇を得て、ニューヨーク在勤副領事の職にある。  仙台にペンキがないので、文彦は自分で油と顔料を混ぜ合せてペンキをつくった。白ペンキに塗られていく師範学校は、仙台じゅうの評判になった。西洋風のこの建物は、奥羽に新時代を拓《ひら》くものだった。窓の戸の蝶つがいを外から打たせてしまうような失敗もあったが、素人の仕事とは見えない堂々とした建築であった。文彦は父磐渓に書いてもらった「師範学校」の横額を、学校の正面にかかげた。  文化年間に父の従兄《いとこ》の大槻平泉が養賢堂学頭となって以来、習斎、磐渓と大槻一族が学頭職を継ぎ、そしていま、仙台どころか奥羽第一の学校を大槻家の文彦が建てる。この春から宮城県ではじめての新聞が木活字で出ていたが、藩の儒者であったその新聞社主が、「どうしても学校の権は大槻家に取られるのかなあ」と人ごとに語っていた。  学校には奥羽越から生徒を募集し、東京師範学校卒業生を教員とした。  木の葉の散り走る勾当台《こうとうだい》通りに、馬を走らせる若い師範学校長が人目を惹《ひ》いた。馬術は幼い頃の訓練で、いまでも人に恥じない。馬に乗っていると、天が近い。秋の深く澄んだ空に、文彦は頭を高く立てていた。  この年の夏から翌七年の末まで、文彦は仙台にいた。生徒を教育し、東北諸県の学校へ送り出した。教育法にも自分なりの工夫を積んだ。西洋の教科書を取りよせて研究した。地名を記入してない白地図が学習用につくられているのを知って、『日本暗射図』を作成して刊行した。これは東北だけではなく、日本中の学校でつかわれるようになった。自らの国の地理を知悉《ちしつ》することを、文彦は教育の核にした。自らの国を知ることなしに、学ぶことの意味はないと思った。北方領土をめぐって、ロシアとの間で困難な交渉がはじまっていた。樺太に関する建議を政府に提出したのは、この仙台時代のことであった。  明治七年の暮れ、文部省から帰京の命があった。八年二月二日、報告課と改められていた旧編書課勤務となり、西村茂樹課長から日本の国語辞書編纂を命じられた。  西村は明六社の中心メンバーである。箕作秋坪が森有礼にかわって明六社の会長となっている。文彦は官吏の位では相変らず八等だったが、「天下ノ名士」とされた明六社の会員二十数人のひとりになった。同じ頃、富田鉄之助も海外通信員として明六社会員になった。  明六社はまもなく、六月に発布される讒謗律《ざんぼうりつ》と新聞紙条例という言論弾圧のために、結社内部での激論はあったものの、その活動を停止することになるのだが、旧開成所系、旧幕府系のこの知識集団こそが、明治のはじめの舵《かじ》とりであった。けっして過激な変革論者たちではなかったが、その該博な知識は、彼らを時代の最先端に押し出していた。日本のアンシクロペディストであり、それゆえに、彼らが直接間接にかかわっていた文部省が、新政府のなかでも異様なくらいの革新性を示していた。  政府の言論弾圧政策が会員のあいだの矛盾を照らし出すことになって、集団活動の停止を余儀なくされたが、明六社の革新性はその後もさまざまの形で明治の前半を形づくってゆく。  例えば、この日本のアンシクロペディストたちは、外国の新知識を解説するための文章表現に平易であることを旨とし、そのために一様に国語国字問題に関心を持った。会員のひとりで出版業者の清水卯三郎は、かつて箕作阮甫に蘭学をまなび、幕末のパリ万国博覧会出品総代として渡仏した男である。この清水が後年大槻文彦とともに「かなのくわい」を起して、国語国字の改革運動に身を挺してゆく。清水の書いた化学入門書『ものわりのはしご』なども、日用語をつかった平仮名文で新知識を庶民に伝えようとする試みであり、アンシクロペディスト集団明六社は、そういう形でのちのちまで生きてゆく。  文彦が明六社に参加した頃、明六社の西村茂樹と阪谷素を中心に、もうひとつの学者集団が発足した。洋々社である。これには大槻文彦も父の磐渓も加わった。文部省関係の国学者や『文部省百科全書』の関係者が会員の多くを占めている。明六社のなかの穏健派を拡大したような集団であって、そのため讒謗律にも矛盾をあらわさずにすんだのだが、それでもやはり明六社の役割のひとつの延長であった。雑誌『洋々社談』の演じた時代|啓蒙《けいもう》は小さなものではなかった。文彦が「日本文法論」などを発表してゆくのは、この雑誌であるが、『明六雑誌』が存続していれば、文彦の諸論文はそちらに発表されても不思議はなかった。  西村茂樹が文彦の生涯の仕事を決めた。文彦のなかで熟してきたものが、いつかは日本辞書の編纂にむかうはずではあったが、文部省報告課長西村茂樹の命がなくては、始動は難しかったであろう。西村が、文部省の直属上司として、明六社の先輩会員として、洋々社の中心会員として、文彦のパトロンとなる。  日本辞書『言海』の土壌がととのった。      4  東京に帰住してからの磐渓は、文雅風流の日々を送っている。明治五年には本所相生町の田安家の別邸に移転した。もとは大名の隠居住いに造られた屋敷だから、庭には池、石、樹が配され、庭に面して風情のある座敷がある。この部屋を磐渓は、愛古堂と名づけた。  江戸が東京になって二、三年は、町はさびれていた。大名が引きあげ旗本が四散して、巨大な町の六割を占める武家地が荒れた。番町や駿河台《するがだい》あたりの広い屋敷に雑草が丈高く茂り、強盗が勝手に住みついている屋敷もあるような噂《うわさ》で、夜の出歩きは危険だった。  都市経済が破綻《はたん》して、暮しの立たなくなった窮民があふれていた。新政府への不信と反感が根づよい。町奉行所の代りに南北市政裁判所が置かれた。南市政裁判所の判事、つまり旧南町奉行になって新首都東京の市政を預ったのが、のちに天皇の侍補になって反藩閥のひとつの核となる土方久元だった。『言海』祝宴の発起人高崎正風は土方の下で侍補になり、土方と行動を共にする。文彦がやがて土方と識るのは、高崎を介してである。  府知事が置かれるようになってまもなく、大木喬任がその任に就いた。荒れた市内を新しい首都に整備する仕事がつづいた。窮民をなんとかしなくてはならない。大木は救育所を設けたり、武家地を桑茶畑にする政策を進めた。主要貿易品の生糸と茶をつくって、窮民救済費にあてようとしたのである。雑草を茂らせておくより、治安の上でもそのほうがよかった。だが東京は、大木が府知事から文部卿に転出する四年の夏までに、思いのほかに活気をとりもどしてゆく。東京居住令を受けた大名家族たちをはじめ、人びとがこの町に続々と帰って来た。役所がつぎつぎに設けられ、官員が増えていった。土地屋敷は逆に不足しはじめ、桑茶策はとりやめになった。  火事は相変らずだった。明治五年二月二十六日、和田倉門内の旧会津藩邸から出火した火が、新都の中心部四十余町を焼いた。大風の日で、三時頃から夜十時まで、大蔵省紙幣寮や司法省、西本願寺、築地ホテル館など、京橋から銀座、三十間堀から築地一帯を灰にした。難民が街にあふれた。その救護もいそがれたが、東京を不燃都市に改造する計画が、雇いの外人たちの意見を汲《く》みながら進められた。銀座の煉瓦街建設がはじまろうとしている。江戸は東京へと変貌《へんぼう》しはじめている。  大槻玄沢が江戸で最初に住んだ家も、蘭学の源流となった芝蘭堂も、子の磐渓が生れた家も、その寧静閣も、たびたびの火事でとっくに焼けていたが、こんどの大火は、それらの家々のあった土地をもう一度ひとなめにした。父祖の汗の匂うこの土地が、文彦らの世代の新しい仕事を待っている。  磐渓は、新時代の方向には異存がなかった。自分の主張のとおり世は開国となって、立君定律の国家へむかっている。しかし——。薩長ばかりが新時代を我物顔に振舞っているが、戊辰の奥羽の挙兵はむしろ彼ら以上に国家の将来を考えたための抵抗であった。目先の利害で薩長に尻尾《しつぽ》を振った西国諸藩とは違うのだ。  陸軍軍医監の仙台人某が政府への出仕を勧めに来た時、磐渓は一言で謝絶した。 「亡国の遺臣、何の面目あつて朝班に就くべき。」  新政府の人びとと伍することが出来るものか。七十を何歳も過ぎた隠居の身だ、おれだけは戊辰の意地を通すことにする。これからの仕事は、修二や文彦らがやってくれ。  磐渓の推挙で『朝野新聞』に入った成島柳北が、何かというと誘いに来る。柳北は五年秋から六年夏にかけて欧米をまわって来た。『公文通誌』という新聞がふるわぬので良い記者が欲しいのだが、と旧雲州侯と明石侯からたのまれた磐渓が、柳北が良いでしょうと勧め、題号も『朝野新聞』と名づけた。柳北はまもなくその局長となり、東京日日、郵便報知とならぶ大新聞をつくり上げた。  四十前の柳北と七十過ぎの磐渓が、向島の花、両国の月と、芸妓《げいぎ》相手に歌い、盃《さかずき》を手に詩を吟じた。修二、文彦が伴をすることもあった。世事に関わりのない時間が流れる。  修二、文彦の兄弟が文部省八等出仕となって、家計に不足はない。文雅の知己の来訪も絶えない。磐渓は長寿老楽を日々たのしんでいる。  文彦が文部省に出仕した明治五年の十二月三日は、この日から太陽暦に改まり、明治六年一月一日となった日である。  大槻の家では、洋学名家の学者たちを招いた。新元会、オランダ正月の再興である。杉田家の人びと、宇田川家の人びと、桂川家の人びと、箕作家の人びとが、相生町の愛古堂にあつまってきた。  八十年前の寛政六年閏十一月十一日、京橋水谷町の芝蘭堂に、大槻玄沢が招いた蘭学者の直接の子孫、或《ある》いは学問の子孫たちである。合理主義者玄沢が催した太陽暦元旦祝賀の宴第一回は、西暦一七九五年一月一日であった。それ以来玄沢の長男玄幹の亡くなる天保八年まで、新元会ともオランダ正月とも呼ばれた洋学者の大集会が、四十四回、大槻家で開かれてきた。それきり途絶えていたオランダ正月の復活であった。いま明治六年の明ける日、太陽暦が国家の採るところとなった。   憶《オモ》ヘバ昔先君磐水翁〔玄沢〕   是ノ日|開筵《カイエン》シテ春風ニ酔フ   一家ノ私暦新元会   感泣ス今天下ノ公ト為《ナ》ルニ  洋学が「天下ノ公」となっているのだ。玄沢が幕府天文方に出仕した時、師の杉田玄白が驚喜したものだったが、明治のいま、この国は洋学なしには動かない。政府の部内でも、外でも、洋学者が国家の改造と育成に直接にかかわっている。明治六年大槻家の歳賀の宴は、日本の洋学勝利の祝宴であった。  箕作家からは秋坪も、もちろん麟祥も来ている。戊辰のすこし前に会った時には結婚したばかりで、「ワイフをもらったけれどエージがフォーテンでユースレッスだ」などと笑っていた麟祥だったが、つい十日ほど前、長男が生れた。十四で嫁した妻もはたちになって、麟祥は惚《ほ》れぬいている。ユースレッスどころではない。(後年この妻に死なれた時の麟祥の落胆は大きかった。隣家の人と顔を合わすごとに死んだ妻のことばかりを話して、隣人をあきれさせた。麟祥の妻は、麟祥四十二の歳に三十五で死んだ。)  子を得た麟祥はむきだしの喜びを文彦にぶつけてきた。麟祥も文彦も酒はつよい。飲みながら、麟祥は妻と子を語った。 「君もそろそろワイフをもらいたまえ」  麟祥の上気に文彦も染まった。妻を得よう、麟祥のように。良縁があれば、一両年のうちにも。  日本辞書の編纂に熱中して、妻を娶《めと》るのが十余年も先になろうとは、この新元会の日には思わぬことだった。だが、三十八で内藤|いよ《ヽヽ》と結婚した時、文彦の脳裏にあった夫婦像は、麟祥夫婦の色を帯びていた。麟祥が妻を愛したように、自分も妻を愛する。それが自然に感じられた。  愛古堂の庭に灯がともされた。宴は尽きようとしない。難しい議論をする者はなかった。数十年ぶりのオランダ正月を、あつまった洋学者のだれもが、ひたすらに祝っていたのだ。老齢の学者たちは、洋学草創の頃を語り合った。文彦ら青年にとっても、それは遠い話ではなかった。蘭学から英仏独の学へと、青年らもまた、細い道を伐り拓いてきている。ひとつの精神共同体が、祭りの夜を生きていた。  新元会の年の夏から一年半、仙台で師範学校長をつとめ、八年の二月に文部省に帰任した文彦は、西村課長から命じられた日本辞書の編輯に心をたかぶらせた。しばらくぶりの東京も、やはり心をたかぶらせた。明六社への参加、洋々社への参加。自負に満ちた二十九歳であった。  夏、磐渓は五十年ぶりの上方旅行に出た。二十代に頼山陽らと遊んで以来である。修二と磐渓門人のひとりが従った。修二は生来拘束されることの嫌いなたちで、すこし前に文部省を辞めていた。  横浜から神戸、大阪へ三菱の蒸気船で。大阪から京に入り、門人のひとりが大教正でいる智恩院に寓居《ぐうきよ》を定めて、奈良、紀州へ足をのばした。修二はしばらくして所用で東京に帰り、かわりに文彦が、父を迎えに発った。  戊辰戦争以来の船旅であり、京の町であった。磐渓は紀州で名石を獲《え》てにこにこしていた。書の潤筆は古谷の石に限るぞ、なあ復三郎。三年前に文彦と改名していたが、父は機嫌のいい時ほど、まだ復三郎と呼ぶ。  一日、ひとりで鳥羽伏見を歩いた。戦場の町は、いまひっそり静かであった。江戸は東京に変りつつあったが、京は京、鳥羽伏見は鳥羽伏見であった。磐井の流れの、動かぬ岩のようなものだった。岩も流れもひっくるめたものが、この国だ。眼前の宇治川には、あの戦いの日と同じに、かいつぶりが浮び、水に潜っているではないか。あの日のかいつぶりから何代目のかいつぶりだろうか。何も変っていないように見えて、実は変っているのだ。変っていると知って、実は変っていないと見ていいのだ。この土地にこの川が流れるかぎり、それは繰り返されていく。川の流れがほんのすこしずつ道を移しながら。  文彦はこの風景に「言葉」を読んでいた。言葉も民族も国家も、かいつぶりの浮ぶ宇治の流れと同じだ。二月から半年、日本辞書の編輯にのめり込み、それがどれほど困難な仕事であるかを、腹の底から知ったところである。以前、頭で知っていた「言葉」は、まだ「言葉」ではなかった。  磐井の流れと宇治の流れを眼の奥にかさね、文彦は、この国の言葉と生涯を伴にする決意を固めた。「およそ、事業は、みだりに興すことあるべからず、思ひさだめて興すことあらば、遂げずばやまじ、の精神なかるべからず。」出世はどうでもいい、この事業をつづけるのに必要とあらば、文部省を辞めてもいい。父も兄も、それぞれの意地を遊んでいた。文彦は自分の意地を、真正面から生きることに決めた。  翌年三月、西村茂樹が日本弘道会の前身となった東京修身学社を起して、文彦に参加を勧めた時、文彦は「西村茂樹君ニ啓《モウ》ス書」という漢文を書いた。  お志はありがたく、立社の趣旨には心から賛同する者であるが、愚生は駑魯《どろ》ではありますけれども、かねて「日本語法創定之事」を心に期して畢生《ひつせい》の力を揮《ふる》っておるところであります。人生五十年の半ばを過ぎて、日夜寸暇を惜しんでこの一事に従って、なお時間の足りなさに急《せ》かれております。いまもし業が多岐にわたれば、あれも成らずこれも成らずの結果となりましょう。我が国今時の学術智識の進捗《しんちよく》が遅れているのは、語法未定に原因するところ大なりと思われます。不学不才の愚生が一生かかっても、その一半を成すに過ぎぬかも知れませんが、この業で世を利するも、このたびの学社で世を利するも、帰するところは同じでありましょう。「君、幸ニ此意ヲ諒《リヨウ》セヨ。文彦再拝。」  東京修身学社には、旧明六社からも文部省からも、文彦の知人たちが参加した。だが、文彦には、立身も名声も義理も体面もなかった。そのすべてを犠牲にしても、この国の言葉に生涯を賭《か》ける気であった。遂げずばやまじ、を決めていた。 [#ここから1字下げ、折り返して2字下げ] こと-ば[#「こと-ば」は太字](名)|言葉[#「言葉」に傍線]| 〔葉ハ、繁キ意ト云〕(一)人ノ思想《オモヒ》ヲ口ニ言出スモノ。人ノ声ノ意味アルモノ。言《コト》。言ノ葉。モノイヒ。ハナシ。詞[#「詞」に二重傍線] 辞[#「辞」に二重傍線] 言語[#「言語」に二重傍線](二)言葉ノ、ヒトツヒトツナルモノ。ヒトコト。「体ノ—」「用ノ—」言[#「言」に二重傍線]  ○—ヲ尽クス。精《クハ》シク言フ。○—ヲ返ス。答フ。口答《クチコタヘ》スル。○—ニ余ル。言ヒ尽《ツク》サレズ。 [#ここで字下げ終わり]  京都からは、近江、美濃、尾張、伊勢を父とともに廻り、四日市から蒸気船で東京に帰った。  秋、兄の修二が隠居した。健康を損ねたのを機に、気儘《きまま》に暮したいからと、家督を弟の文彦に譲ったのだ。  二十九歳の文彦は、大槻家の当主となった。 [#改ページ] [#小見出し]  第六章 盤根錯節 [#この行8字下げ]編纂者として——論陣——日本文法の創定——父の死——渡英を断念——国語の改革——言海刊行      1  文明開化の世である。京橋銀座一帯には二階建て煉瓦造りの西洋風の街があらわれた。新橋横浜間の鉄道が賑《にぎ》わっている。マッチ、洋傘、ステッキ、懐中時計と、舶来品がもてはやされる。  文彦が仙台から呼び帰されてふたたび文部省へ出仕することになったのが、明治八年二月二日。その日の『東京日日』には、芸者の乗馬記事が出ている。 「去る一月三十日午後二時ごろ、二十ばかりの島田髷《しまだまげ》の美人ふたり、打揃《うちそろ》ひて仙台平《せんだいひら》の袴《はかま》を着し、馬に乗りて吾妻橋《あづまばし》の向より河岸通りを南へ駈け行きしが、人々あら美しなど見る中《うち》に、本所表町にて青物を担ぎたる六十才ばかりの老翁を蹴倒《けたふ》したり。」  西洋人の風を真似て、未熟な者の乗馬がむやみに増えている。女で馬を乗りまわす者も折々見られた。  洋化は、目に見えるところからはじまっていた。だから、心の、いびつな洋化もはじまっていた。ほとんどの人びとには、いきなり目に触れる西洋だったのだから、それも無理はない。  明治政府は富国強兵の根本に教育を置いて、政府指導の国民の開化に乗り出していた。そこで舵をとらなければ、無軌道のままの文明開化が進んで、収拾のつかぬことになる。明治五年八月には、「必ず邑《むら》に不学の戸なく、家に不学の人なからしめんことを期す」として、壮大な学制を発布した。全国を八大学区、一大学区を三十二中学区、一中学区を二百十小学区に分けて、各区に大学校、中学校、小学校を置くというものである。実際にはそのとおりには進まず、学区改正も幾度か繰り返されたし、寺子屋の小学校転用も多かったのだが、すくなくとも教育の器のほうはつくられていった。  文彦の師範学校経営や教科書編輯は、その壮大な教育制度の、内容づくりの仕事のひとつである。学制がほんとうに生きるためには、なすべきことは無数にあった。  文部省報告課長西村茂樹は、重点目標を六つに絞った。  明治二十四年六月二十三日、『言海』祝宴のテーブル・スピーチで西村が語る。 [#ここから1字下げ]  その時分〔明治八年頃〕私が考へまして、編輯局〔報告課の改称〕の事として致したいと思つたことが、一つが教科書の文法と言葉……教科書の文法と仮名遣ひと申しませうか、それを一定したいといふが一つ。も一つが学術の言葉と外国の地名と人名を一定したいといふが一つ。  それからその次に日本の歴史でござります。日本の歴史がその頃までの歴史は一種の昔の日記や軍記のやうなもので、歴史といふ姿になつて居りませんからそれを直したいといふが一つ。  も一つが字引でござります。字引も大分ござりますけれども、大抵は節用集のやうな粗末なものばかりであるから、それを拵《こしら》へたいといふのが一つでござりました。  も一つは学術語類と申しますか、英語で「エンサイクロペヂヤ」と言つたやうなものを作りたいのが一つ。  も一つは……これはいけませんでござりましたけれども大学校の教授を日本語でするやうにしたい。これは編輯局でどうも出来ませんが、その用に立つやうな書を作つて、大学校に送りたいといふ、この六つを思ひつきました。 [#ここで字下げ終わり]  西村は明治十九年宮中顧問官になるまでの十余年、その実現につとめた。  明治八年二月二日、出勤してくる文彦を待ちかねたように、西村は日本辞書編輯を命じた。同じ課の榊原芳野と協力して、明治国家に恥じぬ国語辞書をつくってほしい。君は英学に堪能で、榊原君は国学を専らとしている。ふたりの協力があれば期して待つべしだろう。数年前に、開成所英学教授柳川春三さんの建白があった。その第一は、国史を撰《えら》ぶべき事、第二は、風土記を撰ぶべき事、第三が、日本辞書を撰ぶべき事、この三件が急務であるとのことだった。私の考えもこれに近い。君を仙台から呼び帰したのは、そのためだ。  柳川春三が日本辞書を撰ぶべしの建白書を出したのは、明治二年四月である。「海外万国各其国の辞書あり。此方の学者、偶《たまたま》、古言雅言を類聚《るいじゆう》して語義を注せし書はあれども、古今雅俗の言を網羅したる者無し。」ちかごろは洋学に従事する者が孜々《しし》として西洋諸国の辞書を訳することに努めているが、それよりもまず大事なことは「日本辞書」の編輯である。古言雅言はもちろん、俗談郷言をも広く採取した国語辞書を完成し、そのあとに海外辞書の翻訳に及ぶのが順というものである。根本をまず立てなければ、末がととのわないはずである。  世間の人にも洋学者にも、素朴な外国かぶれが多かったが、柳川春三のような洋学者や、その意見を採る新政府指導者も少なくはなかった。文部卿大木喬任が大槻修二に命じて新撰字編輯にあたらせたのもそのひとつであり、明治六年西村茂樹が文部省に入った時には、大槻修二と久保吉人、小沢圭二郎が、本邦辞書を編纂している。その以前、文部省編輯寮時代には、当代有数の国学者八人による『語彙《ごい》』編輯が試みられてもいる。  柳川春三の建白以後明治八年までの六年間に、「日本辞書」への摸索が行なわれたのだ。しかし、どれもみのっていない。大槻修二がまとめた二万七千八百字の制限新撰漢字は不採用、久保、小沢との本邦辞書も成らなかった。(修二の文部省退官には、そのこともかかわりがあるように思える。)編輯寮の『語彙』編輯も、アイウエの項と『語彙活語指掌』『語彙別記』を出しただけで、放棄されていた。  西村茂樹は、そのどれにも不満だった。就任して一年あまり、課員の仕事を見ているうちに、「日本辞書」は和漢の学者にまかせておいては駄目だと知った。英学の大槻文彦がいい。彼は漢学の素養のじゅうぶんな英学者だ。最近は独力で国学をもまなんでいる。  西村は博学考証の国学者榊原芳野を文彦の助言者につけることにした。のちに『古事類苑』編纂に参加した碩学《せきがく》で、仏教学にも通じ、和漢書数千巻を蔵している。文彦の十五歳年長、四十四歳である。  編輯寮時代の『語彙』編輯にあたった数人の学者に聞いてみると、「議論にのみ日をすぐして成功なかりき」とのことで、そのひとり横山由清は、「多人数よりは今度は大槻文彦君ひとりにお任せになったほうが、かえって成功の可能性があるでしょう」との意見であった。  西村が最初考えていたのは、和漢洋の素養を具備した学者数人に国語辞書をつくらせることであったが、和漢の学者で洋学に通じる者は無いにひとしく、洋学者で和漢ができる者も寥々《りようりよう》としている。箕作麟祥などは和漢洋を兼ねているほうだが、彼は司法の要職にある。西周、津田真道ら明六社同人も、それぞれ他省の顕官である。見渡してみると、和漢洋具備の学者は、彼ら開成所教授世代ぐらいしかいない。ほかには、彼らに近接して、大槻文彦ただひとりがいるだけだった。それと、西村自身であろう。  横山由清の意見は大槻ひとりでということだったが、西村は念のため榊原を加えた。だが、実際に仕事をはじめさせてみると、やはり大槻ひとりがよいようだ。しばらくして榊原は「エンサイクロペヂヤ」のほうに転じさせ、「日本辞書」は大槻文彦ひとりの仕事に決めた。  西村のスピーチがつづく。 [#ここから1字下げ]  初めの二つは……議論倒れになつて遂に出来ずに仕舞ひました。……それからその次の歴史もこの頃、ここ〔『言海』祝宴の席〕に御|出《い》での木村〔正辞〕さんや田中〔義廉《よしかど》〕さんに書いて貰ひまして、これは出来ましたが、不幸にして出版になりませんでした。初めの方は出版が出来たが、終の方は出来ません。……皆様のお骨折になつた歴史は世に出《いで》ずにしまひました。  それから「エンサイクロペヂヤ」は古事類苑と名づけて編輯して居りましてまだ出来ません。それから大学に送らうといふ書の翻訳も出来ません。  さういたしますと、六つ思つた事が五つだけは皆出来ません。出来たのは唯この一つ〔『言海』〕であります。併《しか》しこれは私の功でも何でもござりません。その頃の長官が善く愚説を御|容《い》れ下された事と是《これ》を担任した大槻君が非常の勉強で出来ましたことでござります。(略)大槻君に任しておけば事が成ると存じまして督促も何も致しません。それが幸にして功を奏して、物になりましてござります。 [#ここで字下げ終わり] 「エ」の部までで挫折《ざせつ》した『語彙』は、洋語をわずか二語しか含まないという偏りを持っていたが、中世以来の『下学集《かがくしゆう》』『節用集』などの辞書にくらべても、江戸期の谷川|士清《ことすが》の手になる『和訓栞《わくんのしおり》』にくらべても、長足の進歩を遂げていた。五十音に配置した語ごとに語釈を備え、用例を示して、近代辞書の萌芽《ほうが》となっている。幕末からの各種の英和対訳辞書など、西欧近代辞書の形を映したものが、国学者たちの仕事にも刺戟《しげき》を与えたのであろう。不十分ではあったが、近代辞書の最初の骨格がつくられていた。  文彦の仕事がはじまったのは、この時点からである。  文彦には『語彙』が前代までの辞書にくらべてどれだけ進んでいるか、西欧近代辞書にくらべてどれだけ劣っているか、自分なりの目測はできている。従来の国語辞書の語を集大成し、選別して、不足の語は洋辞書から採り、それを西洋近代辞書のうち優れたものの形を借りて構成すれば、『語彙』よりはるかに進んだ新時代の国語辞書ができるだろう。 [#ここから1字下げ]  初め、編輯の体例は、簡約なるを旨として、収むべき言語の区域、または解釈の詳略などは、およそ、米国の「ヱブスター」氏の英語辞書中の「オクタボ」といふ節略体のものに傚《なら》ふべしとなり。おのれ、命を受けつるはじめは、壮年鋭気にして、おもへらく、「オクタボ」の注釈を翻訳して、語ごとにうづめゆかむに、この業|難《むづかし》からずとおもへり。これより、従来の辞書体の書数十部をあつめて、字母の順序をもて、まづ古今雅俗の普通語とおもふかぎりを採収分類して、解釈のありつるは併せて取りて、その外、東西洋おなじ物事の解は、英辞書の注を訳してさしいれたり。 [#ここで字下げ終わり]  一八二八年に初版が出た『ウェブスター英語辞典』は、十年ばかり前に大改訂版を出し、それをもとに各種の簡略小型本が出ていた。オクタボ octavo つまり八つ折判(6×9.5インチ)は、そのひとつである。  欧米は言語学の飛躍の時代に入っており、辞書界はかつてない活況を見せていた。名辞書ウェブスターもこの波のうねりのなかで、全面改訂がおこなわれ、さらに質を高めていたし、その小型本も、それぞれ独自の工夫を持っていた。ウェブスターの良さは、この数年来つかってみて、文彦自身がよく知っている。ウェブスターのオクタボにならえという、西村茂樹の言に異論はない。  文彦は、ウェブスターの編輯方針を参考に、自らの辞書の方針を定めた。『言海』巻頭の「本書|編纂《へんさん》ノ大意」がそれである。 [#ここから1字下げ]  此書ハ、日本普通語ノ辞書ナリ。凡ソ、普通辞書ノ体例ハ、専ラ、其国普通ノ単語、若シクハ、熟語(二三語合シテ、別ニ一義ヲ成スモノ)ヲ挙ゲテ、地名人名等ノ固有名称、或ハ、高尚ナル学術専門ノ語ノ如キヲバ収メズ、又、語字ノ排列モ、其字母、又ハ、形体ノ順序、種類ニ従ヒテ次第シテ、部門類別ノ方ニ拠ラザルヲ法トスベシ。(略)此書編纂ノ方法、一ニ普通辞書ノ体例ニ拠レリ。 [#ここで字下げ終わり]  文彦が書く。  従来の辞書は、『下学集』『節用集』など多くがあるが、だいたいは漢字に和訓を付したり、和語に漢字をあてただけのもので、漢和(和漢)対訳辞書である。日本辞書ではない。稀《まれ》に語釈のあるものも、多くは漢文で書かれ、語の排列も、漢字の偏旁《へんぼう》画引きだとか、部門類別の方法をとっている。いろは順採用のものも、大別では部門分けになっていて、辞書の機能を損っている。  また、『和訓栞』や『雅言集覧』などは、もっぱら枕詞《まくらことば》を論じたり、方言を説いたり、或いは語原を主として語釈を欠いたり、雅言の出典だけを示したり、という具合である。『語彙』だけが、かなり近代辞書に近づいているのだが、従来の辞書を通じて言えるのは、発音、語別(品詞)の標記がまったく欠落していることである。しかも、固有名を普通語に混じ、かつ、多くは通俗語の採輯を行なっていない。要するに普通辞書とは言えないのである。  辞書には次の五項が不可欠である。 [#ここから1字下げ] 其一。発音。Pronunciation.発音ノ異ナルモノニハ、其符アルヲ要ス。例ヘバ、さいはひ(幸)ハ、さいわいト発音シ、(略)はふ(法)らう(牢)ハ、ほう、ろう、ト発音スルガ如シ。是等ノ異同、必ズ標記セザルベカラズ。 其二。語別。Parts of speech.例ヘバ、やま(山)かは(川)等ノ名詞ナル、(略)ああ(噫)かな(哉)等ノ感動詞ナルガ如キ、(略)語毎ニ必ズ標別セズハアルベカラズ。 其三。語原。Derivation.語原ノ説クベキモノハ、載スルヲ要ス。例ヘバ、くれなゐ(紅)ハ、「呉《クレ》ノ藍《アヰ》」ノ約ナル、(略)びろうど(天鵞絨)ハ、西班牙《スペイン》語 Velluda.ノ転ナルガ如キ、是等ノ起原、記サザルベカラズ。 其四。語釈。Definition.語ノ意義ヲ釈《ト》キ示スコト、是レ辞書ノ本文ナリ。例ヘバ、さいはひ(幸)ハ、「好キ運命《シアハセ》」くれなゐ(紅)ハ、「色ノ赤クシテ鮮《アザヤカ》ナルモノ」ノ如キ是レナリ。又、其意義ノ転ズルモノハ、区別セザルベカラズ。例ヘバ、やま(山)(第一)本義ハ、「土ノ平地ヨリ高キモノ」、(第二)転ジテ「物ノ堆《ウヅタカ》ク積レルコト」等ノ如ク、(略) 其五。出典。Reference.某語ノ某義ナルコトヲ証セムトスルトキ、其事ハ、其典ニ見エタリト、其出所ヲ挙グルコト、是レナリ。 以上五種ノ解アリテ、始メテ辞書ノ体ヲ成ストイフベシ。 [#ここで字下げ終わり]  ウェブスターを見、この国にある辞書を見ていると、その間の距離の大きさに溜息《ためいき》が出る。  語の採集をはじめただけで、「この業難からず」どころではないのに気づいた。何もかも一からはじめるようなものだ。  室町以来の「辞書」らしい書数十種を集めて、まずそこから、採るべき語を拾ってゆくのだが、どうも従来の語学家は、古くからある語を「雅言」と称し、後世に出て来た語を「俗言」と言っているらしい。だが、これはおかしいのじゃないか。年代で雅俗の区別をするならば、中古言も上古言にくらべれば俗言ということになるはずだろう。雅俗の別は年代によって起るのではなく、「貴と賤《せん》」「都と鄙《ひな》」「文章語と口語」など、使われ方で起るものだ。だから、古言のなかにも雅俗があり、今言のなかにも雅俗がある。古い時代には雅言であって後に俗言となった語もあるだろう、逆に古い時代の俗言が後に雅言となった場合もあるだろう。また、古雅だといっても現在普通に用いられていない語は「死言」というべきだし、今俗だといっても今日の日常に用をなしていれば「活言」というべきである。雅俗死活の別をこの線で確立した上で、古今の日本語をしっかりと見極め、選ばなければならぬ。  漢土の文物が盛んに入ってくれば漢語の使用が多くなり、仏教が勢いを得れば梵語《ぼんご》や仏教語が用いられるようになる。西洋との交通が開ければ洋語が入ってくる。これは自然の勢いだ。従来この国になかった事物が外国から入ってくれば、その事物の外国名称が用いられるのも理の当然である。外国語であっても日本語の日常語となっているものは、すべて採るべきだろう。近頃入ってきた洋語でも、「ピストル(短銃)」「ガス(瓦斯)」「メシン(裁縫機)」のように、既にほぼ定まって用いられているものは、収載しなければならぬ。  しかし、新しい言葉を何でも入れていいわけではない。近年、洋書の翻訳が盛んになって、西洋語の多くが漢語で訳され、新出の漢字訳語が甚《はなは》だ多いが、学術専門語の類は採るべきではない。専門辞典や百科辞典に任せてよい。それ以外の普通の語についても、学者が訳出した新造語は甲乙区々で未《いま》だ一定しないものが多い。それらを辞書に入れるには後日一定の時を待たねばならぬ。維新以来の新官庁名や職制のように、たちまちに廃置変更されるものも、またしかりである。  辞書編纂者の根気づよい生活が、文彦に始まった。  第一にたよりになるのが、これまでに集めてきた和漢洋の書籍である。父や兄の蔵書も援軍である。外出の時には、今日の数十万円にあたる金を懐にして、必要な本に出会った時にはその場で買えるように備えた。(『言海』に引用参考の典籍は三千余巻。)  手帳も四六時中はなさない。耳に聞くことを書きとめる。幼少時から今日まで暗記したことを、思い出すたびに書きつける。或る一語の語原に思い悩んでいて、ふいに推考が成ることがある。それを書き込む。 [#ここから1字下げ]  酒宴談笑歌吹のあひだにも、ゆくりなき人のことばの、ふと耳にとまりて、はたと膝《ひざ》打ち、さなり/\と覚《さと》りて、手帳にかいつけなどして、人のあやしみをうけ、又、汽車の中にて田舎人をとらへ、その地方の方言を問ひつめて、はては、うるさく思はれつることなど、およそ、かゝるをこ〔愚か〕なる事もしば/\ありき。すべて、解釈の成れる後より見れば、何の事もなきやうに見ゆるも、多少の苦心を籠《こ》めつる多かり。 [#ここで字下げ終わり]  どうも元は外国語ではないかと思う語がある。或る人が偶然に、「たしか誰かが、スペイン語だろうと言っていたな」と言う。文彦はさっそくスペイン語と英語の対訳辞書を探すが、得られない。「何某ならスペイン語を知っているだろう」というので、紹介状をもらって、その人を訪ねる。行ってみると留守だ。二度目にやっと遇《あ》えたが、その人は、「私はそれほどはスペイン語を知らない」と言う。「では、誰かスペイン語に詳しい人を紹介してくれませんか」「いや、人は知らぬが、某学校にスペイン語の辞書があったと思う」「その学校へ行ってみたいので、添書をいただけませんか」——ようやく、その学校に蔵しているスペイン語辞書を見て、その語の語原を突きとめた。「まるで探偵だな」文彦はひとりで笑う、「戊辰戦争中の探偵仕事がすこしは役立ったか。もっとも、あの時は捕吏に追われるほうで、追うほうではなかったが。」  祖父玄沢が、オランダ語の一語一語の意味を探り出して行った仕事にも、似ていた。      2  祖父の死から五十年が過ぎている。  明治九年九月、文彦は、湯島天神に近い本郷金助町に家を新築した。  その二十八日、新邸で祖父大槻玄沢(磐水)の五十年忌追遠会をいとなむ。祭主は大槻家当主、文彦、三十歳。四年前、オランダ正月復興の宴にあつまったとほぼ同じ顔ぶれに加えて、都下の名流がならぶ。  七年の夏から秋にかけて一時帰朝して、杉田玄白の曾孫|縫《ぬい》を娶った富田鉄之助は、日本に居れば当然出席する人だった。残念なことにその富田は、太平洋の船の上にいた。外務省からの電報で帰朝を命じられての帰途である。(帰国後、短期の上海領事館勤務、ついで外務少書記官に任じたのち、ロンドン公使館一等書記官として渡英、明治十四年夏まで日本に帰らない。)  七年の帰朝の時、文彦は宮城師範学校長として、教員の速成に目のまわる毎日を送っていた。晩夏の仙台に墓参に帰った鉄之助と文彦は、夜を徹して語った。鉄之助から聞く米国の学校教育の実際に、文彦は耳をかたむけた。また、鉄之助が言う。「四十になってしまったが、嫁をとることにした。杉田|成卿《せいけい》先生の長女の縫さんだ。」媒酌は森有礼と福沢諭吉。杉田家の縫なら文彦も識《し》っている、婚礼の祝宴に出たいが仙台を離れられなかった。その秋、鉄之助は新妻を伴ってふたたびニューヨークへ発《た》った。あれから二年になる。富田が帰って来たら、日本辞書の話をしよう。 「おととさまの五十年祭をせぬうちは、おれは死なぬ」とつねづね言っていた磐渓は、すでに七十六歳、面長な顔に長い白ひげをたくわえている。  座敷には玄沢の肖像をかかげ、傍に遺著を陳列、別間に寛政六年の「芝蘭堂新元会図」の大幅を掛けた。庭では陸軍の管絃《かんげん》楽隊が西洋音楽を演奏。ロシア人牧師ニコライが立って祝辞を述べる。(彼が建てたビザンチン様式の教会堂、通称ニコライ堂が神田駿河台に完成するのが、『言海』出版と同じ明治二十四年である。)  日が傾いても来客であふれている。座敷や庭のあちこちに大|蝋燭《ろうそく》を立てて会をつづけた。  成島柳北も来ている。  柳北の朝野新聞に、老磐渓は客員として、「読余|贅評《ぜいひよう》」を持ち、諸家の投ずる漢詩に寸評を加え、自らも時事問題を扱った詩作を発表している。朝野新聞局長成島柳北は諷刺《ふうし》に鋭い政論家であると同時に、やはり根っからの文人であって、文明開化で実学に流れていく世のなかで、『朝野新聞』ひとつが詩文を守っていた。文人たちの消息や柳北主催の詩文会の記事を載せるなど、文化欄を持つのは彼の新聞だけだった。  柳北が磐渓を訪うことが以前に増していた。磐渓の老年にある飄逸《ひよういつ》と気骨に惹《ひ》かれるのであったが、この頃は文彦に会うのも楽しみに、大槻の家に足をはこんでいる。  蝋燭の灯が揺れる松の木の下で、柳北が文彦に日本辞書の進捗の様子を尋ねる。文彦は柳北の『柳橋新誌』続編のことを訊《き》く。  この二月、柳北は、讒謗律《ざんぼうりつ》及び新聞紙条例違反で逮捕され、鍛冶橋監獄に四ヶ月間閉じ込められていた。その最初の一ヶ月のあいだ、朝野新聞の論説を書いたのが、文彦である。  柳北逮捕の報に、前夜から大雪のなかを、文彦が、監獄署に馳《か》けつけた。父磐渓の入牢時のことが頭のなかを走った。その磐渓が柳北にと持たせた綿入れが小脇にある。  柳北は寒気で一睡もできずにいたが、例によって深刻な風はどこにもない。文彦に新聞のことをあれこれ頼んだ。辞書づくりで一時でも惜しい君に申訳ないが、後任を探すまで、しばらく朝野の論説を書いてはもらえまいか。  文彦の役所勤めのほうは、さいわいというか、ふた月前に文部省出仕を免ぜられて、文部省報告課|雇《やとい》となっていた。新聞論説を書くのに、すこしは身軽である。文彦は快諾し、それからの一ヶ月ばかり、朝野新聞の論説執筆に明け暮れた。(紅葉館の宴で、日本辞書の完成を見てくれる父のすでに亡いことが、文彦と修二の兄弟の憾《うら》みであったが、もうひとり、成島柳北の姿が宴席にないことが、心残りであった。柳北は明治十七年、四十八で世を去っていた。)  文彦の「雇」というのは、こういうことだった。文部|大輔《たゆう》(次官)田中不二磨は、岩倉欧米使節団に加わって各国の教育行政制度を調査してきた人物で、文彦と同じころ明六社の一員となった。その田中の考え方は、教育においては中央権力の干渉が強くてはだめだ、教育現場の自由がなくてはならない、というものだった。同じ考えから田中は、学者や教育者は他から指揮命令されるのではなく、自らの独立の思想と良心によって国家に貢献すべきであって、上司の命令に服する義務を負う官吏とは、はじめから違うと考えている。そのための「雇」である。正規の官吏ではなく、自由な身分である。  文彦は、文部省から「日本辞書作成」という、いわば委託研究を受けている一個の学者の立場であった。  別の道を選ぶこともできた。この頃の官途は草創期のつねで、能力のある人間が栄達をもとめれば、道は狭くはなかった。もっとも、いまの官吏のように、生涯安定した職ではなかったのだが。  文彦にも何度かの機会があった。 [#ここから1字下げ]  おのれに親しく栄転を勧めたりし人さへも、ひとりふたりにはあらざりき。されど、かゝる事にて心の動く時は、つねに王父の遺誡《いかい》を瞑目《めいもく》一思しぬ。 [#ここで字下げ終わり]  管理職の道を行くか。専門職に止《とど》まるか。きっかけは上司の命令ではあっても、「日本辞書」は思いさだめて興した自らの事業であった。業を進めるほどに、この仕事の深々と暗いひろがりが見えてきている。年来思いさだめてきた「日本文法」の整備がなくては、辞書もできぬ。そのことも、いまは明らかである。他の道を向く暇などない。「遂げずばやまじ」である。この道を選ぶのみ。  青年にとって、手を伸ばせば掴《つか》める栄光に背を向けるのは、つらいことだ。心は揺れる。  しかし、この国はひとつのネーションとして未だ不安定である。各国との不平等条約は、改正の糸口もつかめないでいる。ロシアからは樺太と千島の交換を強いられた。国内では、西郷、板垣、江藤らが参議を辞任して野《や》に下る。佐賀の乱が起る。岩倉が襲撃される。徴兵令反対、地租改正反対の農民|一揆《いつき》がつづく。熊本神風連の乱、秋月の乱、萩《はぎ》の乱が相つぐ。  青年天皇が地方巡幸に出る。五年には西日本へ、この九年には東北へ。さらに西南戦後の明治十年代には、北陸へ、東海へと、天皇の全国行脚がつづくだろう。砂ぼこりの悪路を激しく揺れる馬車に乗って、時には嶮路《けんろ》を徒歩で、若い明治天皇の旅がつづく。ひとつのネーションをつくるための、欠かせない旅であった。  戊辰の戦場奥羽越の地は、なかでも欠かせない。天皇一行の綿密細心に組まれた旅が、かつての奥羽越列藩同盟の地を、箱館戦争の地を行った。仙台では、文彦のつくった宮城師範学校の生徒が全員洋服で、「師」の字の金章をつけた帽子をかぶり、小学生や群衆の前に整列、天皇を迎え送った。 「日本」はすこしずつ育ってはいたが、文彦のうちにあるような「日本」は、まだこの国には根づいていない。在るべき「日本」のために、「日本辞書」と「日本文法」は、なにほどかを成し得るはずだ。そして、この仕事は余人に任せることはできぬ。いや、自分のほかに人はない。この仕事の重さを知ること、この仕事と「日本」との関《かか》わりを明確に見ること、そして、この仕事を洋学の上に築くこと、それは、この大槻文彦にしかできぬ。  文彦は、心の揺れを、その都度抑え切った。  柳北を投獄した讒謗律と新聞紙条例が発布されたのは、明治八年六月である。 「凡ソ事実ノ有無ヲ論ゼズ人ノ栄誉ヲ害スベキノ行事ヲ摘発公布スル者、之《コレ》ヲ讒毀《ザンキ》トス。人ノ行事ヲ挙ルニ非ズシテ悪名ヲ以《モツ》テ人ニ加ヘ公布スル者、之ヲ誹謗《ヒボウ》トス。著作文書、若《モシ》クハ画図肖像ヲ用ヒ展観シ若クハ発売シ若クハ貼示《チヨウジ》シテ、人ヲ讒毀シ若クハ誹謗スル者ハ、下ノ条別ニ従テ罪ニ科ス」とした言論弾圧法は、明六社をも崩壊させた。  九月、福沢諭吉は、「明六雑誌ノ出版ヲ止ルノ議案」を明六社の集会にはかった。讒謗律と新聞紙条例は「我輩学者ノ自由発論ト共ニ両立ス可《ベカ》ラザルモノ」である。この法令が行なわれれば、学者は「俄ニ其思想ヲ改革スル」か、さもなくば「筆ヲ閣シテ発論ヲ止メザル可ラズ」である。節も屈せず法にも触れず、ということは不可能である。しかも七月には、官吏の政論発表を禁ずる布告が出ている。社員の大半が官吏である明六社として、発論がますます窮屈になっている。この際、「曖昧《アイマイ》ノ中間ニ在テ進退不決ノ手本ヲ世上ニ示ス」のは、社として採らない。『明六雑誌』を廃刊とし、今後は意見を発表したい者は、「雑誌ノ名ニ頼ラズシテ人々自カラ発兌《ハツダ》シ、人々自カラ其責ニ任《マカ》ス可キ」である。  激しい議論があったが、結局、『明六雑誌』は廃され、明六社は自然消滅していった。だが、集団の消滅が即《すなわ》ち「明六社」の消滅ではない。ここに集まった旧幕系の洋学者たちが、この日から口を閉ざしたわけではない。互いの交際が止んだわけでもない。当初から唯一の思想で凝り固まった同志集団ではなかったのだから、ひとりひとりの活動はつづく。  右か左かと分ける見方からすれば、てんでんばらばらかも知れない。しかし、ひとつの思想で国は育たない。「世界」を最も識る明六社の人びとが、多様な方向に仕事をすることで、「日本」が育って行った。大槻文彦の『言海』も、そのひとつである。  或る微妙な、国家形成のかなめの仕事が、この人びとの手に成っていった。政治権力と反政府行動と、その両者だけでネーションは生れない。必要なのは、或る微妙な、「知」を活性化した触媒である。  自由民権運動や民撰《みんせん》議院設立運動などの反政府行動を弾圧しようとした法令が、触媒の活動をも不自由にしたのは否めない。  文彦は、文彦なりの讒謗律批判を書く。「徳川氏ノ出版条例」と題する小論である。 「目今政府ノ施行セル出版条例讒謗律ハ頗《スコブ》ル完備周密ナル者ニシテ著作出版ニ従事スルモノ歩々相顧ミズバ動《ヤヤ》モスレバ法ニ触レムトス」  しかるに徳川幕府の、例えば享保《きようほう》年間の出版に係る触書五件を見るに、当今の出版条例讒謗律と一見符節を合わせたように見えるのだが、実は英国の著作出版関係法と酷似している。英国では、巻ごとに印行者の姓名住所職業を記させ、これに違反すれば罰金、また、讒謗|叛逆《はんぎやく》もしくは甚だしき不徳義の事にわたるものを罰するが、それ以外はまったく自由で、しかも告訴する者がなければ問題にはされない。寛にして簡なる法律に止まっている。徳川幕府の出版条例は、この英国法に近いもので、現今の出版条例讒謗律のような「完備周密ナル」ものではない。当時の為政者の見識である。 「嗚呼《アア》法令ヲ布《シ》クハ其要領ヲ得テ止ム、尚《ナホ》何ノ絮々《ジヨジヨ》法網ヲ密ニスルノミヲ是《コレ》得タリトセムヤ」  現今の法令のようにくだくだしいものの必要がどこにあろうか。  成島柳北が逮捕された明治九年二月、文彦は『朝野新聞』論説に、まず書いた。 「嗚呼明治九年ハ如何《イカ》ナル歳ゾヤ、妖気将《ヨウキマ》サニ隠々トシテ我全国ヲ蔽《オホ》ハントスルノ勢有リ。」  柳北をふくめて新聞記者が相ついで投獄される時勢への抗議である。文彦の耳には投獄された柳北から聞いた話が残っている。雪の夜牢に入れられる柳北に、役人らしい男の小声が聞えた。「また新聞屋か。ぜんてェ新聞屋なんぞは叩き殺してしまうがよい。」  二ヶ月前に文部省出仕を免ぜられて「雇」の身分となっていたから、身軽ではあった。「雇」を選んだ主な理由はさきに挙げたような研究者としての独立にあったけれども、一方で文彦には、出版条例讒謗律を強いる新政府への不快があった。「雇」を選んだことの裏にも、朝野の論説執筆を引受けたことの裏にも、そのことがあった。  毎日の論説執筆は苦しかった。だが、日頃の志を述べる好機でもあった。文彦はこのひと月、日ごとに小論文を一本ずつ書きまくった。  藩閥を批判した。維新以来、人材登用はたしかにすすんではいる。だが、よくよく見れば、「未ダ特別ノ閥権ナル者」が、我輩の目には見える。しかもそれらの人間の学識はと言えば、「今ノ普通小学ノ学科ダモ之ヲ知ラザル者」なしとしない。無能の者を閥権で抱え込んでいて、新政が成るものか。  新国家の開化進歩を大きく妨げているのは、旧習にしがみつく庶民でもなければ、封建の残夢をみている落魄《らくはく》士族でもない。「赫々《カツカク》タル数県ガ革命ノ功ヲ負《タノ》ミ其ノ中或ハ猶冥々裏《ナホメイメイリ》ニ封建ノ形迹《ケイセキ》ヲ存スルモノアル是レナリ。」たとえば鹿児島(薩)、高知(土)、山口(長)の三県には、裁判所がようやく昨年末に設置されたが、赴任すべき裁判官がつぎつぎに忌避されている。やっと数日前に三県の納得する人事が決まって、それぞれ裁判官が任地へ出発した有様である。一国家内にこんな勝手|気儘《きまま》があってよかろうはずがない。  治外法権を嘆じた。治外法権の条項を撃破し、この国の独立を完全ならしむるは、はたして何時《いつ》ぞや。「吾輩ハ思想ノ此ニ及ブ毎《ゴ》トニ恍《コウ》トシテ身ハ一葉舟ニ在リテ大西洋ノ中央ヲ漂フ者ノ如ク、前路渺茫海天マタ一髪ノ青螺《セイラ》ダモ見ルコト能《アタ》ハザルナリ。」前途はいまだ暗い。だが、いつの日か。  日本文章論を掲げた。文法制定の急務なること、そのためには雅俗古今の日本文体を分類すること、その分類の基準を探ること。そして何よりも、新しい日本文体を発見しなければならぬ。  文彦は、自分の関心事を次から次に筆にした。  フランス革命と英国の改革を比較して、英国流の無血改革をとるべしとした。欧米からの新輸入物と見られている民権思想は、この国にも佐倉宗五郎のように、その種子があったことを挙げ、宗五郎の事蹟《じせき》を讃《たた》えた。いかに優れた人材であっても、プロシャ宰相ビスマルクのように残忍酷薄であっては、慕うべき人物ではないことを論じた。  欧米に見るような専門学の要を説いた。彼の地の孤児院制度のことも書いた。と同時に、現今の文明開化の行き過ぎを難じて、我国古来の風習の良いものを守るべしと訴えた。養子制度の廃止に反論し、熱湯浴と鍼灸按摩《しんきゆうあんま》を擁護した。  文彦の関心事とはすべて、欧米諸国に対してこの国をすっくと立たせることにある。だから何より気にかかるのが、国家の安全である。文彦は国際問題、なかでも朝鮮問題を繰り返し論じた。  西郷隆盛らの征韓派が野に下って二年あまりが過ぎていたが、その間、国内では征韓をとなえる佐賀の乱があり、外に向っては台湾出兵があって、鎖国をつづける隣国朝鮮は、日本の侵略をおそれ、動揺していた。日本政府は朝鮮を挑発した。軍艦を朝鮮領海深くに侵入させて測量をおこなわせ、目論《もくろ》みどおり朝鮮砲台から砲撃された。昨八年九月の江華島事件である。それを機に、朝鮮開国の交渉、というより脅しがはじまった。ちょうど、ペリーが黒船で日本を脅したように。  日本国内に朝鮮討つべしの声が高まっている。文彦は、これは危いと思った。 「巨大ナル蟠竜《ハンリヨウ》(支那ノ国旗)ハ其朱口ヲ開キ将《マ》サニ吾が国ノ朝鮮国ヲ処分スル挙動ヲ妨ゲントスルノ勢アリ。」 「双頭ノ大鷲《オホワシ》(魯西亜《ロシア》ノ国旗)ハ其飽クナキノ欲心ヲ懐《イダ》キ閃々《センセン》タル眼光ヲ注シ其双翼ヲ鼓動シテ将サニ北山ヲ飛揚セントスルノ形状アリ。」  朝鮮に兵を出せば、朝鮮一国に対しては勝算があるかも知れぬ。しかし、支那とロシアが出て来て、戦いが長びいたらどうなるか、金貨保有が「乏絶」して、戦費のない戦争に追い込まれるだろう。  それに、いま征韓論に凝り固まって、頑迷の朝鮮を開いてやると言っている連中が、かつては何をしたか。生麦事件や下関事件を起し、鹿児島湾の戦争などをやって、攘夷《じようい》攘夷と騒いでいたのではなかったか。  文彦は、維新の功にあぐらをかいている、小学教科すら理解できない愚鈍の連中が嫌いだった。彼らが権力を握っていては国を危うくする。  文彦が論陣を張っていた明治九年二月の終りに、日朝修好条約が調印された。さいわい内外の情勢が平和解決に向わせたのだが、日本が朝鮮に押しつけたのは、自らもそれに苦しんでいるはずの不平等条約であった。      3  一ヶ月の論説執筆のあと、文彦は自分の仕事にもどった。  語の採集ははかどった。だがそれは辞書編纂の仕事のほんの一部に過ぎない。古語や古事物で意味のわからぬもの、説のまちまちなものがある。品詞の区別のつけにくい語がある。語原の不明な語がある。動詞の語尾変化の定めかねるものがある。仮名遣を決定する根拠がなくて、辞書中の順序が決められない語がある。動植物の説明はおおむねウェブスターに拠るつもりであったが、考えていくと、同じ動植物でも東西の風土によって形や色が違うことが多い。雑草、雑魚、小禽《しようきん》、魚介、俗間通用の病名などに至っては、支那にも西洋にもないものがいくらもあって、それを調べるべき邦書もない。 [#ここから1字下げ]  かく、一葉毎に、五七語づゝ、注の空白となれるもの、これぞ此|編輯《へんしゆう》業の盤根錯節とはなりぬる。筆執りて机に臨めども、いたづらに望洋の歎《たん》をおこすのみ、言葉の海のたゞなかに櫂緒《かぢを》絶えて、いづこをはかとさだめかね、たゞ、その遠く広く深きにあきれて、おのがまなびの浅きを耻《は》ぢ責むるのみなりき。 [#ここで字下げ終わり]  できるかぎりの引用の書を集めた。有識の人にも聞きあるいた。だが何より大事なことは、文法の制定であった。それなくして辞書はできないことが、日を経るほどにはっきりしてくる。「辞書ハ、文法 Grammar ノ規定ニ拠リテ作ラルベキモノニシテ、辞書ト文法トハ、離ルベカラザルモノナリ。」  日本文法創定は、この仕事にかかる前からの願いだった。いまそれが、思いさだめた仕事に欠かせぬものとなっている。文彦は日本文典の編輯を、日本辞書の編輯に並行させた。  契沖、真淵、宣長、春庭らの、先哲の著作は数多い。だがそれらはおおむね、古音、古義、古格の、解釈の難しいものや誤り易いものの局所を扱ったもので、通俗語や方言などには当然触れていない。雅言のうちでも、音義が分明で誤りようのない語などは欠落している。  普通文典として整備された書のないことはもちろんであるが、諸書を全部あつめてみても、文典の体裁をなすには、論及されていないことが多すぎる。そのために、日本語の普通辞書を編もうとすると、ひとつひとつの語の、語別や仮名遣などの不定のもの、語は同じでも古今|都鄙《とひ》で用法の異なるもの等が輩出して、判定に苦しむことになる。先人の仕事を採る上に、西洋文法にもまなばなければ、日本語の普通文典はできない。文法専門の新造語も創り出さなければならないだろう。  文彦がのちに『言海』巻頭に付した「語法指南」が、さらに日を経て、『広日本文典』となる日本語普通文典の母型であるが、そこでは、自ら建てた日本文法の骨格のほかに、日本文法と西洋文法の異同を説いた注記が随所にある。一例を挙げよう。 [#ここから1字下げ]  又、我ガ名詞、代名詞ニハ、洋語ニ謂《イ》ハユル男女中ノ性(Gender.)無シ。又、単複ノ数(Number.)モ、種種ノ接頭語、接尾語、ナド添ヘ、或ハ、同語ヲ重ネナドシテ、其別ヲ示スコトナキニシモアラネド、各語ノ用法、区区ニシテ、サラニ一定ノ通則ナク、又、区別セズシテモ、前後ノ文勢ニテ、単複ヲ意解シ、且《カツ》、区別シテモ、コレニ応ズル動詞、形容詞等ニ、其影響ヲ及ボスコトナシ、故ニ特ニ説クコトヲ要セズ。動詞、形容詞ニモ、性モ、数モ、人称(Person.)モ、無シ。 [#ここで字下げ終わり]  仮りに外国の文法学者と議論をすることがあっても、例えばラテン文法あるいはイギリス文法でこれこれのものは日本文法でこれこれに当り(または彼にあって我になく)、その間にかくかくの違いがあると言えなければならない。動詞の法(Mood.)についても時(Tense.)についても。それらすべてにわたって、その有無、そのありようが解明され整えられて、はじめて文法と呼べる。  テニヲハや枕詞のように日本語に独自のものもある。それらがいかに独自であるか、日本語という言語のなかでどう働いているかについても、諸国語文法との比較によって明らかにされるわけだ。どの国の言語もそれぞれの特性を持っている。その特性を明確に体系づけること。それが一国の文法というものである。  近頃の俗流洋学の徒には、国語の特性を考えもせず、単純に、彼の文法に我を合わせようと、牽強付会《けんきようふかい》の説をなす者がいるけれども、それは愚かなこと。そんなことで洋文法の忠臣面をするのがおかしいし、そもそも一国の文法が他国の文法の忠実な僕《しもべ》であったりしては、「国語」の独立はない。私どもにも同じものがあります、というような卑屈なことで、他国の敬意は得られない。彼我の事情を熟知した上で、我の特性を論理によって提示する。それこそが、国と国とが相識り相敬する方法なのではないか。 [#ここから1字下げ]  此ノ故ニ、国語ニハ、国語特性ノ制ヲ立テテ、動詞ト助動詞トヲ甄別《ケンベツ》〔明らかに見分ける〕シ、扨《サテ》、国語ノ助動詞ハ、変化ト法トヲ具シ、且、助動詞ト助動詞ト相畳用スル定則モアリ、而シテ、受身トイヒ、打消トイヒ、過去トイヒ、未来トイフガ如キ意義ハ、助動詞ノ其語体ニ生得ス、ト説キ去ラバ、何ゾ然ル紛糸ノ紊《ミダ》レヲ起サム。各国天然ノ言語ニ、各、差違アルベキハ、理ノ応ニ然ルベキ所ニシテ、其間ニ惑ヒヲ入ルルニ足ラズ、唯、其国語天然ノ性ニ随《シタガ》ヒテ語法ヲ制定スベキナリ。彼ニアレバトテ、我ニ摸擬|捏造《ネツゾウ》シ、彼ニ無ケレバトテ、我ニ甄表《ケンピヨウ》セザルハ、其見、亦|陋《ロウ》ナラズヤ。 [#ここで字下げ終わり]  文彦の文法制定は、この覚悟の上ですすめられていく。父祖以来の洋学本流が測ってきた外国と日本との互いのあるべき姿が、幕末の動乱と東北戦争を経て、文彦の目にしっかりと見えている。自分のなかの「日本」は、西洋の忠臣面をする日本ではない。  文彦は、助動詞の項に注した右の文に、さらに念を押している。オランダの例である。  オランダでは、初めフランス語とドイツ語を混用していて自らの国語はなかったが、百余年前に学者が相集まり、すでに独立の国であるからには一定の国語なかるべからずと議して、ラテン文法に拠った文法を新たにつくった。そのとき名詞の格をラテン文法にもとづいて六格と立てて施行したのであるが、実際につかってみると不都合が多く、のち更に審議して、オランダ語には六格はない、四格とすべきであるとした。このことがオランダの辞書の序に書かれてある。「洋文法ヲ以テ国文法ヲ論ズル者、留意スベキコトナリ。」      4  八年には近畿に遊び、翌年は念願の玄沢五十年忌追遠会を開いて大満悦の父磐渓は、髪いよいよ白く、憂いのない隠居暮しである。一家の生計は修二文彦兄弟で持っていたが、磐渓自身も悠々自適の間の詩文の添削や撰文|揮毫《きごう》で月に数十円もの収入があった。好きな書画|骨董《こつとう》を購《あがな》うには、ほぼそれで足りる。  歯はすでにない。だが、七十幾歳をおもわせない健脚、健啖《けんたん》である。酔って端唄をうたい、芝居の役者を評し、ふたりの息子を相手に、「おれは仕合せ者だ」と言うのが口癖だった。  おれは文化文政の泰平を見て、天保の驕奢《きようしや》にも飢饉《ききん》にも改革騒動にも逢い、嘉永から安政への外国騒ぎ、地震大風コロリと、世のさまざまを経て、攘夷鎖国の狂態にも奥州の戦争にも出逢い、ついに明治の太平にまで生きている。これだけの世の変転に遭遇できたことが仕合せであるうえに、玄沢という偉い人をおととさまとし、衆にぬきんでたふたりの子を持っておるぞ。  人は死ぬまで生きておらねばならん。耄碌《もうろく》や病衰で生きていてはなんにもならんのだ。ありがたいことに、おととさま譲りの頑丈なからだだ。眼鏡はいらぬし、歯はなくとも酒はうまい。  それにどうだ、西洋文物流行の、この明治の世を見ろ。攘夷論の火のなかでおれが開国せにゃならんと言っていた、その通りになったであろう。あのとき鎖国攘夷をとなえた連中は世界の形勢を知らぬ大たわけさ。  一杯機嫌で気焔《きえん》をあげては「おれは仕合せ者だ」と言う父磐渓は、獄中のことはもう語らなかった。文彦も、口にしない。だが、あの入獄が、それまでに増して、世の常より濃い父と子のつながりをつくっている。父も子も言葉にはしない、仕合せであった。  子は父に、辞書の語の、語釈や語原、その典拠をよく尋ねた。子の優しさでもあったが、それを識る最上の碩学《せきがく》がこの父であった。  こういう老磐渓に交遊をもとめる人たちは多い。旧仙台藩主|慶邦《よしくに》公をはじめ越前侯、津山侯、徳川田安侯などの諸侯。成島柳北ら文人。林学斎、福沢諭吉ら。  ことに旧主慶邦公とは、仙台養賢堂学頭として、近習《きんじゆ》として、奥羽戦争の参謀として、動乱の幾年をともにした磐渓である。維新後東京住いの慶邦は、しばしば磐渓を招いた。或るとき使いの者が日をまちがえて伝えたために慶邦が待ちぼうけになったことがあった。慶邦が手紙を持たせた。先生の枉駕《おうが》なければざれうた、として、「磐渓を晩景までもたゆみなく待てど暮せどござらぬはなぞ」。  慶邦が死んで、墓誌は磐渓に書いてほしいとの遺命に、磐渓は一字ごとに涙をこぼして書いた。  明治十年二月、西南戦争がはじまった。  憂いのない磐渓の暮しに突然、影が落ちる。世間の人気はとかく西郷に傾いているが、もし西郷が勝って、薩摩人を引きつれて来て東京政権を握ったらどうなるか。磐渓は急に心配になった。征韓論の西郷はきっと朝鮮征伐をはじめる。朝鮮は多年ロシアが目を付けている国だから、そうなったらロシアと日本との間で戦端が開かれかねない。せっかく開国になってロシアとも隣交を結び、おれの年来の持論が成就しているのに、またまた交際を断つ破目になりはすまいか。明治の文明の世が危うくなる。おれの宿論も崩れる。  養賢堂学頭のときに起した例のヒポコンデルで、磐渓は三月末からどっと床に就いた。死を覚悟した書を、ふるえる手で書いた。  五月十五日の磐渓の誕生日に、文彦は父の七十七の賀宴を開いた。親しい名家学士が集まることで、ヒポコンデルの治ることもあろうかと思っての盛大な宴であった。この日一日、父の顔に喜色がもどった。床に起きあがって客と語った。  熊本城の包囲を破って政府軍の優勢であった。しかしこの日、西郷軍の一部は大分県に入っている。磐渓のヒポコンデルはつづいた。  文彦を呼んで七言絶句一篇を口述したことがあるが、磐渓の最後の作となったこの詩は、やや意味の明瞭を欠いていた。誌させた詩を読んでみて、磐渓自らが、うわごとみたいなものだな、と淋しげであった。日露の戦争を意味するようではあった。  九月、西郷隆盛が自刃して西南戦争は終ったが、衰弱した磐渓はふたたび起きることがなかった。朝夕の食事は極く少量で、卵酒だけを栄養にして、一年あまりの臥床《がしよう》ののち、明治十一年六月十三日、涼風の流れる夕方、苦痛もなく去った。  臨終のすこし前、磐渓は文彦に言いつけた。復三郎、おととさまの御肖像を床の間に掛けてくれ。  かすかに開けた目で玄沢の肖像を見、そのまま目をつむった。  七十八歳、尚文院愛古磐叟居士、芝高輪の東禅寺墓地内、父大槻玄沢の隣りに眠る。墓誌撰文、中村正直。      5  文彦は三十二歳、まだ独り身である。父をうしなった悲しみを、文彦は扱いかねた。心細い。これからは文字のことを聞くこともできぬ、と独りでつぶやいていた。辞書づくりの気力も萎《な》えていく。辞書の成稿を見てもらう父が、もういない。  ロンドンの富田鉄之助から手紙が来た。ロンドンに来たまえ、こちらでの生活はなんとでもする、君を飢えさせるようなことはないから、是非とも来たまえ。来て、実地の西洋を見たまえ。  友はありがたかった。この時機にこうして呼んでくれる富田の厚情に、文彦は感動した。英国に留学したい、富田兄に逢いたい。  父の養いは終っていた。家督を継いでいるとはいっても自分は次子であり、母を養い家を守るには兄がいる。妻も子もない。何年海外に遊んでも、海外で死ぬことがあっても、障りはない。留学の好機であった。父のいなくなった土地を、遠く離れたいとも思った。 [#ここから1字下げ]  さらば、この土に、何をか一事業をとどめてゆかむ。その業は、すなはちこの辞書なるめり、いよ/\半途にして已《や》むべきにあらず。 [#ここで字下げ終わり]  辞書を作り上げて英国へ渡ろう。文彦は、新築して二年にもならない本郷の屋敷を売った。父のためにと建てた家だから、いまは無用でもあり、こういうことに使うのならば亡き霊を嘆かせはしないであろう。その二千余円に蓄えを加えれば、留学の費用はなんとかなる。  分秒を惜しんで辞書をいそいだ。文法もいそいだ。秋には有志をあつめて一回目の文法会を不忍《しのばず》池畔の料亭で開いたし、『広日本文典』の稿も起した。三十二歳の頑健なからだは、無理をするほどにかえって力を増すようだった。だが、日本辞書は、それにまして手ごわい。  例の「盤根錯節」はたやすくは解けない。それどころか、ますますこんがらがっていく。語原も、仮名遣も、なにもかも。  或る語に古義のあることに気づかないでいることがある。途中で転じた意義を出発点と誤認していては、見かけにとらわれて、その語の素性を見うしなう。そこを見うしなうと、転義異義の語釈にも、ずれが生じてしまう。  ひとつの語がいくつかの異なる意義を持つことが多い。そのどれが先で、どれが後か。時代を経て意義が転じたのは、どういう理由によるのか。意義の移った経路を明らかにしなければ、本当の語釈はできない。  植物名や動物名の語原を究めるには、まず、それが野生にあるかないかを考える。野生にあるならば一応は本邦固有のものと見ていいが、野生にないならば外来のものであるから、その植物なり動物なりの名が初めて書かれている書物を探さなくてはならない。外来種の移入は薬用のためであることが多いので、それをひとつの目安にはできるのだが、或る時代の或る書物にあったからといっても、それを初出と断定するにはためらうことがある。どうにも気にかかって、たった一語のために、数十巻の書物の中をさまようこともしばしばだ。  どこかで思い切らなかったら辞書はできない。疑問は残したままに、とりあえずは書きつけておく。幸運にめぐまれて、ひょいと疑いが氷解することがある。はじめに書きつけたままでよいと確信の持てる場合がある。はじめのが誤りである場合がある。書いては消し、消しては書きして、原稿の一枚一枚が、余人には判読できぬほどになってゆく。  辞書に完成はあり得ないとは思っても、数多くの疑いが残ってゆく。いや、疑いを持たなかったことまでが疑われ出して、むしろ疑問符は増えるばかりである。ことに語原は、「——ノ義」「——ノ転」「——ノ約」などと断定できることもあるけれども、「——ノ義カ」「——トイフ、イカガ」「——ノ略カト云フ」「——ナラムカ」「或云《アルイハイフ》——カト」等々、いまは宿題としなければならない場合のなんと多いことか。出版する日までにその何割から疑問符がとれるだろうか。 [#ここから1字下げ、折り返して2字下げ] ど-ぢ|や《ヨ》う[#「ど-ぢ|やう」は太字](名)|鯲[#「鯲」に傍線]| 〔|塵添※[#「土+蓋」、unicode58d2 ]嚢鈔《ジンテンアイノウシヨウ》ニ、土長ノ音ヲ当テタリ、或云、泥鰌ノ音ノ転訛《テンカ》カト、或ハ泥生、又、土生ノ音ノ転トモイフ、常ニどぜうト記スハイカガ〕魚ノ名、淡水ニ産ズ、形、鰻《ウナギ》ニ似テ短ク、黒キ斑《ハン》アリテ、腹白ク、鬚《ヒゲ》アリ、泥中ニ潜ミ、時時、水面ニ浮ビテ沫《アワ》ヲ吐ク、泥中ノモノハ、肥エテ、斑、薄ク、沙中《サチユウ》ノモノハ、痩《ヤ》セテ、斑、分明ナリ。泥鰌[#「泥鰌」に二重傍線] [#ここで字下げ終わり]  この語なども疑いのまま印刷しなければならなかった一つである。しかし、語原がはっきりしなければ、仮名遣も決められない。「どぢやう」か「どじやう」か、「どぢよう」か「どじよう」か、或は東京市中の飲食店の暖簾《のれん》看板にある「どぜう」か。それが決まらないと、五十音で語を並べた辞書のどの位置に、この語を置くのかも決められない。 「ぢ」か「じ」かは、日常の発音に「ぢ」「じ」の区別を残している土佐人に発音してもらって、「ぢ」と決めた。文安《ぶんあん》年間の『|※[#「土+蓋」、unicode58d2 ]嚢鈔《あいのうしよう》』にある「鯲《トチヤウ》、土長《トチヤウ》」が最も古いことは確かめ得た。長享《ちようきよう》年間の魚鳥連歌にも「友どちや[#「どちや」に傍線]、う[#「う」に傍線]ちむれ霞《かす》む野に出《い》でゝ」とあって、「どちやう」の仮名でこの魚の名を詠み込んでいる。だが、なぜ「土長」なのか、そのもとはさっぱり分らない。  明《みん》の『本草綱目』にある「泥鰌《デイシウ》」の転であるとする説もあるが、そんな専門書のなかの語が我が国の民間の通用語になるはずはないし、それに、泥鰌《デイシウ》がもとだとすると「ぢ」の音と合わなくなる。泥生《デイジヤウ》、土生《トジヤウ》の説などもあるが、これも音が「じ」であることからしても疑わしい。かといって、「どぢやう」にも、そのもとが分らないからには、確信は持てない。結局、確たる答のないままに、『言海』には先のように記載するしかなかった。語の位置も、「とちやう(斗帳)」の次、「どちやく(土着)」の前にしたのだが、ほかの何百もの語とともに、これも気がかりな語のひとつであった。  四十年あまり後、文彦の死後に出版される『大言海』では、「どぢョう」としている。『言海』出版後も文彦の脳中には無数の疑問がいつでもうごめいていたのだが、或るとき「ドジョウ」の原義を言い当てている書物に出会って、はっと、長年の気がかりが解けたのである。 『言海』祝宴に出てくれた高田早苗の祖父で、江戸後期の国学者高田|与清《ともきよ》の、『松屋筆記』を読んでいたときのことだ。「泥鰌、泥津魚《ドロツヲ》の義なるべし」とあるのが目に飛び込んで、あっと思った。そうだった、この魚はもともと外来のものではない。本邦に開闢《かいびやく》以来いる魚だ。漢字が先にあって、それを読んだ名であるわけがない。和語であるのが当然だ。そんなことになぜ気づかなかったか。  泥津魚《ドロツヲ》には「の」の意の「つ」がある。古語である。となれば、我が古語では首音を濁らぬのが通例だから、古くは「とろつうを」であったことに疑いがない。のちになって首音の「と」が「ど」と濁る。「ろ」が略され、「つ」が濁り、「うを」が「を」と約されて、最後に「どぢょう」となる。それに違いない。  元来「泥」という語は、盪《トロ》けたる意であって、いまでも「とろとろ」というように清音であったが、水《ミ》を冠《かむ》らせて、血みどろ、汗みどろのように、連声《れんじよう》で「みどろ」と用いるようになり、やがて「み」なしでも「どろ」と発音するようになったものである。「とろつうを」の「と」が、そうして「ど」になる。 「をろがむ」(拝む)が「をがむ」となり、「こころもち」(心持)が「ここち」となるように、「とろつうを」の「ろ」も略される。 「厳之霊《イカツチ》」(雷)を「いかづち」と濁るように、「つ」は「づ」と濁りやすい。『※[#「土+蓋」、unicode58d2 ]嚢鈔』の「土長《トチヤウ》」や魚鳥連歌の「友どち」からみて、室町時代までは清音だったと思われるが、のちに濁るのであろう。「うを」が「を」となるのは自然であり、その例も数多い。  この魚の名の語原は「泥之魚《トロツウヲ》」である。それが「どろづを」「どづを」を転じて「どぢょう」となった。文彦は『大言海』では、「どぢョう」の仮名遣に確信を持って、「とちュう(途中)」の次に、この語を置く。(文彦は『大言海』のサ行までを成稿として死ぬが、この「どぢョう」をふくめて、タ行以下も、浄書前の稿はもちろんあったし、「どぢョう」の語原は早く大正八年以前に確定している。) [#ここから1字下げ、折り返して2字下げ] |ど-ぢョう《ド—ジヨウ》[#「ど-ぢョう」は太字](名)|泥鰌[#「泥鰌」に傍線]| 〔泥《ドロ》之魚《ツヲ》ノ義、泥ノ中ニちョろちョろスルヨリ起ル。泥鰌《デイシウ》ノ転ト云フハ、少シ鑿《イリホガ》ナルベシ。※[#「土+蓋」、unicode58d2 ]嚢抄ニ土長、増補下学集ニ土※[#「魚+定」]。又ハ土生、泥生ナド云ヒ、髭アレバ泥尉《ドゼウ》ト云フノ説ナドモ拠所ナシ〕(以下略) [#ここで字下げ終わり] 『大言海』までに、ということは死ぬまでにということだが、語原に納得の行った語は数知れずある。だがそれには数十年の努力と、長い時間のおかげでの幸運がある。英国留学に心が急《せ》きながらの文彦には、時間がなかった。  いらだってもどうしようもないのだ、時をかけなければこの仕事は成らない。そう思いながらも、あまりの「盤根錯節」に茫然とする。この仕事を辞退して、誰か他の人にやってもらおうかとも思う。あとのことなどかまわずに逃げ出してしまおうかとも。このままでは、富田鉄之助が誘ってくれる英国行がいつになることか、まるで見当もつかない。  文彦は迷った。言葉と格闘しているときはまだいい。夜中に目覚めて、迷いで眠れぬことがある。箸《はし》を手に考え込んでしまう時もある。 [#ここから1字下げ]  推辞せむか、躱避《たひ》せむか、棄てむ、棄てじの妄念《もうねん》、幾たびか胸中にたゝかひぬ。されど、かゝるをりには、例の遺誡《いかい》を思ひ出でゝ、しば/\思ひしづめぬ。 [#ここで字下げ終わり]  迷いながらも、文彦は玄沢の孫であった。「凡《およ》そ物を学ぶこと、実地を踏まざればなすことなく、心に徹底せざることは筆舌に上せず」の大槻玄沢に劣らず、いい加減のことのできない人間であった。留学をのぞむ文彦にとっては厄介で、日本辞書にとっては幸いであったこの性格が、辞書|編纂《へんさん》をつづけさせた。いわば中毒であった。言葉を追うことに、文彦は毒されてしまっている。アルコール中毒者が酒を断たれた時に肉体と精神に異常を起すように、ここで辞書を棄てて行ったならば、欧州へ向う船のなかででも、大槻文彦は中毒者特有の禁断症状を起して、インド洋あたりに身を投げてしまったかも知れない。  留学はしょせん夢でしかなかった。辞書にのめりこんで、日が過ぎて行く。  外貨に対する円の価値が急落していた。家まで売ってつくった留学の費用が、気がついてみると半分の値打ちに下がっていた。  英国行を断念した。浅草の兄修二の家に転がりこんで、酒を飲み、飲みながらなお辞書づくりに淫した。  明治十二年夏、休暇三十日をとった。何年も忘れていた旅をしたかった。旅をしなければ支え切れない自分であった。父はいない。兄は優しいが、優しすぎてならぬ。もっと堅いもの、磐井の流れの岩のように堅固で硬く動かぬものが要る。  渡英の思いを捨てたとはいえ、残る心をなんとかしなければならない。  八月の或る夕方、浅草の兄の家を出て、万世橋《まんせいばし》の馬車屋に泊る。午前二時、馬車が出る。乗合六人、板橋から中仙道廻りで、大宮駅で夜が明け、午後、高崎に着く。  伊香保へ行こうと思っていた。翌朝五時に宿を出て、馬を借りて三国街道から折れて伊香保道に入る。  六里の道を馬をせめた。夏の朝の光が山に満ち、人、馬、ともに緑に濡れた。勾当台《こうとうだい》通りに馬を馳《か》った宮城師範学校長時代の仙台がなつかしい。あれはまだ、辞書の苦しさを知らなかった日々だ。生れたばかりの明治国家のように、作ることにいそがしかった。学校も教科書も、何もかも、まどうことなく作った。  馬の息が荒い。並足にする。鞍《くら》を通して馬の呼吸が文彦のからだに伝わってくる。人間はひとりも見えない上州の天地だったが、鞍下の生きものとともに文彦の肉体が、夏の朝の生を喜んでいた。  船尾山に滝を見、二ツ岳の雌岳に登り、榛名の山に遊び、夜は宿の主人を交えて、同宿の人びとと酒を酌み、主人のたのみで『伊香保志』と題する三巻の案内書も逗留《とうりゆう》中に書いた。湯治に来ていても、ぼんやりしているのは嫌いだった。  あいだに箕作麟祥が来た。麟祥の民法編纂事業は困難ながらもはかどっている。民法が近代国家に欠かせないものであることは、政府の連中にも解って来ている。だが困るのは、なんでもかんでも西洋風がいいと思う風潮じゃないか。親子夫婦の関係などを定めるのに、日本古来の慣習を無視できるものか。例えば地質学の学徒ならば、日本の地層は悪くてヨーロッパの地層は良いなどとは、まさか言うまいけれども、制度法律から衣食住まで、何でも欧米のものなら良いと思う馬鹿が多すぎる。まあ、気長にやるつもりさ。  そうだ、根気よくやろう。君はこの国に合った民法典をつくれ。おれはこの国に合った辞書をつくる。それが世界に通じる唯ひとつの道だ。  ふたりは飲んだ。飲んで、語り、都々逸《どどいつ》をうたった。麟祥と会っているうちに、文彦は硬いものをすこしずつ取りもどしていた。  文人、官員の知己が入れ替り何人も同じ宿に遊浴に来た。上野精養軒の主人や落語の円朝なども来て、連夜の酒盛りのうちに、英国への未練も薄らいで行った。  三十日近い逗留の終りに、四万《しま》、草津の温泉を廻る。  大槻文彦は生涯、つくりものの文芸を蔑視《べつし》した人である。実地を踏んだ手堅い論証に敬意をはらった。明治十二年のこの旅についても、長文の紀行「上毛温泉遊記」を残しているのだが、自分の目で見たことを時に退屈なくらいに丹念に記述する。月日、時刻、里程、所要時間、道路幅、橋の長さ、村落の戸数、温泉の温度、等々、数字が氾濫《はんらん》する。山、川、原、村、宿、堂、等々、名前が行列する。  辞書編纂者の資質である。だが大槻文彦の実証偏愛の裏には激した熱が潜んでいる。熱は、日本という国家に向いている。学の人というよりは政治の人。政治の現場にいないだけ、より強く政治の人であった。明治前期の人たちによく見られる「国士」の風と言ってもいい。そういう政治の人として、事実と論証とを尚《たつと》び、だから、つくりものの文芸を低く見た。「広日本文典序論」で、文彦が宣言する。  恋歌ほど、「厭《いと》はしく憎むべき」ものはない。国学者たちは、歌は情に発するもので、恋は人情の至極のものであるから、恋歌こそ歌であるようなことを言っているが、実にたわごとである。情慾《じようよく》ばかりでなく喜怒哀楽をも抑制するのが人間である。それらを無制限に発していては、人間社会の節度がなくなる。情のゆくままに行動して、自らを抑制する能力のないのは、小児と禽獣《きんじゆう》ではないか。  歌が、情慾のゆくところをほしいままにしなければ詠めないものならば、歌というものは廃絶したらいい。だいたい歌道では、歌は至情に発するを旨とするようなことを言いながら、仮設の空題で詠じたりしているではないか。矛盾というものだ。本当に至情に発するのなら、恋の名歌を詠ずるには、恋を実行しなくてはならぬ。われわれの家庭生活に、歌のための恋の実行があふれて、「淫奔|穢褻《わいせつ》の風」が横行してもよいのであるか。  万葉集をはじめ、二十一代集、何集、何物語、我が国の文芸の伝統を見るに、恋歌ならぬものがない。いかに当時の風習であったとはいえ、「かくまで恥知らずしてありしこと」は、いまのわれわれには考えられもしないことだ。中世、天下に盗賊が横行し、武士は朝廷の大権を偸《ぬす》みつつあったのに、公家はいったい何をしていたか。汲々《きゆうきゆう》として恋歌を撰集《せんしゆう》し、孜々《しし》として恋歌の優劣を闘わし、歌合《うたあわせ》に負けたといって憤死するものまでいる。堂々たる朝家の人士が、恋歌こそ生命なりとして、「朝《あした》に恋歌の佳什《かじゆう》を詠じ得ば、夕に死すとも可なり」と思っていたありさま、言語道断ではないか。「恋歌、実に亡国の恨なり、古来諸集中の恋歌、悉皆《しつかい》、抹殺《まつさつ》削除すべきなり。」  激論だが、文彦には本気のことである。「文」は「実」でなければならず、「用」でなければならなかった。 「上毛温泉遊記」も、「市中の湯は熱の湯、鷲の湯、地蔵の湯、滝の湯、御座の湯、綿の湯、脚気の湯の七ケ所は古来より名あり。其外和《そのほかなぎ》の湯、千代の湯、松の湯、瑠璃《るり》の湯、富の湯、玉の湯など種々の名あり。」「滝の湯は市街の中央に東西四十余間、南北十余間なる浅き湯池ありて湯垣《ゆがき》とて垣を繞《め》ぐらし、其内熱湯一面に沸き出で湯の烟《けむり》空を覆ひて物凄《ものすご》く、その池の東一方一丈|許《ばかり》、俄《にはか》に低く湯の落つる処に長屋造の浴湯ありて筧《かけひ》にて十余の湯滝とす。」と、克明な文がえんえんとつづく。引いたかぎりでは煩わしくもないようだが、この類の詳細な記述が、文彦自らの情は極度に抑制した、事実の報告の形でえんえんとつづくのである。遊記ではあるが、案内記の用をなす。案内記同様に、書かれた土地に関《かか》わりのない人には退屈かも知れない。  そういう一万五千余字がならんだ先で、しかし読者は、突然、目前の事実の正確な記録者に徹した文彦の文におどろくことになる。これはもう、文彦の嫌いな文芸ではないか。しかも、その良質な一篇ではないか。  草津熱の湯の浴法を誌す文である。例によって湯の所在、浴場の構造、温泉の質などを記述し、この湯の温度が華氏百二十五度であること、自分がかつて東京市中の銭湯の温度を調べてみたところ、熱湯自慢の鳶《とび》の者らが堪えうる限度が百十五、六度であったこと、などを誌したあとに、次の文が来る。 [#ここから1字下げ]  早朝浴場を開かんとする時、隊長|先《まづ》出でて湯の差口を塞《ふさ》ぎ柝《たく》〔拍子木〕を撃ちて人を呼べば、市中遠近の旅店より浴者皆来り集る。其体を見るに身の内皆|爛《ただ》れて陰部殊に甚《はなはだ》しく、皆綿などあててあり——総べて草津の湯は温き熱きに係《かか》はらず、湯にて爛れ湯にて治すなり。——、皆よろ/\と歩む。男女裸体となり打交り騒がしく入り立つ。初め各一枚の板をとり湯槽《ゆぶね》の四辺に立ち、声立てて湯をかきまぜ熱を殺《そ》ぐ。これを湯を揉《も》むといひ板を揉板といふ。揉む事|凡《およそ》十分|許《ばかり》にして隊長掌を鳴らして止むれば、長き板を数枚槽の上に亙《わた》し皆板の上に蹲《うづく》まり、柄の短き柄杓《ひしやく》にて皆|俯《ふ》して頭部に熱湯を汲《く》み上げ/\注ぐ。初めに斯《か》くして後に入らざれば、体のみ熱して眩迷《げんめい》すと云。頭に注ぐ事|凡《およそ》三百|盃《はい》程なるべし、皆頭も面も真赤になりて|※[#「火+喋のつくり」、unicode7160 ]《ゆ》であげたるが如し。隊長又柄杓にて槽の舷を叩けば皆湯に入るの装を為《な》す。弱き者、新参の者は足袋をはき、又は肩身に布など纏《まと》ひ皆揃ひて、板に両手を突き張り足よりそろ/\と入るなり。入る時に隊長声をあげて「三国一の名湯——」といへば皆異口同音に「有り難い」と和す。隊長を首《はじめ》として——隊長は湯の差口の処に入る——、一同に身動きもせずして沈む。其の間の浴者の顔色実に何に譬《たと》へんやうも無し。全く沈めば隊長時々に声を揚げて種々にたはけたる事を云ふ「梅毒《かさ》は根切れだもう少しの辛抱だ」などいへば一同声あげて和す。熱に負けじと気を引き立つるならん。沈み居る間は凡二三分許にして隊長、「暖《あつたま》つたらそろ/\出やう」——余は|※[#「火+喋のつくり」、unicode7160 ]《ゆだ》つたらの誤りなるべしと思へり——といふを合図に一同我先にと跳ね出づ。其熱き事|如何《いかん》ぞやと思ふばかりなり。余が見たる時は、此《この》一度に入りたる者凡五六十人許なり。尚其余なるは旁《かたはら》に其出づるを待ち居るなり。盛なる時は此浴場の四辺に三百人も集ると云。最初に入るを一番と云、次なるを二番、三番と云。二番の群よりは湯を揉まず直に頭に注ぎ入るなり。四番程にして止ぬ。婦人は多く二番三番に入る。陳《ふる》き湯を凡《およそ》槽より湯の半分程かい出して差口を開き、新なる湯を入るるなり。湯満つれば又初の如く柝撃ちて揉み入るなり。斯くすること一日に五六度なりと云。後に湯を揉《もむ》時中より綿|膏薬紙《こうやくがみ》の滓《かす》など浮くを芋揚|笊《ざる》にてすくふ穢極まる。熱湯に沈む間に堪へず、又一人先出づる事|能《あた》はずして遂に眩《めまひ》して斃《たふ》るる者あり。斃るれば「アガツタ」といひ一同に板の間の上へ引き上げ、水注ぐ。蘇《そ》する者は蘇し、体弱き者は遂に死ぬるもあり。 [#ここで字下げ終わり]  焦熱叫喚阿鼻の八大地獄を思わせる生死の境の裸の群れを見、文彦の旅が終った。梅毒病者らの醜臭残酷の光景は、生きることの根を露わしていた。伊香保にもどって、霖雨《りんう》の数日、このたびの遊記を誌す。三十日の休暇は過ぎていたが、書くことにくらべればどうでもいいことであった。(遊記の一部を同宿の岸田吟香が東京日日新聞に載せた。)  文彦は力を取りもどした。父の死から渡英の挫折《ざせつ》へとつづいた衰弱期は、浅草の兄の家に帰り、仲秋の夜、燈下に遊記を浄書した時には終っていた。      6  翌年三月、文部省内に編輯局が設置され、文彦はその勤務となり、文部一等属に任じられた。仕事が日本辞書の編纂であることは変りない。というより、この仕事は文部省の仕事でもあったが、すでにそれ以上に大槻文彦の仕事になっていた。  兄の家を出て、おなじ浅草の今戸町に一軒を借りた。役所でも家でも、辞書に明け暮れた。その明治十四年初夏、長いロンドン勤務を解かれて富田鉄之助が帰国した。 「大兄が帰朝した上は、英国留学も一睡の夢と醒《さ》めたわけだが、しょせん、おれは日本を離れられなかった。辞書が実に手ごわくてね」  旧友富田の帰国は、文彦にあらためてひとつの区切りをもたらした。もはや渡英は夢という区切りでもあったが、同時に、富田と語ることは、文彦のなかの仙台がふたたび息づくことでもあった。文彦の「日本」を生んだ仙台と洋学がふたつながら富田のなかにある。富田は富田で、長い外国生活のなかで、自分の「日本」を育ててきていた。ふたりの「日本」が結ぶところが、何よりまず仙台であった。  文彦と富田のふたりは、仙台を何かで表現したい。そうなれば話は早かった。この年のうちにふたりで奔走して、仙台造士義会という一種の育英会をつくってしまった。ふたりの資金に伊達家や有志の寄付を仰いで、その利子を、旧仙台領内の俊秀の学生で学資の乏しい者に貸与するという会である。  この年、文彦は、三叉学舎旧友会も設立している。箕作秋坪の英学塾の同窓の会である。  文彦のなかに押えがたい活力がうごいていた。草津の地獄絵に生きることの根を見、富田の帰朝で仙台と洋学を蘇生させたことが、引金になった。辞書の仕事は急速に進み出していた。辞書が進むほどに、別の著作もどんどん成った。『洋々社談』には、磔刑《たくけい》のこと、伊達政宗のこと、日光男体山のこと、動詞活用のこと等を相ついで書く。『羅馬《ローマ》史略』『石版術』『印刷術』『日本小史』『伊香保志』を刊行。  兄修二らと白石社を設立、新井白石の遺著を出版。文彦は『采覧異言』『西洋紀聞』を校訂した。日本の洋学のもとをたしかめる、洋学嫡流の仕事であった。  文法会も五十回を越え、日本文典にも成案を得た。  富田帰国の翌年、明治十五年秋には、文彦は『広日本文典』を脱稿し、『言海』の浄書をはじめる。  この八年近く、書き、消し、加え、削りしてきた厖大《ぼうだい》な枚数である。浄書は、それを資料に一書を起してゆく根気のいる作業だ。浄書しながら新しい疑問に突き当たることが毎日である。その疑問のひとつひとつを、書物にたずね人にたずねて、新しい紙に文字を埋めてゆく。  編輯局で中田邦行と大久保初男のふたりを文彦の仕事につけた。ふたりが校字写字の仕事をしてくれるのだが、肝腎《かんじん》なのはもとになる文彦の稿であり、出来上ってゆく一枚一枚に検討を加える文彦の目と手である。  深夜、ランプの灯で、一日の仕事に最後の筆を加える。浄書をはじめてからは、ほかの著作の時間もなくなってしまった。書きたい本の材料だけは、書棚の紙袋に貯《た》めているのだが。 [#ここから1字下げ]  私は何々の書を作らうと思ふと、大きな紙袋を幾つも置いて、いろ/\な書物を読む度に、其事に関係した所を見ると書きぬいて、それ/″\の袋へ押しこんで置く。長い文であると何書の何枚目と記して押しこんで置く。いそがしいからかうするのである。かやうにして幾年も経る内に袋が段々|脹《ふく》れて来る。大抵に脹れた時に開いてひろげて前後次第を付け、又諸書から書きぬいて遂に一書を作る。かやうにやつてゐる。 [#ここで字下げ終わり]  この明治十五年、伊藤博文は憲法調査のため渡欧。日本銀行が創立され、創立にあたった富田鉄之助は副総裁(二十一年総裁、松方蔵相と意見が合わず一年で辞職)に就任。前年結成された自由党を弾圧する福島事件。この年から十九年にかけてつづく自由党左派によるいくつもの暴動事件。十六年の鹿鳴館落成。条約改正予議会の進行。十八年、内閣制を採用して伊藤博文内閣が成立。坪内逍遙が『小説神髄』を出版。  明治前期が収束にむかおうとしていた。文彦の『言海』が一枚一枚稿に成ってゆく時期である。伊藤も富田も文彦も、それぞれに、自らの人生で成すべき第一の仕事の完成にむかっている。憲法、中央銀行、国語辞書。近代国家に欠かせない、政治、経済、文化の柱となる仕事である。  文彦の辞書づくりは、明治国家の文化づくりでもあった。そのため、文彦は辞書にだけ止《とど》まってはおられない。第一に文法をつくらねばならなかった。しかし、それでも足りぬ。国語の改革を図らないと、日本語は新しい文化を産めなくなる。  国語家はともすると、我が国は「言霊《ことだま》のさきはふ国」であるとして、他国の言語を蔑視しているが、他国の言語を究めもせず、日本語と比較してみもしないで、井の中の蛙《かわず》になっているにすぎない。それぞれの国にそれぞれの国語があり、比較言語学でその異同を論ずることは有用だが、国語家のような単純な自尊では困るのだ。  冷静に諸言語を比較したうえで言うならば、いまもし万国言語の共進会を開いて優等賞を得るのは、まず、梵語《ぼんご》、ラテン語、フランス語といったところか。ドイツ語も金牌《きんぱい》に洩れぬであろう。欧州大陸の言語は、名詞、冠詞、動詞、形容詞、語ごとに性、人称等があって煩わし過ぎるのが欠点だが、誤解を生ぜしめない利はある。  日本語、英語も、金牌に伍することが、まあ出来るか。日本語は、単複数を分つ一定の規定がないなどの欠陥はあるけれども、冠詞がなく、性や人称のないところは甚だ簡であり、殊にテニヲハと助動詞の語尾変化とで他の言語に優《まさ》っている。字母も四、五十で、綴字も英仏などより遥《はる》かに面倒がない。ただ「漢字を混用する」ことと「言文両途なる」こととは、日本語の大|瑕瑾《かきん》である。  漢学だけ、或《ある》いは洋学だけを修めた人は、日本文は語法が粗くて精密な論理文など記し得ないとか、腰が弱くて雄渾《ゆうこん》な議論文などつくり得ないとか言う。これもおかしい。現に日本語の談話においては、精密な学術の奥義をも言いまわし、雄弁|滔々《とうとう》人をして傾聴させることができるではないか。この談話の語を文にできないというのは、その人の未熟に過ぎぬ。われわれは既に自在なる談話の言語を持っている。漢文訓点読下し文のような窮屈なものだけが日本文ではない。談話の語を磨き上げ、語法や語格の足らぬところがあればそれを創り出すよう工夫を積むべきである。漢文をも凌駕《りようが》し洋文をも圧倒する日本文が出来ないはずがあろうか。  漢文にしても洋文にしても、はじめから現在のような文であったわけではない。長い歴史のなかで、時代時代の名家の手で磨き上げ、語法語格の足りぬところは学者の人為をもって完備させて、今の姿になっている。  現在、欧州各国の公文には仏文を用い、他国の元首の名までもフランス式に綴っているが、これは何もフランスの軍事力や経済力によるのではない。ルイ十三世時代に大宰相リシュリューがアカデミーを建てて、学者をあつめて仏文法を改善させ、これを教科書その他に励行させたのであるが、その語法語格の端厳なることは各国語の第一で、意味が両様に解せられて誤解を生むようなことはまったくない。だから各国が、この仏文を公文、条約書などに用いるのである。  人為をもって補正された仏語仏文の威力は、ついに全欧州を征服した。「学者の力、語法の学、豈《あ》に軽々に視るべけむや。」日本文法の上にも、人為をもって補足したいことが数多くある。『広日本文典』のなかで、動詞の変化や時制について、従来の文法書にとらわれず新しく語法語格を立てたのは、その試みのひとつである。  もちろんこれはひとりの人間の手にあまる仕事である。碩学に質《ただ》さねばならぬことが多い。だが、いまの洋学家は国文法に盲だし、国語家は洋文法を理解できない。議論にもなんにもなりはしない。宣長や契沖を地下から呼び出して洋文典を一部読ませたら、おそらくきちんとした議論ができるのだが。  だいたい今の人たちは国文を軽視している。漢文をつくる者に、その文の用語の和臭とか文字の転倒などを指摘すれば赤面するし、洋文を記した者に、その語法語格の違いや綴字の誤りを教えれば慌てて改める。だが、こと国文となると、仮名遣とかテニヲハの破格を注意しても、「訳《ワケ》サヘワカレバ、ドウデモヨイヂヤナイカ」と平然としている。自分だけわかっていても、人にわからなければなんになろう。「ドウデモヨイヂヤナイカ」では、契約文ひとつ満足に書けぬ。  国文冷視は洋学者に殊に多い。学位までありながら、手紙すら文を成さない人がいる。だから、平生は洋文の語法語格を誇っているくせに、翻訳文の添削を漢学者や国学者にすがる。学もあり説もあり、口では善く弁ずることができながら、それを文につくれないとは、筆の先の唖《おし》である。学者が自国の普通文を書けないなどということが、どこの国にあろうか。  かつては漢学者も国文を自ら磨いていた。新井白石、室鳩巣《むろきゆうそう》らの国文を見よ。ところが天明寛政以来、漢文をつくるには国文は害であるという莫迦《ばか》げた考えが支配して、国文は捨てられ、必要あって仮名交り文を書くときには、漢文読下しの、しかも訓点は破格の、支離滅裂文という破目になった。その末流に育った漢学書生らが天下の大権を執るにいたって、ひどいことに支離滅裂文が日本国公文の文体となっている現状である。例えば古訓点では「有[#(リ)][#二]顔回[#(ト)]云者[#一]」とあるのを新訓点では「有[#(リ)][#二]顔回[#(ナル)]者[#一]」と改めている。これでは「顔回ニアル者アリ」ということになって意味を成さないのだが、こういう類の文を書下しにして、一国の通用文として怪しまないでいる。  今の普通文体はこの漢文訓点読下し文である。その支離を矯正するには、まず漢文教科書の訓点を改めなければならぬ。新聞記者に語格の注意を促さなければならぬ。  だが、それは当面の処置である。何より求められるべきは、「言文一致」であろう。また、漢字混用からの脱出の試みであろう。仏語仏文に比肩できる日本文をつくらなければならぬ。  文彦は数人の仲間と「かなのとも」を組織した。仮名の運動は、それを皮切りに、あちこちに出て来た。運動が注目されたのは、ひとつには維新以来の西洋かぶれへの反感があって、日本古来のものへ帰ろうとする勢いがあったからだが、他方やはり、いまの日本文をどうにかしなければならぬと思う人も、少なくはなかったのである。  まもなく「かなのとも」をふくめて、仮名の運動をすすめる四つの団体が合同し、有栖川宮を会長に「かなのくわい」が結成される。  日本文の仮名書きをめぐって、新聞に賛否の論が飛び交う。反対の一番手は『朝野新聞』雑報欄、筆者は京橋|溺濘《デキネエ》生。実は成島柳北である。難読の仮名文例を掲げて仮名の会を挑発した。 [#この行2字下げ]あるひはなみんとてさとはなれのやまにのほり(以下略)  なんと自分で書いた文ではあるが、まことに読みにくく、解しにくい。仮名の会ではどのようにお書きになるか。  柳北さん、おいでなすったな。文彦は好敵を相手に朝野の紙上で論戦を展開した。一読して、「其議論、甚だ薄く、先《まづ》は、ヘロ/\武者」と見受けたが、せっかくの敵なれば一当て当てんと、右の文には鸚鵡《おうむ》返しに、 [#この行2字下げ]ある ひ、はな みん とて、さとはなれ の やま にのぼり(以下略)  こう書けば何の読みにくいことがあろうか。わざわざ読みにくい文を作るのは、卑怯《ひきよう》ですぞ。拙者もお返しに「上方《カミガタ》ノ上方《ウヘツカタ》ノ雲ノ上人《ウヘビト》ト某|上人《シヤウニン》ト、上野《カウヅケ》前橋ヨリ、上野《ウヘノ》山下マデ(以下略)」を、漢字の難読例として差し上げよう。振仮名なしでは困りはしませぬか。  溺濘生の再論、文彦の駁論《ばくろん》が、両三度にわたって続く。『東京日日』や『郵便報知』にも、「かなのくわい」を難じ、嘲弄《ちようろう》する文が相次いで掲げられる。文彦は一々それに反論した。  漢語漢字は千年来教育して来たけれども、今に至っても人民には学びにくく不便なものである。一方、この風土人民持前の言葉と仮名があるではないか。これを専ら用いるのが言語文章にとって自然なことである。そのためにいま、日本語の|語法文法を定めて《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》、これを全国の教育に施し、日常通用の文に用いさせようとする業を起そうとしているのである。やまとことばに限ろうというのではない。漢語のなかでも耳に聞いて解するものは採ればよい。  新しい時代にふさわしい新しい日本文をつくるには、漢字を廃する可能性の検討から、はじめなくてはならないのだ。そうしなかったら、言文両途に出ている不自然も改めることができない。習うにやさしく、表現に豊かで正確な日本文ができなければ、この国の学術文化の発展はおぼつかない。  日本中から漢字を消し去ろうと言うのではない。専門の学としては漢学をまなぶ必要があるのは当然である。古来の億万の書を読めなければ、専門の学はできない。漢学だけではない。朝鮮の諺文《おんもん》も、インドのサンスクリットも、ラテン、ギリシャ、英仏独露の学も、ペルシャ、トルコのことも、専門学としては日本に必要なのである。  仮名文は言葉ごとに間をあけるので能率が悪いという人がいるが、洋文は初めから言葉ごとに間をあけていて、それで不便だとは聞いたことがない。慣れればよいだけのことである。仮名で書くならば、分ち書きにしないかぎり、読みにくく誤解も生ずること、溺濘生の例文を挙げるまでもない。  文彦は、新聞で疑問を呈され、難じられたことの一々に答えた。仮名で書くと漢字で書くより長くなるではないか、同音異義の語をどうするか、源氏物語は仮名ばかりで書かれているからあんなに読み難いのではないか、証文などで書き変えのおそれがありはせぬか、等々に反論した。 [#ここから1字下げ]  縦《タト》ヒ、現在生ケル程ノ人ノ、悉《コトゴト》ク迷惑ナストモ、後来、億万年ノ億万人ニハ代ヘラレヌナリ。マシテ、現在ニテモ、仮名ヲ読ミ得ヌ人ハ、国中ニ、万分ノ一ナルベキヲヤ。 [#ここで字下げ終わり]  文彦は新聞の論戦を好機とした。日本文の問題を世人に示すには、どんな無理難題もむしろありがたかった。数ヶ月、文彦は各紙に論戦を展げた。 [#ここから1字下げ、折り返して2字下げ] か-な[#「か-な」は太字](名)|仮名[#「仮名」に傍線]|仮字[#「仮字」に傍線]| 〔仮名《カリナ》ノ略、真名《マナ》ニ対シテイフ〕日本ノ字、即チ、いろは四十七ノ総称、元ト漢字ノ音ヲ仮リテ日本語ヲ写ス字トセシモノナリ。カンナ。日本字母[#「日本字母」に二重傍線] 楷書ノ片旁《カタヘ》(或ハ全体)ヲ取リテ作リタル体ナルヲ片《カタ》—トイフ、即チ伊、呂、八ヨリ取レル、イ、ロ、ハ、ノ如シ。又、草書ヲ、更ニクヅシタル体ナルヲ平《ヒラ》—トイフ、即チ、以、呂、波ヨリ取レルい、ろ、は、ノ如シ。 [#ここで字下げ終わり]  仮名の運動からはじまる国語国字問題への関心と論議は、十数年を経て明治三十三年、とうとう政府の事業として国語調査会を設立するところまで進んでゆく。文部省が、大槻文彦、上田万年、三宅雪嶺らの委員に、「国語の将来に就ての大方針」の審議を委嘱したのである。いまの国語審議会の遠い前身であった。 「かなのくわい」では御歌係の高崎正風と識《し》る幸運もあった。富田鉄之助とともに『言海』出版記念会の発起人になってくれる高崎とは、国語国字問題をふくめて、国の将来に本気で心を砕く人間同士の交感があった。 『言海』の浄書は、ゆっくりだが、確実に進んだ。明治十七年秋、浄書にかかって二年で草稿ができた。  まだまだ手を加えなくてはならぬ。だが、この仕事にかかって十年、いま、目の前にずっしりと草稿を置いて、「遂げずばやまじ」がやっとここまで来たと思った。  十月、北豊島郡金杉村に一戸を得た。十二月、内藤|いよ《ヽヽ》を娶《めと》った。幕府書院番頭内藤|甲斐守《かいのかみ》の五女として文久元年に生れた|いよ《ヽヽ》は、いま二十四。|いよ《ヽヽ》の生れた年に林|大学頭《だいがくのかみ》の門に入り、翌年には仙台に移住した文彦は、もう三十八になっていた。  文彦は妻をいとしんだ。酒をつがせながら、自分の仕事を誇ってみせた。『言海』がどれほどこの国を益するか、これをつくるのにどのくらい苦心したか。父磐渓のことも語って聞かせた。また、洋書調所のこと。仙台の養賢堂のこと。横浜での英学修業のこと。鳥羽伏見から奥羽戦争のこと。父の入獄のこと。宮城師範学校をつくったときのこと。日本辞書編纂拝命のこと。祖父玄沢五十年忌のこと。父の死のこと。渡英失敗のこと。富田鉄之助、箕作麟祥ら友のこと。  女は男の仕事とは関わらないものだとは、文彦は思わなかった。妻には何もかも話したかった。自分のことを知ってほしかった。余人には言えぬことも聞いてほしかった。子供のように、思いきって自慢もしたかった。  |いよ《ヽヽ》は夫の話が好きだった。私にだけは、こんなにたわいなく、自分が日本で一番偉いみたいなことを言って。十四も年下の私の前で、お父上の話をしながら涙を泛《うか》べたりして。世の中の夫とは違うみたい。不思議な人だけど、でも、私は嬉しい。  |いよ《ヽヽ》は文彦に連れられて、「かなのくわい」にも出た。「をんな組」に入会して、高崎正風夫人とも親しくなった。夫に教えられて、家事の暇にすこしずつ本を読んだ。  文彦は『言海』再訂の仕事をつづけた。辞書編纂を命じた編輯局長西村茂樹が宮内省に転出して、伊沢修二が後任の局長となったが、文彦はひたすら辞書に打ち込んでいた。妻のいる生活で、面白いほど仕事がはかどった。  一年あまりして長女が生れた。その二ヶ月あと、明治十九年三月二十三日、『言海』の稿が成った。  冬鳥が北へ帰ってゆく。 「今日は初燕《はつつばめ》を見ました。お仕事のでき上ったのを祝ってくれるようで、とても嬉しゅうございました」  暖かい宵である。戸を開け放つと、庭の沈丁花《じんちようげ》の強い香が、文彦と|いよ《ヽヽ》のまわりに満ちた。      7  日本辞書『言海』は、簡単には本にならなかった。  稿本は文部省内で記録課長|物集《もずめ》高見《たかみ》のもとに保管されたままに、文彦は五月、非職を申しつけられた。非職は二年前に設けられた制度で、目下なすべき仕事のない官吏に給料を出して待機させるものである。辞書編纂の業務が終ったからではあるが、その辞書の出版の話もなく、なんの仕事もなくなった。  辞書の出来が悪いという判断なのか、出版資金の出所がないのか、まったくわからない。西村茂樹が局長でいてくれたならば、その事情をきくこともできようが、西村はすでに文部省を去っている。  気抜けした日がつづいた。時間は、これまでの生涯ではじめて、たっぷりとあった。だが、その時間をつかってとりたてて何かをする気にはなれない。  この十年、辞書のことを考えるのが癖になっていた。いまは手もとを離れた辞書を、頭が自然に追ってしまう。出版はどうなるのか。疑問形で残した語原の数々を、いつかは確定しなくてはなあ。  前人の説を採るときに、元禄以後の書のときは特別のもののほかは、「ト云フ」とすることで自説でないことを示しておいたが、あれでよかったか。いずれは『言海』を補訂して、オクスフォード大辞典やリトレのフランス語辞典にならぶ大辞書をつくりたい。しかし、その時でも、どこまで典拠を示すかは難しい問題だろう。はじめに某氏の説と認めても、諸書を調べてゆくとそれより前の書に同じ説を見つけることがある。また、さらに前の書にあることもある。これこそ創説と確定するてだてはない。ほぼ同時代の書のいくつかに、おそらく暗合だろうが、同説の出ていることもずいぶん多い。そのどれに創説の栄誉を担わせるべきなのか。これも決めかねる。  そんなことを考えては、厠《かわや》に長居しすぎたこともあった。妻が心配し、わけを知って、笑う。その笑い声で、文彦の頭のしこりが解ける。それでも、日に幾度も、文部省にある自分の原稿が頭にうかぶ。気をまぎらせるように言語学の原書などを翻訳する。訳筆をとめて、日ごとに可愛くなる長女をあやす。風の日、庭の木の葉の影が壁に踊ると、眼をまるくして見つめている。仙台の「さんさ時雨」をうたってやると、どうしてだか、よく笑う。妻がいて子がいることが、幸いであった。昔、箕作麟祥から、妻と子のいる仕合せをさんざん聞かされたものだが、それがいま実感できた。  非職になって半年後、第一高等中学校教諭に任じられて、ふたたび勤めに出ることになったが、『言海』のことは音沙汰なしである。  古事類苑《こじるいえん》編纂委員や小学校作文授業用書の編纂旨意書審査委員などを兼ねて、明治十九年、二十年が過ぎ、二十一年秋にはまたも非職を命じられた。『てがみのかきかた』を、かなのやのあるじの名で出したが、仮名の運動も一時よりは下火であった。十九年の暮れに文部大臣森有礼の家に招かれた時、「君の苦心の辞書を出版しなくてはね」という大臣の話だったが、それからすでに二年、編輯局からは何も言ってこない。文彦は気が屈していた。父上のヒポコンデルがわかるようだった。  二度目の非職になって家で子と遊んでいた十月の或る日、文部省から呼出しがあった。行ってみると、編輯局長伊沢修二から、自費で刊行するならば『言海』の稿本を下賜するとの話である。  もはや陽の目を見ないかと、諦《あきら》めかけていた『言海』である。思いさだめて起した、そしてやり遂げた業である。自費出版でもなんでもいい。本に出来るのだ。ありがたかった。  翌日から金の工面である。私財をかきあつめた。富田鉄之助や同郷の友らが応援してくれた。資金の心配はなくなって、公式に文部省の命を受けた。  編輯局の命は、まず、かならず全部の刊行をはたすべきこと、印刷は同局の工場に託すべきこと、そして、本書は文部省奉職中に編纂したものであることを篇首《へんしゆ》に明記すべきこと、しかじかの部数の献本をすべきこと。以上であった。  本木昌造の指導で出発した政府の印刷事業は、明治七年に印刷局長(当時は左院活版部)になった得能良介《とくのうりようすけ》の手で、急速に整備されていた。得能は六年前の明治十五年に歿《ぼつ》しているが、彼の時代に、銅版、石版、凸版、凹版の各種印刷技術、写真製版の技術等を外国人技師の協力でものにしていた。紙幣用紙の製造や印刷インクの改良にも成功していた。  江戸末期にも洋書調所(開成所)の『英和対訳辞書』の鉛活字印刷があり、司馬江漢と大槻玄沢による銅版印刷の試作、下岡蓮杖による石版印刷の試みなどがあるが、得能による印刷局の印刷は、もはやそれらとは比べものにならぬほど進んでいた。本木昌造らの東京築地活版製造所や佐久間貞一らの秀英舎など、民間の印刷業も盛んになっていたが、この時代の印刷技術の先端は印刷局が担っていた。  辞書の印刷は、多くの記号を必要とし、文字もいくつもの書体で大小各種をつかう。技術のすぐれたところでなければ、良い仕上りどころか、印刷の進行もあぶない。編輯局の印刷工場も、印刷局の技術を引いていて、その点は安心だった。  ただ、下賜された稿本をあらためて見てみると、また手を加えたいところが目につく。印刷の前にもう一回校訂したい。さいわい文部省で『言海』浄書をしてくれた中田、大久保のふたりが暇だというので、金杉村の文彦の家に住み込んでもらうことにした。文彦が原稿に朱を入れ、ふたりが浄書する。浄書の終ったものを印刷にまわす。  外出の余裕もなくなった。夜も昼も校訂の作業に明け暮れる。この生活が結局、『言海』刊行終了までの二年半のあいだつづくことになる。  販売のことは、東京の小林新兵衛、牧野善兵衛、大阪の三木佐助の三人の、いずれも旧知の書籍業者に相談した。兄修二が維新前の京都で書店を経営したことがあって、書籍業者に顔なじみが多かったのが幸いであった。三人のすすめで予約出版とし、この人たちにその業務を託することとした。四分冊として、明治二十二年三月から隔月で出して九月に刊行を終る予定であった。  だが、下賜された稿本のままの印刷ならともかく、昼夜兼行とはいえ全面改訂にちかい文彦の校訂作業は、そんな予定ではとても無理だった。稿本が文部省に保管されていた三十一ヶ月の間、文彦の辞書への熱は行きどころを失っていた。それがいま爆発している。浄書のふたりが悲鳴をあげるくらいであった。加えて印刷のほうの障害も、思いがけずつぎつぎと起った。  刊行予定は遅れるばかりで、発行所には予約者から督促状が山積した。「大虚槻(おほうそつき)先生の食言海」などと書いているのもあって、それらを読むたび文彦は、少ない睡眠時間をまた減らした。難読の地名人名やことわざなど、添えたい付録がいくつかあったのだが、その時間はなかった。辞書の本体と「語法指南」を、いまは可能なかぎり充実させて、あとは他日の再版を待つしかない。 『言海』の印刷をはじめてまもなく、編輯局の印刷工場が印刷局の管轄に移ることになって、その事務引継ぎのために数十日の休止があった。二十三年三月にはこの工場そのものが廃止されて、文彦はあらためて一私人として印刷局に願い出なくてはならない破目になった。手続きのうえでいろいろ行き違いが起って、一時は『言海』の印刷ができなくなるかと危ぶまれた。兄の修二や秀英舎の佐久間貞一(戊辰役で官軍に抗して戦い、のち将軍家に従って静岡へ行った硬骨漢)らの奔走で、なんとか手続きができたが、そのあいだに六十余日が無駄になった。  印刷再開後も、政府刊行物が輻湊《ふくそう》してくると、『言海』はあとまわしになる。だが、印刷局以外の印刷所では、この仕事は無理だろう。『言海』見出し用の特製仮名活字は、仮名一字ごとに寸法が異なるし、各種の符号などが七十余通りもある。植字の困難この上もない。母型にない難字は新しく木型から作らなければならない。この印刷は、時間はかかっても印刷局でやってもらうしかなかった。  半年目の明治二十二年六月には、原稿浄書と校正を手伝ってくれた中田邦行が、脳充血で急死した。文彦は、頑健な自分の疲労から推して、中田に無理を強いていたのではないかと、暗い思いであった。その後は、中田のいないだけ、文彦の仕事が多くなる。  もうひとりの大久保初男は遠縁の者ではあるが、中田の死を見たばかりである、あまり無理をさせられない。深夜、文彦ひとりの作業がつづく。妻がいれてくれる茶が助けであった。 『言海』の印刷がはじまった頃にふたり目の子をみごもり、二十二年の十一月には次女を産んだ妻だが、身重の時も、産後も、やすむように言っても文彦の夜の仕事につきあっていた。手を休めて二言三言妻と話すのが、文彦の楽しみであった。|いよ《ヽヽ》には、それがわかっていた。  二十三年春には流行性感冒で、家族の全員、印刷局の植字工など、『言海』関係者がつぎつぎに寝込んで、しばらく頓挫《とんざ》。  その年の秋、生れて一年にならぬ次女|ゑみ《ヽヽ》が風邪をこじらせて結核性脳膜炎を起し、ひと月後に世を去ってしまったのである。ちょうどこの間に、大久保初男が徳島の中学校に赴任、校正を父磐渓の門人であった者に託さざるを得なくなる。  次女の入院中は、妻が女中を連れて付添っていた。文彦は朝夕に病院に行っては、日に日にやつれる我が子に心が傷む。家に帰って筆を執っても、辞書中毒のような自分が辞書に集中できない。十一月十六日のまだ宵のま、原稿の「ゆ」の部を訂正しているときに、女中が病院から走り帰った。声立てて泣きながら、次女の危篤を告げる。 [#ここから1字下げ]  筆をなげうち、蹶起《けつき》してはしりゆけば、煩悶《はんもん》しつゝやがて事切れぬ。泣く/\屍をいだきて家にかへり、床に安して、さて、しめやかに青き燈の下に、勉《つと》めてふたゝび机に就けば、稿本は開きて故《もと》の如し。見れば、源氏の物語、若菜の巻、「さりとも、琴ばかりは弾き取り給ひつらむ、云云、昼はいと人しげく、なほ、ひとたびもゆしあんずるいとまも、心あわたゞしければ、夜々なむしづかに、」云云。「ゆ」は「揺ること」なり、「あんずる」は「按ずる」にて、「左手にて絃を揺り押す」なり。又、紅葉の賀の巻、「箏《そう》の琴は、云云、いとうつくしう弾き給ふ、ちひさき御程に、さしやりてゆし給ふ御手つき、いとうつくしければ、」おのれが思ひなしにや、読むにえたへで机おしやりぬ。この夜一夜、おのれが胸は、ゆしあんぜられて夢を結ばず。「死にし子、顔、よかりき」「をんな子のためには、親、をさなくなりぬべし、」など、紀氏の書きのこされたりつるを、さみし思へることもありしが、今は、我身の上なり、宜《むべ》なり、など思ひなりぬ。 [#ここで字下げ終わり]  次女の看病に疲れ、その死にひしがれた妻|いよ《ヽヽ》が倒れたのは、同じ月の末であった。夫の仕事の完成を見ないまま、十二月二十一日、|いよ《ヽヽ》は不帰の人となった。文彦の仕事は、「ろ」の部に来ていた。「露命」などという語に出会って、文彦は筆を取り落す。 [#ここから1字下げ、折り返して2字下げ] ろ-めい[#「ろ-めい」は太字](名)|露命[#「露命」に傍線]| ツユノイノチ。ハカナキ命。 [#ここで字下げ終わり]  翌二十四年一月七日、原稿訂正が終った。第四冊(「つ」以下)が四月二十二日に出版されて、編輯拝命から十七年、『言海』の刊行が終了した。  文彦のなかに「日本」が熟してからでは、さらに長い年月であった。西洋文法にならぶ日本文法がなければならないと思い立ってからでも二十年を越えている。大槻文彦はいまは初老、四十五歳。原稿訂正と印刷に難渋し、子を失い、妻に先立たれて、白髪が目に立つようになった。  資金の制約から、果せなかったことも多い。語原にも仮名遣にも、語の選択にも語釈にも、まだまだ疑問を残している。しかし、死に絶えた言葉の辞書ならばともかく、生きている言葉の辞書に完成はない。  一国の普通語の辞書として首尾ととのったものがこの国にはなかった。いま、それがある。一国の独立の基礎であり、独立の標識である国語の統一は、辞書と文法によって成る。そのふたつを一体のものにして、いま、おれがつくった。  後世いかなる学士の出《い》でゝ、辞書を編せむにも、言海の体例は、必ずその考拠のかたはしに供へずはあらじ、また、辞書の史を記さむ人あらむに、必ずその年紀のかたはしに記しつけずはあらじ。自負のとがめなきにしもあらざるべけれど、この事、おのれ、いさゝか、行くすゑをかけて信じ思ふところなり。  ここ数年のうちに、辞書がいくつか刊行されていた。明治十八年九月に近藤|真琴《まこと》が『ことばのその』を、二十一年七月に物集高見が『ことばのはやし』を、二十一年と二十二年に高橋五郎が『いろは辞典』を、それぞれ文彦よりはるかあとに編輯をはじめ、先に世に出している。  明治近代国家の形成期だからこそ、国語辞書の歴史に特記されるほど辞書が続出したのだが、遅れをとる文彦には辛いことだった。『言海』の稿本が文部省に握りつぶされたかと思う時に、また、ようやく下賜された稿本をもとにしての訂正と印刷の遅延に苦しんでいる時に、それらの辞書が軽々と出て来た。  近藤真琴は以前文彦から文典の原稿を借り写していて、八品詞などの名称は変えているが、骨格は文彦のものをつかって辞書を編んでいる。物集高見は『言海』稿本の保管者である。そして何より、三書はともに、教授や公務や翻訳などの本業の片手間につくられたものであった。辞書のことひとつに日夜を過す文彦だけが、ひとり取り残されていた。  それぞれの辞書に工夫はあった。『ことばのその』と『ことばのはやし』は、平がな分ち書きを主にしている。『いろは辞典』は挿絵《さしえ》入り横組みで、二十一年版では対訳英語も載せている。しかし、国学者の手に成る前二書は、中絶した官撰辞書『語彙《ごい》』と同じく、本質は旧来の雅語辞書にすぎなかった。翻訳家のつくった辞書は、昔からの節用集と似て、言葉の言い換えをならべたものだ。実用に便利ではあっても、近代国語辞書と呼ぶには遠かった。  雅語俗語を問わず日本語の普通語を公平に選びぬき、項目の大小の均衡をとり、近代辞書の方法論を立てて、みずから創りあげた日本語法の骨格の上に綿密な計画で積みかさねた日本普通語辞書『言海』とは、それらは違っている。 『言海』の翌年には山田美妙が口語体普通語辞書『日本大辞書』を出して、各語にアクセントを付し、大槻文彦の辞書にアクセント表記のないことを難じたが、口述速記で一年ほどでつくった美妙の辞書は、頁配分の不均衡をはじめ、欠陥の多いものである。小説家美妙の個性で読ませたり、言葉の微細な味を区別したり、美点がないではないが、辞書というには勝手な饒舌《じようぜつ》であふれている。饒舌のなかで、各所で無遠慮に『言海』の語釈を難じてもいるが、『言海』のように近代国語辞書としての方法論と計画を持ってはいない。アクセントについては、文彦は、東京アクセントならば「一夜にも定む」ることができようが、明治二十年代の日本ではまだ標準アクセントを定めるのは不可能でもあり、無用のことでもあると考えていた。  文彦の自負は揺るがない。  この自負が、明治二十四年六月二十三日、芝公園紅葉館に、伊藤博文をはじめとする数十人の貴顕紳士をあつめたのである。 『言海』完成を祝う紅葉館の宴は、この辞書を世にひろめ、六円という高価本が陸続と売れて行った。年月をかけた中味は、それだけ年月にも耐えた。最初は四分冊で四六倍判の大型版、その後は合本で写真縮刷の小型版、四六判の中型版、袖珍《しゆうちん》用最小型版と判型を改めながら、版元はいろいろ変ったが、昭和二十四年の紙型焼失まで六十年ちかく、七百にちかい刷版を重ねる。  明治が終る前の年に、安政以来五十余年を経てようやく、不平等条約が改正された。維新このかたの国家づくりがそこまで来ていた。だが、明治日本の文華なくして、西洋諸国が手前勝手の条項を引っこめたであろうか。文彦の仕事が、その根である「国語」を整備し、養い、培った。  国会が開かれたばかりの明治のなかば、芝公園の紅葉館の宴で、文彦はそれを予感していた。玄沢を源流とする大槻家の「洋学」が、この国で誰よりも世界を知る自負の上に、そのことを確信させていた。文彦のなかの「日本」が、それを渇きもとめていた。『言海』は、そのために、玄沢から磐渓、文彦へとつづいた血が生んだ結晶であった。このなかに、新井白石も、杉田玄白も前野良沢も、洋書調所も開成所も、開国論も、戊辰戦争も、生きている。妻と子の血も流れている。  明治二十三年の暮れに次女が死に、妻が死んで、そのたび、高崎正風夫人が馳《か》けつけて会葬してくれた。その高崎夫人が明けて五月に病死。高崎宅に悔みに行った文彦は、正風には会えなかったので、出来たばかりの『言海』を一部玄関に置いて帰った。  数日して会った高崎正風が文彦に語った。大槻さん、あなたにお礼を申さねばならない。私は妻を喪《うしな》って気力もなにもなくなっておりました。友人たちの慰めもあり、宮中からの御弔慰まで頂戴したのですが、どうしても心が開けませぬ。ところが机の上にあなたの置いて行かれた『言海』を見て、気のすすまぬままに開いていて、ついに跋文《ばつぶん》に及び、読むとはなしに読みはじめて、とうとう末まで読ませられました。子供に死なれ妻を喪ってのなかで、なお著作に奮闘しておられる。これでなければならぬと、屈した心が豁然《かつぜん》と開けたのです。不思議なことでした。重しをかけたように沈んでいた心が、すっと晴れました。まことにあなたのおかげです。  年来の友人富田鉄之助が『言海』祝宴を計画し、高崎正風のところに相談に行った時、高崎は自ら進んで発起人を申し出た。富田と高崎のふたりの筆頭発起人が、『言海』を携えては貴顕の士を訪ね、祝宴に誘ったのである。信望の厚い、直情の宮廷人高崎正風の奔走は、宴の成功に大きな力であった。  紅葉館で、文彦は、ひとつの生を満たした。 [#改ページ]   終 章 『言海』はやがて宮中からも賞讃《しようさん》の御沙汰書を得、次版からはこれを巻頭に朱で刷った。  喪があけて翌年、二十九歳の小栗|ふく《ヽヽ》と結婚。大正二年|ふく《ヽヽ》が歿するまでの二十年余を過すが、|いよ《ヽヽ》との日々とは違って、世の平生の夫婦の暮しであった。|ふく《ヽヽ》に子がなかったせいもあるが、この妻を喪った時には文彦はもう六十代の半ばを過ぎ、悲しみも、|いよ《ヽヽ》を喪った時とはおのずから別の形をとった。|いよ《ヽヽ》の墓誌には、「二十三年十二月|罹疾《りしつ》し、二十一日|終《つい》に歿す、年僅か三十、断弦は続《つ》ぎ難し、嗚呼夫《ああそ》れ悲し」の文字を連ねたが、|ふく《ヽヽ》のそれには、「大正二年四月二十日病歿す、年五十」とだけ誌す。  辞書が成り再婚をしてからは、文彦の心は自分をつくった仙台とその旧領の地へ傾いて行った。仙台への久しぶりの旅行をした。本籍を父祖の土地、磐井に移し、岩手県士族に転籍。宮城県尋常中学校長、宮城書籍館長、宮城県小学図書審査委員などを兼ねて、四年ちかくを仙台に住んだ。  五十歳からはふたたび東京で生活し、のちに東京府士族にも戻るのだが、岩手宮城の教育に力を貸し、その地の災害に金銭を寄付し、旧仙台領出身者への育英事業をつづけ、また、著述では終生仙台への心の傾きを筆にする。「陸奥《むつ》多賀国府考」「大日本史|伊達行朝《だてゆきとも》伝の弁妄《べんもう》」「仙台出身の蘭学家」「陸奥国伊治城墟考」「伽羅先代萩《めいぼくせんだいはぎ》の話」などの論文も数多く、『伊達行朝勤王事歴』や『伊達政宗南蛮通信事略』など、仙台にかかわる数種の著書を公刊する。  勤王事歴は、正史とされる水戸の『大日本史』に、奥羽伊達家七代目の主が賊とされている誤りを正したものである。数年にわたっての材料収集と現地調査で、行朝の冤《えん》をそそいだ。通信事略は祖父玄沢の遺著「金城|秘※[#「韋+媼のつくり」、unicode97de ]《ひうん》」を完成したもので、二十余年にわたって藩内外の材料をあつめ、一書にした。切支丹のにおいのある事件で、材料は湮滅《いんめつ》されたものが多かったが、辞書編纂家の根気はそれを上廻った。  なかでも力をそそいだのが、『伊達騒動実録』である。歌舞伎、講談、貸本などで流布している伊達騒動の話に不愉快で、これも祖父と伯父のつくった実録をもとに、その志を継ごうと、材料集めに十年、編輯に六年、前後十六年をかけて世の妄伝を正した。明治四十二年、六十三歳の刊である。 「仙台」は生涯、文彦のナショナリズムの根であった。  もうひとつの根「洋学」についての著述も多い。さきに挙げた「仙台出身の蘭学家」のほか、「高野長英行状逸話」「和蘭字典文典の訳述起源」「洋学開祖諸哲の苦学」「吾邦蘭学勃興の原因」「昆陽先生事歴」「日本文明之先駆者」など数多い文があり、洋学の畏友『箕作麟祥君伝』の著作、祖父玄沢の遺著の補訂刊行など、洋学が日本に根づいてゆく経過を、日本洋学史嫡流の任務として追いつづけた。(兄の如電には文彦の死後、『新撰洋学年表』の著がある。)  文法の整備は『言海』後もつづけた。『広日本文典』の改訂、『中等教育日本文典』の刊行。日本文法が学者だけのものであっては、国語整備の業は成らない。『中等教育日本文典初歩』と題する普及書も出した。高等師範学校で文法を講じもした。  言文一致と仮名書きの主張をつづけた。論文を書き、講演で語った。  明治三十三年からは、文部省の国語調査委員となって、この国の国語の将来のために、信ずるところを述べてきた。  五十二歳の時、兄の次男茂雄を養子とした。五十五で根岸に住居を新築。御行《おぎよう》の松、別名|時雨《しぐれ》の松を借景に庭を造った。雨松軒と名づけた新居は松のすぐ西方にあって、朝日の昇る時、満月のかかる時、雪の朝、文彦は松のある景に見惚れた。音もなく軒端の松に降りかかる雨に、昔、仙台藩祖公が詠んだとされる「さんさ時雨か茅野《かやの》の雨か、音もせできて濡れかかる」の唄を思った。  箕作麟祥が世を去り、ひとり娘|さち《ヽヽ》が嫁いだ。明六社同人の福沢諭吉、西周、津田真道、神田孝平、そして西村茂樹ら、文彦ゆかりの人たちが鬼籍に入って行った。勝海舟が、榎本武揚が、谷干城が、陸羯南が、去った。伊藤博文はハルビン駅頭で朝鮮の青年に射殺された。紅葉館の宴に出た顔ぶれで、存命の人は、加藤弘之、物集高見、矢野竜渓、兄の如電ら、数すくなくなって行った。七十八歳の富田鉄之助は壮健だったが、一つ下の高崎正風が明治四十五年二月、心臓|麻痺《まひ》で歿した。五ヶ月後の七月三十日、明治天皇が崩御。  明治は終った。  冨山房主坂本|嘉治馬《かじま》から文彦に、『言海』の増補改訂の勧めがあったのは、その年の春、高崎正風の逝《い》った直後であった。十八で単身土佐を出て、立憲改進党創立者のひとり小野|梓《あずさ》の経営する書肆《しよし》東洋館に入店し、小野の死後その義兄で日本鉄道界の長老小野|義真《ぎしん》を説いて冨山房を開業した坂本嘉治馬は、明治の出版人であった。明治十九年創業以来、『経済原論』『大日本地名辞書』『日本家庭百科|事彙《じい》』『漢文大系』等、筋の通った一級の出版に息長く取組み、雑誌王国博文館とならんで、明治読書人の支持を得ていた。大著の出版は冨山房という評ができている。  坂本は『言海』の跋文に感動し、いつかその増補をたのみたいと考えてきた。根岸の文彦を訪ねたのは、いまがその時期と、神武天皇祭の嘉日を選んでの訪問であった。文彦は坂本に言った。自分からおたのみしたい仕事です。ですが、これには数人の編輯補助員と、いそいでも六年や七年の年月がかかります。それでもよろしいですか。坂本は即座に答えた。費用と年月はもとより覚悟しております。世を益する仕事に迷いはありません。お約束した以上は必ずやりとおします。  文彦の辞書暮しが、大正元年、六十六の年からふたたび始まった。当初はふたりを編輯補助員に、のちに『言海』のときの大久保初男を加えて、雨松軒を編輯室としての増補の業がつづいた。妻|ふく《ヽヽ》は『大言海』の仕事がはじまった翌年春に他界。五年目、七十の文彦が肺炎に罹《かか》り、一時は危篤となったが生きのびた。文彦の危篤の頃、長い友富田鉄之助が八十二の生を了《お》えていた。病後の文彦は、一関の山目《やまのめ》に暑を避け、伊豆の蓮台寺《れんだいじ》温泉に寒を避けて、一年あまりは業を絶つよりなかった。大正八年暮れまでは語詞の採択、翌春からようやく原稿の執筆。  大正十二年春にはふたりの補助員が辞め、文彦と大久保初男だけになった。この年秋の関東大震災で焼失を免れたのは幸運だった。だが、文彦の体力は、先の大病からは次第に衰えていた。寒暑を避けて転地する日が多くなる。(後年は鎌倉の坂本嘉治馬邸に毎年冬の寒を避けた。)だが、どこへ行くにも、文彦は仕事を抱えて行く。「私は唯だ此の事業を完成して此の世の置土産にしたいと考へて居るばかりなのだ。要するに私は狂人だ。今語原に中毒して居るのだ。」  蓮台寺温泉に寒を避ける文彦に、坂本が海苔《のり》や菓子を送った。文彦が礼状に書く。 [#ここから1字下げ]  増訂言海編輯も毎日朝七時より一寸の隙もおかず夜業までつゞけ居候、九時ともなれば七十五歳の身は疲労して倒れむと致し候。しかし解釈のよく出来たる時の面白さ、分らぬ語原の分りたる時のうれしさなどにて聊《いささ》か疲れを医《いや》し候。 [#ここで字下げ終わり]  坂本嘉治馬と約してすでに十年、まだ業の半ばにも到らない。自分の年齢を考え、冨山房のことを考え、心は痛む。いま十年早くかかっていたらと思う。だが、やるかぎりは杜撰《ずさん》な書をつくるのはいやだ。この先に何年の生があるかは知らぬが、勉強のかぎりを尽すだけだ。自然のなりゆきに任すほかはない。嘉治馬への追伸に書く。「此手紙を書き候暇も惜しく候」と。  そうした数年がつづいて、大正が去り、昭和になった。 「昔の士風は間違へば死ぬとあつたに、今は間違へば逃げるといふ風になつて居る。死ぬと逃げるが分け目である」と書いたのは、六十過ぎのことであった。文彦は、昔も今も、逃げることをしない生き方を選んでいた。維新の動乱に青年期をかけた前期明治人の生き残りであった。  昭和二年十二月三十一日、風呂場で倒れた。年が明けた正月三日夜、椅子から下に崩れ落ち、遂に立たず。二月半ば、肺炎を併発。  十七日未明、大槻文彦は瞑目《めいもく》した。年八十二。芝高輪東禅寺に、玄沢の墓と磐渓の墓にならび、|いよ《ヽヽ》の墓|ふく《ヽヽ》の墓に面して眠る。法名、言海院殿松音文彦居士。  文彦の愛した御行の松が、この年枯死した。 『大言海』の原稿は、さ行までが成稿となっていた。兄如電があとを受けた。関根正直、新村出の両博士の監修をもとめ、大久保初男が文彦の遺した草稿を整理、如電の子や姪《めい》らも浄書を手伝った。  四年目の昭和六年正月、如電が八十七で卒去。翌年五月、関根博士歿、最後は大久保の、ほとんどひとりの仕事がつづく。  初版『言海』と同型の、四六倍判『大言海』第一巻(「あ」—「き」)が出たのは、昭和七年十月である。第四巻(「ひ」—「を」)が十年九月。十二年十一月に索引の巻が刊行された。 『大言海』着手の日から四半世紀、紅葉館の祝宴から半世紀ちかい日が流れていた。 [#改ページ] [#小見出し]   あとがき  私の手もとにあるのは、明治三十七年二月二十五日発行の縮刷『言海』である。緑色布装、縦十五・五センチ、横十一センチ、厚さ四・五センチ。文庫本をこころもち大きくした判型の、部厚い小型本である。  戦後、本のなかったころ、古本屋は文化センターのようなものだった。北陸の田舎町でただ一軒の古本屋に、中学生の私たちは毎日通いつめていた。茶色の頭巾をかぶった古本屋のおやじから、そのころの一日、この『言海』を買った。それから三十年あまり、十数回の引越しでたいがいの本は売りはらってきたが、どういうわけか『言海』はのこった。  京都の学生下宿でも、編集者生活をはじめてからの東京のあちらこちらの住いでも、怠けごころの午後などは、寝ころんで『言海』を拾い読み、そのうちうとうとねむっていた。「ねこ」の項のおもしろさを見つけたのもそんなときだ。      *  編集という商売柄、図書館で調べものをすることが多いのだが、『言海』の大槻文彦を書くことになってあらためて図書館のありがたさを知った。  文彦がこの国にはじめての近代国語辞書を書きあげていった家、妻や子をうしないながら校正をつづけた家、『言海』祝宴が開かれた芝公園の紅葉館、それらが正確にどこにあったかを知らないとどうも落着きがわるい。だがさいわい何種類もの明治の地図を、東京都立中央図書館で面倒もなく複写させてもらった。この地図を机のわきにおいて、おりおりに眺めては安心した。  仙台の宮城県立図書館では、紹介状があるわけでもなく宮城県民でもない私のために、ひとりの館員の方がほとんど一日つきあってくださって、大槻家関係の文献をふんだんに見ることができた。私の知らなかった大槻文彦の文章も、「たしかあの雑誌にあった」といって探し出してもらった。  世田谷区立玉川台図書館は、遠隔の図書館にある文献や一般には貸出不可の他館の本などを、根気よく調べ、そして取り寄せてくださった。おねがいした本のことで何度も電話をもらったりして、一区民にすぎぬ私としては大いに恐縮したことである。  ほかにも世田谷区立奥沢図書館、港区立三田図書館、大阪大学図書館など多くの図書館のお世話になった。このごろは「開かれた図書館」が多くなり、お役人ふうに威張った図書館はすくなくなった。      *  引用文はかならずしも原文どおりではない。旧字の多くは新字にあらため、『言海』見出語などの変体仮名をいまの通用に変え、句読点もときに原文と違えた。大槻文彦の文をふくめて明治の文はしばしば読点で長くつづいている。その呼吸はおもしろいのだが、引用にあたっては読みやすさを考えてほんのすこし手を加えた。 [#地付き](昭和五十三年五月)   [#改ページ] [#小見出し]   幸福な平凡人——大槻文彦の助手大久保初男のこと [#この行8字下げ]——文庫版あとがきに代えて——  大槻文彦が『大言海』の編纂《へんさん》にとりかかったのは大正元年、六十六のときである。それから十六年、八十二で永眠する昭和三年まで、彼の生活のすべてがこの仕事に向けられていた。  郷里仙台の後輩に語っている。 「私は唯《た》だ此《こ》の事業を完成して此の世の置土産にしたいと考へて居るばかりなのだ。要するに私は狂人だ。今語原に中毒して居るのだ」と。  家族談笑の最中に、急に「ああ、そうか!」と叫んで、ふところから手帳を出して何か書きつけている老人。骨と皮かと思うほど痩《や》せて、しょっちゅう神経痛に苦しめられながら、「もう十年はやくはじめていたらよかった」というのが口癖の老人。  六十六という高齢で新しく大事業をはじめ、七十の年に肺炎で危篤になりながらも、さらに十年以上、この老人には日曜も祭日もなかった。それでもやはり、生きているうちの辞書完成は無理で、大槻文彦の死後は助手の大久保初男を軸にして稿がととのえられ、昭和七年から十年にかけて『大言海』四巻が出版されるのだが、それにしても何という老人だろうか。世俗にかかわり深くあらねばならない壮年期を過ぎたればこそ、という気がしないでもないが、老年の閑居を夢みている私など凡愚は、ただあきれるばかりである。  この晩年の大槻文彦を知っている人に、このところたてつづけに会った。私が書いた大槻文彦伝を読んで、その方々が連絡してくださったからである。  私は、昨夏(昭和五十三年)出した『言葉の海へ』という本で、大槻文彦の生涯、それも主に、幕末から明治前半への近代国家形成期の日本に生きて近代国語辞書『言海』と近代国語文法『広日本文典』とを創出した大槻文彦の前半生像を描いた。なぜ前半生であるかは私の本の主題であって一言二言では述べられないが、私は大槻文彦とその同時代人を描くにあたり、縁者の人たちから話をきくことは一切しなかった。文彦の前半生を直接に知る人がもういないためでもあるけれども、ひとつには人間の記憶というものをあまり信じないからであり、いまひとつには一個の人間が公にする心で書いたものだけを深く信ずるゆえである。  だがこの禁欲は、本を出してしまったいま、もうゆるめていい。文彦の妹の孫にあたる方とか、文彦の姪《めい》で一関の大槻本家に嫁した方とか、文彦の助手大久保初男の長女の方とか、いずれも娘時代に『大言海』編纂中の文彦老人の身のまわりを世話した方々、いまは七十数歳の方々だが、この人たちが私の本の出版を喜んでくださっているのを知り、旧知に会うような気持でそれぞれお目にかかった。それによって改めて自著に加える何ものもないというのは私の傲岸《ごうがん》であるが、その方々の話から大槻文彦の晩年の仕事ぶりの細部が知られ、また、私が文彦の前半生を描くことで実はその全人生をとらえようとしたことの傍証のようなものも得られ、私のなかで大槻文彦がもう一度立ちあがってきた。ことに、助手大久保初男の相貌が氏の長女|周子《ちかこ》さんの話でゆたかになり、文彦と初男の対照が私にいろいろな思いをさそっている。  大久保初男は大槻文彦の遠縁で、『言海』の印刷がはじまった明治二十一年から二年間、文彦の校正助手をつとめた人である。慶応二年生まれと思われる大久保は当時二十代前半の青年。もうひとりの助手中田とともに金杉村(いまの台東区根岸)の文彦の家に住み込んで、国語辞書刊行を国家に緊急根本の要とする文彦を手伝った。壮年文彦の精力と熱情は昼夜兼行の仕事を苦としなかったが、そのための過労からかどうか中田助手が翌年急死、その後一年半は大久保ひとりが手伝った。やがて大久保は徳島の中学に職を得て赴任、文彦は別の助手をたのんで『言海』の刊行をつづけるのだが、なぜ大久保が『言海』完成以前に文彦のもとを去ったのかはわからない。  推測を書くと、こうだ。文彦のあまりの仕事ぶりに少々閉口もしていた大久保が、たまたまいい就職口があったのを機に、文彦にわるいなと思いつつも、自分自身の人生をふみだそうとした。口ごもりながらの大久保の話をきいた文彦のほうも、その時期に助手をうしなうのは痛手ではあったが、大久保の将来はかねがね気にかかっている。こころよく就職を祝っただろう。武士の心を持ちつづけた大槻文彦という人間と、いい意味での平凡人である大久保初男という人間とを思いえがくと、そういう情景になる。  大久保はその後、徳島から山口へ転任し、たぶんそこで妻をめとった。彼の家はあの大久保彦左衛門の兄の家系と伝えられる幕臣の家であり、一方、妻は長州|吉川《きつかわ》家の家令の娘であったという。維新のかたき同士が一緒になったのだから仲のいいはずはないと、冗談まじりによく人が言ったものです、とは長女周子さんの回想である。躾《しつけ》のきびしすぎる妻の目をぬすんで、かげで子供らにやさしくする父、無口だが申しぶんなくいい父、というのが周子さんの父親像だ。そういう人だったからこそ、はた目には気狂《きちが》いとも見える大槻文彦を目だたないところでよく助け、最後にはとうとう、文彦のしのこした『大言海』の仕事をみごとに完成することができたのではないか。文彦も世間の目でみれば辞書づくりという地味な仕事の人であるが、初男はもっとずっと、本来の地味の人で、いうならば幸せな平凡人であったと思う。  山口から長野、そして沖縄と、いずれも中学教師として転任したあと、大正三年、大久保初男はふたたび文彦の助手をつとめる。こんどは『大言海』——文彦は七十にちかく、初男も五十にちかい。根岸|御行《おぎよう》の松を借景にした雨松軒と称する文彦の家で、すでに二年間、ふたりの若い助手を通わせての編輯《へんしゆう》がすすめられていたが、たぶん文彦には初男という平凡人に徹した人の根気がほしかったのだろう、文彦が大久保初男を東京に呼びもどし、大久保一家は雨松軒のすぐとなりに家をかまえ、文彦と家族同様の生活がはじまる。  大久保初男の毎日は、午前中は東京市内の中学教師、帰宅して昼食をとるとすぐに雨松軒へ出勤。夕食後も雨松軒で文彦を手伝い、夜九時に枝折戸を押して家に帰る。学校は休みがあっても雨松軒に休みはない。判でおしたような毎日がつづく。大槻家で出された茶菓子を、短冊型の語彙《ごい》カードにつつんで、子供たちに持ち帰る初男であった。  周子さんも大槻家の老婦人たちも一様に不思議がるのは、雨松軒の照明である。大槻文彦は電燈を使わず、ガス燈とランプとを使っていた。どうも火災をおそれてのことらしいが、電燈のほうが安全のように思えるのに、なぜガスや灯油の明りを使ったのか。日本の電燈は明治十九年にはじまり、大正年間の東京では、文彦の家の界隈をみてもガス燈やランプの家はみあたらなくなっていた。だが、電球の製造技術という点では、昭和初期にいたるまでは世界各国で改良がすすめられている。そういう改良途上の電球というものに大槻文彦は不安を持ったのではないだろうか。火事になって原稿が燃えたら、死ぬに死ねない。  となりの大久保家は電燈である。夜九時、大久保初男が家庭に帰ってゆく。——ぱあっと明るい電燈の下の家族|団欒《だんらん》の大久保家と、初男が帰ったあともランプを引きよせてひとり仕事をつづける文彦の雨松軒とが、舞台装置のように私の目にうかぶ。さて、私自身は、どちらの暮し方をのぞむか——。  大久保初男は『大言海』刊行後、世田谷の新邸で子と孫にかこまれた老楽の数年をおくり、昭和十三年十月三日にこの世を去った。 [#地付き](日本経済新聞/昭和五十四年二月二十六日より)   [#改ページ]   参考文献(主に左記のものを使わせていただきました)  1 大槻文彦の著作と大槻家関係の文献[#「1 大槻文彦の著作と大槻家関係の文献」はゴシック体] 『言海』縮刷、著者兼発行者大槻文彦、印刷者兼発行所吉川半七、発行所小林新兵衛、三木佐助、明治三十七年 (ほかに『言海』第一冊〜第四冊、明治二十二年〜二十四年初版と、『言海』改訂六百八版、照林堂書店、昭和十九年版を参照) 『大言海』第一巻〜第四巻、冨山房、昭和七年〜十年(「大言海索引」昭和十二年) 『広日本文典』東京築地活版製造所、明治三十六年 『復軒雑纂』広文堂書店、明治三十五年 『復軒旅日記』大槻茂雄校訂、冨山房百科文庫、冨山房、昭和十三年 『磐渓事略』大槻如電・文彦口述、大槻茂雄刊、明治四十一年 『磐翁年譜』大槻文彦著刊、明治十七年 「仙台藩挙兵の懐旧談」『日本及日本人』七一八号所収、大正六年十一月 「辞書編纂の苦心談」『国語教育』大正八年十一月号十二月号所収 『箕作麟祥君伝』丸善株式会社、明治四十年 『朝野新聞』明治九年二月五日号〜三月三日号の社説 大槻磐渓『磐渓先制』大槻茂雄刊、大正十四年 大槻磐渓「官事記録」巻一巻二(稿本)宮城県立図書館蔵 大槻茂雄編『磐水存響』乾・坤・補遺、大槻茂雄刊、大正元年  2 洋学史にかかわる文献[#「2 洋学史にかかわる文献」はゴシック体] 新井白石『西洋紀聞』村岡典嗣校訂、岩波文庫、岩波書店、一九三六年 杉田玄白『蘭学事始』緒方富雄校注、岩波文庫、岩波書店、一九五九年 内山孝一『和蘭事始——「蘭学事始」古写本の校訂と研究』自然選書、中央公論社、昭和四十九年大槻如電『新撰洋学年表』再版、柏林社書店、昭和三十八年(初版昭和二年) 今泉みね『名ごりの夢——蘭医桂川家に生れて』金子光晴解説、東洋文庫、平凡社、昭和三十八年  3 仙台と戊辰戦争をめぐる文献[#「3 仙台と戊辰戦争をめぐる文献」はゴシック体] 小関三郎編『仙台先哲偉人録』仙台市教育会、昭和十三年(特に、大槻玄沢、大槻磐渓、大槻文彦、大槻平泉、富田鉄之助、但木土佐、玉虫左太夫、林子平の略伝と年譜) 藤原相之助『仙台戊辰史』荒井活版製造所、明治四十四年 橋本虎之助『仙台戊辰物語』無一文館書林、昭和十年 仙台市史編纂委員会『仙台市史』全十巻、万葉堂書店、昭和二十五年〜三十一年のうち1、4、10 巻  4 大槻文彦にかかわる人物についての文献[#「4 大槻文彦にかかわる人物についての文献」はゴシック体] 日本弘道会編『西村茂樹全集』第三巻、思文閣、昭和五十一年 高木八太郎編『泊翁西村先生』日本弘道会有志青年部、大正二年 福沢諭吉『福翁自伝』岩波文庫、岩波書店、昭和二十九年 上沼八郎『伊沢修二』人物叢書、吉川弘文館、昭和四十七年(初版昭和三十七年) 前田愛『成島柳北』朝日評伝選、朝日新聞社、昭和五十一年 大久保利謙編『明治啓蒙思想集』明治文学全集3、筑摩書房、昭和四十二年  5 辞書史についての文献[#「5 辞書史についての文献」はゴシック体] 山田忠雄『三代の辞書——国語辞書百年小史』三省堂、一九六七年 永嶋大典『蘭和・英和辞書発達史』講談社、昭和四十五年 日本の英学一〇〇年編集部編『日本の英学一〇〇年 明治編』研究社、一九六八年 大野晋「日本語研究の歴史(2)明治以降」岩波講座日本語1『日本語と国語学』所収、岩波書店、一九七六年 見坊豪紀「日本語の辞書(2)」岩波講座日本語9『語彙と意味』所収、岩波書店、一九七七年  6 出版事情についての文献[#「6 出版事情についての文献」はゴシック体] 『出版人の遺文 冨山房坂本嘉治馬』栗田書店、昭和四十三年 杉村武『近代日本大出版事業史』出版ニュース社、昭和四十三年 鈴木敏夫『出版——好不況下興亡の一世紀』新訂増補版、出版ニュース社、昭和四十七年 田所太郎『出版の先駆者』カッパ・ブックス、光文社、昭和四十四年  7 その他[#「7 その他」はゴシック体] 中山泰昌編著『新聞集成明治編年史』再版、全十五巻、財政経済学会、昭和四十三年〜四十八年(初版昭和九年) 『日本』『読売新聞』の明治二十四年六月二十三日号〜二十五日号 アーネスト・サトウ『一外交官の見た明治維新』上下、坂田精一訳、岩波文庫、岩波書店、一九六〇年 斎藤月岑『増訂 武江年表』1、2、金子光晴校訂、東洋文庫、平凡社、昭和四十三年 大池唯雄『炎の時代——明治戊辰の人びと』河北新報社、昭和四十四年 中村真一郎『頼山陽とその時代』上中下、中公文庫、中央公論社、昭和五十一年〜五十二年 唐木順三「『言海』の大槻文彦」唐木順三全集第十二巻所収、筑摩書房、昭和四十三年(『自由』昭和四十一年一月号初出) この作品は昭和五十三年七月新潮社より刊行され、 昭和五十九年二月新潮文庫版が刊行された。