[#表紙(表紙.jpg)] 高田 宏 木に会う 目 次  縄文杉の下で  森は誰のものか  幼い二本の木  白山のブナの森  賢者の栖《すみか》  木は水に浮く  町の木  木の船の時代  木でつくる  幾何学のない家  木のない世界から   あとがき [#改ページ]    縄文杉《じようもんすぎ》の下で     1  その木の大きさを測ることはできる。根回り四十三メートル、胸高周囲十六メートル、樹高三十メートル。だが、そんな数字は何も語らないに等しい。  精緻《せいち》な計測をすれば、その木の実物大のレプリカをつくることはできるだろう。だが、それを都会の公園の中に置いたとしたら、また、ゴルフ場の芝生に置いたとしたら、あるいは、砂漠《さばく》のどまんなかに置いたとしたら、どうだろうか。どれも元の木の大きさを表わしはしないだろう。一本の木の大きさは一つとは決まらない。  その木をその場所で見るときも、大きさは一つではない。見る者によって、いろいろに変わる。その木の大きさは、向き合う者の心の内にある。  屋久島《やくしま》の深い森に生きる老杉《ろうさん》。  昭和四十一年に見つけられて、縄文杉と名づけられた。屋久島には樹齢千年を越える杉が数多くあり、千年以上の杉を屋久杉、千年に満たない杉を小杉と呼び分けているが、縄文杉はそれらの王者である。杉の王者にとどまらない。標高千五百メートル以上の峰が二十余、千メートル以上なら四十数座を数えるこの山岳島を覆《おお》っている森の王者である。奥山にあると言い伝えられてきた幻の巨木である。  推定樹齢七千二百年。三千年と言う人もあるが、こういう木の経てきた時間は今はもう謎《なぞ》である。仮りに伐《き》ってみたところで年輪が数えられるものではない。それに、正確な樹齢を知ったところで何になろう。たかだか百年ばかりの生命の人間には思いもよらない長大な時間を、この木は生きつづけているのだ。  この木の前に立つと、古代人の樹木崇拝がすこし分かる気がする。フレイザーの『金枝篇』には世界各地の樹木崇拝が種々|誌《しる》されているが、それがどれほど真剣なものであったかを古代ゲルマン法を引いて説いているところがある。フレイザーによると、古代ゲルマン法では、故意に立木の樹皮を剥《は》いだ者に対する刑罰があったという。それは、犯人のへそを抉《えぐ》り出して、彼が剥ぎ取った樹皮のあとへ釘《くぎ》づけし、腸《はらわた》が木の幹に巻きついてしまうまで、その木のまわりを追いまわすというものであった。その苛酷《かこく》な刑罰を当然とみなすだけの樹木崇拝が人びとのあいだにあったということである。  先だっての春、縄文杉の根もとで一晩を明かして、私のなかに、あの老大樹への畏怖《いふ》と崇敬とがひろがっていった。近代人の私がほんのすこし古代人に近づいた。だが私はやはり古代人ではありえない。私は木の語る言葉を聴きたかった。数千年のいのちが語りかけているにちがいない言葉を聴きとりたいとねがっていた。古代人には聴こえていたはずである。いまでも、幼い子供のなかには木の言葉を聴く者がいるだろうと思う。しかし近代人であり大人である私には、ついに、かなえられないことであった。聴いたとは、言えない。言うとしたら、私は木の言葉を聴いたのだろうか、聴かなかったのだろうか、という疑問形がせいぜいである。縄文杉に会えた喜びのなかに、その淋《さび》しさがまじっている。     2  縄文杉にいつか会いたいと思ったのは、もう何年も前のことだ。生まれ代わるなら木か猫《ねこ》がいいと思いはじめたころである。  三年前(一九八四年)の年の暮れ、屋久島へ行くことがあった。そのころ或《あ》る雑誌に島紀行の連載をしていて、その一回に屋久島をえらんだのだった。もちろんのこと、縄文杉に会うのが何よりの望みだった。キャラバンシューズを履きリュックを背負って、寝台列車と船を乗り継いで屋久島に着いた。だが、縄文杉には会えなかった。  縄文杉に会いたいと言う私に、島の山々に詳しい人が言った。 「冬山登山の経験がありますか」  数日前から山は激しい雪になっているということだった。縄文杉のあたりでは一、二メートルは積もっているだろう、行って行けなくはないが完全な冬山装備と充分な食糧で出かけて、すくなくとも山小屋で一泊、天候次第ではもっと日数が要るし、なにより屋久島の山に詳しい者が同行しなかったら危険である、という。  未練はあったが、あきらめた。冬山登山の経験はない。夏山にしても登山というより山歩きというほうがいいくらいの経験しかない。体力の自信もない。屋久島の冬山は雪が重く本州の冬山より手強《てごわ》い上に、地形がひどく複雑で、登山道が雪に埋もれてしまったら地図や磁石は頼りにできない、経験だけがものを言う、と聞かされては、あきらめるしかなかった。そのかわり雪がなくなれば楽です。誰でも縄文杉まで登れますよ。屋久島高校山岳部の顧問を長いあいだやっていたその人の話で、私はもう一度屋久島に来なくてはならないと思った。  翌日、K君の案内で標高千メートルばかりの森をあるいた。K君は学生時代からの登山家で、ヒマラヤ遠征にも出かけている。屋久島の山なら自分の庭のように知っている山男だ。私に体力があればK君と二人で雪の縄文杉へ登ることもできたのだが、危険を避けて標高の低い森をあるくことにした。屋久杉鑑賞保護林とされている森である。その森に行く途中、はじめはツワブキの黄色い花が道端に咲いていたが、折り重なる山々のあいだを縫ってゆくにつれ、冬が姿をあらわし、やがて道がまだら雪になった。鹿児島から船で四時間の南の島とは思えない景色であった。  気候のよい時には観光客がぞろぞろ歩く森である。だが冬でもあり年末のことでもあって、その日の数時間、森にいたのはK君と私の二人きりだった。K君と私は、黙って森をあるきつづけた。  そのときの森の時間を私はつぎのように書いた。いま改めて別様には書けないので再録をおゆるしねがいたい。 [#ここから1字下げ]  リュックを背に森へ入った。  暗い森だった。荒々しい森だった。どれが何の木か見分けもつかない。苔《こけ》が幹を覆い、木が木に生え、太いヤマグルマが巨木を這《は》いのぼっていた。森のなかの吊橋《つりばし》を渡るときには岩のあいだを走る水の音があったが、森はその音をも吸いとってしまう。暗い森の底に雪が光った。  木の生命力があふれていた。公園や寺社の境内で見る木とはまるで別のものだった。一本一本の木が、見る私を初めはおびえさせるほどの原始の貌《かお》を持っていた。だがそれ以上に、森そのものが一つの生命のようであった。それは一本一本の木を越えている何かだった。私は森という生きものの内部をあるいていた。あらゆる物音を吸いとってしまうような静かさのなかに、激しいいのちが脈打っていた。何千年の昔もこうであっただろう。或る木は三千年を、或る木は千年を生き、倒れ伏した木の上に新しい木の生命が伸びてゆく。そういう世代交替の姿が目の前にあった。森はそれらすべてをつつんで生きていた。何千年か何万年か、私にはつかみとれない時が、私のまわりを埋めつくしていた。  巨大ないのちが私を押しつつむ。ここでは人間のいのち、動物のいのちが、脆《もろ》く、たよりなげに思える。そのぶん可愛《かわい》く、いとおしくも思える。この森の荒々しく巨大な原始のいのちにとりまかれて、私に何が言えるだろう。荒々しさは狂暴凶悪ということではない。あるがままという意味での自然、また、それゆえの優しさと言いかえてもいい。森の中で私は、森の巨《おお》きないのちが私のからだを貫き染めているのを感じていた。どう言ったらいいのだろうか、深い安堵《あんど》といってもすこしちがう。私の小さないのちが何か測り知れないものにつながれてゆくようであった。自分が無限に小さなものと感じられ、同時に無限に大きなものに溶けてゆく気がした。  会うことのできなかった縄文杉も、こういう森のなかの一本の木であろう。そのことがおのずと分った。東京にいてテレビで見たり本で読んだ縄文杉は私のなかで森と切り離されていた。縄文杉一本が亭々とそびえ立っているように思いこんでいた。それはちがう。それでは全きいのちとはいえない。(『海上の王国』) [#ここで字下げ終わり]  こう書いたとき、つぎの春が来たらきっとまた屋久島へ渡って、縄文杉の森へ登ろうと思っていた。そして、春が来た。私はいろいろ都合があって屋久島へは出かけられなかった。しかし、私を突きうごかす力が大きければ、都合などはどうにでもなるはずだ。もしそれが家族の死に目に会うためであったら、すべての都合を放《ほう》り出して駆けつけるだろう。私が縄文杉に会うためにそこまでしなかったのは、私の願望が所詮《しよせん》それだけのものに過ぎなかったのだろうか。それとも、縄文杉とその森は動かないで待っていると思って安心していたのだろうか。後のほうだと思いたいのだが、それはやはり自分への弁解というものだろう。都合があるからといって先へのばしているうちに、いつ病気で寝込んで動けなくなるとも知れないではないか。死んでしまうかも知れないではないか。そうなれば、縄文杉には会わずじまいである。それでいいのか。  縄文杉に会いたいというのは、もともと、世の中のろくでもない「都合」などとは無縁の大きないのちに触れたいためであった。それなのに、都合を優先して縄文杉を後まわしにしていた。それは私の生きかたが中途半端であることの証明である。私は自分のなかにその証明を突きつけられて、苦い気持ちだった。  三度目の春、ようやく縄文杉|詣《もう》でをはたしたのだが、それも考えてみれば、都合がついたからである。やみくもに都合をつけたとは言いがたい。その私に木の言葉が聴きとれると思うほうがまちがいなのかも知れない。聖木が衰えはじめたと知ると何をおいても水を持って駆けつけた古代人の心は、私には理解したいと願うだけで、自分のものには出来ないようである。私は自分がやっぱり近代人でしかないことを、苦い気分で噛《か》みしめることになる。  だが、ともあれ、私はあの老杉に会った。     3  屋久島は雨の島だ。その多雨が森を育ててきたのだが、この春も木の芽流しの長雨が降りつづいていた。そのちょっとした晴れ間に島に着いたのは運がよかったのだろうけれど、いくぶん拍子抜けの感じでもあった。役場の傍《そば》の桜が日の光を浴びて満開だった。東京の桜はとっくに終わっている。これだけ遠い南の島の桜が今頃《いまごろ》咲いているのが異様だった。冷たい長雨に花が遅れていたのだ。  前に来たときに知り合った三省さん(山尾三省)と三郎さん(長井三郎)が縄文杉へ同行してくれることになっていた。それは前に来たときからの約束でもあったが、私が縄文杉の根もとで寝袋にくるまって一晩を過ごしたいと言い出したことに、二人とも大乗気だった。  三省さんは家族と共に東京から屋久島の白川山《しらこやま》という廃村に移り住んでちょうど十年。三省さんが「聖老人」と呼んでいる縄文杉に呼ばれてこの島にやってきた。   聖老人   あなたが黙して語らぬ故《ゆえ》に   わたくしは あなたの森に住む 罪知らぬひとりの百姓となって   鈴振り あなたを讃《たた》える歌をうたう  三省さんの長詩「聖老人」の末尾である。その通り三省さんは、聖老人の立ちつづける山の裾《すそ》で、百姓・詩人・信仰者として生き、深い平和をしっかりと生きられる場を育てようとしている。六〇年安保の学生活動家からコミューン運動を経て、インドとネパールの家族連れ巡礼のあと屋久島に住むまでの日々やその後の白川山の日々が三省さんの本のなかに、静かに語られていた。私はまず本を通して三省さんを知り、前のときには三省さんの白川山の家に泊めてもらって話しこんだのだった。  三郎さんは三省さんより、ひとまわりほど若い。屋久島の宮之浦《みやのうら》に生まれ育って、東京の大学を出ると島に帰って、屋久島の森を守ることに生きている。三郎さんの狭い部屋に、島の若者たちが寄り合う。前のとき私も彼らと一緒に坐《すわ》って夜遅くまで焼酎《しようちゆう》を飲みながら話に加わったものだった。三郎さんの奥さんも同座して、陽気で明るい、しかし話題は重い話がつづいた。  その三省さんも三郎さんも、まだ縄文杉の根もとで夜を明かしたことはないという。三省さんはこれまで数回、三郎さんは数十回、縄文杉の山に登っているのだが、いつもは日帰りか、山泊りにしても高塚《たかつか》小屋という無人無灯の山小屋泊りなので、今度の私の提案に一も二もなく賛成してくれたのだ。  森の夜はおそろしい。獣が出てくるおそれもすこしはあるが、それよりも、得体の知れない恐怖があるものだ。私はそれをいくぶん知っている。私は八ヶ岳のふもとの森の中に仕事場にしている家を持っていて、たびたびそこへ出かけるのだが、真夜中起きていると不意に恐怖が突き上げてくることがある。現実の危険は何もない。だが、森の闇《やみ》が急に重く押してきて家ごと飲みこみそうになる。風の強い夜は森がざわめき、唸《うな》り、軋《きし》み、ひょっとして森が動き出しているのではないかと、窓を細目にあけて外をこわごわ覗《のぞ》く。山の夜にはどんな怪異が起こるか知れたものではない。山里の怪異伝承がとつぜん身近かなものになって、背筋にふるえが走る。  屋久島にも、あちこちの山里と同じように、山の神様がおいでになる。山で泊るときは山の神様に、今晩一晩この木の下をお借りしますと、よくお願いしてからでないと、夜中異様な物音でねむれなかったり、急に大きな枯枝が落ちてきたりする。前にK君と森をあるいたとき仏陀杉《ぶつだすぎ》と名づけられている杉の木の下で弁当を食べながらK君が話してくれたのだが、数年前、山の神様の日に山へ入った人があったという。旧暦の正月、五月、九月の十六日は山の神様の日で、その日は山に入ることはできない。その山入りの禁を破って山に入ったのは、四十代の、山にくわしい男だったそうだが、山の中で突然頭がボーッとかすみ、一晩中山をさまよって、つぎの日の夕方になって発見されたという。山で白いひげの老人に会ったなどと言って、しばらく正気にもどらなかったそうである。  夜の山、夜の森は、怪異の世界である。おそろしい。けれども、それこそが森であるだろう。そしてまた、人間の私たちは、昼の世界でなく夜の世界でこそ、森の声を聴きとり森のいのちを感じとることが可能になるのではないだろうか。  私はそう思っていた。だから、昼間の縄文杉を一時間か二時間|眺《なが》めてくるだけでは縄文杉という老大樹に会ったことにはならないだろうと思って、できることなら、その根もとで夜を明かしたいと思ったのだった。独りではこわくて、とても出来ないことだが、三省さんと三郎さんが実は前から機会があったらそうやって夜を過ごしてみたかったのだと言ってくれて、私のねがった縄文杉詣でが実現した。三郎さんが万全の用意をしてくれて、おまけに彼のザックには焼酎一升も入れて、宮之浦から白谷雲水峡《しらたにうんすいきよう》までは車で、そこからゆっくり森を見ながら歩いて辻峠《つじとうげ》を越え、昔の森林鉄道の軌道を経て、ウイルソン株、大王杉、翁杉《おきなすぎ》、夫婦杉《めおとすぎ》を過ぎると、やがて高塚山頂下の縄文杉が近くなった。登山道を横切って太い木の根が無数に露出していた。そのあたりに数多い、千年を越える木の根であろう。階段状になった根を踏んで登りながら、私は足をゆるめていた。縄文杉がもうそこだと思うと、気持ちをゆっくりととのえたかったのでもあるし、また、足もとの根の生きてきた時間を一足ごとに感じとらなければならないとも思っていた。     4  日暮れが近くなっていた。  それまで一日よく晴れた日がつづいていたのだが、そのとき縄文杉は霧の中に立っていた。数千年のいのちを見せていただくのにふさわしかった。私はさらに足をゆるめた。  途中見てきた大王杉などにも息をのんだものだったが、縄文杉には、それらの巨木を越える何かがあった。やはり、神性と言うほかない何かである。  幹を回っていると、霧が上がっていった。見上げると、縄文杉はそれだけで一つの森だった。どれだけの種類の着生木がこの老杉を足場にして生きているのか私には分からないが、広葉樹と針葉樹がまじりあって、縄文杉は一つの混生林のようであった。  チュッチュルルーチュッチュルルー  チュルルチュルル ルルルルルー  縄文杉の葉の茂みで、ミソサザイが鳴き出した。縄文杉の枝々を鳥たちが飛びまわっている。縄文杉は鳥たちの森でもあった。  夜は一面の星空だった。鳥たちは縄文杉の茂みでねむったのだろう。ピョーッと笛を吹くようなトラツグミの鳴声と、近くの瀬の水音しか聞こえなくなった。空は星明りで明るいが、縄文杉の下には濃い闇があった。闇の中にヒメシャラの木だけが白々と見えていた。  赤い下弦の月が上ってきた。  四月の山の夜は、ひどく冷えた。持っていたものを全部着こんだ。セーターを重ね着した上にナイロンヤッケを着て、その上にジャンパーを着、オーバーズボンをはいて、靴下《くつした》も重ねばきしてシュラフにもぐりこんだのだが、それでも冷える。冬のあいだ雪に埋もれていた大地からの冷えなのだろうか、話をしていて声がふるえる。三郎さんが背負ってきた焼酎を飲んでからだを暖めるのだが、それでも足りない。コップを持つ手までが寒さで小刻みにふるえた。  真冬はどんなだろうか。私は雪の中の縄文杉を見たいと思った。吹雪の中に立ちつづける老杉に会ってみたい。そのとき縄文杉はどんな姿を見せるのだろうか。雪のときここに来るのは私には無理だと、すでに分かっていたことだけれども。  三省さんのすすめで三郎さんが、屋久島数え歌をうたった。三郎さんの作詞作曲である。「ひとつとせ 人になあ(チョイサヨー) 人に告げよか胸の内 ひと言いえば がじゅまるよ ひと言いえば がじゅまるよ」にはじまって、屋久島の山々や村々を唄《うた》いこみ、「とおとせ 永遠《とわ》になあ(チョイサヨー) 永遠に流れる清き水 鹿《しか》・猿《さる》・人の生命《いのち》乗せ 鹿・猿・人のいのちのせ シカ・サル・ヒトのいのちのせ」に終わる。チョイサヨーという合の手は、いまは誰も唄えなくなった屋久島古謡の合の手だとのこと。三省さんと私が、チョイサヨーと合の手を入れた。三郎さんのしみじみとした歌声が闇の中に流れた。  ひとつには寒さで、ひとつには縄文杉の根もとにいる興奮で、眠ろうとしても眠れなかった。寝入って夢をみれば夢の中で縄文杉が語りかけてくれたかも知れないという気もするのだが、結局朝まで眠らないでいた。  ときどき話をした。私は『カラマーゾフの兄弟』のことを話した。この旅に出かけてくる前に、三十五年ぶりに読み返したところだった。私は昔読んだときにはドストエーフスキイにとって「子供たち」がこれほど大きな存在であることに気づいていなかったことを話した。ドストエーフスキイは、人間は子供から大人へと堕落してゆくものであり、「人類社会がより完全なものに更生する」(『作家の日記』)ためには、子供たちの存在が不可欠だと考えていた。それは『カラマーゾフの兄弟』でゾシマ長老やアリョーシャによって語られる思想であり、また、「大審問官」の章で壮大な無神論を展《ひろ》げるイ※[#「ワ」に濁点、unicode30f7]ンの思想の背骨をなしている。「大審問官」に先立つ章で、イ※[#「ワ」に濁点、unicode30f7]ンは弟アリョーシャに、「子供たち」について語りつづける。『作家の日記』にも書かれている幼児|虐待《ぎやくたい》の話がイ※[#「ワ」に濁点、unicode30f7]ンの口で語られる。「認識の世界全体を挙げても、この子供が『神ちゃま』に流した涙だけの価《あたい》もないのだ。僕は大人の苦痛のことは云《い》わない。大人は禁制の木の実を食ったんだから、どうとも勝手にするがいい。みんな悪魔の餌食《えじき》になったって構やしない、僕が云うのはただ子供だ、子供だけだ!」(米川正夫《よねかわまさお》訳)。イ※[#「ワ」に濁点、unicode30f7]ンの悲痛な叫びである。子供が涙を流す世界では、イ※[#「ワ」に濁点、unicode30f7]ンは神を断固として拒絶する。子供の苦悶《くもん》を許しておく神も、その社会も一切ごめんだと言うのだ。  現実は、子供という未開・野蛮な存在を教育して大人に仕立ててゆくのが、文明というものである。文明社会はそうやって、つねに一種の幼児虐待をつづけるものである。おねしょをすれば罰を与え、そのようにして四六時中、子供のなかの未開・野蛮を追い出そうとする。それは同時に、子供のなかにある原始の心を押しつぶすことでもある。動物や植物と交感する心、木と語り合うことのできる心を、きれいさっぱり消してしまうのだ。一度は原始の心を持つ子供であった私たちは、そうやって大人になってきた。それは上昇なのか、下降なのか。  川崎|寿彦《としひこ》著『森のイングランド』が、キリスト教という文明が森という未開・野蛮を拓《ひら》いてゆく過程を鋭くとらえている。森に覆《おお》われていたヨーロッパを文明化するには、原住民の樹木崇拝が邪魔物であった。宣教師たちは時に妥協しながらも、樹木崇拝をなんらかの形で押さえこむことによって、森に文明の光を入れていったのだ。もちろんそこには政治家や軍隊やそのほかいろいろの力が加わるのだが、それらはいずれも文明の力である。そしてやがて、ヨーロッパからほとんどの森が消えてゆく。森に対する文明の勝利の光景である。しかし、森のほうに心を寄せる者が絶滅するわけではない。『森のイングランド』には、文明世界にあって森のほうへ身を寄せる作家・詩人たちが挙げられている。ゲーテ、ハイネ、クーパー、ワーズワース、チェーホフ、テニソン、フォークナー、エマソン、ソロー、ホーソーン、ハーディ、フォースター、ヘミングウェイ、ロレンス。  屋久島では江戸初期に、泊如竹《とまりじよちく》という儒者が、森に対する文明の尖兵《せんぺい》の役を果している。それまで屋久島の住民は、屋久杉を伐《き》ったら祟《たた》りがあると信じていた。フレイザーの『金枝篇』に、インディアンが大木を伐り倒すことをおそれて、大きな丸太が欲しいときにも自然に倒れている木しか使わなかったことが誌されているが、それと似た感情であろう。屋久島出身で中央で名をなした如竹が、寛永年間に一時帰島していた折りに、霊験を得たと言って、屋久杉の伐採を住民にすすめたという。それは近世藩政下の屋久杉伐採を可能にする発言であり、遠くは近代の大乱伐へとつながるものであった。ここでも文明が森を拓いてゆくのだが、しかしやはり森への畏怖《いふ》が消えたわけではないことは、さきのK君の話からもうかがえる。迷信として排された古くからの感情は、そう簡単に消えるものではない。  三省さんは縄文杉に着いたとき、根もとの洞《うろ》に入って、長い祈りをあげていた。三郎さんと私も、三省さんの祈りのあとで、三省さんから米と塩をもらって洞の中に供え、それぞれに祈った。三省さんがどういう祈りをあげたのか、聞くべきことではないので聞かなかったが、たぶん、縄文杉の島に住まわしてもらっていることへの深い感謝の祈りであっただろう。私はただ、私にできるかぎり無心に、できることなら子供の心にもどって木の声を聞きたいと、瞑目《めいもく》合掌をつづけた。だが私は子供の心にはもどることができなかった。幼いときにはたしかに裏の空地の桐の木や神社のうしろの椎《しい》の木の声を聞いたことがあったと思うのに、あのころの心は堅い蓋《ふた》の下に閉じこめられてしまっている。  屋久島の或《あ》るおばあさんの話を三郎さんから聞いたことがある。或る日、おばあさんが通りかかった人にたずねた。 「時計の時間は何時でしょうか」  おばあさんは日頃、時計というもので示される文明の時間を生きてはいない。おばあさんにはおばあさんの時間がある。たまたまその日は、時計《ヽヽ》の時間での約束があったため、ほかならぬその文明の時間をたずねたのだった。このおばあさんなら、原始の心をなくしていないかも知れない。  これも『森のイングランド』のなかに、フォークナーの『熊《くま》』について書かれているところがある。物語はアメリカ南部の広大な原生林が文明によって急速に消えはじめていた時代のことである。ミシシッピ州の或る森に一匹の巨大な熊が住んでいる。「物語の主人公アイク少年は一〇歳の時から大熊の後を追い始める。撃つためではなく、一目その姿を見るために。そのことによって彼は森の精《スピリツト》に触れたいと願っていたのであろう。そしてついに、銃も磁石も時計も捨てて森に歩み入った日、はじめてその熊の巨大で神秘的な姿を見るのである。自然とのほとんど宗教的な交感《コミユニオン》は、このようにして謙虚な少年に許された。」  フォークナーも時計を、銃や磁石とともに文明のシンボルとしているのだ。  三郎さんは時計を持っている。ただし、使い方が変わっている。太陽暦ではなく太陰暦に合わせている。三省さんが、今日は何日だったかなと訊《き》いたとき、三郎さんが腕時計の日付を見て、二十一日と答えた。私は、あれ、十八日なのにと思ったが、二十一日というのは旧暦のことだった。現代文明からのこういう形での脱出もあるわけだ。私は日頃《ひごろ》も、旅先にも、時計は持ちあるかないが、それでもやはり時計の時間、文明の時間に縛られている。駅の時計を見上げ、喫茶店の時計を目でさがす。時計を持たないというのは、私の原始願望の儀式にすぎないところがある。  だが、縄文杉の下の一夜は、ほんとうに時計のいらない時が流れていた。星が光りだし、赤い月が上ってやがて黄色から銀色に輝き出し、空のへりに明るみが見えはじめるとまもなく朝焼けに変り、鳥たちが一斉《いつせい》に鳴きはじめる。それが、時間というものだった。  朝の光の中に虫たちが舞った。クモが縄文杉の枝から枝へ糸を張り、その糸がきらめいた。小さな風が来て、縄文杉を吹きぬけてゆく。朝露にぬれた無数の葉が光り、私の頭上に滴《しずく》が降ってくる。子鹿が近くで草を食べはじめる。森の朝がはじまっていた。  その朝が来る前、空にかすかな明るみがさしていた頃、私は不思議なものを見ていた。縄文杉の(着生木のかも知れない)枝先の葉の中に、女と男の顔が見えた。女は手をさしのべ、男は女のほうをふりかえっていた。木の葉の隙間《すきま》がつくる偶然の形が、私の目にそう見えてしまったのだろうが、何度見ても女は手をさしのべ、男はふりかえっていた。子供のころ、雲の形や天井のしみが何かの物や人に見えて、それが全くリアルであり、そこにおのずと物語ができていたものだ。  私は何度も目を閉じてみて、今度こそ葉の隙間のつくる女と男の顔が消えているだろうと思って目を開けてみたのだが、それはいつまでもはっきりとあった。消えたのは朝焼けのなかで鳥たちが一斉に鳴きはじめたときだった。すっと消えてしまって、今度はいくら目をこらしても女の顔も男の顔もなかった。ほかの枝葉と同じように、葉が茂っているだけだった。  私は、夜明け前のあの時間だけ、子供にかえっていたのだろうか。そして、夜が明けて朝がやってきたときに、大人にもどったのだろうか。分からないが、ただ不思議だった。  三郎さんのいれてくれるおいしいお茶、そして具がたっぷりの豚汁など、山の朝にしては贅沢《ぜいたく》すぎる朝食を食べてから帰途についたのだが、帰り道で見た、かつての伐採跡のみすぼらしい人工林については、書く気になれない。  はじめに書いたように、私には、老杉の言葉を聴きとれなくなっている自分への苦い淋《さび》しさが残っているのだが、しかし、縄文杉に会えた喜びはそれを上廻《うわまわ》って大きい。その夜は、三郎さんの奥さんと友だちのS子さんが昼のうち海に潜って突いてきたという飛びきりのイカを肴《さかな》に、焼酎《しようちゆう》をあおった。山登りで疲れていたし、前夜はねむっていなかったが、酔いながら目が冴《さ》えていた。  東京に帰って、島崎藤村の『飯倉だより』を読んでいたら、こんな言葉に出会った。木が語っている言葉である。 [#ここから1字下げ]  人間は一生に二度ほど私達の方へ来る。一度は少年の時。今一度は年を取ってから。 [#ここで字下げ終わり]  もし藤村の言うのがほんとうなら、私はもう一度、木の言葉を聴くことができる。今もすでに、かなり年を取っているけれども、もっと年を取ったならという望みを持つことができるわけだ。しかし、その時を待っているだけでいいのだろうか。徒労かも知れないが、その前に、なんとかして子供のころの心を自分の中にとりもどさなければいけないように思う。無駄《むだ》であっても、そのための試みだけはやってゆきたいと思っている。 [#改ページ]    森は誰のものか     1 『夜明け前』の主人公、青山半蔵が明治六年五月の木曾路《きそじ》を歩きながらつぶやく。 「御一新がこんなことでいいのか」  明治維新に深く失望した言葉である。  中山道《なかせんどう》のうち木曾路は十一宿、その西端にあるのが馬籠宿《まごめじゆく》である。青山家は代々馬籠の本陣、庄屋《しようや》、問屋を兼ねてきた旧家で、現当主半蔵は新しい政府機構の下で戸長職を勤めていた。戸長というのは多くは旧庄屋が引き受けたもので、いわば村長である。半蔵は新しい時代に夢を描いていた。木曾・伊那《いな》地方に多い平田国学の門人のひとりである半蔵は、国学の先師|本居宣長《もとおりのりなが》につよく惹《ひ》かれていた。あの大人《うし》の言うように、外国から借りてきた道徳や宗教の一切をかなぐり捨てて古代の心をとりもどさなければならない。仁義礼譲孝|悌《てい》忠信といった小ざかしいもので人間を小さく縛ってきたのがまちがいである。上《かみ》つ代《よ》の直《す》ぐなる心の復活によって、人間は解放され、明るい世界がひらけてゆくはずである。そして、御一新という変革は、そういう新しい時代、上《かみ》つ代《よ》の心をとりもどした近《ちか》つ代《よ》の到来を期待させるものであった。しかし、革命というものはつねに現実が理想を裏切ってゆく過程でしかない。御一新のはじめ三年ばかりはそれでも半蔵に夢を描かせてくれたのだが、明治新政府という国家が急速に力をつけてくると、その権力が目に見えるかたちで民の前に立ちはだかってくる。  半蔵が直面したのは、新政府による木曾山林の囲い込みという現実であった。木曾の山のほとんどが、旧藩時代にまして、住民を立ち入らせない土地にされてしまった。それでは山国の民は生きてゆくことができない。木曾三十三ヶ村の村方総代仲間を代表して半蔵が、その苛酷《かこく》な山林規則を改めていただきたいという嘆願書を起草し、総代四人で松本の筑摩《ちくま》県庁へ出向こうとする矢先、筑摩県福島支庁から半蔵に召喚状がとどいた。嘆願書提出の動きを察知した支庁役人が、先手を打って、主唱者とみなされる半蔵を呼びつけ、「今日限り、戸長免職と心得よ」と申し渡したのである。 「御一新がこんなことでいいのか」  戸長を免職されての帰り道での独り言であった。 [#ここから1字下げ]  五月の森の光景は行く先に展《ひら》けた。檜欅《ひのきけやき》にまじる雑木の爽《さわ》やかな緑がまた甦《よみがえ》って、その間には木曾路らしいむらさきいろの山つつじが咲き乱れていた。全山の面積およそ三十八万町歩あまりのうち、その十分の九に亘《わた》るほどの大部分が官有地に編入され、民有地としての耕地、宅地、山林、それに原野を併せて僅《わず》かにその十分の一に過ぎなくなった。新しい木曾谷の統治者が旧|尾州《びしゆう》領の山地を没取するのに不思議はないというような理窟《りくつ》からこれは来ているのか、郡県政治の当局者が人民を信じないことにかけては封建時代からまだ一歩も踏み出していない証拠であるのか、いずれとも言えないことであった。ともあれ、いかに支庁の役人が督促しようとも、このまま山林規則の御請《おうけ》をして、泣寝入にすべきこととは彼には思われなかった。父に出来なければ子に伝えても、旧領主時代から紛争の絶えないようなこの長い山林事件を何等かの良い解決に導かないのは嘘《うそ》だとも思われた。須原《すはら》から三留野《みどの》、三留野から妻籠《つまご》へと近づくにつれて、山にも頼ることの出来ないこの地方の前途のことがいろいろに考えられて来た。家をさして帰って行く頃《ころ》の彼は最早戸長ででもなかった。(『夜明け前』第二部第八章) [#ここで字下げ終わり]  青山半蔵のモデルは言うまでもなく、島崎藤村の父、島崎|正樹《まさき》である。藤村は『夜明け前』に父の生涯《しようがい》を描くことで日本の近代を問い、それはついに人間の解放に至るものではなかった、すなわち夜明けは来なかったと証《あか》したのだが、それが鋭くあらわれているのがこの山林事件であった。夜明け前は、やがてかならず来る夜明けの前の闇《やみ》ではなかった。夜明けは今も来ていない。闇はいよいよ深い。  島崎正樹は、御一新の世になるとほとんどすぐに、木曾山林の解放運動をはじめている。新しい世が来たのだから、古代そうであったように、山林は自由林でなければならない。旧藩時代のいろいろな禁止を解いて、人民が自由に使えるものにしなくてはならない、というのが彼の信念であった。だが、それは裏切られた。旧藩時代どころか、それをはるかに上廻《うわまわ》る苛酷な禁令が新政府によって定められた。立入りを禁止された山林へ入った者がつぎつぎと捕えられ、処罰される。島崎正樹は戸長を免職させられた。嘆願に行って鞭《むち》で打たれて死亡した者すらある。『上松教育百年史』によると、岩郷村戸長村井忠右衛門は鉄鞭で打たれて死亡したという。  江戸時代、尾張《おわり》藩が木曾を支配していたときには、巣山《すやま》と留山《とめやま》という住民立入り禁止の山林があった。巣山は、鷹狩《たかが》りに使う鷹の繁殖に必要な天然林であり、留山は良木の多い山林を藩の占有地としたものであった。しかしその面積は当初はそれほど広いものではなかった。大幅に拡張されたのが十八世紀前半の享保《きようほう》年間のことである。山林|惣奉行《そうぶぎよう》の市川甚左衛門という男がよほどの能吏であったのだろう、彼の治山治水政策はたぶん山林からの藩収入の増大だけでなく今でいう自然保護をも含んでいるのだろうが、留山と巣山の数を一挙に大幅に増やし、そればかりか、その周りの地域を鞘山《さややま》に指定して、ここでの伐採も全面禁止してしまった。木曾の村民たちは恨みの歌をうたった。   情けないぞえ市川さまは   巣山留山さやかけた  山にたよって生活をしている木曾の人びとが、山から大きく締め出されたのだった。しかし、それでも、その後も増えていったそれらの禁山は幕末時で木曾山林の総面積の二割ほどだった。あとの八割は明山《あきやま》で、住民の立入りは自由、御停止木《おとめぎ》とされている檜、椹《さわら》、高野槙《こうやまき》、明日檜《あすひ》、|※[#「木+鑞のつくり」]《ねずこ》の五木伐採は堅く禁じられていたが、そのほかの雑木や下草、落葉などの利用は許されていた。「檜一本首一つ」と言われたほど、藩の独占物である木曾五木の盗伐にたいしては厳罰でのぞんだが、山のものすべてを禁じてしまっては山国の民が生きていけなくなることぐらいは、尾張藩役人も知っていた。明山は木曾の村びとたちによって入会地《いりあいち》としていろいろに共同利用されていた。  ところが明治新政府は、藤村も書いているように、木曾山林三十八万町歩の十分の九までを官有地として、人びとの立入りを禁じてしまった。従来の明山でも木曾五木の生えているところはすべて官有地だとしたのである。山国の暮しを無視した無茶苦茶な山林囲い込み政策である。 [#ここから1字下げ] ……暗いと言わるる過去ですら、明山《あきやま》は五木の伐採を禁じられていたにとどまる。その厳禁を犯さないかぎり、村民は意のままに山中を跋渉《ばつしよう》して、雑木を伐採したり薪炭《しんたん》の材料を集めたりすることが出来た。今になって見ると、御停止木の解禁はおろか、尾州藩時代に許されたほどの自由もない。家を出ればすぐ官有林のあるような村もある。寒い地方に必要な薪炭や瘠《や》せた土を培《つちか》うための芝草を得たいにも、近傍附近は皆官有地であるような場所もある。木曾谷の人民は最初からの歎願を中止したわけでは、もとよりない。いかに本山盛徳の鼻息が荒くとも、こんな過酷な山林規則の御請は出来かねるというのが人民一同の言分であった。耕地も少く、農業も難渋で、生活の資本《もとで》を森林に仰ぎ、檜木|笠《がさ》、めんぱ(割籠《わりご》)、お六櫛《ろくぐし》の類《たぐい》を造って渡世とするより外に今日暮しようのない山村なぞでは、殆《ほと》んど毎戸かわるがわる腰縄《こしなわ》付で引き立てられて行く怪我人《けがにん》を出すようなありさまになって来た。(『夜明け前』第二部第八章) [#ここで字下げ終わり]  青山半蔵(島崎正樹)は、木曾山林についての古い文書類をさがして、嘆願書起草の資料とする。「さがせばさがすほど、彼の手に入る材料は、この古い木曾山が自由林であったことを裏書しないものはなかった。」理想は古い時代の自由林にもどすことである。せめて、享保以前にもどすようにしたい。しかし現実は、それどころか、幕末の明山さえも上地《あげち》と称して官有にされてしまった。夜明けが近いと思ったのは錯覚だった。これまでにもなかった深い闇がとりまいてきた。     2  山林原野の官有地化は、木曾だけの特殊事情ではない。新政府は明治四年に廃藩置県をなしとげ中央集権の官僚制をつくりあげると、政府権力の基盤をつくるための地租改正に乗り出すのだが、そのさいの最重要課題が山林原野の官民有区分であった。  日本列島は山岳列島である。そのため国土の三分の二が森林地帯である。人口が多いので一人あたりの森林面積は少なくなるが、総面積に対する森林面積の比率では、世界でも数少ない森林国である。この広大な森を手に入れてしまおうというのが新政府の意志だった。  各地で住民の抵抗があったが、手続きの上では簡単だった。巣山や留山のように旧藩が占有していた山林は問題なく官有にできたし、尾張藩で言えば明山にあたる山林もその大半は所有権があいまいなままの土地であった。村民たちが入会地として共同利用していた山林が多いのだが、それは土地そのものの所有権ではないのだから、取り上げるのに支障はない。文句を言う者どもは脅しつければよい。あるいは、お前たちの土地にしてやってもよいがそうなると税金がかかって大変なことになるぞと諭《さと》してやればよい。昔から誰のものでもなかった山が、官民有区分によって大半官有地と決められていった。  山はもともと誰のものでもなかった。森はもともと誰のものでもなかった。  遠藤治一郎著『日本林野入会権論』(昭和三十二年刊)を見ても、人びとが共同利用してきた山林原野は漠然《ばくぜん》と「古来より」とか「往古より」といったふうに昔からの慣行として使われてきたのであって、所有権や使用権が明文化されていたものではなかった。ことに長いあいだ山林を利用する人びとの間に争いがなく平和にやってきたところほど、何の文書も残っていない。そういうところでは明治政府の官民有区分のさい、この山は昔から村持ちの山だからと言っても、それなら証拠を出せと言われたときに何の証拠もないわけで、恐れ入るほか仕方がない。  入会権の問題は時代により地域により複雑多岐にわたるもので、その詳細は専門書にゆずらなければならないが、つづめて言うなら、村の山といってもそれは村という特定の法人が所有するものではなく、村民みんなのものということであり、つまりは誰のものでもないということだった。延暦《えんりやく》三年十二月の詔《みことのり》にあるように、「山川|藪沢《そうたく》の利は公私これを共にす」というのが、山林原野についての慣行の底にあるものだった。  そして、それは当然のことであった。日本の農業は森林に大きく依存する農業だから、森林をとりあげてしまっては農業そのものが成り立たなくなってしまう。ヨーロッパの農業は広々とつづく平地の森林をどこまでも伐《き》り拓《ひら》いてゆく拡大型の農業だったが、日本の農業はそうはいかなかった。わずかばかりの平地林を拓いたら、すぐに山にぶつかる。それも、なだらかな丘陵は少なく、たいていは急峻《きゆうしゆん》な山々である。いきおい、狭い耕地に手をかけて収穫を増やすことを考えるしかない。そのとき村の背後の山が大きな力になったのだ。山はいろいろなものを来る年来る年生みだしてくれた。田畑に入れる肥料、牛や馬に食べさせるまぐさ、日々の煮炊《にた》きや暖房につかう薪《まき》や木炭など、山の森林なしでは村の生活は成り立たなかっただろう。山の落葉や下草を肥料として田畑に入れた。囲炉裏で燃やす薪の灰もすぐれた肥料になった。森が絶えることなく生みだしてくれる肥料なしでは、田畑は何年もしないで作物の育たない痩地《やせち》になってしまう。家を建てるにも山の木をいただいてくればよい。橋を架けたり堤防を築いたりするにも、その材木や粗朶《そだ》を、山から伐ってくればよい。山の木で鍬《くわ》や鎌《かま》の柄《え》もつくれば家の中で使ういろいろの道具もつくる。商品になる木工品もつくることができる。山はまた木の実や山菜や茸《きのこ》もめぐんでくれる。食べるものだけではない、薬になる草や木をめぐんでくれる。穀物と野菜は里の田畑でつくるが、その田畑の産みだす力を支えてくれるのは山であった。山の森の、なみはずれた生産力は、田畑を生かし、人びとの暮しを生かしてきた。山あい深く入った村々で、耕地がほんのわずかなところでも人びとが暮してゆけたのは、森の力があってこそのことだった。高城修三《たきしゆうぞう》の『榧《かや》の木祭り』は榧油の原料となる榧の実というお宝様を切札として生きる山村を描いているが、そういう特別な交易産物がなくても、米なり雑穀なり主食にあたる作物が自給できるだけの少しばかりの田畑が里にあれば、あとは山の森が人びとを生かしてくれた。だから森は、つまり山は、みんなのものでなければならなかった。誰か特定の者のものになってしまっては人びとの暮しは根を切られてしまう。平地の農村が里山を奪われても生きてはゆけない。山村がまわりの山を奪われても生きてはゆけない。  入会地というのは、そういう意味で、みんなのものだった。みんなの大切な山であった。「みんな」というのは、一つの村のこともあれば幾つかの村々のこともあったが、その大切な山をいつまでもありがたく使わせてもらうためには、いろいろな約束ごとがあった。政府といったような権力が決めたものではない。大切な山を大切に使ってゆくために、みんなが考え出して守った約束ごとである。日本列島は地球上でも稀《ま》れなくらいに森林にとっての環境がよいところであり——暖かさがほどよくて降水量が多い——、森林の再生力が大変大きいのではあるが、それでもみんなが勝手|気儘《きまま》に使いまくったら丸裸になり荒れてしまうだろう。その山が息を吹き返すまでは長い年月を待たなくてはならない。昔の人びとは、例えば「山の口開け」の日を決めて、その日までは山に入らないようにしていた。山に持っていく道具を制限したり、採ってくる物の数量を制限したり、山に入る道筋を決めたり、そのほかいろいろの約束ごとを自分たちで決めていた。山を荒らさないための、また、争いをおこさないための、長い間の知恵だった。  明治新政府はその山々の大半をとりあげたのだった。例えば山梨県の山林問題を調べた北条浩氏の『明治期における山林問題の研究』によると、明治十四年に山梨県の山林原野官民有区分が決着したとき、江戸時代の入会地三十五万余町歩のうち民有地とされたのは三千余町歩にすぎず、入会地のほとんどすべてが官有地に編入されていた。あとになって払下げたり、旧入会慣行を官有地にも一部認めたりはしたものの、それによって「みんなの山」がもどってきたわけではなかった。「所謂《いわゆる》『入会権』なる私権は、官民有区分なる行政処分によって排斥された」(『日本林野入会権論』)のだ。そのさい、たとえ旧藩に対して村びとたちが長い年月、その山についての税を納めてきた事実があっても、山が自然に生みだした草木を採っていただけで山に植林するとか特に手を加えていないかぎりは権利を認めないとして、容赦なく官有林にしてしまった。明治九年一月二十九日の地租改正事務局議定第三条は、「従前|秣永《まぐさえい》山永下草銭|冥加永《みようがえい》等ヲ納ムルモ曾《かつ》テ培養ノ労費ナク全ク自然生ノ草木ヲ伐採シ来タルノミノモノハ其地盤ヲ所有セシモノニ非《あら》ス故《ゆえ》ニ右等ハ官有地ト定ムヘシ」とうたっている。官僚の詭弁《きべん》というか、それ以上に明治政府の強引な意志であろう。しかもこの第三条にはつぎの但《ただ》し書きがある。「但|其《その》伐採ヲ止ムルトキハ忽《たちま》チ支吾ヲ生スヘキ分ヲ払下|或《あるい》ハ拝借地ニナスハ内務省ノ管掌ニ付|地方官ノ意見ニ任スヘシ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》」(傍点高田)  これが明治政府のやりかただ。右の第三条は明治九年のものだが、青山半蔵(島崎正樹)が嘆願書を起草した明治六年あるいはそれ以前の時代には、「地方官ノ意見」はさらに大きいものだった。地方官は自分の功績のために張りきるばかりである。藤村はさきに引いたなかでも「本山盛徳の鼻息」の荒さを誌しているが、ほかのところでもこの福島支庁主任が「木曾谷諸村の山地はもとより、五種の禁止木のあるところは官木のあるところだとの理由の下に、それらの土地をも併せすべて官有地と心得よとの旨《むね》を口達した」ことにおどろき、半蔵の国学の先輩である暮田正香《くれたまさか》にこう言わせている。「成り上り者の官吏の中には無闇《むやみ》と威張りたがるような乱暴なやつが出て来る。先刻《さつき》も君の話のように、なかなか地方の官吏にはその人も得られないのさ。国家の事業は窮屈な官業に混同されてしまって、この調子で行ったらますます官僚万能の世の中さ。まあ、青山君、君だって、こんな筈《はず》じゃなかったと思うでしょう。」  だが、政府はそんなことは百も承知だっただろう。地方官の意見に任すべしとするとき、そこに強固な政府の意志があるのを見るのは容易である。明治政府は権力の基盤を人心に置くことを捨てて、土地に置くことを選んだのだ。出先機関の官僚が張りきってくれるにちがいない。その恨みが官僚個人に向ってくれればそれもよし、たとえ政府に直接向けられても、土地さえ押さえてしまえば政府がゆらぐことはない。     3  現在の山林は、用材として役に立つ木ばかりが大事にされているけれども、昔の入会《いりあい》の山々では、先にも書いたように、高木だけでなく低木も枯枝も木の実も下生えの草も、落葉も茸も、そのほかいろいろの動植物も、森全体が人びとの暮しと結びついていた。むしろ、何十年先になってやっと役立つような用材林はいらなかった。秋田杉や北山杉といった特化した用材林は別だが、ほとんどどこでも山々は、立木としてではなく森として大切なものだった。旧藩時代多くの藩で、木曾五木のように、藩によって指定する樹種はいろいろだが伐採を禁止したり制限したり許可制にしたりしていた。人びとにとってそれはそれで不自由なことではあったけれども、なにより大事なことは山への出入りが自由にできることだった。山なしには生きることができない。  小山勝清に、『或《ある》村の近世史』(大正十四年)という本がある。小山勝清はのちに『彦一頓智《ひこいちとんち》ばなし』や『牛使いの少年』『それからの武蔵』などを書くのだが、『或村の近世史』はそれらのずっと前、彼が大正初期の社会主義運動のなかで足尾銅山や釜石《かまいし》鉱山の争議にかかわって敗れ、故郷に帰っていた三年のあいだに、生まれ育った山村の暮しをあらためて見つけ出した報告である。小山勝清はふるさとの村、熊本県|球磨《くま》郡四浦村|晴山《はるやま》の暮しの底に、山と人が結びついて生きてきた理想社会を見つけ、また、それが日本の近代化のなかで崩れてゆく過程をありありと見ていた。「村の事件帳」「村の怪異」「村の過去帳」の三章に描かれている山村の姿は、藤村の『夜明け前』同様、御一新のもたらした荒廃を示している。  ここでもまた山林が問題である。近代は所有観念を強制してきた。誰のものでもなくみんなのものであった山が、「いつとなく半分は官の物となり、半分は他所《よそ》の金持ちの物となっちまった」ので、「とうとう疳癪《かんしやく》を起す者がある。官山盗伐で懲役に行った者——首をくくった者——酒をのんで財産の寿命を自分で縮めて行くもの、みんなその疳癪なんだ」と村の老翁《ろうおう》は言う。「四十以上の者で前科者でないものは一人もありますまい。斯《こ》う云《い》うわし始めそうじゃ。」  明治政府の山林原野官民有区分が生んだ前科者である。昔からの自分たちの山のものを取ってくるのがなぜ悪いといって、意地にもなってみんな犯罪者になったのだった。  その明治が終わって、事態は変わらないどころか、もっとひどいことになっていった。 [#ここから1字下げ] 「大変なことが出来ました。」或夜老翁は顔色をかえて、私の家へとびこんで来た。 「どうしたんですお爺《じい》さん。」私はあっけにとられて叫んだ。 「お前さん。わし達の恩人を、ぶち殺しにかかった奴《やつ》が出来たんで。」老翁の恩人と云うのは、村の共有財産の事であった。そして、事実、この恩人を打ち殺しにかかった大事件は、既に数年前大正三年頃よりこの部落のみならず、広く農村全部に起りつつあったのであった。  云う迄《まで》もなく百姓の土地は、色々な事で狭《せば》められて行った。只爰《ただここ》に、当局の罪として遺憾に堪えぬ一事がある。それは数年前に行われた原野払下げに関した事である。  無知でお人善しの百姓達は、それが官有の原野である事を知らなかった。昔ながら自分達共有の原野として、或《あるい》はまぐさ場に、或は立野にして、自由に使用していた。それが整理のつかぬ官有の原野であったのである。而《しか》もこの種類の原野は、此《こ》の地方に於《おい》ては、原野の大部分を占めていたのである。それを突然役場の人から 「今までお前達が使っていた原野は、実はお上の物である。今度それが整理される事になって、一応お上に取上げになる。然《しか》しみんなが困るだろうと云うので、相当の値段で払下げになる事になっている。」斯う云う事を聞いた時、村の者は寝耳に水と驚いた。百姓達は苦心|惨憺《さんたん》の揚句、いくらかの金を積立てて払下げて貰《もら》う事にした。しかし元の半分も自分達のものにする事が出来なかった。そして多くは金持ちの個人持ちとなった。金持ちはドンドン造林に着手した。そして此の山に入るべからずの立札は各所に立てられた。 [#ここで字下げ終わり]  村の衆が驚いたのも無理はない。四十年ほども昔、当時の戸長が官民有区分のときに判を押したことなど誰も知らなかった。戸長はそのとき村のためによかれと思って村有地をごく僅《わず》かにして、多くは官有地にしてしまった。税金をおそれたのである。『明治二十六年全国山林原野入会慣行調査資料 熊本県』(森林所有権研究会、昭和三十二年刊)には、当時の県庁役人が村々へ出張して、戸長や惣代《そうだい》を再三呼び出し、「民有ニ編入スル時ハ相当ノ賦租《ふそ》金納メサルヲ得ス」とか、「原野ニ関シ若《も》シ争論ヲ醸《かも》ス時ハ官ヨリ判定ノ命令ヲ下サルヽモノニテ此際官有ニ編入シ置ク方後年人民ノ便利ナル旨」などを説諭して官有地への編入を承諾させている様子が見られる。  そのときのつけが国有原野払下げという形になってあらわれたのだが、今度はさらに、村有の山林原野の整理がはじまった。県庁の御達示によるものである。すると「今まで部落有だと思っていたのは、村有であった。そして又払下げが始まった。」しかも払下げたその山林を「各戸に割り当てて、登記して個人持ちにしろ」というのが県の意向である。「私有」という近代化が村に押し寄せてきたのだ。しかしそんなことになれば、どこかの金持ちが金にあかせて村の者から土地を買い上げるのは目に見えている。老翁がためいきをついて言う。「憶《おも》えばわし達ァ、大きな出口のない柵《さく》の中に入れられて、追い廻《まわ》されるようなものだったな。一つの柵を越えても、次の柵がある。無限にある。そして、今は愈々《いよいよ》最後の神様から見離される時が来た。御覧《ごろ》うじろ、村の衆が山や原野を無くするのはまたたく間ですぜ。なんぼ村の衆が頑張《がんば》って見ても、それをじっとしておく世の中か。……」  だが、その老翁、太一爺が、村の寄合で或る日、熱弁をふるう。彼は「小作するにも馬一匹持たぬ破産者」である。 [#ここから1字下げ] 「……みんな、俺《おれ》の事を考えて見てくんな。俺あ、荒地一反ももっていない。本建ての家も屋敷も持っていない。だのに俺は飢え死しないで生きている。これは一体どんなわけだろう。が、これは、俺ばかりじゃない。皆だってよく考えて見ねえ。一人だって、田畑のみいりと、出し物がつりあっているものはあるまい。みんな、出し物の方が倍も三倍も多いんだ。して見りゃ、俺は、愚か、村中の者がみんな、とうの昔に飢死していなけあならない筈だ。どうだねみんな……」 [#ここで字下げ終わり]  太一爺が言うには、彼の住んでいる掘立小屋ひとつにしても、自分だけの力では逆立ちしたって出来るものじゃない。村の共有林の木を使い、みんなが力をあわせてくれたおかげで、ただで出来たものだ。村の衆の家の年々の屋根の修繕にしても、茅《かや》代や人夫代をはらったとしたら、とてもみんなの身代では出来るものではない。それがみんな、わけなく出来るのは、「村中の者が力を協《あわ》して働くということと村の共有林や原野のお蔭《かげ》」である。食べることも、毎日の薪《まき》も、すべて村持ちの山の世話になっている。だからこそ出入りの勘定が釣合《つりあ》わないのに村の衆だれもが飢えて死ぬことなくちゃんと生きているのだ。 [#ここから1字下げ] ……若し山がなかったら、俺達あどんなになってるだろう。しかし、これは、只山のお蔭ではない。山が村持ちの共有林だからなんだ。 [#ここで字下げ終わり]  山が個人持ちだったら、いずれなくなってしまうと、太一爺は話す。実際、二十年ばかり前、彼の持っていた自分持ちの山は、多くの村の衆もそうなのだが、今の地主どんに渡してしまっている。——太一爺の話に感銘を受けた村の衆が、「共有」と「協力」に希望をみつけてゆく。  小山勝清は、或る杣師《そまし》の言葉も誌している。 [#ここから1字下げ] ……昔は親方も山子も対等で、つきあいをしていた。主人は山の主一人だからなんだ。しかし近頃《ちかごろ》はそうでない。親方も山子も山の主——神さまを信じない。で、親方は自分で山の主だと威張っているし、山子は親方にペコペコしている。なあ村の衆、神さまをなくした人間共ほど厭《いや》なものはねえ。斯う云うわけで、わしは、山が厭になった。わしは、もっともっと開けない山奥に行っちもう考えだ。そこに行けば、まだ山の主がいなさるかも知れねえから…… [#ここで字下げ終わり]  山は誰のものか。  山は山の主——神さまのものである。ゆえに、みんなのものである。  これが正しい答である。ことわるまでもなく、山の神さまは組織宗教の神とは別である。     4  馬籠峠から馬籠宿へ下ってゆく道は、つまさきが痛くなるくらいの急な下りである。それだけに展望がいい。曲り道を曲るたび、木曾谷の風景をいろいろの角度で見せてくれる。  馬籠宿のあたりは、広くはないがいくらか開けている。もっと山が迫って耕地の狭い山村をあちこちで見てきた目から見ると、この谷の風景はほっとするような豊かさを感じさせている。だが、それも、山あってのことだ。峠道で私の目に映る木曾谷の景色からまわりの山をあらかた消してしまったら、どうなるか。細々とした土地が枯れた川のように見えるだけだろう。  そして、それが実のところ、明治初期から以後の木曾谷だったのだ。村々の暮しは辛《つら》いものになっただろう。官有林とされた山はやがて帝室御料林となり、村びとの手からいよいよ遠ざかっていった。太平洋戦争後は国有林に移管されたが、民の手から遠いことには変わりない。国家の経営する木曾山林で雇われて働くことや、その関連の仕事がいくらかあるにしても、遠い昔、人びとが自由に木曾の山をあるき、その森と里が一体のものであった時代はついに帰ってこない。旧藩時代の入会地であった明山《あきやま》すらも帰ってこない。森と里は切り離されてしまった。  青山半蔵すなわち島崎正樹は、日々、この風景に、明治維新の失敗を見て暮していたのだ。あるいは、御一新に抱いた自分の夢の消滅を見て暮していたのだ。  晩年の半蔵が発狂するのは必然とさえ思える。実際に島崎正樹は気がふれてとうとう座敷|牢《ろう》に入れられ、五十六年の生涯《しようがい》を終えるのだが、現実がもしそうでなくても、もしかしたら藤村は、青山半蔵を狂死させたかもしれない。半蔵が夢みた御一新は、狂人の夢で終わるしかない。それがこの国の近代の現実である。  この長い歴史小説の終わりに近く、藤村は半蔵の古くからの友人、浅見景蔵に語らせている。 [#ここから1字下げ]  しかし、座敷牢へ落ちて行くまでの半蔵が心持を辿《たど》って見ようとするものも、この旧《ふる》い友人の外にない。景蔵は勝重のような後進の者を前に置いて、何も蔽《おお》い隠そうとする人ではなかった。彼に言わせると、古代復帰の夢想を抱いて明治維新の成就を期した国学者仲間の動き——平田|鉄胤《かねたね》翁をはじめ、篤胤歿後《あつたねぼつご》の門人と言わるる多くの同門の人達が為《な》したこと考えたことも、結局大きな失敗に終ったのであった。半蔵のような純情の人が狂いもする筈ではなかろうかと。(『夜明け前』第二部終の章) [#ここで字下げ終わり]  島崎藤村は大正六年から七年にかけて発表したフランス往復航海記『海へ』のなかで、「父上」と呼びかけているのだが、それから十余年、『夜明け前』では、はっきり父の傍《そば》に立っている。この国の近代の側には立っていない。  私が馬籠に泊った晩、野分の風が吹き荒れた。翌朝、馬籠宿の石畳の坂道に風にとばされた枝や葉が散っていた。まだ観光客の姿はなく、冷えびえする山国があった。 [#改ページ]    幼い二本の木     1  東京都世田谷区にある私の家の、ベランダとかテラスと呼ぶには狭すぎる張出縁の隅《すみ》っこに、素焼きの植木鉢《うえきばち》が二つならんでいる。一鉢は楠《くす》の苗木で、もう一鉢は銀杏《いちよう》の木の苗木である。  楠の木は去年の春過ぎからここにいて、来たときには割箸《わりばし》の一本ほどの幹と数枚の葉だったのが今は四方に枝を張って小さいながらに樹木の相をなしてきた。銀杏の木のほうは、初夏のころやってきて目に見えるほどは大きくならないまま晩秋黄葉してから葉を落としつくして今は細い幹だけになって直立している。背丈は三十センチばかりだが根もとがいつのまにかがっしりして、硬い冬芽も六つばかりつけている。見た目には心細いけれども健康に生きているのだろう。楠の木は春になったら庭のどこかに下ろしてやるつもりである。銀杏の木も若葉の勢いを見て土に下ろしてやろう。  楠の苗木の親木は熱海《あたみ》の来宮《きのみや》神社にある樹齢二千年の大楠である。銀杏は甲州|身延山《みのぶさん》下にある上沢寺《じようたくじ》の樹齢七百余年の木が親木である。親木から落ちた実が根まわりで芽を出し苗木に育ったのをいただいてきた。来宮神社では巫女《みこ》さんが、茨城県より北では育ちませんが東京なら大丈夫です、一年くらい鉢植えで育ててから土に下ろしてください、と言って頒《わ》けて下さった。上沢寺では寺の若奥さんがシャベルで苗木を掘り起こし根の土をビニールでくるんで下さった。どちらも若干の代価は支払ったが、買ってきたというより、いただいたという気持ちである。  生まれたばかりの二本の木は、かわいい。木がかわいいという感情は私には思いがけないものだった。子猫《こねこ》や子犬のかわいさと似ているのだ。かわいさというのは動物に特有のもののように思っていたが、植物にもあるものらしい。これは人間である私の側からの思い込みとは言えないようである。子猫や子犬が人間の感情とはかかわりなく本来かわいさを備えているように、稚樹もまた人間に見られようが見られまいがかかわりなく、かわいいものであるらしい。おさないときにかわいいというのは、生きるものの根底にある何かのようである。哺乳《ほにゆう》動物の場合、子は或《あ》る期間親の保育を受けなければ育つことができないので、親が保育したくなるようなかわいさを子が持っているのだと聞くけれども、そしてその話に納得もするのだけれども、生みっぱなしの魚の子だってどう見てもかわいい。かわいさのメカニズムを詮索《せんさく》する気はさらさらないが、生きものはすべて幼時かわいいということを思うと、私には何かしら生命というものへの愛着が増してくる気がする。いのちのやさしさのようなものが思われる。生まれてきたものはどうせ死ぬのだ、などと突きはなして言う気にはなれない。  いつか見た映画のなかで、イギリスあたりの遊びうただろうか、子供たちがスキップしながら、"Children were born to die."と歌っている場面があった。映画の場面効果としてなかなかのものだったが、そりゃたしかに生まれてくる赤ん坊は死を約束されてはいるさ、死ぬために生まれてくると言うのは本当だよ、人間はみんな生まれてきて死んで行くのさ、だけど、それを言ってしまったらおしまいじゃないか、などと思ったものだった。人間は遅かれ早かれ死ぬものとか、人類はいずれ絶滅する存在だとか言うならば、原爆も原発も結構というところへ行く。北海道の或る村長さんは、放射能で死ぬのも病気で死ぬのも死ぬことに変わりはないと言って原発廃棄物の再処理工場を誘致しようとしている。そういう意味の談話を新聞で読んだことがある。  楠の幼木と銀杏の幼木を見ていると、幼いもののかわいさに生命のかたちを覗《のぞ》く気がするのだが、それと同時にこれらの木々がこの先に持つ可能性のある長大な時間も思われる。親木のように生きるならば楠の木は二千年を越え、銀杏の木は七百年を越えて生きてゆく。私自身はせいぜい彼らの少年期を見るにとどまるだろう。私は息子たちに言ってある。この二本の木の親木は二千年と七百年なんだから、私が死んだあとはお前たちにたのむ。邪魔になったからといって伐《き》らないでくれ。お前たちの子供たちにも同じように伝えてくれよ。東京という都市のなかではむつかしいかも知れないが、さいわい息子たちは今のところ合意してくれている。面白いね、いいね、といった感じで請け合っているのだが……。  ラビンドラナート・タゴールの詩の一節に、こういう詩句がある。 [#ここから1字下げ]  静かに、わが心よ、これら大きな樹木たちは祈祷者《きとうしや》なのだ。(藤原定訳) [#ここで字下げ終わり]  この詩句は私に、屋久島の縄文杉《じようもんすぎ》の下にいた時間を思い出させもするのだが、私の家の二本の稚樹がやがてかわいさを脱ぎすてて大きく育ち、いつか老いて「祈祷者」になる、その遠い日をも目裏《まなうら》に浮かばせてくれる。  タゴールに「ボライ」という短篇小説がある。タゴールは、人間の内部にはさまざまな生きものが潜んでいると考える人で、この小説では、内に木や草のいのちを持っている少年を主人公にしている。(引用は「タゴール著作集」第五巻、牧野財士訳による) [#ここから1字下げ]  私にはボライという名の甥《おい》がいた。この子の中には生まれつき、どうしたわけか植物の旋律が強く響いていて、小さい頃《ころ》から、黙ったまま何かを凝視する癖があるのだ。他の子供たちのように落ち着きなく動き廻《まわ》ったりすることもない。東の空に黒雲が幾重にもなびき始めるスラボン月ともなれば、森林から伝わる樹木の香りが、彼の身体の中に湿った空気のようにじっとりと湿ってくるのだ。また土砂降りの雨が降った日などは、まるで全身でその音を聞いているかのように、うっとりと佇《たたず》んでいるのだ。かと思うと、白熱の太陽がさんさんと降り注ぐ昼下がりなど、空から落ちてくる何ものかを拾い集めようとでもするかのように、服を脱ぎ捨てて屋根の上を歩き廻ったりするのだ。マグ月の末になって、マンゴーの花の蕾《つぼみ》が開き始めると、彼の血の中にも深い歓《よろこ》びがこみあげてきて、何か得も言われぬ追憶が呼び起こされる。あたかもファルグン月に花咲く沙羅《さら》の林のように、彼の内に潜む本性は、周囲一面に拡《ひろ》がり、充《み》ちあふれ、深い色彩に染まるかのようである。 [#ここで字下げ終わり]  ボライを山に連れてゆくと、ふだんは静かな少年が草の斜面で奇声をあげてはしゃぐ。夜明けの陽光が射《さ》しこむ林のなかで、ボライのからだが震える。「あたかも彼は、こうした巨木の中に潜む精霊を見ることができるかのようだった。」 [#ここから1字下げ]  ボライは、本当は何千年もの昔に生を享《う》けたのだ。海底から隆起した土層の中から、将来大地の上におい茂るジャングルとなるべき植物が誕生の産声《うぶごえ》をあげたその日に。まだ獣もいなければ、鳥もいない時代であった。石と土と水ばかりの静寂そのものの世であった。  やがて若芽は、すべての生物に先立って大木に成長し、両手を合わすようにして、太陽にこう語りかけるのだった。「私は存在しなくてはならないし、生きなければならないのだ。私は孤独な永遠の旅人である。日が照ろうが翳《かげ》ろうが、昼だろうが夜だろうが、次々に襲いかかる死をのりこえ、無限の生命が開花する聖地に向かってひたすら巡礼を続ける旅人なのだ」 [#ここで字下げ終わり]  ボライは、木が生きようとする意志を、その生命の呟《つぶや》きを、自分の血の中に聞いている。なぜ生きなくてはならないのか、その理由を問う必要はない。大樹は、「宇宙の生命を無言のうちに支え」て、「生命の輝き、潤《うるお》い、美しさを貯《たくわ》えている」のだ。  或る日、ボライは煉瓦《れんが》を敷きつめた庭の道のまんなかに、シムールの若木が一本芽を出しているのを見つけた。ボライは毎日水をかけてやり、しゃがみこんで若木の成長を見つづけた。若木はやがて一メートルほどの高さになり、葉を繁《しげ》らせるようになった。そんなころ「私」、すなわちボライの叔父が、道の邪魔になっているこの木を園丁に抜かせようとする。ボライは震えあがった。叔父の決心が変わらないのを知って叔母にたのみこむ。泣きじゃくって首に抱きつくボライを見て、叔母は夫に、あの木を切らないであげてくださいな、と願い出る。一年あまりするとシムールの木はいよいよ大きくなり、「私」は気になって仕方がないのだが、そのたび妻がボライとシムールの木をかばっていた。そして十年あまり経《た》った。ボライの父が突然帰国して、ボライを英国で教育すると言って連れ去った。ボライから叔母に手紙が届く。「叔母さん、私のあのシムールの木の写真を撮って一枚送ってください」——写真屋さんを呼んでくださいという妻に「私」が答える。「あの木はね、もう切ってしまったよ」  タゴールは子供と女性を生命を聴きとる者の側に、男性をその反対の側に置いた、と言ってもよいのだが、それを議論してもつまらないことだ。「ボライ」を書いたのは、「私」という成人男性ではなくて、タゴールという男なのだから。  七〇年安保世代の哲学者内山|節《たかし》が、真夜中の本郷のアスファルトの道で、東京湾をめざしてあるきつづけているらしいヤドカリを見つける話を書いている。ヤドカリの歩みに根気よくついてゆく人間の姿がおかしくて涙が出そうになるのだが、このヤドカリを翌朝房総の磯《いそ》に連れていって放してやる話を書いたあとに内山節は、「彼は生きることへの憧《あこが》れを、体一杯に表現していた。そんなありふれたことに、なぜ僕たちは感動しなければならないのだろうか」と書く。生きることに理屈はいらない。それを「憧れ」と呼ぶ著者に私は共感する。     2  私の家の二本の若木の親木に会ったときのことを少々書いておくことにしたい。  まず、楠の木のことだが、熱海の来宮神社の大楠を見る前の日、同じ伊豆の河津《かわづ》にある来宮神社の大楠に会った。この大楠も樹齢二千年と伝えられている。  五月に入ったばかりの明るい日だった。河津浜から国道を北へぶらぶら歩いてゆくと、伊豆の山なみが新緑で明るく、ここはいかにも住みよい土地と思う。源頼朝《みなもとのよりとも》が領したのは今から八百年ほど前のことだが、そんな時代はつい昨日のことと言えるくらい、もっと遠い昔からここに住んできた人びとがいた。境内に掲げられた杉板に墨書の由緒《ゆいしよ》書きによると、この神社の正式の名は杉桙別之命《すぎほこわけのみこと》神社というそうだが、それは延喜式神名帳にある名称で、それより以前、木之《きの》神社、木之大明神、木野《きの》神社などと単純明快に呼ばれていた。来宮《きのみや》神社というのも古名の一つである。社殿のうしろにそびえる楠の大樹がこの土地に住んだ人びとに敬われ、お宮の主とされたものであろう。  神社は国道から別れた畑のなかの道を行った先にあるのだが、遠くからでも浅みどりの若葉におおわれた木が、まわりの景色のなかに際立《きわだ》っていきいきと見えていた。  だが私は最初、かんちがいをした。畑の道から神社の鳥居へ向かう道に入ってゆくと、目の前、鳥居の向うに楠の巨樹が見えた。これが大楠だと思ってしまった。太い幹が暗く大きなうろになっている。張り出した枝々が鳥居をのみこみ道をまたいでひろがっている。見上げるとこの一本の木が一つの森のように思える。さすがに二千年の木だと思った。  巨樹に会えて満ち足りた気分だった。そのまま引き返そうかと思ったのだが、やはり神社に詣《もう》でなくてはならないだろうと社殿のほうへ行ってみると、社殿の右前に、もう一つの大楠が立っていた。いま見た大楠よりもひとまわり大きい。これは、と思って社殿のうしろにも廻ってみた。  ほんとうの大楠があった。鳥居のそばの大楠も社殿前の大楠も小さなものにしてしまうほどの巨樹である。枝の一つ一つがそれだけで巨木と呼べるだろう。明るいみどりの若葉があたり一面にやわらかな光りを漂わせていた。  巨大な木だった。そのくせ若々しい。幹は古樹独得のこぶとねじれで荒々しいのだが、その力とひろびろ拡がる若葉の美しさが不思議な調和を生みだしている。気品と言えばいいのだろうか。神格という言葉もうかんでくる。大きいだけではない。二千年という、この木が生きてきた時間を知らなかったとしても、私はおのずと合掌したにちがいない。昔の里人たちがここにお宮を建てたのがごく自然のことに思われる。だが、そのときよりもこの木は日々に神格を増してきたはずだ。私は大楠のまわりをあるき、大楠の幹に触れ、気高いもののすぐそばにいるのを実感していた。  屋久島の縄文杉を思った。あの七千年の木と同じだと感じた。大きさもほぼ同じくらいだろうが、なによりもその気品が、生命の根元を私のなかに流しこんでくる。この木の下に立つと、ここを離れるのがむつかしい。  ——あの縄文杉と同じだ。  私は縄文杉の山へ一緒に登った三省さんと三郎さんを、この大楠にいつか案内したいと思った。こういう木はめったに会えるものではない。縄文杉を知り縄文杉を敬うお二人なら、この大楠に会うことを心底よろこんでくれるはずだ。私の言葉では伝えることのできないものを、この木は三省さんと三郎さんに伝えてくれるだろう。  つぎの日、熱海の来宮神社で見た大楠も、大きさは河津の大楠と全くといっていいくらいに同じだった。だが、何かが欠けていた。まわりが高い柵《さく》でかこわれているせいだろうか。木のあちらこちらがコンクリートや金属板で補修されているせいだろうか。この木もまた新緑の美しい若葉を繁らせていたのだが、河津の大楠が見せていた生命の流れがこの木では弱々しいような気がする。それにまた、木の周辺が何かと賑《にぎ》やかである。内閣総理大臣|中曽根康弘《なかそねやすひろ》の書を刻んだ石碑まであって、神域の静寂が乱されている。神社の鳥居を出れば自動車の走る道路である。こうなったのはここ何年か何十年かのことで大楠の生きてきた時間の長さに比べたらごく短いものだろうけれども、この大楠はそれ以来、生きる喜びと生きる意志を衰弱させてきたのかも知れない。昔は河津の大楠と甲乙つけがたい気品を持って生きていたにちがいないと私は思う。河津の大楠の苗木をいただけなかったのを残念に思う気持ちがある一方で、熱海の大楠もその大半の時間を河津の大楠同様に生きてきたはずだから、私の家にある苗木もその血を継いでいると思っている。  ひと月ばかりして富士|山麓《さんろく》の樹海から身延山へまわった。その途中立ち寄ったのが上沢寺である。  枝々が下へ垂れて、どの枝にもぎっしり葉がついているので、藤の花房のように見える。そのため「さかさ銀杏」と呼ばれているのだが、この銀杏の木はまた、全国に八本あると言われる「お葉付き銀杏」の一株である。葉に種子がつくことが多いので、この名がある。  オハツキイチョウは上沢寺から歩いて数分の本国寺にもある。ただしどちらも雌株である。雄株は富士川をはさんだ対岸の宮ノ前神社にある。  富士川はこのあたりでは川そのものも広く河川敷も広大だ。上沢寺や本国寺から宮ノ前神社まで、直線距離でも一キロ以上ありそうだ。オハツキイチョウの花粉はこの川を越えて飛ぶのだろうが、ひろびろとした川景色を見ていると受粉のチャンスがあろうとは信じられない。人間の私などの判断を越えた何かがあるのだろうと思うだけである。  私がいただいてきた苗木は、オハツキイチョウにはならないそうである。詳しいことは私には分からないが、素人《しろうと》考えでもそうだろうと思う。もし苗木がみんなオハツキイチョウになるなら、オハツキイチョウは全国に何百本とひろがっているはずである。私の家の銀杏の稚樹も平凡な銀杏に育ってゆく。だが、お前の親木は身延山の下、富士川のほとりで、不思議をたたえて七百年を生きているのだと、ときどき話しかけてやろうと思う。     3  紀州の山々を宇江敏勝さんの案内で見てあるいていたときのことである。見はらしのいいところで軽トラックを止めた宇江さんが、猟犬のモコを紐《ひも》から解いてやって一服つけながら言った。 「ここから見えるかぎりで私が最長老です」  視界に入る山々のすべての木が宇江さんよりも若いというのである。宇江さんは五十歳である。見えるかぎりの山の木が五十年にも満たないというのは、昭和三十年代、四十年代の拡大造林計画で、この山々を覆《おお》っていた自然林を伐りはらい、杉や檜《ひのき》といった有用針葉樹に置きかえてしまったからである。宇江さんは長年、紀州一帯の山々で植林の仕事をしてきた人なので、紀州の山の隅々まで知っている。私が最長老です、という断言は誇張ではない。もちろん、かつて南方熊楠《みなかたくまぐす》がその保存を叫んで残した神社の古木はあるけれども、それは別にしての、山々の木の話である。  宇江さんの著書『山に棲《す》むなり』に、こういう一節がある。 [#ここから1字下げ]  国破れて山河あり、とはいわれるが、山や河だって、時とともに姿を変えるではないか、と思う。沖平を捨てて移り住んだ野中の里も、戦後三十余年のあいだに、景色はすっかり変貌《へんぼう》した。いわゆる植林ブームで、かつて草刈場や雑木林だった所を、杉や檜で埋めてしまったからである。田畑も手間のかかる部分や、町へ去った人のものは荒らされ、耕作面積も全体として半分ほどに減っている。周辺から中心部に向かって、森林がじりじりと迫って、まるで里を呑《の》みこもうとしているかのようである。昔、この里は明るく、春は青葉が萌《も》え、秋は見渡すかぎりの山々が錦絵《にしきえ》のように映えたものだが、いまでは里全体が針葉樹に覆われ、四季を通して黒っぽく、かつての面影《おもかげ》はもはやどこにも見られない。 [#ここで字下げ終わり]  杉と檜の人工林では茸狩《きのこが》りの楽しみはなくなった。茸を採るには崖《がけ》や崩壊地など植林不可能なところに僅《わず》かに残っている自然林へ出かけるしかない。山蜜《やまみつ》という天然の蜂蜜《はちみつ》もとれなくなった。花の咲く雑木が伐《き》りはらわれ、森の下生えの花の咲く草も根絶やしにされたので、蜜の源がなくなってしまったのだ。いま紀州の山々は暗くわびしい。山なみという言葉が実感されるほど、山々が波うちながら続く紀伊半島の山々はたしかに緑に覆いつくされているのだが、しかし、それは黒い森でしかない。針葉樹だけの、一年中黒っぽい森である。広葉樹の森のように木の実があるわけでないので、動物たちも棲《す》みづらい。花がなければ虫たちも数少なくなってゆく。宇江さん自身この山々に杉や檜を何十万本となく自分の手で植えてきた人なのだが、宇江さんはいま、この山々の杉と檜の木々の間に広葉樹が育つ森を夢みている。せめて自分の持ち山なりと、そういう森にしたいとねがっている。今からではたぶん、宇江さんが生きているあいだには、森はそこまでは育ってくれないのだけれども。しかし運よく宇江さんも私もめずらしいほどの長寿を保ったとしたら、何十年かあとに、針葉樹と広葉樹が混り合う紀州の山を、あらためて二人で見ることができるかも知れない。  木はタゴールの言うように、「私は存在しなくてはならないし、生きなければならないのだ」と生きている。何かのために、誰かのために生きているのではない。  人間は、その木を有用とか無用とかいって、育てたり伐ったりする。ボライ少年のシムールの木は無用どころか邪魔ものとして伐りはらわれた。紀州の山々の木もそうだった。無用で邪魔な雑木を排除して経済価値のある有用な針葉樹を植えてきた。実際にはその後の人間社会がいろいろ変わってしまって、有用と思って植えた木があまり有用でもなくなり、密植されたままの人工林が間伐もされずに放《ほう》り出されて、杉や檜が息絶え絶えになっている。宇江さんと私は紀州の山々を南から北へ縦断したのだが、間伐がきちんと行なわれて木々がすくすく育っている場所を見るのは稀《ま》れなことであった。たまに元気のいい木立ちを見かけると宇江さんは車を止めて、ここはいいと言って嬉《うれ》しそうだった。  それにしても、「雑木」とはなんという言葉であろうか。だいたい広葉樹が雑木と呼ばれるのだが、それはたんに用材、ことに建築用材として不向きだということにすぎない。どの木が有用でどの木が無用かなど、そんなことを決めるのがおよそ人間の不遜《ふそん》ではある。だが、私たちが生きてゆくのに木を必要としている現実を前提としたときにも、それぞれの木の有用無用は時代により社会により変わるものである。見る人の心のありようによっても変わるものである。無用だから雑木。そう簡単に言い切れるものではない。 『荘子』内篇の逍遥遊《しようようゆう》篇に、無用の木についての恵子《けいし》と荘子の問答がある。(訓読は森三樹三郎による)  恵子が荘子に議論をふっかける。「吾《われ》に大樹あり、人|之《これ》を樗《ちよ》と謂《い》う。其《そ》の大本は擁腫《ようしよう》にして、縄墨《じようぼく》に中《あた》らず。其の小枝は巻曲《けんきよく》にして、規矩《きく》に中らず。之を塗《みち》に立つるに、匠者《しようしや》も顧みず。今、子《し》の言は大にして用無し。衆の同《とも》に去る所なり」と。私(恵子)の家に樗と呼ばれる大木があるのだが、その太い幹はこぶだらけで墨の引きようがない。枝はまがりくねっていて規矩《さしがね》のあてようがない。だからこの木を道端に立てておいても大工も振り向かない。荘子よ、君の議論もこの大木のようなもので、大きいばかりで無用のもの。だれも振り向いてはくれないね。  荘子が答える。 [#ここから1字下げ]  今、子《し》は大樹を有して、其の用無きを患《うれ》う。何ぞ之を無何有《むかゆう》の郷《きよう》、広莫《こうばく》の野《や》に樹《う》え、彷徨《ほうこう》として其の側《かたわら》に無為にし、逍遥《しようよう》として其の下に寝臥《しんが》せざる。斤斧《きんぷ》に夭《よう》せられず、物の害する無き者は、用う可《べ》き所無きも、安《いず》くんぞ困苦する所あらんや。 [#ここで字下げ終わり]  お持ちの大木が無用だとこぼしておられますがね、私ならその木を無何有の郷、つまり世俗世間から離れた、広漠《こうばく》としてはてのない野に植え、そのそばで何もしないでぶらぶらし、木蔭《こかげ》でのんびり昼寝でもしますね。斧《おの》やまさかりで切られることもなく、何の危害も受ける心配がないなら、それで結構。無用だからといって、なにが困るものですか。  恵子は物の用にとらわれている。有用か無用かが価値判断の基準になっている。荘子はそこから離れた遠くにいる。議論はすれちがいである。荘子がせめて、一見無用のものでも見方を変えれば有用でありうるといった言い方をすれば恵子も納得するだろうが、ここの荘子の言はそうではないだろう。無用で結構と言い切っているのだと私は思う。木はただ生きつづけるのだ。恵子の理解範囲を越えて、有用無用とかかわりなく、荘子のような者だけがその木の下で無為の自由を生きることができる。  ここで若山牧水を持ち出すのは唐突のそしりをまぬがれがたいのだが、頭にうかんでしまったものを引きとどめるのはむつかしい。ままよ、と、やはり書くことにする。牧水の大正十二年刊の歌集『山桜の歌』の一首である。前書きと共に引けば次の通りである。 [#ここから3字下げ] 焼岳《やけだけ》より飛騨《ひだ》国中尾村をさして下るに路《みち》二里がほど斧鉞《ふえつ》を知らぬ大森林のなかをゆくなり。 [#ここで字下げ終わり]   双手《もろて》もて杖《つえ》をつきたて立ちいこふ森の深みにわが心燃ゆ  森のなかの牧水は、ただ、心燃ゆるだけである。心を養ったりはしない。森から何かを学びもしなければ、何かを得ようとはしない。どんな意味でも、有用無用とは縁のないところにいる。牧水と荘子をかさね合わせるのは無理としても、すくなくとも牧水は恵子から遠いところにいる。「森の深みにわが心燃ゆ」というのは、人間が森や木に向き合うときのどこか深い感情なのではないだろうか。有用とか無用とかをはなれて、私たちの内部に潜む原始の心が剥《む》き出されるとき、「わが心燃ゆ」るのではあるまいか。     4  岩田慶治さんが、北部ラオスの山村での体験をもとにして、「巨木に宿るカミ」の話を書いておられる。その村の中央部に大きな菩提樹《ぼだいじゆ》がある。村びとはこの木に、ピー・マイ・ニャイがひそんでいると話している。ピーは精霊、マイは木、ニャイは大きい、の意味である。岩田さんはこの村で一軒の空き家を借りて暮していたのだが、村をとりまく自然のなかで、しだいに村びとの心に同調してゆく。ピー・マイ・ニャイについても、「私にはそれが根も葉もない虚構だとはどうしても思われなかった」と書く。「巨木、古木、鬱蒼《うつそう》とした大木のなかにカミが宿っているというのは、その木、その幹のどこかにケシ粒、ゴマ粒のようなカミの姿が隠れている、ということではなかったのである。その木が、あるとき、あるところで、全宇宙の化身になる。やさしい、しかし恐ろしい、美しい、しかし醜い全自然を表現する、ということなのであった。」  ラオス、タイ、カンボジアの村々で、大樹の根方に片よせて小祠《しようし》がたてられているのをよく見るという。それはわれわれの鎮守の森にもつながる自然観であり信仰であるということだが、それはまた、牧水の「森の深みにわが心燃ゆ」とも奥底のところでつながっているのではないだろうか。  宇江さんと二人で、熊野《くまの》本宮から北へ、果無《はてなし》を経て十津川《とつかわ》へ向かう途中、玉置《たまき》山上にある玉置神社に登った。古くから十津川郷民の鎮守神であったこの神社は、大きな鎮守の森にかこまれている。そのなかの神代《じんだい》杉は樹齢三千年と伝えられる古木だが、その根方にやはり小さな祠《ほこら》がもうけられていた。森のなかのいちばん古い大木に、山の神の祠をたてるのが山国のならわしであるという。私が、宇江さんの山の木にも祠をたてたらどうですかと、半ば冗談に水を向けると、宇江さんは半ば以上本気で、そうだなあ、そのうち木の育ちをみて、いい木の根方にたてることにしますよと言った。私は自分の冗談口調を恥じた。宇江さんはやっぱり山の民なんだなあ、と思った。私の家のあの楠の若木が、いつか大きく育ったとき、私はてらいなく自然にその木の根方に祠をたてることができるだろうか。今はまだ分からないという気がする。  さて、これもまた唐突な話になるのだが、有用といえば有用、無用といえば無用の、今のところは空想上の木の話がある。金子隆一著『スペース・ツアー』で読んで、その途方もなさにびっくりもし、妙にひきつけられ、その木を夢に見てしまったほどである。  太陽系の外側に「オールト雲」と呼ばれる彗星《すいせい》物質の雲があるという。一九五〇年にオランダの天文学者J・オールトが多くの彗星軌道を調べた結果、この彗星雲の存在を発表したもので、その規模については定説がないが、彗星の巣といってよいこの雲のなかには少なくて一千億、多ければ数兆の彗星核が散在しているらしいという。  このオールト雲が、人類が将来太陽系の外へ出かけてゆくときの補給基地になるというのである。彗星核に基地をつくり、飛び石づたいにつぎつぎ次の適当な彗星核をさがして、前進基地をつくっていけばよいという。  そして、そのオールト雲内の彗星核を緑化する構想までが発表されている。彗星核を緑化して人類に適した居住環境をつくりだそうというのである。プリンストン高等研究所のF・ダイソンの構想では、この計画は未来の遺伝子工学によって彗星核上で成長する新しい植物をつくることに始まる。この植物は、「彗星核に根を下ろすと、地中深く根を潜らせて養分を吸収しながら、ほとんどゼロに等しい低重力も手伝って、宇宙空間に高さ一〇〇�以上も伸びていく。その先端に茂る葉は、遠方の微弱な太陽の光を集める広大な凹面鏡《おうめんきよう》を形成し、集めた光を、ずっと下の方に密生した、強力な光合成機能をもつ葉に集中させる。」  光合成葉からは大量の酸素が送り出され、幹を通って根から彗星核のなかに放出されるのだという。無重力環境に適応するように改造された人間が、それによって多数、彗星核内に住むことができるようになる。  いま地球上で高さが百メートルを越える木はない。アメリカのカリフォルニア州セコイア国立公園のジャイアントセコイアでも八十余メートルである。彗星核の上に、その千倍以上の高さで伸びてゆく木を想像してみると、それはたしかに用のために生みだされる木なのだが、有用とか無用という言葉をはじきとばすほどの、畏怖《いふ》にみちた光景ではないだろうか。地上十万メートルに繁《しげ》る葉はざわめきもせず微《かす》かな太陽光を集めている。その木が存在するとき、人類はもう一度樹霊信仰をよみがえらせるのだろうか。  私の家の二本の幼木が生きているうちにその日がくるのかどうか、もちろん私には分からない。 [#改ページ]    白山《はくさん》のブナの森     1  深田久弥《ふかだきゆうや》さんが昭和四十六年三月二十一日、茅《かや》ヶ岳《たけ》の尾根で倒れてその場で亡《な》くなられたとき、私は八方尾根でスキーを滑っていた。訃報《ふほう》を聞いてあわてて東京へ帰る夜行列車のなかで私は、果たさなかった深田さんとの約束のことを考えていた。  ——とうとう白山へ登らずじまいだった。空約束になってしまった。  深田さんが最初に白山行を誘ってくださったのは昭和二十六年、私が大学生になってまもなくのときだった。あれは夏休みで帰郷したときだったか、郷里の町から県都の金沢へ出かけて、浅野川沿いの深田さんの家をたずねた。用事があったわけではなく連絡もなしにいきなりの訪問だったが、深田さんは、まだ子供っぽく生意気な私を小半日もてなしてくださった。前から面識はあったのだが、そんなふうにして深田さんと話をするのは初めてだった。いろいろな話の中味は今はもう思い出せないけれども、白山登山の約束だけはおぼえている。深田さんが何回目かの白山行から下山したばかりのときだったと思う。高田君、今度一緒に登らないか、と言われて、ぜひおねがいしますと勇み立ったものだった。  深田さんはその後東京へ移られ、私も卒業すると東京に住んだので、東松原のお宅へときどき遊びに行った。のちには原稿をおねがいするようにもなり、井の頭線で行く深田さんのお宅のあたりは私にとって東京のなかでも親しい土地になった。そして加賀の蟹《かに》をさかなに飲むときなど、話はしばしば白山のことになり、白山登山の約束になる。深田さんと私は同じ町を郷里としている。実家はほんの数軒先である。同じ小学校の先輩後輩にもなる。親子ほどの年の違いがあるのだが、ふるさとの町の話、ふるさとの山の話になると、二人とも熱が入って酒がすすんだ。  白山に登る約束を忘れたわけではない。いつもその気でいた。だが結局、登らなかった。なぜ登らなかったのだろう。休暇がとれなかったとは言えない。私の登山歴などたかが知れているのだが、それでも仕事の都合をつけて幾つかの山は登っているのだから、白山に登れないわけはない。  あの夜行列車のなかでは、悔いばかりがつよかった。山上の脳卒中という不意の死が、約束を不可能にしてしまった。それを思うと涙がとまらなくなった。最初の約束から二十年ものあいだ、そのうち必ずと思いながら果たさなかった悔いが胸を噛《か》んでいた。  深田さんの死から十数年、私は次第に、もしかしたら私は白山に登りたくなかったのではないかと思いはじめている。深田さんにも私にも白山を書いた文章がいくつもある。『日本百名山』の「白山」の項に深田さんが書いている文章の一部分を幾度か引用させてもらってもいる。郷里の町である大聖寺《だいしようじ》から見る白山を書いたところである。だが、そこばかりである。私は遠望する白山に惹《ひ》かれつづけてきたので、その白山に分け入り山上に立つことをおそれてきたのかも知れない。山に入ってしまえば山の姿は見えない。白山がどこにでもある山になってしまうことが怖かったのではないか。深田さんにも私にも白山は特別の山であったが、私の白山は遠望する白山に限られていたようだ。江戸初期の古九谷《こくたに》を題材にした歴史小説のなかで私は白山を次のように書いた。白山山系の山村に住む若者と娘が里に下りてくる場面である。 [#ここから1字下げ]  太吉は、町はもう見なくていいと思った。りんが先に立って、町の外の川岸へ行った。そこらはもう踏んだ雪道がなく、りんは雪を蹴散《けち》らして走った。太吉も走った。  川岸から白山がよく見えた。晴れ上がった空に大きな白い山が、どっしり立っていた。町を歩いているときにも見えていたのだが、ここから見ると、ひろびろと横にひろがる山がまるごと見えた。  しみひとつない白い山だった。太吉は、こんなに大きい山のひろがりを見たことがなかった。九谷のような山奥では、白山は見えない。近い山々に隠れているのだ。大日の峰に登っても白山は高い峰のあたりが見えるだけで、こんなにひろびろとした姿は見せない。山中湯からも白山は見えなかった。  太吉は、白い山に手を合わせたいような気がした。 「おりんの生まれたところは、ええとこや」 「ここらで、よう遊んだわいね」  二人は雪に腰を下ろして、白い山を眺《なが》めつづけた。  りんが、春先の白山のことを話す。猫柳《ねこやなぎ》のやわらかい穂をとりに来ると、銀色に光る穂の向うに、白山が白く光って、それはもうきれいだと言う。ここで遊んでいて日暮れになったりすると、白山のてっぺんあたりから茜色《あかねいろ》になって、その色がだんだん下までひろがってゆく。見とれているうちに今度はその色が冷えてゆき、裾《すそ》のほうから影になってゆく。空がまだすこし明るいときの山は峰のあたりだけが青白く光っている。  太吉は大聖寺の町にはとまどったが、この川岸から見る白山なら何度見ても飽きないと思った。 [#ここで字下げ終わり]  山の民が平地の文明に感じる違和感のなかで、ただひとつ、平地から遠望する白い山だけが彼をとらえ彼のなかの「山」をそれまで以上に際立《きわだ》たせてゆくことを書いたのだが、私もまた、あの白い山を見たことで自分のなかに潜んでいた「山」をだんだんに見つけてきた。山の暮しと平地の暮しとは根のところから別のものであることを知り、そして私は平地住い、すなわち文明住いをするなかで、山暮しに惹かれる気持ちをいつのまにか育てていた。この三十年あまり、廃《すた》れてゆく山村を私なりに見てきたのだが、その裏にはいつもあの白い大きな山があった。あの風景(もっと強い言葉がないものかと思う)が、平地と山地の、平地人と山地人の、通路になる。  先だって九谷村が廃村になった。山村が無人になることには私はもうおどろかないけれども、あと数日で山を下りてゆくという九谷村最後の一軒の老夫婦に会ったときの、何となしの立話が忘れにくい。オジイサンはもうすぐ自分の手から離れてしまう山の木を、これまで通り毎朝面倒見に出かけているという。オバアサンはいつもの年と同じに家の中に巣をかけた鳥に、もうすぐわしらはいなくなりこの家は壊されるけど悪く思わんでくれと話しているのだという。木や鳥を家族と感じている山びとであった。  私は深田久弥の「山」を継いでいると思っている。ただしそれは、登山という意味での山ではない。「野性」と呼んでもいいのだが、それではすこし足りないという気のするものである。野性と優しさみたいなものを溶け合わせたらいいだろうか。近代スポーツ登山は深田久弥の嫌《きら》うものだった。そうでなければ深田さんが白山を次のようには書かない。 [#ここから1字下げ]  夕方、日本海に沈む太陽の余映を受けて、白山が薔薇色《ばらいろ》に染まるひと時は、美しいものの究極であった。みるみるうちに薄鼠《うすねずみ》に暮れて行くまでの、暫《しばら》くの間の微妙な色彩の推移は、この世のものとは思われなかった。  北陸の冬は晴れ間が少ない。たまに一点の雲もなく晴れた夜、大気がピンと響くように凍って、澄み渡った大空に、青い月光を受けて、白銀の白山がまるで水晶細工のように浮きあがっているさまは、何か非現実的な夢幻の国の景色であった。 [#ここで字下げ終わり]  私の白山と同じ白山だ。平地の町から遠く見る白山。  あの山の頂上には生涯《しようがい》立たないだろうと思う。だが、昨年(一九八七年)初夏、とうとう白山の途中まで登ってしまった。御前《ごぜん》や大汝《おおなんじ》という主峰を踏む気は初めからなかったが、支峰である別山《べつさん》への道の半ばまで行った。白山のブナの森を歩きたいと思ったからである。その千振《ちぶり》尾根だけならば私の白山を踏みつけてしまうことにはなるまいと、私は自分を許した。     2  金沢駅で、白山自然保護センターのUさんと落ちあった。Uさんには一年ばかり前、東京のテレビ局で会っている。Uさんから私が白山に棲《す》むニホンカモシカについて話を聞く番組だったが、そのときのUさんは背広にネクタイだったので少し窮屈な感じがあった。この日のUさんはジャンパー、私も似たような服装で、小雨のなかを市ノ瀬の登山センターへ向かった。途中、加賀一宮、白山信仰の中心となっている白山比《しらやまひめ》神社に詣《もう》で、白山の山ふところ最後の村である白峰《しらみね》村を過ぎるころには雨が激しくワイパーの動きの隙間《すきま》からひっそりとした道が見え隠れしていた。  この雨が降りつづいたら私のような足弱で山に入るのは難儀だろう。白山は私に、登るなと言っているのだろうか。それならそれでいいと思った。布団《ふとん》のなかで山の夜の雨音を聞いていると、それだけで、ふるさとの山にいま抱かれているという気がした。  午前三時半、窓を開けてみると雨があがっていた。夜明け前の薄暗がりのなか、カタカタカタと鳴いてはひるがえる鳥がいる。ヨタカが蛾《が》を食べているのだという。四時半、明るんできたなか、Uさんと二人で宿を出る。オオルリがヒュールヒュールルーリーリーリーと丸っこい声で鳴く。谷川の水音が激しい。川のまんなかにある巨大な岩は何年か前の出水のときさらに上流から押し流されてきたのだそうだ。霧の切れ間に見える対岸の崩壊した崖《がけ》にトチの巨木が一本だけふみとどまっている。山が荒れるときのすさまじさが垣間見《かいまみ》えていた。  猿壁《さるかべ》の堰堤《えんてい》を過ぎて細い山道に入る。ふたかかえを越えるトチやイタヤカエデが多くなり、鳥たちのさまざまな声につつまれる。Uさんは歩きながら手帳に何か書いている。すべての鳥の声を聞き分けて、どの鳥がどの場所で道から何メートル奥で鳴いたかを記録しているのだ。白山の野鳥の生態記録の一部である。おかげで私もゆっくり登ることができる。まわりを見ないでひたすら頂上をめざす登山は苦手だ。  標高一〇〇〇メートル前後(Uさんが腰に標高計をつけている)からブナの木が多くなってくる。一〇六〇メートル、私がひそかに「美人ブナ」と名づけた木に出会った。そこまでに見かけたどのブナよりも大きいのだが、その大きさは威圧する大きさではない。杉や楠《くす》の巨木の前に立ったときの、おのずと合掌してしまう神々《こうごう》しさではなくて、手招きするような優しさがある。美人と呼ぶよりも大母と言うほうがいいのかも知れないが、それにしては艶麗《えんれい》で色っぽいのだ。  大きく四方に張り出した枝々は枝折れひとつなく伸び伸びしている。何十万枚あるのか何百万枚あるのか分からない葉が明るい緑に輝いている。朝の光りが射《さ》しこんできていた。微風にそよぐ無数の青葉が、同じ浅緑といっても葉の数だけ違う色を見せているのではないかと思う。もしかしたら数百万種の色彩を見せてくれているのだ。私たちの言葉はその一つ一つをとらえられない。和洋の色名を総動員しても、浅緑について二十か三十の言葉も探し出せないだろう。  葉の中からヒガラの軽やかなさえずりが聞こえてくる。ブナの森にはたくさんの鳥が棲む。ヒガラ、コルリ、キビタキ、シジュウカラ、ゴジュウカラ、ヤマガラ、キツツキ、フクロウ、……。それぞれの鳥がそれぞれにブナの森の中で棲みやすい暮しの場をみつけている。巣づくり、餌《えさ》あつめ、すべてにこの森は豊かな生活を約束してくれる。 「これ、オトシブミですよ」  Uさんが教えてくれる。ブナの葉を巻いた中に幼虫が育っているのだ。ブナの葉を食べて生きる多くの昆虫《こんちゆう》がいる。落葉はトビムシやミミズなどの土壌生物が食べて、土に返してゆく。ブナの実は鳥や動物の餌になる。春先のブナの黄色い花はサルやクマの好物である。秋にはいろいろな茸《きのこ》が生えてくる。リスやネズミ、コウモリ、ムササビ、モモンガ、ヤマネ等々、にぎやかな森である。木もブナだけではない。大きい木ではトチの木がまじり、マルバマンサクやオオカメノキなどいろいろの低木がブナと一緒に生きている。冬の雪の下で生きる常緑の低木もある。カタクリやイワウチワなど草花もまた多い。  動物も植物も多種多様に共存しているのがブナの森なのだ。その豊かな生命の中心になっているのがブナである。ブナは支配者ではなく保護者。この森ではブナにかぎらず、一種類の生物が権力で気に入らない者を追いだしたり、押しつぶしたりすることはない。もちろん動物にしろ植物にしろ個体の生死は繰り返されるけれども、ヒトのような特異な生物が加わらないかぎり、ブナの森は去年も今年も来年も豊饒《ほうじよう》な生命を育《はぐ》くみつづける。  一本のブナの木を見ても、オオタカやイヌワシなど大型の鳥は木のてっぺんに大きい巣をかけ、アオバトやカケスはそれよりすこし下の樹上に小さい巣をつくる。アカゲラなどキツツキの類は木の幹に巣穴をつくる。空家になった穴を哺乳《ほにゆう》類のムササビやモモンガが利用することもある(泉祐一「ブナ林の鳥類」)。Uさんが白山のブナ林で確認している鳥の種類は三十六種にのぼるのだが、それらの鳥たちがそれぞれの生き方で、全体としておだやかに共存している。  イギリスでは、オークを「森の王」と呼び、ブナを「森の母」と呼んでいる。ブナの優しい姿がそう呼ばせているのであろうが、多様な生命を育くむ森が「母」のイメージになるのでもあろう。ブナはまた、「森の医者」とも呼ばれている。ブナの落葉が森の土壌を肥沃《ひよく》にして下木の成長を助けるからである。「母」といい「医者」といい、戦いや力や苦痛や怖《おそ》れ等と反対のものだ。そういう森だ、ブナの森は。  大きなブナの幹に、ときどき鋭い傷を見かける。クマが登ったときの爪《つめ》あとだという。春、花を食べたくて登ったのか、秋、木の実を採りに登ったのか、がっしり打ちこまれている爪あとは登りのときのもの、細長い筋になっているのは滑り下りたときのものだろう。 「大丈夫ですか、クマが出てきませんか」  Uさんに聞くと、どこかそこらへんにいるでしょう、だけど絶対に大丈夫です、と言う。事もなげなUさんの返事だった。私は妙に納得してしまった。この森では、暴力と暴力がぶつかりあう光景は想像しにくいのだ。  千振尾根の標高一〇〇〇メートルあたりから一六〇〇メートルぐらいにかけてブナの森がつづいているのだが、ここにいると、不思議なくらい気持ちがやすらいでくる。昼寝でもしたくなるような穏やかさがある。森の空気がまろやかで、やわらかい光りに満ちている。深山幽谷のあの暗く湿った森ではない。かといって眩《まぶ》しいほどに陽《ひ》が射す高山の頂でもない。ブナの葉が太陽光を漉《こ》して、明るすぎない光りが眠気をさそってくる。「平和」という言葉を風景にすると、こういうものでもあろうかと思う。母のふところという陳腐な言葉がここでは生き生きしてくる。ブナの大木のそばに房状の白い花が明るく静かに咲いていた。  標高一五〇〇メートル、片側が大きな谷になっているところに出た。真正面に白山の主峰が見える。右に御前峰、左に大汝峰。御前峰の真下に残雪が光っていた。  小便がしたくなった。木蔭《こかげ》に入ってしようと思ったが、せっかくだから二つの峰を見ながら谷に向かって放尿したくなった。昔の山びとたちは山中で獲物があると男根を出して山の女神をよろこばせた、お礼申し上げたというではないか。私もこのブナの森をあるかせていただいたお礼に、お粗末ながら女神に一物をお見せ申し上げた。  放尿中、キョロンチーッと鳥が鳴いた。マミジロという奥山の鳥だという。山の女神に私のお礼心を伝える仲立ちをしてくれたのかも知れない。お叱《しか》りはなかったものと思う。生まれてからの数十万回の放尿のなかでも、とびきり爽快《そうかい》な放尿であった。  帰りの下り道、見上げるとブナの木の葉のあいだに青空がひろがり、まわりにエゾハルゼミが鳴き立てていた。上りのときはまだ早朝で彼らはねむっていたらしい。昼になり気温が上がってくると一斉《いつせい》に鳴きはじめる。ほかの鳥の声は消されてしまう。森はエゾハルゼミのにぎやかな声に満たされる。     3  私はふるさとの山、白山の隅《すみ》っこに登ってきたのだが、あのブナの森のやすらぎは、何かもっと深いふるさとの感覚を呼びおこすものだった。遠い先祖のところへ帰っていったような。  環境考古学者の安田|喜憲《よしのり》氏が、「東西二つのブナ林の自然史と文明」という論文に、つぎのように書いておられる。 [#ここから1字下げ]  日本列島では、一万二〇〇〇年前にはじまるブナ林の生育地の拡大によって示される海洋性気候の開始のなかで、最古の土器文化が出現する。日本列島が大陸から分離し、積雪量が増加し、日本独自の海洋的風土が形成されはじめるとともに誕生したこの最古の土器文化を、筆者は日本の文明の原点とみている。日本列島におけるブナ林の拡大は、日本の文明の原点ともいうべき最古の土器文化の誕生と密接にかかわっている。このことは日本の現在にまでつながる文明は、その出発の当初からブナ林と深くかかわってきたことを意味する(後略)。 [#ここで字下げ終わり]  白山のブナの森は、私にとって、そこがふるさとの聖なる山であることによって、ふるさとであると同時に、遠い祖先がそこにやすらぎ暮していたことで、やはりふるさとであったのだ。あの森のなかでのやすらぎは、ふるさとにいるやすらぎだったようだ。  遠いその時代の人びとも、おだやかな森でおだやかに生きていたのだろう。いろいろな動物や植物の一員となって、母なる森に抱かれていたのであろう。雪の森、芽ぶく森、花咲く森、青葉の森、黄葉の森、落葉の森のなかで、恋もし、子を育ててもいたのだろう。私の御先祖様は江戸初期より古くは辿《たど》れないのだが、そういう森に生きていた人びとの血が私の中に流れているような気がする。天正《てんしよう》年間に尾張の国から前田氏が加賀に入るけれども、私の家は武家ではない。だいたいが商家であったようだが、前田氏に従ってきた商人ではなさそうである。土着の民であったとすれば、古い土器文化の民の血を引いている可能性がかなり大きいのではなかろうかと思っている。  ヨーロッパのブナの森は、家畜を伴う農耕の拡大で、歴史時代を通じて破壊されつくしたという。いまあるブナの森は十九世紀以降、人間の手で再生させられたものと聞く。日本列島では、弥生《やよい》時代からの水田農耕によって西日本の照葉樹林は破壊されてきたけれども、東日本のブナの森は場所によっては明治の頃まで、あるいは高度経済成長期まで、森と人との共存をつづけてきた。山村というかたちで、つい先頃まで残っていた森の文化である。森を伐《き》り倒すのではなく、森と共に生きてゆく文化である。農耕民は森を伐り拓《ひら》いて農地を拡《ひろ》げてきたけれども山の民は森の恵みをクマやサルとわかち合ってきた。  安田氏は、さらにこう言う。 [#ここから1字下げ] ……高度経済成長期以降、八〇万年以上の永い永い歴史をもつブナ林が姿を消し、縄文《じようもん》時代以来六〇〇〇年以上の伝統を維持してきた日本の山村が崩壊していくなかに、筆者は日本の文化の深層を形成してきた自然—人間循環系に立脚した永続性の高い森の文化の崩壊をみた。 [#ここで字下げ終わり]  私は前に、松の緑は好きになれないということをエッセーに書いたことがある。それは理屈ではない感覚であり、松ぎらいは常緑樹への違和感にまでつながっている。伊勢神宮内宮の森なども、たしかに荘厳《そうごん》ではあるけれども、それが四季変わらぬ緑であることがうっとうしい。山の紅葉を見るときも、赤や黄に緑のまじるのが美しいとは思えない。全山が落葉広葉樹で、赤と黄だけの諧調《かいちよう》に燃えているとき、私は息をのんで見惚《みほ》れてしまう。  白山を遠望するふるさとの町は平地にあるのでブナ林はない。いちばん近いブナ林でも、大聖寺川の上流、坂下という標高二〇〇メートルのところまで行かなくては見ることができない。白山山系にはそういう低地ブナ林がところどころに存在するのだが、それにしてもブナ林は平地の町の暮しのなかにあるものではなかった。雪掻《ゆきか》きに使うコシキイタという道具がブナの一枚板でつくられていたというのは、あとで知ったことである。ブナ林のナラやクヌギで焼いた炭を使っていたけれども、その炭からブナの森を思うわけではなかった。だが、白山のブナの森で私は、ふるさとに安らぐ気持ちのなかにいた。なぜなのだろうか。そんな詮索《せんさく》は無用のこととも思えるのだが、私は自分がやはり山の民の末裔《まつえい》なのではないかという気持ちを振り切ることができない。  私は自分の育った環境が雪国であったことを、年とともに強く感じ、ふるさとは雪国、と思っている。とにもかくにも私は雪国に育てられ、そこから切れた自分は見つけることができない。そして、ブナは、雪国の木なのである。  今西錦司《いまにしきんじ》氏は、ブナ林を裏日本型を代表する森林と位置づけているそうである。すなわち雪国の森である。さきの安田氏によれば、晩氷期の一万二〇〇〇年前ごろを境として、日本海側の北は新潟平野から北陸、南は山陰東部にかけての多雪地域を中心にして、ブナの森が急増する。積雪量の増加がブナ林を発展させてきたのだという。その後ブナは東北地方北部や北海道にも拡がってゆくのだが、いずれにせよブナは雪と切り離せない樹木である。 「ふるさとはここにもあった樹々《きぎ》の肌《はだ》」(中沢春雨)という川柳がある。私はこの木肌を松や杉というふうには感じにくい。落葉広葉樹、とりわけブナの木の、苔《こけ》類を寄生させている白っぽい木肌を思ってしまう。その森で鳴きかわす鳥たちとともに。その森に積もる雪とともに。     4  千振尾根から市ノ瀬にもどり、Uさんの勤め先である白山自然保護センターへ向かう途中、白峰村でトチ餅《もち》を買った。  千振尾根でもトチの大木をずいぶん見かけた。沢にちかいあたりに多い木である。  ブナの森は木の実の森であり、だからこそたくさんの動物がそこに生きているのだが、なかでもトチの実は山村の暮しにとって大切なものであった。初夏に薄茶色の花を咲かせ、夏の終わりには実をつける。秋、熟した実が風で落ちるのを拾う。豊作の年、大きなトチの木は一本で三斗も四斗もの実をつける。村に近いところにもトチの大木があるのは、その実を採るために昔から木を伐らないできたからだ。  拾ってきたトチの実はすぐに水に漬《つ》ける。実のなかに入っている虫を殺すためである。数日水に漬けてから庭先にひろげて天日乾燥をして、叺《かます》や俵に詰めておく。昔は囲炉裏の上に吊《つる》していたらしい。こうして貯蔵すれば数十年も保《も》つので、安定した食糧源なのだ。  ただし、トチの実はタンニンが強いので食べるときには面倒な渋抜きをしなくてはならない。いろいろなやりかたがあるようだが、まず貯蔵してあったトチの実を湯に漬けて半日か一日置いてから皮を剥《む》く。水でやわらかくなった実を押木でつぶして一つ一つ皮を剥くのだから手間のかかる仕事である。それをまた数日水に漬けてから、最後に木灰汁《あくじる》に漬けて渋抜きする。ゆであげて臼《うす》で粉にひく。渋抜きをどのくらいするかで風味が変わるものだという。そのへんが冬の間の山村の女たちの腕の見せどころだったのだろう。(トチの実については宇江敏勝著『山に棲《す》むなり』と市川健夫著『ブナ帯と日本人』の記述を参考にした。)  ブナの森は木材を伐り出すための森ではなかった。なにより木の実の森であり、また、秋にはヤマブドウやアケビやグミなど野生の果実をみのらせる森であり、ワラビやフキなどの山菜の森でもあり、茸《きのこ》の森でもある。雪の下で育つブナの森の山菜はやわらかく水々しい。落葉が腐蝕《ふしよく》して良く肥えた土に伸び、雪に守られて育つからだ。森にはさらに薬草も生えている。蜂《はち》に刺されたとき、漆にかぶれたとき、切り傷をつくったとき、それぞれにそれぞれ山の薬があった。  そういう暮しの大部分が今ではなくなっている。だが、生活様式が変わったからといって人間はそう簡単には変わらない。戦後四十余年で子供たちの背丈が平均で十センチ以上も伸びたことには、人間とはそんなに単純なものだったのかとおどろかされるけれども、しかし、祖先から受け継いできた顔付きのようなものはやはり変わらない。今の時代の影響をそれなりに受けているにしても、山の民には山の民の顔付きというものがあるように思う。長い年月が生みだしてきた顔である。遺伝子のためだけではなく、たとえばブナの森の文化がつくってきた顔というものがあるのではないかと思う。  トチ餅を買った店の奥さんが、ハッとする美しい人だった。美しい、というよりも、なつかしい、と言うほうがあたっているのかも知れない。私をひきつける顔の人だった。こういうことを書くと一種の人種差別と受けとられかねないのだが、同じ加賀でも金沢で見る女性とはちがっている。人の顔がひとりひとり違うものであることは言うまでもないけれども、それでもいわゆる金沢顔というものはある。美しい女性がずいぶん多い。だが私はひきつけられることが少ない。美しいけれども、なつかしさに乏しいのだ。京文化がこの四百年ばかり金沢の町に浸み透《とお》り、その上に加賀文化をつくってきたのだが、それはおそらく森の文化から離れてゆく方向のものだった。二つの文化のちがいが、人の顔にもあらわれているような気がする。漠然《ばくぜん》とした感じにすぎないけれども、否定しきれないものがある。私のふるさとの町は加賀藩の支藩七万石の城下町であるが、本藩の城下町である金沢ほどには文化の洗練はなかった。金沢とは比べものにならないほどの田舎である。そのぶん、どこかに森の文化をとどめていたのではないかと思う。私が山村の女性のほうに感じるなつかしさは、ひょっとしたらそこから来ている。この稿のはじめのほうに古九谷に触れてすこし書いた。私が大聖寺藩の古九谷のことを一冊の本に書こうと思ったのは、森の文化にひかれたからだった。金沢の加賀文化とはまるっきり別の彩画磁器がなぜありえたのかを、私なりに探ってみたかったのだ。  雪は白峰にも降る、金沢にも降る、大聖寺にも降る、九谷にも降る。だが、その雪に向かう心のありかたは、それぞれ少しずつちがっている。白峰や九谷には多く降り、金沢や大聖寺には少なく降るという差異もあるけれども、もう一つそこに、森の文化とのつながりかた、あるいは森の文化との距離のとりかたが、それぞれの土地に違いを生みだしているようである。このごろはその違いが見えにくくなっている。だが、人の顔などに思いがけなく、その差異を見つけることがあるのだ。それを差別といって非難されれば仕方のないことだけれども、私はそういうところを手がかりに自分のふるさとを探し出して行きたい。ほかの人はほかの方法で探せばいいだけの話だ。  机の前でぼんやり煙草《たばこ》を吸っていると、窓の外、目の前のハナミズキにシジュウカラがやってきた。ハナミズキは今は裸木で芽がすこしずつふくらんできている。シジュウカラはまるっこいからだで忙しく枝うつりしてやがてどこかへ飛んでいった。  白山のブナの森にいた時間が、不意に強くもどってきた。あの森にもシジュウカラが枝から枝へ飛んでいた。ハナミズキとブナでは科からして違うのだが、どちらも高木の落葉広葉樹である。同じように滑らかな肌をしている。私はこれからもハナミズキを眺《なが》めながら白山のブナの森を思い出すことだろう。  私のハナミズキはまだ三メートルをすこし越えたぐらいの木だが、それでも二年前に植えたときに比べたら一メートルちかく伸びている。この木を植えるとき、植木屋と話し合ったのは、まず落葉してくれる木であること、できればすこしでも紅葉してほしい、ということだった。それで土地|柄《がら》などを考えに入れて選んでもらったのが、ハナミズキだった。  冬、東京にときおり雪の降るとき、この木の枝々が白くなってゆく。夜、机の上の電気スタンドを灯《とも》していると、暗闇《くらやみ》の中に雪で白いハナミズキだけが浮き出して見え、私は雪山の木々を思いおこす。  この木を植えてくれた植木屋は、四十すぎだっただろう、まもなく東京の家を売ってふるさとの北海道へ渡っていった。 [#改ページ]    賢者の栖《すみか》     1  数年前から、冬の秋山郷に行ってみたいと思っていた。信濃《しなの》と越後《えちご》の国境にまたがり鳥甲山《とりかぶとやま》(旧名は赤倉山)の切り立つ壁の下、中津川の川沿いに点在する秋山郷の村落は、平家の落人《おちうど》伝説のある雪深い山村である。江戸後期の人、越後の塩沢の商人で『北越雪譜』を刊行したことで知られる鈴木|牧之《ぼくし》(一七七〇〜一八四二)が、文政十一年の九月八日から十四日まで六泊七日で秋山郷を訪れてその紀行を「秋山記行」として書きのこしている。陰暦九月中旬はいまの十月下旬ごろだろうか、峰々に初雪の来るころだが里は晩秋の冷気が塩沢に倍しているとはいえ雪にはまだ早い。桶屋《おけや》の団蔵というのが秋山へ商いに行くと聞いて牧之が同行をたのんで出かけるのだが、この紀行を読むと、この季節の秋山郷へ入るのもほとんど冒険といえるほどの難路である。冬の秋山郷は雪国に住む牧之でも無理だっただろう。  だが私は、できることなら冬場に行きたいと思っていた。無雪期なら今は秋山郷であれどこであれ、くるまがどんどん入ってゆく。そういうときに行っても山村の元の暮しは見えにくいだろう。行くなら雪のとき。しかし、どうやって行ったらよいのか。輪かんじきか、シールつきのスキーを履いて、休み休み登ればいいかも知れないが、途中で吹雪にまかれでもしたら命を落すことになりかねない。やはり無理かなと思っていた。苗場《なえば》山系の神楽《かぐら》峰にスキーで登ったときなど、この向うの谷に秋山郷があるのだと思って目を凝らしたものだった。  秋山郷へ行かなければならない理由はない。だが、わけもなく惹《ひ》かれる土地というものがあるようだ。鈴木牧之によって知っただけのことだが、秋山郷は私にとって無性に惹かれる土地だった。どこか、幻の土地という感じがあるからだろうか。幻か現実か、行ってこの目で見てみたい、自分の足で歩いてみたい。  冬の秋山郷にバスが入るようになったという話を聞いた。秋山郷のどのあたりまで行けるのかは分からない。バス会社に電話をすれば分かることだが、そうしたくない気があった。とりあえず秋山郷の中程からやや上手にあたる屋敷という集落の宿だけをたのんだ。三月初旬、めったに客のない時期に、朝いきなり電話をかけてきて今日これから行くといい、交通のこともろくろく聞かない東京の男に、宿のおかみさんは少々おどろいたらしい。バス停まで迎えに出られるといいのだが人手がないので気をつけてきてくれるように、とのことだった。リュックをかついで家を出ようとしていたら、宿のおかみさんから電話がかかった。さっき言い忘れたが、宿の前の中津川に吊橋《つりばし》がかかっているから、くれぐれも気をつけて来てほしいという。  上越新幹線の車内で「秋山記行」を読み返した。  塩沢を夜明けに出立した牧之と桶屋は十二峠を「ひた登りに雲霧を掴《つか》んで攀上《よじのぼ》り」、数々の峠を上り下りして、こわれかかった橋をはらばいになって渡り、その夜は秋山郷の入口手前にある見玉《みたま》不動尊の近くの寺院に泊っている。  現代の私の旅程は、上野から上越新幹線で越後湯沢へ行き、バスで飯山線の津南《つなん》へ出、津南から秋山郷へのバスに乗り換える。まさか途中の見玉泊りにはなるまいが、もしそうなったらそれでも構わない。  牧之は翌朝、不動尊に詣《もう》でてから秋山の入口にあたる清水川原という村に至る。村といっても家は二軒である。家全体を茅《かや》で囲った草屋が中津川の岩と滝の激流沿いにかなり離れて建っている。桶屋の知合いの一軒に立寄って茶をよばれる。門口には三、四斗も入る大きな桶があって、栃《とち》の実を水に晒《さら》している。家のまわりに、粟《あわ》や稗《ひえ》が干してある。塩沢とは打って変わった山村の暮しだが、「夷《えびす》同様に」思っていた「秋山人」の人柄《ひとがら》は里と格別ちがってはいない。牧之は短冊《たんざく》に句を書いて、句の説明をした上で、茶の礼に置く。  村の近くは焼畑のあとで、大木がところどころに「さながら冬枯の如《ごと》く焼|灼《こげ》て」立っているが、先へ進むと「大樹|真暗闇《まくらやみ》に立并《たちなら》び、偏《ひとえ》に仙境《せんきよう》に入るが如し」という森のなかの細道になる。  三倉(現・見倉)に三軒、中ノ平に二軒、「ようち(来)なつた」と白木の栃盆に載せて茶をふるまわれ、椈《ぶな》や栃の巨木の横たわる山畑を横切り、谷に下り山に上りして、途中誰ひとり出会わぬまま大赤沢に入る。この村は九軒、うち二軒は土壁造りで裕福そうに見える。その一軒で子守りをしている八十余歳の老人のもてなしを受ける。老人の話では、自分の若いときとはちがってこのごろでは食いもんも贅沢《ぜいたく》になり、栃や楢《なら》の実よりも粟や稗を食う家が多くなった。これは困ったものだが、幸いにまだ古風が残っていて、酒や女色や博奕《ばくち》|なんず《ヽヽヽ》は知らぬ土地だという。ただし里の商人《あちんど》が入るようになって、その注文で奥山から木をえらんで伐《き》り出したりしている。幅二尺五寸もある松の巨木の無節の厚板が並べ干してあるのがそれだ。山村がすでに変わりはじめている様を牧之が書き留めている。人家の多いところから、いわば近代化がすすんでいるようである。この大赤沢に近い甘酒という家二軒の村では、ぼろ筵《むしろ》に坐《すわ》っていた留守居の女に会って、雪中などはさぞ淋《さび》しいことだろうと訊《たず》ねると、雪のうちは里から来る人は一人もない。秋田の狩人がときどき見え申すだけだという。甘酒村は今はもうないが、ここにまで遠く秋田マタギが足をのばしていたのだ。猟をする山民の行動範囲の大きさに改めて感心すると同時に、甘酒の村がやがて時世の移り変わりに取り残され消えていったのであろうかと、新幹線車中で「秋山記行」を読みながら、ちょっと辛《つら》い気がする。  窓外は雪景色になっていた。越後湯沢まで昔は夜行列車で夜明け前に着いたものだが、今は上野から一時間あまりだ。牧之がその日の夕方、二十八軒が山腹に点在する小赤沢村に入るところで、「秋山記行」再読を中断する。  湯沢から津南へのバスまで一時間ばかりあるので、駅前食堂で早い昼食をとる。  津南まで一時間余りのバスは、人家の少ない丘陵の間の雪道を行く。途中で、牧之が塩沢から見玉へ向かった道とどこかで交っているはずである。雪国育ちの私は人家の見えない雪の山野を目にして、すっかり落着いてしまう。ふるさとにいる気持ちの、一種の幸福感に満たされる。  津南に着くと、秋山郷行きのつぎのバス(日に三便の終便)まで四時間あった。バスの車庫で運転手たちとストーブにあたっていると、近くにクアハウスがあるから入って時間をつぶしてこい、くるまで送ってやると言う。帰ってくるときのバスの時間も教えてくれた。  クアハウスから帰って乗り込んだのはマイクロバス。見玉を過ぎるころには乗客は四、五人に減り、はじめのうち見えていた苗場山が近くの山々にさえぎられて見えなくなる。ときおり前方に鳥甲山の壁が見えてくる。バスは融雪水が急流になって流れる川のような道をぐいぐい登ってゆく。大赤沢では日が暮れ切った。残った客が一人二人、運転手に「ありがとう」と声をかけては降りてゆく。どこでだったか、白いヤッケに白いゴム長の若い女が降りぎわに運転手と立話をした。見ると女優のAKにそっくりだった。色が白く、それでいて野性が内を満たしているような、しなるようなからだつきの美しい女だった。  鈴木牧之も小赤沢で美女に出会っている。二十八軒のうちの、この村に稀《ま》れな壁のある家にたのんで泊っているのだが、大きな割木を燃やしている炉ばたで、この家の三人の女のうち二人の美貌《びぼう》におどろいている。髪に油はつけていないし、着ている物も裾《すそ》の短い山着の上に網状の袖《そで》なしを重ねているだけの粗末なものだが、「肥太《こえふ》とりたる於多福《おたふく》」を別にすればあとの二人は、「里にも稀なる面《おも》ざし」の婦人である。「実にや玉簾《たますだれ》の内に育《そだち》し王后も|※[#「白/八」]《かお》に醜あり、譬薦垂《たとえこもだれ》の中に生れても艶《みやびやか》ある諺《ことわざ》の如く」と最大級の讃辞《さんじ》をつらねている。  小赤沢の食生活や住居の造りや住み方などを牧之はさながら文化人類学者のように記録しているのだが、合わせて税のことも聞き出している。代官へ上納するのは穀物ではない。このあたりでは|※[#「金+斯」、unicode9401]役《かんなやく》といって、木工品を税として納めているという。この家の場合、村で割当てられた盆を十枚つくって出すのが「一年中の勤め」ということである。さわらの白木で手細工で大きな盆をつくり、それを春ごとに上納すればよい。  木工品は、租税用だけではない。木鉢《きばち》や木鋤《こすき》などを雪のうちに作って、季節のいいときに里へ売りに行く。ただし疱瘡《ほうそう》のはやっている里にはおっかなくて売りに行かない。出かけなくても秋には干茸《ほしきのこ》などを買いに来る商人がいるから、それに売ればいいわけである。  秋山では、九尺二間でも家さえ作れば、そのまま百姓になれるという。山を拓《ひら》くのは自由である。焼畑耕作というのは、隣りの家との地所争いのようなケチなことのない農業である。  森林を畑にするには、前の年、手すきのときに小さい木を伐り捨てにしておき、斧《おの》も及ばぬ大木は、太いところの皮を剥《は》いでおいて立枯れにさせる。木の根を斧で傷つけておいてもいい。そうして翌年春、雪が消えて日和《ひより》が続いたころに風上から火をつけると、伐り倒しておいた小木がたきつけになって一面に火がひろがる。火は立枯れの大木の枝まで燃え上がるが、生木の大森林のところで止まる。「此《この》灰がこやしと成り、其《その》年稗を蒔《ま》き、其翌とし粟、其又翌年|荏《まめ》、又翌としより順々に、粟|或蕎麦《あるいはそば》、又ハ大豆、何《いず》れ粟勝ちに作る事十年、又ハ地元|能《い》い処《ところ》ハ十五七年」も作ると土壌が痩《や》せてくるので捨てておき、自然に茅野《かやの》になるのにまかせる。人口が少ないから茅野を刈り取って使うようなことはしなくていい。毎年茅が寝倒れて、十年ばかりしてその茅野に火をつけると茅の灰がこやしになってまたいい畑になる。  秋山一帯どこでも家の戸じまりの必要がない。盗人が家に入ったことも、畑のものを盗《と》られたということもない。境界争いの訴訟などもなく、博奕も酒も色事もない。お追従《ついしよう》を言うようなこともない。牧之は秋山の暮しを見て、「中々里人の及所《およぶところ》にあらずと、感歎骨に刻み、心《きも》に銘じ」て、「実に知足の賢者の栖とやいはん」と誌《しる》している。  衣食住ともに見かけは粗末で野卑だけれども、秋山郷こそが「賢者の栖」である。牧之の住む塩沢も江戸のような大都市から見れば片田舎に過ぎないのだが、その小世界にもしょっちゅう愚かな争いが起こっている。秋山の村々はそれに比べて、いわば桃源郷というべきだろう。寝床の荒さ、夜具の小ささに閉口しながらも、牧之は山村の暮しと人情に初めて触れて驚嘆している。 「賢者の栖」を支えているのが、村々をとりまく大森林である。焼畑もその果てしない森があってこそなのだが、「秋山記行」に誌されている暮しのすべてが、森あって営まれている。「賢者の栖」は、森の民、木の民の栖であった。  牧之はその森をさらに奥の村々へと入ってゆく。上ノ原、和山《わやま》と中津川の東岸を辿《たど》り、川を渡って対岸奥の湯本(現・切明《きりあけ》)に入り、中津川西岸の屋敷《やしき》、前倉、上結東《かみけつとう》などの村々を経て見玉にもどるという旅程である。     2  屋敷入口のバス停で、村の男が一人と私とが降りると、バスは空になった。  星空の雪道を、村の男と連れだって中津川のほうへ下ってゆく。彼は四十前後の男である。五、六月|頃《ごろ》から山仕事をするけれども今は暇だから毎日遊んでいるという。下り道が凍結していて滑る。彼に見ならって道端の雪の上を踏みしめて下りる。彼が対岸の山を指して、その山で熊獲《くまと》りの勢子《せこ》をした話をするのを聞きながら、やがて分かれ道に出る。彼は下手のコンクリート橋を渡って村へ登る。私は上手の吊橋を渡って宿のS館に入る。  雪除《ゆきよ》けの小屋をくぐって吊橋に足をかけると、ぐらりときた。牧之は秋山郷の橋に何度か冷汗を流している。「匍匐《はらばい》、中程になり、橋ハ頻《しきり》と震ひ、冷汗流れて顔をひたし」という有様である。そのころの橋にくらべれば私の渡る吊橋はよほど上等であるにちがいないのだが、星空とはいえ闇のなかのこと、腹式呼吸を二、三度するまでは足が出てくれない。橋の床は網状の鉄でできていて下の流れが、仄白《ほのじろ》く見えている。両|脇《わき》のワイヤーを左右の手でつかんで渡ったが、張ってある薄手の金網がほうぼうで大きく破れているのが心細い。  地元で十三万の仏岩と呼ばれてきた岩だらけの鳥甲山を背にするS館に辿り着くと、「まあまあ、よう来なった」と、おかみさんが迎えてくれた。三月十九日になるとイワナが解禁になって釣《つ》りの客が入ってくるのだが、今はまだ客はない。この日の客は私ひとりだ。  兎《うさぎ》の肉と野菜のごった煮がうまい。自家製のどぶろくをいただいた。これはサービスでお代はいただきませんというのは、酒税法への気がねでもあるが、おかみさんの気持ちでもあっただろう。牧之は訪ねる家々で茶と食べものの接待を受けて、「秋山は飲食共に里地よりも多き所」のようだと書いている。山の民のホスピタリティーというか、旅の客をもてなすこと篤《あつ》いのだ。  おかみさんの話では、このごろは昔に返ってキビやソバを作っているという。出稼《でかせ》ぎも七、八年前からなくなった。茸や山菜、兎や熊、川の魚と、食べるものは山にいくらでもある。燃料も薪《まき》がたっぷりある。薪ストーブは火勢が強くて暖かい。なにも出稼ぎをしなくても、現金はそんなにたくさん要らない土地なのだ。いっときは誰も彼も出稼ぎに出たものだったが、出稼ぎをやめてみたらそれで結構暮してゆけることに気がついた、そして、このほうが幸せだと知った、ということらしい。困っていたらみんなが助けてくれる土地だという。バスを降りて連れになった男が「遊んでいる」と言ったのは、つまりそういうことなのだ。牧之の言う「知足の賢者の栖」が、高度成長期が終わってからすこしずつ戻ってきているらしい。  屋敷には温泉が出ている。さらさらと肌《はだ》を滑る湯だ。村の人たちも貰《もら》い湯に来るそうだ。  おかみさんが和山の民宿をたのんでくれた。私が、明日はなるべく秋山郷の奥のほうに泊りたい、木鉢を彫るところも見たいと言って、宿をさがしてもらったのだ。冬場のことで、客を入れている宿はあまりないのだが、和山の民宿Y荘が引き受けてくれた。和山は木鉢づくりの家の多い村で、Y荘でも木鉢を彫っているということだった。  翌朝、晴れ渡ってまぶしい雪を踏んで、秋山郷民俗資料館を訪ねた。資料館といっても、民宿が旧屋に古い生活道具を雑多に置いてあるだけのものだが、私が道に迷い雪に足を踏み込みながら着いたとき、民宿のご夫妻は出かけるところだった。切明にある村営の保養センターで木工品の展示会があるので、冬の間に作った物を軽トラックで運びに行く。それではと辞退したのだが、どうぞゆっくり見ていってくださいとのことで、これも山のもてなしと、ありがたく靴《くつ》を脱いだ。  石臼《いしうす》と鉄瓶《てつびん》、鉄鍋《てつなべ》のほかはほとんどが木で作った物である。臼と杵《きね》や除雪用のコシキ板などもなつかしいが、私の目をひいたのはスキーの板だった。  たぶん雪掻《ゆきか》き板と同じくブナの木で作ったものだろう。金属エッジなど付いていない一枚板の手作りのスキーに、スッポンと呼ぶ藁《わら》の雪ぐつが留めてあった。資料館の奥さんの子どものころ、こういうスキーで学校へ通ったという。彼女のスキーはおじいさんが作ってくれた。スキーの形ができ上がると、先端部を熱湯に浸けて木を柔かくして、二本の板をしっかり縛ってから先端を開いて当て木を入れ、一週間ばかり置くとトップベンドのあるスキー板になる。蝋《ろう》を塗り、雪ぐつを留めるためのコの字型の鉄板を打ちつければ出来上がりだ。ゴム長で履くとすぐにはずれるので、スキーにはいつも藁のスッポンだったという。  子どもたちはみんな、祖父や父が作ってくれたスキーを履いて通学していた。小学校は屋敷にあるが、奥の和山の子らも川原の雪の上を滑ってきた。授業が終わると和山の子どもたちは掃除当番を免除されて早帰りした。またスキーを履いて和山まで登ってゆく。  スキーを作るのは高度な技術である。平らな板を挽《ひ》くのではスキーにならない。中央部の厚みからトップとテールへ向かって次第に薄く仕上げて行くのも、スキーに回転性能を持たせるための側面のわずかなカーヴをつくるのも、トップベンドの角度を決めるのも、精緻《せいち》な技倆《ぎりよう》をもとめられる。  男たちが子や孫のスキーを作った裏には、それだけの木工技術があったということだ。鈴木牧之が訪ねた秋山郷にすでに、木鉢や折敷《おしき》、曲げものの技術が根づいていた。いま五十代前後の秋山の人たちが子どもの頃に履いたスキーは、秋山に伝わった木工技術の集大成といった感じがある。最近は木工品に民芸の味が要求されて、木鉢でも手斧《ちような》の跡が残っているほうが喜ばれるようだが、かつての秋山郷の木工品は雪のあいだにたっぷり時間をかけて磨《みが》きぬかれた精緻を誇っていたものであろう。器用な男たちは家で使う物もほとんど自分で作っていたという。  山は技術の源でもある。木工の技術を持っていた専門集団が木地師《きじし》たちであった。木地師たちは山をあるいて木に関する知識を蓄積し、木から物を作り出す技術を育ててきた。縄文《じようもん》時代の早くからすでに高度なものであったと見られる木材の加工技法は、農業技術とは別のところで、この列島の技術文明の源をつくってきたと言えるだろう。私のふるさとの山に真砂《まなご》という木地師村がある。白山山系の大日山《だいにちざん》に深く入った村で、今は廃村が心配されているが、この村の木地師たちの技術が伝えられて山中漆器が生まれたのだと言われている。山中町には今日も数十人の木地師がいて、その製品は輪島漆器にもなっている。私はあるとき山中塗りの名人の仕事場を見せてもらって、その精妙な轆轤《ろくろ》技術に息を飲んだことがある。あの技術も、その背後にある膨大な木の知識も、その源は大日の山にあるのだと思う。  秋山郷民俗資料館を辞去して、雪道を橋のところまで下ってくると、うしろから来たくるまが私の横で止まった。資料館の夫妻が展示会へ出かける軽トラックだった。よかったら和山まで乗って行かないかという。荷台の上は寒いけれど、通り道だから、ということだったが、私は景色をゆっくり見たいのでと、ご遠慮して、和山へ向かってぶらぶら歩いた。  鈴木牧之と桶屋はこのへんで道に迷い、岩角や枯木にすがって、ようよう上ノ原に辿り着いたようだが、私は氷化した雪で滑って転ぶのだけ気をつければ、古い形容だが峨々《がが》たるというのがぴったりの鳥甲山の荒々しい雪景を眺《なが》めながら散策できる。  谷をはさんで鳥甲山を見る道端の雪に腰をおろして、リュックを背もたれにして煙草《たばこ》を吸っていると、ここでしばらく昼寝をしたい気にもなってくるのだが、これから向かう和山についての「秋山記行」の記述を思い出すと、ひとりでに笑いがこみ上げてくる。  上ノ原を過ぎ「茫々《ぼうぼう》たる茅野」に大木の朽木の立つ原や、「朦朧《もうろう》たる大樹原」を通って、まばらに家五軒の和山に着いた牧之は、その一軒でよばれた茶のまずさにがっくりするのだが、粗末な家に粗末な着物の、その家の主婦らしい三十ばかりの女について、「其|容勝《かたちすぐ》れ、鼻|程能《ほどよ》く高く、目細う、蛾《が》に似たる黛《まゆずみ》、顔ハ些《いささか》日黒むと見ゆれども、鉄水《かね》附ぬ歯は雪よりも白く、若人ハ一目に春心も動かす風情《ふぜい》、宛泥中《さながらでいちゆう》の蓮《はちす》の如く、雨に綻芍薬《ほころぶしやくやく》に似たり」と賞《ほ》めちぎり、彼女をたたえる七言絶句を三篇も作っている、その一方で、もう一人の若い女については、同じ平家でもあの板額《はんがく》の血を引いているのか鼻は低く頬骨《ほおぼね》が高いといって、「此《この》評ハ略して具《つぶさ》に記さず」と切り捨てているのだ。  六十に手のとどく牧之が女性の容貌の美醜に並々でない関心を持っているのもおかしければ、醜女《しこめ》については言葉を費すのも嫌《いや》だというのが、なんともおかしい。  牧之は言外に、平家の血が美人を生みだしていると言いたげであるが、美人はやはり血筋が生むものなのだろうか。山の道でリュックを枕《まくら》に煙草のけむりを吐き出していると、いや、むしろ美人は文化のつくりだすものではないかと思えてくる。「賢者の栖《すみか》」を現前させる文化が、ついでに美人を造型したのではないか。とすれば、「賢者の栖」を支えたもの、すなわち森が、木が、美人を生んだということになる。強引な考えだとは承知しながら、私をとりまく山々がそれを証明しているような気もしてくる。  和山が近くなるとひろびろとした雪原に出た。大きな木が一本立っている。根もとに祠《ほこら》があって、半ば以上雪に埋もれているのを覗《のぞ》きみると、「栗《くり》地蔵」の字が読めた。秋山郷案内図の説明によると、昔ここに石地蔵があって傍《かたわら》に栗の巨木が立っていた。その栗の木を伐って持ち出した里(小千谷《おぢや》)の男がいた。男は眼《め》を患《わずら》い、治療の効なく、易を立ててもらうと栗の木の祟《たた》りだと言われた。男が伐ってきた栗の木で地蔵尊を彫り、元の場所に小堂を建てて祀《まつ》ったところ、たちまち眼病が治ったという。  いま地蔵堂を覆《おお》って立つのは朴《ほお》の木であるが、ともあれこの話は、木の霊力を語るものの一つである。山に住み木の恵みで生きる人びとの間には、どこでも強い樹霊信仰がある。木はその人びとが敬虔《けいけん》な心で伐るときには祟らない。山の掟《おきて》を知らぬ他所者《よそもの》が勝手に伐るときに祟るのだ。     3  Y荘の三十代後半のご主人は、この日、朝から兎|獲《と》りに出かけていた。こんな天気のいい日は家にくすぶっているのはもったいないと、雪山にさそわれてゆくのだ。獲ってきた兎はもちろん食肉になるけれども、兎獲りは経済活動とは言えない。明るい雪の山野を駆けまわる楽しみが第一で、獲物は二の次である。仲間四人で熊獲りに行くこともある。一日で四キロも痩《や》せる。だが、それを労働とは思っていないから、獲った熊で儲《もう》ける気は仲間の誰にもない。熊の胆《い》は高価なもので、一つが百万円、二百万円にも売れるのだが、売って金にする気はない。大事に干し上げた熊の胆は、自家用に使っている。宿酔《ふつかよい》などすぐ消えるという。熊を獲りに行く日は熊の胆を飲んで元気をつけて行くという話に、  ——それじゃ、熊はたまらない。  と大笑いになった。  とにかく雪のうちは、そうやって遊びまわっているという。ことに三月は天気もいいので出あるく人が多い。私は前に富山県の山村で、深雪の二月、腰皮をつけ輪かんじきを履いた若者たちが兎獲りをしているのに出会ったことがある。楽しそうだった。夜は獲物の兎で青年団の宴会をやるのだと、その夜の楽しみを語っていた。Y荘主人もこの日の夜は村のあつまりだということだった。冬のあいだは、あつまりが多い。何だかだと名目をつけてあつまるのだ。労働や冠婚葬祭よりもむしろ遊びのなかで、山村の共同体が保たれているのではないかと私には思える。  翌日の午前中、木鉢づくりを見せてもらった。栃の木で尺三、尺五といった直径の木鉢を刳《く》り出す。尺三は三十九センチ、尺五は四十五センチだから、かなり大きい木鉢だ。白木のまま蕎麦やうどんのこね鉢に使う。散らし鮨《ずし》をつくるときにも使えるだろう。去年は四十個つくったが泊りにきた客に夏には全部売れてしまったので、今年は六十個つくるという。冬のあいだ天気が荒れて出かけられない日にぼつぼつ作り、あらかたは仕上がっていた。  大まかに型どりをしてある栃の木を両|膝《ひざ》にはさんで、鉢手斧《はちちような》をふるって荒刳《あらぐ》りする。湿りを持った木屑《きくず》がとぶ。鉢をまわしながら刳ってゆく。鉢の内側のかたちがととのったところで、前ガンナで仕上げる。前ガンナは五十センチばかりの柄《え》の先に十数センチのゆるいカーヴのある細刃が付いた道具である。柄の上部を左手で、下部を右手で握って、刃を前に押しながら薄く削り出してゆく。刃の切れがいいときは、削りあとがしっとりしている。切れがにぶくなると、乾いた感じになる。そうなったら、砥石《といし》で丹念に刃を研ぐ。いくつもの砥石が手斧用、前ガンナ用とそれぞれ使いやすい形にして、脇の空缶《あきかん》に水を張って入れてある。水が凍っていたので、薪ストーブの上に乗せて融《と》けるのを待った。  そのあいだに話を聞く。祖父の使っていた前ガンナがいちばん使いやすいという。最近の前ガンナの柄はまっすぐだが、祖父の残した前ガンナの柄は木の枝を皮をはいだだけで使っているので、ゆるやかな曲りがある。これが刃の方向を安定させるのに具合がいいということだ。昔の人の知恵ですよ、という。使いこまれた柄は、艶《つや》があって、いかにも手になじむ感じだった。  前ガンナは刃のカーヴを変えたものが三本。その一本が祖父からのもので、あとの二本は自分の作る木鉢にいいカーヴを割り出して、鍛冶《かじ》屋に打ってもらったものだ。  刳りのカーヴに合わせて前ガンナを替える。内側が仕上がると、外側をまず電気ガンナで荒削りするのだが、その前に、鉢全体の円型をたしかめる。栃の原木から輪切りに取っているのではなく縦に取っているので、木の収縮に方向性がある。だから正円で作っておくと乾いたときに歪《ゆが》んでしまう。わずかに楕円型《だえんけい》に仕上げておいて、乾き切ったとき正円になるようにするのだ。  外側の仕上げは木台のついた二丁のカンナを使う。大工さんのカンナに似ているが、刃は木鉢用のカーヴを持っている。この仕上げガンナのときが苦しい。ひとけずりごとに、ウッウッと喉《のど》の奥で声を出し、額から汗が流れ出す。  木鉢はいま蕎麦屋からの注文もあるが、多くは観光客が買って帰る。実際に使われているかどうかは分からない。民芸品という飾りものになっているかも知れない。だが、それでも家のなかにこういう木の道具があるのはいいものだ。白木のままの木の道具は、塗装されたものとちがって、山が育てた木というものを直接に感じさせてくれる。自然と人間とのつながりを日々手に触れさせてくれる。  鈴木牧之は「秋山記行」の末尾に、「秋山の評」を書き、自然のなかに営まれている秋山郷の暮しを賞讃している。  例として上結東村で会った老人を挙げている。七十九歳で病気知らず、髪黒々として歯も奥歯一つを欠いただけであとは白く、毎日山畑に出て働いている老人である。二十九軒のこの村に、八十を越えて元気な老人が四、五人もいて、最近九十八で亡《な》くなった長命の人もいたことを誌し、この秋山こそ「神代の長寿」を保っている土地である、これはひとえに「天賦《てんぷ》を自然に守」ってきたゆえであるとしている。「天より給《たまわる》る所の此地の産物」すなわち栃の実、楢《なら》の実、粟、稗などを食べてきたのは、「自仙術」を学ぶのと同じで、しかも色欲や飲酒におぼれず、「正直一遍にして、夜戸さゝず」の暮しである。山畑にはたらき山野に生きる秋山の人びとは、男も女も「自然に仙境に生れた人のごとく寿《よわい》ハ長しとかや。」  牧之が秋山郷で会った老人のような元気な老人に、私はしばしば小さな島で会っている。或《あ》る島では九十二歳の老人と話していて、私はあとで年齢を聞くまで、七十前後と思い込んでいた。同じ島の九十六歳の男性は、私などより健脚のようで、月に一度は上り下りのある島の道をおよそ二十キロ、お大師さん詣《まい》りで一周しているという。  島と山村は似ている。牧之が書いているように、自然に抱かれて生き、犯罪がないので鍵《かぎ》が要らない暮しである。自然から与えられる物が多く、生活のかなりの部分が自給自足である。それが長寿と健康を支えている。文化の自立性がつよく、それが他地からは異質なものと見える。  島という言葉は、もともと、海にかこまれた陸地だけを指すものではないらしい。『大言海』は、「四面、局《カギ》ラレテ、狭《セマ》、又ハ、締《シマ》ノ義」としている。海にかこまれた土地も山にかこまれた土地も、どちらも「シマ」である。柳田国男《やなぎたくにお》の『島の人生』自序は、「美濃の東南部の山村をあるいていた際に、島内安全という文字を彫刻した路傍の立石を見たことがある。島はあの辺では民居の集合、今の言葉でいう部落又は大字《おおあざ》のことであるらしい。」と書き出されている。  まわりをかこまれているということは、他地との往来が少ないということである。島は海路で遠方とのつながりを持つし、山村も秋田狩人が秋山郷に入ってくるように尾根で遠地とつながってはいる。しかし、どちらも、普通の人びとがぞろぞろ出入りする所ではない。武陵桃源がその入口を鎖《と》ざしていたほどではないが、そこへの通路が限られていることによって、どちらも牧之のいう「仙境」でありえたのだろう。他所者の目に幻かと思える「仙境」である。  マイクロバス一日三便という数は、「仙境」を壊すか、保つか。たぶん大丈夫だろう。自動車も入る。だが険路である。途中でおそれて引返すくるまもあるくらいだから、大量に入ることはあるまい。  私はこの旅で、森を、木を見た。木工も見た。だがそれ以上に、木に生かされている「仙境」あるいは「賢者の栖」を見たのかも知れない。冬場だったから、百六十年前の鈴木牧之の旅に、すこしは近かっただろう。 [#改ページ]    木は水に浮く     1  木を運ぶのは水である。  建築家の磯崎新《いそざきあらた》さんが或《あ》るゴルフ場のクラブハウスを設計したとき、エントランス・ホールに大きな杉丸太の柱を四本、諏訪大社《すわたいしや》の御柱《おんばしら》のイメージで立てた。その立柱式の日に磯崎さんと現場で会って、現代建築のなかに巨木を組み込む試みの意味や、四本の巨木が建築にたずさわる人びとのなかに呼びおこした常ならぬ興奮など、いろいろ話を聞いたのだが、そのときの話で磯崎さんが写真まで持ち出して説明したのが、木を運ぶむつかしさだった。巨木の陸送は、昔も今も大仕事である。現代の技術がつくりだしている特殊大型の運送|車輛《しやりよう》をもってしても、予想を上まわる苦労があったという。直径九十センチ、長さ二十一メートルの杉を四本見つけだすのも大変だったが、それだけの丸太を運んでくることができるかどうかが、この建築の成否の鍵《かぎ》であったということだった。  木は重い。大地に立っている木は軽々と空へ伸び、しなやかに風に揺れ、重さを感じさせないが、伐《き》り倒された木は実に重い。ドバと呼ばれる貯木場に積んである木を押してみるといい。見た目ではすこしぐらい動きそうな木でも、びくともしない。だが、木は水に浮かぶ。水に浮かんでいる木なら、私の力でも動かすことができる。川の流れに浮かべれば、押さなくてもひとりでに流れてゆく。 [#ここから1字下げ]  軒をあらそひし人の住居《すまひ》、日を経つつ荒れゆく。家はこぼたれて、淀河《よどがは》に浮び、地は、目の前に畠《はたけ》となる。 [#ここで字下げ終わり]  言うまでもなく、『方丈記』の福原遷都《ふくはらせんと》の条《くだり》である。治承《じしよう》四年(一一八〇年)の六月、平清盛《たいらのきよもり》が摂津国《せつつのくに》福原へ都を移した。京の都から福原へ人びとが移住してゆく。人びとは京の家を解体して筏《いかだ》に組んで新都福原へと流送した。その筏がおそらく鴨川《かもがわ》から淀川へと流され、大阪湾を経て今の神戸まで運ばれたものだろう。鴨長明《かものちようめい》はどうやら好奇心の強い人であったようだから、わざわざ淀川に浮かぶ筏群を見に行ったらしい。 [#ここから1字下げ]  日日にこぼち、川も狭《せ》に運び下《くだ》す家、いづくに造れるにかあるらん。なほ空《むな》しき地は多く、造れる屋は少《すくな》し。古京はすでに荒れて、新都はいまだ成らず。 [#ここで字下げ終わり]  広々とした淀川もせまく思えるほどに大量の筏が水面を埋めていたが、長明が新都福原を見に行ってみると、まだ家はすこししか建っていない。また、まもなく同じ年の冬、都はもとの京に帰るのだが、解体した家々はどうなったものか、どうもはっきりしない。「こぼち渡せりし家どもは、いかになりにけるにか。」  素人《しろうと》の推測を言わせてもらえば、突然の遷都で建築職人の手が足りなかったこともあるだろうが、家を解体して流送した木材が途中でなくなってしまったのも多いのではないだろうか。筏の流送には熟練した技術が要る。公卿《くぎよう》の家の下僕《げぼく》など、にわか仕立ての筏師では無事に運ぶのはむつかしいだろう。淀川を下るのはなんとかなっても、大阪湾の海で筏を失うことが多かったのではないか。湾内といえども風のある日は、高波にさらわれてしまう。  ところで古代の都は転々と移っている。主に奈良盆地から飛鳥《あすか》地方にかけて、天皇が代替りするたびに都が移されていた。ときには一代に二回、三回という移動もあった。やがて、持統《じとう》・文武《もんむ》・元明《げんめい》の三代が橿原《かしはら》の藤原京に落着くのだが、それとても僅《わず》か十六年間のことで、和銅《わどう》三年(七一〇年)には平城京への遷都が行なわれる。その後は恭仁《くに》京、紫香楽《しがらき》京、難波《なにわ》京への遷都を間にはさんで、大まかには平城京の時代がつづき、長岡京を経て、延暦《えんりやく》十三年(七九四年)の平安京への遷都によって、ようやく都が一つの土地に定まる。  その間、飛鳥周辺の山々が荒らされつづけた。遷都のたびに建築用の大量の木が伐り出され、また、日々の薪《たきぎ》として森林が利用された。只木良也《ただきよしや》著『森の文化史』に、その飛鳥時代の森林破壊が指摘されている。飛鳥周辺の山々は、「水源の森林が木材や燃料材の供給源となり、森林が荒れていくのにともなって、水源の森林には保水力がなくなり、下流に水害をもたらし、また同時に、荒れた森林からは土砂が流れ出したのである。」  飛鳥川は洪水《こうずい》のたびに流路を変えた。   世の中はなにかつねなるあすか川きのふのふちぞけふはせになる  古今集巻十八の読人しらずの歌が、土砂が流れて川底の形が変わり、川の流れが変わる有様を示している。只木氏によれば、当時はまだ治山治水の技術がなく、大和一円に洪水防止のため森林の伐採禁止令が出されるのは都がすでに平安京へ移ってからの弘仁《こうにん》十二年(八二一年)のことであったという。  奈良・飛鳥のまわりの山々は、そのくらい荒れていた。新都を造るといっても、近くの山々からは良材が集められなくなっていた。そこで建築材の供給源となったのが、琵琶湖《びわこ》沿岸の森であった。ことに湖の東南にあたる田上山《たなかみやま》一帯の檜《ひのき》であった。琵琶湖から奈良・飛鳥までは遠い。しかし、淀川水系の瀬田《せた》川、宇治《うじ》川、木津《きづ》川を使えば、奈良盆地まで運んでくることができる。この水の道がなかったならば、藤原京も平城京もその都市建設はひどく困難なものになっただろう。  万葉集巻一に、「藤原の宮の役《え》に立つ民の作れる歌」がある。藤原京造営に徴発されて田上山の木の運送に従事した役民の歌である。 [#ここから1字下げ]  やすみしし わが大王《おほきみ》 高照らす 日の皇子《みこ》〔持統天皇〕 荒細《あらたへ》の 藤原が上《うへ》に 食《を》す国を 見《め》し給はむと 大宮は 高知らさむと 神《かむ》ながら 念《おも》ほすなへに 天地《あめつち》も 寄りてあれこそ 石走《いはばし》る 近江《あふみ》の国の 衣手《ころもで》の 田上山《たなかみやま》の 真木《まき》さく 檜《ひ》の嬬手《つまで》〔檜材〕を もののふの 八十氏河《やそうぢがは》〔宇治川〕に 玉藻《たまも》なす 浮べ流せれ そを取ると さわく御《み》民も 家忘れ 身もたな知らに 鴨《かも》じもの 水に浮きゐて わが作る 日の御門《みかど》に 知らぬ国 寄り巨勢道《こせぢ》ゆ わが国は 常世《とこよ》にならむ 図《ふみ》負へる 神《くす》しき亀《かめ》も 新代《あらたよ》と 泉の河〔木津川〕に 持ち越せる 真木の嬬手を 百足《ももた》らず 筏に作り 泝《のぼ》すらむ 勤《いそ》はく見れば 神《かむ》ながらにあらし [#ここで字下げ終わり]  遠く近江の琵琶湖畔から藤原京の造営のために大量の檜材が川をつかって運ばれるさまを歌い、そこに立ち働く人びとを歌い、これほどの大仕事がなされるのは偉大な天皇の神性のあかしであると讃《たた》える長歌である。  田上山から伐り出された木材は、瀬田川、宇治川と流送された。瀬田川から宇治川へと途中で名は変わるけれども、一本の川である。役民たちは家のことも自分のことも忘れて、流れてくる木材を取りあつめる仕事に熱中する。木材は宇治川から巨椋《おぐら》池に入れられ、ここに流入している木津川に移されて、筏に組んで川をさかのぼり、木津で陸上げされる。木津から奈良盆地までの数キロは陸送になるが、ふたたび佐保川の流れに乗せて下らせ、大和川との合流点で飛鳥川へ移し、その水路をさかのぼらせれば藤原京に運ぶことができた。  藤原京も平城京もこの水系のおかげで建築用材を求めることができた。だが、田上山は荒れた。どれだけの木が伐られたのか詳しいことは分からないが、何もなかったところに新しく都市をつくるのだから、木材消費量の大きさは想像を越えるものだっただろう。万葉集の右の役民が、天も地も天皇の威光に共々に仕えていると感じるほどのものであった。  田上山は二つの都の造営で荒れたあとも、琵琶湖周辺の寺院|建立《こんりゆう》や京都のいろいろな建築のために、檜の伐採がつづいた。これも只木氏によると、戦国時代の乱伐はことにひどく、風化の進んだ花崗岩《かこうがん》の山である田上山の伐採跡地は侵食で地肌《じはだ》がむきだしになり、植生回復の力を失ってしまった。のち江戸中期になって、将軍|綱吉《つなよし》の時代に砂防植栽が行なわれ、また明治政府の招いたオランダ人デレーケによって、大がかりな砂防植栽が行なわれるのだが、田上山は今もなおまだらに剥《は》げた山であり、森は生き返っているとは言えない。     2  大津から乗ったタクシーの運転手に、田上山へ行ってほしいと言うと、はじめはちょっと首をかしげていた。このごろでは「湖南アルプス」といういかがわしい名前のほうが通りがいいらしい。「はげ山」を見たいのだと言うと、「湖南アルプスですな」という答がかえってきた。  琵琶湖から流れ出ている瀬田川は、水量のゆたかな川だった。このごろの川は上流のダムのために下流は水が痩《や》せてしまって河原ばかりが目立っていることが多いのだが、この川は水源が琵琶湖という大きな湖である。いかにも川らしい川である。万葉の昔も、ゆたかに水が流れていたのだろう。この川なら、木を流すのに具合がよさそうである。  瀬田川の西岸に沿って走り、石山寺を過ぎたあたりで、田上山が見えてきた。川向うに、まだらのはげ山があった。散髪の虎刈《とらが》りにそっくりである。運転手さんに言わせると、今は新緑でまだましだけれども冬はほとんどはげ山だということだ。  この日、私は瀬田川、宇治川、旧|巨椋《おぐら》池、木津川を辿《たど》って、奈良盆地まで、かつての木の運送水路を通ってみたのだが、そのまえにいったん瀬田川と別れて田上山のふところに入ってみた。  南郷|洗堰《あらいぜき》の橋を渡って、瀬田川に流れ込んでいる大戸川沿いに東進し、その大戸川の枝川を東南にさかのぼると、田上山の渓流だった。キャンプをしている人たちや、ピクニックに来ている人たちがいる。  山に入ってみると、瀬田川の堤防から遠望したときよりも、緑につつまれている感じである。濃い青空に白雲が浮いている日だった。新緑の葉群が匂《にお》い、時間の余裕があれば川原で昼寝でもしてゆきたいくらいだった。だが、よく見ると、その緑のなか、そこここに剥《む》き出しの地肌が見えている。岩のように見えるのだが、さわってみると、ぼろぼろ崩れる。これでは木が育たないだろうという土だ。  道ばたの木々に、札がかけてあった。「田上山を緑に!! この樹木の名前は〇〇です 建設省琵琶湖工事事務所 大津市田上山砂防協会 大津市立田上中学校」という文字を印刷した白いプレートが、そこらじゅうの木にかけてある。この山は今も、「田上山を緑に!!」と叫ばなくてはならない山なのだ。千三百年前にはじまった乱伐のつけが、まだ目に見えて残っている。直線距離にして約五十キロ、水路を辿って百キロ余りの土地で行なわれた都の造営が、この山を裸にしてゆく第一歩になったのだ。都にとっては幸いなことに、田上山にとっては不幸なことに、木を運ぶのに都合のいい川の流れがあった。  木は運ぶことができなければ使えない。奥山にどんないい木があっても、運び出す道筋がないならば伐るのは無駄《むだ》というものだ。近代以降は、木曾にしても屋久島にしても、森林鉄道が敷かれて奥山の木までがどんどん伐り出されるようになるのだが、人力と獣力の時代には深い山の木を出すのは容易なことではなかった。田上山はその点、大戸川に注ぐ谷川が幾本も山に分け入っていて、これらの谷川が大戸川から瀬田川へと流送するための第一段階の輸送路になったのではないだろうか。谷川の水は私の目に、木を流せるくらいに豊富であった。水量が少ないところでは、後年、江戸時代に「鉄砲出し」とか「鉄砲堰」と呼ばれる方法も使われたかも知れない。仮りの堰をつくって水をためておき、その堰の一部を一気に切って、激しい水流で木を流す方法である。危険な作業で熟練を要するけれども、もともと素朴《そぼく》な流送法だから、古い時代にも使われていたのではないだろうか。  機械化以前の林業では、山で伐採された木は枝を払ったあと、まず沢筋から本流まで木材を出すわけだが、これを「小谷狩り」と呼んでいた。小谷狩りは地形によっていろいろな方法をとる。「修羅《しゆら》」という丸太の道を作って木を滑らせ落とす方法もあれば、傾斜のゆるいところでは丸太道の上を橇《そり》で木を運ぶ「木馬曳《きんまひ》き」もあった。「鉄砲出し」も小谷狩りの一つである。作業は人力だけでのこともあり、獣力を使用することもある。地方によってそれぞれのやりかたがあったが、そうやって本流に下ろされた木材を河口まで流すのが「大谷狩り」である。一本ずつばらばらに流すか、筏を組んで流送するかは、その川の水量や流れ方による。若いころ木曾川の「仲乗り」をやったという木材会社の社長に会ったことがあるが、木曾節で歌われる「仲乗りさん」というのは木曾川の途中まで一本ずつ流されてゆく木材の上に乗って、岩などにひっかかる木を棹《さお》一本で流れに乗せてゆく仕事である。危険で辛《つら》い仕事だが、また粋な仕事でもあって、収入も多く、運材労働者のなかでも一目置かれる地位があり、女にももてた、ということだ。仲乗りさんの仕事のあとは、木材は筏に組まれて、筏師が河口まで運んでゆく。  牛を使って山の木を里に出す仕事については、小山勝清が少年小説『牛使いの少年』に書いている。九州の球磨《くま》川上流の山岳地帯を舞台にしたこの小説は、戦後少年文学の名作の一つであるが、「牛山師《うしやまし》」と呼ばれる運材労働者の社会と生活を詳細に描き出したものである。「直径一メートルもある大きな材木をきりだす密林は、おおくは人里遠くはなれた、けわしい深山にあった。その深山から、牛に材木をひかせ、谷をわたり、がけをつたい、胸つき坂をのぼりくだりして、里道にでるのが、牛山師の仕事である。/それは、人にとっても、牛にとっても、まったくいのちがけ、力いっぱいの荒仕事であった。牛はその大昔、まだ野獣であったころの、あらあらしい気性にかえり、人は、その野獣をつかまえて家畜にしたときの、たくましい心がなくては、この仕事はつとまらないのだった。」牛山師がどうやって荒牛を仕込んでゆくか、巨木の搬出が牛山師同士、牛同士のどういう協力でなされてゆくか、そこにある技術と熟練、そしてまた葛藤《かつとう》が、いきいきと描かれている。水の力を使えないところで山から木を出すときの労働のすさまじさが見える話である。  田上山から南郷にもどり、ふたたび瀬田川沿いに、川の流れに沿ってゆくと、まもなく川幅がせばまって渓谷の趣きになる。岩を噛《か》む急流、とまでは言えないが、いくらかそれに近い。こういうあたりでは、流送に従う役民たちは、緊張して忙しく水面を動きまわって木の面倒をみたことであろう。「家忘れ 身もたな知らに」と、何もかも忘れて、流れる木に取り組んでいたにちがいない。余計なことを考えていたら、いのちを落とすことになりかねない。木曾の仲乗りさんと同じ危険のなかでの仕事であっただろう。  山から流れ出て海へ注ぐ川は、上流から下流へと次第に川幅がひろがってゆくものだが、瀬田川はそうではない。上流、すなわち琵琶湖から流れ出したときから堂々たる川で、途中で狭くなるところが時折あるのだが、全体としては同じような川幅と水量を保って流れている。それは、どこからを宇治川と呼ぶのかは判然としないが、川の名が宇治川と変わってからも同じである。木材の流送にうってつけであっただろう。運転手さんが、子供のころこのへんでよく筏を見かけたものだという。昭和十年代のことらしい。そのころもこの川は木の輸送に使われていたということであろう。南流した瀬田川がやがてほぼ直角に西流し、山間を蛇行《だこう》しながら宇治川となって宇治に向かう。その先が昔は大きな巨椋池であった。周囲十六キロ、水深一・五メートルであったという。昭和十六年に干拓が完了して、六百三十ヘクタールの水田になっていたが、いまはそこが池であったことも水田であったことも想像のつかない賑《にぎ》やかな町に変わっている。三十数年前、大学生になった年、私は宇治川の土手下の農家に下宿していた。土手に立って見ると、見わたすかぎりの田畑で、遠くの風景はかすんでいた。旧巨椋池の干拓地が目のとどくかぎりひろびろと続いていた。だが、宇治川の堤防を走りながら、私の見覚えのある風景はなかった。おかしいなと思っていると、宇治市|槙島《まきしま》という標示があった。まさに私の下宿のあった土地だ。だが、私の全く知らない町だった。鴨長明ならば何と言うだろうかと思うと、すこし可笑《おか》しい。  かつて巨椋池に注いでいた木津川も、ゆったりと水量ゆたかに流れている。巨椋池から木津へ向かっては流れをさかのぼるので、木材は筏に組んで曳くことになるが、両岸に険しいところはなく、木津までのんびりと歌声を合わせて曳いたのではないかと思える。  木津は、木の津、すなわち木の港である。木材の集散地であるところから付いた地名だという。『日本地名大辞典』には、「古くより交通的要所に当り、郡の首邑地《しゆゆうち》たりし関係上、農耕生産以外商工業の発達著しく」と誌されているが、いまはひっそりとした町である。すぐそこが奈良だから観光客も素通りする町だ、というのが運転手さんの解説である。たしかに、木津から奈良は、自動車だとすぐそこであった。     3  水で運ばれた木材は、最後には大消費地である都市に到着する。江戸で言うなら、それは深川の「木場《きば》」であった。そこには富があつまり、富を背景にした生活が独得の情緒を生みだしていった。  江戸の材木商人が深川木場に定着するまでは、松本善治郎著『江戸・東京 木場の今昔』によってみると、幕府の命令で幾度も場所を替えさせられているのだが、この深川は材木商にとって結局はねがってもない土地だったようである。はじめは幕府の移転命令に渋っていた商人たちだったが、深川の木場は多摩川、荒川、利根川などの水系によって木材の供給地と結びついている。大坂からの海上交通によって東海道や西国からの木材も運びこむことができる。しかも元来が沼沢地なので、水路をつくるのが容易だった。商人たちは九万坪の土地に土堤《どて》をめぐらし、縦横六筋の堀川《ほりかわ》や数多くの貯木用の掘割を掘削し、あちこちに橋もかけて、材木の町をつくりあげていった。水中貯木は木の細胞壁にたまった有機物質を洗い流す効果があって、製材したあとの狂いが少なくなる利点があり、また深川木場の水は潮の干満で海水と淡水がほどよく交るため虫害や腐蝕《ふしよく》を減らしてくれた。下総《しもうさ》国深川村が江戸|町奉行《まちぶぎよう》の支配下に入る享保四年(一七一九年)には、木場はすでに町並みもかなり整っていたとみられる。火災の頻発《ひんぱつ》する江戸の町は木材の需要が大きく、木場の商人たちからつぎつぎに豪商が育っていった。  長谷川如是閑《はせがわによぜかん》が木場の材木商の家の生まれである。『ある心の自叙伝』に、如是閑幼少時の木場が描かれている。如是閑は明治八年生まれだから、明治十年代の木場である。「私の生まれたころは、江戸時代の俤《おもかげ》がそっくりそのまま残されていて、江戸から東京への移り変わりを、何処《どこ》吹く風と知らぬ顔の一区域だった。」  木場は「全地域が材木の堀で、往来は田圃《たんぼ》の畦道《あぜみち》のように、その縁についているにすぎない」町で、通りの両側は屋根のついた高い塀《へい》に長い材木を立てかけた「リンガケ」がつづいている。ところどころに、「封建商人が家屋に化けたような、堅苦しい恰好《かつこう》の店が、材木の洞穴《ほらあな》の奥に隠れているのが見えるのだった。」 [#ここから1字下げ]  その店の一つが私の家であった。しかし私の家は、山から流されてきたままの大きい角材専門だったので、リンガケはなく、今ならば、何十軒もの家の建つ柱になるほどの材木を立て列《つら》ねた、塁の囲いのような塀に囲まれた角店だった。土地は、店の傍《かたわ》らの僅《わずか》の空地と納屋の敷地だけで、店の前と横は川、後ろは材木で埋まった広い堀だった。私たち子供は堀の材木の上で遊ぶことを禁じられていたが、「川なみ」——ふだんは水上で材木を扱って、出水の時は水防に働く、火の鳶《とび》のものに対する水の鳶のもの——や店の若いものたちの、材木の上を飛んで歩くと、それが弾力のある布団《ふとん》の上で飛んだり跳ねたりしているように見えるので、歩いて見たくて仕方がなかったが、私たちも近所の子供も、めったに堀へは下りなかった。私の子供のころは、厳重にタブーの守られた時代を想《おも》わせる、そのような例はいくらもあった。 [#ここで字下げ終わり]  家は「店」と「奥」に分かれていて、店の帳場|格子《ごうし》の中には主人と大番頭が坐《すわ》り、その外に中番頭以下、若い者や小僧がかしこまっている。店の一方に一段高くなって細かい格子障子の部屋があり、ここは店の者の住いであって、障子はいつも閉まっていた。「そこは店のものたちの安息のための治外法権の場所で、目上のものも、そこに目を向けるのを避けると同時に、そこでの解放された生活を子供の見ることがタブーとされていたのである。」  主人一家の住いである「奥」でも、座敷には子供はめったに入らなかったが、「お手のものの材木をふんだんに使った」造作であったらしい。経師《きようじ》屋が来たとき一緒に座敷へ入った記憶を如是閑は書いている。 [#ここから1字下げ] ……その時に経師屋が天井を見て、その神代スギの天井板一枚の値段で、自分の家が二つ三つ建つといったので、私も天井を仰いだが、その板の印象は目に残らずに、経師屋の言葉だけが、耳に残っている。それから客便所が壁を用いないで、クスノキの一枚板で張られているということを経師屋は聞いていて、それを拝見と、便所にはいってゆくのに、私もついていったが、そのクスノキの一枚板の赤黒い色と、鼻をついたクスノキの香りとが、今も感じられる気がする。 [#ここで字下げ終わり]  神代スギの天井板一枚で家の二、三軒は建つというのは、すごい話だが、木場の材木商の財力をよく語っている。  現在、旧木場のすこし先に、銘木標本館があるが、ここに収められている約千点の銘木の原木を時価に換算したらどのくらいになるのか見当もつかない。木場の材木商長谷川萬治氏(一八九一〜一九七六)が、長年にわたって収集した木を、日本住宅・木材技術センターに寄贈して管理を依頼したものである。  銘木標本館のパンフレットに、銘木とは何かという目安が載せてある。いろいろな解釈があるようだが、一般に次のどれか、または、その重複したものを、銘木と呼んでいるという。 (1)材面の鑑賞価値がきわめて高いもの(例=もく板、糸まさの板) (2)材の形状が非常に大きいもの(例=大径丸太、長尺一枚板) (3)材の形状がきわめてまれなもの(例=サクラツツジ) (4)材質が特にすぐれているもの(例=木曾ヒノキ) (5)たぐいまれな高齢木(例=イチイ) (6)入手がなかなか困難な天然木(例=天然カラマツ) (7)たぐいまれな樹種(例=ビャクダン) (8)由緒《ゆいしよ》ある木(例=春日局ケヤキ) (9)そのほかきわめて高価な木  倉庫のような銘木標本館に入るとすぐ、巨大な木が横たわっている。寝かせてある木の太さが私の背丈ほどもある。静岡県の奥山の断崖《だんがい》の上にあった杉の木で、長谷川萬治氏が八十五歳で亡《な》くなる昭和五十一年に伐《き》り出したものだ。職人たちは内部にうろがあるだろうと推測していた。萬治氏は病気で現地には行けなかったのだが、沢の地形や水質、土質などを詳しく聞いて、大丈夫だ、うろはなかろうと、搬出に踏み切ったという。樹齢五百年の巨木でありながら、この杉は芯《しん》までしっかりしていた。残念なことにそこからの搬出は現代の技術でも、そのままでは無理で、分割してヘリコプターで運び出し、いまは元の形に合わされてワイヤーで締めてある。萬治氏はこの杉を、永久保存のねがいで、「長蔵杉」と名づけた。  萬治氏は、長谷川萬治商店、通称長谷萬をおこした人である。木場の材木商に奉公して、三十二歳で独立、三井物産の木材を扱うことで成功していった。あまり人の扱わない樹種を扱うことに能力を発揮した人で、北海道産の広葉樹を多く手がけた。電話機のボックス用材のカツラ、交換台のカバ、汽車の車輛《しやりよう》の腰板に、一等車カバ、二等車ナラ、三等車タモ、といった具合である。陸軍の弾薬箱、海軍のオール材、楽器メーカーの楽器材……。木ではとくに、戦前は見むきもされなかったブナ材の開発に取り組んで、ブナのベニヤ生産をはじめている。好きな木はケヤキで、自分の家の内装は全部ケヤキ造りにしたという。おそらく如是閑の家の神代スギの天井板に匹敵するものだろう。    4  昔の木場は今はない。貯木用の堀はほとんど埋め立てられた。  昭和三十年代に入ると、これまでの木場の規模では増える木材需要に対応しきれなくなり、交通事情も悪化しはじめていた。木場の移転問題が検討されだしたのが、昭和三十三年ごろで、昭和四十七年から東京湾岸埋立地への材木商の移転が進められた。  広大な貯木用水面を持つ新木場の誕生である。同時に、二百七十年ばかりつづいた木場は消えていった。堀や水路の多くが埋め立てられ、新しい都市居住空間に変わってゆく。木場の旦那《だんな》衆が境内の料理屋で寄合をしていたという富岡八幡《とみおかはちまん》、通称深川八幡はこれからも動くことはないだろうが、周辺は大きく変わってゆく。昔の木場をあるいてみても、それらしいものはない。それでいいのだろう。木場はすでに海から遠くなっている。潮の匂いもない。かつての木場の海側にはいま埋立地がひろがって、現在の木場は内陸になっている。水から遠くなったとき、木を扱う仕事は、いくら陸送の時代になったとはいえ、やはり不自然である。深川の芭蕉《ばしよう》住居跡も、芭蕉が住んだころには海辺に近く潮風が吹き、磯《いそ》の匂いがしたはずだが、いまは自動車の往来のはげしい道の端になっている。  新木場では、海が匂っていた。海の匂いと木の匂いとが、まじりあっていた。堀というよりずっと広い水面がひろがって、大小の原木が水に浮かんでいた。桟橋《さんばし》をそれぞれ出した岸辺の家並みが、今では一種の風情《ふぜい》をかもしだしている。新木場とか、一四号埋立地とか、木材団地とか、そういう名称を聞くと、いったいどんな安手の土地かと思っていたのだが、行ってみて意外だった。  橋の手すりにもたれて水面を眺《なが》めていると、ついさっきまでいた深川あたりの自動車の騒音はなく、静かな水面にまだ立木の姿をのこした木の群れがひっそりと浮いていて、ときどき海鳥がその上を飛び、ここが造成地であることを忘れてしまう。はるか遠くには隣りの埋立地の工場の煙突や工事中の起重機なども見えているのだが、それでも、ここが大都市の一部分であることを忘れそうになる。  新木場に、旧木場の深川八幡にあたるものがあるのだろうか。うっかりそれを見ないで帰ってきてしまったが、まだないのならば、そういうものを建てたらいいだろうと思う。木の神様と水の神様を祭る神社をこの町に作って、春秋の祭礼も行なわれるなら、新木場は新の字をはずして木場と呼んでもいいのではないだろうか。神社の境内に寄合のできる料理屋ができてもいい。木の博物館をつくってもいい。江戸の木場はもともと、たびたび移転していたのだ。深川木場になって二百七十年、今度の木場もそのくらいつづくなら、前の木場にあった風情と、新しい木場の風情と、二つが溶けあった町ができてゆくだろう。東京の都心部ではそんなことは考えられないけれども、ここでならその夢想もできるという気がする。  作業用の小さな船が、水面のあちらこちらに係留してある。それがこの風景に妙に合っている。派手な色のモーターボートも、原木の浮かぶ水面で、ほどよい色どりと見える。貯木水面の広さが、そう感じさせるのだろうか。水面が広いぶん、それだけ空が広い。たぶんその空をふくめて、ひろびろとした風景が、私をのんびりさせていた。一面の木の香りが、私の気を澄ませていた。  新木場計画を押しすすめたのは、さきに挙げた理由が主なものだが、昭和三十四年の伊勢湾台風も一つのきっかけだという。係留されていた巨大なラワン原木が、護岸を乗り越えて家や人を襲ったことが、東京湾の整備計画でも注目されたということだ。  伊勢湾台風の二日後、私は名古屋の町の、まだ水の引かない地域を取材していた。団地の一階は水面下だった。土堤になった電車のレールの上に、巨大なラワン材がころがっていた。レールの上には、ひたひたと水がきていた。海からここまで巨木を押し流してきた水の力に、私は茫然《ぼうぜん》としていた。 [#改ページ]    町の木     1  二年間通った、とはいっても毎日通ったわけではないのだが、それでも当時の私の生活の拠《よ》りどころであった京大文学部の、こぢんまりした煉瓦《れんが》造りの建物に中庭があった。文学部本館と呼ばれるその建物は昭和二十年代後半のそのころすでに古びた建物であった。だが、田舎出の私の目にはそれは都市のモダニティーと映っていたし、それに合わせて、中庭のヒマラヤ杉が、私のそれまでの暮しのどこにもなかった洋風の木であった。  西ヒマラヤからヒンズークシ東部にかけて産するヒマラヤシーダーというマツ科のこの木は、明治以後、観賞木として都市施設に植えられたというが、下枝を大きく垂れたピラミッド状のその樹形が、私に西洋を強く感じさせた。はじめて見たのは、入学の手続きに行った日だった。頼んでおいた電報で合格とは知っていたけれども文学部本館入口の壁に貼《は》り出されていた合格者名簿に自分の名前を見て間違いのないことをたしかめたあと、中庭の見なれない大きな木と、その一本の木をとりまく陰気な煉瓦の建物に、私は不意に西洋を嗅《か》ぎとった。田舎の暮しから遠く離れた場所に立っていた。大学生活の一年目は宇治分校、二年目は吉田分校に通ったのだが、そのあいだも折り折りに訪ねる本館で、ヒマラヤ杉の立つ中庭がいつも私に異国を思わせた。異国への憧《あこが》れのようなものと、故郷から追放されたような気持ちとが、同時に湧《わ》いてくるのだった。フランス文学を専攻してこの建物に通った三年目四年目も、それは変わらなかった。  私が小さいときから毎日見ていたのは、北陸の田舎町の、家の裏の空地にあった桐《きり》の木だった。大きな桐の木だったと覚えているのは、子供の目から見てのことかも知れないが、下枝が高いところにあって幼い私にはそこまで登れなかった。物干竿《ものほしざお》が雪の下になるくらいの大雪の日、その大枝がつい目の前にあって、大枝から次の枝へと登ってゆくと、枝々に積もった雪が落ちてきて雪まみれになった。あの木がキリだったのかアオギリだったのか、もう確めようはないが、とにかくその木が私には最も親しい木であり、その木のどこにも西洋の匂《にお》いはなかった。  中学のころから夏の暑い日は、近くの天満様の境内へ本を読みに行った。境内の窪地《くぼち》に寝ころんで本を読んだり昼寝をしたりした。その木蔭《こかげ》をつくってくれたのは、椎《しい》の木だった。照葉樹林の主要樹種である。秋の晴れた日にも狭い家のうっとうしさから逃げて行くと、乾いた落葉のあいだにドングリがころがっていた。  小学校の裏にある錦城山《きんじようざん》も、いまおもえば照葉樹林の自然林で、小さな冒険やドングリ拾いに行ったのだが、戦国末期の落城にまつわる伝説が、暗い森のなかで思い出されて逃げ帰ったりもした。小学校の先輩である中谷宇吉郎《なかやうきちろう》が「簪《かんざし》を挿《さ》した蛇《へび》」というエッセーに錦城山のことを書いている。「小学校のすぐ後《うしろ》は、小さい山に続いていた。錦城山という山であった。この山には前田家の以前に、山口|玄蕃《げんば》とかいう豪族の城があったそうである。そしてその城が落城する時に、奥方や姫たちが、池に入るか崖《がけ》からとび降りるかして死んだというような伝説が残っていた。この小高い山は、その当時の子供たちの間には、全く人跡未踏の魔境であった。山は二段になっていて、頂上にほんとうの城の趾《あと》があるという話であったが、そこは怖《おそ》ろしくて、とても子供たちの行ける場所ではなかった。私などは六年間の小学校生活中に、一度もその城趾《じようし》までは登らなかった。そこには、簪をさした蛇だの、両頭の蛇だのがいるという噂《うわさ》があった。もちろん一つ一つに落城の伝説がからまっていて、子供たちは誰もそれを疑わなかった。」  中谷宇吉郎から三十年ばかりあとの私の小学生時代にも同じ伝説が語られていた。加えて、これはその三十年のあいだに新しくつくられた話かも知れないのだが、錦城山のどこかに一日じゅう影のできないサルスベリの木があって、その根もとに財宝が埋めてあるという伝説がひそかにささやかれていた。私が幾度か独りで、道といってないような森の奥へこわごわ入っていったのは、そのサルスベリ探索のためであった。  サルスベリは真宗の寺の山門を入ったところにあったので知っていた。ときどきその木に登って山門の上に渡って遊んだのだが、サルスベリという木は登りにくい上に、見た目に気味がわるく、こういう木なら一日中影がささないという不思議が起こりそうであった。  不気味な木は、町はずれの神社の社殿裏にあった杉の大木だった。その木は丑《うし》の刻《とき》参りの行なわれた木だった。丑の刻参りは父の若いころ酒を飲んだ帰り道に、近道をして或《あ》る神社の裏道を通りかかったとき、白装束で髪をふりみだした女が頭に糸巻のようなものを乗せて蝋燭《ろうそく》を立て、口に櫛《くし》を逆にくわえ、木の幹に藁《わら》人形を打ちつけているのに出会い、命からがら逃げたものだと言っていた。二十一夜の呪《のろ》いを五寸|釘《くぎ》に籠《こ》めて打つあいだ、満願までに他人に見られては呪う者が自ら死ぬことになるので、見た者を殺さなければならぬのだという。謡曲「鉄輪《かなわ》」の丑の刻参りの女は「身には赤き衣をたち着、顔には丹《に》を塗り、髪には鉄輪をいただき、三つの足に火をともし」て鬼女となり、自分を捨てた男を恨むのだが、その執念は思うだにおそろしい。その丑の刻参りが私の中学生のとき、人口一万数千人の小さな田舎町に起こった。杉の幹に藁人形が打ちつけてあるのが見つかったのだという。藁人形のなかに水玉模様のワンピースの女の写真が首から上を切りとられて入っていたと聞いた。町の人びとがつぎつぎその木を見に行った。五寸釘の跡らしい穴がいくつか見えていたが、数はおぼえていない。満願の二十一夜には達していなかったのだが、それがまだ数夜のことであったのか、満願近い回数を重ねたものであったのか。小さな田舎町に、呪った女と呪われた恋敵《こいがたき》の女についての推量が噂された。そのころ病気で寝ていた女性が水玉模様のワンピースを持っているといった類《たぐ》いの噂である。  私の暮しにあったのは、それらの木々である。ほかには、秋になると松茸《まつたけ》を採りに出かけた山の赤松林、初夏のころ松露を探しに行った海岸の黒松林、そして、小学校の前を流れる川の岸辺の桜並木、親類の家の庭にあった柘榴《ざくろ》の木、といった木々であった。  京都という大都会で、ヒマラヤ杉に会うのは、私の生活感覚をゆるがす出来事だった。ヒマラヤ杉のある町に自分が住む。思いもかけないことだった。それだけで、この都会は私にとって異国であった。  百万遍の寺の裏手の下宿の窓からは、農学部構内のポプラの木が見えていた。ポプラも私には初めての木だった。その高い梢《こずえ》が風に揺れるのを見ていると、故郷が遠くへ消えてゆく気がした。  大学周辺の街路には、並木があった。町の中に並木のあることが、これも私には異国と映った。大学の石垣《いしがき》に沿ってプラタナスの並木があった。どの通りか忘れてしまったが、ニセアカシアの並木もあった。いまはプラタナス、それも勢いを失った貧相なプラタナスが並んでいるだけだけれども、記憶のなかではプラタナスの並木もニセアカシアの並木もたっぷり葉を茂らせて、私に西洋風の都市の姿を見せていた。プラタナスの大きな枯葉が風に落ちてゆく光景は、私のなかに洋風のセンチメンタルな感情を生みだしたものだった。プラタナスの並木越しに、日仏会館の白い建物に明りのともるのを眺《なが》めていると、田舎出の青年には一種の興奮があった。     2  都会の並木は、古代の都にもあったという。樋口忠彦著『日本の景観』に次の一節がある。 [#ここから1字下げ]  日本の都にも古くから並木が植えられていたようで、藤原京(六九四〜七一〇)および平城京(七一〇〜七八四)には、橘《たちばな》の街路樹が植えられていたと思われる和歌が万葉集にある。この橘は、現在の柑子蜜柑《こうじみかん》らしく、花と果実の馥郁《ふくいく》たる香気と、新京の繁栄を寿《ことほ》ぐ常葉《とこは》の樹《き》である故《ゆえ》に尊ばれたようである。平安京(七九四〜一一八五)においては、メインストリートである朱雀《すざく》大路(幅員約八五メートル)の両側に柳が植えられていた。 [#ここで字下げ終わり]  中国の都の街路に果樹が植えられているという留学僧の報告にもとづいて植えられたものであるようだが、右の引用中にある万葉集の和歌というのは、たぶん、次の歌をさしているのだろう。   橘の蔭ふむ路《みち》の八衢《やちまた》にものをぞ念《おも》ふ妹《いも》に逢《あ》はずて(万葉集巻二)   橘の本《もと》に道|履《ふ》み八衢にものをぞ念ふ人に知らえず(万葉集巻六)  巻二の一首は、「三方沙弥《みかたのさみ》の、園臣生羽《そののおみいくは》の女に娶《あ》ひて、いまだ幾時《いくだ》も経ぬに、病に臥《ふ》して作れる歌三首」のうちの一首である。橘の並木のある都の街路のように、|さまざまに《ヽヽヽヽヽ》ものを思うというわけだが、「橘の蔭ふむ路」がすでに「八衢」の序句となるほどに、その並木は人びとに親しいものになっていたのであろう。佐佐木信綱著『万葉辞典』は、「たちばなのかげふむみち」に、「橘を植えた下の道。八衢の序」という解釈を挙げ、「たちばなのもと」には、「橘の木の下。古昔|市衢《しく》に橘を街路樹として植えた」と誌している。なお、巻六の歌には万葉集編者が、伝聞では故《もと》の豊島の采女《うねめ》の作というが、三方沙弥が妻を恋うての作とする本があるので、豊島の采女はこの歌を口吟しただけかも知れないと付記している。いずれにしても都の街路に橘の並木が植えられていたようである。植物図鑑をいくつか当ってみてもどの木とは確認しにくいのだが、おそらく初夏のころ白い花を咲かせ、甘い香りを放っていたのだろう。やがてつける果実もまた、果実香を街路にただよわせる。平安京では柳になったというので香りはないわけだが、一定間隔で植えられた並木というものが都の光景をつくっていたと思われる。それは田舎人の目をおどろかすものであっただろう。  その後の日本では街道の並木はあっても城下町などの都市内部の並木はあまりなかったらしいのだが、近代都市になるとふたたび並木があらわれる。古代の都市が中国の都市にならったように、近代の都市はヨーロッパの都市にならう。  明治七年の錦絵《にしきえ》「東京府下第一大区尾張街通煉化石造商法繁盛之図」がある。京橋から新橋への銀座大通りを描いたもので、両側に洋風二階建ての建築が並んでいる。二階の道路側にはベランダがついている。歩道に中国人や着物の女たちが歩き、車道に人力車や馬車が走っている。その歩道に沿って車道側に、桜と松の並木が植えてある。多いのは桜で、この絵では満開である。その桜並木の数本に一本の割で松がある。桜なら桜でそろえたほうがよさそうだが、当時の美意識ではやはり松の緑の混じるのを良しとしたものであろうか。小西四郎の解説によると、楓《かえで》も植えられたそうだが、この錦絵には見えていない。  銀座は明治五年二月の大火で、江戸以来の町が焼けてしまった。東京府知事|由利公正《ゆりきみまさ》がこの町の復興にあたって、道路の幅を拡張した不燃性の煉瓦造りの町を計画し、イギリス人ウォートルスに設計させて新しい都市光景を生みだした。明治六年春に着工、七年にはこの錦絵に見る煉瓦街があらわれたのだが、その空間を仕切り、かつ彩《いろど》るのが、桜や松の街路樹だった。  銀座といえば、柳の並木である。「東京行進曲」にも「昔恋しい銀座の柳/仇《あだ》な年増《としま》を誰が知ろ」とうたわれ、吉井勇《よしいいさむ》が「このごろは夜ごと銀座をおとづれぬ青柳《あおやぎ》もよし舗石《しきいし》もよし」とうたった、あの柳だが、その柳について、たまたま手もとにある『東京風物名物誌』(石動景爾編著、昭和二十七年五月十日、新訂三版)という本に「銀座の柳」という一文があるので写しておく。 [#ここから1字下げ]  飾窓と共に銀座の風景に趣きをそえるものは銀座通りの柳、そして夜の巷《ちまた》を華かに彩るものはネオン、街路燈、いずれも銀座風物誌中の重要素である。銀座に街路樹の植えられたのは、明治四年〔明治五年の誤記か〕、府知事由利公正の発案で、最初松に桜を植えたのが始まり。まもなく桜は枯れ、そのあとに楓や柳をぽつぽつ植えていたが、同十七年全部柳に植え変えて以後その優姿は人々に愛され、銀座の柳として銀座風景に欠かす事のできない存在となった。処《ところ》が大正十年時の市長|後藤新平《ごとうしんぺい》の新都市計画により、舗装道路工事始まり、車道拡張のため柳はひきぬかれ、十二年の震災で姿を消してしまった。後一時|公孫樹《いちよう》をうえたりしたが、発育も悪く、また銀座人の柳に対する愛着心は強く、銀座の柳復活移植運動が起って当局を動かし、昭和五年二月十六日柳植樹式挙行され、市長|永田青嵐《ながたせいらん》「銀座の柳、風になびくは枝ばかり」とひねり、詩人|西条八十《さいじようやそ》は「パリのマロニエ銀座の柳」と讃《さん》し「うえてうれしい銀座の柳」と銀座ファンの気持を歌って、その復興を祝った。先般の戦災でその数もへったが、昨今再び補植されて戦前の姿に立帰り、銀座の伝統と情緒を代表するものとして四季を通じて万人に愛されている。柳の数は計三百本。 [#ここで字下げ終わり]  ここに出てくる西条八十の歌謡は、「銀座の柳」と題したものである。最後の一連だけをあげておく。   恋はくれなゐ 柳は緑   染める都の 春模様   銀座うれしや 柳が招く   まねく昭和の 人通り  今の銀座通りには、柳はない。そもそも並木はなくなって、代りに街燈の列がならび、その足もとに灌木《かんぼく》の植え込みがあるだけになっている。銀座通りと並行する通りや直交する通りのうち道幅の広い街路には並木があるが、柳の並木は京橋に近いところで銀座通りに直交している銀座柳通りだけで、「銀座の柳」というイメージからは遠い。晴海《はるみ》通りがケヤキ並木、電通通りとみゆき通りがエンジュ(ニセアカシア)並木、並木通りと松屋通りがプラタナス並木、そのほかトウカエデやアオギリの並木がある。  並木はパリなど欧米近代都市のブールバールの景観をとりこもうとしたものだというが、銀座通りは江戸時代に比べて大幅に拡《ひろ》げられたとはいえ、パリのブールバールとは比較にならない。銀座通りから並木が消えたのは、大通りとしては道幅が狭すぎるためであろう。パリ中心部の、凱旋門《がいせんもん》からシャンゼリゼ通り、コンコルド広場へと延びるブールバールの道幅は八〇メートルだという。その広々とした街路に、プラタナスの木が繁《しげ》っている。学生の私に京都を異国と感じさせた、あのプラタナスである。そして、そこに続くチュイルリー公園やルーヴル美術館の周辺にはマロニエの並木が立ちならぶ。  永井荷風は、『ふらんす物語』の末尾に、「橡《とち》の落葉」という小品集の章を設けて、その序に、こう誌している。 [#ここから1字下げ]  巴里《パリー》の市街には繁華の大通り、静《しずか》なる寺院のほとり、公園、四辻《よつつじ》、河岸《かわぎし》、到《いた》る処にマロニエーと呼びて、わが国の橡《とち》に類したる樹木を植えたり。四月の初め芽をふきて、忽《たちま》ち一ツの茎より五ツに分れたる幅広き若葉となる。その緑はわが国の植物には見るべくもあらぬ浅く軟《やわらか》き色なれば、明き春の青空の光はこれを射透《いとお》して、色付ける幽邃《ゆうすい》の微光に深き木蔭《こかげ》を夢の世の如くならしむ。五月に至りて蒼白《あおじろ》き花を著《つ》く。その形は大《おおい》なる総《ふさ》の如く、かの国の人は、譬《たと》うるに、宮殿の天井より釣下《つりさ》げたる白銀《しろかね》の燭台《しよくだい》を以《もつ》てしたり。風なき夏の午過《ひるす》ぎに、紛々《ふんぷん》として雪をなす。秋|来《きた》れば、物の哀れを感ずる事、他の草木にまさりて早く、朝夕の冷き霧、街《まち》の敷石を潤《うるお》すに先立ちて、一夜に尽《ことごと》く揺落せり。されば、市街を飾るべき並木の植物としては、これに優《まさ》りたるもの無しとせらる。ああ、われは如何《いか》にこのマロニエーを愛せしか。わがフランスに於《お》ける、忘れがたき記念は一ツとしてこのマロニエーの木蔭に造られざるはなし。われの詩を読み夢に耽《ふけ》りし処はその木蔭なりき。詩聖の像を尋ねて跪《ひざまず》きし処はその木蔭なりき。車を待つ処、往来《ゆきき》の人を眺《なが》むる処、うれしき出会《であい》を約せし処、皆その木蔭なりき。歓楽の夜いつしか尽き、暁の光を見て悲しみし処、亦《また》これ、ブウルヴァアルを蔽《おお》う其《そ》の木蔭なりき。美しき人と杯《さかずき》を挙《あぐ》る時、料理屋の鏡に映りて、華美《はで》なる衣裳《いしよう》の背景を作りしものは、同じくこの若葉なりき。ああ。マロニエーよ。わが悲しみ、わが悩み、わが喜び、わが秘密を知るものは、マロニエーよ、汝《なんじ》のみなり。われ今、追憶の涙に咽《むせ》び、汝が名を呼びて、わが小品文集の題名となす。 [#ここで字下げ終わり]  荷風はパリの町では田舎者であったはずである。田舎出の青年が都市に出て住むとき、その町の木、都会の並木が彼の心にはたらきかけるものを、私は私のかつての気持ちから推し量れるように思う。明治の東京から(アメリカ暮しを経て)パリに行った青年と、第二次大戦後の北陸の田舎町から京都に出た青年とでは、比べるのが無理と言われるかも知れないが、それでもなお右の一文を読むとき、私は私の三十数年前を思い出さされてしまう。  京都から東京に出た梶井基次郎《かじいもとじろう》が、「橡の花——或る私信——」という書簡体の作品に、東京のマロニエの並木を書いている。大正末の飯倉通りがマロニエの並木であったようだ。「七葉樹」という名札がつけてあったというが、おそらくパリのマロニエと同じ小アジア原産のセイヨウトチノキである。作者と同じ人物とみてよい「私」は、東京の町の木によって東京に惹《ひ》かれてゆく。下宿の窓から見える椎の老樹もその一つであるが、とりわけ飯倉通りの七葉樹(マロニエ)の並木が「私」をとらえている。俗悪だけの町かと見えていた東京に、木々が意外なほどの美しさを見せている。「ある日私は年少の友と電車に乗っていました。この四月から私達に一年後れて東京に来た友でした。友は東京を不快がりました。そして京都のよかったことを云《い》い云いしました。私にも少くともその気持に似た経験はありました。またやって来た匆々直《そうそうす》ぐ東京が好きになるような人は不愉快です。然《しか》し私は友の言葉に同意を表しかねました。東京にもまた別種のよさがあることを云いました。そんなことをいう者さえ不愉快だ。友の調子にはこう云ったところさえ感ぜられます。そして二人は押し黙ってしまいました。」  同じように京都から東京に出てきた私にも、ゆっくりとだが東京が好きになっていった経験があるのだが、その過程についての多言は省くことにする。ただ一つ、それは東京の緑、東京の木々の緑を目に入れるようになってからのことだという一事を誌すにとどめて、梶井基次郎にもどることにしたい。 [#ここから1字下げ]  飯倉の通りは雨後の美しさで輝いていました。友と共に見上げた七葉樹には飾燈のような美しい花が咲いていました。私はまた五六年前の自分を振り返る気持でした。私の眼《め》が自然の美しさに対して開き初めたのも丁度その頃《ころ》からだと思いました。 [#ここで字下げ終わり]  ただし、ここに書かれている「自然の美しさ」は、町のなかにある自然、人為の加わった自然のそれである。梶井基次郎が町の外の自然に触れてゆくのは、伊豆半島の湯ヶ島滞在の時期を待たねばならない。湯ヶ島とて原始の自然ではないが、町の自然に比べればほとんど自然そのものであり、その自然にとりかこまれて生きた年月が、この作家に、「闇《やみ》の絵巻」や「交尾」、また「蒼穹《そうきゆう》」「筧《かけひ》の話」といった、小さいけれども鋭い作品を書かせている。だが、もう一度、ただし、である。これらの作品は、おそらく山育ちの者には書けない。もとから自然のなかに生まれ育った者の見る自然は、別種のものであろう。あるいは、その者には自然は生きる場ではあっても見る対象ではないだろう。私は「闇の絵巻」をはじめとする梶井基次郎の湯ヶ島作品群をことに愛好する者であるが、それが生み出されるにはこの作家がそれ以前に町のなかで見ていた「自然の美しさ」が不可欠であったと思う。都会で自然に感応してゆく心を下地にして、はじめて野山の自然が見えてくるのではないか。梶井基次郎が町のなかで育てていた芽が伊豆の山の自然に触れて、すいと伸びていったのが、あれらの作品であったと思う。  現在の東京の並木のなかでも、都市の美しさを強く見せているのは、明治神宮表参道のケヤキの並木であろう。原宿駅前の歩道橋に立って見るといい。広いまっすぐな街路がゆるい坂になって目のとどくかぎりに伸び、道の中央には灌木の分離帯が一直線につづき、両側のケヤキ並木がまるで遠近法のお手本のように先へ行くほどに細い緑の帯になり、さらに先のほうではくっつきそうなくらいに接近して見えている。五日市街道のケヤキの並木は表参道のケヤキよりはるかに高くて立派であるが、あれはやはり街道の並木であって、都市の並木とはちがったものである。府中の駅近くから大国魂《おおくにたま》神社へかけてのケヤキ並木も徳川家康が寄進したと言われるだけあって、巨木群が道の両側にならび壮観であるが、これも近代都市の並木とは別のものである。  いつか青山の銕仙《てつせん》会能舞台でフィンランドの詩の朗読を聞いたあと、表参道のケヤキ並木の下を原宿の駅まで歩いたことがある。あれは五月だったのだろうか、夜の町の明りがケヤキの若葉を透かせていて、私は幾度も足をとめて若葉の葉群に見惚《みほ》れ、そこに都会を強く感じたものだった。都会の並木は、街道の並木とちがって、夜は街燈の明りや店舗の照明に映える。梶井は「橡の花」に飯倉通りの七葉樹を書いて、さきの引用につづいて、「電燈の光が透いて見えるその葉うらの色」にふれている。町の並木は近代照明のなかで、ざわめく人通りのなかで、野山の木には見られないものを見せている。  昼下がりの原宿歩道橋に立ってそんなことを思った。駅|脇《わき》の神宮橋の上では、数人のアメリカ人らしい男女が当世風の大道パフォーマンスを見せて、モルモン教の布教をしていた。     3  その神宮橋を渡って白木の大鳥居をくぐるとまっすぐ明治神宮の社殿に向かうのだが、途中の道を脇に入ってみると、そこはもう自然林と見分けのつかない森である。東京の町の中ではある。だが、それは並木でもない、公園でもない、植物園でもない。まるごとの自然がどっかりとある。不思議な町である。森林のような大きな自然公園を持つ町はいくつもあるだろうが、こんな森そのものをかかえた町がほかにもあるのだろうか。日本には鎮守の森がたくさんあって、そこには長い年月人手が加わっていないので、ほぼ自然林として残っているのだが、神宮の森も歴史は新しいけれども一種の鎮守の森であり、しかもそれが大規模である。二十二万坪の内苑《ないえん》に三〇五種一七万本の樹木と三五二種の草が茂り、五〇余種の鳥が見られるという。  神宮の森はもとは武蔵野の一部で代々木野と呼ばれていた。林と野の入り組んだ土地を生かして、本多静六博士など設計者たちは、全国からの献木三六五種九万五千本を、さまざまに組み合わせて植栽した。樹木の配置のほか下生えの配置などにも工夫がなされ、「生態学的な観点がとりいれられた森づくりとして、学術的にも高い評価を得ている」(半田真理子著『都市に森をつくる』)森に育っている。天然更新によって森が生きてゆくようにつくられているので、大正九年十年の造成から約二十五年で人工植栽の感じが消え、七十年近くになる今日では、「世界に誇れる立派な森」(同書)となっている。 「東京|砂漠《さばく》」という言い方はいつごろからのものだろうか。そこには、人の心が乾き切った町という響きもあるのだろうが、直接には、コンクリートやアスファルトの町で緑を失っていることを言っているだろう。また、その二つが相互に原因と結果をなしているというのでもあろう。だが、それはあまりに現実を見ていない。威勢のいいスローガンか、センチメンタルな歌謡曲の言葉にすぎない。東京の緑は個人住宅にもやたら多いのだ。梶井基次郎は京都から東京に出て東京の緑に目を見張ったようだが、私もその三十年ばかりあとに京都から東京に来て、東京の町々にあふれる植物におどろいた。同じような経験を書いたり語ったりする人は、いちいち挙げないが数多い。大阪からの修学旅行生が美術館の備付けのノートにそのおどろきを書いているのを見たこともある。今日でもそれは変わらない。むしろ東京の緑は増えていると言えるのではないか。もちろんすべて人工の緑であるが、ビルや住宅を建てるために伐《き》り倒される木のある一方で、新しく植えられる木がある。私の住む界隈《かいわい》でも、この二十数年の間に失われた樹木はいろいろあるが、逆にブロック塀《べい》の家の跡に生垣《いけがき》の家が建ったりもしている。暗渠《あんきよ》になった川の上が桜並木の遊歩道になり、花のころ若葉のころ、元の川の蛇行《だこう》そのままの道が、のどかな散策をさせてくれる。  自然のなかの、すなわち植物をとりこんだ都市を計画してつくったのが、田園調布の町である。渋沢栄一が主唱して造られたこの町は、はじめから「田園都市」(Garden Cityの訳語)として計画された。当時のままの駅舎の残る駅を出ると、木々にとりまかれた広場に石造半円形のベンチがあって、そのうしろに「田園調布の由来」を刻んだ横長の石碑がある。社団法人田園調布会という住民自治会が建てたもので、碑文の前半は以下の通り。 [#ここから1字下げ]  この広場を中心とする約八十万平方|米《メートル》の地域は、明治文化の先覚者渋沢栄一|翁《おう》が、我国将来の国民生活の改善の為《ため》に、当時|漸《ようや》く英米に表われ始めた「田園都市」に着目して都会と田園との長所を兼ねた模範的住宅地を実現させようと念願して、既にあらゆる公的関係を退かれた後であるにも拘《かかわ》らず、自ら老躯《ろうく》を運んで親しく土地を選定された所であります。  その目的の為に、大正七年田園都市株式会社が設立されて、翁の理想に共鳴する人々に土地の分譲を行ない、我国最初の近代的大計画都市が実現しました。そして居住者による社団法人が生れました。  この都市全体を一つの公園のように明るく美しいものにする為建築その他に関し色々な申し合せを固く守り、殊《こと》に道路との境界には一切土塀、板塀などをやめて花垣か生け垣の低いものの程度とすることなどを厳格に実行しました。その協力の結果、この明るい住宅地と楽しい散策地が生れたのであります。 [#ここで字下げ終わり]  昭和三十四年秋の碑文である。いま田園調布を歩いてみると、なかには白塗りのいかめしい土塀に瓦《かわら》をのせ、さらに忍返しまで付けている成金趣味まるだしの家があったり、コンクリート塀を建ててその塀を汚ならしい青色に塗った家があったりするのだが、それはおそらくこの町の地価|高騰《こうとう》とかかわりがあるのだろう。財力だけあって人間の住いについては愚かな考えしか持たない者が入ってくるのを止めることはできない。だが今はまだ、その数は多くはないようだ。駅前広場の桜も放射状の街路のイチョウも、七十年を経て亭々と茂り、町内の宝来公園の木々に鳥が鳴き、全体として落着きのある田園都市が保たれている。  ともに大正年間につくられた明治神宮の森と田園調布の町。神宮の森は人工林として始まり天然林へ移りつつある。町の住いに自然をとりこもうとした田園調布の実験はどうなってゆくのだろうか。地価を第一とする経済が優先して、それによって変貌《へんぼう》するのか。それとも都市生活者の内にひそむ自然への欲求が勝るのだろうか。  町の木は、邪魔になったら伐り倒される。奥山の木が何百年何千年を生きて倒れてゆくのとはちがう。  後藤文子さんという老婦人が、自分の住む老人ホームの機関誌に、ヒマラヤ杉についてのエッセーを書いておられた。この方は大槻文彦《おおつきふみひこ》の縁者の人で、私も一度お会いしたことがある。エッセーは、或る日玄関前のヒマラヤ杉数本が伐り倒されたこと、それが、特別養護老人ホームを新設するためであること、また、地域住民から日照の邪魔だから伐り倒してほしいという要望が前からあったことを書き、入園以来三十数年見つづけてきたヒマラヤ杉の死を、「伐られたのは|特養が建つ《ヽヽヽヽヽ》ためである。(略)私をも含む老人の、残る命のために……と思ったとき、私は声をあげて泣きたかった」と悼《いた》む。三十数年前は蛙《かえる》が鳴き白鷺《しらさぎ》が田に降りていた周辺に家々が建ち、大きくなったヒマラヤ杉がその人びとの日照を妨げだしたことも誌して、「ヒマラヤ杉よ、伐らるべき時《ヽ》が来たのである」「ヒマラヤ杉よ、命の捨て方の見事さに私は拍手を送る」と、みずからの生死に重ねてヒマラヤ杉の死を見送っている。  京大文学部中庭のヒマラヤ杉はいつまで生きるか。予算がついて建物が改築されるときがあのヒマラヤ杉の最後かと思う。町の木は、しかし、山の木よりも深く、奇妙に人の心と結びついた木である。『白痴』のなかの、死にゆくイッポリートの言葉を引いておきたい。 「じつはねえ、ぼくがここへ来たのは木を見るためなんですよ。ほら、あれですよ……(と彼は公園の木立ちを指さした)。ずいぶんおかしいじゃありませんか? え? ほんとうにおかしかありませんか?」(米川正夫訳) [#改ページ]    木の船の時代     1  古事記の少彦名神《すくなびこなのかみ》は「天の羅摩《らま》の船」という蔓草《つるくさ》の実のさやの船に乗り波頭を越えて現われ、昔話の一寸法師はお椀《わん》の船に乗り箸《はし》を櫂《かい》にして都へ向かう。豆のさやも木のお椀も水に浮く。もちろん普通の人間には小さすぎて船にはならないのだが、もっと大きくて堅牢《けんろう》で水に浮かぶものなら何でもとりあえず船の役割をはたす。  丸太にまたがって川を流れ下ってもいい。波静かな湖沼なら丸太にまたがり手で水を掻《か》いて進むこともできる。皮袋やひさごや甕《かめ》をかかえて水を渡るのを船とは呼べないが、木や竹をつなぎあわせた筏《いかだ》となれば、もうずいぶん船に近いだろう。古代エジプトの葦船《あしぶね》となれば立派に船である。葦とかパピルスを束ねて束と束の端を結び前後に反りをもたせた葦船は小さいながら櫂を使って進む漕《こ》ぎ船である。エジプトにはアカシアやエジプトイチジクの木で作った船もあったようだが、それらの木ではたいした船はできない。やがてフェニキア人がレバノン杉を供給するようになって、エジプトにも大型の船があらわれてくる。  エスキモーには木枠《きわく》にアザラシやトナカイの皮を張ったカヤックがあり、アイヌ人は樺《かば》の皮を用いた船を使っていた。船をつくる材料は多様である。だが、いちばん広く使われたのは木の船だった。鉄の船があらわれたのは人類史のなかではつい最近のことだが、それまでの船というものは、それぞれの土地の気候風土と結びついていた。エジプトのように樹木のすくない土地ではやむなく遠くから輸入しなくてはならないが、自分たちの土地が育てている樹木で船をつくるのが普通であった。 [#ここから1字下げ]  素戔嗚尊《すさのをのみこと》の曰《のたまは》く、韓郷《からくに》の島は是《こ》れ金銀《こがねしろがね》あり、若使吾《たとひあ》が児《こ》の御《しら》する国に浮宝《うきたから》〔船〕あらずば、未是佳也《よからじ》とのたまひて、乃《すなは》ち鬚髯《ひげ》を抜き散《あか》つ、即ち杉《すぎのき》と成る、又胸の毛を抜き散《あか》つ、是れ檜《ひのき》と成る、尻《かくれ》の毛は是れ《まき》と成る、眉《まゆ》の毛は是れ|※[#「木+豫」、unicode6af2]樟《くす》と成る。已《すで》にして其の用ふべきを定む。乃ち称《ことあげ》して曰《のたまは》く、杉《すぎのき》及び|※[#「木+豫」、unicode6af2]樟《くす》、此の両樹《ふたつのき》は以《もつ》て浮宝と為《な》すべし、檜《ひのき》は以て瑞宮《みづのみや》を為《つく》るべき材《き》とすべし、《まき》は以て|顕見 蒼生 《うつしきあをひとくさ》の奥津棄戸《おきつすたへ》〔墓所〕に将臥《もちふ》さむ具《そなへ》〔棺〕に為すべし、夫《そ》の|※[#「口+敢」、unicode5649]《くら》ふべき八十木種《やそこたね》、皆|能《よ》く播《ま》き生《をほ》しつ。 [#ここで字下げ終わり]  日本書紀巻第一で、素戔嗚尊が樹木の用途を定める条《くだ》りである。木はまず何よりも船をつくる材料として大事なものであり、ついで宮殿用、棺用であった。  ここに言う浮宝すなわち船は、刳船《くりぶね》である。記紀の神話がどの時代のことを言っているか、そんなことは確定しようのないことだしその必要もないのだが、木の船のはじまりは刳船で、海事史家石井謙治氏によれば、日本の船は十四世紀頃まで刳船技術を基本にしていたという。記紀の書かれた八世紀よりはるか昔、数千年つづいていた縄文《じようもん》時代の船は、出土品で見るかぎりすべて一本の木を刳りぬいた単材刳船、つまり丸木舟である。それでじゅうぶんだったのだ。外洋遠く出かける必要のない暮しのなかでは、一本の木からつくる船のほうが堅牢で長持ちするので大型の構造船はいらない。時代が下るにつれて人や荷物をたくさん乗せる船が欲しくなってくると、刳船が大型化する。一本の木ではおのずから大きさに限りがあるので、二本をつなぐ、あるいは三本をつなぐ。鉄の工具が出来てくる弥生《やよい》時代以降になると、石器では無理だった継《つな》ぎの細工が可能になって、大型の複材刳船があらわれるのだという。その刳船のヘリに波除《なみよ》けを加えれば外洋にも出て行くことができる。記紀に出てくる「鳥之石楠船《とりのいはくすふね》」(記)や「|天磐※[#「木+豫」、unicode6af2]樟船《あまのいはくすふね》」(紀)というのは、たぶんそういう大きな刳船であろう。鳥のように速く岩のように頑丈《がんじよう》な楠の木の刳船である。  楠という木は、巨木に育つ木である。伊勢神宮内宮の神域をあるいて見ても目立って太い木はたいてい楠の木である。古代には直径が二、三メートルもの楠の巨木が豊富にあったらしい。大型の刳船をつくるのにふさわしい船材である。ただ、楠の木は低いところで枝分れするので、太い木でも長さはあまりとれない。天保《てんぽう》九年に尾張国|諸桑《もろくわ》村で発掘された楠の刳船は四材を使ったもので、長さ七十尺、幅七尺だったという。二十メートルを越える大船であり、百人以上を乗せられる。常陸《ひたち》風土記に誌されている長さ十五丈(約四十五メートル)幅一丈(約三メートル)余の船も、石井謙治氏の推定では、楠の四材構成の複材刳船か、それを船底にして舷側《げんそく》板を設けたものだろうということだ。  ところで楠は、仏像の材料でもあった。飛鳥《あすか》時代の木彫仏はすべて楠の一木造りであるという。それが平安朝中期ごろから、檜《ひのき》にかわってゆく。仏像の用材はほとんど檜に限られることになった。『木の文化』の著者小原二郎氏は、その主な理由を、「クスノキという硬材の制約にあき足らなかった工匠たちは、ヒノキの刃当りや木肌《きはだ》の美しさに、新しい造形意欲をかり立てられた」ところにあるだろうと見ている。一方、石井謙治氏は、あくまでも推定にすぎないとしながらではあるが、船をつくるための楠の木という面を重視して、「楠は船材として確保されるようになったらしく、平安朝中期以後では他の用途はきわめて少なくなっている。たとえば楠の一木造りの巨大な仏像が平安前期で急激に姿を消しているなどはその証左だと思う」と書いている。そのどちらかの理由であるか、あるいは両方の理由が重なったものであるか、いずれにしても、仏像の木は檜になり、楠という木はほとんど船専用のものになっていった。  だが、楠は日本列島のどこにでもある木ではない。楠の生育地域は、福島県あたりを北限として、九州にかけての太平洋側である。日本海沿岸地域には楠はない。これも石井謙治氏によれば、「クスの生育しない日本海沿岸では、杉などの素材を生かした別系統の複材刳船技術が展開されていた。それは八郎潟《はちろうがた》干拓の際に発見された大型複材刳船に代表される技術で、クスのように太くはないが素直で長い杉・檜などを使い、船首から船尾までを通した片舷の刳船部材を左右二つ造り、その間に船体の幅を拡《ひろ》げるための船底材を入れて結合するものであった。つまり表日本とは反対の形での三材構成であり、ともに素材の特徴を生かした点で甲乙をつけ難い技術であった」ということだ。  鉄やプラスチックで造る現代の船なら、どこで造ろうと変わりはない。だが、樹木という有機体は、それぞれの土地の気候風土にしたがっている。土地によって育つ木の種類が違い、育ち方もいろいろである。太古から何千年か何万年か長く続いていた木の船の時代は、船というものがその土地の森のありかたと結びついていた時代であった。縄文時代の関東地方ではカヤの一木造りの刳船が多かったという。石器での工作もやりやすくて手頃《てごろ》な大きさを持っていたのがカヤの木であったということだろう。   われらは好戦的な森をもち、山々は   世界最上のたくましいオークに恵まれる。   幸せの島の確かな守りのために   広大な海の濠《ほり》でぐるりは囲われ、   国家の安全と自然の誇りを宣告せんと   その海はオークの船で堅固に守られている。  川崎寿彦著『森のイングランド』に引用されている、十七世紀英国詩人エイブラハム・クーリーの詩の一部分である。おなじころコヴェントリ卿《きよう》は、「木の城壁」という言葉で海上支配権を語っている。森は「われらの浮かぶ城」であるというとらえかたが、人びとのあいだにあったのだという。やがて世界の海を制して広大な植民地を手に入れてゆく大英帝国の艦隊や商船隊は、イギリスの森のオークによって造られていた。「木の王」「森の王」と呼ばれるオークはとりわけ強い木で、船材として優れている。川崎氏は、イギリス林業史の本に載っている図を掲げて、造船材としてのオークの利用法をこう説明している。「まず主幹の部分は直材《ストレート》と呼ぶが、これは船尾材《スターン・ポスト》に使用する。続いていろいろな角度に曲がった、いろんな太さの大枝を、|囲み材《コンパス》として適宜選んでいく。|けた腹《ブレスト・フツク》、中間肋材《フアトツク》、肘《ちゆう》(knee)などである。甲板や側板、そして内装などはニレ材、ブナ材、そして場合によっては針葉樹材でもじゅうぶんなわけだが、波の巨大な力を受けとめる骨格材は堅牢なオークでなければならなかった。しかも大枝がさまざまな角度に曲がって育つ点では、オークに匹敵するものはなかったのである。」  イギリスの森のオークは、そうやって海へ出て行った。造船量が急速に増えつづけ、オークは森から次第に姿を消してゆく。十九世紀に入るとオーク材が不足して、船体をほどほどの用材で造り舷側を鉄板で補強した鉄甲艦があらわれ、まもなくその船が海戦で木造艦にまさっていることが分かると、オークの木の船の時代は終わりに向かってゆく。  ともあれ、イギリスの森がオークを育てていなかったなら、イギリスが大海軍と大商船隊をつくり上げるのは、かなりむつかしいことであっただろう。     2  子供のころ聞いていた話に、税金のいらない村というのがあった。私の育った大聖寺(石川県南部)という町の近くにある瀬越《せごえ》村のことである。この村には大金持がいるためにその大金持たちが税金を全部払ってくれるので他の者は何も払わなくていいというのだ。瀬越村の小学校も広海《ひろうみ》家と大家《おおいえ》家がお金を出して建てたもので、両家の一字ずつをとって広大小学校と名づけられていた。  広海、大家、ともにもと北前船《きたまえぶね》の船主の家である。江戸中期から明治後期にかけて北海道と大阪のあいだ、日本海と瀬戸内海をつないで往来していた買積みの商船群を北前船と呼ぶが、その船主たちは日本海沿岸を根拠地としていた。なかでも加賀の海岸一帯は北前船主たちが多く、瀬越村もその一つであった。航海しながら各地でいろいろな物資を仕入れ、別の土地で何倍、何十倍の値段で売り捌《さば》く商売なので、遭難すれば元も子もなくなるかわりに、無事の航海での利益は大きかった。その富が、弁才《べざい》船と呼ばれる船型の、大きな一枚帆をあげた木造大型和船を使用した北前船の時代が終わったあと、大正・昭和になっても別のかたちで残っていたのだ。大英帝国の商船隊が築いたものとは比べものにならないけれども、船の築いた富はかなりのものであった。  博文館発行の月刊誌『生活』の大正五年七月号に、「日本一の富豪村」という五ページの記事がある。瀬越村と浜つづきの橋立《はしだて》村を主にして、瀬越村にも触れた記事である。橋立村には現在、「北前船の里資料館」が旧北前船主の家を使って造られているように、ここは北前船主たちの大根拠地であった。明治三十九年発行の「大日本金満家一覧鑑」には瀬越の広海、大家、橋立の久保、西出と、海辺の小村の家々がいずれもかなり上位に挙げられているのだが、大正五年の『生活』の記事もつぎのように始まっている。 [#ここから1字下げ]  北陸線大聖寺駅から一里半の海岸に日本第一の富豪村がある。乃ち加賀国江沼郡橋立村、小塩《おしお》と橋立の両|大字《おおあざ》に分れて戸数は各々百五十位ある。加賀の海岸線は単調平板を極めているが、此の橋立村に至りて俄《にわか》に一大屈曲をなし、昔は岩堤が二十丁ばかり海中に突出して一大奇観であったから因《よ》って橋立の村名が生じたという。今は其《その》岩堤|殆《ほと》んど崩壊して昔の面影《おもかげ》はないが、それでもうねうね屈折した海岸線に古い松が点綴《てんてい》して、安宅《あたか》の関|址《あと》は二三里先の海の中。晴れた時は蒼茫《そうぼう》たる海上|遥《はる》かに能登半島が眺《なが》められる。  此の村には五十万以上の資産家が三四名あるが上に、二十万三十万の資産家軒を並べ、五万以上の家に至っては村内の半《なかば》以上を占めている。但《ただ》し富豪の多いのは大字橋立の方、小塩は他村に比べては富豪が多いが、橋立程ではない。以下記する所も多くは橋立の事だと承知して戴《いただ》きたい。第一|日清《につしん》日露の両戦役に、此の村|丈《だけ》の公債応募額が実に五十万円の巨額に上った。日露戦役の折には、同村の西出孫左衛門氏が七万五千円、久保彦兵衛氏が七万円という巨額に応募したのであった。西出氏は函館《はこだて》の有力者で東京の八十四銀行の取締役、大聖寺水力電気会社の専務取締役を勤め、七八十万の資産を有する。久保氏は大聖寺水力電気会社の社長、大阪の肥料問屋としては一二の顔である。次いで酒谷長兵衛、酒谷長一郎、泉藤三、増田又右衛門、久保彦助、久保周三、増谷某の諸氏が指を折れるだろう。 [#ここで字下げ終わり]  記事のなかに函館が出てくるのは、北前船主たちにとって北海道がごく身近かな土地であったためである。橋立村出身で函館など北海道に移り住んだ者も少なくなく、右の記事も続いて橋立村出身で函館選出の代議士三人を挙げているほどである。記事は以下、橋立村の富豪ぶりを並べているのだが、たとえば、こんなふうである。——この村のほとんどの家が石垣《いしがき》を積んだ上にみごとな瓦葺《かわらぶ》きの家を建てている。「繞《めぐ》らすに塀《へい》を以てした、恰《あたか》も城廓《じようかく》のような堂々たる家ばかり」だ。女たちは隔日ぐらいに輪番で間食会を開いている。金にまかせて良い材料で菓子をつくるので、この村の女たちの菓子製造術はおどろくばかりに巧妙であり、「日永うして海晴れた時の女房達の胸の中は、何一《なにひとつ》の蟠《わだかま》りのない平和なもの」である。小学校の校長の俸給《ほうきゆう》は郡中第一の高給である。石川県に唯一《ゆいいつ》の郡立病院は、その建設費の七割を橋立一村で出している。村には本願寺の別院も建てている。家々の屋内は朱塗りが多く、「有名な堂塔|伽藍《がらん》にでも入ったような気持ち」になる。老人や子供の楽しみに積立てる郵便貯金が一万五、六千円もの巨額になっている。村にある店は雑貨屋が二軒だけで、買物は衣裳《いしよう》でも何でも大聖寺の町の店を呼ぶ。農業はほとんどやらず、目の前に海があっても漁業もしない。家のまわりの土地はすべて贅《ぜい》をつくした庭園にしていて、「昔の大名の邸宅も斯《か》くやと思われるような美観」をなしている。  記事の筆者は、瀬越村について、広海家は資産四百万、大家家は資産三百万余で、橋立の富豪をはるかに上廻《うわまわ》る富豪だけれども、瀬越村には無資産の者もたくさんいることを指摘して、橋立村のように「全村を挙げて巨万の富豪ばかり」という村はほかにないだろうと言っている。  橋立にも瀬越にも、私は幾度も足を運んでいる。酒谷家を改修した北前船の里資料館のほか、旧北前船主の家や庭を見せてもらってもいる。それらはいずれもみごとなものである。広海や大家の、藩主のそれにもひけをとらない墓所に目を見張りもする。だが、いま両村ともに、大正五年の記事が書いているほどの富裕はない。それぞれ加賀市の平凡な一地区にすぎない。北前船の歴史を垣間見《かいまみ》せはしても、ひっそりとした村になっている。木の船の時代が過ぎてゆくときに、両村の北前船主たちも汽船への転換をはかったり金融や鉱山事業を兼ねたりしたのだが、この国の近代化が太平洋岸を主にして進行したこともあって、彼らの誰ひとり、三井にも三菱《みつびし》にも住友にもなれなかった。  私はそれでよかったと思っている。北前船主が巨大財閥になって、その故郷の地を壮麗に飾り立てたとしたら、おそらく私などが足を向けたいところにはなっていないだろう。いま大聖寺出身の某不動産業者が関西で財を成したとかで、加賀温泉駅(旧作見駅)のすぐそばの丘に、巨大なコンクリート製の金色の慈母観音像を建立《こんりゆう》し、その周辺を一種のレジャー空間につくっている。数百億円をかけていると聞くが、いかにも成金趣味である上に、宗教のかたちを借りての金儲《かねもう》けのにおいが濃い。橋立や瀬越が、そんなことにならなかったのは幸いであった。北前船という白帆をあげた木の船の時代が、いくらかの波紋をのこしながら、しずかに過ぎて行った。村はその余恵をなにがしかとどめながら、平凡にしずまっている。それでいい、それが人の世のおのずからの流れだ、と思う。  平穏な橋立村で、ここ数年夏ごとに、北前船セミナーが開かれている。私も二度ばかり参加した。日本海と瀬戸内海の各地から、北前船の研究者や郷土史家などがあつまってくる。北前船主のいた土地や、北前船の寄港地など、俗に千石船と呼ばれもする北前船にゆかりのある土地の人たちのあつまりである。  江差《えさし》や函館など、北前航路の北の拠点からの人も多い。日本海の諸港、深浦や鯵《あじ》ヶ沢《さわ》、土崎、酒田、小木《おぎ》、寺泊、出雲崎、直江津《なおえつ》、伏木《ふしき》、輪島、福浦《ふくら》、大野、宮腰、三国、敦賀《つるが》、小浜《おばま》、等々も北前船に縁が深い。瀬戸内の港々も、それぞれに北前船の立ち寄った歴史を持っている。それらの土地の人たちと共に蝉《せみ》しぐれのなかで、かつての海の男たちを思い浮かべながらの一泊二日のあつまりは、村の暮しを乱すことはないだろう。船主や船頭や水夫たちの霊の平安を乱すこともないだろう。人数も四、五十人と小さなあつまりであり、また、そこに汚い欲がらみで来る者はおそらくひとりもいないのだから。  北前船は明治末までにはほぼ姿を消すが、木の船がすべてなくなったわけではない。たまたま目にした渋沢秀雄著『わが町』には、大正八年の多摩川の写真が載っていて、そこには二|艘《そう》の和船が見えていた。川の船だからそれほど大きくはないようだが、白い一枚帆を高く張った昔ながらの和船である。鉄の船の時代の片隅《かたすみ》にそういう船が、いつごろまでか知らないが生き残っていたようである。木製の動力船なら、ずっと後まで使われている。小型漁船にも木造船をほとんど見かけなくなったのはつい最近、プラスチック船が普及してからのことだ。  木の船の時代、二千石積みという大船でもトン数にすれば二、三百トン程度のものだった。数千トンを積んで走れる船は木では造れない。五十万トンのスーパータンカーは鉄の時代の船を象徴している。そして再び言えば、鉄の船はどこで造っても同じだが、木の船は土地によって違いがある。石井謙治氏作成の「弁才船の主要部材の材質と地域別比較」に、弁才船の二十三の部材の樹種が地域別一覧にしてあるのだが、これを見ると、或る部材は瀬戸内では楠・松、東海でも楠・松、九州で杉、北陸で松・櫟《くぬぎ》、山陰では槻《つき》・アスナロ、という具合である。解説によれば、「上木とされる楠は地域性が強く、北陸とか山陰といった日本海沿岸ではまったく使用されていないことや代用として欅《けやき》をあてていたことがわかる。他方、地域性のない材料の典型が杉・松・樫《かし》だということもはっきりとしよう」ということである。  船とは限らない。どこで作っても同じ物のできる時代に私たちは住んでいる。工業製品のほとんどは、どこででも同じ物ができる。土の育てる農産物も地域性がうすれだしている。その時代に生きることを愉快に思うか不快に思うかは人それぞれだが、モノの等質化の流れは進むばかりのようである。     3  北海道の江差は、北前船の荷積み港であった。主な荷は鰊《にしん》の搾滓《しめかす》である。大坂をはじめとして西日本各地の稲作や工芸作物用の良質の肥料として蝦夷地《えぞち》・北海道の鰊搾滓を俵詰めにして船積みした。  江差の港の外堤のようにして、かもめ島がある。昔は弁天島と呼ばれていた島で、ちょうどかもめが翼をひろげたような形で港を荒海から守っている。「出船三千入船三千」「江差の五月は江戸にもない」と言われた江差の賑《にぎ》わいは、かもめ島を防波堤とする良港があったためである。  港から埋立地を通ってゆくと、かもめ島の砂浜に出る。その先の石段を数十段上ったところにひろびろとした台地があり、潮の匂《にお》いが吹きすぎる小道を右手にとると厳島《いつくしま》神社がある。元和《げんな》元年(一六一五年)廻船《かいせん》問屋仲間が海上安全を祈願して建てた弁財天社で、のち明治元年にいまの神社名に改めた。  神社のある場所は、日和山《ひよりやま》でもある。神社前に東西南北を刻んだ方位石があった。北前船の寄港地に私はあちこち行ってみているのだが、どこへ行っても日和山がある。和船時代の港には、まず日和山のあるのが普通だろう。一枚帆の和船にとって風をよく見ることが航海の成否の鍵《かぎ》だった。航海の責任者である船頭は、日和山に立って風の方向を見る。雲の動きやいろいろのものを見て、つぎの寄港地まで無事に航海できるかどうかを判断するのだ。そのためには現在の風だけでなく、いまから半日、一日、ときには二日後三日後の風や海の状態までも予測しなくてはならない。早く出港したくても、あせって出れば逆風にあって結局もとの港に戻ってくることもある。最悪は時化《しけ》にあっての難破である。積荷どころか船もろとも生命《いのち》まで失うことになりかねない。船頭たちは根気づよく良い風を待った。  能登半島の外側にある福浦《ふくら》は、北前航路中でも重要な風待ち港だった。船に必要な物資を補給する問屋が軒を並べ、海の男たちを遊ばせる廓《くるわ》が栄えていた。上り船下り船を分けて入港させるのに都合のいい二つの澗《ま》を持つ天然の良港だが、この福浦の日和山のはずれに「腰巻地蔵」がある。  遊女たちにとっては船の男たちが一日でも長く滞在してくれるのが望ましい。そのぶん実入りが増えるわけだが、おそらくそれよりも、床を共にして心を通わせた相手を一日でも二日でも長く引きとめておきたいという女たちの気持ちからであろう、地蔵に不浄の腰巻をかぶせて地蔵の怒りで海を荒らし、船の出港を遅らせようとした、という話である。腰巻地蔵はいまもあるが、実際に腰巻をかぶせられたことがあるのかどうかは分からない。だが、あったと思いたい。船頭や水夫たちに知られないように、夜中に抜け出して地蔵のところまで暗闇《くらやみ》の山道を登り、星明りの下で腰巻を脱いで地蔵にかぶせ、海と空の荒れだすのを待った遊女が、ときおり居たのではないだろうか。海も空も荒れてくれないまま、あきらめてまた腰巻をつけて山を下りる女は、こんどは、もしも男の出港後に荒れはじめて船が沈んだらどうしようと、心配がつのったりもしたのではないだろうか。  江差の日和山、厳島神社の石の鳥居に、「加州橋立船頭中」の文字が刻まれていた。加賀の橋立の北前船船頭たちが寄進したもので、天保九年三月吉日の刻字もあった。  あの橋立村の船の船頭連中である。彼らは毎年江差へ来ていた。彼らが江差の弁財天社に海上安全を祈って鳥居を寄進するのに何の不思議もないのだが、それでも私はあっと思った。江差のかもめ島で遠い加賀橋立の文字を見ると、急に北前船の一枚帆大型和船の姿と船乗りたちの顔が見えてくるような気がした。  それとともに、彼らの信仰心が、いっそう分かるような気もした。海でたよれるものは最後は神仏しかない。それゆえの信仰心である。信心というほうがいいだろうか。  明治の北前船に水夫として乗っていたことのある人の話を又聞きに聞いたことがある。静かな海を順風で走るときの船は、それはいいものだったという。文字通り滑るように走る。いまの船とちがってエンジン音がないので、船はしんと静まっている。針一本落としても聞こえるほどだという。船乗りたちは、そういう航海をねがっていた。だが、海はいつ荒れだすか知れたものではない。静かな航海のあいだ、船乗りたちは爪先《つまさ》き立ちでそっと船内を歩いたという。そうやって歩くことで、ごく微《かす》かな海の変化や船の異常に気づくことができるのだ。順風平穏の航行のうちにも、いつもはらはらしていたのだ。どうかこのまま、良い風をくださいますようにと、神仏に祈っていたのだ。  海の男たちは無鉄砲なところがある。農民とはまるっきり別の心を持っている。と同時に、海という手に負えない自然のなかで、信仰心を育てている。つい先日も能登の漁師町で、漁師たちは神社でもお寺でも、お寺もどの宗派でも、また道ばたの地蔵でも何でも、通りかかればかならずきちんと手を合わせて拝むものだと聞いた。定置網を建てるときにも、かならず暦で日を選び、数日前から性交を断って身を浄《きよ》め、網を入れるときにはお神酒《みき》を捧《ささ》げて祈るのだという。  大型フェリーやスーパータンカーの乗組員などには、もう信心はいらないかも知れないが、小型漁船の漁師たちには、いまもまだ木の船の時代のこころが生きている。船の安全も、自分の生命も、漁の成否も、最後は神仏だのみなのだ。人間を超えるものに祈るしかないのだ、海をじかに相手にするときは。  北前船の船頭たちがいくら慎重に日和を見ても、海難はやはりしばしばあった。幸い陸にたどりついた船乗りたちが生命の助かった御礼に神社へ船絵馬を納めていたりする。荒海に翻弄《ほんろう》される船の絵が描かれたものである。  須藤利一編『船』に、川合彦充著「漂流」の章があり、江戸時代の漂流船で長期の漂流に耐えられたのは積荷が米など食料品の場合だけだと書いて、つづいてこう書いている。「食料があるからといっても、もちろん漂流生活に勝ち抜けるとは限らない。漂流という特異な環境にあっては平常の人間生活にはとうてい見られない言動もあらわれるが、この異常な環境に耐え抜くのは、結局、人それぞれの精神力と船内における人の和である。つまり漂流生活で最後の勝利者となるには強い精神力を必要とするが、その精神力は素朴《そぼく》な宗教心から生まれている。神や仏を心から祈念できない者は発狂したり、病死したりしている。困ったときの神頼みではなく、常に心から神仏を信じていた者が多く生還している。」  望んでなったわけではないが、ともあれ神仏を失った近代人に育ってしまった私などは、発狂か病死か、どちらにしても生還は不可能だ。  江戸時代の船乗りには、神鬮《かみくじ》というものもあった。船の方角を見失ったときなどに、神鬮で神のお告げを聞いて針路を決める。十二支の方位を書いた紙を十二枚まるめて、伊勢神宮の御幣《ごへい》を上にかざすと紙玉の一つがとびついてくるという。考えられないことだが漂流記ではかならずとびついているらしい。また、一升|枡《ます》に入れ、上に小穴のあいた蓋《ふた》をしてから、一同心をこめて神仏に方位を授け給《たま》えと祈り、こぶしで枡の蓋を叩《たた》いて小穴から紙玉がどれか一つとびださせるという説もある。それが神のお告げの方位である。方位だけでなく距離なども占ったようだが、その結果を船乗りたちは堅く信じていたという。  神鬮はなにより、危機に際しての心の支えになっていたらしい。神鬮を信じることによって、お告げに従っていればかならず生きて帰れるという強い信念が得られた。それをばかばかしいと思う者は、発狂か病死かということになるわけである。  漂流者にとって精神力がどれほど大事であるか、スペイン南端からバルバドス島まで約四ヶ月間ひとりで漂流を試みたフランス人、アラン・ボンバールがつぎのように書いている。 [#ここから1字下げ]  くらやみの中で水と風にふるえ、空間、物音、あるいは静けさにおののく海難者にとって、死ぬには三日で十分なのである。  伝説の海難者たちよ、死をいそぐ犠牲者たちよ、諸君は海のために死んだのではない。諸君は飢えのために死んだのではない。また、かわきのために死んだのでもない。諸君は鴎《かもめ》の鳴き声を聞きながら、恐怖のために死んだのである。  物理的|乃至《ないし》生理的条件それ自身が致命的となるずっと前に、多くの海難者は死んでしまうという事実を、僕は間もなく確認し得るに至った。いかなる物理的素因よりも一そう有効でまた速かに作用する恐怖心に対して|いかに戦うべきか《ヽヽヽヽヽヽヽ》?(『実験漂流記』近藤等訳) [#ここで字下げ終わり]  北前船の航海は年に一往復だった。のちに沖乗りで二往復の船も出てくるが、普通は風を待ちながら港々に寄って行くので、大坂と蝦夷地のあいだを春から秋にかけて一往復するのが精一杯だった。  橋立や瀬越の船方たちは、早春まだ残雪のあるころに船主に挨拶《あいさつ》をして大坂へ向かう。三国港まで歩いて船で敦賀へ出、そこから琵琶湖の西岸を歩いて京都に入り、本願寺にお参りをしてから大坂には村を出て四、五日目に着く。前年の航海のあと預けてあった船の修理をしたり、積荷の買付けをしたりして、一ヶ月ほどたった彼岸前後に出港する。瀬戸内の諸港でもいろんな物を買付けて日本海へ出、郷里の村の沖にいったん錨《いかり》を下ろして艀《はしけ》で上陸、半日後には能登の福浦へ向かう。江差など蝦夷地の港に入るのは、それから半月か一ヶ月あとである。蝦夷地で積荷の残りを売り捌いてから鰊搾滓などの帰り荷を積んで八月中には出港する。台風の季節前に瀬戸内に入らなければならない。そして大坂に着くのが晩秋ごろ、ときには年末になる。船を預けてまた徒歩で郷里の村へ帰った。  無事に航海を終えて帰る船乗りたちの心は弾んでいただろう。利益の分配金もふところに入っている。   山が赤うなる 木の葉が落ちる   やがて船頭衆がござるやら  山中節の一節である。湯女《ゆな》たちが北前船の船頭衆を、この季節になるともうそろそろかと待っている。船方たちのなかでも実入りの多い船頭など主だった人びとは、船主に挨拶をすませ氏神様に無事帰国を感謝すると、山中や山代《やましろ》、粟津《あわづ》などの温泉場へ湯治に出かけた。航海の疲れを一、二週間の湯治で癒《いや》すのだ。  温泉の湯も、湯女も、海の男たちの身体《からだ》と心をほぐしてくれただろう。海では危ない日もあったことだろうが、こうして無事に帰っていることの喜びがひたひたと寄せてくるだろう。それでもまた春が近くなると早く海へ出たくなるのが海の男というものだろうが、湯治の日々のやすらぎもまた、海を知らない者には得がたいものであっただろう。  江差でも去年(一九八七年)第一回北前船セミナーが開かれた。何年がかりかで北前船の復元船を造る計画も出ているという。五百石積みぐらいの小さめの船になるだろうとのことだが、用材はすべて江差周辺の山の木でまかなう計画である。檜山地方というように、江差のあたりは檜の良木があるので、檜を主材にしたいという話だった。  その船が日本海に浮かぶとき、再びあらわれる木の船によって、木の船の時代のこころが帰ってくるかどうか。意外なことが起こるかも知れない。 [#改ページ]    木でつくる     1  五日ばかり伊香保《いかほ》に宿をとっていた。この温泉場には三十年ばかり前にも来たことがある。そのときと比べて変わっているといえば変わっているのだが、ほかの町々の三十年の変貌《へんぼう》と比べたら変わっていないと言うほうが正しいかも知れない。見上げるような石段が温泉場のまんなかに長く続いていて、その両側に旅館や土産物屋が並んでいる。石段街を自動車が走るわけはないので、自動車の時代の影響を受けること少なくきたところである。町の骨格は、大槻文彦《おおつきふみひこ》が明治十二年の夏避暑に来て木暮旅館に一ヶ月を過ごし、箕作麟祥《みつくりりんしよう》、岸田|吟香《ぎんこう》、初代三遊亭円朝、精養軒主人らと日々酒を酌《く》みかわし、宿の主人にたのまれて「伊香保志」三巻を書いた頃《ころ》と、さして変わっていない。徳冨蘆花《とくとみろか》が明治三十一年この町の千明《ちぎら》旅館で『不如帰《ほととぎす》』を執筆した頃とも、また蘆花が重病の身を運んで同館の別棟に静養し二ヶ月半後にここで世を去った昭和二年の伊香保とも変わってはいない。昭和三年に有島生馬《ありしまいくま》と共にこの温泉場に来てまもなく榛名《はるな》湖畔に山荘を建て、榛名山美術研究所の設立を夢みた竹久夢二の見た伊香保も、その骨格は今と同じである。私は五日のあいだ毎日散歩をしながら、大槻文彦や徳冨蘆花や竹久夢二を、身近かに感じていた。ここでは明治初期からの一世紀という時間も、昭和初期からの半世紀余の時間も、途切れることなく続いている。遡《さかのぼ》っていける時間があるという感じが、石段の石を近年とりかえたと知っても、なおかつ濃く漂っている。  石段街の途中、ちょっと脇《わき》に入ったところに、伊香保スケート資料館という小さな建物があった。下駄《げた》スケートやオリンピック資料は珍しくはなかったが、ここはスケートだけでなく郷土資料館であって、展示の一部には温泉に関するものもある。そのなかに不思議なものがあった。  子宮《こつぼ》洗いという木工品である。ペニス状、といっても亀頭《きとう》の張りは略してなめらかにした形状であるが、女性器内に収まりやすくしたもので、中を空洞《くうどう》にし、周囲に十数個の小穴を開けてある。後部には鍔《つば》状の部分をもたせ、女性の体内にのみこまれてしまわないように作られている。子宝にめぐまれたい女性がこれを体内に収めて入浴するのである。  この器具の由緒《ゆいしよ》が誌してあった。 [#ここから1字下げ]  古来伊香保は子宝の湯として知られていた。明治時代東京山龍堂病院長|樫村清徳《かしむらきよのり》医学博士は伊香保に土地と温泉を買って屡々《しばしば》来香していたが此の温泉を一層有効に利用する事を思い立って此の器具を考案したのであった。  当時伊香保の物産はお盆、木箱、おもちゃ類等で町に数軒の轆轤《ろくろ》屋があった。博士は使用目的を教え、製作上の注意を与えて出来上ったのが之《これ》である。いささかもササクレがあってはならないと材料は桜を用い穴の縁は焼火箸《やけひばし》で焼いて木賊《とくさ》で仕上げる等細心の注意を払ったと聞く。大正時代二、三軒あった物産店には大、小、沢山つるして売っていたし、旅館の女湯には備えてあった。誰が名付けたか子宮《こつぼ》洗いという様になった。 [#ここで字下げ終わり]  右がほぼ全文であるが、私はこの器具の前で、しばらく茫然《ぼうぜん》としていた。人間の肉体内に入れる木工品があろうとは、今まで思いもかけなかった。竹や堅木で義歯がつくられたことのあるのは知っていたが、これはその場合とはまるっきりちがう。人間の肉体のなかでもとりわけ繊細な粘膜質部分に挿入《そうにゆう》するための木工品である。  これは木工というものの、一方の極ではないか。何気なく覗《のぞ》いた資料館で、まさかこんなものに出会うとは思っていなかった。おどろきと、一種の感動で、足がとまったのだった。桜の木でつくったこの子宮洗いは、ペニスのヴァギナに入るが如《ごと》く、或《ある》いはそれ以上にスムーズに、いささかも粘膜を傷つけることなく入るものでなければならぬ。細心の仕上げが求められる。不良品は一個も許されない。  そのとき資料館の入館者は私ひとりだった。すこしばかり勇気を要したが、受付の女性にたのんで、器具と説明文の撮影を許してもらった。  土産物屋を兼ねた喫茶店に坐《すわ》って、「そうさ」「するのさ」と尻上《しりあ》がりの小気味よい上州女たちの会話を耳にしながら、私の頭は子宮洗いから離れようとしなかった。林芙美子《はやしふみこ》の『浮雲』では主人公のゆき子が伊香保で心中をはかって未遂に終わるけれども、あれは仏印から帰ってきたあとの戦後の物語だから、この石段街はあったわけだが子宮洗いはもう使われてはいなかっただろうな、とか、たとえ子宮洗いがあってもゆき子にその必要はないわけだ、子供は欲しくなかったのに出来てしまったあとで堕《おろ》しているくらいだから、などととりとめのないことを考えてしまう。それにしても、と思う。焼火箸で穴の縁を焼いて木賊で磨《みが》き上げるという細工は、これ以上ない入念なものだっただろうな、しかし、それだけの木工品でありながらたぶん安価なものであっただろう……。桜の木を使ったというのは納得できるな、杉や檜《ひのき》のような針葉樹は軟木だからこの用途には合わない、細工がしにくくても広葉樹材がいい、木版の版木に使われるヤマザクラならこの器具にふさわしい堅木だろう……。  人間は木でいろいろなものをつくってきた。住居や宮殿、神社や寺院、橋や船などという建造物はもちろんのこと、木鋤《こすき》や木鍬《きぐわ》などの農耕具、食器、食膳《しよくぜん》、さまざまの卓や机、桶《おけ》や樽《たる》や風呂《ふろ》、木棺、仏像、玩具《がんぐ》、そして大小いろいろな用途の箱——と順序もなく思い浮かべてゆくと切りがない。琴やヴァイオリンといった種々の楽器も木でつくってきた。木刀も弓も野球のバットもスキーの板も、碁や将棋の盤も、算盤《そろばん》も、櫛《くし》や指輪やペンダントも、下駄や木靴《きぐつ》も、大八車や橇《そり》も、鉛筆の軸も割箸も、絵の額縁も彫刻も、木活字や木版も、仮面も、絞首台も、——いや、もうよそう、本気になって細かく数え上げていったら原稿用紙を何枚つかうことになるか分からない。木を原料とする布や紙や染料などのことはさておいても、精粗のちがいはあれ木を細工してつくった物が私たちの一生をとりまいている。プラスチックをはじめとする化学製品が急増した今では、とりまいていたと過去形で言うべきかも知れないが、それでもやはり身のまわりを見まわせば木でつくった物はすぐに目につく。  それら無数の木工品のなかで、人体の内部に入れて使用するのは、私の知るかぎり、伊香保の子宮洗いだけである。性遊戯道具にはあったのかも知れないが、私はそれに暗い。たぶんあっただろうが、それはどこかちがうものだという気もする。それは必ずしも材質が木でなくてもよかったものだろうと思えるからである。     2  能面をプラスチック成型でつくれるだろうか。おそらく遠目には檜の木から打ち出した能面と見分けるのがむつかしいものが出来るだろうと思う。プラスチックの尺八が売られている今の世である。石像などのレプリカの技術も精巧なものである。能面は檜の木からつくるとはいえ、彫り上げた木面に彩色してしまうものだから、プラスチック生地の漆|蒔絵椀《まきえわん》などと同じように、見た目に木の生地《きじ》を使ったものとそれほど差異のないものが出来るだろう。しかし、能面はいまも一面一面、面打師が木から打ち出している。なぜだろうか。能という芸能は古そうにみえても、すでに現代の電気照明を採り入れている。ときに薪能《たきぎのう》を催して燃える火の明りを照明にする演能はあるけれども、どの能楽堂も電気照明を使用している。観客の席が椅子《いす》席になっているところも多い。いや、建物そのものが鉄筋コンクリート造りになっていて、その内部に能舞台をはめこむという形になっている。エアコンディションの装置も設備されている。そこに風は流れず、明りはゆらめかない。能はすでに大きく現代化している。だが、能面は(能|衣裳《いしよう》も)昔とおなじにつくられている。なぜだろうか。  知人の能面打、谷口明子さんに、その疑問を不躾《ぶしつけ》を承知で聞いてみてもよかったのだが、おそらく答は、能面は古くなるほどいいのです、そのためには木でつくらなければならないのです、というものであろう。谷口さんは自分の打った能面にはじめから時代をつけるということをしない。時と共に古びる古さが本物という考えである。谷口さんがこれまでおよそ二十年間に打ってきた約三百の能面も、こういう言い方を許してもらえるなら、谷口さんの死後いよいよ良くなってゆくはずである。もちろん彼女がこの世にあるうちにも年ごとに、打ち出したときよりもすこしずつ良くなってゆくのだが、室町時代につくられた能面に肩を並べるには数百年の時が要る。能面を打つ彼女の内奥《ないおう》には、自分の生の時間をはるかに越えるその時間への期待があるだろう。その長大な時間をひそかに測りながら面《おもて》を仕上げてゆくのであろう。  彫りにかかっているときの谷口さんの仕事場は、檜の木の香りに満ちている。あぐらをかいて膝《ひざ》の上で彫っている、その膝のまわりの木屑《きくず》が匂《にお》い立っているのだ。檜風呂はよく匂うものだが、鑿《のみ》で削り出された木屑はその何倍も匂う。知り合いの人で、この木屑をもらってゆく人があるという。麻袋に入れて風呂に漬《つ》け、檜の香りを楽しむためだ。私も帰りに一袋もらってきて、いま机の上に、秋山郷でもらってきた白木の鉢《はち》のなかに山盛りにして置いている。私の部屋は煙草《たばこ》のにおいがつよくて木屑に鼻を近づけないと香り立ってこないのだが、北鎌倉の人通りのすくない小道の脇にある谷口さんの仕事場では、あの土地の澄んだ空気の流れる古い木造家屋のなかで、檜の香りが匂いつづけていた。  彼女のつくる面は、すべて檜材である。もとめた材を十年以上自然乾燥させてから使っている。彼女の面にかぎらず、能面はほとんどが檜をつかっているという。古面には数は少ないが楠《くす》や桂《かつら》と思われるものがあり、現代でも稀《ま》れに桐《きり》をつかう人もあるのだが、総じて能面は檜でつくられている。谷口さんは、檜の感触がいい、ほかの木はつかう気になれない、と言う。加えて、檜ほど長い年月を生きる材は、ほかにちょっと見当らないのである。  小原二郎氏はその著『木の文化』で、貞観《じようがん》期にあらわれてくる白木の仏像について書き、その材であった檜の材質について次のように言っている。 [#ここから1字下げ] ……ヒノキ属には世界に六つの種がある。日本に二種(ヒノキ・サワラ)、台湾に一種、北米に三種である。それらの中で、わが国のヒノキは、材質がもっとも優れている。すなわち緻密強靭《ちみつきようじん》で、木理《もくめ》は通直、色沢は高雅で、耐久力があり、芳香はふくいくとして、わが国の用材中で第一位にあげられるものである。実に世界に誇ることのできる良材といってよい。その古名を真木(まき)と称したのも、材質の優秀性のゆえである。ことに彫刻用材としては、材質が均一で、春材と秋材の区別が少なく、刃当たりもなめらかである。またねばり強くて、欠けることが少なく、狂いも小さくて、仕上がりが美しいから、彫刻師がひとたびヒノキを使うと、もはや他の木を使うことはできにくいであろう。 [#ここで字下げ終わり]  はきふるしたジーパンに真紅のTシャツで、足に白足袋をはき、膝に木綿の厚布をひろげ、あぐらの左膝に檜の面をのせ、畳に並べた鑿《のみ》の一本を取り上げて、能面打谷口明子の独りの時間が過ぎてゆく。中世の面打師たち、古代の仏師たちと、同じ感触があるのだろう。  部厚い栃《とち》の一枚板に、仕事道具が並べてある。竹筒には絵筆の類、刃物を入れた綿布の巻き布、白い乳鉢《にゆうばち》、顔料箱、そして大小いくつもの砥石《といし》と水を張った木桶。以前訪ねたとき、砥石を探す苦労と、良質の砥石を手に入れたときの嬉《うれ》しさを聞いた。檜を美しく彫り上げるには、刃物の鋭さが要り、そのためには良い砥石が要るのだ。小原二郎氏は右の引用文につづいて、こう書いている。「ヒノキは軽軟ではあるが、刃物の切れ味の鋭さを要求することはもっとも強い。それゆえ、よほど鋭利な刃物でなくては、ヒノキの彫刻を美しく仕上げにくいことは、木彫家の等しく認めるところである。ことにその木口のノミ跡を見れば、腕の程度が推知できるといわれている。」  谷口さんが女性であることは、能面を打つ者として不利であろうか。刃物の使い方に男性との差があるだろうか。私には分からないことだが、小柄《こがら》な彼女の裡《うち》に外見からは知れない強靭な力が鍛えぬかれているのではないかと思う。だが、そのことよりも私には、女性であることが有利ではないかと思えるのは、能面には狂う女が多いということである。すでに狂った女、やがて狂うはずの女。それらの女面も男が打ってきたわけだが、女が打てばいやましにそれらの面の核心が打ち出せるのではあるまいか。もちろん現代の能面打は古面のウツシを仕事としている。谷口さんも主に観世流の古面のウツシをやっていて、創作面はこれまでわずかに二面だけである。だが、古面のウツシといっても完全に同一の物をつくるわけではない。どれだけ古面に忠実につくっていっても、そこに能面打のいわば個性が潜むのを消すことはできないだろう。そのとき、女性であることは、もしかしたら有利ではあるまいか。たいていの女性のなかには狂う女が棲《す》んでいるだろう。谷口明子のなかにも棲んでいるだろう。男が内にひそめているよりも、女のほうがより強く、あるいは、より触発されやすく狂をひそめていると私には思える。  私はなにも、笑顔の美しい谷口さんを狂女呼ばわりする気はないのだが、女能面打には狂う女の面だけでなく狂う男の面もまた、親しいものではないかと推しはかるだけである。何年か前に谷口さんのこの仕事場で見せてもらったのは、川途《かわず》の面であった。観世家所蔵の本面を借りてそのウツシを二面つくったとのことだった。川途というのは幽霊面の一つで、「阿漕《あこぎ》」の水死人の亡霊に使用される能面である。眼窩《がんか》が深く落ち込み、頬骨《ほおぼね》が高く張り出し、頬が削《そ》げ、鼻梁《びりよう》が勁《つよ》く走り、口をなかば開いて、額に水で貼《は》りついた髪が毛書きされ、ひどくリアルで、それでいて虚《うつ》ろな、見ていると背筋の寒くなるような面。生者と死者が一つの顔に重なって、生者でも死者でもない、言いようのない顔がそこにあった。この川途の面と何十日も独りで向き合っていた谷口明子という能面打に、私は畏怖《いふ》を感じたものだった。川途の面が発している狂気に私はたった一晩も向き合いつづけられそうにない。  今度見せてもらった完成品の面は大喝喰《おおかつしき》と増女《ぞうおんな》の二面であったが、製作途中のものは般若《はんにや》の面であった。いうまでもなく悲しみと怒りに鬼となった女の面である。  先頃死去された戸井田道三さんの『能芸論』から、般若について書かれた部分を引く。 [#ここから1字下げ] ……もとより、ハンニャは、人間の|しっと《ヽヽヽ》やうらみにとらわれた心を、あらわす面であるから、神の面とはいいがたい。が、これをもちいる「葵上《あおいのうえ》」にしても「道成寺」にしても「黒塚《くろづか》」にしても、みんな生き霊《りよう》、死霊として、たたりをしたり、鬼婆《おにばば》として人を殺したりするのであるから、人間の面というよりは、超人的威力を持った面で、形の上からいっても神をあらわすトビデとよく似ている。この面は、まゆをぐっとせばめて、目から上は内へしぼむような、苦悩の表情をもっている。目から下は外方へ開くような反対の動きを見せ、苦悩よりもむしろ|いかく《ヽヽヽ》、|きょうはく《ヽヽヽヽヽ》の表情をもっている。能面が、演者に対する命令であると同時に、ここでは命令自身が泣くともつかず、怒るともつかぬ複雑な面になっている。そして、「葵上」でも「道成寺」でも「黒塚」でもハンニャをつけたノチシテはワキのいのりによって調伏《ちようぶく》せられる運命をもっている。絶対に面をつけることのないワキ、そして、人間以外としては絶対に登場しないワキによって調伏されるのである。これは、いったい、なにを意味しているのであろうか。 [#ここで字下げ終わり]  ワキは、旅僧であることが多いが、通常の人間であり、かつ男である。男によって現実世界があらわされている。現実世界からはみだしてゆくシテはしばしば女であって、その霊はつねに男であるワキによって調伏される。もちろん般若の面をつけて演ずるのは男であるけれども、この能面の製作には、その意味を言葉で問うことではなく、心が般若の女に同調することが求められるだろう。谷口さんは、結婚はしませんと言う。そうであろう、と思った。夫や子のいる家庭というもののなかで、般若の面を打つ女、という図柄は想像しにくい。  先日私が訪ねた日の翌日から谷口さんは、一ヶ月ばかり京都郊外の某所、電話もないところで、彼女にとって三つ目の創作面を打ってくるということだった。およそひと月と見込んでいるが、もっと長くなるかも知れない。観世栄夫《かんぜひでお》・野村|万之丞《まんのじよう》演出の三鈷《さんこ》の会の舞台のための面を依頼されている。観世・金春《こんぱる》・喜多の三流の若い人たちがつくる舞台だという。谷口さんの創作面の一つ目は、一九七五年、故観世|寿夫《ひさお》さんが「メディア」に用いて、寿夫さんによって冥泥亜と名づけられた。二つ目は八六年、復曲能「三山《みつやま》」の後シテの女面。今度のは、老人の面である。  いつか谷口さんに、伊豆の河津にある二千年の楠の大樹の話をしたことがある。そのとき彼女に、もしも僕がその楠の木の霊を主人公とする新作能を書いたら創作面を打ってくれますかと訊《き》いたら、谷口さんは身を乗りだして、ぜひともと言った。その約束が果たせるかどうかはおぼつかないけれども、創作面は能面打にとって心ひかれるものだろう。谷口さんはいま仕事のときジーンズに足袋だが、もんぺ姿はいかにも似合いすぎて嫌《いや》なのだという。もっとうんと年をとったら、もんぺをはくかも知れないけれど、とも言う。もしかしたらその頃に、楠の木の霊の面を打ってもらうことになるだろうか。     3  岐阜県|恵那《えな》郡|付知《つけち》町に住む木工家、早川謙之輔さんは、木で物をつくることだけ、それだけをやってきた。これからも変わらないだろう。木工家が木で物をつくるのは当り前のことのようだが、文字通り木で物をつくるのは今では反時代的と言っていい。  黒田辰秋《くろだたつあき》は柳宗悦《やなぎむねよし》や河井寛次郎らと親交を結びながら近代の木工芸の質を高くした人であったが、この人にして晩年の一九七〇年代には、ポリエチレングリコールの注入という新技術を採用している。皇居建造物の強化のために開発されたテクノロジーである。早川さんは、これは木を木でないものに変質させる技術だから自分は使わないと言い切る。木だけでつくることを徹底させると心を決めているのだ。たとえば椅子をつくっても、皮張りや布張りにはしない。まるごと木だけで、堅牢《けんろう》で、美があって、坐っていることの楽しさのある椅子をつくる、というのが早川謙之輔の木工である。それが木を生かすことだと考えている。木を紙のように薄くはいで貼《は》りつけるなどということは頼まれてもしない。何百年と生きてきた木をぺらぺらにはいでしまったら、それはもう木ではない。それを貼った物は見た目にいいだろうが、何百年の木はすでに失われている。そして短い年月で、薄皮となった木の残骸《ざんがい》も消えてゆく。木工とはそういう消費物をつくることではない。何百年の木は、まるごとそれだけで物をつくったら、人間の一生をはるかに越えて生きつづける。子の代、孫の代、曾孫《ひまご》の代、さらにその子や孫の代へと、物はいよいよ美しく、いよいよ堅牢に、いよいよ心地よいものになってゆく。それが、木というものの本来だ。  建築家白井|晟一《せいいち》から、昭和五十三年の秋、早川さんに電話があった。いま手がけている石水館(静岡市立|芹沢《せりざわ》美術館)の天井を木でつくりたいのでやってくれないか、ということだった。それから五十六年三月まで、早川さんはほとんどこの仕事にかかりきった。楢《なら》の無垢《むく》の木をすべて手仕事で削り上げ、不揃《ふぞろ》いのままに天井全体に調和をもたせ、構造上もしっかり安定させるという、おそろしく手間のかかる仕事である。だが、これはたしかに木を生かす仕事であった。早川さんの考え方にぴったり合っている、それゆえに全く割りのあわないこの仕事に熱中したのであったし、また、白井晟一という頑固《がんこ》な建築家の魅力に惹《ひ》かれての仕事でもあった。白井晟一はこの仕事をはじめる前、付知の杣《そま》工房(早川さんの仕事場)を訪ねて、早川さんが長年たくわえてきた木を見てまわった。 [#ここから1字下げ]  土間にもどって先生は、「君は、時間を大切にしている」と言って下さった。この言葉は嬉しかった。私が最も大切にしているものの一つが「時間」であった。稼《かせ》いだわずかな金をすべて材料に回している。その材料にほこりを乗せ、色を変えたのは「時間」である。 [#ここで字下げ終わり] 『石水館』という本のなかに早川さんが書いた「天井私行」という文章の一部分である。二年半のこの仕事の経過を詳細に誌《しる》したものだが、その間のさまざまの格闘を忠実に記録しながら、白井晟一と早川謙之輔が根底のところで木を生かして使うことで相互に共感していたからこそこの仕事が成った経緯を伝えている。  早川さんが大学進学を断念して木工の仕事をすると決めたころ、デコラ張りの家具がもてはやされていた。たとえば、木だけでつくったテーブルが七千円とすると、デコラ張りなら一万二千円した。デコラは新技術製品で上等の物であり、金持ちの物であった。木の製品はデコラが買えない貧しい人びとの物であった。だが、早川さんは、割りのわるい木の仕事に向かい、当時は木工の町であった付知のオジサンたちに学びながらこの仕事をつづけてきた。オジサンたちは、みんな、「不親切に」教えてくれた。早川さんは、彼ら木工職人たちの不完全な言葉を手がかりに、それを自分の仕事で分かってゆくということを繰り返して、木について学んできた。だから昨日まではデコラを愛用し、時代の風向きが変わると今日からは木がいいなどと言い出す文化人を信用していない。世の中の多くの人は今だってデコラのほうが汚れないし、上等であると思っているのだ。洒落《しや》れたデザインにでもすれば、デコラにとびつく。このごろ木の製品に目が向けられているけれども、一時の流行にすぎないかも知れぬではないか。早川さんの言うとおりだ。現代が技術の進歩を良しとしている世の中であるかぎり、技術はより良い(良さそうに見える)ものをつぎつぎ生みだすにちがいない。テーブルひとつだって、現に新しい技術による新しい素材でさまざまなものが出来ている。デコラのテーブルは嫌だという人だって、デコラよりもずっと|進歩した《ヽヽヽヽ》テーブルになら、たぶんまたとびつくだろう。  早川さんの仕事は、注文づくりである。作るだけ作って店なりデパートなりに並べて売るという仕事ではない。机なり椅子なりチェストなり、あるいはお盆なり額縁なり、それを使ってくれる人のことをできるだけ知って、その上でつくる。家一軒を建てるときには、設計者と住む人とのあいだで繰り返し相談が行なわれて、はじめて住みやすい家が出来るものだが、テーブルひとつだってそれと同じことである。作る人と使う人とのあいだに心がかよって出来上がった物は、大切に使われるだろう。贈りものにもらった物とか、ついなんとなく買ったものだと、粗末にも扱われるが、使われないで死蔵されてしまうことも多い。木の物はことに、日々使われて良さが増してゆく。言葉通り、「愛用」されるのが一番である。高価な物だからといって押入れにしまいこんだら、木の物は生きてくれない。  早川さんは昔、名古屋のデパートに十坪の売場を持ったことがある。早川さんの仕事を認めてくれる人がデパートにいて、熱心にすすめてくれたのだった。いい仕事なのに東京などよその土地の人の手にばかり渡るのはもったいない、ぜひ地元の人に使われるようにしましょう、というすすめで、売場を提供してくれ、そのうえ早川さんのつくったもの全部を買い取ってくれることになった。早川さんは、これを一年やってみて、ことわった。三十三歳のときである。当時存命だった父親が、こんないい条件の仕事を、しかもあんなに熱心にすすめてもらっているのに、それをことわるとは何事かと怒った。早川さんは父親と喧嘩《けんか》して、それでもデパートをことわった。 「あの一年間、お金はこれまででいちばん入りましたよ。お金の心配をしないで仕事ができた……」  だが、自分のつくった物を使ってくれる人の顔が見えない。それはどこか、おかしいのだ。それに、どうしても売行きのいい物を優先してつくってくれと言われるようになる。同一製品大量生産とまでは言わないが、それに近いことが求められる。すこしずつ買いためて何年もの時間をかけてきた材料の木が、どんどんなくなってゆくのも辛《つら》い。このままつづければ、やがては、じゅうぶんに寝かせていない木まで使う羽目になる。早川さんは不義理をあえてしてデパートをことわり、カナダとアメリカへ、木工を見る三ヶ月の旅に出かけた。  先日数年ぶりに早川さんの家に行ってみると、泊めてもらった部屋の書院|棚《だな》に、小さな木づくりの厨子《ずし》があった。いっさいの装飾を省いた簡素な造りだが、選びぬいた木で早川さんの気が済むまで手をかけたものである。中に、父親の位牌《いはい》が収めてある。 「たったひとつの親孝行です」  美しい厨子に目をとめた私に、早川さんがそう言った。この厨子は、いわば注文者が早川さんで、製作者がその早川さんだから、これ以上ない条件の下でつくられた物である。私は翌朝も厨子に見とれ、厨子の前に置かれた香炉に線香を供えた。  早川さんは年に数回、岐阜の木材市場へ木の仕入れに出かける。これが大仕事である。いい木を安く手に入れるため、獅子奮迅《ししふんじん》の働きをするのだ。体力がものを言う。大めしを食って出かける。セリの前の日に、ドバと呼ばれる貯木場に積まれた木を、一本一本たしかめて、入札する木を決めておくのだ。大きな原木の上にのぼるのが大変なことは、山道で倒木を乗り越えるときのことを思えば、およそ想像がつく。広いドバの無数の木を、全体力と全神経を動員して見てあるく。見かけがよくても挽《ひ》いてみたら駄目《だめ》だった、では困るのだ。逆に、どうかなと思っていたのに挽いてみたら素晴しい木だったということもある。それを、「出世する」という。できれば、どの木も出世させたい。雪が木に積もっているときだと滑るのだが、これが自分の仕事の大もととなれば、くたくたに疲れようと、日が暮れかかろうと、納得の行くまで見てまわる。似たような木があって、一方は欲しい、もう一方の木はいらないというとき、欲しくない木の上の雪をわざと踏んで足あとをつけておいたりする。いかにもよく調べたぞ、この木は欲しいのだと、後から来る人に思わせて、ほんとうに欲しい木から目をそらさせる作戦で、これを、フェイントをかけるという。雪のないときだと、木口を切っておいたりする。これも、よく調べたぞ、という騙《だま》しのサインである。ほかの人のフェイントにひっかからない用心もいる。夏に伐《き》った木か冬に伐った木かの見分けもしなくてはならない。冬に伐った木なら、木が休んでいるときのものだから皮はがれがいいし、寝かせておいて虫に食われない。  早川さんは、そうやって一本一本、木を買ってきた。八年ばかり前からは、とくに栗《くり》の大木があると買っている。栗は鉄道の枕木《まくらぎ》に使われるように、乾湿につよい木で、その木肌《きはだ》が気に入っている。檜の優雅をよしとする一方で、早川さんは栗の野性に惹かれているのだ。  私が早川さんに初めて会ったのは十年あまり前のことだが、その何年か前、或る日早川さんは中津川の町でジャン・ジロドゥーの芝居を見た。その芝居のなかで、「木は人間の動かない兄弟です。木の言葉では、人殺しは|きこり《ヽヽヽ》と呼ばれます」という台詞《せりふ》があった。早川さんは、ショックを受けた。自分は、木の殺人者か。 「あのときの謙さんは、ほんとにこわい顔をしてた。何日もご飯は食べない、口はきかない……」  奥さんは、その彼を、はらはらして見ていた。  早川さんは、自分は木の殺人者でないとは言わない。ジロドゥーの台詞を否定できない。だが、伐り倒した木を生かして使うことを、いつも考えている。そういう仕事だけをしてきた。  百年後、千年後、人類が絶えていないとして、木でつくった物を好む人が増えているか、減っているか。 [#改ページ]    幾何学のない家     1  東京木材サービスセンターにはさまざまな木の見本や昔からの木継ぎ法が実物で展示されているのだが、入口に近く、実に単純なものがある。一辺が五十センチくらいで厚さが五センチくらいの正方形の三枚の板が床に置いてあるだけのものだ。木の板とコンクリートの板とプラスチックの板である。裸足《はだし》で乗ってみてくださいと書いてあった。  靴《くつ》と靴下を脱いで乗ってみた。  木の板は、はじめヒヤリと冷たい。だが、ほんの数秒で冷えが消えてゆく。足の裏の温度と板の温度がたちまち釣《つ》り合ってゆくらしい。コンクリートの板に乗ってみると、最初の冷たさも木の板のときより強く感じるが、それよりも驚くのは、ゆっくり温まるどころか逆にどんどん足の裏から熱が奪いとられてゆくことだ。コンクリートの冷たさが足の裏から骨まで浸み込んでくる。それは奇妙な不快感を伴っている。おなじ冷たさでも雪の中や谷川の水に素足を踏み込むときには、もっと冷たいけれども爽快《そうかい》でもある。雪国には雪原をはだしで駆けまわる子供たちの遊びがあるくらいだ。だが、コンクリートの板は、おそろしく不愛想に足の熱を吸いとってゆく。三つめのプラスチックの板は、コンクリートの板とよく似ているのだが、コンクリートにくらべると、ほんのすこし冷えかたがゆるく、熱を奪ってゆく速さが遅い。しかし、木の板のように足と板の温度が釣り合うことはなく、時間がたつにつれて冷えが強まってゆくのはコンクリートの板と変わらない。  生活実感として何となく知っていることではあったが、三枚の材質のちがう板に実際に裸足で乗ってみて、そのあまりの違い方をからだで知らされた。熱の移動だけでなく板の硬さもかかわっているのだろうが、コンクリートを素足で踏む不快感はすこし大袈裟《おおげさ》に言うなら拷問《ごうもん》である。  私の出た小学校は、戦前のことだから当然だが、木造校舎だった。私より三十年ほど前に同じ小学校を出た中谷宇吉郎の時代には幕藩時代の藩邸をそのまま使っていたというが、その後町の大火で焼失して新たに主棟の廊下が百メートルを越える総二階の小学校が木造で造られて、私はその学校に通った。数年前に取り壊されて今は鉄筋コンクリートの校舎になっている。  すこし前の「新潮」(一九八七年三月号)に、そのことを書いたことがある。「木の学校」という小文に、「古戦場である裏山を背にして、正門前を流れる川に沿った桜並木越しに見えていた小学校とその周辺の風景は私のふるさとそのものであったのだが、今は白っぽく寒々とした鉄筋コンクリート校舎がまわりの景色といがみあうように建っている。原生林にちかい裏山の緑がコンクリートの建物といっしょに目に入るのは、やりきれない光景である。私には、その唐突な取りあわせを異化効果とよろこぶ趣味はない」と書き、さらにこう書いた。 [#ここから1字下げ]  もう一つ、私が新校舎に足を踏み入れなかったわけは、コンクリートの廊下を歩く気がしなかったからである。四十年以上前、私が旧校舎に通っていたころは、裸足で廊下を駆けまわっていた。廊下でも教室の中でも、木の床は裸足でいて心地良い。私が今でも自家の板張りの床をたいてい裸足で歩きまわっているのは、少年時代からの癖である。裸足は健康にいいという説があるけれども、そのためではない。健康と関係なく、裸足のほうが気持ちがいいにすぎない。だが、コンクリートの床は、裸足で歩いては気分のわるいものである。木とは別の堅さが裸足を拒んでいる。木とは別の冷たさが裸足を許さない。 [#ここで字下げ終わり]  私の小学校では、上履きを履くという規則も習慣もなかった。そのころでも都会の学校では上履きを使用していたようだが、北陸の田舎の学校では裸足だった。校庭の土を駆けまわったあとは洗い場で足を洗って校舎に入った。土も、木の床も、裸足を拒まない。少年時代のその感覚は根づよいもののようである。私は今も外出から帰ると、真冬でも靴下を脱いで素足になる。そうしないと、うっとうしくて、くつろげない。家の中でも靴下を履いている息子たちをみると、異人種という感じがする。ついでながら、家の中でも腕時計をはめ、寝るときもはずさないのは、私からみれば不思議きわまりないものである。  うろおぼえだが、キリスト教の一派に、裸足で生活することを戒律にしている派があると聞いたことがある。現実にはまさか大都市のまんなかを全くの裸足で歩くわけにはいかないだろうから、素足にサンダルを履くなど、社会生活に或《あ》る程度合わせるのだろうし、あるいは家庭内など限られたところでの裸足だろうかと推測するのだが、そのおおもとが僧院なら、そこでは四六時中裸足ということだろう。そのとき踏むのは木の床だろうか、石の床だろうか。木の床ならば、これは厳しい戒律ではない。屋内で木の床を踏み、屋外で土を踏むのなら、むしろ心地よいのではないだろうか。脱文明というか、自然へのより直接の接触という意味はあるだろうが、苦行とは言えないだろう。大地に触れて生きる野外の生活をよしとするのなら裸足はむしろ喜びである。だが僧院の石の床となると、かなり違ってくる。コンクリートの床ならなおさらである。宗教上の厳しい苦行と思えてくる。  裸足はともかく、素足にゴム草履あるいはサンダルあるいは下駄《げた》なら、東京の町だって歩けないことはない。家のまわり数キロ範囲なら私は素足で出かけることが多い。映画を見にゆくときにも、都心の銀座へは素足で出かけにくいので、同じ映画が例えば五反田の映画館にかかっていれば、そちらのほうへ素足で出かける。銀座も素足、という勇気がないだけのことではあるけれども、とにかく素足には解放感がある。三十年ばかり前、少女雑誌の編集者だったころ、ひと夏のあいだ素足に畳表ゴム裏の草履で出勤したことがある。足の爪《つめ》を剥《は》がしたためではあったが、実はもう靴を履ける状態になっても、そしらぬ顔で草履出勤をつづけていた。いったん草履に馴《な》れてしまうと、靴によって足をつつまれるのは、足そのものが嫌《いや》がるだけでなく、気持ちが縛り上げられるようであった。このごろでも八ヶ岳の麓《ふもと》の山荘にいるときは、ゴム草履で出ることが多い。舗装道路の道端の草の上を、ゴム草履を脱いで裸足で歩く。土と草を踏んでいると、都会では公園にでも行かないと許されない自由な感覚がからだに拡《ひろ》がってくる。露に濡《ぬ》れた朝の草地も、日照りに暖まった昼の草地も、植物と土のやわらかさを足に伝えてくる。ときに薊《あざみ》を踏んで痛いことがあるけれども、そのくらいは我慢しようと思う。  腰部椎間板《ようぶついかんばん》ヘルニアで歩行の辛《つら》かった数年間がある。その治りかけの頃《ころ》、或る温泉場で遊歩道になっている細い山道を歩いてみたことがある。私にしては、ちょっとした冒険だった。そのころでも歩行はごくゆっくりで、百メートルも歩くと休息をとらなければならなかったのだが、自分がどのくらい歩けるようになっているか、テストのつもりで三キロメートルばかりの遊歩道を歩いてみた。森の中の、いくらか起伏もあるその道が思ったよりずっと楽に歩けて、私は自信を持った。だが、遊歩道が終わって自動車道路に出たところから宿までの、ほんの二、三百メートルの道で、私はたちまち道端にしゃがみこんでしまった。舗装道路の堅さが、一歩ごとに腰にひびいてきたのだった。土と雑草の山道は健康人のように歩けたのだが、舗装道路は、まだ無理だった。山道を歩いてきたのが嘘《うそ》のように、自動車道路で十歩行っては痛みに顔をゆがめ、五歩行っては脂汗《あぶらあせ》をかいて立ち止まった。  腰の治った今では道の材質に鈍感になっているが、半分壊れていて半分治っていたそのときのからだは、道の堅さに鋭敏に反応していたのだ。山の道はちょうどいい堅さであり、舗装道路は歩行をほとんど不可能にする堅さだった。  木の床も、山の道と似ている。  岩手県の遠野《とおの》の町で、中心部に近い主要道路の一本の歩道部分を、三百メートルばかり木の道にしている。この道を歩いている老人たちが、 「頭さ、ひびかね」  と言っているそうである。老人は、私の腰痛時代とおなじとは言わないが、若い健康人に比べたら、路面がからだに伝えてくる堅さに鋭敏であるだろう。硬度だけでなく、温度にも、老年の肉体は敏感に反応するだろう。冬の寒い日にも、コンクリートの道とちがって、木の道はあたたかいと言う。コンクリは頭にひびいて、そして冷える、木の歩道は頭にひびかなくて、そしてあったかい、というのは、老人のからだや病者のからだによって検出されることだ。  大工町通りの両側のこの木製歩道は、幅十五センチ、厚さ九センチ、長さ二・五メートルのカラマツの、角材と言っていいほどの厚板を並べて造ってある。カラマツはねじれが強くて建築材には不向きなのだが、強い材である。遠野の山々に多いこのカラマツ材を利用して、木の歩道が造られ、あわせて街燈の腕木も木製、ごみ収集箱も電話ボックスも木製にして、大工町通り全体が木の町に変わってきた。家を改築するときにも木を生かした家が造られている。遠野市の地域住宅計画によってこの通りのイメージが策定されているのだが、担当の市役所職員氏が強調したのは、市からの補助金は出していないこと、すべて住んでいる人たちの自発性と合意によって行なわれていること、であった。観光客誘致のためでもない。その町に住む人たちにとって住みやすい町をつくることが最大の目標だから、行政が押しつけたものではないということである。  その第一歩が、木の歩道である。日々の暮しのなかで、ことに老人には、この道は歩きやすい。老人の散歩が増えたという。これまでの道とちがって、頭にひびかないのだ。見た目にも、やわらかく、落着きがある。私もこの道の両側を往復してみた。ときどき車道に下りてみて歩き心地を比べてみると、やはりその差が分かる。腰痛のときの山道と舗装道路のあの違いを思い出したのは、そのときだった。あのころの私だったら、この通りの車道と歩道の差異に、もっと敏感だっただろう。  もっとも、若者がこの道に全く鈍感とは言えないらしい。このごろは高校生たちが、駅から高校への通学路をいつのまにか大工町通りを通る道に変えたようだ、と言うのは、市役所と協力して計画の推進役をしている建築設計家——と呼ぶよりも遠野|訛《なま》りの強い、好人物の大工さん、といった風情《ふぜい》の中年のHさんの話である。以前はHさんの住んでいる中央通りを通っていた電車通学の高校生たちが、このごろはあまり通らなくなって、どこを通っているのかと思ったら木の歩道になった大工町通りを通っているという。若者たちにはめずらしさもあるのだろうが、やはり、どことなしの歩きやすさや、町の雰囲気《ふんいき》も、彼ら彼女らを引き寄せたのであろう。  遠野の曲がり家を代表する千葉家へ行くタクシーで、五十代後半かと思える運転手と話していて、大工町の木の歩道の話になった。彼はすこし前まで大工町に住んでいたのだが、今は町はずれに引越した。だが、今でも大工町の銭湯へ下駄ばきで、二十分の道を歩いてくるのだという。家にも風呂《ふろ》があり家の近くにも銭湯があるけれども、木の道を下駄で歩いて風呂屋へ行く気分がなんともいえずいいからだ。雨の日なんかは、とくにいい。水気を含んだ木の道は、下駄のあたりもやわらかく、しっとりとした風情があるのだ、と言う。風呂帰りに一杯やってカアチャンに叱《しか》られもするのだが、この楽しみはやめられない。  大工町通りのその銭湯の前に、この通りに一台の自動販売機がある。ジュース類の販売機である。自販機の両側に、木の板が張りつけてあった。板の形はこの町に伝わっている大《おお》神楽《かぐら》の衣裳《いしよう》をかたどっているようだが、お世辞にもセンスがあるとは言えない素人《しろうと》細工である。しかし、その気持ちはよく分かった。木の道のこの通りに、金属製のけばけばしい自動販売機はひどく不似合いである。正面をかくすわけにはいかないので、せめて側面は木で覆《おお》いたいということだろう。  自動販売機の数は日本がずばぬけて世界一であるという。この十年ばかりで、みるみる増えたようだ。都市風景が今ではすっかり変わってしまった。増えるほどに、競争のため色彩が派手になってゆく。目立つところに置かなければ意味のない自動販売機は、町の風景の中心に居坐《いすわ》ってしまった。田舎道に錆《さ》びついて立ち枯れている自動販売機に一種の詩情を感じることがないではないが、この金属機械箱がこれ以上町に立ち並んだら、町角を埋めつくしてしまったら、私たちの生活感覚はどうなってゆくのだろうか。木の感触がいいなどというのは、時代錯誤のたわごとになりかねない。     2  小雨の一日、川崎市の生田《いくた》緑地にある日本民家園を久しぶりにあるいた。  起伏する多摩丘陵の約三ヘクタールに、古民家十六軒と水車小屋や船頭小屋、穀倉などが各地から移築されていて、木々や草花の繁《しげ》る道を辿《たど》ってゆくと、宿場の村、信越の村、関東の村、神奈川の村、東北の村と、昔の村の風景の中に入ってゆく。設立からもう二十年以上|経《た》っているので、あとから植えた植物も元からあったかのように自然に見える野外博物館になっている。  雨模様のせいか、人がすくない。この日私はかなりの宿酔《ふつかよい》で、のろのろと見てあるいた。そのぶん、前に来たときよりもゆっくりと、また、空間にたいして敏感になって見ていただろう。宿酔というのは嫌なものだが、これも一種の病気の状態だから、外界への反応が大きくなる。健康なときには気にならない小さな不快でも、宿酔の日には妙に応《こた》えるものである。快と不快がはっきりしている。宿酔のひどい日は、醜悪なものは見たくない。すぐにげろを吐きそうになる。なるべくなら美しいものを見、心地よい場にいたい。  私は古い民家の土間に足を踏み入れて、しばらくそこに立っていると、たいていの民家で気分の休まるのを感じた。踏んでいる足下の土間の感触や、まわりの土壁や木の柱や板戸などが、全体としてやわらかくつつんでくれるのだろうと思ったが、何軒目かで、天井の梁《はり》を見ていて、ああこれかな、と思った。そのあとはどの家でも天井を見上げた。  古い民家の多くは、ことに土間や囲炉裏部屋の天井は板張りにはなっていなくて、太い梁が何本も剥《む》き出しになっているものだが、この梁がたいてい、手斧《ちような》の荒削りで、それも柱のようにまっすぐではなく、元の木の曲がりをそのまま使ってある。梁には松材を使うことが多いためもあろうが、直材はほとんど見あたらない。うねうねと曲がっている。S字形にくねっているのもあれば、端から端へ蛇《へび》のようにうねっているのもある。  柱や鴨居《かもい》、敷居、板戸などは直線で構成されている。だが天井の梁は直線に対して曲線というのでもなく、元の木が風に曲がって育ったりしたそのままに、勝手|気儘《きまま》な線を見せている。  それが、宿酔の私を落着かせていたのだ。もしも天井板が幾何学的に整然と張りつけられていたら、この空間はどこもかしこも直線でつくられたものになる。自然の中には存在しない直線だけでつくられた空間のなかでは、そのとりすました人工空間のなかでは、おそらく私は安らがなかっただろう。  武家屋敷や貴族の住居、あるいは神社や寺院は、直線という反自然すなわち文明を中心構造にしている。屋根の反りの曲線や書院窓の円形など直線でない部分もあるけれども、それは直線だけの持つ堅さをやわらげるものでありながら、それもまた幾何学に従ったものとなっている。そこには人工の美的空間がつくられてはいるのだが、民家の梁が見せているような、自然を自然のままに持ち込んだ安らぎはない。  建築学者の長谷川|尭《たかし》氏は、その著『生きものの建築学』の第一章を、「幾何学のない家」としている。人間は幾何学のある住居を或るときから建ててきたが、人間以外の生きものは、幾何学のない家をつくって住んでいるのだという。すなわち、巣である。巣は自然界にない直線や曲線は使用していない。人間だけが、幾何学によって住むところを造ってきた。そのことを、つぎのように書いている。 [#ここから1字下げ] 「規矩準縄《きくじゆんじよう》」という言葉がある。(略)「規」とはコンパス、「矩」は曲尺《かねじやく》、「準」は水盛り、「縄」は墨糸《すみいと》のことを指している。いいかえれば、それぞれが「円、直角、水平、直線」という幾何学の基本的要素をあらわした漢字であることがわかる。「円、直角、水平、直線」によってはじめて人間は「人のおこないの標準」を得ることができたということになるであろう。幾何学的|思惟《しい》が|人を人間にする《ヽヽヽヽヽヽヽ》。同じように幾何学的形態が人の巣を人間の家にするといえるかもしれない。(傍点原著のまま) [#ここで字下げ終わり]  伊勢神宮の白木造りの建物は、簡素そのものであり、それはいかにも自然そのもののように思われる。たしかに丹塗《にぬ》りの寺院建築などと比べたら、自然に近いと言えるかも知れない。だが、あの建物を見たときに私が思った、あるいは突然感じたのは、その逆のことであった。整然として隙《すき》がない、という感じである。それを、無駄を省いた端正さと言ってもいいのだが、もともとの自然が持っている猥雑《わいざつ》さを拭《ぬぐ》い去った極度に人間的な建造物と見ることもできるだろう。あの建物の内部に入ったわけではないので確言は差し控えるが、あのなかで安気に昼寝はしにくいのではないかという気がする。ああいう建物は、その中ですやすやとねむれる巣とは反対のものではないだろうか。心を引き締めるには、いいだろう。だが、鼻から提灯《ちようちん》でいぎたなく寝込む場所ではなさそうである。民家の梁が見様によっては粗暴なまでに幾何学を無視しているのとは大きく違った建造物であろう。  ただし、幾何学は物理学とは性質のちがうものである。幾何学は人間の創《つく》り出した非自然学であるけれども、物理学は自然と絶交するわけにはいかない。動物の巣にも、われわれのいう物理学はある。民家の梁にもある。民家の梁が木の物理学的性質を無視し、自然の木の形態をそのまま使った構造が力学に反しているなら、その建物はすぐに壊れて使いものにならないからである。民家園にある建物を見ても、雪国の建物には梁に根曲がりの木を使っているものがある。崖地《がけち》に生えて、根の近くで彎曲《わんきよく》した木は、その彎曲部がことに大きな強度を持っている。曲がりながら上部を支えるために強いだけでなく、その部分に冬のあいだ重い雪をかかえるので、ことさら強くなっている。この根曲がりの木を生かして、逆U字型に組み合わせた梁をつくれば、積雪期の重い屋根を支えるに足る強度を持つわけである。それを生活の知恵と呼ぶのも、生活の物理学と呼ぶのも、同じことである。  私たちがいま住んでいる建物は、幾何学の家と言っていい。だが、それが人間の住居の常の形であるとは言えない。理想の形であるとも言えないだろう。  長谷川氏の言葉を再び聞こう。 [#ここから1字下げ] ……人間は大昔から、またいつでも「規矩準縄」の家に住んでいたわけではない。崖などに洞窟《どうくつ》を掘って暮していた穴居時代にまでさかのぼらなくても、人間が地上に家を建てはじめてからも、幾何学とは直接かかわりのないところで、かなり長く生活してきたとも考えられるのである。それがやがて大地の水平さに対して重力の垂線に並行する直角の(つまり垂直の)柱が立ち、あるいは壁が立てられ、そこに水平な梁や桁《けた》が架構されるようになった時に、家はまさに文明の光をあびて建つ段階を迎えることになる。  あるいはまた、今日文化人類学とか民族学といった学問が対象とするような地域の人間たちの建築、いわゆる「|未開の《プリミテイブ》」民族の建物にも、同じように幾何学的整合性からは遠い建物を見ることができる。土や石といった素材を構築するというよりは寄せ集めて、人が生きていく上で必要な最小限のシェルターをつくり、その中に入ることでどうにか生命を維持しようとするような建物は、建築といった、ある意味でとりすました響きのつきまとう言葉よりも、やはり巣という言葉のもつ、自然の匂《にお》いの強い響きがふさわしいかもしれない。 [#ここで字下げ終わり]  長谷川氏は、さらに、それは文明社会のまっただなかにも、戦争や災害のときに立ちあらわれることがあると指摘して、関東大震災後の東京をスケッチしてあるいた今和次郎《こんわじろう》の記録に触れている。焼跡の下町にそのへんから拾い集めたありあわせの材料でつくられた粗末な小屋の群れは、「規矩準縄」の束縛から脱《ぬ》け出たところにつくられたもので、人間の建築と動物の巣との交錯を示しているのではないかという。「それは不思議な活気に満ちた建物であったのである。」 「幾何学のない家」はここから、ヘルマン・フィンスタリンの「内的建築論」へと移り、その論文の一節、「住居は、このようにしてひとつの経験となり、蜜《みつ》をふくんだ樹木の虫こぶが、フシバチの子にするのと同じくらいに、愛情深くわれわれを育てる有袋動物の母親となるのである」を紹介して、素朴《そぼく》な幾何学を排除したガウディの建築に及んで行くのだが、このエッセーではこれ以上建築学の流れに棹《さお》をさす必要はない。  もう一度、日本の民家建築にもどれば、あの、くねくねした、どこにも整合性のない、荒々しく太い、洗練という言葉には縁遠い、煤《すす》で黒くなった、あの梁は、幾何学の家のなかを太くつらぬく反文明であり、自然である。都市という文明空間の住居からは排除されたものであるが、宿酔の私のからだにはやさしいものである。  木のうろを住居とする者の昔話は洋の東西をとわずあちこちにある。それは、私たち自身が子供のころ、かくれんぼのときなどに神社の大木のうろに入って、動物の赤ん坊が巣の中にいるような奇妙なまどろみを経験することとつながってはいないだろうか。  その経験は、私たちの住む家の幾何学とは相反するものである。住居がたとえ木の家であっても、そこに使用されている用材は、まっすぐの木をまっすぐに削り上げてある。柱も板もすべて直線が、また平滑が、よしとされている。建築材にはそれゆえ、檜《ひのき》や杉のようなまっすぐの木だけがよしとされるのだが、例えば用材林である北山杉の整然とした木立ちを見るとき、どこかしら違和感がないだろうか。あの風景は美景として名高いのだけれども、それは幾何学の家のための幾何学の林の美しさであって、とりすました冷たさがつよいように思う。  遠野の近く、早池峯《はやちね》登山道の口にある大迫《おおはさま》で、森林組合の人たちが最近すこしずつ売り出しているログハウスを見せてもらった。カナダの工法を学んで、大迫の杉丸太でつくっている。ログハウスは木の素肌《すはだ》を生かした家で、たしかに木の家にいるという感じはあるのだが、いまのところ常の住居ではなくセカンドハウス用に建てられているのがほとんどであるという。その理由はいろいろ数えられるのだが、私はそれらの実際的な理由のさらに奥に、ログハウスが古い民家と比べたら実はより強く文明の家、幾何学の家であることがひそんでいるように思う。ログハウスはその工法上、まっすぐな丸太、それもなるべく均一な太さの丸太を横積みにしてゆく。そうして造られたログハウスは、通常の家以上に直線を強調したものになる。丸太の曲面も、均一な直線と組み合わされて、幾何学図形を整然とつくりだすはたらきをする。その空間は、常住の家としては、もしかすると落着きがないかも知れない。鉄筋コンクリートや新建材の家でなく、まるごと木の家であることを喜びながら、私にはなにかしら違和感があった。その原因がログハウスの基本構造をなしている幾何学であることを、何日かあとに民家園をあるいて曲がりくねった梁を見ていて、不意に感じたのだった。     3  或るとき建築家の磯崎新さんとラジオの番組で話していて、この人が建築家になろうと決心したのは谷崎潤一郎の『陰翳礼讃《いんえいらいさん》』を読んでからだったと聞いた。私は、『春琴抄』を愛読する以上に、同じ年に書かれた『陰翳礼讃』を繰り返し読んできているので、そのとき磯崎さんの話を聞いてうれしく思った。とびきり贔屓《ひいき》にしているこの文章が当代の尖端《せんたん》を行く建築家を生みだすのにも力があったと知って、さすがは谷崎潤一郎と、快哉《かいさい》をさけぶ気分だった。  しかし、いま思うと、それはあまりに当然のことだったかも知れない。建築家磯崎新はこのごろもやはり『陰翳礼讃』を読み、そこから刺激を受けることが多いという。それは一見、意外な取り合わせであり、それゆえに私はことさら嬉《うれ》しかったのだが、実は、谷崎潤一郎が『陰翳礼讃』に書いた日本家屋といい日本座敷といい、それらの建物はすべて、幾何学の家であり文明の家であったのではないだろうか。それなら、谷崎潤一郎と磯崎新とのあいだには、とりたてていうほどの違いはもともとないことになる。 『陰翳礼讃』は住居論であると言い切ってもいいものだが、ここに描かれている建物はすべて都市の日本家屋なり、料亭なり、寺院なりであって、田舎の民家ではない。「夕方、汽車の窓などから田舎の景色を眺《なが》めている時、茅葺《かやぶ》きの百姓家の障子の蔭《かげ》に、今では時代おくれのしたあの浅いシェードを附けた電球がぽつんと燈《とも》っているのを見ると、風流にさえ思えるのである」といったところはあるけれども、これは本筋ではなくて付けたりである。 [#ここから1字下げ]  もし日本座敷を一つの墨絵に喩《たと》えるなら、障子は墨色の最も淡い部分であり、床の間は最も濃い部分である。 [#ここで字下げ終わり]  このみごとな比喩《ひゆ》にはいつも感嘆するばかりであるが、ここに語られている日本座敷は明らかに都市のもの、あるいは上流階層のものであって、古い民家(田舎の家)のものではない。民家では、特別に許された格のある家でないかぎり、床の間というものはなかったし、許された場合でもこの比喩があてはまるほどのものではなかった。 『陰翳礼讃』からのつぎの引用も、やはり私の好んできたところではあるけれども、ここでも当然のことながら民家のことは著者の念頭にはないはずである。相当な大家の屋敷が語られている。 [#ここから1字下げ]  諸君はまたそう云《い》う大きな建物の、奥の奥の部屋へ行くと、もう全く外の光りが届かなくなった暗がりの中にある金襖《きんぶすま》や金屏風《きんびようぶ》が、幾間を隔てた遠い/\庭の明りの穂先を捉《とら》えて、ぽうっと夢のように照り返しているのを見たことはないか。その照り返しは、夕暮れの地平線のように、あたりの闇《やみ》へ実に弱々しい金色の明りを投げているのであるが、私は黄金と云うものがあれほど沈痛な美しさを見せる時はないと思う。 [#ここで字下げ終わり]  ここに続く文章をもっと引きたいが、もうそのゆとりがない。ともあれ、鋭くて、美しい文章である。だが、この『陰翳礼讃』に語られているのは、繰り返して言うのだが、幾何学の家である。曲がりくねった梁を持つ民家を語っているのではない。人間の「巣」について語っているわけではない。だからこそ現代建築家にも、つながっているのである。  私は何も、そのことで『陰翳礼讃』に失望したのでもなく、ないものねだりをしているのでもない。ただ、あらためて谷崎潤一郎の持っている文明性に気づいただけのことである。  柳田国男の『遠野物語』拾遺に、金沢村の字長谷《あざながや》にある曲栃《まがりとち》という家の後の栃の大木が船材として伐《き》られる話がある。だが、この栃の木は川に流して運ぼうとすると淵《ふち》に逆さに沈んで、再び浮き上がってこなかった。 [#ここから1字下げ] ……この曲栃の家には美しい一人の娘があった。いつも夕方になると家の後の大栃の樹《き》の下に行き、幹にもたれて居《お》り居りしたものであったが、其《その》木が大槌《おおづち》の人に買われて行くということを聞いてから、斫《き》らせたくないと謂《い》って毎日毎夜泣いて居た。それがとうとう金沢川へ、伐って流して下すのを見ると、気狂《きちがい》の様になって泣きながら其木の後に附いて往《い》き、いきなり壺桐《つぼぎり》の淵に飛込んで沈んで居る木に抱き附いて死んでしまった。そうして娘の亡骸《なきがら》は終《つい》に浮び出でなかった。…… [#ここで字下げ終わり]  こういう娘の話が語られるのは、曲がりくねった梁を持つ家々でのことだろうと思う。幾何学の家の並ぶ町では、この話は信じがたい。 [#改ページ]    木のない世界から    1  関東の山々にいつもの年より一ヶ月ばかり早い雪が吹き荒れて、谷川岳で三人、尾瀬で一人が死んだ。つぎの日はよく晴れた。  草津白根山にも雪が残っていた。火口の近く、火山灰と火山|礫《れき》のつくる寒々とした光景に斑雪《はだれゆき》がわずかに変化を与えている。  火口へ登ってくる道の途中には丈の低いナナカマドの木が背後の山の荒れた大地に似合わない赤い実をきらめかせていたが、ここにはもう植物はない。目を凝らして見ても、蘚苔《せんたい》植物すら見えないようである。無生物の世界だ。  六年前の晩秋、湯釜《ゆがま》と呼ばれる火口湖が水蒸気爆発を起こし、その後も小噴火が続いたため、今は火口壁まで歩くことが禁じられているのだが、展望指定位置から見下ろす直径三百メートルの湯釜は白濁した青い熱水をたたえてシーンとしてうごかない。  水は生命の源である。三十二億年前に水中で藍藻《らんそう》類が生きていた。微化石から見つけられているこの生物がいま知られているうちの最古の生命体であるという。生物はその後も水の中で生きてきた。ようやく四億年前になって陸上への進出を始めるのだが、現在の生物も、植物であれ動物であれ、水なしでは生きることができない。  湯釜の青白い水は、しかし、生命を拒んでいる。硫黄を濃く含んだこの水には、魚は泳げない。藻《も》も育つことができない。細菌ひとついない無生物世界の静寂が、そこにある。白根山腹の殺生《せつしよう》河原は硫黄ガスが噴出していて、かつては空を飛ぶ鳥までが落死したと言われ、そのために名づけられた不気味な地名である。山麓《さんろく》の草津温泉の湯も、強力な殺菌力を持っていて、その水は無生命の水である。それゆえ入湯によって黴菌《ばいきん》を根絶する治療法が行なわれてきた。私は前に中国土産の水虫治療薬をもらって使い、長いあいだうっとうしかった水虫を根治したことがあるのだが、その水薬は刷毛《はけ》につけて足の指に塗ると音をたてて白煙をあげるものだった。目がくらむほど痛い。足首をにぎりしめて我慢する。水虫の黴菌が私の皮膚と共に死んでゆく。足の表皮がぼろぼろになり、やがて新しい表皮ができたときには二十数年来の水虫が消えていた。  草津の湯へ治療に来る人びとを、明治十二年、大槻文彦が「上毛温泉遊記」に誌している。草津諸湯中最高温の熱の湯の浴者には梅毒患者が多い。「其体を見るに身の内皆|爛《ただ》れて陰部|殊《こと》に甚《はなはだ》しく、皆綿などあててあり——総《す》べて草津の湯は温《ぬる》き熱きに係《かか》はらず、湯にて爛れ湯にて治すなり。——、皆よろ/\と歩む。」私の水虫治療と酷似している。「此の湯は殊に黴毒に効ありとし、浴する者は大抵経久|痼疾《こしつ》に陥りし者にて皆此熱湯に病を投ずるは死ぬると癒《い》ゆるとの両途なりと決心し、実に此の熱に死ぬる者往々ありといへり。」  硫黄の臭《にお》いが鼻を打つ熱湯に浴者全員で板をさし入れて湯を揉《も》み熱を殺《そ》いでから、隊長の合図でまず柄杓《ひしやく》で三百回ばかり湯を頭からかぶって、再び隊長の合図でそろそろと湯に入る。「三国一の名湯——」と隊長が唱え、浴者数十人が「有り難い」と唱和する。「梅毒《かさ》は根切れだもう少しの辛抱だ」と唱えれば、一同声をあげて和す。 [#ここから1字下げ] ……熱湯に沈む間に堪へず、又一人先|出《い》づる事|能《あた》はずして遂《つい》に眩《げん》して斃《たお》るる者あり。斃るれば「アガツタ」といひ一同に板の間の上へ引き上げ、水注ぐ。蘇《そ》する者は蘇し、体弱き者は遂に死ぬるもあり。実に此の熱の湯の現状を見て、余、田中君と且《かつ》驚き且|呆《あき》れ醜臭野蛮残酷、亦《また》これに超ゆるもの無かるべし。正法念経には焦熱叫喚阿鼻の八大地獄を説きたれば、よもや是《これ》には異らじと肝を冷やす事一時なりき。 [#ここで字下げ終わり]  地球の海が、熱の湯のような水でなかったのは幸いなことであった。すくなくとも三十二億年前には藍藻類という生命を育てることの可能な水をたたえていた。地球の環境は今と比べれば生命にとって困難なものだったが、私たちの現在の生命につながる遥《はる》かな祖先の生物を生かす水があったということだ。  木も草も苔《こけ》もない白根山頂のかなたには、青い山々が見えている。その上空には雲が浮かんでいる。白い雲が私には美しい水のかたまりと思えてくる。あれらの雲が硫黄や硫酸の雨を降らせるものだとしたら、山々の草木はなく、私自身もないはずである。クリフォード・D・シマックの『都市』はアンモニアの豪雨がすさまじい暴風雨となって吹き荒れる木星に、ローパーという、尺取虫のような鰻《うなぎ》のような奇怪な高等生物を描き出して、人類のほとんどがそのローパーに転位して木星へ移住してしまう話を書いているが、この地球上では、水と酸素がなくては何物も生きられない。  タクラマカン砂漠《さばく》を四十一日間かけて横断したスウェン・ヘディンの冒険は、その著、『中央アジア探検記』(岩村忍訳)によってよく知られている。そこは木星ではないから呼吸できる大気はあるけれども、水がない。生命はどこにも見えない世界へ、ヘディンの一行が進んでゆく。 [#ここから1字下げ]  沙漠《さばく》中の旅行の最初の数日の間にはよく見懸けた固い粘土地はもはや見当らなくなった。今や一行は全く砂の中に閉されてしまった。沙漠に於《お》ける死滅に最後|迄挑戦《までちようせん》していた蘆《あし》の叢《くさむら》も既に姿を消した。此処《ここ》では葉の一片さえも見当らない、総《す》べてが砂又砂——黄色の微細な砂——である、双眼鏡を以《もつ》て望む視界の限り、涯《はて》なく砂の原が、丘が続く。大空には鳥の影だに見当らぬ。羚羊《かもしか》や鹿《しか》の跡もない。 [#ここで字下げ終わり]  高温と乾燥の大砂漠行のなかで、ラクダさえもつぎつぎに倒れてゆき、ヘディン一行の「死の行進」がつづくのだが、或る朝ついに樹木に会う。そのときの記録は、木を語った最も美しい文章の一つであろう。疲れはてて砂丘に倒れ込んで眠りに落ちた、つぎの朝のことである。 [#ここから1字下げ]  五月三日。心地よい睡眠の後に我々は午前四時に醒めた。冷たい空気の中では休むことなくかなりの距離を行くことが出来るので、日の出迄の間が最も行程が捗《はかど》った。この日我々の消えそうであった希望が蘇《よみがえ》り勇気が再び萌《きざ》した。突然カシムは立ち止り、私の肩を押えて一言も発せずに遥か東を凝視した。私は彼の指す方向を眺めた、しかし何も変ったものは眼《め》に入らなかった。カシムの鋭い眼は地平線の縁に|※[#「木+聖」、unicode6a89]柳《タマリスク》の緑の葉の繁《しげ》りを見出したのであった。我々の総べての希望はこの微《かす》かな緑の影に繋《つな》がれた。目標を失わない様に最大の注意を払いつつ我々はこの樹《き》の影に向って直線に進んだ。二つの砂丘の間の窪地《くぼち》に入る時には勿論《もちろん》この目標は眼界から消えてしまったが、次の砂丘に登るとそれは依然として我々の前に現れて来た。そして歩一歩近づいて行くのであった。遂に我々はそれに達した。先《ま》ず第一に今迄無事に導いて来て呉《く》れた神に感謝を捧《ささ》げた。  我々は樹の新鮮な緑を心ゆく迄味わった。動物の如くその液汁の多い葉を噛《か》むのであった。この樹は生きているのだ。その根は明らかに含水層迄達しているのだ。我々は今や地表に現れている水にも遠くはないのである。|※[#「木+聖」、unicode6a89]柳《タマリスク》は砂丘の頂上に生えていた、そして附近には少しの平坦地《へいたんち》さえなかった。この※[#「木+聖」、unicode6a89]柳(Tamarix elongata)は不思議な生活を営んでいる。その枝と強靭《きようじん》且弾力に富む幹は滅多に七|呎《フイート》の高さを越すことなく、太陽の熱を浴びその根は殆ど信ずべからざる程の深さに達し、地下から水分をサイフォンの様な作用で吸い上げている。実際この樹の存在は沙漠の海の巨大な波の中を漂う睡蓮《すいれん》を聨想《れんそう》させる。|※[#「木+聖」、unicode6a89]柳《タマリスク》を見ることだけで既に大きな喜悦であり、その小さい蔭《かげ》にしばしの間疲れ果てた四肢《しし》を伸ばすことは大きな歓喜であった。それはこの砂の大洋の果を示す橄欖《オリーブ》樹の枝——平和と憩いの標識——の様に思われた、恰《あたか》もスケルガルトの最端の岬《みさき》が難破船の乗組員に岸の近きを示す如くに。私は松葉に似たこの樹の葉を手に一杯盛り上げ、その心持よく冷たい感触と香を心ゆくまで楽しんだ。今希望は曾《かつ》てない程燃え上り、そして勇気を新たにして我々は再び東に向って進み始めたのであった。 [#ここで字下げ終わり]  ヘディンたちはやがて森を見つけ、「何たる歓喜、何たる祝福。我々は救われたのだ」と叫び、遂に、地表に現われている水のほとりに立つ。「水音を耳にし、そして次の瞬間に私は新鮮な冷たい水——美しい水——に充《み》たされた小さい水溜《みずたま》りの際《きわ》に立って居た。」  この水を飲む直前のヘディンの脈拍は四十九と弱り果てていた。ヘディンのからだは「恰も海綿が水を吸う如くこの生命の水を吸収」して、数分後には脈拍が五十六になった。 [#ここから1字下げ] ……乾きのため滞っていた血行は全く恢復《かいふく》した。枯木の如くかさかさになり切っていた手も再び人間の手らしくなり、羊皮紙の様になっていた皮膚は湿気を帯び、伸び縮みが出来る様になった。そして間もなく額に発汗が始った。つまり私の全身はこの生命の水の注入によって新鮮な生命を得たのであった。この時こそ全く厳粛な、そして最も希望に充ちた瞬間であったのだ。 [#ここで字下げ終わり]  私には砂漠の体験はない。ヘディンの紀行文などから教えられたり、テレビや記録映画の画面から想像するだけなのだが、松田寿男著『砂漠の文化』が言うように、「砂漠アジア」とも言うべき広大な内陸アジアに、古来人びとが水を求める努力をして耕地をつくり町をつくり、その人力が少しでも衰えると大地は旧態の荒野に戻っていった、その歴史に茫然《ぼうぜん》とする。雨量ゆたかな日本列島では何もせずとも草が生え木が育つ。私の家の近くにある空地にも、多種多様の植物が繁っている。つい先日もブルドーザーを入れてすっかり裸の土地にされたのだが、数十日もしないうちに、今は土を見つけるのがむつかしいくらいに草がはびこり、私の背を越える強壮な雑草が黄色い花を風になびかせている。  松田氏が飛行機から見る内陸アジアを描いている。 [#ここから1字下げ]  黄褐色《おうかつしよく》の波のあいだに、一本の短い緑の縄《なわ》が落ちていると疑われる場面がある。この部分だけは、わずかながら草や木をまとわせることのできた河すじの一部分であろう。また、砂の波うつなかに、緑の細片が浮いている場面もある。小さな小さなオアシスなのである。なんともわびしい孤立ではないか。そんなところでも、人は住み、畑をつくり、木を育てているのだ。 [#ここで字下げ終わり]  白根の火口付近は無生物の世界だが、下りだせばすぐに熊笹《くまざさ》の群落があり、ナナカマドが育ちは悪く矮小《わいしよう》な木ながらも赤いつややかな実をつけているのが目に入ってくる。笹も生えない岩と砂の斜面にも、コマクサが生えている。可憐《かれん》な淡紅色の花はもう終わっていたけれども、コマクサという植物の強靭な生命にはいつもおどろかされる。この夏も、八ヶ岳の横岳から硫黄岳への片尾根の斜面で、コマクサのお花畑を見てあるいた。砂礫のなかにほかの草はなくコマクサだけが生きている。雨がいくら降っても水分はすぐに流れ去ってしまう砂礫地である。夏の太陽が直射する。強風が吹き荒れ、雪に覆《おお》われる前後は零下二十度、三十度の酷寒におそわれる。昔の人がコマクサを霊薬としたのは、この植物がケシ科で幻覚作用を持っているためだけではなく、その生命のありかたを畏敬《いけい》したからでもあるだろう。地中に張る多数のひげ根など、この高山植物の生活の仕組みはいろいろとあるのだろうが、生命の満ちる世界と無生命の世界との境界に生きる姿が、山をあるく者を感動させる。  白根から草津温泉へバスで下る。笹地に白々と骨を立てたような枯木の原がある。六年前の爆発で枯れた木なのか、それとも明治のころの大爆発のときに立ち枯れたものなのか、その一帯、一本残らずの白い木で、木の墓場のようである。下笹だけが旺盛《おうせい》にはびこっていた。下ってゆくと雪の季節に何度もスキーで滑ったことのある振子沢が大地の傷口のように見え、白根隠しと呼ばれる岩肌《いわはだ》の山の手前、すこし平らになったところには残雪のなかにススキのひとむらが銀色にかがやいていた。バスの窓は閉め切ってあるが殺生河原が近づくと硫黄の臭気がにおってくる。黒々と岩がつづく殺生河原にも、木や草はない。山にかくれようとする夕陽《ゆうひ》に照らされて、この無生物の世界が一瞬はなやかに光った。数億年前の地上には、こういう風景がひろびろとあったのだろうか。天狗《てんぐ》スキー場のリフトが見えてくるあたりになると、丈高い木々が紅葉しはじめていて、ホッとすると同時に、生命の横溢《おういつ》に圧倒され息苦しい気さえしてくる。     2  浅間山の噴火が記録された最初は、「日本書紀」の巻二十九、天武天皇十四年(六八六年)三月条、「信濃国に灰|零《ふ》り、草木皆枯れぬ」という記述だとされている。その後も浅間山はたびたび噴火しているが、最大のものは天明三年(一七八三年)のものであった。  その年五月九日に最初の小噴火があり白煙が立ちのぼっていたのだが、六月二十四日朝から鳴動がはじまり、翌二十五日に爆発。しばらくおさまっていたかと思うと、七月中旬から噴火活動が激しくなり、火山灰と火山礫が関東一帯に降り、江戸でも一、二寸、灰と小石がつもったという。八月に入ると浅間の東麓は昼でも暗くなり、連日大噴火がつづいて、五日(旧暦七月八日)の午前十時過ぎ、大音響を発して熱雲(熱泥流)が噴き出し、北側の斜面を秒速数十メートルの勢いで吾妻《あがつま》川まで流れ下った。熱雲はまわりの村を高熱の泥流《でいりゆう》で埋め、つづいて熔岩《ようがん》流が山麓に流れ出た。やがて軽石も降り止《や》むと、それが天明三年の大噴火の終結であった。  このときの熔岩流が、「鬼押出し」と呼ばれている。浅間火山前掛山の北側の急斜面から裾野《すその》にかけて、幅八百〜二千メートル、長さ五千五百メートルにわたり、厚さの平均が五十メートルに及んでいる。  この土地に生命が萌したのは、いつごろからなのだろうか。もちろん熔岩流が冷えてもはじめのうちは全くの無生物の世界である。風に乗って飛んでくる植物の種子や胞子も、養分をふくんでいない熔岩の土地では生きることができない。  岩に生育する最初の植物は地衣類である。キゴケやハナゴケといった菌類と藻類の共生植物である地衣類が、岩の上や岩面や岩のくぼみに育ちはじめ、やがて蘚苔《せんたい》類もあらわれる。これらの植物がつぎつぎに生まれ、また枯死してゆくうちに、岩ばかりのところにわずかながら土ができてゆき、草や木の生える環境が用意されるのだという。  鬼押出し熔岩は噴出から二百余年、岩のくぼみや岩と岩のあいだに、土がいくらかたまってきて、日なたを好む種類の草や木が今ではかなり生えてきている。木で言えば、栄養分の少ない裸地にまず入ってくるのが、ヤシャブシである。羽根のある軽い種子が風で飛んで日当りのいい裸地に育ちはじめる。同じく陽樹のカラマツやアカマツも育ってくる。岩蔭の湿地にはガンコウランやコケモモなど高山性の植物も生えてくる。  私は鬼押出しをあるくのは、今度が二度目である。一度目は三十年ばかり前だった。  風景についての記憶というのはあまりあてにならないものだけれども、鬼押出しの岩のあいだを数キロ散策しながら、  ——前に来たときよりも木が多いな。  というのが実感だった。とりわけカラマツが目立っている。ちょうどカラマツの黄葉の時期なので余計に目についたのかも知れないが、熔岩原の写真を撮ろうとしてなるべく植物の姿の少ないところにカメラを向けてみると、そこにかならず入ってくるのがカラマツである。岩にしがみついて、カラマツが背伸びしている。私は八ヶ岳山麓でカラマツを見て暮すことが多い。あれらのカラマツは太い幹を直立させ円錐形《えんすいけい》の枝葉をひろげているのだが、鬼押出しのカラマツはまだ幹も細く背も低く、樹形も不定形である。痩地《やせち》でなんとか生きぬいているという風情《ふぜい》だ。  だが、それにしても、たくさんのカラマツである。三十年前にはほんの稚樹であった木も多いのだろうと思う。いま数メートルのカラマツは三十年前、数十センチだったのではないか。もしそうなら、ここの光景はもっと岩だらけで、目を凝らすと岩のあいだに木々がみつかるというものであっただろう。  浅間山は、この日もさかんに白い噴煙を上げていた。山頂に雲がかかっていないときには、噴煙の吹き出す勢いがよく見える。  軽井沢測候所発表の定期火山情報が、浅間園の道ばたに掲示してあった。一ヶ月ばかり前、九月十日十時発表のものである。それによると七月八月と噴煙活動は活発で、八月末から九月はじめにかけて地震活動も活発だったが九月十日現在は地震活動は平常にもどっている。噴煙の遠望観測や震動観測の詳細なデータを掲げ、「今後しばらくは活動も続くとみられ、今後の推移を注意深く見守っています」と書かれていた。  浅間山が今後、天明三年のときのような大噴火を起こすのかどうか、私には分からないが、もし新しい大噴火がなく、また人の手で木を伐《き》ることがないならば、数百年後には草や木などの植物遺体がたっぷりとたまって、今はひょろひょろしているカラマツだが、大きな木になってカラマツ林をつくることになる。そうなると林内の日蔭にいろいろな低木が育ってくる。陰樹であるコメツガも芽生えてきて、すくすく育つだろう。陽樹のカラマツは種子が落ちても芽生えるのはむつかしくなる。そして千年もすると、カラマツ林に育ったコメツガがカラマツに代って林をつくり、多種多様の低木や草を林内に育ててゆくだろう。いずれ岩の隙間《すきま》はすっかり土で埋められ、その上にも土が覆い、枯死した木や草が表土をつくり、安定した森が生まれているだろう。ここが熔岩流の上であるとは、見ただけでは分からなくなるはずである。  前の日、白根山で痩せたナナカマドを見、この日、浅間|山麓《さんろく》で矮小なカラマツを見て、私は八ヶ岳山麓の私の家のコスモスを思い出していた。  私は山の家に行くとき、自動車のない生活をしているので、電車で行く。たいていは、東京の家から大井町線と田園都市線で武蔵|溝《みぞ》ノ口《くち》に出て、南武線で立川、中央線で高尾、高尾から普通列車で小淵沢《こぶちざわ》、そして小海線で野辺山に着く。山の家はそこから十数キロ、標高一三四五メートルの野辺山駅からさらに四百余メートル登ったところ、横岳登山口のそばにある。  野辺山駅前のバス乗場の横に、みごとなコスモスの群落がある。私はコスモスの平凡さが好きだ。バラとかランのような気どりがなくていい。野の花といった感じがいい。清少納言《せいしようなごん》はナデシコを好んだらしいし、私もナデシコなら大いに好きなのだが、あの好き嫌《きら》いのはっきりした女性がいま生きていたら、たぶんコスモスも好んだのではないかと思う。このごろはコスモス街道などと、やたらコスモスを売りものにするのが気に入らないけれども、丈高いコスモスが花々を秋の風に揺らせているのを見るのは、いつも気の澄むことである。  二年前、その駅前のコスモスのよくみのった種子をもらってきて、山の家のまわりに、日当りのいいところを選んで播《ま》いた。去年と今年、コスモスが咲いた。だが、我が家ではコスモスの丈はほんの十センチか十五センチにしかならない。小指の爪《つめ》くらいの小さな花を咲かせている。かがみこんで見る花である。駅前と我が家の標高差、それゆえの気候のちがい、そして土のちがいなど、原因はいろいろあるのだろうが、この小さなコスモスはまるで高山植物である。コマクサのように、そしてコマクサよりも小さい花を、だが、けなげに咲かせている。駅前の、がっしり太く、私の胸までもあるコスモスの子供だというのに、こんなにもちがうものなのか。私は植物の生命のデリケートであることにおどろき、また、それでも小さいなりに花をつける生命力に感嘆した。白根山のナナカマドは、いつか堂々とするのだろうか。浅間の鬼押出しのカラマツのほうは、数百年すればみごとな林をつくるだろう。そういったことが、山の家のコスモスとかさなりあって、今はまだ存在しない風景を想像させた。  鬼押出しの岩と木のあいだに立っていると、自然に思い出されるのが、富士山麓の青木ヶ原樹海である。  西湖《さいこ》を背にした紅葉台の展望台に立って富士山を正面に見ると、このコニーデ式火山の全容が、ひろびろとした裾野と共に一望できる。裾野にはいくつか建造物が見えているけれども、それらがあまり気にならないくらいに、一面の緑である。樹海という呼び名がふさわしく思える。まわりが十六キロメートルにも及ぶ巨大な森である。富士山の北西山麓一帯を埋めつくしている緑である。この風景を遠望していると、気宇壮大という陳腐なことばが、やっぱりふさわしいのかなと思えてくる。  だが、青木ヶ原の森に入ってみると、展望台からの爽快《そうかい》な眺《なが》めとはまるで別の世界に出会う。樹海のなかの整備された道を歩いていては気がつきにくいが、ほんのすこしでも道からはずれて森に入ると、ここがまだ熔岩流の土地であることを知る。枯枝や落葉で埋もれた林床が、まだそれほど安定してはいないようである。うっかりすると、踏んだ地面が沈み込んでゆく。岩と岩とのあいだに積もった土が、まだやわらかいのである。気をつけて見ると、熔岩に苔《こけ》がついただけのところもある。木の根は岩々をかかえて、なんとか安定を保っているらしい。地中深くに根を張っているのではない。  青木ヶ原樹海は、すでにツガやヒノキが優先する森になっている。そこに、モミ、ハリモミ、ミズナラ、カエデ、サクラ、アカマツ、ゴヨウマツなどが混生している。カラマツ、アカマツ、ヤシャブシなどが優先する鬼押出しと比べれば、植生としてはずっと安定した森をつくっている。極相林にまでは到《いた》っていないにしても、ほぼ安定していると言えるだろう。だが、かつて一木一草なかった熔岩原が森をつくるのは、やはりずいぶん困難なことであるらしい。土はまだ不足しているようである。木々の育ちはいいとは言えない。木の根はせいぜい五十センチばかりで岩に突き当ってしまうのだから、ヒノキにしても木曾の山でみるようなすくすく伸びた巨木はあまり見あたらない。  しかし、ここまで森が育ってきたことのほうに、おどろくべきなのかも知れない。この深い森を生みだした植物の生命に感嘆すべきなのかも知れない。自殺志願者がここに踏み込めば、たとえ帰ろうとしても帰ることができなくなるほどの深い森が、熔岩のほかには何もなかった無生物世界に、時を経て生まれてきているのである。  貞観六年(八六四年)、富士山の中腹から流れ出た熔岩流が、山麓では扇状にひろがって、その末端は御坂山地にまで達し、そこに西湖、精進湖《しようじこ》、本栖湖《もとすこ》の三湖をつくった。  壮大な眺めだっただろう。山麓から裾野にあったはずの森を飲みつくし、そこにあった一切の生命を高熱の熔岩流の下に埋めつくして、見渡すかぎりの無生物の世界があらわれた。一面に小さな噴煙を上げていた熔岩原がやがて冷え切って、しんと静まった、黒々とした風景が、長い年月つづいてゆく。鳥も動物もここには寄ってこない。上空をときに渡り鳥が行き過ぎるほかは、生命の影は見えない。小さな種子や胞子が風に乗って飛んできても、それらが芽生えることのできる土地になるには、長い時がかかった。地衣類や蘚苔類が岩につきはじめ、やがて草や木がすこしずつ生えてくる。或《あ》る時期の青木ヶ原は、いまの鬼押出しと似ていたのだろう。気候の差があるので植物の種類にいくらかちがいがあるだろうが、風景としてはそういう時期があったはずである。  熔岩流出から千百年あまり、この時間は長いのだろうか、短いのだろうか。屋久島の、千年をはるかに越える屋久杉にしてみれば、一本の木の一世代の時間にすぎない。屋久島では千年以下の木を小杉と呼ぶのだから、千百年というのはようやく屋久杉の仲間入りをする青年期の木である。たったそれだけの時間で、岩石の原に森が生まれ育ったと思うなら、これはほんとうにおどろくべきことである。だが一方で、私たち人間の時間を思うと、ずいぶん長い時が要るものだな、とも思う。  私はあと何年生きられるだろうか。うまくすれば、あと三十年。そのころ、鬼押出しの熔岩原と、この青木ヶ原樹海をもう一度、見てみたいと思う。樹海はおそらく、今とそれほどちがわないだろうが、鬼押出しのほうは今よりはるかに木を育てているのではないだろうか。今度は、岩々と木々の風景をしっかり記憶にとどめてきた。写真も撮ってきた。三十年後の風景との差が分かるだろう。  それを知ったところで何の役にも立たないとは知っているが、好奇心とはそういうものであるらしい。そして、とりわけ生命というもののありかたを目で見ることは、好奇心の大きな対象であるらしい。     3  先だっての夏、房総半島の太平洋岸、安房小湊《あわこみなと》の磯辺《いそべ》のホテルで数日を過ごした。  部屋は一階で、部屋からそのまま岩磯へ出られる。仕事を持って行ったのだが、日に一、二度は磯へ出た。というのも、仕事をしながらガラス戸越しに見る海が、刻々に変わってゆくのに気を惹《ひ》かれたからである。朝はすぐそこまで来ていた海が、昼過ぎには大きく後退して、岩磯が百メートルも先まで水面上にあらわれている。まるで別の土地にいるかと思うくらいの風景の変化であった。  あとで知ったことだが、この季節、このあたりの干満の差はことに大きく、それも昼に大きく引潮になるので、岩磯が水没したり水面上に出たりする変化が目に入りやすいのだという。しかも新月のころに行き合わせたらしく、干満差の大きい大潮の頃であった。  ——地球が呼吸している。  ——地球は生きている。  そういう感覚にとらえられた。水がなくては生命は存在できない。その水を大量にたたえている海が、海そのものが生命体であるかのように、リズムをもってうごいていた。「地球」は「水球」と呼ぶほうがふさわしい、という言葉が、ほんとうだなと思える。その「水球」の水の九十六パーセントが海にあり、三パーセント弱が氷河と雪の形であり、一パーセントほどが地下水となってあり、のこりの〇・〇二パーセントばかりが大気や川や湖や土のしめりや、そして生物の体内にあるという。太陽系のほかの惑星にくらべて際立《きわだ》って大量に水を持っているこの惑星が、その水で養っている生命というものを、安房小湊の潮の干満は私に語りかけていた。  磯の潮だまりを覗《のぞ》いていると、ことにその感じがある。引潮であらわれた岩磯を毎日散歩しながら、岩のくぼみに残った海水を覗きこんでみると、小さな生きものたちが、たえまなく動いていた。小蟹《こがに》、小さな貝、小さな魚たち、小さなイソギンチャク、小さな海藻《かいそう》などが、ほんのひとかかえほどの潮だまりに、何十種となくうごめいている。  小石の下にもぐりこんだ蟹が、さかんに砂を投げ出している。落ちつかないのかなと見ていると、石の下から這《は》い出してきて、今度は外から穴を掘り、近くのもっと小さな小石を運んできて穴の前に並べたりしている。巻貝が案外な速さで歩いている。  見ていて飽きなかった。気がつくと一時間や二時間が過ぎていた。  小さな海藻が、潮だまりの水面上に枝を張っていた。しゃがみこんで見ていると、これはまるで樹木ではないかと思う。木と同じように枝をもっていて、水面上に出ている幹も枝もしおれずに立っている。やがて潮が満ちてくれば、この藻も蟹もみんな海の底になるのだが、今はこの小さな潮だまりだけが安住の地であるかのように、それぞれに忙しく立ち働き、また、大気に腕をのばしていた。  ゴム草履を尻《しり》に敷いて坐《すわ》る。太陽と潮風が心地よい。陸のほうに目をやると、すぐそこが清澄山《きよすみやま》である。標高はわずか三百八十三メートルだが、海辺からすぐの山なのでもっと大きく見える。木々に覆いつくされた山であり、その一部には天然の照葉樹林が残っている。山上には日蓮《にちれん》が十二歳の年から二十年間修行した清澄寺があり、その山内にはおそらく寺より古いと思われる大杉がそびえている。  潮だまりの小さな生きものたちを見、ふりかえって原生林の山を見上げると、まるで、目の前の潮だまりの木の原型のような藻《も》が、陸上がりして山の森になっていったような錯覚におそわれる。海のなかの生物は六億年前、大気中の酸素量が現在の百分の一にまで増えてくると、呼吸によるエネルギー獲得をはじめて、水面下すれすれのところまでやってきたらしい。四億年前になると酸素量が現在の十分の一になり、生物は水に隠れ棲《す》まなくても紫外線にやられることが少なくなり、一部の生物が陸へ上りだすのだという。その境いの二億年ばかりのあいだ、潮の干満で海になったり陸になったりする磯は、陸上進出する生物たちの訓練の場でもあっただろうか。科学者から笑われると思うけれども、潮の満ち引く磯で、たくさんの生物がためらいながら陸へ向かっていたのだろうかと、その賑《にぎ》やかな光景を思い浮かべてみる。  レイチェル・カーソンは『沈黙の春』で農薬のおそろしさを説いた生物学者だが、彼女のもともとのフィールドは海であり、海辺であった。『潮風の下に』『われらをめぐる海』『海辺』が『沈黙の春』以前の主要著作であり、なかでも一九五一年刊の『われらをめぐる海』は全米著作賞を受けてカーソンの名を高め、ベストセラーにもなった本だった。  カーソンは、海辺を好んだ人だった。磯を歩き潮だまりを観察し、「潮だまりは小型の海である」と言って、そこから多くを学んだ人である。カーソンは、『海辺』の執筆について、こう語っている(ポール・ブルックス著、上遠恵子訳『生命の棲家』より)。 [#ここから1字下げ]  多分、私は海の他の部分を選んでもよかったでしょう。しかし、海辺を選んだことには明らかな利点があります。まず第一に、そこは殆ど誰でも行ける場所です。したがって、私が説明することをうのみにする必要がなくなります。興味を持った人は誰でも、じかにそれらを見ることが出来ます。そしてまた、海辺は特に興味のある地帯なのです。そこは陸地の特徴と海の特徴をあわせ持っている過渡的な地域です。寄せては返す潮のリズムにしたがい、ある時は陸地のものになり、ある時は海のものになります。そのため、海辺は生物に対して、出来る限りの適応性を要求します。海の動物たちは、海辺に順応することによって長足な進歩をとげ、遂《つい》に陸地に棲むことが可能になったのです。ですから、ここは進化の劇的な過程を実際に観察出来るところなのです。 [#ここで字下げ終わり]  そういう意図で書いた『海辺』のなかで、カーソンは、次のように書いている。 [#ここから1字下げ]  渚《なぎさ》は、非常に古い世界である。なぜならば、大地と海が存在する限り、そこは陸と水が接する場所だからである。しかもその場所は、絶えず生命が創造され、また無慈悲に奪い去られている世界である。私はそこへ足を踏み入れるたびごとに、その美しさに感動するとともに、そこで生物どうしが、そして彼らと彼らを取りまく環境とが互いにからみ合いつつ、生命のあやを織りなしている深遠な意義を悟るのである。 [#ここで字下げ終わり]  生命は海からはじまって、海辺を経て陸にもひろがっていった。そのことを、海辺は、わけても海辺の潮だまりは、そこへ行った者に話しかけてくる。それはまた、砂漠という海になぞらえられる世界と生命に満ちた世界との縁辺でも、そうなのかも知れない。松原|正毅《まさたけ》氏が、西アジアから中央アジアにかけて修道院や仏教寺院などの宗教施設が砂漠の縁辺にもうけられているのをよく見かける、と書いている。前方に砂漠のひろがるそういうところで人は生命について深く思うということであろうか。海辺の場合には、目前にひろがる海もまた生命に満ちていて、砂漠の縁辺が無生命世界と生命世界の境界であるのとは異なっているけれども、どちらの場所も、生命のありかたがあらわに見えるということでは同じであろう。  安房小湊の海辺で、私は若い日の日記を読み返していた。思わずハッとなったのは、潮だまりの藻が海辺の山へ登って木になってゆく錯覚をいだいた日の夜、潮の音を耳にしながら繰っていた古い日記に、そのころ見た夢の一つを見つけたときである。不思議な暗合だった。私は三十年ばかり前、安房小湊での昼間の妄想《もうそう》とちょうど裏返しの夢を見ていた。  夢のなかで、陸上の木々が一斉《いつせい》に静かに海へ向かって歩いていた。よく見ると大きな木だけでなく、灌木《かんぼく》も草も、地面にある一切のものが、滑るように海へ向かっていた。木々は海辺から海に入り、その長い列が先のほうからつぎつぎに海中に消えていった。絶え間なく木々が海の深みへ歩きつづけ、長い時が過ぎた。最後の木の梢《こずえ》が海面下に沈んで、それまで茫然と見ていた私が背後を振り返ると、陸にはもう一本の木も一本の草もなく、赤茶けた土がどこまでも続いているだけだった。  忘れていた夢だったが、日記の文字から生ま生ましく思い出された。そのときの底なしの恐怖も思い出された。  なぜあんな夢を見たのだろうか。そのころの私が生きることに熱意を失いかけていたためだろうか。ともあれ、すべての生命が海に沈んでゆき、生命を失った陸地に私ひとり取り残されてしまったことに、私は恐れ、夢のなかで絶望していた。「もう、だめだ……」とつぶやいていた。  そのころ、伊勢湾台風の取材に行ったことにも、いくらかかかわりがあるのかも知れない。その取材では多くの死者や、動物たちの死体を目にしたのだが、そらおそろしく思ったのは鍋田《なべた》干拓地の光景だった。広大な干拓地に整然と並んでいた家々が一軒のこらず海にさらわれていた。干拓地は浅瀬の海にもどって、そこで多数の死者があったことが信じられないくらいに、明るく、さざ波をきらめかせていた。波の下に、家々のコンクリート土台が定規でそろえたように整列し、タイル張りの風呂場だけが波の上に、これもはるか先まで一直線につらなっていた。水面下にはもう青い細い藻が揺れていて、それはまるで女性の長い髪のようであった。太陽が輝き、水面下の廃墟《はいきよ》を照らしていた。水は渓流の水のように澄んでいた。私は並んだ死体を見たとき以上に、ぞくっと寒くなった。  何年かして、八郎潟の干拓地を見た。干拓完成直前の八郎潟を、干拓事務所のジープで走ったのだが、まっ平で、草も木もない人工大地のひろがりに、私はとまどった。いずれここが目のかぎりの水田に変わり、稲穂が波うつのだと聞いても、その光景を思うのはむつかしかった。  広島・長崎には百年間草も木も生えないと噂《うわさ》されていた。現実には、いまの広島も長崎も、樹木が茂り草花が咲いている。広島の爆心地から一キロメートルの被爆桜は十日ばかり早咲きになったという異常があると聞くが、被爆地の今の植物は見た目には異常を呈してはいない。あの兇悪《きようあく》な殺人兵器にも、それが残した放射能にも、立ち向かう生命力を持った植物に、あらためて驚嘆するほかはない。雨という生命の水をほどよく恵んでくれる日本列島の風土のおかげでもある。原子爆弾がもっと植物の生命に不利な風土のところに落とされたら、広島や長崎のような植物の復活は困難なのではないだろうか。アメリカやソ連などでのかつての地上核実験地では、草や木はどうなっているのだろうか。ビキニ環礁《かんしよう》の植物はどうなっているのだろうか。  木について私なりに、ここまで語ってきた。そのほかにも例えば一年前に歩いたプエルトリコ島の熱帯雨林のことなど、書いてみたいこともあったが、今は、石川|啄木《たくぼく》の『一握の砂』中の二首を引いて、終わりとしたい。   森の奥   遠きひびきす   木のうろに臼《うす》ひく侏儒《しゆじゆ》の国にかも来し   世のはじめ   まづ森ありて   半神《はんしん》の人そが中に火や守りけむ [#改ページ]    あとがき  この数年のあいだに、猫《ねこ》の本を書き、雪の本を書き、今度は木の本を書いた。三部作のつもりである。 『「吾輩は猫でもある」覚書き』(講談社文庫) 『雪恋い』(新宿書房) 『木に会う』(本書)  猫は動物を、木は植物を、雪は私たちヒトをふくめてそれら生きものの生きる場を、それぞれ代表している。猫と木と雪をえらんだのは、それらが、私にしたしいものであるゆえである。  自然論というほど大袈裟《おおげさ》なものではないが、私なりに、見て、あるいて、感じて、考えたことの表現である。 [#地付き]一九八八年十二月         [#地付き]高 田  宏   この作品は平成元年四月新潮社より刊行され、 平成五年九月新潮文庫版が刊行された。