高橋直子 競馬の国のアリス 目 次  クイックエリザベスはブスになったか  よい芦毛、わるい芦毛、ふつうの芦毛  カシマウイングとその仲間たち  競馬の国のアリス1 競馬の国にたどりつく  競馬の国のアリス2 ギャロップダイナのくれた忠告  競馬の国のアリス3 涙のその日ぐらし  競馬の国のアリス4 ダービーを勝ったのはだれ?  張りがあって落ち着いているのか、太めでやる気がないのか、   それが問題だ  ホーおじさんをさがせ!  罪の快楽  おしゃれして競馬場へ行こう  天国と地獄  トウショウマリオやめますか、それとも競馬やめますか  いちばんほしい馬  十三レースを待ちながら  競馬日記  あとがき [#改ページ]   競馬の国のアリス   ホクトヘリオスに  クイックエリザベスはブスになったか  クイックエリザベスはブスになっちゃったのである。  こんなことを言っても誰にもわかってもらえないかもしれないのだけれど、クイックエリザベスの顔がかわってしまってわたしはとても悲しんでいるのである。三歳の新馬戦のパドックでクイックエリザベスを初めて見たとき、まあなんてかわいい顔なんでしょう、とわたしは狂喜乱舞。「おとうさんあの馬みてみて、かわいいねえ!」の大連発だった。クイックエリザベスは鹿毛で、顔のかたちはわりと先が細く、大きめの目はアーモンド型でくるっとしていて、頭の上のほうが黒っぽくて星があって、鼻の先のほうが色がうすくなっていて……、ああ、説明するのがすごくむずかしい! とにかくリスみたいな顔だったのだ。似てる馬? いるかなあ……むずかしいけれど強いて言えば牧瀬里穂ちゃんとか、ちょっとちがうか。あんまりいないなあ、ああいう顔は。  そんなわけで、わたしはついこの間まで「クイックエリザベスの顔がすべての馬の中でいちばんかわいくて好き」といいふらし続けており、社台ファームの牧場に行ったときも、クイックエリザベスの母ネイティブスターに向かって、「おじょうさんのクイックエリザベスちゃんはほんとうにかわいくて……」などと上機嫌で話しかけてしまったほどであった。  それなのにそれなのに、ある日テレビの画面に大写しになったパドックのクイックエリザベスを見て、わたしはびっくりして涙ぐんでしまった。だってそこに映っていたのはわたしの愛したあの美少女じゃなくてただのおばさん。うそでしょう! なぜなの? とつぶやくわたしの声をさえぎるように「今年に入ってのこの馬の充実ぶりには目をみはるものがありますねえ。四歳を骨折で棒に振り、五歳時は勝てそうで勝てないレースが続いていただけに、もう頭打ちではないかとの見方もあったんですが、馬自身もすっかり成長して……」と解説者の声が耳にはいる。クイックエリザベスはおとなになってしまったのだった。強くなったのとひきかえに顔がおばさんになるなんてあんまりじゃないか。  だいたい、わたしは馬の顔にうるさい。特に女馬はほとんど顔で選り好みをしている。桜花賞なんて、ミスコンみたいなものである。絶対に顔で馬券を買う。かわいい馬が勝てるのは桜花賞ぐらいなのだ。だから、桜花賞の前になると馬の写真やビデオを眺めながら顔くらべをしてしまう。平成二年はほんとうにレベルが高かったと思う。わたしがいっちばん応援していた西田ひかるスプライトパッサーちゃんが故障してリタイアしたのは残念だったが、本命の後藤久美子アグネスフローラは正統派美少女でいかにも桜花賞馬という顔だった。桐島かれんケリーバックもハイセイコーの子とは思えぬ気品を備えたグラマーな美人だったし、関西で絶大な人気を誇っていた宮沢りえコニーストンはまるでハーフみたいな日本馬ばなれした(?)目鼻だち。しかしわたしが最も気に入っていたのは藤谷美紀エイシンサニーで、桜花賞の時点で後藤久美子アグネスフローラを藤谷美紀エイシンサニーが差し切ってオークスを勝つ、とまで予言していたのである。  このゴクミをフジミが差す、というのは実はオークス、エリザベス女王杯ではちょくちょく見られるシーンである。コスモドリームを藤谷美紀と言うのは無理があるかもしれないが、シヨノロマンを差したミヤマポピー、シャダイカグラを差したライトカラー、マックスビューティを差したタレンティドガールなどはこの例で、つまり美少女にはちがいないのだが、ほくろがあったりしてどこか完璧さが損なわれている顔、長い髪はソバージュにしてもよい、あまり着物は似合わない、といった特徴を持っているのである(シヨノロマンをゴクミと言うかどうかも少し問題だわね)。ほれ、これで馬券を取るのは簡単でしょ。  黒い馬で顔がかわいいと絶対かしこそうに見える。その代表がメジロラモーヌ。青毛のメジロラモーヌはほんとうにかしこそうで美人だった。ラモーヌは日本人には似ていない。アナ・トレントってとこかなあ。こういう馬に鷲尾いさ子ダイナアクトレスは勝てない、勝ってほしくないのが女の世界の常識である。メジロラモーヌと同じモガミの子で青鹿毛のスイートローザンヌも美人だった。この馬はただかわいいだけでなく、いかにも仕事もできますというたくましさもあったのだが、オークスのレース中に骨折して予後不良となった。あっと思ったときにはもう運命が決まっていて、涙がぽろぽろこぼれてしまった。骨折を一度克服したのになんて不運な馬だったのだろう。黒鹿毛の小宮悦子スイートセシールや黒木瞳ビソアスイートもかわいくてよい。センチュリーエルは基本的にはラモーヌと同じタイプの顔なのだが、なぜか間が抜けてみえる。同じノノアルコの子でもグレースシラオキはエルにくらべると利発な印象で、斉藤由貴っぽい。  額から鼻にかけて真っ直ぐ幅広く白斑のある顔は、だいたいにおいて無条件で好きである。これには牡馬も牝馬も関係ない。栗毛で脚にも白いソックスをはいていたりすると馬券も買いまくる。裏切られてもおこらない。かわいいからゆるしちゃう。シヨノロマンとかコーセイとかスーパーグラサードとかダイナガリバーとかメリーナイスとかゴールドシチーとかスーパーファントムとかヤエノムテキとかカシマウイングとかフジゴールドレッグとかゴールデンスパナとかトウショウファルコとかセッテディバとかミナガワイチザンとかエレクトロアートとか、写真でしか見たことのないコリムスキーもタイテエムもカツトップエースもヤマノシラギクもソロモンもみーんな大好きだ。  鼻づらの白い馬は、古馬になってもあまり顔が変わらないような気がする。ほかの馬が急に大人びておじさんおばさん顔になっても、あの顔の真ん中の白い部分が、妙にこどもっぽくおちゃめな感じに見えるのだ。牧場でおかあさんになったダイアナソロンに会ったけれど、ぜんぜんおばさんっぽくなかった。サッカーボーイなんて少年のようだった。言い換えれば、勝っても勝っても貫禄がつかないということか。派手だから実力があまり評価されないのかも知れない。でもわたしは好き。しかし、シヨノロマンぐらいになるとちょっと白が多すぎて変かなあとも思うし、ダイナガリバーに至ってはほとんど「牛」みたいで、レース中ガリバーの左にいる馬がガンをとばされてビビるという場面もよく見受けられた。ガリバーの父のノーザンテーストも左側は目のあたりまで白く、ちょっと見こわいけれどずっと見ているとなんともいえない味わいがあるのに対し、ガリバーは鼻の途中から左半分が真っ白なのでちょっと見笑ってしまい、ずっと見ているとほんとうに笑ってしまう。いやあ、いい顔でほんとうに好きだ。なんといってもあの口の白さでわたしはダービーを当てたのだから。  顔が白いと言えば、ディクタスとヤマノシラギクの子の写真を見たけれど、前から見るとほとんど真っ白で、出てきたら絶対狂喜して応援すると思う。もっとすごくて話題になっているのが、コニーストンの弟でクリプシーの二歳。父はノーザンテーストで、両側とも目のあたりから口のまわりまで全部白い。あーん、早く大きくなって走ってくれよお。おまえのような奴がわたしは大好きなの。うれしいよお。  地味な鹿毛にもかわいい顔の馬はいっぱいいる。特にかわいくて好きだったのはマチカネイトハンとドウカンジョー。マチカネイトハンは五百キロを越す大きな馬だったけれど、パリコレに出てくるモデルみたいでカッコよく、顔は真行寺君枝みたいだった。名前のせいで関西ではわりと人気があったようで、逃げたエリザベス女王杯ではレース中に故障を発症しながらもミヤマポピー、シヨノロマンに続いて三着に粘った。でも結局予後不良となってしまった。骨折していたのだった。  ドウカンジョーは顔も体型もとても好きなタイプだ。トウショウボーイの子で牡馬にも負けぬたくましさとふいに見せる女らしさが同居する不思議な走りがすっかり気に入ってずっと応援している。顔がまたかわいい。ミスターシービーに似てるという人もいるらしいが、そういわれれば目もとなんかそうかもしれない。きれいな二重で実に印象的な目をしている。ものすごく不思議そうな目だ。静かで奥が深い真っ黒な瞳。ほんとに馬っぽい。内田浩一騎手に乗られて中日新聞杯を七歳で勝った。テレビで見るドウカンジョーは四歳のときと全然違って大人になっていたけれど、目もとはあいかわらず美しくかわいいおんなのこのままだった。そういえばサクラホクトオーの目もああいう目だなあ。ホクトオーの顔も好き。ほんとにかわいいのに名前がダサクてとってもイヤ。  おにいさんのサクラチヨノオーは男馬の中ではものすごく好きな顔のひとつ。チヨノオーはすごく繊細な少年の顔。そしてあまり乱れない。いつも涼しげだった。ダービーを勝ったあと十一カ月の休養を経て、安田記念、宝塚記念に出走したが、ブービーとしんがり負けに終わり引退した。ほんとうはあんなに負けるところなど見たくなかったのだ。あの美少年が顔を歪めるところなんて見たくなかったと思う。だからわたしの中のチヨノオーはダービーのときのままだ。  男馬の場合、顔がよくなくても好きな馬はいっぱいいる。古馬になるとみんな頬のところがぐっと盛り上がってきて、かわいい美少年を見つけるのは困難だ。女馬だってとっても男らしくなってしまう。だからやっぱり顔くらべは桜花賞のころがよい。おとこのこならダービーまでかしら。  ダービーというと一頭の美しい馬を思い出す。カシママイテーというその鹿毛馬は、新馬、万両賞を連勝し、デビューは文句なく順調そのものだった。ジュニアカップで不可解な負けを喫したあと、ヒヤシンス賞を勝ち、弥生賞では五着。カシママイテーが圧倒的一番人気のスカーレットリボンを抑えてヒヤシンス賞を勝ったのは、クイックエリザベスが新馬を勝った同じ日だった。パドックでカシママイテーを見たわたしの目は、その顔に釘づけになった。よくある顔だったのかもしれない。はばの狭いちょっと丸みのある額にダイヤマークの白い星をつけて黒いたてがみを垂らしたその顔はどことなくさびしげで、きれながの目はもうやんちゃな子供時代に別れを告げてきたかのように大人びていた。父サンシャインボーイ、母サウンドカグラ(母の父サウンドトラック)という血統からマイル路線に転じるとみられていたが、皐月賞ではヤエノムテキの四着に入線し注目を集め、ダービー戦線に躍り出たのであった。  ダービーを前に特集記事を組むスポーツ新聞や雑誌にカシママイテーの名前が小さく載っているのを見つけるたびに、「わたしはこの馬を買う。だって顔がいちばん好きだもの」といばって言ったものだった。わたしのカシママイテー、わたしだけのカシママイテー、そんな気持ちがあったのかもしれない。しかしカシママイテーはダービーに出なかった。ダービーの十日前に死んでしまった。詳しいことは何も知らない。知りたくない。今でも目を閉じると、大人になりきらないカシママイテーの顔がぼんやりと浮かんでくる。額の星だけが不自然なほどくっきりとしているのだ。 [#改ページ]  よい芦毛、わるい芦毛、ふつうの芦毛  みんなが好きなスダホーク。そうだ。わたしの知っているおんなのひとはみーんなスダホークが好きだ。スダホークは表街道を歩いた数少ない芦毛馬であった。弥生賞を勝つなんてすごい。皐月賞(六着)にもダービー(二着)にも菊花賞(二着)にも出て、有馬記念にも出た。共同通信杯四歳ステークス以後はGレースにしか出走していない。一流馬なのである。だが、GIの勝ち星がない。ひとつでいいから勝たせてあげたかった、とみんな思っているのである。いちばんチャンスがあったのは、ミホシンザンが骨折で出られなかったダービーだ。直線で先頭にたったスダホークは外から並びかけてきたシリウスシンボリの方を向いて笑ってしまった。これがいけなかった。いけないと思ってまっすぐ走りだしたが、もう差はつまらなかった。二着である。ほんとうにもったいない。  ところで、わたしはスダホークのあのブルーに白の縁取りのメンコがきらいだった。本馬もきらいだったのか、後年はずしてしまっている。引退レースとなった宝塚記念に素顔で出てきたときはほんとにうれしかった。スダホークはハンサムだもん。ロンスパークよりはるかに。  スダホークの顔は三角で好きだ。肩のつけねから直角にふり出すあの前脚の上げ方が好きだ。走っているとき前を向いている顔の耳の間の広さとまるっぽい顎にかけてのやさしい線が好きだ。ときどきがくんと落ち込むけれどほとんど高さの変わらない首の動きと太さが好きだ。右にカーブをきるときちょいっと右にまわすしっぽの癖が好きだ。何かのまちがいじゃないかと思うほど他馬から離れてポツンとしんがりをポクポク走る姿を見ると、なんだか胸がしめつけられる。最後の阪神大賞典ではタマモクロスとダイナカーペンターのマッチレースをよそに同じ芦毛のメグロアサヒとなかよく最下位を走っていたスダホーク。ときどき思いきり弱かったりして、不思議だった。それがいかにも芦毛のイメージだ。スダホークは正しい芦毛の在り方をまっとうした。スダホークはすべての芦毛ブームの予感だったのだ。  とにかく、わたしは芦毛馬に目がない。はじめて芦毛を見たときから芦毛のとりこである。わけもなく興奮する。芦毛馬が二頭出ていると必ず「芦毛—芦毛馬券」を買うほどである。スダホークを筆頭にホクトヘリオス、ホクトビーナス、ホクトウエンディ三兄妹、シノクロス、ダイナバトラー、ニシノミラー、トップコート、ウィンラーク、アニメシロー、アームアニエリ……ああ、名前を書き並べてるだけで胸がきゅーんとせつなくなってくる。かわいいやつらめ。ほかにもアジサイ、イチヨシマサル、タケノオーエンス、サクラエイサイ、マックスポート、ロンスパーク、ゲンブスポート、ケイシュウグレート、ミローセンプー、リワードタイラント、セイランロード、オールダッシュ、リンドギン、ドゴールシンボリ、モガミエール、ミリオンキャスパー、ウメノシーボン、ウメノアクティブ、ジュサブロー、メイブラスト、ダイシンフブキ、メグロアサヒ、オラクルアスカ、ローレンシャーク、ダカールインター、リバルドサキ、コクサイリーベ、メドレー、エイシンウイザード、キオイタチバナ、マルカタカイソン、アイノホワイト、サファリオリーブ、ウインドミル……などなど。これみーんな芦毛です。最近ではタマモクロスにオグリキャップはいうまでもなく、ウィナーズサークル、ハクタイセイ、ケリーバック、ユキノサンライズ、イナドチェアマン、ホワイトアロー、そしてメジロマックイーン。  いやあ、芦毛もつもれば山となるって感じだ。しかしこの中にはよい芦毛もいればわるい芦毛もいる。ただのふつうの芦毛だっているのである。  だいたい芦毛はインテリ顔とバカ顔に分かれる(芦毛じゃなくてもそうなんだけど、鹿毛だとよくわかんないのよね、栗毛だと全部バカにみえるし)。芦毛のインテリといえばホクトビーナスである。これはもうだれにも文句は言わせない。ほんとに芦毛とは思えぬ賢そうな美人顔である。母のホクトヒショウゆずりだろう。インテリの魅力は困ったときの憂い顔にある。ホクトビーナスがちょっと顔をくもらせてたたずめば、たいていの男はイチコロである。現にうちの旦那はビーナスの憂い顔にいかれてしまった。憂い顔といえば、スダホークの思いつめた表情も魅力的だし、ハクタイセイの困った顔もステキ。ウィンラークもいつも困った顔をしていたが、これは憂い顔でもなんでもなく、ただ単に困っていただけである。  一方バカ顔というと、やはりドゴールシンボリである。ドゴールシンボリがバカだと言っているのではない。バカみたいな顔なのだ。メイブラストもダカールインターもどちらかというとバカ顔である。メドレーもインテリとはいいがたい。しかし黒いうちはいいよ。これが白くなってバカ顔だととんでもないことになる。おんなのこの芦毛でバカ顔だと白痴美でかわいい。リバルドサキやトップコートがそのくちである。シノクロスは走ってないときは白痴みたいだったが、レース中はいきなり学級委員みたいになるので特異例だろう。  ところで芦毛特有の能面顔というのが別にある。この顔はすべての芦毛に共通で、都合の悪いときやつまらなくなったとき、はやく家に帰りたいときなど、突如表情がなくなり能面のような顔になってしまうのである。この代表はパドックでのホワイトアローである。なぜかホワイトアローはパドックでつまらなさそうにしている。ぐるぐるまわっているうちにもともと表情の少ない顔からいきなり表情がなくなり能面顔になるのだ。目だってただの黒い穴になってしまうのである。これはこわい。ヤエノムテキの白目なんてメじゃないほどこわい。わたしは菊花賞のパドックでホワイトアローのこの黒い穴となった目を直接見てしまい、しかたなく馬券を買うはめになった。  直線でいきなり能面顔になるのがダイナバトラーである。ダイナバトラーは他馬に関係なくレースをすすめるので、直線で何頭抜けるかだけが問題になってくる。ほかのやつが遅ければいっぱい抜けるし、早ければちっとも抜けない。いちかばちかの賭けにでるときの緊張が無表情をつくりだすのだ。レースが終わるといきなり表情が戻ってくるのだが、どうみてもレースをなめているように見える。しかし決してそうではないのでみんな叱らないでほしい。  顔のことはさておいて、正しい芦毛は丈夫でなくてはならない。怪我をしちゃならないのだ。丈夫でなくてなにが芦毛なのだ。わたしの大好きなスダホークもホクトヘリオスも丈夫であった。一度も怪我していないよい芦毛である。アジサイもウィンラークもメグロアサヒもダイナバトラーもみんな丈夫だ。ばんばんレースに出てくる。疲れたってちょっと休養すればもう大丈夫。  さらに、正しい芦毛はそうそう勝ってはならない。かといって負けてばかりではいけない。勝ち味に遅いと言われるのが正しい。したがっていくら丈夫であってもGI三連勝のタマモクロスはよい芦毛とは言えないのである。よい芦毛は好走をくり返し、一番人気になりながらそれでも人気を裏切ってなかなか勝てず、人々がしびれをきらせた頃にあっさり勝つ。たとえばニシノミラーの金杯である。あるいはサファリオリーブの新潟記念である。はたまたウメノアクティブのジャニュアリーステークスである。  しかし正しい芦毛は強そうに見えてはならない。あくまでもパドックではへらへらしていなくてはいけない。ホクトヘリオスみたいにパドックから堂々とかっこよくしていてはだめなのである。ホワイトストーンのように最高の馬体などと言われるのは恥である。メジロマックイーンのようにきょろきょろしたり、メグロアサヒのようにしょんぼりしているのが正しい。オラクルアスカのように、わたしゃ絶対に勝ったりしませんぜ、とあくまで控え目な態度でありながら好走するのがよい芦毛なのである。  そして正しい芦毛は、顔が似たりよったりでなくてはならない。まあ、ちょっと黒いうちは美人だブスだと言うこともできないわけではないが、実際白くなってしまえば素人には識別することなど無理である。マックスポートとケイシュウグレートとゲンブスポートとイチヨシマサルの顔を区別することなんてほとんど不可能。うーん、さびしいがきびしい現実である。  というわけでついこの間まで、顔が似たりよったりで強そうに見えず、丈夫だが勝ち味に遅いというのが正しい芦毛の在り方であった。スダホークはよい芦毛の典型として正しく最高の芦毛道を歩んできたのである。オグリキャップとタマモクロスがいかに連勝を重ねようとGIで善戦し続けようと、四歳クラシックに無関係だったところがいかにもさびしい芦毛だった。しかし、いまや芦毛の在り方そのものに革命が起こりつつある。  そのきざしは、あろうことか正統派芦毛馬ホクトヘリオスの妹ホクトビーナスにあらわれたのだった。マルゼンスキーを父に持つホクトビーナスは二戦二勝で桜花賞にのぞんだ。無傷なんて芦毛らしくない。桜花賞では初の芝コースだったにもかかわらずシャダイカグラの二着。惜しい! そのうえ、芦毛なのに脚部不安を抱えていたというのだから生意気である。ところが続く皐月賞で、やはり芦毛のウィナーズサークルが二着。二着でとどまるところが芦毛だなあなどと思っていたら、ウィナーズサークルはダービーに優勝してしまったのである。芦毛初のダービー馬となったのだ。まあここまでならいいとして、ウィナーズサークルは菊花賞のレース中に骨折、引退してしまった。怪我をするなんて、芦毛らしくない。  これだけならば偶然ですませることもできたのだろうが、翌年も芦毛のイメージ崩しは続けられた。ハイセイコーの子ケリーバックとハクタイセイである。ケリーバックはホクトビーナスに負けず劣らずグラマーで上品でかわいく、桜花賞二着。現在けいじん帯炎の治療中。ハクタイセイはかなりのハンサムボーイで皐月賞に優勝。ダービー後屈腱炎で休養中。  つまりこれらの芦毛は、見るからに強そうで顔の区別がつき、春のクラシックで堂々と主役をつとめ故障に泣くという、いままでの正しい芦毛の在り方からは考えられない路線を歩いているのである。そしてその総決算ともいうべき結果が菊花賞で出た。優勝がメジロマックイーン、二着にホワイトストーン。なんと芦毛—芦毛馬券だったのだ。  わたしはメジロマックイーン—ホワイトストーンの1—2を握りしめながら多くの芦毛馬たちを思っていた。十中八、九はただの紙くずになってきた芦毛馬たちの馬券。裏切られても裏切られても出てくるたびに買わずにはいられない気のいい芦毛馬たち。わたしにとっちゃあこの1—2だってただの芦毛—芦毛馬券のひとつにすぎない。ニシノミラー—モガミエールと同じだ。それにしたって、ここのところGIでいくつの芦毛—芦毛馬券が当たりと出ただろう。オグリキャップ—タマモクロス、あるいはホーリックス—オグリキャップ。芦毛—芦毛馬券を買い続けているのだから当然わたしの手には当たり馬券がいつもある。しかし芦毛—芦毛馬券で報いられるなんて、なんだか騙されているような気がする。いつかてひどいしっぺがえしが来そうじゃないか。  今日もカミノキリンジとサンダンスの四歳二頭がどちらも一番人気で堂々と勝った。パドックからやる気満々で、新よい芦毛の素質十分である。正しい芦毛の在り方が変わってしまったいま、わたしもすべての芦毛の評価を変えてみようかと思う。よい芦毛はふつうの芦毛に、ふつうの芦毛はわるい芦毛に、わるい芦毛はよい芦毛に。  同じ日、初春賞にドゴールシンボリが出てきた。あいかわらずの顔であいかわらずの走りっぷり。もう八歳になってしまって白い。メインレースにはメイブラスト。武豊騎手が乗って白馬の王子様みたいだったのに、ゲートの中で蹴り蹴りしてる間にスタートが切られ、出遅れてしまった。ちょっとあせった顔が、いまやエリートになってしまったシーホーク産駒としては恥である。おまえたち、よい芦毛だったけれどふつうの芦毛に格下げだぞ。そう、芦毛道はきびしいのである。 [#改ページ]  カシマウイングとその仲間たち  カシマウイング……その名を聞くたびに、ずるずるといもづる式に無意味にも思いだしてしまう名前、たとえばビギンザビギン、シオフネ、イズモランド、ミナガワイチザン、ミホノカザン、レイレナード、シンボリカノープ、オカポート等々、このお馬さんたちを名付けて「カシマウイングとその仲間たち」って言うのです。  カシマウイングとその仲間たちはとてもなかよしだった。みんなで一緒に準オープンのレースに出て、かわりばんこに勝って、どんどん友情を深めていったのである。カシマウイングとその仲間たちの合い言葉は「めざせGI」だった。けれどほんとうのことをいうと、かれらがそんなふうに友情を深めることができたのは、みんなである鉄則を守ったからだった。その鉄則とは、「GIレースに出ない」ことだったのである。 「めざせGI」が合い言葉だとは言っても、当面めざしてるのは、目黒記念だったり、アルゼンチン共和国杯だったり、つまりG㈼なのだけれど、これに勝っちゃったりするとなかよしのみんなと走ることができなくなってしまう。出世をとるか友情をとるか、むずかしいところでみんな悩んだものだ。結局友情をとったカシマウイングとその仲間たちは、目黒記念やアルゼンチン共和国杯では謙虚に負けてマウントニゾンやキリパワーに勝ちをゆずり、その出世を冷やかに見送ってきた。みんなからだはいたって丈夫だったので、仲間でしょっちゅう集まってレースをするのは楽しいものだった。  ところが、微妙な成績をのこし、もっとも友情をたいせつにしているかに見えたカシマウイングが、なにを思ったか昭和六十二年八月二十二日の日本海ステークスを最後に仲間に見切りをつけ、出世街道を歩み出したのである。このレースでなかよくカシマウイングと走り、勝利をものにしたビギンザビギンは、カシマウイングが秋になって自分たちのもとに戻らず、メジロフルマーなんてワンランク上のやつらと戦い始めたことを知り、驚きを隠せなかった。まったく何が気に入らないんだね。  九月の中山、九百万下のレースに集まったシオフネもミホノカザンも浮かない顔だった。ビギンザビギンは仲間うちで夏から三連勝を飾っていたというのに、ショックのあまりその後八カ月の休養に入ってしまった。そんな友達の気持ちを思いやって、なんとかカシマウイングを思いとどまらせようとあせったシオフネは、アルゼンチン共和国杯でカシマウイングにつられてがんばって走ってしまい、みずからが二着に入ってしまった。もちろん、勝ったのはカシマウイングである。そして、なんとカシマウイングが有馬記念に出走するかもしれないという話が持ち上がった。有馬記念は夢のGIレースである。  噂を聞いたシオフネは、もう誰にも会いたくないと思った。ビギンザビギンは休養中だったし、ミナガワイチザンも春からずっと休んでいる。律儀に顔を出すミホノカザンに話しかけられでもしたら、涙がでちゃうかもしれない。シオフネはわりきれない気持ちのままステイヤーズステークスに出走した。はじめての三千六百メートル、なにもかもがいつもとちがっていた。結果はマウントニゾンの二着。なんだい、おれってステイヤーだったのか。そうつぶやくシオフネはさびしかった。もうあのしあわせな日々は戻ってこないだろう。だって「GIには出ない」はずだったじゃないか。かれはこのあと屈腱炎を起こし、引退してしまったのである。ちなみにこのとき一着のマウントニゾンは新馬戦でカシマウイングと一緒にデビューした馬で、三戦目、勝ち上がったレースの二着はカシマウイングである。うーん、つくづく縁があるシオフネなのである。  おっと、これはシオフネ物語ではなかった。話をカシマウイングに戻すことにしよう。  カシマウイングは、昭和五十八年三月三十日、北海道静内に生まれた。父ノノアルコ、母ラバテラ、母の父ルアール。ユタカの恋人と言われた昨年の桜花賞馬シャダイカグラの母ミリーバードはカシマウイングの姉にあたる。つまり、カシマウイングはシャダイカグラのおじさんになるわけで、母系もよかったわけで、考えてみればオープン馬になったのも当然といえば当然と言えないこともないのだが、一昨年まではそんなこと誰も言わなかった、と思う。  カシマウイングは栗毛でかわいい。左前足のさきっちょと鼻筋の真っ白な、どちらかというと目立つ馬である。わたしは、こういう馬がわけもなく好きであるらしい。コリムスキーやタイテエムの子がレースに出てくると、たいていチェックがはいる。カシマウイングもデビューしてすぐにチェックがはいった。フジゴールドレッグとほとんど同時である。とは言っても、このころはまだ個体識別能力がほとんどなく、馬名とおうまがなかなか一致しなくて、カシマウイングってすごくよく出てるなあと思っていたら、カシマキングとカシマナインとカシマウイングをごっちゃにしていたりしたのだった。いまビデオを見ると、ぜーんぜん顔が違うのにどうしてわかんなかったんだろうと、不思議。  ところで、昭和五十八年組の牡馬は地味である。というのも、かれらが四歳クラシックを戦っていた昭和六十一年、話題をさらっていたのは、常に牝馬メジロラモーヌだったのだ。真っ黒でぴかぴかしていて、鼻筋がひゅっと白くて品のある顔立ちと、均整のとれたプリプリした馬体で、勝って勝って勝ちまくるラモーヌは、見る者すべてをとりこにした(というチンプな表現が許されるほど人気があったのだ)。久し振りに現れたおじさんおにいさんたちの完璧なアイドルだった。この年の皐月賞馬はダイナコスモス、ダービー馬はダイナガリバー、菊花賞馬はメジロデュレンである。どうだ、地味だろう! 地味なのだがレベルは高く、ダイナガリバーは四歳で、メジロデュレンは五歳で、有馬記念に優勝しているのである。どちらも連勝の配当が八千百円に一万六千三百円とくれば、これはもう地味の証明以外のなにものでもない。そのほかにどんな馬が昭和五十八年組にいるかというと、ニッポーテイオーにフレッシュボイス、ランニングフリーにレジェンドテイオー、ラグビーボールにタケノコマヨシ、女の子ではダイナアクトレスにダイナフェアリーという具合で、みんなラモーヌの引退後、渋くGI戦線で活躍し続けた。  渋いといえば、カシマウイングは考えようによっちゃあすごく渋い馬なのである。なぜかというと、平成二年九月現在カシマウイングの成績は、四十一戦八勝、二着十四回、三着三回、つまり複勝率は実に六十一パーセントにもなるというわけだ。だいたいが、そのへんのおじさんがみーんなこの馬を知ってるのもそのせいで、三回に一回は二着だったことから、カシマウイングといえば二着馬の代名詞のような感さえあった。実際カシマウイングの複勝倍率は異常なまでに低かった。たしかに、仲間と一緒に走っていた日本海ステークスまでのカシマウイングは、なんでこれで負けちゃうの、というぐらい不思議な負け方をして二着になっている。四コーナーまでただひたすらまじめくさってぽくぽく駆けてきて直線抜け出し、今日は勝てそうかなと思わせるが、他の馬がやってくると急にうれしくなっちゃってへらへらしてるうちに抜き去られてしまうのである。負けてもそんなにくやしそうにしないでてくてく帰ってゆく。そんな姿を見ているうちに、競馬に詳しくないわたしでさえ、それじゃあだめなのよ、抜かれてよろこんでちゃあだめなの、ファイトよ! ガッツよ! と叫ぶようになってしまったのだ。  その声が聞こえたのかどうだか、なんだかカシマウイングはちょっと変わった。直線でターボがかかるようになったのである。仲間と別れた直後の習志野特別はストロングレディーに負けたが二着。その後、アルゼンチン共和国杯まで、一着二回、二着一回。アルゼンチン共和国杯を勝って、有馬記念は六着に敗れたが、このとき先頭のメジロデュレンからは三馬身ほどしか離れていなかった。  明けて昭和六十三年、カシマウイングは六歳になった。アメリカJCCに出てきたカシマウイングは二番人気。解説者が「この馬は人気になりすぎている。ちょっと前までは条件馬だったんですからねえ」と言った。わたしは笑った。わかっちゃいないね。スタート直前、五枠のゲートに入ったカシマウイングはまじめくさった顔をして前を向いていた。六枠に馬が入ると首を左にちょっと動かしてそいつをちらりと見た。一番人気のユーワジェームス、有馬記念二着である。最後に四枠に白い馬が入った。カシマウイングは今度は首を右にちょっと動かしてそいつをちらりと見た。七歳馬のスダホークである。今日も勝つ。仲間の姿がみあたらないレースで何を遠慮することがあるだろう。  アメリカJCCを堂々と勝ったカシマウイングは西に赴き、京都記念にも勝って、有馬記念をはさんで重賞三連勝を果たした。絶好調のカシマウイングは、今や春の天皇賞の伏兵馬だった。しかし運命はかれに味方しなかった。カシマウイングは脚部不安に見舞われ天皇賞を断念。七カ月休養後オールカマーに出走するが八着と敗れ、さらに骨折して一年三カ月を棒に振ったのである。  こうして、カシマウイングとミナガワイチザンが骨折して長い休養生活を送っている間に、かつての仲間たちはどんどん引退していった。残ったミホノカザンは好調だった。ビギンザビギンは相変わらずで、平成元年の目黒記念で仲間は再会した。キリパワーの二着にミホノカザンが入ったが、ビギンザビギンは十二頭だての十一着とふるわなかった。イズモランドは九着。カシマウイングが抜けてからというもの、もうひとつレースに張りがなくなったなあ、とビギンザビギンは思っていた。  さて、平成元年の五月、新潟日報賞をはさんでいるとはいえ、なんだかんだと二年四カ月ぶりに復帰してきたミナガワイチザンは、仲間がばらばらになったのを知って驚いた。ミホノカザンまでもが天皇賞に出て引退、地方競馬に移っていた。どうしてなの? どうしてだろう。とにかくミナガワイチザンは前と同じように走り続けた。成績はあまりぱっとしなかったが新しい友達もできそうだった。でも、ミナガワイチザンはカシマウイングに会いたかった。みんなからカシマウイングの出世を聞いて、うれしかったけれどさみしくもあったのだ。  カシマウイングは有馬記念で復活した。メンバーはがらりと変わっていた。このときはイナリワンの十着。同じ日、ミナガワイチザンはグッドラックハンデに出走、六着だった。ミナガワイチザンは目黒記念を待つことにした。きっとあのレースで会えるよ。  年がかわって平成二年、カシマウイング、ミナガワイチザンは、共に八歳となった。金杯五着、アメリカJCC四着とまずまずのスタートを切ったカシマウイングと、初春賞で十一着と敗れたミナガワイチザンは、予定通り目黒記念で再会した。不思議な結果だった。マルタカタイソンが勝ち、二着にベルクラウンと同着でミナガワイチザンが入り、カシマウイングは七着。ミナガワイチザンの複勝は千四百八十円、マルタカタイソンとミナガワイチザンの2—4は二着同着にもかかわらず九千九百六十円だった。騎手がムチを落としていなければベルクラウンには勝てただろう。カシマウイングとミナガワイチザンの2—6を握りしめていたわたしは、ミナガワイチザンのがんばりの意味を知っていた。あせってトイレに駆け込んだわたしは、そこでフジテレビのアシスタントの青山美恵子ちゃんに「いまの2—4、馬券おとりになったんじゃあないですか?」と声をかけられる始末だった。わたしの持っていた当たり馬券はミナガワイチザンの複勝が少しだった。どうしたのカシマウイング、捨てた仲間に負けてちゃあしょうがないじゃない!  そうだ、とカシマウイングは思った。続く日経賞はオースミシャダイの三着。二着はもはや友達とも言える同じ八歳馬のランニングフリーだった。二年前に断念した春の天皇賞についに出走することになったカシマウイングは、決意も新ただったに違いない。わたしは、もういつ引退するかもしれないこの馬の応援をするため淀まで遠征していった。八歳だからだめかも知れない。スーパークリークやイナリワン相手にどこまで走れるというのだろう。しかし、京都競馬場のパドックで見るカシマウイングは今までのどのレースのときよりどっしりと落ち着き、堂々としていた。鞍上は主戦ジョッキーの的場均。わたしはカシマウイングの単・複を買った。  レースはスーパークリークと武豊、そしてイナリワンと柴田政人のためにあったと言っても過言ではなかった。前から四番手くらいでずっとスーパークリークと一緒に走ってきたカシマウイングは、四コーナーを回ってもあしいろが衰えない。わたしは極度の興奮状態にあった。直線に入ると、すぐ後ろにいたイナリワンが外から襲いかかる。残っていたミスターシクレノンがずるずると下がり始め、一瞬カシマウイングとスーパークリークとイナリワンが並んだ。西陽があたって栗毛がぴかぴか輝き、カシマウイングが一番きれいだなあとふと思った。あとは二強のマッチレースだった。それに精一杯カシマウイングがついていく。もうそれ以上は誰にも抜かせないという走りだった。どうしてこんなに強くなったの? どこにそんな力を隠していたの? 今はもうばらばらになってしまったカシマウイングとその仲間たちよ、あなたたちの仲間がこんなに素晴らしいレースをしているのをどうしたら伝えることができるだろう。できるなら、この日のためにあなたたちに別れを告げたかれを、どうか祝福してあげてください。あなたたちと別れてからもずっと、カシマウイングはその仲間たちの夢と一緒に走っていたのです。合い言葉はいつだって「めざせGI」だったのだから。 [#改ページ]  競馬の国のアリス1 競馬の国にたどりつく  とある日曜日、源一郎さんがおもしろいところへ連れて行ってあげようと言い出した。 「どこどこ?」 「ケイバジョウ」  ふむ、そいつはおもしろそう。わくわくしながらおでかけ用のワンピースをひっぱり出しているわたしに、源一郎さんは、 「あ、ジーパンとかのほうが……」 なんてモゴモゴ言っている。 「え、おしゃれしてっちゃいけないの?」 「だって冒険しに行くんだから、ワンピースはちょっと……」  あ、ケイバって冒険なんだ。でも冒険ならなるほどジーパンよねえ。しかたなくワンピースをしまい、はきふるしたジーパンとセーターにブルゾンをひっかけて出発。黄色い電車に乗ってどんどんどんどん駅を過ぎる。 「どこまで行くの?」 「もうすぐもうすぐ」 「わたしこんなとこまで来たことないよ」 「そうでしょ」 「冒険だねえ」 「そうそう、大冒険」 「わくわくするよねえ」 「うん、わくわくするね」  横目で源一郎さんをちらっと見ると、いつになく上機嫌でニコニコしている。このごろはわたしも仕事が忙しくて疲れがたまっているせいか、口げんかばかりしていたのに、どういう心境の変化なのだろう。だいたいあーんなに出不精の人が自分から「連れていってあげる」なんて、考えてみれば普通じゃない。おかしいぞ、こりゃあなにかのワナかもしれない。だんだん不安になってきた。 「おりるよ」 「あ、着いたんだ」 「まだまだ」 「まだなの、ずいぶん遠いんだね」  沢山の人がおりた。おじさんばっかり。おじさんの服は黒っぽい。みんな白い新聞をもってそれがひらひらして白旗みたい。みんなぜーんぜんしゃべらない。おもしろくなさそうな顔をして、ちょっと伏目がちで、もくもくと歩いていく。断然あやしい。あやしいおじさんたちと源一郎さんは急に態度がいっしょになっていく。あやしい。ひとりだけあやしくないわたしは、白旗を持ってぜーんぜんしゃべらないおじさんと源一郎さんといっしょにバスに乗り込む。バスは満員でちょっと暑い。暑くておじさんくさい。おじさんたちは白旗をぺりぺりいわせて押しあいへしあいしている。むうっとしてだんだん気持ちが悪くなってくる。源一郎さんも気持ちが悪そうな顔をしている。ちらちら見ているとおじさんたちもなんだか気持ちが悪そうだ。もうだめだ、と思ってから五分くらいしてバスのドアがパタンと開いた。 「着いたよ」  みんながさーっとおりていく。それは水が上から下へ流れるようにスムーズな動きで、不思議な感じがする。わたしも源一郎さんもさーっと流れる。バスから出ると気分がちょっとよくなって、ほっとする。なんだかわたしまでちょっとあやしくなっている。歩き方が、おじさんっぽい。源一郎さんは道のわきに机を構えているおばさんから白旗を買ってぺりぺりいわせている。おばさんは赤鉛筆も売っている。赤ボールペンや赤サインペンも売っている。青サインペンもある。源一郎さんはそんなのに触れもしない。おじさんたちはおばさんを見もしない。  入口に着くと、みんないきなりポケットから手を出して窓口に突っ込む。いきなり出した手には百円玉が二枚入っていて、その動作が魔法みたいに早い。窓口の向こうにはおばさんがいるのだけど、それはぜんぜん見えない。ポケットから手をスッと出して窓口にスッと入れて窓口からスッと抜くとその手には入場券が握られている。そのスピードに感動する。もうほんとうにあやしい感じである。源一郎さんは「二枚」と言った分、ほかのおじさんより動きがぎこちなくて、ちょっと素人っぽくなってしまった。それはわたしがあやしくない分だ。そのことが恥ずかしく、申し訳ないと思う。  入場券を渡されて、源一郎さんの背中に隠れるようにして競馬場に入る。コンクリートの階段みたいな広いスタンドが向こうの方までひろがり、そこにさっきのバスの何十倍分ものおじさんがいて、みんなが白い旗をひらひらさせている。それはものすごくへんな光景だった。わたしはそれまで一度にこんなにたくさんのおじさんを見たことがなかった気がする。 「ほら、馬がいるよ」  源一郎さんに言われた方を向く。いきなりものすごく明るいコースと絵にかいたような馬を見せられて、わたしは大声をあげてスタンドの最前列に駆け寄り、柵にしがみついてしまった。なんだなんだ、動物園でもないのに動物がいる。それも背中に人がのっかって、ぴかぴか光る鮮やかなサテンの勝負服。馬もぴかぴか光ってとっても美しい。そっちの方はぜんぜんあやしくなかった。おじさんでうめつくされた黒っぽいスタンドとは別の、なんだか光にみちみちた世界がひろがっていたのである。わたしはこの天と地ほども差のある二つの風景の同居にとまどいながらも、急速に競馬場に魅せられていく自分を感じていた。そして、このときすでに、自分が柵の内側には行けない存在であることにもぼんやりと気づいていたのである。 「きれいだね」 「気に入った?」 「うん、ものすごく」  源一郎さんはわたしにも白いぺりぺりした新聞を渡しながらこう言った。 「それでは競馬を始めましょう」  こうしてわたしは競馬の国にたどりついたのである。わたしたちは結婚話をまんなかにぐるぐる回り続けていて、三冠馬シンザンの子ミホシンザンが二戦目の水仙賞を勝ったばかり、まだまだ寒い昭和六十年二月末のことであった。  とにかくわたしがいちばん最初に覚えた馬の名前は忘れもしない「ジーガーゲルマン」である。源一郎さんに連れられて、はじめて行った中山競馬場で、三レースの未勝利戦に出たジーガーゲルマンはいっきなり万馬券を出してくれた。 「おお! マンバケンだ!」  源一郎さんだけでなくまわりのおじさんたちがうなりまくる。万馬券。話には聞いたことがあったが、こんなにもりあがるものだとは知らなかった。どうやら事態は深刻らしい。なんだかわたしまでわくわくざわざわしてくる。わたしたちの二列うしろに座っていたきちゃないおじさんだけが、馬券をひらひらさせながらおろおろしている。「とった! とった!」とつぶやきながら。 「ねえねえ、あのおじさんが万馬券とったみたいだよ」 「どれ?」 「ほら、あそこのきちゃないおじさん」  源一郎さんはちらっと見ただけで何も言わない。 「うれしいだろうねえ」とわたしが言うと、 「うそかもしれないぜ」といじわるっぽく言う。 「なんでうそつかなくちゃいけないの?」 「自分をもりあげるため」  うーん、よくわからない。しかし源一郎さんの話によるとどんなレースでもかならず「とった」というおじさんがいるそうなのだ。うそつきはどろぼうのはじまりだぞ。ちらっと源一郎さんを見るととっても不機嫌。 「源一郎さんは当たったの?」 「いいや」  なーんだ、自分が当たらなかったからいじわるな気持ちになっちゃってるんだな。そういえば、まわりのおじさんたちの顔もちょっぴりいじわるっぽくみんな「いやあまいったね」を連発している。 「これ、当たりだよねえ」  わたしはジーガーゲルマンの複勝馬券を見せた。百円だけだけれど、たしかに八番。ドイツ文学専攻だったんだもの、ゲルマンなんて名がつく馬を買わないはずがない。源一郎さんは目をまあるくしている。 「買ったのナオコちゃん、ジーガーゲルマン」 「うん、でも複勝だよ」  なんだよ、源一郎さんが買いに行ってくれたんじゃないの。 「そりゃあつくよ、よかったねえ、よかったよかった」  源一郎さんはいきなり明るい表情になってわたしの背中をたたいたりしている。あんがいいいヒトじゃない。 「複勝千三百四十円だって」 「うれしいな、わたしこれ当たりだよねえ、うれしいな」  わたしは自分がすごくにこにこしているのがわかった。後ろを振り向くとあのきちゃないおじさんもにこにこしている。絶対当てたんだと思う。うそでにこにこはできないよ。それとも競馬場に通っていれば、にこにこもできるようになるのかしら。  ジーガーゲルマンは十六頭中、十五番人気。単勝七千七百五十円。二着には一番人気のサクラシャトーが入ったものの、連勝は一万三千九十円の好配当となったのである。わたしはこのレース三着に入ったイングリッシュオーの複勝六百七十円も当て、一気に競馬にのめり込んでいった。ゲルマンにイングリッシュか、いかにも文学少女の買いそうな馬券で、いまとなってはとっても恥ずかしい。  この日はメインレースの中山牝馬ステークスでも万馬券が出た。圧倒的一番人気のニットウタチバナが十四頭だての九着に終わり、一着シャダイコスモスの単勝は二千六百五十円。二着にも人気薄のハセノプリンセスが入り連複は一万三千百円の好配当。ジーガーゲルマン—サクラシャトーの一万三千九十円を十円上回った。すでに万馬券の洗礼を受けていたわたしはまわりのおじさんたちと一緒に「おーっ!」とうなり、源一郎さんとめくばせしあった。 「一日に二回も万馬券が出るなんて珍しいんだよ」 「そうなんだ。なんだかトクしたねえ」 「そうだね」 「わたしシャダイコスモスの複勝持ってるよ」  またまた目をまあるくする源一郎さんは、とってもうれしそうに「よっ! 天才!」とわたしの背中をばんばんたたいた。  万馬券は二回も出たがその他のレースはだいたい固くおさまって、なんと源一郎さんは十万円も儲けたらしい。五百円ぐらいで勝負していたからこれはものすごく当たり続けたということだ。わたしも百円馬券をずっと買って三千円ぐらい得をした。かなり貧乏だったわたしたちにとっては、ほんとにすごい日だったのだ。  帰りはバスに乗らずにオケラ街道を歩いた。源一郎さんは久しぶりなので、道をうろおぼえで、前を歩いている人についていくと、どんどんみんなが分かれていくのでまいってしまった。でもすごく気分がよかった。 「おもしろかったねえ」 「そう?」 「うん」 「また来る?」 「うん。でもさあ、今度来るときはホカロン持ってこなくちゃだわ」  わたしたちは顔を見合わせてうふふふと笑った。 「四枠が緑だったっけか」 「青だよ」 「あそっか。緑は……」 「六枠」  なんだか源一郎さんはわたしの知っている源一郎さんとはだいぶ違っていた。いろんな昔の競馬の話を得意になって話し続ける。どの話も死ぬほどドラマチックでおもしろかった。この人ってただの文学青年じゃあないんだわ。こりゃあ相当賭事が好きみたいだね。ギャンブラーかあ、そうかそうか、そうだったんだ。  わからなかったナゾがするすると解けてわだかまりがなくなっていく。ジーガーゲルマンありがとう。あなたの住んでる競馬の国って、とっても不思議なところだね。わたし、競馬が好きになりそうです。 [#改ページ]  競馬の国のアリス2 ギャロップダイナのくれた忠告  誕生日に彼からカメラをもらった。ニコンFAである。このあいだの競馬で儲けたおかねをつぎこんだらしい。ううっ、これはもう涙、涙である。わたしはずうっとカメラがほしかったのだ。でもおかねがなくて買えなかった。源一郎さんはやさしい。わたしはそのカメラでまだそれほど売れていない小説家の写真を撮った。どの写真にもギャンブラーの面影はなかった。 「ミホシンザンが骨折したらしい」  源一郎さんがそう言ったのを、いまでも不思議なほどよく覚えている。結婚が決まり、会社を辞め、新しい部屋を借りた頃だ。皐月賞馬ミホシンザンのリタイアで混戦ムードのダービーを制したのはシリウスシンボリ。テレビでこれを見ていたわたしの目に焼きついたのが二着のスダホークの横を向いた顔だった。馬の名前もレース展開もぜんぜんわからなかった。ただ、ダービーがふつうのレースとはまるで違うムードを持っていることに気づく。ダービーに行きたい。そんな気持ちにさせられた。  六月二十三日、わたしたちは結婚式をあげた。その二、三日前から風邪をひいていたわたしは、とうとう式の終わったあとダウンしてしまい、翌日は毛布にくるまって、松田聖子と神田正輝の結婚式のテレビ中継を一日じゅうだらだらと見ていた。  第一日目にしてつまずいた新婚生活はその後もよい状態とはいえなかった。源一郎さんの仕事場とわたしの住む部屋は、青梅街道に面した隣どうしのマンションにわかれていた。わたしはひとりぐらしのあいだのひどい食事内容のせいで栄養失調におちいり、貧血と低血圧の治療を続けていた。結婚しても不規則な生活に変化はなく、ひとりで部屋にずっととじこもったきりの毎日はわたしをノイローゼへと追い込んだ。おまけに貧乏だった。結婚の準備資金をほとんどわたしの親に出してもらったことがいさかいの一因になった。今考えればどうでもいいようなことに、わたしはこだわり続け、彼は返す言葉もなく仕事を邪魔されて不機嫌になった。  いつも眠くて疲れていた。起きている間はずっとテレビがつきっぱなしだった。ときには寝ているときにもテレビはついていた。だれとも話さなかった。土曜日と日曜日は競馬中継を見た。毎週くり返されるレースの規則正しさが安心を運んできた。馬は美しくはかなく力強かった。しかし、わたしはシンボリルドルフを知らなかった。わたしはそれまでシンボリルドルフの走るところを見たことがなかったのである。  競馬中継を熱心に見ているわたしに気がついて、源一郎さんが競馬場へ連れていってくれた。退屈な毎日が続いていたから、この日のことはよく覚えている。いい天気で、初めての府中競馬場にわたしはときめいていた。今みたいに駅からペデストリアンでつながっていなくて、細い道をくねくねと歩いていくと、予想屋さんやなんだかわけのわからないズボン売りやベルト売りの人がいた。お客さんが群がっているのを見て「男の人も買い物が好きなのかねえ」とわたしが言うと「あれはサクラだ」と源一郎さんが教えてくれた。  この日わたしは初めて連勝馬券をとった。アジア競馬会議創設二十五周年記念レース芝千八百のハンデ戦である。一着ハセノーザン、二着ギャロップダイナ。6—8で二千七百七十円。パドックでギャロップダイナをひとめ見て好きになった。体重は五百二十二キロで一着のハセノーザンよりひとまわり大きい。大きくってくびがとっても太い。とくいになってわたしはギャロップダイナをほめちぎった。 「ギャロップダイナって、このまえ札幌で、から馬で走って一着だったんだよ」 源一郎さんが教えてくれる。 「カラウマってなに?」 「スタートしてすぐに騎手がおっこちちゃって、自分だけで走ったの」 「へーえ、それで勝ったの?」 「勝ったっていうか、落馬するともう失格だから勝負には関係ないんだけど、とにかく一着でゴールインしたんだよ」 「すごいねえ」 「えらいでしょ」 「えらい、えらい。やっぱりあの馬は賢いんだよ。おっきくって賢くってギャロップダイナがいちばん好きだよ。ギャロップダイナっていいよねえ、ほんと」  から馬でゴールインしたギャロップダイナ。みんながきっと笑っただろう。笑いながら心から拍手しただろう。そうだ、騎手なしのレースが見たいんだほんとうは。馬だけが走るのが見たいんだ。馬にはとてもかなわない。なんて素敵ないきものなんだろう。  お気に入りの馬ができたことでなにかがかわった。心の中の黒くて低い雲がふきはらわれて、冷たい風がぴゅーっと通り過ぎたみたいだった。しっかりしなくちゃ、しっかりしなくちゃと風がささやきかけていった。うまくいかないのをひとのせいにしてばかりの自分がいやだった。ようやくそのことに気がついたのだった。  この日新馬戦でメジロラモーヌがデビューした。わたしも源一郎さんもそのレースを見たはずだけど、何も覚えていない。  天皇賞の日、なにかつまらないことでぐずぐず文句を言っていたら源一郎さんにすごく叱られて、べそをかきながらひとりでテレビを見るはめになった。まだGIとかクラシックとか知らなかったから、出ている馬の中にギャロップダイナの名前を見つけて狂喜した。レースが始まるとギャロップダイナだけに集中した。でもギャロップダイナは後ろの方にいてあんまり映らない。いらいらしながら見ていると、直線でほとんどビリの方にいたギャロップダイナがばんばん前の馬を抜いていく。わたしは画面に向かってギャロップダイナがんばれ! と叫び続けた。ついにギャロップダイナは最後の馬を抜き去って先頭に立ち、そのままゴールイン。 「きゃー! やったあ! 勝った勝ったギャロップダイナが勝った!」  わたしはくるくる飛び上がって喜んだ。画面はずっとギャロップダイナを大写しにしていた。でもなんか変だった。テレビは無言だった。さっきまで大声で実況放送をしていたアナウンサーも今は沈黙していた。音楽もなかった。どうしたんだろう。まあいいや、ギャロップダイナが勝ったんだ。強いなあ、わたしの好きな馬。  夜になって寝に帰ってきた源一郎さんにわたしはにこにこしながら報告。 「今日ねえ、ギャロップダイナが勝ったんだよ、天皇賞」 「えっ、ルドルフ負けたの?」 「ルドルフってシンボリルドルフ?」 「ああ、単枠指定だったんだ」 「知らない。でもギャロップダイナが勝ったんだよお」 「そうかあ、ルドルフが負けたのかあ」  なんだこいつ、ギャロップダイナが勝ったのが気にいらないって言うの。一緒になって喜んでくれるとばっかり思っていたのに意外な反応だった。 「なんでみんなシンボリルドルフのことばっかり言うの?」 「だってシンボリルドルフは史上最強の名馬だもの」 「じゃあその馬に勝ったんだからギャロップダイナが最強だね」 「あのね、シンボリルドルフは一度しか負けたことがないんだよ」  それはすごいかもしれない。そんなすごい馬に勝つなんて、なんてギャロップダイナはすごいんだろう。 「でもさあ、ギャロップダイナが勝ったあとみんな黙っちゃったんだよね、アナウンサーとか」 「そりゃあ、しらけてたんだよ。よりにもよってギャロップダイナだもんなあ。まあ、そういうこともあるよ」  そっか、あれしらけてたのか。なんか変だと思った。 「じゃあなに、まぐれだっていうの?」 「そうねえ、たぶんね」  天皇賞のレコード勝ちがまぐれだったかどうかは後になってわかることだが、わたしはみんなの反応が、とくに源一郎さんの反応が気にいらなかった。自分のお気に入りの馬をこけにされたのである。許せない。とにかくわたしはギャロップダイナを一生応援するぞ、と心に決めて競馬に詳しくなることに決めた。ジーワンだかなんだか知らないけれど、わたしゃやるわよ。  この日を境に、わたしは競馬オタクとなった。馬券を買うおかねはなかった。税金を払うおかねもなかったし、健康保険を払うおかねもなかった。国民年金なんてもってのほかだった。この先どうなるのだろう。ああ、きっともうすぐ家賃も払えなくなるにちがいない。不安は頂点に達していた。でもうちには十五万円のアビシニアンがいたし、おっきなテレビもあった。毎月「優駿」を買うおかねはあったし、なによりも時間はたっぷりあったのである。わたしはひたすらテレビを見続け、スダホークのほかにも見分けのつく馬をいっぱいつくった。源一郎さんとの仲はあまりよくなかったが、どこかが微妙に変化していた。それが競馬のせいであったのかなかったのか、今となってはわからない。ただ、やっぱり家賃が払えなくなってしまったのである。 [#改ページ]  競馬の国のアリス3 涙のその日ぐらし  荻窪の二つの部屋の家賃が払えなくなって、我が家はひとつに統一されることになった。予算に合う部屋を求めて中央線を西にさかのぼる。新しい部屋は国立で見つかった。ここでわたしたちは一緒に暮らし始めた。国立のマンションは広くて静かだった。一橋大学のすぐ南側で、駅前から我が家までは大学通りと呼ばれる並木道を真っ直ぐ歩いてゆけばよかった。気持ちのいい道だった。  荻窪の青梅街道の騒音と振動に慣れていた(いや、慣れることなどなかったのだが)わたしたちは、あまりの静寂に不安になるほどだった。源一郎さんは猛然と仕事を開始した。わたしの体調は相変わらずで体重も減り気味だった。荻窪のときから続いていた頭痛にずっと悩まされ、薬ばかり飲んでいつも眠かった。けれど国立の静けさはわたしにやさしかった。それにいつも誰かが家にいるというのはほんとうにうれしいことだった。国立は住みやすい街だ。できるならいまでもあの街に住みたい。わたしたちにとってこの国立は運命の街とも言える。なによりまずそこは府中競馬場に近かったのである。  府中競馬場へ行くにはまず自転車に乗り、南武線の谷保まで走っていく。南武線に乗って一駅。そこが府中本町だ。タクシーで行ったって千円そこそこである。わたしたちは狂ったように競馬場へ通い出した。家賃が払えなくなって引っ越してきたくらいだから、おかねはあんまりなかったけれど、いいかげんな家だったので、床をはいまわれば五百円玉をみつけるぐらいは簡単だった。以前のように勢い込んで朝から行くのはやめて、昼ごろテレビを見ながらホカホカ弁当を食べ、いきなり出発してメインレースの前ひとつかふたつと、メインレース、そして最終レースだけをやるというパターンに落ち着いた。  わたしたちは競馬を通して仲間になりつつあった。わたしの競馬に対する知識はかなりのものになってきていたし、個体識別の能力はあきらかにわたしのほうが上だった。レース中どの馬がどんなふうだったか、という話になるとわたしは急に饒舌になった。みんな走り方が違うということにも気がついていた。脚質や血統について質問すると、源一郎さんはなんでも教えてくれた。源一郎さんはあきれるほど競馬に詳しかった。  わたしたちは別々の財布を持って競馬場に行った。おたがい少ない資金をできるだけ大きくしようと真剣にがんばった。勝つと帰りにおいしいものが食べられたし、負けると源一郎さんはかわいそうなほどしゅんとした。だが、競馬に負けた人をなぐさめる言葉はこの世にはない。言葉がいかに無力かを思い知るのがこんなときである。  源一郎さんはせっせと仕事をしていたが、なぜかおかねが入ってこなかった。踏み倒された原稿料もあり、なかなか原稿料を払ってくれない出版社もあった。うちの親が心配して送金してくれるのが、涙が出るほどうれしく汗が出るほど恥ずかしかった。 「いまは我慢の時期だ。これが本になったらなんとかなるよ」 「それはいつのことなの」 「もうすぐだよ」  こんな会話を何度も繰り返した。わたしたちは毎日のように銀行へ行って残高照会のキーを押した。ちょっとおかねが振り込まれると、あせって買い物をした。宝くじにつぎ込んだりもした。税金や健康保険の滞納もどんどんふえていく。だが、競馬の国を知ったわたしはあまりあせらなくなった。だからって死にやしないよ。税金がなにさ。いつかみみをそろえて払ってやろうじゃないの。 「そうそう、なんとかなるよ」  源一郎さんは笑っている。今から考えるといちばん大変だったのは彼本人だったのだが、それに追い討ちをかけるようにわたしは彼を責めていたのである。いやあ、ほんとにとんでもない妻だ。とにかくわたしたちはもはやカタギではなかった。完璧にその日ぐらしの体制を完成させていたのである。  これがきわまって、ついに家賃が払えない月に遭遇してしまった。月末を過ぎても一件も入金がない。毎日銀行へ行って残高照会してみるが、三つある口座の残高は二百二円、七十七円、三百十九円のままだった。 「202・77・319だって。もう見飽きたよおこの数字」 「どうなっちゃってるのかな」 「ねえ、どうするの? パパに電話してちょっと借りようか」 「うーん」  腕組みをする源一郎さん。わたしの顔をじっと見ている。どうやらふたりとも考えていることは同じらしい。 「やってみますか」  わたしが問いかけるのを待っていたように彼の顔がぱっと明るくなった。 「やってみましょう」  わたしだって一度はこういうシチュエーションでギャンブルをやってみたかったさ。ドラマだったらさしずめサラ金に追われる中小企業の経営者ってとこかなあ。とにかくわたしたちは、なんとか三千円を家の中から捜し出し、それを持って東京競馬場へ乗り込んだのであった。切羽詰まっているはずだったけれど、妙にうきうきしていた。源一郎さんもそうだと思う。顔はきりりと引き締まり、足取りは軽く、いつものように無駄口を叩くこともなく、思わずヒューと口笛を吹きたくなるほどカッコいいギャンブラーになりきっていたのである。  この日ほど真剣にレース検討に取り組んだことはなかった。にもかかわらず、レースの内容、出走馬名などまるで記憶にない。彼は慎重にレースを選び、固くころがしていった。予想は的中していた。負ける気がぜんぜんしない、と彼は言った。神はどうやらわたしたちに味方しているらしい。最終レースの前には三千円は六万円に化けていた。それでも家賃にはまだ足りない。しかし、そんなことはもう彼の頭の中にはないようだった。  わたしは賭けに没頭している源一郎さんをぼんやり見ていた。わたしと彼とでは競馬に対する姿勢が完璧に違っていることがわかった。わたしにとって馬券とレースは別物だった。レースと個々の馬が無関係に思えることもよくあった。どうしても目がいってしまうのは、最終的には個々の馬だった。それも名前のついた個体識別できる馬。わたしは馬に対する愛着を捨てられない。たとえ賭けに勝てなくても馬が無事走ってくれれば満足だった。ときには好きな馬が勝ち、一緒に喜ぶ。所詮サラブレッドの大半は、エリートになれないまま死んでいくのだ。だったらここに出てくるその華やかな一瞬だけでもわたしは見ていたかった。  この日、最終レースでも賭けに勝った源一郎さんは家賃を払ってもなおおつりがくるほどの成果をあげた。三千円を五十倍にしたのである。彼は興奮していた。賭けに勝つことに精神を集中した結果、あきらかにハイな状態になっていた。目がキラキラ輝き、饒舌になった。競馬が面白くてしかたがない、という風な顔だった。わたしたちは追い詰められて、この極めておいしい遊びの味を知ったのだ。ギャンブルの醍醐味、それは負けられない状況で勝つことにある。  そんなわけで、昭和六十一年の秋から昭和六十二年にかけて、わたしたちは競馬場へ、立川の場外馬券場へと通い続けたのである。この間、わたしはますます馬への愛着をつのらせていき、源一郎さんはギャンブルにおける勝負根性を磨いていった。馬券をとること以外に何の報いもないというのに競馬だけはやめようとしなかった。ここまで何かにうちこんだことがあっただろうか、と思わず人生をふりかえってしまうほどうちこんだのである。普通、ギャンブルに狂う夫を止めるのが妻の役目なのだが、わたしの場合、ただあおっているだけだった。ねえねえ、競馬につれてってよお、とおねだりするのはわたしの方である。競馬には底知れぬ魅力があった。飽きるということがなかった。ダービーやオークスや有馬記念を目の前で見る、その喜びはほかの何物にも変えがたいと思われた。わたしたちは、競馬が好きだという点で完全な一致をみた。これがわたしたち夫婦の絆になってしまったのである。うーん、ちょっとまずいんじゃないだろうか。  とにかく、これほどまでに競馬とまじめに取り組んでいるのだから、そのうちこれが役にたつこともあるわよ、とわたしたちはよく話していた。これは投資なんだ。何かわかんないけど、きっとあとで使ったおかねが返ってくるよ。競馬の仕事かなんかでね。そうなったら、今まで使った分をぜーんぶ取り戻せるかもしれないわね。あーあ、一度でいいから一レースに百万円ぐらい賭けてみたいわねえ。そんな話もよく出た。その声が競馬の神様に聞こえてしまったのだろうか、運命は一レース百万円に向かって急カーブをきっていたのである。 [#改ページ]  競馬の国のアリス4 ダービーを勝ったのはだれ?  昭和六十三年はアイアンシローの金杯優勝で幕を開けた。源一郎さんがこの単勝を当て幸先の良いスタートをきったのに対し、わたしの方は大好きなアームアニエリとスーパーファントムがそろって最下位争いで、下から二着三着と大きく出遅れた。最終レースでは早くも万馬券が飛び出し、暮れの有馬記念4—4(メジロデュレン—ユーワジェームス)の興奮がふたたびよみがえる。わたしの応援するセッテディバは最下位に敗れた。  この日、関西の金杯を勝ったのは南井騎手の乗るタマモクロス。四百万下からの四連勝をどんじり強襲の派手な勝ち方で飾ったのであった。このみじめったらしい馬体の芦毛馬が、このときまだ公営笠松の英雄でしかなかったもう一頭の下品な芦毛馬と、後に世紀のマッチレースを繰り広げることになろうとは、まだ誰も夢にも思わなかった正月であった。  しかし、すでに異変は起こりつつあったのだ。最初そのきざしは思わぬ方からやって来た。一月に出た源一郎さんの最初の翻訳本『ブライト・ライツ・ビッグ・シティ』(ジェイ・マキナニー著)が売れ始めたのである。最初に頼まれてから三年間、担当の編集者Mさんはその間になんと結婚、妊娠、出産をクリアしてしまったというのだから、どれほどさぼっていたかがわかろうというものだ。ただ彼の名誉のために言っておくと、源一郎さんは仕事をするのは早いのだが、仕事にとりかかるまでにたいへんな時間がかかるタイプのひとなのである。とにかく前年の春から半年で一気に仕上げた翻訳が、思わぬ収入をわが家にもたらしたのであった。 「これで税金が払えるね」 「おう、健康保険だって国民年金だってみみをそろえて払ってやるぜ」 「ああうれしい。もう残高照会の日々におさらばできるんだね」 「そうともよ、おてんとさまはちゃんとあっしらをみてておくんなさるんだ」 およよ、と泣きくずれる直子。 「おいおい、なにを泣くことがあるんだ。真面目に仕事をしてりゃあいつかはむくわれるってことよ。おい、つらをあげなって」 「あたしゃあね、あたしゃ、あのいけすかない杉並区役所のお役人がたと金輪際かかわりあいを持たなくてもいいってことが、そりゃあもううれしくてうれしくて……」 とかなんとか言いながら、相変わらず競馬場通いを続けていたわたしたちである。というのもこの年、中山競馬場が改築工事を始め、一月の末から十一月までずうっと東京開催が続くことになっていたからだ。  二月になると、源一郎さんがずっと連載していた小説の大幅改稿がやっと終わり、三月には本になった。『優雅で感傷的な日本野球』である。そういえば国立へ引っ越すという日、源一郎さんは連載の原稿があがらず、ホテルにワープロをおともにカンヅメにされていたのだった。手伝いに来ていたわたしの母は、引っ越し屋のにいちゃんに「ほんと、男手がないとたいへんですわ」と笑いながら言った。まったく笑えない話である。ところが、この本が第一回三島由紀夫賞の候補にあがったのだった。  まあこれまで賞とはなんの縁もなく、無冠の帝王と言われていた源一郎さんであるから、候補になったというだけでも大笑いであった。聞けば賞金は百万円だという。 「百万円もらったらうれしいよねえ」 「そうだよなあ、おまけだもんねえ」 「ぱーっと使いたいねえ」 「そうだねえ」 「わたしにもちょーだいよ」 「へえへえ、奥様にもさしあげますだよ」 「でもとれるのかなあ、ミシマショウ」 「とれるんじゃない?」 「え、そうなの、おとうさん本命なの?」 「まあ、こればっかりは競馬とおんなじで、やってみないことにはねえ……」  なんでもかんでも競馬に喩えないと気がすまないというか、なんというか、ほんとうに不謹慎なわたしたちであった。  タマモクロスが阪神大賞典を勝ち五連勝を飾った三月、公営笠松から十二戦十勝二着二回の完璧な成績をひっさげてオグリキャップが中央入りした。オグリキャップはきさらぎ賞を快勝、関西の二頭の芦毛がたびたび話題にのぼり出す。当時ただただ芦毛ばかりを応援しつづけていたわたしは、テレビの画面でしか見たことのない馬たちに強くあこがれた。しかしどう見てもこの二頭は格好のいい馬ではなかった。タマモクロスの頭は小さすぎるように思われ、体つきもみすぼらしかった。オグリキャップは不良の中学三年生みたいに見えた。ただこの二頭はどちらも直線に入ると一本の線のようになって低く飛ぶように走るのだった。そして、タマモクロスはなんなく春の天皇賞を勝ったのである。  ホクトヘリオスは安田記念で四着に甘んじた。もしかしたら勝てるかも知れない、勝てなくてもニッポーテイオー、ダイナアクトレス以外の馬には負けるはずがないと信じていたわたしの前に、新しい敵ミスターボーイが出現した五月、源一郎さんが『優雅で感傷的な日本野球』で三島賞をとってしまった。オークスの二日前である。 「賞金百万円は何に使いますか?」  うちにやって来た新聞記者や雑誌記者や編集者の前で、インタビューの最後にこう質問されて、源一郎さんはにこやかにしかし即座にきっぱり答えた。 「ダービーに全部賭けます」  うっそお! 本気なのお! そう思ったのはわたしだけじゃあなかった。いきなり報道の人たちは盛り上がってしまったのである。写真週刊誌の人なんてこの地味な文学賞の取材にしらけ気味だったのが、突然見出しになる派手なセリフを源一郎さんがきっぱり吐いたもんだからそれにくらいついてしまった。 「ダービーって競馬のダービーですか?」 「そうです。そのダービーです」 「もう買う馬は決まってるんですか?」 「はい、決まっています」  ええ! なんなの、賭ける馬まで決めてるっていうの、信じられなーい。 「どの馬ですか?」 「それはヒミツです」  花束で家が埋まった。あわてて花瓶を買いに走った。目のまわるような忙しさだった。今までなんの関わりもなかった女性雑誌までが取材に来た。うちの親も親戚からのお祝いを持ってやってきた。「直子ちゃんは男を見る目がある」とみんなしきりに言っているというので、笑ってしまった。なんだかわからないがみんなとても喜んでいた。源一郎さんはどこか前とちがうように見えた。天皇賞を勝ったタマモクロスがこぎれいで上品に見えたように、源一郎さんもまるで作家みたいな顔になっていった。  ダービーを『フォーカス』が取材したいと言ってきた。 「本気なの?」 「なにが」 「ダービーに賭けちゃうの?」 「うん」 「何に賭けるの?」 「メジロアルダンの単」  そうなのだ。源一郎さんはメジロアルダンの単勝に決めていたのだ。  メジロアルダンは父アスワン、母メジロヒリュウ、女傑メジロラモーヌの弟である。デビューが遅く三月になってからだったが、未出走、山藤賞と連勝し、NHK杯でマイネルグラウベンの二着に入ってダービー出走権を得ていた。源一郎さんの好きな良血で上品な馬である。  ダービーの日、取材のために実況席と審判席の間に座らされたわたしたちは、いつもと勝手がちがうのでとまどっていた。とにかく実況席が隣なので、大声を出してはいけないというのだ。じゃあどうやって応援するのよ。去年なんてぴょんぴょん飛びながらメリーメリーって大声で連呼したのよ、まったく。あれこれ指図されて、わたしは機嫌が悪かった。大好きなカシママイテーが死んでしまってダービーに出られなかったからかも知れない。なんでこんなことに賞金を使っちゃうんだろう、このヒトいったい何考えてるのよ、そんな意地悪な気持ちもあったのかも知れない。むらさき賞でダイナバトラーが負け、ダービージョッキーズステークスでサボイリーターがブービーになったのも手伝って、イライラは最高潮に達していた。  財布の中は、約束どおり源一郎さんがくれた馬券代でふくらんでいた。使い慣れない金額だったけど、思い切って買うことにした。ほとんどのおかねで青葉賞を勝ったガクエンツービートの単勝を買い、残りでへんな馬モガミファニーの複勝をそれに加えた。ガクエンツービートはハードツービートの子だから距離が伸びていいと思ったのだった。 「ねえ、何買ったの」 「決まってるじゃない、アルダンだよ」 「単勝?」 「うん、単勝」  源一郎さんの顔はとっても緊張していた。ほんとにそんな金額を賭けると思っていなかったわたしはあせった。ほんとに賭けたみたいだったから。いったいいくら賭けたのだろう。一番人気はサッカーボーイの五・八倍、六・四倍でヤエノムテキがそれを追っていた。メジロアルダンは六番人気で十・九倍。当たったら一千万儲かる。  用意してもらった双眼鏡で輪乗りをしている馬の姿を追った。ダービーは二千四百メートル。東京競馬場だと観客の前からスタートすることになる。馬たちは晴れ舞台に備えてぴかぴかに磨きあげられていた。ほどなくスタート地点に向かって馬たちが一頭、二頭と移動しだした。その先頭にたって悠々と歩いてくる馬がわたしの目に飛び込んできた。とても美しい歩き方だった。あの馬が勝つ気がする。なんともいえない胸騒ぎに全身が固くなった。どんどんスタート地点に近づいてくるその馬はメジロアルダンではない。ガクエンツービートでもモガミファニーでもなかった。わたしはあわてて出馬表を確かめた。ピンクの勝負服、帽子は黒、ゼッケンは五番。それはサクラチヨノオーだったのだ。  取材が続いていた。馬券を買い足しに行ってくるとは言えなかった。源一郎さんはカメラにひきつった笑顔を向けていた。 「チヨが来るかも知れない」 「なに?」 「チヨだよ」 「買ったの?」 「買ってない」 「そりゃあ来るかも知れない」  顔を見合わせて笑えなかった。締切のベルが鳴り、スターターが台に上がった。運命のときがやってきたのだ。  アドバンスモアが逃げ、二番手にディクターランド、その後ろにサクラチヨノオーがいた。メジロアルダンは中団より前、六、七番手につけていた。ガクエンツービートは後方、サッカーボーイはもっと後ろである。アルダンとチヨノオーの外にはヤエノムテキの派手な馬体がある。三コーナーでアルダンとチヨノオーが近くなった。息がつまって苦しい。前の馬が遅れて入れ替わりにギャラントリーダー、ハワイアンコーラルが前に出て直線にかかる。四コーナーをチヨノオーとアルダンが一緒にまわってきた。直線でチヨノオーが一気に先頭に立つ。もうめまいがしそう。その内で同時に伸びてきたアルダンがぐーっと差を詰めて並んだと思ったらチヨノオーを抜いた。勝てる。そう思ったのも束の間、ばててさがっていくはずのチヨノオーがまた詰め寄ってきて二頭の叩き合いが始まった。外からコクサイトリプルがすごい脚でやって来ていた。アルダンがんばれ、岡部がんばれ。声を出さずに心で叫び続ける。ほとんど同時にゴールイン。 「チヨだよ」  わたしはそう言いながら源一郎さんの顔を見た。源一郎さんは真っ青で目のまわりがちりちりしていた。アルダンが負けた。源一郎さんを一目見ればわかることだった。  ガクエンツービートは九着。秋になって菊花賞ではスーパークリークの二着に入ったことを考えれば、ちょっと早い買い物だったのかなあと思う。大金をすったのだが、わたしたちは一晩しょんぼりしただけで立ち直った。どうせおまけの賞金だったんだ。一度やってみたかったんだよ。源一郎さんはきっとそんなふうに思っていたとおもう。それにしてもほんとに心臓が止まりそうだった。わたしがそう言うと、源一郎さんはぼくもそうだったと言って笑った。今までの人生、こんなに緊張したことはない。  その週、電車の中吊り広告にわたしたちの写真が出た。笑っているのは、ダービーの前に撮った写真だからだ。源一郎さんは競馬好きの文化人にされてしまった。取材に来る人はみんな競馬の話をした。競馬の仕事もどんどんやってきた。わたしが競馬の国に足を踏み入れてから四年半、源一郎さんはついにサンケイスポーツで予想コラムを始めることになった、といばって言った。それをきいて、三島賞をもらったときよりえらいと思った。競馬ブームは火がついたばかりだったが、わたしたちの人生がなんとなくちがう展開を見せてきたことは明らかだった。それも競馬を軸として。ま、それもいいか。競馬の国のすみごこちも悪くはなさそうだ。わたしと彼だってこんなになかよく遊んでる。そんなふうに思える自分が不思議でもあった。  わたしたちの運命を変えたダービー、そのレースをビデオで見るたびに、そこにはいないオグリキャップの姿がいつも浮かんでくる。もしオグリキャップが出走していたら、わたしたちはきっとオグリキャップに賭けていただろう。そしてもしオグリキャップが勝っていたら……。いろんな馬と人の運命を競馬が変えていく、その現実のきびしさとたやすさがいきなりわかってきてこわくなる。でもたとえ別の道を歩かされたとしても、きっと行き着く先は競馬の国だったにちがいない。きっぱりそう言いきれるわたしなのであった。 [#改ページ]  張りがあって落ち着いているのか、太めでやる気がないのか、それが問題だ  パドックってほんと変なところだ。好きな馬がいるときは、あんなに近くで見れるところはほかにないのですごくうれしい。でも、そうしょっちゅう好きな馬が出てるわけでもないから、そんなときは漠然と馬をながめてしまう。ほとんど集中力というものがない。わたしなんて知らない馬が続くと顔ばっかり見比べてしまうのだけれど、いったいみんな何を見てるのだろう。そう思ってまわりを見回すと、おじさんたちの大半は馬なんて見ていない。横を見ると源一郎さんも馬なんて見ていない。見ているのは手元の新聞。なんてこったい。ときどき顔を上げて眺めているのはおうまさんじゃなくてオッズ板。「パドックのオッズ板は競馬のすべてなのさ」と源一郎さんはのたまう。そういえば馬が一頭もいないパドックのまわりにも人はいっぱいいる。別に次の馬が出てくるのを待っているわけでもないようだ。きっとレースも見ないんだろうなあ。ほんとに不思議。  わたしはほとんどの場合パドックってあんまり好きじゃない。特に雨が降っていたりすると、もういいから屋根のあるところで休んでなよ、と言いたくなる。馬もけっこうばかばかしいなあって顔をしているから、気の毒になる。でもGIレースとかだとやっぱりパドックは楽しい。有名な馬が次から次から出てくるし、自分の目で馬の出来を確かめたいなんて気持ちもある。ところが、馬体に張りがあって落ち着いている、これはいいやと思って馬券を買うと、ぜーんぜん走らなかったりしてがっかりすることがある。源一郎さんにそれを言うと「太めでやる気がなかったんじゃないの?」と答えが返ってくる。ああパドックってむずかしい。「だからぼくはパドックで馬なんて見ないんだよ」。  そうだ、平成元年の菊花賞もそうだった。パドックでぴっかぴかに輝くウィナーズサークルがのっしのっしとすごく落ち着きはらって歩くのを見て、わたしと源一郎さんはこれっきゃない! と単勝馬券をしこたま買ったのであった。「馬体に張りがあって落ち着いていた」んだもの。ところがそうではなかった。ウィナーズサークルは「太めでやる気がなかった」らしく、負けちゃったのである。ねえ、どうしたらその違いがわかるの?  ほかにも誰かに教えてもらいたいことがある。たとえば、休養明けの格上の馬と、順調に使われて連勝してきた上がり馬とが春や秋の緒戦でぶつかるときは、どっちが信頼できるのか。格を信じるのか調子を信じるのか、という問題だ。これもとってもわからない。新潟記念でサファリオリーブが勝つところを目の前で見てから格に対する不信感がつのっていたわたしであるが、オールカマーでラケットボールが勝ってメジロアルダンが敗れ去ったのを見て、もう何を信じたらよいのかほとんどわからなくなってしまったのである。  もっと具体的な問題もある。それは金杯。ああ、誰かわたしに金杯における馬の見方と馬券の買い方を教えてくれないだろうか。はっきりいってわたしは正月のこのおめでたい寿レース金杯を当てたことがないのです。もうこれはただの自慢である。やっぱり着物を着ていかないのがいけないのだろうか。だって寒いんだもの。それともお馬をおがまないのがいけないのだろうか。一年で一番気合が入っているレースなのに、どうしても当たらない。この入れこみが解消しないかぎりダメなのかしら。わたしがもっと大人になって本格化しなくちゃダメなのね、きっと。  源一郎さんがコラムに「ワイフは×××の単勝で勝負していた」とか「ワイフはしっかり〇—〇を持っていたのである」とか書くもんだから、奥さんの馬券がよく当たるらしいとの根も葉もない噂が飛び交い、あげくに「馬券術を披露してくれませんか」なんて聞かれることがときどきあって、ほんとに困ってしまう。けれど、いちいちひとに説明するのもなんだし、ここで一挙に公開してしまおうと思う。わたしの馬券術にあなたはついてこれるかな? ㈰これといった馬が見当たらない場合、あるいはあなたがぜーんぜん当たらないのでしょんぼりしている場合。  まずJRAの出している「レーシングプログラム」を見る。最初から新聞に頼るのはあまりよくない。あのね、「レーシングプログラム」のいいところは、お馬さんの誕生日が載ってるところなの。それで、まず誕生日を見る。その日誕生日の馬がいたら、絶対に単・複を買う。これは当たる当たらないではなくって、単なる礼儀なんだからね。忘れちゃだめなんです。自分の誕生日と同じ馬も買う方がいい。だって楽しいでしょ。わたしは二月二十七日だから、サクラサエズリとメインキャスターは必ず買います。  つぎに毛色を見る。まず芦毛の数を数え、つぎに栗毛の数を数え、青鹿毛の数を数える。同じ毛色の馬が二頭しかいなかったらもう決まり。芦毛—芦毛とか栗毛—栗毛とか。簡単でしょ。このとき忘れてならないのは栃栗毛の複勝。これは競馬の常識です。  競馬にはもうひとつ常識がある。それは根本騎手の乗る馬の複勝を買うこと。根本を馬鹿にする者はかならず根本に泣くのである。  ところがこうやって買えるレースっていうのは少ない。そこで初めて予想紙の登場となる。予想紙で見るのは距離の適性。それとここ最近の成績。距離の適性ってほんと大事だと思う。それで適性がないのははずして残りの馬について成績をみる。成績はいいと悪いに分ける。いいは三着まで、悪いは四着以下。たとえば、562673の成績できてる馬がいるとすると、それは悪い—悪い—いい—悪い—悪い—いいだから今回はきっと悪い。数列みたいなものである。反対にいい—悪い—悪い—いい—悪い—悪いときてたら、今回はいいんじゃないかな、というわけ。いい—いい—いい—いい—いい—いいだったらどうするか。そんな馬がこんなレースに出ているわけがない。たぶんそれはオグリキャップかホクトボナンザだよ。  それでもよくわからないときは、次のレースで同じことをやってみる。次のレースの予想も同時にできてすごく得だ。わたしなんて競馬場で居眠りばかりしているからレースを間違えることなんてしょっちゅうある。だってみんな八枠だし、オッズは見ないしね。でも、当たるもんだよ。  あとは馬の顔を見ます。本馬場入場の様子を見るのがわたしは好きです。気に入ったらそれで決まり。気にいらないときはその馬をはずすだけ。一頭も残らないときは買いません。原則としてオッズは見ません。  ここで終わりではない。大事なのはこの後。たとえばこの方法であなたが2—6に決めたとすると、必ず1—7か3—5を買い足すのだ。わたしはこのやり方で、四連勝したことがある。 ㈪好きな馬が出ている場合。  簡単です。好きな馬の単・複を買う。これをやめては絶対にいけない。もしあなたが人気馬の誘惑に負けたり周囲の雰囲気に引きずられたりして好きな馬の馬券を買わなかったら、その馬はきっと来る。そしてそのときのあなたを慰められる人は誰もいないのだ。  一番困るのは好きな馬がいっぱい出ているときだ。わたしの場合Gレースになると応援馬券だけでもうたいへん。こんなときは仲良し馬券をつくり出す。この馬とこの馬は仲がよさそうとか、この馬とこの馬が一緒に走ってきたらすごくうれしいとか、鼻づらの白い馬ばっかりで固めてみるとか、つまり、ゴール前をイメージしてみてこうなったらいいなあという馬券を買うのだ。ヤエノムテキがバンブーメモリーと並んで走ってきたら、白い鼻と白いハイソックスがとっても派手でかわいいじゃない。  いかがですか? いかにわたしが馬券のあたりはずれにこだわってないかということがおわかりいただけたんじゃないかしら。というわけで、わたしは馬券を決めるのがとってもすばやい。おかげでレースとレースの間の時間をもてあましている。ヒマでヒマでしかたがない。それでもっていつもは昼すぎまで寝ているわたしが、日曜日だけ朝から起きてるものだから眠い。悪いと思いながらも椅子に座って寝てしまうのである。うーん、とっても恥ずかしい。源一郎さんなんてほんと真剣だし、わたしの態度が悪すぎるというのである。  一応わたしだって昼寝をするつもりで競馬場へ行ってるわけではないので、必ず文庫本を持っていき寝てしまうまではその本を読んでいるのである。競馬場へ持っていく本はSFである。ジョナサンへ行くときもサンメリーへ行くときもデニーズへ行くときもSFを持っていく。なんてことはない、わたしはSFしか読まないのだ。それも外国のSFである。もうこれにはおうまの名前になってそうなカタカナの単語がいーっぱい出てくる。眠い目をこすりながら文庫本を読んでいると、カタカナの単語が馬の名前に見えてきてどーっと睡魔に襲われてしまう。しかたなく立って歩きまわりあちこちのテレビでパドックの馬を見てまわることにする。天気のいいときはパドックまで降りていく。わたしが馬の顔をけっこう知っていたりするのはこのせいらしい。みんなが毛づやや発汗量や気合いを見ているとき、わたしはひたすら顔やしぐさを見続ける。馬は顔や。顔が命や。とわたしはいつも言っているのである。  馬の顔やしぐさを見るのはとても面白い。ヒトの顔がみなそれぞれ違うように、馬の顔もみんな違う。安部譲二さんが以前、オープン馬の顔をみーんな知っているとおっしゃっていたのを聞いた時、ああわたしも早くそうなりたいなあとすごく思ったものだ。でも馬の顔っていうのは覚えにくい。特に鹿毛馬で星がなかったりするとどう覚えていいものやらてんでわからない。名前と顔が一致しにくい馬もいる。カイラスアモンなんてすごくシャープでしょうゆ顔かと思いきや、実際はまあるい目のやさしい肝っ玉かあさんみたいな顔だ。なかなかレースに出てこない馬もいるし、出てきてもメンコをつけていたりすると素顔を見ることはできない。ようやく覚えたころには引退してしまう。  パドックでのしぐさというのも見ているととっても面白い。なかでも、厩務員さんに顔をすりすりして甘えてる馬がかわいくて好きだ。マツファニーがそうだった。抱きしめたくなる。でも、厩務員さんはぜーんぜん笑わないで押しつけてきた顔を片手でぐいっと押し戻すのだ。ちゃんとしなさい、と言っているみたい。首をぐいっと下に曲げて二人引き、気合いの入った様子で歩いているうち気合いが入りすぎて前足がとっとっとっとっと駆け足になってしまう馬も大好き。それとは反対にパドックにむらがる人達をきょろきょろながめまわして愛想をふりまく馬もいる。ながめまわしたとたんおびえてうつむいてしまう馬もいる。おびえてうつむいている馬の前でいきなりうんちをボロボロ落とす馬がいたりして最高である。  ちょっとこわいのはずっとムニャムニャ口を動かしている馬。あれはどういうつもりだろう。ぐちっぽい馬なのかしら。もっともサクラトモエオーみたいに、走っている間じゅう口をあけている馬だっているけれどね。シッポだって黙ってはいない。ぱったんぱったん振りまわしているのがいれば、ちょんつっつちょんつっつで上下に振るのもいる。とっても機嫌がよさそうでこっちまで楽しくなる。  ゴールデンスパナという馬は、機嫌がいいと前足をまっすぐ水平に振り上げてオイッチニ、オイッチニ、とぽっくりぽっくり歩くので有名だった。鼓笛隊の行進みたいである。この馬は四歳抽選馬特別を勝った栗毛のきれいな馬で、若葉賞三着のあと脚部不安で九カ月休養。五歳になって九百万下のレースでそこそこ走っていたのだが、体調をくずし、六カ月半の温泉治療を終えて帰ってきてからはぱっとしない成績が続いていた。ゴールデンスパナがパドックでオイッチニ、オイッチニをやり出すとパドック解説の人も楽しそうに「今日も機嫌がいいみたいですねえ」と言い、テレビはゴールデンスパナを写しまくるのである。近くで見ているとほんとに面白くて、わたしはこの馬が大好きだった。  去年の夏、六歳で地方競馬に移っていったけれど、公営にはパドックのない競馬場もあるという。どこに行ったのかとても心配だ。どうかゴールデンスパナからパドックをとりあげないでやってほしい。パドックの似合う馬など、そういるものではないのだ。 [#改ページ]  ホーおじさんをさがせ! 「ホーおじさんをさがせ!」  これは、わたしたちが国立に住み、府中の東京競馬場に通いつづけていたころのふたりの合い言葉である。それがまたこのごろささやかれ始めているらしい。それもわたしたちだけではなく、多くの競馬ファンの間で。  じつは「ホーおじさん」というのは高橋家における別名で、和名は「イイゾおじさん」というのだそうである。「イイゾおじさん」という名称は、ウイナーズサークルで勝ち馬と勝利騎手におくられる「イイゾ!」という掛け声からきている。高橋家のふたりは、この「イイゾ!」がどうしても聞きとれず「ホー!」だと思い込んでしまったため、別名が発生したらしい。  特別レースやメインレースが終わったあと、勝った馬を見るためにいつもウイナーズサークルへ駆けつけていたわたしたちは、そこで必ず「ホー!」という掛け声がかかるのを聞いた。そのたびにわたしは源一郎さんと顔を見合わせ、あわててまわりをさがすのだが、その声の主がだれであるか判明しなかった。そのタイミングは絶妙で、よくとおる声は他のだれにも真似できるものではない。明らかにひとりの男性が、いつも掛け声をかけているのであった。 「またホー! って言ったよ」 「うん」 「だれが言ってるんだろう」 「わかんないねえ」 「あのへんから聞こえたよねえ」 「そお? ぼくはこのへんから聞こえたけど」 「ねえ、ホー! ってなんのこと?」 「さあ、なんだろね」  我が家では「ホー!」という掛け声が大流行した。「フジゴールドレッグ」(「フジ」を早口に言いちょっと間をおいて「ゴールドレッグ」とゆっくり言ってその発音をたのしむ)とか「シンボリカノープする」(シンボリカノープみたいに三角になってぽーっとすること)とかいう言葉も流行ったけれど、「ホーおじさん」にはかなわない。「ぜったいにホーおじさんを見つける!」とわたしは息巻いた。そんなわけで「ホーおじさんをさがせ!」が合い言葉になったのである。  それからしばらくして「ホーおじさん」は簡単に見つかった。ウイナーズサークルで馬を見るのを我慢し、観客をじろじろながめまわしていると、ひとり真面目に緊張している人が目に入ったのである。なんていうか、出番を待っている役者さんみたいに。 「見つけた」 「なにを?」 「ホーおじさん」 「どれどれどのヒト?」 「あのおじさん」  わたしたちはこっそり「ホーおじさん」の背後に回った。「ホーおじさん」は四十代だと思われる。顔は丸い。眉毛が濃くひっつき気味である。目はちょっと奥まっていて、ほりの深い顔といえなくもなく、唇が赤い。ベージュのシングルトップみたいなジャンパーを着ている。ひとりである。片足を前に出して「ホー!」と言ってから、ゆっくりぱんぱんぱんと十回ぐらい拍手をする。言うときも拍手をしているときも言い終わったあともしぶい表情をして、眉間にしわが寄っている。  わたしたちは興奮して顔を見合わせ肘をつっつきあってうふふふ笑いつづけた。 「ホー! ってなんのことかなあ」 「聞いてみれば」 「やだあ、恥ずかしい」  この日からわたしたちはウイナーズサークルではかならず「ホーおじさん」の近くにいくことにした。わたしはその絶妙のタイミングをマスターし、初代「ホーおばさん」になりたいと思ったが、源一郎さんは賛成しなかった。しかたがなく「ホーおじさん」と一緒に小さな声で「ホー!」と言うだけにとどめておいた。  その「ホー!」が「ホー!」ではなく「イイゾ!」だと気がついたときはびっくりした。「ホーおじさん」がちまたでは「イイゾおじさん」と呼ばれていることもわかってきた。「ホーおじさん」は有名な人だったのだ。  しかし爆発的な競馬ブームの中で「ホーおじさん」は姿をくらましてしまった。どこに行ったのだろう。「ホーおじさん」がいなくなったことを知っている人は多い。その多くの人が「ホーおじさんはアイソがつきた」説を主張している。ばかばかしいほどうるさいスタンドの若い観客にアイソがつきたということだ。たぶんそうだろうと源一郎さんも分析する。もしかしたら病気かも知れないじゃない、とわたしが主張すると黙って笑っている。「もう彼が盛り上げなくてもじゅうぶん盛り上がっているからね」 「ホーおじさん」のほかにも競馬場にはいろんな面白いおじさんがいる。たとえばわたしが知っているのは府中の「バスケットおじさん」。 「バスケットおじさん」は東京競馬場の四コーナー付近に出現する。もちろん腕にバスケットを持っているのだ。「バスケットおじさん」はバスケットをとると、その辺のおじさんと区別がつかないくらい普通のおじさんだが、そういうおじさんがピクニックにおんなのこが持っていくような箱型のバスケットを抱えているというのは相当目立つものである。わたしは「バスケットおじさん」を見つけた瞬間から、そのバスケットの中身が知りたくて知りたくてしかたがなかった。 「なにが入ってるんだろうか」 「さあねえ」 「お弁当かなあ」 「聞いてくれば」 てなぐあいで、源一郎さんはまるで興味がなさそうだった。  ある日、「バスケットおじさん」のバスケットのふたが開いているのに気がついた。わたしはどきどきしてさりげなく「バスケットおじさん」に近づいていった。さて、バスケットの中にはなにが入っていたでありましょう。知りたいひとは、府中に行って「バスケットおじさん」をさがしましょう。とにかく中身はわたしがにこにこして喜ぶようなものだったのである。  ところで「するめおじさん」のことは意外と知られていないようだ。「するめおじさん」はやはり府中のJR府中本町方面の渡り廊下から入って一番最初の投票所の近くに出現する。このおじさんはけっこう年寄りで左手にいつもするめを持っている。するめを持ったまま窓口に並ぶので、付近の人はするめの匂いをずっとかいでいなくてはならない。しかし「するめおじさん」の特徴はするめではない。馬券である。「するめおじさん」はするめ以外にはなにも手にしていない。新聞を持っていない。そしてするめを食べながら列に並び、自分の番がくると遠い目をして定まらぬ方向を見据えながらこんなふうに言うのだ。 「1—5四百円、それからー(ここでちょっと間があく)2—8四百円、それからー(またここで間があく)そうだなあ4—6二百円」  どうも「するめおじさん」はその場で思いついた数字を言っているだけのようなのだ。それが証拠に彼はそのあたりから動かないし、もちろんパドックなんて見に行かないし、レースも見ていないようなかんじがする。これは究極の競馬である。  わたしたちの馬券まで狂わせたのは「あついぜおじさん」だろう。とにかく「あついぜおじさん」のそばにいるとおかしくておかしくて、ぜんぜん真面目に考えられなくなっちゃうのである。この「あついぜおじさん」の特徴は、携帯電話を持っていることにある。どうも「あついぜおじさん」は競馬場に来て電話投票をしているらしいが、確かなことはわからない。とにかく、どこかしれないあやしいところへ電話するのである。レースが始まるまではほんとうにいるのかいないのかわからないほど静かなのだが、レースが終わるなり「ちくしょう、あついぜ!」と叫ぶのだ。そのあと説明が入る。「なにが重が下手だ、走ってるじゃないか、うそばっかり書きやがって、ちくしょう、あついぜ!」。そしてそのあと何度も「ちくしょう、あついぜ!」と叫ぶと、急に静かになって次のレースの検討に入るのである。「あついぜおじさん」の存在の根拠は「馬券がはずれる」ことにあるのであって、わたしたちは一日このひとの隣に座らされて不幸をうつされてしまった。指定席のみなさん、注意しましょうね。  もうひとり、新宿ウインズ(場外馬券売り場)の「カンコーヒーおばさん」を紹介したい。土曜日、ショッピングのついでに新宿ウインズに行かされるわたしは、いつもそこで「カンコーヒーおばさん」を見る。「カンコーヒーおばさん」はひとりなのだが、いっぱいポケットのついた服を着ていて、ポケットの中にカンコーヒーを何本も用意しているのである。それでもって顔みしりの客が来ると、夏だったら「あついねえ」冬だったら「寒いねえ」と言いながら、ポケットからカンコーヒーを出してふるまうのである。なにがすごいと言って、このおばさんの顔みしりのメンバーがすごい。もちろん同じ年頃のおばさんもいるが、おじいさんやおじさんのほか、すごく若いおにいちゃんまで。いったい最初はどうやって声をかけたのだろうか。それにわたしは「カンコーヒーおばさん」が窓口に並んでいるところを見たことがないが、おばさんもやはり馬券を買っているのだろうか。うーん、謎の人物である。 「ホーおじさん、どうか競馬場に戻ってきてください」  天皇賞の予想番組で、源一郎さんはテレビを通じて「ホーおじさん」に呼び掛けた。みんなが「ホーおじさん」に戻ってきてほしいとあちこちで発言した。しかし高井克敏さんは優駿増刊号で、イイゾおじさんが「幻の競馬場」に行ってしまったという噂を伝えた。  そしてジャパンカップの日、ぼんやりと七レースの勝ち馬チョウカイエースに乗った岡部騎手がウイナーズサークルに立っているのを見ていたわたしは、みおぼえのある後ろ姿を二階の来賓席から目にした。 「ホーおじさんだ」  やはりそうだった。表彰が始まると絶妙のタイミングで「ホー!」と掛け声が高々と響いた。 「ホーおじさんがいるよ」  わたしは笑いながら源一郎さんに教えた。 「どこどこ?」 「ほらほら、あそこだよ」 「ホーおじさん」の頭はいくらか薄くなったかもしれない。ベージュのジャンパーを着て、後ろからでも眉間にしわが寄っているのがわかった。「ホーおじさん」は8レースのインターナショナルジョッキーズ2の表彰にも、声を掛けた。「ホーおじさん」は戻ってきたのだ。よかった、よかった。  ところで、ひとつだけ「ホーおじさん」に聞いてみたいことがある。あなたはあの「ナカノコール」に参加したんですか? [#改ページ]  罪の快楽  空前の競馬ブームである。とにかく競馬場はいつもいつも明治神宮の初もうでみたいに大混雑しているのだ。ただ窓口で馬券を買うだけでももう大変なものである。短気な人ならすぐにいやになってしまうにちがいない。にもかかわらず、毎週毎週十万もの人が競馬場をめざしてやって来る。  人はなぜ競馬に熱中するのか。  亡くなった寺山修司さんの『馬敗れて草原あり』のなかのこの一行が、わたしのこころに渦をまく。ほんとにそうだ。とくに雨のふる薄暗い日曜の朝、ウイークデイならぜったいに目を覚ますはずのない源一郎さんが、目覚まし時計のベルでいそいそと起き出し、いつもならなかなかたどりつかない洗面所に十秒でたどりつき、十五分で身仕度を終えてわたしが用意するのを待っている姿を見たとき、ああ、なぜ人はこんなにも競馬に熱中できるのだろうかとしみじみ思うのである。  十人の人がいれば十人がちがう答を用意するだろう。千人の人に聞けば千通りの答が返ってくるだろう。一万人の人が一万通りの答を用意して質問を待っている。そしてだれもがこう前置きするはずだ。「人のことはわからないけれど、わたしの場合……」。そしてたぶんこれこそが答なのだろう。人はなぜ競馬に熱中するのか、それはただ「わたしの場合」だけを考えることが許されているからである。  馬券を買う人だけではなく、騎手や調教師、競馬記者や予想屋、馬主や生産者、それらすべてのひとが競馬における「わたしの場合」を押し進める。完成された競馬というものがまだどこにあるのかわからないからなのだろうか。何が正しく何が間違いなのか、まだ誰も知らないのだから。それは、まるで人が自分の人生しか生きることができないことととてもよく似ている。  競馬をスポーツだとするむきもあるようだが、少なくともわたしたちにとって競馬はスポーツではない。馬に乗る側にとってはスポーツなのだろうが、観客にとってはギャンブルだ。ギャンブルの場において人の幸せを願う奴はいない。極論すれば、みな人の不幸を願っているのだ。人の不幸の上に成り立つ自分の勝ち、ギャンブルの快楽はここにある。一対一のギャンブルなら他人の不幸に立ち会わなくてはならないが、何十万もの人が参加するゲームにおいてはその不幸なシーンはカットされてしまう。ギャンブルに勝った者は、無意識のうちに他人を敗者の不幸に陥れた罪を背負いながらも、そのことに気づかず勝ちに酔いしれる。  ところで競馬について考えるとき、わたしたちはサラブレッドの運命や牧場主の人生にまったく触れずにいることはできない。競走馬はある日突然パドックにふらりとやって来るわけではないのだ。そうしてレースに出てきた馬の生産や調教に関わるさまざまなドラマを知れば知るほど負け続ける馬のつらさに心を痛め、どの馬にも勝たせてあげたいとさえ思ったりする。それが普通の人間というものだ。ところがまた人はその涙にくもる悲しいドラマを、あるいは笑いのとまらないようなしあわせのドラマを、競馬にまつわる物語として楽しむことさえ追い求める。ときには他人の不幸がどれほど感動を与えてくれるかをわたしたちは知っている。競馬好きにとって、競馬悲話ほど人の胸を打つものがほかにあるだろうか。  たとえばひとつのレースにおいて、さまざまな人がさまざまな賭けにうって出る。ある人は借金に追われなけなしの金を穴馬にたくす。ある人はこのレースを当てたら恋人に結婚を申し込む決意をする。ある人はさらに大きな賭けに出る前の小手調べをしてみる。ある人は初勝利をものにしようとする。ある人は最後の騎乗をつとめあげる。ある人は負けたら死ぬつもりでいる。ある人はもう一度勝てば牧場を続けようと心に誓う。ある人は百円を一万円にしたい。ある人は五百万を五千万にしたい。そして誰もかれもが賭けに勝ちたい。  そんなとき、わたしたちは馬の運命にも牧場主の人生にも目をつぶる。人の不幸を忘れてしまう。わたしたちは急になりふりかまわなくなり、賭けに没頭する。三分後、レースが終わり世界は勝者と敗者にわかれる。そしてふいに我にかえるのだ。  さっきまでオグリキャップにどうしても勝ってほしいと祈るようにぬいぐるみを抱いていた女が、レースが終わると4—4(ヤエノムテキ—メジロアルダン)の馬券を手に浮かれている。このようなおそまつな純情を競馬は許すのである。誰も自分に首尾一貫した思想を強制してはこない。馬のことばかり考えて生きていくこともできるし、馬券のことばかりを考えることもできる。語呂合わせだけに生きることもできれば、血統研究だけにのめりこむこともできる。騎手のことだけを考えることもできれば、情報通になることにやっきになることもできる。それぞれに楽しめる。その場その場で矛盾する多面的な自分を使いわけ、さまざまな楽しみを複数味わうことも可能だ。好きなところだけに目を向け、おいしいところだけをつまんでみる。この選択的娯楽性が競馬の魅力のひとつであることはまちがいない。しかしそれぞれに楽しいとはなんという孤独な娯楽だろう。  ルグロリューが勝ったジャパンカップの日だったから、昭和六十二年のことだ。昼休みをはさんで八千円台の好配当が続けて出た。競馬は初めてだというわたしの妹を連れて、朝早くからゴール前の自由席に陣取っていたわたしたちのすぐ後ろで、興奮した口調でしゃべり続ける男がいた。五レースは三歳四百万下のレースで七頭立て。本命モガミファニーと対抗リアルボールドがそろって負け、岡部の乗るレイトンガールが圧勝、二着にしんがり人気のファストマーチが入って1—2は八千二百六十円。五レースをその男がとったことはまわりの人ならみんな知っている。当たった瞬間から昼休みのあいだじゅう「なんだかくる気がしたんだよ」というたぐいのセリフを大声でわめきちらしていたからだ。数人の友人らしい男たちは、最初「いやあ、すごいねえ」などとはやしたてていたが、友好的な雰囲気はものの五分も続いただろうか。  男の言いまわしが「なんだかくる気がしたんだよ」から「やっぱり来ると思った」を経て「これしかないよな」に変わるころには、まわりの人はただ不機嫌そうに黙ったまま弁当を食べ続けているのであった。その光景がおかしくてくすくす笑っていたわたしたちも、あまりに険悪なムードに耐えきれなくなってきた。妹などは「だいじょうぶかなあ、喧嘩になったりしないかなあ」と恐れている。まあ次のレースが始まればなんてことはないさ、なんて源一郎さんは平気そうだったがわたしはなんだか不愉快だった。  六レースでは岡部のレイトンボーイが一番人気に押された。前のレースでやはり岡部のレイトンガールが勝っているのだから、ムード的にはレイトンボーイが来そうである。しかし、好配当が出たあとのレースというのはみな、好配当に走りがちだ。とれなかった者でさえそうなのだから、うしろのうるさい男がまた万馬券狙いをしているのはあきらかだった。買ってきた馬券をうれしそうに見せびらかしている。友人たちが無視しているのにも気がつかないらしい。  そうは問屋がおろすもんか、とみんなが思っていたのもつかのま、ブービー人気、単勝五千二百七十円のハグロオーザがレイトンボーイに勝ち、6—7はまたまた八千七百三十円の好配当に終わった。ジーガーゲルマンとフジゴールドレッグに賭けていたわたしはかすりもしない。それなのに、その馬券をまたもうしろのうるさい男がとったのである。どんなことになったかは想像がつくだろう。男はおおはしゃぎで自慢しまくる。まわりの人はしらけまくる。わたしたちまでしらけて不機嫌になってきたのだった。  みんな腹をたてていた。だれも口をきこうとしない。だいたいその男以外はだれも当たっていなかったのだ。ひとの幸運を喜ぶ余裕なんてあるはずがない。それどころか心の片隅では、その男が五レースでとった金を六レースですってしまえばいいと思っていたにちがいない。なのにすってしまったのはこっちの方で、悪いのはだれかというと、もう騎手でも馬でもなくその男だということになってしまっている。こうなってくると、数の多い敗者の方がなぜか正しい立場にたっているような気がする。八十倍を続けて当てた男は、あきらかによくないのであって、なんとか正しい道に戻してあげなくてはならない。だれも口には出さないが、断然そういうムードである。  まわりの人間全員が、その幸運な男に「全部すっちゃえ」と念じている。自分の勝負もそぞろである。念じたせいだかどうだか、七、八、九レースと十倍台の順当な配当が続き男はだんだん静かになっていった。静かというかなんというか、見ていて気の毒なほど消沈してきたのだ。確実にすりつづけており、元も子もなくすのも時間の問題になってきたようだ。わたしたちはようやく乱されていた自分のペースをとり戻していた。  メインレースはジャパンカップ。わたしは妹とふたり、牝馬ダイナアクトレスの単・複で勝負することに決めていた。距離が長いと源一郎さんは言ったがそんなことはおかまいなしだった。早々と馬券を買い、本馬場に入場してきた馬を近くまで見に行った。わたしたちはアメリカのサウスジェットがすっかり気に入って馬券を買い足しに行こうとしたが、とにかく人がいっぱいでもはや窓口に行くことは不可能だと言われ、しかたなくあきらめた。後ろを向いたとき、例の男のうつむく姿が見えた。もう何の怒りもわかない。それでいいのよ、それが正しい道だ。険悪なムードだった男の友人たちにも余裕が戻り、なごやかな会話が続いていた。そこへ男が帰ってきた。  返し馬をぼんやり見ていると妹が肘をつつく。顔を寄せてきて「うしろ」と囁いた。うしろから話し声が聞こえる。 「これで外れたらパーだよ」 「あれあれ、あんなにもうかってたのに?」 「みんなつっこんじゃってねえ」 「まだわかんないさ」 「来てくれないと困るんさ」 「途中でいい目みたからいいじゃない」 「いやあ、あれじつは会社の金でさあ」 「え……」 「月曜の朝、金庫に入れとかなきゃならんのよ」 「……」  みんなの笑いが凍りついたのは言うまでもない。会社の金を使い込んでやってたなんて……、すっちゃえと念じた手前気まずいものがある。でも、メインレースで男が金を取り戻すとは絶対に思えなかった。その男がする方に賭けてもいい。  四百十キロのちっちゃな馬ルグロリューが勝ち、二着にサウスジェット。わたしたちはじだんだ踏んで悔しがったが、三着にダイナアクトレスが突っ込んでトリプティクを押さえ大騒ぎで喜んだ。前列のおじいさんが「ねえちゃん、アクトレス来たねえ、よかったじゃない」とほめてくれて有頂天になっていたわたしと妹のうしろで、男がぼうぜんと立ち尽くしていた、と源一郎さんが後になって教えてくれた。 「やっぱりすっちゃったんだねえ」  人はなぜ競馬に熱中するのか。  考えうるすべての文章が、その答になる気がする。反対にそのどれもが答にならないのかもしれない。だが、競馬に夢中になっているその瞬間、そこに罪深い何かが存在することをわたしたちは知っている。たとえば人の不幸を願う気持ち、あるいは簡単に大金を手に入れることへのうしろめたさ、負け続けて殺されてしまう馬の悲しみ……。それらすべてを忘れてわたしたちは今日も罪の快楽にふける。だから何十万人集まろうと、声を合わせて叫ぼうと、罪人たちは競馬場でいつも孤独なのである。 [#改ページ]  おしゃれして競馬場へ行こう  おしゃれして競馬場へ行こう。  そんなことを考えつくまで、ずいぶん時間がかかったような気がする。あるいはずっと考えてはいたんだけれど、実行に移すまでが大変だったと言うべきか。とにかく、西友に行くにも着替えていくようなわたしが、競馬場へ行くときはとっても地味できたなく実用一点張りの格好をしていたわけで、それはひとえに、競馬場にいるおじさんとおんなじようにしたいというそれだけのことだったのだ。しかしこれにはついに慣れることができなかった。なぜわざわざ地味な格好をしていかなくてはならないのか。わたしはおんなのこだ。競馬場とは言え、これはお出かけである。それも週末のデート。おしゃれしないほうが不自然である。  まずジーパンをやめてスカートをはいていく。うーん、これだけのことがなかなかできなかったのだ。だってまわりがおじさんばっかりなもんで、スカートというだけで目立ってしまう。目立つとなんとなくいごこちが悪い。まあ、今じゃあ考えられないようなことですけどね。でもわたしゃジーパンを脱いでスカートをはきましたよ。まるでショッピングに行くような格好でいそいそと競馬場へ。  その日をさかいに、競馬場へ行くのがすごくらくちんになった気がする。おうまだってジョッキーだって、みんな晴れ舞台に備えてピカピカに磨きをかけて出てくるんだもの、賭けるわたしだっておしゃれしないわけにはいかないでしょう。ワンピースでスタンドにいると、競馬場がほんとうに夢の国みたいに素敵に見えてくる。おしゃれをするという普通のことを、自分でタブーにしていたのだ。ほんとに馬鹿みたい。  馬主席や来賓席ならいざ知らず、一階のスタンドでおしゃれにしているというのはとってもむずかしい。ついついジーパンにリュックサックというカジュアルなファッションになってしまうのもわかります。なんせ競馬っていうのは、ほんと疲れるものだから、いろんなところでよっこらしょっとしゃがみ込んでしまいたくなる。そんなとき、きれいなお洋服を着ていようものなら汚れるのが気になって座れない。それに冬は寒いし夏は暑い。特に冬なんて押したらころげちゃうほど着込んでいかないと、風邪をひいてしまうかもしれない。いろんな配慮があって結局ハイキングか山登りみたいな格好になっちゃうのだろう。でもね、フェンスの前にハイキングシート広げて、その上にまるでおべんとタイムみたいな格好で大股ひろげておやじ座りしているあなた、ほんとうにみっともないよ。だいたい、あそこは場所とりして座るところじゃないでしょ。小学校の運動会じゃないんだから。あそこはみんなが詰め掛けて押し合いへし合いしながら、ゴール寸前で自分の買ってる馬が抜き去られるのを目の前で見て、がーんとやられるところ。  悲しいかな競馬場で所有欲を出すことはご法度なのである。場所をとりたいとか、馬の写真を撮りたいとか、騎手にこっちを向いてほしいとか……。そりゃあわたしだってオグリキャップの生写真がほしいし、ずっと椅子に座っていたい。それでもわたしはオグリンの写真を撮ったこともないし、新聞紙をしいて通路に座り込んだこともない。座りたいようと泣きながら、傘をさして立ったまま一日賭け続けたし(うちの源一郎さんはぜんぜんそういうときはきびしいのである)、ホクトヘリオスの写真だって引退する前のレースで一回こっきりしか撮ったことがないんだ(でもほとんどの写真に前に立っていたおやじのはげ頭が写っていて、なんだかへんな写真ばかり)。ほんとうに写真がほしいと思ったのはコーセイの引退式のときで、このときばかりはパドックでカメラを持ってずっと待っていたけど(そんなやつは他にはいなかった)、ぴかぴかに磨きあげられたコーセイが一頭だけでパドックをぐるぐる回っているのを見ているうちに、涙がぽろぽろ出てきて写真なんてちょびっとしか撮れなかった。コーセイは本馬場でにんじんとリボンのいっぱいついたおしゃれなレイを掛けてもらって、とってもかわいかった。  おっと、話がそれてしまったが、やっぱりみんなもうちょっと普通の格好でくればいいんじゃないかと思う。それというのも服装は微妙にしぐさや言葉づかいに反映するからだ。いいかげんな格好をしているときは、人間いいかげんなマナーで許されるような気がする。やくざっぽい格好をしているときは心がやくざっぽくなって、ついつい窓口のおばさんに向かって「おばちゃんはやくしてくんない?」とかからだをななめにして言っちゃったりするものだ。それとおんなじ口調で「にいちゃんそこどいてくんない?」とか「てめえもっと早く買えよ」とか「ばかやろー、しかけがはやいんだよ」とか「へたくそー、しんじまえ!」とか……。実際、こういう娘さんがいらっしゃるのでちょっとびっくりしてしまう。これがもし、おしゃれをしていてワンピースかなんかだったりすると(べつにワンピじゃなくてもいいのだけど)「すみません、そこあけてくれません?」とか「早くしてくださればいいのに」とか「ほんとに、もうちょっとはやくしかけてくだされば」とか「うまいとは言えませんわね、一度馬事公苑に戻られた方がよろしいんじゃございません?」とか……なるわけがないか。にしても、髪振り乱して「バカヤロー」と叫んだりはちょっとできない。JRAが口をすっぱくして呼び掛けている「マナーの向上」にちょっとばかしつながっていくんじゃないかなと思う。  ところで、考えてみればおじさんたちはあれでめいっぱいおしゃれをしているのかもしれない。だっておじさんたちの格好というのはちょっと妙で、街には絶対なじまない服装をしているじゃない。柄オン柄の高等テクを駆使したコーディネート(?)とか、エコロジーカラー(土色)一色のトータルファッションとか、頭にはりついたような帽子とか。ということは、わざとあの格好をしているということで、そこには気合いのはいったおしゃれのセンスを感じると言えば言えないこともない。おじさんたちはおじさんなりに、競馬場で映える服装を自分のワードローブの中から選んで着ているのだろうか。  わたしはいつも応援する馬の枠の色の服を着ているのだ。だいたいはメインレース。ときには新馬戦とか特別とか。これを知っている人もいたりして、たとえば黄色い服を着ているときは、競馬場でいきなり「きょうは五枠だね」と声をかけられる。いちいち予想を説明しなくてもいいところがとっても便利だ。それにもまして気合いがちがう。「悪いけどきょうはミナガワイチザン買わしてもらいまっせ」というのを洋服で宣言してるわけだから、とっても大胆なのである。それを見て「ほんとミーハーはいいねえ、気楽で」と言う人もいるけれど、当たる当たらないとか儲かる儲からないとかだけ考えて、それが「真剣に競馬をやる」ということだと思ってる人のほうがよっぽど気楽でいいと思うのである。だって前日からエイトを見て、好きな馬が何枠に入っているかを調べ、その色で着ていくものをコーディネートするわけだから、めんどうくさいのだ。とにかく、わたしを競馬場で見かけたら、服の色を見れば応援する馬がわかっちゃうというわけだ。ときには多色づかいもある。赤とピンクで3—8とかね。これはちょっとおしゃれなので流行っている。だって漠然とおしゃれしていくよりはずっといいでしょ。気分がぜんぜんちがうもの。だからもっともっと流行るといいと思う。  しかし何かと苦労も多い。八枠まで八つの色の服を持ってないとできないというところ。でも色のことならまかせなさい。わたしの大好きなピンクハウスには多いときで十三色もの色番がある。つまり、同じプリントで色ちがいがいっぱいあるというわけ。もちろん、一から八枠まで白、黒、赤、青、黄、緑、橙、桃の八色は必ず出してくれるのだ。ほんと、ピンクハウスは馬の応援にはもってこいのブランドなんですよ。  いちばん困るのはどうしても本命が決まらないときである。わたしがベージュとかパープルとかグレーの服を着ていたら、こいつは迷ってしまったということだ。そんなときでも見えないところで(たとえばブラとかパンティとか)で色合わせをしていることがある。ほんと、どういう意味があるのか自分でも疑問である。  ある冬の晴れた日、わたしはホクトヘリオスの妹ホクトウエンディのデビュー戦を応援するために中山競馬場にいた。馬主の森さんのご好意で、あつかましくも名前をつけさせてもらった馬である。ホクトウエンディは一枠。もちろんわたしは真っ白なワンピの上に真っ白なコートを着ていた。それでパドックから本馬場までずっとついてまわったわけだ。パドックでも本馬場でも「ウエンディがんばって!」と声を掛けたり「南田さぁーん!」と叫んだりした。もちろん馬券も奮発していた。なんせ名付け親ですからね。  レースが終わってウエンディが三着に入り、退場口で姿を見たくなって、観戦していたゴール前からウイナーズサークルめがけて大急ぎで移動した。おじさんにぶつかるといけないので、身を低くしておじさんたちの隙間をしゃっしゃっとすり抜けていったのだった。ウイナーズサークルについたときにはちょうどウエンディが帰ってくるところで「ウエンディがんばったねえ」と声を掛けた。ウエンディはしらんぷりだったけど、厩務員さんと南田さんは笑っていた。  ウエンディの姿が見えなくなってもわたしはにこにこしたままそこに立っていた。真っ白なコートを着て、ウエンディみたいにかわいらしく。 「直子ちゃん、肩それどうしたの?」  いっきなり源一郎さんがまじめな顔で言うので、何かしらんと思って肩を見ると、真っ白なはずのコートの肩が両方とも真っ黒になっちゃってるのだ。 「うっそお、なにこれ!」  わたしはおじさんたちの間をすりぬけてきたときの肩にふれるおじさんたちのジャンパーの感触を思い出した。めまいがしそう。源一郎さんがぱんぱんとコートの肩をたたいてくれている。真っ黒がねずみ色ぐらいになった。ホコリだ。 「おじさんのホコリが肩につもっちゃったんだよお」  泣きそうな声で言ったそのセリフに、源一郎さんはぱんぱん肩をたたきながら笑いころげていた。 「おじさんのホコリねえ」  その日一日わたしはやくざな気持ちでギャンブルに打ち興じた。まったくおじさんたちはホコリだらけのジャンパーを競馬場用にしているのだ。けしからん!  だから、何はともあれおしゃれして競馬場に行ってみようじゃありませんか。  まず手始めにオークスとダービー。オークスとダービーは、おうまだってジョッキーだってぴっかぴかだもの、わたしたちだって普通じゃいけないよ。とびきりのおしゃれをして競馬を見に行こう。いつもとちがう気持ちでいけば、いつもとちがうものが見えてくるはずだ。ホコリたかきおじさんたちに打ち勝つにはこれっきゃない。  そして馬券をとったらおもいっきり大騒ぎして、それから涼しい顔でこう言うの。 「わたしの服の色を見れば、勝ち馬なんて簡単にわかったのにね」 [#改ページ]  天国と地獄  昭和六十年三月二十四日、中山競馬場のメインレースは皐月賞トライアル第三十四回スプリングステークスであった。わたしはまだ競馬を始めて日が浅く、競馬場へ行くのはこの日で二回め。シンザンの子、ミホシンザンが出走するというので、おじさんたちはにこにこと機嫌がよく、なんだかよくわからないわたしもミホシンザンが出るのがとても楽しみだった。ミホシンザンは一月にデビューしたばかりで、初戦、二月の水仙賞を連勝してはいたものの、このレースでの単勝一・六倍は、三歳でデビューし無傷の三連勝で朝日杯三歳ステークスを勝って出走してきたスクラムダイナの四・八倍に比べると異様な人気であった。三冠馬の父シンザンの人気がそこにあらわれているのだと源一郎さんが教えてくれた。  このころのわたしはといえば、ゴールした後も何が勝ったのかわからない、四枠と六枠、七枠と八枠の色がごちゃごちゃになる、自分が買った馬券がなんだか覚えていないというぐあいで、まったくの素人。競走馬について何の知識もなかった。それでもこのスプリングステークスは、生涯忘れられないレースとなる。それも最悪の理由で。  レースでは、サザンフィーバーというさわやかな響きの名の馬が逃げた。ミホシンザンは中団を進み、三コーナーでは四番手まで上がってきていた。サザンフィーバーは四コーナーを回ってもまだ先頭で、素人のわたしの目にはただ一頭他馬を離して逃げ粘るサザンフィーバーが勝つようにさえ見えた。次の瞬間、この直線のどまんなかを先頭で走っていた馬が、がくんと崩れ、倒れるのを見たとき、わたしには何が起こったのかわからなかった。思わず「キャア」と叫んだまま息がつまった。観客の大きなどよめき。わたしの目はその倒れた馬に釘づけになった。後ろから来た馬がサザンフィーバーをよけて一瞬にしてとおり過ぎるのがとても不思議な光景に思えた。自分の目からぱあっと涙があふれてきて何も見えなくなって、それもなぜか不思議な感じだった。 「なぜ、倒れたの?」  泣き声になっている。 「骨折だね」 「なぜ骨折するの?」  抗議するような口調になっている。 「馬場が掘れていたりするとそこに足を突っ込んじゃってつまずくこともあるし、どういう具合だか足に無理が生じて折れてしまうこともあるし……」 「勝てそうだったのにかわいそうだよお」 「ちょっともうダメかもしれないねえ」 「ダメってどういうこと?」 「安楽死処分」  どきどきした。そうだ、馬は立ってられなくなると駄目なのだ。骨折ってそういうことなんだ。それまで競馬場で考えたこともなかった安楽死という言葉がわたしをちくちく傷つける。いま目の前を颯爽と先頭で走っていた馬が、どうしてなの? サザンフィーバーがかわいそうでかわいそうでどうしたらいいのかわからず、おろおろと涙をこぼしつづけているわたしを、源一郎さんはただ黙って見ていた。  サザンフィーバーの悲劇をよそに、ミホシンザンは圧倒的一番人気に応えこのレースを勝っていた。二着には落馬のあおりを受けながらも追い込んできたスクラムダイナ。配当は一番人気の四百十円。結果だけを見れば、とてもかたいレースだったとだれもが思うだろう。ミホシンザンはその後無傷で皐月賞を勝っているのだから。レースを見ていなければ、サザンフィーバーの死さえ知ることはない。  この日を境に、レースがときどきむしょうに怖くなることがあった。落馬を見たくない、その気持ちが常にわたしを支配していたのだ。骨折すると殺されちゃうよ。死神がいまかいまかとてぐすねひいて待っているのをふっと思い出し、心臓がきゅっと縮む。馬ががくんと首を下げたり前につんのめったりすると、故障かと思い涙がぼーっと出てくる始末だ。  そして、スプリングステークスのショックに追い討ちをかけるように、四月七日の春の中山大障害では、出走十頭のうち六頭が、向こう正面の大竹柵でつぎつぎ落馬するのをテレビで見てしまう。バランスを崩しあっけなく倒れる馬たち、仰向けになって足をばたばたさせているものや、放り出した騎手をほったらかして起き上がり走って行ってしまうもの、そんな馬に踏まれないように身を縮めて転がる騎手たち。しかし残る四頭でレースは続く。もうこれ以上は落馬しないでほしい。ただそう思いながら顔を手で被い、それでも指の間からそおっと最後まで見てしまった。  このとき落馬した六頭のうち死んでしまったのはダイナドルフィンという※[#「馬+扇」]馬一頭。他の馬はなんとか無事だった。  同じころノースリーガルという一頭の馬が、平地から障害に転向、未勝利戦を勝ち上がって、四百万下のレースを走っていた。ノースリーガルはオカポートの弟で、黒鹿毛のきれいな馬だった。四歳の十月にやっと福島で平地の一勝をあげている。おなじ福島で続く金華山特別を勝ったが、九百万下に昇級してからはぱっとしない成績で、五歳になってすぐ障害馬となった。障害では五歳のあいだに三勝を上げオープン入り。暮れの中山大障害二着、明けて六歳の東京障害特別三着といいところをみせたが、春の中山大障害ではやはり大竹柵で落馬してしまった。このときは無事でその後もオープンに出ていたが勝ち星はなく、夏負けし七カ月の休養に入った。  七歳になって三戦しているが成績はいまひとつ。四戦目が昭和六十二年春の中山大障害である。もともとが逃げ馬でこの日も先行していたが、一周目の大土塁で落馬する。着地に失敗して頭から落ち首の骨を折ったのである。ノースリーガルは体をぴくぴく痙攣させてぱたりと死んだ。いまでもそのときのぴくぴく動くノースリーガルの黒く光った皮膚が忘れられない。あんなおそろしい光景を見たのははじめてだった。何度も夢にその光景が出てきてはうなされた。いまこうして書いていても目を閉じると、恐怖とともにあのときのノースリーガルの姿がはっきりと思い出される。どうしても忘れることができないのだ。  障害未勝利戦で斉藤騎手が落馬し、脳挫傷で亡くなったのはそれからわずか二週間後の四月二十六日のことである。無事だった馬は地方競馬へ移っていったらしい。  馬の名前を覚えて馬の顔を覚えて競馬場に通いつめて、好きな馬がたくさんになってくると、故障したときのショックというのは相当なものだ。馬主でも調教師でも生産者でもないのに、目の前で落馬すると全身から冷汗が出て硬直してしまう。それが自分の応援している馬だったりすると、不思議とすぐにわかった。それとは反対に、故障したとたんにいままでぜんぜん知らなかった馬の顔を覚えてしまうこともあった。  ノースダコタシチーは父がパーソロンで母がイタリアンシチー。ゴールドシチーのすぐ下の弟である。ゴールドシチーの弟だということで応援していたけれど、お兄さんにはあまり似ていないどちらかというと地味な鹿毛の馬だった。デビューも遅く四歳の四月。勝ちあがったのはそれから四カ月以上後の八月末である。人気はいつも上位で四百万下は三戦で抜け出したが、脚部不安で七カ月休養する。五歳になって復帰、麦秋賞十着のあと函館で四百万下に二着、続く奥尻特別を一番人気で勝った。その後函館で二戦、福島で三戦して中山に帰ってきたが、中山でも勝てずついに九百万下の最終レースに出てくる。  平成元年十二月十七日、中山の最終レースには、サンデーホスト、ウェディングマーチ、フジゴールドレッグ、ブラックホラー、そしてノースダコタシチーとわたしの好きな馬がいっぱい出ていたので、八頭だての地味なレースにもかかわらず興奮していた。迷ったあげく五種類の複勝馬券を買い、連勝はやめにした。終わったらすぐに帰るつもりで、スタンドの四コーナーよりでわくわくしながら観戦することになった。芝の二千五百は四コーナーからスタートするから、二回目の前を通るわけだ。ウェディングマーチ、ブラックホラー、ノースダコタシチーがいいスタート、フジゴールドレッグとサンデーホストは後方待機である。三番手で目の前を通り過ぎる馬に向かって「ノースダコタがんばってえ!」とにこにこしながら叫んだ瞬間、ノースダコタシチーが故障した。狼狽するわたしは「どうしよう、どうしよう」と言いながらもう涙でいっぱいだ。しかしレースは続く。またすぐに馬たちがここへやって来る。ノースダコタシチーは邪魔にならないように運ばれる。でもわたしは怖くて何も見ていられなかった。大好きなサンデーホストとウェディングマーチが一、二着だったのにゴールさえ見ていない。  オケラ街道を泣きながら帰る。 「ノースダコタシチー大丈夫かも知れないよね」 「……」 「骨折してもみんながみんな安楽死させられるわけじゃないもんね」 「そうだよ」 「でもきっと……」 「そんなに好きだったの?」 「だってゴールドシチーの弟だよ」 「そうだね。助かるといいね」  顔を思い出そうとするとゴールドシチーの顔になる。でもずっと泣いていた。ノースダコタシチー、きっとだめだ。こんなことになるならもっともっとよく見ていればよかった。そう思ったら悲しくて、あとからあとから涙が出てきた。翌日のスポーツ新聞でレース結果の欄を見る。「できごと」としてノースダコタシチー競走中止のことが書いてある。そして短く「予後不良」。 「予後不良」とは、故障の程度がひどくて再起が望めない場合薬殺処分になることだ。複雑骨折や解放骨折の場合、馬は立つことが困難になり、他の三本足に頼っているとそれらに負担がかかって結局他の足も駄目になることが多い。草食動物である馬は腸がひじょうに長く、立っていられないと消化不良になり、腸閉塞などを起こして死んでしまうため、安楽死の方法がとられている。「予後不良」と書いてあればもうなんの望みもない。ノースダコタシチーもまた死んでしまったのだ。  以前雑誌で読んだ資料によると、競走馬の骨折事故は年間約千八百件。そのうち競走中の事故は七百件余り。残りが調教中の事故となる。一日のレースに百五十頭の馬が出走するとして、単純計算で約二頭が事故に会う。比率は約一・五パーセント。しかし、このうちの約七十五パーセントは再びレースに復帰できるらしい。復帰できなくても牝馬なら繁殖への道が残されており、優秀な牡馬なら種牡馬になることも可能だろう。それにしたってレースでの骨折事故ですべてをなくす馬が多すぎる。  無事に競走生活を終えても、馬に平穏な生活が訪れるわけではない。繁殖牝馬もいい子を生まなければ潰される。種牡馬はもっときびしい。乗馬は行き先によって待遇がひどく違うだろう。乗馬としての調教中に事故で死ぬこともある。乗馬になりきれなければ潰される。血統もたいしたことのない牡馬は、走り続けることでまた一日また一日と自分の命をのばしていくのだ。  馬の社会の中ではしっかりしていてみんなの尊敬を集めているやつだって、競馬界という枠組みの中では人間の思惑どおりに働かなければ無用とされる。サラブレッドの走る姿がときとしてひどく悲しいのは、こうした宿命のせいなのだろう。たとえば好きな馬のおかあさんの消息をたどってみたりして、いきなりそれが畜肉業者の手にとっくに渡ってしまっていたことがわかったりすると、どうしようもない思いで心に真っ黒な穴があく。以前テレビで肉屋に売られていく牝馬をどうしても見送れなくて陰で泣き続けていた牧場スタッフの姿を見たことがあるけれど、そうしていらない馬を整理していくことで牧場はやっていけるのだし、また強い馬も生産できるのだ、われわれは遊びでやってるわけではないと言われれば、部外者と呼ばれるわたしたちはすぐに説得されてしまう。けれど、もしかしたらその母馬が翌年生んだ馬がダービー馬にならないと誰に言えるだろう。賭けはなんという犠牲を払うことか。  ああ、わたしが大金持ちだったら……。ときどきそんなことばかり考える。みんな馬が大好きなのだ、できればどんな馬でもしあわせに生かしておいてやりたいじゃないか。わたしたちが賭けに投じている巨額の富が、なぜそういった引退馬にいこいの場を提供することに使われていかないのか、不思議で不思議でならない。無用とされた馬の余生を金で買うことができるんじゃあないか。中山競馬場のスタンドがピカピカになるよりも、わたしだったらそのほうがうれしい。これは単なるセンチメンタリズムではないと思う。口に出しては言わないけれど、ほんとはみんな心のすみでそんなことをちらりと考えたことがあるのではないだろうか。  決して無用ではなかった馬もまた、悲運にみまわれ惜しまれながらも命を落とすことがある。昭和六十二年皐月賞の優勝馬サクラスターオー、二着ゴールドシチー、そして三着のマティリアルがそうだった。このレースはのちに呪われた皐月賞と陰で噂されたが、そこにはあまりにもあっけないサラブレッドの命の終わりを悲しむ人々の思いがこめられている。  サクラスターオーは昭和五十九年五月二日生まれ。父サクラショウリ、母サクラスマイル(母の父インターメゾ)。黒鹿毛の上品な顔立ちのきれいな馬である。母のサクラスマイルはスターオーが生まれて二カ月で腸捻転のため死亡。祖母のアンジェリカがかわってスターオーをかわいがった。スターオーはサクラスマイルの初子だったため兄弟はいない。  サクラスターオーのデビューは三歳の十月、二戦目で新馬を勝ったが骨膜不安のため四カ月休養。寒梅賞五着のあと、弥生賞を勝ち皐月賞は五・六倍の二番人気だった。このとき、圧倒的一番人気に押されたのがマティリアルで単勝オッズは二・〇倍。前走のスプリングステークスの勝ちがあまりにも鮮やかだったのが人気の理由である。道中十二頭だての十二番手で進んだマティリアルは、直線でどんじり強襲のすごい脚をつかい、あっという間に十一頭をごぼう抜きにした。これはいまでも語りぐさになるほどの印象的な勝ち方で、奇跡の追い込みはひとびとの心を捉えてはなさなかった。  マティリアルは昭和五十九年四月四日生まれ。父パーソロン、母スイートアース(母の父スピードシンボリ)。首がぐいっと盛り上がってなんとも格好のいい鹿毛馬で、鼻筋にペンキですーっとひいたような白い線が額から鼻の先までつながっている。デビューは三歳の十月。二戦目の府中三歳ステークスは、当時最も強いと言われたサクラロータリーの三着と敗れたが、四歳で寒梅賞、スプリングステークスと連勝している。サクラスターオーがいかにも軽々と走るのに対し、マティリアルは苦悩するように重い走りを見せた。  一方、阪神三歳ステークスを勝ってはいたものの、スプリングステークスでは不利があったりして六着に敗れ、皐月賞では四十・五倍の十一番人気とファンになめてかかられたゴールドシチーは、なぜか人気になりにくい馬であった。尾花栗毛の派手な馬体とはアンバランスな激しいいれこみぐせが、見る者を不安にさせるのだろうか。  ゴールドシチーは昭和五十九年四月十六日生まれ。父ヴァイスリーガル、母イタリアンシチー(母の父テスコボーイ)。デビューは三歳六月の札幌で、七月に三戦目で未勝利を脱出、札幌三歳ステークスではガルダンサーの二着に敗れたが続くコスモス賞では後のダービー馬メリーナイスを四着にしりぞけ、暮れの阪神三歳ステークスを連勝で飾っている。  昭和六十二年の皐月賞を勝ったサクラスターオーが死んだのは、翌六十三年五月十二日のことだった。  皐月賞を勝ったあと繋靭帯炎でダービーを断念、温泉療養していたサクラスターオーは、六カ月半ぶりにぶっつけで菊花賞を勝ち奇跡の二冠馬となったが、一番人気で迎えた暮れの有馬記念で故障発生のため競走を中止した。左前繋靭帯断裂、第一指関節脱臼。五カ月にもわたる闘病生活の後、蹄葉炎を発症しとうとう安楽死処分がとられた。  皐月賞三着のマティリアルの死は、まだ記憶に新しい平成元年の九月十四日。  あのスプリングステークスの豪脚が忘れられずに馬券を買い続けて二年半、期待を裏切り続けて十三戦目、みんなが期待したどんじり強襲ではなかったがやっとマティリアルは京王杯オータムハンデで復活したのだった。しかし、レース直後に右指骨種子骨複雑骨折を発生、四日後に安楽死処分がとられた。  このころから呪われた皐月賞という言葉がまことしやかに語られるようになり、二着のゴールドシチーの身の危険をささやく声があちこちで聞こえ始めた。  ゴールドシチーは皐月賞二着がフロックなどと言われたが、ダービー四着、菊花賞では道中不利を受けながらも二着にくいこみ、その勝負強さが評価されていた。しかし器用さに欠け、狂ったように走り出すのは先頭がゴールインするころになってから、ジリ脚シチーのあだ名もつくほどで、G㈵、G㈼ではずっと善戦してはいたものの阪神三歳ステークス以来勝ち星がなかった。いつか大きな勝利をものにするのではないかという予感は予感のまま、六歳の宝塚記念を最後に休養に入り調教中に故障、そのままカムバックすることなく引退してしまった。乗馬となったゴールドシチーはJRA宮崎競馬場へ行った。なんか宮崎なんて似合わないね、でも会いにいこうね、とわたしたちはよく話していた。のんびりやってるんだと思っていた。  ゴールドシチーが事故で死んだのは平成二年五月二日。サクラスターオーの誕生日だ。このニュースをなんの気なしに読んでいた競馬雑誌で知ったとき、わたしはほんとうにびっくりして泣いてしまった。もっと早く会いにいけばよかった。ゴールドシチーは特別な馬だったのに。ほそおもての顔はちょっといびつで左から右にずれた白斑があり、額にかかるプラチナブロンドの前髪は微妙に縮れ、おんなのこのようなやさしく美しい目をしていた。よく四白流星のメリーナイスとパックにされてその派手な馬体が語られるが、ゴールドシチーの顔は目の離れたおじさん顔のメリーナイスとは比べものにならないほど整って美しく、わたしはメリーナイスも好きだったが、断然ゴールドシチーの方に魅了されていたのだった。ゴールドシチーが走ると金色のたてがみと尾がゆっさゆっさ揺れて、どこにいてもその姿を見失うことはなかった。  ゴールドシチーは血統名をヘミングウェイという。ヘミングウェイの『陽はまた昇る』という本のタイトルを見るたびに、ゴールドシチーの上には二度と陽は昇ることがないのだということを思い出し、なんとも言えないさびしさに見舞われる。ゴールドシチーはまばゆい五月に天に召された。美しい五月は美しいゴールドシチーにいちばん似合っていた。それがせめてもの救いかもしれない。 [#改ページ]  トウショウマリオやめますか、それとも競馬やめますか  出馬表をみつめて悩んでいる源一郎さんに向かって言った。 「もし自分が無印にしたときに勝たれたらいやだから、印つけてるんでしょ」  トウショウマリオのことである。とにかく平成元年の二月に東京新聞杯を勝ってから、かれこれ二年近く勝ち星がないのだ。それでも、血統がいいので出てくるとみんな悩んでしまう。ヴェンチアとソシアルバターフライの子ソシアルトウショウが母、父はノノアルコ、兄弟にエイティトウショウ(九勝)、トウショウペガサス(八勝)というすごいおうちの坊ちゃんである。マリオくん自身も京成杯の勝ち馬で、弥生賞二着、三番人気で臨んだ皐月賞は五着であったが、名血らしい成績を残していた。その後骨折で七カ月休養し、マイルチャンピオンシップで復帰。これは七着に敗れたもののクリスマスステークス、明けて五歳の東京新聞杯と連勝し、予定どおりマイル戦線の主役におどり出たかに思われたが、中山記念ではコーセイの十二着(ブービー)、安田記念ではバンブーメモリーの十三着と惨敗。みんなに「どっかわるいんじゃないの」と言われ放牧に出た。それからずっと長いながーいトンネルが続いている。  源一郎さんは名血が好きである。自分も生まれたときは乳母なんかがいて、坊ちゃんと呼ばれていたからだろうか。チョコレートといえばハーシーしか食べなかったからだろうか。とにかく家柄のいい馬に弱い。その上マリオくんは京成杯を勝ったりしているものだから、そのころのことが忘れられない。だもんで、どうしてもトウショウマリオを無印にすることができないのである。このごろではマリオに印をつけないと忘れものをしたような気がするらしい。マリオの名前を見ただけで単・複馬券を買ってしまうという。これではまるで条件反射である。一旦買い始めたらたとえ二年負け続けようと買わずにはいられない馬なんて、麻薬とおんなじじゃありませんか。  これが源一郎さんだけではないらしい。前のレースで掲示板にでも載ろうものなら、すぐに人気はうなぎのぼり。関屋記念で五着に来ただけで、次の京王杯オータムハンデでは一番人気に押されてしまう始末である。 「『トウショウマリオやめますか、それとも競馬やめますか』だね」  眉間にしわを寄せている源一郎さんにそう言うと、 「トウショウマリオに競馬をやめてほしいよね」 だって。  競馬をやっているとこのような名言に事欠かない。これがまた、人生になんの役にも立たないから不思議である。それなら競馬に役に立つかと言えば、なんの役にも立たないのであって、ただ笑えるというそれだけのことであるが、おもむきだけは立派なので教えてさしあげようと思う。 『人の本命見て我が本命なおせ』  これはもうすごい。とにかくあまりにも真実なので笑えない。予想をする人は自分のことを信じてると思うだろうけれど、これが信じていない。信じられないと言った方が正しいかな。それなら他人を信じるかというと、これがまた輪をかけて信じていない。したがって、自分の予想が他人の予想と重なるとすぐに予想を変えてしまうのである。その結果どういうことが起こるかというと、本命がばらばらに散ってしまうのだ。ぱっと見てもどの馬が一番人気なのかわからないような新聞がよくあるのは、このせいである。これは「予想というのは当たらないものだ」という根強い民衆の信仰と思想を同じくするもので、「予想が当たらないものであるのなら、当たるためには人の予想を外して予想すればよい」というほとんど意味のわからない原理に基づいている。早い話が「〇〇の予想は当たらないから、それを外して買おう」というよくあるあれである。予想家の間では「〇〇と本命がいっしょになったらおしまいだ」という話がよく聞かれるが、そんな〇〇に本命にされた馬はほんとうに迷惑だと思う。 『吾妻小富士賞にはシンボリマルタンがよく似合う』  しかし、シンボリマルタンは三着に敗れてしまった。したがって何の意味もない名言である。 『レジェンドテイオーを買うものは、最初のコーナーを制する』  レジェンドテイオーとは、昭和五十七年生まれのノーザンテースト産駒の牡馬である。「競馬四季報」に「七歳秋までついに精神面の成長がみられないままだった」と書かれてしまったが、五歳の秋の天皇賞で二着、有馬記念で四着、六歳秋の天皇賞で三着するなど潜在能力は超一級と言われている。とにかくでかい。それでもってかっこいい。だから、パドックで見るとものすごくよく見える。パドックの帝王である。パドックテイオーと名前を変えろとの非難も出たぐらいだ(冗談)。それで逃げ馬なのである。もうほんとに似合わないのだ。でっかくてかっこよくて、顔はスターウォーズ1の頃のマーク・ハミルみたいで、絶対逃げそうにない馬なのに逃げるのである。生涯二十二戦中十六回は最初のコーナーを先頭で回った。GIに八回出走し、そのうち七回は最初のコーナーを先頭でまわり、そのうち六回は四コーナーも先頭でまわっている。どうだ、すばらしいだろう。「レジェンドが果敢に逃げます」というフジテレビの大川アナウンサーの名文句は、今もわたしたちの脳裏にきざみこまれているが、それはあまりに何回も聞いたためだ。大川慶次郎さんのレジェンドびいきも有名であったが、わたしのレジェンドに賭けた金額も大したものであった。ほんと、こういう馬は大好きである。余談であるが、レジェンドテイオーは六歳秋の毎日王冠で発走直前にシリウスシンボリに蹴られてレースに出られなくなったことがある。シリウスシンボリはフランスから帰ってきた直後に行われた前年の毎日王冠で、女のダイナアクトレスに負けたことがトラウマとなっており、毎日王冠と聞いただけで気分がすぐれないところへもってきて、そのレースでほとんど同じ位置どりで走ったレジェンドテイオーにいきなり「今年はあのコがいなくてよかったね」とマーク・ハミルみたいな顔で話しかけられて激したとの噂であったが、ほんとはどうだろうか。 『根本を軽んずる者は根本に泣く』  わたしたちはみんな根本騎手が大好きである。根本さんはなんといっても、あのシンボリルドルフを負かしたギャロップダイナに乗っていたヒトである。十番人気以下で秋の天皇賞に優勝した馬は昭和六十年のこのギャロップダイナただ一頭。翌年サクラユタカオーに破られはしたものの一分五十八秒七は日本レコードであった。もひとつおまけに単勝式配当八千八百二十円はちょっとやそっとじゃ破られない天皇賞史上に燦然と輝く大記録である。したがって根本さんの乗ってる馬は、人気がないからといってあなどってはならないのだ。立冬特別におけるグリーンフリーダムのように。エイコーボーイだってトモエサーペンだってアカネコウバイだってフジノカンウだって、いつ走っちゃうかわからない。根本の複は栃栗毛の複とともに馬券の基本である。 『根本を重んずる者は根本に泣く』  昭和六十二年の有馬記念が始まるまで、わたしたちはほんとうの根本のこわさを知らなかったと言ってよい。メリーナイスでダービーを圧勝してからわずか六カ月後、有馬記念でスタート直後に落馬したことは、ダービージョッキーへの尊敬を消し去るのにいきなり値する事件であった。このときメリーナイスの顔をスタンドからみつめていたわたしは、落馬の事実をまわりの誰よりもはやく確認し、「メリーナイスから根本が落ちた」という完全な一文を即座に口にしたのである。まわりのおじさんおよび源一郎さんはしばらくして場内放送がその同じ事実を告げるまで、わたしの言葉を信じなかった。ちなみにこのレースでわたしはメリーナイス、サクラスターオー、ダイナガリバー、スダホークの応援単勝馬券を持っていたが、メリーナイス落馬、サクラスターオー故障発生、ダイナガリバーとスダホークは鼻差の最下位争いを演じ、この先どんなに長生きしても生涯で最低のレースになることはまちがいないであろうと思われる。とにかく、ハヤチネの単勝を百万買ったり、ブリザードを連軸にした馬券に命を賭けたりするのはほんとうに危険だということだ。  このほかにも『明日は明日の負けがある』だとか『朝日杯三歳ステークスは金を払ってでも勝て』だとか『牝なのにコバンザメ』だとか、いろいろあるわけで、競馬場でみんなが連発する名言(ただの駄洒落とも言える)を聞きながら日本人の戯作精神を目の当たりにすれば、深い感動を覚えることまちがいなしなのだ。 [#改ページ]  いちばんほしい馬  平成二年九月、中山での秋競馬が始まろうとしていた。第一週の京王杯オータムハンデを前に、スポーツ新聞を読みながら駅前の喫茶店サンメリーで遅い朝食を食べていたわたしたちは、ホクトヘリオスには岡部騎手が乗るかもしれないなどというとんでもない記事を見つける。主戦の柴田善臣騎手が騎乗停止処分をうけているためだ。 「そうなんだ、まだ引退しないんだ」 「そうみたいね」 「岡部が乗るんだ」 「そうみたいね」 「日曜日に見れるね」 「そうね」 「よかったね」 「うふふふ」  うふふふと笑いながら、わたしはちょっとうるうるしてしまった。だって引退の噂をあちこちで聞いていたんだもの。うーん、よかったよかった。オータムハンデにヘリオスが出ないなんて、やっぱり許せないのだ。源一郎さんがにこにこしている。そうだ、天皇賞にもマイルチャンピオンシップにも出てくれなくちゃなのだ。わたしはうれしくて、へらへらしてその日一日過ごした。  でもそれは全部うそだった。ホクトヘリオスは中山開催を待たずに引退してしまったのである。  ホクトヘリオスは昭和五十九年四月三日、北海道浦河町の斉藤英牧場に生まれた。父パーソナリティ、母ホクトヒショウ(母の父ボールドリック)。芦毛馬である。  芦毛フリークだったわたしは、まるでイルカのようにひかるグレーのホクトヘリオスがすっかり気に入っていた。いつもきれいなグリーンのメンコをつけ、それは五月の新緑を思わせる若々しい色で、水色に黄色の水玉霰の勝負服とともにヘリオスのグレーの馬体にとてもよく似合うのだった。後年、ヘリオスのメンコは勝負服とおなじ水色に黄色の水玉霰に変わるのだが、わたしはどちらかというとこのグリーンのメンコのほうが好きである。体型はいかにもマイラーという感じで、パドックでまるでチェスの駒のように首をぐいっと曲げてのっしのっしと歩く姿には気品があり、多くのみじめったらしいまだらの芦毛馬とは比べものにならないほどホクトヘリオスは美しい。太い首から丸く突き出た胸と大きく盛り上がったおしりへつながる線は、ほかのどの馬とも違う微妙なカーブを描き、一度見たら忘れられない力強さがあった。胸や肩のあたりがぶるぶるとひかって見え、パドックで周回を重ねるごとに機嫌よく首を振り出すと、今日は調子がよさそうだね、とわたしは笑い、ホクトヘリオスはかならず好走したものだった。そんな日はグレーのヘリオスの腰がうっすらと桜色に染まっているのである。  デビューは昭和六十一年八月三日。函館の新馬戦でメリーナイスの三着に敗れている。鞍上は南田騎手。続く新馬を勝って九月の函館三歳ステークスに挑戦。一番人気はのちに牝馬クラシックで主役をつとめるマックスビューティである。ホクトヘリオスは十頭だて四番人気であったが、不良馬場をものともせず四コーナー七番手から直線一気、どろんこになって勝った。このときの二着はマイネルダビテ。十一月にはいって東京へやってきたホクトヘリオスは京成杯三歳ステークスに出走。一番人気のハセベルテックスを押さえ重賞二連勝。もし続く朝日杯三歳ステークスに勝てば東の三歳代表はこれで決まりかと思われた。ホクトヘリオスはここまで完全に主役の道を歩いていたのである。  しかし、ヘリオスは朝日杯で一番人気に押されたものの宿敵メリーナイスの二着に敗れた。九頭だての七番手を進んだヘリオスは道中行きっぷりが悪く、直線狂ったように追い込んだが届かず。それは届くわけのない離され方で、むしろ二着に食い込んだことのほうが不思議なほどだった。見ている者はその末脚に魅了された。愛を感じたのはこのときだったかもしれない。負けてなお強しと言わせる何かがあった。だがメリーナイスとホクトヘリオスの道はそこで分かれたのだった。ここからホクトヘリオスの長い長い脇役街道が始まろうとは、いったい誰が思っただろう。  三歳時、五戦三勝二着一回三着一回の輝かしい成績からは考えられないほど、四歳時のホクトヘリオスは不振にあえいだ。弥生賞は四着だったものの、皐月賞十三着、ダービー十三着。鞍上は河内騎手。驚くほど似合わない、とわたしは思った。メリーナイスと根本さんはあんなにも似合っているのに……。  とにかく魅力がなかった。直線一気もみられない。どうやら二千メートルでもこの馬には長いらしい。放牧から帰ってきたヘリオスにはまた南田さんが乗ったが、ぜんぜんだめだった。人気を裏切りつづけた四歳時は六戦〇勝。このまま忘れられていくのだろうか。おまえは普通の芦毛馬だったのか。わたしの心はドンの子ニシノミラーの方へと傾いていった。  ところがどっこいである。明けて昭和六十三年、五歳になったホクトヘリオスは柴田善臣騎手とコンビを組み一月の中山競馬場開設六十周年競走に出走した。ビュウーコウとケープポイントが超ハイペースで逃げ、ホクトヘリオスがぽつんとしんがりを追走。直線一気の差し脚で飛んできたがニシノミラーに頭差及ばずの二着。でもでも忘れかけていた愛が甦る。ごめんね、ニシノミラーなんかに浮気したりして。でもあなたもいけないのよ、そのすてきな末脚を一年も見せてくれなかったんだもの。それにしてもなんてたくましいからだになったんでしょう。三歳時の体重は四百五十キロ台だったのが五歳になって四百七十キロ台と二十キロも増えた。めちゃくちゃいれこんで汗びっしょりになるなんてこともなくなった。おとなになったヘリオス。  ホクトヘリオスは続く東京新聞杯もカイラスアモンの二着。スプリンターズステークスは千四百だったが三着と好走を続け、マイラー戦線に躍り出た。しかしそこにはダイナアクトレスとニッポーテイオーがいたのである。そうだ、いつもホクトヘリオスの前には手強いマイラーが立ちふさがった。ホクトヘリオスがG㈵で二着や三着に甘んじていたのもそのせいである。  五歳時にはひとつ年上のニッポーテイオーとダイナアクトレス。このこわいにいさん、ねえさんがいなくなったと思ったら今度はひとつ年下のサッカーボーイ。そしてサッカーボーイがやっといなくなった六歳時にはバンブーメモリーなどという派手な馬が現れ、そしてとどめは最強のオグリキャップの出現。なんという悪いめぐり合わせだろう。  しかし、ほんとうの敵はニッポーテイオーでもダイナアクトレスでもサッカーボーイでもバンブーメモリーでもオグリキャップでもなかった。優勝はそいつらに任せるとして、熾烈な二着、三着争いが安田記念であるいはマイルチャンピオンシップで繰り広げられていることにどれだけの人が気づいていただろう。何をかくそう、ホクトヘリオスのライバル、それはミスターボーイでありセントシーザーでありシンウインドでありミスティックスターでありリンドホシだったのだ。二着、三着を繰り返す豪華な顔触れ、世に名高い脇役軍団である。  セントシーザーはモバリッズ、ミスティックスターはハンターコム、シンウインドはウエスタンウインド、リンドホシはサンディクリーク、みんな代表産駒という肩書を背に産駒の運命をかけて走る。走れども走れどもG㈵に届かない。透明な壁が先頭をいく馬との間にそびえている。それを乗り越えたいのだけれど、どうしても乗り越えられない。脇役軍団はものすごく厳しい闘いを強いられて、ちょっと悲しい。  ホクトヘリオスは五、六歳時、十八戦一勝、二着三回三着六回四着四回。二から四着を合わせると十三回になる。ああ、なんていう成績だろう。応援しているわたしの身にもなってほしい。脇役軍団の馬を好きになった人はみんなおなじ思いだった。こんどこそ勝てる。今日は勝てる。いつもいつもそう思ってレースを見守っているのに、ヘリオスは最後方を追走、直線すごい脚で追い込んでくるが届かないのであった。  ホクトヘリオスのファンをやってると人間丸くなります。それに辛抱強くなります。そんな愛あふれるわたしでさえ、もうコイツの応援するのをやめてやる! と思ったことが一度だけある。それは平成元年六月三日のパラダイスステークスである。  このレース、なんとホクトヘリオスは単枠に指定された。メンバーはアドバンスモア、ノーシークレット、ケープポイント、アイノマーチ、シノクロス、アイビートウコウ、インターシオカゼ、グリンモリー、マティリアルの十頭。府中の千六百メートル。トップハンデ五十九キロはちょっと重いが、安田記念四着のあとでは負けるわけにいかないメンバーだった。相手はただ一頭、一年七カ月の休養明けを叩いて二戦目のマルゼンスキー産駒グリンモリーである。ホクトヘリオスは単勝一・九倍、グリンモリーは単勝二・六倍。わたしはホクトヘリオス—グリンモリーの4—8一点に土曜日のオープンにしては破格の金額を投じたのであった。悪いけど今日は勝たせてもらいます。今度こそはの意気込みで府中のゴール前に陣取った。  アイノマーチ、シノクロスと大好きな馬が出ているだけにホクトヘリオスだけに集中することは困難なレースであった。差す競馬を覚えさせられたためだかなんだかアイノマーチは混乱してかつての気持ちいい逃げを見せなくなっており、シノクロスにいたってはかわいいばかりでハイペースにはついていけず後方儘のレースが続いていた。今日も一生懸命走ってはいるのだがどうもいけない。などと、心配ごとの種は尽きない。さて今日の敵グリンモリーはちょうど真ん中あたりを走る。ホクトヘリオスはいつものように一番後ろ。あんまり離されていると追い込んでも届かないぞという不安と、このメンバーなら大丈夫という気持ちがないまぜになってどきどきしながらホクトヘリオスの姿を追うと、これがいつものポーカーフェイスで落ち着きはらっている。直線でグリンモリーが鋭く抜け出し、前を捉えにかかる。ホクトヘリオスはようやくエンジンがかかった。どんどん追い抜いてやってはくるが、グリンモリーには届きそうもない。だから言わんこっちゃないんや、まあグリンモリーに負けるぐらいはしかたがないか、と思っていると、もう一頭いる。なにあれ、まさかまさか……、そのまさかのインターシオカゼが粘っているのだった。うそでしょう、相手はダート馬じゃない! 負けちゃだめよ、ヘリオスがんばれ!  叫ぶ声もむなしく、ホクトヘリオスはグリンモリーに届かず、インターシオカゼにも負けて三着。もちろん4—8はただの紙くずに。このときばかりはわたしもあったまにきた。なんで安田記念で四着なのにパラダイスステークスでも三着にしかなれないわけ。え、メンバーがどうでも三着を目指してるっていうの? 勝っちゃいけないとでも思ってるのかね。そりゃあグリンモリーは強い。それはわたしも認める。だけど、なんでインターシオカゼにまで負けるの。ああいやだいやだ。もうあんたなんて金輪際応援してやらないから。ブーブー言いながらほんとに情け無い気持ちで家路をたどったわたしであった。  追い込んで届かず。それがホクトヘリオスである、とひとは言う。夏休みのあいだずっと遊びほうけていて、ふと気がつくと八月も終わり。あせって猛然と宿題をやりはじめるが、できるのはいつも二学期の始業式の次の日。そういう奴である。なぜもっとはじめから計画的にやらないのか。そうだ。どうしてあんなに後ろの方を走っているんだ。テレビにだってぜんぜん映らないじゃないか。ホクトヘリオスの出ているレースはほとんどビデオにとってあるのだが、肝心の直線になるととたんに姿が消えてしまう。先頭がゴールする瞬間、画面の一番手前で大外から鬼のようにやってくるのがちょこっと映るだけである。さみしい。ほんとにさみしい。ひとはいつもその直線一気の差し脚を見てうなるけれど、ヘリオスを見ているとレース全体の様子なんてほとんどわからない。あの、オグリキャップとバンブーメモリーが直線激しく競り合った歴史に残る名勝負であるところのマイルチャンピオンシップでさえ、ホクトヘリオスの姿を追っていたわたしにとっては、またヘリオスが追い込んで届かずの三着に終わったレースにすぎなかったのである。  もし届けばどんなに気持ちのいい勝利だろうと思わせるその末脚は、脇役軍団の中でただ一頭、もしかしたらG㈵をとれるんじゃないかなと期待をいだかせるに足りるものなのだけれど、わたしがほんとうに好きなのは、それよりなによりそのレース中のポーカーフェイスなのだった。  そうなのである。わたしがホクトヘリオスに惚れちゃったのは、表情ゆたかなパドックの姿がレースにいってガラリ一変、まったくのポーカーフェイスになるからなのだった。スタート直後も、道中しんがりをひとりぼっちで追走しているときも、直線一気にやってくるときも、ヘリオスは同じ顔。おまけに乗ってる柴田善臣もクールで無表情。だからものすごく変だ。変だけどカッコイイ。絶対に焦ったりしない。あのメンコの下にすべてを隠して走るヘリオス。いったいあなたは何を考えていたのだろうか。  雪が降った。平成二年二月。東京新聞杯である。追い切りでホクトヘリオスは物見したらしい。メンバーを見るとダイワダグラスとアドバンスモアが出ている。どっちも逃げる馬だ。ハイペースになればこのメンバーだとチャンスはある。大した馬は出ていない。人気はカッティングエッジだろうが、相手はリンドホシだ。わたしはほくほくする。ひさしぶりにホクトヘリオスの勝てるところが見られるかもしれないというのに、源一郎さんは約束があって競馬場に行けないという。しかたなくテレビを見る。  雪の残る東京競馬場をホクトヘリオスが後方から三頭目で追走している。ポーカーフェイスもだいぶ白くなった。そうか、明けてもう七歳だったなあ。ダイワダグラスとアドバンスモアがハイペースを刻んでいる。直線入口でビフォアドーンが故障。ホクトヘリオスは最後方で外に持ち出そうとしているらしいが、ふいに画面から消えてしまう。リンドホシが先頭にたって二番手にスカイジャイアント、ホクトヘリオスはまだ映らない。このままゴールかと思われたとき、いきなりホクトヘリオスが大外から追い込み、並んだと思ったら抜き去った。ああ、やっと勝てた。新潟で京王杯オータムハンデを勝ってからなんと一年五カ月ぶりの勝利である。からだの力がふーっと抜ける。善臣がヘリオスの首をポンポンと叩いた。そのシーンが夢みたいだった。いつもいつも見ていた夢。いかにもホクトヘリオスらしい勝ち方だ。  そして三月、中山記念。八頭だてはチャンスだった。しかし中山の千八百メートル。まるで実績がない。源一郎さんはちょっと無理だと言う。わたしもそうかなと思う。パドックで見るホクトヘリオスは七歳とは思えないほど若々しく、肩のあたりもぶるぶると調子はよさそうである。回っているうちに首を上下に振り始めた。腰のあたりは桜色だ。 「調子いいよ」  源一郎さんに報告するわたしはといえば、ホクトヘリオスの三枠の色赤のスカートと赤のジャケットを着てまっかっかである。三番の単勝、複勝を買い、それにレディゴシップとの3—5、キリパワーとの3—4を足す。ランニングフリーもアンシストリーもメジロモントレーも無視無視。  ケープポイントが逃げて後続が離される。離されてもホクトヘリオスはなんていうこともない。しかし今日はいつもと違って中団につけている。四コーナーを五番手でまわった。いつもならここで外に持ち出すところだが、そのまま内を進む。直線に入って他の馬にも目がいった。逃げるケープポイントはもうだめだろう。あれ、あとはレディゴシップとランニングフリーか、問題ないじゃないか。ターボがかかった。勝てるぞ、勝てる。わたしは無言で起立した。笑いが止まらない。直線差してくるホクトヘリオスに向かって大きくVサインを突き出す。やればできるじゃない! なんなく他馬を抜き去りホクトヘリオスが先頭でゴールインする。ゴールインと同時に柴田善臣の右手が上がった。そしてもう一度ヘリオスの首を大きくポーンと叩いて、珍しく観客に向かって左手を上げた。ゴーグルの中で目が笑っているように見えた。ちょっと左に曲げたホクトヘリオスの顔がそのとき崩れた。いつものポーカーフェイスが消えて、誇らしげに口を歪めたのだ。  わたしの愛した昭和五十九年組は弱いと言われてきた。タマモクロスは五歳で早々と姿を消していたし、ホクトヘリオスと同期でG㈵戦線で活躍しているのはイナリワンぐらいである。だがイナリワンにしてもあるいはタマモクロスにしてもクラシックを共に戦ってきた仲間ではない。サクラスターオー、マティリアル、ゴールドシチーはこの世を去っている。メリーナイスは他世代に勝てないまま引退していった。孤独なホクトヘリオスの七歳になっての重賞二連勝。競馬を始めてからこんなにうれしかった時期はない。はからずも中日新聞杯で、若い内田浩一騎手に乗られて同じ七歳のドウカンジョーが勝ち、喜びは二倍になった。しあわせな春がわたしにだけ早くおとずれたようだった。  しかし安田記念はオグリキャップの前に五着と完敗。宝塚記念はやはりホクトヘリオスには距離が長かったのだろう。結局ホクトヘリオスは柴田善臣にG㈵勝利をプレゼントすることができなかったのである。それにしたって生涯成績三十四戦六勝。新馬を除くとすべて重賞勝ちだったのだから立派なもんでしょ。  わたしはホクトヘリオスと柴田善臣騎手を好きになったことで、いままで知らなかったいろんなことを覚えられたと思う。競走馬の血統、脚質、体型、距離適性、馬場適性、レース展開、ローテーション、騎手の性格、競馬場の特徴、サラブレッドの筋肉の動き、放牧の意味、笹針とは何か、パドックで馬を見る方法、ハンデの影響等々。みーんなホクトヘリオスが教えてくれたのだ。だからホクトヘリオスが引退してとてもさびしい。なんていうか、ホクトヘリオスがいなくても競馬がずっと続いていくのが不思議な感じで、そりゃあおもしろいレースもたくさんあるのだけれど、どことなくひとごとみたいで一歩下がって眺めてしまう。ヘリオスは丈夫だったからねえ。そういえば一度も故障していない。いつまでもいつまでも走るような気にさせられていたのだろう。けれどもう走ることはない。走る姿を二度と見ることはできない。こうなってみてはじめて、自分がどんなにこの馬が好きだったかを思い知らされたみたいだ。ずいぶん善臣の悪口も言ったもんだ(ごめんなさい、愛と憎しみです)。ホクトヘリオスのおかげで何度なさけなくくやしい思いをさせられたか。それでももし、どれでも好きな馬をあげると言われたら、わたしは迷わずホクトヘリオスを選ぶだろう。陳腐な表現でバカみたいだけど、ホクトヘリオスはわたしにとってほんとに特別な馬なのだ。  去年の夏、北海道浦河にある斉藤牧場を訪ねた。ホクトヘリオスの故郷である。そこにはホクトヘリオスの自慢の妹ホクトビーナスと母ホクトヒショウがいる。ホクトヒショウは真っ白で恐ろしく美人だった。ヘリオスはヒショウに似ているのかしらと思ったとたん、自分がホクトヘリオスの素顔を見たことがないのに気がついた。メンコをつけている顔しか知らない。頼めば会いに行くこともできたのだろうが、わたしはそれをしなかった。目を閉じればどんなときでも、ホクトヘリオスの走る姿を思い浮かべることができる。だからべつに会いに行く必要なんてなかったのだ。 [#改ページ]  十三レースを待ちながら  新しい年は金杯で明ける。今年はカリブソングが勝った。マルゼンスキーの子、好きな馬だ。でも当たらない。くやしいことにわたしは金杯を当てたことが一度もないのである。いつも金杯には弱いくせにかわいいお気に入りの馬が出てきてしまうからだと思う。一年の最初だから気合いは入っているのだけれど、ついついうれしくて好きな馬同士の馬券を買ってしまうのである。カリブソングはよかったが、相手に選んだユキノサンライズがよくなかった。逃げて逃げて男どもにつかまってしまったのである。しかしユキノサンライズほどかわいければ負けてもいいか、なんてもう許してしまっている。甘すぎるでしょうか。  最終十二レースが終わって十一万も集まった観客もほとんどいなくなった。源一郎さんは明日の予想原稿を書いている。ときどき原稿を書く手を休めてはもう何も走っていない馬場をじっと見つめている。G㈵があった日はたいてい最終レースが終わったあとで、記者席のテラスに座り、観戦記を書いている源一郎さんを待つことになった。有馬記念の日もそうだった。夕闇につつまれた競馬場を見おろしながら黙って座っていると、いろんなことを考えてしまうのである。  オグリキャップが引退レースとなった有馬記念を劇的な勝利で飾ってから、まだ二週間しかたっていないというのに、それはものすごく遠い過去のレースに思える。あまりに多くの人とあまりに多くの場所で、奇跡の有馬記念について語りあったせいだろうか。  オグリキャップといえば、わたしたちはオグリキャップの生まれ故郷、三石町の稲葉牧場に泊めていただいたことがある。これは生涯の自慢だわね。その夜、源一郎さんとサンスポの加藤さんと山際牧場の山際さんと一緒にジンギスカンを食べながら飲み、競馬談義が続いたのであるが、なぜか稲葉さんを前にして「わたしはオグリキャップが大好きです」と、どうしても言えないでいた。とても恥ずかしかったのだ。オグリキャップを好きだというその言葉の意味が、妙にへんてこりんであやふやなものに思えたからなのだ。  競馬記者の中にはどうしてもオグリキャップのことをよく言わない人がいる。よく聞いてみると「オグリキャップが好きだ」という女の子と一緒にされるのがいやみたいだ。その気持ち、なんとなくわかります。わたしはこーんなにオグリキャップのことが好きなんだよおなんて、おじさんだったら言わないだろう。実際、わたしはホクトヘリオスのことが好きだったけれど、人にそれをアピールしたことはあまりない。だから有馬記念の日、オグリキャップのぬいぐるみに毛糸で編んだマフラーと帽子をつけて大事に抱えている女の子を見たとき、ああ、なんか負けちゃったなあと思ったのだった。  でもでも、わたしもオグリキャップのことが好きだ。ニュージーランドトロフィーで、わたしの好きなリンドホシを馬なりで完膚なきまでに叩きのめしたオグリキャップの強さにすっかり参ってしまって以来、自慢じゃないけど、オグリキャップの馬券を買わなかったことは一度もない。ジャパンカップの2—2とりました。その中でも好きなレースはオグリキャップ四歳の有馬記念である。あの有馬記念は不思議なことに岡部騎手の顔ばかり見ていたような気がする。いま考えても思い出すのは岡部さんの顔ばかりだ。あの日はほんとうに珍しく岡部さんがレース前から笑顔だった。それにいつもとちょっとちがって岡部騎手そっくりの冷静で賢そうな表情をしたオグリキャップは、まるでレースを楽しんでいるかのように走り、タマモクロスに勝ってニヤリと笑ったのだ。このときわたしは、この馬がほかの馬とは全く異なるのを知った。オグリキャップのライバルは馬ではなく、彼に乗る騎手なのだ。  オグリキャップの人気は、そのむき出しの闘志と勝負根性にあると言われるが、もうひとつ彼の逸脱した存在のしかたに負うところが大きいと思う。つまるところ、オグリキャップはいつもいつも何か正しくないのである。クラシック登録がなくダービーに出られなかった四歳、マイルチャンピオンシップの後連闘でジャパンカップに出走した五歳、休養明けで安田記念を勝った六歳の春、天皇賞、ジャパンカップと凡走し非難の渦の中で有馬記念を勝った六歳の秋冬。つねにオグリキャップの存在様式は間違いをはらんでいた。「ほんとうならば……」とみんなが言った。「かわいそうなオグリキャップ」と女の子たちは泣いた。しかし、オグリキャップはただ競馬という世界の現実をみんなに思い出させただけなのだ。間違いはオグリキャップにあるのではなく、オグリキャップが世界の間違いを浮き彫りにしただけなのである。  絶対勝てないと思ったのに勝ったマイルチャンピオンシップ、ホーリックスを追いかけて追いかけてそれでも届かなかったジャパンカップ、武豊を背に他馬を子供扱いして勝った安田記念、イナリワンとのたたきあいが激烈だった毎日王冠、どのレースをとってみてもほかに例を見ないほどおもしろい。なのに、目をとじると浮かんでくるのは、六歳秋の天皇賞。直線馬群に沈むオグリキャップの妙に真っ白な顔。このとき初めてオグリキャップが一頭の馬だということを思い出し、それが悲しくて泣いたのだった。  わたしは持ってきた文庫本をひろげた。いつもは海外のSFだけれど、今日はスタインベックの「赤い子馬」という短編集である。もし競馬を知らなかったら、この本を読んでもただの感動的な話で終わっていただろうなと思う。  四歳馬にとってダービーを目指す闘いはすでに中盤を迎えている。ダービーは楽しい。ダービーはうきうきする。ダービーは特別だ。今年のダービーは何が勝つのだろう。そんなことを考えるだけで半日はすぐに過ぎてしまう我が家である。  ダービージョッキーはかっこいい。独特のかっこよさである。六馬身の圧勝だったメリーナイスの根本騎手もかっこよかったが、わたしが見た中でいちばんかっこよかったのはサクラチヨノオーの小島太騎手。ゴールした瞬間の手の動きが最高だった。鞭の振り上げ方も最高、いやあかっこよくてまいったね。  去年のアイネスフウジンの中野騎手は、喜びをかみしめる姿がこっちまでしんみりさせてしまった。ナカノコールが起こったとき、わたしも源一郎さんも「ナ・カ・ノ、ナ・カ・ノ」と思わず叫んでしまったが、そのときわたしの目はアイネスフウジンの姿に釘づけになっていた。 「アイネスフウジンが死んじゃう」  わたしは源一郎さんの腕をぎゅうっとつかんで言った。ほんとにそう思った。二千四百メートルを逃げ切ったアイネスフウジンは、疲れきっていまにも死んでしまいそうだった。わたしはアイネスフウジンの母テスコパールの奇跡を思い出した。  このことはいろんな雑誌などに紹介されたので知っている人も多いだろうが、かいつまんで話そう。アイネスフウジンの母テスコパールは二歳の春にひどい下痢で診療所に入れられた。獣医の先生が手を尽くしたがよくならず、そのうち骨と皮だけになって顔にたかったハエも追えず、尻の穴もひらきっぱなしになってしまった。アイネスフウジンの故郷中村牧場の中村吉兵衛さんは、どうせだめならうまいものを食べさせて死なせてやりたいからといって、診療所からテスコパールを連れて帰ってきてしまった。診療所の先生とはもめたらしい。強引にひきとってきたテスコパールに好きなだけ水を飲ませ、うまいものを食べさせたらだんだんよくなってきて、三歳の秋には下痢もしなくなったというのである。もし、このときテスコパールが死んでいたら、当然アイネスフウジンはこの世に存在しないわけで、ダービーは違う馬が勝っていたのだから不思議なものである。  中村吉兵衛さんは肉を口にしなかったというくだりを読んで、なぜか感動してしまった。わたしはテスコパールがいかに幸運な馬であったかを思い知ったのであった。このテスコパールの奇跡の話を読んでからというもの、どこへ行ってもこの話題を出した。妙に忘れられない話だった。  ダービーを前に井崎脩五郎さんと鈴木淑子さんと源一郎さんとわたしの四人で対談をする機会があった。わたしは井崎さんに、アイネスフウジンを推したいが距離はどうだろうと尋ねた。井崎さんは逃げ切るのには長いんじゃないかと言った。それを聞いて源一郎さんはぼくもそう思うと言った。源一郎さんはメジロライアンを応援しつづけているのであった。でもね、わたしは朝日杯か阪神三歳ステークスを勝った馬が、ダービーを勝つと思うのだと言った。それじゃあアイネスフウジンよりまだコガネタイフウのほうがこわいかも知れないと言われ、すっかりその気になってしまったわたしは、他の雑誌の取材でコガネタイフウの名を挙げてしまったのであった。  しかしダービーのパドックで見るアイネスフウジンは、別格であった。距離がなんぼのもんじゃい、パパはシーホークやで、二千四百くらい逃げ切ってやろうやないか。そういう雰囲気だった。源一郎さんがたとえメジロライアンだと言っても今回はゆずれない、そういう気分だった。コガネタイフウごめんなさい、またいつか買うこともある。わたしは愛でメジロライアンの単勝を買い、本気でアイネスフウジンの単勝を買った。  アイネスフウジンが逃げ切った。追い込んで届かずのメジロライアンをくやしがる源一郎さんも、素直に負けを認めた。そしてナカノコールが起こる。  走っているとき、馬の心拍数は少なくとも普段の七倍に達し、一秒間に四回も心臓がどくどくと鼓動するといわれる。走り終わったアイネスフウジンがすっかり消耗しているように見えても不思議はなかった。それにしてもあんなに疲れた馬の姿をわたしはいままで見たことがない。燃え尽きるという言葉を、目の前にしている。アイネスフウジンはきっとターフに戻ってこないだろうと思った。  夏になってアイネスフウジンの早すぎる引退を告げるニュースが聞こえてきたとき、だからわたしは驚かなかった。死の淵から甦ったテスコパールから生まれたダービー馬。今度は父となって、その幸福な奇跡を子供に分けてあげるがいい。  社に送る原稿を書く記者たちも、ときどき手を休めては馬場を見おろしている。有馬記念の終わったあとは、原稿を書かずにぼんやりコースをながめている記者も多かった。同じレースでもそれぞれで記憶が違うものだ。思い出も違う。だからおもしろい。  平成二年の桜花賞は、阪神競馬場のゴール板前で見た。日帰りで飯干恵子嬢と遠征したのである。わたしはすべてのレースの中で、桜花賞がいちばん好きだ。満開の桜の下を、まるで生死を賭けているかのように必死で走る牝馬たち。勝つのなら桜花賞しかない、という少女もたくさん出ていて、その切羽詰まった感じがひしひしと見るものの胸に迫り、たとえようもない緊張感を生む。アグネスフローラとケリーバックでなんなく決着がついたかに見えるレースも、道中二頭の落馬があり結果からは想像もできないきびしいサバイバルゲームだった。  桜花賞といえば平成元年第四十九回桜花賞ぐらいわたしの記憶に刻みこまれたレースもほかにない。それはホクトビーナスという一頭の馬のせいである。  単枠に指定された武豊騎乗のシャダイカグラが、神様のいたずらか大外十八番枠をひいたときから、わたしの胸は期待に張り裂けそうだった。それは柴田善臣騎乗のホクトビーナスが桜花賞をとれるかもしれないという大きな期待だった。一月、府中の新馬戦を見に行ったわたしたちは、ホクトビーナスが兄のホクトヘリオスとは全然ちがうタイプなのに驚いた。黒光りする美しい馬体はヘリオスより大きく、グラマーで利発そうなこの美少女は、マルゼンスキー産駒らしくスピードにまかせてダート千四百を楽に逃げ切った。二月のうぐいす賞も逃げ切り、リアルサファイアをしりぞける。このレースを見て、桜花賞は間違いなく勝ち負けになるだろうと源一郎さんがにこにこしながら言った。わたしにはわからなかった。ホクトビーナスの勝つ姿をデビュー前からあまりにもたのしみにしすぎていたせいか、噂にたがわぬ強さが嘘のように思えたのである。  桜花賞を控え、そんなに気になるのなら阪神競馬場まで行こうじゃないか、と源一郎さんは言ってくれたが、わたしは万が一故障でもしたらとても耐えられないのでいい、と断った。カッティングエッジ、リアルサファイアの故障リタイアで、東の期待は四歳牝馬特別を勝った芦毛馬コクサイリーベにかかってきた。四歳牝特の二着がタニノターゲット。三歳牝馬ステークスでシャダイカグラを破った馬である。ところが神様はいたずら好きで、このコクサイリーベとホクトビーナスを同じ二枠に入れてしまったのである。  当日は晴れたが、馬場は稍重である。一番人気は単枠指定のシャダイカグラ、単勝二・二倍。ついでアイドルマリーの七・九倍。三番人気がコクサイリーベで、タニノターゲット、ファンドリポポに次いでホクトビーナスが九・三倍で六番人気となった。連勝人気はアイドルマリー、ファンドリポポの並ぶ3—8が一番人気、ホクトビーナスの二枠はコクサイリーベのおかげで二番人気、2—8は六・二倍と低くなった。2—8を買うときに、わざわざわたしはホクトビーナスから買ってるんですよ、と言いたくなる。枠順はいい。パドックの様子も申し分ない。単勝四番を期待を込めて買う。ホクトビーナスの死角はただひとつ、芝コース未体験にあった。さんざん考えた末、複勝を買い足した。  朝から異常なほど落ち着きのないわたしを見て、源一郎さんが馬主じゃあないんだからと笑った。ほんとうにそうだ。こんなことじゃあ、いくら金持ちになってもとても馬主なんかにはなれそうもない。とにかくテレビの前のソファーに座り込み黙って画面を見ていたが、出走間際になると自分が走るわけでもないのに緊張で気分が悪くなるほどだった。  スタートでシャダイカグラとファンドリポポが出遅れる。ホクトビーナスは七番手。いったん最後方まで下がったシャダイカグラが内をついて中団に追いつき、向こう正面でビーナスのすぐ後ろまで来ているのに気がつく。しかしホクトビーナスはきっちり折り合っている。どうみてもビーナスがいちばんいい。三コーナーで外を回ってスパートし出したホクトビーナスは、するすると馬群を抜け出し四コーナーを四番手で回った。先行馬でこわいのはタニノターゲットだけである。すぐうしろにはシャダイカグラが来ているが、もう泥だらけでかなり脚をつかっている。直線でホクトビーナスはタニノターゲットを抜き去ると先頭にたち、シャダイカグラをひき離しにかかる。わたしは声も出ない。勝てる、そう思ったとき、泥だらけのシャダイカグラが武豊の鞭に応えて一歩ずつ差を縮めて来たのだ。ビーナス、つかまるんじゃない! 善臣、がんばるんだ! ここで勝つのと負けるのじゃあ雲泥の差なんだよ、そのまま逃げ切れ!  テレビではわからなかった。馬体が合ったところがゴールに見えた。しかしどうみてもシャダイカグラの方に勢いがあった。わたしは窒息しそうだった。心臓は止まってしまったかのようで、全身が冷たくなっていた。くいいるようにリプレイされるゴール前の画面を見ているわたしの肩を源一郎さんがそっと叩いた。 「残念だったね」  その声で我にかえった。目の前がぼーっとしてきたのは涙のせいだが、いつもならこぼれてしまう涙をわたしはこらえた。頭差の二着。最後の一完歩で変わったようだ。ビーナスよ、今日が桜花賞だということをおまえはわかっていたのだろうか。ただただくやしくて、初めて武豊をにくたらしいと思った。同じ思いが柴田善臣に対してもわきあがってくる。  その日から何度このレースのビデオを見ただろう。何度見てもそれはシャダイカグラの勝った桜花賞で、何度見てもホクトビーナスは負けるのであった。もし一度だけでも芝をつかっていたら勝てたかもしれない。キャリアの差が出たのだ。堂々と追い込んでくるシャダイカグラにくらべ、ホクトビーナスのなんと子供っぽかったことだろう。しかし、その後のシャダイカグラの活躍を見るたびに、ビーナスはとてつもなく強い馬だったのではないかという思いが増すばかりであった。  脚部不安のためオークスを断念し、結局そのまま引退してしまったホクトビーナスに会いに行ったのは去年の夏である。黒々していた毛色はピンクっぽいグレーになり、あの桜花賞の姿からは想像もできないほど立派なからだに成長していたビーナス。おなかにはミルジョージの子がはいっていると聞き、狂喜する。これは絶対に走るぞ。源一郎さんは目を細めて言った。桜花賞の直線を思い出しながらホクトビーナスの鼻づらをなでる。そのときはじめてくやしさがもっとやさしい思いに変わるのを感じた。いい子を生んでね、おかあさんのホクトヒショウに負けないほどの名牝になるんだよ。そんな気持ちでいっぱいになった。  くやしかった桜花賞の日から何百日が過ぎ、このごろになってようやくホクトビーナスの負けた理由を言えるようになった。それはあの大外十八番枠をひいた単枠指定馬シャダイカグラに、武豊が乗っていたからだ。そして、これがわたしにできる精一杯の武豊への最大の讃辞なのである。  最近やっと血統の勉強にとりかかった。源一郎さんとサンスポの加藤さんが先生で、これがほんとうにおもしろい。この魅力にとりつかれて、多くの人が馬に人生をかけるというのもうなずける。先生はとにかく血統を自分で調べるようにとおっしゃった。だからわたしは毎日何度も血統事典をひいては読み、ひいては読みしているのである。事典の方には馬の絵が載っていないのでつまらないのだが、原田俊治さんの『世界の名馬』という本は絵入りで気に入っている。マンノウォーもテトラテマもプリティポリーも好きだけれど、一番好きなのはハイペリオンが最初の調教師ラムトン氏になついていたというエピソード。アスコットゴールドカップに出走するために本馬場に入場してきたハイペリオンが、辞めさせられたラムトン氏が車椅子に乗って観戦しているのに気づき、その場に釘づけになってしまったという話である。ハイペリオンにとってのラムトン氏になりたいなあなんて、思わずそう思ってしまうのだった。  去年の夏、馬産地の取材について行かせてもらってから、生産者の賭けに比べたら馬券なんて、ほんとちっちゃなギャンブルだなあと感じるようになった。レースなんて競馬の本筋から言ったら付属するものにすぎない、という意味もわかるような気がする。人間の手でつくりあげられたサラブレッドという生き物が、それでも人間の思惑どおりに生きてはいかないところが、最高にドラマチックであり、それこそが競馬の魅力なのだと思う。そしてそれにふりまわされる人間を見て、神様は大いに楽しんでいるのか。  とっぷりと暮れた競馬場は、驚くほど静かだ。競馬場の雰囲気について何かととやかく言われるこのごろだけれど、わたしは気にしていない。どんなことになったって、お馬がこのコースを走る限り、レースを見に来るつもりだもの。そんなことを考えながら、からっぽの馬場で好きな馬の幻を走らせてみるのである。いつも、いつまでも、十三レースを待ちながら。 [#改ページ]  競馬日記 九月九日(日)はれ  久しぶりに中山競馬場にやってきたら、だいぶ出来上がっていたのだけれど、つくりがごちゃごちゃしていて、ものすごく狭くなったような気がした。やはり競馬場は向こうまでズドンと見通す感じのほうが混雑が防げてよいのではないかと思います。  ところで今日はおとうさんがペーパー馬主になっているモガミタンパートと京王杯オータムハンデのトウショウマリオを応援しようと思って青い服を着てきたら、単なる勘違いで、二頭とも五枠だった。しかたがないので京王杯で四枠のオラトリオの複勝を買ったら、こいつが勝ってしまった。リンドホシはちょっとブタでだめだった。トウショウマリオはまたも復活できなかった。でもわたしは心の中でノノアルコの後継種牡馬はカシマウイングだと思っているので、トウショウマリオが負けても別にものすごく悲しいわけではありません。 九月十五日(土)雨  今日はモノポリー大会です。メンバーはハナブサ、小雪、小西、真由美、源一郎、直子の六名。ものすごく白熱してしまい、寝るのが明け方の五時ごろになってしまう。わたしはいつも破産してしまうので、性格に問題があるのではないかと思う。もう眠くてぐちゃぐちゃになっているのに、わたしひとりそれからお風呂にはいった。お風呂からあがるとみんなもう寝ていて、おとうさんの寝顔が不機嫌そうだった。どうしてもお風呂にはいりたいというわたしに、あいそうがつきたのだろうか。それとも今日、本命にしていたバイエルがぜーんぜんこなかったので、しらけているのだろうか。どっちにしても、バイエルなんて来るわけがないのに。(と、口に出して言ってしまった。) 九月十六日(日)雨のちくもり  オールカマーである。オカマ馬ばかりのレースである。ウソウソ。これは地方から公営競馬の優秀な馬が招待されて、えっちらおっちらやってくるのである。だからもう、ぜーったいにあたりっこないのである。おまけにメジロアルダンとドクタースパートが久しぶりに出てきていて、なんだかよくわからなかったのである。パドックではアウトランセイコーとフレッシュドリームとリアルバースデーがよく見え、アルダンは肩のあたりがげっそりしているようだった。もうひとつおまけにアルダンの岡部騎手は、8レースのウメノブラボーに乗ったときに落馬して、菅原泰に交替してしまったのである。でもわたしはアルダンに負けてほしくなかったし、的場さんにも勝ってもらいたかったし、ミナガワイチザンにもいいところをみせてほしかったので、5—6・1—6・6—7とミナガワイチザンの複勝を買った。結果はラケットボールとジョージモナークの5—8で六十倍以上もついた。恥ずかしいことだけど、わたしはずっとラグビーボールってあんな寸づまりな馬だったっけ、と思っていたのですが、それがラケットボールだったのです。 九月十九日(水)はれのち台風で大嵐  ホクトヘリオスが今日北海道へ旅立つのだそうだ。わたしがしょんぼりしていると、「しかたがない、こんど北海道へ会いに行ってあげよう」とおとうさんが言った。ちょっとなぐさめっぽかったので、まじめがおで「ほんとだね」とわたしが念を押すと「ほんとほんと」と小さく答えた。超大型の台風十九号のせいで夕方からものすごく風と雨がひどくなって、「ヘリオスは無事に着いたかなあ」なんてばっかり言っていた。でもよく考えるとどうやって行くんだろう。車かなあ、だったらどうやって海をわたるんだい。やっぱり飛行機なんでしょうか。おとうさんに聞くと「外国から来る馬は飛行機だ」と言う。そんなのあたりまえだ。ヘリオスがどうやって北海道へ向かったかわからないまま無事を祈ったのである。 九月二十三日(日)秋晴れ  どんなわけだか、うちのゲンちゃんは昨日も今日も中京競馬場で勝負しておいでだ。いちおうおしごとのついでに行ったということである。ゆうべの電話では、いやあ中京はカンタンだよ、なんて言っていたくせに、今日はぜんぜんダメらしい。「武豊がやたらくるねん。あいつ天才ちゃうか?」といきなりの関西弁もみじめっぽい。神戸新聞杯では、サンスポの芹沢さんと水戸さんのダブル本命のセンターショウカツとかいう馬が勝ったのである。うーん、意味ぶかい。そういえば、ゴールドシチーがマックスビューティに負けたのも神戸新聞杯だったっけ。今日もオークス馬エイシンサニーが出走していたのだけれど、五着に負けてしまいました。顔がかわいい分、負けちゃうのよね。一方セントライト記念はホワイトストーンの大楽勝。ダービーまではシービークロスの子って感じで細くってちょっとか弱い印象だったのが、いきなりの十六キロ増。まるで違う馬みたい。名古屋駅から傷心コールをしてきたゲンちゃんに、「ほんとは宝塚記念に出てたのがホワイトストーンで、セントライトに出てたのがオグリキャップなんだよ」と言ったら、「そうかあ。オグリキャップに四歳馬がかなうはずないよなあ」だって。みじめの上塗りでした。 九月二十八日(金)くもりときどき雨  コクサイトリプルが引退したらしい、とおとうさんが言う。引退してどうなったの? ツジノショウグンなんて地方へ行ったんだよ、とわたしが言ったら、カゲマルなんて毎日王冠に出てくるんだよ、とおとうさんが言い返した。いやになるなあ。 九月二十九日(土)くもりときどき雨  飯干恵子ちゃんに誘われてトゥインクルレースへ。もうすごい数のカップルカップルカップルカップル……。それになんだかわかんないワンレンボディコン鎖骨出しハイヒールの女組。ああ、いったいここはなんなの? いちおう若い女性っぽいわたしでさえ、なんとなくいごこちが悪い思いをした。それでもって最終レースは3—5か5—8かの写真判定となった。おとうさんは5—8と3—5の両方を持っていたのだが、3—5の方だと五倍、5—8だと二十八倍見当とあってどうしても5—8になってほしかったのである。それに対して残っている人の大半は3—5でおさまるのを待っていたわけで、しかしどう見ても5—8だね、なんてまわりのおじさんおばさんたちとも話していたら、どういうわけか長時間にわたる写真判定の末、いっきなり「同着」の放送。疑問が残った。おとうさんは「それはないぜ」おじさんになりさがり、わたしと恵子ちゃんはハナから3—5にも5—8にも関係なかったので、ひたすらしらけており、「ケイコバンねえ、種牡馬になったんだよお」「あ、そうなんだ。よかったあ」なんて、まるで関係ないふりをしつづけていたのであった。きわめつけは一緒に行ったMくんで、3—5を持っていたにもかかわらず、その馬券を捨てようとしたのであった。どっちにしても、わたしと恵子ちゃんはハズレていたので関係なかった。 九月三十日(日)台風で暴風雨  クイーンカップである。ビクトリヤシチーが出てくるのである。しかし眠くて眠くておまけに台風でよこなぐりの大雨である。「ねえ、おとうさんいくのお?」「どうしようか」「わたし、行かない」「ぼく行くよ。だってもう行くって言っちゃったもん」「うそお、だって台風だよ」「台風だって、馬は走るの」「ビクトリヤシチーも走る?」「走るよ」「じゃあやっぱり行く」。というわけで、泣きながら競馬場へ向かった。道中、なぜこんなにまでつらい思いをして競馬をしなくてはならないのだろうか自問しつづける。おとうさんは「それが競馬道というものだ」と言う。サンスポの西島さんに「今日みたいな日に来るのは、よく言えば根っからの競馬好きだけどさ、ふつうは来ないよね」と言われてしまう。でも、はっきりいって今日のわたしはビクトリヤシチーのためだけだ。  ビクトリヤシチーはゴールドシチーの妹で、ものすごくかわいく、夏に函館で鼻づらをちょっと撫でさせてもらった馬である。オークスでも応援したが、四着だった。ゴールドシチーの下なので人気がある。勝ってエリザベス女王杯へ駒を進めたいところだけれど、もうめっちゃくちゃの大雨で馬場はたんぼどころの騒ぎじゃない。ビクトリヤシチーはまた体重が減って四百十六キロしかなく、こんな不良馬場ではただもう無事に走ってきてほしいと思うだけ。馬券のほうは持ち時計のいい方からウィナーズゴールドとビクトリヤシチーの5—7中心でそれでもビクトリヤシチーの単・複も買った。ウィナーズゴールドが勝つよ、と言っていたらウィナーズゴールドが勝ってしまった。ビクトリヤシチーは道中行きたがって馬の間に突っ込んでいっちゃったりしてハラハラしたが、がんばって追い込んできて五着。ラビリンスなんてとってもちっちゃくてかわいそうだった。競馬場内のショップでタマモクロスのぬいぐるみとダービーなどのビデオ三本を買う。帰りは豪雨だったのに、いつものようにオケラ街道を歩いて帰った。だれも歩いていなかった。わたしはタマモクロスを背中にしょっていた。びっしょり濡れていやになっちゃった。雨の中をいやいや走るおうまの気持ちがわかった気がした。 十月五日(金)くもりのち雨  カシマウイングの引退が発表された。種牡馬になるそうだ。シャダイカグラのおじさんだから、結構人気が出るかもしれない、とおとうさんが言っている。ほんとうによくがんばったね。でも、もう会えないかと思うと悲しい。天皇賞、見に行ってよかったと思う。ヘリオスとのダブルパンチでひどく気落ちしている。今年いっぱいでオグリキャップもいなくなる。すごくさびしい。カシマウイングはヘリオスと同じ日高の門別に行くらしい。マルゼンスキーもいるから会いに行こう。というわけでとってもくらいわたしです。しかし、ヘリオスの弟のホクトフウジンがもうすぐデビューするらしいとの噂。父はブレイヴェストローマン。ペーパー馬主一位指名の馬なのでがんばってほしい。応援してまっせ! 十月六日(土)くもりときどきはれ  気温が二十八度まであがってすごく暑い。カゲマルが一年一カ月ぶりに出てきたオクトーバーステークス(毎日王冠は回避)。わたしの予想はカゲマルとオンワードガッツの1—8でしたが、カゲマルにすごく勝ってほしかったのでした。最後直線で先頭を走るカゲマルにセントビットがならびかけ、もう、カゲマルがんばれ! の大声援(テレビに向かってわたしが大声をあげていただけという話もある)。ながーい写真判定の末、ハナ差でセントビットの勝ち。オンワードガッツは四着でした。カゲマル、おしかったねえ。今日が勝てる最後のチャンスだったかもしれないのに……(そんなことないかなあ)。おとうさんはツルマイナスとカチウマホークの5—6だった。がっくりしていた。 十月七日(日)雨  昨夜寝る前に、イスの脚に自分の足をおもいっきりぶつけてしまったわたしです。きょうは毎日王冠、なんとしてもラッキーゲランに勝ってもらい、オグリキャップに勝ってしまったオサイチジョージに「あれはフロックよ」と知らしめてやりたい。だがしかし、きのうぶつけた右足が痛く跛行を起こしてしまい、わたしは競馬場に行くのをあきらめました。オサイチジョージとバンブーメモリーが単枠指定され、この人気二頭で順当に決まるというのが大方の予想でしたが、ジャニーズ系栗毛ハンサムのラッキーゲランと父オランテというそれだけで好きにならずにはいられないマキバサイクロンとあのドタドタと走る姿がどうしてもうちの肥満猫ヘンリーを思い出させてくれるバンブーメモリーの三頭を選び出したわたしは、1—5・5—7・1—7の三点およびラッキーゲランとマキバサイクロンの単勝という渋い馬券をおとうさんに託したのであった。天才! きのうに引き続きテレビの前でヘンリーを抱きしめ、ラッキーゲランがんばれ! がんばれ! と叫び続け、なんとラッキーゲラン、マキバサイクロンで決まってしまったのである。おまけというかなんというかオサイチジョージを抑えてトウショウマリオが三着。ほんとにおもしろかった。オサイチよ、自分がオグちゃんより強いなんて思うなよ。わたしはあの宝塚記念を認めない。 十月十四日(日)くもりときどきはれ  ああ、なぜこんなに暑いの! もう夏じゃないんだからさあ。と足をひきずりながら、ひさびさの府中競馬場へ行った。やっぱり府中はええで。あの長い直線がおもろいで。おまけに南井まできとるやんけ。うーん、南井さんがいるというだけでこんなに雰囲気の違うもんだろうか。千二百ダートの条件戦が南井と岡部の叩き合いになると、にわかに力がぐっとはいって、四レースでいきなり8—8をとってしまった。南井っておもしろい。  今日は京都新聞杯が京都で行われる。メジロライアンがダービー以来久し振りに登場、ついでにツルマルミマタオーも。六枠に単枠指定されたライアンの応援をするため、グリーンのワンピースにグリーンのカーディガンにグリーンのバッグといういでたちのわたしです。どうやら京都は雨らしい。こっちでは牝馬東京タイムズ杯。これは非常にむずかしい。おんなのこばっかりの十八頭だて。久し振りの馬やらかつて強かった馬やら強いのか弱いのかわからない馬やらただの弱い馬やらがいりみだれて、波瀾の様相を呈していた。わたしは、自分と同じ誕生日でサクラサエズリ—メインキャスターの1—7、今ならいちばん強そうなヒカルダンサー—メインキャスターの1—6が中心、あとはなんだか2—2、5—5、7—7という脈絡のない馬券を買った。結果はヒカルダンサー、カッティングエッジ、メインキャスターと来て6—7。いわゆる抜け目というやつだが、やっぱりわたしにはカッティングエッジが買えない。ああいう馬が買えない限り馬券で儲かるということはないだろうと思う。でも、なんとなく好きになれないのだ。  京都新聞杯は菊花賞のトライアルレース。おとうさんときたらなにをとちくるったか、メルシーアトラを本命にしたんだよ! メルシーアトラっていうのはその昔、阿部幸太郎さんが穴馬として本命にした馬だがや。なんでそんな馬に本命打って、ライアンをはずすの? あーあ、競馬やってる人のこころがわからない。おまけにライアンはプラス十キロでむっくむくしてる。「ねえ、ライアンの単勝いくら買ったらいい?」とわたしが聞くと「千円」だって。そんなもんなのかなあと思いながら、ライアンの単勝とライアン—ツルマルミマタオーの4—6とグローバルエース—武豊オースミロッチの3—8を買う。ライアンがんばれ。レースはもうライアンの横綱相撲で、二着グローバルエース、三着メルシーアトラ、四着オースミロッチ、ツルマルミマタオーは七着だった。横山のりぴのガッツポーズがいまいちきまりきらなくてかわいく、まるで親戚が勝ったようにうれしく、すっかりライアンを見直したわたしたちでした。  ところで、ファンドリポポ骨折のニュースに続いて、ゴルギアス骨折のニュースが入ってきた。ゴルギアスは父マルゼンスキー、母ホウヨウクイン、ホウヨウボーイの弟。おとうさんが今年のペーパー馬主で一位指名をしようかどうしようか最後まで悩んでいたお馬である(結局マリウスシチーにしちゃった)。夏、あまりにも強かったので、ダービーはこの馬で決まりだなんていう気の早い人もいたぐらいなだけに、かわいそう。来年の春に間に合うだろうか。 十月十九日(金)はれ  毎日毎日オグリキャップはどうしているんだろうかと気をもんでいたのだけれど、今日のスポーツ新聞を見ると、昨日元気に追い切ったようでとってもうれしい。それに対して、スーパークリークは調教を中止したよう。いったいどうしたんだろう。イナリワンはこのまま引退らしい。いよいよさびしくなってきたなあ。  夏に牧場で会った当歳がセリに出ている。十七日にはスズボタンの当歳(父トウショウボーイ)が一億円で、昨日はトウショウソロン(父トウショウボーイ、母ダイアナソロン)が一億五百万円で売れたそうだ。そういえば、どっちの子もすごくしっかりしていてほれぼれするようにかっこいい馬だったな。トウショウボーイの子っていうのは総じてかっこいいみたいだ。両方ともおかあさんにはあまり似ていなかった。おかあさんから離れてこれからひとりでがんばるんだね。無事に競馬場へ来れることを祈ってます。 十月二十一日(日)はれ  日本シリーズをテレビで見ていたら、ジャイアンツがとっても弱くてまるでPL×沖縄水産みたいなので面白く、ついつい出掛けるのが遅くなってしまった。今日は久し振りに下で観戦。なんとか十レースに間に合ったものの、クイックエリザベスはまるでやる気がなく、走り終わったあともぜんぜん疲れていないようで「あーあ、はやくかーえろ」って感じだった。まあそんな日もあるさ。メインの東京スポーツ杯。おとうさんはこともあろうにチヨノマツカゼが本命。チヨノマツカゼはその昔わたしがずいぶん買った馬で、とってもかわいい顔をしている。ミナガワイチザンも出ていてわたしはこっちの応援。でも今日のミナガワイチザンはよくない。きっと目黒記念で最後の花を咲かせてくれるものと信じてます。結果はジュネーブシンボリ—フォロロマーノで決まって一番人気。岡部騎手は昨日の千五百勝達成で気をよくしているのか、今日は特別やメインレースで三勝をあげた。  京都で行われたローズステークスはエリザベス女王杯トライアル。しかし一番人気のエイシンサニーに乗る岸騎手が怪我をしていきなり河内に変更。こーらあかんわ、エイシンサニーは岸くんにイカレコレやもん。てなことを言って八枠を外し、カツノジョオー、イクノディクタス、イナドチェアマン、トウショウアイを選び出し1—2・2—4・7—7と買う。京都に行くといつもお会いするおうつくしい佳ッ乃さんも買ってるかもしれないね、といいながらカツノジョオーを応援しているとなんと逃げ切り態勢。その後ろにはイクノディクタスとイナドチェアマン。「あーん、おねがいだから1—2になってえ!」と叫ぶ。「直子ちゃん1—2持ってるの?」「持ってまんねん! 万馬券でんねん!」。そのとき大外からトウショウアイがすごい勢いでやって来た。こんどはおとうさんが「トウショウアイがんばれえ! 4—7、4—7」と叫び出した。「そんなのだめえ! 1—2にしてえ!」。しかしカツノさんは疲れない。結局カツノさんが逃げ勝ってしまった。二着はイクノディクタスかトウショウアイかわからない。写真判定の末イクノディクタスで1—7。イナドチェアマンは四着。あーあ、久し振りに興奮してしまった。しかしなんでこれだけはってて1—7はふたりとも持ってなかったんだろう。ダイイチルビーもヌエボトウショウも来なかった。三コーナーで背中の河内にイヤイヤをして文句を言っていたエイシンサニーちゃん。本番ではがんばってね。  さて、メインも終わって傷心の高橋ふたりにいきなりサインを求めてきたおばさんあり。「今日はトントンなんでうれしいんです」だって。おとうさんはにこにこしてレーシングプログラムにサインをしてあげ、「天皇賞がんばりましょう」と言った。そうか、やっぱG㈵ともなると馬券を買う人もがんばらなくてはいけないのか。 十月二十四日(水)くもりのち雨  一昨日からおなかをこわして散々。食あたりかなあ。おかげで昨日はピンクハウスの91春夏コレクションにも行けなかった。しかたなくパジャマを来たままおかゆやうどんを食べながら毛布にくるまってずっと日本シリーズを見ていた。実はわたしたちは明日飯干恵子ちゃんと西武球場へ行く予定だったのだが、なんと今日カタがついてしまった。西武の四連勝である。ほんとに強かった。石神井町民はみんな石毛を応援しているので、わたしたちも二年前から一応西武ファンのようなものである。  そのあと昼寝をして起きてくると、いきなりおとうさんが「直子ちゃん、大変だよ!」とマジな顔。「なに?」「スーパークリーク出ないんだって」「え、なんで」「脚がはれちゃってるらしいよ」「やっぱそうなんだ。だって、追い切らないなんてどう考えたって変だったもんねえ」「なんかねえ、そのまま引退するみたいだよ」「うっそー! だって今日の新聞にオグちゃんと並んで写真出てたじゃん」。サンスポをひっぱり出してきて写真を見ながら「どの脚かなあ」「わかんないね」「オグちゃんは大丈夫なのかなあ」「わかんないね」「武くんかわいそうだね」「恵子ちゃんかわいそうだね(飯干はクリークの大ファン)」「わたし電話しといてあげる」などと話をする。なんか嫌だ。イナリワンもスーパークリークもとっても嫌な形で引退していく。オグリキャップがカイバを残したらしい。とっても心配。あんただけにはもう一度無事に走ってほしいんだよ。 十月二十六日(金)くもりときどきはれ  代官山にピンクハウスの新しいショップがオープンしたので、昼から出掛けた。足を怪我してからずいぶん長い間うちにとじこもっていたので、電車に酔ってしまった。わたしはのりものに弱い未開人なのだ。電車の中で、おじさんが持っていた新聞で天皇賞の枠順を知る。オグリキャップは6枠、ヤエノムテキとメジロアルダンがそろって4枠に入った。4—6一点だなあと思う。帰りに池袋西武百貨店に寄ったら、ライオンズ優勝記念セールでごったがえしていた。とってもこわかった。夜、TBSの「いかす競馬天国」の生放送を見に行く。おとうさんと井崎脩五郎さんがゲストで司会が高田純次さんと飯干恵子ちゃんというまるで居酒屋コンパのようなメンバーだが、なかなか充実していた。一点予想だっつうのに、井崎さんはやはり三点予想をしてしまったのだ。困りものだ。おとうさんはオグリキャップの単勝一点。ああ、おとうさんの単勝一点は当たったことがない。とっても不吉だと思う。 十月二十七日(土)快晴  菊花賞の入場券を買いに府中競馬場へ行ったら、もう売り切れたとのこと。とんでもない。今日発売だったのに。これじゃあ京都まで行っても中に入れないじゃないのよお。  今日は秋嶺賞である。とっても得意である。1—6である。当然のごとく当てたのである。明日もいい天気だ。やっとオグリキャップに会えると思うとドキドキする。 十月二十八日(日)快晴  天皇賞を勝ったのはヤエノムテキだった。以下、ハナ差でメジロアルダン、そしてバンブーメモリーと来る。オグリキャップはオサイチジョージ、ランニングフリーにも及ばずの六着に終わる。やっぱりパドックで見たとおり、オグリキャップはいつもとぜんぜん違っちゃっていたのだった。直線に入ったらいつもはぐっとそりかえって一文字になり姿勢が低くなるのに、ぜんぜんそんなそぶりさえ見せなかった。井崎さんにオグちゃんの新しい人形をもらって、サンスポの加藤さんにもサルサビルの額入り写真をもらった(加藤さんは凱旋門賞の取材に行っていたのです。サルサビルはおんなのこだけどとっても強くって好き。でも負けちゃったのだった)のに、とっても悲しい。負けたからってみんなが急にオグリキャップに冷たくするんじゃないかと思って心配だ。もっと心配なのはどこか故障してるんじゃないかということ。オグリキャップが勝たないとぜんぜんつまらない。でも気になっているのはレースが終わって帰ってくるとき、鞍上の増沢騎手が青ざめているのにキャップはへっちゃらな顔をしていたことだ。もう走るのがいやになっちゃったの? 十一月三日(土)はれ  いよいよ菊花賞である。昨日ひとあし先に京都入りしているおとうさんや恵子ちゃんに続いて、夕方京都に着く。とっても暑い。明日は雨だというけれど、信じられないほどいい天気だ。新幹線の中はがんがんクーラーがきいていて寒いくらいだった。夕食をジャズの流れる和食の店で食べたあと、銀水で夜中まで飲めや歌えのどんちゃん騒ぎ。酔っぱらって真夜中のホテルで騒いだらしいがほとんど覚えていない。超顰蹙だったそうだ。恥ずかしい。 十一月四日(日)雨  雨の音で目を覚ます。かなり寒い。風邪をひいたみたいだ。淀に着いたころには風も強くなり、どしゃ降りで、パドックのおうまさんたちがとってもいやそうにしていた。眠いのと知らない馬ばかりなのと知っている人がいないのとでどんどん不機嫌になってしまい、レースを見る気もしない。関東記者席に行ってサンスポの水戸さんや加藤さんの顔を見て、ようやく気分がほぐれてきた。はっきり言って知らない馬のときは顔だけで決める。  菊花賞までは一レースに五百円か千円しか賭けないことにしたので、結構儲かった。七レースにオリンポスカザンという白面のかわいい馬と、まれに見るハンサムボーイのユニコーンという馬が出てきたので、1—2とオリンポスカザンの複勝を買ったら、これが二着と三着に入り、オリンポスカザンの複勝は千七百四十円もついた。へへ、じまんじまん。1—2だったら万馬券だったのに、それをはばんだのはダイイチシンゴちゃん。三頭とも忘れないわよ。それにしても武豊クンが絶不調である。四十連敗ぐらいしているらしい。そこへダイイチシンゴの単勝を買っていたカメラマンの久保吉輝さんが通りかかり、オグリキャップの話などをする。一緒に菊花賞のパドックを見に行く。ここで初めてメジロマックイーンを見たわけだけど、もうほんとうに子供っぽくてかわいい。いちご芦毛でピンクグレーの毛が雨にぬれて、ツイードのコートみたいに上品な雰囲気がある。あーん、こんな馬を今まで知らなかったなんてなんていう不幸だろう。メジロライアンはロバート・レッドフォードみたいに美しく、からだはレジエンドテイオーのように立派だ。わたしのツルマルミマタオーくんはやはり顔では十八頭中最高と思われ、ホワイトストーンはどう見てもオグリキャップである。ホワイトアローは黒目がちのシノクロスにそっくりでわたしは嬉々とし、おまけに何度も目が合ってしまったので、もはや買わずばなるまい。引き返す途中横山のりぴと角田晃一さんとすれ違う。がんばってください、と声をかけたけれど、のりぴの緊張した顔がいつもとぜんぜん違って見えて不安になる。以前からわたしはライアンが菊をとれないのではないかと言ってきたのだが、それは漠然とした予感。何かが足りない、そう感じさせるものが今のライアンにはあるのだ。切羽詰まったところのない馬、見ていると幸せになれるような馬、六歳で宝塚記念を勝つ馬、そういう印象。距離も長すぎるのではないか。でもね、ここまで応援してきて、鼻をなでて、ダービーの単勝馬券をライアンにしっかり見せてお願いしてきたわたしです。菊も単勝を買おうやないの。そして芦毛ばかりの1—2、2—7、1—7にツルマルミマタオーを入れた3—8、2—3、3—7。おまけにミマタオーの複勝もはりこんでみた。今日は勝ってるわたしである。馬券を持って記者席に行くと、ライアン無印で1—2勝負の芹沢さんに会う。ここには書けない話を聞く。ライアン無印は他にいないかもしれない。雨は相変わらず降り続いて下は傘の花。関西のファンは礼儀をわきまえていて騒ぎも中くらいで好ましい。異常な東京の若者とはぜんぜん違う。菊花賞は見ていてとっても面白い。三千メートルは観客にも冷静さをとりもどさせるのだ。四角でメジロマックイーンが抜け出し、内でもがいていたホワイトストーンもがんばって上がってきた。ライアンも外からやってきたが八枠だけに脚をもうだいぶ使っている。メジロマックイーンは子供っぽい顔のままなんてことなく勝ってしまった。根性で二着はホワイトストーン。三着にメジロライアン。結局芦毛—芦毛の1—2である。芹沢さんに大声で「やったねえ!」とお祝い。ふたりでくるくる回って喜んでしまった。わたしのミマタオーは五着。ライアンは負けちまったけど、メジロマックイーンに会えたことはこの秋最大のできごとだった。いやあ強くてかわいくていい馬だねえ、もうすっかりとりこである。帰りの新幹線は、爆破予告電話のいたずらのため一時間強遅れた。とにかく、芦毛の時代は続くのだ。 十一月十一日(日)はれ  京都でエリザベス女王杯をやるというのに、わたしは神戸の実家で祖父の法事である。つまらない。お坊さんが小一時間も遅れてきて、読経がながながと続き、レースを見られないのではないかとはらはらしたが、三時ごろには無事終了。親戚の人に隠れて二階でこっそり競馬番組を見る。昨日の深夜おとうさんに電話して、芦毛馬ユーセイフェアリー・イナドチエアマン・ユキノサンライズの1—3、1—6、3—6、ウイナーズゴールド—トウショウアイの5—7、センシューリーブ・イクノディクタス—トウショウアイの7—7をたのんであるのだが、テレビ中継を見ているとやっぱりキョウエイタップがすごくいいので7—8、8—8を買い足してもらおうと思って電話を待っていた。競馬場から電話してねとたのんであったのだ。しかし、電話がかかってこないまま本馬場入場の時間になってしまう。実は昨日「キョウエイタップも買おうかなあ」とおとうさんに言うと、「のりちゃんは絶不調だからぼくは買わない」ときっぱり返され、なんとなく意味のない説得力に負けてやめたのである。しかしこうなるとますますキョウエイタップが良く見え、鞍上の横山のりぴも先週とはうってかわってリラックスした表情で絶対八枠が来ると思える。全く素人に近い妹マリも横で「この馬かっこいい」と十八番のキョウエイタップを指しているので、あせりきった。トウショウアイもなかなかかわいい顔で馬体も申し分ない。番組に出ている予想のおじさん二人も7—8が本線。末広真樹子は勇気を出して7—8を蹴った、と言っているし、ゲストの浜田朱理はおんなのこの赤、オレンジ、ピンクの三色で決めましたとか言って3—7、7—8、7—7を予想している。ああ、もう絶対7—8に決まっている。なのに電話はかかってこない。あきらめて、画面を見ていると輪乗りしているコニーストンがちらっと見え、ほんとうにかわいらしくて武豊が乗っているのでまるで絵のように美しい。エイシンサニーはさっきまではくるったように口をあけていたが、いまは岸くんにすべてまかせる気になっているようである。ウィナーズゴールドは顔だけならコニーストンやユキノサンライズに負けないぐらいかわいいがタイテエムの子だけにG㈵はとれそうにない。などと思っているうちにレースが始まり、四角で内がつまると予想したみんなが外に大きくふくれてそこが団子状態になり、エイシンサニーなんてほんとに大外にいってしまった。さっきまでうしろの方にいたキョウエイタップはどこかいな、なんて捜しているうちに十八番がするすると内を通って伸びてきて、外から追い込んだトウショウアイもこれでは届かないなと思っていると、ゴール前でのりぴがもうガッツポーズをしてしまっていた。よかったねのりちゃん。  夜、おとうさんから電話がかかってきて、「なんで電話してきてくれなかったのよ」と言うと、競馬場の電話がものすごく混んでいて電話するのが大変だったにもかかわらず電話してやったのに話し中だったのだ、なのに電話してくれなかったと責めるなんてあんまりだと叱られ、あまりのこわさに泣いてしまった。電話をかけるのに並んでいたので、ぜんぜんパドックがみられなかったのでものすごく怒っていたのだった。ほんとうにこわかった。 十一月十八日(日)  アルゼンチン共和国杯とマイルチャンピオンシップである。しかしわたしの心は灰色。ホクトヘリオスの出ていないマイルCSとカシマウイングの出ていないアルゼンチン共和国杯なんて、お湯を注いでいないどんべえみたいなものである。つまらない、さびしい、足が痛い(慣れないハイヒールを履いていたせい)と、文句をいいまくる。とはいうものの、勝負は勝負であるからして考えました。マイルCSのパドックを見るとパッシングショットが立派である。ラッキーゲランが逃げてバンブーメモリーが抜こうとするところを大外から一気にパッシングショットがやって来るにちがいない、という展開予想のもと、パッシングショット—ラッキーゲランの4—7、パッシングショット—バンブーメモリーの3—4、そしてパッシングショットと同じトウショウボーイ産駒のサマンサトウショウへ4—6。ヒカルダンサーは馬体が減っていてかわいそうなほどだが、好きなので複勝を、パッシングショットの単勝を買おうかと思うが、今日はおかねを使いすぎているので複勝にとどめておく。結果はなんとパッシングショットが勝ってしまい、ラッキーゲランは残りきれずに四着(惜しい!)、バンブーメモリーが二着で、サマンサトウショウがどん尻からごぼう抜きで三着に食い込んだ。おとうさんはトウショウマリオを本命にしていたが、とんでもないと思う。いまのマリオなんかにマイルCSを勝たれたら、ホクトヘリオスがあまりにもかわいそうじゃないか。  アルゼンチン共和国杯はパドックでチョウカイエクセルとメジロモントレーが良かったので3—5。それと柴田善臣騎手のパソドラードとメジロモントレーの5—5。結果はメジロモントレーが勝ちパソドラードはリアルバースデーに負けての三着。ほんと惜しかった。うーん、どうしてもリアルバースデーが買えないのである。ところで、あんなにかわいかったサンドピアリスが、チビながらバーのマダムみたいな貫禄で肩肘ついてタバコをスッパスッパやってそうな雰囲気になっちゃったのには驚きました。さすがハイセイコーの子だ。  競馬のあと、原宿で競団連(黒鉄ヒロシさんが会長の競馬愛好者の集まりだそうです。わたしたちは理事の伊集院静さんに招待していただいたのだった)のパーティがあった。なんと、このパーティでわたしは柴田善臣騎手にさわらせていただいたのでした。あーん、これでヘリオスと間接さわりっこだあ。うれしい! 競馬好きな人ばかり集まってとっても楽しい夜だった。  あ、忘れてた。今日、府中三歳ステークスでわたしはブリザードを応援したのに三着に負けてしまいました。根本さん、こんどは勝ってください。  あ、もうひとつ。源一郎さんが連勝しているので、ケンゾーのおうまの金のブローチを買ってもらった。それでもし馬を買ったら「キンノブローチ」って名前もかわいいね、なんて話をしました。 十一月二十一日(水)  今朝、オグリキャップが追い切りで内の馬に先着されたらしい。テレビで見ると追ってから全然伸びなかった。どうしたのだろう。やはりもう走る気がないのだろうか。ジャパンカップで怪我でもしたらどうするんだ。引退させてほしい。誰も文句なんて言わないよ。もういいよ、いままでわたしたちを裏切ったのは二度だけじゃないか。もう楽をさせてあげてよ。 十一月二十三日(金)  夜、いきなり井崎さんと鈴木さんが遊びに来た。明日のJC予想飲み会が中止になってしまったので、さみしいからだって。一杯飲む前に一点予想。井崎さんは3—5、鈴木さんは4—6、源一郎さんは8—8、わたしは3—6でした。当たるでしょうか。そのあとはここにも絶対書けないようなことになってしまいました。ほんとうに有意義な一晩でした。 十一月二十五日(日)  今日は川崎徹さんとご一緒だったので、サンスポにお願いして二階の来賓席で観戦。これがとってもいい席で、わたしは勘が狂いまくり、さっぱり当たらなくなってしまった。とにかく一着は当たるのだが、対抗がほとんど三着。ゴール前で変わるってやつでしょうか。超さみしい一日でした。  ジャパンカップ(JC)。オグリキャップが負けるところを見なければならないと思うと心が重く、うるうるしてしまう。今回は早くからカナダのウイズアプルーヴァルを応援しようと決めていたのに、出走回避で予想が混乱してしまった。結局顔のかわいいアルワウーシュとベルメッツ、気合いのカコイーシーズとベタールースンアップ、これで引退のヤエノムテキを選び、3—6、5—5、3—5、3—3、そしてオグリキャップとアルワウーシュの単・複を買う。逃げるはずのスタイリッシュセンチュリーが本馬場入場後放馬してしまい、レースではオサイチジョージが逃げることになってしまった。これでもう大混乱。オグリキャップはパドックでは天皇賞のときよりはましだと思われたが、スタート後もぜんぜんダッシュがつかず、しんがりを追走。ほんとうにかわいそうな姿であった。結局、カコイーシーズとベタールースンアップが抜け出し、やったあ3—6! と喜んでいたら八枠のオードが突っ込んできて三頭の強烈な叩き合いになった。結果、一着ベタールースンアップ二着オード三着カコイーシーズで6—8。ホワイトストーンが四着、わたしのアルワウーシュは直線すごい勢いでやってきたが(ゴールドシチーそっくり)、五着に終わった。惜しかったのがヤエノムテキで石のように動かないベルメッツが前をふさぎ、さがってきたスタイリッシュセンチュリーにも阻まれ、ここというところで抜け出せなかった。六着だったけれど、岡部さんが乗るとこんなにも走る馬だったのかと思った。岡部さんってほんとうにすごい。 十二月二日(日)はれ  なにもないのですいていると思いきや、真新しい中山競馬場は満員でした。十二月だというのに台風一過、まるで初夏みたいに暑く気温は二十度を超えている。おうまも暑くていやになっちゃうだろうなあ。  今日は京都で鳴尾記念。クローンやアスムッセンなども騎乗して、華やかなレースとなった。ロングアーチのせいで(?)菊花賞に出られなかった栗毛の派手馬ゴーサインは南井騎手の騎乗。ハンデ五十四キロと恵まれたカチウマホークには岡部騎手。もう3—7しかないという源一郎さんの言葉を信じて買う。カチウマホークと言えばデビュー戦の直線一気が印象に深く、シーホークの子ならなんでも応援してしまうわたしとしては期待の一頭である。武くんのオースミシャダイは五十九・五キロ、ジュネーブシンボリは五十八キロとどちらも勝つには重すぎるハンデだ。特にジュネーブシンボリは重賞勝ちがひとつもないのに、阪神大賞典、日経賞と連破したオースミシャダイと一・五キロしか違わないなんてかわいそうだと思った。レースはカチウマホークが勝って、ゴーサインが二着。うしろでじっと待機していた岡部騎手の手綱さばきにみんな感動。岡部さんはこのごろとみにすごくなってきたような気がする。カチウマホークもとっても強くなってえらそうにしていて、うれしかった。  最終レースはここのところずっとわたしたちの期待を裏切っていたアヤコトブキちゃんが、的場さんに乗られて勝ってしまい、それはないだろうの嵐だった。しかしよく考えてみると、ともだちのファンシーグッズが最終レースから勝ち上がって去って行った今、自分だってがんばるしかないとアヤコトブキが思っても不思議はないのである。帰り道、源一郎さんは夏競馬の不調から立ち直り、「完璧にスランプを脱した」と笑顔で宣言した。それがどうしたとわたしは言いたかったが、愛で「よかったねえ」と答えたのでありました。 十二月五日(水)はれ 「直子ちゃん、増沢さんとうとう降ろされちゃったよ」  スポーツ新聞を見ていた源一郎さんが大声でわめいている。キッチンでチャーハンをつくっていたわたしは、急にどきどきしてきた。 「オグリキャップのこと?」 「そう」  誰が乗るんだろ、えーっ、誰が乗るの? 「誰が乗るでしょう?」 「うーん、善ちゃん(柴田善臣)」 「ちがいます」 「うーんと、的場さん」 「ちがいます」 「わかった南井さん」 「ちがいます」 「えーっ、だれえ、わたしの知ってる人?」 「もっちろん」 「まさか……」 「まさか……?」 「武くん?」 「イエス」  信じられない、信じられなーい! どうしよう。わたし、オグリキャップにはもう引退してほしかったけど、武くんが乗るんだったらもう一度走ってほしいような気もする。あーん、どうしよう。キャップ、もう一度だけがんばってみる? それともやっぱりもうよしたほうがいいのかなあ、わからない。でもうれしい。 十二月六日(木)はれ  イナリワンが有馬記念を断念。有馬記念の日に引退式をするそうだ。同じくスーパークリークも有馬記念には出走せず、一月に入って東西で引退式を行う予定らしい。ほんとうのことを言えば、わたしはイナリワンもスーパークリークも大好きなのだ。だからどうだというのだろう。わたしはいつだってオグリキャップのことを応援してきた。キャップにとってはクリークもイナリワンも強敵だ。だからあからさまに好きだと言えなくなってしまっただけだ。イナリワンもスーパークリークもわたしのことを知らないまま、どっかへ行ってしまう。そして心の中に走っている姿だけが生きつづける。わたしたちはほんとにさびしくなると思う。二度と走ることはないと決まってから、それがわかるのだ。 十二月八日(土)はれ  七時半に起きてうちを八時に出る。眠くて眠くて気分が悪くなって、泣きながら行った。それもこれも一レースにおとうさんがペーパー馬主になっているフォスターラガーのためである。今日はダートだからきっと走る、とおとうさんが言い、意を決して早起きしたのだ。しかし、フォスターラガーはハナ差の四着だった。どっと疲れた。  それにしてもわたしの今日の成績はすごかった。はずしたのは一、十一、十二の三つだけ。とんでもない。金額を謙虚に、検討をいいかげんにした成果がはっきりとあらわれたのだと思う。これからもこうありたい。  メインレースはステイヤーズステークスであったが、わたしがわざわざ土曜日にでかけて行ったのは、十レースの北総特別(芝二千ハンデ)のためだった。それというのも、このレースにはもう引退との噂のビクトリヤシチーと、ビクトリヤシチーのおにいさんであるゴールドシチーによく似たトウショウファルコがそろって、それも隣合わせで出てきたのだ。イタリアンシチー(母)亡き今、ビクトリヤシチーには無事引退してゴールドシチーやノースダコタシチー(兄)の分までしあわせになって血を守ってほしい。いっぽうトウショウファルコはカメリアトウショウの子で父はグリーングラス。尾花栗毛でとってもかわいくゴールドシチーを思い出させる。馬体も大きくてきっと強くなるとずっと応援してきた馬だ。今回はトップハンデ五十六・五キロが嫌われて人気をすこし落としていた。パドックではタツカゼオーとアシヤビートが目立ってよく、めくらましにあってしまった。ビクトリヤシチーはものすごくいれこんでおり、トウショウファルコは落ち着いているのかやる気がないのかわからないほどのっそりしており、どうしたらいいのかわからなくなる。結局、六枠タツカゼオーへ、アシヤビートから4—6、トウショウファルコから3—6、ビクトリヤシチーから2—6、そして好きな馬同士で2—3を買う。トウショウファルコの単、ビクトリヤシチーとグラックホラーの複も。トウショウファルコはハンデなんてものともせずあぶなげなく勝った。ビクトリヤシチーはブービーからみんなの間を縫うようにして直線追い込んで二着、2—3で決まる。おにいさんそっくりのトウショウファルコを追いかけるビクトリヤシチーの姿がいじらしく、うるうるしてしまった。好きな馬同士で馬券をとったのはひさしぶり。北総特別は昭和六十一年にもミナガワイチザン—カシマウイングの好きなもの同士が来ている。とにかく、うれしかった。  なのに、帰り西船橋の駅のホームのキオスクで「やきもろこし」(スナック菓子)を買っていたために電車に乗り遅れ、おとうさんが先に行っちゃって、それから次の次の駅で降りて待っていてくれたおとうさんにものすごく叱られてしまった。こわかった。 十二月九日(日)くもりときどき雨  ひさしぶりの冬空で、とっても寒い。浅草橋のあたりで不発弾の処理があるとかで、総武線が一時不通になるというので早くうちを出る。午前中の最終列車に乗ることができた。しかし、こんなところで早くも運を使ってしまったのでは、とふたりで心配していたらそのとおりになってしまった。  はっきり言って、今日はふたりともぼろぼろである。心身ともに疲れ果ててしまった。わたしなんて首がまわらなくなってしまった。天国から地獄だなあ。  とにかく、昨日のステイヤーズステークスで皐月賞以来の勝ち星をあげたドクタースパートの的場さんが絶好調である。メインの朝日杯三歳ステークスもリンドシェーバーに乗り勝ってしまった。とっても強かった。わたしの応援していたブリザードは根本騎手から横山のりぴに乗り替わるも直線届かず三着、ダイナマイトダディは絶不調の増沢さんで四着。中一週の疲れがあったのか。もう一頭牝馬ながらほれこんでいたシンボリルドルフ産駒のヤクモアサカゼは、追い込んだが五着に終わった。二着はビッグファイト。一番来てほしくない3—5で、もちろんわたしたちはふたりとも買ってなかったのである。リンドシェーバー—ブリザードの5—5にとってもいっぱい賭けていたわたしたちはすっかり気落ちし、混乱してまたしても阪神三歳ステークスで牝馬を軸にするという初歩的ミスを犯してしまった。武豊に乗り替わったミルフォードスルーである。結局この馬は三着。南井のイブキマイカグラが勝ち、二着に岸くんのニホンピロアンデスが入った。いやあまいった。  ところで、昨日新馬を勝ったジュサブローの妹のカチタガール、今日の新馬を勝ったさっちゃん(うちの白痴猫サキ)そっくりのワーキングガール、どっちもとってもかわいく気に入りました。ミスターブルボンも三着だったけど気に入った。新馬戦ってほんとにおもしろい。  今日は千代田牧場の飯田さんに会った。わたしはいつも千代田牧場の飯田さんだったか飯田牧場の千代田さんだったかわからなくなる、と言ったらおとうさんにバカと言われた。それともうひとつ、ロビーのソファーで座っていたら、サンスポの加藤さんがやって来て、いきなりわたしたちの隣に座っているおじさんを指さして「おやじです」と言ったので大笑いしてしまった。そのあと加藤さんに三歳ステークスについて意見を聞きすぎてしまったのがいけなかったのかもしれない。でも考えてみると加藤さんは「ブリザードは朝日杯を勝つような馬じゃないと思う」ってはっきり言ったような気がしないでもない。それとクイックエリザベスは今日は柴田善ちゃんが乗って勝てるチャンスだったのに三着に終わった。わたしは今日も単勝を買ってたんだよ。だからどうってわけじゃないけどさ。 十二月十二日(水)くもりのち雷雨  そのブリザード骨折のニュースを新聞で読む。皐月賞に間に合わないかもしれないとのことで、とても残念である。  有馬記念の出走馬が決定した。メジロアルダン、メジロライアン、メジロマックイーンとみんな出てくる。わたしはメジロマックイーンだ。サンドピアリスにもがんばってほしいのだけれど、補欠なのだ。源一郎さんはライアンとホワイトストーンだと言っている。うーん、誰もオグリキャップのことを言わないが密かに買うんだろうなあ。これは果たして愛なのだろうか。  おもちゃの大成堂に売れ残っていてわたしが買うことに決めていたイナリワンのぬいぐるみが忽然と姿を消してしまった。とってもあせっている。 十二月十四日(金)はれのちくもり  メジロマックイーンが有馬記念を回避。調整不足とのこと。つまらないなあ。また本命馬がいなくなってしまった。オグリキャップは木曜の追い切りで全然だめだったらしい。武くんも言葉をにごしていた様子。どうしても出走するのだろうか。 十二月十五日(土)くもり  サンスポの加藤さんが競馬担当(レース部)から運動部へ異動するとのニュースに、「なぜよりにもよってあの優秀な加藤さんなのだ」と我が家ではブーイングの嵐である。加藤さんはまだお若いのにとんでもなく血統に詳しく、高橋妻が血統に目覚めたのもこの人の影響であった。また、高橋夫妻が北海道へ馬産地の取材に行ったときに現地ですべてを仕切ってくれたのも加藤さんで、わがままなふたりに文句も言わずよくつきあってくれたものだ、それに車の運転がうまいじゃあないかと、我が家では非常に評価が高かった。プレゼントに弱い高橋妻は、サルサビルの額入り写真をフランスのおみやげにもらっただけでプラス三十点を加藤さんにあげてしまった。はやくおつとめを終えて競馬場に帰ってきてくださいね。それまでわたし、血統の勉強をして待ってます。 十二月十六日(日)はれ  吉祥寺のパルコで飯干恵子ちゃんのトークショーにゲストで出演することになり、スプリンターズステークスは欠席しなければならなかった。源一郎さんは先週の負けを取り戻すつもりなのか、でかけるときからそうとう気合いが入っていたようだ。わたしはラッキーゲラン、アドバンスモア、リンドホシの七枠流しでまず7—7、対抗にパッシングショットの5—7、ルイテイトの4—7、単枠指定馬バンブーメモリーとパッシングショットの1—5という感じで昨日サンスポの「エイトファックス反応」でえじきになったストロングクラウンはやっぱり外しであった。「エイトファックス反応」というのは、サンスポ紙上のコーナーの名前で、エイトのファックスを有力馬の生産者や厩舎に送って話を聞くというものであるが、ここに採り上げられた馬がほとんど来ないということをわたしは発見してしまっているのである。今回の犠牲馬はストロングクラウンで、八枠を外してほっとしていたら、日曜の今日になってもう一頭えじきになった馬がいたらしく、これがパッシングショットであったらしい。おそるべきことに、バンブーメモリーには二回も勝っているパッシングショットがスタート直前ゲート内で立ち上がり、しきりなおしのスタートでもどっかーんと出遅れてしまった。他馬からめっちゃくちゃ遅れて走るパッシングショットの姿を「中央競馬ダイジェスト」で見たわたしは、いまさらながら「エイトファックス反応」のこわさを思い知ったのである。結果、バンブーメモリーが一着、ルイテイトが二着、三着にリンドホシが追い込み、ラッキーゲランはいいところがなかった。バンブーメモリーおめでとう! それにしてもラッキーゲランってもうひとつつかみきれないものがあるなあ。  なんと連闘でクイックエリザベスが出てきたが、またもや三着であった。わたしはまた単・複馬券を買ってしまったよ。おまえ、ほんとに丈夫だねえ。 十二月二十一日(金)くもり  霞ケ関のイイノホールでサンスポとエイト主催の有馬記念前夜祭があった。おとうさんもゲストで呼ばれていた。まったくこんなもんに来る奴がいるのかと思ってたら、ホールは立ち見が出るほどの盛況ぶりである。関西エイトの美人トラックマン鈴木由希子さんがいらしていて、ほんとにおもしろかった。予想家ゲストのほとんどの人がホワイトストーンに本命を打ち、あとはメジロアルダン、メジロライアンが人気。サンスポの水戸さんはリアルバースデー、佐藤さんがランニングフリーととんでもなかった。質問コーナーでもだれもオグリキャップのことに触れない。わたしはオグリキャップ本命、対抗メジロライアンとゴーサイン、複穴サンドピアリスで3—4・4—7である。おとうさんはどうしようか決めかねているらしい。「GIを勝ってない四歳が有馬記念を勝てるの?」とおとうさんに聞くと、「ホワイトストーンなら大丈夫かも知れない。ジャパンカップで日本馬最先着したからね」と言われる。でも納得できない。わたしはホワイトストーンがそんなに強いとは思えないのだ。むしろ外を回れるメジロライアンの方が強いのではないか。  終わってから築地に飲みに行く。野平祐二先生にそれとなくオグリキャップのことをお聞きすると、ピークは過ぎたかもしれないが、馬自体は悪くないとおっしゃる。わたしは勇気百倍である。もう絶対に本命だ。こうなったら勝て、勝つんだオグリキャップ! と飲み屋で叫んでしまった。 十二月二十二日(土)はれ  夜、神戸の実家から馬券を頼む電話がかかってくる。姉のケコリンからオグリキャップほんとはどうなの? と聞かれ、どうでもこれが最後だから馬券は買っておいた方がよいと勧めた。しかし彼女は単勝ではなく複勝にした。やはり関西人である。  深夜飯干恵子と電話で有馬記念の検討をする。はじめオグリキャップはもう回ってくるだけでいいや、と言っていたのだが、一時間も検討を重ねるうちに四着だったら「惜しかったねえ」と言える、ということになり、電話を切るころには「やっぱり勝たせたい」というふうに気持ちが変わってしまった。「勝ったらわたし泣くと思う」とわたしが言うと恵子ちゃんも「わたしも泣く」と言ってためいきをついた。「まったく悪い男につかまっておかねをどんどん巻き上げられてもずるずる離れられないみたいだねえ」と恵子ちゃんが言うのでおかしかったが、わたしはオグリキャップにもものすごくいっぱい儲けさせてもらったからそれほどには思わない。四歳なんかに負けるなよ。寝る前に今日買ってきたイナリワンのぬいぐるみとオグリキャップを並べて置く。イナリワンは明日引退式だ。 十二月二十三日(日)はれ  有馬記念である。有馬記念をとりたいのなら、まず西船橋の駅で「歳末たすけあい」に御協力しなくちゃいけないのである。わたしはしっかり募金する。しかし、今日の混み具合は最高だ。タクシーの列がすごいので武蔵野線で船橋法典駅まで行った。ハナブサさんも一緒である。川崎徹さんはあとで来る。おとうさんはあちこちで若者に声をかけられている。今日のサンスポの予想でおとうさんはオグリキャップに※[#「ハートマーク」]マークを打ち、オグリキャップの単・複だけ買って観戦しようと書いたのだ。わたしはコム・デ・ギャルソンの水色のベロアのミニスーツにスタジオVの水色のボレロを着て、完璧な四枠ルックである。  有馬記念までは落ち着かない。しかしグッドラックハンデにビクトリヤシチーが出てきているので、しっかり応援する。岡部さんのフジミリスカムに及ばずの二着、惜しかったが相変わらずの好調である。ほんとに引退するのだろうか。だとしたらもったいないね。  有馬記念のパドックではメジロライアンが頭抜けてよく見え、ついでオサイチジョージ、キョウエイタップ、ヤエノムテキ。メジロアルダンは十六キロ増でおなかがちょっとタプタプしている。オグリキャップはそれに比べるといい。それにしてもゴーサインは困ったヤツで、やわらかそうなウンチをポロポロ出しながらパドックを一周し、超顰蹙であった。ホワイトストーンは菊花賞のときにくらべつやがなかったが、タマモクロスそっくりで気持ちが悪い。本馬場入場はもうすごい騒ぎでサンドピアリスやエイシンサニーは気が狂っちゃうんじゃないかと思うほど首を振り続け、カチウマホークやラケットボールは完全に雰囲気にのまれてしまっている。ヤエノムテキが岡部さんを振り落として放馬してしまい、さすが三度目の引退レースでもやってくれる。でも、有馬記念はおまけでとれるようなレースやないで。オグリキャップは顔が白い。わたしはオグリキャップの単・複と3—4、4—7、3—7と4—5、2—3を買う。  レースは逃げるために出させてもらったミスターシクレノンが行かず、オサイチジョージが逃げ、オグリキャップは七番手。すぐ横にライアン。向こう正面ですっと上がっていくオグリキャップを見るとまるで勝てそうな気がする。もう涙が出てくる。三コーナーでヤエノムテキが下がり、オグリキャップが先頭にせりかけ四頭同時に四コーナーを回る。オグリキャップが勝てそう。すぐうしろを見ると今日はやけに冷静な横山のりぴのライアンがいる。この馬がこわい。猛烈に追い込んでくる。涙が出てくる。「キャップがんばれ!」と叫び続けたら、オグリキャップが勝った。後ろを向いたらおとうさんがものすごく変な顔をしている。記者席は一瞬の静寂。わたしは「勝った勝った」と大声で叫んでいた。そして泣いてしまう。  帰りも思い出すとうるうるしてきて困ったが、今日はおとうさんもうるうるしているので何もいわない。帰ってニュースのはしごをする。ビデオを何度見てもオグリキャップが勝つのでそのたびにうれしくて泣いてしまい、疲れて寝た。 十二月二十四日(月)はれ  郵便受けに「オグリキャップばんざい! 高橋源一郎ばんざい! どうもありがとう」というメモが入っていておとうさんが喜ぶ。サンスポをふたりでなめるように読む。なんと六面を使って有馬記念特大号。夜はクリスマスイブだと言うのにサンスポとエイトの忘年会に出る。一月一日付けで運動部に行ってしまう加藤さんのためにカールヘルムで帽子のアップリケとエンブレムのついた赤いカーディガンを選ぶ。カールヘルムの本庄まさえ嬢がサンスポを出してきておとうさんにサインしてくださいと言う。それとわたしは昨日のオグリキャップの馬券でおとうさんにミノルタのオートフォーカスの双眼鏡を買ってプレゼントした。忘年会は西島さんが司会で、いきなりカラオケが始まりびっくりしていると、ビンゴに抽選とさすが競馬記者と思わせる企画で盛り上がった。加藤さんは小林局長に紹介され、挨拶をするときに泣いちゃって、わたしたちがプレゼントを持っていってもっと泣かせてしまった。  忘年会のあと豊島区役所のそばのパブへ行く。なんと加藤さんのおとうさんがその店の会長さんで、電話で会長さんを呼び出し、カラオケにビンゴに競馬ゲームに打ち興じて、間に水戸さんや加藤さんにおうまの話を聞いてとっても楽しいイブでした。でもわたしは水割り二杯で酔っぱらうので、今夜も酔っぱらっていて、ためになる話をいっぱいしたような気もするけれど、よく覚えていないのであった。覚えているのは加藤さんが「リボーって知ってるでしょ?」と聞いたことで、リボーってなんだったっけ……と思いながら寝てしまった。 [#改ページ]  あとがき  競馬の国にたどりつく前、アリスは野球の国に住んでいました。  十五年前は高校野球狂。  十年前はプロ野球狂。  五年前、ホクトヘリオスに会うまでは、広島カープの達川捕手一筋。達川さんに出会う前は、東洋大姫路高校の弓岡遊撃手が大好きでした。  甲子園に近い神戸から東京へ出て一人で暮らし始めたころ、詩集を出す出版社に勤めていたわたしは、会社が終わると、校正ゲラや資料を持って神宮球場へとよくタクシーをとばしました。神宮特有のミルク色のあわいもやの中で、外野の青いベンチに座って野球を観ながらゲラに朱を入れ、編集部に送られてきたいろんな人の詩集を読むのです。  それは、ひとりぼっちのわたしが心をやすめることのできる、ただ一つの不思議な場所でした。  しばらくして、外野私設応援団が爆発的ブームを呼び、一人ずつの選手のために作られたテーマ曲に合わせて、おきまりの応援を強制されるようになりました。外野席はいつも若い男の子や女の子でいっぱいで、メガホンをふりかざし、風船を飛ばせ、傘をひろげ、それは忙しく騒がしく、試合が終わるころには疲れてしまいます。  野球の国がずいぶんよそよそしくなったのは、そのせいだったでしょうか。  なんにせよ、会社が終わってから行っても、もうわたしの座る場所などどこにもありませんでした。  それから時は流れ、応援はなかば制度と化し、それを軽く受けながし、あるいは味方にしてさわやかにプレイする選手たちがグランドにあふれ出しました。  新しい美しさを持って。  それがまぶしく、わたしは球場に帰るきっかけを失ったままでした。  競馬場の芝生があおくなると、今でもなんだか胸がざわざわするのです。  さて、競馬の国のやさしいみなさんに、この場を借りてお礼を言いたいと思います。  いつも正午にわたしと源一郎さんを競馬場で迎えてくださる西島さんや、無知なわたしに何やかやと教えてくださる芹澤さんをはじめとして、サンケイスポーツレース部の記者のみなさん、本当にお世話になりました。  馬主きどりの高橋夫婦をいつも大目にみてくださっている北海道の森滋・芳恵御夫妻にも感謝の気持ちでいっぱいです。  大胆にもこんなわたしにいきなり本を書かせてくださった筑摩書房の土器屋泰子さん、どうもありがとうございました。  そして、競場の国でうろうろしていたわたしに、あることないことご親切に教えてくださった名前も知らないおじさんたち、ご恩は一生忘れません。  最後に、この本を読んでくださった方、どうもありがとう。タカハシ、命にかえてもみなさんに有馬記念の当たり馬券をプレゼントしたい(ほどの気持ち)です。  それでは、また。  競馬場で会える日まで。   一九九一年二月 [#地付き]高橋直子  高橋直子(たかはし・なおこ) 一九六〇年神戸市に生まれる。筑波大学卒業。「詩と思想」「現代詩手帖」などの編集に携わる。著書に『芦毛のアン』『パドックのシンデレラ』『お洋服はうれしい』などがある。 この作品は一九九一年四月、筑摩書房より刊行され、一九九四年ちくま文庫に収録された。