[#表紙(表紙.jpg)] 高橋克彦 蒼 い 記 憶 目 次  夏 の 記 憶  幽《かす》 か な 記 憶  記 憶 の 窓  棄 て た 記 憶  水 の 記 憶  鏡 の 記 憶  夢 の 記 憶  愛 の 記 憶  嘘 の 記 憶  炎 の 記 憶  欠 け た 記 憶  蒼 い 記 憶 [#改ページ]    夏 の 記 憶      1  盛岡駅のホームに下り立った私の頬を挨拶のように爽やかな初夏の風がくすぐっていた。東京とは湿度が違う。温度差はさほどでもないのだろうが、実感はまるで異なる。空気まで澄み切っているような気がする。私はホームから真っ青な蒼空の中にどんと腰を据えている岩手山をしばらく眺めた。山頂近くにはまだ白い雪が見えている。こんなにくっきりとした岩手山を見たのはひさしぶりだ。二年に一度程度は盛岡に戻っているのだが、天気に恵まれることは少ない。なんだか得をした気持ちになってわくわくした。ふるさとの山はありがたきかな、と詠んだ啄木の心がストレートに理解できた。自分はこの盛岡に生まれ育った人間なのだ、といまさらながらに思う。東京は食うために仕方なく暮らしている場所に過ぎない。 「あれが岩手山ですね。凄いな」  山崎がいったん向かった階段から戻ってきて言った。 「梅雨の真っ最中だ。運がいいぞ」  私は山崎と並んで階段を目指した。  本来ならば現場を退いた私がロケハンに出ることはない。が、岩手と聞いて心が動いた。今度の作品は二時間半のスペシャルで東北各地を主人公が転々とする。その中に盛岡が含まれていたのである。若者に人気の高いアイドルタレントが何人も出演するので視聴率も稼げるはずだ。盛岡を紹介する絶好の機会である。岩手を知らない他人に任せる気になれなくてロケハンの案内役を名乗り出た。いつもいつも石割り桜やわんこ蕎麦ではないだろう。盛岡が舞台になっている番組を見るとつい舌打ちしてしまう。盛岡の人間でなければ分からない美しい景色が他にいくらでもある。 「張り切ってますね」  階段を足早に駆け下りた私の背中に山崎の苦笑いの声がかかった。 「心配になってきましたよ」 「なにがだ?」 「永田さんの気持ちも分かりますけど……小岩井農場を外すなんて言われると、ちょっと」 「あんなとこはもう百回も紹介されている」 「シナリオにちゃんとあるんですよ」 「岩手を知らない作家だからだ。もっといい場所を探せば納得するだろう」 「有名な観光地じゃないと市の観光協会の協力が得られなくなります。だれも行かないようなとこを撮影したって喜ばない。宿代の面倒も見てくれなくなるでしょう」 「市の観光課に知り合いが居る。そっちは俺がなんとか頼み込む。気にするな」  結局はスポンサーによって画面が左右される。承知の上だが今度だけは頑張ってみたい。山崎は軽い溜め息を吐いて私に従った。  駅前の広場にはチャグチャグ馬コの大きな立て看板が飾られていた。馬を綺麗に着飾らせて市内を練り歩く祭りである。三日後だからその頃には東京に戻っている。山崎も興味がなさそうだった。ミステリー仕立てなので日付が限定されるような場面は入れられない。 「レストランの場面があったな。いい店がある。公会堂多賀と言って盛岡では古いところだ。創業は確か大正の初め。宮沢賢治だって何回か訪れているはずだ」 「へえ、それはいいじゃないですか」 「ただ、格式のある店だからどこまで協力してくれるか分からん。せいぜい役者の会計を無料にしてくれる程度だろう」 「ずいぶん宣伝になるのに」  山崎は少し不満そうな顔をした。もしホテルのレストランを用いればスタッフの食事ばかりか宿代まで協力してくれることもある。 「そいつは青森や秋田でやってくれ。二時間半の枠だ。いくらでもやりようがある」 「分かりました。もう諦めましたよ」  山崎も覚悟を決めたらしかった。 「どこにしようと思ってたんだ?」 「別に。観光協会の方から紹介して貰おうと考えていただけです」 「楽なロケハンだな」  自分の若い頃はもう少し真剣だった。しかしそんなことを言ってもはじまらない。      2 「ホントに盛岡にくるの!」  山崎がタレントの名を何人か挙げると店の女の子たちは色めき立った。 「ちゃんときますよ。盛岡の滞在予定はたった二日だけどね。詳しい日程が決まったら知らせてあげよう。どうせ日中は暇なんだろ。ロケを見にくればいい。俺の名前を言えば通じる。写真ぐらいは一緒に撮れる」 「それよりお店に連れてきてよ」 「そりゃ、ま、君たちのサービス次第でね」  山崎の言葉に女の子たちは笑い転げた。 「お静かなんですね」  私のとなりにただ並んでいるだけの女の子が皆の笑いにつられたように話しかけてきた。女の子と言っても私の歳から見ればであって、二十七、八にはなっている。 「店に似合わない客を連れてきたようだな」  私は山崎に目を動かして応じた。ここは山崎のような若い連中がくる店ではない。静かに談笑している客がほとんどだ。 「どなたかのご紹介でした?」 「何度かきてるよ。もっとも盛岡には滅多に戻らないんで……記憶があるのは店の造りとママぐらいのもんだ」 「盛岡のご出身ですの?」 「君は?」 「岩泉。ひどい田舎でしょ」 「なるほど、竜泉洞のあるとこだ」  全国に名の知られた鍾乳洞である。映画などのロケ地に何度も使われている。盛岡から車で二時間近くもかかる山奥の町である。 「岩泉にこんな美人がねぇ」  本心から思った。となりに腰を下ろしたときから実は気後れを感じていた。くりっとした瞳が悪戯っぽい少年を思わせる。背も私より高いだろう。伸びた脚の線も見事だ。 「ええと……蛍ちゃんって言ったな」 「あら、ちゃんと覚えてたんだ」  彼女は微笑んだ。そそくさと挨拶を交わした程度だったので名を覚えられていたのが少し意外だったらしい。彼女は急に打ち解けた。 「東京って一度も行ったことがないんです」 「まさか」  私は笑った。今の世の中で信じられない。 「高校をでて直ぐに働いたから」 「お客に誘われて遊びに行ったことぐらいはあるだろう」 「全然。自分でも変に思うわ。簡単に行けそうなのに……皆、気軽にでかけてるのにね」  彼女は言って首を小さく傾《かし》げた。その表情で嘘ではないと分かった。大した理由もなく、ただ機会がなかっただけだろうが、私にはそのことが新鮮に感じられた。子供以外の日本人すべてが東京を訪れているとどこかで思い込んでいた。 「行ってみたい?」  それに彼女はこっくりと頷いて、 「一生に一度でいいから上野の博物館を見てみたいの。恐竜とかを飾っているんでしょ」  大真面目な顔で答えた。  私はいっぺんで彼女に惚れた。泣いてしまいたいくらい彼女に愛しさを覚えた。 「変なこと言いました?」 「君に惚れたら迷惑だろうか?」  言いながら自分でも慌てた。後先を考えずに言葉がでてしまったのである。  彼女はびっくりした様子で私を見詰めた。 「……迷惑じゃないけど」 「俺、飲み過ぎたかね」  どぎまぎして膝に置いた手を彼女がそっと握った。私は真っ赤になっていたに違いない。      3  翌日の夜も蛍の居る店を訪ねた。山崎は夕方の新幹線で東京に戻った。私は高校時代の仲間と会うと言って居残ったのである。盛岡の実家には、仕事なのでホテルに泊まると連絡を入れてある。どうせ両親は亡くなっている。兄夫婦の家に泊まるのは気詰まりだ。  店がはねたあと私は蛍を食事に誘った。断られると覚悟していたのだが蛍は二つ返事で誘いに応じてくれた。盛岡の夜にはさほど詳しくない。店は蛍に任せた。蛍は飲食街を颯爽と歩いて小さな居酒屋に案内した。 「店のご主人と田舎の知り合いなんです」  ここで構わないかと暖簾《のれん》を潜るまえに蛍は私に訊ねた。拒む理由は私にない。  メニューにはない料理がいくつか蛍の前に並べられた。よほど懇意にしているようだ。 「味噌汁に餅が入ってるんだ」  覗き込んだ私に蛍は笑って、 「これ、私の田舎のお雑煮なの」 「雑煮? 正月のかい」 「ええ。おかしいでしょ。これが当たり前だとずっと思ってたのに、盛岡にきたら皆に笑われて……岩手でも珍しいんですって」 「だろうな。吸い物仕立てしか知らない。関西辺りにはあるらしいけどね」 「平家の落ち武者でも隠れ住んだ村じゃないのかって言われたこともあります」  なるほど、それはありそうな話だ。岩泉の山の中なら追っ手を案ずることもない。 「その血が君に流れているわけだな」 「食べてみません?」  まだ箸をつけていない椀を蛍は勧めた。 「君は本当に変わってるよ。俺は雑煮を正月以外に食べたことなんかない」 「これを食べると元気がでるの。最初にきたときに頼んで拵《こしら》えて貰ったらクセになって」 「どれどれ」  椀を手にして一口啜った私の脳裏に、いきなりもやもやとした郷愁が湧き上がった。私は思わず目を瞑《つむ》ってそれを掴み取ろうとした。が、たちまち私から離れていく。私はまた啜った。知っている。この味は確かに知っている。私は汁を舌全体で味わった。懐かしい。 「どうかして?」  蛍の言葉が遠くに聞こえる。  もう少しだ。瞼の近くまで甦りつつある。 〈順ちゃんだ……〉  鮮やかにイメージが浮かんだのは順ちゃんの笑顔だった。思い出すのは何年ぶりだろう。 「これ、前に食べたことがある」 「ホントですか」  蛍は大きな目をさらに丸くした。 「俺が子供の頃に面倒を見て貰ったお手伝いさんが作ってくれた。三十年以上も昔の話だ」 「凄い記憶力」 「そのとき以来、一度も食べてなかったからだろう。うちの雑煮とは違う」 「でも信じられない」 「好きだったんだよ、その人のことが。だから思い出を何度も噛み締めていたのさ。雑煮のことは忘れていたが……間違いない」 「岩泉の人?」 「さあ……順ちゃんは一年も居なかった。俺は小学生だったから順ちゃんの田舎になんて興味がなかった。親父やおふくろもとっくに死んでしまった。懐かしくて捜し当てようとしたけれど手掛かりがまるでない」 「………」 「けど岩手なのは確かだ。この雑煮は本当に岩泉にしかないのかい?」 「そう聞いたけど……どうかしら」  蛍は自信を失った顔で店の主人にも質《ただ》した。 「と思いますよ。私も修業時代にずいぶん仲間にからかわれましたから」  主人は断言した。だとしたなら順子の出身地が岩泉である可能性は強くなる。 「岩泉でも門《かど》という一帯だけです」  主人は付け足した。私は頷いた。微かだがその地名には聞き覚えがあった。 「内村順子と言うんだが」  フルネームだけはさり気なくおふくろから聞き出していた。 「内村なら多い名字です。屋号でも分かれば簡単だけどね。皆、親戚みたいなもんだから」 「ずいぶん熱心なんだ」  蛍はくすくすと笑った。 「俺はその当時、おふくろの実家に預けられていたんだよ。親父は県立病院の勤務医でね。田舎の病院に転勤になった。学校の関係で俺だけは盛岡に残された。毎日が寂しかった。順ちゃんが居てくれなければ耐えられなかったかも知れない。祖父の家は大きかったからお手伝いさんが二人居た。それで順ちゃんが俺の専属のようになった。夜もおなじ布団に寝てくれた。おふくろより順ちゃんの方が好きだったな。その順ちゃんが突然居なくなって死ぬほどに辛かった」  蛍に説明しながら同時に私は順ちゃんの記憶をあれこれと辿っていた。強烈なのは水中メガネの事件だ。内風呂のタイルにひびが入って修理をしていたときの話だ。やむなく銭湯に行かなければならない。何回か順ちゃんと一緒に女風呂に入った。ある日、私は順ちゃんから買って貰った水中メガネをポケットに忍ばせて銭湯に向かった。ただただ水中メガネを持っているのが嬉しくて仕方なかったのである。金魚鉢の中まで私はそれで覗いたりしていた。まだ泳ぐことができなかった私にとって水中メガネで眺める世界は幻惑にも等しかった。泳げないが何分か息を詰めて潜っていることはできる。広い風呂の中を覗いたらどんなに凄いだろう。順ちゃんに体を洗って貰い、順ちゃんが髪を洗っている間に私はそれを試した。なにが見えたのか、まったく記憶に残っていない。覚えているのは鬼のような形相をしたオバサンが私の耳を引っ張って立ち上がらせたことだ。そしてビンタが二発。なにがなんだか分からず私は泣いた。順ちゃんが気付いて浴槽に飛び込んできた。順ちゃんと私は四、五人のオバサンたちに取り囲まれた。事情を知って順ちゃんは皆に謝った。それでもオバサン連中は許してくれなかった。私は順ちゃんの背中に隠れた。順ちゃんの真っ白で形のいいお尻がなぜかはっきりと記憶に残っている。騒ぎを聞き付けて番台から主人も姿を見せた。警察という声が聞こえて私は怯《おび》えた。バカヤロー、と順ちゃんがいきなり皆を怒鳴りつけた。あとはよく覚えていない。順ちゃんがそんな言葉を使ったので驚いたのだ。状況から察するに順ちゃんが喧嘩に勝ったのだ。私は順ちゃんに手を引かれてそそくさと服を着て銭湯をでた。順ちゃんは家の門まで無言だった。玄関の前に立った順ちゃんはようやく口を利いた。坊っちゃんもバカヤローなんだよ。私は泣きながら順ちゃんにすがった。順ちゃんは私の頬に頬を擦り寄せて許してくれた。  幼かったとは言え、あの日のことを思い出せば耳が赤くなる。女たちには私がさぞかし不気味な子供に映ったことであろう。順ちゃんがどれほど恥ずかしい思いをしたことか。  なんとしても、もう一度順ちゃんに会いたい、と私は思った。 「今は何歳ぐらいかしら」  蛍が訊ねた。 「俺より十二、三は上だから五十七、八かな」 「だったら私の母親とおなじ年頃よね。もしかすると知っているかも。明日の朝にでも電話して聞いてみるわ」 「そうしてくれればありがたい」  私の胸は期待で高鳴った。もしかすると私は順ちゃん以上に女を好きになったことはないのかも知れない。幼かったのでそれが恋とは気付かずに過ごしたのだ。      4 「余計なことをしちゃったみたい」  蛍からの電話で私は起こされた。 「ずいぶん前に亡くなっているんですって」  なんの話か咄嗟には分からなかった。 「順ちゃんが……か?」 「ええ。かあさんも驚いてたわ」 「やっぱり岩泉の出身だったんだ」 「盛岡から戻って一年もしないうちに交通事故に遭って亡くなったそうなの」 「そんなに早く……」  胸が詰まった。順ちゃんは私の胸にだけ生き続けていたことになる。 「信号もないような山の中なのに……三十年前なら一日に何台も車が通らなかったはずよ」 「交通事故とはなぁ……」  想像もしていなかった結果だ。 「ちょうどお祭りにきていた夜店の車にはねられたんですって」 「夜店って、つまり香具師《やし》のことか」 「金魚すくいとかフランクフルトを売るお店」  香具師という言い方にピンとこなかったらしく蛍は補足した。 「轢《ひ》いた相手は捕まったんだね」 「でしょう。そこまで分かっているんだもの」  直感に過ぎなかったが私は嫌な思いに襲われていた。 「事故の日が分かるかい?」 「無理よ。三十年も前のことだわ」 「祭りの日だと言ったじゃないか」  ああ、そうね、と蛍も気付いて、 「もう一度かあさんに聞けば分かる。でも、調べてどうするの?」 「県立図書館には岩手日報のマイクロフィルムがある。日付が分かれば記事が読める」 「ふうん、そうなんだ」  蛍は納得して電話を切った。 〈偶然なんかじゃない〉  そんなことがあってたまるか。  受話器を戻した私の掌はじっとりと汗ばんでいた。私は掌を肌着にこすりつけてベッドから起き上がるとカーテンを開けた。眩しい朝の光が目玉の奥まで刺し貫いた。下着のまま椅子に腰掛けてたばこを喫う。昨日の酔いが残っている。考えが纏《まと》まらないのはそのせいだろう。蛍と夜店の話をしたからなのか、そういう記憶だけが浮かんでは消えていく。盛岡の八幡様の祭礼の夜店で買って貰った十徳ナイフの重かったこと。大小のナイフの他にガラス切り、缶切り、栓抜き、ハサミ、スプーンやフォークまでついていた。特にガラス切りが凄かった。客の目の前で店の男はガラスをまるで紙のように切って見せた。死ぬほどに欲しかった。祖母に泣いて頼んで手に入れたものなのに半月もしないうちにナイフの刃が錆びた。ただ持っているだけで使わなかったからだろう。ポケットにしまうと重さでポケットが破れそうになる。持ち歩いたのはほんの二、三日で引き出しにしまった。肝腎のガラス切りを使う機会もない。錆びてからも私は未練たらしく持ち出したものだが、スープを付属のスプーンで飲んでいたのを祖母に発見されてついに取り上げられてしまった。祖母は潔癖症だった。そして捨てられてしまった。今でも便利そうな道具が付随したナイフを見掛けると胸が躍るのはその後遺症かも知れない。ダーツや万華鏡もそうだ。旅先などで見付けるとつい買ってしまう。  夜店では日本刀のミニチュアも売っていた。十五センチほどのもので、ちゃんと鞘《さや》に収まっているばかりか刃も切れる。どういうわけか私はあれに魅かれていて四、五本持っていた。ペーパーナイフや鉛筆削りとも思えないし、あれはどんな用途のために作られたものだったのだろう。飾り物にしては小さい。思えば『エルム街の悪夢』のフレディが用いる手袋の指先に取り付けられた刃と似ている。よく警察が子供の玩具として認めていたものだと思う。もっとも、あの当時は肥後守と呼ばれたナイフを仲間皆がポケットに忍ばせていた時代だからミニチュアの日本刀などたかが知れている。雀程度なら楽に殺せる空気銃を持っている小学生も居た。  綿飴を握り締めながら輪投げや射的に興じたり、プラスチックでできた小さな潜望鏡を覗きつつ人込みの中を彷徨《さまよ》ったり、豪華な景品が並べられている福引きに熱中した。大きな吹矢やハッカパイプはなぜか縁日の夜店でしか買えない品物だった。ハッカパイプの清々しい味が甦る。メンソール入りのたばこをしょっちゅう喫うのもその名残だろうか。アトムや七色仮面、まぼろし探偵の仮面がずらっと飾られている夜店には華やかさがあった。丸いアイスボンボンを齧《かじ》りながら店の一つ一つを眺めて歩いた。金魚すくいももちろんあった。けれど私が好きだったのは風船ヨーヨーの方だ。四角い水槽に色とりどりの風船玉が浮かべられている。野球ボール大のゴム風船には水が少し注入されていて重みがある。それを紙のこよりで鉤を作って釣り上げるのだ。よく覚えてはいないが風船には小さな輪が結び付けられていたような気がする。無事に釣り上げると店の人間がそれにゴム紐をつけてヨーヨーに仕立ててくれる。手にぶら下げて弾くとキュッキュッとゴムの音をさせながら戻る。水の重しのせいでひどくバランスが悪い。右に左に風船が揺れる。続けて何度も風船を弾くのは至難の業だ。それがなんとも面白かった。 〈どうして夜店が詰まらなくなったんだろう〉  自分が大人になったせいとも思えない。今でも懐かしさから縁日を訪れることがあるが、やたらと食べ物屋が目立ち、玩具を並べている店はどれも画一的だ。おなじような品物ばかりを売っている。しかも町の玩具屋で買えそうなものが多い。あれでは子供だってわくわくしないに違いない。それに……見世物小屋もめっきり見掛けなくなった。お化け屋敷とか蛇娘は夜店とワンセットになっていた。順ちゃんの腕に取り縋《すが》りながらお化け屋敷を二つハシゴしたっけ。私は怖くて目を瞑り続けだった。順ちゃんも怖がって何度も私をきつく抱くから、それが楽しくて別の小屋にも足を運んだのである。  電話のベルが鳴った。  蛍はだいたいの日付を教えてくれた。祭礼は昔からその前後の土日を選んで行なわれていると言う。そこまで分かればマイクロフィルムを探すことができるだろう。盛岡から戻って一年か二年目と年代も見当がついている。 「午後には東京に戻るんでしょ?」 「そのつもりだけど」 「そのうち東京に遊びに行こうかな」 「博物館を案内するよ」  蛍ははしゃいだ。      5  画面をスクロールする私の指が止まった。  とうとう目的の記事にぶち当たったのだ。  思っていたよりも大きな記事だった。交通事故がまだ珍しい時代だったのだろう。他にめぼしい事件が見当たらないから順ちゃんの事故が大きく扱われたとも考えられる。 〈たった十九で死んだのかい〉  記事中にある年齢を眺めて切なくなった。そうすると私とは九つしか違わなかった計算になる。その二年前には私の祖父の家に住み込んでいたのだから中卒で働きにでたものらしい。それも哀しく感じられた。あの頃はもう高卒ばかりか大卒が当たり前の時代になっていた。私の知らない苦労と戦っていたのではないだろうか。順ちゃんの頭の働きは早かった。祖母も順ちゃんの利発さをいつも褒めていた。同世代のセーラー服を眺めて悔しさを噛み締めていたに違いない。  そんな順ちゃんの思いが記事からはまったく伝わってこない。家事手伝いの若い娘が買い物の途中で居眠り運転をしていた男の車にはねられて死亡した、と事務的に書いてあるだけだ。轢いたのは青森県弘前市出身の露天商井上政司、二十三歳。記事から察するに事故の瞬間を目撃した者は居ないようだ。井上が自ら駐在所に駆け込んだとある。 〈それにしても……〉  どうして祖父や祖母がこの記事を見落としたのだろう、と不思議な気がした。自分の家で働いていた娘が死んだと分かれば大騒ぎする。それは必ず私にも伝わったはずだ。うっかり見落としたとしか思えないのだが、祖父は丹念に新聞を読む人だった。たまたまこの日に限って、とも考えられるが、順ちゃんの親だって世話になった祖父のところへそのことを知らせてきそうなものではないか。 〈俺はこのときどうしていただろう〉  夏休みの最中である。両親の暮らしている田舎町に行っていたはずだ。小学校の三年だから新聞の記事などに興味を持つわけがない。盛岡に戻ったときには祖父の家で順ちゃんの話題がでなくなっていたということだろうか。さすがに順ちゃんが辞めて一年が過ぎている。私も順ちゃんのことを口にしなくなっていた。 〈そんなところだろうな〉  合理的な解釈はそれしかない。ほんのちょっとした行き違いから私は順ちゃんの死を知らずに三十年を過ごしてしまったのだ。  図書館の一階にある喫煙コーナーで一休みしたついでに私は兄に電話した。兄は親父の跡を継いで医者となり市内で開業している。 「もう帰るのか?」  立ち寄らなかったのを気にしているようでもなく兄はのんびりと質した。 「順ちゃんのことを憶えているだろ」 「順ちゃん?」 「祖父《じい》さんの家で働いていたお手伝いさんさ」  それでも兄は直ぐに思い出せなかった。兄はあの当時中学生で寄宿舎に入っていた。土日に祖父の家に顔を見せた程度である。 「その人がどうかしたのか?」 「三十年も前に交通事故で亡くなっていたのを、たった今知ったんだ」  交通事故という言葉で兄も頷いた。 「やっぱり兄貴は知ってたんだ」 「おふくろが気にしてた人のことだ」 「気にしてたって?」 「詳しくは聞いてないが、おふくろの勘違いで財布から金を抜き取られたと思ったらしい。ちょっと訊ねたら、その日のうちに荷物を纏めてでていったそうだ。盛岡から戻ったら金はそのままテーブルの上にあったとか。財布に入れ忘れていたのさ。直ぐにその人のところにでかけて謝ればいいものを、祖母《ばあ》さんにこっぴどく叱られるに違いないと思っておふくろは口を噤《つぐ》んでしまった。そのうちに事故で死んだと知って、申し訳ないことをしたと悔やんでいた。俺はよくその話を聞いたぞ」 「俺は聞いてないな」 「ヤクザみたいな男と付き合っていたんで、てっきり手癖の悪い娘だと疑ったらしい」 「そういう人じゃない」 「おふくろの言葉だ。俺はなにも知らん。おふくろが金のことを隠し通したんで祖母さんはその娘のことを恩を仇で返されたとカンカンだったようだ。おふくろも罪なことをする」  それで私も納得できた。順ちゃんがいきなり居なくなったことや、家の皆がそれから順ちゃんについて口にしなくなったことを。私が彼女を慕っていることは祖母も承知だ。手癖の悪い不良娘だとは、さすがに祖母も私には口にできなかったのだろう。 「おふくろはヤクザのことを知らないはずだ」  私だけが知っていることだと思っていた。 「その娘が居なくなってから何度か姿を見せたそうだよ。その子の居場所を訊ねにな」  思いがけない話に私は動転した。私は適当に電話を切り上げて喫煙コーナーに戻った。 〈祖母さんが順ちゃんの田舎を教えたのか〉  危なそうな男とのそれ以上の関わりを恐れて、である。そして……順ちゃんはあいつに殺された。そうとしか思えない。名前はまるで憶えていないが、職業と年齢が当て嵌《は》まる。最初の直感に間違いはなかった。窃盗の疑いは切っ掛けに過ぎない。順ちゃんはあいつから必死で逃げようとしていたのだ。  縁日の雑踏の中であいつに声をかけられたときの順ちゃんの恐怖に強張った顔が今も忘れられない。あの順ちゃんが私を置き去りにして逃げ出したのだ。やがて戻った順ちゃんは私を強く抱いて謝った。昔の知り合いだと順ちゃんは説明した。順ちゃんの目に涙が一杯溜まっていた。そこにふたたびあいつが現われて……皆の見ている前で順ちゃんを殴った。あいつはそれから順ちゃんを夜店の裏の暗がりに引き摺って行った。私にはどうすることもできなかった。しばらくして順ちゃんはとぼとぼとした足取りで帰ってきた。順ちゃんが辞めて田舎に戻ったのはそれから十日も過ぎていないような気がする。  子供の頃は事情をよく理解できなかったが、今ならおおよその見当がつく。順ちゃんはあの男と深く関わっていたのだ。そしてあの男の側から逃げ出した。なのに盛岡の縁日でばったりでくわした。あの男は夜店で綿飴を売っていたのである。進退極まった順ちゃんはついに田舎へと立ち返った。男は勤め先を訪ねてきて祖母辺りから居場所を聞き出した。 〈なんで一年後なんだ?〉  そこがよく分からない。  居場所を突き止めたあいつは直ぐに岩泉へと向かったはずである。 〈だが……〉  裏になにかもっと深い経緯があって、あいつが順ちゃんを最初から殺すつもりでいたとしたらどうだろう。小さな町によそ者が出入りすれば必ず疑われる。あいつはじっと機会を待っていたのではないのか? 順ちゃんがまた岩泉をでて大きな町に移るか、自分が岩泉に居ても不審には思われない機会をだ。  祭礼は絶好のチャンスだった。たくさんの露天商が車に商売道具を載せて集まる。もし順ちゃんがあいつとの関わりを家族に内緒にしていたとすれば、二人の接点が警察には分からない。間違いなくただの交通事故として処理されるだろう。しかも一年という期間が順ちゃんに余裕を取り戻させている。なにかに怯えていたという証言も警察は得られない。田舎でのんびりと家事手伝いをしていた娘が、たまたま祭礼に訪れた露天商の車にはねられたと見做《みな》すに違いない。  すべては私の想像である。  が、井上政司という男が私の知っているあいつのことだとしたら……断じて偶然の事故では有り得ないし、一年待ったことにもそれなりの理由があるはずだ。順ちゃんはあいつの周到な計画の下に殺されたのだ、と私は確信を抱いた。接点が警察には見付けられないと踏んで犯行に及んだのであろう。 〈しかし……〉  それを証明する手立てがない。あいつの顔などほとんど忘れている。たとえ当時の写真を見せられても思い出せるかどうか。警察に相談したところで三十年前の事件ではまともに対処してくれないに決まっている。 〈写真……〉  私はそれを思い出して自分ながら身震いを感じた。あの記憶が正しければ……順ちゃんを殺したあいつを必ず告発できる。  私は慌ててたばこを揉み消すと階段を駆け上がった。おなじマイクロフィルムの中に私と順ちゃんとの夏の思い出が封じ込まれている。なんでそれを今まで思い出さなかったのかと自分に腹が立った。あんなに会いたいと思い続けた順ちゃん。その順ちゃんともう一度会える。あの岩手日報の紙面でだ。  私はマイクロフィルムを早戻しして探した。胸がどきどきする。指も震えている。  いきなり順ちゃんの笑顔が画面に映し出された。この笑顔だ。金魚を必死ですくい上げようとしている私を順ちゃんが満面の笑顔で応援していた。縁日の賑わいを岩手日報のカメラマンが撮影したものだ。  翌日の朝刊にそれを発見した私は大喜びで順ちゃんに見せた。順ちゃんもはじめはにこにことしていたが、その中にあいつも写っていることに気付いて新聞を投げ出した。  私はそれをついさっき思い出したのである。  私は幼い私を囲む人垣を探した。だれも新聞社のカメラを気にしているらしく緊張の笑顔を浮かべている。その中の一人に私の目が止まった。だれもが私の手元を眺めているのに、その男の視線だけは順ちゃんに向けられていた。カメラのフラッシュが焚かれているので興味を持って覗きにきたのだろう。そして……あいつは順ちゃんを捜し当てたのだ。  獲物を狙う冷たい視線であった。  私はじっとあいつの顔を睨み続けた。 〈これで順ちゃんの仇を取ってやれるよ〉  私は画面の順ちゃんに言った。  この写真のあいつと順ちゃんを轢き殺した井上政司が同一人物だと分かれば警察も必ず調べ直してみようとするはずだ。もう時効になっていても、あいつがまだ生きていたなら、真相だけは解明できるに違いない。  それが私にできるせめてもの恩返しである。  だが──  なによりも嬉しいのは、こうして順ちゃんとまた会えたことだった。  ここにくればいつでも順ちゃんに会える。  あの夏はいつまでも私のものだ。  よく見ると順ちゃんの額には汗が浮かんでいた。そして私の額にも。 [#改ページ]    幽《かす》かな記憶      1 「例の連載《やつ》、読んでるぞ」  席につくなり、先にきていて水割りを飲《や》っていた鈴木が挨拶代わりに言って苦笑した。 「あんな調子でまだまだ続くのか?」 「俺のは五回って約束だ。あと二回か」  私も苦笑で応じて鈴木とおなじものを女の子に注文した。こういう賑やかな店からは遠のいている。なんだか落ち着かない。 「新聞じゃ老けて見えたが、変わってないな」  鈴木はたばこに火をつけて、 「びっくりしたよ。医者になって気楽な毎日だと思ってたのに……僻村で老人医療とはな。給料も満足に貰ってないような書き方だ」 「それは大袈裟だけどな」  都会の大病院に勤務している仲間に比較すれば半分にも満たないのは確かだ。 「しかし……なんで読んでる?」  鈴木は東京の出版社に勤務している身だ。 「岩手《こつち》の新聞を郵送して貰ってるのさ。地元の人間より熱心に読んでいるかも知れんよ」  鈴木は私にグラスが運ばれると乾杯した。明日の昼からこの盛岡の近くの温泉を会場にして大規模な同窓会が開かれる。それで鈴木が前日に戻ることになり、共通の友人である大村から私も今夜誘われたのだ。 「ゆっくり飲みたいって大村に頼んだのさ。明日じゃどうなるか。新しい体育館を作るための寄付金集めも兼ねているらしいぞ。校長や先生たちもずいぶんくると聞いてる」 「そうだってな」 「四十だぞ、四十。こんなに早く大台に乗るとは思わなかった。三十からはあっという間」  鈴木はひひじじいの真似をして傍らの女の子の長い脚と尻を撫で回した。 「この子は十九だそうだ。俺たちが高校で真面目に学問していた頃、まだ生まれてない」 「大村は?」 「少し遅れるって連絡が入った。あいつ、今度選挙に出るんだって?」 「へえ。知らなかった」 「県議会と言ってた。応援を頼まれるぞ」 「それで同窓会の幹事を引き受けているのか」 「絶対だ。なんせ、新聞の人気コーナーに五回も訪問記事が掲載される有名人だもんな」  鈴木はにやにやとして話を蒸し返した。 「けど、あれってなんか棘がないか?」  それに私も頷いた。 「どんな記者か知らんが、どっかで人を見下しているような気がする。あの連載、いつもああいう調子だ。人を斬って喜んでるって言えばいいのかね。雑誌のコラムならいいけど、新聞記事とはちょっと違うんじゃないか」 「定年間近の大ベテランだそうだ」 「居るんだよ、そういうのが。辛口に書くのがかっこいいと思い込んでる連中がな」 「老人医療とは関係ないことを根掘り葉掘り質問された。感じ悪かったな」 「どうせ聞いたって分からんからさ。そういうやつも多い。なんでもかんでも自分の領域の方に取り込んじまう。それで人間の本質に迫ったつもりでいるんだろ」  鈴木がそんな風に読んでいてくれたと分かって私は嬉しかった。連載の一回目を目にしたときから実は不愉快さを覚えていたのである。私が熱心に訴えた老人介護の充実や行政単位の治療費負担についてはほとんど触れられておらず、雑談のつもりで応じた家庭の問題に大きく焦点が集められていたのだ。母親が蒸発したことや、父親の自殺は今の私になんの影響も与えていない。そもそも記憶にないことなのである。私にとっての両親は八歳のときから引き取って育ててくれた今の養父母たちだ。なのに……記事を読むと私が幼い時分の苦しみをずうっと引き摺っているかのように進められていた。あれでは養父母に対して申し訳ない。一度それで記者に抗議したのだが、あれはあくまでも聞き手である記者から見た人物論だと一蹴されてしまった。出鱈目を書かれたわけではないので、こちらも仕方なく引き下がった経緯がある。 「ま、ドラマチックではある。その記者が書きたくなった気持ちも分かるけどな」  説明すると鈴木は頷きながら、 「親父さんの墓も知らないってのは本当か」  不思議そうな顔で私に質《ただ》した。 「ああ」 「いくらなんでも調べれば分かるだろ。戸籍とか取り寄せて見ればさ」 「だろうな。やってないだけだ」 「そうだよな。あの記事を読んでると、まるで身元不明みたいな書き方だった。いきなりおまえさんがどっかから降ってわいたような」 「それも説明したよ。養父母に悪いと思ったんで実の両親のことは調べないことにしたと。それをあの記者は俺の拘《こだわ》りだと思ったようだ。八歳まで俺は母方の祖母に育てられた。その気になればいつでも親父の墓くらい調べられたんだ。あの頃だったらな。親父の本籍地が山形というのも知っている」 「どうりでおかしいと思ってた。じゃあ、二、三歳の頃までどこに住んでいたかも分からないってことは?」 「そいつは本当だ。全然記憶にない。物心ついたときは祖母しか居なかった。俺が聞かなかったせいもあるが、祖母も教えてくれなかった。どうせ親父は死んでるし、おふくろも蒸発しちまっている。無関係の土地だ」  祖母の暮らしていた紫波《しわ》町の片田舎が私にとっては懐かしい故郷だ。 「まぁ……盛岡だったと思う」  私は水割りの氷を噛み砕いて続けた。 「電話番号を憶えている」 「なんの?」 「たぶん、親父たちの家のものさ」  二二局の七二五九番。すらすらとそれが私の口からでた。一度も回したことのない番号である。祖母の家の電話近くに画鋲でとめられていた紙に書かれていたものだ。電話を受けるたびにその番号が目に入り、いつしか記憶してしまった。その当時は特に不思議とも思わず見過ごしていたが、養子に貰われて盛岡に暮らすようになってから何年かして思い至った。盛岡の電話番号は頭に二二局がつく。もしかしてあれは娘、すなわち私の母親の家の電話番号を祖母が書き出していたのではなかったのかと咄嗟に思ったのである。その紙を破り捨てれば娘との絆が切れるような気がして祖母はそのままにしていたのではないか。でなければほとんど盛岡の町と無縁だった祖母が、その番号だけを書き出していた理由が分からない。それに気付いてから二二局の七二五九番はさらに忘れられないものとなった。 「なるほど。そういうことか」  鈴木も同意しつつ、 「市外局番の方はなんで書かなかったんだ」 「あの頃はダイアル直通じゃなかった。一度盛岡局を呼び出して番号を言う」 「そうか、そうだった、そうだった」  完全に納得した。 「それにしてもよく憶えてるもんだ。俺なんか自分の編集部の番号すらいちいち確かめながらじゃないとかけられん」 「俺もだよ。歳かな」 「あながち、その記者の推測も外れちゃいないのと違うか? 気にしてるんだよ」 「親父やおふくろのことを?」 「三十年以上も前の電話番号だぜ。そろそろケリをつけたらどうだ? 育ててくれた人たちに悪いって気持ちは分かるがね。その電話番号を聞いたら放っておけなくなった」 「………」 「他にまったくなに一つ記憶が?」 「二、三歳だぞ。無理だよ」 「生まれたときの記憶を持っているやつも居るそうだ。三歳なら珍しくもない」 「乳母車に乗ってたことかな」  私の返答に女の子たちも笑い転げた。 「だれにだってあるさ。もっとも……記憶とは少し違うかも知れんけど」 「いや……違うんだ。確かな記憶だ」  私は鈴木を正面から見詰めた。 「何年か前に本を読んでいたら思い出した」 「どんな?」 「それこそ『乳母車』ってタイトルの短篇小説だった。短い話でね。月の蒼い真夜中に主人公が散歩をしていると、淋しい道を乳母車を押しながら歩いている女が居る」  怖そう、と女の子が肩をすくめた。 「薄気味悪さを覚えながら主人公はその女と並んで歩いた。ちょうど月は雲間に入って乳母車の中が見えない。主人公は女に子供のことを訊ねた。三歳の女の子だと言う。なんとなく一緒に歩いていたら月が顔を出した。主人公は明るく照らされた乳母車の中を覗いた。そこには……小さな京人形が寝かされていた。主人公はびっくりして女を見やった。女は何事もない様子で月を見上げていた」 「………」 「それだけの話だ。女はきっと子供を失って精神異常をきたしていたんだろう。それを知らない主人公がたまたま遭遇したんだ」 「だれの作品だい?」 「確か氷川瓏とかいう作家だ」  さすがに鈴木はその名を承知していた。 「その話を読みながら変な気分になった。俺にもそっくりな記憶がある。こっちは乳母車の中なんだけど」  鈴木と女の子たちは膝を前に進めた。 「前の方から真っ白な首が近付いてくるんだ。深い山の中だった。やっぱり夜中だったな。怖いとかって気分じゃなかったが、不思議な気はした。その首が俺をじっと覗き込んで見る見る鬼の顔に変わった。俺も泣いた……」 「夢の話か」  鈴木は苦笑してソファに座り直した。 「夢じゃない。本当のことだ」 「鬼ってのはなんだ?」 「分からん。首が近付いてきたってのは、恐らく闇に紛れて服が見えなかったんだろう。それで白い顔しか印象に残ってないんだ」 「夢だよ。第一、江戸時代でもあるまいし、真夜中に山奥を乳母車で行くわけがなかろう」 「いや……思い当たることはある。祖母のところにおふくろは俺を預けて蒸発した」 「その日のことだって言うのか?」 「今考えるとな」 「だって……確か紫波の田舎なんだろ。盛岡からだと二十キロはあるぞ。乳母車を押して行ける距離じゃなかろうに」 「真夜中でバスや電車がなかったとしたら?」 「女の足じゃ七、八時間かかる」  鈴木は断固として否定した。 「家が盛岡と違うんなら別だけど」  そう言われると私も自信を失った。が、あの乳母車の記憶は絶対に夢とは思えない。恐ろしく歪んだあの顔が今も脳裏に甦る。 「親父さんの名前は知ってるんだよな?」  鈴木は私に訊ねた。私は頷いた。 「だったら話は簡単だ。NTTを訪ねて四十年前の電話帳を見せて貰えば一発だ。その名前で、電話番号がさっきのやつとおなじなら、間違いなくその当時おまえの家は盛岡にあったことになる。乳母車の話は夢ってことだ」  頭いい、と女の子たちは手を叩いた。 「そんな昔の電話帳が残されているもんかい」 「あるよ。それが商売だもの」  鈴木は請け合って、 「それに……自殺だったら、当時の新聞にも必ず住所とかが書いてある」  あっさりと付け足した。      2  約束の十時には少し遅れて鈴木が現われた。NTTのビル前である。資料室辺りに必ず保管してあると言うのだが、あまりに古い時代だと面倒臭がって断られる可能性がある。それで言い出した当人の鈴木が同行してくれることになった。有名雑誌の編集部の肩書きはきっと役に立ってくれるだろう。  その通りに運んだ。普段の応対を知っているわけではないけれど、資料室を管理している人間が直ぐに受け付けまで下りてきて、私たちを二階の応接室へと案内した。私は三十八年前の電話帳が見たいとあらためて申し出た。男は頷いて資料室に向かった。 「決心がついたようだな。さっぱりした顔だ」  鈴木は茶を啜って私をからかった。 「病院の関係で盛岡にも滅多に戻れない。こっちも四十だ。確かに頃合だろう。次は戸籍を当たって親父の墓も探してみるよ」 「おふくろさんの行方の方は?」 「まだ決めかねている。四十年近くも過ぎてるんだ。どこかで生きているにしても別の家族に囲まれているに違いない。余計な迷惑になることだって……。俺とはたった二、三年の付き合いでしかない」 「おまえらしい言い方だな。少しの付き合いか。親子の関係で付き合いってのはねえよ」 「写真も見たことがない」 「それはまた徹底してるね」 「祖母が燃やしてしまったようだ。祖母が亡くなったときに箪笥や押し入れを探してみたがアルバムはどこにもなかった」  子供を捨てるなんて親ではない、と祖母はいつも怒っていた。と同時に自分を見捨てたことへの怒りも加わっていたはずだ。祖母と私の母親は親一人子一人の暮らしを永く続けていたのである。 「蒸発の原因はなんだったんだ?」  鈴木はさり気なく訊ねてきた。 「親父の借金のせいじゃないかと祖母が洩らしたことがある。おふくろの蒸発の直後に親父が自殺したのだって借金の取り立てから逃れるためじゃなかったのかね。よくは知らん」  私はたばこを乱暴に揉み消した。私が祖母にあれこれ質問しなかったのも、決して心地のいい話ではなかったからだ。そして、実の親についてほとんどなに一つ知らない子供がここに居る。養父母は祖母が亡くなって半年ほど過ぎてから私を養護院より引き取った。私とはまったく無縁の人たちである。それだけに一日として恩を忘れたことはない。 「お待たせしました」  薄い電話帳を一冊手にして男が戻った。  こんなに簡単なことだったのか、と拍子抜けしながら私はそれを受け取った。二二局の七二五九番。苦しいときや悲しいとき、私はそれを呪文のごとく唱えてきた。その解答がこの薄い電話帳の中にある。私は親父の名前を探して頁を捲った。 〈あった……〉  まさに二二局の七二五九。その数字だけがやたらと大きく目に飛び込んできた。親父たちは間違いなく盛岡に暮らしていたのだ。  私の目は住所を辿った。  下ノ橋鷹匠小路とだけ記されている。 「鷹匠小路って……どの辺りだっけ」 「今だと馬場町とか清水町でしょう。下ノ橋中学校の周辺です」  NTTの男が鈴木の代わりに教えてくれた。頷いたもののピンとこなかった。商店街から外れた古い住宅地で、用がない限り足を運ばない場所だ。  中途半端な思いで私はそこを辞去した。 「もっと詳しく調べる方法があるぞ」  鈴木は見透かしたように言った。 「図書館に行ってその頃の住宅地図を借り出せばいい。鷹匠小路を丹念に探せば親父さんたちの住んでいた家が見付かる。あの辺りは昔とそんなに変わってないはずだ。運がよければ実際の家だって残されているかも」 「まさか」 「本当だ。俺はあの辺りをよく知ってる。俺が小学校の頃からそのままの家がたくさんあるぜ。とにかく、せっかく調べはじめたんだ」 「あったところで……憶えているかどうか」 「だから試してみるしかない。盛岡に家があったと突き止めながら諦めるのは惜しい」 「そっちが楽しんでいるみたいだ」 「まあね。仕事柄資料探しは鍛えられてる。どこまでやれるか興味が湧いてきた」  NTTのある中央通りから県立図書館は歩いて五分とかからない。鈴木の勢いにつられて結局そちらに向かった。図書館のガラス戸を押しながら少しどきどきした。昔の電話番号なんて役にも立たないと思い込んでいたのに、それを手掛かりに住んでいた家まで突き止めることができるのだ。鈴木が側に居なければ住宅地図を調べるという発想はどこからも出てこなかったはずだ。  ここでも簡単に住宅地図が私の目の前に差し出された。私と鈴木は閲覧室の椅子に腰掛けて探しはじめた。鷹匠小路は一頁の中にすべて収まっている。父親の名が記入された家を見付け出すのに苦労はなかった。北上川に沿っている杉土手の近くだ。一軒家が密集している。鈴木は大きく頷いた。 「古い家がたくさん残っている一画だ。町並みもこの当時とあんまり変わらん」  鈴木はその頁を開いたまま貸し出しカウンターに戻ってコピーを頼んだ。 「もうそろそろ行かないと」  同窓会に遅れる。私は鈴木を制した。 「遅れたっていいさ。どうせ今夜は一泊だ」  鈴木の方が熱中していた。 「ここに行ってみるつもりか?」 「歩いたところで十分とかからんよ」  鈴木の丸い目玉が笑っていた。      3  本当に古い町並みが続いていた。何十年も前のものと思われる黒い板塀が狭い道の両側に延びている。塀越しに覗かれる家も子供の頃の盛岡の印象と変わらない。大通りや菜園などの変貌を知っている私には信じられなかった。まるでタイムマシンに乗って時代を遡ったような気さえする。 「商店街から離れた住宅地だったんで再開発から取り残されたんだ。それに、この辺りは貸家が多い。家主の許可なしに改築ができん」 「なるほどね」  この町並みを見られただけでも甲斐がある。 「そろそろ近付いたんじゃないのか?」  私の手にしているコピーを鈴木は覗いた。 「右に入る路地って……あれだろう」  鈴木は地図と照らし合わせた。三十八年前のものと寸分違わない道である。地図によれば路地を右に入ると四角い空き地になっていて、そこに三軒の家が並んでいることになっている。その右端が父親の名義の家だ。 「空き地じゃ、さすがに期待はできんがな。いくらなんでも他の建物が建てられたはずだ」  鈴木は私の先に立って路地を曲がった。 「おい……」  鈴木の足が途中で止まった。 「そのままだぞ……信じられん」  私も急ぎ足となった。  不思議な空間がそこに残されていた。腐りかけた板塀に囲まれた空き地がぽっかりと目の前にある。屋根の半分崩れた小さな家がその中に三つ並んでいる。どうしてこんな空間がそのまま残されてしまったのか……路地の狭さに原因のあることがやがて分かった。車が通れる幅ではない。それで駐車場にもできなかったのだろう。空き地の四方は家が取り囲んでいるので他に入る道はない。  空き地には草が茫々と生い茂っていた。 「憶えてる……ような気がする」  ひどく懐かしい眺めだった。取り囲んでいる壁の圧迫が不意に甦った。もっと広大な空き地だった気もするが、それは自分が小さな赤子だったせいなのだろう。私は空き地を横切って崩れかけた家に近付いた。トタン屋根のバラックだ。空き地に面した狭い濡縁に腰を下ろした私に確かな記憶が浮かんだ。この濡縁に寝て母親の洗濯をしていた姿を眺めていたことがある。私は草むらに井戸を探した。空き地のどこかに井戸があるはずだ。ポンプの柄を握ってギコギコと水を汲み上げている母親のイメージが一瞬だが脳裏をよぎる。私は濡縁から立って草むらを探した。 「どうした?」 「井戸がどこかにある。思い出した」  私はやがて発見した。石や土で塞がれているが、間違いなく井戸の跡だった。コンクリートの丸い縁がわずかに残されている。 「凄い記憶力じゃないか」  鈴木は井戸跡を見下ろして唸った。 「ここがそのままだったからさ」  私は涙を必死でこらえていた。なぜ泣きたくなるのか自分でも分からない。思わず空を見やった。秋の青空が広がっている。四角い空き地に四角く切り取られた青空だ。この空にさえ思い出がある。私はここに恐らく三歳までも暮らしていないのに。 「先に行っててくれないか」  私は鈴木に言った。 「しばらくここに居たいんだ」 「だったら下ノ橋の近くの喫茶店で待ってる。温泉までタクシー割り勘の約束だろ」  鈴木は冗談を口にして私に背を向けた。 「三十分くらいだ」  私は鈴木の存在に感謝していた。鈴木に背中を押されてきたも同然の場所である。  私は扉のない入り口から薄暗い家の中に入り込んだ。何十年も前から放置されているらしく、もはや家という面影もない。台所の床は腐り果て、草が伸びている。取り壊さないのが不思議なほどだった。部屋の畳は雨を吸ってぶかぶかに捲れ上がっている。きっと私たちのあとに何人かが暮らしたのだろう。わずかに模様が分かる襖からはなんの記憶も戻ってはこなかった。  今の状態から三十八年前を想像するのはむずかしい。若い夫婦には六畳二間でもさほど狭くは感じなかったに違いないが、子供が携帯電話を持ち歩く現在《いま》と異なって呼び出し電話が珍しくはなかった時代である。どうしてこんな家に電話が引かれていたのか? その疑問がまた新たな記憶を呼び覚ました。昼夜となく電話のかかってくる家だった。そのたびに父親は外に出掛け、私と母親だけがここに取り残された。生活は貧しくとも電話がなければやっていけない仕事。たとえばお抱えの運転手のような仕事に就いていたのではなかったのだろうか。この空き地を所有していた会社が建てた社宅。そう考えるとすべてに納得ができる。だが──その場合、電話の名義は会社のものになっていそうな気がする。なにか事業にでも失敗して、電話だけを手放さずに持ってきたという考えもできた。どうもその方が当たっていそうだ。記憶とは違うけれど、この空間に居て幸福な思いが少しも甦ってこない。今の荒れ果てた家から受ける感じに過ぎないのかも知れないが、なにか締めつけられるような哀しみがずうっと私を支配していた。息苦しささえ覚える。母親の涙や父親の苦悶がここにまだ漂っている。ここは地獄の家だった、と私は感じた。  母親はいつも暗い目で蹲《うずくま》っていた。父親は酒ばかり飲んで荒れていた。知らない男たちがうろうろと入り込んできては父親を殴り、母親を怒鳴った。そんな光景が不意に思い浮かべられた。記憶だろうか? それとも私の単なる想像だろうか。どちらとも言えない。奇妙なことだが、私はこの世界から抜け出られたことを僥倖とさえ思っていた。私が今の幸福な暮らしをしていられるのは裕福な養父母のお陰である。学業に熱心な養父母が育ててくれたせいで医学部にも入れた。この地獄にそのまま残されていたら、私の人生はどうなっていたことか……母親にしても逃げ出したくなって当たり前だ。何度となく足蹴にされ、髪を引き摺られて押し入れに閉じ込められた。そうだ……そうだった。うるさいからと叱られて私も母親と一緒にあの押し入れに放り投げられた。  私は襖の破れた押し入れに近付いて開けた。  悲鳴を上げた。  そこに女が座っていたのである。  女は布団の間に収まっていた。  一瞬にして、その幻は消えた。  だが、私の方の鳥肌は消えない。 〈おふくろか……〉  私はへたへたとその場に膝をついた。  朝までそこから出てくるな、と言われて母親は私を抱いたまま何時間も押し入れの中に泣きながら座っていた。その幻を見たのだ。 〈おふくろ……〉  なんで一人で逃げ出したんだよ。  涙がいきなり溢れた。  私はこの世でだれよりも母親を愛していたことをはっきりと思い出した。だから悲しかった。母親が一緒ならどんな苦労にも耐えられただろう。どうして母親は私を連れて逃げてはくれなかったのか。なぜ祖母に私を預けて一人で逃げてしまったのか。  がらんとして土埃の積もっている押し入れを眺めながら私はただひたすら泣いた。 〈あの野郎!〉  父親への怒りが煮えたぎった。せめて私が十歳にもなっていれば父親の暴力を絶対に許しはしなかった。薄汚い女をここに連れ込んできたりする最低の男だった。  次々にそういう場面が目に浮かんで私自身が驚いていた。もしかするとこれは母親が私に訴えているものなのかも知れない。いくら見ていたにしても二歳やそこらの私に理解できる状況ではないはずである。 〈どこに居る。出てこい!〉  私は奥の部屋に踏み込んだ。  案の定、そこには父親の死骸が転がっていた。腕には喉を切り裂いた包丁がしっかりと握られている。夥しい血が畳一杯に広がっていた。私は立ちすくんで父親を見下ろした。  憶えている。  私はこうして死んでいる父親を確かに見た。  しかし──  それは絶対に有り得ないことなのだ。  父親が自殺したのは、私が母親に連れられて祖母の家に預けられてからのことである。それとも……私の父親が自殺したと知って祖母がこの現場に駆け付けたのだろうか。それはあるかも知れないが、その場合でも私にこの父親の悲惨な死体を見せはしないだろう。  では、なぜ私がこれを記憶している?  私は屈んで父親の顔を覗き込んだ。  かっと見開いた目。薄い唇の奥に鈍く光る銀歯。鼻の穴からも溢れている血。そのことごとくが記憶として刻まれているものだった。  私の目は暗い天井に向けられた。  天井に母親がへばりついていた。  私と母親の目が確かに合った。  私は……奈落に突き落とされた。  腐った畳を踏み付けて片足が膝まで沈んだのである。尻餅をついた畳からもうもうと土埃が舞い上がった。眩暈《めまい》がする。  私はまた天井を見やった。壊れた屋根の隙間から青空が見える。慌てて周りを探す。  もちろん父親の死骸などどこにもない。 〈なんだったんだ?〉  私の震えは収まらなかった。  なぜ母親があんなところに居たんだろう。  だが……それさえも、私は見たことがあるような気がした。私の側から居なくなったとばかり思っていた母親が戻って、私はとても嬉しかった。怖くなどなかった。そうなのだ。あれは現実だった、と私は確信した。      4  蒼白い月に照らされた田舎道を私は幸福な思いで乳母車に乗っている。きーこきーこと軋む小さな車の音が心地よい。車が小石を踏むたびに気持ちよく左右に揺れる。爽やかな夜風が私を撫でては通り過ぎる。私はときどき身を乗り出して月明りに白く輝くススキの原を見渡した。これからは母親と二人だけで居られるのだ。私は振り向いて母親の笑顔を確かめた。母親はほつれた髪をそっと掻きあげて私に頷く。でも母親は笑いながら泣いていた。その意味が幼い私には分からない。母親はいつもの子守唄を小さな声で歌いはじめた。  ねんねころころ、ねんころや、向かいお山で茅刈るは、金五郎殿か五郎殿か、ちょっとおいでやお茶あがれ、お茶の子にはなにがよい、天下一の香箱さ、香箱の中にさ赤い小袖の十二重ね、白い小袖の十二重ね、十二十二の中にさ、お月さまがおんでって、上さ向いてもちょっちょっちょっ、下さ向いてもちょっちょっちょっ。  ここで必ず母親は私の頬や耳の辺りをくすぐる。きゃっきゃっと私は乳母車の中で暴れた。ちょっちょっちょっ。  乳母車はせせらぎの側を通る。  草の匂いや虫の声が聞こえる。  満天の星空が綺麗だ。  母親がかけてくれたタオルでぽかぽかに暖かい。こんなに暖かいのははじめてだ。  乳母車は山道に差し掛かった。体が後ろの方に押し付けられる。それも面白い。ほうら、ほうらと母親が小さく乳母車を揺する。  遊びながら山道を辿っていたら前の方から人が歩いてきた。月に照らされた顔だけがほわっと白く浮かんで見える。その顔がどんどん近付いた。不思議そうにその顔は立ち止まると乳母車にこっそり近付いてきた。私はにこにこと笑って挨拶した。中に私を認めたその顔がたちまち驚愕に変わった。目を真ん丸にして私を睨んでいる。 「おめえ……捨て子か?」  なんのことか分からない。母親は男を無視して乳母車を押した。乳母車が動くと男は悲鳴を発して夜道を逃げ去った。母親は泣きながら私の頭をいつまでも撫でた。      5  私の涙はいつまでも止まなかった。  私はようやくすべてを理解したのである。  私を祖母の家まで乳母車に乗せて運んでくれたのは母親の幽霊だったのだ。  祖母は明け方に家の前に置かれてある乳母車の中に私が眠っているのを見付けて、母親が夜中のうちに預けてどこかへ蒸発したのだと決め込んでしまったのだ。  それが全部を曖昧にしてしまった。  その頃にはもう父親は死んでいた。  警察は祖母の話を信用して母親が蒸発したと断定した。夫に自殺され、子供を育てる自信を失った無責任な母親ということになった。  だが真実は違う。  この私が見ている。  母親は泥酔した父親に殴られたことが原因で死んでしまったのだ。朝になってそれに気付いた父親は母親の死体を押し入れに隠した。そしてそのあと密かに処分した。父親はさらに私を殺して逃げるつもりになっていた。  そこに母親の幽霊が現われた。  包丁を握って私に迫る父親の腕を母親が掴んだ。父親は恐怖に震えた。自殺などではない。母親に操られて父親は自分の喉を掻き切ったのだ。そして……母親はたった一人この世に残された私を祖母のところへ運んでくれたのである。山道で出会った男が怯えたのも当然であろう。その男には母親の姿が見えなかったに違いない。私を乗せた乳母車が、ゆっくりとひとりで山道を辿っていたのだ。私にはその男の恐怖に歪んだ顔が鬼と見えた。 〈かあさん……〉  そんなにも俺を愛していてくれたのかい。  私はふらふらと家から空き地に出た。  ちょっちょっちょっ。  私の頬をつつく母親の指の感触がした。  母親はまだこの空き地に居る。  私がこの手で捜し出してくれる日を待っていたのだ。母親の明るい笑い声が甦る。 〈ごめんよ……忘れていたんだ〉  私は草を掻き分けて井戸に戻った。  この井戸の下に母親が眠っている。  父親が投げ込んだのを私は見ていた。  それがどういうことなのかも当時の私は知らないでいた。だって……そのときだって母親は私をきつく抱き締めてくれていたのである。思い出しながら私は井戸に詰まっている石を一つずつ取り除きはじめた。  こんなに大きくなったことを母親はきっと喜んでくれているだろう。 [#改ページ]    記 憶 の 窓      1  汚れたガラス窓を透かして広い前庭が覗かれる。庭を割って赤いレンガの道が延びている。道を目で辿ると、その先に、やはりレンガで拵《こしら》えた門柱が見える。時刻は夕まぐれ。夕焼けが禍々《まがまが》しく空を染めている。本当に厭な色だ。血を連想させるほどに濃い。私は空から門扉《もんぴ》へと目を移した。扉がゆっくりと開かれて二つの人影が現われた。大人と子供のものだ。遠くにあるはずの人影がどんどん大きくなって迫る。はっきりと顔が識別できる。大人の方は私の伯父の貞雄。そして……子供の方は私だった。伯父の手をしっかりと握り、不安そうな私の顔が目の前にある。見ている私の胸も騒ぐ。その瞬間、視点が移動して私の目は古びた洋館の二階の窓を見上げていた。部屋に明りが点されていないせいだろう。それに、窓のガラスは真っ赤な夕日を反射していて、中の様子がなにも見えない。それでも、あの窓のある部屋だということは分かっている。見えないが、あの窓の奥にだれかが立って私を見下ろしている気配は感じた。  伯父は私の腕を引いて歩きはじめた。  私はその腕をほどいて道に蹲《うずくま》った。  まるで燃えているように夕日を映している洋館の白壁が怖い。洋館の背後を黒く染めている森の深さも私を怯えさせていた。      2  わっ、と反射的に身を強張《こわば》らせていた。目覚めた瞬間、新幹線の中だと気付いたが、なぜ乗っているのか、すぐには思い出せなかった。夢の方にすっかり気を取られていたのだ。  私のとなりで週刊誌を読んでいた客の姿はない。二、三十分は眠り込んでしまったようだ。徹夜の仕事明けで飛び乗った新幹線である。疲れていたのは確かだが……私は飲みさしのコーヒーカップに手を伸ばした。紙コップは冷えきっていた。構わずに呑み干した。渇いた喉に冷たいコーヒーが心地好い。  私は目を瞑《つむ》って夢を反芻した。完全に洋館のたたずまいが思い出される。ただの夢ならどんどん薄れるはずだが、これは私の記憶でもあるのだ。記憶と夢が合体している。  屋根から突き出た尖塔。一階部分が蔦に覆われた白壁。広い玄関口のバルコニーの手摺部分に刻まれている百合の模様。庭に咲き乱れていた赤や白の薔薇。ことごとくが鮮やかに記憶されている。大きな洋館が珍しかったからかも知れない。  もっとも……本当にすべてが私の記憶かどうか、と問い詰められれば危うくなる。不思議と何度もこの洋館を夢に見ていて、その夢の記憶が新たなものを重ね合わせていないとも限らない。実際にその場に立てばずいぶん違っている可能性もある。それと……夢に見るたび、なぜか胸騒ぎを覚える。私の記憶は洋館を目の前にして眺めているだけのことで、その先は完全に失われている。胸騒ぎは恐らく忘れてしまった部分と関わりがあるのだろう。これは心理学を教えている友人の分析だ。私もそう思う。それを確かめるためにも、もう一度、あの洋館を訪れてみたいと念じ続けているのだが、あいにくと場所が分からない。連れていってくれた伯父が大昔に死んでいる。  間違いなく遠野近郊だろうとは思うのだが、一週間ほどの旅行だったと聞かされているので場所を絞り込めないのである。  私は目を開けて窓の外の景色を見やった。  そろそろ盛岡に近付いている。遠くの山々は雪化粧に覆われて輝いている。こういう季節に帰るのはひさしぶりだ。両親ともに亡くなってしまっているので、一人っ子だった私は故郷を失ったも同然だ。両親の親族の何人かはまだ健在で盛岡に暮らしているけれど、よほどの用事でもない限り、その家を訪ねることはなくなった。それでも、見慣れた山々の形を眺めていると故郷に戻ったという実感に包まれる。  車内販売が回ってきたので私はまたコーヒーを注文してテーブルの上の本を手にした。マンリー・ホールの著した『カバラと薔薇十字団』の原書だ。魔法や秘密結社、あるいは古代神話の本質の解明に挑んだ『象徴哲学大系』の中の一冊で、フレーザーの『金枝篇』やセリグマンの『魔法』と並ぶ名著である。すでに訳本も出版されているのだが、今度翻訳を手掛ける予定になっているミステリーに、やたらと神秘学や魔術関係の記述が目立っていたので、慣らし運転のつもりで書架から引っ張り出して、ここのところ読んでいる。こういう本で単語に慣れておけば翻訳の際に辞書に当たる度合いがぐんと減って楽になる。それに、これには珍しい図版が多く掲載されているから眺めているだけでも面白い。  さきほどまでとなりに座っていた男は、私が原書を読みはじめたら少し厭な顔をしていた。新幹線の中で分厚い原書を読むなど、気障《きざ》な人間と見られたに違いない。  熱いコーヒーを啜りながら頁を捲っていると懐かしい暗号書体をいくつも紹介している章にぶつかった。若い頃、これに熱中して必死に覚えたものである。と言ってもたいていの人間には耳慣れぬ言葉のはずだろう。他人に内容を悟られぬよう、仲間内だけで文字を変形したものを考案し、それを用いて文書の交換などをするのである。世間に最も知れ渡っているのはダ・ヴィンチがノートにアイデアを書き付けていた逆さ文字。あれなどは単純過ぎて暗号書体とも言えないが、逆さ文字と気付かなければなかなか読めない。フリーメーソンでは階級に応じての暗号書体まで存在すると言う。この利点は、特別な暗号表など使わなくても、学習すれば簡単に読めるようになることにある。反対にアルファベットの置き換えなどとは異なるので、書体を学んでいない者には絶対に読めない。漢字を知らない外国人が何年文字を眺めていたとて読めないのと一緒だ。  私はマラキム書体を探した。古代に作成されたオカルト文書中にしばしば見掛けるもので、別名を天使の書体と言う。装飾文字と見紛う美しさに溢れた書体である。それで天使の書体と呼ぶのか、あるいは一説のように神々の用いている文字を本物の天使から教えられたものであるのか……どちらも頷けるくらい不思議な魅力を持っている。最初にこの文字を目にしたのは中学生の頃だった。専門的なオカルト研究書でしかお目にかかれない文字なので普通なら中学生では有り得ないことだ。たまたま伯父の貞雄が著した本に書かれていたので存在を知ったのである。伯父は民俗学の研究者で、ことに呪術や憑き物の分野を専門としていた。最初は柳田国男の『遠野物語』を読んで、岩手にまだまだ埋もれているはずの民話の採集を志したようだが、遠野地方や岩手の山間部でいまだに信仰されている「箱神」や「おくないさま」の実態を知るにつけ、呪術に関心を深めていったものらしい。箱神とは、文字通り箱に納めた神像を年ごとに持ち回りで預かり、何軒かで守っていくものだ。神社が移動する、と考えれば分かりやすい。預かっている家の当主がその年の神主となる。小さな箱なので咄嗟に隠せることや、神像を布で何重にも包み込み、絶対に人の目に触れさせないことから、隠れ切支丹との関連を云々されているが、発生はもっと古いらしく、箱の裏側に八百年も前の年号が記されてあるものも存在するとか。伯父は箱神の分布が岩手の海岸から山間部に広がっていることに着目し、漂着民が持ち込んだ悪魔信仰ではないかとの推論を立てていた。箱の中に神像と一緒に納められている神符がときどき発見される。その書体が神道の護符に用いられるものと別物で、むしろ古代ヨーロッパの暗号書体に似ていると気付いたのである。そこで例として著作の中にマラキム書体を掲載したというわけだ。箱神の解明や歴史などは中学生の私にはむずかしく、さほどの興味も持てなかったけれど、マラキム書体の美しさには魅かれた。アルファベットのすべてに対応した書体があるので、これを覚えれば秘密の文書が私にも作成できる。当時好きだった女の子の名を大きくノートの表紙に書き込み、教室でそのノートを堂々と用いたときの快感。いや、もっと卑猥なことを授業中に落書きしていた記憶もある。神々の用いる文字でセックスとかキスという単語ばかりを綴っていたのである。伯父がその当時存命で、私がマラキム書体をそんな風に用いていることを知れば甚だしく嘆いたに違いない。  車内アナウンスが三分で盛岡だと告げた。  私は本をバッグに戻してたばこを喫った。  これからなにが起きるのだろう。  急に私の胸は騒ぎはじめた。  徹夜続きのせいもあって、本当のところ突然舞い込んだ岩手のテレビ局からの電話の内容がよくは理解できなかった。尋常ではない話に動転したのは一瞬のことで、よく考えると有り得ない。岩手のどこかに、私の生まれ変わりだと主張する人間が居るらしい。私はこうして生きている。その人間の頭がおかしいに決まっている。 〈それにしても……〉  なぜ私なのか? 翻訳の仕事はペンネームを用いている。第一、そんなに有名ではない。  頭がおかしいにしても、私とどこかで関わったことのある人間としか思えない。テレビ局の男は、会ってから詳しい話を、と言ってそれ以上教えてくれなかった。私の驚きの表情を撮影したいのだろう。役者と違って素人は演技ができない。聞いてしまえば驚きが薄れる。汚いやり方だ。なのに断わらなかったのは、盛岡に帰れるということと興味でしかない。自分の生まれ変わりだと主張する人間を無視できる者は滅多に居ない。  青空に岩手山がくっきりと見える。  私はたばこを喫い込んで心を鎮めた。      3  約束の喫茶店には想像した通りテレビカメラも持ち込まれていた。若いディレクターが挨拶もそこそこに私を席に案内する。撮影の許可を私に得る。頷くしかない。さすがに緊張した。もうすでに相手のペースに巻き込まれている。カメラのレンズが無遠慮に私の横顔へと接近する。コーヒーに口をつけて落ち着きを取り戻そうとしていたらディレクターはテーブルに伯父の本を置いた。私がマラキム書体を知った例の本である。ますます気が動転した。伯父が今度のこととなにか関係しているのだろうか。  箱崎美奈子という名前に心当たりはないか、とその男は訊いてきた。そろそろ六十歳になる女性だと言う。私より十歳以上年長だ。まったく聞いたことのない名である。伯父とも歳が離れている。伯父が死んだのは四十年も前のことで、そのとき三十七、八歳のはずだから生きていれば八十近い。 「つい半年前に奇跡的に植物状態から目覚めましてね。四十年もその状態で眠り続けていたんです。それで番組を拵えることになって、いろいろと取材を続けているうちに、あなたの伯父上の名前とあなたのことが……そればかりか、本人は箱崎美奈子ではなく橋場隆行、つまり……あなただと言い張るようになったんです。はじめは、長い眠りから目覚めたこともあって妄想に違いないと決め付けていたんですが、調べてみたらあなたも伯父上も実在していました。あまりに彼女の話が符合するので、今ではただの妄想とはとても……」  どんな点が符合するのか私は質《ただ》した。男は私の両親や親族の構成、住んでいた場所の地名、私が通っていた小学校の担任や親しかった友人の名前や渾名、家の間取り、好物などを細々と記した紙を私に示した。読み進めながら私は寒気に襲われていた。全部が当たっている。こんなことが有り得るだろうか。 「まさかと思っていたので、あなたに断わりもせずに調べました。彼女は四十年も眠っていた人です。逆にその当時の記憶が昨日のことのように鮮明なのかも知れない。それで、よく知っていたあなたのことを自分の記憶と勘違いして並べ立てている可能性もあります。局の連中の大方はいまでもそう見ているようですけど、他人のことをこれほど克明に覚えているものでしょうか? 家内や子供のことだってぼくはこんなに詳しく知りませんよ。失礼ですが、ひょっとして彼女はあなたの実の母親じゃなかったのかと疑ったこともありました。ですが年齢が合わない。十二歳しか離れていません。反対に言うと友達だったとも思えません。あなたが八歳のとき、あの人は二十歳でしたから」  なんで八歳に限定するのかと私は訊ねた。 「記憶がそこで途切れているんです。そして眠りに就いたようですね」  私は……唸るしかなかった。 「電話で詳しいお話を避けたのは……あなたが薄気味悪く感じて取材を断わるんじゃないかと心配したからです」  男は謝った。私も頷いた。私のことを自分よりもよく知っている女の存在。思うだに寒気がする。確かに断わったかも知れない。 「七歳のときに岩手県の子供作文コンクールで入賞したことがおありでしょう?」  私は曖昧に頷いた。 「彼女はその賞状を手渡してくれた人間が太っていて頭が禿げ上がっていたとも言っていました。ここにそのときの写真が」  男は写真を私に手渡した。まさにその通りの人間が子供に賞状を贈っている。 「コンクールを主催していた新聞社の編集局長だそうです。新聞社に問い合わせたら、この写真が残されていました。この場に居合わせた者でないと、分かるはずもない人物です」  私は額の冷や汗を拭った。私にこの場の記憶はいっさい残されていない。晴れがましい席のはずなのに……これも私が失った記憶の一つに違いない。私はある事故を切っ掛けとして幼い頃の記憶を失くしているのである。入院中に母親が必死で私にあれこれ教えてくれた。それでなんとか半年ほどで小学校にも復帰することができたのだ。 「どういうことなんでしょうか?」  途方に暮れた顔で男は私に呟いた。私こそおなじ言葉を男に返してやりたい。 「あなたが仮に亡くなっていたとしたら……ぼくもこの話を信じたと思いますけどね」  男は私の反応を待っていた。伯父との関わりはどうなのだ、と私は質問した。 「一緒にきた、とだけしか」 「どこへ?」 「彼女の家だと思います。そこのところは彼女も説明が不明瞭で。ですが伯父上のこともよくご存じでしたよ。それでぼくらも簡単に消息を辿ることができました。でなければ四十年も昔に亡くなった方の情報を得るのは厄介な仕事です。伯父上のご家族は今もおなじ家に住んでおられるんですね。そこからこの本をお借りしてきました。伯父上のご家族も箱崎美奈子という女性にはまったく記憶がないとおっしゃっていました」  男はコーヒーカップに手を伸ばしつつ、 「勉強不足で……こういう人が岩手にいらっしゃったなんて。自費出版には勿体ないくらいの本ですよ。早くにお亡くなりにならなければきっと名を成していた方だったでしょうね。交通事故とお聞きしましたが」  田沢湖に向かう山道で運転を誤り、崖から転落してしまったのだ。しかも、助手席に乗っていたのは私である。伯父は死に、私はこうしてなんとか生き長らえている。打ち所が悪くて記憶を失ったのもその事故のときだ。だからどんな状況の事故だったかも私は覚えていない。気が付いたら病院のベッドだった。 「会ってみる気はありませんか?」  男は核心に触れた。 「盛岡の病院にでも?」 「いえ。今は実家のある宮守村の方へ。車で一時間ですから遠くはないです」 「宮守って言うと遠野の側の?」  となり村だと男は応じた。 「凄い旧家でしてね。明治の立派な洋館です」  私は驚愕を必死で押し殺していた。そこが長年探し求めていた洋館であることは疑いない。そんな偶然が他にあるわけがなかった。 「彼女の弟さんの家ですが……弟さんも内心では戸惑っているんだと思いますよ。四十年も眠っていた人がいきなり目覚めたんだから」  少し考えさせてくれ、と私は返事した。気持ちの整理をしなくては対応ができない。二、三日は盛岡に滞在する、と言ったら男も安堵した様子であっさりと頷いてくれた。 「その……妙な質問かも知れないけど」  さっきから気に懸かっていたことを私は口にした。箱崎美奈子という女性の言葉遣いだ。子供のように話すのだろうか? 「いや。そう言われると……変ですね。普通の大人の話し方です。四十年間眠っていたんだから成長はしていないはずだ。本当に生まれ変わりなら子供の口調の方が自然だな」  私に指摘されるまで気付かなかった、と男は素直に認めた。それで私も余裕を取り戻した。私には記憶はないけれど、その洋館が伯父と一緒に訪れた場所であるなら、伯父がうんと親しかった可能性がある。もしかすると伯父の愛人ということだって。それなら伯父の家族がなにも知らないのも頷ける。彼女は伯父を通じて私のことをあれこれ聞いていたとも考えられるではないか。いきなり長い眠りから目覚めたので混乱が彼女に生じている、そう見るのが自然であろう。一応は合理的な解釈ができる以上、生まれ変わりなどという馬鹿な話は遠ざけることができそうだ。なにより私がここに居るのが確かな証拠だ。安堵しつつ私は伯父の本を手に取った。私の手元にこの本はない。今の私の知識と興味であれば内容もきちんと理解できるはずだ。あとで伯父の家に立ち寄って本を貰って帰ろうと思いながら頁を捲っていたら余白部分に落書きを見付けた。伯父の字であろう。しかもマラキム書体であった。三つの単語を線で結んである。私は思い出しつつなんとか解読した。真ん中の単語は AKUMA と読めた。どきどきしはじめた。悪魔のことに違いない。では線で結ばれている左右の単語は? 読み終えた私の顔は青ざめていたはずである。そこには、はっきりと私と美奈子の名が記されていたのだった。左が美奈子で右が私だ。  二つの名を結ぶ悪魔の文字。  なにを意味するものなのか。  吐き気と私は戦っていた。  緊張で喉が詰まったのである。  怯えた目で私を振り向いた伯父の顔が、一瞬、まざまざと私の脳裏に甦った。      4  その日の夕方。  私は恐らく四十年ぶりにこの洋館と対峙していた。そう言って間違いないだろう。まさに記憶と変わらない屋敷が私の目の前に在る。夕焼けに照り映えているバルコニーに刻まれた百合の模様も、古びてはいるものの記憶通りであった。私の目は次いで二階の窓に向けられた。車のドアを閉めた音で来訪を知ったのか、窓際に立って私を見下ろしている影が暗い窓の中に見える。背筋がぞくぞくとした。あのときとおなじ光景が再現されている。違うのは側に伯父が居ないことだけだ。それと、門扉が取り払われて玄関近くまで車で入れるようになっていることか。  一人できたのは間違いだったのではないか、と後悔が浮かんだ。伯父の秘密が暴かれるような気がしてテレビ局の男には内密で早速にレンタカーを借りて訪れたのだ。宮守村の旧家で箱崎と言えばすぐに分かる、と男に教えられたのが原因している。しかし……後戻りはできない。私は覚悟を決めて玄関の呼び出しボタンを押した。じりりりり、と旧式な音が中に響いた。村に到着してから連絡は取ってある。すぐに家の者が扉を開けた。  ああ、この家だ。  玄関ホールの正面に据えられている巨大なグランドファザーズ・クロックの威圧が私の記憶を甦らせた。その右手が応接室になっていて、左手の廊下の奥には食堂や娯楽室があった。とすると……私は何日かをこの屋敷で過ごしたのかも知れない。半日やそこらでは二階の客室にも風呂が備えられていることまで分かるはずがないではないか。壁紙や絨毯の模様まで言い当てることができそうだ。  応接室に案内されて待っていると美奈子の弟と名乗る主人が姿を見せた。 「だいぶ雰囲気が変わりましたね」  シャンデリアが外されて蛍光灯となっている。漆喰の壁も今は板張りだ。 「やはり姉とお知り合いだったんですな」  主人は逆にほっとした顔で頷いた。生まれ変わりなどと主張するので不気味さを覚えていたようだ。それが当然だろう。 「両親も亡くなりまして、四十年も前のことを承知している者は一人もおらんのですよ。その頃私は盛岡の中学の寮に入っていて、田舎が嫌いで滅多には戻らなかったんでね」 「まだはっきりとは。家の様子には記憶がありますが……私は七、八歳だったので、ただ伯父にくっついてお邪魔しただけなのかも」 「それでも、関係があったと分かっただけで安心しました。正直に申し上げると、伯父上のご本のコピーをテレビ局の者から頂戴して、ある程度想像はしておりましたが」 「想像?」 「伯父上は箱神の調査で何度か遠野の方にこられているらしい。うちも箱神さまの守家《もりや》でしてね。箱崎という名字もどうやらそこからきているようです。その関わりで伯父上が我が家を訪れていたのではないかと」  なるほど、と私も頷いた。 「よほど説明しようかとも思ったんですが……家の恥にもなることなのでテレビ局の者には言わないでおきました」 「箱神を信仰することが?」 「それもそうなんだが……」  主人は言い淀んだ。が、諦めて口にした。 「あの頃、姉はおかしくなっていました。憑き物のせいではないかと皆が案じて……あなたの伯父上はそっちの方にも詳しい。それで親父たちが家に招いたんではないかと」  私は思わず主人の顔を凝視した。真剣なまなざしで主人は頷きつつ、 「迷信ですよ。しかし親父たちの世代にはまだそれが信じられていた。なにしろ箱神さまなどという得体の知れないものを何代も守ってきた家ですからね。お恥ずかしい限りです」  無縁の私に頭を下げた。 「それがまだ治っておらんのでしょう」  主人はさらに続けた。 「私がはっきりとテレビ局の者に言えばこんな騒ぎにはなりませんでした。あなたにもとんだご迷惑を。なにか混同してるんでしょう。いずれ体力が戻ったら専門医に相談するつもりでおります。許してやってください」 「こちらこそ。ほっとしました」  彼女に会えるだろうかと、私は質した。姉もそのつもりでいるようだ、と主人は少し不安を浮かべながらも応じた。頼みついでに私は二人だけの面会を望んだ。なぜかその方がいいと感じたに過ぎない。 「実は姉もさっきおなじことを私に。あれこれ口を挟むものだから、うるさいらしくて」  断わられると半分は諦めていたのだが主人は椅子から腰を上げて二階へと案内した。      5  彼女は揺り椅子に揺られながら、真っ赤な夕日の差し込む窓を背にして私を待っていた。  懐かしい部屋だ。  ここだけは昔のまま手を加えられていない。部屋の主が四十年も留守にしていたせいだ。天蓋付きの寝台はもちろんのこと、壁に飾られている古風な風景画にも見覚えがある。 「あなたは……だれなの?」  彼女は最初の笑顔を消して冷たく訊ねた。少年のように透明な声だった。顔も六十には見えない。私より遥かに若く感じられる。眠り続けていると歳を取らないのだろうか。鼻筋の通った美しい顔立ちである。 「おひさしぶりですね」  私は美奈子を完全に思い出していた。それだけ美奈子はあの頃と変わっていない。 「分からないわ……私にはあなたがだれか」  美奈子は私をまじまじと見詰めた。 「四十年です。私も歳を重ねました。あなたには面影がはっきり残されていますが」 「違う……あの子じゃない」  美奈子は激しく首を横に振った。 「ぼくじゃないよ!」  美奈子は怯えた顔で私に叫んだ。 「どうして伯父さんは死んだの!」  美奈子は喚き続けた。  私は慌てた。やはり尋常ではない。 「おまえ、殺したんだろ!」  美奈子は怒りの目で私を睨んだ。  私はじりじりと後退した。美奈子の顔に、私を見詰める怯えと憎悪の混じった伯父の表情が重なる。よしてくれ。なぜ私が大好きだった伯父を殺さなくてはならない? だが、思い出した伯父の顔は幻想ではない。紛れもなく私の記憶に刻まれているものだ。 「おまえ、だれなんだ!」  伯父の叫びが記憶から鋭く立ち上がった。  伯父の運転するハンドルに私の腕が伸びる。伯父は悲鳴を発した。私はハンドルを思い切り回転させた。車は崖から空に飛んだ。次の瞬間、ガラスが砕けて私は外に投げられた。伯父一人を乗せて車が谷底に落ちていく。私も突き出た岩に頭から激突した。 「………」  私は呆然と部屋に立ち尽くしていた。  信じられない。今の記憶はなんなのだろう。 「思い出したわ!」  美奈子の言葉に私も頷いた。失われていた記憶がいちどきに私を襲った。  私は伯父の腰にしがみつきながら恐ろしい美奈子の顔を見詰めていた。伯父は部屋に入るなと私を制したのだが、真夜中に一人でベッドにはいられない。伯父とともに美奈子の部屋に駆け付けたのである。すでに美奈子の両親の姿が部屋の中にあった。美奈子のベッドが波打っている。だれかがスプリングを押して動かしているみたいだった。だが、美奈子の他にベッドには誰も居ない。壁もぎしぎしと音を立てている。これが毎晩続いている、と美奈子の父親が伯父に訴えた。とてつもなく怖かった。昼に見た美奈子の顔とはまるで違っている。額に青筋が走り、目玉は充血して兎のようだった。ぶちぶちぶちっ、とカーテンのフックがなにかに引き千切られて、外れたレースが伯父と私を襲った。美奈子の母親がその場に倒れた。壁の額が飛んできたのだ。伯父は美奈子の父親に母親を廊下へ連れ出すよう命じた。父親が引き摺って運び出す。激しい音を立てて扉が閉ざされた。慌てた父親が外から扉を叩く。開かない。鍵をかけられてしまったらしい。美奈子の笑いが響いた。美奈子はベッドに半身を起こした。なにしにきた! 美奈子は伯父に吠えた。箱神か、と伯父は恐れずに返した。美奈子は答えなかった。返事の代わりに美奈子は口を大きく開いて自分の腕を差し込んだ。肘の辺りまでずぶずぶと入っていく。美奈子の目から涙が溢れた。殺してもいいのか、と美奈子は言った。が、有り得ない。美奈子の口は腕で塞がっている。腕を抜くと同時に美奈子は吐いた。酸っぱい臭いが部屋に充満した。私には泣く力もなくなっていた。逃げようにも扉は固く閉ざされている。美奈子はベッドから軽々と飛び下りて左の片腕だけで逆立ちした。顔を蛇の鎌首のごとく持ち上げて私たちを見上げる。美奈子のパジャマの裾が垂れ下がった。白い尻が見えた。下着をつけていない。美奈子は逆立ちの脚を大きく開くと、ぶらぶらさせていた右腕を伸ばして、あそこをいじくり回した。伯父は無視して本を取り出した。伯父が書いた本である。その中に箱神を封じる呪文があるのだと私も聞かされていた。伯父は探し当てると大声で唱えた。美奈子はぎょっとなった。逆立ちを止めて伯父に飛び掛かる。だが、壁にでもぶつかったように美奈子は弾き返された。伯父もそれで力を得た。ますます声を張り上げる。美奈子はベッドの天蓋の上に飛び移った。頭上から伯父を襲う。また激しく弾かれて漆喰の壁に飛ばされた。なんでそれを知っている! 美奈子は憤怒の顔で伯父に迫った。美奈子の顔が二つに割れて、その隙間から緑色の鱗のようなものが見えた。さすがに伯父も後じさった。その瞬間、私は美奈子の腕に掴まった。美奈子は勝ち誇った笑いを発した。伯父も怯まなかった。逆に美奈子の髪を掴むと耳元で呪文を繰り返した。美奈子は震えはじめた。床に亀裂が走る。美奈子の絶叫が拵えた亀裂だ。私の意識が遠のいていく。ばーん、と私の中でなにかが弾けた。私は床に投げ出された。美奈子も仰向けに倒れた。美奈子は荒い息をしていた。伯父が私を抱きしめた。私は美奈子を見やった。美奈子の顔は昼に見た美しいものに戻っていた。私も笑いを取り戻した。  私と美奈子は無言で向き合っていた。  美奈子にもおなじ記憶が戻ったことを私は直感した。美奈子は深い溜め息を吐いた。 「ごめんなさい。私にはまだなにがなんだか」  美奈子は泣きながら私に言った。 「助けてくださったあなたにお礼も言わず」 「いいんですよ」  私の心もまだ静まってはいない。 「でも……どうして私の中に橋場隆行君が居るんでしょう。私の頭がおかしいのね」  そうだ、と断定するのは哀れ過ぎる。私は曖昧な笑いでごまかした。あれほどの衝撃を受ければ混乱が生じて当たり前だろう。私もしばらくは現実に戻れなかったのを思い出した。それでずいぶん両親に心配をかけたものである。だから気晴らしに伯父が田沢湖へのドライブへ誘い出してくれたのだ。 「あなた、あの日の夕方、伯父さまと一緒にこの家にはじめてやってきたのよね?」  頷いた私に少し違和感が生まれた。その翌日には盛岡に帰ったはずである。美奈子とはほとんど話をしていない。それなのに……美奈子はなぜあんなに私について詳しいのか。その謎の答だけはどうしても分からない。      6  車に乗り込む私を美奈子が二階の窓から見送ってくれている。目の合った美奈子にはまだ釈然としない表情が見て取れた。  私はエンジンをかけて車内を暖めた。 「おまえ、だれなんだ!」  伯父の叫びがふたたび甦った。 「彼女から隆行に乗り移ったな!」  伯父は次にそう言った。私が鶏の生き血を啜っているところを見られたらしい。伯父は呪文を唱えかけた。反射的に私の腕はハンドルを強く握って崖の方に回していた。  はっ、と我を取り戻した。  慌てて二階の窓を見上げる。  美奈子もなにかに気付いたらしく、見る見る顔色を変えた。悲鳴を上げる。私は無視して車を発進させた。美奈子の叫びは門の辺りまで届いた。  そうなのだ。そういうことなのだ。  私の記憶には、門を押して現われた伯父と私自身の姿がはっきりと残されている。私は彼らを不安な思いで窓から見下ろしていた。  私が橋場隆行であるなら、絶対に有り得ない記憶のはずではないか。  私が事故で失っていた記憶は……橋場隆行のものではなかったのである。  なにかは知らないが……美奈子の中に住みついていた本当の私の記憶の方だったのだ。  隆行の伯父を殺したときの快感が、そのとき確かに私の心の奥底に甦ってきた。 [#改ページ]    棄てた記憶      1  銀座の馴染みの店に居て、十年来担当してくれている親しい編集者の鈴木と二人きりで飲んでいるというのに私の心は弾まなかった。ただ無意識にグラスの酒を重ねている。さっき済ませた対談の場でもだいぶ日本酒を飲んだはずだが酔いは少しも感じない。いや、酔ってはいるのだろう。狭いトイレの壁に肩がぶつかったり、たばこの量がやたらと増えている。この店に入ってから一時間足らずで十二、三本残っていた函が空になった。 「ずいぶんお静かじゃない」  新しいたばこを手にしてママが私たちの席にようやくやってきた。女の子の話に私があまり気乗りしていないのを察したのだろう。 「ものを言うのが怖くなったんだ」  私が言うと鈴木はにやにやして、 「さっきまで永嶋さん、精神分析受けてたから。なかなか見物《みもの》だったよ」 「ストレス?」 「違う、違う。ウチの雑誌の仕事で精神分析の専門家と対談して貰った。あんまりずばずば言われたんでちょっと参ってるみたいでさ」 「どんなことを言われたの?」  ママは興味を持った。 「そんなに大したこと言われてないでしょう」  鈴木の苦笑は止まらない。私も頷いた。だが、鈴木は知らないだけなのである。あの医者がどれほど私の本質に迫っていたか、をだ。  まさか精神分析というやつが、あれほどに恐ろしいものとは思わずに、うっかりと対談の企画に乗ったことを私は悔やんでいた。  はじめは単純な興味に過ぎなかった。対談予定の医者の顔はときどきテレビのワイドショーなどで見掛けていた。残酷な殺人や常識を逸脱した奇妙な事件が起きるたび、彼は精神分析医の立場で登場して犯人像の推定や容疑者の心理を分析する。アメリカでそういう人間が犯罪捜査に関わっていることから日本でも安易に真似したことなのだろうが、なんとなく私は好きになれなかった。人間の心は複雑で、ときとして自分自身でさえなぜそんなことをしたのか分からない場合がある。なのに環境も違う他人に心の奥底が解明できるはずがない。異常な人間たちの、平均的な行動や心情をもっともらしく伝えているだけで、真実からは相当に離れているに違いないと私は睨んでいた。心の問題なら小説を書いている自分の方が少なくともプロだと自負していた。まるでお定まりのように、幼い頃のトラウマがどうのとか、肉親からの疎外などと言い続けるその医者に不快さえ覚えていたのである。それを鈴木が知って対談企画を持ち込んできたのだった。その医者の言葉がどこまで信用できるものか否かは、自分が被験者になってみれば一番明瞭となる。幸い私には著作が多いのでデータにも不足しない。挑戦してみるつもりはありませんか、と言われれば引き下がるわけにいかない。引き受けたところ、鈴木は直ぐに話を纏《まと》めて、彼の論文もいくつか私に送り届けてきた。対決するには相手のことも知らなければならない。対談までの間に私はそれらを読み終えた。やはりいい加減な気がした。もっとも、鈴木の意図もよく分かった。相手は犯罪者ばかりでなく文学の世界にまで精神分析の手法を取り入れて有名作家の深層心理の解明などを行なっていたのである。芥川や太宰の自殺の原因はなににあったのか? 三島の決起時の心理はどうだったのか? 本当に当たっているなら面白い。これに間違いなければ文学研究者の存在など無意味だ。皆が心理分析を学べばいいのである。鈴木もその真実が知りたくて私を生贄に選んだのだ。しかし、この医者のやり方は絶対に的を外している、と私は思った。彼は重大な意味を持っていそうな文章や単語を芥川や太宰の作品から次々に選び出して深層心理を解明しようとしているが、小説には筋というものがある。殺人事件をテーマとしているときは、もちろん頻繁に殺すとか憎いとかいう単語が重ねられるはずだ。なのにそれだけを抜き出され近親憎悪が底辺にあると断言されては作者もたまらない。小説は日記とは別物なのである。空海を主人公に設定すれば、たとえ私に仏を信ずる心がなくても、物語の中ではそれらしく書かねばならない。その基本がこの相手にはまるで分かっていないようだ。フロイトやユングをしかつめらしく持ち出し、人の心を弄んでいる。大袈裟に言うなら戦場に出る気分で私は今日の対談に臨んだ。  だが──  対談がはじまって一時間が過ぎた辺りから私は内心の冷や汗を隠すのに必死となった。彼は私の著作にだいぶ目を通してきたらしく、ずばずばと切り込んでくる。しかもそれはテーマの解釈とはまったく違う角度からのものだった。思いがけないことをいきなり言われるのである。最初は切り返していたものの、何度か途方に暮れた。彼の持論によると作家は書きたい言葉や文章を嵌め込むために物語を構築するのだと言う。だからその部分は肉声に近くなって、物語から微妙に浮き上がって感じられる。それをいくつか集めて眺めていれば心理が見えてくる、と言うのだが。 「自転車というのはなんでしょう?」  このときも意味が分からず戸惑った。 「永嶋さんの書かれた小説をすべて読んだわけではないので断定はできませんが、妙に気に懸かるんですね。さまざまな作品の中に何度か自転車が登場します。けれど、サイクリングをしたりという、いわゆる健全な描写は一度もありません。駐輪場に自転車が将棋倒しになっていたとか、錆びた自転車が川に棄てられていたとか、パンクの修理中に自転車のフォークで小指を落としてしまったとか、あるいは、ちょっと変わった怪談がありましたね。そうそう、幽霊が『お使いは自転車に乗って』とかいう曲のレコードを聴いていたという話。まぁ、あれは少し外れるかも知れませんが、なんだか酷く違和感を覚えます。自転車は乗ってこそ意味があるものなのに、永嶋さんにはその意識がないようです。もしかして自転車に乗れないとか?」  私は首を横に振りつつ胸の動悸を必死で抑えていた。なぜこの男にはそれが分かるのだろう。悲鳴を上げたい気分だった。 「どういうことが考えられますか?」  鈴木が眼鏡を直して相手に訊ねた。 「てっきり乗れないのだろうと決め付けていましたが……違うとなれば、なにか自転車に不快な記憶でもあるんじゃないですかね。友人が自転車に乗っていて車の事故にでも遭ったとか。それで走っている自転車の描写を無意識に避けるということは考えられます。書こうとしても永嶋さんにとって心地好い場面にはならないので筆が止まるんでしょう」 「どうです?」  さあ、と首を捻って見せるしかなかった。 「文学への精神分析の応用と言っても、これまでは全部故人の作品に対して行なってきたことで、永嶋さんのようなケースははじめてです。直接お聞きできるので私の考えが当たっているのか外れているのか、こちらにも興味があります。けれど、こういう問題はえてしてご本人も気付いていない場合が多いんですよ。私にしても本当の私の心が分からないときがあります。だからこの仕事は面白い」 「他になにか気付かれたことは?」  鈴木は身を乗り出して質《ただ》した。 「作家の方は……多くがそうだと思いますが、精神的には病気すれすれのところに位置していると言ってもいいんじゃないでしょうか。いつも現実とは違う物語の中に自身を投影している。だからこそ私も文学に特別の興味を注いでいるわけでしてね。たとえば永嶋さんがエッセイに書かれていたお父上の話。あれなど非常に興味をひかれます」 「どんな話でした?」 「永嶋さんは医師であるお父上の援助を受けて三十過ぎまで美術の研究生活をなさっておいでですよね。それでお父上に対しては通常とは異なる複雑な感情を抱くようになられた。親ではなく資金援助者としての役割の方が重くなっていた。だからお父上が病気かなにかで亡くなられるのを極端に恐れていたそうです。そこまでは特に不思議でもありません。問題はそれが高じてお父上の葬式の場面を夢にしばしば見るようになった。悲しくて泣いているんですが、どうもそれはお父上を失ったことよりご自分の先行きを案じての涙のようです。それは人間としてあまりにも情けない。だから、作家として暮らしていけるようになったと確信を得たとき、真っ先に感じたのは、これでお父上が亡くなっても、先行きを案じることなく、純粋に父親を失った悲しみに浸れるだろうという喜びだったとか」  鈴木も思い出して大きく頷いた。 「非常に特殊な心の動きと思われます。失礼ですがお父上はまだご健在で?」  私は小さく頷いた。 「なんか、凄いことを言っているような気はするんだけどね」  鈴木はママにいくつかを説明しながら、 「結局は曖昧なことばかりなんだ。永嶋さん本人がすっかり忘れていることを言われたって、それが正しいかどうかこっちには分からない。易者のレベルと変わらない感じだ」  ママはころころと笑った。 「破壊願望もあるそうだ。それはどうかと思うけどね。もっと乱暴な小説を書く先生がたくさん居る。壁を崩して暗号を発見した程度の描写で破壊願望と言われたらたまらんよ」  女の子たちも笑いを見せた。 「人間だれでも精神に不安があるってことだ。それを学問的に説明しているだけのことかな」  鈴木はあっさりと締め括った。      2  それからおよそ一週間後。雑誌の締切りをすべて片付けて、四、五日の余裕を得た私はひさしぶりに故郷である盛岡に出掛けた。と言っても実家はないに等しい。家はそのまま残されているが、母はだいぶ前に亡くなり、父も跡を継いで医者となった弟の病院に永いこと入院している。ついでに見舞いに行こうかとも思ったが、弟の病院は青森にあるので盛岡からはだいぶ遠い。父の病気は軽い脳梗塞だからまだ心配もないだろう。  私は中心街のホテルに宿を取った。家だと掃除からはじめないといけないので面倒だ。  荷物を部屋に置いて喫茶室で一人コーヒーを飲みながら私はなにをすればいいのかぼんやりと考え込んだ。あの精神分析医の言ったことが気になって、この何日か仕事も上の空だった。けりをつけるために盛岡へ足を運んだと言ってもいい。が、いざ来てみると、無意味だったような気もしてくる。なにしろ四十年以上も昔のことなのだ。覚えているのは自転車の記憶だけである。 〈正確にはいつ頃だったんだろう〉  図書館に行ってマイクロフィルムを調べるにしても、それが曖昧だと苦労する。あれほどの大事件だったのだから新聞社を訪ねて問い合わせれば簡単に分かるはずだが、それはしたくない。盛岡の新聞社には顔見知りが大勢居る。私がなぜその事件に興味があるのか根掘り葉掘り訊ねてくるに違いない。  補助輪のついた小さな自転車に楽々と乗れる年齢は何歳ぐらいのことなのか? 小学校に通っていたような気がすれば、幼稚園のときのような気もする。ずうっと盛岡に暮らしていたのでそこがはっきりとしない。が、いずれ五歳から七歳辺りまでのことだ。丹念に捜すしかなさそうだ。トラウマがなんであるのか突き止めてみたところで現在の不安や考え方が解消したり変わるものではない、とあの医者は言った。だが、トラウマとなって残された出来事の背景には必ずその人間の人格を左右する重大な秘密が隠されている、とも付け加えたのである。私にとって、あの場では打ち明けなかったけれど自転車は紛れもなくトラウマとなっている。それを見事に言い当てられたので、他の言葉も気に懸かりはじめたのだ。もしかしたら私の記憶にないことで、重大なことが私に起きていたのではないだろうか。私の内面に潜む破壊願望。それはなにに起因しているのだろう。  そうか、と私は思い出した。  確か盛岡の印刷会社が岩手で起きた重要犯罪を纏めた本を出版している。ずいぶん前に出版案内を見た記憶がある。興味を覚えたのだが岩手に限られていては小説の素材に使いにくい。それで注文するのを忘れてしまった。あの本に事件の詳細が述べられている可能性が高い。あれなら図書館に行けば直ぐに読むことができる。もし詳細がなくても事件年表が掲載されていたはずだ。それで日付が特定できる。私はコーヒーを飲み干した。  県立図書館はホテルから歩いて十分とかからない。カードを検索する前に貸し出し係に問い合わせたら簡単に分かった。その本を手にして閲覧室に入る。やはり私の勘は外れていなかった。未解決と見出しにあるのを眺めて心が塞いだ。事件が起きたのは四十三年前。私が五歳のときである。だとしたら記憶などなくて当たり前だ。五年前の本で未解決とあるからには、恐らく今もそうなのだろう。  私は読みふけった。私の頭にあったのは子供の誘拐事件ということだけで、詳細を知るのは今日がはじめてだ。誘拐されて行方不明となったのは大きな建設業者の子供で、当時六歳とある。最初はただの迷子と思われていたのに、一日過ぎても見付からず、三日目に自宅から八キロも離れた小川に子供が愛用していた自転車が投棄されていたことから事件との関連が急浮上した。警察は自転車の発見された一帯の捜索を開始したが有力な手掛かりは得られなかった。子供が確かにその自転車に乗っていたとの証言がやがて得られた。しかも目撃されたのは行方不明となった翌日のことである。これが大きな謎となる。その近隣に子供の親戚も知り合いも居ない。犯人の住居がその辺りにあって、誘拐されたとは気付いていない子供をうっかりと表に出して遊ばせたのではないかと警察は判断した。親は犯人からの連絡を待ったが、自転車の発見で新聞が騒いだせいか、身代金の要求はいっさい行なわれなかった。自転車にも大きな損傷がなかったので事故の可能性は少ない。そして、それきり子供は二度と戻らなかった。  読み終えた私の掌にはじっとりと汗が噴き出ていた。私は膝で拭った。  この誘拐事件が未解決となってしまったのは、すべて私の責任なのである。  目撃されたのは誘拐された子供ではない。私がその自転車に乗っていたのだ。だが、私には告白することができなかった。警察に言えばきっと牢屋に入れられると恐れたのである。私がそれを言わなかったせいで警察は見当違いの捜査をし続けたことになる。もし、あのとき正直に告白していれば子供だって見付かっていたのかも知れない。  その罪の大きさが私に自転車というトラウマを生み出した。だれにも口にせず頭から棄てたはずの記憶だったのに、私は無意識にあのときのイメージを筆にしていて、それをあの医者に見抜かれてしまったのである。  私の目の前にはぴかぴかに輝く自転車が置かれてあった。ハンドルの中央に鉄腕アトムの顔が取り付けられているやつで、いかにも格好がいい。だれの自転車だろうと思った。こんな自転車に乗っている子は知らない。まだ早いからと言って父親は自転車を買ってくれなかった。周りにはだれの姿もない。誘惑に負けて私は自転車に乗った。ぐらぐらするが補助輪があるので倒れはしない。ペダルを踏んでみた。最初は抵抗があったが、やがて動いた。やっぱり格好いい。アトムみたいに空を飛んでいる気持ちだ。この場に居ると見付かって叱られそうだったので、どんどん漕いで離れた。他人のものに乗っているという罪悪感は坂道で速度が高まると同時に消えていった。棄ててあったんだから、これはもう私の自転車だ。この自転車があればどこにだって行ける。ぴゅーんぴゅーんと風を切る。私は夢中になって乗り回した。怖くなったのは夕方になってからである。今ごろ何百人もでこの自転車を捜しているのではないだろうか。もし捕まったら死刑になるかも知れない。私は泣きたくなった。置いてあった場所にはきっとおまわりさんが待っている。私はいつも遊んでいる神社の裏の藪に自転車を隠して家に戻った。恐ろしくて夜も眠れなかった。なんで乗ってしまったんだろう。家の電話が鳴るたびに身が縮んだ。  翌日、幼稚園の帰りに神社に寄った。おまわりさんの居ないのを確かめてから藪にそっと近付いた。自転車はまだあった。だけど皆で遊んでいる神社だと危ない。だれにも知られない遠くの町に棄てようと思った。自転車に乗って家に向かう。ともだちのところに遊びに行くと嘘をついて飛び出た。どこまでもどこまでも走った。まるで知らない町に出たが、まだ不安だった。もうとっくに迷っている。けれどおまわりさんの方がずっと怖い。賑やかな町並みを抜けたら川で行き止まりになった。低い土手の下には浅い川が流れていた。私はへとへとに疲れていた。休み休みだが一時間半は乗っている。こんなに遠ければおまわりさんも居ないに違いない。私は自転車を押して土手を下りた。岸辺の藪に自転車を棄てると一目散に逃げた。あとはよく覚えていない。大きな店の前でだれかに泣きついた記憶が微かにある。そのだれかが家に連絡を取ってくれたのだろう。  自転車が川から見付かったと言って皆が騒ぎはじめたのはその翌日だ。子供を捜しているという話も同時に耳にした。私のことだと思って死にそうなくらい怯えたが、幼いなりにも別の子のことと分かって安堵した。それで終わったと思っていたのに、自転車の話題は何日も続いた。ラジオもしょっちゅう自転車がどうのと言っている。まさに毎日が拷問だった。中学に入って、自転車通学の必要に迫られるまで私がそれをねだらなかったのは、この恐ろしい記憶が薄れなかったせいである。  私は……他に人の居ない閲覧室の中で過去と向き合い、新たな怯えに襲われていた。今になって私はなぜこの事件の詳細を知ろうと思ったのか? これがトラウマとなっているのは医者に指摘されるまでもなく承知していた。わざわざ盛岡まで来て再確認する問題でもない。そうなのである。私が知りたかったのは他のことだった。私は溜め息を吐きつつ見出しに目を戻した。未解決とある。  未解決という文字は、犯人がまだ捕まっていないということを意味している。  私は今日まで、なぜかこの事件が解決されたものだと強く思い込んでいた。そう信じることで今日まで生きてこられたのである。      3  ホテルに戻って私は青森の弟に電話した。 「親父の具合はどうなんだ?」 「相変わらずってとこだ。もう七十八なんだから体半分が動かなくたって諦めて貰うしかないな。盛岡には講演かなにかで?」 「そんなとこだ。親父の様子によっちゃ青森まで足を延ばそうかと思ったが……退院はもう無理みたいだな」 「無理だよ。一人じゃとても暮らせない。俺の病院にずっと居るのが安心だ。親父は介護の人間でも雇って盛岡で死にたいようだけど」 「家にこだわってるわけだ」 「絶対に帰ると頑張ってる。ま、その気力が大事ではあるけどね。正直言うと売って貰って生前分与でもしてくれりゃありがたいな。あそこ、今だと一億二千万は堅いそうだ」 「そんなになるのか」 「なるさ。大通りに歩いて十分で二百坪だ。家を潰して病院を建てさせてくれりゃよかったのにな。兄貴が気にすると思って許さなかったんだろう。お陰でこっちは青森に病院を建てるはめになった。女房は実家だから喜んでるが、信じられんよ。あの親父の頑固さは今も治らん。岩手の医大を卒業したら地元で開業するのが楽だと親父も知ってたはずだぜ」 「いまさらあの土地があっても無意味か」 「そりゃそうさ。こっちに来て十年が経つ」 「俺が住もうかね。今なら盛岡に移っても仕事に影響がない。家の鍵はどうなってる? ついでに中の様子を覗いて帰ろう」 「庭が広いだけで中はがたがただ。六十年も前の家だぞ。建て直さない限り、とても住めやしないって。親父も腕のいい医者だったのに、なんで開業しなかったもんかね。土地さえあれば簡単にやれたはずなのに。やっぱり若い頃の失敗で懲りていたのかも知れん」 「なんの話だ?」 「知ってるだろ? 三十五、六の頃に仲間と組んで病院を建てる話があったそうだ。その中の一人がとんだ食わせ者でさ、皆が出し合った金を使い込んだとかで病院を建てるどころか莫大な借金を拵《こしら》えちまった」  私も頷いた。おふくろがいつまでもその話を持ち出しては嘆いていたものだ。 「借金とは無縁の勤務医の方が気楽だと思い込んでしまったんだろうなぁ。その気持ちは分かるが、それでこっちが苦労する」 「鍵はどうなってる?」 「めぐみが持ってる。あいつに風の入れ替えを頼んでいるから」  めぐみは我々の従妹で盛岡に住んでいる。  電話を切ると、思わず溜め息が洩れた。  部屋の冷蔵庫からウィスキーの小瓶を選んでグラスに全部注いだ。そのままストレートで喉に流し込む。喉が熱い。たばこに火をつけながら私はあの医者の言葉をまた思い出していた。親父について私が書いたエッセイに興味を覚えた彼は親父がまだ健在かどうかを質した後で、こう付け足したのである。  あなたはもうお父上を殺していますね、と。 「亡くなってもいない人の死んだ夢を見るというのには、一般的に諦めと願望の二つが関係していると思われています。死にかけている身内や友人に対して、もう駄目かも知れないと思ったときにそういう夢をよく見るようです。それが諦めの反映で、もう一つは殺したいほど憎んでいる場合です。ところが永嶋さんのエッセイを読む限り、どちらにも当て嵌まらなさそうに見える。一度きりの夢なら問題ありませんが、しばしばおなじ夢を見ておられるらしい。しかも葬式の場面というのは珍しい。普通はこれ……確認なんですね」  どういう意味かと私は問い返した。 「自分とは無縁の相手なんだと必死で追いやっているんです。ひょっとすると永嶋さんは援助してくださっているお父上に対して感謝が重荷になっていたということはないですか。ありがたいとは思いつつ、その負担が自分を押し潰している。自分を駄目にしている相手は、実はお父上なのだ、と思い込んでいく」 「………」 「普通は肉親だから援助も当然と自分自身を納得させていくものですが、永嶋さんの場合、肉親だからこそ許せなかった。これが他人の援助であるなら借金と割り切れる。自分を支え続けるには、お父上を他人と思い込むしかないんです。それで夢の中で何度となく言い聞かせた。自分には父親が居ないのだと……作家として自立できたときに、これでお父上がいつ亡くなられても、先行きを案ぜずに悲しみに浸れるだろうと喜びを覚えたというのもその心の反映と思われます。夢の中で行なってきた父親殺しの罪の意識から解放されたんです。と同時に、お父上はその瞬間、本当に死んだ。永嶋さんの心の中でね」  私は思わず苦笑した。 「永嶋さんの書かれる小説にほとんどお父上らしき存在は登場してきませんよ。もっと上の存在である神を象徴するような人物は頻繁に出てきますが……それに、子供の居る家庭というのも滅多に出てこない。まるで親子の関係を否定しているようです。親と子は無縁の存在なのだとあなたは感じているらしい」  医者は私をじっと見据えた。  恐ろしい男だ、と私はいまさらながら感じていた。自転車については自分でもずっと意識していたが、親父への思いに関しては私自身気づいていなかったことである。だが、それは当たっている。憎むというより私は親父に得体の知れない怖さをずっと抱いていたのだ。早く親父と無縁の身になりたかった。けれど親父が居てくれなければ研究を続けることができない。死を願いつつ、だれよりも私は親父を必要としていた。  しかし……  滅多に叱りもしなかった親父を私はどうして恐れ続けたのだろう。どうして私は親父に弟のように甘えることができなかったのか?      4  翌日の昼。めぐみから鍵を貰って私は家に向かった。めぐみも一緒に行くと言ったのだが私は断わった。そんな呑気な話ではない。  私は門を潜ると家には入らず、庭に回った。庭には古い土蔵が建っている。めぐみから貰った鍵束にはその土蔵のものもある。  土蔵の前に立って私は額の汗を拭いた。  直ぐに入る勇気が湧かない。  私は土蔵の裏手に回り込んだ。低い垣根を越えると裏の道に出られる。子供の頃、私はむしろこの道を辿《たど》って遊びに出たものだ。  私はその道をしばらく辿った。  この辺りの景色はほとんど変わっていない。寺もそのままだ。古びた墓が並んでいる。  ここだった。  この墓場の片隅に、あのぴかぴかの自転車が置かれていたのである。図書館であの本を読むまで私は知らなかったが、誘拐された子供の家はここから四、五キロも離れていた。一人でここまで来たとはとても思えない。だれかが自転車ごと連れ去って来たに違いない。  問題はそれがだれであったか、だ。  四十三年前と言うと親父は三十五、六。仲間に資金を使い込まれて莫大な借金を抱えていた頃だ。私の頭の中で嫌な想像がどんどん膨らんで行く。図書館の地図ですでに確かめてある。子供の家は親父が勤めていた病院とさほど離れてはいなかった。車で通っていた親父が途中でその子供を見掛ける可能性は十分にある。小さな自転車だ。車のトランクに詰め込むこともできるだろう。  本当に親父の仕業だったとしたら、きっと魔が差したのに違いない。自転車を積んできたのだって、私がしきりにそれをせがんでいたからではなかったのか?  私は墓場を見渡してからふたたび家の庭へと戻った。その想像が当たっているかどうか……すべては土蔵の中に答が秘められている。  私は錆び付いている鍵を外して踏み込んだ。  暗い闇に目が徐々に慣れていく。  黴臭さが私に自転車よりももっと恐ろしい記憶を甦らせた。それこそ私が真っ先に棄てた記憶であった。  誘拐事件から一月も過ぎていない頃だったと思う。私は真夜中におしっこがしたくなって目覚めた。便所は庭に面した廊下を歩いていかなければならないので怖い。おふくろを起こしたが逆に叱られた。諦めて私は布団から抜け出た。すると縁側の戸が開いているのを見つけた。泥棒だと思った。が、直ぐに土蔵の中が明るいことに気付いた。親父がまだ起きていてなにか仕事をしているのだと思った。それで安心した私はおしっこを済ませて庭に出た。やはり親父のサンダルが土蔵の外に脱がれている。声をかけようと中を覗いた瞬間、半月ほど前に修理した壁に向かって親父が泣いている姿が目に入った。私は慌てて扉の陰に隠れた。私の足はすくんでいた。  やがて泣き止んだ親父は土蔵の明りを消して外に出た。家へと戻る。その後ろ姿を私はがたがた震えながら見送った。  そのことはおふくろにも言わなかった。  言えば恐ろしいことになる、と私は確かに感じていたのである。  それ以来、私はたった一人でこの土蔵に足を踏み入れたことはない。中学の頃には、なぜこの土蔵が怖いのか、自分にも理由が分からなくなっていた。  だが、今の私には分かる。  親父は絶対に犯人じゃない。  この壁の中にあの子が埋められているはずはない。すべては私の妄想だ。  なのに私はいつだってこの壁を壊すことを願い続けてきた。あらゆるものの壁をぶち壊してしまいたい。この壁こそが私と親父との間に立ちはだかる壁だ。 〈くそっ〉  私は道具箱を捜して金槌を手にすると壁を隠している箪笥を思い切り倒した。修理した痕跡がまだはっきりと分かる。その壁に私は金槌を叩き付けた。壁は脆くなっていた。たちまち穴が広がる。私はさらに穴を広げた。  やがて……  私も親父がしていたように、壁を見詰めてただただ泣き続けた。  そこには小さな骨が悲しげに立っていた。 [#改ページ]    水 の 記 憶      1  だれかが布団をそっと持ち上げて私の背中のところに潜り込んできた。私にぴたりと寄り添って静かな息をしている。最初は典子だと思った。なにか心寂しいものでもあって入ってきたのだろうと思っていたのだが……典子は四ヵ月も前にこの世を去っている。そうか。夢なんだ、と私は気付いた。典子の細い腕が私の背中を撫でている。夢だとは思うが……その感触がやけに冷たい。まるで死体のような冷たさだ。納棺の前に頬ずりした典子の肌がはっきりと思い出されて背中に寒気を感じた。本当にこれは夢なのだろうか。思い切って目を開けると寝室の壁がうっすらとしていた。夜明前の薄暗がりに典子の使っていた鏡台が見える。そこに私が寝ている姿が映っていた。背中の辺りが妙に膨らんでいる。息を殺して鏡を見詰めた。背中から白い腕がゆっくりと伸びて私の首に絡み付く。鏡を見るまでもなく私にも分かる。その手にはレースの手袋が嵌められていた。指が私の唇に触れた。ざらっとした感触だった。私は背中に腕を回した。一瞬にして気配は消えた。私は悲鳴を発した。震えが止まらない。  私は目を開けた。  私はソファに眠っていた。  夢と分かっても動悸はなかなか鎮まらなかった。ソファからも起きられない。今、何時なのだろう。明りもそのままで眠り込んでしまったらしい。目の前のテーブルには食い散らかした鮨やチーズがだらしなく置かれてある。こんな不様な姿を典子が見たら叱るだろう。私は横になったまま泣いた。今のは夢に違いないが、夢でもないような気がしたのだ。  寝室にはまだ典子の匂いが残っていて辛い。それで存分に酔ってからでないと布団に入れなくなった。いい歳をして立ち直れないのは自分でも情けないと承知しているけれど、失ってみて私は典子がかけがえのない存在だったと分かったのだ。  のろのろと私は半身を起こした。  壁の時計の針は朝の五時を示している。  パジャマの背中が捲れ上っていた。それでクーラーの冷気をまともに浴びたのだろう。首の筋が痛い。妙な姿勢で眠ったせいだ。呑み過ぎのためか頭も重い。 〈盛岡に帰りたいって言ってたよな〉  入院してからのことだったので、それをかなえてやれなかった。だが……どうせ助からない病状だった。それなら早いうちに盛岡の病院に転院させる方法もあった。典子の親や兄弟もそれを望んだ。東京では私以外に付き添える者が居ない。設備の整った病院なので完全看護だ、と言い訳したが、実際は私のエゴだったような気がする。私の絡んでいる新製品の開発が山場を迎えていて東京を何日も留守にはできない状況だった。都内の病院に居てくれる方が安心できる。典子もそれを願った。故郷に帰りたいという気持ちと同時に私の側に居たいという心も強かったのである。 〈しかし……〉  たった二、三日でも戻らせることはできなかっただろうか。後悔がつのる。新製品の開発は結局最後の段階で致命的な欠陥が発生して再スタートを余儀なくされている。結果論となるが、こんなことなら有給休暇を貰って二ヵ月を典子のためにだけ過ごしてやればよかった。仕事を優先して病院に預けた部分もある。 〈仕事なんて……〉  いったいなんの意味がある。あんなに何年も頑張ってきたのに、今は外されて工場の管理の方に回されてしまった。典子が死んだ直後でさえ製品のテスト結果を気にしていた私だったのに。本当にすべては無意味だ。  不覚にもまた涙が溢れる。 〈俺はもう駄目になっちまったよ〉  典子に届くよう胸の中で言った。互いに三十三のときに一緒になって十五年。典子はいつも私の支えだった。子供のときの事故が原因で左半身に麻痺がある典子は私こそ支えだと口癖のように言っていたが、そうではない。いつでも典子が私を頼りに感じてくれている。それが私に活力を与えていたのである。  二十年ぶりの小学校の同級会で巡り合った典子は儚《はかな》げで美しかった。典子も私のことをちゃんと覚えていた。体のせいで結婚なんかとっくに諦めちゃったわ、と微笑んだ。それから私たちの付き合いがまたはじまった。結婚を承知させるまでに一年がかかった。盛岡を離れて東京に移ることも不安だったに違いない。決心して幸せだった、と典子は亡くなる二日前に私の手を握って呟《つぶや》いた。私は看護婦が側に居ると承知しながら泣いた。あまりにも典子が不憫で仕方なかった。麻痺だけで十分じゃないか。なんでこの上膵臓癌なんかにならなくちゃいけない? 私は責任を全うしたか? 典子を守り続けたか? 「帰るか? 典子」  私は顔を上げて口にした。遺骨は上司の菩提寺に預かって貰っている。直ぐに墓の申し込みをしなかったのは私の決心が曖昧だったからだ。典子が居なくなれば一人暮らしの身だ。会社を辞めたあと、東京に残るかどうか分からない。と言って盛岡の墓に入れれば墓参りもままならない。それで典子が宙に浮いてしまっている。盛岡にある私の家の墓なら典子の家族も頻繁に線香を手向けてくれるに違いない。そうしてやるべきなのだ。私にしても開発の現場を離れてしまった会社になど未練はない。その気になれば半年やそこらで身辺整理をして盛岡へ戻ることができる。      2  無事に典子の遺骨を墓に納めると重いしこりが取れた。東京とは違う風の爽やかさがそう思わせるのかも知れない。墓所は濃い緑に囲まれて静けさが身に染みた。寺の周りのたたずまいものんびりとしている。遺骨を預けていた寺は高層ビルに囲まれて車の喧騒もひどかった。典子もきっと喜んでいる。 「おふくろはちょっと体の調子が悪くて」  寺の近くの料亭の席に着くと典子の兄の正夫が招かれた礼を言いつつ挨拶にきた。 「でも、喜んでる。退院したら真っ先に墓参りをするとさ」 「そうなんだってな。知らなかった」  典子が亡くなってから少し疎遠になっている。私が連絡しなかったせいだ。 「心臓だけど心配ないよ。それより会社辞めるかも知れないって?」  正夫は灰皿を引き寄せてたばこを勧めた。 「もういいだろう。東京には三十年近くも暮らした。今の家を売った金と退職金でマンションは楽に買える。そのつもりで典子をこっちに。もっと早く決心すりゃよかった」  正夫は小学校時代の遊び友達なので義兄弟の関係以上に遠慮がない。 「仕事の当ては?」 「まだ辞めてもいないんだぞ」 「決めてから辞める方が安心だ。オーディオ製品の開発なんて特殊な仕事は無理だろうが、少しは顔も利く。コンピュータ関係の大きな会社も近頃は増えた。任せてくれないか」 「それはありがたい話だが」 「決めてしまえば盛岡に戻るしかなくなる。呑み友達が増えるのは嬉しいもんだ」  正夫は屈託のない笑いで言った。家業の書店を経営している兄も、それを側で聞いて安堵の表情を見せている。実の兄弟なのに今一つそりがあわない。典子と結婚すると言ったときも兄はあまり賛成しなかった。 「盛岡《こつち》にはいつまで居る?」 「三、四日はぶらぶらしてマンションでも物色して帰ろうと思ってるんだがな」 「だったら車で案内してやるよ。酒屋《みせ》の方は店員任せで大丈夫だ。どの辺りが希望だ? 駅の裏手も今は開発が進んで立派なマンションがどんどん建ってる。簡単に探せるさ」 「そう簡単には決められない」  気の早い正夫に押されて私は苦笑した。 「本当にありがたいと思ってる。あんな妹を大事にしてくれて……」 「それは言わない約束だ」  私は正夫を制した。正夫は頷いた。 「どうせなら昔住んでいた辺りがいいな」 「馬場町か……あそこにゃあんまりマンションがないな。どういうわけだか、あそこらだけ開発から取り残されちまってね」  正夫に兄も頷いた。私の家も正夫の家もかつては馬場町に店を構えていたのだが、今は別のところに移っている。 「中心から離れているし不便なとこさ。どうせマンションなら町の真ん中がいい」 「町並みも変わっていないんだろ?」 「古い家ばっかりで陰気臭い。たまに車で通るが、狭くて擦れ違いもむずかしい」 「その陰気臭いのがいいんだ。盛岡に戻ってまで繁華街の側に暮らしたくない」 「開発が進まないのは地盤が悪いからじゃないのか?」  兄が口を挟んだ。 「洪水が頻繁だったとこだからな」 「今はないでしょう。昔と違う」  正夫は笑った。皆も頷く。北上川の上流にダムができたのと護岸工事のお陰で盛岡が洪水に襲われることはほとんどなくなっている。  だが、馬場町は川沿いにあって低い土地なので昔は大変だった。大雨が続くと大人たちは心配そうに川の水位を確かめに出ていたものだ。床上浸水は何年かに一度必ずあった。北上川と雫石川、そして中津川の三本が合流する地点だから盛岡で一番水害に襲われやすい地域なのである。それゆえ江戸時代には民家など建てずに馬場として用いていたと聞く。 「今年は危ないと年寄り連中が言ってるぞ」  兄は青い空を見上げて、 「晴れたのはこの二日だけで、ここんとこずっとひどい雨が続いてた。ダムの水位が限界に達しているそうだ。これで豪雨でもあれば何十年ぶりかの洪水になるかも知れん」 「そう言えば北上川も凄かった」  昨日の夕方にタクシーから覗いた北上川の濁流を私は思い出した。子供の頃の恐怖感が甦ったものだ。 「どこのホテルって言ったっけ」  正夫は気にもしていない様子で質《ただ》した。昨夜は実家に泊まったが今日からはホテルにしている。その方が互いに気楽だ。 「ロイヤルホテル。明後日まで予約してある」 「明日の昼にでも連絡するよ。マンションを見て歩いて明日は夜の町を案内しよう」  正夫に私は頷いた。      3  窓を叩く激しい雨の音で目覚めた。小さくて分厚い窓だ。それがエアコンの音よりも響くのだから凄い雨に違いない。私はベッドから抜け出して窓際に立った。外から窓洗いでもしているかのように雨が襲ってくる。白々と明けはじめた盛岡は雨で煙っていた。見下ろす道はまるで川のようだ。こんな豪雨は珍しい。ビニールのレインコートを着た男たちが、こんな時間だというのに走っている。消防署員か警察官だろう。典子の納骨にやってきて豪雨と巡り合うのもなにかの因縁だろうかと私は思った。また眠る気にはなれず窓際に椅子を運び、たばこを喫いながら水の渦巻く町を見守った。信号待ちで停車した車のタイヤがだいぶ水に浸かっている。走りはじめると水|飛沫《しぶき》が車の屋根より高く上る。十センチやそこらは道路に水が溜まっているらしい。  遠くでサイレンが鳴っている。パトカーなどではない。子供の頃に何度か聞いたサイレンだ。川の水位が危険な高さに達していると知らせるものだ。私は緊張した。このホテルではなんの心配もないが、継続して鳴るサイレンは心に不安を生じさせる。私は窓を少しだけ開けた。大きなサイレンの音が部屋に飛び込んできた。横殴りの雨が私の腰を濡らす。慌てて窓を閉じる。信じられない勢いだ。馬場町はどうなっているのだろう。私は正面に見える城跡の右手に目を動かした。真っ黒な雨雲が覆っている。馬場町の辺りだ。このホテルから歩いて七、八分とかからない。もしもダムが限界水位に達して水を放出すれば大量の濁流が押し寄せる。  洪水の怖さを大人は知っている。泥水を被った畳が使い物にならなくなることや、根太《ねだ》が腐ってしまうことも。しかし、子供にとっては台風とおなじで、自分の家が壊されない限り胸をわくわくさせる冒険に等しい。洪水が治まると腰までに達した水を掻き分けながら友達の家の様子を確かめに出掛けたり、流れている箪笥を皆で引き揚げたり、ゴムボートに乗せて貰ったり……日常では味わえないスリルと楽しさが待っている。学校もむろん休みになる。家が水浸しで出入りすらままならないときは公民館などに皆が寝泊まりする。修学旅行みたいな興奮がある。憧れていた近所のお姉さんがおにぎりを拵《こしら》えてくれたり、一緒の毛布で寝てくれたりもする。真夜中近くまで仲間と遊んでいても叱られないし、なによりも周りが全部水というのが心を踊らせた。道がなくなっているからどこにでも行ける。公民館の庭は熱帯のジャングルに見えたし、空き地は海だ。まるで別の世界に迷い込んだ気がした。パンツとシャツ一枚で冒険に出発し、漂流しているラジオや額縁などを捕獲して戻る。半壊している家を見つければ大騒ぎとなる。大人の目を盗んで入り込む。水を被って涼しい屋根の下に休む。崩れ落ちる心配などしなかった。  典子が事故に遭ったのも、そうした油断が原因している。水は膝までに引いていた。皆で公民館の裏手の庭の探検に出掛けた。庭には大きな池があった。その池の真ん中に中島がある。そこをてんでに目指していたのだが、急に典子の姿が消えた。だれも典子が消えたことに気付かなかった。典子は池の深みにすとんと落ちてしまったのである。泥水だったせいでどこもおなじに見えた。やがてだれかが騒ぎはじめ、近くに居た大人が救い出してくれた。池の底に魚の寝場所として大きな甕を埋めていて、典子の小さな体がそこにぴったりと嵌まり込んでしまったのだ。しかし水から引き揚げられるまで時間が経ち過ぎていた。急いで病院へ運ばれ、なんとか命は取り止めたものの左半身の麻痺が後遺症として残ってしまったのである。      4  正夫から昼前に連絡が入った。あれほど激しかった雨も小降りになっている。 「ひどいことになった」  正夫の酒屋《みせ》はさほどでもなかったと言うが、仙北町や八幡町の同業の店が水を被ったので見舞いに行かなければならないらしい。どうせこんな状況ではマンション探しどころではない。正夫は夕方にまた電話すると言って、 「馬場町は床上浸水だとさ。まったく信じられねえよ。いまどき洪水になるなんて……」 「………」 「幸い流された家はないそうだが……当分は水浸しになる。ダムが水をどんどん放出してるそうだ」  私は頷《うなず》いて電話を切った。なんだか胸騒ぎがする。馬場町とは無縁になっているはずなのに放ってはおけない気分だ。小降りの空には太陽の輝きも見えはじめた。私は部屋を出てロビーに下りた。ホテルの真向かいに靴屋がある。長靴を買って部屋に戻った。もう少し待てば雨も上がるに違いない。  青空が空の半分に広がったのを見定めて私はホテルを出ると馬場町に向かった。城跡の石垣にぶつかったところから右手に折れると直ぐに下ノ橋が見える。その橋を渡って右手が馬場町だ。橋には警官が立っていて交通規制をしていた。橋の下を流れる中津川が護岸から溢れるくらいに水かさを増している。橋が流される危険はないようだったが見ていて怖くなるほどだ。私は警官に呼び止められた。馬場町に親戚があると答えたら簡単に通してくれた。水流に押されて揺れる橋を歩きながら私は馬場町を見やった。下ノ橋中学校の校庭がすっかり川と合体している。護岸のどこかが決壊したのが床上浸水の原因と聞いている。水で覆われた光景は私の記憶に残されているものとほとんど変わらない。実際不思議な気がした。橋を一歩一歩踏み締めるごとに記憶が甦る。足元を流れる濁流の音が他の一切の音を消している。軽い不安に駆られた私は後ろを振り返った。眩しい太陽に照らされた警官が額に手をかざして私を見送っている。周りが妙に白っぽく感じられた。  橋を渡り切ると水が一面に広がっていた。橋よりも馬場町の土地は低い。橋からは坂になっている。道の両側の商店街は悲惨な状態だった。床上どころか腰の高さ辺りまで水に浸かっている。懐かしい貸本屋から本が外に流れ出ていた。もちろん今は貸本屋ではない。小さいながら普通の書店になったのを知っている。だが、これでその仕事も終わりだろう。川のせいで建物が斜めに傾いている。 〈本当に……〉  昔と変わらない町並みだな、と呆れた。クリーニング店も薬屋も昔のままだ。大部分が水で隠され、泥水で汚れた壁や屋根ばかり目立つのでそう感じるのかも知れない。  水の深そうな商店街を避けて私は右手の方角に足を向けた。民家の密集している一帯だ。  遠くの正面に公民館の屋根がある。  私の胸は詰まった。  あまりにもおなじ景色に見えたので、あの日のことがありありと思い出されたのだ。  命を取り止めた典子の意識は混濁していた。自分が事故に遭ったことさえ分からなかったようだった。それをいいことに……私は典子にはもちろん、兄の正夫にも隠し通した。なんという卑劣な行為だったのだろうと今でも思い出すたび背筋に冷や汗が流れる。  私は典子のことが好きだった。典子も私のことを好きだと信じていた。なのにあの日、典子は公民館に一緒に避難していたとなり町の男の子とはしゃぎ回っていた。そいつも我々の仲間ではないのに典子に誘われてどこまでもくっついてくる。それがずっと癪だった。池の探検に行こうと決めたときもそうだった。典子は最初私たちの側に居たが、しきりに正夫と並んで前を進むその男の子を気にする。典子はそっちへ行きたがった。危ないぞ、と私は耳打ちした。深い場所がある。典子も甕が埋めてあるのを知っていて覗くと私の指差した方向に歩きはじめた。そうしたら、いきなり典子の姿が見えなくなったのだ。私はびっくりして声も上げられなかった。小学校三年のことである。なにが起きたのかも理解できなかった。私の側にはだれも居なかった。皆、怖々と泥水を掻き分けながら前ばかり見ていて、遅れている私たちのことなど忘れていたのだ。ようやくだれかが気付いた。私も典子の名を叫んだ。その声で大人が池に飛び込んできた。浅い池である。沈んだとすれば甕に嵌まったとしか考えられない。その大人も悟ったのだろう。真っ直ぐそこに駆け寄ると泥水に頭から浸かって典子を探した。私は典子を抱え上げた大人を見つめた。叱られると思ったのだが、大人は私に笑いかけた。助かるぞ、と言っている目だった。  それがすべての真相だ。  甕があることを知っていても、それがどこにあるのかはっきり分かっていたわけではない。たまたま指差したところにそれがあっただけのことだ。私に責任はない、と思い込もうとしても駄目だった。典子は私の言葉を信じ、安全だと思って進んだのである。典子の左半身の麻痺は私の軽い嫉妬のせいなのだ。  罪の意識が私を典子から遠ざけた。  もし二十年ぶりの同級会で典子と出会わなければ、どうなっていただろう。歳月とともに私は典子の名前さえ忘れただろうか。いや、典子の消息を気にして一生|慙愧《ざんき》の思いに囚われていたに違いない。出会えたのは幸せだった。口が裂けても告白はできなかったが、典子の柔らかな笑顔を見るたび私の罪の意識も薄らいでいった。確かに付き合いはじめた当初は謝罪の気持ちが強かったのだが、結婚を決めたときは真実の愛だった。それだけは断言できる。典子ほど控え目で人に優しい女性と会ったのははじめてだった。  水は長靴の丈よりもある。これなら履いていなくても一緒だ。が、泥水の底になにがあるか知れない。釘でも踏めば危ない。 〈これで今度こそ開発が進むな〉  古びた民家を覗き込みながら私は公民館を目指した。ゴムボートを操る消防団員に何度か声をかけられた。この程度の水ならなんとかなる。私は断わった。この水の感触が妙に嬉しい。子供に戻った気がする。二階の出窓に腰掛けてぼんやり外を眺めている家族もある。あれも懐かしい光景だ。時代が変わっても人の行動は変わらない。      5 〈建て直されていないのか……〉  黒い塀まで昔のままに思える。わずかだが高台に当たるために水は二十五、六センチといったところだ。それで洪水の際の避難所に用いられたものだが、今も同様らしい。覗いた玄関はたくさんの履物で隙間なく埋まっている。ざわめきが奥にあった。入ってみようかと思ったが、だれ一人として知り合いは居ない。それでも奇妙な気分だ。公民館のたたずまいが昔とおなじせいで、時代感覚が曖昧となった。この建物の中に踏み込めば、そのまま昔に戻れるような……  後ろから白衣を着た医者らしい若者が現われて私に挨拶しながら入って行った。私は足に重く絡み付く水を漕いで裏庭に向かった。子供たちが遊ぶ声を耳にしたからだ。この避難所に閉じ込められては他にすることがないのだろう。私たちの子供の頃はこの庭も大事な遊び場の一つだったので池の甕のことも承知していたが、今の子供たちは知らない恐れがある。典子のような事故に遭ったら取り返しがつかない。それを注意してやろうと思った。途中の窓から公民館の中の様子が見える。大人たちはぐったりとしていた。元気に走り回っているのは子供たちだけだ。  裏庭に出た途端、見覚えのある光景と遭遇して思わず心臓がざわついた。心配していた通り子供たちが池に入り込んでいる。私の足は止まった。声も出ない。私が見ているのにも気付かず子供たちは腰まで水に浸かりながら中島を目指している。私はその一団に必死で追い付こうとしている二人に目を動かした。お下げの女の子と痩せて小さな男の子だ。男の子の横顔には不安が浮かんでいる。女の子がどんどん先に進む。その肩を掴んで男の子が首を横に振った。危ないと注意したようだ。男の子は泥水を見渡してなにかを探している。きっと甕のことを承知なのだ。私も記憶を手繰った。中島の位置から見ると女の子の右手の方向が危ない。男の子もそこを指差した。女の子は頷くと恐る恐る足で池の底を確かめながら進んだ。甕はなかったらしい。男の子も安心した顔でそちらに進む。私は首を傾げた。危険なので甕は取り出されてしまったのだろうか? 記憶では間違いなくあそこだ。 〈屈折か!〉  突然に理解できた。いつも私は池の水を通して甕を見ていた。しかし、水は、光を屈折させる。甕の位置が池の縁から近いと私には見えていたのである。甕がないのではない。泥で見えないだけで、もう少し先にある。  慌てて男の子から女の子へと視線を動かした。女の子の姿は消えていた。男の子は泣きそうな顔で女の子の消えた水面を見ている。私は無言で水を掻き分けて進んだ。ここで下手に騒げばあの男の子も前に出て甕に落ちてしまう。ようやく別の子供たちも気が付いて声を上げた。私は苛立った。池の泥が私の足の動きを鈍くする。泳げればいいのだが浅くて無理だ。やっと男の子のところまで辿《たど》り着いた。私は頭から飛び込んで女の子を手探りした。細い腕に私の指が触れた。女の子に動きはない。甕は相当に深い。もう一度潜って両腕で引き揚げる。今度は女の子がふわっと浮いた。抱きかかえて私は立った。男の子が心配そうに私を見上げている。大丈夫だ。君の責任なんかじゃないぞ、と言ってやりたかった。危ないと注意したのは正しかったんだ。が、時間がない。私は男の子に笑って頷くと女の子を公民館に運んだ。さっきの医者がまだ中に居るだろう。私はただ興奮していた。こんな偶然があるものだろうか。典子の魂が私をここに案内してくれたのかも知れない。二度とおなじような運命の子を生み出さぬようにだ。そうに違いない、と私は思った。  女の子の兄弟らしい少年が私に追い付いて礼を繰り返す。私は振り返ってさっきの男の子を探した。男の子はぽつんと池に取り残されていた。可哀相に、自分の責任だと思い込んでいる。 〈違うんだ〉  私はその男の子に私を重ねて辛くなった。この女の子だって君の言葉を信じて慎重に進んでいた。屈折という勘違いさえなければ必ず甕を見付けている。なかったから安心してそのまま進み、甕に落ちただけのことだ。 〈だったら!〉  典子のときもそうだったのだろうか。私は思い出した。確かに嫉妬はあったが、好きだった典子にそんな嘘をつけるわけがない。私はちゃんとそこが危ないと教えたのだ。あるはずのところに甕がなくて戸惑った記憶が間違いなくある。だから困惑が生じて、典子が消えた理由も咄嗟《とつさ》には分からなかった。  私の目に涙が溢れた。  そうなのだ。私は典子に嘘などついていない。本当に典子のことを案じていたのだ。あれは私に防ぎ切れない事故だったのである。 〈典子……俺じゃなかったんだよ〉  私はいつでも典子のことだけが好きだった。それを今は堂々と口にできる。重いしこりのすべてが、ようやく今私から取り払われた。      6 「公民館が昔のままだったって?」  ホテルの喫茶室で私の話に耳を傾けていた正夫は、それを聞くと目を円くした。 「別のとこだろう。あそこはだいぶ前にビルになった。池は駐車場になってる」 「それなら似たような建物が他に?」 「だろうね。それより、なんだって馬場町なんかに出掛けたんだ。物好きなやつだ」 「しかし……方角に間違いないと思うんだがな。あの貸本屋の手前から右手に入った」 「貸本屋なんてよく覚えてるもんだね。懐かしい。今はスーパーだったか」 「いや、建物はおんなじだった」 「違うよ。コンビニになった。おまえさん、いったいどこの馬場町に行ったんだ」  正夫は笑い続けた。私は寒気を覚えた。 「いくら開発が進んでないと言ったって、あの商店街は別だ。すっかり様変わりしてる」 「………」 「水浸しになった町を見て昔の記憶とごちゃごちゃになったのと違うか? 俺だって水を掻き分けて歩いていたらいろんなことを思い出した。あの頃のことが甦ってさ」  正夫は私をじっと見詰めて、 「典子を助け出してくれた人な」 「ああ」 「後で礼をしようと親父たちが必死で探したんだが、どうしても見付けられなかった。あれが今でも気掛かりになってる」 「近所の人じゃなかったのか?」 「違ったらしい。あんな状況だったんでだれも身元を確認しなかったそうだ。典子を病院に運ぶのに皆が必死だったからね」 「公民館の関係者だと思い込んでたよ」 「白いポロシャツに灰色のズボンだった」  正夫はそれだけをはっきりと覚えていた。  頷きながら私は……今日の私の格好とおなじであったことに気が付いた。鳥肌が腕に広がっていく。そんな偶然があるものだろうか。女の子を救い出した瞬間とおなじ思いが私を襲っていた。私はあらためて正夫を見詰めた。私に礼を言い続けた少年の丸い顔がそれに重なっていく。池に取り残されて途方に暮れていた男の子の顔を思い出す。  あれは──  私だったような気がしてならない。  すると、抱いていた女の子は、典子だったのだろうか?  もしそれが本当なら……典子を助けたのは私だったのだ。典子に対して四十年近くも抱き続けた私の罪の意識が、典子を助けるというエネルギーに変化したのかも知れない。そんなことが有り得るのか私には説明ができない。説明ができなくても、私にはそうに違いない、としか思えなかった。 〈典子が必要だったんだ〉  その思いがすべてのはじまりなのである。私は涙を必死で堪えていた。 [#改ページ]    鏡 の 記 憶      1  宿の鏡に向かってシェーバーのスイッチを入れ、髭を剃ると間もなくモーター音が弱くなりはじめた。顎をわずかに剃っただけでシェーバーは止まった。思わず舌打ちがでる。充電していては約束に間に合わない。旅行用の小さなシェーバーでバッグに入れっぱなしだから充電を忘れるのがしばしばだ。今度も少し気になったのだけれど、そのときは宿のコンセントで夜の間に充電すればいいと甘く考えていた。ところが、昨夜は呑み過ぎてうっかりとしてしまったのである。目の前に宿の備品の安全カミソリはあるのだが、私はまったく使えない。やむなく使ったことはもちろんある。そのたびに喉や頬を切った。不器用なのである。それと鋭利なカミソリへの恐怖心が相俟《あいま》って指が震える。髭が生えはじめた頃から電気カミソリが普及していたのも私にとっては幸か不幸か。お陰でこういう事態にしょっちゅう陥ってしまう。 〈参ったな……〉  これから直ぐの約束はとなりの町役場の案内による遺跡見物なので不精髭でも問題はない。しかし、午後にはその町の文化会館での講演がある。まさかこの髭で講演をするわけにはいかない。宿もこのまま出る予定だ。有名な温泉場だからシェーバーを売っている店もあるに違いないが朝の八時では開いていそうにない。役場の人間だってシェーバーを持ち歩いていないだろうし、他人のものを借りるという品物でもない。  遠目では目立たないだろう、と無理に自分に言い聞かせた。が、髪も寝ぐせが酷い。備品にシャンプーとドライヤーはあるのにリキッドは見当たらない。第一、洗っている余裕もなかった。気持ちが重くなっていく。調子に乗って遺跡案内など頼むのではなかった。講演に重ねて取材もしようというさもしい根性である。となりの町には縄文の集落遺跡が発見されている。ここまで足を延ばしたついでに見物したい気持ちに嘘はないけれど、本当に見たいのならとっくに訪れている。  車中で言い訳のつもりもあって「参ったな」を連発していたら案内の男は当然のごとく、床屋がありますよ、と私に言った。 「いや、講演に遅れたら迷惑をかける」 「心配ないです。暇な床屋ですから。文化会館の近くの店なんで大丈夫です」  彼の言葉に運転手も頷く。それほど私の髪と髭が不様だということなのだろう。困ったことになった、と私は思っていた。床屋に行けば安全カミソリどころか、あの刃物と同様の剃刀で髭を剃られることになる。しかも、見知らぬ相手の手によってだ。 「打ち合わせと昼食を終えても一時間は余裕があります。車でご案内しますから」  時計を眺めて男は決めた。反対する理由は私にない。髭だけなら剃刀嫌いを白状してシェーバーを買ってきて貰える。だが、髪までもとなると床屋に行くのが当たり前である。子供の床屋嫌いは笑えるが、いい大人の私が口にすれば別の意味で笑われる。  役場の車は古い町並みの真ん中で止まった。他の商店は古いながらもなんとか看板やショーウィンドーを新しくしているのに、その床屋だけは文化遺産を守る決心でも固めているように黒くくすんだ印象だった。色ガラスを嵌め込んだ引き戸も懐かしいと言うより寒々としたものを感じさせる。先に下りた運転手はガラス越しに中を覗いて、椅子にだれも腰掛けていないのを確かめてから後部ドアを開けた。私を下ろすと車を発進させる。私は諦めて引き戸を開けると店に入った。狭い店だ。鏡面に茶色い染みがいくつも浮き上がり、しかも波打っている鏡が二枚並んでいるが、椅子の方は一つしかない。片方は取り外した痕跡が床にはっきり残されている。鏡の前には時代がかったシャボン入れとポマードの瓶がいくつか置かれてある。ポマードが今も製造されているとは知らなかった。それとも買い溜めたものをまだ使っているということか。  椅子も相当に古い。背の部分の皮には無数のひびが入っている。中のクッションが食《は》み出ている部分もある。床のタイルも亀裂だらけだ。ここまでくると取り壊すしかないだろう。それで店主も下手な改装を諦めているのかも知れない。客用の長椅子はスプリングが布を破って飛び出し、座る気がしない。唯一新しそうに見えるのは湯沸かし器だったが、それとて十年やそこらは使い込んでいる。  ストーブの煤で黒ずんだ壁には様々な髪形を描いたものやポスターが貼られている。恐ろしく若い三船敏郎がポマードの瓶を手にして笑っていた。これは今流行りの鑑定番組に持ち込めば高い値がつきそうだ。 「いらっしゃい」  ようやく薄汚れた白衣の店主が奥から姿を現わした。小柄で六十近い歳に見える痩せた男だった。店主も見慣れぬ客に少し戸惑いの表情を浮かべていた。 〈嫌だな……〉  私は少々たじろいだ。 「散髪かね」 「二時から文化会館で講演するんですよ。髪を洗って髭を剃るだけでいいんだけど」  どうぞ、と店主は無表情で促した。私は堅い椅子に上がった。皮がすっかり硬化している。ひびの部分がちくちくと背中に痛い。これでは客が敬遠するのも当然だろう。 「役場の人の紹介でね。迎えに来る」  鏡の中の店主に話しかけたものの耳でも遠いのか無視された。鏡で覗くと店の寒々しさがもっと際立って感じられた。鏡面が歪んでいる他にセピア色に変色しているせいだ。鏡の下の贈二八会の文字も消えかけている。 「湯が熱くなるまで少しかかる」  湯沸かし器の栓を何度もパチパチさせて店主は振り向いた。やっと火がつく。湯沸かし器の下に大きな洗面台がある。髪はそっちで洗うのだろう。長椅子よりは鏡の前の椅子の方がいいと判断して私を座らせただけなのだ。 「この店は何年になるんです?」  普通は店の者があれこれと話しかけてくるものなのに私は必死で糸口を捜した。でないとなんだか落ち着かない。 「この町に来て二十年だがね。店の方は五十年も昔からそのままだ」  じろっと店主は鏡の中の私を見詰めた。 「一人でこの店を?」 「ああ、ずっと一人だ。椅子が二つあってもしょうがないんで売っ払った」  湯沸かし器にちらちらと目を動かす。 「たばこ喫えるかな」  それに店主は無言で長椅子の前のテーブルから灰皿を取ると鏡の前に置いた。私はたばこをゆっくりと喫った。 「あの三船敏郎のポスターね。きっと高いよ」 「馴染みの客もそう言ってたな」  まるで愛想がない。私はまた煙を吐き出す。 「ぼくは水恐怖症でね」  たばこを揉み消して私は続けた。 「冷たい水なんかが顔にかかるとドキッとする。赤ん坊の頃にでも溺れそうになった経験があるんじゃないかと霊能力者に言われた。だから本当は髪を洗うのも嫌いなんですよ」 「そうかね」  店主は湯沸かし器の蛇口を捻って温度を確かめると私を洗面台に招いた。 「頭を前に」  ビニールの前掛けを乱暴につけると私に命じる。高かったらしく店主のごつごつとした指が私の首筋を掴んで押し下げる。熱い湯が頭を襲った。思わず息を詰める。湯が鼻の穴に入ってくる。呼吸が苦しい。これが嫌いなのである。と思った途端、湯は水に変わった。悲鳴が洩れた。店主は構わずにシャンプーをふりかけて泡立てる。シャンプーが目に染みる。私は洗面台を両手で掴んで耐えた。  やっと洗髪が終わってホッとした。  水恐怖症だと言ったはずなのに、店主はまるで気にもしていない。いちいちうるさい客だと思われたのかも知れない。 「あんたさん、岩手の人か」  鏡の前の椅子に戻った私に店主は質《ただ》した。 「そうだけど、どうして?」 「講演会のチラシが回ってきた。俺もそうだ」 「へえ、それは偶然ですね」  この町は岩手から遠く離れている。 「役場の人間が言ってなかったかね?」  探るような目付きで私を見る。 「町の連中は俺を田舎者だと馬鹿にしてるのさ。ここだって岩手と変わらねえのに」  私は笑って店主に合わせた。それでも岩手と分かれば話がしやすくなる。 「この町にはなんで移ったんです? 床屋さんで引っ越しする人は珍しいんじゃないの」 「居られなくなってね」  ぼそっと呟《つぶや》いた顔に翳りがあった。それ以上のことを訊ねるのは躊躇《ためら》いがある。 「熱いよ」  店主は蒸しタオルを私の顔にかけた。本当に熱い。息ができなくなる。  店主はタオルをそのままにシャボンを溶きはじめた。また不安がつのった。 「剃刀も昔から苦手なんですよ」  冗談のように私は口にした。 「子供の頃に何回か床屋さんで額や顎を切られたことがある。石鹸負けして顔がむずむずする。それでつい眉毛とかを動かしてしまう。だから床屋に行くときは髭を最初から電気カミソリで剃って行く。今日はあいにくと電気カミソリの電池がなくなっていてね……こうして剃って貰うなんて何年ぶりかな」 「怖いのかね」  店主は剃刀を引き出しから取り出して鏡の前に置いた。大きな剃刀だった。 「ブニュエルの映画だったかな」  どうせ「アンダルシアの犬」など知らないだろうと思いながらも私は言った。 「冒頭からいきなり女の目玉を剃刀で横に切り裂くシーンが出てくる。あれを想像してしまうんだ。うっかりと顔を動かした途端に剃刀が滑って目玉を切られるんじゃないかと」  店主は黙って私の顔にシャボンを塗った。 「床屋の絆創膏って特別なものだったの?」  信頼している口調で私は訊いた。 「なんだか鼠色っぽいやつでさ。すごく目立つやつだった。あれは軟膏でも塗っていたのかな。家は医者だったけど、ああいう絆創膏は見たことがない。剥がれにくかったし」 「どうかね」  髭を柔らかくしている間に剃刀を研ぐ。目を瞑《つむ》っている私の耳に、しゅうっ、しゅうっと音だけが聞こえる。この店主はただの気難し屋なのだろうか。私は目を開けた。店主が正面から私を見詰めていた。 「若い頃は何度か失敗もしたでしょう」  シャボンをタオルで拭き取りはじめた店主に私は笑顔で問い掛けた。 「風船で練習するとか聞いてるけど、子供なんかだと泣いて動いたりするからね。うっかり眉を剃り落としたなんてことも聞くな」 「耳を半分切ったことがある」 「………」 「冗談だよ。そんなことしたら商売できなくなる。せいぜい唇切ったくれえだな」  想像してぞっとした。私も唇の直ぐ下を安全カミソリで切った経験がある。皮膚が薄いせいなのか物凄く痛い。血も溢れ出る。 「ドアに指を挟んで潰しかけたのさ。包帯を巻いたままなんで上手くいかねえ。そのときだ。今はすっかり慣れたが、一年は調子悪かった。女房やガキを練習台にして毎日家の中は血だらけさ。あんなことさえなきゃ……」  店主は不意に口を噤んだ。  離婚でもしたのだろうか。この店に店主以外の人間は暮らしていないようだ。岩手に居られなくなった理由もそこにあるのか。私の目は店主の指に動いた。 「ほら、この通りだ」  店主は右手の人指し指を突き出した。触ってみろと促す。私は指を軽く握った。店主が指を曲げた。かくり、と骨が鳴って指は鉤の形に固定された。引っ張っても真っ直ぐにするには力が要る。店主は左の掌に指の先を当てて元の形に戻した。かくり、と音がする。店主は平気な顔をしているが私はなにか薄気味悪さを覚えた。指についてではない。店主の精神状態のことである。そんな話になるよう持ち掛けたのは私かも知れないが、剃刀を持つ指が不自由だと打ち明ける床屋がどこの世界に居るだろう。 「あんたは岩手のどこかね」 「盛岡」  店主は頷いたあとに自分の出身地を教えた。盛岡から車で一時間ほど離れた町で私もよく知っている。どころか叔父がその町の高校に単身赴任をしていたことがあり、中学の夏休みに一月近くを過ごした思い出もあった。それを言うと店主もさすがに懐かしがった。 「岩手は忘れられねえよ。だからこの鏡だけはわざわざ持って来たんだ」  シャボンをまた塗り付けながら店主は言った。二八会というのは理容学校の昭和二十八年入学の同期で結成したものだと言う。開業すると皆が祝いに鏡を贈り合う。そうすると店主は私が四歳のときに理容学校に入学した計算になる。 「町に戻って開業したのはいつなの?」 「二十六の歳からさ」  私は頭の中で数えた。店主との歳の差は十四、五か。すると私がその町で過ごしていた辺りは三十前後。ちょうど重なっている。 〈まさか……〉  突然、恐ろしい記憶が甦って背筋にざわざわと寒気が走った。そんな偶然が有り得るだろうか。私が床屋で額や頬を切られたのは、その町の床屋でのことなのだ。だが、恐ろしい記憶とはそんな程度のものではない。その床屋の主人は殺人者だったのだ。発覚したのは私が盛岡に戻ってからのことで、私も幼かったせいで詳しくは知らないが、女房を殺した疑いをかけられて逮捕されたはずである。 「どうかしたかね」  私の緊張に気付いて店主は質した。その目が遠い記憶にある目と一つに重なっていく。  白布の中で握り締めている私の掌はじっとりと汗ばんでいた。まさか、とは思うが、店主は岩手に居られなくなって二十年前にこの町へ移って来たと言わなかったか? あの町の床屋が殺人の罪で逮捕されたのはだいたい三十五年前のことだ。凶悪な連続殺人でもない限り十五年やそこらで釈放の身となる。二十年前に出所して岩手から遠く離れた町でおなじ仕事をはじめることは十分に考えられる。 〈まさかな……〉  その思いしか私には浮かばない。小説を書いている私でも、こんな偶然はまず用いない。しかし、それほどの偶然とは言えないかも知れない。店主はもう二十年もこの町で働いている。私が殺された奥さんの身内とでも言うならご都合主義の典型となろうが、あの床屋に散髪して貰っただけの客なら何千人という数に達しよう。それがこの町で巡り合う確率は極端な偶然でもないはずだ。昨日泊まった温泉の名は岩手にも聞こえている。有名な観光地なのだ。それとは互いに知らず出会っている場合も多いに違いない。今日は私が岩手出身と店主も承知していたのでそういう話にまで広がったのである。  強張っている私の額に店主の指が触れた。私の頭を横にする。冷たい剃刀が私の揉み上げの辺りに押し付けられた。身が縮む。私の動揺を見透かされて剃刀を一閃されたら一溜まりもない。床屋の椅子ほど無防備な場所はない。ギャング映画ではたいてい床屋で髭を剃っているところを狙われる。 「よほど顔剃りが嫌いなんだね」  震えが伝わったようで店主は鼻で笑った。  私も、なぜ剃刀での髭剃りが怖くなったのか思い出していた。この男のせいなのだ。殺人者だったと叔父から聞かされたとき、私はこの男にわざと切られたと確信したのである。  この男の店は私の叔父が暮らす小さな一軒家から歩いてわずかのところにあった。叔父は英語の教師をしていた。その関係からかお洒落で、週に一度は床屋に通っていた。私が一月という短い滞在のうちに二度も散髪したのはそのせいだ。叔父にくっついて行ったついでに髪を切って貰ったのである。店には大人向けの漫画雑誌やテレビも置かれてあった。叔父はテレビを持っていない。好きな歌手の出演する音楽番組があったので、その時間を狙って出掛けた記憶が残っている。殺された奥さんという人を私は覚えていないが、店には田舎町にしては珍しい可愛らしい女の子が居た。その子の働いている様子を見るのも楽しみだった。鏡を通して私はその女の子ばかりを目で追いかけた。確かルイジアナ・ママを唄った飯田久彦が好きだったはずだ。得意そうにして雑誌の切抜きをたくさん貼ったノートを見せられた記憶もある。剃刀で顎の辺りを切られたのは、そうして女の子と話をしていたときだった。白いシャボンの泡の中から血が浮き出て、痛みはそのあとからきた。女の子との話に熱中していて不用意に顔を動かしたためだと思ったが、謝り続ける店主の目はどこか冷たかった。二度目に額を切られたのも、やはり私が女の子と冗談を言い合っていたときだった。剃刀よりも冷たいものが私の中を駆け巡った。意図的なのではないかと疑っても口にはできない。女の子も知らない顔をして私から離れた。だから殺人者と聞かされて、やはりと頷けたのである。子供心にもあの男は異常だと感じていた。  すっかり忘れていたが、その体験が私のトラウマとなって剃刀恐怖症へと仕立て上げたに違いない。よく知らない人間が剃刀を握って私の喉の辺りを探る。その恐怖感はあの男から植え付けられたものだ。いや、今私の目の前で剃刀を握っているこの男からだ。  その剃刀が頬から喉元へと滑る。 「あの町に居たのはいつ頃と言いましたかね」  喉に剃刀を当てたまま私に質す。 「三十五、六年も前のことかな。忘れた」  喉が動いて剃刀の刃に触れる。 「仲間が人殺しをしたんだが……」  私は思わず椅子の肘を強く握った。白布で覆われていても分かっただろう。 「男好きの女房を殺した。殺《や》られても仕方のない遊び女でね。まだ十八かそこらだったから田舎町が退屈だったんだ」  十八! だとしたらあの女の子が殺された奥さんだったのかも知れない。店主は相当な歳に見えたので奥さんもおなじ世代だとずっと思い込んでいた。考えればあんな小さな店で女の子を雇う余裕はなさそうに思える。  剃刀が静かに顎の方へ上がる。研ぎが足りないのかちりちりと肌が痛い。 「知らぬは亭主ばかりってやつさ。誘われればだれとでも寝るって評判だった」  上目使いに私を見詰める。剃刀を私から離すとシャボンの泡を床に振り落とした。  反対の頬に取り掛かった瞬間、嫌な痛みが横に走った。わずかだが切れたらしい。私はびくんと体を反らせた。 「こりゃどうも」  店主は剃刀を握っている小指を嘗めて頬をこすった。鏡に目をやって確かめる。血がうっすらと滲んだ程度だ。早く終えて貰いたい気分だったので私はそのままにした。 「歳のせいか、この指がまた……」  剃刀を置いて指を何度も開いたりする。 「嫌な話を思い出したりしたからね」 「そんな事件があったんだ」  私は知らないふりをすることにした。この男が犯人でも罪はもう償っている。 「仲間同士だからウチの女房とも友達でさ」 「だれと?」 「殺された女とだよ。休みの日は連れ立って盛岡まで買い物に出掛けていた」  気を取り直して髭剃りをはじめる。 「あんな女と分かってたから、こっちも疑ったね。買い物とは違うんじゃねえかと」 「………」 「寝ているところを剃刀ですぱっとやったそうだ。首を切り離したんだ」  剃刀が派手に横へ動いた。息が詰まる。 「俺じゃねえよ。俺の女房は岩手でぴんぴんしてる。別の男と一緒になってな」  店主は薄笑いを浮かべた。どうして唐突にそんなことを言うのか……それとも私が疑いの目をしていたのだろうか。 「しかし、あんたの心配ももっともだ。許したつもりでいるが、ここへ女房と暮らしている男が来たら喉を切ってやるかも知れねえな。目の前に喉がある。やってくれって言っているようなもんだよ」  店主はくすくすと笑って、 「女のケツばかり追い回してるガキや偉そうにしてる客を見てると指がむずむずしてくる。こっちはどうせ先が知れてる身だからね」  嫌な冗談を言う。 「知らない床屋に入って偉そうに踏ん反りかえったりしねえ方がいいぞ」  店主の湿った笑いが狭い店に響く。  ようやく髭剃りが終わった。  私から緊張が一気に解けた。  岩手に女房が元気で暮らしているとは、この店主の言葉だけに過ぎない。本当のことを確かめる術はない。深く刻まれた皺や疲れた目がこの男の暗い過去を示しているように思える。事件のこともこの男の方から口にしたことだ。半分以上の確率で私はこの男があのときの店主と睨んでいた。 「どういう髪形にするね?」  店主が背後の化粧品棚の扉を開けながら私に言った。鏡にその背中が映っている。  棚の扉が半開きになっていた。剃刀がその中に何本か立てられていた。  その瞬間──  私は最後にあの店を訪れたときのことをありありと思い出した。今こうして鏡越しに見ている光景とまったくおなじだったのである。  私は盛岡に戻る前日の夜に店を訪れた。  あの女の子から借りていた新刊の「明星」を返すためだった。客がもう来ないと見たのか店の白いカーテンは閉ざされていた。扉に手をかけたら開いたので私は声をかけて入った。女の子の姿はなく、店主が洗面台でなにか洗っていた。私は本をそそくさとテーブルに置いて扉へ引き返した。 「しつこいガキだな……」  そう言われたような気がして私は振り向いた。鏡に店主の背中が映っている。脇の化粧品棚の扉が開いていた。血に塗《まみ》れた剃刀がそこに何本か立てかけられていた。店主が洗面台から顔を上げた。慌てて私は店を飛び出た。 〈あれは……〉  なんだったのだろう。まさか殺人などを想像しなかったので、ただ恐ろしい気がしただけである。叔父に事件のことを聞かされたのは一年も経ってからのことなので、そのときもあの剃刀と結び付けることをしなかった。と言うより忘れていたのだ。それが今、まるで見ていたごとくに甦る。  私はあの男が殺人を犯した直後に店を訪れたのではないのだろうか。腕に鳥肌が立つ。  洗面台からは血腥《ちなまぐさ》い匂いも立ち込めていた。  この角度。  背中を見せている店主の体付き。そっくりそのままに思える。  贈二八会の文字にも見覚えがあるような気がしてきた。  怖さに思わず鏡から目を逸らした。  鏡に過去が再現されている。  そして──  私はもっと恐ろしい記憶を取り戻した。  店を出るときにもう一度鏡を覗いた私の目に黒い塊がちらりと入り込んできたのだ。  店主はそれを洗面台の中で丹念に洗っていた。ごつんごつんとぶつかる音も甦る。  あれは、髪の毛だったのではないのか?  もちろん髪の毛ばかりではない。  店主はあのとき切り離した妻の首を洗っていたのだ。きっとそうに違いない。  店主の背中を見詰めながら私の震えは止まらなくなった。  店主は振り向くと怪訝な顔をした。  その顔は私が三十五年前に見たものと瓜二つに思えた。  けれど、本当にあの男であるのか……半分以上の確率が八割近くに跳ね上がっただけのことだ。私は必死で笑いを拵《こしら》えた。 [#改ページ]    夢 の 記 憶      1  あんまり面白い夢を見て、笑いながら目覚めてしまった。夢を語ったり文字にするのはすこぶるむずかしい。起きた直後ははっきりと細部まで記憶しているのに、いざそれを人に伝えようとすると、途端に輪郭や軸が崩れていくというか、アイスクリームのごとくどんどん溶けて掴みどころのないものになってしまう。そこが夢の奇妙な点でもある。本当の経験ではないからだと人はしたり顔して説明するが、それを言うなら映画と一緒だろう。相当に複雑怪奇な映画でも、見た直後に忘れることはないし、細かな場面まで永く記憶に残される。夢に関しては人類ほとんどがアルツハイマー症にかかっているようだと言ってもおかしくない。こんな余計なことを書いていると、忘れてしまいそうだから先に夢のことを片付けてしまおう。  夜、階下のトイレに起きて行った。うっかりと灯をつけずにドアを開けたら中に慌ただしい気配がある。暗がりに背丈が三十センチほどの老婆が立ちすくんで私を見上げていた。もちろん驚いた。体に鳥肌が立った。見知らぬ老婆である。まぁ、三十センチほどの老婆など知り合いに居るはずもないが。こんなのがいつ入り込んだのだろう。私は箒を手にして追った。いい具合に玄関の方へ逃げて行く。玄関ドアの下の隙間にスルリと潜り込んだ。腰から下がつかえて難儀している。私は箒で掃き出した。すると、その箒を掴もうとして隙間から何本もの手が出て来た。鶏の脚に似て、細く黄色い上に鱗が生えている。老婆の仲間のものだと直感した。私は箒でそれらの手を叩きつけた。本当なら恐ろしくて近寄りもできないはずなのに、そこが夢の不思議な部分でもある。怯えは私になかった。 「いいのか」  という声がして鉄製の扉がたわんだ。何人かが扉の向こうに居る。私は扉を箒で目茶苦茶に払った。いきなり扉が開いた。紛れもなく私の家の前庭だったが、そこにはサーカス、と言うよりカーニバルの世界が広がっていた。怪力男やピエロの格好をした男が短剣をくるくる回していた。さすがに私も戸惑った。 「いいんだな。今から敵だ」  足元で声がした。目だけを隠す黒い仮面をつけたお洒落な男が玄関の石畳に腰から上ばかりを突き出して私に宣言した。ピエロや怪力男、短いドレスを着けた娘たちがいっせいに私を見やってにやにやと笑う。私は扉を閉じて家に逃れた。それから怪異の連続である。あまりに色々なことが重なって大半を覚えていない。だが、そのことごとくがいわゆる妖術による攻撃だった。たとえば一人の男が何気なく私に接近して来る。そっと手を握られる。すると手の甲がざわざわとする。男は笑って離れる。なにかを手の甲にくっつけたらしい。見るのは怖いので私は通りすがりの人間に手の甲を突き出して見て貰った。相手は一瞬のうちに青ざめて顔を背ける。もぞもぞ感は消えない。これが一生続くかと思えば気が滅入る。思い切って私は手の甲を見詰めた。小さな黒い虫が……ごきぶりの幼虫のようなものだ。それが私の手の甲を食い荒らしている。いくつもの穴が開いていて、そこから出て来ては別の穴に潜っていくのだ。悲鳴を上げて振り払うと周辺の光景が一転して薬屋の裏庭に立っている。古い錠剤の詰まった瓶が荒れた庭一面に埋まっている。そこを歩いていると蓋の開いた瓶がいくつかあった。見たくはないのだが、つい覗いてしまう。瓶の中には別の世界が一つずつ詰まっていた。青空が見えたり、綺麗な湖があったりする。だんだんと怖くなる。それでも見ずにはいられない。広口の瓶を屈んで覗いた。なにか中で蠢《うごめ》いている。白い蛇にも見える。なんだろうと思った瞬間、腕が二本飛び出してきて私の頭を抱えた。瓶の中へ引き込もうとする。私は必死で逃れた。周りの瓶がどんどん膨らんで宙に浮いた。風船のように大きくなる。瓶の中の湖や星空も一緒に膨らむ。どん、と音がしていくつかが割れた。また、どんと割れる音が……水飛沫が散って私を襲う。耳を塞いでいる私の横を救急用の担架が白衣を着た男によって運ばれていく。いつしか病院に私は居る。担架に寝ているのは例の仮面の男だ。追いかけようとしたが担架は闇に消えた。 「やあやあやあ」  病室から忙しそうに男が現われた。 「遠藤君が死にましてね。続きますな」  はあ、と私は曖昧に応じた。だれのことを言っているのか分からない。 「会社も危ないですわ。ちょうど良かった」  首筋の汗を拭いて男は病室に戻った。私も続いた。そこはもう病室ではなかった。女たちが私を拍手で迎えた。どれもこれも懐かしい笑顔だが、よく確かめるとだれのことも私は知らない。二人の女が前に出て私の腕を取った。女たちの間を私は通り抜けた。抜けると私の家の庭に出る。相変わらず怪力男がポーズを拵《こしら》えて筋肉を誇示している。無視して玄関の扉を開ける。中に仮面の男が立っていた。男は仮面を外した。  それは私だった。 「敵にするからこんなことになる」  わっと背後で笑いが起きた。私は家の中を覗き込んだ。老婆や座布団たちが遊んでいた。  もっと恐ろしいことが実はあったはずだが忘れてしまった。こうして思いだして綴ってみても、なんの意味があるのかまったく分からない。夢は深層心理と関わっていると言うが、それも怪しい。それより私はこの一見支離滅裂な話が、実は別の次元での現実ではないのかという気さえしている。たまたま比喩として持ち出したけれど、アルツハイマー症の人間たちはこの夢のように現実を認識しているのではなかろうか。私の父親にもすでに軽い症状がみられる。父親の話はある部分非常にクリアだが、展開が目茶苦茶で、ちょうど夢を聞かされているような気分になる。      2  眠るのが楽しい。  仕事がきつくなっていて、家に戻ると酒を呑む気力さえ失っている。風呂に入り布団に手足を伸ばせば幸福な気分に包まれる。それになによりも夢がみられる。私の夢は近頃バラエティに富んできた。単調な現実よりずっと面白くて刺激的なのだ。眠りに入る前にも夢のことを考える。夢を意識するようになり、珍しい夢をノートに纏《まと》めはじめてから得た実感であるが、夢のすべてが脳による想像力の賜物とはどうしても思えなくなってきた。確かに夢は現実とは掛け離れた世界に誘い、想像の世界としか思えない部分もあるけれど、人間の想像力の方が本当はもっと凄い。小説の中で江戸の人間になりきったり、猫や犬にまで変身する。気になって周辺の者たちに聞きまくってみたが、自分が猫や犬になって喧嘩をしたり恋をする夢を見たことがあるのは一人として居なかった。江戸や明治の人間になって夢の中で彷徨《さまよ》ったという話も聞かない。これはおかしなことだ。想像できないわけがないのだ。時代劇は毎日のようにテレビで放映されているわけだし、日本人の歴史好きはだれもが認めるものである。まさか正確な時代考証ができないから夢に見られないということでもないだろう。見るのは常に現在か、せいぜい少年時代までである。しかも夢の主人公も自分と決まっていて、別人にはなれない。あれほど細部をしっかりと再現しながら、脳にそれ以上の想像力がないなど、逆に信じられない。目覚めている脳は小説や映画の中で、それこそ人類が見たことのない世界まで楽々と構築する。私は人間の脳の働きを馬鹿にしているのではない。もっと凄いとさえ思っている。だから夢が脳の想像によるものとは思えないのだ。あれはむしろ脳が記録している光景を時々取り出して見せてくれているものではないのだろうか? 前世と言えば一番簡単に説明できそうだが、それにしては現実がそのまま反映している夢もあるので私にもそれ以上のことは言えない。しかし、人間はなぜ動物に変身した夢を見られないのか、なぜ大昔の時代に入り込む夢が見られないのか、その点は研究する価値がある。そこにこそ夢の秘密が隠されている気がする。  今日は、その夢の秘密の一端に迫りそうなものを見たので書いてみよう。自分でも大袈裟な言い回しになった。それほど大した夢ではない。ごくありきたりのもの、と言ってもいい。けれど私には重要に思える。  私は電車に乗っていた。  郊外を走る電車で、のどかな美しい景色の中をのんびりと走っている。私の側には家内も居る。最初に断わっておけば、夢の中の家内であって、今こうして思い出すと現実の家内とは別人だ。見ず知らずの女性である。それでも夢の中ではまったく違和感がなく夫婦の会話をしている。電車は大きな工業都市を通過して山道に差し掛かった。赤い岩や灰色の禿山が周辺に目立ちはじめた。岩には奇妙な彫刻が施されている。悪魔のような姿を刻んだものや、ライオンに似た動物などが見られる。なかなか奇妙で飽きない。箱根の彫刻の森の巨大版という感じだ。観光地らしく電車の中から嬉しそうに眺めている家族もあった。やがて電車は地下のホームに到着した。ピラミッドの内部のごとく壮大で華やかな駅だ。私と家内は構内の喫茶室(と言っても美術館のメインホールのような広さで装飾品に囲まれている)に入って喉の渇きを潤した。ジュースやコーヒーでもない。酒でもなかった。それでもその夢の中では慣れた飲み物である。家内が知人を見掛けて挨拶した。その男も加えて、たった今見たばかりの彫刻の出来栄えについてしばらく話が弾んだ。私は一人で駅を見学に回った。ギリシアの宮殿に似ている。人々が行き交っている。中庭に出たつもりだったのに、そこはいつもの乗換駅のホームだった。本が買いたくなって私は滑り込んで来た電車に乗った。町の中心部に戻る。その駅の側には大きなデパートがあって、五階にはほとんどが揃えられている書籍売り場があるのだ。駅から路上に出てデパートを目指す。一階はいつも混雑している。エスカレーターで真っ直ぐ五階を目指す。本の匂いが私を落ち着かせた。書籍は分野ごとに小部屋で仕切られている。私はいくつかの部屋を横切り、画集の置かれてあるところに入った。店員が中央のソファに腰掛けて客と話し込んでいる。丸い部屋の壁全部が書架となっていて大型の画集が並んでいる。何冊かを開いて美しい図版を堪能した。大型本で気安く買える値段ではない。雑誌売り場に戻る。建築雑誌を買い求めて何階か上のレストランに行くことにした。そこの若い主人とはなぜか気が合う。暇なときは私のテーブルに来て音楽の話をしたりする。店は珍しく混んでいた。仕方がないのでデパートをぶらぶらする。あまりの広さにくたびれた。狭い角を右に曲がったら大浴場に通じていた。右手のガラス越しに風呂が見える。年寄りや子供たちが、運動場くらいもありそうな浴槽に浸かってのんびりとしている。私は廊下の突き当たりの扉を開けて天然風呂に出た。何百人もの男女が白い岩山のあちらこちらに湧出している温泉に入って休日を楽しんでいる。私は家内を捜した。ここで待ち合わせている。家内の方で私を見付けてくれた。白い湯に家内は肩まで浸かりながらアイスクリームを食べていた。  そこで目が覚めて……しばらく考え込んでしまった。  繋がりが妙なだけで、特に不思議というものではない。日常的ですらある。なのに堪らないほどの苛立ちに襲われた。なにかが喉元まで上がって来ている。それを取り出せばすっきりとする。こう書いても伝わらないに違いないが、とにかくおかしい。 〈そうか……〉  と私は気が付いた。この夢のほとんどを私はかつて何度か夢で見ているのだ。おなじ夢ではない。おなじデパートや温泉、そして電車のことをだ。さぁ、書いている私も混乱してきたぞ。本当に夢のことを書くのは面倒だ。デパートや駅の夢を何度か見ても奇妙ではない。問題は、そのデパートや駅が私の生きている現実世界に存在しないものだから奇妙なのである。あの温泉だとて有り得ないはずではないか。山全体に二、三百の温泉が湧出していて、そこに何千という人間が裸でうろついている。そんな温泉がこの日本にあるなど聞いたこともない。一度きりの夢なら、あるいは願望が生み出した夢とも解釈できるが、私は最低でもこの温泉を三、四度は夢で見ている。そのときどきで天候や登場する人物は異なるが、温泉の光景はいつもおなじだ。白い岩の形や歩きやすいように敷かれた板の道までありありと思い出すことができる。デパートも私がしょっちゅう出入りする店ではないと断言できる。過去の記憶の再現でもない。私が若い頃暮らした町にあんな大きなデパートはなかった。なのに私は夢の中で、いつもこのデパートに出入りして買い物をする。カーテンを家内と買いに出掛けたときの夢もこのデパートの二階だった。あの小さなレストランで食事をしている夢はもっと頻繁である。今日の夢で私はあの店があのデパートの中にあったのをはじめて知った。だからおなじ場所の夢と気付かなかったのだ。思えば、あの店の主人……私の同級生として別の夢に出て来た男ではないのか? もちろん現実には私にそういう同級生は居ない。  こうして一つの手掛かりを得た途端、これまでのさまざまな夢が重なりはじめた。たとえば、あのデパートを出て賑やかな商店街を歩いていた夢を見たこともある。祭りの夜のことだ。私は友人何人かと連れ立って共通の友人の家を訪ねるところだった。するとまた他の仲間が現われて、あいつの家が火事になったと知らせた。私たちは慌てて駆け付けた。古い映画館の裏手にあいつの家はある。道端に咲いている黄色い花が今もはっきりと目に浮かぶ。あいつの家は全焼していた。それを朝になって家内に教えたら、火事の夢は反対に縁起がいいのよと笑っていたが……夢の中で親しそうにしていた連中がだれ一人として知らない男たちだったので妙な違和感があったのを今も覚えている。  それにしても……デパートを切っ掛けとして、これまで忘れていた夢の数々がどんどん脳裏に甦ってくるのも不思議なことである。  これはパソコンで言うなら、ファイルを開くのと一緒のことではないのか。同一のカテゴリーに含まれる夢が一つのファイルに次々に蓄積されていって、と同時に忘れられていく。たまたま今回はデパートというキーワードでファイルを開くことに成功したのだ。それで関連ファイルが一挙に開かれ、忘れていた夢がありありと甦ったと考えれば自然だ。  けれど、同一のカテゴリーとは、いったいなにに対しての同一なのだろう。      3  あのデパートの夢を見て以来、夢に対する認識が確実に変わりつつある。  鍛練という言葉がこれに当て嵌まるかどうか分からないが、ファイルを簡単に開く方法も会得した気がする。あのデパートを頭に描き、ぼんやりとしていると、自然に頭に浮かぶ言葉や光景がイメージされる。それが恐らく同一のファイルに収録されている夢なのではないだろうか。一つの夢が明瞭になると、今度はそれと関係がありそうな別の夢を思い出す。自分でも信じられない。十年以上も前に見て、それきり忘れていた夢だったりするのだから、なんだか不気味でもある。  あの、山の中の寺を訪ねた夢も、そのようにして思い出した。その寺は私の親戚らしい。有名な寺のようで参道をたくさんの観光客が歩いて行く。私は親戚だから拝観料も払わずに入る。本堂には無数の仏像が置かれてある。その裏手に渡り廊下が続いていて広い座敷に通じている。渡り廊下の下は池だ。立派な鯉が泳いでいる。座敷は百畳もあって爽やかな風が吹き抜けている。その真ん中に親戚たちの死骸が寝かせられている。皆、死装束だ。私は傍らに座って霞のたなびいている庭を眺めた。死んだものは仕方がない。私は庭から参道に出てバスの発着所に向かった。丸い形のビルに入り、飲み物やパンを買ってバスに乗り込む。バスは暗い夜道をどこまでも走った。峠道から眩しい町の灯が見えた。私の暮らす町だ。心が安らいでいく。  たったそれだけの夢で、目覚めた瞬間に忘れた。見たのは五年も前のことだろう。それなのに私にはバスに乗っていたときの堪らない寂しさや、無という存在になってしまった親戚たちの美しさがまるで今見ているかのように甦った。そして、私が目指すあの町には例のデパートがある。間違いない。  私は思い出すまま、ノートにメモを取りはじめた。さまざまな夢を手掛かりにして次第に町が形を成していく。  地図を完成させたのは何日か後のことだ。  駅は中心部に二つある。一つはデパートの側で、もう一つは商店街を突き抜けた先だ。そこはバスセンターにもなっている。私の暮らす家は中心部からだいぶ離れていて、乗り換えを一度しなければならない。あの温泉は市民にとっての楽しみで、車を使えば一時間ほどの距離だろうか。夢の中ではデパートからいきなり温泉に出たりしたが、そこは夢の曖昧さというものだ。友人と誘い合って車で真夜中に行った夢も見ている。あのときは自慢の大浴場も閑散としていた。  地図を手元に置いて眺めていると、さらに別の夢を思い出す。大半は忘れていた夢だが、いくつかは鮮明に記憶していながら、この町の夢とは思わずにいたものもある。見知らぬ人間と親しく談笑している夢はたいがいがこの町の出来事だということも分かった。  ここまでくれば私の言わんとしていることがだいたい想像できるはずだ。  やはり夢とは脳による想像の産物などではないのである。何年にもわたって一つの町の夢を見続けることなど有り得ない。かと言って、お定まりの前世でもなさそうだ。夢の中ではすべてが当たり前のこととして疑問を抱かないせいなのか細かなことが記憶に残らないけれど、電車や車の形が相当に違う。飲み物や食べ物も微妙に異なっている。過去とは思えない。どうも別の次元の世界のような気がしてならない。それにしてはあまりにも日常的なので、だれも別の次元だと気付いていないだけなのではないか?  どう考えても見知らぬ人間なのに、夢の中ではどうしてあんなに親しく付き合っていたのか、そのメカニズムを見事に解明できる人間が居たら教えて貰いたいものである。別の次元での現実なのだと考える方がよほどすっきりする。  脳の半分が使われていないということへの解答もこれでできそうだ。  半分は別の次元のために用いられているのである。仮に目玉が左右の脳(あるいは脳の上下かも分からないが)に別々に付属しているものであったとしたら、二つの目玉はそれぞれまったく異なる光景を見せてくれるかも知れない。体は一つなのだから、そんなことは有り得ないと笑う人も居るだろう。しかし、別の次元が肉体を必要とする世界なのかどうか、それも分からない。いわゆる霊界というものだ。霊界と書けば直ぐに死後の世界を連想されてしまうので私もなるべくは口にしたくないのだが、夢だとて意識のはずなのに肉体の存在を確かに感じる。それならそういう現実があってもおかしくはないだろう。  その世界を垣間見せてくれるものが夢だと言えないだろうか? なにかの加減で洩れた別の次元の情報が夢を通じてこちらに流れて来ている。反対に言うなら、我々の日常をあちら側の私も夢に見て、奇妙だと感じているのかも知れない。      4  今日は作成した町の地図や夢の断片をメモしたノートを抱えて担当しているT氏の仕事場を訪ねた。T氏はSFや怪奇小説を手掛ける人なので私の仮説が分かってくれるはずだと思っていたが……私の興奮がかえって反対に作用したようだ。最初は面白がって耳を傾けてくれていたのに、私の見た夢がそれほど荒唐無稽なものではないと分かると生半可な返事しかしなくなった。メモを眺めて詰まらなさそうな顔をする。夢なんだから空を飛んだり怪物と戦って欲しいよな、とあっさり締め括る。小説の材料にでもなると思っていたらしい。想像力の方がもっと楽しいじゃないか、と言ってメモを返してよこした。地図の方にも関心を持たない。それはそうかも知れない。どこにでもありそうな普通の町だ。しかも大雑把な概略図とあっては、それ以上を期待する私の方がおかしい。文字ではなんとか説明できるのに、言葉にするとどうしても中途半端になる。それも災いしている。だが、なぜ夢の中で動物に変身できないのかという謎と、なぜ大昔の夢を見ないのかという問い掛けには興味を感じてくれた。短篇のテーマになりそうだと頷いた。私自身は解決したという気分なのでどうでもいいことだが、どんなものが出来上がるのか……。  そうそう、夢と言えば面白い発見がある。これまで私自身がいつも主人公だったので、環境は変わっていても私は一緒なのだと思っていたが、どうやら職業や性格まで違うらしいのである。考えれば当たり前のことだ。あちらの世界の私はまったく見知らぬ仲間に囲まれ、家内すら別人だ。それで心が同一ならかえって不自然というものだろう。あちらの私はだいぶ喧嘩にも強く、上司とやり合って職もいくつか転々としている。夢には本当の性格が表われる、とよく耳にするけれど、そうではない。別の次元で生きている自分を見ているだけのことなのだ。  もっとも、この覚書きもこの辺りでそろそろ止そうかと思っている。最初はこの思い付きさえ忘れてしまいそうだったのではじめたのだが、なんだか近頃気持ちが落ち込みかけている。あちらの友人たちの方が自分に親身になってくれているようで羨ましい。T氏も深入りは危ないと繰り返した。あちらの世界の存在を信じてのことではなく、単純に私の思い詰めた様子を見ての忠告だろうが、その通りかも知れない。どうせ私が行くことのできる世界ではない。覗き見するだけの世界に憧れたところで無意味だ。結局、夢は夢と割り切って生きるのが無難なのである。      5 「どう思って?」  読み終えた私に洋子は不安を浮かべて質《ただ》した。私は咄嗟の返事ができずに吐息した。なにがなんだか分からない。店にはまだ客が少ないからこうして座っていられるが……。 「主人の書いたものには間違いないわ。でも……意識がなくて書ける状態じゃなかったのに。病院のベッドの下からこれを見付けたときはびっくりして……いつどうして書いたのか分からないの」 「これ……小説なのかな?」  あまりにも内容が目茶苦茶だ。亡くなる前に残した手記にしてはふざけている。夢だ夢だと繰り返しているが、それならこのデパートでレストランをやっているこの自分も夢の中の存在ということになってしまう。大の親友に対してこの書き方はないだろう。 「主人の字には違いないけど……主人て、文章なんかほとんど書かない人だったわ」  そうだよな、と私も頷いた。この手記の中で彼は編集者になりきっているようだが、そんな願望があったとも思えない。 「悪いけど、事故のせいで意識が乱れて出鱈目を書いたとしか思えないね。それに、なにがなんだか分からない言葉も出てくる。パソコンとかギリシアの宮殿て、どんなものなんだよ。聞いたことないぞ」  洋子も小さく頷いた。 「これだけ正確に温泉のことや駅のことを書いてるんだから変になったとも思えないけど、やっぱり目茶苦茶だ」 「でも──」  洋子は顔を上げて私を見詰めると、 「あの人、亡くなる直前に意識を取り戻したの。そのときに……」 「なにかあいつが?」 「来たんだ、と一言だけ嬉しそうに言ったわ」 「来たんだ……」 「私がベッドの側に居ることを言ったんだとずっと思っていたけど……」  洋子の目は手記に注がれていた。その頁には、覗き見する世界に憧れていたとて無意味だ、という一行が記されていた。  洋子の言っている意味が分かった。  私の腕に鳥肌が立った。  それはどんどんと広がっていった。 [#改ページ]    愛 の 記 憶      1  どうも昨夜は飲み過ぎたようだ。目覚まし時計に目を動かしたら頭にずきんと重い痛みが感じられた。布団の中で昨夜のことを思い出す。同僚の栄転を祝う送別会だった。そのあと何人かで別の店に行き、そこからまた誘われて……最後は曖昧となる。方角が一緒なので坂本とタクシーに乗った記憶は辛うじて残されているものの、真っ直ぐマンションに戻った気はしない。確か途中で腹が減って二人で下車したのではなかったか? 栄転して大阪の支店長になったのは嫌味な男だった。坂本がふと洩らした本音に私も頷き、気負いこんでタクシーを停めた気がする。それからたぶんどこかの居酒屋にでも入り、二人で気炎を上げたのだろう。若い坂本相手になにを話したかと思えば気が滅入る。酒で記憶が薄れるなどはじめてのことだ。なにも覚えていない、と口にする連中を「不様な言い訳だ」と馬鹿にしていたが、本当に記憶がすっぽりと抜け落ちている。頭痛を堪えながら必死で考えても無駄だった。店のイメージでも浮かべば思い出せるのだろうが、きっとどこにでもありそうな店だったに違いない。  諦めてのろのろと布団を離れた。鴨居に洋服はちゃんと吊り下げられていたが、靴下を穿いたまま寝ていたことに気付いた。苦笑したものの、それを教える相手は居ない。一人暮らしの寂しさを感じるのはこういうときだ。四十二にもなるんだから再婚しろと周りは勧める。秋子が死んで六年が経つ。だが食事や洗濯が楽になる程度の理由で再婚などしたくない。秋子とおなじように寂しい思いをさせるだけだ。中堅の広告代理店の仕事に日常はない。真夜中に戻る日が週に四度はある。出張もしばしばだ。二度とあんな思いを味わいたくはない。秋子も辛かっただろうが、私も似たようなものだった。いつも時計を気にしながらクライアントと飲んでいた。帰ってやりたいが抜けるわけにはいかなかった。こっそりと家のドアを開けるのが嫌でたまらなかった。日曜にもゴルフやイベントが入る。三十代の社員は現場に行かされることが一番多い。四年間の結婚生活で秋子のためだけに時間を割いてやったことなど、きっと何日もなかっただろう。秋子が毎日をどんな気持ちで暮らしていたかも分からない。子供ができなかったのも秋子には不幸だった。いや、子供の身になれば生まれないのが幸せというものかも知れない。母親は直ぐに死に、父親はこうして相変わらず仕事に追われている。  冷蔵庫からウーロン茶を取り出して大きなボトルごと口につけて飲む。十日前に蓋を開けたやつだが、ウーロン茶は腐らないものだろうか。妙に苦みを感じた。腹に冷たさがしみ渡る。下着だけなので寒い。目の前の食器棚のガラスに自分が映っている。髪はぼさぼさで目の下には隈くまができていた。酷いもんだよ、と思わず口にした。独り言を口にする癖ができた。ガラスに向かって、あっかんべーをした。笑いたくなるほど情けない顔だ。が、笑えなかった。しばらくそのままの顔を続ける。どこまで耐えられるか試した。不意に哀しくなった。振り切って今日の予定を考える。昼過ぎからお笑いタレントの事務所に行くことになっていたはずだ。二十歳やそこらの若い者に今日も機嫌取りをしなくてはならない。私よりも年下の人間が大阪の支店長だ。私は地方都市からの中途採用なので当然のことなのだが、この業界は成績次第でもある。私には結局向いていない仕事かも知れない。四十二にもなってそれに気付くのも馬鹿な話だ。そんなもろもろの思いが昨日の酒に出たということなのだろう。      2 「大丈夫でしたか」  喫茶店に誘った坂本は真っ先に切り出した。 「なにか言ったんなら最初に謝っておいた方がいいな。自分でも信じられないが、おまえさんと飲んだのをまったく覚えていない」 「まさか」 「本当だ。会社に来るまでずっと考え通しさ」 「マンションまで送ったことも?」 「そうか……申し訳ないことをした」 「あんまり辛そうだったんで。電話で泣き通しだったですもんね」 「泣いた? だれと話してだ」  驚いて頭が混乱した。そんな真夜中に電話で話す相手など私には居ない。 「奥さんだって言ってましたよ」 「女房? だれのだ?」 「課長の奥さんに決まっているでしょう」 「なにを言ってる。馬鹿なことを言うな」  心臓がどきどきしてきた。 「盛岡だからと言って、何度も百円玉に両替させられました。本当になにも?」 「盛岡……」  盛岡のことなど会社のだれにも話していない。秋子のことだってだれ一人知らない。話す必要もなかったし、だれも訊ねない。 「びっくりした。何度も奥さんの名前を呼んでは泣き出すんだから……」 「俺がか?」 「ええ。秋子さんとおっしゃるんでしょう」  ざわざわと背中に寒気が走った。坂本が嘘をついていないと確信できたからだ。  寂しさのあまりに、だれも居ない電話に向かって延々と話しかけていたのだろう。と思ったが、それでは百円玉が足りなくなるわけがない。また寒気が私を襲った。 「課長がうちの会社に入る前、どこでどうしていたかって、仲間うちでは結構話題になっていたんですよ。課長は秘密主義ですもんね」  なんにも知らずに坂本は苦笑していた。  盛岡の大手の広告代理店に勤務していたことや、妻を交通事故で失ったことは入社の際の履歴書にきちんと書いてある。別に秘密でもないのだが自分から口にしたくなかったのは確かだ。六年の間にそれを知らない人間が多くなったということに過ぎない。この業界は入れ替わりも激しい。 「向こうの声は聞こえたか?」  私はさり気なく坂本に質《ただ》した。 「ええ。両替を何回か運びましたから」 「女の声だったか?」  それに坂本ははっきりと頷いた。私にも秋子にも女の姉妹は居ない。そうか……もしかすると秋子の母親ではないのか。それなら秋子の名を私が口にして泣いたのも分かる。だが、直ぐに違うと悟った。秋子の実家の電話番号を私は知らない。手帳にも書いていない。坂本の話によれば私は躊躇なく電話のボタンを押したらしい。私は席を立つと水沢の私の実家に電話を入れた。通じた電話の母親の声はのんびりとしたものだった。水沢の実家でもなければ他に思い当たるところはなかった。 「どうしたんです?」  私の顔は青ざめていたに違いない。坂本もなにを話したらいいのか戸惑っていた。 「悪いが……午後の約束はおまえさん一人で頼む。頭痛で仕事になりそうもないよ」  私は伝票をつまんで先に立った。  マンションに戻り、夜までぼうっと過ごした。秋子のことだけが思い出される。秋子が好きだった音楽。秋子が愛していた絵。秋子の作ってくれたビーフシチューの味。秋子と一緒にでかけたシンガポール。秋子の痩せた体。短い髪。腿の裏側にあった幼い頃の小さな傷痕。はじめて二人で豪華な食事をした公会堂多賀の落ち着いたたたずまい。思い出すことはいくらでもあった。秋子の柔らかな笑いが目に浮かぶ。次々に秋子の、ある瞬間が浮かんでは消えていく。 〈俺は本当に好きだったんだ……〉  何度も涙が溢れた。秋子はきっと私のこの思いを知らずに死んだに違いない。真夜中に抱こうとする私を秋子は拒んだことさえあった。それを思うと辛くなる。  仕事で出掛けていた青森の市民会館に突然かかって来た警察からの電話。警察からと耳にして受話器を取るのが躊躇された。そして知らされた秋子の死。足元に突然深い穴が開いた気分だった。あのときの、歪んでいく市民会館の事務室の光景。驚いた目で私を見詰める女事務員の顔。自殺だと思った。すべての責任は私にある。だが事故だった。事故だって? なぜ秋子が三十一の若さで死ななければならない。青森から盛岡までの二時間の距離は永遠のように永かった。病院の死体安置室で秋子と対面するのが怖かった。なぜ秋子にとってあんなに大事な日に私は直ぐ側に居てやれなかったんだろう。私が秋子の傍らに立ったのは息を引き取ってから四時間も後のことだった。幸い秋子の顔はそんなに傷付けられてはいなかった。わずかにむくんでいた程度だったろうか。電柱に激しくぶつかったときにハンドルの軸が折れ、それが腹に突き刺さったのだと言う。現場にブレーキを踏んだ痕跡はない。急カーブの坂道だったので雨でスリップしたらしい。 〈自殺じゃなかったのか?〉  警察は事故と断定したが、私はこの六年間それをずっと疑い続けている。秋子の寂しさはこの私が一番承知していたのだ。承知していながら……私は知らないフリをしていた。言葉で謝っても仕方がない。私の仕事はどんどんきつくなっていく一方で、秋子になにもしてやることができないと諦めていたからだ。実行の伴わない言葉などになんの意味もない。それが男なのだと、馬鹿な話だが本気で思っていた。あんなに早く秋子が逝ってしまうと分かっていたら、毎日でも「愛している」と言い続けただろう。  私の目はさっきから電話に注がれている。  本当に私は秋子と話したのか?  泣きたくなってくる。酒のせいで私はなにも覚えていない。俺は結局こんなやつなんだよ。口にして私は泣いた。秋子と六年ぶりに話したと言うのに、なにも覚えていない。  私は受話器を手にした。  盛岡の番号をゆっくりと押す。  通じるはずがないことを知っている。  この番号はもはや抹消されたものだ。  呼び出し音がはっきりと聞こえた。  慌てて私は受話器を下ろして切った。心臓が破れそうになった。どういうことなのだ。もしかして今は別の人間がこの番号を使っているのか? そうだろう。それしか考えられない。心を落ち着かせて受話器を取る。確かめずにはいられなかった。  また呼び出し音が何度か続いた。 「あなたなの?」  電話に出たのは間違いなく秋子だった。  鳥肌が広がっていくのが分かる。 「きて欲しいの」  秋子は囁くように私へ言った。そして電話は無音となった。しんとしてなにも聞こえない。私はまた番号を押した。この番号は今使われていない、という女の声が何度も繰り返された。      3  私は六年ぶりに盛岡に戻った。秋子の骨は水沢の寺の墓に埋めてある。盛岡は仕事の関係で住んでいた場所でしかない。駅からタクシーを使って真っ直ぐ上田に向かった。盛岡の中心に近い住宅地で、私と秋子は商店街の裏通りにある小さな一軒家を借りて暮らしていた。古い建物なので今もあるかどうか不安だった。それに、他人が住んでいる可能性が高い。懐かしいダイマル模型店の前でタクシーを下りる。店の角から左折してもう少しはタクシーが入れるのだが、せいぜい二、三分に過ぎない。歩いて気持ちを鎮めたかった。  狭い路地をゆっくりと進む。  なに一つ変わっていない。たかが六年前だ。なにも不思議はない。だが、盛岡の駅前の光景はまったく違っていた。古い住宅地なので変化がないということなのだろう。路地の塀に貼られているホーローの看板もそのままになっている。大村崑の顔に子供がいたずらしたクギのひっかき痕も見覚えがある。この道を私は四年間歩いていた。 〈あった……〉  静かな路地に私は立ち止まった。少し先に懐かしい家が見える。だれも住んでいないようで二階の窓にカーテンはなかった。西陽がきついからカーテンなしでは住めない。黒い板塀もところどころ外れて狭い前庭が覗かれる。雑草がその隙間から道路にまで食《は》み出ていた。この様子だと私が東京に引っ越してから借り手が見付からなかったようだ。  路地にだれの姿もないのを幸いに私は家に近付くと門を潜った。  格子戸の扉に手をかける。  さすがに鍵がかけられていて開かない。  私は思わず溜め息を吐いた。  格子戸の隙間から中を覗き込む。  やはり空き家に間違いなかった。襖が開け放たれて奥の部屋が見える。埃の積もった畳にいくつかの靴跡があった。  私は前庭を回り込んで裏庭に足を運んだ。  裏庭はもっと荒れていた。家主が捨てたらしい錆びた冷蔵庫や風呂桶などが庭の半分を占めている。哀しかった。この庭にイスとテーブルを持ち出して秋子と二人で星を眺めながらビールを飲んだ記憶が甦った。あれはシンガポールから戻ったばかりの頃だったろうか。夕日を浴びながら飲んだビールの旨さが忘れられなかったのである。  庭の片隅に咲いたコスモスを秋子がスケッチしていた姿も思い出した。へたくそな絵だったが妙に花が生き生きとしていた。そのコスモスが咲いていた辺りに黒いゴミ袋が山積みされている。私たちの生活を否定された気がして辛くなる。ここに秋子が一緒に居るなら笑えたかも知れないが、今は辛い。 「驚いたな。おひさしぶり」  タカちゃんは私の顔をちゃんと覚えていてくれた。この焼き鳥の匂いも昔のままだ。家から歩いて五分の場所にある。秋子もこの店の手羽焼きが好きで何度も食べにきた。 「盛岡には仕事かなんかで?」 「まあね。タカちゃんの焼き鳥が懐かしくて寄ってみたんだ」  この店は早くから営業するので時間潰しのための理由もあった。夜中にもう一度あの家に入ってみるつもりでいる。 「五、六年ぶり? 今は東京なんだろ。会社のヤマちゃんなんかから聞いてた」 「変わらないな。あのビールのポスター、昔のまんまだ」 「会社の皆と待ち合わせ?」 「いや。来たのは教えていない」 「電話しようか。すっ飛んで来るぜ」 「いいよ。最終の新幹線で帰る」  私は嘘をついた。昔の同僚と飲むつもりで盛岡にやって来たのではない。 「結婚は? 再婚したんだろ」 「してない。こんな仕事じゃ女房が可哀相だからな」 「どうして? いい仕事じゃないの」  団扇の手を休めてタカちゃんは言った。 「家庭サービスもできないからね。秋子の気持ちを思うと今でも辛い」 「秋ちゃんの気持ち? なんでだよ」 「寂しい思いをさせていた。後悔してる」 「そりゃないよ。秋ちゃん、いつも楽しそうだった。お陰でこっちは女房に叱られ通しさ。あんな亭主になって欲しいって」 「まあ、この店に居るときはね」 「違うよ。こっちは客商売だ。人がどんな思いで飲んでいるかだいたい分かる。秋ちゃんは寂しがってなんか居なかったぜ」 「そうかな」 「そうだよ。浩二さんは真面目だから一人で気にしてただけさ。秋ちゃん、浩二さんが出張なんかのとき、しょっちゅう店に来てくれたよ。女房と気が合ってただろ。愚痴を聞かされたことは一度もない。帰りの遅いのは仕事なんだから仕方がない」 「そう秋子が言ってたのか?」 「様子で分かるさ……似合いの夫婦だった」  タカちゃんは秋子のことを思い出したようで、しんみりと付け足した。 「あの事故の前の日もさ……秋ちゃん来てくれたんだよな」  私はタカちゃんを見詰めた。その夜から私は青森に入っていたのである。 「なんだか凄く嬉しそうにしていた。女房が訊いても秘密って言うばかりでね」 「秋子が嬉しそうにしていたって?」  信じられない。自殺ではないかと私が咄嗟に感じたのは、あの日の出掛けに些細なことから口論となり、それが胸の裡にしこりとなって残っていたからだ。 「嘘じゃないよ。前の日のことだもの。はっきりと覚えてる。だから気の毒でさ」      4  なにが秋子を嬉しくさせていたのだろう。私にはまるで見当もつかない。他に好きな男でも居たのではないか、と一瞬考えたが、それをまさかタカちゃん夫婦に言うわけがない。むしろ不倫を疑っていたのは秋子の方だったはずだ。断じて私はやましいことをしていない。もちろん秋子は疑いをそのまま口にする女ではなかったけれど、その素振りはしばしば感じ取れた。訊かれてもいないことに弁明するのはおかしい。それで私も無視するしかなかったのだが、それがさらに私たちの会話を少なくさせる原因ともなっていた。 〈どうしろって言うんだ〉  あれは本当に秋子の声だったのか……それも自信がなくなっている。気持ちが高ぶっていたので秋子と思い込んだだけで、ただの間違い電話ではなかったのか? 他人のところへかけてしまったのかも知れない。相手も私をだれかと勘違いして返答をしたのだ。  いや、それなら電話を切ったあとにツーという音がする。無音になるのは変だ。  やはり行くしかないと決めて私はタカちゃんの店を出ると家に向かった。  夜の九時半。まだこんな時間なのに裏通りは真っ暗だった。古くからの住宅地なので若い連中はあまり住んでいない。  ひょっとして秋子が待っているのだろうか。  思い付いて私の足は止まった。  自分の妻なのに怖がるなんて情けない。  私は胸に言い聞かせて歩きはじめた。  闇の中に私の家の黒い輪郭が浮かんでいる。  あの二階が寝室だった。  玄関の灯りだけが点されている家を眺めて、いつも憂鬱な気分になったものだ。が、今夜はその玄関も闇に沈んでいる。  私は格子戸の前に立った。手探りでレターボックスを探る。鍵がそこに入れられてあったのをさっき確認している。鍵を手にして格子戸の鍵穴に差し込むと回した。四年も住んでいたので静かにやれる。格子戸を少し持ち上げて三十センチほど開ける。私はそっと家に入り込んだ。空き家でも泥棒と変わらない。  私は玄関で靴を脱いで上がった。  間取りがすっかり分かっているので暗闇でも平気だ。私は真っ直ぐ居間に入った。 「秋子……居るのか?」  わざと声にした。だが返事はなかった。  なにをしているんだろう、と急に後悔に襲われた。こんなことをするために私はわざわざ新幹線に乗って盛岡まで来たのか? 「呼んだのはおまえじゃないか」  また声にして畳に胡座をかいた。  闇に目が慣れていく。  裏庭に面したガラス窓から淡い夜の輝きが差し込んでいる。私は部屋を見渡した。白い壁にはカレンダーが吊り下げられていた。六年前のままだ。秋子が死んでから三月とこの家に居られなかった。酔って帰って寝るだけの家になっていた。 「こんちはー」  格子戸を開ける派手な音とともに元気な声が聞こえた。私は飛び上がった。 「はーい」  台所の方から廊下を踏む足音がする。  なにが起きたのか私には分からない。  目の前の玄関には明るい陽射しがある。私は荷物を抱えている若い男を見詰めた。はっきりと目が合ったはずなのに若い男は気付かぬ様子で廊下を見やっている。 「お届けに上がりました」  帽子を取って挨拶する。私の前に秋子が笑顔で現われた。秋子も私に気付いていない。 「あれ……参ったな。これ指定日配達でした」  若い男は荷物の送り状を見て舌を出した。 「いつになってるの?」 「三日後です。なんで間違ったのかな。どうします。あらためて配達しましょうか」 「うちの荷物なんでしょ。いいわよ」 「すみません。じゃあハンコを」  若い男はホッとした顔で謝った。  大きな荷物を抱えて秋子は居間に入って来た。私の側に座って開けはじめる。  その荷物の形で私にはなんであるか分かった。だが……秋子はこれを見ることがなく死んでしまったはずだった。 「うそー」  包みを開けた秋子は中から現われたリトグラフを見詰めて声を上げた。一年も前から欲しがっていたアメリカの人気作家の作品である。端正な顔立ちのアメリカン・ショートヘアを描いたもので、その絵ハガキを額に入れてタンスの上に飾ってある。そのオリジナルで十倍も大きい。私の給料の二倍近い値段だったが、仙台の画廊にあると知って秋子の誕生日に合わせて注文したのだ。この何年かの詫びのつもりだった。驚かせようと思って秋子には内緒で当日指定にしたのだが…… 「どうして……」  秋子は慌てて配達指定の日付を確かめた。自分の誕生日と気付いて秋子はぼろぼろと涙を流した。私からのプレゼントだと分かったらしい。私も嬉しかった。 「ごめんなさい……私のこといつも見ていてくれたんだ……ごめんなさい」  秋子は額を抱き締めて頬ずりした。  そうだった、と私は思い出した。  こんなに自分が思っているのに、それが秋子にはなかなか伝わらない。だからあの日、かっとなって口論したのだった。  しばらく額をタンスに立て掛けて眺めていた秋子は、ふたたび丁寧に包装をはじめた。  終えると秋子は電話をかけた。 「あの……配達日指定で届けて貰いたい荷物があるんですけど」  そういうことだったのか、と私は頷いた。  この絵は秋子が死んだ二日後に私の家に届けられたのである。まさか秋子が頼んだものだとは思わず、開ける気力もなかった。六年後の今もそのまま私のマンションの押し入れの中にしまい込まれている。  秋子は私の気持ちを大事にしてくれたのだ。  知らないフリをして誕生日に大喜びして見せるつもりだったに違いない。  タカちゃんの店で嬉しそうにしていたのは私のプレゼントのせいだったのである。  私は輝いた顔で電話をしている秋子の横顔を幸福な思いで眺めた。  秋子の姿が白く霞んで闇に溶け込んで行く。  秋子はこのことを私に伝えたかったのだ。  自殺などではなかった。  少なくともあの日、秋子は弾んだ気持ちで私の帰りを待っていたに違いない。その二日後には私のプレゼントが届く。 〈寂しいときもあったけど、幸せだった〉  秋子の穏やかな声が私に伝わった。  東京に戻った私は押し入れを探した。絵は直ぐに出てきた。私は貼付されている配達票を見詰めた。秋子の書いた文字に間違いない。あの家での出来事が幻でなかったのを私は知った。私は包装を開いた。美しい猫の絵が現われた。画家の飼い猫だったのだろう。タイトルは『愛の記憶』となっていた。  私はソファに立て掛けて飽かず眺めた。  私もこの絵のタイトルと同様にこれからは愛した記憶を大事にしていくことができる。秋子の記憶が今は重荷でなくなっていた。  私は受話器を取ってボタンを押した。  呼び出し音が三回ほど鳴って、向こうと繋がった。 「ありがとう」  私は無言でいる秋子に言った。 「この絵をおまえに届けてやるよ」 「うん」  秋子は泣いているようだった。  電話に静寂が戻る。  私は受話器を置いて額を手にした。裏の板を外して絵だけを抜き取ると部屋を出た。マンションの向かいに公園がある。そこでこの絵を燃やしてやるつもりだった。  絵は煙となって空に上り、必ず秋子のところへ運ばれて行くに違いない。 [#改ページ]    嘘 の 記 憶      1  立花の出版記念パーティには、地方の名士のことだけあって二百人近い客が集まっていたが、その目は壇上の上手に腰掛けている立花当人より、発起人として名を連ねている下手の私の方に向けられていた。カメラのレンズも大半が私を捕えている。今夜の主役は立花なので申し訳ない気がする。早く発起人の挨拶を済ませて壇から下りたい気分だった。  出版記念と言っても、立花が自費出版した本は日頃彼が関わっている老人介護などの苦労話を綴った、多分に政治的野心の感じられるもので、あまり感心できる内容ではなかった。同人雑誌の仲間として立花と付き合っていたのは確かだが、二十年以上も昔のことで、私が東京へ出てからはすっかり疎遠となっている。それなのに発起人を引き受けたのは、この会に昔の仲間が大勢駆け付けると聞かされたからである。もう一度会いたいと思っていた仲間が札幌にはたくさん居る。  番が回って来たので私は立花が同人雑誌でいかに光り輝いていた存在であったかをアピールして大いなる喝采を浴びた。今の立花のことはほとんど知らないから昔の思い出を語るしかない。それでも立花は喜んで、わざわざ椅子から立ち上がると握手を求めに来た。カメラのフラッシュが一斉に光った。  私はなんとか役目を果たした思いで壇を下りると、仲間が揃っているテーブルに向かった。着飾った女たちや、いかにも金持ちといった雰囲気を漂わせている人間たちの多い他のテーブルと違って、なんとなく地味な印象を受けるのは照明の暗さばかりではない。教師をやりながら詩を書き続けている千葉、印刷会社に勤めてアマチュア演劇の脚本を手掛けている斎藤、小さな古本屋を営んでいる嵯峨、喫茶店の主人におさまった小野寺、建設の業界新聞の記者となっている井上。経営者の目立つこのパーティではいかにも場違いな感じがする。他のテーブルでは互いに挨拶を盛んに繰り広げているのに、ここへはだれも近付いて来ない。スーパーの経営者として成功した立花が彼らに招待状を出したのが不思議に感じられるほどだった。かつて文学をやっていた、と世間に知らしめたいのかも知れない。  しかし、そんな立花の思惑など私にはどうでもよかった。こんな機会でもなければ滅多に会えない仲間たちなのだ。 「ここは適当にして小野寺の店に行こうぜ。今夜はひさしぶりに騒ごう」  嵯峨が私にグラスを合わせた。 「立花が二次会の席を設けてるそうだ」 「あいつはあんたの名前を利用する気だよ」  井上が鼻で笑って言った。 「出る気はなかったが、あんたが来ると聞いて皆で押し掛けたんだ。あんたは知らないだろうが、あいつの評判は悪い。今度の市議選を狙って売名行為ばっかりだ。あいつとしては流行作家であるあんたの後押しが欲しいのさ。推薦文でも頼む気に違いない」 「流行作家なんかじゃないよ」  私は苦笑した。筆だけで食べていかれるという程度の存在でしかない。事実はそうなのだが、札幌のような地方都市だと作家は特別な職業と思われているらしい。 「どうも、どうも」  カメラマンを引き連れて立花が現われた。  私に手を差し出して握る。嵯峨たちはテーブルから離れて遠巻きにした。立花は皆を呼び寄せて肩を組ませた。仕方なく皆も笑顔でカメラを見詰める。 「懐かしいよな。昔を思い出すよ」  立花は上機嫌だった。十以上は歳の差のありそうな美しい妻を皆に紹介する。皆が初対面らしいということは、立花はずっと仲間たちと付き合いがなかったのを示している。おなじ札幌に暮らしていたのだ。私はなんだか不愉快になった。今思えば宮沢賢治の模倣に近かったが、それでも夢のあるファンタジーを書いていた男だった。その名残はどこにも見られない。その記憶が私にあったからこそ発起人を二つ返事で引き受けたのだ。二十年という歳月は人を変える。 「二次会のことだけどな」  私は立花に言った。 「悪いけど小野寺の店に行くことになった。知らない人間だけの二次会は気が重い」 「そりゃねえだろ」  立花は慌てた。 「皆、楽しみにしてるんだ。老人ホームなんかからも色紙を一杯頼まれてるし……ちょっとでいいから顔を出してくれ」 「色紙は後で書く。明日はどうせ夕方までこっちに居るつもりだ。ホテルに電話をくれ」  私ははっきりと断わった。      2  小野寺の店では盛り上がった。だれもまだ夢を捨て切ってはいない。 「あんたの名前を新聞で見掛けたときはさ、今だから正直に言うけど、ショックで死にそうになった。純文学の賞じゃなかったんでなんとか耐えられた。これは俺の目指してる道と違うってね。そうやって自分の気持ちを鎮めた。次に心配したのは女房の反応だ。女房にすりゃどんな賞も関係ない。あんたが昔の仲間だったことを打ち明けるべきか悩んだよ」  井上の告白にだれもが爆笑した。そして、だれもがおなじ思いだったと白状した。それは私にも分かる。もし彼らとおなじ立場に居たら、物書きとなった仲間を妬んだだろう。それが夢だったのだから当然のことだ。同人雑誌の仲間は、仲間であると同時に一番身近な競争相手でもある。彼らをまず乗り越えない限り世の中には出ていけない。 「あの当時の同人雑誌をときどき読み返すんだ。結構、皆、いい線いってる」  斎藤がそう言ってバッグから何冊か取り出した。私も大事に保存している。 「なんでこいつに負けたんだと思ってるんだろ?」  嵯峨が斎藤をからかった。皆も笑う。私も笑うしかなかった。私も心底そう思う。二十三、四までの私の小説はひどいものだった。妄想を幻想と取り違え、詰まらぬ日常描写をリアリティと勘違いし、身勝手を個性と思い込んでいた。合評会でも散々な酷評だった。自分でもよく諦めずに小説を書き続けられたものだと思う。もし同人に高島佐江子が居なければ小説など捨てていたに違いない。あの傲慢で自信家の女が私を反対に鍛えたのだ。今でも合評会での佐江子の冷酷な指摘を思い出すと身が縮みそうになる。いつも見事に私の小説の欠点を衝いてきた。見るに耐えられるのは太字の万年筆で書いた文字ばかりで、原稿用紙の無駄遣いだと罵倒されたこともある。いつかあの女を見返してやる、そういう怒りに燃えながら机に向かっていた。小説を諦めることは佐江子に負けたことになる。それは絶対に許されないことだった。 〈もっとも……それだって〉  片方に柏原玲子という存在がなければどうなっていたか分からない。玲子はその当時の私にとって唯一の読者だった。同人雑誌に作品を発表するたびに、こと細かく読んでくれて嬉しい感想文を送ってくれた。その手紙にどれだけ励まされたことだろう。佐江子への怒りも玲子の便りで薄らいだ。もし玲子が生きていたら私の今をどんなに喜んでくれたか。頑張ればどうにかなるかも知れない、と勇気を与えてくれたのも彼女の手紙だった。 「高島佐江子はどうしてる?」  少し意地悪な気持ちで私は皆に訊ねた。もしかして今日のパーティに顔を見せるのではないかと期待していたのも確かだ。 「元気だよ。市の教育委員会だったか?」  小野寺が井上に確かめた。 「ああ、うるさいオバサンになってる。ずっと国語の教師をやっててな……口うるささを見込まれて教育委員会に引っ張られた。堅いシンポジウムなんかの纏《まと》め役をやってる」 「よく会うのか?」 「テレビのニュースなんかで顔を見る程度さ。名物女だよ。ウーマンパワーの生き残りだ」  皆も承知らしくげらげら笑った。 「この店のオープンのときも一応案内状を出したんだが、一度も現われない」  小野寺は参ったという顔をして、 「なにしろ俺たちの同人雑誌にゃ未来が感じられないと啖呵を切って飛び出た女だからな。仲間って気持ちもないんだろう。その未来がない雑誌からあんたが生まれた。どうだ、と胸倉掴んで言ってやりたいね」 「気にするやつじゃねえさ。釈迦に説法」  井上は言い放った。 「だいぶ嫌われているんだな」  傲慢さに辟易していても佐江子には間違いなく才能があった。彼女は同人雑誌のマドンナだったはずである。 「昔のまんまだぜ。相変わらず突っ張っている。四十五なんだ。いい加減大人になって貰いたいのさ。見ていて辛くなる。結婚しねえのも男の下につきたくねえからだろう」 「フラれた恨みが込められてるんだよ」  嵯峨がにやにやとして私に教えた。 「フラれたのは井上ばかりじゃない。後で分かった、ここに居るたいていが一度は口説いている。あんたはどうだった?」 「俺はそもそも嫌われていたからな」  言いながら、本当は佐江子が好きだったことを私は思い出していた。好きだったゆえに酷評があれほど堪えたのだ。嫌いな女にならなにを言われても無視できる。 「それこそ、先月辺りのタウン誌に出てたんじゃなかったっけ?」  斎藤が席を立って本や雑誌の置かれている棚に向かった。ノーマン・メイラーやヘンリー・ミラーの選集が店の看板のように並べられている。斎藤は棚の雑誌をいくつか手に取って探した。 「これこれ。こうして見ると女って化物だな」  斎藤がその頁を開いたまま私に渡した。  本当に変わりがない。あれから二十年が経っている。もちろん少女のままのわけはないが、受ける印象は一緒だ。厳しい目がカメラを睨んでいる。私はインタビュー記事にざっと目を通した。今の子供たちがいかにゲームやマンガに毒されているかを力説して嘆いている。井上たちには突っ張っているように感じられるだろうが、男勝りの女性作家や辛口の女性エッセイストを何人も知っている私にすれば彼女らと同様に清々しい正論に思えた。 〈ん?……〉  末尾に今の子供たちにぜひ読んで貰いたい三冊の本が紹介されている。その中の一冊にマルシャークの「森は生きている」が含まれていたのだ。彼女が写っているグラビアのテーブルの上にその三冊も重ねられていて、眺めた感じでは函入りの大型本らしい。私の胸は急に騒いだ。この函入り本が刊行されていたのは私が札幌に暮らしていた時代のことだ。それから間もなく小型の普及版が出て今に至っている。私は何度もこの本を買っては人にプレゼントしていたのでよく承知している。  有名なファンタジー作品なので佐江子が子供に薦めるのは不思議でもないが、当時に彼女がこれを読んでいたとしたら合評会のときにそういう話になりそうなものだ。私はマルシャークやH・G・ウェルズのような小説を書きたいといつも口にしていたのである。それを子供臭いと言って一蹴したのは佐江子ではなかったか? なんとなく割り切れない。記事に目を戻すと、さらに奇妙なことを佐江子は言っている。好きだった人からプレゼントされた本なので今も大切にしているそうだ。あの当時の佐江子の環境を詳しく知っているわけではないけれど、私以外にあの本をプレゼントする男が佐江子の周辺に居たとは思えない。二十歳を過ぎた男が読む本ではないのだ。名作ではあっても、当時話題になっていたベストセラーと違う。これがサン・テグジュペリの「星の王子さま」ならまだ分かる。 〈俺じゃないよな……〉  必死で記憶を探った。もしかすると酷評のはじまらない、出会った直後にプレゼントした可能性はどうだろう? そんなはずがない、と内心で苦笑した。佐江子は「好きだった人から貰った」と言っている。それならあのように私を罵倒するわけがなかろう。 「どうしたんだ?」  嵯峨がいつまでも佐江子の頁から目を離さない私を訝し気に見やった。      3  目覚めても興奮は続いていた。夜遅くホテルに戻り、寝付くまでにあれこれと佐江子のことを考えていた。そして思い付いたことがある。その仮説がどうやら当たっていそうな気がする。しかし、それをどうやって確かめればいい? たばこを何本もふかしてぼんやりとしていると立花から電話が入った。 「すまんな。小野寺の店に行こうと思ってたんだが、あちこち引き回されちまって……俺のパーティだったから断わることもできん」 「いいさ。こっちもひさしぶりで面白かった。札幌まで出て来た甲斐があったよ」 「昼飯でもごちそうさせてくれ。発起人になって貰った礼もしなくちゃならん」 「高島佐江子には案内を出さなかったのか」 「なんだよ突然」 「昨夜その話になった。せっかくの機会だから会ってみたかったと思ってね」 「出したよ。欠席の返事が戻った」  気まずそうな返答で私は察した。俗物と成り果てた立花の出版記念パーティに出る気などなかったのだろう。 「仲間のだれとも付き合いがないんだってな」 「彼女の気持ちはよく知らんが、俺もあいつらとあまり付き合う気がしない。雑誌の広告を頼まれて少しの金を払うだけだ」 「雑誌?」 「聞かなかったか? 年に一、二度発行してる。あんたが物書きになったんで刺激を受けたんだろう。もう十年も続いている」 「送って貰ったことはないな」 「あいつらにもそれなりのプライドがあるってことかね。堅くて、古くて、意固地で、なんとも気の滅入る雑誌だ。いまさらジェームス・ジョイス論でもねえだろう。今もそうやってわいわい騒いでいるらしい」  確かにその鬱陶しさは私も感じた。だが、それを否定するのは自分の青春を否定することにも繋がる。 「あんたは立派だよ。貫いたんだ。けどあいつらは終わった夢にしがみついてるだけだ。あんたが会いたそうだったんで案内状を出したものの、ちょいと重荷だった」 「終わった夢とは言い切れないだろう」 「終わったさ。井上の小説なんて、中年男の愚痴でしかない。千葉の詩は五十近いこの俺が読んでも意味が理解できん。そんなものになんの価値がある? 言葉遊びをしているだけのことだ」 「結構読んではいるんだな」 「そりゃスポンサーの一人だからね。確かにこっちも義理で付き合ってるだけだが、連中は陰で俺の悪口を言ってる。やり切れんよ」  私は言葉に詰まった。昨夜もあれから何度立花の悪口を聞かされたことか。今の話を知っていたなら私も簡単には頷かなかったはずである。佐江子のこともあって私にはなにが真実なのか分からなくなりかけた。 「来たついでに高島佐江子に会いたい」 「なんでだ?」 「滅多にこっちへ来れないからさ。タウン誌の記事も見た。昔と変わってないな」  あははは、と立花は笑って、 「あんなに毛嫌いしてたあんたがね。だったらあんたが電話すりゃいいよ。札幌を留守にさえしてなきゃ喜んで会うと思うぜ」  彼女の勤務先を詳しく教えた。 「昼飯の席には来ないかな?」 「俺が一緒だと嫌がるに決まってる」  私も了解した。二人きりの方がいろいろと話をしやすい。そういう問題である。      4  当時の面影が残されている喫茶店で佐江子と待ち合わせをした。この店では合評会をした記憶もある。懐かしい気持ちでコーヒーを味わっていると佐江子が姿を見せた。私は笑顔で小さく手を振った。佐江子は少し戸惑いを見せながら私の目の前に座った。 「変わらないね。昔に戻った気分になる」 「パーティは賑やかだったみたいね」 「皆が君の来ないのを残念がっていた」 「嘘ばっかり。どうせ悪口でしょ」  佐江子は冷たく笑った。 「タウン誌の記事も読んだ」  必ず動揺すると思ったのに佐江子は平然としている。どうも勝手が違う。 「小説の方はもう?」 「やめたわ。自費出版で何冊か出したけど、どうにもならなかった。教師の仕事がそんなに半端なものじゃないのも分かったし」 「惜しいな。俺たちは君が真っ先に世の中に認められると信じていた」 「男と対等にセックスのことや学生運動のことを書いていたからでしょ。珍しかっただけよ。それに女は早熟ですものね」  佐江子は自嘲気味に笑った。 「君に負けたくなくて踏ん張っていた。君が仲間じゃなかったら今も書いていたかどうか」 「それは光栄だわ。だったら私も少しは気が晴れる」 「気が晴れる?」 「私が小説を諦めた理由はあなたにあるの。悪いけど私はあなたの小説が理解できなかった。あなたのお家ってお金持ちだったでしょ」  私は曖昧に頷いた。 「同人雑誌の費用の半分はあなた持ちだった。私は途中から参加したのでその事情が分からなかった。なんであなたの書く小説を皆が褒めるのか分からなかったの」 「………」 「皆がおべんちゃらを言っているだけだと気付いたら無性に腹が立って……小説の世界はそんな甘いものじゃない。あなたも鈍感で、合評会なんかで褒められると得々としていた。ぶちのめしてやろうと思ったのよ。遊びのつもりで小説に取り組んで貰いたくない。だからいつもあなたの小説の粗《あら》だけを探していたわ。皆は慌てていたけど、それもいい気味だった。でも……結局、あなたは作家になった。眩しい才能に思えた立花君はあの通りだし、井上君も今は食べるためだけの記事を書いている。正直言うとあなたが作家になれたのはなにかの間違いだと思ったのよ。札幌を出て何年もあなたの作品を見ることがなかった。受賞作を読んで信じられなかったわ。文章は格段に上手くなったけど、テーマはあの時代の延長でしょ? それでますます落ち込んだの。才能を見抜けなかったということね。そんな私にもう小説なんて書けるはずがない」 「得々としてたわけじゃない」  私は打ち明けた。 「皆が俺の小説を認めてないのは分かっていたさ。大人のつもりで対応してたんだ。俺にとって費用の半分を持つのはさほどの負担じゃなかった。おふくろにちょいと頭を下げれば済むことだった。立花なんかが新聞配達までして工面しているのを知っていた。金は、あるやつが払えばいい。けど、それを恩着せがましくする気もなかった。俺にとっては大事な仲間だったんだ。だからなんにも知らないフリで押し通した」 「あなたが一番大人だったということか」  佐江子はくすくすと笑って、 「やっぱり小説を諦めて正解だったわね。身近な人間の心さえ見抜けないんじゃ失格よ」  さっぱりとした顔に戻した。 「マルシャークの本だけど」  もう一度私は蒸し返した。 「だれから貰ったものなんだい?」  私は真正面から佐江子を見詰めた。 「言いたくないわ」 「もしかして俺からじゃないのか?」  佐江子はきょとんとした。 「あなたなら、あなたが一番に分かっていることじゃないの?」  佐江子は口にしてから笑った。 「やっぱり変な人。昔から変だったわ」 「本当に俺じゃないんだね」 「あなただったらどうなるの?」 「いや……違うみたいだ」  私は確信した。佐江子の様子で分かる。 「俺の自惚れだったということさ」 「ちっとも分からない」 「分からなくて当たり前だよ。あの頃の俺たちって互いに嘘を重ねていたってことだろ。書いていた小説の中の方がむしろ現実だ。立花は動物が主人公の幻想譚に熱中していたし、君は処女なのに娼婦の話や不倫の恋ばかり書き続けていた」 「どうして処女だなんて断言できて?」 「そうやって訊き返すのが証拠だ。普通はにこにこと聞き流す」  ふっ、と佐江子は噴き出した。 「俺は推理小説を書いてる。せっかくだから推理する楽しみを与えてくれ」 「怖いわね」 「一つだけ答えてくれればいい。あの『森は生きている』を君にプレゼントしたやつは俺たちの仲間の一人なんだろ」 「………」 「返事のないのが返事ってこともある」  佐江子は困った顔で認めた。 「そういうことだったのか」 「そういうこと」 「なんで一緒にならなかった?」 「私が小説を諦められなかったのね。今は少し後悔してる」  佐江子は観念した口調で言った。 「でも、どうしてそのことを?」  不思議そうに佐江子は質《ただ》した。 「だって、あの本は俺がプレゼントしたやつなんだぜ」 「あの人に?」 「正確に言うなら、あいつとは思わずにプレゼントした本だ。それを君に横流しするなんてひでえやつさ」 「ホント。私も喜んで損をした」  私と佐江子は笑い合った。      5  脇に喫茶コーナーがあるのに、ホテルのロビーで立花は待っていた。食事の前にコーヒーを飲むのは金の無駄遣いらしい。無理に私は喫茶コーナーの方へ誘った。 「どんな様子だった?」 「気になるなら来ればよかったのに」 「………」 「彼女にマルシャークの本をプレゼントしたのはおまえだろ」 「彼女が言ったのか?」 「直ぐに見当がついたよ。最初は別の筋道を立てていたが、どうやら違うと分かった。本当に俺たちの仲間のだれかがプレゼントしたんだとしたらおまえしかいない。小野寺や嵯峨たちは彼女を口説いてフラれたことを互いに白状し合っている。それなら、この本を贈ったのは自分だと自慢するさ。インタビューの中で彼女は好きだった男から貰ったと告白しているんだからな。当時の仲間であのグループと密接じゃないのはおまえ一人だ。子供にだって分かる推理じゃないか」 「参ったね、そんなに簡単にバレたか」 「そういう過去があったからパーティに出席しなかったんだろ。おまえが夢を捨てたからじゃない。彼女だってそれは一緒だ」  立花は大きく頷いた。 「俺にとっちゃ大ショックだよ。とっくに死んだと思って諦めていた柏原玲子が健在で、しかもその正体がスーパーの親父だったなんてな」  立花は噎《む》せ込んだ。 「死に値する罪とは思わんか? 俺は柏原玲子に憧れて、せっせと返事を出してたんだぞ」 「いや……あれは」 「隠したって無駄だ。あの本は柏原玲子にプレゼントしたやつだ。お陰で今日は大恥を掻くところだった」 「どういうことだよ」 「てっきり高島佐江子が一人二役を演じていたと思い込んだのさ。本当は俺のことを死ぬほど好きなくせして、あの通り勝ち気な性格だからそいつを告白できない。むしろ気持ちを見透かされるのが怖くて、わざと俺に辛く当たった。そこで柏原玲子という架空の女になりすまし、本心を打ち明ける。そっちの手紙では俺の小説の面白さを存分に賞賛することができる。しかし、どんなに思いが通じても会うことは許されない。会えば佐江子だと発覚する。彼女はジレンマに苦しんだ。あの本をプレゼントされ、俺の愛を確信してますます煩悶した。この愛の思い出だけを頼りに彼女は身を引こうと決めた。ぷっつりと柏原玲子の手紙は途絶え、やがて俺は玲子の兄と名乗る男からの手紙を受け取った。あっさりと病気で亡くなったという手紙をさ。思えば佐江子が同人から脱けたのもその頃だった。なるほど、佐江子は俺が好きだったのかと昨夜は少し嬉しくなったぜ。この仮説に間違いはないと思った。俺がプレゼントした本を佐江子が大事に持っている。それが証拠だ。あの悪口は愛の裏返しだったと分かってまんざらでもなかった。なのに大外れもいいとこだ。それどころか憧れの柏原玲子がおまえだったなんて……まったく呆れて口が塞がらん。いったいなんのつもりであんないたずらを」 「もう大昔の話じゃないか。忘れてくれ」  立花はぼりぼりと頭を掻いて謝った。 「おまえは軽いいたずらのつもりでも、こっちには柏原玲子の名が刻まれた」 「おまえは本当に面白い小説を書いてたよ」 「なんのことだ?」 「けど合評会の席でそれを言ったって、おまえは喜んだフリして聞き流すだけだ。第三者の感想じゃないと信じなかった。俺もあんまり褒めれば持ち上げてるように取られやしないかと気になった。おまえのお陰で雑誌が続いていたのは確かなんだからな。たった一回のつもりで架空の女を作り上げた。あの雑誌の中で一番面白かったのはおまえの小説だったと、それだけを正直に伝えたかった」 「それがずるずると続いたわけか」 「さすがにプレゼントが届いたときはヤバイと思ったぜ。死なせるしかないと思った」 「ひでえやつだ」 「しかし、簡単に信じる方もおかしい」 「しつこくして嫌われたのかも知れないと考えたんだよ。裏を読むのは合評会で慣れている。だから死んだと信じ込むようにした」  立花を怒る気持ちは最初からない。たとえ嘘でも、あの柏原玲子の手紙がどれほどその後の支えになったか分からない。拙《つたな》いながらも私の書きたかったことを玲子は的確に見抜いていた。私は玲子のように読んでくれる読者をいつも夢想して今でも仕事をしている。 「おまえ、なんで小説を諦めた?」  あんなことを思い付くならミステリーも書ける。 「井上たちと無駄に時間を過ごしているのがバカバカしくなっただけだよ。女房にパートまでさせて取り組むほどのもんかと思ってね。井上の女房は結局出ていっちまった。自分がその原因のくせに、小説の中じゃ悲劇の主人公におさまってる。井上たちはそれでも満足してるらしいが、俺は女房や子供に少しでも楽な暮らしをさせてやりたい。第一、小説は読んでいる方が面白い」 「それだけは正解だ」  三日後に迫っている締切りが頭をよぎった。東京に戻れば徹夜を覚悟しないといけない。 [#改ページ]    炎 の 記 憶      1 「君もこいつを使っていたんだっけ?」  録音の打ち合わせを終えて一緒に制作会社の入っているビルの喫茶室に落ち着いた私は、ホッとした顔でたばこを喫いつけた矢川の手元に置かれたジッポーに腕を伸ばした。 「先生の影響ですよ。それ、親父の形見です。この前、お盆で帰ったときに捜し出して持って来ました。安物でしょうけどね」  私は頷いてジッポーを手にした。真っ先に底のボトムマークを確かめる。古いジッポーのロゴマークの両側に短い縦線の刻みがいくつか並んでいる。丸ポチでもなければ斜めの線でもないから時代は限られる。確か六〇年代の後半から七〇年代の中頃まで用いられていたものだ。それでいて状態がいいのは大事に使われていた証拠だ。ジッポー社の定番となっている製品でスポーツシリーズの一つだ。さまざまなスポーツの絵柄が刻まれている。これはハンティングを描いたもので、色も鮮やかに残っていた。このタイプの古いものはたいてい色が剥げ落ち、メッキも取れて黄色い真鍮が顔を覗かせている。 「そんなに古いやつですか」  矢川は私の説明に喜んだ。  私は蓋を開けて風防の中を覗いた。汚れてはいるものの新しい煤だった。 「親父さんが嘆くぜ。掃除してないんだろ」 「掃除なんてするもんなんですか?」 「当たり前だ。蓋の内側は錆が浮いてるだけであんまり汚れていない。ってことは親父さんがずっと大事に掃除していたに違いない。せっかくの形見なんだ。親父さんがこいつを見ればがっかりする」 「汚くなったらスーパー辺りで安物のやつを買って中身だけ取り替えればいいんだと教えられましたけど」 「それでもいいが、インサイドユニットも当時のものだ。勿体ないよ。綺麗に掃除すれば新品同様になる。親父さんもそうやって何年も使ったはずだ」 「どうやって掃除すればいいんです。狭いんで楊子ぐらいしか入らない。だれのジッポーを見たって中は真っ黒じゃないですか」 「どうせ売る気はないだろうが、中身を新品のものに取り替えれば価値が半減する。コレクターはケースとインサイドユニットがオリジナルじゃないと極端に嫌う。こいつはきっと状態がいいから四、五万はするだろう。中身が新品に取り替えられれば二万に下がる」 「この汚いやつが三万ということですか」  矢川はびっくりした。 「ケースよりインサイドユニットの方が数が少なくなっている。君みたいに中身だけを取り替えて捨てる人間が多いからさ」 「コレクター心理ってやつは分かりませんね。綺麗な方が気持ちいい」  私からジッポーを取り返して矢川はつくづくと眺めた。 「綿棒の綿の部分にジッポーのオイルを染み込ませて拭けば煤は綺麗に取れる。芯もそうやって掃除すると見違えるように炎が安定する。あんまり芯が減っていたら毛抜きかなにかで引きだして、風防から食《は》み出した部分を爪切りかハサミで切り落とせばいい。掃除に五分とかからないよ。蓋の内側もおなじように拭けば錆が取れる。一度やりはじめれば癖になって三日に一度ぐらいは掃除しないと落ち着かなくなるけどな」  私は自分のジッポーを取り出して矢川に見せた。チタンメッキのフラットトップタイプで普通のジッポーより格好がいい。常用に私は五個のジッポーを使っているのだが、今日のような打ち合わせで背広を着なければならないときはこれだ。チタンの黒ずんだ色が会議には合う。ちなみに自宅で作曲の仕事をしながら使うのは大振りのずしりと重い初期のレプリカの銀メッキ。たまに散歩に出掛けるときは鏡面仕上げに幸福を招くと言われる青いトルコ石を嵌め込んだものをポケットに突っ込む。銀無垢のスリムタイプはパーティ用。なんの飾りもないクロームメッキだけのジッポーは長い旅行などの際のオイルタンク代わりとしているが滅多に使わない。 「本当に綺麗ですね」  矢川は蓋を開けて感心した。 「一年は使っているぞ。芯も掃除していれば長持ちする。煤が溜まるから芯そのものが燃えるのさ。ガスライターは複雑で修理などできないが、ジッポーは全部分解できる。その気になれば百年でもおなじ状態を保てるそうだ。もっとも、ジッポーの歴史はまだ六十五年だから本当かどうかは知らん」  矢川はくすくす笑った。 「しかし一九三三年に作られたジッポーが現役なのも確かだ。ジッポーにコレクターが多いのはデザインの豊富さにあるんじゃない。古い物をいまだに使えるところに凄さがある。ぼろぼろのやつを掘り出してきて綺麗に掃除して、美しい炎が立ち上がったときの快感は格別だよ。死んだ人間を蘇らせた気分とでも言うか……これは蒐《あつ》めている人間にしか分からんだろうな」 「どれだけ持っているんです?」 「偉そうなことを言った割りに俺がジッポーに目覚めたのは最近だからな。まだ三百やそこらだ。一年半じゃ素人同然さ。世間には二千や三千コレクションしてる連中がいくらも居る。たまに交換会に出ると圧倒される」 「三百とは凄い。見たいですね」 「古いやつはあんまりないぞ。真鍮の浮き出たやつはまだ買う気にならん。年代が古ければよしとするコレクターも多いが、俺は新作中心でさ。わずかにこだわっているのは生まれ年の一九五一年物だけだ。そこがコレクター仲間から馬鹿にされているところでね。ぴかぴかの新品ばかり捜してるもんだから成金趣味と言われている」 「そんなことはないでしょう」  矢川は自分のジッポーをカキンと鳴らした。 「使いはじめたらジッポーの面白みが分かってきましたよ。このオイルの匂いもいい。昔追いかけたバスの排気ガスと似ている」 「音も全部違うんだ」 「音ですか?」 「特に蓋を閉じたときの音がな」  私は矢川のものと私のものを交互に鳴らした。矢川も大きく頷いた。歴然としている。文字にすればガシャッとバシャッ。メッキの材質とか厚みが関係している。大振りで銀メッキの厚いレプリカはガッという短い音を立てて閉まる。これに気付いていろいろなものを試したが本当にすべて違っていた。それでも同種類のものは基本的にそっくりな音を出す。コレクターは多いが、この音にこだわっている者とまだ会ったことはない。私は作曲を仕事としているので音が気になるのだろう。蓋を撥ね上げたときのチンという音だって閉じるときほどではないが差がある。常用している五種類程度なら目を瞑《つむ》っていても言い当てる自信は私にあった。だからと言って、なんの役に立つものでもないのだが。      2  矢川と話したことで新宿の店に立ち寄りたくなった。歌舞伎町近くにあるアンティークの時計とライターの専門店で、私のジッポー熱もここからはじまった。ハミルトンの古い腕時計を捜している大学時代の友人が居て、新宿での飲み会の前にそいつにくっついて店を訪ねたのが最初である。狭い店一杯に並べられているジッポーに圧倒された。二千種くらいは展示してある。忘れていたライターへの情熱が一挙に再燃した。百円ライターが普及して以来、ダンヒルやデュポンは見栄の最たるもののような気がして、なんとなく遠ざけてしまっていたのだ。机の引き出しの中にはそういうライターが使われることなくいくつもしまわれている。ジッポーも銀無垢のものを二個ほど持っていた。十五年ほど前に買った銀無垢と似たようなものがショーケースの目立つ場所に飾られていて、七万近い値がつけられていた。それが再燃の一番の理由だったのかも知れない。おなじやつが家にある、と言ったら、いいものをお持ちですね、使わないと勿体ないですよ、と気難しそうな店主が私にいきなり笑顔を見せて、それから話が弾んだ。行き掛かり上、その場で手頃なジッポーを三個ほど買った。高級ライターと違って五千円前後だから気軽に買える。素朴な十字架のメタルが貼り付けられているものは特に気に入って、その日から私の常用となった。銀無垢もまた使うようになった。十年以上も放って置いたので持てば指が黒くなるほど錆が浮いていたけれど、店主からサービスで貰った銀磨きで拭いたらいぶし銀の輝きが戻った。インサイドユニットの掃除の仕方も教えられた。ぼっ、と大きな音をさせて黄色い炎が高く立ち上がったときは心が騒いだ。私が手をかけてやらなかったら、このライターは死んだままだった。炎を燃やし続けて持っているとケースに温かさが伝わってくる。蓋を閉めて頬に当てると命の存在さえ感じられた。こういう炎の音や高さを楽しむにはコツがある。風防のてっぺんより二ミリ程度高く芯を引き上げておけばいいのだ。メーカーは安全性を考慮して出荷当初は芯を風防から食み出ないようにセッティングしてある。それだと炎も小さく、オイルの揮発も少ないから着火の音も弱い。第二次世界大戦やヴェトナム戦争当時、ジッポーは兵士への支給品の一つだった。野外戦の最中、アメリカ兵士たちはジッポーでコーヒーやスープを温めたと言う。芯を大きく引き出して燃やせば相当な火力となる。蓋の開け閉めの音も夜戦における味方の識別に利用された。うるさく感じるほど大きな音ではないが、驚くほど遠くまで届く。仕事に行き詰まって漫然と蓋の開け閉めをしていると階下から家内が茶やコーヒーを運んでくることがしばしばだ。音で私の苛立ちを察するのだろう。それと一緒で人の気配を感じたらカキンと蓋を開ける。おなじ音が戻ってくれば味方というわけだ。  唯一の欠点を挙げるならたばこの本数がやたらと増えたことだ。暇さえあれば掌に握って蓋の開け閉めの音を楽しみ、点《とも》して見る。ライターはたばこに火を点す道具だから、つい手が伸びる。百円ライターの頃に比較すれば倍近くの本数になっているはずだ。ジッポー愛好家には愛煙家が多い。新宿の小さな店内にスタンド式の灰皿が二つも置かれているのはそういう理由からだろう。嫌煙運動の浸透した今の世の中でこういう店も珍しい。 「いらっしゃい」  若い客と話し込んでいた店主は私を認めて椅子から立ち上がった。私は間違いなくここの上客となっている。交換会や通販で購入することも多いが、三百個のうち半分以上はこの店で買っている。一年半の間に最低でも百五十万は使っているに違いない。女遊びやゴルフや車の趣味から見ればささやかな楽しみだ。家内にはそう言い聞かせているのだが、家内だってまさか三百個に増えているとは知らないだろう。せいぜい五、六十個としか思っていないはずだ。引き出しに蒐めておくだけのライターをそんなに買ってどうするつもりだ、と自問することもある。それでも止められない。新しいデザインのものや限定品が月に四、五十種類も発売される。間近で眺め、手に取れば、つい欲しくなる。 「この前はどうも。娘が大喜びして」  店主はCDの礼を言った。たまたま若い人気グループの編曲を手掛けたので店主の娘のためにプレゼントしたのだ。 「レプリカがまた一気に出たね」  私の言葉を待っていたように店主はショーケースの上にレプリカを並べた。ジッポーのオリジナルの発売はつい最近まで一九三二年のことと信じられていた。ところが新資料の発見で一九三三年と訂正されたのである。これまでに発売された初期製品のレプリカにはすべて一九三二年の刻印が打たれている。それを払拭するように一九三三年レプリカが数多く発売されはじめたのだ。レプリカは武骨なほど四角ばっているばかりか通常のジッポーに馴染んだ掌には二回りほど大きく感じられる。大型のデュポンに匹敵する重さで持ち歩きにも不便だが、私の好みには合っていた。一九三三年と言えばアール・デコ調がアメリカ文化を席巻していた時代で洗練されたデザインが目立つ。そこに魅了されて十七、八個は購入している。 「お好きなものを一つ選んでください。CDのお礼ですから」 「悪いよ。全然値段が違う」  レプリカは一万円前後が平均だ。目の前には一万二千円のものが五点並んでいる。再三勧められて私は銀メッキにストライプの線が刻まれたシンプルなものを選んだ。自分が買うとなるとどうしても複雑な模様に魅かれて、単純なものには手が出ない。そこがいわゆる成金趣味と笑われているゆえんだ。釣りの世界には鮒ではじまり鮒で終わるという言葉があるようにジッポーにも二〇〇番ではじまり二〇〇番に戻ると力説する者が居る。二〇〇番とはジッポーのベーシック・モデルの製品番号のことで、真鍮にざらっとしたクロームメッキを施しただけのものだ。絵で言うならカンバスに等しい存在で、これに絵柄を刻んだりメタルを貼り付けて別の製品にする。機能ばかりの製品なので値段も遥かに安い。使い捨ての感覚にさえ襲われる。私がオイルタンク代わりに用いているのはこれである。しかし、もともとジッポー開発の基本コンセプトはこの二〇〇番に集約されている。ライターは火をたばこに点すために『確実に機能すればいい』という考えからジッポーが生まれたのである。過酷な条件下での一発点火が身上で、飾りなどないものが本当のジッポーなのだ。たくさんのジッポーを使い込んでいるうち、結局は二〇〇番の単純な美に気付くようになるらしいのだが、まだまだ私はその枯れた境地に達していない。一年半では当たり前のことだろう。  なんとも言い様のない奇妙な蓋の開け閉めの音が背中の方から聞こえたのはそのときだった。私は思わず振り返った。さっきまで店主と話し込んでいた若い男がジッポーの本を捲りながらたばこの煙をくゆらせている。  今の音はなんだろう?  ジッポーには違いないが、妙に懐かしく、胸に突き刺さる音だった。私の持っているジッポーではああいう音が出ない。  なんだか心臓がどきどきしてきた。  私の脳裏に母の後ろ姿が唐突に浮かんで戸惑った。すっかり忘れていた若い頃の母の背中だ。痩せた小さな肩がありありと思い出される。母は十年も前に死んでいる。  この音だ。  この音がなぜか母の記憶と重なっている。 「どうかしましたか?」  立ち尽くしている私に店主が声をかけた。  私は店主と雑談をしながら若い男がもう一度ライターを使うのを待っていた。どんなライターであるのか確かめずにはいられない。  わざととなりでたばこを喫った。つられるように若い男も皮ジャンを探ってライターを取り出す。薄汚い黒い塗装のライターだった。縁の辺りは塗装もずいぶん剥げて白い地肌が現われている。あの鈴のように澄んだ音とイメージが繋がらない。  若い男は本から目を放さずに親指の腹を蓋の上に当てると横に滑らせた。勢いよく蓋が撥ね上がる。キィーン、と余韻を残して蓋が開いた。手早くたばこに火を点して閉じる。さっきとおなじ不思議な音がする。表現ができない。やはり一番近いのは鈴だろうか。同時にまた若い時分の母の顔が懐かしく思い出されて胸が疼いた。なぜかは分からないが、この音は母に繋がっているようだ。なに一つ思い当たることがないので少し苛立った。 「今のライターね」  若い男が立ち去ってから質《ただ》すと店主は直ぐに頷いて、 「結構するはずですよ。四〇年代初期のやつだから。ほら、戦争中にアメリカの兵隊たちが使っていたやつです。どこかで掘り出してきたらしくて……なかなか見付かりません」 「感じがどこか違う」 「珍しいけどジッポーとしては粗悪品です。戦争中で真鍮が不足して、仕方なく安物のスチールでケースを作るしかなかったとか。塗装の剥がれたとこが白かったでしょう。本来のジッポーは真鍮の黄色の色が出ます。黒い塗装も敵に目立たないような工夫と言われてますが、本当は安物のスチール製というのを知られないように分厚い塗装を」 「だから音がまったく違うんだ」  私の頷きに店主は曖昧な顔をした。私の言っている意味が伝わらなかったらしい。私の持っているジッポーは全部が銀か真鍮製である。どちらもスチールに較べれば柔らかな素材だ。蓋を閉じるときの音は金属同士がぶつかって生まれるものだから、素材が異なればまるで違う音となる。厚みとか大きさによって生じる微妙な差などではない。 〈しかし……〉  それが母の記憶とどうして繋がるのか、なんとしても分からない。もしかしたら母が今のジッポーにそっくりな音を出す鈴を鳴らしていたのかも知れない。だが、なんのためにだ? 記憶に残っていたからには、母は何度もそれを繰り返していたに違いない。幼い頃、私の家に仏壇などなかった。それに、なぜか母はこっそりとそれを行なっていたような気もする。気になって襖の隙間から覗き見した記憶も不意に甦った。子供心にも悲しそうな背中だったことを覚えている。      3 「鈴? なによそれ」  ひさしぶりの私からの電話で、しかもいきなり妙なことを訊かれて姉はびっくりしていた。姉とは七つ離れている。私はその当時五つか六つのはずで、姉ならそのことを覚えている可能性がある。それで電話したのだが、四十年も前のことでは戸惑うのも当然だ。 「おふくろに辛いことがあったみたいで、涙を溜めながら鈴を鳴らしている姿を思い出したんだよ。あの頃って親父との離婚の十年以上も前のことだろ。一回や二回ならともかく、しょっちゅう見た。なんだか気になってさ」 「鈴なんて知らないわ。くだらないことで電話してくるのね。いつもそうなんだから」 「思い出すと泣きたくなるんだ。あの頃から親父は女を作ってたのか?」 「でしょうね。女遊びは癖だったもの」 「ライターでそっくりな音を聞いた」 「なんの音?」 「その鈴とだよ。ジッポーって分かるだろ。その蓋の開け閉めの音が不思議なほど似てる」  なんでもない話だったのに姉の態度が急に変わった。どぎまぎして応答も上の空だ。 「なんだよ。なにか知ってるの?」 「忙しいのよ。主人が風呂から上がったわ」  姉はそそくさと電話を切った。絶対に変だった。なにかを隠している。 〈ライターか……〉  姉の様子が変わった理由はそれしか考えられない。私は吐息した。母はもちろん父もたばこを喫わなかった。あの音がライターのものであるはずがない。私は必死で記憶を辿った。やはり家の中でライターなど見掛けたことはなかった。仮にだれかの忘れ物だとしても、あの時代なら平凡なオイルライターだろう。カチッと音を立てて小さな火が上がるものである。ジッポーが日本で販売されるようになったのは一九六七年からのことで、私が高校生の辺りだ。それでも直ぐに普及したわけではない。むしろガスライターの全盛と重なって影が薄かったような気がする。日本での人気の高まりは八〇年代に入ってからではないだろうか。ジッポーと私の家に結び付きなどあるわけがない。と思うのだが、姉の慌てぶりは尋常ではなかった。      4  赤坂のスタジオでの録音は予定より早く終わった。まだ三時。この時間なら姉はたいてい自宅に居る。私は中野の姉の家に出掛けた。居なければ中野ブロードウェイの中古レコード店を眺めて帰るつもりで、駅に着くまでは電話をしなかった。赤坂から連絡を取れば忙しいと断わられるような気がしたのだ。  案の定、姉は買い物に出るところだと言った。しかし私がもう中野の駅前まで来ていると応じたら諦めた。  家には姉しか居なかった。 「インスタントでいい?」  姉は私と顔を合わせないようにして忙《せわ》しなく台所に消える。私も落ち着かない。 「灰皿を貸してくれないか」  私はジッポーを使った。姉が古いクリスタルの灰皿を持って来てテーブルに置く。その目が私のジッポーにちらりと動く。チタンメッキなので黒く見える。 「この前のことだけどさ」 「あんたもしつこいわね」 「気になるじゃないか。なんでおふくろとライターが関係ある? そうなんだろ」 「持っていたわよ。それで満足でしょ」  姉は怒った口調で返した。 「どんなライターだった?」  それに姉は返事をせず立ち上がった。居間から出て行く。やがて戻った姉の手にはライターが握られていた。唖然として見上げている私に姉はそれを乱暴に手渡した。  やはりあの若い男が持っていたのとおなじジッポーだった。黒い塗装が若い男のものよりは遥かに綺麗に残っている。私は震える手で蓋を開けた。風防のところから白い粉がふわっと舞い上がった。オイルに埃が付着して固まったものが細かく砕けて、また埃となる。永く放置したジッポーによく見られる。  蓋を閉じると懐かしい鈴の音がした。 「これだよ……おふくろが鳴らしていたやつ」  私はしっかりと握り締めた。これを綺麗に掃除して火を点せば、母の温もりを取り戻せるような気がした。 「でも、なんだって姉貴はこれを?」 「母さんの箪笥の奥に大事にしまってあったのよ。二枚のハンカチで包んであった」 「どうして教えてくれなかった?」 「母さんが嫌がると思ったから。死んでも知られたくないことだってあるわ」 「恋人かなにかの持ち物だったということか」 「私は薄々と気付いていたわ。それで父さんと上手くいかなかったの。こうして死ぬまで大事にしていたんだから、よほど好きだったのよ。ときどき父さんの留守に取り出して眺めていたんでしょ。あんたが見たのはそのときのことよ。母さんに好きな人が居ただなんて、あんたには言えやしない。私もこれを箪笥の中に見付けたときに、昔を思い出した。だからこっそりと持ち出して来たの」 「俺に知られないようにか」 「いいじゃないの。母さんに父さん以外の好きな人が居ても。許してあげようよ」 「そりゃ……いいけどさ」  とっくに母は死んでいる。それに、あんな親父なら母の気持ちが離れるのも当たり前だ。むしろ母が愛しく思われた。親父が女のところへ出掛けて泣きたい思いのときに、母はこのライターを取り出しては必死に堪えていたのだろう。蓋を開け閉めして綺麗な音を聞くたびに相手のことを思い出したに違いない。 「こいつ、貰っていっていいだろ」  私はどうしてもこのライターの炎が見たくなった。姉は少し考えて頷いた。 「まさか、好きな相手ってアメリカの兵隊なんかじゃないよな」  冗談のつもりだったのに姉は目を逸らした。まだなにか隠している。私は気付かぬふりをしてコーヒーを飲んだ。アメリカ兵が恋人だったなどと聞かされたくない。      5  丹念に掃除をした。オイルが切れてもフリントで火花を散らしたらしく芯が燃え切っていた。芯を引き出し、ライターの石も新しいものに取り替え、たっぷりとオイルを注入する。しばらく待ってから着火すると煤のない美しい炎が真っ直ぐ立ち上がった。この炎を母も見ていたのだ。炎には愛していた男の顔が浮かび上がっていたに違いない。  それが見ず知らずのアメリカ兵かと思えば、ちょっと辛くなる。  だが──  そういうことが有り得るだろうか。  母は英語など話せなかった。その当時暮らしていたのは福島の田舎町で、アメリカ兵と知り合うのはむずかしい。『慕情』のようなロマンスなど映画の中だけのことだ。アメリカ兵はやはり私の考え過ぎだろう。しかし、それなら姉の狼狽はなにを意味しているのか。アメリカという言葉に反応したのは間違いない。姉もまた私のように勘繰っていただけなら笑い返していたはずだ。  鍵はやはりこのジッポーにある。  店に売っていた品物ではない。アメリカ兵が持っていた物であるのは確かだ。それをなにかと交換したか貰ったかに違いない。しかも私が六歳であった一九五七年までの間に。  考えられるのは進駐軍だ。  そこまで思い付いたとき、私の中に一人の名前が浮かんだ。父の弟の真二叔父さんである。真二叔父さんは得意の英語を生かして米軍キャンプに出入りしていた。クリーニングかなにかの仕事をしていたと思う。たまに缶詰やチョコレートをどっさり担いで福島まで遊びに来てくれた。若いうちに喧嘩が原因で死んでしまったが、特に私を可愛がってくれたので強く印象に残っている。背が高くて格好のいい叔父さんだった。あの叔父さんならこのジッポーを手に入れられたはずだ。叔父さんが側に居ると母も嬉しそうだった。 〈そうだったのか……〉  それで姉の逡巡も分かる。姉はもう中学生だったから母の気持ちに気付いていたのだろう。相手は父の弟だ。複雑な思いで眺めていたに違いない。いまさら、とは言うものの私に教えたくなかったのも無理はない。  私は仕事机の電話に手を伸ばした。  姉が直ぐに出た。 「真二叔父さんだろう」  私は軽い口調で言った。真二叔父さんなら許せる。それに叔父さんも死んでいる。 「気にしてないよ。俺も好きだった」 「そう……」 「でも、いつからのことなんだろうね」 「真二叔父さんと結婚するはずだったのよ」  姉は溜め息を吐いてから打ち明けた。 「なのに真二叔父さんは兵隊に取られた。死んだという知らせが届いて……それで父さんと結婚したの。真二叔父さんは捕虜になっていた。戦争は終わったのに何年も帰れなかった。戻ったときには全部が変わっていた。だから叔父さんは福島から離れて東京に……」 「知らなかったな……」 「真二叔父さんが東京で死んだと知らされた夜、母さんはあんたを連れて家出しようとしたわ。あんたは覚えてないようだけど」 「そんなに好きだったんだ」 「父さんと母さんの結婚は最初から間違っていたのよ。どっちも可哀相」  姉は嗚咽を洩らした。 「母さんは私に……済まなかったと言って死んだわ。父さんとの子だから、きっと……」  最初はなにを言われたのか分からなかった。姉の声は嗚咽で途切れて、飛び飛びになる。 「母さんはちゃんと私を可愛がってくれたのに……母さん一人が気にしていたのよ」  受話器を握る手が震えはじめた。姉の言っていることがはっきりと分かったからだ。  私の本当の父親は真二叔父さんだったのではないのか? それで真二叔父さんが私をよく抱いてくれたことや、母が私一人を連れて家出しようとした理由が分かる。  父はたばこを喫わない人間だった。  なのに私はこうして喫っている。その上、真二叔父さんとおなじジッポーに魅かれている。魅かれている理由は今でもよく分からない。もしかして、私は無意識に父を求めていたのかも知れない。  ジッポーの大きな炎は幼い私が直感で悟った父を思い出させるものであったのだ。私は掌の中のジッポーを強く握り締めた。 [#改ページ]    欠けた記憶      1  五十を過ぎたときは、やはり感慨深いものがあった。二十歳前後の辺りは自分が五十になるなど想像もできなかった。若くして死んでいった仲間も居る。第一、五十以上の人生なんて詰まらないに決まっている。定まった道を細々と辿るしかない。想像できない、と言うより、想像したくなかったと言う方が正しい。そんな気持ちは私ばかりではなかったようで、近頃やたらと昔の仲間から連絡が入る。よくぞ凌いできたという思いが強いのだろう。ハワイ辺りで豪勢な同級会をやらないかという派手な話まで持ち上がっている。 「話だけってことになりそうだ」  仕事で東京に出て来ていた前島は、運ばれてくる天麩羅を次々に平らげながら言った。私の取り皿にはどんどん溜まる一方だ。新宿のこの店と決めたのは前島だから、天麩羅が食べたかったのかも知れない。 「何日も留守にできん仕事を抱えているやつが多くてね。それにハワイは飽きたってやつも居る。考えられねえよな。若い頃はハワイなんて一生行けねえとこだと思ってた。今じゃガキまで遊びに行く」 「じゃあ、同級会は中止か」 「仕切り直しってとこさ。一泊二日で花巻温泉という案も出ている。五泊六日のハワイがいきなり車で一時間の花巻温泉。まぁ、おまえさんみたいに東京在住だと近くもないが」  前島は口にして苦笑した。 「俺も花巻なら助かる」 「やっぱりハワイは無理だったか」 「早くから頼んでおけば無理じゃないが、毎日の生放送だからな」  朝のラジオの二時間枠で、かれこれ三年もパーソナリティを続けている。それでもスタッフへの迷惑を承知で半分以上は参加する気持ちになっていたのも確かだった。六日間も高校時代の仲間と一緒に居れば薄れかけている記憶を取り戻すことができるに違いない。今の暮らしにほとんど接点のない仲間だから、共通の話題は学生時代のことに限られる。それを楽しみにしていたのだ。  五十を過ぎると昔のことを思い出す機会が多くなる。踏ん張ってきたという思いがつのるのだろう。ところが──案外と明瞭に思い出せる記憶は少ない。訊ねられたことには応じられるのだが、自分で無理に引き出そうとしてもむずかしい。たとえば高校時代になにがあったか、一人でじっと目を瞑《つむ》って考えてみる。仲間の顔はすぐに浮かんできても、彼らとなにを話したかまでは思い出せない。二時間もそうして考えているだけで思い出の材料が尽きる。高校時代の三年間が、たった二時間で終わってしまうのだ。これに気付いたとき、恐怖に近いものを感じた。ボケのはじまりではないのか、とも思った。三年間と言えばおよそ千百日。なのに私にはそのうち二時間足らずの記憶しか残されていない。いかに三十年以上も前のことだとしても情けない。  それ以来、私は少し記憶にこだわっている。  ボケなどではない、と自分に信じ込ませたい気持ちが底辺にあるのも確かだ。だからこそハワイ行きに心が傾いていたのである。 「小講堂があのままなんだよ」  前島が酒を勧めながら言った。言われなくても知っている。大正時代の建物で母校のシンボルとも言えるものだ。 「文化祭のときに、あそこでレコードコンサートをやったよな。覚えてるだろ」  私は頷いた。忘れるはずがない。私はDJを受け持ち、それが現在の職業に繋がった。もともとはフリーのDJである。 「再現してみる気はないか?」 「あそこで?」 「ラジオで毎日一曲は六〇年代のやつをかけてるそうじゃねえか。もしおまえが来てくれるんなら、そういう遊びをしたい。昔の気分に戻ってから温泉に行くって寸法さ。そうなれば自動的に学校にも立ち寄れる」 「学校の許可は?」 「簡単に取れる。今の教頭は田代だ」  なるほど、と私も田代を思い出した。五十なら教頭になっていても不思議ではない。 「こういうのが出て来たんだ」  前島はバッグから黄色い紙を取り出した。 「信じられないな」  手にして私は吐息した。それはあのときのレコードコンサートのプログラムだった。DJである私の名前の下に曲名がずらっと並べられている。紙の色も褪せてはいない。 「古いアルバムの中に挟まってた。それで今度のことを思い付いた。忘れちまった曲もあるから、完全な再現は厄介だろうが……」 「おまえが忘れてるだけさ。俺の家には全部揃ってる。CDじゃなく本物のレコードでやれるよ」  あまりに懐かしいプログラムと再会して私の胸は弾んでいた。選曲も私がしたものだ。珍しいところではフランス・ギャルの『すてきな王子様』とスーザン・シンガーの『夏の日のジョニー』が入っている。そこそこヒットしたはずなのに、今はほとんど耳にすることがない。CD化されていないせいもある。ポップスのレコードコンサートなのに西郷輝彦の『恋のGT』が混じっている。今でも好きな曲なので、あえて加えたのだろう。 「そうそう、ゲストに彼女を招《よ》んだんだ」  プログラムの中程に麗々しく記されている杉本かおりの名を見付けて思わず笑いが洩れた。当時のポップスの熱心な投稿マニアで、音楽専門雑誌ではよく名前を見掛ける存在だった。アメリカの若手歌手の日本ファンクラブの代表でもあった。仙台に住んでいると知ってゲスト出演を頼んだら交通費だけで盛岡まで来てくれたのだ。今思うと普通のOLでしかないのに、やたらと緊張した。その歌手の人気が日本で衰えると同時に彼女の名も雑誌に登場しなくなった。 「やる気になってきたか?」 「安田道代の話をしたんだ」 「なんだよ、突然」 「杉本かおりとさ。思い出した。『氷点』がちょうど大映で公開されていたときで、俺は主演の安田道代と知り合いだと……」 「安田道代って、あの安田道代か」  現在は大楠道代と改名しているので前島にはピンとこなかったらしい。 「安田道代と一緒に並んでいる写真も見せびらかした。赤面の至りってやつだな」 「そんなことがあったっけ?」 「おまえはレコード係でもやっていたんじゃなかったか。それで覚えてないんだ」 「本当に知り合いだったのか?」  これだから記憶は当てにならない。私は間違いなく何度も前島に写真を見せている。 「どんな知り合いだった?」  前島は首を傾げた。 「彼女からの手紙も見せたよ。彼女のデビュー作を見てファンレターを出したら返事が届いたんだ。それから二、三度やり取りをした。そしたら彼女が『氷点』の主役を演ずることになって北海道ロケが決まった。彼女の乗る寝台急行は盛岡で十分やそこら停車する。その予定を彼女が知らせてきた。もちろん駅まで駆け付けてホームで対面した」  彼女がたった一人でデッキから下りてきたときの感激は今でも忘れられない。真夜中の一時くらいだったと記憶している。私は駅員に頼み込んでシャッターを押して貰った。 「その後も少しは手紙のやり取りがあったけど、彼女の人気は急上昇した。忙しくなったんだろうな。返事がこなくなってお終い」 「聞かされた記憶がある」  前島も首を縦に動かして、 「その写真、今もあるのか?」 「どこかにあるとは思う。捨てるわけがない」 「記念誌を作る計画もある。あったら貸してくれ。皆もきっと喜ぶ」 「学校とはあまり関係がない」 「だから面白いんじゃねえの」  前島は笑って酒の追加をした。      2  どうしても写真を見付けることができない。高校時代のアルバムは東京に全部持ってきている。剥がされて欠けた写真もだいぶあるから、そうしていつの間にかなくしたとも考えられるが、あれは私にとって特別な写真である。簡単になくすとは思えない。意地になって休みのたびに押し入れやロッカーを捜していたら彼女からの手紙やハガキを見付けた。それなのに肝心の写真は消えてしまっている。そう言えば……と私は別の一件を思い出した。十年ほど前にもこうして写真を捜した覚えがある。盛岡公演のときにコンサート会場の裏手で弘田三枝子を囲んで写したやつだ。やはり高校時代に撮影したもので、あれも自慢の記念写真だった。ラジオの仕事でたまたま弘田三枝子と一緒になり、その思い出を話したら彼女が懐かしがった。それで複写してプレゼントする約束を交わしたのだが、結局捜し出すことはできなかった。あのときも不思議に感じたものである。 〈弘田三枝子と安田道代……〉  二枚とも見付からないなんてことがあるだろうか? どちらも私にとっては大事な思い出だ。アルバムを一冊まるごとなくしてしまったのではないのか? そうとでも考えない限り有り得ないような気がする。前回は弘田三枝子一枚だけの問題だったのでそこまでは思い付かなかった。  しかし──  どれほど記憶を辿っても失われたアルバムは頭に浮かばない。手元にある四冊が高校時代のすべてとしか思えない。アルバムは何度も手にして眺めるものだから必ず記憶される。一冊欠ければすぐに分かる。  無駄と知りつつアルバムを捲っているうち、もう一つの可能性を思い付いた。なくしたのではなく、だれかに盗まれたのでは? その場合、もちろん私の写真が欲しかったのではなく、弘田三枝子か安田道代のものを狙ったのだろう。そんなに熱心なファンが私の他に居たとは思えないけれど、あんまり私が自慢するものだから意地悪な気持ちで盗んだとも考えられる。私はアルバムの台紙の枚数を調べた。予測は見事に的中した。一枚の台紙が欠落しているアルバムを発見したのである。頁は記されていないが、二十四枚綴じと表紙裏に書かれてある。なのに何度数えても二十三枚しかない。自分で破り取った記憶もない。透明シートで頁全体を覆う方式なので、写真に飽きたとしても別のものと差し替えればいい。破り取る必要などないのだ。  このアルバムに貼られていたと確信した。  他の写真の撮影時期とも合致する。  ただ、問題はいつ盗まれたかである。  二枚の写真を自慢にしていた時期なら、盗まれた直後に分かったはずだ。盗まれたことさえ気付かなかったということは私の関心が二人から薄れていたとしか思えない。そこがもう一つ納得できない。私が彼女たちから完全に吹っ切れたのはプロのDJとなって芸能界への憧れが消滅して以来だ。二十七、八の頃だろうか。その辺りなら、たとえ盗まれたところで気付かなかったかも知れない。しかし、そんな時期にだれが二人の写真を盗むというのだろう。 〈有り得ない……〉  絶対に考えられないことだった。けれど、台紙が一枚欠けているのも確かなのだ。なにかの理由で私が破り取ったものなのか? その記憶は台紙と同様に私の頭から欠けている。      3  私はひさしぶりに盛岡へ帰った。  同級会はまだまだ先のことだ。秋田で講演を頼まれたついでに立ち寄ったのである。三年に一度程度は戻っているので特に懐かしい気もしない。前島と中津川沿いにある『深草』で待ち合わせている。蔦に全体を覆われたこの店は常にセンスのいい音楽を流し続けている。盛岡に戻れば必ず一度は寄る店だ。周辺のたたずまいにも古い面影があって心が安らぐ。町は変わっても中津川のせせらぎは私を昔へと誘ってくれる。  夕焼けを照らして桃色に輝く川の流れを眺めながら中ノ橋を渡っていると前島が手を振って現われた。 「満員だよ」  前島は橋からも見える『深草』を示して、 「今夜は貸し切りらしい。出版記念パーティだってさ。ママも残念がってた。九時には終わるそうだ。あとで電話しよう」 「それならどこに行く?」 「川沿いをぶらぶら歩いて『鬼の手』にでも行くか。公会堂の近くだ」  歩いて五分とかからない。私は任せた。 「行ったことはあったっけ?」 「いや、ない」 「カワトク一番館の地下だ。昔は洋食のレストランだったな。今は魚介料理の居酒屋。安くて旨い。それに個室もたくさんある」  前島はわざと『深草』側の川端を選んだ。  これだと与ノ字橋を渡って公会堂側に出るには遠回りとなるが、反対の川端は放送局や市役所の裏手に当たっていて風情がない。  いい店だった。  古い民家風の造りで落ち着く。前島は馴染みらしく、たった二人なのに個室に案内された。ここなら気兼ねなく酒が飲める。 「ほら、お土産」  注文を終えてから前島は一枚の写真をテーブルに置いた。 「複写したんだ。やるよ」  それは例の小講堂でのレコードコンサートのときの記念写真だった。持っていないと言ったので前島が気を利かしてくれたのである。 「拡大したのか」  私の記憶にある写真はこの半分以下だ。 「歳だよ。小さい写真は目が疲れる」  確かだ。老眼鏡をしないと新聞の文字さえ読みにくい。 「知らない顔が多い。なんでだ?」  一緒に覗いて前島が首を傾げた。レコードコンサートを主催したのは音楽部である。その仲間が半分ほどで、他は見覚えのない男女が肩を並べている。レコードコンサートを無事に終えての記念撮影だから、ただの客とも思えない。だが私は即座に思い出した。 「杉本かおりが声をかけた連中だ。彼女がやっていたファンクラブの会員さ。彼女をゲストに招んでおいて、なんであの歌手の曲をかけないんだと嫌味を言われた」 「かけなかったのか?」 「プログラムにはないが、ゲストコーナーでかけた。もっと何曲もって意味だ」 「ファンクラブなら自宅で聞き飽きてるだろうに。そう言えば嫌な雰囲気だった気もする」 「俺はあの歌手が好きじゃなかった。そいつを敏感に見抜かれたんだと思う」 「だったらなんでこの女を?」  前島は私のとなりに座っている杉本かおりに目を動かした。陰気な顔立ちをしている。 「有名な存在だったからな。歌手は嫌いでも彼女には興味があった。会って幻滅したけど」 「ひでえもんだ」  前島はげらげらと笑った。 「だんだんと思い出したよ。彼女、自慢話ばっかりでな。レコードの解説を書く予定になってるとか、その歌手からバースデイ・カードが届いたとか……それで俺も対抗のつもりで安田道代のことを持ち出した」 「そんなので対抗になるか」  前島の笑いは止まらない。私も苦笑して写真に目を戻した。 〈あ……〉  不意にその記憶が甦った。一瞬、目を瞑って気持ちを集中させる。この写真を貼っていたアルバムの一頁が瞼の裏に浮かんだ。大小四枚の写真で構成されている。左上は弘田三枝子を囲んだ名刺サイズの白黒写真。右上は安田道代と並んでいるもの。左下にこの写真が配置され、その右には新山まり子を中心に私と前島が立っている写真。間違いない。他に比較して空白の多いスカスカの頁となったが、有名人と一緒の写真はそれしかなかったので仕方なかった。普通の写真とは同一にしたくなかったのである。  新山まり子の名を口にすると前島はきょとんとしたが、間もなく思い出した。彼女の名を記憶している人間はほとんど居ないはずだ。前座で終わった無名の歌手である。レコードさえ実際に発売されたかどうか。私と前島は、ある女性歌手のショーを見に行って新山まり子をはじめて知ったのだ。彼女はその女性歌手の内弟子だった。ステージでの親しみやすい笑顔と可憐な振り袖姿に魅せられた。私たちは大胆にも楽屋に押し掛けてサインをねだった。そうしたら彼女よりも師匠である女性歌手の方が喜んでくれた。サインだけのつもりがコーヒーまで御馳走になった。ばかりか夜のステージまでの間、盛岡の町を案内してくれるよう頼まれた。もちろん、内弟子である彼女のことをだ。私と前島は張り切って公園や紺屋町の古い町並みを見せて歩いた。写真はそのときに撮影したものである。 「よく覚えているよ。歌手と並んで歩いたのって、あれ一回きりだもんな」  前島はしきりに肯いた。新山まり子という名を忘れていただけのことなのだ。 「いい人だったよな」  前島は師匠である歌手を思い出して、 「次の日、旅館にも行ったろ。そこの喫茶室でケーキも食わして貰った」 「そうだった」 「なんであんなに親切だったんだ?」 「内弟子の彼女がレコードデビューを間近にしていたんで売り込みに必死だったのかも知れない。同世代の俺たちがファンになってくれれば彼女の励みにもなる。和製ポップスが盛んで演歌は人気が衰えていた」 「なるほど、そういうことか」 「よほど可愛がってもいたんだろう。弟子のためにそこまでやってくれる人間は少ない」  前島に言いながら私は多少の後ろめたさを感じていた。レコードが発売されないせいもあって私の興奮はすぐに冷めた。それきり彼女の存在を気にしたこともない。その程度のファンと分かっていたら向こうも御馳走などしてくれなかったに違いない。なのに写真だけはしっかりとアルバムに貼っている。人に見せて自慢するだけの道具だ。嫌なガキだったといまさらながら思った。 「新山まり子の写真もあるはずだ」  それも捜して複写するか、と前島は言った。私は首を横に振った。      4  頁の構成を思い出したことで、その部分だけが盗まれたという確信は強まった。新山まり子の写真もレコードコンサートのときのものも何十年と見た記憶がない。別々になくしたと考える方がむずかしい。なにか必要があって剥がしたとしても一、二枚は残っていそうなものだ。そこでまた盗まれる理由が問題となってくる。どの写真が欲しくて台紙を破り取ったものだろう? 私にとっては大切な記念でも、他人にすればスターの生写真に過ぎない。これがマリリン・モンローとかジョン・レノン辺りなら分かるけれど、弘田三枝子、安田道代、新山まり子とくれば考えにくい。第一、このアルバムを見ることのできる人間は私となんらかの付き合いがあるはずだ。欲しければ複写を頼めばいい。こっそり盗み出す必要などない。もしかして裏の頁にもっと重要な写真が貼られていたのだろうか。そうなると推理もお手上げだ。裏になにを貼っていたか、まるで思い出せない。  東京に戻ってあれこれ考えているうち、私はレコードコンサートのときの記念写真の中に見覚えのある顔を発見した。音楽部の仲間ではない。うしろの列に立って、まるで身を隠すように顔半分だけをひょいと覗かせている派手なシャツの男だ。レコードコンサート用にカーテンを締め切っている暗い講堂なのにサングラスをかけている。それでも頬の大きな黒子《ほくろ》は隠せない。 〈しかし……〉  さすがに私は戸惑った。どう見ても私の恩人の一人である浜田プロダクションの社長としか思えないが、信じられない。彼は東京の生まれで盛岡とは無縁だ。私とは十違いなので、これが本当に彼だとすれば二十六、七。東京で仕事をバリバリやっていた時期だ。なにかの用事でたまたま盛岡に来ていたと仮定しても、高校の文化祭に足を運び、レコードコンサートに時間を費やすなど有り得ない。 〈他人の空似か〉  そう言い聞かせても私の目は頬の黒子に釘付けとなっている。長髪も私の知っている若い時分の浜田とおなじだ。プロのDJになりたての頃、私は毎日のように浜田と会って酒を飲んでいた。彼はその頃、大手のレコード会社に勤めていて洋楽専門の宣伝部に居た。息のかかったDJは大事な手駒でもあったのである。こっちも六本木辺りで遊べたり、番組への出演を紹介して貰えるからありがたい。彼のバックアップがなければ今の私は存在しないとも言える。 〈待てよ……〉  よく考えたら有り得ない話でもないような気がしてきた。杉本かおりがファンクラブの代表をしていたアメリカの若手歌手のレコードは浜田の居た会社から発売されている。その宣伝を浜田が手掛けていたとしたら、国内のファンクラブの代表である杉本かおりと面識があってもおかしくはない。あの自慢屋の杉本かおりのことだ。たかだか地方都市の高校の文化祭に過ぎなくても、ゲストに招かれたと吹聴した可能性は高い。仕方なく浜田も時間を都合して盛岡までやって来たのではないのか? 盛岡在住のファンクラブの会員を何人も呼び集めた杉本かおりであれば十分に考えられる。その目で眺めると浜田らしき男の顔はどこか不機嫌そうに見える。当然だろう。田舎の高校生の主催するレコードコンサートに付き合っている暇はない。私は浜田の気持ちを想像して笑いたくなった。本当に浜田なら、自慢話に終始する杉本かおりをうんざりとした気分で眺めていたはずである。明日にでも訪ねてこの写真を見せたら浜田はどんな顔をするだろう。あのときのDJが私だったと分かって腰でも抜かしかねない。百万に一つという偶然に等しい。それを互いに何十年と知らずに過ごしてきたのだ。 〈いや……〉  本当にそうなのだろうか。ふっとその疑いが胸に生まれて寒気が背筋に広がった。浜田の立場となって考えてみる。いくらレコード関係の仕事だったにせよ、地方の高校の文化祭に出掛けてレコードコンサートを聴くなどというのは珍しかったに違いない。記憶に残りやすいパターンだ。一方、私が盛岡の出身で、高校時代からDJを目指していたことを浜田は知っている。年齢差も承知で逆算ができる。普通なら短絡的に結び付けそうなものではないか。それに、あの当時浜田は頻繁に私のアパートを訪れていた。アルバムも面白がって眺めていたはずだ。そうだ、間違いない。弘田三枝子のことで盛り上がった記憶もある。とすれば確実に浜田はレコードコンサートの記念写真も見ている。私の方はその中に浜田が写っていることなど考えもしていないのでなんとも思わないけれど、浜田は別だ。杉本かおりをそこに見付け、やがて自分を発見する。大喜びして私に報告するに違いない。なのに浜田は教えなかった。  断じてそんな記憶はない。  なぜ教えてくれなかったのか?  答えは二つ。  写真の人物が浜田とは別人だったか、あるいは浜田にとって不都合な写真であったかのどちらかだ。私は恐らく後者だと思った。それで台紙が破り取られた説明がつく。浜田であればいくらでも盗む機会があった。  けれど──  この写真のなにが不都合なのか、どう考えても分からない。ただの記念写真である。まさか浜田に電話で質《ただ》すこともできない。私の知らない浜田が現われてきそうで怖い。寒気がまた私を襲った。      5  半年ぶりに会った浜田は、ぎょっとするほどに痩せていた。頬の皮が弛《たる》んで見える。それに艶もない。肝臓を悪くして危ないという噂は本当かも知れない。飲んでいるのもジンジャーエール。なんだか気が重くなる。 「珍しいな。ここんとこ御無沙汰だ」  浜田は静かに笑ってグラスを掲げた。 「あっちに移りませんか」  スコッチを頼んでから私は奥の席に浜田を誘った。カウンターでは憚られる。 「むずかしい話か。なにがあった?」  浜田は怪訝な様子で私と向き合った。 「杉本かおりさんを覚えていますか」  口にするなり浜田の目に怯えが生じた。私は大きく吐息した。当たって欲しくなかった想像だ。浜田は無言で私を見ている。 「放送局ってのは便利なとこでしてね。ちょいとした人間の消息なら簡単に突き止められる。杉本かおりさんのことを調べました。元気に暮らしていると思っていたのに……若くして死んでいた。雑誌に名前を見掛けなくなったのも当たり前ですよ。轢き逃げだったそうですが、犯人はまだ見付かっていない」 「なんの……話だ」  浜田は辛うじて平静を保っていた。 「死んだのは俺が学校でのレコードコンサートに招いてから三ヵ月も経たないうちのことでした。全然知らなかった。人気歌手のファンクラブの代表と言っても新聞や雑誌で扱われるような存在じゃない。仙台での轢き逃げじゃ岩手まで伝わらない。もっとも、耳にしても浜田さんと結び付けたかどうか。あの当時、俺は浜田さんの名前さえ知らなかった。今でも正直言って本当のところは……浜田さんが俺のところからあのときの写真を盗み出した疑いと、杉本かおりさんの轢き逃げを単純に繋げただけです。写真の撮影時期と轢き逃げが近過ぎる。たとえ子供でもこの二つになにか関連があると感じるはずだ。思い切って浜田さんにぶつかることにしました。杉本かおりさんの名前を真っ先に言う。それで反応がなければ俺の読み違い。無縁なら覚えているわけもない名前だし、関係があったなら絶対に忘れない名前のはずでしょう」 「彼女とは仕事で付き合いがあった。それで覚えているだけだ」 「俺は名前を言っただけで、死んだとは口にしていない。なんで慌てたんです?」  それで浜田はがっくりと肩を落とした。 「奥様と一緒になられたのも、ちょうど杉本かおりさんが死んだ辺りですよね」 「………」 「もう止しましょう。三十年も前の話だ」  本当のことを聞き出しても仕方がないような気がしてきた。浜田の体は弱っている。 「いや……話そう」  浜田はむしろさばさばとした顔をして、 「俺こそ勘違いしていたらしい」  自嘲の笑いを洩らした。 「勘違いってのは?」 「おまえさんは感付いているもんだと思い込んでいた」 「馬鹿な。なにを言ってるんです」 「こっちの弱味ってやつだ。横浜かどこかのディスコでおまえさんと会ったとき、おまえさんは俺と初対面じゃないと言い張った。やっぱり覚えていたか、と覚悟した。俺だってそいつを確かめたくておまえさんに近付いたんだ。盛岡で高校生の頃からDJをやってたと何度もラジオで言ってたからな。ひょっとしてあのときの男じゃないかと……」 「じゃ、最初から分かっていて俺と?」  愕然とした。私は今日まで浜田がたまたま店に遊びに来たものだと信じて疑ってはいなかったのである。そして私は浜田に才能を認められ、なんとか世の中に出られた。それがまったく嘘だったと言うのだろうか。 「あれからおまえさんは何度も俺に連絡を取って来た。アパートにも誘われてアルバムも見せられた。その中に俺がかおりと一緒に写っているやつもあった。おまえさんは側でにやにやとしているだけだ」 「俺が脅迫していると勘違いしたのか!」  思わず声が震えた。 「あの頃のおまえさんはそういう風に見えたよ。今はすっかり変わったが……」 「冗談じゃないよ。なんで俺があんたを」  悔しさに涙が溢れそうだった。私の人生が途端に薄汚れたものになっていく。浜田は脅迫と感じて私に仕事を世話していたのだ。 「俺とかおりを結び付けるのはあの写真だけだった。女房との結婚は決まっていた。専務の娘だ。かおりとは最初から遊びのつもりだった。だからだれにも知られないようにしていた。かおりにも他人には言わないように口止めした。かおりの気を引くために俺はいろいろと便宜をはかっていた。個人的な好意からだと会社にバレればくびになる。かおりはあっさりと信じて頷いた。かおりの方だって最初はその気で俺に近付いて来たんだ。寝た代償にレコードの解説を書かせて貰っていると知られたくなかったんだろう」 「………」 「ところが……かおりは次第に増長しはじめた。あの歌手が来日する予定があった。そうなったときは、と無理難題を押し付けてきてな。思い出すだけで腹が立つ。かおりは結婚もぶち壊す気でいた。アパートにも毎日のように真夜中に電話をかけてくる。どうにでもなれという気分で仙台まで車で出掛けた。本当に……どうでも構わなかった」 「それで轢き殺したというわけだ」 「怖くなって東京へ戻ったが、仙台の警察からはなにも言ってこない。俺との関係がまったく分からなかったんだろう。十年も過ぎて、すっかり安心していたところにおまえが現われた。俺とかおりを結び付ける証拠の写真を手にしてな。参ったよ……」  私は溜め息とともに腰を上げた。今日を限りに浜田と会うことはないだろう。浜田は不安な顔に戻って私を見上げた。 「あんたにとって俺は嫌なやつだったかも知れないが、俺はあんたが好きだった。その恩はこれからも忘れない」  私の言葉に浜田は何度も頷いた。  タクシーの中で浜田のことを思い出す。私はなぜ初対面ではないと言い張ったのだろう。あの当時には確かに見覚えがあったということだろうか。あの頬の大きな黒子は印象に残りやすい。としたら、ただそれだけの意味だった。その一言が私の運命を変えたのである。 〈いや、そうじゃない〉  そういう意味ではなかった。私は浜田のことなど記憶してはいなかった。そう言えば喜ぶ男だと、あの店の支配人が耳打ちしてくれたのだ。見た記憶があると言ってから、浜田に問い質されたときは適当な音楽雑誌の名を挙げる。それでぐっと親しくなれる。私は売り込みに必死だった。ところが、浜田はそれ以上訊き返してはこなかった。私は困ってにやにや笑うしかなかったのである。  一言で運命を変えられたのは私ではなく浜田の方だった。浜田はあのとき死に神にでも出会った気分だったに違いない。 [#改ページ]    蒼 い 記 憶      1 「これ当分使ってみて」  博多への出張から戻って風呂から上がったばかりの私に、真弓は待ち兼ねていたように妙な器械を運んできた。小さな計測器からコードが伸びていて、その先には透明なスプーンのようなものが取り付けられている。 「なんだ、これ?」 「今流行の美顔器。強力なオゾンを放射するの。コールドクリームをつけてマッサージしたあとに、この電源を入れてスプーンの丸い皿の部分を顔に当てれば染みが取れるし、肌もつるつるになる。あなた、この頃染みが目立ってきたからちょうどいいわよ」 「それで買ったのか?」 「まさか。これ二十万もするんだから」 「こんなのが二十万?」 「利枝が今度この器械の販売員をすることになったんだって。あなたの留守中に遊びにきたわ。これ、試供品。お客を紹介してくれたら一人について三万円のお礼をするって」 「典型的なマルチ商法じゃないか」  私は呆れた。どう見たって一、二万もしないようなちゃちな器械だ。 「本当に効果があるならお金の問題じゃないわよ。女にとって染みは一大事だもの」 「そこに付け込んだ商売なんだ。くだらんことに関わるな。いい歳してその程度も分からないのか。彼女は危ない」  利枝は真弓の高校時代の友人で、以前にも磁気マットレスを押し付けられたことがある。 「五人に紹介すれば五万で買ったことになるじゃないの。効き目があると分かれば二十人にだって売れる。あなたに迷惑はかけない」 「こんなもの、効くわけがない」 「アメリカでは三十年も前から売り出されて医者だって効果を認めているそうよ」 「そんなに効果がありゃ、もっと前に日本に器械が広まってるさ。いい加減にしろ」  私は思わず声を荒立てた。私が帰ると分かっていながら冷凍食品が並べられているのは利枝と遅くまで話し込んでいたせいだろう。 「代理店がなかったのと、高いから普及していなかっただけのことよ」  真弓もむきになって反論した。 「第一、使ってもみないうちからどうしてそんなに決め付けるの? 利枝が嫌いならそれでもいいけど、器械の効果とは別のことだわ」 「常識で分かる。おまえは騙されてるんだ」 「買ってもいないのに、なんで騙されるわけ。効果がなかったらいつでも返してと利枝は言ったわ。あなたはいつもそう。なんでも自分の考えだけ正しいのね」 「そんなことを言っちゃいないだろ。これがマルチ商法だってことぐらい子供にでも分かる。おまえ、そんなに馬鹿な女か?」 「マルチでもなんでも、肌が綺麗になるんだったら二十万だって高くない。私が言っているのは効き目があるかどうかってこと」 「だから、詐欺だと言ってるだろうに」 「利枝が詐欺師だと言いたいのね」 「あのなぁ……」  私は吐息した。全然懲りていない。 「なんとかという釜のセットはどうした。ほとんど使っていないだろ」 「あれは私のせいよ。釜が悪いんじゃない」 「使わない釜に八万も出したのか?」 「そのうち使うわ。蒸し返さないで」 「こんなのを二十万で売り付ければ騒ぎになる。俺の体面も考えてくれ」 「珠里《じゆり》は面白がって試していたわ」 「試すだけならそうだろうさ」  ましてや十九の娘なら興味を持って当たり前だ。私は喧嘩がばかばかしくなった。どうせこんな器械が簡単に売れるわけもない。 「何日使えば効果が出るって?」 「人によってだけど、半月かそこらですって」  つまり返品が利かなくなる辺りだろう。 「半月もこいつを?」  私は軸の太いスプーンを手にした。頬に当ててみる。肌触りは悪くない。真弓は電源を入れた。透明な軸の部分に青白い光の束が生じて放射された。当てていた皿の部分がじんわりと熱くなっていく。確かに気持ちがいい。 〈ん?〉  スプーンが温まるにつれて独特の匂いが伝わってきた。なにか、すえたような、硫黄臭さとでも言えばいいのか。私はスプーンを鼻先に当てて嗅いだ。 「その匂いね。気にならなくなるわ」  真弓は機嫌を直して笑った。 「オゾンの匂いじゃないかしら」 「この匂い……覚えている」  私はうっとりと嗅いでいた。どこで嗅いだ匂いかまったく思い出せないが、これを深く鼻から吸い込むと甘美な思いに包まれる。 〈なんの匂いだろう……〉  不意に花奈子の少年のような凛々しい顔が瞼に浮かんで私の胸は痛くなった。花奈子の顔がこれほどにはっきりと思い出されたのは三十五年ぶりのことである。 「どうかした?」  真弓は怪訝そうに私を見詰めた。      2 「オゾンの匂いなんて見当もつかないな」  須藤はコーヒーを皿に戻して言った。  私は近くを通ったウェイトレスにコーヒーのお替わりを頼んだ。まだデスクに戻って仕事に取り掛かる気分にはなれない。あの匂いを嗅いでから私の心は浮わついている。花奈子のことが頭から離れない。四十をとっくに過ぎた男が十歳の少女を思い出して上の空になるなど、自分でも信じられない。 「どんな匂いですって?」  須藤がまた質《ただ》した。 「それが、なんとも説明しがたい匂いでね。それでしか嗅いだことがない。ヘビ花火って知ってるか?」 「あの、もくもくと黒い煙りの紐が湧き上がってくるやつですか」 「あの匂いにどこか似ている」 「ますます分からなくなった」  須藤は笑った。 「やっぱり硫黄とか火薬の匂いに近いんだと思うね」 「なんでそれが懐かしい匂いなんです?」 「それが俺にも分からない。なんかこう胸がむずむずとしてくる。初恋の女の子の顔も一緒に浮かぶから、それと関係してるのかもな」 「花火工場の娘さんだとか?」 「いやいや、山の中の家だ」 「編集長はどこのご出身でしたっけ」 「岩手だ。途中から盛岡に移ったが、ちっちゃい頃は凄い山の中に育った」 「すると、盛岡に移ってその彼女とはそれきりになったというわけですか」 「ああ。どこでどうしているもんかな」 「けりをつけた方がいいです」 「なんだよ、そいつは」 「危ない徴候ってやつです。人生に嫌気が差しはじめると、途端に初恋の彼女や幼かった頃の自分が愛しくなる。心理学の基本じゃないですか。そういうときは逆に思いをつのらせずに現実と対面する方がいい。編集長には悪いけど、その彼女だって呑気なおばさんになってますよ。会えば正気に戻る」 「おいおい、俺は別になんともないぞ」 「普通じゃないですよ。変だと思ってないのは編集長だけです」 「そりゃ、会ってはみたいが、なにしろ三十五年も前のことだ。簡単にゃいかんさ」 「同級生かなんかでしょう?」 「近くの家の子だ。三つ四つ上だった」 「だったらその家に問い合わせれば直ぐだ」 「その家ってやつがよく分からん」  口にしながら自分でも苦笑が洩れる。 「親父とおふくろが死んだんだ。それで俺は盛岡の祖父母の許に引き取られて育った。親父たちが死んだ場所など思い出したくもない。今は祖父母も死んだから、そこが岩手のどこだったか聞きようがない。馬鹿みたいな話だが本当だ」 「それは事故かなにかで?」 「火事と聞いている」 「一緒に居なかったんですか」 「そいつも曖昧だ。火事の現場に居合わせたならなにか憶えていそうなものだろ。なのにちっとも思い出せない。焼け跡は微かに頭に浮かんでくる。祖父母のとこにでも遊びに行っていたときのことかも知れない」 「何歳のときです?」  須藤はやたらと興味を抱いた。まぁ、他人には興味をそそる話に違いない。 「小学校に上がる少し前のことだ」 「幼稚園だと確かに記憶は薄れますね。俺だってあまり記憶がないです」 「バスに何時間も乗った記憶はあるな。盛岡との往き来だろう。岩手は広い」 「本当に会いたいと思っているなら俺が捜しましょうか」 「どうやって捜す?」 「火事で二人も亡くなっていれば地元の新聞が詳しく報道したはずです。その記事を捜せば住所も分かる」  なるほど、と頷くしかなかった。単純なことだ。思い付かなかったのは、これまで私にその気がなかっただけに過ぎない。 「ちょうど仙台の郷土史家に頼みたい企画を抱えてるんです。そのついでに盛岡まで足を延ばして調べてきます」 「どんな企画だ?」 「東北の霊山巡りなんですけどね」 「あんまり面白くなさそうだな」 「だったら、盛岡に行ったついでに仙台に立ち寄ることにしますか」  私は笑って盛岡行きを認めた。記事が残されているなら私も読んでみたい。 「彼女の名前はなんと言うんです?」 「そこまで調べる気か?」 「どうせならやってみますよ。今どこでどうしているか突き止めるだけです。あとは編集長が自分で決めればいい」 「花奈子と言った。名字は……中村だ」  須藤は手帳に書き込んだ。いかにも社内でも資料捜しの名人と言われている須藤なら軽々と突き止めるに違いない。住所が分かって、その近所の中村となれば面倒もない。田舎では人の入れ替わりも少ないはずである。 「どういう彼女でした?」  須藤はにやにやとして訊ねた。 「背がすらっと高かった。歳が違うんだから当たり前か。髪をお下げにしててね」  色白な肌に切れ長の一重瞼がきりりと顔を引き締めていた。と言っても、それは昨日の夜に思い出した顔だ。 「俺にはやっぱりあの匂いの方が気になるな。なんで彼女の思い出と重なるのか……」 「オゾンなんて、普通の家じゃお目にかかりませんよ。たぶんオゾンじゃなくて、それに似たなにかの匂いだったんでしょう」 「だろうな。きっとそうだ」  私も首を縦に振った。 「匂いってのも不思議なもんです。この前、うちに故郷《くに》のおふくろが遊びに来ていましてね。アパートに戻ったらカレーの匂いがしました。おふくろが作っていると直ぐに分かった。女房の作るやつとは微妙に匂いが違う。子供の頃の匂いを鼻が憶えていたんです」  あるある、と私も頷いた。 「どこの女房も、他の女の香水の匂いには敏感だったりする」  私は笑った。 「農家だったんですか」  須藤は唐突に質した。 「そんな記憶はないな。バンガローみたいな家だった。若い頃親父は教師だったと聞いている。なにか事情でもあって田舎に引き籠もっていたんじゃないか」 「隠居する歳ではないでしょう。編集長が六、七歳だとしたら三十前後ですよね」 「親父が三十四でおふくろが三十」 「俺とそんなに変わりません。編集長が生まれたのもその山の中ですか?」 「生まれは釜石だ。しかし、釜石に居たという記憶はない。物心ついたときにはそのバンガローみたいな家に暮らしていた」 「編集長ぐらい親のことを知らないのも珍しい。よほど火事がショックだったんだ」  それは言える。祖父母も話したがらなかった。互いに辛い思い出である。 「必ずお土産を持ち帰ります。楽しみに待っていてください」 「いつ行くつもりなんだ?」 「出張許可さえ出してくれたら明日にでも」 「そんなヒマがあるのか?」  そろそろ雑誌の校了時期が迫っている。 「残っているのは一本の連載だけです。どうせ四、五日は届きませんから」 「息抜きもしたいってことか」  図星だったようで須藤は頭を掻いた。      3  なんでこうなってしまったのか。  それから五日後。  私は新幹線に乗って盛岡を目指している。  須藤の行方が分からなくなってしまったのである。盛岡行きを承認したのは私なので、責任は私に被さってくる。それに、この校了時期になんとか時間の都合をつけることのできる人間は編集長の私ぐらいしかいない。  私はまだ仙台の辺りをうろちょろしている新幹線に苛立ちを感じながら何度目かの目をファクシミリに戻した。電話での報告とともに須藤が送ってくれた新聞記事だ。三日前の夕方まで須藤の様子にまるで変わりはなかった。記事を捜し当てた興奮があった程度だ。私は須藤とのやり取りを思い浮かべた。 「面白そうな村です。図書館にきたついでにそっちの方も調べているんです」 「面白いって、なにがだ」 「得体の知れない新興宗教が盛んだったとこなんですね。昭和のはじめです。編集長は知りませんか?」 「知らんな。初耳だ」 「記事はこの電話の後に送ります。それでも少し触れています。編集長のお父さまはこの実態を調べに村へ潜入していたんじゃないですかね。なんだかそんな気がしてきました」 「よせよ、普通の村だったぞ」 「香山滋の『怪異馬霊教』という小説は、この村の事件をヒントにしているらしいんです」 「………」 「信者の一人が布教に反対する親族を皆殺しにしました。と言っても四人ですけど」 「いつのことだって?」 「だから昭和のはじめです」 「そんなに古い話なら無関係だ。俺が暮らしていたのは昭和四十年前後だよ」 「事件は闇に閉ざされたままです。犯人は自殺しました。今では新興宗教弾圧を目論んだ軍側の策謀だったんじゃないかと疑われています。実際、それが切っ掛けとなって村にあった施設は全部取り壊されたとか。それでも信仰が薄れたわけじゃない。軍や警察の目があったからおとなしくしていただけで、今でも信仰は続いているみたいですよ」 「どんな宗教なんだ?」 「蒼神を神体としているというだけで実態はちょっと……」 「あおがみ?」 「チャグチャグ馬コという祭がありますよね」  私は頷いた。盛岡の代表的な祭の一つだ。年に一度、盛岡近郊の農家が自分のところで使っている馬に綺麗な衣装をつけて八幡宮に参拝させるのんびりとした行事である。 「その行列の出発地点が滝沢村の蒼前《そうぜん》神社。その蒼という字と一緒です。香山滋はそこから馬を連想して馬霊教と名付けたんでしょう」 「その小説を読んだことがない」 「岩手山の真下に巨大な洞窟があって、異世界の住人がそこに暮らしているという話です。馬霊教の信者たちは、つまりその連中に操られて秘密を守っているという筋だったかな」 「そりゃまたとてつもない話だ」 「軍が関係したというのが事実なら、半端じゃない。よほど怪しい宗教だったことは間違いなさそうです」 「なんだか脇道にそれてるようだな。肝心の彼女の一件はどうなった?」 「そっちの方はなかなか……何軒かの中村さんに電話してみましたけど」 「もういいよ。それで十分だ」  そして須藤とはそれきりになった。  連絡が入らないので翌日に須藤の宿泊しているホテルに電話したところ、荷物はそのままフロントに預けて早朝から留守にしているという返事が戻った。夕方となり、夜になってもなんの音沙汰もない。忙しい時期であるのは須藤が一番知っている。もう一日待って、昨日の昼には大騒ぎとなった。なにかが須藤の身に起きたとしか思えない。当然、盛岡の警察にも連絡を取った。須藤の奥さんは昨日の夜から盛岡に入っている。警察はどうやら須藤が轢き逃げに遭って死体をどこかに遺棄されたか、蒸発の線を睨んでいるらしい。  もしかして私が調べを頼んだことと関係あるのではないか、と最初から疑ってはいたのだが、私はそれを警察には言わないでいる。  初恋の彼女の居場所を突き止めるための出張を命じたなどと知れれば私の進退も危うい。それに、そんな馬鹿なことがという気持ちも半分以上はあった。だから須藤は雑誌の特別企画の下調べで盛岡に出掛けたことになっている。同僚の部員たちもそう信じているから問題はない。私の照れが幸いしたのだ。 〈と言って……〉  いつまで隠していられるか自信はない。そのためにも私自身が解決する必要がある。須藤が向かったとすれば、あの村しかない。  私は溜め息とともにファクシミリを見た。  それには放火の疑いがあると書かれている。詳細は省かれているが、親父たちは村の人間と土地問題のことで諍《いさか》いがあったようだ。それで須藤も詳しく調査したのだろう。 〈俺ばっかりがなにも知らずに暮らしていたってことか〉  それが情けない。六歳やそこらなら大人の世界など知らなくて当たり前だが、それにしても記憶に残っているものが初恋の彼女しかなかったなど、自分でも呆れてしまう。 〈しかし……〉  放火にまで発展する諍いがあったなら少しは記憶していそうなものである。私には温かな家という思いしかない。それとも親父の方から敵対している家に出掛けて、家庭にはそれを持ち込まなかったのだろうか。 〈須藤はその真相を突き止めたのか?〉  まさかな、と私は笑いを洩らした。たとえそうにせよ、今回の失踪と関わりがあるとは思えない。三十五年前のことなのだ。やはり悪い偶然が重なったとしか考えられない。山道で迷っている可能性もある。 〈言うしかないな〉  下調べの中に、あの村の古い事件も入っていたと警察に言う程度なら大丈夫だろう。それで警察も動いてくれる。      4  その村にはタクシーで盛岡から一時間以上もかかった。そろそろ日暮れが迫っている。本当は盛岡に泊まる予定でいたのに、そうなると須藤の奥さんと顔を突き合わせていなければならない。それが辛くなった。  村の中心に一軒だけある宿屋に私は入った。  もしかして、と思ったが、宿屋に須藤の立ち寄った痕跡はなかった。昔はともかく、今は道が整備されていて盛岡から簡単に来られる。須藤も日帰りのつもりだったに違いない。まぁ、本当に来ていればの話だ。  私は須藤の奥さんに連絡した。警察の判断はどうやら蒸発に傾いているらしく、私の言葉にあまり乗り気ではなかったのだ。須藤の奥さんはしきりに恐縮していた。それで私の気持ちも少しは楽になった。 「あの辺りはどうなっています?」  やがて宿帳を持って現われた六十過ぎの太った女将に、私は家のあった辺りのことを質した。生きていればおふくろとおなじくらいの年齢のはずである。 「なーんにもないとこ」  女将は呑気に返した。 「昔、そこに住んでいたんですよ」  女将の顔色が急に変わった。 「住んでたって……お客さんが?」 「子供の頃。家が火事になって盛岡に移った」 「火事……」  女将は落ち着かない様子で私を見詰める。 「親父とおふくろがその火事で死んでね」 「それは……お気の毒なことをしましたの」  そそくさと宿帳を手にして女将は腰を浮かせた。私は慌てて引き止めた。 「うちはなんも知らんよ。大昔のことだ」  こっちが言う前に女将は遮った。 「今は皆平和に暮らしとる。関係ないわね」 「なにがです」  私は思わず声高となった。女将は首を何度も横に振って逃げるように立ち去った。  女将はなにか知っている。知っていながら隠しているのだ。帳場まで追いかけて問い質したい気分だったが堪えた。今のままだと喧嘩になるばかりだ。追い出されるのは構わないにしても、他に泊まる宿はない。  私は苛々とたばこを吹かした。  陰気な部屋のあちこちを見回しているうち、なんだか見覚えのあるような気がしてきた。この古さなら私が村に暮らしていたときも営業していたのだろう。親父たちへの客がここに泊まったことは十分に有り得る。そのときにでも訪ねているのではないか?  私は窓辺に立って景色と向き合った。  正面の高い山に水力発電の太い管が見える。 〈間違いない……〉  確かに知っている景色だ。私はここに立って、あの山を見ていたことがある。  村のたたずまいはすっかり変わってしまったが、その記憶は鮮明に残されている。  夕食の膳を運んで来たのは若い娘だった。 「女将とあとで話したいんだが」 「くたびれたとか言って寝ました」  娘はなにも知らない様子で応じた。 「俺もこの村は懐かしい」  場所を教えても笑顔で頷くばかりだ。 「ここから近いのかい?」  新聞記事で住所は分かっていても、村のどの辺りに位置するのか知らない。 「歩いてなら二十分ぐらいかしらね」 「村の歴史が知りたい。俺は東京でそういう関係の雑誌を作っているんだ」 「歴史なんて、そんなのないですよ」  娘はころころと笑った。 「役場辺りなら居るんじゃないか?」 「役場なら何人か知り合いが居るけど」 「明日案内して貰うにしても、今夜のうちに話を聞いておきたい。連絡が取れる?」 「偉くはないですよ。いいですか?」 「若い方がこっちもいろいろ頼みやすい」  私は娘に名刺を渡した。  一時間後に姿を見せたのは教育委員会に所属している三十代前半の男だった。少しは名刺の効果があったようで、娘とは直接の知り合いではなかった。 「須藤さんは一緒じゃないんですね」  小田と名乗って男は質した。 「須藤と会ったって!」  思わず声がうわずった。 「二日前に役場に来られましたよ。図書室の資料が読みたいと言って……教育委員会が図書室も管理してるもんで私がそのときに」 「その須藤の行方が分からなくなっている」 「どういうことです?」  小田はぽかんとした。 「須藤はそのまま帰ったわけ?」 「だと思いますけど……車だったからはっきりとは……参ったな、行方不明ですか」 「レンタカー?」 「タクシーじゃなかった」 「須藤はこの村で盛んだった蒼神信仰のことを調べに来ていた」 「そう言ってましたね。でも、資料なんてほとんど残されていないんですよ。村の恥だと言って戦前に全部が燃やされたそうです。生き神信仰は教祖が居なくなると廃れますから、すっかり熱も冷めたんでしょう」 「生き神信仰?」 「ええ。狐憑きみたいなもんじゃないですか」  遠い昔のことなので小田は自分とは無縁のように口にして苦笑いした。 「生き神さまの命令で村が動いた。それで軍や警察が介入して来たんだと思われます。今は、例の殺人だって、仕組まれたものだと考えている連中が多いです。犯人は生き神さまの身近に居た人間でした。そこを潰せば皆の目が覚めると踏んだんでしょう」 「軍や警察が?」 「特殊な毒薬で、一般には滅多に手に入れることができないものだったとか。犯人が自殺したんで曖昧になりましたけど、裁判になっていれば結果はどうなっていたか」 「ひどい話だ」 「軍と警察の力が強かった時代の話です」 「須藤にもその話を?」 「しました。それこそ、生き神さまの住まいがあったとされている場所が、そちらの家の近くなんですよ。須藤さんの言っていた土地問題というのもそれでしょう。生き神さまを神聖視し続けていた連中も何人か残っていたでしょうからね」 「よそ者は入るな、というわけか」 「それにしても、なんでまたあんな場所に家を建てたんです? 不便なとこだ」 「知らないが、親父はきっと蒼神信仰に興味を持っていたんじゃないかな」  そうとしか考えられなくなった。      5  本当に、なんでこんな面倒に巻き込まれてしまったんだろう。蒼い月明かりの中、家の跡地への道を辿りながら私は何度も吐息した。あの奇妙なオゾンの匂いを嗅ぎさえしなければ花奈子を思い出しもしなかったし、ここまで足を運ぶこともなかった。冒険などとは無縁な人生を歩んできた。平凡な女を妻に選び、高望みしない道を常に選んできたつもりである。両親の不審死にすら目を瞑《つむ》ってきた私なのだ。今だって引き返してしまいたい。けれど、須藤のことがある。須藤が役場を出た後に向かうとすれば私の家の跡地しかない。警察に捜索を頼む前に、まず自分一人でそれを確かめたかった。保身のためだ。私はそういう男である。そういう詰まらない男なのだ。  須藤が言っていたように、私は変になっていたのかも知れない。初恋の女など思い浮かべてぼんやりとしていた。今度のことは、その強烈なしっぺ返しだ。  恐らく須藤は跡地に向かう途中、運転でも誤って事故を起こしたのではないか。だれも近付かない場所なので発見が遅れているのだ。三日が過ぎた今では取り返しがつかない。 〈頼みもしないことに首を突っ込んで〉  私が望んだのは花奈子の消息だけである。親父たちの死因の詮索など余計なことだ。須藤への怒りが込み上がった。 〈俺は知らんぞ。俺とは関係ない〉  怒りは物寂しい道の怖さも押し退けた。  広い草原が蒼々とした月明かりと風とで海のように輝き、うねっていた。私はその中心に立っている。私の胸は今にも潰れそうだ。私は三十五年ぶりにここへ戻ったのだ。この風と草の匂い。そして周辺の岩や樹木、なにもかもが懐かしい。他人には荒涼としたものとしか映らないだろうが、私はここに二年以上も暮らしている。母に抱かれて一緒に見上げた星空がここにはある。泣きたくなった。じわじわと涙が込み上がってくる。 〈母さん……やっと帰ってきたよ〉  どうしてここに戻ろうとはしなかったのだろう。忘れていた思い出が次々に甦る。チビという柴犬を飼っていた。この草原をチビとともにどこまでも駆けた。チビが蛇をくわえて家の中に入ってきたときのおふくろの仰天した顔がありありと目に浮かぶ。冬は毎晩のように親父たちとトランプをして過ごした。親父はババを隠すのが上手で、いつもおふくろを騙しては引かせていた。おふくろの拵《こしら》える豚汁は甘くて美味しかった。お風呂はいつも三人で入った。お湯のかけあいっこでいつも大騒動だった。水鉄砲を持っているのは私だけなので、おふくろは親父の陰に逃げた。チビが病気で死んだとき、一番泣いたのは親父だった。皆でチビを裏の大きな木の下に埋めてやった。その木が私の前にある。チビは今でもあの下に眠っているだろうか。チビにはいつまでもぼくたちを守ってと頼んだのに。  ぽろぽろと涙が溢れた。  親父とおふくろはきっと私に失望しているに違いない。天文学者になって宇宙旅行をするんだと親父に誓ったじゃないか。それなのに私は……接待の伝票をごまかしては競馬に注ぎ込んだりしている。 〈思い出したくなかったんだ。なんだか思い出すのが怖くてさ……〉  私は親父とおふくろに謝った。二人が生きていれば私も少しはまともな人間になっていただろう。それは確かだ。  岩に腰掛けてたばこを喫っているうちに私の心も静まった。須藤は結局どうしたのだろう。あるいはもっと奥にある花奈子の家を目指したとも考えられる。となりの家と言っても五百メートルは離れている。 〈花奈子の家はまだあるんだろうか〉  見付けられないと須藤が報告してきたので転居と決め付けていたが、それは電話線が通じていないせいだった可能性がある。電話がなければ須藤が捜せなかったのも当然だ。 〈もしかして花奈子がまだあの家に……〉  一人娘だった。婿を迎えてもおかしくない。  私はたばこを丁寧に揉み消して腰を上げた。  毎日のように遊びに出掛けていた家だ。目を瞑ってでも行くことができる。  林の向こうが花奈子の家だ。  私は勇んで歩きはじめた。  幼い頃の胸の弾みが甦ってくる。  遊び友達は花奈子しかいなかった。いつも花奈子と二人きりで鬼ごっこや隠れんぼをした。あの、とても大きな家で。 〈……?〉  なぜ花奈子は学校に行っていなかったのだろう。九歳か十歳だったはずなのに。 〈そうか〉  重い病気で学校には行けないのだと花奈子のばあやから聞かされたんだっけ。それで空気のいい田舎に移ってきたのだ、とも。 〈別荘だったんだ〉  今になって私は気付いた。そう言えば花奈子の親と一度も会った記憶がない。優しいばあやとじいやが花奈子の世話をしていた。須藤が捜せなかったのは単純な理由だったのだ。この村の人間でなければ手掛かりがとぎれる。二人も使用人を雇って娘の面倒を見させていたのだから、花奈子の親は相当な金持ちだったに違いない。きっと花奈子も私が盛岡に移った後にどこかの町へ戻って行ったのだ。 〈なんにも分かっていなかったんだな〉  親父たちが土地の問題で村の連中と諍いを起こしていたことも、花奈子がたった一人で病気と戦っていたこともだ。私はただ親父たちに甘え、花奈子と遊んでいた。  どきっ、と私は立ち止まった。  林を抜けた途端、淡い明かりの点されている家が目に飛び込んできたのである。  花奈子の住んでいた家だ。  記憶のままに残されている。古びた印象がないのは蒼い月明かりに包まれているからだ。 〈まさかな……〉  一瞬、花奈子がまだ暮らしているような思いにとらわれたが、別荘であるならその可能性は薄い。三十五年が過ぎたのだ。それでも胸の高鳴りはなかなか止まなかった。思わず足早となる。私はついに門前に立った。 〈憶えている……〉  美しい庭を目にして私は吐息した。おなじ状態を保っているということは所有者に変わりがないのを意味している。  広い玄関のたたずまいも懐かしい。  あの頃のように彼女の名を呼びながら駆け込んでいきたい。病気だったという記憶がないのは、いつも花奈子が元気に迎えてくれたからだ。花奈子は私を強く抱きしめてくれた。あのときのうっとりとするような恍惚。おふくろとはまるで違う匂いがした。甘酸っぱくて、鼻をくすぐるような…… 〈花奈子の匂いだったんだ!〉  私はとうとう思い出した。  だからオゾンの匂いを嗅いだとき反射的に花奈子の顔が瞼に浮かんだのである。 〈しかし……〉  どうして花奈子からあんな匂いがしていたのだろう。いやいや、花奈子ではない。この家全体にその匂いが染み込んでいた。だんだんと記憶が戻ってくる。そうだ、この家の奥に青白い電球がいくつも点された不思議な部屋があったのである。花奈子はどうやらその部屋で眠っていたらしい。その部屋ばかりはどんなに私がせがんでも入れてくれなかった。ドアを少しだけ開けて見せてくれた程度だ。 〈治療室?〉  オゾンには強力な殺菌効果があると言う。例の器械の説明書にそう記されていた。肌の染みも雑菌が関わっているそうだ。 〈なんの病気だったんだろう〉  家全体が匂うほどのオゾンと言えばとてつもない放射量だったに違いない。想像して薄気味悪さを覚えた。  不意に玄関の明かりが点された。  私は身動きできずに立ちすくんだ。  ドアが開けられて子供が顔を覗かせた。  その顔が私に真っ直ぐ向けられる。  がたがたと膝が震えた。  有り得ない。  それは……花奈子だった。  有り得ない。  だが、花奈子にしか見えない。 〈花奈子の子供に決まってる〉  そう言い聞かせるのだが、あまりに似ている。私は恐怖にあとじさった。 「だれなの?」  こんな夜だと言うのに、女の子は物怖じせずに私に問い質した。 「ここは中村さんの家だよね?」  喉が貼り付きそうなくらいに渇いている。  女の子はゆっくりと頷いた。 「もしかして花奈子さんのお嬢ちゃん?」 「あなた、だれ」  女の子の顔が強張った。大人の目になる。 「ママの知り合いだ」  私は名乗った。女の子は驚いた顔をしてドアを乱暴に閉じた。私は駆け寄った。 「ママに言ってくれれば分かる。子供の頃、ママとはよく遊んだ。嘘じゃないよ」  玄関の明かりがいきなり消された。こっちにもなにが起きたのか分からない。私はしつこくドアを叩いた。子供が一人でこの別荘に来ているはずがない。花奈子もきっと居る。ドアに耳を寄せて中の様子を窺った。  ドアからはあの匂いがしていた。 〈………〉  匂いが染み込んでいるのだろうか。信じられない。三十五年も消えないなんて…… 「花奈子ちゃん、俺だよ! 君に会いたいと思ってやって来たんだ」  匂いが私を昔に戻した。あの花奈子ちゃんが私を避けるなんて有り得ない。  ドアが静かに開けられた。私は中を覗いた。  さっきの女の子が薄暗がりに立っている。  オゾンの強烈な匂いが伝わって来た。女の子の背後には青白い光が輝いていた。廊下の奥の部屋の扉がすっかり開いている。女の子は誘うようにその部屋へと向かった。私は中に入った。靴を脱いで女の子の後を追う。花奈子がそこで待っているのだろう。怪しむ余裕さえなかった。花奈子に会えるという気持ちだけが私の心を占めていた。  私は蒼い部屋に足を踏み入れた。  頭がくらくらとなるほどの匂いだ。  私は確かにこの部屋に入ったことがある。 〈あれはいつのことだったろう〉  眩しい輝きで女の子の姿も見えない。 〈あれはいつのことだったんだ?〉  私は必死で記憶を手繰り寄せた。 〈あれは火事のあった夜のことだ〉  そうだ。それに間違いない。花奈子は私をこの部屋で抱き締めながら、今夜は家に帰るな、と言った。親父から預かるように頼まれたのだと言う。私は喜んで花奈子に従った。はじめて花奈子の家に泊まることができる。  けれど、その夜に親父たちは死んだ。  あれはただの偶然だったのだろうか。  いきなり、恐ろしい記憶が戻った。  私は花奈子と一緒のベッドに寝ていた。  夜中に目が覚めて不安になった。  部屋は蒼い光に満たされている。  私は家に帰ろうと思った。  花奈子の肩に手を当てて揺り動かした。  そうしたら……  その皮がずるっと大きく滑った。  花奈子は振り向いた。花奈子の顔は明らかに歪んでいた。頬に縦の皺が何本もできている。花奈子は薄笑いを浮かべた。花奈子は人の皮を被っていたのである。  私はそれを思い出して悲鳴を発した。 「相変わらず弱虫」  私の目の前に女の子が顔を見せた。こいつは娘なんかじゃない。こいつは…… 「花奈子よ。おひさしぶり」  花奈子はくすくすと笑った。 「二度と私の前に顔を出さないように処置したつもりだったのに……思い出したのね」  その記憶も甦る。私はばあやに押さえ込まれて注射をされた。この花奈子にだ。 「君は小さかったから殺したくなかった。それが失敗だったというわけね。あの怪しい男も君が送り込んで来たんだ」 「須藤のことか? どこに居る」 「皆で始末してくれたわ」 「君は……何者なんだ?」 「知ってどうするの?」  花奈子はほがらかに笑った。 「知っても無意味じゃないの」  花奈子はのんびりとベッドに横たわった。  匂いがますますきつくなる。  眩暈で立ってもいられない。  私の膝は崩れた。  蒼神は花奈子のことだった。  それだけは私にも理解ができた。  花奈子の笑い声が微かに耳に響いている。  初出誌 『オール讀物』    夏の記憶  平成八年七月号    幽かな記憶 平成八年十一月号    記憶の窓  平成九年二月号    棄てた記憶 平成九年五月号    水の記憶  平成九年八月号    鏡の記憶  平成九年十一月号    夢の記憶  平成十年二月号    愛の記憶  平成十年五月号    嘘の記憶  平成十年八月号    炎の記憶  平成十年十一月号    欠けた記憶 平成十一年二月号    蒼い記憶  平成十一年五月号  単行本 平成十二年一月 文藝春秋刊 〈底 本〉文春文庫 平成十五年二月十日刊