高橋克彦 緋 い 記 憶 目 次  緋《あか》 い 記 憶  ねじれた記憶  言えない記憶  遠 い 記 憶  膚 の 記 憶  霧 の 記 憶  冥《くら》 い 記 憶   あ と が き   文庫版のためのあとがき  緋《あか》 い 記 憶     1  互いに学生時代に馴染《なじ》んだ新宿の、分かりやすい喫茶店のはずだったのに、加藤は約束の時間を四十分過ぎても姿を見せなかった。私はじりじりと煙草ばかりふかした。次の約束には充分間がある。それは心配ないが、さすがにこれだけ待たされると、逆に私の方が場所を間違えているのではないかと不安になった。会いたいと言ってきたのは加藤である。時間も彼の東京出張の空きに合わせてのことだから、遅れると困るのはむしろ彼のはずだ。確か彼も夕方から支局の人間と打ち合わせがあると話していた。こんな時に連絡係りを務めてくれる家族でもいれば便利だろうが、あいにくと私は四十の歳《とし》で独身だ。今頃無人の私の部屋に加藤からの電話が鳴り響いているのかも知れない。 〈それにしても……〉  店の名前が変わっているとは想像もしていなかった。しかし、位置は間違いないのだから、加藤だってたとえ名前が別でもこの店にくると思うが……私は覚悟して、もう三十分ほど待つことにした。いらいらしたって加藤を捜す方法はない。時計から離した私の目に加藤の姿が入ってきた。レジの側《そば》から落ち着かない目で広い店内を見渡している。私が頷《うなず》くと、加藤はホッとした顔で軽く手を振った。 「申し訳ない」  加藤はソファに紙袋を置くと、額の汗を掌《て》で拭った。変わらない。五年振りだというのに、痩せた体型も、黒々とした髪も、アイビーっぽいラフな服装の好みも昔のままだ。どう見ても三十代前半といったところだ。 「ギンガムチェックのカッターシャツか。そんな恰好で支局の人間と会って平気か」 「ディレクターなんてどこもこんなもんさ。本社のお偉いさんにゃ、まだビートルズカットのヤツもいるぜ。不精なんだろうけど」  加藤はアイスコーヒーを注文すると、紙袋から岩手の名物イカ徳利《どつくり》を取り出した。スルメを使って徳利に仕立てたものだ。それに酒を入れて飲むとなかなかいける。飲んだ後は抓《つま》みにもなるので観光客には人気が高い。 「ちょうど売店で見掛けてね。まあ、おまえさんには珍しくもなんともなかろうが」 「ありがたいがね……オレは独り身だ」 「だから?」 「なんとなく侘《わび》しくはないか? なんでか知らんがイカ徳利と聞くと円いちゃぶ台を連想する。暗い裸電球もな」  アハハと加藤は笑った。 「どうして結婚しない? おまえさんほど有名なら相手にも困らんだろうに。今じゃ押しも押されもせぬデザイナーだ。まわりにいくらでも美人がいそうだ。それとも、あんまり目移りしすぎて決められんか」 「欲望の少ない性質《たち》だ」  私の冗談に加藤はニヤニヤした。 「そっちこそモテて大変じゃないのか。TVと聞いただけで涎《よだれ》を垂らす女が大勢いる」 「東京とは違うさ。アイドル歌手を揃えた番組を作っているわけじゃない。それにもう四十なんだぜ。この業界じゃ年寄り扱いだ」  加藤は運ばれてきたアイスコーヒーを半分ほど一気にストローで吸い込んだ。 「しかし……店の名前が変わっているなんてまったく考えもしなかった。間に合いそうもなかったんで電話入れようとしたんだが」 「半年前までは昔通りの名前だったはずだ」 「慌てたぜ。神保町から新宿ならどんなに急いだって三十分はかかる。東京じゃタクシーも当てにできんしな。おまえさんなら必ず待っててくれると安心していたけど」 「神保町……」 「早めに着いたんでブラブラしていた。そいつが裏目になった。あそこにいると時間なんて忘れちまう。盛岡には古本屋が少ない。ついつい夢中になって歩きまわってね」 「なにか面白い本でも見つけたかい」 「ああ。岩手のヤツをな」 「へえ。神保町で岩手の本か」 「でもないさ。あそこにゃ郷土史関係の専門店がたくさんある。盛岡よりも珍しい本が結構並べてあるよ。こっちの方が高く売れるからじゃないのかね。盛岡市史もあったな」  私も頷いた。関心もないので真剣に覗《のぞ》いたことはないが、老舗《しにせ》の一誠堂にもそういうコーナーがあったような気がする。 「で? どんな本」 「昭和三十八年版の盛岡住宅地図」 「住宅地図? なんだそいつは」 「住宅地図だよ。それ以外に説明なんかできるか。おまえさん、知らんのか」 「普通の地図とは違うんだろ」 「ふうん。東京のもあるはずなんだが。あっちじゃ普通だぜ。細かく家の一軒一軒を記入してあるもんでさ。運送会社やタクシー会社が使っている。住所と名前さえ分かれば、その地図で家がどこにあるのか一目瞭然だ。世帯主の名前が全部書かれてある」 「全部! アパートなんかでも?」 「ああ、もちろん。高層マンションなんかになると地図に直接記入できないから、後ろの頁に別記してあるがね。説明なんかより見りゃ分かるよ。相当|黴臭《かびくさ》いけど」  加藤は紙袋をゴソゴソやってB4判の原稿用紙程度の地図帳をテーブルに置いた。地図と聞いて大きな紙を想像していた私は、その分厚さに驚いた。七、八十頁はある。 「これが全部盛岡の地図か?」 「当然だろう。町の輪郭じゃないんだぜ。家の一つ一つを書き込んである。世帯主の名前だって読み取れる大きさにするには一頁にせいぜい二百軒ぐらいしか……どう頑張ったって三つ四つの町内しか収まらん」  私は唖然《あぜん》とした。そんな地図が必要なものだろうか。いくら運送会社に便利だと言っても、盛岡程度の小都市なら数も知れている。 「配達業務は運送会社だけと限らん。酒屋だってそうだろうし、新聞屋もおなじだ。それに、これだけ細かい地図なら狭い路地まで分かる。消防署も重宝しているはずだ。アイデア次第でどんなことにも使える」 「しかし……町は毎年変わる」 「だから、地図も毎年発行されている。普通の市街地地図なら五年とか十年のサイクルだが、こっちは年に一回。しかもこいつは三十八年のものだからこの程度の厚さで済んでるけど、現在の地図は四百頁近くもあるよ。電話帳とおなじぐらいだ」 「信じられんな」  私は溜め息を吐《つ》いた。 「まあ……東京じゃ普通は無理だろうさ。これだけ大きな都市ともなれば、地図も膨大になりすぎる。簡単な区分地図でも百頁近い。この新宿でさえこういうやり方で作成したら最低でも三百頁は必要だ。下手すりゃ二十三区で七千頁を越しちまう。と言って一区だけを持っていてもあまり仕事の役には立たん。それで、おまえさんも住宅地図の存在を知らなかったんだろう」  七千頁の地図ともなれば、どんなに安く見積もっても揃いで二十万円はしそうだ。しかも毎年改訂版が出るとあっては…… 「だろうね。現在発行されている盛岡の住宅地図だって一万円以上する。東京なら三十万でもむずかしい。結局は金の問題だな」  加藤は首を振った。 「しかし……なんのために、こんな地図を買う? 三十八年なら使い道がなかろう」  私は戸惑った。たとえ安くても、二十年以上も昔の地図だ。それとも骨董《こつとう》品的な価値でもあるのだろうか。 「趣味だよ。趣味」 「こいつが?」 「発行部数も少なかったらしくて、地元でもなかなか手に入らない。図書館に行けば保存してあるけど、やっぱり手元に置いてじっくりと眺めていたいじゃないか」 「妙な男だな。そんなに楽しいかね」 「おまえさん……三十八年には市内のどこに暮らしていたっけ?」  加藤は思いついた顔で質《ただ》した。 「三十八年っていうと、十七の頃か」  高校二年の時だ。目の前にいる加藤とは一緒のクラスだった。 「菜園の祖母のところに下宿していた」  古くは南部藩の野菜畑があった場所だ。現在は盛岡の中心地帯となっている。私はそこにあった祖母の家で高校時代の三年間を過ごした。私の自宅が盛岡から汽車で一時間も離れた田舎にあって通学に不便だったのだ。 「もっと詳しい町名を覚えているか?」 「老松《おいまつ》町」 「世帯主の名字は?」 「木村……それも載ってるのかい」 「当たり前だ。でなきゃ地図じゃない」  加藤は苦笑しながら地図を捜した。五分もしないうちに加藤は顔を上げた。 「道路に向かって──右隣りが鈴木さんだ。そのまた右隣りに『つぼ半』がある。これは今もあるな。あの中華料理屋だろ。真向かいが田村信一さんの家。左隣りは小原。なるほど、今のホテル・ニューカリーナは高橋さんという家の跡地に建てられたんだ」  私は聞きながら鳥肌が立った。加藤の言葉の一つ一つに鮮やかな記憶が甦《よみがえ》ったからだ。田村さんの黒い板塀の前には狭い小川が流れていて、子供の頃にはよくその小川にカーバイドを投げ入れて遊んだものだった。五歳の時から小学校四年までの間も、私は転勤の多い親父の関係で祖母の家に預けられていたのだ。だから高校の記憶と子供時分の記憶がついつい重なってくる。高橋さんの庭は広大で、鬱蒼《うつそう》とした樹木が生い茂っていた。今にして思えば大した広さでもなかったのだろうが、子供心にはまるでジャングルのように感じられた。いつもひっそりとして、家人の姿を見た記憶はない。大きな犬が時々|唸《うな》り声を上げていた。白壁の高い塀が四方を囲っていて、あそこには怪人二十面相が隠れていると本気で考えていた。  私は加藤から地図をひったくった。  開かれている頁には私の町がそのままの形で凍結保存されていた。  祖母の家の裏手には、今はない料亭「音羽」も存在している。夜中にトイレに行くと、その狭い窓から音羽の二階廊下が見えた。私がこっそりと覗いているのにも気づかず、廊下の手摺《てすり》に凭《もた》れて口づけをしている男女がいたり、胸元をはだけて風を送りこんでいる若い芸者もいた。その真っ白な肌が目に浮かぶ。 〈ラブリー・コーナーか〉  玄関を出て大通りに向かう角を曲がった直ぐのところにある店だ。ここも淫靡《いんび》な印象がある。この歳になって思えば、ただのスナックでしかないけれど、二階の私の部屋からその店の赤い窓が覗かれて、いつも深夜まで女たちの笑い声が響いていたものだ。夏になって客同士の喧嘩や女の甘えるような声が開け放った店の窓から流れてくると、私は部屋の電気を消し、じっと耳を澄ました。夕方に出勤するその店の女の子の、真っ白な丸い顔が唐突に思い出された。胸の豊かに突き出た小太りの体つきで、いつも銀色のハイヒール。学校帰りの私と角で出会うと、必ず「早く大人になってね」と声をかけてくる変な女だった。厚く化粧していたので大人に見えたが、実際は三、四歳しか違わなかったのだろう。酔っ払った彼女が禿《は》げた頭の男に肩を抱かれながら、引き摺《ず》られるように歩いているのを二階から胸をどきどきさせて盗み見た覚えもある。名前は正子と言ったはずだ。  たった一度だけだが彼女にはお茶を御馳走になった。本屋で立ち読みしていたら肩を叩かれて松竹の地下にあったフジヤ・パーラーに誘われたのだ。なんであっさりとついていったのか自分でも分からない。恐らく、下品な期待をしたんだろう……互いに共通の話題もなく、趣味を聞かれて怪談映画のことを一人で話し続けた。大映で赤座美代子が主演した「牡丹灯籠」に夢中になっていた頃だったか? いや、あれはもう少し後だ。岡田|茉莉子《まりこ》がお岩を演じて評判になっていた夏のような気がする。「あんたの学校、皆、坊主頭にしなくちゃいけないんだってね」彼女が映画の話に興味を失った顔で私に言った。「国語の先生に吉本っているでしょ。あいつ私のお得意様よ」なんだか目の前の彼女がひどく不潔な気がして、一刻も早くパーラーを飛び出したくなった。その頃|流行《はや》っていたのか、四角く折り畳んだハンカチを扇子《せんす》代わりにパタパタさせていたのも目に浮かぶ。 「どうだい? ちょいとしたタイムマシンだとは思わないか」  地図を食い入るように見詰めている私に加藤がしたり顔で笑った。 「卒業アルバムや古いレコードなんかより、こいつの方がずっと鮮明に思い出す」 「そうだな。はじめての経験だ」  私は地図から目を離した。 「家には三十三年から四十五年あたりまでのヤツがだいたい揃っている。酒を飲《や》りながら一人で眺めていると、不覚にも涙が零《こぼ》れてくるよ。醤油屋のショーちゃんて友達がいてな。小学校の時、家が火事に遭って皆死んじまった。ちょうど三十三年の地図にあいつの家が載っていた。その小さな地図の中に、まだショーちゃんが生きているような感じがしてさ。発見した時はオイオイ泣いちまった。そんな友達がいたってことさえ忘れていたんだぜ」  加藤はいい歳をして涙ぐんだ。 「住宅地図を集めるようになったのは、それからだ。オレの今暮らしている盛岡は、本当の盛岡じゃねえ。オレの町はこの地図の中にある。だから、どんなに古い町並みが壊されたって平気だよ。少し前までは保存運動にも協力していたけど、今はどうでもいい。抜け殻を大事にしても意味がないしな」 「………」 「歳のせいかもしれん。余計な話だ」  加藤は残りのアイスコーヒーを飲み干した。 「さてと……それで来週はどうする?」 「まだ予定が立たない。だいたい、厄《やく》落としなんて東北だけの習慣だ」  特に岩手と秋田が盛んである。男の四十二の厄を払うために、仲間が集まって結婚式並みの盛大なパーティを開催する。普通は二月の末までにやるらしいが、どうせならクラス会も一緒にしようとだれかが提案して、合同の厄落としが企画された。私にも無論案内がきた。しかし、気の合った仲間だけならともかく、クラス会となればやたらと気を遣う。もともと厄落としをしなければと心配するほど迷信深くもない。欠席の返事を出したら加藤から電話があったというわけだ。彼も幹事の一人だったらしい。 「まあ、無理にとは言わんがね。おまえさんが出席してくれるなら会に弾みがつく。盛岡に何年も帰っちゃいないだろう」 「十五年かな。もっとも、仕事で日帰りってのは何度かある」 「新幹線がきてから変わったぜ。オレたちゃ毎日暮らしているんで変化もあまり気にならんが……初恋の女にも会いたいんじゃ?」 「初恋?」  私の心が騒いだ。 「おまえさんと付き合っていたという女を何人か知っている。やっぱり有名税ってやつかね。どこまで本当か分からんけど、自分から言い触らしている」 「名前は?」  加藤は三、四人の名前を挙げた。他の高校の絵画部にいた谷藤|万里子《まりこ》の名前が混じっていた。何度か二人で展覧会を見に行った程度の仲だ。他の名前には大して記憶がない。 「マリちゃんは飲み屋のママだ。せっかく再会させられるのを楽しみにしていたんだがな」  加藤はクスクスと肩を揺すった。 「おまえは、こと女に関する限り秘密主義だったから……あんまりゾロゾロと名乗りを挙げる女がたくさんいてびっくりしたぜ」 「付き合ってたというほどの関係じゃない」  私は話をこちらから打ち切った。第一、万里子に手酷《てひど》いフラれ方をしている。今になって付き合っていたと聞かされると、懐かしさよりも不愉快さが先に立った。才能は感じられなかったが、抜きんでた美貌で美術仲間のマドンナだった女性だ。彼女を頭に描いてキャンバスに向かったこともある。飲み屋のママなら似合った仕事かも知れない。 「この地図をコピーさせてくれ」  私は加藤に頼みこんだ。そんな現実的な思い出よりも、私にはもっと淡い記憶があったからだ。それを確かめてみたい。 「全部か?」 「できるなら」 「それなら預けておくよ。後で送り返してくれればいい。今日は時間がちょいとな」  その方が私にも好都合だ。     2  私は二、三日落ち着かない日々を過ごした。 〈どうしてなんだ?〉  まったく理由が分からない。あれは東京オリンピックがあった年だから、間違いなく三十九年のことだ。建てられて二、三十年は経っていたはずの古い家だ。絶対に三十八年のこの住宅地図には掲載されていなければならない。なのに、どうしても見当たらない。 〈記憶が混乱しているのか?〉  場所を勘違いしている可能性はどうだろう。そう思いついて私の知っている町内すべてを目を皿のようにして捜して見たが、これと思い当たる家は発見できなかった。ヒマがある限り地図の小さな文字を睨《にら》んでいるので、神経が疲れる。それでも諦《あきら》め切れない。私が高校を卒業して以来、ほとんど盛岡に帰らなかったのは、その家にすべての原因がある。ない、では簡単に済まされない気分だ。  私はウィスキーの水割りを片手に、これで十何度目かの地図を広げた。祖母の家を起点にして高校までの道順を指で辿《たど》る。その途中にその家はあった。それは確かである。けれど、毎日おなじ道を歩いていたわけではない。近道、回り道、あるいは友人の住んでいた家を通って行く道。たまには大通りを横切って裏道を選んだこともあっただろう。三年間通った高校なのだ。今では一番多く利用した最短の道しか印象にないが、恐らく五十通りくらいの道があったのではないか?  私は必死に記憶を探った。  まず玄関を出てから右を選ぶか左を辿るかでずいぶん違う。右なら大通りに向かって丸藤菓子店に出るか、その手前を右に折れ、東映の角を曲がって映画館通りを白百合女子高校の方に上がって行く。その先は選択肢が無数にある。それは左を選んだ場合も同様だ。柳新道に突き当たるとカワイダンスホールのある右手の道と、駅に繋《つな》がる大沢川原に通じる左の道。どちらからでも高校へは行ける。せいぜい時間にして五、六分の差でしかない。 〈これじゃあ埒《らち》があかんな〉  知らない町であれば道への記憶も鮮明だろうが、こちらは子供の頃から含めると十年以上は盛岡に住んでいる。ほとんどの道に歩いた記憶があるのだ。 〈絶対にあそこだと思っていたのに……〉  私の目はふたたび上田|界隈《かいわい》を記入してある頁に戻った。どう考えてもこことしか思えないのに、地図ではそこが空き地となっている。ただの空白なら記入洩れというのも有り得るが、はっきり空き地と書かれている限り、調査済みと見做《みな》して間違いはなさそうだ。  私の苛立《いらだ》ちは限界に達した。  こうなれば、自分の目で確かめる他に方法がないのではないか?  たとえどんな結果が待っているにせよ、いずれカタをつけなければならない問題だったのだ。地図にない、というのが弾みをつけた。ここに記入されていないからには、もちろん、今はないはずだ。それなら耐えることができるかもしれない。それでも……私の胸は恐怖に満たされていた。鮮やかな緋色《ひいろ》が私の瞑《つむ》った瞼《まぶた》の裏側にじわじわと広がった。     3 「嬉《うれ》しいね。あの感じじゃ無理だろうと諦めていたんだ。どういう風の吹きまわしだ」  新幹線の改札口まで迎えに出てくれていた加藤が私の掌を強く握った。 「初恋の女が利《き》いたかな」 「まさか。町が見たくなっただけさ」 「どうする? まだまだ時間に余裕がある。疲れているならホテルで休憩していても構わんが。よければ案内する」 「そのつもりで早めに出てきた。仕事の方はいいのかい?」 「若い連中に任せてきた。そっちの方がいい仕事をしてくれる。どれ、荷物を持とう」  加藤は気軽にバッグを受け取った。 「ご希望の場所は?」 「高校の周辺を歩きたい」 「それだけか?」 「ああ。だから、付き合ってくれる必要もない。ブラブラする程度なんだ」 「付き合うよ。あのあたりは特に変わっちまったからな。まさか迷子になるなんてことはなかろうが……解説者つきの方がいい。なにしろオレは古い盛岡の権威だから」  加藤はニヤニヤしながら階段を降りてタクシー乗り場に向かった。階段下のコインロッカーでは大勢の観光客が荷物の出し入れをしている。この盛岡に見物する場所がそんなにあるんだろうか。少し不思議な気がした。東北新幹線の行き止まりというだけで、あまり見るものはない。 「そう卑下したもんでもねえよ。オレたちには見慣れたものでも、石割り桜はやっぱり珍しがられるし、擬宝珠《ぎぼし》のある上《かみ》ノ橋の欄干だって今の時代じゃ懐かしい。市内を走る観光バスだって毎日運行されているんだぞ」 「ふうん。そんな時代か」 「そんな時代だ。昼に小岩井農場でジンギスカンを食って、夜に市内の店でわんこ蕎麦《そば》を食う。それで結構満足してるさ。今はグルメブームとかで、歴史よりも食い物の方が優先される。山菜や三陸海岸で獲《と》れる海産物を目当てにくる団体客も目立って増えた」  加藤は先にタクシーに乗り込んだ。 「わんこ蕎麦は食うかい?」 「よせよ。オレは観光客じゃない」  私は舌打ちした。遊びで競争するなら楽しいだろうが、地元の人間はほとんど食べない。忙しくて食事という気分にならないのだ。 「じゃあ、パーティが終わったら冷麺でも食いに行こう。食堂園が改築して奇麗になった。あれなら食えるだろう」 「そんなのがあったっけ?」 「なんだ、知らんのか。盛岡の冷麺は今や日本を代表する味だぜ。本場の韓国よりもずうっと旨《うま》いと評判だ。独特の麺でな。東京のとは腰が違う。チョー・ヨンピルが食って感動したとか、しないとか。最初はキムチがどっさり入った真っ赤なスープを見てだれでも尻込みするけれど、三、四回我慢して食っているうちに、麻薬のように体が要求しはじめる」 「三、四回我慢するってのが大変そうだ」 「冗談だよ。ホヤと一緒さ。口が馴れると、あんなに旨い食い物が他にあるかって思うようになる。どうも岩手はそんな食い物だらけだな。山菜の王様って言われるシドケにしたって、まともに考えりゃただの草じゃねえか。苦いばかりか舌までピリピリしやがる。それでも春になって飲み屋でシドケの文字を見ると反射的に注文しちまうんだ。まったく、どうなってるのかね」 「ヤマトのハヤシは健在だろ」 「ある、ある。場所も大通りのビルに移ってすっかり新しくなったけどハヤシライスは昔の味だ。仕事の先々でハヤシを食うが、あそこの味が日本で一番だ。あれはパックに詰めて持ち帰りができる。なんなら土産に買っておこうか」 「いいよ。腹が減っているんじゃないか? さっきから食い物の話ばかりだ」 「当たりだ。今日は昼を抜いている。別に意地汚くパーティを当てにしたんじゃない」 「それなら、歩きまわる前に軽く食おう。ついでにちょっと聞きたいこともあってね」  加藤は頷くと運転手に行き先の変更を告げた。大通りに行けば食べる店はいくらでもある。ヤマトがいいだろ? と加藤は質した。 「北斗のボルシチの味は覚えているか?」  私は訊ねた。映画館通りの真ん中にあったロシア料理店だ。高校生が簡単に行けるような雰囲気ではなかったが、ロシア文学が好きな叔父に連れられてよく入った店だ。 「知ってるさ。あそこはオレたちが高校の頃に潰れたぜ」  私も頷いた。ただ確かめたかっただけだ。 「地図にない家を捜す?」  加藤は戸惑いを隠さなかった。 「どういうことなんだ?」 「オレにも上手く伝えられない。しかし、簡単に言うとそうなる」  私は軽い溜め息を吐くと、ヤマトの現代的な店内をあらためて見渡した。清潔そうだが味気ない。冬になると真ん中に大きなストーブを据えて、春の陽だまりのような店だったのに……靴の底に粘りつくようなリノリウム張りの床の感触も懐かしく思い出される。 「上田あたりは今どうなってる?」  ビールを加藤のグラスに注ぎながら私は慎重に話を進めた。肝腎の点は隠さないと…… 「上田って言われても広うござんすよ」 「専売公社の裏手の方だ」 「公社の跡地に中央病院が建った。あの辺なら変わったのはそこだけで、他はあんまり変化もない。近くにバイパスができたために開発から取り残されたって感じだな。うん、確かにあの周辺なら昔の面影がある」 「公社の側に寺があったろ」 「正覚寺か。もちろん今だって」 「その門と平行して細い路地があった。上田教会に向かう坂道に通じていた」 「ああ、そうそう」 「その路地の右手が空き地になっている」  私は住宅地図のコピーを広げた。加藤は首を伸ばして地図を覗きこんだ。 「なるほどね。広い空き地だ」 「ここに古い家があったはずなんだ」 「………」 「オレが覚えているのはオリンピックの年だぜ。一年前の三十八年の地図に掲載されていないってのは不思議じゃないか」 「………」 「貸家だったからかな」 「いや、貸家でも載るし、住んでいる人間がいなくても空家と記入される。でなきゃ役目を果たさん」 「やっぱりそうか」 「空き地とあるからにゃ……単純な記載洩れとも思えんな。勘違いじゃないか」 「そいつは何度も考えた。しかし、どうしてもここだとしか……まわりの家には記憶がある。原っぱの真ん中にポツンとあの家があったんだ。それがこの地図に記入されている空き地のことだと思う」 「なにが気になる?」  加藤は私をじっと見詰めた。 「今となりゃどうでもいいことだろう」 「………」 「第一、おまえさん、なんで上田の裏道なんかを詳しく知っているんだ?」 「学校の帰り道さ」 「まさか。高校から菜園の行き帰りに上田は通らんぜ。反対方向じゃねえか」  私は唖然とした。 「だが……オレは学校の帰りに」 「だから、遠回りする理由でもあったんだろ。好きな女の家でもあったのと違うかい」 「そうだろうか……」  自分でも分からなくなった。あの家にそういう思い出があるのは間違いない。けれど、あの家と関わり合いを持つまで、自分がどういうキッカケであの界隈をうろついていたのか、それが記憶から失われている。加藤に言われるまで、てっきり行き帰りの道だと信じて疑いもしなかった。 「上田なら……マリちゃんの実家がある」 「谷藤万里子の!」 「そう聞いてるよ。親父さんが亡くなって家を取り壊した。今は駐車場にしてるが、ゆくゆくはアパートを建てたいと言ってた」  そうか、と私は頷いた。思い出したのだ。万里子に片思いしていた私は彼女の住所を調べると、下校時間を見計らってあの界隈を歩きまわっていたのだ。偶然出会ったフリをして声をかけるつもりだった。 「ええと……谷藤、谷藤……あった、あった。なんだ。おまえさんの言う空き地の直ぐ側だぜ。空き地から九軒しか離れてない」  それもはっきりと思い出した。人間の記憶なんてタカが知れている。強烈な記憶が被《かぶ》されば、別の記憶は霧散してしまうのだ。 「だんだん分かってきたよ。マリちゃんが目当てで上田をほっつき歩いていたんだろう。こいつはマリちゃんが大喜びだ」 「そんなんじゃない」  私は慌てた。本当にそれだけは誤解だ。 「まあいいさ。だったら話は簡単だ。パーティが終わったら彼女の店に行こう」 「なんで?」 「空き地の側に住んでいたんだ。おまえさんよりゃ記憶が確かに決まってる。彼女に聞けばその古い家があったかどうか」 「やめてくれ!」  私は悲鳴に近い声を上げた。加藤ばかりか店の従業員までもが驚いて振り返った。 「もういいんだ。忘れてくれ」 「なんだい。おまえさんらしくねえ」  加藤はあんぐりと口を開けた。 「いいんだ。本当に」  私はもう一度繰り返した。     4  加藤とはヤマトで別れることにした。  一緒に上田界隈を歩けば、どうしても隠しきれなくなる。それが怖い。疲れたからと言い訳をする私を加藤は不審な目で見守った。予約してくれているロイヤルホテルはヤマトから歩いて三、四分の距離だ。厄落としのパーティもそこの三階が会場となっている。 「じゃあ、オレは三十分ぐらい前に行く。ロイヤルの二階に喫茶室がある。そこで待ち合わせってのはどうだ?」 「そうしよう。わざわざ出迎えてくれたのに申し訳ない。夜にはとことん付き合う」 「なあに、気にせんでくれ。オレもいったん家に戻って着替えなくちゃならん」  加藤は快く了承した。 「住宅地図だけど……最新版は簡単に手に入るのかい」 「大通りの本屋に行けばあるはずだ。もし上田周辺だけを調べるつもりならコピーを作ってきてやるぜ。会社に置いてある」 「いや、どうせホテルへの途中だ。立ち読みでもしていくさ。面白そうなら買って帰る。お陰で住宅地図の楽しみが分かってきた」 「だろ。まるで盛岡の町を空から見下ろしている気分だよ。神様にでもなった感じだ」 「神様はいいな。いかにも」  私は頷いて先に店を出た。  七月というのにまだ少し肌寒い。 〈本屋よりも図書館の方が早いか〉  私は加藤の言葉を思い浮かべた。図書館には古い住宅地図が揃っている。どうせ最新版の地図にあの家は載っていない。それなら図書館で古い地図を確認する方が絶対だ。もし記入洩れなら三十五、六年の地図に必ず掲載されている。それをとにかく確かめなければ。図書館は中ノ橋のたもと。歩いても十分はかからない。 〈ついでに古いヤマトの通りを歩こう〉  私はホテルと反対方向の裏通りに足を運んだ。ヤマトの跡地には真新しいビルが建っている。その左隣りにある蕎麦屋はいかにも古い構えだが、あまり印象がない。このあたりは賑やかな歓楽街ではなかったか? 少し先に白鳥という喫茶店の看板が見えた。すると道路を挟んで左側の古びた建物がボアに違いない。今はまったく別の店になっている。当時は盛岡唯一の名曲喫茶で、学校を休んではここに入り浸っていた。私は立ち止まってバッグからコピーを取り出した。やはり記憶は正しかった。私の歩いている通りには昔スナックやクラブが立ち並んでいた。ドリーム、ダンヒル、パリジェンヌというそれらしい店の名前が続いている。 〈パリジェンヌか〉  名前だけでどんな店か想像がつく。きっとほっぺたを赤くしたパリジェンヌたちが薄暗い店内でラーメンなんかを啜《すす》っていたんだろう。たまらなく愛《いと》しい娘たちのような気がした。そんな時代に大人になって戻りたい。 「あんたボアなんかに行ってんの?」  正子の甲高《かんだか》い声が聞こえた。 「生意気だわよ」  正子は煙草をふかした。組んだ脚の隙間《すきま》から派手なガーターが見える。赤い口紅がべったりと吸い口につく。いやだな。どうしてこんな女と一緒にいなくちゃいけないんだろう。 「痩せこけた岩大生の溜り場だってね」 「でもないよ。高校生もいる」 「あんた、私とこうしてお茶飲んだってこと、おばあちゃんに言う?」  正子は真っ直ぐ私を見詰めた。 「言いっこないわね。あんた案外分かっているんでしょ」  私はどぎまぎした。 「モデルになってあげてもいいよ」 「………」 「ヌードは描かないの? 吉本先生から聞いたわ。天才だってんじゃない」  私は俯《うつむ》いたきり無言でいた。 「無料《ただ》でいいわよ。あんたなら」  こいつは私がこっそりと窓から覗き見していたのを知っているんだ。屈辱と羞恥《しゆうち》が私を包んだ。正子は小さく鼻を鳴らした。 「冗談よぉ。怖い顔しないで」  正子はいつまでも笑い転げた。  なんで大人ってのは薄汚いんだ。立て膝の間から見える黒いパンティが白くぶよぶよした太腿《ふともも》に食い込んでいる。脂肪の塊だ。 「くそっ」  思わず声が出て我に返った。  いつの間にか私はサンビル側の十字路に立っていた。図書館が近い。 「完全には揃っていないんですがね」  貸し出し係りの男は私にうさん臭い視線を浴びせた。古い住宅地図など借り出してどうするのか、という興味も加わっている。 「あるだけで構いません」 「じゃあ、お名前をここに。館外への貸し出しは禁止扱いになってますんで、閲覧室で見るだけにしてください」  私は受け取った紙に記入した。そ知らぬフリでペンの動きを見ていた係りの男は、私が名前を書き終えると何度も首を振った。 「作品集は図書館《うち》にも置いてあります」 「それはどうも」 「こちらには講演かなにかで?」  係りは急に打ち解けた。 「クラス会。昔の盛岡が懐かしくて」 「そうですか。残念だな。それが分かっていたら講演でもお頼みすればよかった。先生のファンは多いですよ。特に若い人たちに」 「地図のコピーできるんですか」 「無論です。一度に全体の三分の一以上は著作権の侵害になりますんで面倒ですが……もし必要でしたら私が後でコピーして」 「そんなにたくさんじゃない。上田界隈のものが欲しいんです」 「だったらお任せください。ここにあるだけの住宅地図を捜して、上田界隈のものを全部コピーして差し上げます。多少時間がかかると思いますが、お急ぎでしょうか」  私は礼を言って男に頼んだ。知名度もたまには便利なことがある。 「こんなに!」  四十分以上も待たされていらいらしていた私の前に百枚近いコピーがどさっと置かれた。 「二十冊ぐらいは保存してありました。最近の地図になると上田周辺は五、六頁にまたがっていますから。料金は結構です。上司からサービスしてあげるようにと……」 「悪いな。そんなつもりじゃなかったのに」 「どうぞご遠慮なく。なにかありましたらいつでもご連絡ください」  私は重いコピーを抱えてホテルに向かうことにした。思いがけない収穫だ。これを子細に検討すれば、あの家に関する謎もきっと解けるに違いない。陽はまだ高い位置にある。次第によってはパーティまでの時間に上田を歩きまわる余裕もありそうだ。     5  私は極度に困惑した。 〈………〉  シーツカバーをかけたままのベッドに仰向けに寝転んだ。どう考えても分からない。とびとびだが、手元には昭和二十七年から現在までの地図が十八種類もある。四十年以降は規則正しく一年おきになっているから、毎年改訂版が出るというのは加藤の思い違いだったのだろう。それとも図書館が不必要と考えて一年おきに購入しているのか。 〈それにしたって……〉  これだけ揃えば完璧《かんぺき》のはずだ。抜けている年度にしても最高で三年。なのに……そのすべてに、あの家は見つからなかった。もはや記入洩れという可能性は有り得ない。  泣きたい気分だ。  あんなに振り回され続けた家が地図に載っていないなんて。 〈どうなってるんだよ〉  私はベッドの上で頭を抱えた。  目を瞑れば、あのくすんだ板塀の古い家がありありと瞼に浮かんでくる。平屋《ひらや》で奥に広い間取りだった。玄関の狭い縦縞格子に嵌《は》められた曇りガラスはあちこちが欠けていて、冬になれば隙間風で辛そうに思えた。壁の漆喰《しつくい》もボロボロに剥《は》がれ、芯の板が剥《む》き出しになっている部分も目立った。どの部屋の明りも四十ワットの裸電球で、傘すらなく、ただ天井からぶらんと吊り下げられていた。根太《ねだ》だって腐っていたに違いない。湿った畳の上を歩くと不安定に体が沈んだ。それでも、私にとってそこは至福の家だった。あの家には史子《あやこ》が暮らしていたのである。 〈ないわきゃないんだ〉  気が狂いそうだった。  史子や彼女の祖父の良三と過ごした初夏の一ヵ月が見つからないなんて……  枕許の電話が鳴った。  私はビクッと飛び起きた。加藤だろう。 「もしもし」 「………」 「もしもし……山野ですが」 「良彦さん?」  女の声だった。 「加藤ちゃんからそこにいるって聞いて」  万里子だと直感したが、声が記憶にある彼女とまるで違う。乾いた大人の響きだ。 「谷藤万里子です」 「やっぱり」 「嬉しいわ。覚えていてくれた?」  私は深い溜め息を吐いた。 「夜まで待ちきれなかったの。お邪魔していいかしら。ロビーから電話してるの」 「ここに? 浴衣《ゆかた》に着替えているんだ。それなら二階の喫茶室にいてくれないか」  私は嘘をついた。 「いいわ。でも今の私のこと分かるかしら。すっかりおばさんしてるわ」 「分かるさ。忘れっこないよ」  私はそそくさと電話を切った。加藤のヤツ、勝手に彼女と約束して。あれほど店には行かないと断わったはずなのに。はじめの苛立ちは、しかし、直ぐに消えた。あの家がないのは確認できている。それなら万里子と会っても別に心配することはない。今頃しゃあしゃあと会いにきやがって……意地悪な好奇心が私の胸に渦巻いた。今度はこちらが彼女をフッてやる番だ。  けれど、分からなかった。  喫茶室には女の一人客が四、五人いた。どれも万里子の年齢には合致しない。 「おひさしぶり」  席を捜し歩いている私の背中に声がした。振り向くと三十前にしか見えない女性が笑顔で頷いた。楚々《そそ》として爽やかな麻のジャケットスーツ。長い髪が肩まで垂れている。水商売らしい雰囲気は微塵《みじん》も窺《うかが》えない。淡いサングラスを外しても、私にはまだ彼女が万里子だとは思えなかった。つんとすました鼻と大きな瞳《ひとみ》に面影は僅かに残っている。 「本当に万里子さん?」  私は少したじろぎながら腰を下ろした。 「心配した通りだわ。私って相当に印象の薄い女だったみたい」 「いや……あんまり美人になったんで」 「冗談ばっかり。そんなことを言う人だなんて思わなかった。そんな人だった?」  万里子は重ねて首を捻《ひね》った。 「男の人を見る眼がなかったんだわ。どうして良彦さんのような人を逃したんだろ」 「それこそ冗談だろ」  私もなんとか余裕を取り戻した。 「お店をやってるんだって?」 「ええ、この近く。日活って映画館知ってるでしょ。今じゃあそこの裏通りにクラブやスナックがたくさん並んでるのよ。昔の八幡通りよりもずうっと賑やかになって」 「いつから?」 「もう十年にはなるわね。一人暮らしだから気楽に続けられるの」 「ふうん。君も独身か」 「気になる?」  万里子はふふっと笑った。簡単に万里子のペースになっている。 「私も気になるな。どうして良彦さんは結婚しないの?」 「………」 「まさか私のせいだなんて言わないでよ。本当は言ってほしいけど……信じるほど子供じゃないから」  私は苦笑した。なぜ昔はこんな風に冗談を言い合えなかったんだろう。 「あの女の子のせいでしょ」 「あの女の子?」 「卒業記念の合同展で見たわ。今でも目に焼きついてる。お下げの可愛らしい女の子」  私は絶句した。史子を描いた作品だ。三点描いて、二点は後になって焼き捨てたが、残りの一点は展覧会を開催してくれた画廊にプレゼントした。と言うと聞こえはいいが、実際は賃貸料が支払えなくて一部を作品で勘弁してもらったのである。 「あの展覧会を見てくれたとはね」  なんとなく信じられない。私が万里子にフラれたのはその何ヵ月も前の話だ。 「あの絵を見てピンときたわよ。悔しくって、絵を破りたい気持だったわ」 「なんで?」  私には意味が分からない。 「当然じゃないの。そのために私がフラれてしまったんですもの」 「なにを言ってる。フラれたのはこっちの方だぜ。酷《ひど》い勘違いだ」 「そうよ。気がついたからフッてやったの。従兄《いとこ》の友達に頼んでね」 「婚約者がいるってのは嘘だったのか」 「十八歳だったのよ。そんな映画や小説のような話があるわけないわ」  万里子は淋しそうに笑った。 「オレはその婚約者に殴られた。半月は顔から青アザが取れなかった。大した付き合いでもないのに、なんでこんなに殴られなきゃいけないのかと君を恨んだもんだ」 「私には……大した付き合いだったの。あの頃は突っ張っていたから、あなたのこと気にしていないフリしていただけ」 「………」 「辛かったのよ。あなたは他の女の子と付き合っているような感じだったし……家の近くでその女の子と歩いているのも見たわ。暗くてどんな子か分からなかったけど、それで別れようと決心して……あの子だったんでしょ。絵のモデルになった女の子」 「君の家の近くで見た!」  ザワザワと寒気が走った。史子以外に考えられないが、私は彼女と町を歩いたことなど一度もない。あったとすれば、玄関から大きな通りまでの僅かな道のりだけである。 「私へのあてつけとしか思えなかった」 「ちょっと待ってくれ。それはいつ頃だ」 「忘れたわ。三年の夏休み前じゃない?」  間違いない。すると私の記憶は正しかったことになる。 「古い家があった……はずなんだ」  思いきって万里子に訊ねてみた。 「私の家の近くにってこと?」 「低い板塀で囲ってあって……まわりはだだっ広い空き地になっていた。君の家から上田教会に向かう坂道の途中だったと思うが」 「坂道の途中の空き地……ああ」  万里子は懐かしそうに首を振った。 「よく子供の頃に缶蹴りや鬼ごっこしたわ」 「あったんだな!」 「でも……家なんて知らない。あそこ、小さい頃からずうっとそのままだった」  万里子は断言した。 「バイパスになるまで、ずうっとよ」 「バイパス……」 「そう。あの空き地が道路になったの。上田教会もバイパスの向こう側になってしまって」 「嘘だろ。家がなかったなんて」 「それが、その子の家?」  私は躊躇《ちゆうちよ》の末に認めた。 「そんなバカなことってないわ。あの空き地なら私の町内なのよ。あの絵のモデルがその子なら私が知ってるはずじゃない」 「似てないと思う。髪形や特徴をほとんど変えて描いた」 「どうして?」  万里子は目を丸くした。 「イメージを借りた程度さ。知人のだれが見たって、あの子とは思わないだろう」 「それにしても……暗がりで私が見た子なんでしょう。違うわよ。あんな子は町内にいなかった。私、子供会の会長してたんだから」  万里子は譲らなかった。 「子供会にも入っていたわけがない。たった二ヵ月しかあの家にいなかったんだ」  私は諦めて打ち明けた。 「なんだか……複雑そうな話ね」  万里子はハンドバッグから細いメンソールを取り出すとカルチェで火をつけた。ゆっくりと紫の煙を下に向けて吐き出す。なにを質したらいいか戸惑っているらしい。 「はっきりと憶《おぼ》えてる?」  やがて万里子は私と向き合った。 「憶えているなら、絵を描いてみて」 「あの家のかい?」 「そう。もしかしたら空き地はあなたの記憶違いで、ホントは町内の別の家かも知れないでしょう? 絵を見れば分かると思うの」 「どうかな。頭にはずいぶんはっきりとイメージが残っているんだが……絵にしようとすれば途端に曖昧《あいまい》になっていく。ま、試してもいいけど、かなりいい加減だと思うぜ」  万里子の自然な誘いに乗せられて、私はレジから紙とペンを借りると目の前で描きはじめた。最初は錆びたトタン屋根の輪郭しか浮かんでこなかったのに、玄関の格子戸を書き込んでいるうちに、右手にあった窓の形や板塀の内側に生えている柿の木の曲がりくねった枝ぶりまで鮮明に甦ってきた。門から玄関までの短い間には平らな飛び石が三つ並べられていた。 「それで曖昧な記憶?」  覗いて万里子は呆《あき》れた。 「絶対にあそこの空き地だよ」  私は決定的な証拠を見つけた。 「ここのトタン屋根の上に──」  私は急いで書き足した。 「教会のトンガリ屋根が見えた。これは上田教会の屋根に違いない」  興奮が私を襲った。絵にしてみようと思い立たなければ忘れていた景色だった。 「悪いけど……別の場所よ」  万里子は絵を手にして首を横に振った。 「こんな家見たこともない。どこも狭い庭ばかりで柿の木なんかを植える余裕は……第一、近所にそんな木があったら、子供たちが集まって遊ぶんじゃない?」  返事に詰まった。 「この絵、預かっていいかしら。母親に訊《き》いてみるわ。四十年も上田に暮らしている人」  否応もなく万里子は絵を折り畳んだ。 「大変。もう時間だ。後でお店にきて。変な話のせいで、きた意味もなかったみたい」 「意味って?」 「私、今でもあなたが好きなの」  軽くウィンクすると万里子は伝票を抓《つま》んでレジに急いだ。 「約束よ。できるならあなただけで、ね」  軽快に階段を降りていく万里子を私はぼんやりと目で追った。彼女が私を好きだったなんて……二十年以上も思い違いをしていたというわけだ。それは……史子に関しても一緒だ。史子……君はどこに住んでいたんだっけ。オレは思い出せないくらい歳を取っちまったよ。真っ白い陶器のようにすべすべした史子の肌の感触が甦って、私は少し勃起《ぼつき》した。 「よして! お兄ちゃんもそうなの」  史子の泣き叫ぶ顔が目に浮かぶ。そして、緋色だ。緋色が私の脳を満たす。悲鳴を上げてしまいたいのをじっと堪えた。私など、生きていく資格のない人間なのかも知れない。     6  パーティはつまらなかった。  クラス会のつもりで出席したのに、会場には二百人以上の人間が集まっていた。同級生は三十人もいない。厄落としには本人の他に家族や親戚も参加するのがしきたりだという。だからこんなに数が膨《ふく》らんだのだ。ただただ派手な料理と、着飾った友人たちの女房の姿だけが目立つ。私は何人かの友達に腕を引かれて、それぞれの家族たちに挨拶させられた。楽しみにしていた絵画部の友人は欠席していた。池野は参加の返事を寄越していたと聞いていたのに……嫉妬だよとだれかが言った。いい歳してまだ映画の看板描きしてる。なのに飲めば山野の悪口ばかりだからな。どんな顔して会場《ここ》にこれるってんだ。私は嘲り笑うそいつをぶん殴りたくなった。いい歳して、まだ看板を描いているのかい、池野よ。偉いな。オレなんか金のためだぜ。 「あっちに座らんか。立ってて疲れたろう」  加藤が私の肩を叩いた。会場の片隅にイスが用意されている。 「池野は悪口言ってるわけじゃない。皆が勝手に嫉妬だと信じこんでるだけさ。おまえさんの作品集を大事に飾ってある。これなかったのは女房の親父さんが危篤なんだ。厄落としの会にそんな報告をしたんじゃ縁起が悪い」 「分かってたよ。気にしていない」 「酷いパーティになったな。あちこち引き摺りまわされて参ったろう。これで幹事の顔も立った。そろそろ引き上げるかい」 「厄落としどころか……これが厄のはじまりじゃないかって思ってた」 「きついな。オレは幹事の一人だぜ」 「万里子の店か?」 「まだ少し早い。夕方会って急にその気になったか。だったらまだまだ楽しみがある」 「………」 「付き合ってた相手をたくさん知ってると言ったじゃないか。最初はそっちに行こう」 「いいよ。名前さえ覚えてない女だもの」 「だからこそ面白い。夜は永いんだ」  店と聞いてクラブやスナックを連想していたのに、加藤はそういう場所をどんどん素通りして小さな居酒屋ののれんを潜《くぐ》った。磨きこまれて黒光りしている長いカウンターにテーブルが二つ。客ばかりか店の人間の姿も見えない。加藤が奥に声をかけると元気な返事があった。太って陽気そうな女が割烹《かつぽう》着の裾で掌を拭いながら顔を出す。四十五、六。 「あらぁ。連れてきてくれたの」  女は私を見るなりはしゃいだ。 「ちょっと、きて、きて。あたしの彼氏がやっと顔を見せたんだから」  女は調理場にいるもう一人の女に叫んだ。慌てて女が顔を覗かせる。少しだけ若い。若い方の女は親しみを含めた会釈をした。 「思い出せないか? 付き合ってたってうるせえんだぜ。これじゃおかみの片思いだ」  加藤は席を勧めて笑った。 「光枝さんて聞かされましたけど」  私はおかみの顔を見詰めて首を傾《かし》げた。 「正子よぅ。忘れた?」  えっ、と私は身構えた。 「光枝が本名なの。ちっちゃな居酒屋で源氏名使ってたらお客に笑われちゃうもの」 「本当に、あの正子さん?」 「正子ってのも適当な源氏名だな。それじゃこいつに話しても分からなかったはずだ」  加藤が隣りで茶化した。 「なんだか……オレ泣きたくなった」 「懐かしくてか」 「昼にも正子さんのこと思い出していた」  厭《いや》な思い出だと言えなかったが…… 「泣いて。私の胸でよかったら」  正子はケタケタ笑った。 「なんでこの店を知ってたんだ?」 「吉本って若い国語の教師がいたろ」  私はもちろん頷いた。 「今は学校を辞《や》めて郷土史の研究をしてる。ウチの局とも付き合いがあってな。あいつからこの店を紹介されたのさ。古い馴染みだったらしい。今でもおかみにベタ惚れ」 「腐れ縁って感じね。呼ぼうか」 「いらねえ。あいつが入るとうるさい」  加藤は慌てて手を振った。 「狭いんだな。年月が変わっただけで、人は昔のままだ。町が人の中に残ってる」  まさかもう一度正子と出会うなんて…… 「二人が知り合いだってのが謎だ」  加藤は首を捻った。 「歳もだいぶ違うし、おかみは盛岡の出身でもない。こいつは高校を卒業したきり東京暮らし。眉唾もんの話だと疑っていたよ」 「私が男にしてあげたの」 「よせよ。加藤が本気にする」  私は睨んだ。正子はペロッと舌を出した。 「怪しいな。ホントなんじゃねえか」 「ご想像にお任せするわよ。彼が描いてくれたヌードだって大事にしてるんだから」  私は噎《む》せ返った。 「そんな関係の私を忘れちゃうなんて、男ってまったく冷たいもんじゃない?」 「ヌードなんて描いてたのか。いつ頃?」 「遊びだよ。若い頃だけの」  私は必死に言い繕った。脂汗《あぶらあせ》が出る。 「見たい?」  正子は加藤に言った。 「見たくない。どうせ大根に大福餅がベタベタと乗っかっているような絵に決まってる」 「言うわね。いつもこれなんだから」  私も失笑した。正子は上機嫌で酒を勧めた。こうして眺めると、どこにでもいそうな気のいいおかみだ。歳を取って性格が変わったとも思えない。私が若かったから彼女の一部分だけを拡大して毛嫌いしていたのか…… 「うんと奇麗に描いてね」  目の前の正子の顔が昔に戻った。 「それとも、絵は口実?」  ワンピースをゆっくりと脱ぎながら正子は私を振り向いた。花柄のベッドの布団が誘うように半分めくれている。ちゃんと直しておく余裕はあったはずだ。私は途端に後悔しはじめた。胸が張り裂けそうに高鳴る。 「いいわよ。どっちでも」  正子はワンピースを畳に滑らせた。ストッキングは穿《は》いていない。ピンクのパンティとブラジャーだけの姿で私に向き合う。鳥肌の立った白い腿から上にと私の目は動いた。繁みがうっすらと透けている。 「これも脱ぐ? あんたも脱げば」 「オレも?」  生唾を呑みこんだ。 「びっくりしたわよ。急にモデルになってくれなんて……正直に白状したら?」 「………」 「吉本には言わないでね。あたしだってあんたに興味があったの。脱ぎなさいよ」  正子はいきなり私の腕を引いた。私はそのまま正子に覆い被さってベッドに転がりこんだ。正子が私の頭を抱える。私の指はパンティと柔らかな肉の隙間に導かれた。固い繁みの手触りにがっかりした。もっと女の毛はふわふわしていると想像していたのだ。ぬるっと指が奥に入った。正子は鼻にかかった呻《うめ》き声を上げた。心臓が止まりそうだ。化粧品とラーメンの匂いの混じった正子の豊かな胸に鼻を埋める。ブラジャーをずらして突き出た乳首を強く齧《かじ》ると、正子は私を押し退けて自分からパンティを脱いだ。 「あんた、はじめてじゃないみたい」 「はじめてだ」 「あんた、いやな子ね」  正子は私のベルトに手をかけた。 「ちゃんとパンツも新しいのに替えてきたくせに。なにがモデルなのよ」  笑いながら正子はパンツをずり下ろすと私の勃起したものを強く握った。私はそれを振り払って正子を襲った。夢中だった。  正子の喘《あえ》ぎと私のそれが重なった。  正子がしきりに腰を引く。私のものから逃げようとしている。私は追いかけて射精した。 「バカッ」  正子が私にビンタを食らわせた。 「ゴムつけてって何度も言ったじゃない」  正子の顔は一変していた。 「あたしをなんだと思ってるの! あんた、責任なんか取れっこないでしょ」  枕が次に飛んできた。  私は……今の正子の顔を見詰めた。 「皺《しわ》の数考えてるんじゃないの」  正子は肉じゃがを私の前に並べた。     7 「彼女の店に行く前に話したいことがある」  正子の店を出ると私は加藤に言った。 「マリちゃんの前じゃできない話か」  加藤は立ち止まった。 「たぶんね」 「分かった。静かな店を知ってる」  加藤は直ぐに頷くと角を曲がった。  バーテンダーだけの小さな店だ。奥の暗がりにボックスがある。 「いろんな店と馴染みなんだな」 「商売柄さ。ここなら気兼ねもいらん」 「………」 「おかみとのことか? 気にせんでもいい。口は堅いつもりだ。マリちゃんには言わん」 「そんなことじゃない」  私は首を振った。さっきまでは話せるような気分だったのに、やはり躊躇がある。 「あの上田の家の一件か?」 「………」 「調べてみたよ」 「なにを……」 「地図さ。オレの持っているどの地図にも載っちゃいなかった。バイパスになるまで、あそこは二十年以上も空き地になってた」 「知ってる。実を言うとこっちも図書館で調べたんだ」  加藤は真面目な顔で私を見詰めると、 「マリちゃんにも訊ねてみたか?」 「家なんてなかったそうだ」 「よほどのことなんだな。昼におまえさんが大声を上げたときゃ薄気味悪かったぜ」 「正子とも寝た」 「だろうな……だと思った」 「その日の夕方……オレはあの家を訪ねた」 「おかみの?」 「違う。正子と寝た後の話さ」  追い出されるように正子の部屋を飛び出た私は、そのまま史子の家に向かった。欲望に負けて、あんな下らない女と関係を結んでしまった自分が情けなかった。史子に会おう。会って正子なんか忘れてしまおう。ひたすらそれだけを考えて私は夕暮れの町を歩いた。 「その……史子ってのだれだ?」  加藤は口を挟んだ。 「そこに暮らしていた女の子。まだ十二くらいの可愛い子だった」 「なんでそんな子と知り合いに?」 「今思えば……あの古い家が建っていた原っぱで万里子を待っていたんだろうな。そしたら、いつの間にか史子が側にいた。本当に奇麗な子だった。子供なのに大人よりも遥かに女っぽかったよ。いや、違うな……そいつは今のオレの感想で、当時は妖精のようにしか感じられなかった。いやらしいことを想像して史子を眺めていたわけじゃない」 「妖精のような子か……」 「史子は祖父の良三爺さんと二人きりでその家に住んでいた。一、二度顔を合わせているうちに家に出入りするようになってね」 「………」 「彼女の両親はドサまわりの芸人だった。本当の家は栃木にあるんだとか聞いたよ……東北巡業の二ヵ月間だけ盛岡の座主の好意に甘えて爺さんと史子があの貸家に住まわせてもらっていたのさ。盛岡を拠点にして東北を行ったり来たりしていたんだと思う。オレは両親に会ったこともないが」 「学校には? 十二歳なんだろ」 「行ってなかった」 「悲惨な話だな。そうやって全国を転々としていたわけかい」 「他の土地は知らん。まあ……そうだったんだろうね。栃木の学校に通っているとも聞かされなかったし」 「同情か?」 「同情なんかとは違う。あの子の訴えるような眩《まぶ》しい目に魅《ひ》かれたんだ。なんとかして絵に残したいと思ったのさ。それで一週間に三、四度訪ねてモデルになってもらった」 「………」 「けど……それも口実だったかも知れん」  私は目を暝った。  史子が自分の机代わりに使っているリンゴ函にちょこんと座って、小さな膝に掌を揃えている。唇が恥ずかしそうに笑っていた。肩が次第に左右に揺れはじめる。 「史子、動くんじゃねえぞ。せっかく山野さんが記念に描いてくれるんだからな」  良三が渋茶を啜《すす》りながら叱った。 「父ちゃんたちが戻るまでに描いてくれるってんだ。我慢しねえと罰が当たる」  史子はクスクス笑ってペロッと赤い舌を出した。円《つぶ》らな目が私を見詰める。 「おしっこも?」 「そんなに無理しなくていいよ」  私はデッサンの手を休めた。 「よかった。ちょっとしてくる」  史子は走って廊下の反対にある便所に急いだ。少しすると史子の勢いよい小水の音が聞こえた。胸が騒いだ。カサカサと新聞紙を揉みしだく気配もする。痛くないんだろうか。といって、私が柔らかな紙を買ってくれば良三が怒り出すに決まっている。 「十二のくせに、まだ子供で」  良三が物音を隠すような大きな声で言った。 「山野さんを遊び友達かなんかと勘違いしてやがる。さ、ついでに一休みなさったら」  円いちゃぶ台には私が持ってきた水ようかんが折りのまま広げられていた。 「山野さんは本物だ。最初はモデルと言われて妙なことを考えちまった」  良三は屈託のない笑顔を見せた。心を見透かされたようで耳がカッとほてった。縁の欠けた湯飲み茶碗を受け取って、そ知らぬフリをする。史子が戻ってちゃぶ台に並ぶ。 「私、おしっこで虹を拵《こしら》えたことがあるの」 「おしっこで」 「奇麗だった。私うっとりして見たもん」 「史子! よさねえか」  良三が目を丸くした。私は笑った。三人が笑い転げると畳がゆさゆさ揺れた。 「口実だったと思うよ。オレは史子が好きだった。相手が子供だったんで自分の気持を素直に認めたくなかっただけなんだ」  私は苦い水割りを喉に流しこんだ。 「十八のオレが小学生くらいの女の子を好きになるなんてさ……お笑い草だろ」  加藤は複雑な顔をして首を横に振った。 「正子の体は汚かった……だけど、それだって史子を思い切るためだったんだ」  史子が栃木に戻るのは翌日に迫っていた。もやもやした苛立ちを忘れようとして私は道で出会った正子に声をかけたのだった。私は後悔と欲望に駆られながら史子の家の玄関を開いた。中はひっそりとしていた。 「こんにちは」  私は不安に襲われて声を上げた。今夜は両親も戻っているはずだ。だれもいないわけはない。ひょっとしてもう盛岡を出払ってしまったのでは? 私は廊下に上がりこんだ。  破れた襖《ふすま》を開けると、真っ暗な部屋の中央に史子が丸裸で倒れていた。白い裸がぼうっと蛍のあかりのように浮かんでいた。 「史ちゃん!」  私は史子の痩せこけた体を抱き上げた。  史子は私に揺すられて薄目を開けた。 「お兄ちゃん……」 「どうした。なにがあったの」 「脚が痛い。痛い」  私は史子の細い脚を必死で擦《さす》った。 「父さんの友達がやって来て……」  史子は泣きながら私にしがみついた。私にはなにが起きたか分かっていた。細い脚を擦っている私の掌にぬるぬるとしたものが感じられていたからだ。酷い。青白い月の明りにかざすと、そこには血の色も見えた。 「なんてことをするんだよ」  私は悲痛の呻きを洩らした。史子はぶるぶると震えている。恐怖がふたたび甦ってきたのだろう。私は史子をきつく抱いた。史子の小さな肩をしっかりと抱えると、私はその首筋に唇を押しつけた。史子は私の胸の中に必死で潜りこんでくる。史子の膨らみかけた胸が微《かす》かに揺れ動いた。私は膝の上に史子を乗せた。何気なしに下から支えた私の掌が史子の尻の割れ目に触れた。指の先がつるりとした史子のあそこに届いている。痛い! と史子が腰を浮かせた。 「見せてごらん。傷があるんじゃないか」  私は史子を仰向けに畳に寝かせた。どきどきする。私はなにをしようとしているのだ。理性よりも欲望が勝った。無理に史子の脚を広げると私は顔を近づけた。  美しかった。  史子が脚をバタバタさせる。私は腕に力をこめて両脚をますます広げた。つるんとして茹《ゆ》で玉子を剥いたような印象だった。正子みたいに花弁が外に出ていない。ふっくらとした肉の盛り上がりの真ん中に深い割れ目が見えて、花弁はその奥に隠されている。 「よして! お兄ちゃんもそうなの」  史子が怯《おび》えた声で泣いた。私は慌てて史子の口を塞《ふさ》いだ。もう、どうにもならなかった。史子は明日からいなくなる。史子は永遠に私の前から姿を消してしまうのだ。  十五分後。私は我に返った。  史子は私の下でぐったりしている。心臓に耳を当てた。音は聞こえない。私は悲鳴をこらえた。ずうっと口を塞いでいたのだ。 〈どうしよう。どうしたらいい〉  私は怖くなった。このまま逃げてしまいたい思いだった。が、こうして史子を放って置けば良三に直ぐ発覚する。私はおろおろとした。もうこれでお終いだ。それでも、なんとか史子の体をどこかに隠さないと……  閉められていた隣りの襖を開けた。 「……!」  恐怖のあまりその場にしゃがみこんだ。  部屋は血|飛沫《しぶき》で真っ赤になっていた。  ちゃぶ台に額を押しつけた恰好で良三が蹲《うずくま》っていた。頭がザックリと割られている。血が畳全体に広がっていた。襖や障子までもが緋色に染められている。赤い絵の具をバケツ一杯ぶちまけたような部屋だった。  吐き気が襲った。  血の臭いが畳から上がってくる。  ゴトッと良三の腕がちゃぶ台から落ちた。重みでバランスが崩れたのだろう。私はじりじりと後じさった。足が少ししか動かない。私は史子の指を踏んづけた。ううっ、と史子が呻き声を上げた。生きていたのだ。その声をきっかけに私は部屋を飛び出した。怖い。なにかが私を追いかけてくる。私は振り返りもできずに、ひたすら狭い道を走った。 「よく……話してくれたな」  加藤はやがて呟《つぶや》いた。 「そんな記憶が残っていたら……オレにゃ耐えられそうにもないよ」 「それからの一ヵ月が地獄だった。翌日にでも新聞で殺人事件のことが伝わると思っていたのに、まったく気配もない。今日か明日かとびくびくしていた。といってあの家を訪ねて様子を窺う勇気もない。警察が事件をひた隠しにして、オレの戻るのを待ち伏せしているような気がしてさ。オレは恐怖心から逃れるために正子の部屋を訪ねては、ただただ体を重ねた。毎日が怖かったんだよ。目を暝るとあの緋色が……今だって赤い絵の具を見ると無意識に視線をそらせてしまうんだ」 「なんで報道されなかったんだろう」 「分からん。まさか新聞社に聞きに行くわけにもいかなかった。行けば……オレが史子に対して取った行為が知られてしまう」  卑怯な男だった。私はその痛みをずうっと背負って生きてきたのだ。できるならあの日に戻ってやり直したい。史子を病院に連れて行き、一生をともにする覚悟さえ持てば…… 「史子のあの時の悲しい目が忘れられないんだ。オレは薄汚い人間だった」  私は大人気なく涙を零《こぼ》した。 「史子の辛さを思うと……」 「仕方がないことだ。きっと今頃はどこかで幸福に暮らしている。そう信じる他にないよ。おかみだって、口ではなんだかんだと言ってるが、吉本と幸せになっているんだぜ。吉本も独り身だ。結婚こそしていないが半分は夫婦みたいなもんさ。歳月ってやつは残酷だが、その代わり、痛みや罪を許してくれる。史子さんだって今頃は……」 「そうだろうか……」  私は顔を上げた。 「大人になってみりゃ……おまえさんの取った行動が愛からだと分かるさ。はじめに襲ったやつとは違うとね」  加藤は何度も頷いた。     8 「良彦さん!」  加藤に続いて入った私の顔を認めて万里子はボックスから腰を浮かせた。 「どうしてこんなに遅かったの。いらいらして待っていたわよ」  万里子はカウンターの方にやって来た。 「悪い、悪い、ちょっとオレが誘った」  加藤が代わりに謝った。 「あの家のことが分かったわ」  え、と私たちは顔を見合わせた。 「母が覚えていたの」 「やっぱり……あの原っぱに?」  万里子は少し躊躇《ためら》って溜め息を吐いた。 「なんだい。妙な感じだな」  加藤は敏感に察知した。 「あることはあったんだけど……戦前の家なんですって」 「戦前? なんだそりゃ」  加藤はバカにして笑い転げた。 「本当なのよ。あの絵を見せたら母が気持悪いって投げ返したわ」 「………」 「十八年頃に取り壊されたんですって」  私は唖然として万里子を見詰めた。悪い冗談だ。まったく話にもならない。 「絵ってのはなんだ。聞いてねえぞ」  加藤は万里子に質した。 「良彦さんが思い出して描いたの」  万里子は奧に引っこんでバッグを持ち帰った。私の描いた紙を取り出す。手にして眺めるなり、加藤は吐き気をこらえた。 「嘘だろ。こいつを描いたなんて」  加藤はぶるぶると震えた。 「加藤ちゃんも知ってるの!」 「どんな死に方だったって?」  加藤は私の肩を激しく揺すった。 「確か──頭を割られてたって言ったな?」 「……ああ……」  私は戸惑いながらも頷いた。 「オレも実は見つけていたんだよ」 「なにを?」 「家に決まってるだろうが」 「………」 「二十年以上も空き地のままってのは、いかに盛岡だって尋常じゃねえ。ずうっと昔からなのかと思って遡《さかのぼ》ってみた。そしたら……マリちゃんのおふくろさんの言う通りだ。十八年頃まであの原っぱにゃ貸家があったんだ」 「だから? 三十八、九年とは無関係だ」 「オレもそう思ってたよ。たった今まではな。おまえさんが気味悪がると考えて教えなかったが……その家じゃ殺人があったんだ」  加藤の言葉に万里子も頷いた。 「六十過ぎの爺さんが孫と一緒に殺された」  ざわざわと悪寒《おかん》が体を通り過ぎる。 「上田にずうっと住んでいる局のお偉いさんが思い出してくれた。それで警察にいる知り合いに訊ねたら古びた現場写真を捜し出してオレに見せてくれた」 「………」 「この家だ。絶対に間違いねえ。柿の木と石畳がおんなじだ」 「母もそう言ってたわ」  鳥肌の立っているのが自分でも分かる。 「子供の幽霊が出るって評判が立って……それで家主が取り壊したそうなの」 「子供の幽霊!」 「女の子って聞いたけど……」  口にした万里子が気づいて青ざめた。 「まさか……あの子?」  万里子は小刻みに震えた。 「そうだよ。山野は幽霊と会っていたんだ」 「バカ言うな! 史子が幽霊だなんて」  あんなにはっきりと記憶に残っている史子が幽霊なんて有り得ない。 「じゃあ、なんで昭和十八年に壊された家をおまえさんが正確に知ってる? それから二十年もあそこは空き地だったんだ。こいつはお偉いさんも太鼓判を押したぜ。それ以外に説明はつかねえよ。爺さんの死に方だっておなじだ。疑うんだったら明日にでも警察に行ってみよう。おまえさん自身の目で家の写真を確認するこったな。捜せばその殺された女の子の写真だって見つかるかも」 「よしてくれ!」  私は喚《わめ》いた。そんな話は聞きたくもない。 「新聞に報道されなかったのも当然だ。もともと二人は幽霊なんだから」  加藤は構わず重ねた。 「おまえさんに絵を描いてもらいたくって現われたのと違うかい。いや、おまえさんだから二人が見えたのかも知れん。オレたちとは違って、別の世界の色を感じとっていたおまえさんだからな。あるいは、別の世界の住人だって」 「二十年も苦しんできたんだ。二十年も」  私は嗚咽《おえつ》をこらえた。あの緋色にさいなまれて生きてきたのだ。今さら幽霊だったと聞かされても私には納得が行かない。 「落ち着け! その程度の男なのか」  加藤は私の腕を掴んだ。 「冷静に考えりゃ分かる話だぜ」  私は……下唇を強く噛みしめた。     9  万里子の運転する車は上田の細い路地を器用に走り抜ける。だれもが無言だった。なんのために行く必要があるのか……私にも本当は分からなかった。ケリをつけたいという単純な理由だけではない。だれともなく上田に行こうと話が纏《まと》まったのだ。 「ここを曲がると上田教会に通じる坂道よ。今はバイパスで途切れているけど」  万里子は静かに車を停めた。まわりには微かに記憶のある家がいくつか見られた。そうだ。この道を史子と歩いたのだ。私は車から降りると先に立った。おなじ町の匂いがする。私は狭い道をゆっくりと辿った。この右手の尖《とが》った屋根の家には小さな犬がいて、史子と並んで歩く私にしきりと吠《ほ》えたものだった。あの先の家からは三味線の音が聞こえた。お妾《めかけ》さんでも住んでいるのかと窓の中を覗いた記憶もある。そこから少し歩いた右側が広い原っぱになっていた。私は涙ぐんだ。ここには私の感傷があちこちに落ちている。滲《にじ》んだ目をこすりながら歩く私の目の前に……  あの懐かしい原っぱが広がっていた。 「………」  私は何度も涙を拭った。  まぼろしではない。  夜露を受けてくさむらが青白く光っているのだ。そして……  真ん中にあの家がそのまま残されていた。  小さな窓から裸電球の侘しい光が洩れている。玄関の曇りガラスも昔のままだ。私はじっとその場に立ちすくんだ。月の光を浴びた上田教会が、史子の家の屋根の向こうに輝いて見える。温かな感情が私を包んだ。ここは私の家だ。私と史子の家なのだ。  見詰める私にどこからか低い歌声が聞こえてきた。耳を澄ませる。子供の声だ。  あの子はだあれ、だれでしょね、なんなんなつめの花の下、お人形さんと遊んでる、可愛いみよちゃんじゃないでしょか……  史子の好きな唄だった。 〈史子……いるのかい?〉  私は心の中で問いかけた。 〈お兄ちゃん?〉  史子の声が耳底に届いた。 〈許してくれるのか?〉  私は前に進んだ。 〈ずうっと史子だけを思って暮らしたよ〉  家の玄関がするすると開いた。裸電球を背にした小さなシルエットが現われた。 〈お兄ちゃんでしょ〉  史子が笑った。私も頷いた。玄関の奧の廊下が真っ赤な色に染まっている。史子はゆっくりと私に手を振った。 〈また一緒に遊んでくれる?〉 〈ああ。これからはずうっと一緒さ〉  私は迷わず史子に向かった。 「よして! そこは道路なの」  万里子が後ろで叫んだ。しかし……私にはにこにこと私を誘う史子の笑顔しか見えなかった。ようやく史子が私のもとに戻ってきた。いや、戻ったのは私なのかもしれない。  ねじれた記憶     1  足下から吹きつける強い風が体を揺らせる。私はやはり恐怖を覚えた。しかし、膝頭まで小刻みに揺れているのは風のせいではなかった。五十センチ先には高さ二百メートルを越す断崖が口を開けている、落ちればもちろん命はない。首を伸ばして恐る恐る下を眺めたら谷底を這う川がまるで細い紐のように見えた。黒い岩肌の真ん中に、真っ白な紐が一本。ということは激しい急流だ。飛沫を上げて川は流れている。なのに音はほとんど私の耳に届かない。風に煽られて揺れる梢のざわめきに掻き消されてしまっているのだ。手摺を握る私の掌にじっとりと汗が噴きでた。錆びた鉄のパイプがいかにも頼りない。試しに力を込めたら少しグラグラした。パイプの埋められたコンクリートも脆《もろ》くなっている。  私は崖から目を離して宿の方を振り向いた。 〈なにをしてるんだ?〉  早くきてくれないと決心がグラつく。  が……だれの人影も見えなかった。  私は溜め息を吐くと、浴衣の袖から煙草を取り出してくわえた。マッチを七、八本無駄にした。けれど煙草も空になったのでもう用はない。私はマッチの箱を思いきり断崖に向けて放り投げた。カラカラと乾いた音をさせて風に運ばれて行く。ついでに……私は一枚の写真を財布から抜き出した。母と七歳の時の私が並んで写っている。三十年以上も昔の写真だ。すっかりセピアに変色し、表面には無数の傷もある。母の笑顔も天候のせいでか暗くぼんやりしている。それでも、私にはたった一枚の母の写真だ。これまでに何度この写真を眺めては泣いたり懐かしんだりしたことだろう。母はこの写真を撮影した夜に死んだ。場所は……私が今泊まっている宿だ。  躊躇を振り切って私は写真を破いた。  細切れになるまで指に力を入れた。  掌を広げると写真は空に舞った。母と私がちりぢりに離れて宙に上って行った。  涙が後から後から湧いてきた。 〈母さんも辛かったんだろうな〉  三十年以上も経ってから、私はようやく母の死の理由を突き止めたのだった。  そして、私が生きてきた意味も……  私はこの何日かのことを思い浮かべた。     2  東北の民家についてテレビで対談した。相手の男は岩手の博物館に勤務している若い学芸員だった。私は特に建築に詳しいわけでもないが、小説の中で民話を扱うことが多いので、話の進行役として選ばれたのだ。番組が無事に終了し、その彼を交えて酒を呑んだ。その席である画集を見せられた。番組に二、三枚抜いて使った画家の作品集だ。精緻な筆使いで東北の民家が描かれてある。中央では無名に近いけれど、相当な実力に思えた。残念ながら十年も前に亡くなったという。彼の勤務する博物館で大規模な回顧展を行ない、画集はそのカタログである。私は彼の説明を受けながら頁を繰っていた。そうしたら……あの絵にぶつかったのだ。最初は分からなかった。なんだかとてつもない懐かしさを感じただけだ。それは民家ではなく、断崖の側に建てられた大きな宿屋だった。薄桃色の夕焼けに包まれて二階の窓が淡く輝いている。出窓には夫婦らしき男女が寄り添い、庭の端から真っ直ぐ切り立った崖を眺めている。構図的には大したものではない。ペンペン草の生えた宿の屋根や、崩れそうな白壁の描写に技量は示されているものの、崖のためにバランスを失い、観光土産の風景画と大差のない俗っぽさが漂っていた。八号程度のキャンバスにすべてを取り込もうとした失敗である。そのまま通り過ぎて、私はまたその頁に戻った。なにかが気になる。私は子細に点検した。庭の端に鉄の手摺があった。ざわざわと胸騒ぎがした。そんな偶然がと頭で否定した。崖があれば、手摺もあるのが当たり前だ。鉄のパイプならどこだって似たようなものだろう。しかし……建物はどうか? 二階の出窓の戸袋に妙なものが描かれている。私は吐き気を堪《こら》えながら絵に目を近づけた。輪郭だけではっきりしないが、瓢箪《ひようたん》に似ている。 「福助です」  私の視線に気づいて彼が言った。 「………」 「福助の飾りが彫られてあるんですけど」 「ここは……どこに?」  福助の戸袋飾りには記憶がある。私は乾いた喉を酒で湿らせて訊ねた。私の目には怯《おび》えと期待の両方があったはずだ。この宿こそ、三十年以上も私が捜し求めていた場所だった。いや、その言い方は正確ではない。心が支配されながらも、怖くて追求できなかった場所と言うのが本当だ。だが、こうして見付けた以上は無視できなかった。私の脳裏には作品に描かれている庭の石畳の冷たい足触りさえ鮮やかに甦っていた。 「岩手の岩泉という町からバスで二時間も入る山の奧の温泉です」  私の様子に戸惑いながら彼は答えた。 「小さい頃に行ったことがある」 「あなたが? そうですか」 「岩手だなんて一度も考えなかった。母に連れていかれたんだよ。母の郷里は静岡なのに」  だから熱海とか箱根の山深い温泉場だったのではないかとずうっと思いこんでいた。 〈なぜ母は岩手に?〉  頼る友達や親戚もいなかったはずだ。母の行動の不可解さが胸の奥底に広がった。ただの観光にしてはあまりにも淋しいところだ。 「今も宿は残っています。画家の年譜を作成するために二年前に行ってきました。この絵とほとんど一緒です。電気も自家発電ですし。岩手でも珍しい山奥でした。これだけの峡谷なら観光客もきそうなもんですが、岩手には有名な三陸海岸の断崖がありますから……昔は岩泉が交通の要所になっていたので、この宿も賑わっていたと聞きましたけど……三十年くらい前なら、ちょうどその時期でしょう」 「今も宿がある……」  私は軽い眩暈《めまい》を感じた。それでは、母と何日かを過ごした薄暗い部屋もそのまま残されているのだろうか。甘酸っぱい感傷と恐怖が同時に私の心を満たした。行かなければならない。見付けたからには避けて通れない場所なのだ。私は自分に言い聞かせた。     3  バスを降りてからも私は四、五十分細い山道を歩いた。最初は車を利用するつもりでいたが停留所から宿までは小型のタクシーでも通れない道だと岩泉で聞かされて、バスに切り替えたのだ。夕闇が刻々と迫る。五時を過ぎたばかりなのに山の夜は早い。不安に襲われはじめた頃に宿の温かな明りが見えた。 〈おんなじだ〉  私は思い出した。母に手を引かれてこの山道を歩き、疲れ果てて母の背中にしがみついたら直ぐに明りが目に入った。母は私を背負いながら嗚咽《おえつ》を洩らした。気丈な母でも薄暗い山道に怯えていたのか。それとも、到着した気持の緩みなのか。三十年前なら東京からここまで二十時間はかかっただろう。記憶というヤツもいい加減なものだ。私の頭には電車に乗っていた記憶がまるでない。暗い山道を歩いている母の背中と、宿の明りを見た瞬間の喜びだけが浮かんでくる。だから東京からさほど離れていない場所だと勘違いもしていたのだ。長い間電車に揺られていた記憶があれば、もっと早くに宿を見付けていたかもしれない。しかしそれも考えようだ。四十近い今だからこそ耐えられる。二十歳頃ならこの宿を訪ねる気持になれたかどうか。あるいは人生を狂わされていた可能性だって……むしろ勘違いに感謝しないといけない。 「予約を入れたはずだけど」  私が名乗ると帳場の男は首を捻った。なにかの行き違いで予約が記帳されていなかったようだ。だが、部屋は空いている。観光客で賑わっている宿ならこうはいかない。私は番頭に荷物を預けて広い廊下を歩いた。そのままだ。現実に宿の造作を眺めると記憶がいくつも甦ってきた。この廊下の先には低い階段があって、そこを左に曲がると断崖のある庭が見渡せる。その先が大浴場だ。硫黄を含んだ湯のせいで洗い場の床はぬるぬると滑る。それが面白くて私はよく水泳ごっこをした。腹這いになり壁を蹴ると、体が抵抗なく床を滑る。肘《ひじ》を使って方向を変え、時々は母の浸《つか》っている浴槽に頭から飛び込んだ。母はそのたびに明るい悲鳴を上げて湯の中の私を捜す。白い湯は五センチも潜れば姿が隠れる。目を瞑《つむ》ったまま私は母の脚を掴んだり、乳房に触れたりした。股の間にうっかりと手を差し入れて頬をぶたれたことも思い出した。 〈母さんも若かったんだな〉  まだ二十九だった。今の私より十歳近くも下だ。なのに私ときたら、いつも頭の中に二十二歳も年の離れた母を思い描く。たとえ死んでも母は年を取るものらしい。身近にいる三十前後の女性を何人か思い浮かべ、母の若さをあらためて感じた。 「風呂の裏側じゃなかったかな」  私の呟きに番頭が振り向いた。 「離れのような部屋があったはずだ」  番頭は軽い微笑で頷いた。 「今もある?」 「どちらからお聞きで?」 「いや……特にだれからってわけでも」 「さようですか」 「その部屋は泊まれるの」 「いいえ。昔は本当の離れでしたが」  老朽化して客を通せるような状態ではないのだろう。あれから三十年だ。少しホッとした。部屋が空いていれば泊まる他はないと覚悟してきたのだ。外から眺めるだけで充分だ。それでいい。 「お好みの女はどちらでしょう。と申しましてもウチには痩せたのと小太りの二人しかおりませんが……どちらも二十五、六です」 「へえ。ここにそういう人が」  あっけらかんとした交渉に私は苦笑した。考えて見れば、観光地でもない田舎の宿に男一人の客だ。そう思われても仕方がない。娯楽とてない山奥の宿である。商人宿として賑わっていた当時の名残りでもあるのだろう。そんなつもりで訪れた宿ではなかったが、物書きとしての興味が湧いた。第一、私には一人で夜を過ごす自信がなくなっていた。通された部屋にはテレビもない。しんとした部屋で一晩中母を思っているのは辛い。 「お酌の相手だけでも構わないかい?」 「そりゃあ、ご随意に」 「じゃあ、痩せた人の方を」 「帳場で清算しますんで余計なお心遣いは無用に願います。延長なすった場合でも」  番頭は事務的に言い添えた。思いがけない成り行きに胸がそわそわした。いったいどんな女性がやってくるのか? どうせこんな山の中だ。土の匂いをさせて、ささくれた指をした女が相場と思っていた方がいい。妙な期待など持たないのが無難だ。そう自分に言い聞かせるのだが、心の弾みはしばらく止まなかった。女と寝ないで何日経っただろうか。たぶん半月は過ぎている。     4  襖《ふすま》を開けて入ってきた女性を眺めて私は息を飲んだ。絶世とまではいかないが、充分以上に美しかった。俯《うつむ》いた横顔の半分が長い髪で隠されている。白いブラウスに黒いスカート。楚々とした仕草に心臓が高鳴った。それに、彼女には人を魅きつける優しさと温かさが感じられた。  本当にこの彼女が夜の相手をしてくれる女性なのだろうか。もし間違いなら取り返しがつかない。私は慎重になった。 「あの……私のようなもので?」  彼女の方も妙におどおどしている。頷いて横の席を勧めると彼女は安堵の色を見せて銚子を手にした。私の杯にガチガチと触れる。 「すみません。のぼせてしまって」 「会ったことはない?」  どうもそんな気がしはじめた。 「こっちは東京だけど……前にどこかで」 「作家の先生と帳場の方から伺いました」  私は名乗った。彼女は首を捻って、 「本は苦手なんです。ごめんなさい」 「別に。むしろ名前を忘れてもらった方が好都合な気分になってきた」 「……?」 「君を抱いて……いやな男だったといつまでも覚えていられたくない」  彼女は意味を察して耳たぶを染めた。 「名前は?」 「静子と言います」 「静子君か……ぴったりだね」  もちろん本名のはずはないが。  静子はやがて決心したような笑顔を見せると私をしっかり見据えた。 「……?」  静子の瞳にも戸惑いが広がった。 「ね。やっぱり見覚えがあるだろ?」  静子は私に小さく頷いた。 「同級生ってわけじゃないよな」  私の冗談に静子はクスクス笑った。 「たぶん雑誌の写真かなにかで先生の顔を見たことがあるんだと思います」 「そんなに有名じゃない。きっとどこかで会っているんだ。それにしても……君くらいの美人なら忘れるはずもないんだが」 「私の方だって」  私たちは笑い合った。抱きたいと思ったが、私はそれを無理に押し退けた。今夜は酒の相手をしてくれるだけでいい。その気持は静子にも伝わった。静子の心がゆっくりと解き放たれて行く。私は彼女にも酒を勧めた。 「今夜がはじめてだったの」  やがて静子が言った。 「え」 「先生が生まれてはじめてのお客。覚悟をしてきたのに……なんだか気が抜けてしまいそう。また明日の昼が怖いわ」 「どうしてこんな山の中に?」 「主人を亡くして……あ、こんなこと言っちゃいけないって教えられたのに」 「まあ、そうだろうな。もっとも、君と見合いしているわけじゃない。二十五、六ならご主人がいたって不思議な歳でもないしね」  私は首を横に振った。こういう仕事で理由《わけ》のない方がおかしい。ヤクザのヒモに売り飛ばされていないだけマシってものだ。 「先生はどうしてここに?」 「先生は止そう。ぼくの方には君に想像もつかないような理由がある」 「………」 「母親がこの宿で死んだ。もう三十年も昔の話だ……ちょうど君くらいの歳だった」 「お母さまが!」 「風呂の裏手にある離れに泊まっていた」  静子はそれを聞いて絶句した。 「どうかした?」 「私……そこにいるんです」 「そうか。それで番頭さんが妙な笑いを……ぼくが君の噂をどこかで仕入れたと勘違いしたんだ。ようやく納得できたよ」 「病気の治療にでもいらしてたんですか」 「いまさら隠しても仕方がないか……母親は自殺だったんだ」 「自殺!」 「ぼくには父親もいなくてね。母が死んだ後は養護院に収容された。君には信じてもらえないだろうが……つい最近までこの宿がどこにあるのか知らないでいた。辛い思い出だったから、自分でも忘れようとしているうちに本当に記憶がなくなったんだな」 「分かります」 「母がなぜこの山奥の宿にきたかもまったく分からない。ここにくればなにか思い出すと期待してきたんだが……」 「どんなお母さまでした?」 「奇麗な人だったと思う。自分で勝手にイメージを膨らませている部分が大きいけど」  おなじ宿にいる感傷と、二度と会うはずもない静子という存在が私を饒舌《じようぜつ》にした。女の体が目当ての客ではないことも分かってほしかった。わずか三十分も経っていないのに、私は静子に魅せられていた。金で静子を買いたくはない。いや、おなじ金を払うにしても、互いに気持の通う関係になりたい。 「明日は帰ろうと思っていたんだが……三、四日滞在したら君に迷惑かな」 「迷惑って……どういう意味ですか?」 「嫌いな男と三日も一緒は辛いよ」 「そんな……」  突然静子の目から涙が溢れた。     5  朝食を済ませて庭に出ると、落ち葉を掻き集めていた番頭がピョコリと頭を下げた。 「三、四日ご滞在と伺いました。今夜は別の女をお部屋の方に差し向けましょうか」  一緒に寝なかったので、私が気に入らなかったものだと決め付けている。 「なにか我《わ》が儘《まま》を申し上げたんじゃ?」 「我が儘?」 「いまさらこんなことを申し上げるとお気を悪くなされるかもしれませんが……あの女は子連れでございまして。昨夜その子の泣き声を聞いたものですから……てっきりお客さまに我が儘を申して部屋に戻ったのではと」 「いや。今夜の約束をして私が帰した」 「さようですか。約束がおありで」  番頭は何度も頷いて仕事に戻った。  私はそのまま崖に歩いた。複雑な心境だった。私の話に静子はどんな気持で耳を傾けていたのだろう。事情は違っていても、この淋しい宿に母と子だけという情況はおなじだ。母の死を聞かされて、思わず自分の運命を連想したのではないか? 私ならそう思う。 「先生」  風呂の裏手から静子が現われた。その後ろに小さな男の子が立っていた。今時珍しい坊主頭の少年だ。静子に似ている。 「子供さん?」 「ええ……隠すつもりは」  静子は地味な洋服を着ていた。素顔で、長い髪を後ろにひっつめているせいか、昨夜よりもっと若く見える。少年は私に敵意を抱いているような目をして静子の背中に隠れた。 「ぼく……名前は?」  私が訊ねても答えようとしない。静子は笑って少年の頭を軽くこづいた。 「和雄ですって、ちゃんと言いなさい」 「へえ。偶然だね。おじちゃんと一緒か」  私が言うと少年はニコッとした。 「君たち母子とは縁がありそうだ。よし、記念にお母さんと写真を撮って上げよう」  取材用に私はいつもポラロイドを持ち歩いている。私は部屋にとって返した。 「ぼくだよ。ぼくが写ってる」  少年は私から写真を受け取って歓声を上げた。これで垣根はなくなった。 「ごめんなさい。高いものなのに」 「大した値段じゃない」  静子たちの生活が分かったような気がした。少年の服の肘にも布地があてがわれている。 「やり直してみるつもりはないの?」  私は静子に朝からの考えを言った。 「もしそのつもりなら……少しは手伝いができると思うんだ。東京だったらいくつか仕事のアテもある。幸い……君はまだあの仕事に染まったわけでもない」 「どうして私なんかに?」 「さあ……惚れたんだろうな。たぶん」 「たぶん?」 「誤解しないでくれ。君を金銭や恩義で縛ろうなんて思っちゃいないよ。君にはまだまだ違った未来がある。正直に言うと、君が腹の突き出たブローカーなんかに抱かれることを想像すると泣きたくなるんだ。こっちだって相当にイヤらしい四十男のくせしてさ」 「………」 「宿に借金でもあるわけ?」  静子は躊躇して、頷いた。 「夜までに考えておいてくれ。旅先だからどうしようもないが、ある程度の借金もできる」 「身請けってことかしら」  静子はワザと古臭い言い方をした。 「品物も確かめないうちに?」 「そんな無理をするなよ。君はそういう言葉の似合う人じゃない」  静子はなにかを言いかけた。そのスカートの裾を少年が引いた。ズボンの前を押さえてもじもじしている。静子は、夜に、と言い添えて少年を小脇に抱きかかえた。     6 「もう手放したくなくなった」  私は枕許の灰皿を引き寄せた。静子の吐息が私の首筋をくすぐる。煙草をくわえながら左腕を静子の首の隙間に滑らせると、彼女は私の胸に顔を埋めた。髪から石鹸の匂いがする。部屋にくる直前に二度も体を洗ってきたと静子は言っていた。 「まだ豆電球だけにしておいて」 「君の裸が見たい」 「いや。もう少しこのままで」 「布団がないと寒いか?」  静子は首を振った。私は半身を起こすと布団をはねのけた。黄色い豆電球の明りでも静子の体の美しさがはっきりと分かる。くびれた腰に指を這わせると、静子は軽く呻いた。汗で全体が湿っている。柔毛に口づけする。腹に耳をあてるとクルクルという音がした。指の先で花芯を探る。静子は少し脚を開いた。無性に愛しい。たった今愛し合ったばかりなのに……いつまでもこうしていたい。 「あら……この傷」  静子が私の肩の傷を指でなぞった。 「呑んだくれの親父につけられた傷さ。母さんが殴られていたんで止めに入ったら投げ飛ばされてリンゴ箱から突き出ていた釘の頭で切った。稲妻みたいで格好いいだろ。高校時代はYシャツの袖を捲《まく》って歩いたもんだ」 「リンゴ箱の釘」 「六歳の頃かな。それから間もなく親父が死んだ。酒の呑み過ぎで肝臓を悪くして」 「………」 「結構腕のある漆職人だったと聞かされたが……酒に負けるようじゃ大した男じゃない」 「漆職人……どんなものを?」 「和歌山の黒江塗りなんだが。この辺りじゃほとんど聞かない塗物だろ」  静子は私の腕をギュッと掴んだ。 「紋|政《まさ》って呼ばれるくらい紋を描くのを得意としていてね。結婚式を挙げられなかった替わりに親戚に配った一升マスが残っている。そいつが親父の唯一の形見だ。自分で漆を塗って、親父の家紋の抱き茗荷《みようが》と母の実家の三つ巴を並べて描いてある」  静子は怯えた目で私を見詰めると、 「お父さまの名前は?」  怖々《こわごわ》と訊ねた。体の震えが私にも伝わった。 「竹内|政継《まさつぐ》」 「だって先生の苗字は竹内じゃないわ」 「ペンネームだよ。本名は竹内和雄」  静子はヒイッと口許を押さえた。 「なんだい。妙な人だな」 「お母さまはなんと?」  静子の声は掠《かす》れている。 「依子《よりこ》……依頼の依と書く」  静子は吐いた。私は慌てて静子から逃げた。吐瀉物《としやぶつ》が敷布に広がる。静子の用意してきた懐紙で拭きとる。静子はなおも吐き続けた。 「どうした! 大丈夫か」  肩を抱いた私の手を静子は乱暴に払った。 「あなた、だれなの! だれなのよ」  静子は私を激しく睨んだ。私を突き飛ばすと下着や洋服を抱えて部屋を飛び出る。廊下の振動と静子の叫びが重なって遠ざかった。 「待ってくれ! おい」  私は素裸のまま廊下まで追いかけた。闇の中で静子が振り返る。角に差し込む月明りが静子の顔を捕らえた。ゾッとした。静子には遠目でもはっきりと狂気が感じられた。     7  悶々と眠れぬ夜を過ごした。なにが静子をあんなに怯えさせたと言うのか。もしかしたら静子は父の隠し子ではないのか。そんなことまで考えた。父の死んだのは三十四年前。静子が年齢を偽っていたとしたら、有り得ぬ想像でもない。しかし、あまりにも偶然が過ぎる。歌舞伎の世界ならともかく、現実には起こり得ない巡り逢いだ。私は苛々と布団から抜け出ると椅子に腰かけて煙草を喫った。カーテンを開けると窓から青白い月が見えた。珍しく二重の傘を被っている。明日は雨になりそうだ。ぼんやりと眺めた。 〈こんな月夜だったな〉  ふと記憶が甦った。あの夜もこうして窓際で月を眺めていた。夜中に目を覚ましたら母がいなかったのだ。それでも部屋は明るかったから淋しさがなかった。そこに渡り廊下を転げるようにして母が戻ってきた。嬉しくて私は母に抱きついた。そうしたら母は私の頬を思いきり叩いた。私には母の怒りが分からなかった。夜中に起きていたのが悪かったのだろうか。泣きながら足にすがると、母は布団の側にあった浴衣の紐を掴んで、私の首に強く巻き付けた。動転した。私は恐怖に身をすくめるばかりだった。母の腕に力が入る。どれだけ首を締められていたのか……一瞬、紐の力が抜けた。母が涙を一杯に溢れさせながら私を抱いた。私は気を失った。 〈母さん……〉  心から追いやっていた母の死に顔がありありと目に浮かんだ。気を失った私が目を覚ました時、母は私の寝ている布団の直ぐ側の鴨居に首を吊っていたのだ。 〈なにがあったんだよ……母さん〉  今の私にも想像がつかない。ましてや七歳の自分には、その事態すら理解できなかった。宿の人間に伝える知恵もなく、そのまま部屋の片隅で朝を待った。うなだれて目を開いたきりの母の顔を何度も見上げながら。 〈あの部屋に静子たちがいるのだ〉  そう思った途端──ざわざわと寒気が背筋を走った。偶然なのだろうか。静子は渡り廊下を転げるようにして部屋に戻ったに違いない。空にはおなじ月が架かっている。そして、あの部屋にはあの時の私と年格好の似た少年がいるのだ。名前も私とおなじだ。体中に鳥肌が立った。静子というのは本名ではないはずだ。ひょっとして依子ではないのか? 〈写真だ! 写真だ〉  体が強張《こわば》って言うことを利かない。私も母の死んだ日の昼に、見知らぬおじさんから写真を撮ってもらったのだ。そいつはたった一つの母の思い出として、いつも手帳に挟みこんである。あれを確かめなければ……  私は這うようにしてバッグのファスナーを開いた。手帳が一番上にある。怖い。もし想像が当たっていたら……怖い。  震える指で持つ手帳から写真が落ちた。  これまで気にかけたことがなかったのに、写真を手にした瞬間、私の心臓は止まる思いだった。写真はポラロイドである。  そうなのだ。生まれてはじめてポラロイド写真機を見て興奮した記憶があった。 〈似ている……〉  母は静子に瓜二つだ。私もまた静子の子供にそっくりな顔をしていた。昼にファインダーで覗いた構図に違いなかった。少年時代の私を撮影したのは、大人になった私だったのだ。私は絶望した。写真を畳に伏せる。その裏に小さな数字がプリントされていた。フィルムナンバーだ。私は慌てて机の上のポラロイドからフィルムを一枚抜き取った。  そこには……三十年以上も前に撮影されたフィルムの数字とまったく同一のナンバーが記入されていたのである。 〈母さんだったんだね〉  静子は母だったのだ。母はそのことに気づいて私から必死に逃れた。ところが、部屋に戻ったら、また少年の私がいる。狂ってしまったのか、それとも少年の私を殺してしまえば、大人になった私と寝ないで済むと咄嗟《とつさ》に判断したのか……だが結局私を殺すことができなかった。それが母の自殺の真相である。  幼かった私はただの旅行としか考えていなかったが、母は借金のカタに、この宿へ売春婦として勤めにやってきていたのだ。 〈どうしよう……〉  もう遅かった。母はすでに首を吊っている。あの部屋では小さな私が怯えた顔で彼女を見守っているはずだ。絶望と悲しみと愛しさと後悔と羞恥、そのすべてが私にあった。     8  私は今こうして断崖に立っている。  時間は七時。そろそろ宿も忙しくなる。  私は千切れた写真が風に舞うのを透明な気持で眺めていた。 〈母さんは可愛い女だったよ〉  私は母に呼びかけた。母の痩せた裸身が瞼に浮かんでは消えた。 〈男なら皆が好きになったさ〉  そういう母だと知って私は嬉しかった。 〈もうじきだな〉  私は目を瞑《つむ》った。  私には口が裂けても人に言えない秘密があった。それがこの宿を忘れてしまいたいと願った最大の理由だった。  母が死んだ翌朝、私は崖に向かって立っていたおじさんを見付けた。母の死んだ原因がその写真を撮ってくれたおじさんにあるような気がした。最初に会った時から母がおじさんにとられてしまう恐怖も感じていた。だから簡単に母の死と結び付けてしまった。憎くて仕方がなかった。どうして母だけが死んで、あのおじさんが生きているのか。  私はこっそりと後ろに近付いて、おじさんを断崖に突き落としたのだ。憎いあいつを。  それを思い出して私はここにやってきた。  私がここにいてやらなければ、少年の私には殺すおじさんがいなくなる。 〈ぼくと母さんはおなじ日に死んでいたんだ〉  そういう人生なのだと私は頷いた。  空耳だろうか。こっそりと忍び寄る足音が聞こえる。あれは私の足音なのだ。  振り返って確かめて見たい欲望にかられた。  ひたひたひた。  どちらの私も息を潜めていた。  言えない記憶     1  いつ頃のことだったか……たぶん小学校の四年生辺りだったと記憶しています。東京の大学に通っている親戚の兄さんが、その当時テレビで放映されていたフェリックス君という黒猫と大博士のマンガがプリントされたTシャツと一緒にフラフープを土産として私に持って来てくれました。フラフープは都会では大流行していましたが、まだ私の住んでいた地方の町では手に入れることがむずかしく、それを渡されたときは天にも上る心地で、家中を駆け回りました。なにしろ自転車のタイヤのチューブを膨らませてフラフープの代用としていた時代でしたからね。私ではありませんよ。駅前の自転車屋の子供が、それを得意そうに肩に掛けて学校へ持って来ていたんです。桶屋を商売にしているところの子供も、大きな桶のたがにビニールテープを巻いて学校に持参して来ました。今思えば、なんであんなものが、と笑ってしまいそうですけれど、とにかく、流行った。私はちょっとおくて、と言うか、その学校に転校したばかりだったので、気軽に彼らの仲間に加わることができず、桶のたがやタイヤのチューブを腰で回している友達たちを遠巻きにしていつも眺めてばかりでした。そういう状況のときに、いきなり本物のフラフープを手渡されたのです。フラフープの一部分に東京のデパートの包装紙が巻き付いていたのを今でもはっきりと覚えています。それを剥がしてしまうのが勿体なくて、紙の両端を叔母に頼んで絆創膏《ばんそうこう》で補強して貰いました。言い忘れましたが、当時、私は両親や弟と別に、一人で祖父母の家に預けられていたんです。父親がとなりの県の病院に転勤を命じられたのが原因でした。弟はまだ幼稚園だったのでそのまま連れて行き、私の場合は……妙ですね。なぜ祖父母の家に預けられたのかな? 私が行きたくないとだだをこねたのか、見知らぬ土地で二人の子供の面倒を見るのは大変だと母親が考えたのか……それとも祖父母が自分から申し述べてその結果となったのか。これまで一度もそれについて考えたことがないな……とにかく、その祖父母のところには母親の弟夫婦が一緒に住んでいて、その叔母に絆創膏を貼って貰いました。水色のフラフープでした。早速祖父の書斎に行き、練習してみました。祖父の書斎は広くて練習場所にはもってこいのとこだったんです。祖母や叔母も見に来ました。もちろん直ぐには上手く回せない。昔から運動神経が鈍かったんです。それでこうして美術の世界に入っている。中学や高校時代もずうっと絵画部で運動には無縁です。それでもフラフープは遊びですからね。一時間もやっていたらなんとかできるようになりました。叔母もそれに加わって……叔母も若かったんだなぁ。ずうっと叔母なので……こういう言い方は変ですけど、私が物心ついたときから叔母としてしか見ていないので年齢を考えることをしてきませんでしたが、私と十三しか違わないから、あの当時は二十二、三歳という計算になる。今の私より二十以上も年下だったんですよ。二十二、三ならフラフープに興じても不思議ではない。それで結婚していたんだから、ずいぶん早いみたいな気もしますが、それも当たり前の時代でした。私と叔母とでフラフープの奪い合いになって、そうやっているうちに、フラフープが折れてしまった。叔母が遊んでいるのを私が無理に取り返そうとしたのか、あるいは、確か従妹も来ていたはずなので、そいつと引っ張り合いをしたのか、とにかく、貰って数時間もしないうちに壊してしまったわけです。凄いショックでした。今思うと、折れたというより、輪の継ぎ目が外れた程度だったのでしょう。叔母は簡単に修理できると言っているのに、私はもうその衝撃で胸が一杯になり、泣き喚《わめ》きました。絆創膏で修理したフラフープなんか恥ずかしくて学校に持っていけない。それなら最初からない方がましだ。東京に行って新しいフラフープを買って来てくれ、と……我が儘な子供だったとつくづく思いますね。でも、多少の弁解を言わせてもらえば、私はそのフラフープで、たくさんの友達ができると夢を膨らませていたんです。学校に持っていけば、休み時間に友達が私の側に集まって来て、それが切っ掛けとなってソフトボールの仲間にも加えてもらえるし、漫画雑誌の貸し借りもできる。祖父母たちにはそれが分かってもらえなかった。私は田舎の小さな小学校から町の学校に移ったばかりでした。子供の世界って、結構残酷なんですよ。田舎の子供だということだけで馬鹿にして相手にしてくれないんです。いじめ、というほどのものではありません。無視されるんです。無視の方がいじめよりも辛い、と今なら言えますけどね。あの頃はそういう時代じゃなかった。皆が相手にしてくれない、と先生や祖父母に訴えたところでなんの解決にもならない。いじめられて怪我でもさせられればそれなりに方法もあったんでしょうが……結局自分一人で考える他になかった。フラフープはその切っ掛けに絶好の道具だったんです。けれど、絆創膏で修理したフラフープなんて……私がいつまでも泣きやまないので祖母もとうとう業を煮やしました。祖母は私の腕を引いて、裏庭の小屋に閉じ込めてしまいました。それがとても怖い小屋でしてね。私の祖父は医者でした。その頃はもう開業を止めて町の大病院に勤務しておりましたが、昔はその家で患者さんを診ていたのです。だから小屋には名残りの手術道具がたくさんしまわれていたんです。外科・産婦人科だったので、のこぎりみたいなものや、巨大な内視鏡って言うのかな……それにメスや人骨の模型。むろん本物であるわけがない。でも、子供には本物も模型も一緒でしょう。そんなのが薄暗い小屋の中にごちゃごちゃと置かれていた。なにか悪いことをすると祖母はいつも私をその小屋に閉じ込めました。小屋は広い庭の奥まった場所にあり、泣き喚いたところで母屋にまでは声が届きません。おまけに小屋の背後は崖となっていて、その下には川が流れている。どんなに怖いか想像がつくでしょう。  祖母は私が泣いて謝っても聞かずに、フラフープと一緒に私をそこに残し、外から鍵を掛けて立ち去りました。  その後のことはほとんど記憶にありません。たぶん、三十分もしないで助け出されたんじゃないかな。フラフープについても同様です。そのまま小屋にしまわれてしまったのか、それとも絆創膏で修理したものを学校に持っていって遊んだか、まるで覚えていない。いや、フラフープで遊んだ記憶はたくさんありますよ。しかし、それは町のデパートでも簡単に買えるようになってからのことで、最初のそれだったかどうかが分からないだけです。  遊びに関してだと、この他にたくさんのことを記憶しています。子供は遊ぶのが仕事のようなものだから……缶蹴りって遊びをご存知でしょう。ここにお集まりの皆様は私と同様に年配の方が多いので、こういう話をしても楽ですね。私は東京の大学で学生たちに授業をしていますけれど、彼らはパソコン世代に属していますから、そういう遊びをほとんど知らないんです。缶蹴りってのは鬼ごっこの一種です。鬼を決めて、だれかが缶を蹴る。鬼がその缶を元の位置に戻している間に皆が隠れる。鬼は缶を戻して皆を捜す。全員を捜すことができれば鬼は交替できるのですが、その間に、隠れていただれかがまた缶を蹴ると、ゼロからやり直し。単純なゲームですが、スリルがあって面白い。本気になって逃げましたからね。鬼に追われているうちに現実と遊びの区別がつかなくなって泣き出す子供もいました。缶蹴りというといつも思い出すのは、祖父母の家からちょっと離れた横丁です。谷藤という同級生の家があって、その玄関の前に恰好の広場があった。缶蹴りは三、四人の小人数でやっても、あまり面白くない。やっぱり最低でも七、八人はいないと。それで学校から戻った子供たちは谷藤の家の前の広場に集まって、道路に蝋石《ろうせき》でマンガを描いたり、ビー玉で遊んだりしながら人数の揃うのを待っている。その日も……なぜか、あの日のことだけをはっきりと覚えているんですが、雨上がりの午後でした……空には奇麗な虹が出ていて、ようやく外で遊べるな、と喜び勇んで広場に走ったら紙芝居の自転車が待っていて店を広げていました。紙芝居のおじさんも、そこに子供が集まると知っていたんです。慌てて家にとって返し、小遣いを貰って飴を買う。あの飴……なんて言うのか分かりませんけれど、少し厚手のトランプみたいな飴で、表面に動物や車なんかの切り込みが刻まれている。それを上手に縁から齧《かじ》って、奇麗な形にすると、もう一枚おまけが貰えるんです。キリンなんかが刻まれていると大変ですよ。どんなに頑張っても長い首のところが折れてしまう。紙芝居のおじさんもそこは心得ていて幼い子供には簡単な車とか汽車を渡し、五、六年生と見るや花や動物を選ぶ。皆、紙芝居はそっちのけで熱中したものです。それが終わると広場には十五人くらいの子供が残った。缶蹴りをしようと相談が纏まり、谷藤が鬼になった。こいつは体も大きかったし、足も早いんです。でも、その日はなぜか足に包帯を巻いていましてね……きっと怪我でもしていたんだろうな。とにかくハンデがあった。ふだんなら得意の足をいかして次々と隠れている連中を捕まえるのに、肝腎の鬼が缶の近くに隠れてしまったんです。いつまで待っても鬼が捜しに来ないから我々は缶を確かめに行く。そうすると突然谷藤が現われてタッチする。つまり、蟻地獄のような作戦を展開していたわけです。タッチされる前に缶を蹴ってしまえばこっちの勝ちです。広場の中央には誘うように缶が置いてある。何人かが誘惑に負けて飛び出す。すると谷藤が枝から飛び下りてきたり、塀を越えて現われる。こんなやり方の缶蹴りなんてはじめてでした。皆、夢中になって缶を狙う。掴まった者は缶の側に書かれた円い輪の中に捕虜として閉じ込められていまして、谷藤の潜んでいそうな場所を仲間に教える。興奮しましたね。谷藤なんか通り掛かった豆腐屋さんの自転車の陰に隠れて現われることもありました。子供は遊びのプロだとよく言われますが、谷藤はその中でも特に優れていた。先ほども申しましたが、おくてだった私は谷藤を眺めていて、いつも羨ましさを感じていたものです……     2  講演をなんとかやり終えて市民会館の講師控え室でお茶をご馳走になっていると明石が顔を見せた。会館の副館長が明石に挨拶した。この講演の橋渡しをしてくれたのが明石である。明石はこの町の市会議員をやっていて、私の幼友達だ。明石は私のとなりに座った。 「谷藤の話が出るとは思わなかった」  明石は懐かしそうに私に言った。 「その方も今夜の歓迎会に?」  副館長が微笑《ほほえみ》ながら訊ねた。 「死んだんですよ。交通事故でね」  明石が言うと副館長は言葉を失った。 「生きていれば面白いことをやったと思いますがね。こいつが講演で言っていたように、本当に遊びの天才だった。俺もあの缶蹴りはよく覚えているよ。と言うより、缶蹴りって言うと、あの日のことしか思い出せない」  明石は私に向かって言った。 「不思議なもんだな、って思いながら講演を聞いていた。缶蹴りなんか、それこそ何百回となくやったはずなのに、思い出すのは常にあの日のことだ。谷藤が膝に包帯巻いててさ。紙芝居が終わった後だったよな。紙芝居のタイトルは覚えているか?」 「いや……そこまでは」 「『少年ケニヤ』だった。漫画が流行していたんでパクッて描いたんだろ。ちょっと小太りのケニヤで笑った覚えがある。続きを見た記憶がないから、あの紙芝居はウチの町内を縄張りにしていた人とは違っていたはずだ」 「なるほど。そうかもしれない」  私も頷いた。 「ドンドンドンって、腹に響く太鼓の音が今でも懐かしいね。紙芝居の合図がさ」 「それで明石さんは紙芝居を復活させたんですな。明石さんは町の子供たちのために昔の遊びや夜店なんかを再現して喜ばれています」  副館長が私に説明した。 「テレビゲームばっかりやっていると目が悪くなるだけじゃなく、友達も必要なくなる。ウチのガキを見てるうちにそれを感じてね」  明石は笑って時計を見た。 「そろそろ出れるかい。もう皆が集まっている頃だろう。皆と言っても四人だけど」  促されて私は立ち上がった。およそ十年ぶりに戻った町である。だが、これから会う仲間とはもっと久し振りだ。付き合いの続いているのは高校時代の友人ばかりで、おなじ町内の幼馴染みとはほとんど音信不通の状態だった。幼馴染みはたいてい市立の中学に進級したのに、私だけ私立の学校に入ったせいである。もし明石から講演を依頼されなければ今後もずうっと会わずにいただろう。 「会場に斎藤や菊池も顔を見せていたよ。気がつかなかったようだな」  部屋を出ると明石が言った。 「前から三列目辺りにいた二人じゃ?」  私が言うと明石は頷いた。 「どこかで見た顔だと思っていた。やっぱりそうか。案外忘れないもんだな。それで話が少し脱線して缶蹴りのことなんかを」  与えられたテーマは若い頃の自分というものだった。デザイナーになる切っ掛けとなった高校時代の恩師との出会いを中心に話す予定でいたのに、つい興が乗って幼い頃の思い出にまで話が広がってしまったのだ。 「斎藤たちも喜んでいたぞ。あんたがあんなに子供の頃を記憶しているなんて」 「………」 「あの町内にいた仲間で、今もこの町に残っているのは四、五人しかいない。親が公務員で引っ越しして行ったり、東京に勤めたり、嫁に行ったりで散り散りバラバラだ。子供会は四十人以上の大所帯だったというのに」 「そんなにいたっけ?」 「いたよ。男と女が別れて遊んでいたから少なく感じただけだ。団塊の世代なんだぜ。子供なんてうじゃうじゃいたさ」 「四人が待っていると言ったが……斎藤と菊池と、他はだれだ?」 「一人はゆきっぺ。ゆきっぺは覚えているよな。あんたの家の三軒となりだった。今は実家を改造してブティックを開いてる」 「じゃあ、おんなじゆきっぺの家だったのか。その店なら知ってる。だれかに売ったんだとばかり思っていた」  私が暮らしていた祖父母の家は十五年も前に売って、叔父夫婦は別の町に移ったのだ。だが、懐かしさから私はこの町に戻るたびにその界隈を歩いていた。ゆきっぺ、つまり山本雪子の家がブティックに変わったのは前に来たときに分かった。彼女の父親は建築会社に勤めていたし、まさか雪子が経営しているとは思わずに素通りしたのだ。雪子は私より一つ年下で奇麗な女の子だった。 「もう一人は?」 「大城健三。知ってるかい?」  探るような視線を明石は浴びせた。 「大城さんて……川通りの薬屋の健さん?」  私は胸の騒ぎを抑えながら質《ただ》した。 「そうだ。昔の店はもうないが、その代わり市の郊外に四軒の店を持っている。町内も違うし歳もだいぶ上だから仲間って感じでもないだろうが、あんたとは親しかったとか。あの人も議員をしてるんだよ。俺があんたを招いたのを聞き付けて歓迎会に出席したいと」 「特に親しかったわけじゃない。祖父が開業していた時分に健さんの親父が商売で出入りしていたんだ。それで健さんも家にときどき用事を足しに来ていた。明石たちとも遊んだはずだぜ。それこそ谷藤の姉貴が大城薬店に勤めていたじゃないか」 「厭なやつだったな。谷藤を子分みたいに扱いやがって。町内のガキ大将だった谷藤も大城さんが来るとしゅんとなっちまう。四つも上だったんだから仕方がないけどさ。中学生がとなりの町内のガキの遊びに加わることはないじゃないかと反感を覚えたよ。あの癖は今も治ってない。自分の地盤でもない地区の問題にまでしつこく首を突っ込んで来て、議員仲間からも煙たがられている」 「健さんの方から出席したいと?」 「斎藤と菊池は迷惑だと反対したんだがね。親しかったと言われたら断わる理由がない。まあ、適当にあしらって早く帰ってもらうよ」  明石は私の顔色を見て言い添えた。     3  私と明石が顔を出すと、沈んでいた席が急に賑やかになった。上座に陣取っていた大城と他の三人の話が噛み合っていなかったらしい。私は雪子のとなりに座らせられた。 「谷藤君の話が出たんですってね」  乾杯を終えると雪子が言った。 「聞きに行きたかったんだけど、娘が学校から戻るまで留守番がいなくて」 「高校三年生だ。町内でも評判の美人だぞ」  小学校の教師をしている斎藤が付け加えた。斎藤は今もおなじ家に暮らしているという。 「菊池は郊外に引っ越した。そこで本とビデオレンタルの店をやっている。あの界隈に居残っているのは俺とゆきっぺだけ。明石もマンション暮らしだもんな」 「のんびりできる場所じゃなくなったろう。昔は閑静な住宅地だったのに、ホテルが建ったり飲食店だらけの繁華街になった」  私が言うと斎藤も頷いて、 「裏手の川が埋め立てられてからだ。今じゃ坪百二十万は堅い。東京の値段から見れば嘘みたいなもんだろうが、この町で百二十万は一等地だぜ。それで皆が売っ払ったのさ。売って郊外に家を建てる方が得だ。菊池もそうやって脱サラに成功した口でね」 「成功してない。借金に喘《あえ》いでる」  菊池は苦笑した。 「谷藤は懐かしいよな」  斎藤が話を戻した。 「なんだか泣けて来たよ。歩きながら菊池とも話して来たんだが、俺たちも缶蹴りって言うとあの日のことが真っ先に頭に浮かぶ」  私と明石は思わず顔を見合わせた。 「講演を聞いていて思い出したんじゃない」  斎藤は続けた。 「ずうっと昔からそうだった。仕事柄、俺も子供たちに昔の遊びなんかを教えることがある。陣取りやケンケンとか釘刺しってのを、頭に思い浮かべながら説明するんだが、記憶って妙なものでね……割りと決まっているんだ。陣取りとか釘刺しなんて、毎日のように遊んでいたわけだろ。それなのに無数の記憶が残っているわけじゃない。頭に浮かぶのは常におなじ情景なんだ。ビー玉の場合は、となりの町内からでっかいビー玉を持ったやつが遠征して来て、神社の境内で対抗試合をやった。それが俺にとっての唯一のビー玉の記憶なんだな。もちろん菊池や明石ともビー玉をやったさ。でも、それは、遊んだはずだという記憶だけでイメージにまでは繋がらない。釘刺しの場合だと……それこそゆきっぺだ」 「私? 釘刺しなんてしたかしら」 「いや……ゆきっぺのパンツの下の方のゴムが緩んでいたんだ。そいつが気になってさ」  大城を除いて皆が笑った。 「ゆきっぺはしゃがんで眺めていたから丸見えだった。それで俺はなるべくゆきっぺの正面になるような位置に釘を刺し続けた。釘刺しって言うとあの日の記憶しかない」 「俺は怪我をしたときのことだな」  菊池が割って入った。 「学校の校庭だった。思いきり釘を投げたら石で跳ね返って掌に突き刺さった。医務室に運ばれて学校を早退した。斎藤が言うように、他の釘刺しの記憶なんてまったくないね。それが日常だったからなのかな。なにか強烈な記憶がそれに加えられたせいで遊びの思い出も残る。そういうことじゃないか?」 「そして、それがその遊びの記憶の代表選手になるってことかい」  明石が言うと斎藤と菊池が首を上下に動かした。  私も頷いた。今の歳になって思えば、遊びの記憶の方が大きな位置を占めている。しかし、その当時にすれば遊びは日常である。だれが勝ったとか、鬼がだれだったとか、いちいち頭に刻《きざ》もうとはしない。これはだれに訊ねても同一のはずだ。トランプ、双六《すごろく》、馬飛び、ドッジボール、竹馬、メンコ、チャンバラごっこ……子供の頃に遊んだものは無数にある。なのに、その記憶を辿ると、その一つ一つについてはっきりとした記憶はわずかしかない。そして、その記憶をさらに手繰《たぐ》ると、好きな女の子が加わっていたトランプだったり、自分がホームランを打って逆転したソフトボールの試合だったりする。菊池の言葉通り、遊びの記憶がメインではないのだ。特別なことがそのときに起きたために、その遊びが記憶されていくというのが本当だろう。子供の頃のことなので記憶が曖昧になったというのでもない。その証拠に遠足や運動会などはたいていが何年にも渡って覚えている。一年のときはどこ、二年のときはあそこ、三年はここだったという具合に。遠足という言葉から一つのイメージしか浮かべない人間の方が珍しい。 「ってことは……」  明石はぼんやりと私を見詰めた。 「あの缶蹴りの日って……なんだったんだ」 「なんだったと言うのは?」 「だからさ」  明石は焦《じ》れったそうに言った。 「どうして皆があの日の缶蹴りを記憶してるんだよ。なにかあったんだっけ? その理屈で言うなら、よほどのことがあったとしか」  明石は皆の顔を眺めた。 「谷藤が怪我をしていたからじゃないか」  私は即座に言った。 「俺はそいつを覚えてないな」  斎藤は谷藤の怪我については否定した。 「雨上がりで虹が出ていた。谷藤が缶の側に潜んで俺たちを捕まえたのも記憶にある。けど、足に怪我をしたのはもっと前のはずだ。じゃないと、あんなに早く走れないぞ。あれは足の怪我とは無関係の作戦だったよ」 「俺も包帯は記憶にない。あのときはずいぶん見知らぬ連中も缶蹴りに加わった。それで特別記憶に残ったのと違うかい。ゆきっぺはなにか覚えてないか?」  菊池は雪子に質した。 「缶蹴り? 私が覚えているのは、ずいぶん夜遅くまで皆がだれかを捜していたことだわ。確か缶蹴りのあった日じゃなかった?」 「それ……別の日だろう」  明石は頷きながらも否定した。 「だれかを捜したって……あの酷い台風の夜かい? 俺の家にもおまわりが来た。寝ていたところをお袋に叩き起こされたんだ。そうそう、そんなことがあったよ。あれから台風の夜っていうとそいつを思い出したもんだ。実際凄い台風だったよな。裏手の川が氾濫して浸水したとこもだいぶあった。川に流された家もあったと聞いたぜ」  斎藤は言ってビールを飲み干した。 「ゆきっぺの言う通りだ」  菊池は遠くを見るような目をして、 「確かにあの日の夜だった気がする」 「けど、缶蹴りの日は雨上がりだったぞ。それから台風になったと言うのか?」  斎藤は違うと言い張った。 「ちょうど台風の目に入っていたんだ。前日から凄い風が吹き荒れていて、学校が休みになったんだ。そしたら昼にぽっかりと陽が射しはじめて……だから子供たちがどっと広場に繰り出したのさ。おまけに紙芝居もやって来た。うちの町内ばかりか川通りの連中まで揃っていて……そうだよ。それで缶蹴りがはじまったんだ。じゃんけんで鬼を決めようとしても数が多すぎる。そしたらだれかが谷藤に鬼をやれと命令して……」  言いながら菊池はハッとして大城を見た。ずうっと無言で聞いていた大城は頷いた。 「大城さんもあのときいたんだ」  菊池の言葉に大城は苦笑した。  私は急に背筋に寒気を感じた。  雪子や菊池に言われるまで、私には缶蹴りの記憶のある日が、まさかあの台風の日と重なっていたなど考えもしなかったのである。 〈それで大城がここに来たのか〉  咄嗟に私には大城の意図が分かった。  私は震える手でグラスを掴んだ。 「だれがいなくなったんだっけ?」  明石も思い出した様子で菊池に質した。 「さあ……それはまるで記憶にない」 「うちの町内の子じゃなかったわよ。それで道に迷ったんじゃないかと」  雪子が言った。 「晩メシも忘れて遊んでいたからさ。真っ暗になっても帰らないんだから道にも迷う」  斎藤が言うと皆が笑った。 「大城さんは覚えていませんか?」  明石がビールを注ぎながら訊いた。  私は緊張した。大城は私を見詰めながら、 「もちろん知っている」  低い声で言った。 「………」  皆は大城に注目した。 「姿を消したのは俺の妹だった」  明石たちは顔を見合わせた。 「あの、川で溺れて死んだ女の子!」  雪子が大声を上げた。 「あの子、妹さんだったの!」  雪子が言うと大城はゆっくりと頷いた。  私は……掌の汗をぎっちりと握っていた。 「信じられないな」  やがて明石が口にした。 「ってことは……缶蹴りをした後、妹さんは行方不明になったんですか?」 「ああ。台風騒ぎで妹捜しも中途半端になってしまったが、台風が治まった三日後に下流で発見された。あの台風では人が六人死んでいる。妹が戻って来ないと騒いだときには、すでに相当な風が吹いていた。警察も家への帰り道で川に嵌《は》まってしまったと決め付けた」 「かわいそうなことをしましたね」  さすがに明石もしんみりとして、 「川通りの女の子が亡くなったのは知っている。そうか……それで缶蹴りの記憶が一緒だったんだよ。その話を聞かされた日付が缶蹴りをした日とズレているんで結び付けなかったけど、その当時は皆で缶蹴りの日の記憶を話し合ったんじゃないのかな。だから谷藤が鬼だったとか、克明に覚えているんだ」  私に同意を求めて来た。 「かも……知れないね」  私は慎重に応じた。冷や汗が出る。 「典子はあんたと仲がよかったな」  大城は私にビールを勧めた。 「ウチにはあんたと典子が一緒に写っている写真が何枚かあるよ。持ってくればよかった」 「そうですか」  私は動揺を押し隠してビールを口に運んだ。大城の妹である典子は私より二つ年上で、亡くなったときは六年生だった。大柄な子で、店番もこなしているせいか大人びていた。今ではとても信じられないけれど、学級担任の先生と怪しいという噂まであったのである。だが、明石たちはそれを知らない。典子の通っていた小学校は自分たちとは別のところだ。祖父と大城の父親との繋がりで私がたまたま二人をよく知っていたに過ぎない。 「典子はどこに隠れていたんだろうなぁ。俺は缶蹴りをやっていた最中に友達と会ってそいつの家に遊びに行っていたんだ。だから、典子が行方不明になっているなんて夜に戻るまで知らなかった。親たちも典子がてっきり俺と一緒だと思って安心していたらしい。それから大騒ぎさ。あんたの家に真っ先に電話をしたよな。雨が酷くなったので典子が世話になっているんじゃないかと……けど、いなかった。あんたも、家にいた書生さんみたいな人と一緒にあちこち捜してくれた」 「だったら東京の大学に行っていた親戚の兄さんだ。休みのたびに遊びに来て半月くらいごろごろしていたんですよ。肝炎に罹《かか》っていて俺が中学のときに亡くなったけどね」 「本当に典子と一緒じゃなかったのかい」  大城は真っ直ぐ私の目を覗いた。 「どう考えても不思議なんだよ」  私は無言で大城と向き合った。 「頭のどこかにそれがこびりついてる。あんたと典子が手を繋ぎながら、あんたの家の裏庭に走って行った姿がさ。あの日の記憶じゃないかも知れないが……」 「大城さん、なにが言いたいんだ?」  明石が身を乗り出した。 「裏庭を捜させてくれと俺は頼んだんだよ。そしたら……」 「そしたら?」 「電話をもらって直ぐに庭を捜したと言われた。それが、だれに言われたのか覚えていない。あんたじゃないのは確かだ。それなら俺も強引に裏庭を捜したと思う。一緒にいた親父もそれで引き下がったとこを考えると、大奥さんだったような気もする。でも、あんなに広い庭だぞ。たった十分やそこらで見回れるはずがない。ましてや夜なんだ。そのときは夢中だったので他を捜した。まさか妹が死んでいるなんて想像もしなかったしな。庭に隠れていたら返事をするに違いないと、こっちも納得してしまったのさ」  大城は私を睨むようにして続けた。 「子供を必死で捜している親がいる。普通なら、気の済むように捜させるのが当たり前じゃないのかね。たとえ自分たちが捜した後だとしてもだ。その不自然さに、自分が親になってからはじめて気がついた。それに気がついたところでどうなるもんでもない。あの家はとっくに壊されているし、あんたも東京に引っ越した。死ぬまでこの疑問を抱えていくんだろうなと諦めていたら、あんたが講演に来ることを耳にした。どうやって切り出そうかと悩んでいたところに今の話さ。妹の導きじゃないかとこっちも薄気味悪くなったよ」 「考え過ぎもいいとこだ」  明石は笑いを堪《こら》えていた。 「大城さんも納得したように、名前を呼べば返事をすると考えるのが当然だ。その返事がなかったんで庭にはいないと答えた。なんにも不思議はないさ。もし妹さんが庭にいて返事をしなければ、隠れていたってことだろ。台風の夜に女の子が隠れていられるわきゃない。だれだってそう思う。バカバカしい」  斎藤たちにも笑いが戻った。 「妹が返事のできない状態だったら?」  大城は明石に問い質した。 「川に溺れているなんて、こいつの家の者に分かるわけがない。すべてはあんたの親父さんの責任さ。不審を感じたら強引にでも庭を調べて見ればよかったんだ。いや、あんたが子供だったから想像を膨らませただけで、親父さんはその返事にちゃんと納得したのかも知れない。まさかあんたは妹さんが裏庭で殺されていたなんて妙なことを考えているんじゃなかろうな。だったら狂ってる。殺される理由でもあったって言うのか」  明石は大城を怒鳴りつけた。 「俺たちは何度となく彼の家に遊びに行った。裏庭でもよく遊んだぜ。親切なおばさんや旨いお菓子をくれたおばあさんのことも忘れちゃいない。子供に優しい家族だった。ゆきっぺだって可愛がられていたよな」 「うん。奇麗なおばさんだった」  明石に雪子も頷いた。 「不愉快だ。とっとと帰ってくれ。せっかくの集まりをだいなしにしやがって。盗人は泥棒の心配をするって言うが本当だな。あんたの根性がひん曲がってるのさ」 「裏庭の小屋を取り壊したじゃないか」  大城は明石を無視して私に叫んだ。 「あれは典子の葬式の翌日だった。親父と挨拶に行ったら皆が片付けの最中だった。壊してガラス張りの温室を拵《こしら》えるとか。こっちは妹が死んだばかりなのに……泣きたかったぞ」  本当に大城は大粒の涙をこぼした。 「典子の二十一回忌のときにお袋に聞いたよ。それまではただの事故だとしか思っていなかったんだ。そしたらお袋が……典子は殺されてから川に捨てられたかも知れないって」 「………」 「そう言っていたおまわりもいたそうだ。典子は溺れて死んだんじゃないんだ。首の骨が折れていたんだよ。崖から落ちて石にぶつけたと病院では説明したらしいが、体のあちこちにあった擦《す》りむき傷に血が滲《にじ》んでなかった。変死として扱うかどうか警察の内部でも何度か検討されたってんだ!」  大城はテーブルを叩きつけた。 「あくまでも事故だと言い張ったのは」  大城は少し言葉を切って、 「あんたの祖父《じい》さんさ。病院の副院長をやっていただろ。典子を調べたのは祖父《じい》さんだよ」  私は青ざめた。皆も唖然となった。 「お袋はあんたの祖父《じい》さんにゃ若い頃から世話になっていたし信頼もしていた。だから迷惑をかけまいとして引き下がった。警察はもう一度解剖させてくれと頼んで来たそうだがな。俺が不審を抱くのも当然てもんだろ」 「知らなかった……なんにも聞いてない」  私は必死で首を横に振った。 「いい加減にしないか!」  明石は大城の襟首を掴んだ。 「だからと言ってなんなんだ。こいつの祖父《じい》さんは医者だぞ。調べるのが当たり前じゃないかよ。だいたいあんたは肝腎なことを忘れてるぞ。さっきから言ってるように、理由だ。そいつを聞かせてもらおうじゃねえか。あんたの妹はだれからも殺されるような厭な娘だったのか。え、でなきゃ筋が通らんだろう」 「なんだと!」  大城は明石の腕を払って投げ飛ばした。  斎藤と菊池は立ち上がった。雪子が逃げ惑った。音を聞き付けて店の者が現われた。 「典ちゃんは……怖い子だった」  私の言葉に全員はぎょっとして振り向いた。 「大丈夫。もう暴れないから」  私は店の者たちを下がらせた。 「典子が……なんだって?」  大城は額に脂汗を浮かべながら質した。 「これだけはだれにも言わないつもりだった」  私の口調もうわずった。他人には言えない記憶だ。それがあの台風の日の記憶なのである。私は唾を飲み込んで皆を見渡した。雪子と目が合う。思わず視線をそらせた。 「女の私がいると言いにくいこと?」  雪子は敏感に察した。 「俺……典ちゃんに襲われたんだ」  思い切って言うと皆は戸惑った。 「あの日だよ。典ちゃんは俺を誘って裏庭に隠れようと言った。あの小屋だったら鬼も怖がって捜しに来ない。俺も面白くて典ちゃんに従った。小屋の鍵は数字式になっていて俺にも開けることができたんだ。そしたら手を触れただけで鍵が外れた。だれかが閉めるときに数字を回し忘れたに違いない。俺はなんだか怖くなって、別の場所にしようと言った。典ちゃんは平気で中に入った。小屋と言っても広いんだ。奥の方には古い診察台とか箪笥《たんす》なんかがしまわれている。俺も奥までは確かめたことがない。なのに典ちゃんはずんずん奥に進んで行く。怖いから帰ると俺が叫んだら典ちゃんが戻って来た。ちんちんがないから弱虫なんだと叱られた。典ちゃんは俺よりずうっと背も高かったしね」  私は雪子や大城の反応を見ながら続けた。 「ある、と言ったら、見せろと切り返された。俺はズボンを下ろして見せた。そしたら典ちゃんがいきなり俺のものを握った。こんなに小さいから駄目なんだと笑った。そのうち大きくなると答えたら、今でも大きくなる魔法をかけてやると言ったのさ。そして……俺のものを握ったり離したりした。むくむくとなって、物凄く痛くなった。被さっている皮のせいだと典ちゃんは言うなり、思いきり俺のものを上にしごいた。飛び上がるくらいの衝撃があった。見たら包皮が捲れて亀頭が露出していた。ナイフかなにかで皮を切られたとそのときは思ったよ。びっくりして俺は泣いた。典ちゃんは慌てて俺の包皮を元に戻そうとした。俺のものはますます大きく堅くなって行く。亀頭のところが捩《ね》じ切られるみたいな痛みが広がった。とてつもなく怖かった。これで死ぬんだと思った。そしたら……典ちゃんは俺のほっぺたをぶって黙らせると、また俺のものを握って上下にしごいた。こうするとやがて小さくなるって言ったんだ」  雪子は顔を少し伏せた。耳が赤い。 「快感なんてなかった。典ちゃんの指が動くたび、ひりひりした。俺のものは腹にくっつくくらい反り返っている。鉛筆みたいなものだけど……そしたら典ちゃんが自分のパンツに手をかけて……」 「やめろ!」  大城は叫んだ。私は頷いて押し黙った。  溜め息と沈黙が続いた。 「そうして……どうなった」  やがて大城は私に訊ねた。聞かなければいけないと覚悟を決めたのだろう。 「その……脚を広げて俺に乗って来たんだ」 「………」 「俺はもうひたすら典ちゃんが怖かった。なんだか鬼のように思えたんだ。それで典ちゃんを押し退けると小屋の外に逃げた。外から鍵をかけて数字を目茶苦茶に回した。典ちゃんはドンドンと扉を叩いている。典ちゃんは力も強いし勇気もある。俺は後の心配もしないで小屋から逃げ去った。いつの間にか俺のものは縮まっていた。怖くて縮んでしまったのかも知れない。治ったら痛みも次第に消えていった。それから……きっと皆のとこに戻ったと思う。しばらくして典ちゃんの現われないのが気になりはじめた。俺は暗くなってからそっと小屋を覗きに行った。小屋の扉は少しだけ開いていた。やっぱり帰ったんだとホッとしながらも外から何度か名前を呼んだ。そうしたら小屋の中から叔母が出てきた。俺はどぎまぎしたよ。てっきり叔母が典ちゃんの泣き声を耳にして助けたと思ってね。けど叔母はなにも知らない様子だった。ついさっきから親戚の兄に手伝ってもらって小屋の片付けをしていたと言う。典ちゃんが奥にでも隠れているかも知れないと思いつつ俺も中に入った。だが気配はない。だいぶ前に典ちゃんは小屋を抜け出したんだ。俺は安堵した」  だが、その言葉の裏に苦痛のあるのを大城は見逃さなかった。どこから典子は出た、と私に質問して来た。 「小屋の奥に……窓があった」  私はついに白状した。 「典ちゃんが行方不明になったと連絡を受けるまで、俺はなんの心配もしていなかった。本当だよ。家に戻ったと信じていたんだ」 「………」 「だけど……ひょっとしたら典ちゃんはあの窓から出たのかも知れない、と思い付いたとき、目の前が真っ暗になった。窓の外は川に面した崖なんだ。もし、辺りが暗くて典ちゃんにそれが見えなかったとしたら……」  大城は私を殴った。 「馬鹿野郎! どうしてそれを隠したんだ」  大城は泣きながら何度も殴った。 「こいつにどんな責任がある!」  明石と斎藤が大城を取り押さえた。 「あんたの妹には罪がないって言うのか」 「皆が隠しやがったんだ。こいつを庇《かば》うために、あの家の皆が嘘をついてたんだ。もっと早く分かっていたら妹は死ななくても……」  大城は嗚咽した。雪子も泣いていた。 「違う!」  私は訴えた。 「家のだれも典ちゃんがあの小屋に閉じ込められていたなんて知らなかった。皆が騒ぎはじめてからそいつに気がついたんだ。その後も俺はだれにも話していない。言ったら警察に捕まると思って秘密にしていたんだ」  私は祖父の名誉のためにも繰り返した。 「大城さんよ……」  明石は大城の前に胡座《あぐら》をかいた。 「妹さんがその窓から川に落ちて亡くなったという確証はない。だれも見ていないんだ。別のところで落ちたという可能性だってある。辛い気持は分かるが……もう、これで気が済んだんじゃねえかい。こいつだって三十年以上もこうして思い悩んで来たんだ。あんたがこいつの立場ならどうした? 小学校の四年やそこらなんだぞ。俺でもこいつとおんなじように黙っていたと思う。自分の家の近くならともかく、何日も経ってから違う場所で発見されたんだろ。自分のせいじゃないと信じて当たり前だ。それが子供ってもんさ。いまさら責めてどうなる」 「そうよ。許してあげて」  雪子も大城に頭を下げた。 「辛いのはどっちも一緒だったと思うわ」  私は……思わず涙をこぼした。  本当に辛かった。あの日のことをこれまでにいったい何度夢に見たことだろう。そのたびに震え、犯した罪に怯えた。  私は大城の前に手を揃えて謝り続けた。  これでやっと典子から解放されるのだ、という安堵も同時に私の中にあった。     4  しかし……安堵に満たされるどころか、東京に戻った私は逆に落ち着かなくなった。  これまで私はあの日を真剣に振り返って見ることをしてこなかったのである。罪の重大さが記憶に蓋をしていたのだ。典子の顔でも思い出そうものなら、慌てて仕事に没頭したり、ビデオを見て気持を脇に逸《そ》らして来た。活字やテレビで典子という文字を目にしただけでも慌てて本を閉じ、チャンネルを変えた。じっくりと記憶を辿るなど恐ろしくてできるはずがない。大城たちの前で順序立てて話せたことが反対に信じられないほどだ。三十年以上も忘れようとしていたのに……私の頭の中にはいまだにあの日の記憶が鮮やかに残っている。それだけ大きな事件だったのだ。 〈裏庭はだれも捜さなかったよな〉  自分の関係していたことなのでよく覚えている。大城は確かに父親とやって来て、家の裏庭を捜させてくれと祖父に頼んだ。  そうしたら……だれかが捜したと応じた。  捜してもいないのに、である。 〈だれだったっけ?〉  それで自分も安心して大城に典子とは缶蹴りのときにバラバラになったと言った。 〈ああ、そうか。叔母が言ったんだ〉  私は思い出した。あの日は祖父と祖母が揃って親戚の結婚式に招かれていた。叔父は会社だったから、朝から叔母と親戚の兄さんと自分の三人だけで留守番をしていた。そこに雨が上がって私は外に飛び出た。祖父たちが戻ったのは大城の家から連絡をもらう少し前だった。だから祖父はなにも知らない。大城の父親が裏庭を捜したいと申し出たとき、祖父は頷こうとした。そしたら叔母がとっくに裏庭は捜したと言い張ったのだった。私も疑問は持たなかった。叔母は確かに裏の小屋で作業をしていた。そのことを言っているのだと思ったのだ。捜しはしないが、叔母は裏庭にいた。だから嘘でもない。 〈小屋を取り壊すと決まったときも……〉  私は喜んだ。もし警察が来て小屋を調べでもすれば窓に気がつくはずだと恐れていたところに温室の話が出て小躍りしたのだ。大城の言ったように、なぜか慌ただしく作業が進んだ。あれでは疑われても仕方がない、と今なら思うが……偶然なのは私が断言できる。家族のだれ一人としてあの窓から典子が落ちた可能性など知らないのである。証拠|湮滅《いんめつ》になると喜んだのは私だけで、温室の話は無関係な叔母からの話なのだ。 〈また……叔母か〉  考えているうちにザワッとした。  なぜ叔母はあんな時期に温室の話を持ち出したりしたんだろう。台風シーズンと言えばまだ夏の真っ盛りではないか。現に取り壊しは直ぐ行なわれたが、温室は結局取り止めとなった。叔母の目的は、もしかして小屋を取り壊すことにあったのではないか? 〈まさか……いくらなんでも〉  理由がまるで考えられない。やはり偶然と見るべきだ、と思いたいのだが……私の中に生じた疑惑はますます膨らんだ。なぜ親戚の兄さんは半月の滞在予定を繰り上げて、あの台風の日の二日後に東京へ戻ったのか? 少なくとももう一週間はいると本人から聞いていたのである。それに……なぜあの夏を限りに兄さんは来なくなったのか? 楽しみにしていて祖母に訊ねて叱られた記憶もある。どういう理由からか兄さんの話はタブーとなっていたのだ。もっとも……これに関しては後でだいたいの想像がついた。兄さんが死んだと聞いて叔母が裏庭で泣いていたのを私は見たのだ。その頃中学生だった私は、叔母が兄さんのことを好きだったのだと理解した。それに祖父母も気付いていて、兄さんを家に近付けなかったのだろう。  叔母のプラトニックラブだと信じていた。  だが……違っていたのかも知れない。  だんだんと想像を深めて私は自分でも怖くなった。そう考えると辻褄《つじつま》が合うのだ。  あの日は私を除けば……叔母と兄さんは二人きりで家にいたのである。二人が愛し合っていた仲なら絶好の機会ではないか。  といって家の中では私がいつ戻るか知れたものではない。自分ならどうするか……  迷わずに裏庭の小屋に行く。  あそこにはベッド代わりの診察台もあるし、子供は怖がって滅多に近寄らない。  鍵が中途半端な状態になっていたのはそのせいだ。中から開けやすいようにしていたのだ。そうして愛し合っていたところに……私と典子が闖入《ちんにゆう》したのである。叔母と兄さんは仰天して奥に息を潜めていたのだろう。すると妙なことがはじまって私が外に逃げた。おまけに外から鍵を掛けている。叔母と兄さんは困惑した。むろんそれは典子も同様だ。  典子は泣いても助けが来ないのを知って自力で脱出しようとした。奥に進んで……典子は叔母と兄さんとに出会った。  そして……なにが起きたか。  私は思わずぞくぞくした。  叔母と兄さんは絶体絶命の崖に立たされている。典子は怯えて泣き叫んだだろう。兄さんの腕が典子の口を封じる。そうやっているうちに……典子は死んだ。  それが当たっているように思えた。  小屋には典子の死体があったから叔母は裏庭の捜索を拒んだ。祖父もその様子になにかを薄々と感じた。子供の私には分からなくても、大人にはピンとくる問題がある。祖父は面倒が起きないように典子の死因を事故として押し通した。そして叔父に発覚する前に兄さんを遠ざけてしまった。  典子の死体を川に投げ捨てると叔母は必死になって証拠湮滅を図った。小屋には典子のいた形跡や、兄さんが壊して抜け出た窓ガラスなどが散らばっていたのだ。鍵は私が掛けたのだから、それしか方法がない。  私は重い溜め息を吐いた。  証拠はなにもない。  けれど、それ以外にすべての謎を埋める解答は得られなかった。 〈だが……〉  叔母と兄さんはその後どうしたのだろう。  夕方になって私が家に戻り、小屋を覗いたら叔母と兄さんが中にいた。 〈小屋の片付けとか言っていたが……〉  もちろん嘘に決まっている。  私は目を瞑《つむ》ってあの日のことを頭に思い浮かべた。いやいや……記憶違いだった。叔母さんは手にゴムの手袋をはめていて…… 〈漬物をしていたのよ〉  と言った。  あんな台風の日に漬物?  それでも不審に思わなかったのは……実際に小屋の中で兄さんが大きな漬物樽に蓋をしていたからだ。だから私も納得して 〈勘弁してくれよ……〉  ある記憶にぶち当たって私はぶるぶると震えた。鳥肌が全体に広がった。  私の記憶の片隅には、兄さんがしっかりと押さえていた漬物樽の蓋から食《は》み出ていた白い大根がはっきりと刻み込まれていた。  だが、あれは大根などではなかった。  真っ白な……典子の腕だった。  その瞬間、吐き気と恐怖とが同時に私へ襲いかかって来た。  遠 い 記 憶     1  明日から三、四日の予定で東北にでかける。  旅行の準備も整えたし、頼まれていた短い原稿も封筒に入れて切手を貼った。とりあえずすることはなにもない。時計を見たら、まだ十時前。いくらなんでも寝るには早すぎる。書斎から下に降りていって居間を覗いたら母がぼんやりとテレビを眺めていた。若い人妻たちの不倫ドラマだ。間もなく六十になるってのに、なぜ、こんな番組を見たがるのだろう。母は私が襖の側に立っているのに気づくとリモコンでスイッチを切った。 「お茶なら持っていきますよ」  そそくさと立とうとする母を制しながら、 「もう今夜の仕事は終わった。それよりも、本当にいいのかな」  私はテレビを背にしてすわった。 「なにが?」 「盛岡さ。せっかく行くんだから、挨拶をしてきてもいいぜ。いくら三十年前のことでも、小さな町だ。見つけられると思うんだ」 「いらないよ。お世話になった人なんてだれもいやしないんだから」  母はガサガサと新聞をテーブルに広げると私を無視してテレビ欄に目をやった。 「それに編集者の人も一緒なんだろ」 「時間はいくらでも作れる。遠慮のいらない相手だ。それに、こっちも興味あるしね」 「興味って……どういうこと?」 「別に。やっぱり住んでいた町だからじゃないかな。小さかったから記憶はまるでないけど、だれかに会えばなにかを……」 「なにも覚えていなくて当たり前だよ。おまえは幼稚園にも行かない年頃だったもの」 「親父の会社の同僚はまだ生きているだろうさ。親父のことでもいいんだ」 「よしなさいよ。二十五年も前に死んだ人間のことなんか、とっくに忘れていますよ」  母はとりあわなかった。やれやれ、せっかく喜ぶと思ったのに。よほど盛岡時代に未練がないようだ。なにしろ、つれあいを早くに亡くして女手ひとつで私を育ててきたのだ。だれにも頼らなかった、という自負が母の支えになっている。親父が盛岡から東京に転勤になってすぐに死んでしまわなければ、母にものんびりした人生があっただろう。 「なんで仙台に戻らなかったんだい?」  父母の実家はどちらも仙台にある。東京は仕事の関係で住んだ土地でしかない。なのに母は帰らず、そのまま東京に残ってしまった。 「さあね。私もきっと若かったんだろうね。家も兄さんの代に替わっていたし、義姉《ねえ》さんとはソリがあわなかったから……」 「別に、一緒に住まなくったって」 「こっちはそのつもりでも気にする人がいますよ。幸い東京には仕事もあったし」  私は頷くと自分で茶をいれて書斎に戻った。再婚もせずに育ててくれたのだから文句を言える筋合いじゃない。ただ、そのために親戚づきあいをほとんどしていないのだ。仙台には同年配のいとこも何人かいるのだが、三、四年に一度程度では親しい気分になれるわけがない。それが少し淋しく思うこともあった。  私は時間を持てあましついでに郵便物の整理をはじめた。仕事が重なると面倒になって古書目録や案内状の類いは机脇の床に積んだままにしてある。帯封をした状態で底に敷かれた新聞の日付を見たら一ヵ月前のものだった。それだけ忙しかったということだ。  何種類もの新聞が送られてくるのは私が地方紙に小説を書いているためだ。おなじ小説が同時に四紙に掲載されているので、ちょっと油断をすると、たちまち山のように溜まる。ハサミをだして私は乱暴に切り抜いていった。小一時間もその作業を続けていたら、その中に岩手県の新聞が混じっているのを発見した。これには小説を載せていない。帯封の上書きを確かめたら手書きの奇麗な女文字だった。女子職員でもしたためたのだろう。 〈なにかエッセイでも転載されたのかな〉  通信社経由の仕事の場合はそれも珍しくない。あるいは新刊本の書評でも掲載されているのか。明日の旅行先であることも手伝って私は興味をそそられながら帯封を破いた。丹念に紙面を捜したが、それらしい部分はどこにも見当たらない。まさか、こういう新聞だからいつかエッセイでも書いてくれ、という見本のつもりでもないはずだ。戸惑っているところに、またおなじ新聞がでてきた。全部で三通。もちろん日付は違っている。どれを見ても私に関係した部分は一行もない。 〈勘違いだな。きっと別の人に送るつもりで〉  それ以外に判断はつかないが、三回も続けてとは呑気な話だ。上書きの丁寧な書体から見ても若い女性ではなさそうだ。でもまあ、その間違いのお陰で盛岡の情報が入手できたのだから感謝をしなければ……毎回|洒落《しやれ》た文面で宣伝を掲載している割烹《かつぽう》がある。写真を見るとオープンしたての店らしく雰囲気もいい。今の時期なら山菜が美味《おい》しいだろう。私は一枚を切りとって手帳に挟んだ。     2  スーパー「やまびこ」を利用すると上野から終点の盛岡まではわずか二時間四十分。薄い文庫本を一冊も読み終えないうちに私の乗った車両は盛岡のホームに滑りこんだ。四月だというのに吹き抜ける風はまだ肌寒い。ダウンジャケットを着こんでいるので上は平気だが、薄いパンツの裾から冷たい空気が素肌をくすぐるように這い上がってくる。素通しガラスの向こうにはまだ雪を冠っている山々がパノラマのように連なっていた。厚い雲が動いて青空が広がっていく。 「早い電車で申し訳ありませんでした」  改札口には昨日の昼から盛岡入りしていた石井哲夫が待っていた。旅行雑誌の編集者でこれまでにも何度か一緒に旅行をしたことのある仲だ。ザックリした黒いセーターにジーンズ姿なので若く見えるが、実際は三十を少し越えている。私とは五歳も離れていないのに、いつも丁寧な応対をする。時間に追われる雑誌ではないので、それだけの距離を保てる。泊まりこみまでして原稿をとっていく編集者なら、双方ともに飾ってはいられない。 「君だけか。写真も君が撮るの?」 「いや。カメラマンは昨日撮った分のフォローをしているんです。なにしろ、今朝まで雨が降っていたもので。すぐに合流します」  石井はボサボサに乾いた長い髪を掻いた。靴も旅慣れたラバーソール。名刺をもらわなければとても編集者とは見えないだろう。 「お食事はまだですよね。駅ビルで鰻《うなぎ》でも食べませんか。それと──ホテルはちょっと離れているんです。恐縮ですが夕方までに一仕事終えて、それからホテルにご案内します。もし、重い荷物がおありでしたらコインロッカーにでも預けられた方が」 「いや。ほとんど替えの下着だけだ」  私はバッグを持とうと手を伸ばした石井の好意を断ってあとに続いた。最近は自宅に籠もってばかりいたので久し振りの旅行に気持も弾んでいる。  私たちが腰を落ち着けたのは駅ビル地下にある「ひっつみ庵」という変わった名前の店だった。せっかく盛岡まできたのだから土地の名物を食べたい。新幹線の中で飲んだ二杯のコーヒーが胃にもたれて鰻は無理だ。私が頼むと石井は躊躇せずこの店を選んだ。 「昨夜もカメラマンとここで飲みましたよ。盛岡では有名な料亭の出店なんです。ウチの雑誌で前に紹介したこともありまして……ところで、ひっつみってご存知ですか」 「雑煮、みたいに見えたな」  私は入口にあった見本を頭に浮かべた。 「まあ、味は似ています。我々が子供の頃に食べたすいとんの方言らしいんですが」 「へえ、君もすいとんなんて知ってるの。オレの頃でも滅多に食わなくなっていた。ウチは母親が好きなんで、しょっちゅうだったが」 「だったら、なおさらお勧めです。蕎麦《そば》よりはアッサリしてずっといけます。頼んだ茶めしにもサービスでついてきますけど」 「蕎麦って言えば、岩手はわんこ蕎麦が有名だったな。そちらは試してみた?」 「何年か前に……慌ただしい記憶だけで味は忘れました。同行したカメラマンが食い過ぎてその場に吐き散らしたのが頭に残って」  注文の茶めしを運んできた店員が石井の話を聞きつけて笑いをこらえていた。 「よほどの蕎麦好きでもあの先制攻撃には参りますよ。なにしろ蓋をしない限りいつまでも蕎麦を器に入れ続けるんだから。まるで喧嘩ごしなんです。今はそれほどでもないらしいけど、戦争のようだった」 「食べ放題なら値段も結構とるんだろう」 「それほどでもございません。一人前千円ぐらいのものでしょうか」  品のいい年配の店員が話に割って入った。 「小さいお椀ですので七、八杯が普通のお蕎麦の一杯にあたります。若いお方なら五十杯は軽く召し上がるそうです」 「すると……かけ蕎麦の七杯近くか。よく食べるものだ。食い物競走ってのは嫌いなんだよ。昔のモノのない時分を思い出してさ」  それでも、ついでに私は店員にいくつかの店を教えてもらった。盛岡の旅行記にわんこ蕎麦を欠かすわけにはいかない。 「編集長から耳にしましたが、確か先生はこちらのご出身じゃなかったですか」  食事を終えると石井は首を傾《かし》げた。 「そう。生まれはね」 「なのにわんこ蕎麦をご存知じゃない?」 「こっちには親父の関係で四歳くらいまで住んでいただけさ。あとはずっと東京なんだ」  石井は納得したように何度も頷いた。 「なにしろ、もう三十年も前のことだろ。オレも母親から聞かされて知っているようなもんで、記憶がひとつもないんだ。それ以来盛岡を訪ねたこともなかったし」 「四歳なら無理もないですよ。でしたらぼくの方が詳しいかもしれませんね。七、八回は仕事できています。岩手には啄木や賢治の記念館もあるし、新幹線や三陸鉄道のブームもあって、今じゃ北海道よりも東北に旅行客の目が向いている。十年も前に今度の企画をやれば、さぞかし笑われたでしょうけど」  私も首を振った。「みちのく御仏紀行」とタイトルだけはそれらしいが、東北の寺など関東ではほとんど聞かない。せいぜい平泉の中尊寺と山形の山寺程度のものだ。寺自体がそうなのだから仏となればなおさらだ。 「それで、今日はどこをまわる予定?」 「石仏です。十六羅漢と言いまして、盛岡じゃ名が知れている。昨日らかん公園を下見してきましたが、大きなものは三メートル近くもあって、なかなかの迫力です。屋外に晒《さら》されているんで保存は問題ですが絵にはなりますよ。そこで先生がらみのカットを何枚か撮影させてください。それを終えたら、もう一ヵ所。報恩寺という寺にも有名な五百羅漢があります。ホントは有名すぎて食指が動かないんですけど、外すわけにもいかなくて。観光バスのルートにもなっている寺ですんで」 「数だけ聞けばあとの方がおもしろそうだな」 「現場に行けば分かります。都会の真ん中にあるくせに妙に寒々としている」 「どっちが?」 「十六羅漢。ミニ恐山《おそれざん》って感じでしょうか。まあ、ぼくだけの感傷かもしれませんが」 「君にしては珍しいセリフじゃないか」  前に温泉巡りをしたときに石井はもっぱら飲み屋の方に関心を抱いていた。 「雨の中なのに、仏の一つ一つに手を合わせていくばあさんがいたんです。三十年後にはこんな人間がいなくなる、って思いましてね。今の若い連中って信仰心がゼロでしょう。形式だけは残っても、ああいうばあさんは……」 「それは分からんよ。年寄りになってみないと理解できない感情もある」  口では否定しながら私も頷いた。     3  タクシーが駅前の大きな橋の上で渋滞に巻きこまれた。橋の向こうには四本の道が扇形に伸びている。橋が扇の要《かなめ》の位置にあるから混雑も当たり前だ。信号が青に変わっても車の列は動かない。運転手は苛立っていた。 「馴れているから平気ですよ」  東京に暮らしていると気にもならない。私と石井はのんびりと構えていた。 「この下を流れている川が啄木の歌で有名な北上川です。その上流に見える大きな山は岩手山。あれも啄木の、ふるさとの山に向かいて言うことなし……の山です。昨日はこんなにハッキリ見えませんでした」  運がいい、とつけ加えながら石井は即席ガイドの役割を立派に務めた。  真っ白い岩手山の真ん中から北上川がゆったりと流れている。まるで絵ハガキでも見るように空は青い。橋の丸い鉄のアーチが景色をいっそう引き立てている。 「どうかなさいましたか?」  ガラス窓に額を押しつけるようにして眺めていた私に石井は不審を抱いた。 「覚えているんだ。確かにこの景色だ」  胸を締めつけられるほどの懐かしさがこみ上がってきた。山と川と橋のアーチ。いつも記憶の断片として自分の中にくすぶっていたものだ。それがどこの町だったのか、今までどうしても思い出すことができなかった。 「盛岡だったのか。あいつは」  急に盛岡が身近に感じられた。そわそわと心が弾む。間違いない。 「三十年前の記憶ですね」  石井が興奮した口調で言った。 「お客さん、盛岡に住んでいらしたことがあるんですか……なるほどな。町は変わっても岩手山と北上川だけは変わりがないですもんね。それに開運橋も昔とおなじだし」  橋の名前にもかすかに憶《おぼえ》があった。 「洪水はなかったですか?」  それも、頭のどこかに残っている記憶だった。腰までの泥水を掻き分けながら、流れてきた箪笥の引き出しを追いかけたことがある。東京の下町に何年もいたから、てっきりそこだと信じていたが、こうなると…… 「洪水は多かったですね。三十年前って言えば私が中学の頃だ。大水は頻繁でしたよ。もっともこの駅の周辺じゃなくて、もう少し下流の方でしょう。お客さんはどの辺りに?」 「いや。場所は覚えていない」 「そうですか。被害にあったとすれば大沢川原《おおさかわら》とか仙北町《せんぼくちよう》の方じゃなかったのかな」 「仙北町! そんな町が本当にあったんだ」  私は声を荒げた。それは記憶の引き出しの一番奥にしまわれていた地名だった。  石井は私の反応に戸惑いながらも喜んでいた。車が静かに揺れて走りだす。 「ぜひ、そのいきさつも書いてください」  石井が耳元で私に頼んだ。  らかん公園から歩いてすぐの喫茶店でカメラマンは待っていた。 「今夜は割烹につれていってやるよ」  石井の言葉にカメラマンは無表情に頷いた。若者だから本当は洋食の方が好きそうだ。 「先生が見つけてくれた。特集とは関係ないけど写真も撮影する。簡単なスナップだ」  有賀と名乗った若者も仕事と聞いて諦めた。別行動できると考えていたらしい。 「感触はどうだい?」 「見たけど……絞りきれなくて面倒ですよ。広角だと入るけど先生がメインでしょ」 「全部は無理か。そうだろうな」  石井は私に説明した。四角い広場を囲むような形で縁の一辺に平均五体の羅漢が設置されている。 「平均五体ってことはコの字にあるんだね」 「あ、いや。十六羅漢と言っても実際は二十一の石仏なんです。五智如来だったかな。それに従う恰好で並んでいますから」 「なるほど。じゃあ完全に囲まれている」 「そもそも羅漢ってなんですか?」  有賀が石井に質問した。 「インド名でアラハトと言ってさ、人の供養を受けるにふさわしい聖者という意味だそうだ。十六羅漢はお釈迦様の弟子で特に重要な人たちを言う。現実の人間たちだから仏様とはちょっと違うかもしれない。ついでに説明しとけば五百羅漢の方は釈迦の亡くなったあとに結集した人間たちだ。格は少し落ちる」 「それが、なんで寺じゃなくて広場なんかに設置されているんだい?」  私も石井に訊ねた。恥ずかしい話だが予備知識をなにも持たずにやってきた。 「いえ。広場はもともと宗龍寺という寺の境内で、石仏も飢饉《ききん》供養を願って建立されたものなんです。それが、明治の十七年に寺の方は火事で焼失してしまって、幸い十六羅漢は石だったので燃えずに残ったんですよ」 「飢饉供養なら江戸の末期だな。東北には天明、天保と大飢饉が続いた。死体を食わなければならないほど悲惨な状態だったそうだ」 「間引きも多かったんでしょう? 仏にすがりたい気持にもなりますね」 「今も信仰は続いているんだろうか」 「どうですか。昨日はたまたまばあさんを見たけど、公園になっているくらいだから信仰とはあまり関係ないんじゃありませんか」  私は頷いた。喫茶店の窓に広がる青空に一本の白い筋雲が進んでいった。自衛隊のジェット機だ。見詰めている私の脳裏に秋の穏やかな陽射しと稲を刈りとられた田圃《たんぼ》が一瞬鮮やかなイメージとなって浮かんだ。 「妙だね。秋だと錯覚した」  これも盛岡の古い記憶と繋がっているのだろうか。石井は曖昧に笑った。 〈馴染みの場所だ〉  石仏のひとつを遠くから見ただけで私は直感した。ここには何度も遊びにきたことがある。広場の真ん中に高く枝葉を広げた太い樹木にも思い出があるのだ。私は少し躊躇した。なぜか知らないが広場に足を踏みこむのが怖かった。体から冷や汗が吹きでた。  私は立ち止まると辺りを見渡した。ほとんど新しい建物に囲まれている。都会と変わらないたたずまいを見ていると落ち着いてきた。昔はきっとまわりに建物もなくて鬱蒼《うつそう》としていたのだろう。それで子供心に怖いと思っていたのではないか? 「ご気分でも?」  石井が心配そうな顔で振り返った。 「オレは昔ここで遊んだよ。親父とキャッチボールをした」 「じゃあ、この近所に住んでいたんじゃ」  石井は盛岡の地図をバッグからとりだすと公園の周辺を指で追った。 「ありますよ。先ほどおっしゃっていた仙北町は川を挟んで反対側です。歩いてすぐだ」 「この付近に湧き水みたいなものはないかな」 「湧き水ですか?」 「勘違いかもしれない。なんだかフッと思い出したもんでね」 「ああ。こいつかな。青竜水という名所がある。これ、なんと読むんですか」  石井は照れながら地図を渡した。  私は石井の指差した地名を見た。 「鉈屋《なたや》町……これだよ。聞き覚えのある地名だ。湧き水はここの青竜水に違いない」 「でしょうね。鉈屋《なたや》町なんて地元の人間でもないと読めません。先生には記憶があったからアッサリと分かったんですよ」  そうかもしれない。私は地図を見詰めた。 「ふうん。湧き水はらかん公園と仙北町の中間にあるんだな。すると通り道だ」  私は浮き浮きしはじめた。諦めていた記憶が薄皮を剥がすように甦ってくる。 「撮影が終了したら青竜水の方にも行ってみましょう。取材よりもそっちの方が面白くなってきました。この調子なら先生が住んでいた家まで捜せるんじゃないかな」 「まさか。とっくにビルに建て替えられているさ。正確な住所は母親が知っているはずだから今夜にでも聞いてみるけどね」 「なんだ。場所はハッキリしているんですか」  石井はがっかりした顔で続けた。 「さっきのタクシーの中では知らないと……」 「オレがだよ。盛岡には遊び友達もいなかったし、懐かしい町でもなかったから母親にあらたまって聞いたこともない。いまさら子供時分の住所を知っても意味がないだろ」 「そうか。そうですよね」  石井が頷いているところに有賀が準備オーケーの声をかけた。 「今回は仏が相手ですから、なるべく厳しい顔で睨んでいてください」  石井はひとこと言い添えると広場に走って子供連れの若い母親たちに頭を下げた。撮影の間中は静かにしてくれと頼みこんでいる。盛岡には久し振りの青空なのか七、八人の子供が甲高い声を上げて鬼ごっこしていた。  母親たちの視線が私に集中する。雑誌の撮影と聞いて俳優でもきたのかと興味津々だ。歴史小説の書き手など主婦の間では無名に等しい。石井が私の名前を聞かれて答えていた。母親たちは一応頷いていたが、それきり子供を集めて立ち去ったところを見ると興味を失ったのだろう。いつものことだ。 「たいしたものだな。圧倒されるよ」  私は羅漢を見上げた。石が素材なので細かい描写もむずかしかったと思うが、逆に素朴な効果を上げている。円空の仏像をそのまま拡大した感じで力強い。苔むした痕《あと》なのか白い斑点が法衣の模様のように美しい。唐突に私はイースター島のモアイを連想した。 〈これだけの石仏だ。記憶に残って当然だ〉  それが二十一体もズラリと並んでいる。私が幼い頃もこうして広場を見下ろしていたのだ。ゆっくりと全体を眺める私に有賀のフラッシュが飛んでくる。それが気にならなくなるほど私は羅漢たちに心を奪われていた。  一時間後。私たちは湧き水の前にいた。  青竜水は記憶のままに残されている。辺りに漂うひんやりした空気も一緒だ。  私は泣きたい思いにかられた。  湧き水と言っても小さな規模ではなく二メートル四方の底の深いプールが三つ縦に並んでいると想像すればいい。三つのプールは低い雛段になっていて縁の高い方から下の溜めへと順に溢れた水が流れ落ちていく仕組みだ。 「これは、水をたくさん溜めるようにですか」  有賀がシャッターを切りながら訊いた。 「それもあるだろうけど……かすかな記憶じゃ一番低いところでおカミさんたちが洗濯をしていたような気がするな。上井戸は飲み水専用で、二番目は洗面用とか米なんかを洗っていたのが頭にある。零《こぼ》れた米粒が透明な水の底に白砂のように敷かれていた。いずれ、貴重な水を汚さないための細かな配慮だ」 「合理的だな。確かに平らな水溜めだったら用途もひとつに限られてくる」  石井が上の井戸から水をすくって美味《うま》そうに飲んだ。雨水の混入を防ぐために全体が屋根で覆われている。水面《みなも》に映る屋根の暗い影が竹柄杓《たけびしやく》のせいで静かに揺れ動いた。 「静かだ。まるで時間が止まったようだ」  その揺れを見詰めながら石井がもらした。 「いい町に育ったんですね。先生が羨ましくなってきました」 「なのに、すっかり忘れていたんだから情けない話だよ。我ながら妙な感じだ」  記憶力には自信がある方だと自負していたのに……もっとも、思い出したのだからおなじか。これまでは単にきっかけがなかっただけで、じっくり町を歩いてみれば、もっとなにかを思い出すかもしれない。私は狭い通りに戻ると先を眺めた。道はT字の突き当たりになっている。私は見えない道を想像した。右に曲がると寺があって、その向かいには花屋がなかっただろうか。私は一人で歩いた。両側を見通せる角に着いて、私は溜め息を吐いた。描いていた通りの花屋があったのだ。 「どうしたんですか、先生」  慌てて追いかけてきた石井が言った。 「本当に住んでいたんだ。ようやくそれが実感できたのさ。ここはオレの故郷だ」  なんだか無性に嬉しかった。     4  仲居に案内されて席について間もなく、入れ替わりに挨拶に現われた清楚な女主人が私の顔を見て思わず息を飲みこんだ。 「………」  私たち三人は互いに顔を見合わせた。 「あの……不躾《ぶしつけ》で失礼ですけど」  どぎまぎしながら女主人は私の名前を確かめた。そうだと石井が代わりに答えた。彼女の頬が赤く染まった。石井はニヤニヤした。 「こちらの新聞広告で見ましてね。文章が洒落ていた。あのセンスならきっと料理も美味《おい》しいだろうと思ったんです」 「じゃあ、偶然なんですの」  彼女はとたんに失望した口調になった。だれかの紹介で店を訪れたと考えたのだろう。 「ええ。子供の頃には盛岡に住んでいたけど、知り合いは一人もいない。今度がはじめての旅のようなものだから」  彼女はすぐに頷いた。私が盛岡の生まれということもちゃんと知っていた。その上、驚いたことに私の著書をたいてい読んでいる。 「大ファンだ。今日はいいことずくめですね。やっぱり先生は盛岡と縁が深いんですよ」  せっかくだからと石井が同席を勧めた。石井の注文を電話で板場に告げてから彼女は私の隣りにすわった。私も満更ではない。四十歳前後に見えるが、しっとりとした細面《ほそおもて》の美人だ。彼女は相沢|世里子《よりこ》とフルネームで名乗った。名前を聞いて広告にもそれが記されていたのを思い出した。まだ独身だと言う。 「先生もおなじなんです。ちょうどいい」  石井が余計なことを口にした。有賀は有賀で面白がって私たちを並べて写真に撮る。 「今日はらかん公園に行きましたよ」  私は白磁の杯に酒を受けながら世里子に教えた。世里子の動きがわずかに止まった。 「どうしてあんなところに?」 「石仏の撮影です。行ってみたら覚えていた場所だったんで驚いたけど」 「そうですか。十六羅漢を……他に覚えていらっしゃることはないんですの」 「近所にある清水も記憶にあった。と言っても四歳の頃までしかいなかったから、場所を覚えていただけですよ。洪水のことをタクシーの運転手と話していたら、仙北町に家があったんじゃないかと逆に教えられた」  世里子にかすかな戸惑いが見える。 「どうかしましたか?」 「いえ。私も仙北町でしたから、意外で」 「それなら幼馴染みってことだって──」  石井は強引に私と世里子をくっつけたがる。 「こんな美人なら絶対に忘れないさ」 「子供の頃はヨリッペと呼ばれてました」  なんだかその言い方が可愛くて皆が笑った。  料理が運ばれてきて笑いが中断した。好きな山菜料理が中心になっている。勧められた「たらぼ」のてんぷらを口に入れると、ほろ苦さの中に仄《ほの》かな甘さが感じとれた。柔らかくて春の匂いがする。 「明日は先生の希望で蕎麦を食べる予定ですが、相沢さんも宜しければいかがです」  石井はすっかり世里子を気にいっている。 「お店のオープンは夕方からでしょう?」 「お邪魔じゃありませんの」 「とんでもない。大歓迎です。ぼくはちょっと用事があるんで、有賀と先生の二人だけでは淋しいだろうと思っていました」 「なんだ。そんなことは聞いてないぜ」  私は苦笑した。わんこ蕎麦が嫌いなので世里子をダシに石井は抜けるつもりなのだ。 「私でよければ……喜んでうかがいます」  世里子の返事を聞いて私は石井に頷いた。こちらだって石井と食べるよりは楽しい。 「有《あり》ちゃんよ。明日はあんたも遠慮した方がいい。もちろん分かってるな」  店をほろ酔い機嫌ででた石井が有賀の肩を軽く叩いた。有賀も笑って承知した。 「なんだい。妙な配慮はよしてくれ」  私の世里子への態度はそんなにあからさまだったのだろうか。 「先生のためじゃなく彼女のためです。あんなに熱心なファンは滅多にいませんよ。読者サービスも仕事のうちじゃないですか」  確かにそれは私も感じていた。私の家庭のこと、亡くなった父親のこと、なんでも世里子は聞きたがった。文学少女だった時期でもあったに違いない。特に盛岡時代にこだわっていたのは共通点を捜そうとしたのか。 「わんこ蕎麦がいやならやめてもいい。二人だけってのは少し気が重いよ」  せめてそのぐらいは言わないと。  もう二軒皆でスナックを飲み歩いて、ホテルに戻ったのは十二時近くだった。フロントでキーを受けとると母からの伝言があった。十二時までなら連絡をくれ、とある。  部屋に入ってダイアルをまわした。 「遅かったんだね。飲み過ぎじゃないの」  母は不機嫌そうな声で電話にでた。用件は雑誌社からの仕事の依頼で他愛もないことだった。戻ってからでもゆっくり間に合う。 「放っておいてもよかったのに」 「気になって。ホテルの名前も教えましたよ」 「それより、盛岡時代に住んでいた家だけど」 「………」 「仙北町にあったんだろ?」 「……突然なにを言いだすの?」 「盛岡の地図を見ていたら急に思い出した。明日にでも家を捜してみようと思ってるんだ。目印になるようなヤツはないかな」 「仙北町を思い出したって……そんなことはありませんよ。家は肴《さかな》町にあったんだもの」 「肴町? 本当かい」  私は混乱した。その地名にはまったく心当たりがない。どういうことだ。 「だったら十六羅漢とか青竜水はどう? 鉈屋町ってとこにあるんだけど」 「そりゃあ……肴町の近くだから。仙北町もすぐ側だった。それで覚えているのよ」 「そんな単純な問題じゃない。洪水のことを訊いたら仙北町だって教えてもらったんだぜ。おふくろの方が勘違いしてるんじゃないか」 「洪水? ああ……そうかしらねぇ」  母は少し戸惑っているようだった。 「十六羅漢で親父と何度か遊んだ記憶もある……盛岡の家ってさ、玄関の前に広い堰《せき》があって板の橋が架かってなかった?」  それも世里子の店で飲んでいるうちにフッと浮かんできたものだ。 「板の橋……忘れたわ。昔の話だもの」  母の語尾は小さく消えた。 「肴町の住所を朝までに調べてくれないかな」 「調べてどうするつもりなの!」 「面白いんだ。結構古い町並みが残っている。どんどん思い出してきた。案外、住んでいた家だってそのままかもしれないぜ」 「よしとくれ。嫌いな町だったんだから」  母は苛立って叫んだ。受話器がキーンと共鳴した。私は思わず耳から遠ざけた。ブツッと乱暴に電話の切られた音がする。酔っ払いのたわごとにつきあっている時間じゃないのか。私は苦笑するとベッドに横になった。 〈それにしても……〉  なんだって母は盛岡のことになると話をいつも逸らすのだろう。私の記憶が欠落している原因の大半は母が教えてくれなかったからではないのか? 思い出すのもいやだと言ってテレビに盛岡の町並みが映ると必ず消した。別に私も関心が薄かったので気にもしないでいたが、母は意識的に私の中から盛岡を追いだそうとしていたのではなかったのか。 〈まさかな。理由がない〉  酔った頭にぼんやりと板橋のある家の玄関が形をなした。曇りガラスの嵌《は》められた格子戸だ。開けると戸の桟にとりつけられた赤い鈴が揺れてちりんちりんと可愛い音をだす。  私はきつく瞼《まぶた》を瞑《つぶ》った。こうすると意識をそれだけに集中できる。  玄関の三和土《たたき》には黒や赤の平らな小石がセメントで埋められている。奇麗に空拭きされた細い廊下が奥に伸びている。右手の部屋には分厚い拡大レンズをブラウン管の表面に貼りつけた白黒テレビがあって……あとはダメだ。奥にもひとつ小さな部屋があったような気がするが、まったく思い出せない。私はもう一度廊下に気持を集中させた。突き当たりは手洗いだった。その手洗いの脇には狭い庭におりる急な階段がついていた。私はよく庭にでては裏手に広がる田圃を眺めていたものだ。空には白い筋雲が流れ…… 〈なるほど。昼に浮かんだヤツはこれか〉  ジグソーパズルの空白が埋められるように私の中でつじつまがピタリと合っていく。それは一種の快感だった。     5 「そう……板橋の架かった家ですのね」  ホテルまで訪ねてくれた世里子は複雑な顔をした。今日はカチッとしたジャケットだ。髪もそれに合わせてスポーティにしている。 「母からは、結局、連絡がなかった」  昔の手紙を捜すのが面倒だったのだろう。 「せっかく盛岡にいるんだから、と思ったけど、これじゃあ諦める他に手はない」  喫茶室のレシートを手にとると世里子を促した。蕎麦屋には彼女が案内してくれる。 「お手伝いできるかもしれませんわ」  世里子が私を見上げた。 「十六羅漢と青竜水が記憶にあるなら……そこを中心にして歩いてみたらどうでしょう。子供の足ですもの、そんなに遠くまで出歩いたはずがないと思うんです。幸いあの辺りは盛岡でも一番町並みが変わっていないところですし、丹念に捜せば、あるいは……」 「どのくらいかかりますか」 「時間ですか? 狭い地域ですから一時間もあれば全部の路地をまわれるはずです」  食指が動いた。石井と交わした約束まで二時間はたっぷりある。 「お願いしようかな。土地っ子のあなたが一緒なら心強い。迷う心配もないから安心だ」 「裏手に田圃があったとなれば、やっぱり肴町ではないと思います。そうよね?」  世里子はタクシーの運転手に問いかけた。 「田圃が肴町に? いつ頃の話ですか」 「三十年前辺りだけど」 「そりゃあ、ないスよ。あそこは昔から盛岡一の繁華街だったですもんね。他の場所は知らないが、肴町にだけはなかったでしょう」 「仙北町の方はどうだい?」 「そっちならいくらでもあります。今だって通りの裏では米を作っておりやンすから」  母の勘違いだったのだ。私の住んでいた家は仙北町にある。私は世里子に頷いた。 「明治橋ってご存じないですか? 盛岡では一番大きな橋で、北上川を越えて仙北町に行くには必ず渡る橋なんですけど」 「だだっ広い橋のことかな。ところどころに出っ張りがあって下が覗けた」 「それですわ。間違いありません」  親父の肩車で川を覗くと、今にも落ちそうで怖かった。ずいぶん親父との思い出があることに自分ながら驚いた。母は忙しくてあまり遊びに連れていってくれなかったのか。記憶の場所には常に親父の姿が重なる。その親父よりも自分は歳をとってしまった。 「凄い記憶力ですのね。四歳でしょう?」 「だから不思議なんだ。どうして忘れていたのか自分でも分からない。まるでダムでも壊れたように次々とでてくる」 「家のことも今までは?」 「まったく……特に板橋が架かっていたことなんて、母も忘れていたらしかった」 「残っていれば分かるでしょうか」 「たぶんね。建て売り住宅のようにおなじ家がズラッと並んでいれば自信はないけど」  世里子は楽しそうに笑った。  らかん公園は静かだった。  曇り空のせいか子供の姿がない。 「ここも変わりましたわ。昔はもっと暗い場所で、木もたくさんまわりにあって」  世里子は言いながら足速やに広場に入るとスキーの回転のように石仏を順にゆっくりと蛇行した。世里子の体が見え隠れする。 「……?」  私の頭が苛立った。なにか脳の奥底で目まぐるしく浮かんでは消える記憶がある。私は側のベンチに腰をおろすと世里子の姿をぼんやりと眺めた。軽い眩暈《めまい》が私を襲った。 「昔……君と遊んだことは……ないよな」  石仏を一巡りした世里子に訊ねた。 「そんな記憶がありますの」  世里子は悪戯《いたずら》っぽく微笑する。 「石仏の陰に隠れた君を見ていたら、なんだかフッと妙な気分になった」 「どんなふうに?」 「子供の頃の君が重なった。お下げにして短いスカートをはいてさ」  世里子はクスクスと肩を揺すった。 「そうだ。君はこんなことをした覚えがないかい。これもたった今思い出した」  私は小石を足下から拾うと羅漢が乗っている台座の石にぶつけた。 「うまく当たれば、そこまで進める。安全なのはすぐ隣りの台座だけど、自信があれば離れた羅漢を狙ってもいい。外れたら一回休みだ。そうして早く二巡したヤツが勝ちだ」  私は説明しながら三つ離れた羅漢の台座を狙った。小石は外れて転がった。 「あなたは見ていただけよ。四歳だもの」  世里子の顔から笑いが消えていた。 「じゃあ……やっぱり」 「ようやく思い出してくれたのね」 「知っていたなら、どうして昨夜のうちにそれを伝えてくれなかったんだい」 「びっくりしたの。てっきり分かっていて訪ねてくれたとばかり信じていたから」 「無理だよ。家の場所さえ忘れていたんだ」  弁解しながら私は世里子のことを必死で考えていた。知っている、と思ったのは一瞬のことで、親しさの度合いは分からない。近所の子だったのか、それとも親父の同僚の子供だったのか…… 「こんな偶然があるなんて思えないだろ」 「偶然、じゃあないのよ」 「……?」  私はドキッとした。なるほど。 「あの新聞は君が送ってくれたんだ」  世里子は口許に笑いを浮かべた。 「私の名前を見たら思い出してくれると考えていたから……ちょっとがっかりしたわ」  そうか。それでフルネームを言ったのだ。私の小説を読んでくれていたのも偶然じゃない。幼馴染みという親しみがあったのだ。 「ちゃんと手紙でも書いてくれればよかったのに……それならいくらオレでも」 「だしたわ。子供の頃から数えると百回も」  ゾクゾクと背中に寒気が走った。 「ずうっと諦めていたけど……あなたが作家になってから、また何度か書いて」 「冗談だろ。返事はマメにだしている」 「渡してくれなかったのね」 「だれが?」 「お母さんに決まってるじゃない」  世里子は狂っているのか? 私は彼女に少し薄気味悪さを覚えた。 「あなたの真意が分からなくて昨夜はなにも言わずにいたの。ごめんなさい」 「真意? それはワザと君を知らないフリをしていたってことかい」 「だって、姉弟のようにして遊んでいたのよ。ヨリッペ、ヨリッペって私にすがって……忘れられたなんて簡単に信じられなかった」 「………」 「手紙の方は、渡されていないんじゃないかと薄々感じていたけど……それで新聞広告を送る方法を考えついたの。あれを見たら必ず私に気がついてくださると思って」 「どうも、よく分からないな。悪いけど本当に君を忘れているんだ。もう少し時間をくれ」  私は重い溜め息を吐いた。 「板橋の架かった家に行ってみる?」  世里子は試すように口にした。 「家の場所も知っていたのか! まったく、君って人が怖くなってきた」 「私は盛岡に住んでいるんですのよ。あの家を忘れるはずがないわ」 「今も残っているんだね」 「そのままに……きっとあなたもいろんなことを思い出すんじゃないかしら」  世里子は私を真正面から見詰めた。     6  タクシーは仙北町の一本道の中間辺りから右に曲がった。東北本線の踏切を越えるとアパートや住宅がぽつりぽつり建っているだけで、そのまわりには畑や田圃が広がっていた。  私は世里子の横顔を盗み見た。真っ直ぐに唇を噤《つぐ》んで前の道を睨んでいる。彼女も仙北町に住んでいたと言うから隣り近所の子供だったのだ。私がちゃんとした記憶をとり戻さないのでがっかりしたのかもしれない。 「……!」  少し先に見慣れた野仏があった。赤い前垂れを何枚も首にかけている。 「ここでも遊んだ。あのとき一緒だった女の子も君だったのかな」  世里子はしっかりと頷いた。 「運転手さん。ここからはオレが指示をだす。ゆっくりと走ってくれないか」  完全に記憶が甦った。もっとも田舎の道なので複雑ではない。角を一つ指示しただけで突き当たりの住宅地が迫った。五、六軒の古い平屋が田圃の真ん中に固まっている。道路の左側に広い堰が流れていた。 「あった……」  タクシーはゆっくりと住宅地の中心に停車した。私の家は三軒のうちの右端だ。縁の朽ちかけた板橋が今でも堰にちゃんと架かっている。私の家はもちろんのこと、どの家にも人の気配はない。永いこと人が住みついていないのか、どれも荒れ果てている。 「もうじき、とり壊しになるんです」  世里子が先に降りた。タクシーをそのまま待たせ、私たちは橋を渡って家の前に立った。辺りは気が狂いそうなほどの静けさだ。 「勝手に入れるのかい?」  世里子が格子戸に手をかけたので訊いた。 「鍵なんかありません」  力をこめると戸がギシギシと動いて、上からなにかが落ちてきた。桟についていた鈴だった。すっかり錆びて止め金もボロボロになっている。私は鈴をポケットに押しこんだ。  世里子の開けた格子戸の奥を私は覗きこんだ。裏から外の明りが差しこんで中がよく見える。想像通りの家だ。狭い廊下が真っ直ぐ手洗いに続いている。三和土《たたき》には砂埃《すなぼこり》が積もっていたが、石組みのデザインもおなじだ。胸が締めつけられる。玄関に備えつけの下駄箱が懐かしい。埃臭さも気にならなかった。 「廊下の右側の部屋が居間だった。白黒テレビがあって……」  私は靴のまま廊下に上がると破けた襖を開いた。そうだ。この部屋だ。もちろん今は腐った畳だけだが、昔はここに小さな茶箪笥が置かれて、親父の脱いだ洋服が鴨居に下がっていた。私はいつもテレビの側に陣取ってチャンネルを守っていた。言い争っていると奥の部屋にいた親父が喧嘩を聞きつけて怒鳴った。その声さえ懐かしい。ここには温かな家庭があった。私は世里子に説明した。 「言い争ったって……だれと?」  世里子が私をじっと見た。 「……そうか。君だった。しょっちゅう君と喧嘩をしていたんだ。君はヨリッペだ」  私より三つぐらい上の子で、大好きな女の子だった。だから喧嘩したのだ。 「君を忘れるなんて……まったくどうかしてる。オレは君が好きだったんだぜ」  大人気ないが涙がでそうだ。この部屋には彼女の記憶もたくさんある。 「ほら、隅にあった勉強机の下に潜りこんで君が泣いていたのも覚えているよ」  背中を擦《さす》ったら逆に平手をくってびっくりしたものだ。私が意地悪でもしたのだろう。目の前の世里子の顔が次第に幼くなってヨリッペに戻っていく。記憶が逆流する。 「勉強机……だれの?」  世里子が真剣な顔で私に訊ねた。 「そりゃあ、オレのに決まって──」  私は、そこで言い澱《よど》んだ。おかしい。 「そうよね。あなたは四歳。学校に行く年齢じゃないもの」 「だって、確かにそこにあったんだ」 「あったわ……私の机が」 「………」 「ここは私の家なの」  悲鳴を上げたかった。 「遊びにきていたのはあなたの方なのよ」  世里子は暗い目で見詰めた。鳥肌がなかなかとれない。私は世里子から離れた。 「じゃあ、親父はどうなんだ?」 「きていたわ。母を抱きにね」  世里子の目から涙が溢れた。 「と言うことは……つまり」 「あなたのお父さんの愛人ってわけ。スナックで働いていた母を囲ったの」  私は絶望した。記憶に残るほど親父は世里子の母のもとに通っていたのだ。親父は愛人の存在を隠す目的で私を一緒に連れてきたのだ。それで途中の道が鮮明に焼きついた。 「いいえ。あなたのお母さんは知っていたわ。でなきゃ怖くてあなたを連れてこれない。子供ですもの、なにを言いだすか……」  その通りだ。おふくろは愛人の存在を認めていたのだ。むしろ、私を親父につけてよこしたのではないか? 母親のところに帰りたいと私が言えば親父も泊まらずに戻る。 〈盛岡のことに触れられたくないのも当たり前だな。だから転勤を喜んだのか〉  母も女だったのだ。それで世里子が私に書いた手紙を渡さなかったのも分かる。  しかし、私がこちらの家の方を温かいと感じた理由だけは説明がつかない。あるいは母がヒステリー状態にでもなっていて子供心に怖かったのだろうか。 「この奥の部屋は覚えてる?」  世里子は視線をゆっくりと送った。  ブルッと体が震えた。 「私の母とあなたのお父さんがいた部屋よ」  震えはまだ止まらない。どうしたことだ。奥の襖を見るだけで、たまらない恐怖が襲ってくる。私の額には汗が滲んだ。握った掌もヌルヌルと濡れていく。動悸が高まった。なんだろう? 自分にもわけが分からない。 〈こいつだ。このためにオレは自分から進んで盛岡の記憶を捨てた。二度と考えないようにしたんだ。おふくろとは関係ない〉  世里子が襖に手をかけた。私は両方の掌で顔を覆った。見たくない。絶対に二度と。 「やめろ! オバちゃんがぶら下がってるんだ。白い首を伸ばして──」  私は泣きわめいた。怖い。怖くてたまらない。優しかったオバちゃん。奇麗だったオバちゃんがオレを濁った目で見下ろしている。 「思い出して! 逃げちゃダメ」  世里子が叫んで襖を乱暴に開けた。暗黒が私の目の前にあった。この部屋には窓がない。いつも真っ暗で電気をつけていた。 「あの日はあなただけだったのよ。あなたの記憶だけが頼りなの。お願い。教えて」  私は怖々と暗闇を凝視した。  あの日が鮮やかに甦る。  親父が出張で淋しかった私は、当たり散らす母から逃れて遠い道を歩いた。オバちゃんに会えば慰めてもらえる。母よりもオバちゃんの方が好きだった。子供の足でようやく辿り着いたら玄関が開け放しになっていた。家はひっそりとしてテレビの音もなかった。入りこんでオバちゃんを捜した。奥の襖を開けたら暗闇の中でオバちゃんは鴨居にぶら下がっていた。私の肩がオバちゃんの足に当たってブラブラ揺れた。  そのとき、私は見た。  思い出すとザワザワと寒気が伝わった。  私は、はっきりと見たのだ。  暗がりの隅に立ちすくみ、恐怖と憎悪に燃えた目で私を見詰める、母の顔を。  膚 の 記 憶     1  たかが頭痛と笑われるかもしれないが、食中《しよくあた》りが原因で起きた頭痛の苦しみは、まさに地獄の責め苦にも匹敵するほどのものである。ましてや、それに飲み過ぎが重なると……家内は私の訴えを大袈裟《おおげさ》だと言うけれど、こればかりは経験した者でないと分からない。死んだ方がまし、の言葉通り、この痛みと不快感を治してくれるのなら、悪魔に魂を売ってもいいと思うくらいだ。頭痛を鎮めるためには、じっと仰向けになって頭を少しも動かさず目を瞑《つぶ》っているのが一番である。だが、酔いによる吐き気がそれを許さない。目を瞑っていると頭がグルグルと回り、体が奈落に引き落とされそうになる。思わず目を開けて深呼吸する。と、こめかみがズキンズキンと痛みだす。吐きたくて仕方がない。吐けば頭に血が昇り、大劇痛に襲われるのが歴然としている。それで我慢するのだが、吐かない限り、この眩暈《めまい》はいつまでも続くのだ。胃袋の周辺に血が集まっているのか、寒気もある。脂汗《あぶらあせ》が吹き出し、下着がどろどろになる。体全体からの熱ではないので布団を被れば暑すぎる。その上に……ジンマシン。  食中毒となると決まってジンマシンが発生する。パンツのゴムに沿って臍《へそ》から脇腹の辺りまでと、首筋から両耳、そして足の膝裏がいつもの定位置だ。考えてみて欲しい。吐き気と眩暈と頭痛と局部的な熱と寒気とジンマシン。これがいっぺんに私を襲うのである。酷い時にはトイレの前に胡座《あぐら》をかきながら毛布にくるまって夜を明かすことさえある。夏ならまだしも、冬は死にたいほど辛い。凍りつきそうな便座に頭を載せて、ただただ便器の中の水を眺めて痛みに耐えている。もちろん、大袈裟だと笑っていても、家内は心配して私を覗きにくる。若者ならともかく、私は五十歳の誕生日を間近にした男である。あまりに頻繁にこの食中毒が起こるので、内心は他の病気ではないかと恐れているのだろう。  しかし、それはない。  自分も不安で病院の検査を受けている。今のところ血圧が多少高い程度で、心臓にも内臓にも特に異常は認められないそうだ。やはり、単なる食中毒としか言いようがない。  食べ物には気をつけるようにと医者には毎回言われるが、難問はそれである。おかしな話と思われるかも知れないが、私にはなにが原因の食中りなのか、まるで見当がつかないのだ。原因が分からなければ防ぎようがない。この激しい食中毒の症状がではじめたのは、かれこれ一年ほど前からで、その間、最低でも月に二度は襲われているはずだ。三度目辺りからはさすがに私も真剣になって、その日に食べたものをリストアップし、原因となった食べ物を特定しようと試み続けているが、いまだに解明できないでいる。この頃では食べ物を口にすることさえ怖くなった。よくあるように、生肉だとかカキや刺身の光り物だと判明すればどんなに楽だろう。アレルギーの権威だとの噂を耳にして大学病院も訪ねた。アレルギーテストを受けて、結果を楽しみにしたが、これも駄目だった。結局は食べ物とは無関係なストレスではないかと結論が出たのだが、だからと言って症状がなくなった訳ではない。それに、自分はどちらかと言えば呑気な方でストレスとは無縁な生活を送っている。週に四日ほど、それもラッシュをやり過ごしてからの出勤で、大学の講義には残業もない。教えているのも宗教哲学。宗教系の大学でもなし、一般教養のカリキュラムの中では鋭い質問をしてくる学生もいなければ、新しい情報に振り回されることも少ない分野だ。これでストレスが溜まっているとしたら世間の笑い者に違いない。  命に別条のないのが唯一の救い、とは言うものの、この原因が突き止められるものならなにを犠牲にしても構わない、という気になるまで最近の私はヘトヘトになっていた。 「今度こそMRIを受けて下さいね」  必死で痛みと戦っている私の枕許に洗面器を運んできた家内がいった。MRIの正式名称は知らないが、脳を一ミリ間隔で輪切りにして視る機械らしい。食中毒以外の可能性としては自律神経失調症くらいしか思い当たらないと医者は言うのだが……私は家内への返事の代わりに半身を起こして洗面器に吐いた。胃液だけだった。吐くものはなにも残っていないはずなのに胃が痙攣《けいれん》した。錐《きり》で刺されたような頭痛がはじまった。体がほてる。ジンマシンのせいだ。 〈勘弁してくれ〉  私は私の体に願った。口を利くのさえ苦しい。腹も痛い。便意が襲った。下痢も食中毒にはつきものの症状である。私は頭痛を堪《こら》えながら布団を抜け出た。階段をまともに下りることができなかった。眩暈と吐き気で足下がふらつく。思わず階段に腰をついた。 「またかよ」  廊下に顔を覗かせた息子が憎しみの籠《こ》もった目で私を睨んだ。高校生の息子から見ると、いかにも情けない親と映るのだろう。 「夜中の三時だぜ。おふくろも寝ちまえ」  息子は乱暴にドアを閉めた。  私は這《は》うようにしてトイレを目指した。     2 「そりゃあ、君の体を心配してるんだ」  食堂で一緒になった同僚の高木はレモンティを啜《すす》ってニヤニヤした。 「心配が高じて憎しみになる」 「息子なんかに案じて貰いたくないね」  私はうどんの箸《はし》を休めた。嘘のように症状は治まっているものの食欲はない。 「昨夜も例の店か?」  高木は立てようとした小指に気付いて途中で止めた。下品だと思ったらしい。私は苦笑しながら頷《うなず》いた。例の店とは、新宿の西口にある居酒屋である。もともとは高木の案内で足を運んだ店だが、いまでは私の方が馴染みになっている。独身のママの出身地は岩手県。私もまたおなじ出身なのだ。高木はそれを知っていて私とママを引き合わせてくれた。もっとも、私の場合、生まれたのが岩手県というだけで、ほとんど無縁だ。私は生後三月で母とともに東京へ戻り、岩手の記憶はゼロに等しい。それでもママと親しくなる恰好の切っ掛けとはなった。以来、週に一度は通っている。体の関係ができたのは半年前のことだ。ママは三十八。私の生活に割り込んでくるような野暮な女ではない。五十にもなって妙な言い方だが、私たちは文字通り大人の付き合いをしている。関係に金が絡むこともない。 「あの店の食い物が悪いのと違うかい?」  関係を知っている高木は悪びれず言った。 「東京にゃないものが一杯あるぞ。ホヤだとか山菜とか……目立って食中毒がはじまったのは『南部亭』に行くようになってからじゃないかね。それまであんたから食中毒の話なんて聞いた覚えがない。きっとそうだ」  それは私も薄々と感じていた。けれど、リストを比較した限りでは違う。こちらも気をつけてホヤや山菜を避けた日もある。それでも症状が現われているのだ。酒ではないかと考えて岩手の地酒を飲まないようにしても結果はおなじだった。反対にホヤなどを食べて無事だった日も多い。 「ジンマシンてやつは微妙なもんだからな。自分じゃ食べていないと思っていても体がきちんと反応する。おなじ食い物でも成分の差によって発生する可能性もあるぞ。大学時代の仲間で変なヤツを知ってるよ。百グラム程度までは生のカキを食っても平気なんだが、それを越すと途端に発疹が起きる。あんたもその口じゃないのか? ホヤも少しなら大丈夫だが、限界を過ぎると症状が出る、とかさ」  なるほど、と私も頷いた。その説には納得させられる部分もある。量のことまでは考えていなかった。ホンの一口でも反応するのがジンマシンだと思っていたのだ。 「食い過ぎているものに心当たりは?」 「さあね」  私は小食である。滅多にお替わりはしない。 「今夜も試してみる勇気はあるか?」 「なんだ。それが狙いか」  私は笑った。高木は退屈だったのだ。 「昨夜とおなじものを頼んでみよう。絶対にその中に答えが見付かるはずだ。あんたは食べなくていい。俺が犯人を突き止めてやるさ」  高木は子供みたいに張り切っていた。     3  早い時間のせいで店は空いていた。ママもまだ店に出ていない。私と高木は奥の席に陣取った。カウンターでは都合が悪い。  やがて運ばれて来た料理を見渡して高木は首を捻った。 「本当にこれだけか?」  テーブルの上には冷ややっことイカの煮物、そしてナスの田楽しか並んでいない。 「最後に焼きお握り一つと味噌汁を飲んだ」 「味噌汁の具は?」 「豆腐とワカメ……だったかな」  違うな、と高木は断定した。 「そんなものなら家でもしょっちゅう食べているだろう。大学の食堂でも出る」 「だからこっちも不思議で仕方がない」 「食い過ぎるってほどの量でもないな」  高木は冷ややっこの皿を手に持った。 「ニガリってのは案外危ないんだぞ。豆腐にアタるやつは結構いる。ひょっとするとこいつかも知れん。特殊な豆腐じゃないのか」 「どこにでもありそうな豆腐だがね」  私は否定した。豆腐は好きでよく食べる。一日に一度は食べているだろう。もし豆腐が原因なら毎日食中毒になるはずだ。 「イカはどうなんだ?」  高木は私に訊いてきた。 「違うと思う。リストの食い物の中に共通して出てこない。他でもよく頼む品だ」 「こうなると食い物じゃないかもな。ナスの田楽でジンマシンになるとは思えん」  高木はナスのにおいを嗅いだ。 「医者はストレスだと言うがね」 「酒を飲んでストレスが解消されないんじゃ相当に不幸な体質だぜ」  私に水割りを勧めながら高木は笑った。 「昨夜も水割りかい?」 「ああ。日本酒でもなさそうなんだが、念のために止めている。今は薄い水割りさ。量も大して飲んでいないのに酒が妙に体に残る」 「アレルギーのせいだろう」  高木ははじめて気の毒そうな顔をした。 「まった」  互いのグラスを合わせて口に運ぼうとした水割りを高木は制した。 「いい方法を思い付いた」 「………」 「常にこの店の食い物が食中毒の原因かどうかは分からんが、ここに並んでいるどれかにアタったことだけは確かだ。それなら簡単に突き止める方法があるさ」 「どうやる?」 「一品ずつ減らして食ってみればいい。たとえば今日は冷ややっこを止めてイカの煮物とナスと……焼きお握りを食う。それでまた食中毒の症状が出れば、原因は冷ややっこではなくなる。明日はイカの煮物も止めて、ナスと焼きお握りだけにする。おなじように食中毒になりゃ、原因はナスか焼きお握りのどっちかだ。最後にナスだけを食って様子を見る。それで苦しめばナスで決まりだし、なんともなきゃ焼きお握りって理屈になる。三日間の苦労ですべてが解決するじゃないか」 「それは……たしかにその通りかも知れんがね」  私は苦笑いした。 「そうなると明日と明後日《あさつて》もこの店に?」 「持ち帰りって方法があるだろう」  高木は得意そうな顔をして、 「イカの煮物とナスの田楽なら明日、明後日まで保《も》つ。タッパーに詰めれば大丈夫だ。焼きお握りだって平気なはずだ。家で試すのが厭なら大学で食えばいい」 「ちょっと大人気なくはないか?」 「人体実験なんてのはそんなものさ。臨床実験が一番確実なんだ。騙《だま》されたと思ってやってみろ。上手《うま》くいけば今夜で解答が出るかも知れん。冷ややっこが原因だったらなんともないはずだろ。もっとも、たいていの場合捜し物は最後に出てくる。三日は苦しむ結果になるかも知れないが……」  私は腕組みした。あの苦しみがまた連続するかと思えば躊躇《ちゆうちよ》も当然である。高木は私ではないから簡単に口にできる。だが、いつまでもこの状態を続けるわけにもいかない。 「酒もそいつに加える方がいいな。酒でアレルギーになったヤツも知っている」 「これは普通のオールドだぞ、家でも寝酒に飲んでいる。酒ではないと思うが」 「どうせなら徹底するさ」  他人事《ひとごと》だと思って気楽に言う。 「じゃあ、今夜は酒だけを止めよう」  私は水割りのグラスを戻した。 「一つぐらい食べるのを止めたって症状が出るに決まっている。それなら体に酒が入っていない方が楽だ。ただの吐き気とアルコールの混じった吐き気ではだいぶ違うよ」 「なんだか自棄《やけ》になったみたいだな」  高木は無責任に笑った。 「何日かの辛抱か。それで突き止められればありがたい。こっちも覚悟の上さ」  私は冷ややっこに箸を伸ばした。症状が一日も続けば家内はなんと思うだろう。それだけは少し気になった。どこでなにを食べたのかと質《ただ》すに決まっている。『南部亭』の名は口にしにくい。気付かれていないはずだという自信はあるのだが、女の勘は分からない。私はちょっと憂鬱になった。ここしばらくはママと会わないことにしよう。冷ややっこを食べながら私は考えていた。     4 「どうだった?」  昼前に高木が研究室に電話をかけてきた。私も彼からの連絡を待っていたのである。 「自分でも信じられない」 「というと?」 「無事だったよ」 「まったく症状はなしか?」 「それとも……免疫でもできたのかね」 「冷ややっこやイカにか」  まさか、と高木は笑った。 「けど、そうとでも考えないと不可解だ。水割りなら毎日のように飲んでいる。昨夜も言ったように、いくらなんでも水割りが原因とは……今夜は試しに飲んでみるつもりだ。それでジンマシンができれば酒が怪しいということになるだろうが」 「安心するのはまだ早い。症状が一日遅れってことはないのかい?」 「ない。医者にも確かめている。食中毒は数時間以内に必ず出るそうだ」 「他に食べたものを忘れているんじゃあるまいな。そう言えば、つきだしはどうだ?」 「出たが食べなかった。ナマコは嫌いでね」 「すると……体調のせいだったかも」 「明日の報告を楽しみにしていてくれ。そうだな、体調のことも考慮に入れて、今日も酒を飲まずにおなじものを食べてみよう」  私は浮き浮きしていた。家内に『南部亭』のことを告げなくて済んだという安堵も手伝っている。店から貰った料理はタッパーに詰めて研究室まで持ってきていた。昼の食事の代わりに食べれば問題はない。夕方までには結果が出ているだろう。  家に戻っても頭痛は感じなかった。  間違いない。原因は冷ややっこやイカの煮物ではなかったのだ。となれば体調のせいとしか思えなかった。確認したくてうずうずしてきた。どうにでもなれという気分で私は水割りを拵《こしら》えて晩酌をはじめた。チーズだけを肴《さかな》にしてしたたかに飲んだ。五杯ほど飲んでも影響はない。ただ眠気が襲ってきただけである。疲れが溜まっているのだ。夕食は断わって部屋で横になった。二時間ほど眠ったらすっきりしていた。嬉しい半面、戸惑いもあった。これで体調が原因だったと納得はできたものの、それなら病院の検査でなにか言われそうな気もする。精密検査を何度となく繰り返しても結果は白だったのだ。肝機能にもまったく障害はない。  私は手帳を取り出してリストを点検した。リストには二十近くの日付が並んでいる。ほぼ十ヵ月の間に食中毒を起こした回数だ。それぞれの日付の下には食べたものの名と場所が記入してある。家内や医者に見せることもあり得るので、単に居酒屋としてあるものはほとんどが『南部亭』である。高木が疑いを持つのも当たり前のように数が多い。多いどころか自宅での七回を除くと、すべてが『南部亭』かも知れない。特にこの半年はママとの関係もあって、外で飲むのは『南部亭』に限られている状態だった。他の店で飲んだ記憶はあまりない。仲間に誘われれば、それを口実にして出掛けるフリをし、一人『南部亭』を訪ねていたのである。手帳には、いかにもそれらしく『魚幸』など大学の側《そば》の店の名を記しているが、それも『南部亭』のことだ。なんだか冷や汗が出てくる。私にとって『南部亭』のママは家内以外のはじめての女性なのである。自他ともに認める堅物の私が、なぜ五十近くにもなって浮気ができたのか……自分でもよく分からないのだ。あるいはそれがストレスになっているのかも。 〈最初は自宅が多かったのか〉  あらためてそれに気付いた。  十回のうち七回は自宅だった。それも間が短い。家内は気にして生の物を食卓に並べないようにしていたが、おなじ物を食べている息子や同居している母に影響がないので、いつの間にか平常に戻っている。 〈それにしても……〉  性懲《しようこ》りもなく飲んでいるものだ。自分ながら呆れた。リストには酒の分量までちゃんと記入してある。ビール一本、水割り二杯、ブランデーとか、酒三合、水割り四杯などという文字が並んでいた。 〈ん?〉  目でリストを追っていた私は、明らかな共通点を発見した。水割りである。いずれのリストにも水割りの文字が見られるのだ。 〈まさかな〉  何度も言うように、この日以外にも私は水割りを飲んでいる。リストに共通しているからと言って、それが原因とは思えない。しかし……それは不気味なほど重なっていた。  私は酒を分類してみた。  十九回のうち日本酒は水割りに次いで多く十三回。ビールは嫌いな方なので、これは五回。他にブランデーが四回。それだけだ。  私は……溜め息を吐いた。  もう偶然とは思えなかった。体調の問題よりも水割りに関係があるのだ。だが、それならなぜ他の日に影響が出ないのか? 銘柄に関係があるはずはなかった。私は自宅ではいつもオールドを飲む。今夜もそれなのだ。  どうにも分からない。  リストを睨んでいるうちに頭が痛くなった。食中毒とは違う頭の痛みだった。     5 「水に原因がある?」  間に土、日を挟んで、三日ぶりに会った高木は私の言葉に戸惑いの顔を見せた。 「確かめようと思ってね」  私は苦いコーヒーを啜った。大学と駅との中間の喫茶店に私たちはいた。 「水で食中毒になるのはよく聞く話だが」  そう言いながらも高木は疑っていた。 「はじめの頃は自宅が多かったんだろ。おかしな話じゃないか。外国の水ならともかく、何十年と馴染んだ水道にアタるなんてのは。第一、それなら家族も変になって当たり前のようなもんだがな」 「だから、水道の水とは違う」  私は最初から丁寧に説明した。それに気付いたのは一昨日の夜であった。古い話なのですっかり忘れていたのだが、たった一度だけ私の母もおなじ食中毒に罹《かか》ったことがあったのを思い出したのだ。問い質すと、家内も覚えていた。調べたら正確な日付も分かった。私と母と二人揃って熱を出したので家内はてっきり風邪だと思い、翌日に風邪薬を買っていたのである。家計簿と突き合わせると直ぐにその日が判明した。その頃には私の症状が何度か繰り返されていたはずなのに、家内が食中毒だと思わなかったのには、ちゃんと理由があった。私はその日『南部亭』で食事を済ませて帰り、母とは別のものを食べていた。思い当たる食べ物がないのだから家内が風邪と決め付けたのも不思議ではない。そこに重要なヒントが隠されているような気がして私は必死で記憶を辿《たど》った。母はなにか私の持ち帰ったのを食べたのではないのか? リストを頼りに考えているうちにだんだんとあの日の夜のことを思い出した。リストにはキクの酢の物という文字が記入されている。キクとは鱈《たら》の精子のことだ。熱を加えると菊の花に似た形になるので岩手ではそう呼ぶらしいが、私には菊よりも白い脳味噌に見えて苦手な食べ物だ。記憶している限りでは、あの夜にはじめて食べたきり、二度と注文していない。だから母とその話をしたのはあの夜だったことになる。八時過ぎに戻った私が書斎で水割り片手に調べ事をしていると珍しく母がやってきた。死んだ父の七回忌の相談だった。簡単に相談を済ませると私は久し振りに母と雑談をした。キクの話はそこで出た。岩手の山育ちの母もキクが苦手だった。それを切っ掛けに二、三十分岩手の話が続いた。 『南部亭』のママに魅かれはじめていた私は、自分の生まれた村のことをもっと知りたくなっていたのだ。そうすればママにもっと細かく教えてやることができる。母は九時頃まで私の書斎にいて自室に戻った。私も仕事を続け、寝たのは一時近くだったろう。頭痛と吐き気が襲ったのは布団に入ってからだった。その私に相前後して母が吐き気を訴えた。家内は夜の間中私と母の看病で起きていた。  そこまで思い出して私は不思議さに気付いた。もし『南部亭』で食べたものが食中毒の原因だったとしたら、もっと早い時間に症状が出ているはずである。酷い時には食べている最中から軽い頭痛がはじまる。五、六時間も過ぎてからという経験は滅多にない。計算してみると、この夜は七時間が経っていた。母もおなじ症状だったのを思えば、原因は外ではなく家にありそうだ。しかし……どう考えてもあり得なかった。私一人が水割りを飲んでいて、母はお茶一つ飲まなかった。眠れなくなるといって、八時以降は決して茶を飲まない人なのだ。どうしても喉が渇くと白湯《さゆ》にする。白湯……そうか、と私は頷いた。  母は水を飲んだのだった。  水割り用に冷蔵庫から持ってきていた水を、である。ボトルに入った天然水をだ。  それですべてに辻褄《つじつま》が合う。  それは『南部亭』から貰ったものだった。 「なるほど。天然水か」  高木は大きく頷いた。 「店の水割りが旨いと言ったらママが分けてくれたのさ。今はそんなことをしていないが、その頃はしょっちゅう貰って帰った」  ママと関係ができてからは止めている。 「その水が腐っていたんだな」 「そう簡単でもない。女房や息子は飲んでも平気だし、店で飲んでもなる。まさか店で腐った水を使うわけがなかろう」 「………」 「だが、水が原因なのは確かだ。リストで共通するのは唯一水だけだ」 「よっぽど敏感な体質と見える」  高木は笑った。 「あんたのおふくろさんもだ。親子は似るっていうが、そこまでだと恐ろしいね」 「水と分かれば悩みから解消される。今夜にでも試してみるつもりだ」 「どうして? そこまで自信があるなら天然水なんぞ飲まなければいいだろう。これからは水道の水にすりゃあいい」 「はっきりと確認したい」  そうしなければ気が済まなかった。     6  私の勘は当たっていた。『南部亭』を訪ねて確かめたら、店で用いている天然水は二種類あったのだ。それでますます理屈に適《かな》う。症状の出ない日は安全な方の水で水割りを拵《こしら》えていたのに違いない。それが逆に曖昧《あいまい》にした。いくら鈍感な私でも毎回『南部亭』で飲んだ後に症状が出ていればもっと早くに気付いたはずだ。私は出された天然水で水割りを三杯拵えて飲み、帰りに別の天然水のボトルを貰って家で様子を見た。五時間が過ぎても症状は出なかった。勘で分かる。あの水ではなかったのだ。十中八九別の水だと思う。だがもう十二時を回っている。どうすべきか迷った。今から持ち帰った天然水を飲めば症状の出るのは明け方となる。症状の軽い場合は睡魔の方が勝つこともある。それでは実験の意味がない。迷った末に私はボトルのキャップを捻った。こんなことで悩んでいるのがバカバカしくなったのだ。さっきまではあれほど確信を持っていたのに、今では違うような気もしてきた。グラスに移した水にはなんの臭いも感じられない。  私は立て続けに二杯を飲み干した。  激しい腹痛で目が覚めた。  布団の中で体を縮めるとズキンとこめかみが痛んだ。いつもの症状だ。酔いは抜けているのか吐き気はなかった。しかし、それは最初だけだ。これでトイレに通い、頭痛に激しさが加われば必ず吐き気がはじまる。馴れているものの憂鬱になった。こうなってしまってからでは頭痛薬も効果がない。深呼吸しながら私は腹を擦《さす》って痛みをなだめた。腹に熱が感じられた。ジンマシンが広がっている。皮膚を傷付けないように痒《かゆ》い部分を抓《つま》む。痒みは治まらない。次第に私の指に力が入った。痒さは頭でもはじまった。私は布団から半身を出した。体が熱くなっている。頭痛もますます酷くなる。けれど立ち上がりたくない。なんとか眠ろうとしても無理だった。頭痛のことを考えているだけで不安になる。枕から少し頭を上げたらたちまち痛みを覚えた。 「またですか」  となりの布団に寝ている家内が私の呻《うめ》きを聞き付けてうんざりとした声で訊ねた。 「あなた、この頃少しおかしいわよ」  食中毒以外の意味を含んだ言葉だった。 「いいから寝ろ。なんとかする」  私は起き上がるとトイレに向かった。寝室に戻る気はない。居間のソファで夜を明かすつもりだった。歩くたびに頭が割れそうになった。水だ。やっぱり水のせいだったと私は頭の中で繰り返していた。思っていた通り吐き気が襲った。階段の途中で立ち止まって必死で堪《こら》えた。が、間に合わなかった。抑えた掌の隙間から水が勢いよく噴き出た。  家内が慌てて廊下に飛び出してきた。  階段に蹲《うずくま》っている私の姿を家内はどんな思いで見下ろしているのだろう。 「水のせいなんだ……」  私は弁解のように口にした。  夜が明けるとようやく症状が軽くなった。熱いお茶を飲むと胃が落ち着いた。さすがにジンマシンはそのままだが、頭痛はほとんど感じられなくなっている。家内も寝るのを諦《あきら》めて食事の支度をはじめた。私は書斎から飲み残しのボトルを手にして戻った。 『|湖 雫《うみのしずく》』とラベルに印刷されている。  岩手の山奥にある|鍾 乳 洞《しようにゆうどう》の中の湖水を瓶詰にしたものだ。これまでは気にもかけずにいたが、製造している会社の住所を見たら知っている町だった。母の実家のある村のとなり町なのである。 「鍾乳洞ってどんなとこ?」  ちょうど起き出してきた母に私は訊ねた。ボトルを手にした母の顔に緊張が走った。 「どうしたの、これ」  母は私にボトルを怖々《こわごわ》と返した。 「これが食中毒の原因だった」  私が言うと母は、そう、と答えたきりそそくさと洗面所に逃げた。明らかに逃げたとしか私には思えなかった。     7  およそ十日後の昼過ぎ。  私は岩手県の小さな町に辿り着いた。一関で新幹線を降り、大船渡《おおふなと》線に乗り換えての旅だった。たまたま昨夜まで仙台で学会があり、そのついでに足を伸ばしたのだ。乗り換え時間を含めると仙台から二時間。こんな機会でもないと来れない場所だ。母の実家はこの町と隣接した村にある。と言ってもそれは廃屋が残っているだけで、村には遠い親戚が何人かいるに過ぎない。四十年ほど前に祖父母が相次いで亡くなってから母とこの村との関係は跡絶《とだ》えてしまった。母は一人娘だったのである。墓も東京に移し、母とて三十年以上は村を訪れたことがないはずだ。それどころか村にはなにか厭な思い出でもあるらしく、自分から口にすることは滅多にない。私にしても生後三月しかいなかった場所だ。『南部亭』のママとのことがなければ一生質問もせずに終わった村だろう。  私はたった一台のタクシーに乗ると行き先を告げた。今夜は町外れのM温泉を予約してある。鍾乳洞へは荷物を預けてから行こうと思った。運転手は気楽に応じたが温泉は遠かった。なにもない山道をどんどん登って行く。深い山だった。 「大変なとこだな」  対向車にもぶつからない。 「温泉の泊まり客しか利用しない道ですから。お客さんははじめてですか」 「賑やかな温泉場かい?」 「一軒宿です。観光地じゃないんで泊まり客も滅多にありませんよ。町のヘルスセンターみたいなもんでね。岩手の人間に聞いてもここの温泉の名を知ってるのは少ないです」 「仙台の観光業者から紹介されたんだ」 「この町には小さな商人宿しかないですしね。こっちにはお仕事ですか?」  運転手はミラーで私を見た。  私は鍾乳洞を見にきたと言った。天然水で有名な場所だと付け足すと運転手は頷いて、 「酷い山奥ですよ。となりの村です」  母の実家のあった村の名を口にした。  そうなのか、と私も首を振った。詳細な地図で確かめても鍾乳洞の位置が分からなかった。水を製造している会社に問い合わせれば済むと思って出てきたのだが、心のどこかでは母の村かも知れないと想像していた。でなければ、あの母の驚きが説明つかない。 「水質検査かなんかですか?」  運転手は興味深そうに質した。 「工場は鍾乳洞の近くじゃないのかい」 「源流がその鍾乳洞にあるってだけで、実際はだいぶ山の麓《ふもと》なんです。『湖雫』なんてまるで詐欺じゃねえかと皆呆れてましてね。今に苦情がくるぞって役場も心配をしてる」 「………」 「行くのは大変ですよ。この山を越えた先です。それに懐中電灯も用意しないと、鍾乳洞まではなんとか道もありますが、中はまったく自然のままです。だれか案内でも頼んだ方が安心じゃないですか?」 「荷物を預けたらこのまま行きたいと思ってきたんだがね」  私が言うと運転手は了承した。往復で三時間はかかると言う。結構な商売になるはずだ。 「何度も行ったことが?」 「高校の頃に行ったきりです。十五年くらい前になりますか。岩手じゃ鍾乳洞なんて珍しくもないですから。岩泉というとこには日本で最大の鍾乳洞がありますよ。そっちはご覧になったことが?」  私は首を横に振った。興味もない。  それから二時間後、タクシーを降りて運転手と狭い山道を歩いているうち、私は無性に自分に腹が立ちはじめた。かれこれ二十分は歩きが続いている。こんな苦労をするなら来るのではなかった。ジンマシンの原因がここの水にあると分かったからと言って、その洞内の湖を見てなんの救いになると言うのか。母があんな妙な態度さえとらなければ……私の怒りは母にも向けられた。宿で見せて貰った地図で確かめたら鍾乳洞は母の実家の直ぐ裏山に位置していた。母は十五歳までその実家に暮らしていた。厭な想像だが、鍾乳洞は密会の場所にも適している。そういう過去でもあったのではなかろうか。昔の十五歳は立派な大人だ。実態をよくは知らないけれど東北の田舎には夜這いという習慣もあった。そんな記憶が母にあれば、二度と思い出したくない気持も理解できる。  それにしても……いったいいつまでこの山道が続くのだ。運動不足が祟《たた》って膝がガクガクしはじめた。きつい陽射しのせいもある。喉が貼りつきそうだ。 「あとどのくらいかかる?」  返答によっては中止するつもりで私はだいぶ前を進む運転手に訊ねた。 「五、六分でしょう」  さっきもそう言われた。私はわざと溜め息を吐いて運転手に従った。運転手が悪いのではない。希望したのは私なのだ。  が、今度は本当に五分ほどで鍾乳洞の入り口に到着した。さすがにホッとした。狭い入り口からは涼しい風が吹いて来る。運転手は屈むと澄んだ小川の水をすくって飲んだ。 「源流とは違いますけどね。源流はこの地面の下を潜って下の沢に繋がっています。でも旨いですよ」  飲みたかったが遠慮した。こんな山奥で例の症状がはじまっては辛い。 「暗いな。怖いところだ」  運転手から懐中電灯を借りて中を照らした。とても密会などできる場所ではなかった。 「湖ってのは遠いんだろ」  さすがに怖《お》じ気《け》づいて質した。 「いや、そうでもないです。百メートルぐらいのものじゃなかったですかね。狭いのは入り口だけで中は立って歩けますから」  ここまで来たのだから行こうと誘った。  私も覚悟した。確かに彼の言う通りだ。ここで諦めればなんの意味もない。いや、もともと意味のないことかも知れないが……  私たちは鍾乳洞に潜り込んだ。  本当に窮屈なのは最初ばかりで、十メートルも進むと体が楽になった。私はぴったりと運転手について歩いた。足下が闇に溶けて怖いのである。振り向くと完全な闇だった。前も懐中電灯の光の幅だけしか見えない。 「アベックはよく来るみたいですよ」  運転手は低い声で笑った。 「どうしてもしがみついてきますからね。お化け屋敷のようなものです」  だと思う。これで懐中電灯を失えば一歩も歩けない。闇の恐ろしさをはじめて知った。  百メートルと言われたが、満々と水をたたえた湖に到達するのにたっぷり二十分はかかった。脇道に迷わないように運転手が慎重に歩を進めたからだ。 「神秘的だな……」  来た甲斐があった。湖と言っても直径はせいぜい十五メートルほどの池でしかないが、深さは相当にある。懐中電灯で照らすとエメラルドの色に水面が輝いた。それにこの静けさ。都会の喧騒に馴れた私には信じられないくらいの静寂だった。 「底まで何メートルあるんだろう」 「確か三十メートルとかって聞いています。透明度もそれくらいあるんです」  運転手はポケットから一円玉を取り出すと湖に投げ入れた。懐中電灯でそれを追う。きらきらと回転しながら一円玉はゆっくりどこまでも沈んで行った。いつまで眺めていても底に到達しない。私は感心した。懐中電灯の光は底にまで届いている。底には何枚かの小銭が散らばっていた。運転手とおなじように透明度を確かめたものに違いない。 「懐中電灯をこうして水面に近付けますとね」  運転手は水面すれすれに接近させた。光の柱が水中に出現した。闇の中のその柱の部分だけ水が輝いている。運転手は私に懐中電灯を預けた。落とさないようにと注意しながら。  私は握った懐中電灯を底に向けてあちこちと探った。子供じみていると思ったが面白い。闇にトンネルを開けているような感じだ。湖の底の白い岩肌が美しい。浅い岩棚に乗っている小銭の中には江戸の古銭もあった。 〈……ん?〉  細い光の柱の中に白い棒のようなものが入り込んできた。直ぐに位置を見失う。私は周辺に懐中電灯を動かした。岩棚に隠されて見えにくい場所だ。私の様子に気付いて運転手も側にしゃがんだ。光の束の中にふたたび白いものがとらえられた。 「人の骨じゃないですか?」  私も運転手に頷いた。運転手は私から懐中電灯をもぎ取ると真剣になった。  間違いなかった。湖の底には黒い服を着た男のものらしい白骨が沈んでいたのだ。  白い頭蓋骨は懐中電灯に照らされて、まるで笑ってでもいるようにこちらを向いていた。  私は吐き気を覚えた。  私は……この白骨の浸《つか》っていた水をずうっと飲んでいたのである。     8 「身許《みもと》が判明したそうです」  九時過ぎに私の部屋を訪れた運転手はいきなりそう切り出した。彼は死体発見者としてこれまでずうっと警察と行動を共にしていたのである。私もはじめは警察から妙な誤解をされて不愉快な思いを味わっていた。まあ、それももっともな話ではある。地元の人間でさえほとんど行かない鍾乳洞を東京からわざわざ訪ねて来たのだから誤解されて当然だろう。母親があの村の出身だと分かってもらえるまではまるで被疑者扱いだった。私が警察から解放されたのは七時頃だ。 「まだ引き上げていないのに?」 「じゃあ、聞いていないんですか」  運転手は意外な顔をして、 「あれから女の死体も発見されたんです」 「二体もあったのか」 「女の方は水の中じゃありません。脇道の奥に転がっていたそうです。遺留品を捜索していた駐在が見付けたとか。ハンドバッグに定期券が入っていましてね。塩釜の会社員だとか聞きましたよ。問い合わせたら一年半前から行方が分からなくなっていたそうで……どうやら男の方はその女が付き合っていた相手のようです。一関の出身だって言うから、あの鍾乳洞も知っていたんでしょうね」 「心中だろうか?」 「事故だと警察は見ています。親も認めていた仲だったそうですから。恐らく男が足でも滑らせて湖に落ちたんじゃないですか。女は懐中電灯を持っていなかった。真っ暗な中で脇道の奥まで迷い込んでしまい、餓死でもしたんだろうと警官が言っていました」 「哀れな話だな。あの穴の中で迷えば餓死する前に気が変になるに違いない」  一センチ先も見えない闇なのだ。私なら足がすくんで一歩も動けなくなる。 「町中の評判ですよ」 「なにが?」 「例の水です。知らなかったとはいえ、お客さんのおっしゃったように死体が沈んでいた水ですからね。せっかく軌道に乗り掛けたのに、あの会社もこれで潰《つぶ》れるんじゃないかと」 「その話はやめよう」  私は日本酒を彼に勧めた。運転手は丁重に断って茶を啜《すす》った。 「お客さんは……あの村の生まれでしたか」  運転手は膝を崩して私に訊ねた。 「じゃあ、あの村の年寄りたちがあの水を飲まないのもご存知なんでしょう」 「いや、知らない」  少しゾッとしながら私は運転手を見詰めた。 〈それが母の怯《おび》えの原因か〉  あの湖の水と知って母は緊張したのだ。私は運転手に先を促した。 「やっぱりおなじように死体が沈んでいたんです。祖父《じい》さんからガキの時分に聞かされた話なんでどこまでホントか知りませんけどね。ホラ話が好きな祖父さんだったから」 「それはいつ頃の話?」 「さあ……五十年くらい前じゃないかな。戦争中のことだったと聞いてるんで」  それに間違いなければ母が私を産みに実家に戻っていた頃のことだ。ますます母の怯えと関係がありそうだ。 「死体と言うと……殺人事件かい」 「それよりもっと酷いですよ」 「酷い?」 「ま、殺人事件にゃ違いないけど」  運転手は妙な言い方をした。 「祖父さんは……あの村の人間が人を食っていたって言うんです」  躊躇《ちゆうちよ》の後に運転手が言った。 「まさか……冗談だろう」  寒気を堪《こら》えながら私は笑った。 「前々から怪しいと睨《にら》まれていた年寄り夫婦が首を括《くく》って死んだんではっきりしたことは分かりません。それでも祖父さんは絶対に連中が食ったんだと信じてましたよ」 「それと湖の死体が関係あるのか?」 「発見された骨にはナタで切られた痕があったとか。殺して食った後に処分に困って捨てたんじゃないですか。あの深さなら引き上げるのもむずかしい。ましてや戦争中ですし」 「全部が想像みたいだな」  田舎にはよくある話に思えた。 「その年寄りの家ってのは鍾乳洞に一番近いところでね。骨が発見された時から皆が怪しんでいたそうです。それから半年もしないうちに二人は首を括った。おかしいですよ」  鍾乳洞に一番近い家と聞かされて私の動悸は高まっていた。地図で見る限り祖父母の家のあった場所は鍾乳洞の直ぐ側だ。だが幸い死亡時期は違う。私の祖父母は昭和二十五、六年に亡くなったと記憶している。 「戦争中の混乱で自殺の理由が曖昧になったんじゃないのかい」 「その連中が死んだのは戦後七、八年経ってからです」 「だって、今、半年後だと……」 「骨が発見されてからね」  運転手はあっさりと言った。 「事件が起きたのが戦争中で、骨の見付かったのは十年も過ぎてからです」 「どうして戦争中の事件だと分かる」  私はつい大声を出した。 「殺された二人……骨なので確かな身許は分かりませんが、場所といい、骨の数からいってもその二人のはずだと祖父さんは断言してました。事実なら戦争中に殺されたとしか」 「………」 「中の一人はこの町出身の脱走兵だったんです。親を頼って盛岡の連隊から逃げ帰った。発見されれば銃殺ですからね。それで親はとなり村の知り合いに頭を下げて鍾乳洞に匿《かくま》ってもらっていた。ところが……十日もしないうちに二人の姿が鍾乳洞から消えた。まさか警察に捜索を願うわけにもいかない。親への迷惑を心配して別の土地に逃れたのだろうと最初は思っていたそうですが……戦争が終わってもその息子は戻って来なかった。そうしたらその場所から二体の死体が発見された」 「なんでその年寄り夫婦が疑われたんだ」 「頼んだ知り合いってのがその連中なんです。匿うのに思い付いたほどの場所ですからね。まして戦争中にあの鍾乳洞に近付く者なんて一人もいないでしょう。当の脱走兵たちだって迂闊《うかつ》に鍾乳洞から出るはずもない。二人が消えたと知った時点で、その年寄り夫婦が怪しいんじゃないかと噂する者もいたとか」 「だからと言って人を食うと思うかい」  バカバカしいと私は笑った。 「肉を食っているのを見た人間が村には何人もいたそうです。あの食糧難の時代にですよ」 「………」 「腹に赤ん坊のいる娘のために二人を殺して肉を手に入れたんじゃないかと……」 「腹に赤ん坊のいる娘……」  私の顔は青ざめていたに違いない。 「その娘の亭主も戦争にとられて、娘は実家に戻って来ていたんです。痩《や》せこけて赤ん坊を産めるような状態じゃなかったそうですがね。それがいつの間にか元気になった。あんな時代に肉を食っているのを見た村人たちの妬《ねた》みだったのかも知れないですが……やっぱりおかしいと普通は思いますよ。脱走兵ならたとえ殺しても警察には届けられない。それはその年寄り夫婦も承知していた」 「悪いが……」  私は頭痛を覚えた。 「今夜はこれきりにしてくれ。そんな話を聞いたら具合が悪くなった」  運転手は慌てて謝った。 「それで村の年寄りたちは鍾乳洞の水を飲みたがらないわけか」  立ち上がった運転手に私は訊ねた。 「十年近くも骨が沈んでいた水でしょう。考えると気味が悪い。我々は平気でしたがね。しかし……これからはどうなるか」  運転手は一礼して立ち去った。  証拠はなに一つないが運転手の言葉に間違いはなさそうに思えた。私は二人の脱走兵を殺したのは祖父母だと確信を抱いた。相次いで祖父母が死んだというのも符合する。祖母は祖父が首を吊って死んだ三日後に後追い自殺をしたのである。当時十歳だった私に自殺の理由など分かるはずもなかった。母からはただ病気を苦にして祖父が死んだと聞かされたきりである。母は恐らく自殺の真相を知っていたに違いない。でなければ自殺の理由を知りたくて騒いだはずだ。私の記憶に残っている限り、母は祖父母の死を冷静に受け止めていた。私がもし母の立場にいたらあれほど平静にはなれない。 〈みんな俺のためなのかい〉  私を無事に産ませようとして祖父母が人を殺したのだ、と思うと涙が溢れた。  だが、それで私の食中毒の一件が落着したわけではなかった。私は絶望の中であれこれと考えを巡らせた。 〈おふくろもあの水でやられた……〉  それを思い出した時すべてが分かった。医者からジンマシンの体質は親からそのまま受け継ぐことが多いと聞かされていたのだ。その理由はまだ明らかにされていない。しかし、と前置きして一人の医者は私に仮説を教えてくれた。胎児を孕《はら》んでいる時に母親がなにかでジンマシンに罹《かか》れば、それがダイレクトに胎児に伝わる可能性が強いというのである。ジンマシンは一見皮膚だけの症状に思えるが、実際はすべての細胞に及んでいるのだという。皮膚の弱い部分だけに顕著な症状が現われているに過ぎない。その時に細胞を調べて見れば直ぐに分かる。内臓や脳細胞までもがそれに侵されている。その理屈でいうなら臍《へそ》の緒で繋がっている胎児もまたジンマシンに罹っていることになる。だから母親とおなじ食べ物に弱い。これまでは遺伝とばかり考えられて来たが、その方が遥かに理屈に適《かな》うと医者は私に断言した。胎児は自分で意識することなく母の膚《はだ》の記憶を受け継ぐのである。 〈俺が腹の中にいた時におふくろはあの水を飲んでジンマシンになったんだな〉  母だって薄々感じていたに相違ないのだ。自分の食べている肉がなんの肉であるのかを。祖父母の家の貧しさは当の母が一番よく知っている。それでも私のために食べ続けなければならなかった。罪の意識と不気味さの二つが母にいつしか拒否反応を生じさせた。そして……人肉の成分の溶けた水に対して皮膚が拒みはじめたのだ。私の膚もその水の成分をしっかりと記憶に刻み込んだ。  その水を飲まなければ問題はない。水の成分は地域によってすべて異なる。おまけに人肉の成分の溶けた水となれば万に一つの偶然でもない限り二度と巡り合わない。現に私はこの五十年間無事だった。ところが……天然水のブームで東京に暮らしていても日本各地の水が飲めるような時代となった。私は岩手生まれなのだから岩手の水を飲むことはさほどの偶然とも言えない。そこにあの死体が重なったのだ。五十年間私の中にしまい込まれていた膚の記憶が突然に甦《よみがえ》った。それは……母や祖父母たちの哀しい記憶でもあった。それぞれの罪が私の皮膚を赤く膨らませたのである。私は……嗚咽《おえつ》した。殺された兵士たちが私に償いを求めているような気がした。  だれを憎むこともできない。  母がひたすら哀れだった。  娘やまだ見ぬ孫のために人を殺した両親をどうやって責められるというのだ。それでも罪は罪だ。そうして死んで行った両親にどうやって謝ればいい? 母がどんな思いで祖父母たちの骨を持ち帰ったかと考えただけで哀れでならなかった。  私など生まれて来なければよかった。  そうすれば祖父母は人を殺さずに済んだし、母も人の肉を食べずに済んだのである。 〈母さん、ごめんよ〉  ボトルを見てそそくさと逃げた母の姿が目に浮かんで堪《たま》らなくなった。  私は東京に電話をかけた。  母の声が聞きたくなったのだ。  この町に来たのは母に内密にしていた。  のんびりとした声で電話口に出た母は私の居場所を知ると途端に口を噤《つぐ》んだ。 「俺は……母さんや祖父《じい》さんたちが命を懸《か》けるほど、いい子供だったんだろうか」  私はわざと曖昧な言葉を選んで言った。もし母にこの意味が通じたなら…… 「いい子だよ」  母の返事はそれだけだった。  電話を切って私は泣き続けた。  私は母よりも死んだ親父の方をいつも大事に思って暮らして来たのである。  霧 の 記 憶     1  早良《さわら》哲也氏の「霧の記憶」興味深く拝見させていただきました。歴史を素材としたミステリーを得意とされる氏の作品は以前より愛読しておりましたが、今回の作品は珍しく氏の体験を元にしての青春小説で、ほとんど世代の変わらぬ私には懐かしくもあり、また当時の外国旅行者の辛さなども教えられ、氏の世界に新たな広がりの予感を覚えました。深い感銘とともに読了いたしました。  ところで、不躾《ぶしつけ》な質問とは承知しておりますが、あの作品はどこまでが創作で、どこまでが氏の体験なのでしょうか。と言いますのは、作品に登場してきた「幸子」という女性の描写が、当時、ロンドンに旅行中だった私の妹に良く似ていると思われたからです。妹はその旅行中に失踪し、以来二十六年間音信が跡絶《とだ》えたままになっております。もし、氏の作品に登場した女性が私の妹であるなら、氏は失踪直前の妹をご存じのはずです。もう古い話ですし、当方に他意はありません。ご迷惑とは存じますが、なんとか氏にその旨をお問い合わせ願えませんでしょうか。最初は氏に直接お便りを差し上げようと思いましたが、誤解されてはと思い、こうして担当編集者の方にしたためた次第です。  妹の名は進藤咲子と言います。作品の中で「幸子」は大学の同級生の「ミチエ」という女性と一緒にヨーロッパ旅行をしているわけですが、その「ミチエ」も恐らく妹の親友だった森美千代さんのことのように思われます。美千代さんはあの作品に書かれているように、旅行中に知り合ったイギリス人と結婚の約束をして、そのまま海外に残られました。美千代さんの実家は二十年以上も前に移転されて、今では彼女がどこに暮らしているのか分かりません。彼女の居場所が知れれば、妹のことも訊ねられるのにと残念でなりません。  当時のロンドンは今では想像もできないくらい遠い国で、満足な捜索もできずに諦めてしまいました。これほどの年月が過ぎた今、妹が生きているとは思いませんが、たまたま手にした貴誌に妹をモデルにしたと思われる作品のあるのを目にして心が震えました。妹が甦って私に雑誌を読めと訴えたように思えて仕方ありません。白状いたしますと、近頃は雑誌に目を通すことが少なくなりました。  私の想像が当たって早良氏が妹をご存じであるなら、ぜひともご紹介下さい。母も高齢で床に伏しております。本当にあの「幸子」が妹であれば、小説の中に妹が甦ったわけで、母も喜ぶと思います。  また、早良氏の名がペンネームであるのか本名なのか私は不勉強で知りませんのですが、もしかしたら荒木孝志というお名前ではありませんでしょうか? 妹から届いた絵ハガキの中にその名が何度か記されてあるのです。  当方の気持をお汲みいただき、早良氏へのお問い合わせを重ねてお願い申し上げます。     2  倉本雄二と聞いて私は慌てて顔を上げた。 「早良哲也だよ。推理小説を書いてる」  受話器を差し出している事務所の女の子に私が囁《ささや》くと、彼女は目を円くした。 「まさかぁ」 「昔の知り合いなんだ」  だが、もう二十年以上も会っていない。それがなんで今頃になって、と戸惑いを覚えながら、私は描きかけの設計図から離れて電話に出た。紛れもなく早良哲也だった。 「孝《たか》ちゃんかい。だいぶ声が年取った」 「……おひさしぶりです」 「取材で仙台に来てる。ちょっと時間が空いたんで電話してみた。ヒマがあるんだったらどこかで会わないか」 「もちろんどこにでも行きますよ。今夜は仙台を案内させて下さい」 「今は東急ホテルに居る。だったらこっちに来て貰うか。着いたら部屋に電話をくれ」 「それにしても、よく分かりましたね」 「年賀状を貰ってるじゃないか。自宅に連絡して会社の番号を聞いたのさ」  それだけ言うと早良は電話を切った。 「今夜は早良さんと会うんですね」  女の子が待っていたように質した。 「知り合いって……どんな?」 「高校生の頃にヨーロッパを旅行して、ロンドンに四十日ばかり滞在した。その時にホテルが一緒だったんだ。部屋が真正面同士で、一ヵ月近く付き合った。あの人は俺よりも十近くも年上で、ずいぶん可愛がってくれたよ」 「ロンドンで知り合ったんですか」 「恰好いいと思うだろ」  私が言うと女の子は素直に頷いた。 「酷い安ホテルでね。ホテルとは名ばかりの下宿屋だな。日本からの貧乏留学生やアルバイトしながら旅行を続けている日本人の溜り場みたいなとこだった。ちょうど東京オリンピックが開催されていた年で、ただ一人ラジオを持っていた早良さんの部屋にゃ、毎日のように七、八人が集まって騒いでた」 「凄い。そんなに親しい仲だったんだ」 「皆が淋しかっただけさ。だから日本に戻ると次第に疎遠になった。だれかの呼び掛けで五、六年後に東京で集まったのが最後だ。十二、三人の仲間だったのに、結局は半分も参加しなくて、それきり皆の気持も薄れた」  帰り支度をしながら私は言った。退社時間が迫っていた。だが、友人と二人ではじめた設計事務所なので時間はなんとでもなる。  部屋に連絡を取ってロビー脇にある喫茶室でコーヒーを飲んでいると、やがて早良が姿を見せた。きょろきょろと捜している。最後に会ったのは二十年も前だ。私が二十歳を過ぎたばかりの頃で、その当時に較べれば体重も十キロ以上増えている。早良が見分けられないのも当たり前だろう。私は手を上げた。 「本当に孝ちゃんか? 見違えた」 「倉さんこそだいぶ太りましたよ」  早良哲也の名の方が今の自分にも馴染みなのに、面と向かうとつい昔の呼び名が口をついて出た。私たちは握手を交わした。 「あの当時はロクな食い物《もん》を食ってなかったからな。痩せてて当たり前だ。こっちも五十二、三キロしかなかった。今じゃ七十キロだ」  早良は腹を撫で擦《さす》って笑うと、 「先月号の『小説近代』に当時のことを思い出して短編を書いたんだが……」  知っているか、と私を見詰めた。 「へえ、そうですか。懐かしいですね」 「孝ちゃんに断わって書けばよかったんだけどね……締切に追われていて無断で孝ちゃんの苗字を使わせて貰った」 「そりゃあ感激です。じゃあ明日にでも図書館で捜して読まないと」 「荒木三太って子供が主人公だ。もちろんアレクサンダー大王のもじりだよ。孝ちゃんの名が無意識に出てしまった」 「犯人とかじゃないんでしょう?」 「ミステリーじゃない。割りと真面目に書いたつもりだ。日記を参考にしてね」 「ふうん。やっぱり倉さんも日記を」 「今みたいに簡単に行き来できる国じゃなかった。だれでも記録を残そうとしたさ」 「でも、どうして俺を主人公に?」 「そっちの方が読者の共感を呼ぶ。単純に構成上の問題だったが、妙なことになった」 「………」 「咲子を覚えているだろ」  早良はじっと私の目を覗いた。 「咲子さんって、あの咲子さんですか」 「進藤咲子。孝ちゃんとは仲がよかった」 「彼女から連絡があったんですね」  懐かしい名前に私は胸が詰まった。進藤咲子と森美千代は私たちの下の階に宿泊していた女性だった。大学のクラスメートとかで、卒業記念に二人でヨーロッパに来ていた。と言っても大金持ちの子女というわけではなく、滞在先でアルバイトをしながら旅費を溜めて旅行を続けていた。ロンドンに居た当時は日本料理店に勤めていて、時々は握り飯や梅干しなどの差し入れをしてくれたものだった。 「元気なんですか。ぜひ会いたいな」  私よりも五歳上だったから、彼女たちも四十六、七。いいおばさんになっているはずだ。 「失踪したとさ」  早良はぼそっと呟いた。 「いつ?」 「美千代がイギリス人と婚約したろ。それで美千代がロンドンに居残ることになって二人は最後の旅行に出た」 「ええ。さよならパーティを四人でしました」 「それきりらしい」 「まさか!」 「小説を読んだ咲子の兄貴ってのが雑誌社に連絡してきた。主人公が荒木なんで、俺を孝ちゃんと勘違いしたようだ。咲子は孝ちゃんのことを絵ハガキに書いていたそうだ。それで、なにか失踪について心当たりはないかと……びっくりしたぜ」 「信じられませんね」  私は唖然となった。 「荒木は俺じゃないと返事をしておいたが、断わりもなしに孝ちゃんの居場所を教えるのもどうかと思ってな。咲子の失踪など俺たちはなにも知らん。いきなり訪ねて来られりゃ孝ちゃんにも迷惑だろう」 「迷惑ってこともないけど……もう二十何年も前の話ですからね。なにも手掛かりなんか」 「その兄貴だって捜すつもりはないさ。ただ、妹がロンドンでどんな暮らしをしていたか知りたいだけだと編集者は言っている。美千代の方とも音信不通になっているそうだぜ」 「俺がなにか知っているとでも?」  私は軽い不安に襲われた。 「教えない方が無難だな。やっぱりこうして連絡を取って正解だった。今度ばかりは小説を書くことの怖さを教えられたよ。まさか咲子の兄貴が目にするなんて考えもしなかった」  早良は肩の荷を下ろしたように笑った。 「自殺でもしたんじゃありませんか?」  私は思い付きを口にした。 「自殺? 咲子がかい」  早良はぎょっとした。 「美千代さんの婚約でショックを受けていましたからね。旅行も美千代さんがロンドンに居残れば一人でしなければならない。不安だったのは確かじゃないのかな」 「だったら日本に戻ればいいじゃねえか。美千代の件とは無関係さ。兄貴は失踪を美千代の婚約の直後だと思い込んでいるようだが、そいつだって確証はないんだ。俺たちと別れてから半年とか一年後ってことも充分に考えられる。たまたま俺が書いたから結び付けただけに違いない」  早良は不愉快そうに断定した。  あの頃とは変わったな、と私は思った。早良は咲子と美千代を妹のように可愛がっていたはずである。こんな冷たい人間ではなかった。だが、私とて早良に聞かされるまで二人を滅多に思い出すことはなかった。異国に居るという淋しさが互いを引き付けていただけで、全員が歳も違えば性格も故郷も異なる人間同士だった。本来なら口さえ利くこともない他人に過ぎなかったのかも知れない。だから日本に戻れば二度と会う必要がなくなる。当時の仲間に咲子の失踪を知らせたところで、悲しむ者がどれだけいるか怪しいものだ。 〈厭な夜になりそうだ〉  早良の目を盗み見て私は気が重くなった。     3  翌日の午後。私は昼休みを利用して近くの図書館に足を運んだ。咲子の件が気になっていたからではない。早良が私をどのように書いているのか興味を覚えたからだ。  先月号の雑誌は書架から除かれている。私は貸し出し係りに言って奥から『小説近代』を捜して貰った。雑誌の貸し出しは禁止だと言う。捲《めく》ったら大した分量でもなかった。私は読書室の椅子に腰を下ろして読みはじめた。  私はたちまち引き付けられた。想像していた以上に当時が克明に描写されている。私は早良の才能に舌を巻いた。日記があると言っても、これは早良の目ではなく、主人公に設定された私の視点から描かれているのだ。もちろん、当時の私の心理とはだいぶ異なるが、少年の孤独や、倉本を頼った私の心情が見事に説明されてある。こういう目で倉本は私を見ていたのだと知って少し驚いた。基本的には私の甘えを見抜かれていたと言っていい。不思議な気分で読み進んだ。小説の中ほどでさよならパーティの場面が出てきた。 〈そうか……あれは倉さんのさよならパーティだったんだ〉  これまで咲子と美千代のためのパーティだったと思い込んでいたが、実際は、突然帰国を決めた倉本のお別れパーティだったのに、その席上で美千代が婚約を披露して、途中から彼女たちが主役になったのだ。  私は記憶の曖昧さに自分でも呆れた。彼女たちはなんと言ってもホテルの仲間の中の花だった。それでおなじ別れでも彼女たちとの方が重く感じられたに違いない。  私はしばし早良の小説に没頭した。     *  倉本の部屋はミチエの用意してきた蝋燭《ろうそく》の明りで満たされた。アルバイト先の料理店からくすねたものだと言うが、ロマンチックな明りには差がない。 「クリスマスみたいやな」  コーヒーを幸子とミチエに手渡しながら倉本が胸を詰まらせた声で呟いた。 「倉本さん、お酒飲もうよ」  ミチエが隠し持って来たグラスとワインを掲げて笑った。倉本は頷いてグラスを受け取った。四つのグラスに赤いワインが気持のいい音をさせて注がれた。中で一つ極端に量の少ないのが未成年の三太の分。  倉本が元気になったようなので、三太も嬉しくなり、乾杯、と大きな声を上げた。それに応じるように幸子がミチエに視線を移し、 「ミチの婚約にも」  高々とグラスを掲げた。ミチエが頬を染めた。倉本と三太は絶句して二人を見詰めた。 「どうなってるんや」 「だから、婚約したのよ、ミチ」 「相手はおるんやろな」 「当たり前よ。バカみたい」 「かて……あんまり突然やな」 「そうでもないの。もう交際しはじめて二十日にもなるんだから」  ミチエの代わりに幸子がすべて答える。 「二十日……二十日言うたら、こっちに来てからの知り合いか?」 「もちろんよ。でなきゃ、今頃婚約なんて言い出すはずがないわ」 「………」 「素敵な人よ。ケントって、歳は二十三だけど、とっても大人に見える」 「ケントって、イギリス人かいな」 「恰好いいでしょ。国際結婚」 「まあな。恰好はええやろけど」  この辺りからミチエも話に加わった。ミチエの説明によればケントとの出会いは勤め先の料理店。ケントは日本と取り引きしている商社マンで、日本人の接待のため時折その店に姿を現わしていた。ミチエがそのテーブルに食事を運び、誤って醤油をケントの服に零《こぼ》したのが交際のきっかけとなった。映画スターのような美青年で、ミチエの指が震えたのだそうだ。それから五度ばかりデートを重ね、今日の昼はケントの両親にも紹介されて、結婚を申し込まれた。ミチエは承諾した。後は日本の親に報告するだけだと言うのだが、そんなに簡単に行くものかと三太は危ぶんだ。 「大丈夫。私の言うことはたいてい聞いてくれる親だもの」  ミチエはケロッとして言った。  それにしても二十日はあまりにも短い。ミチエの日頃の語学力を思えば、互いに内面を見詰めあったという言葉も信じがたい。 「人種差別を乗り越えた愛よ。勇気があるわ」  幸子が調子の外れたことを口にした。 「人種差別って、なんやねん」  倉本が噎《む》せながら訊ねた。 「イギリス人と日本人は違うじゃないの」  倉本と三太は顔を見合わせて苦笑した。 「ミチ、本当によかったわ。おめでとう」  幸子は涙を浮かべながらミチエのグラスにワインを注ぎ、この涙は先を越された悔しさと三太は見た。幸子とミチエを較べれば、どう見てもミチエの方が可愛くて、言うなら幸子はミチエの引き立て役のようなもの。それをちゃんと知っていて、ミチエはどこにも幸子を連れて歩き、幸子はそうとも知らずミチエを慕っている。そういう二人の関係を三太は眺め、なんとなく幸子が哀れに思い、ことあるごとに幸子さん幸子さんと、ミチエよりも幸子に優しくしていた。それが恋愛感情のように仲間にも誤解されている。ある時など、幸子と二人きりで話をしていたら、歳が違い過ぎるから私のことなんか忘れて、と唐突に言われて面食らったこともある。  気づかぬうちに幸子は二本目のワインをグラスに傾けていた。それも半分しか残っていない。倉本もミチエもまだ最初のワインを手にしているので、その大半は幸子が飲んだ計算になる。 「幸ちゃん、大丈夫かいな」  倉本は心配そうに訊ねた。前にも三太が倉本の部屋で安ワインを飲み過ぎて吐き散らしたことがあったから、そうなる前に止めようというつもりらしい。 「なあに?」 「ちょっと飲み過ぎやで」 「平気よ。今夜は特別なんだから。ちょっとくらい飲んだかて構へんやんか。放っといて」  倉本の口調を真似て幸子が毒づいた。かなり語尾が怪しい。幸子はグラスを差し出して、 「ミチ、お替わりちょうだい」 「やったらあかんで」  注ごうとしたミチエを倉本が制すると、幸子はむっとふくれてグラスを脇のベッドに投げ捨てた。さすがの倉本もこれには呆れてグラスを拾い、ワインで満たして幸子に渡す。 「いや、もうお酒なんか大嫌い」  幸子はその手を邪険に払った。気持が分からないわけでもなかったが、三太も失望した。 「倉さんに悪いよ。心配してるのに」  三太が注意すると幸子はわっと泣きだした。ミチエが宥《なだ》めても聞かない。 「放っとこ。しばらくすりゃ治るやろ」  倉本は白けた顔で溜め息を吐いた。知らないふりをして三人がオリンピックの話をしていたら、いつの間にか泣き声が止んだ。どうやら眠ったらしかった。 「しょうのない人ねえ」  ミチエが幸子を揺り動かす。 「もう眠ろうね」  ミチエが囁くと幸子はこっくりと頷いてよろよろと立ち上がった。 「おやすみなさい」  ぺこりと頭を下げた途端、幸子は腰を取られて床に座り込んでしまった。 「完全に酔いがまわったんやな」  倉本が言い、側に居た三太が抱え起こすと、 「三ちゃん、悪いけど幸を部屋まで連れて行ってくれない。私ここの後片付けをしてから」  ミチエが頼み込んだ。  三太は首を振って幸子の肩に手をまわした。しなだれかかる幸子に声をかけながら薄暗い階段を降りる。幸子の部屋には鍵がかかっていた。三太が訊ねるとスカートのポケットの中と幸子が苦しそうな声で教えた。ポケットに三太が手を入れて捜すと、幸子はびくっと体を震わせて三太にしがみついてきた。 「だめ、だめ、動いちゃ取れないよ」  三太は幸子の肩を抑えて鍵を手にした。ドアを開けると、明りのない部屋に青白い月光が差し込んでいた。ベッドが輝いている。ぼんやりと立ちすくむ背中を押して三太は幸子をベッドまで連れて行き、横に寝かせた。三太は毛布を被せ、おやすみと声をかけてベッドから離れた。ドアを閉めようとしたら、後ろで、三太を呼ぶ声が聞こえた。振り返ると、寝かせたはずの幸子がベッドの上に胡座《あぐら》をかいていた。目には涙が光っている。 「どうしたの?」 「ごめんね。ホントにごめんね」  幸子はそれだけを繰り返した。 「酔ったんだもの。仕方がないよ」  三太はまたベッドの側に戻った。 「歳の差なんて気にすることなかったのね」  三太はおろおろした。また勘違いの続きだ。 「三太ちゃんだけ悩ませて……私って卑怯な女だったわ、ごめんなさい」  三太は返事に詰まった。恋愛感情だと誤解されているのを放っておいた三太にも責任があった。しかし、年上の女性に、単なる同情だとは口が裂けても言えない。三太は曖昧な笑いでごまかした。 「でも、もういいの。そんなこと」  幸子はそう言って三太の腕を取った。右手でブラウスのボタンを外す。三太はどきどきした。十七のこれまで女の胸を間近で見たことはない。だが、幸子は途中で指を止めると、静かにベッドに身を横たえた。目を瞑《つぶ》る。 「三太ちゃんに私をあげる」  幸子は両手で顔を覆って泣いた。三太は我に戻った。ドアが開いている。思わず後じさった。その気配を察したのか幸子は、 「今夜だけなの、私たち」 「今夜だけって……なに?」  うわずった声で三太は質した。 「ミチと私はずうっと遠いところに行っちゃうの。もう三太ちゃんともお別れだわ」  自分の言葉に酔いしれた感じで応じた。 「遠い国って……日本に帰るの?」 「ううん。デンマークとかフィンランド」 「北欧の方」 「そう。明日の夜には出発するの」 「アルバイト止めるって聞いていたけど、そのせいだったんだ」 「三太ちゃんが悲しむと思って言えなかった」 「あんまり突然だな」 「私も行きたくない。でも、ミチが婚約しちゃったし、今じゃないと一緒の旅行ができなくなるの。仕方ないのよ」 「そうだよね。で、戻るのはいつ?」 「分からない。でも一ヵ月は帰らないと思うわ。だから三太ちゃんとも今夜でさよなら。三太ちゃんは半月くらいでパリに行くでしょ。ホントは爽やかにさよならしようと考えていたのに、顔見てたらたまらなくなって。奇麗な思い出を三太ちゃんにあげたい」  幸子は完全に恋愛ドラマの主人公になりきっていた。三太も急に切なくなった。 「私、はじめてなの」  幸子はそばかすだらけの顔で笑った。半分はだけたブラウスの襟から胸が見えた。大きく息づいていた。三太は唾を飲み込んだ。 「優しくしてね」  三太は幸子の唇に唇を合わせた。生暖かくて酒臭い吐息が三太の鼻を襲った。 「ドアが開いてるよ」  三太は幸子の唇から逃れて言った。 「ミチに見せてやりたいの」  幸子は泣きながら三太の腰を強く抱いた。ごつごつした幸子の腰骨がぶつかって痛い。幸子は三太に舌を入れてきた。三太も興奮した。思いきり幸子の舌を吸う。酸っぱいワインの味がした。三太の手は幸子のスカートを捲り上げた。いや、と幸子が足をすぼめた。 「もっと優しくして」  幸子は三太の手を握ると自分でパンティの下に誘った。堅い毛だった。それでも三太は乱暴に幸子の毛を擦った。どうしたらいいのか良く分からない。つ、と指に痛みが走った。毛で指の腹を切ったらしい。ズボンの前が張っていた。三太は左手でベルトを外した。右手の指がぬるっと滑って奥に沈んだ。幸子が体を捩《ねじ》って逃げた。三太は唇を塞いで幸子の呻きを殺した。幸子が必死で顔を逸らす。 「どうして?」  誘ったのは幸子の方なのに。三太は幸子のパンティに指をかけた。幸子はぼろぼろと涙を零《こぼ》した。幸子の力が急激に抜けていく。パンティは簡単に膝まで脱げた。月明りに幸子の濡れた陰毛が光っていた。幸子は反転してベッドに頭を伏せた。病人のように痩せた尻が三太の目の前にある。幸子はベッドに顔を押し付けてしゃくり上げていた。三太は幸子の尻をそっと撫でた。肉はほとんど落ちた尻だった。腿も子供みたいに細い。幸子の秘処が丸見えだった。だが、三太の気持は萎《な》えていた。自分たちが哀れに思えてきた。 「幸、大丈夫?」  階段の上からミチエの声がした。三太は慌ててベッドを離れた。幸子もスカートを直す。 「三ちゃん、なにかあったの?」  ミチエが暗い部屋を覗いて囁いた。 「……吐きそうになったの」  幸子が壁を見詰めた姿勢で応じた。 「ごめんね。後は私が面倒見るから」  ミチエは気づかぬ風で三太に礼を言った。  三太はどぎまぎしながら部屋を出た。  戻りの遅かった理由を訊かれる前に、三太は倉本と目が合うと、 「幸子さんたち、明日から旅行だって」  ごまかすように口にした。 「そやってなぁ。こっちもミチエから耳にしたとこや。デンマークでケントと合流するそうやで。新婚旅行のつもりや」  コーヒーポットの片付けに専念していて、帰りの遅かったことなど気にしていない。 「幸子さん、ミチエさんが婚約したんで淋しかったんじゃないのかな」  ホッとして三太はベッドに腰を下ろした。 「別れの挨拶はちゃんとしたんやろ」  背中を向けたまま倉本が言った。 「幸子のやつ、相当気にしてるみたいやで」 「なにを?」 「三ちゃんさ。俺も四、五日で日本に帰るし、そしたら三ちゃんが一人になると案じておったそうや。ほんまに好きなんやな」  倉本に言われて三太もあらためてそのことに気づいた。他に仲間が十人近く居ると言っても、三太が頼っていたのは今夜集まった三人だけだった。それがすべて三太から離れて行く。悲しみよりも不安が襲った。     *  読み終えて私は激しい戸惑いを覚えた。  パーティのシーンが終わると、小説は一転してロンドンのホテルに取り残された三太の孤独にテーマが移って行く。アテにしていた日本からの送金が届かず、三太は満足な食事もできなくなり、仲間からも見離されて、ついには栄養失調に陥り、日本の幻覚に包まれながら死を迎えるというエンディングだった。 〈こういうことを話した覚えは……〉  なかった。それが不思議なのである。実際に私はロンドンで送金を待ち、この小説に近い経験をした。それほど親しくもなかった仲間に窮状を訴えるわけにもいかず四、五日断食していたのだ。栄養失調の症状も表われていた。もし、二週間ほど撮影旅行に出ていた田所がホテルに戻って私の部屋を訪ねてくれなかったら、本当に死んでいたかも知れない。 〈田所さんから聞いたんだろうな〉  それしか考えられなかった。早良とはそれ以来五年近くも連絡がなく、ひさしぶりに顔を合わせた時は、辛かった記憶も完全に薄れ、ただ面白かったことだけを話し合った。 〈しかし……〉  あの集まりに田所は顔を見せなかった。すると、早良は田所と別のところで連絡を取り合っていたことになる。二人は年齢も近かった。付き合いが続いていてもおかしくない。  納得はしたものの、わだかまりは残った。なぜ、早良がこれほど執拗に嘘を書いているのか理由が分からないのである。パーティの途中まではほぼ正確と言っていい。なのに咲子とのことは出鱈目だ。咲子を部屋に送り届けたのは私ではなく美千代だったのだ。酔ってベッドに吐いた咲子の頬を早良が叩き、パーティは目茶苦茶になった。それで美千代が咲子を庇《かば》うように連れ帰ったはずだった。 〈それに……〉  どうして小説の中の倉本は妙な大阪弁を遣っているのだろう? 早良は千葉の出身である。それが小説のテクニックなのだろうか。  あらためて頁を捲《めく》ると、疑問点がいくつか見つかった。私が二人の旅行の話を聞かされたのはパーティの席上だ。なのに旅行にケントが合流するという話は初耳である。これも早良の嘘だと思うのだが、小説の構成上でケントが合流する必然は逆に不自然に思える。 〈第一……下手過ぎる〉  最初は上手いと感じたのに、繰り返して読むと文章がだらだらと長くて、しかも幼かった。少年が主人公なのでさほど気にならなかっただけである。早良の著書はほとんど読んでいる。彼はもっと簡潔な文章を書く。考えられるのは、当時の日記をそのまま写したということだが、それならこんなに嘘が混じるわけはない。 〈厭だよ、俺〉  ざわざわと寒気が襲った。  どうして今頃になって早良が私を訪ねてこなければならないのか……最初に感じた不審が私の中で大きくふくらんだ。     4  二日後。私は上京した。どうしても謎を解決しないではいられなかった。そのためには咲子の兄と会う必要があった。だが、早良に質すことはできない。それで担当編集者にこっそり連絡を取って教えて貰うことにした。会社を訪れると、若い編集者は私を近所の喫茶店に誘った。彼にも明らかな戸惑いが感じられた。私たちはしばし無言で向き合った。 「あれを発表しろと勧めたのはぼくです」  やがて編集者が言葉を発した。 「早良さんの考えじゃなかった?」 「ええ。先生は他の仕事に追われていまして、頑張ってくれるとおっしゃってはいたんですが、百枚はどうにも無理みたいでした。それで前に拝見させられた作品の掲載をぼくが強引に勧めて、古い同人雑誌に発表されたきりのものだったから、なにも問題はなかったんです。むしろぼくらの世代にも気持が伝わる、いい作品だと信じて勧めたんですよ」 「古いって……いつ頃の?」 「二十年くらい前です。もちろん、だいぶ先生の手が加えられていますけど」  やはりそうだったのか、と私は頷いた。 「なにかまずいことでも起きたんですか?」  編集者はおずおずと口にして、 「正直なところ、荒木さんから電話を貰ってびっくりしました。先生から荒木さんの行方が分からないとお返事があったばかりで」 「三日前に仙台で会いました」  私が言うと編集者は青ざめた。 「古い同人雑誌はどこで見たんです?」 「担当になった直後に貰いました。今はミステリーを書いているけど、昔は真面目な小説に取り組んでいたんだとおっしゃって」 「すると今もその同人雑誌を?」 「ええ。デスクにコピーがあります。時間がなくて、それから初ゲラを起こしました」 「見せてくれませんか」  私は編集者に頭を下げた。早い時間に書かれたものなら、なにか分かるかも知れない。 「困ったなぁ。先生に相談してからでないと」  編集者は溜め息を吐いた。 「変だと思っているのは貴方も一緒でしょう」  私が言うと編集者は小さく頷いた。 「あの小説を読めば、咲子さんの兄さんでなくても、咲子さんと私が深い関係にあったように誤解する。断じて言います。私と咲子さんはただの友達だった。なのに、早良さんがどうしてあんな風に書いたのか……」 「同人雑誌の方はもっと詳しく描写してあります。ちゃんと肉体関係があったと」  決心したらしく編集者は立ち上がった。  私はコピーを読み進めて眩暈《めまい》を覚えた。  手直しした小説では私が幸子の痩せた尻を撫でたところで萎えたことになっているが、こちらの方では逆にそれが刺激となって後ろから幸子を襲っていた。幸子の右の尻に桃くらいの大きさの青|痣《あざ》があって、三太を興奮させたのだ。幸子は痣を見られたと知り、必死にそれを掌で隠す。三太はその掌を払い、痣に優しく唇を這わせる。すると幸子は安堵した様子で足を開くと三太を受け入れはじめる。二人は涙を溢れさせながら結び合った。 「ぼくはそこが好きでしたけど」  編集者が私の目にしている箇所を覗いて言った。早良を庇っているつもりだろう。 「なんで削ったのか分からない。その描写で幸子への主人公の傾斜がよく伝わってくる」  だが、私にはその言葉も聞こえなかった。私はこの小説に書かれた尻の青痣をはっきりと記憶にとどめていたからだ。いや、とどめていたどころの問題ではなかった。私は尻に青痣のある女のヌード写真を何年も大事に持っていたのである。  写真の勉強にヨーロッパにきていた田所から貰ったものだった。  ベッドにうつ伏せになっているので顔は見えないが、明らかに日本の女性だった。 〈どういうことなんだ〉  私は髪を掻きむしった。  話は思いがけない方向に拡大していく。 「なにか?」  編集者が不審そうに私を見詰めた。 「咲子さんに痣はあったんだろうか?」  私が呟くと編集者はぎょっとなった。     5  私はホテルから妻に電話を入れて田所の住所を調べて貰った。田所とも二十年以上会っていない。けれど田所は長野県の松本に暮らしているはずだった。あの時代に写真の勉強で外遊するくらいだから貧しい家ではない。記憶では父親が大きな食料品店を経営していた。妻は私の古い住所録を調べて読み上げた。マルタ・ストアと聞いて私は思い出した。マルタとは田所の家の屋号だ。電話番号は無理だろう。すでに二十年が過ぎている。だが、問い合わせれば直ぐに分かる。店が潰れていない限り、田所の居場所は見つけられそうだった。  なんとか調べてマルタ・ストアのダイアルを回した。なんだか胸が苦しい。 「田所良治なら私ですがね」  電話に出た相手が言った。 「ロンドンでお世話になった荒木孝志です」 「え……冗談だろ。ホントに孝ちゃん?」  田所は驚愕の声を上げた。 「写真はもう止めたんですか?」  私が言うと田所はアハハと笑った。 「若気の至りってやつだよ。今じゃ店を継いでスーパーの親父。辛い過去を言わんでくれ」  陽気な口調に私は少し安堵した。 「孝ちゃんも元気か?」 「なんとか。今は仙台で設計事務所を」 「ふうん。大したもんだな。で、なにか?」 「厭な話になるかも知れませんが……」 「なんだい、のっけから」  途端に警戒の口調に変わった。 「進藤咲子さんを覚えていますよね」 「進藤咲子……さあてな」 「ロンドンでおなじホテルに居た女性です。二人連れで日本料理店に勤めていた」 「ああ……そういや居たな。ちょっと陰気な子と派手な女のコンビじゃなかったか」 「その……陰気な女の子の方です」 「それがどうしたって?」 「行方不明になっているんです」 「よせよ。それが俺となんの関係がある」  田所は安心したように笑った。 「もう二十年以上も昔の話なんだぞ」 「失踪したのがその頃なんですよ」 「それは……聞いていたけど」 「早良さんとは付き合っていますか?」  私は矛先を変えた。 「早良? だれだい」 「知らないんですか。作家の早良哲也。おなじホテルに居た倉本さん」 「へえ。倉さんが作家に。それは大したもんだ。もっとも、小説を書いてたのは知ってる」  その言葉に嘘は感じられなかった。 「それこそ、孝ちゃんをモデルにした小説を読ませて貰った記憶があるよ。ずうっと昔に」 「じゃあ、やっぱり俺のことを教えたのは田所さんだったんだ」 「ああ。孝ちゃんがパリに向かった後に倉さんがひょっこり戻ってきてね」 「倉さんが戻った? どこに」 「あのホテルにさ。思い出したよ。それで孝ちゃんが彼女の行方を捜してるってわけか。悪いことを言った。陰気ってのに他意はない」  田所は謝った。 「古い話なんでいろんなことを忘れただけだ」 「なんの話です?」 「その咲子さんて……孝ちゃんとわけありだったんだろ。旅行前になんかあったらしくて孝ちゃんが悩んでいたとか聞いたぞ」 「倉さんが本当にそんなことを?」 「婚約した子が相手と合流するんで咲子さんがますます辛くなるだろうってさ。俺はてっきり孝ちゃんが咲子さんの後を追ったんじゃないかと想像してたが……違ったわけだ」 「ヌード写真を貰いましたよね」  私は最後の確認をした。 「ヌード写真? そうかい」 「尻に痣のある女性のヌードです」  あ、と田所は絶句した。 「それは覚えているようだ」 「悪い冗談はよせよ」  田所は急に小声になった。 「倉さんと仕組んでいるなら許さねえぞ」 「倉さん? なんで倉さんと組むんです」 「嘘じゃないんだな」 「関係ない。あの写真はどうしたんです」 「どうって……だから倉さんからネガを譲って貰ったのさ」  私は頷いた。想像通りの結果だった。私も田所からあの写真を貰っている。ひょっとしたら早良も田所から見せられて、それを小説に書いた可能性もあると最初は考えたのだが、それだと手直しの際に削り落とす必要はない。人目につく心配のない同人雑誌ならともかく、商業雑誌なら万が一のこともあると恐れて削ったに違いないと私は睨んでいた。 「勘弁してくれよ。昔のことだ。ちょいとした小遣い稼ぎに焼き増ししただけだぜ」 「あれがだれだか知らなかったんでしょう」 「だれって……」  私の言い方で田所も察したらしかった。 「まさか!」 「進藤咲子さんのヌードだった。咲子さんの母親に電話で確認を取りました」 「だって……なんでそんな写真を倉さんが」  田所は絶句した。 「倉さんは俺を咲子さんの恋人だったと皆に信じ込ませるためにホテルに戻ったんだ」 「馬鹿な。倉さんは孝ちゃんをあんなに可愛がっていたじゃねえか」 「だから俺も辛いんです」  私は無性に悲しかった。     6  私は早良の仕事場で彼と向き合っていた。  早良は無言で私の告発に耳を傾けている。 「面白い推理には違いないが……」  早良は苦笑して私に茶を勧めた。 「それを殺しにまで結びつけるのは強引だな。孝ちゃんが決め手だと信じている写真にしても、田所の嘘かも知れない。第一、肝腎の写真が残っているわけじゃない。それで警察が動くと思ったら大間違いだ」 「………」 「死体もないんだぞ。ましてや二十六年も前の事件なら時効も成立している。そもそも、咲子の恋人が孝ちゃんじゃなかったという証拠もあるのかい。俺は見た通りの真実を小説に書いた。しかも二十年も前にな」 「それが狙いだったんでしょう」  私は早良の言葉で納得できた。 「小説を書くことによって、あんたは善意の第三者を装おうとしたんだ。日記の代わりに使おうとしたんじゃないんですか」 「さあね。孝ちゃんが思うのは勝手だ」 「どこかで骨になっている咲子さんが哀れだとは思わないんですか。愛し合った仲なのに」 「くどいな。だったら警察に言えばいい」  早良は額に青筋を立てた。 「警察なんかどうでもいいんだ。あんたの言うように時効になっている。けど……」 「けど?」 「あんたの嘘は俺が知っている。法律で裁いて貰おうなんて甘い考えは持ってないさ」 「………」 「ケントが合流するなんて話は聞かなかった。なのにあんたはそれを小説に書き、田所さんにも教えた。全部、後で咲子さんの失踪が発覚した時に備えての嘘だ」 「嘘だと」  早良は嘲笑《あざわら》った。 「それなら調べて見ればいい」 「調べたさ。田所さんと二人でね」  私は身を乗り出した。 「咲子さんの兄貴に会って話を聞いてきた。確かにあんたの言う通り、美千代さんはデンマークに出張中の彼氏と合流している。その約束があったから、美千代さんは汽車に乗り遅れた咲子さんを待たずにデンマークに旅立った。宿泊先もだいたい分かっていた。まさか失踪したとは夢にも思わずに美千代さんは彼氏と旅を続けていたそうだ。咲子さんが気を利かせてくれたと信じてね。そのせいで咲子さんの失踪の日時が曖昧になったんですよ」 「………」 「彼女たちが旅行を決めたのは婚約を承諾した日だった。つまり、あのパーティのあった昼ってことになる。あの日俺とあんたは朝から一緒に大英博物館に行っている。彼氏と合流の件どころか、旅行についてもあんたは聞く機会がなかったはずだ。夜も同様でしょう。合流のことが嘘なら問題ない。だが、事実となればおかしくなる。どこであんたがそれを聞いたのかってことさ。田所さんにそれを話した時には、まだ咲子さんの失踪が発覚していない。考えられるのはたった一つ。咲子さん自身の口からあんたが聞き出したとしか思えないじゃないですか。恋人同士の婚前旅行に同行するなんてのは哀れだよね。自殺の切っ掛けにも繋がる。あんたはそれを皆に前もって知らせておこうとした。そうすりゃ、失踪と聞いても皆はなるほどと思う。と同時に、万が一警察の手が伸びた時のために、俺という架空の恋人も捏造《ねつぞう》した。たとえ俺が否定しても、あんたにはそう見えていたと証言すりゃいいんだから楽な話だ。だが、幸いに警察はあんたと咲子さんの関係を掴めなかった。そこで止めていればいいものを、あんたは小説にした。自分をとぼけた大阪弁を遣う間抜けな人間として描き、それとなく俺と咲子さんとの関係を示唆する。合流の件で嘘をついたのとおんなじやり方ですよ。先、先と読んで手を打っている。田所さんにその雑誌を送ったのだって、それが目的でしょう。俺と咲子さんの関係を鮮明に記憶にとどめさせておきたかったんだ。しかも合流の件を耳にしたのを自然に見せ掛けようとしている。その当時は咲子さんの痣も公開捜査のお陰で知れ渡っていた。だから俺から聞いた話に真実味を出すために、あんな場面も書き加えた。ところが、痣が知れ渡っていたのはごく一部の人間に過ぎなかった。現に田所さんも俺も知らなかった。犯人があんただから、皆も知っているはずだと誤解していたんでしょうね。後になってあんたはそれに気づいた。ってより、二十六年も経ったのに、痣なんかに触れれば藪蛇になると恐れたのかも知れないな。時効も成立している。あんたもまさかあれを咲子さんの兄貴が読むとは考えずに、うっかりと編集者の誘いに乗った。いまさら事件を蒸し返すのは逆効果になる。慌ててあんたは俺にフィクションだと断わってきた。俺が咲子さんの失踪を知らなかったのをいいことに、あんたは余計な説明をしましたよ。咲子さんの失踪をあんたもはじめて聞いたと言った。でも田所さんはそいつをあんたから二十年も前に教えられたと言っているんです。伏線を張り続けたのが裏目に出たってわけだ」  さすがに早良もがっくりとうなだれた。 「殺したのは倉さんなんでしょう」  私が念を押すと早良は暗い目で頷いた。 「でも……なんだって俺を?」 「おまえのせいだったんだ」  早良は憎しみのこもった顔で言った。 「あの写真を咲子に見せたんだろ」 「………」  言われて私は背筋が凍った。  覚えがあったのである。  さよならパーティの少し前だった。  私は部屋の鍵を外してベッドに横たわっていた。美千代の来るのを待っていたのだ。その日の朝、美千代は私に店からお握りを持って来てくれると約束していた。その時間を見計らって私は準備していた。わざと眠っているふりをして、枕許にはヌード写真を置いておく。明け放したドアから入って来た美千代は、私の眠っているのを見て、枕許のテーブルにお握りを置いて帰ろうとするだろう。するとヌード写真を見つける。厭らしいと思うか、同情してくれるか、一つの賭けだった。もし、可哀そうだと思ってくれれば、美千代を抱けると思った。今考えても、冷や汗の吹きでる姑息《こそく》な方法だ。子供だった私は女も飢えていると信じていたのだ。 「あれは……咲子さんだったのか」  私は絶望した。今の今まで、そっと忍び込んで来て、写真を見て行った女は美千代だと信じて疑いもしなかった。まさか咲子とは。 「泣いても遅いんだ」  早良は私を怒鳴った。 「記念に撮影した咲子の写真を、顔の写っていないのを幸いに田所に売った俺も最低の男さ。だが、まさかそいつがおまえの手元に渡るなんてな……馬鹿な話だ」  早良は嗚咽《おえつ》をはじめた。 「咲子は泣き喚《わめ》いて俺を警察に訴えると騒いだ。遊びだったんだろうと」 「………」 「もちろん、遊びじゃねえか。でなきゃ、なんであんな女を抱くってんだ。日本に居たら鼻も引っ掛けねえような女だぞ。こっちも女っ気がなくて退屈してたんだ。なのに、この俺を結婚詐欺で訴えるなんて抜かしやがった。あんな女に将来を目茶苦茶にされて堪《たま》るか。それで旅行に連れ出して首を絞めたんだ。それで文句があるか! おまえさえ咲子に写真を見せなけりゃあんなことにならなかったんだぞ。おまえにも半分は責任がある。なんで俺だけが罪を被らなきゃならねえんだよ」  早良はテーブルを何度も叩きつけた。  涙がぼたぼたと零《こぼ》れている。  私はゆっくりと立ち上がった。 「どうする気なんだ。え?」  早良は私のズボンの裾を掴んだ。 「あんたの方が人間らしいのかもな」  私は心底からそう思った。 「小説の中の幸子さんは可愛かった。俺には小説の真実なんて分からないけど、あんたが咲子さんを憎み出したのは、殺してからじゃないのか? きっとその時まではどこかで愛していたんだ。でなきゃ、あんな風には書けないさ。謝ることができなくなったんで、憎み通すしかなかったんだ。あんたが結婚していないのも、たぶん咲子さんのせいだろう」 「………」 「俺は咲子さんを嫌いだった。美千代さんに近づきたくて、無理していたんだ。俺は卑怯な男だった。それがやっと分かった。あんたらが居てくれたお陰で俺はあのロンドンで生きていられたんだ。なのに……日本に戻ったらその恩も直ぐに忘れて……礼状を出していれば咲子さんの失踪も知ったはずなんだ。あんなに世話になった人だったのに、俺は恥ずかしいよ。正義|面《づら》して咲子さんを殺した犯人を捕まえようなんてさ。こんな俺があんたを警察に突き出したところで咲子さんが喜ぶわきゃないぜ。いかにも推理のように自分でも信じていたけど、本当は最初からあんたが犯人だったらいいと、どこかで考えていた」 「………」 「そんな気がする」  自分が利用していたくせに、離れて行った仲間が憎かった。おなじ宿に暮らしていたのに、有名になった早良が特に憎かった。  もしかして、私は痣のある女の写真を、咲子ではないかと薄々感じていながら美千代に見せようとしたのでは、と思いついた。そうすれば美千代が嫉妬するだろうと思って……  だが、すべてはロンドンの霧のようにぼやけている。記憶にも時効があるのだろうか。  私はひたすらそれを願った。  でなければ生きていけないような気がした。  咲子を殺したのは私かも知れない。  冥《くら》 い 記 憶     1  五月の風が肌に爽やかだ。  こんな清々しい空気を思いきり吸うのは何ヵ月ぶりだろう……ぼくは前庭の途中で両腕を空一杯に伸ばした。ベッドなんてもうたくさんだ。たいして学校を休んでいないのに、なんだか一生分の睡眠を貪《むさぼ》ったような気がする。筋肉もだるい。まるで年寄りと一緒じゃないか。今度の東北旅行がちょうどいい体馴らしになるはずだ。小石に躓《つまず》きそうになってよろけた。なんて醜態《ざま》だ。ほどけたスニーカーの紐を自分で踏んでいる。無意識に屈めた右膝に鈍痛が走った。やっぱりまだ完全じゃないらしい。門の外で由香里叔母が心配そうな顔でぼくを見詰めていた。無理じゃないかと案じているのだ。大丈夫。ぼくは手を振った。せっかくのチャンスだってのに、この程度のことで中止になっちゃたまらない。ぼくは石畳の上で軽くジャンプして見せた。 「だめ! よしなさい」  振り向いた玄関の前でおふくろが不安な目をして見守っている。ったく、子供じゃあるまいし。もう十八だぜ。 「迎えの車はまだ?」  ぼくはおふくろを無視して由香里叔母に訊ねた。二十六歳。独身。ぼくの憧れだ。叔母は薄いサングラスを外すと、おふくろに笑顔で挨拶しながら、 「じき。お兄《にい》も調子よさそう」 「その、お兄って古臭い呼び方はよしてくれよ。なんだかバカにされているみたいな気分だ。ちゃんとした大人なんだぜ」 「だから、お兄でいいじゃない」  春風に飛ばされそうな白い帽子を片手で押さえて叔母はクスクス笑った。 「せめて旅行中だけはさ。知らない人たちと一緒なんだ。皆に笑われる」 「松平さんもくるわ」 「へぇ。そんな仲だったんだ」 「誤解しないで。出身が青森って言ったから参加するつもりになっただけよ。きっと」 「まさかぁ。彼は刑事だぜ。いくら連休だってのんびり旅行するヒマなんてないさ。第一、誘ったのは姉さんの方だろ」  彼女からはお兄と言われるのを嫌っているくせに、ぼくは叔母をそう呼んでいる。たった八つしか離れていないのに叔母さんではいかにも気の毒だ。 「話のついでにね」 「当たりだ。それじゃオレは二人の世間体のために誘われた哀れなピエロって役どころか」 「違うわよ。あくまでもお兄が本命。松平さんはそれに便乗してきただけ」  叔母は必死に弁明した。ムキになるのがまた可愛い。まあ、仕方がないか。松平義久は男のぼくから見ても好感の持てる人間だ。はじめて叔母から紹介された時にも、ずいぶん前から互いに見知っているような人懐っこさを感じた。彼と旅行するのも悪くない。 「どんなツアーなんだい?」 「最終目的地が青森と聞かされているだけで、どんなコースかは分からないの。ミステリーツアーっていうのかな。この連休で観光地はどこも人で一杯のはずだし……きっとあんまり人の行かないような道を走るんじゃない」 「ふうん。そいつは面白そうだ。こっちには誂《あつら》え向きに刑事までいる」 「でしょう。といっても、そんな旅を面白がる人間は少ないみたい。二十五人の募集に申しこんできたのは、たったの九人だって」 「姉さんは物好きだから」 「中止になるんじゃないかと心配したけど」  ぼくも頷いた。 「あ、きたきた」  目の前に松平の乗ったタクシーが停まった。こんな日だってのに地味なネクタイを締めている。仕事から離れているのは青いストライプの半袖シャツだけだ。 「よろしく」  松平は挨拶もそこそこに助手席のドアを開けると前に移った。無理をして。本当は叔母と後ろに並びたいくせに。 「あとは新宿西口まで急いでくれ。下手するとバスに遅れてしまいそうだ」  松平は腕時計を眺めて運転手に言った。     2  西口広場で待っていたのはフロントガラスにミステリーツアーと紙を貼った中型のマイクロバスだった。これじゃあんまりスピードもでないだろう。いくらのんびりした旅だって、このバスで青森までとは辛い。中にはもう全員が揃っているようだった。皆が緊張した顔でぼくらを窓から覗いている。待たされた苛立ちよりも、こんな小さなバスでという不満と怒りがあるのかも知れない。 「すみません。お待たせして」  叔母は飛び乗るなり頭をさげた。好奇の視線がぼくらに集中する。たった五分の遅れじゃないか。ぼくは軽い会釈をして車内を憮然と見渡した。酷《ひど》い。これじゃ年寄りツアーだ。まあ、それは残酷かな。正確に言うと三十歳前後の女性二人と、男性二人。それに六十代の男。おっと、忘れていた。一人だけ可愛い女の子がいる。しかし、それも比較のせいで、実際は二十歳を二つ三つ越しているだろう。 〈なんだ、あいつらは〉  ぼくは薄気味悪いものでも眺めるようにこちらを盗み見ている二人の女たちを睨《にら》んだ。いい歳して狭いシートに肩を寄せ合って並んでいる。視線がまともにぶつかると慌てて目を伏せた。きっと恋人を同伴してきた叔母への嫉妬が原因だ。視線を動かすと中ほどにいる二人の男たちも曖昧な笑みを浮かべてぼくらを凝視していた。通路を挟んで二人席に一人ずつ陣取っているが、こいつらも友人同士らしい。まったく変なツアーになりそうだ。 「こっちにきなさい。空いとるよ」  後部座席にいる痩せた老人がぼくを優しく手招いた。どうせなら前の席の若い女の子のとなりに座りたいと思っていたのに……まあ、いいか。どのみち三日間はおなじ釜の飯を食う仲だ。ぼくは照れる叔母と松平を二人席に押しこんで後ろに向かった。 「これで全員揃いました」  ドアの外に立っていた若い男が運転手に声をかけながら乗りこんできた。 「伊東と申します。これからの三日間ご一緒させていただきますんで……どうか」  添乗員なのに口調がこなれていない。大した利益にもならないと踏んで、旅行会社の方も新米をあてがったに違いない。それでも人当たりは良さそうに思える。 「脚はよほど悪いのかね」  イスに腰を下ろすと老人が訊いてきた。 「もう癒《なお》ったんです」  引きずるクセが少し残っているだけだ。 「坊主頭は懐かしいな。昔を思いだす」  老人は目を細めた。 「私は……兼坂だ。教師をしていた」  ぼくの掌を強く握り締める。 「そろそろ自己紹介しません?」  斜め前にいる女の一人が振り向いた。落ち着いて眺めるとなかなかの美人だった。 「そうだね。三日間よろしく頼むよ」  兼坂の言葉と同時にバスは動きはじめた。 「岩崎弓絵です。旧姓は沢田」  ぼくは苦笑した。いくら元教師が側にいるからって……クラス会とでも勘違いしている。弓絵はそれに気づいて頬を赤らめた。 「構わんですよ。独身かどうか訊ねる手間が省けたというものだ」  兼坂老人は鷹揚《おうよう》に頷いた。 「私は……前島|翠《みどり》。弓絵とは高校時代からの親友なんです。結婚はまだ」  やはりその分若く見える。 「ご出身はどちらかな」 「東京です」  翠は高校の名前も付け加えた。お嬢さま学校と評判の高いS学園だった。ぼくの高校に近い場所にあるのでよく知っている。 「野々村孝。職業は……いいでしょう」  髪を長く伸ばして、まるで死神みたいに痩せこけた男が振り返った。分厚い眼鏡の奥でぼくをじっと観察している。ゾッとする冷たさだ。とてもただの観光客とは思えない。 「あっちは友人の田代|厚生《あつお》。一応は新聞記者ですが、お見知りおきを」  田代もピョコンと頭を下げた。類は友を呼ぶという諺《ことわざ》どおり、田代も野々村に負けず劣らず暗い目付きをしていた。 「井上由香里です。遅れてご心配をおかけしました。その毅の身内のものです」  叔母はまだ謝っている。叔母に続いて松平が名乗った。刑事と分かって野々村たちがどんな反応を示すか楽しみにしていたが、二人は平気な顔をして松平に頷いた。  最後に若い彼女が立ち上がって中西佳子と名前を告げた。都立病院の看護婦だと言う。小柄な体つきにぴっちりとした白いミニがよく似合う。明るい黄色のTシャツの上にざっくりと編んだ丸首の白いサマーセーターを重ね着していた。肩までの髪も奇麗だ。 「もしご気分でも悪くなったら、遠慮なくおっしゃってくださいね。多少の薬なら……」 「それはありがたい」  兼坂老人は頼もしそうに頷きながら、 「伊東さん──でしたか」  添乗員に親しみのこもった声をかけた。 「せめて今夜の宿ぐらいは教えてくれても」  何人かが同意した。バスはすでに高速道路をかなりの速度でひた走っている。 「岩手の……鉛温泉です」 「ほほう。鉛温泉か。それはいい」  兼坂老人の目許がほころんだ。 「かなりの長旅になります。途中で休憩を挟んで、目的地に着くのは夕方でしょう。シートは後ろに倒れますから、ごゆっくり」 〈鉛温泉……ええと、なんだっけ〉  どこかで聞き覚えがあった。なにか心の奥底に引っ掛かるものがある。だが、どうしても浮かんでこない。考えようとすればするほど頭の中に黒い靄《もや》が広がっていく。ぼくはイライラとこめかみを揉みしだいた。 「どうかしたかね?」  老人の言葉に全員が振り向いた。 「有名な温泉ですか?」  ぼくは逆に兼坂老人に質問した。 「さあな。私らの世代には名の通った温泉の一つだが……あの銀《しろがね》温泉のことだろう?」  兼坂は伊東に訊ねた。伊東は頷く。 「田宮虎彦がその温泉を舞台にした小説を書いて有名になった。銀心中という題名でな。ベストセラーになったせいで、若いアベックなんかには特に人気があったものさ。確か花巻温泉の奥だと思ったが……」 「銀心中──」  それにも微かな記憶がある。すると大魔神の授業で習ったのだろうか。国語教師の大魔神はやたらと脱線して小説の話ばかりしたがる。普段は柔和な男だが、ちょっとしたことで激怒するので、そんな仇名《あだな》がついた。きっと、その程度のことだ。ぼくは考えるのをよした。それよりは久し振りのドライブを楽しんでいる方がずうっと精神にもいい。窓を少し開けると、思いがけないほど大きな音をさせて風が入りこんできた。車内にこもっていたガソリンや座席のレザーの匂いが次第に薄くなっていく。雲がゆっくりと流れている。東京をでればもっと青空も広がるだろう。     3 「疲れてない?」  昼食のために停車した郡山のドライブインに入るなり叔母がぼくの体調を気遣って言った。叔母だけじゃない。ぼくが最年少のためか車の中では皆が親切だった。もっとも病み上がりでひ弱に見えるんだろうが。 「少し眠った方がいい」  松平までが神妙な顔をする。 「いいかな?」  兼坂老人がとなりに腰を下ろした。 「ようやくコーヒーにありつける」  兼坂はきつねうどんにコーヒーを注文した。やれやれ、これだから年寄りは厭になる。ぼくはミートソースにガム抜きのアイスティー。と言ったはずなのに、アイスティーは舌がおかしくなるほど甘い。慌てて水を飲んだ。 「先生は……」  叔母ばかりか今では全員が兼坂老人をそう呼んでいる。 「東北にずいぶんお詳しいんですね」  バスの中でいろんな話を聞かされた。 「そりゃ何度も旅行していますから。修学旅行でも五、六度はまわっている勘定だな」 「ああ、それなら当たり前だわ」  添乗員の伊東よりもよく知っている。 「青森はどんなところに?」  松平も仲間にすっかり溶けこんでいる。 「どこと言われてもねぇ。津軽の端っこまで行きましたよ。歴史も好きなものだから義経北行伝説を追いかけて。あの時は平泉から遠野、宮古、八戸、弘前、そして竜飛岬の順だったかな。欲張りなもんで、そのついでに八甲田山中の温泉に泊まったり、十和田湖まで足を伸ばしたりした。まあ、昔は教師も休みをたっぷりもらえたからね」  急に腹痛が襲ってきた。冷たいティーが原因だ。ぼくはトイレに立った。  間に合った。用便を済ますと途端に腹痛が治まった。子供の頃から自律神経失調症に悩まされていて、緊張や温度差に弱い。  コックを捻って水を流そうとしたぼくの耳に聞き覚えのある話し声が響いた。 「刑事の狙いが問題だ」  野々村が扉の向こうにいる。ぼくは息を潜めて隙間から覗いた。田代と並んで小用をたしている。田代はブルッと体を揺すると、 「殺したと思っているかも知れんな」 「はっきりするまでは様子を見た方が……」  野々村は低い声で呟いた。  やがて二人はトイレから立ち去った。 〈殺した!〉  だれをだ。やはりあの二人はただの観光客ではなかったのだ。刑事とは、もちろん松平に決まっている。すると松平は二人を追ってこの旅行に参加したのか? ぼくは震えた。あの連中が感づいていることを松平に教えておかないと叔母までが巻き添えを食う。 〈本物のミステリーツアーになっちまった〉  とにかく、この場所に自分がいたのを二人に気取られてはまずい。ぼくは慎重にトイレのドアを開けた。外を窺うと二人はバスの前で運転手と話しこんでいた。あの位置からだとトイレの出入り口が丸見えだ。運良くそこに七、八人の団体客がやってきた。彼らの陰に隠れてでればごまかせるかも知れない。 「松平さん」  やっとの思いでレストランに戻ると、皆は休憩を終えてバスに戻るところだった。 「よかった。もう出発よ」  叔母が遮った。松平は怪訝《けげん》そうな顔で、 「なにか?」  まわりには兼坂老人や伊東がいる。仕方がない。まさかバスの中では二人も滅多な行動を取らないだろう。下手に騒げば藪蛇だ。宿に到着してからでも遅くはない。 「ちょっとトイレに行ってくる」 「またぁ?」  叔母が呆れた顔でぼくを見詰めた。 「今までお土産を見ていたんだ」  こう言えばあとで二人にも怪しまれない。 〈………〉  背後に敵意の含められた視線を感じた。  レジ脇のブロンズガラスにぼくを凝視する四人の影がくっきりと映っている。そのうち二人は弓絵と翠だった。他の二人は見知らぬ年配の婦人と精悍《せいかん》な三十代の男。妙な取り合わせだ。囁きあっている様子から見ても前々からの知人に違いない。彼女らは偶然このレストランで出会ったのだろうか? それとも……ぼくの態度に気づいてか四人はさっと二手に離れた。弓絵と翠がわざとらしく天気の話なんかをして近寄ってくる。 「佳子さんを見ませんでした?」  翠はまん丸い目で叔母に話しかけてきた。 「車酔いで困っている方がいらして」  これでバリヤーを張ったつもりだ。  ぼくはふたたびトイレに向かった。バスの前では野々村がぼくを目で追っている。まったく、なにがなんだかさっぱり分からない。ひょっとしたら由香里叔母も事情を知っているんじゃないのか。そんな気がしてきた。むしろ松平から頼まれてこの旅行に参加した可能性がある。こっちはカモフラージュの役割ってわけだ。野々村と田代がなにかの犯罪に関係していて、弓絵と翠は彼らの情婦という線か。するとレストランにいた年配の婦人と精悍な男はどうなる? あるいは連中が野々村たちを追いかけている人間で、弓絵たちはその手助けをしているかも。婦人と男は警察や野々村にも顔を知られているので、別の車を使ってバスを尾行している。そいつが一番真相に近そうだ。しかし、それにしちゃずいぶん気軽にレストランに出没したものだ。便器の前で頑張っていたら、少しだけでた。  駆け足でバスに戻った。  バスから少し離れた車の脇にさっきの精悍な男が立っている。ぼくが乗りこむのを確認して男も自分の車にエンジンをかけた。その後部座席には年配の婦人の姿もあった。 「顔色が悪いようだが」  兼坂老人は不審な目でぼくを見上げた。野々村も見ている。激しい動悸がする。早く松平に伝えてやりたい。このままじゃ危険だ。と言ってバスの中では不可能だ。兼坂はそんなぼくの気持もお構いなしに話しかけてくる。具合が悪いフリをして目を瞑《つぶ》った。 「大丈夫ですか?」  佳子が側にやってきた。屈んだ佳子の長い髪から香水に混じって微かな薬品の匂いが感じとれた。妙に懐かしく心の安らぐ香りだ。 「熱はないみたい。少し横になっていた方が」 「だったら私が前の席に移ろう。それならここでゆっくりと手足を伸ばせる」  兼坂はぼくの肩を軽く叩くと移動した。 「毛布の用意はありませんか?」  佳子が伊東に叫んだ。 「平気だよ。寒いんじゃないんだから」  ぼくは苦笑しながら横になった。 「しばらくここにいますから」  佳子は前のシートに腰を下ろした。 「すみません。お願いします」  由香里叔母の声が聞こえた。呑気なもんだ。こっちは大事な彼氏のことで苦しんでるってのに。不意に温かな掌がぼくの手首に触れた。 「脈を計らせてくださいね」  瞼を開くと間近に佳子の顔がある。ドキドキした。不安と興奮が重なってぼくの脈搏は限度に達していたに違いない。 「薬を服《の》んだ方がいいかしら」  やがて佳子は腕時計から目を離した。 「普通の人でも疲れる旅ですもの」  眠れるのならそれもいい。ぼくは素直に頷いた。病気だと思わせておけば、こうして佳子も側にいてくれる。まあ、兼坂老人の退屈な話も睡眠薬代わりになっていたけど……     4  肩を揺すられて目が覚めた。すっかり窓の外は暗くなっている。頭が妙に重たい。佳子からもらった安定剤のせいだ。 「そろそろ着くわよ」  叔母がまた揺すった。 「どう、調子は?」 「何時?」 「六時半になるとこ」  じゃあ四時間以上も眠っていたんだ。ぼくは半身を起こした。他の連中も降りる支度をしている。よう、と松平が手を振った。 「あれみたいね」  窓ガラスに額を擦りつけて叔母は前方の明りを見詰めた。坂の下に立派な玄関だけがボウッと浮かび上がっている。他の客室に明りが点《とも》っていないせいだ。木造だが雰囲気はいい。弓絵たちは歓声を上げた。銀心中の舞台と兼坂に聞かされたのも加わっている。 「ここの風呂も変わっているはずだよ」  バッグを取りに戻った兼坂老人が続けた。 「確か立ったまま入れるような構造に……」 「そんなに浴槽が深いんですか」  叔母はあらためて玄関を見やった。 「君たちは運がいい」  通された二階のぼくと叔母の部屋に松平が顔を覗かせた。まだ荷物も解いていない。 「ここが田宮虎彦の滞在していた部屋だったそうだ。せっかくだから夕食は全員がこの部屋で取ることになっているけど……迷惑じゃないのかい。伊東君から言われてきた」 「どうぞ……松平さんはだれと同室?」 「伊東君。廊下を挟んで斜め向かいの部屋にいる。そのとなりが兼坂先生」 「立ち湯は混浴なんですってね」  叔母はがっかりした顔で言った。 「見るだけなら平気だ。炊事部に繋がる廊下から見下ろせる。広くて気持のよさそうな風呂だったよ。これから伊東君と入ってくる」  立ち去ろうとする松平をぼくは慌てて引き止めた。食事になればまた機会を失う。 「あの二人が殺人を?」  ぼくの説明に叔母と松平は顔を見合わせた。必死で笑いをこらえている。 「そればかりじゃない。レストランで怪しい男女も見かけたんだ。弓絵さんたちと知り合いだったよ。おまけにその男の運転する車が我々のバスを尾行してきた」 「本当に見たの?」  叔母は首を傾げた。 「狙いはあの野々村たちだと思う」 「まさか。考えすぎさ。それなら不審な男女がこの宿にいるとでも言うのかい」  松平は窓のカーテンを開いた。真下が宿の玄関に当たっていて駐車場が見渡せる。 「もう確かめた。ヤツの車はないけど、今夜は別の宿に泊まっているんじゃないかな」 「別の宿ねぇ。ここの温泉場は宿が一つきりなんだが。まあ、いい。注意する。ただし、今度の旅行は仕事がらみじゃない。そいつだけは信用してくれ」  松平は取り合わなかった。 「もう忘れなさいよ。そんなこと」  叔母も興味を失った。 「せっかくの旅行なんだもの」 「冗談じゃないぜ。たとえ松平さんは仕事じゃなくても、野々村たちはそう考えないかも知れない。危険に変わりはないんだ」  ぼくは二人に力説した。 「と言って……連中に説明するわけにもいかないしな。大丈夫。油断はしない」  まるで子供でもあやすような言い方だ。 「それより、風呂にでも行かないか。食事の前に汗を流した方がいい」  叔母にめくばせして松平はでていった。 「知らないよ。オレ」  刑事のくせして鈍感すぎる。 〈………〉  渡り廊下の窓から白猿の湯を見下ろしてぼくは軽い眩暈《めまい》を覚えた。五、六メートル下に広い楕円形の浴槽が掘られている。薄暗い蛍光灯の明りが湯面に揺れていた。だれも入っている客はいない。静かだ。風呂場の屋根が高いので湯気はほとんど見られない。小さな地吹雪のように湯面を舞っているだけだ。しかし、眩暈を覚えた理由はそれらと無縁だ。ぼくはそいつを確かめたくて階段を降りた。風呂場の中に脱衣場がある。浴衣を脱ぎ捨てると前を洗って浴槽に足を入れる。深い。どこまでも足が沈んでいく。やがて爪先が底に触れた。湯は立ったままのぼくの乳首のあたりまで達した。一・五メートルぐらいか。足を滑らせないように底の岩は少しザラザラしている。それでもぼくは縁につかまった。 〈どうして……〉  覚えているんだろう。廊下から見下ろした瞬間にぼくはこの風呂を思いだした。だが、そんなことは絶対に有り得ない。それで湯につかってみたのだが……やはりそんな気がする。小さい頃に両親にでも連れてこられたのだろうか? 混乱した。これが既視感というヤツかも知れない。目を瞑った。風呂の様子以外にぼんやりと浮かんでくるものがある。女の子だ。ぼくと一緒ぐらいの。高校生だろう。彼女はすべすべした額に丸い汗を一杯浮かべて笑っている。彼女がぼくに湯をすくってかけた。ああ、頭が痛い。急に彼女の笑顔が鬼に変わった。ぼくは悲鳴を上げた。 「どうした!」  松平が階段を転げるように降りてきた。 「彼女が……彼女が」 「彼女って?」  浴衣のまま松平がぼくの腕を引き上げる。 「分からない。見たこともない娘《こ》だ」 「だから、それがどうした」  ぼくは口を噤《つぐ》んだ。心の中で見たものを説明したって意味がない。現実に存在する尾行者さえ信用してくれない男だってのに。 「なにがあったの?」  松平と戻ったぼくに叔母は血相を変えた。 「彼に聞いてくれ。伊東君と風呂に行ったら彼が浴槽の中で怯《おび》えていた」 「溺れそうになっただけだよ」  ぼくは松平の腕を振りほどいた。第一、こちらにだってわけが分からない。 「姉さんは聞いてないかな?」 「なにを?」 「親父やおふくろと一緒にここにきたことがあるような気がしてさ」  叔母はビクンと肩をすくめた。 「そんな記憶があるんだ。オレ」  叔母はみるみる青ざめた。 「鉛温泉と言われた時から変だった」 「どんな記憶?」 「別に。ただそれだけなんだけど」 「無理はさせない方が。興奮している」  松平は首を横に振った。 「夕食は別の部屋に替えてもらおう。布団を敷いて休ませた方がいいんじゃないか」 「そうね……そうする?」  叔母はぼくの目を覗いた。そう言われたら酷《ひど》く体がだるくなってきた。食欲もない。 「お握りでも作ってもらうわ」  ぼくは頷いた。まだあの鬼女が目の奥に蠢《うごめ》いている。吐き気がした。  人の気配で目覚めた。枕許に佳子が座って文庫本を読んでいる。 「なんで、君が?」 「私じゃいけない?」  佳子はぼくの額の熱を計った。 「叔母や松平さんたちは?」 「宴会が続いているの。私は飲めないから」 「無責任な連中だな。それで佳子さんが頼まれたんだろう? 呆れたよ」  ぼくは起き上がろうとした。 「だめよ。静かに休んでいないと」  佳子がぼくの肩に手をかけた。 「佳子さんはなんでこの旅行に?」 「さあ……あなたが当ててみて」  佳子は悲しそうな目でぼくを見詰めた。 「失恋……じゃないよね。佳子さんをフル男なんて日本にゃいそうにないもの」  佳子は明るい笑顔を見せた。 「あとで教えてあげる。今ならなにを言っても信じてもらえないわ」  佳子はいきなりぼくにキスをした。 〈……?〉  ぼくはそのままの姿勢でいた。  佳子は直ぐにぼくから離れた。 「ごめんなさい。私ってどうかしてる」  佳子の目から大粒の涙が零《こぼ》れた。 「だれにも言わないで」  ぼくはゴクッと唾を呑みこんだ。柔らかな唇の感触がまだ残っている。 「辛い目にあったんだね」  佳子は嗚咽をこらえて部屋から飛びでた。  なんて旅行なんだろう。まともな人間が一人もいやしない。もっとも佳子に限っては、まともじゃないから嬉しいんだけど。     5  翌日も上天気だった。昨日と違って体調は万全。ぐっすり眠ったお陰だ。腹も空いている。ぼくと叔母は朝食が用意されている広間に向かった。兼坂老人はすでに食事を終えて新聞を読んでいる。そのとなりに佳子の姿があった。ぼくは佳子の側に座った。 「具合が悪かったそうだね」  兼坂老人が見上げて言った。 「今朝は元気そうな顔色だ」 「おはよう」  佳子が小さく頭を下げた。ドキドキする。 「これから遠野に向かうんですって」 「遠野……」 「遠野物語の町だよ」  分かりきっていることを兼坂老人が言う。 「いかにもそれらしい旅じゃないか」  ぼくも認めた。遠野なら修学旅行で去年まわったばかりだ。好きな町の一つ。  そこに弓絵たちと連れだって野々村と田代が姿を見せた。親しそうに席へつく。 「松平さんはまだ眠っているのかしら」  叔母が兼坂老人に質《ただ》した。 「とっくに食事を済ませて伊東君とロビーに行ったよ。テレビでも見とるんだろう」  叔母は失望した顔をする。ぼくは溜飲《りゆういん》を下げた。病人を放り投げて遊んでいた罰だ。 「変なものを見たんですって?」  弓絵が詰問口調でぼくを睨む。 「彼女がどうとか……」  もうよしてもらいたい。無視して生玉子を掻きまぜた。せっかく気分がいいってのに。皆が知っているところを見ると、松平が余計なことを喋ったに違いない。あれほど野々村や弓絵たちには注意しろと言ったはずだ。買い被りだったようだ。大した刑事じゃない。 「佳子さんは遠野ははじめて?」 「ええ。楽しみだわ」  鉛温泉からバスで二時間。  遠野には昼前に到着した。尾行の車に気をつけていたが、幸いその気配はないようだ。 「残念ですが時間はあまりありません」  伊東が珍しく添乗員の自覚を取り戻した。 「七時までに青森の金木町へ入らないと」 「金木町……すると斜陽館かな?」  兼坂老人が目を輝かせた。 「参りました。なんでもご存知だ」  伊東は頭をボリボリと掻いた。 「斜陽館って……太宰治の生家だった?」  翠が兼坂を振り向いた。 「今は旅館になっている。当時そのままの姿でね。前に泊まったこともある。なるほど遠野からあそこまでなら時間もかかるさ」 「五時間は見ませんと。逆算すれば遠野には三時間もいられないことに……」  運転手が代わりに応じた。 「なんとも贅沢《ぜいたく》な旅じゃないかね。遠野まできながらたった三時間で帰るとは」  兼坂老人は皮肉な笑いを伊東に浴びせた。 「自由行動でも構いませんが、もしよろしければ伝承園や昔話村をバスがまわります」  だれにも異存はなさそうだった。  伝承園は町から少し外れた場所にある。  南部曲がり家や旧家の倉をいくつか移築して遠野の民俗や機織《はたお》りなどの伝統工芸を紹介している場所だ。軽い食事もできるので観光客には人気がある。連休も手伝って駐車場には何台もの大型観光バスが連なっている。その間にぼくらの小さなバスが割りこむと、なんだか照れ臭い気分になった。 「さっき食べたからいいや」  皆が食事すると聞いてぼくは断わった。 「私も……適当に見物しています」  佳子が名乗りでると叔母は安堵したようにぼくを押しつけた。 「あれじゃ先が思いやられるよ」  佳子と歩きながら口にした。 「どこまでも松平さんといたいんだから。恋をすると女はわがままになる」 「あなたの見張り役は私一人で充分でしょ」 「見張りか……情けないな」 「嘘よ。私も一緒にいたいの」  佳子はぼくの手を引いた。じろじろとまわりの観光客たちがぼくらを見た。 「どこに行くの?」  佳子はどんどん奥に進んだ。 「曲がり家よ。その裏にオシラ堂があるって……オシラさまには昔から興味があったの」  ぼくはその場に立ちすくんだ。  また変な気分だ。心臓が騒ぐ。 「どうかした?」 「怖いんだ……なんでかな」 「怖いって、私が?」 「まさか。そのオシラ堂ってヤツ」 「前にきたことでも?」  そうだろうか。ぼくは修学旅行の記憶をあれこれと辿った。しばらくして首を振った。ここは生まれてはじめての場所だ。 「だったら怖いはずなんて……」  佳子の言う通りだ。風呂で妙な幻覚を見て以来、ぼくは怯えてばかりいる。心の不安を無理に押しこめて佳子に続いた。  異様な場所だ。  自分から誘っておいて、佳子はぼくの袖にしがみついてきた。小さな堂の四方全体に何百体という人形が飾られている。それもただの人形とは違う。短い棒に目鼻がついたようなもので、まるでテルテル坊主みたいな服を着ている。それも何十枚と重ねて……近づいて確かめると、服は四角い布の真ん中に穴を開けただけの単純な形だった。御参りした人間がこの布に願い事を書いて棒の頭から着せてやるらしい。布の色がさまざまで絵の具箱の中に閉じこめられたような気になる。 「本当に怖いわ。何万人という数の願いがこの小さなお堂にこめられているのよ」  反対にぼくは落ち着いた。やっぱりこの場所は記憶にない。考えすぎだったのだ。 「どんなことを願うんだろうな」  ぼくは手近の人形をいくつか調べた。  結婚だとか安産だとか入試だとか……オシラさまはなんでも引き受ける神様のようだ。 「見て! おんなじ名前があった」  佳子が服を捲《まく》ってはしゃいだ。 「佳子という漢字まで?」 「違うの。あなたとおなじ」  ぼくは佳子の側に歩いた。 「やっぱり変な人みたい」  笑って佳子はぼくにそれを示した。  ざわざわと寒気を覚えた。  ──安らかに死にたい──  そう書いてあった。しかも、ぼくの字で。視界が急に狭まっていく。名前の脇にある生年月日もぼくとおんなじなのだ。 〈こんなバカな!〉  吐き気がこみ上がる。ぼくは必死でこらえた。息が詰まる。吐き気は止まない。佳子が背中を擦《さす》る。苦しさに目から涙がでた。 「なんなの! 毅さん」  ぼくは汚物を撒《ま》き散らした。  衝撃はまだ続いている。今頃叔母たちはオシラ堂を奇麗に掃除しているはずだ。バスの座席に横たわりながらぼくは泣いた。混乱して頭が変になる。世の中には自分と瓜二つの人間が必ず一人はいると聞いたが……生まればかりか字までおなじだなんて有り得ない。だれかの悪戯《いたずら》だろうか。布に書く程度なら真似ができるかも知れない。生年月日だって調べれば分かる。そう信じたいのだが、だれにも不可能なのはぼくが承知だ。佳子からはほとんど目を離さなかった。あの布を挟む余裕は絶対になかった。悪戯だとすればぼくたちが堂に行く前に仕掛けられていたとしか思えない。それよりも、ぼくにあんな悪戯をしてなんの得がある? 怖い。体が震える。  バスのドアが静かに開いた。  弓絵と翠だった。二人はぼくの様子を窺うようにコッソリと近寄ってきた。 「……起きてたの」  目が合うと翠は動揺した。 「いい気味だわ」 「よしなさい。まだ早いわよ」  弓絵が翠の両肩を押さえた。 「………」  なにを言ってるんだ。こいつらは。  ペッと翠がぼくに唾を吐きかけた。     6  ぼくのせいで最悪の旅になりつつある。  遠野をでるとだれも口を利かなくなった。火葬場に向かう車のように沈黙だらけだ。怒ったのか叔母までもが冷たい。救いは佳子一人だ。ときどき様子を見にきてくれる。 「幻滅したろ」  ぼくは小声で囁いた。 「平気よ。馴れています」  佳子はぼくの側に腰かけた。 「無理だったんだよな。まだ」 「外にでたのは久し振りでしょ」 「大人とのつきあいはむずかしい」 「え」 「すごく皆に嫌われたみたいだ」 「どうしてそんな風に思うの?」 「オレも嫌いだよ。こんなヤツ」  自分で言って胸が詰まった。いつの間にこんなヤワな体になったんだ? 「体の調子は仕方がないわ」  佳子はぼくの腕を優しく握った。 「あなたは決して悪い人じゃない」  佳子がぼくの目を覗きこむ。 「皆だってそう思っているのよ」  ぼくはクスクス笑った。せめて翠にだけは聞かせてやりたいセリフだ。  観光もそこそこに遠野を出発したので斜陽館に着いたのは六時ちょっと過ぎ。皆は疲れた顔をしてバスから降りた。まるで刑務所のように高いレンガ塀が宿を囲んでいる。 「すごいわね」  狭い階段をのぼって部屋に案内されると、叔母は宿に入って何度目かの感嘆の声を上げた。もとは応接間として使用されていた部屋だという。高い天井には古めかしいシャンデリアが吊り下がっていた。板間の半分に畳が敷かれてある。これは宿屋にしてから洋間に布団を敷く必要に迫られて改造した部分だ。そのチグハグな印象がぼくの頭に甦った。 〈この部屋も知っている……〉  ぼくはゆっくりと見渡した。あの突き当たりの扉を抜けると広い踊り場のある階段があったはずだ。静かにノブをまわす。 〈やっぱり〉  想像通りだ。もう既視感や偶然とは思えなくなってきた。しかし、いつ、だれとこの部屋に泊まったかは思いだせない。膝がカタカタと震える。そんなことってあるのか?  振り返ると叔母が怖い目でぼくを見ていた。その顔に彼女の血にまみれた顔が重なって見えた。ぼくは絶叫した。 「落ち着いて! 私よ」  蹲《うずくま》ったぼくの肩を乱暴に叔母が揺する。  怖い。助けてくれ。  ぼくは叔母の細い腰にすがった。 「大丈夫。気が高ぶっているだけ」  叔母はぼくをきつく抱き締めた。 「なにを思いだしたの? 話して」  ぼくは頭を激しく振った。とても言えない。 「言わなきゃ分からないじゃないの」  叔母は涙を溜めていた。 「オレ……変だよ。変なんだ」  ぼくも泣きたかった。 「この部屋が怖いんだ」  松平たちの部屋と交換してもらったら嘘のように恐怖感が静まった。けれど今夜も食欲がない。また佳子から安定剤をもらって布団に横になった。叔母は階下で食事中。うとうとしながら天井を見上げていると中庭の方角から何人かの低い話し声が聞こえた。 「こんな旅は可哀相です」  あれは佳子の声に似ている。 「可哀相なのはどっちだと思うんだ」  耳馴れない男の声だ。ぼくは布団から抜けだして窓に顔を寄せた。ここから中庭を見下ろせる。月明りの下に佳子がいる。佳子は二人の男女と向き合っていた。 〈……!〉  あのレストランで見かけた連中だった。佳子までが連中とグルだったなんて。 「明日までの辛抱だ。我慢してくれ」  松平の声がそれに加わった。ぼくは耳を塞いだ。もうだれも信用できない。気が狂いそうだった。皆がぼくを狂わせていく。 〈淳子……〉  自分で口にしてギョッとした。  淳子ってだれのことだ?  もしかすると……あの血まみれの娘じゃないのか? そんなバカな。なんで見知らぬ娘の名前をぼくが知っている? 背筋を寒気が襲った。布団に戻って体を縮める。寒気はなかなか取れない。淳子……淳子……ぼくは何度も繰り返した。     7  朝の眩しい陽射しがぼくを起こした。  叔母は鏡台の前で髪をすいている。 「まだ眠ってていいわよ」  鏡の中で叔母が笑顔を見せた。 「淳子……って知ってる?」  ぼくの問いに叔母の笑顔が引きつった。 「知ってるんだ」  叔母は慌てて否定した。 「まあ、いいよ。もう姉さんも信じない」  松平や佳子の嘘を知った今は、だれとも口を利きたくない気分だった。 「信じないって……どういう意味」 「ぼくはなんで脚に怪我をしたんだろう」 「………」 「よく考えてみたら覚えていないんだ。それに……姉さんもだ」  言いながら自分でゾッとした。本当だ。こんな叔母がぼくにいたっけか? だんだんと記憶がぼやけていく。不安が渦巻いた。 「バカは言わないで。ずうっと一緒よ」  叔母は明らかに怯えていた。 「だよね。冗談だよ」  自分自身に言い聞かせた言葉だった。 「その……淳子って子だけど」  おずおずと叔母が訊いてきた。 「お兄の同級生かなにか?」 「知らないよ。だから訊いたんだ」  やっぱり叔母は松平の仲間なんだ。 「朝だけはしっかり食べておかないとね」  佳子がぼくの茶碗を取り上げた。ぼくは皆に背を向けて片隅で食事していたのだ。 「なにが気に食わないの?」 「ぜんぶさ。佳子さんもさ」  皆がぼくと佳子のやりとりを見ている。 「ぼくは帰る。もうピエロはごめんだよ」 「理由《わけ》を教えて?」 「こっちが聞きたいセリフだ。なんでオレの知っている場所だけ選んでまわるんだよ」 「知っている?」  松平が箸を持ったまま立ち上がった。 「君は……知ってるんだな」 「知ってるよ。それが悪いの?」 「いつ、だれとここにきた?」 「………」  返事に詰まった。喉からでかかっているのに、そこから先はなにも思いだせない。 「大事なことなんだ」  松平は側にきてぼくの肩を揺すった。 「淳子さんの名前も思いだしたって?」  また叔母の告げ口だ。 「淳子さんをどうした? 話してくれ」 「なんで松平さんと関係あるんだよ!」  ぼくは大声を上げて松平を振りほどいた。 「やめんか!」  詰め寄る松平を兼坂老人が制した。 「もう少しだ。焦らん方がいい」  その言葉に野々村や田代も頷いた。兼坂老人まで陰謀に荷担していたなんて…… 「皆、そうなの! 皆がぼくをはじめから騙していたの? どうしてなんだよ」  抑えていた涙がボロボロと溢れた。 「ぼくがなにをしたのさ。淳子ってだれ?」  いきなり佳子がぼくの前にまわった。 「もうよして! 残酷すぎます」  佳子の剣幕に松平はたじたじとなった。 「たとえ犯人でも、今の毅さんには罪がないんです。分かってあげてください」 「………」  時間が止まった。  叔母がワッと泣き伏した。 「犯人って……どういうこと?」 「………」 「どういうことなんだ!」  ぼくは絶叫した。だれも答えてくれない。  ぼくは松平の胸倉を掴んだ。 「教えてくれよ。ねぇ松平さん」 「この、人殺し! いまさらなによ」  翠が膳を乱暴にひっくり返して叫んだ。 「あんたが淳子を殺したんじゃない!」  わなわなと膝が崩れた。体中を痙攣《けいれん》が走りまわる。衝撃に心臓が飛びだしそうだ。 「あの娘《こ》はあんたが八つ裂きにしたのよ。まる裸に剥いてね。変質者!」 「落ち着くんだ!」  野々村が翠の頬を思いきりぶった。 「彼女の言う通りだ。今の彼に罪はない」  怖いよ。怖いよ。皆が苛《いじ》める。ぼくは畳を転げまわった。涙があとからあとから流れる。佳子がぼくの体を上から押さえつけた。 「淳子なんて知らない。オレ、知らない」  それは嘘だった。ぼくは確かに思いだしていたのだ。けれど……彼女はぼくの恋人だったはずだ。殺すなんて有り得ない。淳子。ここにでてきて皆に説明してやってくれ。どんなにぼくたちが愛しあっていたかを…… 「淳子。皆に言ってやってくれ!」  ぼくはひたすら喚き続けた。 「この様子じゃ川倉地蔵は諦めないと」  兼坂が松平に耳打ちした。  川倉地蔵!  ぼくは悲鳴を上げて這いまわった。  あのお化け人形のお寺だ。 「よして! あそこにはお化けがいる」  ぼくは気を失った。     8  すべてが夢であってくれればいい。意識が戻るとぼくは布団の中にいた。目を開くのが怖い。ここが東京のぼくの部屋なら…… 「気がついたようです」  佳子が間近でぼくを覗きこんでいた。そのとなりには叔母や松平もいる。 「許してくれ。こんな結果になるとは……」  松平が両手を揃えて頭を下げた。 「もういいのよ。もういいの」  叔母が涙声で何度も頷いた。 「オレ……何時間も寝てたの?」 「三時間くらい。皆も心配して……」  佳子は優しくぼくの額を撫でた。 「本当に淳子をオレが殺したの?」 「………」 「淳子につきあって死のうとしてたのに」  ぼくの言葉に皆が絶句した。 「今のは……どういう意味!」  叔母がぼくの布団にすがった。 「だから……殺すわけなんてないんだ」  松平の顔が輝いた。 「思いだしたんだな。あの日のことを」  ぼくはぼんやりと首を縦に動かした。  役所に勤めていた淳子の父親が、上司の背任行為の責任を押しつけられてビルから飛びおりた。それで絶望した淳子が死にたいと洩らしたので、ぼくもつきあうことにした。淳子はS学園の生徒だが、中学時代のクラスメイトだったのだ。二人の死に場所としてぼくは青森の川倉地蔵を選んだ。大魔神からその寺の悲しいいわれを聞いていたからだ。そこには若くして亡くなった男女のために、死後の花嫁や花婿の人形が奉納されていると言う。ぼくらは一緒に死ぬのだから人形など必要ないが、なんとなくふさわしい場所に思えたのだ。淳子はそのついでに鉛温泉や遠野も見たいと言った。心中の怖さをいくらかでも和らげたいと考えたのだろう。オシラさまは特に若い恋人たちの願いをよく聞いてくれると言う。ぼくたちはそうして最後の旅にでた…… 「それで……?」  松平が身を乗りだした。  しかし……あとは覚えていない。人のいない夕方を見計らって川倉地蔵に行ったまでは微かに記憶がある。けれど……その先は。  頭が割れるように痛んだ。とてつもない暗闇と恐怖がその先にある。 「ぼくを……連れてって」 「………」 「お願いだ。淳子があそこで待っている」  松平は困惑の目で叔母の顔を見やった。 「それしかないんじゃないかね」  兼坂老人が襖の向こうに立っていた。 「もともと君の狙いはそれだったんだから」  松平は溜め息を吐いて了承した。  川倉地蔵は金木町のはずれにある。  バスが動きだして直ぐに、ぼくは叔母に恐ろしい疑惑を口にした。 「宿をでる時にさ……」  叔母はぼくを振り向いた。 「大きな鏡があったろ」 「それがなにか?」 「ぼく……映ってなかった」  叔母は怪訝《けげん》な顔で聞き返した。 「映ってなかったんだ。どこにも」  叔母は悲しそうに微笑んだ。 「皆はちゃんと映ってたのに」 「………」 「どうして鏡に映らないんだろ」 「よしてよ。お兄はちゃんとここにいるわ」  ぼくは死んでいるんじゃないか。さっきからそいつを考えていたのだ。だからチグハグなことばかり起こる。淳子をぼくが殺すなんて、なんとしても考えられない。それに皆の存在もだ。叔母や松平はともかく、兼坂老人たちがなんで一緒にいるのか? ぼくが死んで、すべてがぼくの空想なら有り得る。それには、死んでも意識が残るという大問題をクリヤーしなければならないが……だが、今の奇妙な情況を現実と認めるよりは、遥かに納得できる解釈なのだ。生身の人間が鏡に映らないなんて……それがなによりの証拠だ。 「皆はぼくの空想なんだね」  わざと大きな声で言ってみた。  だけど、だれも消えなかった。  バスは地蔵堂の前に停車した。  開いた扉から蝋燭の点《とも》った内部が見えた。  ぼくの足はすくんだ。あの不気味な花嫁人形たちがこちらをじっと見詰めている。 「陰気な場所だ」  松平が不安気に声をかけてきた。 「ここだよ。淳子ときたのは」  ぼくは覚悟を決めた。淳子のためにも怖がってなどいられない。 「あの人形のどれかに、ぼくと淳子がサインしたんだ。二人の最後の記念にさ」  松平は唖然となった。 「本当はそんなことをするつもりじゃなかったんだけど……人形があんまり立派な花嫁衣裳を着ていたから……淳子が、こんな結婚式をしたかったねって……悪いと思ったけど、花婿と花嫁の人形の裾を捲って、それぞれの足にぼくらの名前を」 「………」 「そうすりゃ天国でも一緒になれると」  後ろで佳子が嗚咽をこらえた。  ぼくたちは堂に足を進めた。  広い堂内一杯にガラスケースに収められた無数の花嫁人形が飾られている。ほとんどは若い男の写真の脇に小さな花嫁人形が添えられているものだ。女性の写真に花婿が添っているのは珍しい。そういうガラスケースに混じって等身大の人形もいくつかある。マネキンに本物の衣裳を着せたものだ。それらはたいがい男女が揃っている。きっと衣裳をはだければマネキンの胸の辺りにでも亡くなったどちらかの名前が書かれているに違いない。 「あれだ。あの人形に──」  ぼくの指差したマネキンを松平は調べた。 「淳子さんの名前が刻まれている!」  松平が言うと弓絵と翠が駆け寄った。 「淳子の字です。間違いない」  弓絵が顔を掌で覆って泣き崩れた。 「お化けってのは……この人形かね」  兼坂老人がぼくの肩に触れた。  ドキッとした。また寒気がする。 「どうした。これとは違うのか?」 「じゃあ、現場の方に?」  松平は口を滑らせた。 「現場って……ここじゃないの?」  ぼくは戸惑った。記憶がまるでない。 「この裏手に古いお堂がある……淳子さんはそこでバラバラに切断されていた」  別のお堂! ぼくは突然思いだした。激しい恐怖が甦った。ぼくはそこから飛びでた。 「待ちなさい! どこへ行く」  松平は慌てて追ってきた。 「お化けがいるんだ。あいつがオレに淳子を殺させたんだ。あいつなんだよ」  ぼくは喚きながら裏手の坂道を走った。皆もついてくる。目の前に古いお堂の屋根が見えた。あそこだ。怖さにぼくの足は縮んだ。だが、確かめなきゃいけない。ぼくは扉を乱暴に開いた。堂の中はからっぽだ。四方の漆喰が今にも崩れ落ちそうになっている。あの時のままだ。あの夕方……ぼくと淳子はここに潜んで睡眠薬を飲むことにしたのだ。 「そしたら……そしたら」  真夜中にあいつが壁からぬうっと現われた。暗闇の中に真っ白な目を光らせて……黒い紋付きを着たあいつがこの壁の中から…… 「まさか!」  松平は顔を強張《こわば》らせた。 「本当なんだ。あいつは震えているオレに包丁を握らせて……嫁を返せと言ったんだ」  松平はゾクッと体を震わせた。 「ヤツは淳子が名前を刻んだ花嫁人形の相手だったんだよ。ヤツは淳子を欲しがったんだ」 「バカなことを言うんじゃない!」  松平は声を張り上げた。 「そんな話が信用できるか」 「嘘じゃないって! オレはヤツに腕を掴まれて淳子を襲ったんだ。信じてよ。そればかりじゃない。ヤツは自分の足に傷をつけたって怒りだしたんだ。それで……おまえの足を代わりにもらうって……」 「いい加減にしろ!」 「本当なんだ。ヤツはそれから淳子を担いで壁に消えちまった。ここの壁にだ!」 「淳子さんの死体はここにあった。どこにも消えてやしない。まだ狂ったフリをし続けるつもりか。え。そうなんだな」 「違うってば! ヤツはこの壁の中にいる。今も淳子と一緒にいるんだ。この中に」  ぼくは漆喰を激しく叩き続けた。ボロボロと漆喰が崩れる。それでもぼくは叩いた。 「松平さん! 見て!」  叔母が恐怖の声を上げて壁を指差した。 「……!」  壁になにかが塗りこめられている。松平は駆け寄ると漆喰を必死に剥がした。崩れた壁の中に赤いセーターと紺のスカートが…… 「淳子の服だ。あの時の淳子の服だよ」  ぼくの言葉に叔母の悲鳴が重なった。  すべては終わった。  ぼくはお堂の前に立ち並ぶ皆を眺めた。  松平が淳子の服を手にしてでてきた。 「伊東君。これを確認してもらってくれ」 「ちょうど到着したところです」  伊東が合図すると地蔵堂の陰から例の婦人と男が現われた。婦人は松平の手にある淳子の服を見つけて乱暴に奪い取った。 「あの娘《こ》のものです。どうして今頃?」  ぼくは呆然と婦人を見詰めた。これが淳子のお母さん? まさか。ぼくは何度も会っている。こんなに老けちゃいない。 「十四年過ぎたんだよ。十四年も」  兼坂がぼくに言った。ぼけているのか、この年寄りは?  ぼくはまじまじと兼坂を見た。どこかに見覚えがあった。 「君は三十二歳なんだ。井上君」 「大魔神!」 「やっと思いだしてくれたか。野々村と田代はどうかね。君とは親友のはずだった」  振り向くと二人は笑顔で頷いた。 「こちらの彼女たちは淳子さんの友達だった。どうしても事件の真相を知りたいと参加を申しこまれてな。なにしろ、事件は肝腎の君の証言が得られなかったものだから……」 「永い間、記憶を失っていたのよ」  叔母があとを続けた。 「それが半年くらい前から次第に回復して」 「………」 「兄さんを担当していた松平さんが今度の旅行を思いついたの。そうすれば完全に記憶が戻るかも知れないと医者に言われて」 「兄さん?」 「由香里よ。私は妹の由香里なの」  あの、小さな由香里か。こいつは。 「佳子さんは警察病院の看護婦さん」 「おふくろはどうなった?」  ぼくはでがけに挨拶したおふくろを頭に浮かべた。あの優しいおふくろは? 「十四年間、ずうっと兄さんの面倒を見てくれていた婦長さん。あそこは家じゃないわ。入院していた警察病院だった」  ぼくはまた頭がおかしくなった。そんなの嘘に決まっている。ぼくが三十二だなんて。だったら鏡に映らなかった理由《わけ》はどうなる? 「きっと記憶が戻ったからよ。十八歳だと信じこんでいる兄さんが、歳を取った顔を見ても自分だと思えなかったんだわ。若い頃の顔を鏡に捜していたんじゃない」 「だけど……これまでだって鏡は見ていた」 「だから……病気だったの。鏡を見ても昔とおなじだと少しも疑わなかったのね」  妹は手鏡をバッグから取りだしてぼくに与えた。映っている。歳を取ってやつれたぼくが。坊主頭には白髪も混じっていた。  ぼくは……泣いた。こんなのをいきなり信用しろと言われてもぼくにはできない。だけど、それは紛れもないぼくだった。 「オシラ堂には淳子さんの兄さんに協力をお願いして布を用意しておきました。あそこは新しい建物ですが、あなたが彼女と布を奉納した本当のお堂はもうなくなっていたんです。もちろん佳子君にも頼みましたが」  松平は辛そうな顔で謝った。 「兄はどうなるんですか?」  由香里は怖々《こわごわ》と松平に訊ねた。 「当時の現場写真が保管されています。あの壁も撮影されている。どんなに不可思議な供述であろうと、お兄さんがあの壁に淳子さんの服を塗りこめられたはずがない。それだけは確かです。裁判は振りだしに戻るでしょうね。ここまできた甲斐がありました」  由香里は涙ぐんで頭を何度も下げた。 「オレたちゃ信じていたよ」  野々村がぼくの手を堅く握った。 「松平君の真意がどこにあるか分からなかったんで様子を窺っていたんだ」 「淳子はあなたを許しているわ……きっと」  翠はそれだけを言った。  あ と が き  記憶というものの不思議さに関心を抱いて、ぽつりぽつりと書き溜めたものが本書である。とは言っても、記憶について書いたのはこれが最初ではない。『悪魔のトリル』(講談社文庫)と題した短編集に収録されている『卒業写真』が、真正面から記憶をテーマに扱った最初の作品だ。およそ三十年ぶりに小学校のクラス会に出席し、そこで自分の持ち続けた記憶との食い違いに気付くという展開になっているのだが、執筆の切っ掛けはバーネットの著した『秘密の花園』にあった。恥を忍んで打ち明けると、私はこの少女小説に深い感銘を受けていた。読んだのは小学校四年頃のことだったろう。筋は大方忘れてしまったけれど、主人公の女の子が高い壁の向こうの花園に、潜り戸を抜けて入り込む場面は、まるで自分の経験のように覚えている。花の甘い香りや、青い空まで見えてくる。女の子はその美しい中庭で、天使のごとく美しい女性と出会う。彼女は生き別れとなっていた少女の母親だった……と思うのだが、まったく自信はない。だったら確認してから書けばいいのに、と読者は思われるだろうが、それができない。怖くて本を手にすることができないのだ。私にとって『秘密の花園』はもはや物語の域を超えて、体験した甘美な記憶にまで定着してしまっている。もし書店で『秘密の花園』を手にし、もし内容が私の記憶しているものとまるで異なっていたら……あるいは、同一でも大人の目で読んで感銘を受けなかったとしたら、その瞬間、私の心の中にしまい続けてきた宝物の一つが失われてしまう。読者にもそういうものが必ず一つや二つあるはずだ。子供の頃に遠足で行った湖の広さとキャンプファイヤーの炎の美しさ。それをなんとか味わいたくて、大人になってからおなじ場所を訪れて見ると、やっぱり琵琶湖よりはずいぶん小さくて、炎の色も違う。それを知った瞬間に幼い頃の記憶が途端に色|褪《あ》せていく。もう二度と心の中に広い湖や美しい炎の記憶は蘇ってこない。現実が邪魔をしはじめるのだ。その恐れゆえに私は『秘密の花園』を読むことができないのである。読めば必ず記憶の修正を余儀無くされるだろう。だから私はこれまで『秘密の花園』から身を遠ざけてきた。少女小説の置いてある棚には絶対に近付かないように心掛け、もし電車などに乗り合わせた子供たちが『秘密の花園』の話でもしていようものなら耳を塞いだ。私は極端に水を恐れたり、黄昏《たそがれ》が怖いという奇妙な癖を持っているけれど、この『秘密の花園』に対する心持ちもその一つだ。もちろん、心理学的に言うならなにか特別な原因が底辺に潜んでいるに違いない。好きな女の子から借りた本だった可能性もある。あるいは現実逃避したいという気持が関係しているのか……  その解明はともかく、この奇妙な恐れをしょっちゅう考えているうちに、記憶の不思議さが私の心を占めるようになった。記憶していたことと現実との差が大きい場合、人はどのように対処するだろうか? それを突き詰めてみたのが『卒業写真』だった。だが、記憶の不思議さは短編一つで書き尽くせるものではない。それから一年後に『遠い記憶』を書いた。記憶をメインテーマにした短編集をいつか纏めたいと考えたのはそのときだ。と言っても、なかなか捗《はかど》らない。どうしても類型的な小説しか思い浮かばないのだ。昨日や今日の記憶では話にもならないので、たいていが二、三十年前の記憶に偏ってしまう。楽しい記憶もあまり面白さがない。頭を絞れば絞るほど展開が似てくる。一年に二つも書けたら上々の方だった。まったく書けなかった年もある。二年程度で纏めるつもりが、結局足掛け四年にも及んだのはテーマの特殊性に他ならない。  それがようやく本になる。  収録する作品の配列を決めるために、あらためてそれぞれを読み返していたら、じわじわと喜びが湧いてきた。もっともっと書き溜めて、最終的には記憶のテーマばかり二十篇も集めた分厚い本を作りたい。それには後五年はかかるだろう。いや、十年か……なにも書き急ぐことはない。小説の形を借りているが、ここには等身大の私が居る。書くには技術の向上よりも、私自身の熟成が必要だ。写真で成長記録を残すように、一年に一つずつ書くという試みにも興味を魅かれる。もっとも、一九九九年の破滅をどこかで信じている私にすれば、先は九年もないわけだが。  しかし……この作品集はどういう分野に属するのだろう。テーマが浮き上がって見えるように恐怖を味付けにしているが、決して怖さを書こうとしたわけではない。単純に恐怖小説と括《くく》られてしまうのは私の本意とは違う。そういう意味合いもあって、装丁は画面に温かさが常に漂っている峰岸達さんにお願いした。お陰で多くの人が手にして下さる本に仕上がったと思う。この紙上を借りて心よりのお礼を申し上げたい。     記憶にとどめたい爽やかな秋風の午後                    著者  文庫版のためのあとがき  こういう平静な気持ちで、このあとがきを書けるようになるとは思わなかった。醒めてしまったということではないが、この世界から自分は少し離れた場所にいる、そういう気がする。単なる歳月の問題もあろう。初出を確認すると「記憶シリーズ」の一作目に当たる「遠い記憶」を発表したのは今から七年も前のことだ。その間に私の環境は激変した。いまさら大人になるという表現も変なものだけれど、やはり七年でずいぶん心が変化したと思う。なによりも一番大きかったのは、この作品集で直木賞をいただけたことだ。こっそりと書き綴っていた日記が急に活字となって多くの人に読まれたような戸惑いと照れがあった、と素直に告白しておこう。まさに日記のつもりで私はこのシリーズを書いていたのである。もちろん他の作品が売文だというつもりもない。娯楽に徹していても、それなりに心血を注いでいる。いや娯楽であればこそ、こちらが頑張らないと空回りする。それらとは「記憶シリーズ」が違う書き方をされたと言いたいだけだ。無理をせず、等身大の自分をそのまま反映させた小説を目指していたのである。たとえ売れなくても(というのは担当してくれた多くの方に申し訳のない傲慢さであろうが)構わないと思っていた。十のうち一つくらいは、現実の私のように、うじうじと悩んだり、些細なことにこだわった物語があってもいいじゃないかと考えたのだ。他の作品を読んでくださっている読者の十人に一人、あるいは百人に一人でもいい。その目に留まってくれれば幸いである。当初はそんな気持ちでスタートさせた。作った物語であるからには、すべてが私の実体験ではないけれど、こういう状況に陥れば、必ず私もおなじことを考えて行動するだろう。その意味では日記に等しい。これらの物語の主人公は私以外の何者でもない。  纏められたときから、これは私にとって特別の本となった。小説の処女作「写楽殺人事件」あるいは横尾忠則さんの装丁による「総門谷」と並ぶ私の宝となった。  それだけで満足していたのに、なんという幸運か、直木賞に繋がった。当座は天にも昇る嬉しさを感じた。が、そのうち息苦しさを覚えるようになった。読者の百人のうち一人にでも読んで貰えれば幸いと思っていた本だったのに、逆転したのである。この本しか読んでいない読者と、さまざまな場所で出会う。私がミステリーや伝奇SFをずっと書いてきたのも知らない。今はそれだとてありがたいことだと感謝しているのだが、やはりそのときは多少以上の違和感を覚えた。想像という嘘をたくさん積み重ねているから、ときどきは本音を洩らしたくなる。なのに本音しか読んでくれていない読者にはどう対処したらいいのか……私は悪役がほんの一瞬垣間見せる恥じらいというものが好きで、それこそがダンディズムだと思っている。つまり、これはそういう狙いの本だったのだ。しかし、これしか読んでくれなかったら、洒落になりませんよ。やたらと生真面目な作家と思われて、それこそ穴があったら入りたい気分だった。  もし「炎立つ」という小説が重なっていなければ、この気分は今も続いていたに違いない。大河ドラマの原作ということで「炎立つ」も同様の結果をもたらした。それしか読んでくれていない読者と私は無数に出会った。幸いに「緋い記憶」の経験があったから、私はさしたるショックも受けずにやり過ごすことができた。と同時に「緋い記憶」のショックも薄らいでいったのである。  そして、現在は平静でいられる。  賞をいただけたことで、このうちの「遠い記憶」と「ねじれた記憶」はテレビ化され、何本かはラジオドラマにもなった。それで私にも客観視する余裕が生まれたのかも知れない。元版の発売されたときは、書店の棚に並べられているのさえ裸の自分を見られるようで気恥ずかしかったものだが、文庫化されることによって、さらに平静になっていくであろう。元版から文庫まで担当してくれている大村浩二氏に、この欄を借りて感謝したい。  一九九一年十月 文藝春秋刊 〈底 本〉文春文庫 平成六年十月十日刊